ヴァン・ダイン/坂下昇訳
グリーン家殺人事件(下)
目 次
第十四章 絨毯の上の足跡
第十五章 殺人者は内部にいる
第十六章 消えた毒薬
第十七章 二つの遺言状
第十八章 秘密の書斎にて
第十九章 シェリー酒と全身麻痺
第二十章 第四の悲劇
第二十一章 滅びの家系譜
第二十二章 幻《おぼろ》めく影
第二十三章 欠落の事実
第二十四章 謎めく旅路
第二十五章 捕縛
第二十六章 どんでん返しの真相
解説
第十四章 絨毯の上の足跡
(十一月三十日、火曜日、正午)
マーカムはエイダに同行を承知させるのに、かなり苦労した。この少女は、ほとんど戦慄《せんりつ》の果ての恐慌状態に陥っているかに見えた。のみならず、レックスの死に対して、間接的にせよ、自分が責任があるといって頑張るのだ。しかし、ついに彼女もわれわれが車のところまで連れおろすのに従った。
ヒースは既に殺人課に通報ずみで、わたしたちがセンター通り側から出発する頃までには、捜査の段取りは完了していた。警察本部からはスニットキン、地方検事局刑事課からはバークという名の刑事がもう一人、われわれを待っていて、マーカムの車の後部席に便乗してきた。グリーン・マンションまではすばらしい勢いで飛ばし、二十分もせぬうちに、現場に到着していた。
私服が一人、グリーン家の屋敷門の手前二、三ヤード、街路の角の鉄柵《てつさく》に靠《もた》れ、ぶらりと立っていたが、ヒースの合図に応じて、すぐ近づいてきた。
「何をぼやぼやしとるんだ、サントス!」部長がどら声で詰問《きつもん》した。「けさ、ここを出入りした人間は誰と誰だ、言ってみろ!」
「偉い剣幕もあったもんだ。あっしが何をしたというんですかい?」刑事がむっとしてやり返した。「あの老いぼれ赤ん坊の家令が外出。時刻は九時、帰宅は包みを抱《かか》えて三十分足らず。そして言うことにゃ、三番街までひとっぱしり、犬のビスケットを買ってきたとか。次はあの家つきの藪医者先生、車でやってきたのが十時十五分ごろ――ほれ、道の反対側においてあるのが奴さんの車でさあ」彼がフォン・ブロンのダイムラーを指さしたが、斜め対面駐車のままに置いてある。「まだ内部でさあ、ええとお次は先生が現われてから十分したころ、この若い娘さんが」――と、エイダを指さし――「外出、A番街方向へ歩きかけ、そこでタクシーにひとっ飛び、以上が、あっしがけさ八時、キャメロンと交替以来、ここの門を出入りした男、女および子供のすべてでさあ」
「それなら、キャメロンの申し送りはどうだ?」
「一晩じゅうひとっこひとりもこねえというんでさあ」
「ところが、誰か、どうかして|入り《ヽヽ》をつけた奴がいやがるんだ」と、ヒースが唸《うな》った。「おまえ、ここの西壁づたいにすっ飛んで、ドネリーに|とっとと《ヽヽヽヽ》こいと言ってこい」
サントスが玄関の向うに姿を消した。一瞬後、わたしたちの目に、彼が側庭を走り、車庫に向っているのが見えた。二、三分後、ドネリー――裏門の張り込みを命ぜられていた刑事――が大急ぎで走ってきた。
「けさ裏門をはいったのは誰と誰だ?」
「誰もいませんや、部長。料理女が十時ごろ買出しに外出、制服の配達人が二人、包みをおろし――以上が昨日から裏門から出入りした全員でさあ」
「さようでありまするか?」ヒースが意地の悪い冷笑主義を出した。
「あっしはなにも、その――」
「なあに、いいってことよ」部長がバークを振り向いた。「おまえ、この壁によじ登り、巡回してみてみろ。誰か登って越えた人間がいないか。いたらどの点か、調べて見ろ。それから、おまえスニットキン、庭を隈《くま》なく捜し、足跡を調べてみろ。調べが終り次第、おれに報告するんだ。おれはこれから邸内だ」
わたしたちは玄関への歩道を通っていったが、今日はきれいに掃除してある。スプルートがわたしたちを招じ入れた。その顔は相変わらず無感動そのもので、いつもの恭《うやうや》しい儀礼でわたしたちの外套《がいとう》を取ってくれた。
「さあ、自分の部屋にいっていらっしゃい、お嬢さん」と、マーカムがやさしく手をエイダの手に添えた。「横になって、暫く休むことですね。疲れたようにお見受けする。帰るまえに一度あなたの部屋に伺います」
少女は一言もいわず、おとなしく服従した。
「そこで君、スプルート」と、マーカムが命令した。「居間にきなさい」
老家令はわれわれに随《つ》いてきたが、中央テーブルの前にくると、頭を下げて立ちつくした。マーカムが坐るのを待っていたのである。
「さて、君の話を聞かせてもらおうじゃないか」
スプルートが咳払《せきばら》いをして、窓の外を凝視した。
「お話することはなんにもないくらいのもんでして、検事さま、わたしは家令用の配膳室におり、ガラス器を磨いておりましたが、そのとき銃声が聞えまして――」
「話を少し先に戻しなさい」と、マーカムが遮《さえぎ》った。「わたしの諒解するところ、君はけさ九時に三番街に用足しに出掛けたろう?」
「イエス・サー。シーベラお嬢さまが昨日ポメラニアンを買っていらっしゃいまして、朝食がすんでから、わたしに犬のビスケットを買ってこいとお命じになりました」
「けさの訪問者は?」
「ございません――つまりその、フォン・ブロン先生だけは別ですが」
「よろしい。では、起こったことを逐一話しなさい」
「なんにも起こりませんのです――つまり、いつもと変わったことはなんにも――そこへ、とうとうレックス旦那が撃たれなすって、エイダ嬢さまはフォン・ブロン先生の到着後二、三分してお出掛けになりましたし、十一時少し過ぎには、あなたさまからレックス旦那へ二度目の電話が掛ってきたわけでして。そこでわたしは、配膳室へ戻りました。戻って二、三分もならないころ、あの銃声が聞えまして――」
「それは何時何分だと君は思うかね?」
「十一時二十分ごろだと思います」
「それから、どうした?」
「わたしはエプロンで手を拭《ふ》き、食堂に走りこんで耳を澄ませました。あの銃声が屋敷の内部で起こったものかどうかははっきりしなかったのですが、これはひとつ調査せねばいかん、とこう思いまして。そこで、二階へ上がりましたが、レックス旦那の部屋の扉が開いているので、まずそこを覗いてみました。そこでわたしが見たもの、ああ、それは、ああ、おいたわしや、若者が床に倒れ、額にできた小さい傷口から鮮血がほとばしっている姿! わたしはフォン・ブロン先生をお呼びし――」
「お医者はその時どこにいたの?」ヴァンスが横から質問した。
スプルートが躊躇《ちゅうちょ》し、考える様子をした。
「二階においででした。それですぐに姿をお見せになり――」
「ほう、二階にね、あるかなきかに徘徊《はいかい》し、というんだろう、どうせ――ここと思えばまたあちら、というのはどう?」ヴァンスの目が家令の目を穴のあくほど見つめた。「おい、おい、スプルート、先生はどこにいたんだ?」
「|わたしが思いますに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、シーベラ嬢さまのお部屋だろうと」
「|Cogito, Cogito《コギト コギト》〔「われ思う……」有名なデカルトの言葉〕はよしたまえ……ならば、君が脳頭蓋の固《かた》びんた、太鼓がわりに叩いて見ろよ。いま少しの客観的結論が出てこんものでもあるまい。いったい、フォン・ブロン博士のこの世を泳《およ》ぐ肉持つ物体は、いかなる宇宙空間の軌道から姿を現わしたというのかい――君が神呼びした後は?」
「事実を申しますと、その、シーベラお嬢さまの扉からひょっこり姿を現わし――」
「はて、さて、こいつは驚き入ったる次第かな! よって、然るが故にだ、結論は自明の通りだ――君の|びんた《ヽヽヽ》を|ちぢ《ヽヽ》に砕いてもらうこともないさ――くだんの扉からひょっこり姿を現わすに先立ち、先生、じつはシーベラ嬢の部屋にいた、というのはどうだい?」
「さようなところかも知れませぬ」
「こいつは飛んだ癪のたね。スプルートよ、君は医師がそこにいたことを、ちゃんと知っているんじゃないか」
「そのう――イエス・サー」
「ならば、君が一世一代の冒険物語《オディッセー》。さ、続けたまえ」
「それはもっと叙事詩《イリアッド》に近いもんでして、そう申して失礼ではございますが。つまり、もっと悲劇《トラジコ》風に近かった。憚《はばか》りながら言わせてもらいますが。と申して、レックス旦那が主人公の勇士、ヘクトルそっくりだったなどとおこがましいことは申しませぬが。さはさりながら、ええと、フォン・ブロン先生はすぐに飛び出して見え――」
「すると、先生は銃声は聞いていたわけじゃないの?」
「お見受けするにそのようで。なんとなれば、レックス旦那の姿を見て、それはそれは大変な驚きようで。それにシーベラお嬢さまも、続けて部屋にやってこられましたが、これもまた大変な驚きようで」
「二人のコメントはなかったのかい?」
「その点に関しましては、わたしからはなんとも。わたしはすぐ一階に降り、マーカムさまに電話申し上げましたので」
スプルートがこう語っているところへ、エイダが拱門《きょうもん》に姿を現わした。目がつり上がっている。
「誰かあたしの部屋にいた人間がいるのよ」と、彼女がおびえた声で打ち明けた。「たったいま二階に上がってみると、バルコニーに通ずる観音開きの扉が半開きになっていて、床の上に汚い足跡がついているのです……ああ、一体、どういうことなのかしら? まさか――?」
マーカムががくんと前面に乗り出した。
「あなたは外出の時、その扉は閉《し》めて出たのですか?」
「もちろんですわ」と、彼女が答えた。「冬はめったにあけないのです」
「それで、鍵はしてあったのですか?」
「はっきりはしませんが、そうだと思います。鍵が掛っていたに違いないんです――だってあたしがまわし忘れでもしない限り、入ってこれる人間はいないはずじゃありませんこと?」
ヒースが立ち上がり、少女の物語に、渋い困惑の表情をしながら聞き入っていた。
「また例のゴール人の靴を履いた犯人《ホシ》だな、こりゃ」と、彼は呟いた。「こんどはジェリムの大将にじかに見てもらいまさあ」
マーカムがうなずき、後ろを向いてエイダを見た。
「知らせて下さって有難う、お嬢さん。あなたは他の部屋にいって、待っていなさい。あなたの部屋はそのまま手をつけずにおきたいのです。後でゆっくり調べてみます」
「あたし、台所にいって、料理女と一緒にいますわ。ああ、あたし、ひとりぼっちではいたくない」そう言って、ほっと息をつめ、それから出ていった。
「フォン・ブロン医師はいまどこかね?」と、マーカムがスプルートに尋ねた。
「奥さまの部屋です」
「われわれがここにきている、すぐ逢《あ》いたい、と言ってきておくれ」
家令は敬礼をして、出ていった。
ヴァンスはいったりきたりしていたが、眼は閉じたままだった。
「いよいよ出でて、いよいよ狂気の沙汰ばかり!」と、彼は言った。「やれ、足跡だとか、やれ、開いていた扉だとか、そんなものがなくったって、既に正気の世界じゃないよ。なにかは知らんが、ここでは、魑魅魍魎《ちみもうりょう》が横行してるんだ、マーカム。呪術、神がかり、それとも得体は知れぬがそれに近いなにものかが罷《まか》り通っているんだ。どうだろう? ローマの大法典だったか、ユスチニアヌス法典だったかは知らんが、悪鬼邪神による呪縛または降霊術に対する法的告訴手続に関する規定みたいなものはなかったかい?」
マーカムが彼をたしなめる隙もない間に、フォン・ブロンが入ってきた。いつもの瀟洒《しょうしゃ》な愉快さはどこへやら、物も言わずにぴくっとお辞儀をし、震える手でいらいらと口髭《くちひげ》を撫《な》でつけた。
「先生、スプルートの説明によると」と、マーカムが言った。「あなたはレックスの部屋で起こった銃声は聞いておられないそうですね?」
「そうなんです!」この事実が医師を困惑と不安の二つながらに投げているものらしい。「わたしにもサッパリ訳が分らないのでして。なんとなれば、レックスの部屋の扉は廊下に面していて、しかも開いていたんですからね」
「あなたはシーベラ嬢の部屋にいた、確かそうでしたね?」ヴァンスが急に立ち停《ど》まり、医師を見守った。
フォン・ブロンが眥《まなじり》を上げた。
「そうです。シーベラがぐあいが悪いので――」
「喉頭炎《こうとうえん》かなにかそんなところでしょうな、思うに」と、ヴァンスがぴたりと先手を打った。「いや、状況証拠として、そんなのはどうでもいいです。事実は、あなたもシーベラさんも銃声を聞かなかったということだ。それに違いないですね?」
医師が首を傾《かし》げた。「スプルートが戸を叩き、廊下の向うから合図するまでは、わたしはなんにも知りませんでしたよ」
「それから、シーベラさんも出てきて、あなたと一緒に、レックスの部屋にいった、そうですね?」
「あれはわたしのすぐ後ろからやってきた、と思います。しかし、なんにも触わっちゃいけないとわたしが言い、直ちに、あれの部屋に送り返したのです。わたしがまた廊下に出てきてみると、スプルートが地方検事局に電話をしているところで、それでわたしは、警察がくるまで待っていたほうがよかろうと考えた。シーベラとひとわたり状況について話し合った結果、わたしがグリーン未亡人に悲劇を伝えることになり、そこで奥さんの部屋にいったところ、スプルートがやってきて、皆さんの到着を知らせてくれた、とこういうわけです」
「階上で誰か外の人間を見たとか、怪しい物音を聞いたとかいうことは?」
「人間も――物音も、なんにも。いやむしろ、邸内はいつにもなく静寂でした」
「エイダ嬢の扉が開いていたのを思い出しませんか?」
医師は一瞬考えた。「思い出しません――ということは、あの扉はおそらく締まっていたのだと思います。そうでなければ、わたしの目にとまっていたはずだから」
「そこで、グリーン未亡人のけさのぐあいはどうなんです?」ヴァンスの質問は、いかにものんびりした気分で出されたもので、奇妙に辻褄《つじつま》の合ってない響きがあった。
フォン・ブロンがぎくりとした。
「奥さんは、初め見た時は、ふだんよりは幾らか気分がいいようにお見受けしましたがね、レックスの死をお聞きになると、相当な動揺を起こされました。たったいま出てきた時には、脊髄の激痛を訴えておられたところです」
マーカムが席を立ち、そわそわとした態度で拱門《きょうもん》の方に進みよった。
「検屍官もきていい頃だが」と、彼が言った。「その前に、レックスの部屋に目を通しておこうと思う。ご同道願えますね、先生――それから君、スプルート、君は正面玄関に残っていなさい」
わたしたちは静かに二階へ昇っていった。わたしはいまも思い出すのだが、あの時の一同の心には、こうしてきていることをグリーン未亡人にわざわざ知らせることもないものだという考えがあった。レックスの部屋は、グリーン・マンションの各室と同じく、大きな面積になっていた。正面に一つ、側面に一つ、それぞれ大きい窓がついている。日光を遮るカーテン類はないから、冬の真昼の太陽が、斜めの光となって、降り注いでいた。壁面には、かつてチェスターがわたしたちに語ったように、本がぎっしり並び、パンフレットだとか、文書だとかが隅《すみ》という隅に積み重ねられていた。部屋は寝室というよりは、学者の仕事部屋に見えた。
左手の壁の中央にある、チュードル王朝風の暖炉――エイダの部屋にあるものの複製である――の正面に、レックス・グリーンの死体が四肢をひろげて横たわっていた。その左手は伸び切り、右手は湾曲していて、指は収縮し、なにかを握ろうとしていた恰好《かっこう》をしていた。丸天井のような頭はやや片側にひねられていて、ほっそりした血の流れが一筋、右眼上方の小さい開口から流れ出し、|こめかみ《ヽヽヽヽ》を伝わって床に落ちていた。
ヒースが数分間死体を調査していた。
「この男は立ったまま撃たれていますぜ、マーカム検事。どさっと崩れ落ち、バタンと床に倒れ、暫くしてから、ピンと延びちゃったんだ」
ヴァンスは前屈みになって死体を眺めていたが、合点がゆかぬといった表情をした。
「マーカムよ、どこかに、不思議な、矛盾した点があるんだ」と、彼が言った。「この一件が起こった時刻はまっぴる間、|がいしゃ《ヽヽヽヽ》は正面から撃たれている――顔面には火薬による斑点までもある。それなのに、表情は完全に自然だ。恐怖、驚愕らしい徴候はなにもない――むしろ、平安に満ち、超然と自若《じじゃく》の風さえ見える……そんなことって、あるもんか! 殺人者もピストルも、視界になかったんだ、きっと」
ヒースがゆっくりとうなずいた。
「あっしも気がついてたんで、先生。滅法変な話でさあ」彼がもっと身を屈《かが》めて死体の上に乗り出した。「傷口の様子じゃ32口径らしいですな」とコメントして、確認を求めるかのように、医師のほうに振り向いた。
「そうです」と、フォン・ブロンが言った。「他の殺しの場合に使用された武器による傷と同じに見えます」
「見えるのではない。同じ武器だ」ヴァンスが沈鬱に宣告し、深い考察に沈むかのようにシガレット・ケースを取り出した。「しかも、それを使用したのも同じ殺人者|なのだ《ヽヽヽ》」彼が一瞬煙草を喫《す》ったが、騒ぐ心の瞳はじっとレックスの顔を見つめたままだった。「なのに、この時刻にやったのはなぜなのか? ――まっ昼間、戸は開いたまま、しかも、手近には人もいるというのに? なぜに殺人者は夜まで待たなかったのか? この不必要な危険を冒したのはなぜなのか?」
「忘れてならないことが一つある」と、マーカムが記憶を甦《よみがえ》らせるように――「レックスは、ぼくの事務所にきて、なにかを告げようとして出掛ける寸前だったのだ」
「だが、彼がぶちまけて話すということを知ったのは誰なんだ? 君が電話で呼び出してから十分もせぬうちに撃たれている――」急にヴァンスが言葉を切り、すばやく医師のほうに振り向いた。
「この家には、どんな電話の内線があるのですか?」
「三つあるはずです」と、フォン・ブロンが事もなげに言った。「グリーン夫人の部屋に一つ、シーベラの部屋に一つ、それから、思うに、台所に一つ、本線はもちろん、一階正面のホールです」
「これじゃ正真正銘の中央交換台だ」と、ヒースが吠《ほ》えたてた。「盗聴自由という奴でさあ」突然彼は死体の横に跪《ひざまず》き、レックスの右手の指を力づくで開いた。
「あの暗号図面を探そうたって、どうせ無駄でしょうよ、部長」と、ヴァンスが呟いた。「殺人者がレックスの口を塞ぐ目的で射殺したというのなら、紙っ切れは当然なくなっていると見るべきだ。通話を盗みぎきした人間なら、レックスが持参しようとしていた封筒のことはもちろん知っていた、ということになる、だってそうでしょう?」
「先生のお説の通りかも知れません。が、一目見ておきたいんで」
彼が死体の下を手探り、それから系統的に、死人のポケットを一つ一つ調査した。しかし、エイダが言っていた、青い封筒らしいものはなにも発見できなかった。最後に彼がすっくと立ち上がった。
「ドロンしていまさあ、間違いなく」
その瞬間、彼があることを思いついたらしい。大急ぎで廊下に出ると、階段の下へ、大きな声で、スプルートを呼んだ。家令が姿を現わした途端、ヒースがくるりとそちらを向いた。獰猛《どうもう》な野獣のようだ。
「秘密の郵便箱ってどこだ?」
「おっしゃることが理解できないように思います」スプルートの返事は泰然自若たるものだった。
「正面玄関の内側に郵便箱が一つあります。そのお話でしょうか?」
「よしやがれ! そのお話でねえことは、きさまちゃんと知ってるくせして。おれのお話というのはだな、個人用の――いいか! ――秘密の郵便箱のこっだ。それが|この邸内《ヽヽヽヽ》のどこにあるかというこっだ」
「おそらく、あなたのお話は、差出し郵便用の小さい銀の聖体箱《ヒイックス》のことでございましょう。あれなら一階ホールのテーブルにあります」
「よしやがれ、ピイックス〔すり、盗っと〕が聞いて呆れる」いまや巡査部長の冷笑主義は神をも冒涜するまでになっていた。「よし、きさま降りていって、そのピイックスとやらにはいっているものを残らずひっさらってこい――いや、待った――おれが連れになってやる。……聖体箱と盗っととが一緒だとは!」
二、三分後部長は戻ってきたが、まるで尾羽打ち枯らした姿だ。
「からっぽ!」まさに警句|紛《まが》いの簡潔な口上を彼が述べた。
「だけどあんた、あんたのいとしき妖魔の絵巻物がドロンを決めこんだからとて、望みを棄てたもんじゃないですよ」ヴァンスが訓戒を垂れた。「もともとぼくは、あれが大いに役立ったとは思わんですよ。この事件は判じ絵じゃない。数学公式の複合なんだ。率《りつ》、無限小数、量子論、倍数、導函数、係数がぎっしり詰《つ》まったね。レックスだって、若い命をこうも早々と地上から消し去られることがなかったとしたら、自分で解いていたでしょうよ」ヴァンスの眼が室内をさまよった。「いや、あの男のことだ。既に解いていなかったとは言えないじゃないか」
マーカムがそろそろ堪忍袋の緒を切らしかけた。
「われわれは客間に降り、ドーラマズ医師と本部の人間のくるのを待ったがいい」と、彼が提案した。「ここじゃなんにも発見できん」
わたしたちは廊下に出たが、エイダの部屋を通り掛かった途端、ヒースがいきなり扉を開き、閾《しきい》に立って、部屋を調査した。バルコニーに通ずる観音開きの扉は微かに開いたままで、吹き寄せる西風に、緑の|さらさ《ヽヽヽ》のカーテンがはためいていた。渋いベージュの絨毯《じゅうたん》の上を、濡《ぬ》れた、薄汚いひび割れが走っていたが、それが寝台の足許をぐるりとまわり、われわれの立つ廊下の戸まで達していた。ヒースはこの|しるし《ヽヽヽ》を一瞬観察し、それから、また扉を閉《し》めた。
「間違いなく、足跡でさあ」と、彼が言った。「誰かがバルコニーからはいるのに、汚れ雪を踏んづけてはいり、そのままガラス戸を閉めるのを忘れたんでさあ」
わたしたちが客間の席についたとき、正面玄関をノックする音がしたと思ったら、スプルートがスニットキンとバークを招じ入れるところだった。
「まずおまえからだ、バーク」二人の警官が現われるや否や、部長が命令し、
「壁越しに侵入の形跡はどうだ?」
「一つもありませんや」刑事の外套は、頭の先から足先まで泥んこになっている。「あたしゃ壁の頂上をひとまわり這《は》いずりまわってみやした。その挙句の果てが、人間の形跡なんか、影も形も残ってねえというのがあたしの報告でして。あの壁を越した奴がいるとすれば、そ奴は棒高跳《ぼうたかと》びで越えたに違いないです」
「まずまずのところだな――次はスニットキン、おまえは?」
「|あっし《ヽヽヽ》は収穫を持ってまいりやした」この刑事の方は歴然たる勝利感のある話し方である。
「誰かこの屋敷の両側にある、外部階段を昇り、石のバルコニーに達した奴がおります。しかも、そ奴はけさの九時、雪がやんだ後に昇っていやがるんだ。そのわけは、足跡がまだ新しいからでさあ。おまけに、その足跡は、前回正面玄関で見つけたやつと同一サイズでやして」
「そのま新しい足跡というのは、どこからきてるんだ?」ヒースが熱心に乗り出した。
「そこが癪《しゃく》にさわるじゃありませんか、部長。正面玄関の階段の真下の歩道からきているのにはきているんだが、それから先は正面歩道をきれいに掃除しちゃったもんだから辿《たど》りようがねえんで」
「こいつは一杯喰わされたわい」とヒースが呻《うめ》いた。「じゃ、その足跡は一方通行だけか?」
「それだけなんで。正面入口の真下、二、三フィートの地点で歩道から外《はず》れ、ぐるっと屋敷を一まわりして、それからバルコニーの階段を昇っていながら、そ奴は二度と同じ階段をおりてませんです」
部長ががっかりしたように、やたらと葉巻をふかした。
「つまり、バルコニーの階段を昇り、観音開き扉をはいり、エイダの部屋を通って廊下に出、ころしの|やま《ヽヽ》を踏み、それから――それからドロンしちまった! 凄《すげ》え知能犯もいたもんだ!」彼がいまいましそうに舌打ちをした。
「犯人は正面玄関から出ていった可能性もあるだろう」と、マーカムが意見を出した。
部長が顔をひんまげ、どら声でスプルートを呼んだ。すると、彼が忽ち姿を現わした。
「おいこら、おまえは銃声を聞くと、どっちの方向から二階に昇っていったんだ?」
「わたしは召使いの専用階段を昇ってゆきました」
「それじゃ、おまえが昇ると同時に、一方では正面玄関を降りた奴がいたとしたら、おまえは気がつかなかったはずだな?」
「イエス・サー。まことにありうることでして」
「それだけだ」
スプルートは敬礼して去り、また正面玄関での所定の位置に控えていた。
「まあ、大体以上がここで起こったことの経過に違えねえさあ、検事さん」と、ヒースがマーカムに報告した。「ただ、どうやって、そいつは出たりはいったりしながらも、姿を見られなかったのか? そこんところは、あっしには分らねえ」
ヴァンスは窓べに立ちつくしたまま、遠く河の風景を見つめていた。
「この雪中に再発する足跡には、絶対に納得のゆかぬなにものかがあるな。われらの常軌を逸した犯罪者は足にはあけっぴろげた油断を見せておりながら、手《ヽ》になると、用意おさおさ怠りないんだ。指紋その他の所在証明は一つとして残さぬというのに、足跡はやたらと残す――しかもその足跡たるや、申し分この上もなくきちんとしたもので、歴然かつ否定すべからざるほどに明白なものなんだ。それでいて、この怪奇物語の他の一切の筋書との脈絡《みゃくらく》が取れない」
ヒースは絶望したように床を睨みつけていた。彼も紛れもなくヴァンスと同じ意見だったのだ。だが、彼の本性であるところの、初志一貫の勇猛心が自然と湧《わ》いてきたのか、面《おもて》をあげたところを見れば、拠《よ》んどころなくも威勢よく振舞っている気配があった。
「さあ、ジェリム警部に電話してこいよ、スニットキン。わしからと言うんだぞ、絨毯《じゅうたん》の足跡を見てもらいたいことがあるから、さっさと出てこいとな。それから、バルコニー階段の足跡の寸法も取っておけ――それからおまえ、バーク、おまえは二階の廊下の見張りに立て。相手は誰だろうが、正面西側の二部屋には人を入れちゃいかん。分ったな」
第十五章 殺人者は内部にいる
(十一月三十日、火曜日、午前〇時三十分)
スニットキンとバークが出ていったのを見て、ヴァンスが窓べを離れ、ぶらぶらと部屋を引き返してくると、医師が坐っているところで停《と》まった。
「この際悪い話じゃないと思うのだが」と、いかにも静かに彼が言った。「狙撃以前および狙撃時のみんなの所在を決定する、というのはどうだろう――先生、あなたが到着されたのは十時十五分過ぎ頃、それは分っている。グリーン夫人の部屋にはどれくらいいましたか?」
フォン・ブロンが威儀を正し、ヴァンスに向って、非難するように睨み返した。だが、彼の態度はすばやく変化し、丁重な返事に代えた。
「わたしが夫人の様子を見て坐っていたのがおよそ三十分くらい。それから、シーベラの部屋にゆき――十一時少し前、というところでしょうか――ずっとそこに、スプルートに呼ばれるまでいたわけです」
「その間ずっと、シーベラ嬢はあなたと一緒に部屋にいたのですかね?」
「さよう――ひと時も離れず」
「有難う」
ヴァンスは窓べに戻り、それまで好戦的な様子で医師を見守っていたヒースは葉巻を口から外《はず》し、マーカムに向って、したり顔をした。
「こう申しちゃなんだが、検事さん、あっしはいまも考えてたんですがね、あの警視どのの意見のこと。邸内に人間を入れて密偵させるという案ですよ。いまのあの看護婦をポイして、本部の婦人刑事と差し替えるという案はどんなもんですかね?」
フォン・ブロンが熱心な賛意を示す目つきで見あげた。
「それは妙案だ!」と、彼が叫んだ。
「よろしい、部長」と、マーカムが同意を与えた。「君が手配したまえ」
「その婦人刑事とかは今晩からでも着手して下さい」と、フォン・ブロンがヒースに言った。「お示しの時間にあなたと落ち合うことにし、その時わたしから、その女の人に指示をします。特に技術的なこともあまりないのですから」
ヒースがよれよれの手帳に覚書をした。
「先生と落ち合う時間は、ええと、六時、というのはどんなもんで?」
「それならわたしのほうも好都合です」フォン・ブロンが席を立った。「それでは、わたしはこれでご免を蒙むることにして……」
「ようございますとも、先生」と、マーカムが言った。「どうぞご自由に」
だが、フォン・ブロンは、そのまま屋敷を去るのかと思ったらそうではなく、二階へ向い、シーベラの戸を叩いている音が聞えてきた。二、三分すると、彼がまた降りてきて、わたしの前を通り、表玄関へ出ていったが、こっちには一瞥もくれなかった。
その間に、スニットキンが戻ってきて、ジェリム警部が直ちに本部を出発、半時間後には到着する予定だと、巡査部長に報告し、また邸外へ出ていった。バルコニー階段の足跡の寸法を取ろうというのである。
「さて、お次は」と、マーカムが提案した。「グリーン未亡人に会うのも一案かと思う。夫人が何かの音を聞いている、ということもありうるし……」
ヴァンスがここで、これまでの昏睡状態らしいものから目を覚ました。
「ぜひそう願いたいね。が、その前に、二、三の事実を整理しておこうじゃないか。第一、レックスが幽明|境《さかい》を異にするに先立つ三十分のあいだ、あの白衣の天使はいずこにおわせしや、わが心、せつに知らんとぞ思うだ。第二に、かの老いたる貴婦人は、拳銃発射の直後、ひとり寂《さび》しく孤閨《こけい》を守りたまいしや否や、知って悪くはないだろうって――かの患《わずら》える人の逆鱗《げきりん》に触れんとするまえに、かの歌う鳥なるナイチンゲール嬢をば、宴《うたげ》の席に招待するもよからずやだ!」
マーカムも同意したので、ヒースがスプルートに命じて、看護婦を呼びにやらせた。
看護婦はこの職業にあり勝ちな、澄ました風情ではいってきたが、先日逢った時に比べて、薔薇色の頬も心なしか青ざめていた。
「クレーヴンさん」――ヴァンスの物腰は気楽で、事務的なものだった――「今朝十時半から十一時半までの間、あなたは何をしていたか、どうか正確に話して下さいませんか」
「三階の自分の部屋にいましたわ」と、彼女が答えた。「そこへいったのは、十時少し過ぎ、先生が到着された時で、それから、グリーンの奥さまのブイヨン〔鶏スープ〕を持ってこいという先生のお声が掛るまで、ずっとそこにいました。それから、また自分の部屋に戻り、ずっとそこにいましたところ、先生からまた呼び出しがあり、先生が皆さんのお相手をしている間、奥さまを見ておくようにとの命令がありました」
「あなたが部屋にいる間、扉は開いていたの?」
「むろんですわ。あたし日中はいつも開いたままにしておきます。奥さまの呼出しがいつあるかも知れませんので」
「それじゃ、奥さんの扉も開いていたの?」
「そうですわ」
「あなたは銃声を聞いたの?」
「いいえ、聞きませんでした」
「それで終りです、クレーヴンさん」ヴァンスは彼女を送り出すのに、ホールまで随いていった。「わたしたちはこれから患者さんにお目に掛るつもりですから、あなたは暫く自分の部屋に戻っていたほうがいいですよ」
わたしたちがノックをし、傲《おご》った女王のような声で、おはいりという命令を受けたところで、部屋に伺候《しこう》すると、グリーン夫人はわたしたちを怨みつらみのこもった目で迎えた。
「またも災《わざわい》ね」と、彼女が苦情を述べた。「あたしは自分の家で、平安を持ってはならぬというのでしょうか? いく週ぶりかに初めて心もやわらぎ、いくらか楽な気分になったというのに――なんてザマなのよ、またもこんなことになって、あたしを乱し、困らせるなんて!」
「遺憾に存じます、奥さん――われら一同、奥さんの悲しみに優《まさ》るとも劣らぬものがありまして――ご令息のご死去の悔やみに参りました」と、マーカムが言った。「さらに、この悲劇の結果、いろいろとご迷惑をお掛けしていることをも残念に思っております。だからと言って、事件捜査に関するわたしの義務はいささかも解除されるものではありません。銃声が起こった瞬間、奥さんはお目覚めでいらしたから、奥さんが提供できる限りの情報をお伺いするのは、まことにやむをえざる仕儀であります」
「どんな情報を提供できるものですか、あたしなんかが――頼みとする人とてない、麻痺患者のあたし、ひとり寂しく、ここに寝たきりの、この老いの身が」めらめらと燃える怒りの火が彼女の瞳《ひとみ》を輝かした。「あなた|こそ《ヽヽ》あたしに情報を提供して下さる人だと、あたしには見えますことよ」
マーカムは夫人の刺《とげ》のある応酬を無視した。
「看護婦の話によると、あなたの扉はけさは開きっぱなしで……」
「どうしてそれがいけないんですの? それともあたし、家中から破門されて、なんにも……」
「とんでもない。わたしはただ、奥さんが何かの偶然で、廊下で起こっていたことを聞ける立場にあったんではないかどうかを伺おうとしているだけでして」
「お気の毒さま。あたしなんにも聞いていません――そうお答えすれば、用事は足りるんじゃございません?」
マーカムは辛抱強く頑張った。
「例えば、奥さん、誰かがエイダ嬢の部屋を歩いたとか、エイダ嬢の扉をあけたとかした音は聞かなかったですか?」
「なんにも聞かなかったと、もう申したではありませんか」老婦人の否定は敵意さえ見せた、断乎《だんこ》たるものだった。
「それとも、誰かが廊下を歩いたとか、階段を降りるとかいうのは?」
「聞きましたわね、あのへぼ医者と阿呆の家令の音だけは。それとも、けさはお客さんがくることになっていたんですの?」
「ご令息を射殺した客がいたんですよ」と、マーカムが冷然と注意を促した。
「それは多分あの子が悪いんですわ」と、彼女がぴしゃりと遮《さえぎ》り、それから少し不憫《ふびん》だという顔をした。「といってレックスは、他の子供ほど人情知らずの、無思慮もんではありませんでしたわね。そのあの子でさえ、あたしのことはこっぴどく無視したんですのよ」彼女はじっくりと考えこむような様子をし、「そうだわ」とつけ足《た》した。「それもこれも、あんな仕打ちに対する天罰なんだ!」
マーカムはこみあげる激怒と格闘していたが、やっとうわべは冷静を装い、質問をさしはさむことができた。
「その天罰の銃声で、ご令息が殺されなすった時の音をお聞きになりましたか?」
「聞きません」彼女の口調はまた忿怒《ふんぬ》を帯びていた。「あたしは先生のお考えがあって、知らせてやろうとおっしゃるまでは、騒ぎのことはなんにも知らなかったんだから」
「だからといって、レックスさんの扉にしろ、奥さんの扉にしろ、開いていたんですよ」と、マーカムが言った。「奥さんが銃声を聞かなかったとは、わたしには理解できないのです」
老婦人が痛烈な皮肉を浴びせるように、視線を投げた。
「あなたの理解の欠如をあたしに同情しろっておっしゃるの?」
「そうお願いできれば忝《かたじ》けない。そこでさっそく、失礼をばつかまつります」マーカムがつんと敬礼して、爪先《つまさき》でくるりとまわった。
わたしたちが下のホールに降りてきた時、ドーラマズ医師が到着していた。
「君のお得意さん、まだ|がめつく《ヽヽヽヽ》やってるそうじゃないか、部長」と、彼がヒースに挨拶したが、例によって爽《さわや》かな物腰であった。外套と帽子をスプルートに渡すと、この検屍官はこちらに歩みより、わたしたちと握手を交わした。「困った諸君だ、わしの朝めしをだめにせん時は、昼めしの邪魔をするんだから」と、彼がぼやいた。「死体はどこだ?」
ヒースが二階に案内していったが、二、三分後には客間に戻っていた。彼がまた葉巻を取り出すと、凄《すご》い勢いで端を噛んだ。「さてお次は、検事さん、シーベラ嬢とやらの訊問の番でやしょうが、どんなもんで?」
「そんなもんだ」と、マーカムが溜息をついた。「それから、召使いに総当り、その後は君に一任する。新聞記者連中もおっつけ押しよせてくる頃だ」
「おっと、うっかりだ。見ていてご覧なせえ、今度の新聞には、ごってりとやられますぜ!」
「それにいつもの手だって、もう通用せんでしょうな。『どうか秘密に願いたいが、犯人逮捕は近い見込み』ってほら。だってそうじゃないか!」と、ヴァンスがにやりとした。「これぞ悲しき物語!」
ヒースが呂律《ろれつ》にならない、自暴《やけ》の叫びみたいなのをあげ、それからスプルートを呼び、シーベラを連れにやらせた。
一瞬後、彼女がポメラニアンの仔犬《こいぬ》を抱《だ》いてやってきた。これまでになく真青な顔をし、瞳には紛《まご》う方なき恐怖が浮んでいる。わたしたちに挨拶した時にも、いつもの快活さはなかった。
「この事件はなんだか凄惨《せいさん》なものになってゆくのね?」と、腰をおろした後で、彼女が言った。
「まことに恐ろしい限りでありまして」と、マーカムが真顔で言った。「あなたには、心からご同情に耐えません……」
「あら、ご親切さま」と、ヴァンスが差出したシガレットを彼女が受けた。「だけどあたくし、いつまでもここにこうして、お悔やみを受けてばっかりいてはいけないのだという気が起こりかけていますの」彼女は強いて気軽に語ろうと努めていたが、その声のひずみが、激情を抑えていることを物語っていた。
マーカムが同情するように彼女を眺《なが》めた。
「暫く旅行なさるのも悪い考えじゃないんじゃないんですか――例えば、友だちの家だとか――できることなら、市外の」
「まさか、そんな」と、彼女が傲然《ごうぜん》と首をふった。「あたし、絶対に逃げ隠れしないわ。ほんとうにあたしを殺そうと狙っている人間がいるというのなら、あたしがどこにいようが、いずれはなんらかの方法でやりおおせるでしょうよ。どっちみちあたし、遅かれ早かれ家に戻ってこなければならないのだし、それに郊外のお友だちの家に無限に下宿するってわけにはゆかないんだし――そうでしょう?」シーベラは一種の不安と絶望が入り混じった眼差《まなざ》しでマーカムを見た。
「なんでしょうね、あなた、まだ見通しはついていらっしゃらないの、あたしたちグリーン家一族を根絶しようという妄想の鬼って誰なのか?」
マーカムは官憲としての見通しが全く暗いものであることを彼女の前で認めるのには躊躇《ちゅうちょ》を感じた。彼女が訴えるような目でヴァンスのほうを向いた。
「あたしを子供扱いにするのはよしてちょうだい」と、彼女が撥溂《はつらつ》と言った。「あなただけは、ヴァンスさん、教えて下さるわね、果たして容疑者がいるのか、いないのか?」
「おっと、そいつが癪のたね! グリーンのお嬢さん――それがいないんですよ」と、彼がすばやく答えた。「呆《あき》れ返った懺悔《ざんげ》をさせて下さいよ。それが本当なんだから。だからこそ、マーカム検事が、暫く旅行したらとおすすめしているんだと思うんですがね」
「ご親切さま」と、彼女がやり返した。「だけどあたし、あくまでも頑張り抜くつもりだわ」
「なかなか勇気のあるお嬢さんだ、あなたは」と、マーカムが言ったが、胸騒ぎと賞讃をこもごもこめた調子になっていた。「わたしとしては、あなたの生命と安全を守るために、人間的可能の範囲内で万全を保障します」
「さて、そのことはそれくらいにしといて」彼女は煙草の吸殻を受け皿にぽつんと投げこむと、放心したように、膝《ひざ》の上の愛犬を撫《な》でていた。「ところでなんでしょうね、あたしが銃声を聞いたかどうかお知りになりたいのでしょうが、生憎なことに、聞いてないんです。そこで、その点を出発点として訊問を続けなさいませ」
「しかし弟さんの死亡時刻にはお部屋におられた、そうですね?」
「午前中ずっと自分の部屋にいましたわ」と、彼女は言った、「あたしが初めて閾《しきい》を越えたのは、スプルートがレックスが死んだという悲しい知らせをもたらした時のことです。だけど、ブロン先生の一声で追われっちまって、いまのいままで部屋から出ずじまい。この新しき、悪《あ》しき世代の人間にしちゃ、模範的行動じゃありませんこと?」
「フォン・ブロン先生があなたの部屋にきたのは何時だったの?」と、ヴァンスが尋ねた。
シーベラがほんのりと皮肉な微笑を彼に投げかけた。
「その質問をしたのがあなただったことを幸せに思いましょうね。マーカムさんだったら、きっと顰蹙《ひんしゅく》の口調になっていたでしょう――だけど、自分の医者を自分の閨房《けいぼう》に受け入れたって、|au fait《オー・フェ》〔当然〕しごくなのじゃありませんこと――ええと、あれは、きっとあなたはブロン先生にも同じ質問をなすったはずだから、あたしも用心しなくちゃ……十一時少し前、というところかな?」
「先生と口裏を合わしたみたいでやすな」と、ヒースが胡散臭《うさんくさ》そうに、半畳《はんじょう》を入れた。
シーベラが意外さが気に入ったといわんばかりにそっちを見た。
「すばらしいじゃないの! 古人|曰《いわ》く、正直は最善の政策なりと、どう?」
「次に、フォン・ブロン先生はスプルートから呼出しがあるまではずっとあなたの部屋にいたのでしたね?」と、ヴァンスが追及した。
「ええ、そう。パイプをふかしていらしたの。母さんはパイプの匂《にお》いが大嫌いで、先生はよくあたしの部屋に忍んできては、ひとりのんびりとふかしていらっしゃるわ」
「次に、先生の訪問中、あなたは何をしていたの?」
「あたし、この猛獣に入浴をさせていましてよ」と、彼女がポメラニアンの仔犬を差し上げた。ヴァンスに検査しろといわんばかりだ。「ほれ、かわいいでしょう?」
「浴室でですね?」
「当然よ。まさかプードリエル〔コンパクトのこと〕で犬を洗うわけにもゆくまいし」
「次に、浴室の戸は締まっていたの?」
「その点に関しては、なんとも言えないけど、多分、そうだったんでしょうね。ブロン先生は家族の一員のようなものでして、あたしって、時には先生にひどい失礼をすることがありますの」
ヴァンスが立ち上がった。
「大変有難う。グリーンのお嬢さん、あなたをわずらわしたことをぼくら一同すまなく思っています。よかったら、暫く自分の部屋に残っていて下さいますか?」
「よかったら? とんでもないわ。あたしが安全を感じるのはあそこだけなんですもの」彼女が拱門に歩みよった。「何か新しいことを発見なすったら知らして下さいませね――きっとよ! もう偽装をしてもなんにもならないわ、あたし|しんから《ヽヽヽヽ》怖いんです」そう言って、思わず本心を出したのを恥じるかのように、すばやく廊下へ出ていった。
ちょうどそこへ、スプルートが、指紋担当者二人――デュボアとベラミー――と、写真係員とを案内してきたが、一行をホールまで出迎え、二階へ案内していったと思うと、すぐ戻ってきた。
「さて、次は検事さん?」
マーカムは陰鬱な思索にわれを忘れているかのようだった。巡査部長の伺いに対して回答したのはヴァンスだった。
「ぼくの感じでは」と、彼は言った。「かの神を信ずるヘミングと、黙して語らざるフラウ・マンハイムとの間に、いまひとたびの丁々発止《ちょうちょうはっし》によって、ほぐれの糸の一つや二つ、切って棄てられるんじゃないかな?」
ヘミングがすぐ呼び出された。やってきた姿を見ると、極度の興奮で呻《うめ》いているところだ。その瞳は、自分の立てた卜《うらな》いがいまぞ世に現われたという時の巫女《みこ》のように、昂然たる勝利感で輝いている。だが、情報の提供という段になると、サッパリだった。あたしは午前中の大半は洗濯場にいたんですとか、あたしは悲劇のことはなんにも関知しませんでしたとか、わたしたちの到着直前スプルートが教えてくれて初めて分ったとかいう。しかし、聖霊による劫罰《ごうばつ》のことに話が及ぶと、途端に情報過多になり、その堰《せき》を切ったような託宣《たくせん》、呪《まじな》い、お告げ、おふれなどの汎濫《はんらん》を止めるのに、さすがのヴァンスもほうほうの体《てい》だった。
料理女も、レックス殺人事件に関する解明の光を投げかけてはくれなかった。あたしは午前中ずっと台所にいて、買物に出掛けた時間だけが外出中だった、と彼女は言った。銃声も聞かなかったし、また、ヘミングと同じく、悲劇を知ったのはスプルートを介してであった。だが、今度に限り、この女の上に著しい変化が現われていた。客間にはいってきた時、いつもは鈍重な面貌にも、恐怖と鬱憤が生気を与えていて、わたしたちの正面に坐った時には、膝《ひざ》に置いた指先がわなわなと震えていた。
ヴァンスはこの面通《めんどお》しの間、分析するように女を見守っていたが、終りになって、突然、彼が質問した。
「エイダ嬢はこの半時間、台所にいるあなたのところにきていたんですね?」
エイダの名が出た途端、女の恐怖は目に見えて熾烈《しれつ》化し、ほっと深い息をついた。
「はい、ちっちゃいエイダ嬢さまはわたしのところにきていらっしゃいましたです。それに、ああ、大いなる神に感謝しなきゃ! けさレックス旦那が殺されなすった時外出していたのがあのお嬢さまだったからよかったものの、そうでなかったら、お嬢さまのほうが殺されていたかも知れないわ! 一度はお嬢さまを射殺しようと企《たくら》んだ奴らのことだもの、またやるにきまってるわ。お嬢さまをこの家においといてはいけません」
「規則上あなたに知らせておくわけですがね、マンハイム夫人」と、ヴァンスが言った。「今度エイダ嬢の身辺には厳重な見張りをつけておくことになりましたよ」
女が感謝の心をこめて彼を見やった。
「ちっちゃいエイダ嬢さまに危害を加えようとする人間がいるなどとは、なんということでしょう?」と、彼女が悶絶するように言った。「あたしだって見張らずにはおくものですか」
女が立ち去った時、ヴァンスが言った。
「ぼくの予感だけれどもね、マーカム、エイダにとって、あの母性愛的ドイツ女以上の保護者はこの邸内にいないだろうよ――されど」と、彼がつけ加えた。「ぼくらが件《くだん》の殺人者をつつがなく獄《ひとや》の枷《かせ》に繋《つな》ぐ日まで、この陰惨な修羅場に終焉《しゅうえん》はないだろうね」彼の顔に憂鬱の影が差した。口はピエトロ・デ・メディチの口のように残忍の色が浮んでいる。「この悪鬼《あっき》の劇はまだ終っていないんだ。絵巻物の最後が、いままさに幕を開かんとしつつある。しかもそれは、忌わしく、呪われた地獄図絵だ――ドレの怪奇画〔例えば、ダンテ『地獄篇』のさし絵〕の恐怖よりももっともっと凄《すご》いだろうさ」
マーカムが消沈《しょうちん》して、陰鬱そうにうなずいた。
「そうだね、これら一連の悲劇には、単なる人間的把握力を超絶したところの、ある必然性がつき纏《まと》っているように見えるね」彼が気だるそうに席を立ち、ヒースに話し掛けた。「現在、ここでわたしのする仕事はもうなくなったよ、部長。頑張ってくれたまえ。五時以前に検事局に電話をしてくれたまえ」
わたしたちが出発しようとしているところへ、ジェリム警部が到着した。この人は、物静かな、ずんぐり型の男で、白髪まじりの、もじゃもじゃの口髭を生《は》やし、小さい、深く落ちこんだ目をしている。抜け目のない、有能な商人と間違える人がいても無理はない。短い握手の儀典も終り、ヒースの先導で、二階に上がっていった。
ヴァンスは既に外套を着ていたが、また脱いだ。
「ぼくは少しぶらぶらしていて、あの足跡について警部さんの意見を聞いてみたいんだ。だって、マーカム、ぼくはあれについてある奇想天外な説を展開しつつあったところなんだ。だから、その実験がしてみたくってね」
マーカムは一瞬、事問いたげな、好奇心に満ちた目でヴァンスを見やったが、次に、腕時計を眺めた。
「君と一緒に待つよ」と、彼が言った。
十分後、ドーラマズ医師が降りてきたが、帰る足を停め、次のような話をした。すなわち、レックスの射殺は32口径によるもので、しかも眉間から約一フィートしかない至近距離で発射されたものであり、銃弾は前頭部から直接侵入、あらゆる可能性から見て、中脳部にいまも埋没《まいぼつ》しているものと思われるというのである。
ドーラマズ医師が去ってから十五分後、ヒースがまた客間に戻ってきた。わたしたちがまだいるのを見て、不安そうな、驚いたような表情をした。
「ヴァンス君がジェリムの報告を聞きたいというものだからね」と、マーカムが説明した。
「警部はもう終る頃でさあ」部長が深々と椅子に腰をおろした。「スニットキンの取った寸法を照合しているところでして。でも、絨毯《じゅうたん》の上の足跡は大した割出しはできねえとかいってましたがね」
「指紋のほうは?」と、マーカムが尋ねた。
「まだ、出んです」
「出っこないだろうさ」と、ヴァンスがつけ加えた。「足跡にせよ、故意に警察の目を昏《くら》ます目的がなかったら、もともとなかったんじゃないのかな」
ヒースが鋭い目つきで彼を睨んだ。しかし、彼が何かいいかけた時、ジェリム警部とスニットキンが階下に降りてきた。
「おやじさん、見解はどうで?」と、部長が尋ねた。
「バルコニー階段上の足跡はだね」と、ジェリムが言った。「二週間かそこいら前、スニットキンがわしによこした紙型と同じサイズ、同じマークによる『ゴール人の靴』によって作られたものだ。室内の足跡については、わしはそれほどの自信はないが、しかし、同じもののようだ。しかし、そこについている泥は煤《すす》けており、これも、観音開き扉外側の雪にある泥と同じだ。その写真を数枚とったから、顕微鏡による拡大図がとれたら、決定的なことが判明するだろう」
ヴァンスが席を立ち、拱門の方へのらりくらりと歩き出した。
「部長、二階に暫く上がっている許可をいただけませんでしょうか?」
ヒースが狐《きつね》につままれたような顔をした。彼の本能では、こんな思いもよらぬ申請まがいのことを言い出すヴァンスに、理由はと反射的に聞きたかったのであろうが、彼が言ったのは、次の数語だけだった。
「そりゃ、ええですとも」
ヴァンスの物腰にあるなにものか――それは逸《はや》る心を抑えながらも、満足感をも味わっているような態度だった――を見てとったわたしには、彼が自分の説を立証したのだなという気がしてならなかった。
彼が姿を消したのは五分もなかったろう。戻ってきたところを見ると、『ゴール人の靴』を手に提《さ》げている、それはチェスターの部屋で発見されたものとよく似ていた。彼がそれをジェリム警部に手渡した。
「これが足跡をつけた靴だという結論にお達しになると思います」
ジェリムとスニットキンは二人掛りで綿密な調査をした。寸法を比べたり、粗製の型紙を靴底に当ててみたりしていたが、最後に、警部が一方の靴を手に取り、窓にかざすと、宝石屋の眼鏡を目に当て、踵《かかと》の|蹴込み《ヽヽヽ》を調べ出した。
「お説の通りだと思いますな」と、彼が同意した。「ここの消耗部分がわしの作った鋳型に現われた凹みと一致しますな」
ヒースがびょこんと跳び上がると、ヴァンスを睨んで立ちつくした。
「先生、これをどこで見つけやした?」と、彼が詰問した。
「階段の上がり口にある、小さなリネン室の奥に突っこんであったものですよ」
巡査部長はいまや興奮に我を忘れてしまっていた。彼がくるりと身体をまわしてマーカムに向いたが、びっくり仰天の度が過ぎて、口角|泡《あわ》を飛ばしたくらいである。
「殺人課のふたりの奴ら、|はじき《ヽヽヽ》を洗うのに、この家を|がさ《ヽヽ》入れしたんですがね、戻ってきてあっしにいうには、現場にゴール人の靴なんかねえと抜かしやがって、なんとあなた、あっしは特に厳重に命令してやったんでさあ。目ん玉ひんむいて、『ゴール人の靴』を捜せって。ところがどうだす、このヴァンス先生、二階廊下のリネン室の中から見つけたんだとおっしゃって!」
「しかしね、部長」と、ヴァンスがおだやかにいった。「あんたの刑事《デカ》さんが拳銃捜査をやった時には、この『ゴール人の靴』はあそこにはなかったんですよ。前二回の局面では、こいつを履いた|よたもん《ヽヽヽヽ》は安全な場所にしまいこむのにたっぷり時間があった。ところが、今日は、いいですか、隔離のチャンスがなかっただけのことで、それで、暫しの隠し場所にと、リネン室にほうりこんだ、というわけですよ」
「なんだ、そうなんですかい?」と、ヒースが得体の知れぬ呻き声をあげた。「ならば、話の続きってのはどうなんです、ヴァンス先生?」
「これまでのところ、それっきりのことですよ。続きが分っていれば、狙撃犯人も分っていることになる。しかし、思い出していただきたい。あなたの |sergent de ville《サルジャン・ド・ヴィーユ》〔岡っぴき〕のどちらも、怪しい人物がここを出たところを見ていないと報告しているんですよ」
「なんだと! ヴァンス!」マーカムがすっくと立ち上がった。「その言外の意味は、殺人者がこのいまのいまも邸内にいるということじゃないか!」
「とにかく」と、ヴァンスがだるそうな、のんびりした調子でやり返した。「ぼくらが到着した時は、殺人者はここにいたと仮定するだけの正当な理由はあるとぼくは思うんだ」
「ところが、出ていった者は誰もいねえ。フォン・ブロンだけでさあ」と、ヒースがだしぬけに叫んだ。
ヴァンスがうなずいた。「ああ、部長、殺人者がまだ邸内にいる可能性は大いにあるでしょうね」
第十六章 消えた毒薬
(十一月三十日、火曜日、午後二時)
マーカムとヴァンスとわたしは『スタイヴィサント・クラブ』で遅い昼食を取った。食事の間、殺人事件に関する話題は、暗黙の諒解でもあるかのように避けられたが、コーヒーを飲みながら喫煙する段になって、マーカムが深々と腰をおろし、峻厳《しゅんげん》な顔をしてヴァンスをじろじろと見渡していた。
「さて」と、彼が言った。「君があのゴール人の靴をリネン室の中で発見するに至ったいきさつを聞かせてもらおうじゃないか。だが、くそいまいましい例の饒舌|紛《まが》いの韜晦《とうかい》趣味、またはバートレット辞典の引用句の羅列はご免こうむるぜ」
「わがさまよえる魂の負債《おいめ》を解かんとて、はやる心を抑えかね」と、ヴァンスが微笑しながら言った。「話はえらく簡単さ。ぼくは最初から窃盗説は重視していなかった。だから、『処女の汚れぬ心も?』、というとまた叱られるがね、問題のアプローチができたんだ」
彼が新しい煙草に火をつけ、自分でまたコーヒーを注いだ。
「とくと服膺《ふくよう》遊ばされ候え、マーカムどの!〔シェイクスピアによく現われる雅語〕ジュリアとエイダが射殺された晩、二重の足跡が見つかった。降りしきる雪がやんだのは十一時ごろ、ゆえに足跡はその時刻から深夜にかけてつけられた。折しもそこへ巡査部長が到着した。チェスター殺害のあった夜は、これとそっくりの足跡がまた現われた。これもまた、天気があがったすぐその後につけられたものだ。しからば、これら一連の雪中の足跡は、正面玄関をゆきつ戻りつ、いずれも犯行の前につけられたものということになる。しかも両方の足跡とも、降りしきる雪がやんだ後、|歴然たる可視の状態で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|同時に測定可能な足跡《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》になるような時刻を選んでつけられている。偶然の符合といえばそれまでのこと、さして驚くには当らないけれども、このことはぼくの |Cortex cerebi《コルテックス・セレビ》〔脳皮下細胞〕に対して、微かなりとはいえ、ひずみを与えるほどの興味はひいたのさ。さらにこの|ひずみ《ヽヽヽ》は、スニットキンによって、けさ再びバルコニーの階段に、新たなる足跡が発見されるにおよんで、はなはだしく亢進《こうしん》させられたんだ。なんとなれば、ここにあるのは、またも同じ気象条件――足跡残しが大好きな、われらが犯人の趣味に、ぴったりな好条件なんだからね。そこでぼくが否応なく到達させられた帰納法とは、君ら有識の七賢人の隠語で言わせてもらうならば、こんな風になる。つまりだね、殺人者は、外のなんでも用心深くて計算ずみなんだから、これら一連の足跡だって、予察を以て、わざとぼくら盲《めしい》の目を開かせる目的でつけたもんだと。だってそうだろう、いずれの場合にも、選りにも選って足跡が、降雪のために消されたり、他人の足跡とこんがらがったりすることのない時刻を選んでいるんだから……おい、気は確かかい?」
「先をやれ」と、マーカムが言った。「聞いてるよ」
「しからば、続きを語り申さん。これら三組の足跡には、もう一つの符合がある。第一組の足跡は、雪質が乾燥し、ぱさぱさしたものであったから、邸内から起こりまた引き返してきたものか、それとも最初街路から邸内にやってきて再び出ていったものかの判定は不可能であった。再び、チェスター逝去の夜の雪質に話を戻すと、この雪は湿ってじめじめしていたから、明瞭な足跡をつけ易い性質で、だから、同じ疑問がまた起こった。家を出たり入ったりした足跡は、それぞれが正面歩道の反対側についており、唯の一つとして重なり合ったものはない! 偶然か? 偶然かも知れぬ。だが、必ずしも合理的ではない。ある人間が比較的狭い歩道をいったりきたり歩く場合は、どこかで路線が重なり合うのが、むしろ当然といえそうだ。さらに、きっかりと複合することはないにせよ、平行路線の足跡は、極めて接近したものになるはずだ。ところがどうだ? この場合の二列の印刻は、互いにずっと離れている。どっちかがどっちかの道のはずれにこだわって、まるでその人物は、重なり合いを積極的に避けたといいたいくらいだ。そこで今度は、けさつけられた足跡を考えてみたまえ。邸内にはいった一本の足跡だけで、出た足跡はない。よってわれわれは結論した。殺人者は正面玄関を通り、掃き清められた歩道を通って、邸外へずらかったのだと。だが、これは要するに仮説に過ぎない」
ヴァンスがコーヒーを啜《すす》り、一瞬煙草を吸いこんだ。
「ぼくが提起せんとする点はこうなんだ。つまり、すべてこれらの足跡をつけた人物は邸内にいる誰かであって、しかも、犯人は部外者だと警察を誤認せしめるという歴然たる意図を以て、家から出ていってまた引き返してきた人物でないことを立証する証拠はどこにもないということになる。ところが、その反対に、この足跡が現実に邸内で起こったものであることを示す証拠は立派に揃っている。なんとなれば、もし部外者がつけたものならば、起点の問題をこんがらがせるのに、これほどの苦労をする必要はないんだし、その場合は、どっちみち、足跡が辿《たど》られる限界は街路との境までで、それから先は分りっこないのだからね。以上の理由により、ぼくは仮説の原点として、この足跡は、現実には、邸内のなに者かによってつけられたものだと仮定したんだ。――もちろん、ぼくのしがない素人の論理が司法のよろこばしき光に輝きを添えるものなりや否や、愚かなるぼくの知らざる――」
「君の推理は、そこまでのところでは、筋が通っているよ」と、マーカムがつっけんどんに割りこんだ。「しかし、君をけさ直接リネン室に導くところまで完成したもんとは言えんな」
「そうさ。だが、そこに導いた寄与的要因はいろいろとあるんだ。例えばだよ、スニットキンがチェスターの部屋で発見したあの『ゴール人の靴』、あれは足跡のサイズもそっくり同じだ。だからはじめぼくは、われらの未知《ヽヽ》の人物によるいんちき痕跡の用具も、これじゃなかったのかという考えを暫し弄《もてあそ》んだものだ。ところがこれは本部に押収されてしまった。そこへまた同じような足跡が登場――つまり、けさ発見された奴だ。となれば、ぼくは自分の説に若干の修整を加え、チェスターは実際にはオーバーシューズを二足持っていたのだと結論した――後の一足はきっとほったらかしてはいたんだろうが、まだ棄ててはいなかったのだと。ぼくがジェリム警部の報告を待ちたかったのもそれが理由だったのさ。新しい足跡が前二回のものとぴったり同じものかどうかの確認をとりつけたくてね」
「だが、そうだとしても」と、マーカムが遮《さえぎ》った。「足跡の発生地がすべて邸内にあるという君の説、こいつは楼閣《ろうかく》の基礎がかなり脆弱《ぜいじゃく》なもんじゃないかとぼくは思うよ。その外の徴候はあったのかね?」
「それを言いかけてたところじゃないか」と、ヴァンスが詰《なじ》るように言った。「ところが、君ときたら、やいのやいのと急《せ》き立てるんだから。仮にぼくを被告側弁護人として主張させたまえ。そしたら、君、ぼくの最終弁論はまるで息切れを起こし、あっぷあっぷという音がするだろうて」
「おれが検察側弁護人だと君は言いたいんだろうが、それよりも裁判長だとおれは主張したいさ。そしたら君をサスペンダトール・ペル・コーラム〔被告を絞首刑に処す〕にしたいくらいのもんだ」
「おや、おや」と、ヴァンスが溜息をつき、それから続けた。「仮説の侵入者がジュリアとエイダを狙撃後、いかなる逃走手段を用いたかを審理してみようよ。スプルートは、エイダの部屋で銃声が起こったのを聞きつけるが早いか、直ちに二階廊下にやってきた。ところが、なんの物音もしない――廊下を走る足音も、正面玄関の締まる音も聞いていない。さらに、いとしきマーカムよ、闇夜にゴール人の靴を履《は》き、大理石の階段を降りてゆく人物は、静かなること真夏の夜の軟風のごとし、なんてもんじゃないぜ。あの状況下なら、侵入者が逃走する音をスプルートが聞いただろうことは確実と言っていい。以上により、その説明はぼくにとっては自明になる。|つまり《ヽヽヽ》、|侵入者は逃走しなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだとね」
「それなら、外部の足跡は?」
「誰かが正面の門までゆき、また歩いて戻ることによって、事前につけたものさ――そう言えば、チェスター殺害の夜のことが思い出されてくる。君も覚えているだろう? 銃声が起こる十五分前、廊下をゆくひきずるような物音とそっと扉が閉じる音がしたというレックスの物語、それにエイダの、扉が締まる物語の部分だけに関するエイダの傍証を? よく注意してくれたまえ、あの物音は降雪がやんだ後に聞えたんだ――いや、事実は、月が出てから後なんだ。この物音が、門までゆきつ戻りつすることによって、別々の足跡をつけ終って引き返してきた人間が、ゴール人の靴を履いたまま廊下を歩いた時の音か、それとも靴を脱ぐところの音だったと容易に想像できないものだろうか? さらにだ、この閉じた扉とは、ゴール人の靴を臨時に|おくら《ヽヽヽ》にせんがために、リネン室の扉を閉じた音ではなかったと言えないだろうか?」
マーカムがうなずいた。「そうだ。レックスとエイダが聞いた音はそう説明がつかぬもんでもないな」
「次に、けさの一件はもっと明白でさえあるんだ。バルコニー階段には足跡がある、九時から正午の間につけられたものだ。ところが、張り込みの刑事のどちらとも、構内に入った人間を見ていない。のみならず、スプルートは、レックスの部屋で銃声が起こってから、数瞬食堂で待っていた。だから、誰かが階段を降りてくるか、それとも、正面玄関から出ていったとするなら、間違いなくその音を聞いていたはずだ。なるほど、スプルートが召使い用階段を昇ると同時に、殺人者のほうは正面階段を降りてきたんだという確率がないわけではない。だが、果たしてそんなことがありうるか? レックスを殺しておいて、じっと廊下で待つなんて、殺人者がやる行動だろうか? ――いつ誰が出てきて、正体を発見されるかも分らんというのは承知のはずなんだ。ぼくはそうだとは思わない。それに、どっちみち、張り込みの刑事は屋敷を出ていった人間を見ていないんだ。以上の理由により |ergo《エルゴー》、≪レックスの死後正面階段を降りてきた者はいない≫、というのがぼくの結論だ。さらにあの場合、足跡は事前のかなり早い時間につけられたというのがぼくの仮説でもあった。ところが今度の場合は、殺人者は門までのゆきつ戻りつの旅をしていない。張り込みがいて、姿を見られる心配があったからさ。あまつさえ、玄関への上り階段も歩道も掃除されていた。そこでぼくらの足跡作りはどうしたかというと、オーバーシューズを履いたまま、正面の扉から外に出、邸内の隅をまわって、バルコニーの階段を昇り、エイダの部屋を経由して二階の廊下に再登場してきた、というわけだ」
「なるほど」と、マーカムが前屈みになり、葉巻の煙をぽいと叩いた。「以上の理由により、君はゴール人の靴がまだ家の中にある、と推理したわけか」
「まさしくその通りだ。だけど、ぼくも白状するが、すぐにはリネン室のことは思いつかなかった。まずチェスターの部屋を当ってみた。次にジュリアの部屋をぐるっと見渡した。それから召使い部屋に上がってゆこうとした途端、レックスのいわゆる閉じる扉の物語を思い出したんだ。すばやく二階の全ドアに目を走らせ、すぐさまリネン室を当ってみた――とどのつまりは、これがかりそめの雲隠れの場所として、最もありそうな場所だったんだからね。見よ! ゴール人の靴が、古い毛布にくるんで、ちゃんと鎮座ましますではないか! 殺人者は前の二回とも、ここに隠しておいて、後でのもっと徹底した秘匿《ひとく》の機会に備えたものに違いない」
「しかし、わが方の捜査員がとうとうお目に掛れなかったほどの隠し場所とは、一体、どこなんだい?」
「その点に関しては、いまはぼくも分らない。まるっきし家の外部に持ち出したものかも知れない」
数分の間、沈黙があった。やがてマーカムがしゃべり出した。
「ゴール人の靴を見つけた君は、自説をかなりよく立証したというべきだよ、ヴァンス。だが君は、われわれに対決を迫っているものが何なのか、認識しているのかい? 君の推理が正しいとすれば、犯人はけさぼくらが逢って話をしてきたばかりの人物の一人ということになるんだぜ。これはまさに驚天動地の考えだ。ぼくはあの家の構成員一人一人について、心の中で当ってみたのだが、あのうちの誰かが大量殺人鬼の候補だとは絶対に思えないんだ」
「浅墓《あさはか》な道徳的偏見は、友よ、なにゆえか!」ヴァンスの声が冗談の調子を帯びていた。「ぼくはちょぴり犬儒《けんじゅ》派的なんだ。だから、グリーン・マンションで可能性として除去できる人物は、あのフラウ・マンハイムぐらいのものさ。あの女なら、この連続|殺戮《さつりく》を立案するだけの想像力はありっこないね。他については、そのどの一人を例にとっても、この悪魔的大量殺戮の黒幕になりうる人間だとぼくには見えるんだ。殺人者が殺人者らしい顔をしていると思うのは、だって君、誤まった観念だよ。史上いかなる殺人者も、殺人者らしくは見えないんだ。ほんとに殺人者らしい唯一の人間は、全く無害な人間さ。君、ケンブリッジのリッチーズスン牧師の、あのおだやかで、美男の風貌を思い出さないかい? なのにあの男、痴情の果てに愛人に青酸カリを投薬したではないか。アームストロング少佐は柔和《にゅうわ》な、紳士然とした若僧だった。なのに、その事実をもってしても、彼が細君に砒素《ひそ》を飲ませることを阻止はできなかった。ハーバードのウェブスター教授は犯罪者タイプではなかった。だが、こまぎれ死体にされたパーク博士の霊はいまもなお彼を残虐なる人斬り人と見なしているに違いない。ラムソン博士は博愛主義者の瞳、慈愛深げな口髭《くちひげ》をし、人道主義者の名声をほしいままにした。だがその彼でも、不具の義弟に対し、殺人鬼の冷血さをもって、アコニチンを投薬した。さらにはニール・クリーム博士の例もある。どこか上流社会相手の教会の執事とも見違えるような容貌の男。さらには、巧言令色、愛嬌《あいきょう》に秀《すぐ》れたウェート博士! ……さらには女もまた例外ならず。エディス・トンプソンは夫のスープにガラスの粉末を入れたことを自白した。その女がじつは信心深い日曜学校の先生みたいに見えたものだ。マデレーヌ・スミスは、世にも名門上流の淑女《しゅくじょ》らしい顔をしていた。さらに、コンスタンス・ケントは、美女だ――人の心もとろかさんばかりの風情《ふぜい》をした、かぐわしき女だ。なのに、この女は、徹頭徹尾野獣のやり方で、ちいさい弟の首をちょん切った。ガブリエル・ボンパールとマリー・ボワイエは、どう見ても |Donna Delinquente《ドンナ・デリンクエント》〔罪におちた女〕の典型などとは見えなかった。ところが、一方は自分の化粧着の紐で愛人を扼殺《やくさつ》し、一方はチーズ・ナイフで自分の母親を殺した。さらには、マダム・フネイルーは如何《いかん》――」
「もうたくさんだ!」と、マーカムが抗議した。「君の犯罪人相学の講義は、いま暫くは休講にしといてくれたまえ。ぼくはいま、君がゴール人の靴を見つけてきたという事実から帰納される結論が、あまりにも頭のふらふらするものなんで、それに精神の統一ができないで困っているところなんだ」ある恐怖観念が彼を押しひしいでいるように見えた。「なんたるこった! ヴァンスよ、君が提出した、この夢魔の迷路からなんとか脱出する方法がないもんかね。一体、レックス・グリーンの部屋にはいりこみ、白昼堂々と彼を撃ち殺す可能性を、あの家族の誰が持ちうるというんだ?」
「そいつはぼくも絶対に分らない」ヴァンスその人も事件の持つ不吉の相にはいたく心を揺さぶられていた。「だけど、この家にいる誰かがやったんだ――お互いの間では、夢にも疑ったことのない誰かがね」
「ジュリアの顔に現われていたあの眼差し、およびチェスターの驚愕の表情――君の言いたいのはそこなんだろう? あの二人だって夢にも疑っていなかった。だから、最後の真実を見て恐慌に駆られてしまった――だが、時すでに遅し。そうだ、そういったことのすべてが君の説にぴったり当て嵌《は》まるな」
「さにあらず、友よ、ぴったり嵌まらぬことが一つある」ヴァンスは困惑したようにテーブルを見つめたきりだった。「レックスは平和なる死に方をしていた。明らかにおのれの殺人者に気がついていない。彼の顔にも恐怖がなかったのはなぜなのか? 拳銃が狙いすまされているという時、彼が目をつむっていたとは考えられない。なぜならば、彼は立っていたんだ。しかも侵入者のほうを正視しつつだよ。こいつは奇怪というも愚かなり――まさしく狂気だ!」
彼が眉目《まゆ》を曇らせ、テーブルをこつこつと叩いた。
「それにもう一つ、マーカム、レックスの死について不可解なことがあるんだ。廊下に面する彼の部屋の扉は開いていた――なのに、二階にいた誰も銃声を聞いていない――|二階の《ヽヽヽ》誰もだ。それでいて、スプルートは――一階の、食堂の奥の、家令配膳室にいたのに――はっきりと銃声を聞いているんだ」
「恐らくは、ただそういう成行きになっただけのことさ」と、マーカムが反駁《はんばく》したが、自動機械のような言い方だった。「音は、君、時によると意外な働きをすることがあるからね」
「この事件には、『ただそういう成行きになった』ことはなにひとつないんだ。すべてに恐ろしい論理が通っているんだ――一つ一つの細部の背後に、綿密に立案された合理性がある。偶然の成行きに任《まか》されたものはなに一つないんだ。だけど、この犯罪の完全体系化そのものが、やがては、犯罪者の没落を招く遠因になるのだとぼくは思う。控えの間のいずれか一つを開く鍵が見つかりさえすれば、恐怖の大伽藍《だいがらん》への入口も分るはずなんだ」
ちょうどここで、マーカムに電話が掛ったというので呼ばれていった。戻ってきた時、彼の表情は当惑した、不安なものになっていた。
「スワッカーだったよ。フォン・ブロンがいま検事局にきていて――わたしに相談がある、といってるそうな」
「いよいよ出でて、いよいよ興味|しんしん《ヽヽヽヽ》たり!」と、ヴァンスがコメントした。
わたしたちは地方検事局へ車でいった。フォン・ブロンがすぐ案内されてきた。
「『馬の巣で卵を見つけた』なんて、荒唐無稽《こうとうむけい》な話をつっつくようですが」と、彼が椅子の端にちょこんと坐ったまま、弁解がましく語り出した〔この諺をこの医師は他の諺――「熊蜂の巣をつっつく」と混同している。従って、二つの意味にまたがる――作者の故意か?〕。「しかし、けさわたしにふりかかった奇怪な事件についてご通告しておくのが義務だと思ったものですから。最初警察へ通知しようかとも思ったのですが、誤解されるといけないと思い、それで、あなたの前にありのままを差し出し、適当な措置を仰ごうと決心したのです」
紛れもなく、この男はどうして話の口火を切っていいものかも分らない様子であった。マーカムは慇懃《いんぎん》な余裕のある態度をして、辛抱強く待った。
「わたしはさっそくグリーン家に電話したのですが――ええと、その――発見したもんが」フォン・ブロンがひっかかりひっかかり語った。「だけど、言われるには、皆さんは事務所に戻られたとか。そこで、昼食をすますが早いか、ここに直接やってきて――」
「それはご丁重なことで、先生」と、マーカムが呟いた。
再びフォン・ブロンはひっかかった。彼の物腰が極端に阿諛《あゆ》迎合的になった。
「じつを申しますと、マーカムさん、わたしはいつも薬品鞄《やくひんかばん》の緊急薬は補給一杯にして持ち歩く癖がありまして……」
「緊急薬?」
「ストリキニーネ、モルヒネ、カフェイン、その他各種の睡眠剤および興奮剤のことです。そのほうが大変に便利なことが多く――」
「そこでわたしに逢いたいとおっしゃるのは、こうした薬品に関連した件なのですか?」
「間接的には――さよう」フォン・ブロンが暫く口をつぐみ、言葉の整理をした。「本日、たまたま、モルヒネ可溶性錠剤の四分の一グレーン入りの新しいチューブ一本、ストリキニーネ三十分の一のチューブ四本入りの『パーク・デーヴィス』の紙箱を一つ、鞄《かばん》に補給したばかりでありまして……」
「そこで、その薬の補給がどうかしたんですか、先生?」
「じつを申しますと、モルヒネとストリキニーネが消えてなくなったのであります」
マーカムが前方に乗り出した。彼の瞳に、奇怪な生気がみなぎってきた。
「けさ病院を出た時は鞄にあったのです」と、フォン・ブロンが説明した。「それから二ヵ所ばかり、簡単な往診をすませ、それからグリーン家にいったのです。病院に戻ってきてみると、チューブ類が紛失していました」
マーカムが一瞬医師を凝視した。
「そこで、その他の往診の最中は、薬があなたの鞄から取り出されるということはありえない、とこうあなたは考えるのですね?」
「まさしくその通りなんでして、どっちの場所でも、鞄はわたしの目の届く位置にあったのです」
「ところが、グリーン家では?」マーカムの興奮ぶりが急に募ってきた。
「わたしは直接未亡人の部屋に赴《おもむ》き、その時は鞄は自分で持っていました。そこにいたのが三十分ぐらいでしょうか。出てくる時に――」
「その三十分の間に、部屋を外《はず》したことはなかったのですね?」
「その通りです……」
「憚りながら、先生」と、ヴァンスのだらりとした声が聞えてきた。「看護婦の話ですと、あなたは彼女に声を掛け、グリーン未亡人のブイヨンを持ってこいと言われたそうで。どこから声を掛けました?」
フォン・ブロンがうなずいた。「そう、その通り。まさしくわたしはクレーヴン嬢に連絡を取りました。扉のところに足を掛け、召使い階段に向って、大声で呼びました」
「なるほど。それから」
「看護婦がくるまで、わたしは未亡人の治療に従事しておりました。それから、廊下を渡って、シーベラの部屋にゆきました」
「鞄は?」と、マーカムがいきなり遮《さえぎ》った。
「廊下に置いたまま、中央階段のらんかん後部に立てかけておきました」
「それから、スプルートに呼ばれるまで、ずっとシーベラ嬢の部屋にいたのですね?」
「さようです」
「すると鞄は、二階廊下に置いたまま、十一時ごろから邸内を去るまで、無監視の状態にあったわけですね?」
「さようです。客間にいた皆さん一行にお暇乞《いとまご》いをしてから、二階に上がり、取ってきたのです」
「それから、シーベラ嬢にも、暫しがほどの別れの挨拶をした、というんでしょうな」と、ヴァンスがつけ足した。
フォン・ブロンが優しい驚きの様子をして、眉毛をつり上げた。
「しごく当然ですとも」
「その消えてなくなった薬品の量は?」と、マーカムが質問した。
「ストリキニーネ四チューブの含有量は約三グレーン――正確にいえば、三と三分の一グレーン。それから、パーク・デーヴィスの紙箱に入っているモルヒネは全部で二十五錠、合計六と四分の一グレーンです」
「これらは致死量ですか、先生?」
「それはお答えするのに困難な問題でありまして」と、フォン・ブロンが、職業的態度に変わった。「モルヒネには個人差がありまして、驚くべき大量を摂取できる人間もおります。だが、『他の条件が等しいとすれば』|cetris paribus《セトリス・パリブス》、六グレーンで必ずや致死量を構成します。ストリキニーネについては、毒物学の教えるところによれば、致死量に関してはきわめて広い適用範囲がありまして、患者の体質と年齢による格差がある。成人に対する平均的致死量は、わたしの意見によれば、二グレーンでありますが、一グレーンまたはそれ以下の投薬で、死を招いた場合もあります。かと思えば、十グレーンも嚥下《えんか》しておきながら、蘇生《そせい》を見た患者もおります。しかし、一般的にいうならば、三と三分の一グレーンもあれば、致死的結果を発生せしむるに十分でありましょう」
フォン・ブロンが立ち去った時、マーカムが不安そうにヴァンスを見やった。
「おい、これをどう思うかい?」と、彼が尋ねた。
「ぞっとしないよ――全然、ぞっとせんさ」ヴァンスがやるせなげに首を振った。「やけに変じゃないか――一部始終がだよ。しかも、医者本人も心配してるくらいだ。あの優雅の偽装の底には、恐怖の波がのた打っている。おっかなびっくり病の青鬼にとり憑《つ》かれてるんだぜ――それも先生自慢の丸薬が紛失したこと自体ではない。なにかを恐れているんだよ、マーカム。あの目には、追われた者のひずんだ表情があった」
「それほどの薬品をいつも持ち運んでいることが、得体が知れないとは思わんのかね?」
「必ずしもね。医者にもそういう人はいるよ。ヨーロッパ系統のM・Dには、特にその慣習があるようだ。フォン・ブロンはドイツ留学なんだろ……」ヴァンスが突如、目を上げた。「ところで、二つの遺言状はどうしたの?」
マーカムの抉《えぐ》るような凝視に、不意を衝かれて反問する人の表情が見えた。が、彼はただこう言った――
「きょうの午後、少したったら手にはいる予定だ。バックウェイが風邪で寝こんじまって。が、きょうは写しを送るという約束なんだ」
ヴァンスがすっくと立ち上がった。
「ぼくはカルデアびと〔「隠語を解き、難問を解く」占い師の民族だと聖書は言う〕じゃないがね」と、ヴァンスがまた例ののんびりした母音を響かせた。「だけど、この二通の遺書が、あの医者の丸薬紛失の謎を解くのに寄与するんじゃないかという気がするのだよ」彼は外套に手を通し、帽子とステッキを取り上げた。
「さあ、この忌わしき一件は心の思いから追放しなくちゃ――さ、ヴァン、本日午後イオリアン・ホールですばらしい室内楽があるんだ。急げば、モーツアルトの『ハ長調』に間に合うだろうよ」
第十七章 二つの遺言状
(十一月三十日、火曜日、午後八時)
その夜八時、モーラン警視、ヒース部長、マーカム、ヴァンス、それにわたしは、『スタイヴィサント・クラブ』の個室の小さい会議机を囲んで坐っていた。夕刊紙はレックス・グリーン殺人事件を取り上げ、各社各様のメロドラマ風の記事を書き立て、ニューヨーク市民の熱狂的賞讃を博していた。しかし、こうした早手まわしの物語《ストーリー》は、やがて朝刊紙が発表するであろうものに比べれば、まだまだ序の口であることがわたしたちには分っていた。しかし、また一方では、ジャーナリズムによる不可避で差し迫った批判攻撃がたとえないと仮定したところで、状況自体は捜査当局を苦悩と絶望に追いやるに十分なものがあったのだ。その夜、わたしは小さい車座になって並んだ心配顔の列を眺《なが》めながら、この会議の結果に寄せられている重要性がどんなに途方もなく大きいものであるかを痛感していた。
マーカムが最初の発言者になった。
「わたしは遺言状の複写を持参しているが、しかし、この審議に先立ち、新しい進展があったかどうかをお伺いしたい」
「進展どころの騒ぎじゃねえです」と、ヒースが嘲笑《ちょうしょう》するかのように、鼻息を吹いた。「午後一杯かかって、ただくるくるとまわってただけでさあ。おまけに、スピードをつけてまわればまわるほど、元の出発点に戻ってきちゃうんだから。マーカム検事、捜査の線《ヽ》になるようなもんは、これっぽっちも浮んできやがらねえです。|はじき《ヽヽヽ》が現場から|どろん《ヽヽヽ》しちまったという業腹《ごうはら》なことさえなけりゃ、あたしゃ、自殺説報告を入れといて、後はさっさと|さつ《ヽヽ》をやめっちまいたいくらいの気持でさあ」
「いやだねえ、部長さん!」ヴァンスが、気乗りのしない軽口の試みをやった。「そんなくらい悲観論に与《くみ》するには、いささかまだ時機尚早《じきしょうそう》ですよ。さては、デュボア警部は指紋の発見に成功なさらなかった?」
「なあに、指紋なら、大丈夫、見つけやしたがね。エイダの指紋、レックスの指紋、スプルートの指紋、医者の指紋が二つ――これじゃ、しかし、とりつく|しま《ヽヽ》もねえ」
「指紋はどこについていたんです?」
「どこって、みんなでさあ――ドアのノッブ、中央テーブル、窓ガラス、暖炉の上の木張り、むやみやたらと指紋だらけだ」
「その最後の事実はいつの日にか、興味しんしんたるものになるでしょうよ。いまじゃ大した意味はなさそうに見えますがね――足跡の件で新事実は?」
「|おけら《ヽヽヽ》でさあ。きょうの午後遅く、ジェリムおやじの報告ももらいましたがね、新しいことはなんにも言っちゃいねえんで。先生がお見つけになったゴール人の靴がつけた足跡だということでもだよ」
「それで思い出しましたよ、部長。あなたあのゴール人の靴をどうしたの?」
ヒースが何食わぬ、得意そうな苦笑を一つして見せた。
「ヴァンス先生秘伝の巻ってのをそっくりやらせてもらいやした。ただし――あっしのほうが思いつきは先でしたぜ」
ヴァンスが微笑を返した。
「|Salve《サルヴ》〔でかしたぞ!〕、まさしくその通り、けさのぼくには、その妙案が思いつけなんだ。ついいましがた思いついただけだ」
「あのオーバーシューズをどうしたか、教えてもらえると有難い」マーカムが我慢し切れないように、横から口を出した。
「なあに、部長はあれを何食わぬ顔でリネン室に戻し、古毛布の下に押しこんだのさ。元の通りそっくりにね」
「そうでさあ!」ヒースが、悦《えつ》に入ったようにうなずいた。「それから、こっちが新しく入れた看護婦にはあれから目を離さんように命令しときやした。どろんしたとたんに刑事課に電話する予定でさあ」
「君んとこの婦人警官を入れるのに問題はなかったの?」と、マーカムが尋ねた。
「造作《ぞうさ》もねえことで。万事、時計の針のようにピタリとゆきやした。六時十五分前、先生が打ち合わせ通りにやってきた。六時、本部の婦人警官がやってきた。そこで先生が新しい仕事に予備知識をひとくさり。それが終って、婦人警官は白衣に着替え、グリーン夫人にお目見得に参上。ばあさんが言うことには、あたしゃクレーヴン嬢はどっちみち嫌いだったのだから、新しいひとは、もっと思いやりを出して下さいね、というお言葉で、首尾は上々、こんなにうまくいったことはねえでさあ。あっしはぶらぶらと機会を待ち、そこで警官にゴール人の靴のことをそっと耳打ちし、それから戻ってきた、とこういうわけでして」
「わしのところの婦人警官のうち、どれに事件を担当させたというのかね、部長?」と、モーランが質問した。
「オブライエンでさあ――例のシットウェル事件を取り扱わせた。オブライエンにかかっちゃ邸内のことは万事見通しでさあ。それにあの女、力は男まさりときたもんだ」
「もう一件。かつ、可及的|速《すみや》かに、君からその警官に話しておいたほうがいいことがある」マーカムが、フォン・ブロンの昼食後の来訪のいきさつについて詳しく物語った。「もしこれらの薬品がグリーン・マンション内で盗まれたものならば、君の婦人警官がなんらかの形跡を発見してくれるかも知れない」
消えた毒薬に関するマーカムの話はヒースにもモーランにも、強い衝撃を与えた。
「こいつは大ごとだぞ!」と、警視が叫んだ。「本件は毒殺事件にまで発展する可能性ありというのかね? まさに有終の美じゃないか、それじゃ!」彼の憂慮は口調に現われているものより、はるかに深刻だったのだ。
ヒースはやり場のない驚きにただ茫然とするばかりで、磨《と》いだ机の表面をぐっと睨んだままだった。
「モルヒネにストリキニーネか! こいつはいくら捜したって、見つかりっこねえ|しろもの《ヽヽヽヽ》でさあ。あの家なら隠し場所はきりはねえ。ひと月捜査したって、出っこありませんぜ。どっちみち、あたしゃ今夜もう一度出掛けてゆき、オブライエンに用心しろって言っときます。あの女が見張っていてくれりゃ、使う現場を捕えられるかも知れませんで」
「わしが驚嘆してやまないのは」と、警視が注釈した。「この賊の悠々たる自信だ。レックス・グリーン射殺後一時間もしないのに、二階廊下から毒薬が消えるとは。これは大ごとだ! 諸君は用心したまえ、相手は稀代の殺人鬼、さらには呆《あき》れかえったる傍若無人の奴だぞ!」
「殺人鬼の冷血と傍若無人だったら、この事件にはいやというくらいありますよ」と、ヴァンスが答えた。「この一連の殺人の背後にあるもの――それは仮借なき妄執《もうしゅう》であり、果て知れぬ打算なのです。医者のお守り袋は、じつは以前に何十回となく宝|探《さが》しに遇ったのだと聞かされても、ぼくは驚くつもりはないですね。恐らくは、これまでに忍耐に忍耐を重ねた、毒薬の備蓄が行われてきたものと思われる。けさの盗みは仕上げの襲撃だったのかも知れません。ぼくがこの事件全体に見るもの――それは、慎重に策定された陰謀なのです。おそらくは、その準備には数年を要したものでしょう。われわれが取り組んでいる相手は、飽くなき『固執観念』|idee fixe《イデー・フィクス》 なのです、狂気の果ての悪魔主義の論理なのです。かつ――もっとおぞましいことには――奇想天外のロマンチックな精神による、錯倒《さくとう》された想像力。これがいま、われわれが対決させられている相手なのです。灼熱《しゃくねつ》の火を燃やす、自我中心主義、幻覚の中で認識されているところの楽観主義――これこそが、いまわれわれが対抗しているものなのです。しかもこの類型の楽観主義の特性として、そこには途方もないスタミナとパワーがある。万国の歴史を激動で震撼《しんかん》させたもの、それもこうした類型の楽観主義だったじゃないですか。マホメットしかり、ブルーノしかり〔十六世紀のイタリアの哲学者。異教として梵殺さる〕、ジャンヌ・ダルクしかり――さらには、トルケマダ〔十五世紀のスペイン人。宗教裁判の創始者。九千人を焼き殺す〕、アグリッピーナ〔ローマの悪名高き女。ネロの母親。夫を毒殺〕、およびロベスピエール――ことごとくがそうだった。それが策動する程度もそれぞれ異なり、それが成就《じょうじゅ》せんとする目的もそれぞれ異なりこそすれ、その根源にあるもの――それは個人革命の精神なのだ」
「畜生! ヴァンス先生」と、ヒースが不安を起こした。「まさか先生はこの事件が、ええとその――自然じゃないんだとおっしゃるんでしょうな」
「それ以外の解釈がありますか、部長? 既に殺人三件、未遂一件が行われているのです。さらにここへきて、フォン・ブロンから毒薬が盗まれた」
モーラン警視は身づくろいをし、それから机の上に両肘をついた。
「さて、われわれは何をなすべきか? それが、今夜の会談の目的だと思われるが」彼は自分の心に反しつつも、無理に事務的に話そうと努めていた。「あの建物を破壊するわけにもゆくまいし、残る家族の全員に各自護衛をつけるわけにもゆくまいと思うが」
「そりゃそうで。さりとて、警察に拉致《らち》し、≪お勤め≫をさせるわけにもゆかねえ」と、ヒースが愚痴《ぐち》った。
「やれったって、徒労に終るだけですよ、部長」と、ヴァンスが言った。「この特定の |Opus《オパス》〔天職〕を実行に移しつつある人間の唇の封印を解くような拷問はこの世では知られていないんです。狂信と殉教精神の過剰――この事件をいろどるものはこれしかない」
「ところで、遺言状の内容を知らせてもらえませんか、マーカム検事」と、モーランが提案した。「そしたら、動機の見通しがつくかも知れないし――この|殺し《ヽヽ》の背後にはかなり強力な動機があるということは、ヴァンス先生、あなたもお認めになるでしょう、どうです?」
「その点は、疑うべくもないですね。だけど、ぼくには、金銭動機だとは思えないんだ。金銭も展望の中にはいってくるでしょうが――いや、おそらくは既にはいっているでしょうが――しかし、それも一つの寄与的要因としてでです。ぼくをして言わしむれば、動機はもっと根源的なもの――ある種の強烈な、抑圧された人間の情熱に母体を有するものなのです。そうはいうものの、金銭的条件を知ることによって、前述の深層の謎《なぞ》に到達するということはあるかも知れません」
マーカムがポケットから取り出したのを見れば、それは数枚の証券型の紙にぎっしりとタイプした文書だったが、彼がいまこれを机の上に拡《ひろ》げた。
「これを逐語的《ヽヽヽヽ》に読みあげる必要はない」と、彼が言った。「わたしは徹底的に読み返したので、その内容だけを簡単に諸君に話すことにする」彼が一番上の紙をとりあげ、光にかざした。「トバイアス・グリーン最後の遺言状は死の一年足らず前に作成せられたもので、家族全員を残存財産の分割受取人に指定していること、既に諸君も承知の通りであるが、ただし、そのためには、当該全員が二十五年間、不動産上に居住し、かつ、これを手つかずに維持するという条件が満たされた場合に限ることになっている。右の期間を経過した後は、不動産の転売、その他の方法による処分は自由である。ここに注意を要することは、右の居住条項はなかんずく厳格なものであって、遺産受取人はグリーン・マンションに本質的《イン・エッセ》居住をしていなければならない――技術的《テクニカル》居住では要件を満たさない、ということである。遺産受取人は旅行、外泊の自由は認められているけれども、このような不在期間が一年につき三ヶ月を超《こ》えることがあってはならない……」
「誰かが結婚した場合は、どういう規定があるのです?」と、警視が質問した。
「規定なし。遺産受取人のいずれかが婚姻を結んだ場合といえども、遺言者の制限条項は妨げられない、と解すべきでしょう。グリーン家籍の人間が婚姻を結んだ場合でも、彼または彼女は、婚姻にかかわりなく、不動産上の居住を二十五年間継続する必要がある。もちろん、この場合、その夫または妻は、居住権の分与に浴する権利を生ずる。子供が生まれた場合は、遺言状は構内五十二丁目寄りの区画に、小住宅二棟を建築する自由を与えている。ただし、エイダに限って、婚姻の場合は、他に転居しても遺産の分与には依然としてあずかれる規定になっている。これは明らかに、この女がトバイアスの実子ではなく、したがって、グリーン家の血統を継ぐことができないことによるものである」
「遺言の居住条件に違反した場合には、どんな罰則がついているんですか?」再び警視が質問した。
「罰則は一つしかない――相続権の喪失《そうしつ》、完全かつ絶対の喪失だ」
「因業《いんごう》なおやじだ」と、ヴァンスが呟《つぶや》いた。「だが、遺言状の重点はだね、金銭遺贈の方法にあると思うけど、その配分についてはどうなってるの?」
「配分はされていない。少額の寄付が二、三あるだけで、後は全額未亡人に遺贈されている。未亡人はその生存中、それに対する処分権を有し、死ぬるに及んでは、本人が適当と認める方法で、これを子供――または孫《まご》があれば孫――に対して、分与してやることができる。ただし、いかなる場合にも、配分した金額が直系者の手に残ることが絶対必要条件である」
「グリーン家の現世代はどこから生活費をえているの? 全員が老婦人の恵みに依存しているの?」
「必ずしもそうではない。彼らの扶養費は次のようにして与えられている。すなわち、五人の子供それぞれが、グリーン未亡人の所得を源泉として、身のまわりの必要を満たすに足るだけの、一定の金額を執行人の手を経由して受け取る、というのがそれだ」マーカムが紙をくるくると巻いた。「以上がトバイアスの遺言状のほぼ全容だ」
「少額の寄付が二、三あるとかどうとか言っていたね」と、ヴァンスが言った。「それは何なの?」
「例えば、スプルートには相当資産が贈られている――勤めから引退したい時はいつでも引退し、楽な暮らしができる程度の。マンハイム夫人もまた、二十五年が経過した後は、生涯の間、一定の所得を受け取ることができる」
「ははあ! なるほど。そいつはいよいよ興味|しんしん《ヽヽヽヽ》たりだな。ところが、それまでは、この女は、その気でいる限り、料理女として働きながら、たんまりお給料がいただけるという寸法だ」
「そうだ。それが条件だ」
「フラウ・マンハイムの地位はぼくを魅了してやまないものがあるな。どうやらいまの予感では、遠からずぼくとこの女とは、心と心の対決を迫られそうだな――外《ほか》に少額の寄付はあるの?」
「病院が一件。トバイアスが熱帯で罹《かか》ったチブスを治療し、回復させた病院だ。次は、プラハ大学犯罪学科への寄付金。次は、奇妙な条項ということで言っておいていいと思うが、トバイアスはニューヨーク市警察本部に対し、蔵書を寄贈している。ただし、これも二十五年が経過した後でのことだ」
ヴァンスが面喰ったような、興味|しんしん《ヽヽヽヽ》といったような身振りをし、思わず身づくろいをした。
「まさに驚くべし!」
ヒースが警視のほうを振り向いた。
「おやじさんはご存じでしたか?」
「どこかで聞いたような気もするがね。しかし、四半世紀未来における書籍の寄贈というんじゃ、うちの役人どもをわくわくさせることはあるまい」
ヴァンスは、どこから見ても、のんびりした無関心の態度で煙草をふかしているとしか見えなかったが、その煙草を握っている様子そのものを見たわたしには、彼が何か異例な思索に精神を奪われていることが分っていた。
「次は、グリーン未亡人の遺言状だが」と、マーカムが続けた。「これは現在の条件について、もっと具体的に触れたものだ。わたし個人の意見としては、手掛りになるものはなんにもないが。夫人は財産の分与については算術平均的公平を重んじる人らしい。五人の子供――ジュリア、チェスター、シーベラ、レックスおよびエイダ――はその各条によって、同額の資産を受け取ることとなっている――つまり、全財産の五分の一をそれぞれが取得するわけだ」
「そこんところはあっしには面白くもおかしくもねえですがね」と、巡査部長が口を出した。「あっしが知りたいのは、そのうちどれかが消えっちまったら、その分け前はそっくり誰かに取られっちまうかどうかでさあ」
「その部分に該当する条項は簡単明瞭だ」と、マーカムが説明した。「将来の、別の遺言状が作成されるに先立ち、子供のいずれかが死亡した場合は、その遺産相当額は残存受益者の間で均等に配分される、というのがそれだな」
「それじゃ、一人が消えっちまうたびに、残りの奴が儲《もう》けるという寸法でさあ。そこでみんなが死んじまったら、残る一人がごっそり手に入れるってわけか――ふふん」
「そうだ」
「するてえと、現状ではシーベラとエイダがなにもかも手に入れる――五〇・五〇という奴ですな――ばばあがあの世へおさらばしたら」
「君の言う通りだ、部長」
「だけどもし、シーベラもエイダも、おまけにばあさんも死んじまったら、いったい財産はどうなるんで?」
「どちらかの娘に夫がいた場合は、財産はそちらに移ることになる。しかし、シーベラもエイダも未婚のまま死亡した場合には、全財産が国家にゆく。換言すれば、生存する近親者が一人もいない場合に限り、国家が受取人になる――そう解すべきだとわたしは思うが」
ヒースが数分間、以上の各可能性について考えこんでいた。
「この状況じゃ、|いとぐち《ヽヽヽヽ》をつかめったって無理でさあ」と、ヒースが詠嘆《えいたん》した。「これまでの事件じゃ、みんなが平等に儲かるようにできてるんでさあ。それに家族三人はまだ生存しとる――ばあさんと娘二人が」
「三引く二は一をお忘れなく、部長」ヴァンスが静かに示唆した。
「それはどういう意味です。先生?」
「モルヒネとストリキニーネ」
ヒースがぎくっとし、喧嘩《けんか》でも売るようなけんのんな顔をした。
「畜生!」と、彼は机を拳《こぶし》で叩くと、「そうさせてなるもんか。見てろ、おれがそうはさせねえぞ」それから――忍びよる絶望感に、憤然たる決意も鈍ったのか、しまいにはむっつりと黙ってしまった。
「お察ししますよ」ヴァンスも乱れる心に絶望は避けられないような言い方をした。「しかし、残念ながら、わたしたちにできるのは待ちの一手だけだ。もしもグリーン家巨万の富が本件の活力源だというのなら、少なくともあと一つの悲劇を防止する方法はこの地上にはないだろうな」
「二人の娘に事情をぶちまけるというのはどうかね、そしたら、別居、疎開の誘い水にもなろうじゃないか」
「それはただ、やがて訪れる必然を先に延ばすことになるだけです」と、ヴァンスがやり返した。「あまつさえ、遺産相続権の喪失にもつながる惧《おそ》れがある」
「裁判所に仮処分を申請して、遺言状の条項を覆《くつが》えすという手がないでもないが」と、マーカムが自信なさそうに提案した。
ヴァンスが皮肉な微笑を彼に返した。
「君の親愛する裁判所のどれでもいい、処分命令にすったもんだしているうちに、殺人者は現地司法官までも抹殺するだけの余裕があるんじゃないのかね」
二時間近くもの間、事件処理の方法論に関する討議が行われたが、目ぼしい活動方針が提案されるたびに、それぞれの前途に立ちはだかる障害の大きさが思いやられ、なす術《すべ》もない有様であった。結局、会議の結論は、唯一の実際的戦術は通例の警察捜査しかないということになってしまった。それでも、会議が解散するまでに決定された特定事項はあった。グリーン・マンション付近の張り込みを増《ふ》やすこと、正面にあるナーコス・アパートの上層階に刑事を配置し、邸内正面の扉と窓に監視を怠らないこと。日中は、なんとか口実を設けて、できるだけ長時間、刑事を邸内に入れておくこと、グリーン家の電話線に盗聴設備をつけることなどがそれであった。
ヴァンスは次のように主張した――この主張が、どちらかと言えば、マーカムの好みに反するものだったことは書くまでもない。つまり、邸内の全員および邸内を訪れる人間のすべては――事件との関係がどんなに疎遠に見えるにせよ――これを容疑者と見なし、厳重な監視の下におくべしというのである。警視はこの主張を容《い》れ、オブライエンにこの旨を伝えるように、ヒースに命令した。彼女が女性特有の本能的な|えこひいき《ヽヽヽヽヽ》を起こし、特定人物に対する警戒心を弛《ゆる》めることがあってはならない、という配慮からであった。ヒース部長は既にジュリア、チェスター、レックスの個人生活を徹底的に洗い出すため、特別捜査班を設けているらしく、グリーン家外部での彼らの友人および素行に関する調査のため、十数人の刑事が動いていたようである。訓令の重点が置かれたのは、これらの故人と友人との間に交わされた会話で、犯罪の予察または嫌疑を匂《にお》わすような言葉の端または引用がなかったかどうかを徹底的に聞きこむことだったようである。
マーカムが討議を打ち切るべく立ち上がった瞬間、ヴァンスがすかさず身体を乗り出し、次のようにしゃべった。
「万一、毒殺の犯行が起こる場合に備えて、わたしたちは準備をしておかねばならない、と思うがどうでしょう。モルヒネまたはストリキニーネの大量投薬があった場合でも、緊急の対策で犠牲者が救われたということはよくある例だと思う。そこでぼくは提案したい。ナーコス・アパートには、グリーン家の窓を見張る人間と並んで、医務官を一人配置せられたい。さらに同人には、モルヒネ、ストリキニーネ中毒の撃退に必要な、一切の器具および解毒剤を携帯せしめられたい。のみならず、わたしは次のことをも提案したい。つまり、われわれはスプルートおよび新看護婦との間になんらかの信号手段を打ち合わせておき、これによって、なんらかの事態が発生した場合には、一瞬の遅滞なく、前述の医務官が急行できるようにしておくべきである。毒殺未遂の被害者の命を取りとめることができるならば、薬を盛った人間の確認もできるかも知れないからである」
この案は直ちに全員の賛同をえた。警視はその夜のうちに警察医務官の一人を選定し、万端の打ち合せをしましょう、と自分から引き受けてくれた。さらにヒースは、グリーン・マンション真向いのナーコス・アパートに直ちに急行した。
第十八章 秘密の書斎にて
(十二月一日、水曜日、午後一時)
翌《あく》る朝、ヴァンスは、いつにも似ず、早起きをした。どちらかといえば、ご機嫌斜めの様子なので、わたしはほっておくことに決めた。読書でもするつもりなのか、あてどもなく本をひっぱりだしては、手をつけていたようで、一度などは、彼が下に置いた本を見たら、なんと、成吉思汁《ジンギスカン》の生涯という表題だった。午前も昼近くなった頃、例の中国版画の分類にあくせくとしている彼の姿が見られた。
わたしたちは、マーカムと午後一時に法曹クラブで昼食をする約束になっていた。十二時少し過ぎ、ヴァンスがお得意の高馬力車、イスパーニョ・スイーザの用意を命じた。問題にかかずらっている時は自分で運転するのが彼の癖で、この運動が神経を鎮《しず》め、頭脳を明晰《めいせき》にしたようである。
マーカムはわたしたちを待っていたが、彼の表情を見ただけで、なんか胸騒ぎのすることが起こったに違いないことがあまりにも明らかだ。
「恐れるな、わが友よ」わたしたちが大食堂の一隅にある食卓についた時、ヴァンスが誘いをかけた。「君の謹厳な顔ったら、パトモスという小島にありき、使徒ヨハネにそっくりだな。起こるべくして起こることが起こったんだろう、きっと。ゴール人の靴でも消えたというのかい?」
マーカムがどこか不意を衝《つ》かれたような顔で彼を見やった。
「そうなんだ! あのオブライエンという女がけさ九時に殺人課に電話してきてね、昨夜のうちに、あれがリネン室からなくなっていると報告してきたんだ。寝る前には、ちゃんとあったというんだがね」
「言わずと知れたこと、いまだに見つからん?」
「そうだ。電話に先立ち、相当注意して捜査してみたんだそうだ」
「へえー! 驚いたね、だけど、その女刑事、よせばいいのに、どうせ骨折り損さ。ところで、堅忍不抜の巡査部長の意見はどうなんだい?」
「ヒースが邸内に到着したのは十時前、それから捜査をした。ところが、なんにも浮んでこない。夜中に廊下でことりとも音を聞いたと認める者はいない。そこで部長は自分で家中を捜索したが、徒労に終った」
「君のところに、けさフォン・ブロンから連絡はなかったの?」
「いや、しかし、ヒースが逢った。邸内に現われたのは十時ごろ、一時間近くいたという。薬を盗まれて、ひどく狼狽《ろうばい》している様子で、なにか手掛りがあったかと質問したという。その一時間のうち、大半は、シーベラと二人っきりだったそうだ」
「なんと嘆かわしき話かな! この『トリュフ・ガストロノーム』(松露の美味)の舌鼓でも打たせてもらおうじゃないか。不愉快な思わくは当分はやめだ。ところで、こっちのマディラ・ソースはなかなかいけるぜ」こうして、ヴァンスは事件の話題を打ち切った。
にもかかわらず、この会食は記念すべきものであったことがやがて分ることになる。というのは、食事も終り近くになって、ヴァンスがある提案をしたが――いや、そういうよりは、ある行動を主張したが――図《はか》らずも、これが機縁となって、グリーン・マンションでの恐ろしい悲劇の数々も解決され、その謎も解明されるという運命にあったからである。デザートになった時だった。長い沈黙が領《りょう》した後、ヴァンスがマーカムを見あげ、こう言った。
「『パンドラの箱』の固執観念だがね〔ギリシア神話。秘密の箱を開けると祝福がなくなったという話。しかし、美しいものは隠せば隠すほど見たくなるという観念のメタファー〕、ぼくの頭にこびりつき、圧倒して熄《や》まないんだ。ぼくはなんとしてでも、あのトバイアスの密室の書斎にはいってみたい。あの聖域なる奥の院がぼくの熟睡の妨げになってきて、ぼくは困ってるんだ。とくに君が、蔵書の遺贈の話を持ち出して以来というもの、心の平安をすっかりなくしてしまったよ。ああ、わが心の切なさよ! トバイアスの文学趣味に分け入り、なにゆえに警察を受益者に選んだのか、その理由を知る方法はないもんかね?」
「これはしたり、ヴァンスよ、だが、一体どんな関連が――?」
「弁論中止! 君が考えつく疑問だったら、ぼくが自分で設定していないわけはないじゃないか。そのぼくがどの疑問にも解決できないでいるんだ。それでも、問題は依然として不変だ。たとえ君の手をわずらわし、強制執行を取りつけて、戸を叩きこわしてもいいから、あの書斎には、ぼくはどうしても入ってみたいんだ。あの古い屋敷には、死を告げる底流が渦巻いているんだよ、マーカム。その秘密の部屋に、手がかりの一つや二つ見つかるかも知れんじゃないか」
「グリーン夫人が飽《あ》くまでも鍵《かぎ》の明け渡しを拒むという立場を貫くとしたら、面倒な法律問題になるなあ!」
わたしにはよく分っていたのだが、マーカムは既に易々として暗黙の諒解を与えていたのだ。グリーン家殺人事件が投げかけている難問に対して、いささかでも解明の光を照らす可能性のある提案だったら、可能性の稀薄さなんか問題じゃなく、なんでも譲歩したい気分に彼はなっていたのだとわたしは思う。
わたしたちが到着したのは三時近くだった。マーカムから先に電話連絡があったので、ヒースは先着していた。わたしたちは直ちにグリーン未亡人の許に伺候した。部長が目で合図すると、新しい看護婦は席を外《はず》した。マーカムがいきなり本論にはいった。老いたる貴婦人は、わたしたちが入ってゆく時も、胡散《うさん》くさい目で睨み返したのだったが、いまは枕具の山を背にして、峻厳《しゅんげん》に坐りこみ、マーカムにむかって防衛的|敵愾心《てきがいしん》をまる出しにして、凝然《ぎょうぜん》と見つめた。
「奥さん」と、彼は始めたが、いくらか峻厳な調子になっている。「この拠《よ》んどころない訪問の仕儀をわれわれも残念に思っています。しかし、故グリーン氏の書斎への立ち入りを緊急かつ重大とするところの事態が発生しまして――」
「それは絶対に許しません!」彼女が忽ち横槍《よこやり》を入れた。その声は忿懣《ふんまん》の漸高音となって鳴り響いた。「あの部屋に一歩でも入れることは絶対に許しません。この十二年間、なんぴとといえども、あの閾《しきい》を越えさせてはいないのです。不浄役人ごときに、あたしの夫が生涯の終りの年を送ったあの場所を冒涜《ぼうとく》させてなるものですか!」
「奥さんを拒否に駆り立てている感情については、さもあらんとお察しするのでありますが」と、マーカムが回答した。「しかし、それよりも重かつ大なる事態が出来《しゅったい》したのであります。部屋の捜索は、やむをえず強行させていただきます」
「殺されたって許すもんですか!」と、彼女が絶叫した。「僭越《せんえつ》にもひとの家に上がりこんでおきながら――」
マーカムが権威を示すかのように片手を挙《あ》げた。
「わたしがここに参ったのは、是非《ぜひ》曲直を論ずるためではなく、奥さんに鍵をお出し願うためにきているのであります。もちろん、法律の手で戸を破壊したいとの思召しならば……」彼がポケットから一枚の紙を取り出した。「あの部屋の捜査令状をわたしは確保しているのです。よって、これをあなたに強制執行せざるのやむなきに立たされることは、わたしの深く遺憾とするところであります」〔わたしは彼の臆面もない越権行為に呆《あき》れ返ってしまった。彼が捜査令状を持っていないことをわたしは知っていたのだ〕
グリーン夫人は、呪《のろ》いと罵《ののし》りの言葉をとめどもなく吐いていた。怒りは次第に正気の沙汰ではなくなってゆき、いまはこの老婦人も一個の、見るもおぞましい、哀れむべき人の子に変貌したのではないかと思われた。マーカムは夫人の激怒の発作が過ぎ去るのを沈着に待っていたが、悪口|雑言《ぞうごん》の力もいつしか尽き果て、相手の沈着で毅然たる態度を見ては、ついに彼女も自分に地の利のないことを悟《さと》った。顔面蒼白となり、がっくりした恰好《かっこう》で、彼女は寝台の中に沈みこんだ。
「鍵を取っておゆきなさい」と、彼女が苦々《にがにが》しげに降服した。「不逞《ふてい》の輩《やから》にあたしの家をとりこわされるという、最後の恥辱《はずかしめ》だけは見たくないですからね……ほれ、その衣裳箪笥《いしょうたんす》の上の引出しの、象牙の宝石箱にはいっていますよ」彼女が弱々しい姿で、|わにす《ヽヽヽ》塗りの「ハイ・ボーイ」〔当時流行の高脚たんす〕を指さした。
ヴァンスが部屋を横切り、鍵を手に入れた――二重|かかり《ヽヽヽ》と、線条細工を施した柄がついた、長い、旧時代風の用具だ。
「鍵はいつもこの宝石箱におしまいですか、グリーンの奥さん?」ヴァンスが引出しを閉めながら尋ねた。
「十二年の間ね」と、彼女が嘆いた。「それなのに、この長い年月の後、いま初めて、力ずくで取り上げられようとしてるんだわ――それも相手は警察。その警察こそ、あたしのような老いらくの、頼りのない麻痺患者を保護する人たちじゃありませんこと? なんという恥辱《はずかしめ》! でも、なんにも期待できないこのあたし! みんながよってたかって、あたしを苦しめて喜んでいるんだわ! ああ、なんというこの世の中!」
マーカムは目的を達成したせいか、悔い改めたような態度になり、状況の深甚さを説明することによって彼女に平和の心を取り戻させようと努力するのだった。しかし、その甲斐《かい》もなかったらしく、数分後、廊下で待っていたわたしたちに追いついた。
「おれはこういうやり方は感心せんよ、ヴァンス」と、彼が言った。
「それにしちゃ、あの演技は秀抜だったよ。昼食から君とずっと一緒でなかったんなら、あそこは本物の捜査令状を持っていると思うところだよ。君は|しん《ヽヽ》から権謀術数家《マキアヴェリスト》だよ。テ・サルート〔君に脱帽する〕!」
「鍵が手にはいったんだから、さっさと、お望みの仕事に掛ったらどうだ」と、マーカムが苛立《いらだ》ち気味に命令した。そこでわたしたちは下の大ホールに降りていった。
ヴァンスは人目につかないかどうかを確かめようと、慎重にあたりを見まわし、それから、書斎への道を先頭に立った。
「十二年間の使用|杜絶《とぜつ》にしちゃ、この鍵はかなり良く働くじゃないか」と、鍵をまわし、どっしりした樫《かし》の扉をそっと押しながら、彼が言った。
「それに蝶番《ちょうつがい》だって、ぎしっとも言わない。まさに驚くべし!」
中は一面の暗闇《くらやみ》である。ヴァンスがマッチをすった。
「どうか手を触れないでもらいたい」と、彼が警告し、マッチの火を頭の上に掲げながら、東窓の厚い、びろうどのカーテンのほうに歩み寄っていった。彼がカーテンを引き開《あ》けると、埃《ほこり》の|かぐら《ヽヽヽ》が部屋を満たした。
「このカーテンだけは長年触れた者はいないようだ」と、彼が言った。
昼下がりの灰色の光が部屋に瀰漫《びまん》してくると、そこに現出されたものは世にも驚くべき隠遁《いんとん》者の秘境であった。壁面には、ぎっしりと戸無しの書架《しょか》が並び、床から天井《てんじょう》近くまで達している。僅《わず》かに残る空間には、一列の大理石の胸像とずんぐりしたブロンズの花壜《かびん》が並べてある。部屋の南側の端には、大きい、平たい机が置かれ、中央には、淫祠邪宗《いんしじゃしゅう》めいた、奇怪な装飾をあしらった、長い、彫り物の机が置いてある。各窓の下および隅々には、パンフレットと書類綴じがうず高いやまとなっている。書架の|じゃ《ヽヽ》腹に当る部分には、怪獣|樋先《ひさき》や時代で黄色くなった古い版画が懸《か》かっている。天井からは、打ちぬき真鍮《しんちゅう》の、巨大なペルシャ・ランプが二個|吊《つる》されていて、中央の机の傍らには、高さが八フィートもある、中国の燭台《しょくだい》が立っている。床には、あらゆる角度からオリエントの絨毯《じゅうたん》が敷きつめられ、重畳の波を打っている。暖炉の両端には、見るからに奇怪な、色塗りも鮮かなインディアンのトーテム・ポールが聳《そび》えたち、梁《はり》に届かんばかりだ。厚い埃の雲があらゆるものを掩《おお》っていた。
ヴァンスは扉に引き返してくると、マッチをすり、内側のノッブを綿密に検査した。
「誰か」と、彼が言った。「最近ここにきた者がいる。このノッブには埃の跡がない」
「指紋がとれねえですかな」と、ヒースが言った。
「やるだけ野暮ですよ。われらの相手はしたたかもんだ。とても手型を残すような奴じゃない」
彼がそっと扉を閉《し》め、閂《かんぬき》をひき、それから、あたりを見まわした。そのうち、彼が机の横にある大きな地球儀の下を指さした。
「ほら、お待ちかねのゴール人の靴がありますよ、部長。この部屋にあるとは思っていたのだが」
ヒースがあわや突進せんばかりにひっつかむと、窓際に進んでいった。
「てっきり、こいつに違いねえ」と、彼が宣言した。
マーカムがまた苦悩に満ちた、計算するような視線をヴァンスに投げかけた。
「君には理論があったんだ」と、彼が決めつけたが、非難するような口調であった。
「理論なんかないさ、既に君に言った以上にはね。ゴール人の靴の発見はただの偶然だよ。ぼくが興味を持っているのは他のことだ――他のなんだか、それが分れば世話ないんだが」
彼は中央の机の近くに立ち、部屋中の品物に、あてどもない目を走らせていた。そのうち、彼の視線が低い、枝編みの読書椅子の上にとまった。右側の肘《ひじ》が本置きの形に編んである。この椅子の位置は、暖炉と向かい合った壁から数フィートのところで、椅子は書架《しょか》と書架との間の、狭い飾《かざ》り棚《だな》に対するように置かれていた。この飾り棚の上には、ウェスパシアヌス皇帝の胸像――あのカピトリーノ博物館にあるものの複製が置いてあった。
「ひどい散らかしようだ」と、彼が呟いた。「この椅子が十二年昔、あの位置にあったとは思えないな」
彼がそちらへ動き、椅子を見おろしたまま立ちつくすと、物思いに耽《ふけ》っている。本能的にマーカムもヒースもぞろぞろとついていったが、ヴァンスが熟視しているものの正体が彼らにも分った。椅子の肘についた台の上に、深い受け皿が置いてあり、その皿には、ろうそくの太い燃えさしが立っていた。この受け皿には、煤《すす》けた|ろう《ヽヽ》の流れが溢《あふ》れんばかりに詰《つ》まっている。
「この皿を一杯にするまでには、さぞかしろうそくが何本も要ったことだろう」と、ヴァンスがコメントした。「いまはあの世のトバイアスが夜な夜なここに現われて、|ともしび《ヽヽヽヽ》で本を読んだわけでもあるまいに」彼が椅子の席や背を手で触わり、それから、自分の手を調べた。「埃はあるな。だが、十年ひと昔の累積《るいせき》なんてもんじゃない。誰かが、ごく最近、この書斎にきて、読み漁《あさ》りをやっていた。しかも、その人間のやることは、万事がやけに秘密めいている。日除《ひよ》けをあけることも、電灯をつけることも、あえてしない。ろうそく一本を頼りにここに坐り、トバイアス版文学集の下見に勤《いそ》しむとは! しかも、どうやら、それが大変お気に召したらしい。この受け皿一つだけでも、幾夜灯火に親しんだか、証拠は十分だ。この外に、いかほど多くのパラフィンの皿が費されたか、言わずとも知れたことだろうな」
「けさゴール人の靴を隠しにきて、それから鍵を元んとこに戻すチャンスのあった奴は誰なのか、婆さんに聞いてみたらどんなもんで?」と、ヒースが案を出した。
「誰もけさ鍵を戻した奴はいませんよ、部長。ここを訪問する慣わしのあった人物が、そのつど盗んだり返したりを繰り返すわけはない。十五分もあれば合鍵が作れるというのに」
「そう言われればその通りでさあ」部長はひたすら途方に暮れるばかりであった。「だけど、鍵を持っている奴が分らん以上、こっちは元《もと》の木阿弥《もくあみ》というもんで」
「ぼくらの書斎の吟味はいまだ終わったわけじゃないですよ」と、ヴァンスがやり返した。「ぼくは昼食のときマーカム検事にも言っておいたんですがね、ぼくがここへきた主《おも》な目的は、トバイアスの文学趣味を確かめるためだったんだ」
「先生なら、大した学になるんでさあ」
「そう見限ったもんでもないさ。いいですか、トバイアスは自分の蔵書を警察本部に寄贈しているんですよ……どれ、かの老いらくの殿は、いかなる書に親しみて、徒然《つれづれ》なる時を過ごしけん?」
ヴァンスが単眼鏡を取り出し、入念に拭き、それから目に当てがった。それから、最寄《もよ》りの書架の方にくるりと身体をまわした。わたしも進み出て、彼の肩越しに覗《のぞ》きこんだ。埃のかぶった表題にわたしの目が走った時、わたしは思わず驚嘆の叫びを挙げた。なんとここにあるのは、アメリカで最も完全、最も異例な犯罪学の個人蔵書ではないか! しかも、国中の有名な蔵書の多くをよく知っているわたしにして、なおかつこうなのである。犯罪のことなら、すべての態様、すべての専門にわたる著作が網羅《もうら》されている。とうの昔に絶版になり、愛書家の珍重|措《お》く能《あた》わずといった、稀覯本《きこうほん》が、トバイアス・グリーンの書架を、次から次へ、所も狭しとばかりにぎっしり埋めているのだ。
これらの本の主題も、狭い意味での犯罪学学説に限られたものではない。犯罪学との関連がある限り、全般的分科部門にわたる、すべての著作が網羅されているのだ、それぞれが一書として、専門的に取り扱われている題目だけでも次の通りだ――精神病と痴呆《クレチン》症、社会・犯罪病理学、自殺論、貧困と博愛主義、刑務制度改革史、売春と阿片中毒、死刑論、変態心理学、刑法論、暗黒社会隠語集および暗号の書き方、毒物学、刑事捜査方法論。これらの著作は多国語にわたる――英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語、ロシア語、オランダ語、ラテン語……
ぎっしりと本の並んだ書架の間を歩いてゆくヴァンスの瞳はらんらんと輝いていた。マーカムもまた熱中していた。ヒースだけは、あちこちと本を覗きこみながらも、面喰らったような、それでも好奇心にはやったような表情を見せていた。
「ほほう、これはまた!」と、ヴァンスが呟《つぶや》いた。「これじゃ不思議はないですな、部長、この万巻の書の未来の保管人に、あなたの本部が選ばれたというのも。なんという蒐集! まさに奇にして怪! マーカム、君、あっぱれだったよ、よくぞ婆さんをしめあげて、鍵を出せとの強談判《こわだんぱん》――」
突如、彼が身体を固くし、扉のほうに首を突き出したかと思うと、同時に片手を挙《あ》げて一同を制した。この時わたしもまた廊下を歩く、微かな物音を聞いていた。それは誰かが扉の板を擦《こす》って通ったような音だったが、なんとも思わずにいたものだ。数瞬、わたしたちは緊張の極にありながら、ひたすらに待った。だが、それっきり音は聞えてこない。いきなりヴァンスが扉に進みよると、さっと開いた。廊下には人影はなかった。彼は閾《しきい》に立ったまま、暫く耳を澄ましていた。それからまた扉を閉《し》め、部屋のほうに戻ってきた。
「壁に耳あり。てっきりそう神に誓いを立てるところだったよ」
「ぼくも何かかさこそというのを聞いたがね」と、マーカムが同意見を述べた。「スプルートか女中が通っているのだろうと思って、別段気にとめなかったのだ」
「誰かが廊下をうろちょろしたぐらいのことで、なんであっしらが気に病《や》まにゃならねえんで、ヴァンス先生?」と、ヒースが反問した。
「そこまでズバリ言えたら世話はない。だってそうでしょう。だけどやはり、ぼくは気に掛かるんだ。誰か立ち聞きしていた人間がいたとしたら、それは、とりも直さず、ぼくらがここにいるという事実をひそかに知った人間には、それが心配のたねになったという証拠じゃないですかね。ひょっとしたら、いいですか、その誰かはわたしたちがここで何を発見したかを確かめたかったのかも?」
「だけど、そこんとこが合点がゆかねえんで。こっちが発見したぐらいのことで枕を高くして寝れん人間がおるってわけが」と、ヒースが愚痴った。
「あなたって、よくよくがっかりさせるんだな、部長」ヴァンスが溜息をつき、枝編みの書見椅子の正面の書架に歩みよった。「こちらの方《かた》には、心なごむものあるやも知れず。どれ、塵《ちり》にて書ける、喜ばしき便りのあるやなしやを尋ねまいらん」〔聖書のパロディ〕
彼はマッチを次々とすりながら、書物の頭を綿密に調べていた。書架の最上段から始め、次々と棚《たな》を追ってゆくという徹底した調査ぶりである。床から二段目の棚にきた時だった。彼が厚い灰色の本二冊にさしかかると、詮索《せんさく》するように屈《かが》みこみ、改めてしげしげと見つめていたが、そこでマッチを消し、本を窓べに運んでいった。
「こいつは気狂い沙汰だ」と、暫く調べてから、彼が言った。「あの椅子から手の届く範囲内にあって、しかも最近手をつけてあるのはこの二冊だけなんだ。それがなんだと、きみ思うかい? ドイツのハンス・グロッス教授著の古い二巻物なんだ。噛《か》み砕《くだ》いて訳せば、この表題はざっとこうなる――『予審判事のための犯罪体系便覧』」彼がマーカムのほうを見て、剽軽《ひょうきん》な小言を言っているような表情をした。「おい、君、ひょっとしたら、君は夜な夜なここなる書斎に現われて、容疑者の締めあげ法に勤《いそ》しんでたんじゃあるまいね?」
マーカムはこの軽口に取り合わなかった。ヴァンスの外見の下に、心の不安の兆《きざし》を認めていたのだ。
「一見して、無関係な標題の本にきまってるさ」と、マーカムがやり返した。「だから、それが意味するものにしたって、その部屋への度重なる訪問と、この家で犯された犯行とが偶然の符合に過ぎないことの表徴なのだろうよ」
ヴァンスは返事をしなかった。思い入れよろしく本を元の位置に戻すと、まだ調べのすんでいない、最下段の本に目を走らせた。突然、彼が膝をつき、またマッチをすった。
「ほら、また場違いの本が数冊ある」彼の声に逸《はや》る心を抑えているのがわたしには読み取れた。
「これはほかの分野に属するものだ、それに、あわてて押しこんだせいか、本ぞろえができていない。おまけに、塵も清められている……これはしたり、マーカム君、いかな法律|頭《びんた》の懐疑主義者の君だって、これを符合関係なぞとは言うまいね。耳を傾けてよく聞きたまえ、この標題を――『毒物、その効果と検出』、著者はアレキサンダー・ウインター・ブライス〔ブライス博士はクリッペン事件における被告側証人の一人であった〕、次は、『法医学、毒物学、保健問題教科書』、著者はジョン・グレイスター、グラスゴー大学法医学教授だ。次においでなさったは、フリートリヒ・ブリューゲルマン著、『ヒステリー性夢中歩行論』、次はシュワルツワルト著『ヒステリー性麻痺と夢遊病について』。おやおや、こいつはすてきに変じゃないか!」
彼は立ち上がり、部屋をいったりきたりし始めたが、動揺も甚だしい。
「いや――いや、絶対にあるもんか!」と、彼が呟いた。「そんなことってあるはずはない……フォン・ブロンが彼女のことで、虚偽の申し立てをしてるなんて、ありっこないんだ!」
彼が何を考えているのか、わたしたちみんなは分っていた。ヒースでさえ、それをすぐ感じとっていたのだ。ヒースは外国語は解さなかったけれども、二つのドイツ語の本――とくに後者――の表題は、理解するのに翻訳の必要はないはずだ。ヒステリーと夢遊病。ヒステリー性麻痺と夢遊病! この二つの表題が持つ、薄気味の悪い、恐ろしい意味、その表題の持つ、グリーン・マンションでの不吉きわまりない連続悲劇との関連の可能性――それを思った瞬間、わたしの全身に恐怖の悪寒《おかん》がサッと走った。
ヴァンスもいまは先程までの落着かない漫歩をやめ、マーカムに向って、厳粛な視線を投げかけた。
「この一件はいよいよ深く、いよいよ不可解になってゆく――ここでは想像を絶したなにものかが起こりつつあるんだ――さあ、この汚染された部屋から脱出だ。ついいましがたこの部屋が予告したもの、それは誑言《たわごと》めいた、悪夢めいた物語なんだ。いまやぼくらの課題はそれをどう解釈するかだ――それが投げかける闇の表徴の中に、一条の正気の光をどう見つけるかだ――部長、あたしがこの本の整理をしますから、あなた、その間にカーテンを閉《し》めてくれませんか。ぼくらがきたことの証拠は残さないのに限るんだから」
第十九章 シェリー酒と全身麻痺
(十二月一日、水曜日、午後四時三十分)
わたしたちがグリーン夫人の部屋に引き返した時、夫人はどうやら平安に眠っていたようで、それでわたしたちも邪魔しないことにした。ヒースは「看護婦」オブライエンに、鍵を返し、もとの宝石箱に入れておくように命じ、わたしたちは階下に降りてきた。
まだ四時を少しまわったばかりなのに、冬の早い黄昏《たそがれ》は、帳《とばり》をおろしていた。スプルートはまだ電灯を点《つ》けていなかった。階下のホールには、うすぼんやりとした闇が迫っていた。邸内には、幽鬼の気が漲《みなぎ》っていた。静寂すらが圧迫感を持っていて、怒りと復讐の気に満ちているようだった。わたしたちは外套《がいとう》を投げ出しておいた玄関のテーブルのほうにまっすぐ進んでいったが、心は一刻も早く外気に逃げ出したい思いで一杯だった。
だが、わたしたちはこの古い館《やかた》の、やるせない気分を、そうすばやくふるい落とせる運命にはなかった。わたしがテーブルに着いたか着かないかに、客間の真向いの拱門《きょうもん》のカーテンが微かに揺《ゆ》れたかと思うと、張りつめた、囁《ささや》くような音が聞えてきた。
「ヴァンス先生――あのう!」
不意を衝《つ》かれて、わたしたちは振り返った。見よ、応接間のちょうど内側、厚い帳《とばり》の後ろに隠れて、エイダが立っているではないか! その顔は、深まりゆく夕闇にもくっきりと浮き立ったかのように、青白いヴェールに見えた。一本の指を唇に当て、しっと制するようにして、彼女がわたしたちを差し招いた。わたしたちはこの冷えびえとした、使われてない部屋へ、足音を忍ばせてはいっていった。
「ぜひともお話しなければならないことがありますの」と、彼女は半ば囁《ささや》くように言った――
「それは何か恐ろしいことなのです! あたし、きょうお電話しようと思ったのですけれども、心配なのは……」突如、痙攣発作《けいれんほっさ》が彼女を襲《おそ》った。
「怖がることはないよ、エイダ」ヴァンスが宥《なだ》めるように、彼女を激励した。「二、三日もしたら、このひどい一件もすっかり片がつくだろうし――君の話って、なんなの?」
彼女が身づくろいをしようとひとしきりやったが、痙攣がすんでから、ぼつぼつと語り出した。
「昨夜――十二時をとうにまわってから――あたし目が覚め、ひもじくなったの。そこで起き出し、上《うわ》っぱりをひっかけ、そっと一階に降りていったの。いつも料理番が食器|棚《だな》に食べ物をおいといてくれるからですわ……」また彼女が口をつぐんだ。例の物の化《け》にとり憑《つ》かれたような眼がわたしたちの顔を探《さが》していた。「ところが、階段の下のほうの踊り場にきた途端、やわらかい、すり足のような音がホールから聞えてくるではありませんか――ずっと奥の、書斎の扉の近くからです。あたしはびっくり仰天して、息がつまって、でも、どうにかこうにか、欄干《らんかん》から覗いてみたのです。おりしも――誰かがマッチをすり……」
また彼女の発作が起こり、ヴァンスの腕《うで》にしっかり抱《だ》きついた。この女は失神するのではないかとわたしは思ったので、彼女のほうに動いていった。だが、ヴァンスの声で、気を取り直したように見えた。
「誰だったの、エイダ?」
彼女が息を呑み、あたりを見まわした。その顔はよくある死の恐怖の画そっくりだ。やがて彼女が前|屈《かが》みになり――
「母なの! ……|しかも母は歩いてたんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
この啓示の恐ろしい意味がわたしたち一同を悪寒《おかん》で貫き、一瞬わたしたちは黙然と立ちすくんだ。その時、息の詰《つ》まったひゅーという声がヒースから洩《も》れた。マーカムも、忍びよる催眠術の呪縛《じゅばく》を払い退《の》けようとする人間みたいに、首をぐっと後ろに外《そ》らした。口がきけるだけの生気を最初に取り戻したのはヴァンスだった。
「君の母上が書斎の近くにいた?」
「そうなの。見たところ、手に鍵を持っているようだったわ」
「なにか外の荷物は持っていなかったの?」さすがのヴァンスも、冷静たろうとする心の抑えに半分しか成功していない。
「気がつきませんでしたわ――あたし、とっても怖気づいてしまって」
「例えばですよ、母上がゴール人の靴を運んでいた、というのはどう?」と、彼が喰い下がった。
「そう言われればそうかも。何とも言えないわ。いつもの長いオリエンタル・ショールを羽織り、それが九重の|ひだ《ヽヽ》になって、母のからだから垂れさがっていたわ。きっと、あのショールの下に……それとも、マッチをすった時は、荷物を下におろしたのかも。あの時あたしが分ってたのは、母を見たことだけ――ゆっくりと動いて……ほら、あの暗闇《くらやみ》の中を」
この信ずべからざるまぼろしの思い出が、いまこの少女の全身全霊を虜《とりこ》にしてしまっていた。目は、譫妄状態《せんもうじょうたい》にある人のように、幻影の奥にまた幻影を見るとでもいうかのように凝視したままだ。
マーカムが神経質に咳払《せきばら》いをした。
「あなたは自分で言ってるじゃないですか、グリーンのお嬢さん、昨夜ホールは真っ暗だったと。おそらく、恐怖に気もそぞろになっていたのでしょうね。その影はヘミングか、料理番のものなんかじゃなかったと、あなたは確かにそう思うのですね?」
彼女はマーカムに視線を戻したが、不意にむっとした様子である。
「まさか!」と言い、それから後の声はまた以前のおろおろした調子に変わっていた。「確かに母でしたわ。顔にくっつけるようにしてマッチが燃え、母の瞳には、恐ろしい影が浮んでいましたわ。あたしのいたところは、母からほんの二、三フィート――ま下に見おろしていたんだもの」
ヴァンスの腕を掴《つか》んだ手がぐっと締まり、いままた彼女の悶絶するような眼が彼のほうを向いた。
「ああ、これ、どういう意味なの? まさか――まさか、母が二度と歩けるようになるなんて、あたし夢にも、そんな、そんな!」
ヴァンスは彼女の悶絶の訴えを無視した。
「ひとつ、教えてもらえないか。これはとても重要なことなんだ。母上は君を見たの?」
「あたし――分らないわ」その声は聞き取れないくらいだった。「あたし、後ずさりし、そっと階段を駆け上がり、それから後は、自分で部屋をロック・インしちまったの」
ヴァンスはすぐには口をきこうとせず、一瞬、少女を眺め、それから、ゆっくりとした、慰めるような微笑を送った。
「そうだったのか。君には君の部屋がいまは一番良い場所なんだ」と、彼が言った。「ゆうべ見たもののことで、くよくよするのはおやめなさい。ぼくらに話したことも胸に収めておきなさい。怖《こわ》がることはなんにもないんだから。ある種の麻痺患者には、ショックで興奮の刺激を受けると、睡眠歩行をすることがあるという説もあるくらいだからね。いずれにせよ、今夜は新しい看護婦に言いつけて、君の部屋で寝るように手配しておくとしよう」彼がそう言って、やさしく腕を叩いてやり、女を二階に送り返した。
「こいつは大変だ! ヴァンス!」と、マーカムがしゃがれ声を出した。「ここはすばやい行動を取らんことには、あのいたいけな女の物語が、新しい、戦慄《せんりつ》すべき可能性を開くことにもなりかねないぞ」
「検事さんのほうで、あすにもあの婆さんを隔離病室送りにするような令状は取れんもんですかね?」と、ヒースが尋ねた。
「拘留理由は何だ? これは純然たる病理学上の臨床例だよ。 われわれとしては、これっぽちの証拠もないじゃないか」
「ぼくならしないね、いずれの場合だろうが」と、ヴァンスが口を挟んだ。「ぼくらは軽挙妄動すべきじゃないよ。エイダの物語から引出される結論は数種類もある。いまぼくらがめいめいの頭で考えていることが、もしも間違いだったとして見たまえ。そしたらぼくらは、虚偽の行為を犯したことになり、事態を悪化させるのが関の山だ。それが大量殺人の時機を遅らせることにはなっても、真相の解明に寄与できるとは思われない。だから、ぼくらの唯一の希望は、この残酷芝居の奈落には何があるのか――それを見つけ出す――なんとでもして見つけ出すことだけなんだ」
「へえ? それにはどうしたらいいか、お伺いしたいもんで、ヴァンス先生?」ヒースが自棄《やけ》っぱちな言い方をした。
「いまはぼくにも分らない。だが、どっちみち今夜は、グリーン家は安全だ。ぼくらもこれで少しは時間が稼《かせ》げるだろうさ。どれ、フォン・ブロン殿《どの》といまひとたびの対話を持ってみるか。世の医者は――とくに年季のゆかぬ手合いは――早手まわしの診断をなさると聞くから」
「その案は確かに悪くはないな」と、マーカムが同意した。「それに、何か示唆《しさ》的なことが浮ぶかも知れん。いつお目通りするつもりかい?」
もうこの時、ヒースがタクシーを呼びとめていた。わたしたちは三番街をダウン・タウンに向った。
ヴァンスは窓の外を見つめていた。
「いますぐでなぜ悪い?」不意にヴァンスの気分が変わっていた。「ほら、ここは四十丁目だ。しかも、お茶の時間! こんな好都合ってあるもんじゃない!」
彼が身体を乗り出し、運転手に命令した。二、三分後、タクシーはフォン・ブロンの華麗な玄関口の前の歩道に横づけになっていた。
医者は心配顔でわたしたちを迎えた。
「変事じゃないでしょうな?」彼がわたしたちの顔色を窺《うかが》うように尋ねた。
「いや、なあに」と、ヴァンスは気軽な返事をした。「ちょうど通りかかったもんで、ひとつお茶でもよばれ、医学雑談の一席でもどうかと思いましてね」
フォン・ブロンが少し胡散臭《うさんくさ》そうに相手を見つめた。
「いいですとも。どちらもお望みのままにするどころではありません」彼がベルを鳴らして家人を呼んだ。「だが、いま少し手厚い饗応《もてなし》をさせていただきます。古いアモンチラードのシェリー酒でも差し上げ――」
「これは、これは」と、ヴァンスが格式張った敬礼をし、それから、マーカムに向いて――「ほらね、諺《ことわざ》にもいう通りさ、時の礼節を守れば、運命の神もほほえむとね」〔ルイ十八世の有名な言葉をもじったもの〕
シェリー酒が出され、いとも丁重に給仕された。
ヴァンスがグラスをとり、ちびりちびりとやっていた。まるでその態度といったら、いまこのひととき、酒の品定めほどこの世に大事なものはないと言わんばかりの態度だ。
「ああ、親愛なる先生」と、彼が言ったが、虚飾の色がないでもない。「南国の陽光降りそそぐアンダルシアの丘の中腹で、芳香の酒を混ぜる醸造家は、この銘酒《めいしゅ》の誉《ほま》れを一段と高いものとするために、いくたの秘伝秘法を心得ていたもんですよ。たまたまこの醸造年には、|vino dulce《ヴィーノ・ダルチェ》〔甘口のこと。反対はvino seco、英語ではドライという〕を加える必要がなかった。ところがスペイン人ときたら、いつも甘口の酒にする癖がありましてね。おそらくは、英国人がドライを全然好まんということからきてるんでしょうが。ところが、その英国人が、最高銘柄のシェリーを買い上げる人種なんだから、これはどういうことなんですかね。彼らは昔から『セルセのセコ〔辛口〕』と呼んで、これが大好きで、シェリーの語源もここにあるわけです。しかも、なんと多くの英国詩人がこれを歌に詠《よ》んで、不朽の名を残していることでしょう。ベン・ジョンソンは酒の讃《ほ》め歌を歌っているし、トーマス・モアだって、バイロンだってそうです。だけど、なんといってもシェイクスピアでしょうな――本人もシェリーが大好きで――最も偉大、最も熱烈な讃辞をペンに乗せたのは。先生はフォルスタッフの名せりふを覚えていらっしゃいますか? ほら、例のあれですよ――『まず脳《あたま》へのぼる。そこにわだかまってるあらゆる痴鈍《ちどん》な、下等な毒気をドライにさせちまって、それをその、想像力の活撥な、当意即妙の働きをするものにして、機敏な、猛烈な、いろんな面白い形象《かたち》を生み出しうるものにする……』シェリーは、先生、たぶんあなたもご存じの通り、昔は中風をはじめ、その他いろんな新陳代謝欠陥による|わずらい《ヽヽヽヽ》の根治薬だという伝承があったものでしたな」
彼は言葉を切り、グラスをおろした。
「ぼくは怪しいもんだと思いますよ。この美禄《びろく》の酒をとうの昔、グリーン夫人の処方箋にお加えになったなんてないでしょうね。先生にこんな秘蔵の酒があると知ったなら、さしずめ、没収令を執達吏に持たせてよこす、というところでしょうがね」
「それどころか」と、フォン・ブロンがやり返した。「一度は壜《びん》で持っていったこともあるんです。そしたら、チェスターにくれてしまわれました。夫人は酒を一滴もたしなまない方です。わたしの父から聞いた話ですが、夫の立派な酒倉には猛烈に反対なすっていたそうです」
「そのお父上が亡くなられたのは、ええと、グリーン夫人が脊髄麻痺になられる前だったのですな?」ヴァンスのさりげない質問であった。
「さよう――一年ぐらいかな」
「すると、夫人の臨床診断としては、先生のものだけですか?」
フォン・ブロンが礼儀正しい驚きの様子をして、見返した。
「さよう。別にお偉方をお呼びする必要を認めません。症状は明白そのもの、既往症とも一致します。のみならず、以後の経過もすべてわたしの診察を確認しております」
「しかし、先生」ヴァンスの話しぶりは慇懃《いんぎん》丁重をきわめたものだった――「ある出来事が起こりましてね。俗人の見解による限り、そういった診断の正確さに疑念をさしはさまざるをえなくなってきたんですよ。そこで、ぼくから単刀直入にお伺いしてもきっとご容赦願えると思うんだが、グリーン夫人の疾患について、もう一つの解釈をつけることはできないものかどうか――おそらくは、それほど重病でないというような?」
フォン・ブロンは大いに面喰ったような様子をした。
「グリーンの奥さんが」と、彼が言った。「両下肢の器官的麻痺以外のものに罹《かかっ》ている可能性はいささかもありません――事実は、下半身全体のパラプレジア、つまり全機能障害なのでして」
「もしも先生が奥さんが両足を動かしているところをご覧になったとしたら、先生の精神反応はどういうことになりましょう?」
フォン・ブロンはまさかといった顔で睨み返し、それから、作り笑いを一つした。
「わたしの精神反応? おれは肝臓《かんぞう》の調子がおかしいんじゃないか、幻覚を見てるんじゃないかと思うでしょうな」
「肝臓は正常に機能していることをお知りになったら――その時はどうです?」
「その時は、直ちに熱烈な奇蹟《ミラクル》の信奉者になりましょうな」
ヴァンスが愉快そうに微笑した。
「心から願わくば、そこまではゆきますまい。だけど、世にいわゆる治療学的奇蹟なるものは起こっていますね」
「この道の極意に通じない人たちが奇蹟的治癒と呼んでいるところのもの――医学の歴史がそれに満ちたものであることはわたしも認めましょう。しかし、そのすべての根底に、じつは、論理的な病理学が存在しているのです。それにしても、グリーン夫人の臨床例に関する限り、誤謬《ごびゅう》の余地は皆無であります。夫人が足を動かしたというのなら、それは既知の生理学的体系全体に対する矛盾であり、挑戦に外《ほか》なりません」
「ところで、先生」――ヴァンスが出し抜けに質問した。「先生はブリューゲルマンの『ヒステリー性夢中歩行論』をご存じですか?」
「いや――聞いたことはないようですな」
「それでは、シュワルツワルトの『ヒステリー性麻痺と夢遊病について』は?」
フォン・ブロンが躊躇した。彼の目は、あたかも凄《すご》い早さで物を考えている人間のように、一点に凝集していた。
「シュワルツワルトなら、もちろん知っています」と、彼が答えた。「だが、ご指名の論文は知識がない……」ゆっくりとではあったが、驚愕の色が彼の顔に射《さ》してきた。「なんだ! まさかあなた、それらの表題とグリーン夫人の病状を結びつけようという魂胆じゃないのでしょうな?」
「この二つの論文とも、グリーン・マンションにあるという事実をぼくがお知らせするとしたら、先生のご意見は?」
「わたしの意見なら、これらの存在は『若きウェルテルの悩み』またはハイネの『ロマンチェロ』があの家の状況に全く関係がないのと同じように、全く無関係だ、というでしょうな」
「残念ですが、先生の説に賛成できないのです」と、ヴァンスが丁重にやり返した。「この両書がわたしたちの捜査に関係があることは確実な話なのです。先生ならば、両書の結びつきを解明できる方だと期待していたんですがね」
フォン・ブロンは言われたことを深く考えこんでいる様子で、顔は当惑を絵に描いたようだった。
「お役に立ちたいとは思うのだが」と言ったのも、数瞬がたってからのことで、それから、すばやく上目《うわめ》越しに見あげた。目には新しい光が宿されていた。「不束《ふつつか》ながら、わたしからご参考に供したいことがある。あなたはこの両著の表題に用いられている術語の正確な、科学的意味について、大変な読み違いを冒《おか》しておられるのじゃないかと思う。精神分析学関係のことなら、わたしは相当に研鑚《けんさん》をつんだつもりです。フロイトおよびユングによると、ソムナンブリスムス〔夢遊病〕およびデンメルツーステンデ〔夢中歩行〕の両語ともに、われわれの日常語たる夢か現《うつつ》かの眠り、つまり半麻酔状態が意味するものとは全く異なる定義に用いられているのであります。すなわち、心理病理学および異常心理学の術語によれば、『ゾムナンブリスムス』とは、反射心理共存〔ああでもあればこうでもある〕および二重人格〔善と悪の共存〕との関連で用いるものであり、失語症、記憶喪失症その他の場合における、潜没自我、または潜在意識自我による行為を呼称する名詞なのであります。人間が眠っている間に歩いたという行為を指すものではありません。例えば、精神病性ヒステリヤの場合には、患者は記憶を失い、新人格を取得しますから、これを『ゾムナンビュール』と呼びます。新聞などで、いわゆる記憶喪失症の生贄《いけにえ》などと称しているのが、これに該当《がいとう》するわけです」
彼は立ち上がり、本箱のほうに歩いていった。暫く物色して、数冊の本を取り出してきた。
「ほれ、ここに例えば、フロイトおよびブロイエルによる古い論文です。一八九三年の執筆で、表題は『ヒステリー現象に対する心理学的メカニズムについて』です。あなた自分で読んでご覧になると分るのですが、これは『ゾムナンブリスムス』なる術語を、ある種の一時性神経錯乱に通用することによって分析したものであります。さらにこれがまたフロイトの『夢の解釈』、一八九四年発表でありますが、ここでも、この術語の解明、敷衍《ふえん》が行われております。――以上の他、ここにあるのが、シュテーケルの『神経恐怖症』であります。この著者は新フロイト派といわれる分派の中でも最も重要な人でありますが、それでもなおかつ、同じ呼称を二重人格の意味に用いているのでありまして」といって、フォン・ブロンがヴァンスの前に三冊の本を置いた。
「お望みなら、どうぞお持ち帰り下さい。現下のあなたの混迷状態にご参考になれば幸いです」
「では、先生の意見によれば、シュワルツワルトもブリューゲルマンも、夢遊病とは覚醒時における異常心理であって、よく世間でいうところの夢の中を歩くというもんじゃないと言っているのだと解したいとおっしゃるわけですね?」
「さよう。そう解したいと思います。シュワルツワルトが以前精神病理研究所の講師だったこと、したがって、フロイト個人とも、その学説とも常時接触があったことはわたしも知っています。しかし、前にも申した通り、わたしはどちらの著書をもよく知りませんので」
「両表題にある『ヒステリア』という語を、先生はどう解釈なさいますか?」
「表題にその語があるからといって、矛盾にはならないでしょう。失語症、記憶喪失症、失声症――さらには、多くの場合、嗅覚《きゅうかく》喪失症、呼吸喪失症までが――ヒステリアの徴候なのです。純然たるヒステリアの結果、数年も筋肉一つをも動かせなくなった麻痺患者の臨床例はたくさんあります」
「ほほう、そうこなくちゃ!」と、ヴァンスがグラスを取りあげ、一気に飲んだ。「ぼくは先生に、ある不躾《ぶしつけ》なお願いをしようと思っていたのですが、それで安心しました――じつは先生もご承知の通り、新聞の警察ならびに検事局に対する批判はいよいよ激しくなっているところでして、彼らはグリーン事件の捜査関係者の職務怠慢を非難することしきりなるものがあります。そこでマーカム検事としては、グリーン夫人の肉体的条件に関する報告書で、しかも学界の最高権威によるものが入手できれば、大変都合がいいだろうという決定を下されました。そこでぼくとしては、もちろんただの役所仕事の一部としてに過ぎないわけですが、二、三の大家、例えば、フェリックス・オッペンハイマー博士〔フェリックス・オッペンハイマー博士は当時アメリカ随一の麻痺学の権威であった。その後博士はドイツに帰国され、現在ではフライブルク大学の神経病学部長をされている〕などから報告を取ってはどうだと言ってやろうと思ってたところです」
フォン・ブロンは数分間口をきかず、いらいらとグラスを弄《もてあそ》んでいた。瞳だけは、しきりと計算するようにヴァンスを睨んだままだった。
「報告書を取っておかれるのも悪くはないでしょうな」と、最後に彼が譲歩した。「患者に対する疑いを晴らすためだけですよ――いや、わたしとしてもその案には反対はありません。なんなら喜んでわたしが手配しましょう」
ヴァンスが起ち上がった。
「それは大変寛容なお申し出で感謝します、先生。だが、やっていただく以上、遅滞なく取り掛ることが緊急であるとお含みおき下さい」
「万事承知しました。あす午前にはオッペンハイマー博士に連絡し、情勢が官憲の要請によるものであることを説明しておきましょう。きっと博士ならてきぱきとやってもらえると思いますよ」
わたしたちが再びタクシーの人となった時、マーカムが当惑を声に出した。
「フォン・ブロンはきわめて有能で、信頼のおける人間だとぼくには見えるんだが、その彼でも、ことグリーン夫人の病気となったら、こっぴどい計算違いをしてるのは確かだね。あれじゃ、オッペンハイマーの検診報告を聞かされた途端、ショック死するんじゃないかと心配だよ」
「いいかい、マーカム」と、ヴァンスが陰気な声で言った。「あの報告書をオッペンハイマーからうまいことせしめられるようだったら、こっちは元気百倍なんだがねえ」
「うまいこと? それ、どういう意味だい?」
「おっと! そいつはぼくにも分らない。ぼくが分るのは、グリーン家では、得体の知れぬ、恐ろしい、どす黒い陰謀が進行中だということだけさ。しかも、ぼくらはその黒幕が誰なのかもまだ知らない。だが、そいつは誰かだ。われわれを見張っていて、われわれの動きを逐一知っていて、ことあるごとにぼくらの裏をかいている誰かさ」
第二十章 第四の悲劇
(十二月二日、木曜日、正午)
次の日はわたしの思い出に永遠に残る運命にあった日になった。この日起こったことは、わたしたちみんなに予見されていたことであったにもかかわらず、それが現実に訪れた時には、まるで青天の霹靂《へきれき》にでも打たれたかのように、わたしたちを茫然《ぼうぜん》自失たらしめたのであった。いや、有体《ありてい》にいうと、わたしたちの期待に滲透して活性となっていたところの恐怖観念があって、この恐怖観念のために、事件の途方もない奇怪さがいよいよ奇怪なものに見えてきた、というべきであろう。
その日の朝は、暗い、いまにも一雨きそうな天気のうちに明けた。大気には、じとじとした、厳《きび》しい寒さがあった。鉛色の空は、大地に接せんばかりに垂れこみ、窒息《ちっそく》しそうな険悪さがあった。天候までがわたしたちの陰惨な精神の表徴に見えた。
ヴァンスは早起きしたが、ほとんどしゃべらず、それでもわたしには、事件が彼の心を苛《さいな》んでいるのが分っていた。朝食がすんでも、彼は暖炉の前に坐ったきり、一時間以上もコーヒーをすすったり、煙草をのんだりしていた。それから彼は、『ティル・オイレンシュピーゲル』の古いフランス訳に親しもうとしたりしたが、それも詮《せん》ないことと知ると、オースラーの『近代臨床学』七巻をひっぱり出し、次はバザードの脊髄炎論に向った。一時間ばかり、彼は一心不乱に読み耽《ふけ》っていたが、とうとう本を書棚に戻した。
十一時半、マーカムが電話してきた。いまからグリーン・マンションにゆくところだから、途中でわたしたちを拾うつもりだという。彼はそれだけしか言おうとせず、いきなり受話器を切った。
彼がやってきたのは正午にまだ十分もある頃で、その厳粛で、失望した表情は、言葉よりも明白に、また新たな悲劇が発生したことを物語っていた。わたしたちは外套《がいとう》を着て用意していたから、すぐ彼に同行して、車の待つ下へ降りていった。
「で、こんどは誰なの?」車がパーク・アヴェニューに曲がったところで、ヴァンスが尋ねた。
「エイダだ」マーカムが苦々しそうに、心のこもらない言い方をした。
「あの女がきのう、あんな話をした後では、こんなことになるんじゃないかと思ってたよ――どうせ、毒なんだろ?」
「そう――モルヒネだ」
「そういうなよ。ストリキニーネの毒害よりは、ずっとまだ安楽死なんだから」
「死んじゃいないんだ、有難いことに」と、マーカムが言った。「正確に言えば、ヒースが電話してきた時はまだ生きていた」
「ヒース? ヒースはその時邸内にいたの?」
「違う。看護婦が殺人課にいたヒースに通知し、そこでヒースが役所からぼくに電話してきた。こっちに着くころはあれもおそらくグリーン家に着いてるだろう」
「あの子は死んじゃいないと君は言ったね?」
「ドラム――つまり、モーランが配置しておいた警察医だが――彼がすっ飛んでゆき、なんとか命を取りとめるところまでいった。それが看護婦が電話してよこした時の状況だ」
「すると、スプルートの信号がうまくいったってわけか?」
「どうやらね。そこでヴァンス、君にぜひ知ってほしいんだ。ぼくが君の提案にどんなに感謝しているか。医師を待機させとくようにと言い出したのは君だったんだからね」
わたしたちがグリーン・マンションに到着すると、先にきて見張っていたヒースが直接玄関を開《あ》けてくれた。
「死んじゃいませんぜ」役者の脇台詞《わきぜりふ》よろしく――だから、秘密のつもりなのだろうが、大声で――彼が挨拶し、いきなりわたしたちを応接間へひっぱりこむと、このスパイもどきの演技のわけを説明した。「毒盛りの一件は、まだだれも知っちゃいません。邸内で知ってるのはスプルートとオブライエンだけでさあ。スプルートが|がいしゃ《ヽヽヽヽ》を発見、この部屋の表のカーテンをすぐおろした――かねて打ち合わせの信号通りでさあ。そこで、ドラム先生がすっ飛んでくると、スプルートが戸を開けて待っていた。そのまま二人で駆け上がる。誰も姿を見たものなし。医者はオブライエンを呼びにやり、しばらく|がいしゃ《ヽヽヽヽ》の処置をした。それからおまえ本部へ通報しろと命令した。そこで二人はそのまま部屋に残り、鍵《かぎ》を締め切って待機している、とこういうわけでして」
「ことを隠密のうちに運んだ君の行為は立派だったよ」と、マーカムが訓示した。「エイダが蘇生《そせい》してくれれば、すべては伏せておけるし、エイダから何か聞き出すことだって、できるかも知れない」
「あっしもそう考えてたところでして、検事さん。スプルートにも、余計なことをバラしたら、きさまのちょろちょろ首、きりきりに締めあげてやるからそう思え、と言ってやったところです」
「そしたら」と、ヴァンスがつけ足した。「奴はていねいにお辞儀をして、『イエス・サー』とぬかしやがったんだろう?」
「どんぴしゃりだ!」
「残りの家族は現在どこにいるのかね?」と、マーカムが質問した。
「シーベラ嬢は自分の部屋でさあ。十時半にベッドで朝食後、ひと眠りすると女中に言ったそうで、婆さんも寝ています。女中と料理女は家の裏のどっかにいるはずです」
「フォン・ブロンはけさもきていたの?」と、ヴァンスが横から尋ねた。
「きていたどころじゃありませんや――定期便でさあ。オブライエンの報告によると、十時にきて、婆さんのところに一時間ばかりいて、それから戻ったんだそうで」
「で、先生にはモルヒネ事件のことは通知してないの?」
「そいつは意味ないでしょう。ドラムだって立派な医者なんだし、フォン・ブロンに知らしたら、シーベラを初め誰それ相手に、ぺらぺらやられるだけのことでさあ」
「まったく同感だな」ヴァンスがうなずいて、賛意を示した。
わたしたちは廊下に出て、外套を脱いだ。
「ドラム医師を待つ間を利用して」と、マーカムが言った。「スプルートの知っていることを聞くことにしてはどうかね」
わたしたちは客間にはいり、ヒースが呼鈴の紐《ひも》をぐいと引いた。老家令は直ちに姿を現わし、わたしたちの前に立ったが、感情の色一つだに見せていない。この落着き払った冷静さがわたしには非人間的にさえ見えた。
マーカムが、もっと近づくようにと合図した。
「さて、スプルート、事の起こりを正確に話してみなさい」
「わたしは台所で休んでおりまして」――この男の声は例によって、空洞《くうどう》の木を叩くみたいに生気がない――「そこでちょうど時計を見まして、どれ仕事にかかろうかなと考えておりましたところへ、エイダ嬢さまの部屋のベルが鳴りました。各部屋のベルは、念のために申し上げますと――」
「念には及ばん! その時刻は?」
「きっかり十一時でございました。その時、前にも申しました通り、エイダ嬢さまの呼鈴が鳴りました。わたしはそのまま二階に上がり、戸をノックしたのです。ところが、なんの返事もない。そこで、失礼とは思ったが、扉を開けまして、室内を覗《のぞ》いてみたのです。エイダ嬢さまは寝台に寝ていらっしゃったが、それがどうも自然な姿勢ではない――こう申し上げれば分っていただけると思いますが。それにもう一つ、なんとも奇妙なものが目につきまして。シーベラ嬢さまの可愛がっていらっした仔犬《こいぬ》が寝台の上にいて――」
「寝台の横には椅子か足台かがあったのかね?」と、ヴァンスが遮《さえぎ》った。
「はい、いかにも。あったと思います。安楽椅子の大きいのが一つ」
「それじゃ、犬はひとりでに寝台に這《は》い登《のぼ》れたってわけか?」
「ああ、いかにも、さようで」
「よろしい続けなさい」
「さて、犬が寝台の上におりまして、見たところは後足で立って、呼鈴の紐でじゃれているみたいなのであります。しかし、わたしがなんとも奇妙だと申しあげますのは、この犬はエイダ嬢さまの顔の上で後足で立っておるというのに、お嬢さまはまるで平気でいらっしゃるという点でございまして。わたしは内心いささかぎょっとしまして、そこで寝台に近づき、犬を拾い上げたのであります。すると、分ったことなのですが、紐《ひも》の端についている絹の花房の糸が数本、犬の歯に絡《から》まってしまっている。つまり――まさか、そんなことって、とおっしゃるでしょうが――エイダ嬢さまの呼鈴を鳴らしたのは、じつは犬だったわけでして……」
「これは驚いたね」と、ヴァンスが呟《つぶや》いた。「それからどうした、スプルート?」
「若いお嬢さまを揺さぶりました。と申しても、シーベラ嬢さまの犬に顔を踏んづけられても意識のないのに、揺さぶったくらいのことで叩き起こせる見込みはないことは分っておりましたが、それから、わたしは下に降りてきて、応接間のカーテンをひいたわけであります。非常の場合はそうしろちうご指示を受けておりましたから。先生がお見えになると、わたしはすぐ先生をエイダ嬢さまの部屋に案内申し上げました」
「君が知っているのはそれだけなの?」
「全部でございます」
「有難う、スプルート」と、マーカムが苛立《いらだ》たしげに立ち上がった。「そこですまないが、ドラム先生にわたしたちがきていることを知らせてくれないか」
しかし、数分後、客間に降りてきたのは、女刑事の看護婦だった。この女は中肉中背の、年の頃は三十五、がっちりした体格の女で、鋭い赤褐色の目、薄い口、意志の強そうな頤《あご》をし、見るからに有能なタイプの人間のようだ。ヒースに挨拶するのにも、同僚に対するように、親しげに片手を振って見せただけで、残りのわたしたちに対しては、つんと澄ました礼儀のお辞儀をした。
「ドラム先生は目下患者から手が放《はな》せませんので」と、彼女がさっさと席に着《つ》きながら、報告口調で言った。「そこでわたしにいってこいとのことでした。先生もいずれ降りていらっしゃいましょう」
「それより、診断結果はどうなのかね?」マーカムはまだ立ったままだった。
「命に別状はない、と思います。ここ半時間ばかり局部運動と人工呼吸を施してまいりましたが、先生の意見では、間もなく歩けるようにしてやれるということですわ」
マーカムは苛立たしさがいくらかなくなったのか、また腰をおろした。
「オブライエン君、君の知ってるだけを話して下さい。毒の投薬使用に関して、なんらかの証拠でもあったかね?」
「あるのは、空のブイヨン皿だけです」看護婦は落着かぬ風である。「皿を調べたら、モルヒネの残りがきっとあるはずですわ」
「毒を盛った手段がブイヨンだと君が考える根拠は何かね?」
彼女が一瞬ためらい、ヒースに向って不安な視線を投げた。
「それはこうですわ。わたしは毎朝十一時少し前、グリーン夫人にブイヨンを持ってゆくことにしております。エイダさんが居合わせる場合は、二皿持ってゆきます――それが老婦人の言いつけです。今朝はたまたま、わたしが台所に降りようとする時刻に、この娘さんが部屋にきていたものですから、二皿持ってあがったのです。ところが、あがってみると、老婦人だけしかおられず、そこでわたしは一皿を老婦人に渡し、もう一皿はエイダさんの部屋に持ってゆき、寝台の横のテーブルに置き、それから、廊下に出て、名前をお呼びしました。その時、あの人は階下にいた――客間だったと思いますわ。それはともかく、あの人はすぐ上がってきましたが、わたしはグリーン夫人の繕《つくろ》い物をする用事があったものだから、そのまま三階の自分の部屋に上がってゆきまして……」
「ということはだ」と、マーカムが注釈を加えた。「問題のブイヨンは君の部屋を出てから、エイダ嬢が一階から上がってくるまでの間に介在《かいざい》する一分かそこいらの時間、エイダ嬢の寝台脇に無警戒のまま放置せられていたということを意味する」
「いいえ、ほんの二十秒足らずの間のことですわ。しかもわたしはその間ずっと戸の外側にいたのですし、戸は開いていたのだし、部屋に人のいる気配は全然なかったのです」マーカムの言葉に、職務怠慢の謗《そし》りがこもっているのを見て取った看護婦は、必死になって自己弁護に努めているのが明らかに看取された。
次の質問はヴァンスが受け持った。
「あなたが下のホールにエイダ嬢を見た時、ほかの人間は見なかったの?」
「誰も見ません。フォン・ブロン先生だけです。わたしが下へ名前を呼んだ時、先生は一階のホールにいて、外套を着ているところでした」
「そのまま先生は家を去った、そうですね?」
「もちろん――そうです」
「先生が現実に玄関を出てゆくところをあなたは見たの?」
「もちろん、そうじゃないわ。だけど、先生はその時外套を着ていらしたのだし、それ以前には、グリーン夫人とわたしにさようならもおっしゃったのですから……」
「それ以前とはいつ?」
「二分もせぬ以前ですわ。わたしがブイヨンを持って上がったところ、グリーン夫人の部屋から出てくる先生と出くわしたのですから」
「そこで、シーベラ嬢の犬の件だが――廊下のどこかで見なかったの?」
「いいえ、わたしがそこへいった時、そのへんにはいなかったわ」
ヴァンスは眠たそうに椅子にそっくり返った。マーカムが訊問を引き継いだ。
「オブライエン君、君がエイダ嬢を呼んでから、自分の部屋にいた時間はどれくらいなのかね?」
「家令がやってきて、ドラム先生がわたしに用があると伝えてくれるまでです」
「そこで、その間の時間はどれくらいだと君は言いたいかね?」
「約二十分――もう少しだったかしら」
マーカムが考えこむように煙草をふかした。
「うん」と、彼がやっと解説を始めた。「モルヒネが、なんらかの方法でブイヨンに入れられたのは疑いないようだ。オブライエン君、君はもうドラム先生のところに帰っていなさい。われわれはここでお待ちしよう」
「なんたるざまだ!」看護婦が二階に去った途端、ヒースが喚《わめ》いた。「この女はこの種の仕事には本部切っての腕利《うでき》きなんでさあ。だというのに、こうもブザマな|へま《ヽヽ》をやりやがって」
「ぼくなら、そうもブザマな|へま《ヽヽ》をしたとは言わんですがね、部長」と、ヴァンスが反論して見せたが、夢見るような瞳でじっと天井を見上げたままである。「なんのことはない、かの女のしたことは、数秒の間廊下に踏み出して、若き乙女《おとめ》に朝餉《あさげ》の羹《あつもの》を召しませと、名を呼んだことだけじゃないですか。たとえけさのブイヨンに、モルヒネが登場していなかったにせよ、いずれは明日かあさってか、将来のいつかは登場したものに違いない。いやむしろ、恵みの神は今朝のぼくらに幸運を垂れたもうたと言うべきじゃないですか。いにしえのトロイの戦役で、堅塁抜くべからざる城門を、雲霞《うんか》のごときギリシア勢が攻めあぐんだ時にも、確かこんな幸運があったようですな」
「恵みの神の幸運かどうかは知らんがね」と、マーカムが注釈した。「エイダが回復して、ブイヨンを口にする以前に部屋にやってきた人間の名を言えるようになったら、ま、そういうことだろうな」
一種気まずい沈黙が流れたが、これもドラム医師が現われるに及んで破られた。見れば、若々しい、威勢のいい男で、その態度も積極|果敢《かかん》なところがある。ドラムは椅子にどっかと腰をおろすと、大きい絹のハンカチで顔を拭《ふ》いた。
「あの子は峠《とうげ》を過ぎました」と、彼が発表した。「けさぼくは窓から外を見ながら立っていた――それも、まぐれ当りで――すると、カーテンがさっとおりるのが見えた――一緒のヘネシー〔ヘネシーとは向い側のナーコス・アパートに張り込み、グリーン・マンションの監視を命ぜられていた刑事である〕よりもぼくが先だった。ぼくは鞄《かばん》と呼吸器をひっつかむが早いか、一目散に駆けつけた。家令は玄関でぼくを待っていて、すぐ二階に案内した。あの家令って、ぶすっとしやがって変なじじいですな。被害者は寝台に横に寝ていまして、ストリキニーネの症状じゃないんだということは一目して瞭然《りょうぜん》なんですね。ひきつけも起こしていないし、汗も出ていない。いわば顔面硬直痙攣症《テタニー》はなし、と言えば分りが早いでしょう。おだやかで平和な顔をしている。呼吸は浅く、チアノーゼ〔紫色症〕もない。紛《まぎ》れもないモルヒネ症状だ。そこで瞳孔を見てみると、収縮を起こし、対光反射は針小大だ。もはや疑いは全くなし。そこでぼくは看護婦を呼びにやり、いよいよ手当にかかったわけです」
「緊急出動だったというわけか?」と、マーカムが尋ねた。
「緊急出動もいいところでさあ」医師は勿体《もったい》ぶってうなずいた。「誰かが急いで駆けつけなかったら、どうなっていたか分ったものじゃありませんや。ぼくの見たところ、紛失したという六グレーン全部を呑まされたんじゃないかと思いました。そこで強力アトロプインの皮下注射を一本打ちまして――五十分の一です。こいつの効果|覿面《てきめん》でした。次に、過マンガンカリウムで胃の洗浄《せんじょう》を行いまして、その後で、人口呼吸を施したんだが――その必要はないように見えましたが、いざという場合の手抜かりをしたくなかったもんで。その後、看護婦とふたりで、患者の腕と足をもむやら、さするやら、奮闘これつとめたわけです。患者を眠らせぬことを専一に心掛けたわけですが、そりゃ大変な骨折りでしたよ。窓は開けっぱなしの上、これだけ大汗をかいたんじゃ、こっちが肺炎にかからにゃいいがと、いまでも心配なくらいだ……さて、そうやっているうちに、患者の呼吸も次第に良くなりまして、そこでまた百分の一のアトロプインを適当量注射してやったところ、とうとう患者の自力歩行にまで漕《こ》ぎつけました。目下看護婦が付き添って、歩行練習をさせているところです」ドラム医師はハンカチを颯爽《さっそう》と振りまわし、また顔をふいた。
「君の努力は大いに多とします」と、マーカムが言った。「後になって考えれば、君が事件解決の功労者だったということがあるかも知れない――君の患者はいつになったらわたしたちの手で訊問できるかね?」
「あの子は一日中ぽかんとして、それに嘔吐《おうと》状態もつづくでしょう――いわば心神耗弱《しんしんこうじゃく》といえば分りが早いでしょうな――呼吸困難、眠気、頭痛などなどが併発しまして、訊問に答えるには適当な状態ではありません。しかし明朝になったら、お好きなだけ話をされても結構です」
「それで満足するとしよう。ところで、看護婦が言っていたのだが、ブイヨン皿のほうはどうなのかね?」
「苦味がありました――モルヒネに間違いないです」
ドラムが話し終った頃、スプルートが廊下を通り玄関に出てゆくのが見えた。一瞬後、フォン・ブロンの姿が拱門《きょうもん》に現われ、客間を覗きこんだ。挨拶のやりとりがすんでも、白け切った沈黙しかないものだから、彼が不安を募らせるような目でわたしたち一同の様子を窺《うかが》っていた。
「なにかあったのですか?」とうとう彼が尋ねた。
すっくと席を立ち、機転を利かせて、スポークスマンの役を買って出たのはヴァンスだった。
「そうなのです。先生。エイダがモルヒネを盛られましてね。たまたまドラム医務官が向いのナーコス・アパートにいたものだから、緊急動員されたのです」
「それでシーベラは――シーベラは大丈夫ですか?」フォン・ブロンが興奮した声を出した。
「ええ、そりゃもう」
ほっと安心したような溜息を一つつくと、フォン・ブロンはぐったりと椅子についた。
「委細を教えて下さい。その――その殺人が発見されたのはいつのことですか?」
ドラムが相手の言葉の誤まりを指摘しようとした瞬間、ヴァンスがすばやく言った。「あなたがけさ邸内を出られた直後のことです。毒は看護婦が台所から持ってきたブイヨンに入っていて、それで投薬されたものです」
「まさ――まさか、そんなことが?」フォン・ブロンが絶対信じないという様子をした。「わたしがちょうど出ようとしている時、看護婦はブイヨンを持って上がってきた。わたしは彼女がそれを持って部屋に入るのも見ていた。どうして毒がその中に――?」
「それで思い出したのですがね、先生」ヴァンスの口調は韻律を含んだように爽《さわや》かだった。「あなた、なんかのはずみで、外套をお召しになってからまた二階に上がったということはないでしょうね?」
フォン・ブロンが濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》の辱《はずか》しめでも受けたかのように唖然《あぜん》となり、ヴァンスを見返した。
「とんでもない。わたしは直ちに家を辞去しましたとも」
「それは看護婦が出てきて、下にいるエイダ嬢を呼んだその直後ということになりましょうな」
「ま――さよう。確かに看護婦は下へ呼んでいたと思います。すると、エイダもすぐ上がっていったようです――わたしの記憶が正しいとすれば」
ヴァンスは一瞬煙草をふかしながら、この医者の心の乱れを現わした顔が面白いとでも言いたげに、じっと瞳を凝《こ》らしていた。
「ぼくは不粋《ぶすい》な奴だと思われたくはないんですがね、思いつくままに申しあげたいことがあるのです。いま逢《あ》ってまた逢わんとぞ思う、その心の訪れの間隔が、いささか接近しすぎているように思うのですがね」
フォン・ブロンの顔が一面に曇ったが、その表情にむっとした色は、わたしには探知できなかった。
「おおせの通りです」と、彼が答え、目はよそへ移している。「じつを申しますと、例の毒薬が鞄から消えてこの方、なにか悲劇的なことが逼迫《ひっぱく》しているような、起こったらおれにも責任があるんだぞという感じが絶えませんで。それでこの近くにくるたびに、ここを訪れねば気がすまず――様子を見てみたい衝動を抑えることができないのです」
「ご心痛のほどは十分お察しします」ヴァンスの口調はノン・コミッタルなものだった。それから彼が無頓着そうにつけ足した。「なんでしょうな、先生はドラム医師がエイダの臨床を継続して行うことにはご異議はないでしょうね」
「継続して?」フォン・ブロンが椅子の中で棒立ちになった。「理解に苦しみますな、あなたはついさっき――」
「エイダが毒を投薬されたと言いました」と、ヴァンスが下の句を言った。「それはそうだが、いいですか、死んじゃいないんですよ」
相手は唖然として物が言えないという風をした。
「やれやれ、そりゃよかった!」と彼が叫び、神経質そうに立ち上がった。
「さらに」と、マーカムが念を押した。「われわれはこの挿話《エピソード》のことは一切秘密にしておくつもりです。よって、先生にもわれわれの決定に従っていただきます」
「もちろんですとも――その条件で、エイダと逢ってよろしいでしょうか?」
マーカムが躊躇したが、ヴァンスが答えた。
「お望みならば――どうぞ」と言って、ドラムのほうに振り向き、「先生、すみませんが、フォン・ブロン先生をご案内願えませんか」と彼が言った。
ドラムとフォン・ブロンは一緒に部屋を出ていった。
「あの先生が神経をたかぶらしているのも無理はないね」と、マーカムがコメントした。「自分の不注意で紛失した薬品で第三者が毒殺されそうになったと聞かされたら、いい気持はしないだろうさ」
「なあに、エイダのことが心配なんかじゃありませんや。奴がうんと心配なのはシーベラのほうなんでさあ」と、ヒースが注釈した。
「慧眼達識《けいがんたっしき》の士なるかな!」と、ヴァンスが微笑した。「いや全くですな、部長、あの男はエイダこの世をみまかりぬと聞かされた時でも、シーベラ姫|つつが《ヽヽヽ》なきや否やという話の時ほどには気に病んでいなかったこと明白でしたな……とすれば、これは何を意味するか分らなくなってきおったぞ。まさに人を誑《たぶらか》す点なるかな! だが――だめだ、だめだ――それじゃぼくの持論たる説から逸脱してしまう!」
「すると、君には説があるんだね」と、マーカムが詰《なじ》るような言い方をした。
「なあに、説だったら|ごまん《ヽヽヽ》とあるさ。それから、念のために言わせてもらうがね、そのみんながぼくの持論なんだ」こんな軽口を叩く時のヴァンスは、ほんとうの疑念を表示して見せる用意ができていないことを言外に匂《にお》わせているだけのことである。マーカムもこの件の深追いはしなかった。
「説なんて、こっちはいらんというもんでして」と、ヒースが宣言した。「エイダに|げろ《ヽヽ》させるだけ|げろ《ヽヽ》させれやいいんで。あしたあっしらと面通しができ次第、毒を盛った犯人はどこのどいつか、すぐ見当がつきやしょう」
「恐らくね」と、ヴァンスが呟いた。
二、三分後、ドラムが一人で引き返してきた。
「フォン・ブロン先生はもう一人の女の部屋に潜《もぐ》りこんじまいました。すぐ降りてくるとの伝言でした」
「あなたの患者について、あの先生の意見はどうでした?」と、ヴァンスが尋ねた。
「大した意見なんかありゃしませんや。もっとも、あの女はあの先生の姿を見た途端、歩きっ振りにも力が出ましたよ。それに、微笑さえして見せたんだから、驚いたもんだ! これなら、まずはいい兆候というもんでしょうな。あの女は回復が早いですよ。凄い抵抗力を秘めた女だなあ」
ドラムが話を終るか終らないかのころ、シーベラの部屋で扉が閉じる音がして、階段を降りてくる足音が聞えてきた。
「ところで、話変わって、先生」フォン・ブロンが再び客間に入ってくるのを見て、ヴァンスが言った。「オッペンハイマーにお逢いになったでしょうか?」
「十一時に会いました。じつを申すと、けさこの家を出てから、直接博士のところにいったのでして、明日十時に検診を行うことを承知してくれましたよ」
「グリーン未亡人も同意なんですね?」
「あ、そう。夫人にはけさわたしから話しました。異存はなんにも出ませんでした」
それから暫くして、わたしたちも辞去することにした。フォン・ブロンが門まで随《つ》いてきたが、彼が自分の車を運転してゆくのをわたしたちは見送った。
「あすのいまごろまでには、もっと多くのことが判明しているといいんだが」と、ダウン・タウンへの車の中で、マーカムが言った。いつにもなく意気消沈していて、眼は心の悩みを大きく現わしていた。「いいかい、ヴァンス、オッペンハイマーの検診報告がどんなものになるのだろうかという思いが、ぼくを恐怖と不安で打ちのめしてくるんだ」
だが――オッペンハイマー博士による検診報告はついに作られる運命にはなかった。その日の夜中、午前一時から二時の間のいつか、グリーン未亡人はストリキニーネ中毒による痙攣のうちに死んだ。
第二十一章 滅びの家系譜
(十二月三日、金曜日、正午)
マーカムがグリーン夫人の死の知らせをわたしたちのところにもたらしたのは、翌る朝の十時前のことであった。悲劇が発見されたのは、ようやく九時になって、看護婦が取り扱い患者の朝のお茶を運んできた時のことである。ヒースからマーカムへ通報があり、マーカムはマーカムで、グリーン・マンションに赴く途中に立ち寄って、新しい進展についてヴァンスに事情を伝えた。わたしたちはもう朝食をすませていたので、彼に同行して、屋敷に向った。
「これでぼくら唯一の支柱も叩きのめされたというわけだ」と、マーカムが落胆したように言った。車がマジソン・アヴェニューをアップ・タウンへ走っている時のことである。「あの老婦人が犯人かも知れないという可能性は考えるだに慄然《りつぜん》とさせられていたよ。もっとも、ぼくは終始一貫、あの夫人は精神異常なんだと考えることによって、みずからを慰めようと努力してはきたがね。ところが、いまはどうだ? ぼくは自分らの嫌疑がやはり本当だったという結果が出てくれたらよかったのにと祈りたいような気さえするんだ。だって君、残された可能性のほうがはるかにもっと怖《おそ》ろしくさえ見えるんだからね。われわれが処理しようとしているもの、それは冷血の殺人鬼による、計算ずくめの合理主義なんだ」
ヴァンスがうなずいた。
「そうだ。ぼくらが対決せんとするものは、偏執狂よりもはるかに邪悪な悪《ヽ》だよ。ただし、ぼく個人としては、グリーン夫人の死によって深い衝撃を受けたとは言えないんだ。夫人は汚《けが》らわしい女だったさ、マーカム――世にも汚らわしき、忌《い》むべき女だったさ。夫人が死んで、世界が死にし者のため嘆くということはまずはあるまいね」
ヴァンスのコメントは、マーカムがグリーン夫人の死を知らせてくれた時わたしが感じた感懐と全く同一だった。このニュースはわたしを震撼《しんかん》させたには違いないが、いまこの生贄《いけにえ》に対して、わたしは一片の憐《あわ》れみをも感じなかった。彼女は悪意に満ち、人倫《じんりん》の道に外《はず》れていた。彼女は憎悪を糧《かて》としてみずからの心を養い、まわりの人すべての人生を、堕罪の冥府《よみ》と化せしめた。彼女が地上の生を終ったことは、むしろ好ましくさえあった。
ヒースもドラムも先にきていて、客間でわたしたちを待っていた。巡査部長の面貌には、興奮と失望が混《ま》ざり合っていたし、自暴自棄のやるせなさが例のあい色の瞳に光っていた。ドラムは職業人としての落胆の色をあらわにしただけだった。彼の最大の関心事は、自分の医者としての技倆《ぎりょう》の見せ場がなくなってしまった、ということらしい。
ヒースは、心もそぞろな握手をして、それから簡潔に状況を説明した。
「オブライエンがけさ九時、大|あねご《ヽヽヽ》が死んじまってるのを見つけ、それでスプルートに頼んで、ドラム先生に合図をさせやした。それから、本部にも電話してきたので、あっしは検事さんとドーラマズ先生に通報し、ここへやってきたのが十五分か二十分前でして。さっそく部屋を封鎖しちまいました」
「フォン・ブロンには通知したかね?」と、マーカムが尋ねた。
「すぐ電話して、けさ十時に手配してある検診は断わってくれ、と言ってやりました。後でこちらから連絡するからと言って、切っちまいましたがね。有無《うむ》は言わせねえで」
マーカムがそれでよしと言うようにうなずき、それからドラムのほうに向いた。
「先生の話を聞かせてもらおうか」
ドラムが威儀を正し、咳《せき》ばらいをし、相手の気をそらすまいとする心づもりの見えた態度を取った。
「ぼくはナーコスの一階の食堂にいて、朝食中でありましたが、そこへヘネシーがやってきて言うには、向うの家の応接間のカーテンが下りたという。そこで、七つ道具をひっつかむが早いか、ひとっ飛びでやってきた。家令が婆さんの部屋に案内したが、看護婦がもう待っていました。万事休す、これじゃ打つ手もあったものじゃない。ぼくはすぐそうと見て取った。がいしゃは死んじまってる――悶絶《もんぜつ》の跡も生々しく、チアノーゼを起こし、体温なし――死後硬直が既に始まっていました。死因はストリキニーネの大量投薬。たぶん、苦しむ時間もろくろくなかったでしょう――衰弱性|昏睡《こんすい》は三十分足らずで起こった、と言いたいところですな、分り易く言えば、年がゆきすぎていて、|ふんばり《ヽヽヽヽ》がきかんだったんですな。大体、高齢者はストリキニーネにはころりとゆくもんでして――」
「声を立てて、助けを呼ぶ能力はどうだったのかね?」
「さ、そいつはどうですかね。強直のため、唖になっちまったということもありえます。どっちみち、|がいしゃ《ヽヽヽヽ》の声を聞いた者はいない。おそらくは第一回の発作後、意識不明に陥ったのでしょう。この種の臨床例に対するぼくの経験からいうと――」
「ストリキニーネを呑まされた時間に対する、君の見立てはどうかね?」
「さあ、そこですよ、正確なところは誰にもいえませんや」ドラムが呪術めいたことを言い出した。「死期転換ずっと以前に強直が持続したものやら、それとも、毒薬の嚥下《えんか》直後に死期転換が起こったものやら、そのどちらかでしょうな」
「それなら、死亡時刻は何時だと君は推定するのかね?」
「これもまた、正確なことは誰にもいえませんや。なにしろ、死後硬直と死相強直との混同は、多くの医者が陥る罠《わな》でありまして。さはさりながら、歴然たる相違点もないわけではないのでありまして――」
「そりゃそうだろう」マーカムもいまはドラムの書生っぽい衒学趣味《げんがくしゅみ》にいらいらし出していた。
「しかしだ、説明は一切おいといて、グリーン夫人は何時に死んだと君は思うかね?」
ドラムは肝腎《かんじん》の点になって、考えこんでしまった。
「ざっといわせてもらいますと、今朝二時というところでしょう」
「それなら、ストリキニーネを呑まされたのは、さらに遡《さかのぼ》り、昨夜の十一時か十二時と考えられるのだね?」
「ありえます」
「どうせ、ドーラマズ先生がやってくりゃ、そこんところは分りまさあ」ヒースがずけずけと本音《ほんね》を吐いた。彼はこの朝、ぷりぷりし通しだった。
「毒を投薬したと思われるグラスかコップかを発見しなかったですか、先生?」と、マーカムがあわてて質問したが、これは明らかにヒースの失礼な言葉にフタをするためだった。
「寝台の近くにグラスが一つありまして、アルカロイド結晶《けっしょう》らしきものがその内部に付着しておりました」
「しかしですよ、ストリキニーネの大量致死量ともなれば、ありきたりの飲みものは、すぐと苦味がつんとくるんじゃないんですか?」ヴァンスが突如真剣になっていた。
「おっしゃるまでもないことです。ところが、夜、机の上には、炭酸レモン剤の壜《びん》がのっていた――これなら有名な制酸剤です。そこでもしもこれに毒を混《ま》ぜたものを飲んだとすれば、苦味は察知されなかったろうと思われます。炭酸レモン剤は微量の塩《えん》を含み、泡沫《ほうまつ》性が非常に高いですから」
「グリーン夫人がひとりで炭酸レモンを摂取するということがありえますか?」
「まずはないでしょうな。水で割って、ミックスしなければならないし、この作業はベッドに寝たままの姿では器用にはゆかんです」
「さあ、まさに興味しんしんたり!」ヴァンスが大儀そうにシガレットに火をつけた。「しからば、グリーン夫人に炭酸レモンを与えた人物はストリキニーネをもまた与えたと仮定していいわけだ」彼はマーカムのほうに向き直った。「この点、オブライエン嬢がぼくらを助けてくれると思うんだが」
ヒースが直ちに出掛け、看護婦を連れてきた。
だが、彼女の証言も、新しい光を投げかける性質のものではなかった。昨夜、彼女が読書中のグリーン夫人の許を去ったのは十一時ごろのことで、そのまま自分の部屋に引退《ひきさが》って夜のお化粧をすまし、半時間後、エイダの部屋に戻ってきて、そこで一晩中寝ていた。そうしろというのがヒースの命令だったのだ。起きたのは八時、着つけをして、台所にいった。グリーン未亡人のお茶を取りにいったのである。彼女が覚えている限り、グリーン夫人は彼女が引退るまではなんにも飲まなかった――十一時まで、炭酸レモンも飲まなかったことは確かである。のみならず、グリーン夫人が炭酸レモンをひとりで飲もうとしたことはこれまで一度もなかった。
「するとあなたの推定によると」と、ヴァンスが尋ねた。「それを飲ませた人間がほかにいたというのですね」
「当り前だわ!」と、彼女がぶっきらぼうに念を入れてみせた。「あの婆さんがレモン水がほしく、自分でそれを調合するくらいだったら、上を下への大騒ぎを起こしていたことでしょうよ」
「いまや疑うべくもないね」と、ヴァンスがマーカムに向って言った。「十一時以後、夫人の部屋に入り、炭酸レモンを調合した人物がきっといるよ」
マーカムが席を立ち、しきりと部屋を歩き始めた。「われわれの問題は、つまるところ、その機会を持っていた人物は誰であるかを発見することだ」と、彼が言った。「君は、オブライエン君、現場に戻っていなさい……」それから彼は紐《ひも》を引きにゆき、スプルートを呼んだ。
家令を手短かに訊問した結果、次の事実が判明した。すなわち、
家の戸締まりをしてから、スプルートが引退《ひきさが》ったのは十一時半頃であったこと。
シーベラは夕食がすんですぐ自分の部屋に退がり、ずっとそのままだったこと。
ヘミングと料理女は十一時少し過ぎまで台所でぐずぐずしていたが、その後になって、二人が自分の部屋に退ってゆくのをスプルートが見ていたこと。
スプルートがグリーン夫人の死をはじめて知ったのは、その朝九時、看護婦に言われて応接間のカーテンをおろしにいった時だったこと。
マーカムは訊問を打ち切り、料理女を呼びにやった。呼ばれた料理女は、グリーン夫人の死のことも、エイダが毒を呑んだことも知っていない様子である。それに、この女が証言できた限りの情報にしても、重要なものはなにもなかった。前日は一日中台所か自分の部屋にいたきりだった、と彼女は言った。
次はヘミングの訊問の番だった。この女は、質問の性質から察して、いきなり警戒心を起こしてしまった。例の鋭い目つきを一層細くすると、相手の裏を読んだ、勝ち誇ったような表情で一同を見渡した。
「あたしに|かま《ヽヽ》を掛けようたって、そうはさせませんよ」と、彼女が喚《わめ》いた。「主《しゅ》はきませり、滅びの箒《ほうき》ふたたびふるわんとて! これもまた主《しゅ》のなせる善事《よきこと》なんだわ。『エホバはおのれを愛《いつく》しむものをすべて守りたまえど、悪者《あしきもの》をことごとく滅《ほろぼ》したもう』〔詩篇第百十五の引用〕」
「滅したまわんだよ、君」と、ヴァンスが訂正してやった。「さて君が、かくもやさしき主の愛しみをたまわるひとであるからには、教えてやっていいと思うがね、エイダ嬢もグリーン未亡人もともに毒を盛られたのだよ」
彼は女をじっと見つめていたが、女の顔面が蒼白になり、頤《あご》もだらりと下がってゆくのは一目して瞭然《りょうぜん》だった。神をうやまうこの使徒にしたところで、主《しゅ》の下《くだ》したもう荒廃があまりにも急転直下のものに見えたに違いないのだ。さすがの信仰もぐらついて、こみ上げる恐怖心に打ち勝つことができないでいるのだ。
「あたしこの家にもう用はありません」と、彼女が力ない声で宣言した。「主《しゅ》のために、証人としてつかわされたわたしではありますが、もう十分な証《あかし》を見ましたもの」
「大変いいことだね」と、ヴァンスがうなずいた。「しかも早ければ早いほど、あなたが福音の書の証について演説する時間もあるわけだから」
ヘミングは意識朦朧《いしきもうろう》としたように立ち上がると、拱門《きょうもん》のほうに走りかけたが、たちまち後ろを振り向きざま、マーカムをはったと睨みつけ、鬼婆《おにばば》あのような顔をした。
「だけどこの不法の洞窟を去りゆく前に、ぜひとも言わせてもらいますよ。いいですか、悪《あ》しき者ばかりのこの家で、ひときわ悪いのはシーベラ嬢だわ。主《しゅ》はこの次に、きっとあの女を懲《こ》らしめ、うち滅ぼしたもうでありましょう――わが告ぐる言葉を見よだわ。主が救わんとてその甲斐《かい》なきなり、と言われたのはあんな女をいうのです。あの女は――暗き闇に定めおかれたのです!」
ヴァンスが物憂げに眉をあげた。
「ねえ、ヘミング、いかなる不義と誘惑《まどわかし》に、シーベラ嬢が耽《ふけ》ってきたというのかね?」
「常にある惑《まど》わかしのことだわ」と、いまやこの女は残虐を舌なめずりするようにしゃべった。
「いいですこと、あんなのを淫婦《いんぷ》というんだわ。フォン・ブロンとかいう、あのやぶ医者との馴初《なれそ》めから、今日のいちゃつきにいたるまで、それはそれはもう汚らわしき限りよ。泥棒同士の深情けみたいに、しょっちゅうくっつき合っているんだから」といって、それから、意味ありげにうなずいて見せた。「あの先生、ゆうべもやってきて、あの女の部屋に潜《もぐ》りこんでたのよ。いつの朝お帰りになったか、知れたもんですか」
「いよいよ出でて、いよいよ怪。どんないきさつで、君にはそんなことが分るのかね?」
「あたしが入れてやらなかったとでも?」
「へえ、君がね。ところで、それは何時のこと――スプルートはその時どこにいたの?」
「スプルートさんは夕食中で、あたし、天気のぐあいはどうだろうと思って玄関にゆくと、あの先生がやってくるじゃありませんか、『ご機嫌いかが? ヘミング』なんて、あのひと、にやけた笑いをこめて言うんです。と、思ったら、さっさとあたしの脇を通り抜け、それがまたそわそわした様子で、そのままシーベラ嬢の部屋にいっちまいましたよ」
「おそらくは、シーベラの姫におかせられては、お加減が悪く、それで医師を呼ばれたのだろうさ」ヴァンスが取り合わぬように代案を出して見せた。
「ふふん」せせら笑うように、ヘミングは首を後ろに振ると、そのまま大股で出ていった。
ヴァンスがすぐ席を立ち、再びスプルートを召喚した。
「君はフォン・ブロン医師が昨夜邸内にいた事実を知っていたのかい?」家令が姿を現わすや、いきなりヴァンスが質問した。
言われた人は首をふった。
「いいえ。その事実は全く知りませんでした」
「それだけだ、スプルート――ところですまないが、シーベラ嬢にぼくらがお会いしたいと伝えておくれ」
「イエス・サー」
それでもシーベラが登場するまでには十五分を要した。
「あたしこの頃、ヤケにだらしがなくなっちゃって」大椅子にゆっくり坐ると、彼女が説明した。
「けさはまた、なんのためのパーティですの?」
ヴァンスが半分|謎《なぞ》をかけるような、半分|恭《うやうや》しい敬意をこめたような態度でシガレットをすすめた。
「ぼくらの立ち合いの理由を説明する前にですね」と、彼が言った。「まずはご好意に甘えさせていただくこととして、昨夜フォン・ブロン先生が邸内を立った時間をお知らせ願えれば光栄ですが」
「十一時十五分よ」と、彼女は答えたが、敵意をこめた挑戦の光が瞳に浮んでいる。
「有難う。さて、ぼくからお知らせしたい事実があります。母上もエイダ嬢もともに毒を盛られましたよ」
「母上もエイダもともに毒を盛られた?」彼女が鸚鵡《おうむ》返しに言ったが、意識がぼんやりしているらしく、まるで半分しか意味が分らないといった態度だ。それから数秒、ぴたりと静止したように坐ったまま、まるで化石にでもなったかのように、無感動の瞳を凝《こ》らして虚空《こくう》を見つめていた。やがて、彼女の視線がゆっくりとマーカムの上に固定された。
「いまはあなたのご忠告に従うことにしますわ」と、彼女が言った。「アトランティック・シティに仲よしの女の子がいますの……だって、この家はいよいよたまんなくなってくるんだもの――身の毛がよだって、とても、とても」彼女が作り笑いを一つした。「あたしは今日の午後、さっさとアトランティック・シティゆきにきめたわ」さすが神経の強い少女もいまはすっかり参ってしまったものと見える。
「それは賢明な決心ですよ」と、ヴァンスが意見を出した。「ぜひともそうなさい。ぼくらが事件を解決するまでは向うに滞在することですね」
目には、相手を許すような皮肉の気持を現わしながら、彼女がヴァンスを見た。
「そうも長いこと滞在はできないと思いますけれど」と、彼女が言い、それから、こうつけ足した――「なんでしょうね、母もエイダも死んだのね」
「母上だけです」と、ヴァンスが言った。「エイダは蘇生しました」
「あの子なら、蘇生もへっちゃらよ」彼女の顔じゅうの線という線が美事な誇り高い軽蔑の表徴になっていた。「賤《いや》しき土の城なる肉体は抵抗力も強いとか、どこかで聞いたことがあるわ。お分り? いまあの子のために、グリーン家巨万の富の前途を阻《はば》む人間はあたししかいないのね」
「妹さんは緊急出動で助かったのです」と、マーカムが譴責《けんせき》した。「われわれのほうで医師を張り込ませていなかったとしたら、その巨万の富の唯一の生残り相続人はあなただったのかも知れない」
「だから、大いに怪しいとおっしゃりたいんでしょう?」彼女の反駁《はんばく》は返す言葉もないくらい率直なものだった。「だけど安心なさいませ。あたしがこの犯行を企《たくら》むくらいだったら、エイダのちびっこを蘇生させるような|へま《ヽヽ》は絶対にしませんから」
マーカムに物を言う隙も与えず、彼女は椅子をくるりとまわして、はや立ち上がっていた。
「さ、もう旅仕度をしなくちゃ。『お金と禍《わざわい》はきりがない』だわ」
彼女が部屋を去ると、ヒースが疑いの晴れやらぬ詮索《せんさく》好きな目でマーカムを見た。
「検事さん、これでいいんですかい? あの女を気ままにニューヨークを離れさせてやっていいんですかい? グリーン家の人間で、まだ手のついてないのはあの女だけなんですぜ」
ヒースが何を言おうとしているのか、わたしたちには分っていた。期せずして、わたしたちの心を掠《かす》めて通った考えをこうも露骨に表明され、一瞬みんなが黙りこんでしまった。
「あの女を強制的に引き止めておくことによって、危険負担をわれわれが負うわけにゆかないのだ」やっとマーカムが応酬した。「もしもという事態が起こって……」
「検事さん、分りやした」ヒースはもう立ち上がっていた。「だけどあっしは尾行をつけますぜ――ようござんすね。これから腕ききの人間を二人呼びますがね、あの女が玄関を出てゆく時から、こっちの打つ手が大丈夫固まるまでは、ぴったりとあの女をつけさせてやりまさあ」彼はホールに出ていったが、電話の向うのスニットキンにいろいろと指図している声が聞えてきた。
五分後、ドーラマズ医師がやってきた。さすがの医師ももう快活さはなく、挨拶にしても陰気といいたいくらいである。ドラムとヒースに伴われ、彼は直ちにグリーン夫人の部屋に上がっていったが、その間、マーカムとヴァンスとわたしは階下で待つことにした。十五分して、医師は引き返してきたが、目に見えて謹厳な素振りである。いつもは粋《いき》にかぶっている帽子の角度も、いまはまっすぐになっているのがわたしの目についた。
「検屍結果は?」と、マーカムが尋ねた。
「ドラムのと同じだ。婆さんが死んだのは、そうですな、一時と二時の間というところだ」
「で、ストリキニーネの摂取は何時?」
「深夜の十二時かそこいら。だが、これも推定に過ぎん。どっちにせよ、炭酸レモンと同時に呑んでいる。わたしはコップをなめてみて分ったのだ〔読者もご記憶であろうが、有名なモリヌー毒殺事件では、シアン化銀が同種の薬剤――すなわち、ブロモ・セルツァ――を媒体として投薬されていた〕」
「ところで、話は違いますが先生」と、ヴァンスが言った。「死体解剖をなすったら、下肢筋肉の萎縮《いしゅく》状況に関する報告書をいただけますでしょうか?」
「ようござんす」ドーラマズはこの注文にいささか驚いた風であった。
彼が立ち去るのを見て、マーカムがドラムに語りかけた。
「さて、エイダに面通ししてみたいんだが、けさのぐあいはどうかね?」
「そりゃ、上々です」と、ドラムが誇らしげに言った。「婆さんを見たあとすぐそっちのほうも見ましたよ。衰弱はしているし、アトロピンを打ってやったおかげで、少し乾きを訴えてはいるが、ほかは事実上正常です」
「で、母親の死のことは知らしてないのだね?」
「一言も」
「いずれ知ることになるのだし」と、ヴァンスが横から言った。「これ以上この事実を伏せておくのは意味がないのじゃないかな。どうせ受けるショックならば、ぼくらが揃《そろ》っている時に受けさせてやったほうがいいんだ」
わたしたちがエイダの部屋に入ってゆくと、彼女は窓べに坐っていた。肘《ひじ》を窓枠《まどわく》につき、両手で顎《あご》を抱《かか》えこんで、雪の積もった中庭をじっと眺めている。わたしたちの姿を見るとびっくりし、瞳を大きく見張ったが、まるで突然の恐怖に襲われたといってるみたいだ。これほどの恐ろしい体験をへてきたために、一種の神経的恐慌状態に陥っていることが一目瞭然であった。
簡単な礼儀のやりとりが行われた。その間も、ヴァンスもマーカムも、しきりと彼女の神経を鎮めようとしていたが、ついにマーカムがブイヨンの件を持ち出した。
「われわれとしては、万難を排して」と、彼は言った。「昨日午前に起こった、あの痛ましいエピソードをあなたに思い出させないようにしているわけですがね、しかし、あの朝のことで、あなたができるだけのことを話して下さるかどうかに、重大な鍵《かぎ》がかかっているのです――つまり、あなたは、看護婦が上から呼んだ時、居間にいた、そうでしたね?」
少女の唇も舌も湿り気がなくなっていて、しゃべるのにもどこか苦しいらしい。
「そうですわ。母さんにある雑誌を持ってくるようにと言われたものですから、それを探しに階下に降りていったちょうどその時、看護婦に呼ばれたのですわ」
「あなたは二階にきた。その時、あなたは看護婦の姿を見ましたか?」
「見ましたわ。ちょうど召使い専用の階段のほうに歩いていました」
「あなたは自分の部屋にはいった。その時、あなたの部屋には誰もいなかった。そうですね?」
彼女は首をふった。「誰かがいるわけでもありますの?」
「われわれが明らかにしようとしているのもその点なのですよ、グリーンのお嬢さん」と、マーカムが厳粛に言った。「ある人物があなたのブイヨンに毒を入れたことは紛《まぎ》れもない事実なのです」
彼女は身震いをしたが、返事はしなかった。
「あなたが部屋に戻ってから、誰か入ってきたものはいませんでしたか?」
「人っ子ひとりも」
ヒースが業《ごう》を煮《に》やし、訊問に割りこんできた。
「そこでと――おまえさん、すぐにスープに手をつけたのかい?」
「いいえ――すぐじゃないわ。あたし少し寒けがして、廊下へ出ると、向うのジュリアの部屋にいったのです。古いレースのショールが置いてあったので、それを羽織ろうと思って」
ヒースがうんざりした顔をし、騒《さわ》がしい溜息をついた。
「この事件じゃ、さあこれからが本番という時になったら」と、彼がこぼした。「必ず横合いから邪魔がはいり、おかげでこっちはおじゃんでさあ――エイダ嬢がスープを置きっぱなしにおいたというんなら、そうじゃないですか、マーカム検事。ショールを取りにいっている隙に、ここに忍びこみ、スープに毒を入れるぐらいのことは誰だってやるチャンスがあったというもんですぜ」
「ほんとにすみません」と、エイダが謝《あやま》った。まるでヒースの言葉を自分の行動に対する非難として受け取ったような態度である。
「君のせいじゃないさ」と、ヴァンスが彼女を安心させた。「巡査部長のがっかりぶりは由《よし》なきことだからね。さて、ひとつぼくに教えてくれたまえ。廊下に出た君は、そのへんでシーベラ嬢の犬を見なかったの?」
彼女がいぶかるように首を振った。
「まあ、いいえ。シーベラの犬がどんな関係があるんでしょう?」
「おそらくは、あの犬が君の命の恩人かもね」ヴァンスがそう言って、スプルートが彼女を発見した時の状況について説明した。
すると、エイダが驚愕《きょうがく》と不信のあまり、息つく間もないといわんばかりになにかを呟《つぶや》き出し、虚脱《きょだつ》したように夢想に耽っていた。
「姉さんの部屋から引き返してきて、そのすぐ後でブイヨンを飲んだの?」ヴァンスの次の質問が行われた。
この質問を受け、エイダはやっとのことで自分の心を取り戻した。
「そうですわ」
「で、なにか妙な味に気がつかなかった?」
「別になんにも。母さんはいつもスープにはうんと塩をきかすのが好きなんです」
「それから、どうなったの?」
「どうなるって、なんにも。ただ、あたし、変な気分がしてき出したの。首筋の後ろがぎゅっと締まり、ほかほかしてきて、眠たくなってきて、からだじゅうがヒリヒリしてきて、それから、腕も足も感覚がなくなってゆくようで、それから、とっても眠たくなっちゃって、ベッドの上に仰向けに寝た。覚えているのはそれっきりだわ」
「また|おけら《ヽヽヽ》だ」と、ヒースが愚痴った。
暫しの沈黙があった。ヴァンスが椅子をずり寄らした。
「さて、エイダ」と、彼が言った。「君は気を確かに持てるね。もう一つ、悪い知らせがあるのだよ……母上は昨夜のうちに死んでしまわれた」
少女は一瞬ピタリと身動きしなかったが、やがて絶望のうちにも透視しているような瞳を彼のほうに向けた。
「死んだ?」と、彼女が鸚鵡返しに言った。「どんな死に方で?」
「毒を盛られたんだ――ストリキニーネの大量致死でね」
「まさかあなた……母が自殺したとでも?」
この質問に、わたしたちは不意を衝《つ》かれた。この質問は、わたしたちが考えつきもしなかった可能性を表白したものだったからだ。しかし、一瞬ためらった後で、ヴァンスがゆっくりと首をふった。
「違うな。ぼくは夢にもそう思わないんだ。君に毒を盛《も》った人間と、母上に毒を盛った人間とは同一人物じゃないかという気がしているんだがね」
ヴァンスのこの反応を聞くと、エイダは茫然《ぼうぜん》自失となった。顔はまっ青になり、目は恐怖で大きく見開いたまま、悪魔によくあるという、ガラス張りの眼球が一点を凝視していた。ややあって、彼女が深い|と息《ヽヽ》をついた。まるで精神の放血でもすませたというみたいだ。
「ああ、次は何が起こるのか? ……あたし――こわいわ!」
「もう何にも起こりゃしないさ」と、ヴァンスが強調するように言った。「もう何にも|起こらせる《ヽヽヽヽ》もんかね。君の身辺には二十四時間見張りをつけることになっているんだ。それにシーベラはきょうの午後アトランティック・シティに出発し、当分の間向うに滞在することになっているんだから」
「あたしもいけたらどんなにいいことか」彼女がやるせなさそうに叫んだ。
「その必要はありますまい」と、マーカムが横から言った。「あなたはニューヨークのほうが安全です。あの看護婦はこのまま置いといて、あなたの面倒を見させますし、万事片づくまで、人間を一人、昼夜の別なく邸内に置いておくことにします。ヘミングはきょう暇をとって出てゆきますが、スプルートとあの料理女があなたのお世話をするでしょう」彼が立ち上がり、彼女の肩をやさしく叩いた。「いまや、どこかの誰かが、あなたを害しうる可能性は除去されたのです」
わたしたちが階下のホールへ降りてきたと同時に、スプルートがフォン・ブロンを招じ入れているところだった。
「なんたることだ!」と、彼が詠嘆しながら、こちらへ進んできた。「シーベラから電話があったばかりで、それでグリーン夫人のことを知りました」彼はマーカムを獰猛《どうもう》に睨みつけた。お得意の優雅もこの時だけは忘れているらしい「わたしが知らせてもらえなかったのは何故です?」
「あなたに面倒をかける必要を認めなかったからですよ、先生」と、マーカムが平然としてやり返した。「グリーン夫人が発見されたのは、死後数時間もたってからのことでしたし、こちらの医師が手許にい合わせたのです」
フォン・ブロンの目に、すばやい炎がめらめらと燃えた。
「ならば、わたしがシーベラと逢うことすらも、強制的に禁ずるというのですかね?」彼が冷やかに言った。「あれが言うには、きょうニューヨークを出てゆく。だから、身のまわりの仕度を手伝ってくれないかと頼んできたんです」
マーカムが一歩退った。
「先生は自由ですよ。お気に召すままにどうぞ」と、彼は言ったが、心なしか、一抹の軽蔑《けいべつ》感のこもった声だった。
フォン・ブロンはつんとしたお辞儀を一つすると、階段を昇っていった。
「先生、むくれとるですたい」と、ヒースがひょっとこづらをしながら言った。
「違うよ、部長」と、ヴァンスが訂正した。「先生は心配していなさる――ああ、やけっぱちに心配していなさるんだ」
その日の正午過ぎ、ヘミングはグリーン・マンションに永《なが》の暇乞《いとまご》いをした。シーベラは三時十五分発のアトランティック・シティ行き汽車に乗った。当初の家族構成員のうち、残っているのはエイダ、スプルート、マンハイム夫人の三人だけである。にもかかわらず、ヒースはオブライエン嬢に対して、無期限に勤務をつづけること、一切の出来事に警戒を怠らぬことという命令を与えた。この保護措置に加えて、刑事一名を常時邸内に配置し、看護婦による張り込みを強化することにしたのである。
第二十二章 幻《おぼろ》めく影
(十二月三日、金曜日、午後六時)
その夕の六時、マーカムは再び『スタイヴィサント・クラブ』で非公式の会議を招集した。モーラン警視とヒースが出席したばかりではなく、警視正のオブライエン〔看護婦としてグリーン・マンションへ行っていた婦人刑事オブライエン嬢の伯父に当る人〕までが、役所からの帰途立ち寄った。
その日の夕刊各紙は警察の捜査方針がへま続きだといって、仮借《かしゃく》ない批判をぶちまけていた。マーカムは、ヒースとドーラマズとも協議の結果、記者団に対しては次のように発表していた。すなわち、グリーン夫人の死因は『ストリキニーネの過量摂取によるものであり――係りつけの医者の命令によって、正式に服用していた刺激剤であった』と。この発表記事はスワッカーの手でタイプされ、記者団に配布されたが、用語上の誤解がないようにとの配慮からである。発表文の末尾は、次のようになっていた。『過失により、毒薬が自己投薬されたものではないことを示す証拠はない』したがって、記者団としては、マーカムの発表文の趣旨から一歩も外《はず》れない記事解説を作文するしか方法はなかったが、それでも随所に故意犯による謀殺の可能性を匂《にお》わせる、微妙な婉曲《えんきょく》話法で書いてあったから、読者のほうは事件の真相について少しの疑いも抱《いだ》かずにすんだ。ただし、エイダの毒殺未遂事件だけは警察側の厳秘に付されていたけれども、この差し止め記事ぐらいのことで、大衆の猟奇心が押えられるわけはなく、彼らの想像力はほとんど比を見ない高さにまで燃えさかっていたのである。
マーカムもヒースも、打つ手打つ手が徒労に終ったことに焦慮感をあらわに現わし始めていたし、モーラン警視にしたところで、地方検事の傍らの椅子にどっかと坐る姿を一目見ただけでも、いつもの警視の泰然自若さに似合わず、心労のために神経をやられているのがよく分るくらいだった。さすがのヴァンスまでが緊張と不安の兆《きざし》を表面に出していた。しかし、そうはいうものの、彼の場合は、いつもの態度から逸脱している点があったとすれば、それは心労というよりは、目に見えぬ敵に対する、真剣な警戒の態度というべきであったろう。
その夕刻の会議では、冒頭にヒースが立って、事件の概要を簡潔に説明した。いろんな捜査の線について、ひとくさり述べた後、そのために取られた予防措置についても概要を列挙した。こうして話し終ったかと思うと、ヒースは他人に意見を述べさせる隙《すき》も与えず、直ちにオブライエン総監のほうに向き直り、こう言った。
「これが通常の事件だったらねえ、おやじさん、ああもしろこうもしろと言われなくたって、そりゃ、やらずにおくもんですかい。麻薬班と同じことですぜ。家宅捜査《がさいれ》をやって、|はじき《ヽヽヽ》と毒薬を割り出すくらいはなんでもないことでさあ。ところが、あれは相手が部屋一つか、せいぜいちゃちなアパートぐらいのもんでして――ふとんをちりぢり、絨毯《じゅうたん》もこなごな、机も棚《たな》もどんどん叩くなんて、こっちもよく心得ていまさあ。ところが、グリーン家を対象に、そんなことでもしてご覧なさい。ものの二、三ヵ月は掛っちまう。それに、こっちがうまく証拠を掴《つか》んだにしたところで、相手は|へのかっぱ《ヽヽヽヽヽ》というもんでさあ。あの|やさ《ヽヽ》で大芝居を打っていやがる犯人てのは、こっちがちゃちな32口径の一つぐらいポイしたり、毒を挙《あ》げたぐらいのことで、へばるような、生易《なまやさ》しい奴《やつ》じゃねえんですからね。チェスターが撃たれた後だって、よしんばレックスの後だって、家族全員をひっくくり、第三級〔拷問〕にかけようと思えや、やってやれねえことはなかったです。ところが、きょうこの頃は、こっちがこれはと思うホシを引っぱってきて、泥を吐《は》かせる段になるてえと、新聞が一々とり上げて大騒ぎをするというご時勢にできとる。相手がグリーン家ともなりゃ大変だ。こんな家柄の人間を警察がきりきり舞いさせたとなりゃ、|さつ《ヽヽ》の威信に傷がつくのは目に見えてまさあ。金もありゃ、コネだって大ありだ。一流弁護士を|ごまん《ヽヽヽ》と傭《やと》いあげ、やれ提訴だ、それ強制執行だ、やれなんだと、こっちをぎゃふんと言わせるのはお手のもんときていやがる。それに奴らを重要参考人として拘留《こうりゅう》したところでですよ、どうせ人身保護令を提訴され、四十八時間後には放してやるのがオチでさあ。そんなら、腕っぷしの強いのをしこたま邸内に張り込ませておいたらどうかというと、あの家に無期限に機動隊を置いとくわけにもゆかんし、置けば置いたで、解除したとたんに、また犯行をおっぱじめねえもんでもねえ。そういっちゃなんだが、おやじさん、こいつは|したたか《ヽヽヽヽ》な難事件ですぜ」
オブライエンが口惜しそうにうめき、白髪まじりの、刈りこんだ口髭《くちひげ》をひねった。
「巡査部長の言うことは、もっとも至極なのでありまして」と、モーランが注釈を加えた。「通常の警備および捜査手段を適用する余地がないのです。なにしろ、相手はお家騒動という厄介なしろものなんでしてね」
「のみならず」と、ヴァンスがつけ加えた。「その相手は、神出鬼没の才智に長《た》けた陰謀というべきか――演出の最末端にいたるまで工夫立案され、要所要所に丹念な偽装を施してある、ある筋書きというべきか。初一念のためならば、何物をも――生命すらも――辞さないといった気魄《きはく》が見えるのです。この種の犯罪を駆りたてる原動力とは、この世でも最高の憎悪と高邁《こうまい》な希望とが合体したものに外《ほか》ならないでしょう。とすれば、この種の人間属性に対しては、通常の予防手段をもってしては全く役に立たぬこと、歴史においてお分りの通りです」
「お家騒動か!」と、オブライエンが憂鬱そうに繰り返した。どうやら、モーラン警視の言葉がいまだに念頭から離れぬところらしい。「お家といったところで、もう大して残っとらんように見えるがのう。わしの意見だが、証拠に基づく限り、一家皆殺しを企んどる部外者がいるんわけじゃないね」彼はこわい顔をして、ヒースを睨んだ。「召使いたちを君はどう処置したんかね? まさか、奴らをちちくりまわすのまで、臆病風を吹かしたというんじゃあるまいな? 奴らのうちどれかをとうの昔にひっくくっておきゃよかったんじゃないかね。そしたら、一時的にしろ、ジャーナリズムの|へらず《ヽヽヽ》口がふさげたんじゃないのかね」
マーカムが直ちにヒースの弁護を買って出た。
「本点に関して、仮に部長の側に怠慢らしきものありとすれば、それは全部わたしの責任だ」と、彼は言ったが、余所目《よそめ》にも、冷然たる非難の調子がこもっている。「わたしが本件について意志決定を行う立場にある限り、不愉快な批判は黙らせろというような立場から、逮捕を強行するような真似《まね》は決してさせません」そういうと、すこし態度をやわらげた。「召使いに関しては、誰一人として容疑事実らしいものはいささかもない。小間使いのヘミングはただの狂信者。殺人を企てる精神能力は全く欠如しており、本日グリーンから立り去ることをわたしが許可したが……」
「あの子の行先は分っていますんで、おやじさん」とヒースが急いで補足したが、相手が当然それを質問してくると思い、先手を打ったのである。
「料理女については」と、マーカムが続けた。「この女もまた真剣な考慮の対象外にある人物で、殺人者の役割に符合するには、気質的な適格性を欠いている」
「ならば、家令はどうかね?」と、オブライエンが尋ねたが、辛辣《しんらつ》な調子だった。
「あの男は三十年も勤続しており、トバイアス・グリーンの遺言状によれば、生前の功労に対し、潤沢な遺贈を受けることになっている。なるほど少し変人には違いないが、彼にグリーン一族を滅ぼす理由があったとすれば、なにも老いらくの境涯が迫りくるまで待っているわけはないと思われる」マーカムが一瞬心の乱れを覚えたような顔をした。「にもかかわらず、正直に申して、あのおやじには、どこか神秘の過去を隠蔽《いんぺい》したような雰囲気が漂っているのは認めねばなりますまい。わたしもあの男を見るたびに、なにか深い仔細《しさい》を秘めながら、決して認めようとしない人物だとの印象がしてなりませんがね」
「君のいうことも、マーカム、一理はあると思うよ」と、ヴァンスが注釈をした。「しかし、スプルートという人間は、この犯罪無礼講の饗宴に関する限り、はまり役じゃなかろうぜ。奴は合理の枠内でしか推理しない。それも慎重すぎる。奴の本質は途方もない用心深さだ。精神の展望だって、極度に保守的さ。発覚の見込み全くなしという場合なら、敵の一人ぐらい刺すことはあるかも知れんが、いま目前にある、この残虐無頼の悪事|三昧《ざんまい》を可能ならしめているところの勇気と詩的柔軟性に至っては、全く欠如していると言う外《ほか》はない。あの男は年をとりすぎている――あまりにも年を取りすぎている……ああ、おれとしたことが!」
ヴァンスが身体を乗り出し、物を切るようなゼスチュアで机を叩いた。
「これまで目の前をするりするりと抜けていたものはこれだったんだ! 生命の力! それこそが、この犯罪の根底にあるものなんだ――途方もなく大きく、縦横自在の柔軟性を持ち、絶大な自信に溢《あふ》れた生命の力! この世で最高の苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》と同居した剛腹と厚顔無恥――臆面もない、苛責するところのない自我主義――おのれの能力に対する不屈の信念。そして、これらは老人の精神構造を形づくる分子ではない。このすべての分子の中には青春がある――青春にふさわしい野望と運命への賭けを持つ青春がある――代価の計算をすることもない、危険をも考慮に入れない青春が……いや、スプルートでは永遠にふさわしからず……」
モーランがそわそわと椅子をずらし、ヒースのほうを向いた。
「シーベラを張り込むのに、アトランティック・シティには誰を派遣したのかね?」
「ギルフォイルとマロリー〔この時わたしは思い出していたのだが、この二人は「カナリヤ殺人事件」の際、トニー・スキールの張り込みに送られた二人の刑事だった〕をやりました――これ以上の腕ききはおらんです」巡査部長が残酷な満足感を現わすかのような微笑をした。「これであの女も逃《のが》れっこなしでさあ。いんちきでこっちの目を昏《くら》まそうたって、そうはゆきませんや」
「それに、フォン・ブロン先生にしたところで、あなたのご配慮をお願いしているのでしょうな?」と、ヴァンスが投げやりな態度で尋ねた。
またもヒースの如才ない笑顔が現われた。
「レックスの事件以来、ずっと尾行をつけてまさあ」
ヴァンスが讃嘆《さんたん》するように見返した。
「ぼくはしんからあなたが好きになりかけるなあ、部長」と彼は言ったが、その茶化すような調子の裏には、真実の響きがあった。
オブライエンは重苦しそうに机にかがみこみ、葉巻の灰をこすり落していたが、ぶすっとした顔をして、目は地方検事を見つめたままである。
「あんたが新聞発表した例の筋書き、あれはどういう意味かね、マーカム検事? あれでみると、婆さんが自分でストリキニーネを呑《の》んだように匂《にお》わせるのがあんたの真意のようだが。あれはただの|はったり《ヽヽヽヽ》かね、それとも、なにかの|ねた《ヽヽ》があるのかね?」
「恐縮だが、|ねた《ヽヽ》はなんにもないんだ、総監」と、マーカムが純粋の遺憾の意をこめたような口ぶりをした。「あれに根拠があるとする説に立つ限り、エイダが毒を呑まされた事実と辻褄《つじつま》が合わなくなる――いや、毒に関する限り、一切のことはそうなるんだ」
「さあ、それはどうかな?」と、オブライエンが応酬した。「このモーランの報告によると、諸君は婆さんの麻痺症状はいんちきじゃないかとの説に傾いているという」ここでオブライエンは机にのせていた腕をさし換え、短い、肉の厚い指をマーカムにぐいと突きつけた。「仮に婆さんが子供のうち三人を射ち殺し、これで拳銃に装填《そうてん》してあった弾丸もなくなった。そこで、毒薬二人分を盗んだ――それぞれ残った娘二人のためだ。次に、仮に若いほうの娘にモルヒネを盛った、すると残りは一人分だけだ。こう考えりゃ……」彼はそこで口をつぐみ、意味深長なやぶ睨みをした。
「その考えは分らぬでもないが」と、マーカムが言った。「つまり、あなたの説はこうだ。婆さんはわれわれがエイダの救命措置として、医師を手近に置くというところまでは計算に入れていなかった。そこで、エイダをどけっちまうのに失敗したもんだから、いまはこれまでと覚悟を決め、自分でストリキニーネを呑んだ、というのでしょうな」
「そこだよ、あんた」と、オブライエンが拳《こぶし》で机を叩いた。「そんなら、筋も通る。あまつさえ、これで警察は事件を解決したということにもなる――名案じゃないかね?」
「そうなんですよ。それで疑う術《すべ》もないほど筋が立つんですよ」そう答えたのは、ヴァンスの落着いた、例の悠長な声だった。「そこで、憚《はばか》りながら、ぼくから提案させてもらいますが、それではあまりにもきちんと事実に合致しすぎる。いわば、それは完全理論という奴だ。だってそうでしょう。するするっと人の心に飛びこんでくる。まるで誰かがぼくらのお役に立つようにと、お膳立てしてくれたみたいにね。最初から狙われているのはこっちのほうなんじゃないですかね――この一見正当で、理にかなった理論をとるように、とるようにと追いこまれてゆく。ぼくにはそんな気さえするんですよ。ところが、ほんとはですよ、総監、あのグリーン夫人は殺人型ではあったにしても、自殺型の人間では絶対になかったんです」
ヴァンスがしゃべっている間にヒースは席を外《はず》していたが、二、三分して戻ってくると、いまもなお自分の自殺説を長々と、えこじに弁明していたオブライエンの言葉を遮った。
「その線のことをとやかく言うだけ野暮というもんでさあ」と、彼が宣言した。「あっしはいまドーラマズ先生と電話で語ったところですがね。死体解剖をすませたということで、先生の話によりゃ、婆さんの下肢筋肉は痩《や》せおとろえ――てんで締まりがなくなっている。あれじゃ足を動かすことはおろか、立って歩くなんて、世界がひっくり返ってもできるもんじゃないという話でさあ」
「そんな馬鹿な!」この知らせにただ唖然《あぜん》となっていたわたしたちの間から、まっ先に我に帰ったのはモーランだった。「それじゃいったい、エイダがホールを歩いてゆくのを見たというのは誰だい?」
「まさに図星ですな!」ヴァンスがせきこんで言ったが、こみあげる興奮を抑えようと懸命だ。「ああ、それが分りさえすれば! それがすべての問題への解答でしょうよ。それが殺人者そのものだったとは言わないにせよ。あの書斎に幾夜かを坐りつくし、人の心の灯《ともしび》を照らすはずのろうそくで、世にも不思議な書物を読んでいた人物こそが、すべてへの鍵なんだ! ……」
「しかし、エイダは、あれほど断定的に面《めん》を申し立てていたではないか」と、マーカムが異議を唱えたが、困惑した調子である。
「あの状況下では、あの子を責めても始まらんさ」と、ヴァンスがやり返した。「哀れ、あの子は恐ろしい経験から抜け出した直後だったのだし、正常な状態とはとても言えなかったろうよ。それに、あの子が母に疑惑を抱《いだ》いていたということだって、必ずしもないとは言えない。もし疑惑を抱いていたとしたら、深夜も更《ふ》けて、そぞろ廊下を徘徊《はいかい》するのを見たという、例の幻《まぼろし》の人影だって、自分の恐怖観念を実在の対象のように空想することほど自然なこともないだろうさ。脅迫《きょうはく》観念に陥った人間が、圧倒する精神映像の投射のために、対象を歪曲《わいきょく》して見るというのは、希有《けう》なこととは言えないからね」
「するてえと」と、ヒースが言った。「先生のおっしゃるのは、あの子が見たのはほかの人間なんだが、婆さんのことが頭にこびりついていたもんだから、母親を見たんだと空想したというんですかえ?」
「なきにしもあらずですな」
「それにしても、あのオリエンタル・ショールに関する細部の件がある」と、マーカムが異議を唱えた。「エイダが件《くだん》の人物の顔を読み違えたということはありうるにせよだよ、この特定のショールを見たという強い証言は、かなりの信憑性《しんぴょうせい》を持っていたと思うがね」
ヴァンスも当惑したようにうなずいた。
「論証まことにもっともだ。その点がこの常闇《とこやみ》の『クレタの迷宮』からわれわれを導き出す、久珠玉《くすだま》の女王アリアドネになるかも知れないね〔ギリシァ神話に有名な話〕。そうだ、あのショールの件については、もっと調べてみる必要がある」
ヒースは、この時すでに手帳を取り出し、しかめっ面《つら》の集中心を見せながら、盛んにページをめくっていた。
「もう一つ、忘れちゃいけませんぜ、ヴァンス先生」と、顔もあげずに彼が言った。「あのエイダが見つけたという、符牒《ふちょう》のこと。書斎のドアの近く、廊下の奥にあったという奴。ひょっとすりゃ、あのショールにくるまってた人物と、符牒を落とした奴とは同一人物で、それを探しに書斎のほうに向ってた。ところが、エイダに見つかって、臆病風を吹かしやがったのでは?」
「しかし、レックスを撃った人物だがね」と、マーカムが言った。「その図面をも死体から盗んだのは明らかなのだし、そうだとすれば、その人物はその件でボロを出すことはないものと安心しているだろう」
「そう言われればそうですな」と、ヒースが渋々と認めた。
「そっちの思惑《おもわく》は野暮の骨頂さ」と、ヴァンスがコメントした。「符牒の件は表徴の糸があまりにも錯綜《さくそう》している。枝葉末節をほじくるといった尋常の手段で、縺《もつ》れの糸が解ける見込みはないさ。ぼくらがなすべきことは、できることなら、あの晩エイダが見た人物は誰だったかを決定することだ。そうしてこそ、捜査の主脈への活路は開けるというものだ」
「どうやって見つけるか、それが伺いたい」と、オブライエンが激しい語調で尋ねた。「グリーン夫人のショールにくるまった件《くだん》の女とかを見た唯一の証人はエイダなんだぜ」
「その答えは、あなたの問いの中に含まれていますよ、総監。ぼくらはもう一度エイダに会って、彼女自身の恐怖心が生んだ妄想でしかないところのものに対応するような措置《そち》を講じてみる必要がありそうです。その人物が彼女の母でありえないという事実をよく説明してやれば、ぼくらをこの袋小路から救ってくれるような点を思い出してくれんとも限らんですからね」
そして、これが会議の決定事項にもなった。会議が終って、オブライエンは辞去し、残りのわたしたちはクラブで食事をした。八時半、わたしたちはグリーン・マンションに向った。
きてみると、エイダと料理女だけが応接間にいた。少女は暖炉の前に坐り、グリムの童話集を膝《ひざ》にのせていたが、本は伏せたままである。マンハイム夫人は膝《ひざ》一杯の繕《つくろ》いものに余念がなかったが、こちらは入口の近くの、肘《ひじ》なしの椅子に坐っていた。この家の格式のやかましさを考えれば、奇妙な光景ではあった。人間は恐怖と逆境に出遇《であ》うと、一切の社会的標準を均一化する破目に追いこまれるものらしい。思わずわたしの胸を横切った感懐はこれだった。
わたしたちが入ってゆくと、マンハイム夫人が立ち上がり、繕い物をかさこそと集めて、出てゆこうとした。しかし、ヴァンスがどうぞそのままと合図したので、彼女は無言のうちにまた席についた。
「また君をわずらわしにやってきたよ、エイダ」と、ヴァンスが訊問者の役柄を態度に現わし、そう言った。「だけど、ぼくらの頼みの綱は君だけしかいないんでね」ヴァンスの微笑が少女をくつろがせた。彼はまたやさしい態度で続けた。「君がほら、先日の午後話してくれたあのことで、ちょっと話したいことがあったものだから……」
彼女はぱっちり目を開き、なんというか、神の懼《おそ》れに打たれた時のように沈黙したまま、待っていた。
「君の話によると、母上の姿を見たと思ったということだったね――」
「ほんとに見たんです――ほんとに見たんです」
ヴァンスが首を振った。「違うな。あれは母上じゃなかった。母上は歩行不能だったんだよ、エイダ。正真正銘、救いがたいまでの麻痺患者だったんだ。どちらの足を使っても、微動だにするさえ、不可能だったんだよ」
「だって――そんなはずはないわ」彼女の声には困惑以上のなにものかがあった。それは超絶の霊が人間を害する悪魔でしかなかったことを知った時の人間の恐怖と衝撃とでもいうものであろうか。「きょうはフォン・ブロン先生が専門の偉い先生を連れてきて、母を診察するんだって、母に言っているのをあたし聞いてたんです。だけど、その母はゆうべ死んじまったわ――あなたの話のようなことがどうして分るのかしら? そうよ、あなたの間違いにきまってるわ。あたし母を見たんです――見たことは|いま《ヽヽ》も断言できるんです」
狂気と正気の淵《ふち》に立たされ、必死になって狂気から逃げようと戦っている人のような様子を彼女が見せた。しかし、ヴァンスはまたもや首を振った。
「オッペンハイマー博士が母上の診察をしたんじゃないんだよ」と、彼が言った。「したのはドーラマズ医師だったよ――それも、きょうね。しかもその結果、母上は多年にわたって歩行不能だったことが証明されたんだ」
「まあ!」この絶叫さえも、息だけのもので、いまや少女は発声能力を失った人のように見えた。
「で、ぼくらがここにきたわけはだね」と、ヴァンスが続けた。「君にあの夜のことを思い出してもらい、なんでもいい――どんな小さいことでもいい――ぼくらのためになるような事柄を回想できないものかどうか見究《みきわ》めたいと思ったからなんだ。君がその人物を見たといっても、たかがマッチの揺れる火で見ただけのことだ。間違いを冒《おか》すことだって易《やさ》しいからね」
「でも、あたしが間違うなんて、そんな? あたし、母をすれすれなくらい近くで見たんだもの」
「あの晩、夜中に目が覚めて、お腹がすいたと感じるまで、君は母上の夢でも見ていたんじゃないの?」
エイダがもじもじし、それから、微かに身震いした。
「あたし、分らないわ、でも、母の夢だったら、しょっちゅう見ているわ――それがとっても怖ろしい、ゾッとするような夢ばっかし――最初の晩あたしの部屋に誰かが忍びこんだ夜からずっと……」
「君が間違いを冒したわけも、その辺にあるのかもね」ヴァンスが一瞬口をつぐみ、それからまた尋ねた。「あの夜、廊下で見た人物が羽織っていた、母上のオリエンタル・ショールのことは明瞭に記憶しているの?」
「むろんですわ」と、彼女は言ったが、ほんの少し躊躇《ちゅうちょ》した後のことである。「最初あたしの目にとまったのもそれだったのですもの。その次に、母の顔が見えたんです」
ちょうどこの時、ある些細《ささい》な、しかし驚くべき事件が持ち上がった。わたしたちはマンハイム夫人に背を向けて坐っていたし、夫人が居合わせたことすらも、当座のところ、忘れていた。突然、甲高いすすり泣きみたいな音が夫人から洩《も》れてきたかと思うと、膝にのせていた編物のバスケットがバタンと床に落ちた。わたしたちは本能的に後ろを振り向いた。いまこの女が生気のない、ガラスの目玉をしてわたしたちを凝視していた。
「お嬢さんが見たのが誰だろうと、それがどうだというんです?」と、生気のない、単調な声で彼女が言った。「わたしを見たのかも知れないじゃありませんか」
「馬鹿おっしゃい、ゲルトルート」と、エイダがすばやく言った。「あんたじゃないわよ」
ヴァンスが謎に包まれたような表情で、女の挙動を見つめていた。
「フラウ・マンハイム、あなたはグリーン夫人のショールを使うことがあるの?」
「このひとがそんなことをするはずはないわ」と、エイダがいきなり横から割っていった。
「次に、あなたは家中が眠りに就いた後、書斎に忍びこみ、読書をしたことがあるの?」と、ヴァンスが追及した。
女はむっつりと編物を拾いあげると、またふくれづらの沈黙に戻ってしまった。ヴァンスがこれを一瞬観察し、それからエイダのほうに向き直った。
「ところで、君は、その夜、母上のショールを羽織りそうな人物に心当りはないかね?」
「あたし――分らないわ」と、少女が吃《ども》ったが、唇はわなわなと震えている。
「さあ、白っぱくれちゃ困るよ」ヴァンスの語調にはどこか荒々しいところがあった。「いまはひとをかばう時ではない。あのショールを使う癖があった人間は誰なのか、言いなさい」
「癖なんて、誰もないけど……」エイダが中途で言葉を切り、哀願するような目をヴァンスに向けた。だが、彼は頑《がん》として堅い態度を崩さなかった。
「ならば、母上以外に、使ったことのある人間は誰だったの?」
「でも、あたしが見たのがシーベラだったとしたら、あたしに分らないはずはないんだし――」
「シーベラ? では、あの人もショールを借りる時があったの?」
エイダが渋々とうなずいた。「ほんのときたまよ。あの人――あの人はあのショールが好きでしたわ……まあ、こんな告げ口をあたしにさせるなんて、ひどいわ!」
「では姉さん以外に、あのショールをつけていた人を見たことはないわけね?」
「そうです。だれもあのショールを羽織った人間はいません、母とシーベラ以外は」
ヴァンスが紛《まぎ》れもなくしょげ返っているエイダの憂鬱を追放してやるつもりなのか、おどけた、安心させるような微笑を一つして見せた。
「ほらご覧、君の恐怖なんて、みんな愚かなる心のいたずらさ」と、彼が気軽そうに言った。
「あの夜、廊下で君が見たのは、たぶん、姉さんだったのさ。ところが、君は母上のことで悪い夢を見る癖がついているものだから、それを母上だと思ったまでのことなのさ。それが禍《わざわい》して、君は怖気づき、自分で部屋に閉じこもって、心労に気もそぞろになった。こいつはむしろ愚の骨頂てなもんじゃないのかい?」
それから少しして、わたしたちは辞去した。
「わしがいつも論点としている通りだ」と、モーラン警視が言った。ダウン・タウンへの車の中でのことである。「緊迫下または興奮時における面通しなんてもんは無価値だということだ。今回の件などはその紛れもない一例さ」
「あっしはシーベラをしょっぴいてきて、しんねりむっちり、あっぷあっぷの話がしてみてえ」と、ヒースがつぶやいたが、彼は彼で自分の思いに忙しそうだった。
「それとても、あなたの心の慰めにはなりませんよ、部長」と、ヴァンスが言った。「あなた一流の|膝づめ談判《ヽヽヽヽヽ》とやらの幕がはねて、さて、あなたが何を知ったかといえば、あの若いお嬢さんがあなたに知ってもらいたいと思うことだけ――つまり、手玉に取られるのがオチですよ」
「ところで、われわれの情勢《ポジション》はどうなってるかね?」と、マーカムが一瞬の沈黙の後に尋ねた。
「なあに、元来た道へまわれ右さ」と、ヴァンスががっかりしたように答えた。「これやこれ、ゆくえも知らぬ狭霧《さぎり》の海さ――でも、ぼくはちっとも信じちゃいないんだ」と、彼がつけ加えた。「エイダが廊下で見たのがシーベラだったなんて」
マーカムが唖然《あぜん》とした顔をした。
「それじゃ、いったい全体、誰なんだい?」
ヴァンスが陰気な溜息をついた。「その問いに対する答えをわれに与えよ、さらば、この神秘の物語をわれは終らんとすだ」
その夜ヴァンスは、二時近くまで起きていて、書斎の机に坐り、なにかを書いていた。
第二十三章 欠落の事実
(十二月四日、土曜日、午後一時)
土曜日は地方検事局の半休日に当るので、マーカムはヴァンスとわたしを銀行協会のクラブでの昼食に招待していた。しかし、刑事裁判所ビルに着いてみると、彼はたまった仕事の山に埋《うず》もれていて、わたしたちは彼の専用の会議室で外食のミール・サービスを取り寄せた。その日の正午、家を出るに当り、ヴァンスは数枚のぎっしり書きこんだ文書をポケットに突っこんでいたが、わたしが推察するに――そして、後で分ったところによれば、推察通りだったのだが――前夜彼が書いていたのは、この文書だったのだ。
昼食がすんで、ヴァンスはだるそうに椅子にひっくり返り、シガレットに火をつけた。
「さても親愛なるマーカムよ」と、彼が言った。「きょうのご招待を有難く受けたというのも、これひとえに、芸術を語りたいがためなのさ。願わくば、君が受容の情緒にあらんことを!」
マーカムが率直な迷惑顔をして、彼を見返した。
「いい加減にしろよ、ヴァンス、おれはめくらめっぽう忙しいんだ。君の超俗無縁の話なんか、ご免|蒙《こうむ》るよ。それほど芸術的天分を感ずるんなら、このヴァンでも連れて、メトロポリタン博物館にでもいったらどう? おれのことはほっといてくれたまえ」
ヴァンスが溜息《ためいき》をつき、ひょうきんに首を振ったが、そのこころは難詰《なんきつ》にあるらしい。
「まさにこれ、アメリカの声すなり。『芸術なんて下らんもんのどこが面白いんだ。それを面白がる奴はとっとと審美的玩具《しんびてきがんぐ》とやらの遊びにゆきやがれ。こっちは真面目な問題に精励させてもらおうじゃないか』てなもんさ。いとど悲しき物語とはこのことさ。それはさておき、現在の場合は、ぼくはとっとと追いやられることに断乎《だんこ》反対するね。それどころか、ぼくは信念をもって言えるんだが、メトロポリタン博物館というのが別名の、ヨーロッパで不合格になった死骸《なきがら》の霊廟《れいびょう》なんぞで、のたりくたりと道草を食うつもりは絶対にないよ。さても不思議なこともあればあるもの、わが町の銅像めぐりをしろとのお名ざしがなかったとは!」
「水族館を指名したってよかったんだ――」
「心得た。ぼくを追っぱらえるもんなら、なんだって指名すべきだったよ、君は」ヴァンスが被害者の口調をとって見せた。「にもかかわらず、てなもんかな、ぼくはこの部屋のこの椅子に坐り、審美的構成に関する啓蒙的講義をせねばならんのだ」
「いやあ、あんまり大声でやらんでくれよ」と、マーカムが言って、立ちかけた。「おれは隣りの部屋で仕事をしているからな」
「ところが、ぼくの講義というのは、グリーン家殺人事件に関するものなんだぜ、ほんとは君、聞き逃《のが》しちゃならないんだがね」
マーカムが立ちどまり、振り返った。
「例によって、君の美辞麗句もどきの前口説《まえくぜつ》か、ええ?」彼がまた坐った。「よろしい、君がなにか有益な示唆《しさ》があるというのなら、聞いてやらぬでもない」
ヴァンスが一瞬煙草をふかした。
「いいかね、マーカム」と、彼は語り出したが、その態度はいかにもだらけた、情緒の色のないものに変わっていた。「立派な絵と写真との間には、根本的な相違が一つある。ぼくも認めるが、多くの画家はこの事実を認識していないように見える。そして、やがてカラー写真が完成される時代が到来したら――きっと見ていたまえ、アカデミズム〔完成主義〕の画家は続々と締め出され、メシが食えなくなるんだから。だが、それにもかかわらずだよ、両者の間には、越ゆるべからざる断絶があるんだ。じつはこの技術的な懸隔こそ、ぼくがこれから物語らんとする長恨歌《ちょうごんか》の|おはやし《ヽヽヽヽ》なんだ。一つとせ、ミケランジェロが描いた名画『モーゼ』と、鬚も豊かに、石の環釦《わどめ》を携えて、聖き使徒とも紛《まが》う老人の、写真芸術との相違は如何《いかん》? 二つとせ、ルーベンス描くところの『スタイン砦《とりで》のある風景』と、観光客によるラインの城のスナップとの分岐点はいずこにありや。三つとせ、セザンヌの静物画と皿盛りの林檎《りんご》の写真とを比べるとき、前者が人生の改良なのはなぜなのか? 四つとせ、文芸復興期の聖処女像が数百年の命脈を保ってなお余りありという時に、ただの写真による母子像が、レンズのシャッターが一|閃《せん》した瞬間に、たちまち芸術性を失い、忘却の淵に沈み去るのはなぜなのか? ……」
マーカムがなにか言いかけたが、ヴァンスが制止の手を高々と挙げた。
「あいや、いかなれば、われを他愛もなき道化師と人のいう? 暫しの辛抱もて、われに耳を傾けよだ! そもそも、芸術的絵画と写真との違いはどこにあるか? 前者が配合、構成、体系化が施されているのに対し、後者は一つの光景、または一断片のレアリズムに対する偶発的印象に過ぎない。それだけだよ。つまり、写真は自然界に存在するがままの現実主義に過ぎないんだ。てっとり早く言えば、絵には形態《フォルム》があるが、写真は混沌《こんとん》の映《うつ》し絵《え》だ。真の芸術家が絵を描く場合、いいかい、彼は光と色の拡《ひろ》がり、線と輪廓のすべてを配合することによって、自分の発想の中に既に存在するところの構成観念に合致させようと努める――換言すれば、彼は絵の全要因を、ある基礎的デザインに従属させようとする。さらにその際、右のデザインに矛盾し、または逸脱する対象または細部《デテール》があれば、これを消去してゆく。こうして、いわば形態《フォルム》の同質性を成就するんだ。絵の中にある対象《オブジェー》は、それぞれが明確な目的のために置かれることになり、深層にある構造の図案に合致するような、特定の位置を与えられるんだ。したがって、そこには無縁の因子もなければ、連環関係を持たないデテールもないし、遊離した対象もなければ、価値の独断的配合もありえない。すべての形態と線が相互依存の関係に立つ。あらゆる対象が――いや、一つのハケ、一つのブラシのタッチにいたるまで――図案の中で正確な位置を占め、特定の機能を果たすようになる。畢竟《ひっきょう》するに、絵画とは統一に外ならないのさ」
「大いに啓発されたよ」と、マーカムがこれ見よがしに時計を眺《なが》めながら、そうコメントした。
「そこで、グリーン事件はどうなんだ?」
「さて、これに反して、写真は」と、ヴァンスがお構いなく続けた。「審美主義的意味において、デザインも、配合すらも欠けている。なるほど、写真家がある像にポーズを取らせたり、衣裳をつけたりすることはある。ある木を撮影《さつえい》しようとして、枝を切り落すことだってあるかも知れない。しかし、写真の主題となる被写体に対して、画家が絵に対した時のように、自由な構成を加えることによって、予定の芸術的発想によるデザインに合致せしめるということはおよそ不可能だ。写真の場合、いつも消去し難いものが残る。存在の意味を持たない細部《デテール》、調和感とは|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》な光と影の転移、ちぐはぐな韻律感しか伝えない感触、不均整そのものを表象する線、場違いの光と色の拡《ひろ》がりなどがそれだ。カメラは、いいかね、そのものズバリなんだ――前方にあるものなら、芸術価値があろうがなかろうが、みんな記録してしまうんだ。その必然的結果、写真は体系化と統一に欠けることになる。その構成も、最もよく評価するにしても、原始的で、露骨すぎる。それに、無関係の因子が一杯だ――意味も持たなければ、目的も持たない対象で一杯だ。つまり、統一概念がない。偶発的で、異質的で、無意志で、無定形だ――自然そのもののようにね」
「君にその点を彫心鏤骨《ちょうしんるこつ》してもらわなくてもいいだろう」と、マーカムが耐《こら》えかねたように言った。「わたしだって、初歩程度の知性はある――自明の公理をそんなにこねまわした挙句、君の思念はいずこを彷徨《ほうこう》することになるのやら?」
ヴァンスが心憎い微笑を返した。
「五十三丁目東へさ。だが、ぼくらの目的地に到達する前に、もう一つ簡単な哲学的思弁をさせたまえ。よくある例だが、複雑にして幽玄なデザインによる絵画は、これを見る者に、直ちには構成を露呈してこない。いや、そういうよりは、単純にして明白な絵画のデザインだけが、瞬間同時的に把握《はあく》される。一般的にいうならば、傍観者が絵の深層にある意図《デザイン》を認識しうるようになるのは、その絵を綿密に分析した後のことなんだ――つまり、絵の、韻律《いんりつ》を調べ、形態を比較し、細部を考量し、顕著な特徴のすべてを統合するという作業を行ってからのことだ。世の多くの名画といわれる、体系化がゆき届き、均整の取れた絵画を見てみるがいい。ルノワールの人物画、マチスの室内画、セザンヌの水彩画、ダヴィンチの人体解剖図など――一見しただけでは、構成の点では意味を持たないように見えるかも知れない。形態は統一と関連性とを欠くように見えるかも知れない。光と色の拡がり、線による価値は恣意《しい》的に規定されたような印象を与えるかも知れない。そして、これらすべての完全体の連環を関係づけ、これらすべての対位的対照《コントラプンクト》の働きを位置づけした時こそ、傍観者には、その意味が浮び上がってくるのであり、創造|主《ぬし》の動機づけとなった概念が啓示されてくるのであり……」
「そうだ、そうだ」と、マーカムが遮《さえぎ》った。「絵画と写真とは違う。絵にある対象にはデザインがある。写真にある対象にはデザインがない。そのデザインを判定するためには、凡人はうんと絵を研究しろ、というんだろう――以上が君が十五分もかかって、当《あ》て途《ど》もない彷徨を続けてきた議論のすべてさ、ぼくをして言わしむれば」
「なあに、ぼくの真意は、法律文書によくある繁文縟礼《はんぶんじょくれい》的三百代言の、とめどもなき氾濫《はんらん》を模倣しようとしただけのことさ」と、ヴァンスが釈明した。「ぼくの言わんとする|こころ《ヽヽヽ》を、君の法律|びんた《ヽヽヽ》に伝達するには、この方法しかないと思ったもんだからね」
「恐れ入って、物が言えない」と、マーカムが切り返した。「お次は?」
ヴァンスは再び真剣になった。
「マーカムよ、ぼくらがグリーン事件の種々相を見てきた見方というのが、まさしく写真の対象がバラバラで、連環のないものだとする立場と同じだったのさ。ぼくらは個々の事実を、それが浮び上がってきたままの姿で吟味しただけのことで、他の知られている事実との関連で分析するという作業を怠ったんだ。言い換えるなら、ぼくらはこの事件全体が、個々の独立した整数の順列または組み合せであるかのように取り扱うという錯誤《さくご》を犯してしまった。したがって、各整数自体の意味はぼくらの視野から消えてしまった。なぜなら、これらの出来事のひとつひとつが部分となって構成されているところの全体に対して、基礎的図案を見究めるという作業をぼくらはやらなかったんだ――ここまでは分るね?」
「なんたるこっだ!」
「ま、いいさ――さて、いうまでもないことだが、この驚くべき殺人事件全体の黒幕には、あるデザイン――ある謀略《たくらみ》がある。でたとこ勝負で起こった事象は一つとしてない。すべての演技の背後には、予察がある――前の言葉で言うならば、佞姦《ねいかん》にして、綿密に調合されたところの構成《コンポジション》があるんだ。すべてのことが、この中心的形象から発生したものであり、すべてのことが一つの根本的な構造概念によって造型されたものなんだ。とするならば、最初の二重狙撃事件以来起こったことで、意味のあることのすべてが、前にいった予察による犯罪の図案との連関を持つ、ということになるじゃないか。事件のすべての様相、すべての具象をひっくるめて考えるならば、おのずからそこには一つの統一が形成されてくる――それは、各部分が整合せられ、連環作用を持つように構成された、一つの全体だ。てっとり早く言おう。グリーン事件は絵なんだ。写真じゃない。そして、この啓示の光に照らして事件を分析するならば――すべての外部要因に内在するところの連環関係を見究め、視覚に現われた形態を解体して、その発生源たる線に還元してみるならば――その時こそ、マーカムよ、ぼくらはこの絵の構成を知るだろう。この時こそ、ぼくらは、この錯倒《さくとう》した価値観の持ち主たる画家が、絵具にはよらずに、文献学的資料による絵を組み立てるのに用いた基礎的なデザインも、ありありと見えてくるだろう。こうして、この見るも醜怪な残忍絵の図案の深層にあるところの形象を見つけ出しさえすれば、その創造|主《ぬし》も判明するはずなのだ」
「君の趣旨は分るがね」と、マーカムがゆっくりといった。「しかし、それがどう役立つというんだい? 外部的事実ならみんな分っている。しかし、それらをいくら還元したところで、認識可能な、統一的全体の概念には当て嵌《は》まらないじゃないか」
「いまだにはね、多分」と、ヴァンスも同意した。「だから、それというのも、ぼくらが体系的に全体を見ていなかったからさ。なるほど、捜査はうんとやった。しかし、考えるということをやらなさすぎた。ぼくらを軌道《きどう》から逸《そ》れさせてしまったもの、それは近代画家の流行語で言えば、『文献主義』という奴さ――つまり、絵の素材の中で、視覚に訴える部分を客観的資料によって訴えるという主義だ。ぼくらは抽象の持つ内包を探求しようとしなかった。ぼくらは、『表徴性を持つ形態』を見逃《みのが》していたんだ――粗雑なメタファーさね。だが怪《け》しからんのはクライヴ・ベルだと思いたまえ〔ヴァンスがここで言っているのは、クライヴ・ベル著『芸術とは何ぞや』の一章、「審美的仮説」のことである〕」
「それなら、ひとつご教示願おうか。この血塗られた画布の構造的デザインを測定するには、どこから手をつけたらいいのかい? 話は違うが、この画の画題は、『縁者びいき、どんでん返しの巻』ってのはどうだい?」こんなおどけた言葉を彼が口にするというのも、ヴァンスの精細な論述に相当に深刻な感銘を受けたがために、表面を糊塗《こと》しようとする下心からであることがわたしには分っていた。なんとなれば、ヴァンスがこれほどの勿体《もったい》ぶった議論をここで持ち出すについては、それを現下の問題に応用してなんらかの成功を収めうるという明確な希望があってのことだということは分らぬではないが、これ以上の期待を繋《つな》いだところで、どうせまた失望するだけだと思い、用心していたのだとわたしは思う。
マーカムの質問に答えて、ヴァンスがいよいよ持参した文書の束をとり出した。
「ゆうべのことだ」と、彼が説明した。「ぼくはグリーン事件の顕著な事実を要領よく、暦年体にまとめてみたんだ――前の言葉でいうならば、ぼくらが過去数週間にわたって熟視してきたところの、この残忍絵の外部的要因について、重要なものを網羅《もうら》してみたんだ。多くの細部は抜かしているかも知れないが、重要な形態はすべてここにある。だから、分析の基礎としての用に供するには十分な数の項目を列挙しておいたつもりだ」
彼が文書をマーカムに差し出した。
「真実はこの表のどこかにひそんでいるはずだ。もしぼくらがこれらの事実の連環づけを行えるなら――つまり、それぞれの事実が持つ正確な価値に従って、その位置を定め、相互間の関係を確立できるなら――その時は、この犯罪の饗宴の黒幕にいる人間の正体を突き止めた時なんだ。なんとなれば、図案の見究めがつきさえすれば、項目の一つ一つが決定的意味を帯びてくるだろうし、本来ぼくらに語りかけていたはずの伝令《メッセージ》の一つ一つを明確に読み取れるようになるはずなんだ」
マーカムはこの摘要を受け取り、椅子を光の方にずらし、一言もいわずに読み通した。
わたしはこの文書の正文を保存しておいた。これこそは、わたしの手許にある記録のうちでも最も重要な、最も深遠な効果を持つ文書だった。いや、そういうよりは、これこそがグリーン事件解決の鍵となった文書だったのだ。この梗概《こうがい》書がヴァンスによって作成せられ、後に彼によって分析せられるということがなかったとしたら、グリーン・マンションにおける有名な大量殺人事件は恐らくは迷宮入りの犯罪として、後世までも保存文庫の中に葬り去られていたに違いない。
以下は原文のままの写しである。
一般事実関係
1 グリーン・マンションには憎み合いの雰囲気|滲透《しんとう》しつつあり。
2 グリーン未亡人はがみがみやの、不平やの麻痺患者にして、家の者全部にとって、人生を惨《みじ》めなものにしつつあり。
3 子供は五人あり――娘二人、息子二人、および養女一人――それぞれが別世界の人間にして、お互いに対する不断の敵愾心《てきがいしん》と皮肉を滾《たぎ》らせつつ生活す。
4 マンハイム夫人〔料理女〕は昔トバイアス・グリーンと面識あり、その遺書にも遺贈の一部を贈られているにもかかわらず、過去の事実関係については一切の情報を拒否す。
5 トバイアス・グリーンの遺言状の条項によれば、直系家族は二十五年間グリーン・マンションの居住を強制せられ、これに違反する者は遺産継承権を失う。ただし、エイダについては、結婚後は、邸外に住居を設定しうる。グリーンの血統者ではないゆえなり、条項によれば、グリーン未亡人は金銭の取り扱い、処分権を有す。
6 グリーン未亡人の遺言状によれば、子供五人はいずれも対等の受益者なり、そのうち死亡者があれば、生存者が逐次対等の配分を受けるものとする。全員が死亡せる場合は、動産不動産ともに、それぞれの家族の所有に帰す。
7 グリーン一族の寝室の間取りは次のごとし。ジュリアとレックスは正面にあり、互いに対面す。チェスターとエイダは中央にあり、互いに対面す。シーベラと未亡人は背面にあり、互いに対面す。二室間の連絡通路なし。ただし、エイダと未亡人の場合は例外、かつ、この二室は同じバルコニーに面し、往来可能。
8 トバイアス・グリーンの書斎については、夫人は十二年間閉鎖のままと信ずるも、犯罪学および関連科学に関する、驚くべくも完全な蔵書を収む。
9 トバイアス・グリーンの過去は神秘に包まれる面あり。生前、外国を根拠とし、いかがわしい取引きに耽《ふけ》ったとの風説しきりなり。
第一の犯行
10 ジュリアの殺害は接触発射、正面よりの狙い撃ちによる。午後十一時三十分。
11 エイダは背面より。同じく接触発射。本人は蘇生す。
12 ジュリアは寝台にて発見。顔面に恐慌《きょうこう》と茫然自失《ぼうぜんじしつ》の表情あり。
13 エイダは床の上、化粧机の前にて発見。
14 両室とも電灯はオン。
15 二つの銃声の間の経過時間、三分以上。
16 フォン・ブロンは直ちに呼び出しを受け、三十分後に到着。
17 フォン・ブロンのものにあらざる足跡一組、邸内を往復せるものを発見。雪質のため、識別は全く不能。
18 右の足跡は犯行前三十分以内のものなるべし。
19 両狙撃とも、32口径連発銃による。
20 チェスターの供述によれば、彼の古い32口径連発銃一挺が行方不明なりと。
21 チェスターは警察側の窃盗説に不満。地方検事局の直接調査を主張。
22 グリーン未亡人はエイダの寝室で発射されし銃声により目を覚まし、エイダの倒れる音を聞く。ただし、足音も扉の閉じる音も聞かず。
23 スプルートは二発目の銃声が起こった瞬間、召使い専用階段を降りる途中にありたるも、廊下では誰とも際会せず、さらに、なんらの音も聞かず。
24 レックスは、エイダの隣室にあるも、銃声を聞かずと述べたり。
25 レックス、言外に匂《にお》わせて言う、チェスターは惨劇の背景について、自分で認める以上のことを知っているはずだと。
26 チェスターとシーベラとの間には、なんらかの秘密あり。
27 シーベラは、チェスター同様、窃盗説を排斥しつつも、代案の示唆を拒否。ただし、グリーン家全員が犯人たる可能性ありと率直に述べたり。
28 エイダの供述。部屋は暗黒なりしが、生命の危険を脅かしつつある存在に気づき、目を覚《さ》ましたりと。さらに、侵入者より逃《のが》れんとしたるも、ついに追尾さる。その際の足音はずり足のものなりと。
29 エイダの供述〔2〕。初め寝台より起き出せる際、身体に触れたる手あり。ただし、その手がいかなる人間のものなりやについては、判定の試みを一切拒否。
30 シーベラはエイダに挑《いど》んでいう。部屋の侵入者とはわたし〔シーベラ〕だとなぜいわんかと。さらに続けて、ジュリアの射殺犯人はエイダなりとの、故意の告発を行えり。同じくシーベラは、チェスターの部屋から拳銃を盗んだのもエイダなりと告発す。
31 フォン・ブロンは、その挙措態度により、シーベラとの間に、奇妙な親交を有することをみずから露呈。
32 エイダはフォン・ブロンを好いたらしき態度を包み隠すことなし。
第二の犯行
33 ジュリアおよびエイダに対する狙撃事件より四日後、午後十一時三十分、チェスター殺人起こる。32口径連発銃による接触発射なり。
34 彼の顔に、茫然自失と恐怖の表情あり。
35 シーベラが銃声を聞きつけ、スプルートを呼ぶ。
36 シーベラの供述。銃声を聞きつけた直後、扉で耳を澄ますも、物音一つせずと。
37 チェスターの部屋の灯はオン。殺人者が侵入した瞬間には、読書中のはず。
38 正面歩道に明確なる足跡二組発見さる。右の足跡は犯行前三十分以内のものなり。
39 右の足跡にぴたりと一致するゴール人の靴《くつ》一足、チェスターの衣裳押入れより発見。
40  エイダはチェスターの死を予感。その事実を知らされるや、ジュリアと同じ方法による射殺ならんと直ちに推察せり。しかし、殺人者が部外者であることを示す足跡の紙型を見せられるや、大いに安堵《あんど》せり。
41 レックスの供述、銃声の起こる二十分前に、廊下の物音および扉の閉じる音を聞いた。
42 エイダもまた、レックスの供述を知らされるや、十一時過ぎ〔不詳〕、扉の閉じる音を聞いたことを思い出す。
43 エイダがなにごとかを知り、または疑いつつあること明白なり。
44 料理女は、この世にエイダに害を加える人間があろうとは心外の至りなりと言わんばかりに感情を高ぶらす。ただし、ジュリアとチェスターについては、これを射殺したいと思う人間がいても当然なりと主張。
45 レックスは訊問の途中、犯人内部説の考えを表明して憚《はばか》らず。
46 レックスはフォン・ブロンを殺人者なりと告発。
47 グリーン未亡人、捜査中止を要求。
第三の犯行
48 レックス、眉間を撃たれて死す、32口径連発銃による。午前十一時二十分、チェスター殺害の二十日後、地方検事局訪問中のエイダがそこより電話して、被害者と語った五分後のことなり。
49 ジュリア、チェスターの場合と違い、レックスの顔には恐慌の色も驚きの表情もなし。
50 死体は暖炉の前、床上にて発見。
51 エイダが、被害者に通話の際、地方検事局にくるとき、持参するようにと依頼せし図面、犯行現場より姿を消す。
52 階上にありし者、銃声を聞かず。各室の扉は開いていたはず。これに反し、一階の家令配膳室にありしスプルートには、明確に聞えたりという。
53 その朝、フォン・ブロンはシーベラを訪問中。ただし、シーベラの供述によれば、レックス射殺の時刻には、浴室にあって、犬を洗っていたという。
54 エイダの部屋にて、足跡発見。半開きのバルコニー・ドアより進入せるものなり。
55 正面歩道よりバルコニーに至る、一組の足跡発見。
56 右の足跡は、その朝九時以降ならば、いつにてもつけられ、時間の決め手なし。
57 シーベラ、外泊旅行に出ることを拒否。
58 以上三組の足跡の原型であるゴール人の靴、リネン室より発見。ただし、以前に拳銃調査のため、家宅捜索を行いたる際には、右の場所には存在せず。
59 右の靴を再びリネン室に戻しおきたるところ、その夜のうちに消失。
第四の犯行
60 レックスの死後二日にして、エイダとグリーン未亡人、その間十二時間を隔《へだ》て、次々と毒を呑まさる。エイダはモルヒネ、夫人はストリキニーネなり。
61 エイダは直ちに手当て、蘇生せり。
62 エイダが毒を嚥下《えんか》する直前、邸内を去るフォン・ブロンの姿見ゆ。
63 エイダを発見せしはスプルートなるも、シーベラの犬が呼鈴の紐《ひも》を口にくわえていたという事実によるものなり。
64 モルヒネはブイヨン中に盛られありたるも、この食事は、グリーン未亡人の命により、毎朝エイダに与えらるるを習慣とせり。
65 エイダの供述。看護婦がブイヨンの用意の整った旨を知らせてくれてより、彼女の部屋に来訪せる者なしと。ただし、ジュリアの部屋にショールを取りにいった数分間、問題のブイヨンは無警戒の状態にあったと言う。
66 毒入りのブイヨンを摂取する以前、シーベラの犬が廊下にいたか否かについては、エイダも看護婦も記憶なし。
67 グリーン未亡人は、エイダがモルヒネを嚥下したつぎの朝、ストリキニーネ中毒により死亡せるところを発見。
68 右のストリキニーネの投薬時刻は、前夜十一時以降以外にはなし。
69 前夜十一時から十一時半まで、看護婦は三階の自室にあり。
70 同夜、フォン・ブロンはシーベラを訪問中なりしも、シーベラによれば、十一時十五分に立ち去れりという。
71 問題のストリキニーネは炭酸レモンとの混入により投薬。とすれば、未亡人が独力でこれを飲みえた可能性はないものと推定さる。
72 シーベラ、アトランティック・シティ在住の仲好《なかよ》しの家に旅行を決意。午後の汽車にてニューヨークを去る。
順序配列の修整を要する事実
73 ジュリア、エイダ、チェスター、レックスの四人に対して使用せられた拳銃は同一品なり。
74 三組の足跡は、部外者に疑いを向けることを目的として、邸内の者によりつけられしこと明白。
75 殺人者はジュリア、チェスターとも、夜も更《ふ》けて、寝間着でいるときにも、自室に招じ入れることに抵抗を感じない人物なり。
76 殺人者は、エイダに対しては、正体を現わさず、隠密のうちに彼女の部屋に侵入。
77 チェスター死後約三週間にして、エイダ地方検事局に出頭し、重要な情報を提供したしと言い出す。
78 エイダの供述。レックスがあたしに打ち明けていうには、あたしの部屋で起こった銃声も聞いていたし、その他の物音も聞いていたのだが、恐ろしくて警察には認めなかったのだと。よって、レックスを訊問されたいと彼女は言う。
79 エイダの供述〔2〕、一階の廊下、書斎の扉近くにて暗号図面を発見したが、表徴のついた符牒だったという。
80 レックス殺害のあった日、フォン・ブロンは自分の薬品鞄が物色せられ、ストリキニーネ三グレーン、モルヒネ六グレーンが盗まれたと報告――盗難場所はグリーン・マンション内。
81 書斎の捜査により、次が判明。すなわち、ここに出入し、ろうそくの光で読書をする習性を有する人間がいるということ。読まれた形跡のある本は次の通り、犯罪科学便覧一、毒物学二、ヒステリー性麻痺および夢遊病に関するもの二。
82 書斎への訪問者はドイツ語をよく解する人物なり。なぜならば、右の書籍のうち三はドイツ文なり。
83 レックス殺害当夜、リネン室から発見せられたゴール人の靴、再び書斎にて発見さる。
84 書斎捜査中、廊下で立ち聞きせる者あり。
85 その前夜、グリーン夫人が廊下を歩行中の姿を見たとエイダ報告す。
86 フォン・ブロンは、夫人の麻痺症は一切の運動を肉体的不可能事とするごとき性質のものなりと強く主張。
87 フォン・ブロンと協議し、オッペンハイマー博士による夫人の精密検査の手配を終了。
88 フォン・ブロン、右の検診について、夫人に伝言。次の日に検診を予定。
89 グリーン未亡人は右の検査実施以前に毒殺さる。
90 死体解剖の結果、グリーン未亡人の下肢筋肉の衰弱甚だしく、歩行の可能性絶無なりしことが決定的に判明す。
91 エイダは、解剖結果を知らされるや、前の証言をひるがえし、廊下の人物の羽織りし母の肩掛けを見たのだと主張。追及を受けるや、この肩掛けはシーベラも時々使用したりと認む。
92 右の肩掛けの件に関してエイダを訊問中、マンハイム夫人が口を出し、エイダが廊下で見たのは自分だったのだと申し出る。
93 ジュリアおよびエイダに対する狙撃時、邸内にいた者またはその可能性ある人物は次の通り。チェスター、シーベラ、レックス、グリーン未亡人、フォン・ブロン、バートン、ヘミング、スプルート、およびマンハイム夫人。
94 チェスターに対する狙撃時、邸内にいた者またはその可能性ある人物は次の通り。シーベラ、エイダ、レックス、グリーン未亡人、フォン・ブロン、ヘミング、スプルート、およびマンハイム夫人。
95 レックスに対する狙撃時、邸内にいた者またはその可能性ある人物は次の通り。シーベラ、グリーン未亡人、フォン・ブロン、ヘミング、スプルートおよびマンハイム夫人。
96 エイダに対する毒物投薬時、邸内にいた者またはその可能性ある人物は次の通り。シーベラ、グリーン未亡人、フォン・ブロン、ヘミング、スプルート、およびマンハイム夫人。
97 グリーン未亡人毒殺時、邸内にいた者またはその可能性ある人物は次の通り。シーベラ、フォン・ブロン、エイダ、ヘミング、スプルート、およびマンハイム夫人。
マーカムはこの梗概書を読み終ると、もう一度最初から目を通した。やがて、彼はそれを机の上に置いた。
「そうだな、ヴァンス」と、彼は言った。「君は、主要点については、かなり徹底的に網羅《もうら》しているよ。しかし、ぼくの見るところ、その間の連環がない。そういうよりも事実は、本事件の混沌《こんとん》ぶりを強調しているだけのものじゃないのかね」
「さはさりながら、マーカムよ、ぼくは信念をもっていえるんだが、それらの配列をやり直し、解釈を与えることによって、白日の下のような明晰《めいせき》さをうるはずなんだ。正当な分析手段によるならば、ぼくらの知りたいことのすべてを語りかけてくるはずだと思うがね」
マーカムがまたぱらぱらっとめくって見た。
「特定の項がないというんなら、数人の人間が訴因十分といえるだろう。しかし、よしんば表中の人物のいずれを犯人なりと仮定してみたところで、矛盾撞着し、克服すべからざる事実に直ちに逢着してしまう。この要約《ヽヽ》は当事者全員の無実を立証するのに使ったら、さぞや効果的だろうじゃないか」
「皮相的にはそう見えるね」と、ヴァンスも同意した。「しかし、ぼくらはまず、デザインの発生学的線を発見し、次に、それに付随するところの図案の補助的形態の連環関係を辿《たど》らねばならないんだ」
マーカムは処置なしというゼスチュアをした。
「ああ、人生が君の美学理論ぐらいに単純であってくれたらよかったに!」
「なあに、人生なんてべらぼうに単純さ」と、ヴァンスが反駁《はんばく》した。「カメラのメカニズムだけで人生は記録ができるじゃないか。だけど、芸術作品を作りうるのは、高度に開発された、創造的な知性に加うるに、深遠な哲学的達観だけなのさ」
「そこで|君なら《ヽヽヽ》、この中から、なんらかの意味をひねり出せるというのかい――美学的だろうと、なんだろうと構わんがね?」マーカムが文書をこつんこつんと叩きながら言ったが、性急《せっかち》そうで機嫌がよくない。
「いうなれば、格子模様の網目《あみめ》はいくつか見えているよ――つまり、図案の示唆だよ。しかし、根本的デザインとなると、ぼくも白状するが、これまでのところ、まだもやもやしてるんだ。いや、事実をいうとだよ、マーカム、この事件のある重要な要因であるところのもの――多分、図案の均整に必要な平衡線が――まだぼくらの視野から隠されているように思うんだ。ぼくの要略が現状のままでは解釈の受容性を持たないなどとは決して思わないけれども、欠落している完全体が把握《はあく》できさえすれば、ぼくらの課題は大いに単純化されるはずなんだ」
十五分後、わたしたちはマーカムの事務所に引き返していたが、そこへスワッカーがはいってきて、一通の手紙を机に置いた。
「この世には妙な野郎もいるもんですな、検事さん」と、彼がいった。
マーカムが手紙を取り上げたが、読んでゆくうちに、渋い顔をいよいよ渋くした。読み終ると、彼はヴァンスに渡した。便箋《びんせん》は住所氏名の印刷つきのもので、次の字が見えた――「コネチカット州スタンフォード市、第三長老派教会、牧師館」日付は前日、署名者はアントニー・ノーモア神父となっている。手紙は小さい、精確な筆致で書かれていたが、その内容は次の通り――。
ジョン・F・マーカム検事|宛《あ》て
謹啓。小職は、おのれの知る限り、秘密の誓いを犯したことのない人間であります。しかし、世の常とは申せ、予見せざる事情が出来《しゅったい》し、与えし約束への忠実の厳《きび》しさにも、改めを施すのが人の慣《な》らいにて、さらには黙《もだ》して語らざる義務《つとめ》よりは、もっと大いなる義務の負債《おいめ》をおのれに課すのもまたやむをえざることとは信じられます。
新聞紙上にて拝見するに、ニューヨーク在のグリーン邸にては、世にも邪曲《よこしま》なる、世にも忌《い》むべきことの数々が起こりし由。されば、小職としましては、この一年有余、宣誓により、小職ひとりの胸に収めてきたところの事実について、これを貴下の恣《ほし》いままに供託することが、聖職の誓いに基づく義務であるとの結論に達したのでありますが、ここにいたるまで、すべての心を探《さぐ》り、すべての祈りを捧げたものであります。小職がこの信頼を裏切る挙にいでたというのも、ひとえに善のきたらんことを願いつつ、かつは、貴下におかれては、よろしく本件をいと聖き信任の心もて、お取り扱い下さるものと信ずるからに外《ほか》なりません。惜しむらくは、これが貴下の助けとならぬことも予想せられ――いや、事実は、グリーン一家にふりかかりし呪いの恐ろしさを思えば、これが呪いの解き放ちに貢献するとは信じがたいほどなるも――以下の事実がかの家系の一員に親しき関与《かかわり》を持つものなるに鑑《かんが》み、貴下に通報せし後は、わが心、少しは晴れがましく覚ゆらんとの願いから、あえて筆を取ることにしたものであります。
昨年、八月二十九日の夜、一台の車、わが門前にきたるものあり。一組の男女、秘密に結婚の儀を司祭せよとの依頼あり。申し添えるまでもなく、聖職の手前、駆け落ちせし男女より同様の依頼を受けること、常のことにてございます。件《くだん》の男女を見るに、良家の育ちにて、神を信ずる心もこれあり。よって、小職はこれに同意を与えることとし、婚儀は同人らの願いの通り、秘密のうちに保つとの保証をも与えてやったのであります。
結婚許可証によれば――既にその日の午後遅く、ニューヘイヴン市役所にて交付ずみのものでありましたが、そこに記載された姓名は次の通り。
ニューヨーク市在住シーベラ・グリーン対ニューヨーク市在住、アーサー・フォン・ブロン。
ヴァンスは手紙を読み終わると、マーカムに返した。
「ほんとは、だってそうだろう、藪から棒の驚きとは言わんが――」
突如、彼が言葉を切った。瞳は物思いに耽ったように前方を凝視したままである。やがて、彼は神経質に起ち上がり、部屋をいったりきたりし始めた。
「おじゃんだ、なにもかも!」彼は絶叫した。
マーカムが面喰らって、訊問するような顔を彼に向けた。
「要点を言いなさい」
「分らないのかい?」ヴァンスがすばやく地方検事の机に進み寄った。「そうなんだ! これこそ、ぼくの摘要作業から欠落していた最後の事実なんだ」それから彼が最後の紙を拡《ひろ》げ、次を書き足した。
98 シーベラとフォン・ブロンは一年前秘密に結婚せり。
「だが、それがどうして参考になるのか分らんね」と、マーカムが抗議した。
「いまのいまは、ぼくにも分らんさ」と、ヴァンスがやり返した。「だが、今夜は熟慮深考という奴をやらせてもらうよ」
第二十四章 謎めく旅路
(十二月五日、日曜日)
その午後、ボストン交響楽団がバッハの協奏曲一つとベートーヴェンの「運命」交響曲を演奏する予定になっていた。ヴァンスは地方検事局を後にすると、直接カーネギー・ホールに車を走らせた。演奏会の間は、ゆったりとした受容精神にひたりながら坐っていたが、会が終ると、自分の住居までの三キロの道程《みちのり》を歩いてゆこうと言い出した――彼としては前代未聞のことだ。
晩餐がすんで少し後、ヴァンスはわたしにお休みといい、部屋靴とローブをひっかけると、書斎にはいった。その夜、わたしも相当に仕事を抱《かか》えていたが、終ったのはとうに深夜を過ぎた頃だった。部屋に退《さが》ろうとして書斎の前を通ると、戸が少し半開きになっていたので、机についているヴァンスの姿が見えた――両手で頭を抱えこみ、摘要書は目の前に拡《ひろ》げたままだ――うっとりと忘却の傾倒に遊ぶような態度をしている。例によって煙草をふかしている。なんらかの精神作用に耽《ふけ》るときの彼の癖《くせ》だ。肘《ひじ》のところに置かれた灰皿は吸い殻が一杯だ。わたしはそっと通り抜けたが、この新しい問題がこれほどまでに彼を呪縛《じゅばく》しているのかと思うと、感嘆に堪《た》えなかった。
午前三時半だったが、わたしは突然目が覚《さ》めた。どこか家の中で足音がするのを意識したからである。わたしはそっと起き上がり、廊下に出た。不安の混《ま》じった、ぼんやりした好奇心に惹《ひ》かれたのである。廊下の奥は、一束の光が射し、壁に当って光って見えた。わたしはこの薄い闇を進んでゆくうちに、この光が書斎の半開き戸から洩《も》れてきたものだと分った。それと同時に、例の足音もまた、この部屋から聞えてきたものだということが分った。わたしは中を覗《のぞ》いて見ずにはおれなかった。見れば、ヴァンスが部屋をいったりきたりしている。頤《あご》を胸までも沈め、両手は化粧ガウンのポケットに深々と突っこんだままである。部屋中にもうもうたる煙草の煙が立ちこめ、彼の姿が紫紺《しこん》の靄《もや》の中で霞《かす》んで見えた。わたしは寝台に戻り、一時間ばかり起きていた。やっとうとうとして眠ってしまったが、書斎の韻律的な足音が子守唄になったのであろう。
わたしは八時に起きた。暗い、陰鬱な日曜日だ。わたしは居間にコーヒーを取り寄せ、電灯の下で飲んだ。九時、書斎のほうに目をやると、ヴァンスはまだそこにいて、机に坐っている。読書用のスタンドは煌々《こうこう》と光っていたが、暖炉の火は消えていた。わたしは居間に引き返し、新聞のサンデー版で気を紛《まぎ》らわそうと思ったが、グリーン事件の記事にざっと目を通すと、パイプに火をつけ、椅子を暖炉の前にずらした。
十時近くだった。ヴァンスが入口に姿を現わした。徹夜で起きていて、みずからに課した課業と悪戦苦闘していたのだ。この長い、眠られぬ夜の傾倒の、心身をすり減らす効果は一目《いちもく》して明らかなほど彼の様子に現われていた。目のまわりには、黒い隈《くま》ができ、口はひきつり、肩さえもげんなりとたるんでいる。だが、ヴァンスの様子に強い衝撃を受けたわたしではあったが、わたしを圧倒的に捉《とら》えた情緒は、ひたぶるな好奇心だったと言えそうだ。この夜を徹しての精励の結果がどうなのか、わたしはそれが知りたかった。だから、彼が居間に入ってきた時、わたしは事問いたげな期待の視線を彼の上に投げかけたのである。
「デザインの軌跡《きせき》は辿《たど》れたがね」と、彼が両手を火にかざしながら言った。「それは想像を絶する、恐ろしいものだよ」彼は数分間沈黙してしまった。「ぼくの代わりに、マーカムに電話してくれないか、ヴァン? すぐ会いたいと言うんだ。朝食にやってこいと言ってくれないか。ぼくが|へばり《ヽヽヽ》気味なことも説明してくれたまえ」
そう言って、彼は出ていったが、カリーを呼んで、バスの用意をさせている声が聞えてきた。
わたしは状況を説明した後では、マーカムに朝食を一緒にするようにと誘《さそ》うのは苦もないことだった。一時間もしないうちに、マーカムはやってきた。ヴァンスは顔もあたり、着換えもしていたが、その朝初めて見た時よりは溌溂《はつらつ》に見えた。しかし、まだ顔面は蒼白で、瞳には疲れが出ている。
朝食の間、グリーン事件のことをおくびにも出す者はいなかったが、書斎の安楽椅子に陣取る段になると、マーカムはもう堪忍袋の緒を切らしていた。
「ヴァンの電話での話だと、君はあの梗概《こうがい》をうまいことやったそうじゃないか」
「そうね」と、ヴァンスが精気のないしゃべり方をした。「全項目の配列がうまくいったんだ。だけど、それはとてもこの世のものとは思えんのだ! 真実がぼくらの認識の外にあったというのも宜《うべ》なるかなさ」
マーカムが身体《からだ》を乗り出したが、顔は緊張と不信にみなぎっていた。
「では、真相が分ったんだね?」
「ああ、分ったよ」静かな返事だった。「つまり、この地獄絵図の黒幕にいるのは誰なのか、ぼくの脳波が抗《あらが》うべくもないほど告げているんだが、いまのいまも――この日照《ひて》る恵みの中でも――ぼくにはそれが信じられないんだ。ぼくの|内なるもの《ヽヽヽヽヽ》すべてが、真理の受容に反逆しているんだ。いや、事実、ぼくは受容するのが怖い……だめだ、だめだ、おれは円熟とかいう境地になりかけているんだ。中年が我にもあらず、おれの心に忍びよろうとは!」ヴァンスは微笑しようとしたが、所詮《しょせん》はだめだった。
マーカムは沈黙して待った。
「許せよ、友よ」と、ヴァンスが続けた。「いまは君に語らんとする心のなきをいかんせんやだ。一、二の件を調べてみるまでは、語れないんだ。だってそうなんだ、図案はもう明瞭なのだが、これまでの認識の中にあった対象を新しい枠《わく》組みの中で置き換えてみた場合、それはもう悪鬼羅刹《あっきらせつ》としかいいようがないんだ――怖《おそ》ろしい夢に現われる魑魅魍魎《ちみもうりょう》がこうもあろうか。ぼくはまず、それを手に触れてみて、測定をしてみて、とどのつまりは、それが戯《たわむ》れの、見果てぬ夢の気紛《きまぐ》れではないんだということの確証を取りつけるまでは気がすまんのさ」
「そこで、その確証とやらはいつすむのかい?」この場合、強硬手段を取るのは、無益であることをマーカムはよく知っていた。しゃれのめしているヴァンスではあるが、状況の深刻さは百も承知のはずだし、結論を公表する前に、二、三の点を調査したいというヴァンスの決意は尊重すべきだ、と彼は思った。
「願わくば、遠からずにね」ヴァンスが彼の机のほうに歩み寄り、一枚の紙きれに何か書いたと思うと、それをマーカムに渡した。「ほれ、これがトバイアスの書斎にあった本のうちで、小夜《さよ》更けて訪《おとな》う人が勤《いそ》しみの跡を残している五冊の本だよ。ぼくはこの本がほしいんだ、マーカム――すぐにほしいんだ。だけど、これが持ち出されたことが分っちゃまずい。そこで君にお願いなんだが、看護婦オブライエン嬢に電話して、グリーン夫人の鍵を盗み出し、誰も見てない時に、本を手に入れてくれないか。紙にくるんで、邸内に張り込んでいる刑事に渡し、ここに持ってくるように言ってくれたまえ。どの本棚《ほんだな》にあるかは君が説明できるだろう」
マーカムは紙きれを取り、一言もいわずに立ち上がった。だが、ヴァンスの私室の入口で立ち停まった。
「張り込みの人間に家を外《はず》させても大丈夫かい?」
「構わんさ」と、ヴァンスが言った。「現在のところ、もう事件の起こりようはないんだから」
マーカムが私室に入ってゆき、二、三分もすると引き返してきた。
「本は半時間後に持ってよこさせるよ」
刑事が包みを持ってやってきた。ヴァンスは包みをほどき、自分の椅子の傍らに本を置いた。
「そこで、マーカム、少々読書をさしてもらいたいんだ。気には触《さ》わるまいな、どう?」こんなさりげない口調はしているが、言葉の端々にも、緊迫した真剣味がこもっていることは隠すべくもなかった。
マーカムはすぐ起ち上がった。ここでもまた、この二人の異類の人間の間に存在する完全理解の美事さに、わたしはただ感嘆するのみであった。
「おれも書かねばならぬ非公式の手紙があるんで」と、彼がいった。「これで失敬するよ。カリーのオムレツは素晴らしかったな――いつまた会えるかね? 三時のお茶の時間にぶらりと寄ってみようか」
ヴァンスが片手を差し出したが、その表情は愛情の発露に近いくらいだった。
「いや、五時にしろよ。そのころなら、ぼくの螢雪《けいせつ》の勤《いそ》しみのほうもすましておくよ。君の寛容には感謝の言葉もない」そういってから、ヴァンスが謹厳につけ足した。「ぼくがなぜ少し待ってほしいのか、洗いざらい話す時がきたら、きっと君も理解してくれると思う」
マーカムはその日の午後五時少し前にはもうやってきていたが、その時、ヴァンスはまだ書斎にいて、読書の最中だった。だが、暫くして、居間のわたしたちに合流した。
「絵は明晰《めいせき》の度を増しつつあるがね」と、彼はいった。「百鬼夜行の異象にも、いよいよ醜怪な現実性の様相が加わってきつつあるんだ。五、六点の実証はできたけれども、いまだに確認を要する事実が二、三ある」
「君の仮説|擁護《ようご》のためにかい?」
「違うよ、そんなんじゃないよ。仮説自体は自己証明的なんだ。真実については、もはや一点の疑いはないね。だけど――ああ、だめなんだ! マーカムよ――おれにそれを受容しろったって、できるもんか! 証拠という証拠の立証能力が、がんじがらめに確立されるまでは!」
「君の証拠とは、ぼくが裁判維持のために使用できるような性質のものなのだろうね?」
「その話なら、考えるのさえお断わりだと言ってるじゃないか。現在の事案に対しては、刑事訴訟法なんか全く無縁のものに見えるんだ。だが、なんだろうね、社会は依然として、肉一ポンドを要求してやまないんだろうし――君は君で――神の下し給うた、大いなる平民の国の、正当に選挙されたシャイロックなんだからね――庖丁《ほうちょう》を揮《ふる》わねばならんのだろうがね。だけど、ぼくは君に念を押しておく。この屠殺《ほふり》の谷の生き証人にさせられるのは絶対にご免だぜ」
マーカムが詮索《せんさく》するように彼を眺めた。
「君の言葉には不吉な響きがある。だが、君が自分でも言う通り、これら連続犯罪の元兇《げんきょう》を発見したというのなら、社会が懲罪の権を手中に収めてなぜ悪いんだ?」
「社会が全知のものならば、マーカムよ、審判《さばき》の庭に出《い》で、人の子の運命を決する権利もあるというものだ。だけど、社会とは、無知にして、蛇《へび》の害を持つものなんだ。万象に透徹し、人間を理解する気配なんてひと筋だにあるもんか。社会は悪党を神の座に押し上げ、愚者を礼拝《らいはい》する。社会は知ある者を十字架に掛け、病《や》み悩める者を牢獄につなぐ。あまつさえ、社会が簒奪《さんだつ》するところのものを見よだ! 『犯罪』と称するものをみずから作り上げ、その幽玄にして捉《とら》えがたい深層の源を分析する権利と能力われにありなどと称しては、たまたま天与の、やむにやまれぬ衝動を持って生まれた人間がいて、それが社会の好みに合わないならば、そういった人間をすべて死刑台上の露と消えさして恥じない。それが君のいう、甘美《うま》しき社会という奴さ、マーカム――生贄《いけにえ》を求めて、口によだれしつつある狼《おおかみ》の群れ! 隙《すき》あらば、人を殺し、人の生皮を剥《は》がんがために、組織というカサに隠した渇望《かつぼう》に餓《う》えている社会!」
マーカムは驚きが少しと憂慮が大部分|混《ま》じったような様子でヴァンスを眺めていた。
「多分、君の下心は、現在の事件の犯人を逃がしてやろうというんだろう」と、彼がいったが、こみ上げる忿懣《ふんまん》を逆説的に言ったものである。
「なあに、そんなんじゃないさ」と、ヴァンスが保証した。「君の求める生贄《いけにえ》は、きっと君に明け渡すよ。グリーン一族に対する殺人者は、兇悪きわまる兇悪犯だ、だから、病める者の救いは与えてやらねばならない。ただ、ぼくがこれまで言わんとしていたのは、あの電気椅子――君の親愛する社会の、あのいとも|いじらしき《ヽヽヽヽヽ》仕掛け――は、この犯人に応報を与えるのには必ずしも適当な手段じゃないということだけさ」
「そう言う君でも、|彼が《ヽヽ》社会の脅威であることは認めているのだね」
「言わずもがなさ。しかも、本件のおぞましさは、われわれがストップを掛けられないとしたら、グリーン・マンションでの、この犯罪選手権試合はまだ続くという点だ。ぼくがこれほどの慎重を期している理由もそこにある。事件の現状では、君が逮捕に踏み切れる見込みはまずはあるまい」
お茶がすむと、ヴァンスが立ち上がり、背伸びをした。
「ところで、マーカム」と、彼がさりげない風でいった。「シーベラの動きについて、なにか報告を受けているの?」
「大したものはなにも。あの子はまだアトランティック・シティにいる。どうやら、暫くは滞在するつもりらしい。きのうスプルートに電話をよこし、もう一つのトランク分の着物を送ってくれと言ってきたそうだ」
「そう、いまじゃね? そうこなくちゃ嘘だよ」ヴァンスが入口に歩きかけた。突然、決心したことがあるらしい。「残るグリーン一族と暫しの会話がしてみたくなったよ、ちょっといってくるよ。一時間とはかからんつもりだ。ここで待っててくれよな、マーカム――それでこそわが友さ。ぼくの訪れには役所の匂いを持たせたくないんだ。机の上に新版の漫画『阿呆天国《シンプリシシムス》』〔十七世紀ドイツの古い悪党小説。十九世紀終りに同名の週刊漫画誌として再刊〕があるから、ぼくが戻るまでの気晴らしにするんだな。よく読んで、この民主主義の国にトゥーニーやクルブフンセンみたいな漫画家がいて、君のグラッドストーン式風貌を戯画化する機会がないことを、君の宝《たから》の神に感謝するんだね」
そういいながら、彼はわたしに目くばせした。そこでわたしたちは、マーカムに返す言葉の隙も与えず、廊下に出、階段を降りていた。十五分後、わたしたちのタクシーはグリーン・マンションの前に停《と》まっていた。
スプルートが出てきて、扉を開《あ》けてくれたが、ヴァンスはそっけない挨拶を一つしただけで、彼を客間にひっぱっていった。
「伝え聞くところによると」と、ヴァンスがいった。「シーベラ嬢がきのう、アトランティック・シティから君に電話があって、トランクを送ってくれということだったそうだね」
スプルートは敬礼した。「イエス・サー。トランクなら昨夜のうちに送ってしまいました」
「シーベラ嬢は電話でどんな話をしたの?」
「どんなこんなもありません――通話のぐあいが悪くて。おっしゃったのは、当分はニューヨークに帰るつもりはない、手持ちの衣類では足りないということだけでした」
「こっちの様子は尋ねなかったの?」
「ほんのゆきずりに尋ねるという風でした」
「じゃあ、自分がいない間に何が起ころうと、気に病むことはないという様子だったの?」
「さようです。というよりは、じつは――そう申しても不忠義もんとは言われないとは思いまするが――お声の調子からすると、全然|無頓着《むとんちゃく》なご様子でした」
「トランクがどうのこうのという話から判断して、どれくらいの長逗留《ながとうりゅう》になると君なら思うかね?」
スプルートは暫し考えこんだ。
「それはむずかしい問題でして。だけど、強いて手前の意見を述べよとならば、シーベラ嬢さまのおつもりでは、アトランティック・シティにはまだ一月かそこいらご逗留になるだろうというのが、手前の精一杯の見込みでございます」
ヴァンスが満足げにうなずいた。
「さて、そこで」と、ヴァンスがいった。「ぼくは君に対して、大切な質問があるんだ。エイダ嬢が撃たれた夜、君が最初部屋にはいり、お嬢さんが化粧机の前に倒れているのを見つけたとき、窓は開いていたかね? ようくお考え。ぼくは断定的な返事がほしいんだ。いいかね、あの窓は化粧机のすぐ真横にあり、石のバルコニーに昇る階段を見おろしている。窓は開いていたの、閉まっていたの?」
スプルートが眉をよせ、あの時の場面を回想しているような様子をしていたが、やっと口を切った。その声に、狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》の色はなかった。
「窓は開いておりました。いまでもはっきりと思い出します。チェスター旦那とわたしとでエイダ嬢を抱《だ》きかかえ、寝台にお移ししたのですが、お風邪を召してはと思い、すぐに閉《し》めたのを覚えております」
「窓の開き加減は?」と、ヴァンスが逸《はや》る心を抑えかねるように尋ねた。
「八、九インチと申しましょうか。それとも十二インチかも」
「有難う、スプルート。以上だ。料理女にぼくが会いたいと伝えておくれ」
マンハイム夫人が二、三分後にやってくると、ヴァンスは卓上ランプに近い椅子へどうぞという合図をした。言われた人が腰をおろした途端、彼はその前に立ちはだかり、厳然として情け容赦もない眼で睨みつけた。
「フラウ・マンハイム。いまこそは、心の真実を告げる時がきたのです。ぼくはここに、君に若干の質問をしようと思う。まっとうな返事が得られないならば、きっと君のことを警察に報告するから、そう思いなさい。念を押すまでもなく、警察の手にかかったら、情状酌量はしてもらえないよ」
女は頑固に唇を噛み、あらぬ方向に目を移した。ヴァンスの突き刺すような視線をまともに見返す術《すべ》もないかのようである。
「君の旦那さんは十三年昔、ニューオーリンズで死んだ、と君はこの間は言った。それに間違いはないのだね?」
ヴァンスの質問が案外なのにホッと安心したらしく、女は素直に答えた。
「そうですわ、そうですとも、十三年昔よ」
「どの月なの?」
「十月ですわ」
「長い病気だったの?」
「一年ぐらいかしら」
「病気の性質は?」
いま、恐怖の表情が女の瞳に現われた。
「あたし――はっきりしたことは――知らないわ」と、彼女が吃《ども》った。「医者たちが会わせてくれなかったんですもの」
「病院にはいっていたの?」
女が数回立てつづけにうなずいて見せた。
「そうですわ――|ある《ヽヽ》病院に」
「次に、君は確かぼくに言ったね、フラウ・マンハイム、トバイアス・グリーン氏に逢ったのは旦那さんの死ぬ一年前だったと。とすれば、旦那さんが|その《ヽヽ》病院に入ったのと同じ頃――つまり、十四年昔になるね」
女は虚《うつ》ろな目でヴァンスを見たが、返事はしなかった。
「次に、グリーン氏がエイダを養女にしたのも、まさしく十四年昔のことだった」
女がハッと息の根をとめた。恐慌《パニック》の表情で顔は歪《ゆが》んでいる。
「そこで、旦那さんが死ぬとすぐ」と、ヴァンスが続けた。「君はグリーン氏を頼ってやってきた。必ず職をあてがってくれると分っていたんだ」
彼が女の近くに歩み寄り、親が子をいたわるように、女の肩に手を触れた。
「いつからだったか、ぼくはひそかに疑っていたのだがね、フラウ・マンハイム」と、彼が優《やさ》しくいった。「エイダはあなたの子供なんだ。それが真実なんだ、違うかい?」
女は痙攣《ひきつけ》るような啜《すす》り泣きを一つすると、そのままエプロンに顔を埋めた。
「あたし、グリーン旦那にきっと、きっと、約束を守りますって言ったんです」と、女がいまぽつりぽつりと自供を始めた。「絶対に口外しないって――エイダにだって言わないからって――あたしをここにおいて下さるなら――あの子のそばにおいて下さるなら――といったんです」
「君は誰にも言っちゃいないさ」と、ヴァンスが女を慰めた。「ぼくが推量で当てたからって、君の落度じゃないよ」
暫くして、マンハイム夫人が立ち去る以前、ヴァンスは彼女の心配と悲嘆をやわらげるのに成功していた。次に彼はエイダを呼び出した。
彼女は客間にはいってきたが、眼に浮んだ胸騒ぎの表情と頬の青白さを見ただけで、この女がどんな緊迫下にあるのかは一目瞭然だった。彼女がまっ先に口にした質問にしてからが、意識の最上層にある恐怖を声にしたまでのことであった。
「なにか分ってしまったんですの、ヴァンス先生?」見るも哀れながっかりぶりで、彼女がそう言った。「怖《こわ》いことよ、こんな大きい屋敷にひとりぽっちだなんて――夜なんかとくに。ことりと音がするたびに……」
「あたら想像力の虜《とりこ》になって、心身を失うことがあっちゃいけないよ、エイダ」と、ヴァンスが忠告し、それから、つけ加えた。「いままで分らなかったこともうんと分ってきたんだ。遠からずして、君の恐れていることも洗いざらい取っぱらってやれると思うよ。事実、ぼくがここにきたのも、分ってしまった件に関連してなんだ。君なら、もう一度ぼくを助けてくれるだろうと思ってね」
「そうできるといいんだけど。あたし、ずっと考えに考え……」
ヴァンスが微笑した。
「考えごとだったら、君に迷惑はかけないさ、エイダ――ぼくが尋ねたいのはこれだけだ。シーベラはドイツ語をよくしゃべるかどうか、君、知らない?」
少女が驚いたという様子をした。
「そりゃ、むろんよ、そう言えば、ジュリアだって、レックスだって、しゃべってたわ。父が習えってきかなかったんです。それに、父もドイツ語をしゃべっていましたわ――ほとんど英語に劣らないくらい。シーベラのことですけど、あの人とフォン・ブロン先生がドイツ語で話をしているのをなんどか聞いたことがあるわ」
「だけど、彼女のしゃべり方には訛《なまり》が|あった《ヽヽヽ》んじゃないだろうか?」
「微かな訛がね――でも、ドイツに長くいたことが|なかった《ヽヽヽヽ》んですもの。だけど、ドイツ語はとてもよくしゃべって|いた《ヽヽ》わ」
「君に確かめたかったのはそれだけさ」
「すると、あなた何かほんとに分っているのね!」彼女の声は熱で震えていた。「ああ、いつになったら、この恐ろしい緊張《サスペンス》はおしまいになるかしら? もうなん週間もの間、あたし、くる夜もくる夜も、電灯を消して眠りにつくのが怖《こわ》くって怖くって」
「もう電灯を消すのを怖がる必要はないはずだ」と、ヴァンスが保証した。「君の命を狙う奴はもういないんだからね、エイダ」
彼女が一瞬|探《さぐ》るように彼を見た。彼の物腰にある|なにものか《ヽヽヽヽヽ》が彼女を元気づけたらしい。わたしたちが暇乞《いとまご》いをする頃までには、頬の色も生気を取り戻していた。
家に戻ってみると、マーカムが書斎の中をそわそわといったりきたりしていた。
「さらに照合できた点が数点あったがね」と、ヴァンスが宣言した。「しかも、重要な点が一つ、どうしても分らないんだ――それさえ分れば、ぼくがあばき出した、この地獄図絵の、想像を絶した浅間《あさま》しさも、なんなく解明されるんだがねえ」
彼はすぐさま私室に入っていった。電話している彼の声が聞えてきた。二、三分後引き返してはきたが、そわそわと時計を見ている。それから、カリーを呼び出すと、一週間の旅行の用意をしろと命じた。
「ぼくは出掛けるよ、マーカム」と、彼が言った。「旅に出掛けるのさ――かわいい子には旅をさせろって、ほら、諺《ことわざ》にもいうだろう。汽車の出発まで一時間もないな。一週間留守にするよ。かくも長い間、ぼくを恋しがらずにすませられるかい? さりながら、グリーン事件関係のことだったら、ぼくの留守中はなんにも起こらないだろうよ。いや、むしろ、あれは暫定的な審議未了にしとくことだね」
彼はそれ以上はなんにも言わず、三十分後には、もう出掛けるところだった。
「ぼくが出掛けている間に、しておいてくれてもいいことが一つあるんだ」と、ヴァンスが外套に手を通しながら、マーカムに言った。「どうかぼくのために、ジュリアの死の前日から、レックス殺害の次の日にいたる間の、完全かつ詳細な気象報告書を作成させておいてくれたまえ」
停車場へは、マーカムもわたしにも、随《つ》いてこなくてもいいと彼がいう。残されたわたしたちは、この謎めく旅路が、果たしてどの方角にヴァンスを連れ去ったのか、五里霧中の体《てい》だった。
第二十五章 捕縛
(十二月十三日、月曜日、午後四時)
ヴァンスがニューヨークに戻ってきたのは、それから八日後のことであった。彼が帰着したのは、十二月十三日、月曜日の午後のことで、バスにはいって、着換えをすますと、自分からマーカムに電話をかけ、三十分後にはそちらにゆくからと伝えた。それから、自慢のイスパーニョ・スイーザを車庫から出すように命じた。この徴候を見ても、彼が神経を張りつめているのがわたしには分った。事実、帰ってきて以来、わたしには十数語も話したか話さないくらいだったのだし、昼下がりも過ぎた雑踏を縫《ぬ》うようにして、ダウン・タウンへの道を走らせている間にも、彼は陰鬱に押し黙り、呪縛《じゅばく》にかかった人のようだった。わたしは一度なぞ、旅は成功だったのかどうかと尋ねてもみたのだが、彼はうなずいて見せただけだった。しかし、刑事裁判所のあるセンター通りに曲がったところで、彼が少し態度をやわらげ、こう言った。
「旅が成功することは、ぼくは一度だって疑ったことはなかったさ、ヴァン。なんにお目にかかるかも分っていた。だが、ぼくには自分の理性に信を置く勇気がなかったんだ。この眼で記録を見た上でなければ、ぼく自身が下した判定に無条件に降服する気がしなかったんだ」
地方検事局では、マーカムとヒースがわたしたちを待っていた。折しも時刻は午後の四時で、太陽は既にニューヨーク生命保険ビルの影に没していた。このビルは、ご承知の通り、古い刑事裁判所ビルから南西の方角に一ブロック隔《へだ》てて聳《そび》えている。
「なにか重要な話をしてくれるものと勝手に思わせてもらったがね」と、マーカムがいった。
「それで、部長にもきたらどうだと言ってやったんだ」
「それは結構、うんと話があるさ」ヴァンスはどっかりと椅子に坐り、シガレットに火をつけた。「だけど、そのまえに、ぼくの留守中になにかあったかどうかを知りたいもんだね」
「なんにもないよ。君の前兆鑑定はきわめて正確だった。グリーン・マンションでの事態は平穏、かつ一見して正常らしいよ」
「どっちみちですな」と、ヒースが遮《さえぎ》った。「今週はこっちの運も少しは上向きというところでさあ。なにか地についた|いとぐち《ヽヽヽヽ》が掴《つか》めるかも知れませんや。シーベラがきのうアトランティック・シティから戻ってきましてね、フォン・ブロンはそれっきり、家にへばりついていますんで」
「シーベラが戻ったって?」ヴァンスが腰を上げた。眼は熱気を帯びている。
「昨夜の六時なんだ」と、マーカムが言った。「向うにいる新聞記者が、彼女の身許を嗅《か》ぎつけ、煽情《せんじょう》的な記事を書き立てたんだ。それからというもの、哀れ、あの女は一時間の平安もなかった。そこで、昨日、さっさとおさらばして、戻ってきたというわけさ。この動きについては、部長が張り込ませていた刑事たちから知らせがあった。ぼくはけさ、ひとっぱしり彼女に会ってきたがね、また出ていらっしゃいとも言ってやったさ。しかし、あの女はうんざりもいいところで、グリーン邸を出てゆくのはもうご免だといって頑張るんだ――新聞記者や醜聞|探《さが》しにつけまわされるよりは死んじまったほうがいいとかなんとか言ってね」
ヴァンスはこの時席を立ち、窓べに歩み寄り、どんよりと曇ったスカイ・ラインを見つめていた。
「シーベラが戻ったって、ええ?」と、彼は呟《つぶや》いた。次の瞬間、くるりとこちらを向くと――
「ぼくが頼んでおいた気象報告を見せてくれたまえ」
マーカムが引出しに手を差し入れ、一通のタイプした文書を彼に渡した。
じっくりそれを読んでから、ヴァンスが机の上に投げ出した。
「しまっておくんだな、マーカム、『見よ、白き馬あり、これに乗る者、≪忠実また|真《まこと》≫という』。君、十二使徒に逢う時は、これが要るかもね」〔アメリカの陪審制によれば、陪審員はすべて十二人制、これをひやかしたもの〕
「あんたの話ってのはなんですかい、ヴァンス先生?」部長の声はいらいらとしたもので、いらいらを抑えようとすればするほどそうなるらしい。「マーカム検事さんの話によると、先生は事件の線を掴んだとかで、どうかお願いしやすよ、先生、どいつでも構わん、どんな証拠でも知ったこっちゃない、それをつかんだとおっしゃるんなら、あっしに耳打ちして下せえ。立派に逮捕して見せまさあ。ええ、このくそったれ事件め! おかげでこっちは痩《や》せる思いのし通しでさあ」
ヴァンスが威儀を正した。
「そう、ぼくは犯人が誰かを知っていますよ、部長。証拠も持っています――まだあなたにお話するのはぼくの案じゃなかったんだけれども――しかし」――彼は厳然たる決意を見せながら、入口に歩み寄った――「いまや事態をこれ以上|遷延《せんえん》さすべき時ではない。こっちの手《ヽ》は強制されているんだ――さっさと外套《がいとう》を着なさい、部長――君もだよ、マーカム。暗くならぬうちにグリーン家に出かけたほうがいいんだ」
「しかし、怪《け》しからんじゃないか、ヴァンス!」と、マーカムが訓戒しようとした。「自分が何を考えているのか言いもせず、何たるこっだ!」
「いまは説明できないんだ――後になったら、分ってもらえるから――」
「それほど分っていながら、ヴァンス先生」と、ヒースが横から喰《く》い下がった。「あっしに逮捕させねえってのは、どうしたわけなんで?」
「君はいずれ逮捕することになりますよ、部長――一時間以内にね」ヴァンスの約束は熱狂のきざしもなく与えられたものではあったが、ヒースも、マーカムも、電気に打たれたように跳《と》び上がった。
五分後、わたしたち四人は、ヴァンスの車に乗り、ウエスト・ブロードウェイを北に走っていた。
スプルートが例によって、無関心そのもののような態度で招じ入れると、一歩横に恭《うやうや》しく立ちつくし、わたしたちを先に入れた。
「ぼくらはシーベラ嬢に会いにきたんだ」と、ヴァンスが言った。「どうか客間においで下さいと伝えておくれ――ひとりでだよ」
「すみませんが、シーベラお嬢さまはお出掛けでございます」
「じゃあ、エイダ嬢に逢いたいと伝えておくれ」
「エイダお嬢さまもお出掛けでございます」家令の無情緒な口調が、わたしたちが持ちこんできた緊迫した雰囲気とはどこかちぐはぐで、奇怪な違和感があたりに響いた。
「ふたりはいつ戻って見えるの?」
「分りませんです。一緒にドライブにお出掛けになりました。多分、長いことはないと思います。皆さん、お待ちいただけましょうか」
ヴァンスが躊躇《ちゅうちょ》した。
「そうだ、待とう」と、彼が決心し、客間のほうに歩き出した。
だが、拱門《きょうもん》まで達したか達しないかだった。突然、彼がくるりと向き返り、スプルートを呼んだ。こちらは既に廊下の奥にゆっくりと引き退っていたところである。
「君、シーベラ嬢とエイダ嬢が一緒にドライブに出掛けたと言ったね? 何分前だ?」
「約十五分前――二十分かも知れません」この男の眉が、あるかなきかの戦慄で、ぴりっと攣《つ》った。これこそは、ヴァンスの態度が豹変《ひょうへん》したのを見て、動顛《どうてん》した証左なのだ。
「誰の車で出掛けたの?」
「フォン・ブロン先生のです。ちょうどお茶にお見えで――」
「それで、ドライブの話を持ち出したのは誰だ、スプルート?」
「さあて、そのへんになりますと。わたしがお茶を片づけにきてみますと、みんなでその話の討論会みたいなのをやっていらっしゃる最中でした」
「君が聞いたままを再現するんだ!」ヴァンスが早口でしゃべった。興奮どころではない。彼にしては異常の早口だ。
「わたしが部屋にはいってきますと、お医者さんが、若い貴婦人は新鮮な空気を取ることが、いいことだと思うとかなんとかおっしゃっていまして。シーベラお嬢さまは新鮮な空気ならもうこりごりだとおっしゃっていました」
「で、エイダ嬢は?」
「なにをおっしゃってたやら、覚えておりませんです」
「で、君がここにいる間に、車のほうへ出ていった、そうだね?」
「イエス・サー。わたしが扉を開《あ》けて差し上げました」
「で、フォン・ブロン先生も一緒の車でいった、そうだね?」
「さようで。でも、わたしが思いますに、先生はリッグランダー夫人の家でおっことすことになっております。商売がら、そこを往診する予定がおありなわけでして。先生がお出掛けの時おっしゃった言葉から察するに、その後はお嬢さんがただけでドライブをし、先生のほうは、晩餐後ここに車を取りにくることになっていたはずです」
「なんたるこっだ!」ヴァンスが身体を硬《こわ》ばらせた。爛々《らんらん》たる瞳を老家令の上に投げたままだ。
「早くしろ、スプルート! リッグランダー夫人の住所を知ってるか?」
「マジソン・アヴェニューと六十なん丁目かの角のはずと思います」
「奥さんを電話で呼び出すんだ――医者がきたかどうか聞くんだ!」
この驚くべき、しかも、一見不可解としか思えない要求に接して、この男が世にも無感動な様子で、易々として服従した姿があまりにもあっぱれなのには、わたしはほとほと感嘆してしまった。引き返してきた時も、彼の顔は無表情そのものだった。
「先生はまだリッグランダー夫人の家には着いていらっしゃいません」と、彼が報告した。
「確か、その時間のはずだが」ヴァンスは半ば自分に向って、そうコメントし、それから――
「ここを出た時、車を運転したのは誰だ、スプルート?」
「確《し》かとは申せませんです。別に気にも止めておりませんでしたので。でも、わたしの印象だと、シーベラお嬢さまが先に車にお乗りになったようで。あれだと、自分で運転なさるつもりのようでしたが――」
「くるんだ、マーカム!」ヴァンスはもう入口に向って走っていた。「おれは不吉でしようがないんだ。思うだに狂い出しそうな考えが、頭にこびりついて離れないんだ……おい、急ぐんだ! とんでもないことにならんといいが……」
わたしたちが車に乗ったのを見て、ヴァンスがハンドルに飛びついた。ヒースとマーカムは、狐《きつね》につままれたようにきょとんとしてはいたが、それでも相手の険悪な熱意につい釣りこまれ、後部席に坐を占めていた。わたしは運転台の横に坐った。
「これからは交通規則もスピード違反もあったもんじゃないですぞ、部長」と、狭い道路で車を操りながら、ヴァンスが宣言した。「念のため、バッジと身分証明の用意を願いますよ。ここは一番、抜作《ぬけさく》どもの抜駆《ぬけが》けの間抜けに終るかも知れんがね。そこは覚悟の上でやらねばならんのさ」
わたしたちは一番街《ファスト・アヴェニュー》へ突進し、右折の規制も無視して角から角へ直進し、アップ・タウンに向った。五十九丁目にくると、西へ左折した。コロンバス・サークルはすぐ目の前だ。ところが、レキシントン・アヴェニューにきて、路面電車にぶつかった。五番街《フィフス・アヴェニュー》の角では交通巡査に制止を喰らった。しかし、ヒースがカードを出し、二言三言《ふたことみこと》いった。それからはセントラル・パークの中央を横切った。公園内のカーブをひやひやの思いで曲がってから、はや八十一丁目に出ていたが、そこからはリバーサイド・ドラブに向った。ここにくると、交通はさほど輻輳《ふくそう》していないので、ダイクマン街道までは、ずっと時速四、五十マイルで突っぱしることができた。
こんな劫苦《ごうく》は、神経がいくらあったって堪《たま》ったもんじゃない。夜の帳《とばり》が既に落ちていただけじゃない。高速道路の斜面に沿って、融《と》け雪が大きな板張りのように凍りついた場所では、道はつるつるになってもいたのだ。しかし、ヴァンスは秀《すぐ》れた運転の腕を持つ男だ。同じ車を二年も運転しているのだから、車のコツも心得ていた。一度だけ車が酔っぱらったような横すべりを起こしたが、後車輪が高い歩道石に接触する直前に、牽引力《けんいんりょく》を戻すことに成功していた。サイレンは最初から鳴らしっぱなしだったから、外の車は逃げていったし、おかげでこっちは無人に近い道を走るようなものだった。
数ヵ所の交叉点《こうさてん》ではスローに落とす破目に逢ったし、交通巡査に停《と》められたことも二度ばかりあったが、後部席の客が誰か分った瞬間に、進め、と言ってもらった。ノース・ブロードウェイでは、オートバイ巡査に追いつかれ、歩道わきに強行停車させられ、絵になりそうな、美事な呪《のろ》い言葉の一斉射撃を喰らった。だが、ヒースがこれに輪を掛けた、天然色の罵詈雑言《ばりぞうごん》で相手をピシャリと抑えたから、巡査は巡査で、マーカムの姿を暗闇の中に認めたものだから、途端に阿呆《あほう》みたいに卑屈になり、はるばるヨンカースまでは先頭護衛の役を引き受けてくれた。交通を整理したり、交叉点ごとに交通を遮断《しゃだん》したり、おかげで大助かりだった。
ヨンカースの渡し近くの鉄道踏切りでは、貨物列車の通過にぶつかり、数分間の停車を余儀なくされた。マーカムがさっそくこの機会を捉え、鬱積していたものをぶちまけた。
「失礼だが、この狂気の運転にはそれなりの理由があるのだとは思うけれどもね、ヴァンス」と、マーカムが怒ったように言った。「しかしながら、君のお供をすることによって、おれは命知らずの暴挙を冒しているのだから、君の目的が奈辺《なへん》にあるやぐらいのことは知る権利があるぞ」
「説明している時間はいまはない」と、ヴァンスがぶっきらぼうな返事をした。「ぼくが愚《おろ》かにも無益な冒険に乗り出しているのか、それとも、ぼくらの前途には、憎みても余りある悲劇が待っているのか、二つに一つだろうさ」
彼の顔にはきつい線が現われ、色はまっ青になっていた。彼が心配そうに時計を見た。
「家《プラザ》からヨンカースまで、いつもの運転所要時間よりは二十分切り上げたな。のみならず、ぼくらは目的地に向って直線ルートを取っているから――あと十分は短縮できる。ぼくが怖れていることが今夜に予定されているのなら、相手の車はスパイテン・ダイヴィル道路を経由して、河沿いの裏道を抜けるはずなんだ――」
ちょうどこの時、踏切りの遮断機が揚《あ》がり、わたしたちの車はつんのめるように発進し、息をもつかせぬ速さで加速度がついていった。
ヴァンスの言葉を聞いているうちに、じつは、わたしの胸中を過《よ》ぎっていた一連の思い出があった。スパイテン・ダイヴィル道路――水辺沿いの裏道……そうだ、なん週か前のこと、シーベラ、エイダ、フォン・ブロンと一緒にドライブしたのもこの道だったのだ。この思い出が突然わたしの脳裡《のうり》に閃《ひらめ》いたかと思うと、定《さだ》かではないが、迫害するような、えもいわれぬ戦慄と恐怖をひき起こすような存在がどこかにいるような気分がしてきて、わたしを呪縛した。わたしはあの時の細部を回想しようと努めるのだった――ダイクマン街道にきたところで、道を幹線道路から逸《そ》れたこと。古い、森のある別荘地を通って、岩壁《パリサイド》の麓《ふもと》を走ったこと。生垣《いけがき》のはえた私道を抜け、リバデール・ロードを経てヨンカースにはいったこと。さらに、幹線道路から逸《そ》れて、アーズレーの「カントリー・クラブ」の横を通ったこと。閑散とした田舎道を河沿いに走り、タリー・タウンに向かったこと、それから、高い絶壁の上に停車して、ハドソンの壮大な展望を眺めたこと。……あの河面《かわも》を見下ろす断崖絶壁のこと――そうだ、いまわたしの脳裡に、あのシーベラの残酷な冗談《じょうだん》がはっきりと甦《よみがえ》ってきた――ここなら完全犯罪の現場として打ってつけだわ、といった彼女の、あの――自分のつもりでは――諷刺《ふうし》めかしたアイデア! これを思いついた途端、わたしはヴァンスがどちらに向おうとしているかが分った――彼が怖れていることも理解することができた。アーズレーの向うの、あの孤絶した断崖を目指して進んでいるもう一台の車があると彼は信じているのだ――われわれに三十分の先手を取ったもう一台の車が……。
わたしたちはいま、ロング・ビュー丘の麓にきていたし、数瞬後には、大きく迂廻《うかい》して、ハドソン・ロードに沿って走っていた。ドッブスの渡しでは、また警官が出てきて、狂ったように手を振ったが、ヒースが乗込み台に乗り出し、何か訳《わけ》の分らぬ言葉を喚《わめ》いたし、ヴァンスはヴァンスで、速度を弛《ゆる》めることもなく、警官の横をすり抜け、アーズレー目指して突進していった。
ヨンカースを過ぎたあたりから、ヴァンスは途中で出|逢《あ》う大型車のあるごとに、吟味の目を配っていた。フォン・ブロンの低高型の黄色いダイムラーを物色しているのがわたしには分っていた。だが、それらしいものはまだなかった。「カントリー・クラブ」のゴルフ場の横を、狭い道路にはいろうとしてブレーキを踏みながら、彼が半ば声に出して呟《つぶや》くのがわたしに聞えてきた。
「主よ、願わくば、遅からざらんことを!〔わたしの長いヴァンスとの友情の全期間を通して、彼が聖書|紛《まが》いの助辞を口にしたのはこれが最初で最後である〕」
アーズレーの停車場にきて、車は物凄《ものすご》いスピードで急|旋回《せんかい》した。わたしは、すわこそ転覆だと思い、思わず息を呑んだ。それから、河と同じ水準の、ガタガタ道路をすっ飛ばしてゆく間だって、わたしは身体のバランスを取るために、両手で座席を掴《つか》んでいたくらいだ。前面の丘にさしかかった時も、車は一速ギアのままだったし、車は急速に登りつめ、やがて、前方の断崖の縁に沿う、ズリ石道路にさしかかっていた。
丘の鼻をまわり終ったか終らぬかに、あっという叫びがヴァンスの口から洩《も》れた。と同時に、はるか前方に、ちらちら揺れる赤いライトが消えつ隠れつしているのがわたしの目に止まった。わたしたちの車は一段と速度を増し、やがて前方の車が見究められるぐらいの距離に近づいていったかと思うと、その線と色がはっきりと分るまでには数秒もかからなかった。これぞまさしくフォン・ブロンの大きなダイムラーだ。
「顔を伏せるんだ!」と、ヴァンスが肩ごしに、マーカムとヒースに向って叫んだ。「いまに追い抜いてやるから、相手に顔を見られるんじゃないぞ!」
わたしは前面ドアの枠《わく》の下に身を伏せた。二、三秒の後、車が大きく揺れた。ダイムラーを追い越そうとしているところに違いない。次の瞬間、車は再び軌道《きどう》に乗っていたし、相手の車を後方に見ながら驀進《ばくしん》していた。
半マイルほど進むと、道は急に狭くなった。道の片側は深い渠溝《きょこう》になり、他の側はこんもりした灌木《かんぼく》になっている。ヴァンスが急ブレーキを踏むと、後車輪が固い氷の路面上で横すべりを起こし、くるっと反転して停まった車は、ほとんど道路と直角の状態になっていた。こうして、道路を完全に遮断した形になった。
「おい、出るんだ、みんな!」と、ヴァンスが叫んだ。
わたしたちが下車したと思う隙《ひま》もあらばこそ、相手の車はすぐ近くにきており、ぎーっというブレーキの音とともに急停車したが、こちらの車のわずか数フィートのところだった。ヴァンスはこの時もう前方に駆け出していて、相手が静止した瞬間を捉え、前方のドアをさっと開いた。残るわたしたちも本能的に彼の後から殺到していたが、なんとも得体の知れぬ、興奮と不吉感に駆られ、夢中で走っていったのである。このダイムラーはセダン型で、小さい、高い窓がついていたが、西の空に揺曳《ようえい》していた光輝とダッシュボードの照明とが照り映《は》えた中で、中にいる人間の識別はほとんどできるかできないかの薄暗さだった。だが、その瞬間、ヒースの懐中電灯がこの薄闇を破って、一閃《いっせん》した。
わたしの張りつめた瞳に映った光景――それはもう唖然として、心身の自由を剥奪《はくだつ》するようなものだった。ドライブの途中、わたしはこの悲劇めいた冒険の終幕をあれやこれやと思いめぐらし、忌《いま》わしい可能性の二つや三つは空想にも描いていたのだが、しかし、わたしの前途に待っていた、最後のどんでん返しがこういう場面を描き出そうとは、想像だにできないことだった。
車の後部席は空だ。わたしのひそかな疑いとはうらはらに、フォン・ブロンの姿は、影だにない。前方の席には、女が二人いた。シーベラは一方の隅《すみ》にいたが、ぐったりと凭《よ》りかかり、首は力なくうなだれている。こめかみには、見るも無残な切傷が走り、流れ出た鮮血が頬を伝わって、一条の河になっていた。ハンドルを握っているのはエイダだった。冷やかな兇暴を滾《たぎら》した瞳で、わたしたちをハッタと睨みつけている。ヒースの懐中電灯は彼女の顔を直射していたから、初めのうちは、彼女もわたしたちが誰なのか分らなかったらしい。だが、ぎらつく光に対して瞳の調節ができてゆくうちに、彼女の凝視は次第にヴァンスに集中してきたかと思うと、やがて、聞くも汚《けが》らわしい悪口と呪いの言葉が彼女の口をついて出てきた。
と、思った同じ瞬間、彼女の右手がハンドルから離れ、傍らの座席に落ち、それを再び挙げた瞬間、小さい、底光りのする拳銃が握られていた。あっと言う間もなく、赤い炎が走り、鋭い爆音が聞え、同時に、チャリンというガラスの砕ける音がした。銃弾はウインド・シールドに命中したのである。ヴァンスはこの時まで乗車台に片足を掛け、車に飛び入ろうとしているところだったが、エイダの拳銃を持つ手が延びてきた刹那《せつな》を捉《とら》え、手首をひっつかみ、がっしりと握っていたのだ。
「おいたはおよしなさい」例の母音を長びかせた悠長な声が聞えてきた。不思議な冷静さに満ち、敵意の全くない声だった。「ぼくまでも君の人身供養の列伝に加えようたって、絶対、そうはさせないよ。ぼくは、さもあろうかと、この芝居を待ってたのさ、だってそうじゃないかい?」
エイダは、ヴァンスを射ち損じた腹いせに、野蛮人のような忿怒《ふんぬ》をたぎらし、彼に向って体当たりしてきた。いまは淫《みだ》らな雑言と名状しがたい呪いが、彼女のひん曲った唇から、次から次へとほとばしり出した。野生そのもの、奔放そのものの怒りが、いま彼女を虜《とりこ》にしてしまっているのだ。もうまるで野獣だ。窮地に追いつめられ、敗北を意識しながら、まだ自暴自棄の最後の本能をふり絞《しぼ》って戦おうとしているのだ。だが、ヴァンスはいまは彼女の両手首をしっかと握って離さず、彼にその気があれば、ひとひねりで腕をへし折ってやれるというのに、優しみすら加えて、彼女をあやしている。まるで父親がむずがる子供をすかしているみたいだ。彼がすばやく後退し、彼女を道路上にひきずり出した。エイダは悪あがきをやめるどころか、また一段と暴れ出した。
「さ、部長!」ヴァンスが気だるそうに怒り出し、やっと口を切った。「手錠《てじょう》を掛けてやったらどうです。ぼくのおかげで、怪我をさせてもつまらんですからね」
ヒースは眩暈《めまい》でも起こしたように立ちつくし、この驚くべき幕切れを見つめていた。明らかに、あまりのことに動くのを忘れてしまったものらしい。だが、ヴァンスの声に目が覚めたか、俄《にわか》に活動に移った。カチッという金属音が二つ鳴った。エイダは急にぐったりとなり、むっつりとした、しかし素直な態度に変わった。それから、喘《あえ》ぎ喘ぎしながら、自動車のサイドに靠《もた》れかかったが、もうひとりでは立っておれないかのようだ。
ヴァンスが屈《かが》みこみ、路面に落ちていた拳銃を拾うと、ざっと見ただけで、マーカムに渡した。
「ほれ、チェスターの|はじき《ヽヽヽ》だよ」と、彼が言った。それから、憐《あわ》れむように首を振ってエイダのほうを指さし――「君の役所に連行したまえ、マーカム――車はヴァンがやるよ。ぼくもできるだけ早く君んところにゆくよ。まずシーベラを病院に連れてゆかなくっちゃ」
彼がきびきびとした態度でダイムラーに乗りこんだ。ギアを入れ替え、二、三回巧みに前進後退していたかと思うと、狭い路面上で向きを替えるのに成功していた。
「で、部長、その女にはようく気をつけなさいよ」ヴァンスは後ろ向きにこの言葉を投げつけていたが、そのとき車は既にアーズレーに向って突進している最中だった。
わたしはヴァンスの車を運転して、ニューヨークに戻った。マーカムとヒースは、後部席に、エイダを挟むようにして坐っていた。一時間半ものドライブの間、一言として発する者はいなかった。わたしは何回となく後ろを振り返り、沈黙の三人組を覗いてみた。マーカムと部長は、いましがた啓示されたばかりの、どんでん返しの真相に茫然《ぼうぜん》自失の体《てい》である。エイダのほうは、二人の男に抱《だ》きかかえられ、感情を失った人間のように坐っている。目は閉じ、首はうなだれたままだ。一度なぞ、彼女が手錠のかかった手で、顔にハンカチを当てているのが見えた。ある時なぞ、押し殺したような忍び泣きの声を聞いたようにわたしは思った。だが、わたし自身が神経質になっていたものだから、別段注意もしなかった。わたしは運転に精神を集中するだけでも、意志力のすべてを必要としたのだった。
わたしがフランクリン通り側の、刑事裁判所ビルの入口の前に車を寄せ、まさにエンジンを切ろうとした瞬間だった。ヒースの驚愕した叫びが聞え、思わずわたしもスイッチをまた入れてしまった。
「主の母なる、聖母マリアさま!」彼のしわがれた声で、そう詠嘆しているのが聞えた。すると、どすんとわたしの背中を叩き――「ゆくんだ! ビークマン・ストリート病院だ――ぐずぐずするんじゃねえ――ヴァン・ダイン先生。交通信号がくそくらえだ! ぶっとばせ! ぶっとばせ!」
振り返って見ないでも、何が起こったのか、わたしには分っていた。わたしはセンター通りにまた車を逆戻りさせ、病院へ驀進《ばくしん》した。わたしたちの手でエイダを抱き、救急室に運んでいったが、玄関を通った瞬間、ヒースが大声をがなり立て、医者を呼んだ。
ヴァンスが地方検事局にはいってきたのは、それから、一時間以上もしてからだった。マーカムとヒースとわたしはそこで彼を待っていたのだ。彼がすばやく部屋中を見渡し、それからわたしたちの顔を読んだ。
「気をつけなさい、といったでしょう、部長」と、彼が椅子に深々と沈みながら言った。しかし、彼の声には、非難の色もなければ、残念がる様子もなかった。
ひとりとしてしゃべる者はいない。エイダの自殺でひどい衝撃を受けてきたわたしたちではあったが、わたしたちみんなが〔とわたしは思う〕もやもやとではあるが、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せていた女がいまはどうなっているのか、どこか良心の呵責《かしゃく》に突かれたような不安な気持で、いたずらに知らせを待ちたい気持だったのだ。
ヴァンスはわたしたちの沈黙のわけが理解できたのであろう、安心させるようにうなずいた。
「シーベラは大丈夫だよ。ヨンカースのトリニティ・ホスピタルに連れていったがね――軽い脳震盪《のうしんとう》だということだ――エイダが、前方席の下に入れてあるレンチで殴《なぐ》ったんだ。二、三日したら退院だろう。病院の診察券にはフォン・ブロン夫人と書いておいたさ。それから、旦那さんにも電話したところ、ちょうどご在宅でね。すっとんで出ていったはずだ。いまごろはきっと奥さんのところだろう。さて、話は変わるが、ぼくらがリッグランダー夫人の家で掴《つか》まえ損《そこな》ったのは、途中で自分の病院に寄り、薬品鞄を取ってきたからだったというんだ。この遅れがシーベラの命を危機一髪のところで救ったわけだ。これがなかったら、ぼくらが追いつけたかどうかも怪しいもんだ。さすれば、自動車もろとも、断崖からまっ逆さま、エイダに突き落とされていたんだろうがね」
彼は一瞬、煙草を深く吸いこみ、それから、眉《まゆ》を上げて、マーカムを見た。
「青酸カリかい?」
マーカムが微かながらぎくっとした。
「そうだ――いや、そうだと医者は言う。彼女の唇に酸《す》あんずの匂《にお》いがしていたよ」彼が怒ったように首を突き出した。「まさか、君、知ってたんじゃ――」
「ああ、どっちみち、ぼくは停《と》めていなかったろうさ」と、ヴァンスが、遮った。「ぼくは部長に警告を与えることによって、ぼくの神話めく国への忠誠を履行したじゃないか。とはいうものの、あの時は、ぼくは知らなかったんだ。フォン・ブロンが情報を与えてくれたばかりさ。きょうのいきさつを先生に伝えたさい、外に毒薬で紛失したものはないかと尋ねてみたんだ――だって、いいかい、グリーン殺人事件ほどの悪鬼羅刹《あっきらせつ》、乾坤一擲《けんこんいってき》の離れ業《わざ》を立案する人間がだよ、万に一つの失敗の確率を覚悟してかからんというのは想像できない話だからね。先生がいうには、三月ほど前、暗室に置いてあった青酸カリが一錠紛失したというんだ。そこで、先生の記憶を促してみるとだ、その数日以前に、エイダがそのへんをうろちょろして、いろんなことを尋ねまわったことがあるというんだ。恐らく、その時、青酸カリ一錠しか|くすねる《ヽヽヽヽ》勇気がなかったんだろう。そこで、いざという場合のために、自分用に取っておいたのさ〔後で判明したことだが、フォン・ブロンは熱烈な素人写真家で、青酸カリ半グラム錠をよく使っていたし、エイダがやってきた時は三錠あった。数日後、ネガの現像をする段になって、二錠しかないのが分ったが、ヴァンスに問われるまで、大したことと思っていなかったのだという〕」
「あっしが知りたいのはですな、ヴァンス先生」と、ヒースが言った。「あの女がどうやってこの謀略をやってのけられたかということでさあ。あの事件《やま》には誰かほかに共犯《れつ》でもいたんですかい?」
「違うな、部長、エイダが一部始終を企画し、実行したのです」
「まさか、そんな、べらぼうな――」
ヴァンスが片手をあげ、制止した。
「単純にして、簡単さ、部長――ただし、あんたが鍵さえ掌中に収めればですよ。ぼくらをあらぬ方向に導いたもの、それは筋書《プロット》の悪鬼めく聡明さ、それに大胆不敵さだった。しかし、いまはあれこれと思惑《おもわく》に耽《ふけ》る要はないのだ。ぼくは事件の顛末《てんまつ》の一切を解明した本を持っているんだから――活字にし、装幀《そうてい》までした本をね。しかも、それは虚構《フィクション》による解明でもなければ、思索による解明でもない。実際の犯罪史なんだ――古今東西に最も秀《すぐ》れた犯罪学者によって、いみじくも保存せられ、記録された犯罪史なんだ。これぞ誰あろう――ウィーン所在、ハンス・グロッス博士さ」
彼は立ちあがり、外套を手に取った。
「ぼくは病院からカリーに電話しといたよ。遅ればせながら、みなさん一同のために晩餐を用意して待たせてあるんだ。食事でもすんだら、全事件の再組立てならびに解釈をご提供したいもんだね」
第二十六章 どんでん返しの真相
(十二月十三日、月曜日、午後十一時)
「君も認めるだろう、マーカム」と、ヴァンスが始めた。その夜遅く、わたしたち一同が書斎の火を囲んで座に着《つ》いた時のことである。「ぼくはついにあの摘要書の各項目の順列組合せを行い、殺人者が誰かをはっきりと指し示すような再編成に成功したんだ。ひとたび基礎的図案が確立された後は、各細部は造形的全体に完全に適合してきたんだ。にもかかわらず、犯罪の技法だけは依然として曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。そこで君に、トバイアスの蔵書中にある、例の本を持ってきてくれないかと頼んだんだ――ぼくが知りたいことは、きっとその中に書いてあるはずだという信念がぼくにはあったのさ。第一に、ぼくはグロッスの『予審判事のための犯罪体系便覧』に目を通したが、それというのも、あれが情報源としての可能性が最も大だと考えたからだ。あれは驚くべき論文だよ、マーカム。内容が犯罪史、犯罪科学の全分野にわたっているのみならず、犯罪技法の概論にもなっているんだ。特定の判例を引用するだけではない、詳細な注釈もあれば、図面も載っている。犯罪に関する世界的標準百科といわれているのも故《ゆえ》あるかなさ。読んでゆくうちに、ぼくが探《さが》していたものはちゃんと書いてあるじゃないか。エイダの取った行為のすべて、方法のすべて、考案のすべて、細部のすべてが、この本からの孫びきなんだ――|実際の犯罪史からのね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! ぼくらが彼女の謀略を破摧《はさい》する能力に欠けていたからって、あながちぼくらの迂濶《うかつ》さ加減を責められないだろうさ。なぜならば、ぼくらを欺罔《きもう》していたもの、それは彼女ひとりじゃない。彼女以前の、犯罪者の全|系譜《けいふ》、なん百という佞姦《ねいかん》にして巧妙な犯罪者による経験の蓄積に加うるに、世界最大の犯罪学者――ハンス・グロッス博士による分析科学の成果だったんだからね」
彼は間《ま》をとり、またシガレットに火をつけた。
「だが、彼女の犯罪を解明する鍵を発見した後でも」と、彼が続けた。「なにかが欠落している感じがしてならない――なにか抜本的な心理的傾向《パンシャン》――換言すれば、この恐怖の饗宴を可能にし、彼女の作戦に、いうなれば、生命の力を与えているところのなにものかがね。ぼくらはエイダの幼年時代については、家系譜についても、遺伝本能についても、なんにも知るところはなかった。この知識なくしては、あの犯罪は、論理的|明晰《めいせき》さにもかかわらず、とてもこの世のものとは思われない。以上に鑑《かんが》み、ぼくの取るべき次の手段は、エイダの心理学的、環境論的な根源を確認することだった。彼女はフラウ・マンハイムの実子なのではないかというのが、ぼくの最初からの疑いだった。だけど、この事実の確認ができた後でも、この事実が事件とどういう関与を持つのかは杳《よう》として謎のままだった。ぼくらが初めてフラウ・マンハイムを訊問した時から明白だったことは、トバイアスと彼女の夫とは|ぐる《ヽヽ》になって、遠い昔、何かいかがわしい取引きをやっていたということだ。さらに、その後、夫人がぼくに自供したところによれば、その夫が死んだのは十三年前、所はニューオーリンズ、ある病院に、一年近い病気で入院した上での死亡だという。さらに、君も思い出すだろうが、夫人はこうも言った。つまり、トバイアスに逢《あ》ったのは夫が死ぬ一年も前だったとね。だとすれば、これは十四年前のことでなければならない――まさしくトバイアスがエイダを養女にしたのがこの年なんだ。だからぼくは、マンハイムと今回の犯罪との間になんらかの関連があるのではないかと推理した。さらにぼくは、マンハイムとはスプルートのことじゃないのか、したがって、この状況の裏では、卑劣な恐喝《きょうかつ》犯罪の糸を引いている人間がいるんじゃないかという観念の遊戯さえしてみたんだ。こうなれば、ここは実地に調査してみるしかない、とぼくは考えた。ぼくの先週の謎《なぞ》めいた旅もニューオーリンッズへだったのだ。向うへいってみると、真相を知るのは苦もないことだったさ。十三年前の十月の死亡記録をめくっているうちに発見したのだが、なんとマンハイムは死に先立つこと一年前、犯罪型異常者専用の精神病院に入れられているではないか。それから警察にいって、この男の前科の一部を確認することもできた。アドルフ・マンハイムなる男――つまり、エイダの父親だがね――は、どうやら、ドイツでは名うての犯罪者、殺人者だったんだが、死刑宣告を受けながら、ストゥットガルトの拘置監《こうちかん》を脱獄し、アメリカに渡ってきたものらしい。逝《ゆ》けるトバイアスは、この脱獄とどこかでひっかかりがあるんじゃないかというのが、いまでもぼくの疑いの一つだ。だけど、ぼくが死者の名誉を傷つけているかいないかは別としても、残る事実は、エイダの父親が殺人者型であり、プロの犯罪者だったという点だ。そして、この点にこそ、彼女の行為に対する解明的背景がある……」
「つまり、先生のおっしゃるのは、あの女もおやじそっくりの気狂《きちが》いだったというんで?」と、ヒースが尋ねた。
「違うよ、部長。ぼくのいうのは、犯罪性向の潜在性が彼女の血の中に継承されていたということですよ。犯罪動機が優勢を占めてきた時、彼女の中にあった遺伝本能が顕在化した、というべきだ」
「しかし、単なる金銭欲がだよ」と、マーカムが横から口を出した。「あれほどの兇悪性を誘発する動機として、強力だとは見えないがね」
「彼女の情怨《じょうえん》を激化したもの、それは金のみじゃない。真の動機とは、もっと深い、魂の深層にかかわるものなんだ。いや、おそらくは、それは一切の人間動機の中で、最も優勢を占めるものではないのかね――愛と憎しみ、嫉《ねた》みと自由への憧《あこが》れ、それが世にも不思議な、恐ろしい混淆《こんこう》を見せる時にはね。まず手はじめに、彼女はあの異常なグリーン一族の中のシンデレラ姫だった。さげすまれ、うとんぜられ、女中扱いにされ、持てる時間のすべてを、がみがみ屋の病人の世話に費やすしかなく、よんどころなくも――ほら、シーベラの言葉を思い出すだろう? ――おのれの生計《たつき》を立てねばならぬ境涯《きょうがい》に追いこまれていた。とすれば、君だって分らんわけはなかろう。十四年もの間、この処遇に妄執を凝《こ》らし、反感の糧《かて》を養い、周囲の毒気を吸収している間に、ついには、ありったけの人間を軽蔑するようになったのさ。それだけでも、彼女の中に眠る本能を目覚ますに十分だったろう。いや、とうの昔に、精神の崩壊が始まらなかったのが不思議なくらいだ。ところが、もう一つ、効果においては同じ猛威を揮う潜勢要因があって、状況はいよいよ悪化の一途を辿《たど》っていった。エイダはフォン・ブロンに恋するようになったんだ――あの境涯に置かれた若い娘にしては、自然な行為じゃないのかね――が、やがて、シーベラが男の情愛を勝ち取ったことを知った。二人が結婚したことも、彼女は知っていたか、深く疑っていたかのどちらかだろう。とすれば、姉に対する本来の憎しみは、いまや敵意に満ちた、自己|腐蝕《ふしょく》的な嫉妬《しっと》が加わり、憎悪はますます募っていった……。
さて、エイダは、トバイアスの遺言状の条項によれば、結婚さえしてしまえば、あの屋敷での住居を強制されていない唯一の家族構成員だった。とすれば、この事実にこそ、彼女が求めてやまないものすべてを奪取する機会がある。いや、それと同時に、彼女が持ち前の全情熱を傾け、殺してもなお飽《あ》き足りないとまで憎しみの雄叫《おたけ》びをあげつづけてきた一家の者を、皆殺しにしてしまう絶好の機会がここにある、と思ったに違いない。彼女が計算したのは、家族の邪魔者を殺し、グリーン家巨万の富を相続し、フォン・ブロンを|たぶらか《ヽヽヽヽ》して、愛をうることだったんだ。すべてこうした妄執の中に、復讐の動機が一要因として介在していたことはいうまでもない。だけど、ぼくのいまの考え方としては、本件の情怨的様相こそが、後になって、端《はし》なくもこの女が首謀者ともなり、実行者ともなったところの連続恐怖劇の一義的な原動力だったと思いたい。愛が彼女に力と勇気を与えた。愛こそが、そこでは一切が可能に見え、初志貫徹のためならば、一切の代価を払うことをも潔《いさぎよ》しとするような、そんな恍惚境《こうこつきょう》に彼女を引き上げていったのだ。ここで括弧《かっこ》に入れて、思い出しておきたい点が一つある――君も覚えているだろうが、バートン、あの若いほうの小間使いの話――エイダが時によると悪鬼のような振舞い、下品な言葉使いをするという。ここに一つの示唆があったはずなんだ。だが、惜しむべし、あの、初歩的な捜査の段階で、バートンの言うことなど、誰がまじめに受け取れるもんかね?……。
彼女の悪鬼夜行の企《たくら》みの起源に遡《さかのぼ》ろうとするならば、まずは、あの幽閉された書斎に思いをめぐらしてみる必要がある。広い家にただひとり、人生がうとましく、募《つの》る思いは恨みばかり。がんじがらめに縛りつけられ――となれば、このロマンチズムの錯綜観念《さくそうかんねん》に陥った、夢多き、若い女が、全天の神から人間を殺すことを許され、あのパンドラの役割を演ずるようになるのは、避け難い運命ではあった。鍵《かぎ》を盗んで、合鍵を作る機会はいつでもあった。こうして、あの書斎が彼女の隠れ家になったんだ。あくせくと身を粉にして働き、毎日が|しきたり《ヽヽヽヽ》の単調に明け暮れる、この世の命《いのち》からの逃《のが》れの場所になったんだ。たまたまめぐり遇《あ》ったのが、あの犯罪学の本だった。それは彼女の心をいたく捉《とら》えた。めらめらと燃えくすぶる、抑圧された憎しみの吐け口として、病《や》んだ心を捉えただけではない。狂気の血を引く彼女の体質に、打てば響くような共感をも呼んだに違いない。そうこうしているうちに、ついにゆき当ったのが、グロッスの偉大な便覧だった。なんとそこには、犯行の手口がそっくり展示されているではないか! 図面や実例などもついている――予審判事の手引きはおろか、殺人者の潜在性を秘めた人間のための案内書がここにあったんだ。さるほどに、血腥《ちなまぐさ》い饗宴の思いつきが、ゆっくりと頭をもたげてきた。もちろん最初のうちは、彼女とてもこれを自己満足の手段として、このような殺人技法をおのれの憎む相手に適用することを空想の世界で夢見ていたものに過ぎなかったろう。だけど、程なくして、この考えが、次第に現実性を帯びてきたんだ。彼女の展望の中で、実行の可能性が見えてきたんだ。あの恐るべき筋書きはこうして形成されていった。この恐慌劇を創作したのは彼女自身なのだ。ところが、彼女の病んだ想像力がそれを手伝い、実行性を信じるようにさせてしまった。ぼくらに語って聞かせた、あのもっともらしい物語、あの美事な演技、あの巧妙きわまる欺瞞《ぎまん》――あのみんなが、彼女の呪禁《まじない》が生んだ幻想とは切っても切れない一部だったんだ。グリムの童話集! ――なんたるこっだ。あの時あれを見落とすとは! だってそうだろう、あの女のつもりでは、あれは芝居もどきの仕草なんかじゃなかったんだ。いうなれば、妖魔の呪縛に憑《つ》かれている一瞬だったのさ。彼女は夢を食らって生きていた。うら若い乙女が、野心と憎悪に駆《か》られると、ああなるのが多い。コンスタンス・ケントの例を見たまえ。ロンドンの警視庁をそっくり誑《たぶら》かし、無実の女と思いこませていたじゃないか」
ヴァンスは一瞬物思いに耽《ふけ》るように、煙草をくゆらせていた。
「妙な話もあればあったものさ。ぼくらがいま考察しているこの秘密の真相、それを実証する例は犯罪史に一杯あるんだからね。ところがぼくらは、自分のことになると、本能的に目を掩《おお》ってしまうんだからね。犯罪の編年史を見てみたまえ。エイダと同じ境涯にあった若い女で、兇悪な犯罪を犯した女がなんと多いことか! 有名なコンスタンス・ケントの例は別としても、例えば、マリー・ボワイエ、マドレーヌ・スミス、グレーテ・バイエル……枚挙《まいきょ》に遑《いとま》なしさ。何たる迂濶《うかつ》、これに思いをめぐらさなかったとは! ――」
「現在を忘れちゃ困るよ、ヴァンス」と、マーカムがたまりかねて、遮った。「君に言わせると、エイダはすべての思いつきをグロッスからえたという。しかし、グロッスの便覧はドイツ語で書いてあるんだぜ。あの女がそれほどドイツ語を解することを、どうして君は知ったんだい?」
「ヴァンを連れて、あの屋敷にいった日曜日のことだ。ぼくはシーベラがドイツ語を話すかどうかって、エイダに訊ねたものさ。ぼくはその時、あの女だってドイツ語をよく知っているかどうかを答えざるをえないようなやり方で質問をしたんだ。ついでのことに、ぼくがあくまで疑っているのはシーベラだと思わせておこうと思った。そうすれば、ぼくがニューオーリンズから戻る時までは、あの女も事を急がないはずだからね。シーベラはアトランティック・シティにいる限り、エイダの手からは安全だと分っていたからね」
「だけど、あっしの知りたいのはですな」と、ヒースが横合いから言った。「あの女はマーカム検事さんのところに坐ってたんですぜ、それがどうやってレックスをばらせるんで?」
「物事にはしかるべき順序あり、ですよ、部長」と、ヴァンスが答えた。「まず第一に、ジュリアが殺された。それはあの女が家中の支配者だったからだ。これを|どかして《ヽヽヽヽ》しまえば、自由への一歩がまずえられる。エイダはそう考えたろう。それにもう一つ、手初めにジュリアを亡き者にすることが、彼女が組立てていた計画の図柄に一番ぴったり嵌《は》まるんだ。おのれも殺人未遂の被害者だという、あの世にももっともらしい舞台演出も、これで美事に成立する。チェスターの拳銃の話がどこかでどうにかされているのを、エイダは聞いていたに違いない。だから、拳銃を手に入れた後は、第一撃を加える機会をひたすらに待っていた。絶好の状況は十一月八日の夜に訪れた。午後十一時半、家中が眠りに就いている。彼女はジュリアの部屋をノックした。どうぞと中へ入れられる。おそらくはジュリアの寝台の端に腰をかけ、こんなに夜遅くやってきてすみませんとかなんとか、そんな話をしている姿が目に浮ぶようだ。そこへ突如、寝間着の下から、隠し持った銃を取り出すが早いか、ジュリアの心臓めがけてぶっぱなした。急いで自分の部屋に戻ると、電灯はつけたまま、化粧机の前面の大きな鏡の前に立つと、右手に銃を持ち、自分の左側肩胛骨に斜角に構えた。この場合、鏡と電灯が欠くべからざる道具立てなんだ。銃口の向け先を正確に知るには、これしか方法がないんだから。二つの銃声の間の三分という間隔は、すべてこのために要したものなんだ。そこで、彼女が引金をひく――」
「だけど、若い娘が自分で自分を撃《う》って、|しら《ヽヽ》を切るねたにするなんざあ」と、ヒースが異論を唱えた。「自然じゃありませんや」
「だけど、エイダはもともと自然の性《さが》に生れついていなかったのですよ、部長。この筋書きのどこを取っても、自然なものはなにもない。だからこそ、ぼくはあの女の系譜を調べるのに、あれだけこだわったんだ。だが、自分で自分を撃つというこの件に関する限り、あの女の真の性格を考えるならば、きわめて論理的といわざるをえない。しかも、事実の問題としても、それに伴う危険はほとんど、いや、全くなかった。銃が『ヘア・トリッガー』だという話は聞いたでしょう。すぐに暴発する。発射に圧力は全然いらない。肉のかすり傷ぐらいが彼女が心配した精一杯のところだったろう。のみならず、歴史をひもとけば、エイダの執念が追い求めていたものよりははるかに小さい目的を達成しようとして、自己切傷を試みた犯例はまことに多い。グロッスにはそれに満ちている……」
彼が傍《かたわ》らの机に置いてあった『予審判事のための犯罪体系便覧』第一巻を取り上げ、印をつけておいたページを開いた。
「まあ、聞きなさい、部長。ぼくが読みながらザッと翻訳して見ますよ。『自己傷害的型の人間に出逢うのは決して稀《まれ》ではない。虚構の盗難被害者を装う人間がいるかと思えば、じつは、損害賠償を強請《ゆす》りたい一心からそうしている場合も見られる。さらにまた、無害なこぜり合いの後で、喧嘩《けんか》の当事者が、大きな傷跡を見せびらかしながら、これは喧嘩で受けたものだと頑張るという実例もよくあることだ。この種の自己傷害者に認められる特徴は何かと言えば、当事者は多くの場合、大いなる苦痛が伴うために、そのような行為をおしまいまでやり切れないという点である。さらに、こういう人間は、多くの場合、誇張された狂信の性癖を持ち、きわめて孤独な放浪癖を持つ人間だということである』……そうでしょう、部長。兵役逃れのために自己傷害を加える人間なら、あなたもよくご存じでしょう。彼らが一番よくやる手は、手で銃口を塞ぎ、指を吹っ飛ばす方法ですよ」
ヴァンスが本を閉じた。
「それに忘れないで下さいよ。あの女は生きる希望を失い、自暴自棄になり、不幸な女だったということを。諺《ことわざ》にもある通りですよ。窮地に追いこまれた人間にとっては、討って出る手は勝利、引く手は敗北だ。この連続殺人の案を練り上げていなかったとしたら、彼女は自殺もやりかねないところまできていた。肩の擦《す》り傷《きず》ぐらいは、それを代価にして得られる利益の大きさを思えば、大事の前の小事だったでしょうよ。しかも女とは、自己犠牲の能力をほとんど無限に持つ生き物なんだ。エイダにとって、自己犠牲は持ち前の異常条件とは切っても切れない本質だったんだ。いや、部長、自己狙撃はあの状況と完全に一致する! ……」
「だけど、背中とは!」ヒースが唖然《あぜん》とした顔をした。「そこんところが、あっしには腑《ふ》に落ちねえ。こいつは前代未聞だぜ――」
「まあ、待ちなさい」と、ヴァンスが『便覧』の第二巻を取り上げ、印をつけておいたページを開いた。「グロッスは、例えば、これに類する事件を多数集めています――いや、この手はヨーロッパではごく普通のものなんだ。彼の記録を見たエイダは、自分で自分の背中を撃つという思いつきをえたにきまっていますよ。ほら、ここに同種の犯例が詳しくのっている中から、一節だけを拾い読みしてみましょう。『われわれが傷の位置によって絶対に欺罔《きもう》の虜《とりこ》になってはならないということは、次の二つの例が証明する。ある時、ウィーンの広場で、一人の男が多数の人間のいる目の前で、自殺をした。死因は拳銃で自分の後頭部を射ったからである。これらの目撃者による供述が提出されていなかったとしたら、自殺だと信じる者は全然いなかったものと思われる。またある時、一人の兵隊が軍用銃による背部貫通傷によって死亡したが、じつは、それと対応する場所に軍用銃を構え、自分の身体を横たえたところへ、銃が発射したものである。ここでもまた、傷の位置によって、自殺説は完全に成立していたかも知れないのである』」
「ちょっと待っておくんなさい」と、ヒースが前につんのめり、ヴァンスに向って葉巻を振りあげた。「|はじき《ヽヽヽ》はどうなってるんで? エイダの部屋で銃声を聞いたとたん、スプルートがはいっていったんですぜ。それでも|はじき《ヽヽヽ》は影も姿も見ちゃいない!」
ヴァンスは答えることなく、グロッスの『便覧』のページをめくっていたが、もう一つの印が飛び出しているところまでくると、また翻訳を始めた。
「『ある早朝のことだった。捜査当局に対して、他殺死体発見さるとの報告がもたらされた。現場には、金持だとの噂《うわさ》も高い穀物商Mの死骸が発見されたが、顔面を下にして横たわっていて、耳の後ろに、一つの銃傷がついている。銃弾は大脳を貫通した後、左眼上部の前額骨に突き刺さって埋没《まいぼつ》していた。死体の発見現場はかなりな深さの流れに懸った橋のほぼ中央だった。現場検証も終りにきて、まさに死体を解剖のために運び去らんとする時のこと、偶然にも捜査官の目に止まったものがあった。それはちょうど死体が横たわっていた場所の近くの真向いの、木製の、風雪に朽《く》ち果てた橋のらんかんに、人が上部から堅い、刃のついた固体で猛烈な勢いで叩いたとしか思われない、一つの小さい、全く新しい損傷の跡だった。この凹みと殺人とは因果関係があるのだという考えをいくら手許から払い退《の》けようとしても払い退けることが出来ない、すぐに一隻のボートで現場に向うと、橋の脚桁《あしげた》に結びつけた。そこで彼はボートから身を乗り出し――問題の現場の真下の――河底を大きい刃のついた鋤《すき》で注意深く捜査し始めた。暫くその仕事をやっていると、まことに不思議なものが揚《あ》がってきた。見れば、それは長さ四メートルくらいの丈夫な紐《ひも》だが、その一端には、大きな岩石が結びつけられ、他の一端には発射されたピストルが結びつけられている。その銃身には、死んだMの頭から抽出した弾丸とぴったりと一致する弾丸が残っていた。いまや、事件は明らかな自殺である。問題の男は石を橋のらんかんに垂らし、右耳の後ろから自分の大脳めがけて弾丸をぶちぬくという離れ業を橋の上で演出したのだ。男は自分で自分を撃った瞬間、ピストルを放したから、石の引力に作用されたまま、紐はずるずると|らんかん《ヽヽヽヽ》越しに引っぱられてゆき、水中に没していったものである。かくして、ピストルは|らんかん《ヽヽヽヽ》を飛び越える時、激しくそれに衝突し、問題の凹みを生じさせたのである』どうです? これならあなたの疑問にピタリでしょうが、部長?」
ヒースが目をまんまるくして、ヴァンスを睨み返した。
「するてえと、あの女の|はじき《ヽヽヽ》も、その男のが橋を越えたみてえに、窓から外へ出ちゃったってわけですかい?」
「まずそれに間違いはないでしょうね。それ以外に銃のゆき場がない。窓はですね、ぼくがスプルートから聴取したところによると、一フィート開いていた。エイダは窓べに立って、自分で自分を撃ったんだ。ジュリアの部屋から戻ってくると、拳銃に紐をくくりつけ、端になにかの重しをつけ、その重しを窓の外に垂らした。武器から手を放した途端、するするっと窓枠を伝わり、バルコニー段階上の柔かい雪の中に隠れて見えなくなった。これこそは、天候の重要性が問題になる点なんだ。エイダの計画では、雪量がいつもの量では足りないんだ。十一月八日の夜は、彼女の陰惨な目的にとって、まさに理想的だったと言える」
「何たるこっだ、ヴァンス!」マーカムの口調にはひずみがあり、不自然だった。「この一件はいよいよ現実を離れて、幻想の白昼夢の世界にはいりかけてゆくじゃないか」
「現実どころの騒ぎじゃないさ、マーカム」と、ヴァンスが荘重に言った。「現実の実際的二重演出なんだ。そっくりそのまま、かつて演出されたもので、グロッスの論文に当然記録されているんだ。名前も、日付も、明細もね」
「畜生! これじゃ|はじき《ヽヽヽ》が見つからなかったのも不思議はねえでさあ」ヒースがうんざりしたような悲鳴をあげた。「そこで足跡のほうはどうなんです、ヴァンス先生? こいつもあの女のでっちあげでしょう、どうせ」
「そうなんだ、部長――ここでもグロッスの微に入り細をうがった指示と、有名な犯罪者多数による足跡偽造の先例とを頼りにして、彼女がでっちあげたもんですよ。あの夜、雪がやむのを待っていたように、そっと一階に降りてゆき、チェスターが使い棄てにしていたオーバーシューズを履《は》き、正面の門まで往復した。それから、そのゴール人の靴《くつ》は書斎に隠した」
ヴァンスがまたグロッスの『便覧』を取りあげた。
「足跡のつけ方、その探知方法、肝腎《かんじん》かなめなことはみんなこれに書いてあるんだ。それから――これはもっと要点を衝《つ》いていると思うんだが――偽造の足跡を残す場合には、自分の足型よりも大きめな靴を履いてつけるということも書いてある――短い一説を訳すから、聞いていなさい。『自分にかかっている嫌疑を、他の人間に振り向けようとする意図があると見るのが当然である。なかんずく、犯人が問題の嫌疑が自分に向けられているのではないかと事前に想像するだけの意識を持っていたとしたらなおさらである。このような場合、犯人はきわめて顕著で、明確な足跡を残す。換言すれば、自分の靴とは本質的に相違するところの、証拠力十分の靴を履くというのがそれである。各種の実証実験が証明している通り、この方法によれば完璧な足跡が残せるのであって、欺瞞にはうってつけである』……それから、ほら、この一節の終りに、わざわざゴール人の靴に触れた文章もあるんだよ――けだし、エイダにチェスターのオーバーシューズ使用の霊感を与えたのも、これなんだろうよ。この文章の暗示を奇貨《きか》おくべしとなすぐらいの聡明さは彼女にもあったのだからね」
「それにあの女は、訊問の際、われわれ一同をぺてんに掛けるくらいの聡明さもあったさ」と、マーカムが痛烈なコメントを加えた。
「同感だね。しかし、それは彼女がフォリ・ド・グランドゥール〔誇大妄想狂〕に陥っていたからだし、物語の主人公を夢みて生きていたからさ。のみならず、すべては事実に基盤を持っていた。事実の細部は、現実に根をおろしていたものだったのだ。彼女が自分の部屋で聞いたと言っていたあのずり足の音にしろ、自分がチェスターの大きなゴール人の靴を履いて歩いた時に立てた、現実のずり足の音の想像的投影だったのさ。さらに、自分の足音を聞いているうちに、きっとグリーン夫人の足が自由を取り戻したら、どんな音がするだろうかという想像に飛躍し、空想の足音を聞いていたに違いないのだ。そこで、ぼくの想像だが、グリーン未亡人にそこはかとない嫌疑を差し向けることは、エイダの当初からの意図だった。ところが、最初にシーベラを訊問した時、彼女が採った態度を見て、戦術転換を余儀なくされたんだ。いまにして思えば、シーベラは既にあの時、この小さい妹を疑っていた。だから、チェスターと連絡をとった。チェスターとてもエイダについては不吉な予感を持っていた。君も覚えているだろう。彼がシーベラを呼びにゆくことを自分から買って出た時のあの |sub rosa《サブ・ローザ》〔バラは秘密の表象〕なひそひそばなしを。おれはまだエイダを告発していないんだ、だから、おまえも言葉には気をつけろよ、確たる証拠が挙《あ》がるまでは、とかなんとかシーベラに忠告していたんだと思う。シーベラも承知したに違いなく、エイダの名を出して非難するのは控えていた。ところがどうだ、エイダときたら、闇の侵入者がいたとかどうとか、奇怪な話を持ち出し、はては闇の中で自分に触わったのが女の手だったといい出す始末。こうなったら、シーベラにはもうたくさんだ。エイダは自分のことを当てつけているんだと思ったんだ。そこで、抑《おさ》えに抑えていた告発をぶっつけたんだ。見たところ、あの段階では荒唐無稽《こうとうむけい》な告発だったが、そんなこと構っちゃおれなかったのだろう。ここで驚くべきことは、この告発がじつは真相を衝《つ》いていたことだ。ぼくらの一人として、真相のかけらすらも予測がつかなかった頃、既にシーベラは殺人者の名を名指《なざ》し、動機の大部分を供述していたんだからね。ただ、惜しむらくは、供述の矛盾を指摘されると、彼女はへこたれてしまい、心変わりを起こしてしまった。エイダがチェスターの部屋で拳銃を捜しているのを見たと彼女は言ったが、実際に見ていたんだよ」
マーカムがうなずいた。
「なるほど、驚いたね。しかし、既に告発はなされた。とすれば、エイダはシーベラが自分に嫌疑を掛けていることを知っていた。ならば、次の殺人にシーベラを狙わなかったのは何故なんだい?」
「そこが曲者《くせもの》さ。そんなことでもすれば、シーベラの告発にいよいよ重みを加えるだけだろうさ。なんと、エイダのうつ手の美事さよ!」
「話の続きを願いますぜ、先生」と、ヒースが督促した。このままでは話が横道に逸《そ》れそうで、我慢ができないらしい。
「いいですとも、部長」ヴァンスは一段と心地よさそうに、坐り直した。「だが、その前に、天候のことに話を戻してみなければならない。なんとなれば、その後起こったことすべてを一貫するかのように、天候が不吉な動機《モチーフ》を奏《かな》でているんだ。ジュリアが死んで、二晩目は、とても温かい日だったし、雪もかなり解けてしまっていた。エイダにとっては、拳銃を回収するのに、うってつけの晩だった。あれくらいの傷では、四十八時間寝台に寝たっきりという人間はいるものでない。エイダとても、水曜の夜は、もう十分に元気になっていた。そこで、外套をひっかけると、バルコニーに出、数段降りて、拳銃が埋まっているところまでいった。この時は、拳銃を持ち帰り、寝台に隠しただけのことだ――まさかここに拳銃があると思う人間は誰もいないはずだからね。それから彼女は、雪がまた降るのを辛抱強く待った。果たせるかな、次の晩また降りはじめ、君、覚えているだろう、十一時頃にはやんだ。舞台はあつらえ向き、悲劇の第二幕はまさに始まらんばかりだ……。
エイダはそっと起き上がると、外套を羽織り、書斎に降りていった。ゴール人の靴を履き、正門の鉄門まで往復、それから、直ちに二階に向う。こうすれば、足跡は大理石の階段にはっきり残るわけだ。そこで二階のリネン室を靴の一時の隠し場所にした。チェスターが殺される数分前、レックスが聞いたというずり足の音と閉じる扉とはこれだったのだ。君も思い出すだろうが、エイダは後になって、なんにも聞かなかったと頑張ったが、ぼくらがレックスの語ったことを二度も念を押して聞かせたところ、怖気《おじけ》を全身に現わし、閉じる扉だけは聞いたと、一時しのぎの思い出し方をしたじゃないか。まさに、彼女にとっては、生きるか死ぬかの正念場だったのさ! だが彼女もさるもの、そこは美事に切り抜けた。そこで、いまならぼくもよく分るんだが、ぼくらが足跡の紙型を見せ、犯人は邸外からきたんだとぼくらが信じているように見せかけた時の、彼女のあの紛《まぎ》れもない安堵《あんど》の仕方はどうだ……。さて、ゴール人の靴を脱ぎ、リネン室に隠すと、彼女は外套を脱ぎ、寝間着に着換え、それから、チェスターの部屋に向った――多分、ノックもせずに戸を開き、愛想のいい挨拶を一つして、はいっていった。これはぼくの想像だが、彼女はチェスターの椅子の肘掛《ひじか》けに腰をおろしたか、机の端に腰掛けたかしていたんだろう。すると突然、なにやら些細な話をしていたまっ最中、拳銃を取り出し、彼の胸部にぴたりと構えると、ぐいと引金を引いた。これではいかなチェスターといえども、恐慌と戦慄から立ち直る暇もなかったに違いない。それでも彼は、武器が爆発した瞬間、本能的に避けようとした――弾丸が射角に貫通していたのもこのせいなのだろうよ。そこでエイダは、すばやく自分の部屋に引き返し、寝台に潜りこむ。グリーン家の悲劇に、また新たな一章は、こうして綴《つづ》られたものなのさ」
「君は不思議とも何とも思わなかったのかい?」と、マーカムが尋ねた。「この犯罪のいずれについても、犯行時刻には、フォン・ブロンは自分の診療所にいなかったという偶然性についてだよ」
「最初は――思ったさ。しかし、つまるところ、医者が夜のあの時刻、外出していたって、別段異状なことは何もないさ」
「エイダがどうやってジュリアとチェスターを殺害《ばら》したかって話なら、言われるまでもありませんがね」と、ヒースが愚痴った。「だけど、あっしがサッパリなのは、どうやってレックスをやれたかということでさあ」
「まさか、部長、だってそうでしょう」と、ヴァンスがやり返した。「あれくらいの詭計《トリック》にあなたほどの人が面喰らうこともないもんだ。ぼくはとうの昔に気がつかなかった自分を、永遠に許す気になれないでしょうよ――エイダという人間をよく見ていれば、捜査のいとぐちは十分あったはずなんだ。だが、その解説をする前に、グリーン・マンションの建築学的|詳細《デテール》について、若干思い出してみてもらいたいのです。エイダの部屋には、チュードル朝風の暖炉がある。彫刻入りの木の鏡板を張りめぐらしたものだ――それにもう一つ、レックスの部屋にも同じものがある――エイダの部屋のと対《つい》をなしている。しかも、この二つは同じ壁を挟《はさ》んで、背中合わせになっている。グリーン邸は、君も知っている通り、非常に古い。遠い昔――多分、暖炉を作ったのと同じ時――二つの部屋を通ずる孔《あな》を作った。孔の一端はエイダの部屋の鏡板から始まり、他の一端は、それに対応するレックスの暖炉の鏡板へ通じている。このトンネルの模型は、直径が約六インチ――つまり、鏡板一枚の大きさとそっくりだが――奥ゆきは二フィート少々、つまり、背中合わせの暖炉と壁の厚みを足した長さに相当するわけだ。もともと、二室間の秘密通信に使われていたんだと思う。だが、この点は重要じゃない、残る問題は、この種の横坑《よこあな》が現実に存在するという点だ――ぼくは今夜、病院からダウン・タウンにくる途中立ち寄って、この存在を確認したんだ。それから、もう一つつけ加えておくべきだと思うが、この横坑の両端の鏡板はいずれもバネ仕掛けになっていて、したがって、開いた後は、自動的に戻って締まるようになっている。手を放すと、パチンと元の位置に収まり、鏡板細工の表面の一部と見えるだけで、後はなんにも分らなくなるんだ」
「分ったぞ!」と、ヒースが叫んだ。いかにも満足げな興奮の仕方だ。「レックス殺しの仕掛けは昔からよくある奴でさあ。殺人金庫というんで。賊が金庫の戸をあける。するてえと、中に収まっている|はじき《ヽヽヽ》から弾丸が飛び出し、頭に一発|喰《く》らう」
「まさにその通り。同じ仕掛けが殺人に使われた事例は枚挙に遑《いとま》がないくらいだ。開拓の初期、向うの西部でよく使われた手さ。牧場主の留守を見込んで、敵が丸木小屋にやってきて、ドアの上の天井にガンを吊《つる》し、紐の一端を引金に結びつけ、他の一端をかんぬきに結びつけておく。牧場主は戻ってきて――それも何日もたってからだが――丸木小屋に入ろうとした途端、脳味噌をぶっ飛ばされるってわけだ。ところがその頃、殺人者のほうは、遠い他国で悠々《ゆうゆう》としているときたもんだ」
「そうにきまってまさあ!」巡査部長の瞳が輝いた。「二年前、アトランタでそんな殺しがありましたっけ――|がいしゃ《ヽヽヽヽ》の男はボスクームというんで。それから、リッチモンドでだって、バージニアのほうのリッチモンドだが――」
「そういう実例は無数にありますよ、部長。グロッスはオーストリアの有名な二例を引用しているし、この手口の一般論を展開し、なかなか見るべきところがある」
再び彼が『便覧』を開いた。
「ほら九百三十四ページに、グロッスはこう述べている。『最新式アメリカの安全装置は金庫そのものとは無関係に出来ており、それ自体を事実上どんな容器にも付着することができるようになっている。それは科学的安全手段または自動発射装置で構成するものであり、人間が接近して、許可なくして金庫を開いたりすることを、肉体的見地からも、不可能にすることが目的である。窃盗者を有無をもいわせず殺し、またはその健康を阻害することについて、問題の司法的側面はなお熟慮を要するであろう。それにもかかわらず、一九〇二年、ベルリンのある窃盗犯が同じような自動発射装置によって、前頭部を貫通されて殺されたことがあるが、この装置は金庫の装甲ドアに接着されていたのである。同じ種類の自動発射装置がまた殺人の用にも供されたことがある。機械工G・Zは貯金箱の上に拳銃を置き、引金を箱の蓋《ふた》に結びつけ、この仕掛けによって、自分は現実に住居を留守にしている間に、妻を射殺した。ブダペストの商人R・Cは、自分の弟の持ち物である葉巻箱にピストルを仕掛けた。この箱の蓋《ふた》を開いた途端、弟は下腹部貫通銃創を受け、致命傷を負うた。爆発の反動作用で、箱はその位置から吹っ飛ばされ、この装置を白日の下に曝《さら》したもので、R・Cがこれを取り除ける遑《いとま》がなかったからである』……この後述の両犯例とも、グロッスは使用したメカニズムに関する詳細な説明を与えている。そこで、部長、きっとあなたは興味をお持ちだろうと思うが――いや、お待ちなさい、これからぼくが語ることについてですよ――その貯金箱に装置した拳銃は、なんと|靴の手《ヽヽヽ》で留めてあったんですよ」
彼が書物を閉じたが、まだ膝《ひざ》の上に置いたままである。
「ほらね、紛れもなく、エイダがレックス殺しの示唆をえたのも、ここんとこですよ。彼女とレックスの間で、ずっと昔、二人の部屋の隠し通路を発見していたんでしょうよ。これはぼくの想像だが、子供のころ――だって、二人は同じ年ごろじゃないですか――きっと内緒の通信用に使ってたんでしょうよ。それでこそ、二人の間の合言葉――『秘密の郵便箱』という意味も分ってくるというものだ。そこで、エイダとレックスにしか分らない、この二人の秘密が分れば、殺人方法は手に取るように明らかになる。今夜、ぼくはエイダの衣裳用の押入れから、昔式の靴の手を発見しましたよ――多分、トバイアスの書斎から持ってきたもんでしょう。幅は、全部で六インチ、長さは二フィート足らず、まさしく通信用の穴にぴったりだ。エイダは、グロッスの図面を頼りに拳銃の柄をしっかと靴の手の|つめ《ヽヽ》の間にはめた。万力で挟んだような効果があったでしょう。それから、紐を引金に結び、紐の一端はレックスの部屋のほうの鏡板の内面に取りつけた。つまり、鏡板を引いた瞬間、『ヘア・トリッガー』の引金がすぐ引けて、弾丸は横坑を一直線に発射、穴を覗いている人間に間違いなく命中して殺す。レックスが前額部に弾丸を喰らって昏倒した途端、鏡板はばね仕掛けで、ピンと元の場所に戻ってしまう。もはや、発射の源を辿《たど》れるような、見た目の証拠は一切消えてしまう。ここにもまた、レックスのなんの意識も見せない、静かな死に顔の説明があるというものだ。エイダはぼくらに伴われて地方検事局から帰ってきたが、そのまままっすぐ自分の部屋にゆき、拳銃と靴の手を外《はず》すと、それを押入れに隠し、階下の居間に降りてきて、ぼくらに足跡の報告をした――なあに、あの足跡は、出掛ける前に、自分でつけておいたものですよ。ついでだが、階下に降りてくる直前だった。フォン・ブロンの鞄からモルヒネとストリキニーネを盗んだのも」
「だが、そいつはえらいこっだぜ、ヴァンス」と、マーカムがいった。「もしもあの仕掛けが仕損じるようなことがあったら、あの女は|その場《ヽヽヽ》で自分で自分の罠《わな》にはまってしまうじゃないか」
「とてもそうとは思えんね。万が一にもあの罠が働かなかったとか、それともレックスが生き返ったとかいう可能性があったとしても、あの女のことだ、他人に罪を転嫁《てんか》するのは苦もないことさ。あたしはあの穴に符牒《ふちょう》を隠しておいたんです、それなのに、その他人なる男が罠を仕掛けたにきまってます、とそういえばいいんだからね。彼女が銃を仕掛けたという証拠はない、とたかをくくっていたのさ」
「そこで、その符牒《ふちょう》の話はどうなったんです、先生?」と、ヒースが尋ねた。
返事の代わりに、ヴァンスはグロッス第二巻をまた取りあげ、わたしたちのほうに差し出した。右側のページに、いくつもの奇怪な線画が載っている。
「ほら、三つの石と鸚鵡《おうむ》と心臓、それに、部長さん、あんたのいう矢印までありますよ。これはみんな、犯罪世界の符牒なんだ。エイダは架空の説明に、これを利用しただけのことさ。廊下で紙切れを見つけたという例の話にしろ、純然たるでっちあげだが、ぼくらの好奇心をつっつくことになるのを見透かしてたんだ。いや、じつをいうと、その紙切れは誰かの捏造《ねつぞう》じゃないかとぼくは疑ってもみた。紛れもなく、犯罪者の符牒がはいっているんだし、表象の並べ方だって無意味にごたごたしたところがある。だから、これはぼくらがきっと廊下で見つけるように、故意に置いた、偽《にせ》の手掛りなんだとまで考えてみたものさ――あの足跡と同じ伝でね。それにしても、この話を作りあげたのがエイダだろうとは、あの時は夢にも思わなかったさ。それにしても、いまにしてあの挿話を振り返ってみると、それほど表徴的な文書をあの時あの女が持参しなかったとは、奇怪も奇怪、訳の分らん話じゃないかね。それでは論理の糸もつながらないし、合理の枠《わく》にもはまらない。これは臭いぞ、と気がつかなかったとは、なんという迂濶《うかつ》さ! されど――ああ、心強かれ――矛盾と撞着の犇《ひし》めくこの雑会《ざつえ》の人生には、非論理の一つや二つがなんだというんだ? ――ところがどうして、あの女が選んだ囮《おとり》に、まんまとはまってしまった。レックスに電話して、横坑《よこあな》を覗《のぞ》いてみよ、というきっかけを与えたのは、ぼくらなんだからね。だが、ほんとはどっちでもよかったのさ。あの朝の謀略が駄目なら、後でいずれ成功する時もあったろうからね。エイダはまさに忍耐の権化《ごんげ》だったんだ」
「すると、君の説によれば」と、マーカムが遮った。「最初の悲劇の夜、レックスはエイダの部屋の銃声を聞いた。そして、その事実はそっと彼女に打ち明けた、というのかね?」
「むろんさ。その部屋に関する限り、彼女の物語に嘘《うそ》はなかったんだ。ぼくの説はこうだ。レックスは銃声を聞き、うすぼんやりとではあったが、グリーン未亡人が犯人じゃないかと思った。だが、気質的に母と共通していた彼としては、なんにも言わなかった。後になって、エイダに向って、打明ける気になった。そしてこの告白がエイダをしてレックスを殺さねばならぬという気にさせた――いや、既に定めていた手口を有終の美で飾るには、これよりいい方法はないもんだ。なぜなら、いずれにせよ、レックスは秘密の棚《たな》で殺されていたんだろうからね。だが、エイダがここに見つけたもの、それは完全アリバイを作る絶好の機会だった。本人は警官と同席にいながら、銃は発射されるという彼女の思いつきだって、独創的なものじゃないさ。グロッスのアリバイ論を見てみたまえ。その路線のことで示唆に富む資料はいくらでもあるんだ」
ヒースが驚異でも見たかのように歯がみをした。
「そんなしたたかもんにうんと出っくわしたんじゃ、こっちはたまったもんじゃねえ!」
「この父にして、この娘《こ》ありさ」と、ヴァンスがいった。「だが、そうむきになって、あの娘《こ》に感心することもないですよ、部長。あの女には、万事が活字になり、絵になった案内があったんですからね。大事なことは、指令を守り、不動の心を貫くことだけだったんだ。それに、レックス殺しの件にしてからが、ここが大事な点ですよ――なるほど、彼女は現にマーカム検事の部屋にいた。しかし、搦手《からめて》〔|coup《クー》〕をすっかりお膳立てしたのは、彼女自身だったんだ。思い出してみなさい。あんたとマーカム検事がこちらから出向くというのに、いや、それには及ばない、あたしのほうから事務所に参りますと頑張ったでしょう。くればきたで、あの作り話をし、レックスをすぐ呼び出してくれろと言い出した。しかも、どうか自分に電話で話させてくれろと、懇願までしたじゃないですか。ぼくらが承知したのを見て、さっそく例の奇怪千万な符牒の話をし、あたしなら隠し場所ははっきり言えるから、レックスに持ってこさせるような話ができるんだと言い出した。こうしてぼくらは、冷然と坐ったまま、あの女がレックスを陰府《よみ》のかなたに送り出すのを聞いていたとは! 取引所での彼女の挙動を見ただけでも、ぼくはヒントをえていなければならなかったんだ。だが、なんということ! いまだから白状するけど、ぼくはあの朝、とくに知覚がなくなっていたんだ。彼女は興奮と緊張の最高点にあった、レックスの死を知らせると、矢庭《やにわ》に崩れ落ち、マーカム検事の机にとりついて、泣き濡《ぬ》れた。あの涙は本物だったんだ――ただ、レックスの死を悼《いた》む涙などころか、恐ろしい緊張を経過した者だけが知る、反動の涙だったんだ」
「あの銃声を二階で聞いた人間がいなかった理由も、それで分りかけてきたよ」と、マーカムが言った。「拳銃はいうなれば壁の中で爆発を起こしたわけで、だから、完全な消音装置を施したようなものだったのだ。しかし、階下にいたスプルートにあれほど明瞭に聞えたというのは何故なんだろう?」
「君、覚えてるだろう? エイダの部屋の真下は居間の暖炉になっていた――チェスターがいつか言ってたじゃないか、あれは空気の吸いこみが悪いから、めったに火は燃やさないんだって――スプルートがいた配膳室はすぐその向うなんだ。爆音は煙突を下へ伝わり、その結果、一階ではっきり聞きとれたというわけさ」
「ヴァンス先生、あんたはちょっと前おっしゃったですな」と、ヒースが議論を買って出た。
「レックスはきっとあの婆さんを疑ってたんだと。そんならなぜ、フォン・ブロンにあんな風に癇癪玉を破裂させ、罪人扱いにしたんですかい?」
「あの告発は、一義的にはですよ、ぼくに言わせれば、グリーン夫人が犯人だという被害妄想を意識から排除するための、本能的な反動作用だったんでしょうよ。第二には、フォン・ブロンも後で釈明《しゃくめい》した通り、あんたにあんな風に拳銃のことを訊問されたものだから、ついかっとなり、嫌疑を自分から逸《そ》らそうとする意識も働いたんでしょうね」
「エイダの陰謀物語を続けろよ、ヴァンス」と、今度はマーカムのほうが待ち切れなくなっていた。
「続きはいとも明白さ、だってそうじゃないかい? ぼくらが書斎にはいっていたあの午後、外で盗み聞きしていた人物は紛れもなくエイダだったんだ。ぼくらが本のことも、ゴール人の靴も発見したことを知った。ここは彼女としても、速断速決の必要に迫られた。そこで、ぼくらが出てきた途端、母が歩くのを見たとかなんとか、あの劇的な珍談とはなったというわけさ。あんなの、|あちゃらか《ヽヽヽヽヽ》だよ、君。いいかね、あの女はその以前から全身麻痺の本にたまたま出っくわしていた。よく読んでゆくうち、嫌疑をグリーン夫人に集中させることも不可能ではないという発想をえていたんだな――この人物こそ、彼女の全憎悪の究極の目標なんだからね。あの二冊の本は、フォン・ブロンの説が正しいと思うんだが、実際のヒステリー性麻痺と夢遊病を論じたものではないにしても、しかし、この二つの型の麻痺症状に関する引用例が載っていることに間違いはないからね。むしろぼくはこう考えたい。老婦人を最後に殺し、それで、犯人自殺説をでっちあげるのが、エイダの終始一貫した計画だったのだと。ところが、オッペンハイマーが検診をするという思わぬ筋書が現われ、計画の手直しを強制されることになった。彼女が検診のことを知ったのは、フォン・ブロンが例の朝|詣《もう》でのおり、グリーン夫人に伝えているのを立ち聞きしたんだろう。ところが、時既に遅し、ぼくらに向って例の神話めいた夜の散歩者の話をした後だ。こりゃ一刻も猶予はならん、と彼女は思ったに違いない。答えは唯一つ、老婦人は――オッペンハイマー|到着以前に《ヽヽヽヽヽ》死んでいなければならないのだ、物の三十分もせぬうちに、エイダは自分ではモルヒネを嚥《の》んだ。自分と同時にグリーン夫人にストリキニーネを与えたんでは、疑われるという心配があるから……」
「そこで、毒薬の本が登場、という寸法でげすな、ヴァンス先生?」と、ヒースが割っていった。「家のもんに毒を盛ろうとはらを決めるについちゃ、書斎のある本から|ねた《ヽヽ》はすっかり仕入れていた、というわけで」
「ご明察。自分じゃ意識を失う程度にぎりぎりしか呑まなかった――多分、二グレーンぐらいかな。そこで、すぐ助けがくるように念を入れるため、簡単だが、巧妙な手品を用いたんだ。シーベラの犬が急を告げたように見えるというね、なおこの手品はシーベラに嫌疑を向けるというおまけまでついていた。こうしてモルヒネを呑んだ後、エイダは眠気がさしてくる時まで待ち、呼鈴の紐を引き、その房を犬の歯にひっかけ、そこで横になった。病状については、したたか重態なように見せかけたんだ。これじゃさすがのドラム先生も、口と腕とは大違い、たとえ宣伝なさるほどの偉い医者だったところで、探知は不可能というわけだ。なぜならば、モルヒネの徴候は、口から投薬した場合には、投薬の量に関係なく、最初の三十分間はほとんどみんな同じなんだから。そこで、立ち上がる否や、後はただ、グリーン夫人にストリキニーネを盛る機会を狙《ねら》っているだけのこと……」
「君の話はあまりに殺人鬼《コールド・ブラッド》の妖気《ようき》が漂《ただよ》い過ぎ、この世のもんとは思えんよ」と、マーカムが呟《つぶや》いた。
「なあに、エイダの犯罪の先例を探《さが》すんだったら、いくらでも持ってこれるさ。三人の看護婦による大量殺人を覚えてるかい? マダム・ジュガードー、フラウ・ツワンチッヘル、フラウ・ヴァン・デル・リンデン、仏、独、オランダだ。それから、女青鬚のベル・ガンネス夫人はどうだ? レディングの貰い子殺し、アメリア・エリザベス・ダイヤーはどうだ? ピアシイ夫人はどうだ? 冷たい血の殺人鬼? それもあるにはあるさ。だけど、エイダの場合は、激情もあった。ぼくはむしろそう信じているんだが――人間の歴史の中で、この種の『大いなる悩み』〔ゲッセマネ〕の中にあっても、人間の心を冷徹無惨にも耐え忍ばせるもの――それは激情だ。激情に伴う燃えたぎる赤い炎《ほのお》だ。いや、ほんとは白熱化した炎だ。まあ、その問題はどうでもいいが、エイダはグリーン夫人毒殺の機会を狙っていた。そして、その機会はあの夜に訪れた。看護婦は十一時から十一時三十分までの間、三階の部屋に、寝台を作りにいった。そして、この三十分の間に、エイダは母親の部屋を訪れたのだ。彼女が炭酸レモンをどうですと言ったのか、それともグリーン夫人のほうがほしいといったのか、それはぼくらにも永遠に分らない。おそらく前者だと思う。いつも夜になって母親に与えるのが彼女の習慣だったのだから。看護婦が降りてきた時、エイダは既に寝台に戻っていた。見たところはもう寝たように見えた。この時グリーン夫人は、まさに最初の――望むらくは、それっきりの――痙攣発作を起こそうとしているところだった」
「ドーラマズによる死体解剖の報告を聞かされた時、さぞかし驚天動地の思いがしたことだろうな」と、マーカムがコメントした。
「その通りだ。これで彼女の計算は根底から崩れてしまった。グリーン未亡人はこの世にいる限り歩けないんだと言ってやった時の、あの女の感情を想像してみるがいい。だが、彼女の退却ぶりは美事だったさ。ところが、オリエンタル・ショールの件では、すんでのところで、にっちもさっちもゆかぬところだったな。だが、あの急場だって、シーベラに対する嫌疑のいとぐちにすることによって、自分は優勢の立場にまわってしまったんだから」
「あの訊問中のマンハイム夫人の挙動を、君はどう説明するんだい、ヴァンス?」と、マーカムが尋ねた。「エイダが廊下で見かけたのは自分だったかも知れんなぞと言い出した、君、覚えているかい?」
ヴァンスの顔に、一抹の雲がかかった。
「ぼくは思うんだが」と、彼が悲しげに言った。「あの点から、マンハイム夫人も自分のかわいいエイダに疑いを持ち出したんだろう。娘の父親の恐ろしい生涯のことをよく知っていたあの女のことだ。子供になにか犯罪者の遺伝があるんじゃないか、常日頃からそればかしが心配で生きていたんだろうからね」
数瞬、沈黙が続いた。わたしたちは思い思いの瞑想《めいそう》に耽っていた。やがて、ヴァンスがまた話し出した。
「グリーン夫人亡き後、エイダの燃え盛る前途を阻《はば》む者はシーベラだけになった。しかも、殺人劇の最後を飾るのに、見るからに安全な殺人方法に関する発想を与えたのも、シーベラ本人だった。何週前だったか、ヴァンとぼくとがドライブに出掛けた際、二人の少女とフォン・ブロンを連れていったものだが、その時、シーベラが毒を含んだひやかし気分を出している間に、うっかり口を滑《すべ》らした言葉があった。狙う生贄《いけにえ》を自動車に乗せたまま、絶壁から突き落したらどんなもんだろうというんだね。シーベラが自分で自分を亡き者にする方法を示唆しようとは! これを聞くエイダの身にすれば、持ち前の物事はけじめよくという精神にぞくぞくと訴えるところがあったと思うんだ。姉を殺しておいて、いやあたしこそシーベラに殺されかけたんだ、だけど、あたしは相手の意図が察しがついたので、すんでのところで車から飛び降りたんだ、ところが、シーベラ姉さんは自動車のスピードを勘違いし、そこで、崖からまっ逆さまに飛びこんじまったのだ、とまあこんな風にエイダが主張するつもりだったとしても、ぼくは全然驚かなかったろうさ。まさしくこの殺人方法をシーベラが胸に抱いていたということに対しては、フォン・ブロン、ヴァン、それにぼく三人の生証人がいるという事実がエイダの供述に重みを加えるに違いなかったろうからね。しかも、それはなんと粋《いき》なハッピイ・エンドだったか――殺人者シーベラは死んだ。事件は落着。エイダのみが、グリーン家巨万の富の相続人、この世は好き放題! それに――いやはや、なんたるこっだ、マーカムよ! ――まさにその通り、めでたし、めでたしになる一歩手前だったんだ」
ヴァンスは溜息《ためいき》をつき、酒瓶に手を伸ばした。一同の杯になみなみと注いだところで、彼がまたそっくり返り、陰鬱そうに煙草をふかし出した。
「いったい、この恐ろしい陰謀はどれだけ永い間、準備されつつあったものやら? もうぼくらには永遠に分らない。恐らくは多年の間だろうが、エイダの準備には短兵急なところはなかった。あらゆることが入念に策定された。後はただ状況――いや、機会というべきだ――の成りゆき次第だ。ひとたび拳銃を手に入れた後は、足跡をつくり、必ずや銃がバルコニーの吹雪の中に埋もれて見えなくなる機会を待つだけだった。そうなんだ。彼女の計画にとって、最も本質的条件、それは雪だったのだ――まさに驚くべし!」
* * *
この記録に、これ以上つけ加えることはほとんどない。真相は公けにされることなく、事件は迷宮入りにされた。次の年、トバイアス・グリーンの遺言状は最高裁判所、衡平《こうへい》部の手によってくつがえされた――つまり、あの家で起こったすべての事情に鑑《かんが》み、二十五年の居住条項は無効の判決を受けた。そして、シーベラがグリーン家の財産を全額継承した。この判決に対し、マーカムがどんな影響力を行使したか、わたしは知らない。ただ、この判決を下した与党側裁判長に彼が影響力を持っていたことは事実であろう。それに当然な話だが、わたしから質問したこともない。ただ、古いグリーン・マンションは、読者も覚えておられる通り、その直後に取り壊《こわ》され、不動産は土地会社に譲渡された。
マンハイム夫人は、エイダの死に傷心の人となり果ててはいたが、それでもエイダの遺贈分を要求したが――シーベラは心優しく二倍にして与えた――そのままドイツに引揚げた。チェスターの言葉ではないが、いつも文通を絶やさなかった姪《めい》や甥《おい》に囲まれて、どんな安らぎを覚えていることやら? スプルートは英国に戻った。故国への出発まえ、彼がヴァンスにいうには、彼はずっと以前からサリーで木小屋住まいに引退し、あてどもなく彷徨《ほうこう》し、死が自分の魂を甦《よみがえ》らせるまで生きていたい計画だという。いまわたしの目に映《うつ》るのは、名園「キュー・ガーデン」を見おろす、蔦《つた》の這ったポーチに坐り、大好きなマルシアリスを読んでいる彼の姿だ。
フォン・ブロン医師夫妻は、遺言に関する判決があった直後、リヴィエラに向って船出した。そこで一年間、遅れた新婚旅行を過ごしたが、いまは夫妻ともに、ウィーンに落着き、フォン・ブロンは父親の母校だった大学で、講師をしている。聞くところによれば、精神病学の分野で、相当な名声を挙げているということだ。
下世話な話だが、一つだけつけ加えさしてもらいたい。数ヶ月前、わたしの友人がウィーンから帰ってきて、シーベラが跡継ぎの男の子を出産したという便りをくれた。この話を聞いて、わたしはちぐはぐな感じに打たれた。シーベラの母親姿がわたしにはどうもピンとこないのだ。しかし、わが国の有名な社会学者の一人が最近わたしに保証するには、近代女性こそ、外面には無頓着、かつきわめて文化的様相を漂わしているけれども、あの下には熱烈な、古い伝承による母性愛を秘めているのだという。「いや、ほんとなのさ」と、この有名な社会学者は言った。「近代女性こそ最善の母になるんだよ」と。然らば、シーベラがこの楽観主義をきっと裏書きするように、心から祈りたいものだ。
〔注 わたしは後になって、彼が最後に到達した事件の順列・組合せを、元の通りに並べてくれないかと頼んでみた。この配列こそ、彼が真相に達した順序だったわけだが、それは次のようになる。
3、4、44、92、9、6、2、47、1、5、32、31、98、8、81、84、82、7、10、11、61、15、16、93、33、94、76、75、48、17、38、55、54、18、39、56、41、42、28、43、58、59、83、74、40、12、34、13、14、37、22、23、35、36、19、73、26、20、21、45、25、46、27、29、30、57、77、24、78、79、51、50、52、53、49、95、80、85、86、87、88、60、62、64、63、66、65、96、89、67、71、69、68、70、97、90、91、72――〕
解説
数ある本格推理小説の名作の中でも、ヴァン・ダイン〔本 名W.H.Wright 一八八八〜一九三四。美術評論家〕の、わけても本編が古典的位置を占めていることは、わたしがいまさら書くまでもない。十指にあまる彼の作品の中でも、「カナリヤ殺人事件」「僧正殺人事件」と本編の三つは、とくに傑作といわれるものだが、緊密なプロット、堅牢《けんろう》なアリバイ、最後に大伽藍《だいがらん》の崩れを思わせるような大団円の意外性など、本格推理の醍醐味《だいごみ》を満喫させずにはおかないものを持っている。そして、それらを綴《つづ》る文脈の格調の高さ、サスペンスとペーソスの交錯、人生の万華鏡を現わすような登場人物の選定など、あくまでもポー、コナン・ドイルの伝統に立つ作風が、謎解き以上のエスプリと香気を発散させている。
とくに「グリーン家殺人事件」はかつてエラリー・クィーンによる読者投票でも第一位を占めたことでも分る通り、英米の愛好者が多い〔わが国の推理小説作家にも大きな影響を与えているように見受けられるが〕。
この人気の秘密をさぐるために〔そして、この新訳の態度をも明らかにするためにも〕、わたしはこれまでの解説者とは少し違った視点から、ヴァン・ダインの文学性について語ってみたい。それを語るためには、わたしとヴァン・ダインとの出会いから語るのが早道だ――。
わたしの運命は、終戦後間もなく、わたしをニューヨークのある大学生にしていた。アメリカの歴史や文学に興味を持っていたわたしにとって、いつしかヴァン・ダインが生きた案内書になっていた。ブロードウェイを徘徊《はいかい》しては、歌姫「カナリア」が浮名を流したという芝居小屋や酒場を覗《のぞ》いてみたし、本編の舞台になっている五十三丁目東の「グリーン屋敷跡」にも何度かいってみた〔もちろん、そんなものはない。後年、ロンドンを訪ねた時にも、シャーロック・ホームズの家があったというベーカー通りを歩き廻《まわ》ったが、あの番地は、もちろん、実在していない〕。しかし、セントラル・パーク横の安下宿から抜け出して、この方向にゆく道筋には、不思議と葬式屋や棺桶《かんおけ》屋が多く〔メルヴィルの『白鯨』にも出てくるが〕、どことなく陰気で、それでいて魅惑的な探偵小説の気分を漂《ただよ》わせていた。しかも、五十三丁目の端から、すぐ対岸に見える小島には、歴史にも名高い精神病院があるのだ。そこを折り返して中央に出てくると、五番街《フィフス・アヴェニュー》につき当る。町はがらりと様相を一変する。絢爛豪華《けんらんごうか》な流行品の店、ティファニーがあったり〔ヴァン・ダインも他の作品で言及している〕、聖パトリックの大伽藍も聳《そび》えている。この鮮《あざや》かな明暗の対照が、大都会の犯罪と悪の華を表徴しているように、わたしには見えた。
素人探偵ヴァンスがいたという高級住宅地、三十八丁目東のあたりも、わたしがいた頃は既に貧民街《スラム》になっていた。ここを少し西に出てくると、あの世界一高いエンパイア・ステート・ビルが聳え立っているのだが……。
しかし、本編大団円の舞台になっている北の郊外、ヨンカースのあたりだけは、作品に書かれている通り、雄大|清冽《せいれつ》なハドソンの風光が楽しめたものだ〔その後、ここいらにも高いアパート群が建ち並び、すっかり様子が変わってしまっているが〕。
ニューヨークの警察本部、古い伝統を持つ「刑事法廷ビル」、その裏の市刑務所〔通称、お墓〕なども、メルヴィルの小説にも出てくるくらい古い建物なので、よく徘徊したものだ。ここはマンハッタンをずっと南に下った、いわゆる「ダウン・タウン」にある。分り易く言えば、株式金融市場のあるウォール街のすぐ近くだ。有名な市庁舎《シティホール》もこの辺にあって、かつて腐敗と疑獄が罷《まか》り通ったニューヨーク市政の思い出を甦《よみがえ》らせてくれる。そういうわけだから、司法の座、「地方検事局」もここいらにある〔昔は、司法当局が悪政の第一線だったものだ〕。
この地方検事という職は、連邦政府に代わり、郡内《カウンティ》の治安権を掌握《しょうあく》している公職〔選挙制〕なのだが、ニューヨーク市だけでも五人の地方検事がいる〔市は五つの郡からなる〕。選挙民の人気を気にしながら、党利党略と法との板挟《いたばさ》みになって暗躍する地方検事の実態を知りたい読者は、ヴァン・ダインと同時代の作家、ドライサーの『アメリカの悲劇』を一読されるといい、そういうわけだから、ヴァン・ダインの描くマーカム地方検事は抽象的な造型でしかない、というよりは、彼の執筆当時、粛清の新風を吹きこんでいた鬼検事〔ただし、ニューヨーク州検事局〕ラガーディアを髣髴《ほうふつ》たらしめるものがある〔市からギャングが一掃されたのも、ラガーディアが後に市長になってからであった〕。
ヴァン・ダインの魅力は、こうした土地柄が背景になっているものだが、彼の文学の、もう一つの魅力は、アメリカの生きた言葉が活写されている点にある。折目正しい、格調ある標準米語を生地《きじ》にして、教養に富んだ日常語《ハウスホールドワード》や自由|濶達《かったつ》な慣用句《コローキャリズム》、さては、アメリカ各地の地方語、俗語《スラング》などが巧みに駆使され、登場人物の色分けが一目瞭然とするように描かれている。
アメリカで生っ粋の標準語といわれているのは、ハーバード英語という奴《やつ》である〔彼の小説の主人公三人――地方検事、探偵、語り手――がいずれもハーバード出身になっているのに注意〕
もちろん、ハーバード出の人に言わせれば、そんなものはありえないと否定するけれども、しかし、この州には「国語改良課」という役所まであり、ニューヨークあたりの学校が標準国語の先生をこの州から求めているのも事実だ。エマソン、ソーロー、ホーソンといった文学者の例を引くまでもなく、アメリカの雄弁術といわれるものが、ここいら出身の多くの思想家、政治家たちによって築かれたものであることを思い出すだけで十分であろう。それは一種の論証的で説得的な話法《ディクション》ともいうべきもので、他の地方には見られない、独得の力強さを持つ言葉になっている。発音にしても、歯擦音《しさつおん》が多いとか、アクセントが強いとかいった特徴があり、ハーバード出身者の英語が格調高いものだというのは、争えぬ事実であろう〔わたしがヴァン・ダインの作品を英語を学ぶ学生に推薦するのも、こんな理由からだ〕。
そこへゆくと、六十数ヵ国語が話されているといわれるコスモポリタンの都会、ニューヨークでは、特有で普遍的な地方語があるようには思えない。しかしそれでも、この土地の名をヌーヨークと発音している人と出逢ったら、土地っ子じゃないかと思えばいい〔多分、オランダ訛《なまり》であろう。ここはもともとオランダの植民地だった〕同じ字を書いて、|ヌ《ヽ》ワークと読まなければ、誰にも分ってもらえないニューワークと書く町の名前もあるくらいだ。
しかし、ニューヨークの警察官だけには特有な地方語がある。ここの巡査にイタリア人とアイルランド人が圧倒的に多いというのも伝統の一つだ〔リンカーン時代には、ケネディという名の鬼刑事がいたし、前述のドライサーの小説にもこの伝統のことが書いてある〕。ヴァン・ダインがこれを見落とすはずはない。本編の警視総監の名前からして、アイルランド人の名だし、剛腹もんで勇み肌、不撓《ふとう》不抜の鬼刑事ヒースに到っては、聖母マリアを神呼びする、旧教徒のアイルランド人でなければやらない呪咀《スウェアリング》だ。
圧政と飢饉《ききん》の故国を追われて移民してきたアイルランド人の社会史は、アメリカ歴史を語る上に決して見のがすことのできない側面である。
南部では奴隷よりも下だといわれた小作人たち〔その典型的な例が『風と共に去りぬ』のスカーレット父娘《おやこ》に見られる〕、西部では大平原開拓の先頭に立たされた鉄道労務者群、そして名だたるガンマン列伝中の人たち、東部でははっしこい商人、さては、おきゃんで蓮っ葉の、赤毛の姉御《あねご》たち……この人種特有の反逆精神と理想主義、知性と謀略、勇気と向う見ずなどの両極端は、皆さんが文学に、映画に、現実の政治の舞台に、如実に見てこられた通りのものなのだ。
このアイルランドの話し言葉を、昔から |brogue《ブローグ》 という。|どたくつ《ヽヽヽヽ》という意味である。ニューヨークの巡査に|どたくつ《ヽヽヽヽ》英語が多いのも、こうした伝統によるものなのだ。
ロマンと文化の香りをいまも絶やさないのは南部人だ〔南北戦争が南部にとってはロマンのためにという旗印で戦われたことを想起せられたい〕。したがって、土地の話し言葉も悠長で、典雅の気風が漂う〔もともと、英国とフランスの貴族が植民した土地であった〕。南部を旅行してすぐ気がつくのは、母音を長く伸ばし、子音〔H〕を欠落《スラー》させた発音であろう〔こんなのを |drawl《ドロール》 という。手《ハンド》も「アーン」と聞える。ボルチモアという地名も土地っ子は「ボルモア」と発音する。ニューオルレアンズと書く地名だって、南部人はニュー|オー《ヽヽ》リン〔ス〕と聞えるような発音をする〕。
しゃれ者の素人探偵ヴァンスが盛んに |drawl《ドロール》 を連発するのも、著者が設定するように、英国の上流階級語たるオックスフォード訛だけのせいではないはずである。コナン・ドイルの描くアメリカ英語が結局は英国的米語になってしまっているのと軌《き》を同じくするものであろう〔両者とも、お互いの特徴を巧みに捉えてはいるが〕。
こうした優雅な南部訛を最も美事に活写したのは南部人ポーであった。彼の『黄金虫』に出てくる黒人英語ほど、すばらしい南部訛の表徴もちょっと見当らない。黒人は字で習うのではなく、耳で覚えたろうから、ドロールののどかな余韻があますところなく表現されたとしても無理からぬ話であろう〔ポーの文章の優雅な美しさも北部人作家には見られないものの一つである〕。
ヴァン・ダインが英米人に人気がある背景の一つとして、以上、言葉の問題を取り上げてみたけれども、彼の魅力の最大のものは、ポー以来の伝統であるところの、鋭い文明批評であろう。とくに、著者の造詣深い美術批評が作品の背骨《バックボーン》となり、重厚で、しかも鋭利な反逆精神となって現われている。素人探偵ヴァンスは、この意味で、著者の代弁者《マウスピース》である。物質主義万能の、精神の底の浅いアメリカ文明に見切りをつけたヴァンスは「疎外者」であり、「エトランジェ」だ。そしてこの疎外者の本質が、じつは最もロマンチックで人間的で、しかも最も論証的だという自己撞着《じこどうちゃく》と矛盾こそ、近代文明の根本的アイロニーなのだ。この時代、アメリカを棄てていった文学者、詩人がどんなに多かったことか!
わたしの推理小説趣味もとんでもない方向に飛躍してしまったが、裏を返せば、ヴァン・ダインの本質が他の同類作家と違っている点もそこにある、ということになるのであろう。
しかし、ヴァン・ダインは理屈抜きに面白い。生きた町、生きた人間、生きた言葉を描いているヴァン・ダインの面白さは、時代は変わり、読む人の国は違っても、いつまでもつづくことだろう。
なお、犯罪社会に隠語はつきもののようで、本場の英国よりも、アメリカのほうが、日本の場合に似ているから妙な話だ。
brad〔darb 手錠〕 slop〔polis サツ〕 enob〔bone 骨、陰茎〕のような倒錯用法は、日本のれつ〔共犯、つれ〕、まいしん〔新米〕などと同じ心理だし、ほし〔目星〕を現わす bird〔目立つ人間の意〕と共通だ。
この訳には、警視庁刑事課編の『隠語類集』を参照させて頂いた。この本が一般に上梓されていないのが惜しまれる。(訳者)
◆グリーン家殺人事件(下)◆
ヴァン・ダイン/坂下昇訳
二〇〇六年二月二十五日 Ver1