神曲 天国篇
ダンテ・アリギエーリ/三浦逸雄訳
目 次
第三部 天国
第一歌
第二歌
第三歌
第四歌
第五歌
第六歌
第七歌
第八歌
第九歌
第十歌
第十一歌
第十二歌
第十三歌
第十四歌
第十五歌
第十六歌
第十七歌
第十八歌
第十九歌
第二十歌
第二十一歌
第二十二歌
第二十三歌
第二十四歌
第二十五歌
第二十六歌
第二十七歌
第二十八歌
第二十九歌
第三十歌
第三十一歌
第三十二歌
第三十三歌
解説 ダンテの天国
訳者あとがき
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第一歌
ダンテは、天国の詩を草する前に、アポロンの神に、それがつつがなくできるようにと、呼びかける。彼が昇ろうとしていた所は、すでに天国への入口だったから、光があたりに満ちあふれていて、楽の妙音がながれていた。その天上の、目がくらくらする光のなかで、ベアトリーチェはダンテに、どうして天上に昇ることができるか、またこの天国がどんな仕組みになっているかを説明する。この第一歌は、そういう彼の天国行の序詞にあたるものである。
万有をおうごかしになるお方〔神〕の栄光は、(一)
宇宙をあまねく貫いていて、
その耀《かがや》きが ところによって強く光ったり 弱く光ったりしている。
わたしは天上のその光が いやましてかがやくおん神の座〔至高天《エンピレオ》のこと。宗教的な天体構成にダンテが作った最高の天体で、無限、不動で、九つの天を統べている最奥最高の神の座〕にいて、
いろいろのことを目にしたが、
それは、天から地にくだる者には 言葉で思いだしていうすべを知らぬことだ。
それは、わたしがおん神に近づきすぎて、
あとからでは〔それを〕思いだしていえないほど、
ふかぶかと〔神の光に〕わたしの知力が底まで貫かれてしまったからだ。(九)
しかし、それはそうとして、この神聖な天国でのことが、
わたしのこころの宝にもなるだろうから、
いまでは、それもわたしの歌の材料になるにちがいないのだ。
ああ、アポロンさま、この最後の仕事〔第三部〕のために、
あなたの愛した月桂樹〔ダフネの変身〕を おん神に願えるような
そんな器《うつわ》になれますように おなさけをおかけください。
わたしはこれまでは、パルナソス〔山〕の一つの峰〔詩神〕の
お恵みだけでも十分でしたが、
いまでは二つの峰〔の神々〕ともどもに
わたしに残された〔この〕歌の〔最後の〕馬場〔神曲の残された走路の天国ということ〕に入らねばならないからです。(十八)
アポロンさま、わたしのこころにお入りください。
むかしマルシュアス〔フリュギアの森の神の一人。アテナの捨てた笛を拾って吹き、アポロンに笛吹きの競技をいどんだ。アポロンは琴を弾じ歌をうたってこれに勝って、その思いあがりを憎んで、マルシュアスの皮を剥いだ〕を そのからだの鞘からお抜きとりになったように、
あなたさまの気息《いぶき》を吹きこんでください。
ああ きよらかな徳のお力。
この神恵《おめぐみ》の国のおもかげを
わたしの頭にきざみこんで 十分にあらわしてくださるなら、
あなたさまをよろこばす樹〔月桂樹のこと〕の下に わたしも行って、
その樹の葉でわたしの頭をかざるのをご覧になることもございましょう。
その〔天国という〕主題のゆえに、わたしをそれにふさわしくしてくださるのですもの。(二七)
おん父〔アポロン〕よ、チェーザレ〔ローマ皇帝ユリウス・カエサルのこと〕にまれ 詩人にまれ、
〔地上の歓楽に捧げられた〕人間の意志の 罪と恥辱にうち克つ者の頭をかざるために、
〔その樹の葉を〕摘むことが そんなにもまれなことでしたら、
ペネウスの娘〔月桂樹〕の葉は、
だれかがそれを渇望するときには
陽気なデルポイのおん神〔アポロン〕には喜びのもとになるでしょうから。
小さな火花も大火のもとと申しますが、
わたしのあとから だれかが来て もっとすぐれた歌で祈願をいたしますでしょう、
そして、キルラの〔峰の〕おん神〔アポロン〕も それを許して応《こた》えてくださるにちがいないからです。(三六)
世のともしび〔太陽〕は、死ぬべき者〔人間〕にとっては、
あちこちの地平から昇るものだが、
四つの圏〔春分になると、太陽は四つの圏、すなわち地平線、黄道、赤道、二分径圏がたがいに交差して三つの十字をつくるが、その一点から昇るということ〕が出会って 三つの十字〔の形〕になるところから出ると、
すばらしい〔牡羊座の〕星をともなってむすばれ合いながら
〔白羊宮にいたる〕すごくいい道順を出ていくものだ。そして、世の蝋《ろう》〔この世を蝋に譬えて、太陽がその熱と光で地上に影響を与えること〕は、
その性《さが》にしたがって みごとに和《やわ》らいで 自分の像のしるしをつける。
太陽がそれらの地平からあがると、あちら〔煉獄〕ではほぼ夜が明け、
こちら〔この世〕では日が暮れる。向こうの半球〔南半球〕は
すっかり白くなり、こちら〔北半球〕は真っ暗だった。(四五)
そのとき ふり向いて見ると、
ベアトリーチェは左手を向いて 太陽に見入っている、
鷲でもそんなに凝視《みつめ》るためしのないほどだ。
それはまったく 反射する光が、
〔故国へ〕帰ろうと願う巡礼さながらに
もとの光から出て ふたたび昇るようなものだ。
そんな彼女の見つめるしぐさが、
わたしの目から想いのなかへにじみ出てきたので、
常にもなく わたしは目を太陽にそそいで 彼女にならった。(五四)
ひとの住家〔地上楽園のこと〕として おん神に創られたそこ〔北半球のこと〕では、
この世でわたしたちの徳に許されないことが、
おん神のめぐみで恕《ゆる》されている。
わたしは太陽をながながと睇《なが》めることには堪えられなかったが、
それでも、火から出てきてふつふつたぎる灼鉄かとも見える
火花をあたりに散らすのが見えないほど短い間でもなかった。
と、間髪を入れずに、わたしは
いま一つ太陽をお加えになって空をお飾りになるおん神の仕業〔天界に神のつくった九天を指す〕のように、
白日の輝きにさらに光が加わって きらきらするのを感じた。(六三)
ベアトリーチェは、ひたすらにその永劫の輪〔諸天〕に
目をじっとそそいだまま立っていた。そこでわたしは、
天上から目をうつすと、彼女の顔をまじまじと見つめた。
彼女の顔を見ているうちに、わたしの心のなかでは、
あのグラウコス〔エウボイアの漁夫。かつて海浜にあった魚が海草を食うと元気になって海へ帰ったのを見て、自分もまた海草を食べると、忽然として性情が変わって海に入って海神になったという〕が草を噛んで
海神たちの仲間になったような変化が起こった。
人間の世界を抜けだして昇天するということは、
言葉ではあらわせない。だから、神恵《おめぐみ》で
神になる経験をいつかする人は、この〔グラウコスの〕話でたくさんだ。(七二)
天をしろしめす愛〔神〕よ、わたしはあなたが最後にお創りくださった
わたしの身の一部〔霊〕だったのでしょうか、
そのことは、〔彼女から返ってくる〕神の光でわたしを昇天させてくださったあなたがご存じです。
あなたが思いどおりに、不断になさった
天の運行に、そのあなたが調子を合わせたり分けたりなさる妙音をともなって、
わたしの注意をそれに惹きつけたときに、
太陽の炎であんなにひろびろと灼《や》かれたそのときの空は、
雨が降ろうと 洪水になろうと、
こんなにも広がる湖もあるまいと思われた。(八一)
めずらしい〔宇宙の〕ひびきと涯てしない光は、
その由来を知ろうという願いに、わたしを燃えたたせた、
それまでこんなにきりきり感じさせたことのなかった願いである。
すると、〔わたしの〕心中をわたし同様に見てとった
そのひと〔ベアトリーチェ〕は、わたしのあっ気にとられた気持をしずめようと、
わたしのたずねる前に、口をひらいて
いいはじめた、「そなたは、自分の誤った想いで、
頭が働かなくなっているのですよ。こんなに自分をなくしているみたいに、
そなたは見えるものすら見えないのです。(九〇)
そなたが考えているように そなたは地上にいるのではないのですよ。
火天をのがれる稲妻でさえ、
いるべきところ〔天〕へ帰るそなたほどには 駆けはしないのです」
その微笑《えみ》をふくんだひと言ふた言で、
わたしは初めのうたがい〔めずらしい韻《ひびき》とあふれる光のあるわけ〕は解けたものの、
心の中ではさらに強く新しい疑いにつつまれたので、かさねていった、
「わたしをすごく驚かした原因《もと》〔韻と光〕についての疑いは
おかげで しずまりましたが、今度は
このふわふわした大気のなかを どうしてわたしが昇るのかと おそれているところです」(九九)
すると、ベアトリーチェは、憐れむように息をついてから、
何かに憑《つか》れた子に母親の見せる顔つきになって、
その目をきっと わたしの方へ向けて いいはじめた、
「物はみな、それぞれのあいだに
秩序をもっています。
それこそ、宇宙をおん神に肖《に》させる形なのです。
おん神がお創りになった気だかいもの〔天使と人間〕は、この秩序のうちに、
おん神の知恵と権能《ちから》の印《おしで》をみとめますし、その永遠の権能《ちから》こそは、
いま申した秩序をつくられたものにとっての最終の目的でございます。(一〇八)
自然のすべてのものは、それぞれその根原〔神〕に近くまた遠く、
さまざまな条件にしたがって、
あたくしの申した秩序のなかで それぞれに〔合致する〕傾きをもっているのです。
ですから、それぞれの自分にさずかった本能にみちびかれるままに、
この物のある広い海原のいろんな〔目的の〕港へと
移りうごいているのです。
この本能が 火を月の方へもたらしますし、
知力のないけものを奮いたたせる力にもなりますし、
またそれが、大地を引きつけ合って 一つにしているのです。(一一七)
この〔本能の〕弓は、知恵を欠いたもの〔理をもたぬけもの〕だけでなく、
知と愛をもったもの〔天使と人間〕にまでも
それを〔究極へと〕押しすすめるのです。
おん神の摂理、あんなにゆらめいている光の因《もと》は、
至高の天をさえ つねにひっそりさせていて、
そのなかで すごく速くめぐる原動の天がまわされているのです。
そして、その至高の天は、おん神に定められたところへ行くように、
たのしい的《まと》へ まっしぐらに飛びださせる
この弓絃《ゆみづる》の力〔神から出る本能の力〕を、〔わたしたちに〕もたらしているのです。(一二六)
本当に 作品は材料をそれに合うように使わないと、
形が作者の思いどおりにいかないことも
間々あることですが、
おん神に創られたものも、そのように、
ときには自然の道からはずれることもあるもので、
そこで、そうやって押されて あらぬ方へ曲がっていく力ができるのです。
稲妻が雲間から墜ちることでもわかるように、
〔おん神のいや高い善へ向かう〕もとからの〔自然の〕気質が、〔この世の〕はかない歓楽ゆえに、
向きを変えて地上へ行ってしまうのです。(一三五)
あたくしの考えが間違っていなければ、
そなたはもう天へ昇ることにおどろいてはなりません。
それはいわば、高い山から麓へ下っていく河のようなものだからです。
そなたは清浄な身で 別にさまたげもないのに、
下界にとどまっているとしたら そなたにとってもおかしなことでしょう、
それは〔天から降った〕炎が、地上でめらめら燃えながら ひっそりしているのと同じことですから」
話しおえると、そのひとは面《おもて》をふたたび天上へ向けた。(一四三)
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第二歌
第二歌で、のっけから名ざしている「ささ舟にいるきみたち」というのは、神曲の読者のことだ。好奇心でここまでついてきた読者に、ダンテは『天国』は難解だから、よほどの者でなければ、ついて来るな、と注意している。彼がそういうように、第二歌は月天に入ったので、月の斑点から問題が提起される。ベアトリーチェとのその天体問答は、たしかに難解でもある。そこには、神学的な天文と、天動説に立つ古代天文説とが、ダンテによって総合された天文説が展開されているからだ。そのいずれもが、すでにわれわれの視野から遠のいた古典的な天文学だからだ。しかし、ここからわれわれは、哲学的な文学としての神曲の片鱗をうかがうことができる。
ああ ささ舟〔ささやかな人間の知恵〕のなかにいるきみたち、(一)
〔話を〕ききたいばかりに、歌いながら
水を渉ってきたわたしの舟のあとを追ってきたきみたち、
きみたちは岸をさして帰るがいい。
夢にも沖へなぞ出るではないぞ。
きっとわたしを見うしない 道に迷うにきまってるから。
わたしが渡っているこの海は、たれひとり渡ったことのない海だ。
女神ミネルヴァが息《いき》をふきかけ、アポロンが道しるべに立ち、
九人の詩の女神たちが北斗〔の星々〕をわたしにさし示してくれるところだ。(九)
待ちこがれて 天使の糧《かて》〔霊の糧、すなわち真の知のこと〕に項《うなじ》をあげている
幾人かのほかの〔恵まれた〕きみたちよ、また〔この地上に〕存《なが》らえながら
満ち足りることもなく身まかる〔あわれな〕きみたち、
水面がふたたび鎮まっておだやかになる前に
わたしの舟の航跡に気をつけてたどるなら、
きみたちの大船は大海をうまく乗り切るだろう。
あのコルキスに渡った〔金羊毛《アルゴ・ナウティカ》の〕勇士たちが、
百姓すがたになったイアソン〔ギリシアの勇士。コルキスへ行って王アイエテスに、金毛の羊皮を請うた。王はまず彼に命じて、炎の息を吐く二匹の牡牛に軛をかけさせ、またカドモスの殺した竜の歯を畠に播かせたが、イアソンは王女メデイアの妖術によって自若としてその難に当たって動ずるところがなかったので、人々はおどろいた〕を見たときでも、
きみたちが受けたほどのおどろきではなかったはずだ。(十八)
生まれながらの 満たしようもない 神々しい邦《くに》をあこがれる渇きが、
きみたちの見る天ほどの早さで
わたしをそこ〔至高の天〕へ運んでいた。
ベアトリーチェは上天をながめ、わたしは彼女に見入っていた。
そしておそらく 矢が弓絃《ゆみづる》を離れてとび
的《まと》にあたるのと同じくらいの間に、
わたしの目が 見るも妙《たえ》なもの〔月光のこと〕に惹きつけられたところに
わたしはたどりついていたのである。
そのひとには 思うことなど隠せもしないので、(二七)
〔そのひとは〕わたしをふり向いて、さも愉しそうに ほのぼのといった、
「こころして おん神に謝しまつることですよ、
そなたは第一の天〔月天〕にいるのです」
その天は、太陽のあたるダイヤモンドででもあるかのように、
雲がかがやいて瀰漫《びまん》していて
堅く研ぎあげられて すっぽり包んでいるように思われた。
その永遠《とわ》に易《かわ》らぬ宝石〔月天〕は、水がそのなかへ光を吸いこんで
いつまでもとけこませるように、
その内へわたしたちをうけ入れてくれた。(三六)
わたしは肉体をもっていたこととて、
この世では 肉体が肉体の中へ入ることでもなければ、
一つの空間に他のものを入れることなど考えられもしないことだ。
それだけに、人間の性質が神の性《さが》と融合するかに思える
その本体〔神性と人性とを兼ねそなえているキリストのこと〕を見たいという願望《ねがい》が、
ひとしお強く わたしたちに燃えるのも無理からぬことだった。
この天では、信仰によって得られるもので 証《あか》しによって見えるものではない。
しかしそれは ひとが信じる原初からの真理のかたちで
おのずから会得されるものにちがいないのだ。(四五)
わたしは応《こた》えた、「マドンナ、あの泯《ほろ》びの世〔人間社会〕から
わたしを遠ざけてくださったお方に、
どんなにへりくだっても この上に感謝を捧げることができましょうか。
おっしゃってください。あの下界の地上で
カインが作った〔地獄篇第二十歌〕と 人から噂《うわさ》されている
このもの〔月〕にある陰影《くま》は何でしょうか」
その淑女《あてびと》はすこし笑みをうかべてから いった、
「感じる力が鍵をはずせないところ〔人の世〕で、
人がよしんば思いあやまったとしましても、(五四)
いまそなたが驚きの矢に刺されることはありません。
感じる力のあとでは
知る力の翼の短いこと〔理性では十分に知ることができない〕はご存じのとおりです。
ですが、そなたの考えていることをおっしゃりなさい」
そこでわたしは、「あの〔月の〕上で いろいろに光って見えるのは、
その物〔の密度〕が厚かったり薄かったりするからだと思います」
そのひとはまた「そのことに反対をするあたくしの申すことを
よくお聞きになるなら、そなたの考えがあらぬことにおちいっていることが
きっとよくおわかりになるでしょう。(六三)
第八の天〔恒星天〕は そなたにかずかずの星を見せてくださいます。
その星々はその光の性質や大きさによって
さまざまの異なるすがたを現わすことができるのです。
もしそれが厚い薄いから起こるものでしたら、
一つの力が 多くも少なくもなり また同じように
おしなべて分けられることさえあるでしょう。
力が異なるのは 初めに形づくられたものの結果から来ることです。
ですから、そなたの考えにしたがうと、
一つのほかは それらは見えなくなってしまうのです。(七二)
さらに申しますと、そなたのいうあの〔月の〕黒い汚点《しみ》が
もし〔密度が〕粗《あら》いからだとしますと、
この遊星〔月〕は部分的に材料が足りないのか、
もしくは からだが脂肪と肉とに分かれているように
また書物に〔問題によって〕
紙数の多い少ないがあるようなものでしょう。
もし最初の〔月に材料が不足してるという〕場合ですと、
そこでは、日光がほかの粗いものにさし込むように貫いて透《とお》しますから
日蝕のことを考えても〔そうでないことが〕明らかでしょう。(八一)
日光は月を透しはしないのです。そこで、第二の〔厚い薄いの層がある〕場合を考えてみましょう。
そのことであたくしがいいまかすようなことになれば、
そなたの言分《いいぶん》など根もないことになるのですよ。
日光がこの粗いところさえ透らないとしますと、
そこには境界があるということでして、
それとは反対の〔厚い〕ところは もちろん〔物を〕透しはしないのです。
そうして、太陽の光がはね返されるのは、
裏に鉛をかくしてある鏡から
色がかえってくるようなものです。(九〇)
そこで、そなたはいうかもしれない、
そこ〔月の黒点〕で光がほかのところより暗く見えるのは、
そこの底の方で遠くから反射しているからだ、と。
しかし、そなたの学問のながれの源である実験を
いまそなたがおやりになるなら、
そなたの疑いは経験が解きあかしてくれるでしょう。
まず、鏡を三つとりなさい。
その二つをそなたから等しい距離に立てて、
も一つの鏡は、その二つの鏡のあいだに遠く離して 〔映像が〕そなたの目に返るようにするのです。(九九)
そなたは三つの鏡と対面して、光を背中において
三つの鏡に光がうつるようにするのです。
すると、それらの鏡はそなたに光を反射するでしょう。
真ん中の鏡は遠いので 光の量こそ多くないが、
鏡は三つとも 同じように
反射してくることがわかるでしょう。
さあ、熱い陽光に 雪がとけると、
雪のもっていた色と冷たさを失って、
もとのままで〔水となって〕残るように、(一〇八)
そなたも知恵をとりもどしたので、
あたくしはまぶしいようなきらめき〔真理の光〕で そなたをかがやかせたいのです。
その光に向かえば そなたはふるえて きらきらするでしょう。
〔おん神の〕きよらかな平安の天〔至高天〕のなかでは、
ひとつの天〔原動天〕がめぐっておりますが、
その天の功徳のなかで ありとあるものはそのうけたものを宿しているのです。
それにつづく天〔恒星天〕には 星々がひどくきらめいて見えますが、
その〔至高天から来た〕力を星々に分けているのです、
その星々はその天にはあるが それとは別なさまざまな本質なのです。(一一七)
ほかの〔七つの〕天は、それぞれ別々にまわっています。
そのちがいは自分の内部にもっているもので、
それぞれの目的と影響によって ととのえられているのです。
この宇宙のしくみは、そなたが見ているように、
上天の影響をうけて それを下へ伝えようとして
こんなに順序よく回っているのです。
こころして よく聞きなさい。こうして
そなたの望む真理〔月のくまのこと〕についてあたくしがどう話をすすめるかを。
そうすれば、あとでそなたはひとりで〔問題の〕解決をさとるでしょうから。(一二六)
もろもろの浄天の運行とその力は、
金槌《かなづち》の生むものが鍛冶《かじ》職人の手から生まれるように、
おん神にめぐまれたもの〔天使〕の力で うごかされているのです。
ここの あふれるばかりの光で美々しい天〔第八天の恒星天のこと。そこには多くの星が見えるから、そういっている〕は、
それをめぐらせる奥ゆかしい〔天使の〕聖知《こころ》から御絵《おすがた》をうけとって
それを〔おん神の〕印《おしで》としているのです。
それはあたかも そなたらの塵《ちり》〔肉体のこと〕のなかの魂が、
それぞれ目や鼻によって さまざまな感じにととのえられて、
はっきりするようなものです。(一三五)
こうしてその知恵は数しれぬ功徳《くどく》を
その星々にまでひろげて、
ひとりでにそれを統一する性質から たかだかと回転をつづけているのです。
そのいろんな〔天使の〕力は、
それが、光と動きを与えている浄らかな宇宙と
さまざまに関係をもたせているのです、
その関係にはあたかも そなたらの魂とのようなつながりがあるのです。
その天使の力からこそ 光と光のあいだに
さまざまの強さ弱さができるので、(一四四)
〔密度の〕厚い薄いからではないのです。
その力が本質的な原因でして、
その力の多いか少ないかで
暗いところと明るいところができるのです〔諸天を司り、それを動かす天使たちの力は、さまざまの度合で天体と結びつき、そこに混合した力が生まれる。その結びつきの差から、天体の光度の明暗が生まれ、また月の斑点も生まれる、ということ〕」(一四八)
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第三歌
月光天のなかで、ダンテは友だちのフォレーゼ・ドナーティの妹のピッカルダに会う。彼女の話から、この月天には、せっかく誓願を立てながら、それを破るようになった事情の魂がいることを知った。それらの魂は、だから天体としてはもっとも低い月天に割りあてられて住んでいるというのだ。そのきよらかな光のなかで、嫋々《じょうじょう》とつづけられる、もの優しい物語のすえに、同じく誓願を立てて修道女になりながら、還俗《げんぞく》した大皇妃コスタンツァの魂のいちだんとかがやく光を、彼女はダンテにさし示した。すべては天国風なたたずまいのなかでの出来事で、ダンテはピッカルダにさえ、それと気がつかずにいたほどである。
いとけないころから わたしの胸を愛のこころでほてらせたこの太陽〔ベアトリーチェ〕は、(一)
〔彼女の考えを〕示したり、〔わたしの思いちがいを〕反駁したりして、
ほんとうの真実のやさしい姿を わたしにあらわに見せてくれた。
で、わたしはわたしで、〔自分の思いちがいを〕正し、
〔彼女の意見に〕なっとくしたことをいおうとして、
物をいうのにほどよいくらい頭をおこしたが、
そのとき、もののけが目の前に現われて、
それがわたしをすっかり惹きつけて、身近かにそれを見せたので、
わたしは告白することを忘れてしまっていた。(九)
そのかげは、磨きあげてすきとおったガラスか、
底まで見えぬほどでもない〔浅い〕水の川波も立たぬ静かな水面などからは
わたしたちの面影がおぼろになってうつり、
しろい額をかざる真珠が引きたたないように、
目にはすばやく入ってくるわけはない。
そこにわたしは、話しかけようとしているおぼろな顔をいくつも見た。
というのは、人と泉との間に〔うかぶ姿に〕
愛をもやしたひと〔ナルキッソス〕とはあべこべに、
わたしは思いちがいをしていたからだ。(十八)
わたしはそのすがたを認めると とっさに
それが鏡にうつった影だと思って、
それがだれだかを知ろうとして 目をそらしたが、
そこにはだれもいなかった。そこでまた目を前にもどして
やさしく導いてくれるひと〔ベアトリーチェ〕の光にじっと見入った、
その光は笑みをふくんで きよらかな目のなかで燃えていた。
「あたくしが微笑んだからとて 驚くことはありません」 そのひとは語りだした、
「いつまでも真実に足をふまえない
そなたのおさない考えにつられて 笑いが出たまでです。(二七)
しかし、いつものことですが、そなたはおろかしいことを思いつきますのね。
そなたに見えるのは 真実に|ある《ヽヽ》ものですよ。
誓願が足りないので ここにとじこめられている霊魂です。
だから、その光に話しかけて 聞いて、それを信じるといいのです。
それらの願いを満足させるまことの光〔神〕は、
それらに〔真実から〕足をふみはずすことをお許しにならないからです」
それで、わたしはそこでしきりに話したがっている影〔この魂は、フォレーゼおよびコルソ・ドナーティの妹のピッカルダの魂である〕に
向きなおると、想いあまって
心もそぞろなひとのようにいいはじめた。(三六)
「ああ、まことの幸福のために創られた魂よ、
永遠の生のひかりにかがやいて、味あわぬ者には知るすべもない
〔おん神の〕聖らかな甘さを味わっている魂よ、
あなたのお名と ここでのご身分をわたしにお話しくださると
ほんとうにわたしはありがたいのですが」
すると、その光は即座に目にほほえみをうかべて いった、
「わたくしたちへの〔おん神の〕慈愛は、正しい願いに対しては
その門を閉じることなどございません。さもなければ、
その宮廷のものみな〔天国に住むものすべて〕を ご自分に肖《に》せさせようとなさる愛のようなものでございます。(四五)
わたくしはこの世では童貞の修道女〔聖キアーラ派の修道女〕でございました、
もしご記憶をよくおさぐりになられますなら、
いまどんなに楚々《そそ》としておりましょうとも あなたにはお隠しすることはできますまい。
あなたにはおわかりでございましょう、わたくしがピッカルダだということが。
ほかの おん神に祝福された方々とご一緒に
この動きのいちばんゆるやかな天〔月天のこと〕で わたくしは幸《さち》ふかく恵まれておりますの。
わたくしたちの心は、聖霊の御心にばかり
もえ立つものでございますから、
おん神の秩序にしたがうことを悦んでおります。(五四)
この〔月光天という〕おん神の定めは いかにも低く見えましょうが、
それは、わたくしたちが誓願をなおざりにしたことと、
またある部分を欠いていたからでございます」
そこでわたしは彼女に、「あなた方のすばらしい面容《おもざし》には
何かしら神々しいものがかがやいています。
それが以前の記憶から あなたを変えているのです。
それで すぐにはあなたを思いだせなかったのです。
でも、いまのお話で助かりました、
おかげで やすやすと思いだせます。(六三)
で、おっしゃってください。ここでしあわせそうなあなた方、
あなた方は〔おん神の力を〕もっと見、〔それに〕もっと近づくために、
さらに高いところ〔天〕を望んでおいででしょうか」
そのひとは、ほかの影たちとほほえみをかわしたが、
そこで、〔おん神の〕最高の炎〔聖霊の火〕にもえ立ったかと思われるように
こころから愉しげに わたしに応えた。
「兄弟、わたくしどもの意志は、〔おん神の〕慈愛の正しさに満足しております。
ですから、 わたくしどもは うけるものしか望みませんし、
そのほかのものなぞに こがれることはありません。(七二)
もしかりに、わたくしどもがもっと高い天に
昇ることを望むといたしますと、
その願いは 天上に福者を割りあてられたおん神のお心にそむくことになるのです。
この天上では、物は慈愛のなかにあるべきものですから、
もしその慈愛の性質をよくお考えになれば、
〔おん神のお心に〕したがわないものは天におられないことがおわかりでしょう。
いえ、それどころではございません。このおん神に恵まれた者には、
おん神のお心の中にいることが肝腎なことでございます。
そこではじめて、おん神のお心にわたくしどもの意志が一致するからでございます。(八一)
これが、この天国のあちらこちらの天に わたくしどものいるわけでございまして、
それは、天国の王〔神〕のお思召しによるばかりでなく、
この天国のすべてが悦んで望むからでございます。
おん神のお心は、わたくしどもの平安《やすらぎ》でございますし、
それはまた、おん神がお創りになり、自然が形づくるものみなが、
ことごとく流れこむ大海でございます」
そのとき わたしに明らかになったことは、
たとえ いや高い福《さいわい》がたしかにこのひとたちに一様ではないにしても、
天上ではどこも楽園だということだ。(九〇)
ひとは一つの皿〔食物〕に堪能《たんのう》しながら
別の皿にもこころをうごかして、
これをもとめると さきの皿にも感謝の気持のおこるもの〔堪能した食べ物には、すすめられても食欲はおこらずに、感謝の気持だけするということ〕だ。
そのさまさながらに、わたしは言葉にしぐさまでまじえて、そのひとに、
〔機織の〕杼《ひ》を〔布の〕はしまで転《ころ》がさなかった〔布を織りあげなかったということで、誓願を全うしなかったことをいおうとしている〕のは、
どんな織布《ぬの》だったかをきくのだった。
「黙想する生涯と高い徳とで さらに高い天上に 女のお方〔聖キアーラ〕がおられます」
その女はいった、「あなた方の下の世でも
あの方にならって〔尼の〕服と〔修道の〕面帛《おもぎぬ》をつけるひとがおりますが、(九九)
それは、死ぬまで 慈悲をご自分の悦びにあわせて、
いっさいの誓約をお守りになるあの新郎《はなむこ》〔キリスト〕と
起き臥しをともにするためでございます。
わたくしがまだうら若いむすめのころ、キアーラさま〔聖フランチェスコの女弟子。彼女もアシジの富家の女で、フランチェスコを慕って尼僧となり献身的に協力した〕をしたって
この世をのがれ 法《のり》の衣を身につけて、
その宗門の道へ入る誓いを立てました。
そのあとで、善よりも悪を好む慣いの人たちが
あのなつかしい修道院のそとへ わたくしを掠《さら》ってまいりましたが、
それからのわたくしの生涯は おん神さまがご存じになっておられます。(一〇八)
わたくしの右手に あなたがご覧になっている
もう一つのかがやきは〔その魂は、シチリア王ルジェロ二世の末女〕、わたくしどものいる天球の
あらゆる光にもましてきらめいておりますが、
〔その方のことは〕わたくしの申しあげた話だけでも おわかりでございましょう。
そのお方も修道女でいらっしたのです。わたくしのように、
頭から浄らかな面帛《おもぎぬ》を奪われておしまいになられたのです。
でも、このお方はご自分の心にそわぬまま 修道の慣いにそむいて
この世へ還俗《げんぞく》させられたあとでも、
心から面帛をはずしたことはございません〔俗人になっても、神聖な面帛を心からとらなかったということ〕でした。(一一七)
このお方こそ あの大皇妃のコスタンツァさまの光でございます。
シュワーベン家の二代目〔二代目のハインリッヒ六世の妃となり、三代目のフリードリッヒ二世を産んだということ〕から出て
三代目の 最後の権威をお生みになられたお方です」
そう語ってから、そのひとはアヴェ・マリアをうたいはじめた。
歌っているうちに、重いものが水に沈んでいくように、
そのすがたを消してしまった。
ちょっとの間 彼女のあとを追っていたわたしの目は、
やがて彼女が見えなくなると、
さらに大きな望みの徴《しるし》にかえって(一二六)
ベアトリーチェにのみそそいだ。
しかし彼女の姿がわたしの目を稲妻のように撃ったので、
とっさに わたしの目は〔それを見るに〕耐えられなくなって、
わたしが口を開いたのは それからずっと後のことだった。(一三〇)
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第四歌
第一の天の、月光天でのこと。ダンテがもった二つの疑い、すなわちおん神に恵まれた者の本当の住いはどこか、ということ。もう一つは、他人の暴力で誓願を果たせなかった者の功徳がなぜ少なくなるか、ということ。この二つのダンテの疑いを、ベアトリーチェが解いてくれる。ダンテのいだく第三の疑いは、さらに、全うされなかった誓願は、はたしてほかの方法で果たすことができるだろうか、ということである。総じて、ベアトリーチェの言い方は、スコラ的な言い方で、婉曲に循環する論理だから、端的にわかりやすい言い方ではない。
食べもので、同じくらい食べたいものを二つ、(一)
同じ間隔に離しておかれると、自由に選べるひと〔自由意志をもった人〕は、
〔どちらにしようかと迷って〕それを口に入れないまま 飢えて死んでしまうだろう。
それは、がつがつする二匹の狼のあいだにいる小羊が、
そのどちらにも気おじして 立ちすくむのもそうだし、
二匹の鹿のあいだで鹿を追う犬の〔とまどう〕場合も同じことだ。
なぜかというと、よしわたしが口をつぐんでいたとしても、
それは、わたしがそのように 二つの疑いにせき立てられていたからだから、
わたしは自分を責めもしないし、それが余儀ないことだったからほめもしないのだ。(九)
わたしは黙っていた。しかしわたしの願いは
わたしの顔色に出ていた。そしてそのことを質《たず》ねたい願いは、
はっきり口に出していうよりも さらにありありと〔顔に〕燃えていたのだった。
すると、ベアトリーチェは、あのネブカドネザル〔バビロニアの王で、夢占いの趣味があって、ある日、自分の夢を解くために賢人たちをあつめたが、だれもそれを解釈できなかったので、賢人を殺そうとした。そのとき、ダニエルが異象によっていっさいを知って王に奏して、賢人たちを救った〕に無法な悪業をさせかねなかった
その憤怒《いかり》をおさえた
預言者ダニエルのひそみに倣って いうのだった。
「そなたがあれこれの願いにふりまわされていることは、
あたくしにはよく判っていますよ。
そなたの思いが自分をしばって 声も出ないのです。(十八)
そなたは推しはかっているのです、
≪〔こんなに〕善い願いをもちつづけているのに、
ほかの力が自分の功徳の量を減らすのはなぜだろう≫とね。
そのうえ、魂は〔死ねば〕星に帰るという
プラトンの説も、
そなたを疑わせる原因になっているのですよ、
こんなことが、そなたの願いを
同じようにせき立てている問題なのです。
ですから、まずいちばん苦味《にがみ》の多い〔ひどくキリスト教の信仰に反すること、の意〕疑いから申し上げましょうか。(二七)
おん神のふところにいる熾天使《セラフイーノ》〔天使のなかで位がもっとも高い〕といえば、
モーゼやサムエル、またどちらのヨハネ〔洗礼者ヨハネでも、十二使徒の一人の福音書をかいたヨハネでも〕でもいいのですが、
そうです、マリアさまでさえ、
いまそなたに現われた魂たちと
別な天で座を占めているのではありません。
それらには、在天の年数の多いすくないもないのです。
みんな第一の天〔至高天〕をうつくしく飾り、永遠の神の息吹きをいくらかは感じとって、
それぞれにうるわしい生涯〔神の恩寵のこと〕に違いができるのです。(三六)
ここへ魂があらわれたのも、
ここが彼らの天と定められたからではなく、
この天がもっとも低い天だということを示すためなのです。
このように申し上げるほうが そなたの頭には入りやすいようです。
ひとは感じることだけでも
やがては知恵の価値となることを学びとるものだからです。
その故にこそ、聖書にはそなたの頭に合うように
おん神の手足のことをお述べになっているのです、
それに、ほかの意味もふくめて。(四五)
で、神聖な教会では、ガブリエルもミカエルも、それから
トビアを若がえらせた天使〔天使長ラファエル〕も、
にんげんの姿をして そなたにお現われになるのです。
ティマエウスが『ティマエウス』で魂のことを論じてることは、
ここでそなたが見るものとは似てはおりませんが、
それはあの人〔プラトン〕がひとの言葉を本当だと信じたと思われるからです。
あの人は 魂が自分の星に帰るといっておりますが、
それは自然が魂に〔人の〕形を与えたとき、
魂がその星から出ていったと考えたからです。(五四)
ですが、もしかすると、〔プラトンの〕説は
言葉には表われない 別の仕方で、
あなどれない意味がそこにあるのかもしれません。
もしあの人が、〔天の〕影響の誉れもそしりも
〔すべて〕この天に帰るものと考えているのでしたら、
その矢はいくぶんは真理を射ぬいているでしょう。
しかし、この原理〔天体の影響にもとづくという原則〕は曲解されて、遠い昔に
世界をすべて枉《ま》げてしまったようです。
ゼウスとか ヘルメスとかと 名を崇《あが》めてさまようことになったからです。(六三)
そなたをまごつかせた第二の疑いは、
そなたに毒もないので、
そなたをあたくし〔神学の象徴としてのベアトリーチェのこと。いいかえれば、真の信仰〕から引き離して よそへ連れていくこともありません。
天の正義がにんげんの目に不正に感じられるのは、
それは信仰いかんを論ずることでして、
異端の邪説からではございません。
それに、そなたの分別では、
その真実は十分に洞察することもできますから
おのぞみどおり そなたを満足させてさしあげましょう。(七二)
苦しみを受ける者が、それを無理強いする者に
何のあずかることもない場合でも、暴力があるとするなら、
その魂〔ピッカルダやコスタンツァの魂〕は暴力のせいだからとて 許されはしなかったのです。
というのは、意志はのぞまなければ消えはいたしません。
よしんば暴力が千万遍も魂をたわめようとしても、
〔魂は〕〔鍛冶屋の〕火の中で自然がなるようにしかならないものだからです。
なぜなら、意志は、力の強弱にしたがって
強くも弱くもなるものですし、これらの魂は
神聖なところ〔僧院〕へ帰ることができるのに、そんなことをしていた〔意志が暴力に屈してしたがっていたから〕からです。(八一)
それはあたかも、〔火刑《ひあぶり》の〕鉄格子の上でラウレンティウス〔聖ラウレンティウスのこと。ローマ皇帝ウァレリアヌスの迫害の犠牲となって、鉄架の上で焼かれたが、平然として、片側はもう焼けたから裏返してくれ、といったという〕がしたように、
また自分の腕をきびしく責めたムキウス〔ローマの青年。彼はローマの危急を救うために、エトルリアの王ボルセーナを殺そうとしたが失敗し、その責任を感じて、王の面前で、自分の手で自分を焼いた〕のように、
魂たちの意志がまったいものでしたら、
身を解き放されたとき、引き立てられた道を
きっと引き返したにちがいないからです。
しかし、そんな堅い意志はまれにしかないのです。
いいですか、これらの言葉をそなたが心してお聞きになるなら、
これからそなたをしばしば悩ますことも、
消えうせてしまう話ですよ。(九〇)
ところで、いまそなたには 目の前に別の難問があらわれていますね。
その難問には、のがれる前にそなたはほとほと疲れはてるでしょうから、
そなたは自分では それから逃げだせないことですよ。
あたくしはそなたに本気で申し上げたでしょう、
おん神に嘉《よみ》された魂が、いつも第一〔の神〕の真実のそばにいるので、
ものを偽ることができないということを。
そのあとで、そなたは、ピッカルダからお聞きになったでしょう、
コスタンツァがいまでも面帛《おもぎぬ》への思いを断たないでいるということを。
そうしますと、ここであの方とあたくしとで〔話が〕食いちがうようですね。(九九)
兄弟、世の中には、危険をのがれるためにでも、
してはならないことを心ならずも
ときにはすることが 間々ありました。
たとえば、アルクマイオン〔父親のアンビアラオスの仇を報いようとして母親エリピュレを殺した〕ですが、
その父親に頼まれて 実の母親を殺《あや》め慈悲をうしなうまいとして かえって無慈悲になったことがあります。
そんな場合には、そなたにも考えていただきたいと思います、
このように、力が意志とむすびつくと、
その罪は償いようもないということを。(一〇八)
この場合のような意志は、絶対的には悪は認めないのですが、
そなたがそれを認めるのは、他とのかかわりのある場合でして、
それを認めないと、もっと大きな悪〔の来るの〕を惧《おそ》れるからです。
ですから、ピッカルダがああ申したときのは、絶対的な〔場合の〕意志のつもりですし、
あたくしのは、他とのかかわりのある場合〔相対的な意志だということ〕です。
結局は、二人とも同じ真実を申したことになります」(一一七)
これは、それぞれの真理がみちびかれる泉〔神〕から流れでる
きよらかな河の水面のささゆれだった。
河はそれぞれの情〔二つの疑惑を解決したいという願望を指している〕を沈めなごめていた。
話をうけて わたしはすぐいった、「ああ、きよらかな天上のあてびとよ、
あなたさまのお言葉はわたしをうるおし、
わたしを温《なご》めていきいきさせてくださいました。
わたしの愛のこころは あなたさまの恩寵に感謝するほどそんなに深くはありませんが、
〔わたしの心を〕お見とおしになって、それのおできになるお方〔神〕が
お応えくださるでしょう。
どんな真理も おん神の真理のそとへはひろがらないものですから、
おん神の真理は照らされなければ、
にんげんの知恵〔性〕はそれに満足しないことが、いまさらのようによくわかります。(一二六)
〔人知は〕真理に入ると、巣に入った野獣のように、
すぐにそこで憩うのです。そこへは行けるのですが、
行けないなら、それぞれの望みは儚《はかな》いものになるでしょう。
この望みから、木が芽ぶくようになって、
疑いが真理の根から芽生えてくるのです。
これが、わたしたちをつぎつぎに嶺へ押し出していく自然〔の力〕です。
この力がわたしをいざない、この力がわたしをはげまし、
わたしにまだ明らかでないもう一つの真理について、
うやうやしく、あてびとよ、あなたさまにおたずねさせたのです。(一三五)
わたしが知りたいことは、にんげんが、
あなたの秤《はかり》の目に合うようなほかの善で
欠けた誓願をおぎなえるものかどうか ということです」
ベアトリーチェは、神々しく
愛の火花にみちた眼眸《まなざし》で わたしを見つめた。
だから、わたしはそれにうち負かされて、たじたじとなり、
目を伏せて 気をうしなったような気がしたのである。(一四二)
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第五歌
第四歌の終わりのところで、ダンテが質《たず》ねた誓願を変えることができるかということについて、ベアトリーチェはながながと、そのことに答える。それから二人は、月天を離れて、第二の天である水星天へ翔けのぼるのだが、そこには魂たちが、ひときわ強くかがやいていて歓喜にあふれたように、いきいきとしている。ダンテの周囲に集まってきたその光明の一つが、歌うようにして彼の質問に答えようとする。その魂たちはすすんでダンテに答えようとして、そのかがやきを強めるのである。
「この世で見るようなものとはほど遠い(一)
〔おん神の〕愛のほのおのなかで あたくしがぎらぎらして
そなたの目の力をうばうことがありましても、
そなたは驚いてはなりません。それは、
〔おん神の〕完全なお目から出ているものですから、
それに気づくと、たちまち善に足をふみ入れるようになるのです。
あたくしにはそれがはっきりわかっているのです、
そなたの知恵のなかでは すでに〔おん神の〕永遠の光がかがやいていることが。
それは一度目にすると、愛がもえつづけるものでございます。(九)
よしんば善のかりのすがた〔うたかたの幸福のこと〕が そなたの愛をまどわすことがありましても、
それは何かの光のかげにほかならず、
光にまぎれこんだものを思いちがいしたにすぎないからです。
そなたは、おん神への誓いを果たさないのに、
お裁きで量られる魂をうけ合うほどに
ほかの善行で償いができるかどうかを お知りになりたいようですね」
ベアトリーチェは、この〔第五の〕歌を そういうふうに切りだした。
あたかも いいだしたら とめどもない人のように、
この神聖な話をつぎのように続けた。(十八)
「おん神が〔天地を〕お創りになったときに、
おさずけになった最大のたまものは、
またおん神のおこころにもっともふさわしいものは、
〔にんげんの〕意志の自由でした。
それは、知恵をもつおん神の創造物《みつくり》〔天使と人間〕が、ことごとく
またそのものだけに、くださったものですし、おさずけになっているものです。
ですから、あたくしの申しましたこと〔自由意志〕から推しはかれば、
誓いの高い価値は、そなたもおわかりになるでしょう、
そうなされば、そなたが満足すれば、おん神の喜ばれることをなさるわけでしょうから。(二七)
と申しますのは、おん神と人間との間で誓いを立てるとき、
あたくしがいま申したこの〔意志の自由という〕宝物は、
おん神の生贄になりますが、それは〔自由意志の〕行ないのすることですから。
そこで、何が〔誓いを〕償うことができるのでしょう。
もしそなたがおん神に捧げたもの〔誓い〕を善に使おうと思うのなら、
盗銭をもって慈善をしようと考えているのですよ。
そなたはいまこそ、事のつぼをつかんだはずです。
しかし、神聖な教会は そのことを免除していますから、
そなたにあたくしが見つけてあげた真実に そむいているような気もします。(三六)
で、もうすこし、そなたは食卓にすわり直しなさい。
そなたのとったこのかたい食物をこなすのには
まだ何かの助けが必要だと思います。
そなたにあたくしが示したものに
こころをひろくあけて しまっておきなさい。
耳にはしても覚えてなければ 知識にはならないからです。
この〔自由意志の〕犠牲の本質には、
二つのものが必要になります。一つは〔誓い〕の内容であり、
もう一つは〔おん神との〕契約です。(四五)
この後のほうの契約は、それを果たさねば
いつまでも残るものでして、そのことでは、
はっきり申し上げてあるはずです。
そなたもご存じのように、ヘブライ人には
捧げるものを代えるとしても、
ともかく〔おん神に〕捧げることは必要だったのです。
ほかの、そなたには明らかな契約の内容は、
たしかにそんなもので、別の内容と
すりかえても罪にはならないですが、(五四)
白い鍵と黄色い鍵〔聖職者の権能と技術を象徴する言葉で、背に負うた荷、すなわち捧げ物を変えるのには教会の許可がいるということ〕をまわさずには、
だれも心のままに
その肩の荷を変えるわけにはいかないのです。
で、四が六のなかにふくまれるように〔神への奉納物を変えるときには、あとから捧げるものが前に約束したものよりも大きくなければならない〕、
もし捨てたものが、あとから代わるものにふくまれていないとすれば、
そういうすり換えは 理に合わぬことだと思うでしょう。
ですから、自分の価値の重さで
天秤《てんびん》を狂わすほどのものなら どんなものでも、
ほかの捧げもので 目盛りを合わせることはできないのです。(六三)
いのちの限られた人間は、かりそめに誓いなど立ててはいけません。
そなたは〔誓いを〕守って、イェフタがはじめの誓いにしたような
まがったことをしてはいけません。〔イェフタはイスラエルの法官だったが、アンモン人との戦さで神に誓願をかけて、もし戦争に勝ったら、自分が帰宅したとき自分の家の門を出てくる最初の人間を燔祭の生贄に捧げると契約した。ところが戦争に勝って家に戻ると、最初に門から出てきたのは自分のひとり娘だった〕
誓いを守って悪くなるよりも、
イェフタは≪軽はずみだった!≫というほうが、まだしもよかったのです。
そんな愚かしいことは、ギリシアの総大将〔アガメムノンがギリシア軍のトロイア征討の総大将だったとき、順風が吹かないので軍船がアウリスから出られないところから、もし順風が吹いてトロイアへ出航できるなら、その年に生まれるもっとも美しいものを捧げると誓いを立てた。すると順風が吹いたので、自分の娘のイピゲネイアを女神アルテミスに犠牲に捧げねばならなかった〕にも そなたは見ることができます。
そこで、イフィゲネイアは おのが美貌に泣き、
それの祭儀でそう語るのをきいて、
衆生《しゅじょう》、賢人をそぞろに泣かせたのです。(七二)
キリストの信者たちよ、そなたらの身のこなしを重々しくして、
夢にも風の前の羽毛のようであってはなりません。
水さえあれば身はきよめられる〔誓いは破れると思ってはならないとの意〕と 思ってもいけません。
そなたらには 新約と旧約の福音書と、
そなたらをみちびく教会の牧者があります。
それらこそ そなたらを救うのに十分なはずです。
よしんば 邪《よこしま》な身欲がそなたをよそへ呼びこもうとも、
そなたたちは人間です。手に負えぬ羊とならずに、
そなたらのなかのユダヤ人に笑われないようにしなさい。(八一)
母羊の乳をはなれて、生まれたままの気まぐれから、
われとわが身をぶっつけて楽しんでいる
仔羊のようなしぐさはしないことです」
ベアトリーチェは、ここに書いたようなことをわたしに話してから、
遠い彼処《あなた》をこころからあこがれて ふり返った、
そこは世界がさらにいきいきとして見えるところ〔光にいちばんよく照らされているところは、赤道または至高天である〕だ。
彼女の沈黙と さっと変わった顔つきは、
はや新しい疑問が口から出かかっていたわたしの好奇心に(九〇)
口をつぐませてしまっていた。
それから、弦《つる》の震《ふる》えがおさまるさきに、
はやくも的《まと》を射貫いた矢もさながらに、
わたしたちは第二の天〔水星天〕へ翔けのぼっていたのだった。
その天の光耀のなかへ入ると、
わたしの淑女はさも愉しそうにわたしを見た。
そのためか、そこの星々はいちだんと輝きをましていた。
その星々でさえ ほほえんでかがやきを変えていたのだから、
どんなふりにもなびきやすい気質のわたしのことだから、
わたしもどんなにか変わったことだろう!(九九)
ひっそりと澄みかえる養魚池へ
餌と見えるものをそとから投げこむと
魚が群れあつまってくるように、
何千というきらきらする霊が、わたしたちの方へやってくるのを
はっきりわたしは見とどけた。その一つの星からは聞こえてくるのだ、
「あの方だ、わしらの愛を強める方だ」という声である。
そうして、魂たちがめいめい わたしたちの方へ来ると、
それらから出てくるあざやかな光のなかで
その影たちは愉びがあふれているように見えた。(一〇八)
読者よ、考えてみてもらいたい。
もしここで話しだしたことを続けないとしたら
きみはそのさきを知ろうとして どんなに飢えに苦しむだろう。
だから、きみにはわかることだ。わたしがこれらの魂から
その〔天上〕のありさまをどんなに聞きたいと願っていたかということを。
霊たちは現実に わたしの目の前に現われていたのだもの。
「ああ、幸ふかく生まれでた者よ、
戦いの終わるにさきだって〔死にさきだってということ〕、
悠久の勝利の玉座をうかがい見る恩寵を許された者よ、(一一七)
天上の涯までもあまねくかがよう光に わしらは燃えているのだから、
わしらのことを知りたいのなら
何なりと気さくにたずねるがよい」
その信|篤《あつ》い魂のひとり〔ユスティニアヌス〕が、こうわたしにいうと、
ベアトリーチェも口を添える、「お話しなさい、
お話しなさい。おん神に申し上げるように お信じになって」
「あなたさまがこうしてご自分のかがやきのなかにお住みになられていること、
また 笑みをおうかべになると あんなにかがやきが冴えますので
お目から光がほとばしることも わたしはよく存じております。(一二六)
しかし、わたしはあなたさまがどなたかも存じませんし、
たっとい魂《みたま》よ、なぜあなたさまが ほかの光〔太陽〕におおわれて
ひとの目には見えない天〔水星天〕の歓びをうけておられるのかも存じないのです」
わたしは さきほど声をかけた光に向かって こう口を切った。
すると、その光は前よりも強くきらきら輝きだした。
太陽は、その熱が厚い霧〔の幕〕のなごやかさを破ると、
光がかがやきすぎて、そのすがたさえ隠してしまうものだが、
そのきよらかな姿は、
ふかい愉びにいやさかる(一三五)
その光のなかに隠れたままで、
この歌〔第五歌〕にうたいつづく形で わたしに答えてくれた。(一三七)
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第六歌
ダンテの疑いを解こうとする、きらきら光る霊は、ビザンティウムのユスティニアヌス皇帝である。彼はローマ法典の編纂のことや、ローマ帝国の象徴の鷲の旗のもとで行なわれた先人の偉業をかたる。しかし、ダンテ時代の、この旗印をたてて、皇帝と法王との勢力が争い、国内には党争のつづく乱縷《らんる》のごとき事態を憤り、また嘆くのである。最後に、プロヴァンスのベレンガール伯に仕えて勲功のあったロミューが、讒言《ざんげん》によって宮廷を追われ、乞食となって一片のパンを乞うて死んだ逸事を語り、「正義の末路かくの如し」と慨嘆するのである。やはり水星天での出来事である。
「ラヴィーナ〔ラウィニアの王ラテーノスの娘、アエネアスの妻〕を掠《さら》ったあの古い世の人〔アエネアスのこと〕のあとから(一)
ついていった鷲の旗印を 天のうごきにさからって〔西から東へ〕さし向けた
大帝コンスタンティヌス〔三二四年にローマからビザンティウムへ帝都を移した〕以来というもの、
百年に百年をたしても まだあまる〔年々の〕あいだに、
神の鳥〔鷲〕は、そのおこりとなった
山〔トロイア〕の近くの ヨーロッパのさいはて〔ビザンティウム〕にとどまって、
神聖な翼のかげにかくれて、
つぎつぎに〔皇帝が立って〕そこで世界を治めていたが、
やがてはうつるご時世で わし〔の世〕にまで来ることになった。(九)
わしはその皇帝だったのだ、わしはユスティニアヌスだ。
いまここで知るおん神の愛のこころ〔聖霊〕を吹きこもうとして、
諸法のなかから 苛酷なもの 無意味なものを除いたのだ。
わしが法典の改訂にかかったはじめには、
主《しゅ》は〔神の格だけの〕単性だと それをひたすら信じて
そういう信仰に安んじていたものだ。
だが、法王だった福者のアガペトゥス〔法王アガペトゥス一世。オストロゴートのテオダトゥス王のために、ユスティニアヌス帝との和議の斡旋をしにビザンティウムへ行ってそこで没した〕が、
わしをまっとうな信仰へと
その勧説《かんぜい》でただしてくれた。(十八)
わしは彼を信じていたが、彼が信じていたものが
いまとなっては はっきりわかる。お前にもわかるように、
およそ矛盾には真偽の両面があるものだ。
わしが教会とともに歩きだすと、
おん神はすぐさまわしに高い仕事をするように霊をお吹きこみになり、
わしはいっさいをそれにささげたのだ。
わしは軍事をベリサリウス〔ユスティニアヌス帝麾下の名将〕にゆだねたが、
彼の指揮で天の右手〔加護〕がうまく結びついたので、
これはわしに手を引かせるしるしとなった。(二七)
さてこれで、お前の最初の質問〔私はあなたがどなたか知らない、というダンテの質問〕に対する
わしの答えはおわるわけだが、その答えの性質上、
ほかに二、三つけ加えておかねばなるまい。
それは、それを横取りする者〔ギベリーニ党〕も
それに逆らう者〔グエルフィ党〕も、
もっともらしい理屈をつけて 聖く尊い〔鷲の〕旗にさからっているが、
それをお前に見せたいからだ。
パルラス〔ラティオ王の息子。アエネアスを助けて戦死した〕が死んで、〔アエネアスに〕領地を与えられたときにはじまって、
どんなに多くの徳〔ローマの英雄たちの武勇の徳〕がそれに敬意を払ってきたかを(三六)
お前は見るがいい。
その旗は三百年以上ものあいだ、
アルバ〔アルバ・ロンガ〕の地にとどまり、とどのつまりは、
三人と三人が〔アルバ・ロンガのクリアツィ家の三人兄弟と、ローマのホラティウス家の兄弟三人とが戦った故事。その結果、ローマが勝って、アルバ・ロンガはローマに占領された〕そのために またしても闘ったことは知ってのとおりだ。
あの七代の、サビーニ族の女の災い〔ローマ人がサビーニ族の女を掠奪した〕からルクレツィアの嘆き〔ルクレツィアはセクストゥスに辱められて自殺した〕にいたる王の時代に、
その旗が近くの民族にうち克って何をしたかも知っているだろう。
またそれ〔鷲の旗印〕が、ブレンヌス〔前四世紀末にローマへ侵入して放火したガリア軍の将軍〕やピュルロス〔ギリシアのエペロスの王で、前三世紀後半に二回にわたってイタリアを攻撃した〕や
そのほかの君主や共和国と出会ったとき、
ローマの軍勢に捧げられるようにしてやったことを。(四五)
その戦で、トルクワトゥス〔前四世紀にガリア人とラツィオ人に勝った〕や もじゃもじゃ髪が綽名《あだな》になったクィンテウス〔ローマの執政官〕、
親子二代のデキウス〔デキウス一家のこと。この一家の三人の男はどれも祖国ローマのために戦死した〕、ファビウス兄弟〔ファビウス家はローマの名門〕など、
みなわしが讃えた名をもっていた。
その旗はまた、ポオ河よ、お前の流れでる
アルプスの岩山を越えてきたハンニバル〔カルタゴの勇将〕にしたがう
アラビア人〔ダンテはハンニバルをアラビア人としているが、これはまだイスラム教徒の征服する以前だから、正しくはカルタゴ人〕のたかぶりを打ちくだいてくれた。
その旗の下で スキピオ〔ローマの名将〕とポムペイウス〔大ポンペイウスのこと〕が
若くして凱旋したし、
〔フィエゾレの〕丘々には〔その旗は〕わびしくも見えた。(五四)
そのあとで、天が世界を天の平安のさまに帰そうと
おのぞみにたったときに、
カエサルがローマの意志からその旗をとった。
その旗のしたことは、ヴァール河からレーノ河にいたる
イゼール、ロワール、セーヌなどの流れも見、
ロダーノ河にあつまる渓々《たにだに》も見たのだ。
その旗がラヴェンナ〔北イタリアのアドリアティコ海沿いの町。この近くに有名なルビコンの河があった〕を出て、ルビコンの河を越えてからしたことは、
まるで飛ぶようで〔早くて〕
言葉も筆もついてはいけない。(六三)
〔鷲に率いられた〕軍勢はスパーニアへとって返して、
ディラキウム〔アドリアティコの海の東岸にあるギリシアの町〕に向かい、ファルサリア〔テッサリアの町。この付近でカエサルはポンペイウス軍を破った。ここの数行は、カエサルが東奔西走して政敵打倒の遠征をしたことの記述である〕にも長駆して、
酷熱のナイル河にも痛みを与えた。
〔その鷲は〕かつて行ったアンタンドロス〔フリジア海岸の高地にある町〕の海港やシモクスの小川を〔トロイアの近くを流れる小さい川〕、
またヘクトルがやすらいでいる地〔トロイア〕をふたたび見たが、
プトレマイオスを害《あや》めて〔カエサルがエジプト王プトレマイオスを退位させて、その姉妹のクレオパトラをたてたことをいう〕 はげしく起ちあがると、
稲妻のようにイウバ王〔マウリターニアの王のこと。ポンペイウスに味方をしたので、カエサルに攻められて自殺した〕へと下った。
それからは、お前たち西の方〔スペイン〕へ引き返したのだ。
そこにポンペイウスの残党の角笛をきいた〔ポンペイウスの二子が、カエサルに最後の抵抗をするため吹き鳴らした笛〕からだ。(七二)
それにつづく旗手〔オクタウィアヌス〕のしたことについては、
ブルトゥスもカシウスも〔作者は〕地獄でこれを証《あか》しているが〔カエサル暗殺の罪のために、ダンテは『地獄』でそのブルトゥスとカシウスの二人を苦しめている、ということ〕、
そのためにモデナ〔北イタリアの町。ここでオクタウィアヌスは、マルクス・アントニウスを破った〕とペルージア〔中部イタリアのウンブリア地方の町。ここで、オクタウィアヌスはアントニウスの兄弟のルキウスを捕えた〕の府《まち》は 泣きの涙だった。
いまでも泣きくれている哀れなクレオパトラは、
その旗の前で 逃げまどっていたが、
あっという間に毒蛇で怖ろしい死にざまをした。
鷲はその旗手〔アウグストゥス〕とともに紅海の渚にまで馳せて、
旗手ともども世界に平安をもたらした。
ヤヌスには そのため神殿が閉ざされることになった。(八一)
しかし、わしがいったその旗印がはじめにしたことは、
のちには、その旗手に服したローマ帝国のためにすべきことだったし、
澄んだ眼《まなこ》ときよらかなこころで
それを見るなら、
第三の皇帝《カエサル》〔ティベリウス〕の手に握られるとき、
それが些細な とるに足らぬことだったことがわかるだろう。
というのは、わしに息を吹きこむおん神の正義が、
わしのいうティベリウス帝の手に、
正義の怒りに報いる栄光として その旗印をおあずけになったからだ。(九〇)
いまここで、わしがお前にくどくどいうことにお前は驚くかもしれないが、
鷲の旗はやがて、皇帝ティトゥス〔ユダヤ人の反乱を平定したが、それは人間の原罪を罰しようとしたのだという〕とともに
原人の罪の復讐に報いようとして駆けだしたのだ。
そして、ロンゴバルドの歯〔ゲルマン族〕が神聖な教会に噛みついたとき、
シャルル・マーニュはその鷲の翼の下に馳せ参じて、
〔教会の〕敵にうち克ったのだ。
ここまで来れば、お前はわしがさきに非難した者がだれだか〔ギベリーニ党とグエルフィ党の党員のことを暗示〕、
お前たちの罪のすべての因《もと》になった
その者のとがが何かを 判断することができるだろう。(九九)
ある者〔法王党〕は黄色のユリ〔フランク王の家紋〕で 公〔ローマ帝国の鷲〕の旗印にさからわせ、
もひとりの者〔皇帝党〕はそれ〔鷲の旗〕を党のものにする。
本当にどちらが罪ふかいかを見分けることはむつかしい。
やれよ、ギベリーニ党、別の旗印で策略を弄するがいいぞ。
正義が正義から遠のいていく奴には、
いつも鷲の旗印のあとから罪がくっついていくのだからな。
この新しいシャルル〔二世〕をその配下のグエルフィ党とともに
うち倒さないまでも、皮をひん剥《む》く
はるかに強い獅子の爪〔ローマ皇帝の権力〕を惧《おそ》れさせるべきだ。(一〇八)
子供が父親の罪に泣くことは古来その例は多いが、
おん神がユリの家紋を鷲とお取り換えになるなどとは、
新しいシャルルに考えさせてはならないことだ。
ここの小さい〔水星〕天は、
名とほまれとを受け継がせようとて
生前にすすんで善行をした霊たちで飾られている。
しかし時には、願望がおん神から
こんなにも道をそれることがあると、
神の愛のひかりは弱々しく立ち昇るほかはない。(一一七)
しかし、わしらの酬いが功徳によって量られることは、
わしらのよろこびの一端でもある。
その報酬に過不足がないことがわかるからだ。
その結果、いきいきしたおん神の正義が、
わしらのきよらかな願いをおさずけくださるので、
願いがよこしまなものにゆがむことなどありはしないのだ。
〔地上では〕もろもろの異なった声がうつくしい調べになるが、
天上のわしらの間でも さまざまな福《さいわい》の階級が天の車輪のなかで
こよない諧調をつくりだしている。(一二六)
まことに、このわしのいる水星天のなかでは、
ロミュー〔ロミュー・ドゥ・ヴィルヌーヴのこと。ダンテ時代のいい伝えでは、ロミューは貧しい家に生まれた巡礼だったのをレーモン伯が執事に登用すると、財政的な手腕を発揮したばかりか、伯の四人の息女をヨーロッパ各地の王家に嫁がせ誠実に奉仕したが、貴族の中傷にあって、伯のもとを去って行方がわからなくなったという〕の光がかがやいているよ。もっとも
彼のすぐれてうつくしい行ないは さして報いられはしなかったが。
彼をけなしたプロヴァンスの人たちの顔からは笑いが消えた。
他人の善行を自分の不幸《わざわい》と見るひとは、
よこしまな道をゆく者だ。
ラモンド・ベレンガール〔レーモン伯のイタリア訓み〕伯爵には四人の姫君があったが、
いずれも王の妃になられた。その話は
しがない流浪者《さすらいびと》のロミューがまとめたものだ。(一三五)
だが、あとで、ラモント伯は讒言《ざんげん》にうごいて、
この正義の人にきりをつけさせた。
十の元手を七と五にして返したひとだったが。
このことがあってから、ロミューは年老いて貧しくそこを出ていった。
パンを一片ずつ乞うて暮らしたが、
世の人たちが彼のこころを察していたなら、
よく賞めてはいるが、さらに高く讃えたことだろうに」(一四一)
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第七歌
水星天にいる魂は、みな生前には名をあげほまれを高めようと善行につとめた人たちだ。ダンテはそれらの光明が飛び去ったあとで、人間のもつ原罪をつぐなうことについて疑念にとらわれるのだ。その彼のこころを見抜いたベアトリーチェが、「なぜ神の正義の復讐がまた正義の報復をうけるのか」という彼の疑問をとき明かしてくれる。その罪のつぐないのためのキリストの肉づけについても、彼女は克明にその神学上の解釈をしてダンテの目をひらかせている。
「讃えまさん、万軍の聖なるおん神、(一)
おん身のきよらかな光をもて たかだかと
天上の神恵《みめぐみ》のほのおを輝かせたもうが故ぞ」
おのが歌う節《ふし》に合わせて踊っている
この霊〔ユスティニアヌス〕は、歌いながらに
そこの〔神と天使の放つ〕二重の光をその身にむすび合わしているようだった。
すると、彼もほかの魂も 彼の踊りに動くかと見る間に、
火花の散るように すばやく遠ざかって
たちまち姿を消してしまった。(九)
わたしはそれをいぶかって こころにつぶやいた「たずねてみよう」と。
その「たずねよう」というのは、もちろんそのやさしい滴〔甘い真理の雫、ということ〕で
わたしの渇きをいやしてくれるあのマドンナ〔ベアトリーチェ〕を想ってのことだ。
しかし、〔そのひとの名のはじめの〕ベと、〔おわりの〕イーチェしか思いだせないほどに
すっかり気おじさせていたそのひとを敬う気持が、
眠りかけた人のように わたしの頭をさげさせた。
そのベアトリーチェは、ちょっとの間 わたしにそうさせておいて、
あの火のなかでも〔煉獄のあの炎の中にいる人たちのなかでさえ、との意〕ひとを倖せにする微笑で、
わたしをきらきら光らせながら 語りはじめた。(十八)
「あたくしの判断は夢あやまちはないのですが、
そなたを思いまどわしているのは、
正義の復讐がどうして正しく罰せられるかということでございましょう。
ですから、あたくしがそなたのその疑いをといてさしあげましょう。
おききなさい。あたくしの申すことは、
そなたには大きな教訓のたまものになるでしょうから。
あの生まれたのでもない〔神に創られた〕男〔アダム〕は、
おのれの身欲を抑える轡《くつわ》に耐えられないばかりに、
自分を罪におとすとともに 子孫までもみんな罪人にしてしまったのです。(二七)
そのために、人類は何世紀もの永いあいだ、
大きなあやまちのうちに、おん神が言葉《ロゴス》〔キリスト〕をお降《くだ》しになるまで、
罪になやんで〔地上に〕横たわっていたのです。
地上で〔罪のために〕造物主《つくりぬし》から離れていた人間の性は、
おん神の永遠の愛の働きから、
神の格のなかへ〔人の〕性を結びつけて一つの格《ペルソーナ》になったのです。
〔ここの数行は、神と人とを合一にするキリストの格のことで、それの媒体となる因子はロゴス(言)である。この格のことを神学ではペルソーナという。その内面的にもつ意味は解釈しにくく、ネストリウスはじめ異端とされる神観の出てくるのも、その意味のあいまいさから来る〕
これが大事なところです。あたくしがいま申すことをしっかり掴んでください。
造物主といっしょになったその〔人の〕格は、
創られたときは無垢で また善良でしたが、(三六)
真実の道から その〔あるべき〕生涯から
はずれていってしまったので、
おのれの招いたとがの故に天国を追われたのです。
〔キリストが〕お受けになった十字架の罰は、
それが〔ご自分のお持ちになった〕人の性のことを量ってみれば、
これほど正しい罰は ほかにはありますまい。
しかし、人の性質と結びついて堪えしのんだ
〔神の〕格のことを考えますと、
これほど不当な罰もないでしょう。(四五)
にもかかわらず、一つの行為〔キリストの死〕から いろんな結果が出てくるのです。
その同じ死を おん神もユダヤ人も ともに喜んだのです〔神もユダヤ人も、ひとしくキリストの死を望んだが、望んだ目的は別だった。神は人類の罪のつぐないのため、ユダヤ人は嫉妬のために望んだのだ、という〕が、
そのために 地は震え 天がひらかれたのでございます。
正義の復讐が正しい〔天の〕法廷で報いられたと、
ひとにいわれたとしても、
そなたには もうそんなに解りにくいことではないはずです。
しかし、あたくしはいま、そなたの心があれこれと思いまどって、
もつれのふしに〔困惑、困難〕閉じこめられていることがわかります。
あたくしはそのことを解こうとひどく望んでいるのです。(五四)
そなたはいうでしょう、聞いたことはよくわかるけど、
なぜおん神が あたくしたちの罪のつぐないのために
この手段〔キリストの死〕だけをお望みになられたのか、腑に落ちないと。
このおん神のご命令は、兄弟よ、
知恵が愛の火のなかで
まとまらないひとの目には かくされているのです。
実のところ、この的《まと》を知ろうとするひとは多いのですが、
それを掴むひとは案外すくないのです。
ですから、そうした手段がなぜそんなに尊いかという訳を申しましょう。(六三)
嫉《そね》みというものをいっさいご自分からおしりぞけになって、
身内に燃えている善〔意〕を火花のように撒《ま》きちらすおん神は、
そうしてお美しさを永遠にそとへお広げになられるのです。
このおん神の善〔意〕からおのずから創られたものは、
それで終わることはないのです。おん神の印《おしで》は、
それが捺《お》されると消えることがないからです。
またその善〔意〕からじかに降りそそぐものは、
まったく自由なのです。それは新しい物〔諸天〕の力に
影響されることがないからです。(七二)
それがおん神の善に肖《に》るにつれて おん神はさらにおよろこびになるのです。
そのことは、万物にかがやきわたる神聖な〔愛の〕炎が、
おん神に肖《に》れば肖るほど 光がいきいきすることでもおわかりでしょう。
人類はこれらのすべてのもの〔不死、自由、聖化する悦び〕をもつことを
とくに許されているのです。そしてその一つを欠いても、
気だかさをなくすことになるのです。
にんげんから自由を奪い、それをおん神の善に肖ぬものにし、
したがって そのかがやきをどこか白《しら》けさせるものは、
罪のほかにはございません。(八一)
ですから、〔その罪の〕邪悪な快楽に対して、
正しい懲罰によって、罪の故の神恵《みめぐみ》のむなしさを埋めないかぎり
人間はその気だかさを回復することはできなかったのです。
そなたら人類は、その種〔アダム〕において
すべての罪をつくられたからには、
楽園からのように その気だかさからも遠のいているのです。
そなたは 別して思いをこらしでもしなければ、
これら〔二つ〕の浅瀬〔道〕の一つを通らずに別の道から
それをとりかえすことはできません。(九〇)
それは、おん神がお慈悲だけでお赦しくださるか、
もしくは人間がすすんで愚かな罪の
つぐないをするか、のどちらかだからです。
さあ、もっと近く寄って、
あたくしの申すことにできるだけ気をとめて
あの永遠のおん神のおもんぱかりの深い淵を、目をすえてご覧になりなさい。
人間がそのかぎりある格のなかで、
満足することさえできなかったのは、
おん神との約束にしたがわずに 天に昇ろうとしたからで、(九九)
そのあとからは へりくだって下ることができなかったからです。
このことが、人間が自力でおん神に満足を与える力を
はぎとられた原因なのです。
そこで、おん神には、人間を完全に真実の道にもどすために
神の道をもってする必要ができたわけです、
それは一つの道〔恩寵か贖罪か〕とも 二つの道〔恩寵と贖罪の二つ〕とも申せましょう。
しかし、行ないは それがあらわす心の善が
明らかに出れば出るほど
行なう者はよろこばれるものですが、(一〇八)
この世に印《おしで》をつけるおん神の善〔意〕は、
あらゆる道をとって そなたらをふたたび昇らせて
満足しておられるのです。
あの〔天地創造の〕初めの晨《あした》と〔最後の審判の〕最後の夜のあいだに、
この道あの道で行なわれた こんなにも高くこんなにも尊いご処置は
これまでにはなかったし、これからもないでしょう。
それは人間をふたたび立ちあがるのにふさわしくするために、
おん神がご自分で罪をお赦しになられるばかりか、
ご自身をさえお与えなさる〔神はそのお一人子のペルソーナのなかにみずからの身体をお与えになった、という意〕ほど寛大でおいでになられたからです。(一一七)
もし神の子に〔人間の〕肉をおつけになるほど
ご謙遜でおいででなかったら、
ほかのどんな方法も おん神の正義を行なわすのには十分ではなかったのです。
いま、そなたの願望《ねがい》をさらにかなえるために、
あたくしは〔それを〕お話ししようとして あるくだりへ立ち帰って来ましたが、
そのことでは そなたはあたくし同様よくおわかりになるでしょう。
そなたはいうのです、≪わたしには水が見える、火も見える、
いや、大気も大地も、そのすべてがまざり合ったものも見える。
だが、それらは長く続かずに、みな崩《つい》え朽《く》ちてしまう。(一二六)
これらはまさしくおん神のお創りになられたものだ。
とすれば、わたしのいったこと〔ベアトリーチェがさきにいった「永遠の生命を保つ……」(第七歌六九)という意味の言葉〕が本当だったのなら、
それらは腐りはしないはずだ≫と。
兄弟、いいですか、天使たちとか いまそなたがいるこの清浄無垢の国とかは、
これはおん神のお創りになったものといえます。たしかにいまあるように、ここは完全な状態です。
しかし、そなたが名をあげたもろもろの元素と、
それから造られたものなどは、
おん神に創られた力〔天〕によって形がつくられているのです。(一三五)
それらのもののもつ物質は すでに〔その前に〕創られていたのです。
それらの周囲をまわる星々のなかで、
物をつくる力もまた創られていたのです。
もろもろの神聖な光〔星々〕の動きとかがやきは、
その〔原質のもつ〕生命の力によって、
けものの魂と草木の精とを引きつけているのです。
しかし、そなたらの魂には至上の善〔神〕が
じかに息を吹きこんで ご自分を慕うようにせられたので、
こうして あとあとまで いつもおん神の善〔意〕をもとめさせているのです。(一四四)
そこで、このことから、
もしそなたが原初の人間の両親〔アダムとイヴ〕がそれぞれ創られたとき、
人の肉がどうして作られたか〔神が直接アダムとイヴを創ったことを考えれば、それらは不滅だから、罪のために死んでも最後の審判の日に復活するはずだ、という意味〕に思いいたるなら、
そなたらの復活をもう一度とりあげて話すことができるでしょう」(一四八)
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第八歌
第三の天は金星天である。ダンテはベアトリーチェといっしょに、この天に昇るのだ。ここには愛欲のとりこになった霊たちがいるのだが、ダンテは思いがけず、旧知のシャルル・マルテル王に出会う。彼はもし若死しなければ、当然善政を布いたであろう国々のことを語るが、ダンテは、善良な親からなぜ悪い子が生まれるかという疑問をもっていたので、その疑いをシャルルに解いてもらう。すべてが天国での出来事だから、その理由も神学的な解釈で、その論理もひどくスコラ的である。
世がまだ渾沌としていたころ、うつくしいチプリーニァ〔恋の女神アフロディテの別名。ウェヌスとかウェネレとも呼ばれる〕が第三の天〔プトレマイオスの天動説では、太陽以外のすべての遊星はその固有の運行の方向、すなわち東から西へと回転するものだが、そのなかで、反対の方向、すなわち西から東へ回転すると考えられていた小さい天国のこと。ここで、金星が第三のエピチクロ(その中心が他の大円の円周上を回転する小円)のなかで回転しているのは、それが第三の天にあるからである〕をまわると、(一)
愛欲のひかりにその身がかがやいて 罪を得て
永遠に地獄へ墜ちるもの と信じられてきたものだ。
だから、古い代のひとは、昔の邪教のあやまりから
生贄を供えたり、誓願をかけて祈ったりして
チプリーニァを崇めるばかりでなく、
ディオーネ〔オケアヌスとテティスのあいだに生まれた娘〕とクピド〔愛の神エロス〕をすら、
その母として 子として たっとんで、
クピドがディードの膝にすわっていた〔アフロディテがアエネアスに対する恋の炎をディードの胸につけようとして、クピドをアエネアスの子供のアスカニウスの姿に変えて、ディードの膝の上にのせたという説話にもとづいている〕とさえ いっていた。(九)
そして、わたしがこの歌をうたいはじめたその女神の名〔金星は女神ウェネレの名でとおっている〕にことよせて、
夕べにまた朝あけに 太陽が見とれる星を、
世のひとはその〔星の〕名〔ウェネレ〕で呼んでいた。
わたしは自分がその星のなかへ昇ったことには気づかなかったが、
わたしの淑女《あてびと》がいちだんと美しくなったのを見て、
彼女がその星のなかにいることをかたく信ずるようになった。
それは、あたかも炎のなかでも火花が見えるようなもので、
合唱のなかからでも ある歌声が聞きわけられるように、
ひとつの声が歌いやむと 別の声がたちかえって過ぎてゆくのだ。(十八)
わたしには その天の光のなかで、幾条もの別の光が、
素早くまたゆるやかに流れながら まわり動いているのが見えた。
思うに、それは〔おん神を感じる〕こころの深さによるものらしい。
風が それと目に見えても見えなくても、
寒天の雲から
こうも早くは吹きおろしはしまい。
あの熾天使《セラフィーノ》から動きはじめて〔金星天の間を〕舞いおさめてから、
そのきよらかな光〔魂〕がここへ来るのを見るひとにとって、
その風は のろのろと遅く感じただろう。(二七)
まっさきに現われた霊たちのあいだから
ホザンナという頒歌《ほめうた》がひびいてきたが、
わたしはその声をもう一度きく思いを捨てることなどできそうになかった。
すると、ひとりの霊〔シャルル・マルテルの霊。シャルル・ダンジュウ二世の長男〕がわたしに近づいてきて
語りはじめた、「わしらはみなお前を喜ばそうとかまえているのだぞ。
お前によろこんでもらいたいのだからね。
わしらはここで、上天の王侯〔諸天を司る天使の階級の一つ〕とともに
同じ円を 同じ周期で 同じ〔心の〕渇きをもってこの天をまわっているのだ。
≪第三の天をうごかす知恵のあるもの!≫と、お前はその王侯らに 世にあるときすでにいっていたが、(三六)
わしらは愛にみちているから、
お前をよろこばすためになら、
しばらく歩みをとめても〔歌舞の〕うるわしさはへりはしまい」
わたしはうやうやしく目を淑女《あてびと》にうつすと、
彼女もそれを認めて
はっきりと心にとめよ というそぶりをしたので、
そこで たくさん約束をしてくれたさきの光を振り向いて
ひどく情《おもい》のこもった声で わたしは
「ああ、どなたさまで。あなたさまのお連れのお方は」といった。(四五)
そう わたしが話しかけると、
〔その魂の〕悦びにはさらに悦びがよみがえり、
かがやきがさらにますかとも思われた。
〔その魂は〕ひときわ強くかがやき出て わたしにいった、
「わしが下界にいたのは ほんのわずかの間だった。
もうすこし生きていたら、禍いの多くは避けられただろう〔シャルル・マルテルの兄弟のシャルル・ダンジュウの悪政はいくらか矯められたにちがいない、ということ〕。
〔天上の〕悦びがわしの身のまわりを輝かしていたので、
お前からわしの姿をかくし、お前には見えなくしていたのだ、
絹に包まれた蚕《かいこ》のようにな。(五四)
お前がわしをあんなに愛してくれたのも、それも道理だが、
わしが〔もっと〕下界にいたら、
わしはお前に、わしの愛の葉のほかに もっと〔実までも〕示したにちがいない。
ローヌ河がソルグ河と合流した下流で洗われる
そのローヌ河の左岸一帯の地方では、
そのころ そこの君主として わしは望まれていたのだ。
それは、トロント河とヴェルデ河が海へそそぐあたりから
バーリ、ガエタ、カトーネの府々《まちまち》をふくめた
あのアウソニア〔イタリアの古名〕の角笛〔の形のナポリ王国〕でのことだ。(六三)
すでにわしの額には、ドナウ河が
ドイツの岸辺を離れてから貫流してる
あの国〔ウンゲリア〕の王冠が かがやいていたのだ。
それに、東の風になやまされる湾〔カターニア湾〕に臨んで
パキーノ岬とペロポ岬のあいだで濃霧に包まれる
うつくしいトリナクリア〔シチリア〕の島は、
〔その霧が〕ゼウスの神の稲妻からでなくて〔その山の〕硫黄のためだが、
シャルルとルドルフの後裔が
わしから出て王になることをいまでも望んでいるだろう。(七二)
もし、人民を塗炭の苦しみで
悲しみに墜とさせる〔シャルル・ダンジュウ一世の〕悪政から
パレルモが動揺して、≪殺せ! 殺せ!≫と叫ばせることがなかったら、
それにこのことで、わしの兄弟〔ロベルト〕に先見の明があったのなら、
彼らに禍いをうけさせないためにも、
カタロニアのまずしい貪官《どんかん》は そのときからでも 逃げだしたにちがいない。
実のところ、重荷を積んだあれの船には よけいに上積みしないよう〔悪政を満載して沈没しそうだったということ〕に、
あれでも 別のだれかでも気をつける必要があったのだ。(八一)
あれは、気前のいい父王〔ロベルト〕にくらべると
しみったれた性《たち》だったから、
腹を肥やす趣味のない執事をおく必要があったようだ」
「ああ、あなたさまのお言葉が
わたしに呼び起こした気だかい悦びを、
あらゆる善が始まりまた終わるこの天国で、
わたしが見る〔神の鏡にうつして〕ように あなたさまもご覧になられることは
わたしには とてもありがたいことです。
それをおん神のうちにお認めになられるのですもの、いまでもわたしはうれしいのです。(九〇)
あなたはわたしを悦ばせてくださいましたが、
ついでにわたしの目もひらいてください。お話ししているうちに、
甘い種子から どうしてにがい実が出るのか〔気前のいい父親から貪欲な子ができるというような〕疑わしくなったからです」
わたしがこういうと、彼はこたえた、「わしがお前に真実を見せることができるなら、
お前がたずねていることは、
いまは見えなくても見えるようになるはずだ。
お前がいま昇っているこの王国〔天〕を
たのしく回転させているこの善〔神〕は、
おん神の摂理を この天体のなかで力として在《あ》らしめておられるのだ。(九九)
もともと完璧なおん神のみこころの中では、
神の摂理は、もろもろの自然ばかりか、
同時にそれぞれの救いまで伴って予見されておられるからだ。
だから、この弓の〔放つ〕矢という矢〔諸天のはなつ影響力〕は、
ものがその目標へまっすぐ進むように
どれもねらった的《まと》へ落ちるようになっているのだ。
そうでなければ、お前がいま昇っているこの天は、
その働きが創られないばかりか、壊《こぼ》たれるようにしか、
その力はたしかに出はしまい。(一〇八)
しかし、よしんばこの星々をうごかす知恵〔天使〕に欠陥がなく、
かつその知恵を完成しなかった原初《はじめ》の知恵〔神〕に欠けるところがあったと考えても、
そんなことはあり得ないことだからだ。
そこでだ、この真実をお前はさらに明らかにしたいとは思わないかね」
わたしは、「もう十分でございます。自然〔の働き〕が、もとめられるのに
やって来ないなんて あり得ないことが、わかりましたから」
すると、彼はさらに、「ではいうが、地上の人間が
もし社会で暮らさなければ、もっと悪くなるだろうか〔シャルル・マルテルは、人間社会の問題に話をすすめて、この世の人は、秩序ある社会に市民として生きるのでなければ具合が悪いか、とたずねる〕」
「無論そうです」とわたしは答えた、「そのわけはおっしゃるには及びません」(一一七)
「とすると、もしひとがいろんな仕事をして てんでんに暮らすことがなくても、
市民として暮らせるだろうか。
いや、そうじゃないな。そのことはお前の師匠〔アリストテレス〕も
はっきり書きのこしてあるよ」
こうして その人はそこまで推論して しめくくりをつけた、
「そういうわけで、お前たちの職柄には いろんな根がつくものだ。
それゆえに、ある者はソロン〔アテナイの立法家で、ギリシアの七賢の一人〕に生まれ、別の者はクセルクセス〔ペルシアの将軍〕に、
人によっては、メルキゼデク〔旧約時代の祭司長〕に、
それから、空を飛んで子供を失くした人〔飛行機を発明したダイダロスのこと〕にも生まれつくわけだ。(一二六)
人間という蝋に印《おしで》をつける 回転する天の〔能動的な〕力は、
その業《わざ》はみごとに果たすが、
しかし、あれこれの家系には区別をつけないのだ。
だから、エサウはヤコブと種が分かれたし〔ともにイサクの子で、双生の兄弟だが、性格はたがいに異なっていて、エサウは猟を好む野生的な生活をしたが、ヤコブは温良で家庭を愛した〕、
クィリーノ〔ローマの祖ロムルス〕はマルスを親にしなければならないほど
いやしい父から生まれたのだ。
もしおん神のおこころが勝たなかったら、
生まれながらの性質は、つねにその親に似て、
その産んだ親と同じ道をたどるにちがいない。(一三五)
やっとお前にも、かくれていたものが見えだした。
お前にそのわけがわかれば わしはうれしいのだが、
ついでにもう一つ推論をお前に受け取ってもらいたいのだ。
そもそも人間の性質というものは、もし運命がそれと矛盾するときには、
それはあたかも自分の土地のほかで蒔かれた種子のように、
うまく育つものではない。
また下界が、もし自然の据える基に
ひとの心をおくものとすれば、
ひとはそれにしたがって幸福をつかむだろう。(一四四)
それなのに、お前たちは剣を帯びるように生まれてきた者を
無理やりに聖職者にしたり、
説教をすればいい者を王に仕立てたりしている。
そこで、お前たちの歩みは 道をふみはずすことになるのだ」(一四八)
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第九歌
ここの第三の天の金星天で、シャルルにつづいてダンテと話をするのは、多情な美女として聞こえたクニッツァの魂である。天上のことだから、彼女も光明につつまれてかがやいているが、それとはうらはらに、その生地《せいち》の暗い有様を物語るのだ。彼女のほかにも、若いとき吟遊詩人として浮名を流したフォルケや、ヨシュアを助けた遊女のラハブなど、恋に身を燃やした魂たちがダンテに話しかける。みなその天にいるのには、身のふしだらとは別に、聖化できる因縁をもった魂たちである。フォルケのように、「フィレンツェの花」といわれる金貨を非難するようにさえなっている。
うつくしいクレマンスよ、あなたの〔父君の〕シャルルは、(一)
わたしの疑いを解いたあとで、あなたの血筋がうけることになった
たばかりのこと〔マルテルの子シャルル・ロベールが、ナポリ王国の王位を叔父のロベールに奪われたこと〕を わたしに話してくれたが、
シャルルは、「黙っていよ、歳月のすぎるにまかせて」といった。
だが、わたしには、正しい懲《こら》しめはあなたがたのその災い〔一三一五年八月のモンテカッティーニの戦闘で、ロベール王の息子と甥が戦死したこと〕のあとに来る としか、
本当はいえないのだ。
すでにあの神聖な光のいのち〔シャルルの恵まれた魂〕が、
万物にあまねくあるその善のように、
それを満たす太陽〔神〕の方へ向かっているのだから。(九)
ああ、欺かれた魂よ、神を畏れぬ者どもよ、
おん神のおつくりになった善から心をそらして
その目をむなしいものに向けるとは!
するとそのとき、別のきらきらする魂〔クニッツァ・ダ・ロマーノ〕がひとり、
わたしの方へ姿をあらわして、
その外面《そと》に出るかがやきのなかに わたしを悦ばそうとする気持を見せていた。
と、さきほどのように、わたしにそそがれて離れなかった
ベアトリーチェの眼《まなこ》が、わたしの〔その魂と話したいという〕願いを
やさしく肯《うべな》っていることが わたしにはっきりわかった。(十八)
「ああ、おん神に恵まれた魂、わたしの願いを
すぐにでも叶えて」と わたしはいった、
「わたしの思いがあなたにうつるものならそれを証《あか》してください」
わたしのまだ知らぬその光は、
魂がはじめ歌っていたその光芒の奥から、
〔わたしに〕語りついで ひとに善をほどこすことを悦ぶふうだった。
「イタリアの中でも濁りきったあの地方は、
リアルト〔ヴェネツィアの島の一つだが、ここではヴェネツィアそのものを指す〕と
ブレンタ河やピアーヴェ河の水源との間にございますが、(二七)
そこにそんなに高くない丘〔ロマーノの丘のこと〕がもれあがっております。
そこから早々と炬火〔暴君エッツェリーノ三世のことで、彼の母は身ごもっているとき、一つの炬火を産みおとし、それが付近一帯の町を焼いた夢をみた、という伝説がある〕がひとつ下りていって
その地方をひどく荒らしまわったものです。
わたくしとそのひととは 同じ根〔父母〕から生まれましたし、
クニッツァと、わたくしは呼ばれておりました。
〔クニッツァはエッツェリーノ二世の末女。一二二二年ヴェローナの君主の伯爵リッカルド・ディ・サン・ボニファチォに嫁したが、夫を棄ててソルデルロと逃げた。しかし、そのあと幾度も夫を変えてふしだらな悪名が高かった。一二六〇年に、エッツェリーノの勢力が落ち目になると、父と兄の家の奴僕たちの自由を保証する証文をつくり、遺言状をつくって財産を分け与えて慈善を行なったので、その行ないによって彼女は天国に住むことになった〕
わたくしがここで輝いておりますのは この金星の〔愛の〕光にまかされたからです。
そして、わたくしはわが身の運命の因《もと》を
よろこんで赦し、その〔根が同じ〕ことに心を痛めることもございません。
でも、俗人のあなたには そのことはおわかりいただけないかもしれません。(三六)
わたくしたちのこの天の 輝きでありまた身近かのこの貴い珠〔フォルコ・ダ・マルシリアの魂〕は、
わたくしには近い血縁のものでございますが、
たかい名声をのこしております。その名の消えるまでには、
まだ百年を五度かさねなければなりますまい〔長年月という意味〕。
おわかりでございましょう、ひとは徳がたかくなければならないのでしたら、
徳を積んで、第一の生〔肉体〕はその後に第二の生〔名〕〔死後の栄光にみちた生命〕を遺さねばならぬということを。
それなのに、タリアントとアディーチェとに隣っている〔ところの〕
このごろの住民ときたら、そのことを思いもせずに、
たたかれても悔いもしないのでございます。(四五)
しかし遠からぬうちに、パドヴァの府《まち》は、
その民がかたくななまでに〔正義の〕義務に冷淡ですから、
ヴィチェンツァを洗う水が そこを沼地に変えることでしょう。
シーレとカニァーノの流れが落ち合うところでは、
例の御人《ごじん》〔リッカルド・ダ・カミーノのこと〕が、そのひとを掠《さら》うために網を張ってるのも知らないで、
昂然と闊歩するていたらくでございます。
フェルトロの町はふたたびその牧者の無慈悲のかど〔フェルトロの司教は保護をもとめて来たフェラーラのギベリーニ党の一族を捕えて、フェラーラのグエルフィ党の首領に引き渡したことがある〕で嘆くでしょう。
その罪のぶざまさといったら、
マルタの牢屋〔聖職者を投獄した牢屋〕へぶち込まれる者どころではございません。(五四)
〔自分の〕党に忠節をつくすこの律義な聖職者が捧げる
フェラーラの人々の血を入れるのには、
それはとてつもない大樽にちがいないのですもの。
それを一オンチャ〔一ポンドの十六分の一の量〕ずつ量るとすると、
ひとは疲れきってしまうでしょう、
そういう供物は その土地の慣わし〔邪しまなことを好む習慣〕にとって あつらえ向きなのですから。
天上〔至高天〕には、あなたがおん神の座とおっしゃる鏡〔第三位の天使。直接神の光をうけて、それをもろもろの聖徒に伝えるから鏡という〕がございます。
そこでお裁きになるおん神がわたくしたちをお映しになりますので、
ここでお話し申しますことも 理にかなっているのでございます」(六三)
ここで、その女《ひと》は黙ってしまった。すると、
さきほどのように、彼女は踊りの輪に入ってまわりはじめたので、わたしには、
彼女のこころがほかのものへ移ったかとも思われた。
と、かねてその気だかいそぶりで わたしの注意を惹いていた
別の愉しそうな魂〔フォルコ・ダ・マルシリア〕が、太陽の光にあたって
まるできれいなルビーのようになって わたしの面前にあらわれた。
悦びがあれば 天上では光となってかがやき、
ここ地上では笑いが出るのだが、下界の地獄では
〔罪の魂の〕影が黝《くろず》んで こころまで悲しくなるものだ。(七二)
「おん神に恵まれた魂よ、おん神はすべてをお見そなわしになるのです。
あなたのお目は そのおん神のなかに深く入りこんでおいでですから、
どんな願いもあなたさまのお目から のがれて隠れることはできないはずです」
わたしはさらに語を継いで、「そこで、あなたのお声は、
六枚の羽根を外衣につけたあの敬虔な熾天使たちと
歌をうたって いつまでも天上をたのしませておいでですが、
なぜわたしの〔あなたがだれかを知りたいという〕願いを満たしてくださらないのです。
あなたがわたしの心をよみとられるように、わたしもあなたさまのお心をよみとっているのです。
わたしは まさか、あなたさまのおいいになられるのをお待ちしていたわけでもないようです」(八一)
そのとき、その霊〔フォルゴ・ダ・マルシリア〕は物をいいはじめた、
「大地をとりまいたあの〔大洋という〕海をのぞけば、
水を湛えたもののなかでいちばん大きな谷〔地中海〕は、
対立する岸のあいだ〔ヨーロッパとアフリカ〕を、太陽にさからって〔西から東へ〕
はじめは〔スペインから見て〕水平線〔天の涯〕と見ていたところを
やがて子午線とするところ〔エルサレム〕へと延びている。
〔地中海の水は、スペインの海岸から発して、その行きつくところはエルサルムである。エルサレムは世界の中心で、西の涯てはスペインで、東の涯てはインドのガンジス河〕
わしはこの谷に沿う
エブロ河とマグラ河〔スペインのエブロ河とイタリアのマグラ河。この二つの河のあいだに、フォルコの郷里のマルシリア(マルセイユ)があった〕のあいだに住んでいた、
そのマグラの流れは短いが、ジェノヴァ人をトスカーナ人から分けているのだ。(九〇)
かつては港を自分の〔マルシリア人の〕
血で沸きかえらせたわしの故郷は、
ブッジェア〔アルジェリアにある中古時代の要港〕と日の出、日の入りの時が同じだ。
わしの評判を知っていた府《まち》の者どもは、
わしをフォルコ〔ジェノヴァからマルシリアに移住した商人の子。一二〇五年にトロサの司教となって、異端のアルビジョア派を迫害したという〕と呼んでいた。
生きていたとき天〔金星天〕からわしが形づけられていたように、
いまでは、この天にわしはわしの光で形をのこしているのだ。
それは、わしの青春時代に燃やした恋心にくらべると、
シュカエウスやクレウサを悩ましたベルスの姫〔ディードのこと。彼女はチュルス王ベルスの息女で、アエネアスを慕って、亡夫シュカエウスやクレウサの魂を悩ましたという〕でも、(九九)
いや、デモポーンにだまされたロドペの姫君〔フュルリスのこと。トラキア王シトネの息女だが、ロドペ山の麓に住んでいたので「ロドペの姫」といわれた。テセウスの子デモポーンが結婚の約束をしながらアテナイへ行って帰らなかったので悲観して縊死したという〕でも、
イオレを胸に秘めていたアルチーテ〔ヘラクレスの別名。彼はテッサリアの王エウリュトスの息女イオレを愛したので、妻ティアネイラの妬みをまねき、ネッソスの毒に感染して死んだという〕でも、
とてもわしには及びもつかなかったのだ。
しかし、ここではな、悔いもなくて ほほえんでいるが、
それは罪もないから こころに悔いが帰らないだけのこと。
ただおん神がお定めになった神慮のお力に行末を見ているばかりなのだ。
ここではおびただしい愛に飾られた、おん神の御業《みわざ》のなかにそれを見、
また〔魂を〕下界から天上へとお導きになる至高の善である
その愛のことを わしはふたたび認めるのだ。(一〇八)
しかし、この金星天で きみに起きてきた
願いをことごとく満たすためにも、
わしはさらに話をつづけなければならない。
澄みきった水の中の太陽の光のように
こんなにもわしのそばできらきらしてるこの光明のなかに
だれがいるのか きみは知りたがっているが、
いまこそ きみはラハブ〔エリコの遊女。ヨシュアの送った二人の間者をかくまって命をたすけたので、彼女も天国にいる〕が永遠の平安をたのしんでいることがわかる。
わしらの歌舞に合わせて、彼女のかがやきが
いちだんと強い光度できらめいて 象《すがた》をあらわしているからだ。(一一七)
地球の影がとがって斑点《くま》をつけるこの天〔金星天〕では、
キリストの勝利にしたがったもろもろの霊にさきんじて
彼女が迎え入れられたのだ。
まったく、右と左の掌《てのひら》でおうけになった
〔キリストの〕尊い勝利のしるしとして
その掌ゆえに天上のどこかへ彼女をおくことはもっともなことだ。
それは、いまでは法王の記憶にいくらも残らないことだが、
聖地でのヨシュアの最初の勝利のとき
彼女が力をかしてくれたからだ。(一二六)
その創造主《つくりぬし》に最初に背いた者〔マルテ〕のつくった
きみの府《まち》〔フィレンツェ〕は、
その者の羨望が のこらず
呪いの花〔フィレンツェ金貨のこと〕をつくってまき散らし、
とどのつまりは狼を牧者にしたので、
羊も羔《こひつじ》も道に迷うことになった。
そのために、福音書も神聖な教父たちも見捨てられ、
教会法だけが研究されているが、そのさまは
〔聖書の〕頁《ぺージ》の縁《へり》のよごれ方、擦りへり方でお察しのとおりだ。(一三五)
そのことでは、法王も枢機卿も 気はついているが、
ガブリエル〔天使長〕が翼をひろげたナザレの里〔キリストの故郷で、ここで天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした〕へは
それらの想いがとどかなかったのだ。
とはいっても、ヴァティカーノや そのほかの
ローマに選ばれた所々方々の
ピエートロ上人にしたがった軍人の墳墓だったところは、
いちはやくこの姦淫〔神への反逆〕から解き放たれるにちがいないて」(一四二)
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第十歌
ダンテはベアトリーチェに伴われて、第四の太陽天に昇る。そこは光の珠が宝冠のようにひろがっている世界で、名だたる神学者の群がいる。トマス・アクィナス、その師のアルベルトゥス・マグヌス、あの偽書をかいたディオニシオス・アレオパギータ、パオロ・オロシウス、アヴェロエス派のシジェ・ド・ブラバンなど、ダンテが学芸の師としてその学説を学んだ人たちである。それらの賢人たちをダンテに紹介していると、きよらかな歓喜にあふれた天上の妙音が、教会の時計の音のようにひびいてくる。
世のはじめの いいようもない〔おん神の〕力は、(一)
おん父と御子《みこ》が永遠に息《い》ぶきをお与えになった聖霊とともに
その御子《みこ》〔キリスト〕をおながめになられて、
心と宇宙のなかをめぐるもの〔聖霊〕に 秩序をおつくりになられたので、
それをうっとり見つめる者には、
そのお力を深く味わわないではいられないものだ。
そこで、読者よ、わたしといっしょに あの高い天球を見あげて、
一つ〔黄道〕のうごきと もう一つ〔赤道〕のうごきの交わるあたりの
あの天をじっくり睇《なが》めてみよう。(九)
そして、その匠《たくみ》〔神〕の御作業に見とれはじめるがいい。
匠《たくみ》はお胸ふかくそれをお愛しになって、
お目を片時もお離しにならぬほどだから。
さらに見たまえ、星々がいざなう傾いた帯〔獣帯。冬至線を南に、夏至線を北にして、黄道に沿って西から東へ進み、春分秋分には赤道を斜めによぎる想像上の大圏〕が、
その星に救いをもとめる世〔の人たち〕にこたえるために、
赤道のところからどんなに岐《わか》れているのかを。
もし星々の通い路〔赤道〕が傾いていなかったら、
天上の力はむなしいものになっただろうし、
下界の活力さえ死にたえたにちがいない。(十八)
それにもし、〔黄道が〕垂直〔の縁〕から
いくらかでもずれていたなら、天上でも地上でも、
いまほどに正しい位置はとれなかったにちがいないからだ。
読者よ、疲れを覚える前にもっと堪能したいなら、
わたしが試《ため》しにおいた食べ物のことを考えたあげくに、
きみの椅子に腰をおろしてとどまるがいい。
わたしはきみの目の前にそれを置くのだ。
いまは きみがそれをとって食べる番だ。
なぜなら、わたしの関心は、わたしが書きあげるはずのこの主題にしかないのだから。(二七)
天の〔回転や光の〕力にしたがって 下界の世界に印《おしで》をつけ、
またその光でわたしたちに時を量らせる
この自然のいとも高い大臣《おとど》〔太陽〕は、
さきにいった黄道帯の部分〔白羊宮のこと〕と合すると、
いちはやく姿を現わそうとして 螺旋《らせん》のかたち〔太陽は東から西へまわるとともに、赤道を中心として南または北に傾くから、その軌跡は螺旋形になる〕にめぐり回っていた。
わたしもまた太陽の中にいたのだが、
太陽といっしょに昇ってきたことに気づかないでいた。
それはあたかも、そう思いついたとき
すでに来ていることに気づかないひとのようだった。(三六)
そんなにすばやく 一つの善からより高い善へと
さとらせてくれたのはベアトリーチェだったが、そのすばやさといったら その動きに時間を感じさせないくらいだった。
わたしが入っていった太陽天のなかの霊たちは、
色でなく、そのかがやきの強さでそれとわかるのだから、
その身から どんな光が出ているのだろう!
というわけで、わたしは〔自分の〕才能にも技能にも練達することをもとめたが、
それをひとに想像させることさえ いうことができない。
ただひとは信じて それを目にすることにあこがれることができるだけだ。(四五)
そして、わたしたちの夢が、あんなに高い天上のそれにくらべて
ひどく低いからとて おどろくこともない、
それは、〔わたしの〕目が太陽の上まで行ったことがないからだ。
あらたかなおん父〔神〕の第四の天の霊たち〔神は第四天に住む魂の前で、いかに気息をふきこみ、聖霊の力をかりていかに人間を創造するか、その方法を示していた、という意〕は、
そんなまばゆい姿で そこでかがやいていたが、
どうして聖霊を吹きこみ どうして御子《みこ》を胎《みごも》るかの秘義を示して 恩寵をほどこしていた。
すると、ベアトリーチェがいいはじめた、
「感謝することよ、恩寵《みめぐみ》によってそなたを昇天させたもうことをさとらせる
天使たちの太陽に感謝しなさい!」(五四)
その言葉をきいて、わたしが感じたほどには、
人間のこころがこんなにおん神に身を捧げようとしたことはなく、
おん神のありがたさをこんなにはやく受け入れることもなかっただろう。
こうして、わたしの愛のすべては おん神の中にひたり込んで、
ベアトリーチェでさえ わたしの魂にかくれてしばらくは彼女を忘れさすほどだった。
彼女はそれを気にしないばかりか、自然とほほえみがこぼれてきて、
その笑みをふくんだ目がかがやき出したので、
〔せっかく〕集中していたわたしの想いを こなごなに散らしてしまった。
ふと見ると、わたしたちを中にして輪になって囲んでいる(六三)
すごくきらきらと輝く光芒が見えたが、
その歌う声は きらめいている姿よりもさらにうつくしかった。
そのさまを、大気がしめってきて 光芒を帯のようになって遠のかせるとき、
ラトナの娘〔月の暈〕がそんなふうにとりまくのを
わたしたちはときおり見かけたものだ。
わたしがいま帰ってきたばかりの天上の宮居《みやい》のなかには、
おびただしいばかりの貴いうつくしい宝玉があるが、
そのことをここで詳《つまびら》かに書きしるすわけにはいかないのだ。
ここできらきらして歌っているのは、まさしくその宝玉たちだが、(七二)
翼を得て天上へのぼる者ででもなければ、
そのことは唖にでも話をきくしかないからだ。
そうしているうちに、これらの燃えさかる太陽のような光〔太陽天に住む魂たち〕は、
歌いながらも 極点から動かない星々のように、
わたしたちの周囲を三度まわっていた。
その光たちはまるで、
あたらしく調べが帰ってくるまで
踊りの輪をとかずに、じっと聞き入っている女たちのような気がした。
と、その光のなかの一つ〔アクィナス〕から声が出た、(八一)
「おん神の恩寵のひかりが、まことの〔神の〕愛に火をつけると、
それはやがて燃えさかって、愛しながらに、
お前の身内で さまざまな輝きとなってきらめくのだ。
その光は、だれも下りれば昇らずにはおられぬあの〔天上への〕梯子《はしご》を
お前に上の方へ昇らせるのだ。
お前の渇きを医《いや》すために 自分の瓶の酒をこばむ者がいるとすれば、
そのひとは身の自由さえない者だ。
海へそそがない水のようなものだからだ。
お前が知りたがっているのは、お前を昇天させるのに力をかしている(九〇)
そのうつくしい淑女《あてびと》のまわりで見とれているこの光の輪が、
どんな樹〔魂〕の花かということだろう。
わしはドメニコ上人〔聖ドメニコ。一一七〇年カスティリアのカラコに修道院をひらいて、ドメニコ派をはじめた〕に道をみちびかれていた
神聖な羊の群〔信仰の篤い信徒〕にいた一匹の羔《こひつじ》だった。
ほかにおろかに気を移さなければ たしかによく肥えた羊〔信仰の豊かな信徒〕のはずだった。
わしの右手の身近かにいるお方が、
わしの先達で かつ師であったコローニュのアルベルトゥスだ。
〔アルベルトゥス・マグヌスのことで、中世のもっともすぐれた神学者。ケルン(コローニュ)で神学を教えたが、その弟子の一人にトマーソ・ダクィノ(トマス・アクィナス)がいた。その広範な知識のために、Doctor Universalis(万有博士)と呼ばれた〕
そして、わしはアクィーノのトマス。
〔トマス・アクィナスのこと。アクィーノの城主で伯爵。中世を代表する神学者。アリストテレスの範疇論などを中心とする認識論的な方法で、キリスト教神学の大体系をつくった。スコラ哲学の完成者でもある。同じくアリストテレスの注釈者だったアヴェロエスによる神学説に反対し、パリ大学の神学教授として重きをなした。後にパリ大学の懇請をふり切ってナポリに移り、いっさいの時間を『神学大全』の完成にささげた。ダンテの神観には、トマスの神学説の影響がとくに強い〕
お前がこうして ほかの霊たちをたしかめたいというなら、(九九)
わしのいうとおりに〔右から左へ〕
おん神にめでられた花の輪にしたがって 目を順々にうつすがいい。
つぎのきらめいている光は グラツィアヌス〔カマルドル派の修道士で、著名な教会法の学者〕の微笑〔天上のよろこび〕から出ているが、
彼は力をつくして〔俗界と教界との〕二つの法廷の権威をたかめたので、
天国でもおん神に嘉《よみ》されているのだ。
それにつづいて わしらの合唱する霊のそばで輝いているのは、
貧しい寡婦のひそみにならって、
自分の財を神聖な教会に喜捨したピエートロ〔著名な神学者ピエトロ・ロンバルドのこと〕だ。
わしらの間でいちばん美しい五番目の光は、(一〇八)
〔サロモーネ、すなわちソロモンの魂。彼はダヴィデ王の子で、イスラエルの王で知者中の知者といわれたほどだったから、その光はいちばん美しかった。ソロモンは放縦な生活をしていたから、罰せられるべきか否かということが、中世の神学者のあいだに論議が絶えなかったので、ここで、下界がその由来を待ちかねている、ということになるのである〕
きよらかな愛の息ぶき〔雅歌〕を吹きつけている。
その由来をきけば 下界の者はみなよろこぶにちがいない。
その光のなかには、深い知恵をひそめた高潔なこころがあって、
もし真実〔聖書〕が真理を告げているのなら、
あとを継ぐほどの者の出てくることはあるまい〔ソロモンと比肩する者は出ては来まい、との意〕。
その隣りのあの蝋燭の光を見てみなさい。
あれは、下界の肉体をもつ者のなかで 天使の性質と天使の務めとに
もっとも深く通じている者だった。
〔ディオニシオス・アレオパギータのことで、いわゆるディオニシオス偽書といわれる『アレオパギータ』の作者。ながらく、ディオニシオスというアテナイの法官が、聖パウロによって改宗して、『天上位階論』をかいたと信じられていたが、そのアレオパギータというのは、その法官のいたと思われた裁判所のあったところ。だが、その書は近年の研究では、五世紀ごろシリアにいた新プラトン派の修道士の偽作だということがわかった〕
それに隣る小さい光には、自分の著作の(一一七)
ラテン語で アウグスティヌスに役だてた
〔初期〕キリスト教時代の法官がほほえんでいるよ。
〔五世紀のイスパニアの地理学者パウルス・オロシウスのこと。パレスティナ、アフリカなどの東方の異教の国々で、いかにキリスト教がうけ入れられているかを実証的にかいた『異教徒への反駁史』で知られる。ダンテに東方的な知見を与えた重要な資料の一つである〕
さて、お前はわしの讃め言葉を追って、お前の目を
つぎつぎに移しているとすれば、
お前はとうに第八の光に渇きを覚えているはずだ。
この聖らかな霊〔ボエティウス〕は、あらゆる〔神の〕善を見ることを
よろこびとしていて、その話に耳をかたむけるひとに
世の虚偽《いつわり》を示してくださっている。
〔ボエティウスはイタリアの政治家で哲学者。イタリアに侵入したオストロゴート族のテオドリコに仕えて執政官になったが、のち忠誠を疑われて投獄されて獄死した。その獄中でかいたのが『哲学の慰め』で、ダンテは大きな感化をうけている〕
この魂から逐いだされた肉体は(一二六)
いまではチェル・ダウーロ〔パヴィアの教会〕に埋まっているが、
魂は殉教の流浪のはてにこの平安にたどりついたのだ。〔ボエティウスを殉教者と見るのは、異教徒に苦しめられたが、節を曲げなかったから〕
さらに向こうの方を見てごらん。イシドルス〔イシドルス・ダ・シヴィリアのこと。シヴィリアセビリャ)の司教で、その著『教義論』は、人文科学、自然科学の百科辞典として中世の知識人に尊重された〕やベーダ〔イギリスの聖職者で『イギリス国民宗教史』は著名〕、
それからその理論が超人的だった
リシャールの熱い息ぶきが光を放っているのを。〔リシャール・ドゥ・サン・ヴィクトールのこと。パリの聖ヴィクトール修道院の院長。スコラ学派の神学者で、神秘思想家として知られた〕
お前の目が〔そうして〕わしのところへ帰るその手前にいるのは、
ある霊の光だが、あれはその厳粛な思想の故に
その死の来るのが遅すぎるように感じているのだ。
〔シジェ・ドゥ・ブラバンの魂。アヴェロエス派の哲学者。パリ大学の教授で、トマスの論敵。アヴェロエスの解釈と共通する知的な神学解釈をして、その合理主義をもって、正統派の神学者、神秘主義の信仰家と対決した。その極論は異端として訴えられたので、その抗弁のため、オルヴィエートにあった法王庁法廷に赴いたが、そこで狂信的な下僕に殺された〕
その魂は、藁の小路〔パリの街路の名。そこに哲学を教える学校があったという〕でひとに教え、(一三五)
ねたみを買った真理を三段論法で証《あか》した
シジェの永遠の光なのだ」
そこで、あたかもおん神の花嫁〔教会〕が愛をねがって
その新郎〔キリスト〕に朝の歌をささげる時刻に、
わたしたちを呼ぶ時計の部分が他の部分を
あるいは曳き あるいは押して、
澄んだ調べをちんこんと鳴らして、
善に向かう魂を愛でふくらませるように、
そのさまさながらに、栄ある魂の輪はめぐりまわって、(一四四)
声と声とが調子をうつくしく変えるのを わたしは聞いた。
それは、よろこびが永遠になるところででもなければ、
あらわすこともできないようなことだった。(一四七)
[#改ページ]
第十一歌
ここは第四の太陽天である。ダンテはこの世の人間のむなしい惑いを感じはじめている。そこへ、トマス・アクィナスの霊があらわれて、ダンテの抱いていた疑いを解いてきかせる。彼は聖フランチェスコの生涯の話をして、それに比肩する聖者として聖ドメニコの名をあげるが、いまのドメニコ会の修道士たちの堕落を口をきわめて非難する。しかし、そこで、フランチェスコを讃めたたえるトマスは、学徳すぐれたドメニコ会出身の修道士だった。
羽根をばたばたさせて 地上のことにきみたちの心を向けさせるなんて(一)
とんでもない論理〔三段論法〕だというのに、
ああ 人間って何という浅はかな思いをするものだろう!
ある者は法学を、ある者は〔ヒポクラテスの〕金言〔医学〕を役だたせ、
ある者は宗門に入り〔世俗的な目的で聖職につくこと〕、
ある者は力か詭弁《きべん》かで〔ひとを〕支配する、
ある者は奪い、ある者は公務につくし、
またある者は肉の快楽《けらく》にふけって 夜も日もないありさまだ、
でなければ、ある者は安逸をむさぼっている。(九)
そんなときに、こんな手合から縁を切って、
わたしは神恵《みめぐみ》にかがやくベアトリーチェに伴われて
この天上たかく神々しく迎え入れられたのだ。
霊たちは それぞれ輪をめぐって 初めにいた
その輪のもとの場所に帰ってからは、〔十二人の魂は聖トマスの話が一段落すると、もといた場所へ帰った〕
燭台の蝋燭のように動かなくなった。
すると、さきにわたしに話しかけてきたあの光〔聖トマス〕が、
いちだんと鮮かに光りかがやいて、
光芒の中でほほえみながら物をいうのをわたしは聞いた。(十八)
「こうして永遠の光の中に わしが見えるように、
お前の考えのよって来た原因《おこり》も、
わしのように お前の光のなかにうつっている。
お前はまだ疑っているが、
わしがさき〔第十歌の九六行〕にいった≪よく肥えた羊≫というところや、
そのさきの≪あとを継ぐほどの者の出てくることはあるまい≫といったところを、
もっと平たく もっとわかりやすい言葉ではっきりさせることを
お前は望んでいるようだから、
ここでそれを明らかにしておこう。(二七)
世を治めるおん神の摂理は、
どんな〔人の〕目でも その摂理の底へ達するまでに打ち負かされてしまうような
そんな深いおもんぱかりをもっておいでだ。
〔十字架の上で〕たかくお呼びになって、
神聖な血でもって婚姻をお結びになった主《しゅ》の新婦〔キリストと教会との神秘的な結婚は、キリストが十字架の上で果てて聖らかな血を流したときに結ばれたと考えられている。したがって新婦とは教会を指しているのである〕が、
自分にも誠実に 主の新婦〔教会〕にも忠実に
安んじて主の許へいけるように
またここかしこへ新婦をみちびいて行けるように、
ふたりの公子〔聖フランチェスコと聖ドメニコ〕を左右に お心におきめになられた。(三六)
その一人はまったく熾天使《セラフィーノ》のように熱情があり、
他の一人は学識の点で
地上での知天使《ケルピーノ》の光でもあった。
わしはその一人のことをいおう。
二人は結局 同じ仕事をしているのだから、
どっちか一人を尊べば 二人をたっとぶことになるからだ。
トゥピーノの河と、
福者ウバルドが〔隠遁しに〕選んだ丘の下の流れとのあいだに、
高い山〔スバシオ山〕の肥沃な斜面がある。(四五)
〔その斜面ゆえに〕、ペルージアの府《まち》は、
ポルタ・ソーレ〔太陽門〕から寒さ暑さがやってくるし、
斜面のうらでは、ノチェーラの町とグァルドの町が重い軛《くびき》に泣いている。
この斜面のもっともなだらかになったところから、
ときには〔インドの〕ガンディス河でも昇るように、
ひとりの太陽〔聖フランチェスコ〕がこの世に生まれた。
だから、そこのことをひとがいうなら、
≪アシェージ≫〔昇るところ〕とはいわないで、もっと短く≪アシジ≫というがよかろう。
いや、その場所にふさわしいいい方をするなら、≪東の府《まち》≫だ。(五四)
生まれてから そんなに日も経っていないのに、
彼ははやくもそのすぐれた徳で
いくらかの慰めを地上に感じさせはじめていた。
というのは、彼の若いころ、ある女性〔ポヴェルタ〕のことで、父親といさかいをおこした。
そのポヴェルタという女には、死神のように
だれもよろこんで戸の鍵をはずしてくれる者もなかったからだ。
それでも、彼は魂の法廷〔教会〕で、
「家厳の面前にて」彼女と結婚したし〔アシジの司教の法廷で、フランチェスコは自分の父親の面前で、父の家督を継ぐ権利を放棄して、ポヴェルタ(清貧)と結婚することを宣言した、との意〕、
日を追うにしたがって 深く彼女を愛していった。(六三)
はじめの夫〔キリスト〕をなくしてからは、
彼女は千百年もの間 うとまれ卑しめられて、
彼〔フランチェスコ〕が入れるまで 招かれないままで生きてきたのだった。
あの世界中を震えあがらせたひと〔ユリウス・カエサル〕が、
声だかに呼ばわったときも、アミュクラス〔ダルマツィアの貧しい漁師。カエサルとポンペイウスの闘争のさなかで物情騒然とした時でも、戸を閉ざさずに寝ていた。あるとき、カエサルがアドリアティコ海を渡ろうとして彼を訪ねたが、従わなかったという故事が、この詩句の背後にある〕とともにいて 彼女が動じなかったという風聞を
聞いたとしても、何のたしにもならなかった。
またマリアを十字架の下にのこしておいて、
キリストのいる十字架にあがって嘆いたほど
彼女が毅然としていたとしても、しょせんは虚《むな》しいことだったのだ。(七二)
だが、わしがながながと ほのめかして
語ってきたその相思のひとが、フランチェスコとポヴェルタ〔清貧〕だということを、
いまこそ お前にはわかってもらいたい。
そのふたりの心のなごみ、そのたのしげな様子、
〔彼女への〕愛とおどろき、やさしい眼眸《まなざし》などが、
〔ほかのひとには〕きよらかな想い〔神のふところに帰る思い〕のもとになっていたのだ。
あの尊者のベルナルド〔ベルナルド・ディ・クィンタヴァーレのこと。アシジの富豪だったが、聖フランチェスコの弟子になって、その全財産を貧民救済のために寄付した〕でさえ まず靴をぬいで〔清貧を誓い、その師フランチェスコにあやかるために〕
この大きな平安をもとめて駆けだしたが、
駆けながらも、その歩みのすすまないのを感じたほどだった。(八一)
ああ、〔清貧という〕ひとに知られぬ富よ、豊かな財宝《たから》よ!
〔弟子の〕エジーディオもシルヴェストロ〔二人ともフランチェスコの弟子〕も靴をぬいで
新郎〔フランチェスコ〕のあとを追った、新婦〔ポヴェルタ〕はそれをよろこんでいた。
こうして、この父であり師だったひとは、〔ローマへ〕旅立ったのだが、
その女も その家の者〔フランチェスコの弟子たち。みな結び目の多い細紐を腰に巻いていた。このあとも、フランチェスコ派は質朴な修道のかたちとして、細紐や縄を腰に巻くのが風習となっている〕も ともどもに
すでに粗末な〔フランチェスコ会の〕腰紐をつけていた。
彼には、ピエートロ・ベルナルドーネ〔フランチェスコの父親で、アシジの富裕な商人〕の子だという、
顔を伏せさせるような
面はゆい気持もなかった。(九〇)
それどころか、彼は王者さながらに
法王インノケンティウス三世〔この法王から彼は新しい宗派をひらく仮免許を得た〕に自分の堅固な戒律の申し開きをして、
自分の宗派を認める最初の印璽《いんじ》を得たのだった。
彼にしたがう貧しい人たちが
ふえてからは、そのひとのような立派な生涯は、
〔下界でよりも〕天上の栄光の中で歌われることこそ ふさわしいにちがいない。
この羊の導者の聖なる望みは、
法王ホノリウス〔三世〕によって 聖霊から
〔フランチェスコ会という〕第二の冠を戴いたのだった。(九九)
そのあとで、殉教の渇きのゆえに、
おごるソルダン〔イスラム教の君主で教王。聖フランチェスコは十二人の修道士とともに十字軍にしたがってエジプトに行って、イスラム教の君主を改宗させようとしたが、うまくゆかなかった〕の面前で
キリストと主《しゅ》にしたがう使徒のことを説いたが、
その民の多くが入信にはまだ熟していないのを見て、
むなしくとどまるよりはと、
草がすでに実をつけていたイタリアへ帰ってきた。
テヴェレ川とアルノ河との間の ごつごつした岩間〔アヴェルノ山〕で、
彼はキリストから最後の聖痕〔断食のあいだに「キリストの聖痕を得させたまえ」と祈ると、キリストが現われて、聖痕をフランチェスコの手と足と肋《あばら》に捺したという〕をうけて、
それを二年間〔死ぬまで〕身につけていた。(一〇八)
彼にこんなにも善行をするように運命づけられたおん神は、
身を卑しうして行なった彼の功績をめでられ、
その応報に 彼を天上に召されることをよろこばれた。
おん神は、彼の教友にも、あたかもご自分の嗣子にでもなさるように、
そのいとも愛《めで》られる女〔清貧〕をすすめて、
こころを尽くして彼女をいつくしむことをお命じになられた。
この気だかい魂は、その女の胸を離れて、
自分の王国〔天国のこと〕へ帰ろうとするが、
自分のからだには〔ポヴェルタのほかには〕枢ひとつ必要もなかったのだ。(一一七)
さてここで、考えてみるがいい。正しい目的のために
ピエートロの舟〔教会〕を大海原であやつる仲間に値する者が
はたしてどんな人だったかということを。
そのひとこそ わしたち〔の宗派〕をひらいたお方〔聖ドメニコ〕だ。
だから、彼の命ずるままにしたがう者が、
良い荷を舟に積みこむ〔善徳を積む〕ということはわかるだろう。
だが、その〔人の牧した〕羊の群〔ドメニコ会の修道士たち〕は、新しい飲食《おんじき》〔富貴とほまれ〕に目がなくて、
そのために 所々方々の森ふかい山に
ちりぢりになって行かねばならなかった。(一二六)
彼を離れた羊たち〔ドメニコ会の聖職者たち〕は、
さまよって遠く行けば行くほど
乳に渇いて 羊小舎へ帰ってくる。
身の危険をおそれて牧者を頼る羊も
いないわけではないが、それはほんの数えるばかりだから、
その僧服をつくるのに布地はそうたんとは出せないのだ〔羊、すなわちよいドメニコ会の修道士が少ないので、その羊の毛からは僧衣をそんなに作れない、という意〕。
さあ、そこで、よしんばわしの声音《こわね》が弱々しくあろうとも、
お前が聴耳《ききみみ》を立てていさえすれば、またお前が
わしのいったことを心に思いかえしてくれるのなら(一三五)、
お前が望んでいることの一半は叶《かな》えられるだろう。
それは、お前がひび割れした樹木〔ある宗派の戒律がみだれているのを見ることがあっても、の意〕を見てでも、
革紐をまとった僧〔ドメニコ会の僧〕が、≪おろかに気を移さなければ、羔は肥える≫という言葉を
あげつらうものが何かということが わかるだろうからね」(一三九)
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第十二歌
天上で、第一の光の輪をとりかこんでいる第二の光の輪がまわりはじめる。ここもやはり太陽天での出来事である。ここにはキリスト教の神学を体系づけた教父たちの霊がいるのだが、そのうちの一人のボナヴェントゥーラの声がして、聖ドメニコの生涯や業績を仔細に物語りはじめる。前の歌で、ドメニコ会のトマスが聖フランチェスコを讃えたように、ここではフランチェスコ会のボナヴェントゥーラが聖ドメニコを讃めたたえている。そして、その紹介によって、この天にいる聖アウグスティン、アンセルムス、ドナトゥス、ジョアキーノ・ダ・フィオーレなどの霊がかがやく星のように、ダンテの面前を通りすぎる。
おん神にきよめられたその炎〔聖トマス・アクィナスの炎〕が、(一)
最後の言葉をいいおわると、とたんに
あの神聖な〔十二の魂の〕輪は、また回りはじめた。
しかしそれがまだ一めぐりもしないうちに、
もう一つの〔外郭の〕輪がまるくとり囲んで、
動きには動きが、歌には歌がたがいに照応していたが、
直接出る光が反射する光にまさるように、
そこできよらかに歌う霊たちの歌は、
わたしたちの詩人《ムーサ》や歌姫《シレーネ》たちの歌をはるかにしのいでいた。(九)
ユノーが侍女〔虹の女神イリスのこと〕にいいつけると、
同じ色の二つの弧が 同じ円にかさなり合って
うすい透きとおる雲の方へと伸びている。
その内側の弓〔虹〕が反映して外側の弓〔虹〕のできるさまは、
太陽が濛気をおい散らすのにも似ていて、〔ナルキッソスとの〕恋にさらばう
あのさすらいのニンフ〔エコーのこと。彼女は空気と地とのあいだに生まれた娘だが、ナルキッソスに恋をして痩せおとろえて、その骨は岩となり、声だけになってしまった(オウィディウスの『転身物語』)〕の声そっくりだった。
その二条の虹はここで、おん神とノアとの契約を思いださせて、
この世にはもう大洪水など二度とは起こるまいという
予感をひとにさせているのだ。(十八)
こうして この永遠に凋ばぬバラの花〔天の聖徒たち〕は
二すじの花綵《はなづな》となって わたしたちの周囲をまわって、
そとの輪がうちの輪に呼応していた。
それは、歓喜と慈愛の光が、たがいに
きらめき合い 歌い合う
どこか別の大きな祭りや踊りのようでもあったが、
あたかも喜悦《よろこび》にこころがうごくと
間髪を入れずに両眼を〔本能的に〕閉じたり開けたりするように、
その光は同時になごやかにその動きをとどめていた。(二七)
すると、新しい光のなかから 一つの声〔聖ボナヴェントゥーラ〕が出てきたが、
それは、まるで北極星をさす針のようにわたしには思われて、
わたしをその声のする方へふり向かせた。
と、その声はいいはじめた、「わしを嘉《よみ》されるおん神の愛が、
いま一人の導者〔聖ドメニコ〕のことを いわずにはおられなくしたよ。
そのお方ゆえに、わしの師〔聖フランチェスコ〕も、あんなに立派にたたえられておられるのだ。
そのお一人の上人のところへは〔必ず〕もう一人の上人が請じ入れられている。
お二人とも教会を護るためにお戦いになられたので、
その栄光に お二人ともこんなに輝いておられるのだ。(三六)
キリストの軍勢〔信徒たち〕がふたたび
身を鎧うためには たかい犠牲を払ったが、
その旗印〔十字架〕を追う足どりはのろく、いぶかしげだったし、その人数もすくなかった。
そのとき、永劫にしろしめす皇帝〔神〕は、
信仰のぐらつくキリストの軍隊に
ただ恩寵だけをおそなえになられた、それには値しなかったのだが。
そこで、さきにいったように、あの新婦〔教会〕には、
二人の導師を遣わされ、その二人の行ないと言葉によって
道をふみはずした者どもが そのことに気づくのだった。(四五)
その〔西ヨーロッパの〕あたりでは、
かぐわしい西風が起こって若葉をひらくので
ヨーロッパが衣がえするように見えたものだが、
波のくだける汀からさして遠からぬところで、
ときにはその背後で、
太陽が長くのがれた〔夏至の〕あとで、
だれの目からも姿をかくすことがあるが、
そこに、神恵《おめぐみ》にめぐまれたカラローガ〔スペインのカスティリア地方の小村カラホルラのこと。聖ドメニコの生地〕があって、
〔城の〕上下に獅子が寝そべっている〔紋章のついた〕大きな盾の下にまもられている。(五四)
その町の中で 信仰《ヽヽ》を燃えるように愛したひとがお生まれになったのだ。
そのひとは同信の者には 心やさしく、
異教の者にはきびしい 神聖な戦士だった。
彼は生まれるとから
そのこころには徳がいきいきと満ちあふれ、
その母の胎内にあって すでに預言者となるべき宿命をもっていた〔聖ドメニコが母の胎内にあったころ、母は燃えている松明をくわえた黒と白の斑のある犬を産みおとす夢を見て、そのことを語ったことを指す。犬はキリスト教の番犬、黒と白の斑はドメニコ会の修道士の服装。燃えている松明は信仰の火の象徴〕。
そのあとで、たがいの福祉を婚資として、
彼と信仰との結婚式〔聖フランチェスコが清貧と結婚したように、聖ドメニコは信仰と結婚し、それを生涯のモットーとした〕が聖水盤のほとりで
とどこおりなく終わったのである。(六三)
彼に代わって信仰を守るといった〔ドメニコの〕代母〔代母というのは、受洗者に代わって悪魔を捨てて信仰に入ると答える女〕は、
彼とその世嗣から出るべきはずの
果実の奇蹟を夢に見たのだった。
そして、その人となりにふさわしい名として、
〔天から〕聖霊がお降《くだ》りになって、からだごと
主《ドミヌス》のものだった彼に、〔おん神の〕所有格の名〔ドメニクス・主のもの〕をおつけになった。
そこで、彼はドメニコと呼ばれたが、わしは
彼を、主を助けるために、主の果樹園〔教会〕に運ばれた
キリストの農夫とさえ呼びたいほどだ。(七二)
彼にあらわれた〔おん神の〕最初の愛が、
キリストのおさずけになった最初のいましめ〔清貧《ポヴェルタ》〕に向けられていたから、
彼はまさしくキリストの使者として、その家族として現われたといえるのだ。
彼の乳母はしばしば、彼が目をさまして
大地にだまってすわって、
≪私はこのために生まれてきたのだ≫といってでもいるような様子をながめていた。
ああ 彼の父はほんとうにフェリーチェ〔恵まれた者〕だった!
彼の母もほんとうにジョヴァンナ〔神にいつくしまれた者〕だった。
ひとの釈《と》く意味でいうなら、まさに呼ばれるとおりだからね。(八一)
彼は、オスティアの司教やタッデオの後をしたって
いまあくせくしているこの俗世のためではなくて、
まことの|魂の糧《マンナ》を愛するために、
いくばくもなく、すぐれた学匠におなりになった。
そこで、園丁が手を抜くと たちまち〔立ち枯れして〕白っぽくなる
ブドウ園のまわりを見てまわっておいでだった。
いまではもう〔法王の座は〕こころ正しい貧者になさけをかけることもないが、
それは〔法王の〕座の罪ではなくて、そこにすわる者の衰えのためだ。
彼がその座にもとめたもの〔聖ドメニコは、一二〇五年にローマ法王庁を訪ねて、アルビゲンシスの異端と戦う法王の許しをもとめた〕は、(九〇)
六をとって 二か三を〔教会に〕施すことでもないし〔教会への献金の六のうち、二か三を教会に入れて、のこりを猫ばばすること〕、
最初に空席になった聖職にめぐりあうことでもなく、
また≪神の貧者に分かつべき十分の一税≫を乞うことでもなくて、
お前をとりまいているこの二十四本の樹木〔この太陽天で、ダンテをとりまく、おのおの十二人からなる二重の魂の輪のこと〕の
種子〔信仰〕をまもるために
昏迷の世と戦う許しをもとめることだった。
そこで、彼は教義と意志とまた
法王の務めをあわせもつと、
高い水脈からほとばしる奔流のようにうごいて、(九九)
烈しく 異端の茨のやぶを駆けまわったが、
抵抗がすごく手ごわいところでは
その攻撃はいちだんと強かった。
そのあとで、彼からいろんな流れ〔宗派〕が出たが、
カトリックの園〔教会〕はそこで、折目がついて、
その教会の信者はとても活気づいていた。
神聖な教会が乗って 内乱の戦場で
身をまもり、かつ打ち勝った
あの二輪車の輪の一つ〔聖ドメニコ〕が こんなだったとするなら、(一〇八)
もう一つの輪〔聖フランチェスコ〕がどんなにすぐれているかということを
お前は感じないわけはないだろう。
そのことは、わしの来る前に トマスがすでにいんぎんに讃えている。
だが、その車輪のいちばん高い部分〔聖フランチェスコ〕がつけた
轍《わだち》のあとは 〔ひとに〕かえりみられていないし、
酒の澱《おり》のあったところは黴《か》びてしまっているのだ。
彼の家族〔フランチェスコ会の修道士〕も、
はじめは上人の足跡を正しく踏んですすんでいたが、
いまでは上人がかかとを置いたところへ 爪さきを置くように あべこべになっている。(一一七)
そして、ほそ麦〔毒麦ともいう。聖フランチェスコ教団を追われた不逞の修道士たちのこと〕が 箱〔穀倉〕を奪われたことを
嘆くころになると、すぐに
耕し方のまずさ〔聖フランチェスコ教団の不和と動揺のこと〕がいかに収穫にひびくものかに気づくだろう。
だが、わしらの書物〔フランチェスコ教団〕の一枚一枚を捜すひとでもあれば、
≪余は常に宗規にしたがう者なり≫と読める紙〔僧〕の見つかるだろうこともたしかだ。
しかし、それらはカザールやアックァスパルタ〔の町々〕から生まれたものではない。
それらは戒律をしたって来た者だが、
ひとりは戒律〔のきびしさ〕をのがれ、ひとりは戒律をきつくしすぎたのだ。
わしはバニョレッジオから出たボナヴェントゥラ〔聖ボナヴェントゥラ(一二二一〜七四)は、聖フランチェスコ教団に入って中庸の道を歩いた。パリ大学に学びそこの哲学、神学の教授となり、一二七四年、法王クレメンス四世から、ヨークの大司教に任命されたが辞退した。一二七四年、グレゴリウス十世によって枢機官に在ぜられた。彼はその学識の深さから、熾天使博士と呼ばれていた〕の魂だ。(一二六)
聖職のおもさを思って、
つねに浮世への顧慮《おもんぱかり》をあとまわしにしたのだ。
ここにいるのは、イルミナートとアウグスティン〔二人ともフランチェスコの初期の弟子〕、
ふたりとも縄紐をつけて おん神への教友となった
初期の〔教団の〕はだしの貧者たちだ。
それといっしょに、ユーグ・ド・サン・ヴィクトゥル〔神秘主義の神学者〕や
ピエール・ル・マンジュール〔フランスの神学者〕や、十二巻の書物〔論理学綱要〕で下界でも
かがやいているエスパニアのピエートロ〔ピエートロ・ディ・ジュリアーノ・ダ・リスボーナのこと。プラガの大司教、枢機官などのあとで法王位について、ヨハネス二十一世となった〕、
それに、預言者のナターン〔ユダヤの預言者。ヘテ人ウリアの妻バテシバと姦通してウリアを殺したことでダヴィデ王を弾劾した〕も大司教のクリュソストモス〔本名はジョヴァンニ・ダンティオキア。弁舌がさわやかだったので、クリソストモ(金の口)と呼ばれていた。コンスタンティノポリスの司教〕もアンセルムス〔聖アンセルムスはカンタベリの大司教。スコラ学の最初の神学者として、その基礎的な仕事をした〕も、(一三五)
それに、〔七科の中の〕第一課〔文法学〕に手をつけたことで名のある
あのドナトゥス〔四世紀の文法学者で、聖書のラテン語訳をしたヒエロニムスの師〕も ここにいるのだ。
いや、ラバヌス〔ラバヌス・マウルスのこと。マインツの大司教。聖書の注釈や神学についての著書が多い〕もここにいる。
それから、預言者の精神をさずかった
カラブリアの僧ジョアキーノ〔ジョアキーノ・ダ・チェリコ。はじめはシトー派の教団にいたが、やがてフィオラに新しく教団をつくってその修道院長になった。多くの著書のなかで『黙示録解説』は有名で、そのため彼は預言者的な神学者と見られるようになった〕も わしの傍できらめいている。
それらはみな、修道士《フラ》トゥマーソ〔トマーソ・ダクィノはまだこの当時には聖者になっていなかったので、フラ・トマーソといっている〕、そのラテン人らしい公正な心による
かがやくばかりの〔聖フランチェスコへの〕讃辞が、
わしをうごかして、あの公子〔聖ドメニコ〕を競ってほめさせたのだし、
わしとともに ここにいる〔十一人の〕仲間をも感動させたのだ」(一四五)
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第十三歌
この天上でかがやいている霊たちのうごき、それは北斗七星のかたちを想像すれば、およその見当がつく、とダンテはいう。北斗星の轅《ながえ》がまわっても、うごきにつれて消えやらぬ星々のように、さきの二つの光の輪は星座のように光となり形となって、この世では想いもよらぬ動きと早さを見せるという。その光芒の天のさなかで、聖トマスがふたたび語りはじめるのだ。彼はダンテの抱く疑いをさとって、天上の倫理を詩的な比喩でつぶさに説明するのである。すべてが、倫理的に関連をもつ神学的な天の秩序のことで、そこに、天上の世界をいかに具象化するかという、ダンテの形而上的な幻想が見られるのである。
わたしがいま見たもの〔内と外との二つの輪をつくっている二十四人の聖者の魂〕をとっくり解ろうとするひとは、(一)
わたしが話すあいだ、踞然《きょぜん》とした岩のようにして
そのイメージを持ちつづけていてほしい。
空のあちこちで すごくあざやかに
光りはじめている十五の星々は、
その厚い大気をさえ貫いてかがやいているのだから。
わたしたちの〔地上で見る〕天のふところで
夜も星もつづいているあの北斗七星を想い描いてほしい、
〔その輿《こし》の〕轅《ながえ》をまわしても 目からは消えないその星々のことだ。(九)
また、あの角笛の口〔小熊座の最後の星々の形〕を想像してほしい。
それは、第一の光の輪が そのまわりを回る
〔その〕軸のさきからはじまっていて、
天の二つの星座を〔そんな形に〕形づくっているのだからだ。
その星々は、むかしミノスの王女〔アリアドネ〕が身まかったときに
〔死の〕寒けを覚えて造ったような形〔クレタ島の王、ミノスの娘アリアドネが、テセウスに捨てられて死んだとき、バッコスはそれを隣んで自分の冠をとって星々のあいだにおいた。それがアリアドネの冠といわれるもので、北極冠のことである〕だった。
それは、一つの星座〔の輪〕が別の星座のなかでも二重に光りかがやいているのだ。
一つが前へうごけば 他はうしろへというふうに
二つの〔星の〕輪が〔逆に〕まわっていることを想像してほしい。(十八)
それはいわば、わたしのいた空の一点をとり囲む
本当の星座の影でもあり、
かさなり合った〔霊の〕舞踊の列の影でもあっただろう。
それは、わたしの見慣れたものをはるかに越えたものだったから、
あらゆるものにまさるその天のうごき〔第九天の原動天のうごき〕が
キアーナ川の流れの速さ〔アレッツォの近くをながれる河〕と比べても どんなに早かったことか。
そこで歌われていたのは、バッコスでもなく、アポロンの讃歌でもなく、
おん神の性《さが》にある三位一体の玄義と
また一つの格《ペルソーナ》にあるおん神と人間の性《さが》の玄義であった。(二七)
それらに時が来て、その歌と円舞がおわると、
その浄らかな光は 立ちどまって わたしたちにこころひかれて、
こちらの方へ気をうつすと それぞれにはればれとしていた。
すると、さきにわたしたちに おん神の貧しい者〔聖フランチェスコ〕の
すばらしい生涯を語った光〔聖トマス〕が、
なごんでいる福者たちのなかで 沈黙をやぶっていった、
「一束の麦粒が穂からかきおとされて〔一束の麦の穂とは、ダンテがもっていた第一の疑いのこと。その疑いはすでに聖トマスによって解かれていたのだから、という意〕
その種麦はすでに貯えられたから、
もう一つの束〔ダンテの第二の疑い〕を打つように 天の愛がわしをいざなわれたのだ。(三六)
お前は考えている――〔リンゴを〕味わうばかりに、すべての世に災いの種をまいた
あのうつくしい〔イヴの〕頬をつくるために
肋骨《あばらぼね》を引き抜かれた〔アダムの〕胸のなかにも、
また槍に刺されて そのあとさきのあらゆる罪をお贖《あがな》いになられ
秤にかけていっさいの罪の重さにもお勝ちになられた
あの〔キリストの〕お胸のなかにも、
それが どんなに大きかろうとも、その二人〔アダムとキリスト〕をお創りになった
おん神の力がしみこませたいっさいの光を、
人間の性《さが》がもつことをお許しになったということを。(四五)
だから、第五の光〔ソロモンの魂の光〕に包まれた善〔魂〕にかなう者はないと、
わしがさきに話したとき、わしのいったことに
お前はおどろいていたね〔キリストとアダムをのぞけば、ソロモンの知恵にかなう者がない、といった聖トマスのいったことを、ダンテが不審に思ったこと〕。
さあ、わしの答えることに目をひらくがいい。
そうすれば、わしのいうこととお前の信じていることとが、
真理のなかで同じ円の中心になっていることがわかるだろう。
死ねないもの〔天使、人間の魂、天体〕も死ぬるもの〔土、水、火、空気、とそれらの混り合ったもののこと〕も、
みなわしらの主に愛されて
主のお生みになられた観念の〔反射する〕光にほかならない〔万物は、神がその愛のなかで生まれさせたその観念のかがやきだ、というのである〕のだ。(五四)
こういきいきと〔観念が〕かがやくというのも、
その〔父なる〕光から出て それとは分かれずに、
それとともに三位一体となるおん神の愛〔三位一体のかたちで、父(神)と子《キリスト》をむすぶ聖霊のこと。ここで「それとは」といっているのは、ロゴス父なる神の言である〕からも分かれないからだ。
そのかがやきは、恩寵によって 鏡にうつすように一つになり、
九つの〔天使の〕合唱するなかに集まって、
永遠に一つのものとなって残っているのだ。
光はそこで、合唱のなかから いろいろに変わりながら、
天球から天球へと もっとも劣ったものにまで下って、
もはやたまゆらの生命のものになるしかないからだ。(六三)
これらの はかなくて滅びゆくものというのは、
天が回転しながら種によって、また種もなくて創造する〔動植物または鉱物をつくることを指す〕
おん神につくられるもののことだ。
これらの創られるものの蝋《ろう》〔材料〕と〔それを生む〕天の力は一様ではない。
だから、そのおん神の言《ことば》をもつ原型のもとでは、
やがては光が強くも弱くもなるのだ。
そういうわけで、同じ樹でも、
いろんな種によって いい果実も悪い果実もできる、
お前たち人間がいろんな才能をもって生まれるようなものだ。(七二)
〔さきの〕蝋《ろう》に正確に刻印《おしで》がおされ、
また天がその最上の力を出す状態であるとするなら、
その刻印《おしで》の光は完全なものとして現われるだろう。
だが、自然〔おん神がものを生む手段〕はつねに不完全にしか印《おしで》の光をお与えにならないものだ。
職匠が同じように仕事をしながら、
慣れと≪こつ≫でやっても 手がぎくしゃくして震えるようなものだ。
そこで、もしおん神の燃えるような愛が 創られたもののなかに
原初の〔おん父の〕力の言《ことば》をのこして印《おしで》をつけてくださるなら、
そこでは すっかり完全なものが得られるはずだ。(八一)
こうして、大地〔神がアダムを創造したとき、材料となった土ということ〕はすでに
完全ないきものにふさわしい土地になっていたので、
童貞のマリアさまはおみごもりなさった。
そういうわけで、わしは、人間の性《さが》が、
あの二人〔アダムとキリスト〕にかつてあったように
これからはそうはあるまいという お前の意見には同感だ。
わしがいま 話をさらに進めなければ、
≪では、なぜあの人〔ソロモン〕の知恵は類《たぐい》なかったのです≫
と、お前はいいだすだろう。(九〇)
だが、目に見えぬことをはっきり解らせるためには、
そのひとがだれだったか を考えてみることだ。
主《しゅ》が彼に≪求めよ≫といわれたとき、それに応えようと彼をうごかした理由〔神がソロモンの夢に現われ、「何でも求めよ」といわれたとき、彼は長生きや富貴を求めず、父ダヴィデの位を辱めないようになることを求めたという故事。その理由によって、ということ〕もだ。
彼が王であったということ、さらに、王たることにふさわしいための
分別をもとめていたことを お前がよくわからないほど
あいまいに わしは話しはしなかったはずだ。
それは、ここの天上を動かす者〔天使のこと〕の数を知るためではなく、
ましてや、必然と偶然がおかれたら
結果的には必然的なものが永久にみちびきだされる〔こういう考え方は哲学的な知識で、それにつづく、半円のなかに直角をもたぬ三角形ができるか、というような考え方は数学的な知識である〕とか、(九九)
≪原動力の存在は認めらるべきや≫とか、
半円のなかに直角をもたぬ三角形ができるか、
とかを知るためではないのだ。
それ故に、わしがさきに述べたことや このことに注意するなら、
王者の思慮深さこそ わしの望んだ矢の射貫いた
二つとない知恵のことが お前にもわかるはずだ。
いや、お前が目をぬぐって、≪立つ≫という文字をみつめたら、
この言葉が王たちに関係があるだけだということがわかるだろう。
王は多いが、善良な王は稀だからな。(一〇八)
このように区別を立てて わしのいうことをとりあげてみることだ。
そうすれば、第一の父〔アダム〕とわしらが慕っているお人〔キリスト〕について、
お前の考えることとわしの言《ことば》とは一致するはずだ。
そこで、このことがいつもお前の足の錘《おもり》になって、
お前に読めないことの是非については、
疲れたひとのように 決断はゆるゆるつけるがいい。
分別もせずに認めたり否定したり、
否定すべきときに肯定したりするほど
馬鹿の上塗りすることはないからな。(一一七)
人間というものは何度も挫折する目にあうとな、
考えはあらぬところへ突っぱしって、
そのあげくは、道理が情にほだされるものだ。
真理〔実〕を漁って しかもその技をもたぬ者は、
出たときのままで〔手ぶらで〕帰るわけにゆかぬというので、
無駄に岸を離れたがることは さらに悪いからだ。
世間にはそんな手合いが相当にいるよ。
パルメニデス、メリッソス、ブリュソン〔ともにギリシアの哲学者〕ほかおおぜいが、
目的地《あて》も知らずに繰り出したものだ。(一二六)
サベリウス〔サベリウスは三世紀の異端的な神学者。三位一体を否定した〕とアリウス〔ローマ教会から異端者とされた三・四世紀の神学者。彼はキリストの神性を否定したが、その論理的な合理性は、そのあと形を変えてうけ継がれ、アリウス派として後代までひろい影響をのこしている〕と ほかの馬鹿者も、
剣にうつすように 聖書に
自分の真直《まっすぐ》な顔をゆがめてうつした〔聖書を曲解したということ〕。
またご同様に、田畑の穀物の穂がまだ熟《う》れぬのに、
〔青田買いをして〕値をつけるような
そそっかしい人にはならないでくれ。
冬のあいだは、ずっと堅くて刺《とげ》だらけの枝も
その枝のさきにバラの花をつけたのを
わしは前に見たことがあるし、(一三五)
長い船旅をまっすぐに、すいすい船足をのばしてきた船が
港へ入るそのきわに
沈没したのを見たこともある。
ひとりが偸盗《ちゅうとう》で、もひとりが供物を捧げたことを知ってるといっても、
おん神の裁きがどう出るかを知ってるのが、
ドンナ・ペルタ〔平凡な婦人〕とマルティーノ氏〔世間にありふれた男〕だと思ってはいけない。
そいつらは、昇りもすれば墜ちもするのだからな」(一四二)
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第十四歌
物語はまだ第四の太陽天での出来事の続きである。ダンテは、肉体のよみがえりのあとで目が魂のきらきらする光に堪えられるのはなぜかという疑問を、そこで輝きのもっとも強いソロモンの霊にたずねる。そのやりとりが終わると、ダンテはベアトリーチェにともなわれて、第五の火星天へ昇ることになる。そこは、信仰のために戦って死んだ殉教者の魂が十字の形に並んで光っているところだ。その光のいみじい合唱の音律にダンテはうっとりして聞き入っていると、その十字のなかに、キリストがきらりと輝かしい姿をあらわす。そばのベアトリーチェをふり返ることも忘れるほどだった。
円い器《うつわ》の水は、それを内側でたたくか 外からたたくかによって、(一)
水は中心から器の縁へゆくか 縁から中心へゆくか、
その波動の伝わり方はちがうものだ。
トマスのきらきらする魂が口をつぐむと、そのとたんに、いまいったようなことが
わたしの脳裡におちかかってきた。
と、トマスの話をうけて 愉しそうに話しはじめたのはベアトリーチェだが、
トマスの口から出る声と 彼女の口から出る声とは、
〔さきの内外の水の波動と〕同じようなうごきを感じさせた。(九)
「この方《かた》〔ダンテのこと〕はまだほかの真理のことは考えていませんし、
声に出していうこともございませんが、
その真理の根源にまで行かなければならないのです。
この方にお教えください。あなたがたのお身を花とかがやかしている
その光は、ただいまあるように 永遠に
残るものでございましょうか。
もしも残るといたしますと、
あなたがたのお目が生きかえって見るようになった〔最後の審判のあと、魂が肉体をつけたとき〕とき、
その光にさえぎられて お目のするどさを害わないで どうしておられましょうか」(十八)
あたかも 踊りまわっているそこの霊たちは、
ときには喜悦がたかまるにつれて それに押され 惹きつけられて、
声をあげ 愉しげなそぶりを見せるように、
二重の花輪〔聖者たちの光の輪〕になっている光の霊たちは、
まわるのを早めたり さらにすばらしく歌ったりして、
歓喜がさらにつのることをあらわしていた。
この天上で生きるために地上で死んだとしても、
その死を悲しむ者は、この天上での
永劫の雨〔絶えることなく降る神の恩寵〕のさわやかさを想いもしない者だ。(二七)
あの永遠に生きている一で二で三であるもの、
それは、三位〔父と子と聖霊〕、二位〔父と子〕、一位〔子または神〕として、
〔何物にも〕限定されずに、つねに万物を限定して統《す》べているのだ。
そこにいた魂は口々に その〔三位の〕聖霊を
いみじい調べで 三度くりかえして歌った。
それはどの功徳にもふさわしい〔おん神の〕賜物かと思わぬわけにはいかなかった。
すると、わたしには、小さい輪ながら いちだんと神々しくきらめいている光〔ソロモンの霊〕のなかで、
天使〔この天使はガブリエル〕がマリアさまにでもなさるような
そんな控え目の声のするのが聞こえた。(三六)
その声は彼女に応《こた》えて、
「天国の祭りがながくつづくかぎり、
われらの愛は これらの衣装〔光〕となってあたりを輝かすはずだ。
その衣の光は熱をともない、熱からは
神のお姿があらわれるが、その功徳におさずけになる
恩寵が大きければ大きいほど 光は冴えるのだ。
きよらかに耀く肉体にふたたび衣が着せられるときは、
われわれの人格は完璧なので
さらにおん神に嘉《よみ》されるだろう。(四五)
それは、至高の善からさずかる
施しの光が さらに燃えさかり、
それにふさわしい状態〔目が神を見るにたえる状態で、の意〕で おん神を見ることができるからだ。
そこで、おん神の姿はありありと見えるようになり、
それが火をつける熱い愛もたかまり、
さらには、それから出るかがやきも強くなるのだ。
しかし、あたかも炭は〔燃えるときには〕炎を立てるが、
いきいきと炎熱して炎にうち克つと
炭はありありと目に見えてくるものだ〔炭が炎を出してもその姿をかくさぬように、よみがえった肉体は隠されることなく光を貫いて現われてくるものだ、とのこと〕。(五四)
そのように、いまここでわれらを包んでいるこの輝きは、
見かけでは 土に埋まりつづけている肉体にくらべると、
劣っているようにも見えるだろうが、
われらの肉体の器官は、われらをよろこばすものになら
何にでも強いのだから、
そのおびただしい光も われらの目をくらましはしまい」
光の輪は内と外で たちまち声をそろえて
アーメン! といっているようだった。
それには、いまはない骸《むくろ》をもとめる願いがつよく現われていた。(六三)
だがその願いは、おのれの喜悦や栄光のためばかりでなくて、
その母、その父、またそのほかの 永劫《とわ》の炎になる前の
親しかった人たちのためでもあったらしい。
すると、そこらじゅう一面に、
光の輪のあった上空のはるかかなたに、〔輪と〕同じ明るさをもって、
ひとつの光が、かがやく地平線と見まがうように生まれでていた。
それはあたかも日が暮れかかる頃のようで、
空には新しい星々がきらめきはじめるが、
それは目にはしかと見えるか見えないかのようだった。(七二)
わたしには、さきの新しい光芒のなかに さらにかがやくものが感じられて、
それがさきの二つの光の輪の外側をまわっているのが
見えはじめるような気がした。
ああ きよらかな〔おん神の〕息ぶきのまことの閃光《きらめき》よ!
たちまち出現して それが白光を放つので
わたしの目はくらんで それを見るに堪えなかった。
しかし、ベアトリーチェはいつものように臈《ろう》たけて 笑みさえふくんで見えたが、
わたしはそれをこころにもとめずに、
そこの輝くもののなかに残しておきたいとさえ思った。(八一)
そのとき、わたしの目はふたたび力をとりもどしていて
見あげることができたが、わたしの身は
わたしの淑女《あてびと》といっしょに おん神の至福へと引きあげられているのがわかった。
わたしの身が〔天を〕昇っていることを はっきり悟ったのは、
そこの星々の 火の色をしたほほえみから、
つねにもあらず 星々が赤らんだと思ったからだった〔ダンテとベアトリーチェは、さらに高く天上へ昇っていたが、それのわかったのは、彼女の顔が紅くいろどられたのを見たからだ。それは、火星天のほうが太陽天よりも赤く光っているからである〕。
わたしはひたむきに心して たれにも通じ合う〔こころの〕言葉で、
おん神に このあたらしい恩寵にふさわしく
身を灼いて犠牲を捧げる祭事《つとめ》〔ここでは、ダンテはみずから、その炎の元へわが身を捧げに昇天している、という意味をからませている〕をした。(九〇)
そして、その犠牲のほのお〔神に感謝する言葉〕が わたしの胸から消えてしまわないうちに、
この捧げものを〔おん神が〕お受けになって
慈《いつく》しんでおられることをさとった。
そのことは、二条の光のあいだに
いとも明るく いとも赤らんだ光があらわれたのを知ったからで、
わたしはとたんに叫んだ、「ああ エリオスさま〔神〕、こうして彼らをお飾りになるのですか」
それはあたかも この世の〔南北の〕極のあいだを
銀河が 大小さまざまの白光をつらねていて、
物識りの賢者をさえ疑わせるようなもので、(九九)
その星々のたたずまいは、天の深いところで
火星となり、その光が円を四つに分けた〔中心の〕接点で
あのたっとい十字架の形をつくりだしていたのである。
そこで、その記憶はわたしの詩才の手に負えぬことだった。
キリストをかがやかせていたその十字の形の
それにふさわしい表わし方を わたしは知らなかったからだ。
しかし、自分の十字架を背負って、キリストにしたがう人は、
この主《しゅ》をかがやかす曙〔十字架〕を見ながら、
なおもわたしが筆を省いたことを許してくれるだろう〔キリスト教のために戦って天に昇る者については、その表現のむつかしいことを読者も知っていることだから、ダンテが説明を省くことも許してくれるだろう、ということ〕。(一〇八)
その光芒は、〔十字架の〕腕木のはしからはしへ、
またその頂点から根元へまでうごいていたが、
光はたがいに出会っても すれちがっても 烈しくきらめき合っていた。
そんなことが そこに見られたのである。
たとえば宇宙の微塵《みじん》のようなものが、長いものも短いものも、
まっすぐに また曲がって、早くまた緩《ゆる》く、形を変えながら 光にうごかされているのだ。
それは、〔この世でも〕日ざしを避けるため、
ひとが知恵をしぼって日陰をつくるときにできる
光のすじによく見かける現象である。(一一七)
またそれは、あたかも多くの弦《げん》で調子をつけた
洋琴《ギガ》や竪琴《アルバ》が、曲もわきまえぬたれかれにも
ひびきも妙《たえ》な調べを かき立てているようなものだ。
そのように、わたしの目の前にあらわれた
あの十字の形にあつまった光のなかから 一つの音色が、
その讃歌を知らぬわたしをうっとりさせてしまったのだ。
それが尊い〔神への〕讃歌であることは わたしにもわかった。
やがて、歌の意味もわからぬままに 聞く人には聞こえるように、
≪起てよ≫、≪負かせよ≫という言葉が、わたしの耳にもとどいた。(一二六)
わたしはその調べにほれぼれと耳をかたむけていたが、
これほどまでにいみじい絆《きずな》でわたしをつないだものは
それまで何ひとつなかったのだ。
わたしのそういういい方は すこしいいすぎかもしれない。
見るだけでも わたしの心の平安の得られる
あのうつくしい〔ベアトリーチェの〕目のよろこびをさしおいていうのだからだ。
しかし、〔おん神の〕ありとあるさやかな印《おしで》は、いきいきとして
昇るにつれてさらにさらに美しくなるばかりだ。
それに、わたしが目をその淑女《あてびと》にうつさなかったことに気づくひとには、(一三五)
わたしが自責する罪も さきにわたしのいった言葉も赦して、
わたしが真実を語ったこのことをわかってくれるにちがいない。
それは、ここで〔ベアトリーチェの目にある〕神聖なよろこびをさしおいているのではないからだ、
その彼女のよろこびは、昇るにつれて ますます浄らかになっていたからだ。(一三九)
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第十五歌
ダンテが昇った第五の火星天での出来事である。その空の十字架の右端から流星のように降りて来た一つの霊、それがダンテの祖父の祖父にあたるカッチャグイーダの魂である。アリギエーリ家の根である彼は、昔のフィレンツェの質素な風俗を語り、クルラード皇帝の軍勢に参加してイスラム教徒と戦った騎士としての自分のことを語る。その聖戦で仆《たお》れたので、殉教者としてこの火星天で、ほかの宗法のために仆れた者と、平安に暮らしているのだという。
よからぬ考えが 悪事をたくらむ欲望にとけこんでいるように、(一)
善にあこがれる心は、つねに正しく〔おん神に〕息を吹きこまれた愛のなかに
とけこんでいるものだ。
その善のこころが あのさわやかな竪琴《リラ》〔第五天の聖者たち〕を静かにさせた。
すると、天の右手で〔神の〕張っている弦《いと》も
ゆるめられたり 張られたりして ひっそりしてしまった。
これらのおん神に恵まれた魂たちは、わたしに願い事をしようという
こころを起こさせてくれて その歌をやめて静かになったくらいだから、
どうして正しい願いに耳をふさぐことがあるだろう。(九)
かりそめのものを愛《め》でるひとには、
それへの愛が失せて その悩みに終《つい》のないことは
あたりまえのことだ。
雲もない澄みきった夜空では、
ときおり 俄かに火がとんで、
じっと見入っている目を移らせるものだが、
そこでは星が流れたような気がする。
それでも星はなお光りだしたところでは消えもせずに、
星は消えのこっているものだ。(十八)
〔その流星の光のように〕そこでかがやいている星座の一つの星が、
あの十字架の形の根元へと そこの右手に伸びている腕木から
駆けおりて来たのである。
珠玉《たま》は、その飾紐から外《そ》れずに
ぴかぴかする条《すじ》をつたって下りてきたから、
まるで雪花石膏《アラバストロ》のうしろを走る火の感じがした。
それもそのはず、わたしたちの最大の詩神《ムーサ》〔ウェルギリウス〕の業《わざ》を信じるなら、
あの慈悲ぶかいアンキセスの魂も、エリジオ〔エリシウム・浄土〕でわが子を見ると、
自分から名乗り出て 一心に駆けよったという話だ。(二七)
「ああ、わが血縁の者。おん神の恵みにあふるる者よ、
爾《なんじ》をおきて何人《なんぴと》にか、
天の扉のふたたび〔現在と死後とに〕開かれることやある」
そう、その光は〔ラテン語で〕いったので、
わたしはそれに目をすえてから わたしのマドンナの方にふり向いた。
わたしはその両方に〔その魂がダンテを血縁の者と呼びかけたことと、ベアトリーチェのうつくしさが一段とすぐれたこととの二つ〕 あっ気にとられていたのである。
というのは、その彼女の目のなかに、わたしの恩恵や
天国の奥底にまでふれると思われるような
彼女のほほえみが 燃えているのを見たからである。(三六)
すると、その魂〔ダンテの先祖のカッチャグイーダの魂〕がうれしそうに、
はじめの言葉につづけて 何かいうのを聞いたが、
すごく含蓄《がんちく》のある言葉だったので わたしにはわからなかった。
だが、それは、考えて意味を深刻にとったわけではなくて、
そういわずにはいられぬほどに 彼の考えが
〔神聖な愛に燃えていたので〕生き身のしきたりを越えていたからだ。
しかし、やがてその燃えるような慈愛の弓ははげしく燃えだしていた、
それは、その言葉がわたしたちの知性のまとにまで下りてきたからだ。
わたしにわかった最初の言葉は つぎのようなことだった。(四五)
「わしの子孫〔ダンテ〕にそんなにも手篤くしてくださる
三にして一なるおん神こそ あらたかなお方さまだ」
それからつづけて、「ありがたいことに、
〔世の書物のように〕白にも黒にも変わらぬ大部の書物〔聖書〕をよんで、
長いことわしの望みを引きだしてくれたことを、
わしの子よ、いま語っているこの光〔の衣〕のなかでお前はそれを解いてくれた。
それは、高く翔ける翼をつけてくださったお方のおかげだ。
お前は、お前の考えが原初のお方〔神〕から
わしに伝わって来たと思っている。あたかも一つのもの〔神〕から(五四)
五つにも六つにも〔万物が〕分かれて出てくることが、わかる者には見えるようにな。
それ故にだ、わしがだれだか、わしがこのたのしい群のなかで、
ほかの魂よりことさらうれしそうにしているのはなぜかとか、
お前はわしに質《たず》ねたいのだね。
お前の考えは正しい。それは〔至福の〕大小にかかわらず、
この天国では、鏡の中におのが姿を見つめているからだ。
お前が考えるよりさきに、その考えがうつるからだ。
しかしそれは、わしの無限の視力でわしには見え、また
こよない願望で身づくろっている〔あの鏡の中の〕きよらかな慈愛が(六三)
よりよく果たされているからでもある。
お前のそのたしかな声を はばからずに愉しく
想いをひびかせ、願いをひびかせるがいい。
それに対するわしの答えはもうできているから」
わたしがベアトリーチェの方をふり向くと、
彼女はわたしがいう前に、すでにそのことをさとっていて、
微笑して わたしの願いに翼をひろげさせる〔神を渇望する意欲をつよめさせた〕ようなしぐさをした。
そこで、わたしはいった、「原初《はじめ》の公平なお方〔神〕がおあらわれになってから、
情と知とは、あなた方のどの霊にとっても、(七二)
同じ重さのものになりました。
だから、熱と光とであなた方をかがやかせ、あたためる太陽〔神のこと〕は、ほんとうに平等でして、
比べるものもないほどでございます。
しかし、人間の世界では、あなた方に申し上げたいろんな理由から、
情と知とは それぞれ
別の翼として羽根が生えているのです。
ですから、生き身のわたしは、この不平等なことを感じておりますので、
父親のようなお出迎えにも
こころでするしかお礼を申せないのです〔口に出していえないから〕。(八一)
心からのお願いでございますが、
この貴《たっと》い宝石をちりばめる いきいきとしてきらめく黄珠〔カッチャグイーダの魂〕のあなたさま、
どうかお名前をわたしにお明かしください」
「おお、わしの葉〔子孫よ、ということ〕よ、お前を待つだけでも
わしはうれしかったぞ。
わしはお前の根〔祖先だった、の意〕だったからな」
その魂はわたしにそう答えて、
さらに付け加えた、「お前の姓〔アリギエーリ〕を名乗る者は、
もう百年の余も この山の第一の環道〔煉獄の棚のようになった第一圏。そこでは傲慢の罪が浄められている〕を経めぐっているが、(九〇)
それがわしの子で お前の曾祖父〔ダンテから見ればカッチャグイーダは曾祖父〕にあたる者だ。
お前は慈悲をもって あれの長い労苦を
ちぢめてやれるようになるといいが。
フィオレンツァの府《まち》は、いまでも
第三時〔午前九時〕と第九時〔正午〕には鐘が鳴る
あの古い城壁の中で、地味で貞潔で 平和だった。
それは腕環や頭飾のはやる以前のことだが、
飾りのついた皮靴をはく女もいないし、
女を目立たせる帯をしめることもなかった。(九九)
女の児が生まれたからといって
父親の苦労の種〔持参金を工面しなければという父親の心配〕にはならなかった。
そのころはまだ婚期も持参金も身分を越えなかったからだ。
住み手のいない邸宅もなかったし、
閨房ですることを見せびらかす
サルダナパロス〔前七世紀のアッシリア王。室内を飾って遊蕩にふけったという〕もまだ来ていなかった。
そのころは、モンテマーロ〔ローマのそばの山。ここではローマの華美の代名詞として使っている〕はまだ
お前たちのウッチェラトイオ〔フィレンツェから五マイル離れた山で、ここではフィレンツェの華美の代名詞として使っている〕にまけてはいなかったよ。
フィレンツェはローマを抜いて栄えているが、落ち目になるのも ひけはとるまい。(一〇八)
ベリンチオン・ベルティ〔フィレンツェの政治家〕が骨の留金《とめがね》のついた革帯をして〔質素な姿という意味〕
歩いているのをわしは見たし、
その奥方もその鏡の前から素顔で来るのを見たものだ。
ネーリ家やヴェッキョ家のようなお大家の旦那方でさえ
飾りもつけぬ革衣〔上には外衣も着ない服装〕で満足していたし、
その奥方たちも紡ぎ竿や糸巻き棒をもつことで満足しているのを見た〔自分でつくることで満足していた〕。
本当に しあわせなことだ! ひとは死ねば必ず墓に葬ってもらえたし、
〔夫が〕フランスへ行ったからとて
ひとり閨《ねや》に残される女など一人もなかったのだ、(一一七)
女は親たちがあやす前に
子供の口真似をしながら
揺藍の世話をして夜を更かしていたし、
また女によっては、〔児の〕髪の毛を棒にひきよせて
トロイア人のこと、フィエゾレやローマのことなど
家の者に昔語りを繰りかえしていた。
そのころなら、チアンゲルラ〔フィレンツェで悪名たかい女〕やラーポ・サルテレルロ〔有名な法律家だが、汚職のためにフィレンツェを追放された〕の悪行は、ひとの度胆を抜いただろう。
いまなら さしずめ、チンチヌアート〔質実な人間のタイプ〕やコルニリア〔家庭婦人のタイプ〕の善行におどろかされるという具合にだ。
そんなにも落ちついて そんなにも美しく市民は暮らしていたし、(一二六)
そんなにも信頼し合った市民に、こんなにもたのしい宿《やど》りへと、
大声で名を呼ばわれて マリアさま〔産褥の母親が救いをもとめるマリア〕はわしをお招きになられたのだ。
そして、お前の古い礼拝堂〔フィレンツェの洗礼堂〕の中で、
わしはキリスト教の信者でもあり、カッチャグイーダでもあったのだ。
モロントとエリセオはわしの兄弟だったし、
わしの家内はポオ河の渓谷からわしの許に嫁いで来た。
だから、お前の苗字《みようじ》はそこから来ているのだ。
それから、わしは皇帝クルラード〔ホーエンシュタウフェン家のコンラッド三世のこと〕に仕え、
皇帝はわしに騎士の帯をさずけられた。(一三五)
それほどわしの武勲を嘉《よみ》されたのだ。
わしは帝にしたがって出征し、
牧者〔法王〕の咎によって、そこの人民、お前らの正義〔聖地〕を侵す
あの〔マホメットの〕無法〔聖地を所有する権利は、キリスト教徒にあると考えられていたので〕に当面したのだ。
そのとき、わしはそのけがらわしい人間からも、
そこでの愛が多くの魂をうち負かしてゆがめる
たばかりの世間からも 解き放たれたのだ。
そして、キリストの信仰ゆえに戦って死んで、この平安と神恵《みめぐみ》の天国へ来たのだ」(一四三)
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第十六歌
第十五歌をうけて、カッチャグイーダの話がつづいている。彼が在世していた十二世紀初頭のフィレンツェの府《まち》のことである。その府の大きさや人口や、幅をきかせていた貴族や名門などのことだ。その府の名家が没落したのは、田舎出の成り上がり者の血が入ったからだという。それからフィレンツェの分裂と内訌の原因になったブオンデルモンテ家とアミディ家との間にあった婚約破棄のことや、それにつづいて起こった私闘のことなどを、つぶさに語るのである。フィレンツェの生活史の断面が見られる。
ああ 氏《うじ》より育ちということもあるのに!(一)
ひとの情のつれなくなる下界で、
家柄を鼻にかけることがあっても
わたしはそれを異《い》なこととは思うまい。
身欲に〔こころの〕曲げられない
この天上でも わたしはそれを誇りにしていたのだから。
家柄などというものは 所詮は日に日に継ぎたしでもしなければ
すぐに短くなる外套のようなものだ。
時という鋏がそのまわりをうろついているのだからだ。(九)
わたしは、ローマ時代に初めて許されながら、
ローマの人たちがあえて保存しようとしなかった
「|あなた《ヴオイ》方」といういい方で話をしはじめると、
すこし離れて立っていたベアトリーチェが
笑みはもらしたが、それはものの本にある 〔王妃〕ギニヴァの最初の濡事《ぬれごと》に
咳《しわぶき》をした女〔王妃ギニヴァと騎士ランスロットが不義の恋におちいるのを警戒して、王妃の侍女ジュヌヴィエーヴが咳ばらいをしたという話〕のように思われた。
わたしはいいはじめた、「あなたさまはわたしの父上です。
あなたはわたしにお話をする勇気を与えてくださいました、
あなたはわたしを わたし以上に買いかぶっておいでです。(十八)
〔お話しくださった〕いろんな道理で、わたしのこころは
嬉しさでいっぱいです。こころがやぶれずにお話に堪えられそうで とっても楽しいのです。
そこで お話しくださいませんか わたしの親しい遠祖《おおおや》さま。
あなたさまのご先祖はどなたでございますか。
どんな年々にあなたは子供のころをお過ごしになられましたか。
それから 聖ヨハネさまの羊の檻〔フィレンツェ〕は
そのころどんな大きさでしたでしょう。
その高い座におつきになられた方々はどなたでしたか」
たとえば風が吹きこむと(二七)
炭があかあかと炎をあげるように、
その光〔の霊〕が わたしの甘えるような言葉にきらめきだすのを わたしは見た。
そのきらめきがわたしの目に いよいよ美しくうつるにつれて、
その声はさらにさわやかで うるわしかったが、
それは今様《いまよう》の話し方ではなかった。
そのひとはいった、「〔天使が〕アヴェといわれた日から〔天使がマリアに受胎を告知した日から、つまりキリストのご降誕の日から。アヴェ Ave とは、「福《さいわい》あれ」、という意味で、天使のあいさつの言葉〕、
いまは福者になっているわしの母親が身ごもられ
重荷になっていたわしを産みおとされた日まで、
この炎〔火星〕は、五百五十と三十回も(三六)
〔黄道の〕獅子座のもとに行き、
その足の下であかあかと燃えつづけていたのだ。
わしの先祖とわしとは、お前の府《まち》の
年毎にやる競技〔競馬大会〕に馬で駆ける者らが
最後の区画《セスト》〔フィレンツェを六区に分けて、西から東に走ったこの競馬の最後の地区。すなわちポルタ・サン・ピエートロ〕に入るそのとば口で生まれたのだ。
これだけ聞けば わしの先祖のことは十分だろう。
それが何といったか、どこからそこへ来たかなどということは、
くどくどいうより黙っているがいいようだ。
そのころマルスと洗礼堂との間で、武芸を競うことのできた人数は(四五)
いま住んでいる者の五分の一だった。
いまではカムピ、チェルタルド、フィッギーネなどの〔近隣の〕町から出た
在方《ざいかた》の者も混ってしまったが、〔当時は〕市民は、
卑しい職人風情までもまだ生粋のフィレンツェ人だった。
わしのいうこれらの手合を隣人にしておいて、
ガルッツォとトレスピアーノあたりで境をつけておいたなら、
公職の売り買いに目を光らせていた
アグリオンやシーニャの田舎者を府に入れたりして、
その悪臭に我慢するより、(五四)
どんなによかったかしれないのだ。
もしこの世でいちばん身分の悪い連中〔教会の関係者〕が、
カエサルに継母のような仕打ちでなく、
自分の子に対する母親のようにやさしかったら、
フィレンツェ人になりすまして、
両替や商売に浮身をやつしている男は、
むかしその男の祖父が物乞いをしに行った
生まれ故郷のセミフォンティ〔フィレンツェに近いヴァル・デルサの村。この村の出身者のリッポ・ヴェリッティを諷刺している〕へ戻ったにちがいない。
そこで、モンテムルロ〔の城〕はまだ伯爵領だっただろうし、(六三)
チェルキ家はまだアコーネの教区に、
ブオンデルモンテ家も グリエーヴェ渓谷地帯にあったにちがいないのだ。
他国人《よそもの》がごたごた入りこむことは、
いつでも府が堕落する原因だった。
それは、こなれもしないのに腹いっぱい食物をつめこむようなものだからな。
同じ盲目でも 牡牛のほうが
小羊よりもさきにまいるもの〔ふくれあがった都市にはおさまりにくい、ということ〕だ。五本の剣より
一本の剣のほうが切れ味のいいことは よくあることだ。
お前がもし ルーニの町、ウルビサリアの町が(七二)
どうして滅び、キウージの町、シニガーリアの町が
いかにしてその後を追ったかを見るなら、
府《まち》さえ絶えることがあるのだもの、
家系がくずれるからといって
お前は事あたらしく驚くこともあるまい。
そもそもお前のもつものは、お前同様に
みな亡びるものだ。ただお前のいのちが短いので
ものによっては永続して お前に見えないだけのことだ。
あたかも月天の回転が 渚にたえまなく汐の干満《みちひき》をさせるように、(八一)
運命の女神はフィオレンツァに盛衰を繰りかえしているのだ。
だから、わしがフィレンツェの名流のことを云々するとしても、
べつにおどろくにはあたらないはずだ。
その家の名は時のなかで忘れられているのだから。
わしは府の名流のウーギ家、カテリーニ家も見たし、
また、旧家としてあんなに栄えていたが、
すでに落目になっているフィリッピ家、グレチ家、
オルマンニ家、アルベリキ家などをわしは見た。
さらに、サンネルラ家、アルカ家一族、(九〇)
またソルダニエーリ家、アルディンギ家、
ボスティーキ家などの名家も見かけた。
あの門〔聖ピエロの〕の上手には、船が沈むほど
すごく重い 新しい背教者を積んでいるが、
それはすぐにフィオレンツァ共和国のわざわいになるだろう。
そこの上手には、ラヴィニャーニ家があったが、
そこからグイード伯爵が出、さらに
名家のベルリンチョーネの名を継ぐ者が出た。
プレッサ家の者はすでに思いどおりに(九九)
〔府を〕支配することを知っていたし、
ガリガイア家の者は自分の館《やかた》に黄金の柄《つか》と鍔《つば》とをもっていた。
ブドウ色の円柱〔の紋所をもつピリ家〕、
サッケッティ家、ジュオキ家、フィファンティ家、バルッチ家、ガルリ家、さらに、
枡目の事件で顔向けのできぬ一門〔塩を市民に売るとき枡目をごまかしたキアラモンテージ家〕は、勢力があった。
カルフッチの出た木の根はすでに盛大だったし、
シツィイとアリグッチは ともに揃って
高官の椅子に据えられていた。
ああ、どうだったかな。わしが見た(一〇八)
自分のたかぶり故にまずいことになったあの連中のこと! それに金色の球〔の家紋〕が、
その偉業でフィレンツェを飾っていたのにな〔名門ランベルティ家のこと〕。
お前たちの教会で〔司教の席が〕あくごとに
立て直しにやってきて 脂ぎっていたその連中の親たち〔ヴィスドミーニ家とトシンギ家〕も
同じように繁昌していたのだ。
逃げる者には竜のしぐさをする横柄なやからは、
歯をのぞかせたり 財布を見せたりする者には、
小羊のように柔和になって、(一一七)
すでに世に出てはいたが、生まれが卑しいので、
ウベルティン・ドナートは、義父が自分を
その縁者にしたことを喜んでいなかった。
カーボンサッコはそのころすでにフィエゾレを出て
市場住まいだったし、ジュダとインファンガートは、
いっぱしの市民|面《づら》をしていた。
わしはここで、信じられないようだが、本当のことを話そう。
それは、人々がペラの家名から名をつけた門から
あの狭い区域へ入りこんだということだ。
トムマーソの祭ごとに、(一二六)
その名と徳が讃えなおされる
大領主のきれいな紋章をもらった者は、たれかれの見さかいなしに、
その領主から騎士の位と特権をさずかったものだが、
当今では、〔金線で〕それの縁《ふち》をかこっている者〔ジャーノ・デラ・ベルラのこと。彼は十三世紀末、庶民の味方をして権門にいどみ、ついに亡命してフランスへのがれた〕だけが、
庶民と〔徒党を〕組んでいるのだ。
グァルテロッティ家も イムポルツーニ家もその盛りはすぎてしまった、
新しい市民〔ブオンデルモンティ家のこと〕がその隣りへ来ることさえなければ、
ボルゴ界隈は まだもっとひっそりしていたにちがいない。
お前らの嘆きを生んだその家は、(一三五)
義憤にかられてお前らを殺《あや》め
お前らの平和な暮らしにとどめを刺すことになったが、
その当座は、一族郎党みな名のある血筋だった。
ああ、ブオンデルモンテよ、〔アミーディ家との〕婚約をやぶって、
ひと〔ドナーティなど〕にそそのかされたのは何とまずい仕儀だったろう。
お前が初めにこの府へ来たとき
おん神がお前をエマの川へ連れていっていたら〔モンテ・ブオーニからフィレンチェへ来るときには、ブオンデルモンテはエマ河を渡らねばならないが、もし神がそのとき、彼を溺れさせていたら、という意〕、
いま泣いている多くの者は 喜んでいたことだろう。
しかし、あの橋を護る石〔マルテの欠けた像〕の前に〔ポンテ・ヴェッキョの橋のたもとにこわれたマルテの像があったが、その前でブオンデルモンテが殺されたので、犠牲を捧げたというのである〕、(一四四)
フィオレンツァ〔の府〕は、最後の平和のうちに
犠牲を捧げねばならなかったのだ。
わしの見るところでは、フィオレンツァは、
それらの家門やそのほかの名門が市民といっしょに
そのようにして暮らしていて、そこには嘆くべき原因もなかったのだ。
またこれらの家門とともに 市民は隆々と正しく
ユリの花〔フィレンツェ市の紋章〕が、
旗竿にさかさに吊るされるようなこともなく〔府の旗が敗戦のときのならわしのように、紋章の旗がさかさに吊られて地を這うことなど、むかしはなかったということ〕
それが分裂して、〔白い〕ユリの花が紅《あけ》に染まることもなかったのだ」〔もともとフィレンツェの旗は、赤地に白いユリの花の紋章だったが、一二五一年にグエルフィ党が覇権を握ると、それを、白地に赤ユリに変えた。世が平穏にいっていれば、そんなこともなかったろうに、ということ〕(一五三)
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第十七歌
ダンテはかねて耳にしていた自分のこれからの運命について、カッチャグイーダに質《たず》ねると、その祖先の魂は、ダンテがやがて経験するであろう追放と流浪の苦しい生活について語り、ヴェローナのカン・グランデが彼のうしろ立てになるだろうことを付け加える。そして、ダンテの幽冥界で見聞したことを、その根まで掘りさげて書いておけと勧める。その蒼茫《そうぼう》とした未来へのおもんぱかりも、火星天での出来事である。
よく世間には父親が子たちに ふれたがらないことがあるものだが、(一)
そのあざけり〔アポロンの子ではあるまいという〕をたしかめに、
〔母親の〕クリュメネーのところへ行った者〔パエトン〕もある。
そのひとのように わたしもいぶかしかったし、
べアトリーチェからも このきよらかな灯《ともしび》からも そのことをそんなふうに感じていた。
それは、その光がまずわたしのために場所を変えたことでもわかるのだ。
すると、マドンナがわたしにいった、
「そなたの火のような願いをそとに出しなさい。
こころに思っていることを すっぱりそとへ押しだすのです。(九)
それは、そなたが話したとて、
あたくしたちの知識がふえるわけのものではありませんが、
そうやって ひとにそなたの渇きをいやしてもらうためです」
「ああ、慕わしいわれらの根〔先祖〕よ、
あなたは、こんなに高く昇天なさったからには、
にんげんの知恵が 三角形の中に二つの鈍角を入れられないことを知ると同じに、
現在、過去、未来を通じてあらわれる
ある一点〔神〕に見入りながら、
あなたは、かりそめのものを それがそのなかに現われる前にご覧になられるのです。(十八)
わたしがウェルギリウス先生のお伴をしていた間、
わたしは魂をいやす山〔煉獄〕へも登りましたし、
死人の世〔地獄〕にも下りてまいりまして、
わたしの将来の生き方について おごそかな声をききました。
それでわたしは、運命の打撃には
たしかに気強さを自覚するようになっております。
ですから、どんな悲運がわたしに迫ってきているかを知ることができましたら、
わたしの望みは満たされることでしょう。
あらかじめ見とおしておいた矢は、とんで来るのが遅いものだからです〔不意に射られたのでなければ、矢もおどろくには当たらない、ということ〕」(二七)
こう、わたしは、はじめに話しかけてきたその光〔カッチャグイーダ〕にいった。
そして、ベアトリーチェが望んだように、
わたしはわたしの願いをぶちまけたのだった。
すると、罪をあがなわれるおん神の小羊〔キリスト〕がおはてになる前に、
すでに囚えられていた うつけた異教の者どもの
もぐもぐいう もつれたいい方〔異教の神託の言葉〕でなくて、
はっきりした 正しい言葉つきで
あの慈愛のふかい わたしの先祖《おおおや》は、
そのほほえましい心の出るのを〔光の中に〕おししずめて こう物語った。(三六)
「かりそめのことは、お前たちの物質の書物〔下界のこの世〕にだけあるものだ。
万物はなべて久遠の眼〔神のこころ〕のなかに映っているからだ。
だからといって、事は〔おん神の予見から〕必ず起こるものではない。
あたかも 流れを下る舟がうつったからとて、
目がそうさせるのではないようなものだ。
それは、オルガンのやさしい楽音が耳に入ってくるように、
お前にふりかかってくる これからの出来事が、
〔おん神の永遠の配慮から〕わしの目にうかんでくるのだ。
あの情《つれ》ない 実《じつ》のない継母のために(四五)
ヒッポリュトスがアテナイから逐《お》われたように〔ヒッポリュトスはテセウスの子だが、継母のパエドラに中傷せられて、父の怒りにふれ、アテナイを追われた〕、
お前も そのようにして
フィオレンツァから逐い立てられることになる。
それを望み すでにその手段《てだて》を考えていた者は〔法王ボニファキウス八世とその一味〕、
日に日にキリストを商《あきない》に出しているところ〔ローマ〕で
すぐさま実行にうつすだろう。
逐われた党〔ビアンキ党〕が
罪呼ばわりをされることは世の慣いだが、
おん神の復讐は、刑罰を分かち与える者の真理の証《あかし》をするだろう。〔神罰がやがてまことの罪ある者に下り、敗者の汚名もそそがれる、ということ〕(五四)
お前は、いとも愛惜する いとおしいものを捨てることになるだろうが、
これこそ 追放の弓のはなつ初矢なのだ。
お前はそうして、他人のパン〔の味〕がどんなに辛《から》いか、
他人の階段《きだはし》のあがり下りが、
どんなにつらいかを さとり知ることになるだろう。
それに、お前の肩におもおもしくのしかかる者〔ビアンキ(白党)の人たち〕は、
お前ともどもに その〔みじめな〕渓谷へ墜ちこむ
心ざまの悪い 愚かなお前の仲間〔追放された白党は、黒党に対して戦いを挑み再挙を計ろうとしたが、一三〇四年のラストラの戦いの前に、ダンテはその党の首領たちと袂を分かっていた〕にちがいない。
みんな恩知らずで 気がふれていて むごい奴らで お前にさからって事を起こすだろう〔ダンテの反対を押しきって黒党に戦いをいどむこと。事実、戦いには敗れて、フィレンツェへ帰ることも絶望となった〕が、(六三)
やがて遠からず そいつらは顔を赤らめるようになるだろう。
お前のことではない。
そいつらの けもののような性根は、
その所業を見れば明らかだ。
だから、お前は自分で党をつくるほうがよさそうだ。
お前の最初のさすらいの地、
第一の宿《やど》りは、
あの階段《きだはし》の上に聖鳥〔ローマ帝国の鷲〕をかかげている〔ダンテのパトロンの、ロンバルディアのバルトロメオ・デラ・スカラ家の紋章〕
ロンバルドの大君の情《なさけ》にすがることになるだろう。(七二)
その大君はきっとお前に温かいおもんぱかりをしてくれるだろう。
お前たち二人の間では、施すことも求めることも、
他人となら後まわしにすることでも たちどころに運ぶにちがいない。
その大君のそばに お前は目に立つ者〔カン・グランデ〕を見るだろう。
あのマルテ〔火星〕の星の下に生まれただけあって
その勲功は赫々たる者だ。
その者はまだおさなくて、諸天がその者をめぐったのも
ほんの九年にしかならないので、
世間ではその者のことをまだ知らないのだ。(八一)
しかし、ガスコーニュの漢《おとこ》〔法王クレメンス五世のこと。彼はハインリッヒ七世をイタリアへ迎えながら、あとでは敵視した〕が
高貴なアルリゴ七世〔ルクセンブルクの皇帝ハインリッヒ七世のこと。イタリアではアルリゴ七世という。その政治力によって、フィレンツェも法王派を追放し、イタリアで神聖ローマ帝国の理想を実現しようとしたダンテの希望も、陣中で彼が急死したので果たせなかった〕をたぶらかす前に、
その者の徳は、銀をも労苦をも気にかけないことで 世にかがやくだろう。
その者の偉大なことは
ふたたび知られることだろうし、
仇敵でさえ その者のことには口をとじていられないだろう。
お前はその者の恩恵を待つがいい。
その者のおかげで 貧富の条件が変わって、
多くの人は その所を変えるだろう。(九〇)
その者のことを お前は胸にきざんでおくのだぞ。だが、ひとにはいわぬことだ」
その霊は、そのようにいい、やがてはこの目で見ることがあっても、
信じられないようなことをいってから、
さらに続けた、「わしの子よ、これがいつかお前が聞いたこと〔ダンテが地獄や煉獄で聞いたこと〕についてのわしの説明だ。
世の中では 年が二回か三回めぐるあとまで、
罠《わな》がそっと仕掛けられることがある。だからといって、お前は隣人〔同郷の人を指す〕を妬むでないぞ。
お前の生命〔美名は〕は、それらの不実な刑罰よりも
はるかに遠い未来に生きのびるはずだからだ」(九九)
それから、このきよらかな霊は、黙ってしまったが、
そのことは、わたしが経糸《たていと》を張って織ったこの布に、
緯糸《よこいと》をとおして仕上がったこと〔質問に対する返答がすんだ、ということ〕を示していた。
わたしは、あたかも疑惑をもちながらも、
正しく見て 望み かつ愛するそのひとの意見を
渇望するかのように いいはじめた、
「わたしの父上、時が一撃をくれようとして
わたしに向かって来るのがよく見えます。
それは気おちした者にはすごく重荷です。(一〇八)
ですから、わたしはあらかじめ見透しを立てて身を守るのがいいと思います。
わたしはわたしの最愛の地〔フィレンツェ〕を奪われることがあっても、
せめて自分の歌のためにも、ほかの地〔流寓する所〕までは失いたくないのです。
あの涯《はてし》ない苦しみの世界へ下り、
わたしの淑女《あてびと》のお目が わたしを引きあげてくださった
あの山のうつくしい巓《いただき》へ、
そのあと、星から星へと天上を昇って
わたしの悟り得たことを、わたしがふたたびいうと、
世の多くの人には さだめしひどく苦《にが》いものになるでしよう。(一一七)
わたしが真実をいうことをためらいでもすると、
いまを昔と呼ぶ〔あとから来る〕ひとに
名を失うことをわたしは惧《おそ》れているのです」
そこで、ほほえむと見えたわたしの黄玉〔カッチャグイーダ〕を包んでいる光芒は、
はじめよりも さらにきらきらして、
日光にかがやく黄金の鏡のようになった。
それから言葉が返ってきた、「自分のせいであれ 他人のせいであれ、
何かうしろめたいことで曇っているこころには、
お前の言葉はきっときびしいにちがいない。(一二六)
たとえそうだとしても、お前はいっさいの虚像を捨てて、
お前の目にしたことをすっかりいうがいい。
そして、瘡《かさ》のできたところは勝手に掻《か》かすことだ。
お前のその言葉は、初手《しょて》には味が悪かろうが、
こなれてくると、そのあとでは
いのちの糧《かて》を身内にのこすだろうからだ。
このお前の叫び声は、木の梢が高ければ高いほど
強くあたる風のようなもの〔お前の非難は、相手が高位高官にあれば、ますます烈しく責めるべきだ。それは峰が高ければ、風あたりが強くなるのと同じことだ、の意〕だ。
なんで 論ずるにあたらぬ誉れなんかだろう。(一三五)
だからこそ、この天をめぐる間でも、
〔浄罪の〕山でも、またおどろしい嶽谷《たに》でも、
お前に示されていたのは いつもほまれの高い霊だけだった。
そのわけは、そこに出でくる霊たちが、
その氏《うじ》もわからず だれも知らぬような例では、
聞いても納得がゆかぬし、
信用もおけないからなのだ」(一四二)
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第十八歌
この火星天には、名だたる騎士や十字軍の勇士たちの魂が光芒を放っている。カッチャグイーダが、それぞれの魂の名を呼ぶと、その光の魂は十字架に沿って走っている。その光の天のなかを、ダンテはベアトリーチェとともに、第六の天である木星天へ昇っていく。そこには生前に正義を愛した魂がいて、天空に文字の形をつくって、荘厳な聖句を描く。やがて、その句の一つの文字がユリの花の形になり、鷲の形になってかがやく。神の国の具象である。そのおごそかな神々しい雰囲気のなかで、ダンテは地上の教会の腐敗を思いだして、正義を捨てて貪欲にふける法王を辛辣に非難する。
おん神に幸《さち》あわれたその霊〔カッチャグイーダの魂〕は、(一)
ひとりで想いにひたってよろこんでいたし、
わたしはわたしで つらいこと愉しいことに想いをはせていた。〔ダンテは追放されると予言されて、そのあとに来る運命のすばらしさに、つらいような愉しいような複雑な気持になっていた、の意〕
と、わたしをおん神にみちびいていたその淑女《あてびと》がいった、「ほかへ気をうつしなさい。
あらゆる不義をおつぐないになるお方〔神〕のそばに
あたくしがいることを考えなさい」
わたしはわたしの慰めであるこのひとの
愛らしい声音《こわね》にふり向いたが、
そのときのきよらかな目のうちに どんな愛を見たかは ここではふれまい。(九)
それは言葉が不確かだからというだけでなく、
おん神のおみちびきでもなければ、
考えるとしても そのことを十分に思い描くことができないからだ。
その刹那のことで わたしにいえることは、
そのひとをみつめていると、
わたしの想いが ほかのいっさいの願いからとき放されたということだ。
それは、永遠の愉悦《よろこび》〔浄らかな神の光〕がベアトリーチェに照りかがやいて、
そのうつくしい眼《まなこ》から さらにあたらしい光〔神の光を反映した光。ダンテは神の光を直接見たのではなく、ベアトリーチェの目に反映した光を通じて、神の光を見たのである〕となって
わたしをよろこばせていたからだ。(十八)
そのひとは、微笑《ほほえみ》からほとばしり出るあたらしい光でわたしを動揺《ゆさ》ぶってから こういった、
「あの者〔カッチャグイーダ〕に目をうつして、そのいうことを聞きなさい。
天国はあたくしの目のなかばかりではないのですよ」
愛の想いは 地上でもときどき目に出るものだが、
その想いが強ければ、
こころはすべて愛に奪われるものだ。
そのように、わたしがふり返ったとき、
きよらかな稲妻のかがやくなかに、
わたしとなおも話したいというその霊の想いをわたしは見てとった。(二七)
カッチャグイーダは話しはじめた、「この梢によって生き〔下界の樹木は根から養分をとるが、天上の樹木は梢からそれをとる〕、
四季を問わずに実を結び 葉をおとすこともない
この樹〔天国〕ともいえる第五の閾《しきい》〔第五天〕にいる霊たちは、
おん神に祝福されているが、
天上に来る前には 地上では名のひびいた武人《つわもの》だった。
だから、詩の神々が詩材に困るはずはないのだ。
そら、見てみよ、あの十字架の角《つの》〔腕木〕を。
わしが名を呼ぶ魂が
雲のなかでまるで稲妻のように動いているだろう」(三六)
ヨシュア〔モーゼについでユダヤ民族を率いた指導者〕と 名が呼ばれると見る間に、一条の光が 十字架の方へいくのをわたしは見たが、
名を呼ばれるや否や 光はうごいていて、
その動きと その声のきこえてくるのとは間髪も入れぬほどだった。
それから、マカベウス尊者〔ユダス・マカベウスのこと。彼はユダヤ人の自由のためにシリアの暴君と争った〕 と声がかかると、
もう一つの光が くるくる回ってうごいているのが見えた。
それは嬉々として 独楽《こま》をたたいて回らせる鞭だった。
同じように、シャルル・マーニュ〔シャルル・マーニュは、当時ではキリスト教を護る大将軍だった。自分の部下を改宗させたり修道院を復興させたり、アルクィノスを招いて、無知な僧侶のためにギリシア古典の写本を探させたり、古典復興の学院をおこしたり、ルネサンスにさきだって文化的な基盤をヨーロッパにおいた〕とか ローラン〔シャルル・マーニュ麾下の勇将〕とかという声には、
わたしのするどい眼眸《まなざし》が その二つ〔の光〕のあとを追ったが、
まるで〔鷹匠の〕目が鷹のとぶのを追っかけるようだった。(四五)
それにつづいて、ギヨームやルヌアール〔ともにシャルル・マーニュの部下〕、
それから 侯爵ゴッドフロワ〔第一次十字軍の将軍〕、ロベール・ギスカール〔南イタリアの君主としてサラセン人と戦った将軍〕などと聞くたびに、
わたしは目を その十字架の方へうつしていた。
そのうちに、そこでわたしと話していたその霊〔カッチャグイーダ〕も、
うごきだして、ほかの光とまざり合ってしまって、
それらの天上の楽人のなかで どんなにすぐれた唄い手かということを示していた。
わたしは右の方をふり向いた。
わたしのすべきことを 言葉なり仕草なりで
ベアトリーチェから読みとるためだ。(五四)
彼女の目はすごく涼しく さらにたのしげで、
その表情はついさきほどにもまして
あかるくなっている〔ベアトリーチェの目のかがやきが一段と冴えたのは、それだけ天上へ昇ってきたことを暗示している〕のを わたしは見てとった。
それはあたかも 善行を積むことによって
ひとが日に日によろこびの深まることを覚えるようなもので、
彼女の徳がさらに高まることに気がついた。
それと同時に、わたしが天上をめぐることで、
この奇蹟〔ベアトリーチェ〕が一段とうつくしくなるのを見るにつけ、
この天の弧《こ》〔木星天は火星天より大きいから〕がひときわ大きくなったことに気がついた。(六三)
顔いろの白い女のひとは、
羞《はじ》らいの荷をおろすと その顔〔の赤らんだ色〕が
つかの間に変わるものだが、
わたしがふり向いたそのときに わたしの目のなかにあったのは、
わたしをもそのなかに包みこんでくれた
第六天〔木星天〕の〔しらじらと色変わりした〕なごやかな星の光だった。
その木星天のただなかで、そこにあった
おん神の愛のこころが きらめいているのが見えたが、
そのきらめきは、わたしたちの文字のかたちを目のなかにあらわしていた。(七二)
そしてあたかも 鶴の群が 河辺をとび立って、
餌を見つけると楽しげに 円くなったり
群をつくったりするように、
〔そこの〕きよらかな聖者たちは、その光芒のなかで
Dになり Iになり Lになって〔DILというのは「地を審判く者たちよ、正義を愛せよ」という文句をラテン語で構成する最初の語の略字〕、翔びながら
その形になって 歌をうたっていた。
その群は はじめこそ その調べに合わせて歌っていたが、
やがて それが一つの文字の形になると、
しばらく たちどまって 歌をやめていた。(八一)
ああ、あらたかな天上の九人の|詩の神々《ベガーセエ》よ、
あなた方は詩の才にかがやきをお与えになって末ながく名をとどめ、
さらに、それらはあなた方とともに 都や国の名をとこしえになさるのですよ。
そのように どうかわたしを あなた方のお手でかがやかしてください。
わたしが心にとめるように それらの姿を浮彫りにできるよう、
あなた方のお力を この短い歌の中にもおあらわしください!
すると、それら〔の光〕は、七の五倍〔三十五〕の母音や子音をもつ文字となってあらわれた。
それをわたしは、その一字一語があらわれるままに読みとめていた。
わけても、その光の文字はわたしに話しかけでもするように(九〇)
|Diligite iustitiam《ディリーギテ・イウスティティアム》〔正義を愛せよ〕という
動詞と名詞とからはじまっていた。
そして結びは、|Qui iudicatis terram《クイ・イウディカーティス・テルラム》〔地を審裁《さば》く者たち〕であった。
やがて、五番目の言葉の〔終わりの〕Mまでで、
その句は並んだままで切れてしまったが、
そのMのところで、銀いろの木星が 金色に埋められたように見えた。
そして見ているうちに、別の光がMの頭にあたるところへ下りてくると、
そこでぴたりと停《とど》まって 歌をうたった。
それは、それら〔の光〕をご自身の方へお動かしになるおん神にちがいないのだ。(九九)
それからは、あたかも火のついた切株をたたきつけると、
かぞえきれぬ火花がとびあがるものだが、
そのように、迷信家はそれで占いをする慣《なら》わしだが、
そのMの頭から 千にあまる光がとび出して、
太陽〔神〕のお定めにしたがって輝いて、
たかく 低く とびあがるのが見えた。
その光明がそれぞれ そのあるべきところに落ちつくと、
神の鳥〔鷲〕の頭と首とが そのひときわ鮮かな〔金色の〕炎となって
あらわれるのが見えた。(一〇八)
そもそも そこで描《えが》く者〔神〕には 手をとってくれる師などいないのだ。
しかしおん神は ご自分でご自分をおみちびきになり、
ご自分から 鳥たちの巣づくりする力を お生みだしになられるのだ。
ほかの幸あわれた霊たちは、
はじめのM字がユリの花の形になるのに満足していたが、
ほんのすこし動くかと見ると、それは〔鷲の〕徴《しるし》になってしまった。
ああ、うつくしい木星よ、どんなに多くの
祝福されたかがやく魂を わたしたちにお示しくださったことでしょう。
地上の正義は あなたが珠玉をちりばめたこの天から来るものです〔地上の正義は、木星天の地上に対する影響できまるものだということを、そこに多くの魂が集まっていることで示している〕!(一一七)
だから、わたしは、あなたの動きと あなたのお力の源となる
おん神の御心に お願いをするのです、
あなたの光を曇らせる煙の立つところ〔ローマの法王庁〕を お見そなわしくださることを。
奇蹟と殉教の力で築きあげた聖堂のなかで
〔おん神の〕売買の行なわれているいまこそ、
もう一度 おん神の怒りを下したまわりますように。
ああ、天上のつわもの〔霊〕たち。わたしは心して見あげております。
〔教会の牧者の〕悪い手本にならって
道をふみはずした地上の人たちのために お祈りください。(一二六)
むかしは剣をとって戦いをおこしたものですが、
いまでは慈《いつく》しみぶかいおん父が だれにでもお拒みにならぬパン〔霊の糧のこと。つまり、それは神恩である。教会がそれを与えることを拒むことは破門すること〕を
ときにはここ、ときにはかしこから お奪いになってお戦いになるのです。
だが、〔懲罰を〕取り消す下心で 断罪の印を捺す〔ローマの牧者の〕お前よ。
考えてみるがいい、荒れはてたブドウ畑〔教会〕のためにおはてなさった
ピエートロさま パウロさまが、まだ〔天上で〕生きておいでになることを。
むろん、お前は大口《おおぐち》もたたけるよ、
「わしは、本当はな、ひとり暮らしがお好きで、
踊りのご褒美に殉教なさったお方〔聖ヨハネ〕に 願《がん》をかけておるもんで〔洗礼者ヨハネは、ヘロディアスの女の踊りのために殉教の死をとげたが、ここでは、聖ヨハネをからかい気味に皮肉に扱っている。つまり、フィレンツェで鋳造した金貨にはその府の守護の聖者として聖ヨハネの像を打ち出してあったので、それに願をかけるというのは、拝金主義の聖職者ということを意味している〕、
漁人《いさりびと》〔聖ピエートロのこと。彼はもとガラリア湖の漁夫だったから〕とか≪ポーロ≫とかいう御仁《ごじん》はとんと知り申さぬでな」と。〔ポーロは聖パウロのこと。パウロをポーロと訛って発音してるだけに、その信心のほどが知れる、というダンテの表現上の技巧〕(一三六)
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第十九歌
鷲のかたちをしているのは、多くの魂の光だが、その声はひとりの魂のそれのように一つである。ダンテはかねてから、キリスト教の信仰をもっていない者で、正しく生きている者が救われるかどうかについて不審をもっていたので、その疑問を鷲にただした。そのことで、鷲は、神の正義については人間の知恵の及ばぬところがあるといって、その測りしれぬ深い意味を説ききかせる。それにつれて、その鷲は諸国の王の不正不義をあげてつぎつぎに非難する。この木星天での問答は、まさしく地上的な倫理と天上の倫理との隔たりを、はっきり指摘していると思われる。
うつくしい物影〔鷲〕が、翼をひろげて わたしの前にあらわれた、(一)
きよらかな愉悦《よろこび》のなかで
その魂たちはたのしそうに からみ合っていた。
その光はそれぞれに
燃えさかる太陽の光にかがやいて、
ルビーさながらに わたしの目に照りかえっているかと思われた。
今の今、わたしが物語ることになったこのことは、
いままで声となってとどいたこともなければ、墨で書かれたこともなく、
夢の中にも入ってきたこともなかったことだ。(九)
わたしはその〔鷲の〕嘴《くちばし》が物をいうのを この目で見、耳にきいたが、
「われわれ」「われわれの」という意味のとき、
「わし」「わしの」という声にきいた。
その鷲は口を切った、「正しく憐《あわれ》みをかけることで、
わしは、にんげんの望みとしては至り得ないこの栄光のここにまで
昇ってきているのだ。
わしはそうした想いを地上にのこしてきたが、
そこのよこしまな人間どもは それを責めそやしはするが、
いっこうにわしの手本にならおうとはしない〔地上の邪悪なひとでさえ、鷲のした業をほめるが、けっしてそれを真似ようとはしないのだ、の意〕のだ」(十八)
炭がどっさり熾《おこ》っていても 熱は一つしか感じられないものだが、
そのように この多くの愛〔の霊〕たちは、
この〔鷲の〕面影の声しか出さなかった。
そこで、わたしはすぐに応《かえ》した、「ああ、永遠のよろこびをもつ とこしえの花々よ。
あなた方のもろもろの香《かお》り〔聖者たちを花にたとえたので、鷲の言葉は香りにあたる〕がただ一つになったように
わたしには感じられます。
どうぞお教えください、ながいこと饑《ひも》じさのつづいていた
わたしの大きな飢え〔知識をもとめるこころ〕を お解きください。
地上ではその飢をみたす食べものがちっとも見当たりませんので。(二七)
天上でおん神の正義が ほかの王国にも鏡となってうつるものでしたら、
あなた方の王国でも 帳《とばり》でさえぎられないことは
わたしもよく承知しております。
おわかりいただきたいことは、わたしがどんなにそれをお聞きしたいと思って
耳をそば立てているかということです。
かつてわたしを飢えさせた疑いが どんなものかということです」
あたかも、鷹が 目かくしされた皮袋〔狩場へ行くまで、鷲が騒がぬよう頭にかぶせる革製の頭布〕をとられると、
頭をうごかし 翼をばたばたさせて、
気負ったところを見せようとするように、(三六)
おん神の恩寵を讃える〔こころからなる〕この鷲のかたち〔ローマ帝国の旗印〕が、
天上でたのしむ人にしかわからぬ
この歌をうたわせているのを わたしは見た。
そして、〔鷲は〕いいはじめた、「宇宙の涯まで
円規《コンパス》をおまわしになって、
そのなかへ 目に見えるものと見えぬものとをたくさんお分けになられたおん神は、
そのお言葉が無限にすぐれたものとして残るほどには
おん神の力を宇宙の隅々にまで
刻印させることはおできにならなかったのだ。(四五)
その証拠に おん神の創られたもののなかでも最高のものだった
あの最初のたかぶった者〔堕天使ルチフェルロ〕が、〔おん神の〕光も待たずに
容赦もなく墜とされたではないか。
だから、それにも劣る人間が、
自分〔の尺度〕で自分を量ろうとしても
無限の善〔神〕を理解する力のとぼしいことは自明のことだ。
そこで、お前たち〔人間〕の眼力《がんりき》というものも、
なべてのものにみなぎっている
おん神の そこばくの光にしかすぎないのだ。(五四)
〔その目も〕性質からいって、そんなに強くはあり得ないのだから、
その光の源を、自分に見えるものから
はるかに遠いところで見分けるわけにはいかないのだ。
その故に、お前たちの世が〔おん神の賜物として〕うける眼力は、
久遠〔神〕の正義のなかでは
海と目との関係のようなものだ。
岸からなら底の見えることはたしかだが、
沖合に出ると 見えないのだ。だが、底がないのではなくて、
深いから海底が隠れて見えないだけのことだ。(六三)
翳《かげり》ひとつない晴朗なもの〔神〕から来るのでなければ、
〔われわれ人間には〕真の光はないのだ。
あるとすれば、闇黒《やみ》か ししむらの影か こころの毒かだ。
よいか。いまこそ いきいきした正義をお前から隠していた
隠れ家があけられたのだぞ。
お前がしょっちゅう自問していたその正義のことだ。
というのは、お前もいっていたね。かりに一人の人間が
インドの河岸〔遠い異教の国ということ〕に生まれたとして、そこにはキリストのことを語るひともおらず、
そのことを読むひとも 書くひとも いない場合、(七二)
そのひとの望むこと 行なうことが
すべて善良で、人の道から見ても
そのひとの言行に罪がないとしたら、
洗礼もうけず 信仰をもたないまま身がはてることがあっても、
そのひとを罰する正義はどこにあるだろう。
そのひとがよし信仰に入らなかったとしても その咎《とが》はどこにあるのか、と。
はてさて、お前はいったいだれなのか。
一スパンナ〔掌〕しか見えない目で一千マイルさきのことまで裁く気らしいが。
さては、お前は判官の座にすわろうとでもいうのか。(八一)
わしと問題を追求していこうとするからには、
もしお前の上から 聖書がみちびくのでもないかぎり、
疑いがおどろくほど出ることはたしかだ。
ああ 地上のけもののような人間よ、おろかな心よ、
もともと善良な第一の〔おん神の〕ご意志は、
それだけに揺るぎのない至高の善だ。
それがお前の心にひびくかぎり正しいのだ。
自分にそれを引きつけるから善が創られるのではない、
おん神の光がかがやくので その者の善の起こりになるのだ」(九〇)
鸛《こうのとり》は雛に餌をやると 巣の上でふり向くが、
餌にありついた雛たちは
親鳥を見あげるものだが、
その雛のように わたしも目を見あげた。
おん神に祝福《さちわ》われたその徴《しるし》〔鷲〕は、
おおぜいの魂の想いにうながされて翼をうごかした。
そして歌いながらまわっていうのだった、「わしがお前に歌うこの調べが
お前には解《げ》せないように、
この永遠のおん神の裁きは 生き身のお前には不可解だろう」(九九)
〔愛に〕あかあかと燃えさかるそれらの聖霊が、
ローマ人を世界にうやまわせたあの鷲の形のなかで
ひっそりと回るのをやめると、ふたたびいいだした、
「キリストを信じない者は 一人だって
この天国へ昇ったためしはないのだ。
それは、主が十字架におつきになられた前でも後でも そうなのだ。
だが 知るがいい。おおぜいで、キリスト、キリストと叫んでいるが、
最後の審判〔の日〕に、主のそばにいるのは、
キリストを知らない者より はるかにすくないだろう ということを。(一〇八)
ついでにいえば、こういう名ばかりのキリスト信者を、
それらが 永遠に富む者と貧しい者との二つに分かれるとき、
エチオピア人〔異教徒〕は その手合いを罪におとすにちがいない。
その手合いの悪行を洗いざらい書きしるした
あの罪科簿が拡《ひろ》げっぱなしなのを見ることでもあれば、
ペルシア人〔異教徒〕は お前たちキリスト教の王どもを 何と呼ぶだろう。
その書物のアルベルヒト〔皇帝アルブレヒト一世のこと。一三〇四年、ボヘミアを略奪した〕のくだりでは、
プラハ王国〔ボヘミア〕を荒廃させた侵入のことが見られるだろう。
そのことはおん神が筆をいちはやくお動かしになったことだ。(一一七)
またその書物には、野猪のひと突きで命をおとすあの漢子《おとこ》〔フランス王フィリップ四世のこと〕が、
贋金つくりがもとで
セーヌ河畔〔パリ〕にまき起こした苦しみのことも見られるだろう。
そこにはさらに、スコットランド人とイングランド人を狂わせて〔領土拡張の欲に狂って、ということ〕
その領内にいることができないようにした
たかぶりの事も見られるし、
それに、スペイン王〔カスティリアの王フェルナンド四世のこと〕の生きの苦しみや ボヘミアの
徳を知らず もとめもしない王〔ヴェンチェスラウス四世〕の
みだらな楽しみも 見えるだろう。(一二六)
エルサレムの跛者《あしなえ》〔アプリアの王カルロ二世〕には、その善行が
I〔神の書のなかでは、このカルロ二世に点をつけると、善行はIすなわち一で、その反対に悪行はMすなわち一〇〇〇と記されてあるようなものだ、とのこと〕で記され、その反対の悪がMで記されていることも
見えるにちがいないのだ。
さらには、アンキセス〔アエネアスの父〕がその長命をおえた
火の島を治めた者〔シチリア王フェデリゴ二世のこと〕の
貪欲と卑劣さも見えるだろう。
さらに、その心事のいやしさをさとらせるため、
その記事は、わずかな頁にどっさり入れようとして
略字を使って詰めこんであるはずだ。(一三五)
またあのすぐれた家柄と二つの王冠に泥を塗った
伯父と兄弟のけがれた所業は、
だれの目にも明らかなことだ。
そればかりではない、ポルトガル王〔ディオニシオ王〕のこと、ノルウェー王〔ハーコン七世〕のことも、
おまけに、ヴェネツィアの銀貨を見て魔がさした
〔セルビアの〕ラシア王〔ステファノ・ウーロス二世のこと。彼はヴェネツィアの貨幣を見て、それに真似て悪貨を贋造して汚名をのこした〕のことなども ご同様だ。
ああ、これ以上ひどい目にあわされなければ、
ハンガリアは福《さいわい》〔ハンガリーの王アンドレア三世はほかの王に比べれば善政をしいたので、虐政を重ねずにすめば人民は幸福だ、というほどの意〕だし、周囲の山の守りを固めれば
ナヴァールの国〔ピレネー山脈で防備を固めてフランスの侵入を防げれば、これも幸福だ、というのである〕も安穏だ!(一四四)
この自守不可侵を担保にはしたが、〔キプロスの〕
ニコーシアとファマゴースタ〔の町〕は、
はやも そのけもの〔アンリ二世〕に荒されてなげき喚いている。
そんな契約をしても、そいつがよその獣のそばから退《の》かないことは だれもが信じていることだ」(一四八)
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第二十歌
舞台はやはり木星天である。光の鷲の目にあたるところの、ひときわ輝きの強い魂たちのことを、鷲が声をたかめて説明する。それは、ダヴィデ、トラヤヌス、ヒゼキア、コンスタンティヌス、シチリアの王グリエルモ二世、トロイア人のリペウスなどの篤信《とくしん》の魂たちである。ダンテは、未信者のはずのトロイア人のリペウスが、天の倫理からなぜ天上に来られたかと疑うと、それについて鷲はつぶさに説明する。要するに、おん神の天意をそんたくするのは人間の不遜だという結論になるわけだ。
世界をあまねく照らす太陽が、(一)
わたしたちのこの半球からたそがれて、
昼の光がどこからも消えていくと、
それまでたった一つのもの〔太陽〕でかがやいていた大空は、
たちどころに その一つの光〔太陽の光〕を照りかえす
数しれぬ光〔星〕となって きらめいて現われた。
そうした天上の動きは、世界とその導者の徴《しるし》〔鷲〕が、
おん神の恵みをうけた嘴《くちばし》〔聖者の魂がかたちづくっている鷲の頭のくちばしの部分〕のなかで黙《もだ》したときに、
わたしの心のなかにうかんで来るのだった。(九)
それは、それらのいきいきした光が、
さらに一段とかがやきだして、わたしの記憶から消えがちの、
想いにもとどめがたい声で 歌いはじめたからだ。
ああ ほほえみで身づくろうおん神のやさしい愛のこころよ、
きよらかな想いばかりで息吹いているあの横笛のなかで
あなたはどんなにほてっておいででしょう!
そこで、第六天〔木星天〕の星々は と見ると、
そこに鏤《ちりば》められた貴い宝玉はきらきらして
天使のような高い声音《こわね》をおし鎮めていた。(十八)
聞こえるものは、石から石へ伝っておちる
せせらぎの つぶやきのようなもので、
それは、その源の水量《みずかさ》の多いことを示していた。
たとえば琵琶《チェトラ》の頸《くび》が、〔楽音〕の調べを出したり、
風笛の孔に風をとおして
抑揚をつけたりするように、
その鷲のささやきは、待つほどもなく、
空洞ででもあるかのようなその頸から
上天へとのぼっていった。(二七)
ここで声になり、そこで言葉として
出てくるものは、わたしがそれを書きとどめる
こころの 待ちうけたものだった〔ダンテは鷲が物をいうのを待ちかねていたので、その声が出てくると心に銘記された、との意〕。
そこで、その鷲はわたしにいうのだ、
「わしの場合では、物を見るところ〔目〕、
生き身の鷲では陽の光をうけるところ〔目〕を、じっくり見るがいい。
この〔鷲の〕形となっている炎のなかでも、
頭の方で目となって光っているものは、
すべてのもののなかでの最上の霊だからだ。(三六)
そのまん中の瞳となって光っているものは、
もとは聖霊の歌い手だった者〔イスラエルの王ダヴィデ。神の霊感をうけて歌ったので、そういうのだ〕だ。
邑から邑へと櫃《はこ》を搬びうつした者だ。
いまではその歌の功徳《くどく》を彼はさとっている、
それが自分の発意でしたことだったから
その酬《むく》われ方はそれだけ大きいのだ。
わしの眉毛で弓なりにならんでいる五つの光のうち、
嘴にいちばん近いのが
子を死なせた寡婦《やもめ》をなぐさめた男〔トラヤヌス皇帝〕だ。(四五)
このうるわしい世〔天〕と それとは逆の世〔地獄〕との
経験から キリストにしたがわぬことが
どんなに高い償いにあたるかを いま思い知らされているのだ。
弓なりの眉毛の わしが話しているその上側で
その男の隣りにいるのは、
こころからの悔悟で 死ぬのを延ばしてもらった者〔ユダヤの王ヒゼキア〕だ。
だが、この世で 今日のことを 祈りで
明日のことに変えたとしても〔死期をのばしてもらうこと〕、
永遠の〔天の〕審判では変わりのないことをいまさとっている。(五四)
もう一人は、善意から 鷲〔の徴〕とともに法典をもって
法王に〔ローマを〕譲るためにギリシア人になった者〔コンスタンティヌス帝〕だが、
その結果はまずいことになった。
しかし いまでは、よしんば世界が破滅することになったとしても、
善行が引きおこした悪い結果なら
彼の咎《とが》ではないことを知っている。
〔ダンテは、コンスタンティヌス帝がローマからビザンティウムへ遷都したことと、教会に富を譲ったこととは、あながちキリスト教にとっていい結果にはならなかったし、ローマ帝国の衰退する一因にもなったと思っていたらしい。そのように人類に不幸を招きはしたが、善意の宗教的な喜捨とも考えられるので、帝の魂が天国へ昇る妨げにはならなかった、ということ〕
弓の眉毛の下がるあたりで 光っているのはグリエルモ〔シチリアとプーリアの王のグリエルモ二世〕だ。
シャルル〔プーリア王シャルル二世〕やフェデリゴ〔シチリア王フェデリゴ二世〕の生前には泣かされどおしたその土地〔シチリア〕が、
グリエルモを悼んで泣いているが、(六三)
天が正しい王をどんなに愛しているかを
彼もいまではさとっている。
しかもそのきらきらする顔かたちが そのことをいまにひとに知らせている。
だが、不信の下界では だれが信じるだろう〔異教徒が救いをうけて天国に入るのだから、信じよといっても無理なことだ〕、
トロイアのリペウス〔トロイアの勇士〕が この眉毛にいて、
しかも五番目のきよらかな光になっていようとは。
いまこそ 彼はおん神の恩寵によって
この世で〔ひとの〕見られないことをよく知っているが、
彼の眼力《がんりき》ではその底までは見分けられぬこともたしかだ」(七二)
あたかも空にかけのぼる雲雀が、はじめは歌っているが、
やがて最後には なごやかな調べに
歌うのぞみを満足させて おし黙《だま》るように、
その願いに もろもろのものが いまあるように
永遠のよろこび〔神のこころ〕が刻みこまれたその〔鷲の〕かたちも、
それと同じようになったかと思われた。
わたしが〔心に抱いていた〕その疑いは、
ガラスごしに見る物の色のようになってきて、
だまって〔返事の来るのを〕待つ間がもてなくなって、(八一)
「いったい それ〔天のトラヤヌスとリペウスのうけ入れ方〕は何ということですか」と、
わたしは力《りき》んで口から重々しく押しだした。
〔その霊たちがそれをよろこんで〕きらきらと大騒ぎするのを見たからだ。
やがて、おん神から恵まれたその徴《しるし》〔鷲〕は、
あかあかと燃えさかる目をさらにかがやかせて
わたしをいつまでも呆気《あっけ》にとらせまいとして 答えてくれた。
「そのことは わしがいったから
お前は信じているようだが、それがどうしてだか その理由はわかっていまい。
それが信じられたとしても 〔実体は〕隠されていることはたしかだからだ。(九〇)
お前は、ものを名目《めいもく》によってかなり掴んでいるようだが、
お前の疑いは、ほかの者があかしてくれないかぎり、
つかめない人のようなことをやっている。
天の王国は、〔人間の〕燃えるような愛といきいきした希望には
一歩お譲りになることがある〔人間の強い欲求をうけると、そのときには熱意と愛が神のこころにうち克つこともある、という意〕。
それらはおん神のご意志にさえ打ち克つものだからだ。
だが、それは人間が人間を負かすようなものではなく、
おん神がお譲りになろうと望まれるからなのだ。
おん神は、お譲りになられたあとで、仁慈《いつくしみ》によってお克ちになるのだ。(九九)
お前は、〔鷲の〕眉毛のかたちのなかの
一番目の魂〔トラヤヌス帝〕と五番目の魂〔リペウス〕とが 天使たちの手で
天のなかでかがやいているのを見て おどろいているが、
彼らの魂はお前の考えているように〔未信者が〕悔悟してその肉から出てきたのではない。
いや、信仰の堅いキリスト者としてだったのだ。
ひとり〔リペウス〕は、主を足の痛みをうける者〔いつかはキリストが十字架につけられて、その足を釘うたれて痛むことを、すなわちキリストの受難を信じていた〕として もうひとり〔トラヤヌス〕は同じく痛みをうけた者〔キリストが十字架につけられて、その足に釘打たれたことで、罪の贖いをされたことを信じていた〕として信じていたからだ。
すなわち その一人は、これまで善意に報いられたことのない地獄から、
〔肉をつけた〕その骨へ戻ったのだ。(一〇八)
これは、その生きる望み〔中世の伝説では、トラヤヌスは四百年間地獄で過ごしたが、グレゴリウス一世の祈りによって肉をつけて地上にもどったという。そしてキリスト教に改宗し、死後天国に迎えられたと信じられていた〕が酬いだったし、
その生きる望みは、生きかえるために おん神に捧げる祈りのなかにおかれたのだ。
そうしたからこそ、彼の願いはうごかされて〔よみがえることが〕できたのだろう。
ここで話すその光にかがやいた魂は、
肉をつけに帰りはしたが そんなには長くいなかった、
主を信じて 救われたからだ。
そして信じつつ 真実の愛の炎を燃えたたせたから
第二の死〔一度よみがえったトラヤヌスの死のこと〕に臨んでも
こんな〔天上の〕祭りに来るにふさわしい者になったのだ。(一一七)
もひとりの魂〔リペウス〕は、おん神でなければ、
そのもとの波〔源〕へまでは目のとどきようもない
すごく奥ふかい泉〔神のふところ〕から出るお恵みによって、
下界にいたときから その愛をひたすら正義にゆだねていたので、
恩寵には恩寵がかさなり、
おん神がその者の目を われらの未来の罪のつぐないに おひらきになったのだ。
そこで、彼はそのことを信じて、それからは
邪教のひどい悪臭に染まることもなく、
教えに背いた人々を責めたしなめた。(一二六)
あの お前が〔地上楽園での〕車輪の右手で見たことのある
三人のあてびとは、洗礼の行なわれる千年の余も前に〔洗礼の儀式のできる千年前、つまり紀元前一一八四年のこと。トロイア戦争のおわった年である〕
かの者に洗礼をおさずけになったのだった。
ああ おん神の末ながいお見とおしよ、
そのはじめの因《もと》すら見きわめられないお前の目とくらべ
お前の根〔罪〕は何と遠く隔っていることか!
それに、お前たち手のとどかない人間には 判断は慎重にすることだな。
おん神の見えるわしらでも お選びになる者を片っぱしから
知っているわけではないから〔人間は神の永遠のさだめの玄義は知らないから、人間は努力して、その思いを神の聖旨と一致するようにするしか、福になる道はない、ということ〕だ。(一三五)
そういう目のとどかないことも わしには好ましいことなのだ。
なぜなら、わしらの福《さいわい》はこの福のなかで浄められるからで、
おん神の願いたもうことを わしらも望んでいるからだ」
こうして そのあらたかな姿〔鷲〕から、
わたしの遠みの見えぬ目を明るくしてくださろうと
さわやかな薬をわたしはさずかった。
あたかも巧みな琵琶弾きが、
その絃の顫えをたくみに唄い手にあわせて
さらに歌に興を添えるように、(一四四)
その鷲の語るあいだ、わたしは思いだすのだが、
あのおん神に祝福《さちあ》われた二つの光〔トラヤヌスとリペウスの二人の魂〕が、
両眼をいっしょにまばたきさせるように、
〔鷲の〕語るにつれて その炎をうごかすのをわたしは見た。(一四八)
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第二十一歌
ダンテとベアトリーチェは、第七の天である土星天へ昇ることになる。そこには金色の梯子《はしご》がかかっていて、その上端ははるかな天空まで伸びていて、目にはそのさきは見えない。土星天には、生涯を黙想して過ごした霊たちがいるのだが、そのひとりのピエートロ・ダミアーノがダンテに近づいてきて、ダンテと話をかわしはじめる。この天では、なぜほかの天できいた敬虔な天の妙音がきこえないのかという問いに、それはどの霊にでも天使にでも答えられないだろうといって、神の摂理の奥義を述べる。すべてが、目が盲になるような光彩の世界のなかの出来事である。
わたしの目《まなこ》はすでに あのわたしの淑女《あてびと》の面輪《おもわ》をふたたび見つめていたのだ、(一)
こころもそのひとに向けられていて
ほかの雑念はことごとくかき消されていた。
すると、そのひとは笑みもうかべずに わたしにいいはじめた、
「もし あたくしがほほえみでもしようものなら、
そなたは 灰になったときのセメレー〔ギリシアのテーバイの王カドモスの娘。女神ユノの恨みをうけ、ゼウスにその光を示すように頼めといわれ、そのとおりにして焼死した〕のようになりますのよ。
それはね、そなたもすでに見たとおり、
あたくしがこの永遠のきだはし〔至高天への梯子〕を昇れば昇るほど
あたくしのうつくしさは いっそう輝きだしますので、(九)
それをやわらげでもしなければ、
そなたの生きの力などは 稲妻の光に音たてて裂かれる樹の枝のように
ひどくかがやきだすからです。
あたくしたちはいま 第七天〔土星天〕の光のなかを昇っているのです。
燃える獅子座の胸の下〔一三〇〇年の四月ころ〕で その力とまざり合いながら
その光を下界に照りかえしているのです。
こころして そなたの目に見えるものをご覧なさい、
そしてこの鏡〔木星天〕のなかで そなたにあらわれてくるすがたを
そなたの鏡〔目〕にうつしなさい」(十八)
わたしがほかのものに気を移そうとしたとき、
お恵みにみちた〔そのひとの〕表情から
わたしの目のうけた糧《かて》が どんなにしとやかで悦《よろこ》ばしかったかを知るひとには、
わたしをこの天上でみちびいてくれるひとにしたがうことが
どんなにうれしいことかが、
それ〔彼女を凝視すること〕とこれ〔彼女にしたがうこと〕を 秤にかけてみれば察しのつくことだ。
その治世には 悪というものがみな死に絶えていた、
あの高貴な王の名〔伝説的なクレタ島黄金時代のサトゥルノ王。土星の名はこの王の名から出ている〕をもって、
世界のまわりを経めぐっている水晶宮〔木星天の星々〕のなかに(二七)
目もくらむような黄金いろの梯子が一本、
わたしの目などついて行けないほど
たかだかと立っているのが見えた。
それからまた、その梯子をつたって
無数のかがやく魂が下りてくるのを見たので、
そこの天の ありだけの〔星の〕光が そこから散らばるのかと思われた。
またそれは、自然の慣《なら》わしだが、
みやま鴉《からす》は夜があけると、
凍《こご》えた翼をぬくめようと 群になって移るものだ。(三六)
そして〔鴉は〕行ったっきり帰らぬもの、
夜をあかしたところへ戻るもの、
また もといた所をぐるぐる回るものなど さまざまだが、
こぞって下りてきて、きらきらする光の中で そこにいた霊たちは、
〔梯子の〕ある段に突きあたりでもすると、
あの鴉のようなうごきをするように わたしには思われた。
そして、わたしたちにいちばん近寄ってとどまっていた光が、
ことさらきらきらしていたので わたしは心につぶやいた、
「あなたがお示しくださる愛のこころが わたしにはよくわかります」(四五)
しかし、そのために、どういう方法で いつそれをいうべきか だまっているべきかは、
それを期待している淑女がそばにいることだし、
心ならずも わたしはそのことは尋《たず》ねないほうがよさそうだった。
万物をお見そなわしになるおん神のお目のなかに
わたしがどうして口をつぐんでいるか その理由を見たそのひとはいった、
「そなたの熱い願いは叶えなさい」
そこでわたしはいいはじめた、
「わたしの功徳など あなたさまのご返事をいただく値うちなどございませんが、
おたずねすることをわたしにお許しになったお方〔ベアトリーチエ〕のおかげでどうぞ。(五四)
あなたの喜悦《よろこび》〔光〕のなかに隠れておいでのおん神にさちあわれた魂よ、
なぜこんなにわたしに近々とおいでになられましたか
その理由をわたしにお聞かせください。
それから、この足下の低い天上でもお聞きした
あんなにも虔《つつ》ましい 天国の妙音が なぜこの天では
聞かれないのでしょう、おっしゃってください」
「お前の耳は目と同様 生き身のものだからな」
その霊はわたしに応《こた》えた、「それゆえ、
ここでは歌われないのだ。ベアトリーチェが笑みをうかべぬようにな。(六三)
わしは神聖なきだはしの段々を はるばると降りてきたのだ、
わしを包んでくれる光と言葉とで
お前をよろこばせるためにな。
強い愛がわしをことさら急がせたわけではない。
このきだはしの上〔の天〕では ほかの霊もわし以上に愛がつよく燃えているからだ。
そのことは あんなに燃えるさまででも お前にもわかることだ。
ただ、わしらを僕《しもべ》とする高いおん神の思いやりが、
世を統《す》べられる摂理にいちはやく感応して、
お前の見るように こんなにわしはここで仕事を割りあてられているのだ」(七二)
「きよらかな燈火《ともしび》よ」わたしはいった、
「ここの宮居では、おん神のおこころに従うのには、
とらわれぬ愛だけでも十分なこと〔神がお命じになるのを待たず、自分のうちの神の愛にうごかされて、めいめいその役を知ってそれを行なう、ということ〕は わたしもよく存じているのですが、
このことが わたしには腑におちかねるのでございます。
あなたさまのお仲間のなかで なぜあなただけが
このお務めをなさるように おきまりになられているのですか」
わたしがいいおえぬさきに、
その光ははげしく碾臼《ひきうす》のように
自分を軸としてものすごく回りはじめた。(八一)
そして、その光のなかの愛のこころが応《こた》えた、
「わしを包んでいる光を貫いて、
おん神の光がわしの上におとどまりになっている。
そのお力がわしの目と結びつくと、
その光から出るおん神のたっといご本体が見えるので、
わしをもとのわし以上に高めるのだ。
そこで、わしには喜悦《よろこび》が生まれ、わしはかがやきだすわけだ。
それは、わしの目には おん神の光が かがやけばかがやくだけ
目が光ることになるからだ。(九〇)
だが、お前のその問いかけには、
天で強くかがやいている霊でも
おん神に目をそそいでいるあの熾天使《セラフィーノ》でも〔お前を〕満足させられはしまい。
というのは、お前のたずねるものは、
永遠の定めの深淵のなかへ あんなにも行ってしまっていて、
おん神に創られただれの目からも遠ざかっているからだ。
さればだ、お前が人間の世に住むことでもあれば、
このことを伝えて、この深い徴《しるし》〔神秘なこと〕に
もう足をうごかして うぬぼれぬようにしてくれ。(九九)
ここでかがやく〔人間の〕こころも 地上では烟《けぶ》っている。
そこで、考えることだ。天がうけ合ってもできないことを
下界でどうしてできるかということをだ」
こうして彼の言葉はわたしの願いに釘をさしたので、
わたしは自分の質問に区切りをつけることにした。
そして 話をつめて、彼がどなたかと うやうやしくたずねた。
「イタリアの東西の海岸のあいだ、
お前の故里からさほど遠からぬところに 岩々〔山々〕がそびえている。
雷鳴でさえ はるか下方でとどろくほどの高い岩だ、(一〇八)
カトーリア〔アペニーノ山脈中にある山〕という峰になっていて、
その麓には庵室が奉納されていた。
ただお詣りする慣わしでつくられていたのだ」
こう、そのひとは三度目の話を
さらにつづけていいはじめた、
「そこへ、わしはおん神に仕えるために足をとどめた。
オリーヴの汁を食とするだけで
黙想することに満足して、
さわやかに暑さ寒さをすごしたのだ。(一一七)
その修道院はこの天上へと 取り入れもの〔善良な魂〕をゆたかに昇らせたが、
いまでは おん神がいちはやく明らかになさるような
もの〔善行〕がなくなっている。
わしはそこでは、ピエトロ・ダミアーノ〔有名な神学者ペトルス・ダミアーニのこと。フォンテ・アヴェルラーナ修道院長。聖書を知的に解釈することに反対して、「哲学は神学の侍女なり」といったことが有名〕と呼ばれたが、
アドリアティコの海ぞいの聖母マリアの家にいたときには
ペトルス・ペッカトールという名だった。
わしが〔枢機相の〕帽をかぶるように懇望せられたのは、
生きのいのちが残りすくなくなったときだった。
〔人の手に〕渡るごとに けがれていくばかりの例の帽のことだ。(一二六)
〔むかしは〕、ケパ〔聖ピエートロ〕が来ても
聖霊の大きな器〔聖パウロ〕が来ても、痩せ痩せて はだしのままだったし、
どこの宿ででも食べ物は喜捨されたものだ。
ところが当今の聖職者と来たら、すごく重たくなったので、
左右から助けて 手を引いていくひと、
うしろから服をからげるひとが要ることになった。
また彼らは法衣ですっぽりと その乗っている馬ごと包んでいるから、
一枚の衣裳の下に けものが二匹〔一枚の外套の下に聖職者と馬の二匹のけものがおおわれているように見える、ということ〕いるわけだ。
ああ、山と積んでお怺《こら》えになられる おん神の我慢のお強さ……」(一三五)
その言葉に たくさんの炎が一段ずつ
その梯子をおりてきたのを わたしは見たが、
回るごとに 炎のうつくしさが増していった。
そして、その炎はこの光〔ダミアーノ〕のまわりに来て とどまって、
この世では類のないような高いひびきで
叫び声を立てた。
わたしはその意味もわからずに その雷鳴のような声に圧されてしまっていたのである。(一四二)
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第二十二歌
気おじしてがっくりするダンテを、ベアトリーチェはあたたかく励ましてくれる。この土星天には、なお何百という敬虔な魂が煌々と光をはなっている。その光彩のなかで、カッシーノの山上で僧院を開いたベネディクトゥスが、近来の僧院の堕落を嘆いて非難する。ダンテはベアトリーチェにうながされて、天の梯子をのぼって、第八の天の恒星天の中へ入って行く。その恒星天にある双子座は、星占いの観念からいえば、ダンテが生まれたときの星位であって、彼が詩才をめぐまれた宿命の因だった。そこで彼はふり返って、すぎてきた七つの天と、そのはるか向こうにある小さい地球を、あらためて睇めなおすのである。
がっくりと気おじして、わたしは、(一)
何かというと、いちばん頼りになる母親のところへ走り寄る いとけない子供のように、
わたしをみちびいてくれるそのひと〔ベアトリーチェ〕をふり返った。
と、彼女は、あたかも蒼ざめて息をはずませる子を、
すぐに抱きあげて いつものように
気持まで落ちつかす母親のように わたしにいった、
「そなたは天上にいることを忘れたのですか。
天はすべてが神聖で そこで起こることがみな
燃えるような善意から出ていることを知らないのですか。(九)
あの叫び声でさえ そなたをあんなにも動かすのでしたら、
〔天使らの〕歌と微笑《ほほえ》むあたくしが どんなにかそなたを動転させるだろうかということが、
いまとなっては 察しもつこうというものです。
あの叫びのなかに もしその声の祈《ね》ぎごとがさとれるものなら、
そなたが身まかる前に見るはずの
おん神の復讐を目にすることでしょう。
天上の剣〔神の処罰〕が斬るのは 早くも遅くもないのですが、
それを望むか怖れるかで
その者には遅くも早くもなるのです。(一八)
しかし、いまはそなたはほかの魂の方へお向きなさい。
あたくしの申すとおり 目をうつすなら、
そなたには いちだんときらきらする魂たちが見えるはずです」
いわれるままに 目を向けると、
光には光がさし 煌《こう》としてもつれている
何百というかがやきを わたしは見た。
わたしは、問いつづけて うるさがらせることを惧れて、
たずねることもならずに
つよい願いを抑えるひとのようにして立っていた。(二七)
すると、それらの宝玉〔祝福された魂〕のなかの
いちばん大きな ひときわかがやきの強い光が、
わたしの望みをかなえてくれようと わたしの面前に出てきた。
そのなかから声が聞こえた、「もしお前が、
わしらのなかで燃えているおん神の愛を わしらのように認めることでもあれば、
お前はとっくに想いを述べていただろう。
だが、お前が待っていては、
〔神をもとめる旅の〕高い目的へたどり着くのが遅れるだろうから、
お前が胸にもっている想いにだけ わし〔聖ベネディクトゥスのこと。五二八年、ローマとナポリの間のカッシーノ山へ行き、そこのアポロンの神殿を毀してベネディクト会の修道院をたてた〕が答えることにするか。(三六)
斜面にカッシーノ〔の修道院〕があるあの山は、
まことの信仰をふみはずした異教徒たちに
しばしば山頂をきわめられたところだった。
わしらをこんなに気だかくする真理を
地上にもってきてくださったあのお方の名〔キリスト〕を、
はじめてそこへ持ちあげたのは このわしだ。
わしの上には あふれるばかりのお恵みがかがやいていたので、
世をまどわす不敬の〔偶像を崇める〕祭祀《まつり》を
その界隈の村々に思いとどまらせたのだ。(四五)
ここにいるほかの炎たちもみんな
神聖な花と実〔思いと行ない〕をむすばせる
炎〔おん神の愛〕にもえて 黙想にふけった人たちだ。
ここにいるのはマカリウス〔聖アントニオの弟子で、東方教会の律法を定めた〕、そちらのはロモアルド〔聖ロモアルドのこと。ベネディクト会の分派であるカマルドリ派の創設者〕だ。
またそこにいるのは、その足を僧院から一歩もふみ出さずに、
道ひとすじに過ごしてきたわしの会の同信たちだ」
そこで、わたしは、「あなたさまがわたしとお話しになるときお示しになる
あたたかいお心や あなた方みなさんの光明のなかに
わたしが見ただけでも心にのこるやさしいお姿が、(五四)
あたかも精いっぱい花をひらいたバラに
太陽がするように、
あなたさまを頼るこころを わたしに強めさせたのです。
それで、お願いでございますが、おん父上、お教えください。
お姿をあらわに見られるようなおん神の
お恵みに わたしがあずかることができましょうか」
すると、彼が答えた、「兄弟《フラーテ》よ、お前のたかい望みは、
最後の天〔至高天〕で叶えられるだろう。
そこでは ほかの霊〔の願い〕もわしのも すべて叶うのだからな。(六三)
そこでは めいめいの願いが叶い 熟し また完《まった》いものになる。
その天〔至高天〕だけは、〔他の天とちがって〕その部分が
場所をうごくことなど絶対にないのだ。
なぜなら、その天は どこかの場所〔天〕を占めるでもなし、回る軸もないし、
わしらの梯子はその天に達して それを越えているので、
お前の目から こんなに消えているからだ。
わしは夢に 族長ヤコブがその最上段の高さまで
〔梯子の〕先端《さき》をのばしたのを見たが、
そのとき〔その梯子には〕天使がいっぱい詰まっていた。(七二)
だが、いまでは、それを登るために 足を地から離す者もいないので、
わしの戒律は〔それを記した〕紙片をいたずらに使うために
地上へ遺してきたようなもの〔ベネディクト会の規則は、ただ紙を無駄にするために筆写されてるにすぎない、とのこと〕だ。
あの信心の篤い隠れ家として帰依される慣わしだった〔修道院の〕壁は、
いまでは盗賊どもの巣窟となり、
法衣は小麦粉のつまった袋になってしまった〔人間が小麦粉みたいになったので、法衣もそれを入れる袋みたいになってしまった〕。
だが、どんなにあこぎな高利貸でも、
こんなに神父のこころを狂わせる この教会の収益ほどには、
おん神の御旨《みむね》にそむいて取りあげるものもなかろう。(八一)
というのも、教会が貯えるものは何でも、
おん神がお召しになる〔貧しい〕人たちのもので、
〔聖職者の〕親たちやもっと汚《よご》れた者のものではないからだ。
にんげんの肉体はひどくもろいものだから、
樫が芽ばえてからドングリになるまでの間も、
地上で善行がはじまったとしても そう永くは続くものではないからだ。
聖ピエートロは金銀にふり向かずに伝道をはじめたし、
わしも説教と断食でやってきたし、
聖フランチェスコは へりくだって その教会をはじめたものだ。(九〇)
もしお前がそれぞれの僧院の事の始まりを見、
それから移り変わりの跡を見るなら、
お前にはその白〔善徳〕が黒〔悪徳〕になるいきさつがわかるだろう。
とはいっても、おん神のおのぞみで
ヨルダンの川が逆流し〔イスラエルの民を渡らすために、水が逆流したという故事〕 紅海がしりぞいたことは、
ここでの救いよりも はるかに奇蹟に見えたものだ」
そう、その霊はわたしにいうと、その仲間へ戻っていったが、
仲間と寄り合うと やがて
旋風《つむじかぜ》のように 上天へと渦巻きとなって昇っていった。(九九)
わたしのやさしい淑女《あてびと》〔ベアトリーチェ〕はその霊たちにつづくようにわたしを押しやって、
そこの梯子をのぼるように しぐさだけでわたしにさし示した。
彼女の力はそのように わたしのからだの重みにうち克って〔引きあげて〕いたのだった。
このわたしの昇りに比較できるほどの
こんなにすばやい動きは、
自然の法則で昇り降りする地上には 絶えてないことだ。
ああ 読者よ、わたしはまたそこへ帰ることがあるかしら、
これらの克ちほこった篤信の群〔天国に住む魂たち〕のなかへ。
わたしはそれをもとめて 自分の罪にしばしば泣き、胸がしめつけられる思いだ。(一〇八)
きみが指を火中に突っこんで すばやく引き抜く早さといっても
わたしが金牛座につづく〔次の〕星座を見た瞬間ほどではないだろう、
わたしはすでにその座のなかにいたのだから。
ああ、栄ある星々〔双子星〕よ、大きな力をおはらみになってる炎よ。
わたしの歌の才は それがどんなものでも
すべては御身《おんみ》から出ることを知っています。
わたしがはじめてトスカーナの空気を吸ったとき〔ダンテが生まれた一二六五年五月十八日には、太陽が双子宮に位置していた〕、
やがては死ぬべき者のいのちの父の太陽も、
御身とともに沈み、御身とともにたそがれていたのです。(一一七)
そのあとで 御身がめぐっている
この高い天上の輪〔恒星天という天空の大きな輪〕の中へ入るという おん神の恩寵をわたしにおさずけくださったとき、
御身らの国が わたしに決められたのです〔占星術では、生まれたときの星のたたずまいで、その人の運勢、才能、吉凶などすべてが決定すると信じられていた〕。
わたしの魂はいま、魂ごと曳かれている
この手ごわい〔天国を描く〕仕事に 力を得ようとして、
御身に〔助けを〕つつましく訴えているのです。
「そなたはおん神のお救いに近づいて来ていますよ」
ベアトリーチェはいいはじめた、「ですから、
見る目をぱっちり開いて きっぱり見なければなりません。(一二六)
そこで、おん神の炎の中へ入る前に、
下方《した》を見つめて、どんなに多くの世界を
そなたは足下にして すでに昇ってきているかを知りなさい。
そなたのこころが できるだけ
〔キリストの〕勝利の群に よろこんで姿を現わすので、
その〔天の〕族はたのしげに この精気《エーテル》の穹窿《そら》をさしてやって来るのです」
わたしは目をかえして、〔すぎて来た〕七つの天をくまなく睇《なが》め、
またこの地球を見たが、
その面影のあわれさにほほえむのだった。(一三五)
地球をつまらないものと判断することを
わたしは立派なことだと認めるのだが、ほかの世〔天上の星々〕のことを考えるひとこそ、
別して有徳の人といえるのではなかろうか。
わたしはラトナの娘〔月〕の燃えあがるのを見たが、
かつてわたしに、〔月の密度の〕粗密からくる原因と思わせた
あの月のくま〔陰翳〕はなかった。
ヒューペリオン〔太陽の子。すなわち、ウラヌスとゲー(地)とのあいだに生まれた子〕よ、そこでわたしはきみの息子〔太陽〕のすがたを掴んだよ。
またマイア〔水星〕とディオーネ〔金星〕とが、
その息子のまわりを動いているのが見えた。(一四四)
と見ると、そこからジョーヴェ〔木星〕が父〔土星〕と子〔火星〕の間で、
〔その温度を〕なごめているのが見えたが、
そこからは それらの星〔水星と金星のこと〕の移り変わりがはっきりわかった。
その七つの星はみな、わたしに
どんなにそれが大きいか、どんなに速いか、
どうしてその位置が離れているかを示してくれた。
わたしたちをひどく荒々しくする麦打ち場〔人間の世界〕が、
わたしがふり返って見ると、双子座をともなって見えたが、
それは山脈から河口まで すっかり見とおせた。
そのあとで わたしは目を〔ベアトリーチェの〕うつくしい眼眸《まなざし》へとうつしたのだった。(一五四)
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第二十三歌
第八天の恒星天である。澄みわたった天空の何千というかがやく霊の上に、キリストがさらに強い光をはなってもえている。主が勝利の軍勢を率いてきたのだ。そのキリストにしたがって、鮮かな碧玉のように光るマリアがつづいている。星々の光の饗宴。やがて、大天使ガブリエルの歌う「マリア讃歌」が、竪琴のかなでる調べのように、その清澄な天空のなかを流れている。すべてが天国の光まばゆい世界での秘めごとである。その光明の群がマリアの御名を唱える間を、マリアも、御子キリストのあとを追って昇天する。聖ピエートロもその恒星天で、主の勝利をことほいでいる。
たとえば、ものみなをおし隠す夜もすがら、(一)
なつかしい木の葉かげの親鳥は、
かわいい雛たちの巣でやすんで
夜明けになると、夜もあけぬのに 梢にとまって、
もえる想いに 日の出を待って、
空の白むのを じっと見つめるものだ。
それも、いとしい雛が〔餌を〕待ちこがれるのを見るからで、
雛たちを養う餌をさがす
つらい労苦も〔親鳥には〕たのしみになる。(九)
わたしの淑女《あてびと》は、その親鳥のように、
すっくと身をおこして きき耳を立てて、
日脚がそれほど早く移らない南の空のもとをふり返っていた。
そういう彼女を、わたしはどっちつかずの気でしかも何かをもとめて見ていたが、
それは、望みながらもほかに気をうつし、もとめる一方で満足するというような
人たちのようになっていたのだ。
しかし、それとこれとのあいだ、いわば
わたしが注意したときと 空がますます
かがやきだしたのを見たときとは わずかの間《ま》だった。(一八)
すると、ベアトリーチェがいった、
「これが、キリストの凱旋した軍勢と、
それらの天球が回転して収穫《とりい》れたその果実《このみ》〔キリストの勝利の行列に加わる聖者たちは、諸天の回転のよい影響をうけて、徳が向上し救いをうけたので、それがその影響の果実といえる、ということ〕ですよ」
彼女の面輪《おもわ》はすっかり燃えかがやくように思えたし、
その目には言葉ではいい表わせないほどの
たのしさがあふれていた。
あたかも澄みわたった満月の夜、
大空の隅々までも彩《いろど》る永遠のニンフ〔星々〕たちに
月輪《トリヴィア》がほほえむように、(二七)
わたしは 何千という輝くもの〔聖者たち〕の上に、
わたしたちの太陽が天上の視界をかがやかすように、
太陽〔キリスト〕がお一人で 星々を一つのこらず燃えたたせているのを見た。
すると、きらきらする光のあたりを貫いて
その光の本体〔キリストのペルソーナ〕がさらに明るく わたしの目を射たので、
わたしはその光芒に堪えられなかった。
ああ ベアトリーチェさま やさしく親わしい導きの方!
そのお方はわたしにいった、「あのそなたの目をくらましたのは、
それを防ぐ術《すべ》もない力ですよ。(三六)
ながいあいだの願いだった
天と地のあいだに道をひらいた〔人間が天へ昇れるようにした道〕
知恵と力とは、あのなかにあるのです」
雲のなかの火〔電光〕が、雲が抑えきれなくなるほど
ひろがると、その性質のそとへ
破れでて 地上に墜ちるように、
わたしのこころも、この食べ物〔天のよろこび〕のなかで
さらに大きくなって 心内から出ていったので、
いま何が起こったのか わたしには思いだせない。(四五)
「目をひらきなさい。あたくしがどうなったかご覧。
そなたには物が見えるのですよ。
あたくしの微笑《ほほえみ》に堪えられるように強くなったのですよ」
わたしはそのとき 過ぎ去ったことが記されてある記憶〔書物」から
夢にも消えることのない この〔彼女の〕
深い感謝に値するために、
まるで 忘れていた夢にふと目ざめて
甲斐もなく 心にそれを呼びもどそうと
努めるひとのようだった。(五四)
いまここで、|歌の女神《ポリニアー》〔詩神ムーサの一人〕が その姉妹《はらから》〔の歌の女神たち〕と
その味のよい乳でさらに豊かにしたそこの詩人たち〔霊たち〕の言葉で、
わたしを助けて〔声を合わせて〕
この神々しい微笑とこのきよらかな姿が
どんなにか澄んだ光にけがれなく輝くかを歌いあげるにしても、
それはわたしの歌いたい真実の千の一にも及ぶまい。
だから、こうして、天上の世界を思い描く〔書く〕
この神聖な歌は、〔溝や裂け目で〕とぎれた径《みち》を行くひとのように、
とびあがって行かざるを得ない〔省略せざるをえない、ということ〕のだ。(六三)
しかし、この重い主題《テーマ》と それをせおう生き身の詩人のことを考えるひとなら、
この重い主題の下で身ぶるいをするとしても、
この詩人を責めはしまい。
この果敢な舳《へさき》が波を切っていく海の道は、
骨惜しみをする船頭や
小舟の乗りだす舟路ではないからだ。
「なぜそなたはあたくしの顔にそんなに心をうばわれているのです。
キリストのお光のもとで花の咲いている
あのうつくしい花園〔聖者の群のこと〕になぜ目をうつさないのです。(七二)
そこには、おん神の|お言葉《ロゴス》が
肉をおつけになったバラの花〔マリア〕がありますし、
そこには、その香りでひとに正しい道をとらせるユリの花〔使徒〕があるのですよ」
そう、ベアトリーチェがいった。そこでわたしは、
彼女の言葉をすっかり受け入れる気になって、
かよわい目のわが身を〔神の強い光にあらがう視力との〕戦いに投げこんだ。
わたしはいつか 雲の切れ目から
太陽の光が洩れそそいでいる花野が、
雲の影におおわれているのを この目で見たことがあるが、(八一)
そのように、わたしはいま光のもとは見ずに、
おびただしく かがやくもの〔霊〕が、
もえる〔神の〕光に上から照らされているのが見えた。
ああ こんなに霊たちに光を投げかける恵みふかいお方〔キリスト〕よ、
あなたさまは おん身を見ることの叶わぬ〔わたしの〕目のゆえに、
たかだかとご自身をお引きあげなさったのだ。
朝に夕べに いつもわたしが祈願する
そのうつくしい花のお名〔バラ、又は旧約聖書〕がきこえると、
わたしはいちばん大きな光明を見るために わたしの注意をかたむけて それにそそいだ。
そして 下界で他をしのいだように 天上でもすぐれている
あのいきいきした星〔聖母マリア〕の質〔どんなものか〕と量〔どれくらいのものか〕ということが
わたしの両眼に はっきりうつったとき、
天上の奥処《おくど》から 冠かとも見える輪のかたちの
炬火《たいまつ》〔大天使ガブリエル〕がぽつんと降りてきて、
その星〔マリア〕にとりつくと ぐるぐるそれをまわりはじめた。
下界でもいともたおやかに奏でる調べがあって
ひとのこころをこの上もなく引きつけるといっても、
大空をいとも碧ずんで澄みわたらせる(九九)
このあざやかな碧玉〔マリア〕を冠にいただいた
この竪琴《リラ》のかなでる調べとくらべると
物を引き裂くばかりの雷雲としか思えまい。
「われは天使の愛なるぞ。
われらが願いの宿たりし
御胎《ごたい》より息吹《いきぶ》きたまいし いや高き喜悦《よろこび》をめぐるものなり。
天の夫人〔マリア〕よ、おん身が御子にしたがうかぎり
われはおん身のまわりをめぐりまいらせん。
おん身、さらにいや高き天に入りてきよめ耀《かがや》かしうべければなり〔天使ガブリエルの歌の文句〕」(一〇八)
こうして その歌声がおわりを告げると、
ほかの光はいちように
マリアさまのおん名をたかだかと唱《とな》えあげた。
宇宙のあらゆる諸天をおおう王たる外被《マント》〔原動天〕は、
おん神の衣〔至高夫近く〕にあって〔おん神の摂理をうけるという〕慣わしから、
〔神の〕愛にさらに燃えたちもし〔恩寵と徳を現わす〕力をうけさせもするものだが、
その天の穹窿《そら》の内側が
わたしたちからひどく遠い上の方にあったので
わたしのいた所からは そのさまが十分に見えなかった。(一一七)
そのゆえに、わたしの目は御子につづいて昇っていく
あの冠をいただいた炎〔マリア〕に
ついていく力はまだなかったのだ。
あたかも幼児が乳をふくみおえると、
もえるような愛のこころが形となって現われて
母親にその腕をのばすように、
そこにいる浄らかな光はどれも その炎を上の方へ立たせていたので、
それらがマリアさまに抱いている
たかい尊敬のおもいを わたしに感じさせた。(一二六)
こうして、その光たちはわたしの目の前に残って
≪天の元后マリア讃歌≫をうたっていたが、その歌声はいともうつくしくて
そのよろこびは ついぞわたしから離れることもなかった。
ああ この〔神恵《みめぐみ》の〕いとも饒《ゆたか》かな櫃《ひつ》〔聖者のこと〕に納められた
〔おん神のさいわいと栄光の〕何という豊かさ!
それは下界で善良な種蒔く女たちが実をおろしたものだった!
ここ天国では、バビロンの捕囚〔地上の生活ということ。昔ヘブライ人がバビロニアへの捕囚にやられたように、ひとはいま天の故郷を離れて下界に移り住んでいるということ〕で
泣きながら黄金〔富を地上にもとめず、泣き苦しみながら宝を天上に貯えた、という比喩〕を捨てて得た
〔こころの〕富によって生き かつ楽しんでいるのだ。(一三五)
ここでは、おん神とマリアさまの尊い御子のもとで、
新約と旧約〔の恩寵〕に許されて
おん神の栄光の鍵を握るお方〔聖ピエートロ〕が、その勝利をことほいでおられるのだ。(一三八)
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第二十四歌
ベアトリーチェの口添えで、ダンテは聖ピエートロからキリスト教神学の試問をうける。テーマは信仰ということで、ダンテはスコラ学的でなく、自分のいだいている信仰体験から、信仰の内容とか由来とかを答える。聖ピエートロはダンテの答えに、おおむね満足したようで、ダンテのまわりを三度めぐって、第一の試問にパスしたことを祝福する。場所はやはり第八天の恒星天で、きらきらする光の霊の中であることも同じ天上の条件だ。
「ああ、おん神にさちあわれていらっしゃる羔《こひつじ》〔キリストの表象〕の大きな盛餐《みあえ》に選ばれた方々〔聖者〕。(一)
この羔はみなさまに食べ物をさしあげており、そのゆえに
みなさまの願いはいつも満たされているのでございますが、
もしこの者〔ダンテ〕が、おん神のお慈悲によって 死のときにさきだって
みなさまの食卓からこぼれおちるものを
あらかじめ味わうこともございましたら、
どうぞ 限りない〔この者の〕あこがれにお心をおかけいただいて、
露〔知恵〕をいくらか味わわせてくださいまし。あなた方はいつも
この者の考えのもとになる泉の水〔神の知恵〕を飲んでおいででございますから」(九)
ベアトリーチェがこういうと、霊たちはたのしそうに、
彗星のように炎の尾を曳きながら
きまった軸の上でつらなる光の珠になっていた。
時計の歯車装置のうごきに 気をつけて見ると、
奥の歯車はとまっているように見えても
手前の歯車はとぶようにまわっているが、
ここで舞っている魂の輪もそのようで
早く またゆるゆるしていて それぞれの恩寵の違いが
わたしには判断できた。(一八)
〔そのなかで〕わたしがいちばん綺麗だと思って気をつけていた輪から
本当にさいわいそうな炎〔聖者のこと〕が一つ出てくるのが見えたが、
それほどきらきらした光は そこに残ったなかにはなかった。
その光がベアトリーチェのまわりを三度〔三は神聖な完全数である〕めぐって
ひどく天国ふうな歌をうたったが、
その神々しさゆえに わたしはそれを心にうかべることさえできないのだ。
したがって、わたしの筆ははずみ出るし、〔その歌のことは〕書きようもないのだ。
わたしたちの想像力は、言葉ではもちろんだが、
色があまりどぎつすぎて〔その歌の天上のなごやかさを表わすには〕ふさわしくないからだ。(二七)
「ああ、きよらかな修道女《スオーラ》〔ベアトリーチェのこと。天上ではたがいに、修道の姉妹、兄弟、と呼びあう〕よ、
おん身はつつましい祈りと
もえるようなおん身の慈悲のこころで
わしを あのきれいな輪のそとへ出してくれた」
その神恵《めぐみ》をうけた炎〔聖ピエートロの霊〕は、立ちどまると、
わたしの夫人へまっすぐに息を吹きかけて
いまいったように語った。
すると彼女は、「ああ、われらの主が下界におもたらしになった鍵を
この不思議なよろこびの与えられるところ〔天国〕にお遺しになられた(三六)
あの十全のお方さま〔主〕の永遠の光よ、
どうぞ 信仰のことについて、事の軽重は問わずお心のままに この者をお試しくださいまし。
あなたさまは信仰のために海を渡って来られたのですもの〔聖ピエートロは、信仰をもっていたので、キリストにしたがって海の上を歩いた〕。
この者が善を愛し 善を望み信じているかどうかについては、
あなたさまのお目は曇ってはおられません。
あなたさまのお目が万物の描かれたところ〔神〕にそそがれておられるからでございます。
しかし、ここの王国は 正しい信仰で国民が作られておりますので、
この者に栄光をおつけくださって、信仰について
この者が申し開きをする好運をお与えくださるのがよろしいかと存じます」(四五)
あたかも学士《パッチェリエル》が〔口頭試問で〕教授が問題を出すまでに
結論をつけるのではなく 反論するために
口をひらかずに身がまえするように、
わたしもそのようにして 彼女がいっているあいだ、
それぞれの論拠をもって
その質問者とその〔信仰の〕誓願に対して 心がまえをしていたのである。
「善良な教徒よ、話したまえ。
信仰とは何であるか」
そこで、わたしはこの言葉の出てきた光の方へ顔をあげた。(五四)
それから ベアトリーチェの方をふり向くと、
彼女は、たちどころに、わたしの心内の泉から水を
したたらせるがいいと 目顔で示した。
「〔教会の〕第一の戦士のおん前で わたしに発言をお許しくださるお恵みよ」
わたしはいいはじめた、
「わたしの考えがうまく出せるといいのですが」
そして、言葉をつづけた、「おん教父《ちち》よ、
あなたさまとご一緒にローマを救いの道におのこしになられた
あなたさまの尊いご兄弟〔聖パウロ〕が真実の筆でお書きになられた〔ヘブル書のこと〕ように、(六三)
信仰は望むものの実体でございまして、
またいまだ顕《あらわ》れぬものの証《あかし》でございます。
これがわたしには 信仰の本質のように思われます」
すると、〔また声が〕聞こえた、「なぜ信仰を、彼〔聖パウロ〕がまず本質におき、
あとで証《あかし》のなかにおいたかを よくわきまえているのなら、
お前はそれを正しく理解している」
そこで、わたしはすぐに応《こた》えた、「天上のここで
わたしの目に見える もろもろの奥ゆかしいものは、
下界では目に隠されているものです。(七二)
それはただ信仰としてのみあるのでございまして、
その上にこそ 高い願望《のぞみ》が根づくのでございます。
ですから、それ〔信仰〕は実体の意味をもってくるのです。
そこで、わたしたちはその信仰から 脇目もふらずに、
三段論法によって
証《あかし》の意味と性質をつかむことになるのです」
と、また声がした、「下界でもし
教義がそのように理解されているとすると、
詭弁家が頭を働かす余地などなかろうではないか」(八一)
このように この愛〔の炎〕は、燃えながら言葉を吹きだしていたが、
さらに付け加えた、「この貨幣〔貨幣の合金の割合や重さで、その真贋を判断するように、ダンテについてその信仰の種類や程度をしらべた、ということ〕については、
その〔合金の〕質も重さも 十二分に調べはついているが、
お前は財布〔心・魂〕のなかに その貨幣をもっているのかね。わしにいうてくれぬか」
そこでわたしは、「はい、もっております。こんなに金ぴかで円いのを。
その型からも 疑うことなどまったくありません」
すると、そこで輝いていた
奥ゆかしい光〔聖ピエートロ〕から
声が出てきた、「いっさいの徳が根ざしているこの尊い珠玉〔信仰〕が、(九〇)
どこからお前のところへ来たのだ」
それでわたしは、「旧約と新約の羊皮紙の上に
たっぷり降りそそぐ聖霊の恵みの雨からでございます、
わたしにそれが真実であることを結論づけてくれたのは三段論法ですが、
その〔論証の〕鋭いことといったら
どんな説法も それとはあべこべに無力なほどでございます」
すると、また声が、「お前にそうして結論をつけさせた
旧約と新約の文言《もんごん》を、
なぜお前はおん神の言葉と聞いたのか」(九九)
わたしは、「この真実をわたしに見せる証拠は、
おん神にともなう奇蹟でございます。〔神にひきかえ〕自然などは、
鉄を赤く灼きもしませんし、鉄床《かなどこ》で鍛えもいたしませんもの〔自然のしたことのない超自然的な業すなわち奇蹟〕」
すると、またわたしに、「では聞くが、そういう奇蹟があったことを
だれがお前に保証するのか。
ほかならぬそのお前に証しをする者〔聖書〕が それを保証するのだが」
「もし奇蹟もなしに
世界がキリスト教に帰依したとすれば」と、わたしはいった、
「これ一つだけでも 他に百倍する奇蹟ではないでしょうか。(一〇八)
あなたさまは貧しくて 飢えて 畑に入られたのに
よい草木〔キリスト教信仰〕の種子をお蒔きになられました。
かつてはブドウの蔓ができましたのに いまでは茨ばかり生えています〔聖ピエートロの蒔いた種は、当時はブドウの木だったが、いまでは荊棘《いばら》になってしまっている、ということ〕」
こういいおえると、きよらかな天の宮居の人たちの
≪おん神を讃えまさん≫という歌が、
天上で歌うにふさわしい調べで
穹窿《そら》いっぱいにひびきわたった。
さて、このように枝から枝へと わたしを験《ため》しながら
はやくも梢の葉のさきまで 一緒に近づいていた首長〔聖ピエートロ〕は、(一一七)
ふたたびいいはじめた、「恩寵がお前のこころを嘉《よみ》されたので、
ここまでは お前はいうべきことに〔適切に〕口をひらいたし、
そのようにお前の口から出た言葉は
わしもいいと思うが、
いまでは お前の信じていること、
お前の信仰のよって来たところをいうことになった」
「ああ 神聖なわたしのおん父、ああ あんなに堅い信仰をおもちになったと
〔世に〕信じられた影〔栄光のキリスト〕をいまにして見る霊よ、
あなたさまは主の墓の中へ お若い足〔ヨハネ〕よりさきにお入りになられた〔キリストの屍が墓地にないと聞いたピエートロはヨハネとともに駆けてそこに行って、さきについたのはヨハネだったが、墓へさきに入ったのはピエートロだった。だから、信仰の点ではピエートロはヨハネにまさると、いわれていた〕のですもの」(一二六)
わたしはいいつづけた、「あなたさまは わたしが自分の信仰の本体を
率直に申しあげることをお望みですし、
かつまた それを信ずるようになった動機を
お尋ねになっておられます。
わたしはお答え申しましょう。わたしは宇宙のすべてを、
動かずに、愛と望みをもってお動かしになっている
永遠にして唯お一人のおん神を信じております。
そう信じるのには、わたしは〔アクィナスの〕
物理的・哲学的な〔五つの〕証明ばかりでなく、(一三五)
モーゼや預言者たち、詩篇、福音書、それから あなた方に糧をお与えになった
燃える聖霊のあとで書きしるしたあなた方の手で
ここへ雨と降らせた真理までが わたしにそれを信じさせるのです。
またわたしは、〔主の〕永遠の三位を信じていますので、
この本体は一にして三と考えられます〔三位一体のペルソーナをもつ神は、単数であると同時に複数だから〕から、
〔動詞の〕ソノにしてもエステにしてもかまわないのです〔Sono と este この二つはともにラテン語の「ある」という動詞の現在形だが、ソノは複数形で、エステは単数形だ。しかし、神は三にして一だから、それはどちらでも同じことだ、ということ〕。
わたしがいまつかまっている
おん神の〔三位一体という〕深い在り方については、
福音書の教義がしばしばわたしの心に刻みつけております。(一四四)
これこそ本源〔三位一体の玄義が信仰の第一義だ、ということ〕であり、それこそ
あんなに広がって火花となり、やがて天の星のように
いきいきと わたしの身内できらめくのです」
それはあたかも 気に入った話を聞いた主人が、
下僕の語りおえるとたんに 話によろこんで
やにわに彼を抱えこむように、
わたしに話をうながしたその使徒〔聖ピエートロ〕の光は、
わたしが黙ってしまうと、わたしを祝福して歌いながら 三度わたしをまわった。
そう、わたしは語ったのだが その話はそれほど彼の気に入ったらしかった。(一五三)
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第二十五歌
聖ピエートロと信仰問答をしたあとで、聖ヤコブの光の霊が現われる。そして、願望について彼とのやりとりがはじまる。そこで、ダンテは流浪の境涯で、その故郷のフィレンツェにふたたび迎えられて、洗礼堂の前で詩人の冠をもらうことを夢想する。それが彼の希望のなかで、現在もっとも切実なもののはずだったからだ。ダンテは聖ヨハネの霊を、つぶさに見ようとすると、その烈しいきらめきに目がくらんでしまい、そばにいるはずのベアトリーチェの姿さえ見えなくなって、どきっとする。やはり恒星天での出来事である。
天と地が ともに手をおかしになり、(一)
そのために ながい歳月にわたしを痩せ細らせた
この神聖な歌〔神曲〕が、
あのいざこざを起こした狼ども〔市民〕の敵であるわたしに、
わたしが眠っていた住みよい府《まち》〔フィレンツェ〕の門を閉ざした
むごたらしい仕打ちに うち克つことでもあれば、
いまでは声も変わり 髪の毛も変わって〔白髪になってしまったが〕しまっているが、
詩人として立ち帰って、わたしの洗礼堂のほとり〔聖ジョヴァンニ教会のこと〕で
冠〔詩人のうける冠〕をさずかることもあるだろう。(九)
それは、わたしがこころをおん神にお知らせする信仰に入り、
そのあと、ピエートロ上人がその信仰ゆえに
わたしの額のあたりを幾度もまわってくださったからだ。
そうこうしているうちに、一つの光明〔聖ヤコブ〕が、
キリストが最初の牧者としてお遺しになった霊の出てきた
〔聖者の〕花環の中から わたしたちの方へ進んできた。
すると、わたしの夫人は、喜悦《よろこび》にたえぬ風情でわたしにいった、
「ご覧なさい、ご覧になって。あの
下界でひとびとがガリツィア詣で〔聖ヤコブが葬られたと伝えられたスペインのガリツィア州のサンティアーゴ・デ・コンポステラ大聖堂。中世にはヨーロッパ各地から巡礼が集まった〕をするお方がおいでですわ!」(一八)
そのさまはあたかも 鳩が仲間に近づくと
たがいに相手のまわりをまわって 低い声で
自分のこころをささやくように、
ひとりのすぐれた聖者〔聖ヤコブ〕が、
も一人の栄光の聖者〔聖ピエートロ〕に迎えられて、
天上で満ち足りた糧《かて》を讃えているのをわたしは見た。
やがて、あいさつがすむと、
わたしが顔をあげられぬほど強く燃えながら、
だまってわたしの前に来て 二人とも立ちどまった。(二七)
そのとき、ベアトリーチェが笑みをうかべていった、
「あたくしたちの神の宮居〔天〕の恵みゆたかなことをお書きになった〔『ヤコブ書』のことで、ダンテはそれを聖ヤコブが書いたと思っていたらしい〕かがやかしい魂よ、
この天の高みで 望みが鳴りひびくように おはからいください。
イエズスさまがお三方に
お姿をありありとお顕わしになるごとに
あなたさまが主をお象《かたど》りになられたことは〔キリストの変容といわれること。ゲッセマネの園の祈りなどに、キリストといっしょにいたのは、ピエートロとヤコブとヨハネと三人の使徒だったといわれている。キリストは三人をキリスト教教理にかたどって、信仰はピエートロ、希望はヤコブ、愛はヨハネとしたという。ここで「象る」というのはそのことを指している〕ご存じのとおりです」
「頭をあげよ、気を強くもつことだ。
ひとの世からこの天上に昇ってきた者は、
わしらの〔天上の〕光芒を浴びて こんなに鍛えられねばならないのだ」(三六)
こんな励ましの言葉が、第二の炎〔聖ヤコブ〕から
わたしにとどいた。そこで、さきほどは光のあまりの激しさから おとしていた目を、
わたしは二つの山〔聖者たち〕の方へあげることにした。
「さてさて お前は死にさきだって、
福者らの居ならぶ いとも深い部屋〔至高天〕で、
われらの上帝《かみ》と目《ま》のあたり見参《けんざん》するお恵みをうけたのだぞ。
そうするのは、この天上の宮廷の真《まこと》の善を見てから、
お前がそれによって お前と他人とに 善にあこがれる下界で
永遠のよろこびを強くきざみつけるためなのだ。(四五)
さればいえ、お前の望むことは何か。その望みでどうしでお前のこころを飾るのか。
お前はそれをどこから得たのかを」
そう、その第二の光はつづけさまにいった。
すると、わたしの翼の羽根をみちびいて
こんなに高くとばせた慈悲ぶかい淑女は、
わたしをさしおいて つぎのように答えた。
「〔地上で〕戦っている教会には、この者ほどに豊かな望みをもつ子たちはおりません。
それは、あたくしたちすべての群を照らしている
あの太陽〔神〕のなかに記されているとおりでございます。(五四)
それゆえ、この者の兵役のおわらぬ前に〔死ぬ前に〕、
エジプト〔この世〕を出て エルサレム〔天上〕を見にまいることが
この者に許されたのでございます。
ほかの二つの問題、あなたさまがお知りになろうとなさるのでなく、
その徳をこの者がどんなに下界で伝えるかをおよろこびになって、
おたずねなさいましたその問題は、
この者がご返事をするよう あたくしは残しておきます。
この問題はむつかしいことでもなく、気負って申上げることでもございませんので。
そのことはこの者が申上げましょう。おん神のご加護がございますように」(六三)
自分のすぐれていることを示そうとして、
その得意にすることを
すすんで師匠の前で答える弟子のように、
わたしはいった、「望みというものは、
たしかに未来の栄光を期待するものですし、
それはまた おん神の恵みと それまでの功徳から生まれるものです。
その光は おびただしい星々からわたしの許へ参ったのですが、
わたしのこころに初めてそれをしみこませたのは、
最高の導者〔神〕をうたった最初のお方〔ダヴィデ王〕でした。(七二)
そのお方はおん神を讃える歌でいっておられます、
≪聖名を知る者は望みをなんじに置かん≫と。
わたしと信仰をともにする者で、それを知らぬ者がおりましょうか。
あなたさまはその雫〔言葉〕を 書物〔『ヤコブ書』を指しているようだが、ヤコブ書にはべつに希望についてはっきり書いてあるところはない〕のなかで わたしにそそいでくださるのですもの。
わたしの心は それからは 満ち足りておりますし、
ほかのひとにも あなたさまの雫をそそぐことになるでしょう」
わたしが話しているあいだ、その炎の胸にはいきいきと光が稲妻のさまに
きらめき また消えて ふるえていた。
それから 炎は息吹《いぶ》きをした、「戦場を出て〔この世を去って〕、(一八)
棕櫚の枝を手に殉教するまで〔棕櫚は勝利の象徴〕、わしとともにあった徳のために、
いまもわしに燃えさかっているこの愛は、
お前があこがれているものを
わしがお前に吹きこむことを望んでいる。
で、望みが何をお前に約束したかをいってくれると わしはうれしい」
そこで、わたしはいった、「新約と旧約の聖書には、
おん神が友となさった魂の徴《しるし》を お置きになっておられますが、
その徴がわたしをも みちびいてくださっているのです。
イザヤが申されるように〔おん神の友に選ばれた魂は〕(九〇)
みなそのまことの故郷で〔魂と肉体との〕二重に身づくろい〔霊と肉をつける、ということ〕をしていたのです。
その故郷というのは〔申すまでもなく〕この〔天上の〕お恵みをうけた世のことです。
またあなたさまのご兄弟〔洗礼者ヨハネ〕は、
白い法衣《ころも》のことを述べられたところで、
わたしたちに示されるこの黙示のことを さらにはっきりさせておられます」
わたしがこういいおえると、まず
わたしたちの頭上から≪望みをおん神に≫〔『詩篇』の「聖名を知るものはなんぢにより頼まん。そはエホバよ、なんぢを尋ねるものの棄てられしこと断えてなければなり」(九・一〇)から出る聖歌〕の声が聞こえてき、
輪舞する聖霊たちがそれに和した。
やがて その声の中から 一つの光〔洗礼者ヨハネ〕がきらきら輝き出てきた。(九九)
そのさまは、もし蟹座《かにざ》〔サソリ座の反対側にあるこのカニ座の星は、初冬のころには、日の出とともに入り、日没とともに出てくる。それでもし聖ヨハネのように輝く水晶宮がここにあったら、冬の夜は一か月も夜がなくなってしまうだろう、というのである〕にこんな水晶でもあれば、
冬もひと月はまるで昼の日になるかと思われるほどだった。
それはまた わくわくする乙女が、
浮かれごころでなく
新妻をことほぐために その踊りの輪へ立ちあがって駆けこむように、
そのひときわ輝《きら》めく光が、
それぞれの燃えたつ愛に似つかわしく
その調子に合わせて舞っている二つの光〔聖ピエートロと聖ヤコブ〕の方へ近づくのをわたしは見た。
そしてそこで その二人も歌に合わせて輪舞のなかへ入っていった。(一〇八)
わたしの淑女は、この三人に目をこらして、
新婦のように身動きもせずに じっとその歌声に聞きほけていた。
「あたくしたちのペリカン〔キリストのこと。ペリカンは自分の血をそそいで死んだ雛をよみがえらせるという伝説がある。そこで、この鳥はキリストの代名詞にしばしば使われている〕の胸の上に
くずおれていたのは あの方がたです。
あの方がたこそ 十字架の上〔の主〕から選ばれて大事な仕事をさずかったおひとです」
そのあてびとは そう話した。
しかし そういった後にも前にも
じっと瞠《みつ》めるまなこを 離そうとはしなかった。
日蝕を見るひとが、太陽をちょっとでも(一一七)
みつめようとすると、
見ても見えなくなるように、
この最後の炎に対するわたしも まさにそのようだった。
そのとき、声〔聖ヨハネ〕があって いうのだ、「お前はなぜ
ここにないものを見ようとして 目をくらませるのだ。
わしの肉体は下界で土になっているが、
わしらの数《かず》が 永遠〔神〕の聖旨にそうまでは、
ほかの肉体といっしょにあるだろう。
〔霊と肉との〕二重の衣をきて 恵まれた修道院〔天国〕にあるものは、(一二六)
ここに昇ってきた二つの光〔イエズスとマリア〕だけだが、
そのことをお前はこの世に伝えるがいいぞ」
こういうと、炎の輪はにわかにとまり、
三人〔聖ピエートロ、聖ヤコブ、聖ヨハネ〕の息吹きのまじったうつくしい歌声も
それとともに はたと熄《や》んだ。
それは疲れたり冒険をしたりしないように、
それまで水をかいていた櫂《かい》から
口笛ひとつで いっせいに漕ぐ手をはなすようなものだった。
わたしは彼女にちかぢかと(一三五)
その幸福の世界にいるはずなのに、
ベアトリーチェを睇《なが》めようとしても 目には入らなかった、
たしかに わたしの心はみだれていたにちがいないのだ!(一三九)
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第二十六歌
ダンテの目をくらませたのは、黙示録をかいた聖ヨハネの霊の光だったが、やがてダンテは、千里のさきも見とおす眼力をもつベアトリーチェの光に救われて物が見えるようになる。ダンテと聖ヨハネとの間の話題は、もっぱら愛についてだが、それが一段落すると、また一つ強い光を彼はみとめた。それが造物主である神が最初につくったアダムの魂だとわかると、彼はその魂に話しかける。アダムの罪とは何か、いつまで純潔でいたか、辺獄にはいつまでとどまっていたか、など、かなり具体的な質問が、天上の光のなかで展開する。
目が見えなくなったのかしら と気づかっていると、(一)
そのくらくらさせた烈しい炎〔聖ヨハネ〕のなかから、
息吹きする声が出てきて わたしの気を惹いた。
「わしを見て かすんでしまった
お前の目の力をとりもどすあいだ、
それのつなぎに 話をするがよかろう。
では、はじめるとするか。お前の魂は
いったいどこへ行こうとしているのだね。
お前はさとることだ、お前の目は見えなくなったのじゃなくて 一時感じがにぶくなったということを。(九)
案ずることはない、この神聖な世にお前をみちびく
あの夫人の目が、〔盲をひらく〕アナーニア〔アナーニアはダマスクスの人。主の命でサウロ(聖パウロ)を訪れ、手をその上において彼にふたたび物を見ることができるようにしたという故事〕の手がもった
〔不思議な〕力をもっているからね」
わたしはいった、「わたしの目は、
この夫人のおこころ次第で 遅かれ早かれ癒《なお》していただけると思っています。
このお方の眼眸《まなざし》は わたしが永遠に燃やす〔愛の〕火をもって入って来られた門でしたから。
この宮廷〔の霊〕をこころ足らわせる善〔神〕は、
わたしに愛をやさしく またつよく読みきかせる
ありとある書物のアルファでありオメガです」(一八)
やにわに目がくらんで あわてさせたわたしから
とっさに怖れをとりのぞいてくれたあの同じ声が、
わたしに話しつづけるようにしむけた。
そしていう、「たしかにお前を篩《ふるい》にかけるには、
もっと目のこんだ篩《ふるい》が必要だ〔もっと詳しくお前の考えを述べる必要がある、ということ〕。
それに、だれがお前の弓〔愛〕を あんな標的《まと》〔神〕に向けさせたか〔何が動機になって天国まで来たか〕をいう必要もある」
そこでわたしは、
「哲学的な推理とこの〔天上から〕下りてきた権威のおかげで、
このような愛が わたしの心のなかで きざみこまれたものと思います。(二七)
善は善であるかぎり、
それは理解されれば こんなにも愛を燃えたたせるものです。
その善がそのなかに善意〔神〕を多くふくむほど煌《かがや》きも強くなるわけです。
したがって、おん神のそとにある善〔神以外の善は、至高の神の善のひとつの顕われにすぎない、ということ〕が、
せいぜいその光の一筋にもたらぬ もろもろの光でしかないような
完璧な あの〔神聖な〕実体〔至上善の神〕に向かうとすれば、
さきの証《あか》しにもとづく真理〔神が至高の善だということ〕を篩にかけるそれぞれのこころは、
その愛にうながされて ほかの実体をさしおいても
動いていくことになるのです。(三六)
こうした真理〔神が最高の善であるという真理〕をわたしの知性にあきらかにしてくださったのは、
永劫のあらゆる実体〔この実体というのは、諸天、天使、人間の魂などを指している〕のもつ
原初の愛をわたしに示してくださったひと〔アリストテレス〕です。
ご自分のことを語って≪我もろもろの善を汝の目に見せしめん≫とモーゼにおっしゃった
あの真実の作者〔神〕の声も、そのことをわたしにおあかしになったのです。
それにかさねて、あなたさまも あの崇高な予言〔黙示録〕で
ほかのどの啓示にもまさって 天の秘密を下界で叫びだし、
わたしにそれをお示しくださったのですもの」
すると、わたしに声が聞こえた、「にんげんの知性によって(四五)
またそれと一致する〔神の〕権威によって、
お前の愛の最高のものは おん神のためにとっておくがいい。
ついでにいってくれ、おん神にお前を引きよせる
ほかの綱〔真理〕をお前は感じているか、
この愛がお前を噛む歯〔歯で噛むというのは、刺激を与えること。お前に刺激を与えて天に向かわせるものには、理知と天啓のほかにまだいくつあるか、とたずねたのだ〕を お前は何本示しているのか、そのことだ」
このように、このキリストの鷲〔聖ヨハネ〕の神聖な意向は、
かくされていたわけではなく、
わたしの申し開きをどこへもっていったらいいかも わかっていたので、
わたしはまたいいはじめた、「おん神へこころを向ける(五四)
それらの歯〔ここでも、慈しみの心を歯でかむといっている〕はみんな わたしの慈しみの心と結びついています。
なぜなら、宇宙の存在とわたしの存在、
わたしが生きるために主がおはてになられたこと、わたしのように信者それぞれが待ち望むものなどが、
さきに申しましたいきいきした認識をともなって、わたしをあやまった愛〔地上的な愛のこと〕の海から曳きだして
正しい愛の岸辺へ置いてくださったのです。
永遠の園丁のいる果樹園〔世界〕にいっぱいおい茂る木の葉〔被造物〕を、
おん神がそれらにおさずけになる善の多寡にしたがって(六三)
わたしもまた ほどほどにそれを愛しておるのでございます」
そうして わたしが口をつぐむと、
いともたおやかな歌声が天上にひびきわたった。
と、わたしの夫人も ほかの霊たちと
口を合わせて歌いだした、≪聖《きよ》きかな、聖きかな、聖《きよ》らかに≫。
するどい光が入ってくると、
物を見る霊〔視力。ダンテは当時の人の考えと同じように、人間の官能の器官には、おのおのその働きをうけもつ霊が住んでいると考えていた〕は〔網〕膜から膜をとおってくるきらめきへ走って
睡眠《ねむり》がさまされてしまうものだ。(七二)
めざめはしても物は見えはしない。
やにわに目覚めたものだから 判断力の助けでもなければ
事の次第がわからないように、
ベアトリーチェは、その千マイルのさきまでも見透す目の光で
わたしの両眼を曇らしていたものをはらいおとしてくれた。
おかげで わたしは前よりは物がよく見えるようになったが、
まるで呆気《あっけ》にとられたようになって、
わたしたちのそばに見える 四番目の光は何かとたずねた。
すると、わたしの夫人が答えた、「あの光の中では、
第一の権能《ちから》〔神〕がお創りになった最初の魂〔アダム〕が、(八一)
その造主《つくりぬし》をしたっているのですよ」
あたかも 風がわたると、
枝さきを垂らしている小枝が 風のすぎたあとで
自分の力でまた枝をもどすように、
わたしも、彼女が話していたあいだは、
胆をつぶしていたのだが、やがてわたしはほてってきて、
ふたたび話しだしたい望みにかられた。
そこで口を切った、「ああ ひとりでに熟して
お実《みの》りになった果実〔アダムはいきなり大人として創られたから〕よ、(九〇)
どの新妻もあなたの娘であり嫁である〔あらゆる新婦もアダムの後裔だから娘にあたり、アダムの子孫である男にとつぐ娘はみなその嫁になるから〕 古い世の父上よ、
わたしに話していただけたらと こんなにも
心からお願いしているのです。
あなたはわたしの願いを 口に出さなくてもご存じですもの」
ときとして、何かに包まれた獣《けもの》が身をもがくと、
包んだものといっしょに動いて
獣《けもの》の思いが様子にあらわれることがあるが、
それと同じで その原初の魂は、
どんなにかわたしをよろこばせようとしてか、(九九)
いそいそとその被《おお》い〔光明〕をとおして、わたしに示した。
そして声まで出てきた、「別にお前がいわなくとも、
お前の考えていることくらい、お前がもっと確かだとしていることよりも
ずっとはっきり わしにはわかっている。
わしはそれを真の鏡〔神〕の中で見ているのだからな。
その鏡は、真のすがた〔神〕の中に 自分をあらわすものは何にもうつらないのに、
ほかのものはみんな あるがままにうつるのだ。(一〇八)
お前がききたいのは、こんなに長い天の梯子〔諸天のこと〕を昇らせるために
この者〔ベアトリーチェ〕がお前にはからってくれたあの楽園〔地上楽園のこと〕に、
おん神がわしをお置きになってから どれだけの時が経ったか、
また わしの目にどれほどの愉しさがつづいたか、
大きな憤り〔人間に対する神の憤り〕の本当の原因は何か、
わしが作って使った言葉は何だったか ということだろう。
さてと、わしの裔《すえ》よ、〔禁断の〕木の実を味わったというだけでは
あの追放〔アダムが楽園を追われたこと〕の原因にはならなかったのだ。
それはただ天の掟を越えた仕儀〔傲慢と不従順〕だということだった。(一一七)
お前の夫人がウェルギリウスを出発させたあそこ〔辺獄《リムボ》〕で
太陽が四千三百二回まわるあいだ〔四千三百二年間。これはアダムが辺獄《リムボ》にいた年数である〕、
わしはこの〔福者の〕集まりに入ることを望んでいたのだ。
わしは、地上にいたあいだに、
太陽が九百三十回〔アダムが地上に住んでいたのは、九百三十年間。キリストが死んでから、アダムが辺獄を出て『神曲』に現われるまで千二百六十六年かかっているのだから、アダムが創造されてから、その年まで六千四百九十八年たっている計算になる〕も
その軌道にあるすべての星の上に帰るのを見た。
わしの話していた言葉は、ニムロデの民〔バベルの塔を建てて天に登ろうとした巨人の一族〕が
出来ようはずもない大事業〔バベルの塔〕に手をつけるはるか以前に
すっかり消えうせてしまっていたのだ。
人間の好みというものは、
天の影響で新しくなるものだから、(一二六)
理性から生ずるもので永劫につづくものなどあるはずはない。
ひとが物をしゃべるのは自然の働きだが、
自然は こういうとか ああいうとか〔言葉の形式〕をのこしておいて、
あとは、お前ら〔人類〕にそれをうつくしく磨くようにさせているのだ。
わしが地獄へ墜されて つらい目にあう以前には、
わしを包むこのよろこびの来る源泉の至高の善は、
地上では|I《ヤー》〔神のこと。神がIと呼ばれていたというのは次のことだ。古いヘブライ語では、神のことをヤーウェと呼んでいた。だから、ダンテはそれをヤーと発音したと思う〕と呼ばれていた。
それがあとでは|EL《エル》〔エルというのはヘブライ語で「至高の者」という意味があるから、これは神とみてもいいと思う〕と呼ばれるようになった。そうなるのも理《ことわり》で、
人間の慣《なら》いは 木の枝が葉っぱをおとし、(一三五)
また〔新しく〕芽ばえさせるようなものだからだ。
波の上にそそり立つあの〔煉獄の〕山の上に
わしがきよらかに また汚《け》がれて そこにいたのは、
初めの〔日の出の〕時から第二の〔第七時の正午〕時まで
つまり太陽が〔円の〕四分の一度を変える第七時〔正午または午後一時〕だった(一四〇)
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第二十七歌
この恒星天で、聖ピエートロの魂の光が、白色から赤く変わるかと思うと、憤《いきどお》ろしい口調で、彼は法王の地位を奪いさった者を非難した。ほかの光の霊も、それにつれて赤色に変わって、第八の天はまるで夕焼のようになってしまう。その光の霊たちは、水気《すいき》のように細雪《ささめゆき》となって昇天して、ダンテの視野から消えていく。ベアトリーチェはダンテに、地球を見おろしてみよ、という。彼女の目の神々しいよろこびに見入っているうちに、ダンテは夢幻のうちに第九の天へ昇ることになる。彼女はその原動の天の特性などを説明するのだ。
「おん父と御子《みこ》と聖霊とに 栄光《みさかえ》あれ」(一)
という歌が この天上の隅々にまで歌われはじめたので、
わたしは そのたおやかな音声に うっとりして我を忘れていた。
わたしの目がとらえたものは それが宇宙のほほえみかとも思われて、
それを聞くにつけ 見るにつけ、
わたしはすっかり酔いしれてしまっていた。
ああ この喜悦《よろこび》、いうすべもないこの愉しさ!
ああ 愛と平安に満ちみちたこのいのち!
ああ 望むものとてない 完全な富《たから》よ! (九)
わたしの目の前には 四本の炬火《きょか》〔四人の魂のこと。つまり三人の使徒とアダム〕が燃えあがっていた。
そのはじめに来たもの〔聖ピエートロ〕は、
ひときわ激しく燃えはじめていたが、
見たところでは、その姿は〔白っぽい〕木星から
〔赤らんだ〕火星に変わって、鳥に見立てれば、
その羽根をとり換えでもしたように〔赤く〕なっていた。
この天上で 動と静とを交替させる仕事を霊たちにお割り当てになる
おん神の摂理が、そのとき祝福された合唱のなかへ
沈黙することをお指図になられた。(一八)
すると、わたしは、それについで声を聞いた、「わしの色が変わろうとも〔聖ピエートロの姿が赤く変わったので〕
お前はおどろくでないぞ。こうわしが話しているあいだも
ここの者がみな色の変わるのをお前は見たのだからな。
わしの地位、わしの地位、
神の子の前では空《あ》いているわしの地位〔法王の位。三度くり返していったのは、そのことを強調しようとしたのである〕、
その地位を 地上で横取りしてる者〔法王ボニファキウス八世〕が、
わしの墳墓〔聖ピエートロの眠る墓は、法王の住む聖ペテロ教会の下にある〕を〔無垢に流された〕血と〔悪徳と汚辱の〕悪臭の立つ
下水溝にしてしまったのだ。
そこで天から堕ちた背徳の輩《やから》〔ルチフェルロのこと〕がしずかに納まっている」(二七)
夕べや朝あけには、
太陽はその前にある雲を
茜《あかね》いろに染めるものだが、そのときも
大空をはてしなく 太陽が〔あかあかと〕広がるのも わたしは見た。
身の潔白を自覚している女のひとでも
他人の落度をきくだけでおどおどして顔色を変えるものだが、
そのときのベアトリーチェもその顔色が変わっていた。
主《しゅ》が受難にお遭《あ》いになったのも
こんな日の蝕《か》けたときだったと思う。(三六)
そのあとで、〔聖ピエートロは〕、
声ばかりか さらに顔色まで変えて、
その言葉をつづけた。
「キリストの新婦〔教会〕が、わしの血や
リヌスやクレトゥス〔ともに初代教会の殉教者〕の血で育てられた〔殉教した〕のは、
黄金を手に入れるためにしたのではなく、
シクストゥスやピウスやカリクラトゥスやウルバヌス〔ともに一〜三世紀の殉教者〕が、
ひどい苦しみのはてに血を流したのも、
この〔天上に住むという〕愉しい生を得るためだったのだ。(四五)
キリストの信者たる人民のある党〔グエルフィ党〕が、
わしら後継者〔法王〕の右手にすわったり〔厚遇されたり〕、またある党〔ギベリーニ党〕が
左手にすわったり〔冷遇されたり〕するのは、わしらの志ではなかったのだ。
それに、わしにゆだねられた二つの鍵〔聖ピエートロにゆだねられた二つの鍵。これは天国へ入る鍵だが、その鍵を旗印にした軍隊がキリスト教徒を相手に戦うのはおかしなことだ、ということ〕が、
洗礼をうけた人たちと戦うための
旗印《はたじるし》となるのも わしの意に反しているし、
売買される虚偽の特典〔免罪符〕の印形《いんぎょう》として
わしが使われるのも 迷惑至極のことだ。
だから、わしはときとして かっとなって怒りに燃えることもある。(五四)
牧者〔司祭〕のなりをした貪欲な狼どもが
どこの牧場〔司教教区〕にもいることが
ここからは見えるのだ。
ああ 〔教会の〕守護者であられるおん神よ、なぜお起ちになられませぬか。
カオール人〔法王ヨハネ二十二世〕とガスコーニュ人〔法王クレメンス五世〕が、わしらの血を飲もうと待ちかまえている。
往きはよいよいだが、帰りの何というみじめさだ。
だがな、スキーピオ〔ローマの将軍で、ハンニバルの軍を破ってローマの権威を守った英雄〕が救ってくれて、
ローマに世界の栄光を保ってくださったおん神の気だかいお心は、
わしの考えどおり、はやばやと救いに来てくださるだろう。(六三)
お前 生きの身の重さのゆえに、
ふたたび下界へもどる子よ、口を開けていうのだぞ。
わしが隠さなかったことは隠してはならないのだ」
天の牡牛座の角《つの》が 太陽にふれる〔サソリ座に太陽があるとき、すなわち十二月から一月にかけて〕と、
水気《すいき》は凍って雪の片《ひら》となって、
わたしたちの大気のなかを降りくだるものだが、
ここ〔天上〕でわたしたちととどまっていてできた
勝ちほこった水気が、雪片となって昇り〔福者(神に祝福された霊)たちが、雪の片のように空中にただよって至高天へ帰っていった、ということ〕
ひらひら精気《エテーラ》を飾っているのを わたしは見た。(七二)
わたしの目は彼ら〔光の聖霊たち〕のうしろ姿を追った。
中ほどまでは目でも追えたが、遠すぎて
それらはひどく先きまで行ったので わたしの視野はとざされてしまった。
わたしの目が追うのをやめたと見ると、
夫人はわたしにいった、「目を下界にやりなさい、
そなたがどれだけ回ったか見てご覧」
それは、はじめわたしが見たときからすると、
〔地球の〕第一の帯《クリマ》〔クリマというのは、古代の地理学者が北半球を七帯に分けたもの〕の中ほどから端までの
弓なりの弧〔エルサレムの子午線から、地中海の涯のイスパニアの子午線までつながる弧〕を すっかり回っていることがわかった。(八一)
だから、カディス〔ジブラルタル海峡近くの大西洋に面した港〕の彼方には オデュッセウスの
気違いじみた船路〔オデュッセウスの船は、その辺の海で沈んだという伝説がある〕が、またその手前には、
エウロペ〔フェニキア王アゲノールの娘。ゼウスが牛に変身して彼女を背にのせて連れていった〕が〔ゼウスの神の〕たおやかな荷となった岸辺〔フェニキアの岸〕も見えた。
もし太陽がわたしたちの足もとで
黄道の十二宮の余も わたしの先きを進んでいなかったなら、
この麦打ち場〔地球〕の〔東の〕部分がもっと現われていたにちがいない。
いつもこの淑女に身をささげて 恋いこがれているわたしの心は、
つねにもなく燃えるまなこを
あらためて彼女にそそいだ。(九〇)
ひとの心をとらえるためにたとえ
自然や芸術が 人間の肉体や絵姿をもって
目をとらえる餌とするとしても
それらすべてを合わせたところで、
笑みをふくんだ彼女の顔をふり向いたときの
わたしを照らした神々しいよろこびにくらべると、たぐえるものもないかと思われた。
わたしに与えられたそのひとの目の力は、
レダのうつくしい巣〔双子宮〕から わたしを引き離して
回転のすばらしく迅い天〔原動天〕へと わたしをかり立てた。(九九)
この天の 〔地球に〕もっとも近い部分と もっとも遠い部分とが一様だったから、
ベアトリーチェがわたしに選んでくれたところが どこだかを
いうすべも わたしにはないのである。
しかし わたしの願いをさとった彼女は、
おん神のよろこびがその面輪に感じられるように
ひどく愉しげに 笑みをふくんで いいはじめた、
「中心が静止していて それをめぐるいっさいが動くという
この〔天上の〕世界の性質は、
その源から出るように ここ〔第九天〕から動きはじめるのです。(一〇八)
そして、この天は、おん神のお心のほかには別に場所をもっておりません〔原動天は場所をもたない。それはただ神のこころのなかにのみあるからだ〕ので、
おん神が雨とお降らしになる力と、それを回転させる愛〔原動天は至高天を慕ってまわっているが、諸天をそれに結びつけているのは愛である、ということ〕は、
そのお心のなかで燃えかがやいているのです。
一つの圏の光と愛〔至高天のこと〕とが この天〔原動天〕を包んでいるのですが、
そのやり方で、この天は ほかの〔八つの〕諸天を包んでおります。
そして その〔光と愛の〕天圏は、それを包むおん神だけが支配しておられるのです。
この天の動きはほかの諸天の動きから決められはしませんが、
ほかの諸天はこの天〔原動天〕によって決められています。
それは、十が五〔半分〕と二〔五分の一〕とで計算されるようなもの〔五を二倍したり、二を五倍して十を得るようなものだ、とのこと〕です。(一一七)
またそれは、時がその〔見えない〕根をこの鉢〔原動天〕におろし、
別の鉢〔諸天〕にその〔見える〕葉を出させるようなことは、
いまでこそ そなたに説き聞かせることができるのです。
ああ 貧欲よ、お前は生きとし生けるものをお前の下に埋め、
お前の波のそとへ目をもたげることを
だれにも許さないのです!
意志は、ひとびとのうちにきれいな花をつけさせるが、
降りつづく雨が
ほんとうの李《すもも》を腐れた果実に変えています。(一二六)
信頼と純真さはただ幼児のなかにしか見られません。
それからは ひげが頬をおおう前に、
どちらかがさきに逃げてしまうのです。
片言をいうあいだはまだしも〔子供のあいだは〕 断食するひとも、
そのあと舌がまわるようになると、
どんな月でも〔復活祭のある月でも食禁を守らない、ということ〕 片端から むさぼり食べるのです。
舌のまわらぬあいだは、母親をしたって いうことも聞くが、
弁が立つようになると、
母親には墓場で会いたいなどと想うことになるのです。(一三五)
こうして 朝をもたらし夕べをのこすもの〔太陽〕の
うつくしい娘〔この「うつくしい娘」については、異論が多くて、人間、月、地球、光、暁など、さまざまである〕の初姿にふれると、
その肌が白くなったり黒くなったりするのが人間です。
そなたが別におどろくにはあたりません。
考えてもごらんなさい、この地上には支配する者が一人もいないのです。
それで ひとの家の子たちは あんなにも道をふみはずすのでございます。
しかし、下界で〔ひとが暦の〕百分の一をなおざりにするために〔ユリウス・カエサルが改定したユリウス暦では、一年を三百六十五日と六時間としたので、これを実際に経過する時間と比べると、一年に約十二分、一日に約百分の一の差ができる。この差が積もって、百年間に一日となる。だから、何千年も経つと、暦は実際の日とはひどくずれてしまって、一月は冬もすまないうちに春が来るだろう、というのである〕
一月の前に 冬を越して春が来ようものなら、
この天上の環には嵐が吹くでしょう。(一四四)
ながく待ち望んだ幸運が、
〔船の〕艫《とも》を舳《へさき》の位置へまわし、
それで船隊は正しい航路を走るでしょう。
真《まこと》の実は その花のあとから出来るでしょうからね」(一四八)
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第二十八歌
ダンテがふり向くと、ベアトリーチェの目にひときわ強い光がうつっていた。その光の本体は何かと見つめていると、ダンテの目もまぶしくて見えないほどだ。それは、彼女の話では神の光だ、という。その光を原点として、月の暈《かさ》のように九つの火輪がとりまいている。中心の原点に近いほど、その回転の速度が早い。その火輪について、ベアトリーチェはダンテに、この天体の構造のことを説明する。すなわち、第一の位階は熾天使、知天使、神の座の天使のいる環、第二の位階は統治、権能、権力の神がいる環、第三の位階は主権の天使、大天使、天使のいる環で、この九つの階級に分かれた天使が、九つの天と対応して天国をつくっているという。すべて神観による天体の構造である。
わたしの心に天国のよろこびをスたたえさせた夫人《ひと》が、(一)
現実の人間のみじめな世界にさからって
その真実〔のすがた〕を知らせてくれた直後のことだ。
ひとには、背後でともされた蝋燭の火だけに、
それを見もせず 見ようという気がなくても
炎はそのひとの前にある鏡にうつるのが見えるものだ。
そこで、鏡面が真実をあらわしているかしらとふり返ってみると、
楽譜と歌とがぴったり合うように、
その炎と映像の一致することが ひとにはわかるのだ。(九)
思いかえすと、愛がわたしをとらえる紐《ひも》として
わたしにあのうつくしい眼眸《まなざし》〔ベアトリーチェの目〕を見つめさせているうちに ふり返らせたのも、
蝋燭の火にふり向いたのと同じことだった。
わたしがふり向くと、その天のなかの
いつもの軌道でよく見かけたと思われるものに、
わたしの目は とらえられてしまった。
その一つの点〔神〕の 鋭い光のぎらぎらしてるのが わたしに見えたが、
それは灼熱しているので その射るような力のために
目は閉じないわけにいかなかった。(一八)
下界ではひどく小さい星に見えても、
二つ星のように その光点とそこで並ぶことでもあれば
〔その星は〕月ぐらいに大きく思われるにちがいない。
靄《もや》が深くなって〔月に〕暈《かさ》がかかると、
その暈は それに色をそえる月からすこし離れたところで
円く輪をつくるものだが、
あたかもその月と暈《かさ》くらいの隔りをもって、
その光点のまわりを 炎の群〔輪のかたちに並んだ天使群のセラフィーノたち〕が輪になってまわっていた。
その速さは その天をめぐる〔原動天の〕速さをしのぐかと思われるほどだった。(二七)
そして その輪は第二の輪に、第二の輪は第三に、
また第三の輪は第四に、第四は第五に、
第五は第六の輪にというふうに囲まれていて、
その上には さらにひろびろと第七の輪があったが、
その大きさは ユノーの使いの〔|虹の《イリス》〕全身は容《い》れられまいと思われるほど狭かった。
それに、第八の輪も第九の輪も
同じように中心の輪を囲んでいたが、
それらはどれも、中心の輪から
遠のくにつれて 動きはゆるくなっていた。(三六)
〔それらの輪の〕炎は、きよらかな炎〔の点〕から離れることのすくないほど
おん神のお心にあずかることが多いと見えて、
その煌《きらめ》きはいちだんと冴えて きらめいていた。
わたしが深く思いまどっているのをみて、
わたしの淑女はいった、「天も自然もすべて
あの一点〔神のこと〕にかかっているのですよ。
その点にいちばん近い輪〔天使セラフィーノの群〕を見てご覧、
あんなに早くまわっているのは、
あの点の愛のために燃えていることと ご承知になって」(四五)
そこで、わたしは彼女に、「もし宇宙が
いまわたしが見るこの順序にきめられているのでしたら、
目の前にあるもののことは納得がゆきます。
しかし、感じから申しますと、世界のもろもろの回転は、
その中心〔地球〕を離れるにしたがって
ますますおん神に愛され その動きも早くなるようです〔第九天の九つの火輪がその中心の神の火に近いほど、神々しくて回転が速い、というベアトリーチェの説明に対して、実際の感覚からいえば、地球を中心とする場合には、それとは逆なのはなぜかという疑問がダンテに起こる。それが、人間の認識できない神観的な宇宙構造と、感覚的にも把握できる地球中心の宇宙構造との相違ということになる〕。
ですから、愛と光のほかには何の境もない
このすばらしい天使がたの宮居で、
わたしの願いが許されるのなら、(五四)
どうして実物〔感じられないもの〕と模型〔感じられるもの〕とが 一つの型にうまくかみ合わないのか〔感覚できる輪と感覚できない天使の輪とが、なぜかみ合わないか、ということ〕、
わたしはかさねてお聞きしなくてはなりません。
自分でそのことを考えても無駄ですから」
「そなたの指でこの結び目がとけなくても、
あやしむにはあたりません。解《と》こうとしなかったので、
〔結び目が〕きつくなったまでです」
夫人はこういって、さらにつづけた、「そなたが納得しないのなら、
そのことにするどく気をつかって
あたくしの申すことをよく聞きなさい。(六三)
この九つの天は、その天のはしばしにゆきわたる
力〔上から受けて下へ伝える力の〕の多い少ないにしたがって、
広くもなり狭くもなって つくられます。
善が大きければ それのもたらす福《さいわい》も大きいのですが、
この大きな天体は、そのはしばしまで一様に完全であれば、
それが容《い》れる福《さいわい》もまた大きいわけです。
それゆえ、自分ともどもに
ほかの宇宙をすっかり引きずっているこの天〔原動天〕は、
愛と知のいちばん深い天の輪〔至高天〕と相応じているのです。(七二)
そなたがそなたの物指しを、
円く見える外観ではなくて
それを囲んでいる力にあてたら、
天がめいめい 大きなものは多く
小さいものはすくなく、それぞれ立派に
その知恵に対応していることがわかるでしょう」
北風《ボレーア》が、いともなごやかに頬の方角から吹くと、
半球の空は、透けるように澄みわたって、
さきに霧《きら》っていた靄《もや》が吹きはらわれ、(八一)
その〔日輪、月、星などの〕仲間の美しさをともなって、
ほほえんでいたのである。
わたしの淑女が、
そうわたしにはっきり答えてくれたとき、
わたしもそんな気がして、
真実が空の星のように わたしには見えた。
それから そのひとの言葉がとぎれると、
灼けとろけた鉄に火花が立つように
とたんに 天の環がきらめいて 火花を散らした。(九〇)
その閃光《きらめき》はつぎつぎにとんで 燃える輪とともにまわったが、
その数はおびただしく 将棋の目の数〔六四〕を自乗したより〔第一の火輪に熾天使の多いことをいうために将棋盤の目の数を自乗した数といっている〕も
何千も多い数だった。
それらの光を いつもいたところに これからもつなぎとめる不動の〔神の〕点に向かって、
合唱がつぎつぎに
ホザンナ〔聖歌〕を歌うのが聞こえた。
すると、わたしのこころの疑いを見抜いた夫人がいう、
「はじめの第一と第二の輪〔第一の輪は第一級の天使で原動天。第二の輪は第二級の天使で恒星天〕は、
そなたに熾天使《セラフィーノ》と知天使《ケルビーノ》とを さし示しているのです。(九九)
その天使たちは なんとかしてその点〔神〕に肖せようか、
どんなにか〔神に近づいて〕神々しく見せようかと、
あんなに急いで それらの絆《きずな》にしたがっているのです。
その天使たちのまわりを行く別の愛たち〔天使たち〕は、
おん神の 影の玉座〔土星天を司る天使のいる輪〕と呼ばれていまして、
これで 第一級の三つの天使の火輪〔階級〕が終わっているのです。
いっさいの知恵が平安を得る真理〔神〕のなかで、
その目の洞察が深ければ深いほど
それがいっさいのよろこびとなることを知らなければなりません。(一〇八)
〔おん神にさずけられる〕福祉が、目で見ることによるのであって、
そのあとからの愛するという行為に由来するものでないことが、
よくおわかりでしょう。
しかも 見るということは功徳によって定まることですし、
その功徳は おん神の恩寵とめいめいの善意とから生まれるものです。
万事はこういう順序で進んでいっているのです。
さて、第二級の天使の階級は、〔秋の夜の〕白羊宮さえ奪うことのない
常春のなかで芽ばえていて、
三つの声音《こわね》で 春の鳥のようにホザンナを唄いつづけています。(一一七)
その歌声は この天使の位をかたちづくっている
よろこびの三つの階級のなかで
ひびきわたっているのです。
この第二級の天使のなかには 三つのおん神の力がおられるのですが、
その一つは統治〔木星天の天使の位〕、つぎには権能《ちから》〔火星天の天使の位〕、
第三は権力〔太陽天の天生の位〕でございます。
それについで、最後の輪から二番目に 歓喜の宴で大さわぎしているのは、
〔金星天を支配する〕主天使と〔水星天を支配する〕大天使ですが、
しんがりに舞っているのは、どれも楽しそうな〔月天を支配する〕一般の天使たちです。(一二六)
これらの階級の天使がたは みな天上を見つめておりますが、
下界にもこうしてつながっていて、おん神の方へ
〔下界の〕すべては引きつけられていますし、天使がたも〔それを〕引きつけておるのです。
ディオニュソス〔ディオニュソス・アレオパギータの名で『天使位階論』の作者と見られていたひと。偽書の作者として有名〕もかつて この天上の階級のことを
ひどく熱心に考えたあげく、あたくしと同じように、
それらに名をつけて分類をしました。
しかしその後で グレゴリウス〔法王グレゴリウス一世は、その著『福音説教集』に、天使の階級を論じているが、権威の天使と主権の天使の位置をとりちがえたので、あとで昇天して自分の誤りに気づいて「苦笑した」のである。ついでに、天使の九つの位階をまとめると、次のようになる。熾天使、知天使、玉座の天使、統治の天使、権能の天使、権力の天使、主権の天使、大天使、天使、の順である〕は異説を唱えたのです。
それだけに、彼が天国へ来て その目で見るに及んで、
思わずわが身をかえりみて苦笑したのです。(一三五)
こんなに〔天国の〕神秘が、地上の人間たちのあいだで 取沙汰されたといっても
別におどろくことはございません。
この天上でそれをご覧になったお方〔聖パウロ〕が、その光の輪〔天使の輪のこと〕のことを、
ほかの尽きせぬほどの真理とともに お明かしになられたからです」(一三九)
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第二十九歌
まだ第九天の原動天での、心のうごきの続きである。神の概念のなかにダンテの疑いを読みとったベアトリーチェは、天使と天球と地球の創造のことで、神の出現に時間と空間の制限がないという、神学的な第一前提を語り、さらに天使というものの性質を説明する。そのかたわら、彼女は福音書を離れた異端の教父たちの臆説を論破して、最後に、永遠に一である神と、数えきれないほど多い天使たちとの関係についても語る。ダンテがここで論じている神の本質、神と宇宙の存在などの見解は、おおむねトマス・アクィナスの神学説によっている。
ラトナの二人の子たち〔日と月〕が、(一)
ふたりとも 牡羊《おひつじ》座と天秤《はかり》座〔の星々〕におおわれて、
いっしょに地平線を帯として巻くときには、
それぞれに 半球に所を変えつつ、その帯からとき放されるときまでは、
その天の中心点〔神〕から
釣り合いを保っているのも束の間のことだが、
ベアトリーチェは、さきほどわたしの目をくらました
その極点〔神〕をじっと見つめたままで、
ほのかに色さした顔に笑みをうかべて 黙っていた、(九)
やがて彼女はいった、「そなたが口に出さなくても、
ききたいことを申しましょうか。
そのことを、あたくしはいっさいの所といっさいの時の集まるあの一点〔神〕に見たからです。
完璧な善であるおん神には、何かの善をつけ加えることはないし、
またあり得ませんから、その光をかがやかせて
≪我は有《あ》りて在《あ》る者なり≫〔神のこと。エホバがモーゼに自分を確認させたときの言葉。何ものにも創られたものでなく、無窮の以前から存在していたもの、の意〕といわれるように、
その無窮のなかで 想いのままに、
永遠の愛を新しいもろもろの愛のなかに
お現わしになられたのです〔被創造のなかに自分を現わしたこと。すなわち、創造〕。(一八)
といって、おん神は宇宙を創られる前に
埒《らち》もなくおいでになったわけではございません。
おん神が水の面をお動きになられた〔『創世記』に「神の霊水の面を覆ひたりき」(一・二)とある。ここの前後は、創造以前には時間がないから、その前とかその後とかいうことはできない、ということをいっている〕のは、後も前もなかったからです。
形相〔天使〕と質料〔地球〕とは、結びついたもの〔天球〕となり、離れたものとなって、
完全な存在として おん神のお心から出てきたのです。
あたかも三本の弦《つる》〔父と子と聖霊〕を張った弓〔神性〕から射られた三本の矢〔天使、地球、天球〕のようなものです〔形相《フォルマ》そのままのものは天使で、質料《マテリア》そのままのものは物質で、形相と物質とが結合したものが、それぞれの天と理解するといい〕。
それは、あたかもガラスや琥珀や水晶に光がはねかえるようなもので、
光が入ってきて光るまでには
時間の隔たりはまったくないのです。(二七)
おん神がお創りになったこの三様のものも、
それと同じように、その初めには時のあとさきはなくて、
みんな同時に ものとして光ったのです。
そして、その実体〔形相すなわち天使〕に対しても、
〔三つの階級の〕秩序と構成がつくられました。
したがって、それらの実体〔天使たち〕は、
純粋な行為〔唯一の神〕がお生みになった宇宙の頂点にいたのですし、
他の働きをうけるばかりの純粋な質料〔物質〕は、もっとも低いところ〔地球〕に置かれて、
その〔天使と質料との〕中間には、〔形相と質料との〕力〔天使〕が、行為〔神〕と切り離せない絆で結びつけられているのです。(三六)
ヒエロニムス〔最初の聖書学者といわれる教父で、聖書のラテン語訳ヴルガータをつくった人。ダンテの聖書知識はヴルガータに拠ったものと思われる〕は、長々とそのことについて、
むしろそのほかの宇宙が造られたときより
数世紀もさきに 天使がつくられたと記していますが、
そのことの真相〔天使と他のものとが同時につくられたという真相は、聖書の多くの個所に出てくる、ということ〕は、聖霊によって作者たち〔福音書の作者たち〕が
いろんな立場でかいていますから、
うまく掴めば そなたにもわかることです。
それからまた、理屈からいっても、天をうごかす者〔天使〕が、
そんなに長いあいだ完全にならずにいたということは、
すこしおかしいと見ているのです。(四五)
そなたはいまこそ これらの愛が、
いつ〔宇宙のほかのものといっしょに〕 どこで〔宇宙のいちばん高いところで〕 どうして〔純粋な作用をするように〕 創られたかを知りました。
それゆえ、そなたの願った三つの炎は このように消えてしまっているのです。
二十まで数をかぞえる暇もあらば〔天地創造の後まもなく〕こそ、
天使のあるもの〔ルチフェルロを意味するか〕は、
そなたたち低い層の〔水、大気、火などの〕要素をかき乱しましたが、
ほかの天使は居残って、そなたにもわかるように、
とても愉しげに その仕事をはじめて
〔天を〕まわりましたが 道をはずれることなど 夢にもございません。(五四)
〔天使が〕天から最初に堕ちた原因は、
宇宙のあらゆる重みから引っぱられた
かの者〔ルチフェルロ〕の呪わしい傲慢だったのです。
ここでそなたの見る天使がたは、慎ましくて、
おん神の善によって すごく聡《さと》い性につくられたことを
ご自分でもさとっておられるのですが、
かがやく恩寵とその身の功徳とで
そのおん神を見る力がたかまっておりますので、
あんなにも望みがかたく 完全になっているのです。(六三)
それで、あたくしはそなたがそれを疑うことを望みません。
それどころか、恩寵をうけるのは功徳によることですし、
その功徳が愛と思いやりの 大小によることはたしかだからです。
もしあたくしの言葉がよく理解できるのでしたら、
別にほかの助けなどかりないでも、
いまでは、これらの天使がたについては そなたは十分に理解できると思います。
しかし、下界のそなたの学派〔トマス・アクィナスの神学〕では、
天使の性質を 理解と記憶と意志というふうに
教えられていますから、(七二)
そんなあいまいな読み方のため
下界でこんがらがっているその真実を、
そなたがはっきり見わけられるように あたくしは重ねて申しましょう。
これらの天使は、おん神の面輪をあおいで
よろこびを覚えてからというもの、
何一つお隠しにならぬそのお顔から 目を離そうとはいたしません。
ですから、天使の目は、新しいものにそそぐこともなく、
こころから離れるという理由で
観念はそれを思いだす必要もございません。(八一)
下界で 天使が記憶〔ダンテは天使には記憶力がない、と考えている。天使は神の顔に過去、現在、未来の万物を見るのだから、記憶力を必要としないというのである〕をもつものと教えられたひとが、
白日に夢を見て 真実を告げていると信じたり信じなかったりしているのですが、
そう信じないひとは さらに罪ふかく恥の多いひとです。
そなたらは、いろんな見せかけの愛や考えを
もちはこんでいるので、
一筋の哲学する道を下って行ってはいないのです。
しかし、この天上では、
福音書がうとんじられたり 曲げられたりするのと比べると、
〔その過誤は〕まだしも軽くあしらわれて 許されているのです。(九〇)
〔聖書の真実を〕世にひろめるために どんなに血が流されたか、
その聖書につつましく近づくひとを おん神がどんなにお喜びになるかということを、
地上では ひとは考えていないのです。
ある者は見せかけで 自分の思いつきに
頭を働かして それを出すのです。
その思いつきが 世に受けてまかり通り 福音書がしゅんとするのです。
ひとは申します、キリストさまの受難のとき、
月はしりぞいて〔月と太陽の〕中間に入り、
そのため太陽が地上にそそがなかった、と。(九九)
また別のひとはいっています、それは光が自分で隠れたからだ、と。
その証拠に、同じ日蝕を ユダヤ人ばかりか、
スペイン人でもインド人でも見ている、と。
フィレンツェ〔の府〕にラーポ姓、ビンディ姓〔ありふれた名〕の者が多いといっても、
年がら年じゅう、あちこちの説教壇で叫ばれている
〔ジョルダーノの〕浮説の数には及びもしません。
それとは知らずに 羊たちは、
風を食《は》んで〔風は風説、羊は信者。信者が真理を糧とできないで、というほどの意〕 牧場から戻ってくるのですが、
その災いがさとれなかったからといって いいわけにはなりません。(一〇八)
キリストはその最初の弟子たちには、
それらの真実の礎〔福音の真理〕をおさずけになられて、
「行きて世に徒言《あだしごと》を述べ伝えよ」とは おっしゃりはしなかったのです。
そこで、弟子たちは 口々に
信仰をもやすため 戦いにはそれを唱え、
福音書を楯とも槍ともしたのです。
しかし、昨今では、説教は面白《おもしろ》おかしく 酒落まじりで笑わせるばかりで、
僧帽は風にふくらみ〔虚栄にふくれあがって、ということ〕、
もうそれ以上〔のこと〕は 求めようとはしないのです。(一一七)
でも、その帽のとんがりには 例の鳥〔悪魔〕が巣くっているのです、
もし俗衆にそれが見えでもしようものなら、
教父に打ちあける罪の許しの何かがわかるでしょう。
そんな状態で、地上には愚かしいことがたくさん出てきて、
確かな証しさえ ろくにないのに、
救いの約束といえば 何にでもひとが駆けつけるのです。
そのため、聖アントニウス〔エジプトの隠者で施し物で豚を飼っていた。その後彼の名の意味が変わって、ここでは世俗的な聖職者ということになっている〕は豚をこやし、
さらに、豚よりも豚みたいな奴らが、
贋金をばらまいて罪を許してもらおうという始末です。(一二六)
しかし、あたくしたちは〔話が〕だいぶ脇道にそれましたので、
これからは本筋に立ちもどって 目をそこへ向けましょう。
道も時間も はや残りすくなになりましたから。
天使の性をもつ者は、ことのほか数が多くて
にんげんの言葉も 観念も
とても その数を追いきれないのです。
そなたがダニエル〔『ダニエル書』に「彼に仕ふる者は千々、彼の前に侍る者は万々。審判《さばき》すなはち始りて書《ふみ》を開けり」(七・一〇)とある〕の明らかにしたことを考えでもすれば、
あの何千という数字には
かくされた数のあることに察しがつくでしょう。(一三五)
天使たちのすべてを照らす
第一の光〔神〕は、それをうける天使たちによって、
さまざまな形でうけとられ、その数と同じかがやきとなって光るのです。
しかも愛はおん神をうける力にしたがうものですから、
〔おん神に対する〕愛のうつくしさにも
天使によって 熱いぬるいの差があるのです。
さあ、いまこそ 永遠の価値の高さ その大きさを そなたは見るのですよ。
おん神は あの数多くの鏡のなかで こなごなになって反射しておられますが、
ご自身にとどまっておいでになるのは
初めのように 神おひとりだからです」(一四四)
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第三十歌
第九の天にいた天使たちの光の輪がうすれると思う間に、ダンテはベアトリーチェとともに、第十天の至高天へ入っていた。そこは「神秘なバラ」と呼ばれる天上でも最高の天で、天使の群と祝福された人の群が、バラの花びらのように輪になってひろがっている世界である。ベアトリーチェはダンテを、そのバラの花形の光彩の中心にある黄色の芯の部分へ連れていく。そこの円形のきだはしには、天国の市《まち》があり、深く神に嘉《よみ》された福者の座がある。その座はおおむねふさがっていて、わずかしか空いていない。その一つにはやがて皇帝アルリゴ七世が来るはず、というのもある。それほど現在では神に祝福される霊魂がすくなくなっているのである。
およそ六千マイルはあろうかと思う遠みに、(一)
第六時〔正午〕の光がゆらぐと、
この世界は すでに水平線にその影をおとしていて、
わたしたち〔の頭上〕にふかぶかとひろがっている中天が白みそめると、
そこばくの星は その空の奥処《おくど》へと
その光を消していた。
そして、太陽の侍女〔あけぼの〕が さらにきらきらして出てくると、
空は 星から星へと消えていって
はては いともうるわしいもの〔金星〕にまで及んだ。(九)
わたしの目をくらませたあの一点〔神〕のまわりで戯れていた
あの捷《か》ちほこった光の歌〔九人の天使の合唱〕でさえ、
ご多分に洩れず それらが囲んでいたもの〔神〕から包まれて、
すこしずつ わたしの目からその光がうすれていった。
何も見えなくなったことと そのひとをいとおしむ心から、
わたしは目をベアトリーチェにうつさねばならなかった。
よしんばわたしが、そのひとについてここでいうことを、
この讃歌《ほめうた》〔天国篇〕のなかへ すっかり入れる破目になったとしても、
今度ばかりは ほとんどその役は果たせないだろう。(一八)
そのときわたしが見た彼女のうつくしさは、
わたしたち人間の感じをはるかに越えているばかりか、
それをすっかりおわかりになるのは おん神しかあるまいと わたしは確信するからだ。
この問題では わたしは一歩ゆずって及ばぬことを認めないわけにはゆかないのだ。
たとえ喜劇や悲劇の作者でも これ以上に
こんな問題に押し負かされたことはあるまい。
それは、太陽がよわい視力に対するようなもので、
そのあえかな微笑の記憶は、そうして
わたしのこころから心そのものさえ奪ってしまったからだ。(二七)
わたしがこの世で 彼女の面輪を見た初めの日から
この天上でそれをながめるこの瞬間まで、
わたしはわたしの歌をうたいつづけることをやめたことはない。
しかし いまはもう 彼女の〔天上の〕うつくしさを、
ぎりぎりまで歌いつくした芸術家のように、
歌いつづけるのを思いとどまることになるのである。
その言語に絶した彼女の光りかがやくうつくしさは、
この骨の折れる素材から手を引こうとしているわたしの喇叭よりも
もっと強いひびきを立てる者にゆだねるほどにまばゆかった。(三六)
そのひとは導師のしぐさと声音《こわね》をもって 口早やにふたたびつづけた、
「あたくしたちはすでに原動天を出て、
きよらかな光の天〔至高天〕へ入ったのですよ。
その光は知の光で しかも愛にみちています。
それはまことの善の愛で よろこびに満ちております、
あらゆる愉しさを越えるよろこびでございます。
この天で そなたは〔天国を護る〕第一〔天使〕と第二〔聖者〕の軍隊を見るでしょう。
ここで見るその一つの兵の姿〔聖者のほうの軍の〕を
そなたは最後の審判でも見るはずです〔人間の魂がふたたび肉をつけた姿を〕」(四五)
稲妻のひらめきが
だしぬけに目をくらますと、
さらに強い光さえ感じなくさせるものだが、
そのように、強い光がわたしの身辺に照り返して、
その光のとばりがわたしを包んでしまったから
わたしには何も識別できなかった。
「この天を鎮める愛は、
〔天国へ入る〕蝋燭〔至高天へ入ってくる魂をローソクと呼んでいた〕をその炎にふさわしくするために、
いつもこういう会釈〔第十天の魂は、そこへ来る者に光をかがやかせる会釈で、その天へ受け入れるという〕の仕方で 天に迎え入れるのですよ」(五四)
そういう短い言葉がわたしの耳に入ったので、
わたしはやにわに
自分の身内に力がたかまっていくのを感じた。
そして、わたしの視力は〔おん神のご加護によって」新たにもえあがり、
どんなにぎらぎらする光でも
わたしの目が支えられないものはなくなった。
見ると、そこには稲妻がきらきらするように
すばらしい春をいろどる両岸のあいだを
河のかたちに流れる光〔神恩の光。そのなかでかがやく火や火花は天使で、花は聖者〕があった。(六三)
その光彩の河からは あざやかな火花がとび出して、
それぞれの岸の花におちかかり、
さながらに紅玉を金地にちりばめるかのようだった。
それからは、〔花の〕香りに酔ったかのように、
火花はふたたびあのすばらしい河に沈み、
ひとつが沈むと 別の火花がとび出たりしていた。
「ここでそなたに見えるものが何か知りたいとて
そなたを燃やし せかしている高い望みが、
ふくらめばふくらむほど あたくしをひどく喜ばしているのですよ。(七二)
しかし、そういう〔知りたいという〕渇きをいやす前に、
そなたはこの水を飲まなければなりません」
わたしの目の太陽〔ベアトリーチェ〕は そうわたしにいった。
そして続けて、「出たり入ったりする流れと もろもろの宝石〔天使たち〕、
それに いろいろの草〔福者の魂〕のほほえみ〔草をかざる花〕は、
それらの真実をあらかじめ秘めている像《すがた》〔真実の姿はやがてダンテの目にも現われるが、その前にかりの姿であらわれているのがこれだ、という〕でございます。
〔それらが姿をあらわさないのは〕それらが青い実だからではありません。
むしろ落度《おちど》はそなたのほうですよ。
そなたの目はまだ十分に鋭くなっていないからです」(八一)
たとえ いつもより目ざめがおくれた幼児だといっても、
そのときのわたしが ふり向きざまに飲んだほど
いそいで乳をもとめる児はいまい。
わたしはその幼児のようにして、
目をさらに透きとおった鏡にすえるために、
飲めば目が利《き》くようになるという神聖な泉から流れでる〔光の〕波に身をかがめた。
わたしの瞼《まぶた》のふちがその水を飲む〔わたしの目がこの光にふれるやいなや、ということ〕と見る間に
それまで長々と見えていたその河は
たちまち円い輪のようになった。(九〇)
それから、仮面をつけていたひとが
それをとると、前とは別人のようになって
その面貌《おもつき》がすっかり変わるものだが、
まさにそのように、その花と火花との大きなにぎわいは、
わたしの目の前で変わって、
天上の二つの宮居がありありと現われてくるのが見えた。
ああ おん神の光輝よ、
わたしはそこに真の王国の高らかな凱旋〔それは、天上で凱歌をあげる天使と聖者だ。その前にある二組の宮居の人というのは、これである〕のさまを見ましたが、
その見たままを語る力をおさずけください。(九九)
その光はいや高いところにある。
それは ひとにおん神を見させるものだ。
そのおん神を見ることによってのみ ひとは平安をもつものだからだ。
その光〔さきほど河と見えていた光〕はすごく漠々として 円いかたちに広がって、
その輪はとてつもなく広漠とした
太陽の帯といってもいいくらいだった。
その顕《あら》われ方を見ると、それはすべて
光となって 原動天の頂天から反射していて、
原動天はそこで生命と力とをさずかっているのである。(一〇八)
草も木も花々も あふれ咲く春の季節には、
傾斜地《なぞえ》で かざりたてた姿を見ようとしてか
その足下の水を鏡にするものだが、
そのように、わたしたちをふくめて その天上に立ちどまった聖者たち〔天上に住んでいる聖者たちのこと。彼らは何千という階段《きだはし》にあるそれぞれの席にいて、見おろしているのだが、そのさまは円形劇場の客席のようである〕が、
その光に幾重にも取り巻かれて見くだしながら、
何千というきだはしから その光に姿をうつしているのが見えた。
だが、いちばん低いきだはしでさえ
こんなに多くの光が集まるとすると、
このバラの花の外側にある花びらの大きさはどんなだろう。(一一七)
わたしの目は、そんな広さにも高さにも
とまどうことがなかったばかりか、
かえってその愉悦《よろこび》の量と質を すべてうけとめていたのである。
ここでは 近かろうと遠かろうと 見える見えないということはない〔天国では、近いからよく見え、遠いから見えにくいという、自然の法則は通用しない〕。
それは、おん神がおん身直接に支配なさるところだから
自然の法則は何の役にも立たないからだ。
常春のその太陽〔神〕を讃える香りが
ひろがって きだはしを渡って 匂いを立てている
その永遠に凋《しぼ》むことのないバラの花の黄色い芯のさなかへと(一二六)
話したい気を抑えておし黙っているひとのようにしているわたしを
ベアトリーチェは引き入れてから いった、
「ご覧、この白衣のひとの集まりはどうでしょう!
天国の府《まち》の周囲がどんなに広いか 見てご覧。
あたくしたちの座はあんなにいっぱいになっているのに、
いまでは わずかの人しか〔この座を〕望めないのですよ。
はやばやと王の冠を置いてあるので、
そなたが目を〔あたくしから〕うつしたあの大きな玉座には、
そなたがこの婚礼の聖餐につく〔死ぬ〕前に、(一三五)
地上では皇帝となるはずの 高潔なアルリゴ〔ハインリヒ七世のこと。ルクセンブルク王だったが、一三○八年に選ばれて皇帝となり、一三一三年ダンテより前に急死した。ダンテはこの皇帝にイタリアの改革を期待していた〕の霊がすわるでしょう。
そのひとはイタリアを正道にもどすため
そこが用意のできぬさきに はやばやと行くでしょう。
そなたらが見さかいもなく貪欲にのぼせあがったさまは、
飢え死しそうになりながらも
乳母を叩きだす幼児と同じことです。
そんなとき、公然とまた内密に アルリゴと対立する者〔法王クレメンス五世〕が、
おん神の教会の長《おさ》〔法王のこと〕になるでしょうが、
そのひとはアルリゴと同じ道は行きますまい。(一四四)
しかし、おん神がその者に聖職をお許しになるのは ほんのわずかの間で、
その者は、魔術師のシモン・マーゴが
自分の業《ごう》の報いに投げこまれたところ〔地獄〕へ墜とされるでしょうし、
アラーニャ出の漢子《おとこ》〔ボニファキウス八世〕はさらに下へ押しこめられることになるでしょう」(一四八)
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第三十一歌
神に祝福された霊たちが、真白いバラの花びらのかたちに並んでいる。そこは、円形劇場のように、きだはしの段々が幾重にも花びらのかたちにつづいていて、外側から中心部の芯のところまで傾斜している。きだはしは外側から芯のところまで十八段あるが、その中ほどの九段目が境になっていて、上段が聖者たち、下段が無垢な幼児たちの座になっている。さらにそれぞれの段は、きまった霊の座になっていて、空席はあるが、だいたい詰まっている。そのバラの花々と神の間を天使がとびまわっているが、ダンテがうっとりして見とれているうちに、ベアトリーチェは自分の座に帰ったので、彼のそばにはいなくなった。彼女に代わったのは白い衣をつけた聖ベルナールで、その老翁があらたにダンテの道しるべになるのである。
そういうわけで、白妙《しらたえ》のバラのかたちに、(一)
キリストが血をおながしになって花嫁〔教会〕になさった
あの聖軍〔天上の聖者たち〕は、わたしの目の前にあらわれた。
また別の一軍〔天使たち〕が、自分たちの心をとらえたお方〔神〕の栄光と、
こんなにも神々しくしてくださるお慈悲とを、
とびながら ながめ かつ歌っていた。
さながらそれは、蜂の群が あるときは
花の芯にもぐり、ときにはその働きが
甘い蜜に変わるところ〔蜂の巣〕へ戻るように、(九)
そこの天使たちは、数しれぬ花びらでかざられた大きな花のなかに姿をかくし、
やがてその愛〔神〕がつねにおとどまりになる蜜房〔きだはしの座〕へと
ふたたび昇っていくのだった。
彼らの顔にはみな炎がありありと燃え、
その翼は金色で、そのほかはおおむね白妙の衣で、
雪もこれほど白くはあるまいと思うばかりだった。
天使たちがきだはしを座から座へと 花のなかへ降るときには、
おん神の近くまで羽搏いて昇りながら さずかった
平安と慈愛とを まわりの者にも降りそそいでいた。(一八)
その上の おん神のおられる所と花とのあいだにも
おおぜいの翔びかう天使の群があったが、
その光のかがやきは〔それを見る〕目の妨げにはならなかった。
それは、おん神の光が宇宙を
それぞれの功徳にしたがって 貫きとおしているからで、
何物もその光を遮ることができないからだ。
この安穏で きよらかに喜悦のみちている王国には、
古い世の民〔天使〕、新しい民〔聖者〕がひしめき合っているが、
ひたすらにある徴《しるし》からは その目と心とを離さないでいた。(二七)
ああ、三にして一なる〔三位一体の〕光よ、
あなたさまはただ一つの星〔光〕としてきらめいて 渇きをいやしてくださるのだ!
そして下界の わたしたちの嵐をご覧になっているのです!
あの大熊座がそのいつくしむ小熊座とともに
回りながらも日毎にかばっている北方から、
未開の人がながれてきて、
ラテラーノ〔の宮殿〕が
ほかの府《まち》の建物をはるかに凌いでいたころ、
ローマとその仕事の難渋さを見て 腰を抜かすことがあるとしても、(三六)
人間の世界から神の世界へ、
うたかたの時〔この世〕から永劫の時へと、
フィオレンツァから 健康で公正な民のいるところ〔天国〕へ来たわたしなどは、
どんな驚きで胆をつぶしたらよかったのだろう。
何も聞かず 何もいわずに
わたしはこころ愉しかったのだ。
そして 巡礼さながらに、
誓願をかけた神殿〔その至高天の天使や聖者が花のようにいならぶきだはしの世界〕のなかを見まわして 心をやすめ、
はやばやとそのさまを伝えようと望むように、(四五)
わたしは目を燃えるような光〔いきいきと白いバラの花のようにいならぶ聖者と天使たち〕にやりながら
いまは上、いまは下、そしていまは光のめぐっている
あのきだはしの方へと わたしは目を移していた。
そこに わたしは、おん神の光にきらめく愛を
説かないではおかぬ もろもろの面輪と
その微笑と 凜々《りり》しい物腰を見たのである。
わたしの目は すでに天国の布置をあらかた
見てとっていたが、かといってまだ
ある個所に目をとめて見つめはしなかった。(五四)
そこで、わたしの心にもまだ納得しないことどもを
問いただそうという思いにかられて、
わたしはベアトリーチェの方にふり向いた。
しかし、話をきいてもらおうと思ったその人と返事をしてくれた人は別だった。
わたしは彼女が見えるものと思ったのに、目に見えたのは
ほかの福者と同じ身なりの老人〔聖ベルナールのこと。パリのシトー修道院で修業したのちクレルヴォーに修道院をつくってその院長になった。黙想する教父の名があった〕だった。
そのひとは 目もとにも頬にも
やさしい喜悦の情があらわれていて、
へりくだった物腰で さながら慈父のように端然としていた。(六三)
わたしはすぐさまいった、「あのひとはどこですか」
その翁は、「お前の願望《ねがい》にきりをつけるように、
ベアトリーチェが わしを座から出したのだ。
最上段から数えて三番目のきだはしの座を見あげると、
その功徳に応じて割りあてられた彼女の座に
あれのいるのがお前にも見えるはずだ」
答えもせずに 目をあげると、
永遠の光がその身にはね返って
それが〔後光の〕冠になっている彼女の姿が目に入った。(七二)
よしんば、だれかの目が海底ふかく墜とされて
稲妻の鳴る天上から
ひどく隔《へだた》っているとしても、
そこでわたしの目とベアトリーチェとが離れているほどには ひどくなかった。
だが、その隔りは わたしには何の支障《さわり》にもならなかった。
彼女の像《すがた》が 霧にさまたげられて わたしのところまで降りて来ないわけでもなかったからだ。
「ああ 淑女《あてびと》よ、わたしの望みはあなたのなかから 生きる力が湧きでるのです。あなたは わたしを救うために
おいといもなく あなたの足跡を地獄にまで お残しになられました。(八一)
こうして くさぐさのことが わたしにわかったのも、
ひとえに おん神のお恵みとお力をお喜びになる
あなたのお力とお慈悲のおかげです。
あなたはあなたのお力の及ぶかぎり
あらゆる道 あらゆる手段《てだて》をつくして
わたしを奴隷〔この世の人間の生活はまるで奴隷のようだと考えたので、こういう言葉が出てくる〕から自由の身に引きだしてくださいました。
あなたにすこやかにしていただいたわたしの魂が、
あなたのお心に叶うように この肉体から解きはなされるように
あなたの大きなお力で わたしをお護りください」(九〇)
わたしはそう祈った。すると彼女は遠くからでもそれとわかるように、
ほほえみをうかべて わたしをじっと見つめていたが、
やがて 永遠の泉へと帰っていった。
すると、神々しい翁はいった、
「お前にお前の道をとどこおりなく行かせるために、
祈りとあのきよらかな愛とが わしを遣わしたのだ。
この園生《そのふ》のすみずみまで お前は目を翔《か》けめぐらせるがいい。
園生を見れば お前の目は
神々しい光を仰ぐにふさわしくなるにきまっているからだ。(九九)
この天上の女王〔聖母マリア〕、そのお方にわしは全身の愛をもやしているのだが、
そのお方がわしらに恩寵をおさずけになるはずだ。
わしはそのお方に忠実なベルナールだ」
ヴェロニカのお顔の痕〔キリストの顔容をのこした汗の布についての伝説。キリストが十字架を背負ってカルヴァリアの山を登る途中で、ヴェロニカという婦人が汗を拭うため布をさしだした。主が汗を拭うと聖顔がその布にのこった。いまもローマの聖ピエートロ教会に保有され、ときどき信者に展示されるので、それを拝もうとしてクロアチアのような遠方からもローマへ集まってくる、ということ〕を拝観に
はるばるクロアチアから来たひとででもあれば、
昔からの言い伝えなどにはあき足らずに
ご絵をおがむまでは 心のなかでつぶやくのだ、
「わが主のイエズス・クリストさま、まことの神さま、
あなたさまのお顔はこのようでございましたか」と。(一〇八)
わたしもその伝で、この世で黙想にふけって
この安らぎを味わったそのひとの
愛の心のもえさかるのを見るのだった。
「おん神に幸《さち》あわれた子よ」翁は語りはじめた、
「目をおとして 底ばかり見ていては、
この法悦はお前にもさとり得まい。
この天国がしたがい 帰依している
女王さま〔聖母マリアのこと〕の座が見えるまでは、
さらに遠くまで この光のきだはしを見ることだ」(一一七)
そこで わたしは目をあげた。と、さながらに朝のようで、
地平線の東の方が
日の落ちる方よりも あかあかと映えて、
いわば目を谷間《たにあい》から巓《いただき》の方へうつしでもしたかのように、
いちばん上の段の縁《へり》が どこにもまして
きらきら輝いているのが見えた。
そこは、かつてパエトン〔地。第十七歌にある故事〕が火の車をやりそこねたとき、
あの轅《ながえ》があったと思われるあたりで、
火がいちだんと燃えさかり そこここの光がしだいに衰えるかと思われた。(一二六)
それは、あの平安の焔竜王族《オリフラム》〔もともと古いフランスの王家の旗印だが、ここでは聖母マリアの御座を中心とした天の一部〕の〔図様の〕
まん中がばりばり燃えているのに
そのまわりはひとしく火勢がやわらいでいるのに似ていた。
そのまん中のあたりでは、何千という天使たちが翼をひろげて
きらめいて わざのかぎりをつくして
それぞれの趣向から天の祭りをたのしんでいた。
またそこで たわむれと歌の天使たちに
ほほえみかけるあえかなお方〔聖母マリア〕をわたしは見たが、
そのお方は そこのすべての聖者の目には歓喜《よろこび》でもあった。(一三五)
たとえわたしが 胸に想うことほど豊かに
言葉でいうことができたとしても、
その天使たちの歓喜のひとはしでも いい表わせはしないだろう。
ベルナール上人は、自分の灼くような愛の対象〔聖母マリア〕に
わたしの目が 食い入るようにそそがれているのを見ると、
ふかい愛惜の眼ざしでマリアさまをふり向いた。
わたしの目も さらにそのお方を見ようと願って燃えたっていたのである。(一四二)
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第三十二歌
その半円形の神の園生でのこと。聖ベルナールは、そのきだはしの座にいる魂のことを語る。最上段の聖母マリアからはじめて、イヴ、ベアトリーチェ、ラケル、サラと聖女たちをさし示し、マリアの右のアダムやモーゼ、マリアの左の聖ピエートロ、洗礼者ヨハネのことにもふれる。また円形のきだはしの、それとは反対の向こう側の座も、その中央の最上段から、福音者ヨハネ、聖フランチェスコ、聖ベネディクトゥス、聖アウグスティヌスと、きだはしを下り、さらにヨハネの右に聖女ルチア、左に聖女アンナと順ぐりにダンテに教え、最後に、「お前を助けられるのは聖母マリアの恵みだけだ」といって、聖ベルナールは、尊い祈りを唱えはじめる。
ベルナール上人は、その喜悦《よろこび》をたまわるお方〔聖母マリア〕の方をじっと見つめた。(一)
そして、みちびきの役目を引きうけると、
つぎのように あらたかな言葉でいいはじめた、
「マリアさまが閉じて膏油をお塗りになったあの創口《きずぐち》〔原罪〕を
はじめにひらいて 刺《とげ》をさしたのは、
マリアさまの足下にすわっている 世にもうつくしい女〔イヴ〕だ。
上から数えて三段目のきだはしの座には
そのイヴの下にラケル〔聖女ラケルは黙想の生活を送ったひと〕が、お前の見るとおり
ベアトリーチェと並んですわっている。(九)
サラ〔アブラハムの妻〕、レベッカ〔イサクの妻〕、ユウディト〔ヘブライの勇敢な夫人〕、それに
過《あやま》ちを悔いて≪われを憐みたまえ≫と歌った歌い手〔ダヴィデ〕の
曾祖母だったお方〔ルツ〕までが、
いま名をあげた順に バラの花びらを伝って
だんだんにさがって坐っているのが
お前にも見えるだろう。
さらに七段目のきだはしから下には、
聖女らと同じに〔そのバラの〕花の髪〔旧約と新約に〕をかき分けて
ヘブライの女たちが続いている。(一八)
〔至高天のバラの花びらにたとえられる聖霊の席のあるきだはしは、円形劇場のように円く階段状に上から下へとならんでいる。そして、分岐線のように上下に縦に二分されている。その一方の分岐線は最高の花びら、すなわちいちばん上にある最大の円形の列から、最低の花びら、すなわち光に接する最小の円形の列で終わっている。そして、それと対称的な反対側にも、上から下へと、最大の円形の列から最小の列へと相対的に分岐線ができている。きだはしは上半分と下半分が九段ずつあって、その一つの上半部には空席がなくて、キリスト以前の信者の聖者の座があり、下半分の九段は幼児の席ときまっている。その二本の分岐線のうち、その一つは聖母マリアからイヴなどのヘブライ人の女たちの席で、反対側のそれには、洗礼者ヨハネ以下、彼の仕事を完成した聖者たちが、左右にその足もとへと並んでいる〕
それは、キリストをどんなに信じてながめたかによるので、
それが神聖なきだはしを分ける
壁になっているからだ。
こちらの、花が満開になっている
その花びらのすべてには キリストの到来を
信じた人たち〔キリスト以前の信じた聖者〕がおおぜいいる。
あちらの、半円形のきだはしにはまだそこここに空席があるが、
そこには到来したキリストを信仰の目で見た人たち〔キリスト以後に信じた聖者〕がいる。
こちら側では、天上の貴女の栄ある座と(二七)
その下のほかの席とのあいだには
隔りができているが、
〔反対の〕あちら側とて同じことで、沙漠と殉教に耐え、
あとで地獄に二年もいた永遠の聖者、
偉大な洗礼者のヨハネの座は〔上段に〕離れている。
そのヨハネの下には、フランチェスコ〔アシジの聖フランチェスコ〕、
ベネディクトゥス〔ノルチャの聖者〕、アウグスティヌス〔聖アウグスティヌスのこと。三五四年、タガステ(ヌミディア)に生まれ、はじめ無頼のマニ教徒だったが、キリスト教に入信してから、信仰が燃えるようで、ギリシア哲学とくに新プラトン主義の方法で信仰内容を理論化することをはじめた中世最高の教父。その著『神の国』『見神録』などは信仰の書として古典的な価値をもっている〕、その他に、
円いきだはしを下の方まで分けられているのだ。
さて、お前はここで おん神の高いおもんばかりを仰ぎみるがいい。(三六)
この天国の園生では、
信仰の二つの面〔旧約と新約〕が同じように満たされるはずだからだ。
このきだはしを下りて 中ほどで二つに切れている場所には、
自分の功徳によるのではなくて、
ある条件のもとで他人の功徳による者がいることを
お前は知っておくがいい。
それらの魂はみな
自分で物を判断できる前に
〔肉体の絆《きずな》から〕解きはなたれた魂〔幼児〕ばかりだ。(四五)
お前がもし彼らを目で見、そのいうところを耳にするなら、
その顔つきや あどけない声で
それとさとることができるだろう。
いまお前はいぶかり あやしみながらも それを胸に抑えているが、
わしは、このお前の微妙な考えをしばりつけている岩乗な綱〔の絆〕を
解きほごしてやろうとしているのだ。
この広大な王国のなかには、
悲しみ 渇き 飢えがあり得ないように
故なくしてあるものは一つだにないのだ。(五四)
お前が目にするからといって、
それらは永遠の法で決められていることだ。
指に指環がはまるように いっさいが正しく照応している〔すべてが神の意志と一致している〕からだ。
だからこそ、これらの真実の生〔天上〕へ早まってきた者たちのあいだに
そのうける福《さいわい》に多少があるとしても
別に故なしとはしないのだ。
この天国では、おん神はあふれるばかりの愛と徳によって
安らいでおられるのだから、
だれひとり これ以上のものを あえて求めはしないのだ。(六三)
おん神は愉しげな眼ざしで すべてのひとの心をおつくりになり、
その思いのままに さまざまの恵みをおさずけになっておられる。
お前はここではおん神のお作業《しごと》を知るだけでたくさんだ。
そのこと〔「そのこと」というのは、人の魂にはそれが創られたときから、神にうけた恩寵の量には多少があること。しかしひとはそれを知ることで満足し、その理由はたずねるな、との意〕は、聖書のなかでも
母親の胎内のときから憤怒をもった双生児の話〔この話というのは、『創世記』に「其子|胎《はら》の内に争ひければ、然らば我いかで斯《かく》てあるべきと言ひて、往きてエホバに問ふに、エホバ彼に言ひたまひけるは、二つの国民《くにたみ》汝の胎《たい》にあり二つの民汝の胎より出て別れん。一つの民は一つの民よりも強かるべし。大《あに》は小《おとうと》に事《つか》事へんと」(二五・二二)とあることを指している〕で
お前たちにもはっきり記されてあることだ。
その故に、このような恩寵の髪の毛の色によって〔ひとの髪の毛の色が生まれながらにいろいろ異なっているように、各人の恩寵にも差がある、ということ〕、
至高の光〔神のこと〕がふさわしいものとして
冠をかざすことになるのだ。(七二)
だから、彼らがめいめい別のきだはしにいるといっても、
それはそれぞれの行ないの徳からではなくて、
はじめに〔おん神を見る〕目の鋭さのいかん〔最初に神を見る力の鋭さの差〕によるのだ。
世界ができた当初の時代なら、
無垢な幼児は、両親の信仰さえあれば、
救いをうけるには十分だった。
だが、その時代のあとになると、
男の児は割礼〔これはアブラハムに始まったという。それ以前の、アダムからアブラハムまでの時代は割礼はなかった〕をうけることで
けがれのない翼に〔天へ昇る〕力を得なければならなくなった。(八一)
しかし、恩寵の時代が来るに及んで、
キリストのお手で完全な洗礼をうけないあの無垢な児たちは、
下の方〔地獄の辺獄《リムボ》〕にとめられることになったのだ。
さあ、お前は主《しゅ》にもっとも肖《に》ておられるそのお方のお顔〔キリストにもっとも似た顔をもっているのは、その生母の聖母マリアだということ〕を仰ぐがいい。
そのお顔のかがやきだけが お前に
キリストとお会いする心がまえをさせてくれるからだ」
わたしには、あの高い天上をとぶようにつくられた
きよらかな魂〔天使〕たちのもたらす深い喜悦《よろこび》が、
それらの顔に降りそそぐのが見えた。(九〇)
およそわたしがこれまでに見たもののうちに
これほど わたしを深い感動にひたらせたものは ほかにはなかったし、
また別して これほどおん神に肖《に》る姿を見た経験も わたしにはなかった。
すると、さきに彼女のところへ降りてきていた愛の光〔主天使ガブリエル〕が、
≪幸あれかしマリア、お恵みに満ち足らい≫と歌って、
その前で翼をひろげた。
その神恵《みめぐみ》の宮居の四方からおこる
神々しい讃歌にこたえて、
ひとびとの姿も ひときわ清らかになるのだった。(九九)
「ああ 神聖なおん父上〔聖ベルナール〕。永遠の定めにおすわりになっておられた
あのうるわしい座からお起ちになって、
あなたさまはわたしのために この下までおいでくださいましたが、
あの天使さまはどなたでございましょうか。
わたしたちの女王さまのお目を
さながら火のようにあこがれて眺めているご様子ですが」
こうして わたしは、
あけの明星が太陽の光を浴びたように、
マリアの光にうつくしさの一段とましたそのひとに いま一度教えを乞うた。(一〇八)
すると、彼は応えた、「ありとある天使や魂がもちうるほどの
剛毅と優雅さは すべてあの天使のなかにある、
われらが望むほどのものをすべてふくめて。
神の御子がわれらの肉を背負うことを望まれたとき、
下界のマリアへ
棕櫚の枝をもって下りてきたのがあの天使だ〔勝利の象徴の棕櫚の枝をもって受胎告知に下ってきた主天使のガブリエル〕。
いいか、これからはわしの話にしたがって、
お前の目をうつして この正義と慈悲の帝《みかど》の国の
偉大な神父たちを頭にきざみこむのだ。(一一七)
あの上の 女王陛下にいちばん近くすわっておられる
もっとも幸福なお二人〔肉体的なアダムと精神的なピエートロ〕は、
このバラの花の二つの根のようなお方だ。
その左手に居ならぶのは、
大それた味見《あじみ》をしたため〔禁断の果実を味わったため〕に人類に
にがい味をなめさすことになった父親〔アダム〕だ。
その右手には キリストがこのうつくしい花の鍵を
二つながらおゆだねになった
神聖な教会の古い教父〔聖ピエートロ〕のおられるのが見えるだろう。(一二六)
槍と釘で得たうつくしい新婦〔教会〕がやがて遇うべき
苦難の時代を
死ぬ前に予言したお方〔ヨハネ〕もおられる。
その列のアダムの隣りには、忘恩で恒心《こうしん》がなく
裏切りやすい人民〔イスラエルの民〕がマンナ〔天上の糧〕で命をつないでいたころの
彼ちの指導者〔モーゼ〕がすわっている。
ピエートロと向かい合った反対側のきだはしで
聖女アンナ〔聖母マリアの母の聖アンナ〕が自分の娘を見るのがうれしくて
ホザンナを歌うあいだも 目を離さないのも見るがいい。(一三五)
また家長〔アダム〕の向い側のきだはしには、
聖女ルチアがすわっている。
あれは、お前が〔暗黒の〕森へ引き返そうと目を伏せたとき、
あの夫人〔ベアトリーチェ〕をお遣わしになったお方だ。
だが、お前がおん神に眠りを許される時は たちまちに過ぎてゆくのだから、
あり合わせの布地《きれじ》にあわせて服を仕あげる腕利きの仕立師のように、
話はしぼることにしよう。
そして目を原初の愛〔神のこと〕に向けることだ。 おん神の方を見つめながら、
できるだけ そのきらめきのなかへ突きすすむことだ。(一四四)
じつのところ、お前は翼をうごかして 進んでいるつもりでも
後ずさりするかもしれないからな。
恩寵を祈って それを懇望することだ。
お前を助けられるのはあのお方〔マリア〕のお恵みだからな。
お前は愛をもってわしについて来るがいい。
そうすれば、わしの言葉からお前のこころは離れはすまい」
そういってから 聖ベルナールは次の尊い祈りを唱えはじめた。(一五一)
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第三十三歌
この歌の冒頭は、聖ベルナールのマリアへの荘重な祈りの歌にはじまる。その祈りのおかげで、ダンテの見神の目はしだいに澄み、崇高な神の光の奥ふかく入っていくようになる。ダンテは神のお姿の片鱗でも歌にあらわしたいと、神に念じる。そして、彼はついに、一閃の刹那に、三位一体の神性と人性の結びつく神の神秘を直観することができた。そしてその天上の奥ふかく、万物をうごかす神の愛が、ひとしくまわる車輪のようにダンテの心を動かすことになる、神が太陽やもろもろの星をうごかすように。その法悦の天のなかで、ダンテはこの『神曲』の歌をとじるのである。
「母にして処女《おとめ》なるもの、おん神の子の女《むすめ》〔聖母マリア〕、(一)
つつましく またいかの被造物《みつくり》よりも尊く、
とこしえの 聖旨《みむね》によりて定められしもの。
御身こそ 人間の性をかくも尊からしむれ〔アダムの犯した原罪で堕落した人性を贖いで尊くしてくださったお方、の意〕、
ものみなの造物主《つくりぬし》さえ
そを御子となしたもうこと〔人間として生まれることを〕を厭《いと》わざりき。
その胎《たい》に おん神の愛のふたたび燃えし〔愛が御胎に燃えたというのは、神と人との愛で、そのさしさわりになるのが罪だから、救世主が世にお下りになって罪をつぐなわれたから、その愛が燃えたのだ、との意〕は、
とことわの平安《やすらぎ》に おん神の愛のほてりし故ぞ、
さながらに この花〔天上の花〕のひらくるごとし。(九)
天にして 御身は慈悲をもたらす午下《まひる》の燈火《ともしび》、
地にしあれば ひととしありて
のぞみの湧く泉〔みなもと、ということ〕ともあれ。
淑女《マドンナ》よ、御身はかくも大なる徳たかきおん方、
恩寵を欲る者の 御身にそを訴えざれば、
その望み 翼なくして翔けろうものぞ。
御身《おんみ》がいつくしみは、
そを願う者を救《たす》くるばかりか
おのがじし その願いに先んずることも多かり。(一八)
御身には憐みが、御身には悲《かなし》みが、
御身には権輿《ちから》が、御身には被造物《みつくり》の
ありとある善さえ なべて備わりたまいき!
いましここに 宇宙の
いや深き地の窩《あな》〔地獄〕より この天上にまで昇りて
魂《たま》しずむ世をことごとに見つくせる者〔ダンテのこと〕に、
願わくは 慈悲により 大き力を得させ給え、
かの者の眼を、いやはての救いの方へ
いや高くあげ得させたまわむことを。(二七)
おん神を見まく欲《ほ》りするその者ほどに
燃ゆること絶えてなかりし我〔聖ベルナール〕のゆえに、
わが祈念のかぎりを捧げて その足らざらんことを祈るものなり。
そは、御身がいっさいの雲をかの者より払い、
御身のとりなしをもて かのこころに
至上のよろこびを かの者に示そうずる故ぞ。
われはかさねて御身に欣《ね》ぎつ、
思うことならざるなき后《きさい》の宮《みや》よ、
おん神を見し後も その愛を害わず。かの心にとどめんことを。(三六)
御身の護りもて人間のうつせみにうち克ちたまい、
わが祈りにつれて 聖者とともに
合掌するベアトリーチェを見そなわしたまわむことを」
おん神がいつくしみ敬うマリアさまのお目は、
祈りを唱えるベルナールにそそがれた。
その眼ざしには いかにも信心ぶかいその祈りをおよろこびになる風情があった。
それから、マリアさまは永遠の光〔神〕へとお目をまっすぐにおやりになったが、
そのお目ほど ぱっちりとおん神をあおぐことは、
マリアさまのほかには だれもその恩寵をうけられなかったと思われるほどだった。(四五)
さてわたしは、すべての願いのいやはて〔神〕に近づいていた。
だから、わたしは、
身内にある願いの炎を消さなければならなかった。
ベルナールはわたしに 天をあおぐように
ほほえみながら 仕草《しぐさ》〔祈るように、というしぐさ〕で示した。だが、わたしは、
その前に みずからその欲するようにしていたのだ。
というのは、わたしの目は澄んできて、
もともと真実である崇高な光のかがやきのなかへ
ますます深く入りこんでいたからだ。(五四)
それから後で わたしが見たものは、
わたしたちの言葉よりはるかに強かったので、
言葉は目で見たものにたじろぎ、記憶もそのひどく度はずれたことに引っこんでしまった。
わたしはまるで、夢の中でものを見て、
さめた後では そこで起こった感じだけがあって、
こころに残るものが何もないひとのようだった。
それも道理、わたしの想いにあったものはすべて消えて、
そこから生まれた甘美なものだけが
いまだにこころのなかに雫をたらしていたからだ。(六三)
雪が太陽にとけるのも、
木の葉にかいたシビルラの巫女《みこ》〔ナポリの西のキュマエの巫女のこと。その神託は木の葉の上に書かれて、順序よく洞窟の中にしまってあるが、風が吹くと、とび散って見にくくなる、という意〕の宣託が
風に散るのも こんなものか。
ああ、にんげんの想いを越える
いや高い光よ、あなたさまがお出ましになったことを
すこしでもわたしのこころに呼びおこし、
また あなたさまのきらきらする火花の一つだけでも、
わたしの舌をもっと強くして
後の世のひとに残すことができますように。(七二)
それは、わたしの記憶にいささかでも立ち帰ることで
また この歌にすこしでもひびかせることで、
あなたさまの勝利がさらに知られると思うからだ。
わたしが堪えていたあのきらきらした光の鋭さに、
もしわたしの目をそれからそらしでもしていたら〔神の光は、それから目をそむけると、目がくらんでふたたび見ることができなくなるということ〕
わたしはきっと目がくらんでいたと思うのだ。
しかしわたしは、それに対して
いっそう立ち向かって わたしの目を
無限の威力《ちから》に合わせたことを覚えている。(八一)
ああ、わたしの目の力がすりへるまで、
永遠の光のなかに目をそそがせた恩寵は
何という豊かさだったろう。
そのおん神の深々としたもののなかに、
宇宙いっぱいに紙片《かみぎれ》のようにばらばらになったもの〔宇宙にばらまかれているいろんな物象〕が
愛の力で一巻の書物に綴り合わされているのをわたしは見たのだ。
実存と 偶然と それらの特性とが
たがいにしっくり結びついているかのようで、
わたしがいったものは そのように一つの光になっていたのである。(九〇)
その結び合った宇宙の相《すがた》を わたしは見たと思う。
というのは、そのことを語れば、
わたしは悦びを感じるし、それがさらに広がるからだ。
その〔おん神を見た驚異の〕一瞬だけでも、
アルゴ〔の船隊〕の影におどろいた海神〔ポセイドン〕のあの冒険〔の驚き〕を
二十五世紀も忘れていたことに、わたしはひどく心うたれていた。
こうして、わたしの心はすっかり仰天して、
きっと目をすえて 動かずに見入っているうちに、
そのおん神の光は 見つめるほどにさらに燃えさかった。(九九)
一度その光に向かえば、ほかの有様を見るために
身をその光からそむけることはできないし、
またそれは決して許されもしない。
それは、意志の目的である善が、そっくり光の中に集まっていて、
光のそとでは欠点だらけでも
そのなかに入ると完全なものになるからだ。
さて、これからいうわたしの言葉は、
記憶したことだけをいうとしても、
まだ母親の乳房で舌をぬらす嬰児《みどりご》の言葉ほどにたどたどしいだろう。(一〇八)
〈それは、わたしの見た いきいきと燃える光〔神〕のなかに、
いろんな姿があったからではない。
その光はいまでも以前と同じにきらめいているからだ。
ただ見ているうちに、わたしの目がするどくなり、
そのため一つの姿が、わたしが変わるにつれて、
いろんな姿に見えただけである。
その崇高な光の 奥ぶかい明るみのなかに、
三つの環〔父と子と聖霊の環〕が現われたように思われた。
その色は三色で 大きさは同じだった。(一一七)
それは、虹の重なりようで、一つはほかの光の反映のようだった。
第三の虹はそれぞれの虹から吐きだされる
炎のように わたしには感じられた。
本当に 言葉は想いにくらべると、
こんなにも乏しくて はかないものか!
そこでわたしが見たものはさまざまで その片鱗を伝えるにも足りないほどだ。
ああ 永遠の光〔神〕よ、あなたはご自身のなかでおひとりでおいでになり、
おひとりでご自身を知り、そしてご自身でおさとりになり、
そのさとりのなかでご自分を愛し またほほえんでおられるのだ!(一二六)
あの〔第二の〕環は、光が反射して
あなたさまご自身のなかにあるような気がしたので、
わたしは目をいくらかめぐらしてみると、
それと同じ色をした人間の姿を
そのなかに描きだしているように思われた。
だから、わたしの目はことごとくそれにそそがれた。
あたかも円周の長さを測ろうと没頭しながら
なお自分のもとめる原理を見いだせないで
思いあぐねている幾何学者のように、(一三五)
その不思議な象《すがた》〔イエズスの表徴らしい〕を見たわたしも その人そっくりだった。
どうしてその像が環にあらわれたのか、
どうして像がそこにあるのか知りたいとわたしは願っていた。
だが、わたしの翼は、〔その不思議をとるには〕十分ではなかった。
わたしのこころは打ちのめされていたにもかかわらず、
一つの閃光がわたしの心を射て、その願いを叶えてくれた。
わたしの幻想の力は、〔何も見えぬ〕この高みには及ばなかった。
しかし、わたしの願望と意志〔人間の力では、神人合一の御托身(肉をつけること)の玄義は見きわめられなかったが、ダンテの願望と意志とは、神のこころと一致していた、ということ〕とはすでにめぐっていて、
それを動かしたものは、さながら同じようにまわる車輪のように、
太陽と もろもろの星をうごかす〔神の〕愛であった。(一四五)
(完)
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解説 ダンテの天国
天の構図
ダンテの天国は、地球を中心とする天動説の古代天文学の宇宙に、キリスト教的な神観がからみ合った構成だから、近代の地動説の天文観で考えると、読者はその宇宙構造にちぐはぐな感じがして、とまどうことが多いと思う。それにもう一つ理解しにくいことは、ダンテの天には神学的な意味づけが多くて、さらに理解を困難にしているし、そのためにスコラ的な神学論理にたよりでもすると、問題はさらに迷路をさまようことになりかねないからだ。
そこで、ダンテの天については、その理解のために、天文学的と神観的とに分けて考えるほうがいいと思う。
まず天文学的な天のことだが、ダンテの天国の構造での最初の事実は、地球が宇宙の物理的な中心として扱われているということだ。したがって、天球は、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、という順に、天上に向けて連続する秩序によって、地球の周囲をまわることになっている。
とくに、いちばん上の至高天は、天体の系列からいうと、別の範疇に属する天であって、その二つの天の中心と円周とがそこで一つになっているという点で、実際は、空間と時間に影響されない精神的・宇宙的な中心ということになっている。
それからまた、ここに天の構造において、第二の基本的な事実がある。それは天には、至高天をふくめて、二つの大きな区分に分かれた十個の天体があるということだ。
その第一の区分には、九つの天がたがいにけんせいし合いながら境界をもって限定していることだ。いわゆる有限天 Finite Heaven といっているものである。
第二の区分のほうは、いちばん上にある至高天という、一つの天にもかかわらず、その他の九つの天の性質をすべてもっている天があることである。この天はほかの天の掣肘《せいちゅう》はうけないが、逆にその諸天を包摂していて、境界もない、無限の天である。それを、われわれは第十の天、無窮の天と呼んでいるが、しかし、この天はじつは天文学的な天ではない。
これらの天を十個の天体に小分けするには、いろんな考え方がある。ダンテ自身もその二、三を暗示しているが、そのなかの星を伴う七つの天は、それ自体による区分として、原始時代から人間がそれを目で見ることのできた天だ。その上に、恒星の天があって、その第八の天が、目に見える天のさいはてになっているのである。
われわれは、ダンテによって、その恒星天の上に星のない第九の天を得て、はじめて目に見えない天へ入っていくことになるのだが、その第九の天はまだ有限の天である。
天文学的には、この九天まではダンテ時代でも認められていたらしい。一般にギリシア天文学では、宇宙は八天で、それを九天にしたのは東方のプトレマイオスだとされているが、オーア夫人の天体図を見ると、そのプトレマイオスでも、やはり第八の恒星天までで終わっている。それを九天にしたのはアラブの天文学者で、それがプトレマイオスやそれをうけついだアルフラガヌスのギリシア天文学に一天を加えて九天にしたものらしい。アラブの天文学者がそれを九天にしたのは、ギリシアとアラブとの、昼夜平分点での歳差の観測値の食いちがいから考えついたものだという(タビト・ベン・コルラの『八天球の回転について』)。
いま、読者が近代の太陽中心の地動説の宇宙観で、この地球中心の天動説の古代天文学説による『天国』を読んで、ひどいとまどいを感じることは無理もないことで、それはコペルニクス以前の問題だからだ。それに、古代と近代とでどれほどの違いがあるかというと、たとえば、ごく単純な数値を比べてみても、それがどんなにひどいかがわかるのである。
たとえば、プトレマイオスの月と太陽の半径の観測値は、地球の半径を一とすれば、それぞれ、○・二九〇と五・五〇なのに、近代の天文学では、それぞれ○・二七三と一〇九・四であり、また地球からの月や太陽への距離についても、古代ではそれぞれ五九と一二一〇であり、近代のはそれぞれ六〇・三と二三四二九となっている(オーア夫人の『ダンテと古代天文学者』)。
オーア夫人(厳密には、インドのコダイカナル天文台長エヴァーシェド氏夫人)は、このように、ダンテの記述する天体現象を、克明に天文学的に解析して、いかにアラブの天文学者がギリシア天文学を発展させたか、それがガリレオ、コペルニクス以後の近代天文学とどんな関係にあるかということを、数値をあげて論究しているが、ここでは彼女の資料はすべてとりあげない。
ただ、その研究でわれわれが知りうることは、アラブの天文学が、シリアやエジプトでは暦法をつくるためにギリシアよりもはるかに天文観測の精度が高かったこと、またダンテの時代では、占星術の天文観をのぞけば、ヨーロッパでは、ギリシア天文学でさえろくに知られていなかったこと、そして、ダンテはそのヨーロッパで、天文の理論としては、ギリシア天文学でなくて、アラブ天文学をとっていたという事実である。
この事実は、じつは重要な問題であって、ダンテが月の斑点の成因について天文学的にその見解を変えた動機にもなったと考えられるし、彼の教養の源泉として東方の学芸に接触したことを証明する一つの手がかりにもなることである。
神観としての天
ダンテの天国は、さきにあげたように、九つの天と、一つの独立してそれらを総括する天だが、九つの天は、ともかくもアラブでは天文学的に認められる天である。
ただ一つの、至高天という第十の天だけは、天文学的な天ではなくて、ダンテが神の座として考えた神観的な天である。しかし『天国』では、その第十天が、他の九天と対立する重みをもち、しかもそれを包摂する帰結として、ダンテの天界遍歴のはてに見いだされる天だが、じつは逆にその第十天から九天をながめるほうが、その神観的な性質が朋らかになると思われる。それは見方を変えれば、一つの無限と九つの有限との対立ということだ。
神学の秩序からいえば、至高天の下にある九天は、三つずつ一組になる天が三つあることだ。すなわち、月天、水星天、金星天が第一組、太陽天、火星天、木星天が第二組、土星天、恒星天、原動天が第三組となっている。この第一組は「下の天」、第二組は「中の天」、第三組は「上の天」と呼ばれている。
この三組の九天は神観的に、それぞれ特殊な意味をもっているが、それはそれぞれの天にふり当てられた天使の性質を見れば、ほぼその天の特殊性はわかると思う。
「下の天」の表象となっているものは、聖霊の愛または徳で、そこにいるのは最下位の天使、大天使、権天使で、「中の天」の表象は神の子の聖霊の力で、天使としては第三天使、力天使、主天使、「上の天」では父なる神の支配力を表象していて、|愛の天使《ツローノ》、知天使《ケルビーノ》、熾天使《セラフィーノ》が割りあてられている。そして、それらの天使と照応するように、霊魂はそれぞれ、「下の天」では貞純な魂、行動的な魂、愛善の魂が、「中の天」では知力の魂、戦闘的な魂、正義を愛する魂が、「上の天」では観想する魂、キリストの勝利を讃える魂、神の勝利にしたがう魂などと、諸天は神学的に性格づけられている。
これらの天の性格づけは、ことごとくディオニソス・アレオパギタといわれる偽書にある『天上位階』論の規定にしたがっていて、ダンテにはべつに作為のあとは見られない。
天使が諸天でする仕事といえば、それぞれの天をうごかすこと、神のメッセージを魂に伝えることで、しばしば人間と神を結ぶものとして現われている。われわれはすでに「後の煉獄」で、悔悟した人間のために天使が神へのとりなしをしたことを見た。地獄では、人間は悪魔や半人半獣としばしば交渉をもったが、この天国では、人間の補い手は天使か半人半神だ。この二種のものは、ともに精神の、ある種のすがたを示すために幻想のつくったもので、人間の性情をはずれた、いろんな形のまざり合った神話的な存在である。天使といえども、神話的な存在からはずれることはありえない。
第十の天
諸天のなかで、神学的なイメージの集約せられるのは第十の天である。ここは、神と天使と聖者の魂しか住んでいないところだ。
円形劇場の形で、ゆるい漏斗状に階段が輪のように底をさしてつくられている。そのきだはしは、底の方へと段々になって円くつづいているが、その階段の中ほどに通路のようなあきがあって、そこで上層の階段と下層の階段とが区切られている。上層のきだはしが九段、下層のきだはしも九段で、階段は上層ほど神の恩寵のふかい者の座になっている。下層の階段は聖者の座ではなくて、けがれを知らぬ幼児のいる座になっている。
そして、上下層の階段の円を貫いて、半円に区切る形で一本の線があって、それで左右に座が分かれている。おおまかにいって、底から見上げて右側は旧約時代の魂がおり、左側には新約時代以後の魂がいる。
さきにいった通路にも、右側にはキリストの到来を待望するヘブライの信者の魂がおり、左側にはキリスト再臨以後の信者がいる。
円形劇場の形だから、向き合った反対側にも、同じ形に座があって、ここでも境界線の両側をはさんで座がある。ここでは底から見上げて左の方が旧約時代で、右側が新約時代である。
これらの階段がてっぺんで尽きるさきは、空間だが、その空間は無限だから、座はなくても、座は無限にあるともいえるし、一つであるともいえる。そこが神の聖座と考えられている。
それから、円形にとりまかれた底の部分は、円い底面になっていて、そこにはべつに座はない。
この至高天の座は、ほとんど聖者たちの魂でいっぱいになっていて、その白いすがたがまるで花びらのようになって動いてもいるので、白バラの花弁にたとえられている。だから、この天は、「|福者のバラ《ローザ・ディ・ベアーティ》」とも「|秘奥のバラ《ローザ・ミスティカ》」とも呼ばれている。
そのきだはしの座には、どういう聖者がいるかというと、最上段からいうと、境界線の右側の一段目に、聖母マリア、アダム、モーゼとつづき、左側には聖ピエートロ、洗礼者ヨハネと並び、第二段から下の方へと、マリアの下にイヴと、ラケル、サラ、レベッカ、ジュディッタ、ルスなどの聖女が並び、左側には一段目の聖ピエートロの下の三段目にベアトリーチェの座がある。
同じように、反対側の最上段には、左側に福音者ヨハネ、聖女ルチア。右側に聖女アンナの座がある。そして、ヨハネの下に、聖フランチェスコ、聖ベネディクトゥス、聖アウグスティヌスと、二段目から下へ順に座を占めている。
ここは、スコラ的にいうと、「超自然的な恩寵の支配する絶対境」であって、「観想的な生と信仰と希望と愛としか住めない倫理神学の究極」(ジルソン)の表現されたところで、もちろん永劫無窮の時間・空間を超越した無限の世界である。
神学者は、ダンテがローザ・ミスティカへ入ることについて、それを聖トマスの知性主義をもって、グノーシス的な観念論的性格のものとしてはならないといい、またベアトリーチェの幻想をもって、たんなる人間精神の可能なエロス的な神秘的な合体の性格のものとしてはならないという(ジルソン)。そして、それは、ダンテのもつ聖トマスの信仰と恩寵の、超自然的な精神の秩序の問題であって、恩寵による恩寵における、上からの神みずからの愛の啓示によって可能にされた、愛のつくった応答だ(マソドネ)、ともいっている。
こういうスコラ的な神学のいい方は、煩瑣的でわかりにくいが、結局、神によって神における恩寵の示される愛でしかない三位一体の愛の讃美ということらしい。
天国のモティーフ
『天国』でダンテが提出している問題には、神学的な問題がかなりある。すなわち、キリストのペルソナの問題、神の本質と存在、信仰と懐疑の問題、神の正義と人間の正義の矛盾の問題、見神という問題など、どれもスコラ的に解釈すると面倒な問題ばかりである。
だが、結局は、ここでダンテが表明しているのは、そういう神へのアブローチをとおしてする「救いの思想」だと思う。
それは、せんじつめると、彼が天国のみならず、地獄、煉獄をとおして一貫して天国にまで持ちこんだ考えである。地獄では罪の確認とその罰。これは現世的な問題の事後処置だと思うし、煉獄では罪のつぐないと天国へのとりなしということ。そして、天国では、一言でいえば、人間の聖化と神の正義の確認ということだ。そのために、いっさいの時間・空間の束縛を脱した無限で純粋で、神のもの以外は何もない無のような世界が求められているのである。
それは、はたしてトマスのスコラ的思想だけで到達できる問題だろうか。なぜなら、ダンテは天国に入ってまで、まだ懐疑をもっていたではないか。第十の天の最後のぎりぎりでも、彼は聖ベルナールに信仰の徴《しるし》をもとめられていたではないか。
そこに何かのひずみはないのだろうか。たとえば、地上の倫理と天上の倫理の相違とか、神の正義と人間の正義の矛盾とか、トマスに代表されるスコラ的論理では、懐疑の起こりようもない問題に、ダンテは悩んでいるのである。
天国の基本形式は神話である
天国はたしかに奇妙な経験である。そこには、スコラ学と神秘主義という、宗教精神の両極端が出会ってまざり合っている。狭いスコラ学は、その厳密な概念規定の形式で精神をおおっているが、信仰的な神秘主義はその形式を否定している。この二つのものは、ともに聖なるものに到達するために争っているのだ。
だいたい天の基本的な形式は、その天上での広がりにおいていわれているのは神話である。なぜなら、それは帰するところ、直接的にはヘブライの神話であり、さらにその背後にあるものは黙示録にのこるオリエントの神話だからだ。なぜなら、それはともに、未来の状態をあからさまに見せる現実の物語であり、死後の福者の状態を予見させるものだからだ。その思想は、すばらしい酬いは、その生に与えられることはないという、人間の意識に深く根ざしているものである。
善は一度ひとの心にあらわれると、そこから出ていくことはできない。天を永遠の場所として選んだ人は、それを永久にもつということだ。哲学的にいえば、真に死をもつことは、永遠なものの終わりではない。死を得ることは、たんなる否定ではなくて、否定の否定だからだ。そこで、神性はこの人間の本性のもっとも深い姿をうち出す影だと思う。それはまた、善に対する酬いを主張するどの宗教にもある論理である。それが、われわれの認めるダンテの歌の中にある大きな神話的な流れだ、といえるものだ。
キリストの神話へのつながり
それは、とりもなおさず、直接にはヘブライの罪の神話と結びついていると思う。その発端は、エデンの園から出てくるものだが、それが、天使たちの天上からの追放と下降へと発展し、それがさらに人間の堕落へと向かっているからだ。
天上と地上との、この二つの堕落は、ヘブライ神話の精神的な出発である。神の手による創造は、その神話では当然予想されたことだが、その神の創造行為と、天使と人間とに結びつく二つの堕落も、ヘブライ精神の生みだしたものとすることは否定できないと思う。
だが、ここで、キリスト教信者がつけ加えた一面も見る必要がある。それは、堕落からの回復と死者の贖罪ということだ。いまではこの古代の天国での事件の補いであるこういう補足でさえ、神話と見なされているのだ。なぜなら、その多くのものは、事実は歴史的なものだが、それらはすべて神話的なものになっているからだ。そのあるものは、それ自体を時間と場所の中での外面的な出来事にしているが、それは歴史というより歴史的なものである(マルセル・シモン)。しかし、神話は時間と場所を越えてゆくし、それは真に精神に起こるものを幻想するものだからだ。たとえば、キリストがエルサレムで説教したことは歴史的な事実だが、彼の復活は精神的なもので歴史的な事実ではない。いま、われわれは、この歴史的・精神的な二つの出来事をさえ、キリストの全体の記録をつくる神話と呼びたいのだ。
天国にある二元論
ヘブライの神話にしたがえば、われわれはキリストとアダムという二人のペルソナをもっている。その二人は典型的な人間であり、下降と昇天という、人間のもつ宿命の二つの転回点におかれた重要な人物である。それはおそらく、人間性が、その二人のあいだで、二人をとおしてうごいている鋳型のようなものだからだ。
キリストはともかく、アダムがヘブライの神話から出てきて、ダンテに強い印象を与えただろうことは、ダンテが第十天でアダムとイヴを上位において、意味ふかい位置を与えていることでもわかると思う。
それは、アダムとキリスト、堕落と昇天、限定されたものと限定を超えたものとして、地上的に代表される壮大な二元論である。
この二元論は、天使の下界への墜落、神の最初の創造物というかたちで、地上から天上へと神話的に投影されているものだ。
キリストとアダムという対比は、善と悪、神と悪魔の対立となる二元論を想像させているのである。
神学と神話の間
ダンテの天国では、神学の特殊な展開は自然的に見え、神話はすくなくとも部分的で、先験的であるかに見える。
じつのところ、キリスト教神学は、それを本質的に理解しようとする者にとっては、それはヘブライの罪の神話の解釈である。
そのことは、神学がその基本的な性質として、神話をうけ入れているということだ。教義や信仰箇条はそこから出て行ったものだからだ。
アダムとキリストの話、堕落と昇天は、キリスト教神学のうごいていく重要な輪郭である。その輪郭のなかで、ときには悪魔の場合には逆もどりして、第二の堕落を象徴することさえある。悪魔からの疎隔は、たえず説教されていることだが、われわれ未信者の立場からいえば、ある意味ではたえずそれにそそのかされているような気がする。人間の創造にはその堕落が結びついているはずだからだ。
ところが、神学は、それが合理化するものとしても、けっして完全に合理的になるものではない。それはつねに、神話、または神話への直接の信仰へ帰ってくるものだ。ダンテの天国でも、われわれは、神話的な布置から直接萌えでてきて、また神話のなかへ消えてゆく神学を見るからだ。ダンテの神学的な論議は、したがって、歌の主題のなかで育ってきたものであって、それが有機的に歌とつながっているのだと思う。
そこで、われわれは想起するのだが、人間にとってもっとも重要な書物に、旧約聖書の創世記の第一章と新約聖書の福音書の、二つがある(マルセル・シモン)。この二つの文書は、ヘブライの罪の神話の原初の表現であって、それぞれアダムとキリストについてのすぐれた記述である。そして、それは、人間精神の堕落と昇天、疎隔と復帰の表象となっている。
この二つのものの間には相違がある。アダムは神に肖《に》るものとして直接神に創られたものだし、キリストは、新しく父性をつけ加えた神の子となり、創造主の力よりもむしろ神を幻想させるものである。そして、その性格的な相違から来るものは、これを人間的に考えると、キリストがアダムの行為に圧倒されている(ブスネルリ)ということだ。
そのことは、それが人間への永遠の影響を生みだすためには、そうあらねばならぬものだったからだ。その立場から見れば、さきの二つの文書は、言葉の正しい意味で、神話的なものだといえると思う。それは、人間というものの最後の魂の形式は、神話的であって、いかなる意味でも神学的ではないからである。
ダンテの二つの面
そこで、仔細にながめてみると、われわれには、ダンテが『天国』のなかで、このヘブライ伝来の神話と、聖トマスによるその神話の解釈との、二つの面をもっていることがわかるだろう。とくに、その解釈のほうは、歌の中では、かりそめの、移ろいやすい部分、すなわち時間のなかで生まれて消えてゆく部分だということがわかる。ここで読者は、神学的な構造が近代的な形式をもっているにもかかわらず、それがいかにも古くさくなっているのに、古代の神話がいまもいきいきして新鮮なことを、疑ってみることだ。それはなぜかというと、ダンテが詩人だからだと、ガードナはいうが、じつはもともとダンテの詩の幻想的な輪郭は、神話的なものだからだ(ガードナの『十天』)。
ここで忘れてはならないことは、神学はその根に神話をもっているということだ。だから、ダンテはその詩のなかに同祖的なものをもっているし、その上に、この神話と神学という二つの包みこみが、ダンテにとってはべつに奇妙なものではないということだ。そればかりか、そのことは、新約聖書にまで追跡してゆける問題だからだ。事実、福音書は本質的には神話的なものだし、聖パウロの書簡は本質的には神学的なものだ。なぜなら、マルセル・シモンのいうように、初期の教父たちは、キリストの神話とヘブライの罪の神話を、キリスト者の立場から解釈しはじめていたからだ。
ダンテの神学的論議
『天国』のなかで、われわれはダンテの神学的な意見にしばしば出会っている。しかし神学的な論議などは、自分でそれを求めなければ、他から強制されるようなものではなかろう。
そこに、ダンテも問題にしている自由意志と決定論の主題がうかんでくるのである。それはおそらく神学のもっとも基本的な問題のはずだが、ダンテによると、それは神曲全体の中心的な題目でもある。
しかし、ダンテは水星天へ行くと、別の問題に当面する。それは、歴史的な事件、とくにキリストの磔刑《たっけい》に出てくる、神の正義と人間の正義のあいだにある矛盾である。そのことは、それにつづいて、神や悪魔のもくろみを否定する者についての論議になるが、それはさりげなく示されねばならないし、さりげなく遁《の》がれねばならないような、もっとも掴みにくい原則である。
それは、神学にとって、もっとも砕きにくいクルミの実であって、そのクルミの実は神学の世界ではあえて割ろうとはしない。いつもそこに限界を設けて「この限界を越えるものはただ信仰あるのみ」と逃げている問題である。いま比喩的にクルミの実といったのは、いうまでもなく神話である。
われわれは、ダンテがそういう掴みにくいものを掴もうとして、神学の手順によって絶望的に苦闘している悲壮な姿を『天国』の中に見るのである。
だが、神学は限界をもっている。神話に関することは、説明しようとしないのだ。すべてが解りやすいようにはなっていないし、解りやすくしようともしないのだ。そして、神学は、最後には究極の宗教的な徳として、信仰ということをいいだすのだ。そして、その信仰というのは、たとえば復活のような、大きな神話をふくむ信仰をさえ意味している。
神曲のモティーフ
ダンテはそういう方法で、天国を通り抜けている。神話的な足どりで歩きながら、神学の問題を考えている。堕落と贖罪、自由意志と神慮、恩寵と宿命、神と悪魔など、われわれが二律背反と呼んでいる問題である。
しかし、考えてみると、それは人間のこころを支配するヘブライの罪の神話の展開や解釈以外の何であろうか。それは懐疑と否定を前提とした信仰でなければ捉えられない信仰ではないだろうか。
それはかつてグノーシス派に反対したテルトゥリアヌスがいった、
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神の子は十字架につけられた。これは恥ずべきことだから、わたしは恥じない。
神の子は死んだ。これは愚かなことだから、信ずべきである。
神の子は葬られてよみがえった。これは不可能だから確実だ。
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という数句は、かえってグノーシス派の神秘的な霊的・直観的な認識ではないだろうか。
ダンテの神曲は、スコラ的なトミズムを超えた、おそらくそれらの最大のものの一つであるだろうが、そこから生じた一つであることもたしかだ、と思う。それは、シュテファン・ゲオルゲのいう神話的近代超克のヒロイズムに近い思想である。
天国に残されるもの
しかし、読者のなかで、スエーデンボルグの『天国と地獄』を読まれた方なら、こういうトミズムのスコラ的な処理の仕方は、きっと気に入らないと思う。
何よりも天国においては、すべてが表象の世界だから、こんな主知的な解釈の仕方では問題の本質が掴めないというにちがいない。たしかに、ダンテにはそういう神秘主義が神曲のはじめからつきまとっている。たとえば、彼は3という神秘数を好んでいたし、515氏などという象徴的な意味をもった人物が、すでに『煉獄』から出現している。それをカバラ哲学の神秘的な嗜好だと、はっきりきめつけたのはベレッツァだが、彼はカバラ的な神秘数の解析で問題を解決している。しかし、そのことは、カバラ的な把握をもふくめて、もっと深いエゾテリズム(秘教思想)から解釈するほうがいいかもしれないからだ。
ダンテが神の確認に、徴《しるし》をもとめていることでも、神秘主義の表徴、ヤコブ・べーメやアンダヒルのいう神秘記号《シグナチュア》から、それをつきとめなければ、問題はスコラの主知主義で処理することができなくなっているのだ。そこに、ルネ・ゲノンのエゾテリズムからの接触が、そういう神秘的なものの把握に一つの試行的な方法を暗示している。
たしかに、トマス・アクィナスの主知主義は、ダンテにも深い影響を与えている。たとえば、天国にあふれる法悦の光のことでも、仔細に見ると、光という言葉の lume, raggio, luce について、lume は発光体から出る光、raggio はそれをうけた反射光、luce は発光体とそれをうけるものとの間にある光、というように、厳密な概念規定をしていて(『スムマ』)、ダンテはそれをおおむね正確にうけとって使っているからだ。だから、トミズムの立場からいえば、それで神曲の解釈は十分だと考えているようだ。
しかし、なお、さきにあげた「かりそめの移ろいやすいもの」「さりげなくのがれねばならぬもの」が、ダンテの歌のなかに残るのである。このことは、ダンテの思想のなかに、スコラの主知主義と、ボナヴェントゥラ、ベルナルドゥスをとおしてきた神秘主義とが、共存していて、それが感性的に顔を出しているにちがいないのだ。その、知性の網をこぼれる神秘なものが、ダンテの神曲の場合には、詩と呼ばれるものであると思うし、とくに『天国』の場合には、その詩がそれを一貫している。この「詩」を意識すると否とでは、神曲についての感触は、またいくらか変わらざるをえなくなると思われるのである。
もし、スエーデンボルグの読者が、神曲のトミズム的解釈に不満を感じるとしても、それも故ないことではないのである。しかし私には、エゾテリズムから問題の本質に迫る方法の手がかりがまだ掴めないでいるので、いまのところ、それに対して何の手も打てないでいるのである。
私は『天国』を理解するための一つの手段として、意識的に神話へのアプローチを試みたが、そのためにそれを示唆してくれ、かつその所見を引用できなかったダンテ学者について、左に文献をあげておきたい。できれば読者は直接それらに当たって、その見解をたしかめていただきたいからである。
M. A. Orr: Dante and the Early Astronomers(1913)
E. G. Gardner: Ten Heavens (1904)
E. G. Gardner: Dante and the Mystics (1910)
Etienne Gilson: Dante, le Philosophe (1948)
Thomas Aquinas: Summa Teologica (1940)
P Mandonnet: Dante, le Theologien (1935)
Marcel Simon : Les Premiers Chretiens (1952)
Bruno Nardi: Dante e la Cultura Medievale (1949)
Bruno Nardi: Note critiche di Filosofia dantesca (1940)
P. Bellezza: Curiosita dantesca (1913)
Rene Guenon: Esoterisme de Dante (1957)
Jacob Boehme: Signature of All Things (1920)
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訳者あとがき
この『天国』のテキストも、『地獄』『煉獄』のときと同じく、Scartazzini の La Divina Commedia(1925)を、同じ理由で使った。また、解釈の上でも、スカルタッツィニ氏の注釈のほかに、ラテン語の古注を主とする Giorgio Petrocchi の Dante Alighieri La Divina Commedia secondo l'antica vulgata(1966)の本文批評にある所見を参照して、自由に解釈させていただいた。
翻訳は解釈である、というだれかの言葉を、この『天国』の場合に、私は身にしみて感じた。それは『天国』には、他の二部とくらべて、ひどく物語性がなくて、のっけから天国の仕組みの解説にはじまり、そのほとんどがキリスト教神観の解説、論議に費やされているからだ。そこにある問題は、どれ一つとってみても、神学的、思想史的に重要な問題でないものはなく、それに対して、ダンテはまず懐疑的に設問して、それの解決を教父にゆだねるという形で話が進行している。いわば、全巻が、教義問答でおわっているという感じである。そこで、ダンテがそういういい方をしているのは、いったい何をいおうとしているのか、という、作者のモティーフを掴むことで、考えさせられることが多かった。問題は語義や字句のことではなく、それを超えて、それの背後にある思想の把握である。
そのために、かつて読んだ書物の意見をたしかめたり、それが思いちがいであることを発見したり、それはそれとして結構たのしかったが、訳筆のとどこおるのには困った。
ひとわたり読んでみてわかったことだが、『神曲』は「天国」があるので、たしかに独自の価値のある文学だということだ。「地獄」は問題の提起であり、「煉獄」はその吟味で、「天国」がそれの解決だから、この三部は相関的で切りはなすわけにはいかないのだ。しかし、考えてみると、ダンテはその博識から学芸百般について問題の提起をしているが、キリスト教神観をのぞけば、問題は提出のしつぱなしでその解決はほとんどしていない。だから、その解決は読者の判断にまかしてあるといえるのだ。そこに、読者が作者のモティーフに入ってゆける余地があるので、『神曲』が読者に魅力のあるのは、そういう意味もあるのではないかと思う。
しかし、「天国」などの問題はひどく形而上的だし、それが形而上的だという理由で、読者はなかなかそれの解決が出せないかとも思う。そこが、哲学的にいって、ヴォルテールとはべつの意味で、永久に読みつがれる理由かもしれない。
解説でもふれたが、『神曲』のうけとり方は、いまではトマス・アクィナスと結びつけることによって、スコラ的なトミズムの見方がダンテ学者のあいだで統一見解になりかかっている。キリスト教の信仰からは、そういう見方しかあるまいが、もっと自由に人間的な見方をすれば、それとはちがつた考え方もできると思う。
その一つは秘教思想との関連づけの仕方だが、その意味でダンテとカバラ哲学とのかかわりを示唆してくれたベレッツァを恵まれた下位英一氏に感謝している。そればかりではない。『煉獄』のあとがきで、私がキリスト教に信仰をもたないことを嘆いていたので、それを憐んで、田草川季雄氏から矢内原先生の土曜学校でのダンテ講義を、片岡久氏から里見氏の研究を恵まれた。あいにく翻訳の途中だったから、私は自分の解釈のごたつくことを惧れて、それらをいただいていながらまだ拝見せずにいる。しかしいちおう仕事も終わったので、これからそれらを拝見して勉強したいと思っている。
ともかく、読みくだしのできる神曲を、という私の考えが、いちおうまがりなりにも終わって、ほっとしている。
昭和四十七年九月