ヴァン・ダイン/鈴木幸夫訳
僧正殺人事件
目 次
第一章 「雄コマドリを殺したの、だあれ」
第二章 弓術場にて
第三章 思い出した予言
第四章 あやしい手紙
第五章 女の悲鳴
第六章 「雀が言った、『わたし』」
第七章 ヴァンス結論に達す
第八章 第二幕
第九章 テンソルの公式
第十章 協力を拒絶
第十一章 盗まれていたピストル
第十二章 深夜の訪問
第十三章 ビショップの影にかくれて
第十四章 チェスの勝負
第十五章 パーディーとの会見
第十六章 第三幕
第十七章 終夜燈
第十八章 公園の石垣
第十九章 赤いノート
第二十章 因果応報
第二十一章 数学と殺人
第二十二章 トランプの家
第二十三章 意外な発見
第二十四章 最後の幕
第二十五章 幕はおりる
第二十六章 ヒース質問を発す
解説
登場人物
ファイロ・ヴァンス
カリー……ヴァンスの側つき
ジョン・F・―X・マーカム……ニューヨーク地区地方検事
アーネスト・ヒース……殺人犯局巡査部長
スニトキン……殺人犯局刑事
バーク……殺人犯局刑事
J・C・ロビン……スポーツマン、弓術選手
イマニュエル・ドレマス博士……検死医
デュボイス主任……指紋専門家
バートランド・ディラード教授……有名な物理学者
ベル・ディラード……その姪
シガード・アーネッスン……教授の養子、数学の准教授
パイン……ディラードの執事
ビードル……ディラードのコック
ジョン・パーディー……数学者で、チェスの名手
オットー・ドラッカー夫人……メー夫人という名でも知られている。
アドルフ・ドラッカー……びっこの科学者で著述家
レーモンド・スパーリング……土木技師
ジョン・E・スプリッグ……コロンビア大学四年生
スワッカー……地方検事秘書
ピッツ主任……殺人犯局
オブライアン主任警部……ニューヨーク市警察部
ウィリアム・M・モラン……捜査局長
ウィトニー・バーステッド博士……すぐれた神経学者
グレト・メンゼル……ドラッカーのコック
クィナン……「ワールド」の警察係記者
マドレン・マファト……不幸な少女
この世界は、一つの神秘劇が演じられている神殿である。その劇は、まさしく、子供っぽいが辛辣《しんらつ》、馬鹿ばかしいが恐ろしい。
――コンラッド
第一章 「雄コマドリを殺したの、だあれ」
――四月二日、土曜日、正午
ファイロ・ヴァンスが私的な立場で調査にたずさわった犯罪事件のすべての中でも、もっとも邪悪であり、もっとも奇怪であり、見たところ、きわめて納得しがたく、またたしかにきわめて恐ろしいものといえば、あの有名なグリーン殺人事件につづいて起った事件であった。古びたグリーン邸での恐怖の血祭は、十二月になって驚くべき結末に達した。クリスマスの休暇のあとで、ヴァンスはスイスへウィンター・スポーツを楽しみに出かけていた。二月の末にニューヨークへ帰ってから、かねての懸案《けんあん》であった、ある文学的な仕事に専念していた。――今世紀のはじめに、エジプトのパピルス紙に書かれているのを発見された、ギリシア喜劇作家メナンドロスの主要な断章の、形式をふまえた翻訳である。そして一と月以上も、この報《むく》いられない仕事に、たゆまず没頭していたものだった。
この苦心の労作が中断させられなかったにしても、翻訳が完成したか、どうかはわからない。というのは、ヴァンスは教養熱心な人であり、探究心と知的冒険心とが、学問的創造には当然つきものの、骨折り仕事の単調さに、たえずがまんがならなかったからである。覚えているが、そのつい前の年も、クセノフォンの伝記を書きはじめていたのであったが、――これはヴァンスが大学時代に、はじめてクセノフォンの『ペルシア征戦記』と『ソクラテス言行録』とを読んだ、熱狂ぶりの名残《なご》りである。――クセノフォンの歴史的な進軍が、十万の兵を黒海へ引きかえさすところで興味を失ってしまった。それはともかく、ヴァンスのメナンドロス翻訳は、四月に入って間もなく、はからずも中断されることになったわけである。それからの数週間は、全国をぞっとさせるような昂奮の渦《うず》にまきこんだ、不可解な犯罪事件に夢中になってしまった。
この新しい犯罪捜査で、ヴァンスにニューヨーク地区地方検事ジョン・F・―X・マーカムのために、いわば「法律|顧問《こもん》」といった立場で行動したが、この事件はたちまち「僧正《ビショップ》殺人事件」として知られるようになった。この呼び名は――有名な裁判事件なら、どれにもレッテルをはりたがるわれわれのジャーナリスティックな本能のしからしめたものだが――ある意味では、誤った命名であった。あの兇悪残忍な、したい放題の犯罪には、教会に縁のあるものなどさらさらなく、全国の人々に『マザー・グース歌謡集』をこわごわ読ませたというにすぎない。〔ブレンターノ書店のジョーゼフ・A・マーゴリーズ氏から聞いたところでは、ビショップ殺人事件中の数週間という時期には、『マザー・グース歌謡集』はどんな流行小説よりも売れ行きが多かった。そして小さな出版屋の一つが、この有名な古い童謡の全集版を復刊して、すっかり売り切った〕私の知っているかぎりでは、僧正《ビショップ》の名をもった誰一人として、この名称をつけられた極悪非道な事件と、遠まわしにでも関係のある者はいなかった。しかし、同時にまた、ビショップという言葉は、まことにふさわしくもあった。その酷《むご》さをきわめた目的を達するために、殺人犯人によって用いられた変名であったからである。ふとしたことで、この名前が、たまたまヴァンスをまことに信じがたい真相にみちびき、犯罪史上、きわめて恐ろしい、数ある犯罪の一つを解決させたのであった。
ビショップ殺人事件を構成し、ヴァンスの心からメナンドロスとギリシアの単句詩への関心をすっかり追いはらった、この一連のうす気味悪い、見かけは関連のなさそうな事件が始まったのは、四月二日の朝である。グリーン家のジューリアとエーダの二重射殺事件が終ってから五か月と経《た》っていなかった。あたたかい、ことに気持のいい春の一日だった。春さきのニューヨークは、時おりこうしたうららかさにめぐまれる。ヴァンスは東三十八番ストリートにあるアパート頂上の、小さな自分の屋上庭園で朝食をとっていた。間もなく正午だった。――ヴァンスは仕事をしたり読書をしたりで、宵《よい》っぱりの朝寝坊だからである。――太陽は澄みわたった青空から照りつけて、町いっぱいに、物思いにうとうとさせるマントを投げかけていた。ヴァンスは安楽椅子にふんぞりかえり、かたわらの低いテーブルに朝食をおいて、冷笑的な、心残りのありそうな目つきで、裏庭の木立の梢《こずえ》を見下ろしていた。
私にはヴァンスの考えていることがわかっていた。ヴァンスは毎年春になるとフランスへ出かけるのがならわしだった。彼がずっと前から考えていたことは、ジョージ・ムアが考えたと同じに、パリと五月とは同じ一体だということである。しかし戦後のアメリカにわか成り金たちが、わんさとパリへ出かけるようになって、ヴァンスの毎年のパリ詣《もう》でが楽しみを台なしにされてしまったのであった。つい昨日も、この夏はニューヨークに居残ることにする、と言ったものだ。数年来、私はヴァンスの友人であり、法律顧問をしてきていた。――一種の財政世話係であり、代理人たる友人というわけである。私は父のヴァン・ダイン法律事務所、デーヴィス・アンド・ヴァン・ダインをやめて、ヴァンスの事業一本にかかりきっていた。この仕事は、固苦しい事務所で一般代理人をつとめているより、はるかに性分《しょうぶん》にかなっているのがわかった。そして自分の一人暮しの場所はウェスト・サイドのさるホテルにあったけれど、大部分の時間は、ヴァンスのアパートで過していた。その朝も、ヴァンスが起き出るずっと前に来ていて、その月上旬の収支決算をいちいち調べてから、彼が食事をしている間、ぼんやり、腰をおろして、パイプをふかしていた。
「ねえ、ヴァン」彼は無感動に、ものうげに言いかけた。「どうやらニューヨークの春と夏は、刺戟もなければロマンティクでもなさそうだ。たいくつでうんざりするよ。でもその方が気が楽だ。俗っぽい観光連中と、行く先きざきで、しょっちゅうおしあいへしあいして、ヨーロッパを旅行するよりはね。……たまったもんじゃない」つづく二、三週間が、ヴァンスを待ちかまえていたことは知るよしもなかったのだ。知っていたとしても、昔なつかしい戦前のパリの春の魅力さえ、ヴァンスを連《つ》れ去ったかどうかは疑わしい。彼の飽くことを知らない精神は、なににもまして入り組んだ問題を好んだからである。そしてその朝、ヴァンスが私に話しかけていた時でさえ、彼の運命を司《つかさ》どる神々は、彼のために奇怪にして魅惑的な謎を調《ととの》えていたのである。――国民の心を深かぶかとゆすぶり、犯罪史に新しい、恐るべき一章をつけ加えることになった謎を。
ヴァンスが二杯目のコーヒーを注《つ》ぎおわるかおわらないうちに、老人のイギリス人執事で、雑事万般の用人であるカリーが、フレンチ・ドアのところへ、移動電話器を持って現われた。「マーカム様からでございます」老人は言いわけするように言った。「なんだかお急ぎのようですので、御在宅だと、失礼ながら申し上げました」彼は電話器を下の差しこみにつないで、朝食のテーブルにおいた。
「いいとも、カリー」ヴァンスは受話器を取り上げながら小声で言った。「このべらぼうな単調さを破ってくれるものなら、なんでもけっこう」それからマーカムへ話しかけた。「やあ、君、眠りもしないのかい。ぼくは香料添えのオムレツを食べているところだ。やって来ないか。それとも、ぼくの声の音楽だけがお望みかい――」ヴァンスはとつぜん言葉をきった。その痩せ形の顔にうかんでいた、からかい半分の表情が消えた。ヴァンスはきわ立った北欧人型で、長くて彫りの鋭い顔、目幅が広く、細いわし鼻、卵形のくっきりした顎《あご》をしていた。口元もしまりがあって、整《ととの》っていたが、北欧的というより南欧型といえそうな、皮肉な残酷さをただよわせていた。顔つきはたくましく、魅力があったが、美男とまではいきかねる。思想家や世捨人に見かける顔だった。そのはげしいきびしさは――学究的でもあれば内省的でもあって――これが柵となって、彼を仲間とへだてていた。
ヴァンスは生れつき情に動かされないたちで、つとめて感情を圧《おさ》えるようにきたえていたけれど、その朝、電話でマーカムの話に聞き入っている時には、先方の話にひどく興味をそそられているのが、かくしきれない様子に見えた。眉《まゆ》をかすかにしかめて、内心の驚きが目に浮んだ。時おり、「驚くね!」とか、「ほう!」とか、「とてつもない!」とつぶやきをもらした。――彼の口ぐせの合い槌《づち》だった。数分間マーカムと話していたが、おわりになって、奇妙な昂奮が彼の態度にあらわれた。
「ああ、なんとしたって!」彼は言った。「これを見逃してなるものか。メナンドロスの未発見喜劇など、構っておられない。……気違いじみた事件だな。……すぐに着替えをしよう。……じゃ、また」受話器を置くと、ヴァンスは呼び鈴をならしてカリーを呼んだ。「グレーのツイードを」彼は命じた。「黒っぽいネクタイと、黒のホムブルグ帽だ」それから、なにかに気をとられているような様子で、またオムレツを食べはじめた。ちょっとしてから、ヴァンスはからかうように私を見た。
「弓術のことを何か知っているかい、ヴァン」彼がきいた。私は弓術のことなど、なんにも知らなかった。知っていることと言えば、矢を的に射ることぐらいで、そんな程度だと白状した。「よくわかってはいないね」ヴァンスはもうげに、フランス専売局|煙草《タバコ》の一本に火をつけた。「だが、弓術のあおりにまきこまれたらしいよ。ぼくは弓術ときては、大きな口もきけないんだが、オックスフォードで、ちょっとばかり弓をいじってみたよ。夢中になるほど打ちこめる遊びじゃない。ゴルフよりもずっとつまらない。そのくせ、ひどく手がこんでいてね」ヴァンスはしばらく夢見るように煙草をくゆらせた。「おい、ヴァン。図書室からエルマー博士の弓術に関する、大きな古い本を持ってきてくれ。――たのむ」〔ヴァンスが参考にした本というのは、医学博士ロバート・P・エルマー著の、あの優れた、広汎な論文『弓術』であった〕
私はその本を持ってきた。一時間半ちかくもヴァンスはその本のところどころを拾い読みして、弓術協会とか、トーナメントと普通試合とかの各章に目をとめたり、アメリカの最高スコアの長い表を調べたりした。やっと彼は椅子に背をもたせてくつろいだ。明らかにヴァンスは、心をくだき、その鋭敏な頭脳を働かせる何かを発見していたのだ。「まったく気違いじみているよ、ヴァン」彼は宙を見つめて言った。「現代ニューヨークのまん中で中世悲劇とはね。いまはギリシア・ローマ風の半長靴に革の上衣《うわぎ》なんて時代じゃないがね、しかも――おどろいたねえ」そして不意に背中をまっすぐにのばすと、「いやいや――だめだ。馬鹿げているよ。マーカムの話があまり気違いじみているものだから、すっかりやられてしまった」彼はまたすこしコーヒーを飲んだ。しかしその顔つきを見ていると、彼をとりこにしてしまった問題からどうしても抜けだせないでいるのがわかった。やがて、
「もう一つたのむよ、ヴァン」と彼は言った。「ぼくのドイツ語の字引と、バートン・E・スティーヴンスンの『名作詩歌全集』をとって来てくれたまえ」私がその二冊の本を持ってくると、彼は字引の中の単語を一つざっと見てから、わきへ押しやった。「この通りさ、不幸にしてね。――最初からわかっていたが」それから彼は、スティーヴンスンの厖大《ぼうだい》な詩歌全集にとりかかって、子守歌や童謡を集めたところを開いた。何分かたって、この本もとじてしまうと、彼は椅子の上で大きく伸びをして、煙草のけむりを長ながと頭上の雨よけに向って吹きあげた。
「そんなことが本当なものか」彼は独《ひと》りごとめいて断言した。「奇々怪々で、あまり悪魔的で、まるで不自然すぎる。残酷無惨なおとぎばなしだ。――ゆがめられた世界――倒錯《とうさく》した合理性というやつだ。……思考や常識をこえている。まるで妖婆の魔術、妖術だよ、大奇術だよ。まさに正気のさたじゃない」彼は懐中時計に目をやって、立ち上ると部屋に入った。私は一人残されて、彼がめずらしくも動揺を見せるにいたった原因を、あれこれと推測した。弓術に関する論文、ドイツ語の字引、童謡集、そしてヴァンスの、正気のさたでないとか、奇々怪々とかいった不可解なことば――これらすべてが一体どんなつながりを持つというのだろうか。私はその最小|公分母《こうぶんぼ》を見出そうとつとめたが、とうてい答が出そうになかった。それもそのはずだった。次々と現われるあらそいがたい証拠によって、数週間のち、ついに真相が明らかになった時でさえ、普通人の頭では、あまりに信じがたく、あまりに凶悪であったために、容易に本当と受取ることができなかったのである。
こんなふうに、役にも立たない推測にふけっていると、ヴァンスが戻って来て私の思案をやぶった。すっかり外出の身支度もととのって、マーカムがなかなかやって来ないのに業《ごう》をにやしているようだった。
「ぼくはね、何か面白いことが、たとえば魅力的な犯罪でも起らないかと思っちゃいたいんだがね――でもまさか――こんな悪夢みたいな事件が起ろうとは、いささか期待以上だったよ。マーカムという人間をよく知っているから良いが、さもなきゃ、だまされたと思いかねないところだ」
数分後、この屋上庭園にやって来たマーカムを見ると、彼が正真正銘の本気でいたことは一目でわかった。暗然と不安げな面持ちで、いつもの心暖まる挨拶はよそに、そっけなく形ばかりの挨拶をするだけだった。マーカムとヴァンスは十五年来の親友だった。一方は断乎たる積極型で、無愛想で、一路直進、気がきかないぐらいまじめな男、そして一方はむら気で、皮肉屋で、いつも晴れやかで、人生のつかのまの雑事などには超然としている男――こんな風にすべてが正反対の性格であるにかかわらず、かえって互いに補《おぎな》い合う性質を見出しあって、そこに心をひかれ、別れがたく長続きのする友情をきずいているのだった。
マーカムがニューヨーク地区地方検事になって一年四か月、これまでも彼はたびたびヴァンスを訪ねて重要な事柄について意見を求めたものだったが、ヴァンスはいつも自分の判断力にかけられた信頼にこたえていたのである。マーカムが在任した四年間に起ったあまたの大事件の解決は、ほとんどすべてヴァンスの手柄によるものと認めてよかった。彼の人間性についての知識、広い学識と高い教養、明敏《めいびん》な推理力、惑《まど》わせやすい表面の下にかくされた真相を、ただちにかぎつける勘のするどさ――マーカムの司法権のもとにゆだねられた諸事件に関して非公式ながら彼が遂行《すいこう》したことの事件に対して、こうしたもののすべてが彼をしてふさわしい人間としていたのである。
ご記憶だろうが、ヴァンスの最初の事件はアルヴィン・ベンスンの殺人〔『ベンスン殺人事件』〕に関するものであった。この時も彼が捜査に加わっていなければ、はたして事の真相が明るみに出たかどうか。次が例の悪名高いマーガレット・オデル絞殺事件〔『カナリヤ殺人事件』〕である。普通の警察の捜査方法では、失敗することもさけられない難事件だった。そして去年はあの驚くべきグリーン殺人事件〔これはさきほどもちょっと申しあげた〕、これまたヴァンスが犯人の究極目的を見破っていなければ、かれらが成功したであろうことは疑うべくもない。だから、マーカムがこのビショップ殺人事件の発端《ほったん》からヴァンスをたよって来たのは、決して驚くには当らないことであった。私はつとに気づいていたが、マーカムは犯罪捜査にあたってヴァンスの力にたよることがますます多くなっていた。今度の事件でも、人間精神の異常な心理的発見について、ヴァンスほどよく知っている者がいなければ、あれほど極悪非道な暗黒の計略に拮抗《きっこう》し、その下手人を発見することはとうてい不可能であったろうことを思えば、こうして彼がヴァンスをたよって来たのは、ことのほか運の良いことであった。
「こんなに大騒ぎして、ネズミ一匹ってこともあるけれどね」マーカムは確信のない口ぶりだった。「しかし、ひょっとして君も一緒について来たいかも知れんと思って……」
「いや、もちろんだよ」ヴァンスはマーカムに皮肉な微笑を送った。「まあ暫らく坐って、ちゃんと話をしてみたまえ。死体は逃げやしないさ。だいいち、現場を見る前にすこし事実を整理しておいた方がいい。――まずたとえば、どういう連中が第一巻の関係者なんだい。それから、被害者の死亡後一時間以内に地方検事局が殺人事件に乗り出すというのは、どういうわけだい。とにかく、さっき聞いた話だけからじゃ、事件はまるきりナンセンスだということになるね」
マーカムは憂鬱げに椅子のへりに腰をおろして葉巻の先をじっと見た。「そう言うな。始めから『ユードルフォの秘密』みたいな態度はよしてくれよ。この犯罪は――もし犯罪なら――きわめて明快だと思うね。そりゃ、殺し方はたしかに普通じゃない。だけども、ナンセンスってことはないよ。弓術はこのごろ大変なブームだ。いま弓矢はアメリカ中、ほとんどどこの町、どこの大学に行っても使われているよ」
「わかった。しかし、ロビンと言う名前の人間を殺すのに使ったのは、ずいぶん昔のことだぜ」
マーカムは目を細めて、探るようにヴァンスを見た。「君もそこに気がついたんだね」
「気がついたって。そんなことは、君が殺害者の名前を言ったとたんにぼくの頭にとびこんで来たさ」ヴァンスはしばらく煙草をふかしていた。「『雄駒鳥《コック・ロビン》を殺したの、だあれ』そして弓と矢だ。子供のころ習ったヘボ歌を奇妙によくおぼえているね。――ところで、その不運なロビン氏の名前は何て言うんだ」
「たしか、ジョーゼフと言った」
「薬にもヒントにもならんねえ……。ミドル・ネームは?」
「おいおい、ヴァンス」マーカムはたまりかねたように立ち上った。「殺された男のミドル・ネームが事件と何の関係があるんだ」
「さあ、知らんな。ただね、これから気違いになろうって時には、徹底的になってみるのも悪くないさ。なまじっかな正気は何の役にも立たないからね」
彼はベルを押してカリーを呼ぶと、電話帳をとりにやった。マーカムが不服をとなえたが、ヴァンスは聞えないふりをしていた。電話帳が来ると、しばらくページをくっていたが、やがて、とある名前を見つけてそこを指でおさえながら言った。
「被害者の住所はリヴァサイド・ドライヴだね」
「そうだったと思う」
「なるほどね」ヴァンスは電話帳をとじて、からかうように得意顔で地方検事を見つめながら、ゆっくりと言った。「マーカム、電話帳にはジョーゼフ・ロビンという名前は一つしか出ていないよ。住所がリヴァサイド・ドライヴでね、ミドル・ネームは――コクランさ」
「よせよ、くだらん」マーカムはほとんど猛然たる口調になっていた。「そいつの名前がコクランだったにしてもだ、君は一体、そんなことがそいつの殺されたことと関係があるなんて、本気で言おうとしているのかい」
「とんでもないよ、きみ、ぼくはなんにも言おうとしてなんかいない」ヴァンスはちょっと肩をすくめた。「事件に関係のあることを、いわば、心にメモしているだけさ。現在のところだね、ジョーゼフ・コクラン・ロビン氏なる人物が――つまりコック・ロビンがだ――弓と矢で殺されたと、ね。君みたいな法律屋でも、こいつはひどく奇妙な話だと思わないかい」
「思わんね」マーカムはまるで吐き出すように言った。「この被害者の名前はごく平凡な名前だよ。それにアメリカ中で弓術がこれだけ復活しているんじゃないか、死人や怪我人がもっと出ないのが不思議なくらいだ。だいいち、ロビンが事故で死んだということだって、充分ありうるんだ」
「おどろいたなあ」ヴァンスは非難めいて首を振った。「そんなことがかりに本当だとしても、いまの事態にとって、ちっとも助けにはならないぜ。ますます奇妙になるばっかりだよ。全米何千何万だかの弓術愛好者の中で、人もあろうにコック・ロビンという名の男が弓矢で事故死をとげたなんて。そんなことを考えていたら、降霊術だの妖怪学だの何だのってものにたどりつくのがオチだよ。ひょっとして、君はエブリスだのアザゼルだの霊魔だの、人間に悪魔的ないたずらをしてまわるアラビアの魔物のことを信じているのかい」
「マホメット教の神話学者にならなきゃ、偶然を認められないのかい」マーカムは辛らつにやり返した。
「おいおい、ことわざじゃ、偶然の手は長いかも知れないけれど、無限の彼方《かなた》にまで届きはしないよ。とにかく、はっきり数学の公式にもとづいた確率の法則ってものがあるんだから。ラプラース〔この人の名は『天界機構論』によって最もよく知られているが、ここでヴァンスが言っているのは名著『確率分析論』のことで、ハーシェルはこの本を「数学的な技と力の極致」と称している〕やチューバーやフォン・クリースのような人物が無駄に生きていたことになるのかと思うと、悲しくなるよ。――しかし、事態は君の想像しているより、だいぶ複雑だよ。たとえば、君はさっき電話で、ロビンが死ぬ前に一緒にいた最後の人物はスパーリングという男だと言ったろう」
「そうだったらどんな秘密の意味があるんだい」
「ドイツ語のスパーリングはどんな意味か知っているだろう」ヴァンスは甘い声を出した。
「ぼくだって中学校ぐらい行ったさ」マーカムは言い返した。それから彼の両眼はこころもち見開かれ、全身が固くなって来た。ヴァンスはドイツ語辞典を彼の方に押しやった。
「まあいいから、引いてみたまえ。徹底的にやろうよ。ぼくも引いてみた。勝手な空想で自分に一杯喰わしてるんじゃないかと思って、活字で書いてあるのをこの目で見たくなったんだ」
マーカムはだまって字引を開き、ページに目をはしらせた。その単語のところをしばらく見つめていたが、やがて呪縛《じゅばく》をふりはらうように、ぐっと胸を張った。口をひらいた彼の声は、けんか腰だった。
「スパーリングは雀だ。小学生だって知ってる。それがどうした」
「うん、そうなんだ」ヴァンスはものうげに煙草をもう一本つけた。「そして、『雄駒鳥《コック・ロビン》の死と葬式』という古い子守唄の方も、小学生だって知っているだろう」彼はじらすようにマーカムを見やった。マーカムは外に目をやって春の陽《ひ》ざしに見入っていた。「どうやら君はあの童謡の古典にくわしくないふりをしているようだから、第一節のところを暗誦《あんしょう》させていただくことにしよう」
ヴァンスが耳に古い以下の詩を口ずさんでいる時、何か見えざる妖怪変化がやって来たかのように、私はぞっと肌に粟を生ずる思いに襲われたのであった。
雄駒鳥《コック・ロビン》を殺したの、だあれ。
雀が言った、『わたし、
わたしが弓と矢でもって
雄駒鳥《コック・ロビン》を殺したよ』
第二章 弓術場にて
――四月二日、土曜日、午後零時三十分
ゆっくりとマーカムはヴァンスに視線をもどした。「狂ってるね」彼は説きがたく、同時に恐ろしい何物かに直面した人間のように言った。
「チェッ、チェッ」ヴァンスは軽く手を振った。「そっくり剽窃《ひょうせつ》なんだよ。だから言ったろう」〔彼は気軽さを装《よそお》って当惑感にうちかとうとしていたのだ〕「そこで、ロビン氏の死を嘆き悲しむ恋人《イナモラータ》が居るはずだってことになるんだよ。おぼえているかい、この一節、
喪主《もしゅ》になるのは、だあれ。
鳩が言った、『わたし、
死んだ恋人とむらって
わたしが喪主になりましょう』」
マーカムの頭がわずかに揺れ、指はコツコツとテーブルを叩いていた。「なんてこった。事実、この事件には女が居るんだ。おまけにこの事件の底に嫉妬がひそんでいることもありうるんだ」
「おい、すごいねえ。ひょっとすると、こいつは大人の幼稚園のタブロー・ヴィヴァン〔活人画〕か何かに発展しそうだぜ。しかし、そうなると仕事は楽だね。あとは蝿を見つけさえすりゃいいんだから」
「蝿というと」
「ちょっと学のあるところで、ムスカ・ドメスティカ〔家蝿〕というやつさ。マーカム、忘れたのかい。
死ぬのを見たの、だあれ。
蝿が言った、『わたし、
わたしの小さな眼でもって
彼が死ぬのを見ていたよ』」
「いい加減にしないか」マーカムは苦い顔をした。「子供の遊戯じゃない。まじめな話なんだぞ」ヴァンスはぼんやりとうなずいた。
「子供の遊戯が時によって人生のいちばん重大な事件になることだってあるさ」妙な、他へ気をうばわれた調子で彼は言った。「この事件はどうも気にくわんなあ――全然気にくわん。あんまり子供くさすぎるよ――それも生れながら年寄りじみた、精神病の子供だよ。何かいまわしい倒錯心理みたいだな」彼は煙草を深く吸いこむと、ちょっと反感のそぶりを見せた。「詳《くわ》しく聞かせてくれないか。われわれは、いまこのさかさま天国のどこに立っているのか、そのへんをはっきりしておかなくちゃ」
マーカムはふたたび腰をおろした。
「詳しくと言っても、たくさんは知らないんだ。さっきの電話で話したのが全部だと言っていいくらいだ。君に知らせるちょっと前に、ディラード老教授から電話があって――」
「ディラード? ひょっとして、あのバートランド・ディラード教授のことかしら」
「そう。事件は彼の家で起ったんだ。――知ってるのかい」
「個人的には知らない。ただ科学界じゃ有名な人だからね――現在の理論物理学の最高権威者の一人だ。あの人の本ならほとんど全部持っている。――どうしてまた、あの人が君に電話なんかかけたんだい」
「二十年ちかく教授を知ってるんだ。コロンビア大学であの人について数学を習ったし、あとでちょっと法律上の仕事をしてやったことがあるんでね。ロビンの死体が発見されるとすぐに教授はぼくに電話をよこした――十一時半ごろだ。そこで殺人犯局のヒース巡査部長を呼び出して事件をまかせたわけだ――しかしぼくもあとで行ってみると言っておいた。それから君に電話をかけたんだ。ヒースと部下たちが、もうディラード家で待っているよ」
「家族構成はどうなってるんだ」
「教授は、君もご存知だろうが、十年ばかり前に引退《いんたい》した。それ以来、リヴァサイド・ドライヴの近くの西七十五番街に住んでいる。その時、兄弟の子で十五歳になる娘を引きとって一緒に暮してるんだ。それが、もうかれこれ二十五歳ぐらいになるだろう。それからぼくとカレッジ時代に同級だった、シガード・アーネッスンという弟子が居る。教授はまだ下級生時代に彼を養子にしたんだ。アーネッスンはいま四十歳前後で、コロンビア大学の准教授だ。三歳の時、ノルウェーからアメリカにやって来て、五年後に孤児になってしまった。数学の天才みたいなところがあって、ディラード教授は彼が大物理学者になる素質を認めて、養子にしたということらしいな」
「アーネッスンてのは聞いたことがあるね」ヴァンスはうなずいた。「さいきん、動体の電気力学に関するミーの学説の修正論を出版したね。……するとこのディラードとアーネッスンとその女の子は三人だけで住んでいるんだね」
「召使が二人とね。ディラード教授はかなりな収入があるらしい。それにしても、寂しい暮しじゃないようだ。あの家は数学者仲間のメッカみたいなもので、ちょっとしたサロンが出来あがってるんだね。それにあの女の子だ。いつも屋外スポーツに熱中していて、ちゃんと自分の社交仲間を持っている。何度かあの家に行ったことがあるけれど、いつもお客が居てね――二階の書斎に理論数学の連中が一人二人来ていたり、階下の客間で若者が騒いでいたり」
「で、ロビンは」
「ロビンは、そのベル・ディラード嬢の仲間の一人だ。ちっと大人びた社交青年で、弓術の記録保持者らしい」
「うん、知っている。この弓術の本で調べたところだ。J・C・ロビンという男が最近の選手権大会でいくつか良い成績をあげている。それから、スパーリング氏があちこちの大きな弓術トーナメントで、いい競争相手だったこともわかっている。――ディラード嬢も弓をやるのかい」
「ずいぶん熱心らしい。事実、リヴァサイド弓術クラブを組織したのは彼女なんだ。クラブの常設弓場はスカーズデールのスパーリングの屋敷にある。しかしディラード嬢は七十五番街の教授の家の横庭に、急ごしらえの練習場を作った。ロビンはそこで殺されたんだ」
「ははあ。それで、ロビンと一緒にいたのがわかっている最後の人物はスパーリングだとか言っていたね。今その雀氏はどこに居るんだ」
「知らんね。事件の少し前までロビンと一緒だったらしいが、死体が発見された時は姿を消していた。その点はヒースが何かつかんでいるだろう」
「君はさっき嫉妬がどうとか言ったけれど、どんな動機が考えられるんだ」ヴァンスのまぶたはけだるそうに垂れさがり、ゆるゆると、しかしきわめて慎重に煙草をふかしつづけていた。――それは彼が耳をかたむけている話に強い関心を抱いているしるしだった。
「ディラード教授は姪《めい》とロビンの間に恋愛関係がありそうに言っていたし、それにスパーリングがどんな人間で、ディラード家にとってどんな立場の男なのか教授に訊《たず》ねたところが、教授はスパーリングも彼女の求愛者だと打ち明けてくれた。電話ではそのへんの突っこんだ事情は聞かなかったが、どうもぼくの印象では、ロビンとスパーリングはライバル同士で、ロビンがやや優勢ということらしかった」
「そこで雀《スパーリング》が駒鳥《ロビン》を殺したか」ヴァンスはうろんげに首を振った。「そりゃだめだ。あまり単純すぎるよ。だいいち、コック・ロビンの子守歌を悪魔的なほど完全にもじりなぞって再現していることを、説明しないじゃないか。この奇怪な事件の裏には何かもっと深い――もっと暗い恐ろしいものがひそんでいる。――ところでロビンの死体を発見したのは誰だい」
「ディラード教授だ。家の裏側の小さなバルコニーに出てみたところが、弓の練習場でロビンが心臓に矢が突きささったままころがっているのが見えたんだね。すぐさま階下におりた――もっとも、あの老人はひどく痛風で苦しんでいるから、だいぶん難儀をしておりたんだろう――それで、男が死んでいるのを見て、ぼくに電話したというわけだ。――これがぼくの持っている予備知識のすべてだよ」
「前途の光明に目もくらむとは言いかねるが、それでも少しはヒントになった」ヴァンスは立ち上った。「ねえ、マーカム、怪奇というか、いまわしいというか、何かそんなことになっても驚かないように覚悟しておくんだね。事故とか偶然の暗合とかいう考え方は排除しようじゃないか。たしかに、普通の競技用の矢でも――あのやわらかい木でできて、斜めに切ったけばけばを付けた矢でも――人間の着衣と胸壁をたやすく射抜くことができるのは本当だけれども、『雀』という名の人間がコクラン・ロビンという名の人間を、『わたしの弓と矢でもって』殺したなんて事実は、いろんな情況をただでたらめに結び付ければいいという考えを締め出してしまうものだ。この信ずべからざる一連の事実は、結局、この事件全体の裏に陰険きわまりない悪魔のような意図があるのを証明しているんだよ」彼はドアの方へ進み出た。「さあ、行こう。博学なオーストリアの警察がシトゥス・クリミニス〔犯罪現場〕と呼ぶところへ出かけて行って、もっとなにか探り出そうじゃないか」
われわれはただちに家を出て、マーカムの車で山の手に向った。五番通りでセントラル・パークに入り、七十二番街の門をくぐって、数分後にはウェスト・エンド通りの角を曲って七十五番街に入って行った。ディラード教授の家――三百九十一番地――は右側のならびで、その区画を大分河の方に行ったところにあった。ディラード邸《てい》とリヴァサイド・ドライブの間の一画を十五階建の大きなアパートが占領していた。教授の家はこの巨大な建物のかげにちぢこまって、まるで保護を求めて身をすり寄せているみたいだった。
ディラード邸は灰色の、風雨にくすんだ石灰岩造りで、家というものが耐久と居心地を考えて作られた時代の建物だった。敷地は間口が三十五フィートあって、建物は正味二十五フィートを占《し》めていた。残りの十フィートは邸とアパートをへだてる露地になっていて、これと道路との境は高さ十フィートの石塀が区切りをつけ、塀のまんなかに大きな鉄の扉が閉じていた。家は植民時代風をちょっと変えた建物だった。ポーチは、せまいながら煉瓦で縁取《ふちど》りをして、コリント風の白い四本の柱で飾ってあり、通りからはゆるい階段を少し上って行くようになっていた。二階には長方形のガラスを鉛ではめこんだ観音開きの窓が家の間口の広さだけずらりと並んでいた。(あとで、これが教授の書斎の窓とわかった)なぜか心安まる、そしてはっきりと旧式な感じのする邸、身の毛もよだつ殺人事件の背景にはおよそふさわしからぬ邸だった。車で乗りつけた時、警察の自動車が二台、玄関のあたりに駐《と》めてあり、通りには物見高い連中が十二、三人集まっていた。パトロールの巡査が一人、みぞ彫りをほどこしたポーチの柱の一本にもたれかかって、退屈しきった仏頂面《ぶっちょうづら》で目の前の見物人を眺めていた。
老執事がわれわれを迎え入れ、玄関の広間の左手にある客間に案内した。みると、殺人犯局から巡査部長アーネスト・ヒースと二人の部下が来ていた。ヒースは中央テーブルのわきに立ち、両手の親指をチョッキの脇口にひっかけて煙草をすっていたが、進み出て手をさし出し、マーカムに親しい挨拶をした。「どうもどうも、わざわざおいで頂いて」そして彼の冷たく光る青い眼に見えていた不安の表情が、すこしやわらいだようだった。「お待ちしていましたよ。どうもこの事件はひどくうさん臭いところがありましてね」それから後に立っていたヴァンスに気付くと、いかにも無遠慮で喧嘩早そうな顔がくしゃくしゃっとくずれて、人が善さそうにニヤリと笑った。
「やあ、ヴァンスさん。ひょっとして、あなたがこの事件におびき寄せられやせんだろうかと、こっそり思っていたところですよ。お久しぶりですが、ずっとどうして居られましたか」私は警部がこうしてまぎれもない友好の意を表明しているのを、かつて彼がベンスン事件でヴァンスとはじめて会った時に見せた敵意と、思いくらべてみないでは居られなかった。しかし、被害者アルヴィンのけばけばしい居間での初見参から、ずいぶん月日が経《た》っていた。ヒースとヴァンスの間には、お互いの尊敬と、相手の才能への率直な賞讃をもとにして、いつか温かい感情が通じ合うようになっていたのである。ヴァンスは唇の両端のあたりに微笑をたたえて、手を差し出した。
「実はねえ、フィレモンの劇作上のライバルだったメナンドロスというアテネ人の、失われた栄光を発掘するのに懸命だったんだよ、おかしいかい」
ヒースは軽蔑するようにぶつぶつ言った。
「まあ、とにかく、そのお仕事も犯人を見つける時みたいにうまくおやりになったら、たぶん有罪判決がもらえるでしょう」彼の口からお世辞をきいたのは、これがはじめてだった。これは彼の心に深く根ざしたヴァンスへの敬意を物語るだけでなく、ヒース自身の当惑と不安にみちた精神状態を証明してもいたのである。
マーカムはヒースのぐらついた意中を察して、いくらか唐突に訊いた。「はっきり言って、この事件のどこが難かしいと思うんだね」
「べつにどこも難かしいとは申しておりませんです。やった鳥はズバリ判っておると思います。しかし、どうも納得できんので――ああちきしょう、マーカムさん……不自然ですからねえ、意味をなさんのですから」
「君の言わんとするところは、どうやらわかったぞ」マーカムは瀬ぶみするようにヒースを見た。「君はスパーリングが犯人だという気がしているんだろう」
「そのとおり、彼がホシです」ヒースは力《りき》みかえって言った。「しかし、気になっておりますのはそのことじゃなくて、実はですな、私はこの殺《や》られた人間の名前が気に入らんのです――まして使った道具が弓矢だとなると……」彼は少し照れた顔で言いよどんだ。「検事さんはおかしいとお思いにならんでしょうか」
マーカムはまごついたようにうなずいて、「すると、君も例の子守唄を覚えていたんだな」と言うと、目をそらしてしまった。
ヴァンスはおどけた目つきでヒースを見つめながら、「きみ、いまスパーリング氏のことを『鳥』と言ったろう。あれはまさにうまい命名だった。スパーリングというのは、いいかい、ドイツ語で雀のことなんだ。弓と矢でコック・ロビンを殺したのは、ほら、雀だったろう。……仲々面白い組み合わせだよ――ねえ」
ヒース巡査部長の眼がこころもち飛び出し、唇はポカンと開いていた。こっけいなほど困惑の色をうかべて、まじまじとヴァンスを見ていたが、「だから、どうもうさん臭いと言ったんですよ」
「うさん臭いと言うより、羽根くさいと言ったほうがいいだろう、ほら」
「何か誰にもわからん形容詞をつけてもらいましょうか」ヒースは猛然とやり返した。説明のつかないことに出くわすと好戦的になるのが彼のくせだった。
マーカムが調停役をかって出た。「事件の詳細を聞かせてくれないか、ヒース君。この家の人間の尋問はもうすませたんだろう」
「ごく大ざっぱなところだけやりました」ヒースは中央テーブルの角に片足をほうり上げて、消えている葉巻に火をつけなおした。「検事さんを待っておったんです。二階の老人はお知り合いと承わっておったもんですから、私のほうはただ形どおりのことだけやっておきました。露地に一人立たせて、ドレマスさん〔ヒースが言ったのはニューヨークの首席検死医イマニュエル・ドレマス博士のことである〕が来るまで、誰も死体にさわらんように見張らせてあります――めしを食ってから来ますから。――指紋係へは、署を出る前に電話しておきましたから、連中ももうおっつけ来るはずです。もっとも、どれぐらい役に立ちますか……」
「矢を射た弓はどうしたの」ヴァンスが口をはさんだ。
「そいつが本命だったんです。ところがディラード老人が露地でひろって家の中にもって来たと言うんですなあ。いくら指紋があったって、おおかた台なしでしょう」
「スパーリングのほうはどうした」マーカムがきいた。
「住所がわかりました――ウェストチェスター方面の郊外です――二、三人行かせて、つかまり次第こっちに連れて来るようにしてあります。それから使用人が二人――さっき案内してきたじいさんと、その娘で台所をやってる中年女ですがね。いろいろ訊いてみましたが、どっちも何も知らんようです。それとも、とぼけてるんですかね。――それから、ここの若いご婦人にあたってみたんですがねえ」ヒースは両手をひろげてじれったい絶望のしぐさをした。「すっかり取り乱してワアワア泣くんですよ。だから彼女に会う楽しみは検事さんにおすそわけすることにしました。――スニトキンとバークが」――彼は親指を突き出して、正面の窓ぎわに居た二人の刑事をさした――「地下室から露地や裏庭を見まわって当りをつけたんですが、空《から》くじでした。――まあ、現在のところ、わかってるのはそれだけです。ドレマスさんと指紋係がやって来しだい、それにスパーリングと腹をうちわって話をすりゃあね、玉もころがり出す、仕掛けも洗いざらいわかってくるでしょう」
ヴァンスは耳にきこえるほど大きな溜息をついてみせた。「ヒースさんは楽天家だねえ。その玉が真四角でころがらないとわかっても、がっかりしないようにしたまえ。この子守唄の狂想音楽には、何だかべらぼうに変なところがあるからね。まあ、ぼくの予感が全部はずれてないかぎり、ずいぶん長いこと目かくし遊びばっかりやっていることになるよ」
「そうですか」ヒースは鼻をあかされた様子でヴァンスを見た。彼が多かれ少なかれヴァンスと同じ意見を抱いているのは明らかだった。
「ヴァンスさんの言ったことで、くよくよしちゃだめだよ、ヒース君」マーカムはひやかした。「この人は勝手な空想にかり立てられてるんだからね」そして、さもじれったそうな様子でドアの方へ体を向けた。「ほかの連中が来る前に場所を見ておこう。あとで、ディラード教授やほかの家族と会って話し合ってみよう。ところで、ヒース君、アーネッスン氏のことは言わなかったね。家に居るんじゃないのか」
「大学の方に行っているそうです。しかしもうすぐ帰って来るはずです」
マーカムはうなずいて、ヒースのあとから玄関の広間に出た。裏口に通じる厚い絨氈を敷きつめた廊下を歩いていると、階段の上で物音がして、頭上のうすくらがりからはっきりと、しかしいくらか震《ふる》える女の声が話しかけて来た。
「あの、マーカムさんでいらっしゃいますか。叔父が、あなたのお声だと申しますものですから。書斎でお待ちしておりますって」
「お嬢さん、いますぐ叔父さんのところへ行きますからね」マーカムは父親のように温かい同情のこもった調子で言った。「お嬢さんにもお会いしたいから、ご一緒に待っていて下さい」ディラード嬢は小声で応諾のことばをもらして、階段の上をまわって姿を消した。われわれは下の広間の裏口へと進んで行った。扉をくぐると細長い廊下になっていて、その先に地階に通じる木の階段があった。この木の階段をおりて行くと、広い、天井の低い地下室があり、家の西側の露地に直接出るドアがあった。このドアが少し開いていて、そのすき間のところに、ヒースが死体の見張りに立てておいた殺人犯局の刑事が立っていた。
この地下室は明らかにかつては物置に使っていたもので、改造して装飾をほどこし、今は一種のクラブ室になっていた。床はセメントで、ファイバーの敷物が敷いてあり、一方の壁いちめんに各時代の射手をならべたパノラマが描いてあった。左手の長方形の鏡板には昔の弓術場の光景を大きな絵に描いて、『嗚呼《ああ》フィンズベリイの弓術者――ロンドン一五九四年』と題し、その片隅にブラディー・ハウス・リッジ、中央にウェストミンスター・ホール、前景にウェルシュ・ホールなどが描かれていた。部屋にはピアノが一台、蓄音器が一台、いくつもの坐り具合の良さそうな籐椅子、まだら模様の長椅子、各種スポーツ雑誌をちらかした大きな籐の中央テーブル、弓術の本が一杯つまった小さな本箱などがあった。弓の的がいくつか片隅においてあり、その金色の円板と色あざやかな同心円の輪が、二つの裏窓からいっぱいにさしこむ陽光を浴びて色とりどりに輝いていた。ドアに近い一方の壁にはいろいろなサイズと重さの長い弓がかけてあり、その傍に古めかしい道具箱があった。その上のところに、アスカム棚というのか、小さな戸棚のようなものが吊ってあり、腕当てとか、弓の手袋とか、羽毛とか、やじりとか、弦《つる》とか、こまごまとした道具類がほうりこんであった。ドアと西側の窓の間の大きなオーク材の鏡板には矢のコレクションが飾ってあり、私が見た中では最も種類が多く、興味深いものであった。このコレクションはヴァンスをことのほか惹《ひ》きつけたようで、片眼鏡を注意ぶかくかけ直しながら、彼は急ぎ足に歩み寄った。
「狩猟用《しゅりょうよう》と戦闘用の矢だね」彼は言った。「こいつは素敵だ……ははあ、記念品が一本無くなっているらしいね。それも、かなり慌てて取りはずしたんだな。とめていた小さな真鍮《しんちゅう》の釘がひどく曲っている」床の上に競技用の矢をたくさん入れた矢筒《やづつ》がいくつか立てかけてあった。彼はかがみこんで一本抜き、マーカムにさし出した。「こんなひよわい矢で人間の胸板を突きとおすなんて、とてもできそうにないと思うかい。ところが競技用の矢でも八十ヤード先の鹿をズブリと射抜くことができるんだよ。……それなら、なぜ鏡板から狩猟用の矢が無くなっているのか。面白い点だね」
マーカムは渋い顔をして唇を固くしめた。どうやら彼は、この悲劇は事故かも知れないのだという、はかない望みを捨てきれないでいるらしかった。情ない顔つきで矢を椅子の上にほうり出すと、彼はドアのほうに歩いて行った。「死体と現場の状況を見てみよう」彼はぶっきらぼうに言った。
あたたかい春の光の中に出て行った時、私はふと一種の孤独感にみまわれた。われわれが立っている舗装した狭い露地は、けわしい石壁にはさまれた峡谷《きょうこく》のようだった。路面より四、五フィート下っていて、塀の鉄門へは短かい階段を上り下りするようになっていた。隣のアパートの、のっぺりと窓一つない裏壁は、はるか百五十フィートほどの高さまでそびえ立っていた。またディラード家の建物自体も、四階建てではあったが、今日の建築の寸法では六階分はあったのである。われわれはニューヨークのまん中で戸外に立っていながら、われわれの姿を見ることができるのはディラード家の少しばかりの横窓からと、裏庭がディラード家の敷地と接している七十六番街に面した家の、たった一つの出窓からだけだった。
間もなく知ったことだが、この隣家はドラッカー夫人という人が持ち主で、あとでロビン殺し事件の解決に致命的、悲劇的な役割を演ずることとなった。裏窓がいくつかあるが、大きなやなぎの木が何本もあって目かくしをしていた。ただ家の横側の出窓からだけは、われわれの立っている露地を邪魔なしに見とおすことができた。私はヴァンスがこの出窓に目をとめたことに気がついた。じっと目をやっている彼の顔に、チラと興味がうかんだのがわかった。彼の注意をひき、心をとらえていた物が何であるか、およそ見当がついたのはその日の午後もおそくなってからだった。弓場はディラード家の側の七十五番街に面した塀からドラッカー家の七十六番街に面した同じような塀までの露地ぜんたいを占めていて、向うのはずれに、浅い砂場の上に乾草の俵で作った標的が一つ立ててあった。二つの塀の間は二百フィートあって、あとで知ったことだが、これだけあれば、いわゆる六十ヤード射場ができるので、男子ヨーク・ラウンド競技以外なら標準的な弓の試合はぜんぶ行うことができるのだった。
ディラード家の敷地は奥行き百三十五フィート、ドラッカー家の敷地はしたがって六十五フィートであった。両家の裏庭の境界を分けている高い鉄細工の垣根の、現在弓場になっているところを二つに割っていた部分が取り除いてあった。弓場の向う半分に、ドラッカー家の敷地の西側の線と境を接して、七十六番街とリヴァサイド・ドライヴの出会う角地いっぱいに、もう一つの高いアパートメント・ハウスが建っていた。この二つの巨大な建物の間に狭い通路があって、その弓場のがわの端のところは高い板塀か行きどまりになっており、錠《じょう》つきの小さな扉が作りつけてあった。
はっきりさせるために、私のこの記録の中にぜんたいの場面を示す図を加えようと思う。というのは、さまざまな地形上、建築上の配置の詳細が、この事件の解明に非常に大きな役割をになっていたからである。私は特に次の諸点に注意を喚起《かんき》しておきたい。第一は、ディラード家の裏側の小さな二階のバルコニー、これが弓場の上に少し突き出ている。第二の点はドラッカー家の出窓(二階にある)で、そこから南を見ると七十五番街にかけて弓場がまる見えである。そして第三に、二つのアパートにはさまれた通路、これがリヴァサイド・ドライヴからディラード家の裏庭まで通じている点である。
ロビンの死体は、弓術クラブ・ルームのドアを出たすぐ近くにあった。仰向《あおむ》けで、両腕をひろげ、両脚がわずかにかがんで、頭は弓場の七十六番街の側のはずれを指していた。年のころ三十五歳見当、中背、そろそろ肥満の傾向ありというところだった。丸々とふくらんだ感じの顔は、ブロンドの口髭を除いてきれいに剃《そ》り上げてあった。明るいグレイのフラノのスポーツ服の上下を着て、シャツは淡いブルーの絹、靴は分厚いゴム底をはった茶のオックスフォードだった。帽子――パール色のフェルトのフェドラ帽――が足もとにころがっていた。死体のわきに凝血した大きな血の海が、なにか物を指さす手を大きくした形にひろがっていた。だが、われわれを凝然《ぎょうぜん》たる恐怖の呪縛でとらえてしまったのは、死人の胸の左側に垂直にとび出た細長い矢であった。矢は二十インチばかりも突き出していて、体に刺さったところに大きく黒ずんだ出血によるしみがあった。この奇妙な殺人をなおのこと不調和にしているのは、矢のはしを美しく飾っている矢羽だった。それが鮮《あざ》やかな赤に染めてあり、その一握り半ばかりのところにターコイス・ブルーの縞《しま》が二本描いてあるという――まことに派手な矢であった。まるで子供向けの森の小人の劇でも見ているように、私はこの悲劇になにか非現実的な感じを覚えたのであった。
ヴァンスは立ち止まって両手をポケットに入れたまま半《なか》ばとじた目で死体を見下していた。一見、だらしない態度に見えたが、じつは鋭敏そのもので、頭脳は眼前の情景のさまざまの要素を整理するのに忙殺されているのだと、私にはわかっていた。
「どうもおかしいね、その矢は」彼は口をひらいた。「大きな獲物用《えものよう》にデザインしたものだ。……明らかにいま見て来た人種学的展示物のひとつだよ。それにしても見事な命中だ――ずばり致命点にあたっている。肋骨《ろっこつ》と肋骨の間を、しかも一分もそれていない。すごいねえ。……ねえ、マーカム、こんな凄腕は人間わざじゃないぜ。まぐれ当りなら、あるいはということもある。しかし、この洒落男を殺した奴は、まぐれなんかを当てにしちゃいないね。その力強い狩猟用の矢は、あの部屋の鏡板からもぎ取って来たにちがいないけれども、それを見ると予《あら》かじめ熟慮計画したものだということがはっきりする」そして不意に死体の方にかがみこむと、「ははあ、面白いぞ。矢はずがこわれてとれている――これでは張り切った弦につがえることだって、あやしいじゃないか」彼はヒースをふりかえって、「ヒースさん、ディラード教授はどこで弓を見つけたの。あのクラブ・ルームの窓から遠くないところじゃないかな」
ヒースはとび上った。
「そのとおり、窓のすぐ外のところですよ、ヴァンスさん。いまはピアノの上に置いてあります。指紋係を待っているところです」
「そりゃ残念ながらいくら頑張っても教授の手がたが残ってるだけだろう」ヴァンスはケースを開いて煙草をもう一本抜きとった。「それに、矢の方にも指紋がついているかどうかわからないよ」
ヒースは詮索顔《せんさくがお》にヴァンスを見つめていたが、「ヴァンスさんは、どういうわけで弓が窓の外で見つかったとお思いでしたか」
「理屈から言ってあそこになるだろう、ロビン君の死体の位置からして」
「つまり、近距離から射たという……」
ヴァンスは首を振った。
「そうじゃない。ぼくの言っているのは、死体の足が地下室のドアの方を向いていて、手は大の字にひろげているのに、両脚がかがんでいるという事実だよ。心臓を射抜かれた人間がそんなふうな倒れかたをすると思うかい」
ヒースは考えたあげく、「なるほどねえ。もっと海老《えび》なりになってるか、それとも、仰向けに倒れたなら、脚がまっすぐで手は抱えこんでる方が本当ですなあ」
「そうだ。――それに帽子を見たまえ。仰向けに倒れたのなら、足もとじゃなくて、うしろのほうにころがっているはずだ」
「おい、ヴァンス」マーカムが鋭く訊いた。「なにを考えているんだ」
「うん、いろいろだよ。しかし、あれこれよく煮詰めてみると、この紳士は弓と矢で射殺されたんじゃないという、まるで不合理な見解に到達することになるね」
「そんなら、一体全体なんだって――」
「そこだよ。この念の入った舞台装置の気違いぶりは何故なのか。――おい、マーカム。こいつは気味の悪い事件だよ」
ヴァンスのことばの途中で地下室のドアが開いて、ドレマス検死医がバーク刑事に付添われて颯爽《さっそう》と露地にあらわれた。元気の良い挨拶をして、一同の手を握ってまわると、こんどは不満げな眼つきでヒースを見た。
「やれやれ、ヒース君」彼は粋《いき》にかぶった帽子をもひとつかたむけて、文句をつけた。「一日二十四時間のうち、ぼくがめしを食うのに費《ついや》すのはたった三時間なのに、君という人は必らずその三時間を選んで、いまいましい死体を押しつけてくるんだからな。おかげでぼくの消化は無茶苦茶だ」彼は怒りっぽくヒースをじろじろ眺めていたが、ロビンを見ると、軽く口笛を鳴らして、「なんてこった。こんどはまた、なんと凝《こ》った人殺しを見付けて来てくれたじゃないか」そして、かがみこんで、手なれた指先を死体の上にはしらせはじめた。
マーカムはしばらく眺めていたが、やがてヒースをふり返って、「ヒース君、ドレマスさんに調べてもらっている間、二階に行ってディラード教授と話をして来るよ」それから医師に、「ドレマスさん、お帰りの前にちょっと会いたいから」
「はいはい」ドレマスは目を上げようともしなかった。彼は死体の片側を持ち上げて、頭蓋骨《ずがいこつ》の底のあたりを触診《しょくしん》しているところだった。
第三章 思い出した予言
――四月二日、土曜日、午後一時三十分
われわれが玄関の広間に入って行った時、本部から指紋専門のデュボイス主任とベラミー刑事が着いたところだった。待ちかまえていたらしいスニトキン刑事は、直《ただ》ちに二人を地下室の階段の方へ案内して行き、マーカムとヴァンスと私は二階へ上った。書斎は広々とした豪華な部屋で、少くとも奥行きが二十フィートあり、建物の間口《まぐち》ぜんたいを占めていた。部屋の両側は作りつけの大きな本棚が天井《てんじょう》までぎっしりと並んでいて、西側の壁の中央にはどっしりと大きなブロンズのナポレオン時代風の暖炉があった。ドアを入ったところにジェームズ王朝風の手の込んだ細工の飾り棚が置いてあり、反対側の七十五番街に面した窓にちかく、彫刻をほどこした巨大なデスクがあって、書類やパンフレットのたぐいが雑然とのせてあった。室内にはいろいろと興味あるオブジェ・ダール〔美術品〕があり、暖炉の傍のつづれ織の壁掛けをかけた壁からデューラーの図解的な絵が二枚われわれを見下していた。椅子はすべて大型で、黒っぽい革が張ってあった。
ディラード教授はデスクの前に、片足を小さな房《ふさ》かざりのついた足のせ台にのせて坐っていた。そして窓ぎわの一隅の、大の字にくつろげる肱《ひじ》かけ椅子に、彼の姪《めい》がちぢこまって坐っていた。古典的な目鼻立ちの整った力強い顔立ちの、精気あふれる、身なりの小ざっぱりした娘だった。老教授は挨拶のために立ち上ることをせず、その失礼の言い訳をするでもなかった。どうやら体の不自由をわれわれの方で当然承知してくれてしかるべきだと思っているらしかった。通り一遍な紹介がおこなわれたが、それでもマーカムはヴァンスと私が同席する理由を手短かに説明してくれた。われわれが腰をおろすと、教授はきり出した。
「マーカム君、こんどは悲しい事件のために君と会うことになって、残念だった。しかし、君に合えるのはいつも良いもんだ。――おおかたベルとわたしを尋問したいんだろうが。まあ何でも好きなように質問したまえ」
バートランド・ディラード教授は六十代の人物で、坐りがちの研究生活のため、姿勢がいくらか前かがみになっていた。きれいに髭を剃って、いちじるしく短頭型の頭には、くしで額から高くなで上げた白髪がふさふさと鎮座していた。目は小さいが、ひどく強烈な、鋭い眼光をそなえていた。口もとのしわが、長年むずかしい問題に心を集中してきた人にありがちな、あの厳格なひきしめた表情を作り上げていた。彼の顔立ちは夢想し科学する人の相であって、世に知られているとおり、空間と時間と運動に関するこの人の天衣無縫の夢は次々と実現され、科学的事実の新しい基礎となってきたのである。この時も彼の顔は内省的な放心状態を反映していて、まるでロビンの死は、思索という内面のドラマをちょっと邪魔した侵入者にすぎないとでも言うかのようであった。
マーカムは返事をする前にちょっとためらっていたが、やがて、ひどく丁重《ていちょう》に言いはじめた。
「ひとつ、先生、この事件についてご存知のところだけお話下さいませんか。それから私のほうで、何か必要と思います点をご質問いたしますから」ディラード教授は手をのばして傍《かたわ》らのパイプ掛けから古いメアシャム・パイプをとった。煙草を詰めて火をつけると、体を動かして椅子の坐り心地をなおした。
「知ってることは、さっきの電話でたいてい言ってしまった。ロビンとスパーリングが今朝十時ごろベルに会いに来てね。ところがこの子はテニスをしにコートへ行って留守だったから、二人とも下の客間で待っておった。半時間ばかり二人で喋っとるのが聞えとったが、やがて二人は地下のクラブ室に行ってしまった。わたしはずっとここで一時間ばかり本を読んどったが、陽《ひ》ざしがあんまり気持良さそうだったからして、家の裏手のバルコニーに出て見ようちゅう気になってね。そこに出て、そうさね、五分ばかりも立っておったかね。何の気なしにひょいと下の弓場を見たのさ。そうしたら、きみ、ぞっとして立ちすくんでしまうじゃないか、ロビンが仰向《あおむ》けにころがって胸のところから弓の矢が突き出しとるんだもの。痛風で言うこときかんのを頑張って大急ぎで下りてみたが、かわいそうに一目で死んどるのがわかった。そこで、すぐさま君に電話をかけたのさ。その時うちにはパインの爺さん――執事だがね――その爺さんと私のほかには誰も居らなんだ。料理番は買出しに行っとった。アーネッスンは九時から大学に出かけとった。ベルはまだテニスに行って留守だった。パインにスパーリングを探させたが、どこにもおらん。それでわたしは書斎に戻ってあんたがたを待っておった、こういうわけだ。ベルは君の部下が来るちょっと前に帰って来た。料理番はそのすこしあとで戻った。アーネッスンは二時すぎまで戻るまい」
「今朝はほかに誰も来ませんでしたか――知らないお客とか知り合いとか」
教授は首を振った。
「ドラッカーだけだ。――たしかあの男には君も一度ここで会ったことがあるだろう。うちの裏の家に住んどるやつだ。よくやって来る――もっともアーネッスンに会いにな。話が合うんだね。『多次元連続体における世界線』という本を書いた。専門の方面では大変な天才でね、本物の科学的精神のある男だ。……ところがアーネッスンが留守だとわかると、わたしのところで暫らく坐ってイギリス天文学協会のブラジル遠征のことを喋って行った。それからあの男は家に帰った」
「それが何時でしたか」
「九時半ごろだ。ロビンとスパーリングが来た時はもうドラッカーは帰っとった」
「ディラード教授」ヴァンスが質問した。「アーネッスンさんが土曜日の朝お出かけになるのは例外的なことですか」
老教授は不意に目を見上げ、ちょっとためらってから答えた。「例外的でもない。もっとも土曜日はたいがい家に居るんだが。しかし今朝はわたしの或る重要な研究のことで学部の書斎に調べ物をしに行ってくれたんだ。……アーネッスンは今わたしの次の著述を手伝ってくれとるので」〔ディラード教授の言った著述とは二年後にあらわれた名著『放射エネルギーの原子構造』のことで、マクシムス・テュリウスの「自然は或る物から他へ飛躍することなし」にあるような一切の物理的作用の連続性についての古典的原理を論駁した。プランクの量子論の数学的修正論である〕
しばらく沈黙が続いた。やがてマーカムが口を開いた。「今朝ほど、ロビンもスパーリングもディラード嬢の求愛者だとのお言葉でしたが……」
「まあっ」娘は椅子の上に起き上って老教授に腹立たしげな非難の眼を向けた。「伯父さまひどいわ」
「しかし本当だよ、おまえ」彼の声は目立ってやさしかった。
「本当だわ――ある意味では。でも、わざわざ口に出しておっしゃることなくってよ。伯父さまだって、あの人たちと同じように、私があの人たちのことをどう思っているかご存知でしょう。私たちは仲良しです――それだけなの。つい昨夜も、あの人たちがここに来てご一緒のところで、私申しましたのよ、ばからしい結婚の話なんてあの人たちのどちらからも聞かされるのはもうたくさんだって――はっきりと。あの人たちはほんの子供なんです――それなのにあのうちの一人が今はもう死んでしまって居ないなんて。……かわいそうに、コック・ロビンが」彼女は感情を抑えようとりりしく努力していた。ヴァンスが眉を上げて身を乗り出した。
「『コック・ロビン』ですって?」
「あら、私たちみんなそう呼んでおりましたの。からかうためにそうしましたの、なぜってあの人はそのニックネームが好きじゃありませんでしたもの」
「その仇名《あだな》はやむを得ないところでしたね」ヴァンスは同情を見せて言った。「それも仇名としては良いほうですよね、ほら。本歌のコック・ロビンは『お空の鳥みんな』から愛されていたし、死んだらみんな悲しみましたからね」言いながら、ヴァンスは娘の顔をじっと見まもっていた。
「そうでしたわね」彼女はうなずいた。「あの人にも一度そう申しましたわ。――それに、みんなあのジョーゼフが好きでした。誰だって好きになってしまいますの。ほんとにあの人は――親切で思いやりがあって」
ヴァンスは再び椅子にもたれこみ、マーカムが質問を続けた。
「先生はさきほど、ロビンとスパーリングの二人が客間で何か喋っているのが聞えたとおっしゃいましたが、何かその話の内容をお聞きになれましたか」
老人は横目でちらりと姪を見やった。一瞬ためらっていたが、
「その質問はほんとうに大事なのかね、マーカム」
「いまの情況に大変重要な関係をもっているかも知れません」
「そうかも知れん」教授は考え深げにパイプを吸った。「しかし一方、わたしが答えたら誤った印象を与えて、生存者に重大な不正をはたらくことにもなりかねんからな」
「その点は私の判断を信用して頂くわけにまいりませんか」マーカムの声は重々しく、しかも切迫した調子になっていた。
ふたたび短かい沈黙が続いたが、娘がそれを破って、
「どうしてお聞きになったとおりをマーカムさんにおっしゃいませんの、伯父さま。何の支障《さしさわ》りがあるかしら」
「おまえのことを考えとったんだよ、ベル」教授は静かに言った。「しかし、お前の言うとおりかも知れんな」彼はしぶしぶと目を上げた。「マーカム、実はな、ロビンとスパーリングはベルのことで何かいきり立って言い合っておった。聞えたのはほんの少しだったが、どうやら互いに相手がフェアでないとか、――互いに邪魔をしとるように思っとるらしかった。……」
「まあ。あの人たちは本気じゃないのよ」ディラード嬢は熱烈な口調で註釈を入れた。「あの人たちはいつもふざけ半分でやり合っていたんですわ。たしかに二人の間には嫉妬がありました。でも本当の原因は私じゃありません。弓術のレコードのことですのよ。レーモンドが――つまり、スパーリングのほうが上手なのよ。ところが今年はいろんな試合でジョーゼフを負かしたし、この前の年次トーナメントでも彼がクラブの代表になったんです」
「それでスパーリングが」マーカムは言葉を添えた。「同様にあなたにも評判を落したと思ったかも知れませんね」
「そんなバカな」ベルははげしくやり返した。
「まあ、その件はマーカム君にまかせて大丈夫だろうよ」ディラード教授はとりなし顔に言った。それからマーカムに、「ほかに何か訊きたいことがあったかい」
「ロビンとスパーリングのことでおっしゃって頂けますことを何でも――どんな人間か、二人の関係はどうか、二人とどれくらいおつき合いか、そういったことをお教え下さいませんか」
「そのへんは、わたしよりベルの方がくわしいよ。二人ともベルの交際仲間に属するんでね。わたしはほんの時たまにしか連中には会わなかったから」
マーカムはベルに質問のまなざしを向けた。
「お二人ともずいぶん長いおつきあいです」彼女はすぐに口をひらいた。「ジョーゼフはレーモンドより八つか十ぐらい年上で、五年前までイギリスに住んでらしたんですの。ところがお父様もお母様もお亡くなりになったので、アメリカにいらして、リヴァサイド・ドライヴで独身生活をおはじめになったんです。かなりお金を持ってらして、なんにもしないで、もっぱら釣だの狩だの、そのほかいろんな屋外のスポーツをやって、遊び暮してらしたんです。社交界にもすこし顔を出して、よく晩餐会《ばんさんかい》で人ふやしに使われたり、ブリッジの四人目を頼まれたりなさって、お友達としてとても良い楽しいかたでした。ほんとうにもう、これと言って何にもないかたなんです――知的にはですけど……」ここで彼女は、死者に対して何か忠実でないことを言ったとでもいうように、ことばを止めた。マーカムは心中を察して、さりげなく質問した。
「それでスパーリングは?」
「あの人は何か工場をやってらしたお金持ちの――今は引退《いんたい》なさってますけど――その方の息子さんで、スカーズデールで田舎風のとても美しい家に一緒に住んでらっしゃいます。――私たちの弓のクラブの正式の射場がそこにありますの――。それで、レーモンドはどこか下町の会社の顧問技師なんです。でもお父様の手前だけでなさってるお仕事らしくて、週に二日か三日ぐらいしか会社にお出にならないんですのよ。ボストン工科大学の出身で、そこの二年生の時、休暇で帰ってらした時お会いしたんです。マーカムさん、レーモンドは世間を大騒ぎさせるような人じゃありませんの。あの人はほんとうに、とっても素敵なアメリカ人タイプの青年なんです――誠実で、朗らかで、すこしはにかみ屋で、それにまっ正直で」
ベルの簡単な描写を聞いただけで、ロビンとスパーリングの人柄はたやすく思いえがくことができた。だが同様に、この二人のいずれをも、われわれをここに導いてきたこの凶悪な惨劇と結びつけて考えることは困難だった。マーカムはしばらく眉をしかめたまま坐っていた。やがて、顔を上げて彼女の顔をまっすぐに見つめながら、彼は言った。
「ねえ、お嬢さん。ロビン氏の死を何か説明するような、意見とか解釈とか、そんなものがおありですか」
「ありません」この言葉は彼女の口からまさにはじき出されたと言って良かった。「コック・ロビンを殺したいなんて誰が思うでしょう。敵なんて一人も居ませんでしたのよ。何もかもまるで信じられませんわ。私、そんなことが起ったなんて本当にできませんでした、実際にそこへ行って――この目で見るまで。それでもまだ嘘みたいでしたのに」
「しかしなあ、ベル」教授がことばをはさんだ。「あの男は殺されたんだから。何かおまえの思ってもみなかったようなことが、あの男のこれまでにはあったにちがいない。昔の天文学者が存在すると信じなかった星が、いまでも次々と新しく見付かっておるんだからねえ」
「ジョーゼフに敵があったとは信じられないわ」彼女は言い返した。「決して信じないわ。まるで馬鹿げてるんですもの」
「それでは」マーカムが訊いた。「スパーリングがロビンの死に関して何等か責任があるということは、ありそうにないとお考えなんですね」
「ありそうにないですって」彼女の眼がひらめいた。「あり得ませんわ」
「でもね、お嬢さん」――こんどはヴァンスが、例のものうげな、のんきな調子で言った――「スパーリングは『雀』って意味でしょう」
彼女はじっと動かなかった。顔色は蒼白《そうはく》になり、両手は椅子の腕の上で固く握りしめられた。それからゆっくりと、まるでやっとの思いでそうするように、彼女はうなずいた。胸がはげしい息づかいにつれて大きく波を打ちはじめた。突然、身震《みぶる》いをするとハンカチを顔に押しあてた。
「こわいわ!」彼女はつぶやいた。ヴァンスが立ち上って傍に歩み寄り、いたわるように彼女の肩に手をふれた。
「どうしてこわいですか」
彼女は顔を上げてヴァンスの目を見た。彼の目に元気を得たのか、悲しげな微笑を作って、「ついこのあいだのことなんです」とようやくふり絞った声で彼女は言った。「私たち下の弓場に居て、レーモンドがちょうどシングルのアメリカン・ラウンドを射ようと準備して居ましたの。するとそこへジョーゼフが地下室のドアを開けて弓場に出て来たんです。ぜんぜん危険はなかったのに、シガードが――アーネッスンさんのことです――裏手の小さなバルコニーに坐って私たちを見ていたんですけれど、私が冗談にジョーゼフに『ヒヒーッ』って叫んでやったら、シガードが体を乗り出してきて、『きみきみ、自分が大変な冒険をやらかしていたのを知らないのかい。お前さんがコック・ロビンで射手が雀だろう。その時雀くんが弓矢をふるって君と同じ名の人物に何が起ったか覚えてるだろう』――とか何とか、そんなことを言ったんです。その時は誰も大して気にとめませんでしたけれど。でもこうして。……」彼女の声はだんだんと低く、空恐ろしげなささやきになって消えた。
「さあさあ、ベル、思いつめるんじゃない」ディラード教授はなぐさめるように言ったが、いくらか歯痒《はがゆ》そうでもあった。「シガードのいつもの間の悪いウィットじゃないか。あいつはいつもまじめなことを冷かしたり冗談めかしたりしてしまうだろうが。あいつはいつも抽象的《ちゅうしょうてき》なことばかり頭を使っとるから、あれがその唯一《ゆいいつ》のはけ口みたいなものなんだよ」
「そうでしょうね」彼女は答えた。「もちろん、あれは冗談ですわ。でも今になってみるとあれが何か恐ろしい予言みたいな気がするんです。――でも」彼女は急いで付け加えた。「レーモンドがやったなんてことはあり得ません」
その時、とつぜん書斎のドアが開いて、ひょろりと背の高い人影が戸口に現われた。
「シガード!」
ベル・ディラードの驚ろきの声には、否《いな》みがたい安堵《あんど》のひびきがあった。
ディラード教授の愛弟子兼養子、シガード・アーネッスンはまことに印象的な風采の人物であった。――身の丈《たけ》六フィート以上、筋ばってスラリと直立した体、そして頭は一見しただけで体にくらべて大きすぎるようだった。ほとんど黄色と言って良い彼の髪は、まるで小学生のようにもじゃもじゃと、くしが通っていない。鼻はわし鼻、顎はやせて筋肉質だった。四十をこえた年とも思えなかったが、顔にはいちめん網のように皺が寄っていた。表情はいかにも冷笑めいたいたずらっ気があふれていた。しかしそのブルー・グレイの眼に燃えている強い知的熱情が、どんなありのままのうわべをも裏切っているのだった。この人の個性に対する私の最初の反応は、好意と尊敬のそれだった。この人には深みというものがあった。――力強い可能性、高い才能の素質があった。
彼は部屋に入ると、さぐるような目をはしらせて、すばやく、うさんくさそうにわれわれみんなを眺めまわした。ディラード嬢にひょいとうなずいてから、あけすけに面白がった目つきを老教授の上にすえた。
「ねえ、この三次元の家にゃ何が起ったんですかな。外は車と人だかり、門には番人が立ってさ……やっとそのケルベロス〔ギリシア神話の地獄の番犬、頭が三つある〕をやりこめてパインに中に入れてもらったら、いきなり二人の私服が挨拶も説明も抜きで無理矢理ここへ押しあげてしまうんだからね。仲々面白くもあり、当惑もするですな。……ははあ、どうやらこちらは地方検事さんだな。おはよう――いや、今日は、ですかな、――マーカムさん」
マーカムがこの時間おくれな挨拶に返事するより早く、ベル・ディラードが口をひらいた。
「シガード、まじめになさって。――ロビンさんが殺されたのよ」
「『コック・ロビン』がかい。これは、これは。そんな名前だもの、さすがは奴さんだけのことはあるじゃないか」彼はこの知らせにまるで心を動かされていないようだった。「誰が、何が、彼を元素に戻してくれたんだい」
「誰という点では何もわかっていないが」答えたのはマーカムで、相手の浮薄な態度を責める調子があった。「ロビン氏を殺したものは心臓をつらぬいた矢だ」
「まさに似合いだね」アーネッスンは椅子の腕に腰を下して長い脚を伸ばした。「こんなにふさわしいことがまたとあるかしら、コック・ロビンが矢に当って死ぬなんて、しかもその弓は――」
「シガード」ベル・ディラードがさえぎった。「その冗談はもうおっしゃったでしょう。やったのがレーモンドでないことぐらいわかってらっしゃるはずよ」
「もちろんだよ」彼は少し意味ありげに彼女を見やった。「ロビン君の鳥類学的先祖のことを考えていたのさ」それから、ゆっくりとマーカムのほうに向き直って、「すると、本当の殺人ミステリーなんだね――死体や手がかりや落し穴のある。ひとつ物語をうけたまわろうかな」
マーカムが事件のあらましを簡単に話してやった。アーネッスンは夢中になって耳をかたむけていた。説明が終ると彼は質問した。
「弓場に弓は見付からなかったの」
「ああ」ヴァンスは眠ってでも居るかのようだったが、アーネッスンが入って来てからここではじめて目を覚ましたように、マーカムに代って返事をした。「こいつは適切なご質問ですね、アーネッスンさん。――そうです、弓は見付かりました。地下室の窓の外のところ、死体からやっと十フィートばかりのところです」
「それじゃ当然ことは簡単になってしまう」アーネッスンの声には失望のひびきがあった。「あとは指紋をとるだけでいい」
「残念ながら弓は手で触《さわ》った人が居るんだ」マーカムが言った。「ディラード教授が拾って家に持ってお入りになった」
アーネッスンは好奇心にかられた目で老人を見た。
「これはまた、どんな衝動でそんなことをやったんです」
「衝動? なあシガード、自分の感情の分析なんかしなかったがな、とにかく弓は重要な証拠品だということがピンと来たわけだ。そこで予防手段として警察が来るまで地下室に置いておいたのさ」
アーネッスンは苦い顔をしておどけたウィンクを一つした。「精神分析の連中なら、さしずめ潜在意識抑圧という説明をつけるやつだな。あなたの頭の中に一体どんな潜在意識があったんだろうな……」
ドアをノックする音が聞え、バークが首をつき出した。
「ドレマスさんが階下でお待ちですよ。検死がすんだそうです」
マーカムは立ち上ってことわりを言った。
「いまのところはこれ以上皆さんをお邪魔いたしません。いろいろと形どおりに予備的な仕事をやっておかなくちゃなりませんから。しかし、しばらくの間二階でこのままお待ちになって頂きます。帰る前にもう一度お目にかかりますから」
客間に入って行くと、ドレマスがいらいらと右往左往していた。
「何もややこしい点はないです」マーカムが口をひらく隙もないうちに、彼は喋り出した。「あのお洒落男は第四肋間を通って心臓に入ったひどく先のとがった矢で死んだんですな。だいぶ力が要《い》ったでしょう。内出血および体外への出血は多量。死後まず二時間というところだから、死亡時刻は十一時半ごろですな。もっとも単なる推定ですがね。格闘の形跡なし――着衣に汚染なし、手も擦過傷《さっかしょう》なしです。何が起ったか本人がわからんうちに即死したようです。もっとも、ひでえコブが出来てます。倒れた時にあらいセメントに頭をぶつけて……」
「そりゃ、なかなか面白いな」ヴァンスののろくさい声が検屍医のスタッカートで続ける報告をさえぎった。「その『コブ』はどのくらいひどい傷でしたか」
ドレマスは少し驚いた様子で目をぱちくりやってヴァンスを見た。「頭蓋骨折《ずがいこっせつ》になってますな。むろん、触《さわ》ってもわかりませんがね。後頭部に大きな血腫《けっしゅ》ができてるし、鼻孔と耳に固まった血がついてるし、瞳孔《どうこう》が不整だから頭の割れてるのがわかりますな。解剖すりゃ、もっとはっきりなるでしょう」それから彼はまた地方検事のほうを向いた。「ほかに何か」
「いや、結構でしょう。ただ、鑑定書はできるだけ早く願いたいな」
「今夜とどけましょう。搬送車はヒース君が電話で呼んでくれたそうだから」そして一同と握手をかわして、急がしそうに帰って行った。
ヒースは後のほうで苦い顔をして立っていたが、「やれやれ、あれじゃ何も手がかりにならんですなあ」と、やけに葉巻を噛みながら不平をならした。
「がっかりしていちゃ駄目だよ、ヒースさん」ヴァンスが叱った。「その後頭部の打撲傷はあんたにも深刻に考えてもらう値打ちがあるよ。ぼくの考えじゃ、必ずしも倒れたせいじゃないらしいねえ」ヒースはこの見解に何の感銘も示さなかった。
「おまけに、検事さん、弓にも矢にも指紋はないそうですよ。どっちもきれいに拭《ふ》き取ったみたいだって、デュボイスが言ってますよ。弓のはしっこのほうに、あの老人がつまみ上げた跡があるそうですがね、指紋らしきものは一つも無いそうです」
マーカムはしばらく憂鬱そうに黙って煙草をふかしていたが、「道路に出る門の把手《とって》はどうだった。それからアパートの間の露地に抜ける戸の把手はどうだい」
「何もなしです」ヒースはさもうんざりしたように鼻を鳴らした。「どっちもザラザラに錆《さ》びた鉄で指紋がつきません」
「ねえ、マーカム」ヴァンスが言った。「まちがった方角から攻めてやしないか。指紋なんか当然ありゃしないさ。実際、きみ、念入りに芝居を演出しておいて、大道具の突っかい棒が観客席からまる見えになるようにしておく奴なんて居ないもの。なぜ他ならぬこの興行元は馬鹿げた村芝居に熱を上げる気になったのか、ぼくたちが知らなくちゃならないのはそこだよ」
「そんなに容易なものじゃないですよ、ヴァンスさん」ヒースはにがにがしく言った。
「ぼくが容易だなんてことを言ったかな。言いませんよ。すごい難事件なんだから。難事件どころじゃない。陰然茫漠として……悪鬼のごとくでね」
第四章 あやしい手紙
――四月二日、土曜日、午後二時
マーカムは決然とした様子で中央テーブルの前に坐った。
「どうだい、ヒース君、今度は例の召使い二人を洗いざらいやってみるか」
ヒースは広間に出て部下の一人に何ごとか命令した。しばらくすると、背が高く陰気で支離滅裂な感じの男が入って来て、謹《つつ》しんで気を付けをした。
「これが執事です」ヒースが説明した。「名前はパインです」
マーカムは値ぶみでもするように男を眺めまわした。六十歳前後だった。顔立ちはひどい先端巨大症で、この傾向は体つき全体にもおよんでいた。手は大型、足も幅広で不恰好だった。服はきちんとアイロンがかかっていたが、体に合っていなくて、牧師用の高いカラーはだいぶサイズが大きすぎていた。灰色のげじげじ眉の下の眼は淡色で、濡れていて、口は不健康に腫《は》れ上った顔の裂《さ》け目といってしまっても良かった。しかし、肉体的に第一印象から好感を与える男ではなかったのだが、どうして仲々抜け目のないやり手という印象があったのである。
「なるほど、この男がディラード家の執事か」マーカムが考え深げに言った。「何年ぐらいこの家に勤めてるの」
「もうじき十年でございます」
「じゃ、ディラード教授が大学をお辞《や》めになってすぐからだね」
「たしか左様で」ごろごろと腹にひびくような声だった。
「今朝ここで起った事件についてどんなことを知っているかね」マーカムがだしぬけにこんな質問をしたのは、おそらく不意打ちをして何か吐かせようというつもりがあったのだろうが、パインの受け取りかたは、まことに冷静そのものだった。
「全然なにも存じません。ディラード先生が書斎からお呼びになりまして、スパーリング様をお探しするようにおっしゃいますまで、私は何か起ったということも気がつきませんでした」
「その時に事件のことを聞いたのかい」
「こうおっしゃいました。『ロビンさんが殺されてるんだが、スパーリングさんを探して来てくれんか』――それだけでございます」
「たしかに教授は『殺されてる』って言ったの、パイン」ヴァンスが不意に口を出した。
執事はこの時はじめて言葉をためらったが、その顔にもう一つ抜け目なさの加わってきた感じで、「はい。たしかでございます。『殺されてる』とおっしゃいました」
「それで、探している時にロビン氏の死体を見たかね」ヴァンスは追いかけて質問した。目はぽかんと壁の模様をたどっていた。ふたたびパインは口ごもっていたが、
「見ました。地下室の戸を開けて弓場の方を見ましたところが、そこにあのお気の毒な若い方が……」
「そいつはさぞひどいショックだったろうね、パイン」ヴァンスがすげなく言った。「ところで、ひょっとして、その気の毒な若い方の死体に手をふれやしなかったかい、――それとも矢に――弓には?」パインの濡れた眼が一瞬キラリと光った。
「いえ――むろんそんなことは。……めっそうもない」
「めっそうもないかね」ヴァンスは退屈そうに溜息をついた。「でも弓は見たんだろう」
男はその場の情景を思いうかべようとでもいうように、横目になった。「わかりませんでございます。見えたようでもあり、見えなかったようでもあり。思い出せませんですなあ」
ヴァンスはこの男に興味を失ってしまった様子だった。マーカムが尋問を続けた。
「ドラッカー氏が今朝九時半ごろに訪ねて来たそうだが、君は会ったかね」
「はい。あの方はいつも地下室のドアから出入りなさいます。今朝は階段の上の食器室の前をお通りかかりになった時に、お早うとおっしゃいました」
「帰りは来た時と同じところを通ったかい」
「たぶん左様で。――もっとも、その時は私は二階に居りましたもので。あの方のお住いは裏手の――」
「わかってる」マーカムは身を乗り出した。「今朝ロビン氏とスパーリング氏が来た時は君が玄関に出たんだろうね」
「さようでございます。十時ごろでございます」
「その後、二人がこの客間で待っている間、二人を見たり、あるいは何か話の内容が聞えたりしなかったかね」
「いいえ。午前中はほとんどアーネッスン様のお部屋で忙しくいたしておりましたので」
「ほう」ヴァンスが執事に目を向けた。「あれは二階の裏側のほうだったね、バルコニーのある部屋だろう」
「さようでございます」
「こりゃ面白い……ディラード教授が最初にロビンを見たのはあのバルコニーからなんだからね。――教授はどうやって君にわからないようにその部屋に入ったんだろう。君はたしか、事件のことをはじめて知ったのは、書斎から教授に呼ばれてスパーリングを探してこいと言われた時だと言ったね」
執事の顔が真白になった。指が神経質にひきつっていた。「あるいは私はアーネッスン様のお部屋からしばらく出ておったかも知れません」彼はやっと説明した。「はい――きっとそうでございましょう。実際、衣料部屋に行ったのを覚えております」
「ああ、なるほど」ヴァンスは放心してしまった。
マーカムはしばらくテーブルの上の一点を見つめながら煙草をすっていたが、やがて、
「ほかに誰か今朝訪ねて来た人が居るかね」
「ございません」
「それで、君はこの家で起った事を説明するようなことを何も思いつかんかね」
男は濡れた眼を上に向けたまま、重たげに首を振った。
「はい。ロビン様は明るい人好きのする方でございました。決して殺人沙汰を招くような方では――おわかりでございましょうか、この意味が」
ヴァンスが目を上げた。
「ぼくにはどうも、その意味はあんまり良く解らないんだがねえ。偶然の事故じゃないって、どうして知っているの」
「知ってはおりません」これまた落着きはらった返事だった。「ただ、弓術のことは少しばかり存じて居りますので――生意気《なまいき》なことを申しまして失礼でございますが――ロビン様が狩猟用の矢で殺されておいでなのが、すぐに目につきましたので」
「仲々観察が鋭いね、パイン」ヴァンスはうなずいた。「そのとおりだよ」
執事から直接的な情報が何も得られそうにないことは明らかだった。マーカムはやにわに彼を放免して、同時に料理番を呼ぶようにヒースに命じた。彼女が入って来ると、私は一目で父親と娘がそっくりなのに気付いた。四十歳ぐらいの自堕落《じだらく》そうな女で、同様に背が高く骨ばっていて、顔はやせて細長く手足も大きかった。パイン家には明らかに脳下垂体機能亢進《のうかすいたいきのうこうしん》の血が流れているものと見える。いくつかの予備的な尋問で、彼女が寡婦《かふ》であること、名前はビードルと言い、五年前に夫が死んでから、パインの推薦の結果ディラード教授のところに来たこと、などがわかった。
「今朝は何時に家を出たんだね、ビードル」マーカムが訊いた。
「十時半ちょっとすぎです」落着かなそうで、しきりに警戒しており、声は守勢に立って喧嘩腰になって居た。
「それで、帰って来たのは何時だい」
「十二時半ごろです。あのかたが入れてくれたんですけどね」――彼女は敵意をこめてヒースを見た――「まるで、ひとを犯人みたいに扱うんですよ」
ヒースはニヤリとして、「時間はそんなもんです、検事さん。階下に行かせなかったもんだから怒っちゃって」
マーカムはどっちつかずにうなずいた。
「今朝ここで起った事で何か知っているかね」彼はじっと女を見つめながら言った。
「知ってるわけないですわ。ジェファスン市場に行ってましたもの」
「ロビン氏かスパーリング氏を見たかね」
「私が出て行く少し前に台所の前を通って下の弓術部屋においでになりました」
「何か二人の言ったことが聞えたかね」
「私は立ち聞きなんかしないですよ」
マーカムが腹立たしげに口もとを固くして何か言おうとした時、ヴァンスがやさしく話しかけた。
「検事さんはねえ、ひょっとしてドアが開いてでもいて、折角ひとの話を聞くまいという立派な心掛けで居るのに、何か話が耳に入るようなことがあったかも知れないと思っただけなんだよ」
「ドアは開いていたかも知れないけど、私は何も聞かないですよ」彼女はすねたように返事した。
「それじゃ弓術室に誰か他の人が居てもわからなかったわけだね」
ビードルは目を細めて一物ありげにヴァンスを見ていたが、「誰か他の人が居たかも知れません」ゆっくりと彼女は言った。「そういえば、ドラッカーさんの声が聞えたみたいでした」声に毒のある語気が加わり、薄い唇に固い微笑の影がうかんで消えた。「あの方は今朝早くアーネッスン様を訪ねて見えたんですよ」
「ほう、そうだったの」ヴァンスはこの情報におどろいた顔をしていた。「そうすると君は彼を見たのかな」
「入って来る時は見ましたけれど、帰るとこは見なかったです――とにかく、気に止めてなかったんです。あの方は何時だろうと、こそこそっと出入りなさいますの」
「こそこそっとかい。へへえ。……ところで買物に出かける時はどのドアを使ったの」
「正面玄関です。ベルお嬢さんが地下室をクラブ室になさってからずっと、私いつも玄関から出入りします」
「それじゃ今朝は弓術室には入らなかったんだね」
「はい」
ヴァンスは椅子の中で体を起した。「協力してもらって有難う、ビードル。今はもう何も訊くことはないよ」
女が立去るとヴァンスは立ち上って窓のところに歩いて行った。「どうやら、ぼくたちは的はずれなところに熱中しすぎているんだよ、マーカム」彼は言った。「召使をおどしたり家族を尋問したりやってみても、何も得るところなんかありゃしない。まず心理的な壁を打ち破っておかないことには、敵の塹壕《ざんごう》を襲撃するわけにはいかないんだからね。この一家はみんなそれぞれ何かしら大事な秘密を持っていて、外に洩《も》れやしないか心配ばかりしている。いままでのところ、めいめい自分が知っている以下か、以上か、どっちかしか喋っちゃいない。がっかりするが、そのとおりなんだから。いままで聞いた話で、お互いにピタリと符合《ふごう》する点は一つも無い。時間の順に並べて話が合わない時は、その符合しないところは、誰かがわざとゆがめておいたものだと考えて、まず間違いない。ぼくたちの耳に入ってきた話のどこを探しても、きれいに符合する接点は見つからなかったなあ」
「それより、むしろ連絡が悪いと言ったほうが良いね」マーカムが異説を立てた。「だから連絡を良くしようと思ったら、尋問をさらに続行しなけりゃ」
「君は人を信用しすぎるよ」ヴァンスは中央テーブルに戻って来た。「いくら尋問したって、こっちが迷うだけだよ。ディラード教授さえ、ありのまま全部を話してくれなかったろう。何かあの人はかくしてるな――何か、口に出したくない疑いを持っている。なぜあの人は弓を持って入ったんだろうね。アーネッスンが同じ質問をしていたけれど、まさに要点をついたわけだ。鋭いね、あの男は。――それから、例のふくらはぎの逞《たくま》しい運動家のお嬢さんだ。恋のきずなにあちこちからかみつかれている。今はただ誰をも傷つけないで自分も社交仲間も抜け出させようと一生懸命なんだね。見上げた目的だが、赤裸々《せきらら》な真実にとっちゃ何の助けにもならない。――パインも思慮《しりょ》の深い奴だ。あの締《しま》りのない仮面みたいな顔のかげに、うっとりするような考えが幾つもかくれている。ところが、うるさく質問をたたみかけたって、あのお面の裏を探ることはできないんだ。それに何か変だよ、あの男の午前中の仕事も。朝はずっとアーネッスンの部屋に居たと言う。ところが教授がアーネッスンのヴェランダで日光浴したってことは明らかにご存知ない。だいいちあの衣料部屋のアリバイだって――もっともらしすぎるよ。――それからねえ、マーカム。あのビードルという後家さんの話にも頭を働かしてもらいたいね。あの女は愛想の良すぎるドラッカー氏が嫌いなんだ。そこへ彼を巻きぞえにできるチャンスが出て来たから、早速そうしたんだよ。彼女は彼の声が弓術部屋で聞えた『みたいだ』ったと言っている。本当に聞いたんだろうか。誰にもわかりゃしない。たしかに、彼は帰りがけに石投げ器だの投げ槍だのを見物していて、そこへロビンとスパーリングが加わった、なんてこともあり得ないじゃない。……そうだ、その点も当ってみなくちゃ。そうそう、こいつはぜひともドラッカー氏に暫時《ざんじ》おつき合い願えという処方箋《しょほうせん》だよ。……」
正面の階段を下りる足音が聞えて、アーネッスンが居間の入り口に姿を現わした。「どうだい、コック・ロビンを殺したのは誰だい」いたずらっぽくにやりと笑いながら彼は言った。マーカムはいらいらと立ち上って、邪魔だてに苦情を言おうとした。が、アーネッスンは手を上げて、「まあ、そう言わずに。ぼくはここに、崇高《すうこう》なる正義のために尊ぶべき奉仕の精神に燃えてやって来たんだからね――浮世の正義だよ、おわかりかね。そりゃ哲学的には正義なんてものはありゃしない。もし本当に正義があるとなると、我々は宇宙という小屋の中にもう一つ屋根をふいて住むことになるがね」彼はマーカムの前に腰をおろして皮肉めいた含み笑いをした。「実を言うと、悲しきロビン氏の大至急のご落命の件で、ぼくの科学的な性質が大いに動かされたんだ。なかなか微妙な、ちゃんとした問題だよ。断然数学的な趣《おもむ》きを持っている――つまり不周延の名辞が一つもないんだ、いいね。明確な整数と、これから決定すべき未知数がある。――まあ、こいつを解《と》くなら僕がその天才だよ」
「君の解答はどういうことになるんだろう、アーネッスン」マーカムは相手の頭の良さを知りもし、尊敬もしていて、ただちにこの皮肉まじりな軽々しい態度の裏にまじめな目的がひそんでいるのを察したらしかった。
「ああ。まだその方程式には取組んじゃ居ないんだがね」アーネッスンはブライヤーのパイプをとり出して、いとしげになでまわした。「しかし、これまでも、純粋にこの世的な意味での探偵の仕事を、いささかなりとやってみたいと言う気はあったんだ――言うなれば物理学者の飽くなき好奇心と生来の詮索好《せんさくず》きというやつだよ。それにこの重要ならざる天体の上で行なわれている我々の生活の些事《さじ》の上に、数学という学問を有益に応用することができるというのが、ぼくの昔からの持論なんだ。宇宙には法則だけしかない――エディントンの言うとおりに法則なんか無いとなりゃ別だがね――ルヴェリエが天王星の軌道の偏差を観測して海王星の質量と位置推算暦を算出したように、犯人の正体と居所を決定できないわけはどこにもないと思うがね。知っているだろう、彼は計算の結果ベルリンの天文学者ガーレに宛《あ》てて、黄道上の経度を明記してその星を探してみろと言っている」
アーネッスンは言葉を止めてパイプに煙草をつめた。「そこで、マーカム君」彼はつづけた。私は彼が本気なのかどうか見きわめをつけようと懸命だった。「ぼくはこの馬鹿げた泥んこの水たまりに、ルヴェリエが海王星の発見に用いた純粋合理的手段というやつを適用する機会を得たいと思ってね。しかしそれには、言わばその天王星軌道の摂動《せつどう》のデータを教えてもらわなくちゃ――つまり方程式の変化因数を全部知らせてもらいたいんだ。ここへやって来たのは、ひとつ打ち明けてあらゆる事実を聞かせていただこうかと思ったからなんだよ。一種の知的提携だ。科学的な線に沿《そ》ってぼくがこの問題を解明してあげる。仲々良い気晴らしになるよ。ついでながら、数学はどんなに学問的な抽象概念から遠く離れようと、あらゆる真理の基礎であるという持論を証明してみたいしね」彼はようやくここでパイプを点じて椅子に深々と背をもたれさせた。「手を打つかい」
「何でも知っていることは喜んでお話しするよ」マーカムはしばらく考えてから答えた。「ただ、これから先どんな事が起っても全部聞かせるとは約束できない。正義の目的に反し我々の捜査の妨《さまた》げにならないともかぎらないからね」
ヴァンスは半《なか》ば目を閉じて、一見アーネッスンの驚くべき申し出にうんざりしているようであったが、この時、かなりな生気をあらわしてマーカムをふり返った。「あのねえ、アーネッスンさんにこの犯罪を応用数学の領域のことばに翻訳する機会を差し上げていけないなんて理由は、どこにも無いよ。きっと慎重に我々からの情報を学問的な目的にしか利用なさるまいと思うよ。だいいち――わからんもんだよ、ね――ぼくたちだって、この興味|津々《しんしん》たる事件を解決してしまうまでには、この方の高度に鍛え上げられた頭脳のご厄介になる必要ができてくるかも知れないじゃないか」
マーカムはヴァンスをよく知っているので、彼のこの提案が考えも無く持ち出されたのでないことを納得しないわけはなかった。だからマーカムがアーネッスンに向ってこう言い出した時、私は少しも驚くことはなかった。「じゃ、いいだろう。君の数学的公式を作るのに必要なデータは、何なりと提供しよう。いま特に何か知りたいことでもあるかい」
「いや、ないよ。いまのところ事件の詳細は君たち同様ぐらいは知っている。君たちが帰ったらビードルとパインの爺さんを裸にして、役に立ちそうな話を聞き出しておくよ。しかし、若しぼくがこの問題を解いて犯人の正確な所在をつきとめたら、哀れなアダムズがルヴェリエに先立って海王星の算定を提出して、サー・ジョージ・エアリーに握りつぶされたような目には合わせないでくれよ」
この時、正面玄関の戸が開いて、ポーチに立番中の制服巡査が、一人の見知らぬ男を従えて入って来た。
「この人が教授に会いたいそうですが」いかにも怪しいと言いたげな口ぶりだった。そして、男の方を向いて頭でマーカムを示しながら、「あちらが地方検事です。あの人に用を言って下さい」
新来者はやや当惑の面持ちだった。やせ形で、服装に一分のすきもない、まぎれもない洗練された感じの男だった。年はまず五十と見たが、顔には永遠の若さがあった。髪は薄れて白髪も目立ち、鼻は少しとがり、顎は小さいがべつに弱々しいというほどではない。高く広い額をいただいた目は、彼のいちばん人目を引く特徴だろう。それは失望と幻滅を味わった夢想家の目――人生に裏切られ、不幸と悲哀のうちに取り残されてしまった人のような、半ば悲しげで半ば無念そうな目だった。マーカムに何か言おうとした時、彼はアーネッスンの姿に気付いた。
「やあ、おはよう、アーネッスン」静かな、歌うような声だった。「ひどく大変な事でも起ったんじゃあるまいね」
「なに、人が死んだんですよ、パーディーさん」相手は造作もなく言ってのけた。「例のコップの中の嵐というやつでね」
マーカムはこの妨害に迷惑顔で、「どんなご用ですか」
「まことにお邪魔のようですが」紳士は申し訳なさそうに言った。「私はこちらのご一家の友人でして――すぐ向いに住んでおりますので。ところが、こちらで何か変ったことでも起きたようにお見受けしまして、何なりとお役に立てばと思ったものですから」
アーネッスンが含み笑いをしながら、「ねえねえ、パーディーさん。持ち前の好奇心に着物を着せて、奥歯に物のはさまったような口をきくことはないでしょう」
パーディーは赤面して、「そんな、君、決してぼくは――」と言いかけたが、ヴァンスがさえぎった。
「お向いにお住いだそうですね、パーディーさん。ひょっとして、この家を午前中ずっと観《み》ておいでじゃありませんでしたか」
「とんでもない。もっとも、私の書斎は七十五番街を見下す位置にありますし、たしかに今朝もほとんど窓際に坐っておりました。ただ書き物に忙しゅうございましてね。昼食から仕事に戻りました時に、人だかりやら警察の車やら、それから玄関口の巡査さんやらに気が付いたようなわけで」
ヴァンスは目のすみから相手をじっと見ていたが、「今朝はこの家に誰かが入ったり出たりするのをごらんになるようなことは、ありませんでしたか」
紳士はゆっくりと首を振った。「べつに誰と言って。若い男が二人――お嬢さんの友達の方ですが――十時ごろ訪ねて来ましたね。それからビードルが買物|籠《かご》をぶら下げて出て行くのを見かけました。しかし、これ以上覚えておりませんなあ」
「その若い男二人のどちらかが出て行くのは、ごらんでしたか」
「思い出しません」パーディーは眉を寄せた。「しかし、一人が弓場の門から出て行ったようでもありますねえ。もっとも、そんな気がするだけですよ」
「それは何時ごろでしょうか」
「実のところ、はっきり申せませんな。あるいは、来てから一時間ぐらい後でしょうか。特に気を付けて見るつもりはなかったもので」
「では、ほかには今朝この家に入った者も出た者もご記憶ないわけですな」
「ディラード嬢が二時半ごろテニス・コートから戻るところを見ました。ちょうど昼食に呼ばれた時間です。そう、彼女がラケットを振って挨拶しましたっけ」
「それで、ほかには」
「ないようですな」静かな彼の返事にはまぎれもなく遺憾の意がこもっていた。
「ここに入るのをごらんになった若い男のうちの一人が殺されましてね」ヴァンスが言った。
「ロビン君――つまりコック・ロビンですな」アーネッスンが喜劇じみたしかめ面を作って註を付けた。私は不愉快だった。
「なんと。それはまたお気の毒な」パーディーは芯《しん》からショックを受けたようだった。「ロビンが。あのベルの弓術クラブの代表選手の人でしょう」
「死んで名を残したか。――そう、その男です」
「ベルがかわいそうに」彼の態度の何物かに、ヴァンスが視線を鋭くして彼を見た。「この事であまりひどく心を乱さないと良いが」
「そりゃあ、ベルは大悲劇ですよ」アーネッスンが応じた。「その点じゃ警察もご同様だ。別に大したこともないのに、えらい大騒動でね。地球なんてものは、ロビンみたいな、総じて人類と名付けられた『不純な炭水化物の小さなうようよした固まり』で一杯ですよ」
パーディーは寛大に物悲しげな微笑をうかべていた。――彼は明らかにアーネッスンの毒舌に馴れていたのだ。やがて彼はマーカムに訴えた。
「ディラード嬢とその伯父上にお目にかかれるでしょうか」
「ああ、どうぞ」マーカムがどっちとも決めかねているうちに、ヴァンスが答えた。「お二人は書斎においでですよ、パーディーさん」
小声で丁重《ていちょう》に礼を言いながら、パーディーは部屋を出て行った。
「妙な男さ」聞えないところまで行ってしまうと、アーネッスンが言った。「金のあるのが仇《あだ》でね。遊んで暮している。たった一つ、チェスの問題を解くのに熱を上げていて……」
「チェス?」ヴァンスが興味ありげに顔を上げた。「ひょっとして、あの有名な、パーディー定跡《じょうせき》を考案したジョン・パーディーでしょうか」
「左様」アーネッスンは顔をくしゃくしゃと皺《しわ》よせて、ひょうきんな表情をした。「二十年を費《ついや》してこの競技に小数点以下の前進をもたらすべき鉄壁の守りを編み出したのさ。本も一冊書いた。それからダマスカスの城門を前にした十字軍みたいに改宗を説いてまわった。偉大なチェスのパトロンで、競技会というと寄付をする、小忙しく世界中を歩きまわっていろんな他流試合に顔を出す。その結果、定跡をためす機会にありついた。マンハッタン・チェス倶楽部《クラブ》の天狗連中の間で大評判さ。そこでパーディーのやつ、名人試合を次々と催《もよお》した。費用は全部自分が持ったさ。一と財産使ってしまったよ、ついでながらね。むろん彼は独占的にパーディー定跡を用うべしと条件をつけた。いやはや、それが聞くも涙の物語でね。ラスカー博士やカパブランカやルビンスタインやフィンとかいった相手と取組むと、まるで散々のていたらくだ。使った連中はほとんど負けてしまった。こりゃ駄目だというわけでね――ライス定跡も運がついていなかったが、それ以下だった。パーディーにしてみりゃ、ひどい打撃だ。おかげで髪も白くなる、筋肉もバネが無くなってしまう。老《ふ》けたのさ、要するに。まあ、ありゃ失意の男さ」
「ぼくもあの定跡の来歴は知っています」ヴァンスは憂《うれ》いをこめた目をじっと天井に向けたまま小声に言った。「使ってみたこともあります。エドワード・ラスカー〔アメリカのチェスの名人〕に教わりました……」この時、さっきの制服巡査が戸口に再び姿を現わしてヒースを招いた。巡査部長は勢いよく立ち上り――だいぶ細かくなったチェスの話に退屈していたらしい――玄関広間に出て行った。すぐに、小さな紙きれを手にして戻って来た。
「妙なものがありますよ」マーカムに手渡しながらヒースは言った。「立番の巡査がいま郵便箱からこいつがつき出してるのに気が付いて、ふと思いついてのぞいて見たってんですがね。――何でしょうか、検事さん」マーカムはいぶかしげに目を丸くして紙片を調べていたが、何も言わずにヴァンスに渡した。私も立ち上って肩ごしにのぞいてみた。紙は普通のタイプライター用紙の大きさで、郵便受けに合う大きさにたたんであった。タイプで打った数行が並んでいて、字体はエリート活字、ブルーのリボンが古くて色が薄かった。
一行目は、『ジョーゼフ・コクラン・ロビンが死んだ』とあった。二行目は疑問体で、『コック・ロビンを殺したのは誰か』となっていた。その下は、『スパーリングとは雀の意味なり』とあり、さらにその下の右すみ――つまり署名のところに、大文字で二つの単語が『ザ・ビショップ』と打ってあった。
第五章 女の悲鳴
――四月二日、土曜日、午後二時三十分
ヴァンスはその奇妙な手紙とさらに奇妙な署名にざっと目を通すと、強い関心を抑《おさ》えている徴候と私にもよくわかっている、例ののろくさい慎重さで片眼鏡を取り出した。眼鏡を調節し、熱心に紙片を調べた。やがてアーネッスンに紙片を渡した。「これはあなたの方程式にとって貴重な因数ですよ」目は冗談半分に相手をにらみつけて居た。
アーネッスンは事も無げな顔でじっと手紙を見ていたが、殊更《ことさら》にゆがめた渋面《じゅうめん》を作って机の上に置いた。
「この事件には聖職は関係していないと思うな。連中が非科学的なのは周知の事実さ。連中を数学で攻めたって駄目だ。『ザ・ビショップ』か……」彼はつくづく考えていた。「聖服を着たお方に知合いは無し。――計算する時はこのまじない文句は除外することにしようかな」
「アーネッスンさん、そんなことをなさると」ヴァンスが真顔で答えた。「あなたの方程式は滅茶苦茶になりゃしませんか。あの秘密めかした手紙は、ぼくはむしろ意味深長だと思いますよ。実際――素人《しろうと》がこんなことを言って失礼ですが――この事件で今まで現われた中で一番数学的な物じゃないでしょうか。これで、偶然説、事故説はすべて取り除かれることになりますからね。いわばgですよ――我々の方程式すべてを支配する引力的定数ですよ」
ヒースは立ったまま、まじめくさった嫌悪の表情をうかべてタイプの手紙を見下していたが、「こんなもの書いたのはどこかの変人ですよ、ヴァンスさん」
「明らかに変人だね、ヒースさん」ヴァンスは同意した。「だけど見逃してならないのは、特にこの変人が興味ある細々《こまごま》とした事情をいくつも知っていたにちがいないという事実だよ――つまり、ロビン氏のミドル・ネームがコクランだとか、彼氏が弓矢で殺されたとか、ロビンが死んだ時スパーリングが近くに居たことだとかね。おまけに、この事情通の変人は殺人に関して、言うなれば先見の明を持っていたってことになるよ。この手紙は君や部下たちが現場に到着する前に、タイプで打って郵便受けに突っ込んだものらしいからね」
「いやむしろ」ヒースが頑固に逆《さか》らった。「表で見物している連中の一人でしょう。何が起ったかを知って、巡査が横を向いたすきにこの紙きれを郵便箱に突っこんだんですよ」
「まず家に走って帰ってタイプで丁寧《ていねい》に手紙を打って――ってのかい」ヴァンスは残念そうに微笑して首を振った。「ちがうね、ヒース、君の説は駄目だ」
「それじゃ、一体どういうことになるんです」ヒースは猛然と訊き返した。
「さあ、全然わからないな」ヴァンスはあくびをして立ち上った。「さあ、マーカム。ビードルが嫌いなドラッカーなる人物としばらく時間つぶしをしに行こう」
「ドラッカーだって」アーネッスンが大声を出してかなりな驚きを見せた。「あの男がどこにはまりこむんだい」
「ドラッカー氏はね」マーカムが説明した。「今朝君に会いにここへ来たんだよ。それで帰る前にロビンとスパーリングに会わなかったともかぎらないからね」そして、ちょっとためらってから、「何なら君もついて来ないか」
「いや、止しておこう」アーネッスンはパイプをはたいて立ち上った。「目を通さなきゃならない学生のレポートがどっさりあるんだ。しかし、ベルをつれて行ったらいいかも知れないね。メー夫人はちっとばかり変ってるから……」
「メー夫人というと」
「失敬。あの人のことは知らなかったんだったね。みんなメー夫人と呼ぶんだ。尊称さ。あのばあさんが喜こぶもんだからね。ドラッカーの母親のことなんだがね。変り者だよ」彼は曰《いわ》くありげに額をこつこつ叩いてみせた。「ちょっと来てる。いや、全然あぶなくないがね。頭は至極はっきりしてるんだが、まあ凝《こ》り固まりなんだな。太陽が昇るのも沈むのもドラッカーのためだと思ってる。まるで乳呑《ちの》み児《ご》みたいにあいつの世話ばかりやいてさ。哀れな話だ。……そう、ベルを連れて行ったほうがいいね。メー夫人はベルが好きだから」
「いいことを伺いました」ヴァンスが言った。「それじゃベルさんにご一緒下さるかどうか訊いてみて頂けませんか」
「ああ、いいよ」アーネッスンは一同にたいへん包括的な別れの微笑を送った。――目上ぶっていると同時に、辛《しん》らつな皮肉もこもっていそうな微笑だった。彼は二階に上って行った。やがて、ディラード嬢がやって来た。
「シガードが、みなさんアドルフにお会いになりたいとかって。アドルフはもちろんかまわないと思いますけれど、でもメー夫人はほんのちょっとしたことにでも、取り乱しておしまいになるんです」
「取り乱させるようなことはいたしませんよ、きっと」ヴァンスが慰め顔に言った。「ただ、ドラッカーさんは今朝ここに見えたんですよ、ね。それで、料理番が弓部屋でドラッカーさんがロビンやスパーリングと何か喋っているのが聞えたみたいな気がすると言うんです。だからあの人に協力して頂けるかも知れないんですよ」
「できればあの方はきっとご協力なさいますわ」彼女は強調して言った。「でもメー夫人にはよく気を付けてあげて下さいましね」その声には訴えるような、かばうような調子があった。ヴァンスはもの珍しげな顔で彼女を見た。
「お訪ねする前にドラッカー夫人――つまりメー夫人のことを少しお話し願えませんか。どうしてそんなに気を付けなきゃなりませんか」
「あの方の一生というのは、ほんとうに悲劇的なんです」ベルは説明した。「かつては偉大な歌手で――いえ、二流歌手なんかでなくて前途洋々たるプリマ・ドンナでしたの。〔ヨーロッパの音楽愛好者ならメー・ブレンナーをまだご記憶だろう。二十三歳という異例の若さでデビューしたが、その時の役は『シバの女王』のスラミト、場所はウィーンの国立歌劇場だった。しかし彼女が最も成功したのは、おそらく『オテロ』のデズデモーナであろう――この役を最後に彼女は引退した〕ウィーンの有名な批評家オットー・ドルッカーと結婚して四年後にアドルフが生れました。〔この名前の綴りはいうまでもなく Drukker であった。しかしメー夫人が――たぶん何でもアメリカ式にという漠然たる目的で――この国に来てから現在の Drucker ドラッカーに変更した〕二歳になった時、或る日ヴィエンナー・プラターで赤ちゃんをころばせておしまいになったんです。その時からあの方の一生はまるで変ってしまいました。アドルフは背骨に傷がついて片輪《かたわ》になってしまいましたの。メー夫人は悲嘆にくれて、その怪我がご自分のせいだと決めてしまって、お仕事を止めて一生アドルフの面倒を見ることになさったんです。一年後にご主人が亡くなったので、少女時代にしばらくいらしたアメリカにアドルフを連れてらして、今のお家をお買いになったんです。何もかもがアドルフ中心で、アドルフの方は大きくなるとせむしになってしまったんですけれど、それはもうアドルフのためなら何でも犠牲になさって、まるで赤ちゃんみたいにあの人の面倒ばっかり見てらっしゃるんです……」彼女の顔が少し曇った。「時々わたくし――私達みんなそうなんですけど――あの方はまだアドルフがほんの子供だと思ってらっしゃるんじゃないかって、思うことがありますの。何て言うんでしょうか――病的になってらっしゃるんです。でも病的っていっても、とほうもない母性愛から来たやさしい、すさまじい病気ですわ――伯父は一種の精神異常的な愛情だなんて言っております。この二、三か月の間にメー夫人はとても変って――変なふうになっておしまいになりました。よく小さな声でドイツの古い子守唄や童謡なんか歌ってらっしゃるんですけれど、それがまるで――ああほんとにとっても神聖で恐ろしい感じなんですけれど――まるで赤ちゃんを抱いてらっしゃるみたいに、両腕を胸のところで組み合せてらっしゃるんです。……それに近頃はアドルフのことでびっくりするほど嫉妬深くなってらして、他の男の人には誰でも腹をお立てになるんですの。つい先週もスパーリングさんとご一緒にお訪ねしたら――私達よく寄ってお訪ねしますの、あんまり寂しそうでご不幸そうですから――そうしましたらあの方はスパーリングさんをほとんど物凄いと言っていいくらいの顔つきでにらみつけて、『なぜあんたも片輪にならなかったのか』っておっしゃるんです」彼女は言葉を切って我々の顔色を見た。「なぜ気を付けて下さいってお願いしたか、もうおわかりですわね。……メー夫人は私達がアドルフに悪いことをしに来たとお思いになるかも知れないんです」
「その方に不必要なお苦しみを与えるようなことは決していたしませんよ」ヴァンスは同情深く受け合った。そして、一同が広間に向って歩き出した時、ひるすぎドラッカーの家を彼がほんのしばらくながらじろじろ熱心に見ていたのを思い出させる一つの質問を持ち出した。「ドラッカー夫人のお部屋はどこですか」
ベルははっとした様子で彼の顔を見たが、すぐに返事した。「家の西側です――そこの張出し窓が弓術場を見下しています」
「ははあ」ヴァンスはシガレット・ケースを出して、フランス専売局煙草の一本を注意深く選び出した。「夫人はその張出し窓のところによくお坐りですか」
「それはもう。メー夫人は私達の弓の練習をいつも見物してらっしゃるんです――どうしてかしら。私達をごらんになるのは辛《つら》いだろうと思いますわ。アドルフは弓ができるほど強くありませんでしょう。何回かやってみたことはあるんですけれど、くたびれてしまって続けられないんです」
「あなた方の練習を見るのが辛いからこそ見物なさるのかも知れませんね――一種の自己犠牲でしょう。そういう立場になると本当に悲惨なものですよ」ヴァンスの言い方にはほとんどやさしい思いやりがこもっていると言っても良かった――彼の本当の性質を知らない人には珍らしいことに聞えたかも知れないが。そして、地下室のドアから弓術場に出た時、ヴァンスはつけ加えた。「おそらくまずドラッカー夫人に暫らくお目にかかっておいたほうがいいでしょう。お訪ねしたことでどんな心配をなさるか知れませんから、それをやわらげるように。ドラッカー氏に知れないように夫人の部屋に行くことができますか」
「ええ、まいれます」彼女はこの思いつきを喜んでいた。「裏から入りましょうか。アドルフが書き物をする書斎は表側にありますから」
ドラッカー夫人は大きな張出し窓で、旧式な安楽長椅子にクッションで体を支《ささ》えて坐っていた。ディラード嬢は親子のようにしたしい挨拶を述べ、やさしい憂《うれ》え顔で夫人の上に身をかがめて額にキスした。
「今朝私のうちでちょっと大変なことが起りましたのよ、メー奥さま」ベルが言った。「それでこの方たちが奥さまにお目にかかりたいっておっしゃるものですから、私がお連《つ》れすることにしましたの。よろしゅうございますわね」
我々が入って行った時、ドラッカー夫人はその蒼白な悲しげな顔を戸口からそむけていたが、今はぞっと震《ふる》え上った表情で我々を見つめていた。背は高く、やせ衰《おとろ》えているというのに近い痩躯《そうく》で、椅子の腕の上に軽く折り曲げた手は伝説にある鳥女の爪のように筋ばって皺だらけだった。顔も細く深い皺が寄っていたが、美しくないというのではなかった。眼は生き生きと澄んで、鼻はまっすぐに高く秀《ひい》でていた。六十はたしかに越しているはずだったが、茶色の髪はふさふさとして色も濃かった。何分間か彼女は黙ったまま身動きもしなかったが、やがて、ゆっくりと両手を握りしめ、唇を開いた。
「どんなご用ですか」低い、よく響く声で彼女は訊いた。
「ドラッカーさん」――答えたのはヴァンスだった――「ディラードさんが申し上げたように、今朝お隣りで悲しい事件が起ったんです。こちらの窓が弓場を見下せる唯一《ゆいいつ》の場所だもので、あるいは私共の捜査の助けになるようなことを、何かごらんになったかも知れないと思いましてね」
メー夫人の警戒心がありありとゆるめられたが、それでも彼女は一、二分のあいだ口を開かなかった。
「で、どんな事件が起りましたの」
「ロビンさんという方が殺されたんです。――ご存知の方でしょうか」
「あの弓をなさる――ベルのお友達の弓の選手ですか。……存じております。強い健康そうな子で、重い弓を引いても疲れることを知りませんでした。――誰が殺したんですの」
「わかりません」ヴァンスは無頓着な態度だったが、目は鋭く彼女を見守っていた。「しかし殺されたのがこちらの窓から見える弓場だったものですから、私共はあるいはあなたにご協力が願えるのではないかと考えましてね」
夫人はずるく伏し目になって、手は何の心配も無いと言いたげに組み合せていた。「弓場で殺されたことは確かですの」
「弓場で死んでおられたんです」ヴァンスはどっちつかずに答えた。
「そうですか。……でも私にどんなご協力ができますかしら」彼女はホッと椅子にもたれこんだ。
「今朝は弓場に誰かが居るのにお気付きになりませんでしたか」ヴァンスが訊いた。
「いいえ」すばやい、力をこめた返事だった。「誰も見ませんでした。今日はまだずっと弓場を見ておりませんのよ」
ヴァンスは夫人の目をしっかりと受けとめて、溜息をついた。
「それは運が無かったな」ヴァンスは小さく言った。「今朝窓の外をごらんになったら、事件を目撃なさるってことも大いにあり得たんですがねえ……ロビンさんは弓矢で殺されましてね、しかも犯行の動機が何ひとつ見当らないんですよ」
「弓矢で殺されたのははっきりしていますの」夫人の灰色の頬にうっすらと赤みがさした。
「そういう検死官の報告なんです。死体を発見した時、心臓に矢が刺さっていたんです」
「なるほどね。ごく当然なお話のようですわね。……ロビンの心臓に矢が刺さりますなんて」ぼんやりと無関心で居るような、遠くに心を奪われた眼つきで彼女は言った。
ハッと息を呑んだ沈黙の一瞬がすぎた。ヴァンスは窓辺に歩み寄った。「ちょっと外を見せて頂いてよろしいですか」
ようやく、夫人は茫然たる物思いから我に返る様子だった。「あら、どうぞ。でも、たいした景色でもございませんわ。北の方は七十六番街の並木が見えますし、南はディラードさんのお庭がすこし見えますの。でもあの煉瓦塀には憂鬱でございますよ。アパートが建ちますまでは河の眺めがとてもよろしゅうございましたのに」
ヴァンスはしばらく弓場を見下していた。「ほんとにね、今朝窓ぎわにおいでになってさえいたら、起ったことをごらんになったかも知れないんですがねえ。こちらからは弓場も地下室のドアもはっきり見えるんですが。……残念でした」彼は時計を見た。「ご子息さんはご在宅ですか、ドラッカーさん」
「息子が。私の子供が。あの子に何のご用ですか」夫人の声はあわれに高まり、目は毒々しい憎悪の色をうかべてヴァンスをにらみつけた。
「たいした用じゃないんです」彼はなだめるように言った。「ただ、弓場に誰かが居るのをごらんになっていはしないかと――」
「誰も見ません。あの子は誰も見たはずはありません。家にはおりませんでしたもの。今朝早く出かけて、まだ戻っておりません」
ヴァンスは残念そうに夫人を見た。「午前中ずっとお留守だったんですか。――いまどちらにいらっしゃるんでしょうか」
「あの子の居場所はいつも存じております」ドラッカー夫人は誇らしげに答えた。「何でも言ってくれますのよ」
「それでは今朝もお出かけ先をおっしゃいましたか」ヴァンスはおだやかながら固執していた。
「もちろんですよ。でも今ちょっと忘れてしまいました。お待ち下さいませ……」彼女の長い指が椅子の腕を軽く叩いていた。目はうろうろと落着かなかった。「思い出せませんわ。でも戻りましたら尋ねてみます」
ディラード嬢はだんだん当惑をつのらせる様子で立っていたが、
「でもメー奥様、アドルフは今朝うちへ見えましたのよ。シガードに会いにいらして――」
ドラッカー夫人は起き上った。
「そんなはずはありません」叩きつけるように彼女は言った。相手をにらんだ目はほとんど敵意がこもっていた。「アドルフはたしか――下町のどこかに用があって出たんですよ。お宅へは近寄っておりません――行ったはずはないんですよ」キラリと目を光らせて彼女はヴァンスに向き直り、けんか腰でにらみつけた。気まずい一瞬だった。だが、次に起ったことはもっと厄介《やっかい》だった。静かにドアが開き、ドラッカー夫人が両腕をひろげた。「私の坊や――私のかわいい子」彼女は叫んだ。「さあ、こっちにおいで」
だが戸口の男はやって来なかった。はじめての場所で目を覚ました人みたいに、じゅず玉のような小さな眼をぱちくりさせて我々を見まわしながら立っていた。アドルフ・ドラッカーは背丈《せたけ》が五フィートそこそこだった。せむしの典型的な寸の詰《つ》まった体つきをしていた。脚はひょろりと細く、ずんぐりしてねじ曲った上半身は円屋根のような大きな頭でなおさら誇張されていた。だがその顔にはすぐれた知力――人の注意を引きつける恐ろしい熱烈な力があった。ディラード教授は数学の天才と呼んでいたが、誰しも彼の学識に疑念を抱くことはあり得まい。〔ホウマー・リー将軍をその死のすこし前サンタ・モニカに訪ねたことがあるが、その折の印象と非常によく似ていた〕
「こりゃ一体どういうわけなんだ」甲高《かんだか》い震え声で、ディラード嬢を見ながら彼は訊いた。「みんな君の友達かい、ベル」
彼女が口を開こうとしたが、ヴァンスが押し止めた。「実はですねえ、ドラッカーさん」陰気な声で彼は説明をはじめた。「お隣りで悲しい事件が起りましてねえ。こちらが地方検事のマーカムさん、こちらが警察部のヒース巡査部長。それでディラードさんにお願いしてこちらへご案内頂いたんですが、お母様が今朝弓場で何か異常なことにお気付きにならなかったかお伺いしようと思いましてね。事件はディラード家の地下室のドアのすぐ外のところで起ったんですが」
ドラッカーはうさんくさそうに顎をつき出して薄目を作った。「悲しい事件ねえ。どんな事件です」
「ロビンさんという方が殺されたんです――弓矢で」
男の顔は発作的にぴくぴくしはじめた。「ロビンが殺されたって。コロサレタって。……そりゃ何時《いつ》ですか」
「おそらく十一時から十二時の間です」
「十一時から十二時の間ですって」
ドラッカーの目が素速く母親のほうに移った。だんだん昂奮してくるらしかった。ぶざまにひろがった大きな指が部屋着の縁《ふち》をしきりにいじくっていた。「何を見たの」まじまじと見詰める彼の目が、チラと光った。
「それは何のことなの、お前」慌てふためいた小声の反駁《はんぱく》だった。
ドラッカーの顔がこわばって、口もとがかすかな冷笑をうかべてゆがんだ。「この部屋から悲鳴が聞えたのが、ちょうどそのころだということですよ」
「うそです。そんな――ちがいます」彼女は息を呑んで、急がしく頭を振った。「それは間違いよ。今朝私は悲鳴なんか上げません」
「とにかく、誰か叫んだよ」男の声には冷たい容赦のなさがあった。それから、一息つくと言い足《た》した。「実はね、悲鳴を聞いてから二階に来てみたんだよ。そしてドアのところで耳をすましてみたんだ。ところが、母さんは『エイア・ポペイア』を口ずさんでいたから、そのまま書斎に戻ったんだよ」
ドラッカー夫人は顔にハンカチを押し当てて、しばらく目をとじていた。「十一時から十二時までの間、仕事をしていたの」彼女の声は今は押し殺した激しさで高く響いた。「でも私が何度か呼んだのに――」
「聞きましたよ。だけど返事しなかったんだ。忙しくてね」
「そうだったの」彼女はゆっくりと窓のほうに視線を移した。「留守かと思っていましたよ。あなた言ったでしょう――」
「言いましたよ、ディラードさんの家に行くって。でもシガードが居なかったから、十一時ちょっと前に帰って来たんだ」
「帰って来るところは見ませんでしたよ」夫人は精力を使い果していた。ぐったりと椅子にもたれこんで、目は正面の煉瓦の壁を見ていた。「それに私が呼んでもあなたが返事しなかったから、当然まだ帰っていないと思ったんですよ」
「ディラードさんの家からは勝手口から通りに出て公園を散歩して来たんだ」ドラッカーの声はじれったそうだった。「それから表玄関から入ったんだ」
「そして私の叫び声を聞いたと言うのね……でもどうして私が悲鳴なんか上げますか。今朝は背中も痛くなかったのよ」
ドラッカーは顔をしかめ、小さな眼をヴァンスからマーカムへと走らせた。「とにかく誰かが叫ぶのが聞えたんだよ――女だ――この部屋で」彼は強情にくり返した。「十一時半ごろだ」それから彼は椅子に腰を落して、不機嫌に床を見ていた。この複雑な母子のやりとりに我々はすっかり気を奪われていた。ヴァンスは戸口の近くの古い十八世紀の版画の前に立って、一見うっとりとそれに目をやっては居たが、彼が一言半句も聞きもらしていないのは私もよく知っていた。やおら彼は向きをかえて、マーカムに邪魔をしないように合図して、ドラッカー夫人に近付いて行った。
「とんだご面倒をおかけしまして、どうも申し訳ありませんでした。どうかお赦《ゆる》し下さいますように」彼は頭を下げると、ディラード嬢に、「帰りもご案内頂けますか。それとも私共だけで戻りましょうか」
「おともしますわ」ベルは言った。そしてドラッカー夫人のところへ行き、腕をまわして抱きながら、「ほんとにごめんなさい、メー奥様」
一同が廊下へ出ようとする時、ヴァンスがふと思いついたように、立ち止ってドラッカーをふり返った。「あなたもご同行頂いたほうがいいでしょう」何気ない、しかも強い口調で彼は言った。「ロビン氏をご存じだから、何か私共の参考になることを――」
「ついて行っちゃいけません」ドラッカー夫人が叫んだ。しっかりと体を起して、懊悩《おうのう》と不安に顔をゆがめていた。「行くんじゃありません。その人達は敵ですよ。あなたに悪いことをしようとしているのよ。……」
ドラッカーは立ち上っていた。「ついて行って何がいけないんだ」いらいらと彼は口答えした。「この事件のことを調べたいんだ。たぶん――この人達の言うとおり――手伝いができるかも知れないんだ」そして、いかにもたまりかねたような身振りを一つすると我々と一緒になった。
第六章 「雀が言った、『わたし』」
――四月二日、土曜日、午後三時
我々はふたたびディラード家の応接間に戻り、ディラード嬢は我々を残して書斎の伯父のところへ行ってしまった。ヴァンスは何の前ぶれもなく手元の仕事にとりかかった。
「ドラッカーさん、お母様の前であなたにご質問などして、お母様にご心配をおかけしたくないと思いましてね。しかし今朝はロビン氏が亡くなるすぐ前にここを訪ねていらっしゃるわけなので、当然私共としては――ほんの型どおりの手続きとしてですが――何によらずご存知のことをお教え願わなくちゃならないということですが」ドラッカーは暖炉の近くに坐っていた。用心深く首を引っこめたが何も答えなかった。「ここへはたしか」ヴァンスが続けた。「九時半ごろにアーネッスンさんを訪ねておいでになったわけでしたね」
「そう」
「弓場から地下室を通っておいでになったんですか」
「いつもそこを通って来ます。外から遠まわりして来ることはないですから」
「ところがアーネッスン氏は外出していた」
ドラッカーはうなずいた。「大学へね」
「そして、アーネッスン氏が留守とわかって、しばらくの間ディラード教授の書斎で天文学の南米研究旅行のことなどをお話しになったわけですね」
「イギリス天文学協会が、アインシュタインの偏差論《へんさろん》を実験しにブラジルのソブラルへ遠征するんですな」ドラッカーが詳《くわ》しいことを言った。
「書斎にはどれぐらいおいででしたか」
「半時間以内ですな」
「その後は」
「弓術室に下りて行って、そこで雑誌を一冊見ました。チェスの問題がのってましてね。――最近シャピロとマーシャルの試合に出て来たツークスツヴァング〔相手の手を無理に引き出す手――一手動いても守りが崩れる時の〕の詰《つ》め手ですがね――腰をおろして解いてしまいましたが……」
「ちょっと、ドラッカーさん」ヴァンスの声に押えきれぬ興味がうかがわれた。「チェスに興味がおありですか」
「ある程度ね。しかしあまり時間はかけません。純粋に数学的なゲームじゃありません。なかなか頭を使わせますが、もっぱら科学的な頭を持った者にはまだまだ面白味が足りませんね」
「そのシャピロ・マーシャルの手は難かしかったですか」
「難かしいというより、手がこんでるんですな」ドラッカーは鋭くヴァンスを見守っていた。「一見無駄な歩《ふ》を動かすのがその行詰り打開の鍵だとわかると、あとは簡単に解けました」
「それに何分ぐらいかかりましたか」
「まあ三十分ぐらい」
「十時半ごろまで、ということですね」
「そのへんのところでしょうな」ドラッカーは椅子に深く腰を落着けたが、ひそかな警戒心はゆるめなかった。
「そうするとロビン氏とスパーリング氏が弓術室に入って行った時には、あなたはまだそこにおいでになったはずですね」相手はすぐには答えなかった。ヴァンスは相手がためらっているのに気付かないふりをして、言いそえた。「ディラード教授のお話だと、二人は十時ごろこの家に訪ねて来て、この応接間でしばらく待ってから、地下室に下りて行ったということですが」
「ところで、スパーリングは今どこですか」ドラッカーはじろじろと疑ぐり深く我々を一人一人見まわした。
「もうすぐここへ来るはずです」ヴァンスが答えた。「ヒース巡査部長が部下の方を二人、連れに行かせました」
せむし男の眉が上った。「ああ。じゃスパーリングは強制的に連行されて来るわけですな」彼はへらのような指をピラミッド型に組み合せて、それをつぶさに検分しながら物思いにふける様子だった。それから、ゆっくりと目を上げてヴァンスを見た。「弓術室でロビンとスパーリングに会ったかというご質問でしたね。――会いました。ちょうど帰ろうとするところへ二人は下りて来ました」
ヴァンスは椅子にもたれこんで両脚を前に伸ばした。「そのときに、ドラッカーさん、二人の間に――まあ、婉曲《えんきょく》な言いまわしですが――まずいことでもあったような印象をお受けでしたか」
男はしばらくこの質問を慎重に考えていたが、「そう言われてみると、たしかに二人の間にはよそよそしいものがあったようですな。もっとも、その点はあまり断言的なことは言いたくありません。とにかく、二人が入って来るのと、ほとんど入れ違いに私は部屋を出ましたからね」
「さきほど、あなたは地下室のドアから出て、そこから塀の門を通って七十五番街に出たとおっしゃったようでしたね。そのとおりですか」
しばらくドラッカーは返事を渋る様子だったが、つとめて無関心を装《よそお》って答えた。「そう。仕事に戻る前に河っぷちを散歩しようと思いましてね。リヴァサイド・ドライヴに出て、そこから馬道を通って七十九番街のところで公園に入りました」
ヒースが、警官に対する供述《きょうじゅつ》はすべて疑ってみるという習慣から、次の質問をこころみた。「誰か知っている人に会いましたか」ドラッカーは憤然と向き直ったが、ヴァンスが急いで割って入った。
「ヒースさん、そのことは今はどうでもいいだろう。あとでその点を確かめる必要ができたら、もう一度取り上げればいいんだから」それからドラッカーに、「十一時少し前に散歩から戻って、表玄関からお宅にお入りになったというお話でしたね」
「そのとおりです」
「ところで、今朝この家においでになって、別に何も異常なことはお見かけにならなかったんですね」
「いま言った以外、何も見ません」
「それから、十一時半ごろお母様の悲鳴をお聞きになったのも確かなんですね」ヴァンスは身動き一つしないでこの質問をした。しかしその声にはほんの少しばかり違った調子がしのびこんでいたようで、ドラッカーはこちらがびっくりするような反応を起した。彼は椅子からそのずんぐりむっくりの体を持ち上げて、突っ立って威丈高《いたけだか》な憤怒《ふんぬ》もあらわにヴァンスをにらみ据えた。小さな丸い眼がぎらぎらと光り、唇はひきつるように震えた。手は激しい発作に襲われた人のように曲げたり伸ばしたり、目の前で振り動かしていた。
「あんた何を言うつもりですか」甲高い裏声で彼は聞いた。「たしかに僕は彼女の悲鳴を聞いたんだ。彼女がそれを認めようと認めまいと僕の知ったことじゃない。その上、僕は彼女が部屋の中を歩いてるのを聞いたんだ。カノジョハカノジョノヘヤニイタンダ、いいですか、ソシテボクハボクノヘヤニイタンダ、十一時から十二時の間。それ以外どんなことを証明しようたって出来るもんか。それに、僕はあんたからも誰からも自分が何をしていたか、どこに居たか追及される覚えはないですぞ。あんたがたの知ったことじゃないんだ――わかりましたか……」
今にもヴァンスに掴《つか》みかかりはしまいかと思ったほど、彼は逆上してしまっていた。ヒースが立ち上って彼の方に歩み寄っていたのは、危いことをやり出しそうだと察したからだったろう。だが、ヴァンスはびくともしなかった。けだるそうに煙草をふかし続けて、相手の憤怒が一応おさまったところで、静かに感情の動いた気配ひとつ見せないで言った。
「ご質問申し上げることはこれでおしまいです。それにしても、ドラッカーさん、ご昂奮なさることはないんでしてねえ、全くのところ。私はただ、お母様の叫び声から犯行の正確な時刻が立証できるかも知れないと、ひょっと思っただけなんで」
「母の悲鳴とロビンの死んだ時間が何の関係があるんですか。母は何も見なかったと言ったじゃないですか」ドラッカーはすっかり消耗《しょうもう》しきった様子で、ぐったりとテーブルにもたれかかった。この時、ディラード教授が戸口に姿を現わした。後ろにアーネッスンもいた。
「どうしましたかな」ディラード教授が言った。「なんだか騒々しいから来てみたんですがな」彼はドラッカーを冷然と見やった。「こんな風に君におどしてもらわんでも、ベルはもう今日は存分にいためつけられとるんじゃないか」
ヴァンスは立ち上っていた。しかし彼が口を開く前に、アーネッスンが進み出てドラッカーに向って指を振り立てて、冗談めかした非難をした。
「まったく君は自制することを学ぶべきだよ、アドルフ。そんなクソ真面目なことばかりやっていると寿命を縮めるぜ。厖大《ぼうだい》な宇宙の研究もいい加減長くやったんだから、この辺で少しぐらい調和の感覚が出来たって良さそうなものじゃないか。何だってこんな地上の針の先ほどの雑事に大騒ぎをするんだい」
ドラッカーは卒中|病《や》みのいびきみたいな音を立てて荒く息づいていたが、「この豚どもが――」とやりはじめた。
「おい、止せよ、アドルフ」アーネッスンはさえぎった。「人類とは、きみ、みんな豚だよ。いちいち言うことはないやね。……さあ、おいで。送ってあげよう」そしてドラッカーの腕をしっかり掴んで地下室の方へ連れて行った。
「先生、大変なお騒がせをいたしまして申し訳ございません」マーカムがディラード教授に詫びた。「どういうわけか、あの男が急にハンドルをほうり出しちまって。どうも犯罪捜査というやつはあまり愉快な物じゃないようですな。しかし、そのうちに終るものと思っておりますから」
「まあ、とにかく出来るだけ早く片を付けてくれよ、マーカム。それから、ベルはなるべくそっとしておいてくれたまえ。――帰る前に君に会いたいな」
ディラード教授が二階に帰ってしまうと、マーカムは両手を後ろに組み、眉の間に深いしわを寄せて部屋の中を往復しだした。「君はドラッカーをどう思う」ヴァンスの前で止まって訊いた。
「たしかに愉快な男じゃない。心身ともに病気だね。先天的な嘘つきだ。しかし頭はいいねえ――いやあ、えらく頭がいい。異常な頭脳だよ――ああいうタイプの不具者には多いものだ。スタインメッツみたいに、建設的な本当の天才になることもあるにはあるが、たいていは非実際的な面で深遠な思索に没頭したりするものなんだね、ドラッカーみたいに。もっとも、さっきの短いやりとりも全然無益じゃなかった。何か言いたいくせに、勇気がなくてかくしてるんだね」
「もちろん、そりゃあり得ることだが」マーカムは疑ぐり深く応じた。「とにかく例の十一時から十二時までの時間のことには、ひどく敏感だなあ。それに、猫みたいにずっと君から目を離さないんだ」
「猫よりいたちだね」ヴァンスは訂正した。「そう、僕もあの媚《こ》びるような注目には気がついていた」
「ともかく、あの男はあまり役に立たなかったようだな」
「うん」ヴァンスも同意した。「船は前進はしなかったようだ。しかし、少なくとも荷物は多少積みこんだと言える。あの怒り屋の数学の名人のおかげで、仲々興味ある推理の道がいくつか開けたね。それにドラッカー夫人もずいぶんクサイねえ。二人の知っていることが両方ともわかったら、あるいはこの馬鹿げた事件の鍵が見つかるかも知れない」
この間ずっとヒースは不貞《ふて》くされて、退屈しきった尊大さで成行きを見物していたが、この時急にいきり立って起き上った。「ちょいと申し上げますがね、検事さん、時間が無駄ですよ。そんな小田原評定《おだわらひょうじょう》が何の役に立ちますか。目指す坊やはスパーリングですよ。いまに私の部下が奴を連れて来て、ちょいとばかりいたぶってやりゃあ、起訴の材料はたんまり出て来まさあ。奴はディラードの娘に惚れてやがってロビンを妬《や》いたんだ――娘のことだけじゃない、ロビンがあの赤い棒切れを自分よか真っ直ぐ射れるもんだからね。奴はこの部屋でロビンと喧嘩したんですな――教授が聞いたってえじゃありませんか。そこで、証言によると犯行の数分前に、ロビンと下へ降りて行ったんですな……」
「おまけに」ヴァンスが皮肉に言い添えた。「彼の名は『雀』という意味だ。|Quod erat《クオド エラト》 |demonstrandum《デモンストランドウム》〔これぞ証明さるべきもの〕だね。――ちがうよ、ヒースさん、そりゃだいぶ甘すぎるよ。それじゃトランプの切り方をごまかして独《ひと》り占《うらな》いをやるようなものさ。それだと、容疑が直接に犯人にふりかかるように、あまりにもお膳立《ぜんだ》てが出来すぎているよ」
「私にゃ、お膳立てなんかあるとは思えんですな」ヒースは頑張った。「このスパーリングの奴が怒って弓をとって壁から矢をひっ掴《つか》んでロビンの後を追って行って、心臓を射抜いて、やっつけちまったんでさあ」
ヴァンスは溜息をついた。
「ヒースさん、あんたはこのひねくれた世の中には真っ正直すぎるよ。物ごとがそう馬鹿に手順よく運んでくれりゃ、さぞかし人生は単純だろうねえ――げんなりするだろうねえ。しかし、ロビン殺しの |modus operandi《モドウス オペランディ》〔手口〕はそんな風じゃなかった。まず、動きまわる人間を的にして、ちょうど肋骨《ろっこつ》の間を通って心臓の致命的な一点に射当てることの出来る射手なんて居るもんじゃない。第二に、あのロビンの後頭部の骨折だ。倒れてそうなったかも知れないが、そうじゃなさそうだ。第三に、帽子が足もとにあった。自然に倒れたならそんな所にあるはずがない。第四に、矢筈《やはず》が傷《いた》んでいて弦《つる》につがえられるかどうか疑わしい。五番目に、矢がロビンの正面から当っている。弓を引いて狙いを定める間に悲鳴を上げたり、よけようとしたりする暇があったはずだ。第六は、……」
ヴァンスは言葉を切って煙草に火をつけた。
「これはしたり。ヒースさん、ひとつ見落しをしていたよ。人間が心臓を刺されたら、すぐに血が流れるはずだ。ことに兇器の先が柄より大きかったりして、穴をふさぐだけの栓《せん》が無いと、流れ放題だ。そうだ。弓部屋の床あたりに血痕が見つかるってことも大いにあり得るぞ――きっとどこかドアの近くに」
ヒースはためらったが、ほんの一瞬だった。長い経験から、ヴァンスが何か言い出した時は大きな顔をしていてならないことが、彼にもよくわかっていたのだ。機嫌よく、口だけはぶつぶつ不平を鳴らしながら、立ち上って家の裏の方へと姿を消した。
「どうやら、君の考えがわかりだしたよ、ヴァンス」マーカムが思案顔で言った。「それにしてもねえ。もしロビンが弓矢でやられたという見かけ上の死因が、あとで細工した舞台装置にすぎんということになると、ほとんど思いもよらない悪魔的な何物かに直面することになるねえ」
「狂人の仕事だよ」ヴァンスはめったにない生真面目さで言った。「いや、自分がナポレオンだと思いこんでいるような、ありきたりの狂人じゃない。この狂人は途方もない頭脳の持ち主だから、本人は正気のつもりでやったことが、普通の人間から見ると |reductio ad《レドウクシオ アド》 |absurdum《アブスルドウム》〔内包する不条理を指摘反証されてしまうような事柄〕になっている――つまり、気質そのものが四次元の公式になってしまうような状態だよ」
マーカムは思索《しさく》にふけって、やけに煙草をふかしていたが、「ヒースが何も見つけて来なきゃいいが」
「なぜ――そんな、きみ」ヴァンスはやり返した。「ロビンが弓部屋で最期をとげたという物的証拠が出て来ないとなると、法律上、事件は難しくなるばかりだよ」
だが、その物的証拠は目と鼻の先に現われていた。ヒース巡査部長が数分後もどって来た。すっかり意気|沮喪《そそう》していたが、しかも昂奮していた。
「いやになっちゃうね」彼はだしぬけに言った。「ヴァンスさんはカンニングでもやったんじゃないですかねえ」彼はまるで讃嘆の面持をかくそうともしなかった。「床の上には血痕そのものは残ってませんが、今日何時ごろか誰かが濡れ雑巾でこすったような黒いあとがセメントの上についてますよ。まだ乾いてないです。場所はおっしゃったとおりドアのすぐ傍です。おまけに、ますます臭いのは、あの敷物が一枚引き寄せてその上にかぶせてあるんですなあ。――もっともそれでスパーリングは白だってことにはならんです」彼は鼻息荒くつけ加えた。「奴が地下室でロビンを射ったのかも知れません」
「そうしておいて、血痕を始末して、弓と矢を拭いて、死体と弓を弓場に置いてから帰ったか。……どうして。……ヒースさん、弓術は何といったって屋外スポーツなんだからね。それにスパーリングは弓矢で人殺しを企らむにしちゃ、弓の心得がありすぎるよ。ロビンの波乱少ない一生に終止符を打ったみたいな当りは、どう見たって純然たるまぐれ当りだろう。あのテウサーだって自信満々であんな大当りをやらかすことは出来まい――しかもホーマーによるとテウサーはギリシア第一の射手だったそうじゃないか」
この時パーディーが帰宅しようと玄関の広間を通りかかった。玄関のドアのあたりにさしかかった時、ヴァンスが立ち上って部屋の戸口に出て行った。
「あのねえ、パーディーさん。ちょっとお待ち頂けませんか」相手は愛想よく素直な態度でふり返った。「もう一つだけお聞きしたいことがありましてね」ヴァンスが言った。「さきほどあなたは今朝スパーリング氏とビードルが塀の門から出て行くのをごらんになったとおっしゃいましたね。他に誰もその門から出入りしなかったことは確かですか」
「そりゃもう。つまり、他には誰も思い出しませんよ」
「特にドラッカー氏のことが頭にあったもんですからね」
「ああ、ドラッカーね」いくらか誇張気味にパーディーは首を振った。「いや、あの男なら覚えてるはずですが。もっとも、おわかりのように、私の知らない間にこの家に出入りした人間は十人やそこらは居るかも知れませんよ」
「そうですか――なるほどね」ヴァンスは小声で気のない返事をした。「ところで、ドラッカー氏のチェスはどれくらいな腕前ですか」
パーディーはかすかに驚きの色を見せた。「あの人は腕前といいましても実地はまるで駄目ですよ」彼は用心深くいやにはっきりと言った。「しかし分析的な頭は優秀でして、チェスの理論は驚くほどよく理解して居ます。ただ、実際に卓上で試合をやっていませんからね」
パーディーが行ってしまうと、ヒースが得意げな眼くばせをヴァンスに送った。「どうやら、ヴァンスさん」いかにも人が良さそうに彼は言った。「例のせむし男のアリバイを調べてみたいのは私だけじゃなさそうですな」
「ははあ。しかしアリバイを調べることと、本人にそれを証明しろといって要求することとは、違うよ」
この時、表のドアがさっと開いた。玄関内に重い足音がして、部屋の戸口に三人の男が姿を現わした。二人は明らかに刑事、そしてその二人にはさまれているのは、背の高い身なりのすっきりした三十前後の青年だった。
「捕まえました」刑事の一人が意地悪く満足げにニヤリと笑って言った。「ここから真っ直ぐ逃げて帰って、私達が入って行った時ちょうど荷造りの最中でした」
スパーリングは怒りと不安の眼差《まなざ》しで部屋の中を睨《にら》みまわした。ヒースは彼の前に坐っていたが、立ち上って得意げに彼を頭から足まで眺めまわした。
「へえ、そうかい、お前さんは逃げようと思ったんだな」巡査部長の葉巻が喋るにつれてぶらぶらと唇の間で上下にゆれていた。スパーリングの頬が紅潮してきた。口は頑固に結んでいた。
「ほう。何も言うこた無いのか」ヒースはたけだけしく顎のあたりを角張らせて言葉を続けた。「お前さんもだんまり屋のくちなんだな。ようし、こっちが喋らしてやるからな」そしてマーカムの方へふり向いた。「どうですか。本部に連行しますか」
「あるいはスパーリングさんはここで二、三質問に答えることに異存はおありじゃないだろう」マーカムがおだやかに言った。
スパーリングはしばらく地方検事の顔色を読んでいた。それから視線をヴァンスに移した。ヴァンスは元気づけるようにうなずいてみせた。「答えるって、何の質問にです」スパーリングは自制しようと、はた目にわかるほど努力していた。「僕が週末旅行の仕度をしていると、この暴漢が二人で無理矢理に部屋に入って来たんだ。そして一言も説明なしに、家族に伝える暇も与えずにここへ連れて来られたんだ。こんどは警察本部に連れて行くだの何だの」と彼はヒースを喧嘩腰で睨みつけた。「いいよ、警察本部に連行しろよ――馬鹿野郎」
「今朝は何時ごろこの家をお出になりましたか、スパーリングさん」ヴァンスの声は物柔らかで機嫌をとるような調子をおび、態度は慰さめ励《はげ》ましているようだった。
「十一時十五分ごろです」相手は答えた。「グランド・セントラル駅発十一時四十分のスカーズデール行きに間に合うためです」
「ロビンさんのほうは」
「ロビンは何時に帰ったか知りません。ベル――つまりディラード嬢が帰るまで待つとか言ってました。弓術室で別れたんです」
「ドラッカーさんに会いましたね」
「ええ、ほんの一分ばかり。ロビンと私が弓術室に入って行ったら、あの人が居たんです。でもすぐに彼は帰りました」
「塀の門からですか、それともずっと弓場を通ってですか」
「覚えてません――そう、気にとめなかったんだ。……ねえ、ちょっと。一体こりゃどうしたってことなんですか」
「ロビンさんが今朝殺されたんですよ」ヴァンスが言った。「――時間は十一時ごろなんですがね」
スパーリングの目玉がとび出しそうだった。「ロビンが殺された? そんなこと。……誰が――誰が殺したんです」唇が乾いていた。それを彼は舌で濡らした。
「まだわからないんです」ヴァンスが答えた。「矢で心臓を射抜かれたんですがね」この知らせでスパーリングが呆然《ぼうぜん》となってしまった。目がもうろうと左右に動いていた。彼はポケットの煙草をさぐった。
ヒースが彼に近寄って、ぐっと顎を突き出した。「お前さんならわかるだろう、誰が彼を殺したか――『弓と矢でもって』な」
「なぜ――なぜそんな――僕が知ってるなんて思うんです」スパーリングはやっとの思いでどもりながら言った。
「あのなあ」ヒースは容赦なく答えた。「お前さんはロビンを妬《や》いてたろう、な。例の娘のことで彼と大喧嘩したろう、この部屋で、な。そしてお前さんは奴が殺されるすぐ前まで二人だけで奴と一緒に居たんだ、そうだろう。それからお前さんは弓矢がかなりうまいだろう、どうだ。――だから、お前さんは多分何か知ってるはずだと思うのさ」彼は目を細めて歯をむき出した。「おい。泥を吐きな。あんなことをやれるのは、お前だけだぞ。あの男と娘のことで喧嘩した、おまけにあの男と一緒に居るのを見られた最後の人間はお前なんだ――ソレモ、アノ男ガ殺サレルホンノ二、三分前ニダゾ。だいいち、弓の選手でなきゃ誰が弓矢で射って殺したりするかい――ええ。……楽になっちまいな、そっと洩らして喋ってみな。捕まっちまったんだからな」
スパーリングの目に妙な光がさしていた。身体が固くこわばって来た。「ちょっと訊きますが」――不自然なわざとらしい声だった――「弓は見つかりましたか」
「そりゃ見つけたさ」ヒースは不愉快げに笑った。「お前さんが置いて行った所でな――露地だ」
「それはどんな弓でしたか」スパーリングの目はずっとあらぬ方を見詰めたまま動いていなかった。
「どんな弓い?」ヒースはおうむ返しに言った。「当り前の弓だよ――」
ヴァンスは青年をしげしげと見ていたが、口を出した。「そのことなら僕がお答えしようか、ヒースさん。――あれは女物の弓でしたよ、スパーリングさん。五フィート半くらいで、軽い方ですね――まあ三十ポンド以下でしょう」
スパーリングは何かよほど辛い決心をしようと心を固める様子で、ゆっくりと深く息を吸いこんだ。それから唇が二つに分れてかすかな、暗い微笑をかたち作った。「しようがないよ」ものうげに彼は言った。「逃げる暇があると思ったんだけどね。……そう、僕が殺しました」
ヒースは満足げにうなった。戦闘的な態度は瞬《またた》くうちに消えてしまった。「思ったよりあんたは物わかりがいいぞ」まるで父親みたいな調子だった。そして二人の刑事に事務的に頭で合図した。「君たち、連れて行ってくれよ。俺の車を使ったらいい――外にいるから。書類はいいから留置しといてくれ。手続きは俺が署に帰ってからやっておく」
「さあ、来な」刑事の一人が命じて玄関の方を向いた。だがスパーリングはすぐには従おうとしなかった。そして訴えるような目つきでヴァンスを見た。
「出来たら、僕――何とか、あの――」彼は言いはじめた。
ヴァンスは首を振って、「いや、スパーリングさん、ディラード嬢には会わないほうがいいでしょう。今ここで会ってあの人を苦しませることはありませんよ。……じゃまたね」
スパーリングは何も言わずに向きをかえて二人の逮捕者にはさまれて出て行った。
第七章 ヴァンス結論に達す
――四月二日、土曜日、午後三時三十分
我々がふたたび応接間に四人だけになってしまうと、ヴァンスは立ち上って伸びをしてから窓際に歩いて行った。眼前で演じられた場面が大変なクライマックスになってしまって、我々はいささか呆然ととり残されていた。胸中はみな一様に同じ考えに占められていたものと思う。それでヴァンスが口を開いた時、まるで彼は一同の考えを代弁してくれているみたいだった。「何だかあの子守歌を思い出しちゃったね、みんな。
雀が言った、『わたし、
わたしが弓と矢でもって
雄駒鳥《コック・ロビン》を殺したよ』
ねえ、マーカム、こいつはちょっとややこしくなって来たね」ゆっくりと大テーブルに戻って来ると、彼は煙草をもみ消した。それから眼のすみっこからヒースを見やった。
「何だってそんな深刻な顔してるの。のんびり歌でも歌って嬉しそうにタランテラか何か踊りなさいよ。あの悪者は悪事を白状したんじゃないの。いまに犯人が獄屋の奥で大いに呻吟《しんぎん》するんだから、思えば胸は嬉しさではちきれるんじゃないかな」
「実はですなあ、ヴァンスさん」ヒースはふくれ面で言った。「私は満足じゃないです。あんまり簡単に白状しましたねえ――まあ、私もいろんな奴が口を割るところを見たことがありますが、何だかあの男の態度は真犯人みたいじゃなかったですなあ。いや実際のところなんで」
「とにかくねえ」マーカムが望みありげに言った。「あの愚にもつかん自白のおかげで新聞の好奇心は鈍《にぶ》るだろうし、我々も大いに自由に捜査をおし進められるわけだ。どうやらこの事件はスキャンダルをまき起しそうだが、しかし新聞記者が犯人は牢に入ってると思いこんでいる間は、連中から『その後』のニュースをうるさくせがまれることもないよ」
「私はあいつは犯人じゃないとは言いませんよ」ヒースは言い張ったが、明らかに自分の肚《はら》と逆なことを言っていた。「こっちが確かに奴の悪いところを掴《つか》んでるから、それを察して、裁判の時にうまく行くだろうと思って泥を吐いたんですな。結局あいつもそう間抜けじゃないのかも知れませんぜ」
「そりゃ駄目だよ、ヒースさん」ヴァンスが言った。「あの青年の頭はまるっきり単純な考え方をしたんだよ。彼はロビンがディラード嬢を待っていたのを知っているし、ゆうべ彼女がロビンに、言わば訴えの却下を申し渡したことも知っていた。スパーリングは明らかにロビンの人柄をあまり高く評価していなかった。そこへあの紳士が短かい軽い弓を持った何者かの手によって殺されたと聞いたものだから、奴さんは一挙に飛躍して、ロビンが限界をふみこえて礼儀にかなわない求愛の仕方をしたために、正義の矢を心臓に受けたという結論に達したわけだ。そうなりゃ、我が誉高《ほまれたか》き前世紀の雀くんにしてみれば、雄々しくも我と我が胸をポンと叩いて『|Ecce homo《エケ・ホモ》!〔この人を見よ〕』と高らかに宣言する以外に何の手があるものかね。……まさに聞くも涙さ」
「まあ、ともかく」ヒースは不満らしく言った。「私はあの男を釈放《しゃくほう》する気はありませんぜ。マーカムさんが起訴したくなきゃ、そりゃご勝手ですがね」
マーカムはヒースに寛大な眼差《まなざし》を向けた。相手がひどく緊張していることはわかっていたし、その言葉を悪くとらないことが自分の肚の太さに大いにかなっているわけだった。「そうは言ってもねえ、ヒース君」彼は思いやりのある調子で言った。「僕がたとえスパーリングを起訴しないことになっても、一緒に捜査を続けてやってもらえるんだろう」
ヒースはすぐに後悔した。急いで立ち上ってマーカムのところへ行き、手をさしのべた。「そりゃもう、検事さん」
マーカムはその手を握って、やさしい微笑をうかべて立ち上った。「それじゃ、さしあたって万事は君にまかせるからね。僕は役所で少し用があるし、スワッカーに帰るまで待つように言ってあるから。〔土曜日だから地方検事局は『半ドン』である。スワッカーはマーカムの秘書〕」彼は意気消沈の様子で廊下に向った。「帰る前にディラード嬢と教授に事情を説明しておこうか。――ヒース君、何か特に考えてることがあるかい」
「そうですな、地下室の床を拭《ふ》くのに使った雑巾をよく探してみようと思います。それからその時に、弓術室をしらみつぶしに洗ってみます。それと、料理女と執事をもう一ぺん絞ってみましょう――特に料理女を。あの女は犯人がこのけがらわしい仕事をやってる時すぐ近くに居たはずですからね。……それといつものきまりきった仕事ですな――近所の聞き込みやら何やら」
「その結果は知らせてくれたまえ。今日ひけた後と明日の午後はスタイヴスント・クラブに居るからね」
戸口のあたりでヴァンスがマーカムと一緒になっていた。階段の方へ歩きながら、ヴァンスは口をひらいた。「ねえ、君、例の郵便箱にあった秘密めいた手紙を過小評価しちゃ駄目だよ。どうも僕にはあれが子供部屋の鍵じゃないかという強い第六感が働いているんだがね。ディラード教授と姪《めい》ごさんに『ビショップ』という言葉が何か気になるような意味を持っているかどうか、訊いてみたほうがいいよ。あの聖職名を使った署名は意味があるよ」
「そいつはどうかねえ」マーカムはあやふやな返事をした。「僕にはまるで無意味なように思えるがなあ。まあ、君の言うとおりにしてみるがね」
しかし、教授もディラード嬢もビショップという言葉から誰かを想像することは無いとのことで、教授はまた、例の手紙がこの事件に何も意味を持っていないというマーカムの考えに賛成のようであった。「どうも子供向きのメロドラマみたいな感じだな。まさかロビンを殺した当人がまぎらわしい変名を使って自分の犯行のことで手紙をよこしたりはせんじゃろう。犯罪人につきあいはないが、こんな振舞いは論理に反すると思うね」
「しかし犯行そのものが論理に反して居ますね」ヴァンスが快活な調子で口を出した。
「事柄が論理に反するなんちゅうことは、きみ」教授は辛辣《しんらつ》に応じた。「どだい三段論法の前提がわかっとらん時には、言えるものではないですぞ」
「確かにそうですね」ヴァンスは礼儀を失わないように慎重な調子で言った。「従って、手紙そのものも倫理に反するとは言えないことになるかも知れません」
マーカムが如才《じょさい》なく話題を変えた。「特にお伝えしようと思って参りましたのは、先生、スパーリング氏がついさきほどロビン氏の死亡の件を知って、自分がやったと自白なさったことなんですが。……」
「レーモンドが自白ですって」ディラード嬢があえいで言った。
マーカムは同情深く彼女を見やった。「まったく正直なところ、私はスパーリング氏の言葉は信用しておりません。明らかに何か間違った騎士道的な考えから犯行を自認なさったんですね」
「騎士道ですって」彼女は熱心に身をのり出して訊き返した。「それは一体どんな意味ですの、マーカムさん」
答えたのはヴァンスだった。「弓場で発見された弓が婦人用だったんです」
「まあ」彼女は両手で顔をおおい、身体はすすり泣きに震えていた。
ディラード教授は手の出しようもなく、彼女を見ているばかりだった。そしてその無力さが苛立《いらだ》たしさの形をとったのである。「馬鹿なことを言うじゃないか、マーカム。弓の射手なら誰でも女用の弓で射られるぞ。……あの話にもならん馬鹿青年が。わけもわからん自白をしてベルに辛い思いをさせんでもいいじゃないか。……マーカム君、あの青年には出来るだけのことをしてやってくれ」
マーカムがそれを受け合い、我々は立ち上った。
「ところで、ディラード先生」ヴァンスが戸口で立ち止まって言った。「どうぞ誤解のないようにお願いいたしますが、あの手紙をタイプで打つという悪ふざけをやったのは、ひょっとして誰かこの家に近づく機会のある人間ではないか、とも考えられます。こちらには、もしかしてタイプライターはございますでしょうか」
この質問に教授がむっと来たのは明らかだったが、返事は十分に礼儀を失っていなかった。「いや、なかったね、――わたしの知ってるかぎり置いたことはない。わたしの機械は十年前大学を止める時に捨ててしまった。タイプの要る時は何でも商売人がやってくれるから」
「アーネッスン氏のほうは」
「あの男はタイプは使いません」
我々が階段を下りるところへ、アーネッスンがドラッカーの家から帰って来た。「われらのライプニッツをなだめて来たよ」と言って、彼は大げさな溜息をついた。「かわいそうな奴だ。あいつにはこの世の中は手に余るんだね。ロレンツやアインシュタインの相対論《そうたいろん》の公式にふけってる時は冷静そのものだが。いったん現実世界に引きずり下されると滅茶苦茶になっちまう」
「興味をお持ちのニュースだと思いますが」ヴァンスがさりげなく言った。「さっきスパーリングが殺人を自供しましたよ」
「は」アーネッスンは悦に入った。「うまく行ったもんだ。雀が言った、『わたし』か。……まさにピタリだ。もっとも、数学的にどんな答を導き出すか、わからんですな」
「それと、何でも情報をさし上げるお約束でしたから申し上げますが」ヴァンスが続けた。「ロビンが弓術室で殺されて、その後に弓場に置かれたと考えるべき理由があるという点も、あなたの計算のご参考になると思います」
「お知らせ有難う」アーネッスンは一瞬真顔になった。「そう、僕の宿題に関係がありそうです」彼は玄関まで一緒について来た。「もし何か僕がお役に立つようなことがあったら、どうぞ訪ねて下さい」
ヴァンスは立ち止まって煙草をつけていたが、私は例のものうい目つきから、彼が決心をつけようとしているのがわかっていた。ゆっくりと彼はアーネッスンをふり返った。「ドラッカー氏かパーディー氏がタイプライターをお持ちかどうか、ご存知ありませんか」
アーネッスンは軽い驚ろきを見せ、眼が抜け目なくキラリと光った。「あはあ。あのビショップの手紙ね。……わかりました。一応念には念を入れよですな。結構」彼はうなずいて満足の意を表わした。「そう、二人ともタイプライターは持っています。ドラッカーはひっきりなしにタイプを打っています――打ちながら物を考えるそうですな。それから、パーディーのチェスの手紙書きは次から次へとまるで映画スターなみですな。みんなやはり自分でタイプします」
「それではひとつ、ご面倒で恐縮ですが」ヴァンスが言った、「両方のタイプで打った見本と、お二人が使っておられる紙のサンプルがお手に入りませんか」
「造作もない」アーネッスンはこの役目に気を良くした様子だった。「晩までにさし上げましょう。どこにおいでです」
「マーカムさんはスタイヴスント・クラブに居るはずです。そっちへお電話下さいませんか、そうすれば手配して――」
「何だってわざわざ手配なんかしますか。僕がマーカム君に届けますよ、自分で。大喜びです。面白いじゃないですか、探偵をやるなんて」
ヴァンスと私は地方検事の車で家に送ってもらい、マーカムはそのまま検事局に行った。その夜七時に我々三人はスタイヴスント・クラブで会って食事をした。そして八時半には社交室のマーカムお気に入りの一隅で煙草とコーヒーを楽しんでいた。食事中、事件のことは誰も口に出さなかった。遅版《おそばん》の夕刊各紙には、ロビンの死が簡単な記事になって出ていた。ヒースは明らかにうまく新聞記者の好奇心をおさえて彼等の想像の翼を刈り取ってしまったようだった。地方検事の事務所は既に閉《しま》っていて、記者連中はマーカムになぐりこみをかけて質問の雨を降らせることが出来なかったから、遅版も情報入手が不十分だったわけだ。ヒースがディラード家の警戒を固めていたらしく、記者たちは家族の誰かと会うことにも成功していなかった。
マーカムは食堂からの途中で『サン』紙の遅版を手に入れていて、コーヒーをすすりながら丹念に目を通していた。「こいつが最初のかすかなる反響か」憂《うれ》い顔に彼は言った。「朝刊にどんな記事が出るか、思ってもぞっとするな」
「我慢のほかは無かりけりだよ」ヴァンスは無情に笑っていた。「誰か気の利《き》いた若手のジャーナリストが駒鳥、雀、矢という組み合せに気がついた瞬間、社会部長たちは一せいに躍り上って狂喜乱舞《きょうきらんぶ》、全国各紙の第一面はさながらマザー・グースの広告板みたいになるというわけだ」
マーカムはげんなりとしなびてしまった。それから憤然として拳で椅子の腕をなぐった。「よせよ、ヴァンス。愚にもつかない子守歌の話で僕の空想をかき立てようたって、そうは問屋が卸《おろ》すもんか」そして、猛然とこう付け加えたのはきっと自信がないからだった。「全くの偶然の一致《いっち》なんだ、いいか。意味もくそもあってたまるもんか」
ヴァンスは溜息をついた。「『おのれの意志に反して』信じちまうんだね。そうすりゃ『自説を枉《ま》げたことにはならぬ』そうじゃないか――サミュエル・バトラーが言ってるだろう」彼はポケットに手を入れて一枚の紙きれをとり出した。「|Pro tempore《プロ・テンポレ》〔さしあたり〕のところ児童ものはわきに片付けておくとして、夕食の前に作っておいた、なかなかためになる時間表があるんだがね。ためになるか? うんまあ、解釈の仕方がわかればためになるかも知れないね」マーカムはしばらく丹念に眺めていた。ヴァンスが書いておいたというのは、こんな表だった。
午前九時 アーネッスンが家を出て大学図書館に向う。
午前九時十五分 ベル・ディラードが家を出てテニスコートに向う。
午前九時三十分 ドラッカーがアーネッスンを訪ねて来宅。
午前九時五十分 ドラッカー地下の弓術室に行く。
午前十時 ロビンとスパーリング来訪、応接間に三十分間すごす。
午前十時三十分 ロビンとスパーリング弓術室におりる。
午前十時三十二分 ドラッカー塀の門を経《へ》て散歩に出たと自称。
午前十時三十五分 ビードル買物に向う。
午前十時五十五分 ドラッカー自宅に帰ったと自称。
午前十一時十五分 スパーリング塀の門より帰る。
午前十一時三十分 ドラッカーこの時母親の部屋で悲鳴を聞いたと言う。
午前十一時三十五分 ディラード教授アーネッスンの部屋のバルコニーに出る。
午前十一時四十分 ディラード教授ロビンの死体を弓場に発見。
午前十一時四十五分 ディラード教授地方検事に電話する。
午後零時二十五分 ベル・ディラード、テニスより帰る。
午後零時三十分 警官ディラード家に到着。
午後零時三十五分 ビードル買物より帰る。
午後二時 アーネッスン大学より戻る。
故に、ロビンが殺された時間は十一時十五分(スパーリング辞去)から十一時四十分(ディラード教授死体発見)までの間である。
この間、家に居たのが判っている人物はディラード教授及びパインのみである。
事件に何らか関係ある他の人物の配置は次のとおり(現在までに入手した供述及び証言による)
一 アーネッスンは午前九時より午後二時まで大学図書館に行っていた。
二 ベル・ディラードは九時十五分より十二時二十五分までテニス・コートに行っていた。
三 ドラッカーは十時三十二分より十時五十五分まで公園を散歩、十時五十五分以後は自宅の書斎に居た。
四 パーディーは午前中ずっと自宅に居た。
五 ドラッカー夫人は午前中ずっと自室に居た。
六 ビードルは十時三十五分より十二時三十五分まで買物。
七 スパーリングは十一時十五分より十一時四十分までにグランド・セントラル駅に行き、同時刻スカーズデール行列車に乗った。
結論 少なくとも右の七名のアリバイが崩れぬかぎり、容疑のすべてはパインまたはディラード教授のいずれかにかかり、これをおいて真犯人は居ないはずである。
マーカムは紙片を読み終ると憤激のしぐさをした。「君はまるで馬鹿げたことを暗示してるぜ」彼は腹立たしげに言った。「だいいち君の結論は |non-sequitur《ノン・セクイトゥール》〔前提と連絡のない推論〕だぞ。この時間表はロビンの死亡時刻推定には役立つが、今日会って来たあの人たちの一人が犯人だなんて推論はナンセンスにもほどがある。君は外部の者が犯罪を遂行《すいこう》したことも考え得るのを全然無視している。家に入らなくたって弓場と弓術室に入る道は三つあったんだ――七十五番街に面した塀の門と、もう一つ七十六番街の塀の門と、リヴァサイド・ドライヴに通じるアパートにはさまれた露地だよ」
「いや、確かにその三つの入り口のどれかが使われたってことはありそうなことだね」ヴァンスは答えた。「ただ、その三つの入り口の中で一番奥まって人目につかないところ、従って一番それらしい入り口――つまり露地だね――そこはしっかりと鍵がかかっていて、ディラード家の家族以外にはその鍵を持っている者は居そうもない、という点を見逃さないでもらいたい。僕は殺人犯人がどっちか通りに面した門を通って歩いたなんて景色は想像できない。それじゃ人に見られる危険をおかしすぎることになるだろう」
ヴァンスは熱心に身をのり出した。
「それに、マーカム、他人や流しの犯行説を除外して考えていい理由は他にある。ロビンをあの世に送った人間は、今日の午前十一時十五分から四十分までのディラード邸の事情を正確に知っていたはずなんだ。その人物はパインと老教授だけしか家に居ないことを知っていた。ベル・ディラードが屋敷内をうろうろしていないのがわかっていた。ビードルが留守で、彼女に物音を聞きつけられたり、不意に出食わしたりする心配がないのを知っていた。ロビンが――目指す相手が――居ること、スパーリングが帰ってしまったことを知っていた。さらに、そいつは邸内の様子もいくらかは知っていた。たとえば弓術室のあり場所だね。ロビンがその部屋で殺されたのは明々白々だからね。こういう細かなことに詳《くわ》しくないやつが、大胆にも敵地に侵入して派手な殺人をやってのけるものかどうか。いいかい、マーカム、こいつは誰かディラード家の事情に非常に接近している人間だよ――今日の午前中あの家でどんな条件が得られるか、それをはっきりと知り得た人物だよ」
「例のドラッカー夫人の悲鳴はどうなる」
「ああ、ほんとうだ、あれはどうなるかね。ドラッカー夫人の窓だけが犯人の見逃していた要素だってことになるのかも知れない。それとも、知ってはいたが、一か八か、人に見られる唯一の危険をおかしてみたのかも知れない。しかし一方、夫人が悲鳴を上げたかどうか、我々にはその点がはっきりしていない。彼女自身はノーと言うし、ドラッカーはイエスと言う。それもこれも裏に動機があって我々の信用しやすい耳に吹き込んだことなんだね。ドラッカーは十一時から十二時の間家に居たことを立証するために悲鳴をもち出したのかも知れないし、夫人の方は息子が居なかったのを心配して否定したのかも知れない。ひどく |olla podrida《オラ・ポドリダ》〔ごった煮〕だねえ。でもこいつは大して関係のないことだよ。何よりも僕が主張したいのはね、この鬼みたいな仕事をやってのけることが出来たのは、ディラード家とよっぽど近しい人物だけだ、という点さ」
「その結論を証明するだけの事実はまだ掴んでないよ」マーカムは主張した。「偶然ということだってあり得るんだし――」
「おいおい、きみ。順列組み合せも二つや三つなら偶然説で解くことだってできるだろうけど、十も二十も重《かさ》なると駄目だよ。――だいいち例の郵便箱の手紙があるよ。犯人はロビンのミドル・ネームまで知って居たんだからね」
「まあ、あの手紙を書いたのが犯人だとすればの話だがね」
「それじゃ君はどこかの馬鹿なおどけ屋が千里眼か水晶|占《うらな》いで犯行の内容を探り出して、急いでタイプライターを打ちに帰って、狂歌を作って、韋駄天《いだてん》走りにあの家にとってかえして、別段理由もないのに、見つかる危険をおかしてその紙きれを郵便箱に入れるなんて芸当をやったという仮定のほうをとると言うんだね」
マーカムがまだ返事できないでいるうちに、ヒースが社交室に姿を現わして、我々が坐っている一隅にやって来た。心痛と不安にとらえられているのが一目でわかった。ほとんど挨拶も抜きで、タイプで宛名《あてな》を打った一枚の封筒をマーカムに渡した。「そいつを夕方の便でワールド新聞が受け取ったってんです。ワールドの警察係記者のクィナンがさっき私のところに持って来ましてね、タイムズもヘラルドも受取ってるとか言ってますよ。どれも今日の一時の消印がありますから、おおかた十一時から十二時までの間ぐらいに投函《とうかん》したんでしょう。おまけに、マーカムさん、みんなディラード家の近所でポストに入れたものなんですな、西六十九番街のN郵便局を経由してますからね」
マーカムは封筒の中身を引き出した。突然彼の目が大きく見開かれ、口もとの筋肉がひきしまった。視線を下に落したまま、彼はヴァンスにその手紙を渡した。タイプライター用紙一枚で、文句はディラード家の郵便箱に入っていたものと同じだった。いや、文句が同じだというより、例の手紙をそっくりそのまま複写したようなものだった。――『ジョーゼフ・コクラン・ロビンが死んだ。コック・ロビンを殺したのは誰か。スパーリングとは雀の意味なり。――ザ・ビショップ』
ヴァンスはその紙片をほんの一目見たきりで、どこを吹く風かと言わんばかりに、「まさにピタリだね、ええ、君」と言った。「ビショップは自分のしゃれを人々が見落しゃしないかと心配してくれたんだよ。だから彼は新聞に説明してくれたんだね」
「しゃれですって、ヴァンスさん」ヒースがきびしく訊いた。「こいつは、いつものしゃれとは種類が違いますぜ。だんだんこの事件は気違いじみて――」
「そのとおり。気違いじみたしゃれだよ、ヒースさん」
制服のボーイが地方検事のそばに歩み寄って、そっと彼の肩ごしに身をかがめて何ごとか囁《ささ》やいた。
「すぐここへ通したまえ」マーカムが命じた。それから我々に、「アーネッスンだ。たぶんタイプの見本を持って来たんだろう」彼の顔に影がさした。そして、ヒースが持って来た手紙にもう一度目をおとした。「ヴァンス」彼は低い声で言った。「僕も何だか君の言うとおりひどい事件になりそうだという気がしだしたよ。どうだろう、タイプは同じものだろうか……」
だがその手紙をアーネッスンの持って来た見本と引きくらべてみると、類似点《るいじてん》はどこにも見出せなかった。字体とインクがパーディーの機械ともドラッカーの機械とも違っていたばかりでなく、用紙もアーネッスンが手に入れた見本のどれとも符合しなかった。
第八章 第二幕
――四月十一日、月曜日、午前十一時三十分
ロビン殺しが全国にまき起したセンセーションを、今更ここで回想する必要はあるまい。あの驚くべき悲劇をアメリカ中の新聞が競《きそ》って特筆大書したことは、誰もが記憶している。事件はさまざまな名称を与えられた。コック・ロビン殺人事件と呼んだ新聞もあった。また中には、マザー・グース殺人事件と名付けた新聞もあり、語呂《ごろ》を合わせたつもりであろうが、やや正確でない。〔この作者不明の古い子守歌『コック・ロビンの死と葬式』は一般に考えられているのと違い、もとは『マザー・グース・メロディーズ』中に入っていなかった。もっとも現代版ではしばしば収録されている〕これに反し、タイプで打った手紙の署名のほうは、ジャーナリストのミステリー好みに強く訴えるところがあったようで、ほどなくロビン殺しはビショップ殺人事件として知られるようになったのである。この戦慄《せんりつ》すべき恐怖と他愛ない子守歌という奇妙な恐しい組み合せが大衆の空想を燃え立たせ、事件のすみずみに包まれた意味の邪悪さ、気違いぶりが、何か払いのけることの出来ない雰囲気を持ったグロテスクな悪夢のように、アメリカ全国の人々をゆり動かしたのだった。
ロビンの死体発見に続く一週間、殺人犯局の刑事たちも地方検事と直接連絡を持った刑事たちも、夜を日についで忙しく捜査を進めて行った。ニューヨークの朝刊を発行する有力紙がすべてビショップの手紙の写しを受取ったため、スパーリング有罪説についてヒースが抱いていた考えは、すべてけし飛んでしまっていた。そしてヒースは青年の潔白《けっぱく》を公式にご認定なさらなかったが、持ち前のお好みと押しの強さとで、別のよりもっともらしい犯人を探し出す仕事に身を挺《てい》して行った。彼が組織し監督した捜査は、あのグリーン殺人事件の時のように完璧そのものだった。ほんのわずかの成果しか期待できなくても、筋道があれば必らず見落さなかった。彼が書いた報告書は、あのローザンヌ大学の細心な犯罪学者たちをさえ満足させたにちがいない。
事件発生の日の午後、彼とその部下たちは弓術室の床の血を拭《ぬぐ》うのに使われた布を探したが、まるで何も見付からなかった。また、ディラード家の地下室一帯を、他の手がかりを求めて、くまなく調べてみたが、ヒースが専門の係を呼んでその仕事をまかせたのに拘《かか》わらず、結果は否定的だった。たった一つ、戸口のそばのファイバーの敷物が、血を拭き取った跡をかくす為に最近動かされたという事実だけが明るみに出た。しかし、これもヒースが少し前発見したことを実証したにすぎないわけだった。
ドレマス博士の検死鑑定書が、ロビンは弓術室で殺されて、その後で弓場に置かれたという、もはや公然と認められた説に色彩をそえた。解剖所見によれば、後頭部に加えられた打撲は特に強いもので、重い鈍器で打たれて凹《へこ》んだ挫傷《ざしょう》になっており、この点、平面に打ちつけた亀裂《きれつ》状の骨折と全く異っていたという。その打撃を与えた道具が捜索されたが、それらしいものは現われなかった。ビードルとパインの訊問もヒースによって何度か行なわれたが、何一つ新しい事実は得られなかった。パインはあくまでも、午前中はずっとアーネッスンの部屋に居て、衣料部屋と玄関に行くためほんの二、三度そこを離れただけだと言い、ディラード教授の命令でスパーリングを探しに行った時も死体と弓には決して手を触《ふ》れていないと頑張った。だが、ヒースはこの男の証言には必ずしも満足ではなかった。
「あのただれ目の業《ごう》つく爺いは何か袖の中にかくしてますぜ」うんざり顔で彼はマーカムに言った。「あいつを吐かせるにはゴムホースと水療法が要りますなあ」
あの日の午前中に誰かディラード家の塀の門から出入りするのを目撃した者は居ないかと、ウェスト・エンド・アヴェニューからリヴァサイド・ドライヴまでの七十五番街に面した家々を、軒並みに聞き込み捜査が行なわれたが、この退屈な大作戦からは何も得られなかった。どうやら、ディラード邸の見える所に住んでいる人で、あの朝その近辺で誰かを見かけたのはパーディーだけらしかった。実際のところ、数日にわたってこの線にそった熱心な捜査を行なったあげく、ヒースは外部の協力や偶然の助けをかりずに進んで行かなくてはならないのを思い知らされたのだった。ヴァンスがマーカムのために表にして並べ上げた七人のさまざまなアリバイは、事情の許すだけ徹底的に調べられた。それらアリバイは大部分がその人たち自身の供述だけをよりどころにしたものだったから、完全に調べることなど明らかに不可能だった。だいいち、調査にあたっては、あらぬ疑いがかからないよう細心の注意を払う必要があった。とにかく、その調査の結果をお目にかけよう。
一 アーネッスンが大学の図書館に居たことは、図書館助手一人と学生二人を含むさまざまな人々によって目撃されていた。しかし、それら証言の伝える時間は、一貫して正確に何時から何時までと連続してはいなかった。
二 ベル・ディラードは百十九番街とリヴァサイド・ドライヴの角にあるパブリック・コートでテニスを数セットしたのがわかった。しかし彼女の組は四人以上居たので二度ばかり彼女は友達に代ってやった。その間彼女がコートに残っていたと明言できる者は居なかった。
三 ドラッカーが弓術室を出た時刻はスパーリングの証言ではっきりした。しかしそれ以後の彼を見かけた者は発見されなかった。彼自身公園では誰も知っている人には会わなかったと言っているが、知らない子供たちと数分間立ち止まって遊んだと主張している。
四 パーディーは一人で書斎に居た。年をとった料理人と日本人のボーイは家の裏に居て、昼食まで主人の姿を見ては居ない。そこで彼のアリバイは全く裏付けが無いことになる。
五 ドラッカー夫人がその朝どこに居たかは、彼女の言葉を信用するほかはない。九時三十分ドラッカーがアーネッスンを訪ねに行ってから、料理人が昼食をとどけに上って行った午後一時まで、彼女の姿を見た人は誰も居ない。
六 ビードルのアリバイは申し分なく調べが行き届いていた。パーディーが十時三十五分に彼女が出かけるのを見ていた。またジェファスン・マーケットで十一時から十二時までの間に商人たちが何人か彼女を見たことを思い出した。
七 スパーリングが十一時四十分のスカーズデール行き列車に乗ったことは確証された。従って彼は供述通りの時間――つまり十一時十五分にディラード家を辞去したものと思われる。しかし、彼は事実上この事件から除外されたのであるから、この点の確認は単に形だけのことだった。もっともヒースの言葉のように、彼が十一時四十分発の列車に乗っていないことがわかっていたら、彼は再び重要参考人になるところだった。
ヒース巡査部長はより一般的な線に沿《そ》って捜査を進め、関係者たちの経歴や交際関係を調べた。これは困難な仕事ではなかった。みな知名の人たちで、彼等に関する情報はたやすく入手できたのだった。ただ、ロビン殺し事件にほんのかすかでも光を投げかけるような事実は発見できなかった。犯行の動機を匂わせるものも何一つ出て来ない。かくて一週間、熱心な捜査と推理が行なわれたあげく、事件は相変らず一見不可解な謎に包みかくされたままだったのである。スパーリングはまだ釈放されていなかった。彼に不利な |Prima facie《プリマ・ファシー》〔反証がない限り立証に十分な、一応の〕な証拠と彼自身の馬鹿げた自白とのために、当局としてはそのような処置をとるわけに行かなかったのだ。しかし、マーカムはスパーリングの父親が事件処理のために雇った弁護士たちと非公式に協議して、これは想像だが、一種の『紳士協定』のようなものを結んだらしかった。というのは、当時大陪審が開かれていたにかかわらず、当局側は何ら起訴手続き請求への動きを見せなかったし、弁護側も人身保護礼状を請求しなかったからである。すべての事実からして、マーカムもスパーリングの弁護士たちも、真犯人が逮捕されるのを待っているらしいと推定できるのだった。
マーカムは何か些細《ささい》な点から捜査の成果をもたらすようなことでも無いかと、不屈の努力を続けて、ディラード家の家族たちと何度か会見していた。パーディーも地方検事局に出頭を求められ、事件の朝、窓から見たことについて宣誓供述書をとられた。ドラッカー夫人の取り調べも再度行なわれた。だが彼女はその朝窓の外を眺めなかったと強く言い張るのみでなく、悲鳴を上げたという点も笑って取り合わなかった。ドラッカーは再び訊問を受けて前の証言を多少訂正した。彼は悲鳴の聞えて来た場所を間違っていたかも知れず、あるいは道路かアパートの裏窓からでも聞えて来たのだろうと説明した。事実その直後に彼が母親の部屋のドアのところまで行った時、彼女がフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』に出てくる古いドイツの子守歌を口ずさんでいたことからして、彼女が悲鳴を上げたなどとは全くありそうにないことではないか、と彼は言うのだった。マーカムはかくしてドラッカーからも母親からも何一つ得るところが無いのを知って、全力をディラード家そのものの上に注ぐことになった。
アーネッスンはマーカムの部屋で開かれた非公式な協議に何度も出席して、口まめに皮肉な意見を述べていたが、我々同様に五里霧中でいるらしかった。ヴァンスは例の事件を解明するはずの数学的公式のことで彼をおとなしくからかっていたが、アーネッスンは、公式というものは公理の因数が全部手に入らなければ作り出せるものではないと主張していた。どうやら彼はこの事件全体をジュヴェナル風のふざけた話か何かのように思っているらしく、マーカムは幾度か肚《はら》にすえかねていた。彼はヴァンスにアーネッスンを非公式の捜査員にしたことを非難したが、ヴァンスはいつかはアーネッスンが有利な |Point de Depart《ポアン・ド・デパール》〔出発点〕に利用できる一見無関係な情報を提供してくれるだろうとの理由で弁明した。
「彼の犯罪数学理論はむろんくだらないよ」ヴァンスは言った。「心理学ならね、この判じ物を何とか解きほごしてくれるだろうが――理論数学じゃ駄目だ。しかし我々には先へ進む材料が必要だ。そしてアーネッスンは我々が知り得る以上にディラード家の内情を知っているわけだ。ドラッカー家も知っているしパーディーも知っている。それに、いうまでもないが、あれぐらい学問上の名声をほしいままにしている人なら、並はずれて鋭い頭脳の持主なんだからね。まあ、あの人がこの事件に思考力と注意を傾けていてくれるかぎり、何か我々にとってごく重要な事柄を思いついてもらえる機会があるんじゃないか」
「そりゃそうかも知れんがね」マーカムは不平らしく言った。「しかし、あの男の人を馬鹿にした態度が神経にさわるんだ」
「もっと心を大きく持つんだな。あの皮肉は彼の学問上の思索と結び付けて考えるといい。頭をたえず広大な惑星間の広がりの中に突っこんで、何光年も何億光年もの、それこそ超自然なくらいの無限の彼方《かなた》のことばかり考えている男だもの、この世の無限に小さい人生の雑事を鼻であしらったって、ごく当り前な話じゃないか。……なかなかやるよ、アーネッスンは。まあ、気のおけない、つき合いやすい男とはいえないだろうけど、べらぼうに面白い奴だぜ」
ヴァンス自身いつにない真剣さでこの事件に対していた。メナンドロスの翻訳はまるでそっちのけだった。むっつりと怒りっぽくなった。――確かに何かの問題に興味を見出して夢中になっている証拠だった。毎夜食事がすむと書斎にこもって何時間も読書にふけった。――いつも彼が読んで時を過していた古典や美学の本ではなくて、バーナード・ハートの『異常心理学』とか、フロイドの『機知とその無意識に対する関係』、コリアットの『変態心理学』や『抑圧された情緒』、リッポの『コミックとフモール』、ダニエル・A・フューブシュの『殺人コンプレックス』、ジャネーの『強迫観念と恐怖症』、ドナトの『計算狂について』、リクリンの『願望実現とおとぎ話』、レップマンの『強迫観念の裁判上の意義』、クノ・フィッシャーの『機知について』、エリッヒ・ヴルフェンの『犯罪心理学』、ホレンデンの『天才の精神異常』、それにグロースの『人間の遊戯』等々といったものであった。
彼はまた警察の報告書を何時間も読みふけった。二度ばかりディラード家を訪ね、一度はベル・ディラードを連れてドラッカー夫人を訪問した。ある夜はドラッカーとアーネッスンの三人で、ロバチェフスキーの言う偽球体としての物理的空間に関するデ・ジッターの構想について長いこと議論したが、思うにその目的はドラッカーの精神状態を知ることにあるようである。彼はドラッカーの著作『多次元連続体における世界線』を読んだ。またある時はほとんど一日がかりで、パーディー定跡《じょうせき》についてのヤノフスキーとタラッシュの分析を研究した。
日曜日――ロビンの死以来八日目――彼は私に言った。「やれやれ。ヴァン、こいつは何ともかんとも信じられないくらい陰険な事件だよ。当り前な捜査じゃとても歯が立たない。普通の頭で考え出したものじゃない。一見子供っぽいようだが、そこがこの事件の最も恐るべきところ、人を迷わせるところなんだね。といって、この下手人は一撃だけで満足しているような奴じゃない。コック・ロビンの死は究極の目的じゃないんだよ。このいまわしい犯罪を考え出した異常心理的な想像力はこれで満足するというところが無い。その裏にひそむ変態的な心理のメカニズムを白日の下にさらすことが出来るまで、これでもか、これでもかと陰惨な悪戯《いたずら》が続くだろう。……」
その舌の根も乾かない翌日の朝、彼の予言は事実となって現われたのだ。我々は十一時にマーカムの事務所に行った。ヒースの報告を聞いて今後の行動方針を打ち合せるためだ。ロビンが死体となって発見されてから九日たっていたが、事件はまるではかどらず、新聞は日ましに警察と地方検事局をやかましく責め立てはじめていた。そこでこの月曜の朝、我々を迎えたマーカムはかなり憂鬱顔だった。ヒースはまだ来ていなかったが、数分後にやって来たのを見ると、彼もまた元気がなかった。「どっちを見ても煉瓦塀にぶつかってしまいましたなあ」部下の活動の結果をざっと報告し終えた彼は嘆くのだった。「まるっきり動機らしいものも無いし、スパーリングのほかに、どう形勢を見わたしても、当てに出来そうなものは何もありゃしません。いっそのこと、誰か強盗か何かがあの朝弓術室にぶらぶら入りこんで引っかきまわしたんだ、とでも思いたいところでさあ」
「強盗なんて連中は、ヒースさん」ヴァンスがさからった。「全然想像力が無くて、ユーモアのセンスも持っちゃいないんだからね。ところがロビンを長い長い旅路に送ってくれた奴は想像力もユーモアもちゃんと持っている。ロビンを殺すだけじゃ満足しないで、その行為を気違いじみたお笑い草に変えている。そうしておいて、今度は人々が要点を見そこなうといけないというわけで、新聞社に説明文を送った。――どうだい、これでも流しの暴漢の仕業《しわざ》だと思うかい」
ヒースはみじめな顔付で黙ってしばらく煙草をふかしていた。やがて、憤慨も通りこしてしまったと言いたげな眼をマーカムに向けて愚痴をこぼした。
「どうもこのごろこの町で起る事件はまるで無意味なやつばかりですなあ。今朝もスプリッグという男がリヴァサイド・ドライヴの八十四番街に近いところで射たれたんですがねえ。金はポケットにあるし――何も盗られてやしない。射たれただけ。若い奴でね――コロンビアの学生ですよ。両親の家から通ってて、敵もない。学校へ行く前にいつもの散歩に行ったってんですがね。半時間後に煉瓦工が、死んでるのを発見したんですよ」巡査部長は憎々しげに葉巻を噛んだ。「こんどはそっちの殺人の心配もしなきゃなりません。早いとこ解決しなきゃ、また新聞から散々叩かれるでしょう。ところが手掛りは何も無しでさ――完全に何もありゃしません」
「でもね、ヒースさん」ヴァンスは慰さめた。「射殺事件なんてざらにあるよ。その手の犯罪なら平凡な理由がたんと見付かるさ。ロビン殺しで我々の推理法を何もかも狂わせているのは、あの芝居がかった派手なアクセサリーなんだからね。あの子守唄のことさえ無かったら――」不意にヴァンスは言葉を切り、ちょっと目を伏せた。かがみ込んで、ひどく慎重に煙草の火を押しつぶした。「ヒースさん、今その男の名前はスプリッグだと言った?」
ヒースは憂《うれ》い顔にうなずいた。
「それからもう一つ」ヴァンスの言葉つきは、おさえようとしても熱がこもって来るようだった。「ファースト・ネームは何て言うの」
ヒースは不審げに驚ろいてヴァンスを見たが、すぐに使い古した手帖をとり出してぱらぱらとめくった。「ジョン・スプリッグですな。ジョン・E・スプリッグ」
ヴァンスは煙草をもう一本出して、ゆっくりと念入りに火をつけた。「もう一つねえ、射ったのは三十二口径だった?」
「へえ?」ヒースの目はまん丸になり、ポカンと顎が突き出た。「ええ、三十二ですが。……」
「それで頭の上の方を射ち抜かれたの?」
ヒースはとび上った。そして滑稽《こっけい》なほど混乱した様子でヴァンスをまじまじと見つめた。ゆっくりと彼は頭を上下した。「そのとおりです。――でも一体なぜそんな――」
ヴァンスは手を上げてヒースを制した。だがこの質問をさえぎったのは、そのしぐさよりも、むしろ顔の表情だった。「やれやれ、何とまあ」彼は呆然《ぼうぜん》と気が遠くなった人みたいな立ち上り方をして、じっと動かぬ視線を前方に向けた。彼をよく知っていなかったら、私は彼がおびえていると思いこんだに違いない。やがて彼はマーカムの机の向うの高い窓のところに行って、刑務所の灰色の石塀を見下した。「こりゃ、わからないぞ」彼はつぶやいた。「何とも不気味だなあ。……いや当然そうなるんだな。……」
マーカムがじれったそうな声を出した。
「何をぶつぶつ言ってるんだ、ヴァンス。そんなに勿体《もったい》ぶるのは止してくれ。スプリッグが頭のてっぺんを三十二口径で射ち抜かれたのがどうしてわかったんだい。要するにどういうことなんだ」
ヴァンスは振り返ってマーカムの眼を見た。「わからないかい」彼は静かに言った。「こんどの悪魔的なもじり芝居の第二幕なんだよ。……例の『マザー・グース』を忘れたのかい」
押し殺した声で、この薄汚なく古ぼけた事務所に言いようのない恐怖感をみなぎらせながら、彼は暗誦した。
小さな男が一人いた。
小さな鉄砲持っていた。
弾は鉛、鉛、鉛で出来ていた。
彼が射ったのはジョニー・スプリッグ、
かつらのまん中射ち抜いて、
そして頭、頭、頭のてっぺん消し飛んだ。
第九章 テンソルの公式
――四月十一日、月曜日、午前十一時三十分
マーカムは催眠術にでもかかったようにヴァンスを見つめていた。ヒースは半《なか》ば口を開けて短かくなった葉巻をくわえたまま、凝然《ぎょうぜん》と立ちつくしていた。ヒースの態度にほとんど滑稽なものを感じたし、私はすぐに吹き出してしまうたちだった。しかし一瞬まるで私の血は凍ってしまって、体のどの筋肉も動かしようが無かった。最初に口を開いたのはマーカムだった。ぐっと頭をそらして、激しく手を机に叩きつけた。
「こんどはどんな気違い沙汰だと言うんだ」彼はヴァンスが持ち出した意外きわまる話に精一杯|逆《さか》らっていた。「君もロビン殺しでとうとう頭に来たんじゃないかと思いたくなるじゃないか。スプリッグなんてありふれた名前の男が殺されたからって、君がわざわざグロテスクな呪文を持ち出すことはないんだ」
「でもねえ、マーカム、君も認めてくれよ」ヴァンスはおだやかに応じた。「今度のジョニー・スプリッグ君だけは、言うなれば『小さな鉄砲』で『かつらのまん中』を射たれたんだからね」
「それがどうしたってんだい」マーカムの顔が鈍く紅潮した。「だからって、なにも君がマザー・グースの歌か何かを勿体《もったい》つけてさえずらなくたっていいじゃないか」
「おいおい、僕はそんな口のきき方はしないだろう、いいかい」ヴァンスはいつか地方検事と向い合った椅子に腰をおろしていた。「そりゃ、僕は役者や弁士みたいに感動的な喋り方はできないか知れない。でもさ、僕はそんな口はきかないよ」彼はご機嫌をとるようにニヤリとヒースに微笑《ほほえ》みかけた。「そうだろう、ヒースさん」
ところが、ヒースは意見を持ち合せていなかった。彼はまださっきの呆気《あっけ》にとられた姿勢のままだった。もっとも、目玉のほうは例の大きな、喧嘩早そうな顔のまん中で、細まって単なる小さな割れ目になってしまっていた。
「君は本気で持ち出そうってのか――」マーカムが言い始めたが、それをヴァンスはさえぎった。
「そうっ。僕はロビンを弓矢で殺した人間が、その不気味なユーモアの吐け口を不運なスプリッグの上に求めたんだと、本気で言っているんだ。もはや偶然の一致なんて話にならないよ。これだけ類似点が並んだら、犯人は正気も常識もある人間だなんて考えは根底から吹っ飛んでしまう。そりゃ、たしかに世の中は狂ってる。しかしこんな狂い方は、学問だの合理的な思考だのを蹴散《けち》らしてしまうだろう。スプリッグ殺しはいまわしいところはあるがね。しかし我々はそいつと正面から対決しなくちゃ。いくら君がその信じ難い裏の意味を、無理矢理に否定しようとしたって、結局はそのまま肯定せざるを得なくなるんだよ」
マーカムは立ち上って、いらいらと部屋の中を往復していた。「今度の犯罪に不可解な要素があることは認めよう」喧嘩腰のところは無くなり、口調もやわらいでいた。「だけども、もし我々が、仮りにだよ、誰か気違いが町に放たれていて、幼年時代の歌を再現しているんだと認めるにしてもだなあ、それだけじゃどう我々の役に立つのかわからんと思うなあ。そうなると型どおりの捜査方法は事実上行き詰りじゃないか」
「僕ならそうは言わないよ、マーカム」ヴァンスは冥想にふける様子で煙草をふかしていた。「僕はむしろ、そういう仮定に立つと捜査の決定的な基礎が出来上るんじゃないかと思うがね」
「そうですよ」ヒースが突っけんどんに下手な皮肉を言った。「私たちゃ外へ出て行って六百万市民の中から南京虫を一匹つかまえて来さえすりゃいいんだ。ナンでもありゃしない」
「ヒースさん、邪魔者の毒ガスに当てられちゃ駄目だよ。この捕えどころのない冗談屋は昆虫学でもむしろ特殊な標本に属するらしいからね。それにね、僕らはそいつの正確な所在についちゃ、確かな手がかりを既に掴んでいるんだから。……」
マーカムが振り向いた。「そりゃなんのことだ」
「なあに、この第二の犯行が心理学的のみならず地理的にも第一の犯行とつながっているという意味さ。この二つの殺人はお互いにほんの数区画しか離れていないところで行なわれた。――つまりこの破壊的な悪魔はディラード邸のある近所がお気に召したんだな。だいいち、この二つの殺人の持っている要素そのものからして、犯人がその奇怪なユーモアを発揮するためにわざわざ不慣れな遠方までやって来たという可能性は除外されてしまう。僕が物知り顔をして指摘したとおり、ロビンをあの世に送ったのは、あの惨状眼をおおわしめるドラマが演じられた丁度あの時間に、ディラード邸がどんな状況になっているかを何もかも知っていた何者かなんだよ。それに、スプリッグが今朝散歩に行きたくなるのを興行元が知っていなければ、第二の犯行がこんなにうまい具合に上演されたはずが無いってことは、ハッキリしてるからね。いや実際、この二つの狂言のからくりを見ていると、どうしたってそのからくりを動かした人物は被害者の身辺の事情をよく知っていたと考えざるを得ないよ」
しばらく皆は押し黙っていた。やがてヒースがそれを破って、「もしおっしゃるとおりだとすると、ヴァンスさん、スパーリングは釈放ですなあ」と言ったが、こんなふうに『もし』を付けても、素直には認めたくない様子だった。しかしヴァンスの議論が少なくとも彼の上に効力を及ぼしたことだけは証明されたわけだった。彼は破れかぶれに地方検事をふり返った。「検事さん、どうやったらいいとお思いですか」
マーカムはまだヴァンスの説を受け容れることに悶々《もんもん》と逆らっていた。彼は返事しなかった。だが、やがて、デスクの前に再び腰を下して、指先で吸取紙を叩きはじめた。それから下を向いたままヒースに訊いた。「スプリッグ事件の担当は誰だった」
「ピッツ主任です。最初、六十八番街署の連中がつかんだんですが、本庁に連絡が来たらピッツと部下が二、三人調べに行きました。ピッツは私がここへ来るちょっと前に戻りました。駄目だとか言って。しかしモーラン警部が続けてやるように言ってました」
マーカムは机のはしの下のブザーを押した。すると青年秘書スワッカーが地方検事室と待合室の間にはさまれた事務室に通じる自在《スイング》ドアのところに現われた。
「モーラン警部を電話に出してくれ」
電話がつながると、マーカムは電話器ごと引き寄せて数分間話した。やがて受話器を置いて、彼はヒースにものうげな微笑を送った。
「ヒース君、これから君に正式にスプリッグ事件を担当してもらうよ。もうじきピッツ主任が来るから、そうすりゃ大体の事情がわかるだろう」
彼は机の上の書類の山に目を通しはじめた。そして、半ば知らん顔でつけ加えた。「どうも、こうなって来ると、スプリッグとロビンは同じ袋にとじこめられた仲だと考えざるを得ないねえ」
十分ばかりしてピッツが来た。ずんぐりむっくりだが、顔は肉が無くてきつい感じで、口もとには歯ブラシみたいな髭を生やしていた。あとで知ったことだが、彼は捜査局きっての腕利き刑事の一人だそうで、知能犯が専門だった。マーカムと握手をかわし、ヒースには横眼だけで仲間同士の挨拶をした。ヴァンスと私に紹介されると、うさん臭そうな眼でこっちを見て、不承不承に頭を下げた。しかし、目をそらそうとした時、不意に表情が変った。「ファイロ・ヴァンスさんですか」
「いやあ。そうらしいですよ、主任さん」ヴァンスはため息まじりに言った。
ピッツはニヤリとして手をさしのべながら進み出た。「これは、はじめまして。お噂はヒース君からたびたびうかがっております」
「ピッツ君、ヴァンスさんには非公式にロビン事件を手伝って頂いてるんだ」マーカムが説明して聞かせた。「それで、今度のスプリッグという男も同じ近くの場所で殺されたわけだから、君からひとつ事件の予備的な報告を聞かしてもらおうと思ってね」彼は葉巻のコロナ・ペルフェクトスの箱をとり出して、ピッツの方に押しやった。
「これはどうも、ご丁寧なお言葉で恐縮です」主任は悦に入って葉巻を一本えらび取り、一種の官能的満足を見せてそれを鼻のところに持って行った。「警部から、検事さんが今度の事件のことでお考えがあってお引き受けになるとうかがいました。実のところ、私の方は免除になって喜んでおります」彼は椅子にくつろいで葉巻に火をつけた。「どういう点をお話しいたしましょうか」
「何もかも話してくれないか」
ピッツは体を楽に坐り直した。「まあ、私がちょうど事件の連絡があった時――今朝の八時ちょっと過ぎでしたが――手近に居たもんですから、部下を二人ばかり連れて急行したわけです。分署の警官が仕事にかかってまして、検死医も補佐が一人私と一緒にやって来ました。……」
「その報告は聞きましたか、主任さん」ヴァンスが訊いた。
「聞きましたよ。スプリッグは頭頂部を三十二口径で射抜かれてました。格闘の形跡なし――擦《かす》り傷も何もなしです。趣向の変った点はありません。ただの射殺事件ですな」
「発見のとき仰向けに倒れてましたか」
「そのとおりです。歩道のまん中に、几帳面《きちょうめん》に行儀よくひっくり返ってました」
「それから、倒れて頭蓋骨のアスファルトに当ったあたりが割れていませんでしたか」ヴァンスは何気ない訊き方をした。
ピッツはくわえていた葉巻を手に取って、人の悪い顔を作ってヴァンスを見た。「何だかあんた方はこの事件のことをいろいろご存知のようですな」そして、物知り顔にうなずいて、「そう。奴さんの後頭部が、ぶち当って凹《へこ》んでましたよ。まともにぶっ倒れたんですな。でも自分じゃ痛かなかったでしょう――脳味噌に一発入ってちゃね」
「その一発のことだけど、主任さん、何か変に思われる点はなかったですか」
「そう……まあね」ピッツは考え込む様子で葉巻を親指と人差指の間でころがしながら言った。「普通だと射創《しゃそう》ってものは頭のてっぺんになんかあいてるものじゃないですからね。おまけに帽子は無傷なんですよ。――射たれる前に脱《ぬ》げて落ちたんでしょうねえ。まあ、こんなところが変だってことになりますか、ヴァンスさん」
「そうね、ひどく変ですねえ。……それからピストルは至近距離から発射されたんでしょうねえ」
「何インチと離れてなかったでしょう。穴のぐるりの髪が焦《こ》げてました」大したことはない、とでも言いたげに、彼は無遠慮な身振りをした。「まあ何ですな、奴さんは相手がピストルを抜くのを見て、急いで屈み込んだんでしょう。その拍子《ひょうし》に帽子が脱げたんですな。頭のてっぺんを至近距離から射たれたってことも、これで説明がつくでしょう」
「なあるほどね。ただ、その場合だと仰向けに倒れないで、前につんのめりゃしないかなあ。……まあ、まあ先を続けて下さい」
ピッツはずるっこくヴァンスに目顔で応じて先を続けた。「まず私は奴さんのポケットを調べてみました。立派な金時計を身につけてましたし、金も札と銀貨で十五ドルばかり持ってました。だから物盗りじゃないと思ったですな――射った奴が慌《あわ》てて逃げちまったのなら別ですが。しかし、そうじゃなさそうでしたよ。てのは、朝のうちは公園のあの辺は人気《ひとけ》がありませんからね。それと、あの辺は歩道が石垣の影になって、ほかから見えないんですよ。あの仕事をやった男は、たしかにうってつけの場所を選んだもんですよ。……ともかく、搬送車が引き取りに来るまで部下を残しといて、私は九十三番街のスプリッグの家に行って来ました、――名前と住所はポケットに入ってた手紙でわかったわけです。行ってみたら、奴さんはコロンビア大学の学生で、両親の家に住んでて、朝飯の後に散歩する習慣があったってことが判りました。今朝は七時半に家を出たそうですが……」
「ああ、毎朝公園を散歩する習慣だったんですね」ヴァンスが小声で言った。「面白いな」
「そうとしたって、何の手掛りにもなりゃしません」ピッツはやり返した。「健康のために毎朝散歩する奴はいくらだって居ますよ。それにスプリッグは今朝いつもと違った点は何も無かったってんですから。心配事も何も無かったって、家族は言ってますよ。至極元気に行って参りますを言ったそうですぜ。――それから私は大学に行って聞き込みをやって来ました。奴さんの友達の学生二、三人と、先生にも一人会って来ました。スプリッグはおとなしい方の学生だったそうです。友達もあまり作らないで、一人で居るのが好きなほうだったようです。クソ真面目で――いつもガリガリ勉強ばかりしてたそうで、クラスでも上位で、女の子と遊んでるところを見た者はおらんようです。女が嫌いなんですかね。いわゆる社交型じゃなかったんですな。いろんな報告からして、まるで騒ぎなんか引き起しそうにない男だったんです。だから私も射ち殺された原因を特に考えつかなかったんですがね。きっと何かの事故でしょう。誰か他の人間と間違われたのかも知れませんね」
「それで、発見された時刻は」
「七時四十五分ごろです。新しい七十九番街のドックに勤めてる煉瓦工が土堤をこえて鉄道線路の方へ行こうとして、見つけたんです。それをリヴァサイド・ドライヴで郵便屋に知らせて、郵便屋が警察に電話かけたんです」
「スプリッグが九十三番街の家を出たのは七時半でしたねえ」ヴァンスは天井を仰いで考え込んでいた。「従って家を出てから公園のその地点に行きついて殺されるのに丁度一杯一杯の時間しかなかったということになりますな。どうも彼の習慣を知っていた人間が待ち伏せしていたみたいだな。何とも見事な早業だな、ねえ。……どうだい、これじゃ偶然とは言いにくいんじゃないか、マーカム」
ひやかしを聞き流して、マーカムはピッツに言った。「何も糸口になりそうなものは無かったのか」
「はあ。部下がその辺をかなり徹底的に洗ったんですが、何も出て来ませんでした」
「スプリッグのポケットの中とか――手紙の間とかもか……」
「はあ、何も。遺留品《いりゅうひん》は全部局の方に持って来てあります――普通の手紙が二通ばかりと、ありきたりの屑や何か……」ここまで言うと、急に何か思い出した様子で、耳の折れた手帖を取り出して、「こいつがありました」と、気が無さそうに、三角形に千切れた紙片をマーカムに渡した。「奴さんの死体の下にあったんです。何でもない物ですがね。ポケットに入れといたんですよ。――習慣ですね」
紙は長さ四インチ以下で、普通の卦《けい》なし便箋《びんせん》の隅っこの切れはしらしかった。タイプで数学の公式の一部分が打ってあり、ギリシア語のラムダと、イクォールと無限大記号とが鉛筆で書き込んであった。一見無関係のようでありながら、実はスプリッグ殺しの捜査に邪悪かつ驚くべき役割を演ずることとなった品物であった。ヴァンスはほんの無造作な一べつを与えたにすぎなかったが、マーカムは手にとって眉根にしわを寄せてしばらく眺めていた。何か言おうとして、ふとヴァンスの視線をとらえた。と思うと、口をつぐんでちょっと肩をすくめ、机の上にぞんざいにほうり出した。
「これで全部か、見つかり物は」
「はあ、それだけです」
マーカムは立ち上った。「いやあ、どうも有難う、ピッツ君。このスプリッグ事件のほうはどんな解決ができるか何とも言えないがね、とにかく我々で調べてみるから」そしてペルフェクトスの箱を指さして、「二、三本ポケットに入れて行きたまえ」
「恐縮です」彼は葉巻をとって、そっとチョッキのポケットにしまいこむと、一同の一人一人と握手をかわして出て行った。彼が居なくなると、ヴァンスが敏活《びんかつ》に立ち上り、マーカムの机の上の紙片の上にかがみこんだ。
「おや」彼は片めがねを取り出して、しばらく記号の羅列《られつ》を調べていた。「面白いねえ。これ、最近どこで見たんだったかなあ……。ああ、リーマン=クリストフェルのテンソルだ――そうそう。ドラッカーが著書の中で球面無曲率空間のガウス曲率を決定するのに使っていた。……だけどスプリッグはこれをどうするつもりだったのかな。この公式は大学の教科より大分程度が高いんだがな。……」彼は紙片を光にかざした。「こりゃ、例のビショップの手紙と同種の紙だね。それからタイプの字体も同じだってことも、たぶんお気付きだろうね」
ヒースは進み出て来ていたが、紙片をしげしげと眺めて、「同じですなあ、ほんとに」こうなると彼は途方に暮れてしまったらしかった。「とにかく、これで二つの事件はつながるわけだ」
ヴァンスの目に当惑の色がうかんだ。
「つながる――まあね。だけど、スプリッグの死体の下にあったってことがどうも、殺人自体もそうだけど、理窟に合わないと思うんだがなあ。……」
マーカムは不安げに身動きした。「ドラッカーが本の中でその公式を使ってるって言うんだね」
「そう。でもこれで必ずしも彼が直接関係があるってことにはならないね。このテンソルは高等数学をやる人なら誰だって知っている。非ユークリッド幾何学で使ってる専門的表現の一つなんだ。これはリーマンが物理学上の具体的問題と関連して発見したのだが〔この表現は実際はクリストフェルが展開して熱の伝導の問題に使い、一八六九年に『純正および応用数学のクレレ雑誌』の中で公表したものである〕、今じゃ相対性原理の数学では広く重要視されているものなんだ。高度に科学的な抽象的な意味のもので、スプリッグ殺しとは直接には何の関係もあるはずがないね」彼は再び腰を下した。「アーネッスンはこの掘り出し物で大喜びだろう。こいつからとんでもない結論を引っ張り出すかも知れないぜ」
「こんどの事件はアーネッスンに知らせることはないだろう」マーカムが異議を唱えた。「こいつは出来るだけ伏せておいた方がいいと思うがねえ」
「ビショップがそうはさせておくまい」ヴァンスは応じた。マーカムは顎を固くした。
「何てこったい。とんでもない事件にぶつかったもんじゃないか。早く目が覚めて、みんな悪夢にうなされていたってことになるといいがねえ」
「そうは行かんでしょう」ヒースがうなるように言った。そして、それから一騎打ちでも始めるように決然と一息吸いこんだ。「さあて、目は何と出てますか。行く先はどっちです。動きますぞ」
マーカムはヴァンスに訴えた。「君、この事件について何か見当がついているらしいな。どうだい、君の意見は。正直のところ僕はまるで暗中模索のかたちなんだ」
ヴァンスは煙草を胸一杯吸いこんだ。それから、言葉を強調しようとでもいうように前かがみになった。「なあ、マーカム、結論を引き出すならたった一つしかないよ。この二つの殺人は同じ頭脳が企《たく》らんだものだよ。どっちも同じ異形《いぎょう》の衝動の産物だ。最初の犯行はディラード邸の内情に精通している何者かによってなされたのだとすれば、我々は従って、その知識に加えて、ジョン・スプリッグが毎朝リヴァサイド公園のある場所を散歩する習慣があるという明確な情報を掴んでいた人物を探さなくちゃならないことになる。そういう人物を探し出したら、次は時間、場所、機会、考え得べき動機などの諸点をチェックするわけだ。スプリッグとディラード家との間には何らかの相互関係がある。それが何であるか、僕は知らない。しかし、とにかくまず探し出すことだ。最上の出発点はディラード家そのものだ」
「まず昼食にしようよ」マーカムはぐったりなっていた。「かけ出すのはそれからにしよう」
第十章 協力を拒絶
――四月十一日、月曜日、午後二時
二時ちょっと過ぎ、我々はディラード家に着いた。パインが出て来た。もし我々の訪問で彼が少しでも驚いたのなら、彼は見事にそれをかくしおおせたわけだった。もっとも、ヒースを見るまなざしの中に、私は一種の不安を感じとった。だが口を開いてみると、その声はあの訓練の行き届いた召使いの単調な、表向きだけは滑《なめ》らかないつもの声だった。
「アーネッスン様はまだ大学から帰って見えておりません」
「読心術はどうやら君の得手じゃないようだね、パイン」ヴァンスが言った。「今日は君とディラード教授に用があって来たんだよ」パインは落着かない様子だった。しかし彼が返事する前に、ディラード嬢が客間の戸口に姿を現わした。
「やっぱりヴァンスさんのお声でしたのね」彼女は物欲しげな歓迎の微笑をうかべて我々を見まわした。「どうぞお入りになって。……メー夫人がさっきから見えてますの、――これから一緒にドライブにまいりますのよ」客間に案内しながら彼女は説明した。
ドラッカー夫人はセンター・テーブルの傍に立って、今立ち上ったところらしい椅子の背に骨張った手をついていた。目ばたきもせずに我々を見つめる彼女の眼に恐怖の色がうかび、痩せたその顔はほとんど引きゆがんでいると言ってよかった。何も言おうとせず、ただ凝然《ぎょうぜん》と、恐ろしいことばを待ち受けるかのように、刑の宣告を受けようと被告席に立った有罪囚のような姿で立ちつくしていた。ベル・ディラードの愉《たの》しげな声が、引きしまった空気を和《やわ》らげた。「ちょっと二階へ上って、伯父に皆さんがいらしたことを知らせて来ますわ」
彼女が部屋を出るとすぐに、ドラッカー夫人がテーブルの上に身をのり出して、陰鬱な、恐怖にうちひしがれた囁き声でマーカムに言った。「何故いらしたか知っていますよ。今朝公園で射殺されたあの立派な青年のことでしょう」思っても見なかった驚くべき彼女の言葉に、マーカムはすぐには返答できなかった。答えたのはヴァンスだった。
「じゃ、事件のことはお聞きになったんですね、ドラッカーさん。どうしてこんなに早くお知りになりましたか」
夫人の顔に用心深い表情がうかんで、邪悪な老魔女のような顔になった。
「ご近所はみんなその話をなすってますよ」彼女はあいまいな返事をした。
「そうですか。そりゃ弱りましたね。でも奥さんはどうして私らがその事で調べに来たとお考えでしたか」
「あの青年の名前はジョニー・スプリッグだったじゃございませんの」かすかな、物凄い微笑がうかんだ。
「そうですね。ジョン・E・スプリッグです。でもね、それだけじゃディラード家と関係があるとは言えませんね」
「あら、ございますのよ」彼女は一種言いようのない恐ろしい満足の面持ちで首を上下に動かすのだった。「遊戯ですよ――子供の遊戯ですよ。まずコック・ロビン……次にジョニー・スプリッグ。子供って遊戯が要りますのね――丈夫な子供はみんな遊びまわらなくちゃ」ふと彼女は調子を変えた。やさしげに顔が輝き、両の眼が悲しくうるんだ。
「それにしても悪魔的な遊戯じゃありませんか、ねえ、ドラッカーさん」
「おやまあ。人生そのものが悪魔的じゃございませんの」
「そうですな――人にもよりますが」珍らしい同情のひびきが、この眼前の一風変った非劇的な人物を見つめるヴァンスの言葉を満していた。「ところで、奥さん」彼は急いで調子を変えて言った。「ビショップというのは誰でしょうか、ご存知ありませんか」
「ビショップ?」彼女は当惑げに眉をひそめた。「さあ、存じません。それも子供の遊戯ですの」
「そんなものだろうと思います。とにかくビショップがコック・ロビンとジョニー・スプリッグに関係があるんです。というより、この奇々怪々な遊戯をこしらえ上げている当の人物かも知れないんです。そこで私共はその人物を探しているわけなんですよ。彼から事件の真相を聞き出せたらと思いましてね」
夫人はぼんやりと首を振った。「存じませんね」それから彼女は執念のこもった目でマーカムをにらみつけた。「でも、あなた方は、コック・ロビンを殺してジョニー・スプリッグのかつらのまん中を射ち抜いた男を、いくら探し出そうとなさっても、何にもなりはしませんよ。何もわかりっこありません――何も――なんにも……」声は昂奮して高まっていた。そして発作的に全身が震《ふる》えおののいた。
この時ベル・ディラードが再び部屋に入って来て、急いでドラッカー夫人のところに行って抱きかかえた。「さあ」彼女はなだめるように言った。「田舎《いなか》をずうっとドライブしましょうね、メー奥さま」そしてマーカムに非難の目を向けて、冷たく、「伯父は皆さんに書斎においで頂きたいそうです」と言い置いて、彼女はドラッカー夫人を連れて部屋を出ると、広間を歩いて行った。
「何とも妙な女ですな」さっきから、呆気《あっけ》にとられて突っ立っていたヒースが言った。「あの女は最初から例のジョニー・スプリッグのことを知ってたんですなあ」
ヴァンスはうなずいた。
「だから僕たちが現われた時にギョッとしたんだね。でもやっぱりね、あの人は病的で敏感すぎるよ。おまけに、いつも息子の不具のことや、他の子たちと同じだった赤ん坊時代のことばっかり考えているから、ロビンとスプリッグの死にマザー・グース歌謡《かよう》の意味を偶然思いうかべたのも十分うなずける、ということになるのかな。……不思議だな」彼はマーカムを見やった。「この事件の底には妙な底流があるよ――信じ難い、恐るべき裏の意味があるよ。まるで妖怪変化みたいな奴ばかりが住んでいるイプセンの『ペール・ギュント』のドヴレ・トロールの洞窟に迷いこんだようなものさ」彼はちょいと肩をすくめた。しかし私にはドラッカー夫人の言葉が我々の上に投げかけた恐怖の衣をヴァンスが脱しきっていないのを知っていた。「まあ、ディラード教授に会ったら、少しはしっかりした土台が見つかるだろうさ」
教授はまるで熱のない、ずい分そっけない態度で我々を迎えた。デスクには書類が一面に散らかって、どうやら我々は教授の仕事の最中を邪魔したらしかった。
「何だい、マーカム、出しぬけにやって来て」一同が腰を落ち着けると教授は訊いた。「ロビンが死んだことで何か報告でもあるのかい」彼はウェールの『空間と時間と物質』のページにしるしをつけて、しぶしぶと椅子によりかかってもどかしげに我々を見た。「いま、マッハの力学のある問題のことで非常に忙しいんだがねえ……」
「残念ながら」マーカムが言った。「ロビンの件では何もご報告申し上げることは無いんです。しかし今日このご近所でまた殺人事件がございまして、それがあるいはロビン事件と関係があると考えられる節がございますので。それで、特に先生におうかがいしたいと思いましたのは、ジョン・E・スプリッグという名前をご存知かどうかということでして」
教授の迷惑顔が急に変化した。「それが殺された男の名前だというのかい」もはや教授の態度には無関心は感じられなかった。
「はあ。今朝七時半ちょっと過ぎに、ジョン・E・スプリッグという男が、リヴァサイド公園の八十四番街あたりのところで射殺されたんです」
教授の目はマントルピースのあたりへさまよっていた。しばらく彼は黙っていた。何か気になることを胸中で考えめぐらしているらしかった。
「うん」やっと彼は言った。「わたしは――わたし達は――その名前の人間を知っている――もっともとうてい同じ男とは思えんが」
「どういう人ですか」マーカムの声にはひどく熱がこもっていた。
教授はまたためらった。「わたしの頭にある男はアーネッスンの学生で数学の優等生だ――ケンブリッジ流に言うとシーニア・ラングラー〔数学の学位試験での一級優等者中の首席〕だよ」
「それをどうしてご存知ですか」
「アーネッスンが何度かうちに連れて来たもんだからね。会って話をしてやってくれと言うんだ。アーネッスンはずい分その学生を自慢にしてね。わたしも、たしかにまれな才能のある奴だと思った」
「そうしますと、ご家族の方はみな彼をご存知だったわけですね」
「そう。ベルも会ったろう。『家族』にパインやビードルもふくめるのなら、まあ、あの連中もよく知っとるだろう」
ヴァンスが次の質問をした。「ディラード先生、ドラッカーさんのお宅ではスプリッグをご存知でしたか」
「知っとったろうね。アーネッスンとドラッカーはしょっちゅう会うからね。……そう言われてみると、たしか、いつかの夜スプリッグが来た時にドラッカーも居たようだったな」
「それからパーディーさんは、やはりスプリッグをご存知でしょうか」
「さあ、その点は知らんね」教授は歯痒《はがゆ》そうに椅子の腕を叩いて、マーカムに視線を戻した。「おい、君」――いらいらと不機嫌になった声だった――「何のかのと、要するに何を訊くつもりだ。わたし達がスプリッグという学生を知っとることが、今朝の事件と何の関係があるんだ。まさか、殺された奴がアーネッスンの学生だと言うつもりじゃなかろうね」
「どうもそうらしいんですが」マーカムが言った。
教授が次に口を開いた時、その声にはいかにも心配そうな――恐怖に近いものだったと思うが――調子があった。
「そうだったとして、それがわたしの家と何の関係があるのかね。君らは一体なぜその男とロビンの死を結び付けられたのかね」
「たしかに、明確な根拠《こんきょ》があって申し上げるのではございませんが」マーカムが答えた。「しかしどちらの犯罪にも目的がございません――どちらにもまるで動機らしいものがございませんので、その点が妙に一致した様相を与えておりまして」
「そりゃ、つまり、君らがまだ動機を発見しとらんという意味だろうが。しかし明確な動機のない犯罪を何でもかでも結び付けるとなると――」
「ほかにもこの二つの事件には時間とか場所が近いとかいう要素がございまして」マーカムが言い足した。
「それが君の仮説の根拠かね」教授は同情と侮蔑の入りまじった態度で言った。「マーカム、君は数学は出来のいい方じゃなかったが、少なくともそんないい加減な前提の上に仮説を立てることが出来んぐらい、わかってくれなきゃ駄目だね」
「どちらの名前も」ヴァンスが割って入った。「――つまりコック・ロビンとジョニー・スプリッグですが――有名な子守唄に出てまいりますね」
老人は驚きをむき出しにしてヴァンスを見詰めていたが、だんだんと怒りに顔が紅潮して来た。
「あんたのユーモアは不穏当《ふおんとう》ですぞ」
「しかし、私のユーモアじゃないんですよ」ヴァンスは物悲しく答えた。「ビショップの冗談なんですよ」
「ビショップ?」ディラード教授は癇癪《かんしゃく》をおさえようと懸命だった。「おい、マーカム。ふざけるのもいい加減にしてくれ。この部屋で怪しげなビショップという言葉を聞くのはこれで二度目だ。その意味を聞きたいものだね。酔狂《すいきょう》な奴がロビンの事件のことで新聞に気違いじみた投書をしたにしたって、そのビショップがスプリッグとどんな関係があるのかね」
「スプリッグの死体の下から紙きれが見つかりまして、それにビショップの手紙と同じタイプで数学の公式が打ってあったんです」
「何だと」教授はのり出して来た。「同じタイプライターだと。そして、数学の公式だと。……どんな公式だ」
マーカムは手帖を開いてピッツに渡された三角の紙片をとり出した。「リーマン=クリストフェルのテンソルか……」ディラード教授はしばらくの間その紙片を見つめてじっと坐っていたが、やがてそれをマーカムに返した。彼は急に幾つも年をとったようだった。そして我々を見上げた教授の両の眼には疲れ切った様子が見えた。
「こりゃあ一体何のことだか、まるで判らんわい」望みを失って諦《あきら》めてしまったような口調だった。「だがまあ、君の今の方向をたどって行くのが正しいのかも知れん。――何かわたしにしてもらいたいのかね」
マーカムは教授の態度が変ってしまったので、明らかにまごついていた。「差し当ってスプリッグとこちらのお宅との間に何か関係があるかどうかを確かめたいと存じまして。もっとも、正直のところ、その関係がわかってみますと、今度はそれが事件全体とどうつながるのかが判りません。――ところで、お差支《さしつか》えなければパインとビードルを適当な方法でいろいろと訊問させて頂きたいと存じますが」
「いいように訊《き》いてくれたまえ、マーカム君。わたしが君らの邪魔をしたとか言って責められるようなことは、決してしないつもりだからね」彼は訴えるような眼差《まなざ》しを上げた。「しかし、何か思い切った手を打つときは、前もってわたしにひと言知らせてくれんだろうかね」
「その点はお約束いたします」マーカムは立ち上った。「しかしどうも、今のところなかなか思いきった手を打つところまでは行けそうにありません」そう言いながら彼は手を差し出したが、その態度を見ていると、老教授がひそかに大分心配しているのを感じとって、あからさまに口には出さないで心中の同情を表わそうと思っているらしいのが、よくわかった。
教授は我々を送って戸口まで歩いて来た。「あのタイプしたテンソルが、どうもわからんのだが」首を振りながら彼は呟いた。「もし、わたしで役に立つことがあったら……」
「ご協力して頂けることが、たしかに一つあるんですよ、ディラード先生」ヴァンスが、戸口で立ち止まって言った。「ロビンが死んだ日に、私共はドラッカー夫人にお目にかかりましてね――」
「ほう」
「それで、夫人は午前中窓際には坐らなかったと言っておいでですが、十一時から十二時の間に弓術場で何か起ったのを目撃なさったかも知れないんですよ」
「あの人がそういう口ぶりだったのかね」教授の質問には湧き起る興味をおさえているような感じがあった。
「ごく漠然《ばくぜん》とですけれども。ドラッカーがお母さんの悲鳴を聞いたと陳述しています。しかもお母さんの方は悲鳴なんか上げないと言い張るんですから、きっと彼女は何かを目撃されたのだろう、それを我々にはわざと隠しておいでなんだろう、こう私は思ったわけです。それで私はふと、あなたは他の誰よりもあの奥さんを動かすことの出来る方じゃないだろうか、とすれば、あの方がもし何か目撃なさったのなら、あなたから説得して頂ければそれを話して下さるだろうと思いましてね」
「いやだね」教授はほとんどニベもない断わり方をした。だがすぐに、マーカムの腕に手を置いて、口調をやわらげた。「わたしに何でも頼んでくれと言っても、事によりけりだ。あの気の毒な人が、あの朝窓から何かを見たというんだったら、君らはそれを自分で見付け出さにゃいかんぞ。あの人を痛めつける手伝いなどしたくない。君らもあの人に心配かけるようなことは止めてもらいたいな。知りたいことがあったら、他に何とでも方法があるだろう」教授はまともにマーカムの眼を見た。「何もあの人に限って喋らせることはないだろうが。君らだって後で気の毒になるにきまっとるんだから」
「私共は見付けられるだけのものは見付けなくてはなりません」マーカムは決然と、しかしやさしみをこめて答えた。「市内を凶悪犯が大手を振って歩いているんですから、どなたにしろ辛い思いをなさるからと言って手控えをしては居られません――どんなに辛い悲痛な思いをなさるにしてもです。もっとも、不必要に人を苦しめるようなことはいたしませんから、その点はご安心下さい」
「君はしかし」ディラード教授は静かにたずねた。「君が求めとる真相が、あの犯行自体よりも怖るべきものかも知れんということを考えてみたことがあるかね」
「その点は覚悟してかからないと、いけませんでしょうなあ。ただ、そうと判っておりましても、だからといって私が少しでもひるむようなことはございません」
「そりゃそうだろう。だがな、マーカム君、わたしは君よりずっと年をとっとるよ。君がロガリズムや逆ロガリズムと取っ組んどった学生時分に、わたしはもう髪が半白になっておった。人は年をとると、世の中の真の釣合いというものが判ってくるものだ。比率がみんな変ってしまう。万事、以前に思っとった物の評価が意味をなさなくなってしまう。だから年寄りは人より寛大なのさ。年寄りには人間の作った価値が何の意味もなさんことがわかっとるのだ」
「しかし私共が人間の作った価値に従って生きて行かなければなりませんかぎり」マーカムは逆《さか》らうのだった。「それを支持するのが私の義務です。それに私としては、個人的にどんな同情の念を覚えるようなことがありましても、真相に到達できそうな筋道をたどることを拒むわけにはまいりません」
「それもそうかなあ」教授は嘆息をもらした。「しかし、今度の場合だけは、わたしに手伝えなどとは言わんでくれ。真相がわかったら、慈悲を忘れんことだ。電気椅子に送るべきだと求刑する前に、犯人が真に責任を負うべきものか、ようく考えてやれ。体の病気と同じで、心も病気にかかるものだ。どっちも病気になっちまうことも多いしね」
一同が応接間に戻ると、ヴァンスはいつにもまして注意深く煙草をつけた。「なんだか教授はスプリッグが死んだことで、しょげてるね。それに、そうは言わないが、あのテンソルの公式を見て、スプリッグとロビンが同じ方程式の中に含まれると確信したらしい。それにしても、何とも簡単に確信したもんだねえ。何故かしら。――おまけに教授は、スプリッグがこの辺で見知られていたことを、なかなか認めたがらなかったよ。教授が何か疑惑を持ってるとは言わないけれど、何か恐れを抱いてるね。……どうも変だなあ、あの態度は。ねえマーカム、君があんなに熱をこめて法律上の正義を擁護《ようご》したのを、教授はたしかに邪魔しようとはしなかったけれど、事がドラッカー一家に関係すると、君の十字軍をけしかけるようなまねは断然したがらなかった。あの人がドラッカー夫人をかばってる裏には一体何がひそんでいるんだろう。あの老人にセンチメンタルなところがあるなんてことはね、ちょっと手放しでは言いかねるし。――それにあれは何だい、心の病気と体の病気だなんて、くだらない。まるで体育学級の設立趣意書か何かだよ、ねえ。……やあれ、やれ。パインと娘に訊問してみるか」
マーカムは難《むずか》しい顔をして煙草をふかしていた。彼がこれほど力を落しているのは滅多に見かけないことだった。「あの二人から一体何を期待できるのかねえ」彼は言った。「まあいい。ヒース君、パインを呼んでくれたまえ」
ヒースが出て行くと、ヴァンスがマーカムにいたずらっぽい眼くばせをした。「あのねえ、マーカム、そんなに愚痴を言うもんじゃないよ。テレンティウスの言葉でも思い出してくれたまえ、Nil tam difficile est, quin quoerendo investigari possit.〔調べても見つからないほど難しいという物は一つもない〕いや、しかしこいつは難問だよ……」それから急に真面目な顔つきになって、「我々がいま取り扱ってるのは未知数なんだ。普通人の行動の法則に従った働き方をしない、未知の、異常な力と闘ってるんだ。巧妙な――いやあ、じっさい巧妙だな――同時に今までにないものだよ。しかし少なくともそれはどこかこの古い屋敷のあたりから出て来ることは判っている。我々はあらゆる心理的な隅っこや隙き間を、のがさず探してみなくちゃならない。この辺《あた》りのどこかに、見えざる怪物が目を光らせているんだ。そんなわけだから、僕がパインにどんな質問をしても驚かないでくれたまえ。一番それらしくない所をのぞいてみなきゃならないんだからね。……」
戸口に足音が近付いたかと思うと、ヒースが老執事を引き連れて姿を現わした。
第十一章 盗まれていたピストル
――四月十一日、月曜日、午後三時
「まあおかけ、パイン」ヴァンスが親切めいた命令を発した。「ディラード教授にお許しを得て君に質問をするからね。質問にはぜんぶ答えてもらいたい」
「かしこまりました」男は答えた。「ディラード先生がおかくしだてをなさる理由は無いはずでございますから」
「結構だね」ヴァンスはぐったりと椅子にもたれた。「まず、それじゃ、今朝この家では朝食は何時に出たの」
「八時半でございます――いつものとおりに」
「家族の方は皆おいでだったの」
「はい、それはもう」
「朝は誰が家族を起しに行くの。それは何時だい」
「私でございます――七時半でございます。ドアをノックいたしまして――」
「返事を待つんだね」
「はい――いつも」
「それじゃ、どうだい、パイン。今朝はみんな返事をしたかい」
男は大仰《おおぎょう》にコックリした。「はい、左様で」
「そして誰も朝食に遅れなかったかい」
「皆さんキッチリと時間においででございました――いつものとおりに」
ヴァンスは身体をのばして煙草の灰を炉の火床に落した。「ひょっとして誰かが今朝この家から出て行ったり帰って来たりするのを見かけやしなかったろうね」
何気ない質問ぶりだったが、執事の薄っぺらなたるんだまぶたが、ぎょっとしたようにかすかに震えるのに私は気付いた。「いいえ、見ません」
「君が誰も見なかったとしても」ヴァンスは追求した。「君の知らない間に家族の誰かが出て行って戻って来るってことは、あり得るんじゃないの」
パインは顔を合せてからこの時はじめて答えを渋《しぶ》る様子を見せた。「何と申しましょうか、実は」彼は言いにくそうだった。「私は食堂でテーブルの仕度をしておりましたのでございますから、今朝玄関からどなたかお出入りなさいましても私には判らなかったわけでございます。また、そういうお話でございますならば、娘は朝食の支度をいたします時はたいてい台所の戸を閉めておきますですから、弓部屋のドアをお使いになることも出来たわけで」
ヴァンスはしばらく考えこんで煙草を喫《す》っていた。やがて、静かな事務的な調子で訊いた。「この家で誰かピストルを持ってる人が居るかい」
男の眼が見開かれた。「そこまではちょっと――存じ上げませんことで」ためらいながら言った。
「ビショップってのを聞いたことがあるかい、パイン」
「いいえ、そんなことは」彼は青くなった。「例の新聞に手紙を書いた男のことでございますか」
「ただのビショップのことだよ」ヴァンスは無頓着に言った。「ところでだ。君は今朝リヴァサイド公園で殺された男のことを何か聞いたかい」
「はい。隣の門番が何かそんなことを申しておりました」
「君はスプリッグと言う若い人は知っていたんだろう」
「こちらで一、二度お目にかかりましてございます」
「最近見えたかい」
「先週見えました。たしか木曜日で」
「その時ほかに誰が居た」
パインは記憶をたどるかのように眉をしかめた。「ドラッカー様でございます」と暫らく考えて彼は言った。「それから、たしかパーディー様もお見えでございました。ご一緒にアーネッスン様のお部屋で遅くまで話しておいででした」
「アーネッスンさんの部屋だって。あの人はいつも自分の部屋に客を呼ぶのかい」
「いいえ。しかしそのとき老先生は書斎でご勉強中でございましたし、お嬢様はドラッカー奥様とこの客間においででしたので」
ヴァンスは暫らく黙っていた。「もういいよ、パイン」とやがて彼は言った。「ただし、ビードルをすぐここへ呼んでくれ」
ビードルがやって来て喧嘩腰のふくれっ面で突っ立った。ヴァンスはパインの時と同じ線に沿《そ》った質問をした。彼女はほとんどハイとかイイエとかそっけない返事をするだけで、すでにわかっている以上、何一つ新しい情報をもたらさなかった。だがこの短かい会見の終りに、ヴァンスは彼女がひょっとしてその朝食事の前に台所の窓から外を見はしなかったかと質問した。
「一度か二度見たですよ」彼女は喧嘩腰に答えた。「見たっていいでしょう」
「弓術場か裏庭に誰かを見かけなかったかい」
「先生とドラッカー奥さんだけですよ」
「知らない人は?」ヴァンスはディラード教授とドラッカー夫人がその朝裏庭に居たという事実は格別重要性のないことだという印象を与えようと努《つと》めていたが、彼がシガレット・ケースをとろうとポケットに手を入れた時の、わざと慎重にゆっくりとした仕方から、私は彼がその事実に強い関心を抱いたことを知っていた。
「見ません」女はそっけなく答えた。
「教授とドラッカー夫人の姿に気がついたのは何時だったの」
「八時ごろです」
「二人は話でもしてたの」
「ええ。――とにかく」彼女は訂正した。「お二人で植込みのところを行ったり来たりしておいででした」
「二人が朝食の前に庭を散歩するってのはいつものことかい」
「ドラッカー奥さんはよく朝早く出て来て花壇のところを散歩なさいますですよ。先生は自分の好きな時に自分ちの庭で散歩なさる権利はあると思いますけどね」
「僕の質問はそういう権利があるかどうかじゃないんだよ、ビードル」ヴァンスはおだやかに言った。「僕はただね、そういう権利を教授がそんなに朝早く行使なさる習慣があったんだろうかと思っただけなんだよ」
「さあ、今朝は行使なさってたですよ」
ヴァンスは女を放免して、立ち上ると表向きの窓のところへ行った。彼はたしかに途方に暮れていた。数分間、彼は河のほうを向いて表通りを眺めていた。「やれやれ」彼は呟《つぶや》いた。「自然と親しむにはいい日だけどなあ。今朝の八時といえばきっと雲雀《ひばり》が空を飛んでいたろう。おまけに――わかるもんか――茨《いばら》には蝸牛《かたつむり》と来たかも知れないさ。だがね――実際の話――世はすべてこともなしとは行かなかったはずだがなあ」
マーカムはヴァンスの当惑のしるしを察して、「どうだい、君はどう思う」と訊いた。「僕はどうもビードルの話は無視してよさそうな気がするんだがなあ」
「弱ったことにねえ、マーカム、僕らはこの事件では何一つ無視するわけに行かないんだよ」ヴァンスは振り返ろうともしないで言った。「そりゃ、たしかにビードルの意外な話は、差し当っては何も意味がないだろうけどね。我等のメロドラマの役者が二人、スプリッグの命の灯火《ともしび》が消された直後にぶらぶらしていたってことが我々に判ったというだけのことさ。教授とドラッカー夫人の屋外ランデヴーは、むろん君たちお得意の偶然だったかも知れないしね。それとも老人の彼女に対する感傷的な態度と何か関係があるのかも知れない。……とにかく食前のご散策の件であの人に慎重に当ってみる必要がありそうだよ、ね。……」突然、彼は窓に顔を寄せた。「ああ、アーネッスンが来るぞ。いくらか昂奮気味だね」
ほどなく玄関のドアの鍵を開ける音がして、アーネッスンがすたすたと廊下を通りかかった。我々の姿を見ると急いで客間に入って来て、挨拶も抜きで喋り出した。
「スプリッグが射たれたとかって、一体どうしたんだい」彼の熱っぽい眼差しが次々に我々を射てまわった。「大方あいつのことを僕に訊きに来たんだろう。いいよ、どんどん訊きたまえ」彼はふくれ上った革鞄をセンター・テーブルにほうり出して、やにわに背もたれの真直な椅子の端に腰を下した。「今朝刑事が大学へやって来て馬鹿みたいな質問をしたり、コミック・オペラの三枚目探偵みたいな真似をしたりして行ったよ。大変不可思議であります。……殺人であります――恐ろしい殺人であります。ジョン・E・スプリッグなる人物について何をご存知でしょうか。とか何とかね。……おかげで三年生が二、三人すっかりおびえ上って、まるまる半期分の知的発達が台なしになるし、罪もない若い英語の講師があやうく神経衰弱になりかかるし、僕はそのガラッ八には会わなかったがね――教室に行ってたもんだから、なんでもその男、スプリッグがどんな女の子と遊びまわってたかなんてことを訊いたそうだ、千枚張りの面の皮だよ。スプリッグが女の子とだって。あいつの頭にゃ勉強以外に何一つ入ってやしなかったさ。数学科じゃ四年生きっての頭のいい学生でね。欠席なんかしたこともない。今朝は出席をとっても返事が無いから、こりゃ何か大事なことでも起ったぞと思ったよ。昼食の時間にはみんなワーワー殺人のことで大騒ぎさ。……で、君らの答案は」
「答案は無いんですよ、アーネッスンさん」さっきから彼をじっと見守っていたヴァンスが言った。「ただし、あなたの公式の因数がもう一つ出来ました。ジョン・スプリッグは今朝小さな鉄砲でかつらの真中を射ち抜いて殺されたというわけなんです」
アーネッスンは目を丸くして身動きもせずにヴァンスの顔を見ていた。それから天井を向いて、馬鹿にしたようにケラケラと笑った。「また何か怪奇物語かい――コック・ロビン殺しみたいにさ……どんな呪文《じゅもん》だい」
ヴァンスが事件の詳細を手短かに話してやった。「ざっとこんな所です」と、しめくくりをつけて、「ほかにアーネッスンさんのほうでは何か参考になることはご存知ありませんか」
「これはこれは」相手は芯《しん》からびっくりしたようだった。「何もあるもんですか。スプリッグがねえ……今まで教えた中で一番頭の鋭い学生の一人ですよ。まあ一種の天才だな、本当に。両親も両親ですなあ、ジョンなんて――名前なら他にいくらでもあるのにね。それが運命の刻印を押したんですな。それで狂人に頭を射ち抜かれたんですな。明らかにロビンを弓矢でやったのと同じおどけ役者ですな」彼は両手をこすり合せた。――彼のうちの哲学の頭の方が優勢を占めたらしい。
「いい問題だぞ。何もかも聞かしてくれたんでしょうね。既知の整数が残らず必要ですからね。やっているうちに新しい数学的方法を思いつくかも知れませんよ――ケプラーみたいに」言っておいて、その思いつきが嬉しくなったらしく、クツクツ笑っていた。「ケプラーのドリオメトリーってのを覚えてますか。微積分学の基礎になったものですがね。彼は自分の酒の樽を作ろうとして――最小限の木材で最大限の容積を持つ樽を作ろうとして、それを考え出したんですな。僕がこんどの犯罪を解くために考え出すことが科学研究の新分野を開拓するかも知れませんぜ。ハ、ハ。ロビンとスプリッグはそうなりゃ殉教者か」
この人の諧謔《かいぎゃく》は、たとえ生涯の情熱をかけた抽象的思考の仕事を考えに入れるにしても、私にはひどく頂けないものに思われたのである。だがヴァンスは彼の冷血きわまる皮肉を意に介していない様子だった。
「一つだけ申し上げるのを忘れていましたよ」ヴァンスはマーカムを振り返って、例の公式を書いた紙片をもらってアーネッスンに手渡した。「これがスプリッグの死体の下にあったんです」
相手は人もなげな態度でそれを調べた。
「なるほど、またビショップが顔を出しましたな。あの手紙と同じ紙で同じタイプだ。……しかし、このリーマン=クリストフェルのテンソルをどこで知ったんだろう。これがね、何か他のテンソルなら――たとえば『ジー・シグマ・タウ』か何かなら――応用物理をかじった奴なら誰だって思いつくだろうけど。これは普通のテンソルじゃないからな。それにここでこんな物が出て来るってことは随分気まぐれで異常なことじゃないかねえ。書き落した項があるようだ。……そうだっ。ついこないだの晩、僕がスプリッグにこの話をしてやったんだ。しかも彼は書き取っていましたよ」
「パインがスプリッグは木曜日の夜見えたと言っていましたよ」ヴァンスが口をはさんだ。
「はあ、そう言いましたか。……木曜日ね、――そうそう。パーディーも来ていました。それとドラッカーだ。みんなでガウス座標のことを議論しましてね。このテンソルの話が出て――たしかドラッカーが最初に言い出しましたよ。それからパーディーが高等数学をチェスに応用するという気違いじみた考えを持ち出したりして……」
「あなたは、ところでチェスをおやりですか」ヴァンスが訊いた。
「以前はね。今はもうやりません。でも仲々いいゲームですな――やる人間のほうが居なければね。妙な根性曲りですよ、チェスをやる連中ってのは」
「パーディー定跡を何か研究してごらんになったことはおありですか」〔この時は私はヴァンスがなぜこんな一見無関係な質問をしたのかがわからなかった。マーカムもじれて来はじめた様子だった〕
「哀れな男ですよ、パーディーは」アーネッスンは無情な笑みをうかべた。「初歩の数学者としちゃ悪くないんだけれども。中学校の教師にでもなってりゃよかったのに。でも、お金があり過ぎてね。チェスにいかれちゃった。パーディー定跡は非科学的だって言ってやったんですがね。どうすれば敗かせるかまで教えたんだ。ところが奴さんにゃそれがわからない。とうとうカパブランカやヴィドマーやタータコウワーが現われて、形なしに叩きつぶしてしまったんですな。僕の言ったとおりの手でね。一生が台無しですよ。別の定跡を作るとか言って、もう何年も前からギャーギャー騒いで歩いてるけども、ちっとも物になりゃしません。インスピレーションを得ると称してウェールやジルバースタインやエディントンやマッハなんてのを読んでますよ」
「そりゃ面白いですな」ヴァンスはアーネッスンがパイプを詰めているところへマッチを差し出した。「パーディーはスプリッグをよく知ってましたか」
「いやいや。うちで二度ばかり会いましたかね――それだけですよ。パーディーはドラッカーの方はよく知ってました。よくポテンシャル函数だの実数だのヴェクトルだののことを質問しています。何かチェスに革命を起すような物にぶつかりやしないかと思ってるんですな」
「先日の夜、皆さんがお集まりになった時、彼はリーマン・クリストフェルのテンソルに興味を示しましたか」
「そうとは思えんですな。やや領域外ですからね。時空の曲率とチェス盤をひっかけるなんてことは誰にだって出来やしない」
「スプリッグの死体からこの公式が発見されたってことはどうお考えです」
「別にどうとも。スプリッグの筆蹟で書いてあったら、あの学生のポケットから落ちたかも知れんですがね。しかし数学の公式をタイプライターで打つなんて、誰がそんな面倒臭いことをするですか」
「明らかにビショップですな」
アーネッスンはパイプを口から手に取ってニヤリと笑った。「ビショップ・Xか。そいつを探さにゃならんですな。物好きな男だ。価値観を逆に取ってる」
「たしかにね」ヴァンスはけだるそうに言った。「ところで、お訊ねするのを忘れるところでした。こちらのお宅には隠匿《いんとく》中のピストルはありませんかな」
「おほ」アーネッスンは笑いがおさえきれぬ風だった。「正体見つけたり、ですかな。……残念でした。ピストルはありません。かくし戸もなし。秘密の階段もなし。公明正大、すべてありのままです」
ヴァンスは芝居がかりの溜息をついて、「おお何という……おお無念のきわみ。いやとんだお笑い草でした」
ベル・ディラードが静かに廊下を歩いて来て、戸口に立ち止まっていた。ヴァンスの質問とアーネッスンの答を聞いた様子だった。
「あら、うちにはピストルは二挺もあるのよ、シガード。私が田舎で射撃練習に使ってたのがあったでしょう、古いのが」
「僕はまた、ずっと前に捨ててしまったと思ってたがね」アーネッスンは立ち上ってベルに椅子を当てがってやった。「あの夏ホパトコンから引き揚げた時、この有難い国でピストル所持が許されるのは強盗と追いはぎだけだからって言ってやったろう」
「でも私あれは本気だと思わなかったのよ。あなたのおっしゃることって、いつが冗談で、いつが本気なのかちっとも判らないんですもの」
「それで、しまってお置きになったんですね、お嬢さん」ヴァンスが静かな声で言った。
「あら――そうよ」彼女は心配げにヒースをちらと見た。「いけませんでしたの」
「違法ということになるでしょうね。もっとも」――ヴァンスは慰め顔で微笑んだ――「ヒースさんはあなたに銃器所有禁止法を適用なさるまいと思いますよ。――いまどこにありますか」
「階下です――弓術室に。道具入れの引き出しに入ってるんです」
ヴァンスは立ち上った。「すみませんが、お嬢さん、お手数ですがしまい場所を見せて頂けませんか。実はね、その二挺を見たくてムズムズしてるんですよ」
彼女はためらって、どうしようかとアーネッスンの顔を見た。彼がうなずいて見せると、ベルは何も言わずに向き直って弓術室へ案内した。「あの窓ぎわの道具棚にあります」彼女は進み寄って片側の小さな深い引き出しを引っぱり出した。奥の方の、ひとかたまりのがらくたの下に、三八口径のコルト自動拳銃があった。
「あらッ。一つしか無いわ。もう一つはなくなってる」
「もすこし小さいピストルでしょう」ヴァンスが訊いた。
「ええ……」
「三二口径ですか」
彼女はうなずいて、困惑《こんわく》の眼をアーネッスンに向けた。
「ふん、なくなったんだよ、ベル」彼は肩をすくめた。「仕方がないよ。大方きみの弓仲間の一人が弓場で矢を射そこなった時に脳味噌を吹き飛ばそうと思って持ち出したんだろう」
「お願いだから、まじめになって、シガード」ベルはいささか怯《おび》えていた。「ほんとにどこへ行ったんでしょう」
「ハ。またまた暗黒のミステリーか」アーネッスンはあざ笑った。「忘られた三二口径の不思議な消滅か」
彼女の不安を見てとったヴァンスが話題を変えた。
「お嬢さん、ドラッカー夫人のところへご案内頂けませんか。一つ二つご相談したいことがあるんです。お嬢さんがこちらにおいでのところを見ると、郊外のドライヴは延期になったんでしょう」
苦痛のかげが彼女の顔をかすめた。「ああ、今日だけはあの方のお邪魔をなさらないで」悲壮な訴えの口調だった。「メー夫人はとてもお加減が悪いんです。どうしてあんなことになったのか、――上でお話していた時はあんなにお元気そうだったのに。あなたとマーカムさん達のお姿を見てからお変りになったんです。急にぐったりなって……ああ、何か恐ろしいことがあの方を悩ませているんですわ。私がベッドにお連れしたあと、恐ろしい声で『ジョニー・スプリッグ。ジョニー・スプリッグ』って、ずっと囁やき続けなんです……掛りつけのお医者を呼んで差上げたら、すぐにやって来て、なるべく安静にしておくようにって」
「たいした用じゃないんですよ」ヴァンスはなぐさめた。「むろん、後で結構ですから。――掛りつけのお医者というのは、お嬢さん」
「ウィトニー・バーステッド。私の記憶ではずっとその方に」
「いいかたですね」ヴァンスはうなずいた。「神経科ではアメリカ一の専門家です。先生の許可なしには私達は何もしないことにします」
ディラード嬢は彼に感謝のまなざしを送った。それから挨拶して部屋を出て行った。我々がふたたび客間に戻った時、アーネッスンは暖炉の前に坐って、あてこするようにヴァンスを見た。「『ジョニー・スプリッグ。ジョニー・スプリッグ』か。ハ。メー夫人も早速そいつを思いついたな。彼女は気違いか知らんが、脳のしわに働きすぎるところがあるんだね。人間の脳ってやつは、訳のわからん機械だ。ヨーロッパの暗算の名人にゃ低能が多いそうだ。チェスの名人で看護婦に着換えや食事を手伝ってもらわなきゃならない奴を二、三人知っているしね」
ヴァンスは聞えないみたいだった。戸口の近くの小さな飾り棚の前に立ち止まって、一組の古代中国の翡翠《ひすい》の彫刻に心を奪われている風だった。「あの象はあすこに置いちゃいけませんね」彼は蒐集品の中の小さな彫像を指さしながら、何気ない様子で言った。「ありゃブンジンガですよ――退廃期のものですよ、ほら。うまいもんですが、本物じゃありません。たぶん満州もののコピーでしょう」彼はあくびを殺してマーカムの方を振り向いた。「ねえ、君、もう僕達は何もすることが無いだろう。ぼつぼつ失礼しようか。もっとも、帰る前に教授と一言お話しといた方がいいね。……じゃ、アーネッスンさんはここで待っていて頂けませんか」
アーネッスンは多少驚いて眉を上げたが、すぐにくしゃくしゃと顔にしわを寄せて、さげすむような微笑を作った。
「はいはい。行ってらっしゃい」そしてまたパイプに煙草をつめはじめた。
ディラード教授は我々の再度の侵入がひどく迷惑そうだった。
「いま伺いますと」マーカムが言った。「先生は今朝食事前にドラッカー夫人と話をしておいでだったそうですが、……」
ディラード教授の両頬の筋肉が腹立たしげに動いた。「わたしがわたしの家の庭で隣りの人間と話をしたら、何か地方検事局と関係があるのかね」
「いえ、とんでもない。ただ私はこちらのお宅と重大な関係のある捜査にたずさわっておりまして、先生にご協力を求める特権があろうかと存じたわけでございます」
老人はしばらくぶつぶつ言っていたが、「わかった」と腹立たしそうに応じた。「ドラッカー夫人以外誰も会っとらん――さあ、これでいいのか」
ヴァンスが口を出した。「そういうことでお伺いしたわけではないんです、ディラード教授。私共はただ、ドラッカー夫人が今朝早くリヴァサイド公園で起ったことを感付いておられる様子だったかどうか、という点をお伺いしたかったんです」
教授は激しくやり返そうとしたが、自制した。やがて彼は簡単に、
「いや。そういう様子はなかった」
「なにか不安な、と言いますか、まあ昂奮しているような様子はありませんでしたか」
「そんなこたないっ」ディラード教授は立ち上ってマーカムの方を向いた。「君が何を狙《ねら》っとるかちゃんと知っとるぞ。わたしはごめんだ。さっきも言ったが、マーカム、あの不幸な女のことに関する限り、わたしはスパイや金棒ひきの真似などしたくない。君に言うことはこれだけだ」彼はまたデスクの方に戻った。「すまんが今日はひどく忙しいからな」
我々は階下におりてアーネッスンに別れの挨拶をした。我々が出て行く時、彼は温かく一同に手を振ったが、その微笑には目上ぶって小馬鹿にしたようなところがあって、まるで我々が受けて来たこっぴどい拒絶をどこかで見ていて、それがいい気味だとでも言わんばかりな感じだった。
歩道に出ると、ヴァンスは立ち止まって煙草に火をつけた。「さて今度は悲しげな紳士パーディー氏と暫時《ざんじ》雑談と行くか。何を教えてもらえるか知らないけれどね、彼氏と語り合ってみたくてたまらん」だが、パーディーは不在だった。彼の日本人の召使が、主人はきっとマンハッタン・チェス倶楽部《クラブ》に行っているのではなかろうか、と教えてくれた。
「明日でも遅くはないだろう」一同がその家を出るとヴァンスがマーカムに言った。「明日の朝バーンステッド博士に連絡して、ドラッカー夫人に会えるように計らってみよう。その時ついでにパーディーにも会えるさ」
「明日は今日よりもっと色々判明してくれるといいですがなあ、まったく」ヒースがぶつぶつ言った。
「あんたは一つ二つこぼれ物の福を見逃しているぜ」ヴァンスは応じた。「僕らはディラード家に関係のある人は皆スプリッグを知っていることも、彼が毎朝早くハドソン河|沿《ぞ》いに散歩するのを容易に知り得たことも判明したじゃないか。それから、教授とドラッカー夫人が今朝八時に庭を散歩していたことも判った。また弓術室から三二口径の回転式連発拳銃が紛失していることも発見した。判明しすぎて困るほどじゃないが、かなりなものだよ――いや、大したものじゃないか」
車が下町にさしかかると、憂鬱そうにぼんやりと考え込んでいたマーカムが、ふっと正気に返って、心配そうにヴァンスを見た。
「この事件を扱って行くのが、こわいみたいだなあ。あまりに凶悪な事件になって行くじゃないか。だいいち、新聞が若しこのジョニー・スプリッグの子守唄に気が付いて、二つの殺人を結び付けでもしてみたまえ、その後どんな派手なセンセーションが巻き起るか、考えただけでいやになる」
「どうもその点は、のっぴきならんところへ来てるようだぜ、君」ヴァンスは溜息まじりに言った。「僕は霊媒《れいばい》とやらじゃないがね――夢を見て現実になったこともないし、精神感応が起った時どんな気分がするのか全然知らないけどさ――何だかビショップが例のマザー・グース童謡のことを新聞社に知らせてくれそうな気がするんだ。こんどの洒落の意味はコック・ロビン喜劇よりわかりにくいからね。その意味に気が付かない人が居ないように、計らってくれるだろう。人間の死体を小道具に使うような残忍な道化師《どうけし》だって、やっぱり観客が要るんだから。そこに彼のいまわしい犯罪の弱点があるんだ。その辺が我々の唯一の希望なんだよ、マーカム」
「クィナンに電話してみましょう」ヒースが言った。「何か受け取らなかったか」だが彼はその手間をまぬがれた。ワールド紙のクィナン記者は地方検事局で我々を待っていて、早速スワッカーが案内して来た。
「やあ、マーカムさん」クィナンの態度には活溌な厚かましさがあったが、同時にビクビクと興奮している様子も見えた。「ヒースさんに持って来て上げたものがあるんですよ。警察本部へ行ったら、ヒースさんはスプリッグ事件担当になって、あなたと相談中だという話でしたからね。急いでやって来たんです」彼はポケットを探って一枚の紙片を取り出すと、ヒースに渡した。「こいつはヒースさん、あなたを見込んで大いに崇高な精神で気前のいいことをしてるんですからね、そこは一つ互恵《ごけい》の精神で、少々打ち明けたところをよろしくお願いしますよ。……まあその書類を見て下さいよ。アメリカ第一流の家庭紙が受け取ったホヤホヤのものですぜ」
罫《けい》なしのタイプ用紙で、うす青いリボンを使ったエリート活字のタイプライターで、例のジョニー・スプリッグのマザー・グース童謡が打ってあった。下手《しもて》の右の方に大文字で『ザ・ビショップ』と署名してあった。「それから、これが封筒ですよ、ヒースさん」クィナンがもう一度ポケットを探った。消印は午前九時となっており、最初の手紙と同じく、『N』郵便局区内で投函《とうかん》したものだった。
第十二章 深夜の訪問
――四月十二日、火曜日、午前十時
翌朝、ニューヨーク各紙の第一面は、マーカムの心配をはるかにこえたセンセーショナルな記事をのせていた。ワールド紙以外にも二つの有力な朝刊紙が、クィナンの見せてくれたと同じような手紙を受け取っていた。それらが公表されたことによって、恐るべき昂奮が巻き起った。全市が憂慮《ゆうりょ》と恐怖の状態にほうりこまれた。そして中には、偶然説を立ててこれら犯罪に偏執狂的な様相を見ることを排し、ビショップの手紙はどこかのいたずら者の仕業《しわざ》だと言い抜けようとする気乗りのしない試みも見られはしたが、すべての新聞と大多数の人々は、新しい恐るべきタイプの殺人者が社会をえじきにしようとしていることを確信していた。〔一八八二年ロンドンで切り裂きジャックが気味悪い異常な犯罪にふけっていた時、同じような恐慌状態が起った。また一九二三年ハノーヴァーで狼人間ハールマンが食人種的大量殺人に忙しかった当時もそうであった。しかし近ごろではビショップ殺人事件の期間中ニューヨークをおおった身の毛もよだつ恐怖の雰囲気に匹敵するものを私は知らない〕マーカムとヒースは記者連中の包囲攻撃に悩まされたが、秘密のヴェールは周到にたもたれていた。解決への糸口がディラード家と密接な関係があると信ずべき理由があるなどとは決して漏《も》らされることなく、三二口径拳銃の紛失を口にするものも居なかった。新聞はスパーリングの立場を同情をもって扱った。彼は周囲の事情の不幸な犠牲者と一般に見なされ、マーカムが彼の起訴を遅らせていることに対するすべての非難の声は即座に消滅した。
スプリッグが射殺された日、マーカムはスタイヴスント・クラブで協議を催《もよお》した。捜査局のモラン警部と主任警部オブライアン〔当時はオブライアン主任警部が全警察部を司令していた〕も出席した。二つの殺人事件が詳細に検討され、ヴァンスが問題の答は結局ディラード家またはそれと直接関係のあるところから発見されると信じられる理由を概説《がいせつ》した。
「我々は二人の被害者をとりまいていた諸事情を充分に知って犯行を成功させることの出来たであろう立場の人間とは、すべて接触しているわけです。我々のとるべき唯一の道はこれらの人物に集中することです」彼は話を結んだ。
モラン警部は同意しかかっていた。「ただですな」彼は条件を付けた。「あなたのおっしゃる登場人物たちは、どれも私には血にかわく狂人だとは思えんのです」
「この殺人犯はありきたりの意味での狂人じゃありません」ヴァンスはやり返した。「ほかの点では万事正常な人間だと思います。いや実際、このただ一点の障害を除けば、彼はすばらしい頭脳の持主だと思います――あまりにもすばらしい頭脳なんですね。純粋な思索に熱中するうちに、調和の感覚をなくしてしまったんですよ」
「でもいくら異常なスーパーマンでも、動機もなしにこんないまわしい愚行に耽《ふけ》ったりするものでしょうか」警部は訊いた。
「いやあ、ところが動機はあるんですよ。この二つの殺人を考えついた恐るべき心理の裏には、何か途方もない動因がはたらいています――そのはたらいた結果が悪魔的なユーモアの形をとったのです」
オブライアンはこの討論に加わっていなかった。その漠然とした裏面の意味には心を動かされていたが、実際的な性格をおびていないのでいらいらして来ていた。「そういう話ってものは新聞の社説にゃ持って来いだが、実用にゃならんですな」彼は重々しげに胴間声《どうまごえ》で言った。そして太い黒い葉巻をマーカムに向って振り立てながら、「我々がやるべきことは、あらゆる手掛りをたぐって法廷で役に立つ証拠を探り出すことですよ」
結局我々はビショップの手紙を鑑識《かんしき》の専門家にまわし、一方タイプライターと用箋の出所をつきとめる努力をするという方針を決めた。そのほか、組織的な捜査網によって、あの朝七時から八時までの間リヴァサイド公園で誰かを目撃した者が居ないかを探ること、スプリッグの習慣や交友関係を洗って綿密な報告を作成すること、またあちこちのポストから郵便物を取り集める際に各新聞社に宛《あ》てた封書のあったことを気付いていて、それがどのポストであったかを記憶している者が居るかも知れないという見込みで、その局区の取り集め人を訊問するため特に一名を派遣《はけん》すること、等が決められた。
その他さまざまな純然たる型どおりの活動のあらましが決められ、またモランが、事件がどう発展しないとも限らず、関係者の疑わしい行動を発見することも出来るので、二つの殺人現場付近に昼夜の別なく刑事三人を張込ませておこうと提案した。警察と地方検事局とが合同して捜査することとなった。そして、いうまでもなくヒースとの暗黙の了解のもとに、マーカムが指揮に当ることになったのである。
「ディラードとドラッカーの家はロビン事件の時に訪問ずみだからね」マーカムがモランとオブライアンに説明した。「それからスプリッグ事件ではディラード教授とアーネッスンに会って話をした。明日はパーディーとドラッカーの家の者に会う予定だ」
翌朝十時すこし前に、マーカムがヒースを連れてヴァンスを訪ねて来た。「こんなことが続いてもらっちゃ困る」ほとんど挨拶も抜きで地方検事は言った。「もし知ってる奴が居るのなら、どうしたって聞き出さなきゃならんのだ。ギリギリ絞ってやる――結果がどうなろうと知るものか」
「そうだそうだ、狩り立ててやれ」
ヴァンスのほうはあまり元気がなかった。「でもそれが役に立つかどうかね。この謎解きには普通の手順じゃ駄目だから。もっとも、バーステッドに電話かけといたよ。今朝ドラッカー夫人と会って話をしてもいいそうだ。でも先に彼に会う手筈にしといた。ドラッカーの病状をもっと詳《くわ》しく知りたいんだ。せむしってものは、君、転《ころ》んでなるものじゃないだろう」
我々は直《ただ》ちに自動車で医者の家を訪ね、じきに本人が出て来た。バーステッド博士は大柄な気持のいい男で、その人好きのよさは長年の訓練のたまものという印象を受けた。ヴァンスは単刀直入に切り出した。
「バーステッドさん、私共はドラッカー夫人と、それにおそらくご子息さんのほうも、ディラード家で起ったロビン殺人事件と間接的に関係がおありになると信ずべき根拠を持っております。それであのお二人を訊問いたします前に、ひとつ先生からですな――ご職業上のエチケットが許す範囲内で結構ですが――私共が直面しております神経学的な諸事情とでもいったところをお伺いしたいと存じまして」
「もすこしはっきりと願いましょうか」バーステッド博士は用心深く超然とした態度で言った。
「伺ったところによりますと、ドラッカー夫人はご子息の脊椎後彎症《せきついこうわんしょう》についてご自分に責任があるとお考えのようです。しかしあの種の畸型《きけい》は普通単なる外傷によって起るものではないように、私は理解しております」
バーステッド博士はゆっくりとうなずいた。「おっしゃるとおりです。脊髄の圧迫による下半身不随が脱臼《だっきゅう》や外傷に続いて起ることもあるにはありますがね、そのために生じる障碍《しょうがい》は局部側彎型になるものです。脊椎の炎症とかカリエス――つまり一般にポット氏病と言っているやつですな――ああいうものは普通は結核性のものでしてね。その脊椎結核というやつは、たいがい小児に起ります。出生時にすでになってるものもある。たしかに、外傷によって感染部位が決定したり、潜伏病巣《せんぷくびょうそう》が刺戟されたりして、それに続いて発病することはあるんです。そのために、外傷自体が病気の原因だと思いこんだりするわけでしょうな。しかし、シュマウスとホースリーの病理学的研究によって脊椎カリエスの原因は明らかなものになっておるんです。ドラッカーの畸型ははっきりと結核性の原因によるものです。彼の場合、脊椎彎曲は著《いちじる》しい円型で、脊椎が広範囲におかされていることが示されているわけですな。脊椎側彎は全然見られません。それに、骨炎の局部的症候がすべて現われていますからね」
「むろん、そういう事情はドラッカー夫人にご説明になったわけですな」
「何度もね。しかし、どうもうまく成功せんのです。はっきり言うとですな。異常な殉教精神という凄《すさま》じい本能が、彼女に自分が息子の状態について責任があるんだという観念にあくまでも固執するように命じているんですな。そういう誤った考えが彼女の固定観念になってしまっている。それがあの人の精神状態の全部を構成し、四十年間そのために生きて来た奉仕と犠牲の生活に意義を与えておるというわけです」
「その精神神経症はどの程度まで夫人の精神をおかしているでしょうか」ヴァンスは訊いた。
「そいつはなかなか難しい問題でしてね。それに、その点は私としては論じたくないのです。ただ、この点は申し上げていいでしょう。つまり、あの人は明らかに病的です。価値観が歪《ゆが》んでいます。時々あるんですが――こりゃごく内密の話ですが――息子さんのことに集中して顕著な幻覚病の徴候が現われるんですな。息子さんの幸福ということが夫人の妄念《もうねん》になってしまっている。息子さんのためなら、夫人がやりたくないと思うようなことは、ほとんど無いといっていいでしょう」
「いやどうも、色々とお漏《も》らし頂いて恐縮です。……それから昨日の夫人の昂奮状態はやはり、ご子息さんの幸福に関係のある何かの恐怖心とかショックの結果と考えて間違いありませんでしょうか」
「確かにそうでしょう。あの人には息子さんのこと以外には感情生活とか精神生活は無いんですからね。しかしあの一時的虚脱が現実の恐怖によるものか想像上の恐怖によるのかは、どちらとも言えません。長い間、現実と空想の境界線上をさまよって来た人でしてねえ」
しばらく沈黙が続いた。やがて、ヴァンスが質問した。「ドラッカー氏のことですが、先生はあの方がご自分の行為について完全に責任能力のある方だとお考えでしょうか」
「あの人は私の患者ですしね」バーステッド博士は冷やかな非難をこめて答えた、「私はあの人を隔離《かくり》する処置をとっていないんですから、そのご質問は少々ご遠慮が無さすぎると思いますねえ」
マーカムが乗り出して有無を言わせない口調で言った。「バーステッドさん、我々は遠慮をしている時間は無いのです。残虐《ざんぎゃく》きわまる一連の殺人を捜査しているのです。ドラッカー氏はこの殺人事件の関係者です――どの程度の関係かはまだわかりませんが。しかし我々はどうしてもそれを探り出さねばなりません」
博士はまずマーカムに戦いを挑《いど》もうとした。しかし明らかに思い直したようで、返事をした時は物柔らかな事務的な声になっていた。
「私はあなた方に情報の出し惜しみをしていいものとは思っておりません。しかしドラッカー氏の責任能力についてお訊きになるということは、私に公衆安全の点で怠慢《たいまん》の罪をお着せになることになります。まあ、私がこの方のご質問を誤解したのかも知れませんがね」彼はほんのしばらくヴァンスの顔をじろりと見ていたが、やがて専門家らしい口調で先を続けた。「むろん責任能力にも程度があります。脊椎彎曲患者にはよくあることですが、ドラッカーさんの精神は過度に発達しています。言わばすべての精神作用が内側に向けられているんですな。正常な肉体的反応が無いために、心理的抑制や常軌《じょうき》逸脱《いつだつ》が起るのはよくあることです。しかし、ドラッカーさんの場合はそういう状態の兆候《ちょうこう》はまだ認めておりません。昂奮しやすくてヒステリーになりやすいですが、あの人の病気には精神動揺はつきものです」
「あの人のレクリエーションはどんな形をとっていますか」ヴァンスは丁重《ていちょう》でなにげない調子で言った。
バーステッド博士はちょっと考えてから、「まあ、子供の遊びですな。そういうリクリエーションは不具者には異常なものではないんです。ドラッカー氏の場合は自覚的願望実現とでも言うべきものです。正常な幼年時代を持たなかったために、若さの回復を感じさせるものなら何にでもとびつくんですな。子供じみたことをすることによって、純粋に精神的な生活の単調さをバランスさせているんですね」
「その遊戯本能に対してドラッカー夫人はどういう態度をとっておいでですか」
「大変いいことですが、奨励《しょうれい》しています。夫人はよくリヴァサイド公園で遊戯場の上の塀《へい》にもたれてじっと息子さんを眺めていますよ。それから息子さんが自宅で子供パーティーや夕食会を開くと、いつも夫人が接待役をつとめているようですね」
数分後に我々は辞去した。車が七十六番街に曲ると、ヒースがまるで悪夢から目覚めたように、大きな溜息をついて坐り直した。
「あの子供の遊びの話はわかりましたか」すっかり威厳《いげん》に打たれた声で彼は言った。「驚きましたなあ、ヴァンスさん。一体どういうことになるんですかねえ、この事件は」
目を前方に向けて、河の向うの霧に包まれたニュージャージー側の崖《がけ》をじっと見つめているヴァンスの両の眼に、妙な物悲しさがうかんでいた。
ドラッカー家のベルを押すと、出て来たのは立派な体格をしたドイツ女だった。のっそりと我々の前に立ちはだかって、いかにもうろんげに、ドラッカー氏は忙しくて誰にも会えないと告げた。
「でも、お伝えしてくれたほうがいいよ」ヴァンスが言った。「地方検事さんがすぐにお目にかかりたいからって」
この言葉は女に奇妙な効果をもたらした。彼女の両手が顔に行き、巨大な胸がひきつるようにふくらんで凹《へこ》んだ。それから、火事にでもあったように、あわただしくクルリと背を向けて階段を上って行った。ドアをノックする音が聞えた。ヒソヒソと人声がして、しばらくすると彼女が戻って来て、ドラッカー様は書斎でお会いしたいそうですと言った。
一同が彼女の前を通りすぎる時、ヴァンスが不意に向き直って、気味の悪い目つきで女を見すえながら、「昨日の朝はドラッカーさんは何時に起きたかい」と訊いた。
「あの――知りません」すっかり縮《ちぢ》み上って、彼女は口ごもった。「イエ、イエ、知っています。九時です――いつものとおり」
ヴァンスはうなずいて歩みを進めた。
ドラッカーは本や原稿の散らかった大きな机の傍に立って我々を迎えた。浮かぬ顔で、丁寧《ていねい》にお辞儀したが、坐れとは言わなかった。ヴァンスは彼の不安げな凹《へこ》んだ眼の裏にかくされた秘密を読みとろうとでもするように、しばらくじろじろと彼を探り見ていた。
「ドラッカーさん」彼は口を開いた。「不必要にご迷惑をおかけすることになりますと、まことに不本意なんですが、ジョン・スプリッグさんとお知り合いだと伺《うかが》ったものですから。あるいはご存知と思いますが、スプリッグさんは昨日の朝この近くで射殺されましてね。それで、彼が殺された原因なり、殺しそうな人物なりを、何かご存知でしたらと思いまして」
ドラッカーはぐっと体をそらした。自制しようと努《つと》めていたが、答える声がかすかに震《ふる》えていた。
「スプリッグ君のことはほんの少ししか知りません。あの男が死んだことについては何の思い当りもありません」
「あなたのご本の物理的空間の有限性についてという一章に引用《いんよう》しておいでになった、リーマン・クリストフェルのテンソル公式を書いた紙切れが、死体のそばで見付かりましてね」
言いながら、ヴァンスは机の上のタイプした紙の一枚を手もとに寄せて、さりげなく目を落した。ドラッカーはその動作に気がついていないらしかった。いまのヴァンスの言葉にふくまれていた新情報が、彼の注意を奪ってしまっていたのだ。
「そりゃ一体どういうわけだろう。その書付けを見せてくれませんか」
マーカムはすぐに申し出に応じた。ドラッカーはしばらく紙片をじっと見ていたが、やがてそれを返して、意地悪そうに小さな眼を細めると、「このことはアーネッスンに訊きましたか。先週彼がスプリッグとこの公式の話をしていましたがね」
「ええ、訊いてみたんです」ヴァンスはさりげなく答えた。「そのことは記憶しておいででしたが、手掛りにはならなかったんですよ。それで、あの人では駄目だったけれど、あるいはあなたならと思いましてね」
「残念ながら私はお役に立ちませんな」ドラッカーの返事には、いささか鼻であしらうようなところがあった。「この公式は誰でも使いますんでねえ。ワイルやアインシュタインの本には、いくらでも出ています。べつに版権があるわけじゃなし……」言いながら彼は廻転本棚のほうに身体をのばして、八ツ折判の薄いパンフレットをとった。「このミンコフスキーの『相対性原理』にも出ていますがね、記号が違ってるだけで――たとえば、BでなくTで、指数のところはギリシア文字になっています」彼はもう一冊とり出した。「ポアンカレも『宇宙進化論仮説』でまたもっと違った記号を使ってこの公式を使ってます」彼はその二冊の本を軽蔑《けいべつ》したように机の上にポイとほうり出した。「なぜわざわざ僕に訊きに来ますか」
「私共が足を運んでこちらのお宅までやって来たのは、このテンソル公式だけのためじゃないんです」ヴァンスは快活に言った。「たとえば、スプリッグの死がロビン殺しと関係があると考えられることとか……」
ドラッカーは細長い手で机の端をつかんで、昂奮して目をギラギラと光らせながら身を乗り出した。「関係がある――スプリッグとロビンが? 新聞の話を信用してるんじゃないでしょうな。……ありゃ真赤な嘘ですよ」顔はピクピクとひきつりはじめ、声は甲高《かんだか》くなっていた。「気違いじみたナンセンスなんだ……証拠も何もありゃしないんだから――一片の証拠もありゃしない」
「コック・ロビンとジョニー・スプリッグですがね」ヴァンスは柔かい声で頑張っていた。
「くだらない。馬鹿らしい。――ああ、何てこった、世界中が狂ってしまってる。……」彼は前へ後へ体を揺り動かしながら片方の手で机の上を叩き、紙が四方に飛び散った。
ヴァンスはいくらか驚いて彼を見ていた。「ドラッカーさんは例のビショップをご存知ありませんか」
相手は体を揺《ゆ》り動かすのを止めて、じっと落ち着き、おそろしい力をこめてヴァンスをにらみつけた。口の両端が後にひきつって、ちょうど進行性筋肉栄養不良の横に釣った笑い顔みたいだった。
「あなた達もか。あなた達も狂ったのか」彼はぐるりと一同を見渡した。「とんでもない、しょうのない馬鹿だな。ビショップなんて人間が居るもんか。コック・ロビンやジョニー・スプリッグだって居やしないんだ。しかもあなた達はやって来て――立派な大人のくせに――僕をおどかそうと思って――数学者の僕をだよ――子守歌なんか持ち出してさ……」
彼はヒステリックに笑い出した。ヴァンスは急いで進み出ると、彼の腕をとって椅子のところへ連れて行った。ゆっくりと笑いはおさまり、彼は力なく手を振った。
「あいにくロビンとスプリッグが殺されたんだからねえ」うち沈んだ単調な言葉つきだった。「だけど、そんなことに関係のあるのは子供だけじゃないですか。……そのうち犯人は見付かるでしょうよ。見付からなきゃ、僕が手伝ってあげてもいい。とにかく空想にまかせてくだらないことを考えるのはお止しなさい。事実に即せよです……事実にね。……」
彼が疲れてしまったので、我々は部屋を出た。
「彼は怖いんだね、マーカム――ひどく怖がってるね」階下の広間に戻ってからヴァンスが言った。「あの鋭いゆがんだ心の中に何がかくされているのか、わかったって驚きゃしないんだけどね」彼は先に立って一同をドラッカー夫人の部屋の前へ案内した。「婦人にこんな訪問のしかたをするとエチケットに反するね。いや、実際、マーカム、生れつき僕は警官向きじゃないよ、ねえ。うろうろのぞき回るのは嫌いなんだ」
我々のノックに答えたのは弱々しい声だった。ドラッカー夫人はいつもより青ざめて、窓ぎわの寝椅子にぐったりと横たわっていた。白い握りの強そうな両手をかすかに曲げて、椅子の腕になげ出していた。そして私はいつもにまして、あのアーゴノートの物語でフィネウスを悩ました貪欲《どんよく》なハルピエの絵姿を思い出したのだった。我々が口を開かないうちに、彼女は不自然なほどおびえきった声で言った。「来るだろうと思っていました――私を苦しめ足りないのを知っていました。……」
「苦しめようなんて、奥さん」ヴァンスが物柔らかに答えた。「私達は露ほども思っていないんですよ。ご協力頂きたいだけなんです」ヴァンスの態度で彼女の恐怖心はいくらか和らいだようだった。彼女はヴァンスの顔色を読んでいたが、小声で、
「ほんとにご協力が出来ればと存じますわ。でも何一つ手の下しようがございませんね――何一つ……」
「こちらの窓からロビンが殺された朝ごらんになったことをお教え願えないでしょうか」ヴァンスはやさしく言った。
「それは駄目――駄目ですわ」恐ろしげに両の眼が見開かれていた。「何も見ておりませんもの――あの朝は窓の傍にはおりませんでした。たとえ殺すとおっしゃっても駄目ですよ。殺されても見たとは申し上げられません――決して、決して見ておりません」
ヴァンスはその点を追及することはしなかった。「ビードルの話ですと、あなたはよく早起きをなすって庭を散歩なさるそうですが」
「ええ、それは」安心の溜息と一緒に彼女は言った。「朝はよく眠れませんの。よく眼が覚めました時に背骨に刺すような鈍痛がして、背中の筋肉がすっかりこってしまっていることがありますのよ。それで私、お天気さえ悪くなければ起きて庭を散歩いたしますの」
「ビードルが昨日の朝あなたが庭においでになるのを見たそうですが」夫人はぼんやりとうなずいた。「それからビードルはディラード教授もご一緒だったと言っていますが」彼女はもう一度うなずいたが、すぐにヴァンスに挑むように不審げな視線を射た。
「時々一緒になります」彼女は急いで説明した。「あの方は私を気の毒に思って下さいますし、アドルフをほめて下さいますの。偉い天才だと思って下さるんです。ほんとに天才ですわ。偉い人間になったでしょうに――ディラード教授ぐらいの人間に――ほんとに病気さえしなかったら。……みんな私がいけませんのよ。まだ赤ちゃんの時分に私が転《ころ》ばせてしまって。……」涙のないすすり泣きで痩せ細った彼女の体がふるえ、指がひきつっていた。
やがてヴァンスが訊いた。「昨日庭で奥さんと教授はどんな話をなさいましたか」突然、彼女の態度がずるそうになった。
「ほとんどアドルフのことばかり」見えすいた無関心を装《よそお》って彼女は答えた。
「庭や弓術室にはほかに誰もお見かけになりませんでしたか」ヴァンスのだるそうな眼が彼女に向けられていた。
「いいえ」ふたたび恐怖が夫人をとらえてしまった。「でも誰かほかに居たんですわね――見られたくなかった人が」彼女は激しくうなずいた。「そうですわ。誰かほかに居たんですね――そして私に見られたと思って。……でも私は見ておりません。ああ、ほんとうに神さま、私は見てはおりません。……」彼女は両手で顔をおおった。体じゅうがひきつるように震えていた。「見ていたらよかったのに。知っていたらよかったのに。でも、アドルフではありません――私の坊やではありません。あの子は眠っておりました――有難いことに、あの子は眠っていました」
ヴァンスは彼女のそばに寄って行った。「ご令息でなかったことが、どうして有難いんですか」おだやかに彼はたずねた。
彼女はすこし驚いた様子で彼を見上げた。「まあ、お忘れですの。昨日の朝、小さな男が小さな鉄砲を持ってジョニー・スプリッグを射ちました――弓と矢でコック・ロビンを殺したのと同じ小さな男ですわ。おそろしい遊戯――私はこわいんです。……でも申し上げては――申し上げられませんの。小さな男が何かおそろしいことをするかも知れません。たぶん」――彼女の声は恐怖のために低くなった――「たぶん小さな男は私のことを『お靴の中のお嬢さん』だなどと、気違いじみたことを思っているんですわ」
「奥さん、奥さん」ヴァンスは慰めの微笑を作った。「そんなことはナンセンスですよ。無意味な妄想の餌食《えじき》になってらしたんですねえ。どんな物でも完全に道理にかなった説明がつくものですよ。その説明をつけるお手伝いを、奥さんご自身にもやって頂けそうな気がするんですが」
「駄目です――出来ません、私には――してはならないんです。私自身にもよくわかってはおりません」彼女は胸一杯に決然と息を吸って唇を固くとじた。
「どうしておっしゃれないんですか」ヴァンスは執拗だった。
「知らないからです」彼女は言い放った。「私だって知りたいですわ。私が知っているのは、ここで何か恐ろしいことが起ろうとしていることだけです――何か恐ろしい呪《のろ》いがこの家にとりついているんです。……」
「どうしてわかりますか」
夫人ははげしくわななきはじめ、眼は狂気のように部屋の中をさまよった。「なぜって」――やっと聞きとれる声だった――「なぜって、昨晩その小さな男が来たからです」ぞっと冷いものが、その言葉を聞いた私の背筋を走り、いつも物に動じないヒースまでが、はっと息をのむ音をたてたのだった。やがて、ヴァンスの落ち着いた声が聞えた。
「どうして来たとおわかりになったんですか。姿をごらんになったんですか」
「いいえ、姿は見ません。でもこの部屋に入ろうとしたんです――あのドアから」彼女が覚束《おぼつか》なく指さしたのは、我々がいま通って来た廊下に通じる入口だった。
「それは一つ是非お話し頂かなくては」ヴァンスが言った。「でないと、私共は奥さんの作り話だという結論を出してしまうことになってしまいますよ」
「まあ、でも作り話などではございません――神さまもご昭覧《しょうらん》下さいませ」夫人の真実は疑いの余地がなかった。何ごとか、彼女を死の恐怖で満たすことが起ったのだ。「私はベッドに寝ておりました、目をさまして。暖炉の上の小さな時計が十二時を打ったばかりの時でした。外の廊下でかすかに衣《きぬ》ずれの音がいたしました。私はドアの方に顔を向けました――このテーブルの上にうす暗い終夜燈がついていましたの……すると、ドアの把手《とって》がゆっくりとまわるのが見えたんです――音もなく――私の目をさまさないで部屋に入ろうとするみたいに――」
「ちょっと、奥さん」ヴァンスがさえぎった。「夜はいつもドアに鍵をおかけになるんですか」
「最近までかけたことはございません――ロビンさんが亡くなるまで。あの時以来、何だか心もとなくて――なぜですか、ご説明は出来ませんが……」
「よくわかりました。――どうぞお続け下さい。ドアの把手が動くのを見たとおっしゃいましたね。それから?」
「ええ――そうです。そっと動きましたの――右に、左に。私は恐ろしくて、凍りついたみたいにベッドに寝たままでおりました。でも、しばらくしてから、やっと叫び声が出せました――どれくらいの声でしたか、覚えてはおりませんが、急に把手のまわるのが止んで、急ぎ足に立ち去る音が聞えました――廊下を歩いて行きました。……それから私はようやく起き上りました。ドアのところに行って耳をすましてみました。心配で――アドルフのことが心配で。そうしましたら、階段をそっと下りて行く足音がしたんです――」
「どの階段ですか」
「裏手の――台所に通じるほうです。……それから網戸の出口が閉まる音がして、もとどおりすっかり静かになりました。……私は膝まずいて鍵穴に耳をつけたまま、長いこと耳をすまして待っていました。でももう何ごとも起りません。とうとう立ち上りました。……なぜか、ドアを開けてみなくては、という気がしたんです。死ぬほど恐ろしゅうございました――しかもどうしても開けてみたかったんですの。……」一瞬、夫人の体がわなないた。「そうっと鍵をまわして、把手《とって》を握りました。ゆっくりとドアを内側に引きますと、外側の把手にのせてあった小さな物が、カタンと床に落ちたんです。廊下は灯《あか》りがともしてありました――夜はいつもつけておきますの、――私は下を見まいとしました。見まい――見まいとしました……でもどうしても目が床のほうに行ってしまいますの。すると私の足もとに――ああ、神さま――ころがっているんです、ある物が。……」夫人は先が続けられなかった。恐怖が舌をしびれさせてしまったのだ。しかしヴァンスの冷静な無感動な声が彼女を落ち着かせた。
「何が床にころがっていたんですか、奥さん」
夫人はかろうじて立ち上り、しばらくベッドのすそで気をとり直してから、化粧台《けしょうだい》のほうに歩いて行った。小さな引き出しを引いて、手を入れて中味をさぐっていた。やがて彼女は開いた片手を我々の方にさし出した。手のひらにのっていたのは小さなチェスの駒だった――白い肌にくっきりと浮ぶ漆黒《しっこく》。ビショップの駒だ。
第十三章 ビショップの影にかくれて
――四月十二日、火曜日、午前十一時
ヴァンスはドラッカー夫人の手からビショップの駒を取って上衣のポケットに入れた。「奥さん」ヴァンスの真面目くさった態度が印象的だった。「もし昨夜の出来事がほかに知れると、危険なことになりかねませんよ。このいたずらをした人物が、あなたが警察にお話しになったと知ると、どんな手であなたをおどかそうとするか知れませんよ。ですから、いまおっしゃったことは一言も他におもらしになりませんように」
「アドルフにも言ってはなりませんの」夫人は取り乱していた。
「誰にもです。たとえご令息の前でも、絶対に黙っておいでにならなくては」
ヴァンスがなぜこの点を強調するのか、私は理解できなかったが、数日ならずして一切が明らかになったのだった。彼の忠告の理由は悲劇的な力によって明らかにされた。そして私は、夫人が打ち明け話をしている瞬間に、すでに彼の明晰《めいせき》な頭脳が神秘なまでに正確きわまる推理を行なって、ほかの我々が露ほども気付かなかった、確実に起り得べき事態を予見したことを思い知ったのだ。我々はほどなく辞去し、裏手の階段を下りた。二階から八段か十段ばかり下りたところで階段は急角度で右に折れ、更に下りると狭い暗い通路になっていて、ドアが二つあった――左の方は台所に通じており、もう一方の、その斜め向いのドアからは網戸の出口に通じていた。我々はすぐにその出口に行ってみた。陽《ひ》が一杯に当っていた。一同は一言もなく、ドラッカー夫人の恐るべき経験によって投げかけられた気味悪い思いを振りはらおうと、そこに立ちつくしていた。
最初に口をひらいたのはマーカムだった。「どうだい、ヴァンス、ゆうべこの家にチェスの駒を持って来たのが、ロビンとスプリッグを殺した人物だと思うかい」
「その点は疑いの余地がないよ。深夜の訪問の目的はあまりにも明白だよ。これまで表面に出て来たこととぴったり合っている」
「どうもただの残酷ないたずらとしか思えないがねえ」マーカムは応酬した。「――酒に酔ったいたずら者か何かの」
ヴァンスは首を振った。「この悪夢のような事件のなかで、ただの気違いじみた冗談として済ますことの出来ない唯一の出来事だよ。必死なほど真面目な遠足だった。悪魔だって自分の足跡を消す時ぐらい真剣になることはないんだ。この悪魔も、心ならずこんな手を使わざるを得なくなって、大胆な手を打ったんだ。まったくねえ、ゆうべこの家に忍びこんだ時の気持より、悪ふざけをする愉快な気分のほうが、いくらましだったか知れないと思うよ。しかしまあ、これで我々としちゃ決定的な手がかりをつかんだわけだ」
抽象的な言い方ばかり聞かされてしびれをきらしていたヒースが、すばやくこの最後の文句をとらえた。「それは何でしょうか」
「まずだねえ、このチェスの好きな詩人はこの家の間取り一切をよく知っていたと推定していいだろう。二階の廊下の終夜燈は踊り場のあたりまでは階段を照らしていただろうけど、それから先は真暗だったはずだ。それに、裏手のほうの間取りはすこし混み入っているよ。だから、その辺の構造を知ってなきゃ、真暗な中で音を立てずに行ったり来たり出来なかったはずだ。それと、このお客さんは明らかにドラッカー夫人の寝室がどこにあるか知っていた。それから、ドラッカーがゆうべ何時に寝たかも知っていたはずだね。確かに邪魔は無しとわからなければ、敢《あ》えて訪ねようとはしなかっただろう」
「大した役には立ちませんな」ヒースはこぼした。「犯人はこの二つの家につながることなら万事よく知っている人間だという考えで真っ直ぐ進んで来たんですからね」
「そのとおり。ただね、いくら家庭の事情に通じていたって、その一人一人が何時に寝るかまで知っているとは限らないし、こっそり忍びこむ方法まで心得ているだろうかね。それにだよ、ヒース君、この深夜の訪問者は、ドラッカー夫人が夜ドアの鍵をかけておかないことを知っていたんだから。なぜって、彼は明らかに夫人の部屋に入るつもりでいたんだ。部屋の外にお土産を置いて帰ろうなんてつもりじゃなかった。その証拠に、彼は音を立てずに、そっと把手《とって》をまわした」
「ドラッカー夫人の目をさまさせて、すぐにそれを見付けさせようと思っただけかも知れないぜ」マーカムが言った。
「それじゃ、なぜ把手をそんなに用心してまわすだろう――誰の目もさまさないようにさ。そんな目的だったら、把手をガチャつかせたり、ちょっとノックしたり、チェスの駒をドアに投げつけたりしそうなものじゃないか。……違うね、マーカム、もっとはるかに凶悪《きょうあく》な目的を心に抱いていたんだよ。ただ、行ってみるとあいにくドアは閉まっている、ドラッカー夫人はおびえた叫び声を上げるので、仕方なしにビショップを夫人が見付けそうな所に置いて逃げたんだ」
「しかしですなあ」ヒースは異を立てた。「夫人が夜ドアの鍵をかけないぐらい誰だって知っていたかも知れませんよ。家の中だって、暗闇《くらやみ》で道がわかるぐらい誰だって知ってたかわからないじゃないですか」
「だがねえ、ヒース君、裏口のドアの鍵を誰が持っていたろう。ゆうべ真夜中に誰が使ったろうかね」
「鍵はかかってなかったかも知れませんぜ」ヒースは言い返した。「まあ、みんなのアリバイを調べてみりゃ、手がかりがつかめるでしょう」
ヴァンスは溜息をついた。「どうしてもアリバイのないのが二人か三人見つかるだろうさ。もしゆうべの訪問が計画的なものなら、もっともらしいアリバイが用意してあるにちがいない。間の抜けた奴と取り組んでいるんじゃないんだよ、ヒースさん。巧妙きわまる機略縦横《きりゃくじゅうおう》の殺人者と死ぬか生きるかの大勝負をしているんだよ。我々に負けず劣らずの思考力を持っている、精巧な論理で頭を鍛《きた》え上げた人物なんだ。……」
ふと思いついたようにヴァンスは向き直って、ついて来るように合図しながらドアの中に入った。彼がまっすぐに台所に入って行くと、さっき我々を迎えたドイツ女が、ぼんやりとテーブルの前に坐って昼食の仕度をしていた。我々が入って行くと、立ち上ってしりごみした。ヴァンスは彼女の態度に当惑して、何も言わずしばらくじろじろと彼女を眺めていた。やがて目をテーブルの上に移すと、大きな茄子《なす》をたて半分に切って中をくり抜いたのが置いてあった。
「ははあ」一面に置いた皿の内容を一目見て、ヴァンスは叫んだ。「茄子《なす》のトルコ風だろ。素晴しい料理だよ。だけど僕だったら、羊はもう少しこまかく挽《ひ》くね。それからチーズは多すぎちゃいけない。ソースの味をそこなうからね。スペイン・ソースを作ってるらしいけど」彼は目を上げて楽しげに微笑んだ。「ところで、君の名前は何て言うの」
彼の態度に女はひどく驚いたが、彼女の恐怖心を軽減する効果をももたらしたようだった。
「メンゼルです」のろくさく彼女は答えた。「グレト・メンゼルです」
「ドラッカー家にはどれくらい居るの」
「もうじき二十五年です」
「長いねえ」ヴァンスは想いにふけるように言った。「ねえ、今朝僕たちがここに来た時なぜあんなにこわがったの」
女はふくれ面《つら》になり、両手を固く握った。「こわがりゃしません。ただドラッカー様はお忙しかったんです――」
「僕たちが彼を逮捕しに来たと思ったんじゃないの」ヴァンスが口を出した。彼女は目を見張ったが、何も答えなかった。「ドラッカーさんは昨日何時に起きた」
「さっき言いましたよ……九時です――いつものとおり」
「ドラッカーさんは何時に起きたんだい」しつこい、超然《ちょうぜん》と構えたヴァンスの声には、どんなに芝居《しばい》がかった科白《せりふ》まわしも及ばない不気味さがこもっていた。
「言ったとおり――」
「ディー・ヴァールハイト、フラウ・メンツェル。ウム・ヴィー・フィール・ウール・イスト・エア・アウフゲスタンデン。〔正直に言いたまえ、メンツェル君。あの人は何時に起きたんだ〕」ドイツ語で繰り返したこの質問がもたらした心理的効果はあまりにも速かった。女は両手で顔をおおい、わなにかかった獣《けもの》のような、押し殺した叫び声が彼女の口をもれ出た。
「わたし知り――知りません」彼女はうめいた。「八時半に起しました――でも返事がないので、ドアを開けてみました。鍵がかかってなくて――ドゥー・リーバー・ゴット〔ああ、神様〕――あの方は居なかったんです」
「その次には、いつ彼に会ったんだ」ヴァンスが静かに言った。
「九時です。朝ごはんのお仕度が出来たと申し上げに二階に行きました。あの方は書斎においででした――机の前に坐って――気が違ったように、まるで昂奮してしまって、仕事をしておいででした。あっちに行けとお言いでした」
「朝ごはんには下りて来たの」
「ヤー――ヤー。下りて来ました――半時間ぐらいしてから」女はぐったりと流し台の底板にもたれかかった。ヴァンスが椅子を引き寄せてやった。
「坐りたまえ、メンゼル君」彼はやさしく言った。相手が言葉に従うと、彼は更に質問した。「君は今朝なぜドラッカーさんが九時に起きたと言ったんだい」
「仕方がありませんでした――そう言いつけられていました」彼女は抵抗をやめ、疲れ切ったように大きく息づいた。「昨日の午後ドラッカー奥さまがディラードお嬢さまのお宅から帰って見えた時、もし誰かがドラッカーさまのことで訊いたら、『九時です』とお答えするようにお言いつけでした。必ずそう言いますと誓いを言わされましたのです。……」彼女の声は次第に消えてしまい、眼はガラス玉のように一点に向いたままになった。「怖くてほかのこと言えませんでした」
ヴァンスはまだ頭をひねっているらしかった。何度か煙草を胸一杯に吸いこんだあとで、彼は言った。
「君がいま話したことには、そんなに君の心を動かすものは無いはずだ。ドラッカー夫人みたいに病的な人が、息子に疑いのかかるのを防ぐために、こんな取り止めもない手段を使ったからと言って、別に不自然なことはありゃしないんだ。すぐ隣りで殺人事件が起ったんだからねえ。君だってずいぶん長いこと夫人につかえて来たんだから、夫人が息子さんに関するかぎり、どんな些細《ささい》なことでも大袈裟《おおげさ》に考えるってことは百も承知のはずじゃないか。いや、それにしても、君があんまり真面目にとっているから驚いたよ。……ほかに、ドラッカー氏をこの犯罪と関係づける理由でもあるのかい」
「いえ――いえ」女は半狂乱で首を振った。
ヴァンスは眉をしかめて裏窓のところに歩いて行った。不意に彼は向き直った。きびしい、容赦《ようしゃ》をしない顔付きになっていた。
「メンゼル君、君はロビンが殺された日の朝はどこに居たかね」
びっくりするほどの変化が彼女にあらわれた。顔は青ざめ、唇はわなわなと震え、手は発作《ほっさ》に襲われた人のように固く握り締められた。彼女は大きく見開いた眼をヴァンスからもぎ離そうとしたが、彼の視線の中のあるものが、どうしても彼女にそれを許さないのだった。
「どこに居たの、メンゼル君」鋭く質問が繰返《くりかえ》された。
「私は――ここに居ました――」言いかけて、急に言葉を切ると、動揺した視線をちらりとヒースに向けた。彼もまた彼女をじっと見すえていた。
「この台所に居たんだな」彼女はうなずいた。物を言う力もなくなったかのようだった。
「そしてドラッカー氏がディラード家から帰って来るのを見たんだな」ふたたび彼女はうなずいた。
「よしよし」ヴァンスが言った。「そして彼は裏の網戸から入って二階に上った。……そして彼は台所の戸口から君に見られたことを知らなかった。……そして君が台所に居たことを彼に言ったら彼は君に黙っていろと言った。……それから君は彼が家に帰って来る数分前にロビンが死んだことを知った。……そして昨日、ドラッカー夫人から彼が九時まで寝ていたと言えと言いつけられ、この近くで誰かがまた殺されたと知って、君は疑惑を抱いてこわくなった。……こういうわけなんだね、メンゼル君」
女はエプロンを顔に押し当てて泣き声を立てた。ヴァンスの推理が真相を言い当てたのは明白で、彼女がわざわざ返事するまでもなかった。
ヒースはくわえていた葉巻を手に取って、猛然と彼女をにらみつけた。「そうか。俺に嘘を言ってかくしていたんだな」ぐっと顎を突き出して彼は吠え立てた。「いつか俺が訊問した時にも嘘をついたんだな。正義の邪魔立てをしたんだな」彼女はおびえて訴える眼差《まなざ》しをヴァンスに向けた。
「ヒースさん、メンゼル君は正義の邪魔立てをするつもりじゃなかったんだよ。いま本当のことを言ってくれたんだから、この件でこの人が全く自然な嘘をついたことは見過してやってもいいんじゃないかな」そして、ヒースがそれに答えることが出来ないでいるうちに、彼女の方に向き直って事務的な口調で質問した。「裏の網戸に通じるドアの鍵は毎晩かけるのかね」
「ヤー――毎晩かけます」彼女はものうげに答えた。はげしい恐怖の反動で、まるで無感動になってしまっていたのだ。
「ゆうべは確かに君がかけたのかね」
「九時半に――私が寝た時に」
ヴァンスは狭い通路を横切って鍵を調べた。「ばね錠《じょう》だな」戻りながら彼は言った。「この戸の鍵は誰が持ってるの」
「私が持っています。それからドラッカー奥さま――奥さまもお持ちです」
「ほかには確かに誰も持っていないんだね」
「はい、ディラードお嬢さま以外は……」
「ディラード嬢?」ヴァンスの声が興味にかられて急に太くなった。「なぜあの人が持ってるんだろうね」
「ずっと以前からお持ちです。あの方はこちらのご家族同様ですから――一日に二度も三度もお見えになります。私が外に出ます時は裏口は私が鍵をかけます。お嬢さまが鍵をお持ちなのでドラッカー奥さまがわざわざ下におりて来て戸を開けておあげにならずに済みます」
「なるほどねえ」ヴァンスは小声で言った。そして、「もう君に迷惑をかけることはなさそうだよ、メンゼル君」と言って、ぶらぶらと小さな裏のポーチに出た。一同が後について出てしまい、ドアがしまると彼は庭に続く網戸を指さした。
「どうだい、金網が枠《わく》からはずされていて、外から手を入れて掛け金がはずせるようになってるだろう。ドラッカー夫人の鍵かディラード嬢の鍵か――たぶん後の方だろうけど――どっちかを使って内側のドアを開けたんだね」
ヒースがうなずいた。事件がやや具体性を帯《お》びて来たのが気に入ったらしい。だがマーカムは聞いていなかった。裏庭に出て、ひとり超然と腹立たしげに煙草をふかしていた。やがて、決然とした様子で向きを変えて、再び家に入ろうとした時、ヴァンスが腕をとらえた。
「よせ――よせよ、マーカム。そりゃ、ちといやなテクニックだぜ。怒りをしずめろ、だよ。どうも気が短かいぜ、君は」
「だけど、癪《しゃく》じゃないか、ヴァンス」マーカムは相手の手を振り払った。「ドラッカーのやつ、ロビンが殺される前にディラード家の門から出たなんて嘘をつきやがって――」
「むろんそうだよ。僕は最初から彼のあの朝の行動の話は、ちっとばかりちゃらんぽらんだと思っていたよ。だけど今二階に上って行ってそんなことをガミガミ言ったところで何にもなりゃしない。料理女の勘違いだと言って済ましてしまうに決まってるじゃないか」
マーカムは納得《なっとく》しなかった。
「しかし、昨日の朝のことはどうだ。料理女が八時半に起しに行った時、どこにいたのか知りたいもんだ。何だってドラッカー夫人は息子が眠っていたとあんなに我々に信じさせたがっていたんだ」
「彼女も彼の部屋に行って、息子が居ないのを見たのかも知れないさ。その時スプリッグの死を聞かされて例の熱病的な空想が大いに働いて、息子にアリバイを作ってやることにしたわけだ。しかし、彼の話の食い違うところを責め立てようと思ったって、面倒をまねくばかりだぜ」
「そりゃ、わからんよ」意味深長な重々しさで彼は言った。「僕がまねき出すのは、このいまわしい事件の解決かも知れんぜ」
ヴァンスはすぐには答えなかった。柳の木立ちの影が芝生の上に落ちて、ぶるぶると震えるのをじっと見下して立っていた。ようやく、彼は低い声で言った。
「我々にはその一か八かを試している余裕はないんだ。もし君の考えていることが本当だということになって、君が今受け取った新しい情報を公表したら、ゆうべここに来た小さな男が、また二階の廊下をうろつくかも知れないんだぜ。そして今度はチェスの駒をドアの外に置いて行くだけじゃ満足しないかも知れないんだ」
マーカムの眼に恐怖のいろがうかんだ。「いま僕が料理女の証言を使って彼を不利にしたら、彼女を危険におとし入れることになると言うんだね」
「この事件の恐ろしいところは、真相がわかるまで我々はあらゆる曲り角で危機に直面するという点なんだ」ヴァンスはまるで意気のあがらない声になっていた。「我々は誰を危険にさらすような冒険をも控えるべきなんだ。……」
ポーチに出るドアが開いて、ドラッカーが敷居に姿を現わした。小さな眼に陽差《ひざ》しが当って、彼はまたたいた。じろじろと見渡してからマーカムに眼をとめ、悪賢こそうな冷淡な微笑が口もとをゆがめた。
「お邪魔じゃないでしょうな」脅迫じみた細目を使いながら彼はことわった。「実はいま女中がやって来て、ロビン君が不運な最期をとげた日の朝、僕がこの裏口から家に入るのを見たと皆さんに申し上げたと言うもんですからね」
「おやまあ」ヴァンスは傍を向いてしきりにケースの煙草を選びながら、小声に言った。「滅茶苦茶だね」ドラッカーは不審の眼差しをチラと彼に向け、皮肉な頑固さを面《おもて》にあらわして胸を張った。
「それでどうしました、ドラッカーさん」マーカムが訊いた。
「僕はただ」相手は答えた。「料理女が間違っていると申し上げに来ただけです。あいつはどうも日にちを混同しているようです――私はよくこの裏口から出入りするんでしてね。ロビン君が亡くなった日には、お話してあるように、僕は弓場から塀の門を通って七十五番街に出て、公園を少し歩いてから玄関を通って帰ったんですよ。グレトには間違いだとよく言って聞かせました」
ヴァンスはじっと耳を傾けていたが、振り向いて相手の微笑を迎えた顔付きは、愛想よく、いかにも無邪気だった。「言ってお聞かせになるのに、チェスの駒をお使いになったなんてことはないでしょうね」
ドラッカーは顔を突き出して、鼻息も荒く息を吸った。ねじ曲った体が緊張し、眼と口のあたりの筋肉がヒクヒクしはじめ、頸《くび》の筋が鞭のように固く張っていた。一瞬、私は彼が今にも自制を失うのではないかと思った。が、ようやくのことで彼は自分をおさえた。
「おっしゃることがよくわかりませんな」激しい怒りに言葉が震えていた。「チェスの駒が何の関係がありますか」
「チェスの駒にはいろんな名前があるでしょう」ヴァンスはそっと言った。
「あんたが、この僕にチェスを教えようってのか」底意地の悪い軽蔑の色がドラッカーの態度にちらついていたが、無理に歯をむいて笑顔を作った。「いかにも、いろんな名前がありますな、キングにクィーンに飛車《ルーク》にナイトに――」彼はちょっととぎれた。「……ビショップか。……」彼は入り口の扉に頭をもたれさせて陰気に喋りだした。「なあるほど、そういう意味ですか。ビショップねえ。……あなた方はくだらない遊戯にふける低能児だな」
「私共は立派な根拠があって」ヴァンスの平静さは印象的だった。「誰か他の者がその遊戯を演じていると信じています――ビショップの駒が主要なシンボルになってるんですな」
ドラッカーは我にかえった。「母の気まぐれをあまり真面目にとってはいけませんよ」彼はいましめる口調だった。「よく自分の想像で馬鹿騒ぎをやる癖があるんですからね」
「ははあ。それで、いまどうしてお母さんのことをお持ち出しになるんですか」
「いままで母と話をしておいでになったんじゃないんですか。だいいち、おっしゃることが母の無害な妄想と大変よく似ているじゃありませんか」
「そうでなくて」ヴァンスはおだやかに応酬した。「お母さんがちゃんと根拠があって信じていらっしゃる、ということもあり得るわけです」
ドラッカーは細目を作って、素速くマーカムを見た。「ばかな」
「やれやれ」ヴァンスは溜息をもらした。「この話は止しましょう」それから調子を変えて彼は付け加えた。「ところで、ドラッカーさん、昨日の朝八時から九時までどこにおいでだったか、教えて頂けると助かると思うんですが」
相手はかるく口を開けて話し出そうとする様子だったが、急いでまた唇を閉じ、ずるっこくヴァンスの顔を見つめて立っていた。が、やがて、高い耳につく声で答えた。
「仕事してたんですよ――書斎でね――六時から九時半まで」彼は言葉を切ったが、もう少し説明する必要があると見たらしく、「僕はここ数か月、光の干渉《かんしょう》を説明するエーテル・ストリング説の修正の仕事をやってましてね、これは量子論では説明できないんです。ディラードはお前にゃ無理だと言いますがね」――狂信者のように眼があやしい光をおびた――「ところが、昨日の朝早く眼がさめてみると、この問題の或るファクターがはっきり頭にひらめいていたんですよ。そこで起きて書斎に行って……」
「なるほど、そうですか」ヴァンスはさりげなく言った。「大したことじゃなかったんです。今日はどうもご迷惑をかけて済みませんでした」彼は頭でマーカムに合図して、網戸の方に歩いて行った。一同が弓場に出ると、ヴァンスはふり返ってにこにこしながら、ほとんど甘美なと言える声で言った。「メンゼル君は我々で保護しよう。彼女にもしものことがあったら、大痛手だからね」
ドラッカーは催眠術にかかったみたいに、呆然と我々を見送っていた。聞えないところまで来たとたん、ヴァンスはヒースの方に寄って行った。
「ヒースさん」心配そうな声で彼は言った。「あの率直屋のドイツ人ハウスフラフ〔女中〕は知らずに首絞め縄に首を突っこんでしまったかも知れないぜ。だからね――ああ――心配なんだ。今夜はドラッカー家に腕利きを一人張りこませたほうがいいよ――裏からね、あの柳の木のかげから。それで悲鳴や叫び声が聞えたらすぐにとびこむように言って。……私服の天使がメンゼル女史の眠りを守護してくれていると思うと、僕も安んじてベッドに入れると言うもんだ」
「わかりました」ヒースは陰気な顔付きだった。「今夜はチェス気ちがいが決してあの女を悩ませに来ないようにします」
第十四章 チェスの勝負
――四月十二日、火曜日、午前十一時三十分
我々はディラード家の方へゆっくりと歩をはこびながら、この戦慄《せんりつ》すべきドラマにすこしでも関係のある人々全員の前夜の所在を即時調査することに決定した。
「ただし、ゆうべドラッカー夫人の身にふりかかったことは一言も漏《も》らさないように注意しなくちゃいけないよ」ヴァンスが言った。「その深夜のビショップ持参人は、訪問の件を僕たちに知らせることは望んでいないんだ。夫人がこわがって我々に通報しないだろうと思いこんでいる」
「僕はどうも」マーカムが反対した。「君がその点を重視しすぎているように思うがねえ」
「おい、おい」ヴァンスは立ち止まって両の手を相手の肩にかけた。「君は気力が無さすぎるぞ――それが君の大きな欠点だよ。君は物を感じない――自然の子じゃないんだ。君は魂の詩情が散文的になってしまっている。ところが僕は今や想像力を駆使《くし》しているんだ。そこで、いいかい、ドラッカー夫人のドアにビショップの駒を置いて行ったのはお祭騒ぎのいたずらとはことが違うんだ。絶体絶命になった人間の必死の行為なんだ。あれは予告のつもりなんだぜ」
「君は夫人が何か知っていると思ってるんだね」
「僕の考えじゃ、夫人はロビンの死体が弓場に置かれるのを見たんだと思う。そして何かほかにも――死んでも見たくなかったものを見たんだね」
黙々と我々は歩いた。塀の門から七十五番街に出て、玄関からディラード家を訪問するつもりだった。だが弓術室の前を通りかかった時、その地下室のドアが開いて、ベル・ディラードが気づかわしげな面持ちで我々の前に立った。
「弓場を歩いてらっしゃるのが見えたものですから」心配でたまらない様子で、彼女はマーカムに話しかけた。「一時間以上もあなたにご連絡しようと待っていましたの――事務所にお電話して。……」彼女はいらいらした態度になって来た。「変なことが起りましたの。ああ、何でもないことかも知れないんですけど……今朝メー夫人をお訪ねしようと思ってこの弓術室を通りました時、何気なくふっと道具箱のところに行って引き出しをのぞいてみたんです、――それがとっても――とっても変なんです、小さなピストルが盗まれたはずなのに……それがあるんです――ちゃんと目の前に――もう一つのピストルの傍に」彼女は息をのんだ。「マーカムさん、誰かがゆうべ引き出しに返したんです」
このニュースはヒースに電撃的な作用をもたらした。「手を触れましたか」彼は昂奮して訊いた。
「あら――いいえ……」ヒースは不作法に彼女の傍をすり抜けて道具箱のところへ行き、引き出しをグイと引いた。すると、前日に我々が見た大きい方の自動拳銃の傍に、真珠の柄《え》のついた小さな三二口径があった。ヒース巡査部長は眼を光らせながら、引き金の用心金に鉛筆を通して、そうっと持ち上げた。そして光の方にかざし、銃身の先を嗅いだ。
「輪胴が一つ空だね」彼は満足げに唱《とな》えた。「そいつも最近発射したらしい。……こりゃきっと手掛りになりますぜ」彼は大事そうにハンカチで包んで上衣のポケットに入れた。「デュボイスのやつに調べさせて指紋をとりましょう。それからヘイジドン係長に弾を調べてもらいます。〔ヘイジドン係長はニューヨーク警察局の銃砲鑑識のエキスパートだった。ベンスン殺人事件でヴァンスに犯人の身長を推定するためのデータを提供してくれたのはこの人。またグリーン殺人事件で古いスミス・アンド・ウェッスン式レヴォルヴァーから発射された三発の弾丸を調べたのもこの人である〕」
「おやおや」ヴァンスがからかうように言った。「ヒースさんは僕らの探してる紳士が弓と矢はきれいに拭《ふ》いて、ピストルには指紋のサインを残しておくなんて想像するのかな」
「私にゃあなたみたいな想像力はないですよ、ヴァンスさん」ヒースは突っけんどんに答えた。「だからやっとかなきゃならんことを、あくまでもやるだけですよ」
「そりゃそうだねえ」ヴァンスは相手のあくまでも通す徹底主義に、人の善さそうな感嘆の微笑を送った。「折角の熱意に水をさしたりして、ごめんよ」それから彼はベル・ディラードのほうを向いた。「こちらにお伺いしたのは、教授とアーネッスンさんにお目にかかるつもりだったんです。しかし、あなたともちょっとお話しておきたいことがありますから。――あなたはドラッカー家の裏口の鍵をお持ちだそうですね」
彼女は不審《ふしん》げにうなずいてみせた。「はい。ずっと以前から持っておりますわ。いつも行ったり来たりしますから。メー夫人のお手間が随分はぶけて……」
「私共はその鍵を誰か使う権利のない人が使ったようなことはないだろうか、という点だけに興味があるんです」
「でも、そんなことあり得ませんわ。誰にも貸したことがないんです。それにいつもハンドバッグの中に入れてありますのよ」
「あなたがドラッカー家の鍵をお持ちだということは誰でも知っていますか」
「あら――そう思いますけど」彼女は明らかに当惑していた。「秘密にしたことはございませんもの。家じゅうみんな知っているはずですわ」
「すると、よその人が居る前で鍵のことを口にしたり、はっきりそのことを言っておしまいになったことはあり得るわけですね」
「ええ――でも特に何日ということは覚えておりません」
「いま確かに鍵をお持ちですか」
びっくりした顔で彼女はヴァンスを見た。そして何も言わずに、籐《とう》のテーブルの上にのっていた小さなとかげの革のハンドバッグを取って、口を開けると急いで中の仕切りの一つを手でさぐった。「ありました」ほっとして彼女は言った。「いつも入れておくところです。……なぜこんなことをお訊きになりますの」
「誰がドラッカー家に出入りできたかという点が大事なんです」ヴァンスが彼女に教えた。そして、彼女が質問をたたみかけて来ないうちに、「ゆうべ鍵があなたの手もとを離れるようなことはあり得たでしょうか――つまり、あなたの知らない間に鍵がバッグから抜き取られたようなことは」
彼女の顔に戦慄《せんりつ》がはしった。「まあ、何が起ったんですの――」彼女は言いはじめたが、ヴァンスがさえぎった。
「まあまあ、ディラードさん。あなたにご心配いただくことは何もないんですよ。私達はただ、今度の捜査に結び付く、ほとんどあり得ないようなことを一つ一つ除外して行く仕事をしているだけなんです。――それで、ゆうべ誰かがあなたの鍵を取って行くことはあり得たでしょうか」
「あり得ませんわ」彼女は不安げに答えた。「八時に劇場に行って、バッグはずっと手もとに持っておりましたの」
「鍵を最後にお使いになったのは」
「昨夜、夕食のあと。ちょっとメー夫人のご様子を見に行って、おやすみを言って来たんです」
ヴァンスはかすかに眉をひそめた。この話が、彼の推理していた考えとうまく合致《がっち》しないのが私には判った。「夕食のあとで鍵をお使いになって」彼は要約して言った。「その後昨夜はずっとハンドバッグの中に入れておいて、一度も目の届かないところにお離しにならなかった。――こういうわけですね、ディラードさん」
彼女はうなずいた。「そしてバッグはお芝居のあいだずっと膝の上に持っていました」彼女は言い足した。
ヴァンスは考え込んだ様子でハンドバッグを見やった。「そうですか」彼は軽く言った。「鍵物語はこれでおしまいです。――さて今度はあなたの伯父上をもう一度お邪魔して来ます。どうですか、あなたに先鋒《アヴァン・クーリエ》をつとめて頂いた方がいいでしょうか。それとも予告なしで砦《とりで》を急襲しましょうか」
「伯父は居ませんの。リヴァサイド・ドライヴに散歩に出かけましたのよ」
「アーネッスンさんも、きっとまだ大学から帰っておいでじゃないのでしょうね」
「ええ、でもお昼ごはんには帰りますわ。火曜日は午後お授業がないんです」
「その間に、それじゃ、ビードルと賞讃すべきパイン氏にお目にかかるとしましょう。――あなたは、もしよかったらドラッカー夫人を訪ねておあげになると、大喜びなさると思いますよ」
当惑そうに微笑して、ちょっとうなずくと彼女は地下室のドアから出て行った。
ヒースがすぐにビードルとパインを探しに行って客間に連れて来ると、ヴァンスが前夜のことを質問した。だがこの二人からは何の情報も得られなかった。二人とも十時に寝てしまい、部屋はそれぞれ四階のわきの方にあって、ディラード嬢が劇場から帰って来たのも知らなかったという。ヴァンスは弓場で物音が聞えなかったか質問した。たとえばドラッカー家の網戸が十二時ごろバタンと閉まったかも知れないのだがと遠回しに訊いた。しかし、二人ともその時刻にはぐっすり眠っていたことは明らかだった。とうとう、いま訊かれたことは誰にももらしてはならないと注意されて、二人は放免された。五分後にディラード教授が帰って来た。我々を見て驚いた様子だったが、愛想よく挨拶した。
「マーカム君、こんどだけは私が仕事に熱中しとらん時間を選んで訪ねてくれたね。――また何か訊きたいんだろう。そんなら、書斎に来て訊問してくれたまえ。あっちの方が具合がいいよ」
彼は先に立って二階に案内し、一同が席につくと、棚からポートワインを出して注ぎ分けてくれ、是非一杯つきあえと言ってきかなかった。
「ドラッカーも居るといいのに」彼は言った。「あの男は私の『九十六年もの』が好きでね。もっとも、ほんの時たましか飲もうとせんのだが。ポートワインはもっと飲めと言ってやるんだが、体に悪いですからとか言って、そう思いこんでいるんだね、私の痛風のことまで持ち出すのさ。しかし、痛風とポートワインは何も関係がないよ――そんな考えはまったくの迷信だ。ちゃんとしたポートはぶどう酒の中でも一番体にいいもんだ。ポートの本場に痛風はないそうだよ。適当なことをして、ちっとは体を刺戟した方があの男のためになると思うがねえ。……気の毒にな。あいつの頭は自分の体を燃やしつくす炉みたいなものだ。素晴しい頭を持っとるよ、マーカム。あの頭に歩調を合せるだけの体力があったら、今ごろは世界的な大物理学者だね」
「さきほどあの方は」ヴァンスは言った。「光の干渉に関する量子論の修正などとても無理だとあなたにやっつけられた、と言っておいででしたよ」
老人は気の毒そうに笑った。
「ああ。そういう批評をしてやると、あの男が最大の努力をするように拍車をかけることになると思ったのさ。本当は、あの男は革命的な発見の手がかりをつかんどるよ。すでになかなか面白い定理をいろいろと発見した。……しかし、あんた方はこんなことを論じにやって来たんじゃなかろう。何をしてもらいたいのかね、マーカム。それともニュースでも持って来てくれたのかな」
「残念ながらニュースはございません。今日お邪魔いたしましたのは、また先生にご助力頂きまして……」マーカムはその先をどう続けるべきかに迷う様子だった。そこでヴァンスが質問者の役を引き受けた。
「昨日こちらにお伺いしてから、少し状況が違ってまいりまして。一つ二つ新しいことが起りましたもので、あるいはこちらのご家族の方々の昨夜のご動静を調べさせて頂きましたら、私どもの捜査上、好都合ではなかろうかと存じまして。いや実は、そのご動静が事件のある要因を左右するものになっていたかも知れないのです」
教授はやや驚いて顔を上げたが、批評がましいことは何も言わなかった。ただ、「そんなことならいくらでも教えて差上げよう。この家の誰のことだね」とだけ言った。
「特にどなたということではございません」ヴァンスは急いで安心させるように言った。
「なるほど、待ってくれよ。……」教授は古いメアシャムのパイプを出して煙草を詰めはじめた。「ベルとシガードと私の三人だけで六時に夕飯をとった。七時半にドラッカーが寄って、二、三分してからパーディーが来て。それから八時にシガードとベルが劇場に行って、十時半にドラッカーとパーディーが帰ったな。私は十一時ちょっと過ぎに寝た。その前に家の戸締りをした――パインとビードルは先に寝《やす》ませてあったものでね。――まあ、私に言えることはこれぐらいのもんだ」
「ベルさんとアーネッスンさんは、劇場へご一緒においでになったわけですね」
「そう。シガードはめったに芝居など見物せんのだが、行く時はいつもベルを連れて行くんでね。行くならイプセンの劇だ、たいてい。なにしろ、たいへんなイプセン気ちがいでねえ。アメリカで育ったくせに、ノルウェーびいきはちっとも変っとらん。内心は、生れた国にひどく愛国心を感じとるんだね。オスロ大学のどんな教授にも劣らんくらい、ノルウェー文学を心得とるし、大好きな音楽はグリークのものだけだ。あいつが音楽会や芝居に行く時は、プログラムは大方ノルウェーものだと思ってまちがいないよ」
「それでは、昨夜ごらんになったのもイプセン劇でございますね」
「たしか『ロスメルスホルム』だ。近ごろニューヨークでは、またぞろイプセンばやりだ」
ヴァンスはうなずいて、「ウォルター・ハンプデン一座がやっていますね。――アーネッスンさんとベルさんが劇場からお帰りになってから、どちらかにお会いになりましたか」
「いや、会わない。だいぶ遅く帰ったんじゃないかな。今朝ベルに聞くと、芝居が終ってからプラザでめしを食って来たそうだ。しかし、おっつけシガードも帰って来るだろうから、詳《くわ》しいことはそっちから聞いたらいいだろう」教授は辛棒強く話してはいたが、質問が事件とは一見無関係な性質をおびているので、いらいらしていることは明らかだった。
「恐れ入りますが」ヴァンスは追及した。「昨夜ドラッカーさんとパーディーさんが見えた時の事情をお聞かせ下さいませんでしょうか」
「べつに変った用事で訪ねて来たわけじゃない。よく宵のうちに寄って行くんだ。ドラッカーは量子論の修正のことで自分のやったことを私と論じに来たわけだが、パーディーが来たもんだから、その話は止めになった。パーディーは数学は一応出来るけれども、高等物理学となると手に余るんだ」
「ドラッカーさんかパーディーさんは、ベルさんが芝居にお出かけになる前に、ベルさんとお会いになったでしょうか」
ディラード教授はゆっくりとパイプを口から離し、むっとした顔つきになった。
「どうも何だね」腹立たしそうに彼は答えた。「そういう質問に答えてみたって、何の役に立つとも思われんがね。――しかしまあ」少し寛大な調子になって彼は付け加えた。「私の家のくだらん家庭の事情が何か君らのためになるというなら、大いに詳しい話を聞かせてもやるぞ」彼はちょっとヴァンスを見やった。「会ったよ。ゆうべはドラッカーもパーディーもベルに会った。シガードも入れて皆で一緒になって、芝居の時間になるまでこの部屋で三十分ばかり喋っとった。イプセンの才能についての議論までとび出して、ドラッカーがハウプトマンの方が偉いと言って譲らんものだから、アーネッスンが大いに腹を立てたりしとった」
「そうしますと、八時にアーネッスンさんとベルさんがお出かけになって、あなたとパーディーさんとドラッカーさんが三人でお残りになった、というわけですね」
「そのとおり」
「それから十時半にドラッカーさんとパーディーさんがお帰りになった、というお話でございましたね。一緒にお帰りになったわけですか」
「二人で階下に下りて行った」教授は少なからず辛辣《しんらつ》な答え方をした。「ドラッカーは家に帰ったはずだが、パーディーはマンハッタン・チェス・クラブに約束があった」
「ドラッカーさんが家へお帰りになったにしては、ちょっと早すぎるようですねえ」ヴァンスは言った。「大事な問題を論じにおいでになってお帰りになるまでに充分にお話になる機会がなかったわけですからねえ」
「ドラッカーは元気じゃないのだ」教授はふたたび辛棒強く言った。「いつか教えたが、あの男は疲れやすいんだ。それに、ゆうべはいつもよりくたびれておった。実際、私にとても疲れたからすぐ寝ますとか言っておったよ」
「なるほど……話が合いますね」ヴァンスは呟やいた。「つい先ほど、あの方は昨日は朝六時から起きて仕事をなすったとお言いでした」
「驚くことはない。一たん何かの問題が頭にうかぶと、あの男は早速それに取りかかるからね。かわいそうに、数学に情熱をもやして体力を消耗しても、それとバランスをとる正常な反応があの男には欠けておるんだな。時々私はあの男の精神安定は大丈夫かしらと心配になることがあるよ」
ヴァンスはなぜかこの点から話題をそらした。
「昨夜パーディーさんはチェス・クラブに約束がおありになったとのお話でしたが」新しい煙草に注意深く火をつけ終ってから彼は言った。「どういう用件か、あなたにお話しになりましたか」
教授は鼻先であわれむように笑った。
「たっぷり一時間は聞かされたね。ルビンシュタインとかいう男が――チェス界の天才らしいが、今アメリカに来てるんだね――その男がパーディーと模範試合を三回やってくれると言うんだ。その最終回が昨日だったのさ。二時に始まったが六時に指しかけになった。八時に再開のはずだったが、ルビンシュタインがどこか下町で晩餐会《ばんさんかい》に招ばれておったから、十一時再開という次第になった。パーディーはやきもきさ。なにしろ第一戦は負けで、第二戦は引き分けだからな。もし、ゆうべの試合に勝てばルビンシュタインと互角《ごかく》ということになるんだから。六時に指しかけになった時の形勢では大いに有望だと思ったらしい。ドラッカーはそう言わなかったが。……クラブへはまっすぐ行ったはずだよ。ドラッカーと二人でここを出たのは十時半を過ぎとったからね」
「ルビンシュタインは手ごわいですよ」ヴァンスは言った。また新たな興味を感じたらしく、かくそうとしても、声に表われていた。「チェスの名人クラスの一人です。一九一一年にサン・セバスチァンでカパブランカを負かしましたし、一九〇七年から一二年まで、ラスカー博士が持っていた世界選手権者のタイトルに挑戦できる者は当然この人だということになっていましたよ。〔アキバ・ルビンシュタインは今日でもそうだが、当時ポーランドのチェス選手権者であり、国際的な大家の一人であった。一八八二年ロズの近くのスタヴィスクというところで生れ、一九〇六年オステンドで開かれたトーナメントで国際的にデビューした。最近アメリカに来て更に連戦連勝を飾った〕……そうですねえ、彼を負かしたとなると、パーディーにとっては鬼の首をとったようなものですからね。ルビンシュタインと試合になったというだけでも、こりゃあ大変な光栄ですよ。パーディーは定跡《じょうせき》で有名になりましたけれども、自分はA級になったことがないですからね。――ところで、昨夜の結果はお聞きになりましたか」
ふたたび教授の口もとにかすかな寛大ぶった微笑がうかぶのに私は気付いた。まるで偉大な知者が子供の馬鹿げたはね回りを慈愛ぶかく見下すとでもいった印象があった。
「聞かない。訊きもしなかったよ。まあ、パーディーの負けだろうな。ドラッカーが指しかけの局面の弱点をついたんだが、いつになく自信がありそうだったからねえ。ドラッカーは生れつき慎重だから、立派な根拠がなきゃ、めったにはっきりした意見を吐くような男じゃない」
ヴァンスはやや驚いて眉を上げた。
「パーディーさんがドラッカーさんと指しかけの試合を分析したり、結末がどうなるかを論じたりなすったんですか。そんなことをするのは不徳義なばかりじゃなくて、競技資格をとり上げられるんじゃないでしょうか」
「私はチェスの細かい規則は知らんがね」ディラード教授は渋い顔をしてやり返した。「パーディーはそういう点で不徳義なことをやったことにはならんと思う。それに、実際のところ、たしかパーディーがあそこのテーブルで駒を並べておって、ドラッカーが見物に行った時も、パーディーは何も助言せんでくれと頼んでいたよ。あとで局面の話が出たが、完全に一般論に止まっていた。何か特別の手の話が出たようなことは、たしかになかった」
ヴァンスはゆっくりと乗り出して、あの私がずっと以前から昂奮を押しかくしているしるしだと気付いていた、張りつめた慎重さで煙草をもみ消した。それから、さりげなく立ち上って片隅のチェス盤の方に歩いて行った。彼はそこにじっと立ち止まって、黒白の四角を交互に並べた精巧な寄木細工のチェス盤の上に片手をのせていた。
「パーディーさんがこの盤で局面を分析しているところへドラッカーさんがのぞきに来られた、というわけですね」
「ああ、そのとおり」ディラード教授は無理に丁重《ていちょう》さをよそおって答えた。「ドラッカーは彼の向う側に坐って駒組みを調べた。そして何か言い出そうとしたから、パーディーが何も言わんでくれと頼んだわけだ。十五分ばかりしてからパーディーは駒を崩した。その時にドラッカーが試合は負けだと言った――見かけは有利そうだが、根本的に弱い駒組みに自分を追い込んでしまっとると言ったよ」
ヴァンスは盤の上を何気なくなでまわしていたが、箱から駒を二つ三つ、玩具《おもちゃ》にでもするようにつまみ出した。「正確にドラッカーさんのおっしゃったことをご記憶でしょうか」視線を落したまま彼は訊いた。
「大して気をつけて聞いていなかったからね――私にゃあまり大事な問題じゃないわけだから」この返事にはあらそい難い皮肉が感じられた。「しかし、思い出せるだけを言うとだ、ドラッカーはゲームが超特急で運ぶならパーディーの勝だが、ルビンシュタインは名だたる遅指しで慎重型の選手だから、当然彼はパーディーの駒組みの弱点を発見するにちがいないと言った」
「パーディーさんはそう言われて腹を立てましたか」ヴァンスはぶらぶらともとの椅子のところに戻って、ケースから煙草をもう一本抜きとった。だが腰はおろさなかった。
「怒った――ひどく怒った。ドラッカーはあいにくとぶっきら棒な男だからね。それにパーディーも自分のチェスのこととなると神経過敏だ。実際、ドラッカーの酷評に腹を立てて真青になったよ。しかし、私が自分で話題を変えてやった。だから帰る時にはどうやらその出来事は忘れてしまっとったようだ」
我々はそのあと数分間しか居なかった。マーカムは教授にたっぷりと詫び言を言って、我々の訪問でさぞ迷惑だったろうと償《つぐな》いをつけようとした。彼はヴァンスがパーディーのチェス試合のことでべらべらといつまでも細かい質問をしたのが愉快でなくて、客間に下りると早速文句を言った。
「君がこの家の住人がゆうべどこにいたかいろいろ質問するのはわかるがね、チェスのことでパーディーとドラッカーが喧嘩したことをどうのこうの訊いたのは、ありゃ一体何のためだね。僕らは噂話のほかに、やるべきことはいくらでもあるんだぞ」
「噂話を憎むことはテニスンのイザベルの静かな一生に錦上《きんじょう》花をそえもしたわけだ」ヴァンスはいたずらっぽく言った。「だがね――僕に言わせるとだよ、マーカム――僕らの生活はイザベルみたいなわけにゃ行かないんだ。真面目な話だけど、僕の噂話にゃちゃんと筋道が立っていたんだ。僕は他愛もないお喋りをした――しこうして、僕は知った」
「何を知った」マーカムは鋭く訊いた。
用心深く廊下に目をやってから、ヴァンスは身を乗り出して声を低めた。
「親愛なるリュクルゴス君〔スパルタの立法者〕、僕が知ったのはね、書斎のチェスの駒の中から黒のビショップがなくなっていて、しかもドラッカー夫人のドアに置いてあった駒が二階にあった他の駒とマッチするということなんだ」
第十五章 パーディーとの会見
――四月十二日、火曜日、午後零時三十分
この一片のニュースはマーカムに深刻な効果をもたらした。昂奮した時いつもそうなのだが、立ち上って両手を後ろで組んで、行ったり来たりしはじめた。ヒースはヴァンスが明らかにした事実の重大さを知るのは遅かったが、彼もまた、猛然と葉巻をふかしはじめた。頭の中でしきりにいろいろな事実を苦心して並べ直している証拠だった。二人ともまだ組織立った考えを作りかねているうちに、廊下の裏手のドアが開いて軽い足音が応接間に近付いて来た。姿を現わしたのは、ドラッカー夫人の家から帰って来たベル・ディラードだった。心配顔で、じっとマーカムに目を向けて彼女は訊いた。
「今朝アドルフに何をおっしゃいましたの。ひどくおびえていますのよ。まるで泥棒の心配でもするみたいに、ドアの鍵や窓の掛け金をいちいち調べまわったりして。それにグレトに夜は戸締りを厳重にして寝ろなんて言って縮み上がらせてますのよ」
「ははあ、メンゼル君に注意してましたか」ヴァンスが考えこんだように言った。「なかなか面白いな」
彼女はすばやく視線を彼に移した。「ええ、でも私には何も説明してくれませんの。昂奮して、何かありそうなんです。一番おかしいのは、お母さまのところにどうしても行こうとなさらないんです。……どういうわけなんでしょうか、ヴァンスさん。まるで恐ろしいことがさし迫ってでもいるみたいな感じでしたのよ」
「さあ、どういうわけでしょうか」ヴァンスは低い悲しげな声で言った。「こわくて僕にもその説明は手もつけられませんねえ。万一、僕の説明が間違いでもしたら……」彼はしばらく黙っていた。「どうなるか待つより仕方ありません。今夜は多分わかると思いますが。――しかし、お嬢さんが心配なさることは無いんですよ」慰め顔に彼は微笑した。「ドラッカー夫人はどうでしたか」
「大分およろしいようですわ。でもまだ何かご心配がありますのね。きっとアドルフのことだと思いますわ。なぜって、私が居る間じゅうアドルフのことばかりお話になって、近ごろあの子に何か変った様子はないかって、何度もお訊きになりますのよ」
「そりゃ、こんな際ですからごく自然なことですよ」ヴァンスは答えた。「しかし、あの人の病的な態度に釣りこまれちゃいけませんね。――ところで、話は変りますが、昨夜あなたは劇場にいらっしゃる前に書斎で半時間ばかりお過しになったそうですね。お嬢さん、その間あなたのハンドバッグはどこにありましたか」
訊かれて彼女はびっくりしたが、一瞬ためらってから答えた。「書斎に入って来た時に、コートと一緒にドアの傍の小さなテーブルの上に置きました」
「鍵の入った、とかげの革のバッグですね」
「ええ。シガードが夜会服を嫌うものですから、いつも一緒に出かける時は私も昼間の服装をいたしますの」
「すると、その三十分間はバッグはテーブルの上にお置きになって、そのあと昨夜はずっと手もとに持っておいでになったわけですね。――それで、今朝はどうでしたか」
「朝ごはんの前に散歩に出かけましたけれど、ずっとバッグは持っておりました。それから玄関の帽子かけのところに三十分ばかり置いておきました。でも、十時ごろメー夫人のところへ出かける時に持って出ました。その時にあのちっちゃなピストルが返してあるのを見付けましたの。それで、お訪ねするのは止めにして、バッグはあなたとマーカムさんがいらっしゃるまで地下の弓術室に置いてありました。そのあとはずっと手もとに持っております」
ヴァンスは奇妙な言い方で礼を言った。
「これでバッグの遍歴《へんれき》のあとはすっかり判ったわけですから、どうぞなるべくそのことは忘れてしまって下さい」彼女が何か質問しそうになったが、ヴァンスは彼女の好奇心を予知して、いそいで言った。「ゆうべはプラザで夜食をおとりになったとか、伯父さんから伺いましたが。お帰りになったのは、ずいぶん遅かったでしょうね」
「シガードと一緒の時は、どこへ行っても遅くまで居ませんのよ」母親がやさしい不平を言う時みたいな口調で彼女は答えた。「シガードは夜遊びとなると何でも根っから嫌いなんです。たのむからもっと遊んで帰りましょうって言いましたの。ところがあんまり情ない顔をするもんですから、無理に居るわけに行かなくて。それで、本当に私たち十二時半に帰って来ましたのよ」
ヴァンスは愛想のいい微笑をうかべて立ち上った。「くだらない質問をいつまでも、よくこんなに辛棒して下さって、どうも有難うございました。……さて、これからちょっとパーディーさんのお宅に上って来ましょう。何かいいことを教えて頂けるかどうか。たしか、いまごろはいつもご在宅でしたね」
「きっとおいでですわ」彼女は玄関まで我々を送って出た。「皆さんがいらっしゃるちょっと前に見えてらしたんですよ。これから帰って手紙書きをするんだっておっしゃってました」
いよいよ出かけようとする時、ヴァンスが立ち止まった。「ああ、そうだ。一つおたずねするのを忘れていました。ゆうべアーネッスンさんと帰っておいでになった時、どうして十二時半だとおわかりになりましたか。腕時計はなさらないようですが」
「シガードが言いましたの」彼女は説明した。「私、早く帰らされて少し怒ってましたの。それで玄関を入った時に意地悪のつもりで一体何時なのって訊きましたのよ。そうしたら腕時計を見て、十二時半だよって言ったんです。……」
その時、玄関のドアが開いてアーネッスンが入って来た。わざと驚いたふりをして我々を見つめていたが、ベル・ディラードの姿に気がついた。
「やあ、きみか」楽しげに彼は呼びかけた。「憲兵隊《ジャンダルムリ》につかまったね」面白そうな顔つきで我々をちらりと見た。「何の秘密会議かな。いまにこの家は本当の警察署になるぞ。スプリッグ殺しの手がかり探しですか。ハ。秀才青年、嫉妬に狂う教授に葬られる、とか何とか言うわけですな。……あんたがた、狩の女神ダイアナを拷問にかけてたんじゃないでしょうな」
「そんなことじゃないのよ」令嬢は声を大きくした。「とっても思いやりがおありになってよ。あなたが封建的だって皆さんにお話してたところなの――私を十二時半に家に帰らせてしまったって」
「こりゃ大分寛大にしすぎたらしいね」アーネッスンはにやりと笑った、「君みたいな子供の外出時間にゃ遅すぎた」
「誰かさんみたいにお爺さんの――お爺さんの数学気ちがいじゃありませんからね」やや昂奮して彼女は二階に馳け上ってしまった。
アーネッスンは肩をすくめて、彼女の姿が見えなくなるまで後を見送っていた。それから皮肉な眼つきでマーカムを見つめて、
「ところで、どんな嬉しいニュースがあるんだい。最新の犠牲者のことで知らせでもあったの」彼は先に立って客間に入った。「いや、あの青年は惜しいねえ。遠くに行ってしまった。あんな青年がジョン・スプリッグなんて名前をつけられるなんて、ひどい話だよ。ピーター・パイパーの方がまだましだ。ピーター・パイパーなら胡椒《こしょう》を食っただけで済んだんだ。いくら何だって胡椒の話から殺人をでっち上げるわけにゃ行くまい。……」
「今日はニュースは無いんだよ、アーネッスン」マーカムは相手の軽薄な態度ににがりきっていた。「万事昨日のままだ」
「すると単なる儀礼的訪問というわけだな。待って昼を食って行くかい」
「僕らには」マーカムは冷たく言った。「こっちで適当と考える方法で事件を捜査する権利がある。同時に僕らの行動について一々君にことわる義務はない」
「そう。何か頭の痛いことが起ったんだな」アーネッスンは嘲《あざ》けるように言った。「僕は君たちの助手にしてもらったつもりでいたがねえ。すると小生は暗闇におっぽり出されるわけだな」彼は念入りな溜息をついてパイプをとり出した。「しりぞけていいパイロットかい。ビスマルクだの僕だのは。悲しむべしだな」
ヴァンスは客間の入り口のあたりで夢でも見るような様子で煙草をふかしていた。アーネッスンの不平など聞えてもいない風だった。ところが、つかつかと部屋に入って来て、
「いやあ、まったくだよ、マーカム、アーネッスンさんのおっしゃるとおりだよ。何でもお知らせする約束だったろう。それに少しでも手伝って頂こうと思うんだったら、あらゆる事実をお知らせしなきゃ」
「そんなことを言ったって」マーカムは抗議した。「昨夜の出来事を口にすると危いかも知れないなんて言ったのは君じゃないか……」
「そうだよ。ただあの時はアーネッスンさんに約束したことを忘れていたんだ。それに、こちらは慎重な方だから、その点ご信頼してまちがいないよ」それからヴァンスはドラッカー夫人の前夜の経験を詳細に話して聞かせた。
アーネッスンはうっとりと聞き入っていた。私は彼の嘲笑的な表情がだんだん薄れて、そのあとに、あれこれと思案にふける陰鬱な顔つきが現われて来るのに気がついた。数分間、パイプを手にしたまま黙然と考えこんでいた。
「こいつは確かに問題の重要な因数だね」ようやく彼は口を開いた。「これで定数が変るねえ。どうやら、こいつは新しい角度から計算し直す必要があるらしいですな。ビショップは僕らの中に居るらしい。しかし一体なぜメー夫人のところに現われたのかなあ」
「夫人はロビンの死の時間とほとんど時を合せて悲鳴をお上げになったそうですね」
「あはっ」アーネッスンは起き上った。「つまりこういうわけですな。コック・ロビンが死んだあの朝、夫人はビショップの姿を見てしまった。そこで後になって戻って行って夫人の部屋のドアの把手《とって》にのっかって、黙ってろと警告した」
「まあ、そんなところでしょうかね。……これであなたの公式を作るための整数はそろったでしょうか」
「黒のビショップとやらを拝見におよびたいですな。どこにあります」ヴァンスはポケットに手を入れて、例の駒をとり出した。アーネッスンは熱心な顔つきでそれを受け取った。眼が一瞬ぎらりと光った。手の中で裏返してみて、それからヴァンスに返した。
「この駒に見覚えがおありのようですね」ヴァンスが甘い声で言った。「ご記憶のとおりです。書斎の駒のセットから借りて来たものですよ」
アーネッスンはゆっくりとうなずいた。「たしかにそうですね」不意に彼はマーカムの方を向いて、そのやせた顔で皮肉な横目を作った。「そこで僕を暗闇にほうり出したわけだね。容疑ありってわけだね。こりゃ恐れ入った。とんだ数学者の名折れだったね。近所にチェスの駒を配って歩くなんて凶悪犯罪はどんな刑に値《あたい》するんだい」
マーカムは立ち上って廊下の方へ歩いて行った。「君には容疑はないよ、アーネッスン」彼は不機嫌をかくそうともしなかった。「ビショップをドラッカー夫人のドアに置いて行った時刻は十二時だからね」
「それなら僕は三十分のちがいで失格か。そりゃがっかりしたろう、お気の毒様」
「例の公式ができたらお聞かせ下さい」一同が玄関を出る時、ヴァンスが言った。「これからちょっとパーディーさんにお目にかからなくちゃなりません」
「パーディーに。おほ。ビショップの件につきチェスの専門家を打診するというわけですか。わかります、わかります――すくなくとも簡明|直截《ちょくさい》でいいじゃないですか」
彼はせまいポーチに立って、我々が道を横切る間、日本の鬼瓦みたいに我々を見送っていた。
パーディーはいつもの静かないんぎんさで我々を迎えた。習い性となってしまった悲劇的な、失意の男の表情がいつもより目立っていた。そして書斎で我々に椅子をすすめる彼の態度は、もはや人生に興味を失って、ただ機械的に生活の動作をくりかえすにすぎなくなった人のそれであった。
「今日お伺いしましたのはですね」ヴァンスは始めた。「昨日の朝リヴァサイド公園でスプリッグが殺された事件について、できるだけ情報を集めたいと思ったわけなんです。これからお訊きしますことは一つ一つ立派な根拠があっておたずねするわけですから……」
パーディーはあきらめたようにうなずいた。「どうぞご遠慮なく何のことでもお訊き下さい。新聞は読みましたから、大変な問題に直面しておいでになるのは、重々わかっております」
「ではまず、昨日朝七時から八時までの間どちらにおいででしたか、お聞かせ下さい」
パーディーの顔にかすかに血が上ったが、低いなだらかな声で答えた。「ベッドに寝ておりました。九時近くまで起きませんでした」
「朝食の前に公園を散歩なさるご習慣ではありませんでしたか」〔これはきっとヴァンスの当てずっぽうだと思う。パーディーの習慣の話が出たことは、それまでの捜査中に一度もなかったのだから〕
「おっしゃるとおりです」一瞬のよどみもなく彼は答えた。「しかし昨日は行きませんでした――前の晩に少し遅くまで仕事をしていたものですから」
「スプリッグ事件はいつお聞きでしたか」
「朝食の時でした。コックが近所の噂を聞かしてくれました。それからサン新聞の早版の夕刊で、事件の公式発表を読みました」
「そして、むろんビショップの手紙の写しは今朝の新聞でごらんでしょうね。――パーディーさんはこの事件についてどうお考えでしょうか」
「よくわかりませんな」この時はじめて彼の光を失っていた眼に生気がきざした。「妙なことになったもんです。数学上の確率から言っても、互いに関係のある事件がこう続いて起って、しかも一致するということは、まるで考えられませんね」
「まったく」ヴァンスは同意した。「ところで数学のことですが、あなたはリーマン・クリストフェルのテンソルのことはよくご存知なんでしょうか」
「聞いています」相手は認めた。「ドラッカーが世界線の本の中で使っていますね。しかし、私の数学は物理学向きのものと違っていましてね。私はチェスに心を奪われさえしなかったら」――彼は悲しげな微笑をうかべた――「きっと天文学者になっていたでしょう。さまざまな因子を操作して複雑なチェスの組合せを考えることのほかでは、人間にとって最大の精神的満足をもたらすのは、何といっても宇宙を測定したり新しい天体を発見したりすることではないでしょうか。私なんかは、アマチュア観測用に屋上の小屋に五インチの赤道儀式の天体望遠鏡を置いているくらいです」
ヴァンスはパーディーのことばにじっと耳を傾けていた。そして、最近ピカリング教授が位置決定をした海王星外方の新星|O《オー》のことを数分間論じ合った。〔この二人の議論があってから、ピカリング教授は天王星の軌道の狂いから、更に二つの海王星外方の新星PおよびSの位置決定を行った〕マーカムは迷惑そうだし、ヒース巡査部長もじれていた。ようやくヴァンスは話題をテンソル公式に戻した。
「あなたは先週の木曜日にディラード家でアーネッスンさんがドラッカーとスプリッグを相手にこのテンソルの話をなすった時、ご一緒だったそうですね」
「そう、たしかにその時に話が出ましたね」
「スプリッグとはどの程度のおつき合いですか」
「ほんの時折り。アーネッスンと一緒の時に一、二度会ったきりです」
「スプリッグも朝食前にリヴァサイド公園を散歩する習慣があったようですね」ヴァンスは何気ない様子で言った。「そこでお会いになったことはありませんか」
相手のまぶたがかすかに震えた。しばらくためらったあげくに、彼は答えた。「一度もありません」
ヴァンスはこの否定のことばに別段関心を示さなかった。立ち上って正面の窓のところへ行って外を眺めた。「ここから弓場が見えるのかと思っていました。しかし、この角度だとまるで見渡せないわけですね」
「ええ、なかなかうまく人目につかないようになっていますよ。塀にそって空地まで作って、塀ごしにのぞけないように出来ています。……ロビン殺しの目撃者があるかどうかをお考えなんですね」
「ええ、まあいろいろね」ヴァンスは椅子にもどった。「あなたは弓をやりにはいらっしゃらないんですな」
「私にはちょっと手に余ります。以前ベルさんに誘われてやってみたことはありますが、あまり有望な弟子じゃなかったようです。でも、あの人と何度か試合をしたことがありますよ」
パーディーの声が妙に柔らかになった。私はうまく説明できないが、何となく彼がベル・ディラードに気があるのではないかという感じがした。ヴァンスもそんな印象を受けたと見えて、ちょっと間をおいて彼は言った。
「きっとおわかり頂けると思いますが、私どもは不必要に他人の私事を詮索《せんさく》する考えはございません。しかし、いま捜査中の二つの殺人事件につきましては、まだ動機の点がはっきりいたしておりません。またロビン殺しの動機は最初ごく表面的にディラード嬢の愛情を競《きそ》い合ったライヴァル関係にあると考えられておりました。そういう次第で、令嬢ご自身の選択はいずれにあったか、その辺にまつわる真相をごく一般的にでも知ることが出来ましたら、大いに参考になるんですが……ディラード家のご友人として、たぶんご存知と思いまして、その点を打ち明けてお話し頂ければ有難いんですが」
パーディーの視線は窓の外に移って行った。かすかな溜息がもれて出た。「私はずっと彼女とアーネッスンがいつかは結婚するだろうと思っていました。もっとも、推測にすぎませんがね。いつか彼女は、三十になるまでは結婚のことなんか考えないなんて、断言していましたよ」〔ベル・ディラードがどんな目的でパーディーにそんなことを言ったのか、容易に見当がつくというものだ。明らかに彼は、その知的生活におけると同様、感情生活においても失敗者だったのだ〕
「そうしますと、あなたは彼女が若いスパーリングに対して真剣な気持ちを抱いていたとはお考えにならないわけですね」
パーディーは首を振った。「もっとも、あの男が現在受けているような受難は、女の感傷にひどくアッピールするものがありますね」
「ディラード嬢は今朝あなたが彼女を訪問なすったとお言いでしたが」
「私はたいてい昼間にあの家に寄ってみますんでね」彼は明らかに不愉快がっていたし、どうやら困惑してもいた。
「あなたはドラッカー夫人はよくご存知ですか」
パーディーはチラリと不審の眼差しをヴァンスに向けた。「それほどでもありません」彼は言った。「むろん何度か会ったことはあります」
「夫人のお宅を訪ねたことがおありなんですか」
「何度も行ったことはありますが、いつもドラッカーに会うためでしてね。私はずっと以前から数学とチェスの関係に興味を持っています。……」
ヴァンスはうなずいた。「ついでながら、昨夜のルビンシュタインとの試合はどうなりましたか。今朝は新聞を見てないんですが」
「四十四手で私が投げました」相手はあきらめたように言った。「指しかけになって私が封じ手をした時にまったく見落していた攻撃の弱点を、ルビンシュタインに見付けられました」
「ゆうべあなたがドラッカーさんと形勢のことでお話をなさった時に、ドラッカーさんは結果を予測なさったそうですね」パーディーにとってどんなにそれが痛いところだったか知っているくせに、なぜヴァンスはこうもはっきりとその話を持ち出すのか、私にはわからなかった。マーカムも、ヴァンスの許しがたいほど気のきかない言葉に、眉をひそめていた。
パーディーは赤面して、坐り具合を直した。「ゆうべドラッカーは言葉が過ぎましたよ」その口ぶりにはたしかに毒が感じられた。「あの人は試合には出ませんが、勝負のついていない試合のことを云々《うんぬん》するのはタブーだぐらいは知っていてほしいものです。もっとも、彼の予言で得をする点はほとんどなかったんです。私は封じた手で充分に局面が打開できるつもりでいたんですが、ドラッカーは私より先を読んでいましたよ。彼の分析は不思議に深かったですなあ」彼の調子には自己|憐憫《れんびん》の嫉妬があった。そして私は、彼がその外見上の温厚さが許すかぎりのはげしさでドラッカーを憎んでいるのを感じ取ったのであった。
「試合はどれぐらいかかりましたか」ヴァンスがさりげなく訊いた。
「一時ちょっと過ぎまでかかりました。ゆうべの対局では十四手しか動きませんでしたよ」
「見物は沢山いましたか」
「いつになく多かったですな、遅かったのに」
ヴァンスは煙草を消して立ち上った。一同が玄関に出ようと階下の廊下を歩いている時、ヴァンスが不意に立ち止まって嘲《あざ》けるように興味をうかべた眼つきで彼を見すえて言った。
「ねえ、黒のビショップが昨夜も真夜中に現われたんですよ」このことばは驚くべき効果をもたらした。パーディーは張り手を食ったように直立してしまい、頬は白墨《はくぼく》のように白くなった。燃えさかる石炭のような眼で、まる三十秒ばかりヴァンスを見つめていた。唇がわずかに震えていたが、ひと言も出ては来ない。やがて、超人的な努力のあげく、とでもいわんばかりの様子で、こわばったまま向きを変えて戸口に行った。ぐいとドアを開け、把手《とって》を持って我々が表に出るのを待った。
地方検事の車が七十六番街のドラッカーの家の前に置いてあったのだが、一同がリヴァサイド・ドライヴをそちらに向って歩いている時、マーカムがヴァンスに向って、なぜあんなことをパーディーに言ったのかと鋭く質問した。
「なに、僕はびっくりさせてパーディーが何か思い当りや心当りのある顔をしやしないかと思っただけなんだ。ところが、どうだい、マーカム、あんな効果を発揮しようとは思いもよらなかったね。驚くべき反応を示したじゃないか。わからんなあ――どうもわからんなあ。……」
ヴァンスは考えこんでしまった。だが車が七十二番街からブロードウェイにさしかかった時、彼は起き上って運転手にシャーマン・スクェヤー・ホテルに向うように命じた。
「パーディーとルビンシュタインの試合のことをもっと知りたくてたまらなくなった。べつに理由はないんだ――僕の単なる気まぐれだよ。しかし、教授にそのことを聞いた時からずっとそのことが頭にあったんだ。……十一時から一時すぎまでとはね――指しかけた試合の、それもたった四十四手の試合の残りにしちゃ、ひどく長いじゃないか」
車はアムステルダム通りと七十一番街の角のあたりに止まっていた。ヴァンスは早速マンハッタン・チェス・クラブに姿を消した。五分も待たされたあげく、やっとヴァンスは戻って来た。何かを一面にメモした一枚の紙きれを手に持っていた。だが一向に嬉しそうな顔をしていなかった。
「僕の持って回った理論はなかなか魅力的なものだったがね」彼は渋い顔をして言った。「くだらない無味乾燥な事実にぶつかって坐礁《ざしょう》しちまった。クラブの書記と話して来たんだがね、ゆうべの試合は二時間十九分を費《つい》やしたそうだよ。派手な勝負でね、煙幕を張ったり探りを入れたり、秘術をつくした攻防が見ものだったらしいよ。十一時半ごろまでは見物の霊魔どももパーディーが勝ちを握ったと思っていたらしい。ところがその時ルビンシュタインが長考一番の大傑作を演じて、パーディーの作戦をこなみじんにやっつけてしまった――ドラッカーが見事に予見したとおりにね。驚いたねえ、ドラッカーの頭脳には。……」
それでもなお、ヴァンスが自分の聞いて来ただけのことで充分満足するに至っていないのは明らかだった。次のことばが彼の不満足をよくあらわしていた。「途中で、いうなればヒースさんのまねごとをして、少しばかり徹底主義を楽しんでみようかと思いついたんだ。そこでゆうべの棋譜をかりて手を写して来たよ。いつか暇で仕方がない時にこの試合を検討してみるよ」そして彼は、私が異様に思ったほど大事そうに棋譜の写しを折り畳んで札入れにしまった。
第十六章 第三幕
――四月十二日、火曜日、四月十六日、日曜日
エリゼで昼食をとってからマーカムとヒースは下町に行った。二人にとって午後は大忙しだった。マーカムの日常の仕事はたまりにたまっていたし、ヒースはロビン事件の捜査に加えてスプリッグ事件をまかされたので、二つの別個の機関を指揮し、あらゆる報告を整理し、上役からの無数の質問に答え、しかも貪欲《どんよく》な新聞記者の大群を満足させるよう努力しなければならなかった。ヴァンスと私はユードラーでフランス現代絵画展を見たり、セント・リージスでお茶を飲んだりしてから、スタイヴスント・クラブでマーカムと落ち合って夕食をとった。ヒースとモーラン警部も八時半に加わって、非公式の会議になった。だが、十二時ちかくまで続いたにかかわらず、はっきりした結論は何も出せなかった。
翌る日も、ますますがっかりするだけで、何一つ得るところはなかった。デュボイス主任の報告が届いたが、ヒースから受け取ったレヴォルヴァーには指紋は全然残っていないとのことだった。ヘイジドン主任はそのピストルがスプリッグを射つのに使ったものだと鑑定したが、これとても我々がすでに断定していたことを裏付けただけの話だった。ドラッカー家の裏庭に張り込ませた刑事は無事の一夜を過した。誰も屋敷に出入りしたものはおらず、十一時には全部の窓が暗くなった。物音一つ聞えず、そのうちに夜が明けて料理女が起き出した。ドラッカー夫人が八時すぎに庭に現われ、九時半にはドラッカーが玄関から外出して、公園で腰を下して二時間も本を読んだ。
二日たった。ディラード家の見張りは続けられ、パーディーは厳重に監視され、ドラッカー家の裏庭の柳の木の下には毎夜一人の刑事が配置された。だが何も変った事は起らなかった。そして、ヒース巡査部長のたゆまぬ努力にもかかわらず、見込みのありそうな捜査の糸口はそのまま自動的に閉《とざ》されてしまうかと思われた。ヒースもマーカムもひどく心配していた。新聞はかつてない派手な文章で書き立てていた。警察本部と地方検事局が、この二つの華々《はなばな》しい殺人事件の謎に対して一向捜査を進捗《しんちょく》させることが出来ないでいる無能ぶりは、まさに政治的スキャンダルをまき起そうというまでになっていた。
ヴァンスはディラード教授をたずねて、一般的な線にそって事件について討論した。彼はまた木曜日の午後には、アーネッスンが懸案の公式を作るうちに、推理の出発点にでもなりそうな細目《さいもく》を発見しはしなかったかと、一時間以上も彼と話し合ってみた。だがこの会見も失望に終り、彼は私にヴァンスが率直に打ち明けてくれないと不平を言ったりしたのだった。マンハッタン・チェス・クラブを二度も訪ねて、何とかパーディーを喋らせようと誘導してみたが、二度ともいんぎん無礼な沈黙に会っただけだった。私は彼が一度もドラッカーやドラッカー夫人と連絡をとろうとしないのに気付いていた。そして私が、なぜあの二人を無視するのかと訊いてみると、彼は答えるのだった。「今はあの二人から真相が聞けるはずはない。二人とも胸に一物あるんだし、どっちもおびえ切っている。何か明確な証拠でもないかぎり、どんなに彼等を追及してみても益より害があるだけだ」
この明確な証拠は、はからずも全く意外な方面からすぐその翌日に出て来たのだった。それは我々の捜査の最後の段階が始まることを意味したのである。――それはあまりに凶悪な、魂をゆり動かす悲劇、言語を絶する恐怖、そしてあまりに無慈悲な残忍さと極悪非道のユーモアをはらんだ段階であっただけに、何年かたった今になっても、こうしてこのルポルタージュ的記録を書きながら、私はあの出来事が荒唐無稽《こうとうむけい》な邪悪さのグロテスクな悪夢ではなかったのだということが、どうしても信じきれないくらいなのだ。金曜日の午後、マーカムは絶望的な気分で再び会議を招集した。アーネッスンが許しを得て出席することになった。そして四時に、古い刑事裁判所の建物の中にある地方検事の私室にモーラン警部を含めた全員が集まった。アーネッスンはいつになく討論中おとなしかった。例の浮わついた調子は一度もとび出すことがなかった。彼は皆のことばにじっと耳を傾け、意識的に意見を述べることを避けている様子で、ヴァンスが直《じ》かに意見を求めても変ることがなかった。
三十分ばかりも会議が続いたころ、スワッカーが静かに入って来て地方検事の机の上にメモを置いた。マーカムは一目見て眉をひそめた。ちょっと考えてから彼は印刷した二枚の書式用紙にサインしてスワッカーに渡した。
「すぐこれに書き入れてベン〔警察本部の地方検事局付き主任ベンジャミン・ハンロン大佐のこと〕に渡してくれ」彼は命じた。そして秘書が外の廊下のドアを出て行ってしまうと、彼は説明した。「スパーリングが僕に会って話をしたいと言って来たんだ。重要かも知れない情報があるというんでね。この際、すぐに会ってみた方がいいと思ってね」
十分ばかりすると、市刑務所からスパーリングが治安官巡査に連れられて来た。彼はマーカムに親しげな子供っぽい微笑をうかべて挨拶し、ヴァンスに快活にうなずいてみせた。アーネッスンの姿にはびっくりもし、まごつきもしたようだったが、腰をかがめて――幾分ぎこちないように思えたが――挨拶した。マーカムが合図して椅子につかせ、ヴァンスが煙草をすすめた。
「マーカムさん」彼はいくらかはにかみながら話しはじめた。「ご参考になるかも知れないことがあって、お耳に入れておきたいと思ったもんですから。……ご記憶でしょうか、いつか私がロビンと弓術室に居た時のことを尋問なすった時に、ドラッカーさんが僕たちと別れてからどっちに行ったかご質問でしたね。その時僕は、彼が地下室のドアから出て行ったということ以外何も気が付かなかったとお答えしたんですが。……ところがですね、なにしろこのところ考える時間がたくさんあったもんで、自然、あの朝起ったことを頭の中でいろいろ思い出していたわけです。どう説明したらいいか、よくわからないんですが、いまは何もかもがずっとはっきりして来ているんです。何か――まあいわば印象というんでしょうか――そんなものがよみがえって来たんです……」彼はことばを切って敷物を見ていた。やがて、顔を上げると彼は続けた。「その印象の一つがドラッカーさんのことなんですが――申し上げたいと思ったのはそのことなんです。つい今日の午後なんですが、僕は、――そうですね、もう一度弓術室にいるようなつもりになってみたわけです。ところが突然あの裏窓の光景がぱっと頭にひらめいたんです。そして思い出したんですが、あの朝ひょいと、旅行に出るのに天気はどうだろうと思って窓の外を見たら、ドラッカーさんが家の裏の植込みのところに坐ってるのが見えたんです。……」
「それは何時だったの」マーカムは無愛想な訊き方をした。
「汽車に乗ろうと思って出かけるほんの数秒前なんです」
「それじゃドラッカー氏は屋敷を出て行かないで、植込みのところに行って君が出て行くまでそこに残っていた、というわけですね」
「そんな風らしいんです」スパーリングは進んで認めようとはしなかった。
「確かに彼を見たことは間違いありませんね」
「ええ。今はっきり覚えています。両脚を変な形に引き寄せていたことまで、ちゃんと覚えています」
「君の証言に人間ひとりの生命がかかっているかも知れないと知っていて、誓ってそうだと言えますか」マーカムは重々しい口調で言った。
「誓って言えます」スパーリングはあっさりと答えた。
治安官巡査が囚人を連れて部屋を出て行くと、マーカムはヴァンスを見やった。「どうやら足がかりが出来たね」
「うん。料理女の証言は、ドラッカーがまるで否認するんだから、ほとんど値打ちはない。それにあの女は忠実で頑固なドイツ女の典型で、主人に本当に危険ありと見たら否認の後押しをするにちがいないからね。これで我々は役に立つ武器を手に入れたわけだ」
「僕はこれで」マーカムはしばらく黙りこくって考えていたあげくに言った。「ドラッカーを有罪にする立派な情況証拠が出来たと思うね。彼はロビンが殺されるほんの数秒前までディラード家の庭に居たわけだ。スパーリングの出て行くのが見えたはずだ。それに暫く前にディラード教授と別れた時に、家族のほかの者が留守だったことを知っていた。ドラッカー夫人はロビンが死んだ時刻に悲鳴を上げたし、我々がドラッカーを尋問に行った時ひどくこわがったくせに、朝は窓から誰の姿も見なかったと言っている。夫人はドラッカーにわれわれのことを警告したり『敵』よばわりまでした。僕は、彼女はロビンの死体が弓場に置かれた直後にドラッカーが家に戻るところを見たんだと思う。――ドラッカーはスプリッグが殺された時も自分の部屋に居なかった。彼も母親も事実をかくそうと骨を折っていた。あの男は我々が殺人の話を切り出すと必らず昂奮したし、二つの事件が結びついているという見方をあざけってばかりいる。実際考えてみると、彼の行動にはひどく疑わしい点が多い。それに、我々は彼が異常で、精神状態が不安定で、しかも子供の遊びが好きなことまで知っている。あの男が――バーステッド博士の言ったことからすると――空想と現実を混同して、一時的に狂気の状態になっている時にこれらの犯罪を行なった、ということが充分考えられる。例のテンソルの公式をよく知っているし、アーネッスンがスプリッグとその話をしていたことから、気違いの頭で連想して、それとスプリッグを結び付けたという見方もできる。――ビショップの手紙だが、あれは彼の非現実的な気違い遊びの一部だったかも知れない、――子供は何か新しい遊戯を思いつくと、いいねえと言ってくれる見物人をほしがるものだ。彼が『ビショップ』ということばを選んだのはチェスに対する興味から来たものだろう――人を迷わせるためにふざけた署名をしたわけだ。それにこの推理は、ビショップの駒が実際に母親の部屋のドアに姿を現わしたことで更に裏付けられる。あの朝母親に見られたかも知れないと思って、自分の有罪をあからさまに認めないで彼女を黙らせようと思ったのかも知れない。彼なら鍵がなくてもポーチの網戸をバタンと言わせることは容易にできたわけだし、そうやってビショップを持って来た人間が裏口から入って出たと思わせようとしたんだろう。さらに、パーディーがチェスの試合を分析した夜、書斎からビショップを取って行くことは彼には簡単にできたわけだ。……」
マーカムは更に続けてドラッカーの容疑事実を組み立てて行った。徹底的に微細にわたって論じ、その言い分はそれまでに提示された証拠のすべてを説明しつくしていると言ってよかった。彼がなしたさまざまな要因の理路整然として容赦するところのないまとめ方は、まことに印象的で、いかにももっともだった。彼がこの摘要《てきよう》をのべ終ると、長い沈黙が続いた。
ヴァンスがとうとう、その沈思黙考の緊張を破ろうとでもするように、立ち上って窓辺に歩みよった。
「たしかにそうかも知れないねえ、マーカム」彼は認めた。「ただね、君の結論に対する僕の異論の主な点は、ドラッカーに不利な情況が揃いすぎているということなんだ。僕は最初から疑わしい人物としてあの男を考えてはいた。しかし、彼の行動が疑わしくなればなるほど、事態が彼に不利になればなるほど、僕は彼を考えからはずして行くべきだという気持になって来た。この忌《いま》わしい殺人を考え出した頭脳は、君がいまドラッカーの上に張りめぐらしたような情況証拠の網にひっかかるにしては、あまりに有能だし、あまりに悪魔的な抜け目のなさを持っている。ドラッカーの頭の良さは驚くべきものがある――いや実際、理性も知性も並はずれなんだ。だから、もし彼が犯人だとすると、これほど沢山の手ぬかりを残すなんてことは、ちょっと考えられないことだ」
「法律はねえ」マーカムは辛辣《しんらつ》にやり返した。「もっともらしすぎると言って容疑事実をほうり出すわけにゃ行きかねるんだぜ」
「別な見方をすると」ヴァンスはマーカムのことばを無視してことばを続けた。「ドラッカーが犯人でないとしても、事件に直接かかわる重大な意義をもった何事かを知っているのは明白だね。だから僕は、ひとつ彼の口をてこを使ってもこじあけて、その情報を聞き出したらどうだろうと申し上げたいね。スパーリングの証言がそのてこの役目を果してくれるわけだ。……ねえ、アーネッスンさん、どうお思いですか」
「べつに何も」相手は答えた。「僕は無関係な見物人ですからね。もっとも、アドルフのやつが暗いところにほうりこまれるのは見たくないですなあ」はっきりしたことは言わなかったが、彼がヴァンスと同じ意見なのは明らかだった。
ヒースはいかにも彼らしく、すぐに行動を起した方がよろしいという考えで、その意味のことを言った。「何か吐くことがありゃぶちこみさえすりゃすぐにも吐きまさあ」
「難しい立場だよ」モーラン警部がおだやかな裁判官みたいな声で異論を吐いた。「この際、我々は間違いを仕出かすわけにゃいかないんだ。もしドラッカーの証言で他の者が犯人だなんてことになってみたまえ、間違った人間を逮捕したといって笑い者になるんだからね」
ヴァンスはマーカムの方を見て、同意の合図をした。「まず懸案にしておいて、彼が魂の重荷を下す気にならないものか説明してみたらいいじゃないか。どうだい、目の前に令状でもちらつかせて、一種の精神的勧誘をやってみたっていいだろう。その上で、どうしても恥かしがったら仕方がない、手枷足枷《てかせあしかせ》を持ち出して、おっかないヒースさんに牢屋に連れて行ってもらったらいい」
マーカムは決めかねて指先で机を叩いていた。神経質に葉巻をふかしまくるので、煙で顔が包まれてしまった。ようやく彼は顎を引きしめてヒースの方を向いた。
「明日の朝九時にドラッカーをここに連れて来てくれたまえ。文句を言った時のために護送車と仮令状を用意して行った方がいいだろう」きびしく断固とした顔付きになっていた。「これであいつが何を知ってるかわかるさ――その結果次第で動けばいい」会議はこれで打ち切りになった。もう五時をすぎていて、マーカムとヴァンスと私は車で上町に向ってスタイヴスント・クラブにまわった。途中、地下鉄の駅までアーネッスンを乗せたが、別れぎわにも彼はほとんど口をきかなかった。いつもの多弁な皮肉はすっかり影をひそめてしまったようだった。夕食がすむとマーカムは疲労を訴えるので、ヴァンスと私の二人でメトロポリタンに行ってジェラルディン・ファーラー主演の『ルイーズ』〔『ルイーズ』はヴァンスの好きなモダン・オペラで、主役にはメアリー・ガードンよりもファーラーがはるかにいいと思っていた〕を見た。
一夜明けると暗い霧に包まれた朝だった。カリーが七時半に二人を起しに来た。ヴァンスがドラッカーとの会見に同席するつもりだったからだ。八時に我々は書斎で明るい暖炉の火を前に朝食をとった。下町に向う途中は車がこんでいて、我々が地方検事の部屋に着いたのは九時十五分すぎだったが、ドラッカーとヒースはまだ着いていなかった。ヴァンスは大きな革張りの椅子に心地よげに腰を落ち着けて煙草をつけた。「今朝はわりに元気が出たよ」彼は言った。「ドラッカーが喋ってくれて、それが僕の考えていたとおりの話だったら、それで万事を解決する鍵ができるわけだ」彼が言い終ったとたんに、あたふたとヒースがかけこんで来て、マーカムの前に立って一言の挨拶も言わず、あきらめるほか仕方がないという恰好でバンザイをした。
「検事さん、今朝のドラッカー尋問は無しですわ――今朝だけじゃないや」だしぬけに彼は言った。「あの男は昨夜リヴァサイド公園の自分の家のすぐ近くのあの高い石垣から落ちて、頸《くび》を折ったんですよ。今朝の七時まで見付からなかったんです。今は屍体置場においてありますがね。……へまなことになったですな」愛想がつきた顔で彼はどっかりと椅子に坐った。
マーカムは半信半疑でヒースを見つめていた。「本当の話か」驚きのあまりポカンとなっていた。
「連中が死体を動かす前に行ってみました。出かけるところへ地元の署員から電話で知らせがあったんです。あの辺をうろついて、できるだけ情報を集めて来ました」
「何がわかった」マーカムは落胆に負けそうになるのを懸命に持ちこたえていた。
「大して目新しいことはなかったんですがね。今朝七時ごろ公園で遊んでた子供が死体を見付けたんです――土曜日だから子供が多いんですよ。それで分署の者がとんで行って、警察医を呼んだんです。医者の話だとドラッカーはゆうべ十時ごろ石垣から落ちたらしいってんです――即死だそうです。あの辺――ちょうど七十六番街のところですが――あの辺の石垣は下の遊び場まで三十フィートぐらいもあるんですな。石垣の上は馬道でしてね、よく今まで頸を折る奴がいなかったもんですよ。いつも子供たちが石の手すりの上を歩いてますからね」
「ドラッカー夫人には知らせたのか」
「いや。私が知らせると言っといたんですがね。先にこっちに来て、あなたがどうしろとおっしゃるか伺っといた方がいいと思ったもんですからね」
マーカムはがっかりして椅子にもたれこんだ。「どうしろったって、大して我々に出来ることは無いじゃないか」
「どうだい」ヴァンスが提案した。「アーネッスンに知らしてやった方がいいんじゃないかな。きっと、あの男が後の面倒を見させられる立場の人間だろうからね。……しかし、マーカム、驚いたなあ。こうなると、この事件は結局悪夢だと思いたくなるな。ドラッカーは僕らの最大の希望だったのになあ、いよいよ無理に喋らせる絶好の機会がやって来たとたんに、石垣からころがり落ちるなんて――」不意に彼は言葉を切った。「石垣から落ちる。……」言いながら彼は椅子からとび上った。「『せむし男が崖から落ちた。……せむし男が。……』」
我々はヴァンスの気が狂ったみたいに、あっけらかんと彼を見つめていた。正直な話、私は彼の顔を見ているうちに、ぞっと体中に寒気がはしるのを覚えたのだった。彼の眼は恐ろしい幽霊を見つめる人のそれのように、じっと一点に注がれていた。ゆっくりとマーカムの方に向き直ると、ほとんど聞いたこともないような声で彼は言った。
「また気違いメロドラマだ――またマザー・グースの歌だ。……こんどは『|ずんぐりせむし《ハンプティ・ダンプティ》』だ」
一同は唖然《あぜん》として口もきけないでいたが、やがていきなりその沈黙を破ったのは、ヒースのわざとらしい、やけに耳ざわりな笑い声だった。
「ちょいと大げさですな、ええ、ヴァンスさん」
「ばかげてるよ」マーカムは本気で心配してヴァンスを見つめながら強く言った。「ねえ、君、君はこの事件に気を使いすぎているよ。背中にこぶのある男が公園の石垣の手すりから落ちたというだけの話じゃないか。そりゃ、たしかに不運だった。場合が場合だったから二重に不運だったがねえ」彼はヴァンスの傍に行って肩に手を置いた。「まあ、この事件はヒースと僕にまかせたまえ――僕らはこういうことには慣れているからね。旅行にでも行って、ゆっくり休んで来るといい。いつもの春みたいにヨーロッパに行って来たらいいじゃないか――」
「うん、全くだね――全くだ」ヴァンスは溜息をついて、けだるそうに微笑した。「海の空気はいまの僕には、体にも何にも持って来いだね。僕を正常に返してやろうというのだな、どうだい、――かつては立派だった脳みその残骸を元どおりに組み立ててやろうというんだろう。……参ったなあ。この恐るべき悲劇の第三幕がほとんど君たちの目の前で演じられたというのに、君たちはそれを平気で見過しているんだからね」
「君の想像力はそれを上まわってるよ」マーカムは深い友情でじっと我慢しながら、やり返した。「もうその心配はやめたまえ。今夜一緒に食事しよう。その時また話し合おうじゃないか」
この時スワッカーがのぞきこんで、ヒースに言った。「ワールド新聞のクィナンが来ました。お目にかかりたいそうです」
マーカムがふり向いた。「やれやれだ。……ここへ通したまえ」
クィナンが入って来て、一同に手を振って元気のいい挨拶をしてから、一通の手紙をヒースに渡した。
「またラヴ・レターですよ――今朝来ました。――これだけ気前のいいことをしたら、どんな特典にあずからして頂けますか」
一同の注目を浴びながら、ヒースは手紙を開いた。一目で私は見覚えのある用紙と薄青いエリート活字で書かれているのを見てとった。手紙はこうだった。
『ずんぐりせむしは崖の上、
ずんぐりせむしは落っこちた。
国じゅう総出で助けたが、
二度と返らぬずんぐりせむし』
そしてそのあとは、例の不吉な大文字の署名、『ザ・ビショップ』だった。
第十七章 終夜燈
――四月十六日、土曜日、午前九時三十分
新聞記者なら胸をわくわくさせそうな約束をいろいろ与えて、ヒースがクィナンを追い払ってしまった。〔ワールド紙のビショップ事件の記事がニューヨークの他紙の羨望をあつめていたことは、ご記憶の方もあろう。ヒース巡査部長は新聞への事実発表は公平に行なったが、それでもクィナンのためにいくつか面白いよだれの出そうな話をとっておいてやった。その上自分の推測を洩らしてやったので、ワールドの記事は興趣と色彩を更に加えることとなった〕そのあと事務所には数分間、緊張した沈黙が続いた。ビショップが三たびその不気味な仕事をして、事件は今や三重事件となり、解決はなおのこと遠のいてしまった。だが、何よりも我々を動揺させたのは、この信じがたい事件がなかなか解決に向わないことよりも、その行為自体が毒気のように発散する独得の恐怖だった。
沈んだ様子で部屋の中を歩きまわっていたヴァンスは、立ち騒ぐ胸のうちを声に出して言った。
「全くけしからん話だなあ、マーカム――徹底した悪の権化《ごんげ》だよ。……あの小さな子供たちが公園で――休みになって朝早くから夢を求めて――遊戯や何々ごっこで夢中になっているというのに……言葉もつまるような現実――恐ろしい圧倒的な幻滅に直面させられて。……何という邪悪さなんだ。子供たちがずんぐりせむしを――いつも一緒に遊んだ『ぼくらの』ずんぐりせむしを見つけたんだよ――歌にも出て来る崖の下で死んでいるのを――手でさわったり、死んだのを嘆いたりできる本当のずんぐりせむしが、滅茶苦茶に体がこわれてしまって、二度と生き返らないんだ。……」
彼は窓ぎわに立ち止まって外を見た。霧はいつか晴れて、うらうらとやわらかな春の陽光が灰色のビルの群の上を包んでいた。ニューヨーク・ライフ・ビルの屋上の金色の鷲が遠くで光っていた。
「まあしかし、感傷的になってばかりもおられない」ぐるりと皆の方に向きを変えて、無理に頬笑みながら彼は言った。「感傷は知能を低下させ、弁証法を台なしにしてしまう。ドラッカーが重力の法則の気まぐれな犠牲者でなくて、あの世に出発する時、誰かに手を貸してもらったことが明らかになったんだから、僕等が元気を出すのは早ければ早いほどいいんじゃないかね」
この気分の変化は明らかに相当の|離れ業《トゥール・ド・フォルス》だったが、それでも一同を沈み込んだ無気力から振い立たせてくれた。マーカムは受話器をとってモーラン警部を呼び出し、ヒースにドラッカー事件を担当させるよう話をつけた。それから検死官事務所を呼び出して、検死鑑定書をすぐによこすように頼んだ。ヒースは元気一杯に立ち上り、氷水を三杯呑んでから、仁王立《におうだ》ちになって山高帽をまぶかにかぶり、地方検事が行動方針を出すのを待った。
マーカムは休みなく動いた。「ヒース君、ドラッカーとディラードの両家には、君の部下が幾人か張り込んでいたはずだな。今朝その連中の話は聞いたかい」
「時間がありませんでした。それに、どうせ単なる事故だと思ったもんで。しかし途中には私が戻るまで待ってるように言ってあります」
「検死官は何か言っていたか」
「事故だろうと言っていました。それから死後十時間ぐらいだそうです。それだけです。……」
ヴァンスが質問をさしはさんだ。「頸の骨折のほかに頭蓋骨折か何かのことを言ったかい」
「さあ、頭蓋骨折があるとは言わなかったですがね、後頭部を下にして落ちたとは言ってました」ヒースは物知り顔にうなずいた。「きっと頭蓋骨折ってことになるんじゃないですか――ロビンやスプリッグと同じですな」
「そうだろうね。この殺人犯のテクニックは単純で効果的なものらしいね。被害者の脳天に一撃を加えて気絶なり即死なりさせて、それからおもむろに、あらかじめ選んでおいた人形劇の役をふり当てるわけだ。明らかにドラッカーは崖の下をのぞきこんで、そういう攻撃には持って来いの姿をしていた。霧がかかっていたし、場面は幾分暗い。すると脳天に一撃だ。ちょっと持ち上げる。ドラッカーは音もなく手すりの向うに落ちる。――かくてマザー・グース婆さんの祭壇に三人目のいけにえが供《そな》えられたわけだ」
「わからないのは」ヒースがいかにも腹立たしそうに言った。「私がドラッカー家の裏手に張り込ませといたギルフォイルが、なんだってドラッカーが一晩中家に居なかったのを報告してよこさないかってことですよ。八時に本部に帰ったもんだから、会えなかったんですよ。――どうですか、上町に出かける前に、あいつが何を知ってるか確かめてみたらいかがですか」〔ご記憶だろうが、ギルフォイルはカナリヤ殺人事件でトニー・スキールを尾行した刑事の一人である〕
マーカムは同意した。ヒースは電話口にどなりつけて命令した。ギルフォイルは警察本部から刑事裁判所のビルまでの道のりを、わずか十分間ですっ飛んで来た。あたふたと彼が入って来ると、ヒースはつかみかからんばかりの勢いだった。「ゆうべドラッカーが家を出たのは何時だ」彼は吠え立てた。
「八時ごろです――夕食をとってすぐでした」ギルフォイルは落着きがなかった。まるで職務|怠慢《たいまん》の現場を見つかって猫なで声でごますりを言う時みたいな口調だった。
「どっちへ行った」
「裏口から出て来て、弓場を通って、弓術室からディラード家に入りました」
「社交的訪問かい」
「そうらしかったです。あの男はディラード家に入りびたりなんですよ」
「フン。それから何時に帰ったんだ」
ギルフォイルはもじもじした。「帰って来なかったらしいんです」
「ああ、そうなのかい」ヒースのことばは皮肉がこもって軽妙でなかった。「俺はまたあの男が頸を折ってから帰って来て、お前に今晩はか何か言いやしなかったかと思ったぞ」
「私の言った意味はですね、――」
「お前の言った意味はドラッカーが――つまりお前が見張りをしていたはずの男がだぞ――八時にディラード家に行ってから、お前はおおかた植え込みにでも坐り込んですこしばかり宵の口のうたた寝をやったと言うんだろうが。……何時に眼が覚めたんだ」
「待って下さい」ギルフォイルはむくれ出した。「うたた寝なんかしないですよ。一晩中仕事についてたんですから。たまたま私があの男の帰って来るのを見なかったからって、私が横になって見張りをしてたなんて思ってもらっちゃ困りますよ」
「ふん、あの男が帰って来るのを見なかったなら見なかったで、なぜあの男が町の外かどこかで週末を過してるとでも電話をよこさんのだ」
「表の玄関から帰ったと思ってました」
「また思ったか、ええ。お前の頭は今朝はぼけてるんじゃないのか」
「そう言わんで下さいよ。私の役目はドラッカーの尾行じゃないんですからね。私はあなたに、あの家を見張って誰が出入りするか見て、ちょっとでも面倒が起ったらとびこめとだけ言われたんですよ。――それで、こういうわけなんです。八時にドラッカーがディラード家に行ってから、私はドラッカー家の窓に注目してたんです。九時ごろになって、コックが二階に上って自分の部屋の電気をつけました。半時間たってから明りが消えたんで、『彼女は寝たな』と思いました。それから十時ごろになってドラッカーの部屋に明りがつきました――」
「何だと」
「ええ――今言ったでしょう。十時ごろドラッカーの部屋の明りがついたんですよ。そして誰か動きまわってる影が見えたんですよ。――さあ、どうです。これじゃ、あなただって、当然あのせむし男が玄関から帰ったと思うでしょう」
ヒースはうなった。「まあそうだろう」彼は認めた。「たしかにそれは十時だったんだな」
「時計は見なかったんですがね、しかし十時でいくらも違ってないことは確かです」
「ドラッカーの部屋の電気は何時に消えたんだ」
「消えなかったんです。一晩中ついてました。変った男でしたよ。時間が不規則なんです。その前にも二度ばかり朝がた近くまで明りがついてましたよ」
「その点はよくわかるな」ヴァンスのけだるい声がした。「最近難しい問題と取り組んでいたらしいからね――ところでねえ、ギルフォイル君、ドラッカー夫人の部屋の明りはどうだったの」
「いつもと同じです。あの婆さんはいつも一晩中明りをつけておくんです」
「ゆうべドラッカー家の表の方には誰か張り込んでいたのかい」マーカムがヒースに訊いた。
「六時以降は居ません。昼間ドラッカーの尾行に一人つけてあったんですが、そいつは六時にギルフォイルが裏庭に張り込むと非番になるんです」
一瞬、沈黙になった。やがて、ヴァンスがギルフォイルに向って、「ゆうべ君はあの二つのアパートの間の露地の出入口からどれぐらい離れたところに居たの」
相手はしばらく口をつぐんで現場を思い出していた。「四、五フィートですね、まあ」
「すると君とその露地の間には鉄棚や木の枝がすこしあったわけだね」
「そうです。見通しのことでしたら、多少さえぎられてましたね」
「誰かディラード家から出て来た者が、君に気づかれずにその出入口から出て行って戻って来るってことは、あり得ただろうか」
「かも知れないですね」刑事は認めた。「ただし、もちろんその人間が私に見られたくないと思った場合に限りますけど。ゆうべは霧があったし暗かったし、ドライヴからは車の音がしょっちゅううるさく聞えてたから、そいつが特に用心してたら、動いても気配はしなかったかも知れません」
ヒースがギルフォイルを本部で別命を待つように言って帰してしまうと、ヴァンスが途方にくれた様子で言った。
「ひどくややこしい情況になったね。ドラッカーは八時にディラード家を訪ねて、十時には公園で石垣から突き落された。君たちも見たように、さっきクィナンが見せてくれた手紙は十一時の消印がついていた。――ということは、たぶんタイプを打ったのは犯行以前なんだ。だからビショップはあらかじめ喜劇を仕組んでおいて、新聞社に出す手紙まで用意してあったわけだよ。何てずぶとい奴だろう。しかし我々はそこに一つの仮定を結び付けられるわけだ――つまり、犯人はドラッカーが八時から十時までの間どこに居るか、どんな動きをするだろうかをよく知っていた何者かだ、ということになる」
「すると君は」マーカムが言った。「犯人がアパートの間の露地から出入りしたという説なんだね」
「おやおや、僕は説なんか持ってないよ。僕がギルフォイルに露地のことを訊いたのは、ドラッカーのほかには公園に行くのを見られた者が居ないかどうか、万一にもわかるかも知れないと思ったからだけだよ。そういうことになれば、ほんの仮定だけど、犯人はうまく人目につかずに露地を通って区劃のまん中のあたりで公園に入ったということが考えられるわけだよ」
「その道を犯人が通ったかも知れないとなると」マーカムが憂鬱そうに言った。「誰かドラッカーと連れ立って出掛けるところを見られた者が居ても、大して意味がないことになるんだなあ」
「そこなんだ。この茶番劇を仕組んだ人物は、警戒おこたりない鬼刑事に見られながら大手を振って公園に入ったのかも知れないし、そうっと露地から忍び出たのかも知れないんだ」マーカムはみじめな顔でうなずいた。「しかし、僕が一番困ったのはね」ヴァンスは続けた。「あの一晩中ついていた明りのことなんだ。あかりのついたのは、ちょうどあの可哀想な男があの世に転《ころ》げ落ちたのと同じころなんだ。それに、ギルフォイルは明りがついてから誰かが動きまわるのが見えたと言っている――」
突然、彼は言葉を切って、しばらく何ごとかに集中するようなポーズで突っ立っていた。「ねえ、ヒース君。ドラッカーは発見された時ポケットに玄関の鍵を持っていたかどうか、知らないだろうね」
「さあ、しかしすぐにわかりますよ。ポケットの内容は解剖がすむまで保管してありますからね」ヒースは電話のところに行って、すぐに六十八番街地区署の内勤係に話をした。数分間待ったあげく、彼は何ごとかぶつぶつ言って荒々しく受話器を置いた。「鍵は一本も持ってなかったそうです」
「ああ」ヴァンスは煙草を胸一杯に吸って、ゆっくりと吐き出した。「こりゃあ、どうやら僕はビショップがドラッカーを殺してから、鍵を盗み取って彼の部屋を訪ねて行ったという気がしだしたぞ。たしかに信じがたいことだがね。しかし、その点なら、この怪奇な事件では、今まで起ったことは何だって信じがたかったからねえ」
「しかし、一体全体、ビショップの目的は何だったと言うんだ」マーカムは疑い深く抗弁した。
「まだわからない。しかし、この驚くべき犯罪の動機がわかったら、なぜその訪問が行なわれたか解ると思うよ」
マーカムは厳《きび》しく顔を引きしめて、戸棚から帽子をとった。「現場に行ってみたほうがいいな」
だがヴァンスは動かなかった。じっと机の傍に立ったまま、放心したように煙草を喫っていた。やがて、
「ねえ、マーカム、まずドラッカー夫人のところに行くべきじゃないかな。ゆうべあの家には悲劇が起ったんだ。説明の必要な、変った出来事があの家で起ったんだ。もう多分彼女も頭にしまっておいた秘密を語ってくれるだろうしね。だいいち、まだ彼女はドラッカーが死んだことを知らされてない。それに、近所ではもう評判や噂が立っているだろうから、いまに何か彼女の耳まで洩れて聞えるに違いない。知らせを聞いたショックで彼女がどんなことになるか心配なんだ。そうだ、すぐにバーステッドに連絡をとって、一緒に行ってもらった方がいいような気がする。どうだい、電話してもいいかい」マーカムは同意して、ヴァンスは博士に手短かに事情を説明した。
我々はすぐに上町に向い、途中でバーステッドを乗せてからドラッカー邸に急行した。呼鈴で出て来たのはメンゼルだったが、その顔つきから、彼女がドラッカーの死を知っているのは明らかだった。ヴァンスは彼女を一目見ると、階段から離れた応接間に彼女を連れこんで、低い声で訊いた。「ドラッカー夫人はもう知らせは聞いたのか」
「まだです」おびえきった震え声で彼女は答えた。「一時間ほど前にディラードのお嬢様が見えましたが、奥様はお留守ですと申し上げました。お嬢様が二階に上られると困りますから。何かご様子が……」彼女は激しく震えだした。
「どんな様子なんだい」ヴァンスは彼女の腕に手を置いて落ち着かせようとした。
「わかりません。でも奥様は朝からずっと物音一つお立てになりません。朝ごはんには下りていらっしゃいませんでした……それに、怖くて呼びに行けません」
「君は事故のことはいつ知ったの」
「早く――八時ちょっと過ぎです。新聞屋の子供が教えてくれました。ドライヴのところにたかってる人も沢山見ました」
「怖がらないでいいよ」ヴァンスは慰めた。「先生も一緒だし、僕たちで万事世話してあげるからね」
彼は廊下に引返し、先に立って階段を上った。一同がドラッカー夫人の部屋の前まで来ると、彼はそっとノックしてみたが、返事がないのでドアを開けてみた。部屋は空っぽだった。テーブルの上に終夜燈がまだついていたし、私はベッドに寝たあとがないのに気が付いた。ヴァンスは何も言わずに廊下を後戻った。他の部屋は二つしかなく、その一つがドラッカーの書斎なのを我々は知っていた。躊躇せずにヴァンスはもう一つの部屋のドアをノックもなしで開いた。窓は日よけが引いてあったが、白地で半《なか》ばすき透《とお》っていて、灰色の陽《ひ》ざしが古風なシャンデリアの不気味な黄色の光線とまじり合っていた。ギルフォイルが一晩中ついていたと言った電灯はまだ消えていなかったのだ。ヴァンスは敷居に立ち止まっていた。私のすぐ前に立っていたマーカムが、はっと驚くのが見えた。
「マリア様」ヒースがささやいて十字を切った。細長いベッドの足もとに、着飾ったままのドラッカー夫人が横たわっていた。顔は灰のように白く、眼は恐ろしい形相に見開かれ、両手は胸をつかんでいた。バーステッドがとび出して行ってかがみこんだ。一、二か所夫人に手をふれると、彼は起き上ってゆっくりと頭を振った。
「お亡くなりです。たぶん昨夜のうちに亡くなられたようです」彼はもう一度遺体の上にかがみこんで診察をはじめた。「ご存知のように、この方はもう長いこと慢性の腎炎《じんえん》と動脈硬化と心臓肥大症をおやりでしてねえ。……何か急にショックでも受けて急性心臓拡張を起したんですね。……そうですな、大体ドラッカー氏と同じ頃に亡くなったようですね……十時ごろです」
「自然死ですね」ヴァンスが質問した。
「ええ、それは間違いないですね。もし私でも居合せたら、心臓にアドレナリンを一本注射して助かったかも知れませんが……」
「暴力の形跡はありませんか」
「ないですな。申し上げたように、死因はショックによる心臓拡張です。症状ははっきりしています――どの点から見ても典型的なものです」
第十八章 公園の石垣
――四月十六日、土曜日、午前十一時
医師がドラッカー夫人の遺体をベッドの上に横たえ、シーツで包み終ると、我々はふたたび階下におりた。バーステッドは一時間以内にヒースに死亡診断書を届ける約束をして、早速引き取った。
「ショックによる自然死だというのは医学的には正確だがね」我々だけになってからヴァンスが言った。「我々の目下の問題はねえ、いいかい、その急激なショックの原因を確かめることなんだ。明らかにそれはドラッカーの死と関係がある。そこで、変に思うのは……」衝動的に向きをかえた彼は、つかつかと応接間に入って行った。メンゼルは我々が置き去りにしたままの場所に、ぞっとすくんで何事かを待っている姿で坐っていた。ヴァンスは歩み寄ってやさしく言った。「奥さんはゆうべ心臓病で亡くなったよ。息子さんに取り残されるよりはずっとよかったね」
「ゴット・ゲーヴ・イーア・ディ・エヴィーゲ・ルー。〔神よ、彼女に永遠の安らぎを与え給え〕」彼女は敬虔《けいけん》に小声で祈った。「はい、それが何よりでした……」
「ご臨終《りんじゅう》はゆうべの十時ごろだった。そのころ君は起きていたかい」
「一晩中眼をさましていました」低い、何かに打たれたような声だった。
ヴァンスは半ば眼を閉じてじっと彼女を見ていた。「何が聞えたのか言ってごらん」
「ゆうべ誰かが来たのです」
「うん、誰かが十時ごろ来たね――正面玄関から。入って来る音を聞いたのかい」
「いいえ。でも私が寝床に入ってから、ドラッカー様のお部屋で話し声が聞えました」
「夜十時ごろ彼の部屋で話し声がするとおかしいのかい」
「だって、あの方ではないんです。あの方は高い声ですのに、その声は低いどら声なんですの」
途方にくれて怖くなったように彼女は顔を上げた。「もう一つの声はドラッカー奥様でした……夜にドラッカー様のお部屋にいらしたこと一度もないですのに」
「ドアを閉めて自分の部屋に居たのに、どうしてそんなにはっきり聞えたのかね」
「私の部屋はドラッカー様のお部屋の真上にございます」彼女は説明した。「それで心配になって――なにしろ色々と恐ろしいことが起りますから。そんなわけで、私起きて階段の上から聞いてみましたのです」
「やむをえない行為だったね」ヴァンスが言った。「で、何が聞えたの」
「最初、奥様がうめいてらっしゃるみたいでしたけれど、すぐにこんどは笑い出して、それからその男が怒ったみたいに何か言いました。ところが、またすぐに、男の人も笑うのが聞えました。そのあと、奥様がお祈りをなさるような声がしました――『おお、神様――おお、神様』っておっしゃるのが聞えました。すると男の人がまた何か言い出しました――とても静かに低い声で。……それからちょっとして、奥様が何か詩の――朗読みたいなことをなさってるようでした。……」
「その詩をもう一度聞いたらそれとわかるかね。……こんな詩かね、
ずんぐりせむしは崖の上、
ずんぐりせむしは落っこちた。……」
「バイ・ゴット、ダス・イスツ。〔まあ、それですわ〕ちょうどそんなふうでしたわ」彼女はまた新しく恐怖にうたれる様子だった。「そしてドラッカー様はゆうべ崖から落ちて……」
「他に何か聞えたかい、メンゼル」ヴァンスの事務的な声が、ドラッカーの死を今聞いた歌の文句と結びつけてうろたえていた彼女の言葉をさえぎった。
ゆっくりと彼女は首を振った。「いいえ。その後はすっかり静かになりました」
「ドラッカー氏の部屋から誰かが出て行く音は聞かなかったかい」
彼女は急にあわてた顔になって、ヴァンスを見ながらうなずいた。「二、三分してから誰かがそうっとドアを開けて閉めました。それから暗い廊下を歩いて行く音がしました。それから階段がきしる音がして、わりとすぐにドアが閉まりました」
「それから君はどうした」
「しばらく耳をすましてから、ベッドに戻りました。でも眠れなくて……」
「これでおしまいだよ、メンゼル」ヴァンスは慰めるように言った。「君は何も心配することは無いんだよ。――それじゃ、部屋にさがって、こっちが呼ぶまで待っていてくれるといい」彼女は不承不承で階段を上って行った。
「これで」ヴァンスが言った。「ゆうべここで起ったことはかなり詳《くわ》しく推理できるようだね。犯人はドラッカーの鍵を取って玄関から入っている。彼はドラッカー夫人の部屋が裏手にあることを知っていて、明らかに、ドラッカーの部屋で用事をすませてもと来た道をとって返すつもりだった。ところがドラッカー夫人が聞きつけてしまった。ひょっとすると、彼女は自分の部屋に黒のビショップを置いて行った『小さな男』を思い出して、息子が危いと思ったのかも知れない。ともかく、彼女はすぐにドラッカーの部屋に行ってみた。ドアがすこしぐらい開いていたかも知れない。きっと侵入者を見つけて、誰だか判ったんだと思う。ぎょっとして、心配にもなった彼女は、入って行って何故こんな所に居るかと訊いてみた。その男は、ドラッカーが死んだのを教えに来たと答えたかも知れない――とすれば、夫人がうめき声を出したりヒステリックに笑ったりした説明がつく。しかし彼の側からすると、それはほんの下ごしらえだった――時間かせぎだった。彼はその場をどう始末するか工夫していた――彼女をどうやって殺してやろうかと計画していたんだ。ああ、それに違いはないよ。彼は夫人を部屋から生きて外に出すわけには行かなかった。ちょうどそんな言い方で彼女にそう言ったかも知れない――『怒ったみたい』な口をきいていたというからね。それから彼は笑った。その時彼は夫人をなぶっていたんだ――狂ったエゴイズムが爆発して何もかも真相をぶちまけていたんだろう。夫人は、『おお、神様――おお、神様』としか言えなかった。彼は崖からドラッカーを突き落した様子を詳《くわ》しく言って聞かせた。そして『ずんぐりせむし』のことは言っただろうか。僕は言ったと思う。なぜって、その極悪非道な冗談の聞き手として、被害者自身の母親以上のものがあったろうかね。この最後の知らせは、過敏な夫人の頭脳にとって到底耐えきれるものではなかった。恐怖のとりこになって、彼女はその子守唄を口ずさんだ。それから、積り積ったショックが心臓を張り拡げてしまった。夫人はベッドの向うに倒れ、犯人は自らの手で彼女の唇を封じる手間がはぶかれたわけだ。結果をよく確かめて、静かに出て行った」
マーカムはぶらぶらと部屋の中を往復していた。「昨夜の悲劇で一番わからないところは、何故その男がドラッカーの死後にここを訪ねたかということだね」
ヴァンスは考えこんで煙草をふかしていた。「その点はアーネッスンに説明してもらった方がいい。多少ははっきりしたことが言えるだろう」
「ええ、そうでしょうな」ヒースが合いの手を入れた。それから、しばらく葉巻を唇の間でくるくる動かしていたが、不機嫌につけ加えた。「何だかこの近所に、とび切り上等の説明をしてくれそうな奴が、何人か居そうな気がしますなあ」
マーカムはヒースの前に立ち止まった。
「我々が最初にやった方がいいのは、ゆうべこの辺のいろんな人物がどんな行動をしたか、君の部下の知っていることを聞き出すことだ。ここへ連れて来て僕に質問させてくれんかね。――ところで、何人張り込んでいたんだい――どことどこに」
ヒースは立ち上っていって、きびきびと元気がよかった。「ギルフォイルのほかに三人です。エメリーはパーディーの尾行につけてありました。スニトキンはドライヴと七十五番街の角に立たせてディラード家を見張らせてありました。それから、ヘネシーを七十五番街のウェスト・エンド・アヴェニュー寄りに立ててありました。――いま皆ドラッカーの死体のあったところに待たしてあります。すぐ呼んで来ましょう」
彼は玄関から姿を消し、五分とたたぬうちに三人の刑事を連れて戻って来た。三人とも私は見覚えがあった。いずれもヴァンスの登場したいくつかの事件で仕事をした人たちばかりだったからだ。〔ヘネシーはグリーン殺人事件でドラム医師と二人でナーコス・アパートからグリーン邸を見張った人。スニトキンもグリーン事件の捜査に一役買い、ベンスン事件とカナリヤ事件でもわき役をつとめた。小粋なエメリーはアルヴィン・ベンスンの居間の薪の下から煙草の喫いがらを見つけた刑事である〕マーカムは、前夜の出来事と直接関係のある情報を持っていそうなのは、まずこの男とばかり、最初にスニトキンを尋問した。その証言で以下のことが明らかになった。
パーディーは六時三十分に家を出て、まっすぐにディラード家に行った。
八時半にベル・ディラードがイヴニング姿でタクシーに乗り、ウェスト・エンド・アヴェニューを走り去った。〔アーネッスンも一緒に家の外まで出て彼女をタクシーに乗せてやったが、すぐにまた家に入ってしまった〕
九時十五分にディラード教授とドラッカーがディラード家から出て来てゆっくりリヴァサイド・ドライヴの方へ歩いて行った。二人は七十四番街でドライヴを横切り馬道に曲りこんで行った。
九時三十分にパーディーがディラード家を出てドライブまで歩き、上町の方に曲った。
十時ちょっと過ぎにディラード教授が一人で戻って来て、七十四番街でドライヴを横切って帰宅した。
十時二十分にパーディーがさっき歩み去った方角から戻って来て自宅に帰った。
ベル・ディラードは十二時三十分に若い連中を一杯乗せたリムジーン型自動車に乗って帰宅した。
次にヘネシーが尋問された。だが彼の証言はスニトキンの証言を裏付けるに止まった。ウェスト・エンド・アヴェニューの方角からディラード家に近づいた者は一人も居なかったし、怪しいことは何も起らなかったという。マーカムは次にエメリーの尋問に移った。彼は、六時に引継いでやったサントスの話では、パーディーは午《ひる》さがりをマンハッタン・チェス・クラブで過して、四時ごろ帰宅した、と報告した。
「それから、スニトキンとヘネシーが申しましたように」エメリーは続けた。「パーディーは六時半にディラード家に行って、九時半までそこに居ました。奴さんが出て来ると私は半丁ぐらい後から尾行しました。奴さんはドライヴを七十九番街まで行って、横断して上公園に入って行って、広い芝生をぐるりとまわって、石山のところを通って、ずっとヨット・クラブの方へ行きました。……」
「彼はスプリッグが射たれた小道を通ったかい」ヴァンスが訊いた。
「当然通りました。あっちの方へ行くにはドライヴを通らないかぎり、あの小道を通る以外にありませんからね」
「どこまで行ったの」
「実はですね、ちょうどスプリッグがドンとやられたあたりで立ち止まったんです。それから、もと来た道を戻って、七十九番街の南側の運動場のある小公園に入って行きました。そしてぶらぶらと馬道の木の下を歩いて行って、崖っぷちを水飲み場の辺まで行くと、なんと、例の老人とせむし男が手すりによりかかって喋ってるのに出っくわしたんですよ。……」
「ドラッカーが崖から落ちた場所で、ディラード教授とドラッカーに彼が出会ったと言うんだな」マーカムは耳よりな話とばかりに身を乗り出した。
「はあ。パーディーは立ち止まって二人と挨拶していましたが、むろん私はそのまま歩いて行きました。私が通り過ぎた時、せむしが『今夜はなぜチェスの稽古をやらないんです』と言うのが聞えました。何だかパーディーが立ち止まったのに腹を立てて、早く行ってしまえとほのめかすみたいな口調だったようです。とにかく、私は石垣づたいに歩いて行って、七十四番街のところまで行ったら、あすこに立木が二、三本あって、かくれるのにちょうど……」
「七十四番街のところまで行ってから、パーディーとドラッカーの姿はどれぐらいよく見えたんだ」マーカムがさえぎった。
「はあ、それが、実は全然見えなかったんです。その時分から霧が相当出て来ましたし、あの道の奴さんたちが座談会をやってた辺には街燈が一本もないんですよ。しかしパーディーはじきやって来るだろうと思って、待ってました」
「それがそろそろ十時近くだったはずだな」
「十五分前ぐらいだと思います」
「その時、馬道には人通りはあったのか」
「一人も見えませんでした。霧でみんな家の中にひっこんでしまったんでしょう――暖かい春の宵なんてものじゃなかったですからね。それで、私があんな所まで歩いて行ってしまったのは、あたりに人通りが全然なかったからなんです。パーディーは馬鹿じゃありませんからね。それまでにもう一、二度、私が尾《つ》つけてるのに気がついたみたいに、私の方をふりかえって見たのを知ってましたから」
「それから、どれぐらいたってから彼を見つけたんだ」
エメリーはもじもじと動いた。「ゆうべはどうも私のカンがあまりよくなかったんです」力なくニヤリと笑って彼は白状した。「パーディーは来た道を引き返して、七十九番街のところでドライヴを横断したらしいんです。というのは、三十分ぐらいたってから、奴さんがアパートのあかりに照らされて七十五番街の角の辺を帰って行くのが見えたんです」
「しかし」ヴァンスが言葉をはさんだ。「十時十五分すぎまで公園の七十四番街の入口に居たんだったら、ディラード教授が通りかかるのを見たはずだがね。そこを通って十時ごろ帰宅したんだから」
「ええ、見ましたよ。二十分ばかりパーディーの来るのを待ってたら、教授がたった一人でぶらぶらやって来て、ドライヴを横切って家に帰って行きました。当然、パーディーとせむしは相変らず喋くってるんだなと思ったんです――それで私は呑気《のんき》に構えて、調べに戻らなかったんです」
「そうすると、ディラード教授が君の前を通り過ぎて十五分ばかりしてから、パーディーが反対の方向からドライヴを通って家に帰るのを見たというわけだね」
「そうなんです。で、もちろん私はまた七十五番街のところに戻って立番しました」
「いいかい、エメリー」マーカムが重々しい口調で言った。「ドラッカーが石垣から落ちたのは君が七十四番街のところで待っていた間だったんだぞ」
「はあ。しかし、検事さん、私を責めてるんじゃないでしょうね。霧の晩に明けっ広げの道で、しかもまぎれこむ人通りもない時に、人を見張るってのは容易な仕事じゃありませんよ。それで勘づかれまいと思ったら、危い橋も渡らなきゃならないし、ちょいとばかり頭も使わなきゃなりませんからね」
「難しいのはよくわかっている」マーカムは言った。「君の仕事ぶりをとやかく言ってるわけじゃない」
ヒースは無愛想に三人の刑事を放免した。明らかに彼らの報告に不満だったのだ。「行けば行くだけ、事件はややこしくなるじゃないか」
「|Sursum corda《スルスム・コルダ》〔元気を出せ〕だよ、ヒースくん」ヴァンスは訓戒《くんかい》をたれた。「暗い絶望に圧倒されるなかれ、だ。エメリーが七十四番街の木蔭で油断なく待ちかまえていた間にパーディーと教授は何をしていたか、二人の証言を聞けば、何か大分面白いことがわかってくるかも知れないんだからね」
彼がそう言っているところへ、ベル・ディラードが家の裏手から表の廊下に入って来た。応接間に居る我々を見ると早速とびこんで来た。「メー夫人はどちらですの」心配そうに彼女は訊いた。「一時間ほど前に来てみましたら、グレトが奥様はお留守ですって言いましたの。今もお部屋に見えませんわね」
ヴァンスは立ち上って椅子をゆずった。
「ドラッカー夫人は昨夜心臓病で亡くなったんです。さっきあなたが見えた時は、メンゼルは怖くて二階にお上げしたくなかったんだそうです」
ベルはしばらくじっと坐っていた。やがて眼に涙があふれて来た。「きっとアドルフの不幸をお聞きになったんでしょうね」
「かも知れません。しかし昨夜ここで起ったことは、あまりはっきりしないんです。バーステッド先生は、ドラッカー夫人は十時ごろ亡くなったと言っていますが」
「アドルフが亡くなったのと、ほとんど同じころですのね」彼女は低く言った。「あんまりひどいお話だと思って……。パインが今朝お食事に下りて行った時に事故のことを教えてくれましたの、――ご近所では皆その噂なんです、――それで私すぐに、メー夫人のお傍に居て差し上げようと思ってやって来ましたの。ところが、グレトがお留守だって言うものですから、私どう考えたらいいのかわからなくて。アドルフが亡くなったことで、何だかとっても変なことがあるんです。……」
「何のことでしょうか、ディラードさん」ヴァンスは窓際に立って、そっと彼女を観察していた。
「私――わかりませんわ――何のことって」彼女は覚束《おぼつか》なく言った。「ただ、つい昨日の午後メー夫人が私におっしゃったんです。アドルフと――崖のことを……」
「へえ、そんなことをねえ」ヴァンスはいつもよりも不精な口のきき方をした。だが、彼の体の中の全神経が油断なく敏活に働いていることは、私にはわかっていた。
「テニス・コートに行きがけに」彼女は低くおさえた声で言った。「私メー夫人と運動場の上の馬道を歩いて行って――あの方はよくあそこへいらして、アドルフが子供と遊んでいるのを見てらっしゃいましたの、――それで私たち崖の上の石の欄干《らんかん》によりかかって長いこと立っていました。子供たちがアドルフのまわりに集っていましたわ。おもちゃの飛行機を持って飛ばし方を子供たちに教えていました。そして、子供たちはあの人を自分たちの仲間だと思っているみたいでした。大人だと考えていないんです。メー夫人はとっても嬉しそうで、それを自慢なさってました。眼を輝かしてじいっとアドルフを見てらっしゃるんです。そして私におっしゃるんです。『あの子たちはねえ、ベル、アドルフがせむしだからって、少しも怖がらないのよ。みんなあの子をずんぐりせむしって呼ぶの――お伽話《とぎばなし》に出て来るおなじみの友達ね。かわいそうなずんぐりせむしちゃん。小さい頃に転ばせてしまって、みんな私がいけなかったのよ』……って」彼女は口ごもってハンカチを眼に当てた。
「なるほど、彼女は子供たちがドラッカーのことをずんぐりせむしと呼ぶと言ったんですな」ヴァンスはゆっくりと、シガレット・ケースの入ったポケットに手を入れた。
彼女はうなずいた。そして、やがて、怖いものに勇気を出して対決しようとするかのように、きっと顔を上げた。
「そうです。それが変だと申し上げたことなんです。だって、メー夫人はしばらくたってからブルッと身震いなすって、崖から後ろにお退りになるんです。どうなすったの、ってお訊きしたら、おびえた声で、『ねえ、ベル、――もしかして、アドルフがこの崖から落ちでもしたら――本物のずんぐりせむしが落ちたみたいに』っておっしゃるんです。私まで怖くなりそうでした。でも無理に笑って、お馬鹿さんねって言いましたの。ところが駄目なんです。メー夫人は首を振って、ぞっとするような目つきで私をごらんになって、『お馬鹿さんじゃありませんよ』っておっしゃるんです。『コック・ロビンが弓と矢でもって殺されたじゃないの。ジョニー・スプリッグが小さな鉄砲で射たれたじゃないの。――|こんなニューヨークのまん中で《・・・・・・・・・・・・・・》』って」彼女はおびえた目でじっと我々を見た。「しかもそのとおりになりましたわね――メー夫人が予言なさった通りに」
「ええ、そうなりましたね」ヴァンスはうなずいた。「しかしそれを神秘的に考えるべきじゃありません。ドラッカー夫人は異常な想像力の持主でした。夫人のいためつけられた頭の中では、あらゆる種類の突飛な連想が起っていたんですよ。そこへ、例の二つのマザー・グース事件が生々しく記憶に残っていたんですから、夫人が子供たちにつけられた息子さんの仇名からそんな悲劇的な連想をなさったからといって、別に目をむくほどのことはないんですよ。彼が実際に夫人の心配したのと同じ方法で殺されたということは、偶然以外の何ものでもありゃしません。……」彼は言葉を切って煙草を深々と吸い込んだ。「ねえ、お嬢さん」彼は何気なく言った。「昨日あなたは、ドラッカー夫人となさった話を誰かにお話になったようなことはありませんか」
彼女はちょっと面くらった様子で彼に目を向けてから答えた。「昨夜、夕食の時にいたしました。午後じゅう気にかかって仕方がなかったもんですから、――何だか――一人で胸にしまっていたくなくて」
「誰かそのことで何か言った人は居ましたか」
「伯父があまりメー夫人と一緒に居てはいけない――あの人は不健康で病的だからって申しました。非常に気の毒な事情ではあるけれども、なにもお前まで一緒になってメー夫人と一緒に悩む必要はないって。パーディーさんも、そうだそうだっておっしゃいました。そして、とっても同情なさって、何とかメー夫人の精神状態を救ってやる方法はないだろうか、とおっしゃいました」
「それから、アーネッスンさんは」
「あら、シガードは何でも真面目に受け取らないんですの――時々あの人の態度が憎らしくなることがありますわ。まるで私が冗談にでも言ったみたいに笑って、『アドルフが今度の量子論の問題を解かないうちに飛び降りたとなると、ずいぶんひどい話だぜ』って言ったきりなんです」
「ところで、アーネッスンさんは今ご在宅ですか」ヴァンスが訊いた。「ドラッカー家のことで必要な手配をいろいろお世話いただきたいんですが」
「今朝は早くから大学に行っておりますの。でも昼食には戻ります。きっと全部お引き受けすると思いますわ。メー夫人とアドルフの友人っていうと、ほとんど私たちだけですもの。それまで私がお引き受けして、グレトに家の中を片づけさせます」間もなく我々は彼女と別れて、ディラード教授に会いに出かけた。
第十九章 赤いノート
――四月十六日、土曜日、正午
正午ごろ、教授は我々が書斎に入って行くと、明らかに迷惑顔だった。彼は窓を背にして安楽椅子に坐っていた。傍のテーブルに、例の大事なポートワインがグラスに一杯注いであった。
「やって来るだろうと思っていたよ、マーカム」我々が何も言い出さないうちに、早速教授は言った。「知らん顔をせんでもいいぞ。ドラッカーの死は事故じゃない。正直なところ、ロビンとスプリッグが死んだ時は、いろいろ気違いじみた解釈を聞いても割引きして受け取った方がよさそうに思っとったが、パインからドラッカーの落ちた話をあれこれ聞いたとたんに、この三つの死の背後に明確な計画があることが、はっきりわかった。全部が偶然だなんちゅう予想はおよそ当てにならん。君らも、わたし同様にわかっとるだろう。でなけりゃここへ来るはずはないな」
「まったくです」マーカムは教授の正面に坐っていた。「私どもは恐るべき問題に直面いたしました。その上、ドラッカー夫人が昨夜息子さんの亡くなったとほとんど同じ頃にショックで亡くなりました」
「それは、しかし」老人はしばらくたってから答えた。「かえってよかったと言えんこともなかろう。息子に取り残されるよりはよかったろう――精神的に参ってしまうことは間違いないからな」彼は眼を上げた。「それで、わたしに何の用かな」
「真犯人のほかには、あなたが生きているドラッカーに会った最後の方になるらしいんです。それで、昨夜起りましたことを出来るだけ詳《くわ》しくお教え願いたいと存じまして」
ディラード教授はうなずいた。「ドラッカーは夕食のあとでここへ来た――八時ごろだったろう。パーディーがうちで一緒に食事したんだが、ドラッカーはあの男が居るのを見て迷惑顔だった――いや実のところ、まるで喧嘩腰だった。アーネッスンが彼の怒りっぽいのを親切に弥次《やじ》ったんだが――ますます癇癪《かんしゃく》を起すだけでね。そこで、ドラッカーがわたしとある問題で議論したがっとるのがわかっとったもんだから、とうとう私が言い出して、二人で公園に散歩に出かけることになったわけだ。……」
「あまり長いお散歩ではなかったわけですね」マーカムが言った。
「ああ。まずい邪魔が入ってな。二人で馬道をずっと歩いて行って、ちょうどあの気の毒な男が殺された場所だと思うが、そのあたりまで行った。その辺で大方三十分ばかり、石垣の石の欄干《らんかん》にもたれて二人で喋っておったところへ、パーディーがやって来た。立ち止まって話しかけて来たが、ドラッカーがあんまり喧嘩腰なことを言うもんだからして、二、三分したらパーディーはもと来た方へ帰って行ってしまった。ドラッカーがひどく昂奮しとったから、わたしは議論はまたいつか後でやろうと言った。おまけにしめっぽい霧が出てくるし、足がずきずきしだした。ところがドラッカーは大むくれで、まだ家の中に入る気にゃなれん、ちゅうわけでな。そこでわたしは彼を一人で石垣の傍に残して帰ってしまったのさ」
「そのお話はアーネッスンさんになさいましたか」
「家に戻ってから、アーネッスンには会わなかった。きっと寝てしまっとったんだろう」
やがて我々は立ち上って別れを告げたが、そのときヴァンスが何気ない様子で訊いた。「露地の鍵はどこに置いてあるかご存知でしょうか」
「そんなことは知りませんな」教授はいらだたしそうに答えてから、いくらか穏やかな調子で言い足した。「もっとも、以前はたしか弓術室のドアの傍の釘にかかっとったようだ」
ディラード教授がすむと、我々は真直ぐにパーディーの家に行き、ただちに書斎に通された。彼は固苦しく済ましこんだ態度で、我々が椅子に坐ってからも、窓際に突っ立って敵にでも会ったような顔で我々をにらんでいた。
「パーディーさんは」マーカムが尋問した。「ドラッカー氏が昨夜十時ごろ公園の崖から落ちたことはご存知でしょうか――あなたが立ち止まって話をなさった直後ですが」
「その事故のことは今朝聞きました」顔色の青白さがますます目立って来て、手は神経質に時計の鎖をもてあそんでいた。「大変お気の毒でした」彼はマーカムをぼんやりと見ていた。「そのことでディラード教授には訊いてごらんでしたか。あの人はドラッカーと一緒に――」
「ええ、ええ。いま伺って来たところですよ」ヴァンスがさえぎった。「あの方のお話ですと、昨夜あなたとドラッカーさんの間には険悪な空気があったそうですが」
パーディーはゆっくりと机の前に歩いて来て、ぎこちなく坐った。「ドラッカーは、夕食のあとでディラード家にやって来た時、なぜだか私が居るのを見て不機嫌になりました。あの男には自分の不機嫌をかくしておくだけのエチケットがないもんで、どうもまずい形勢になって来ましてね。私はあの男の性質はよくわかっていますから、なるべくその場をつくろおうとしたんですが。しかし、やがてディラード教授が散歩に連れ出してくれました」
「そのあと、あまり長居はなさいませんでしたね」ヴァンスがけだるそうに言った。
「ええ、――十五分ぐらいでしたね。アーネッスンが疲れたと言って、早くやすみたそうでしたから、私は散歩に出ました。帰りがけにドライヴを通らずに馬道をまわってみたら、崖のところでディラード教授とドラッカーが話をしながら立っているのに出会いました。私はぶしつけになってもいけないと思って、ほんのしばらく立ち止まったわけです。ところがドラッカーはひどい不機嫌で、何だかだと馬鹿にしたことを言いました。それで、私は引き返して、七十九番街に戻って、ドライヴを横切って家に帰りました」
「おや、途中で道草はなさらなかったんですか」
「七十九番街の公園入口のところに坐って煙草をのみました」
なお三十分ばかり、マーカムとヴァンスがパーディーを尋問したが、結局これ以上のことは何も聞き出せなかった。表に出たところへ、ディラード家のポーチからアーネッスンが声をかけ、すたすたと我々を迎えにやって来た。
「悲しいニュースを聞いたところだ。さっき大学から帰って来ると、教授が、君たちがパーディーをいじめに行ったと言うもんでね。何かわかったかい」答えを待たずに彼は続けた。「恐るべき騒ぎだね。これで、ドラッカー家は完全に地上から消滅したわけだ。いやはや。おまけに、また怪奇物語がくっついてさ……。で、手掛りは」
「アリアドネの導きの糸はまだ届かないんですよ」ヴァンスが答えた。「それとも、あなたはクレタ王国からのお使いですか」
「さあどうですかね。まずそちらの質問書を拝見しましょうか」
ヴァンスは先に立って塀の門に向っていた。我々も後について弓術場へとおりて行った。
「まずドラッカー家にまいりましょう」彼は言った。「片づけておかなきゃならないことが沢山あるようです。ドラッカーさんの後始末や葬儀の段取りを、お世話ねがえるでしょうね」
アーネッスンは顔をしかめた。「僕が当選ですか。しかし、葬式に出るのは断わりますよ。下品な見世物ですからね、葬式なんて。しかしベルと僕とで万事お世話しましょう。メー夫人はたぶん遺言を残してるでしょう。探し出さなきゃなりませんな。さてと、女はどんな場所に遺言状をかくしとくものですかね……」
ヴァンスはディラード家の地下室のドアのところで立ち止まって、弓術室に入った。ドアの繰《く》り形《がた》をぐるりと見まわしてから、弓場の私たちのところへ戻って来た。「露地の鍵がなくなってる。――ついでながら、アーネッスンさんはご存知ありませんか」
「あすこの塀の板戸の鍵ですか。……その件は全然存知上げませんな。僕は露地は通らないから――玄関から出たほうがはるかに簡単ですからね。誰も使いませんよ、僕の知ってるかぎり。ずっと前にベルが鍵をかけましてね。誰かがドライヴの方から忍びこんで来て、矢が眼玉にでも刺さったら困るというわけです。刺さったらいいのに、と言ってやったんですよ――弓術に興味を持った罰にちょうどいいってね」
我々はドラッカー家の裏口を入って行った。ベル・ディラードとメンゼルが台所で忙しく働いていた。「よう、君か」アーネッスンがベルに挨拶した。皮肉な態度は姿をひそめていた。「君みたいな若い子には辛い仕事だね。もう帰ったらいい。あとは僕が指図するよ」そして彼はおどけ半分で父親みたいに彼女の腕をとって、戸口に連れて行った。
彼女はためらってヴァンスをふりかえった。「アーネッスンさんのおっしゃるとおりです」ヴァンスはこっくりした。「さしあたって我々でやっておきます。――お帰りの前に、一つだけうかがいます。露地の鍵はいつも弓術室に掛けてお置きでしたか」
「はい――いつも。どうしてですの。今ございませんの」
答えたのはアーネッスンだった。ふざけた皮肉まじりで。「無いんだ。消えたんだ。――何たる悲劇だ。明らかにどこかの風変りな鍵収集家が、この辺をうろついたんだな」彼女が行ってしまうと、彼はヴァンスに目くばせした。「一体、錆《さ》びた鍵がこの事件と何の関係があるんですかね」
「別に何もないでしょう」ヴァンスは無頓着《むとんじゃく》に言った。「応接間に行きましょう。あっちの方が居心地がいいでしょう」彼は先に立って廊下を歩いて行った。「昨夜のことをなるべく詳しくお聞きしたいんですよ」
アーネッスンは表向きの窓の傍の安楽椅子に坐って、パイプを取り出した。
「昨夜ですな。……ええと、パーディーが夕食にやって来ました――いつも金曜日は習慣みたいになってましてねえ。次がドラッカーで、量子論的新学説の陣痛にたえかねて、教授にかまをかけに来ました。ところが、パーディーの居るのがお気にさわりましてね。なんと、感情を外に出しちまった。コントロールがきかないんですな。教授がドラッカーを風に当てに連れ出して、その |contretemps《コントルタン》〔あいにくな出来ごと〕を打ち切らせました。パーディーはそのあと十五分ばかりふさぎこんでいましたがね、私は何とか眼をさましてお相手をつとめました。そのあげくに、やっとご親切にも帰ってくれました。それから私は試験の答案を二三枚しらべて……そして寝たというわけです」彼はパイプに火をつけた。「只今のスリルたっぷりな物語が、ドラッカー君の最期をどんな具合に説明しますかね」
「説明しませんね」ヴァンスは言った。「しかし、面白いところが無くもなかったですよ。――ディラード教授が帰って来られたのは、お耳に入りましたか」
「耳にですか」アーネッスンはくすくす笑った。「あの痛風の足で、ステッキをごっとんごっとん言わせて、手すりをゆすりながらびっこを引くんですからね、教授の登場を人違いするなんてことはありませんよ。いや、ゆうべはね、ことのほかうるさかったですよ」
「ざっくばらんに、この新事実をどうお考えですか」ちょっと間をおいてから、ヴァンスが訊いた。
「僕はどうも細かい点をはっきり知りませんからねえ。教授があまり詳しく話してくれなかったもんで。ほんのスケッチ程度にしかね。ドラッカーが十時ごろ、ずんぐりせむしみたいに崖から落ちて、今朝発見された――これだけははっきりしてるんだけれども。しかし、メー夫人がショックで参ったのは、どういう事情だったんでしょうかね。誰が、何が、彼女にショックを与えたんです。どうやって」
「犯人はドラッカーの鍵をとって、犯行直後にここへやって来たんです。それをドラッカー夫人が息子の部屋でつかまえたんですが。コックが階段の上から聞いていたそうですが、彼女によると、ひと騒ぎあったそうです。その間にドラッカー夫人は心臓拡張で死んだわけです」
「そこで紳士は彼女を殺す手間がはぶけたというわけですな」
「明らかにそういうことらしいです」ヴァンスは言った。「ただ、犯人がここを訪ねた理由がわかりません。何かお考えはありませんか」
アーネッスンは考えこんでパイプをふかした。やがて、「わからんなあ」と彼はつぶやいた。「ドラッカーは値打ち物だの、危険文書なんてものは持っちゃ居なかったし、曲ったことの嫌いな男でね――けがれた仕事にかかり合いを持つような男じゃないから。……誰もあの男の部屋をあさるような理由はなさそうですなあ」
ヴァンスは椅子にもたれて、くつろいでいるようだった。「ドラッカーが研究中だった量子論とかいうのは、どんなものですか」
「ハ。大物ですよ」アーネッスンは急に元気が出て来た。「あの男は光の放射に関するアインシュタイン=ボール説と光の干渉という事実の仲をとりもったり、アインシュタインの仮説に内在する矛盾《むじゅん》を何とか始末しようとしていたんですな。その研究はすでに、原子現象の原因結果的時空同位説を放棄して、統計的記述で置きかえるという段階まで進んでいました。〔これら複雑な問題の解決への重要な一歩が、数年後に、ド・ブログリーの『波と運動』およびシュレーディンガーの『波の機構に関する論文』に示されるようなド・ブログリー・シュレーディンガー理論によって踏み出された〕……物理学に革命を起すところでしたよ――そうなりゃ、彼も名士でしたが。折角のデータをまとめ上げる前にこの世をお払い箱とは、ひどいもんです」
「ひょっとして、ドラッカーがその計算の記録をどこにしまっていたか、ご存じありませんか」
「ルーズ・リーフのノートにね――すっかり表を作って、索引《さくいん》までつけて。万事、几帳面《きちょうめん》できちんとやる男です。字まで銅版みたいに書く男でした」
「すると、どんなノートかご存じですね」
「そりゃそうです。しょっちゅう見せてくれましたからね。赤いしなやかな革の表紙がついていて――中の紙は薄手の黄色で――一枚ごとにクリップで二つも三つも註がとめてあって――表紙にでかい金文字で自分の名前が押してあって……。かわいそうに。かくて終れり、ですな」
「そのノートは今どこにあるでしょう」
「二か所のどっちかです――書斎のデスクの引き出しか、それとも寝室の書き物机ですな。昼間はむろん書斎で勉強してましたがね、問題を抱え込んだ時は昼も夜も(躍起《やっき》になりましたからね。寝室に書き物が置いてあって、寝る時に書きかけの記録を持ちこむんですな、晩の間にそれをひねくり回すようなインスピレーションが起っちゃいかんと思って。それから朝になると書斎に戻すわけです。何だって制度を作っちまう機械ですな」
アーネッスンが喋っている間、ヴァンスは退屈そうに窓の外を眺めていた。その様子では、ドラッカーの習慣の話などほとんど耳に入っていないみたいだった。だが、やがて彼は振り向いて、不景気な顔でじっとアーネッスンを見た。
「あのう」彼はのろくさく言った。「ちょっと上へ行ってドラッカーのノートを持って来て頂けませんか。書斎と寝室を両方とものぞいてみて下さい」
アーネッスンはほんの少しばかりためらうように見えた。が、すぐに彼は立ち上った。
「いい考えですな。その辺にほったらかしておくにはもったいない記録です」彼はすたすたと部屋を出て行った。
マーカムは床を歩きはじめた。ヒースは葉巻をますます威勢よくふかして、落ち着かない気持を暴露していた。その小さな応接間には、アーネッスンの帰りを待つ間、ずっと緊張した空気がただよっていた。皆それぞれに、何ごとか期待を抱いていた。どうあって欲しいのか、あるいはどうあって欲しくないのか、はっきりとは言えなかったのだが。やがて十分もたたないうちに、アーネッスンが戸口に現われた。彼は肩をすくめて、空っぽの両手をひろげてみせた。「無いです」彼は言った。「ありそうな場所は全部見たけど――見つかりません」彼はどっかりと椅子に坐って、パイプをつけ直した。「どうしたのかなあ。……かくしたかな」
「かくしたかな」ヴァンスはつぶやいた。
第二十章 因果応報
――四月十六日、土曜日、午後一時
一時を過ぎていた。マーカムとヴァンスと私は車でスタイヴスント・クラブに向った。ヒースはドラッカー家に残って、型どおりの仕事を片づけたり、報告書を書いたり、やがてやってくるであろう新聞記者の大群に応対したりするはずだった。マーカムは三時に警察本部長官と協議する約束があった。そこで、食事がすむと、ヴァンスと私は、歩いてスティーグリッツ・インティミット画廊に行き、ジョージァ・オキーフの花の抽象画の展示を見て一時間すごした。そのあと、イオーリアン・ホールに立ち寄り、ドビュッシーのト短調四重奏曲を終るまで聞いた。モントロス画廊にはセザンヌの水彩画があったが、フィフス・アヴェニューの夕刻の雑踏をかきわけて行ったころには、もう陽がかげりはじめていた。そこでヴァンスは運転手にスタイヴスント・クラブに向うように命じ、クラブでマーカムと落ち合ってお茶にした。
「なんだか自分がはたちに返ったような気がするよ、単純で、無知で」ヴァンスが情けない声を出した。「いろんなことは起るし、それがみんな精巧なからくりで、何が何だかわかりゃしない。まごまごしちまう、混乱しちまうよ。気に食わんなあ――こんな事件は大嫌いだ。骨が折れるよ」彼はやるせなく溜息をついて茶をすすった。
「哀れなことを言ったって知るもんか」マーカムがやり返した。「大方君らはメトロポリタン博物館にでも行って火縄銃だの昔のピストルだのを調べて半日遊んで来たんだろう。その間のこっちの苦労を君らもしなきゃいけなかったとしてみたまえ――」
「おい、怒るんじゃないよ」ヴァンスは非難めいて言った。「世の中にゃ感情がありすぎるよ。感情的になったってこの事件が解決できるもんか。脳の働きだけが僕らの唯一のホープなんだ。冷静に、よく頭を働かさなきゃ」彼は真剣になって来た。「マーカム、この事件はもう少しのところで完全犯罪だよ。モーフィーの偉大なチェスの組合せの一つみたいに、十手も二十手も先が読んである。手掛りは一つもない。もしあっても、それについて行ったら、間違った方角に行かされてしまう。しかも……それでいて何だか突き破って出ようとしているものがある。そんな感じがするんだ。ほんの直感だがね――まあ、神経だな。話したいのに話せないでいる、言葉にならない声がするんだ。自分の正体を見せないで人間に話しかけようとする眼に見えない幽霊みたいに、じれったくもがいている何かの力を、僕は何度となく感じていたんだ」
マーカムはいら立たしく溜息をついた。「そいつは大助かりだ。霊媒《れいばい》でも呼んで来て差し上げようかね」
「何か、僕らの見落していたものがあるんだよ」ヴァンスはあてこすりにかまわず、先を続けた。「この事件は暗号なんだよ。そして、それをとく鍵が目の前にあるのに、僕らはそれがわからないんだ。やれやれ、何ともじれったいなあ……。もっと整理しなくちゃ。何でもキチンと――これが目下の大問題だ。まず、ロビンが殺される。次に、スプリッグが射殺される。それから、ドラッカー夫人が黒のビショップで脅迫される。そのあと、ドラッカーが崖から突き落される。これで犯人の狂想曲に別個のエピソードが四つ出来たわけだ。そのうちの三つは周到に計画されたものだね。あとの一つ――ドラッカー夫人のドアにビショップを置いて行ったのは、犯人が仕方なしにやったことで、従って準備なしで決意したことだ。……」
「その点の推理をもっと聞かせないか」
「だって、君。黒のビショップを持って来た人間は、明らかに自衛のために行動したんだよ。作戦に従っているうちに、予想外の危険が生じたから、それをよけるためにあんな手を打った。ロビンが死ぬ直前に、ドラッカーは弓術室から出て庭の植え込みに坐った。そこからは、裏窓から弓術室が見えるんだ。やがて彼は弓術室で誰かがロビンと話しているのを見た。彼はそのまま家に帰った。とたんにロビンの死体が弓場に投げ出された。ドラッカー夫人がそれを見た。そして、たぶん、同時にドラッカーをも見たんだろう。彼女は悲鳴を上げた――ごく当然さ、ね。ドラッカーはその悲鳴を聞いた。そして、あとで僕らがロビンが殺されたことを教えてから、自分のアリバイを作るためにそのことを僕らに言ったわけだ。かくして、犯人はドラッカー夫人が何事かを見たことを知った――どの程度のことを見たのか、そこまではわからなかった。しかし、運を天にまかしとくわけにゃ行かない。彼は夫人の口を封じるために、真夜中に彼女の部屋に行った。そして、サインの代りに死体の傍に置いて来るつもりで、黒のビショップを持って行った。ところが、ドアに鍵がかかっているもんだから、黙ってなきゃ殺すぞという警告の意味で、ドアの外にビショップを置いて来た。彼はあの夫人が自分の息子が怪しいと思っていることを知らなかったんだな」
「しかし、ドラッカーは、弓術室にロビンのほかに誰を見たか、なぜそれを言わなかったんだい」
「僕らとしちゃ、彼が犯人だとはとても思えない誰かを見たんだ、と考えるほかはないね。それに、彼はそのことを相手に喋って、自分の運命を封じてしまったんじゃないかと思う」
「かりに君の説が当っているとして、結論はどういうことになるんだ」
「そのあらかじめ周到に準備されなかったエピソードを調べろ、ということだ。準備してかからなかった秘密の行動なんてものは、細かい点で、かならず一つや二つ弱点を持っているものだ。――で、この三つの殺人が行なわれた時に、劇中のいろんな人物が、みんな登場し得たという事実に注目してもらいたい。みんなアリバイがない。それはむろん抜け目なく計算されたことなんだ。犯人は他の登場人物が、いわば、みんな舞台の袖で出を待っていた時を選んだんだ。しかし、あの深夜の訪問がある。ああ。あっちはまた別の事情だ。細かいところまで完全にでっち上げる時間がなかった。――危険があまりに切迫していたわけだ。その結果は何か。見たところ、ドラッカーとディラード教授だけが十二時に手近に居た人物だ。アーネッスンとベル・ディラードはプラザ・ホテルで夜食を食っていて、十二時半まで帰宅しなかった。パーディーは十一時から一時までチェス盤をはさんでルビンシュタインと四つに組んでいた。ドラッカーはむろんもうオミットだ。……答はどうなる」
「言っとくが」マーカムはいらいらして言った。「他の連中のアリバイはまだよく調べてないんだぜ」
「おお、言ってくれ、言ってくれ」ヴァンスはぐったりと椅子にもたれて、煙の輪を次々と規則正しく並べて天井に吹き上げた。突然、彼の体が緊張した。細心な注意を払って彼は屈《かが》みこんで煙草を消した。それから時計をちらと見て立ち上った。彼はからかうような目つきでマーカムを見つめた。「アロン・モン・ヴィウ。〔おい、行こう〕まだ六時前だ。アーネッスンがお役に立つチャンスが来たぜ」
「何だい、今度は」マーカムが水をかけた。
「君が言い出したんだぜ」ヴァンスは彼の腕をとってドアの方へ連れて行った。「これからパーディーのアリバイを調べるのさ」三十分後には、我々はディラード家の書斎で教授とアーネッスンの前に坐っていた。
「こんどは変った用事でお伺いしました」ヴァンスが言った。「しかし、我々の捜査に重大な影響をおよぼすかも知れません」彼は札入れを出して一枚の紙をひろげた。「この書類をアーネッスンさんにちょっと見て頂きたいんです。パーディーとルビンシュタインのチェス試合の公式|棋譜《きふ》の写しなんですがね。なかなか面白いですよ。私も少しいじって見たんですが、あなたに専門家の分析をやって頂こうと思いましてね。試合の前半分は何も変ったところはないんですが、指《さ》しかけの後が面白いんです」
アーネッスンは紙を受け取って、皮肉まじりに興がった様子でそれを調べた。
「あはっ。パーディー大敗の不名誉な記録ですな」
「何だね、そりゃ、マーカム」ディラード教授が馬鹿にしたように言った。「チェスの試合か何かでぐずぐずしとって、殺人犯がつかまるとでも思うのかね」
「ヴァンス君がそこから何かがわかると言うもんですから」
「くだらんね」教授はポートワインをもう一杯注いで、本を開いて我々を全く尻目にかけた。
アーネッスンはチェスの棋譜に熱中していた。「ここがちょっとおかしいな」彼はつぶやいた。「時間が変だ。まてよ……棋譜では指しかけになった時までが、白――つまりパーディーが一時間四十五分、そして黒、つまりルビンシュタインが一時間五十八分使っている。ここまではいい。三十手。ちゃんとしてるね。ところが、パーディーが投げて試合が終った時には合計白が二時間三十分、黒が三時間三十二分になっている――つまり後半戦では、白は四十五分しか使っていないのに、黒は一時間三十四分も使ってる」
ヴァンスはうなずいた。「そうなんです。試合は十一時に再開してから二時間十九分かかって、一時十九分まで続いたわけです。そしてその間ルビンシュタインの手はパーディーより四十九分よけいにかかっています。――どういうわけか、おわかりになりますか」
アーネッスンは口を結んで棋譜を眺めた。「はっきりしませんなあ。時間がかかりそうです」
「何でしたら」ヴァンスが提案した。「指しかけになった時の局面を作って、終《しま》いまでやってみませんか。あなたの戦評もうかがいたいし」
アーネッスンはいきなり立ち上って、隅っこの小さなチェス台のところに行った。「いいお考えです」彼は箱から駒をあけた。「待ってくれよ……。おほっ。黒のビショップがないぞ。ついでながら、いつ返してもらえるんですかね」彼はヴァンスに哀れっぽい横目を使った。「まあいいや。いまは要らないからな。黒のビショップは取られたと、ね」そして彼は駒並べを続け、指しかけになった時の駒組みを作った。それから、腰を下して形勢を眺めた。
「べつにパーディーに不利な形勢とは思えないですね」ヴァンスが遠慮がちに言った。
「そうですな。何だって負けたんですかな。むしろ引き分けですな」やがて彼は棋譜に目を移した。「このあとを指してみて、どこがいけないか調べてみましょう」彼は六手ばかり動かした。それから、しばらくじっと眺めていたあげく、うなり声を上げた。「ははあ。ここがルビンシュタインの読みの深さだな。驚くべき駒組みをやりはじめてますよ。大した頭だなあ。僕の知ってるとおりのルビンシュタインなら、これを考え出すのにずい分時間がかかったでしょう。遅指しの、こつこつ屋ですから」
「黒と白の時間の違いは、その駒組みを考え出したためだということは、あり得ますね」ヴァンスが言った。
「ああ、それにちがいありません。時間の違いがもっと大きくならなかったのは、ルビンシュタインもよっぽど好調だったんですね。この駒組みを立案するのに四十五分ぜんぶかかったんでしょう――でなきゃ僕が馬鹿か」
「何時ごろになるでしょうか」ヴァンスは無頓着に訊いた。「ルビンシュタインがその四十五分を使ったのは」
「さあ、待って下さいよ。始まったのが十一時、この駒組みに着手するまでが六手。……ああ、まあ十一時半から十二時半までの間ですねえ。……そう、そんなところです。指しかけまでが三十手、十一時に再開して六手――これで三十六手、そして四十四手目にルビンシュタインが歩《ボーン》をビショップの7に動かして王手、それでパーディー投了か……。そう、――この駒組みの長考は十一時半から十二時半までの間でしょう」
ヴァンスは、パーディー投了の時と同じ形に組み上った盤上を眺めた。「好奇心から」彼は静かに言った。「こないだの晩、僕は投了から王手詰みまでやってみたんですがね。――ねえ、アーネッスンさん、もう一遍ここでやってみて頂けませんか。あなたの戦評がうかがいたいんですよ」
〔専門的な興味をお持ちの高級チェス愛好家のために、パーディー投了の時の正確な局面をここに添えておく。
白、キングがQKtsq、ルックがQB8、ポーンがQR2とQ2。
黒、キングがQ5、ナイトがQKt5、ビショップがQR6、ポーンが、QKt7とQB7〕
アーネッスンは二、三分ばかり局面を調べていた。やがて、ゆっくりと振りかえってヴァンスを見上げた。ニヤリと顔がほころびて嘲笑的な笑い顔になった。
「わかりましたよ。驚きましたね。何たる場面ですかね。五手で黒の勝だけど。こんなチェスのフィナーレはちょっと聞いたことがないですな。同じような例は思い出せません。最後の手はきっとビショップがナイトの7で詰《つ》みでしょう。言いかえたら、パーディーは黒のビショップに負かされたんですよ。信じられない」
〔パーディーの投了でプレイされなかった黒の王手詰めまでの五手は、あとでヴァンスに聞いたところでは次のようであった。
(45)白ルックがポーンとる、黒ナイトがルックとる。(46)キングがナイトとる、ポーンKt8行き〔クィーン成り〕(47)キングがクィーンとる、キングQ6行き。(48)キングRsq行き、キングB7行き。(49)ポーンQ3行き、ビショップKt7行き、詰み〕
ディラード教授が本を置いた。
「なんだって」彼は叫んで、チェス台の我々のところに寄って来た。「パーディーがビショップに負かされた、だと」彼は抜け目のなさそうな讃嘆の眼でヴァンスを見た。「そうなると、あんたはあのチェス試合を調べる立派な理由があったというわけだねえ。いやあ、年寄りが疳癪おこして――勘弁しておくれ」彼は悲しげな、当惑した表情で盤を見おろして立っていた。
マーカムはひどく難かしい顔をしていた。「ビショップだけで詰みというのは珍らしいと言うんだね」彼はアーネッスンに訊いた。
「ないとも――ほとんど唯一の場面だな。それが選《よ》りに選ってパーディーに起るとはね。わからんもんだよ」彼は短かく皮肉な笑い声を上げた。「因果応報《いんがおうほう》なんてことを信じたくなるね。そうだろう、ビショップが長年パーディーのベート・ノワール〔こわいもの〕だったんだからね――それが一生を台無しにさせたんだからねえ。哀れな奴さ。黒のビショップが彼の不幸のシンボルなんだ。運命か。パーディー定跡《じょうせき》をうち負かしたのもたった一つのビショップなんだ。ビショップのKt5行きがいつも彼の計算をぶちこわしてしまった――大事な理論が役に立たないことを証明してしまった――一世一代の仕事が弥次《やじ》られ、馬鹿にされたわけだ。そして今度は、有名なルビンシュタインと引き分けになるチャンスが来たという時に、またまたビショップが現われて、彼を一介《いっかい》の無名の士に叩き落してしまった」
数分後に我々は別れを告げ、歩いてウェスト・エンド・アヴェニューに出てタクシーを呼びとめた。
「ねえ、ヴァンス」車を下町に向わせてマーカムが言った。「君がこないだ黒のビショップが夜中にうろついてると言った時に、パーディーがあんなに真青になったのは無理もないねえ。あれは、たぶん君がわざと侮辱《ぶじょく》したと思ったんだよ――面と向かって一代の失敗をぶっつけてさ」
「まあね……」ヴァンスは窓からぼんやりと深まりゆく暮色を眺めていた。「ビショップがこんなに長年彼の悩みの種だったってのは、えらく変だね。そう失望を繰り返すと、どんな強い精神力でも影響されることがあるものだ。失敗の原因を正義のシンボルにまで高めて、世の中に復讐しようと考えるようになる」
「パーディーがそんな執念深い役柄を演じている図なんて想像しにくいぜ」マーカムが反対した。そして、しばらくたってから、「パーディーとルビンシュタインの試合時間の食い違いがどうのってのは、ありゃ何だい。ルビンシュタインが駒組を考えるのに、四十五分だか何だかかかったらどうしたというんだ。試合は一時すぎまで終らなかったんだぜ。わざわざアーネッスンを訪ねて、結局何も得るところはなかったようだね」
「そりゃ君がチェスをやる人間の習慣を知らないからだよ。ああいう時間をはかるような試合ではねえ、相手が手を考えている間はずっと坐って待ってるものじゃないんだ。歩きまわったり、伸びをしたり、風に吹かれに行ったり、女に色目を使ったり、氷水をがぶがぶやったり、おまけに飯まで食ったりするんだ。去年のマンハッタン・スクェア・マスターズ大会なんか四テーブルある中で、一どきに椅子が三つも空いてるなんて景色は、ごく当り前だったよ。パーディーは神経質なタイプだ。ルビンシュタインが長々と頭をひねくってる間じゅう、おとなしく坐っていやしまいよ」ヴァンスはゆっくりと煙草をつけた。「マーカム。あの試合をアーネッスンに分析してもらった結果、パーディーが十二時間前後に四十五分だけ体が空いていたことが判ったんだぜ」
第二十一章 数学と殺人
――四月十六日、土曜日、午後八時三十分
夕食の間、事件の話はほとんど出なかった。だが、クラブの社交室の奥のほうに腰を落ち着つけると、マーカムがまた話を切り出した。
「僕はどうも」彼は言った。「パーディーのアリバイの穴を探り出したって、大した役にも立ちそうに思えないがねえ。事情はいい加減もう我慢のならないところへ来ているのに、ますます混乱するばかりだよ」
「そう」ヴァンスは溜息まじりに言った。「悲しむべき、いやな世の中だよ。一歩踏み出すたびに、また少し事態がこんがらがってくる。しかも驚ろいたことに、真相は僕らの眼の前にぶら下ってるんだ。ただ僕らはそれが見えない」
「誰かを指さすような証拠だってありゃしない。理性だけは顔をそむけずに、こいつが怪しいと思ったってよさそうなものだが、そういう容疑者さえ一人も思い当らないんだから」
「そうでもなさそうだぜ、おい。こいつは数学者の犯行だよ。見渡してみたまえ、数学者がずい分いたじゃないか」
捜査がはじまって以来、たしかにまだ怪しい人物として特に名指しをうけた者は一人もいなかった。だが、我々はそれぞれに胸の奥底で、我々がすでに話し合ったことのある人たちの中の一人が犯人なのだということを、よく知っていた。そして、思うだにいまわしいその事実の故に、我々は本能的にそれを認めることを避けていたのだ。我々は最初から、本当の考えと恐れとを、一般論というカーテンでおおいかくしていたのだ。
「数学者の犯行だって」マーカムがおうむ返しに言った。「僕はむしろ、狂人が暴《あば》れ狂って犯した一連の無意味な犯行だと思うんだがね」
ヴァンスは首を振った。「狂人どころか、超健全だよ、マーカム。それに無意味な行為じゃなくて、恐ろしく論理的で精密な行為だよ。たしかに、恐るべき陰惨なユーモアの持ち主が、とほうもなく冷笑的な態度で考え出したにはちがいない。しかし、行為自体は正確で合理的だよ」
マーカムは考えこんでヴァンスを見た。
「一体君はこのマザー・グース犯罪をどうやって数学者の頭と調和させることができる」彼は訊いた。「どこが論理的だと見なし得るんだ。僕には悪夢にすぎんよ。正気とは関係がない」
ヴァンスはますます体を椅子に埋めて、しばらくはじっと煙草をふかしていた。やがて、彼は事件の分析をはじめたが、その分析は事件の外見上よそおっている狂気ぶりを暴露しただけでなく、すべての出来事と登場人物を不変の焦点に集中させたのであった。我々は遠からずしてこの分析の正確さを、悲劇的な圧倒的な力によって思い知らされることとなったのである。
〔私は完全なノートをとっていたとは言え、ヴァンスの言葉を正確にそのまま伝えることはとても出来ない。だが私は以下の部分の校正刷を彼に送って、字句や順序を訂正してくれるよう依頼した。そこで今では、以下はビショップ殺人事件の心理的要因について彼の分析の言葉を正確に意訳的に描出しているわけである〕
「これらの犯罪を理解するためには」彼ははじめた。「数学者の商売道具を考慮に入れる必要がある。数学者は思索や計算の生活のあげくに、この地球という天体が比較的に微々たるもので、人間の生命がまるで重要でないものだという考え方を強くする傾向があるわけだからね。――まず、数学者の研究領域だけをとって考えてみよう。彼は一方ではパーセク〔一秒当りの視差。三・二五九光年に当る〕だの光年だのいう単位を使って無限の宇宙を測定しようとするし、他方ではあまりにも微小な電子を測《はか》ろうとしてラザフォード単位なんてものを発明しなきゃならなかったりする――一ミリミクロンの百万分の一だよ。彼が見ているものは超越的なパースペクティヴに立った万物の姿なんだ。その中に入ると、地球も、そこに住む人間も、ほとんど消えてしまった点にすぎない。星の中には彼がほんの些細《ささい》な微々たる単位としか考えていない星――たとえばアルクトゥールスとか、カノプスとか、ベテルギウスとかいったものがあるが、それが実はみな我々の太陽系全体の何倍もの体積を持った巨大な星なんだ。シャープレーが測ったところでは、銀河の直径は三十万光年だという。しかも宇宙の直径を出すには銀河を一万も集めなきゃならない――これは天文学の観測範囲の一兆倍の容積になる。つまり、これを質量に直して考えてみると、太陽の重さは地球の重さの三十二万四千倍だが、宇宙の重さは太陽のトリリオン倍――つまり十億倍の十億倍だ――ということになるはずだという。〔ヴァンスはここでトリリオンという言葉をイギリス式の意味に使っている。アメリカやフランス式がトリリオンを百万の百万倍の意味に使うのに対し、イギリス式では百万の三乗の意味である〕……こんなばかでかいものを相手にしている人間が、時たま地球上の物の大きさがわからなくなったって、何の不思議もありゃしまい」
ヴァンスはちょっと無意味な身振りをした。
「しかしこんなものは初歩の算術だ――職人数学屋が毎日やってることだ。もっと高級な数学者は更に更に遠く進んでいる。彼がたずさわるのは、普通人の頭が捕捉《ほそく》することさえできないような深遠な、一見|矛盾《むじゅん》した思索なんだ。彼の世界では、我々の観念からする時間は、頭で考えた作りごととしてしか意味がなくて、三次元の空間に対して第四の次元になってしまう。そこでは、距離なんてものは近い物に対してしか意味がない。なぜなら、与えられた二つの点の間には無数の最短径路があるからだ。そこではまた、原因とか結果とかいう言葉は説明のための便宜上《べんぎじょう》の速記の記号みたいなものにすぎない。そこでは直線というものは存在せず、定義を受け付けない物になっている。そこでは物体が光の速度に達すると質量は無限に大きくなる。そこでは空間そのものの特性は湾曲だという。無限大には高次のものと低次のものがあるという。重力の法則は実際に作用する力としては使われなくなって、空間の一特質ということで置きかえられた――つまりりんごは地球に引張られて落ちるのではなく、測地線に、つまり世界線に従っているからだという考え方だ。……
この現代の数学者の領域では、曲線というものが接線なしで存在している。ニュートンにしろ、ライプニッツにしろ、ベルヌイにしろ、接線なしの連続曲線なんて――つまり微分係数なしの連続曲線|函数《かんすう》なんて、夢にも考えつかなかった。実際、こんな矛盾したことを心に描いてみることなんて誰にだってできやしない、――人間の想像力のとうてい及ばない世界だね。しかも、接線なしの曲線を扱うことは現代の数学ではしごく平凡なことだ。――それにパイ〔π〕だって――小学校時代からなじんだ、あの不変のものと考えた円周率だって、もはや定数ではない。直径と円周の比率は、円が静止している時に計るかぐるぐる廻っている時に計るかで違ってくるというんだな。……退屈かい」
「そりゃそうさ」マーカムはやり返した。「しかし話が地上に向ってるんだったら続けていいよ」
ヴァンスは溜息をついて頼りなさそうに首を振ったが、すぐに真面目に返った。
「現代数学の諸概念は個人を現実の世界から突き出して、全くの思考の仮構《かこう》の中にほうり込んでしまう。そして、アインシュタイン言うところの最も堕落した形の想像力――病理学的個人主義へと導いて行ってしまう。たとえば、ジルバーシュタインは五次元、六次元の存在の可能性をうんぬんして、出来事を実際に起る前に見ることが出来るなんてことを考え出したりする。フラマリオンのリュマン――光より速い速度で動き、従って時間を逆の方向に経験できるという仮空の人物だが――そのリュマンを着想した考え方からこういう結論が出てくるんだが、その結論だけでも自然な、正気の物の見方を歪めてしまうに充分だからね。〔リュマンはこのフランスの天文学者が時間の逆行を証明するために考え出したもの。秒速二十五万マイルでウォータルーの大会戦が終った時に宇宙に舞い上って、戦場から出た全ての光線に追いつくということになっている。だんだん追い越して二日後に遂に彼は会戦の終りでなく始めを目撃する。そしてその間、彼は戦場の出来事を逆の時間の順序で眺めていたのだ。彼は弾丸が命中した標的物から出て大砲に戻って行くのを見る。戦死者は生き返って戦列につく。リュマンの今一つの仮説的冒険は、月に飛び移って瞬時に振りかえり、自分が月から地球に飛びすさって行く姿を見る、というのである〕しかし合理的思考の見地からして、リュマンなどよりもっと気味の悪い仮想人がいる。この仮空の生き物は無限大の速度で全宇宙を一気に通過し、従って全人類の歴史を一目のうちに見ることができる。ケンタウルス座のアルファ星から彼は四年前の地球を見ることができるし、銀河からは四千年前の地球が見られる。しかも宇宙のある一点を選べば、氷河時代と現代を同時に見ることができると言うんだね。……」
ヴァンスは椅子に体をさらに埋めた。
「単に無限という観念をもてあそんだだけで、普通人の頭は蝶《ちょう》つがいが外れてしまう。ところが、人間は真直ぐに常に前進して行くと、必らず出発点に戻ってしまうという現代物理学の有名な主張となるとどうだ。これは簡単に言うと、真直ぐにシリウスに向って直進し、さらにその百万倍もの距離を方向を変えずに行くことはできても、我々は決して宇宙の外にとび出すことはなくて、結局は出発点に|逆の方向から《ヽヽヽヽヽヽ》戻って来てしまう、ということなんだ。どうだい、マーカム、我々が古風にも正常な考えと称しているものにとって、こんな観念が貢献すると思うかい。しかしどんなに逆説的で理解を絶するように見えても、理論物理学が提出するほかの定理にくらべたら、こんなものはほとんど初歩と言ってもいいぐらいだ。たとえば、いわゆる双子の問題というやつを考えてみたまえ。双子の一人が生れてすぐアルクトゥールス星に向って出発すると――つまり重力の場を加速運動してゆくとだね――戻って来ると自分が兄弟よりも若いことを発見するんだ。また、他方、双子の運動がガリレオ的で、従って互いに相関的な同一の運動をしながら進んで行くとすると、双子は互いに相手の方が若いのを発見するというんだ。……
こういうことは論理の逆説ではないんだよ、マーカム。感じの逆説にすぎないんだよ。数学はこれらを論理的に科学的に説明しているんだ。〔ヴァンスからの申し出で、ここにA・ダブロの最近の学問的著作『科学的思考の進化』のことを言及するようにとのことであった。同著には時空とつながる逆説のいろいろについて、すぐれた論述がある〕僕が強調したいのは、普通人の頭には矛盾して馬鹿げたことにさえ思われる事が、数学者のすぐれた頭脳にとっては日常茶飯事だということなんだ。アインシュタインみたいな理論物理学者は、空間の直径――空間《ヽヽ》のだよ、いいかい――空間の直径は一億光年、すなわち七百トリリオン・マイルだと言っている。しかも、それぐらいの計算はほんのABCだと思っているんだ。この直径のさらに向うに何があるか訊いてみたまえ、答えはこうだ。即ち、『その向うは無い。この中にすべてが含まれている』とね。つまり、無限は有限なりということだ。あるいは、科学者なら、空間は無限界だが有限だ、と言うだろう。――ちょいと三十分ばかりこの概念をとっくり考えてごらん、マーカム、気が狂いだしそうな感じに襲われるにちがいない」
彼は言葉を切って煙草をつけた。
「空間と物質――これが数学者の思索の分野なんだ。エディントンは物質を空間の一つの特性だと考えている――無の中のこぶだね。ところがワイルは空間を物質の特性と考えるんだ――つまり彼にとって何もない空間というものは意味がない。そこでカントのいう『物そのものと現われ』とは互いに交替できるものということになる。そうなると哲学そのものまですべての意義を失ってしまう。しかし、我々が有限の空間という数学的な概念に到達すると、あらゆる合理的法則は廃棄《はいき》されてしまうんだ。デ・ジッターは空間の形を球体ないし球面的と考えた。アインシュタインの空間は円筒形で、円周部ないし『境界状態』においては、物質はゼロに近づくという。ワイルの空間は、マッハの力学にもとづいて鞍型《くらがた》だという。……さあ、こういう概念を念頭において考えると、自然だの、我々の住んでいる世界だの、人間存在だのというものは一体どうなって来るか。エディントンは、自然の法則というものは存在しない――つまり自然は十分の根拠を持った法則には従っていない、という結論を持ち出している。ああ、哀れなショーペンハウエルよ、だね。〔ヴァンスの文学修士論文がショーペンハウエルの『充足理論の四根について』を扱っていたことを思い出す〕そして、バートランド・ラッセルは現代物理学の必然的な結論を要約して、物質とは単なる出来事の集まりにすぎず、物質そのものが存在するには及ばないのだと言う意見を持ち出している。……そういう考えがどこに行きつくか、わかるかい。世界が非原因的で非実在だということになれば、単なる人間の生命など何物だね――国家の生命でもいい――いや、そうなりゃ、存在そのものでもいい――それは一体、何物だね……」
ヴァンスは顔を上げた。マーカムはどっちつかずにうなずいてみせた。
「その辺まではわかるよ、もちろん」彼は言った。「しかし論点がはっきりしないね――神秘的だとは言わないが」
「こんなぼう大な、けたはずれの概念、人間社会の個々人なんか無限に小さなものになってしまう、こんな概念を扱っているうちに、地球上の相対的価値の観念を一切失って、人間の生命を無茶苦茶に軽蔑するようになっても、驚くには当らないだろう。そうなると、この世の比較的重要でない微々たる事情なんか、意識の中の大宇宙にとっては、ほんのちっぽけな邪魔ものにすぎないことになってしまう。必然的に、こうした人間の態度は冷笑的にもなる。心の中では、彼はあらゆる人間的な価値をあざ笑い、周囲の目に見える物の小ささをせせら笑っているだろう。きっと彼の態度にはサディズムの要素も入っているだろう。冷笑はサディズムの一形態だからね。……」
「しかし慎重に計画された殺人だぜ」マーカムは反対した。
「この事件の心理的な面を考えてみたまえ。毎日なにかレクリェーションをする正常人なら、意識的活動と無意識的活動の間に平衡《へいこう》が保たれている。情緒がたえず消散するから、ちっとも鬱積《うっせき》するひまがない。ところが、全時間を極端な精神集中についやし、情緒をきびしく抑制している異常人の場合は、潜在意識の解放の結果が激烈な現われ方をすることが多いものだ。この何のレクリェーションもはけ口もない長い抑制と長期の精神集中が、しばしば言いようもなく恐ろしい行為のかたちをとった爆発を引き起す。どんなに知的な人間でも、こうした結果は必らず起るものだ。自然の法則を否認する数学者でも、こういう法則には従わざるを得ない。実際、超物理的問題に熱中すればするほど、自分の拒《こば》む情緒の圧力は大きくなるばかりだ。踏みにじられた自然は、自然の均衡を保つために、奇怪きわまる爆発を起す――つまり反動だよ。おそるべきユーモアや倒錯した陽気さという形で、深遠な数学的理論の厳然たる生真面目さの正確な裏返しが行なわれるんだ。サー・ウィリアム・クルックスやサー・オリヴァー・ロッジ――どっちも偉大な物理学者だったが――こんな人たちが降神術にこり固まったという事実だって、やっぱり同じような心理的現象なんだよ」
ヴァンスは立て続けに煙草を胸一杯吸いこんだ。
「マーカム、これは避けがたい事実なんだ。これらの奇々怪々な一見信じがたい殺人は、張り詰めた抽象的思索と情緒の抑圧の生活に強制されて吐け口を求めた数学者が計画したものなんだ。これらは、すべての表示された要件をみたしている。整然として、精密で、見事に実行され、あらゆる微細な因子がきちんと適所におさまっている。落ち度がなく、無駄がなく、一見、動機がない。ひどく想像力に富んだ精密さは別としても、あらゆる徴候が、深遠な構想力を持った頭脳が羽目をはずしたことを――純粋な科学に傾倒している人物がしたい放題をやったのだということを、まぎれもなく指している」
「しかし、気味の悪いユーモアがつきまとうのは何故《なぜ》だい」マーカムが訊いた。「事件のマザー・グースの側面をどうやって君の説と調和させるつもりだい」
「抑圧された衝動の存在は」ヴァンスは説明した。「常にユーモアに都合のいい状態を生み出すものだ。デュガはユーモアを |detente《デタント》――つまり緊張からの解放だと定義している。ベインはスペンサーの説をうけて、ユーモアを束縛の除去だと言っている。ユーモアの発現にとって最も肥沃《ひよく》な畠は、やがては自由な放出を要求する鬱積された潜在エネルギー――フロイトの言う |Besetzungsenergie《ベゼツングスエネルギー》 なんだ。これらのマザー・グース事件の場合は、余りにも生真面目な論理的思索と平衡をとるために、奇々怪々たる、不真面目な行動に反応を起した数学者が我々の相手なんだ。冷笑をうかべて、『どうだ。これが、お前たちがもっと無限に大きな抽象的な世界を知らないために、くそ真面目に真にうけている世界なんだぞ。地上の生活なんか子供の遊びだ――冗談の種にするのももったいないぐらいだ』とでも言っているみたいじゃないか。……そして、こういう態度は心理学から言っても矛盾がない。なぜなら、大きな精神的緊張が長く続いた後では、人間は裏返しという形をとるものだから――つまり、最も真剣な、最もいかめしいものは、最も子供っぽい遊びにはけ口を求めるものだからだ。これは、ついでながら、サディズムの本能を持ったいたずらの説明にもなっている。……
その上、サディストはすべて小児的コンプレックスを持っているものだ。そして子供というものは道徳とは全然無関係だ。だから、こうした小児的心理倒錯を経験する人間は、善悪を超越している。多くの現代の数学者たちは、すべての因習、義務、道徳、善などというものは、自由意志の仮構がなければ存在し得ないものだと考えてさえいる。彼等にとって、倫理学などという学問は概念の幽霊がしょっちゅう出入りする世界なんだ。彼等はさらに、真理そのものが想像力のこしらえた作りごとでないと言えるだろうか、などという崩壊的な懐疑にさえ到達している。……こういう考え方に加えて、高等数学の思索の結果たやすく生じうるであろう世俗的にひねくれた心や人間生活への蔑視なんてものを持ってくれば、今取り扱っているタイプの犯罪を生み出す条件が完全に揃うじゃないか」
ヴァンスが語り終ると、マーカムは長いこと黙って坐っていた。やがて、ようやく彼は強情そうに身動きした。
「この犯罪が」彼は言った。「関係人物のほとんど誰にでもふさわしそうだということはよくわかったがね。しかし、君の議論から言うと、新聞社に送った手紙のことはどう説明がつくんだい」
「ユーモアは分ち与えらなければならないものだよ」ヴァンスは応酬した。「冗談が受けるかどうかは、それを聞く者の耳によって決められる。それから、露出症の衝動もこの事件には入っているようだね」
「しかし、ビショップという別名は」
「ああ。そいつは肝心な点だね。この恐るべきユーモアの乱行の存在理由《レーゾン・デートル》はこの秘密めいた署名にあるね」
マーカムはゆっくりと向き直った。「チェスをやる男とか天文学者なんかも、理論物理学者と同様に、君の説のいろんな条件をみたすだろうかね」
「うん」ヴァンスは答えた。「チェスが一種の美術みたいなものだった、フィリダーとかストーントンとかキーセリッキーなんかの時代からすると、チェスは堕落してまるで科学になってしまった。そして、カパブランカが天下を取っている間は、ほとんど抽象的な理論数学的思索の材料になってしまった。実際、マロッツィやラスカー博士やヴィドマーはみんな有名な数学者だからね。……それに天文学者、宇宙を実際に眺めている天文学者は、この地球がとるに足りないことを理論だけの物理学者よりもっと強く印象づけられているかも知れない。望遠鏡を通して想像力が奔放《ほんぽう》自在に暴れまくるわけだ。はるか遠い天体に生物が存在すると考えただけで、地球上の生活が二義的に見えて来ることもあるだろう。たとえば火星を眺めて、火星の住民が地球の人類よりも数が多くて知能もまさっているなんて考えをもてあそんだ後では、この地上の生活のちっぽけな事柄に自分を調節して直すには、ずいぶん長い間てこずるだろうよ。パーシヴァル・ロウエルの空想的な本をちょっと読んだだけでも、想像力の発達した人なら、一時的に、たった一つやそこいらの惑星の存在の意義なんか感じなくなってしまう」〔ヴァンスの言ったのは『火星とその運河』と『生物の住居としての火星』のいずれであるか、私はつまびらかにしない〕
長い沈黙がつづいた。やがてマーカムが言った。
「何だってパーディーはあの晩、黒のビショップを、なくなっても気づかれそうにないクラブから取って来ずに、アーネッスンから取ったんだろうね」
「我々はその動機がわかるだけのことは知っていない。わざと何かの目的を持って取ったのかも知れない。――しかし、彼が犯人だという証拠はどこにあるんだ。どんなに沢山の疑いをかけてみたって、彼をつかまえる手なんかどこにもありゃしないよ。たとえ誰が犯人か疑いの余地がないくらい判っていても、僕らはどうすることもできない。……ねえ、マーカム。相手は明敏な頭脳の持ち主だ――どんな手を打つか、何が起り得るかをすべて計算してかかってくるんだ。こっちの唯一の希望は、犯人の駒組みの弱点を発見して、こっちから証拠を作り出すことだよ」
「明日の朝は第一番に」マーカムがこわい顔をして言い放った。「ヒースに言ってパーディーのあの晩のアリバイを調べさせる。二十人ばかり使って午《ひる》ごろまでには調べをつける。そのチェスの試合の見物人を一人のこらず尋問させ、マンハッタン・チェス・クラブからドラッカーの家まで軒並みに調べ歩かせる。もし十二時前後にパーディーがドラッカーの家の近くに居るのを見た者が居れば、あの男にとって非常に不利な情況証拠が出来たことになるだろう」
「そう」ヴァンスは同意した。「それなら決定的な出発点になるだろう。パーディーのやつ、ドラッカー夫人のドアに黒のビショップが届けられたちょうどその時間に、ルビンシュタインと対局の最中だというのに、なぜクラブから六区劃も離れたところに居たか、説明するのに大分骨が折れるにちがいない。……そう、そう。何としてもヒースとそのお気に入り連中をこの問題に取り組ませるんだね。そうすりゃ、こっちも前に進めるかも知れない」
だが、ヒースはこのアリバイ調べを結局命じられることがなかったのである。翌朝九時前に、マーカムがヴァンスの家を訪れて、パーディーが自殺したというニュースをもたらしたのだった。
第二十二章 トランプの家
――四月十七日、日曜日、午前九時
パーディーが死んだという驚くべき知らせは、ばかにヴァンスの心を乱した。彼はマーカムを半信半疑で見つめていた。やがて急いでベルを鳴らしてカリーを呼ぶと、服とコーヒーを持って来させた。着換えをする動作に、ひどくじれている様子がうかがわれた。「おい、マーカム」彼は叫んだ。「こいつは途方もないことだぞ。……君はどうやって知ったんだ」
「ディラード教授からつい三十分たらず前に僕のアパートに電話があったんだ。パーディーはゆうべ何時ごろかに、ディラード家の弓術室で自殺したんだ。パインが今朝になって死体を見つけて教授に知らせたんだそうだ。そこでヒースにその知らせを伝えてから、ここへ来たんだ。そんなわけで、お互い手近かに居た方がいいと思ってね」マーカムは言葉を切って葉巻をつけた。「どうやら、これでビショップ事件も終りだね。……完全に満足の行く幕切れじゃないが、この辺が関係者みんなにとって最上ということになるだろう」
ヴァンスはすぐには考えを言わなかった。ぼんやりとコーヒーをすすってから、ようやく立ち上って帽子とステッキをとった。「自殺か……」階段をおりながら、彼は低く言った。「そう、うまく話が合うだろうな。しかし、君の言うとおり、不満だな――ひどく不満だな。……」
我々は車でディラード家に行き、パインに迎えられた。我々の通された応接間にディラード教授が入って来るとほとんど同時に、ベルが鳴って、ヒースが大変な勢いで、元気|溢《あふ》れんばかりに、せかせかと入って来た。
「これで万事片づきますな」彼はいつもの儀式ばった握手をすませると、嬉しそうにマーカムに言った。「このむっつり屋という連中ときたら……わからんですなあ。しかし、思いがけなかったですな。……」
「あのねえ、ヒース君」ヴァンスがのろくさく言った。「物を思うまいよ。くたびれちまう。心をむなしくして――砂漠みたいに水気なしで――これだよ」
ディラード教授が先に立って弓術室に案内してくれた。窓の陽《ひ》よけはみんな引いてあり、電灯がまだついていた。それに私は窓が閉まっているのにも気がついた。「ぜんぶ、そのままにしておいたよ」教授が説明した。
マーカムは中央の大きな籐《とう》のテーブルのところに歩み寄った。パーディーの死体は弓場へのドアの方に面した椅子にぐったりとうずくまっていた。頭と肩は前のめりにテーブルの上に倒れこみ、右手はだらりと傍に下って、指はまだ自動拳銃をつかんでいた。右のこめかみに醜《みにく》い傷があり、テーブルの上の頭の下に凝固《ぎょうこ》した血だまりがあった。我々の眼が死体の上に注がれたのはほんの一瞬間だった。驚くべき、およそ不似合いなものが我々の注意をそらしてしまったからだ。テーブルの上の雑誌類がわきに片づけられて死体の前が空いていたが、その空いた場所に、高々と見事にトランプの家が築いてあったのだ。四本の矢で仕切って庭を作り、マッチの棒を二列に並べて庭の小道に似せてあった。子供が見たら胸を躍らせそうな模型だった。私は前夜ヴァンスが言っていた、大真面目な人が子供の遊びにレクリェーションを求めるということばを思い出した。この子供らしいカードの建物と乱暴な死が並んでいるのを見ていると、言いようもなく身の毛のよだつ思いがするのであった。
ヴァンスは物悲しげな心痛の面持ちで、その光景をじっと見下して立っていた。
「|此処に眠る《ヒクジャセト》、ジョン・パーディー、か」一種の敬虔《けいけん》さをこめて彼はつぶやいた。「しかも、これはジャックの建てた家だ……トランプ・カードの家だ……」彼はもっとよく調べてみようとするかのように、進み出た。すると彼の体がテーブルの端に当ってかすかにテーブルが揺れ、ひよわなカードの建築がたちまち崩れ落ちた。
マーカムが体を起してヒースをふり返った。
「検死医には知らせたかい」
「はあ」ヒースはテーブルの上からどうにも眼が放れないらしかった。「バークもやって来ます。要るかも知れませんから」彼は窓際に行って日よけを上げ、明るい陽ざしを入れた。それからまたパーディーの死体のところに戻って、値ぶみでもするようにじろじろと眺めていた。不意に、彼は膝まずいて前屈みになった。「そいつはどうやら、道具箱にあった三十八口径みたいだな」
「間違いないね」ヴァンスがうなずいた。シガレット・ケースを取り出しながら。
ヒースは立ち上って道具箱のところへ行き、引き出しの中味を調べた。「どうやら間違いないようですぜ。検死が来てからディラード嬢に確認してもらいましょう」
この時、派手な赤と黄色のガウンに身を包んだアーネッスンが、昂奮した様子で部屋にとびこんで来た。
「なんてえこったい」彼は叫んだ。「パインが今知らせてくれたんだ」彼はテーブルの傍に来てパーディーの死体に眺め入った。「自殺だね、おい。……だけど何だって自分の家で実演しないのかね。ひとのところへ来てこんな騒ぎを起すなんて遠慮会釈《えんりょえしゃく》のない男だよ、まったく。チェスをやる男にふさわしいよ」彼は目を上げてマーカムを見た。「こいつが僕らをもう一つ不愉快な目に引きずりこんでくれなきゃいいがね。悪名は十分高くなったよ。気が散っていけない。こいつの死骸はいつ片づけられるようになるんだ。ベルに見せたくないからね」
「検死医が見終ったらすぐに片づけさせるよ」マーカムがひややかな非難のこもった口調で言った。「ディラード嬢をここへ連れて来る必要は起らないはずだ」
「結構」アーネッスンはなおも死人から眼を放さずに立っていた。やがてゆっくりとその顔に皮肉な憂いの表情があらわれて来た。「哀れな男さ。こいつには人生が耐《た》えきれなかったんだ。敏感すぎて――精神的スタミナが無くて。くそ真面目だからな。例の定跡が煙のごとく消え去ってから、くよくよと自分の運命のことばっかり考えてたよ。他に気晴らしがなかったんだな。黒のビショップにとりつかれたんだ。それできっと心のつっかい棒がはずれちまったんだな。そうよ。そいつがこの男を自殺へ追いやったとしたって驚くにゃ当るまい。ひょっとすると自分がチェスのビショップになったつもりだったのかも知れん――自分の宿敵の姿になってこの世に新規まき直しをしようと思ってね」
「うまく考えましたね」ヴァンスが応じた。「ところで、我々が最初に死体を見た時はテーブルの上にトランプの家があったんですよ」
「は。トランプがそこで何の役をやってたのかと思いましたよ。末期《まつご》にのぞんでひとりトランプに慰めでも求めたかと思った。……トランプの家か。馬鹿くさいね。解釈がつきますか」
「さあ。しかし、『ジャックの建てたお家』という歌が何か説明になるかも知れません」
「なるほど」アーネッスンはしかつめらしい顔をした。「最後まで子供の遊びをやったか――自分にまで。妙な思いつきだ」彼は大口をあけてあくびした。「着換えでもして来るかな」そして彼は二階へ上って行った。
ディラード教授は心痛と父親らしい慈愛のまじった表情でアーネッスンにじっと目を注いだまま立っていた。彼が行ってしまうと、どうも困ったという身振りをしながらマーカムを振りかえった。「シガードはいつも感情を動かさんように自分をかばうんでな。自分の感情が恥かしいんだ。あの無頓着な態度を真に受けんでやってくれよ」マーカムが返事を言う前に、パインがバーク刑事を部屋へ案内して来た。ヴァンスがいい機会だとばかり、執事にパーディー発見のもようを質問した。
「今朝はどんなことから弓術室に入るようなことになったんだい」
「配膳室が少々むしましたもので」相手は答えた。「階段の下のドアを開けまして空気を入れかえましたんですが、すると陽《ひ》よけがおろしてありましたもので――」
「すると、夜は陽よけをおろさないことになってるんだね」
「はい、――この部屋は」
「窓はどうするんだ」
「いつも、夜は上の方をほんの少し開けておきます」
「ゆうべも開けてあったかい」
「はい、さようで」
「なるほど。――それで、今朝ドアを開けてからは」
「あかりを消そうと思いまして、お嬢様がゆうべスイッチをお切りになるのをお忘れになったなと思いながら、こちらへまいりましたところが、そのテーブルのところにこのお気の毒な方がおられるのを見まして、急いで二階にまいりましてディラード先生にお知らせいたしました」
「ビードルはこの事件を知っているかい」
「皆様方がお見えになったすぐ後で教えました」
「君とビードルはゆうべ何時に寝たかね」
「十時でございます」
パインが行ってしまうと、マーカムがディラード教授に言った。「ドレマスさんを待っております間に、先生からできるだけ詳《くわ》しいことをお話し頂いた方がいいと思いますが。――二階に参りましょうか」バークは弓術室に残り、あとの一同は書斎に上った。
「どうも、あまり聞かせることはないんでね」教授は席につくとパイプをとり出して早速はじめた。その態度には控え目な感じがやや目についた――一種のよそよそしい気の進まなさ、とでも言おうか。「パーディーはゆうべ食後にやって来た。うわべはアーネッスンに会いにだが、事実はベルに会いにだろう、きっと。しかし、ベルは早く失礼して寝てしまった――あの子はひどく頭痛がしておったから――それからパーディーは十一時半ごろまで残っとった。そして帰った。パインが今朝ひどい知らせを持って来るまでは、それが彼を見かけた最後だ。……」
「しかしですね」ヴァンスがことばをはさんだ。「パーディーさんが姪御《めいご》さんに会いに来られたんでしたら、姪御さんがお寝《やす》みなってから、なぜそんな遅くまで残っておいでだったとお思いですか」
「それはわからん」老人は当惑顔だった。「しかし、何か思うことがあったり、誰かと話でもしたかったりするような感じだった。実のところ、なかなか帰らんもんだから仕方なしに、少しあけすけにこっちの疲れたことをほのめかしてやったぐらいなんだ」
「ゆうべアーネッスンさんはどちらにおいででしたか」
「シガードはベルがさがってから一時間ばかり残って一緒に喋って、それから寝に行った。ドラッカーのことで午《ひる》からずっと忙しかったから、くたびれてしまっとった」
「それが何時ごろでしょうか」
「十時半ごろだ」
「それから、お言葉ですと」ヴァンスがさらに質問した。「パーディーさんは何かご心労がおありのようだったとのことですが」
「心労というのでもないが」教授は顔をしかめてパイプを吸った。「元気がなくて、ほとんど憂鬱そうだったね」
「何か心配しているような感じでしたか」
「いや、そうではない。もっと、何か大きな悲しみを味わって、その気分を振り払えずにいるような感じだったな」
「お帰りの時に、あなたは廊下まで送ってお出しになりましたか――つまり、どっちへ行ったかお気づきでしたか」
「いや。うちではパーディーをあまり堅苦《かたぐる》しく客扱いせんもんだから。おやすみを言って出て行った。だから当然玄関へ出て帰ったと思っとった」
「あなたはすぐにご自分の部屋にお帰りでしたか」
「十分ばかりしてからだ。やっておった仕事の書類をまとめる時間だけ起きておった」
ヴァンスは沈黙してしまった――明らかに話のどこかに首をひねっていたのだ。マーカムが質問役を受け継いだ。
「お伺いしても無駄かも知れませんが、昨夜発射音ではあるまいかと思われるような音をお耳になさいましたでしょうか」
「家の中はまるきり静かだった」ディラード教授は答えた。「それにどうせ鉄砲を射ったって弓術室から二階まででは音が届くまい。階段が二つあるし、あれだけの長さの廊下と通路があるし、重たいドアが三つもあるからな。それに、古い家だから壁も厚くてしっかりしとる」
「それに」ヴァンスが捕足《ほそく》した。「弓術室の窓は用心深く閉まっていたから、通りからも銃声は聞えたはずがありませんね」
「そうそう。君もその点に気がついたんだね。なぜパーディーは窓を閉めたりなんかしたのか、どうもわからんね」
「自殺者の特異なやり方は満足に説明されたことがありませんね」ヴァンスは無頓着に答えた。それから、ちょっと言葉を切ってから、「パーディーさんがお帰りになるまで、あなたとお二人でどういうお話をなさいましたか」
「あまり喋らなかった。わたしはこんどミリカンが『物理学評論』に書いたアルカリ・ダブレットについての論文に多少関心があったものだから、話をそっちに持って行こうと思っとったんだが、なにしろ、いま言ったように、ひどく何かに気をとられておって、ほとんどずっと一人でチェス盤に向って勝手に何かやっておった」
「ははあ、そうでしたか。そりゃ面白いですな」ヴァンスはチェス盤に目をやった。盤上には沢山の駒がまだのっていた。彼は急いで立ち上ると部屋をよぎってその小さな台の方へ行った。やがて戻って来て、再び席についた。
「ひどくおかしい」彼は低く言って非常な慎重さで煙草をつけた。「明らかに彼はゆうべ下へおりるまでルビンシュタインとの試合の終りのところをあれこれ考えていたんですね。駒は彼が勝負をあきらめて投了した時とそっくりに並べてあります――あと五手で黒のビショップで王手詰みの運命というところで」
ディラード教授は不思議そうな顔でチェス盤の方に視線をうつした。「黒のビショップ」彼は低い声でくりかえした。「それがゆうべあの男の心を悩ましとった問題なのだろうかね。そんな些細なことがあの男にああいう悲惨な影響をもたらしたとは、信じられんな」
「お忘れになってはいけません」ヴァンスが言った。「黒のビショップはあの人の失敗のシンボルなんですよ。それがあの人の希望の破滅をかたどるものだったんですよ。もっとつまらないことで自分の命を断《た》つ人が多いですからね」
数分後にバークは検死医の到着を知らせて来た。教授に別れを告げて弓術室におりて行くと、ドレマス博士がパーディーの死体の検分に忙しく立ち働いていた。我々が入って行くと、眼を上げてお義理に手を振ってみせた。いつもの快活な態度はどこにもなかった。
「この事件はいつになったら終るんですかね」彼はぶつぶつ言った。「私はこの辺の雰囲気が好かんのですよ。殺し――ショック死――自殺。これじゃ、誰だっていい加減むしずが走りますね。屠殺場《とさつば》へでも行って静かなうまい仕事でも探しますかね」
「僕らは」マーカムが言った。「これで終りだと思ってるよ」
ドレマスはぱちくりした。「ほう。やっぱりなんですね――町を引っ掻きまわしといてビショップが自殺ってわけですね。その辺のところですかな。ほんとにそうならいいですがね」
彼は再び死体の上にかがみこんで、握った指をのばし、ピストルをテーブルにほうり出した。
「あんたの戦利品だよ、ヒースさん」ヒースはそれをポケットに入れた。
「何時ごろ死んでます」
「さあ、十二時見当かね。も少し前かも知れんし、あとかも知れんし。――ほかに馬鹿な質問はあるかい」
ヒースは苦笑した。「自殺だって点に疑問はありますか」
ドレマスは短気なところをさらけ出してヒースをにらみつけた。「ほかにどう見えるんだい。黒手組の襲撃かい」それから彼は職業的になった。「凶器は自分の手の中にあった。こめかみに火薬のあとがある。穴の大きさはピストルと合ってるし、場所もちょうどいい所だ。死体の姿勢は自然だ。怪しい点は見当らんね。――どうしたい。何か疑問があるのかい」
答えたのはマーカムだった。「とんでもない。どの点から見ても自殺だと思ってるんだよ」
「じゃ、間違いなし、自殺ですよ。だけど、もう少しよく見ときましょう。ほい、ヒースさん、手をかした」
さらに詳しい検査のため、ヒースが手伝って死体を寝椅子の上に運び終ると、我々は応接間に引き上げ、やがて現われたアーネッスンと一緒になった。
「どうです、評決は」彼は一番手近な椅子に腰をおとして訊いた。「奴さんの自作自演と見て間違いないと思いますがね」
「なぜその点を問題になさるんですか、アーネッスンさん」ヴァンスはほこ先をそらした。
「べつに。出まかせですよ。この辺で妙なことがはやるもんだから」
「ええ、たしかに」ヴァンスはもくもくと煙を吹き上げた。「間違いないようです。検死医はその点疑いなしと見ているようです。ところで、パーディーはゆうべは自殺でもしそうな様子にお見受けでしたか」
アーネッスンは考えこんだ。「難かしいですな」と、やがて彼は結論した。「決して陽気な男じゃなかったですがね。しかし自殺とはねえ。……わかりません。しかしまあ、あなたが問題はないとおっしゃるんだから、そうなんでしょう」
「まったくです。ところでこの新しい事態はあなたの公式にどう当てはまりますか」
「むろん、折角の方程式が全部台なしです。もう頭をひねる必要はないですな」言葉に似ず彼は自信がなさそうだった。「わからないのはねえ」彼はつけ加えた。「一体なぜ弓術室を選んだりしたのかってことですよ。|felo‐de‐se《フェロ・デ・セ》〔自殺〕をやるぐらいの場所なら、自分の家にだっていくらでもあるのに」
「弓術室にはいい具合にピストルがありましたからね」ヴァンスは言った。「それで思い出しました。ヒースさんがお嬢さんにピストルを確認して頂きたいと言っていますよ、一応形式として」
「なに、簡単です。ここにあります」ヒースが手渡すと、彼は部屋を出て行った。
「それからね」――ヴァンスが呼びとめた――「お嬢さんに、弓術室にトランプを置いておかれたかどうか訊いてみて頂けませんか」アーネッスンはほどなく戻って来て、拳銃はまちがいなく道具箱の引き出しにあったものだということ、トランプは弓術室の机の引き出しに置いてあったこと、のみならずパーディーはトランプがそこにあるのを知っていたことを報告した。しばらくして、ドレマス医師がやって来て、パーディーが自殺したのだという結論をくり返した。
「ま、そんなところになります」彼は言った。「それ以外考えられませんな。たしかに、自殺にゃいんちきが多いですがね――しかし、そいつは|そっち《ヽヽヽ》の領分だ。こっちは何もくさいところはありません」
マーカムは満足をむき出しにしてうなずいた。「僕らにゃあなたの鑑定に疑いをさしはさむ理由は何もないよ。いやね、自殺だと、僕らの知ってることとピッタリ当てはまるんだ。これでビショップ騒動も筋道立った結論に到達したってことになるよ」彼は大きな肩の荷が下りてほっとしたように立ち上った。「ヒース君、死体を解剖にまわす手配は君にまかせるからね。もっとも、あとでスタイヴスント・クラブに寄ってくれないか。やれ、有難いことに今日は日曜日だ。ひと息入れるひまが出来た」
その夜クラブで、ヴァンスとマーカムと私の三人だけで社交室に坐っていた。ヒースは来たが、もういなかった。新聞向けに、パーディーが自殺したことを明らかにし、それによってビショップ事件が終りを告げたことをほのめかす慎重な発表文が作成されたあとだった。ヴァンスはこの日はずっと、口数が少なかった。公式発表文の言葉使いについて意見を求められても、何一つ答えず、事件の新段階についてうんぬんすることさえも気が進まない様子だった。ところが、ようやくこの時、明らかに彼の心を一杯に占めていたと思われる疑問を口に出したのだ。
「簡単すぎるよ、マーカム――あんまり簡単だよ。なんだか、匂いだけがやけにいい感じだよ。完全に辻つまが合ってるわけだがねえ、君、しかし腑《ふ》に落ちないよ。ビショップがこんな平凡なやり方であのユーモア道楽に終止符を打つなんて、うまくピンと来ないじゃないか。ピストルで脳味噌をぶちぬくなんて、洒落のかけらもありゃしない――むしろ平々凡々のくちだろう、君。悲しむべき独創性の欠如《けつじょ》だよ。こんなのはマザー・グース殺人事件の考案者にふさわしくないよ」
マーカムはむっとした。「そんなことを言ったって、君自身がこの犯罪はパーディーの心的状態の心理学的可能性と調和するという話をやらかしたじゃないか。それに、あの男が薄気味の悪いいたずらをやっておいてから、とうとう百計尽きてこんどは自分であの世に行ってしまったって、別段不思議はなかろうじゃないか」
「君の言うとおりかも知れんな」ヴァンスは溜息をついた。「べつに、君と四つに組むほどの絢爛《けんらん》たる論拠があるわけじゃないからな。ただね、僕はがっかりしてるんだよ。竜頭蛇尾の幕切れなんて嫌いだよ。特に僕の考えてるような劇作家の才能と合致しない幕切れはね。こんな時にパーディーが死ぬなんてきちんとしすぎてる――解決の仕方が整いすぎてる。あまりにも実用本位で、あまりにも想像力がない」
マーカムは我慢して相手になってやるだけの余裕があったと見えて、「おそらく他人を殺す方に想像力を使い果してしまったんだろう。自殺したってことは、芝居が終って幕がおりたぐらいな意味にとっていいのかも知れないよ。とにかく、決して信じ難い行為なんかじゃない。敗北だの失望だの落胆だの――要するに野心の挫折《ざせつ》だな――みんな大昔から自殺の原因をなして来たわけだよ」
「たしかに。自殺の方はもっともな動機がある。説明がつくよ。だけど殺しの方は動機がないものな」
「パーディーはベル・ディラードに惚《ほ》れてたし」マーカムは逆《さか》らった。「ロビンが彼女の求愛者だってこともたぶん知っていたんじゃないのか。それに、ドラッカーにも強い嫉妬を燃やしていたんだからね」
「なら、スプリッグ殺しは」
「その点はデータがない」
ヴァンスは首を振った。「動機の点でこれらの犯罪を別々に考えることはできないよ。みんな下に横たわる同じ衝動から出て来たものだ。急迫したただ一つの激情に駆られてやったことなんだよ」
マーカムはいらいらと溜息をついた。「たとえパーディーの自殺が殺人の方とつながりがないにしたって、要するに我々は比喩的《ひゆてき》な意味でも文字どおりの意味でも、デッド・エンドにぶつかったわけだよ」
「そう、そう。デッド・エンドだな。悲しむべしだよ。もっとも、警察にとっちゃ朗報だろうね。連中もこれで解放だ――どうせしばらくだがね。だけど、僕の気まぐれを誤解しないでくれよ。パーディーの死が殺人と関係があることは確かなんだ。しかも、むしろ密接な関係だろうね」
マーカムはゆっくりと口から葉巻をはなして、しばらくヴァンスをまじまじと見つめていた。「パーディーが自殺だってことに、何か疑問でも抱いてるのかい」
ヴァンスは返事をためらった。「僕が知りたいのはねえ」彼はまだるっこく言った。「あのトランプの家が、僕がわざとテーブルによりかかってみただけで、あんなに簡単に崩れてしまったのにだよ――」
「それで」
「なぜ、パーディーが自分を射って頭と肩がテーブルに倒れこんだ時に、崩れ落ちなかったか、ということなんだよ」
「そりゃ何でもないよ」マーカムは言った。「まずガタンと来てカードがゆるくなっていたのかも――」不意に彼は眼を細くした。「君はパーディーが死んだ|あと《ヽヽ》でカードの家が建てられたと言うつもりなのか」
「おい、よせよ。何も遠回しなんか言ってやしないんだぜ。僕はただ、若い好奇心に舌を与えただけなんだからね」
第二十三章 意外な発見
――四月二十五日、月曜日、午後八時三十分
八日間が過ぎて行った。ドラッカー家の葬式は七十六番街の狭い邸で行なわれた。参列したのはわずかにディラード家の人たちとアーネッスン、それに、讃《たた》えるべき科学者であるとして、ドラッカーの仕事に偽わらぬ敬意を抱いていた二、三の大学関係者が、最後のたむけに来ただけだった。
葬式の日の朝、ヴァンスと私がドラッカーの家にいると、小さな女の子が自分で摘《つ》んで来たという春の草花の小さな束を持って来て、アーネッスンに、ドラッカーにささげてくれと頼んだ。私は彼が冷たくあしらった返事をするのかと思いかけていたが、驚いたことに、彼はまじめに花束を受け取って、ほとんどやさしみのこもったと言っていいほどの口調で言ったのだ。
「すぐに供《そな》えてあげるからね、マドレン。ずんぐりせむしさんが、覚えていてくれて有難うって」その子が女家庭教師に連れられて行ってしまうと、彼は我々を振り返った。「あの子はドラッカーのお気に入りだったんですよ。……変な男です。芝居にゃ行かないし、旅行は嫌いだし。子供と遊んでやるのが、たった一つのレクリェーションでした」
このちょっとした出来事をわざわざここで持ち出すのは、それが一見些細なことのようでありながら、やがてこのビショップ殺人事件を一点の疑問をも残すことなく解決し去った一連の証拠の鎖の、最も重要な一環をなすこととなったからなのである。
パーディーの死は、近代の犯罪史上ほとんど類のない事態を引き起していた。地方検事局が出した発表文は、パーディーが殺人犯人だという可能性があることだけを明らかにしていた。マーカムが個人的意見としてどう考えていたにせよ、彼は動かぬ証拠もなくて他人にあからさまな疑いをかけるには、あまりにも名誉と正義の人であった。とはいえ、この不可解な殺人事件がまき起した恐怖と驚きの波はあまりにも大きく、彼が社会に対して負う責任からしても、事件は終結したものと考えられると述べざるを得なかったのだ。かくして、パーディーに対して公然と有罪の主張がなされることはなかったにかかわらず、ビショップ殺人事件はもはや市民に対する脅威の源とは考えられなくなり、人々はいたるところでほっと胸をなでおろしたのである。
マンハッタン・チェス・クラブにおいては、おそらくニューヨークのどの場所よりも、この事件が話題に上ることが少なかった。会員たちは、あるいはクラブの名誉に傷がついたと感じたのかも知れない。また、チェスに貢献するところの大きかったパーディーに対して、一種の義理立てが行なわれたということかも知れない。しかし、クラブがこの問題に触れることを避けた原因が何であるにせよ、会員たちが、ほとんど一人残らずパーディーの葬式に参列したことは事実なのだ。私はチェス仲間にたむけられたこの行為に対して敬服せざるを得なかった。それというのも、彼の個人的な行ないはどうであろうと、彼等にとってパーディーは、自分たちが熱中しているこの王者にもふさわしい古来のゲームを支えて来た、偉大なパトロンの一人だったからなのだ。〔パーディーはその遺書で多額の金をチェス助成のために残している。またご記憶の方もあろうが、その年の秋、ケインブリッジ・スプリングズでパーディー記念トーナメントが催された〕
パーディーが死んだ翌る日、マーカムがとった最初の公式の行動は、スパーリングを釈放してやることだった。そして午後には、警察本部はビショップ殺人事件に関する全記録を『棚上げ事件』と記《しる》した書類入れに移してしまい、ディラード家の監視を引き上げたのである。ヴァンスはこの後者の処置にはおだやかに反対を唱えた。しかし、検死医の鑑定書があらゆる点で自殺説を実証している事実からして、マーカムもその件に関しては手のほどこしようがなかった。その上、彼はパーディーの死が事件に終止符を打ったものと信じ切って、あやふやなヴァンスの疑問を鼻先であしらっていた。パーディーの死体が発見されてからの一週間、ヴァンスはずっと不機嫌で、いつもにまして放心状態だった。彼は自分でも色々なことに興味を持とうと試みていたが、あまり成功しなかった。幾分疳癪持ちな傾向を示し、いつものほとんど奇蹟にも近い平静さは、どこかに行ってしまったらしかった。私は彼が何かが起るのを待っているのだという印象を受けた。必らずしも何かを期待しているという風ではなかったが、油断のなさが彼の態度にうかがわれ、時折それが憂慮にすら見えることがあった。
ドラッカー家の葬式の翌日、ヴァンスはアーネッスンを訪ね、金曜日の夜は彼のお供をしてイプセンの『幽霊』を見に行った――たしか彼の嫌いな芝居のはずだったが。彼はベル・ディラードがオールバニーの親戚に一か月ばかり滞在の予定で出かけたことを知った。アーネッスンの説明によると、彼女がいろんな出来事を経験して、その影響が現われはじめたので、場面転換が必要になったということだった。彼はベルが居ないのをはっきりと寂しがっていて、ヴァンスに二人が六月に結婚する計画だったと打ち明けたりした。ヴァンスは、また、ドラッカー夫人がその遺書で、万一息子が死んだ場合は全財産をベル・ディラードと教授に遺贈すると述べていることをも知った――この事実はひどくヴァンスの関心を呼んだらしかった。もし私が、どんなに肝をつぶすほど意外な恐るべきことがその週我々の頭上に迫っていたか、知っていたならば、あるいはうすうすと感づいただけでも、私はその緊張にはたして耐え得たかどうか疑わしい。ビショップ殺人事件は終ってはいなかったのだ。極点をなす、身の毛もよだつ恐ろしさが待ち受けていたのである。だがその恐怖さえも、事実起ったことによって証明されたとおりに、たしかに色を失って立ちすくんでしまうほど凄まじいものではあったのだが、ヴァンスがこの事件から推理して二つの結論を出していなければ当然起ったとも考えられる、ある事態の影にすぎなかったのだ。その二つの結論の一つだけは、パーディーの死によって片づいていたのだが。ともあれ、あとで私にもわかったように、ヴァンスをニューヨークに引き止めて、油断なく心に一分のすきもない状態を続けさせていたものは、この可能性だったのだ。
四月二十五日月曜日はそのはじまりだった。我々はマーカムとバンカーズ・クラブで夕食をとり、その後で『ニュールンベルクの名歌手《マイスター・ジンガー》』の公演に出かけることになっていた。〔ワグナーのオペラの中で、これはヴァンスのお気に入りだった。彼はいつも、これが交響曲の組織的形態を持つ唯一のオペラだと主張していて、一度ならず、この曲が馬鹿らしいドラマの表現手段でなくオーケストラ向きの曲に作られなかったことを残念がっていた〕だが我々はヴァルターの華々しい成功をまのあたりにすることとならなかった。エクィタプル・ビルディングの大天井の下でマーカムに会った時、私は彼が何か困ったことでもあるような顔をしていることに気がついた。そして一同がクラブのグリルに坐るとすぐに、彼はその日の午後ディラード教授からかかった電話のことを話しだした。
「教授は今晩とくに僕に来てくれと言うんだ」マーカムは説明した。「何とか断わろうとしたら、しきりに力説するんだ。アーネッスンが今夜はずっと留守になることを強調して、またとない機会だから手遅れにならないうちに来てくれというんだ。そりゃどういう意味ですかって訊いてみたんだが、説明はできんが、とにかく夕食がすんでから来てくれと言うんだ」
ヴァンスはひどく強い興味を見せて聞いていた。「そりゃ僕らは行ってみなきゃ、マーカム。僕はこういう呼び出しがあるのをむしろ待っていたぐらいだよ。ついに真相に達する鍵が見つかるかも知れないんだぜ」
「真相って、何の」
「パーディー有罪説のさ」マーカムは追及しなかった。我々は黙って食事をすませた。
八時半にディラード家のベルを鳴らした。パインが出て来て、真っ直ぐ書斎に案内した。老教授はそわそわとした思わせぶりな態度で我々を迎えた。
「よく来てくれたな、マーカム」彼は座ったまま言った。「坐って葉巻をやりたまえ。ちょっと話したいことがあるんだ――それもゆっくり時間をかけたいんでな。なかなか難しくて……」
その声は彼がパイプを詰めはじめたので途切れてしまった。我々は腰をおろして待った。私はわけもなく期待にみちた気分に襲われていた。もっとも、教授が明らかに取り乱した気持を発散しているのを、いくらか感じ取ってはいたが。
「どう話を切り出したものか、よくわからんよ」彼は語りはじめた。「なにしろ形のある事実じゃなくて、目に見えん人間の意識が相手だからな。この一週間、ある漠然たる観念に襲いかかられて、わたしは一人でじたばたしておったが、結局、君に話す以外に逃れるすべはないと思ってな。……」彼は口ごもるように見上げた。「わたしはその観念のことを、シガードの居ない時に君と話した方がいいと思って、今夜はあれがイプセンの『王位をねらう者』――あれの好きな芝居なんだがね、ついでながら――その芝居を見に行って留守だから、この機会に君に来てもらうことにしたんだ」
「その観念はどんなことと関係がございますか」マーカムが訊いた。
「特にどんなことと言ってもな。いま言ったように、漠然としたものでな。と言っても、それがひどく気にかかるようになって来た。……実を言うと、あんまり気になって」彼は言い足した。「しばらくベルをよそへやった方がいいと思ったぐらいでな。たしかに、あの子がひどく心をいためたのは、こんどの打ち続く悲劇のためなんだが、わたしがあの子を北へ旅立たせた本当の理由は、わたしがこの雲をつかむような疑念に襲われたからなんだよ」
「疑念」マーカムは乗り出した。「どんな疑念でしょうか」
ディラード教授はすぐには答えなかった。
「返事のかわりにこっちから一つ質問をさせてもらおう」と彼はやがて言った。「パーディーの件で、君は事情がすべて表面どおりだったと心から満足しておるかね」
「パーディーの自殺の真偽についてでしょうか」
「それと、彼が犯人だと推定されとることについてだ」
マーカムは椅子にもたれて考えこんだ。「先生ご自身は満足しきっておいでにならないんですか」
「その質問には答えられん」ディラード教授はほとんどそっけないとも聞える言い方をした。「わたしに向ってそんなことを訊く権利はない。わたしはただ、あらゆるデータを持った当局が、このひどい事件は終幕を告げたと確信しとるかどうか訊きたいと思っただけだ」深刻な不安の表情があらわれた。「もし本当にそうだということになれば、この一週間夜も昼もわたしにとりついとった漠然たる疑惑をはねつける助けになると思うわけだ」
「そしてもし私が満足してないと申し上げたら?」
老教授の眼はよそよそしい、苦悩の表情をうかべた。そして、何か悲しい重荷が突然のしかかって来たとでも言うように、かすかに頭をたれた。やがて彼は肩を持ち上げて大きく息を吸いこんだ。そして、「この世で一番難しいことはな、自分の義務がどこにあるかを知ることだよ。義務は頭が機械的に考えることだが、必らず情というものが入りこんで来て、決心したことを台なしにしてしまう。あるいは、君に来てもらったのは間違いだったのかも知れん。というのは、結局わたしは、かすみのような疑いや、つかみどころのない観念を持ち続けなくちゃならんのだからなあ。しかし、わたしの心理的不安は、自分が気のつかんところにかくれた根拠があるためだという可能性がたしかにあると思ったんだ。……わたしの言うことがわかるかね」まことにとらえ所のないことばではあったが、彼の心のかげに、暗い幻影がひそんで彼を悩ませていることは疑いがなかった。
マーカムは同情深くうなずいた。「検死医の判定にうたがいをかけるような理由は何もありません」彼はつとめて事務的な声で言った。「たしかにこんどの事件をめぐって、いろいろと疑問を導き出すような雰囲気が生れておりましたが、これ以上ご心配なさる必要はないと思いますよ」
「まったく君の言うとおりであってほしい」教授はつぶやいた。だが、納得《なっとく》していないことは明らかだった。「もしだよ、マーカム、――」言いかけて彼はあとを続けなかった。「いや、君の言うとおりであってほしい」
ヴァンスはこんなふうに不満足なやりとりが続いている間、すまして煙草をふかしながら坐っていた。だが、彼はいつもにまして心を集中しながら耳を傾けていたのだ。彼はここで口を開いた。「ねえ、ディラード教授、そういうご不安をあなたに抱かせたものが――どんなに不明確なものでも結構ですが――おありなんでしょうか」
「いや――何もない」答えは即座だった。そして活気がこもっている感じだった。「変だなと思っていただけなんだ――あらゆる可能性をためしていただけなんだ。何か確信がないとあまり楽観できんぞと思ったまでだ。自分自身に関係のない原理が相手の場合は、純粋な論理も大いに結構だが、しかし、自分の身にかかわることになると、欠点だらけな人間の心なんというものは、はっきり目に見える証拠をほしがるものだ」
「はあ、まったくですね」ヴァンスは目を上げた。そして私は、この相異なった二人の間に、一瞬心が通じ合った様子がひらめくのを感じとった。
マーカムは立ち上って帰ろうとした。だが教授は、ぜひもう少し居るようにすすめた。
「シガードもじきに帰るだろうから。また君に会えたら喜ぶだろう。さっき言ったように、『王位をねらう者』を見に行ったんだが、きっとどこへも寄らずに帰って来るだろう。……ところで、ヴァンス君」彼はマーカムから向きを変えて言葉を続けた。「シガードから聞いたが、先日あれと『幽霊』を見に行かれたそうだね。あんたもイプセンびいきかな」
ヴァンスの眉がかすかに上がったので、彼がこの質問にいくらか当惑を覚えたのがわかった。だがその返事には、すこしも困惑のいろは感じられなかった。
「イプセンは沢山読みました。きわめて高い天才的な創造力の持主だということは、ほとんど疑いありませんが、たとえばゲーテの『ファウスト』の特色になっているような審美的形式とか哲学的な深みなどは、イプセンには見られないと思いますね」
「たしかに君とシガードとの間には、いつまでたっても意見の合わない根本的な差異があるだろうな」マーカムはもっと居るようにすすめられても、どうしてもきかなかった。それで、我々は間もなく心地よい春風に吹かれながら、ウェスト・エンド・アヴェニューを歩いていた。
「ねえ、マーカム、言っておくがね」七十二番街に曲って公園の方に向いながら、ヴァンスが幾分おどけ気味に言った。「パーディーがおさらばをする意志があったかどうか疑問にとりつかれてるのは、君の遠慮深い協力者だけじゃないんだからね。それに、教授が君のうけあった言葉に決して納得していないってことも、付け加えさせてもらおうかね」
「あの人が疑い深い精神状態になっているわけは、よく解るよ」マーカムは言った。「殺人がみんなあの人の家のすぐ近くで行なわれたんだからね」
「それじゃ説明にならない。あの老人は心配を持ってる。そして、僕らに言いたくない何ごとかを知ってるんだ」
「残念ながら、僕はそんな印象は受けなかった」
「おい、マーカム――ほんとに君って男は。あの人がつかえながら、言いがたそうに話してたことを、ちゃんと聞いてなかったのかい。まるで、はっきり言葉には出さないで何かを暗示しようとしているみたいだったじゃないか。僕らが推量するだろうと思ったんだよ。そうさ。だからあの人は君に来い来い言ったんじゃないか、アーネッスンがイプセンの復活上演に出かけて、現われる心配のない時にさ。――」
ヴァンスは不意に口をつぐんで立ちすくんだ。はっと驚いた表情が眼にあらわれて来た。「なんとまあ。なんと、なんと。だからあの人はイプセンのことを僕に問いかけたのか。……こりゃ驚いた。我ながら鈍感だったなあ」彼はじっとマーカムを見つめ、顎のあたりが引きしまって来た。「ついに真相だ」彼は心に残るやさしい声で言った。「しかも、この事件を解いたのは君でも警察でも僕でもない。二十年も前に死んだノルウェーの劇作家なんだ。イプセンに秘密の鍵はあったんだ」
マーカムは、急に気が狂ったかとでも言いたげに、彼を見ていた。が、口を開くいとまも与えずにヴァンスはタクシーを呼び止めた。「家へ着いてからわけを教えてやるよ」車がセントラル公園を東へ走っている時、彼は言った。「信じがたいけど、本当なんだよ。それにね、僕はもっと早く考えつかなきゃならなかったはずなんだ。ところが、あの手紙の署名の意味は、ほかのいろんな意味にとれて、それに曇らされていたから。……」
「今が春でなくて夏のさかりだったら」マーカムが腹立たしげに言った。「暑さが頭に来たんだろうと言いたいところだ」
「僕は最初から犯人であり得る人物が三人居ることを知っていた」ヴァンスは続けた。「情緒の圧迫で精神的|均衡《きんこう》がやぶれた場合、この三人はいずれも心理的に言って殺人を犯し得る人物だ。だから、容疑を一つの焦点にしぼるような何かの徴候を、ただ待っている以外に手の下しようがなかったんだ。ドラッカーはその三人の容疑者の一人だったが、殺されてしまった。そこで二人残ったわけだ。するとパーディーが、どう見ても自殺と見える死に方をした。たしかに、彼の死は彼が犯人だという仮定に根拠を与えたわけだ。ところが、僕の心をむしばむ一つの疑念が頭を去らなかった。彼の死は、なるほどという決定的なところがない。それにあのトランプの家が気になった。行き詰《づ》まりだ。そこで、また僕は待つことにした。そして第三の可能性をじっと見張っていた。もう僕はパーディーが犯人でなかったことも、自殺したのでないことも知っている。彼は殺されたんだ――ロビンやスプリッグやドラッカーと同じようにね。彼の死は今一つの不吉な冗談だった――彼は悪魔的な洒落のつもりで警察の前にほうり出された犠牲だったんだよ。しかも犯人は、あれ以来、僕らの間抜けさ加減を得意になって笑っていたんだ」
「どんな推理をやるとそんな根も葉もない結論が出るんだい」
「もう推理なんかの問題じゃないよ。ついに僕はこんどの事件の解釈がついたんだ。そしてあの手紙の署名の意味もわかった。いますぐ、あっと驚くような、しかも争いの余地のない証拠を見せてやるからね」やがて我々が彼のアパートに到着すると、彼は真直ぐに書斎に連れて行った。「その証拠はずっと、こんな手をのばせば届くところにあったんだよ」彼は書棚の戯曲を並べたところに行って、ヘンリック・イプセン全集の第二巻をおろした。〔ヴァンスの持っている全集はウィリアム・アーチャー訳のチャールズ・スクリブナー版であった〕
それには『ヘルゲランドの海賊』と『王位をねらう者』の二篇がのっていたが、ヴァンスの関心の的は前者ではなかった。『王位をねらう者』のところを開けて、登場人物をしるしたページを見つけ出して、テーブルの上のマーカムの前に置いた。「アーネッスンの好きな芝居の登場人物を読んでみたまえ」
マーカムは黙って不審げに、その本を引き寄せた。私は肩ごしにのぞいてみた。そこに見たものは次のようなものだった。
ホーコン・ホーコンソン…ビルチレグ家の選んだ王
ヴァルテイグのインガ…その母
スクーレ伯爵
ラグンヒルド夫人…その妻
シグリード…妹
マルグレーテ…娘
ギュトホルム・インゲソン
シグルド・リッブング
ニコラス・アルネッソン…オスロのビショップ
『田舎者』ダグフィン…ホーコン臣下の高官
イヴァル・ボッデ…宮廷付き牧師
ヴェガルド・ヴェーラダル…護衛の一人
グレゴリウス・ヨンソン…貴族
パウル・フリーダ…貴族
インゲボルグ…アンドレス・スキアルダルバンドの妻
ペーテル…その息子、若い牧師
シラ・ヴィリアム…ビショップ・ニコラスにつく牧師
ブラバントのシガルド氏…医者
ヤトゲール・スカルド…アイスランド人
ボールド・ブラッテ…トロンドヒーム地方から来た首長
しかし、私は二人とも『ニコラス・アルネッソン、オスロのビショップ』から先を読んだかどうか疑しいと思う。
私の眼は恐怖に呑みこまれて凝然《ぎょうぜん》その名前の上に釘づけになってしまった。そして私は思い出したのだ……ビショップ・アルネッソンがあらゆる文学作品の中でももっとも悪魔的な悪役の一人――正常なすべての人生の価値をねじまげていまわしい駄洒落ばかり言った、冷笑|嘲罵《ちょうば》をこととする怪物だということを。
第二十四章 最後の幕
――四月二十六日、火曜日、午前九時
意外、驚くべきこの発見とともに、ビショップ殺人事件はその最後の最も恐るべき局面に入った。ヒースはいち早くヴァンスの発見を知らされ、我々は翌朝早く参謀会議を開くために地方検事事務所に集まるよう申し合せが出来た。
その夜ヴァンスの家を去る時、マーカムはかつて見ないほどの不安と落胆を見せていた。「どんな手の打ちようがあるかなあ」彼は頼りなげに言った。「その男を縛るだけの法的証拠がないものな。しかしまあ、こっちに優勢をもたらす行動方針を何か考え出せんこともなかろう。……僕は拷問《ごうもん》なんて当てにできんと思ってたがね、こんどばっかりは指絞めだの拷問台だのが今でも使えたらなあと思うぐらいだよ」
翌朝、ヴァンスと私は九時ちょっと過ぎに事務所に着いた。スワッカーが引きとめて、しばらく応接室でお待ちをと言った。マーカムはちょっと他の用事があるとのことだった。私達が坐ったとたんに、ヒースが現われた。こわい顔をして、鼻息も荒く、むっつりと不機嫌だった。
「こいつはヴァンスさんにおまかせしないことには」彼は宣言した。「たしかにそんな見方もあるでしょうな。しかしどれだけ私らの役に立つのか怪しいもんでさ。名前が本に出てるからって逮捕するわけにゃ行きませんや」
「どこかに出口が見つかるかも知れないよ」ヴァンスは答えた。「とにかく、こっちの立ってる場所はもうちゃんとわかってるんだからね」
十分ばかりすると、スワッカーが手まねきをして、マーカムの用が終ったことを教えた。「お待たせしてすまなかったね」マーカムは詫びた。「珍客があったのさ」いくらかやけくそ気味の口調だった。「また事件でね。それも妙なことに、リヴァサイド公園のちょうどドラッカーが殺されたあたりと関係があるんだよ。と言ったって、手の下しようがあるわけじゃなし……」彼は目の前の書類を引き寄せた。「さて仕事にかかるか」
「リヴァサイド公園でまた事件て、何だい」ヴァンスは無頓着に訊いた。
マーカムは顔をしかめた。「わざわざ今僕らをわずらわす幕じゃないよ。誘拐事件だ、どう見たって。朝刊にちょっと出てるぜ、興味があるなら。……」
「新聞を読むのは嫌いなんだ」おとなしい言い方だったが、妙にしつこさがあって私は不審に思った。「何があったんだい」
マーカムはたまりかねたように、大きな溜息をついた。「子供が一人見知らぬ男と話をしていたあとで運動場から消えたんだ。父親が助けてくれと泣きついて来たのさ。しかしそんなことは訪ね人係の仕事だからね。そう言ってやったよ。――さあ、君の好奇心がおさまったところで――」
「おっと、まだおさまってないぜ」ヴァンスは言い張った。「どうしても詳《くわ》しい話が聞きたいんだよ。公園のあの辺ってのが妙に気に入ってね」
マーカムは眼を細めていぶかしげに彼をちらりと見た。「わかったよ」彼はおとなしく言うことを聞いた。「マドレン・マファトと言う五歳の女の子が、昨日の夕方五時半ごろ子供たちと遊んでいたそうだ。それが、あの石垣の近くの小高い土手によじ上って行ったもんだから、しばらくたって女家庭教師が、向う側に下りたのかと思って連れに行ったら、その子はどこにも居なかったと言うんだ。心当りになる事実というと、子供たちの中の二人が、女の子が消える少し前に一人の男が彼女に話しかけているのを見たと言う以外なにもない。しかし、むろんその二人の子供はその男の特徴なんか覚えてない。警察に届けが出て、今捜査中だ。これが今までにわかった事実のすべてだ」
「『マドレン』」ヴァンスは思いにふけった様子で、おうむ返しに言った。「ねえ、マーカム、その子がドラッカーを知っていたかどうか知ってるかい」
「ああ」マーカムは少し起き上った。「父親はその子が彼の家の子供パーティーによく出かけて行ったとか言っていた。……」
「その子なら会ったことがある」ヴァンスは立ち上って両手をポケットに入れ、床を見つめた。「とてもかわいらしい子だ……ブロンドの巻き毛でね。ドラッカーの葬式に花をひとにぎり持って来た。……それが、見知らぬ男と話をしていたあとで姿を消したんだな……」
「何を考えてるんだ」マーカムがつっけんどんに訊いた。
ヴァンスはその質問が耳に入らなかったふうだった。「その父親がなぜ君に泣きついて来たんだ」
「マファトとは以前からちょっと知り合いなんでね――一時あの男は市庁に関係してたんだ。半狂乱なんだ――藁《わら》をもつかむだよ。ビショップ事件と場所が近いから過敏になってるんだな。……しかしねえ、ヴァンス、何も僕らはマファトの娘のいなくなったことを議論しに集まったんじゃないんだぜ。……」
ヴァンスは顔を上げた。ぎょっと驚き恐れている表情だった。「よしてくれ――ああ、喋らないでくれよ。……」彼は部屋の中を往復しだした。マーカムとヒースは唖然《あぜん》として彼を見守っていた。「そうだ――そうだ。きっとそうなんだ」彼は小声でひとり言を言った。「時間も正に……みんな話が合うぞ。……」彼は身をひるがえすとマーカムのところへ行って腕をつかんだ。「さあ――早く行こう。僕らの唯一のチャンスだ――もう一分も待てない」彼はマーカムを引きずるようにして戸口に連れて行った。「僕はこの一週間ずっとこんなことが起るのを心配していたんだ――」
マーカムはヴァンスにつかまれた腕をもぎ放した。「僕はこの事務所から一歩も動かんぞ、ヴァンス、君が説明するまで」
「芝居の次の幕なんだよ――最後の幕なんだよ。ああ、僕の言うことを信じてくれないかな」ヴァンスの眼には、私がかつて見たことのない表情があった。「こんどは『マフェット嬢ちゃん』なんだよ。名前はぴったりじゃないけど、たいしたことじゃないよ。ビショップの冗談の材料には不足じゃない。彼が新聞社にすっかり説明してよこすさ。歌の文句どおりに、あの子を石のお山に招き寄せて傍に坐ったんだ。そしてあの子はいなくなった――おどしてどこかへ連れて行ったんだ。……」
マーカムは呆然自失したように進み出た。そしてヒースは目を丸くしてドアの方にとび出した。その後になっても、ヴァンスがせき立てるように力説したその数秒間に、この二人の心がはたして何を思っていたのか、私は思い出してはいぶかったものだった。二人は彼の解釈を信じたのだろうか。それとも二人は単にビショップが万一にも今一つの凶悪ないたずらを行なっていたらと、かすかな可能性を見てとって、その疑念から調べてみないわけに行かないと思っただけなのだろうか。二人の確信なり懸念なりがどうであったにせよ、ともあれ二人は事態をヴァンスの考えどおりに受け入れた。そして間もなく、我々は廊下に出てエレベーターへと急いだ。ヴァンスの申し出で、我々は刑事局の刑事裁判所ビル支部からトレイシー刑事を連れ出した。「事態は重大なんだ」彼は説明した。「何か起るかも知れない」我々はフランクリン街がわの出入口から出て、地方検事の車で、スピード制限をやぶり交通信号を無視して上町に急行した。この重大な用務をおびて車が走っている間、ほとんど誰も口きく者はいなかったが、道の曲りくねったセントラル公園の中を右へ左へとハンドルを切って突進している時、ヴァンスが言った。
「僕の間違いじゃないとは限らないが、一か八かやってみるより仕方がないんだ。新聞社に手紙が来るかどうか待ってたんじゃ、手遅れになるんだよ。相手はまだ僕らが知らないと思っている。唯一のチャンスと言ったのはそれなんだ。……」
「何が見つかるのを期待してるんだ」マーカムの声はかすれて、少し不安げだった。
ヴァンスは気落ちしたように首を振った。「いや、僕にゃわからない。だけど、何か悪魔のようなものだろうな」車がディラード家の前に急停止すると、ヴァンスはとび出して真先に石段をかけ上った。彼がベルをうるさく鳴らすと、パインが現われた。「アーネッスンさんはどこだ」
「大学へおいででございます」老執事は答えた。私は彼の眼にぎょっとおびえた色がうかんだような気がした。「しかし早ひるをなさりに帰っておみえでございましょう」
「それなら、すぐにディラード教授のところへ案内したまえ」
「相済みませんが」パインが彼に言った。「教授先生もお出かけでございまして。お行先は公立図書館――」
「君が一人で留守番か」
「はい。ビードルは買物にまいっておりますので」
「なら、ますますいい」ヴァンスは執事をつかまえて裏手の階段の方へ向けた。「僕らはこれから家探しをするよ、パイン、案内したまえ」
マーカムが進み出た。「しかしね、ヴァンス、そんなことするわけに行かないよ」
ヴァンスはぐるりと振り向いた。
「君らがするわけに行くか行かないか、そんなことは知ったことじゃない。僕はこれから家探しをする。……ヒース君、ついて来るかい」その顔には見なれぬ表情があった。
「やっちゃいましょう」〔私はその時ぐらいヒースが好きになったことはなかった〕家探しは地下室から始められた。あらゆる通路、あらゆる押入れ、あらゆる戸棚、そして空き部屋もくまなく調べられた。パインはヒースの執念深さにすっかりおびえて、案内をつとめた。鍵を持って来たり、ドアを開いたり、言われなければ見落してしまったかも知れないような場所まで、向うから教えてくれたりした。ヒースはこの家探しに夢中で精を出したが、目的が何であるかはごく漠然としかわかっていなかったに違いないと思う。マーカムは非難めいた顔をしながらついて来た。が、彼もまたヴァンスの精力的な果断ぶりに気を呑まれてしまっていた。それに彼はヴァンスがこんなに向う見ずな行動に出たのは、それを正当づける、よほど途方もない原因があるのだと納得していたに違いなかった。次第に我々は階上へと家探しを進めて行った。書斎とアーネッスンの部屋は厳重に調べられた。ベル・ディラードの私室も綿密に探られ、三階の空き部屋もおこたりなく注意が向けられた。四階の召使いたちの部屋までもが隅々まで洗われた。ヴァンスはしいて熱心さをかくそうとしていたが、彼が捜査をどんどんと押し進めて行く疲れを知らない急ぎぶりで、私は彼が神経を張りつめているのを知っていた。やがて我々は上の廊下の裏手にある鍵のかかったドアの前に行きついた。
「どこに通じているんだ」ヴァンスがパインに訊いた。
「小さな屋根裏部屋でございます。でも使ったことが――」
「鍵を開けたまえ」
相手はしばらく鍵束をひねりまわしていた。「どうもその鍵が見当りませんようですが。この中にあるはずなんでございますが……」
「君が最後に使ったのはいつだ」
「さあ、それはちょっと。私の知っております限りでは、もう何年も屋根裏部屋に入った者はおりませんので」
ヴァンスは後に退《さが》って肩を丸めた。「どいてくれ、パイン」執事が傍に退《しりぞ》くと、ヴァンスはすごい勢いでドアに身をぶっつけた。
ギイと音がして、板は割れそうになった。だが鍵はこわれなかった。
マーカムがとび出して来て、ヴァンスの両肩を抱き止めた。「気でも狂ったのか」彼は叫んだ。「君は法律を犯してるんだぞ」
「法律」ヴァンスの返事には痛烈な皮肉がこめられていた。「僕らはあらゆる法律を嘲笑している怪物を相手にしているんだぞ。君はお望みならそいつを大事にしてやれよ。僕は一生刑務所に入ってなきゃならなくたって、この屋根裏を家探しするぞ。――ヒース君、このドアを開けてくれよ」
ここでも私はぞっとするほどヒースが好きになった。一瞬のためらいもなく、おもむろにつま先立って身構えたかと思うと、ドアの把手《とって》のすこしばかり上のあたりに、すさまじい音を立てて肩ごとぶつかって行った。錠のかけがねが柱を引き裂《さ》いて木片がとび散った。ドアはさっと内側に開いた。ヴァンスはマーカムを振り切って、後に続く我々を尻目に、よろめきながら階段をかけ上った。屋根裏部屋にはあかりがなかった。我々はしばらく階段の上で立ち止まって暗闇に眼をならした。それからヴァンスはマッチをすって探り進み、大きな音を立てて陽《ひ》よけを上げた。日光が注ぎ込むと、現われたのは、十フィート四方あるかなしかの、ありとあらゆるガラクタの散らかった狭苦しい部屋だった。うっとうしく息がつまりそうな空気で、見れば何もかもが分厚く埃《ほこり》でおおわれていた。
ヴァンスは急いであたりを見まわした。失望の表情がうかんで来た。「これが残った唯一つの場所だったんだがな」彼はいかにもがっかりと静かに言った。なおよく部屋を見まわしてから、彼は小さな窓の方に足を踏み出して、壁ぎわに寝かしたつぶれかかったスーツ・ケースをのぞきこんだ。私はそれが鍵がおりてなく、革ひもも締めてないのに気がついた。彼はかがみこんで、蓋《ふた》をひっくり返した。
「ああ。どうにかあったよ、君にあげるものが、マーカム」我々は彼のまわりにたかった。スーツ・ケースの中には古いコロナのタイプライターがあった。一枚の紙がロールにはさんであって、その紙の上にはすでに二行の字が打ってあった。薄青の、エリート活字で。
かわいいマフェット嬢ちゃんが
石のお山に坐ってた
ここまで打って、明らかに邪魔が入ったのか、それとも何かほかの理由で、このマザー・グース童謡は完成されなかったのだ。
「ビショップから新聞社への新しい手紙だよ」ヴァンスが言った。そしてスーツ・ケースに手をのばすと、一束《ひとたば》の白い紙と封筒をとり出した。底の、タイプライターの傍に、赤革表紙で薄い黄色のページをはさんだノートが出て来た。彼はマーカムにそれを渡しながら、例の簡明な言葉使いで言った。「ドラッカーの量子論の計算帳だ」だが彼の眼にはまだ敗北の色が残っていた。ふたたび彼は部屋を探しはじめた。やがて彼は窓の反対側の壁ぎわに立った古い化粧台の前に行った。そしてその後をのぞきこもうと身をかがめたとたん、彼は急にとびのいて、顔を上げて何度か鼻をくんくん言わせた。と、その瞬間、彼は足もとの床の上に何物かを見つけて、部屋の中央へと蹴り出した。我々はびっくりして下を見た。それは化学者が使う防毒マスクだった。
「さがっていたまえ、君たち」彼は命じた。そして片手で鼻と口をおおって、化粧台を壁ぎわから引きずり出した。その真うしろに現われたのは、壁にはめこみになった、三フィートばかりの高さの小さな戸棚だった。彼はぐいと引き開けて中をのぞくと、すぐにピシャリと閉めてしまった。私はほんの一瞬しか戸棚の中を見ることは出来なかったが、中身をはっきりと眼にすることができた。棚が二つあった。下の棚には本が数冊開いてあった。上の棚の上には、鉄の支え台にはさんだアーレンマイヤー式フラスコが一つと、アルコール・ランプが一つ、凝縮管が一本、ガラスのビーカーが一つ、そして小さな瓶《びん》が二本立っていた。ヴァンスはふり返って、がっかりしきった様子で我々を見た。
「あっちへ行ってもいいな。もうここには何もないよ」我々はトレイシーを屋根裏部屋へのドアの見張りに残して応接間に引き返した。
「まあ、結局、君の家探しは正当だったということになりそうだがね」マーカムはまじめくさってヴァンスをじろじろ見ながら、認めた。「しかし、こんな手段をとったのは気に食わんぞ。もしあのタイプライターが見つからなかったら――」
「やれやれ」ヴァンスは何かに心を奪われて落ち着かない様子で、窓際《まどぎわ》に行って弓場を見下した。
「僕の探していたのはタイプライターじゃない――ノートでもない。そんな物が何だい」彼は顎を胸の上に落して、眼はいかにも失敗で気力を失ったとでも言わんばかりに閉じていた。「万事見当ちがいだ――僕の論理は落第だった。遅すぎたよ」
「君が一体何をぶつぶつ言ってるのか、こっちはまるきりわからんぞ」マーカムが言った。「しかしまあ、君は少なくとも証拠物件らしきものを僕にあてがうことだけは出来たさ。これでアーネッスンが大学から帰って来さえすりゃ、すぐにも逮捕できるわけだ」
「そうそう、むろんだよ。だけど僕が考えてたのはアーネッスンのことでも、犯人の逮捕でも、地方検事局の勝利でも何でもない。僕があてにしていたのは――」
彼は突然言いやめて、体をこわばらせた。「まだ遅すぎゃしないぞ。こりゃ考えが及ばなかったなあ……」彼は急いで戸口の方に向った。「家探ししなきゃならないのは、ドラッカーの家だったよ。……急げ」彼はもう小走りに廊下を通っていた。ヒースがそのあとから、そしてマーカムと私はしんがりについた。
我々は彼を追って裏手の階段を下り、弓術室を抜けて弓場に出た。彼が何を思っていたか、私は知らなかったし、ほかの二人も見当さえついていたかどうか疑わしい。だが彼の心中の興奮状態が以心伝心《いしんでんしん》して、彼にいつもの無関心と平静さをこんなふうにすっかり忘れさせることが出来るのは、よほどの一大事に違いないということだけは我々も理解していた。ドラッカー家の網戸の裏口まで来ると、彼は網の破れたところから手を入れて止め金をはずした。台所のドアは、驚いたことに、鍵がかかっていなかった。だが、ヴァンスはかねて予期していたらしく、ためらわずに把手《とって》をまわして勢いよくドアを開けた。
「待った」狭い裏の通路で立ち止まると彼は命じた。「家中を探しまわる必要はない。一番それらしいところは……。そうだ。さあ、こっちだ……階上だ……どこか家の中心の方だ……きっと物置きあたりか……人に聞きつけられない所だよ……」言いながら、彼は裏手の階段を上ってドラッカー夫人の部屋と書斎の前を通り、さらに三階に上った。三階には廊下に面してドアが二つしかなかった――一つは向うの端に、そして右側の中ほどに少し小さ目のドアがあった。ヴァンスはまっすぐに小さい方のドアに進んで行った。錠から鍵が突き出していて、彼はそれをまわすと、ぐいとドアを引き開けた。目にうつったのは真暗闇だけだった。ヴァンスは時を移さず膝まずいて、手探りで中に入った。「早く、ヒース君。懐中電灯」
ほとんど彼が言い終らないうちに、光の円が物置の床に落ちた。目に入ったものが、何ともいやな恐ろしさで私の全身をぞっとすくませた。息が詰まったような叫び声がマーカムからもれた。かすかな口笛で、ヒースもまたその光景に色を失ったのがわかった。目の前の床の上に、ぐったりと物言わぬ姿になっていたのは、死んだずんぐりせむし小父さんのために、葬式の朝、花束を持って来てくれたあの少女だった。金髪はもじゃもじゃに乱れ、顔は死んだように白く、その頬には、むなしくあふれて乾いた涙が幾筋もついていた。
ヴァンスはかがみこんで心臓のあたりに耳をつけた。それから少女を両の腕にやさしくかき抱いた。「かわいそうなマフェット嬢ちゃん」そっと彼はつぶやいて立ち上ると、表の階段の方へ歩き出した。ヒースは先に立って、ヴァンスがつまずきでもするようなことがないようにと、ずっと懐中電灯を照らし続けた。階下の玄関広間に来ると、ヴァンスは立ち止まった。
「扉のかんぬきをはずしたまえ、ヒース君」ヒースが機敏に言葉に従うと、ヴァンスは歩道に踏み出した。「ディラード家に行って待って居てくれたまえ」彼は肩ごしに言葉をかけてよこした。そして彼は、しっかりと子供を胸に抱き、七十六番街を斜めに横切って行った。その行く手には、見れば真鍮《しんちゅう》の医者の看板をかかげた一軒の家があった。
第二十五章 幕はおりる
――四月二十六日、火曜日、午前十一時
二十分後に、ヴァンスはディラード家の応接間で待っていた我々のところに戻って来た。「あの子はよくなるようだ」椅子に腰をおろし、煙草をつけて彼は言った。「気を失っただけだ。ショックと恐ろしさで失神したんだね。それと、窒息しかかっていたよ」彼は暗い顔をした。「あの小さな手首にすり傷があったよ。きっと、ずんぐりせむしさんが居なかったから、あのがらんどうの家の中で暴れたんだろう。それから人非人《にんびにん》があの物置に閉じこめて鍵をかけたんだな。殺すひまは与えなかったろう、ほら。それに、本にも殺すとは書いてないものな。『マフェット嬢ちゃん』は殺されなかった――おどして連れて行かれただけだ。しかし、空気がなくなって死んだかも知れないな。しかも、|その男《ヽヽヽ》は安全なんだ。あの子が泣いたって誰にも聞えやしなかったんだから。……」
マーカムの眼がほれぼれとヴァンスを見つめていた。「君を引きとめようとして悪かったな」彼は気取らずに言った。〔それというのも、月並みなほど法律家くさい本能を発揮する彼も、本性は太《ふと》っ肚《ぱら》なところがあったからだ〕「君が何とか出口を見つけようとしたのは正しかったわけだな、ヴァンス。……それに君もだよ、ヒース君。君の決断力と信念に負うところが大きいよ」
ヒースはどぎまぎした。「いやあ、そんなこと、検事さん。あの子の件じゃ、すっかりヴァンスさんに煽《あお》り立てられちゃって。それと、私は子供が好きですから」
マーカムは不審の眼をヴァンスに向けた。「あの子が生きて見つかると思ってたのかい」
「うん。しかし麻酔《ますい》をかけられてるか、気絶してるかだろうと思っていたよ。死んでやしまいと思ったね。それだとビショップの洒落らしくなくなってしまう」
ヒースは何か気になることを考えているふうだったが、「どうも私はピンと来ないんですがねえ」彼は言った。「他のことには何だってひどく用心深かったビショップが、どうしてまた、ドラッカー家の鍵をかけておかなかったんですかねえ」
「僕らに見つけさせたかったのさ」ヴァンスは言った。「何でも僕らが便利なように仕組んでくれたんだ。なかなか思いやりのあるビショップじゃないか、ねえ。ただ、僕らが明日になってから――新聞社にマフェット嬢ちゃんの手紙が着いてから、あの子を見つけるように仕組んだつもりさ。その手紙が僕らの手がかりになるはずだった。ところが、こんどは我々の方が出し抜いてしまった」
「でもなぜ昨日手紙を送らなかったんでしょう」
「ビショップは明らかに最初はあの詩をゆうべポストに入れるつもりだった。ところが、子供が居なくなったことが世間に知れわたった方が自分の目的に一番かなうと思ったんだね、きっと。でないと、マドレン・マファトとマフェット嬢ちゃんとの関係がはっきり判ってもらえないかも知れないと思ったんだろう」
「はあん」ヒースは白い歯の間からうなり声をもらした。「それに明日になりゃ子供は死んでたろうしな。死ねば面通《めんどお》しされる心配はなし」
マーカムは時計を見て決然と立ち上った。「こんなところでアーネッスンが帰るのを待ってる必要はないね。逮捕は早いほどいい」そう言ってヒースに命令を与えようとした時、ヴァンスが制止した。
「結論を急がない方がいいよ、マーカム。あの男に対する実質的な証拠は握ってないんだからね。いまは、きわどい立場だから積極的に出ない方がいい。用心してかからないと失敗するぜ」
「たしかにタイプライターとノートが見つかっただけじゃ、決定的とは言えんだろうな」マーカムは同意した。「だけどさ、あの子に面通しをさせたら――」
「おいおい、マーカム。裏付ける有力な証拠もないのに、五歳かそこらのおびえた女の子が証言してみせたって、陪審員がどれぐらい重点をおくと思うんだ。利口な弁護士なら、ものの五分もあればそんなものはつぶしてしまうよ。だいいち、かりに君がその証言をうまく持ちこたえさせたにしたって、君のもうけは幾らになると思う。そんなものじゃアーネッスンをビショップ事件に結びつけることは出来やしないんだぜ。せいぜい彼を誘拐未遂《ゆうかいみすい》で告発できるぐらいのところだよ――あの子は無傷なんだからね、いいかい。それにもし、君が奇蹟的な法廷技術であやふやながら有罪評決をもらったところで、アーネッスンはたかだか二、三年かそこいらぶちこまれるだけさ。それじゃこの恐怖の事件はおさまったことにならない。……だめだね。君は急ぐべきじゃない」
しぶしぶとマーカムは席に戻った。ヴァンスのことばの主旨を納得したわけだった。「しかし、こんなことを続けさせるわけには行かんぞ」彼は荒々しく言った。「この狂人を何とかして取り押えなくちゃならん」
「何とかして――そう」ヴァンスはそわそわと部屋の中を歩きはじめた。「口実を使って彼から真相をせしめ取ることが出来るかも知れない。まだ彼は僕らが子供を見つけたことは知らないんだからね。――ディラード教授に手伝ってもらえるかも知れないわけだし――」彼は立ち止まってしばらく床を見下した。「そうだ。それが僕らの唯一のチャンスだ。教授の居る前で、アーネッスンに僕らの知ってることを突きつけてみなくちゃ。そうすりゃ、きっといやでも口が開くだろう。教授もこうなると、全力を上げてアーネッスンを有罪に持って行こうと協力するだろう」
「君は、教授が僕らに今まで喋ってくれた以上のことを知っていると思ってるのかい」
「そりゃそうさ。僕が最初から言ってるじゃないか。そこへマフェット嬢ちゃんの話を聞かしてやったら、もう教授だって僕らの聞きたい証言を喋ってくれまいものでもなかろう」
「気のもめる話だなあ」マーカムは悲観した。「しかし、やってみて悪いわけはないな。とにかく、アーネッスンを逮捕しなきゃ帰らんぞ。あとは天命を待てばいい」
ほどなく玄関が開いた。そして、ディラード教授が応接間の出口の向い側の廊下に姿を現わした。彼はマーカムの挨拶にほとんど気もつかない様子だった――我々の意外な訪問の真意を読みとろうとするかのように、一人一人の顔をじろじろと眺めた。やがて、彼は訊いた。「わたしが昨夜言ったことを考えてくれたわけだね」
「考えてみただけではございません」マーカムが言った。「ヴァンス君が先生のお気がかりだったものを見つけてくれたんですよ。こちらを失礼してから、彼が『王位をねらう者』の本を見せてくれましてね」
「ああ」この叫び声は安心の吐息のようでもあった。「ここのところ何日もあの戯曲のことが気になって、何を考えても邪魔をされてなあ。……」彼は恐ろしそうに目を上げた。「どういう意味だい」
ヴァンスが質問に答えた。「その意味はですね、あなたが真相を導き出して下さったということです。今、私共はアーネッスンさんをお待ちしております。――それで、その間にひとつ、あなたとお話をしておいた方がいいと思うんです。私共に力になって頂けるかも知れませんので」
老人はためらった。「わたしは、あの子を有罪にする道具には使われたくないものだと思っておったんだが……」父親らしい悲しげな声だった。だが、やがて顔はキッとひきしまり、目には遺恨《いこん》の光がちらついて来た。ステッキの柄を握った手がぐっとしまった。「しかし、この際、自分の感情のことを言ってはおられん。来たまえ。できるだけ協力してみよう」書斎に来ると、彼は戸棚の傍に立ち止まって、ポートワインを一杯注いだ。呑みほしてしまうと、わびを言うような顔つきでマーカムをかえりみた。「いや失敬。ついうっかりしとったもんだから」彼はチェス台を引きよせて、我々の分のグラスを並べた。「ぶしつけで、すまなかった」彼は注ぎ終ってから腰をおろした。
我々は椅子を引き寄せた。きっと我々の中には、たったいま経験して来た悲惨な出来事のせいで、一杯のぶどう酒を欲しくないと思う者は一人も居なかったろう。我々が席につくと、教授はものうげな眼を上げて、ま向いに坐ったヴァンスを見た。「何でも言ってくれたまえ。遠慮などせんようにな」
ヴァンスはシガレット・ケースを出した。「まず、一つ質問をさせて頂きます。昨日の午後五時から六時までの間、アーネッスンさんはどちらにおいでだったでしょうか」
「わたしは――知らんのだが」どこか言いたくなさそうだった。「この書斎でお茶を呑んでね。ところがあれは四時半に出て行って、あとは夕飯の時まで会わなかった」
ヴァンスはしばらく同情の眼で教授を見ていたが、やがて彼は言った。「私共は、ビショップの手紙を打つのに使ったタイプライターを発見しました。こちらのお宅の屋根裏部屋に古いスーツ・ケースに入れてかくしてありました」
教授は驚いたけしきはなかった。「それがビショップの使ったものと確認できたのかね」
「疑問の余地はありません。昨日、公園の運動場からマドレン・マファトという女の子が行方不明になりました。タイプライターには紙がはさんでありまして、すでに『かわいいマフェット嬢ちゃんが石のお山に坐ってた』と打ってありましたよ」
ディラード教授は首をうなだれた。「また気違いじみた凶行を演じたのだな。君らに警告するのを昨日まで引き延ばさなかったらなあ――」
「でもたいした被害ではありませんでした」ヴァンスは急いで教えた。「間に合って、子供は見つかりました。もう危機を脱しました」
「ほう」
「ドラッカー家の一番上の階の物置きに閉じこめられていたんです。最初はこちらのお宅の中だと思いまして――それでこちらの屋根裏を捜査することになったわけですが」
ちょっと沈黙が続いた。やがて教授が訊いた。「ほかに聞かせてくれることは」
「ドラッカーの最近研究していた量子論のノートが、先夜彼が死んだ時に盗まれたんですが。それが屋根裏でタイプライターと一緒に見つかりました」
「そんな恥さらしまでやりおったのか」これは質問ではなくて、とうてい信じられないという感嘆のことばだった。「そりゃ本当に確かな結論なのかね。たぶん、ゆうべ私がほのめかさなかったら――疑惑の種をまいてやらなかったら――」
「疑問の余地はありませんよ」ヴァンスはおだやかに宣言した。「マーカム君は、アーネッスンさんが大学から帰って見えたら逮捕するつもりのようです。しかし、正直に申し上げますと、私共には法廷で役立つ証拠は事実上一つもありませんし、マーカム君も肚《はら》の中ではあの人を逮捕できるかどうか疑問に思っています。せいぜい私共は、その子供の証言で誘拐未遂罪だけが有罪というところまでしか、期待できません」
「ああ、そうだな。……子供が知っておるだろうな」老人の眼に苦渋《くじゅう》のいろがうかんで来た。「しかし、ほかの罪に対しても処罰をする方法が何かあるはずだがなあ」
ヴァンスは黙想して煙草をふかしていた。目は教授の向うの壁を見ていた。ようやく、彼は口を開いて低くおさえた声で言った。「もしアーネッスンさんが、私共の握った証拠が強力で、あの人を絶対不利にすることがおわかりになったら、ひょっとしてあの人は逃げ道として自殺をお選びになるかも知れませんね。おそらく、誰にでも、それが一番人間らしい解決の仕方でしょうからね」マーカムが色をなして抗議しようとしたが、ヴァンスは先まわりした。
「自殺は本来、弁護の余地のない行為とは言えませんね。たとえば、聖書にだって英雄的な自殺の話が沢山出ています。デメトリウスに屈服しまいために塔から身を投げたラージスなど、こんなに見事な勇気の模範があるでしょうか。〔白状するとラージスという名は初耳で、あとで調べてみたところ、このヴァンスの言及した挿話は聖書には出ていなくて、経外典のマカベ第二の書に出ていた〕サウルの刀持ちの死や、自からくびれたアヒトフェルの死などもまことに雄々《おお》しいものです。それにまた、サムソンやイスカリオテのユダの自殺も確かに美しいものです。歴史をひもとけば、有名な自殺がいくらでもある――ブルータス、ウチカのカトー、ハンニバル、ルクレチア、クレオパトラ、セネカ。……ネロはオトーと近衛兵の手中におちまいと自殺して果てました。ギリシアでは有名なデモステネスの自殺があります。エンペドクレスはエトナの噴火口に身を投げました。アリストテレスは自殺は反社会的な行為であると唱えた最初の偉大な思想家ですが、伝説によれば、アレクサンドルの死後彼自身も毒をあおっています。それに現代になりますと、乃木男爵の崇高《すうこう》な態度も忘れてならぬものでしょう。……」
「そんなことを並べ立てたって、ちっとも自殺の正当化にはならないね」マーカムがやり返した。「法律は――」
「ああ、そうそう、――法律ね。シナの法律では、罪人は死刑を宣告されると自殺を選ぶ権利が与えられている。十八世紀末にフランスの国民議会が採択《さいたく》した法典は、自殺行為に対するすべての刑罰を廃止しているし、ザクセン法鑑《シュピーゲル》――チュートン法の主な基盤になったものだが――これは明文で自殺は処罰すべき行為にあらずと述べている。それにまた、ドナトス教会派やサーカムシリオン派や、ローマ貴族などの間では、自殺は神々のみむねにかなうことと考えられた。それにトマス・モアの『ユートピア』にさえ、個人が自らの命を断《た》つ権利を認可してやる会議があった。……法律はねえ、マーカム、社会の保護のためのものだよ。その保護を可能にしてくれる自殺はどうすればいいと思う。難かしい法律用語を後生大事に頼りにすること自体が、現に社会を引き続く危険にさらすという時にでも、我々はやっぱりそうすべきなのかい。六法全書に書いてある法律より、もっと高い法律というものがありはしないかい」
マーカムはひどく困った。立ち上ると、顔を心配で暗くしながら部屋の端まで歩いてまた戻って来た。そしてふたたび席につき、いかにも優柔不断に指先でテーブルを叩きながら、ヴァンスの顔を長い間じっと見ていた。
「罪もない人たちのことは当然考えなくちゃならない」すっかり元気を失った声で彼は言った。「自殺は道徳的に間違った行為だが、たしかに君の言うとおり、場合によっては理論上正当化されることも、あるにはあるな」(私はマーカムのことだからこの譲歩がどんなに彼にとって苦痛だったか、よくわかった。また、自らの義務として一掃しなければならない恐怖の根源と対決するに当って、彼が全く自信を持っていないことをこの時はじめて私は知った)
老教授は物わかりよさそうにうなずいた。「そうだ、世間に知らせずにおいた方がいいような、あまりにいまわしい秘密というものがあるものだ。わざわざ司直に一役買ってもらわずとも、もっと高いところで正義が行なわれ得るということも、間々あろう」彼が話しているとドアが開いて、アーネッスンが部屋に入って来た。
「おや、おや。また会議だね」彼は一同におどけた横目をくれて、教授の傍の椅子にどっかと腰を落した。「この事件は言うなれば判決ずみだと思っていたがね。パーディーの自殺で万事は終《フィニス》になったんじゃないのか」
ヴァンスはまともに彼の眼を見た。「僕らはマフェット嬢ちゃんを見つけましたよ、アーネッスンさん」
相手の眉が、馬鹿にして面白がっているみたいに、ひょいと上った。「謎々みたいだな。どう返事したらいいことになってますかな。『ジャック・ホーナーさんの親指は?』と行きますかな。それともジャック・スプラットのご健康の詮索《せんさく》でもやりますかな」
ヴァンスは動かぬ視線をゆるめようともしなかった。「僕らはあの子がドラッカー家の物置きに閉じこめられているのを発見したんですよ」彼は低い抑揚《よくよう》のない声でつけ加えた。
アーネッスンは真顔になり、額に思わずしわを寄せた。だが、そのポーズのゆるみもほんの一瞬だった。ゆっくりと口もとがゆがんで薄笑いになって来た。「君ら巡査さんてものは、ひどく有能なもんですなあ。マフェット嬢ちゃんをそう早く見つけるなんてねえ。たいしたもんだ」彼は首を左右に振って感心した真似をした。「しかしまあ、遅かれ早かれ、そうなることにはなっていたんですな。――で、次の行動は、どうなさるんですか」
「僕らはタイプライターも見つけました」ヴァンスは質問を無視して先を追った。「そしてドラッカーの盗まれたノートもです」
アーネッスンは急に身構えた。「本当ですか」彼は用心深い目つきでヴァンスを見た。「どこにそんな証拠物件がありましたか」
「この上です――屋根裏部屋です」
「あは。家宅侵入ですか」
「まあそんなところです」
「しかしねえ」アーネッスンはあざけった。「あなた方には誰かを有罪にするだけの動かぬ証拠があるとは見えませんな。タイプライターなんてものは誰か一人にだけピタリと合う背広とはわけが違う。だいいち、ドラッカーのノートがどうやって屋根裏に上って行ったか、誰にわかります。――もちっと巧くやらにゃいかんですな、ヴァンスさん」
「むろん、機会という要素もありますよ。ビショップはどの殺人の時にも付近に居合わせたはずの人物です」
「そんなことは最も薄弱な裏付け証拠です」彼は応戦した。「有罪の評決にこぎつけるには役に立ちそうもありません」
「犯人がなぜビショップという別名を考えたか、理由を明かすこともやろうと思えば出来ますよ」
「ああ。そいつは確かに役に立つだろうなあ」アーネッスンの顔に影がさして、眼は何かを思い浮かべる表情になった。「僕もそのことは考えてみたことがあります」
「おや、そうでしたか」ヴァンスはしっかりと相手を見つめていた。「まだ申し上げていない証拠が一つあります。例のマフェット嬢ちゃんが、ドラッカー家に連れて行って物置きに押しこんだ人物を確認することが出来るはずです」
「ほう。被害者は生き返ったんですね」
「ええ、そうですよ。それも、ちゃんと元気にしています。僕らは、なにしろビショップがもくろんでいたより二十四時間早く見つけたんですからね」
アーネッスンは沈黙した。握りしめているのに神経質に引きつっている両の手を、彼はじっと見おろしていた。「それで、もしいろんなことにかかわらず、あなたが間違っているとしたら……」
「いいですか、アーネッスンさん」ヴァンスは静かに言った。「僕は誰が犯人か、ちゃんと知っているんですよ」
「まったくあなたは驚いた人ですな」彼は落ち着いたもので、鋭い皮肉をこめて逆襲して来た。「もし、ひょっとして僕がビショップだったら、きっと敗北を認めたくなるでしょうな。……でもね、夜中の十二時にドラッカー夫人のところへビショップの駒を届けに行ったのは明らかにビショップです。そして僕はその晩は十二時半までベルと一緒に家に帰って来なかった」
「あなたが彼女にそう教えたわけですね。僕の記憶によると、あなたは腕時計を見て、何時かをお答えになった。――さあ、言って下さい。本当は何時だったんですか」
「あれが本当ですよ――十二時半です」
ヴァンスは溜息をついて、煙草の灰をぽんと叩き落した。「ねえ、アーネッスンさん、あなたは化学はどれぐらいお出来ですか」
「一流ですぞ」彼はニヤリと笑った。「専攻しましたよ――それで」
「今朝屋根裏を探していますと、小さなはめこみの戸棚があって、誰かがその中で黄血塩から青酸を蒸溜《じょうりゅう》したあとを発見しました。そばには化学者用の防毒マスクがあって、装置も一式そろっていましたよ。苦扁桃《くへんとう》くさい匂がまだその辺にただよっていました」
「まったく宝探しだからな、うちの屋根裏は。災難の神様のロキか誰かが住んでいそうでしょう」
「そのとおりでした」ヴァンスは重々しく答えた。「――悪魔の住家です」
「でなけりゃ、現代のファウスト博士の実験室ね。……しかし、青酸とはなぜでしょうかね」
「予備手段でしょう、きっと。万一困ったことにでもなれば、苦痛なしに画面の外に出てしまえるように、というわけですね。何でも用意しておくんですね」
アーネッスンはうなずいた。「ご当人にしてみれば、全く穏当《おんとう》な態度ですね。慎《つつ》しみ深い男です。追いつめられた時に、他人に要らぬ迷惑を及ぼしたって仕方がありませんからね。そう、大変穏当な処置です」
ディラード教授は、この不吉なやりとりの続いている間、苦痛でもあるような様子で、片方の手で両の眼をおさえてじっと坐っていたが、この時、長い年月父親となって慈愛をこめて対して来た男に向って、悲しげにふりかえった。「多くの偉大な人たちがなあ、シガード、自殺は正当であると――」彼が言いはじめた時、アーネッスンは皮肉な笑い声でさえぎってしまった。
「へへん。自殺に正当化なんか要るもんですか。ニイチェは自発的な死という化け物をこう言っていますよ。Auf eine stolze Art sterben, wenn es nicht mehr moeglich ist, auf eine stolze Art zu leben. Der Tod unter den veraechtlichsten Bedingungen, ein unfreier Tod, ein Tod zur unrechten Zeit ist ein Feiglings Tod.Wir haben es nicht in der Hand, zu verhindern, geboren zu werden: aber wir koennen diesen Fehler―denn bisweilen ist es ein Fehler―wieder gut machen. Wenn man sich abschafft, tut man die achtungswurdigste Sache, die es giebt: man verdient beinahe damit, zu leben.〔人は誇りをもって生きることがもはや出来ない時には、誇りをもって死ぬべきである。もっともさげすむべき情況のもとに起る死、自由ならざる死、時をあやまって起る死とは、臆病者の死である。我々は自分が生れることを妨《さまた》げる力を持っていない。しかし、この誤りは――何となればそれは時として誤りであるから――もし我々が望むならば訂正され得るのである。自らを亡きものにする人間は最も高い評価を受くべき行為をなす者である。彼はその行為によって、ほとんど生きるに値する人間となる〕――若いころ、『偶然の薄明』から覚えた一節ですよ。ちっとも忘れない。健全な考え方です」
「ニイチェの前にも自殺を支持した有名な人たちが沢山居ますね」ヴァンスが捕足《ほそく》した。「ストア学派のゼノンも自殺を擁護《ようご》する熱狂的な賛歌を残してくれました。タキトゥスもエピクテトスも、マルクス・アウレリウスも、カトーも、カントも、フィヒテも、ディドロも、ヴォルテールも、ルソーも、みんな自殺擁護論を書いています。ショーペンハウエルなどは、イギリスで自殺が犯罪と見なされていた事実に激しく抗議しています。……しかも、この問題を系統立てて論じることが出来るかどうか、あやしいものです。どうも、これは学問的な論議の題材としては、あまりに個人的でありすぎるような気がしますねえ」
教授は悲しげに同意した。「死にぎわの最後の暗黒のひとときに、人間の心の中はどんなことになっているのか、誰にもわからんのだからねえ」
こうした話が行なわれている間、マーカムはますます焦立《いらだ》って落ち着かなくなっていた。それにヒースも、はじめはしゃちこばって油断がなかったが、そろそろねじがとけかかっていた。私はヴァンスが少しも仕事をはかどらせたとは思えなかった。アーネッスンをわなにかけるという目的を果すことには、彼はものの見事に失敗したと結論を下さざるを得ないと思った。だが、ヴァンスはうろたえた様子は少しも見せていなかった。私は彼がことのなりゆきに満足しているという印象を受けさえしたのである。ただそうは言っても、彼が表面は平静そのものだが、怠《おこた》りなく気を配っているのに私も気づいてはいた。彼の足は後に引っこめたままで保たれ、体中の筋肉がぴんと緊張していた。私はこの恐るべき会談がどんな結果を生むのだろうかと、そろそろ気になり始めていた。
その結末はすぐにやって来た。教授のことばのあと、ちょっと沈黙が続いていた。すると、アーネッスンが口を開いた。「あなたは誰がビショップか知っているとお言いでしたな、ヴァンスさん。そのくせ、なぜこんな漫談《まんだん》をやりますか」
「なに、急ぐことはありませんでしたからね」ヴァンスはほとんど無頓着だった。「それに、ちょっとばかり証拠固めもできそうな具合でしたからね、――陪審員が評決を下しかねるなんて、みっともない話ですからねえ……。それと、このポートワインも実にうまいし」
「ポートワイン?……ああ、それね」アーネッスンは我々のグラスにちらりと目をやってから、むっとした顔で老教授をふりかえった。「いつから僕は絶対禁酒主義者になりましたか」
教授は驚き、もじもじして、それから立ち上った。「悪かったね、シガード。ちっとも気がつかなかった……君はいつも朝のうちは飲まんだろう」彼は戸棚のところへ行って一杯注ぐと、頼りない手つきでアーネッスンの前に置いた。それから他のグラスにも注いだ。
教授がもとの席に戻ったとたん、ヴァンスがびっくりしたような叫び声を上げた。立ち上りかけて身をのり出し、両手はテーブルの端にのせ、目を丸くして部屋の隅のマントルピースの上を見入っていた。「こりゃどうだ。はじめて気がついたなあ……。すごい」彼がだしぬけに人をびっくりさせるようなことをやったのと、あまりにも緊張したその場の雰囲気のせいで、我々は思わず一せいに振り向いて、彼がうっとりと見つめている方向に眼をやった。「チェリーニの飾り額だ」彼は叫んだ。「『フォンテーヌブローのニンフ』じゃないか。ベレンスンの話じゃ十七世紀にこわされたそうだったが。これのもう片一方のやつをルーヴルで見たことがある。……」
かっと憤激したマーカムの頬が真赤になった。私も正直なところ、いかにヴァンスの変人ぶりや骨董品《こっとうひん》に対する知的熱情をよく知っていたとはいえ、彼がこれほど弁護の余地のない悪趣味ぶりを発揮したのははじめてお目にかかったぐらいだった。ヴァンスともあろうものがこんな悲劇的な場面で、気を散らして美術品に目を奪われようなどとは、信じがたいことに思われた。
ディラード教授もびっくりして顔をしかめながらヴァンスを睨んだ。「まことに妙な時に芸術愛好熱を満足させたもんだね」と彼は容赦のない批評を下した。
ヴァンスはきまり悪げに恥じ入っていた。椅子に沈みこんで、我々の眼をさけながら、グラスの足をつまんでぐるぐるまわし始めた。「まったくお言葉のとおりです」彼は小さく言った。「申し訳ありません」
「ついでながら、あの飾り棚は」教授は叱りすぎたのを和《やわ》らげるように、つけ加えた。「ルーヴルにある方のやつのただの複製だよ」
ヴァンスは混乱をかくそうとするみたいに、グラスを上げて唇のところへ持って行った。ひどく不愉快な一瞬だった。みんな神経が爆発の一歩手前まで行っていた。で、思わず彼につられて我々はグラスを上げた。すると、ヴァンスは素早くテーブルの向うを一目見て、立ち上ると、窓ぎわに行って我々に背中を向けたままじっとしていた。彼がひどく急いで立って行ったので、私はどうしたのかと降り返って彼を見守った。と、ほとんど同時に、テーブルの端が激しく私の脇腹に打ち当り、ガラスが砕ける音が起った。
私はとびあがって、向いの椅子に、片方の手と肩をテーブルの上に投げ出してうつぶせている動かぬ体を、慄然《りつぜん》と見おろした。しばらく、狼狽《ろうばい》と惑乱の沈黙が続いた。みんな一瞬麻痺してしまったのだ。マーカムは彫像のように、眼はテーブルの上に釘付けになったまま立ちつくしていた。そして、ヒースは目を丸くしたまま声もなく、椅子の背に凝然とつかまっていた。
「こりゃどうだ」アーネッスンの口からもれた驚きの叫び声が、我々の硬直状態をほぐす合図になった。マーカムは急いでテーブルの向うにまわり、ディラード教授の体の上にかがみこんだ。
「医者を呼びたまえ、アーネッスン」彼は命じた。
ヴァンスはぐったりとなって窓ぎわを離れ、椅子に身を投げかけた。「もう手のつけようがないよ」疲れ切った深い吐息と一緒に彼は言った。「彼は青酸を蒸溜して、急速で苦痛のない死の準備をしたんだよ。――ビショップ事件は終ったんだ」
マーカムは呆気《あっけ》にとられて彼をにらんでいた。
「いやあ、パーディーが死んでから僕は半《なか》ば真相をかぎつけていたんだよ」言葉にならない質問に答えて、ヴァンスが言った。「ただ、自信がなかったんだが、ゆうべになって教授がわざわざアーネッスンさんに罪をかぶせようとしてくれたもんだからね」
「え。何だって」アーネッスンが電話から引き返して来た。
「いや、そうなんです」ヴァンスはうなずいた。「あなたが処罰を受けることになっていたんですよ。あなたは最初から犠牲に選ばれていたんです。教授はあなたが犯人かも知れないと、僕らに遠回しに言いさえしましたよ」
アーネッスンは意外にさして驚きを見せなかった。「教授が僕を憎んでいたのは知っていました」彼は言った。「僕がベルに関心を持っているのを、ひどく嫉妬していました。それに近頃は頭のはたらきが鈍って来ていました――もう何か月も前からね。教授の新しい著述の仕事は全部僕がやりましたし、僕が学界でいろいろ名誉を得ると、そのたびに不愉快がりますしね。この悪魔のいたずらみたいな事件の裏に、教授が居るんじゃないかと見当がついてはいましたがね。でも、自信はなかった。それにしても、教授が僕を電気椅子に送ろうとするなんて、考えてもみませんでしたよ」
ヴァンスは立ち上ってアーネッスンのところに行き、手をさしのべた。「その危険はなかったんですよ。――この三十分間、あなたをあんな目にあわせたお詫びをします。まったくかけひきの問題にすぎなかったんです。ご存じのように、具体的な証拠が何もありませんのでね。手を誘い出してやろうと思って」
アーネッスンは暗く笑った。「お詫びなんかいいですよ。あなたが僕には目をつけていないことは知っていました。あなたが僕をからかいはじめた時、ただの手だなとすぐにわかりましたよ。何が目的だかわかりませんでしたがね、あなたがきっかけを渡してくれるとおりに、出来るだけうまくやってみました。へまなことをやらなきゃよかったですが」
「いいえ、いえ。うまいもんでした」
「そうですか」アーネッスンは芯からまごついて顔をしかめた。「しかし、どうしても解らないのは、なぜ教授はあなたが僕を疑ぐってるとわかっているのに、青酸を呑んだりしたのか、ということですよ」
「その点だけは永久に判りませんよ」ヴァンスは言った。「マファトの証言がこわくなったのかも知れません。それとも、僕の嘘を見破ったんでしょうかね。ひょっとすると、あなたに責任をなすりつけるという考えに、突然反撥したのかも知れないですね。……教授自身のことばのように、最後の暗黒のひとときに、人間の心の中はどんなことになってるのか、誰にもわからないわけですよ」
アーネッスンは動かなかった。突き通すように鋭どい目つきで、ヴァンスの目を見ていた。「いや、まあ」彼はようやく口を開いた。「そんなことは忘れることにしましょう。……とにかく、有難う」
第二十六章 ヒース質問を発す
――四月二十六日、火曜日、午後四時
一時間後に、マーカムとヴァンスと私はディラード家を後にした。私はその時、ビショップ事件は終ったと思っていた。そして、表向きには確かに終っていた。ところが、もう一つだけ、実に意外な事実が発見されることとなったのだ。それは、ある意味では、この日あかるみに出されたすべての事実の中でも、最も強い衝撃を与えるものであった。
昼食をすませて、ヒースは再び地方検事局の私達のところにやって来た。微妙な問題をふくむ公務上の事柄について、まだ幾つか打ち合せしなければならないことが残っていたからだ。そして、夕方も近くなってから、ヴァンスは事件全体をふりかえり、多くの不明瞭《ふめいりょう》な点を解き明してくれた。
「すでにアーネッスンが、これらの気違いじみた犯罪の動機を暗に教えてくれている」彼ははじめた。「教授は自分の学界での地位が、アーネッスンという後輩によって侵されようとしていることを悟ったわけだ。彼の頭は力と洞察を失いはじめていた。それにまた彼は、原子構造についての新しい著作も、アーネッスンの協力なしでは不可能だと思い知った。そこで、この養子に対する途方もない憎悪が教授の心にわき起って来た。教授の眼にはアーネッスンは、まるであのフランケンシュタインのように、自ら手塩にかけて創《つく》り出してやったにかかわらず、今や自分の命を狙《ねら》って反旗をひるがえした怪物に見えて来たわけだ。この知的な敵意は、嫉妬という原始的な感情によってさらに増長した。孤独な独身生活の、はけ口のない愛情を、十年間ベル・ディラード一人に注いで来た――彼女は彼にとって日常生活の唯一のより所になっていた――そこへ、アーネッスンが彼女を自分から取り上げそうになっていることを知ったものだから、憎悪と敵意が烈しさを倍加したわけだね」
「その動機は理解できる」マーカムが言った。「しかし犯行のすべての説明にはならないね」
「その動機が、彼の押さえつけられた情緒という乾いた火薬に対して、火花の役割をしたんだ。アーネッスンを亡きものにする手段を探し求めている時、ビショップ殺人という悪魔的な冗談が頭にひらめいた。この殺人は教授の抑圧された欲求を解き放った。暴力的な表現への心理的要求にぴたりと合致した。同時に、どうすればアーネッスンを始末し、ベル・ディラードを自分のものにしておくことが出来るかと言う、彼の暗黒の懸案を解決するものでもあった」
「しかし、なぜ」マーカムは訊いた。「アーネッスンを殺すだけですませなかったのかね」
「君は問題の心理的な側面を見逃している。教授の精神は長期間の強い抑圧のためにばらばらに崩壊してしまっていたんだ。自然が吐け口を要求していたんだ。そして、その圧力を爆発点まで持って行ったのが、アーネッスンに対する一途な憎悪なんだ。二つの衝動が、そうやって結びついたんだね。殺人を行なうことによって、彼は抑圧を取り除くばかりでなく、アーネッスンに対する怒りに吐け口を与えてもいたわけだ。なぜなら、知っているだろう、アーネッスンに罪をおっかぶせてしまうはずだったんだからね。そういう復讐のほうが、単にあの男を殺すだけよりも、もっと強烈で、従ってもっと満足の行く方法だった――それは、殺人そのもののちっぽけな洒落にかくれた、大いなる陰惨な洒落だったんだよ。……
しかし、この悪魔的な計画は、教授は気がついていなかったが、一つの大きな欠点を持っていた。それが事件を心理学的分析の前にさらけ出してしまった。そして僕は、犯罪実行者が数学者であると、最初に仮定してしまうことができた。そうなると、犯人の名前を挙げることの困難さは、容疑のありそうな人物のほとんどが数学者だというところにあった。僕が唯一犯人でないと知っていたのはアーネッスンだった。なぜなら、彼だけは徹底的に心理的バランスを保っている人物だったからだ――つまり、彼は深遠な思索に長期間ふけることによって生じる情緒を、たえず放出していたからだ。いつも多弁に表現されているサディズムや冷笑的な態度は、暴力的な殺人衝動の暴発と、心理学的に等値のものなんだ。しょっちゅう冷笑癖を思いのままに発揮することによって、正常な吐け口が与えられ、情緒の平衡状態が保たれるんだ。冷笑癖のある悪口屋は常に安全だ。特発的な有形の爆発が起るような状態からはもっとも遠い所に居るからね。ところが、真面目くさって克己的《ストイック》な仮面の下に、サディズムや冷笑を抑圧し蓄積している人間は、危険な爆発を起しがちなものだ。僕がアーネッスンはビショップ事件などを起す力がないと見たのも、また君たちに、彼を捜査陣に加えて協力させようなどと言いだしたのも、そう考えたからなんだ。自分でも認めていたように、彼は教授が怪しいと思っていたんだ。我々に協力させてくれなどと言い出したのも、万一自分が怪しんでいるとおりだった場合のことを考えて、ベル・ディラードと彼自身とがより安全に保護されるように、我々と連絡を保っておきたいと思ったからなんだね」
「なるほど、そういうことらしいね」マーカムは同意した。「それにしても、教授は一体どこからああいう奇怪な殺人のアイディアを持って来たのかねえ」
「マザー・グース童謡を主題《モチーフ》にしたのは、大方、アーネッスンがロビンに、スパーリングの弓からとんで来る矢に気をつけろと冗談を言ったのを聞いて、そこから思いついたんだろう。教授はその言葉の中に、それを言った当の本人に対する憎しみの吐け口を見出したわけだ。そして時節を待った。やがてその犯罪を上演する好機が訪れた。あの朝、彼はスパーリングが道を歩いて行くのを見て、ロビンが弓術室に一人で居るのを知った。そこで階下におりて行ってロビンを話相手に引き込み、頭を殴り、矢を心臓に突き刺し、そうして弓場に引きずり出す。それから血を拭《ふ》き、その布を処分し、例の手紙を角のポストに入れ、一通は自分の家の郵便箱に入れ、書斎に戻ってこの事務所に電話をよこしたと、こういうわけだ。ところが、一つだけ不測の要因が頭をもたげた。――教授がバルコニーに出たと称するころには、アーネッスンの部屋にはパインが居た。ただ、それでも困ったことにはならなかった。パインは教授が嘘をついているのを聞いた時、何かまずいことがあるとだけは解ったが、老人が人殺しだなどとは露ほども思わなかったにちがいない。犯行は決定的な成功だった」
「それはそうとしてですな」ヒースがことばをはさんだ。「あなたはロビンが弓と矢で射殺されたんじゃないと推理なさったんでしたなあ」
「そう。矢筈《やはず》がつぶされた状態になっていたことから、僕はあの矢はロビンの体に槌《つち》のようなもので叩きこまれたと見た。そこで、僕はあの男が殺されたのは室内で、それもまず頭を殴って気絶させておいてからやったんだと結論を下したわけだ。弓は窓から弓場にほうり出されたのではないかと考えたのも、そのせいなんだ、――その時はまだ教授が犯人だとは思わなかったがね。弓は、もちろん弓場にはほうり出されも何もしやしなかった。――しかし、僕が推理の基礎に使った証拠は、教授にしてみれば失策でも見落しでもないわけなんだ。マザー・グースの洒落がうまく行きさえすれば、あとのことは彼にとって大したことじゃなかったんだよ」
「どんな道具を使ったと思うんだい」マーカムが質問した。
「自分のステッキあたりじゃないかな。君も気がついたんだろう、あれは凶器にはうってつけに出来た、ひどく大きな金の握りがついている。〔その後この大きな重たい金の柄は――長さが八インチ近くもあるのだが――ぐらぐらになっていて、簡単にステッキから取りはずせるようになっていたことが判った。重さは柄だけで二ポンド近くもあり、ヴァンスの言うとおり、ひどく効果的な小棍棒《ブラック・ジャック》になるのだった。ぐらぐらになっていたのが果して凶行の目的のためだったかどうか、その点はもちろんまったく臆測によってしか知るすべはないわけだ〕そりゃそうと、僕はどうも教授が例の痛風を誇張して、同情を引きつけておいて、万が一にも自分に嫌疑がかかるのを避けようとしたんじゃないかと思う」
「で、スプリッグ殺しを思いつかせたのは」
「ロビンが死んだ後、こんどはまた別の犯罪のためにマザー・グースの材料を慎重に探しまわったんじゃないかな。ともかく、スプリッグは射たれる前週の木曜日の夜にあの家を訪ねている。想像だが、思いつきが浮かんだのはその時じゃないかね。陰惨な仕事の当日、彼は早起きをして着換えをすませ、パインが七時半にドアをノックするのを待って、それに返事をしておいてから公園に行った――おそらくは弓術室を通ってアパートの露地から行ったんだろう。スプリッグが毎朝散歩をする習慣のあることは、アーネッスンが何の気もなく言ったのかも知れないし、青年が自分で言ったと考えることだって出来るね」
「だがあのテンソルの公式はどう説明するかい」
「教授は幾晩か前にアーネッスンがスプリッグに話して聞かせるのを聞いたんだよ。そして教授は注意がアーネッスンに――連想でね――向けられるように、死体の下に置いたんだよ。それに、あの公式そのものが、犯罪のかげの心理的衝動を何ともうまく表現しているんだ。リーマン・クリストフェルのテンソルは空間の無限性を述べたものだ――つまり、この地球上の無限に小さい人間の生命を否定しているわけだ。また無意識的に、それは明らかに教授の誤まったユーモアのセンスを満足させ、おまけに彼の怪奇な考えと同質だと思わせてくれる。僕はあれを見たとたんに、その邪悪な意味を感じ取った。そして、それが、このビショップ殺人事件は価値観念が抽象的でまるで桁違《けたちが》いなものになってしまった数学者の犯行によるものだという僕の説を裏付けてくれたんだ」
ヴァンスは言葉を休めてもう一本煙草をつけた。それから黙然と考えこんだひとときが続いた。
「さて、今度はドラッカー家への深夜の訪問の件だ。あれは、ドラッカー夫人が悲鳴を上げたという風聞によって犯人が仕方なく打った不吉な幕間狂言だ。彼は夫人がロビンの死体が庭にほうり出されるところを見たのではないかと懸念した。そこへ、スプリッグ殺しの朝、夫人が庭に居て、殺して帰って来た彼と顔を合せたものだから、教授は夫人が一たす一は幾つになるか答を出しはしまいかと、ますます気が気でなくなった。僕らに夫人を尋問させまいと考えても無理からぬ話だ。それで、彼は出来るだけ早い機会に、夫人の口を永久にふさごうとした。彼はあの夜、ベル・ディラードが芝居に行く前にハンドバッグから鍵をとって、翌朝返しておいたんだ。パインとビードルは早く寝《やす》ませてしまった。十時半にドラッカーは疲れを訴えて帰ってしまった。十二時に、教授はその気味悪い訪問に邪魔が入る心配はなくなったと見当をつけた。もくろんだ殺人に象徴を使って署名の代りにしようとチェスの駒を持って行ったのは、おそらくパーディーとドラッカーがチェスの話をしていたことから思いついたものだ。それに、持って行ったのはアーネッスンの駒だった。教授はそのチェスの議論のことを我々に話したが、黒のビショップが我々の手に入った場合のことを考えて、我々の注意をアーネッスンの駒のセットに向けたつもりだったのではないか、とさえ思っている」
「その時、彼はパーディーを巻きぞえにするつもりがあったと思うかい」
「いや、そんなことはないと思う。アーネッスンがパーディーとルビンシュタインの試合を分析して、ビショップという駒が長い間始終パーディーの恨みの敵だったことを明るみに出した時、教授は本気で驚いていた。……試合の翌る日に僕が黒のビショップのことを言った時のパーディーの反応について、君が言ったことは明らかに正しかった。気の毒に、彼はルビンシュタインに負かされたことで僕がわざとからかったんだと思ってしまったんだね。……」ヴァンスはかがみこんで煙草の灰を叩き落した。
「気の毒だ」彼は後悔して低く言った。「悪いことをしたもんだ、ねえ」彼はちょっと肩をすくめ、椅子にもたれこむと再び語りはじめた。「教授がドラッカー殺しの思いつきを得たのは、ドラッカー夫人自身からだった。夫人は妄想の心配をベル・ディラードに話し、ベルはそれを夕食の時に皆に聞かせた。これで計画が形をなした。これを実行するには複雑なからくりは要らなかった。夕食がすむと屋根裏に上ってタイプで手紙を打った。あとで彼はドラッカーを散歩に誘ったが、パーディーが長くはアーネッスンと一緒に居ないことをちゃんと知っていた。そして、パーディーが馬道に姿を見せた時、教授は言うまでもなくアーネッスンが一人だと知ったわけだ。パーディーが歩み去って居なくなると、すぐに教授はドラッカーを殴って石垣から突き落した。時を移さず彼は小道を通ってドライヴに出て、横切って七十六番街に入り、ドラッカーの部屋に行って、そしてもと来た道をとって返した。全部で十分以上もかかりはしなかったはずだ。それから彼は済ました顔で、ドラッカーの赤いノートを上衣の下にかかえて、エメリーの前を通って家に帰った。……」
「だけども」マーカムがさえぎった。「アーネッスンの潔白《けっぱく》を確信していたんだったら、君は露地の出口の鍵のあり場所をつきとめるのに、どうしてあんなに力を入れたんだい。ドラッカーが死んだ夜に露地を使うことが出来たのはアーネッスンだけのはずじゃないか。ディラードもパーディーも玄関から出て行ったんだぜ」
「僕はアーネッスンの有罪かどうかを考えて鍵に関心を持ったんじゃない。ただ、もし鍵がなくなっていたらだよ、それは誰かがアーネッスンに嫌疑をかけさせようとして、持って行ったということになるだろう。アーネッスンなら、何とも簡単に出来そうじゃないか。パーディーが帰ってから露地を抜け出て、ドライヴを渡って小道を通って、教授が立ち去ってからドラッカーを襲撃する……。そしてねえ、マーカム、僕らはまさにそのとおりに推理するだろうと想定されていたわけなんだよ。実際、そう考えるとドラッカー殺しがいかにも明々白々と解釈できるものねえ」
「しかし、私の頭でどうしてもわからんのはですねえ」ヒースが泣きごとを言った。「あの年寄りが、なんだってパーディーを殺したりなんか、したんだろうってことなんですよ。あんなことをしたってアーネッスンに嫌疑《けんぎ》はかからないし、パーディーが真犯人で、この世に愛想をつかして自分からくたばった、みたいなことになっちまったじゃありませんか」
「あのニセ自殺はね、教授の実に酔狂な洒落だったのさ。皮肉でもあり、馬鹿にしてもいる。なぜって、そういうおどけた幕間狂言を見せておいて、その間に、アーネッスンを破滅におとしいれる計画はちゃんと進めていたんだからね。そして、もちろん、我々がまことしやかな犯人をつかんだという事実には、我々の警戒をゆるめさせ、張り込んだ刑事を引き上げさせてしまうという大変な長所があったわけだよ。この殺人は、きっと、むしろ自然発生的に、ふらふらっと考えついたことなんじゃないかな。教授は何かうまい口実を作って、パーディーを連れて弓術室に行った。窓はもうあらかじめ閉めて陽《ひ》よけもおろしてあったわけだ。そうして、雑誌の記事にでも注意を向けさせておいて、信じ切ってるお客のこめかみを撃ち抜いてピストルを手に持たせてから、馬鹿にしたユーモアのつもりで、トランプの家を作った。書斎にもどると、パーディーが黒のビショップのことをくよくよ考えこんでいたみたいな印象を与えるためにチェスの駒を並べた。……
しかし、今言ったように、この不吉な怪奇物語は枝葉《しよう》の問題にすぎなかった。『マフェット嬢ちゃん』の話が大団円をしめくくることになっていた。しかも、それはアーネッスンの頭の上から何もかもを一度に叩きつけることになるように、綿密に計画されていた。教授が葬式の朝ドラッカーの家に行っていた時に、マドレン・マファットがずんぐりせむしさんにといって花束を持って来た。教授がその子の名前を知っていたことは間違いない――あの子はドラッカーのお気に入りで、何度も遊びに来たことがあるんだから。殺人の妄念と同じく、マザー・グースの思いつきも今ではしっかりと彼の心の中に根を生やしていたので、マファットという名前とマフェットという名前はごく自然に結びついてしまった。だいいち、ドラッカーやドラッカー夫人が教授の居るところであの子をマフェット嬢ちゃんと呼んだなんてことも、あり得ないことじゃない。教授にとって、昨日の午後彼女の注意を引いて崖の下の築山《つきやま》の上に招き寄せるぐらいは簡単なことだ。大方、ずんぐりせむしさんが会いたがってるよ、ぐらいは言っただろう。彼女は勇んでついて行って、教授と一緒に馬道の並木の下を通って、ドライヴを横断して、アパートの露地を抜けた。誰も二人に気がつく者は居ない。その時分ドライヴには子供がいくらでも居るからね。それから夜になって、教授は僕らにアーネッスンに対する疑惑の種をまいた。『マフェット嬢ちゃん』を書いた手紙が新聞社に着いたら、僕らがあの子を探しに行って、ドラッカーの家で窒息して死んでいるのを発見するだろう、というのを、ちゃんと勘定に入れてた上でだよ。……巧妙きわまる、悪魔の計画だよ」
「しかし、我々が自分の家の屋根裏部屋まで探しに来るとは予想しただろうかね」
「そりゃそうさ。ただし、明日以後にね。それまでにあの小部屋をきれいに片づけて、タイプライターをもっと目立つところに出しておくはずだった。それから、あのノートもどこかへどけておくつもりだった。だって、教授がドラッカーの量子研究を失敬して盗用するつもりだったことは、ほとんど疑念の余地なしだよ。ところが、我々の来るのは一日早かった。計算がすっかり狂ってしまった」
マーカムは不機嫌にしばらく煙草をふかしていた。「君はさっき、ゆうべビショップ・アルネッソンという芝居の人物のことを思い出した時にディラードの有罪を確信したとか言ったね。……」
「うん――そうなんだ。それで動機がわかったんだ。その瞬間に僕は、教授の目的はアーネッスンに罪をかぶせることだと知った。そして手紙の署名もその目的で選ばれたと悟った」
「『王位をねらう者』に僕らの注意を向けさせるのを、教授はずいぶん気長に待ったじゃないか」マーカムは言った。
「本当はね、教授はそんな必要があるとは思わなかったんだよ。僕らが自分で発見するだろうと思った。しかし、僕らは教授の見こみより頭が鈍かった。それで、とうとう破れかぶれで、君を呼んで、『王位をねらう者』に妙に力を入れながら、巧みに藪のまわりを叩いてまわったのさ」
マーカムはちょっと口をつぐんでいた。非難がましく眉を寄せ、指先で吸取紙をこつこつ叩きながら坐っていた。が、やがて、「君は一体なぜゆうべ、アーネッスンでなく、教授がビショップだと言ってくれなかったんだ。僕らをだまして――」
「おいおい、マーカム。僕にほかにどうすることが出来たと思う。まずだよ、君はとても信じてくれはしなかったろう。また船にでも乗って来いと言うにきまっていたさ、ねえ。それにだよ、教授に僕らがアーネッスンを疑ってると思わせておくことが、絶対必要だったんだ。でなきゃ、僕らは今日実現したみたいに、出口をこじあけるなんてことはとても出来そうになかったんだ。口実で釣ることだけが頼みの綱だったんだ。それに君やヒース君が彼を疑ったりしたら、まんまと獲物《えもの》を逃がすのが、僕には判りきっていたんだ。ところが、君らは今日はしらを切っている必要なしで済んだ。そして、どうだ、ものの見事に解決したじゃないか」
私は、ヒースがこの三十分間というもの、いかにも困ったという頼りなさそうな顔をして、時々ヴァンスをちらちらと眺めてばかり居るのに気がついていた。ただ、何かわけがあるのか、その不安な思いを口に出して言うまでには気が進まない様子だった。それが、この時、窮屈《きゅうくつ》そうに坐り直して、ゆっくりと葉巻を口から離すと、何とも驚くべき質問を発したのである。「私はあなたが昨夜私達にいいことを教えて下さらなかったのに文句なんか言うつもりはないんですがね、ヴァンスさん、しかし、私は教えて頂きたいんですがねえ、なぜですねえ、とび上ってマントルピースの上の飾り棚を指さされた時に、あなたはアーネッスンとあの年寄りのグラスをすりかえたんですか」
ヴァンスは大きな溜息をついて、これはたまらぬとばかりに首を左右に振った。「鷲のような君の眼が何一つ見逃さないことぐらい、僕は知っていてもよかったんだなあ」
マーカムはデスクの上にとび上らんばかりに身を乗り出し、憤怒《ふんぬ》と狼狽をまじえてヴァンスをにらみすえた。「なんだって」彼はわめいた。いつもの自制はどこかへ吹っ飛んでいた。「グラスをとりかえたんだって。君がわざと――」
「いや、あのねえ」ヴァンスは抗弁した。「激しき怒をつのらせるなかれ、と行こうよ」そして、ヒースの方へ向き直って叱る真似をした。「見ろよ、君のおかげでこんな目にあってるんだぞ」
「ごまかしなんか言ってる場合じゃない」マーカムの声は冷然と容赦がなかった。「釈明を要求する」
ヴァンスは諦《あきら》めた身振りをした。
「やれやれ。よく聞いてくれ。僕の考えは、もう話したけど、教授の計画にまんまとひっかかって、アーネッスンを疑っている様子をしていることだった。今朝、僕はわざと教授に、こっちに証拠がないこと、そしてもしアーネッスンを逮捕しても有罪に出来るかどうか疑わしいことをわかってもらった。僕は彼がそうなると何か行動を起すだろう――そういう情況に男らしいやり方で対処しようとするだろうと考えた。なぜなら、いろいろ人を殺したことの目的は唯一つ、アーネッスンを亡《な》きものにすることだったんだから。教授が何か明白な行動に出て、手の内をさらけ出してしまうだろうと、僕は自信があった。それが何であるかは、わからなかったがね。まあ、よく見張っていよう、というわけだ。……すると、あのぶどう酒からインスピレーションが湧いたんだ。教授が青酸を持っているのがわかっていたから、僕は自殺の話を持ち出してみた。そして、その観念を教授の心に植えつけてやった。教授はそのわなに引っかかって、アーネッスンを毒殺して自殺に見せかけようとはかった。僕は教授が、戸棚のところでぶどう酒を注ぐ時に、アーネッスンのグラスに小さな瓶からこっそりと無色の液体を移しこむのを見た。最初、僕はその殺人を止めさせて、ぶどう酒を分析させようと思った。身体検査をしてその瓶を見つけることも出来るし、僕は教授がぶどう酒に毒を混入するのを見たと証言することも出来る。そういう証拠に、あの女の子の証言を合わせれば、我々の目的に十分かなう結果が得られるだろう、というわけだ。しかし、最後の瞬間になって、彼が僕らのグラスにもう一杯ずつぶどう酒を注ぎ終った時、僕はより簡単な筋道をとることに決めた――」
「そこで僕らの注意をそらしておいて、グラスをすりかえたんですな」
「そう、そう。言うまでもない。自分が他人のために注いだ酒ならば、喜んで飲むべきだ、と思ったんだ」
「君は法を無視して勝手に制裁《せいさい》を加えたのか」
「そうともさ――頼りにならなかったもの。……だけど、そんなに固いことばっかり言うなよ。君はガラガラ蛇を法廷に出すかい。狂犬を法廷に出して大きな顔をさせるかい。ディラードみたいな怪物があの世に行くのに手を貸しても、現に人に咬《か》みついている毒蛇を殺して感じるほどにも良心の呵責《かしゃく》を感じはしなかったよ」
「しかし、殺人だぞ」マーカムは不快げな怒りの叫び声をあげた。
「ああ、そりゃそうだ」ヴァンスは陽気に言った。「そう――もちろんだ。不都合千万だよ。……おい、ひょっとして、僕は逮捕されてるのかい」
ディラード教授の「自殺」は、名高いビショップ殺人事件に幕をおろし、パーディーの名にかげさしていた一切の疑いを自動的に払拭《ふっしょく》し去った。翌年、アーネッスンとベル・ディラードはひっそりと結婚してノルウェーに旅立ち、そこに新居を構えた。アーネッスンはオスロ大学の応用数学の講座を引き受けた。そして、彼が二年後、物理学において果した功績のためにノーベル賞を授与されたことはご記憶の方もあろう。七十五番街の古いディラード邸は取りこわされ、その跡に今は近代的なアパートが建っているが、その正面にほどこした二つの大きなテラコッタの円型浮き彫りは、強く我々に弓の的を連想させる。私は設計者が装飾《そうしょく》を選ぶに当って故意にこんな意匠《いしょう》を採《と》ったのではなかろうかと、しばしばいぶかしく思うことがあった。(完)
解説
ヴァン・ダイン(一八八八〜一九三九)の面白さは、そのまま推理小説の持っている独自な面白さを代表している。エドガー・アラン・ポオの推理小説がそうであり、ドイルのホームズものがそうであるように、ヴァン・ダインは最も正当な、推理小説の基礎文法を確立した一人であった。
ヴァン・ダインが近代推理小説の輝《かがや》かしい完成者の一人であり得るのは、彼が一般文芸芸術に通じていた上で、推理小説の発想が、構成の点でも技法の点でも、まったく一般文学とはちがった、むしろ逆転した場から成り立つものであることを知っていたからである。そして彼は作中人物の性格描写なり、作品のムードの構成に、できるだけ文学的要素を拒否《きょひ》しているように見せかけながら、きわめて巧《たく》みに文学的要素を利用していたのであった。
いわばヴァン・ダインは文学の|さぎ師《ヽヽヽ》である。その手口があまりあざやかなので、だまされても腹は立たないし、だまされていると分っても、その手口に乗せられているのが、かえって愉快《ゆかい》である。たとえば、主人公ファイロ・ヴァンスのペダントリーについてはこれまでしばしば言われてきているが、これほどヴァン・ダインの手口を率直に語っているものはない。作者の本名ライト氏には哲学的著作、美術に関する著作がいくつもあるということが、いっそうヴァン・ダインのペダントリーを深奥《しんおう》に神秘化しているらしいが、ファイロ・ヴァンスが時に机上にひろげる文学書の書目を見ると、その偽装《ぎそう》が分って面白い。「ドラゴン殺人事件」(一九三三)ではペイター(一八三九〜九四)の「享楽主義マリウス」(一八八五)が出てくるのもその一つで、イギリス文学を読みなれているものには、ファイロ・ヴァンスとこの小説「マリウス」の作者ペイターとの結びつきはよくわかる。なるほどファイロ・ヴァンスならまっさきに読みそうなもので、それがかえってファイロ・ヴァンスらしくないぎょうぎょうしさで、本当にイギリス文学に通じているのなら、もっとほかの奇書珍書を挙げるだろう。ファイロ・ヴァンスとペイターとのとり合わせはいかにも平凡である。この平凡さが、かえって一般読者には、ペイターの「マリウス」は第二世紀ローマの香り高い想像を与えて、ファイロ・ヴァンスを高貴な精神に感じさせる。「僧正《ビショップ》殺人事件」では、ファイロ・ヴァンスがとりかかっている文学的な仕事は、ギリシアの喜劇作家メナンドロスの主要な断章の、形式をふまえた翻訳ということになっている。
ヴァン・ダインは、ポオのデュパン、ドイルのホームズといった超人探偵の系列に立つ主人公ファイロ・ヴァンスを創造するにあたって、これ以上では読者になじみが薄くなり、これ以下では品位を落すという限界をよく心得ていたと思われる。この素人探偵は大変な美男子で、独身である。ディレッタントというには当らない高雅な教養をそなえていることになっている。第一作「ベンスン殺人事件」で紹介されているところによると、文化科学のあらゆる分野を踏破し、宗教史、ギリシア古典、生物学、公民学、経済学、哲学、人類学、文学、理論・実験心理学、古代学および近代言語学等々百般に通じ、彼が集めている美術品も一流中の一流品に限られている。のちに彼がやっている仕事は「エジプト古文書」の翻訳である。なんという平凡な高貴さであろう。
ファイロ・ヴァンスの魅力は、彼が決して学問的な専門家でないところにある。そしてそれがはなはだ専門的に深奥であると見せかけるところにある。ファイロ・ヴァンスの美術論は高度な常識の一線にとどまり、東洋美術論は概念的に空転して一向に権威がない。しかしそこが面白いので、凸面鏡や凹面鏡にわが姿を写してみて、奇体にゆがむ虚像を楽しむのと同じようなものである。
この|さぎ《ヽヽ》的ペダントリーはファイロ・ヴァンスの頭脳だけではなく、その小説にたくみに延長される。ヴァン・ダインは「探偵小説作法二十則」を設定《せってい》しているが、彼自身の作品がそれに当てはまらないところが文学の妙味で、作者もかならずしもその原則にしたがっているわけではない。
ヴァン・ダインの推理小説の面白さは、不実な女の涙と似かよっている。種が割れて、謎解きが終ってから、あらためて始めから読み直し、考え直してみると、作者のトリックの置き方、欺瞞《ぎまん》の仕方、伏線のありどころが、いかに効果的に試みられているかがわかって興味がつきない。いちど作者の|さぎ《ヽヽ》にかかった読者は、こんどはその|さぎ《ヽヽ》師を目前にすえて、作者の手ぎわを推理できるからである。
ヴァン・ダインははじめ賢明にも、推理小説は六篇ぐらいしか書けないことを予言した。作家の素質が多様である場合はともかく、とくにファイロ・ヴァンスという人物を創造し、小説の世界を一箇の個性に限定すると、本格長編をそういくつも書けないのがふつうであろう。当初の六編「ベンスン殺人事件」(一九二六)、「カナリヤ殺人事件」(一九二七)、「グリーン家殺人事件」(一九二八)、「僧正《ビショップ》殺人事件」(一九二九)、「甲虫殺人事件」(一九三〇)、「ケンネル殺人事件」(一九三二)はいずれも傑作というに価いし、その後、思いをあらたにして再出発した「ドラゴン殺人事件」(一九三三)、「カジノ殺人事件」(一九三四)、「ガーデン殺人事件」(一九三五)、「ゆうかい殺人事件」(一九三六)も、はじめの六篇にたんのうしている読者には物足りないかもしれないが、決して凡庸《ぼんよう》な作品ではない。「ベンスン殺人事件」のエレベーターのトリックや、弾道の高さによる人物の測定などは、心理的な確証とともにヴァン・ダインの出発に大きな期待を持たせるものとなったが、「カナリヤ殺人事件」の密室事件への挑戦《ちょうせん》を経て、「グリーン家殺人事件」「僧正殺人事件」に至ると、ヴァン・ダインの推理小説が絶頂に達してくる。ヴァン・ダインの二大傑作であるばかりでなく、近代推理小説の典型的な代表作品になっている。
「グリーン家殺人事件」と「僧正殺人事件」とのどちらが優《すぐ》れているかという価値評価はそれぞれの好みによってちがうらしいが、すなおに楽しめるのは「グリーン家殺人事件」であろうし、裏側の奇妙な心理に戦慄する者は「僧正殺人事件」を採《と》るだろう。もちろん「グリーン家殺人事件」にも心理的なスリルはあるので、最後のクライマックス、エーダの逃亡がもたらすサスペンスは強烈である。むしろこの異様なスリルはエラリー・クイーンの「Yの悲劇」における、子供の犯罪がもたらす異様な怪奇さに似かよっているところがある。「僧正殺人事件」ではこの心理的な不気味《ぶきみ》さは、マザー・グースの童謡を通じて、いっそう直接的である。無邪気な童謡の背後《はいご》にひそむ異様な恐ろしさはたぐいがない。意外な犯行の動機、残虐不気味な犯罪の構成と、ものおそろしいムードは、「僧正殺人事件」にあって絶頂に達していると言っていいであろう。
推理小説の読者は、はじめは正面からぶつかってあざむかれ、つぎには裏をくぐろうとして横穴からおん出され、ようやく鏡の部屋の迷路を抜けるのに成功すると、もういちど逆行してみたい誘惑を感じるものである。ヴァン・ダインは謎の設定において、みずから「探偵小説作法二十則」で言っているように、なるほどフェア・プレイに終始している。しかし彼の作品は、そのデータの提出にあたって、読者の知的興味と心理的感応をよく計算した上で、文学的粉飾とペダンチックな議論と、マーカムとヒースの愚行《ぐこう》をおりまぜ、読者の興味を縦横にひきずりまわすことになる。
ヴァン・ダインの作品の妙味は二重である。知的娯楽としての謎解きが推理小説のつつましい文学的ムードに盛り上げられ、その作品の幕が閉じてから、読者と作者との楽屋での打ち明け話が楽しめるというものである。すぐれた推理小説が再読にたえ、しかも再読の頁をくるにしたがい、作者も作中探偵の心の秘密が解けていく面白さというものはまた格別であって、ヴァン・ダインの作品は、よくそうした読者の要求にかなうものであろう。
ヴァン・ダインはアメリカ・ヴァージニア州の生まれである。本名はW・H・ライト。ハーヴァード大学大学院では英語学を研究し、のち画家を志してミュンヘンやパリに遊学した。音楽の研究にも興味があったらしい。一九一四年までの数年間は文芸批評家、美術評論家として活躍。第一次大戦に当ってパリに住み、帰米してから一時胸を病んだが、のち強度の神経衰弱で、一九二三年から二五年にかけて病床生活を送った。この間に二千冊の探偵小説を読破《どくは》、自ら創作への意欲を持つことになった。そしてはじめの傑作の数々が相ついであらわれたのである。輝かしい業績と名声の中で、わずか五十一歳にしてニューヨークで亡くなった。
◆僧正《ビショップ》殺人事件◆
ヴァン・ダイン/鈴木幸夫訳
二〇〇三年十月十日 Ver1