ヴァン・ダイン/瀬沼茂樹訳
カナリヤ殺人事件
目 次
はしがき
第一章 「カナリヤ」
第二章 雪の中の足跡
第三章 殺人
第四章 手の跡
第五章 錠のかかったドア
第六章 救いを求める叫び声
第七章 無名の訪問者
第八章 姿なき殺害者
第九章 急追跡
第十章 無理じいの会見
第十一章 情報蒐集
第十二章 情況証拠
第十三章 昔の伊達男
第十四章 ヴァンスの理論の概要
第十五章 四つの可能性
第十六章 重要な発見
第十七章 アリバイの検証
第十八章 陥穽
第十九章 博士の説明
第二十章 深夜の目撃者
第二十一章 日付のくい違い
第二十二章 電話の呼び出し
第二十三章 約束の十時
第二十四章 逮捕
第二十五章 ヴァンスの証明
第二十六章 犯罪の再構成
第二十七章 ポーカー・ゲーム
第二十八章 犯人
第二十九章 ベートーヴェンの『アンダンテ』
第三十章 終幕
訳者あとがき
登場人物
ファイロ・ヴァンス
ジョン・F・X・マーカム……ニューヨーク州地方検事
マーガレット・オーデル……ブロードウェーの有名な踊り子
エイミー・ギブスン……マーガレットの女中
チャールズ・クリーヴァ……歓楽街の通人
ケネス・スポッツウッド……工場経営者
ルイス・マニックス……輸入業者
アンブローズ・リンドクイスト……精神病医
トニー・スキール……常習窃盗者
ウィリアム・エルマ・ジェサップ……電話交換手
ハリー・スパイヴリ……電話交換手
アリス・ラ・フォス……ミュージカル・コメディの女優
人は見かけによらぬものだ
心底深く隠されたものを
洞察するのは知恵あるものに限る
――フェドルス はしがき
僕はながいこと、ファイロ・ヴァンス氏の顧問弁護士で、いつも行動をともにしてきた友人であった。しかも、その期間は、ヴァンスの無二の親友のジョン・F・X・マーカム氏がニューヨーク州の地方検事をしていた四年間に、あたっていた。その結果として、若い弁護士には思いもかけぬ、きわめて驚くべき一連の犯罪事件の立会人となる特権をもつことができた。実際、この間に、僕の立ちあったむごたらしい劇的事件は、アメリカの警察史上においても、もっとも驚くべき秘密文書の一つにあたるものである。
これらの劇的事件で、ヴァンスは主役であった。僕の知っているかぎりでは、これまでの犯罪活動に一度もつかわれたことのない分析的・解釈的方法をもちいて、警察当局、地方検事局の両者がすっかり匙《さじ》を投げていたような、数多くの重大犯罪の解決に、みごとに成功した。
僕は、ヴァンスとの特別な私交のおかげで、その関係した一切の事件に参加したばかりでなく、地方検事との間にとりかわされた事件についての非公式な討議の大部分にも立ちあっていた。僕は几帳面《きちょうめん》な性分だったので、事件の完全な記録をとっておいた。幸に、資料の蒐集と筆者という篤志《とくし》奉仕をしておいたので、事情がかわって、事件の公表ができるようになった今日、十分に詳細をつくし、さまざまな側面から、すべての経過をたどって、事件の一切をここに提供できるようになった次第である。
『ベンスン殺人事件』――において、僕は、ヴァンスが犯罪捜査にたずさわるようになった始末をはなすとともに、アルヴィン・ベンスン殺人事件の謎《なぞ》をとくにあたってもちいた、独特の犯罪探査の分析的方法を発表しておいた。
こんどの物語は、「カナリヤ」殺人事件として知られるにいたった有名な刑事事件――つまりマーガレット・オーデルの血なまぐさい殺人を、ヴァンスがどのように解決したかを語るものである。この犯罪事件は、その怪奇なこと、大胆不敵なこと、外見上解決至難と思われたことなどから、ニューヨークの警察史上、もっとも特異な、驚くべき事件の一つとなっている。そこで、ファイロ・ヴァンスがこの解決に参加しなかったならば、わが国の最大の迷宮事件の一つとして永久に残ったであろうと、僕は堅く信じている。
ニューヨーク
S・S・ヴァン・ダイン
第一章 「カナリヤ」
センター街にある警察本部ビルの三階、ニューヨーク警視庁刑事殺人係の事務室には、大きな鋼鉄製の文書保管棚がある。同種類の索引カードが何万とあるなかにまじって、次のようにタイプされた緑色の小さなカードが一枚保管されている。
マーガレット・オーデル 西七十一番街百八十四番地。九月十日、殺人。午後十一時頃、絞殺死《こうさつし》。アパートは徹底的にあらさる。紛失物は宝石類。死体発見者、女中のエイミー・ギブスン。
こんなわずかに数行たらずの平凡きわまりない文句をもって、わが国の警察史上、余人をば驚かせた、特筆すべき犯罪事件の一つが、さむざむと、なんの誇張もなく、しるされている。この事件はまったく矛盾《むじゅん》だらけで、とらえにくく、巧妙にしくまれ、しかも前例のないものであったから、長いこと、さすがの警察当局も、地方検事局も、手がかり一つつかめないで、まったく手こずっていた。どの方面を捜査してみても、マーガレット・オーデルが、殺されるようなことはあろうはずがないという結論におちつくほかはなかった。しかも彼女の居間にある長い大きな、絹布の寝椅子《ねいす》の上には、彼女の絞殺死体が長々と横たわっているのだから、この奇怪な結論がまちがっていることは明々白々な事実であった。
この犯罪の真相は、意気を沮喪《そそう》させるような混沌《こんとん》とした真の暗黒の一時期をへて、ようやく明るみにだされるようになったのだが、未知の人間性状の多くの異常で奇怪な根性と、多くの暗黒の秘密と、絶望に近い悲劇的な失望によってとぎすまされた人間精神の無気味な狡猾《こうかつ》さとを、明らかにしていた。そしてまた、その本質と組立てとにおいて、エステエル・ファン・ゴプセックにたいするヌッチンゲン男爵《だんしゃく》の、伝説的にとてつもない愛欲や、不幸なトルピイユの悲劇的な死をみごとに描いた、あのバルザックの『人間喜劇』のいきいきとした劇的な情景にくらべてもおとらない、ロマンティックで、魅力のある情熱のメロドラマのかくれた一ページをしめしていた。
マーガレット・オーデルは、ブロードウェーの放埓《ほうらつ》な歓楽街の生んだ女だった。――刹那《せつな》の歓楽をもとめる、派手《はで》で、いつわりのロマンスをいくぶんとも典型化しているような、才気にみちた女だった。その死に先だつおよそ二年間、都会の夜の生活では、一番に人目をひき、ある意味では一番に人気のある人物だった。われわれの祖父母の時代であったなら、彼女は、「街の花形美人」という、いくぶんいかがわしい呼び名をあたえられていたであろうが、今日では、こんな部類にはいる候補者があまりにも多すぎるし、都会のカフェ生活にとびまわる「夜の蝶」類には、あまりにも多くの派閥《はばつ》や、猛烈な分派がありすぎるから、こういうふうにただ一人の選手を選びだすことができないのである。しかし、玄人素人《くろうとしろうと》の新聞係が騒ぎたてる人気者のなかでも、マーガレット・オーデルは、その小さな世界にあっては疑いもなく名声のあった人物である。
彼女の名声が出たことの一部には、ヨーロッパの一、二のあいまいな有力者と浮き名を流した、やや伝説めいた情事が伝わったせいでもあった。あの『ブルターニュの女中』に初めて出演して成功してから――これは、彼女が不思議なことには無名のワンサガールから一躍スターに抜擢《ばってき》された有名なミュージカル・コメディであるが――二年あまり海外にくらした。彼女の新聞係がこの留守の間を十分に利用して、その桃色の浮気話を宣伝したのだと、皮肉にも考えられないことはない。
彼女は、美貌《びぼう》のために、かえってそのいかがわしい人気をささえていた。どちらかといえば、けばけばしいほど派手な美しさであったが、美しいことには、疑問の余地はなかった。僕は、ある夜、アントラーズ・クラブで、彼女の踊っている様子をみたことがある。ここは有名なレッド・レイガン〔アントラーズ・クラブは、これ以来官憲によって閉鎖された。そしてレッド・レイガンは現在窃盗罪のためにシン・シン刑務所で最期服役中である〕によって経営されている。真夜中すぎの好色家たちのための溜り場にもちいられる一つであった。そのとき、彼女は、打算的な、欲の深い型の容貌であるにもかかわらず、非凡な美少女として、僕は強い印象をうけた。中肉中背で、どちらかといえば、牝獅子《めじし》のような優雅さをもっていた。僕の考えでは、少々お高くとまっていて、傲慢《ごうまん》な態度にさえみえた。――これはおそらくヨーロッパの貴族との例の評判の交際の結果でもあったろう。――伝統的な娼婦《しょうふ》らしい様子を遺憾《いかん》なくしめす赤い唇と、ロゼッティの絵の『祝福された乙女』のような、マングースに似た大きな眼とをもっていた。その表情には、どんな時代の画家たちもが、永遠のマグダラのマリアを描こうとするとき、それにあたえる、あの肉感的な誘惑と精神的な克己《こっき》との奇妙な結合が、みられた。彼女の顔は淫蕩的《いんとうてき》であるとともに神秘をほのめかすたぐいの型で、このために、男の感情を支配し、男の心を隷属させて、男を死物狂いの行為にかりたてもするのである。
マーガレット・オーデルは、「フォリーズ」座の念のいった群鳥のバレーに一役つとめた結果として、カナリヤという綽名《あだな》をもらっていた。このバレーでは、どの踊り子も、いろいろな鳥をあらわす衣裳をつけていた。彼女には、偶然、カナリヤの役がふりあてられ、白と黄のサティンの衣裳は、輝くばかりの金髪の房と、ピンクをおびた白い肌色《はだいろ》とともに、観客の眼には一段と魅力のある女としてうつり、ひときわ目だってみえた。二週間とたたぬうちに、――彼女についての新聞記事はきわめて評判がよかったし、観客も彼女をめがけて喝采《かっさい》をあびせかけていたことはまちがいない――『小鳥のバレー』は一転して『カナリヤのバレー』にかわった。オーデル嬢は好運にも|主役の踊り子《ヽヽヽヽヽヽ》とよばれる地位に抜擢され、同時にその魅力と天分とを特別にみせるために書きおろされた、一人で踊るワルツや歌を(とくに彼女のためにB・G・デ・シォルヴァによって書かれた)組みいれられた。
彼女は、そのシーズンが終ると、この「フォリーズ」を脱退し、ついでブロードウェーの夜の生活の歓楽街をいろどる見世物生活の間中、世間から親しみをこめてカナリヤとよばれていた。こうして、ついに彼女が、無残にも絞殺された死体となって、その部屋で発見されたときには、この事件はたちまちに知れわたり、それから後はカナリヤ殺人事件として、これを口にするものの話題にのぼったのである。
僕がカナリヤ殺人事件の捜査に関係したことは――というよりは、むしろポズウェル風な観察者の役にすぎなかったが――僕の生涯でももっとも印象の深い経験の一つとなった。マーガレット・オーデルの殺人事件当時、ジョン・F・X・マーカムはニューヨークの地方検事で、すでに前年の一月から、この職についていた。その四年間の在任中、犯罪捜査官として抜群の成功をおさめて、有名になっていたことは、諸君の記憶に新しいことだろう。しかし、彼ひとりにあたえられた称賛の言葉は、彼にとっては、きわめて不快なものがあったにちがいない。というのは、名誉について鋭い分別《ふんべつ》をもっている人だったから、まったく自分の手柄《てがら》とはいえない業績にたいしてまでも、名声をうけるというのは、本能的に後ろめたく思っていたからである。マーカムは、その関係したもっとも有名な刑事事件では、大部分ただの補佐役をつとめたにすぎないというのが真相だった。これらの事件を実際に解決した栄誉は、マーカムの一人の親友のものであり、この友人は、当時、この事実を公表することを許さなかったのだ。
この男は社交的な青年貴族で、この人物を匿名《とくめい》にしておくために、僕は、ファイロ・ヴァンスとよぶことにしている。
ヴァンスは多くの驚嘆すべき天分と能力とをもっていた。小規模な美術蒐集家であり、立派な素人ピアニストであり、そして美学と心理学との熱心な研究家であった。アメリカ人ではあるが、大部分ヨーロッパで教育をうけたので、いまだに多少イギリス風のアクセントと、イントーネーションとをとどめている。豊富で独立した収入があり、家族関係から、彼に一任された社交的な義務をはたすために、かなりの時間を費《ついや》していた。それでいて彼は怠けものでもなければ、ディレッタントでもなかった。その態度は、皮肉で、高踏的だった。したがって、ひょっこり彼にあったような人は気取り屋だと考えていた。しかし僕のように、ヴァンスと親しく交っていれば、表面に現れているものの奥に、真の人格をうかがうことができた。その皮肉と高踏趣味とはポーズであるどころか、敏感であるとともに孤独である性状から、本能的に生まれてきたものであることがわかった。
ヴァンスはまだ三十五歳だった。冷《ひや》やかで彫塑的《ちょうそてき》な容貌は立派で印象的であった。その顔は細面《ほそおもて》で変化にとんでいたが、その容姿には、一種のきびしい冷笑的な表情があった。この特徴が彼とその仲間との間に一つの垣根をつくっていた。彼は感情に動かされないのではなくて、その感情が主として知的であったのだ。しばしば、その禁欲的な表情のために悪評をこうむったが、僕は美学上や心理学上の問題について、時に情熱を爆発させるのをみたことがある。しかし、この世のすべての事柄から遠ざかっているというような印象をあたえていた。実際、情熱のない、非人格的な、芝居の見物人のように、人生を傍観し、すべての人生の無意味なつまらなさをひそかにたのしみ、おだやかに冷笑していた。それにもかかわらず、知識にたいしては貪婪《どんらん》な精神をもち、視野に入ってくる人間喜劇のどんなこまごましたものをもみのがさなかった。
彼が非公式にではあるが、マーカム検事の犯罪調査に積極的に興味をもつようになったのは、このような知的な好奇心の直接の結果であった。
僕はヴァンスが一種の「|法廷の友《アミクス・キュリエ》」として参加した、さまざまな事件のかなりに完全な記録を保存している。もちろん、僕にこれらの記録を公表する特権があろうなどとは考えていなかった。ところがマーカムが、諸君のご存知のとおり、次の選挙で思わぬ投票割れから負けてしまった後、公職を引退してしまった。その上、昨年、ヴァンスは、海外に移住し、二度とふたたびアメリカに帰ってくるつもりはないと宣言した。その結果、二人から僕は僕の覚書の全部を出版してもよいという許可をもらったのである。ヴァンスは、僕に、彼の名前をだしてはならないという約束をさせただけで、その他には別になんの制限もつけくわえなかった。
僕は、別の個所〔『ベンスン殺人事件』〕で、ヴァンスが刑事事件の捜査に参加するようになった特別ないきさつを述べ、ほとんどありうべからざる矛盾した証拠と真向からとりくんで、アルヴィン・ベンスンの神秘な射殺事件を解決したいきさつを明らかにしておいた。ところで、この物語は、マーガレット・オーデルの殺害事件についての解決を扱おうとするものであるが、この事件は同じ年の秋の初めに起こったもので、これまでの事件〔ロエブ・レオポルド事件、ドロシー・キング事件、ホール・ミールズ殺人事件はその後に起こったものであるが、カナリヤ殺人事件はナン・パタスンの「シーザー」ヤング事件、サン・フランシスコにおけるブランシュ・ラモンと、ミニー・ウィリアムズとのデュラント殺人事件、モリノー砒素毒殺事件、カーライル・ハリスのモルヒネ殺害事件と同程度に多分に入り組んだ事件であることを説明した。一般的な興味という点でこれに匹敵するものを見出そうとすれば、フォール河におけるボーデン二重殺人事件、ソウ事件、エルウエルの射殺事件、ローゼンタール殺人事件を想起しなくてはならない〕よりも、はるかに大きなセンセーションをまきおこしたことは、読者諸君もご承知のとおりであろう。
奇妙な事情の組合せから、ヴァンスがこの新しい捜査をひきうけることになったのである。マーカムは、警察が起訴するためにひきわたした、若干の暗黒街の無法者たちの犯罪の確証がつかめず、反政府新聞からその職務の失態について、数週間もいじめぬかれていた。酒類販売禁止の結果として、ニューヨークには、新しい、危険な、まったく絶望的といってもよい種類の、夜の生活が生まれていた。ナイト・クラブと称する多数の財政豊かなキャバレーがブロードウェーやその近くに現われ、すでに金銭上、痴情上《ちじょうじょう》の多数の重大犯罪をおこし、これはこういう不健全な場所に起因するものであるといわれていた。
ついに、ある山の手の家族ホテルにおこった追剥《おいはぎ》と宝石強奪とをともなうある殺人事件が、ナイト・クラブの片隅で計画され準備されていたということがわかり、しかもこの事件の捜査にあたっていた殺人係の刑事が二人、ある朝、そのクラブの付近で、背後から弾丸をうけて死体となって発見された。そこでマーカムはほかの事件をすべて握りつぶしておいても、この我慢ならない犯罪事件にみずから手をつけようと決心した。〔ここに言及している事件は西九十六番地のアドロン・ホテルに居住する金持の未亡人エリナー・キグリー夫人の事件であった。彼女は九月五日の朝、トルコ・クラブ――このクラブは西四十八番街八十九号にあった、あまり大きくないが贅沢な終夜営業をしているカフエであるが――から家に帰るまで、明らかに後をつけてきた強盗に、猿ぐつわをはめられ、そのために窒息死して発見された。マッケード及びカニスンの両刑事の殺害は、二人がこの犯人たちにたいする不利な有罪の証拠を握っているという事実によるものだと、警察ではにらんでいる。五万ドル以上もする宝石類はそのキグリーの部屋から盗まれていた〕
第二章 雪の中の足跡
――九月九日、日曜日
マーカムの決心した翌日マーカムとヴァンスと僕とはスタイヴィサント・クラブの休憩室の離れた一隅に坐っていた。われわれはしばしばここにやってきた。というのは、われわれはみんなこのクラブの会員だったし、マーカムはよくこのクラブを一種の非公式な山の手の捜査本部として使用していたからである。〔スタイヴィサントはどちらかといえば豪華なホテルといった感じのする大きなクラブだった。その広範囲な会員は、大部分政界、法曹界、財界関係の人々からなっていた〕
「地方検事局が、まるで一種の高級な徴税機関かなにかのような印象を、市民の半分にでもあたえておくのは、たしかによくないことだよ」と、その夜マーカムはいった。「僕が有罪の判決のできるような十分な証拠も、適当な証拠も握っていないために、僕の役所などが捜査に乗り出す必要があるというふうに考えられるのはたまらんよ」
ヴァンスは静かに微笑を浮かべて見上げながら、詰問するように見つめた。
「困難な点はだね」と、ヴァンスはものうさそうに返事をした。「警察官が法律手続の精巧な呪文《じゅもん》に通じていないがために、普通の知性をそなえた人間を納得《なっとく》させるような証拠でもって、法廷をも納得させられると思って、働いている点にあるのだね。馬鹿らしい考えさね。法律家は実際は証拠なんかを必要としてはいない、博学な専門技術が必要なのさ。しかも、普通の警察官の頭脳は、あまりにも一本調子すぎて、衒学的《げんがくてき》な司法部の要求には対抗できないのさ」
「それほどひどいわけではないよ」マーカムはつとめて機嫌よくしようとして、やりかえした。もちろん、過去数週間の緊張のために、彼一流の平常の、心の平衡を失ってしまっていた。「証拠という法則がなかったとすれば、無実の人たちにたいして重大な不正を犯すことにもなりかねないよ。また犯人でさえも、わが国の法廷では保護をうける権利があるんだからね」
ヴァンスはそっとあくびをした。
「マーカム、君は教育家になっていた方がよかったね。批判というものにたいして、君が、模範的な、堂々とした返答をやってのけようとは、まったく敬服のほかはないからね。しかし僕は承服できないね。誘拐《ゆうかい》された男を死亡したものとして法廷が判定した、例のウィスコンシン事件を、君はおぼえているだろうね。あの男が、たとえひょっこり昔の隣人たちの間に達者な姿をあらわしたにしても、死亡したときめた身分は、法律上は変更できないのだ。現実に生きているという明白な実証できる事実でさえも、法廷では重要ではない、見当はずれの傍証ぐらいにしか認めないのだ。〔私が後になってたしかめたところによると、ヴァンスの言及したこの事件は一八七九年にミシガン州裁判記録四一七号のシャターラム係争事件、つまり遺言状事件である〕……そこで一人の男が一つの州では狂人であり、他の州では狂気であるというような、驚嘆すべき状況が生まれるわけさ――この公平無私な国ではきわめてありふれたことだがね……。実際、ご承知のように、平凡なありふれた知性にとっては、法律的論理の有難い手続にはなれていないから、このような微妙なニュアンスをみわけることはとうてい期待できないことだぜ。普通の常識という暗闇の中に閉じこめられている君のいわゆる素人《しろうと》にいわせれば、ある河の堤防の片側で狂気である男は、たとえ反対側の堤防に立ったとしても、やはり狂気である、というだろう。しかも一人の男が生きていたとすれば、その人は生きているにちがいないと主張するよ。――もちろん、こういうのはまちがった主張だろうがね」
「そんなアカデミックな論議をやって、一体、どうなるというんだね」と、マーカムはこんどはちょっと、腹をたててきいた。
「どうやら君の現在の苦境の根本を、ぐさっとついたようだね」と、ヴァンスはおだやかに説明した。「警察官は、法律家ではないんだから、君に、煮え湯をのませたというわけさね……どうして刑事たちをみんな法律学校に入学させるような運動をはじめないんだね?」
「君の注意は大いにためになるよ」と、マーカムが反撃した。
ヴァンスは眉《まゆ》をちょっとあげた。
「どうして君は、僕の提案を茶化すのだろう? 役にたつことは十分にみとめているにちがいないのに……。法律的訓練のない人間は、あることが事実だとわかれば、逆にすべての不適当な証拠を無視して、事実というやつにしっかりとすがりつくものだ。逆に法廷は無価値な証言ばかりを厳粛に傾聴してさ、しかも、事実を根拠としないで、複雑な仕組みの法規によって、判決を下すものだ。その結果は、ご存じのとおり、法廷はしばしば、犯人を放免する、十分に有罪だと知っていながらもね。いままでにも実際、裁判官の中には、犯人にむかって、『本官も、陪審員も、おまえが罪を犯したということは、よく承知している、しかし法律的には、証拠不十分という観点からして、本官はおまえに無罪を宣告する。出て行って、もう一度罪を犯すがよい』といっている連中が多いのだ」
マーカムは鼻を鳴らした。「僕が、僕をやっつける現在の酷評に答えて、警視庁に対して、法律の勉強をすすめてみても、とてもこの国の連中にはお気に召すまいね」
「じゃ、シェイクスピアの屠殺人《とさつにん》のセリフにある、『法律家どもを皆殺しにしろ』〔ヘンリ六世〕ということをすすめたいね」
「残念ながら、われわれのぶつかっているのは、差しせまった問題なんで、ユートピアのような理論じゃないんだよ」
「それじゃ、聞くがね」と、ヴァンスはものうさそうにたずねた。「どうやって君は、いわゆる法律手続の正確さと警察の聡明《そうめい》な結論とを一致させようとするんだね?」
「まず第一に」と、マーカムは説明した。「僕は、今後、すべての重大なナイト・クラブの犯罪事件については、自分で調査をしようと決心しているのだ。僕は、昨日、僕のところの部課長たちを招集して、会議を開いた。そして、今後僕のところから直接に係員を出して、ほんとにいくらかの捜査活動をする。僕は有罪の判決に必要な証拠を握ろうと思っているのだよ」
ヴァンスはゆっくりとケースから煙草《たばこ》を出して、椅子《いす》の袖で軽くたたいた。
「なるほど! 君は、これから有罪なものを無罪放免するかわりに、無罪なものに有罪の判決をしようというんだね」
マーカムはむっとして、椅子に腰掛けたまま向きをかえて、恐ろしい顔付でヴァンスをにらみつけた。
「僕はね、君の言葉がわからないといったふりはしたくはないんだ」と、彼は気むずかしそうにいった。「君はまた、例の心理学上の理論や審美学上の仮説にくらべると、状況証拠は不適確なものだという、お得意の主題《テーマ》に逆もどりするんだね」
「仰せのとおりさ」と、ヴァンスはあっさりと同意した。「いいかね、マーカム、情況証拠にたいする君の甘い魅力に満ちた執心ぶりは、実をいうと、武装解除にほかならないのだよ。それだから、普通の推理力などは、萎縮《いしゅく》させられてしまうのさ。君が法律の網に無実の犠牲者を引っかけようとしていることを思うと、僕は恐ろしくなってふるえあがるね。君は、結局、どこかのキャバレーに出かけていって、ただ一つ、恐ろしい目にあわされるという危険を冒すだけに終るだろうよ」
マーカムはしばらくだまったまま、煙草《たばこ》をふかしていた。この二人の議論の様子は、外見上ひどく辛辣《しんらつ》であるにもかかわらず、その心底においては怨恨《えんこん》などというものはまったくもっていなかった。二人の友情は長い期間のものであったし、二人の気質の相異や、見解のいちじるしい差異にもかかわらず、相互の深い尊敬からして親密な友情がむすばれていた。
とうとうマーカムが口を開いた。
「どうしてまた情況証拠をそんなにダメにするんだね。そりゃ、時には、情況証拠に誤られることはあるにはちがいないがね。しかしそれがよく有罪の有力な推定の証拠になることだってあるんだぜ。実際、ヴァンス、わが国の法律学の最大の権威者の一人でさえも、情況証拠は、現在のところ、最も有力な現実的な証拠だといっているんだよ。直接証拠というものは、犯罪というものの性質上、いつでも常に利用できるようなものではない。もし法廷が直接証拠によらなければならないとなると、大多数の犯人は大威張りで荒しまわっていられることになるだろうよ」
「僕の思うには、その重要な大多数の犯人たちはいまでも枷《かせ》をのがれて、ずいぶん自由を娯《たの》しんでいるようだがね」
マーカムはこのさし出口を無視した。
「こんな場合を考えてみたまえ、十二人の大人が雪の中を走ってゆく一匹の動物を見たとするね。そして、その動物を鶏だったと証言するんだ。ところが一人の子供がその同じ動物をみて、鵞鳥《がちょう》だったと証言する。そこで動物の足跡を実地に調査してみた結果、鵞鳥が作った蹼《みずかき》の跡を見つけ出した。それで、直接証拠が優勢であったにしても、その動物が鵞鳥であって、鶏ではなかったと、決定できるのではないかね?」
「僕は、君のその鵞鳥諭には異存はないよ」と、ヴァンスが冷淡に同意した。
「じゃ、ありがたくその賜物をうけとるとして」と、マーカムはつづけた。「僕はそれに付随してもう一つの例を提出するよ。十二人の大人たちが雪のなかを横ぎっていく人影を見て、それが女であったと証言する。ところがある一人の子供がその人影は男だったと主張する。さあ、これでも君は、雪の中の男の足跡は情況証拠からみて、男であって、女ではなかったという、議論の余地のない証拠になるとはみとめないのかね」
「全然、みとめんね。親愛なるユスティニアヌス君」と、両足をだるそうにのばしながら、ヴァンスが答えた。「もちろん、人間の頭脳の組織が鵞鳥よりも高級なものをもってはいないという証明をしてくれない以上はね」
「頭脳と、これとなんの関係があるんだい?」と、マーカムがむかむかしながら反問した。「頭脳は人間の足跡になんの影響も与えやせん」
「たしかに、鵞鳥の足跡だとすれば、なんの影響も与えないさ。しかし頭脳は、大いに、人間の足跡には影響するね。疑いもなく関係があるね」
「僕は、人類学や、ダーウィンの環境順応説や、つまらぬ形而学上の思弁はご勘弁《かんべん》ねがいたいね」
「そんな難解な問題には別になんの関係もないね」と、ヴァンスが確言した。「僕はただ観察からとりだした単純な事実を述べているんだよ」
「なるほど、君の特別に発達した高級な推理の仕方によると、このような男性の足跡という情況証拠は、男をいうのかね、それとも女をさすのかね?」
「かならずしも、どちらか一つということには、ならんからね」と、ヴァンスは答えた。「いや、むしろ、どちらにもなる可能性があるんだ。そんな証拠は人間、つまり推理力をもった生物に適用するとなると、雪のなかを通っていった人物は男の靴をはいた男性であるか、男の靴をはいた女性であるか、そのいずれかだという意味しかないのだよ。それとも背の高い子供であるかもしれんと、僕は思っているんだ。要するに、僕の純粋な非法律的な知性にとっては、そのなにかが通った足跡は、下肢《かし》に男の靴をはいた直立類人猿《ピテカントロプス・エレクトス》の子孫によって作られたものとしか、わからんのさ。性別や、年齢なぞは不明だよ。ところが、鵞鳥の足跡の方は、その額面価値どおりにうけとっても、差支《さしつか》えないと思うよ」
「君が、少くとも庭師の長靴をはいて、すっかり変装した鵞鳥の可能性だけは否認しているとわかって、いささかうれしいね」
ヴァンスはしばらく黙っていたが、やがていった。
「現代の智者《ソロン》たる君たちにとっての悩みは、人間性というものを一つの公式に還元しようとしているところにあるね。ところが人間は、生命と同じに、無限に複雑なものだというのが真実なのさ。人間は悧巧《りこう》で油断もすきもならないんだ。何百年にもわたってあらゆる狡猾《こうかつ》な言いぬけに熟練してきているのだ。人間は下等なずるい動物だ。こいつは、馬鹿げきった無益な生存競争の日常の過程においてさえも、本能的に、しかも入念に、一つの真実にたいして九十九も嘘《うそ》をつくのだ。鵞鳥は、人類の文明という天にもとどくような足場をもっていないから、素直で、たいへん正直な鳥なのだよ」
「君がだね」と、マーカムがたずねた。「一つの結論に達するすべての普通の方法をすてるとしたら、どういうふうに雪のなかに人間の足跡を残していった人物の性別や種類を決定しようとするのだね?」
ヴァンスは天井《てんじょう》にむかって煙草の煙を輪にして吹き上げた。
「まず僕は十二人の乱視の大人たちの証言と、一人の立派な眼をした子供の証言とを、すべて否認するね。次に雪の中の足跡をも無視するね。それから、うたがわしい証言によって迷わされず、物的証拠にかき乱されない心をもって、僕はこの逃亡犯人が犯した犯罪の性質を精密に決定するね。この犯罪のさまざまな要因を分析してしまえば、僕は絶対にあやまらずに、その犯人が男であるか、女であるかを、君に申し上げる事ができるばかりではなく、犯人の習慣や、性格や、個性までも、一つずつ指摘できるだろうよ。だから僕はね、逃亡犯人が男の足跡を残したか、女の足跡を残したか、またはカンガルーの足跡を残していったか、あるいはまた竹馬を使ったにしても、自転車にのっていたにしても、あるいはまた足跡をまったく残さずに空中を飛んでいったにしても、そういうことには関係なく、それくらいのことは一つ一つ指摘できるのさ」
マーカムが無遠慮にほほえんだ。「君は法律上の証拠を僕に提供してくれる段になると、どうも警官よりは始末がわるいね」
「僕は、少くとも、真犯人に、そんな特別な用のために長靴をもっていかれた所有者にたいして、無実の不利な証拠をあつめるようなことはせずにすませるからね」と、ヴァンスが応酬した。「いいかね、マーカム、足跡にたいする自己の確信にこだわっているかぎり、君の方で真犯人を逮捕してやらなければならない無実の人たちを、真犯人の希望どおりに、きっと逮捕したりすることになるのだよ――つまり君がこれから捜査をしようとしている犯罪事件にはまったく関係のない人たちをね」
彼は急にまじめになった。
「いいかね。君、現在では神学者たちのいわゆる暗闇の力と結びついている、ある種の狡猾な知性の人がいるのだ。君を悩ませているようなそんな犯罪のうわべの見せかけの多くは、明らかに、人を欺《あざむ》こうとしているものなのだよ。殺人をやる暴虐《ぼうぎゃく》なギャングどもがアメリカのカモラ党を組織し、馬鹿げたナイト・クラブを本部にしているなどという説には、僕としてはあまり関心をもってはいないんだ。この着想はあまりにもメロドラマすぎるよ。あまりにも大げさな、ジャーナリスティックな空想という気味がある。あまりもウージェーヌ・シュー的な三文小説じみているよ。犯罪というものは、戦時中をのぞいては、集団本能じゃないんだ。戦時にはある種の猥褻《わいせつ》なスポーツだがね、犯罪は。そうだろ、犯罪は私的な個人的なビジネスなのさ。誰だって、ブリッジ・ゲームをやるように、殺人には男女二人組《パルティ・カレー》を作り上げるわけには、いかないんだからね……マーカム君、そんなロマンティックな犯罪学的な考え方をして、君をまよわせたもうなよ。また雪の中の足跡にあまりに近づいて、熱心につつきたもうなよ。君を、まよわすこと、この上なしだからね。君はあまりにこの邪悪な世界を信用しすぎているよ、それにあまりにまじめすぎるよ。僕は君に警告するね、どんな馬鹿な犯人だって、君の巻尺や測経器におあつらえむきに、自分の足跡を残しておく奴なんか、ありはしないとね」
彼は深くためいきをついて、マーカムにからかい半分のような同情の一べつをあたえた。
「それに、一息いれて、君の最初の事件には足跡も残っていないのではないかと、考えてみたかね……。ああ、そうしたら、君は、どういうふうにやる考えなんだい」
「君にご同行ねがえれば、その難問はかたづくことになるよ」と、マーカムがちょっと皮肉をもらした。「この次に重大な事件がおきたら、ひとつご同行ねがいたいものだね?」
「僕もその考えには大賛成だよ」と、ヴァンスがいった。
二日の後、ニューヨークの新聞紙の第一面には、数段をぶちぬいて、マーガレット・オーデルの殺人事件をしらせる報道が大々的に掲げられていた。
第三章 殺人
――九月十一日、火曜日、午前八時三十分
マーカムが事件をわれわれにしらせたのは、あの重大な九月十一日の朝の、ちょうど八時半になった時だった。
僕は、当時、東三十八番街のヴァンスの家に、一時一緒にすんでいた――この家は美しい邸宅の上部の二階を占めている大きな部屋を作りかえたものだった。僕はすでに七年間ヴァンスの個人的な法律上の代理人であり、顧問であった。父のヴァン・ダイン・ディヴィス・エンド・ヴァン・ダイン法律事務所をやめて、ヴァンスの仕事と利益とのために献身していた。彼の仕事は決して仰山《ぎょうさん》なものではなかった。彼の財政上の仕事は、もちろん、その数多くの絵画や美術|骨董品《こっとうひん》の買入れの仕事とともに、僕の重荷には一向にならなかったものの、僕の時間をすっかり奪ってしまっていた。このような金銭上および法律上の管理はたいへん僕の趣味にかなっていた。したがって僕とヴァンスとの友情は、ハーヴァード大学に在学中にむすばれたものだが、もしこのような関係がなかったら、きっと単純でつまらぬありきたりのものにすぎなかった整理の仕事に、社会的・人間的な味を与えてくれた。
僕は、よりによって、この朝、早おきして、書斎で調べものをしていた。そこへヴァンスの従者で、その長をつとめているカリイが、居間にマーカムがきていると、しらせにやってきた。僕はこんなに朝の早い訪問にすくなからず驚いた。というのは、ヴァンスは、めったに正午前には起き上ったことがないし、他人から朝のまどろみを破られると憤慨《ふんがい》することを、マーカムも十分に心得ているはずだからだ。だから、その瞬間、僕は異常な兇事《きょうじ》が起こったのではないかという奇妙な印象をうけた。
僕は、マーカムが帽子も手袋も中央テーブルの上に無造作にほうりだして絶えず行きつ戻りつ歩きまわっているのに気がついた。僕が入っていくと、立ちどまって、いかにも困惑したような眼差しで、僕をながめた。彼は、中くらいの背丈の男で、きれいに髯《ひげ》を剃《そ》った、白髪の、がっちりした体格をしていた。風采はすぐれていたし、態度は鄭重《ていちょう》で親切だった。しかしその優雅な外貌のかげには、一種の攻撃的な峻烈さと、不撓不屈《ふとうふくつ》の容赦《ようしゃ》せぬ力とが、やどっていた。それは人に頑強な実力と、疲れをしらぬ能力とをもった男という感じをあたえた。
「おはよう、ヴァン」彼はいらいらしたお役目だけの挨拶で僕を迎えた。「まるで、この世のことではないような殺人があったのだよ。……それこそ前代未聞の凶悪な事件なのだ……」と、躊躇《ちゅうちょ》しながら、僕の顔をさぐるようにみた。「君は先だっての晩、クラブでやったヴァンスと僕とのおしゃべりをおぼえているだろう? 彼の言葉には思いあたるものがあったよ。それに、この次に重大な事件がおきたら、同行してくれると半分約束したのをおぼえているね。ところが、その事件が現にもち上っているんだ、てきめんにね……。マーガレット・オーデル、世間じゃ通称をカナリヤと呼んでるがね、その娘が、自分のアパートで絞殺されたんだ。電話でうけた情報によると、も一つ別のナイト・クラブ事件のように思われるんだ。僕は、オーデルのアパートに、これから出かけようと思っている。ぜいたくで柔弱なシバリス人〔古代ギリシャの都市シバリスの人、ここではヴァンスのこと〕を狩りだすのはどういうものだろうか?」
「是非とも」と、僕は賛成した。純粋に利己的な動機から、大いに、そそのかされたのではないかと思われるように、すぐに賛成した。カナリヤ! 殺人で興奮をまきおこすような餌物をたずねて、街中を、さがし廻ったとしても、こんなにまでぴたりとあてはまった選択は、そうめったにみられなかったであろう。
僕はいそいで戸口までいって、カリイを呼びつけ、すぐにヴァンスを呼んでくるようにいいつけた。
「あの……旦那さま」と、カリイは鄭重に煮えきらぬ口調でいいはじめた。
「大丈夫さ」と、マーカムが口をはさんだ。「こんな間の悪い時間にたたき起こす責任は、みんな僕がひきうけるからね」
カリイは、ただ事ではないと直感して、出ていった。
一、二分すると、ヴァンスは、こみ入った刺繍のついた絹の着物に、サンダル姿で、居間の入口にあらわれた。
「いやあ、こりゃあ、おどろいたね!」ちょっと、びっくりした様子で、柱時計をちらっとみて、われわれを迎えた。「君たちはまだ眠らなかったのか」
彼は炉棚のところまでぶらぶらと歩いていって、小さなフィレンツェ製の煙草箱から金口のレジイ・シガレットを一本とり出した。
マーカムは両眼をほそめた。安閑《あんかん》とした気分ではいられなかった。
「カナリヤが殺されたんだよ」と、僕はとっさにいった。
ヴァンスは蝋《ろう》マッチをつけたままで、大儀そうに訊問《じんもん》するような表情を僕にくれた、「誰のカナリヤなのだ?」
「マーガレット・オーデルが、今朝、絞殺死体となって発見されたんだ」と、マーカムがぶっきら棒にいいたした。「いくら君でも、おかいこぐるみの呑気な君でも、あの女のことぐらいは聞いているだろう。君にはこの犯罪の重大な意味がよくわかるだろう。僕はこれから自分で雪の中の足跡をさがしにゆくつもりなのさ。もし君が、先だっての晩の話のように、同行したいという考えがあるんなら、すぐに支度をしてきたまえ」
ヴァンスは、自分の巻煙草をおし潰《つぶ》した。
「マーガレット・オーデルって?――あのブロードウェーのブロンドのアスパジア〔アテネのペリクレスの後妻〕のことかね? それとも金髪のフリイネ〔ギリシャの娼婦〕のことかね?……まったくひどい災難だね」そのぶっきら棒な態度にもかかわらず、彼が深く興味を感じているのを、僕はみてとった。「法律と秩序との下等な敵どもは、君を、徹底的にこき使おうときめこんでいるようだね、まったくいまいましい思いやりのない奴らだ!……この場合にふさわしいような支度をしてくるから、ちょっと失敬」
彼は寝室に消えていった。一方マーカムは大きな葉巻をとり出して、その間思い切って煙草を喫《す》うことにきめた。僕も書斎に帰って、しかけていた書類の仕事を片づけた。
十分とたたないうちに、ヴァンスは外出着をつけて、あらわれた。
「やあ! お待ちどう」と、彼は朗らかにいって、カリイの手渡す帽子と手袋と棕櫚《しゅろ》のステッキとをうけとった。「さあ、出かけよう」
われわれは、マディスン通りにそうて山手の方に車を走らせ、セントラル・パークに入り、西七十二番街の入口の近くから出た。マーガレット・オーデルのアパートは、ブロードウェーに近い、西七十一番街百八十四番地にあった。われわれが、その歩道にのりつけると、見張りの巡査は、警察の到着をみて、すでに集まっていた弥次馬《やじうま》をかきのけて、われわれの通る道を開けてくれた。
地方検事補のフェザジルが、大廊下《メイン・ホール》で、主席検事の到着を待ちうけていた。
「困ったことになりました」と、検事補はなげいた。「どこにもかしこにも、まったくひどい事件です。それにまたこれです!」悄然《しょうぜん》と肩をすくめた。
「すぐに割れるかもしれんな」と、マーカムが相手の手を握りながら、いった。「どういうことになっているかね? ヒース警部から、君の連絡のあった直後、電話がかかってね、一目みたところでは、この事件は、いささか手ごわいようだといっていたよ」
「手ごわいどころか」と、フェザジルはいまいましげに繰り返した。「ぜんぜん見当がつかないのです。ヒースがタービンのように駈けまわっていますがね。ついでに申し上げますが、あの警部は、ボイル事件から手をひいて、こっちにまわってもらい、こんどの新しい事件に打ちこんでもらうことになっています。モーラン警視が十分ほどまえにみえましたので、正式の認可をあたえておきました」
「ヒースは立派な男だ」と、マーカスははっきりと力強くいった。「上手にこなせるだろう……どの部屋だね?」
フェザジルが、大廊下の奥にある一つのドアに案内した。
「ここです」と、告げた。「私はこれからすぐに帰って、一休みさせていただきます。ご成功を祈っています」そして彼は帰っていった。
この家とその内部の部屋割りとについて、簡単に述べておく必要があるだろう。というのは、いくぶん特殊な建物の構造が、殺人によって明るみに出された、外見上解決しがたい問題について、決定的な役割を演じているからである。
この家は、はじめは私人の私宅として建てられた石造四階建ての家であったが、内外ともに模様替えされ、個人用アパート向きに直されてあった。たしか、各階ともに三つ四つの独立した家族部屋があったように思うが、階上の部分は、われわれには無関係なものである。一階が犯罪の行われた場所で、ここには三つの部屋と歯科医の事務所とがあった。
この建物の正面入口は、直接、七十一番街に面していて、その正面のドアから、奥に真直に伸びて、|広い廊下《メイン・ホール》があった。この廊下の突き当たりがオーデルの部屋の入口ドアで、「3」という番号がついていた。この大廊下の中程の右側には、階上に通ずる階段があった。そして、階段の上り口をこしたすぐ右側に、小さな共同応接間があり、ドアのかわりに幅の広いアーチ形の入口があった。階段の上り口と向きあった反対側の小さな凹みには電話の交換台があった。この家には、エレベーターはなかった。
この一階のもう一つ重要な特徴は、大廊下をオーデルの部屋の入口まで真直ぐに進むと、オーデルの部屋の壁沿いに右にのびる小さな通路があることで、この通路の突き当りには、建物の西側の中庭に出られる樫材でできた裏口ドアがあった。この中庭は四フィート幅の小路によって、七十一番街につながっていた。
この一階の配置はむずかしいものではないので、読者は十分にこれを記憶しておいてもらいたい。というのは、これほど簡単明瞭な建築の設計が、犯罪の謎にきわめて重要な役をはたしていたことは、疑問の余地がなかったからである。あまりにも簡単すぎるために、しかもあまりにもありふれていたために――事実、頭をひねるような複雑さがすこしもなかったために――かえって捜査官には解きがたいものになり、事件は、何日もの間、迷宮入りに終るのではないかと思わせたほどであった。
マーカムが、その朝、オーデルの部屋に入ったときに、アーネスト・ヒース警部がすぐにすすみ出て、手をさしのべた。そして、鼻息の強い、広い顔に、ほっと安堵《あんど》の色を浮かべた。明らかに、この場の彼の態度には、刑事事件の捜査のたびごとに、刑事課と地方検事局との間にいつも起こる競争心とか敵意とかいうものは、みじんもみられなかった。
「ご足労願えて、うれしく存じます」といった。しかも正直にいったのだ。
それから、警部は心から微笑をたたえながら、ヴァンスの方にふりむいて、手をさしだした。〔ヒースは、二月程前のベンスン殺人事件の捜査中にヴァンスと相識の間になっていた〕
「やあ、素人探偵君も、ご一緒ですな!」その口調には、親しげに揶揄《やゆ》するような調子がこもっていた。
「まったくそのとおりですよ」と、ヴァンスがつぶやいた。「あなたの誘導コイルは、この九月の美しい朝でも、うまく働いていますかね、警部?」
「どうもうまくありませんな」ヒースの顔色は突然深刻になって、マーカムの方にむきなおった。「じつに乱暴千万ですよ。なんだって奴らは、こんなにひどい仕事をするのに、カナリヤなぞをとって食ったんでしょうね。ほかの奴でも、手をかければいいのにね? まったくブロードウェーには、第二警報を出してかけつけなくても、舞台から消えてなくなるような女の子がワンサといますのにね。奴らはなんだって、シバの女王を殺《ばら》そうなんて考えたんですかね」
彼がしゃべっているときに、刑事課長のウィリアム・M・モーラン警視が小さな休憩室に入ってきて、型どおりの握手をかわした。彼は、ヴァンスや僕にも面識があったというものの、昔で、それも一度きりのことで、しかもそのときは偶然であったのだが、いまもわれわれ二人をおぼえていて、ていねいに、名前を呼んで話しかけてきた。
「ようこそ」と、彼はおだやかな口調でマーカムにいった。「まったくようこそおいでになりましたな。ヒース警部がみなさんに、必要な予備的な情報を提供いたします。なにしろ私は、いま参上したばかりで、まるで五里夢中でしてな」
「さし上げる情報なら、いくらでもありますよ」と、ヒースが居間の方に案内しながら、低くうなった。
マーガレット・オーデルの部屋は、一組になった、かなり広い二つの部屋で、重いダマスカス織の帳《とばり》をかけた広い拱路《アーチウェイ》で結ばれていた。この建物の大廊下から入口ドアをはいると、長さ八フィート、幅四フィートの小さな矩形の休憩室で、ヴェネチヤ式の二重ガラスのドアが、奥の大部屋の方に開いていた。他にはこの部屋への入口はなかった。寝室には、居間から拱路《アーチウェイ》を通って行くことができるだけである。
錦織《にしきおり》の絹でおおわれた、大きな寝椅子が一つ、居間の左の煖炉《だんろ》の正面にあって、紫檀《したん》をちりばめた細長いテーブルが一つ、その背後に突きでていた。反対側の壁には、休憩室と寝室に通ずる拱路との間にマリー・アントワネット風の三面鏡がかかり、その下には、門型の脚のついたマホガニーのテーブルがたっていた。拱路からはなれた奥に、壁から突き出た大きな多角形の出窓があり、その近くにルイ十六世式の装飾を施《ほどこ》した美しいきれいな箱のついた小型のスタインウェイのグランド・ピアノがあった。煖炉に向って右側の隅には、脚の長い写字台と、手塗りの模造革の四角な上等の屑籠《くずかご》とがあった。煖炉の左側には、僕がこれまで見たうちで一番美しいブウル式の用箪笥《ようだんす》が一つ置いてあった。ブゥシェや、フラゴナールや、ワトーなどのフランス画家のりっぱな複製画が、いくつとなく壁にかけてある。寝室には、衣裳箪笥、化粧机や、うすい金箔《きんぱく》のついた数脚の椅子があった。部屋全体がはっきりとカナリヤのかよわい、はかない人格を象徴しているようであった。
われわれがその小さな休憩室から居間に足をふみいれ、ちょっと立ちどまって、あたりを見まわしたとき、ほとんど破壊にちかいその場の情景がまざまざと眼にうつった。部屋という部屋は一見して、何者かが大慌てにあわてて、徹底的にひっかきまわしたようにみえた。しかもその場の乱雑ぶりは見る人をして戦慄《せんりつ》させたほどだった。
「まったくひどいやり口じゃありませんか」と、モーラン警視がいった。
「ダイナマイトを仕掛けなかったのが、まだまだましだというところですよ」と、ヒースが辛辣《しんらつ》に応酬《おうしゅう》した。
しかしわれわれの注意をとくにひいたのは、あたりの乱雑などではなかった。われわれの凝視《ぎょうし》はほとんどすぐに、死んでいる娘の死体に引きつけられて、動かなかった。死体はわれわれの立っているすぐそばの寝椅子の隅に、不自然な半ばよりかかったような姿勢で横たわっていた。頭は、無理にねじまげられたように、ソファのうしろの房のついた絹の織物の方に向けられていた。頭髪はばらばらにほどけ、頭の下からむき出しの肩にかけて、凍りついた黄金の液体の流れのように、まきついていた。顔は、無残な死に方のために、ひきつり、恐ろしい形相《ぎょうそう》をしていた。皮膚は変色し、両眼は大きくひらいて、虚空《こくう》をにらんでいた。口はひらいたままだし、唇はひきつけていた。首は、甲状軟骨の両側に黒い傷痕《しょうこん》を醜くしめしていた。彼女は、クリーム色のシフォンの上に、黒のシャンティ・レースの薄い透《す》きとおるような夜会服をつけていた。寝椅子の腕ごしに、貂《てん》の毛皮の飾りをつけた金糸織の夜会用のケープがほうり出されてあった。
絞殺犯人と、むなしい格闘をした形跡が残っていた。頭髪がみだれていたばかりでなく、ガウンの肩紐《かたひも》の片方が引きちぎられ、胸をつつんだ美しいレースには長い裂け目があった。小さな造花の蘭《らん》の花飾りが胴衣からひきちぎられ、膝《ひざ》の上に皺苦茶《しわくちゃ》になってのっていた。繻子《しゅす》のスリッパの片方はひっくり返っているし、右膝は寝椅子の座席の内側にねじこまれて、ちょうど攻撃者の掴みかかる掌中から、わが身をふりほどこうと、もがいているかのようであった。指はまだ曲がっており、死に直面したその瞬間まで、殺害者の腕をしっかりとつかんではなさなかったにちがいない。
この惨殺死体を目撃して、われわれに投げかけられた恐怖の呪縛《じゅばく》は、ヒースの平然とした声によって破られた。
「ごらんのとおりです、マーカムさん。たしかに女はこの長椅子の隅っこに腰かけていたところを、いきなり背後からしめつけられたんですな」
マーカムはうなずいた。「こんなにあっさりと女をしめ殺すんだから、相当腕力の強い奴にちがいないね」
「まったく同感です!」と、ヒースが合槌《あいづち》を打った。体をかがめて、女の指をのぞきこんだ。指にはいくつかの擦《かす》り傷がついていた。「指輪もひきぬいてある。どっちみち、荒っぽい細工ですね」それから、小さな真珠をちりばめた精巧なプラチナの鎖の切れ端をみせた。これは片方の肩にかかっていた。「奴らは女の首にさげていたものを片っぱしから、もぎとっていったんですな、この鎖もそれで切れてるんです。なに一つ見落しておらん、手早く片づけていっている。……いや、気がきいて、鮮やかなものだ。とにかく、こりゃあ、相当な、したたかものですよ」
「警察医はどこにいるんだね?」と、マーカムがたずねた。
「いまにやってくるでしょう」と、ヒースがいった。「朝食をすまさないことには、ドアマス博士はどこにだって出かけませんからね」
「博士の方で、なにかほかにわかるかもしれんな。まだ表面にでていないことがね」
「私にはずいぶんわかりすぎるくらいですよ」と、ヒースが自信をもっていった。「この部屋をごらんなさい。たとえカンザス旋風が吹きつけたにしても、これほどひどくはないでしょう」
われわれは死んだ女のいたましい光景から離れて、部屋の中央に歩いていった。
「マーカムさん、なにも手にふれないようにしてください」と、ヒースが警告した。「指紋技師を迎えにやってありますから、もうすぐにやってくるでしょう」
ヴァンスはわざとらしくおどろいた様子で、警部を見あげた。
「指紋だって? まさか! こいつは恐れ入った――文明開化の今日、君にしっぽをつかまれるように、わざわざ指紋を残していくような気のきいた奴がありますかね」
「ヴァンス君、悪漢だからといって、皆が皆、気がきいてるとは限りませんよ」と、ヒースが烈しく抗弁した。
「ああ、君、そうですよ。気がきいておれば、誰ひとり逮捕されませんよ。しかし、結局ですな、警部さん、その信憑《しんぴょう》すべき指紋というやつもですね、指紋をつけた人物が、このへんを、いつか、のらくらとして時間をつぶしていたということぐらいの意味しかありませんよ。指数は有罪の証拠にはなりませんね」
「そりゃ、そうかもしれませんがね」と、ヒースはぶっきら棒に相手の言葉を認めた。「しかし、もし私がこのメチャクチャになった場所から、なにかまちがいのない指紋をつかんだとしたら、その指紋をつけた鳥をそうらくらくとみのがしはしませんよ」
ヴァンスはぎくっとしたようすをしてみせた。「君はことさら僕をこわがらせるんですね、警部さん。今後、僕は手袋をいつも肌身離さず身につけておくべきものと考えるようになるでしょう。僕は訪問先の家で、いつでも家具や、湯呑《ゆのみ》茶碗や、いろんな安っぽい什器《じゅうき》をいじりまわしているんですからね」
マーカムはこのときに口をはさみ、検死官の到着を待っている間、ひとあたり点検してみようと言いだした。
「あたりまえの手口以上に、なにも別にやってはおりません」と、ヒースが指摘した。「女を殺しておいて、おおっぴらにそこらじゅうかきまわしたのです」
二つの部屋は、ちょっとみただけでも、徹底的にかきまわされていた。衣裳や、いろいろな品物が、床にまきちらされていた。衣裳部屋の二つのドアは(二つの部屋に一つずつあった)開け放されていた。寝室の衣裳部屋は、その散乱ぶりから判断して、大急ぎで捜したものだった。居間の方の開け放たれた衣裳部屋は、めったに使わない品物をしまってあるらしく、無視されているようにみえた。化粧台の抽出《ひきだ》しと箱とは半ば空になったまま、床の上に投げだされてあった。ベッドのシーツははぎとられ、マットレスはひっくり返されていた。二つの椅子と時折使う小さなテーブルとが倒され、いくつかの花瓶《かびん》がこわされていた。まるで捜しまわったあげく、失望のあまり、怒って投げつけたもののようであった。その上、マリー・アントワネット風の鏡もこわされていた。写字台の蓋《ふた》は開いており、整理棚の中は、吸取紙の上にごちゃごちゃに引き出されて、積みあげられ、空《から》になっていた。ブウル式の用箪笥のドアはみんな一杯にひらき、その中には写字台の内部にみたと同じように、品物が散乱して、一つ一つあらわれていた。書斎のテーブルの一隅においてあった、ブロンズと磁器《じき》とでできた電気スタンドが、そのそばに横倒しになっていた。スタンドの繻子《しゅす》の笠《かさ》が銀製のボンボン入れの尖った角にあたってさけていた。
あたり一面の混雑の中で、二つの物がとくに僕の注目をひいた。――どこの文房具屋にでも売っているような黒い金属製の書類箱と、円形のさしこみ式の鍵のついた鋼鉄製の大きな宝石箱であった。この二つの品物のうち、宝石箱は、次に行われた捜査過程において、奇妙なしかも不吉な役割を演ずることになっていた。
書類箱は、そのときはすでに空っぽになっていたが、書斎のテーブルの上、倒れたスタンドの傍に、おかれてあった。その蓋《ふた》はとび、鍵は鍵穴に入ったままであった。乱脈に散らかった部屋のすべてのもののうちで、この箱だけは掠奪者側の冷静で秩序だった活動ぶりを、はっきりとしめしているものだった。
他方において、宝石箱は乱暴にこじあけられていた。それこそ、むりにあけるに必要な恐ろしい梃子《てこ》の力のために形がくずれて寝室の化粧台の上にのっていた。そしてそのそばには居間からもってきて、鍵をこじあけるために、明らかに鑿《のみ》の代用に使われたと思われる真鍮《しんちゅう》の柄《え》のついた鋳鉄製《ちゅうてつせい》の火掻《ひか》きがころがっていた。
ヴァンスは、われわれが部屋の中をみまわっているあいだ、いろいろなものには時折目をふれただけだったが、化粧台のところにやってくると、急に立ち止った。そして、片眼鏡をとりだして、注意深く調節し、こわれた宝石箱をのぞきこんだ。
「まったく奇妙だ!」と、小声でつぶやき、手にした鉛筆で、その蓋の端を軽く叩いてみた。「警部さん、これをどうお考えになるんですかな?」
ヒースは、最前からヴァンスが化粧台の上に身をかがめて、のぞきこんでいるのを、まぶたを細めて見ていた。
「なにかお考えですか、ヴァンス君」と、ヒースはおうむ返しにきいた。
「うん、君の考えている以上のことですな」と、ヴァンスが気軽に答えた。「まあ、さっきから、僕は、この鋼鉄製の箱が、あのおかど違いの火掻きなどで、こじあけられるはずはないと、にらんでいるんですがね、どういうものだろうな」
ヒースは合槌《あいづち》を打って頭を振った。「あなたもお気づきでしたかい。……まったく、そのとおりですよ。あの火掻きでは、箱をすこしはいためられるかもしれんでしょうが、あの錠前をぽっきりと折るわけにはいきませんよ」
彼はモーラン警視の方をむいた。
「こいつが難物なんですよ、だからブレンアー教授に洗ってもらおうと思って、呼びにやったのです――先生にできればですね。あの宝石箱をこじあけるのは、私には高級な玄人の仕事のような気がします。日曜学校の校長さんなんかにはやれるものではありませんからな」
ヴァンスはしばらくの間、宝石箱を研究しつづけていたが、ついに当惑したように眉をひそめて、その場をはなれた。
「ねえ、君」と、ヴァンスがいった。「いまいましい奇怪な事件が、昨晩、ここに起きたんですな」
「それほど奇妙なことでもありますまい」と、ヒースは訂正した。「たしかに徹底的な仕事ぶりにはちがいないですが、神秘めいた点は少しもないではありませんか」
ヴァンスは片眼鏡をみがいて、しまいこんだ。
「警部さん、もし君がそんな根拠にたって仕事にかかられるとしたら」と、なげやりにこたえた。「暗礁《あんしょう》にのり上げやしまいかと、僕は大いに心配になるんですがね。とにかく君の無事安着を、天に祈らせてもらうとしましょうや」
第四章 手の跡
――九月十一日、火曜日、午前九時三十分
われわれが居間にかえってから数分ばかりして、主席警察医のドアマス博士が、快活な精力にあふれた態度でついた。すぐ博士につづいて、他の三人の係官もやってきた。そのうちの一人は、大きなカメラと折畳み式の三脚とをもっていた。これらの人たちは指紋技師のデュボイス係長と、ベラミ刑事と、それに写真技師のピータ・クワッケンブッシュだった。
「やあ、こりゃ、どうも!」と、ドアマス博士はだしぬけに大きな声でいった。「まったく、家の子郎党の勢揃いというところだね。またまた事件だそうですな、……警視さん、どうせ事件をおこすなら、もうすこしまともな時間にやってもらいたいですな。ひとつあなたの友人諸君にたのんで下さいよ。こんなに朝っぱらからたたきおこされたんじゃ、肝臓《かんぞう》が目をまわしてしまいますよ」
彼は快活に、テキパキと、一人一人に握手をかわした。
「死体はどこですか?」と、快活に要求し、部屋中を見まわした。すぐに寝椅子の上に若い女の姿をみつけた。「やあ、ご婦人ですな」
すばやく歩みよると、女の死体を急いで調べはじめた。つくづくと首や指をみて、死後硬直《リゴール・モルディス》の状態をたしかめるために、両腕と頭部とを動かしてみた。最後に硬直した両脚を伸ばし、さらに詳細にわたる検屍にそなえて、長いクッションの上に死体をまっすぐに寝かせた。
ほかの人たちはみな寝室のほうにいった。ヒースは、指紋係についてくるように合図をした。
「片っぱしから、やってくれたまえ」と、いった。「しかし、この宝石箱と、この火掻きの把手《とって》とは、特によくみてくれたまえ。それからあっちの部屋にある書類箱も、徹底的に調べてくれたまえよ」
「よろしい」と、デュボイス係長が同意した。「あっちの部屋で、博士《ドック》がやっていられるあいだに、こっちの方をかたづけましょう」彼とベラミとは仕事にとりかかった。
われわれの興味は自然に係長の仕事に集中した。たっぷり五分くらいもの間、ねじまげられた鋼鉄製の宝石箱の両側と、つるつると磨《みが》きのかかった火掻きの把手とを、彼が点検している様子をみつめていた。彼はそれらの品物の端を大事そうにもちあげ、宝石商用の眼鏡をかけると、その品物の一インチ四方に豆電燈の光をあててみた。ついに、品物をおくと、いまいましそうな表情をした。
「指紋はひとつもない」と、告げた。「きれいにふきとってある」
「そうだろうと思っていたね」と、ヒースは小声でうなった。「たしかに腕のきく奴の仕事だな」と、もう一人の技師の方をふり向いた。「ベラミ君、なにかみつかったかね?」
「手がかりなし」無愛想《ぶあいそ》な挨拶だった。「ほこりをかぶった、古い汚れが二、三あるぐらいですね」
「数々のていたらくというところですな」と、ヒースがいらいらしながら註釈した。「もちろん、あっちの部屋の方に何かあるといいですがね」
この時、ドアマス博士が寝室に入ってきて、ベッドから敷布をとって、寝椅子の上の殺された娘の死体にかけてやった。それから自分の医療容器の蓋をピチリと閉めて、粋《いき》な角度に帽子をかぶり、大急ぎで、自分の方はすませてしまうといった人の態度で、前に進み出た。
「背後から絞殺した、よくある簡単な症状ですな」と、一気にいった。「咽喉《のど》の正面あたりに指状の傷痕があり、後頭下部には拇指状の傷痕がある。攻撃は不意だったにちがいない。多少抵抗はした模様であるが、す早い、十分に心得たやり口だ」
「女の衣服が破れているわけを、どうお考えになりますかな、博士?」と、ヴァンスがたずねた。
「それは? わからないね。自分で破ったのかもしれん、虚空《こくう》をつかみながら、本能的にやったのかもしれん」
「それにしては、どうもおかしいですな?」
「おかしいとは? 着物は破かれ、花束はもぎとられたのだ。女の息の根をとめようとしていた奴は、両手を女の咽喉にあてていたからさ。他の人間にやれるわけはないじゃないですかね?」
ヴァンスは肩をすぼめて、煙草に火をつけはじめた。
ヒースは、明らかに筋の通らない差し出口にいらだって、次の質問を発した。
「指にあるこの傷は、指環を抜きとったためじゃないのですか?」
「おそらくね。新しい擦《かす》り傷だ。それに左の手首にもまだ二つほど掻き傷があるし、拇指《おやゆび》の根元にも軽い打撲傷がひとつある。これは、女の手から、むりやりに腕環類を抜きとったことを示している」
「そいつは、図星だ」と、ヒースは満足げにいった。「奴らは、女の手から、なにかペンダントのようなものでも、もぎとったのじゃないですかね」
「あるいはね」と、ドアマス博士が簡単に賛成した。「鎖の切れ端が、右肩の後の肉に、すこし食いこんでいるからね」
「ところで、時間は?」
「九時間ないし十時間以前、そう、十一時半頃か――いや恐らくはそれより少し前だろう。とにかく真夜中以後じゃないな」たえず爪先で身体を上下に動かしていた。「その他には?」
ヒースは思案した。
「それだけじゃないでしょうか、博士」と、うちきった。「すぐに死体を公示所にはこばせましょう。できるだけ早く検案書を出していただきたいですが」
「午前中に報告書をお渡ししよう」すこしでも早く帰りたくてたまらないのが見えすいているのに、ドアマス博士はわざわざ寝室に入っていって、ヒースやマーカムや、モーラン警視と握手をかわしてから、急いで出ていった。
ヒースは戸口まで送っていって、戸外にいる警官に向い、女の死体を受け取りにすぐ救急車をよこすように、公共福祉局に電話をかけることを命じた。
「僕は大いに君たちのあのお役人さまを賞賛するね」と、ヴァンスはマーカムにいった。「なんていう超俗ぶりだ! いまこうして美しくもはかない乙女《ダムゼル》の死に、われわれがこれほどまでに心を傷めているというのに、あの陽気な医者《メディクス》は、早起きをしたから肝臓が悪くなったと頭を悩ましている」
「なにも仰天することがあるものか」と、マーカムが不平を鳴らした。「新聞が拍車をかけて、あの男をいじめるわけじゃあるまいし、……ところで、やぶれた着物について、君が疑問とした要点は、なんだっけね?」
ヴァンスは自分の煙草の尖端をのろのろと調べていた。
「考えてみ給え」と、いった。「あのご婦人は明らかに不意をおそわれたのだ。というのは、ご婦人が初めに格闘をしたとすれば、坐ったまま背後から絞殺されるようなことはないからね。だからガウンと花飾りとは、つかまえられたときには、疑いもなく、もとのままだったのだ。しかし――あの颯爽《さっそう》としたパラケルスス〔医者のこと〕の結論にもかかわらずだね――衣裳に加えられた損害は女が苦しみながら虚空をつかむうちに自分で思わずやってしまったものとは、ちょっと性質がちがうのさ。もし女がガウンに胸をしめつけられて苦しんだとすれば、当然|帯《バンド》の内側に指を突込んで、身頃《みごろ》そのものを引きちぎったにちがいない。しかし、君は気がついているかどうか、着物の身頃には指一本ふれられたところはないよ。破られているのはたった一か所、外側にある、例の深いレースの裾襞《すそひだ》なのだ。しかもこれは破られているというよりも、むしろ、ある力強い外側からの牽引力によって、ひきちぎられたのだ。しかるに、当時の情況からみて、女の方からは、上方にせよ、下方にせよ、どっちにも身体一つねじまげられるはずがなかったろう」
モーラン警視は熱心に傾聴していたが、ヒースは、そわそわと我慢がならぬといった様子だった。明らかにその裂けたガウンはこの簡単な事件の主要な筋には関係がないものだと考えていたのだ。
「さらに」と、ヴァンスはつづけていった。「花飾りのことだが、もし咽喉をしめつけられている最中に、自分でもぎとったものだとすれば、きっと床の上に落ちているにちがいないよ。というのはね、いいかね、女はそうとうに抵抗したのだ。死体が横向きにねじまげられ、膝は引き上げられ、スリッパが片方|蹴《け》とばされている。そこでそんな騒ぎの最中には、絹の花束などは一束も膝の上などには残らないことになるわけだ。ご婦人方は静かに坐っているときでも、手袋や、ハンドバッグや、ハンカチや、プログラムや、ナプキンは、いつでも、膝から床にずりおとしているものだ、これはご承知だろう」
「だがね、君の意見が正しいとすると」と、マーカムが抗議した。「レースをひきちぎったり、花飾りをむしりとったりしたのは、女が死んでから、やったことになるね。そんな無意味な野蛮行為をする目的は、僕にはわからないがね」
「僕にもわからないね」と、ヴァンスが溜息をついた。「まったくもって奇怪千万なことだ」
ヒースが鋭い眼つきでヴァンスを見あげた。「あなたはその言葉を、もうこれで二度もいいましたよ。しかしこの騒ぎには、あなたのいわれるような奇怪なものはなに一つないですよ。とにかく簡単明瞭な事件でさ」自分自身の意見が不安定なのを、しいて説得しようとする人のように、論駁《ろんばく》する口調で、しゃべった。「着物は、まあいつのまにか破れていたかもしれないし」と、頑固にいいつづけた。「花だって、スカートのレースにひっかかって、すべり落ちなかったかもしれませんよ」
「それでは、宝石箱の方はどう説明されるつもりですな、警部?」と、ヴァンスがきいた。
「そう、犯人は火掻きを使ってみて、役に立たないとわかって、自分の金梃《かなてこ》を使ったかもしれないですよ」
「役に立つ鉄梃をもっていたとすればね」と、ヴァンスが反駁した。「なんだって居間からわざわざばからしい火掻きなぞをもち出してきたのでしょうね」
警部は当惑して頭をふった。
「あなたにだって、こんな悪漢のやり口を、なぜと説明することは絶対にできませんよ」
「おい、おい!」と、ヴァンスは舌うちをして、たしなめた。「気のきいた探偵辞書には『絶対にできない』などという言葉が、あるはずはないですよ」
ヒースは鋭く相手をみつめた。「このほかにあなたに奇怪だと思われたことがあるんでしょうか?」名状しがたい疑惑がふたたびもちあがってきた。
「さようさ、向うの部屋のテーブルの上にスタンドがありますね」
われわれは二つの部屋の間の拱路《アーチウェイ》の近くに立っていた。するとヒースがす早くふり向いて、倒れているスタンドに、ぼんやりと視線を投げかけた。
「私には、なにが奇怪なのか、さっぱりわかりません」
「倒れているじゃないですか?」と、ヴァンスが暗示を与えた。
「それがどうしたんです」と、ヒースは明らさまに当惑した。「この部屋の中のものは、まるでなにもかも倒れたり、ひん曲がっているじゃありませんか」
「ああ! しかしほかの大部分のものが目茶苦茶になっているのには、それ相当の理由があるのさ……抽出しにしろ、書類整理棚にしろ、押入れにしろ、花瓶《かびん》にしろね。これらのものはみな捜されたことを物語っている。しかし、あのスタンドは現に、いいですか、あの画面にぴったりとはまりこんではいない。へんてこな調子がある。格闘の最中にわざわざひっくり返すわけはない。まったくそんなことはありえないのです。ひっくり返したところで、何の役にもたたない。門型の足のテーブルの上にかかっているあの美しい鏡をこわしてみても、何の足《た》しにもならないのと、まったく同じ理窟ですよ。だからこそ奇怪だというのさ」
「ここにある椅子と、その小さなテーブルとは、どうしたんでしょうね?」と、ヒースは最前からひっくり返っている二つの金箔《きんぱく》を塗った椅子《いす》と、ピアノの側にひっくり返っているこわれやすいティップ机とを指さしながら、たずねた。
「おお、それは統一感《アンサンブル》がとれているさ」と、ヴァンスは答えた。「それはみんな、軽い家具ですからね、この部屋のものを掠奪《りゃくだつ》したそそっかしい紳士がかんたんにひっくり返したり、放り出したりしたんでしょうね」
「じゃ、スタンドだって、同じようにひっくり返されたのかもしれないじゃないですか?」と、ヒースがいい返した。
ヴァンスは頭を振った。「警部、それは理窟にはならないね。スタンドにはブロンズの台がついている。しかもちゃんとテーブルの奥の方においてある。通り道というわけではない。……スタンドは、わざと引っくり返したものですよ」
警部は一瞬沈黙した。これまでの経験から、ヴァンスの観察を過小評価してはならないことを知っていた。僕も正直のところ、書物机の端に倒れているスタンドを見ると、室内に散乱している他のどの調度品からもかなり離れていて、ヴァンスの主張が相当の力をもっているような気がした。僕はこの犯罪の再構成に、それをもう一度急いであてはめてみようと、懸命にやってみたが、どうにもうまくいかなかった。
「場面にあてはまらないようなものが、ほかにもまだありますかね?」と、ついにヒースがきいた。
ヴァンスは、煙草で居間にある衣裳部屋の方をさししめした。この衣裳部屋は、休憩室の横側、プウル式の用箪笥のそばの隅に、寝椅子の端とまっすぐ向いあったところにあった。
「まあ、あの衣裳部屋の様子でもみて、しばらく頭をやすめてみたまえよ」と、ヴァンスは無造作にいった。「ドアが少し開いているくせに、中身はまったく手がつけてないことに気がつくでしょう。荒されていないのは、部屋の中で、あの場所くらいのものさ」
ヒースは歩いていって、衣裳部屋の中をのぞきこんだ。
「なるほど、なんとしてもこいつは奇妙だ」と、ついに彼は兜《かぶと》をぬいだ。
ヴァンスは彼の後ろから大儀そうについていって、その肩越しに眺めながら、立っていた。
「おやおや! これはどうしたんだ!」と、突然大声でいった。「鍵はドアの内側の錠にささっている、まあ考えて見たまえ。衣裳部屋のドアの内側に鍵をさしたままでは、錠《じょう》をおろすわけにはいくまい。どうだね、警部」
「鍵には、なんの意味もないかもしれませんよ」と、ヒースは楽観していった。「きっと、ドアには錠がおりていなかったのでさ。とにかく、それは、すぐにわかることだ。外に女中を待たせてあるので、係長のお仕事がすみ次第、呼んで訊問するつもりです」
彼はデュボイスの方を向いた。この男は寝室の指紋捜査を終って、ピアノを点検しているところだった。
「なにか手がかりは?」
係長は頭を振った。
「ここも同じです」と、写字台の前に両膝をついたままで、ベラミが、ぶっきら棒にいい足した。
ヴァンスは皮肉な笑いをもらしながら、向きをかえて、窓の方へ歩いていって、戸外を眺め、静かに煙草をふかしながら、立っていた。まるでこの事件には、すっかり興味がなくなってしまったように。
このとき、表廊下に通ずるドアが開いて、白髪頭にごわごわした白い顎髭《あごひげ》をたくわえた背の低いやせた小柄な男が入ってきて、さんさんとさしこむ日光に向って、眼をしばたたきながら立ちどまった。
「先生、お早うございます」と、ヒースはこの新来者を迎えた。「お目にかかれてなによりです。ただいまお電話で申し上げたとおり、ちょっと粋《いき》な事件なのです」
副検査官コンラード・ブレンナーは、ニューヨーク警視庁に属している、めだたないが、きわめて有能な専門家たちの小さな団体の一員だった。この一団の人たちは、たえず難解な技術上の問題について相談にあずかりながら、その名前も、功績もめったに公表されることはない。彼の専門は錠前と泥棒の七つ道具とだった。ローザンヌ大学の徹底した勤勉な犯罪学者仲間にも、押込み強盗が使った道具が残した証拠となる痕跡を、彼ほど正確に読みとる者が果しているだろうか、と僕は思っている。外観においても、態度においても、枯淡な大学教授然としていた。〔彼が十九年間もの間、ニューヨークの警視庁に関係して、先輩および後輩から一様に「先生」として信頼されてきたことは興味のある事実である〕彼の黒い、型のくずれた服は、仕立ても旧式だった。世紀末《ファン・ド・シエークル》の僧侶のように、狭い紐《ひも》のようなネクタイをしめ、高くて硬いカラーをしていた。金縁の眼鏡はとても厚いレンズだったので、眼の瞳孔《どうこう》が強烈なベラドンナ中毒のような印象を与えていた。
ヒースが彼に話しかけたときに、教授はいわばぼんやりと、なにか期待をもって、立っていた。その様子は部屋の中にほかの人がいることにはまったく気がつかないといった風だった。警部は、この小柄な人物の独特な性癖をよく心得ていたから、返答を少しも待たずに、すぐに寝室に入っていった。
「先生、どうぞ、こちらへ」と、お世辞たっぷりに促して、化粧台のそばにあゆみより、例の宝石箱をとりあげた。「ちょっとこれをごらん願った上で、先生のご意見をお聞かせください」
副検査官ブレンナーは、左右には目もくれずに、ヒースの後からついていって、宝石箱をうけとると、黙ったまま窓際にもっていって、しらべはじめた。ヴァンスは、急に興味をめざめさせられたように、前方に歩みよって、その動作をみつめながら立っていた。
たっぷり五分もの間、この小柄の専門家は、その箱を自分の近視眼の数インチの距離にとりあげて、点検していた。それからヒースの方に視線をむけて、せわしく二、三度、ウィンクした。
「この箱を開けるには、二つの道具が使われているね」その声は小さく、早口だったが、どことなく否定できないような威厳がこもっていた。「道具の一つは蓋《ふた》を曲げ、焼きつけたエナメルの上にいくつかのひびをつくっている、もう一つは、おそらく何か鋼鉄の鑿《のみ》のようなもので、錠前をこわすのに使われている。最初の道具は、鋭利じゃないが、梃子《てこ》をあてる角度もまちがっているといった素人臭い手口だ。その結果は蓋のへりをただねじまげるだけに終っている。しかし鋼鉄の鑿の方は、正確な脆弱点《ぜいじゃくてん》を知っていて、さしこんである。さしこまれた場所では梃子の最小限の力で、錠前の締め釘をとりはずすに必要な反対圧力を出しているようだ」
「玄人のやり口でしょうな?」と、ヒースがきいた。
「まったくそのとおり」と、副検査官が目をしばたたきながら答えた。「つまり、錠前を外《はず》すやり口は玄人だね。さらに所見を一歩進めていえばだね、使用された道具はこういう不法な目的に使うために特別に作られたものだな」
「こんなもので、その仕事ができましょうか?」ヒースが|火掻き《ポーカー》をさし出した。
相手はそれを注意深く何回もひっくり返してみた。
「蓋をねじまげたのは、あるいはこの道具だったかもしれないが、錠前をこじ開けるに使った道具ではないね。この火掻きは鋳鉄製だから、大きな圧力を受ければ、ぽっきりと折れるだろう。ところが、こっちの箱の方は冷温伸延の十八ゲージの鋼鉄板でできており、異形の回転鍵にあう、円筒状の回転片のある錠がついている。蓋を開けるに十分なだけ輪縁を曲げるに必要な梃子の力のあるものは、おそらく鋼鉄製の鑿でなければできないことだろうな」
「なるほど、御説ごもっともです」と、副検査官ブレンナーの結論に、ヒースは十分に満足しているようにみえた。「先生、この箱をお届けいたしますから、なにかほかにお気づきになった点がございましたら、お聞かせください」
「おさしつかえなければ、お預かりしてゆきましょう」この小柄の人物は自分の腕の下にかかえて、一言もいわずに、足をひきずりながら出ていった。
ヒースはマーカムに向って、にやにやと笑った。「奇態な小鳥ですね。ドアや、窓や、調度の上についた鉄梃《かなてこ》の痕跡をみていないと、楽しくないんですよ。私があの箱を送り届けるまで、辛抱して待っていられないんですからね。地下鉄の中でも、まるで子供を抱いた母親のように、終始自分の膝の上に、さぞかし後生大事にかかえこんでいることでしょうな」
ヴァンスは当惑して、じっと空をみつめながら、まだ化粧台の近くに立っていた。
「マーカム」と、彼はいった。「あの宝石箱の状態はまったく驚くべきものだよ。条理にも合わなければ、論理にも反している。正気の沙汰《さた》じゃない。おかげでまったくいまいましいほどに、事態を複雑怪奇なものにしているよ。あの鋼鉄製の箱は、おそらく専門の強盗にだって、鑿で簡単にこじあけることはできなかっただろうよ……しかも、いいかね、それが、事実はこじあけてあるのさ」
マーカムが返答をしないでいるうちに、係長のデュボイスが満足そうに鼻唄を歌うのが、われわれの注意をひいた。
「警部、どうやら嗅《か》ぎつけましたぞ」と、知らせた。
われわれは、期待に勇躍して居間にいった。デュボイスは、マーガレット・オーデルの死体が発見された場所のすぐ後ろの書物机の端に、かがみこんでいた。噴霧《ふんむ》器を取り出した。それは、非常に小さい、手動ふいごのようなものであったが、平らなテーブルの磨きのかかった紫檀の表面の一フィート四方ばかりのあいだに、細かい淡黄色の粉末をすきまなく吹きかけた。それからさらに余分の粉末を静かに吹きおとした。すると、サフラン色にあざやかな着色された人間の手の影像があらわれた。拇指の円味や、指と指の付け根や、掌《てのひら》のまわりの一つ一つの隆起やが小さな丸い島のように浮き上った。指頭の隆起は全部はっきりと認められた。すると写真技師はカメラを独特の調節のできる三脚台の上にとりつけてから、注意深くレンズの焦点を合せ、フラッシュをたいて、手の形をしたものを二枚|撮《と》った。
「役にたつにちがいない」デュボイスは自分の掘り出し物に気をよくした。「右手だ――はっきりとした指紋だ、この指紋の主は女の右うしろに立っていた……それに、ここでは一番新しい指紋だ」
「この箱はどうだ?」と、ヒースは、ひっくり返っているスタンドのそばの机の上にある黒い書類箱を指さした。
「跡かたなし――きれいにふきとってある」
デュボイスは、手廻り道具を片づけはじめた。
「あの、デュボイス係長」と、ヴァンスが言葉をはさんだ。「あの衣裳部屋の内側のドアの丸い引手をよくご覧になりましたかね」
相手は、だしぬけに、くるっと向き直って、ヴァンスに苦々しげな表情を示した。
「衣裳部屋の内側の引手には、習慣上、あまり手をかけないものですよ。外側から、開閉しますからな」
ヴァンスはわざと驚いたふうに、眉をあげた。
「……それにしても、もし部屋の内側に誰かが入っていたとすれば、外側の引手までは、手がとどきますまい」
「私の知っている連中には、衣裳部屋を中からしめるような奴はありませんな」デュボイスの口調はすごく皮肉たっぷりだった。
「あなたにはほんとうにおどろきいりますね!」と、ヴァンスははっきりといった。「僕の知っている連中は、そういう習慣で固まっていますよ、――一種の日常の気晴しらしいですね」
いつも外交的なマーカムが、調停に入った。
「ヴァンス、君はあの衣裳部屋について、何か心あたりでもあるのかね?」
「ああ! そんなものがあるくらいならね」悲壮な返答だった。「僕が衣裳部屋にこれほど興味を感じているのは、すこしも荒されずに整然としているわけが、どうにもわからないからなんだよ。実際、芸術的に掠奪が行われるなんて、奇妙な話さ」
ヒースは、ヴァンスを悩ましている、同じ漠然とした疑念から完全に解放されているわけではなかった。そこでデュボイスにむかって、次のようにいった。
「係長、引手をやってみてはいかがです。この紳士のいわれるように、あの衣裳部屋の様子はどうも臭いところがあるから」
デュボイスは、だまって、苦虫をかみつぶしたような表情で、衣裳部屋のドアにいって、例の黄色い粉末を内側の引手に吹きつけた。余分の微粒子を吹きとってしまうと、拡大鏡をもって、その上をのぞきこんだ。ついに身体をまっすぐに伸すと、ヴァンスの方に不機嫌《ふきげん》な表情をむけて判定を下した。
「たしかに新らしい指紋がある」と、不承不承に承認した。「私がまちがっていないかぎり、あの机と同一人の手の指紋です。どっちの拇指の指紋も蹄状環《ていじょうかん》だし、人差し指は両方とも螺旋型《らせんがた》をしている……おいピート」と、写真技師に命じた。「その引手を数枚撮っておけ」
この仕事が終ると、デュボイスとベラミと写真技師の三人はわれわれと別れた。
数分後、冗談をいいかわしてから、モーラン警視も帰っていった。ドアのところで、彼はインターンの白い制服をつけた二人の男とすれちがった。この男たちは、娘の死体をひき取りにきたのだった。
第五章 錠のかかったドア
――九月十一日、火曜日、午前十時三十分
いま、部屋にいるのはマーカム、ヒース、ヴァンス、それに僕だけであった。暗く低くたれさがった雲が太陽をさえぎって流れていった。灰色の妖怪じみた光線がこの部屋の悲劇的な雰囲気《ふんいき》をひとしお濃くしていた。マーカムは葉巻に火をつけて、わびしそうではあるが、固い決意をこめた様子であたりを眺めながら、ピアノにもたれかかって立っていた。ヴァンスは居間の脇壁にかかっている一枚の絵――ブーシェの描いた『|寝れる羊飼の娘《ラ・ベルジエル・アンドルミ》』のようである――の方に歩みよって、皮肉な軽蔑《けいべつ》をうかべながら眺めていた。
「むっちりふとった裸体、とびまわるキュピッド、それにこの蓮葉娘《はすっぱむすめ》を包んでいる羊毛のような雲」と、ヴァンスは註釈を加えた。彼はルイ十五世治下のフランス頽廃派《たいはいは》の絵画については激しく嫌悪していた。「いったい、娼婦《しょうふ》たちは、新緑の草木と、リボンをつけた羊とを描いた、こういう恋の牧歌が発明される前には、どういう絵を寝室にかけていたんだろうかなと、考えるね」
「僕は、目下、そんなことどころか、昨夜、この女の部屋でおこった事件の方に、興味をひかれているんだ」と、マーカムはいらだたしそうに応酬した。
「そのことはたいしたことはありません」と、ヒースは相手を鼓舞《こぶ》するようにいった。「デュボイスが、ここの指紋を原簿でひきあわせてくれたら、きっと相手がわかることと、思っておりますが」
ヴァンスは打ち消すような微笑をうかべて彼の方をむいた。
「警部、自信たっぷりですね。僕は僕でこう思っていますよ、この悲惨な事件がはっきりと解決するずっと前に、君が、あの癇癪《かんしゃく》もちの係長なんかが殺虫粉で指紋などを発見してくれなかったほうがよかったんだがな、と思うようになるとね」彼は芝居がかった誇張した身振りをした。「君の耳にちょっと入れておきたいんですがね、向うの紫檀のテーブルや、ドアのカット・グラスの引手に指紋を残していった男は、美人のオーデル嬢がだしぬけに死んだことには、なんの関係もないんですよ」
「いったいなにを考えているんだね?」と、マーカムは鋭くなじった。
「なんでもないさ、君」と、ヴァンスがおだやかな口調でいった。「僕は、遊星間の空間のように、なんの目印もない虚《むな》しい間の、精神的な幽闇をさまよっているのさ。闇黒が大きな口をあけて僕を食ってるんだ。茫漠《ぼうばく》とした夜のただ中にいるのさ。僕の精神的な闇は、エジプト、スツギオス、キンメルのそれだ――僕は完全に暗黒の冥府《エレボス》にいるんだよ」
憤激のあまり、マーカムの片顎《かたあご》がひきしまった。ヴァンスのこうした饒舌《じょうぜつ》な遁辞《とんじ》にはなれっこになっていたのだ。話題を変えるために、自分からヒースに話しかけた。
「この家にいる関係者たちを訊問してみたかね」
「オーデルの女中と門番と電話交換手とには、きいてみました。あんまり突込んではきいてみませんでした。――あなたをお待ちしていたのです。それでも、これだけは申せます。聞きこんだところでは、頭がふらふらになって、わからなくなるようなことだらけです。多少とも陳述をかえないかぎりは、事件をめんどうにするだけのものです」
「では、関係者を呼んできいてみよう」と、マーカムがいい出した。「まず例の女中を」ピアノの鍵盤《けんばん》に背をもたせて、ピアノの椅子に腰をおろした。
ヒースは立ち上ったが、ドアのところにいかずに、多角形の出窓の側にいった。
「あの連中にお会いになる前に、あなたにご注意いたしておきたいことがあるんです。ほかでもありませんが、この部屋の出入口の問題なのです」薄い金紗のカーテンを片側にひきよせた。「あの鉄の格子《こうし》をごらんください。この家の窓という窓にはみんな、浴室の窓もそうですが、これとそっくり同じ鉄の格子がついております。ここでは地上までわずか八フィートないし十フィートくらいなのですが、この家を建てた人が誰にいたせ、泥棒が窓から忍びこむ隙のないように、十分に堅固にできています」
彼はカーテンから手を放すと、休憩室の方に、大股《おおまた》に歩いていった。
「このとおり、この部屋の入口は、たった一つしかありません。つまり、大廊下に向って開いているこのドアだけです。この家には、欄間《らんま》も、換気装置も、食料運搬口もないのです。これは、つまり、誰でもこの部屋に出入りするものがとおらなければならぬたった一つの道は、――|たった一つの道ですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――このドアだけしかないということになるんです。訊問をなさっている最中も、この事実をどうかお忘れにならないように。……それではあの女中を呼んでまいりましょう」
ヒースの命令にこたえて、一人の刑事が三十歳くらいの白人と黒人との混血の女をつれてきた。小ざっぱりとした服装をしており、なんでもできそうな印象を与えた。その話しぶりは、普通、女中階級などにはみられないような高い教育程度をはっきりと示す、物静かな歯切れのよい発音だった。
彼女の姓名は、われわれの知ったところでは、エイミー・ギブスンといった。さて、マーカムが、予備訊問で聞き出した情報は、次にあげる事実から成っていた。
彼女は、その朝の七時数分すぎに、部屋をおとずれた。いつものように、自分の鍵で開けて、中に入った。女主人は大抵おそくまでやすんでいたからである。
一週に一、二回、オーデル嬢がまだ目ざめないうちに、縫《ぬ》いものや、繕《つくろ》いものをするために、朝早くやってくることがあった。ちょうどこの朝も、ガウン縫い直しのために、朝早くやってきた。
ドアを開けると同時に、部屋中が散乱している有様を見たのだ。というのは、休憩室のヴェネチヤ式のガラス・ドアはすっかり開いていたからである。ほとんど同時に、長椅子の上に倒れている女主人の死体に気がついた。
すぐに、勤務中であった夜勤の電話交換手のジェサップを呼んだ。ジェサップは、居間を一目見るなり、警察に通報した。それから、彼女は廊下にある応接室に坐ったまま、警官の到着を待っていた。
女中の証言は、簡単で、直接的で、しかも要領を得ていた。神経過敏になったり、興奮したりせずに、自分の感情を巧みにおさえることができた。
「さて」と、しばらく休んでから、マーカムはつづけた。「昨夜のことにもどりますが――何時頃、オーデル嬢に別れて帰られたのです?」
「七時に二、三分前でございます」と、その話し方の特徴ではないかと思われる、色気も抑揚《よくよう》もない、一本調子で答えた。
「いつも、あなたの帰られる時間ですな?」
「いいえ、私、大抵は六時に帰ります。でも、昨夜は、オーデルの奥さまから、晩餐《ばんさん》にお出かけになるので、着付けをたのまれまして」
「晩餐にいくときには、いつも着付けの手伝いをなさるのですか?」
「いいえ、でも、昨夜はある紳士の方とご一緒にお食事をなさり、それから劇場へお出かけになるとかで、とくにお美しくなさりたかったのでございますよ」
「うむ!」と、マーカムは身体をのり出した。「それでその紳士というのはどなたですか?」
「さあ――奥さまはなんともおっしゃいませんでした」
「どなたなのか、あなたには見当がつきませんか?」
「一向にわかりませんわ」
「今朝早くあなたにきてくれと奥さまのいわれたのは、いつのことですか?」
「昨夜、かえりがけのことでございます」
「すると、オーデル嬢は、その友達については、はっきりとなんにも危険を感じたり、恐怖をいだいたりしては、いなかったわけですな」
「そんなご様子はみえませんでしたわ」まるで思案でもするように、沈黙した。「いいえ、そんなことはありませんでした。奥さまはとてもお元気でした」
マーカムはヒースの方に向き直った。
「警部、なにか、ほかに、お聞きすることがありますか?」
ヒースは火のついていない煙草を口からとると、両手を膝の下において、前かがみになった。
「オーデルという女は、昨夜、どんな宝石類をつけていったのだね?」と、無愛想にたずねた。
女中の態度は冷淡に、少しばかり傲慢《ごうまん》になった。
「オーデルの奥さまは」特に「奥さま」という言葉に力をこめて、敬称を使わない非礼を非難するようにみえた――「ご自分で指輪をみんな、おはめになりました。五つか六つあります。それに三つの腕環も――その一つは、四角なダイヤモンド、もう一つはダイヤモンドとエメラルドのはいったものでございました。奥さまは、首のまわりには梨型《なしがた》のダイヤモンドの旭光《きょくこう》のようなブローチを鎖でかけておいでになりました。それから、ダイヤモンドと真珠とのついたプラチナの双眼鏡《ローニエット》〔芝居見物に用いる柄のついたもの〕をおもちになりました」
「そのほかになにか宝石類をもっていなかったかね」
「小さいものがいくつかあると、思います。でも私、はっきりとは、申し上げかねます」
「それで、その宝石類は寝室の鋼鉄製の宝石箱にしまっておいたんだね」
「はい――おつけにならないときには」その答には皮肉を暗示する以上のものがあった。
「おお、宝石類を身体につけているときでも、錠をおろしてしまっておいたのかと思っていたんだがね」ヒースは最前からの女中の態度に敬意をおぼえていた。この女中が返事をするときに、すこしも自分には敬称を使わないことに気がつかないわけにはいかなかった。そこで、立ち上って、陰鬱《いんうつ》そうに紫檀のテーブルの上にある黒い書類箱を指さした。
「以前、あれを見たことがあるかね」
女中は冷淡にうなずいた。「何度も」
「いつも、どこにしまってあったのかね」
「あの中です」頭をちょっと動かして、ブウル式の用箪笥を示した。
「中には何が入っていたかね」
「存じません」
「知らない?」ヒースは顎《あご》をつきだしたが、この虚勢を張った態度でも、平然とした女中にはなんの効果もなかった。
「なにも知っておりません」と、冷静に答えた。「いつも鍵がかかっていましたし、それに奥さまがお開けになるのをみたこともありません」
警部は、居間の衣装部屋のドアの方に歩いていった。
「あの鍵に見覚えがあるかね?」と、怒ったようにたずねた。
再び女中はうなずいたが、この時、僕は女の眼にかすかな驚愕《きょうがく》の色をよみとった。
「あの鍵は、いつも、ドアの内側にかけてあったのかね?」
「いいえ、いつも外側でした」
ヒースはヴァンスの方を奇妙な眼付で、ちらとみた。それからしばらく顔をしかめて、引手を見ていたが、さっきの女中をつれてきた刑事に向って、手を振った。
「スニットキン、応接室へつれていって、この女から、オーデルの宝石類についての詳細な調書をとっておいてくれたまえ……ただし待たせておくんだよ。もう一度用があるからね」
スニットキンと女中が立ち去ると、ヴァンスは寝椅子の上に大儀そうに長くなった。この訊問の行われている間、そこに坐って、たえず天井に煙草の煙の輪を吹きあげていた。
「どうやら役にたったようだね」と、いった。「あの混血の女のおかげで、だいぶ前進したじゃないか。やっと衣裳部屋の鍵がドアのいつもとちがった側にあったことがわかったし、それに、わが淫売娘《フィユ・ド・ジョワ》が、お気に入りの愛人の一人と、ご一緒で、劇場へお出かけになったということもわかった。この愛人が、きっとこの邪悪な世の中からあの世に旅立つすぐ前に、女を送り届けてきたにちがいないよ」
「あれで手がかりになるとお考えですかな?」ヒースの口調は傲慢《ごうまん》なほど、勝ちほこっていた。「電話交換手から馬鹿げた話をおききになるまで、まあ、待つんですね」
「よろしい、警部」と、マーカムが我慢できずに口をいれた。「厳しい試煉にでもあうというんだね」
「マーカムさん、最初にあの門番を訊問された方がよいと思っているんです。その理由はこうなんです」ヒースは部屋の入口のドアのところにいって、ドアを開けた。「ちょっと、こちらを見ていてください」
彼は大廊下《メイン・ホール》に入っていって、左側の小さな通路を指さした。この通路は約十フィートほどの長さがあり、オーデルの部屋と応接室の背後の裏手の平壁との間を通じていた。その突き当たりは、この家の中庭に通ずる堅固な樫《オーク》のドアであった。
「あのドアは」と、ヒースが説明した。「この建物に入る、唯一の横の入口、つまり、裏口なのです。あのドアに錠がおりてしまえば、正面玄関のほかには、誰も入ってくることはできません。あなたでさえも、ほかのアパートから、この建物に入るわけにはいきません。この階のどの窓もみんな鉄格子が入っていますからね。私はここにかけつけてまいると、すぐにその点を調べてみたのです」
彼は居間に引き返してきた。
「そこで今朝の状況からおしてみまして」と、つづけていった。「どうも犯人が小通路の端にある裏口のドアを通って、夜勤の交換手の目にもとまらずに、この部屋にまんまと忍びこんだのではないかと、考えてみました。そこで、裏口のドアが開いていたかどうかを調べてみたのです。しかし内側から錠がおりていました――。鍵じゃなくて、よろしいですか、錠がおりていたのです。おまけにそれも、外側から鉄梃《かなてこ》でこじ開けられるような、そんな取り外《はず》しのきく錠じゃなくて、堅い真鍮製《しんちゅうせい》の、びくともしないような、旧式の回転式の錠ときているのです。……そんなわけで、門番がなんと申すか、きいていただきたいと思うのです」〔ここに「錠」と訳すのは扁平なノッブのついた回転式の作りつけのもので、ノッブをまわすと、ボルトが出て錠がかかる。したがって鍵穴がついていないこの「錠」は内側からだけしめられ、外側には何もついていない〕
マーカムは納得したというようにうなずくと、ヒースは廊下の警官の一人に命令をつたえた。すこしすると、頬骨のつき出た、仏頂面《ぶっちょうづら》の、のっそりとした、中年のドイツ人がわれわれの前に立った。その顎はかたく引きしまっており、われわれ一人一人を探るように、目をうつしていった。
ヒースはすぐに、訊問者の役についた。
「夜は何時にここから帰るのかね?」彼には、ある理由があって、挑戦的な態度を装った。
「六時でがすな――もうちっと早いときも、おそいときも、あるにはあるですがな」その男は不機嫌な一本調子で話した。明らかに、自分の規則正しい生活態度について、予想外の干渉をうけて、憤然としていた。
「では、朝は何時に出勤するんだね」
「いつも八時でさあ」
「昨夜は、何時に、帰ったね」
「六時頃――たぶん十五分も廻っていたかね」
ヒースは沈黙して、最前から、時々かんでいた葉巻に、やっと火をつけた。
「じゃ、その裏口のドアについて話してみたまえ」と、相変らず挑戦的な口調でつづけた。「おまえは、帰る前には、毎晩、自分で鍵をかけるといったね――間違いはないな?」
「はあ――間違いねえとも」その男は断言するように頭を二、三度振った。「でも鍵はかけねえだ、錠をおろすだけでさあ」
「なるほど、じゃおまえが錠をおろすんだね」ヒースはしゃべるたびに、葉巻を両唇の間にひょいと上下させ、煙と言葉とが同時に口から飛び出した。「じゃ、昨夜はいつもの通りに、六時頃に錠をおろしたんだな」
「たぶん十五分すぎでがした」と、門番はドイツ人らしく正確に補足した。
「昨夜、錠をおろしたというのは間違いないな」その質問は残酷なほどだった。
「はあ、はあ、間違いねえですとも。毎晩やっとりますんで、しくじることなんぞ決してありませんでがす」
この男の熱心さからみて、問題のドアが、実際に、昨夜の六時頃に内側から錠がおろされていたということは、疑問の余地がなかった。ヒースは、しかしなお、この点を数分にわたって執拗《しつよう》に追求したが、錠をおろしたということが、頑固に、くりかえし証明されただけだった。とうとう門番は放免された。
「警部」とヴァンスが朗らかに微笑していった。「ほんとうにあの正直なラインラント人は、ドアに錠をおろしたにちがいありませんな」
「そのとおりです」と、ヒースはせきこんでしゃべった。「それに、私が今朝八時十五分に調べたときにはまだ錠がおろしてあったんです。それで、なにもかもがすっかりわからなくなってしまったんです。裏口のドアが、もし昨夜六時から今朝の八時まで錠がおろされていたとすれば、誰が霊柩車《れいきゅうしゃ》に乗ってやってきたか承知したいものだし、カナリヤの可愛い遊び仲間が昨夜どうしてここに入ってきたかを、教えてもらいたいものですね。それに、どうして出ていったかも知りたいものですよ」
「玄関入口からじゃ、なぜいけないんだね」と、マーカムがたずねた。「君自身の発見によれば、ただ一つの残されている論理的な方法じゃないかね」
「さんざんそいつも考えてみましたんですよ」と、ヒースが答えた。「まあ、とにかく電話交換手の陳述をきいてみてからにいたしましょう」
「電話交換手の場所は」と、ヴァンスは沈思した。「正面ドアと、この部屋との中間の大廊下の途中にある。だから、昨夜ここをこんなに荒しまわった紳士は、くるときも帰るときも、電話交換手から数フィートと離れぬところを通りすぎなければならんわけですね。――どうです?」
「そりゃそうです!」と、ヒースがつっけんどんにいった。「しかも交換手の話じゃ、そんな人間は一人も出入りしなかったということです」
マーカムはヒースの短気を幾分吸いこんでしまったようであった。
「そいつを呼んでくれたまえ、僕が訊問してみよう」と、命じた。
ヒースはまるで敵意をいだいているかのように、敏活に命令に従った。
第六章 救いを求める叫び声
――九月十一日、火曜日、午前十一時
ジェサップは部屋に入ってきた瞬間から好ましい印象を与えた。まじめで、はきはきした表情をした、三十そこそこの男で、がっちりした身体つきをしていた。軍隊生活の訓練を物語る四角張った肩をしていた。はっきりと、びっこをひいて歩いた――右足を人目につくほど引きずっていた。――その上に左腕が、肱を屈曲できないほどの骨折のために、永久にアーチ形に硬直しているのに、きがついた。彼は冷静で、眼はしっかりと据《すわ》って、知的だった。マーカムはすぐに衣裳部屋のドアのそばにある籐椅子に坐らせた。彼はこれを辞退して、軍隊式の直立不動の態度で、地方検事の前に立った。マーカムは個人的な質問をいくつかしてから、訊問をはじめた。ジェサップは第一次大戦当時軍曹であったこと〔彼の正式の名前はウィリアム・エルマ・ジェサップで、海外派遣軍第七十七師団、第三百八歩兵隊に配属されていた〕二度も重傷を負い、休戦のすこし前に傷病兵として本国に送還されたことなどを話した。一年以上現職の電話交換手を勤めていた。
「第一に、ジェサップ」と、マーカムはつづけた。「昨夜の惨劇について、君の知っていることを話してくれたまえ」
「はい」この軍人出身の男は自分の知っているかぎりはすべて正確に話し、自分の話すことが正確でなければ、率直にそれを断るだろうということは、疑う余地がなかった。慎重で、十分に訓練された証人としての資質をすべてそなえていた。
「まず初めに――昨夜は何時に出勤したのですか」
「十時であります」この無愛想な陳述には何ら斟酌《しんしゃく》するところがなかった。ジェサップは自分の勤務なら、いつでも正確に出勤できるというふうな感じをあたえた。「昨夜は私の短時間勤務でした。日勤者と私とは交互に長時間勤務と短時間勤務とをやっています」
「君はオーデル嬢が、劇場が、はねてから、帰ってきたのをみたのだね?」
「はい。入ってくる人は誰でもみんな交換台《スウィッチボード》のところを通らなければなりませんから」
「何時に帰ってきたのかね?」
「十一時をたぶん少しまわったところでした」
「独りだったかね?」
「いいえ、紳士とご一緒でした」
「誰だか知ってるかね?」
「名前は存じ上げませんが、以前に、オーデルさんを訪ねてこられたところを、二、三度みかけたことがございます」
「人相は?」
「はあ、背が高くて、ごく短かい白髪の口髭《くちひげ》をたくわえてはおられますが、ほかはきれいに剃《そ》っていました、かれこれ四十五くらいの方です。それに――おわかりになりましょうが――裕福な立派な地位の方のように見うけられましたが……」
マーカムはうなずいた。「それではおききしますが、その男がオーデル嬢と部屋の中まで連れ立って入っていったのかね? それとも、すぐに帰っていったのかね?」
「オーデルさんとご一緒に入っていかれ、半時間ほどとどまっていられました」
マーカムの眼が輝き、次の言葉には抑《おさ》えきれない熱意がこもっていた。
「すると、その男は十一時頃やってきて、十一時半頃まで女の部屋に一緒にいたということになるね、その事実に間違いはないですね?」
「はい、その通りであります」と、男は確言した。
マーカムは黙ったまま、前屈みになった。
「ところで、ジェサップ、慎重に考えてから、返事をしてもらいたいのだが、昨夜は何時頃でもかまわぬが、他に誰かオーデル嬢を訪ねてきた人はいなかったのだね?」
「ありませんでした」躊躇もせずに返事した。
「きっとそれにまちがいないね?」
「なにしろ、この部屋においでになるには、あの交換台のわきをどうしても通らなければなりませんからね」
「交換台を離れるようなことはあるかね?」と、マーカムがたずねた。
「ございません」と、職場を離れていたという言い分には抗議するように、力強く保証した。「水呑みや手洗所にいきたいときでも、応接室の小さい便所を使っておりますが、そのときでもかならずドアを開け放しておいて、呼出しをつげる標示燈《パイロット・ライト》がつきはしないかと、たえず交換台から眼を放したことはありません。ですから、便所に入っておりましても、私の目にとまらずに、廊下《ホール》を通るようなことは、誰にもできません」
われわれは、良心的なジェサップが呼出しがあっても、うっちゃりぱなしにしておくことがないように、たえず交換台に眼をくばっていたということには、十分に信用ができた。この男の熱意と責任感とは明らかだった。その夜、オーデル嬢にもう一人別の訪問客があったとすれば、ジェサップがその人をも認めたにちがいないと、われわれは信じて疑わなかったろう。
しかし、ヒースはもちまえの徹底ぶりを発揮して、いそいで立ち上ると、大廊下につかつかと出ていった。すぐに戻ってきたが、困惑したような、満足したような表情をしていた。
「間違いなし!」と、彼はマーカムにうなずいてみせた。「便所のドアは交換台と、障害物もなく、一直線になっていますよ」
ジェサップは自分の陳述のこのような実証にはなんの注意も払わず、ただじっと地方検事の方をみつめながら、次に発せられる訊問を待って立っていた。その冷静な態度には、驚嘆するとともに、信頼に値するようなものがあった。
「昨夜はどうだったね?」と、マーカムがつづけた。「交換台を何度もあけたり、長いこといなかったりしたようなことはなかったかね?」
「たった一度です、それもほんの一、二分、洗面所にまいったのですが、ずうっと交換台からは眼を離しませんでした」
「それでは、十時以後オーデル嬢を訪ねた者も、またその時刻以後に女の部屋から出ていった者も、女を送ってきた男のほかには、いなかったと、いつでも宣誓できるね」
「はい、できますとも」
彼は真実をつつまずに語っていた。そこでマーカムは五、六分間訊問を中絶して、思案にふけっていた。
「あの裏口のドアはどうなのかね?」
「夜通し、錠がおりていました。門番が帰るときに錠をかけ、朝あけることになっています。私は手をふれたこともございません」
マーカムは身体をそらせて、ヒースの方をふりむいていった。
「今の門番とジェサップの証言とで、オーデル嬢を送り届けてきた男を洗えばよいというところまでかなり狭まってきたようだ。十分に推論の根拠になると思うが、かりにあの裏口のドアが一晩中錠がおりており、玄関のドアを通って誰も訪ねてきた者も、帰っていった者もなかったとすれば、女を送ってきた男こそ容疑者じゃないかということになるね?」
ヒースはちょっと不快な笑いを浮かべた。
「昨夜このあたりで、ほかの変ったことが起こっていなかったとすれば、仰せの通りでありましょうが」それからジェサップに向っていった。「その男について他に知ってることがあれば、検事殿に申し上げろ」
マーカムは期待にみちた関心を示して、交換手を眺めた。ヴァンスは片肱《かたひじ》をついて身体を起こし、熱心に耳を澄ませた。
ジェサップは兵士が上官に報告するときのような、きびきびした注意深い態度で、一本調子に話しだした。
「申し上げます。その紳士が十一時半頃にオーデルさんの部屋から出てこられると、交換台のところで立ちどまって、私にイエロー・タクシーを呼ぶようにと申しました。私が呼出しをかけ、紳士が車を待っていられる間に、オーデルさんが悲鳴をあげて、救いを求めている声がきこえました。紳士はふりかえると、部屋のドアにいそいでとんでいきました。で、私もいそいで後を追いました。紳士はドアをノックしましたが、初めはなんの返事もありませんでした。もう一度ノックをしながら、オーデルさんの名を呼んで、どうしたんだとおききになりました。すると、こんどは返事があって、なんでもありません、お帰りください、ご心配くださらないで、と申しました。それであの方は私と一緒に交換台まで引き返してきて、オーデルさんはよく寝込んでしまって、夢にでも脅《おび》えたにちがいないなどと申されました。二人で二、三分、戦争の話をしておりますと、タクシーがまいりました。紳士はお休みといって、出かけていきました。私は車が遠ざかってゆく音を耳にしました」
オーデル嬢を送り届けてきた無名の男が、帰ってゆくときの模様を語ったこのエピソードが、事件に関するマーカムの理論を、根底からくつがえしてしまったことは、一見して明らかであった。面喰らったような表情で床をみつめ、数分間、やけに煙草をふかしていた。とうとう口をきった。
「オーデル嬢の悲鳴をきいたのは、その男が部屋からでてきてから、何分くらいしてからだったね?」
「五分ぐらいでした。私がタクシー会社につないで、一、二分すると、オーデルさんの悲鳴がしました」
「その男は交換台のそばにいたのだね?」
「はい、実際は、片腕を台の上についていました」
「オーデル嬢は何度くらい悲鳴をあげたかね? それから助けを求めたときに、正確に何といったかね?」
「二度悲鳴をあげ、『助けて! 助けて!』と申しました」
「二度目にドアをノックしたときに、その男はどんなことをいっていたかね?」
「これだけしかおぼえておりませんが、『マーガレット、ドアをお開け! どうしたんだね』と」
「男に返事をしたときの、女の言葉を正確におぼえてるかね?」
ジェサップはためらい、考えるように顔をしかめた。
「たしか、『なんでもございませんのよ、大きな声なぞたてて、ご免なさいね、なにも変ったことはありませんの、だからどうぞお帰りになって、ご心配なさらずにね……』なんでもそんなことでした、正確ではないかもしれませんが」
「それでは、君は女の声をドアの向う側からきいたというんだね?」
「はい、そうです。このドアはたいして厚くはございません」
マーカムは立ちあがると、じっと考えこんで、歩きはじめた。やがて交換手の真正面に足をとめると、さらに別の訊問を行なった。
「その男が帰ってから、別に怪《あや》しい物音を、この部屋の中で、ききつけなかったかね?」
「なんにも物音などはききません」と、ジェサップははっきりと答えた。「でも、十分ほどたってから、このビルの外部からオーデルさんに電話をかけてきたものがありました。すると、この部屋から男の声が返事をしました」
「なんだって!」マーカムは身体をくるりとまわした。ヒースは緊張して身体を起こし、眼を大きく開いていた。「その電話の一件を詳《くわ》しく話してくれたまえ」
ジェサップは、無表情に、これに応じた。
「十二時二十分ほど前に、交換台の中継燈《トランス・ライト》がついたので、私が出ますと、男の声でオーデルさんに呼出しがあったのです。私は接続線をさしこみました。しばらくすると、受話器がはずされました――受話器《レシーバー》をフックからはずすのはすぐにわかります、台上の標示燈が消えるからです。すると、男の声で『ハロー』と、返事がありました。私は聴取栓を抜きましたから、もちろん、これ以上のことはなにもききませんでした」
数分間、部屋は静まりかえっていた。すると、ヴァンスは、訊問中は、ジェサップの様子を注意深く見まもっていたが、口火をきった。
「ついでですがね、ジェサップ君」と、無造作にきいた。「あなた自身は、なにかのはずみに――まあ、なんというか、オーデル嬢の魅力といったようなものにですね、少しまいっていたというようなことはなかったのですか?」
この部屋に入ってきてから初めて、この男は不安で落着かない様子をみせた。ほんのりとした赤味が頬にひろがった。
「とても美しいご婦人でした」と、心をきめて返事をした。
マーカムはヴァンスに非難めいた表情をした。それからだしぬけに自分で交換手に話しかけた。
「いまのところは、これくらいにしておこう、ジェサップ」
その男は固くるしい礼をすますと、跛《びっこ》をひきながら出ていった。
「いよいよもって、この事件は魅惑的になってきたぞ」と、ヴァンスはつぶやいて、もう一度寝椅子の上にくつろいだ。
「誰かがひとりでこの事件を楽しんでいると思えば、心も慰められるというものさ」マーカムの語気はいらだっていた。「ちょっとおききしますがね。死んだ女にたいするジェサップの感情などきいて、君の質問はなんの目的があるのですかね?」
「なに、ちょっと僕の頭の中で、じたばたしている気紛《きまぐ》れな考えがあったからさ」ヴァンスが応酬した。「それにちょっとした|閨房の無駄話《ヴウドワール・ラコンタージュ》がいつも事態を活気づけるものだ、ということは、ご存じでしょうね?」
ヒースは重苦しい思案から目をさまして、あからさまに自説を主張した。
「マーカムさん、指紋がありましたね。連中もきっと後《おく》れをとるまいと、犯人を追いかけていますよ」
「しかしだね、よしんばデュボイスがあの指紋の持ち主を探しだしたにしても」と、マーカムがいった。「われわれは、その指紋の所有者が、昨夜、どうしてここに忍びこんだか、そいつを証明しなければならんよ。もちろん、その指紋は犯行以前のものだと主張することはみえすいたことだからね」
「とにかく」と、ヒースが頑固に主張した。「オーデルが昨夜劇場から帰宅したときには、誰かもうここにきていて、もう一人の男が十一時半に帰ってしまった後まで、ここに待っていたということは確かです。女の悲鳴と十二時二十分前の電話の呼出しの返答とが、こいつを裏書していますからね。ドアマス博士は、殺人は真夜中にならないうちに起こったといっています以上、ここに隠れていた奴がやった仕事だという事実には逃げ道はありませんよ」
「議論の余地がないようだね」と、マーカムは同意を表した。「それにどうも犯人は女の知っていた奴だという気がするね。きっとそいつが最初に姿を出したときに、女は悲鳴をたてたのだろう。それから奴だとわかると、落着きをとりもどして、廊下にいたもう一人の男に、なんでもないわと、声をかけたのだろう。……その後で、男が女をしめ殺したのさ」
「僕はだね」と、ヴァンスが割りこんだ。「その男の隠れていた場所があの衣裳部屋の中だといいたいね」
「なるほど」と、警部は合槌《あいづち》をうった。「しかし、僕の気になることは、いったいどうしてここに入ってきたかということですよ。昨夜、十時まで交換台の所にいた日勤の交換手だって、オーデルを訪ねてきて、食事につれだしていった男のほかには、女を訪ねてきた者は一人もなかったといっていますからね」
マーカムは腹を立てて、咽喉を鳴らした。
「その日直の男をここにつれてきたまえ」と、彼は命じた。「この点はあくまでも究明しなくてはならない。何者《ヽヽ》かが昨夜ここに忍びこんでいた。とにかく僕らが引きあげるまでに、どういうふうにやったか、きっとつきとめてみようじゃないか」
ヴァンスは相手をからかって、おもしろがるような表情でみた。
「ねえ、マーカム」と、彼はいった。「僕は別に心理的霊感の才能に恵まれているわけではないがね、君がもし本気に、不思議な訪問客が、昨夜、ここに入りこんできた方法をつきとめるまでは、この散乱した閨房《ヴウドワール》に逗留《とうりゅう》していようというおつもりなら、パジャマはいうまでもなく、化粧道具も、新しいリンネルの着替えも、二、三枚ほど、今のうちにとりよせておいた方が、よっぽど都合よくやれるだろうと、まあ、僕は、へぼ詩人がいったように、そんな名状しがたい一種の感情をもっているのさ。このささやかな夜の集まりを考えだしたご仁は、ご自分の出入りを、慎重に、かつ明敏に計画されているというものさ」
マーカムは半信半疑でヴァンスを眺めたが、別に返事をしなかった。
第七章 無名の訪問者
――九月十一日、火曜日、午前十一時十五分
ヒースは廊下に出ていくと、すぐ青白い顔をした、やせぎすな青年、たしかスパイヴリとかいう名の、日勤の電話交換手をつれて、もどってきた。どちらかといえば、真黒に近い頭髪は、青白い顔色をひときわ青白くし、ポマードを額ぎわから後ろにかけて、テカテカと光らせていた。その上、両方の鼻翼にとどかない、非常に薄い髯《ひげ》をはやしていた。極端に小ぎれいな身なりで、身体にぴったりと合った、目のさめるようなチョコレート色の服、突端を布でくるんだボタンどめの靴、それによくあった硬い折返しのカラーのついたピンク色のシャツを着こんでいた。幾分興奮しているようで、すぐにドアの側の籐椅子に腰をおろし、ズボンの折目を指先でつまんだり、舌の先で唇をなめまわしたりしていた。
マーカムは、単刀直入に急所をついた。
「昨日の午後から、夜の十時までの間、君はあの交換台に坐っていたと聞いているが、それにまちがいないね?」
スパイヴリは、ごくんと唾を呑みこむと、うなずいた。
「はい」
「オーデル嬢は何時に、食事に出かけたかね」
「七時ごろです、私がちょうどサンドウィッチを買いに、隣りのレストランに使いをやった時刻でしたから――」
「女は一人で出かけていったのかね?」と、マーカムがその説明をさえぎった。
「いいえ、仲間《フエラ》が一人呼び出しにきたんです」
「その『仲間《フエラ》』という男を知っているかね」
「オーデルさんを訪ねてきたのを二度ほど見かけたことがありますが、誰だかは存じません」
「どんな様子をしていたかね」と、マーカムの質問は矢つぎ早やにはなたれた。
娘のお伴ぶりについてのスパイヴリの描写は、ジェサップの説明にくらべれば、おしゃべりで、不正確ではあったが、家に送り届けてきた男のジェサップの描写とは一致していた。明らかに、オーデル嬢は、同一人物と一緒に、七時に外出し、十一時に帰宅したのである。
「さて」と、マーカムは、次の言葉に力をいれて、要点をいった。「オーデル嬢が食事に出かけた時刻と、君が交換台を離れた十時との間に、オーデル嬢をたずねてきた人物が、ほかにもあるかどうかを、知りたいんだがね」
スパイヴリはこの質問には当惑して、うすいアーチ型の眉毛を上げたり下げたりした。
「私にはどうもわかりませんが」と、吃《ども》りながらいった。「オーデルさんのお留守中に訪ねてきた人があるなんて、そんなはずは」
「たしかに誰かが訪ねてきているんだ」と、マーカムがいった。「しかもその男は、女の部屋に入りこんで、十一時に女が帰ってきたときも、まだそこにいたのだ」
青年は眼を大きく見はり、ぽかんと口を開けていた。
「なんということだ!」と、叫んだ。「あの女を待ちぶせしていて、あんなふうに殺したりして!……」青年は、犯罪が行われるまでの一連の神秘な事件が、あまりにも自分の身近におこっているのを悟って、突然にだまりこんだ。「でも、私の勤務中には、誰一人あの女《かた》の部屋に入った者はありません」と、びっくりしたように語気を強めながら、口走った。「誰もおりません! 私は、あの女《かた》が出かけられてから仕事をしまう時間まで、片時も交換台をはなれなかったのですから」
「裏口から、誰かが忍びこむというようなことはできなかったかね?」
「とんでもない! 錠がおりていなかったのですか」スパイヴリの語調はうわずっていた。「夜分、錠がかかっていないなんていうことは、絶対にありません。門番が六時に帰るときに、錠をおろしておくんですから」
「なにか用でもあって、昨夜、君が席をはずしたようなことはなかったのかね、思い出してごらん」
「とんでもない! そんなことはいたしませんとも」熱心に首を振った。
「それでは、君はオーデル嬢が出かけていってから、玄関を通って部屋に入ったものは誰もいなかったと請合《うけあ》うんだね!」
「請合いますとも。私は交換台を一度もはなれなかったんですし、それに私が気のつかないうちに、私の側を通って部屋へ入るなんていう人間は、ただ一人だっていやしませんよ。そう、たった一人いましたっけ、あの女をたずねてきた男が――」
「ほらみろ! 誰かがやってきたんじゃないか!」と、マーカムが咬《か》みつくようにいった。「いつのことだ? どんなことがおきたんだ?――答えをする前に、よく自分の記憶を喚びおこしてみたまえ」
「たいしたことはなかったんで」と、青年は、気休めらしくいったものの、心からびっくりしていた。「なに、その方は、おいでになって、あの女《かた》のベルをならして、すぐにお帰りになったんで」
「たいしたことであろうとなかろうと、そんなことはどうでもよろしい」マーカムの語調は冷たく、有無をいわせなかった。「何時に、その男は訪ねてきたのだ?」
「九時半頃です」
「どんな男だ?」
「若い仲間《フエラ》の方です。オーデルさんに会いに、何度もここにこられるのをみかけたことがあります。名前は存じません」
「どういうふうにやったか、正確に話してみたまえ」と、マーカムが追求した。
スパイヴリは再びごくりと唾《つば》をのみこんで、唇をぬらした。
「こういう次第なんです」と、やっとの思いでしゃべりだした。「その方が入ってこられて、廊下《ホール》を通っていかれるので、私が『オーデルさんはお留守ですよ』と申し上げたのです。ところが、その方は頓着せずに歩いていって、『そうですか、とにかくベルを鳴らして、たしかめてみましょう』といいました。あいにくそのとき、電話の呼出しがあったので、私はそのままいかせたのです。その方はベルを鳴らし、ドアをノックしていましたが、もちろん返事はありません。すぐにもどってきて、『あなたのいうとおりでしたよ』といいました。それから、五十セント銀貨をポンと投げだして、出ていかれたのです」
「ほんとにその男が外に出ていくのを見ていたんだな?」マーカムの声には失望の調子が感じられた。
「たしかに見ました。玄関のドアの内側のところで立ちどまって、シガレットに火をつけ、それからドアをあけて、ブロードウェーの方に曲がっていったんです」
「一枚一枚、薔薇色《ばらいろ》の花びらが散っていくね」と、ヴァンスのだるそうな声がした。「形勢はいよいよ興味津々だ!」
マーカムは、九時半過ぎに現れて、帰っていったこの一人の訪問者について、犯罪の可能性を希望して、なかなか棄てさるわけにはいかなかった。
「その男は、どういう人物だった?」と、たずねた。「人相をおぼえているかね?」
スパイヴリは、まっすぐに坐りなおした。その返事をきくと、この訪問客に特別な注意を払っていたことがわかったほど、熱心であった。
「好男子でした、あまり年配ではなく――きっと三十くらいでしょう。塗り革の舞踏靴《ぶとうぐつ》をはき、襞《ひだ》をとった絹《きぬ》の白いワイシャツをつけ、正装をして――」
「なに? なんだって?」と、ヴァンスは、信じられないといった様子をみせながら、寝椅子の背に身体をもたせかけて、詰問した。「夜会服《イヴニング・ドレス》に絹のワイシャツだって? まったく驚いたもんだ!」
「おしゃれの方なら、みなさん、たいてい着ていらっしゃいますよ」スパイヴリが、謙虚な態度ではあるが、自慢気に説明した。「ダンス用の流行型なんです」
「冗談じゃない――ほんとかね」と、ヴァンスは唖然としていった。「こいつは拝見しなくちゃならん……ところで、その絹のワイシャツの伊達男《だておとこ》のブランメルさん〔イギリス摂政期の美装家〕が、玄関の戸口に立っていたときにね、下のチョッキのポケットに入れてあった長い平べったい銀のケースから、シガレットを取り出したんだね」
青年は感嘆したように驚いた顔になって、ヴァンスを見た。
「どうしてご存じなのですか」と、叫んだ。
「簡単な推理さね」と、ヴァンスはまた横臥《おうが》した姿勢のままで、説明した。「チョッキのポケットに大きな金属製のシガレット・ケースを入れておくのは、どういうものか、夜会服の絹のワイシャツにはつきものなのさ」
マーカムは、明らかにこの邪魔に困惑しながら、相手の人相をのべるように、交換手に促して、この話を鋭くうち切ってしまった。
「頭髪はきれいになでつけていました」と、スパイヴリはつづけた。「お目にかけたいほど長い髪でしたが、最新型にかってありました。それから蝋《ろう》で固めた小さい口髯をたくわえ、大きなカーネーションの花を上衣の襟《ラペル》にさし、それに羚羊《シャモア》の手袋をもっていました……」
「まさしくそうだ!」と、ヴァンスがつぶやいた。「ジゴロ〔キャバレーでダンスの相手を職業とする男〕さ」
マーカムは、ナイト・クラブの悪夢が重々しく襲いかかってきて、顔をしかめ、深い息を吸った。ヴァンスの観察は明らかに不快な連想にひきずりこんでいった。
「小男か、それとも大男だったかね?」と、次にたずねた。
「さほど背丈は高くありませんでした。私ぐらいでした」と、スパイヴリが説明した。「それに痩《や》せている方でした」
その口調には、賞賛の感情が、誰にもすぐにわかるほど、流れていた。しかもこの若い電話交換手はオーデル嬢の訪問客に、ある種の肉体上、衣裳上の理想をみていたことは、僕にも感じられた。このような見えすいた賞賛は、この青年に感動を与えたようないくぶんけばけばした衣裳と結びついて、その前夜九時半すぎに死んだ娘のベルを無用にも鳴らした人物の人相を、言外にかなり正確に、よみとることができた。
スパイヴリが放免されたとき、マーカムは立ちあがり、葉巻の煙に頭をつつまれながら、部屋の中を歩きまわっていた。他方、ヒースはぼんやりと坐って、マーカムを眺めていたが、眉毛は引きしまっていた。
ヴァンスは立ちあがって、伸《の》びをした。
「どうも夢中になってとびついた問題も、現状維持というところらしいですな」と、陽気にいった。「どうやって、まったくどうやって、美しいマーガレットの死刑執行人が、お忍びこみになったものでしょうね?」
「どうでしょう、マーカムさん」と、ヒースは、ものものしく大きな声を出した。「私はさっきから考えているんですが、奴さんは午後早くに、――ほらあの裏口に錠がおりないうちに、ここにきていたのじゃないですかね。オーデルが自分で部屋に入れ、もう一人の男が食事に誘いにきたときには、かくまったのじゃありませんかね」
「そんなふうにも考えられるね」と、マーカムが認めた。「もう一度、女中を呼んできてくれたまえ。洗えるだけ洗ってみようじゃないか」
例の女中がつれてこられると、マーカムはその日の午後の行動について訊問を行い、四時頃に買物に出かけ、五時半すぎに帰ってきたことがわかった。
「あなたが帰ってきたときに、オーデル嬢には来客がなかったですかね?」
「いいえ、ございません」即答だった。「お一人きりでした」
「来客があったという話はなかったですか?」
「いいえ」
「それじゃ」と、マーカムはつづけた。「あなたが七時に帰られるときに、この部屋の中に誰かがかくれているような様子はなかったのですね?」
女中は明らかにおどろいたばかりではなく、多少恐怖をさえ感じていた。部屋中を、ぐるぐると見まわしながら、きいた。
「どこにかくれる場所がございましょうか?」
「かくれようと思えば、二、三あるにはあるよ」と、マーカムが暗示した。「浴室にとか、衣裳部屋の一つにとか、ベッドの下にとか、窓かけのかげにとか……」
女中は、決然と頭を振った。「かくれられるわけがありませんわ」と、言いきった。「私は浴室に五、六度もいきましたし、寝室の衣裳部屋から、オーデル奥さまのガウンをおとりしました。暗くなりはじめますと、すぐ窓のシェイドを自分で閉めました。それにベッドにしましても、床につくほど低くとりつけてありますから、もぐりこむわけがございません」(僕は注意してベッドを見たが、この陳述がまったく正確であるのを知った)
「この部屋の衣裳部屋の中はどうかね?」と、マーカムは期待をかけて問いただしたが、今度も女中は頭を振るのだった。
「どなたも中にはいらっしゃいませんでした。あすこには、私、自分の帽子と外套とを入れておくもんですから、帰りしなに自分で取ってまいりました。それに、おいとまいたします前に奥さまの古い衣裳を一つ、あの部屋にしまってまいりました」
「絶対にたしかなのだね?」と、マーカムがくり返した。「あなたが帰るときには、この部屋には誰もどこにも隠れていなかったというのは」
「まったくでございますとも」
「帽子を取り出すためにドアを開けたときに、この衣裳部屋の鍵が、錠前の内側にさしこんであったか、外側にさしてあったか、気づかなかったかね」
女中は押しだまって、注意深く衣裳部屋のドアを見ていた。
「外側でした。いつもそこにありますの」と、数分間、考えてから、いった。「鍵が私のしまった古いシフォンの着物に引っかかりましたので、私、よくおぼえております」
マーカムは顔をしかめた。再び訊問をつづけた。
「オーデル嬢を昨晩一緒に食事にさそった相手の名前を知らないというんですね。とにかく、娘さんが外出されるときにいつでも相手をする人たちで、誰か名前を知ってはいませんかね」
「オーデルの奥さまは、どなたのお名前も、私にはおっしゃいませんでした。奥さまはそういうことには、慎重と申しますか、ともかく、とても秘密主義でございました。ご存じのように、私は昼間しかここにはおりませんし、奥さまのお知り合いの殿方たちは、たいてい、夜分にお見えになりました」
「誰かに脅迫《きょうはく》されているというような――自分のほうで恐怖を感じる理由のあるというような人の話をしたことはないですかね?」
「いいえ、ございません。でも、ご自分からお避けになっていらっしゃる方は一人ございました。悪い方でして、私などは、とても信用する気になぞはなりませんでした、――それで、オーデルの奥さまにも、お会いにならない方がよろしいと申しあげたくらいです。でも、奥さまは、その方とは、ずいぶん昔からのお知り合いのようで、昔は、とても、そのかたにやさしくしてあげたのではないかと思いますわ」
「どうしてそういうことまでわかったのですか」
「いつでしたか、一週間ほど前のことでした」と、女中はその説明をした。「昼食をすませてから、私が入ってまいりますと、あちらの部屋に奥さまとご一緒に、その方がおいでになりました。帳《ポルティエール》がみんな引いてありましたので、お二人は、私の入ってきたことに、気がつきませんでした。その方は、なんでも、お金をせびっていて、奥さまが追い払おうとなさると、こんどは脅かしはじめました。奥さまは前にもお金をあげたというようなことをおっしゃいました。私はわざと物音をたてました。それで、お二人は議論をやめて、まもなくその方は帰っていかれました」
「その男というのは、どんな男だね?」と、マーカムは興味をとりもどしていた。
「やせぎすの――あまり背の高くない――三十くらいの方でした。きつい顔つきでした――まあ美男子といってもよい方です――相手をぞっとさせるような、薄青い眼の方でした。いつも油で頭髪を後ろの方にきちんとし、両端がピンと尖ったような薄黄色の口髯をはやしていました」
「ああ!」と、ヴァンスがいった。「例のジゴロだ」
「それからその男はここにきたりしていたかね?」
「存じません――私のいるときには、お見えになりませんでした」
「これだけで十分だろう」と、マーカムはいって、女中を帰した。
「たいして役にはたちませんでしたな」と、ヒースは不平をならした。
「どうしてですか!」と、ヴァンスが叫んだ。「大いに役に立ったと思うな。若干の疑点をはっきりとさせてくれたじゃないですか」
「じゃ、ちょっときくがね。君は、あの女の陳述のどういうところが特に啓蒙的だったというんだね?」と、マーカムはひたむきに当惑をあらわして、たずねた。
「もうわかってるじゃないか」と、ヴァンスが再びほがらかに仲間入りをした。「昨晩、例の女中が家に帰ったときに、ここで|ひとり寝《ヽヽヽヽ》をしていたような粋人はいなかったということさ」
「その事実は役に立つというよりもだ」と、マーカムは逆《さか》ねじをくわした。「実質的にはますます事情を複雑にしているといいたいね」
「まだそんな風にいえるだろうね? いまのところではだよ。しかし、それにしてもだ、あるいは、どっちともいえないが――このことはやがて君の明敏にして満足のゆく手がかりにもなるかもしれんのだよ。……そのうえ、あの鍵の位置の変化をみれば、たしかに、誰かがあの衣裳部屋の中にかくれて、自分で鍵をかけていたのだし、さらにまたこの雲隠れたるや、例の侍女殿《アビケイル》が帰るまで、すなわち、七時までには、起こらなかったということも、わかったじゃないかね」
「まったくだ、なるほどね」と、ヒースが苦虫をかみつぶしたような顔をしていった。「裏口《サイド・ドア》には錠がおり、交換手が正面廊下にがんばっている、しかも本人が、誰も通らなかったと誓言しているんですからね」
「いささか神秘くさいだけさ」と、ヴァンスが悲しそうに認めた。
「神秘くさいどころか、とうていできないことだ!」と、マーカムが低くうなった。
ヒースは、そのとき、沈黙のまま、挑戦するように衣裳部屋をじっとのぞきこんでいたが、絶望したように頭を振った。
「私にどうも納得ができない点はですね」と、考えこんでいった。「もし奴さんが衣裳部屋にかくれていたとすれば、部屋中をさんざんかきまわしておきながら、外に出るときに、どうしてここだけは荒らさなかったのかということですよ」
「警部」と、ヴァンスがいった。「いよいよ君は、この事件の核心にふれられましたね……そうでしょう。あの衣裳部屋だけがきちんとして取り散らしてないという情況は、この美しい部屋を荒しまわっている新米は、内側から錠がかかり、開けることのできないばっかりに、この衣裳部屋に注意を払うことを怠ってしまったということを暗示しているわけですよ」
「おい、おい」と、マーカムが抗議した。「君のその理論でいくと、昨夜ここに未知の人物が二人いたということになるじゃないか」
ヴァンスは溜息をついた。「いやはや、困ったもんさ! 僕はそうにらんでいるんだ。しかもわれわれには、論理的には一人の人間といえども、この部屋には入る道がないということになる……こいつは、厄介《やっかい》な問題じゃないかね?」
ヒースは、新しい考えの方向をもちだして、慰めを求めてきた。
「とにかく」と、意見をきり出した。「昨夜、九時半すぎに、ここに訪ねてきた塗り皮の舞踏靴をはいた伊達男は、おそらく、オーデルの愛人で、女を金蔓《かねづる》にしていた奴にはちがいないですな」
「とすると、いったい、どんな深遠な方法で、この明白な事実が暗雲を追いのける役に立つということになるんですね?」と、ヴァンスはたずねた。「どんな当世のデリラ〔サムソンを裏切った愛妾、妖婦〕にしても、十中の八、九は、貪欲な愛人という奴をもっているんですからね。そういう種類の色男が近くに泳いでいない方が、むしろ、よっぽど不思議なくらいなものじゃないですか、いかがです?」
「そういうこともいえますね」と、ヒースが答えた。「しかしヴァンスさん、きっとあなたのような方でもご存じにならないことを、申しあげましょう。この種の娘たちがまったく首ったけになっている男たちというのは、たいていある種の悪党――つまり常習的犯罪人――なんですね。だから、この仕事が玄人の仕事だということがわかりさえすれば、私としては、オーデルを脅迫して、金蔓を引き出していた奴が、昨夜ここをあさりまわった当人だということを突きとめずに、平然と見逃しておくわけにはいかんということです。……ついでにこのことを申し上げましょう。奴さんの人相からみて、例の一流の終夜営業をやるカフェなぞに住みこんでいる、高級な強盗くさいということですよ」
「それじゃ、君は確信があるんですね」と、ヴァンスはおだやかにたずねた。「こういう仕事は、君のいうような常習的犯罪人の仕事だということにはね」
ヒースはまるで軽蔑するような態度で返事をした。「奴さん、手袋をはめたり、梃子《てこ》を使ったりはしませんでしたかね? まさに金庫破りの手口ですよ」
第八章 姿なき殺害者
――九月十一日、火曜日、午前十一時四十五分
マーカムは窓辺にいって、後手をしたまま、小さな舗装した裏庭をみおろしていた。数分たつと、ゆっくりと振りかえった。
「僕の理解したとおりだよ」と、彼はいった。「煎《せん》じつめてみれば、状況はこういうことになるね。つまり、あのオーデルという娘は、ある身分のある人物と食事をしてから、観劇にゆく約束をしていた。男が七時すこしすぎに迎えにきて、二人でつれだって外出する。十一時に二人は帰ってくる。男は女と一緒に女の部屋に入って、半時間ばかりそこにいる。男は十一時半に部屋を出てきて、電話交換手にタクシーを呼ばせる。男が車を待っているうちに、女の救いを求める悲鳴がする。しかも男の質問に答えて、女は、なんでもない、お帰りくださいという。タクシーが着くと、男はそれに乗って帰る。それから十分後に、誰かから女に電話がかかってくる。女の部屋から男の返答がする。今朝、女は絞殺されて発見され、部屋中がさんざんにかきまわされていた」
彼は葉巻《シガー》をゆっくり吐きだした。
「そこで、女と女の送り主とが、昨夜、帰ってきたとき、この部屋のどこかにもう一人別の男がいたことは明らかだ。また女がその送り主の帰ってから後も生きていたことも明らかだ。われわれはこの部屋にすでに入りこんでいた男が女を殺害した犯人だと結論しなければならない。この結論は、犯罪が十一時と十二時の間に行われたというドアマス博士の報告によって、さらに確認されよう。けれども女の送り主は十一時半までは帰らずにいて、それから後も女と話し合っているのだから、殺害が行われた実際の時間は十一時半と真夜中との間だとふんでもよい。……これだけは、いままでに手に入れた証拠からも十分推論できる信頼すべき事実だ」
「まず手ぬかりはありますまいね」と、ヒースが同意した。
「とにもかくにも、こいつは一ばん、面白いことになったな」と、ヴァンスがつぶやいた。
マーカムは夢中になって歩きまわりながら話をつづけた。
「これらの推定事実をめぐる状況の特徴というのは、つまり、こういうことだ。七時には――女中が帰った時間だが――この部屋には誰一人かくれている者はなかった。したがって殺害者はそれから後にこの部屋に忍びこんだのだ。そこでまず、裏口から考えてみよう。六時に――女中が帰った一時間前に――門番が内側からドアに錠をかけた。二人の交換手はその傍にまで近づいたことはないと否認している。さらに、警部自身も、今朝錠がかかっているのをたしかめている。そこで、われわれはこのドアが一晩中内側から錠をかけられていたということ、このドアを通って入った者はないということを、推定してさしつかえない。その結果は必然的に殺害者が玄関《フロント・ドア》から入ってきたという結論にならざるをえないわけだ。そこで、このもう一つの表の入口について考えてみよう。昨夜十時まで勤務していた交換手は、玄関から入ってきて、大廊下《メイン・ホール》を通って、この部屋にきた唯一の人物は、ベルを鳴らしたが、返事がなかったので、すぐに出ていった人物であると、はっきりと主張している。十時から今朝まで勤務していたもう一人の交換手も、玄関から入ってきて、交換台の前を通って、この部屋まできた者は誰もいなかったと主張している。さらに、この一階の窓という窓はどれも鉄格子がはまっており、階上からは交換手と顔を合わせずには大廊下《メイン・ホール》に降りてこられないという事実を、これにつけ加えておかなくてはならない。それで、目下のところ、われわれは袋小路におちこんでいるというわけだ」
ヒースは頭をかきむしって、情けなさそうに笑った。
「どうも辻褄《つじつま》があいませんな、あなたは?」
「隣りの部屋はどうですかね」と、ヴァンスがきいた。「裏口への通路に面しているドアのある部屋、たしか、二号室だと思うのだが」
ヒースはいたわるような表情で、彼の方をふりむいた。「私が今朝真先に調べておきましたよ。二号室には独身者の女が住んでいます。私は八時に女をおこして、捜査をしてみました。手がかりはなにもありません。とにかく、まあこの部屋にくるのと同様、あの女の部屋にいくにしても、交換台の前を通らなくてはならない。それに、昨夜はあの女の部屋を訪ねてきた者も、帰っていった者も、なかったんですよ。それに、ジェサップは、悧巧《りこう》な、しっかりした青年ですからね。あの女が物静かな上品な女で、オーデルとはお互いに一面識もなかったと証言していますよ」
「なかなかいきとどいたことですね、警部!」と、ヴァンスが低い声でいった。
「もちろん」と、マーカムが口を入れた。「他の部屋から出てきて、七時と十一時との間に交換手の背後をまわって、ここに忍び込み、殺害を終ってから、またこっそりと抜けだすような芸当をやってのける者だってあるかもしれん。しかしヒース警部の今朝の捜査でも、誰も発見できなかったところからみると、犯人がほかの部屋から入ってきて、犯行をやってのける可能性は、取り除いてもよかろう」
「たぶん、お説のとおりだろうよ」と、ヴァンスは気もなさそうに確認した。「しかし、マーカム君、君のお得意の、状況の再確認によると、犯人がどこかから入って犯行に及んだという可能性をも完全に取り除いてしまうことになりはしまいか、と心配になるね……。しかも犯人は実際にやってきて、不運なあの美しい娘を絞殺し、立ち去っているのだ――どうだね? いささか面白い問題じゃないか。僕はこいつだけはとても見逃しておきたくはないよ」
「不思議だ」と、マーカムが憂鬱そうにいった。
「いかにも神霊的さ」と、ヴァンスが訂正した。「降霊会のとろけるような匂いがするよ。たしかにね、なにか霊媒《れいばい》が、昨夜、すばらしい最高級の化身術をつかって、この界隈《かいわい》を徘徊《はいかい》していたのではないかと、疑いたくなるんだよ。……ねえ、マーカム、君は心霊体の分泌物にむかって告発状を手に入れることができるのかね」
「まさか幽霊じゃありますまい、現に指紋が残っていますからね」と、ヒースはぶっきら棒に傲慢《ごうまん》な態度でつぶやいた。
マーカムはせかせか歩きまわっていたが、立ちどまって、いらいらした様子で、ヴァンスをみつめた。
「いまいましいこった! 馬鹿げきった話さ。犯人はどこかから入ってきて、やっぱりどこかから出ていったのさ。どこかに間違いがある。あの女中が、帰りしなに、誰かここにいたのに、気がつかなかったのか、それとも交換手のどっちかが居睡りでもしていて、気がつかなかったのか、そのいずれか一つさ」
「それとも、関係者の誰かが嘘の申し立てをしているかです」と、ヒースが補足した。
ヴァンスは頭をふった。「あの薄黒い小間使《フィユ・ド・シャンプル》の証言はたしかに信用してもよい。それに、誰かが玄関《フロント・ドア》から気づかれずに入ってきたと疑ってみたにしたところで、現在までのところでは、交換台の前に坐っていた二人の若者はたやすく眼にとめたにちがいなかろう……そうじゃない。マーカム、君はもっとこの事件に、いわば、天上界から近づいていかなければならんね」
マーカムはヴァンスの諧謔《かいぎゃく》を嫌うように唸《うな》った。
「そういう捜査の筋書は、君一流の形而上の理論と秘教的な憶測とに、一任しておこう」
「しかし、考えてみたまえよ」と、ヴァンスはひやかすように抗議した。「君は、昨夜、この部屋に誰も入ってきたものも、出ていったものも、あり得なかったことを決定的に論証した――というよりも、むしろ法律的に証明してみせた。しかし君がなんども僕にいったとおりに、法廷というところは、すべて事件を、既知または推定の事実にもとづかずに、証拠によって決定しなければならないのだ。この事件のしめす証拠は、現存するすべての有形的存在にたいしては、確実なアリバイを示しているということになるではないか。ところで、ご承知のとおり、例のご婦人は自分で首を絞めて死んだとは、どうにも主張することはできない。もし毒薬をつかったとなれば、なんという精巧で立派な自殺事件にぶつかったということになろう!……ところで、女を殺害した犯人が、自分の手をつかうかわりに、砒素《ひそ》をつかわなかったというのは、なんという思いやりのない奴だろう!」
「いかにも、犯人は女を絞殺したのです」と、ヒースがいった。「それに、昨夜九時すぎにここにやってきて、中に入れなかった奴に、賭《か》けてもよいですよ。その男こそ、僕の話してみたい奴なんですからね」
「本気ですかね?」と、ヴァンスはもう一本煙草をとりだした。「僕の考えでは、われわれの掴んだ相手の人相から考えてみて、話しをしてみたって、別におもしろいことはありますまいね」
ヒースの眼は険《けん》のある光をみせた。
「これまでにだって」と、彼は口の中でブツブツいった。「私たちは当意即妙の応答の名人とはいえない連中からだって、けっこう面白い会話をひきだしたものですよ」
ヴァンスはためいきをついた。「|ハイカラ連中《フォア・ハンドレッド》は大いに君を必要とするわけですね、警部!」
マーカムが時計をみた。
「役所には急ぎの仕事があるし、いつまでもこうして話をしていても、どうにもならんな」彼はヒースの肩に片手をおいた。「君を残して、さきに失礼するよ。午後、関係者を僕の役所につれてきて、もう一度訊問してみよう――きっと少しくらいは記憶をひきだせよう――君の方になにか別に捜査の方針でもあるかね?」
「いつもの手をつかうだけですな」と、ヒースがうんざりして答えた。「オーデルの記録は、私がすぐ調べてみます。部下を三、四人出して、身辺を洗ってみましょう」
「それがすんだら、まっすぐイエロー・タクシー会社にいってみてくれたまえ」と、マーカムが指図した。「できたら、昨夜十一時半にここからでていった人物は誰か、その行先はどこか、洗ってみてくれたまえ」
「君、かりそめにもこんなことを考えてみないのかね」と、ヴァンスがたずねた。「その男が、この殺人について、なにかを知っているくらいなら、第一、廊下《ホール》に立ちどまって、交換手にタクシーを呼んでくれと頼んだりするものかどうか?」
「まあ、僕としては、その方面にはあまり期待をかけてはいないがね」マーカムの口調はまるで気乗りがしていなかった。「しかし、女が男にいった言葉には、なにか手がかりがあるかもしれんよ」
ヴァンスは剽軽《ひょうきん》に頭をふった。「おお、汚れを知らぬ清き瞳《ひとみ》の信仰《ヽヽ》よ、白い手の希望《ヽヽ》よ、きたれ、汝《な》れこそは、黄金の翼もて、天空を翔《か》ける天使なれ〔ミルトンの言葉〕か――」
マーカムは冗談などをいっている気分にはなれなかった。ヒースの方をふり向くと、わざと快活そうに話しかけた。
「午後おそくなったら、僕のところに電話をしてくれたまえ、なにか新しい証拠を、さっき会った連中からつかめるかもしれないから……それから」と、彼はつけ加えた。「忘れずにここに見張りをつけておきたまえよ。もう少し見通しがつくまで、この部屋はこのままにしておきたいからね」
「大丈夫、引きうけました」と、ヒースが保証した。
マーカムとヴァンスと僕とは表に出て、車に乗った。数分後、われわれはセントラル・パークを通りぬけ、街中を曲りくねって、疾走していった。
「例の、雪の中の足跡の議論《ヽヽ》を思い出してくれないかね?」と、五番街にさしかかり、南にむかって、疾走していたときに、ヴァンスはきいた。
マーカムは無関心にうなずいた。
「僕の記憶によると」ヴァンスはじっと考えこんだ。「君が提案したあの仮定の事件では、足跡だけではなく、十二人以上もの目撃者がいたね、――若い神童をも含めてね――冬景色の中を通りすぎる、なにかの影を見たというものがね……。親しき友よ、すべての理論は灰色なりか! いいかね、この事件では、雪の中の足跡もなければ、逃げてゆく人影をみた目撃者もいない。こういう絶望すべき事実のおかげで、君は五里霧中にさ迷っているのさ。要するに、君は直接証拠も情況証拠も、ともに失っているわけだ。まったく弱ったもんだ!」
彼は悲しそうに頭を振った。
「ねえ、マーカム、この事件の立証には、女が死んだ時間に、死人と一緒にいたものは誰もいない、|故にだ《エルゴ》、女はきっと生きているにちがいないという決定的な法的証拠があがっているわけさ。あのご婦人の絞殺死体は、僕の考えでは、法律上の手続きの観点からみれば、単に当面の問題には関係のない、一つの情況にすぎないのさ。学識のある法律家は死体のない殺人を容易に認めないことは、僕も知っているが、それじゃ、いったいぜんたい、殺害者のない死体《コルブス・デレクティ》にたいしては、どうしようというのだね?」
「冗談じゃない」と、マーカムは怒ったように叱りつけた。
「まったく、そのとおりさ」と、ヴァンスが合槌《あいづち》を打った。「とにかく法律家にとっては、なにか足跡が残っていないということは、困りきったことじゃないかね、君? 空中にほおり出されているのも同然だからね」
突然、マーカムはくるっと振りむいた。「|君ならば《ヽヽヽヽ》、もちろん、足跡も、どんな物的な手がかりも、いらないだろうさ」と、彼はヴァンスに、いやみたっぷりに突きかかった。「|君ならば《ヽヽヽヽ》、普通人には与えられていないような天啓《てんけい》をおもちだろうしさ。僕の記憶に誤りがなければ、君はちょっとこんなことを大言壮語したからね。犯罪の性質と条件とさえわかれば、相手が足跡を残そうと残すまいと、かならず僕を犯人の所につれていってくれるとね。よもや、あの大言を忘れていやしまいね?……さてと、ここに犯罪がある。そして当の犯人は往きにも帰りにも足跡を残していないんだ。どうです、ご親切心があったら、誰が、オーデルという娘を殺したのか、僕にこっそりとうちあけてくれて、疑惑をといてくれないものかね」
ヴァンスのおちつきは、マーカムの意地の悪い挑戦にもかかわらず、すこしも乱されなかった。彼は、数分間、坐ったまま、ものうげに煙草をふかしていた。それから身体をのり出して、シガレットの灰を窓の外に軽くたたき落した。
「僕のいったことを、よく考えてみたまえ、マーカム」と、彼はおだやかにいって、再び話の中に入った。「僕はこの馬鹿げた殺人事件にだいぶ気を入れている。だが、とにかく、身動きがとれなくなったヒースが、どんな人間を捜査で、掘り出してくるか、しばらく静観して待つとしたいね」
マーカムが馬鹿にしたように鼻先で笑って、クッションに背をしずめた。
「君の寛大さにはいたみ入った次第だよ」と、彼はいった。
第九章 急追跡
――九月十一日、火曜日、午後
その朝、下町へ行く途中、われわれはマディスン・スクエアの真北のところで、交通混雑のために、かなり長時間待たされた。マーカムは心配そうにしきりに時計を眺めていた。
「正午すぎだ」と、彼はいった。「クラブに立ちよって、かるく食事をすませていこう。……もっとも君みたいな温室育ちの可憐《かれん》な花には、こんなに早く食事をとるのは、あまりに俗っぽすぎるかもしれないが」
ヴァンスはこの勧誘をどうしようかと考えてみた。
「君のおかげで朝食を食べそこなったからね」と、いくことにきめた。「ベネディクティヌ入りの卵焼きでもご馳走《ちそう》になってもいいね」
数分後、われわれはほとんど空っぽのスタイヴィサント・クラブのグリルに入り、マディスン・スクエアの木立ごしに南の方の眺められる、窓近くのテーブルに陣どった。
注文をすませて間もなく、制服の給仕が入ってきて、地方検事の肱のあたりにより、恭々《うやうや》しく敬礼すると、一通のクラブの封筒に封緘《ふうかん》した宛名のない書状をさしだした。マーカムはそれを読みながら、だんだん好奇心に引き入れられていく表情をした。署名を検査しながら、軽い驚きの色を眼にあらわした。ついに顔をあげて、待っている給仕にうなずいてみせた。それからちょっと失礼させてもらうといって、突然出ていった。たっぷり二十分ほどたつと、また戻ってきた。
「奇体なことだ」と、彼はいった。「あの書状はオーデルという娘を、昨夜、食事と劇場とに誘った男から、よこしたものだ……世間は狭いものだね」と、彼は考えこんだ。「その男はこのクラブに止宿している、地方会員で、町に出てくると、ここを本拠にしているのさ」
「知り合いかね?」と、ヴァンスは面白くもなさそうに質問した。
「六、七度会ったことがあるよ――スポッツウッドという名の男だ」マーカムは当惑しているようだった。「家族持ちの男で、ロング・アイランドの別邸《カントリーハウス》に住んでいる。社交界でも一般から非常に尊敬されている人物さ――オーデルのような娘なぞと、かかりあいがあろうとは、どうしても思われない男だがね。しかし、当人の自供通りだとすると、ニューヨークに滞在中は、そうとう、あの女と一緒に馬鹿遊びをやっている。自分でも、『おそまきの若気の放蕩《ほうとう》』だなどといっている――昨夜あの女を『フランセル』へ食事に誘い、それからウィンター・ガーデンにつれだしたのさ」
「僕の考えでは、夜の利用法としては、悧巧でもなければ、啓蒙的でもないね」と、ヴァンスがいった。「それにしても、なんという不運この上もない日を選んだものだ……ねえ、君、朝刊を開けてみたら、前夜の|可愛い娘《プティトターム》がしめ殺されているとしたら、面《めん》くらいやしないかねえ!」
「たしかに面くらっているよ」と、マーカムがいった。「早版の夕刊《アフタヌーン・ペーパー》が一時間ばかり前に出たんだ、それで、十分おきに、僕の役所に電話をかけていたのだったよ。そこへ、僕が突然ここに入ってきたものだ。女と自分との関係が世間にもれ、自分の面《つら》よごしになりはせぬかと、彼は心配しているのさ」
「もれずにすむだろうか?」
「まさかもれることもあるまい。昨夜、彼女の連れは誰だか知っているものはなし、犯罪に関係のないことが明らかな以上、この事件にまきこんでみたところで、なんのうるところがないよ。あの男は僕に一部始終《いちぶしじゅう》を話してくれた。僕の用がすむまで、町に滞在しているように申し入れておいたのだ」
「僕は、君が戻ってきたときの、あのがっかりしたふさぎようからみて、その男の話も、一向に手懸りにはならなかったと思っていたよ」
「そのとおりなのさ」と、マーカムは認めた。「なにしろ女から身上話については一度も打ち明けられたことがないときてるのだから、参考になるような話はなに一つ出てこなかった。昨夜の出来事についての申し立ては、ジェサップの証言と完全に符合している。七時に女を迎えにいって、十一時に家に送りとどけ、女と一緒に半時間ほどをすごしてから、別れている。女の救いを求める声を聞いたときには震えあがったが、なんでもないと女がいうのをきいて安心し、まどろみながら夢でもみていたのだときめこんで、それっきり気にもかけなかった。このクラブにまっすぐ乗りつけ、十二時十分ほど前に、ついているのだ。レッドファン判事は、彼がタクシーからおりるのをみて、むりに階上にさそって、判事の部屋で待っていた仲間とポーカーをした。今朝の三時までやったのだ」
「ロング・アイランドのドン・ファン君は、たしかに雪の中の足跡を、君には残してくれなかったね」
「なににしても、この際、この男が出てきてくれたおかげで、そうとうに手間どりそうだった捜査の一部をかたづけることができたよ」
「もっと捜査の範囲がちぢまったら」と、ヴァンスは冷かにいった。「さぞかし君は板挟みになって苦しむだろうな」
「これからいよいよ忙しくなるぞ」と、マーカムはいって、食器を押しやり、勘定書を請求した。彼は立ち上って、ちょっと黙って、ヴァンスを考えこむように、ながめた。「一緒にくる気がするほど、興味があるかね」
「え、なんだって、もちろんのことさ……。じつに、すばらしいよ。しかし、まあ、もう少し坐っていたまえ――ねえいい子だから、――僕がコーヒーを飲む間くらいはね」
僕はヴァンスがさっそく承諾したのには、かなり驚いた。もちろん、無造作で、からかい半分のような調子ではあったが。というのは、その日の午後、モントロス美術館で古い中国の版画の展示会があったので、彼はそれを見にいく予定にしていたからである。宋朝の絵画の代表傑作といわれている梁楷《りょうかい》や毛益《もうえき》のような作品が出品されていた。ヴァンスは、なんとかして、それを自分のコレクションに加えたいと願っていた。
われわれは、マーカムと同乗して、刑事裁判所ビルにのりつけた。フランクリン街の入口から入って、|ニューヨーク市刑務所《ザ・トゥムズ》〔俗称墓場〕の灰色の石の壁を見わたせる、広々しているが、うすぎたない地方検事の私室まで、エレベーターであがっていった。ヴァンスは机の右側にある、彫刻のほどこされた樫材《オーク》のテーブルのそばの、どっしりとした革張りの椅子に腰をおろし、いかにも愉快だといわぬばかりの皮肉な様子で、シガレットに火をつけた。
「僕は、正義の車輪が、ぐるぐると廻りだすのを、喜び期待しながら待っているよ」と、彼は打ち明けて、大儀そうにのけぞった。
「君は、その車輪の最初の回転は、どうしても聞けないことになっている」と、マーカムが応酬した。「最初の回転は、この事務室の外側で、はじまるよ」そして彼は、判事部屋に通ずる回転扉を通って、姿を消した。
五分ほどして戻ってくると、彼は自分の机のところにある背部の高い回転椅子の傍まできて、事務室の南側の壁にある四つの高くて細長い窓に背をむけて、坐った。
「いまレッドファン判事に会ってきたがね」と、彼は説明した。「ちょうど昼やすみだったので、ポーカーのゲームについて、スポッツウッドが陳述したことは、間違いはないと、保証してくれたよ。判事は、あの午後の十二時十分前に、クラブの外で会って、午前三時まで一緒にいたのだ。来客に十一時半には戻ると約束しておきながら、二十分も遅れてしまったので、その時刻をよく記憶しているのだそうだ」
「そんなどうでもよいような事実を、どうして確証してみるのだね」と、ヴァンスがきいた。
「手続き上、やむを得んさ」と、やや上気しながら、マーカムはいった。「この種の事件では、あらゆる要素が、たとえ本筋からはなれているようにみえることでも、いちいち検討してみなくてはならないのさ」
「なるほど。ねえ、マーカム」――ヴァンスは椅子の背部に仰向《あおむ》けに頭をもたせて、天井をうっとりと眺めた――「君たち法律家連中が、それほど、うちこんで崇拝しているその金科玉条《きんかぎょくじょう》のおかげで、たまには、どこかで実際になにかがえられているのだと世間では考えているようだが、ほんとは、どこでだって、ただ一度も役にたったことはないのさ。『鏡の中』〔ルイス・キャロルの『鏡の中のアリス』〕に登場する、あの赤い王妃《クイーン》をおぼえているかね――」
「僕は目下多忙だから、手続き対|霊感《インスピレーション》の問題などの討論をやってはおれんよ」と、マーカムは、つっけんどんにいって、机の端の下にあるベルを押した。
若い元気そうな秘書のスワッカが、地方検事の部屋と大待合室との間にある狭い奥まった部屋につづいているドアから、あらわれた。
「部長、お呼びですか」秘書の目は、極度に大きい角縁の眼鏡ごしに、輝いていた。
「ベンに、すぐ一人をここへよこすように、伝えてくれたまえ〔ベンというのは、地方検事局に直属する刑事係長のベンジャミン・ハンロン大佐であった〕」
スワッカは廊下のドアを通って出ていった。一、二分すると、すきのない服装をして鼻眼鏡をかけた一人の、見るからに柔和な、まるまると肥った男が入ってきて、取り入るような微笑をうかべながら、マーカムの前に立った。
「おはよう、トレイシー」マーカムの声は朗らかだったが、そっけなかった。「例のオーデル事件関係の四人の証人の名簿がここにある。すぐにつれてきてもらいたい。電話交換手二人、女中、それに門番だ。西七十一番街の百八十四番地にいるんだ。ヒース警部が、そこに足留めしてあるから」
「承知しました」トレイシーはメモをとって、自信たっぷりではあるが、決して粗野ではない態度で、礼をすると、出ていった。
その後一時間ほど、マーカムは午前中にたまっていたいつもの仕事の整理にあたった。僕はこの男の異常な精力と能率とをみて、すっかり驚いてしまった。平凡な事務家なら、まる一日はたっぷりかかる数多くの重要な問題を、てきぱきと片づけてしまった。スワッカが電光石火のような勢いで、何度も出たり入ったりしていたし、沢山の書記がブザー一つを押すと、入れかわり立ちかわりあらわれては命令をきくと、息もつかないす早さで立ち去った。ヴァンスは、さっきから有名な放火事件の記録集を読みふけっていたが、時々、感嘆したように顔をあげては、活溌すぎる活動ぶりをながめて、たしなめるように頭をふっていた。
四人の証人をつれてトレイシーが帰ってきたと、スワッカが報告したのは、ちょうど二時半すぎだった。それから二時間の間、マーカムは、法律家の僕でさえ、これに比肩するものをめったにみたことがないと思うほど、徹底的に、しかも鋭く四人を訊問もし、また反対訊問もした。二人の交換手にたいする訊問ぶりは、今朝早く行われた仮訊問とはまったく違っていた。だから前回の証言に一つでも要領よく省《はぶ》いてある点があったなら、かならず今度はマーカムのきびしい連発的な質問によって捕えられただろう。けれども、最後に彼らが帰ってもよいといわれたときに、新しい情報が何一つとして明るみに出されてはいなかった。彼らの証言は、もうしっかりと固まってしまっていた。すなわち、誰一人――娘自身と、その送り主と、九時半に訪ねてきて失望して帰っていった訪問客とを除いては――誰一人として七時以後に玄関から入って大廊下を通りすぎ、オーデルの部屋にいった者はなく、また誰一人その道を通って戸外に出ていったものもないということだった。例の門番は六時少しすぎに裏口に錠をおろしておいたのだと、どんな甘言をもってしても、またおどかされても、この点についての自分の主張はゆるがないと、同じことをなんどもくり返していた。女中のエイミー・ギブスンは、自分の以前の証言になにひとつつけ加えることはできなかった。マーカムのはげしい訊問も、ただ前にいいつくした言葉をくりかえさせるだけにすぎなかった。
ただ一つの新しい可能性も――ただ一つの新しい暗示も――ひきだせなかった。実際、二時間の問答の手数も、すべての遁路《にげみち》をただひたすらに塞いでしまって、外見上とうてい信じられないような状況に追いこむ結果となった。四時半になって、マーカムがものうげにためいきをついて、椅子に仰向けになったときは、この驚くべき事件に近づく有力な手段を発見するという好機は、前にもまして、遠くはなれてしまったようにみえた。
ヴァンスは手にした判例集を閉じて、シガレットを投げすてた。
「あのね、マーカム」と、彼はにやにやと笑った。「この事件には手続きじゃなくって、坐禅《ざぜん》が必要なのだよ。水晶球で占《うらない》をたてる第六感をそなえたエジプト人の予言者でも、どうしてよんでこないのかね」
「こんなことがまだまだ長びくようだったら」と、マーカムが元気なくいい返した。「君のご忠告に従いたくなるかもしれないよ」
ちょうどそのとき、スワッカがドアからのぞきこんで、副検査官のブレンナーが電話口に出ていると告げた。マーカムは受話器を取りあげてききながら、用箋《ようせん》になにかメモを忙しく書きとめた。通話が終ると、ヴァンスに向っていった。
「君はあの寝室で発見された鋼鉄製の宝石箱の状態をみて、なんだかうさんくさくいっていたようだねえ。ところで、強盗道具の専門家がいま電話をかけてきてね、今朝のべた意見を確認してきたよ。あの箱は専門の強盗しかもっていないし、また使い方も知らないような特製の鋼鉄製の鑿《のみ》でこじあけられているんだ。一インチ八分の三の斜角の刃と、一インチの扁平な把手《とって》がついているものだ。これは昔からの道具で――刃には特有な刻み目がある――去年の夏の初め、パーク通りの上町《かみまち》で行われた巧妙な押込み事件にもちいられたものと同じものだそうだ。……こんなすばらしい感激的な情報なら、君のご心痛もすこしはなおるだろうね?」
「ききめがあるとはいえないが」と、ヴァンスはまたも深刻な当惑した表情になっていた。「実際は、事態をますます怪奇なものにしているのさ……もしあの宝石箱や鋼鉄製の鑿のことがなかったら、僕はこの一面の暗闇の中に、かすかな光を――おそらくは無気味なこの世のものではなかろうが、なお目には見える輝きを――みとめることができたろうにね」
マーカムが答えようとしているときに、スワッカがまた中をのぞきこんで、ヒース警部が着いて、お会いしたがっていると、知らせた。
ヒースの様子は、今朝、われわれが別れたときほど、ふさぎこんではいなかった。マーカムのさし出した葉巻を受けとって、地方検事の机の前にある会議用のテーブルの上に腰をかけ、使い古した雑記帳をとり出した。
「すこしばかり望みが出てきましたよ」と、彼はいいだした。「バークとエメリとから――この事件を担当させた二人の部下ですがね――一番はじめに捜査を行った現場から、オーデルについてのききこみがありました。二人のききこみによりますと、あの娘は大勢の男を相手にして遊び呆けてはいなかったというのです――二、三の金ばなれの良い連中だけを相手に、いわゆる奸策《フィネス》を弄《もてあそ》んでいたのですな……。一番主だったのが――つまり一番女の所に通っていたのが――チャールズ・クリーヴァという男なんです」
マーカムは立ち上った。
「クリーヴァなら僕も知っている。もし同一人だとすればね」
「同一人ですよ、たしかに」と、ヒースが言明した。「前にブルックリン税務監督官をつとめ、以来ずっとジャージー市の小口勝負の賭博場に出入りしている男ですよ。スタイヴィサント・クラブにも関係しているんです。あすこで、タマニー・ホールの昔の連中とつきあっているんですよ」
「同一人物だ」と、マーカムがうなずいた。「あの男は、たしかポップという綽名《あだな》で、有名な女たらし専門だ」
ヴァンスは空間をじっとみつめていた。
「うむ、うむ」と、彼はつぶやいた。「そうだ、あのポップ・クリーヴァなら、抜け目のない快活なドロレスをもひっかけたことのある男だ。あの女はたしか|美しい眼《ヽヽヽヽ》のために、男を愛するような奴ではないものな」
「私の考えでは」と、ヒースがつづけた。「クリーヴァがあのスタイヴィサント・クラブにいつも出入りしている様子を調べてみて、あなたが、オーデルについて訊問してみられてはいかがですか。なにか知っているにちがいありません」
「名案だ、警部」と、マーカムはメモに書きとめた。「僕が、今晩、あの男にあたることにしよう……。それ以外に、誰か書きとめてある人物は?」
「マニックスという男がいます。――ルイス・マニックスです――この男はオーデルが『フォリーズ』に出ていたころ会っております。しかし一年以上も前に女にふられてからは、二人が一緒にいるのをみかけたものはありません。男には今は別の女があります。毛皮輸入商、マニックス・アンド・レヴァイン商会の主人で、ナイト・クラブの常連の一人です――ひどく金使いの荒い男ですよ。もっとも、この男をたたいてみても、大したことはないと思いますが――オーデルとの関係は大分前から冷たくなっているんですから」
「まったくだ」と、マーカムが同意した。「取りのけてもよいな」
「ねえ君、これ以上そういうふうに取りのけをつづけていたら」と、ヴァンスが注意した。「結局、女の死体の外にはなにも残らないことになるよ」
「それから、昨夜、女を外につれだした男がいますよ」と、ヒースが追撃した。「誰もその男の姓名は知らないようです。――たしかに用意周到な、慎重な遊冶郎《ゆうやろう》の仲間ですな。私ははじめクリーヴァではないかと思ったのですが、人相がぴったりと合わないんです……。それからついでですが、奇妙なことがあるんです。昨夜、あの男は、オーデルに別れてから、タクシーでスタイヴィサント・クラブに乗りつけ、そこで降りているんです」
マーカムはうなずいた。「みんな承知しているよ、警部。どんな人物であるかもわかっている。クリーヴァではなかったのさ」
ヴァンスはくすくすと笑っていた。
「まるでスタイヴィサント・クラブが、この事件の最前線にあるようだね」と、彼はいった。「またニッカーボッカー競技クラブのような悲運にめぐり合わないことを、僕は切望するよ」〔ヴァンスは、一八九八年、四十五番街とマディスン大通りとの角にある昔のニッカーボッカー競技クラブの弔鐘を鳴らしたモリヌウ事件のことをいっているのだ。けれどもスタイヴィサント・クラブにその事業の終止符をうったのは商業主義であった。このクラブはマディスン広場の北側にあって、数年後には取り払われて、摩天楼に代った〕
ヒースは本筋の発言の方に耳を傾けていた。
「どんな人物でしたか、マーカムさん」
マーカムは、他人の秘密をうちあけることの当否に、まるで確信がもてないように、ためらっていた。それからやっといった。「名前は教えよう、ただし絶対秘密だよ。ケネス・スポッツウッドという男さ」
それから、彼は昼食をしている最中に呼びだされたことや、スポッツウッドからは何一つ役に立つような情報を引きだすことができなかった顛末《てんまつ》を詳細に語った。彼はまたヒースに、クラブでレッドファン判事に会ってからのその男の行動について、判事が男の申し立てを正しいと証言した経過をも物語った。
「それで」と、マーカムはつけ足した。「女がまだ殺されないうちに、あの男が立ち去っていたことは明らかなのだから、彼を煩《わずら》わす必要はまったくないね。実際、あの男の家族のために、この事件にまきこんだりはしないと、僕は保証してやったのさ」
「あなたさえよければ、私は別に」ヒースは手帳を閉じて、しまいこんだ。「もう一つ、大したことではないのですが、あります。オーデルは昔百十番街に住んでいたことがあるんです。それにエメリが元の下宿の主婦《おかみ》を掘りだしてきたので、例の女中が申し立てたあの伊達男が、女の許にしじゅう通っていたことがわかったのですよ」
「それで思いだした、警部」マーカムはさっき副検査官のブレンナーと電話で話したときに書き取っておいたメモを取り出した。「宝石箱をこじあけた点について、教授が提供してくださった資料だ」
ヒースはかなり熱心にメモをみていった。「やっぱり予期したとおりだ!」彼は満足げに頭を頷《うなず》かせた。「玄人《くろうと》の鮮やかな仕事さ。この道では相当苦労した奴の手口ですよ」
ヴァンスはにわかに身体を起こした。
「しかしですね、もしそういうことになると」と、彼はいった。「なぜまたこの強盗の名人が、最初に、碌でもない火掻きなどを使ったのでしょうね? また居間の衣裳部屋をみのがしたのは、どういうわけでしょうか?」
「ヴァンスさん、奴さんを捕えてから、きっと残らずお答えいたしましょう」と、ヒースが気むずかしい目付で断言した。「私がちょっとばかり内緒話がしてみたいと望んでいる方は、襞《ひだ》のついた絹のワイシャツを着て、羚羊革《かもしかがわ》の手袋をはめたお方ですよ」
「蓼食う虫も好きずきというものさ」と、ヴァンスが嘆息した。「僕ならこんりんざい、そんな男なんかと内緒話などはしてみたくはないですな。どうも僕には、専門の泥棒が火掻きなんかで鋼鉄の箱をこじあけようとしている図なんかは、ちょっと描いてみる気がしませんよ」
「火掻きはいい加減に忘れるんですな」と、ヒースが無愛想に忠告した。「鋼鉄の鑿で箱をこじ開けたんですから。それも、この夏、パーク大通りの押込み事件に使ったものと同じ鑿なんですよ。|これ《ヽヽ》はどうなんですか」
「ああ、まったく頭痛の種ですな、警部。こんな面倒な事実さえなければ、そうでしょう、今日の午後あたり、僕だってクレアモントで一杯のお茶でも飲みながら、愉快に暢気《のんき》にしていられたんですからな?」
ベラミ刑事が着いたと知らせがあった。ヒースはとび上った。
「きっと指紋の報告にきたんだろう?」と、彼は大いに期待して、予言した。
ベラミは落着いて入ってきて、地方検事の机まで歩みよった。
「デュボイス係長の命令でまいりました」と、彼はいった。「係長はみなさんがオーデル事件で指紋を必要としていられると考えられたのでした」彼はポケットに手を入れ、小さな扁平な折畳んだ紙片を取り出したが、マーカムの指図で、ヒースに手渡した。「確認してまいりました。さきに係長の申し上げましたとおり、両方とも同一人物の手です。あの手はトニー・スキールのものでした」
「『気取り屋』のスキールだって?」警部の声は圧《おさ》えきれない興奮にワナワナと震えていた。「ねえ、マーカムさん、なんとか目鼻がつきそうですね。スキールなら前科のある奴だし、おまけにこの道にかけてはどうして大したしたたか者ときていますからね」
彼はホールダーを開けて、長方形のカードと、八行か十行ほどタイプした一枚の青い紙片とをとりだした。彼はカードを調べ、満足そうにニヤリと笑って、それをマーカムに手渡した。ヴァンスと僕とは歩みよって、それをみた。一番上の方には例の犯人の人相写真が貼ってあった。それは濃《こ》い頭髪と角張った頤《あご》をした、普通の容貌の青年の正面からみた顔と横顔との二枚の写真であった。この男の両眼の間は大きく開き、弱々しかった。先端をワックスでかため、ピンとはね上げた、きれいに刈込んだ小さな口髯をつけていた。この二枚の写真の下には、この男の本名、異名、住所、ベルティヨン式の犯人の鑑別法〔一八三五年、フランスの人類学者ベルティヨンの発明したもの〕非合法の職業の内容の特色を簡潔に書いた説明書がついていた。その下には二段に四角形の桝《ます》十個が並んでいて、その桝の一つ一つに黒インクで撮《と》られた指紋の印像があった、上段には右手の、下段には左手のものが写されていた。
「これが例の正装に絹のワイシャツを着こんでいる、通人という奴か。たいへんなものだ!」ヴァンスは身元証明書を皮肉たっぷりな表情で眺めていた。「この先生に、ディナー・ジャケットにゲートル付の長靴といった服装でも、せいぜい流行らせてもらいたいね――ニューヨークの劇場は冬になると、おそろしく隙間風が吹きこむところだからね」
ヒースはカードをホールダーにしまって、カードに付いていたタイプされた文書を眺めた。
「下手人はこいつですな。まちがいありません、こう書いてあります。『トニー〔気取り屋〕・スキール。一九〇二年より〇四年、エルミラ感化院に二年、一九〇六年、軽窃盗罪《けいせっとうざい》のためバルチモア郡立刑務所に一年。一九〇八年より一九一一年、暴行強盗罪のためサン・クェンティン刑務所に三年。一九一二年、家宅侵入の嫌疑によりシカゴで逮捕、後に放免。一九一三年、アルバニにおいて強盗罪の容疑のため逮捕、取調べ、但し証拠不十分。一九一四年より一九一六年まで、家宅侵入並に強盗罪に問われ、シン・シン刑務所において二年八カ月服役』」彼は紙を折畳んで、カードと一緒に胸のポケットにしまった。「なかなか要領を得た記録ですね」
「お役に立つような情報でしょうか?」と、冷静なベラミがきいた。
「もちろんだとも!」ヒースはすっかり陽気になっていた。
ベラミはなにかを待っているように、片眼で地方検事に合図を送った。すると、マーカムは急になにかを思い出したように、葉巻の箱をとりだして、相手にすすめた。
「おおきに」と、ベラミはいって、ミ・ファヴォリタスを二本とって、大事そうに、チョッキのポケットにしまいこんで、立ち去った。
「マーカムさん、おさしつかえなければ、電話をお借りしたいのですが?」と、ヒースがいった。
彼は殺人係を呼び出した。
「トニー・スキール――気取屋のスキールだ、|急いで《プロントオ》、捜し出してくれ。見つけ次第、逮捕してくるんだ」スニットキンにたいする命令だった。「|書類綴り《ファイル》で、住所を調べ、バークとエメリとを同行していきたまえ。ずらかっていたら、非常警戒線を張って、網にひっかけるんだ――誰かうちの連中が、あいつに連絡をもっているはずだ――記録にはのせずに拘留しておくんだ。わかったな?……ああ、それから奴の部屋を捜査して、強盗道具を手に入れておきたまえ。おそらくなに一つ残してありはしまいが。どんなことがあっても押収しておきたいのは、刃に刻み目のある一インチ八分の三の鑿だ。……あと三十分もしたら、僕も本署にいくからね」
彼は受話器をかけて、両手をすり合せた。
「いよいよ、船も動きだしましたね」と、悦に入った。
ヴァンスは窓辺にいって、両手をポケットに深くつっこんだまま、「溜息の橋」から、下界をじっとみおろして、立っていた。やがて、静かにふりかえると、考え深そうな眼付で、ヒースをみつめた。
「そうは簡単にはいかない、と思うんですがね」と、発言した。「なるほど、君の友人の『気取り屋』ならば、あのひどい箱をこじ開けもしようが、それ以外の昨夜の演出ぶりは、あの男の頭の型には、ぴたりとはまったものではないですね」
ヒースは轟然と構えていた。
「骨相学者ならいざ知らず、私は指紋の形によってやるまでです」
「それはひどい間違いですよ、犯罪捜査の技術としたってね、わが警部さん」と、ヴァンスは快活に答えた。「この事件の有罪性の問題は、君のご想像のように、そんなに単純なものではありませんよ。いまいましいほど複雑です。だから、君の心臓の近くにもっていられるあの写真のような、『流行の鑑《かがみ》、礼儀の手本』〔『ハムレット』〕にしても、ただこの事件をいたずらに複雑にさせているだけのものですよ」
第十章 無理じいの会見
――九月十一日、火曜日、午後八時
マーカムは、いつもの習慣どおりに、スタイヴィサント・クラブで晩餐をとった。ヴァンスも僕も招かれて同席した。われわれが一緒に食事をしていれば、思わぬ交際を押しつけられるという危険を防ぐ役にはたつと考えていたにちがいない。というのは、物好き連中のように冗談をとばしたりする気分にはなれなかったからである。午後遅くなって雨が降りはじめていた。食事が終るころには、夜中まで降りつづきそうな、どしゃ降りになっていた。食事が終ると、われわれ三人は談話室の奥まった一隅に身体を落着けて、しばらく煙草をふかした。
われわれが落着いて十五分とたたないうちに、立派な、血色のよい顔をした薄い白髪の小肥りの男が、足音を立てずに、自信のある歩調で、われわれのそばにぶらぶらと近づいてきて、マーカムに、今晩は、と陽気に挨拶をした。僕はこの新来の男とは一面識もなかったが、この男がチャールズ・クリーヴァだな、と直感した。
「私に会いたいというお言伝《ことづ》てを机の上でみましたので」身体のわりにはやさしい声で話しかけたが、そのやさしさにもかかわらず、どこか打算と冷淡な音色がこもっていた。
マーカムは立ち上って、握手を交わしてから、ヴァンスと僕とを紹介した。もっとも、ヴァンスは以前に多少とも面識があったようにみえた。彼はマーカムのすすめた椅子に腰をかけ、コロナ・コロナをとりだして、重い懐中時計の鎖についている金の鋏《クリッパー》で注意深く吸い口を切り、両唇に挟んでぐるぐる廻して、その葉巻を湿してから、コップ状に両手でしっかりかこって、火をつけた。
「クリーヴァさん、ご足労をおかけして恐縮ですが」と、マーカムがきりだした。「たぶんもうお読みになったでしょうが、マーガレット・オーデルという名前の若い婦人が、昨夜、七十一番街の自室で殺されました……」
彼はちょっと言葉をきったが、明らかに、あまりにも微妙すぎる問題を、どういうふうにきり出したら一番よいかと、思案しているようにみえた。きっとクリーヴァが自らすすんで、娘と交際していた事実について、話し出すだろうと期待していたのだろう。しかし、この男は顔の筋肉一つ動かさなかった。それで、マーカムがしばらくして話をつづけた。
「あの若い婦人の生活を調べているうちに、あなたが誰よりも一番よくあのご婦人をご存じだったということがわかったのです」
またちょっと沈黙した。クリーヴァはほとんどみわけのつかないほどではあったが、眉毛をあげた。しかしなにも口には出さなかった。
「事実を申しますと」と、マーカムは、相手のあまりにも慎重な態度に少し腹を立てて、いった。「私の受けた報告によりますと、かれこれ二年間というもの、あの婦人とご一緒だったということです。実際、私の入手している情報から判断することのできる唯一つの推論は、あなたがオーデル嬢になみなみならぬ関心を寄せられていたということです」
「ははあ、それで?」この疑問符は穏やかであったが、それに劣らず曖昧《あいまい》であった。
「それでは」と、マーカムはくり返した。「クリーヴァさん、申しあげておきますが、言いわけをしたり隠しだてをなさっているような場合ではないということです。私はあなたと、今夜職権によって、お話ししようとしているのです。それと申すのも、事態を明らかにする上に、あなたになにかとご協力を願えるものと思っているからです。ある男が目下重大な容疑をかけられていると率直に申し上げておきましょう。容疑者はじきに逮捕されるものと思っています。しかし、いずれにしても、われわれはご助力を必要としています。それで、このクラブで、あなたといささかご懇談を願うような次第なのです」
「で、私などにお力添えができますでしょうか?」クリーヴァの表情は依然として冷淡であって、こうきいたときに、両唇が動いただけであった。
「あなたほどに十分に、あの若いご婦人をご存じになっておられれば」と、マーカムは忍耐強く説明した。「あの残酷な、表面上思いもかけぬ殺人に光明を与えるような、なにかの情報――ある事実とか、内証話とか申すようなものをですな――きっとおもちあわせだろうと思いますが」
クリーヴァはしばらく黙っていた。その眼は自分の前にある壁に向っていたが、それ以外の表情は相変らず動かなかった。
「遺憾《いかん》ながら、私にはどうもご便宜をはかることはできそうにありません」と、ついに口をきった。
「あなたの態度は、良心のまったく潔白な方に期待できるようなものとは申せませんな」と、マーカムは憤りを露骨にみせて、いい返した。
男は穏やかに尋《たず》ねるような視線を地方検事にむけた。
「私が娘を知っていることと、その娘が殺されたこととは、どういう関係があるのでしょうか? 自分を殺す者は誰である、と私に打ち明けてくれたことはありませんし、自分をしめ殺そうとしている者を知っているとも、話したこともありませんでした。もし自分で知っているくらいならば、きっと殺されまいとしたはずです」
ヴァンスは、僕のすぐそばに、他の連中から少しはなれて坐っていたので、かがんだまま、僕の耳元で低い声でささやいた。
「マーカムはまるで法律家を相手にしているようなものじゃないか、――どうだい!……あの苦戦ぶりは」
しかしこの問答ふうの小論争はどれほど不手際にはじめられたにしても、最後にはクリーヴァの完全降伏に終るような、残忍な闘争に、やがて発展していった。マーカムは、性来の慇懃《いんぎん》と優雅さにもかかわらず、無慈悲な機智縦横の闘将だった。ほどなく、クリーヴァから、あるきわめて重要な情報をひきだしてしまった。
その男の皮肉たっぷりな遁《に》げ口上に応じて、彼はす早く向きをかえて、体を前にかがめた。
「クリーヴァさん、あなたはご自分の弁護をなさるために証人台に立っていられるわけではないのですよ」と、彼は鋭くいった。「どれほどご自分では、そのような立場をとれるものだとお考えになりたくってもですよ」
クリーヴァは返辞をせずに、じっと睨みかえした。すると、マーカムは、視線を相手と同じ高さにすえて、相手の顔をじろじろと眺め、相手の粘液質の顔色からでも、できるだけのものを判読しようときめていた。しかし同時に、クリーヴァの方も、自分が向い合っている男に、絶対になに一つ判読させはせぬぞ、と決心しているようだった。マーカムの穿鑿《せんさく》にむかい会ったその表情は、荒野のように乾燥無味なものだった。ついにマーカムは自分の椅子《いす》に深く身を沈めた。
「私は一向にかまいませんよ」と、彼は冷淡にいった。「あなたが、この問題を、今晩、ここで討議なさるとなさるまいとね。明朝、警官が召喚状をたずさえて、ご一緒に、私の役所の方へご足労願うのをお望みなら、そのようにとりはからいますよ」
「どうぞご随意に」と、クリーヴァは反抗的にいった。
「それでは、この件について新聞記事にどう出るかも、記者諸君に一任といたしましょう」と、マーカムが答えた。「私としては、記者諸君に一般情況を説明した上で、この会見の報告を逐一しておきましょう」
「しかし、私にはなにも申しあげることはございませんよ」相手の口調は急に妥協的になった。世間に公表されるということは、考えてみれば、明らかに一番好ましくないものであった。
「そのことならもう伺いましたよ」と、マーカムは冷たくいった。「では、やむを得ません、今晩はお暇《いとま》いたしましょう」
彼は、不愉快な話はおわった、というふうな態度で、ヴァンスと僕との方にふりむいた。けれども、クリーヴァは立ち去ろうとはしなかった。一、二分、考え深く、煙草をふかしてから、相好《そうごう》をくずさずに、ちょっと硬《こわ》ばった笑いをもらした。
「畜生!」と、彼はいかにもわざとらしい善良さでつぶやいた、「仰せのとおり、私は証人台に立っているわけではございません……いったいなにをお知りになりたいのですか?」
「そのへんの事情はすでに申し上げたとおりです」マーカムの声はいつにない怒気がこもっていた。「私の知りたいことは、ご存じのはずです。たとえばオーデルという娘の生活ぶりはどうか、親しい友人関係は誰か、殺意をもっていそうな人物は誰か、どういう種類の敵があったか、彼女の死んだ事情を説明してくれそうなものはなんでもです。……さらに、それに付随して」と、彼は辛辣《しんらつ》につけたしていった。「この事件に関して、直接にせよ間接にせよ、あなたご自身の容疑を、おいのけられるようなことも、すべてですな」
クリーヴァは最後の言葉をきくと、身体を硬くして、憤然として抗議しようとした。しかし、じきに作戦を換えた。軽蔑するような微笑を浮かべながら、レザーの|懐中入れ《ポケット・ケース》を取り出して、その中から一枚の小さな折り畳んだ紙片を引きだして、それをマーカムに手渡した。
「私自身の容疑をはらすのはたやすいことです」と、自信満々といった。「ニュージャージー州のブーントンからきたスピード違反の召喚状です。日付と時間とにご注意ください。九月十日――昨夜です――十一時半です。ホパットコンに車で行く途中でした。ちょうどブーントンを通りすぎ、マウンテン・レイクスにむかったとき、オートバイに乗った交通巡査に、つかまったのです。それで、明朝そこの法廷に出頭しなければなりません。いやはや、厄介なことです。田舎の警官となりますとな」彼はマーカムをいつまでも抜け目のない表情で眺めた。「なんとかあなたのおはからいで片づきませんでしょうか? とにかく、ジャージーまで一走りするのは迷惑なことですね、それに明日は仕事が山ほどありましてね」
マーカムは、召喚状を丹念に点検してから、自分のポケットにしまいこんだ。
「せいぜいご希望に添うようにいたしましょう」と、にこにこしながら約束した。「では、ご存じになっていることをお話ください」
クリーヴァは、考えるように、葉巻の煙をプウッと吹き出した。それから、背をもたせかけ、両膝を組み合せて、いかにも率直な態度で語った。
「お役にたつようなことをたくさん知っていますかどうか……。私は、あの娘を――いつもカナリヤでとおっておりましたが――愛しておりました。実際、一度はあの娘にかなり夢中になっていました。いろいろお恥しいこともいたしました。昨年キューバに参りましたときなどは、まったく馬鹿げた便りを沢山送ったものですよ。アトランティック・シティまで一緒に出かけて、写真まで撮《と》りましてね」彼は自分を嘲笑するように、渋面を作った。「その後、向うから、よそよそしくなって、何度も、私との約束を破りました。私も憤慨してゴタゴタしましたが、結局、金をよこせというのが落ちでした……」
彼は話を中止して、葉巻の灰をながめた。細くした眼には、害意にみちた憎悪がかがやき、顎の筋肉が硬くなった。
「嘘を申しあげてもいたし方ありませんが、私の手紙やなにかを種にして、私からかなり多額の手切れ金をまき上げた上で、ようやく返してよこしたのです」
「それはいつ頃でしたか?」
一瞬ためらっていた。「六月でした」と、クリーヴァはこたえた。それから、急いでいった。「マーカムさん」――その声は痛々しかった――「死人に泥はかけたくありませんが、あの女は、めぐり会った私の不運とは申せ、この上もない狡猾《こうかつ》な、冷血無情な恐喝屋でした。それにこんなことも申し上げておきましょう。あの女からわけもなくだまされて、絞りとられたお人よしは、私一人ではなかったということですよ、多くの男を手玉にとっていたんです……ふとした折にわかったのですが、あの女はルイス・マニックス老人からもずいぶんしぼりとっていました。――老人が打ち明けてくれました」
「おさしつかえなければ、その他の男たちの名前も教えていただけませんか?」と、マーカムは、自分の熱意を相手に悟られないようにしながら、たずねた。「マニックスの一件は聞き及んでおりますが」
「いいや、私にはできかねます」クリーヴァはいかにも残念そうに語った。「カナリヤがちがった男たちと一緒にあちこちにいるのは見かけました。また特におなじみの男が一人いたのを、最近になって知りました。でも、みんな私の知らない人たちでした」
「マニックスの一件は、もうすっかりけりがついていたと、お思いになりますか」
「そうです――昔話ですよ。そちらの方面からは、情報を手に入れることはできますまい。しかし別の男たちは――マニックスよりもっと新しい男たちですが、見つかりさえすれば、調べ甲斐《がい》のある連中でしょうな。私はどうも暢気《のんき》な方でして、なにごとも成り行きまかせの方でした。でも、あの女が私にしたような仕打ちを他の連中にもしていれば、短気な真似《まね》をやりかねない連中も随分とありますからね」
クリーヴァは、こう告白しているにもかかわらず、僕には暢気なほうだとは、どうも思われなかった、かえってその無感動ぶりからみて、たえず政略と打算とによって支配されている、冷酷で、自制心の強い、無神経な人間としか思われなかった。
マーカムは彼を注意ぶかく眺めていた。
「それで、あなたは、女の死んだのは、あるいは迷夢から醒《さ》めたある賛美者が復讐からしたことではないかと、お考えになるのですか?」
クリーヴァは慎重に返事を考えていた。
「あの女は破滅に向うようなことをしていた、と考えるのが正当なような気がします」と、ついに答えた。
短かい沈黙がすぎると、マーカムがたずねた。
「あの女が心を惹《ひ》かれていた青年で――男前の、小さな、金髪の口髭をたくわえた、明るい青い眼をした、スキールという名の男を、もしやご存じではありますまいか?」
クリーヴァは嘲笑するように鼻を鳴らしていた。
「あれはカナリヤの専門じゃないのです――私の知るかぎりでは、あの女は若い男にはかまわん方でした」
このとき、召使の少年がクリーヴァに近づいて、お辞儀《じぎ》をした。
「お話中、恐れ入りますが、お兄さまにお電話でございます、お兄さまはただいまクラブにはおいでになりませんが、なんでも大事なご用件だと申しています、交換手も、あなたさまなら、お兄さまの行先がおわかりになるだろうと申すものですから」
「どうして私にわかるものかね」と、クリーヴァはやっきになっていった。「兄にかかってきた電話なぞ、今後、取次いでもらっては困るね」
「お兄さまがニューヨークにいられるのですか」と、マーカムは無造作にたずねた。「何年か前にお目にかかったことがあります。たしか、サンフランシスコの方ですな?」
「仰せのとおりです――気狂いじみたカリフォルニア人ですよ。目下、二週間ばかりの予定で、ニューヨークを見物中なのですが、帰っていけば、フリスコがますます好きになることでしょう」
僕には、この情報が不承不承に与えられたように思われた。また僕はクリーヴァが、なにか理由があって、当惑しているような印象をうけた。しかしマーカムは、明らかに、当面の問題にあまりに心を奪われていたので、相手の不機嫌《ふきげん》な様子には一向に気がつかなかった。というのは、彼はすぐに話題を以前の殺人事件にもどしてしまったからである。
「最近オーデルという女に興味を感じている男を、偶然にもひとり知っておりますが、たぶんあなたが女と一緒にいるのをみかけられたというのと同じ人物なのでしょう――背の高い、四十五歳くらいの、両端を短かく刈り込んだ半白の口髭をはやした男です」〔彼がスポッツウッドの話をしているのが、僕にはわかった〕
「それ、それ、その男ですよ」と、クリーヴァが確信をもっていった。「つい先週ですが、私は二人がムーキン料理店にいるのをみかけました」
マーカムは失望した。
「残念ながら、その男は調査した結果、リストからはずしてあります……しかし、他に、あの娘が信用していた男がいなければなりません。なんとか役に立つ男を、頭から絞りだしていただけませんかな?」
クリーヴァは思案をしているようにみえた。
「あの女が信用していた人物ということになりますと」と、彼はいった。「リンドクイスト博士などはいかがでしょうか。――ファースト・ネームは、たぶん、アンブローズだと思いますが。それに博士はレキシントン大通りに近い、たしか四十番街のどこかに住んでおられるのです。けれども、博士があなたのお役に少しでもたつかどうか、私にはわかりかねますが、とにかく、一時はかなりあの女と親しくしていました」
「そのリンドクイスト博士が、本職以外の点でも、女に興味をいだいていたにちがいないとおっしゃるのですね?」
「そのへんのことはちと申し上げかねます」クリーヴァは、ひそかに事情を検討しているように、しばらく煙草をふかしていた。「いずれにせよ、事実を申し上げましょう。リンドクイストは、自分では神経学者だと申していますが――そのような独特な領域の専門医の一人で、たしか婦人の神経患者相手の特殊な私立療養所の所長をつとめておられます。金はあるにちがいないし、もちろん、社会的地位も博士にとっては重要な資産ですが――とにかく収入のもととしてカナリヤの選びそうな恪好《かっこう》の人物なのです。博士は、あれほど立派な学者としてはふさわしくないほど、しきりに女の許に通っておられました。ある晩、私は博士と女の部屋でかち合いましたが、女が私共を紹介したときには、その物腰は礼儀をわきまえているとは申せませんでした」
「すくなくとも調べてみるだけのことはありましょうな」と、マーカムは熱のない調子で答えた。「役に立ちそうな人物を、ほかにご記憶はありませんかな?」
クリーヴァは頭を振った。
「さあ――べつに」
「誰かに恐怖を感じているとか、面倒がおきそうだとか、なにかそういったことについて、あなたに打ち明けたことはないでしょうか?」
「一言もございませんでした。ですから、じつは、あの報道《ニュース》をみたときは狼狽《ろうばい》いたしましてね。私は朝刊の『ヘラルド』しか新聞をとってはおりません。――もちろん、夜分は『日刊出馬表』をよんでいますが。今朝の新聞にはあの殺人事件の記事がのっていませんでしたので、夕食のちょっと前まで、なんにも知りませんでした。ビリヤード室のボーイ連が噂《うわさ》をしていましたので、外に出て夕刊をみたのです。そんなことでもありませんでしたら、明朝まで、きっと事件には気がつかなかったでしょう」
マーカムはこの事件について彼と八時半過ぎまで話しあった。しかしこれ以上はなんの暗示も引きだすことはできなかった。ついにクリーヴァは立ち上って出ていきかけた。
「ご期待にそえませんで、遺憾に存じます」と、彼はいった。その赤ら顔はいまでは晴やかにほほえんでいた。そして、いかにもうちとけた態度で、マーカムと握手をかわした。
「なかなか鮮やかに、あのねちねちした老練な道楽者の口を、割らせたね」と、クリーヴァが立ち去ったあと、ヴァンスはいった。「とにかく、あの男には、いやに妙なところがある。賭博者然としたガラスのような目つきから、おしゃべりな打ち明け話に移る変化はあまりにも急激だ――実際、容疑十分なほどに急激だったよ。僕のひがみかもしらんが、あの男からは、光にとんだ真理の柱石といった印象は、受けとれなかったね。きっと、あの男のような冷たい、とっつきの悪い眼がきらいなせいかもしれない――どっちにしたって、あの眼は、胸襟《きょうきん》を開いて率直にふるまっているという大げさな身ぶりとは、調和していなかったよ」
「あの男の苦しい立場には同情できるところもあるさ」と、マーカムが情けをかけるようにいった。「情婦からね、弱味を抑えられ、しぼられるままになったとあっては、まったく目もあてられないからな」
「それにしても、六月に手紙をとり戻しているのなら、なんだってまたあの婦人にいつまでもいいよったりしていたのだろうね? ヒースの報告だと、その方面ではあの男も最後までなかなか積極的だったといっていたね」
「完全な色男なんだろうよ」と、マーカムがほほえんだ。
「アブラ〔ソロモンの寵愛深かった女〕を愛する男みたいにかね?
アブラは、名を呼ばれれば、いつでもやってきた
他の名を呼んでも、アブラがやってきた
きっとこのとおりだろうよ、当世風のケイリ・ドラムルといったところだね」
「なににしても、リンドクイスト博士という、なかなか有力な情報源を提供してくれたよ」
「それにちがいないね」と、ヴァンスは調子を合せた。「だが、僕がとくに信用したい点は、あの男の情熱的な身上話だけさ。なぜなら、あの男が、やや上品に控え目に話をしてくれたのは、この点だからね……僕は忠告しておくけれど、一刻も早く、あの美人専門のエスクラピウス〔医者〕と会見してみることだ」
「僕はひどく疲れてるんだよ」と、マーカムが異議を申したてた。「明日まで待つとしよう」
ヴァンスは石の煖炉棚の上にかかっている柱時計をちらっと眺めた。
「少し遅いと思うが、ギリシアの鉄人ビッタクスの忠告したように、好機逸すべからず、としようじゃないかね?
好運の女神をとり逃せば、二度と見つけられない
一度逃がした機会は、後頭が禿げている
しかし、ローマの老カトーも、すでに詩人コオリの心を酌んで、詩を書いていたよ。例の『死人の二行詩』の中で、歌っている、『|前髪を《フロンテ・カピラタ》』――」
「いこう」と、マーカムが立ち上りながら、ぶつぶついいだした。「博学ぶりもそこまでいけば、たまったものじゃないからな」
第十一章 情報蒐集
――九月十一日、火曜日、午後九時
十分後に、われわれは東四十四番街にある堂々とした、古めかしい褐色の石造の邸宅のベルを鳴らしていた。
派手な服装をした執事《バトラー》がドアを開けると、マーカムが名刺をさしだした。
「すぐ博士にこれをお渡しして、急用だとおっしゃって下さい」
「博士はただいまお食事中でございます」と、そのいかめしい家令はいって、われわれを、深くて居心地《いごこち》のよい椅子や、絹の垂帳や、やわらかな照明などで、豪奢《ごうしゃ》に飾りつけた応接間へ、案内した。
「典型的な婦人科医の御殿だ」と、周囲をみまわしながら、ヴァンスはいった、「ご主人のパシャ殿も、さぞかし堂々とした、優雅な御仁だろうな」
その予言は適中した。少したってから、リンドクイスト博士はまるで自分では判読しかねる楔形文字《せっけいもじ》の題辞でもみているように、地方検事の名刺を点検しながら、部屋に入ってきた。四十を半ばすぎた年頃の、背の高い人物で、頭髪や眉毛の豊かな、並はずれて青白い顔をしていた。顔は長く、一つ一つの道具は均整がとれていないにもかかわらず、立派《ハンサム》とよんでもいいものだった。略式の礼服をきていた。極端に自分の声望を意識している人間の、いかにもそれらしい四角ばった物腰で、歩みよってきた。彫刻を施したマホガニーの卵形の机にむかって席をとり、鄭重《ていちょう》に問いかけるような視線で、マーカムを下からみあげた。
「おたずねにあずかり光栄に存じますが、ご用件は?」と、彼は一語一語を大事にするように発音しながら、いかにもわざとらしい、調子のついた声で、たずねた。「ちょうど在宅いたしておりまして、なによりでした」と、マーカムがまだ口をきかぬうちに、つけ加えた。「私は、患者を診察いたす場合には、お約束の方にだけいたしておりますが……」あらかじめ念をいれた儀礼的な手順をふまないで、われわれを出迎えたことには、かなり自尊心を傷つけられているように感じられた。
マーカムは、もともと遠まわしにいったり、見せかけをつくろったりすることには、いっさい頓着しない性《たち》だったので、単刀直入に急所にきりこんでいった。
「先生のご診察をうけにまいったものではございません、じつは、昔、先生の患者の一人で――マーガレット・オーデル嬢と申す者につきまして、おききしたいことがありまして」
リンドクイスト博士はぼんやりと回想するような目つきで、自分の前にある金の文鎮《ぶんちん》を眺めた。
「なるほど、オーデル嬢ですか。ちょうどいま、あの女《かた》のお気の毒な最後を読んでいたところでしたよ。なんという不幸な悲しむべき事件でしょう……。幸い私でなにかお役に立つことでもございましたら――もちろん、ご存じのとおり、医者と患者との関係は、いわば神聖な秘密の一つとも申すべきものでして――」
「その点なら、十分に承知しております」と、マーカムは無愛想に保証した。「と同時に、殺害犯人の逮捕には、当局とご協力ねがうことも、すべての市民の神聖な義務というものです。かようなわけで、実はあなたにご協力願えるようなことがあれば、ぜひとも伺わせていただきたいと存じます」
博士は丁寧に抗議するように、手を軽く上げた。
「もちろん、ご協力できることがあれば、いたしましょう、そちらのご希望さえはっきりとおっしゃっていただけますならば」
「藪《やぶ》をつつきまわる必要はなし、というわけですよ、先生」と、マーカムはいった。「オーデル嬢があなたの昔なじみの患者の一人だったことは解っております。またあの女が、亡くなるについて直接関係のありそうなある個人的なご相談を、あなたにいたしたということも、あるいはなどと申しあげるどころか、相当にたしかだと、こう考えておるのです」
「しかしですね、ええと――」リンドクイスト博士は見えをはって、名刺を眺めた。「マーカムさん、オーデル嬢と私との関係はまったく仕事上のものでしたんですよ」
「そのことなら先刻承知しております、しかし」と、マーカムはしいていった。「あなたのおっしゃることは、なるほど言葉の上では真実のことでありましょうが、なんと申しましょうか、その関係という点では、非公式なものがあったとみとめられるでしょう。あの女の場合には、あなたのご研究上の態度は、純粋な科学的興味をば、はるかに超えるものがあったと申してはいかがでしょうか?」
僕は、ヴァンスが小声でくすくすと笑うのを、耳にした。僕自身も、マーカムのまわりくどい冗漫な訊問をきいて、微笑をおさえることがむつかしかった。しかしリンドクイスト博士は、すこしも動揺してはいないようであった。なにか考えているような態度を装って、いった。
「間違いのおこらないように、事実をうちあけて申しあげましょう。あの患者の場合には、かなり長い期間にわたって療治をしているうちに、私はあの若い婦人を、ある種の――なんと申しましょうか、父性愛とでも申すようなものでしょうか、そういう気持でみるようになったのです。しかしあの婦人の方で、このような私の愛情にすこしでも気がついておりましたかどうかは、いまでもわかりかねております」
ヴァンスは口の両端を軽くピクピクと動かした。ものうそうな眼をして坐っていたが、穿鑿《せんさく》するような興味で、相手の医者を観察していた。
「それで、あなたには、自分の悩んでいるような、なにか内密の、つまり個人的な問題なぞは、打ちあけなかったとおっしゃるんですな?」と、マーカムが押しすすんだ。
リンドクイスト博士は指をピラミッド状に合わせて、その質問を熱心に吟味《ぎんみ》しているようにみえた。
「いいえ、そのような内容の話については一言も思いだしかねているのです」彼の言葉は整然として、しかも洗練されていた。「そんなわけで、自然、あの方の暮し向きも、たいていのところは、存じておりました。もっともくわしいところは、すぐにおわかり願えると思いますが、まったく、主治医としての私の領分外のことでありました。あの方の神経疾患は――私の診断するところでは――夜更し、興奮、不規則、暴食など――俗に、放埓《ほうらつ》な暮らしといわれているものに原因しておりました。現代の女性は、今日のような熱病時代になりますと――」
「恐縮ですが、最近はいつごろお会いになりましたか?」と、マーカムはしびれをきらして、遮《さえ》ぎった。
医者はいかにもおどろいたといった身振りをした。
「最近、いつ会ったか?……そうですねえ」やっとのことで、その時期を思い出した、という様子をした。「たぶん二週間ほど前のことでしょう――あるいはもっと以前であったかもしれません。どうも確かなことはおぼえておりませんが……書類《ファイル》で調べてまいりましょうか?」
「それには及びますまい」と、マーカムはいった。ちょっと間をおいてから、うちとけた気軽な表情で、医者をみた。「それで、その最後のご訪問は父親としてのご訪問でしょうか、それともただ職務上のご訪問でしたのでしょうか?」
「もちろん、職務上のことです」リンドクイスト博士の両眼は平静で、いくぶん感興を催したようだが、その顔は決して自分の胸中の思いを、ありのままに反映してはいなかった、と僕は感じた。
「お会いになったのは、こちらでしたか、それともあの方の部屋《アパート》でしたか?」
「たしか私の方からお宅へお伺いしたのだと思います」
「先生は、大変ご熱心にたびたびおでかけだ――そうですな――それもいささか異例なお時間に……これもやはり、お約束でなければ、患者をご診察なさらない先生の流儀に、まったくかなっているのでしょうな?」
マーカムの声音《こわね》は朗らかだったが、質問の内容からみて、僕には、相手のしらじらしい偽善に、明らかに腹を立てていることを察せられたし、またわざと関係情報を知らせまいとしていることも感じられた。
ところが、リンドクイスト博士がまだ返答もせずにいるところへ、執事《バトラー》がドアを開けて現われ、机の脇の低い床几《タブレット》の上においてある|切換自在式の電話《エクステンション・テレホーン》を黙って指さした。医者はお世辞たっぷりないいわけを小声でつぶやきながら、ふりむいて受話器《レシーバー》を取り上げた。
ヴァンスはこの好機を逃さず、紙片になにかを書いて、こっそりとマーカムに渡した。
電話がすむと、リンドクイスト博士は傲然と身構え、冷やかに嘲笑するように、マーカムに顔をむけた。
「地方検事の職務というものは」と、よそよそしくたずねた。「尊敬すべき医師たちにたいして、失敬極まる質問をして悩ますことにあるのでしょうか? 医者が自分の患者を訪問することは違法だとも――またただそれだけで、奇抜だとも――私は思いませんがね」
「今日のところは」と、マーカムはその言葉に力をこめていった。「あなたの違法行為を論じておるのではありません。私の考えてもいなかった可能性を暗示してくださった以上、どうでしょう――いや、これはただ形式上の問題なんですがね――昨夜十一時と十二時との間に、どちらにあなたがおいでであったか、それをお伺いいたしたいんですが?」
この質問は驚くべき効果を発揮した。リンドクイスト博士は急にピンとひっ張った綱《ロープ》のように、緊張した。そしてゆっくりと、しかも不自然に立ち上って、冷酷な極度の反感を顔に現して、地方検事を睨みつけた。その天鵞絨《ビロード》のような仮面ははがれてしまった。僕はこの抑圧された憤怒の下に、もう一つの別の感情がひそんでいると見てとった。その表情は恐怖をつつみかくし、その怒りは狂気のような不安を、半ばまでしかかくしきれていなかった。
「昨夜、私がどこにいようと、あなた方にはなんのかかわりもないことです」彼はやっとの思いでいった。呼吸も荒々しく乱れていた。
マーカムは、冷静そのもののように、自分の眼の前でふるえている男に、視線を集中していた。この冷静な熟視が、完全に相手の自制力をうちこわしてしまった。
「なんのいわくがあって、無礼千万ないいがかりをつけ、ここまで押しこんできたんだ?」と、大声で叫んだ。顔は真青になり、斑点ができ、物凄《ものすご》いほどに歪んだ。両手は発作的にふるえ、全身ががたがたと震えていた。「出ていけ――この|小役人ども《マアミダンス》! 出ていけ、こっちから放り出されんうちにな!」
マーカムも、こんどは腹をたてて、返答をしようとしたときに、ヴァンスが腕を押えた。
「お医者は帰ってよろしいとおだやかにいわれているんだよ」と、いって、驚くようなす早さで、マーカムをひっぱって、しっかりと、ドアの外につれだした。
ふたたび車にのると、例のクラブに帰っていく途中で、ヴァンスは愉快そうに、くすくすと笑っていた。
「見事な標本だよ、あれは! 慢性精神錯乱《パラノイア》なのさ。いや、それよりも狂燥・憂鬱性精神錯乱かな――循環性精神錯乱型といったものだ。狂的興奮の時期と完全に冷静な時期とが交互にやってくるんだね。どっちみち、あの医者の取り乱し方は、性的本能の過剰もしくは衰乏に関連した――精神病の範疇に入るものさ。ちょうど年齢的にもその時期だ。神経性変質症――こいつが、あの口先上手のヒポクラテス様の正体さ。もう一分と長居していたら、危くやられるところだったろう……。まったく僕がいて、救ったんでよかったのさ! あの手合いはがらがら蛇と同じように安全とはいえんのだよ」
彼は、表面だけはいかにも落胆したように、頭を振った。
「ところで、ねえ、マーカム」と、彼はつけ加えていった。「君はもっと注意して、相手の頭蓋骨の特徴を観察すべきだよ――頭蓋骨は霊魂の索引なりだよ。あの紳士の広い長方形の前額部、不揃いの眉毛、微かに光を帯びた眼、縁の上部が薄く、先端が尖って、耳朶《みみたぶ》のたれさがった、並外れに大きな耳、こういった点に君は気がついていたかね?……いかにも気のきいた奴だよ、あのアンブローズはね――しかし精神的にはまるで低能さ。あんな梨まがいの顔には用心したまえよ、マーカム。あんなアポロン的なギリシア人のいうことなぞは、騙《だま》されやすい女どもにまかせておけば、それでよいのさ」
「あんな男がほんとになにかを知っているものかね」と、マーカムが腹をたててつぶやいた。
「知ってはいるとも――大丈夫、僕が請合《うけあ》うよ! そいつさえわかれば、捜査はかなり進捗《しんちょく》するというものだ。その上、あの男がかくしている情報は、なにか自分の身にとって、面白くないものなのだ。自分の幸福感がすこしゆらいだのさ。鄭重な態度もおそろしく度がすぎていた。別れ際にあんなに怒鳴り散らしたのが、つまりわれわれにたいする、あの男の本当の感情の表現なのさ」
「なるほど」と、マーカムが賛同した。「昨夜のことの質問が地雷の役を演じたわけだな。ところで、なにを思いだして、僕の訊問にあんな助口を出したんだね?」
「いろいろなことがあるのさ――たとえば、その殺害記事をいま読んだというような不必要な、明らかに虚偽な陳述、職務上の神聖を論じた偽善的な説教、娘にたいする父親のような愛情という用心深いペックスニフ流〔ディケンズの小説『マーチン・チュズルウィット』の中に現われる偽善者の名〕の告白、女に最後に会った時を思い出すのに念の入った苦心の仕方――これは僕にことさらに疑念を催させたがね――それから、あの男の人相にあらわれている精神錯乱の徴候などさ」
「そうか」と、マーカムが認めていった。「それで、あの質問がきいたわけだね……もう一度あの医者《エム・ディ》に会ってみてもいいね」
「そうだとも」と、ヴァンスが繰り返していった。「さっきは不意打ちを喰わせたが、あの男にこの問題をよく考えさせて、もっともらしい物語をでっち上げる余裕を十分に与えたら、それこそよく囀《さえず》ることだろうよ。……とにかく、もう夜のことだし、朝までゆっくりと幸運な金鳳花《バタアカップス》の夢でもみるとしようじゃないか」
しかしオーデル事件に関するかぎり、夜も昼もなかった。われわれが例のクラブの談話室に帰って、すこしすると、一人の男がわれわれの坐っている部屋の隅によってきて、マーカムに丁寧《ていねい》な挨拶をした。マーカムは、驚いたことには、立ち上って、その男を迎えながら、椅子をすすめた。
「スポッツウッドさん、じつはあなたにもっとうかがっておきたいことがありましてね」と、彼はいった。「お差し支えございませんでしょうな」
名前をきいて、僕はその男をしげしげと眺めた。というのは、じつは、昨夜、あの娘を食事と劇場とに誘った無名の送り主に、僕はすくなからず好奇心を感じていたからだ。スポッツウッドは毅然《きぜん》としていて、動作のおちついた、控え目な男で、地味ではあるが、当世風な服装をした、典型的なニュー・イングランドの貴族的な人物だった。頭髪や口髯には、やや白髪も混《ま》じっていた――このために、たしかに、顔色は一層|桃色《ピンク》にはえていた――身長も六フィートぐらいで、均整がよくとれていたが、少し痩《や》せていた。
マーカムはこの男をヴァンスと僕とに紹介し、この事件について協力していること、また全面的に信頼してかかるのが最善の策だと思うと、手短かに意見を説明した。
スポッツウッドは怪訝《けげん》そうな顔つきをして、彼を眺めていたが、すぐにその決定を承知して、会釈《えしゃく》した。
「マーカムさん、仰せのとおりにいたします」と、上品な、しかしやや早口な声で答えた。「もちろん、あなたのご忠告には、なんでも従います」弁解めいた微笑をうかべて、ヴァンスの方をむいた。「どうもまずい立場になりまして、いささか神経質になっております」
「僕はどっちかと申すと道徳廃棄論者の方でしてね」と、ヴァンスが朗らかそうに自己紹介をやった。「どっちにしましても、道徳家《モラリスト》じゃないんで、この事件についても、ぜんぜん学究的《アカデミック》なんですよ」
スポッツウッドが低い声で笑った。
「家族の者も、あなたとご同様な意見だとよいんですが、とても私の欠点を許してくれやいたしますまい」
「スポッツウッドさん、はっきり申しておきますが」と、マーカムが口を挟んだ。「おそらく証人としてあなたを喚問しなくてはならない可能性は明らかにあるのです」
男はす早く顔を上げた。顔一面が曇っていったが、言いわけめいたことは一言も口にしなかった。
「じつは」と、マーカムは言葉をつづけた。「いよいよ逮捕という段取りにまできているので、オーデル嬢が部屋に帰ってきた時間を確認するためにも、またあなたが帰ってゆかれた後で、女の部屋に誰か入っていたのではないか、その事実を立証するためにも、あなたの証言がおそらく必要なのです。あなたがお聞きになった、女の悲鳴と救いを求める叫び声というものが、有罪の決定をする上で、決定的な証拠になることでしょう」
スポッツウッドは、女と自分との関係が世間に公表されるということを考えて、いささか色を失っているようにみえた。数分の間、目をそむけたまま坐っていた。
「ご趣旨は、よく解りました」と、ついに納得していった。「しかし、私の芳《かんば》しくない行いが世間に知れわたるとしましたら、まったくやりきれんことです」
「そんなご懸念には及びますまい」と、マーカムが元気づけた。「絶対に必要な場合の外には、あなたを召喚したりしないとお約束しましょう……。ところで、あなたからうかがいたい用件を申しあげます、オーデル嬢のかかりつけの医者だったと思いますが、リンドクイスト博士という方をご存じじゃありませんかね?」
スポッツウッドは明らかに当惑した。「お名前をきいたこともございません」と、答えた。「実際、ただの一度もオーデル嬢は、医者の話などはしませんでした」
「それじゃ、あの女がスキール――あるいは、|何とか《ヽヽヽ》トニーという名前を、口にしたのを、聞いたことがありませんかね?」
「いいえ」その答には力がこもっていた。
マーカムはがっかりしたように押し黙った。スポッツウッドもまた黙りこんだ。まるで瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っているかのように坐っていた。
「あのう、マーカムさん」と、数分ほどたって、いった。「お恥しい話ですが、ただいまのことは仰せのとおりでございますが、じつは、あの娘《こ》を深く愛しておりましたのです。あの人の部屋はまだそのままにしてあるのでございましょうな」彼はつまった、そして訴えるような眼差しになった。「できることでしたら、もう一度見せていただけませんでしょうか?」
マーカムは慰めるように彼を見ていたが、やがて頭を振った。
「それはとうてい駄目です。交換手に、かならずあなただということがわかってしまいましょう――あるいは新聞記者がその辺をうろついているかもしれません――そうしたら、私はあなたを事件の外においておくことができなくなりましょう」
男は失望したようにみえたが、抗議はしなかった。しばらくの間、誰もなに一ついわなかった。そのときヴァンスが静かに椅子から身体を起こした。
「スポッツウッドさん、昨夜、劇場からお帰りになって、オーデル嬢とご一緒におられた半時間のうちに、なにか変な出来事があったのをおぼえておりませんでしょうかな?」
「変な?」男の様子がその驚きを雄弁に物語っていた。「そんなことはありません、私たちはちょっと話し合っただけです、それにあの女《ひと》が疲れている様子でしたので、私はさようならをいって帰りました。今日、昼食を一緒にする約束をいたしましたが」
「しかし、あなたがあすこにおいでになったとき、部屋の中に誰かがかくれていたことは、目下のところ、かなりはっきりしているのです」
「その点でしたら、まず疑問の余地はないでしょう」と、スポッツウッドが片方の肩をつぼめて、賛意を表した。「すると、あの女が悲鳴をあげたのは、私が帰ってから数分後に、その男がかくれ場所から出てきたということになりますね」
「あの女の救いを求める叫び声をおききになったときに、そのようなことを、なんとも不思議にはお思いになりませんでしたか?」
「もちろん、最初はそう思いましたけれども、なんでもないと請合いましたし、帰ってくれと申しましたものですから、夢でもみて、悲鳴をあげたのだろうと、きめこんでいたのです。疲れきっているのを知っていましたし、別れるときは、ドアのそばの籐椅子にいたものですから、そこから声がきこえてきたように思いましたので、うとうと眠って、寝言で大声を出したぐらいにしか考えなかったのです。……あのように頭からきめこんでさえいませんでしたならば!」
「お気の毒な次第です」ヴァンスはちょっとの間黙っていてから、たずねた。「もしや、居間の衣裳部屋のドアには、気がつきませんでしたでしょうか? 開いていましたか? それともしまっていましたか?」
スポッツウッドは、そのときの情景を想い出そうとするように、顔をしかめていたが、結果は失敗だった。
「しまっていたように思います。開いていましたら、きっと気がついたことでしょうから」
「錠前に鍵がかかっていたかどうか、おっしゃっていただけませんか?」
「おう、それが、鍵がついていたのかどうかさえ、わからないのです」
その後三十分ほど、事件について討論をした。それから、スポッツウッドは挨拶をして、われわれの許から立ち去った。
「奇妙な話だ」と、マーカムは黙想した。「あの男のように教育のある男が、あんな頭の空っぽな蝶《ちょう》のような尻軽女に惚《ほ》れこむなんて、いったいどうしたことだ?」
「当り前の話さ」と、ヴァンスが返答した……「君は、箸《はし》にも棒にもかからない道徳家なのさ、マーカム」
第十二章 情況証拠
――九月十二日、水曜日、午前九時
翌日は水曜日だったが、この日にはオーデル事件の重要な、しかも実に決定的な発展がもたらされたばかりではなく、その捜査にもヴァンスの積極的な協力がいよいよめざましく始められたのである。この事件の心理的要素は抗《あらが》うことのできないまでに彼の興味をひきつけ、今日の捜査段階においても、すでに普通の警察のやりかたでは究極の解答は断じて得られないと、感じていた。マーカムは九時すこし前に、彼の方から依頼して、迎えにきてもらった。そこで、われわれはつれだってまっすぐに車をとばして、地方検事局にいった。
われわれが着いたときに、ヒースはしびれをきらせて待っていた。熱意のある、控え目ではあるが、得意然とした表情が、|明るい報告《グッド・ニュース》をもっていることを、如実に語っていた。
「形勢がうまく見事に好転してきましたよ」と、われわれが席につくと、いった。彼自身はあまりにも得意になっていたので、くつろぎもせず、太い黒ずんだ葉巻を指に挟んでグルグルまわしながら、マーカムの机の前に立っていた。「例の|気取り屋《デュード》をつかまえました――昨日の夕方の六時でしたが――うまくとっつかまえました。私服の仲間の一人で、リレイというのが、第六番街の三十番通りのあたりを巡回中に、奴が市電からとびおりて、マッカナーニーの質屋の方に向っていくのをみかけたのです。リレイはさっそく町角にいた交通巡査に合図をしておいて、|気取り屋《デュード》をマッカナーニーの店までつけていく。そのうち交通巡査が折よく来合せた一人の外勤巡査《パトロールマン》をつれてきて、三人で、この指環《リング》を質入れしようとしている現場で、伊達男をひっ捕えた、というわけでした」
彼は、細線細工をしたプラチナの台に、たった一つの四角なダイヤモンドをはめた指環を、地方検事の机の上に放り出した。
「私は、奴を連行してきましたときには、ちょうど役所にいましたので、スニットキンに指環をもたせて黒人街《ハレム》までやり、例の女中の証言をきかせましたところが、オーデルのものに相違ないと鑑定したのです!」
「しかし、君、そいつは、あの晩、ご婦人が身につけていった宝石《ビジュー》の一部ではなかったのじゃないですかね? 警部」ヴァンスが無造作に質問した。
ヒースは身体をくるりとむきをかえて、不機嫌な、推測するような顔をして、彼をみた。
「そうじゃなければ、どうだといわれるんですね? あの鉄梃《かなてこ》であけた宝石箱に入っていたものですよ。――さもなければ、私は無実のベン・ハーというところですな」
「もちろん、その中に入っていたものにはちがいないですよ」と、ヴァンスはがっかりして、つぶやいた。
「そこがまったく好運だったというものですよ」と、ヒースは、マーカムの方にふりかえって、いった。「スキールを直接に殺人強盗に結びつけますからね」
「スキールは指環についてどういうふうにいっているのかね?」マーカムは熱心になって身体を前にのりだした。「君は訊問してくれたろうね」
「するにはしましたがね」と、警部が答えたが、その口調には当惑の色があった。「夜《よっ》ぴて奴さんに口を割らせようと骨をおりましたよ。奴さんの話では、その指環は一週間前に女にもらった、女とは一昨日の午後まで会わなかった、と申し立てているのです。女の部屋には四時と五時との間にやってきた――例の女中が留守だったといった時間ですね――出入りは裏口からしたというのです。その時刻には錠がおりていなかったのです。あの晩、九時半に、もう一度訪ねていったことは認めていますが、そのときは女が留守だとわかったので、まっすぐに帰宅して、そのまま家にいたと申しているんです。あの男のアリバイは、下宿の女将《おかみ》と真夜中すぎまでクーン・カーンをやったり、ビールを飲んだりしてすごしたというものです。今朝、僕は一っ走りに奴の巣までいって、女将から証言を得てきたんです。しかし、これはたいした意味はありません。なにしろ奴が住んでいる家というのが、なかなか手におえない|ごろ《ヽヽ》の溜り場だし、またこの女将にせよ、大酒呑みで、その上二度ばかり万引で刑務所に入った曰《いわ》くつきの女ですからね?」
「指紋については、スキールはどんなふうにいってるのかね?」
「もちろん、午後にいったときの自分の指紋だと申しております」
「衣裳部屋のドアの把手《とって》についた指紋は?」
ヒースが嘲笑《ちょうしょう》するように鼻をならした。
「そのことについては、こんなふうにいいぬけました、――誰かが入ってくる物音をききつけたので、衣裳部屋に隠れたというのです。他の男に見られたくなかったし、オーデルがせっかく娯しもうとしているところを邪魔する気はなかったというんですな」
「美人《ベル・ポワール》の邪魔だてをしないとは、なかなか感心な心掛けだ」と、ヴァンスが気取っていった。「まさに悲壮な忠誠ぶりじゃありませんか?」
「ヴァンスさん、あなただって、あんな奴のいうことはご信用になりますまいね」と、ヒースが驚いて、憤ったようにきいた。
「信用できるとは申しあげかねますがね。しかしわれわれのアントニオもなかなか辻褄《つじつま》のあった話をしますな」
「あんまり辻褄があいすぎて、私にはむきませんよ」と、警部が低く唸った。
「それだけかね、奴さんからききだせたのは?」マーカムは、ヒースがスキールを拷問《ごうもん》した結果について、満足していないのは明らかだった。
「まあ、だいたいそんなところです。奴は蛭《ひる》のように、前の話にすいついてはなれないんです」
「奴の部屋には鑿《のみ》がなかったのかね?」
ヒースがみつからなかったことを認めた。
「とにかく、そこらあたりにしまっておくだろうと考える方が、よっぽど無理ですよ」
マーカムは、数分の間、思案していた。
「スキールが有罪だとどんなに確信してみたところで、どうも事件が好転したとは楽観できんね。なるほど、あの男のアリバイは薄弱かもしれんが、電話交換手の証言に関連して考えると、法廷では確実なものとされない懸念が十分にあるようだね」
「指環の方はどうなるんですか」と、ヒースはすっかり失望していた。「それに奴の脅喝《きょうかつ》や、指紋や、同種の強盗の記録のほうは一体どうなるんですか?」
「参考資料にすぎないのさ」マーカムは説明を加えた。「われわれが殺人事件について必要なものは、証拠明白《フリイマ・ファキエ》な訴因以上のものにほかならないのさ。優秀な刑事弁護人ならば、たとえ僕が起訴状を手に入れたとしても、たった二十分間で、無罪放免にしてしまうよ。女が一週間前に指環をわたしたということも、不可能ではないだろうし――女中が、その頃、奴が女から金を強要していたと証言したのを、おぼえているだろう。だから、その指紋が、月曜日の午後に、実際につけられたものではないということを示すようなものは、何一つないのだ。その上、奴をなんとか鑿に結びつけることもできないのだ。そのわけは、この夏のパーク大通りの犯罪が誰のしたことだかわかっていないのだからね。奴の申し立ての一部始終は、完全に事実にあてはまっている。しかも、われわれはなに一つ反証をにぎってはいないのだ」
ヒースは絶望したように肩をすくめた。得意に張っていた帆《ほ》から、風がみんなぬけたようなものであった。
「やっこさんをどうなさるおつもりですか?」と、元気なくきいた。
マーカムは思案した――彼もまたがっかりしていたのだ。
「結論をだすまえに、とにかく、僕も自分でやっこさんにあたってみよう」
ブザーを押して、必要な召喚状を用意するように、書記に命じた。正副二通の書類に署名をすますと、スワッカにそれをもたせて、ベン・ハンロンのもとにやった。
「忘れずにあの絹のワイシャツのことを尋問してみたまえよ」と、ヴァンスが入れ智慧した。「それに、できれば、白いチョッキを略式礼服《ディナー・ジャケット》と一緒にきるのが正装と考えているのかどうかをも、きいておきたまえ」
「検事局は、男子装身具店じゃないよ」と、マーカムがかみつくようにいった。
「それじゃ、マーカム、君はあのペトロニウスからは、なに一つひきだせないことになるぜ」
十分ばかりすると、警察署長代理が市刑務所《ザ・トゥムズ》から手錠をはめた囚人を一人つれて、入ってきた。
その朝のスキールの様子は、気取り屋の綽名《あだな》とは、およそかけはなれたものだった。やつれはてて、真青だった。きっと前夜の辛辣な尋問の名残であろう。口髭はそらず、頭髪には櫛《くし》も入っておらず、口髭の両端はたれ、ネクタイは歪んでいた。しかし、そのうすぎたない様子とは反対に、態度は、いかにも気取った横柄《おうへい》なものだった。反抗的な横目でヒースを睨《にら》んで、ことさら相手を無視したような傲慢な態度で、地方検事にむかいあった。
マーカムの訊問にたいしては、ヒースにいったと同じ陳述を頑強に繰り返した。まるで学課を苦心して暗記し、すっかり通暁した人間のように、用意周到な正確さで、一々陳述の細かな点まで執拗《しつよう》にまもってゆずらなかった。マーカムは、機嫌をとったり、脅《おど》かしたり、どなりつけたりした。いつもの温和さはまったく消えていた。仮借のない冷酷な一個の発動機にかわっていた。けれども、スキールは、神経が鉄からでもできているかのように、すこしもひるまずに、立てつづけの訊問の毒舌に抵抗した。しかも、実際のことをいえば、彼の抵抗は彼にたいしても、また彼のとっている一切の立場にたいしても、僕の感じる反感とは別に、称讃の念を禁じられぬものがあった。
三十分後には、相手の男から何かきめ手になるような証拠を引き出そうと、いろいろ努力してみたが、完全に失敗に終って、マーカムも匙《さじ》を投げてしまった。マーカムが相手を放免しようとしたときに、ヴァンスは大儀そうに立ち上って、地方検事の机の方にぶらぶらと歩みよった。机の一端に腰をおろして、相手をまったく無視したような好奇心で、スキールをしげしげと眺めた。
「なるほど、君がクーン・カーンの信者だというわけかね?」と、冷やかにいった。「馬鹿げた勝負じゃないかね? もっともコンクァンやラムよりはちっとばかり娯しめるがね、ロンドンのクラブで昔はよくやったものさ。たしか、東インドから伝わったものだというからね……。君はいまでも二組の札をつかって、八百長《やおちょう》の危ない勝負をやっているんだね?」
スキールは思わず額に皺《しわ》をよせた。彼は激烈な地方検事たちには馴れていたし、また、警察の棍棒《こんぼう》で殴る方法にもなれていたが、今そこにいるのは彼にとってまったく経験したことのない新しい型の尋問者であった。当惑もし、また恐れてもいたことは明らかだった。新奇の敵手には、傲慢な興味をもって、にやっと笑いながら、対決してやろうと決心した。
「ついでにたずねるがね」と、ヴァンスは音調をすこしも変えずにつづけた。「オーデルの居間の衣裳部屋にかくれていると、鍵穴から寝椅子がみえるかね?」
突然、相手の顔から微笑の影がすっかり消えてしまった。
「それにまた」と、ヴァンスは口早にいった。眼は相手の眼をじっとみつめて離れなかった。「どうしてまた君は急を告げなかったのだね?」
僕はスキールを注意深く観察していた。顔の表情はすこしも変らなかったけれども、瞳孔が大きくひらくのを見た。マーカムもまたこの現象を見逃さなかったように思う。
「返事はいらないよ」と、ヴァンスは、相手が口を開いて話しかけたときに、さらに追求した。「ただ、あの場の光景をみて、ちっとも驚かなかったのか、それを話してくれたまえ」
「おまえさんのおっしゃることは、なにがなんだかさっぱりわかりませんやね」スキールはつっけんどんな態度で返事をした。しかし、その冷血な態度にもかかわらず、その様子には、どこか不安の影が感じられた。無関心を装いたいという努力には、わざとらしいところがあった。それが彼の言葉から完全な確信を奪っていた。
「どっちみち、愉快な立場じゃなかったろうね?」ヴァンスは彼の応酬を無視していった。「どんな感じがしたのかね? 真暗な中にちぢこまって、ドアの把手がまわされて、誰かが中に入ってこようとしたときの感じは?」声はわざと抑揚《よくよう》を抑えていたが、両眼は相手の男に突きささっていった。
スキールの顔の筋肉は硬ばったが、口は閉じたままだった。
「用心して鍵をおろして隠れたのは、もっけの幸いだったね。え、どうだね?」と、ヴァンスがつづけていった。「かりに相手がドアを開けたとしたら――いったい、どうするつもりだったのだね?……」
ヴァンスは黙った。そして渋面を作って相手をにらむよりは、一層印象的な、絹のような優しい表情で、微笑した。
「いいかね、君はあの鑿《のみ》で相手をやるつもりでもっていったのかね? 君には、相手の方がすばしこくって、強すぎたかもしれないだろう――それに、君がまんまと相手を殴りつけないうちに、君の喉頭は拇指《おやゆび》で締めつけられていたかもしれないね――どうだね?……こんなことを考えてみなかったかね、あの暗闇の中でさ。考えてみはしまい。たしかに娯しい立場じゃなかったからね。実際、いささかぞっとするからな」
「なにを、うわごと、ほざいているんだ?」と、スキールが横柄に吐き出すようにいった。「おまえさんは気がふれてるぜ」しかしその空威張りをどこかに忘れて、恐怖に似た表情が顔を横ぎった。ただし、この姿勢のゆるみは一瞬のことだった。ほとんどすぐに作り笑いをとりもどして、軽蔑するように頭を前後に動かした。
ヴァンスは自分の椅子にゆっくりと戻ってきて、大儀そうに身体を伸ばした、まるでこの事件にもっていた興味がすっかり霧散してしまったかのようだった。
マーカムはこの寸劇を熱心に見守っていたが、ヒースは迷惑この上もないという様子で、煙草を喫《す》いながら、坐っていた。それにつづく沈黙がスキールによって破られた。
「そうか、すっかりあっしにかぶせる気だね。すっかり支度はできたかね……思うまま、やってみるがいい!」彼は耳障りな声で笑った。「あっしの弁ちゃんはエイブ・ルービンでさあ、あっしがちょっくらお目にかかりてえと、電話していただけねえもんですかね」〔エイブ・ルービンはその当時ニューヨーク随一の敏腕なしかも破廉恥な刑事弁護士だった。二年前に出廷差し止めとなってから、消息を絶っている〕
マーカムは、ご免だといわぬばかりの身ぶりをして、例の警察署長代理にスキールを市刑務所につれて帰るようにと、手で合図した。
「なにをつきとめるつもりだったんだね」と、その男が立ち去ると、彼はヴァンスにたずねた。
「わが心の奥に秘められたとらえがたい観念が光を求めて悩んでいるというものさね」ヴァンスはしばらく煙草をふかした。「スキール氏が、あるいは説得をおきき入れになって、ご自分の心の秘密でも洩らしてくれはせぬかと、こっちも胸の想いをうち明けていい寄っただけさ」
「そいつは素敵でしたね」と、ヒースが馬鹿にしたような声でいった。「奴が跛《ち》んば飛びをやらなかったかとか、野郎の婆さんがほうほう啼く梟《ふくろう》じゃなかったかとか、おききになりはしまいかと、今か今かと待っていたんですがね」
「警部、警部」と、ヴァンスが抗弁した。「ひどいことをいうのはよしてくれたまえ。僕は我慢できませんね。……しかも実際に、いいかね、スキール氏と僕との会談のおかげで、君だって一つの見通しがつけられたのではないですか?」
「たしかに」と、ヒースがいった。「オーデルが殺されたときには、やっこさんは衣裳部屋にかくれていましたよ。ですが、それがどうしたというんですね。それだけじゃ玄人《くろうと》のした仕事だと、スキールを押えるわけにはいかないでしょうな。しかも奴の捕っているのは贓品故買《ぞうひんこばい》の現行犯なんですからな」
彼はうんざりして、地方検事の方に振りむいた。
「次はいかがしましょうか?」
「どうも困った事態だ」と、マーカムがこぼした。「スキールがエイブ・ルービンに弁護を頼むとなると、せっかくの証拠も、この事件ではわれわれに歩《ぶ》の悪いことになるだろう。僕としては奴もたしかに一役買っていると確信しているが、僕の個人的な感情を証拠として採択する判事はおそらくあるまいからな」
「気取り屋を釈放して、後をつけてみるようなことはいかがでしょうか?」ヒースが仕方なく提案した。「結着のつくような、尻尾《しっぽ》を出したところを、掴むことができるかもしれません」
マーカムは思案していた。
「名案かもしれない」と、応諾した。「彼を拘留しておいても、これ以上の証拠を握るわけにはいかないにきまっている」
「ただ一つのチャンスのようですな」
「まったく」と、マーカムが同意した。「奴にわれわれの用がすんだと思いこませておいて、油断をさせる。万事、君に一任しよう、警部。二人ほど腕のきく連中をつけて、昼夜張りこませておきたまえ。なにか起こるにちがいない」
ヒースは立ち上った。不運な男である。
「ごもっともです。やってみましょう」
「僕としてはチャールズ・クリーヴァについて、もっとデータが欲しいのだが」と、マーカムがつけ加えていった。「オーデルという娘とあの男との関係の方を、よく洗ってみてくれたまえ――それからまたアンブローズ・リンドクイスト博士についても調べておきたまえ、経歴とか、習慣とか、まあそういった点だが。博士はあの娘の神秘的な、つまり実在しないような病気の治療にあたっていたのだ。だから、博士がいざという時の奥の手を握っていると睨《にら》んでいるのだ。しかし、とにかく――あまり近づきすぎては困るね」
ヒースは熱もないように手帖に名前を書きとめた。
「あの伊達男を放免する前に」と、欠伸《あくび》をしながらヴァンスが口をはさんだ。「まず、あの男がオーデルの部屋の合い鍵をもっているかどうかを、調べておくのがいいですねえ」
ヒースは肩をぐっと上げると、歯をむき出して笑った。
「そういうお考えはたしかに筋がとおっていますね……不思議と、私自身も思いつきませんでしたよ」それから、われわれ皆と握手をかわして、彼は出ていった。
第十三章 昔の伊達男
――九月十二日、水曜日、午前十時三十分
スワッカは明らかに話が中断する機会をまっていた。というのは、ヒース警部がドアから出ていくと、すぐに入れかわって部屋に入ってきたからである。
「新聞記者がまいっております」と、顔をしかめて、知らせた。「十時半にというお話でしたから」
部長がうなずくのを待って、ドアを開けると、十二人あまりの新聞記者が、ぞろぞろと入ってきた。
「今朝は、ご質問を遠慮ねがいますよ」と、マーカムは朗らかに懇願した。「勝負にはまだ早すぎますからね。しかしわかっているだけは一切申し上げましょう……オーデルの殺害が常習犯罪人の仕事であること――しかも、この夏パーク大通りのアーンハイム家に押し入った犯人と同一人物である点です――ヒース警部の見解とも、私は一致しております」
ブレンナー副検査官が鑿について発見したことも簡潔に話をした。
「まだ逮捕にまではいっておりませんが、近々に逮捕できるものと期待しています。事実上、警察としては、十分に事件の核心を握っていますが、無罪釈放などという手落ちを極力回避するために、慎重を期しているわけです。当局はすでに紛失した宝石箱の一部をとりもどしております……」
記者団に五分間ほど発表を行ったが、女中や電話交換手の証言には一切ふれなかった。また、人名をあげることも、注意深く避けた。
ふたたびわれわれだけになると、ヴァンスは感嘆したようにくっくっと笑いながらいった。
「マーカム、まったく堂に入った逃げ口上だね! さすがに法律上の訓練をうけただけのことはあるよ――効験《こうげん》あらたかだね。『当局はすでに紛失した宝石類の一部をとりかえしております!』惚《ほ》れぼれするほど、意味深長な言葉じゃないか! 嘘をいっているわけじゃない、まったくそのとおりさ――しかしあきれ返った欺瞞《ぎまん》だよ! ね。そうだろう、僕は、虚偽の暗示と事実の隠蔽というありがたい技術について、もっと時間をかけて習わなければならんね。君にはミルトス〔植物名〕の花かずらでも進呈したいよ」
「なんとでもいいたまえ」と、マーカムは気短かに答えた。「それよりも、ヒースもいないことだし、いっそ君がスキールにお咒《まじな》いをしたときの心底でも、きかしてくれたらどうだね。真暗な衣裳部屋だの、急を告げるだの、拇指でしめつけたの、鍵穴からのぞくだの、あんな魔法使いみたいな話を、なんだってしたのだね?」
「なるほどね、しかし僕のほんの雑談がそれほど不可思議だったとは思っていないよ」と、ヴァンスは答えた。「気取り屋のトニーは、あの宿命の夜、いつかは衣裳部屋の中で、|ひそかに《ヽヽヽヽ》待ちぶせしていたにはちがいないもの。そこで、もちろん、素人くさいやり方ではあったが、僕もあの男が潜伏していた正確な時刻を突きとめようと苦心してみたのさ」
「それで突きとめられたかね?」
「決定的とはいかぬがね」ヴァンスは悲しそうに頭を振った。「ねえ、マーカム、僕は誇るべき理論の持ち主なのさ――もっとも曖昧《あいまい》で、微々としていて、根拠薄弱であり、その上まったくわけのわからぬものではあるのさ。それで、その理論が立証されたにしても、どれだけ役にたつものかは、予想することはできない。なにしろ、前にもまして事態を一層わけのわからないものにするだろうからね……ヒースの洒落者《ボウ・ナッシュ》などを、訊問しなかったらばよかった、とさえ思っているぐらいだよ。あの男のために、僕の考えはおそろしくこんがらがってしまったものね」
「僕の推理では、君は、スキールが殺害現場を目撃したということも可能だと考えているようだね。どんなに想像力をたくましくしてみたところで、まさかそれが君の貴重な理論だとは思われないがね」
「とにかく、僕の理論の一部だよ」
「なんだって、ヴァンス、僕をおどろかそうというのかね!」マーカムはからからと笑った。「すると、スキールは、君の理論によれば、無実であるにもかかわらず、口を割らないで、アリバイを作り上げ、逮捕されたときにも無駄口一つたたこうとはしないというのだね……どうしても理論に穴があいているね」
「それはそうさ」と、ヴァンスがためいきをついた。「ほんとうにザルというものさ。しかもその考えが悪魔のように僕にのりうつり、僕の急所に喰いついているのだ」
「そんな気狂いじみた理論は、スポッツウッドとオーデル嬢とが劇場から帰ってきたときに、部屋の中に二人の男がかくれていた――|お互いにみしらぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》二人の男が――すなわちスキールと君の仮定上の殺人犯とが部屋の中にかくれていたということを前提として成立しているが、君は真面目にそんなことを考えているのかね?」
「もちろん、知っているよ。考えていればこそ、僕の理性はさんざん苦しむことになっているのだ」
「その上、その二人は別々に部屋に入りこみ、別々にかくれていなくてはならない……とすれば、どうして忍びこめたのだね? どうして出ていったのだね? スポッツウッドが帰ってしまってから、どっちの男が女に悲鳴をあげさせるようなことをしたのだね? その間、もう一人の男は何をしていたのかね? またたとえ、スキールがただの単なる傍観者で、驚愕のあまりに、口もきけずにいたにしても、宝石箱をぶちこわして、例の指環を強奪したのを、どういうふうに説明するのだね――?」
「もう結構、結構だ。そんなに僕をいじめないでくれたまえよ」と、ヴァンスは懇願した。「僕はたしかに正気ではない。生まれてこのかた、妄想にとりつかれているのだ――ああ、なさけないことだ!――それにしても、こんなに狂ったことはいままでにないことだ」
「すくなくとも、その点については、ヴァンス君、われわれも完全にまた仲睦《なかむつ》まじく同じ意見だよ」と、マーカムが微笑した。
ちょうどそのとき、スワッカが入ってきて、一通の手紙をマーカムに手渡した。
「使いの者がもってまいりました。『至急』と書いてあります」と、説明した。
その手紙は、意匠の凝《こ》った書簡用紙に書かれてあったが、リンドクイスト博士からきたもので、月曜日の夜の十一時から翌朝の一時にかけて、自分は療養所のある患者に付き添っていったということを説明してあった。その手紙は、自分の居場所を訊問されたときにとった態度を謝罪し、自分の行動についてくだくだと書いてはあるが、これといった信憑力《しんぴょうりょく》のない説明をいろいろと書き加えてあった。あの日はいつにもなくひどく疲れていたらしいので、――もっとも神経病患者の扱いは、いつでもひどく疲れるものです――われわれの訪問が突然であり、マーカムの訊問ぶりが明らかに敵意がこもっていたので、気がまったく顛倒してしまった。こういう感情の爆発はたいへん恐縮していること、したがってまた自分でできることなら、どんなことでも協力する覚悟だということも書いてあった。さらに、自分が嗜《たしな》みを忘れてしまったことは、一同にとって不幸だったともいった。月曜日の夜のことについて説明することは、自分にはきわめて簡単な事柄だったからである、ともいってあった。
「冷静に事情を考えなおして」と、ヴァンスがいった。「きっと君がくつがえすには困難なような、気のきいたアリバイをもちだしてきたのさ。……狡猾な奴さ――精神の均衡の狂った精神病のにせ医者の手合いはみんなこんなものだね。考えてもみたまえ。患者と一緒だったというが、なるほどそのとおりだ! いったいどんな患者に付き添っていたのか? まあ、質問もできないほど重態な患者に付き添っていたのだろう。そこだよ。袋小路《キュル・ド・サック》がアリバイに仮装してあるのさ。悪くはないね、どうだい?」
「興味|津々《しんしん》というほどのものじゃないね」マーカムは手紙をしまった。「他人にみつからずにオーデルの部屋に忍び込むなんて芸当は、あのもったいぶった馬鹿先生などには、まずできっこなかろう。だから、あの男がまわりくどい手段をつかって、こそこそと忍びこむ姿なぞは想像もできないね」書類に手をさしだした。……「ところで、君の方に異議がなければ、僕は一万五千ドルの俸給でも、せいぜいかせぐ方に骨をおりたい」
しかしヴァンスは、すこしも出ていこうとはせずに、ぶらぶらとテーブルの方に歩みよって、電話帳を開けた。
「僕に提案させてくれたまえ、マーカム」と、しばらく調べてから、いった。「君の日課の糞勉強《くそべんきょう》をちょっと中止して、ルイス・マニックス氏と清談《せいだん》でもしようじゃないか。あの男は、君も知ってのとおり、今までの噂《うわさ》では、浮気なマーガレットにとっては、推定上の情夫だからね。この男はまだ一度もわれわれがお目にかかっていない唯一の人物だ。僕はあの男にお目にかかることを切望するし、その神秘な話に耳を傾けてみたい。あの男なら、きっと十分に家族的なサークルとでもいったものを作れるだろう。いまだに歓楽街に出入りしているようだしね、あの男をここに呼びつけるには、たいして手間もかかるまい」
マーカムは、マニックスの名をいわれると、椅子に腰かけたまま身体を半ば回転させていた。反駁しようとしたが、経験からして、ヴァンスの提案が無益な気紛れの結果ではないことを知っていた。そこでしばらく黙って、この提案について思案をめぐらしていた。ちょうど捜査のあらゆる道筋が事実上閉ざされていたので、マニックスを訊問してみようという考えは、かえってその心を動かしたのではないかと僕は思っている。
「よろしい」と、呼鈴を鳴らしてスワッカを呼び出した。
「なにかの役にたつかどうかはわからないがね。ヒースによれば、オーデルという娘は一年も前に既にあの男に暇《コンジェ》をだしているということだが」
「男の方じゃ、まだ嫉妬《しっと》でやきもきしているか、ホットスバという男同様に、癇癪《かんしゃく》で酔っぱらっているかもしれんよ。誰にだって解らないよ」ヴァンスがふたたび椅子に坐った。「あれだけの名をもっている以上、この事実のために、十分に取調べに応ずるだろうがね」
マーカムはスワッカにトレイシーを呼びにやった。トレイシーはしごく朗らかに入ってくると、地方検事の車で、マニックスを連行してくるようにと命ぜられた。
「召喚状を携行していきたまえ」と、マーカムが注意した。「必要があったら使いたまえ」
半時間ほどして、トレイシーが戻ってきて、報告した。
「マニックス氏は素直にまいりました。実際、気持がいいほどでした。いま、応接室に待たせてあります」
トレイシーが引き退ると、マニックスが案内されて入ってきた。
彼は大きな男だった。ことさらに軽快そうな歩調で歩いてきたが、これは、よる年波にさからって、若いそぶりをしようとしている、中年期の人間によくみる暗黙の苦しみを現しているものだった。彼はほっそりとしたワンジーのステッキをもっていた。格子縞《こうしじま》の派手《はで》な服や、綾織《あやおり》のチョッキや、真珠のような灰色のゲイターや、リボンで飾ったホムブルグ帽という姿で、いかにも洒落者《しゃれもの》という感じを与えていた。このような軽快そうな姿も、一目その表情をみると、たちまち忘れられてしまった。小さな眼はかがやいていて、いかにも狡猾そうだった。鼻は酒焼けがして、厚い肉感的な唇と突き出た顎の上方に、不釣合いなほどに小さくみえていた。その態度は反撥を感じさせると同時に人目をひき、お世辞の上手な抜け目のないところがあった。
マーカムの身振りをみて、椅子の端に腰をおろし、ずんぐりとした手をそれぞれの膝《ひざ》の上においた。その態度は油断のない嫌疑者の態度だった。
「マニックスさん」と、マーカムは弁解でもするような愛想のよい語調で話しかけた。「ご迷惑をおかけして恐縮です、なにしろ当面の問題は重大かつ緊急を要するものですから……。じつはマーガレット・オーデル嬢という娘が一昨夜殺害されまして、その捜査を行っているうちに、あなたとは、かつて、たいへんご懇篤な間柄だったとかいうことをうけたまわったのです。そこで、われわれの捜査の参考になるようなお話でも、なにかうかがわせてもらえるのではないかと、かように考えたわけです」
愛嬌《あいきょう》でもふりまくつもりなのか、お世辞笑いが、相手の重たい両唇から洩れた。
「なるほど、カナリヤなら存じております。もっともずいぶん昔のことです」溜息をついてみせた。「どうして、なかなか美しい上品な娘さんでしたよ。美人で、衣裳も上等でした。ショウなどをつづけていかなかったのはまことに残念なことでしたな。しかし」――手で拒否するような動作をした――「あのかたには、そう、一年以上もお目にかかっておりませんが――改めて申しあげるまでもなく、この意味はおわかりでしょうが……」
マニックスは明らかに警戒をしていた。そのビーズ玉のような眼は地方検事の顔から一度も離れなかった。
「たしか喧嘩《けんか》別れをなさったのでしたな?」と、マーカムがかまわずに急所を突いた。
「これは恐縮です。喧嘩とまで申すほどのことではなかったのです、滅相《めっそう》もありません」マニックスは適当な言葉を考えながら押しだまった。「意見があわなかった、とでも申すのでしょう――いろいろ合わせようとはしてみましたが、結局、別れ話になり、どちらからということもなく離れ離れになったような形でした。そんなわけで、別れ際にも、また会いたくなったら、いつでもこいと、こう申したほどで」
「なかなか寛大なことですな」とマーカムがつぶやいた。「それで、撚《よ》りが戻ったようなことはなかったのでしょうな?」
「とんでもないことです。あの日から今日まで口一つきいたこともございません」
「あることから、わかっているのですが、マニックスさん」――マーカムの調子はいいにくそうなところがあった――「ちょっと立ち入ったご質問になりますが、あの女から金をまき上げられたということはありませんかね?」
マニックスはためらった。眼はとっさに思案するように、ますます小さくなっていったようだ。
「たしかにございません!」と、間を置いてから、力をこめて答えた。「ぜんぜん、さようなことはございません」彼はその考えに抗議するように両手を上げた。それからこっそりとたずねた。「どうして、そんなことをお考えになったのですか!」
「報告があったからですよ」と、マーカムが説明した。「あの女は一人、二人、相手の男から金をまき上げているとのことです」
マニックスはとても信じかねるといわぬばかりに駭《おどろ》いて、顔をしかめた。
「へえ! まさか! そんな馬鹿なことが?」如才なく地方検事の方をじっと見つめた。「金をまき上げられたという男は、たぶん、チャールズ・クリーヴァでしょうな――いかがでしょう?」
マーカムは素早くことば尻りを捕えた。
「どうしてクリーヴァだとおっしゃるのですか?」
マニックスはふたたび、ふっくらした手を振った、こんどはいかにも恨めしそうに、
「別に理由なぞはありません。ただちょっとあの男じゃないかと思っただけです。……改まった理由なぞはまったくありません」
「クリーヴァが金をまき上げられたとでも、あなたに打ち明けられたのですかね?」
「クリーヴァが、私に打ち明ける?……それじゃお伺いしますが、マーカムさん、クリーヴァが、私にそんな話をうち明けるわけがないじゃありませんか?」
「あなたからクリーヴァに、オーデルという娘に金をしぼられたと、もらしたことはありませんですか?」
「とんでもない!」マニックスは、あまり芝居じみて、かえって、真実味をまったく欠いた、せせら笑いをした。「私がクリーヴァに話したんですって、金をまきあげられたなんかと? こりゃ面白い、まったく」
「それじゃ、なぜいまクリーヴァの名をあげられたのです」
「別に理由はないんです、――申し上げたとおりに……あの男はカナリヤには関係がありました、これは誰でも知っていることなのです」
マーカムはこの話題を中止した。
「アンブローズ・リンドクイスト博士という人物とオーデル嬢との関係について、ご存じのことはありませんか」
マニックスはこんどは明らかに当惑した。
「一度も聞いたことはありませんな――まったくありません。私が親しくしていたときは、まだ知りあっていなかったのです」
「クリーヴァ以外に女の馴染《なじみ》であった男は?」
マニックスは重々しく頭を振った。
「それは私には申し上げられませんな――絶対に申し上げられませんよ。あの女が、この男あの男と次から次へ相手を代えていたのは、誰でもがみているとおりですが、誰だったかということは存じません――絶対に」
「トニー・スキールの話をきいたことはありますか」マーカムはす早く身体を前に乗りだして、相手の凝視を探るように視線をむけた。
マニックスはまたもためらったが、その両眼は抜け目なくかがやいていた。
「せっかくのお訊ねですから申し上げますが、その男の名前はたしかに耳にしたことがあります。しかし保証のかぎりではありませんよ……スキールという男を私が知っているなどと、なぜおたずねになるのですか?」
「オーデル嬢に怨《うらみ》をいだいたり、恐怖を感じさせたりしていたような相手は、誰も思いだせませんかね?」
マニックスは、そんな人物はまったく知らないと、口達者に繰り返して弁明した。そこでさらに、二、三の訊問を行ったが、否定一本槍に終ったので、マーカムは釈放した。
「なかなか大したもんじゃないか、マーカム?」ヴァンスはその尋問に満足しているようにみえた。「あの男は、いかにも打ち解けないところが、どうも臭いね? あのマニックスというのは、いやな奴だ。口をききすぎないように、びくびく用心ばかりしているが、どうも臭いね。用心深すぎるからね」
「とにかく用心はしていたよ、できるだけ尻尾をつかまれずにすませたからね」と、マーカムが憂鬱そうに言明した。
「そんなことはないよ」ヴァンスが仰向けになって、静かに煙草をふかした。「一条の光明がそこここにもれている。わが皮革輸入商たる好色漢《ファイロジニスト》は、金をまきあげられたことがないと拒み、――これは明らかに虚偽だ――その上自分と愛すべきマーガレットとの別れ際には、さながら山鳩《やまばと》のように囁《ささや》きかわしたと、われわれに信じこませようとしている。――なんという譫言《たわごと》だ!……しかも、クリーヴァを引きずりこんだ。あれは自然じゃないよ――いやはやとんでもない話さ。マニックス君と自然とでは南極と北極のように離れている。あの男にはクリーヴァをまきこむ理由があったのだ。その理由の正体がわかれば、君だって薔薇《ばら》の花でも思う存分|撒《ま》きちらしたくなるだろう、そういったものだよ。クリーヴァがなぜ必要だったのだろう? あの公然の秘密という釈明はいささか薄弱だったよ。あの二人の情人《パラモーア》の軌道はどこかで交錯している。この点、すくなくとも、マニックスは、うっかりわれわれにもらしてしまったのさ。……さらに、彼がサテュロス〔酒と女が大好物のギリシア神〕の耳をもった『名医』を知らないことも明らかだ。しかし、片方においては、スキール氏の存在を知っていて、面識のあることを否定しようとしている。……だから、ここに問題があるのさ。情報がありあまるほどあるのに、なんということだろう!――いったい君はどう処理するつもりかね?」
「僕は兜《かぶと》を脱いだよ」と、マーカムがあきらめているようにいった。
「無理はないよ。まったく情けない、始末に終えない世の中さ」と、ヴァンスは同情した。「しかし君は光る目をもってオラ・ポドリダ〔料理〕に向いあわなくてはならないのだ。どうやら昼食の時間だ。マルゲリー〔平目〕のフィレ料理でも食べれば、大いに元気もつこうというものさ」
マーカムは柱時計をみて、黙って法律家クラブの方に歩いていった。
第十四章 ヴァンスの理論の概要
――九月十二日、水曜日、夕刻
ヴァンスと僕とは、昼食をすませてからは、地方検事局に戻らなかった。マーカムは午後は多忙だったし、またヒース警部がクリーヴァとリンドクイスト博士との調査を完了するまでは、オーデル嬢事件については、これ以上進展しそうになかったからである。ヴァンスはジョルダーノの『|無遠慮な奥様《マダム・サン・ジェヌ》』の席をとってあったので、二時にメトロポリタン劇場へ、出かけた。演技はすばらしかったが、ヴァンスはあまりにも他に気をとられすぎていたので、一向に娯《たの》しむことができなかった。そのオペラが終ると、運転手にスタイヴィサント・クラブにいくように命じたが、これは意味深長だった。僕は、彼がお茶の約束をしていたこと、ロング・ヴューに正餐《せいさん》のために車で出かける計画だったことを知っていた。したがって、マーカムと一緒にいるために、このような社交上の約束などを棄ててしまったという事実は、この殺人事件の問題に、いかに強く関心をとられていたかをはっきりと示していた。
マーカムが、苦しみ疲れたような様子をして入ってきたのは、六時すぎだった。食事中、マーカムが、ふとクリーヴァや、リンドクイスト博士や、マニックスに関する報告をもって、ヒースが戻ってきたともらしたほかは、誰もこの事件についてはふれなかった。(中食直後に、マーカムは、マニックスの名を他の二人の調査人名に加えるようにと、警部に電話で連絡した模様だった)われわれはいつもの談話室の一隅におちついてから、初めて殺人問題の討議に移った。
その討議は簡単で、一面的なものであった。しかし、これが全面的に新しい捜査方針の端緒になり、究極において犯人を逮捕する手懸りとなったものである。
マーカムはものうげに身体を椅子に沈めた。徒労に終った過去二日間の苦悩の緊張が、その跡をみせはじめていた。目はやや厚ぼったく、口のまわりにはいかめしい不屈さがみられた。ゆっくりと念入りに葉巻に火をつけ、二、三度深く吸いこんだ。
「いまいましい新聞だ!」と、唸った。「地方検事局の独自の方針になぜまかせておけんのだね?……夕刊をよんだかね? どいつもこいつも、みんな殺人犯人について騒ぎたてている。僕が袖の下にでも犯人をかくしている、とでも思っているのかね」
「君は、忘れたらしいね」と、ヴァンスがにやにやと苦笑していた。「あいにくと、われわれの住んでいる国は、慈愛に富んだ、向上心のあるデモクリストさまの支配しているところだよ、どんな|無智な輩《イグノラムス》でも、ひとしく上長を批評する特権はもっているのさ」
マーカムは鼻を鳴らした。
「批判についてはこぼしたりしないよ。僕が癪《しゃく》にさわっているのは、あの気のきいた若造の記者どもの青白い想像力なのさ。奴らはこの汚ならしい犯罪を、狂暴に近い情熱と、神秘的な効果と、中世紀の恋愛小説のように堂々とした外観と装飾とをもって、華々しいチェザーレ・ボルジアのメロドラマにしたてあげようとしているのだ……小学校の児童にだって、わかっていることさ。全国いたるところで始終おきていると同じ、ありきたりの強盗殺人事件だというくらいのことはね」
ヴァンスは煙草に火をつけながら、黙っていたが、その眉毛《まゆげ》はつり上っていた。ふり返って、容易に信じられないというような優しい表情で、じっとマーカムをみた。
「こいつは驚いた! 君が新聞に出した声明は本心だったと、本気で僕にいうのかね?」
マーカムは驚いて顔を見上げた。
「もちろんさ、しかし『本心』とはなにごとだね?」
ヴァンスが大儀そうに笑った。
「僕はね、ご丁寧にもこう考えていたのさ。記者諸君に行った声明は、真犯人を故意に安心させておいて、君の捜査をやさしくしようとする作戦ではないかとね」
マーカムはちょっと彼をみていた。
「おい! ヴァンス」と、いらいらしながらいった。「君はなにを考えているのだね?」
「なにも考えてやしないよ、――ほんとうに、君」と、相手は物柔らかに保証した。「ヒースが、スキールを犯人だと、頭からきめこんでいるのは僕も知っているが、君までがこの犯罪を強盗の犯行だと実際に考えていようとは、夢にも知らなかったね。今朝、君がスキールを釈放したのは、あの男が君を何らかの方法で犯人にめぐり合わせることになりはしまいかと望んでの仕事だと、馬鹿なことを考えていたものさ。君が警部の馬鹿げた考えに同意しているようにみせかけて、あの自信たっぷりな男を冗談にかついでいるのじゃないかと、僕は思っていたのだがね」
「ああ、わかったよ! 君は二人一組の犯人がいて、それぞれ別の衣裳部屋にかくれていたのだという、あの奇妙な理論に、いまだにしがみついているのだね」マーカムは持ち前の皮肉を一向に加減しようとはしなかった。「まったく分別のある考えさ――ヒースよりはよほど悧巧だからね!」
「奇妙なくらいは解っているよ。しかし君の単独犯人説よりは、はるかに奇妙じゃなさそうだよ」
「どういうわけで」と、マーカムはかなり興奮していた。「君が単独犯人説を奇妙だと考えるか、そのわけを伺いたいものだね」
「至極単純な理由さ。職業強盗の犯行どころか、たしかに準備に数週間もかけてやった、とりわけ頭のきれる男の計画的な欺瞞行為なのだ」
マーカムは仰向けになって身体を椅子に沈め、思いきって笑った。
「ヴァンス、君は、一条の光明を与えてくれた、というものだ。そうしてくれなければ、この事件は暗くてやりきれないものね」
ヴァンスはわざと卑下したように会釈をした。
「欣快《きんかい》のいたりです」と、明快な答弁だった。「これほどまでに疑惑にとざされた精神的雰囲気に、たとえ一条の光明でも、もたらすことができたとすればね」
短かい沈黙がつづいた。それからマーカムはたずねた。
「オーデルという女の殺害犯人が高級な知能的人物だという、君の魅惑的で絵画的結論は、君の新しい独創的な演繹法という心理学的方法にもとづいているものだろうね?」その声にも露骨に嘲笑をひびかせていた。
「僕がその結論に達したのは」と、ヴァンスは愛想よく説明した。「アルヴィン・ベンスン殺人事件の犯人を決定するときに使ったと同じ論理的方法によるものさ」
マーカムが微笑した。
「なんという讒言《トウシェ》だ!……君があの事件でやってくれた功績をみくびるほど恩知らずだとは思ってはいないが、こんどこそは、君の理論通りにやっていければ、どうにも決着がつくまいと心配しているよ。なにしろ、こんどの事件は警察のいわゆる開いて閉じている事件なのさ」
「それもぴったりと閉じているね」と、ヴァンスがつけ足した。「君も警察も、相手の仮想犯人が君たちと同様に音《ね》をあげるのを、ただ慢然と待っているという、惨《みじ》めな破目に陥っているのさ」
「まさに期待はずれにちがいがないがね」マーカムは不機嫌そうにいった。「だからといって、この事件に、君の深遠な心理学的方法を活用する余地があろうとは思われないね。事態ははっきりとしすぎている――それが問題なのだ。いま、われわれにとって必要なものは、証拠であって、理論ではない。だから、新聞記者諸君が仰山《ぎょうさん》なロマンティックな空想譚などを書きたてさえしなければ、この事件にたいする世間の興味は、とうに下火になっているはずさ」
「マーカム」と、ヴァンスが静かに、しかもいつになく真面目にいった。「それが君の本心としたら、さっそくこの事件から手をひくに限るよ。失敗するにきまっているからね。君ははっきりとした犯罪だと思っているが、僕はいかにも巧妙きわまる犯罪だといいたい。しかも巧妙きわまるほど頭脳的なのだ。普通の犯罪者の犯行などではない。――まったくそうなんだ。非常に優れた知性と驚くべき創意とをもった男の犯行なのだ」
ヴァンスの自信にみちた平凡な口調には、一種の奇妙な説得力がこもっていた。そこで、マーカムは、嘲笑をもってむくいようとする衝動をむりに押えて、寛大な皮肉たっぷりの態度をとっていた。
「話してくれたまえ」と、いった。「どんな不思議な精神的方法で、そんな気まぐれな結論に達したのかね」
「よろしい」ヴァンスは二、三服シガレットの煙を吐きだして、飛んでゆく煙の輪を、ものうげに眺めていた。〔僕はヴァンスに次にかかげるような文書を送った。彼はそれを加筆しかつ訂正した。したがって、ここには、事実上、彼自身の言葉で綴った理論が現わされている〕
「いいかね、マーカム」と、例の無感情なひきずるような調子でいい出した。「ほんとの芸術作品というものには、どんな作品にだって、みな批評家たちのいう躍動《エラン》――つまり、情熱と自発性というものがあるのさ。ところが、模写や模倣になると、このようなすぐれた特徴が失われている。あまりにも完全すぎる、あまりにも慎重すぎる、あまりにも正確すぎるのだ。いかに達識の法律の後裔《こうえい》でも、ボッティチェルリの絵にも拙劣な描法があれば、ルーベンスの絵にも不均整な点があるぐらいのことは、おそらくわかっているだろう、どうかね? 原作にあってはそんな欠点は問題にはならないのさ。しかし模倣者はこれらの欠点を決して描き入れはしない。どうしても描き入れようとはしない――そのくせすべての細部を正確に模写するに汲々《きゅうきゅう》としているのだ。ほんとの芸術家なら、創造活動の陣痛にあたっては気にもしないような自意識だの、小心すぎる注意だのをもって、模倣者は仕事をするものだ。ここが問題なのさ。原作のもっている情熱と自発性とを――つまりあの躍動をば――模倣する方法がないのだ。だから模写はどんなに巧みに原作に似ていても、両者の間には大きな心理上の相違がある。模写には不誠実さ、極端な完全さ、意識的な努力の息吹きがのこるのだ……。僕のいっていることがわかるかね?」
「なかなか教訓になるよ。親愛なるラスキン君」
ヴァンスはその正当な評価に従順に会釈をして、なおも上機嫌でつづけた。
「さて、オーデル殺害事件を考えてみよう。君やヒースはこの殺害が月並な、残虐《ざんぎゃく》な、浅ましい、想像力に乏しい犯罪だという点では一致している。しかし、ご両人のようなブラッド・ハウンドの探偵犬とはちがって、僕は事件の外観を無視して、その各種の要因を分析してみた――いわば、心理学的に考えてみたのだ。そしてこの殺害が正真正銘の犯罪ではない、いいかえれば、独創的な犯罪ではなくて――欺瞞的な、自意識的な、巧妙な模倣にすぎないことを発見したのさ。すべての細部にわたって正確で典型的な点は君も承服しよう。しかしその点こそ不当だとは思わないかね。技法もうますぎれば、精巧さも完全すぎる。いわば統一《アンサンブル》がとれていないのだ――躍動《やくどう》を欠いているのだ。審美的にいえば力作の条件はすべてそなわっている。俗悪ないい方をすれば、いかさまものなのだ」言葉をきって、マーカムに愛嬌《あいきょう》のこもった微笑を送った。「いささか奇蹟《きせき》めいた結論だが、君をきっと退屈させはしなかったろうと思うよ」
「もっと伺いたいものだね」と、マーカムがいかにもわざとらしく鄭重に求めた。その態度は剽軽《ひょうきん》だったが、つねとはちがった口調から、深く興味を覚えていると信じさせるものがあった。
「芸術上真であるものは人生についても真だよ」ヴァンスは静かに語りはじめた。「人間の行動というものはね、無意識のうちに、真実か、それともまた虚偽かの――誠実か、打算かの印象を与えるものなのだ。たとえば食卓にむかって二人の男が同じように食事をしている、ナイフとフォークを同じようにあやつり、明らかに同じことをしているのだね。鋭敏な観察者にも、この二人の行為の相違点を指摘することはできないが、どっちの人間の作法が本物で本能的で、どっちの人間の作法が真似《まね》で意識的であるかをはっきりと感知することはできる」
彼は天井にむかって煙草の輪をはきだし、深ぶかと椅子に身体を埋めた。
「そこで、マーカム、凶悪な強盗殺人犯人の一般的に承認されている特徴はなんだろうか……残虐、無秩序、性急、荒し回った抽斗《ひきだし》、散乱した机、こわされた宝石箱、犠牲者の指から抜きとった指環《リング》、ひきちぎったペンダントの鎖、ひきさかれた衣裳、ひっくり返った椅子、倒れたスタンド、こわれた花瓶《かびん》、ねじれた掛布、撒きちらかされた床、などなど。こういったものが昔から一般に認められた特徴なのだ――そうだね? しかし――ちょっと考えてみたまえ、君。小説や芝居ならいざ知らず、このような特徴を|揃いも揃って《ヽヽヽヽヽヽ》全部もっている犯罪がどれだけあるだろうか――みんなきちんと整って、しかも全体の効果と矛盾するような要素が一つもなしにね? つまり、現実の犯罪で、舞台装置という点では技術的にみて完全なものがどれだけあるだろうか? ……一つだってありはしないさ! なぜだろう。この世の中ではまったく現実的《アクチュアル》ではないものが――自発的でも本物でもないものが――あらゆる細目において一般に認められている形式にまぎれこんでくるからにほかならないのさ。偶然と誤謬《ごびゅう》との法則が必然的に登場するものだ」
ちょっと誇張した身振りをした。
「それはとにかく、こんどの特殊な犯罪を考えてみよう。よく注意して観察してみたまえ。どんなことに気がつくかね? 演出も立派だ、戯曲もこなれている、まるでエミール・ゾラの小説のように、あらゆる細目な点までいきとどいているのに気づくだろう。数学的にも完璧《かんぺき》に近いものだ。だからこそ、この事件が慎重に前もって考えられ、計画されていたという推断が、どうしても避けがたくなるのさ。芸術上の言葉をもちいれば、|ひねりまわした《ヽヽヽヽヽヽヽ》ような犯罪なのだ。それだけ着想も自発的なものではないのだ……といって、僕には特別な欠点を、なに一つとして指摘できるわけではない。欠点がないということが最大の欠点だからね。ねえ、君、欠点がなに一つもないということは果して自然、つまりだね、本物なのだろうかね?」
マーカムはしばらく黙っていた。
「君は月並な盗賊が娘を殺したかもしれないという可能性を少しも認めないのだね?」と、ついにたずねたが、その声には嘲笑するようなひびきは少しもなかった。
「月並な盗賊の犯行なら」と、ヴァンスが答えた。「心理学も無用だし、哲学的真理も不用だし、芸術上の法則も無用の長物さ。あれが本物の強盗犯罪であるなら、同じ理由で、老大家の作品と気のきいた技師の模造品との間に、なんの区別もないということになるよ」
「君は強奪の点を、動機として、まったく無視する気なのだね?」
「強奪は」と、ヴァンスが自信をもっていった。「ただ単に捏造《ねつぞう》された一細目にすぎないのさ。この犯罪が非常に抜け目のない人物によって行われた事実は、疑いもなく、その背後にはるかにもっと有力な動機がひそんでいることをはっきりと示している。これほど巧妙で気のきいた偽作のできる人物は、明らかに相当の教養と想像力とをそなえた人物なのだ。したがって、なにか不可抗力な破綻《はたん》が出るのを恐れているのでなかったならば――実際、女を生かしておくことが、犯罪を犯すこと以上に、大きな精神的苦悩を味わい、もっと大きな危地に陥るようなことになるのでなかったならば――みずからすすんで女を殺害するというような危険を冒さなかっただろうと考えてよい。この二つの大きな危難の板挟みになって、殺人を比較的に小さな危険としてえらんだわけさ」
マーカムはすぐには口をきかなかった。彼はなにかの思案にふけっているようであった。が、やがてふりむくと、探るような眼差しで、ヴァンスをみつめて、いった。
「鑿でこじ開けたあの宝石箱はどうなのかね? 玄人の熟練した腕だけ使いこなせるような強盗道具は君の審美的仮説にはふさわしくはないね――実際、そんな理論とは真向から対立するからね」
「わかりすぎるほどわかっているよ」と、ヴァンスはゆっくりとうなずいた。「あのはじめての朝、遣《や》り口をみてから、僕は鋼鉄の鑿にはさんざん苦しんでいるのさ。……マーカム、あの鑿は、他の点はみんな見せかけの演出だが、ただ一つ本音を吐いているところさね。まるで模倣者がまがいの絵を描き終ったところへ、本物の芸術家が現われて、玄人の手で、ちょっと小さい点を描きたしたようなものだね」
「すると、どうしてもスキールに逆戻りするということにはならないかね?」
「スキール――うむ。たしかに一応は説明にはなるがね。だが、君の考えているようにはならないさ。スキールがあの箱をこじ開けた――この点には疑問はない。しかしだ――畜生――あの男のやったただ一つのことなのだ。やっこさんにはそれだけしか仕事が残ってはいなかった。だから、あの晩、うるわしのマルグリート〔オーデルのこと〕が身につけていなかった、たった一つの指輪しか手に入らなかったのさ。女の他の安物《ボーブルズ》は――つまり、女が身につけていたものは――みんな女からひったくられて、どこかに消えていたからね」
「その点だけがいやに積極的なのは、どういうわけなのだね?」
「あの火掻きさ、君――火掻きだよ!……わからないかね? 鋳鉄の石炭かきで、宝石箱に加えたあの素人くさい強襲は、宝石箱を梃子《てこ》であけた|後に《ヽヽ》行われたのではなくて、その|前に《ヽヽ》行われていたものにちがいないのだ。鋳鉄で鋼鉄を破ろうという一見気狂いじみたやり方は、舞台装置の一部分なのだよ。真犯人にとっては箱が開こうと開くまいと、そんなことはどうでもよかったのさ。ただ|開けようとした《ヽヽヽヽヽヽヽ》とみせかければ、それでよかったのだ。だから、火掻きを使って、それをあのへこんだ箱のそばに放って置いたというわけさ」
「わかったよ」この点は、たしかに、ヴァンスがそれまで述べ立てたどの部分にもまして、マーカムには強い印象を与えたようだ。それというのは、化粧台の上に火掻きがあったということは、ヒースによっても、ブレンナー副検査官によっても、よく説明されてはいなかったからだ。……「それで君はスキールにむかって、君のもう一人の訪問客がいるときに、同時にあの男がそこに登場しているような訊問をしたのだね?」
「そのとおり。宝石箱の傷痕からみて、僕はあの男が、強襲という贋犯罪《にせはんざい》が上演されていたときに、部屋の中にいたか、それともその場面が終って舞台監督が退場したあとで、登場したのか、そのいずれか一つだと睨んでいたのさ。……僕の訊問にたいしてあの男は反応している。そこで僕はあの男がその場にいたという想定を下しているのだ」
「衣裳部屋の中にかくれていたのだね?」
「そうだ。それがあの衣裳部屋の荒されなかった理由を説明している。実際、僕のみたところでは、荒されてはいなかった。その理由は単純で、ややおかしなものさ。つまりやさ男のスキールが鍵をかけて内部に閉じこもっていたのさ。どうして一つだけ衣裳部屋が贋強盗の強奪を免れえたのだろうか? わざわざ省《はぶ》くわけはなかったろう。偶然にみのがしてしまうには、あまりに徹底的だった。――だから、把手に指紋が残っているのだ……」
ヴァンスは自分の椅子の腕を軽く叩いた。
「ねえ、マーカム、君はこの仮定にもとづいて、犯罪についての君の構想をたて、それに従ってすすんでいけば、それでよいのさ。でないと、君がおたてになる大廈高楼《たいかこうろう》も、君の頭のあたりにくずれおちてくるようなことになりかねないね」
第十五章 四つの可能性
――九月十二日、水曜日、夕刻
ヴァンスの話が終ると、長い沈黙がつづいた。マーカムは、相手の熱意に感動して、ぼんやりと瞑想《めいそう》に耽《ふけ》りながら、坐っていた。彼の考えはぐらついていたのだ。スキールを有罪とみる理論は、じつは指紋の一致がわかった瞬間から固執しているものだが、これに代る有力な理論がなかったからとはいえ、正直にいって、全幅的に満足していたわけではない。ヴァンスは、この理論を断乎として否認するとともに、まだ不明確であったとはいえ、この事件の現象的なポイントを、すべて考慮に入れた別個の理論をもちだしていた。そんなわけで、マーカムは最初こそ反対したが、まったく自分の意思に反して、いつのまにか新しい見解に共鳴するようになっていた。
「まったく癪だよ! ヴァンス」と、いった。「僕は君の狂言じみた理論などにはすこしも兜《かぶと》をぬいでいないのに、いまの君の分析を聞いていると、なんだか妙に本当らしく思われてくるね――どうしたわけだろう」
彼は急にふりむくと、しばらく相手を探るようにじっとみつめていた。
「おい! 君が筋書を話してくれた芝居には、誰か主役の心当たりでもついているのかね?」
「冗談じゃない! ご婦人を殺した人物の目星なぞは、僕にはまるっきりついていないんだ」と、ヴァンスがはっきりといった。「しかし、君がどうしても真犯人にお目にかかりたいというのなら、鉄のような神経をもった男で、目から鼻に抜けるような上等な相手を捜すに限るな。恋する女ゆえに、取り返しのつかない破滅におち入ろうとしている――生れつき残虐で、執念深い男で、この上ないエゴイストだ。どっちみち宿命諭者だ。それに――僕にはどうも――狂人としか思われない男さ」
「狂人!」
「阿呆じゃなくて――本物の狂人だ。ぜんぜん正常で、論理的で、打算的な狂人なんだ――。ここにいる君や、僕や、ヴァンとはちがっていないね。ただし、われわれの趣味は無害だがね、そいつの狂気沙汰《マニア》は君の途方もなく崇拝している法律の埒外にいるんだ。それで、君が追いかけているというわけだよ。もしそいつの脱線ぶりが切手の蒐集とか、ゴルフとかいうんだったら、君もおそらく二度とその男のことなどは考えまい。しかし、その男は自分を苦しめている淪落《デクラッセ》の女たちを抹殺したいという完全に合理的な意向をもっているので、君も恐怖を感じているのだろう。こいつは|君の《ヽヽ》趣味には不向きな奴さ。だからそこで、君はそいつの面の皮をひき剥《む》いてやりたいと、しきりに望んでいることにもなるわけさ」
「たしかに」と、マーカムがひややかにいった。「狂人といっても、殺人狂という部類に入るね」
「しかしあの男は殺人狂じゃないよ、マーカム。君は心理学上の微妙な区別をみんな見落しているね。あの男はある人から苦しめられ、それで、その苦しみの根源をたとうと思って、巧妙に、合理的に仕事に着手した。しかもこの上なく巧妙にやってのけたのさ。なるほど、あの男の行動には、やや物凄《ものすご》いところはあるよ。しかし、そのうち君がその男の肩に手をのせて捕えるようなことになれば、どんなに正常な男か、見てびっくりするだろう。それに有能な男だよ――無限に有能なんだ」
ふたたびマーカムは長いこと黙って瞑想にふけっていた。そしてついに話し出した。
「君の独創的な演繹のただ一つの難点は、この事件の既知の情況とは一致しないということなんだ。事実というものは、いいかね、ヴァンス君、われわれ一部の旧式な法律家にとっては、いまでも多少とも決定的なものだと考えられているのだ」
「では、なぜ君はわざわざ自分の無力をさらけだすんだね?」と、ヴァンスは気紛れにたずねた。それから、ちょっと間をおいて、「僕の演繹とは相反するようにみえる事実なるものがあるなら、僕にみせてくれたまえよ」
「そうだね。オーデルを殺す理由の少しでもありそうな、君の描く型の人物は、四人だけしかないわけだ。ヒースの部下が女の過去をかなり徹底的に洗ってみたところでは、過去二年以上――つまり女が『フォリーズ』に現われてから後のことだが――女の部屋に出入りをみとめられた人物は、マニックス、リンドクイスト博士、チャールズ・クリーヴァ、それにもちろんスポッツウッドなのだ。カナリヤには多少排他的なところがあったようだね。殺人の容疑をうけるほど、女に接近していたものは、このほかには誰もいないのだ」
「すると、完全に四部合奏のやれそうな人物がいるじゃないか」ヴァンスの口調は冷たかった。「いったい何がほしいというのだね――一個連隊もほしいのかね?」
「ちがうよ」と、マーカムが辛抱強く答えた。「唯一つの論理上の可能性だけをほしがっているのさ。しかしマニックスは一年以上も前に女と別れているし、クリーヴァとスポッツウッドの二人にはしっかりとしたアリバイがある。だから残るのはただリンドクイスト博士一人になるわけだ。ところが、あの男は癇癪持ちのようにはみえるが、絞殺犯人や、見せかけ強盗だと判定することは、とてもできないのさ。しかもアリバイをもっている、これもおそらくは信憑性のあるものだろう」
ヴァンスは頭を振った。
「法律的な人間の子供らしい信念には、まったく哀れというほかはないものがあるね」
「たまには合理性にしがみついて、離れないというのではないかね」と、マーカムがいった。
「おいおい!」と、ヴァンスがたしなめた。「そのいい回しに含まれている仮定には、まったく感心できないものがあるよ。合理性とか、非合理性とか、そういう区別ができるほどなら、君は法律家ではなくて、神さまになれるだろうね――いや、君はこのことについては間違った考え方をしているよ。この事件に含まれている真の要因は、君のいう既知の情況ではなくて、未知の数量なのさ。いわば人間性のXなのだ。つまり君の四部合奏の一々の個性であり、その天性ともいうべきものなのだ」
新しいシガレットに火をつけて、目を閉じながら、後ろにもたれかかった。
「四人の忠誠なる騎士について、君が何を知っているか、話してくれないかね――ヒースから報告があったといったね。母親は誰なのか? 朝食には何を食べるのか? うるし蔦《つた》にかぶれやすいかどうか?……まず、スポッツウッドの身元調書からはじめよう。どんなことを知っているのだね?」
「一般的にいうと」と、マーカムが応じた。「由緒《ゆいしょ》のある清教徒《ピューリタン》の家柄のようだ――知事や、市長や、立派な貿易商も、何人か出している家柄だ。すべて生粋《きっすい》のヤンキーで――混血はしていない。事実、スポッツウッドは伝統の一番古く、また厳格なニュー・イングランドの上流階級を代表しているような男だ――いわゆる清教徒という葡萄酒も近頃ではだいぶ薄くなっているとは思うがね。オーデルとの関係などは、伝統的な清教徒の禁欲とはとても調和することのできないものなんだ」
「そいつがぴったりと調和するのさ、そういった禁欲から生まれる抑圧にともないやすい心理的反応というものはね」と、ヴァンスが主張した。「ところで、商売はなんだね? 金儲《かねもう》けの手段は?」
「親爺が自動車の付属品を製造して、一身代を造り、息子がその事業を相続したわけさ。自分も手を出しているが、とにかく本気じゃない。もっとも、二、三自分で付属品を設計したようなことはあると思うがね」
「まさか恐ろしい造花さしのカットグラスの花瓶がその一つじゃあるまいね。あの自動車の後部座席の装飾を発明したような人間なら、悪魔のような犯罪もできるからね」
「スポッツウッドであるはずはないよ」と、マーカムは寛大にいった。「あの男には君が睨《にら》んでいるような絞殺者としての資格はないからね。あの男が帰ってしまってからも、女は生きていたし、殺害が行われた時刻にはレッドファン判事と同席していたことがわかっているのだ。……君だって、ヴァンス、この事実をごまかしてまで、この紳士を不利に陥《おとしい》れるようなことはできまい」
「その点では、すくなくとも、意見は一致しているね」と、ヴァンスが認めた。「あの紳士について知っているのは、それだけかね?」
「まあ、そんなところだ。そのほかは、裕福な家の娘と――たしか南部出身の上院議員の娘と、結婚したというくらいのことだ」
「一向に役にたたんね……。それじゃ、マニックスの過去を話してくれたまえ」
マーカムはタイプされた一枚の紙片を参照した。
「両親ともに移住者――三等船客。本名マニキィウィッチなるもののごとし。イースト・サイド生まれ、ヘスター街にある父親の小売店で毛皮取引を習得し、後にサンフランシスコ・クローク会社に就職、工場の取締に昇進。土地に手を出して大金を儲《もう》け、後に毛皮商を自営、次第に今日の繁栄をきずく。公立学校出身、夜間高商に学ぶ。一九〇〇年に結婚、しかも一年後には離婚。遊蕩生活を送り――ナイト・クラブの常連、ただし泥酔したことはなし。つまり浪費者兼愛酒家の部に入る男だ。ミュージカル・コメディに投資、常に女優を同伴、金髪美人趣味――といったところだ」
「どうもはっきりとしないね……マニックスのような男はニューヨークにはざらにいるんだからね。……あの|お上品な医者《ボントン・メディコウ》についての君の薀蓄《うんちく》はどうだ」
「ニューヨークにはリンドクイスト博士のような男もざらにいるんじゃないかな。彼は中西部の小官吏の家に育ち――フランス人とマジャール人の血統をうけている。オハイオ州立医大で医学士の称号をとり、シカゴで開業――同地で後ろ暗い仕事をしたが、結局無罪になった、その後オーバニーにきて、X線機の流行の波にのった。乳吸出器《ブレスト・パンプ》を発明して、株式会社をつくった――。これで一身代を作る。ウィーンに留学、二年間滞在――」
「どうりでフロイト流なのだ!」
「――ニューヨークに帰って、私立療養所を開設、法外な料金をとったが、そのためにかえって新興成金の人気に投じ、以来ますます人気上昇の途上にある。数年前に婚約破棄のために訴えられたが、この事件は法廷外で解決している。いまだに独身だ」
「する気がなかったのだろうよ」と、ヴァンスが批評した。「あんな連中は絶対に結婚なぞご免|蒙《こうむ》っているのさ。……なかなか面白い略歴だ――こりゃ、だんぜん面白い。僕も精神神経失調でもやらかして、アンブローズに治療させてみたいくらいだ。僕はそれほどあの男のことをもっとよく知りたい、いったいどこに――どこにだね――身もちのわるい妹君〔カナリヤのこと〕が死んだときに、あの名医はいたんだろうね、ああ、誰がこのことを知っているだろうか? マーカム、誰が知ってるんだろう?」
「どうあっても、僕にはあの男が人殺しをやれるとは思えないね」
「なんという偏見だ!」と、ヴァンスがいった。「仕方がないが、とにかく先にすすもう――なんといっているね、クリーヴァという男の肖像は? あの男がポップ〔炭酸水〕という愛称をもっている事実は立派に話のきっかけには役にたつよ。ベートーヴェンが『ちび』とよばれたり、ビスマルクが『おちゃっぴい』の引き合いに出されたりするようなことは、とうてい考えられないじゃないか」
「クリーヴァは政治家として生涯の大部分を送っている――タマニー・ホールの常連《ヽヽ》だ。二十五歳で職業政治家のボスになり、一時はブルックリンで、ある民主党クラブを牛耳《ぎゅうじ》っていた。市参事会員を二期勤め、一般法律事務にたずさわっていた。税務局長に就任。政治から離れて、小さな競馬用の厩舎《きゅうしゃ》をたてた。その後、サラトガで非合法な賭博場の権利を手に入れ、目下はジャージー市において場外馬券売場を経営している。いわゆる玄人の博徒《ばくと》だ。酒好きだ」
「結婚の経験は?」
「記録には載《の》っていない。――とにかく、君、クリーヴァは関係がないね。あの晩、十一時半にはブーントンで交通違反に問われているんだ」
「ひょっとしたら、さっき君のいった水も洩らさぬアリバイというやつはそれだね?」
「僕の原始的な法律論からすると、そう考えるのさ」マーカムはヴァンスの質問に憤慨した。「召喚状は十一時半に手渡されたのだ――はっきりと記入されている、日付もある。それにブーントンはここからは五十マイルも離れている――車を飛ばしても、たっぷり二時間はかかる。だから、クリーヴァがニューヨークを九時半頃に出発したことは明らかだ。たとえすぐにひき返してきたにしても、警察医が女の死亡時刻と鑑定した時間を、大分すぎてからでなければ、ここには到着できないだろう。いつもやることだが、僕はあの召喚状を調べてみたよ、その上、電話で、発行した当人の警官とまでも話し合ってみたのさ。まちがいなくほんものだった――と僕は信じている。僕は召喚を取り消させたよ」
「そのブーントンのドッグペリイ〔シェイクスピアの『から騒ぎ』の頑迷な警官〕は、クリーヴァを見て知っていたのかね?」
「知ってはいないが、正確な人相を話してくれたよ。当然だが、車の番号も控えてあった」
ヴァンスは眼を大きくあけて、悲しそうにマーカムを見た。
「おい、マーカム――いいかい、君、今、実際に君が証明したことは、みんなつまり、田舎の交通係のネメシス〔ギリシア神話に出てくる女神で応報天罰を司るといわれる〕がスピード違反の召喚状を、クリーヴァの車で、殺人のあった夜の十一時半に、ブーントン付近を通っていたのっぺりとした顔付の、中年の、頑丈な男に手渡したということを示しているにすぎないのが、君にはわからないのかね?……それに、誓っていうが、そんなものは、昔の男がご婦人の生命を真夜中頃に奪おうとするときなどには、よく作っておくようなアリバイなのではないのかね?」
「おい、おい!」と、マーカムは笑った。「それはいささかこじつけにすぎるな。君はすべての違法者を、もっとも悪魔的な奸智《かんち》にたけた陰謀をこしらえるような者と、みようとしているのじゃないかね」
「そうらしいね」と、ヴァンスは無感動の様子で認めた。「そうじゃないのかね?――僕はむしろ、あれは、不法行為をやる奴が殺害を計画し、しかも自分の生命が危険にさらされそうになると、やりかねないような計画だ、と思うのさ。僕がほんとに驚いているのは、殺害犯人が自分の将来の安全にたいしては、いささかも知的な考慮も払わないと、捜査当局の諸君が無邪気に仮定しているということなのさ。まったくもって哀れを催さざるを得ないじゃないかね?」
マーカムが唸《うな》った。
「なんとでもいいたまえ。しかしあの召喚状を受けとったのはクリーヴァ自身なのだよ」
「たぶん、お説のとおりだろうよ」と、ヴァンスは譲歩した。「僕はただ欺瞞《ぎまん》の可能性のあることを指摘したまでのことさ。僕があくまで主張したい一点は、美しいオーデル嬢を殺した人間は、奸智にたけた、優秀な精神力をもった人間だということなのさ」
「ところで、僕の方は」と、マーカムがいらだって答えた。「相手を殺すような、何かの理由があるほど、オーデルの生活に親しく交っていた男たちは、マニックス、クリーヴァ、リンドクイスト、スポッツウッドの四人だけだということさ。しかもこの四人のうちの一人として、容疑十分、という奴がいないといいたいのさ」
「君の意見とは反対にならなければならないのは残念だが」と、ヴァンスが落着いていった。「容疑の可能性はみんな十分にある――この四人のうち一人が犯人なのだ」
マーカムが嘲笑するように睨みつけた。
「よし、よし、それでは、事件は解決したよ! 真犯人さえ君にはっきりと教えてもらえたら、僕はすぐにそいつを逮捕して、他の仕事にとりかかるよ」
「まったく、例によってそそっかしいね」と、ヴァンスが嘆息した。「なにも飛んだり、走ったりする必要はないね。世界の哲学者の智慧にもとるというものだ。カエサルのいうように、『|おもむろに急げ《フェスティナ・レンテ》』だ。ルフスのいうように、『|急げば遅れる《フェスティナティオ・タルタ・エスト》』だ。コーランはきわめて率直に、性急は悪魔のすることだと、いっている。シェイクスピアはたえず性急を軽蔑して、『あまり急いで拍車をかける者は、いざという時に疲れる』とか、『賢明に、ゆっくりといけ、早く走る者はつまずく』とか、いっている。さらにまたモリエールがいる――『スガナレル』〔別名疑りぶかい亭主〕をおぼえているね?――『あまり早く急ぐ者は誤りに陥る』。チョーサーもまた同じような意見をもっていた。『賢明に急ぐものは、賢明に耐えることができる』といっている。普通の神の人民でさえ、無数の諺《ことわざ》で、こういう考えをたたきこまれている。『急がば回れ』とか『性急な人たちには禍《わざわい》がたえない』とかとね――』
マーカムがじりじりして立ち上った。
「冗談じゃない! 君が寝物語などをはじめないうちに、僕はさっさと帰るとしよう」と、唸るようにいった。
この言葉の皮肉な成果として、ヴァンスは、その夜、僕に「寝物語」をしてくれた。但し一人で自分の書斎にいるときに、僕に語ったものだ。その骨子は次の通りであった。
「ヒースは、身も心も、スキールが有罪だという信念にとりつかれている。マーカムは、気の毒なカナリヤがたくましい両手で絞め殺されたほどしっかりと、法律という繁文縟礼《はんぶんじょくれい》に首を絞めつけられている。えっ、ヴァン! 明日はガボリオのルコック探偵のように、僕自身伴奏なしにのり出し、正義という高貴な目的のために、何をなすべきかを考えてみるほかには、もう残っているものはない。僕はヒースもマーカムも無視して、荒野のペリカンのように、沙漠の梟《ふくろう》のように、屋根にとまった孤独な雀のようになることにしよう……まったく、君、僕は社会のために仇《かたき》を討つような人間ではないんだが、問題をわけのわからぬままにしておくのは大嫌いなのさ」
第十六章 重要な発見
――九月十三日、水曜日、午前
ヴァンスが、次の朝九時には起こしてくれといいつけたので、カリイは大いに驚いた。十時には、九月半ばのやわらかな太陽の光を浴びながら、われわれは小さな屋上庭園に陣どって、朝食をとっていた。
「ヴァンス」カリイが二杯目のコーヒーを運んでくると、彼は僕に話しかけた。「女はどんなに秘密が好きだといっても、誰かひとりくらいはいつも自分の心を打ち明ける相手をもっているものだよ。何でも打ち明けて信頼できる友というものは、女性の天性にはなくてはならない一つのものなのさ。女親、恋人、牧師、医者、もっと一般的には女同志の|仲よし《チャム》の場合もあるだろう。しかしカナリヤの場合には、女親も、牧師もいないのだ。女の恋人――あのお上品なスキールだが――あの男はむしろ敵役だった、またあの医者もまず除外してもよいだろう――非常に悧巧だったから、リンドクイストのような男には打ち明け話をしたりはしなかったろう。そこで、女友達《チャム》だけが残るわけだ。ところで、今日はその女友達というのをみつけだすのさ」シガレットに火をつけて立ち上った。「しかし、まず第七番街にいるベンジャミン・ブラウンを訪ねてみなくてはなるまい」
ベンジャミン・ブラウンというのは、ニューヨークの劇場街の中心に展覧場《ギャラリー》をもっている、有名な舞台人相手の一流写真師だった。その朝遅く、われわれがその豪華なスタジオの応接室に入っていったとき、訪問目的にたいする僕の好奇心は最高潮に達していた。ヴァンスはまっすぐ机に向っていって、きわめて鄭重に挨拶した。その机の向う側には、燃えるような赤い髪をして、眼にマスカラのシェイドをした若い一人の女が坐っていた。台紙のついていない一枚の小さな写真をポケットからとり出すと、女の前に置いた。
「僕は、お嬢さん、あるミュージカル・コメディを演出している者なのですが」と、いった。「僕のところに写真を置いていった若いご婦人に連絡をとりたいと思っているのですが、あいにく名刺を置き忘れてしまったのです。ところで、写真にはブラウンさんのお名前が印刷してありましたので、お手数ながら、こちらに伺って、書類でさがしていただければ、名前と住所とがおわかりになるだろうと存じたのですが」
彼は、吸取紙の端の下に五ドル紙幣をすべりこませ、さりげない様子で、相手の好意を待っていた。
若い女はひやかすように彼をみた。僕はどぎつく紅を塗った唇の端に、それとなく洩《も》れた微笑のかげをさぐりあてたように思った。しかしすぐに、一言もいわずに写真をとり上げると、背後のドアから姿を消した。十分ぐらいして戻ってきて、ヴァンスに写真を手渡した。その裏には女の名前と住所とが書き入れてあった。
「若い娘さんの名前は、アリス・ラ・フォス嬢ですわ、ベラフィールド・ホテルにお住いです」彼女の微笑については、もはや疑う余地もなかった。「志願者の住所なぞほんとうに粗末になさるものではありませんわ――お気の毒に契約ができなくなる娘さんだってできるでしょうに」彼女の微笑は急にやわらかい哄笑《こうしょう》に変っていた。
「|お嬢さん《マドモアゼル》」と、ヴァンスはむっつりとした生真面目《きまじめ》さで答えた。「将来ともに、あなたのご忠告に従うとしましょう」もう一度鄭重に会釈をして戸外に出た。
「ああ、おどろいたよ」と、ヴァンスは、第七番街にさしかかったときに、いった、「金のにぎりのついたステッキでももち、山高帽をかぶり、紫色のワイシャツでも着こんで、変装していけばよかったよ。あの若い女は、僕が何かよからぬ陰謀をめぐらしていると、すっかり見抜いていた……なかなかすばしこい頭のきく赤毛《タート・ルージュ》さ、あの女は」
彼は街角の花屋の店に入って、アメリカン・ビューティを一ダースほど選びぬいて、「ベンジャミン・ブラウンの応接嬢」に宛てて送った。
「さあ」と、いった、「ベラフィールドまでぶらぶら歩いていって、一つアリスと会ってみようじゃないか」
街を通りながら、ヴァンスは説明した。
「あの最初の朝、カナリヤの部屋を点検していたときだよ、僕はこの殺人事件はありきたりの、ぎこちない警察のやり口では絶対に解決できないと確信していたのさ。みかけははっきりとしているが、非常に手のこんだ、十分に計画した犯罪なのだ。常套的な捜査手段ではどうにもできない。どうしても深くつっこんだ情報が必要なのだ。そこで写字台の上のごちゃごちゃになった書類の下に、半ば隠れたこの黄色にあせたアリスの写真を見つけたとき、僕は直観した。「ああ、今は亡きマーガレットの女友達だ。この女ならおそらく必要なことを知っているにちがいない」とね。そこで、警部の広い背中が向うむきになったときに、僕は写真をポケットにしまいこんでおいたのさ。その外に写真は一枚もなかったし、またこの写真には、よくある感傷的な『永久にそなたのもの』という文句が書いてあり、さらに『アリス』という署名がしてあった。そこで、僕は結論したのさ、アリスはカナリヤというサフォにたいしてアナクトリイアの役を演じているのだなとね。もちろん、ブラウンの店で、あの心を見抜くような巫女《シビル》にこの写真をさし出す前には、その文句を消しておいたがね……どうやら、ベラフィールドについたようだ。すこしでも事情がはっきりしてくれるといいがね」
ベラフィールドは、東三十番街にある小じんまりとした、豪奢《ごうしゃ》なアパートメント・ホテルであり、アメリカ式に改造されたアン女王式の控室《ロビイ》にみかける宿泊客からみると、派手な金持の客ばかりを相手にしているとわかった。ヴァンスは名刺をラ・フォス嬢に通じると、すこしお待ち下さればお目にかかりましょうという伝言をうけとった。ところが、そのすこしが一時間の四分の三にものびてしまった。やっと正午近くになって、すばらしく立派な身なりのベル・ボーイがやってきて、われわれを婦人の部屋に案内してくれた。
自然はラ・フォス嬢にいくたの巧みを授けていた――自然の忘れた巧みは、ラ・フォス嬢自身が補っていた。痩身《そうしん》で、金髪だった。大きな碧《あお》い眼は長いまつ毛をつけていた。人を見つめるときには、大きく眼を見開いてみたが、その眼には、すれたところがかくしきれなかった。化粧は念いりにしていた。僕が見ていると、シェレのパステル画のポスターにはもってこいのモデルじゃないか、と思わざるを得なかった。
「ヴァンスさまでございますね」と、優しく小声でいった。「ご高名はかねてから『タウン・トピックス』誌上で拝見しております」
ヴァンスが身震いをした。
「こちらはヴァン・ダイン君です」と、愛想よくいった。「――あのような流行週刊誌には、今日まで一度ものらなかったただの弁護士です」
「お掛けになりませんか?」(ラ・フォス嬢はきっと何かの芝居の科白《せりふ》でも喋っているのだと僕は思った。いかにも印象的な儀礼ぶった態度で招じた)「ほんとうにどういうことでお訊ね下さったのやら存じませんが、お仕事のことでございましょうね。どこか社交界のバザーとか、何かに出るようにとの、ご希望でございましょうね。でもあいにくと、とても忙しいのでございますの、ヴァンスさま。あなたさまには、私が仕事で埋まっていることなぞ、とてもご想像もしていただけませんわ。……私、とても自分の仕事を愛しておりますもの」と、うっとりとするような溜息をつきながら、いった。
「まったく、あなたさまのようになりたい人はほかにまだ何万とおることでしょうな」と、ヴァンスは、この上なく儀礼ばった態度で返事した。「しかし遺憾《いかん》ながら、あなたさまのご出席をねがうようなバザーをもよおすわけではありません。じつはこちらに参上いたしましたのは、もっともっと重大な要件についてでございまして……。あなたさまがマーガレット・オーデル嬢のご親友だと承《うけたまわ》って――」
カナリヤの名をきくと、ラ・フォス嬢は急にきちっとなった。人を惹《ひ》きつけるような、わざとらしい上品はたちまち消えうせてしまった。眼はかがやき、瞼《まぶた》がけわしくふせられた。冷たい笑いがキューピッド形の口の線をゆがめ、怒ったように顔をつきだした。
「まあ、おききくださいよ! あなた方はいったいなんだと思っているんですの? 私はなにも存じませんし、なにも申しあげることはございません。さあ、すぐにお引きとりください――あなたも、弁護士さんも」
しかし、ヴァンスは素直に立ち去ろうとはしなかった。彼はシガレット・ケースをとりだして、一本のレジイを注意深く選び出した。
「煙草を喫《す》ってもかまいませんか?――あなたも一ついかがですか。コンスタンチノーブルにある僕の取引先から直輸入したものです。なんとも申し上げようもない結構な調合ですな」
女は鼻を鳴らして、冷たい軽蔑の表情を示した。人形娘《ドール・ベビイ》はもう悍婦《かんぷ》に変っていた。
「この部屋からとっとと出ておゆきってば、出てゆかないと、ホテルの巡査を呼ぶわよ」自分の側の壁についている電話の方へ向きなおった。
ヴァンスは受話器《レシーバー》を持ち上げるのを待っていた。
「ラ・フォスさん、そんなことをなさると、訊問のために地方検事局に連行するように命じますぞ」と、シガレットに火をつけ、椅子に背をもたせかけながら、落着き払っていた。
彼女はゆっくりと受話器《レシーバー》を元にもどすと、振り向いた。
「いったい、なにをしようっていうの? かりにも私がマーギイを知っていたとしたら――それがどうなのさ? だいたい、あなたはそれにどういうつながりがあるの?」
「なんですって! つながりなぞありませんよ」と、ヴァンスは愉快そうにほほえんだ。「それどころか、この事件に、つながりのありそうな人間は、一人だってありませんよ。実際、当局では、目下、あなたのお友達を殺したというので、つまらぬいやな奴を、逮捕しようとしているんです。もっとも、その男もあの劇的場面にはつながりはなかったんですがね。僕は幸い地方検事の友人なのです。で、この事件の経過を正確に知っているのです。警察はまったく狂気のようになって、捜査をつづけていますが、はたして次にどんな手懸りをみつけだすものやら、そのへんのところちょっと見当もつきかねますね。僕の考えでは、よろしいですか、少しの間、うちとけて、お話を願えれば、あなたも不快な思いをなさらずに、すむのではないかと思っているのですが……もちろん」と、つけ加えていった。「僕の口から、警察に、あなたのお名前をいう方がおよろしかったら、それでも結構です、警察独特なあらっぽい流儀で、聴取をとらせてもさしつかえはありませんよ。しかしまあ、実際のところ、警察はあなたとオーデル嬢との関係を、幸いにまだ感づいてはいないのです。ですから、もしあなたに分別がおありになれば、なにをすき好んで、こんなことを警察に知らせたりする理由がありましょう」
娘は片手を電話器にかけたまま、ヴァンスを一心にみつめながら、立っていた。彼は慎重に、しかも思いやりのある口調で話をした。そこでついに女もまた座席に腰をおろした。
「さあ、どうです、僕のシガレットで一服しませんか?」と、ねんごろに妥協をするような口調できいた。
機械的に女はこの好意をうけ入れたが、その眼はたえず彼の方にそそがれていた、どこまで信用してよいものかと、ためしているようであった。
「誰を捕えようとしているのですか?」女は顔の表情一つ動かさずに、こんな質問をした。
「スキールという名前のしゃれ者です――ばかげた思いつきですがね」
「あの男を!」その声には軽蔑と嫌悪との情が入りまじっていた。「あのけちな悪党をですって? あんな男には猫の仔一つ絞め殺すだけの神経も、ありはしませんわ」
「まったくそのとおりですよ。とにかく、それだけのことでは、あの男を電気椅子に送りこむわけにはゆきますまいな?」ヴァンスは身体を前にのりだして、愛想よくほほえんだ。「ラ・フォスさん、もしもあなたに五分ばかりお話しを願えれば、それも僕が他人だということを忘れて、お話し願えるなら、警察当局や、地方検事局には、あなたのことを知らせないと、きっとお誓いしますよ。僕は別に当局とは直接の関係はないんですが、ただどうも無実の者が罰せられるのをみているには、忍びませんのでしてね。ともあれ、ご親切にあなたがお話しくださるなら、その情報の出所は忘れると、お約束しますよ。ご信用が願えるなら、結局は、あなたにとっても絶対にご迷惑にはならないのですがね」
女は数分の間、一言も答えなかった。ヴァンスの品定めをしているようであった。どっちにしたって、――カナリヤと自分の友情がわかってしまった以上、将来、迷惑を自分にかけないと、約束してくれるこの男に話をしたって、自分には失なうものはなにもないと、決心をしたことは、明らかであった。
「あなたのおっしゃるとおりだと思いますわ」と、まだ半信半疑ながらにいった。「でも、なぜそう思うのか、私にはわかりませんわ」言葉をきった。「でも、なんですわね、あの事件からは手を引けといわれていますし、もし手を引かなければ、またあのコーラス・ガールに逆戻りするようなはめにもなりかねないんです。そんなことにでもなれば、私のような贅沢《ぜいたく》な趣味をもった若い女には、とても我慢のできないことです――ほんとうにそうなんですのよ」
「私の方の手落ちから、そんなご迷惑を、あなたにおかけしたりはいたしませんとも」と、ヴァンスは真面目くさって保証した……。「ところで、あなたに手を引けといわれたのは、どなたですか?」
「私の――許婚者《フィアンセ》ですわ」と、どことなく嬌態《きょうたい》をつくっていった。「とても有名な方ですの、ですから、私が証人などになって、事件のまきぞえにでもなれば、おもしろくない噂かなにか、そんなことがきっと立つだろうと、ご心配になっていらっしゃるのです」
「その方のお気持は十分に理解できます」ヴァンスは同情するようにうなずいた。「で、その白羽の矢のたった殿方はいったいどなたなのですか?」
「まあ、お上手ですこと」はにかんだように、すねたふりをしてつけ足した。「でも、私、自分の婚約をまだお話しいたすわけにはまいりませんの」
「かまわずにどうぞ」と、ヴァンスがたのんだ。「二、三調査をしてみれば、その方のお名前ぐらい、僕にも調べられることは、あなたにも十分おわかりになるでしょう。ですから、僕が他の場所で事実を調べさせるようなことになると、お名前を秘密にしておくと申し上げた約束も、さっそく解消していただかなければなりませんよ」
ラ・フォス嬢はその点を考えた。
「もちろん、おわかりになるだろうと思うわ……ですから、私から申し上げようと思いますの――でも、私を保護してくださるとおっしゃる、あなたのお言葉を信じての上のことですわ」眼を大きく見開いて、ヴァンスを魅惑するような眼差しをして見た。「私をひどい目にあわすようなことはなさいますまいね」
「もちろんです、ラ・フォス嬢!」その声は思いもかけぬといった驚きをおびていた。
「では、もうします。私の許婚者《フィアンセ》はマニックスさまです。大きな毛皮輸入商の社長さんですのよ……」――女はすっかり打ちとけた態度になっていた。――「ルゥイは――マニックスさまのことですが――昔はマーギイともおつき合いがありました。それで、私がまきぞえになるのを嫌っていらっしゃるのですの。あの方は警察から厄介な訊問をお受けになったり、ご自分のお名前が新聞にのるようなことになるかもしれないと、おっしゃっていました。そんなことにでもなれば、あの方の取引上の立場は丸潰《まるつぶ》れになります」
「ごもっともですとも」と、ヴァンスはささやいた。「ところで、マニックス氏が、月曜日の夜、どちらにおいでになったか、ご存じでしょうな?」
女はぎょっとした様子だった。
「もちろん、存じていますわ。十時半から朝の二時頃まで、私のところにおりました。あの方の関係している新しいミュージカル・ショウの話をしていましたの、私に主役を演《や》らせたいとおっしゃっていました」
「きっとご成功でしょうな」ヴァンスは友情をあけすけにみせていった。「あなたは、月曜日の夕方は、お一人でお宅におられましたか?」
「いいえ、とんでもない」そんなことは思いもかけぬようにみえた。「私、『スキャンダルス』にまいりました――でも、早目に帰りましたわ。ルゥイ――マニックスさまがお見えになるのを存じていましたので」
「さぞあなたのご献身をありがたがっていたことでしょうね」ヴァンスはマニックスのこの予期しないアリバイに失望したようにみえた。実際、それは決定的なものだったので、これ以上の質問は徒労のように思われた。ちょっと黙ってから、話題を変えた。
「では、どうでしょう、チャールズ・クリーヴァ氏について、なにかご存じのことはありませんか。オーデル嬢のお友達でしたな」
「おお、ポップは大丈夫だわ」女は明らかに、話題が変ったので、ほっとしていた。「良い方だわ。たしかにマーギイにはうちこんでいました。マーギイがあの方を棄てて、スポッツウッドさんにかわってからも、忠実で――なんといったらよいのかしら――始終、あの女《ひと》の後を追いまわして、花だの、贈物などしていました。男でも、あんな方があるものなのね。可哀想なポップ! 月曜日の夜も、マーギイを呼び出してパーティをやろうと、私に電話をかけてよこしたほどですわ。――たぶん、私がそのとおりにしていたら、あの女《ひと》も死なずにすんだのでしょうね……世の中って妙なものですわね」
「いやはや、奇妙千万ですとも」ヴァンスは、しばらくの間、煙草を静かに喫っていた。僕はその自制力には感嘆せざるを得なかった。「月曜日の夜の何時頃、クリーヴァ氏から電話がありましたか――思い出せませんか?」だれにもその声からは質問の重大性を想像することはできなかったろう。
「ええ――」唇をかわいらしくすぼめた。「ちょうど十二時に十分前でした。向うの炉棚の上の小さなチャイム時計が十二時を打ったのをおぼえています。初め、ポップの声がはっきりとききとれませんでした。私は時計は、いつも十分進めておきますのよ。約束におくれないようにするためです」
ヴァンスはその時計と自分の懐中時計とをくらべてみた。
「なるほど、十分進んでいますね――それから、そのパーティの方はどうなりましたか?」
「ええ、私、その新しいショウの話でいそがしかったので、お断りしなければなりませんでした。どっちみち、マニックスさまも、あの晩はパーティをお望みではなかったのです……私の罪ではございませんわね?」
「そんなことはありませんよ」と、ヴァンスは保証した。「遊び事よりは仕事の方が大切です――殊にあなたのお仕事のように、大事なお仕事の場合にはですね――。それから、まだ一人、あなたにお伺いしたい人物があるのですが、それだけで、これ以上はご迷惑をおかけしますまい――オーデル嬢とリンドクイスト博士との関係はどんなものでしょうか?」
ラ・フォス嬢はまぎれもなく狼狽《ろうばい》していた。
「あの方のことをお訊ねになるのではないかと思っておりました」眼には不安の色がただよっていた。「なんと申し上げたらよいのでしょうかしら。マーギイを狂気のように愛していらっしゃったし、マーギイの方でもそういうふうにしむけていたんですの。でも、後になって悔んでいましたわ、あの方が――まるで狂人のように――嫉妬をなさるようになったんですもの。あの方はいつもマーギイをいじめぬいていたのです。ある時なぞは――それこそ――おまえを射殺して、俺《おれ》も死ぬとまで、脅迫したんですわ。私あの女《ひと》に用心するように話しましたわ。でも、あの女《ひと》は恐れていないようでした。とにかく、危ない綱渡りをしていたんですの。あら! いったいどうなるんでしょう、まさかそんなことになったのじゃないでしょうね――本当にそうなんでしょうか――?」
「そのほかには誰もいませんでしたか」と、ヴァンスが遮《さえぎ》っていった、「同じような感じをもっていた相手はいませんでしたか?――オーデル嬢が恐れるような原因をもっていた相手は?」
「いいえ」ラ・フォス嬢は頭を振った。「マーギイは多勢の方と、そんなに親しくつき合っていたわけではありませんわ。それに、おわかりになっていただけると思いますが、ちょいちょい相手を変えるようなことも、しませんでしたわ。あなたがおっしゃった方以外には、もちろん、スポッツウッドさんを別にすれば、誰一人だっておりませんの。あの方はポップを出し抜いたのですよ――数カ月ほど前に。月曜日の夜も、マーギイはスポッツウッドさんとご一緒に、夕食に出かけたんですわ。『スキャンダルス』に私と一緒にいってもらいたかったのに――まったく意外でしたわ」
ヴァンスは立ち上って、手をさしのべた。
「たいへんありがとうございました。なにもご心配なさることはありませんよ。今朝、われわれがこっそりとこちらに伺ったことは、誰にも絶対に口外はいたしませんから」
「誰がマーギイを殺したとお考えになるのですか?」女の声には偽らない感情がこもっていた。「ルゥイは、きっと、宝石欲しさの強盗の仕業だろうといっております」
「マニックスさんのご意見を拝聴させていただいて、こんなご幸福なご家庭に、不和の種をまくほど、僕も無分別ではありませんよ」と、ヴァンスは半ばひやかすようにいった。「誰が犯人なのか、誰にだって|わかりません《ヽヽヽヽヽヽ》よ。しかし警察の意見はマニックス氏と同意見でいます」
一瞬、女はふたたび疑惑につつまれて、探ぐるような表情で、ヴァンスを見た。
「どうしてあなたはそんなにご熱心なのかしら? マーギイをご存じではなかったのでしょう? マーギイからは一度もあなたのことを伺いませんでしたもの」
ヴァンスは笑った。
「いや、とんでもない! 僕こそ、なぜこんなに、この事件に興味があるのか知りたいと、思っているぐらいですよ。誓って、僕にもかいつまんで、ご説明を申し上げることはできませんよ……実際、僕はオーデル嬢にお会いしたことさえもないのですからね。しかしスキール氏が処罰され、しかも真犯人がのうのうとしてるようなことがあっては、僕にはどうにも心の平安がとれなくなってくるのです。僕が感傷的になっているのかもしれません。まったく悲しい運命ではありませんか?」
「たぶん、私も気が弱くなっているのですわ」と、うなずいて、頭を振ったが、いつまでもヴァンスの目をはっきりと見つめていた。「あんなことを申し上げて、自分の幸福な家庭を危険にさらしてしまいましたわ。それも、あなたをともかくもご信用申しあげたからなのですわ……。あなた方は私をだましたりして、おいでになるのではないでしょうね、決してね」
ヴァンスは片手を胸にあて、真顔になった。
「親愛なラ・フォス嬢、僕がここからいなくなれば、はじめからお邪魔をしなかったと同じことになるでしょう。どうか僕のことも、ヴァン・ダイン氏のことも、お忘れになってください」
彼の態度にあらわれた何ものかが、彼女の疑惑を払いのけ、彼女は、仔猫のように甘えて、われわれに別れを告げた。
第十七章 アリバイの検証
――九月十三日、木曜日、午後
「僕の追跡も好調だよ」と、再び街に出ると、ヴァンスは得意になった。「美しいアリスはほんとに情報の宝庫だったね? ただし、女が愛人の名を呼んだときは、君はもう少し上手に自制すべきだったよ、まったくだぜ、ヴァン君。僕は君が飛び上ったのを見たし、溜息をつくのをきいたよ。あんな感情は、弁護士には、およそふさわしくないものさ」
ホテル近くの薬種屋の売店から、彼はマーカムに電話をかけた。
「昼食を一緒にやらんかね。君の耳に入れておきたい情報をだいぶ握っているんだ」それから、何か議論をしていたようだったが、結局、ヴァンスに軍配があがった。まもなくわれわれを乗せたタクシーは下町の方へと疾走していった。
「アリスは悧巧《りこう》だ――あの毬毛《まりげ》の頭の中には、智慧という奴が住んでいる」と、思案しているようであった。「ヒースよりは、よっぽど気がきいている。スキールが無罪だってことをすぐに悟ったからね。あの隙《すき》のないトニーについての性格批評も、上品ではなかったが、正確そのものだ――恐れ入った正確さだ! もちろん、君も気がついていたろうが、僕を信頼していたあの態度はどうだ。いじらしくはなかったかね?……こんがらかった問題だよ、ヴァン。なにかが、どこかで、狂っている」
数地区を走る間、黙って、煙草を喫っていた。
「マニックスが……奇妙だな、あの男がまた登場するなんて。それに、アリスに黙っていろといいつけている。どうしてだろう? おそらく女に話した理由には嘘はないだろう。誰にだってわかりっこはない。――それにまた、あの男は、十時半から早朝まで、好きな女と一緒にいたのだろうか? いよいよもってわからないね? あの取引の話にはどうも変なところがある……。例のクリーヴァはどうだ。あの男はちょうど十二時十分前に電話で呼び出している――たしかに呼び出しをかけている。こいつはお伽話《とぎばなし》ではないのだ。しかし、どうして疾走している車の中から電話なぞをかけられたのだろう。そんなことはできるはずはない。きっと、強情にいやがるカナリヤとパーティをしたいと望んだのも、真実かもしれない。すると、あの偽もののアリバイはいったい何のためにもちだしたのだろう? 怖気《おじけ》でもついたのかな。たぶん、そんなところが落ちだろう。しかし、ずいぶんまわりくどいやり方をしたものだ――どうして逃がした愛人に直接呼びかけなかったのだろう? ああ、きっと、やってはみたのだろう! たしか十二時二十分前に、誰かが女を電話で呼び出している。だから、ヴァン、そいつを探り出してみなければならんのだ。……そうだ。あの男が女を呼び出したんだ。ところが、男の声がしたので――いったい、この男は誰なんだ――それで、アリスにたのんだにちがいない。きわめて自然なことだ。とにかく、あの男はブーントンにはいなかったのだ。気の毒なマーカム、あの男が、こんなことを知ったら、さぞかしびっくり仰天するだろう!……しかし、僕のほんとの悩みの種は、あの医者の話だ。嫉妬狂。アンブローズの性格にぴったりと一致している。かっと、理性を失ってしまうたちの男だ。父性愛といった例の告白だって、真赤な嘘だくらいは、わかっている。間違いっこなしだ! だから脅迫したり、短銃を振りまわしたりしたのさ。いやだ、いやだ、じつに鼻もちならん。あいつのような耳をもっていれば、引金を引くのをためらいはしないだろう。偏執狂《パラノイア》――そうなんだ。被害妄想というやつだ。そこで、女とポップ――あるいは女とスポッツウッド――が、自分を不幸に陥れて、自分を笑っていると考えたのだろうね。こんな奴はどんなことをやりだすかしっちゃいまい。深刻で――それだけに危険なのさ。例の抜け目のないアリスはあの男をしっかりと見ぬいていて――あの男を用心するように、カナリヤにいったんだ……。どっちからみても、とほうもなくこみいっている。どうやら、僕も元気が出てきたようだよ。前進している――たしかに前進している――といって、どういう方向へなのか、わかっているわけではないがね。まったくいまいましい話さ」
マーカムは銀行家《バンカーズ》クラブで待っていた。いらいらしたように、ヴァンスをむかえた。
「いったいなんの話だね。僕に話したい特別重大な情報というのは?」
「まあまあ、おちつきたまえ」ヴァンスはにこにことしていた。「君の|希望の星《ロード・スター》のスキールのご機嫌の方は、どうなんだ?」
「今のところ、キリスト教事業協会に加入するということの外の、純潔高尚なことはなんでもやっているよ」
「日曜もま近だ、好きにさせておくさ。……それで怏々《おうおう》として楽しまずというところだね、マーカム」
「僕の心境をきくために、他の仕事を投げださせたりしたのかね」
「その必要はないよ。君の心境ならじつに惨憺《さんたん》たるものさね。……しっかりしろよ。じつは君に折入って考えてもらいたいことがあるんだ」
「冗談じゃない! これ以上、折入って考えることなどは、真平《まっぴら》だよ」
「おい、ブリオッシュ〔菓子パン〕を頼む」ヴァンスはわれわれ二人に相談をしないで、昼食を命じた。「さて、僕の発見した新事実をご報告しよう。まず第一に、ポップ・クリーヴァは、月曜日の夜、ブーントンにはいなかったよ。あの男は、現代のゴモラ〔罪悪の都〕の真唯中にあって、真夜中のパーティをひらこうとしていた」
「すばらしい話だ!」と、マーカムは鼻を鳴らした。「僕は君の智慧の泉にひたるとするよ。あの男の分身《アルター・エゴ》がホパットコンに旅行していたということになるが、そんな不思議にはさっぱり興味をもてないね」
「君が汎宇宙論者になりたいというのなら、それはぜんぜん君のご勝手だ。とにかく、クリーヴァは、月曜の夜中には、ニューヨークにいたんだ、烈しい刺戟を待ち焦がれていたのだ」
「速力違反の召喚状の方はどうなるんだね?」
「その説明なら、君の領分さ。とにかく、僕の忠告をきいてくれるのなら、ブーントンの役人をつれてきて、ポップに面通しをさせてみたまえ。もし召喚状を渡した本人がクリーヴァに相違ないというのなら、僕はいさぎよく手をひこう」
「よろしい! やってみるだけのことはあるだろう。夕方、その警官をスタイヴィサント・クラブにつれてきて、クリーヴァを教えてやろう。……そのほかにとっておきの重大な新事実というのはなんだね」
「マニックスを吟味してみる必要があるね」
マーカムがナイフとフォークをおいて、そりかえった。
「僕はまいるよ。そんなヒマラヤ流のとてつもない智慧にはね。あれだけ不利な証拠があがってる以上、ただちに逮捕すべきだ、というのか。……ヴァンス、君は正気なのかい? 近頃、眩暈《めまい》がするようなことはないのかね? ずきずきするような頭痛は止んだかね? 膝の反射は正常かね?」
「それに、リンドクイスト博士はすっかりカナリヤに熱中して、狂気のように嫉妬していたよ。最近では、短銃をもち出して脅し、自分で虐殺しかねないところだったよ」
「それは耳よりな話だ」マーカムは坐りなおした。「どこからそんな情報を手に入れたのだ?」
「ああ! それは僕の秘密だ」
マーカムはいらいらした。
「なぜそんなに隠すんだね?」
「事情やむを得ずさね、君。つまり約束をした、というわけなのさ。そういえば、僕もいささかドン・キホーテさ――若い頃、セルヴァンテスを読みすぎたせいでね」快活に話しをしていたが、マーカムは彼をよく知っていたので、その質問を押しつけるわけにはいかなかった。
われわれが地方検事局に帰ってから、五分もたたないうちに、ヒースが入ってきた。
「マニックスの情報がすこし手に入りました。きのう、私の出しました報告に補足を望んでおいでのご様子でしたからね。バークが奴の写真を手に入れて、オーデルの家の電話交換手に見せたんです。すると、二人とも認めております。あの男は何度も訪ねてきたことがあるそうですが、相手はカナリヤじゃなくて、二号室の女だったんです。この女はフリスビーという名で、昔、マニックスの店の毛皮のモデルをやっていた女の一人でした。最近六カ月の間に、数回たずねてきて、一、二回ほど、外につれだしていますが、ここ一カ月以上も寄りついていません……すこしは参考になりますかね?」
「わからんね」マーカムはす早く、探るような表情で、ヴァンスを見た。「しかし情報には感謝するよ。警部」
「ついでだがね」と、ヴァンスは、ヒースが立ち去ると、快活にいった。「僕はとびきり上等の気分だ。頭痛もしない、眩暈《めまい》もしない、膝の反射も正常だ」
「それは結構だ。しかし、モデル女を訪問したからといって、ある男を殺人罪で逮捕することはできないよ」
「君は実にそそっかしいね! あの男を殺人罪で告発する理由が一体どこにあるんだね?」ヴァンスは立ち上って、欠伸《あくび》をした。「いこう、ヴァン。午後はメトロポリタンで、ペルネブの墓の一幕でも、しみじみと見物したいものだ。いやかね」しかしドアの所で立ちどまった。「ねえマーカム。ブーントンの役人の方はどうするね?」
マーカムが呼鈴を鳴らして、スワッカを呼びよせた。
「すぐに手配しよう。さしつかえがなかったら、五時ごろ、クラブに立ちよってくれたまえ。僕は役人をつれていっているよ、クリーヴァは夕食前にくるにきまっているからね」
ヴァンスと僕とが、その日の午後遅く、クラブにもどってくると、マーカムは丸天井の大広間の正面入口にむかって、談話室に、陣どっていた。そのそばには、四十歳くらいの、背の高い、頑強な、陽に灼けた男が、用心深く、どことなく落ちつかない様子で、坐っていた。
「交通係のフィップス氏が、少し前に、ブーントンからきてくれたんだよ」と、マーカムは紹介するようにいった。「クリーヴァは、もうそろそろやってくる時分だ。五時半には、ここにくる約束になっているから」
ヴァンスが椅子を引きよせた。
「時間に几帳面《きちょうめん》な奴であってほしいね」
「ご同様だね」と、マーカムは意地悪くいい返した。「僕は君の自殺《フェロ・デ・セ》を楽しみにまっているんだからね」
「幸せはすぎ去り、望みは悲しい嘆きとかわりぬ、かね」ヴァンスがつぶやいた。
それから十分もたたないうちに、クリーヴァが街路から大広間に入ってきて、受付で立ちどまり、ぶらぶらと談話室の方に歩いてきた。マーカムが選んでおいた観察点を逃がれる術《すべ》はなかった。われわれのそばを通りすぎるときに、立ちどまって、挨拶をかわした。マーカムは二、三の出まかせの質問をして、引きとめた。それからクリーヴァは通りすぎていった。
「君が召喚状を渡したのは、あの男かね?」と、マーカムはフィップスの方をふり返ってきいた。
「あの男のようにみえるところはあります。似ているような感じがします。しかし、あの男ではございませんな」彼は頭を振った。「たしかにあの男ではございません。私が召喚状を渡した男は、あの紳士よりはもっとがっちりした男で、それにあんなに背丈はございませんでした」
「断言できるかね?」
「はい――間違いございません。私がひっとらえた男は私に口論をしかけてきましたが、その後で、五ドル紙幣を握らせて、忘れさせようとしました。私は自分の車のヘッド・ライトを、奴に正面から浴びせてやりました」
フィップスは相当の心付けをもらって帰っていった。
「ああ、惨めなることよ!」と、ヴァンスが溜息をついた。「僕の不甲斐《ふがい》のない生命も、これでもち長らえねばならぬのか。悲しむべきかなだ。しかし君には辛抱が大切だ。……ねえ、マーカム、ポップ・クリーヴァの兄というのはどんな奴だい?」
「それ、それ」と、マーカムはうなずいた。「僕はあの男に会ったことがある。もっと背の低い、うんと頑丈な奴さ。……これはまったく思いもかけないことだね。さっそく、クリーヴァをやっつけよう」
彼は立ちあがりかけたが、ヴァンスがむりに席に引きもどした。
「そうあわてないで、辛抱したまえ。クリーヴァが逐電するわけではないんだし、きわめて大切な予備的手続きが一、二いる。マニックスとリンドクイストにだって、僕はまだまだ好奇心をひきつけられているからね」
マーカムは自分の主張を固執した。
「マニックスも、リンドクイストも、ここにはいないが、クリーヴァは目の前にいるのだ。だから、召喚状の件について、どうして大嘘をついたか、ききただしておきたいんだ」
「それなら、僕が話をしよう」と、ヴァンスがいった。「奴は、月曜日の真夜中、ニュージャージーの荒野をさまよっていたと、君には考えてもらいたい魂胆《こんたん》なのさ。――簡単だろう?」
「いかにも君の知性に恥じない見事な推測さ! だが、しかし、クリーヴァが有罪だなどと、真面目に考えないでほしいね。奴がなにかを知っているということはあるが、僕にはあの男を絞殺犯人と考えることはどうしてもできないね」
「どうしてだい」
「タイプが違うよ。考えることさえできない――どんなに不利な証拠があったにしてもね」
「それこそ、心理学的判断なのだ! クリーヴァの性格が情況と調和しないと考えるあまりに、君はとくに奴を除外しようとしている。君、それは危険千万にも一種の秘伝的仮定に接近することになりはしまいかね?――つまり形而上学的演繹法にだね?……とにかく、僕は君の理論をクリーヴァにたいして適用する仕方には、全面的に同意するわけにはいかないのだ。あの魚の眼をした賭博者は犯罪にたいして嫌疑をかけられるだけの潜在能力をもっているよ。この理論そのものには、僕も完全に同意するよ。しかし、よく考えてみたまえよ、マーカム。君だって初歩的な意味では心理学を適用しているではないか。そのくせ、もっと高度に発展した僕の心理学の適用は嘲笑している。首尾一貫は小人のおまじないということもあるが〔エマスンのことば〕それでも、一個の高貴な宝石であることにはかわりがないよ。……お茶でも飲もうか?」
われわれはポオム・ルームに入って、入口近くのテーブルに坐った。ヴァンスはウーロン茶を注文したが、マーカムと僕とはブラック・コーヒーを飲んだ。なかなか有能な四部のオーケストラが、チャイコフスキーの『胡桃割り』の組曲を演奏していた。そこで、われわれは黙ったまま、居心地《いごこち》のよい椅子にゆっくりと休んでいた。マーカムは疲れて、元気がなかった、ところが、ヴァンスは、火曜日の朝からずっと興味をひいてきた問題に、一心にとり組んでいた。あれほど熱中していた姿を、僕はこれまで一度も、みたことはなかった。
おそらく半時間ぐらい、そこにそうしていただろう。そのとき、スポッツウッドがぶらぶらと入ってきた。立ちどまって話しかけた。マーカムが仲間に加わるようにすすめた。彼もまたふさぎこんでいるようだった、眼には不安の色がやどっていた。
「まったくお伺いするのもなんですが」と、ジンジャー・エールを注文した後で、彼はおずおずといった。「証人として喚問される見込みのほうはどうなっているでしょうか?」
「この前にお目にかかったときと同じくらいのものでしょうね」と、マーカムは答えた。「実際、実質上、事態を変化させるようなことは、まだなに一つ起こっていないんですから」
「では、あなたが嫌疑をかけておられた人物は?」
「まだ嫌疑はかけてありますが、逮捕するところまではいっておりません。しかし、近いうちに、なにか重大な変化が起こるものと期待していますよ」
「それでは、まだ私もニューヨークを引き払うわけにはまいりませんな?」
「そう願えるなら――もちろんですとも」
スポッツウッドはしばらくの間黙っていた。それからいった。
「責任逃れのように思われては心外ですが――もっともこんなことを申し上げるだけでも、まったく自分勝手な話ですが――とにかく、オーデル嬢の帰宅した時刻や、救いを求める叫び声については、私が改めて確認するまでもなく、電話交換手の証言で、事実を裏づけるには十分ではございませんか?」
「もちろん、それも考慮いたしました。あなたを召喚せずに、事件を起訴できそうな所までもっていければ、もうしめたものです。そのときこそ、あなたを証人として召喚する必要はすこしもありませんね。しかし将来どういうふうになるのか、誰にもわからんことです。もし被告の方が正確な時間の問題にふれてきて、しかもなにかの理由で、交換手の証言を疑問とされたり、不適格にでもされれば、さしあたりあなたにご出頭を願わなくてはなりますまい。そうでもならないかぎり、まずまずというところですな」
スポッツウッドは、ジンジャー・エールをちびりちびり飲んだ。その暗い表情が心もち去ったようにみえた。
「マーカムさん、たいへんご寛大に扱っていただいて、まったく恐れ入ります。なんともお礼の申し上げようもございません」彼は口ごもりながら見あげた。「あなたは、私があの部屋を訪ねてゆくことは、まだ反対でございましょうな。……とても無分別な、おそらく感傷的な奴だとお考えになることとは存じますが、あの女は、私にとっては、忘れることのできない貴いものを、私の人生に与えてくれました。あなたにおわかりになっていただけるとは存じません――私にもよくはわからないぐらいですから」
「いや、十分にお察しはできると思います」と、ヴァンスは、これまでみたことのないような同情のこもった口調で、いった。「あなたの態度はなにも言い訳を必要としません。歴史と寓話は、ご同様な話でいっぱいになっています。主人公たちは、いずれも、あなたに似たような感慨を、いつもいだいておるものですよ。一番有名な例をあげますと、シトロンの芳《かぐ》わしき香にむせぶオギュギエの小島に、その島の主、美しい女神カリュプソにひきとめられて住んでいたオデュッセウスでしょうね。赤毛のリリスが感じ易いアダムにたいして、破滅の企らみをくわだてて、誘惑してこのかた、妖《あや》しい女のたおやかな腕というものは男の首にからみついてしまったのです。われわれとてもみんな、あのみだらな男、アダムの子孫なのですよ」
スポッツウッドがほほえんだ。
「すくなくとも、あなたは私に歴史的な背景を与えてくださった」と、いった。それからマーカムの方をふりむいた。「オーデル嬢の財産は――家具やその他のものは――どうなるのでしょうか」
「シアトルにいる叔母《おば》からヒース警部のところに便りがありましてね」と、マーカムがいった。「たしか、あすこにある財産を引きとりに、ニューヨークにやってくるころだと思います」
「すると、それまでは、すべてそのままにしておかれるのですな?」
「予想外の事態でも起こらないかぎりは、おそらくもっと長びくでしょう。とにかく、それまでは」
「つまらぬものですが、じつは一、二ひきとっておきたいものがございまして」と、スポッツウッドは少し恥かしそうにしながら告白した。
それから二、三分、雑談をかわしてから、彼は立ち上って、他に約束があるといって、別れの挨拶をした。
「あの男の名は、この事件から除外してやれればいいと思うがね」と、マーカムは、彼がいなくなると、いった。
「そうとも。あの男の立場は決してねたましいものではないね」と、ヴァンスが同意した。「なんでもばれるというのはいやなものだよ、道楽家なら天罰とでもいうだろうが」
「この場合は、たしかに天運は正義の味方をしているよ。月曜日の夜に、ウィンター・ガーデンにゆくようなことさえしなかったなら、あの男だって、いまごろは、罪の意識で悩まされるような厄介もなしに、一家|団欒《だんらん》の中におさまっていられただろうからね」
「たしかに、そんな風にもみえるね」ヴァンスは自分の時計をちょっと見た。「君がウィンター・ガーデンといったので思いだしたが、早目に食事をしてはどうかね? 今晩は気まぐれの虫にとりつかれたようだ。僕は『スキャンダルス』にいってみるつもりだよ」
われわれ二人は、気でも狂ったのではないかというように、彼を見た。
「驚くことはないよ、マーカム。本能のままに動いて、悪いかね?……それから、ついでにいうが、明日の昼食までには、ぜひ君に吉報をもたらしたいと思っているよ」
第十八章 陥穽
――九月十四日、金曜日、正午
翌朝、ヴァンスは遅くまで眠っていた。前夜、僕を同伴して『スキャンダルス』にいったのだが、さんざん忌《い》み嫌っていた、あんな低級な演芸を、どうして自らすすんで、見にいこうなどといいだしたのか、僕にはその奇妙な要求が理解できず、まったく当惑してしまった。正午になると、車を命じて、運転手に例のベラフィールド・ホテルにいくようにいいつけた。
「これから、もう一度、あの魅惑的なアリスを訪ねてみようと思っているんだ」と、彼はいった。「錦上《きんじょう》さらに花を添えるというわけで、女に花束を贈りたいが、マニックス氏が気をまわして、さぞ詰問するだろうね」
ラ・フォス嬢はしょげきった中にも、敵意を含めた態度で、われわれを迎えた。
「そのくらいのことは心得ておくべきでしたわ!」と、嘲笑的にいって、頭を前後にふった。「どうしてお見えになったか、存じています。ご自分の方では少しも協力しなかったが、警察が私のことをすっかりかぎつけてしまったのだと、おっしゃりたいのですわね」その軽蔑にみちた態度はむしろすばらしいほどだった。「巡査をつれておいでになって?……あなたはたいした方よ――なんて私はへまなことをしたのかしら」
ヴァンスは口ぎたない長口舌のすむのを、じっと待っていた。それから快活に会釈した。
「ちょっとご機嫌うかがいにおたちよりしただけですよ。それに、オーデル嬢の友人関係の報告が警察に入ったことや、あなたのお名前はそれにはのっていなかったことを、ついでにお知らせしたいと思ったまでです。昨日はこの点ですこしご心配なさっているようでしたからね、さっそくすっかりご安心のゆくようにしてあげたいと、思いついたのです」
女は警戒的な態度をやわらげた。
「まあ、そうでしたの……でも、困ってしまいますわ! 私がよけいなお喋《しゃべ》りをしたことが、ルゥイにでも知れたら、それこそどんなことになるか、わかりませんもの」
「気づかれる心配はありませんよ、あなたさえおもらしにならなければです。……どうか坐ってよろしいと、おっしゃっていただけませんか?」
「どうぞ――ご免遊ばせ。あいにく、コーヒーをいただいておりましたので。よろしかったら、ご一緒にいかが」と、ベルをならして、二人分のエクストラを注文した。
ヴァンスは、コーヒーを二杯も平らげてから、まだ半時間と、たっていなかったのに、この恐るべきホテルの飲料にたいしてみせた熱意には、僕もあきれてしまった。
「昨夜は『スキャンダルス』に、遅蒔《おそまき》ながら、見物にいってきましたよ」と、いかにも無頓着に座談口調でいった。「シーズンの初めに、あのレヴューを観られなかったものですからね。――しかし、あなたのような方まで、ごく最近になって、ごらんになったのは、どうしたわけですか?」
「とても忙がしかったものですから」と、打ち明けていった。「『一対のクィーン』の本読みをしていましたの。でも、上演は延期になりました。ルゥイの気に入った劇場が見つからなかったものですから」
「レヴューはお好きですか?」と、ヴァンスがたずねた。「一般のミュージカル・コメディよりは、主役には、むつかしいものでしょうな」
「そうですわね」ラ・フォス嬢は専門家らしい態度になった。「でも、まだ不満足ですわ。レヴューでは個性が活《い》かされませんもの。ですから、自分の才能を発揮する余地がないのです。なんといいますか、息吹きがないんですわね」
「そうでしょうな」ヴァンスはコーヒーをちびちびと飲んだ。「しかし『スキャンダルス』には、あなたがお演りになったら、さぞ面白かろうと思われるような番組が、何組かありましたね。あれなどはまったくあなたのためにつくられたといっていいようなものです。僕はあなたがお演りになるところを思いうかべてみたのです。――そんなことを考えてみていましたので、あれに出演している若いご婦人には、なんだか興醒めがしましてね」
「まあ、ヴァンスさん、お上手ですわね。でも、ほんとに、私、声には自信がありますの。ずいぶん勉強もしましたわ。それから踊りの方はマルコフ先生に習いました」
「おお、そうですか!」(いままでにヴァンスがこの名前を耳にしたことはなかったと確信するが、その感嘆の叫びには、マルコフ教授を、世界的に知名なバレー教師の一人として、尊敬しているようなものがあった)「では、当然、『スキャンダルス』で主役をやるべきですね。僕のおぼえている若い女優は歌もあまりに無造作であったし、踊りも適切ではありませんでした。それに個性だの、魅力だのの点になりますと、あなたより数等落ちますよ。……正直にいいなさいよ、月曜日の夜は、ご自分でも『シナの子守唄』の歌を、ちょっとお歌いになりたかったでしょう?」
「さあ、それは」と、ラ・フォス嬢は質問の意味を慎重に考えていた。「照明がとても暗くしてありましたわね。桜色《セリース》の衣裳を着ては、私はあまりひきたちませんの。でも、あの衣裳はほれぼれするようでしたわね?」
「あなたが着られてこそ、ほれぼれするというものですよ。……どんな色がお好きですか?」
「薄《うす》いランの紫《むらさき》ですわね」と、夢中になって話した。「トルコ石の青色でもぜんぜん駄目というわけではないんですけれど。でも、ある画家の方が、あなたはいつでも白を着たほうがよいと、おっしゃってくれたことがありますわ。その方は私の肖像を描きになりたがっているのですけれど、そのころ、私と婚約中の方が、その人を嫌っていましたの」
ヴァンスは彼女を値ぶみでもするように眺めた。
「お友達の画家のおっしゃるとおりでしょうね。それにしても、『スキャンダルス』でみたセイント・モリッツの場面《シーン》は、あなたがおやりになったら、ぴたりとはまっていたでしょう。白づくめの衣裳をつけて、雪の歌を歌ったあのブルネットの少女はすばらしかったですね、でも、実際は、金髪にすべきでしたよ。色の浅黒い美人たちは南の国のものでしょう。あの女には、真冬のスイスの遊覧地にいるという華やかさも、また活々とした感じも、出ていませんでしたものね。あなたなら、こういった感じを立派にやってのけられたでしょう」
「ええ、私もシナの組よりも、ずっとあのほうが好きでしたわ。白狐も好きな毛皮ですわ。でも、やっぱり、レヴューでは一つの組に出れば、他の組には出られませんの。それも終ってしまえば、忘れられてしまうだけですわ」つまらなさそうに溜息をついた。
ヴァンスはコーヒーカップをおくと、からかい半分、叱責するような眼差しで、女を見ていた。しばらくしていった。
「マニックス氏が、月曜日の夜、あなたのところに帰られた時間を、どうして隠しだてしたんです? 失敬きわまる」
「なにをおっしゃるんですの!」ラ・フォス嬢は驚きながらも、腹をたてて叫んだが、その傲慢な態度は次第にしぼんでいった。
「いいですか」と、ヴァンスは説明した。「『スキャンダルス』のセイント・モリッツの場面《シーン》は十一時近くにならなければ始まりませんよ。最終番組です。だから、あなたがあれを観たり、同時に十時半にマニックス氏を迎えたりすることは、とてもできない相談です――さあ、いって見たまえ、月曜日の夜、あの男は何時に、ここにきたんですかね?」
女は怒りのために顔を紅潮させていた。
「なかなかお上手ですわね? 巡査にでもなったほうがましでしたわ……それで、もし私がショウがはねるまで帰っていなければ、どうだとおっしゃるの。それで罪にでもなるのですか?」
「罪になどは、ちっともね」と、ヴァンスは穏やかに答えた。「早く帰っていたとおっしゃった点で、ちょっとあなたの信用を傷つけただけにすぎません」熱心になって前に乗り出した。「僕は喧嘩《けんか》をしにきたのではないのです。それどころか、あなたにご心配やご迷惑をかけないようにしてあげたい、と思っているのです。警察がかぎつけるようなことにでもなれば、あなただっていつひっぱられるか、わかりませんよ。しかし、僕が月曜日の夜に関連したある種の出来事について、正確な情報を、地方検事局に提供することができれば、警察があなたをひっぱるような危険はまったくありません」
ラ・フォス嬢の眼は急に険しくなり、眉が決意を現して、つりあがった。
「お待ちください、私はなにも隠しだてなぞはしていませんわ。ルゥイだってそうです。でも、もしルゥイから、十時半にはどこか他の場所にいたといってくれと、たのまれれば、私はそういたしますわ――そうでしょう? 友情というものはそういうものですわ。ルゥイだって頼むからには、それだけの理由はもっているんです。さもなければ、そんなことはしたくはなかったでしょう。でも、あなたは切れすぎる上に、不公正だと私を非難していらっしゃるから、あの方は十二時すぎまで、お見えにならなかったと、はっきり申し上げておきますわ。でも、誰か外の人が、そのことについて、私におききになったとしても、十時半の話のほかは、金輪際《こんりんざい》いたしませんね。おわかりになって?」
ヴァンスがうなずいた。
「わかりますとも。それで、あなたに好意さえ感じています」
「でも、誤解なさっては困りますわ」と、急いでいったが、その眼は激しい興奮のために輝いていた。「ルゥイがここには十二時すぎまでこなかった、それだからといって、あの方がマーギイの死について、何か知っていると、お考えになるのでしたら、あなたは気が狂っていますわ。マーギイとは一年前にきれいさっぱりときれているのです。この世に生きていることさえ知らなかったくらいです。ですから、うすのろな巡査が、ルゥイがこの事件に関係していると考えても、アリバイは私が立てます――きっと立てますわ――たとえ私がこの世でやる最後の仕事になりましてもね」
「ますますあなたに好意を感じますね」と、ヴァンスがいった。そして彼女が別れ際に手をさしのべると、その手に接吻した。
われわれが車で下町にむけていく途中、ヴァンスは物思いにふけっていた。刑事裁判所ビルのすぐ近くまできて、はじめて話しかけた。
「あの純情なアリスには、僕もいささか胸をうたれたね」と、いった。「あの女は油ぎったマニックスなどにはできすぎている……女というものはまったく悧巧でいて――だまされやすいものだ。女は魔術的な洞察力をもって男の心をよむことはできても、それがひとたび|自分の《ヽヽヽヽ》男ということになると、言語に絶したほどに、盲目なのだ。その証拠に、あの可憐《かれん》なアリスのマニックスにたいする信頼ぶりを見たまえ。あの男はおそらく月曜日の夜は事務室で奴隷のように働いていたのだと話したんだろう。もちろん、女はそんなことを信じるはずはないさ。しかし、女は、いいかい、君、知っているのさ――|知っている《ヽヽヽヽヽ》のだよ――マニックスにかぎってカナリヤの死などに関係しているはずはないとね。とにもかくにも、彼女のいうとおりで、マニックスも逮捕されないで――すくなくとも新しいショウの資金の調達ができるまでは、逮捕されないですましてやりたいものだね。……それにせよ、探偵であるためには、まだまだレヴューをみなければならないとしたら、いっそ辞職でもした方がましだ! ただあの婦人が、月曜日の夜、シネマに出かけなかったことが幸いというものさ」
われわれが地方検事局につくと、マーカムとヒースが協議をしているところだった。マーカムの前には一綴りの用箋がおいてあったが、その数ページには、一覧表だの注釈だのの記事が一杯に書きこまれてあった。葉巻《シガー》の煙が体をつつんでいた。ヒースは検事の前に坐り、両肱を机にあて、顎《あご》を手にのせていた。彼は闘争的ではあるが、怏々《おうおう》として楽しまないといった様子だった。
「警部と一緒に、事件の再吟味をしているところさ」と、マーカムはわれわれの方を一瞥《いちべつ》して言った。「見落しているものがありはしないかと思って、注意すべき点を一定の秩序に配列して、その関連をしらべてみているんだ。あの医者が逆上したり、脅迫したりしていたこと、それから交通係のフィップスがクリーヴァの首実験で見覚えのなかったことも、警部に話しておいたよ。しかしわかればわかるほど、見かけはますます悪くなり、ますます複雑怪奇になるだけだ」
数枚の用箋を取りあげると、クリップで一つにしっかりととめた。
「実際、真の証拠を握っている相手はただの一人としていない。スキールにしろ、リンドクイスト博士にしろ、クリーヴァにしろ、嫌疑をかけるような情況はある。またマニックスと会ってみても、どっちにせよ、あの男の嫌疑を決定するようなものはなにも出なかった。そこで事件を直視すれば、どういう事態にあるのかね? スキールの指紋はある、しかしおそらくこれは月曜日の午後おそくつけたものだろう――リンドクイスト博士は、月曜日の夜、どこにいたかという訊問にたいして、虚偽の申し立てをして、しかもその後で根拠薄弱なアリバイをもちこんでいる。あの女を愛しておりながら、父親のような関心をもっていたと自供している――いかにもみえすいた虚言だ――クリーヴァは兄に自分の車を貸しながら、この点をかくした。そして月曜日の十二時にはブーントンにいたものと、僕に思わせようとしていた――それから、マニックスは、女との関係をついた訊問にたいし、いい加減な答弁ばかりをしている……それも金銭上の思惑《おもわく》からではないのだ」
「君の情報はまったく取るに足らないものどころではないね」と、ヴァンスは警部のそばの椅子に腰をおろして、いった。「適切に関係づけることさえできれば、どれもすばらしい価値を発揮できるだろうさ。困難は、謎のある部分が脱落している点にあるように思われる。その部分を発見してみたまえ。そうすれば、立派に――ちょうどモザイク模様のように、すべてがぴったりと辻褄のあうことを保証するよ」
「『発見しろ』というは易《やす》く」と、マーカムがこぼした。「行うは難《かた》しだ」
ヒースは消えた葉巻に火をつけ直して、いらいらしたような身振りをした。
「スキールを見逃がすわけにはいきませんよ。あの男こそ犯人です。エイブ・ルービンさえついていなければ、奴に一汗かかせて、本音をしぼりださせてみせますよ。――それからついでですがね、ヴァンスさん、たしかに、奴はオーデルの部屋の合い鍵をもっていましたよ」彼はためらうように、マーカムをちらっと見た。「あなたを批判しているように思われては困りますが、私としてはクリーヴァだの、マニックスだの、あの医者だのと――オーデルの相手の紳士方を追いまわしているのは、暇つぶしだという気がするんです」
「あるいはそうかもしれんね」マーカムは同意したような様子だった。「しかし、どうしてリンドクイストがあんなふうなことをやったのか、理由を知りたいね」
「そうですね、なにかの役にはたつでしょうが」と、ヒースが妥協的になった。「もしあの医者が短銃で射殺すると脅迫したほど、オーデルにうつつを抜かしていたり、またアリバイをきかれたときに、狂気の沙汰におよんだとすれば、おそらくなにか泥を吐くようなことがあるのです。すこしは痛い目にあわせてみようじゃありませんか? あの男の過去だって、どうせ碌《ろく》なものではありませんよ」
「そいつは面白い」と、ヴァンスは調子を合せていった。
マーカムは鋭く見上げた。そして予定表をくってみた。
「今日の午後なら、だいぶ暇があるから、君にあの男をつれてきてもらうことにしよう、警部。必要があるなら、召喚状をもっていきたまえ――こさせさえすれば、いいのだ。昼食がすんだら、できるだけ早くやってくれたまえ」気短かに机の上を軽く叩いた。「このほかに打つ手がなければ、この事件をかきみだしているこんな人間の屑でも、すこし切り捨てることにしよう。リンドクイストからはじめても、誰からはじめても、結局は同じことだ。とにかくこれらのさまざまな容疑事情を活用できるところまでつっこんでいくか、さもなければ根こそぎ放りだすか、二つのうちの一つさ。その上でわれわれの立場をもう一度反省してみよう」
ヒースは悲観したように握手をして出ていった。
「気の毒な男だ!」と、ヴァンスは彼を見送りながら、溜息をついた。「絶望の悲痛と憤激で、すっかり音をあげているね」
「君だってそうなるさ」と、マーカムが噛《か》みつくようにいった。「政界のほうが休みだからといって、新聞にかみつかれてみたまえ。――ところで、今日の正午は、君が吉報をもってくるとかなんとか、そんなはずじゃなかったのかね?」
「多少そういうものをもってきているつもりだがね」ヴァンスは、数分間、窓の外を瞑想するように眺めていった。「マーカム、あのマニックスという奴は、磁石のように僕をひきつけるのだ。僕を倦怠させもすれば、躍起にもする。僕の深いねむりのじゃまをする。僕というパラスの半身像にとまっている不吉の大鴉《おおがらす》なのだ。あの死を知らせる妖魔のバンシイのように、僕を悩ますのだ」
「吉報の冒頭がそんな泣言なのかね?」
「僕は安眠することもできないよ」と、ヴァンスがつづけていった。「毛皮商人のルゥイが、月曜日の夜、十一時と十二時との間に、どこにいたかを確かめるまではね。どこか、いてはならぬ場所にいたはずだ。だから、マーカム、君にそれを捜がせというのさ。人間の屑にたいする第二の強襲には、マニックスをとりあげてもらいたいね。おそらく相当の反撃力をもって、まくし立ててくるだろう。思いきり、残酷にやりたまえ。奴が咽喉をしめたのだと疑っているように思わせるのだ。それから、毛皮のモデル――なんといったかね、名前は?――フリスビーだ、この女のことについても訊問をしてみたまえ」ちょっと黙って、眉をよせた。「ああ、そうだ、まったくそうだ……。いいかね、マーカム。君は毛皮のモデルのことを訊問する必要があるんだ。最後にいつ会ったかをただすのだ。しかし訊問している間は、極力なんでも知っているという、賢明で神秘な態度をくずさずにやるのだ」
「おい、ヴァンス」――マーカムはじりじりとしていた――「君はもう三日間もマニックスのことばかり繰り返していっているね。いったい君はなにを嗅ぎつけているんだね?」
「直観だよ――純粋の直観なんだ。それはね、僕の精霊的気質という奴なのだ」
「十五年も、君と交際していなかったら、君の言い分をそのまま信じるだろうがね」マーカムは探るように相手をじろじろと見つめてから、肩をすくめた。「リンドクイストがすんだら、マニックスを調べてみよう」
第十九章 博士の説明
――九月十四日、金曜日、午後二時
われわれは地方検事の私室で昼食をすませた。二時には、リンドクイスト博士の来訪が知らされた。ヒースが連行してきたが、警部の表情からみて、この相手にはぜんぜん好感をもっていないことは明らかだった。
博士は、マーカムのすすめに応じて、地方検事の机の正面にむかって着席した。
「またもこんな乱暴なことをなさるのはどういうわけでしょう?」と、ひややかにたずねた。「市民をむりに脅しつけて、個人の仕事を放棄させるのが、あなた方の特権なのですか?」
「殺人犯人を法に照らして処断するのが僕の職務です」と、マーカムも同じようにひややかにいい返した。「したがって、もし市民が当局に協力をすることが乱暴だとお考えになるなら、それは考える本人《ヽヽ》の特権なのです。またもし僕の訊問に答弁なさることに、なにか恐怖でもおありになるならば、博士、あなたは弁護士を同席させることもできます。電話ですぐにきてもらって、法律上の保護をもとめられますか?」
リンドクイスト博士は躊躇した。「法律上の保護をもとめる必要はありません。それよりも、どうして私に出頭を命じられたのか、その理由をぜひともおっしゃっていただけませんか?」
「承知しました。オーデル嬢とあなたの関係についてわかった二、三の点のご説明を願うためと、またおさしつかえがなければ――前回お会いしたときは、その点についてなぜ僕を欺かれたのか、その理由を明らかにしていただくためです」
「あなたは不当に私の私事を穿鑿《せんさく》なさっているからです。このような取調べは、かつてロシアで流行したとかきいておりますが……」
「もし穿鑿するのが不当であるといわれるなら、リンドクイスト博士、あなたことその点についてたやすく僕を納得させることができるわけです。そうすれば、あなたについて、どんなことがわかったにせよ、われわれはすぐに忘れてしまうでしょう。――あなたのオーデル嬢にたいする関心は、単なる父性愛をいくらか超えたものだというのは真実なのですか、真実ではないのですか?」
「わが国の警察では、個人の神聖な感情さえも、尊重されないのですか?」博士の口調には横柄なほど相手を叱責するような響きがこもっていた。
「ある条件のもとでは尊重もしますが、他の条件のもとでは尊重できません」マーカムは自分の激怒をりっぱに自制していた。「もちろん、あなたは僕の訊問に答えられる必要はありません、しかし、あなたが率直にお話しなされるならば、法廷で人民の検事から公然と訊問をうけられるような屈辱は忍ばなくてもすむわけです」
リンドクイスト博士はたじろいで、ややしばらくその問題を考えていた。
「それで、オーデル嬢にたいする私の愛情が父性愛以上のものであると認めるとしたなら……どういうことになるのですか?」
マーカムはその質問を一つの肯定だと認めた。
「あなたは、あの婦人にはげしい嫉妬を感じていましたね、そうではないのですか、博士?」
「嫉妬というものは」と、リンドクイスト博士は、専門家らしい皮肉な態度でいった。「痴情には決して珍しくはない付随現象です。クラフト・エピング、モール、フロイト、フェレンチ、アドラーのような権威者たちは、たしかに嫉妬を性愛的魅力に付随する、きわめてありふれた心理的帰結であるとみていたと思います」
「たいへん教訓になります」と、マーカムがいかにも感じ入ったように頭をうなずかせた。「それでは、あなたがオーデル嬢にたいして恋慕されていた。――むしろオーデル嬢に性愛的に魅力を感じておられた、またあなたがその際しばしば嫉妬というありふれた心理的帰結をはっきりとしめされていたと、考えてもさしつかえないわけですな?」
「どういうふうにお考えになられても、結構です。しかし私の感情などが、どうしてあなた方の問題になるのか、私には理解できませんな」
「あなたが自分の感情のために、大いに怪しい疑惑のある行動をさえなさるようなことがなかったら、僕も興味を感じるようなことはなかったでしょう。しかし僕は絶対に信頼する権威によって、こう信じています、あなたの感情はあなたのすぐれた判断に反作用を及ぼした結果、オーデル嬢の生命を奪い、自分も自殺するといった脅迫に出られたのです。また、その後において、あの若い婦人が殺害されたという事実からみますならば、法律があなたに好奇の目を光らせるのは自然であり――また当然なことではないでしょうか」
博士のいつもの青白い顔が、黄色に変ったようであった。長い不恰好《ぶかっこう》な指は椅子の両腕をしっかりとにぎっていた。しかし、その他の点では静かに動かずに、頑固なほど尊大にかまえて坐っており、両眼を鋭く地方検事にそそいでいた。
「僕は信じています」と、マーカムがつけ加えた。「あなたも、ことさらに否定なさるようなことによって、僕の疑惑をますます大きくなさるようなことはしないだろうとね」
ヴァンスは相手の男をじろじろと見つめていたが、やがて前にのり出した。
「あのう、博士、オーデル嬢を、どんな殺害方法で、脅迫なさったのですか?」
リンドクイスト博士は、ぐいとふりむくと、ヴァンスの方に顔をつきだした。深い、荒々しい息をついて、全身をぐっと緊張させた。血液が頬を紅く染め、口や咽喉のあたりの筋肉がぴくぴくと痙攣《けいれん》した。いっとき、自制力を失なうのではないかと、僕は心配したが、ようやくにして落つきを取りもどした。
「私が絞殺するとでもいって、脅したとお考えなのでしょうな?」その言葉は狂熱的な憤激に激しくふるえていた。「しかも私の脅迫を、私を絞首刑にする絞索にでもかえたいお望みなのでしょう?――ばかな」彼は黙った。ふたたび話しはじめたときには、声は前よりも冷静になっていた。「なるほど、一度は愚かにもオーデル嬢を殺して、自分も死ぬと、脅迫して、驚かせてやろうとしたことはあります。しかもあなたのもっている情報が、私を信じさせるにたるほど正確でありますならば、連発拳銃で脅迫したというくらいのことはおわかりになっているはずです。拳銃は、空脅しをするには、誰でももちだす武器だと思います。私はサッグ流の暗殺法〔昔インドで秘密裡に人を絞殺し死体を秘かに埋めた団体の方法〕で女を脅迫したりはしません、たとえそんないまわしい行為をやるつもりだったとしましてもね」
「なるほど」と、ヴァンスがうなずいた。「なかなか急所をついていますね、まったく」
博士は、ヴァンスの態度で、明らかに元気をとりもどした。ふたたびマーカムに顔をむけて、丁寧にその告白を説明した。
「脅迫というものは、ご存じのとおり、めったに暴行の先触れとなることはありません。人間心理をすこしでも研究なされば、脅迫は当人の無実の明白なる証拠であることがおわかりになるでしょう。脅迫は、一般に、憤怒の際にもちいられ、それ自体の安全弁の役をするものです」彼は眼をあげた。「私は妻帯しておりません。私の感情生活はこれまでも、いわば安定はしておりませんでした。その上、私はたえず極度に神経過敏で、興奮しすぎた人たちと密接に接触しています。異常に敏感になっていたときに、あの若い婦人に恋情をいだくようになったのです。それはむくいられない恋情でした。たしかに私自身の熱情と同じ程度の熱情をもっては、むくいられなかったのです。私は深く苦しみました。あの女は私の苦しみをすこしでも和らげようとはしてくれなかったのです。実際、他の男たちと一緒になって、わざと意地悪く、私を苦しめているのではないかと、一度ならず思いました。とにかく、私にたいする不実を、隠そうとするだけのこともしませんでした。告白いたしますが、私は一、二度、気が狂いそうになったこともありました。私が脅迫したというのも、こわがって、もっとやさしい、思いやりのある態度をとってもらいたいためだったのです。――あなたは、私の申し上げることを信じてくださるほど十分に、人間性をご存じのお方だと信じております」
「その点はしばらくお待ちを願うとして」と、マーカムは言質《げんち》を与えずに答えた。「月曜日の夜、あなたがおいでになった場所についても、もっとくわしく説明していただけませんかね」
その男の顔はふたたび黄味のかかった色がつき、身体がはっきりと硬直するのがわかった。しかし、話しはじめると、いつもの柔和な感じにもどっていた。
「あなたに提出しました手紙に、十分に問題にお答えしてあると思っていました。なにか抜けてでもいましょうか?」
「あの晩、あなたが往診された患者の名前はなんと申しますか?」
「アンナ・ブリイドン夫人です。ロング・ブランチのブリイドン・ナショナル銀行の、今は故人になられたアモス・H・ブリイドン氏の未亡人です」
「たしか、十一時から一時までの間、夫人とご一緒だったと、いうことですね?」
「そのとおりです」
「では、ブリイドン夫人が、その時間、あなたがあそこの療養所におられたことの唯一の証人なのですね?」
「遺憾ながら、さようです。ご存じかもしれませんが、夜十時以後は、私は絶対にブザーを鳴らしません。自分で鍵を開けて入るのです」
「では、ブリイドン夫人に質問いたしてもよろしいでしょうな?」
リンドクイスト博士は深く遺憾の意をあらわすふりをした。
「ブリイドン夫人は重態です。この夏、夫君のご逝去《せいきょ》にあたって、ひどいショックをうけられ、それからずっと、事実、半意識状態にあります。理性を失われるのではないかと心配したことも、たびたびありました。きわめてささいな動揺や刺激でも、きわめて重大な結果をひきおこすことがあるかもしれません」
金縁のついた懐中紙入れから、一枚の新聞の切り抜きをだして、マーカムに渡した。
「この死亡記事をごらんになれば、夫人の衰弱ぶりと、私立療養所への幽居とがおわかりになるでしょう。私は、長年の間、主治医をしているのです」
マーカムは切り抜きに眼をとおしてから、かえした。沈黙が少しつづいたが、ヴァンスの質問によって破られた。
「ついでですが、博士、あなたの療養所の夜勤看護婦のお名前は?」
リンドクイスト博士はす早く顔をあげた。
「私のところの夜勤看護婦ですって?――これはまた――なんの関係があるんでしょうか? 月曜日の夜は非常に多忙でした。よくわかりませんね。……しかしまあ、名前がお知りになりたいのでしたら、当方には異存はありません。フィンクル――アメリア・フィンクル嬢です」
ヴァンスはその名前を書きとめると、立ちあがって、紙片をヒースのところにもっていった。
「警部、明朝十一時に、フィンクル嬢をここへつれてきてくれたまえ」と、ちょっと片方の瞼をとじて、いった。
「承知しました。名案ですな」その態度はフィンクル嬢にとって吉兆とはいえなかった。
リンドクイスト博士の顔には、不安の雲がひろがった。
「失敬ですが、あなた方の横柄なやりかたは、正気の沙汰であるにしても、私はびくともするものではありませんよ」その調子には思わず軽蔑の色がもらされていた。「さしあたり、あなた方の取調べはこれでおすみになったのでしょうね?」
「これだけでよろしいかと思います、博士」と、マーカムは鄭重に答えた。「車をお呼びいたしましょうか?」
「ご好意にはまったく恐縮いたしますが、車は下に待たせてあります」こうしてリンドクイスト博士は尊大な態度で退場していった。
マーカムはすぐにスワッカを呼んで、トレイシーを迎えにやった。刑事は鼻眼鏡《パンス・ネ》を磨きながらすぐとやってきて、愛想よく挨拶した。誰でもその様子をみると、刑事というよりも、俳優と思うかもしれない。微妙な取扱いを必要とする事柄に発揮する腕前は、検事局きっての話の種だった。
「ルイス・マニックス氏を、もう一度つれてきてもらいたい」と、マーカムが告げた。「すぐにここにつれてくるのだよ。待っているからね」
トレイシーは愛想よく会釈をして、眼鏡をなおしながら、使いに出かけていった。
「さてと」と、マーカムは非難するような表情で、ヴァンスを見つめながら、いった。「君はいったいどんなつもりで、夜勤看護婦のことをもちだし、リンドクイストに警戒させるようなことをしたのか、ききたいものだね。君の頭脳は、今日の午後は、しっかりしていないな。僕が看護婦のことに気がつかないとでも思うのかね? しかも、君は奴に用心をさせてしまったぜ。明朝十一時までに、看護婦に答弁の仕方を教えこんでおくにちがいない。まったく、ヴァンス、あの男のアリバイを検証しようという、これからの計画を、これほどぶちこわすに便利なことは、考えようたって、考えつかないぜ」
「僕はただちょっとあいつを驚かせてやっただけではなかったかね?」ヴァンスは満足そうに、にたにたと笑った。「君の相手は、君の考えが狂っていると大げさに話しだすたびに、カラーの下までひどくのぼせあげていたではないか。しかし、マーカム、僕の頭の欠陥を嘆いて、泣いたりしないでくれたまえ。君と僕との二人が看護婦のことに気がついたとすれば、あの策士の医者だって考えついていたとは思わないかね? もしあのフィンクル嬢が買収されて偽証するようなタイプの女であれば、二日前にちゃんと偽証の任務につかせていただろう。月曜日の夜、療養所に医者がいたということの証人として、あの昏睡状態のブリイドン夫人とともに、名ざしにされていただろう。看護婦のことについて口にすることを一切避けていたという事実は、看護婦が偽証などにはまきこまれないということを、はっきりと物語っている。……まきこまれはしないよ、マーカム。僕はあの男にわざと警戒するようにさせたのさ。われわれがフィンクル嬢を訊問する前に、奴はなにかの手をうつだろう。しかし僕はそれがどんなことかぐらいは知っていると思うほど、十分に自信があるよ」
「はっきりとさせておいて下さい」と、ヒースが口をはさんだ。「明日の朝、フィンクルという女をつれてくるのか、こないのですか?」
「そんな必要はないでしょう」と、ヴァンスがいった。「われわれはあのフローレンス・ナイチンゲール女史をしみじみと眺めることはできないと思うね。われわれが会うことは、博士の絶対に望まないところですからな」
「そうかもしれん」と、マーカムが認めた。「しかし、彼は殺人にはまったく関係のない他のことを、月曜日の夜、していたのかもしれない。しかし、それをただ知られたくないのかもしれない、ということを忘れてはならない」
「もっともといえばもっともだ――それにしても、カナリヤを知っている、ほとんどすべての人間が、わざわざ月曜日の夜を選んで、|極秘の罪業《サブ・ロオザ》にふけっていたものらしい。ちょっと変ではないかね? スキールはクーン・カーンに夢中になっていたと信じこませようとしているし、クリーヴァは、もし言葉どおりに受けとるならば――ジャージーの湖畔地方に旅行をしていた。リンドクイストは患者の看護をしていたようにみせかけようとしているし、マニックスは、僕の偶然知ったところでは、われわれが嗅《か》ぎつけた場合にそなえて、アリバイを作りあげようと、なにか骨を折っている。実際やつらは、誰も彼も、われわれに知られたくないようなことを、なにかしていたのだ。さて、これはどういうことなのかね? どうして、そろいもそろって、わざわざ殺人の夜をえらんで、自分からはいいたくないような内緒事をしていたのだろうか、自分の嫌疑を晴らすに必要な際にね。あの夜、ニューヨークには、悪霊の侵入でもあったのだろうか? 人間を、暗黒の淫猥《いんわい》の行為にかりたてる呪詛《じゅそ》でも、この世にかかったのだろうか? 黒魔術《ブラック・マジック》でも諸処におこなわれていたのだろうか、いや、そんなことはない」
「僕はスキールの方に金を賭けますね」と、だしぬけにヒースは主張した。「一目みれば、玄人の仕事だとわかりますよ。それに、あの指紋や、教授の鑿についての報告を無視するわけにはいきません」
マーカムはひどく当惑していた。スキールを犯人とみる確信は、この犯罪が抜け目のない、教育のある男の慎重に計画された犯行とするヴァンスの理論によって、ある程度までくつがえされているようであった。しかし、今では、ぐずぐずと、ヒースの見解に逆戻りしているようにみえた。
「僕もね」と、いった。「リンドクイスト、クリーヴァ、マニックスの三人は誰にも、無罪と確信させるような奴ではないと認める。しかし、三人とも同じ穴の貉《むじな》であるところに、嫌疑の力は多少とも分散させるものがあるね。結局、スキールが絞殺の主役としては、唯一人の論理的な候補者になるのだ。それに、明白な動機をもっているただ一人の男だし、不利な証拠のあがっているただ一人の男なのだ」
ヴァンスが疲れたように溜息をついた。
「なるほど、指紋――鑿の跡。君はそういう信じやすい人間さ、マーカム。スキールの指紋が部屋の中で発見される。それゆえにスキールが婦人を絞殺した。なんて恐ろしく単純なことか。これ以上どこに苦しむ必要があるだろう? 一つの既決の事実だ、判決済みの事件さ。スキールを電気椅子にかければそれで万事すむさ。……効果的だがね、それが芸術というものだろうか?」
「君は批判に熱中して、スキールにたいするわれわれの訴因を、過少に評価しているよ」と、マーカムは気短かに注意した。
「おお、スキールにたいする君の訴因はたしかなものだと、認めるとしよう。あまりにもたしかすぎて、僕には拒む気もしないくらいだ。しかしたいていの評判の真理は、ただたしからしいものにすぎない――だから、頑迷で片意地にもなるのだ。君の理論は世間普通の人には強く訴えるものがあろう。しかし、ねえ、マーカム、それは真実ではないんだよ」
実際家のヒースは動かされなかった。テーブルにむかって顔を顰《しか》めながら、どっかりと坐っていた。マーカムとヴァンスとの意見の交換に、耳を傾けているのかどうかも、怪《あや》しいものであった。
「ねえ、マーカムさん」と、知らず識らず、心にぼんやりと考えていたことを口に出すように、いった。「スキールがオーデルの部屋にどうして入り、また出ていったかをはっきりとつきとめることができれば、もっと有利な立場に立つことができるんですね。どうもうまい工合に思いつけません――その点でいきづまるのです。だから、建築家にあの部屋をすっかり検《しら》べてもらったらどうでしょうか、前から考えているんです。あの家は昔の建物です――いつごろ建てたのか、わかりはしません――われわれのまだ発見できない出入口が、どこかにあるかもしれませんよ」
「なんだって」と、ヴァンスは皮肉たっぷりに驚いた様子をして、凝視した。「君はまったくロマンティックになっているね! 秘密の通路――隠されたドア――壁と壁との間の階段、そうなんでしょう? こいつは驚いた……警部、シネマには用心をしたまえよ。あいつは多くの善男善女を破滅させていますからね。たまにはグランド・オペラでもみにいったらどうですか――映画よりは退屈しますが、堕落する率はすくないですよ」
「わかりました。ヴァンスさん」明らかにヒース自身も特に建築調査という考えに気があるわけではないようであった。「しかし、スキールがどうして忍びこんだかがわからないかぎりは、忍びこまなかったということを、いろいろと確認しておかなくてはなりませんよ」
「賛成だね、警部」と、マーカムがいった。「僕はすぐに建築家にその仕事をさせてみよう」スワッカを呼び出して、必要な指示を与えた。
ヴァンスは両脚をつき出して、欠伸をした。
「われわれがいま必要としているものは、ハレムの寵姫《ちょうき》と、棕櫚《しゅろ》の葉の扇をもった数名の黒人と、爪弾きの音楽といったものだ」
「ご冗談でしょう、ヴァンスさん」ヒースは新しく葉巻《シガー》に火をつけた。「しかし、建築家があの部屋になにも異常なものを見つけださなくっても、スキールはいつ手をあげないともかぎりませんよ」
「僕はマニックスに子供らしい信頼をかけているよ」と、ヴァンスがいった。「どういうわけだかわからないが、とにかく良い人間ではない、それになにかを隠そうとしている――マーカム、月曜日の夜いた場所を奴が自供するまでは、放免してはいけないよ。それに毛皮のモデルについても、それとなく匂わせることを忘れてはいけないぜ」
第二十章 深夜の目撃者
――九月十四日、金曜日、午後三時三十分
半時間とたたないうちに、マニックスがついた。ヒースは、この新来の客をみると、自席をゆずって、窓の下の大きな椅子に移った。ヴァンスはマーカムの右側にあって、マニックスを横から見ることのできる、小さな机の前に坐っていた。
マニックスがこの二度目の会見を楽しんでいないことは、火をみるよりも明らかだった。その小さな眼は、す早く部屋の中を見まわし、しばらく探るようにヒースをじろじろと眺め、最後に地方検事をじっとみつめていた。初めて訪ねてきた時よりも、警戒していた。マーカムにたいする挨拶は、お世辞たっぷりではあったが、どこか慌てている風があった。もちろん、マーカムの態度も、相手を落ちつかせるように、気をくばっていなかった。不吉で、不屈な公人の態度で、検事は相手に着席をうながした。マニックスは机の上に帽子とステッキとをおいて、椅子の端のほうに坐り、背中を旗竿のように垂直にたてていた。
「マニックスさん、水曜日にお話しくださったことには、私はまったく満足しておりません」と、マーカムが切りだした。「あなたがオーデル嬢の死についてご存じのことを調べるにあたって、私に手荒な手段が必要なのだと思わせないように、お願いします」
「私が知っていることですって!」と、マニックスは打ちとけようとして、むりに作り笑いをした。「マーカムさん――マーカムさん!」絶望して哀願するように手をさしのべたときには、いつになくへつらっているようにみえた。「ほんとうに、なにかを知っているのでしたら、お話ししますよ――すすんでお話し申しあげますとも」
「それは結構です。あなたのご協力さえ願えれば、私の仕事も助かります。では、最初に、月曜日の深夜、あなたがどこにおいでになったかを、おっしゃってください」
マニックスの眼は次第にちぢまって、ついに二つの小さなキラキラとかがやく円盤のようにみえたが、その他のところは、身動き一つしなかった。間《あい》の沈黙とでもいうような一瞬がすぎると、話しはじめた。
「私が月曜日にどこにいたかを申せ、というわけですね。どうしても申しあげなければならないんですか?……きっと、あの殺人の嫌疑というわけですね――そうでしょうな?」
「別にいまは嫌疑をかけているわけではありません。しかしすすんで訊問に答えをしたくないというのでしたら、嫌疑をかけたくなるのも、たしかです。自分のいた場所を、どうして知らせたくはないのですか?」
「あなたに隠しだてをする理由などは、ご承知のとおり、なに一つありません」マニックスは肩をすぼめた。「私にはなにも恥じるべきことはありません――絶対にありません!……私は事務室で片づけなくてはならない仕事が――冬物の仕入れですが――山ほどにありました。十時まで事務室にいました――あるいはもっと遅くまでいたかもしれません。それから十時半に――」
「それで結構!」ヴァンスの声が辛辣にさえぎった。「このことには、なにも他人を引きずりこむ必要はない」
彼は、妙に意味をもたせて、語勢に力を入れて話をした。マニックスは言葉の裏に意味があるならば、読みとろうとするように、ずるそうに相手を見つめていた。しかしヴァンスの表情からは、なに一つ暗示を引きだすことはできなかった。しかし、その警告は、言葉をひかえさせるには、十分なものがあった。
「あなたは十時半に、私がどこにいたかを知りたくはないのですね?」
「わざわざ知りたくはない」と、ヴァンスがいった。「われわれが知りたいのは、あなたが十二時にどこにいたかです。その時刻にあなたの会われた人物の名前をあげる必要はおそらくないでしょう。真実を告白してくれさえすれば、われわれには自然にわかります」昼すぎに、マーカムにまかせておいた、叡智《えいち》と神秘とを匂わせる態度を、こんどはみずからとっていた。アリス・ラ・フォスとの信義を破らずに、マニックスの心のうちに疑惑の種をまいていたのだ。
相手の男がまだ返事を組立てずにいるうちに、ヴァンスは立ちあがって、地方検事の机ごしに、前屈みに上体をぐっと突きだした。
「フリスビー嬢をご存じですね――七十一番街に住んでいる。正確にいえば、百八十四番地にね、もっと正確にいえば、オーデル嬢の住んでいた家です。さらに的確にいえば――第二号室です。フリスビー嬢は、もとあなたの店のモデルでした。社交的な女で、とりわけ、以前の雇主――つまりあなたのことですが――あなたが馴染になったことにたいしては、深い好意をもっていた。最後に会われたのはいつでしたか、マニックスさん?……ゆっくりとお考えになって、返事をしてください。きっと、よく考えてみなくてはならないでしょうからね」
マニックスは十分に余裕をもった。たっぷり一分ぐらいしてから、口をきいた。それは返事ではなくて、むしろ別の質問だった。
「私には婦人を訪問する権利はないのでしょうか――どうですか?」
「もちろんありますよ。それだからこそ、これほど明らかに正当で、しかも非難の余地のないエピソードについて、質問されることが、どうしてまた、あなたに不安をおぼえさせなくてはならないのでしょうか?」
「私に不安をですって」マニックスは、むりな努力をしながら、歯をむきだして笑った。「私はただ、あなたがどんなお考えで、私事にたちいった質問をなさるのかと、不思議に思ったくらいです」
「はっきりいいましょう。オーデル嬢は、月曜日の夜十二時ごろに、殺害されました。あの家の玄関を通って出入りをした者は誰もいない。それに裏口には錠がおりていた。そこで、誰かが女の部屋に入ることができたとすれば、唯一の通路は、二号室から入るのほかはない。しかもオーデル嬢を知っている人で、二号室を訪ねたことのある方は、あなたの外にはいないのですよ」
この言葉をきくと、マニックスはテーブルの上に身をのりだして、両手でテーブルの端をつかんで、上体をささえた。眼は大きく見開き、官能的な唇がぽかんと開いて、たれさがっていた。しかし、その態度に読みとれるものは恐怖ではなかった。まったくの驚きだった。ちょっとの間、茫然と、信じかねるといったように、ヴァンスを見つめたまま坐っていた。
「あなたは、そんなふうにお考えになっていたのですか? 裏口に錠がおりていたので、二号室からでなくては、誰も出入りすることはできないといわれるのですね?」ちょっと毒々しく笑った。「もしあの裏口が、偶然にも、月曜日の夜には、錠がおりていなかったとしたら、私の立場はどういうことになるのでしょう――ふん、私はどうなるんでしょう」
「われわれの側に――地方検事の側にたつことになるとしたら、いいでしょう」ヴァンスは猫のように相手を見つめていた。
「承知しましたよ」と、マニックスは吐き出すようにいった。「あなた方にいささか大切なことを申しあげましょう。私の立場はそれでわかります――絶対に!」重々しく身体をまわして、マーカムを真向からみた。「私はいい人間ですよ。わかりますね、しかし、もう黙っているわけにはいきません。……あの裏口には、月曜日の夜は錠がおりていなかったのです。それに十二時五分前に、誰があすこから忍び出たかも、私は知っていますよ!」
「それです」と、ヴァンスは坐り直して、平然とシガレットに火をつけながら、つぶやいた。
マーカムは驚きのあまり、すぐには口をきくこともできなかった。ヒースは葉巻《シガー》を口にもってゆきかけたまま、じっと動かなかった。
ついにマーカムは背をもたせて、腕を組んだ。
「残らずわれわれに話してくださらんか、マニックスさん」その声は懇願を一個の命令にするような性質をもっていた。
マニックスもまた椅子に背をもたせかけた。
「お話しいたしますとも――ほんとうに、お話しいたしますとも――。あなた方のお考えになったように、あの夜、私はフリスビー嬢とともにすごしました。別に悪いことはなにもありませんな」
「あなたは何時にあそこにいかれたのですか?」
「仕事をすませてから――ですから五時半か、六時十五分前です。地下鉄にのって、七十二番街でおりて、それから歩いていきました」
「玄関からあの家に入られたのですか?」
「いいえ、裏の小路を歩いていって、裏口から入ったのです――いつもあすこから入ることにしています。私が誰を訪ねようと、他人には関係のないことですし、また大廊下にいる電話交換手が知らないからといっても、別に迷惑をかけるわけではありませんもの」
「そこまではいいんだ」と、ヒースがいった。「門番は六時すぎまでは、裏口には錠をおろしませんからね」
「それで、あなたは一晩中あそこにいられたのですかね、マニックスさん?」と、マーカムがきいた。
「そうです――十二時すこし前までいました。フリスビー嬢が夕食の仕度をし、私は葡萄酒を一罎《ひとびん》もっていっていたのです。ちょっとした社交上のパーティ――私たち二人だけのパーティ――をしたのです。ですから、私は部屋の外には一歩も出ませんでした。よろしいですな、十二時五分前までのところは。あなた方はあの婦人をここにつれてきて、お尋ねになっても結構です。私はいまから電話をかけて、月曜日の夜の一部始終を正確に話すようにいってもよいのです。私は自分の言葉を何もかも信じていただきたい、などと申しているわけではありません――絶対にそういうつもりではないのです」
マーカムはその提案を却下するような身ぶりをした。
「十二時五分前に、どんなことがあったのですか?」
マニックスは急所をぐっと突かれたように、ためらった。
「私は悪い人間ではございません。おわかりですね。それに友達はやっぱり友達です。しかし――お伺いしますが――私には絶対に関係のないことを申しあげて、背信的な行為をしなければならないのか、理由のあることでしょうね?」
答えを待っていたが、誰も答えなかったので、彼はまたつづけていった。
「私はまちがってはおりません。――どのみち、お話しいたしましょう。さっき申しあげたとおり、私はあの婦人のもとにおりました。しかし、あの夜遅く、別の約束がありましたので、十二時数分前に、別れをいって、帰ろうとしました。ちょうど私がドアを開けたときです、カナリヤの部屋からこっそりと忍び出て、小さな裏廊下を通って、裏口へ出ていく人影をみたのです。廊下《ホール》には電燈がついていました。それに二号室のドアはあの裏口にむいているのです。私はその男を、いまあなたをみているのと同じように、はっきりとみました――確かに、はっきりと」
「誰でしたか」
「ご存じになりたいというのでしたら、ポップ・クリーヴァでした」
マーカムは頭をぴくっと動かした。
「それから、あなたはどうしました?」
「なにもいたしませんよ、マーカムさん――まったくなにもいたしませんでした。別にたいして気にもとめていなかったからですな。ポップがカナリヤを追いかけているのを知っていましたので、女のところにやってきたのだなと思っただけです。しかし、私はポップには見られたくはありませんでした――私がどこで暇《ひま》つぶしをしていようと、ポップには関係のないことですからね。それで、外に出ていくのを、私はじっと待っていたのです――」
「裏口からですね?」
「そうです。――それから、私も同じ道から出ていきました。はじめは玄関から出ていくつもりでした。裏口は夜間はいつも錠がおりているのを知っていたからです。ところが、ポップがあすこから出ていくのを見たので、私もあすこから出ようと心の中で思ったのです。用もないのに、電話交換手などに、自分のやっていることを、さとられるのは、無意味です……絶対に無意味です。そんなわけで、入ってきた道から出ていったのです。ブロードウェーでタクシーを拾って、いったのです――」
「それで十分!」ふたたびヴァンスの命令がさえぎった。
「ああ、そうですか――そうですか」マニックスはこの点で陳述を打ちきることに満足しているようにみえた。「ただし、いいですね、私としては皆さん方に、よけいなことを考えていただきたくはありませんので――」
「なにも考えませんよ」
マーカムは、こういう邪魔立てには弱っていたが、別に批判めいたことはいわなかった。
「オーデル嬢の死んだ記事を読まれたとき」と、マーカムはきいた。「どうしてこういうきわめて重大な情報を、警察に提供してくださらなかったのですか?」
「まきぞえになりたくなかったからです!」と、マニックスは驚いて叫んだ。「わざわざそんなことをしないでも、私には苦労がずいぶん多すぎるのです――山ほどあるんです」
「緊急を要する仕事というわけですね」と、マーカムは露骨に嫌悪を現して、批評した。「しかし、それにしても、あなたはあの殺人事件を知った後で、クリーヴァがオーデル嬢から金を捲きあげられていると、ほのめかしましたね」
「たしかに申しました。それは私があなた方に味方して、正しいことをしようとしていたのだ、ということを示すことにはなりませんか?――つまりあなた方には貴重な情報をさしあげたことにはなりませんか」
「あの晩、廊下《ホール》や、裏通りなどで、誰か他の人をみかけなかったでしょうか?」
「ほかには誰も見かけません――絶対に見ませんでした」
「オーデルの部屋で誰かが――ひょっとしたら、誰かが話をしたり、動きまわったりしているのを、聞きませんでしたか?」
「物音一つ聞きませんでした」マニックスは力強く頭を振った。
「では、クリーヴァが出ていくのを見かけた時間は確かに――十二時五分前でしたろうね?」
「確かですとも。私は時計をみて、あの婦人にいいました。『来た日と同じ日に帰るわけになるね。あと五分ほどしないと、明日にならないからね』と」
マーカムはその物語を一々丹念に調べて、いままでに告白した以上のことを認めさせようと、いろいろと手をつかってみた。しかしマニックスは自分の陳述になにも加えなかったし、どんな細かな点をも修正しなかった。三十分間の慎重な訊問の後で、帰宅を許された。
「われわれはとにかく不明だった謎の一片を発見したよ」と、ヴァンスが註釈した。「どうすれば、完全な型にぴったりとあてはまるかは、いまのところはちょっとわからないが、なにかの助けになるし、暗示的でもある。どうだい、僕のマニックスについての直観は見事に実証されたわけだね!」
「そう、もちろんだ――君の貴重な直観だ」マーカムは疑わしげに見た。「どうして君は二度までも、なにか話そうとしているのを、封じこんでしまったのだね?」
「ああ、君には決してわからないよ」と、ヴァンスがいった。「僕にはちょっといえないことなのさ。お気の毒千万だが、まあそんなところだね」
彼の態度は皮肉たっぷりだったが、マーカムはこういう時には心底ではきわめて真剣であることを知っていたので、その質問をうちきった。僕は、ラ・フォス嬢がヴァンスの誠実を信頼したために、どんなにその身の安全をはかれたかどうかは、疑わしいと思った。
ヒースはマニックスの陳述にはかなりに驚いていた。
「あの裏口の錠がおりていなかったとは、どうもわかりかねますな」と、つぶやいた。「一体全体、マニックスが出ていってから、どうしてまた内側から錠がかけられたのでしょうな? 誰が六時以後に錠をはずしたのでしょうね?」
「わかる時がくれば、警部、一切が明瞭になるでしょうよ」と、ヴァンスがいった。
「そうかもしれないし――そうでもないかもしれない。われわれにわかるとしたら、その解答はスキールだろうと思います、この私の主張も、ひとつ認めていただきたいですね。あの風来坊に泥をはかせるんですね。クリーヴァは専門の梃子使いではありません、それにマニックスだって同じですよ」
「そうだね、あの晩、非常に有能な技術屋が手近かにいたのだ。その人物は君のおなじみの気取り屋ではないよ――といっても、あの宝石箱を開けようと細工をした名工ドナテルロは、きっとあいつだがね」
「すると、二人組だったんですか? それがあなたの理論ですな、ヴァンスさん? 前にもそういわれましたね。あなたがまちがっていると申すのではないんです。しかし、スキールがどっちかの役割をもたせられたとすれば、誰が相棒だったか、あいつに当ってみることにしませんかね」
「相棒じゃなくって、警部、どちらかといえば、見知らぬ人間同志らしいんですよ」
マーカムは渋面を作って、虚空を見た。
「僕はこの事件のクリーヴァの役はぜんぜん嫌いだね」と、いった。「あの男には、月曜日以来、なんとなく臭いところがある」
「そこだね」と、ヴァンスが割って入った。「あの紳士の偽のアリバイが、どうも影のある意味をもっていることに、なるじゃないかね? 昨日、クラブで、君がそのことについて訊問しようとするのを、なぜ僕がひきとめておいたか、その理由がわかってもらえると思うよ。もし君がマニックスをして本心を打ち明けさせることができたとしたら、君は一層強い立場で、クリーヴァから、二、三の事実の承認を引きだせるだろうと、僕はむしろ考えていたんだ。それ、みたまえ! やはり直観の勝利さ! 君が今知っていることがらをもってすれば、あいつを思いきって追い回すことができるではないか――え、どうだね?」
「それこそ、これから僕のやってみたいことなのさ」マーカムは呼鈴を鳴らしてスワッカを呼んだ。「チャールズ・クリーヴァをつかまえてきたまえ」と、苛立《いらだ》たしそうに命令した。「スタイヴィサント・クラブと自宅とに電話をかけて――なんでもクラブの近くの西二十七番街に住んでいる。掛かったら、僕が三十分以内にここにきてほしいといっている、もしこなければ、刑事を二人迎えにやって、手錠をかけて連行すると伝えてくれたまえ」
五分間ほど、マーカムはいらいらとしながら、煙草をふかして、窓の前に立っていた。一方、ヴァンスは愉快そうに微笑を浮かべて、『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙を読みふけっていた。ヒースは水を一杯のんで、部屋の中を歩きまわっていた。やがてスワッカがふたたび入ってきた。
「部長、残念ですが、連絡がつきません。クリーヴァはどこか田舎にいって、不在です。今晩遅くならないと帰ってこんそうです」
「なんだと!……まあ、いい――仕方があるまい」マーカムはヒースの方をむいた。「警部、今晩、クリーヴァを逮捕しておいて、明朝九時に、ここへ連行してきてくれたまえ」
「はい、連れてまいります!」ヒースは立ちどまって、マーカムを真向からみた。「さっきから、私も考えていましたがね。それに、私の心の中に、いわば、こびりついているものが一つあるんです。居間のテーブルの上にのせてあった黒い書類箱をおぼえておいでですな? あれは空っぽだったんです。女が一般にあんな箱の中にしまっておくものは、手紙とかなんとかそういったようなものです。ところで、そこに私の気になるものがあるんです。あの箱はこじあけられてはいなかった――鍵であけてあったんですな。しかも、とにかく、玄人の犯罪人は手紙や書類などはもち去るはずはない……私のいう意味がおわかりでしょうな?」
「天晴《あっぱ》れだよ、警部!」と、ヴァンスが叫んだ。「僕は君の専門にいさぎよく降《くだ》ろう! 君の足下に拝跪《はいき》しよう!……あの書類箱――きちんと開かれて、空っぽになった書類箱! もちろん! スキールの仕業《しわざ》ではない――絶対にそんなはずはない! あれは別の奴の手細工なのだ」
「あの箱についての君の考えは? 警部」と、マーカムがきいた。
「そうですな。ヴァンスさんがいままで主張しておられたように、あの晩、例の部屋には、スキールの外に、誰かがいたにちがいありません。それに、あなたのおっしゃったところによると、クリーヴァは自分の手紙をとりもどすために、この六月に莫大な金をオーデルに払ったと認めているわけでしょう。しかし、かりにその金は払われなかった。月曜日の夜、出かけていって、その手紙を取りもどしたものだ、としてごらんなさい。そこで、手紙を買いもどすという筋書だけを、あなたには話したのかもしれませんね。それできっと、マニックスが偶然あの男をあそこで見かける、ということになるかもしれないですよ」
「矛盾はしていないね」と、マーカムが認めた。「しかし、それで、どういう結論になるね?」
「そこで、クリーヴァが、月曜日の夜、それをとりもどしたとすれば、まだ自分でもっているはずです。もしその手紙のうちに一つでも、この六月以後の日付のものがあれば、六月に買いもどしたといっているのですから、そのときこそ奴に泥をはかせることができるんじゃありませんか」
「うむ?」
「ただいま申しあげるように、私は考えていたのですが……。ところで、クリーヴァは今日ニューヨークにはいないのです。そこで、われわれがその手紙を手に入れることができるとしますと……」
「もちろん、役に立つだろうがね」と、マーカムは、警部の眼を直視しながら、ひややかにいった。「そういうことはまったく問題にならんよ」
「それにしてもですね」と、ヒースはもぐもぐといった。「クリーヴァはあなたをかなりたぶらかしているんですよ」
第二十一章 日付のくい違い
――九月十五日、土曜日、午前九時
その翌朝、マーカムとヴァンスと僕とは、プリンス・ジョージで朝食をすませて、九時数分すぎに、地方検事局についた。ヒースは、クリーヴァを連行して、応接室で待っていた。
入ってくるときのクリーヴァの態度からみて、警部がいささかも容赦《ようしゃ》をしなかったことがわかった。挑戦的な態度で、つかつかと地方検事の机まで歩いてくると、冷やかな、憤怒にみちた視線を、マーカムにじっとそそいだ。
「ひょっとすると、私は逮捕されでもしたのですか?」と、ものやわらかにたずねはしたが、もえ狂うような怒りを、いらだたしそうに抑えつけていた。
「まだ逮捕したわけではありません」と、マーカムはそっけなくいった。「しかし逮捕されたとすれば、その責任はあなたご自身にあるのですな――。まあ、お坐りなさい」
クリーヴァはためらっていたが、一番近い椅子に坐った。
「あなたの部下のこの刑事に、どういうわけで、七時半に、ベッドからたたき起こされなければならないのですか」――拇指をふるわせながら、ヒースの方に突きだした。――「私がこんな高圧的な不法なやり方に抗議をしたからといって、なぜ囚人自動車や、逮捕状で、脅迫をなさったのですか」
「あなたが、自由意思で、私の召喚に応じることを拒否なされば、法律上の手続きをとって強制すると申しあげただけです。今日は役所が半休ですから、さっそくあなたに説明をお願いしたいことがあります」
「こんなめに会わされて、なにが説明などできるもんですか!」無神経なように平静さをよそおってはいるが、クリーヴァは自制することにかなり骨をおっていた。「私は、あなた方の気のむいたときに、ここに引っぱってきて、拷問《ごうもん》にかけられるような、掏摸《すり》ではありませんよ」
「それならば、まことにご同慶の至りですな」と、マーカムの口調は不吉を匂わせていた。「しかし、あなたが自由な市民として、ご自分で説明を拒否なされるならば、私としては、あなたの現在の身分を変更する以外には、他に方法はないわけです」ヒースの方をむいた。「警部、廊下《ホール》を通っていって、ベンに、チャールズ・クリーヴァの逮捕状をかかせてくれたまえ。それからこの紳士を拘留したまえ」
クリーヴァはぎょっとして、息を抑えながら、しゅうっと吐いた。
「罪名は?」と、要求した。
「マーガレット・オーデルの殺害犯人」
相手は椅子からとびあがった。顔からは血の気が消え失せ、頬の筋肉が発作的にぴくぴくと動いた。
「待ってください! あなた方はなんというひどい仕打ちをなさるんです。これもまた、あなた方の負けですよ。あなた方は千年かかっても、その罪名を私にはきせられるはずはないです」
「たぶん、そのとおりでしょう。しかし、あなたがここで答弁しようとなさらないかぎりは、法廷で答弁していただくことはできます」
「ここでお話ししましょう」クリーヴァはふたたび着席した。
「なんにお答えしたらよいのですか?」
マーカムは葉巻《シガー》をとりだして、丹念に火をつけた。
「最初に、あなたは、月曜日の夜、どうしてブーントンにいたといわれたのですか?」
クリーヴァは、明らかにこの質問を予期していたようであった。
「カナリヤの死んだ記事を読んだときに、アリバイがいると思ったのです。ちょうどそのときに、兄がブーントンで渡された召喚状を、私にくれたのです。お誂えむきのアリバイが手に入ったので、それを使ったまでです」
「どうしてアリバイが必要だったのですかね?」
「必要はなかったのですが、あった方が面倒《めんどう》がなくて、すむだろうと思ったのです。世間では、私がオーデルという娘を追いまわしているのを知っていますし、あの女が私から金をまきあげているのを知っているものもありますからね――じつにばかげたことに、自分でそんな話をしたものです。たとえば、マニックスもその一人です。二人ともだまされた口でしてな」
「ただそれだけの理由で、あんなアリバイを作りあげたのですか?」マーカムは鋭く彼を見つめていた。
「十分な理由ではなかったでしょうか。強請《ゆすり》は一つの動機となるのではないでしょうか?」
「動機どころか、不愉快な嫌疑をひき起こしていますよ」
「そうですとも。ただし、私としては事件にまきこまれたくはなかったのです――事件にまきこまれまいとしたからといって、私の罪にすることはできませんよ」
マーカムは脅かすような微笑をうかべながら、身体を前に乗りだした。
「オーデル嬢があなたから金を強請《きょうせい》したという事実が、喚問にあたって、虚偽を申し立てた唯一の理由ではなかった。あなたの主要な理由でさえもなかったはずですよ」
クリーヴァの眼は細くなったが、その他の点では、まるで彫像のようだった。
「あなたは、むしろ私以上に、はっきりとご存じのようですな」彼はいかにもなんでもないように、自分の言葉をひびかせた。
「以上ということはありますまいよ、クリーヴァさん」と、マーカムはその言葉を訂正した。「しかし、おそらく同じ程度には知っていますよ――月曜日の夜の十一時と十二時との間は、どこにいたのですかな?」
「それもきっとご存じのことの一つではありませんか?」
「そのとおり――あなたはオーデル嬢の部屋にいたのだ」
クリーヴァは鼻で笑ったが、マーカムの告発がひきおこしたショックはごまかすことはできなかった。
「そんなふうにお考えでしたら、結局、あなたはなにもご存じないのと同じになりますな。私は、この二週間も、女の部屋には足を踏み入れたことはありませんから」
「あいにくと、こちらには確実な証人の証言があるんですがね」
「証人ですって!」その言葉はクリーヴァのひきしまった両唇から、とび出してきたようにみえた。
マーカムがうなずいた。「あなたは月曜日の夜の十二時五分前に、オーデル嬢の部屋から出てきて、裏口を通って、外に出ていくところをみられているのだ」
クリーヴァの顎《あご》がかすかにたるんで、苦しい呼吸がはっきりとききとれた。
「そして、十一時半と十二時との間に」と、マーカムの無慈悲な声が追いつめた、「オーデル嬢は絞殺され、強奪されている――これにたいして、いい分がありますかね?」
ややしばらくの間、緊張した沈黙がつづいた。それからクリーヴァが口を開いた。
「よく考えさせていただけませんかな」
マーカムは忍耐強く待っていた。数分後に、クリーヴァは身体を引き、そして肩を張った。
「あの晩に、私のしたことをお話し申しあげましょう。あなたが信じられるかどうかは、あなたのご自由です」ふたたび冷静な、自制心の強い賭博者になっていた。「証人をいくらおもちになろうと、一向にかまいません。私が申しあげられる話はこれ以外にはありません。はじめから申しあげるべきでしたが、押しこまれでもしないかぎり、熱湯に足をつっこもうと考えるものはありますまい。この火曜日に申しあげておいたらお信じ願えたのでしょうが、今日はなにかお考えもあるようですし、また新聞を黙らせるために、犯人の逮捕をお望みのようですから――」
「自分の話をし給え」と、マーカムは命じた。「正しいことであれば、あなたは新聞を気にかけることはいりません」
クリーヴァは、心の中で、この言葉の正しいことを知っていた。誰一人として――もっとも苦手の政敵でさえも――たとえどんなに小さなことでもあれ、不正行為でもって、名声を買収したなどと、マーカムを非難するものは、いままでにいなかった。
「実際問題としては、別にたいして申しあげることはありませんが」と、その男は話しだした。「私は十二時少し前に、オーデル嬢の家にまいりましたが、部屋には入りませんでした。ベルさえ鳴らしませんでした」
「ベルを鳴らすのはあなたの訪問のときの慣例ではないのですか?」
「臭いとおっしゃるのですか? しかし、とにかく、ほんとです。私はあの女に会おうと思いました――そうです、思ったのです――しかし私がその部屋のドアのところにまいったときに、なにかのはずみで気がかわったのです――」
「ちょっと待ちたまえ――どこからあなたはあの家に入ったのですかね?」
「裏口からです。――裏道へ出るドアです。開いているときは、いつでもあすこを使用していました。オーデル嬢の希望でもあったのです。それで、電話交換手も、おそらく私がしばしば出入りするのを、見とめはしなかったでしょう」
「月曜日の夜のその時刻には、あのドアには錠がおりてはいなかったのですね?」
「おりていたら、どうして私が入れたでしょうか? 鍵などは、たとえもっていたとしても、なんの役にもたたなかったでしょう。あのドアは内側から錠がおろされるのですから。しかし念のために申しあげておきますが、あのドアが、夜分、錠のおりていなかったのに気がついたのは、あの夜が初めてでした」
「よろしい。あなたは裏口から入っていかれたのですな。それからどうしました」
「私は裏廊下《リア・ホール》を通って、オーデル嬢の部屋のドアのところで、少しの間、耳をすませていました。誰かが女と一緒にいるのじゃないかと思ったからです。それで女だけではないかぎり、ベルを鳴らしたくなかったのです……」
「お話し中、失礼ですが、クリーヴァさん」と、ヴァンスが言葉をはさんだ。「どうしてあなたは誰かがそこにいはしないかと考えたのですか?」
相手の男がためらった。
「それは」と、ヴァンスが促した。「あなたが少し前に、電話をオーデル嬢にかけ、男の声の返事をきいていたからではないのですか?」
クリーヴァがゆっくりとうなずいた。「別にそれを打ち消さなければならないような点もないようですね……いや、たしかにそのためでした」
「その男はどんなことをいいましたか?」
「ほんの少しです。『もしもし』といって、私がオーデル嬢と話をしたいといいますと、留守だといって、きってしまったのです」
ヴァンスは自分からマーカムに話しかけた。
「それでわかったわけだね、十二時二十分前に、オーデルの部屋にかかってきた簡単な呼出し電話という、ジェサップの報告がさ」
「十中八、九はね」と、マーカムは興味がなさそうに話した。彼はそれから引きつづいて起こった事件についての、クリーヴァの陳述に気をとられていた、ヴァンスがさえぎった点から、質問をはじめた。
「部屋のドアのところで、内部の様子に聞き耳を立てていたというんですね。どうしてベルを鳴らすのをやめたのですかね?」
「部屋の中で男の声がしたからです」
マーカムはまっすぐに背をのばした。
「男の声? まちがいじゃないですね?」
「まちがいはありません」クリーヴァはこの点については実際的だった。「男の声でした。さもなければ、ベルを鳴らしていました」
「その声が誰だか、わかりましたか?」
「わかりません。非常に不明瞭でしたし、すこし嗄《しわが》れていました。私の知っている人の声ではありませんが、どうも電話で返事をした人と同じ人の声のようでした」
「なにを話していたか、すこしもききとれませんでしたか?」
クリーヴァは眉をしかめて、マーカムから視線をはずして窓の外を見た。
「どんなふうな言葉にきこえたかはおぼえています」と、静かにいった。「その時はなにも考えなかったのですが、翌日、新聞を読んでから、その声を思いだしたのです――」
「どんな言葉でしたか?」と、マーカムはいらだたしそうにさえぎった。
「そうですね、私にわかったところでは、こうでした。『おお、神さま、おお、神さま?』――と、二、三度くりかえしていたのです」
この陳述は、陰鬱な古びた事務室に、一種の恐怖感を生みだしたようだ――この恐怖は、クリーヴァがその苦悩の叫び声をくりかえした、思いがけないひややかなやり方のために、一層ききめがあった。ちょっと言葉がきれたが、マーカムはたずねた。
「その男の声をきいて、あなたはどうしましたか?」
「私はそっと裏廊下《リア・ホール》をひきかえして、裏口から外へぬけ出ていきました。それから家に帰ったのです」
短い沈黙がつづいた。クリーヴァの証言は意外な性質のものであったが、マニックスの陳述とすっかり一致していた。
やがて、ヴァンスが椅子の底から身体をおこした。
「あのう、クリーヴァさん、あなたは十二時二十分前と――つまり、あなたがオーデル嬢に電話した時間と、十二時五分前と、――つまり、あなたが女のアパートメント・ハウスの裏口から入られた時間と――その間に、なにをなさっておりましたか?」
「二十三番街から地下鉄にのって山手にいくところでした」短い沈黙の後に、返事があった。
「妙ですな――たいへん、妙ですな」ヴァンスはシガレットの先をみつめた。「すると、その十五分の間に、どうして電話などをかけられるのでしょうかな」
僕は、突然、クリーヴァが、月曜日の夜の十二時十分前に、電話をかけてきたという、アリス・ラ・フォス嬢の言葉を、思いだした。ヴァンスは、この質問で、自分の知っていることを隠したままに、相手の心に不安な状態をつくりだした。あまり強くいって、自分の立場を危くするような目にあうまいと、クリーヴァはうまく逃げをうとうとした。
「七十二番街で地下鉄をおりて、オーデル嬢の家に一丁ほど歩いていくまでに、電話をかけようとすれば、誰にでもかけられるのではないでしょうか?」
「もちろんですね」と、ヴァンスはつぶやいた。「しかし、数学的に考えてみて、あなたが十二時二十分前にオーデル嬢に電話をかけ、それから地下鉄にのって、七十二番街につき、七十一番街まで一丁ほど歩いていって、あの建物に入り、女の部屋のドアのところで内部の様子をうかがって、十二時五分前に立ち去られたとすれば、この間の時間は全部でわずかに十五分たらずですからね――途中で立ちどまって、誰かに電話をかけるだけの余裕は、ほとんどなかったはずでしょう。といっても、僕はなにもこの点に重きをおいているわけではないのです。ほんとうは十一時と、オーデル嬢に電話をかけられた十二時二十分までとの間に、あなたがなにをなさっていたか、ぜひとも教えていただきたいと思っているのです」
「ほんとのことを申しますと、私はあの晩は気が顛倒《てんとう》していたのです。オーデル嬢が他の男と一緒に外出していることを、私は知っていました。――私との約束を破ったのです。――そこで、私は一時間以上も、煙草をのんだり、やきもきしながら、街を歩きまわっていたのです」
「街を歩きまわっていた?」と、ヴァンスは眉をしかめた。
「そのとおりです」クリーヴァは怨みがましくいった。それから、向きをかえると、マーカムの方をじっと探るように見つめていた。「リンドクイスト博士から、なにかご参考になることがきき出せましょうと、前に私が申し上げたことをご記憶ですか。……あの方にたずねてごらんになりましたか?」
マーカムが返事をする前に、ヴァンスが口を入れた。
「ああ、そうでしたね!――リンドクイスト博士! そうそう――もちろんですとも。……で、クリーヴァさん。あなたは街を歩いておられた。街をね、いいですか! ほんとですね――あなたは事実を述べられている。そこで、僕は『街』という言葉をくりかえすのです。しかも、あなたは――まさに青天の霹靂《へきれき》のように――リンドクイスト博士のことをたずねられる。どうしてリンドクイスト博士をもちだすのですか? 誰も博士のことを口にしたものはいない。しかし、その『街』という言葉――そこに連想がある。街とリンドクイスト博士とは一つのものになる――ちょうどパリと春とが一つになるように。しっくりと、実にしっくりとしている。――これで、僕は新しい謎の手懸りを一つ手にしたわけですね」
マーカムとヒースは、急に気が狂ったのではないかといいたそうな様子で、眺めた。ヴァンスは平然と一本の|レジイ《ヽヽヽ》をケースから選びだして、火をつけた。それから、クリーヴァをたぶらかすようにみて、微笑した。
「そのへんで、神妙にいわれたらいかがです。月曜日の夜、街をさ迷い歩いている間に、何時に、どこで、リンドクイスト博士にお会いになったのですか。もしあなたがいわれなければ、やむなく、あなたに代って、僕が大体のところを、申しましょうか」
たっぷり一分もたってから、クリーヴァは口を開いた。その間、その冷たい睨むような眼は、地方検事の顔からいっぺんも離れなかった。
「お話の大部分は、すでに申しあげましたが、残っているところを申しあげましょう」低く陰気に笑った。「私は十一時半少し前に、オーデル嬢の家にいきました――その時刻には帰っているはずだと思ったのです。ところが、裏口への通路のところで、リンドクイスト博士が立っているのに、ぶつかりました。博士は私に声をかけて、オーデル嬢は部屋に誰かと一緒にいる、と教えてくれたのです。それで、私は街角を曲ってアンソニア・ホテルへまいりました。十分ほどたって、オーデル嬢に電話をかけると、さきほど申しあげたとおり、男の声が返事をしました。それからさらに十分ほど待って、オーデル嬢のある友達に電話をかけ、パーティの手筈をつけてくれないかと頼みました、しかし駄目だったので、オーデル嬢の家にひきかえしたのです。博士はもう見えませんでしたので、私は裏道を通って、裏口に入っていったのです。さっき申しあげたとおりに、一分ほど耳をすましてきいていると、男の声がしたので、私はその場を離れて、帰りました……これで全部です」
その瞬間、スワッカが入ってきて、なにかヒースにささやいた。警部は急に立ちあがって、秘書の後について、部屋から出ていった。すぐにまた、ふくれあがったマニラ紙の折込みを抱えて、もどってきた。マーカムにそれを渡すと、そこにいる他の者にはききとれないように低い声で、なにかを話した。マーカムは驚くと同時に、不快な顔をしたようであった。手をふって警部を元の席に押しもどすと、クリーヴァの方に向きなおった。
「応接室の方で、二、三分の間、待っていただかなければならないことになりました。あいにくと、別の重大な用事がもちあがったので」
クリーヴァは一言もいわずに出ていくと、マーカムはその折込みを開いた。
「こんなことは僕は好きじゃないね、警部。昨日、君がいいだしたときに、そういっておいたじゃないか」
「承知しています」ヒースは、その口調にあらわれたほど、後悔しているわけではないようだ。「しかし、これらの手紙や、その他のものが全部正しく、クリーヴァが、この点について、嘘をついていなかったとすれば、誰にももちだしたことが気づかれないように、もとに返させておきましょう。もしこれらのものを調べてみて、クリーヴァが嘘をついていたとわかれば、それで押収してきた言い訳も、りっぱにたつというものです」
マーカムはこの点については議論をしなかった。不興げな表情で、手紙に眼をとおし、特に日付を念入りに調べた。二枚の写真をざっと眺めてから、押しかえし、また一枚の紙を――ある種のスケッチがペンとインクで描かれてあったようだが――破って、紙屑籠に、胸がむかむかするといった様子で、投げこんだ。三通の手紙を片側にとりのけるのが見えた。五分間ほどで、残りを全部点検し終ると、折込みにもどした。それからヒースを見て、うなずいた。
「クリーヴァを呼びもどしてくれたまえ」立ちあがって、向きを変え、窓から外を眺めていた。
クリーヴァが再び机の前に着席すると、すぐにマーカムは、ふりむきもせずに、いった。
「あなたはオーデル嬢から手紙を買いもどしたのは今年の六月だといいましたな。その日付を思いだせますかね!」
「はっきりとは思い出せません」と、クリーヴァが造作なく答えた。「六月の初め頃でした――第一週だったと思います」
マーカムはくるりとむきかわると、別にしておいた三通の手紙を指さした。
「それでは、あなたが七月下旬に、アディロンダックスから、オーデル嬢に宛てて書いた和解の手紙を、どうしておもちになっているのでしょうな」
クリーヴァの自制力は完璧《かんぺき》だった。ちょっとむっつりと沈黙していたが、静かにおちついた声で、いっただけであった。
「あなた方は、もちろん、その手紙を合法的に手に入れられたのでしょうな」
マーカムはぎくっとしたが、相手があくまで頑固に白をきっている態度に、腹を立てた。
「遺憾ながら」と、いった、「これらの手紙は、あなたの部屋から拝借してきたものです。――とにかく、はっきりと申しますが、まったく僕の指令に反して行われたものですがね。しかし思いがけなく僕の手に入ってみれば、あなたのなされるもっとも賢明な措置は、ご説明願うということですな。死体の発見された朝、オーデル嬢の部屋には、空っぽになった書類箱がありましたよ。しかも、あらゆる点からみて、月曜日の夜に開かれたものです」
「なるほど」クリーヴァは耳障《みみざわ》りな声で笑った。「至極ごもっともです。事実はこうです――率直に申しても、みなさんが信用して下さるとは期待いたしていませんがね――私はオーデル嬢から金を強請《ゆす》られていましたが、いまから約三週間ほど前、八月中旬までは、払ってはいません。私の手紙をみんな返してもらったのは、その時なのです。できるだけ日付をくりあげておきたいために、六月と申しあげたのです。事件が古ければ古いほど、あなた方から嫌疑をうけることが少なかろうと考えたまでです」
マーカムは立ったまま、不決断にも手紙を指でいじりまわしていた。この不決断に終止符をうったのはヴァンスだった。
「僕はこう考えるんだがね」と、いった。「君はクリーヴァさんのご説明を認めて、その恋文を返された方が、いいだろうね」
マーカムは、ちょっとためらってから、マニラ紙の折込みを取りあげ、三通の手紙を元にもどし、クリーヴァに手渡した。
「どうかこの手紙の押収は、私が承認したものではなかったことを、ご諒解ください。――お宅にもち帰って、処分された方がよろしいでしょう――。これ以上はもうあなたをおひきとめはいたしません。しかし必要があれば、いつでも連絡のとれるところにいていただきたい」
「逃げも隠れもいたしませんよ」と、クリーヴァがいった。ヒースがエレベーターの方に案内していった。
第二十二章 電話の呼び出し
――九月十五日、土曜日、午前十時
ヒースは、絶望したように、頭をふりながら、事務室にもどってきた。
「オーデルの殺された月曜日の晩には、誰も彼も徹夜をしていたにちがいありませんな」
「そのとおりですね」と、ヴァンスは同意した。「淑女の崇拝者たちの深夜の秘密会議があったのさ。マニックスは、もちろんその一人だった。マニックスはクリーヴァをみているし、クリーヴァはリンドクイストをもみているし、リンドクイストはスポッツウッドをみている――」
「ふむ、しかしスキールをみたものは誰もいないのですね」
「難題は」と、マーカムがいった。「クリーヴァの話がどこまで真実かわからない点さ。――それはそうと、ヴァンス君、あの男はほんとに八月に手紙を買いもどしたんだと、信ずるかね」
「わかっているぐらいならね。まったく混乱するばかりじゃないか」
「とにかく」と、ヒースは論じはじめた。「クリーヴァが十二時二十分前にオーデルに電話をかけて、男が返事したという陳述は、ジェサップの訊問によって立証されていますね。それから、クリーヴァは、あの晩、たしかにリンドクイストに会っていますね、医者のことをはじめにわれわれに洩《もら》したのは、クリーヴァですからね。医者の方からクリーヴァを見たと、われわれにいうはずですから、うまく機会をつかまえて先きまわりをしたんですよ」
「しかしね、クリーヴァが有力なアリバイをもっていたとすれば」と、ヴァンスがいった。「医者が嘘をついているんだともいえるじゃないですか。君がクリーヴァの魅惑的な伝説を信じるにせよ、信じないにせよ、とにかく、あの晩、オーデルの部屋には、スキール以外に、もう一人の訪問者があったという僕の言葉には、まちがいがありますまいよ」
「仰せのとおりですよ」と、ヒースは不承不承に譲歩した。「しかし、それにしても、そのもう一人の男というのは、スキールの不利な証拠になる可能な根拠として価値がありますよ」
「それは真実かもしれない。警部」マーカムは当惑したように顔をしかめた。「ただ、どうして裏口の錠がはずされ、内側からまたおろされたのか、僕は知りたいね。僕たちは、いまでは、ドアが真夜中ごろに開いていて、マニックスも、クリーヴァも、それを利用していることがわかっているんだからね」
「君はじつにつまらんことを心配しているね」ヴァンスは投げやりにいった。「あのドアの問題は、カナリヤの金|鍍金《めっき》の籠に、スキールと一緒にいた男を発見すれば、ひとりでに解決するよ」
「それは、煎《せん》じつめれば、マニックスか、クリーヴァか、リンドクイストかということになるね。とにかく現場にいそうな連中はこの三人だけだ。それに、クリーヴァの話をその本質において認めるとすると、三人のうちの一人が、十一時半から真夜中の間に、あの部屋に入りこめる機会があったというわけになるよ」
「そのとおりだ。けれど、リンドクイストがあの辺にいたという根拠は、クリーヴァの言葉だけしかないわけだ。しかも、その証言は、確証されたわけではないから、白百合のように潔白な真理としてうけとるわけにはいくまい」
ヒースは急に身体を動かして、時計をみた。
「ええと、十一時にあなたがご用があるとかいっていた、あの看護婦の方はどうしますね」
「あの女のことでは、一時間ばかりも、ひどく気になっていたんですが」ヴァンスはほんとに当惑したようにみえた。「ほんとはね、ちっとも会いたいと、思っているわけじゃないんですよ。天啓を期待しているわけなのさ、ね。十時半まで、医者のくるのを待ってみるとしましょうよ、警部」
ちょうど話し終ったところへ、リンドクイスト博士が急用でみえたと、スワッカがマーカムに知らせてきた。興味津々たる情景であった。マーカムは大声で笑いだすし、ヒースはわからないといった驚きを顔にあらわして、ヴァンスを見つめた。
「これは魔法じゃないですよ、警部」と、ヴァンスは微笑した。「あの医者は、僕たちがいまに虚偽を看破するのを、昨日、すでに悟っていたのさ、だから機先を制して、個人的に説明しようと決心したのだ。簡単なことでしょう?」
「ほんとうですな」ヒースの驚きの表情は消えた。
リンドクイスト博士が部屋に入ってくると、いつもの都会風がすっかり消えていることが、僕の注意をひいた。その態度は弁解するようであり、心配そうでもあった。ある大きな心配にとりひしがれていることは明らかであった。
「月曜日の夜のことについて」と、マーカムのしめす椅子に腰をおろしながら、博士はいった。「真実のことをお話しいたしたいと思って、参上いたしました」
「いつでも真実のことは大歓迎ですよ、博士」と、マーカムは激励するようにいった。
リンドクイスト博士はよくわかったというように、頭を下げた。
「最初にご面会しました節に、そういうふうにいたさなかったことを、深く遺憾としています。しかし、当時、私は問題の重大性を十分にわかっておりませんでした。一度虚偽の申し立てをいたしてしまいますと、その申し立てを押し通すほかはないというふうに感じていました。けれども、よくよく考えてみますと、なにもかもありのままに申しあげるのが最善の道だという結論になりました――事実は、月曜日の夜、私の申しあげた時間には、ブリイドン夫人の許にいたわけではありません。十時半すぎまで自宅におりました。それからオーデル嬢のところに出かけ、十一時少し前につきました。十一時半まで外の通りに立っていて、それから帰宅いたしました」
「そういう赤裸々な陳述はもっと細かに話していただかなければなりませんな」
「よくわかっております、細かく申し上げるつもりです」リンドクイスト博士はためらって、白い顔には緊張した表情があらわれた。両手をしっかりと握っていた。
「オーデル嬢がスポッツウッドという男と一緒に夕食をし、劇場に出かけていくのを承知していました。それを考えると、私の心はすっかり気が重くなったのです。スポッツウッドのために、オーデル嬢の愛情を奪われてしまったのです。あの男が邪魔をしたから、私は思わずあの若い婦人を脅迫するようになったのです。あの晩、家にいて、いろいろと事情を思い悩んでいますと、あの脅迫を思いきって実行したいという衝動を抑えることができなくなりました。どうしてすぐにこんな我慢のならぬ情況にきりをつけることができないのか、どうしてスポッツウッドをいっしょに破滅させてしまえないのか……私は我とわが心にきいてみました」
話しながら、ますます感情に激していった。眼のまわりの神経は痙攣しはじめ、肩は悪寒《おかん》を抑えつけようとして抑えきれぬ人のようにわなないていた。
「どうぞお察しください、私は苦しみました、スポッツウッドにたいする憎しみが私の理性をくもらせてしまいそうでした。なにをしようとしているのか、自分でもわからず、しかも、どうにもたまらない決意に動かされて、ポケットに自動拳銃をひそませ、家から走り出ました。オーデル嬢とスポッツウッドはもうじきに劇場から帰ってくるものと思い、部屋にむりに押し入って、予定の行動をやろうと思っていました。……街路ごしに、二人が家に入っていくのがみえました――十一時ごろでした――しかし実際になると、私はためらいました。復讐をのばすことにし、私は――その考えにつかれて、そこになにか狂気じみた満足を感じ――あの二人はいつでも私の思いのままになるのだと思いこみました……」
彼の両手は大きくふるえにふるえ、眼のまわりの痙攣はいよいよましていった。
「三十分あまり、私はこの考えをひとり楽しみながら、待っていました。中に入っていって、いよいよやりとげようとしているときに、クリーヴァという男がやってきて、私をみとめました。立ちどまって、話しかけました。私はオーデル嬢を訪ねようとしているのだと思いましたから、娘のところにはもう一人お客がきていると話をしました。すると、彼はブロードウェーの方に歩いていきました。街角を曲るのを待っていると、その間に、スポッツウッドは家から出てきて、ちょうどそこにきたタクシーにとびのりました。……私の計画は見事に失敗に終りました――あまり長く待ちすぎたのです。私は急に怖ろしい悪夢から醒《さ》めたような気がしました。私はまるで虚脱したような状態になりましたが、ようやっと家に帰りました。……こういう次第です――おかげで助かったのです」
彼は椅子にがっくりと沈んだ。話をしている間、燃えていた抑えに抑えた神経の興奮は消え去り、大儀そうに、ぼんやりとしているようであった。数分間、鼾《いびき》をかくような大きな呼吸をし、二度ばかり、額に手をぼんやりとあてていた。質問をうけられるような状態ではなかったので、ついにマーカムはトレイシーを呼んで、家まで送りとどけるように命じた。
「ヒステリからきた一時的消耗だ」と、ヴァンスは冷淡に註釈を加えた。「ああいう精神錯乱《パラノイア》患者はみんな過度の神経衰弱さ。一年もたたないうちに精神病院のご厄介になるだろうな」
「そうでしょうね、ヴァンスさん」と、ヒースは、異常心理の問題なんかには、熱心にかかわりあってはおられないというふうに、口を出した。「たったいま私に興味のあるのは、こういう連中の話をすべて一つに関係づける方法です」
「そうだ」と、マーカムもうなずいた。「彼らの陳述には、真実の基礎があることは否定できない」
「しかし、どうぞご注意くださいよ」と、ヴァンスは指摘した。「連中の話をきいていると、みな可能な犯人であって、誰一人として除去できないということだね。彼らの話は、完全に協和音を奏している。しかも、すべてぴったりと一致はしているけれども、三人のうち、あの晩、オーデルの部屋に入ることができなかった者は誰もいない。たとえば、マニックスは、クリーヴァがやってきて、立ちぎきをする前に、二号室から入りこめなかったわけではない。しかもオーデルの部屋から出てきたときに、クリーヴァが帰っていくのをみていたのかもしれない――クリーヴァは、十一時半に医者に話しかけ、アンソニアまで歩いていき、十二時ちょっと前にもどってきて、婦人の部屋に入りこみ、マニックスがフリスビーのドアをあけたときに、ちょうど出てきたものともいえる。――それにまた、興奮した医者は、スポッツウッドが十一時半に出てきたのちに、入ってゆき、二十分あまりあそこにいて、それからクリーヴァがアンソニアから帰ってくる前に、立ち去ったともみられる。……いや、彼らの話が合っているという真理は、少なくとも、どの一人をも無罪にするあかしをたてる力があるわけではない」
「しかも」と、マーカムが補足した。「あの『ああ、神さま』という叫び声は、――もしクリーヴァがほんとうに耳にしたのだとすれば、マニックスでも、リンドクイストでも、どちらでもたてられるからな」
「きいたのにはまちがいない」と、ヴァンスがいった。「部屋にいた誰かが、真夜中ごろ、神に助けを求めていたのさ。クリーヴァは、そういうすばらしい美味をつくりだせるほど、立派な演劇感覚はもちあわせてはいない」
「しかし、クリーヴァがほんとにその声をきいたとすれば」と、マーカムが抗議した。「自動的に容疑者として除外できるじゃないかね」
「けっしてできないよ。部屋から出てきた後で、きいたかもしれないからね。そこで、はじめて、自分が訪問している間に、誰かが現場にかくれていると悟ったということもあるさ」
「衣裳部屋の男という意味だね」
「そうだ――もちろん。……ねえ、マーカム。福音書にあるような祈り声をあげたのは、隠れ場所から出てきて、悲劇的な破滅の場面をみて、ふるえあがったスキールであったかもしれない」
「ただね」と、マーカムは皮肉に註釈した。「スキールが特別に宗教的だという印象は、僕はもっていないがね」
「ああそうかね」と、ヴァンスは肩をすくめた。「実際上の問題だ。不信心な男は、キリスト教徒よりも、はるかに多く神に呼びかけるものだよ。真の徹底した神学者だけは、ご承知のとおり、無神論者だよ」
ヒースは、暗い沈思にふけっていたが、口から葉巻をとって、深い嘆息をはいた。
「そうです」と、がらがら声で、いった。「私も、スキールの他に、誰かがオーデルの部屋に入りこみ、気取り屋が衣裳部屋に隠れていたことを、よろこんで認めましょう。しかし、そうすると、そのもう一人の男はスキールを見なかったことになる。われわれがこの男を確認しても、その点で、すっきりと片がついたことにはなりませんな」
「その点は心配いらないでしょう、警部」ヴァンスは楽しそうになだめた。「このもう一人の謎の訪問者を確認できれば、なんとつまらぬ苦労をしていたんだろうと、きっとびっくりしますよ。その男を捜しだした時間を朱書するでしょうよ。無我夢中になって空中にとびあがるよ、愉快に歌いだすにちがいないよ」
「いまいましいな!」ヒースはいった。
スワッカがタイプをした覚書をもって、入ってきて、地方検事の机においた。
「いま建築家から、この報告を、電話で知らせてきました」
マーカムは一目でざっとみた。きわめて簡単なものであった。
「なんの助けにもならないよ」と、いった。「壁は堅固、無駄な空間なし、隠れた出入口なし」
「じつにまずいね、警部」と、ヴァンスは嘆息をついた。「シネマ的空想をあきらめなければなりませんね……遺憾なことだ」
ヒースは唸り声をだし、つまらなそうな顔をした。
「裏口のほかに出入りできる道がなくては」と、マーカムにきいた。「スキールにたいする起訴状はもらえませんかね、月曜日の夜、ドアの錠があいていたとわかった今になっても」
「できないことはないよ、警部。しかし主要な障害は、はじめにどうして錠をはずし、スキールが出ていってからどうして錠をおろしたかという点を、しめすことだろう。しかもエイブ・ルービンはその点に努力を集中するよ――いや、もうしばらく待って、どう発展するかをみとどけた方がいいよ」
すぐにあることが「発展」した。スワッカが入ってきて、スニットキンがすぐに会いたいといっていると、警部に知らせた。
スニットキンは、明らかに昂奮して、入ってきた。しなびた、見すぼらしい服装の六十歳ばかりの小男をつれていた。その老人は明らかにびくびくと、ふるえあがっていた。刑事は手に新聞紙に包んだ小さな荷物をもっており、勝ち誇った様子で、地方検事の机の上においた。
「カナリヤの宝石ですよ」と、いい、「女中の申し立てたリストで調べてみましたが、みんなのっています」
ヒースはとぶように前に出たが、マーカムはすでに神経質な指先で包みをといていた。紙をあけると、目も眩《くら》むような装身具の小さな山であった――精巧な細工をした数個の指輪、三個のすばらしく大きな腕輪、まばゆい旭光ブローチ、細かな細工をした劇場用双眼鏡。宝石はどれも大きく、思いきった見事なカットであった。
マーカムはききただすように顔をあげた。スニットキンは、当然発せられる質問を待たずに、説明をした。
「このポッツという男が見つけたんです。街路清掃人で、二十三番街のフレイティロン・ビルの近くの塵捨箱《ごみすてばこ》の中でみつけたと申しております。申し立てによりますと、昨日の午後、発見して、家にもちかえり、こわくなって、今朝、警視庁に届け出たものです」
「市街掃除夫《ホワイト・ウイング》」であるポッツ氏は明らかにふるえていた。
「そのとおりでごぜえます。――そのとおりで、へえ」と、おどおどと、熱心にマーカムに確言した。「包みがありやしたから、へえ、ひょっと中をみました。家へもってけえりやしても、悪さのつもりじゃねえです、とりこむ気はねえでした。一晩中、心配で心配で眠られず、今朝、暇ができやすと、すぐにお届けにあがりやした」老人は烈しく身体をふるわせ、いまにも倒れるんじゃないかと思われた。
「いいんだよ、ポッツ」マーカムはやさしい声でいうと、スニットキンにむかって、「帰らせてやりたまえ――ただ住所姓名をはっきりときいておいてな」
ヴァンスは宝石を包んであった新聞紙を調べていた。
「ねえ、君」と、老人にきいた。「これははじめから包んであった紙だね」
「へい、そうで。手も触れねえです」
「よろしい」
ポッツ氏はほっとして、スニットキンにつき添われて、ひょろひょろと出ていった。
「フレイティロン・ビルはスタイヴィサント・クラブからマディスン広場をまっすぐに渡ったところだ」マーカムは顔をしかめて注意した。
「そうだね」それからヴァンスは宝石を包んだ新聞紙の左の端を指さした。「しかも、君もわかるように、この昨日づけの『ヘラルド』紙には、どこのクラブの読書室でもつかっているような、木製の新聞挟みのピンであけられた三個の穴がある」
「たいした眼ですな、ヴァンスさん」と、ヒースは新聞紙を調べながら、肯定した。
「こいつを調べてみよう」マーカムは釦《ぼたん》をぞんざいに押した。「スタイヴィサント・クラブは一週間分ずつ新聞を綴じて保存してあるよ」
スワッカがあらわれると、クラブの給仕頭をすぐに電話で呼び出してくれといった。すこしして、連絡がついた。マーカムは五分ばかり話し合ったあとで、受話器をおいて、ヒースにがっかりした顔をむけた。
「クラブは『ヘラルド』紙を二部とっている。昨日のは、二枚とも新聞挟みに入っている」
「クリーヴァがいつか『ヘラルド』紙のほかは新聞を読まないといっていたことがあるね――それと、何か夕刊の競馬新聞とだけだとか」ヴァンスはそっけなくきいた。
「たしかにそうだったな」マーカムはこの示唆を考えていた。「でも、クラブの『ヘラルド』紙は両方ともある」それからヒースにむかって、「マニックスを調べたときに、どこのクラブに入っているか、わからなかったかな」
「たしか」警部は手帖を出して、一、二分ページをめくっていた。「ファリアズ・クラブとコスモポリス・クラブの会員です」
マーカムは電話を彼の方におしやった。
「調べて見たまえ」
ヒースは十五分ばかり仕事にかかっていた。
「駄目です」と、ついにいった。「ファリアズ・クラブは新聞挟みを使用していないし、コスモポリス・クラブはバック・ナンバーを保存していません」
「スキール氏のクラブはどうだね、警部」と、ヴァンスは微笑しながらきいた。
「ああ、この宝石が見つかったので、スキールについての私の理論が台無しになってしまいました」たしかに不機嫌にヒースはいった。「しかし、なんだってそんなことをいうんです。でも、オーデルの盗品がゴミ箱から見つかったからといって、あの男に無疵の証明書を渡そうとしてるんだと思われては、大間違いですよ。気取り屋をたえず監視していることを忘れちゃいけません。こすからく、誰か仲間をつかまえて、宝石をそっと始末させたのかもしれません」
「僕は熟練したスキールが捕獲品を頼むとしたら、玄人の引受け人にたのんだと考えたいですね。しかしその友人の手に渡したとしても、その友人は、スキールが困るからといって、投げすてたりはしませんね」
「そうかもしれません。この宝石の見つかったことには、なにかの理由があります。それがわかれば、スキールを除外はできませんね」
「そうさ、その理由がわかれば、スキールは除外できますまい」と、ヴァンスがいった。「しかしだね、――断然、|その立場《ロカス・スタンディ》は変ってきますね」
ヒースは、抜かりなく評価するような眼で、彼を眺めた。ヴァンスの口調のあるものが、明らかに好奇心を刺激して、驚き怪しませていた。ヴァンスは人物や事柄について、あまりにもしばしば正しい判断を下しているので、警部は完全にその意見を無視できなかったのである。
しかし彼が答えようとする前に、スワッカが眼をかがやかせながら、つかつかと部屋に入ってきた。
「トニー・スキールから電話です、お話ししたいと申しております」
マーカムは、いつもの慎重ぶりにも似合わず、珍しくとびあがった。
「こっちへ、警部」と、急いでいった。「その机の上の連絡電話をとって、君もきいていてくれたまえ」彼がスワッカにそっけなくうなずくと、秘書は連絡に出ていった。それから、自分の電話の受話器を取り上げ、スキールと話した。
一、二分間きいていた。それから、短かい問答をして、明らかに相手から出された提案に同意した。会話は終った。
「僕の思うに、スキールは是非お目にかかりたいというんだろう」と、ヴァンスがいった。「僕は期待して待っていたんだよ、ね」
「そうだ。明日十時にここに出頭する」
「カナリヤを殺した人間を知っている、とほのめかしたんだろう――えっ、どうだい?」
「そのとおりにいったよ。明朝、すっかり話をすると約束をした」
「あの男はそうしなければならぬ立場にあるのだ」と、ヴァンスはつぶやいた。
「しかし、マーカムさん」と、ヒースはまだ手に電話器をもったまま、どうも信じられないというふうにそれをみつめて、坐っていた。
「どうして今日ここにくるようにいわなかったのですか、わかりませんな」
「君もきいていたように、警部、スキールは明日だといい、もしむりをしようとすれば、なにもいわぬと脅かしている。奴に反対しない方がいいんだ。ここにむりにつれてきて、圧力をかけると、この事件に光明を投げる機会をなくすことになるかもしれん。それに、明日で、こちらもちょうどよいのさ。明日なら、このあたりは静かだろう。その上、君の部下がスキールを見張っていて、逃走することもできまい」
「おっしゃるとおりだと思います。気取り屋は怒りっぽいですから、いやだと思えば、牡蠣《かき》の真似《まね》もやりかねないでしょう」警部は弱気になって話した。
「明日はスワッカを出動させて、陳述書をとらせよう」マーカムはつづけていった。「君は部下を一人エレベーターにつけておいた方がよい――正規の従業員は日曜日で休みだ。それに広間の外側にも一人配置し、スワッカの事務室にも、もう一人入れておこう」
ヴァンスは悠々と伸びをして、立ちあがった。
「こんな時間に電話で呼び出すなどとは、いかにも紳士らしい思いやりだね、そうじゃないか。今晩は、デュランド・リュエルで、モネをみたいと思っていたんだ。この魅力ある事件のために、とてもゆかれないんじゃないかと心配していた。天啓は明日と、はっきりきまったんだから、僕は印象派の絵画にたいする趣味を堪能《たんのう》させることにしよう。……また明日《ア・ドマン》、マーカム。さようなら、警部」
第二十三章 約束の十時
――九月十六日、日曜日、午前十時
翌朝、われわれが眼を覚ましたときには、細い糠雨《ぬかあめ》がしとしとと降っていた。冬の先駆を知らせる冷気が空気にみなぎっていた。八時半に書斎で食事をすまして、九時に、前夜たのんでおいたヴァンスの車が迎えにきた。黄色い霧《きり》の濃《こ》い布に包まれていまはほとんど人気のない五番街を走りぬけ、西十二番街のマーカムの住居に訪ねていった。彼は家の前でわれわれを待ちうけていて、ほとんど挨拶らしい挨拶もかわさずすばやく車にのりこんだ。その心配そうな物思いにふけった顔つきから、スキールが何を話そうとしているのか、大いに期待しているようにみえた。
われわれは一言も話さないうちに高架線の下をくぐり抜けて、西ブロードウェーに出た。すると、マーカムは、その心を明らかに苦しめていた考えをはっきりと声にあらわして、ひとつの疑問を出した。
「結局、このスキールという奴は、何か重大な情報をわれわれに知らせることができるかどうか、怪《あや》しいものだと思うよ。あの電話の呼出しはじつに妙だった。しかも、自分の知っていることについて確信ありげに話をしていた。芝居げもなければ、放免を懇請するでもない――ただオーデルの殺害犯人を知っている、身の明かしをたてる決心をしたと、あっさりと確信をもって述べていた」
「あいつが手を下して、婦人を絞殺したのでないことはたしかだ」と、ヴァンスは明言した。「ご存じのように、僕の理論は、後ろ暗い仕事の行われているときに、あいつは、衣裳部屋のなかに隠れていたということだ。僕は、終始、あいつは全犯行を知りぬいているという考えをとってきている。部屋のドアの鍵穴は、あの婦人が絞殺されていた寝椅子の端とは、一直線になっている。だから、奴の隠れているあいだに、相手が、仕事をしていたとすれば、のぞいて見たと仮定することは不合理じゃない――え、どうだい? 僕は、この点について、あいつに質問したのを、おぼえてるだろう。あいつはこの点についてはどうもいやがっていたね」
「しかし、あの場合に――」
「ああ、わかっているよ。僕の乱暴な夢には、あらゆる博識な反対論があるさ。――どうしてあいつは警告をしなかったのか? どうしてもっと早く知らせなかったのか? これはどうだ、あれはどうだ、ってね。……僕は全知全能を主張するわけにはいかないじゃないか。僕の酔狂な考えを思いついたいろいろな|細かい組合せ《ヽヽヽヽヽヽ》について、論理的に説明ができるとは思わなかったよ。僕の理論は、いわば、スケッチをしただけのものにすぎないんだ。それでもだよ、当世風のトニーは、あの|美しい女《ボナ・ロオバ》を殺し、部屋を荒した男が誰だか、知っているとは確信していたんだ」
「けれど、あの晩、オーデルの部屋に入ることのできた三人の人物、――つまりマニックス、クリーヴァ、リンドクイストのうちでは、スキールの明らかに知っていたただ一人の男はマニックスだけだね」
「そうだ――たしかにね。しかも、マニックスが、スキールを知っている三人組《トリオ》のうちの、ただ一人の人間のようだ……面白い点だな」
ヒースは刑事裁判所のフランクリン街の入口で、われわれを待っていた。彼もまた心配そうで、弱っており、いつもの心やすさもなく、うわの空で、われわれと握手した。
「私はスニットキンにエレベーターを運転させることにしました」簡単な挨拶が終るといった。「バークが上の広間に、エメリがバークと一緒にいて、スワッカの事務室に入れてもらうのを待っています」
われわれは人気のない、静まりかえったビルに入り、四階にのぼった。マーカムがドアの鍵をあけると、われわれは中に入った。
「ギルフォイル、スキールを尾行している男ですが」ヒースは、われわれが坐ると、説明した。「気取り屋が部屋を出るとすぐ、電話で、殺人係に報告してくることに、なっております」
いまは十時二十分前であった。五分ほどして、スワッカがやってきた。速記帳をもって、マーカムの私室の回転扉の内側に席をとった。他人には見られずに、話をすっかり聴取できるところだ。マーカムは葉巻に火をつけ、ヒースもこれに倣《なら》った。ヴァンスはすでに静かに煙草を燻《くゆ》らしていた。部屋中で一番静かな男で、まるで一切の苦労や浮沈を感じていないように、大きな革椅子にだるそうにもたれかかっていた。しかし煙草の灰を灰皿に軽く叩くのに、いかにも思いこんだような様子をしていたから、やはり不安にはかわりがないようだった。
五、六分間、まったくの沈黙のうちにすぎた。すると、警部はいらだたしそうなうなり声を出した。
「そうじゃありませんね」と、何か口に出さない考えを結ぶように、いった。「私はこういう事件はどうにも考えがつきません。今になって、あのすっかりきちんと包んだ宝石の発見……それから、気取り屋が密告しようと申し出る……どうにもわけがわからない」
「そのとおりなんですよ、警部。しかし、みながみなわからないわけじゃないです」ヴァンスはゆっくりと天井を見あげた。「あんなくだらぬものをかすめとった奴は、なにかに使うためにやったのではないんです。ほんとは欲しくもなかったのさ。――逆にむしろ恐しくこまっていたんですよ」
問題はヒースにとってあまり複雑すぎた。前日の発展が彼のすべての議論を根底からゆるがしてしまった。ふたたび沈黙のうちに考えこんでしまった。
十時になると、ヒースは待ちきれなくなって立ちあがり、広間のドアの方にいって、外を見た。帰ってくると、自分の時計と事務所の時計とをみくらべ、たえず歩きまわった。マーカムは机の上の書類を類別しようとしてみたが、我慢ができぬといった身振りで、すぐに脇にのけてしまった。
「もうそろそろくるころだな」と、しいて快活な調子でいった。
「もうくるでしょう」と、ヒースは唸った。「さもなければ、無料で、車ではこんでやります」そういって、歩みつづけていた。
数分して、彼は突然向きをかえると、広間に出ていった。エレベーター・シャフトの下にいるスニットキンを呼んでいる声がきこえた。しかし、部屋に帰ってきたときの表情で、スキールの情報はまだないことがわかった。
「係を呼んでみましょう」と、決心した。「そうすれば、ギルフォイルから報告がきているかもしれません。すくなくとも、いつ気取り屋が家を出たかが、わかります」
しかし警部が警視庁に連絡しても、ギルフォイルからはまだ報告がきていないと、いわれた。
「これはたいへん妙だぞ」と、受話器をかけながら、説明した。
もう十時二十分過ぎであった。マーカムはだんだんに気むずかしくなっていった。カナリヤ殺人事件は、全努力を傾けて解決しようとしているにもかかわらず、執拗に刃向ってくるのには、まったくがっかりさせられていた。今朝のスキールとの会見は、この秘密を清算してくれるだろう、すくなくとも、決定的な行動をとれるだけの情報を手に入れられるだろうと、ほぼ必死になりながらも、期待していた。ところで、この重大な約束にたいして、スキールは遅すぎるので、いよいよ緊張感にはちきれそうになっていた。彼は、神経質に椅子《いす》をずらして、窓のところにいき、細い雨のけむる暗い霧《きり》の中をじっとみつめていた。机のところにもどってきたときには、顔は固くなっていた。
「十時半まで待ってやることにしよう」と、いかめしくいった。「それでも、やってこなければ、警部、所轄警察を呼んで、囚人護送車を迎えにやるがよい」
またしばらく沈黙がつづいた。ヴァンスは半眼を開いて、椅子にもたれかかっていたが、煙草をもちつづけながらも、すっていないのに、僕は気がついた。その額《ひたい》には皺《しわ》が深くより、きわめて静かにしていた。なにか異常な問題に心をとられていることがわかった。その静止した姿には、極度の注意の集中と深い思考とを、ひそめていた。
僕がみていると、突然にしっかりと身体をおこし、眼を開いて、遠くをみた。なにか内心の興奮に動かされたように、いきなり消えた煙草を灰皿に投げこんだ。
「ああ、しまった」と、叫んだ。「実際に、ありえないことだが、ね! しかも」――顔が曇った――「しかも、きっと、そうだ……なんて僕は馬鹿だった――お話にならぬ馬鹿だ……ああ」
足でとびあがって、自分の考えにびっくりして、目まいでもするように、じっと床を見おろしていた。
「マーカム、僕は望まぬ――まったく望まぬが」と、脅えているように、話しだした。「きっと、なにか恐ろしいことが起こっているのだ――不気味なことが。考えただけでもぞっと寒気がする。……僕も年をとって、感傷的になっているにちがいない」努力して軽い調子でつけ加えたが、眼にあらわれた表情はその口調を裏切っていた。「どうして、昨日、このことに気がつかなかったのだろう……。しかも僕はやらせてしまった……」
われわれはみな驚いて、見つめていた。前にこんなふうに激動したのを見たことはない。いつも皮肉で、高踏的であり、感情に動かされず、外部からの影響に動じないというのが、その言葉や動作に、力のこもった、印象的な性質を与えていたのだ。
しばらくすると、身体にかかってきた恐怖の雲を払いのけるように、すこし身体をゆり動かして、マーカムの机に歩みより、両手でささえて、身体をのり出した。
「そう思わんかね」と、きいた。「スキールはこないよ。待っていることはないんだ。――はじめから僕たちはここにくることはなかったんだ。僕たちの方からあいつのところに出かけていかなければならないのだ。あいつが待っているよ。……ゆこう、帽子をかぶりたまえ!」
マーカムがたちあがると、ヴァンスはその腕をしっかりとつかまえた。
「なにもぐずぐずいうことはないよ」と、主張した。「遅かれ早かれ、あいつのところにいかなきゃならないんだ。いま、いても同じことだろうがね、――きっとまちがいない。なんていうことだ!」
びっくりして、それでも、ちょっと抗議しようとするマーカムを、部屋の真ん中にひきだし、あいている手で、ヒースに合図した。
「君もですぜ、警部。こんな厄介なことになってすまんけれどもね。僕の失敗だ。このくらいのことは、僕にはわかっていなければならなかったのさ。まったく汗顔《かんがん》の至りだ。昨日の午後はモネのことで夢中だったもんだからね。……スキールがどこに住んでいるかは、知っているでしょう?」
ヒースは機械的に合点した。ヴァンスの妙にダイナミックなしつこさの魔術にかかっていた。
「さあ、いきましょう――それに、警部、バークか、スニットキンかを、つれていった方がいい。もうここにいる必要はない――もうここには誰も用はないんだ」
ヒースはマーカムの方を、相談するような顔でみた。当惑のあまり、口もきけず、どうしたらよいのかわからぬ状態におちいっていた。マーカムはヴァンスの示唆に賛成したと、合点して教え、一言もいわずに、レインコートに手を通した。数分して、われわれ四人は、スニットキンをつれて、ヴァンスの車にのりこみ、山の手にむかって走り出した。スワッカは家に帰り、事務所には鍵をかけた。バークとエメリとは殺人係に帰って、後命を待つことになった。
スキールは、イースト・リヴァの近く、三十五番街のうすぎたないが、昔は見栄《みえ》をはった家に住んでいた。この家は昔は中流階級のある旧家の住宅であったが、いまは荒れはてて、傾きかけているふうであった。空地には塵埃の山があり、貸室あります、の大きな札が一階の窓に貼り出されていた。
車がとまらないうちに、ヒースは往来にとびおり、鋭くまわりをみまわした。すぐに対角線上の反対側にある食料品店の入口を前屈みになって歩いている、蓬髪《ほうはつ》の男を眼にとめると、手招きをした。その男はこそこそと歩いて、そっとやってきた。
「よろしい、ギルフォイル」と、警部はいった。「われわれは気取り屋を社交的に訪問する――なにがいったいあったのか、どうして君は報告しなかったのか?」
ギルフォイルはびっくりしてみた。
「私は奴が家から出たら電話せよと、いわれておりました。が、まだ家を出てきません。マロリが、昨夜十時頃、尾行して家までついてまいり、今朝九時に、マロリと交代しました。気取り屋はまだ内にいます」
「もちろん、まだ家にいるよ、警部」と、ヴァンスはいらいらして、いった。
「奴の部屋はどこだ、ギルフォイル」と、ヒースがきいた。
「二階の裏です」
「よろしい。入ろう――ここで張り番をしてろよ」
「気をつけて下さい」と、ギルフォイルは警告した。「拳銃をもっていますよ」
ヒースは、先頭に立って、舗石から小さな玄関に通ずるすりへった階段を、あがっていった。ベルも鳴らさず、乱暴にドアの把手をつかんで、ゆさぶった。ドアには鍵がかかっておらず、われわれは息苦しい、天井の低い廊下に入った。
だらしのない部屋着《ドレッシング・ガウン》をきて、髪をばらばらにして肩にたらした、四十歳くらいのおひきずりの女が、急に背後のドアからあらわれ、われわれの方にぐらぐらと歩みより、かすんだ眼に脅かすような憤りをこめて、じっと眺めた。
「どうしたんですよ」と、いらだたしげな声で、怒鳴った。「こんなふうにして、立派な淑女の宅に、とつぜん入りこんでくるなんて、いったい何事でございますの」それからとめどもなく悪罵《あくば》のかぎりをまくしたてた。
女のすぐ側にいたヒースは、大きな手を相手の顔において、静かに、しっかりと、後ろに押しのけた。
「どいていたまえ、クレオパトラさん!」と、いって、階段をのぼりだした。
二階の廊下は、小さなきらめくガス燈に、ぼんやりと照らされ、背後の壁の真中にある一つのドアの輪郭を、みとめることができた。
「あすこがスキール氏の住居でしょう」と、ヒースがいった。
歩みよると、右手を上衣のポケットに入れ、把手をまわした。しかしドアには鍵がかかっていた。すると、乱暴に叩いて、耳を側柱にあてて、すました。スニットキンもすぐ後ろに立って、手はポケットに入れていた。他の者は、すこしはなれて、うしろの方にいた。
ヒースが二度目のノックをすると、ヴァンスの声がうす暗がりの中からきこえてきた。
「ねえ、警部、そんな形式的なことは、時間をとるばかりですよ」
「おっしゃるとおりですね」と、耐えられないような沈黙の一瞬がすぎると、返事がした。
ヒースはかがみこんで、鍵を眺めた。それから、ポケットから何か道具を出して、鍵穴にさしこんだ。
「おっしゃるとおりだ」と、また同じことばをいった。「鍵がささっていない」
後にさがると、短距離選手のように足先ではずみをつけて、ちょうど把手の上の羽目板に肩をぶっつけた。しかし鍵はそのままであった。
「こいよ、スニットキン」と、命じた。
二人の刑事はドアに身体をぶつけた。三度目にぶっつけると、木片がとび散り、鋳型《いがた》から錠の閂《かんぬき》がとれて、ドアの内側に酔漢のようによろけた。
部屋はほとんどまっ暗闇であった。われわれはみな入口でためらっていたが、スニットキンは用心しながら部屋を通って、一つの窓にいき、覆《おおい》をガラガラとあげた。黄味のかかった灰色の光線がさしこみ、部屋のなかの物がすぐにはっきりとした形をとった。大きな旧式のベッドが右手の壁からつき出ていた。
「ここだ」スニットキンは叫んで、指さした。その声にはなにかぶるっとふるえあがるものがあった。
われわれは前に進んでいった。ベッドの足もとに、ドアの方に向いた側に、スキールのぐにゃっとした身体が倒れていた。カナリヤと同じように、絞殺されていた。頭は踏み台に仰向けにのり、顔は恐ろしくゆがんでいた。両腕を伸ばしたままで、片足は布団《マットレス》の端から垂れて、床にとどいていた。
「殺人団の犯行だ」と、ヴァンスはつぶやいた。「リンドクイストがいっていた――妙だ!」
ヒースは肩をまげて、死体をじっと眺めていた。いつもの顔の赤味は消え、催眠術にかけられた人のようであった。
「神さま」と、こわいばかりに、思わずつぶやいた。知らず識らず、十字をきっていた。
マーカムもまた、ショックをうけた。顎をきっと硬ばらしていた。
「君のいうとおりだ、ヴァンス」声は緊張して、不自然であった。「なにか妙な、恐ろしいことが、ここでおこなわれたのだね。……この町に悪人が野放しになっている。――狼《おおかみ》のような人間が」
「そうはいいたくないね」ヴァンスは殺されたスキールを点検するように見ていた。「実際、そうはいいたくないね。狼のような男じゃない。まさに死物狂いの人間だよ。きっと極端に追いつめられた男だ。――だが、まったく合理的で、論理的な男だ――ああ、なんというべらぼうな論理だろう」
第二十四章 逮捕
――九月十六、七日、日曜日の午後と月曜日の午前
スキールの死体の検案は、当局の手で、大々的な努力を払って、おこなわれた。警察医のドアマス博士は、すぐにやってきて、犯行は十時から真夜中までの間におこなわれたと断定した。すると、ヴァンスはオーデルと昔馴染みのあることのわかっていた連中に全部――マニックスも、リンドクイストも、クリーヴァも、スポッツウッドも、すぐに会見を申しこみ、この二時間の間、どこにいたのか、証明を求めなければならぬと、主張した。マーカムも躊躇せずに同意し、ヒースに命令すると、彼はすぐに四名の部下と一緒に仕事にとりかかった。
前夜、スキールを尾行していた刑事のマロリに、誰か訪問者はなかったかと質問してみたが、スキールの住んでいた家は、二十室のたえず出入りのはげしい下宿人が泊っていたから、この方面からはなんの情報も手に入れることはできなかった。マロリのはっきりといえたことは、スキールが十時ごろに帰ってきて、二度と家を出ていかなかったということだけだった。下宿の女主人は、悲劇にびっくりして、酔いもさめ、事件については一切知らぬと否認した。夕食をすましてから、自室に「病気」で寝ていたところを、翌朝になって、われわれがやってきて、その健康の快復の邪魔をしたのだと説明した。正面のドアは、下宿人がそんなものは不必要で不便だと抗議したから、鍵はけっしてかけないことにしてあったようだった。下宿人たちも訊問してみたが、なんの成果もなかった。たとえなにかを知っていたにしても、警察に知らせるようなことをしそうもない連中ばかりであった。
指紋技師は注意深く室内を調べてまわったが、スキールの指紋のほかには、なにひとつなかった。被害者の所有品を徹底的に調査するのに数時間もかかったが、加害者の身元を暗示するようなものは何も出てこなかった。全弾を装填《そうてん》した三十八口径のコルト自動拳銃がベッドの枕の下から発見され、一千百ドルという巨額の紙幣が真鍮《しんちゅう》のカーテン棒の筒穴から取り出された。また広間のゆるんだ床板の下から、行方のわからなかった刃のかけめのある鋼鉄製の鑿が発見された。しかし、こういうものは、スキールの死の謎を解くには、なんの役にもたたなかった。午後四時、部屋に南京錠をかけてしめ、見張りをたてた。
マーカム、ヴァンス、僕は、死体の発見後も、数時間残っていた。マーカムはすぐに事件を担当し、下宿人たちの訊問をおこなった。ヴァンスはいつになく熱心に警察の型どおりの活躍をみまもり、捜索に一役演じたりした。とくにスキールの夜会服には興味をもって、一つ一つ、ていねいに吟味していた。ヒースはときどき彼の方を眺めていたが、警部の眼つきには軽侮もみられなければ、興味もないようであった。
二時半に、マーカムは、その日のうちはスタイヴィサント・クラブにいると、ヒースにいい残して、出ていった。ヴァンスと僕も一緒についていった。僕らは誰もいないグリルで、遅い昼食をとった。
「このスキールの挿話は、どちらかというと、なにもかも根底から叩きこわしてしまったよ」マーカムは、コーヒーをのんでいるときに、がっかりしていった。
「いや、いや――そんなことはない」と、ヴァンスは答えた。「むしろ僕のかがやかしい理論の構成にまた新しい支柱を加えてくれたようなものだよ」
「君の理論――そうだな。これから頼りになるものといったら、君の理論だけかもしれないな」マーカムが嘆息をついた。「たしかに、けさは具体性をもったわけだ……スキールの出頭してこないというときに、次の手を予想したのは見事だった」
ふたたびヴァンスは彼のいうことを否認した。
「僕が弁論術でちょっとばかり山をはったことを過大に評価しているよ、マーカム君。ほら、僕は婦人の絞殺犯人が、スキールの君にした申し出を知ったんだ、と推定したのさ。あの申し出は、スキールの方からすれば、きっとある種の脅迫だったにちがいない。そうでなければ、会見を一日先に約束したりなんかはしないだろう。その間に、脅迫の相手が折れてくるだろうと希望していたことは疑いなしさ。カーテンの棒にかくしてあった大金から考えると、カナリヤの殺人犯人を強請《ゆす》り、昨日、君に電話する直前に、あれ以上の贈与を断られたと、十分に考えられるじゃないか。このことはまた、あいつが今度の犯罪について知っていることを、ずっと胸にたたみこんでおいたことをも、立派に説明しているね」
「そのとおりだろうよ。しかし、いまは、われわれにとって、前よりも一層まずいことになったわけだ。われわれを案内するはずのスキールさえも、なくなしてしまったのだからね」
「すくなくとも、われわれは、逃走中の犯人をして、第一の犯罪をかくすために、第二の犯罪をおこなわざるをえないようにしたのじゃないかね。そこで、カナリヤの多くの情人たちが、昨夜十時から十二時までの間に、なにをしていたかがわかれば、どういうふうに次の手を打たなければならぬか、なにかの示唆を得られようさ。――ところで、このぞっとするような情報はいつごろ手に入ることになるんだね」
「ヒースの部下がどういう幸運をつかんでくるかに、かかっているよ。万事うまくはこべば、今晩中にはね」
実際、八時半ごろになると、ヒースが電話で報告してきた。ここでもまたマーカムは空籤《からくじ》をひいたようにみえた。これほど満足のできない勘定書は、ほとんど想像もできないことであった。リンドクイスト博士は、前日の午後から「神経発作」にかかり、監督教会病院にはこびこまれていた。目下二人の有名な医者が治療にあたっており、その医者の言葉は疑う余地がなかった。すくなくとも一週間くらいしなければ、その仕事をつづけることはできないという見込みであった。この報告は四人のうちでただ一つ確定的なもので、この医者だけは前夜の犯行に関する可能性から、完全に取り除くことができた。
不思議な暗合からして、マニックスも、クリーヴァも、スポッツウッドも、ひとりとして満足なアリバイを提供することはできなかった。三人とも、その申し分によると、前夜から自宅にいた。天候は険悪であった。マニックスとスポッツウッドとは、夕刻早くから外出していたことは認めたが、十時前には帰っていたと述べた。マニックスはアパート式ホテルに住んでいて、土曜日の夜のことであったから、ロビーには人が一杯で、誰も彼が帰ってきたことは気がついたものがなさそうだ。クリーヴァはドア・ボーイも、広間のボーイもいない個人アパートに住んでいたから、その行動を認めるものはなかった。スポッツウッドはスタイヴィサント・クラブにいて、部屋は三階にあったが、めったにエレベーターを使わなかった。その上、前夜はクラブに政治的な招待会と舞踏会とがあり、誰にも見とめられずに、勝手に何回でも出入りすることができた。
「君の解明に役だつものは、なにもないね」と、ヴァンスは、マーカムからこの情報をきくと、いった。
「とにかく、リンドクイストだけは除外できるな」
「そのとおり。しかも自動的に、カナリヤの死についての嫌疑の対象からも除外できるよ。この二つの犯罪は全体の一部――同一問題の整数だからね。相互に補い合っているわけだ。後の事件は、前の事件に関連して、考え出された――実に、その論理的発生なんだ」
マーカムはうなずいた。
「いかにも、もっともなことだ。どっちみち僕には論争の段階をとおりこしている。しばらく君の理論の流れに身を浮かべて、どういうことになるかをみていたいものだ」
「われわれがむりに問題を押しすすめないと、積極的には何事も起こらないのではないかという不安な感じがして、僕はうんざりしているんだ。この二つの殺人をやった奴は実にほんとうにいい頭をもっているのさ」
話をしていると、スポッツウッドが部屋に入ってきて、誰かを捜すように、あたりを見まわした。マーカムを認めると、ききただしたいような、当惑した色を浮かべて、つかつかとやってきた。
「お邪魔して申しわけありません」ヴァンスと僕とにこやかに挨拶しながら、弁解した。「警官が、今日の午後、ここにみえて、私が昨夜どこにいたかと、おたずねになりました。妙な気がしましたが、今晩の『号外』の大見出しに、トニー・スキールの名前が出ていて、絞殺されたという記事を読んで、やっと、わかったような次第です。オーデル嬢に関係して、あの男のことをおたずねになったことを思いだし、ひょっとしたら、二つの殺人事件には関係があるのではないか、結局、私も事件にひきずりこまれるのではないかと、心配しております」
「いや、そういうことはありますまいと思います」と、マーカムがいった。「二つの犯罪が関連している可能性はありましょう。当局はなにかの手掛りが得られはしまいかと、順序として、オーデル嬢の昔馴染の方々に質問をしたのです。そのことはご放念ください。ただ」と、つけ加えて、「警官がなにか不快な、しつこいことはいたさなかったとは信じますが」
「そういうことはありません」スポッツウッドの心配そうな表情は消えた。「たいへん丁寧でしたが、ちょっと不思議に思われるくらいでした――あのスキールという男はどういう男なのですか」
「暗黒街の人物で、強盗の前科があります。オーデル嬢の急所をにぎっていて、金をしぼっていたものと思われます」
憤怒をこめた嫌悪の色がスポッツウッドの顔をとおりすぎた。
「ああなるのも当然の運命といった奴ですな」
われわれは十時までいろいろな問題を語りあっていたが、ついにヴァンスは立ちあがって、マーカムに非難するような顔をむけた。
「僕はすこし寝不足をとりかえしてこようと思う。どうも僕には気質的に警察官の生活はむかないようだね」
しかし、こういう不平を鳴らしたにもかかわらず、翌朝の九時になると、もう地方検事局に姿をみせていた。五、六枚新聞をもってきて、非常な興味で、スキール殺害事件の最初の完全な報道を読んでいた。月曜日は、一般的にいって、マーカムには忙しい日で、八時前には事務所にあらわれて、オーデル事件の捜査を続ける前に、急ぎのおきまりの問題を片づけようと懸命であった。ヒースも会議に出るために、十時にくることになっていた。しばらくは、ヴァンスには新聞を読むよりほかにすることはなく、僕も同じことであった。
正十時に、ヒースはついた。その様子からみて、なにかとてもうれしいことがあったのは明らかであった。いかにも快活な様子で、ヴァンスにたいする形式的な満足しきった挨拶も、勝利者が打ち負かした敵にたいするようなものであった。いつも以上の堅苦しさで、きちんとマーカムと握手をした。
「事件は解決しましたよ」と、いって、ちょっと休んで、葉巻に火をつけた。「ジェサップを逮捕しました」
この驚くべき報告につづく劇的沈黙を破ったのはヴァンスであった。
「なんだって、いったい、どうして?」
相手の口調にはすこしも驚かず、ヒースはゆっくりとむき直った。
「マーガレット・オーデルおよびトニー・スキールの殺害犯としてですよ」
「ああ、驚いた、これは驚いた!」ヴァンスはたちあがって、驚いてみつめた。「やさしい天使よ! 天《あま》くだって慰めてくれ!」
ヒースの得意な態度は動じなかった。
「私があの男について探査したことをおききになれば、天使もなにもいらなくなりますよ。いつでも陪審にまわせるように、しっかりと袋の中にしばりあげてあります」
マーカムの驚きの最初の波は静まった。
「話をきかせてくれたまえ、警部」
ヒースは椅子に身をおちつけると、ちょっと自分の考えを整理していた。
「かようであります。昨晩、私はよく考えてみたのです。スキールは密告すると約束しておいてから、オーデルと同じように殺されてしまった。きっと同一犯人が二人を絞殺したにちがいない。だから、ヴァンスさんがいつもいわれたように、月曜日の晩に、二人の奴があの部屋にいたにちがいない――気取り屋と殺人犯人とがいたにちがいない――と結論したのです。それから、二人はお互いによく知り合っていたにちがいないと考えたのです。というのは、犯人は気取り屋の住んでいるところを知っていたばかりでなく、気取り屋が昨日密告しようとしている事実にも通じていたにちがいないからです。私には、この二人がオーデルの仕事を一緒にしようと誘ったのではないかと思われるのです――これが、気取り屋がはじめに密告しなかった理由です。しかし犯人が勇気をなくして、宝石を捨てるようなことをしてから、スキールは警察側の証人になり、身の安全をはかろうと考えて、あなたに電話をしたというわけです」
警部はちょっと煙草をすった。
「私はマニックスや、クリーヴァや、医者には、たいして重きをおいてはおりません。ああいう仕事をやれるような人間ではないし、たしかにスキールのような監獄雀と一つになれるような人間でもありません。そこで三人をみな別にしておいて、腐った奴――スキールと共犯者になりそうな奴を捜しだしたのです。しかしはじめは、あなたのいわゆる事件の物理的障害――つまり犯罪を再構成するにあたっての大邪魔物は何かと考えてみようとしたのです」
ふたたびちょっとやすんだ。
「そこで、われわれをいちばん苦しめているのはあの裏口のドアです。六時以後にどうして錠をはずしたか? しかも犯罪後に、どうして錠をかけたか? スキールは十一時前にあそこから入ったにちがいない、スポッツウッドとオーデルとが劇場から帰ったときには、部屋の中にいたからです。クリーヴァが真夜中頃に部屋にきてからのちに、あそこから帰っていったからです。しかし、これでは、どうして内側から錠をかけたかは説明していません。そこで、私は、昨夜長いこと、このことを研究してみました。それからあの家に出かけていき、もう一度ドアを調べてみました。若いスパイヴリが交換台にいましたから、ジェサップはどこにいるかときいてみました。少しきいてみたいことがあったからです。ところが、スパイヴリは、前日、つまり土曜日の午後、仕事をやめたというのです」
ヒースはこの事実を心にとめさせるように言葉をきった。
「私が下町に帰りかけていると、ふと、この考えが浮かんだのです。すると突然に思いついたのです、事件の全貌がはっきりとしてきました。――マーカムさん、ジェサップのほかに、誰が裏口の錠をあけたり、またかけたりできましょう――誰にもできません。どうぞよく考えてみてください。――もうすかりおわかりになったろうと思いますが、スキールにはできっこない。しかも誰もほかにはできません」
マーカムは興味をひかれて、身体をのりだした。
「この考えが浮かんでから」と、ヒースは語りつづけた。「私は機会を逃すまいと決心して、ベン停車場で地下鉄をおり、スパイヴリに電話して、ジェサップの住所をききました。すると、最初の良いニュースです。ジェサップはスキールの家からの曲り角のすぐの第二番街に住んでいたんです! 所轄警察署から二人の部下をかりて、家に出かけていきました。デトロイトに飛ぼうとして、荷物をつくっているところでした。すぐにつかまえて、指紋をとり、デュボイスに送りました。こうすれば、あいつについての情報が手に入ると思いました。悪者は、一般に、カナリヤ殺しというような、でっかい仕事を、初手からやるもんじゃありませんからね」
ヒースは思いきって満足そうに笑った。
「ところで、デュボイスがすっかり洗ってくれました。あいつの名はけっしてジェサップじゃありません。ウィリアムの方は正しいんですが、ほんとうの姓はベントンです。一九〇九年に、オークランドで脅迫暴行罪を犯し、サン・クェンティン刑務所に一年服役したのです。ちょうどスキールもそこに入獄中でした。一九一四年には、ブルックリンで銀行強盗の張り番をして、また捕えられましたが、裁判にはかかりませんでした。――警視庁に指紋があるのはこうしたわけです。昨晩、拷問してみますと、ブルックリンの犯行後、名前をかえて、軍隊に入っていたと自白しました。以上がわれわれの入手できた全部ですが、これ以上の必要はありますまい。――さて、これだけの事実があります。つまりジェサップは脅迫暴行罪で服役した。銀行強盗にも片棒かついだ。スキールはその同囚の一人である。スキールの殺された土曜日の晩にはアリバイがなく、すぐ近くの曲り角の辺に住んでいた。土曜日の晩に急に仕事をやめた。頑丈で、力が強く、らくにあれくらいの仕事はやれる。逮捕にいったときには、高跳びの準備中であった。|しかもです《ヽヽヽヽヽ》、――月曜日の晩に、裏口のドアの錠をはずしたり、かけたりできる唯一の人物です。……これが事件の真相じゃないでしょうか、マーカムさん」
マーカムはしばらく考えこんでいた。
「それまではなかなか見事なようだね」と、ゆっくりいった。「しかし娘を絞殺した動機はなんだろうね」
「それは簡単です。そこのヴァンスさんが第一日に示唆してくれました。ほら、オーデルにたいする感情を、ジェサップにおききになったでしょう。すると、ジェサップは赤くなって、そわそわとしましたね」
「ああ、なんということだ」と、ヴァンスは叫んだ。「こういう無価値きわまる狂気沙汰に、僕が若干の責任をもたされようとはね。……実際、僕はあの男の婦人にたいする感情を掘りだしてみましたよ。しかし、あれはなにもわからない前のことでした。僕は用心してやってみた――犯罪のおこるあらゆる可能性を調べてみようとしただけです」
「そうです。あれはあなたとしては運のよい質問でしたよ」ヒースはマーカムの方をむいた。「私はこう思います。ジェサップはオーデルにあたってみたのです、すると、女はそこらをうろついて、新聞でも売るのが、おまえの関の山だといったもんです。それですっかり気色をこわして、毎晩、あそこに坐って、女を訪ねてくる、ああいう連中を眺めていたものです。そこへ、スキールがやってきて、ジェサップだとわかると、オーデルの部屋を掠奪しようじゃないかともちかけたんです。スキールは助手がいなくてはあの仕事はできない。往復の都度、電話交換手のところを通らなければならないからです。それに前にいったこともあるから、顔を知られていた。ジェサップの方は、オーデルに復讐をし、他の男に罪をきせる好機だと思ったんです。そこで二人は月曜日の晩の仕事の手筈をきめました。オーデルが出ていくと、ジェサップは裏口の錠をはずし、気取り屋は自分の合い鍵で部屋に入っている。すると、オーデルとスポッツウッドとが思いがけもなく帰ってくる。スキールは衣裳部屋の中にかくれ、スポッツウッドが出ていってから、ひょんなことで、音を立てたので、オーデルがびっくりして悲鳴をあげたのでしょう。外に出ると、女には誰だかわかったから、スポッツウッドにはまちがいだったという。ジェサップは、それでスキールが見つかったと知って、この事実を利用しようと決心する。スポッツウッドが出てしまうとすぐに、合い鍵で部屋に入っていく。スキールは、誰かほかの者がきたかと思い、また衣裳部屋の中にかくれてしまう。すると、ジェサップは女をつかまえて、首を絞める。スキールにその罪を負わせるつもりなのです。ところが、スキールは隠れ場所から出てきたので、二人で話し合いをする。ついに、二人は約束ができ、はじめの計画どおりに、部屋の中を物色する。ジェサップは火掻きでもって宝石箱をあけようとし、スキールは鑿で仕事をやりとげて、二人は部屋を出ていく。スキールは裏口から出る、ジェサップはまた錠をおろす。翌日、スキールはジェサップに盗品を手渡し、ほとぼりがさめるまでは預っておいてくれという。ジェサップはこわくなり、中途で捨ててしまう。それで、二人は喧嘩をする。スキールはみなしゃべってしまおうと決心する。そうすれば、自分は拘束をまぬがれられる。ジェサップは、相手が密告しようとしていると気がついて、土曜日の夜、奴の家のまわりをうろつき、オーデルにやったと同じように、首をしめる。こういうわけです」
ヒースは終ったという身ぶりをして、椅子に深く腰を沈めた。
「いい頭だ――べらぼうにいい頭だ」と、ヴァンスはつぶやいた。「警部、さきほどはちょっと怒鳴ったりして、すまなかったよ。君の論理は非難の余地もないほどりっぱです。あの犯罪を見事に再構成している。君は事件を解決された。……あっぱれだよ――じつにあっぱれだよ。けれども、まちがっていますね」
「ジェサップ氏を電気椅子に送りこむには、十分なもんです」
「それが論理の恐ろしさなんです」と、ヴァンスはいった。「論理というものは、しばしばいやおうなしに虚偽の結論に導くこともできるものですよ」
立ちあがって、両手を上衣のポケットに入れたまま、部屋を歩いていき、もどってきた。ヒースの前までくると、たちどまった。
「ねえ、警部、誰か他の人が裏口の錠をはずし、犯罪をしてから、またかけたとすれば、あなたのジェサップにたいする容疑は薄れたものになると、よろこんでお認めになるでしょうね――え、どうです」
ヒースは寛大な気持になっていた。
「たしかにね。誰か他の人がやったということをみせて下さい。そうすれば、私がまちがっているかもしれないと認めましょう」
「スキールにだってやれたんですよ、警部。しかも、誰にも知られずに――あの男がやったのですよ」
「スキールが!――これはまた摩訶不思議《まかふしぎ》の時代じゃありませんか、ヴァンスさん」
ヴァンスはぐるっとまわって、マーカムにむかいあった。
「きいてくれたまえ、僕はジェサップは無実だと思うんだよ」僕を驚かすほど熱心に話した。「しかも君に証明してみせようと思う――なんとかね。僕の理論はかなり完成している。一、二、小さな点だけ足りないところがある。白状すると、まだ犯人を名ざすことはできない。しかし正しい理論なんだ、マーカム。警部の理論とは正反対なんだ。だから、ジェサップにたいして起訴の手続きをとるまえに、僕に証明する機会を与えてほしいんだ。ところで、ここでは証明するわけにいかないから、君とヒースとは、僕と一緒にオーデルの家までいってもらわなければならんよ。一時間以上はかかるまい。しかし一週間かかるにしても、君も同じ結論に達するにちがいないんだ」
彼はさらに机のそばに歩みよった。
「犯行前に、ドアの錠をはずし、後でかけたのはスキールであって、ジェサップではないということは、僕は知っているんだ」
マーカムは動かされた。
「君が知っている――事実として、知っているんだね」
「そうだよ! どういうふうに奴がやったかも、わかってるんだ」
第二十五章 ヴァンスの証明
――九月十七日、月曜日、午前十一時三十分
三十分ほどして、われわれは七十一番街の例のアパートに入った。ジェサップを犯人にするヒースの見解はいかにももっともらしかったが、マーカムはこの逮捕にまったく満足しているわけではなかった。ヴァンスの態度が、その心に、さらに多くの疑惑の種をまいていた。ジェサップに嫌疑をかける最も優力な点は、裏口の錠の開閉に関するものであり、スキールが自分でその出入りを巧妙にやってのけた手口を証明できるとヴァンスが明言したときに、マーカムは半信半疑のうちに、一緒についていくことに同意した。ヒースもまた、興味をもち、横柄ではあったが、喜んで一緒にいこうと同意した。
スパイヴリは、チョコレート色の服をちらちらさせながら、交換台に坐っていて、われわれを不安そうなようすで、じっとみていた。しかし、ヴァンスが、十分ばかりこの区画を散歩してきたまえと、愉快そうに提議すると、ほっとした様子で、すぐに挨拶をして出ていった。
オーデルの部屋の外で張り番中の警官が出てきて、挨拶をした。
「どういう具合だ」と、ヒースはきいた。「誰か訪問者は」
「たった一名です――カナリヤを知っているといい、部屋をみせてほしいといった上流紳士です。私はあなた、つまり地方検事殿からの許可書をもらってこいと、話しました」
「それでいいんだ」と、マーカムがいった。それからヴァンスにむかって、「きっとスポッツウッドだ――かわいそうな奴だ」
「まったくだね」と、ヴァンスはつぶやいた。「なかなかのご執心だね。ローズマリ〔追憶の花言葉〕といったところだ……いたましいことだ」
ヒースは、三十分ばかり散歩してこいと、警官に告げ、われわれだけが残った。
「ところで、警部」と、ヴァンスは愉快そうにいった。「あなたはきっと交換台の扱い方をご存じでしょう。おそれいりますが、ひとつスパイヴリの代役を、しばらくの間、やってみてくれませんか。――なかなかうまい人がいたものです……しかし、はじめに裏口をしめておいてください――あの運命の晩のように、しっかりと、あなたが錠をおろしておいてください」
ヒースは善良そうに笑った。
「承知しました」神秘めかして、唇に人差し指をあて、道化芝居のおどけ探偵のように、身体をまげ、爪先で廊下を歩いていった。しばらくすると、交換台のところまで、やはり指を唇にあてたまま、爪先で、もどってきた。それから大きな丸い眼で、あたりをそっとみるように眺め、ヴァンスの耳もとで、ささやいた。
「しっ! ドアには錠をおろしましたよ。グルルルと……」それから交換台に坐った。「いつ幕があがりますか、ヴァンスさん」
「幕はあいていますよ、警部」ヴァンスはヒースのおどけた気分に調子をあわせた。「よいですか! 時は月曜日の夜の九時半です。あんたはスパイヴリ――それほど美男じゃないし、口髭を忘れているが――とにかく、スパイヴリです。そこで僕はけばけばとめかしこんだスキール。リアリズムでいくために、革手袋をはめ、襞《ひだ》のついた絹シャツをきているものと想像してくださいよ。マーカム氏と、ヴァン・ダイン氏とは『地獄の多頭の怪物』〔ポープの言葉〕というわけですよ――さてと、警部、オーデルの部屋の鍵を貸してください。スキールは一つもっていたわけですからね」
ヒースは鍵をだし、相かわらず笑いながら、手渡した。
「舞台監督の言葉ですよ」と、ヴァンスはつづけた。「僕が玄関から出ていってから、正確に三分待って、それから故カナリヤの部屋のドアをノックする」
玄関の方にぶらぶらと歩いていって、向きをかえると、交換台の方にもどってきた。マーカムと僕とは、ヒースの背後の壁の小さな窪みのところに立っていた。
「スキール氏登場」と、ヴァンスがいった。「九時半過ぎということを忘れないで」それから、交換台の横にくると、「ぶちこわしですよ! あんたは科白《せりふ》を忘れていますよ、警部。オーデル嬢はお留守ですよ、というんです。しかし、かまわない。……スキール氏は婦人のドアまでいく……こういうふうに」
われわれのところを通りすぎて、部屋のベルを鳴らすのがきこえた。しばらくすると、ドアをノックした。それから廊下をもどってきた。
「君のいうとおりだよ」彼は、スパイヴリの報告したスキールの言葉を引いていい、玄関にむかって出ていった。街路に出ると、ブロードウェーの方にむいて、消えていった。
正確に三分間待った。誰も口をきくものはなかった。ヒースは真面目になり、プップッと煙を吐き出しているので、期待している気持がよくわかった。マーカムは疑わしそうに顔をしかめていた。三分がたつと、ヒースは立ちあがって、急いで廊下を走り、マーカムと僕とが後からつづいた。ノックに答えて、部屋のドアが内側から開いた。ヴァンスは小さな休憩室に立っていた。
「第一幕の終り」と、愉快そうに挨拶した。「こうして、スキール氏は、月曜の夜、裏口に錠がおりてから、交換手に見とがめられずに、婦人の部屋に入ったのです」
ヒースは眼を細くしたが、なにもいわなかった。それから、急にぐるっと身体をまわして、裏の通路の奥のドアを見た。錠のつまみは垂直な位置にあり、押えがあいていて、ドアの錠がはずれていることを示していた。ヒースはしばらくみていたが、やがて交換台の方に向いた。すると、上気嫌に、ほお、と叫んだ。
「なるほど、ヴァンスさん、上出来だ」頭をふって、わかっているというように、うなずいていった。「いかにも簡単なことだ。しかも証明をするにも、心理学なんかのいらないことじゃないですか――部屋のベルを鳴らしておいてから、この背後の廊下を走っていって、ドアの錠をはずしたんでしょう。それから走りもどって、ノックをした。そして玄関から出て、ブロードウェーのほうに向い、街路をまわって、通路を通って、裏口にきて、われわれの背後から、そっと部屋に入ったんでしょう」
「簡単でしょう」と、ヴァンスも同意した。
「たしかにそうです」と、警部は軽蔑に近いものを現わした。「しかし、これだけではなんにもなりませんぞ。これが月曜日の夜の仕事と関係した、唯一つの問題であるとしたら、誰にだって考えつくことでしょう。しかしスキールが出ていった後で、裏口の錠がかかっていた、これが私の心を占めている問題です。――スキールは、あなたのようにして入れたかもしれない――いいですか、入れた|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》のですよ。しかし、ここからは出られなかった、ドアが翌朝錠がおりていたからです。ここの誰かが、出ていった後から、錠をかけたとすれば、九時半に自分でドアの錠をはずすために、裏廊下を十歩ばかりかけないでも、もっと早く、その男が錠をあけてやれます。だから、あなたの興味のある寸劇も、ジェサップを助けることにはならぬと思いますよ」
「おお、しかし、劇はまだ終ってはいません」と、ヴァンスは答えた。「第二幕がいま開こうとしているところですよ」
ヒースは鋭く眼をあげた。
「えっ!」その口調は嘲笑するような、信じられぬというひびきをもっていた。しかし、その表情はさぐるような、疑いのかげがあった。「それでは、スキールが出ていって、ジェサップの助けを借りずに、どうやって内側からドアに錠をかけたかを、やってみせるというのですか?」
「まさにそのとおりにやってみるつもりですよ、警部」
ヒースは話そうとして口をあけたが、思いなおした。その代りに、ただ肩をすくめて、マーカムの方にばからしいといった表情をした。
「観覧席を模様替えするとしましょう」と、ヴァンスはすすめて、われわれを交換台と直線上の反対側にある、小さな応接室に案内した。この部屋は、すでに説明したように、階段の真下にあって、その背後の壁にそって、裏口へ通ずる狭い廊下があった。
ヴァンスはもっともらしくわれわれに椅子をすすめ、警部に眼くばせをした。
「おそれいりますが、裏口にノックの音がきこえるまで、あなたはここにいて下さるでしょうね。ノックがしたら、やってきて、開けてくださいよ。もう一度出ていくスキール氏に扮《ふん》します。そこで、ふたたび礼装した――ぴかぴかした服をきているものと、ご想像下さい……幕があきます」
お辞儀《じぎ》をすると、応接室から大廊下に出て、裏廊下へ角をまがって、消えた。
ヒースはたえず身体を動かし、マーカムに質問するように、当惑した顔をむけていた。
「やってのけるでしょうね、どうです」冗談らしさはその口調から消えていた。
「どうだかわからんさ」マーカムは不興げに顔をしかめた。「しかし、もしやれれば、君のジェサップ有罪諭の重要な根拠はとんでしまうね」
「私は別に悲しみません」と、ヒースはいった。「ヴァンスさんはいろいろなことをご存じだし、良い考えをおもちですよ。しかし、いったいどうして――」
裏口のドアを高く叩く音にさえぎられた。われわれ三人は同時にとびあがって、いそいで大廊下の角をまわった。裏廊下には誰もいなかった。二つの白い壁だけがあり、突き当りに、幅一杯に、樫のドアが裏庭に通じていた。ヴァンスは樫のドアを通るほか、外に出ることはできなかった。しかも、われわれがみなすぐに気がついたことは――われわれの眼はすぐにそれを捜したからだ――錠のつまみの位置が水平になっていた。これは錠がかかっているということだ。
ヒースは驚いたばかりでなく――唖然とした。マーカムは急にたちどまって、幽霊でもみたかのように、人のいない廊下をじっと見おろしていた。一瞬ためらってから、ヒースはす早くドアのところに歩みよった。しかし、すぐにはあけなかった。錠の前に膝まずいて、注意深く錠を点検した。それから、ナイフをとりだして、ドアと框《かまち》との間の割れ目に刃をさしいれた。刃尖は内部の刳形《くりがた》でつきとまり、刃の先は円い錠の上をすべりおちた。ドアの重い樫の框と刳形とはしっくりと、ぴたっとはまっており、錠がしっかりと内側からとまっていることは問題なかった。しかしヒースはなお疑わしそうに、ドアの把手をつかみ、激しく力をこめて、がたがたいわせてみたが、ドアはびくともしなかった。ついに錠のつまみを垂直にたてて、ドアを開いた。ヴァンスは裏庭に立って、小路の壁の煉瓦をみながら、静かに煙草をくゆらしていた。
「ねえ、マーカム」と、いった。「ここに妙なものがある。この壁はね、大変に古いものにちがいない。今日のような、息づまる能率時代たてたものではない。これをたてた美を愛する石工は、今日の不眠不休時代の速成式――または張込み式――の積み方ではなくて、フランドル式のつみ方で煉瓦をおいてある。それから上の辺は」――と、裏庭の方を指でさして、「――オール受式とチェス盤式の型である。きわめてしっくりとして美しい――卑俗なイギリス式の十字畳式よりは、十分にたのしめる。それにモルタルの継ぎ目はすべてV字型に細工がしてある……こりゃおもしろいね」
マーカムは煙草をくゆらしていた。
「やめたまえ、ヴァンス。僕は煉瓦壁を作っているんじゃない。知りたいことは、君がどうしてここから出ていって、内側からドアに錠をおろしたかということだ」
「ああ、そのことか」ヴァンスは煙草をすりつぶして、建物にまた入った。「僕はほんのちょっと悧巧な犯罪のメカニズムをつかっただけだ。あらゆるほんとの便利な品物と同じに、きわめて簡単なものだ――ああ、言語に絶した簡単ささ。あまり簡単なのでお恥しいくらいだ……みていたまえ!」
先端に四フィートばかりの長さの紫色の丈夫な細紐をむすんだ、小さな毛抜きを、ポケットからとりだした。毛抜きを垂直の錠のつまみにはさみ、左にちょっとまわして、ドアの下に細紐をとおすと、敷居から一フィートばかりはみ出た。裏庭に出ると、ドアをしめた毛抜きは万力のように錠のつまみをおさえ、紐がまっすぐ床にのび、ドアの下から中庭に消えていた。三人は魅せられたような注意をもって、錠をみつめて立っていた。ヴァンスが外でしずかにゆるんだ紐の端をひくにつれて、紐はゆっくりとぴんと張り、下の方にひかれるにつれて、ゆっくりと堅実に錠のつまみがまわりはじめた。錠がかかり、つまみの位置が水平になると、紐は軽くぴくぴくとした。毛抜きは錠のつまみを離れて、床の絨毯《じゅうたん》の上に音もなく落ちた。それから、紐が外からひきずられるにつれて、毛抜きはドアの下辺と敷居との隙間から、するすると消えていった。
「児戯《じぎ》ですな」ヴァンスは、ヒースがまた中に入れてくれると、註釈した。「ばからしくもあるね。しかも、警部、これが亡くなったトニーが先週の月曜日の晩に、この家から出ていった方法なのですよ……しかしまあ、ご婦人部屋に入りましょう。スパイヴリ氏も散歩から帰ってきたようです。だから、電話の方の仕事はひきうけてくれます。われわれは自由におしゃべりをしようじゃないですか」
「毛抜きと細紐とを使う手品は、いったい、いつ考えついたんだね」われわれがオーデルの居間に坐ると、マーカムはいらだたしそうにきいた。
「僕が自分で考えついたわけじゃないんだ」ヴァンスはなにげなくいって、見ている方がいらだつほどゆっくりと、煙草をえらんだ。「これはスキール氏の考案だよ。器用な奴だ――え、そうじゃないですか?」
「おい、おい」マーカムの平静さはとうとうくずれた。「スキールが、こういう錠のしめ方をつかったことを、どうして君は知ったんだね」
「昨日の朝さ、この道具を、奴の夜会服から、見つけたのさ」
「なんですって!」と、ヒースは大声に叫んだ。「あんたはスキールの部屋から、昨日、捜査中に、もち出しておいて、一言もいわなかったんですか」
「ああ、あなたの探偵諸君が捜査をすませてからですよ。実際、あなた方の経験に富んだ捜査官諸君が点検して、衣裳棚にしまうまでは、あの紳士の着物などには、僕は眼もくれませんでしたからね。ねえ、警部、この小さななんとかいうものは、スキールの服のチョッキのポケットの一つに、銀のシガレット・ケースの下に、おしこんであったんですよ。僕はむしろ愛情をもって、その夜会服を一つ一つ調べてみたというわけです。ご承知のように、あの婦人が、この世を去られた夜、きていたものです。なにか事件の手助けをしたほんのちょっとした証拠でもありはしないかと思ったのです。このちっちゃな眉毛の毛抜きを見つけたときには、なんだかちっともわかりませんでした。しかも、これについている紫色の細紐には、ずいぶん僕もこまったもんですよ。スキール氏が眉毛を抜こうとは思いませんし、かりに常用していたにしても、細紐は一体どういうわけでしょうか? 毛抜きは精巧な小さな金属製品だし――ふと、人をとろかすようなマーガレットが使っていたもんじゃないかと思ったんです。先週の火曜日の朝、化粧台の上の宝石箱の傍に、同じような化粧具をいれた小さなラッカー塗の盆があったと、思いだした――しかし、これだけではないのです」
写字台の側にある、大量の皺くちゃになった厚い紙の入った、小さなベラムの紙屑箱を指でさした。
「僕はまた有名な五番街の小間物屋の商号が、あのもみくちゃの包み紙に、ついているのに気がついたのです。今朝、下町へ行く途中で、その店にたちよって、紫色の細紐で、買物をゆわえているところを、みました。それで、スキールは、あの事件の晩に、この部屋にきたときに、この毛抜きと細紐とをもって帰ったんだと結論したわけです。……さて、問題はだね、どういうわけで、眉毛抜きに紐をゆわえるなんて、手数をかけたのだろうか、という点にきたのです。乙女のようなつつしみをもって白状すれば、僕には答えがみつからなかったのです。しかし、今朝、あなたがジェサップをつかまえたといい、スキールの出た後で裏口の錠をおろしたことを強調したもんだから、おかげで、僕の頭の霧は晴れ、太陽が輝きわたり、小鳥がさえずりだしたのです。僕は急に霊媒者《れいばいしゃ》になり、天啓にとらわれたのです。全体のやり口が、ふっと、わかったんです――いわゆる一閃ですね。……君にいっておくがね、マーカム、この事件を解決するためには、心霊術がいるようだよ」
第二十六章 犯罪の再構成
――九月十七日、月曜日、正午
ヴァンスが話しおわると、五、六分間、沈黙がつづいた。マーカムは椅子に腰を深く落して、じっと空を睨んでいた。しかしヒースはいまいましげな感嘆の念をもって、ヴァンスを見まもっていた。ジェサップを犯人にする事件の礎石となる大事な要石《かなめいし》が叩きだされ、全建築がぐらぐらとゆれ動いてしまった。マーカムはそれを心得ていた。事実がその希望をすっかりこわしてしまったのだ。
「君の霊感がもっと役にたつものだとよかったのにね」と、ぶつぶついいながら、ヴァンスの方に視線をうつした。「君の霊感がもたらした最新の天啓は、なんのことはない、われわれを、いわば出発点にひきもどしてしまったようなものじゃないかね」
「いや、そう悲観するにはおよばないさ。明るい眼をもって、未来に向おうじゃないか。……僕の理論をおききになりたいですかね――かなり可能性のあるものだよ」ゆっくりと椅子の中で腰をかけなおした。「スキールは金を必要としていた――もちろん、あいつの絹シャツは大分まいりかけていた――そこで、婦人の亡くなる一週間ほど前、女から強請《ゆす》って金を手に入れようとして、見事に失敗し、それで、先週の月曜日の夜に、ここにまたやってきたんだ。外出していると知っていたから、帰ってくるまで待っているつもりだった。きっと普通の社交的な方法では、面会を謝絶されるにきまっていたからさ。裏口は夜間は錠がおりていると知っていたし、部屋に入るところをみられたくはなかったので、九時半にわざと無駄な訪問をやっておいて、自分でドアの錠をはずすというちょっとした細工をやってのけたのさ。錠をはずしておいて、裏通りを通って帰り、十一時ちょっと前に、部屋の中に忍びこんだ。女が男に送られて帰ってくると、いそいで衣裳部屋に隠れ、男が立ち去るまで、そこに待っていた。それから、姿をあらわすと、女は急に男があらわれたのにびっくりして、悲鳴をあげた。けれども、相手が誰だかわかると、ドアをノックしているスポッツウッドには、まちがいですわ、と話した。そこでスポッツウッドは車を走らせ、ポーカーをやったのさ。ところで、スキールと女との間の金銭上の議論が――きっとかなり辛辣なやり合いになったと思うんだが――すぐにはじまった。その最中に電話がなり、スキールは受話器をはずし、カナリヤはいないと答えた。いさかいはつづいたけれど、そこへもう一人の求婚者が登場してきた。その男はベルを鳴らしたのか、鍵をもって入ってきたのか、はっきりとはいえないが、――きっと鍵をつかって入ったのだろう。電話交換手がこの男の訪問には気がついていないんだからね。スキールはふたたび衣裳部屋の中に身をひそめたが、幸いにも中から鍵をかける用心を忘れなかった。また、当然に、鍵穴に眼をあてて、この第二の侵入者は誰だろうかと、うかがってみていた」
ヴァンスは衣裳部屋のドアを指さした。
「鍵穴はね、ごらんのとおりに、寝椅子と一直線のところにある。スキールは部屋の中をのぞいてみて、血の気も凍るような光景をみたわけだ。新来者は、――きっと愛情をこめた口説きをやっている最中に――とつぜん、女の咽喉をつかまえて、絞めあげていったんだ……ねえ、マーカム君、スキールの気持を考えてやってみたまえ。暗い衣裳部屋の中に身をかがめているんだし、自分から五、六フィート先きのところで、殺人者が立って、婦人を絞殺しようとしていたんだよ。かわいそうなアントワーヌ! 言葉もなく、茫然自失したのはあたりまえだ。絞殺者の眼には狂気じみた憤怒が燃えているような気がしただろう。絞殺者はかなり腕力の強い奴であったにちがいない。スキールはといえば、普通より背の低い、ほっそりとしたやさ男だ。……いや、はや。スキールはなにももっていなかった。動かずにじっとしていた。それで、あの乞食《こじき》めをせめるわけにはいきますまい?」
質問するような身振りをした。
「それから絞殺者はなにをしたんだろうか? うん、そうさ、なにしろおじけのついた証人のスキールは、神の御許《みもと》に帰ってしまったんだから、われわれにはもうわかりっこはないだろうね。けれども、想像をたくましくしてみると、あの黒い書類箱を取りだして、女のハンドバッグからみつけた鍵であけ、かなり多数の犯罪のしるしとなる文書を抜きとった。それから狂気沙汰がはじまったんだと思うよ。紳士は専門の強盗の仕事にみせかけようとして、部屋中をかきまわしたのさ。女の夜会服からレースを裂きとったり、肩の紐《ひも》をひきちぎったり、蘭《らん》の花束をむしりとって、膝の上に投げすてたり、指輪や腕輪を抜きとったり、ペンダントを鎖からもぎとったりした。それから、スタンドをひっくりかえし、写字台をひっかきまわしたり、ブウル式の用箪笥を荒したり、鏡をこわしたり、椅子を倒したり、布地類を破いたりした。……スキールは、終始、鍵穴に眼をくっつけたまま、身動きするのもこわくて、見つけられて、元の情婦《イナモラタ》と同じ目にあわされはしまいかと、びくびくしながら、喰い入るように眺めていたのさ。いまとなってみれば、外にいる男は怒り狂った狂人にちがいないと、すっかり信じこむようになっていたからね。――僕は、このスキールの苦境をねたましいとは思わないね。きわどいところだったからね、ほんとにね――しかも暴行沙汰はつづいている。なにをやっているのか。目にはみえなくなっても、耳にはきこえてくる。しかもスキールはワナにかかった鼠と同じように、逃げる道もなかったのだ。絶体絶命という境地であったのさ――ほんとにね」
ヴァンスはちょっと煙草をすって、それからすこし位置をかえた。
「ねえ、マーカム。この謎の破壊者が、スキールのうずくまっている衣裳部屋のドアをあけようとしたときは、スキールの波乱にとんだ生涯のうちでも、危機一髪の時にあたっていたとは思わないかね。まったくだよ! スキールは窮地におしつめられたのさ。わずか二インチとは離れないところで、明らかに殺人狂ともみえる男が立って、あのホワイトパインの薄い板のバリケードをがたぴしさせているんだからね。……とうとう殺人者が把手を放して、遠ざかっていったときには、蘇生の思いにほっとしたのは想像にかたくあるまい。その反動で昏倒《こんとう》しなかったのが、むしろ不思議なくらいさ。けれども、昏倒はしなかった。侵入者が部屋から出ていくまで、まるで催眠術にかかったような恐怖に、耳をすまし、気をつけていた。それから、膝をびくびくとさせて冷汗を流しながら、外に出てきて、現場を見わたしたものだ」
ヴァンスはまわりを見まわした。
「たしかにいい眺めじゃないよ――ええ、どうだい。寝椅子の上には、婦人の絞殺死体がよりかかっている。この死体がスキールの一番の恐怖の的だった。よろよろと、テーブルのところまでいって眺め、右手でしっかりと自分の身体をささえた。――それで指紋が手に入ったというわけだよ、警部。それから、ふと自分の立場に気がついて、はっとした。被害者と一緒にいるのは自分一人だけじゃないか。女と親しくしていたことは周知のことだし、前科の記録をもっている。無罪だなどといいはっても、信じてくれるものは一人だってあるだろうか。きっと仕事をやっていた男を知ってはいたであろうが、この話ができるような立場にはなかった。どれもこれも不利なものばかりであった――こそこそと忍びこんでいること、九時半にこの家にいたこと、女との関係、職業、評判、どれも不利なものばかりだ。まったく助りっこはないね。……ねえ、マーカム、君だってスキールの話を信用するだろうか」
「ご心配なく」と、マーカムはいいかえした。「君の理論をつづけてくれたまえ」マーカムとヒースとは魅せられたようにききいっていた。
「ここから出発する僕の理論はだね」と、ヴァンスは要約した。「自転するといってもよいものさ。いわば、それ自身の内部動力で展開していくのだよ。――スキールはこの家から立ち去り、痕跡をくらますという緊急の問題に当面したわけだね。こんな非常事態にぶつかって、奴の頭は鋭くなり、いよいよ活溌に働きだした。もしうまくいかなければ、生命があぶなくなるからね。夢中になって思案をめぐらしはじめた。裏口から、人眼につかず、すぐにも抜けだすことはできたけれど、そうすると、ドアに錠の下りていないことがわかってしまうだろう。しかも、この事実は、夕方早目に訪問したことと結びついて、ドアの錠をはずした手口を、教えてしまうことになるだろう。……いや、こういう脱出法をとるわけにはいかない――断じてやるわけにはいかん。どんな場合にも、うしろ暗い女との関係からみて、またその一般的な性格からみて、殺人の嫌疑をうけるだろうと知っていた。動機、場所、機会、時間、手口、行為、前科――どの点からみても不利だ。痕跡をくらましてしまうか、それとも、道楽者のロザリオとしての生涯をとじるかしなければならない。たいしたディレンマだよ! もちろん、うまく脱出できて、裏口に内側から錠をおろしておきさえすれば、比較的に安全だとは悟っていた。そうすれば、どうして出入りしたか、誰にも説明ができないだろう。唯一の可能なアリバイを――たしかに消極的なものではあるがね――とにかく、つくることはできよう。きっと有能な弁護士をたのめば、これでおしとおすこともできよう。もちろん、他の脱出法をさがしてみたが、どれでも障碍《しょうがい》にぶつかることがわかった。裏口が唯一の望みであった。どういうふうにすれば、やれるだろうか」
ヴァンスは立ちあがって、あくびをした。
「これが僕の愛好している理論なのさ。スキールはワナにかかった、そのずるい奸智《かんち》にたけた頭で、逃げ道を考えたんだ。その計画を思いつくまでには、数時間、二つの部屋をあっちへいったり、こっちへいったり、ぶらつきまわっていた。時には『おお、神さま!』と神に祈ったりしたのは当然だ。毛抜きを使うということは、ほとんどすぐに浮かんできた考えだと思わざるをえない――ねえ、警部、ドアの外側から中の錠をかけるやりかたは昔からある手口さ。ヨーロッパの犯罪史をみれば、無数にその記録が残っている。実際、ハンス・グロス教授の『犯罪学便覧』にも、盗賊が不法に出入りするさいに使う手口に、一章をさいている。しかしこういう手口はすべてドアに鍵をかけるもので、錠をおろすものではないのさ。原則は、もちろん、一つではあるけれども、技術がちがっている。外から内側に鍵をかけるには、針か、強い細いピンかを鍵のバネからさしこみ、紐で下方にひっぱる。しかし、この家の裏口には、錠前も鍵もなければ、錠のつまみにバネもついていない。――そこで、さすがの機略縦横なスキールも、神経質になって歩きまわり、なにかよい暗示を与えてくれるものはないかと物色しながら、きっと女の化粧台にのっている毛抜きをさがしだし――今日ではこんな小さな眉毛抜きを使わない婦人はいないからね――とたんに、問題が解決できたというわけさ。この手口をやってみることだけが残っているわけだ。しかし出ていく前に、もう一人の男がへこませただけで投げだした宝石箱を鑿でちゃんとあけ、後で質に入れようとした、ただ一つのダイヤモンドの指輪をみつけだした。それから、思いつくままに、指紋をすっかり拭きとったが、衣裳部屋の内部のドアのつまみをふき忘れ、テーブルの上の手形を見逃してしまった。それからそっと外に出て、僕のやったように、裏口の錠をかけ、チョッキのポケットに毛抜きをしまって、その後始末を忘れてしまったのさ」
ヒースは権威ぶった合点をした。
「悪者は、どんなに悧巧な奴でも、きっとなにかを見おとしますからな」
「どうして悪者ばっかりを批評の相手にするんですか」と、ヴァンスはものうそうにきいた。「この不完全な世の中には、いつもなにひとつ見おとさないというものでもあるのですかね」ヒースにやさしい微笑をおくった。「警察だって、毛抜きを見おとしていたんじゃないですかね」
ヒースは唸った。葉巻が消えていたので、ゆっくりと、丁寧に火をつけた。
「どうお考えですか、マーカムさん」
「しかし、事情がはっきりしてきたというわけでもないね」これがマーカムの憂鬱な註釈であった。
「僕の理論はまったく目のくらむばかりの啓示とはいかないんだ」と、ヴァンスはいった。「しかし、物事を大昔の暗黒のままにほおってあるとは、いいたくないね。若干の推論が、僕の酔狂から、引きだされてくるのさ。すなわち、スキールは犯人を知っているか、認めている。うまくこの部屋から脱けだして、すこしばかり自信のほどをとりもどすと、きっと殺人犯人をゆすりにいったにちがいない。スキールが死んだというのは、|未知の男《ヽヽヽヽ》がただ自分を苦しめる男を除いてしまおうとする、二度目の表現にすぎなかったんだ。さらに、僕の理論は、鑿でこじあけられた宝石箱、指紋、荒されていなかった衣裳部屋、ゴミ箱の中の宝石の発見――これをとった男は欲しかったわけではないのさ、ね――それから、スキールの沈黙を、説明している。また裏口の錠をはずしたり、かけたりすることも、説明できるんじゃないかね」
「そうだよ」と、マーカムは嘆息をついた。「たった一つの重要な点を除いては、見事に説明しているよ。――犯人は誰かということを別にするとね」
「まさにそのとおりさ」と、ヴァンスはいった。「食事にいこうじゃないか」
ヒースは、気むずかしく途方にくれて、警視庁に帰っていった。マーカム、ヴァンス、僕は、デルモニコに車をとばした。ここでは、われわれはグリルではなくて、主に食堂を使っていた。
「事件はいよいよクリーヴァとマニックスとに集中してきたようだね」マーカムは昼食を終ると、いった。「スキールとカナリヤとの二人を殺した男が同一人物だという理論が正しいものだとすれば、リンドクイストは除外されるね。たしか、土曜日の晩は、監督教会病院にいたはずだからな」
「そのとおりさ」と、ヴァンスは同意した。「医者を除外することは疑いもないよ。そうだ、……クリーヴァとマニックス――興味のある二人だ。どうしたら、あの二人を追いこすことができるだろうね」顔をしかめて、コーヒーをすすった。「僕の初の四部合奏は小さくなったわけだが、どうも気に喰わないな。あまりに範囲をせばめすぎている。――二人のひとりを選びだすというのでは、いわば精神の活動する余地もありはしない。クリーヴァとマニックスとを除去できるとしたら、いったいどうなるんだろう。われわれはどこにいったらよいのだろう――えっ、なに、どこにもいけないさ――どこにもないんだ。しかも四部合奏の一人は有罪なのだ。しっかりと、この気やすめになる事実にすがりついていようじゃないか。スポッツウッドではありえない、リンドクイストではありえない、クリーヴァとマニックスとが残る。四から二引くは二さ。簡単な算術じゃないかね。唯一の難題は、この事件が簡単なものではないということだ。断じて、簡単ではない。代数や、立体|幾何学《きかがく》や、微分やをつかうとしたら、方程式はどういうことになるんだろう。第四次元に投げこんでみようじゃないか――それとも第五次元でも、第六次元でもいいわけだ……」両手をこめかみにあてた。「ねえ、約束してくれたまえ、マーカム。親切で、静かな看護人を僕のために雇ってやると、約束してくれたまえ」
「君の感じはよくわかるよ。私も、この一週間というものは、君と同じような精神状態だったよ」
「僕を狂気にかりたてているのは、あの四部合奏の観念さ」とヴァンスはうなった。「それが、こんなにも残酷に、僕の四価元素をもぎとろうと、僕を苦しめている。あの四部合奏に、僕の若々しい信頼する心をおいてきたのに、いまはたった一対《いっつい》になってしまった。僕の秩序感、比例感はすっかり荒らされてしまったよ。……僕の四部合奏がほしいな」
「君も、その二つで満足しなくちゃ、ならなくなるんじゃないかな」マーカムは疲れたように答えた。「一人は資格があわないし、一人はベッドにいる。病院に花でも送ってやるさ、それで君の心が慰められるならばね」
「一人はベッドにいる、――一人はベッドにいる」と、ヴァンスはくりかえした。「そうだ、――きっと! 四から一引く三残るだ。きわめて算術的だ。三と!……他方では、直線のようなものは、世の中になに一つない。すべての線が曲線なのだ。空間に円を描いている。直線にみえても、直線ではないんだ。外見は、そうだ――きわめて欺瞞的なものさ。……しばらく無言の行に入って、視覚のかわりに精神作用をもちいようじゃないか」
大きな窓から五番街を見上げていた。六、七分間、考え深そうに、煙草をふかして坐っていた。ふたたび話しはじめると、うってかわって平静な、慎重な声になっていた。
「マーカム、君のアパートに、マニックス、クリーヴァ、スポッツウッドの三人を一晩――できるなら、今晩――招待することはむつかしいことかね?」
マーカムはコップをカタカタいわせて下におき、ヴァンスをじっとみつめた。
「それはどういう新しい道化芝居なんだね」
「なんということだ! 僕の質問に答えてくれたまえ」
「さあ、もちろん、やろうと思えばやれるよ」と、マーカムはためらいながらも返事をした。「三人とも、どっちみち、目下は僕の司法権のもとにあるわけだ」
「そういう招待は、どっちかといえば、いまの情況と調和しているだろう――えっ、どうだ。君の招待を断ったりはしまいね――まさか」
「断るまい、僕にはとても断るとは思われないよ……」
「それで、君の部屋に皆が集ったとき、君がポーカーを二、三回やろうといったら、別に変にも思わず、きっと承知するだろうね?」
「きっとね」マーカムはヴァンスの驚くべき要請に困ったように、いった。「クリーヴァとスポッツウッドとは二人ともやることはわかっている。マニックスだって、きっとゲームを知っているよ。けれども、どうしてポーカーをやるのさ? 君は真面目なのかね。それとも、びっくりして、痴呆症《ディメンシア》にかかりかけているのかね」
「ああ、僕は糞まじめだよ」ヴァンスの口調は、いうとおりにちがいなかった。「ポーカーゲームはだね、問題の核心なのさ。クリーヴァはゲームに老練なことを知っているよ。スポッツウッドも、もちろん、先週の月曜日の晩に、レッドファン判事と勝負をしている。だから、僕は計画をたてたのさ。マニックスも、きっと、やるよ」
熱心に話をしながら、前にのりだした。
「ポーカーの十分の九はね、マーカム、心理学だよ。ゲームさえ知っておれば、漠然と一年間交際したのよりも、一時間もポーカーのテーブルについているだけで、人間の性質をよく見ぬくことができるんだよ。犯罪自身の要因を吟味すれば、どんな犯罪の犯人でも君をひき会わせることができると、いつかいったら、君はずいぶん怒ったね。しかし、君につれていくはずの男を、僕が知っていなければならないのは、当然だろう。そうでないと、犯罪の心理学的特性を、犯人の性質にむすびつけるわけにはいかんからね。今度の事件では、どういう種類の人間が犯罪をおこなったかは知っているが、犯人を指摘できるだけ十分に容疑者をはっきりと知っているわけじゃない。けれども、ポーカーをやれば、カナリヤ殺人事件を計画し、遂行した男を、君に話せるようになると思うよ」〔最近、僕は、シカゴ大学の人類学教室で、『我々が人類のように行為するのはどうしてか』の著者であるジョージ・A・ドルセイ博士の論文を走り読みしたが、これはこの理論の科学的正確性にたいする有力な証拠を提供している。ドルセイ博士はいう。「ポーカーは人生の横断面である。ある人間がポーカーでどのように行為するか、そのやり方がそのままその人の実生活のやり方である。……その成否は、肉体器官がゲームの与える刺激に適応する仕方にかかっている。……私は一生かかって人類学的、心理学的観点から人間性を研究してきた。私のせり上げに反応する相手の人間の動作を観察するほど、都合のよい実験室的操作を知らない。……心理学者のいう言語表現的、内臓的、手工的行動は、ポーカーのゲームに、最高の機能を発揮している。私はポーカーから人間について学んだといっても誇張ではない」という〕
マーカムはあからさまに驚きを現わしてヴァンスを見つめた。ヴァンスがポーカーには驚くべき達人であり、このゲームに含まれる心理学的要素について、十分な知識をもっていることは知っていたが、それで、オーデル殺人事件を解決できるという言葉は、まったく思いもかけないものであった。しかも、ヴァンスは、マーカムに深い感銘を与えたほど、確信のある熱心さをもって、話していた。僕には、言葉に出していったと同じほど、マーカムの心に往来している考えがわかった。ヴァンスが、前回の殺人事件で、同じような心理学的演繹方法をつかって、犯人をまちがいなくあてたやり方を、思いだしていたのだ。また、ヴァンスの要求がどんなに不可解で、外見上ばかげてみえても、その背後には、根本的に確乎とした理由があることは、心のうちではわかっていた。
「ばかばかしい!」と、ついにブツブツつぶやいた。「全部の計画が、まるで白痴のようだぜ……しかも、ほんとにあの連中とポーカーをやりたければ、僕は別に文句はいわないよ。しかしなんの役にもたちはしないよ――前もってことわっておくがね。そんな空想的な方法で、犯人が捜し出せると思うなんて、まったくばかげきっているよ」
「ああ、いいとも」と、ヴァンスは溜息をついた。「無駄な気休めであったにしても、なんの害にもなりはしないさ」
「しかし、どうしてスポッツウッドを加えるのかね」
「ほんとはね、僕にはなんの考えもないのさ。――もちろん、僕の四部合奏の一人だという以外にはね。僕たちにはエキストラもいるんだよ」
「よろしい、後になって、殺人犯として、あの男を逮捕しろとはいわないことだね。一線をひいておかなければいけないよ。君のような素人には妙にみえるかもしれないが、物理的に犯罪をおこなうことができないとわかっているのだから、起訴するつもりはないんだ」
「その点についていえば」と、ヴァンスはものうそうにいった。「物理的に不可能だということの唯一の障害は物理的事実なのだ。しかも、物理的事実というものは人を欺きやすいものだ。実際ね、君たち法律家がそういう事実を完全に無視できたら、もっと手際よくやれるんだろうがね」
マーカムはこんな異端の説には別に答えようともしなかったが、ヴァンスを眺めている眼つきには、それがよく現われていた。
第二十七章 ポーカー・ゲーム
――九月十七日、月曜日、午後九時
ヴァンスと僕とは、昼食の後、家に帰った。マーカムからは四時頃に電話がかかってきて、その晩のために、スポッツウッド、マニックス、クリーヴァと、必要な準備ができたといった。この確認をきくとすぐに、ヴァンスは家を出て、ほぼ八時頃まで、帰ってこなかった。僕はこの異常なやり方に好奇心を燃やしたが、彼はなにも教えてくれなかった。しかし九時十五分前になって、階下に待っている車に乗ると、後部座席に、僕の知らない男がのっていた。すぐに、この男こそ、ヴァンスの不思議な留守に、関係があるとわかった。
「今晩、アレン君に、ご一緒願うことにしたんだよ」二人を紹介して、ヴァンスは答えた。「君はポーカーをやらないだろう。僕たちには、ゲームを面白くするために、もう一人の手が必要なんだ。それには、アレン君が、僕の昔からの好敵手なんだよ」
明らかに許可もなく、ヴァンスが、マーカムの部屋に招かざる客をつれていくという事実には、この男の現われたこと以上に、僕は驚かざるをえなかった。その男はどちらかといえば背が低く、鋭い、抜け目のない顔つきをしていた。ハイカラに横かぶりにかぶった帽子の下からは、日本人形の染めた髪のように、黒い艶《つや》のある髪がみえていた。僕はまた、イヴニング・タイに小さな白い勿忘草《わすれなぐさ》の模様がついており、ワイシャツの前にダイヤモンドのピンでとめてあるのに、気がついた。
この男と、一点の非の打ちどころもないお洒落《しゃれ》で、細心なまでに端正なヴァンスとの対照というものは、きわめて目だつものがあった。僕は、二人の間にはどんな関係があるのだろうかと、不思議に思った。社交的なものではないし、知的なものでもないことは、明らかであった。
われわれがマーカムの応接間に顔を出すと、クリーヴァとマニックスとはもう先にきていたし、数分おくれて、スポッツウッドもやってきた。気持よく紹介がすむと、われわれはすぐに薪をたく煖炉の側にらくに坐り、煙草をふかしたり、上等のスコッチのハイ・ボールをちびりちびりとなめていた。マーカムが、思わぬアレン氏の出現を、鄭重に迎えたのはもちろんのことであったが、ときどきアレン氏の方にそそぐ眼付には、この男の外見と、ヴァンスの後援との間には、どうも調和のとれないものがある、とみているように思われた。
この小さな集会の見せかけの気どった親しさのかげには、一つの緊張した空気があった。実際、この場の情況はとうてい自発的にふるまえるようなものではなかった。ここにいる三人の男は、お互いに共通の婦人に関心をもっていたことを、知っていた。三人が一緒に招待されたという理由は、その婦人が殺されたという事実によるものであった。けれども、マーカムは、お互いに抽象的問題を論ずるために集っている、利害のない傍観者たちであるという感じを、めいめいにもたせるように、上手にとりつくろって、その場をりっぱにきりぬけていった。はじめに、殺人事件の手がかりをみつけるのに、すっかり失敗したものだから、この「会議」を開く気になったのだと説明した。いっさいの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》や無理強いをぬきにして、純然たる非公式な討議によって、効果のある捜査の線がでてくるような、なにかの暗示が、すこしでも教えていただければ幸いなのだと、述べた。その様子は、友情といったものに訴えるようなものがあり、話が終ってみると、目にみえて、一座の緊張はゆるんでいた。
これにつづく討議の間、僕は関係者のさまざまな態度を興味をもって眺めていた。クリーヴァはにがにがしげに事件における自分の役割を語り、暗示をするというよりも、自らを責めていた。マニックスは滔々《とうとう》としゃべり、いかにも率直そうであったが、その註釈のかげには、一連の弁解するような用心深さがかくされていた。スポッツウッドは、マニックスとはちがって、問題を論議するのをいやがって、終始、沈黙の態度をとっていた。マーカムの質問にはていねいに答えたけれど、こうして一般の討議にまきこまれたことに、怒っている様子が、完全にはかくしきれなかった。ヴァンスはほとんど口をきかず、ときどきマーカムにむかって助言をするくらいにとどめていた。アレンは一度も口をひらかなかったが、一種のずるい興味をもって、他の人たちをじろじろと眺めながら、坐っていた。
会話の全体が、僕には、まったく無駄なことのような気がした。マーカムがほんとに情報をつかみたいと思っていたのならば、きっと悲しい失望に終ったであろう。もちろん、こういう普通でない手続きをとったことを、ほんとらしくみせかけ、ヴァンスの依頼したポーカー・ゲームをもちだす瀬ぶみにしようとしているにすぎない、とはわかっていた。その話をきりだす時刻がせまってくると、これは別にむつかしいことではなかった。
彼がそれをいいだしたのは、正十一時であった。声の調子はやさしく、ていねいではあったが、その勧めには個人的な依頼といった言葉がこめられていたので、実際には、謝絶できないようなものであった。けれども、どうもそういう言葉の上の作戦は必要がなかったように感じられた。クリーヴァとスポッツウッドとは、カード遊びをして、いやな討論をうちきる機会を、ほんとうに歓迎しているようであった。もちろん、ヴァンスとアレンとはすぐに応じた。マニックスだけはことわった。ほんの少ししかゲームを知らないから、いやだ、と弁解した。しかし他の人たちを見物してはいたいと、熱心に希望した。ヴァンスは考え直すようにといったが、うまくいかなかった。ついに、マーカムは召使に五人分のテーブルを用意するように命じた。
ヴァンスは、アレンが席につくまで待っていて、その右側の椅子に腰をおろした、僕はそれと気がついた。クリーヴァはアレンの左に坐り、スポッツウッドはヴァンスの右に坐り、次にマーカムが席についた。マニックスはマーカムとクリーヴァとの後ろの真ん中に椅子をひきよせた。
クリーヴァは最初、かなりひかえめな賭金の限度をもちだしたが、スポッツウッドはすぐにもっと大きな賭金をいいだした。すると、ヴァンスはすこしつり上げ、マーカムとアレンとが同意したので、その金額にきまった。チップにつけられた値段は、ちょっと僕の息の根をとめるように大きなものだし、マニックスでさえも静かに口笛をふいた。
テーブルに坐った五人がみな一流の競技者であることは、ゲームが始まって十分もしないうちに、明らかになった。その夜はじめて、ヴァンスの友、アレンは、水を得た魚といった恰好《かっこう》で、いかにもらくらくとやっているようであった。
アレンが初め二番勝ち、ヴァンスは第三回目と第四回目とに勝った。それから、スポッツウッドが幸運にのって、ちょっと連勝をやり、すこしして、マーカムが大きなジャック・ポットをあてて、わずかばかりリードした。クリーヴァはこうしてずっと一人敗けをつづけてきたが、後の三十分ばかりで、大部分の損失をとりもどすことができた。それから後は、ヴァンスは、わずかに勝ちをアレンに譲っただけで、堅実に先頭をきっていた。それからしばらくはゲームの運は、やや公平に配分されていた。しかし後になると、クリーヴァとスポッツウッドとが、ひどく負けはじめた。十二時半ごろになると、気味の悪い空気が一同をおおってきた。というのは、賭金の額が大きくなり、チップのピラミッドをさばく手が早くなり、かなり手許金の多い人にとっても、――ここの競技者はみなまちがいもなく資産家であったが――たえず持ち主を変える金額は、かなりの金高をしめしていたからだ。
一時ちょっと前に、ゲームの熱が最高潮に達したときに、ヴァンスがす早く、アレンをちらっとみて、ハンカチで額をふくのを知った。知らない人には、この素振りはまったく自然にみえたにちがいないが、ヴァンスの習慣をよく知っている僕には、すぐにわざとやったものだなと、わかった。同時にカードをつきまぜて分配する用意をしている仮親がアレンであることに気がついた。このとき、ちょうど葉巻の煙が眼に入ったようなふうであった。まばたきをして、カードを一枚床に落したからである。す早くひろいあげると、カードをつき直して、ヴァンスの前に切るように置いた。
手はジャック・ポットであった。テーブルの上にはすでにかなりの額のチップがつみあげてあった。クリーヴァ、マーカム、スポッツウッドの三人がパスをした。こうしてヴァンスがきめる番になると、異常に多額の金をいいだした。アレンはすぐにおりたが、クリーヴァは残った。次にマーカムとスポッツウッドがおりて、ヴァンスとクリーヴァとの間にプレイがおこなわれることになった。クリーヴァは一枚のカードを抜き、自分で値をつりあげたヴァンスは二枚を抜いた。ヴァンスは名目だけの賭金をつけくわえ、クリーヴァはこれをほんとに多くせりあげた。今度はヴァンスがクリーヴァをせりあげたが、ほんの少額であった。クリーヴァはふたたびヴァンスより多くせりあげた――こんどは前よりもかなり多額であった。ヴァンスはためらって、お手許拝見をいいだした。クリーヴァは勝ち誇って、手をさらした。
「ストレイト・フラッシュです――ジャックがハイです」と、宣言した。「あなたはお勝ちになれますまい」
「一ぺんに二枚抜くようでは駄目ですな」と、ヴァンスは悲しそうにいった。カードを下において、賭けをいどむだけの手のあることを、札をさらしてみせた。フォア・キングであった。
三十分ばかりして、またヴァンスはハンカチを出して、額をふいた。前のように、アレンが仮親の番で、手はまたジャック・ポットであることに、僕は気がついた。二度、せりあげをした。アレンはちょっと休んで、ハイ・ボールを一口のみ、葉巻に火をつけた。それで、ヴァンスがカードを切ってから、アレンが札を配った。
クリーヴァ、マーカム、スポッツウッドはパスした。するとまた、ヴァンスが賭金をいどむ番になり、場金の全額を賭けるといいだした。残ったのはスポッツウッドだけであった。こんどは、彼とヴァンスとの間で勝負が争われることになった。スポッツウッドは一枚のカードを要求し、ヴァンスはパット・ハンド〔卓をたたいて、手が十分だと、パスをする〕であった。それから一瞬、息づまるような沈黙がきた。僕には空気が電気をかけられたような気がした。他の連中もまた同じに感じているようにみえた。みんなは、妙に緊張した気分で、プレイを見まもっていたからだ。けれども、ヴァンスとスポッツウッドとはこの上もない静かな態度で、凍りついたかのようにみえた。僕はじっと二人をみていたが、二人ともいささかも感情を外にみせようとはしなかった。
ヴァンスが最初に賭けをした。口もきかずに、一山の黄色のチップをテーブルの中央におしやった。このゲームの間で、これほど大きな賭金はなかった。しかしすぐに、スポッツウッドはその側にもう一山のチップを置いた。それから、冷やかに、手ぎわよく、残りのチップを算えて、掌で全部押しだし、静かにいった。
「限度一杯です」
ヴァンスは、ほとんど誰にも気づかれぬように、肩をすくめた。
「ポットはあなたのものですよ」と、スポッツウッドにむかって、彼は心地よげにほほえみかけ、賭けをいどむだけの手であることを証するために、手をさらしておいた。フォア・エイスをもっていた。
「なんだ! それでポーカーといえるかね!」と、アレンはくすくすと笑いながら叫んだ。
「ポーカー?」と、マーカムもおうむがえしにいった。「フォア・エイスで、全額を賭けておいて、投げるなんて」
クリーヴァもまた驚いて、うなった。マニックスは、いやになってむかつくというように、唇をゆがめた。
「私は咎めるつもりでいうのではありませんよ、おわかりでしょう、ヴァンスさん」と、いった。「しかし、厳密にビジネスの上からこのプレイをみますと、投げるのは早すぎはしませんか」
スポッツウッドは眼をあげた。
「あなたがたは、ヴァンスさんをみそこなっていらっしゃる」と、いった。「完全な勝負のやり方をなさったのです。フォア・エイスにしても、投げられたのは科学的に正しいことです」
「そうにちがいない」と、アレンは同意した。「ああ、なんという勝負をやったのだろう!」
スポッツウッドはうなずいて、ヴァンスにむかって、いった。
「これと正確に同じ情況は、もう二度と、起こりそうにもありませんから、私にできる最小限のことは、あなたのすぐれた勘に敬意をしめすことにして、あなたの好奇心を満足させることにしましょう――私の手にはなにもありません」
スポッツウッドは手札を下において、やさしく指を伸ばして、カードをさらした。出たのはクラブの五、六、七、八と、ハートのジャックであった。
「僕には、あなたの推理がよくわかりませんね、スポッツウッドさん」と、マーカムは白状した。「ヴァンス君はあなたを負かしていたのです――しかも、投げたのですよ」
「情況をお考えください」スポッツウッドはやさしい平静な声で答えた。「クリーヴァさんとあなたとがパスをされた後に、やろうと思えば、私はきっと多額の賭金をはって、ポットをいい出すこともできたでしょう。しかし、それをせずに、ヴァンスさんがかなり多額の金をはって、ポットをいい出された後になって、なお残ったとすれば、私がフォア・ストレイト、フォア・フラッシュ、またはフォア・ストレイト・フラッシュのどれかを、もっているにちがいないのは、申すまでもありません。そういういい手がなくて残ったのは、私があまりにも上手なプレイヤーであるからと申しても、失礼ではないだろうと思います。……」
「そうだよ、たしかに、マーカム」と、ヴァンスは口を入れた。「スポッツウッドさんは、あまりにも上手なプレイヤーでいらっしゃるから、実際、フォア・ストレイト・フラッシュをもたなければ残るまいと睨んだのさ。そういういい手があって、初めて二対一という賭の勝算にのりだす裏付になる根拠が、納得できるのですからね。――ほら、僕が初めにポットに全額をだすといいだすと、スポッツウッドさんは、残るために、テーブルの上の半額の金をはらなければならなかったでしょう――二対一の賭にするためにね、――そこで、この賭の勝算はあまり高くはないし、フォア・ストレイト・フラッシュよりどんな小さい、開かない手でも、こうした危険はふせぎきれるものではないのです。それに、実際、一枚カードを抜けば、ストレイト・フラッシュをつくる四十七分の二のチャンスがあり、フラッシュをつくる四十七分の九のチャンスがあり、ストレイトをつくる四十七分の八のチャンスがあるでしょう。そこでストレイト・フラッシュ、フラッシュ、ストレイトのどれかに、手札を強くする四十七分の十九のチャンス――つまり三度に一度のチャンスがあったのさ」
「そのとおりですよ」と、スポッツウッドは同意した。「しかし私がカードを一枚抜いた後で、ヴァンスさんの心のうちに起こった唯一の疑問は、私がストレイト・フラッシュをつくったか、どうかということでした。もしもつくれなかったとすれば――ただのストレイトか、フラッシュかを抜いたというだけにすぎなかったとしたら――ヴァンスさんの大きな賭を買わないし、また限度までせりあげたりもしまいと考えられた、まさに正しく考えられたのです。こういう情況にあって、そんなことをするのは、非合理なポーカーにはちがいありますまい。千人に一人のプレイヤーも、単なるブラフ〔山勘〕のために、こんな危険を冒すものはありますまい。だから、私が賭金をせりあげたときに、ヴァンスさんがフォア・エイスをさらして投げださなかったとしたら、極端に無鉄砲をなさったことになるにちがいありません。もちろん、私が実際にブラフをやっていたにはちがいありませんが、これは、ヴァンスさんが投げられたのが正しい、理論的なことであるという事実を、変えるものではありません」
「まったく仰せのとおりです」と、ヴァンスは同意した。「スポッツウッドさんがいわれるように、千人に一人のプレイヤーも、私がパット・ハンド〔十分な手〕だと知りながら、ストレイト・フラッシュにもならないのに、限度まで賭ける方はありますまい。実際、スポッツウッドさんがね、あえてこれをなさったのは、ゲームの心理的微妙さに、もう一つの小数点を加えられたといってもよいことでしょう。というのは、ご存じのように、私の推理を分析されて、ご自分の推理をさらに一歩先へすすめられたのですからね」
スポッツウッドは軽く頭をさげて、この挨拶を認めた。クリーヴァはカードをとりあげて、きりはじめた。けれども、緊張が破れてしまったので、ゲームはもうつづけられなかった。
しかし、ヴァンスにはなにか手ちがいがあったように思われた。しばらく煙草をふかしながら、しかめ面をして、むつかしい問題を考えこんでいるように、ちびりちびりとハイ・ボールをなめていた。ついに、立ちあがって、煖炉のところまで歩いていき、先年マーカムに贈ったセザンヌの水彩画をじっとみながら、立っていた。その行為は内心の苦悶を典型的にしめすものであった。やがて、会話がひとしきり終ると、鋭くふりかえって、マニックスを眺めた。
「ねえ、マニックスさん」――ただひょっとした好奇心からというふうに話しかけた。――「あなたがポーカーにご趣味をもたれないのは、どういうわけなのでしょうね。どんな立派な実業家でも、真底は賭博者ですのに」
「仰せのとおりです」と、沈んだ慎重さで、マニックスは答えた。「けれども、ポーカーは、ね、私の考えでは、賭博に入りません――断じてちがいます。あまりにも科学的すぎます。それに、私には勝負に手間がかかります――それにスリルがありません――私のいう意味はおわかりでしょうね。ルーレットが私のスピードです。昨年の夏、モンテ・カルロにまいりましたが、皆さん方が一晩かかって損されたぐらいの金を、十分間で、なくしてしまいました。しかし私はお金を払ったぐらいの活動を買ったわけです」
「わかりました。では、カードには、すこしも興味をおもちではないのですか」
「ゲームをすることには、です」マニックスはうちとけてきた。「たとえば、金を賭けてカードを引いてもかまいません。けれども、三度に二度のチャンスではありませんよ。速い勝負で楽しみをしたのです」そうして、どんなに早くその楽しみを待ち望んでいるかをみせるように、太った指をすばやく六、七度つづけさまにぽきぽきとならした。
ヴァンスは、テーブルにゆっくりとかがみ、静かに一組のカードをもちあげた。
「一度きって、一千ドルではいかがでしょう」
マニックスはすぐに立ちあがった。
「あなたからはじめてください」
ヴァンスがカードを渡すと、マニックスはつきまぜた。それから下において、きった。表を返すと、十であった。ヴァンスはきって、キングをみせた。
「一千ドルの借りです」マニックスは、十セントとはちがわないほどの無関心さで、いった。
ヴァンスが口もきかずに待っていると、マニックスは狡《ずる》そうに、彼をながめた。
「もう一度きりましょう――今度は二千ドルで、いかがでしょうか」
ヴァンスは眉をあげた。「二倍ですか……どうぞ」カードをまぜて、七をきった。
マニックスの手がのびると、五であった。
「では、これで三千ドルの借りです」と、いった。小さな眼は今は細く線になり、歯の間でしっかりと葉巻を噛んだ。
「もう一度二倍はいかがです――えっ、いかがですか」ヴァンスはきいた。「今度は四千ドルでは」
マーカムは驚いてヴァンスを眺めた。アレンの顔にも、ほとんどばかげているといった驚きの表情が浮かんだ。その場の誰もがこの申し出には驚いたようだ。ヴァンスがマニックスにつづけざまに二倍を許すことは、大へんな誤算を与えるものだと、明らかにわかっているからである。結局、損をするにきまっている。そのとき、マニックスがテーブルからカードをさらって、つきまぜださなかったから、マーカムはきっととめただろうと思う。
「四千ドルですよ」と、宣言してカードをおいて、切った。ダイヤモンドのクイーンが出た。
「この貴婦人に勝てますかね――きっとだめでしょうね」急に陽気になった。
「仰せのとおりでしょう」ヴァンスはつぶやいて、三をきった。
「もっとおやりになりますか?」マニックスは上気嫌で攻勢に出た。
「もう結婚です」ヴァンスはくたびれたようだ。「あまりに刺戟が強すぎます。あなたのように、頑健な身体ではありませんからな」
机にもどって、マニックスに一千ドルの小切手を書いた。それから、マーカムの方をむいて、手をさし伸べた。
「楽しい晩だったよ。それにいろいろなことがあった。……それで、忘れたもうなよ。明日、一緒に昼食をするのだ。クラブで、一時にね。いいかい?」
マーカムはためらった。「なにもさしつかえがなければ」
「しかし、ほんとに、さしつかえなどはないにきまっているよ」と、ヴァンスは主張した。「君はどんなに僕に会いたがっているのか、わからないのだね?」
普段とはちがって黙りこんで、思案に耽《ふけ》りながら、彼は帰途についた。一言も説明らしい言葉をききだせなかった。けれども、お休みと、僕にいったときに、つけ加えた。
「まだ謎の重要な部分がたりない。それがわかるまでは、どれもたいして意味がないね」
第二十八章 犯人
――九月十八日、火曜日、午後一時
翌朝、ヴァンスは遅く起きだして、翌日アンダースン画廊で競売される予定の陶磁器《とうじき》のカタログを調べながら、昼食前の時間をすごした。一時になって、スタイヴィサント・クラブに入り、グリルでマーカムと一緒になった。
「昼食は君のおごりとしようね」と、ヴァンスはいった。「僕は軽くすませることにするよ。欲しいものは、イングリッシュ・ベイコンの薄切り、コーヒー一杯、クロワッサンぐらいだ」
マーカムはからかうような微笑をそそいだ。
「なるほど、昨晩の不運の後だから、倹約なさるのも不思議はないな」
ヴァンスの眉毛がつりあがった。
「すばらしい幸運だったと、僕は思っているのだよ」
「二度とも同種類のカードを四枚もっていて、二度とも敗けたじゃないか」
「しかしね」と、ヴァンスは静かに告白した。「二度とも、相手のもっている手札は、ちゃんと知っていたのだよ」
マーカムはびっくりして相手をみつめた。
「ほんとにそうなんだ」と、ヴァンスは確言した。「ゲームの前に、ああいう特別の手を配るように、手配しておいたのさ」おだやかに微笑した。「僕が、やや風変りな客、アレン君を、あんなふうに非公式に君のパーティに紹介するという悪趣味をやってのけても、なにもいわなかった君の心づかいには、感謝のほかはないよ。よく説明して、君に謝罪しなければならないね。アレン君は、どの客にとっても、すばらしい仲間といえるような人間ではない。貴族的な上品さには欠けているし、宝石類をみせびらかしたりして、たいへん野暮《やぼ》ではあった――斑《まだら》のネクタイよりも、はるかにダイヤモンドのピンの方がましだとは思うがね。けれども、アレン君には美点がある――断じて美点があるのさ。室内の幸運の猟人としてはアンディ・ブラックリー、キャンフィールド、正直者のジョン・ケリーなどと、肩を並べるような男だよ。じつはね、わがアレン君は、記憶にもなまなましく残っている、例のドック・ウィリ・アレンその人に、ほかならないのさ」
「ドック・アレンだって! エルドラド・クラブをやっていた、あの有名な詐欺漢《さぎかん》じゃないのかね」
「その人物さ。しかも偶然にも、いっきに金儲けをやる、いかがわしい商売仲間でも、一番俊敏な、カードのペテン師の一人だよ」
「では、昨晩、あのアレンがカードに細工をしたというんだね」マーカムは腹をたてた。
「君がいまいった二度だけさ。おぼえているかね、アレンが二度とも仮親だったろう。僕はわざとアレンの右手に坐り、その指示どおりに注意してカードを切った。しかも、アレンのペテンで儲けたのはクリーヴァとスポッツウッドだけであったんだから、僕のインチキをとがめるわけにはいかないよ、この点はほんとに認めてくれなくてはいけないね。アレンは二度とも、同種類のカードを四枚、僕に配ってはくれたけれど、二度ともひどい負け方をしたんだからね」
マーカムはしばらくあっけにとられて、沈黙のうちに、ヴァンスを眺め、それから善良そうに笑った。
「君は昨夜は慈善家の気分でいたらしいな。一度ひくごとに賭金を倍増しにさせて、実際にマニックスに一千ドルも払っているしね。すこしドン・キホーテ式のやり方であった、といいたいよ」
「それもこれも、みな人々の見方にあるのさ。君も知っているだろう。僕は財政上損をしたけれども――もっとも、僕は君の事務所の経費に計上してもらうつもりだが――あのゲームは大成功だったよ……ね。昨晩の歓待の主要目的はつかんだんだよ」
「ああ、そうか!」マーカムは、問題があまり重要ではなく、うっかりと記憶から消えていたというように、ぼんやりといった。「オーデル嬢を殺した男を確めようとしていたのだったね」
「たいへんな記憶力だなあ!……そうさ、今日、事情を明らかにできるような、重要なヒントを手に入れたんだ」
「それで、僕は誰を逮捕したらよいんだ」
ヴァンスはコーヒーを一口のみ、ゆっくりと煙草に火をつけた。
「僕はね、君がとても信じてはくれまいと、考えているんだが」と、平静な実際的な声で、返事をした。「あの娘を殺したのはスポッツウッドだよ」
「ほんとかね」マーカムは露骨に皮肉をみせていった。「スポッツウッドだっていうのか! ヴァンス君、ほんとに、びっくりさせるね。すぐにヒースに電話して、手錠をみがかせておきたいところだが、不幸にして奇蹟は――町を越して手を伸ばし、人の首を絞めるなどというような奇蹟は、今日の時代では、認められる可能性はないよ……もう一つクロワッサンを命じようかね」
ヴァンスはわざと絶望を誇張して、芝居気たっぷりに、手をひろげた。
「教育と教養のある人は、マーカム君、視覚の錯覚にかじりつくという点では、まったくもって原始的なところがあるものだね。自分の眼で見たからといって、魔法使いがシルクハットの中から兎をとりだすと、ほんとだと信じこむ幼児そっくりだよ、僕はそういいたいね」
「それで、僕を侮辱するというわけか」
「ややね」ヴァンスは快く同意した。「法律事実というローレライから君をとき離すためには、思いきった荒療治がいるようだな」
「スポッツウッドが、このスタイヴィサント・クラブの三階にいて、七十一番街まで両腕をのばしている姿を、君は、僕の眼をとじさせたまま、想像に描いてみよと、いっているような気がするね。けれど、僕にはそんなことは簡単にはできないよ。僕は常識人だ。そういう幻覚は僕には滑稽《こっけい》としか思われないんだ。ハッシシの夢のような匂いがする。……君自身インド大麻剤を使っているんじゃないかね」
「そういうふうにいいたければ、この考えはちょっと超自然的なひびきもする。しかも『不可能なるが故に確実なり』だ。僕はむしろこの格言の方が好きさ、ね。現在の事件では、不可能なものが真実なのだ。ああ、スポッツウッドが犯人だ――これには疑いの余地がない。しかも、僕は外見上は幻覚とみえるこの考えにしっかりとしがみつこうとしているんだ。その上、君までもそのワナにおびきよせてやろうとしている。君自身の名声は――ばかばかしいいい方だが――危険に瀕《ひん》しているものね。そういうことになったら、マーカム、いまのところ、君が真の殺人犯人を世間からかくまってやっていることになるよ」
ヴァンスは、議論をとどめる、危なげのない確信をもって、話していた。マーカムの顔の表情が変って、感動しているようにみえた。
「ききたいね」と、彼はいった。「どうしてスポッツウッドが犯人だという、幻想的な信念に達したのだね」
ヴァンスは煙草をもみ消すと、テーブルに両腕を伸ばした。
「マニックス、クリーヴァ、リンドクイスト、スポッツウッド――僕のいわゆる可能性の四部合奏からはじめよう。犯罪が、殺人を唯一つの目的として、注意深く企画されたとわかってからはね、あの婦人の網に絶望的にかけられた誰か一人の男が犯行をおこなったにちがいないと気がついたんだ。僕の四部合奏以外の求愛者は、誰もそんな網にひっかけられたものはなかった。つまりわれわれはそれを知っているわけだ。したがって四人のうちの一人が犯人だということだ。さて、リンドクイストは、スキールの殺された時刻には、病院で、ベッドにねていたことがわかったときに、除外できた。二つの犯罪は明らかに同一人の手によって行われたものだからね――」
「しかし」と、マーカムが口を入れた。「スポッツウッドもカナリヤの殺された夜には、同じように立派なアリバイをもっている。前者を除外しておいて、後者を除外しないというのはどういうわけだね」
「残念ながら、僕は君に同意できないよ。事件の前および事件の最中、利害関係のない清廉の証人によってとりかこまれた、ある既知の場所で、へとへとにつかれていたという点では、二人とも同じである。けれど、あの運命の晩、スポッツウッドのように、婦人の殺される時刻と数分とちがわぬときに、実際に現場にいたこと、またそれから、十五分ばかりの間に、ひとりタクシーにのっており、そして事件がおこったということ――この点は異っている。われわれの知っているかぎりでは、スポッツウッドが帰ってから、婦人が生きていた姿を、ほんとにみたものは、誰もいない」
「しかし女が生きていて、男と話をしたという証拠は、争うことができないじゃないか」
「だが、僕だって、死んだ女が悲鳴をあげたり、助けを求めたり、殺人犯と話をしたりするとは認めていないのだよ」
「わかった」と、マーカムは皮肉にいった。「君はスキールが声を変えていったんだと考えるんだね」
「いやいや、それはつまらない考えだよ! スキールは、自分があそこにいるとは、誰にも知られたくないものね。どうしてそんな阿呆らしい傑作をものしたりするもんか。それは、たしかに、説明にはならんよ。この答えがわかりさえすれば、合理的で、簡単なものだとわかるだろう」
「それで元気がでてくるよ」マーカムは微笑した。「とにかく、スポッツウッドが犯人だという推理をつづけてみてくれたまえ」
「僕の四部合奏のうちの三人は、それで潜在的な殺人犯だとわかった」と、ヴァンスは要約した。「したがって、いわば三人を心理的な顕微鏡のしたにおくような、社交的な慰労の夕をひらいてくれと、頼んだわけだ。それにもかかわらず、スポッツウッドの家系は、犯人と考えるに、まったく妥当しているものなのに、クリーヴァか、マニックスかが、罪を犯したんじゃないかと考えていたことは、白状しておくよ。二人の供述によって、どちらの一人も既知の情況のどれ一つと矛盾することなく、罪を犯すことができたんだからね。だから、マニックスが、昨晩、ポーカーをやろうという誘いを断ったときに、クリーヴァを初めにテストしてみることにした。アレン氏に合図して、さっそくその最初の手品のご馳走《ちそう》をするようにしてもらったのさ」
ヴァンスは一息ついて、見あげた。
「君はきっと情況を思い出してくれるだろうな。ジャック・ポットであった。アレンはクリーヴァにフォア・ストレイト・フラッシュをくばり、僕にはスリー・キングをくれた。他の人の手はきわめて貧弱だから、おりなければならない。僕が賭けをいいだし、クリーヴァが残った。札をひくと、アレンはもう一枚キングをくれ、クリーヴァにはストレイト・フラッシュをつくるに必要なカードを渡した。二度ばかり僕が少額の金を賭けると、そのたびにクリーヴァはせりあげていった。ついに僕はお手許拝見を要求した。もちろん、相手は勝った。当然、勝たなければならぬわけだからね。確実なものに賭けているのさ。僕がポットをひらいて、二枚カードをひいたから、僕のもっている最高の手は同種類のフォア以上にはなれないことにきまっていた。クリーヴァはそれを知っており、ストレイト・フラッシュをもって、僕の賭けをせりあげる前に、僕を負かしたことを知っていた。そこで、すぐに僕は相手が僕の求めている男ではないとわかったのさ」
「どういう理由で?」
「確実なものに賭けようとするポーカー・プレイヤーは、マーカム、きわめて巧妙で、有能な賭博者としては、利己的な自信に欠けている男さ。偶然のチャンスや怖ろしい危険を冒すような男ではないんだ。ある程度、精神分析学者のいわゆるインフェリオリティ・コンプレックスをもっていて、本能的に自己を保護し有利にする可能な機会を、なんでもつかまえようとする男だからだ。つまり、根本的に純粋な賭博者ではないわけだ。しかも、オーデルを殺した男は、車輪のただの一回転にさえも、全部を賭けようとする、すぐれた賭博者なんだ。女を殺すことにおいて、まさに、これをやってのけたんだ。自信をもっている賭博者だけが、奇妙な利己主義からして、確実なものにだけ賭けることを軽蔑し、こういう犯罪をやってのけることもできるだろう――だから、クリーヴァは容疑者としては除外されるわけさ」
マーカムは、いまは、心から耳を傾けていた。
「しばらくしてから、スポッツウッドにたいしておこなったテストは」と、ヴァンスはつづけていった。「初めはマニックスにやるつもりだったんだ。しかし、ゲームからは抜けていた。でも、それはどうでもよかったんだ。クリーヴァとスポッツウッドの二人を除外できれば、マニックスこそ疑いもなく犯人ということになるからね。もちろん、事実を実証するために別の計画を立てなければならないが、いわば、その必要はなくなった。……スポッツウッドにむかってやったテストは、かなりよく当人が自分の口から説明してくれている。そのいうとおりに、一千人に一人のプレイヤーも、手にはなにももたないで、パット・ハンドにたいして、限度まで賭けたりはしないだろう。あれはすごかった――すばらしくもある! きっといままでにポーカー・ゲームでおこなわれた一番見事なブラフだったろう。静かにチップのすべてを押しだしたときには、手にはなにもないと実際に知っていたのだから、その態度に感服せざるをえなかったよ。僕の推理を一歩一歩たどって、最後の分析で、僕を一杯くわせることができるという確信だけにもとづいて、すべてを賭けていたんだ。あんなことをやるには勇気と放胆な精神とが必要である。確実なものに賭けることを潔《いさぎよ》しとはしないような自信をも必要としている。あの手に含まれている心理学的原理はオーデルの犯罪の原理とぴったりと一致しているよ。僕は強力な手で――パット・ハンドで、スポッツウッドを脅かしているが、もちろん娘が彼を脅かしたのと等しいものだ。妥協する代りに――お手許拝見と出たり、投げる代りに――僕を圧倒しようとしたんだ。すべてを賭けているという意味なんだけど、とにかく最高の一撃に頼っていたんだ……これにはまちがいない、マーカム! あの男の性格は、あの驚くべきやり方にあらわれているように、こんどの犯罪心理にぴったりと合っているということがわかっただろう」
マーカムは、しばらく黙って、問題を深く考えているようであった。
「けれども、ヴァンス、君自身、あの時は満足していなかったじゃないか」と、ついにいいだした。「実際、疑わしそうで、心配そうだったよ」
「そのとおりなのさ。僕は非常に心配だった。スポッツウッドが有罪という心理学上の証拠を、思いもかけず、手に入れてしまったんだ。僕の予期しないものだったからね。クリーヴァを除外したあと、いわばマニックスについて先入観をもっていた。スポッツウッドを無罪とする一切の有利な物的証拠――すなわち、外見上も物理的にも婦人を絞殺することのできないことが、深く僕の心にあった、これは認めなければならないからね。僕は完全とはいえないね、そうだろう。不幸にして人間である僕は、君たち法律家という連中が、あの広大な窒息させる臭気のように、たえず地上に発散させている事実と外観につきまとう邪悪な動物磁気とを、もっているからだ。僕がスポッツウッドの心理学的性質は犯罪の一切の要因に完全に一致すると、気のついたときでさえも、なおマニックスについて、疑いをいだいていた。あの男が、スポッツウッドがやったような手をやるかもしれないということは、ありうることであった。ゲームが終ってから、賭博の問題について、マニックスをひっとらえた理由は、ここにあったんだ。心理学上の反応を検査してみようと思ったのさ」
「それでも、君がやると、車輪の一回転に全部を賭けたんじゃないか」
「ああ! けれども、スポッツウッドがやったのとは同じ意味ではないよ。マニックスは、スポッツウッドに比較すると、注意深い、臆病な賭博者なのだ。はじめから、チャンスが平等で、賭金も平等であった。ところが、スポッツウッドはまったく機会がないし――手は無価値であったんだ。しかも、スポッツウッドは、純粋に心理的計算だけで、限度まで賭けていった。これはまったくの高い空に賭けたようなものであった。これに反して、マニックスは勝利の平等の機会に、単に金貨を投げただけではないか。その上、どんな種類の計算も加わっておらず、計画も、計算も、放胆さもありはしない。しかも最初に述べたように、オーデルの殺人は、綿密な計算と最高の放胆とをもって、深く考え、注意深く実行したものだ。……しかも、真の賭博者が二度目に金貨を投げるときに、賭金を二倍にしようなどと相手に求めたり、三度目にはまた倍の倍にしようという申し出を受け入れたりするだろうか? 万一の誤謬の可能性を阻止するために、ああいうふうに、わざとマニックスをテストしてみたのだ。こうして僕は彼を除外したばかりではなく、――削除し、抹殺し、まったく圏外に捨ててしまった。そのために、一千ドルかかったが、僕の心から一切の疑惑の雲を拭ってくれたのだ。このときに、一切の矛盾する物的証拠があっても、スポッツウッドが婦人を絞殺したのだとわかったんだよ」
「君は、理論的には事件をいかにももっともらしいものにしたけれど、実際上、僕はこれを容認するわけにいかないんじゃないかな」マーカムは自分で認めようとしている以上に、深い印象を受けていたと、僕には感じられた。「どうすればいいのだい?」と、しばらくしてからどなった。「君の結論たるや、合理性と健全な信憑性とのすべての既成の目標をば、みごとに打破しているよ。――すこしは事実を考えてみてくれたまえ」ようやく自分の疑問を討論するところまできた。「君はね、スポッツウッドは有罪だという。しかも、われわれは、疑問の余地のない証拠にたって、あの男が部屋を出てから五分後に、娘が悲鳴をあげ、助けを求めたということを知っている。交換台のそばに立っていたジェサップと一緒に、ドアのところまでいき、短い会話をかわしている。そのときは、女はたしかに生きていた。それから、男は玄関から出て、タクシーにのって帰った。十五分後に、このクラブの前でタクシーからおりて、レッドファン判事と一緒になった。――アパートからはほぼ四十丁目くらい離れている。もっと短い時間で帰ってくるということはできないだろう。それに運転手の記録を手に入れている。スポッツウッドが、十一時半と、レッドファン判事の会った十二時十分との間に、殺人を犯す機会も、時間も、どちらもまったくない。しかも、おぼえているだろう、朝の三時まで――殺人のおこった後の時間を、このクラブでポーカーをやっていたんだ」
マーカムは力を入れて頭を強くふった。
「ヴァンス、こういう事実をとりくずすのは人間|業《わざ》ではできないよ。確乎とした事実なのだ。スポッツウッドの有罪を、その晩、北極にいたのと同じように、有効にかつ終局的に否認しているよ」
ヴァンスは動じなかった。
「君のいうことは全部承認するよ」と、口を入れた。「しかし僕が前にいったように、物理的事実と心理的事実とが衝突する場合には、物質的事実がまちがっているんだ。この事件でも、現実にはまちがっていなくても、人を欺瞞しているのだ」
「なるほどね、偉大なるアポロンよ!」事情はまさに、マーカムのいらだった神経にとっては、たまらないものだった。「スポッツウッドがどういうふうに娘を絞めころして、部屋を荒らしたか、教えてみてくれたまえ。そうすれば、僕はヒースに命じて逮捕させるよ」
「はっきりというが、どうもそれができかねるのだ」と、ヴァンスはなだめるようにいった。「全知全能の神が僕に教えてくれないのだ。しかし――いまいましいな! 犯人を指摘した点が、どうして上出来なくらいさ。僕はその手口まで説明できるとはいわなかったろうね、そうだろう?」
「そうさ。ご自慢の洞察も、それでおしまいなのか。よいさ。ときおり、僕は高級心理学の教授になって、厳粛にクリップン博士がオーデルという娘を殺したと宣言する。もちろん、クリップンは亡くなっているさ。しかし、この事実は僕の新規採用の心理的演繹法にはすこしも抵触《ていしょく》しない。クリップンの性質はだね、犯罪の秘教的な徴表とはすべて完全に一致している。明日、僕は死体の発掘命令を出すことにしようよ」
ヴァンスは道化た非難をこめて、彼を眺め、ためいきをついた。
「僕の超越した天分を認めるにはだね、後代をまたなければならないよ。『 棺をおおってみて事がきまる』か。僕はしばらくのあいだ、鉄の心臓をもって、大衆の嘲罵・嘲笑に耐えていることにしよう。僕の頭には血が逆流するが、なに、屈するものか」
時計を眺めてから、なにか思案に耽《ふけ》っているようだった。
「マーカム」と、しばらくしていった。「三時にはコンサートがあるけれど、一時間ぐらいは余裕がある。もう一度、あの部屋にいってみて、いろいろと手段を考えてみたいんだ。スポッツウッドのトリックは――トリックにちがいないと確信するよ。――あの現場でおこなわれたんだ。われわれに説明がさがせるものだとすれば、現場でさがしてみなくてはならんよ」
マーカムは、スポッツウッドの犯人の可能性を強く否定したものの、まったく確信しているわけではないという印象を、僕は受けた。だから、オーデルの部屋にいってみようというヴァンスの提案に、半ば抗議しながらも、同意したとしても、驚くにはあたらなかった。
第二十九章 ベートーヴェンの『アンダンテ』
――九月十八日、火曜日、午後二時
半時間とたたないうちに、われわれはまたもや七十一番街の小さなアパートの大廊下に入っていった。スパイヴリは、いつものように、交換台のところで、任務についていた。共同応接間のうちに、見張りの警官が安楽椅子にもたれ、葉巻を口にくわえていた。地方検事をみると、いかにも敏活そうに立ちあがった。
「いつになりましたら、かたづくんでしょうか、マーカムさん?」と、きいた。「この休養では、身体が生《なま》くらになります」
「もうじきだよ、きっと、君」マーカムはいった。「誰か訪ねてきた者はなかったかね?」
「誰もまいりません」男はあくびを噛み殺した。
「部屋の鍵をかしてくれたまえ――君は中に入ったことがあるかね」
「いいえ、外のここにいろという命令です」
われわれは死んだ娘の居間に入った。ブラインドはあがったままで、午後の日光が射しこんでいた。外見からみて、なにも手を触れたものはなく、ひっくり帰った椅子も直されてはいなかった。マーカムは窓のところにいって、手を背後にまわして立ち、情景をしょんぼりと見わたした。だんだんとおぼつかなくなっていくなかで働いていたから、自然とはいえない皮肉な興味をもって、ヴァンスを見守っていた。
ヴァンスは煙草に火をつけると、たえず探るような眼をもって、いろいろと散らかったものをみながら、二部屋を捜索しはじめた。急に浴室に入ると、六、七分入っていた。出てくると、黒い汚点のついたタオルをもっていた。
「これが、スキールが指紋を消すときに使ったものだよ」こういってベッドの上に投げ出した。
「すばらしいぞ」と、マーカムはからかった。「それは、もちろんスポッツウッドを犯人とするもんだね」
「チェッ、チェッ! しかし僕の犯罪理論を実証する役にはたつんだ」化粧机のところに歩みより、小さい銀の噴霧器を嗅いでみた。「あの婦人はコティのシィプルを使っていたな」と、つぶやいた。「どうしてあの連中はみな、あれを使うんだろうな」
「それでなにかを実証するのに役にたつのかね」
「マーカム、僕は雰囲気にひたっているんだ。僕の魂を部屋の鼓動にあわせようとしているんだ。どうか静かにあわせられるようにしておいてくれないか。いつかは天啓の訪れが――いわば、シナイ山からの天啓があるんだ」
彼はぐるぐると捜査をつづけ、ついに大廊下に出て、片足でドアをあけたままにとめておいて、あたりを念入りに注意しながら、みまわした。居間に帰ると紫檀机の端に腰をかけ、暗い物思いに沈んでいった。しばらくしてから、マーカムにむかって冷笑するように歯をむきだして笑った。
「うん、これが問題。こん畜生、油断できないぞ」
「ふと思うんだが」と、マーカムが嘲笑した。「遅かれ早かれ、スポッツウッドについての君の演繹を修正するのではないかな」
ヴァンスはぼんやりと天井をにらんだ。
「君はなんて頑固なんだい。僕は君のためにこうしておそろしく不愉快な窮境から解放してやろうとしているんだぜ。それなのに、君のしていることはといえば、僕の若々しい苦心をくじくような、つまらぬ饒舌《じょうぜつ》にばかり精だすことはないじゃないか」
マーカムは窓を離れて、ヴァンスの前の寝椅子の腕に腰かけた。その眼は悩ましそうな様子をしていた。
「ヴァンス、悪くとってくれては困るよ。スポッツウッドは僕にとってはなんの意味もありはしない。あの男がやったとしたら、それを知りたいんだよ。この事件が明らかにならないと、新聞には口汚くたたかれるにきまっているんだ。解決の可能性をくじくのは僕の利益にはならないんだ。しかし、スポッツウッドについての君の結論は不可能なんだ。あまりにも矛盾している事実が多すぎるよ」
「そのとおりさね。矛盾するデータがあまりにも完全すぎるよ。あまりにも見事に符合しすぎるんだ。いわばミケランジェロの彫刻の形態のように立派すぎるんだ。あまりにも注意深く符合しているからね、単に偶然に情況が結びついたとはみえないんだよ。つまり意識的な計画なんだ」
マーカムは立ちあがって、ゆっくりと窓のところに帰り、背後の小さな中庭を眺めていた。
「スポッツウッドがあの娘を殺したという君の前提を認めるとして、君の三段論法に従ってもよかろう。けれども、その抗弁があまりにも完全すぎるという根拠から、男を犯人とするわけにはいかんよ」
「われわれに必要なものは、マーカム、インスピレーションなんだ。巫女《みこ》のご託宣だけでは十分じゃない」ヴァンスは部屋をいったりきたりしだした。「ほんとに僕を怒らせているのは、僕が出しぬかれているということなんだ。しかも、車の付属品の製造家によってね……これほどはなはだしい屈辱はない」
ピアノの前に坐って、ブラームスのカプリチオ一番のはじめの一くさりをひいた。
「調律の必要がある」と、つぶやき、ブウル式の用箪笥の方にぶらぶらと歩いていき、指で寄木細工の上をなでてみた。「立派だというだけで、少々仰々しいな。けれど、立派な作りだ。シアトルから出てくる死人の伯母には、かなりの額の遺品になるだろう」それから箪笥の側に吊りさげた枝付き燭台《しょくだい》をながめる。「きれいだ、もとの蝋燭《ろうそく》を白い電球にとりかえさえしなければね」マントルの上の小さな陶器製の時計の前にとまった。「けばけばしいな、きっとこれはでたらめの時刻だろう」写字台のところにくると、注意深く調べてみた。「フランス・ルネサンス式のイミテーションだ。やや高尚なものではないか」それから、紙屑籠に眼をつけ、ひろいあげた。「ばかばかしい考えだ」と、註釈した「――ベラム〔子牛・子羊の皮革紙〕で屑籠をつくる。あの婦人の室内装飾家の芸術的勝利なんだな、賭けてもよい。エピクテトスの全集ぐらい作れるベラムがある。しかし花環などを手で描いて、どうして効果をこわしたのだろう。美的本能はわが美しい国にはまだ入ってこないのだ――断じてね」
屑籠を下におくと、しばらく考えこむようにして、調べていた。それからうつむいて、先日いっていた皺くちゃの包み紙を、中から一枚とりだした。
「これがきっと、あの婦人のこの世での最後の買物を包んであったものだ」考えふけった。「ずいぶんかわいそうだ。こんなつまらぬものに感傷的になるかね、マーカム。どっちみち、これをゆわえた紫色の細紐がスキールには神の賜物になったのさ……なんてつまらないものが、死物狂いのトニーの脱出の役にたったんだろうね」
紙をあけると、破けた皺くちゃのボール紙と、大きな四角の黒茶の封筒が出てきた。
「あっ、きっと、蓄音器のレコードだ」部屋の中を見まわした。「だけどな、どこにあの女はいまわしい蓄音器をおいてあるんだ」
「休憩室にあるよ」マーカムはふりかえりもせず、つかれたようにいった。ヴァンスのおしゃべりが真面目な、当惑した考えの外部に現われた表現にすぎないことを知っていた。マーカムはありったけの忍耐をもって、待っていた。
ヴァンスは小さな応接間へ、ガラスのドアを通って、ゆっくり入り、一方の壁ぎわにあるシナ製のチッペンデール式意匠の蓄音器を、ひきつけられるようにみていた。ずんぐりとしたキャビネットは、半ば祈祷用ラシャ布につつまれ、その上に磨いたブロンズの花瓶をのせてあった。
「とにかく、蓄音器とはみえない」と、注意した。「しかしどうして祈祷用ラシャ布でつつんであるのだろう」出まかせに調べた。
「アナトリア式――販売用ではきっとカエサル式といっている奴だな。たいした値段のものではない。――ウーシャック式の方が値が高い……あの女の音楽趣味はなんだろう。きっと、ヴィクター・ハーバートだろう」布をとって、キャビネットの蓋をあけた。一枚のレコードがかけてあった。上にかがみ、それをみた。
「どうだ? ベートーヴェンのハ短調交響曲の『アンダンテ』だ!」うれしそうに叫んだ。「マーカム、君は、もちろん、この楽章を知っているだろう。一番完成された『アンダンテ』だよ」蓄音器をまいた。「良い音楽をきくと、空気が浄《きよ》められ、われわれの混乱が消散してしまうだろうよ。どうだ?」
マーカムはそのむだ口には注意もせず、相変らず窓から外をぼんやりと眺めていた。
ヴァンスはモーターを動かし、レコードに針をのせ、居間に帰った。寝椅子を眺めながら、焦眉の問題に精神を集中して、立っていた。僕も音楽を待って、ドアの側の回転椅子に腰かけていた。その場の情況が僕の神経をつかれさせ、せかせかとした感じがしだした。一、二分すぎたが、蓄音器からもれてくる音はかすかなきしるような音ばかりであった。ヴァンスはちょっと不思議な気がして、顔をあげ、機械の方にもどった。いそいで調べて、もう一度かけなおした。数分待ったが、音楽はきこえてこなかった。
「うん、どうもおかしい」と、つぶやきながら、針をとりかえ、蓄音器をもう一度まいた。
マーカムは窓から離れて、善良そうに、じっと我慢しながら、見つめていた。蓄音器の回転板はまわり、針はその中心にまわる溝をたどっていったが、それでも機械は演奏しようとしなかった。ヴァンスは、両手でキャビネットをささえて、のぞきこみ、静かな好奇心を、表情に浮かべながら、黙って回転するレコードから眼を離さなかった。
「きっとサウンド・ボックスがこわれているんだろう」と、いった。「ばからしい機械だ、どっちみち」
「困難はだね、思うに」と、マーカムがかみつくようにいった。「こういう卑俗な民主的な機械を、君が知らぬという貴族性にあるんだぜ――ちょっと、手を借そうか」
彼はヴァンスの側に歩みよった、僕も物珍しそうに、立ったまま、肩ごしに眺めた。万事秩序正しいようであり、針はちょうどレコードの終りの方にとどこうとしていた。しかし、ただかすかなきしる音だけがしていた。
マーカムは片手を伸ばして、サウンド・ボックスをあげようとした。しかしその動作を終ることができなかった。
そのとき、小さな部屋には、恐ろしい調子の高い悲鳴がひびきわたり、つぎに甲走《かんばし》って救いを求める二声がした。冷い戦慄《せんりつ》が僕の身体をはしり、髪の根元にまでしみこんだ。
われわれ三人とも口がきけなかったが、しばらく音がとだえると、同じ女性の声が高く、はっきりとした調子でいった。
「いいえ、なんでもございませんのよ。ご免なさいね。……なにも変ったことはありませんの。……どうぞお帰りになって、ご心配なさらないでね」
針はレコードの終りにきた。かすかにカチッといって、自動的にモーターがきれた。それにつづく恐ろしい沈黙は、ヴァンスの皮肉な、くすくすと笑う声で、破れた。
「さて、ね」居間にゆっくりと帰ってくると、だるそうに、いった。「君の議論の余地のない事実とは、およそこんなものだろう」
すると、ドアを叩く音がして、外で警戒中の警官が、びっくりした顔で、のぞきこんだ。
「なんでもない」と、マーカムはひからびた声で知らせた。「用があれば、呼ぶからね」
ヴァンスは寝椅子に長くなって、もう一本煙草をとり出した。火をつけてから、腕を頭の上にのばし、足をひろげ、強い肉体的緊張が、急にとけたような恰好《かっこう》をした。
「僕の考えでは、マーカム、僕たちはみんな森の中の赤ん坊みたいなものだったね」と、のろのろといった。「議論の余地のないアリバイ――ね、法律がそんなものがあると、仮定するなら、バンブル氏のいうように、法律は馬鹿だ、白痴だ――おお、サミイ、サミイ、アリバイ、なんていうことだろう!……マーカム、僕はそんなものを認めるのは恥しいよ。君や僕は始末に終えない薄馬鹿野郎なんだ」
マーカムは、|もの言う《テルテイル》レコードに、催眠術にかかったように、眼を釘づけにしながら、ぼんやりした男のように、機械の側に立っていた。ゆっくりと部屋に入ってくると、ぐったりと椅子に身体を投げだした。
「君たちのこういう貴重な事実は」と、ヴァンスはつづけた。「注意深く扮装された外観を剥《は》ぎとろうものなら、こういうものになるんだ。――スポッツウッドは蓄音器に一枚のレコードを用意した――簡単で十分な仕事さ。今日では誰でもできることさ。――」
「そうだ。彼の話では、ロング・アイランドの自宅には、工場があり、そこでちょっとした修繕をするといってた」
「ほんとうは、その必要もなかったんだね。しかしあるほうが、仕事を楽にしたにはちがいないよ。レコードの声は、自分の声をつくったものだね――女の声よりは、目的にかなった、強い、よく透るものだからね。ラベルは、ただの普通のレコードから剥ぎとって、自分のに貼《は》ったんだ。あの晩、女のために、数枚新しいレコードを買ってやり、その中にひそませておいたんだ。劇場から帰って、ぞっとするような寸劇を演じて、それから警官が典型的な盗賊の犯行だと考えるように、注意深く舞台をしつらえた。それが終ってから、レコードを機械にかけ、まわし、静かに歩いて出ていった。キャビネットには祈祷用ラシャ布とブロンズの花瓶をおいて、蓄音器はめったに使わないような印象を与えようとした。いきとどいた用心だったね。のぞきこもうと思うものは、誰もいなかったんだからな。どうして考えつくものがあろう。……それから、ジェサップにタクシーを呼んでくれと頼む――どれもみなきわめて自然だね。車を待っているうちに、針が録音された悲鳴のところにくる。悲鳴がはっきりときこえる、夜だ、音ははっきりと伝わる。それに木のドアを通してひびくから、蓄音器の雑音はうまくごまかせる。それに、君も注意しただろうが、中に入っているホーンが、三フィートと離れず、ドアの方にむいている」
「しかしあの男の質問と、レコードの返事との間の音の調節は……」
「きわめて簡単なことさ。ジェサップが、悲鳴のきこえたときに、スポッツウッドは片方の腕を交換台についていたといったのを、おぼえているだろう。ただ腕時計に眼をとめていたのさ。叫び声をきいたときに、レコードの音の間隔を計算し、レコードの返事をきくにちょうどよい時間に、想像上の婦人に質問したんだよ。前もってすべて注意深く工夫してあったのさ。きっと自分の実験室で、何度か練習しておいたにちがいない。簡単な仕組みだし、そのために、実際上、失敗することもなかった。レコードは大盤で――直径十二インチ盤だね――針が一回転するには約五分間はかかる。終りに悲鳴をいれておいて、出ていってタクシーをよぶだけの十分な時間をとっておいた。とうとう車がやってきて、真直ぐにスタイヴィサント・クラブに帰り、レッドファン判事にあい、三時までポーカーをする。もし判事に会わなかったら、アリバイをたてるに必要な誰か他の人にあって、自分をはっきりと印象させておいたろうと、確信できるね」
マーカムは重々しく頭をふった。
「そうだ! あらゆる機会をつかまえて、もう一度この部屋にいってみたいと、しつこく僕に頼んでいたのも、不思議ではないな。あのレコードのような、危い証拠があるために、夜も眠れなかったにちがいない」
「いや、僕が、これを見つけなかったとしたら、君の警官が移動するとすぐに、あの男はうまく手に入れたであろうと、考えたいね。思わぬことで、部屋に入れなくなって、悩みの種ではあったろうが、大いに苦しめたかどうかは怪しいよ。カナリヤの叔母が遺産をついだら、すぐに出かけていったであろうし、レコードを取りかえすことは、比較的やさしかったろうよ。もちろん。レコードは危険の種ではあったが、スポッツウッドはそんな低級なことにびくびくしているようなタイプの男ではないよ。いや、十分に科学的に設計してあった。ただ偶然のために敗れたんだよ」
「で、スキールは?」
「あれは、もう一つの不運な情況だったんだ。スポッツウッドと婦人とが十一時に帰ってきたときには、衣裳部屋の中に隠れていた。スポッツウッドが昔の情婦を絞め殺したり、部屋を荒らしたりしているのを見ていた。それから、スポッツウッドが出ていくと、隠れ場所から出てきた。蓄音器が血を凍らせるような悲鳴をあげたときには、きっと娘を見下ろしていただろうな。……きっとだ! 冷やかにふるえる恐怖の思いで、死んだ女をみつめていると、背後に、刺すような悲鳴がきこえた。いかに無慈悲なトニーでも、たまらなかったろうよ。用心をすっかり忘れて、思わずテーブルに手をついて、身体をささえたにちがいない……すると、こんどはドアからスポッツウッドの声がして、レコードが返事する。これはスキールを面くらわせたにちがいない。ちょっと、理性を忘れたんじゃないかと思うね。しかし、じきにその意味がわかった。僕には、あいつが歯をむき出して、くっくっと笑っているのがみえるよ。明らかに殺人犯は誰であるかを知っているし――カナリヤの崇拝家たちがどんな連中であるかを知らないとすれば、あの男の性格にふさわしいとはいえないだろうよ。そこで、天から落ちたマンナ〔食料〕のように、強請《ゆすり》の最も完全な機会をつかんだ。スポッツウッドの金で贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の安楽な生活ができると、美しい夢を描いて、その夢にふけっていたにちがいないね。クリーヴァが、数分して、電話をかけてくると、女は外出中だとだけいって、それから自分の脱出計画にとりかかったんだ」
「しかし、どうしてレコードをとってゆかなかったのだろう、僕にはわからんね」
「犯罪の現場から、動かせない証拠物件をもちだす?……まずい策略だよ、マーカム。後になってレコードを出してみたとしても、スポッツウッドはそんなものは一向に知らないと簡単に否認し、強請者がたくらんだ筋書だと責めつけるだけのことだろう。それはいけません。スキールのとる唯一の道はレコードをそのままにしておいて、すぐにもスポッツウッドから莫大な財産を要求するのさ。僕が思うに、このとおりにやったのだ。スポッツウッドはきっと若干の現金をやり、残金はすぐにやると約束し、そのうちにレコードをとりもどそうと考えていたんだ。思うように支払わないと、スキールは君に電話をかけて、万事をぶちまけるぞと脅かしたんだ、スポッツウッドを駈りたてて、払わせられると思ったのだね。……そうだ、駈りたてはしたのさ――しかも、思いもかけぬ行動にね。スポッツウッドは、きっと、先週の土曜日の夜に、うわべは現金を手わたすことにして、約束どおりに会い、金をわたすかわりに、相手の首を絞めたのだ。実にその性質に合っているじゃないか。……ふとい奴だよ、スポッツウッドはね」
「すべてが……ただただ驚くのほかはないな」
「僕はそうはいいたくないよ、いまはね。スポッツウッドは不愉快な仕事をやらなければならず、冷静に、論理的に、ぬかりなく、事務的にとりかかったのさ。小さなカナリヤは、自分の心の平和のために、殺さなければならぬときめていたのだ。きっと、女が大いに苦しめるふるまいをしていたにちがいない。そこで、日時をきめる――判事が法廷の囚人に宣告を下すようにね。それからアリバイを作りあげる手続きにとりかかった。いくぶん機械工のような才能があったから、機械的なアリバイをしつらえた。その選んだ手口はきわめて簡単明瞭であって――ひねくったものでも、複雑なものでもなかった。保険会社はよく敬虔ぶって神の所業だというが、そういうものがなかったら、うまく目的は達したはずだ。誰が偶然を予見できるだろうか、マーカム。予見できたとしたら、偶然とはいえないわけだ。とにかく、スポッツウッドは、たしかに人間としてできるかぎりの注意を払った。君がここに引き返して、レコードを没収して、その全努力を水泡にしようとは、思いもよらぬことであった。僕の音楽趣味を予想はできなかったし、音楽に慰安を求めようとは露知らなかった。その上、女を訪問した際に、別の求愛者が衣裳部屋の中に身を潜《ひそ》ませていようとは、思いもかけぬことであったろう。めったにないことだからね……まったく、あいつはかわいそうに、ちょっとした忌《いま》わしい不運にうちのめされたんだ」
「君はどうも犯罪の極悪さを見逃しているようだな」と、マーカムは鋭い非難をあびせた。
「そうむきに道徳的になるもんじゃないよ、君。誰でも心のうちには殺人犯が宿っている。誰かを殺してやろうという情熱的な要求を感じないような人間は、感情のない奴だ。普通の人間に殺人を思いとどまらせているのは、倫理学や、神学だと思うのかね。断じてそうではない、勇気がないんだ――見つけられはしないか、うなされはしないか、良心に責められはしないかという恐怖なんだ。一団の人々――たとえば国家――が、どんな喜びをもって人間を殺し、新聞を読んで娯しむかをみてみたまえ。国家が、ほんのつまらぬ挑発にのって、他の国民に戦線を布告し、大っぴらに殺人淫楽にふけっていることか。スポッツウッドはね、ただその信念をおこなう勇気をもった理性動物にすぎなかったのさ」
「社会は、不幸にして、いまだ君の虚無哲学をきくだけの覚悟はできていないよ」と、マーカムがいった。「しかも、それまでの過渡時代には、人命は保護されなければならんからね」
彼は、思いきって立ちあがり、電話のところにいって、ヒースを呼びだした。
「警部」と、命令を出した。「白紙の逮捕状を要求し、すぐにスタイヴィサント・クラブにきてくれたまえ。部下を一名つれてくる。逮捕をするのだ」
「ついに法律は、得心のいく証拠を手に入れたわけだね」ヴァンスは、ゆっくりと外套をきて、帽子とステッキとをとりあげながら、うれしそうに笑った。「君の法律手続きというものは、何というグロテスクな仕事だろうね、マーカム。科学的知識――心理学上の事実――が、君のような学問のあるソロンたちにさえ、無意味なんだからな。ところが、蓄音器のレコード――ああ、なんということだ。それが確信できる、反駁できない、最後のものだとは、ねえ?」
出ていくと、マーカムは見張りの警官を手招きした。
「どんなことがあっても、私の帰ってくるまでは、この部屋には、誰も入れてはならんよ――署名のある許可状をもっていてもだぞ」
タクシーにのると、運転手にクラブにいくよう伝えた。
「さてと、新聞が待ちかねているだろうな。うん、すぐにかけずりまわるだろうね。……君のおかげで、僕は香《かんば》しからぬ落し穴におちこまずに助かったというものだな」
そういいながら、ヴァンスに眼をむけた。その眼つきには、とても言葉にいい現わせないような、深い感謝を、こめていた。
第三十章 終幕
――九月十八日、火曜日、午後三時三十分
ちょうど三時半に、われわれはスタイヴィサント・クラブの丸天井の広間に入った。マーカムはすぐに支配人を呼びにやり、二言三言、内証話をした。すると、支配人は急いでたち去り、五分ほどしてもどってきた。
「スポッツウッドさんは自室におられます」帰ってくると、マーカムに知らせた。「私は電気技師をやって、電球を検《しら》べさせました。あの紳士はおひとりで、机で書き物をしておられるということでございます」
「で、何号室?」
「三階の三百四十一号室です」支配人はひどく心をとりみだしている様子であった。「なにか面倒なことでも、もちあがるようなことはございませんでしょうね、マーカムさん」
「そんなことはあるまい」彼の口調は冷やかであった。「しかし、現在の事態は、君のクラブよりは、はるかに重大なことなんだ」
「なんという大げさな見方なんだろう」支配人がいなくなると、ヴァンスはためいきをついた。「スポッツウッドの逮捕は無駄の極みだといいたいよ。あの男は犯罪者とはいえないんだからね。ロンブロゾオの『犯罪者』と共通するものはなにもありはしない。まさに哲学的行動主義者とでもいうべき人間なんだ」
マーカムはふんと唸ったが、答えなかった。待ちかねるようにして大玄関の方に眼をむけたまま、いそがしくあちこちと歩きはじめた。ヴァンスは安楽椅子をみつけて、静かにわれ関せずとおちついた。
十分ほどして、ヒースとスニットキンがついた。すぐにマーカムは二人をひっこんだ所につれていって、二人を呼びよせた理由を簡単に説明した。
「スポッツウッドは、いま上にいる」と、いった。「できるだけ静かに逮捕したい」
「スポッツウッド!」ヒースは驚いて、その名をくりかえした。「私にはどうもわからんですな――」
「わからなくてもいい――いまはね」と、マーカムは鋭くさえぎった。「私が逮捕の全責任を負うよ。それで、君は手柄の方をとればいいんだ――ほしいものならばね。君にむいているかな?」
ヒースは肩をすくめた。
「私のことはかまいません……おっしゃるとおりにやります」よくわからないといったように頭を振った。「しかし、ジェサップはどうします」
「留めておこう。人的証拠さ」
われわれはエレベーターで、三階に上った。スポッツウッドの部屋はマディスン広場にむかった角にあった。マーカムは、顔をしかめて、先にたって歩いていった。
ノックに答えて、スポッツウッドはドアをあけ、楽しそうに挨拶して、横によって、われわれを部屋に招き入れた。
「どういうお知らせなんでしょうか」と、椅子を前に出して、きいた。
このとき、マーカムの顔を光ではっきりとみて、すぐにわれわれの訪問の嚇《おど》すような性質をみてとった。表情は変らなかったけれど、すぐに身体をしゃんとさせたのがわかった。冷やかな、読みとりにくい眼は、ゆっくりと、マーカムの顔から、ヒースとスニットキンの方に動いた。それから、他の人たちのすこし後ろに立っているヴァンスと僕とをみつめてから、しっかりとうなずいた。
誰も口をきくものはなかった。しかもどうやら完全に悲劇が実演されており、どの俳優も、一つ一つの科白《せりふ》をききとり、わかっているような、感じがした。
マーカムはいやいやすすめているように、立ちつづけていた。その職務上の義務であるにもかかわらず、悪人の逮捕は一番嫌なことがわかった。不幸にも悪事におちいったものにたいし、世俗人の寛容をもった、世俗的な人間だった。ヒースとスニットキンとは一歩すすんで、地方検事が逮捕状をわたす命令をだすのを、今か、今かと、油断なく待ちかまえていた。
スポッツウッドは眼をふたたびマーカムの上にとどめた。
「なんのご用でしょうか?」その声は静かで、なんの動揺の色もみえなかった。
「二人の警官とご同行を願いたい、スポッツウッドさん」マーカムは、ちょっと頭で、側にいる二人のおちついた人影の方をさして、静かにいった。「余はマーガレット・オーデルの殺人犯として貴下を逮捕する」
「ああ!」スポッツウッドの眉は静かにあがった。「では、あなたは――なにかを見つけられたのですね?」
「ベートーヴェンの『アンダンテ』」
スポッツウッドは顔の筋肉ひとつ動かさなかった。しばらくして、はっきりとわかるように、なにもかもあきらめたという身ぶりをした。
「まったく思いもかけないことでもありませんでした」悲劇味をおびた微笑をうかべて、平然といった。「ことに、レコードを手に入れようとする、すべての努力をとめられてしまいましたからね。しかし、それにしても……ゲームの運というものは、いつもはっきりとわからないものです」微笑は消えて、態度は荘重になった。「私を無頼漢《カネイユ》どもから防いでくださった点では、マーカムさん、あなたはじつに寛大にとり扱ってくださった。そのご親切には深く感謝しています。それで、私のやったゲームには、他に選択の方法がなかったという点を、お話ししましょう……」
「あなたの動機が、どんなに有力なものでありましても」と、マーカムはいった。「あなたの罪を斟酌《しんしゃく》するわけにはまいりません」
「私が斟酌していただきたいと思っているとお考えなのですか」スポッツウッドはその非難を、軽蔑するような身振りでしりぞけた。「私は小学生ではありません。私は自分の行為の結果を計算し、そこに含まれるさまざまな要因の軽重《けいちょう》をはかってから、危険を冒す決心をしたのです。たしかに賭博ではありました。しかし慎重に計画した危険から、不幸がおこっても、悔むようなことは私の習慣にはありません。その上、この選択は実際問題としてやむなくとったものです。もしあの場合に、賭博をしなかったとしても、やはり私は莫大な損失をみていたはずです」
顔が苦しそうになった。
「あの女は、マーカムさん、私に不可能を求めていたのです。金銭的に私を絞りあげるだけでは満足しませんで、法律上の保護、地位、社会的特権――こういう私の姓名だけが与えられるようなものをば、すべて要求していました。妻を離婚して、あの女と結婚しなければならぬといいはりました。この要求がどんなに莫大なものか、おわかりになるでしょうな。……ねえ、マーカムさん。私は妻を愛していますし、愛する子供たちもおります。私の行状を棚にあげて、どうしてこういうことがいえるか、いろいろとご説明申しあげて、あなたの知性のお怒りにふれたくはありません。……しかも、あの女は、ただ自分の幼い、馬鹿らしい野心を満足させるためにだけ、私の生活をこわし、私の愛するものを、すべてめちゃくちゃにするように要求していたのです。拒絶すれば、二人の関係を妻に知らせる。私の書いた手紙の写しを送る、世間に訴える――つまり、スキャンダルをまきおこして、なんとしても、私の生涯をほろぼし、家庭の不名誉をおこし、家庭をこわすようにすると、脅迫したのです」
ちょっとやすんで、深く息を吸いこんだ。
「私は中途半端なことは性に合いません」と、無感動に言葉をつづけた。「私には妥協の才がありません。きっと、私は私の天性の犠牲でありましょう。しかし、私の本能は最後のチップになるまで勝負をつづけること――どんな危険が脅かそうとも、断乎としてやりぬくことでした。一週間前に、たった五分間で、昔の狂信者たちが、冷静な心と正義感とをもって、精神的破壊をもって脅かす敵を、どういうふうにねじふせたか、さとることができました。……私の愛する者を、恥辱と苦悩とから救う唯一の道を選んだのでした。それは絶望的な危険を冒すことでもありました。しかし、私のうちを流れる血は、私にためらうことを許さないようですし、怖ろしい憎悪の苦悩に燃えていました。平和を得られる、もっとも手近かなチャンスをつかまえて、生きた屍になるよりも、生命を賭けたのでした。そして負けたのです」
またかすかに微笑した。
「そうです――ゲームの運です……しかし、私がこぼしているとか、同情を求めているとか、ちょっとでもお考えになってくださいますな。私は他人には嘘をつくかもしれませんが、自分にはついたことはありません。めそめそと、泣き言を並べる奴、自己弁解をやる奴は大嫌いです。これはわかっていただきたいものです」
側のテーブルにいくと、やわらかな革表紙の小さな本をとりあげた。
「昨晩、私はオスカー・ワイルドの『深き淵《ふち》より』を読んでいました。私に言葉の才がありましたら、同じような告白を書いたでしょう。すくなくとも怯懦《きょうだ》という最後の汚名を私にきせないように、私の申しあげる意味を説明させてください」
本を開いて、読みはじめた。その声には熱情がこもって、われわれ一同を沈黙させた。
「僕が僕自身の破滅をもたらしたのだ。身分の高下を問わず、自分以外の他人の手によって破滅させられる必要はない。僕がこの告白をすれば、すぐに、すくなくとも今は、この告白を疑惑をもって、うけとるものも多いだろう。しかも、僕は無慈悲に、かく自分を責めてはいるが、一言半句も弁解のために責めているのでないことを、心にとめよ。世間が僕に加えた刑罰は怖ろしいものではあったが、僕が自分に加えた破滅こそさらに怖ろしいものである。……僕は、成人となる暁に、僕自身の地位をさとった。……名誉ある家名、優れた社会的地位を味わった。……やがて転機が訪れてきた。高い地位に安住することに倦《う》み――自分の意志で、深淵に下った。……僕の望みが僕にふさわしいものであれば、つねに満たし、かくして歳月は過ぎていった。日常生活の一切の行為、きわめて無意識な行為すらも、ある程度、性格をつくり、またはこわすということを忘却していた。しかも室内の隠遁生活から生ずる一切の出来事が、いつかは世間に誇大に吹聴される日も訪れてくるだろう。僕は自制する力を失った。もはや自分で舵《かじ》をとることができなくなった。僕はそれを知らなかった。……僕は快楽の奴隷になりはてた。……ただ一つのことが僕には残されていた――完全な汚辱だ」
本を投げ出した。
「おわかりになったでしょう、マーカムさん」
マーカムはしばらく口をきかなかった。
「スキールについてお話しくださいませんか」と、ついにきいた。
「あいつめ!」スポッツウッドは嫌悪を吐きだした。「あんな奴なら毎日殺してやっても、私は社会の恩人だと思っております。……そうです。私が絞殺したのです。以前にでもそのくらいのことはしたでしょう。ただ機会がなかっただけでした。……劇場がはねてから、アパートに帰ってきますと、スキールの奴は衣裳部屋に隠れていて、私が女を殺すのをみていたにちがいありません。あの鍵のおりた衣裳部屋の中に隠れているとわかっていたら、ぶち破っても、きれいに消してしまったでしょう。衣裳部屋に鍵がかかっているのは、きわめて自然だと思いました――二度と考えてみようともしませんでした。……すると、翌晩、このクラブに電話をかけてきました。はじめはロング・アイランドの私の家に電話して、ここに滞在していると知ったのです。前に一度も会ったことはないし――その存在すらも知りませんでした。しかし、あの男は、私だと認める知識をもっていたようです。――きっと私が女にくれた金のうちの幾分かは、奴の手にわたっていたのでしょう。私はとんでもない泥沼に落ちこんだものです!……電話をかけてきて、蓄音器のことをいいだしましたから、なにかを見つけたのだなと悟りました。ウォルドルフ・ホテルのロビーで会って、真実をききました。その言葉には疑う余地がありませんでした。私が納得したとわかると、びっくりするような莫大な金額を要求したのです」
スポッツウッドはしっかりとした指で、煙草に火をつけた。
「マーカムさん。私はもう金持ではありません。じつは、破産の淵に瀕《ひん》しているのです。父の遺《のこ》してくれた仕事は、ほぼ一年ばかり前に、管財人の手にわたっています。私の住むロング・アイランドの土地家屋は妻のものです。このことを知っているものはめったにありませんが、不幸にして真実です。私が卑怯者の役を演じようとしてみても、スキールの要求する金額を調達することはまったくできませんでした。しかし、数日の間、黙らせておくために、少額の金をわたし、私の財産の若干を換金でき次第、要求する金額をわたそうと約束をしました。私としては、その間に、レコードを手に入れて、こうしてその矢玉を消してしまおうと思いました。けれども、これには失敗しました。そこで、あなたに万事を話すと脅かしてきたときに、先週の土曜日の夜に、金を自宅にとどけようと約束をしたのです。あいつを殺害しようという十分な意図をもって、約束をしたのです。家に入りこむことには用心をしましたが、先方から誰にも見られずに入りこむ時刻と方法とを説明してくれましたから、役にたちました。入るとすぐに、時間を空費しませんでした。あいつが警戒をとくとすぐに捕えて――見事にやりとげました。それから、ドアに鍵をかけ、鍵をとって、堂々と家を後にして、このクラブに帰ってきたのです。――これで全部だと思います」
ヴァンスは面白そうに見ていた。
「それで、昨晩、私の賭金をせりあげられたときには」と、いった。「あの金額はあなたの資産にとっては、かなりに重要なものであったわけですね」
スポッツウッドはかすかに微笑した。
「実際には、この世にもっていた金額の全部でした」
「驚くべきことだ!……それで、どうしてベートーヴェンの『アンダンテ』のラベルを、あのレコードに選ばれたかを、ひとつ承りたいものですな」
「もう一つの誤算でした」と、男は疲れたようにいった。「私がレコードをとり返してこわしてしまう前に、なにか偶然に蓄音器をあけるような人がありましても、古典音楽をきこうとは思わないで、もっと通俗な音楽を選ぶだろうと、思ったものでした」
「しかも、通俗音楽の嫌いな男に見つかってしまった! スポッツウッドさん、あなたのゲームには、どうやら不親切な運命がとりついていたようですね」
「そうです。……私に宗教心でもありましたら、因果応報とか、神罰とか、くどくどとお話しいたすかもしれません」
「宝石箱についておたずねしたい」と、マーカムがいった。「どうもスポーツマンらしくはないおたずねで、私の方から申したくもないのですが、すでに自発的に主要な問題点については自白してくださったのですから」
「おききになりたいことなら、どんなご質問をなさろうとも、すこしも気にはしません」と、スポッツウッドは答えた。「書類箱から、手紙を取りもどして、盗賊の仕業と思わせるように、部屋中はひっかきまわしました――もちろん、用心深く手袋をつかいました。また同じ理由から、婦人の宝石をもとりあげました。ただし大部分は私の買い与えたものなのです。スキールに口止めにやりましたが、こわがって受けとりませんでした。それで、ついに自分で棄てる決心をしました。クラブの新聞紙を一枚とってつつみ、フレイティロン・ビルの側のゴミ箱に放りこみました」
「朝刊の『ヘラルド』紙に包みましたな」と、ヒースが口を入れた。「ポップ・クリーヴァが、『ヘラルド』のほかには、読まないということを、ご存じなのですか」
「警部!」ヴァンスの声は強い叱責する口調があった。「きっと、スポッツウッドさんは、そんなことはご存じがない。――知っておれば、『ヘラルド』紙を選んだりはなさらなかったでしょうな」
スポッツウッドは、ヒースに、憐れむような軽侮をもって微笑をおくった。それから、ヴァンスを感謝するようにちらとみて、マーカムにむかった。
「宝石を始末してから一時間ばかりして、包紙が発見され、用紙から後をたぐられはしまいかという恐怖に襲われました。そこで『ヘラルド』紙をもう一枚買って、新聞挟みに加えておきました」一息ついて、「これで全部でしょうか」
マーカムはうなずいた。
「ありがとう――全部です、さて、この警官と、ご同行を願わなければなりません」
「それでは」と、スポッツウッドは静かにいった。「ちょっとしたご便宜をおはからい願えませんでしょうか、マーカムさん。思いもかけぬことになりましたので、妻にも一筆書き残しておきたいのです。しかし、書いている間、一人にしておいていただきたいのです。きっとおわかりになりましょう。数分もあれば、結構です。あなたの部下がドアに立っておられる――とうてい逃げられはいたしません……勝利者はこのくらいのご寛容を下さるでしょうね」
マーカムが返事をするひまもないうちに、ヴァンスはすすみ出て、腕にふれた。
「まさか君は」と、口を入れた。「わがスポッツウッドさんの願いを拒む必要があろうとは思うまいね」
マーカムはためらうように、彼を眺めた。
「君には立派に指図する権利があると思うよ、ヴァンス」と、彼は黙って同意した。
それから、ヒースとスニットキンとに、部屋の外に出て待っているように命じ、マーカムとヴァンスと僕とは隣室に入った。マーカムは、ドアの側に、警戒するように立っていたが、ヴァンスは皮肉な微笑を浮かべて、窓ぎわにぶらぶらと歩みより、マディスン広場を眺めていた。
「ねえ、マーカム」と、いった。「あの男には、ちょっとすばらしいところがあるじゃないか。意識せざるをえないな。精神がみごとに健全で論理的だよ」
マーカムは答えなかった。町の午後のぶんぶんいう騒音が、しまった窓に消されてやわらぎ、われわれの待っている小さな寝室の静まりかえった沈黙を、深めているように思われた。
すると、別の部屋から鋭い銃声がきこえた。
マーカムはとんでいってドアを開けた。ヒースとスニットキンとがすでにスポッツウッドの倒れた身体に突進していって、マーカムの入っていったときには、死体をのぞきこんでいた。すぐにぐるっとふりむくと、ちょうど入口に姿をあらわしたヴァンスの方を睨んだ。
「自殺した」
「そうだろうと思った」と、ヴァンスはいった。
「君は――君は、まさかやると知っていたのか?」マーカムは唾《つば》をとばした。
「かなりはっきりとしていたじゃないか」
マーカムの眼は怒って血走った。
「それで、君はあの男のために口を入れて――機会を与えてやったのか?」
「チェッ、チェッ」ヴァンスはたしなめた。「ありきたりの道徳からのお腹立ちは困るな。論理的にいえば、他人の生命を奪ったのは非論理的かもしれんが、自分の生命は、たしかにその男のもので、自分の思いどおりに処理できるだろうよ。自殺は譲渡のできない人間の権利なのだ。わが近代民主主義の親権的暴政のもとにあっては、僕は、むしろ自殺こそ人間に残された唯一の権利じゃないか、ぐらいに考えているのだがね、どうだい?」
ヴァンスは、時計をみて、顔をしかめた。
「君のつまらぬ仕事にこだわって、コンサートにいきそこなったよ」マーカムに人の心をひくような微笑を投げながら、彼はやさしくこぼした。「それでいて、現に君は僕に怒っている。ほんとに、君はとんでもない恩知らずだな」(完)
訳者あとがき
『カナリヤ殺人事件』The "Canary" Murder Case はS・S・ヴァン・ダインが『ベンスン殺人事件』についで一九二七年に発表した第二作である。ヴァン・ダインはアメリカの美術評論家ウィラード・ハンティングトン・ライトの筆名で、たまたま一九二五年半ばまで、二年あまり病床にあった。この病気の恢復期に二千冊あまりの推理小説を読破し、自分もまた推理小説を書いてみようと考えて、発表した第一作が『ベンスン殺人事件』(一九二六年刊)であった。このとき「一人の作家は生涯に六作以上の創意のある長編小説を考案することはむつかしい」といった意味のことをいった。作者は六作しか書かぬつもりであったが、流行作家となって、生涯に十二の長編推理小説を書いた。しかし、実際そのことばのように、初めの六作、いまあげたほかに『グリーン家殺人事件』『僧正殺人事件』『甲虫殺人事件』『ケンネル殺人事件』が推理小説史上にその名をとどめる独創的なものになった。その後の作品は、さすがのヴァン・ダインも、その言のように、うまくいかず、力のこもらないものになった。
『カナリヤ殺人事件』は、推理小説の正統をふむ密室殺人事件である。密室殺人事件という点で、遠くフランスのルルウの『黄色い部屋』いらいの伝統をふむものであり、そこに当然に密室殺人を成立させるトリックの伝統がある。『カナリヤ殺人事件』もドアと鍵とで容易に密室の成立する西洋式住宅様式にもとづいたトリックが存在する。読者の興味をそぐおそれがあるので、この点について詳しく書かないが、作者が使用しているトリックは、すでに多くの人の指摘するように、今日の進歩したトリックからみて、幼稚だという非難に値するかもしれない。しかし、僕はこの小説をトリックにだけ依存している推理小説だと考えることには反対である。ポオの『モルグ街の殺人』いらい、アメリカの伝統に立った推理小説は、この作者の出現によって、たしかに新しい局面をみせたと考える。
その第一は、ファイロ・ヴァンスのもちいる「新しい独自の心理学的方法」というものである、と考える。綿密に計算されてつくりだされた、犯罪の特異とする特色を、犯人の心理的性状にむすびつけて分析し、解釈していく方法である。物的証拠のかげに特異な心理的証拠の存在を確認し、この心理的証拠をのこした人間性格をみとめて、人間の内部性質から分析し解釈していく――こういう近代小説の方法が推理小説の手法として確立したのは、おそらくヴァン・ダインの出現によるものであろう。この方法において、トリックは密室殺人を可能にした物的条件にすぎず、推理小説としての枠にとどまっている。むしろ興味は分析的・演繹的方法の思考過程そのものにあるといってよいだろう。僕は、作者がオスカー・ワイルドの『深き淵より』にヒントを得て、このように勇気のある賭博者の心理的性状から、この一篇の推理小説を構想した点に、深い興味をもつものである。
もちろん、犯罪捜査に心理的方法が実際にどれだけ役にたち、どんな欠陥があるかは別の問題である。そして、賭博者の心理ということから、ポーカー・ゲームがファイロ・ヴァンスの犯人推理にきめ手となってくる。僕は、このポーカー・ゲームをもって人物鑑別につかう方法に、異論をもつ批評家のあることを知っているが、あえて作者の創意として、これを第二の特色にあげたい。作者が本文に引用しているように、賭博者の心理測定において、このポーカー・ゲームをもちいたことは、やはり知的興味をそそるものがあるからである。おそらく賭博者の心理というものが、この簡単なゲームのなかにさかうつしになって、人間心理の微妙なアヤを解析するに役だつ――これは、あるいは作者の創意ではないかもしれないけれども、推理小説に本質的にもちいられたのは初めてであり、また作者の解釈が十分に読者を納得させる論理的説得力をもっている。これはこの小説のもう一つの要点である。読者は、本書の第二十七章「ポーカー・ゲーム」を読み終ったところで、第二十八章においてファイロ・ヴァンスが犯人を指摘する前に、ファイロ・ヴァンスと同じく犯人を指摘できる条件に立っているから、ヴァンスと智慧くらべをしてみるのも、おもしろかろう。但し、それまでに物理的障害となるトリックの一つはとけているが、きめてのトリックはとけていない。だから、ファイロ・ヴァンスと同じく物的証拠と心理的証拠との矛盾を、心理的証拠によって心理論理的に、考えてみることを、必要としよう。
ファイロ・ヴァンスがここでおこなっているポーカーは、ジャック・ポット Jackpots といわれるドロウ・ポーカー Draw Poker の一種である。僕はポーカー・ゲームに通じているわけではないが、ポーカー・ゲームを説明したアメリカの本によると、ジャック・ポットはアメリカに広くおこなわれているらしく、この名称は歴史的にきているらしい。ジャック・ポットは、ジャックのペア以上の手をもっているものが、いわゆる賭親となって最初に賭けをすることができ、これにライヴァルが挑戦して、せりあげることになっている。普通のポーカーでは、ポットをひらくものに特権が与えられてはいない。しかし誰も賭けないか、どの競技者かが高い手をもっている特別の場合にジャック・ポットの勝負になるのである。つまり普通のポーカーとちがって、競技者はカードを配る前に、つまり手札をみないで、アンテ〔賭け〕をする、しかも勝負がはじまってからジャックのペア以上の手がなければ、誰も最初にベット〔賭け〕をいうことができない。そして、ジャック・ポットをいった競技者は勝負の決着後にオープナアズ〔ジャックのペア以上の手のあることをしめす札〕をみせなければならない。だから、賭親になったヴァンスはクリーヴァにも、スポッツウッドにも、終ってから手札をみせる。スポッツウッドの場合には、ヴァンスが勝負を投げたのだから、自分の手札をみせる必要はないことを承知して、読んでもらいたい。勝負の順位やその他のやりかたは普通のドロウ・ポーカーとちがわない。
なお、念のためにいうと、このポーカー・ゲームの章に作者の思いちがいがあるようである。一枚のカードをひいて、ストレイト・フラッシュ、フラッシュ、ストレイトのできる確率を計算しているところである。本文によると、その確率を、四十七分の十九と書いてある。僕は諸版をしらべてみたが、誤植ではない。これは作者が個々の場合を計算して 2+9+8=19 と単純に加算したためにおこった誤算であろう。ストレイト・フラッシュ、フラッシュ、ストレイトのできる確率は、相互に重複するから、四十七分の十五とするのが正しいと考える。この点について、かつて読者から投書があったので、本文はそのままにしておいたが、ここに作者の思いちがいであろうと、一言しておく。
この『カナリヤ殺人事件』の初訳は、昭和五年に、当時の文芸批評家で、数々の翻訳のある平林初之輔の抄訳である。僕は、偶然に、故平林の後をついで完訳することになったので、文芸批評家として、いささか感慨なきを得ない。そのころ、ウィリアム・ボオエル主演のパラマウント映画もみている。年少の日に、推理小説を愛好した記憶もなつかしい。なお、僕の訳は戦後まもなく昭和二十五年五月、新樹社から、「ぶらっく叢書」の一冊として出版した。そのときは Grosset & Dunlap 版(ポケット版には若干の誤りのあるものがある)によって訳し、学友金子哲郎君の助力をあおいだ。その後、そのままハヤカワ・ポケット・ミステリの一冊に入れたが、これは脱漏その他ができ、校正で多少直したぐらいであった。こんど角川文庫におさめるにあたって、悪訳、誤訳を正したのはもちろんのこと、用語を平易にすることにつとめた。ご承知のように、作者は美術批評家であり、古今の文学が断りなしに引用されている上に、ややペダンティックであるために、浅学な僕には出所のわからぬところがある。ここには、その後の井上勇氏の訳などをも参照して啓発され、多くの朱筆を加えたが、原作者の付註のほかは、できるだけ註をさけ、本文におりこみ、できるだけ読みやすく、わかりやすくすることに骨をおった。(訳者)
◆カナリヤ殺人事件◆
ヴァン・ダイン/瀬沼茂樹訳
二〇〇四年十二月二十日