ヴァン・ダイン/坂下昇訳
グリーン家殺人事件(上)
目 次
第一章 悲劇二重奏
第二章 捜査開始
第三章 グリーン屋敷にて
第四章 行方不明の拳銃
第五章 殺しの可能性
第六章 告発
第七章 ヴァンス、事件を分析す
第八章 第二の悲劇
第九章 三つの銃弾
第十章 閉じた扉
第十一章 痛ましき訊問
第十二章 ドライブ行
第十三章 第三の悲劇
登場人物(登場順)
語り手(ヴァン・ダイン)……ニューヨークの弁護士
ファイロ・ヴァンス……エリート族、素人探偵、美術愛好家
ジョン・F・X・マーカム……ニューヨーク特別地区地方検事
アーネスト・ヒース……ニューヨーク警察本部殺人課、巡査部長
チェスター・グリーン……グリーン家長男
ジュリア・グリーン……グリーン家長女
シーベラ・グリーン……グリーン家次女
エイダ・グリーン……グリーン家末女、ただし養女
レックス・グリーン……グリーン家次男
トバイアス・グリーン夫人……グリーン家当代の女主人
アーサー・フォン・ブロン……グリーン家代々の侍医、ドイツに留学す
スプルート……グリーン家家令、英国人
ゲルトルート・マンハイム……料理女、ドイツ人
ヘミング……小間使い、熱烈なカルビン信者
バートン……小間使い
オブライエン警視正……ューヨーク警察本部総監
スニットキン……殺人課刑事
第一章 悲劇二重奏
(十一月九日、火曜日、午前十時)
永いこと、わたしには腑《ふ》に落ちないことがある。世には一流の犯罪学者も多いというのに、あのグリーン家にまつわる悲劇的|顛末《てんまつ》に、もっと紙数を割《さ》く人がいないというのはどうしたことだろう? ――例えば、エドモンド・レスター・ピアサン、H・B・アーヴィング、フィーサン・ヤング、キャレン・ブルークス、ウィリアム・ボライゾウ、ハロルド・イートンなど、みんなそうだ。じつは、この事件こそ、紛《まぎ》れもなく現代屈指の殺人ミステリーの一つなのであり――犯例としても、近代犯罪史上、稀《まれ》に見る、特異な事件なのである。だが、そういうわたしですら、自分が採録しておいた事件の尨大《ぼうだい》なメモを読み返し、また事件の公式文書をあれやこれやと吟味《ぎんみ》してゆく間には認めざるをえないのだが、事件の真相はいまだに杳《よう》とした神秘に包まれたままなのだ。これではどんな想像力にすぐれた犯罪作者だろうが、事件の秘める論証中断を埋《うず》めるのは覚束《おぼつか》なかろう。
なるほど、外面的事実だったら、全世界が知っている。当時、アメリカでも、ヨーロッパでも、ジャーナリズムは、一月にもわたって、この奇々怪々な悲劇の記事で賑《にぎ》わったものだ。そのうえ、事件の裸の輪郭《りんかく》そのものが、どこか異常で、絢爛《けんらん》たるものにいつも憧《あこが》れる、あの大衆特有の猟奇《りょうき》心を満足せしめずにはおかない要素を持っていたのだ。しかし、やがて訪れた大団円《カタストローフ》の奇想天外さ! これだけは、どんなに飛躍した大衆の妄想をもってしても、到底及びもつかない意外性に満ちたものではあった。そういうわけなので、わたしは今初めて、この事実を公表しようと腰を落着けているこの瞬間にも、どこか現実を超えた、夢幻の境に遊ぶ思いがしてならないのだ。かくいうわたしが、事件の間発生した、幾多の挿話《そうわ》の生き証人であり、その現実性については、抗《あらが》いがたい実録の持主であるにもかかわらず、である。
この兇悪犯罪の背後にひそむ発明の才が、いかほど悪鬼羅刹《あっきらせつ》をも凌《しの》ぐものであり、犯罪を誘発せしめた心理的動機が、いかばかり歪曲《わいきょく》されたものであったか、そして、犯罪の技法がどんなに奇怪で、隠された淵源に遡《さかのぼ》るものであったか――それについては、世界は全く知らない。のみならず、事件を解決へと導いた。分析《ぶんせき》のプロセスについても、解明の光が投げかけられたこともかつてない。さらに、その解決のためのメカニズムに不随して発生したさまざまな挿話《エピソード》――その一つ一つが、じつは最高にドラマチックで、異常なものだったが――にいたっては、記事になったことすらもない。事件を終結へと導いたのが、普通の警察機構による捜査方法の結果だったのだと、大衆はいまも信じている。これも理由のないことではないのであって、大衆は犯罪自体の持つ、基本的な要因の多くについて、認識していないのだし、さらに、ニューヨークの警察本部も、ニューヨーク特別地区地方検事局も、まるで暗黙の諒解《りょうかい》でもあるかのように、本件の真相をひた隠しに隠してきたのだ――どうせ発表したところで、不信で迎えられるという配慮からだったのか、それとも事件の様相にこの世のものとも思われぬ、身の毛のよだつものがあり、いまもなお、人間の口では語れないというだけのことなのか、それはわたしにも分らない。
以上の次第なので、わたしがこれから綴《つづ》ろうとする記録は、グリーン家大量殺人事件に関する最初にして、完全な実録なのであり、いささかの編集の手ごころも加えてないものだ〔望むらくは、蛇足になればいいが、わたしはこの仕事に対して当局の許可をえたものである〕。わたしが思うに、事件はいまや一つの歴史となった、だから、真相は公表されねばならない。わたしたちは歴史的事実に蓋《ふた》をしてはいけない。それにもう一つ。事件解決の栄誉を担《にな》う資格のある人間が実在するというのなら、栄誉はその人に帰すべきである、とわたしは信じている。
この神秘劇に解明の光を投げかけ、この阿修羅《あしゅら》絵巻に終幕をおろさせた人間――それは誰あろう、警察とは一切の公的関与を持たない、一人の人物だったのだ。したがって、この殺人事件の公式文書の中では、この人物の実名は一度として現われない。ところが現実にこの人物が存在せず、またこの人物による斬新《ざんしん》な犯罪推理の方法論がなかったとしたら、グリーン一族に対する兇悪無比《きょうあくむひ》の陰謀は決定的成功を収めていたかも知れないのである。警察はその捜査活動に当って、犯行の歴然たる外観のみに捉われ、予断的に取り組んでいたに過ぎなかったから、その間隙《かんげき》を縫うように、犯人の作戦は、通常の捜査官の理解をはるかに超《こ》えた次元で、着々と展開されつつあったのだ。
この人物――たゆみない精励と失望の繰返しであった幾週間かの分析の結果、とどのつまりは、恐怖の根源をつきとめたその人間は――当時はまだ若い、社会的には貴族階層の一員で、ニューヨーク地方検事、ジョン・F・マーカムの親友だった。この人間の姓名を明かす自由をわたしは持たない。そこで、この一連の物語のために、仮にファイロ・ヴァンスという雅名で呼ぶことにしたい。彼はもはやこの国にはいない。五、六年も前のこと、本籍をフィレンツェ郊外の別荘に移したし、それに、アメリカに戻る意志も持っていない。そこで、彼がいわゆる『法規範の公平なる友』|Amicus Curie《アミカス・キュリエ》 として参加した各種犯罪事件と記録を出版させてくれないかとわたしから申し出たところ、快諾を与えてくれたというわけである。一方のマーカムも、いまは引退して、一般の市民に戻っていることだし、警察本部を代表して、グリーン家事件を担当した、剛腹《ごうふく》もんで廉直《れんちょく》な警察官、アーネスト・ヒース巡査部長も、思わぬ遺産が転《ころ》がりこんだのをきっかけに、生涯《しょうがい》の念願が叶《かな》い、いまはハドソン渓谷《けいこく》の上流、モーホック盆地にモデル農場を建て、珍種のニワトリ、ワイアンドットの養育に余念がない。こういった事情の変化があって、わたしのグリーン家の悲劇にまつわる真相の発表も可能になったという次第である。
わたし自身のこの事件に対する参加〔「参加」といったところで、現実には、わたしの役割は受身の観察者のそれに過ぎないのだが〕――を説明せよというんなら、ほんの数語で足りる。数年の間、わたしはヴァンスの顧問弁護士をしていた。わたしは父の法律事務所――「ヴァン・ダイン、デーヴィス・アンド・ヴァン・ダイン」――からも身を退《ひ》いていたが、それというのも、ヴァンスの法律上財務上の用件に専念するためだった。ついでだが、その用件というのはたくさんはなかった。ヴァンスとわたしとは、ハーバード大学の修士課程《アンダーグラジュエイト》時代からの友人で、彼の法的代理人、金銭上の執事という新しい仕事をさせてもらったおかげで、閑職の傍《かたわ》ら、たくさんの社交的、文化的な見返りにも恵まれていたものである。
ヴァンスは当時三十四歳だった。六フィートになんなんとする長身で、すらりとした、筋肉質の、典雅な男だった。彫りの深い、端正な風貌が、彼の顔に力と統一を現わす塑像の魅力を与えていた。しかし、表情には一抹の嘲笑《ちょうしょう》するような冷やかさがあり、これが美男という呼称を彼に与える可能性を奪い去っていた。目は超然として、陰鬱に曇り、鼻はきりっと筋が通っていて、口許には、残忍と禁欲主義とを二つながら偲《しの》ばせるような線があった。しかし、こうした容貌の厳しさにもかかわらず――それが彼と同僚との間の透明なくせに、滲透することのできない壁になっていたものだが――彼は非常に感受性の強い、情緒に動かされ易い人間だった。それに、態度にこそいくらか超然として、人を見下すような風があったにせよ、しんから彼を知る人間にとっては、それが拒《こば》みがたい魅惑となっていたものだ。
彼の教育の大半はヨーロッパで身につけたもので、いまだにオックスフォード風のアクセントと語調が微《かす》かに尾をひいていた。もっとも、あるきっかけで、わたしには分っていたのだが、これとても虚栄というようなものではない。彼という男は、他人の思惑には目もくれない人間なのだから、わざとポーズを構える必要はどこにもないわけだ。彼は飽《あ》くことを知らぬ、人生の探究者だった。心情はいつも知識の追究に向っていて、暇さえあれば民族学や心理学の研究に没頭していた。彼が最大の知的情熱を捧げたのは、美術だったが、幸運の星の下に生れたおかげで、蒐集《しゅうしゅう》熱に耽《ふ》けるだけの所得は持っていた。だが、それにもかかわらず、彼には心理学に対する飽くなき興味があり、個人の行動規範を一般心理学で分析してみるという能力にすぐれてもいたから、それがひいては彼の注意を、本来がマーカムの領域であった犯罪の方面に向けさせていったものである。
彼が参加した第一の事件は、わたしがどこかで綴《つづ》っておいたアルヴィン・ベンスンの殺人事件である〔「ベンスン殺人事件」一九二六年発生〕。第二は、一見解決不能と見えた、ブロードウェイの有名な歌姫、マーガレット・オーデル嬢の絞殺《こうさつ》事件である。〔「カナリヤ殺人事件」一九二七年発生〕そして、このグリーン家の惨劇が起ったのは、同じ年の秋も深まる頃だった。前の二つの事件の時もそうだったが、わたしはこの新しい捜査の完全な記録をとっておいた。どんな資料でも、手に入る限りのものは進んで手許に保管しておいたし、警察の秘密文書だからと断わられたものでも、逐語的写しを作っておいた。それに、ヴァンスと捜査官憲との間の会議でかわされた無数の会話にしても、公式のものだろうが非公式のものだろうが、その場で走り書きにしておいた。それだけではない。この外にも、わたしは日記をつけていたが、憚《はばか》りながら、その丹念《たんねん》な完璧《かんぺき》さにかけては、日記作家で有名なサミュエル・ピープス先輩でも長嘆息するんじゃないかと、ひそかに自慢しているくらいだ。
さて、グリーン家殺人が起ったのは、マーカムが地方検事の職に就任した最初の年もやがて暮れようとする頃であった。読者もご記憶かと思うが、あの年は冬の訪《おとず》れが非常に早かった。十一月だというのに、二度も激しい猛吹雪《ブリザード》に見舞われ、この月の降雪量だけでも過去十八年間の現地記録を全部破ったくらいだ。わたしがこのいつにもなく早い雪の訪れに触れるというのも、じつは、この雪がグリーン家事件の中で、ある隠微な役割を演じていたからである。いや、そういうよりも、じつは雪が殺人者の計画にとっては、決定的な要因の一つにさえなっていたのだ。しかし、この晩秋の季節にふさわしからぬ天候と、やがてグリーン家に降りかかってきたところの死を呼ぶ悲劇との間にどんな因果関係があるのか、当時から分っていた者は一人もいなかったし、においすら嗅《か》ぎつける者もいなかった。無理もない話だ。事件の持つ黒い秘密の一切はまだ明るみに出ていなかったのだから。
ヴァンスがベンスン殺人事件に引きこまれたのは、マーカムから直接の挑発を受けた結果だったし、歌姫「カナリヤ」の事件での活動は、自分から一役買いたいと申し出た結果によるものだったが、グリーン事件の捜査に参加するようになったのは、偶然のいたずらという外はない。彼の力で『歌姫』の死因が解決されてから、二月《ふたつき》が経過していった間のこと、マーカムが数回となく訪れてきては、地方検事局のしきたりを話したついでに、捜査一般にはつきものの法の盲点という、古くて新しい議題についていろいろと語ったものだ。そして、グリーン事件の名が出たのも、この種の問題に関する非公式の議論の最中だった。
マーカムとヴァンスは長い間の知己だった。二人は趣味も違い、倫理的世界観も異にしていたが、それでいて、お互いを心の底から尊敬し合っていた。わたしはこの両極端の二人の間に横たわる友情の非凡さを思い、驚嘆することが多かったが、しかし、年が進むにつれ、わたしにもだんだん理解ができるようになった。いうなれば、お互いが相手の特性に、自分の本性には欠けているものを認め合い――もちろん、それを認めることは、ある種の抑圧された自己嫌悪を伴うものであろうが――それがお互いを惹《ひ》きつけ合っている、とでもいうのだろう。マーカムは直情径行《ちょくじょうけいこう》で、ぶっきらぼうで、機に臨んでは高圧的で、人生を厳粛無残な関心で受容し、おのれの法的良心に従う時は、どんな障害をも顧みることなく行動する。誠実で、清廉潔白《せいれんけっぱく》で、不撓不屈《ふとうふくつ》の人間だ。これに対し、ヴァンスは移り気で、優雅で、それでいて冷笑主義の虜《とりこ》になっている。冷笑主義とはいっても、ローマの風刺詩人、ジュヴェナリス流の若さと活力に満ちたものだ。だから、人生のどんな冷厳な現実に対しても、皮肉屋の微笑で迎え、終始一貫、人生に距離を置いて、しゃれ者の精神で見つめながら、人生の傍観者という役割を演じてゆく人間だ。それでいて、人間を理解することにかけては、彼の美術に対する造詣《ぞうけい》の深さとなんら変わるところはなかった。
彼の動機の解剖、性格に対する鋭い読みにいたっては――わたしは多くの場面で、それを目撃したものだ――幽鬼の気に迫るくらいの正確さがあった。マーカムはヴァンスのこうした特質をよく認識していたし、その真価を感覚で知っていた。
たしか十一月九日の午前十時にならない時刻だったと思う。ヴァンスとわたしは、フランクリン通りとセンター通りの角に当る、由緒《ゆいしょ》ある刑事裁判所ビルに車でゆき、直接、四階の地方検事局に昇っていった。この記念すべき朝、二人のギャングが、最近の給料日強盗事件で殺人の原因になった発砲をしたのは、おまえだ、いや、おまえだとなすりあっているということで、マーカムの手で反対尋問に付される予定になっていた。この訊問《じんもん》の結果次第では、二人のうちどちらかを殺人容疑者に、どちらかを検察側証人にする結論を引き出すことになっていた。マーカムとヴァンスは前の晩、『スタイヴィサント・クラブ』の喫煙室でこの状況について論じ合ったのだが、ヴァンスが訊問に立ち合ってみたいといい出した。マーカムもよろこんで同意を与えたので、それでわたしたちは早起きをし、ダウン・タウンへ車でいったわけである。
二人の容疑者の訊問は一時間も続いたが、ヴァンスの意見は、なんとも驚いたことに、どちらも現実の狙撃犯人じゃないというのだ。
「だってさ、マーカム」と、ヴァンスが母音を長びかせた、例の優雅な英語でいった。保安官が二人の被告を『お墓』〔ニューヨーク市監獄、すぐ隣り〕へ連れ去った後のことである。「あの二人の恐喝《かつあげ》先生たち、しんから誠実なのさ。どちらも自分が真実を語っていると信じこんでいる。ゆえに、どちらも発砲者にはあらず。これが三段論法さ。いとも嘆かわしき愁歎場《しゅうたんば》とはなりにけり! 奴らはどうみたって絞首台ゆきの犯人《ホシ》にできてるんだ――生れた時から、首吊り台が運命のね。それを摂理の定めたもうた通りの、運命の終りをかなえさせてやれないというんじゃ、こいつは飛んだ面汚《つらよご》しだろう……おい、例のピストル強盗にはもうひとり連れがいたんじゃないか?」
マーカムがうなずいた。「もう一人はトンズラした。この二人にいわせると、そいつはエディ・マレッポという、名の売れたギャングだというんだ」
「ならば、そのエドワルド君が真犯人《ほんボシ》〔後になってこの言葉の正しさが立証された。一年近く後のこと、マレッポはデトロイトで逮捕され、ニューヨークに移送されてきて、殺人刑を宣告された。二人の相棒は既に窃盗罪が成立し、起訴された後だった。いまは三人とも州刑務所「シン・シン」で長期服役中である〕」
マーカムは返事しなかった。すると、ヴァンスがのっそり立ち上がり、長|外套《がいとう》に手を延ばした。
「ところでだが」と、外套に身体をすべらせながら彼がいった。「われらの啓蒙的新聞がだ、けさの一面をでかでかと飾っていた見出しがあったね、由緒あるグリーン家で昨夜、かよわき者に対するいわれなき大虐殺があったとかなんとか。なんなの?」
マーカムがちらっと壁の時計に目をやり、それから眉をひそめた。
「ああ、それで思い出したよ。チェスター・グリーンがけさ、いの一番に電話をしてきたんだ。どうしてもわたしに逢いたいというんだ。十一時に、といってやったがね」
「君の出る幕が、一体、どこにあるの?」と、ヴァンスがドアの把手《ノッブ》から手を外《はず》し、シガレット・ケースを取り出した。
「あるわけはないじゃないか!」と、マーカムがかみつくように言った。「ところが大衆にいわせれば、地方検事局というのは自分らのもめごとの手形交換所みたいに思ってるんだ。それに、たまたまぼくは、チェスター・グリーンとは長い間の知り合いでね――二人ともメアリボン・ゴルフ・クラブの会員だ――そこで奴の泣き言《ごと》を聞いてやるのも、またやむをえないわけだ。なあに、グリーン家歴代の、有名な銀器をかっぱらおうとした奴がいたとか、なんとか、どうせそれしきのことだろう」
「窃盗犯《せっとうはん》――てなもんかね?」と、ヴァンスが紫煙をくゆらせながら言った。「女がふたりも撃たれているんだぜ、それでも?」
「なあに、へまをしたんだよ。素人《しろうと》の仕事にきまってるさ。途中で恐慌《きょうこう》を起し、むやみやたらと撃《う》ちまくり、そこで遁走《とんそう》!」
「なにやらすてきに論理の合わん話じゃないか、ええ?」と、ヴァンスが放心したように、また入口の近くにある大きな安楽椅子に坐《すわ》り直していた。「そこで、その大時代ものの食器とかは実際に消えてなくなったの?」
「盗難品はなしだ。賊は、獲物を失敬するひまもなく、肝《きも》を潰《つぶ》してその場から逃走したらしい」
「少々臭いじゃないの、その話? ――素人の泥棒君が豪壮な屋敷に押しこみ、食堂の銀の食器にどんらんの目を一つ投げたきり、なにやらにびっくり仰天、そこで二階に駆けあがり、二人のご婦人をめいめいの閨房《けいぼう》に訪れ、狙《ねら》い定めてズドン、そこでトンズラ……いやはや、涙の出るほどセンチともなんとも! だけど、納得がゆかんね。この聞くも涙、語るも涙の理論の出どころはどこなの?」
マーカムはいまにも怒り出しそうだったが、怒りを口にした時には、自制の跡が一節《ひとふし》見えていた。
「フェザージル〔エイモス・フェザージルは当時地方検事補だった。後に、民主党の黒い党派「タマニ・ホール」から市会議員に立候補して当選した〕が昨夜は当直で、そこへ署の受けた電話が中継されてきたから、それで、彼も警察と一緒に、現場の屋敷にいった。彼も警察と同じ結論だ」
「それならそうとして、どんな曰《いわ》くがあれば、チェスター・グリーンが君と典雅《みやび》な語らいがしてみたいのか? ぼくだって聞いてやる雅量はあるんだぜ」
マーカムが唇を噛《か》んだ。彼はこの朝、麗《うるわ》しい機嫌などではなかった。そこへ、ヴァンスが野次馬根性旺盛な好奇心を出すものだから、うんざりしてしまっていたのだ。それでも、一瞬|間《ま》をおいてから、彼が不貞腐《ふてくさ》れたように言った。
「窃盗未遂がそれほどまでにお気に召すというのなら、ぜひにも及ばぬ。待っていたまえ。グリーンの言い分を自分で聞いてみることだ」
「帰るのはよしたよ」と、ヴァンスがにっこり笑って、外套を脱ぎにかかった。「ぼくは気が弱いんだ。人にせがまれると、どうにも断わり切れない性分でね。そのチェスターというのはグリーン家のなんに当るの? 二人の死亡者との続柄は?」
「殺しは一件だけだったよ」と、マーカムがやっと寛容の口調で、訂正してやった。「一番上の娘――といっても、四十初代のオールド・ミスだがね――これは即死の殺し。下の方の娘、これも撃たれたが、蘇生《そせい》の見込みあり、ということらしい」
「それで、チェスターというのは?」
「チェスターは長男だ。四十かそこいらだろう。狙撃のあった後、現場にいた最初の人物だ」
「ほかに家族は誰がいるの? 当主だったトバイアス・グリーンのことならぼくも知っているよ。いまはとこしえに造り主《ぬし》なる神のみもとに召されけり」
「そうだ。当主のトバイアスが死んで、十二年にもなるがね。だが、その妻はいまだに生きている。老いさらばえて、全身麻痺《ぜんしんまひ》の身を抱《かか》えながらね。それから子供が五人いる――いや、いた。一番上がジュリア、次がチェスター、それに娘がもう一人、シーベラ、三十に二つか三つ手が届かないというところかね。次がレックス。これが病身の、本気狂いの青年で、年はシーベラの一つかそこいら下。次が、エイダ、末娘だが――これは養女だ。年は二十二、三というところかね」
「それじゃ殺されたのはジュリアだけだったの、え? 撃たれたのは、ほかの娘二人のうちのどれなの?」
「末の娘――エイダだ。彼女の部屋は廊下をへだててジュリアの正面にあるらしい。そこで賊は、遁走の間に、間違ってそっちにはいりこんだものらしい。ぼくが諒解《りょうかい》するところによると、賊はジュリアに発砲した直後、エイダの部屋に侵入、そこで間違いに気がつくと、ふたたび発砲、それから逃走。とどのつまりは、階段を降りて、正面の玄関から外へ出た」
ヴァンスは暫《しば》らく沈黙したまま煙草をふかしていた。
「君のいう仮説の侵入者は、すてきなぐあいに錯乱《さくらん》を起したらしいじゃないか。エイダの扉を階段口と間違えたりして、え? それに、例の物色の件もある。そこで、この姿なき犯人め、食器|蒐集《しゅうしゅう》にお出ましになったはよいが、二階ではどんな用件がおありだったの?」
「さだめし宝探しでもしていたんだろうさ」マーカムがやにわに堪忍袋の緒を切らしかけた。「天地のことを見通す力はわたしにはないんでね」その抑揚には皮肉がこもっていた。
「おい、おい、マーカムよ!」と、ヴァンスがいたわるように、宥《なだ》めるかのように言った。「恨みつらみはなしにしようや。君のいうグリーン家押し込み事件なるものは、純粋思考の対象としたところで、すてきな可能性を秘《ひ》めているんだぜ。願わくば、ぼくをしてとりとめもなき幻想に耽《ふけ》らしめよだ」
この瞬間、マーカムの若い、きびきびした秘書のスワッカーが顔を出した。主室の待合所になっている部屋と地方検事の個室とをつなぐ、狭い廊下の端にある開き戸を開いて、サッと姿を現わし――、
「チェスター・グリーン氏がお見えです」と、いった。
第二章 捜査開始
(十一月九日、火曜日、午前十一時)
チェスター・グリーンははいってきたが、一見して、いらいらと緊張《きんちょう》し切っている。だが、この男の神経質は、わたしの心に共感を呼び起す体《てい》のものではなかった。この男の第一印象からして、わたしにはどことなく虫が好かないのだ。背丈は中くらい、やや肥満型に近く、輪郭《りんかく》のどこかに、惰弱で、ふやけたところがある。着つけには随分と気を使い、凝《こ》っているつもりなのだろうが、服装の一つ一つにアクセントが強過ぎる。カフはきつ過ぎるし、カラーはゆる過ぎる。色物の絹ハンカチが胸ポケットからはみ出しているところだって、嫌味《いやみ》たらしい。頭は少し禿《は》げかけて、寸詰まりの両眼から瞳《ひとみ》だけが突出しているところが、ブライト病患者の眼球を思わせた。口の上縁には、きりっと刈りこんだブロンドの口髭《くちひげ》が並んでいるというのに、唇は締まっていない。頤《あご》は少し後退角になり、唇のま下まで深くえぐったような凹《くぼ》みができている。なにからなにまで有閑徒食の権化《ごんげ》。
マーカムと握手したところで、ヴァンスとわたしが紹介された。そこで、彼はやおら腰を掛け、長い琥珀《こはく》と金《きん》でできたホールダーに茶色のロシア・シガレットをこせこせと挿《さ》し込んだ。
「マーカム、ここはひとつ、大いに恩に着るぜ」と、象牙《ぞうげ》製のライターから煙草《たばこ》に火をつけながら、彼が言った。「ゆうべおれの家《どや》で起ったごたごただがね、大将おんみずから、調査に乗り出してもらえると有難《ありがた》いんだ。警察は、君、あんな調子だ。埒《らち》のあく話じゃないさ。警察なんてどうせ――まあ、いい連中さ、わかるだろ? だけどだよ……いや、なんだね、この一件には何かがあるんだ――さて、どういっていいやら、巧《うま》くは言えないんだけど、とにかく、妙な予感がしてならない――」
マーカムが数瞬、相手を綿密に観察した。
「一体、何をいいたいんだい、グリーン?」
相手は例のシガレットをまだ数服とは喫《す》っていないのに、もう灰皿にこすりつけ、優柔不断そうに、肱掛椅子《ひじかけいす》をこつこつと叩《たた》いた。
「それが分れば世話はないや。臭《くせ》え一件なんだ――いやに臭いんだ。それにだよ、この事件の背後には、きっと何かがあるんだ――その何かに対し、ここでストップを掛けないことには、悪鬼|怨霊《おんりょう》の修羅場《しゅらじょう》が現出しそうなんだ。じゃあ、何だか説明しろっていわれたって、できんというのがぼくの感じなんだ」
「さぞや、こちらのグリーンさんは、心霊現象の能力をお持ちなんでしょうな」と、ヴァンスがコメントした。何喰わぬ、爽《さわ》やかな態度である。
言われた人は急に振り向き、目下の者に対するような侮蔑感を露骨に現わしながら、ヴァンスの品定めをした。「ちぇッ!」といったまま、ロシア煙草をもう一本ひっぱり出し、またマーカムの方に顔を向けた。
「ぼく、ほんとにお願いするよ、一度でいいから、現場をちょっと覗《のぞ》いてくれないか」
マーカムが躊躇《ちゅうちょ》した。「そりゃ、君には君の理由があって、警察の意見に服しえず、それでぼくに訴えてきたのだろうが」
「それがおかしいんだ。それだけの理由がおれにはないんだから」〔彼が二本目の煙草に火をつける時、その手が微かに震《ふる》えているようにわたしには見えた〕「おれに分るのはだ、窃盗《せっとう》説なるものは、おれの知性が機械的に排除してしまう、それだけのことなんだ」
この男が真情を披瀝《ひれき》しているのか、それとも故意になにかを隠しているのか、そこはなかなか見分け難《がた》かった。しかし、わたしの実感としては、この男の不吉感の下には、なにかは知らぬが、恐怖《きょうふ》らしいものがひそんでいると思えたし、また、この男は起った悲劇のことで、悲嘆に暮れているのでも決してない、という印象がしてならなかった。
「君はそういうけれども」と、マーカムが言った。「窃盗説にしろ、完全に事実と一致するのではないのかね。これまでも、押し込み強盗が突如なにかに驚き、見境がつかなくなって、やたらと人に発砲したという事件は多数ある」
グリーンはガバッと席を立つと、いったりきたりし始めた。
「おれに事件の分析をしろったって、そりゃ無理だ」と、彼が呟《つぶや》いた。「問題はそんなことを超絶したところにあるんだ。おれのいわんとすることを分ってもらえるならばだが」そう言いながら、凝然《ぎょうぜん》と目をみはり、地方検事にすばやい視線を送った。「畜生! おれとしたことが、これしきのことで冷汗をかくなんて!」
「なにしろもやもやとして、得体の知れぬ話だからね」と、マーカムが同情ある観察を述べた。
「まあ見ていたまえ、君は事件のために動顛《どうてん》しているだけだよ。ものの一日か二日もしたら――」
「おっと、そうはゆかねえ。いっとくがね、マーカム、警察がいくら自説の窃盗犯人を追っかけたところで、出っこないさ。おれは勘《かん》で分るんだ――ここのね!」と、彼がマニキュアをした手を胸に置いて見せた。いかにもキザな所作だ。
ヴァンスはこれまで、悦に入ったような態度をうっすらと見せながら、この男を見守っていたのだが、ここへきて、両足をぞんざいに投げ出し、天井《てんじょう》を見つめた。
「もしもし、グリーンさん――幽界の魂魄《こんぱく》を模索中のところをお邪魔してすみませんがね――現実問題として、姉さんと妹さんを消してしまえという動機を持つ人間について、あなたは心当りはないのですか?」
言われた人は、一瞬、ぽかんとした表情をした。
「いいや」と、彼がやっと言った。「心当りがあるとはいえない。罪咎《つみとが》もない女が二人この地上にいる。それを殺そうなんて、神の名にかけて、そいつはどこの悪魔だ!」
「神の話なら、ぼくにはサッパリでして。しかし、現実にはあなたは押入り窃盗説を排斥していられるのだし、二人の貴婦人が撃たれたことは紛れもない事実なのでしょう。だとすれば、推理のおもむくところ、誰かがお二人を亡《な》きものにしようと企《たくら》んだことになる。そこで、ふと思いついたのですが、あなたはお二人の弟でもあり兄でもいらっしゃるんだし、生活も『水入らず』というわけだから、お二人に対し、殺しても飽《あ》き足りない感情を抱《いだ》いているような人間について、心当りはないものかと思いましてね」
グリーンは憤然となり、前つんのめりになって、「心当りなんか、あるもんか!」と、だし抜けにいい、それからまたマーカムの方に振り向くと、お世辞たらしく、こういい続けた。「君、考えたって分るだろう、このおれが少しでも胡乱《うろん》な奴と思う人間がいるというんなら、このおれがここでばらしてしまわんわけはないじゃないか? それができんからこそ、おれは神経をやられてるんだ。一晩中そのことを考えつづけ、くしゃくしゃしてるんだ。こいつは癪《しゃく》だぜ――おそろしく癪だぜ!」
マーカムがどちらにも言質を与えず、うなずき、それから席を立って、窓際に歩いてゆき、そこで両手を後ろに組んだまま立ちつくすと、「お墓」の灰色の石壁をじっと見おろしていた。
ヴァンスは、表面の無感動とはうらはらに、グリーンを綿密に観察していたが、マーカムが窓の方に立ち去ったのを見ると、だらりと坐った姿勢を微《かす》かに立て直した。
「さて、伺いますがね」と、彼が口を開いたが、相手の機嫌を損じまいとする口調に変わっていた。「ゆうべ起った事の次第だけでも? わたしの知るところ、倒れているご婦人がたのところに最初に駆けつけたのはあなただったそうで?」
「姉のジュリアのところに駆けつけたんなら、おれが最初だ」と、グリーンが応酬《おうしゅう》したが、憤然とした色がないでもない。「だが、エイダを見つけたのは家令のスプルートだ。背中にひでえ傷を受け、出血のため昏倒《こんとう》しちまってたんだ」
「背中にですか、え?」と、ヴァンスが前つんのめりになり、眉《まゆ》をつりあげた。「じゃ、妹さんは後ろから撃たれたんですね?」
「そうさ」と、グリーンが眉をひそめ、手の爪《つめ》を調べ出したが、まるで、自分でもこの事実の中に何か心の騒ぐものを初めて感じ取ったといわんばかりだ。
「そこで、ジュリア・グリーン嬢だが、お姉さんもまた後ろから撃たれなすったので?」
「いや――正面からだ」
「奇にして怪なるかな!」と、ヴァンスが煙の環《わ》を吐《は》いて、埃《ほこり》っぽいシャンデリアに吹きかけた。
「そこで両ご婦人とも、その晩は寝室にひき退《さが》っていられたんですね?」
「一時間も前だ……だが、そいつが一体、どんな関係があるんだい?」
「知る人ぞ知るですよ、だってそうでしょう? さもあらばあれですな、心霊現象の、韜晦《とうかい》のかなたにある霊の根源を究《きわ》めようとする時は、そうした瑣末事《さまつじ》を自家|薬籠《やくろう》中のものとすることが、いつも大切なのでして」
「心霊現象か、くそくらえだ!」と、グリーンが兇暴《きょうぼう》な声でうなり立てた。「人間があることを感じで知るというのなら、なにもとりたてて――」
「同感――同感。しかるに、あなたは、地方検事の援助を求めておいでだ。とすれば、検事にしろどっちかへ決定を下す前に、少しぐらいの資料はほしいと思うでしょうよ」
マーカムがこっちにやってくると、机の端に腰をおろした。先ほどから好奇心をそそられていたのである。ヴァンスによる質疑には、自分が許可を与えていることだから、そのつもりで、と彼がグリーンに言った。
グリーンが口をすぼめ、シガレット・ホールダーをポケットに戻した。
「じゃ、よろしい。次はなにを知りたいというのかね?」
「ならば語ってもらいましょうか」と、ヴァンスが美音を響かせるように言った。「最初の銃声を聞いてから、何が起ったか、正確に順序を追って、察するところ、あなたは銃声を確かに聞いた」
「もちろん、聞いたとも――いやでも聞かされてしまったんだ。ジュリアの部屋はおれの隣りなんだし、おれはまだ目が覚《さ》めていた。すわこそと部屋靴に足をつっこみ、ガウンをひっかけ、それから廊下に出た。まっ暗闇だ。だから、壁沿いに手探《てさぐ》りで進み、ジュリアの扉にやっと辿《たど》りつくと、戸を開き、中を覗《のぞ》きこんだ――誰かおれを待伏せして、いつズドンとやるか知れたもんじゃない――おれの目に見えた姉は寝台に横になっていて、ガウンの正面が血まみれになっている。部屋には誰かいる気配がないので、おれはまっすぐ姉に駆けよった。ちょうどその時だ。もう一発銃声が聞えた。どうやらエイダの部屋の方角らしい。おれはこの時になって、えらく頭がふらふらしてきて――ここはどう動いていいものやら。そう思いながら、ジュリアの寝台の横につっ立っているうち、身体《からだ》じゅうがぞくぞくッとしてきた――そうだ、おれは正真正銘、ぞくぞくッとしてきたんだ……」
「やむを得ないですね」と、ヴァンスが彼を励ました。
グリーンがうなずいた。「こいつは滅法ややっこしい立場に立たされたもんだ。とまあ、そう思いながらも、それでもそこに立っていると、その時、誰かが三階の召使い部屋の方から、階段を降りてくる足音がした。そのうち、その足音なら、スプルートのだと分ってきた。あれも暗闇の中をひっかかりやってくるところだ。やがて、エイダの部屋にはいってゆくのが聞えた。それから、あれがおれの名を呼ぶ声がしたので、すっ飛んでいった。エイダは化粧机の正面に倒れている。そこでスプルートとふたりで抱《かか》えあげ、寝台に寝かせてやった。気がついてみると、おれは膝《ひざ》がへなへなだ。いつまた第三の銃声がしてくるやら知れたもんじゃない――どういう訳《わけ》か分らんがその時そういう気がした。とどのつまり、銃声はしなかった。やがて、スプルートが廊下の電話で、フォン・ブロン医師を呼んでいる声が聞えてきた」
「君の話を聞いていると、グリーン、窃盗説と矛盾《むじゅん》する点はどこにもないじゃないか」と、マーカムがコメントした。「のみならず、ぼくの補佐のフェザージルにいわせると、正面玄関の外の雪の上に乱れた足跡が二組あったということだ」
グリーンは肩をすぼめたが、返事はしなかった。
「話変わって、グリーンさん」――ヴァンスはこの時には椅子《いす》の中で長々と身体《からだ》をのばし、空《くう》を睨《にら》んでいたが――「あなたの話だと、ジュリア嬢の部屋を覗いた時、寝台の上に横になっているのが見えたという。これはまた異《い》な話じゃないですか? あなたが電灯をおつけになったので?」
「なに、そんな馬鹿な!」言われた人はこの質問に面喰《めんく》らった様子をした。「電灯はついてたんだ」
ヴァンスの瞳《ひとみ》に、きらきらっと興味の漣《さざなみ》が立った。
「では、エイダ嬢の部屋はどうなのです? そこも電灯がついてたんですか?」
「そうだ」
ヴァンスがポケットをまさぐり、やおら例のシガレット・ケースを取り出すと、丹念《たんねん》かつ慎重に一本の煙草を選び分けた。彼がこの挙動に移る時は、内心の興奮を抑制している証拠だということがわたしには分っていた。
「ならば、両方の部屋とも電灯はついていた。まさに興味津々たり!」
マーカムもまたヴァンスの表面的な無関心のすぐ下には、逸《はや》る気が動いているのを認めていたから、期待に胸をふくらませて、彼の上に目を注いでいた。
「ならば」と、ヴァンスがさも悠然《ゆうぜん》と自分の煙草に火をつけてから、追及に移った。「二つの銃声の間には、どれだけの時の経過があったとあなたは思いますか?」
グリーンがこの反対尋問をいまはうるさがっていることは明らかだった。が、彼は簡単に答えた。
「二、三分かな――確かに、それ以上じゃない」
「それにしてもですよ」と、ヴァンスが反芻《はんすう》するように言った。「あなたは最初の銃声を聞くと、寝台から起き出し、部屋靴と寝間着をつけ、それから廊下に出た。さらに、手探りで壁を進んで隣りの部屋までゆくと、そこで用心深く扉を開き、内部を覗きこみ、それから部屋の中を通って寝台までいった――これはみんな、ぼくの推理によると、第二の銃弾《じゅうだん》が発射されるまでのことでしたね。それに間違いないですね?」
「確かに間違いない」
「はてさて! あなたにいわせれば、二分か三分。そうですね、少なくともそれだけはある。まさに驚くべし!」ヴァンスがマーカムの方に向き直った。「ほんとだよ、だってそうじゃないか。君。ぼくは君の判断にとかくの影響を与えるのは潔《いさぎよ》しとはしないんだけどもね、やはり、ぼくはこう考えるんだ。君はグリーン氏の懇請《こんせい》を承諾し、この調書に一枚加わるべきだとね。ぼくだって、この事件には心霊感応を感じているんだ。ぼくに囁《ささや》く天の声がするんだ。君のいう調子っぱずれの窃盗どの――あれは君、いずれは旅人をたぶらかす『鬼火』ってことになるんじゃないかい」
マーカムが思索と好奇心のまじった目で、彼を見やった。ヴァンスのグリーンに対する質疑のやり方にひどく興味をそそられただけではない。ヴァンスという男はそれなりの理由がなければ、示唆《しさ》などをする人間ではないことを彼は長い経験で知っていたからなのだ。そういうわけで、彼がこの手に負えない訪問者の方を振り向き、次のようにいった時、わたしはちっとも意外な感じはしなかった。
「よろしい、グリーン、本件はできるだけのことをしてみよう。おそらく、きょうの午後早く、君の家にゆけると思う。どうか、全員に在宅して下さるように、君の方ではからってくれたまえ。わたしからみんなを訊問してみたいのだ」
グリーンが震える手を差し出した。「名簿全員――家族も召使いも――君の到着時には必ず洩《も》れなく揃《そろ》えておくよ」
そういうと、尊大にふんぞり返り、大股で出ていった。
ヴァンスがふっと溜息《ためいき》をついた。「上流階級とはいえん、マーカム――なにが上流階級なもんか! これだからこそ、ぼくは政治家が嫌《きら》いなんだ。こんな紳士とのからみ合いが必要だというんなら」
マーカムがやおら自分の机に向って坐《すわ》ったが、ぶすっとした態度である。
「グリーンは社交界の――政界じゃないぜ――名士として通っているんだ」と、彼が意地悪そうに言った。「インディアンの氏族制度《トーテム》だったら、さしずめ、君も同族さ。わたしの同族じゃない」
「いいことをいうじゃないか!」と、ヴァンスが悠然と身体を伸ばした。「だけどもだよ、あの男が讃美《さんび》してやまないのは君なんだぜ。直観の指すところによれば、あの男はぼくをイケ好かない奴だと思っているさ」
「事実、君のあの男に対する取扱いにはいささか侮蔑感《ぶべつかん》がこもりすぎてたな。揶揄《やゆ》必ずしも親愛の表現手段ではないということを知るべきだ」
「よせやい、マーカム、ぼくがグリーンの親愛をえようと、思い焦《こ》がれたりしたなんて!」
「あの男は何かを知っている、何か容疑事実を掴《つか》んでいる、それが君の意見かい?」
ヴァンスは背の高い窓を越えて、はるかな、寒々《さむざむ》とした冬空を見つめていた。
「さ、どうかな」と、独り言をいい、それから――「チェスターというのは、ぼくの当てずっぽうだが、グリーン家代々のうちでも、典型的代表に生れついてるんじゃないの? ここ数年、ぼくは上流社会のエリート族とのおつき合いから遠ざかっているもんだから、イースト・サイドあたりの富豪の消息がどうなっているのやら、とんと暗くなっちまってね」
マーカムが内省するようにうなずいた。
「わるいが、あれが代表だろうね。グリーンの宗主は質実剛健《しつじつごうけん》の氏族だったが、現世代になって、落魄《らくはく》の感は掩《おお》いがたいようだ。三代目のトバイアスの大将《だんな》――これがチェスターの父だ――は武骨磊落《ぶこつらいらく》の士で、多くの点で、あっぱれ、一人格だった。しかし、今にして思えば、由緒あるグリーン家の特質を継承したのはあの人が最後だったようだ。残された一族は、ある種の風化作用に曝《さら》されている。軟化《なんか》したという言葉は必ずしも当らないかも知れないが、腐蝕《ふしょく》初期の斑点《まだら》が色づいてきている。果物をあんまり永く地面に放置しておいたようなもんだ。思うに、金《かね》と暇《ひま》があり過ぎるんだね。それに抑制というものがない。だが、一方においては、新しい世代のグリーンには、ある種の知性がひそんでいることも確かだ。みんな頭のいい人間らしい。たとえ不毛で、方向違いの精神はしていてもだ。いや、君はチェスターを過小評価しているとぼくは思うよ。あの俗物根性、あの女性的思考や態度にもかかわらず、あの男は君が考えているような阿呆《あほう》じゃ決してないんだ」
「ぼくがチェスターを阿呆だと考えているだって! ああ、マーカムよ、マーカムよ、情《つれ》ない話じゃないか。君はぼくに対して、こっぴどい誤解を冒《おか》しているんだ。どうして、どうして、われらのチェスターが、聖なる愚者よ幸あれなんて、そんな柄《がら》なもんか。君が思っているよりはずっと抜け目のない人間さ。あの浮腫性《ふしゅせい》の瞼《まぶた》、あれはただのヴェールで、あの下には、なんともいえぬ奇怪で老獪《ろうかい》な眼球が一揃《ひとそろ》い光っている。それどころか、君に捜査の助けをしたらどうだと示唆するようにぼくを追いやった動機というのも、じつは大部分が、あの白痴《はくち》をてらった、凝《こ》ったポーズのせいなんだ」
マーカムが身体を後ろに凭《もた》せつけ、目をすくめた。
「君、なにをいおうとしてるんだ、ヴァンス?」
「言ったじゃないか。心霊現象だって――チェスターの潜在意識にある天の声と同じものさ」
この韜晦《とうかい》めいた返事から察するに、いまのところヴァンスがもっと具体的なことをしゃべる意志は持っていないことをマーカムは知った。だから、一瞬いやな顔をして沈黙を守った後、電話機の方に振り向いた。
「わたしがこの事件を引き受けるというのなら、担当者は誰かを探し、できるだけの予備的情報を蒐集しておいた方がいいだろう」
彼は刑事局の局長、モーラン警視を呼び出した。短い会話をすますと、ヴァンスの方を振り向き、にっこり笑った。
「君の友だち、ヒース部長がこの事件の担当者だ。たまたま役所にいたもんだから、すぐこっちにくると言っていたよ〔「ベンスン」「カナリア」の両事件を担当したのも、殺人課の巡査部長アーネスト・ヒースだった。これらの捜査の初期の段階で、彼が公然とヴァンスに敵意を示したことはあったにせよ、後からは奇妙な友情が二人の間に芽生えていた。ヴァンスは部長の頑固で直截《ちょくさい》な性質を讃美していたし、ヒースはヒースで、ヴァンスの能力を高く尊敬するようになっていた――ある種の留保条件はついていたけれども〕」
十五分もしないうちにヒースはやってきた。夜通し不寝でいたはずなのに、いつもと違いきびきびとし、精力的だった。例のあけはだけた、喧嘩《けんか》早い風貌《ふうぼう》には、いつもの通り、臆《おく》する色も動ずる気配《けはい》もない。淡《あわ》い青の目には、あの習性的ともいえる、人の心の奥《おく》までも透徹する集中力があった。マーカムと儀礼的ではあるが、入念な握手を一つして挨拶《あいさつ》に代《か》えたが、その後でヴァンスを見つけると、相好をくずし、人の好さそうな笑い顔になった。
「おっとこいつは、ヴァンス先生で? きょうはまたなんの野暮用でこちらへ?」
ヴァンスが席を立ち、彼と握手した。
「ああ、世も末ですよ、部長、あなたと最後に出会ってから、ぼくは文芸復興期正面建築の素焼土偶とかなんとか、そんな瑣末事《さまつじ》にかかずらい、没入させられてしまいましてね〔ヴァンスはここの校正刷を読んだ後で、「イタリア文芸復興期のテラコッタ土偶について」という美しい本の名を挙げておくようにとわたしに要求した。これはニューヨークの「全国テラコッタ協会」の出版になるものである〕。ところが、世に幸福《しあわせ》の兆《しるし》あり、またまた犯罪が景気をぶり返しているようですな。時に及んで、すてきに謎《なぞ》めいた殺人事件でもないことには、この世はめっぽう味気なし、だってそうでしょう?」
ヒースが片目をウインクして、物問いたげに地方検事の方に振り向いた。ヴァンスの駄じゃれの意味を読みとる術にかけては、この巡査部長はとうの昔に習い覚えていたものだ。
「このグリーン殺人事件のことだよ、部長」と、マーカムが言った。
「てっきりそうだと思ったです」と、ヒースがどっかと腰《こし》をおろしながらいい、それから黒い葉巻を口に差しこんだ。「だけど、まだなんにも割れとらんでさあ。いま常習犯を一斉検挙して、昨夜のアリバイを調べているところですがね。すっかり洗い出すまでには数日を要する見込みでありまして。あの事件《やま》を踏《ふ》んだ犯人《ホシ》が、臆病風を起したのが、せめて『ぶつ』をひったくった後だということになりゃ、質屋や売人《ばいにん》に当ればたぐってゆけねえものでもねえ。ところが、こいつ、何かで『がた』を起しやがった。そうでもなけりゃ、あんなぐあいに仕掛けた仕事をおっぽり出すわけはねえ。そこで、あっしの勘《かん》だが、こいつはてっきり商売の新入りに違いねえ。そうなりゃ、こっちは余計に手が焼けるというもんでして」と、火のついたマッチを一本、両手をまるめた中に入れて葉巻をつけ、それから凄《すご》い勢いでぷかぷかやり出した。「ところで、先生、この窃盗犯《のびし》の一件について何を知りたいというお話なんで?」
マーカムが躊躇《ちゅうちょ》した。ありきたりの窃盗犯がこの事件の犯人だと、頭から決めこんでいる巡査部長の態度にへきえきしているところである。
「チェスター・グリーンがここにきていてね」と、やおら彼が説明した。「どうやら、狙撃は賊の仕業じゃないと確信している様子なのだ。だから、わたしに、特別の計らいで、事件を調べてみてくれ、とこういうんだよ」
ヒースがさも軽蔑《けいべつ》したように、チェッと舌を鳴らして見せた。
「窃盗が『がた』を起こしたというんでなけりゃ、女二人を|ピストル《はじき》でぶっ倒したりするのは、どこのどいつなんで?」
「同感ですな、部長」こう答えたのはヴァンスだった。「それにしてもですよ。両方の部屋とも灯《ひ》がついていた。女たちが寝室に入っていってから一時間もたっているというのに。しかも、二つの銃声の間には、数分の間隔がある」
「そんなこと、百も承知でさあ」と、ヒースが苛立《いらだ》たしそうに言った。「だけど、『とうしろう』が踏んだ『やま』という前提に立つ限り、ゆうべ二階で何が起ったやら、こいつはあっしらにも、とんと分らねえ。大体、賊ってものは、頭にきちまったら、度を失い――」
「おっと、『そこが問題じゃ』〔ハムレットにひっかけてのしゃれ。以下も同じ口調〕賊ってものが度を失い、そうでしたな――、部屋から部屋を訪《おとの》うて、灯《あかり》をつけてはまわり、まわってはつける。灯のありか、灯のつけ方、勝手知ったは知れたこと、ってないでしょうよ? いや、まだある。お聞きなさい。賊は誰かを撃ち殺し、家じゅうを叩き起しておきながら、何をどう血迷うてか数分間、暗い廊下を、だらりだらりの忍び足、てなもんですかね? きっと、そんなはずはない。賊が『がた』ついたんだとはどうしても思えない。この一件、なにやら不思議と、策略の臭《にお》いがする。あまつさえ、獲物《えもの》は一階の食堂にあるという時に、二階なる貴婦人の寝所を徘徊《はいかい》なし、跳《と》んだりはねたりの悪ふざけとは、こりゃ一体どういうご了見なの、その珍無類の素人先生?」
「そんなこと、奴を抑えさえすりゃ、自供《げろ》さして見せまさあ」と、ヒースが一歩も退《ひ》かぬといわんばかりに反撃してきた。
「要点はだね、巡査部長」と、マーカムが仲《なか》をとりなした。「わたしの方からヴァンス氏に本件の調査を依頼したのだ。そこで君が握っているだけの具体的な事項を知っておきたい、とこう思ってね。もちろん、諒解してもらっているとは思うが」と、彼は宥《なだ》めすかすようにつけ加えた。「わたしとしては君らの活動状況に干渉するつもりは毛頭ない。事件の結果がどっちに転《ころ》ぼうと、みんな君の本部の功績になることなのだ」
「なあに、その点は大丈夫でさあ、検事さん」マーカムと組んで仕事をする時、「誉《ほま》れと栄光」をまるっきし片無しにされることがないことを経験で知っていたのだ。「だが、あっしにはどう考えたって、ヴァンス先生のご高説はともかくとして、このグリーン事件には、熱を入れるほどのものが出てくるとは思えんのでさあ」
「それはそうかも知れないが」と、マーカムが認めた。「わたしは約束してしまったのだ。そこで今日の午後、わたしが繰り出して『めん』を通してきてみたいと思うんだ。君にひと通りの鑑識をつけてもらえたならばの話だが」
「大していうほどのこともねえです」と、ヒースが葉巻を噛みながら、思索するように言った。
「医師のフォン・ブロン――つまり、グリーン家の侍医ですが――から本部に電話があったのが真夜中ごろ、ちょうどそこへ、あっしはアップ・タウンのピストル強盗の非常召集から戻ってきたばかりでして。殺人課の奴を二人連れて、部屋にすっ飛んでいったわけです。被害者《がいしゃ》は女が二人、これはもうご存じで、一人は死亡、もう一人は意識不明――どっちも『はじき』でやられている。あっしはドーラマズ先生〔検死官〕に電話をすると、ザッと状況調べをやりました。フェザージルさんもそのうちお見えになり、手を貸して下すったが、大してどうというものも出てきやしない。この『やま』を踏んだ奴は、どうやら正面玄関から入ってきたものに違いない。なにしろ、雪の上に、往復の足跡が一組残っていやしたからね。フォン・ブロン医師のとは別にですぜ。ところが、ゆうべの雪は結晶《けっしょう》が薄《うす》すぎて、ひらひらしているもんだから、これではろくな足型はとれやしない。ちょうど十一時ごろには雪はやんだのだから、この足跡が賊のもんであることに間違いはねえです。雪|嵐《あらし》の後にきた者も出ていった者もおらんのだから。あの、医者は別ですがね」
「素人の押し込み強盗がグリーン屋敷の正面玄関にぴたりと合う、合鍵《あいかぎ》を持参していたとは」と、ヴァンスが呟《つぶや》いた。「まさに奇にして怪!」
「合鍵を持っていたと誰がいいました?」と、ヒースが抗議した。「あっしは事実ありのままをいうとるだけでさあ。なんらかの間違いで、扉の掛け金が外《はず》れていたのかも知れんし、それとも誰かがあけてやったのかも知れんじゃないですか」
「構《かま》わず話をつづけなさい、巡査部長」と、マーカムが促《うなが》し、ヴァンスに向かってたしなめの一瞥《いちべつ》をくれた。
「さてと、ドーラマズ先生が到着し、年上の女の死体検証、それから若い女の負傷の検査をした後で、あっしが家族全員と召使いたちの面通しをやりやした――家令が一人。小間使いが二人、料理女が一人。最初の銃声を聞いたのはチェスター・グリーンと家令の二人だけ、その銃声が起ったのは十一時半ごろ。ところが、第二の銃声には、ばあさんグリーン夫人が目を覚《さ》ました――ばあさんの部屋はその若い娘の部屋とつながっているわけでして。残り全員は殺しの間はぐっすり眠っとって、白河夜舟。ところが、このチェスターって酔狂な野郎がみんなを起して廻《まわ》っていた。それがあっしが到着した時の状況でして。あっしは残らず聞きこみをやってみたが、誰もなんにも知っちゃいない。かれこれ二時間もして、内部に一人、外部に一人、張りこませ、そこで戻ってきたというわけです。それから、いつもの通りの機構を動員しまして、けさはデュボア警視が現場に出掛け、取れるだけの指紋を取ってる最中でしょう。ドーラマズ先生が被害者を死体解剖に持ってゆきやしたから、今夜にも報告があるでしょうが、そっちの筋からはめぼしいものは出てきますまい。なにしろ、撃たれたのが正面から、至近距離――いや、ほとんど接触発射でして。もう一人の女――若い方は――一面の爆薬火傷でして、ナイトガウンが焦げていました。背後から撃たれたんです。以上がまあ全部のネタというわけでして」
「若い方の被害者から供述みたいなものはとれたかね?」
「まだです。ゆうべは意識不明のままだし、けさは衰弱がひどくてしゃべれねえ。だけど、医師――フォン・ブロン――にいわせりゃ、きょうの午後なら訊問ができるということでして。この女が狙撃前にホシの面《めん》をひと目見ていてくれさえすりゃ、何かが引出せるんですがね」
「その話で、ふと思いついたんですがね、部長さん」と、これまで一部始終を受身で聞いていたヴァンスが、いま足をひきずり寄せ、少し背を張るようにして言った。「グリーン家構成員の中で、銃砲所持者はいなかったの?」
ヒースがぎょろりとヴァンスを睨んだ。
「このチェスター・グリーンってのが、古い三十二口径の回転式を持っていて、いつも寝室の机の引出しに入れておく癖があるといってやした」
「ほほう、そうかね。そこで、部長、あなたはその銃を見たの?」
「持ってこいといってやったんだが、見つからんと言いやがるんで。長年見たこともねえし、きっとどっかに紛れこんじまったんだという返事でさあ。きょうあっしがゆくまでには捜し出しておくと約束してくれましたがね」
「仇《あだ》な情けは禁物ですよ、部長。どうやら見つけてはこんでしょうな」ヴァンスが物思わせげな視線をマーカムに送った。「これで分りかけてきたよ、チェスターの心霊現象的|懊悩《おうのう》なるものの根拠がね、どうやらあの男の正体は、根っからの唯物論者だということになりそうだ……いとど悲しき物語!」
「君の考えじゃ、銃が行方不明になり、それであの男、怖気《おじけ》ついて馳《は》せ参じたというのかね?」
「さあ――まあそんなところかも……おそらくはね、こいつは誰にも分るまい。すてきに錯綜《さくそう》してるんだ、そこの心理が」と、だるそうな視線を巡査部長に向けながら――「ところで、部長、あなたの窃盗犯人の使った銃はどの型なの?」
ヒースがどら声の、不安そうな笑いを一つ立てた。
「さすがにお目が高いですな、ヴァンス先生、銃弾は二つとも押えましたよ――三十二口径、発射は回転式、自動拳銃じゃねえです。だけど、まさか先生の説によるてえと――?」
「およしなさいよ、部長、ほら、ゲーテがいってるでしょう。われを導く光の多からんことを願う心の切なさに――ドイツ語の |Licht《リッヒト》 はそんな風に翻訳できんもんですかね」
マーカムがこの多弁な韜晦《とうかい》趣味に釘《くぎ》をさした。
「部長、わたしは昼食後グリーン家に出掛けるつもりだ。君、同行できるかね?」
「できますとも、いずれにせよ、あっしはゆくつもりでさあ」
「よろしい」と、マーカムが葉巻の箱を取り出し――「ここに二時に迎えにきてくれたまえ……帰りしなにこのパーフェクトー〔大型の葉巻、両端が細型になっている〕を二、三本持ってゆかないかね」
ヒースが葉巻の品定めをし、丹念に胸ポケットに収めた。それから、戸口のところでこちらを振り向くと、ひやかし半分の苦笑いを一つ浮かべ、こう言った。
「ヴァンス先生、あなたもおいでになりますね――わが歩《あゆ》み、よろめくことなかれとて導きたまう、とかいうんだそうで?」
「わが道を阻《はば》むもののあるべきや」と、ヴァンスが科白《せりふ》を返した。
第三章 グリーン屋敷にて
(十一月九日、火曜日、午後二時三十分)
グリーン・マンション――それが普通、ニューヨークっ子の呼び名になっていたが――は植民地時代〔「旧体制《アンシャン・レジーム》」華やかなりし頃〕の名残りの遺跡だった。五十三丁目の東の端に、三代も続いてきた建築で、その二階の張出し風の窓二つは、現にイースト・リバーの汚水の上に張り出していた。屋敷が建っている敷地は一|区画《ブロック》全体に(跨《また》またがっていて――だから、奥行き、間口とも二百フィートもあり――縦《たて》も横《よこ》も街路に面する距離は同じだった。附近の町は、初期の頃からすると、性格を一変してしまったのだが、下町から次第に上町へと発展してきた商業の風潮もグリーン家住人の住まいだけは手をつけずに通っていった。あくせくたる商業企業がどよもすただなかに、孤影を守りつつ、理想主義と静寂のオアシスになっていた。大将《だんな》のトバイアス・グリーンの最後の遺言状の一項目に、彼の死後少なくとも四半世紀の間は、自分および祖先の霊を祭る記念碑として、屋敷に手をつけてはならぬという条項があった。彼が地上で行なった最後の行為の一つは、不動産全体の周《まわ》りを高い石壁でかこうということだったが、その結果、五十三丁目に面した正面玄関には、大きな二重鉄門の入口をつけ、一区画にまたがる裏側の五十二丁目口には、出入り商人用の裏口をつけていた。
屋敷そのものは二階に中二階がついた構造になっており、屋根には切妻風の尖塔《せんとう》やら、暖炉《だんろ》用の煙突やらが、にょきにょきと聳《そび》え立っていた。建築家たちにいわせれば――いくらか軽蔑《けいべつ》の抑揚もこめて――「シャトー・フランボヤン様式」〔火炎式城塞つくり〕――と呼んでいたものだが、その巨大な、正方形の、白石灰岩の重量から滲《し》み出ている落ち着いた威厳と、どこか封建的な伝統主義の雰囲気《ふんいき》だけは、世の毀誉《きよ》褒貶《ほうへん》にもびくともしない佇《たたず》まいを見せていた。家の建築様式は十六世紀風ゴチックなのだが、部分部分には、近世のイタリア文芸復興風の装飾の気配だとも断定される趣向がほどこされ、張出しつきの尖塔には、ビザンチン風の趣きがあった。細部の装飾《そうしょく》がこうした様式の多趣味なものであるにかかわらず、建築全体に華美絢爛《かびけんらん》の風は少しもなかった。これなら中世の熟練石工組合《フリーメーソン》系の建築士が深い敬意を払うようなものではない〔彼らは円形の大塔を信仰するのだから〕。むしろこの建築の効果は、「古典を衒《てら》った」ところにあるのではなく、古さそのものの精髄を滲《にじ》み出しているところにあった。
正面の庭園には、北部特有のカエデ、それに、常緑樹の刈りこみが植えられ、その間を縫《ぬ》って、アジサイとライラック〔これも北部特有〕の茂みがあしらってある。背面の庭園は、しだれ柳が枝もたわわに茂り、河面《かわも》まで垂れ下がっていた。矢はず組みの煉瓦壁《れんがへき》に沿って、米国の名花、サンザシの高い、生垣《いけがき》風の植えこみが続いている。四囲を取り巻く石垣の内側は、手ごろのはしご状|花壇《かだん》でしきつめてある。屋敷の両側、つまり、背面川沿いの反対には、アスファルトの自動車道路があり、背後の二棟続きの車庫につらなっているが――これは新世代のグリーン一族が建増ししたものだ。だが、ここでもまた北米のハナミズキの生垣が植えられ、自動車道路の近代味を包み隠している。
あの灰色の十一月の午後、わたしたちが構内に一歩足を踏み入れたとき、何か不吉な、寒々とした雰囲気が邸内全体を掩《おお》って動かないような感じがした。木も茂みも、常緑樹を除いて、落葉した裸の姿を見せ、あちこちの枝に雪の斑点《まだら》をつけていた。格子垣の植えこみがすっぱだかのまま壁面に沿っているのが、まるで黒い、まつわりつく骸骨《がいこつ》を思わせたし、大急ぎで箒《ほうき》を入れたものらしく、いまも不完全な掃除《そうじ》の跡が見える正面歩道を除いて、あたり一面には不規則な雪嵐の山がうず高く積まれていた。マンションの石積みの色がどんよりと曇って見えるのが、物思わせげな雲の垂れこめた空の色そっくりに見えた。わたしは高い玄関の扉――その上部は湾曲の深い円弧状の上に、鋭い角度の三角形の切妻がついているという奴で――につづく浅い階段を昇ってゆきながら、思わず幽鬼めいた、不吉な悪寒《おかん》に襲《おそ》われるのを感じていた。
スプルート――というのは家令で、白髪の小さい老人で、顔はしわだらけの山羊《やぎ》づらで――が出てきて、無言で、葬《とむら》いの時のような威厳で、わたしたちを案内した〔わたしたちの来訪の趣旨を知らされていたことは明らかだ〕。わたしたちは直ちに大きい、陰鬱な客間に通されたが、その重いカーテンを懸《か》けた窓からは、イースト・リバーが見渡せた。物の数秒もせぬうちに、チェスター・グリーンが姿を現わし、マーカムに向って、鼻につくくらいの丁重な挨拶《あいさつ》を送った。ヒースとヴァンスとわたしに向っては、さも見下したように、たった一つ、首をうなずいて見せただけで、それで十|把《ぱ》ひとからげの挨拶に代えた。
「かたじけない。よくきてくれたね、マーカム」と、彼が言い、苛立《いらだ》たしげな逸《はや》る気持を抑えるように、椅子《いす》の端に腰をおろしただけで、例のシガレット・ホールダーを取り出した。「だって君、まずは検問手続に移りたいんだろう? 先発者として、だれを召喚してやろうか?」
「それは暫《しば》し猶予《ゆうよ》していただきたい」と、マーカムが言った。「まず、召使いたちについていくらか知っておきたいのだ。君でできるだけのことを知らせてくれないか」
グリーンは椅子に坐《すわ》ったままそわそわと身動きをし、煙草に火をつけるのにも困難を覚えている様子だ。
「四人だけさ。でかい屋敷にたったそれだけと言われるかも知れんが、あんまりヘルプはいらないんだ。ジュリアが家政婦の役を引き受けているし、エイダが母の世話役で――まずは第一番にスプルートじじい。三十年もの間、家令、執事兼家老みたいなもんだ。おきまりの家付き封臣――英国の小説に出てくるあれだよ――献身的で、忠誠で、慇懃《いんぎん》で、かつは独裁者的、しかもうろちょろと密偵もどきの行動。ついでながら――あんな厄介《やっかい》もんはくたばっちまえばいいんだ。次は小間使いが二人――一人は部屋係り、もう一人はなんでも屋だが、こっちの方は女たちが独占してしまっている。大方は一銭にもならぬ、ぺちゃくちゃのお相手さ。ヘミングというのが年上の小間使い、もう十年もうちにいるが、いまだに鉄入りの胴着《どうぎ》と洗礼に便利な木の靴《くつ》を履《は》いてる。深間《ふかま》にはまりこんだ浸水派のバプテズマ信者というんだろうね――拷問《ごうもん》台にかけられようが、|へ《ヽ》とも思わぬ信心深さだ。もう一人は、バートン。これが若くて、おきゃんで、自分の魅力《みりょく》に参らん男はこの世におらんと思いこみ、フランス語は料理のメニューぐらいは知っている。お屋敷の坊ちゃんの誰かが、いつかはドアの陰で接吻《せっぷん》してくれるんじゃないかと、年中期待をかけているという式の女さ。この女を拾ってきたのはシーベラだ。全くシーベラが拾ってくるのに打ってつけの女さ。この二年間、家の飾《かざ》り物になったまま、つらい仕事はサボってばかりいる。料理女はずんぐりしたドイツ女で、典型的ハウス・フラウ〔家政婦〕だ――山のような胸、足の靴のサイズ10ときたもんだ。ひまさえあれば、遠戚《えんせき》の姪《めい》だとか甥《おい》だとか、ラインの谷の、どこかは知らぬが、はるかな奥に手紙ばかり書いている。自慢のたねは、どんな潔癖家《けっぺきか》だろうが、自分の台所の床はじかに物が喰えるというくらい清潔だということだ。もっとも、ぼくは賞味したことはないがね。おやじが死ぬ一年前に傭《やと》ってきたんだが――あの女が好きなだけ当家に置いてやれという命令なんだ。これが裏階段人種の全部さ。ほかに庭師が一人いるが、夏の間だけ芝生の間をぼさぼさといじり廻し、冬になったら、ハーレムあたりのもぐり酒場で冬眠だ」
「お抱《かか》え運転は?」
「邪魔《じゃま》っけの用なしさ。ジュリアは自動車嫌いだったし、レックスは自動車恐怖症だ――酔うんだよ、若いくせに、レックスの奴。ぼくは自分のレーサーを運転している。シーベラの車は普通のバーニー・オールドフィールドさ、エイダも運転するがね、母が自分のを使ってない時だとか、シーベラの車が空いている時はだ――以上でおしまいさ、だ」
グリーンがとりとめもない情報を提供している間、マーカムはメモを取っていたが、やっと、喫《す》っていた葉巻の火を消した。
「さて、よかったら、家の検分をさしてもらおうか」
グリーンが機敏に立ち上がり、わたしたちを案内した。そこは階下の大ホールになっていて――丸天井式の、樫《かし》の腰板《こしいた》を張りめぐらした廊下で、両面に、サンバン派のフランダース製の、大きな彫刻机が一対と、アングロ・ダッチ風の、王冠模様の背のついた椅子が数脚配置してあった。モザイクの木を敷いた床には、大きな一枚物のダーゲスタン絨毯《じゅうたん》が敷きつめてある。その褪《あ》せた色は、各部屋の拱門《きょうもん》のついた入口を貼《は》りつめた重厚なカーテン類にも反覆《はんぷく》されて見えた。
「ぼくらがいま出てきたところ、あそこはもちろん、客間だが」と、グリーンが尊大な様子で説明した。「あの背後、廊下の奥が」と、広い大理石の階段を通り過ぎたところで指さし――「あれが主《あるじ》なる人の書斎兼|巣窟《そうくつ》だったもんだ――『聖なる奥の院』〔サンクタム・サンクトラム〕とみずから命名なさったがね。十二年の間、秘密の部屋になったまま。おやじが死んでこの方《かた》、母が鍵をかけたったきりさ。いうなれば、ある種の感傷主義! ぼくはいつも母にいうんだ。あんな場所はきれいサッパリ片づけて、ビリヤード室にしてしまいなさいって。ところが母なる人はだね、いったんこうと思いこんだら、てこでも動かんたちでね。君もいつかやってみるといいよ、一汗《ひとあせ》かきたい時なんか」
彼がホールを横切り、客間のちょうど対面に当る、部屋の拱門《きょうもん》の入口に懸《か》かっているカーテンを引きよせた。
「ここが応接間さ。近頃は使ったことはない。鬱陶《うっとう》しくも野暮な部屋。暖炉がそよとも風を吸わないんだ。ここで火を焚くたびに、掃除屋を呼んで、絨毯の煤《すす》払いをやらせねばならんときたもんだ」彼がシガレット・ホールダーを手旗のように振り、二枚の美しいコブラン織の掛毛氈《かけもうせん》を指し示した。「あの後ろがだよ、この滑《すべ》り戸の裏が食堂になってるんだ。そのまた奥が家令の配膳棚《はいぜんだな》、その先が、床の物が喰えるという調理室。君たち、わが家の配膳部《はいぜんぶ》も検証する気かい?」
「いや、いいだろう」と、マーカムが言った。「台所の床の件に関しては、仰せの通りにしとこう――じゃ、二階を見せてもらおうか」
わたしたちは大階段を昇っていったが、その階段というのは円形になっていて、中央には大理石の彫刻――ファルギエールの作だとわたしは思った――が立っている。そこを昇りつめると、二階の大廊下になっていて、家の正面に面しているが、三連式の窓からは、裸の木々が見えた。
二階の間取りはいたって単純で、屋敷の大きい正方形建築と対称式になったものだが、読者にもよく分ってもらうために、この記録では、おおよその見取り図にして表現しておく。何を隠そう――殺人者の忌《いま》わしくも、怪奇な陰謀の実行を可能にしたところのもの――それはこの部屋の配置全体にあったのだ。
この階には寝室が六つある――廊下を隔《へだ》てて、左右に三つずつ、それぞれがグリーン家の人間の居間である。家の正面を下にして、この見取り図の右側が、下の息子、レックス・グリーン、その隣りがエイダ・グリーン。背面がグリーン未亡人の居間。エイダの部屋との間には、かなりの大きさの化粧室があり、ここを通って、二つの住室は出入自由になっている。見取り図からも分る通り、グリーン未亡人の部屋は家の両側の立ち上がりから突き出しており、こうして形成されたL字型の面積は、らんかんをめぐらした、小バルコニーになって、そこから家の壁沿いに、狭《せま》い階段が掛《か》かり、下の芝生に連なっている。このバルコニーには、エイダの部屋からも、グリーン未亡人の部屋からも、観音開きの扉で出入できる。
廊下の対面にある三つの部屋は、それぞれジュリア、チェスター、シーベラのものである。ジュリアの部屋が家の正面、シーベラのが背面、チェスターのが中央。この三つはどの間も出入自由にはなっていない。さらに、注意しておいてほしいのだが、シーベラの部屋も、グリーン未亡人の部屋も、入口の戸はすぐ表階段の後ろになっているのに対し、チェスターとエイダの入口は階段を上がったすぐ頭の部分、ジュリアとレックスのはずっと離れた正面の部分にある。エイダの部屋とグリーン未亡人の部屋との間には、小さいリネン室〔洗濯物《せんたくもの》を入れる〕がある。廊下の突き当りは、召使い専用の階段になっている。
チェスター・グリーンはこの間取りについて簡単に説明しながら、つかつかと廊下を進み、ジュリアの部屋まできた。
「諸君はどこよりもここを覗《のぞ》いて見たいんだろうから」というと、彼はサッと戸を開いた。「手を触れたものはなし――警察の命令だ。だが、あの血痕《けっこん》だらけのベッド・カバーがいったい誰の役に立つのか、ぼくには解《げ》せないんだ。見るも無残な光景さ」
部屋は広々としていた。そして、マリー・アントワネット期の、セージの葉に似た緑の繻子《しゅす》を張りつめたインテリアで華麗《かれい》に飾ってあった。入口の正面に、一段高い高座がしつらえられ、天蓋《てんがい》のついた寝台が鎮座している。刺繍《ししゅう》したカバーに黒い斑点《はんてん》が数ヵ所ついているのが、前夜そこで演じられた悲劇の無言の証《しるし》となっていた。
ヴァンスはインテリアの配置に注目した後で、天井を見あげ、旧時代風のクリスタルのシャンデリアを見つめていた。
「あなたがゆうべ姉さんを見つけたとき、点《つ》いていた灯《あかり》というのはあれですね、グリーンさん?」と、いかにもさりげない質問である。
言われたほうは、むっとしながらも、弱り切ったようにうなずいた。
「それならスイッチはどこなのか、お差支《さしつか》えなかったら?」
「飾りだなの端の後ろだ」グリーンがさも無関心な様子をして、扉の近くにある、非常に精巧な「|衣装だんす《アルモワール》」を指さした。
「姿なき怪盗――てなもんかね?」ヴァンスがぶらぶらとたんすの前まで歩みより、その背後を覗いた。「まさに堂に入ったる窃盗どの!」それから、彼はマーカムに歩みより、そっと何かを耳打ちした。
暫くして、マーカムがうなずいた。
「グリーン」と、彼が言った。「君、自分の部屋に戻り、昨夜銃声を聞いた時と同じように寝台に寝てみてくれないか。それからわたしが壁を叩いたら、起き上がり、昨夜そのままの行動を取ってもらいたい――なにもかも昨夜そっくりだよ、いいね。君の時間どりをしてみたいんだ」
言われたほうは、顔を硬《こわ》ばらせ、なじるような抗議の視線をマーカムに送った。
「なんだと、これじゃ!」と、彼が言いかけたが、すぐその口の裏から、肩をすくめて承知の色を現わし、またふんぞり返って部屋を出ていったが、出てゆく時はガタンと扉を閉《し》めた。
ヴァンスが懐中時計を取り出した。マーカムはグリーンが部屋に届いた頃を見計らい、壁を叩いた。永劫《えいごう》の時とも思われる間、わたしたちは待った。やがて、扉が微《かす》かに開いたかと思うと、グリーンが扉から顔を覗かせた。彼の目はゆっくりと部屋じゅうを見渡し、それから、もう少し扉を半開きにすると、ぬき足さし足内部に入ってきて、寝台へ歩いていった。
「三分二十秒」と、ヴァンスがアナウンスした。「どうも胸騒ぎがしてならん……部長、あなたの想像では、この侵入者は二つの狙撃《そげき》のあいだに何をやっていたと思いますか?」
「知ってりゃ世話はねえです」と、ヒースが応酬した。「たぶん、外の廊下を手探《てさぐ》りして、階段でも捜してたんですな。これだけの時間、暗中を模索《もさく》していたというんなら、階段をまっ逆さまに落っこちたって文句はいえんでしょうな」
マーカムが二人の議論を中断させようとして、家令が最初の銃声を聞きつけて降りてきたという、召使い専用の階段を見てみようじゃないかと言い出した。
「ほかの寝室はいまのところ検査の必要はないが」と、彼は言い、さらに――「ただし、医者が差支《さしつか》えないというときが来しだい、エイダ嬢の部屋を見ることになると思う。ところで、グリーン、いつになったら医者の決定が君に分るはずかね?」
「三時になったら、参上するという伝言だったがね。奴《やっこ》さん、あれで時間は几帳面《きちょうめん》なんだ――能率の虫さ。くたばっちまえやいいんだ、あんなの。けさ看護婦をよこしてね、その女がいまエイダと母の面倒を見ている」
「もしもし、グリーンさん」と、ヴァンスが遮《さえぎ》った。「姉のジュリアさんは、夜は鍵を掛けないでおくのが癖でしたか?」
グリーンが頤《あご》を少し落とし、目玉をまんまるく見開いた。
「そんな馬鹿な! ――まさか! そういわれてみると……姉はいつだって、鍵も締め切っていた」
ヴァンスが放心したようにうなずいた。そこでわたしたち一同は廊下に出た。背面の召使い専用の階段には、薄い紡毛《ベーズ》を張った開き戸がついて、体裁《ていさい》をつくろってある。マーカムがそれを押し開いた。
「これじゃ消音効果も大したことはないだろうな」と、彼が観察を述べた。
「そうなんだ」と、グリーンも同意した。「しかも、スプルートじじいの部屋は階段のすぐ上だ。耳も鋭《するど》いしな、あいつ――時には癪《しゃく》にさわるぐらい鋭いんだから」
わたしたちが引返そうとしていたちょうどその時、右手の半開きになった扉から飛び出してきた、甲《かん》高い、喧嘩っぽい声があった。
「チェスター、おまえなのかえ? いったい、何をそんなに取り乱しているのかえ? 散々ひとを騒がせ、心配させておいて、まだ足りないというのかえ――?」
グリーンは既に母の入口にいって、頭だけを中に入れていた。
「大丈夫だってば、母上」と、彼が苛立《いらだ》たしそうに言った。「警察が嗅《か》ぎまわっているだけのことですよ」
「警察が?」彼女の声は軽蔑の声だった。「何の用だとお言いかえ? ゆうべの騒ぎでまだ足りないというのかえ? さっさと悪党捜しでもしたらどんなものかね。ひとさまの入口に群がって、がやがやとうるさいのはまっぴらだといっておくれ――そうかえ、警察だったのかい」彼女の声が執念深いものに変わった。「すぐこっちへおよこし。あたしが話をつけてあげる。警察が聞いて呆《あき》れるよ、まったく!」
グリーンが頼りなさそうにマーカムを見た。こちらはうなずいただけだった。やがて、わたしたちは病人の部屋に入っていった。見れば広々とした部屋で、三方に窓があり、雑多な骨董《こっとう》品で丹念な飾りつけがしてある。わたしが最初一瞥しただけでも――東インドの絨毯、ルイ王朝の名匠《めいしょう》ブールの象嵌《ぞうがん》だんす、巨大な金メッキの仏像、チーク材の彫《ほ》り物による重厚な中国式椅子が数脚、色の褪《あ》せたペルシャ毛氈《もうせん》一枚、アメリカ南北戦争後の流行品、鋳物《いもの》の電気スタンド一対、同じくアメリカ近世の流行、脚高たんすで赤と金の漆塗《うるしぬ》りの「ハイ・ギーイ」といったところだ。わたしは一瞬ヴァンスを見やったが、その目には、困惑したような、悦に入ったような表情を一瞬|捉《とら》えることができた。
途方もなく大きな寝台が一台横たわっている。頭の鏡板もなければ、脚のほうの脚板もない。その上に伏せっているのがこの家の女主人だ。曼荼羅《まんだら》色の絹の枕具をしどけなく重ねたのに、半臥《はんが》の姿勢で凭《もた》れるようにして、首をもたげている。年の頃は六十五から七十の間と思われるが、髪はまだ黒に近い。駿馬《しゅんめ》を思わす長い顔は、黄疸《おうだん》の気味があり、それに古代の羊皮紙さながら皺《しわ》くちゃになってはいるけれども、溌溂《はつらつ》たる活気をいまだに発散させている。わたしは、いつか見たジョージ・エリオット〔英国の女流作家〕の肖像画を思い出してならなかった。老婦人の肩には、刺繍をした、東洋風のショールが掛かっている。この異常で、多彩な部屋を背景に、この女が映《うつ》し出されているさまは、一種独特な異国情緒を偲《しの》ばせるものがある。その傍《かたわ》らには、白い、ピンと張った制服を着て、頬《ほお》を薔薇色に輝かせた看護婦が、つんと澄ましているのが、寝台の女とは面妖《めんよう》な対照をなしていた。
チェスター・グリーンがマーカムを紹介したが、残り一同は十把ひとからげに受け取ってもらうのに任せたきりだった。せっかくの紹介に対しても、彼女は初めは挨拶を返すでもなく、一瞬、マーカムの人物を鑑定しているかのようだったが、やがて、こみあげる怒りを寛容の徳で抑えたとでもいうようにうなずくと、長い、骨っぽい手をマーカムのほうに差し出した。
「なんでしょうよ、自分の家をこんな風に蹂躪《じゅうりん》されながら、それでもあたしは黙っていなけりゃならないんかね」と、うんざりしたように彼女が言ったが、大いなる忍容の徳を発揮しているのだと言わんばかりだ。「あたし、ちょっぴりでも休めればと思って、そう努めていたところなの。ゆうべのあの大騒ぎの後でしょう、あたし今日は背中の痛みがひどくてひどくて。どうせあたしなんか、どうなっても構わないというんでしょうよ――しがない、老いぼれの、全身麻痺の女なんか? どっちみち、あたしにやさしく気を使ってくれる人間はいないんですからね、マーカムさん。だけど、考えてみれば、みんなのほうが道理にかなっているのかもね。つまりは、あたしたち病弱者なんて、この世に生きている値打ちのない人間なのでしょうからね?」
マーカムがしきりと丁重な抗議を呟《つぶや》いたが、グリーン未亡人はそれには目もくれなかった。彼女は看護婦のほうに身体を廻転《かいてん》したが、見たところ、やっとのことらしい。
「枕をお直し、クレーヴン看護婦」と、彼女がいらいらと命令し、それから、哀れっぽい口調で、こうつけ加えた。「おまえさんだって、あたしの福祉のことは一顧《いっこ》だにしないんだから」看護婦は押し黙ったまま、言われた通りのことをした。「さ、エイダの部屋にいって、あの子の面倒を見ておやり。追っつけフォン・ブロン先生もお見えだろうよ――あのかわいい子のぐあいはどうなの?」突如、彼女の声は、憂慮をよそおった調子に変わっていた。
「大変快方に向っておいでです。グリーンの奥さま」と、看護婦は味もそっけもない、当然のことを当然に言うような口調でしゃべると、そのまますっと化粧室のほうに移っていった。
寝台上の女はマーカムに視線を注いだが、泣言を並べたてている人の表情がそこにはあった。
「かたわもんて、なんてひどい運命なのでしょう。歩くことも、一人で立つこともできないんですものね。両足が全治不能の麻痺に罹《かか》ってから、あたし、十年にもなるのです。お察しがつきまして、マーカムさん? この十年を、この寝台とあの椅子の間で過ごしたんですのよ」と――小部屋においてある病人用椅子を指さし――「しかも、身体ごと持ちあげてもらわないと、ひとつところにいたきり、移れないんですのよ。だけど、どうせこの世は長くないものと、あたしは自分を慰めてもいるのです。忍耐が大切だと、自分に言い聞かせてもいるのです。だけど、あたしの子供らがいま少し思いやりのある人間であってくれたなら、こうも暗澹《あんたん》たる世の中を見ずにすむものを。だけど、なんでしょうね、それは途方もない望みというもので。青春と健康は、老年と虚弱をば一顧だにしない――それが、世の掟《おきて》というものなのね。だから、あたしは与えられた命を大事にしているのです。みんなの重荷になるのは、あたしの運命なのだから」
彼女は溜息《ためいき》をつき、ショールをぐっと引きよせた。
「なにかあたしに質問がおありじゃありませんこと? どう考えても、あたしにお話できることで、皆さんのお役に立ちそうなことはないのですけれども、なんなりとできればこんな嬉《うれ》しいことはありませんわ。あたし昨夜は一睡もしていないし、このたびの騒動で、背中の痛みがとってもひどくなりましてね。でも、あたし、泣き言は申しませんわ」
マーカムは立ちすくんだまま、同情するかのように、この年老いた貴婦人を眺《なが》めていた。事実、その姿には憐《あわ》れを誘わずにはおれないものがあった。その昔、おそらくは才気|煥発《かんぱつ》で、寛大でもあったろう精神も、長い闘病生活と孤独とに歪《ゆが》められ、いまはただ、一種の内省的な殉教者となり果て、おのれの苦患《くげん》に対して、誇張した感受性だけを抱《いだ》く人間――それが彼女だった。わたしにもはっきりと分っていたのだが、マーカムも慰めの言葉を一つか二つ述べ、すぐ辞去すべきだと本能で知っていたはずだが、義務感が先に立ち、やむをえず、その心を抑《おさ》え、できるだけのことは聞いておこうと決めたのだ。
「絶対に必要なこと以外に、奥さん、あなたをおわずらわせする気持は毛頭ありません」と、彼が優《やさ》しい声で言った。「しかし、一、二の質問をさせて下さるなら、相当に役立つことがあるかも知れないと思いますが」
「小の迷惑でも、迷惑は迷惑、あとはおんなじじゃありませんこと?」と、彼女が開き直った。「あたし永いこと慣《な》れっこになっています、どうぞなんなりと質問なさいませ」
マーカムがヨーロッパ風の礼儀で、お辞儀をした。「これは、奥さん、大変にかたじけない」と、言って、一瞬|間《ま》をおいてから――「グリーンさんの話によると、あなたは年上のお嬢さんの部屋で発射された銃声は聞えなかったが、エイダお嬢さんの部屋の銃声には目を覚ました、そうですね?」
「そうですわ」と、彼女がゆっくりとうなずいた。「ジュリアの部屋は相当に離れています――廊下の反対側です。でもエイダはいつも両方の部屋の間のドアを開《あ》けっぱなしにしています。あたしが夜中に用がある時のことを考えて。そこで当然、あの子の部屋の銃声であたしは目を覚ました……おや、どうだったかしら。あたし寝入ったばかりだったかもしれない。昨夜は、背中のことで、気がくしゃくしゃし通しで、一日中痛さに悩んでいたところだったし、むろん、子供たちには一言も打ち明けなかったけれども。全身麻痺の老いぼれの母がどう悩もうが、どう気にするもんでもなし……ちょうどその時、やっとうとうとしかけたと思ったとき、パンという音がして、あたしまたすっかり目が覚めてしまいましたわ……恐さは恐し、さりとて孤立無援、身動きひとつできず、一体どんな恐ろしいことがこの身に降りかかってくるのかと思うばかり。なのに、誰もあたしの安否を気づかってきてくれる者もなし。ひとりぽっちで、無防備なあたし。それを誰も考えつかないなんて、もっとも、いつだって、誰だって、あたしのことなんか考えていないんですけどもね」
「思いやりの有無の問題じゃなかったと思いますよ、グリーンの奥さん」と、マーカムが真面目《まじめ》になって保証した。「勢いの赴《おもむ》くところ、皆さんの念頭から、一時的にもせよ、二人の被害者のこと以外は消えてしまったのでしょうよ――そこでいいですか、銃声に目を覚まされたあと、エイダお嬢さんの部屋でほかの物音は聞きませんでしたか?」
「かわいそうに、あの子の倒れる音がした――少なくとも、あたしにはそう聞えたわ」
「しかし、ほかの種類の物音はなんにもしなかったのですね? 例えば、足音とか?」
「足音?」老婦人は思い出そうとひとしきり努力しているように見えた。「いいえ、なんの足音も」
「廊下への扉が開くか閉じるかするのをお聞きになりませんでしたか、奥さん?」この質問をしたのはヴァンスだった。
言われた人は、鋭く彼のほうに目をまわし、凝然《ぎょうぜん》と睨《にら》みつけた。
「いいえ、戸の開くのも閉じるのも聞きませんでしたよ」
「これはまた奇にして怪なるかな。だって、そうじゃありませんか?」と、ヴァンスが追いつめた。「侵入者は必ず部屋を出ていったに違いないんですよ」
「なんでしょうよ、必ずそうに違いなんでしょうよ。でなければ、いまのいまもあそこにいる、ということになりますものね」と、彼女が皮肉を言い、地方検事のほうにまた向き直った。
「なにかまだお知りになりたいことありまして?」
もはや紛れもなく、この女から、決定的な情報を引き出すことは不可能事であることをマーカムも認めたようである。
「ないでしょうな」と、答え、こうつけ加えた――「いうまでもなく、家令と息子さんがエイダ嬢の部屋に入ってゆくところはお聞きになったのでしょうな?」
「そりゃ、聞きましたとも。あれだけ騒げば、あなた――あたしの感情なんか神経を使っちゃいないんだから。あの『たいこもち』のスプルートなんか、あなた、チェスターの名を呼んだ時なんか、まるでそりゃヒステリー女みたい。電話の話し声だって、相手のフォン・ブロン先生がつんぼじゃないかと思うぐらいの大声でしたわ。それにチェスターもチェスターだ。どういう訳か知らないけれど、家中を叩き起しにかかっていましてね。ああ、昨夜のあたしには、平和も休息も奪われたんです! それに警察だって、どたばたと、家じゅうを駆けずりまわり、暴《あば》れ牛みたいなもんだわね。こんな恥辱ってあるものですか。だというのに。このあたしは――老いさらばえて、身よりのない女のあたし――疎《うと》んぜられ、忘れ去られ、脊髄《せきずい》の苦患《くげん》にひとり悩みつつ、ああ……」
マーカムは、そそくさと定《き》まり文句の同情の意を表すると、彼女の助けを感謝し、そのまま部屋から引き退がった。わたしたちが階段のほうに進んでいる間にも、夫人の怒りに猛《たけ》った呼び声が聞えてきた。「看護婦! 看護婦ったら、聞えないのかえ? すぐきて、枕を直すんだよ。こんな風にあたしを無視して、おまえさん、どういう料簡《りょうけん》かえ?……」
わたしたちが大広間に降りてゆくにつれて、有難いことに、声の余韻《よいん》も消えた。
第四章 行方不明の拳銃
(十一月九日、火曜日、午後三時)
「母のつむじ曲がりの老いぼれ根性には困ったもんだ」と、グリーンが即席の言い訳をした。わたしたちがまた客間に入ってきた時のことである。「いつだって、かわいい子の愚痴をこぼすのが癖でね――さて、次はどの手でゆくかい?」
マーカムは思いに耽《ふけ》っている様子で、返事したのはヴァンスだった。
「さて、召使いに会って、一度話をうかがおう――先ずはスプルートを最初に」
マーカムが夢から覚めたかのようにうなずいた。そこでグリーンが席を立ち、拱門《きょうもん》の近くにある絹の呼鈴の紐を引いた。一分後、家令が姿を現わし、客間に入りかけの地点で、恭《うやうや》しい気をつけの姿勢で立ちつくした。マーカムは先ほどの訊問の間から、どうしたことか、五里霧中の体《てい》で、一切に興味を失ったかのようにすら見えたので、ここではヴァンスが指導権を買って出た。
「お坐り、スプルート。できるだけ簡潔に、昨夜起った事の次第を話しておくれ」
スプルートが、目は床《ゆか》を見たまま、ゆっくりと進み出てきたが、部屋中央の置き机の前までくると、相変わらず立っている。
「わたしは自分の部屋でマルシアリス〔ローマの風刺《ふうし》詩人〕を読んでおりました」と、彼がへりくだった様子で視線をあげ、語り出した。「その時、消音した銃声を聞いたような気がしたのであります。が、はっきりそうだとは申せません。なにしろ、町をゆく自動車が時々バック・ファイヤを起こし、大きな爆音を立てているのですから。しかし、とうとう、これは一度調べておくに越したことはない、そう自分にいい聞かせたのでありました。わたしは『ネグリジェのまま』でして――と、いえば、その時のだらしなさを分ってもらえると思います――そこで、バスローブをひっかけると、下へ降《お》りてゆきました。あの音の出所はどこなのだろう? それも分らないまま、階段を半分降りたところで、再びズドンという音がした。今度はエイダお嬢さまの部屋らしい。そこで急遽《きゅうきょ》そちらに行き、扉を開けようとした。ところが、鍵は掛かっていない。そこで覗いて見ると、エイダ嬢さまが床に倒れていらっしゃる――それはそれはおいたわしいお姿で! わたしはチェスターさまをお呼びし、二人でお嬢さまを抱《だ》きあげ、寝台にお寝かせし、それからフォン・ブロン先生に電話をしました」
ヴァンスが相手を隈《くま》なく吟味した。
「君は大いなる勇気の人だよ、スプルート、真夜中に、暗闇の廊下に突入し、銃声の出所を探《さが》そうとしたんだからね」
「有難うございます」と、言われた人は、大いに謙遜《けんそん》して答えた。「つね日頃から、わたしはグリーン家に対する義務を果たそうと心掛けておりまして、既に勤めること――」
「その話なら知っているさ、スプルート」と、ヴァンスがいきなり遮《さえぎ》った。「エイダ嬢の部屋の灯はついていた――ぼくはそう諒解するがね――君が扉を開いたとき、そうだね?」
「さようです」
「なのに、君は誰の姿も見ず、物音一つ聞かなかったの? 例えば、扉の閉じる音だとか?」
「さようです」
「にもかかわらず、その一撃を発射した人物は、君が廊下についた時と同じ時、そのどこかにいたに違いないんだよ」
「そうなんでありましょう」
「さらに、君にも狙《ねら》いをつけて、発砲していたかも知れないんだぜ」
「全く、さようで」スプルートは危うくも免《まぬが》れた危険のことには、全く無関心の様子だ。「しかし、『禍福《かふく》はあざなえる縄《なわ》の如し』でして――そう申して、失礼ではございますが。それに、わたしは、もう年も取り――」
「なんだ、なんだ! 君にはまだまだ長寿の相ありさ――どれくらいの長寿か、もちろん、ぼくから保証はできかねるがね」
「さようです」スプルートの目は虚《うつ》ろにあらぬ方を見つめていた。「生と死の神秘について、悟りを開いた人間はおりませんです」
「君、案外の哲学者なんだな、ええ」と、ヴァンスがドライにコメントし、それから――「君がフォン・ブロン医師に電話した。彼は在宅してたの?」
「いいえ。しかし、夜直の看護婦がいうには、先生はもうすぐ戻るだろうから、戻りしだい参上させるということでした。事実、半時間もせぬうちにお見えになりました」
ヴァンスがうなずいた。「これくらいにしとこう、有難う、スプルート――さてお次は、親愛なる料理婦人をよこしてくれないか」
「イエス・サー」そのまま老家令はずり足で部屋を引き退がっていった。
ヴァンスの眼は、思案するように、老人の跡を追っていた。
「詐《いつ》わり、人を誑《たぶら》かす型か!」と、彼が呟いた。
グリーンが軽蔑したように鼻を鳴らした。「あいつと同じ屋根の下に暮らしてみろ! 君だって、そんな呑気《のんき》なせりふがいえるもんか。あいつときたら、君が古代ケルト語のワルーン語を使おうが、それと超近代的世界語ヴォルピュークでしゃべろうが、『イエス・サー』とくるんだから。一日二十四時間、家じゅうをほっつき歩かれたんじゃ、これがなんで魅力ある人間なもんか。大したいたち野郎さ!」
料理女は、肥満型の、鈍重無感覚型のドイツ女で、年の頃は四十五、ゲルトルート・マンハイムという名前だったが、入ってくると、入口の近くの椅子にちょこんと坐った。ヴァンスは一瞬鋭く観察してから、質問した。
「あなたはこの国の生まれなの、フラウ・マンハイム?」
「生まれはバーデンですわ」と、彼女が答えたが、いわゆる平唇性〔子音の強い〕の、むしろ喉音《こうおん》の強い発音である。「あたし、十二の時、アメリカに渡ってきました」
「お見受けするところ、生涯料理女をしてきたという柄ではないが」ヴァンスの声には、スプルートに対した時とは少し違った抑揚《よくよう》がこもっていた。
初め、彼女は返事しなかった。
「そうなのです」と、やっと彼女が言った。「夫に死なれて以来ですわ」
「どういういきさつでグリーン家と近づきになったの?」
再び彼女が躊躇《ちゅうちょ》した。「あたし、トバイアス・グリーンさまにお逢《あ》いしたことがありまして。あたしの夫を知ってもらっていたのです。夫が死んで、お金もないもんで、あたし、グリーンの旦那《だんな》のことを思い出し、それで、思いますに――」
「ぼくが諒解するに」と、ヴァンスが間《ま》を置き、目は宙を見つめたまま――「あなたは昨夜ここで起こったことは何にも聞いていない、そうでしたね?」
「そうなのです。チェスターさまが階段から大声でお呼びになり、みんなに着替えをして降りてこい、とおっしゃるまではなんにも」
ヴァンスは席を立ち、イースト・リバーを見おろす窓べに向った。
「以上だ、フラウ・マンハイム。お手数だが、女中頭に――ヘミングでしたかね――ここにくるように伝えておくれ」
料理女は無言で引き退がっていったが、すぐ入れ違いに現われたのは、長身の、おひきずりタイプの女なのだが、そのくせ顔は鋭い、淑女《しゅくじょ》ぶったところがあり、髪には物凄いくらい櫛《くし》を入れている。着物は黒一色のワンピースで、靴《くつ》はヴィシ・キッドという商標でこの頃流行したやわ皮のスリッパーである。この顔の峻厳《しゅんげん》さを一層ひき立てるかのように、厚いレンズの眼鏡まで掛けている。
「察するところ、ヘミング」と、ヴァンスがまた暖炉の前に戻ってきて坐り直し、言いはじめた。
「君も、昨夜の銃声は聞かなかったし、グリーン旦那に呼ばれるまで、悲劇のことは知らなかった。そうだったね?」
女は激しい、強調するような動作で、うなずいた。
「神の怒りも、わが迷える魂を免《まぬが》れしめたもうたのですわ」と、彼女がしゃがれ声で言った。「でも、お説の悲劇とかは、遅かれ早かれ訪れる予定《さだめ》だったのです。はばかりながら、あたしにいわせりゃ、あれは荒らぶる神の復讐の御業《みわざ》にきまってます」
「いやなに、君にいってもらわなくてもいいんだがね、ヘミング、それはともかく、君の意見《おもい》を述べてもらって、光栄だよ――つまり、この『はじき』の現場に神の善《よ》よき手が働いた、というわけか」
「神の御業《みわざ》にきまってますわ!」女はいまや宗教的熱狂をこめたしゃべり方になった。「グリーン家は、神を蔑《な》みする、邪曲《まかつび》の氏族《やから》です」彼女はチェスター・グリーンを傲然《ごうぜん》と横目で睨んだが、こちらは不安げに笑っている。「『軍旅の長のたまわく、我立ちて、その名と遺《のこ》りたるもの、その子、その娘、その甥を絶ち滅ぼさんと』――甥だけはいませんわね――『われ滅びの箒《ほうき》をもてこれを掃《はら》い除《のぞ》かんと、これ聖言《みことば》なり』」
ヴァンスが思索するように、彼女を眺めた。
「失礼だが、君はイザヤ書を読み違えている。〔ヴァンスのいう通り、娘と姪は原典にない〕ところで、聖書のみ名により、その箒の化身《けしん》たるべく選ばれたのが誰なのか、君は天上界の情報を持っているの?」
女が唇をぐっと引き締めた。「誰が知るもんですか」
「いやはや、まったくだ。しんに誰ぞや……ところで地上界に降りてくることにして、ぼくのつたない仮定だが、君は昨夜ふりかかった一件には、なんの驚きも覚えなかった、そうだね?」
「全能の神のしろしめたもう、もろもろの不思議と徴《しるし》のわざに、どうして驚いていいものですか!」
ヴァンスが溜息をついた、「君は退がっていいよ、ヘミング。せいぜい聖書の研究でもしたまえ。ひとつだけお願いだ。すまないが、途中で下界をまわり、バートン嬢に伝えてくれないか。ぼくらがあの人の艶姿《あですがた》を待ち焦《こ》がれているってね」
女はつんと立ちあがり、部屋から出ていったが、まるでその姿は、鉄棍棒《てつこんぼう》に生命でも吹き込んだように突っ立っていた。
バートンが入ってきたが、紛れもなく、怖気《おじけ》づいている。だが、この女にとっては、どんな恐怖も、本能的に備わった媚態《びたい》を追い出すまでには到らぬものらしい。ハッと見つめた視線の裏にも、シナを作っている様子が見えたし、片手はいつしか耳にかぶさった亜麻色《あまいろ》の髪を撫《な》でつけていた。
「君、ほんとは紺《こん》緑のブルーがずっといいんだがな。バートン」と、彼が厳粛な顔で忠告した。「君の橄欖《かんらん》色の肌《はだ》には、さくらんぼの色より、それがずっと良く似合うんだよ」
少女の心配顔が解け、ヴァンスに向って、謎を掛けるような、いたずらっぽい顔になった。
「ところで、いいかい、ぼくがとくに君にきてもらった用事というのは」と、彼が続けた。「グリーンの旦那が君に接吻をしたことはないかどうか、それが聞きたかったのさ」
「どちらの――グリーン旦那?」すっかり面喰らった彼女が口ごもりながら言った。
チェスターはヴァンスの質問を聞いた途端、椅子から棒立ちになり、忿懣《ふんまん》やる方ないといわんばかりに、泡《あわ》を飛ばして抗議しようとしたが、呂律《ろれつ》がまわらなくなり、無言の怒りをこめた目をマーカムに向けた。
ヴァンスの口がへの字に曲がって、ピクッと痙攣《けいれん》した。「いや、なになに、気にしない、気にしない、バートン」と、彼が口早に言った。
「あなたあたしに質問があるんじゃなかったのですの――ゆうべ起こったことで?」と、女は尋ねたが、紛れもなく、がっかりだと言いたげだ。
「なんだ! 君、何か知ってることがあるの?」
「そう言われると、なんにも」と、彼女が認めた。「あたしぐっすり――」
「それご覧、だから、君を質問攻めにする気はぼくには絶対にないのさ」彼がお人好しぶりを発揮して、彼女を引き取らせた。
「畜生! マーカム、異議ありだ!」バートンの姿が消えた瞬間、グリーンが叫んだ。「こいつ――この紳士づらの軽佻浮薄《けいちょうふはく》は、げてもんの悪趣味といわずにはおれん。――おれは絶対我慢ならんぞ!」
マーカムもまた、ヴァンスの訊問がいつしか軽率な路線を走ってしまったことに苦り切っていたのだ。
「あんなやくざな聞き込みをして、どれだけの利点があるものやら、わたしには分らん」と、彼が言い、つとめて忿懣《ふんまん》を抑えて見せた。
「簡単さ。それは君らがいまだに窃盗説を固守しているからさ」と、ヴァンスが答えた。「だけど、そうではなく、グリーンさんもうすうす感じておられるように、昨夜の犯罪に別の解明要因ありとするならば、ここにあるままの条件を知悉《ちしつ》しておくことが不可欠なんだ。さらに、同じく不可欠なことは、召使いたちの猜疑心《さいぎしん》を掻《か》き立てないことだ。よって、ぼくのやり方は一見、筋違いの質問にみえるわけさ。ぼくらが対処しなければならならい、色んな人間的|要因《ファクター》に対する綜合分析《そうごうぶんせき》――ぼくがやろうとしているのはそれさ。しかも、一方ならぬ成果があった、とぼくは思っている。どちらかといえば、興味のある可能性が数件進展してきたのだからね」
マーカムが何か応答しかけた途端、スプルートが拱門に現われ、部屋を通り、正面玄関を開《あ》けた。誰かに向って恭しく挨拶しているところだ。グリーンがすぐホールに飛んでいった。
「ハロー、先生」といっている声がする。「おっつけお見えになるころだと心待ちしておりました。目下、地方検事とその『側近』とやらがきておりまして、エイダ嬢さまに会って話がしたいというので、今日の午後なら大丈夫だろう、というあなたの話をしていたところです」
「それはどうかな? エイダを見てみないことには」と、医者が答えた。彼が急いで廊下を渡り、階段を昇ってゆく足音が聞えてきた。
「フォン・ブロンだよ」グリーンが客間に戻ってきて、説明した。「エイダの容態の件、いずれ報告があるだろう」そういう声のどこかに冷酷な響きがあり、当時のわたしにはなぞめいて聞えたものだ。
「フォン・ブロン先生とお宅との関係はいつからなのです?」と、ヴァンスが尋ねた。
「いつから?」グリーンが意表を衝《つ》かれたような様子をした。「そうだね、生まれてこの方ずっとだ。おれとあれとは旧ビークマン〔ニューヨークの別称〕小学校にも通ったし、あれの父親――先代の医師ヴェレナス・フォン・ブロン――はグリーン家近代の子孫の出生を取り上げてくれた人だ。家つきの侍医、精神的顧問とかなんとか、ずっと昔から、ま、そんなところだ。先代のフォン・ブロンが死に、伜《せがれ》は当然のこととしてわが家に受け入れられた。それに、この伜《せがれ》のアーサーって男、なかなか隅《すみ》におけない奴だ。薬局方の心得は大したもんだ。おやじに仕込まれたうえに、ドイツの医学校で磨きを掛けてきたんだ」
ヴァンスが投げやりにうなずいた。
「フォン・ブロン先生をお待ちしている間に、どうでしょう? シーベラ嬢、レックス両氏と一席だべってみたいですな。まずは弟さんから、ということでは?」
グリーンがマーカムに視線を送り、確認を求め、それからスプルートを呼鈴で呼んだ。
レックス・グリーンは、召喚に応じて直ちに出頭した。
「で、皆さん、どういう用件ですか?」と、彼は神経を極度に張りつめた様子で、わたしたちの顔を丹念に吟味《ぎんみ》しながら、尋ねた。彼の声音は、どこか『すねた』泣き言に近いもので、どことなく、グリーン未亡人の癇癪《かんしゃく》の強い、繰《く》り言《ごと》を思わすような基音があった。
「いやなに、昨夜のことで質問したいだけですよ」と、ヴァンスがすかすように言った。「ひょっとしたら、あなたがぼくらの助けになるかも知れないと思いまして」
「ぼくが助けになるって、どうしてです?」と、レックスがむっつりと言い、椅子にぐったり腰をおろすと、兄に向って、冷笑的な流し目をくれた。「家のなかで、目を覚ましていたらしいのはチェスター一人だったんだ」
レックス・グリーンはちびの、黄疸《おうだん》色の顔をした男で、肩幅が狭く、猫背《ねこぜ》で、異常に大きい頭部を、栄養失調で衰弱し切ったとしかいいようのない細い頸《くび》にのっけているといった風が見えた。縮《ちぢ》れ毛のないザンバラ髪が突き出て、おでこの上に垂れ下がってくるのを、首をガクンと振《ふ》って払いのけるという癖がある。小さい、移ろい易い目をかばうかのように、でっかいべっこう製の眼鏡を掛けているのだが、その目は永久に安らぎをえようとは見えない。それに、薄っぺらな上下の唇はいつもピクピクと痙攣《けいれん》していて、まるで三叉《さんさ》神経痛にでも罹《かか》っているみたいだ。頤《あご》は小さくて、尖《とが》っており、いつもぐっと下へひいているものだから、隆起のない頤に一層のアクセントを与えている。見るからに不愉快な人物なのだが、それでも、この人間にはなにものか――過度に発達した知的探究心とでもいうのか――尋常ではない知能に秀でた男という印象を与えるようなところがあった。わたしがかつて遇《あ》ったことのあるチェスの神童といわれた少年が、これと同じ頭蓋《ずがい》構造と面貌《めんぼう》の鋳型《いがた》をしていたものだ。
ヴァンスはまた内省するかのような様子をしたが、こんな時こそ、彼は相手の外観の隅々までも吸収消化しているのだということは、わたしには分っていた。暫くして、彼がシガレットを下に置き、物|憂《う》げな視線を卓上のスタンドに集中させた。
「あなたの話によると、昨夜の悲劇の間は眠り通しで、何も知らなかったという。それはまさに驚くべき事実だ。あなたはこの事実に対し、何と説明しますか? なんとなれば、銃声の一つは、あなたの隣りの部屋で起こったものなんですよ」
レックスがぐいと前方に乗り出し、あわや椅子の端からずり落ちそうになりながら、首を右に左に振りまわし、故意にわたしたちの視線を避けようとした。
「ぼくは説明しようと試みたことなんかないです」と、彼がやり返したが、怒りを秘めた非難の色がありありと見える。それにもかかわらず、神経のほうは参っているらしく、受身の構えをした。やがて、急いで、こうつけ足した。「この家の壁はけっこう厚くできてるんだし、それに通りには騒音が絶えないんだから……きっと、ぼくはベッド・カバーを頭からかぶって寝ていたんだ……」
「おまえが確かにやりそうなこったよ、銃声を聞いたんならな」と、コメントしたのはチェスターだった。いまや弟に対する軽蔑を隠そうともしないのだ。
レックスがくるりと向き直り、この告発に対して応酬《おうしゅう》しようとした。間髪《かんぱつ》を入れず、ヴァンスが次の質問をさしはさんでいた。
「あなたの犯罪者説はどうです、グリーンさん? 情報はすべてお聞きになったはずだし、状況はご存じの通りです」
「警察では窃盗説に一決したのと違いますか」若者の抜け目のなさそうな目がヒースの上に注がれた。「それが皆さんの結論だったんじゃないですか?」
「だったところじゃない、いまもそうだ」と、巡査部長がいい放った。ずっとこれまで、退屈な沈黙を保っていたのである。「だけど、あんたのこの兄さんは意見が違うようですぜ」
「ほう、チェスターは意見が違うんですかい」と、レックスが意地悪い嫌悪《けんお》の情をまる出しにして、兄のほうに向いた。「きっと、チェスターはなにもかも知ってるんでしょうよ」この言葉の言外の意味には誤解のしようがなかった。
ヴァンスがまたもや、いさかいの調停を買って出た。
「兄さんはなにもかも知っているだけのことをお話し下すっただけですよ。いまここで問題なのは、あなたがどのくらい知っているかということなんだ」この峻厳な態度に、さすがのレックスも乗り出していた腰を引っこめてしまった。彼の唇が一層激しい痙攣を起こしたが、手はスモーキング・ジャケツの打ち紐《ひも》の飾りボタンをいじくり始めている。わたしはこのとき初めて気がついたのだが、彼の腕は佝僂《くる》病で萎縮《いしゅく》し、指骨《しこつ》は弓なりになり、肥大症を起こしている。
「確かですね、銃声は聞かなかったというのは?」と、ヴァンスが不吉な話題をつづけた。
「なんどいえば分るんだ。聞かなかったといっているじゃないか!」その声は音域|外《はず》れの裏声《フォルセットー》にまで高まり、両手で椅子の肘《ひじ》をぐっと握り締めていた。
「おとなしくするんだ、レックス」と、チェスターが戒《いまし》めた。「また例の発作を起こしてしまうぞ」
「よしやがれ! おれはなんにも知っちゃいないとなんどいわせりゃ気がすむんだ!」
「ぼくらはあらゆる点について、二重に念を押しておきたいだけのことですよ」と、ヴァンスが鎮《しず》めるように言った。「それにあなただって、われわれに堅忍不抜の心が欠けたがために、お姉さんの非業の死に対し、復讐が遂げられぬままに終ることは、きっとお望みじゃありますまい」
レックスが少し態度を和らげ、深呼吸を一つした。
「ああ、知ってさえいりゃ、なんだって話しますよ」と、彼がいい、乾《かわ》いた唇をしきりとなめた。
「だけど、この家で起ることは、なんでもかんでもぼくのせいにされっちまうんだ――いや、つまり、エイダとぼくのせいに。あなたのおっしゃる、ジュリアの死に対する復讐がどうのこうのという話、そんなのは興味がないです。それよりも怪《け》しからんのは、エイダを狙撃した犬めだ。こいつには天罰を加えてやるべきだ。あの女は普通の状態の下でさえ、不遇な目に遇わされているんだ。母はあれを家から一歩も出さず、女中かなんぞのようにかしずかせているんだ」
ヴァンスが理解ありげにうなずくと、それから席を起ち、レックスの肩に手を差しかけた。いかにも同情に溢《あふ》れた態度である。あまりにも似つかわしくない身振りなので、わたしは面喰らってしまった。もともと、ヴァンスは心の底には深い人道主義を宿している人間なのだが、感情を外面に出すのを嫌《いや》がり、つねに抑制することに努めている人間なのである。
「あなた、この悲劇にかかずらい、気を顛倒《てんとう》させてはいけませんよ」と、彼が宥《なだ》めるように言った。「きっと安心していらっしゃい。われわれは及ばずながら最善を尽して、エイダ嬢を撃った人物を発見し、懲罰してご覧に入れますから――もうこれ以上、あなたをお引き止めしません」
レックスが立ち上がったが、その態度には熱意さえ窺《うかが》われた。彼はきりっと身体を引き締めた。
「なあに、大丈夫ですよ」そして、兄に向かって、心に隠した勝利感を現わすような一瞥をくれると、そのまま部屋を去った。
「レックスって偏屈《へんくつ》もんでね」と、チェスターが、暫くの沈黙の後で注釈した。「奴は暇さえあれば、本を読んだり、数学と天文学の難問題を解きにかかったりしているんだ。屋根裏部屋の天井をぶち抜いて、望遠鏡を取りつけるんだといって、すったもんだしたこともあるんだ。それも母から駄目だといわれておしまいさ。それに、奴は不健康でいかん。新鮮な空気を吸わんといかんぞと忠告してやるんだが。それをどうだ、奴のおれに対する態度! おれがゴルフをやるのは、おれの知能指数が足りんから、といわんばかりじゃないか」
「あなたがおっしゃってた発作というのはなんなのです?」と、ヴァンスが尋ねた。「お見受けしたところ、弟さんは癲癇《てんかん》持ちでは?」
「いや、なあに、そんなんじゃない。もっとも、特にこっぴどく向《むか》っぱらを立てた時なんざ、一種の痙攣発作を起こすのを見たことはあるがね。すぐに興奮して、理性も忍耐もなくする。斧《おの》の柄《え》がすん抜けたようなもんで、抑えがきかんのだ。フォン・ブロンにいわせりゃ、異常神経衰弱――とかいうんだそうだが。腹に据《す》えかねてくると、凄く顔面|蒼白《そうはく》になり、痙攣みたいになるんだ。後で後悔することでも、平気でどなり散らす。だが、まあそう心配したもんじゃあるまい。奴に必要なのは運動なんだ――物の一年も、牧場にでもいって、辛抱するこった。がらくたの本だとか、コンパスだとか、T定規だとか、そんなものとはきれいサッパリ縁を切ってね」
「なんでしょうな、母上にしてみれば、さしずめ、弟さんがお気に入りなんでしょうね」〔ヴァンスのこの言葉は、レックスがしゃべっている間に漠然《ばくぜん》と感じた、あの奇妙な親子の相似性《そうじせい》をわたしに思い出させた〕
「まあ、どちらかといえば、そうだろうな」と、チェスターが物の比重を測《はか》るように、慎重にうなずいた。「母にとっては、可愛いのは自分の身だけさ。それでも、他人の身が可愛いことがあるというんなら、さしずめ弟がそうだろう。それはともかく、レックスにだけは、母もがみがみいったことがない。あとのぼくらにはこっぴどいもんだ、そりゃ」
再びヴァンスは、イースト・リバーを見下ろす窓べにゆき、外を見て立ちつくしていたが、突然、振り返った。
「話は変わって、グリーンさん、あなたの拳銃は見つかりましたか?」彼の調子にはいまは変化が訪れ、例の瞑想《めいそう》的な気分は影を消していた。
チェスターが、ぎくりとし、ヒースに向ってすばやい流し目をくれた。こちらも、いまは緊張していたのである。
「いや、畜生! そいつが見つからねえんだ!」彼がそう認め、ポケットをまさぐりだした。
シガレット・ホールダーを探《さが》しているところだ。「第一、あの銃にはおかしいことばっかりだ。いつもは机の引出しにしまっておくんだが――こちらの旦那からその話があった時も、それはお話したことなんだが」と、ホールダーをヒースに向けて指さした。まるで相手が生命のない物体ででもあるかのような仕草だ。「ここ数年、実際にあの銃を見た覚えもないんだ。それにしてもだ。一体全体、どこに消えてしまったんだ? こん畜生め、こいつは神秘めいた話だ。ここらあたりで、手に触れる奴はいないはずなんだし、女中にしたって、部屋の掃除をする時でも、引出しまでは手をつけさせていないんだ――寝台を直し、家具のてっぺんの塵払《ちりはら》いだけにしろといってあるんだが。一体、どこへどうなったやら、こんな奇怪な話って、あるもんか!」
「おまえさん、約束通り、ちゃんと探してみたんだろうな?」と、ヒースが尋ねた。喧嘩腰になって、ぐっと首を突き出しての質問である。部長は窃盗説なのだから、こんな高圧的な態度を取る理由がないのにと、わたしは思った。しかし、ヒースは心が騒ぐと、いつだって挑発的になる男なのだ。どんな捜査にせよ、手ぬかりがあったんじゃないかと思えば、心が騒いでならないのだ。
「おっしゃるまでもなく、ちゃんと探しましたよ」と、チェスターが傲然たる忿懣《ふんまん》をこめて応答した。「部屋という部屋、押入れ、引出し、家じゅうを隅から隅まで引っ掻《か》きまわしてみたんだ。だが、完全に消えてなくなっている……たぶん、年に一回の大掃除の時、なんかの間違いでほうり出してしまったんじゃないのかな」
「可能性としてはありうることですな」と、ヴァンスが同意した。「どんな型の拳銃だったの?」
「旧式のスミス・アンド・ウェッソン32口径だ」と、チェスターが記憶を新たにするような言い方をした。「柄は真珠母《しんじゅぼ》の象眼つき、銃身には渦巻模様《うずまきもよう》みたいな彫刻があり――正確には覚えとらん。買ったのは十五年前――いや、もっと前かな? ――ある夏、アディロンダックの森〔ニューヨーク州、激戦地の跡。森と湖あり。キャンプの名所〕にいった時のことだ。射撃練習に使ったんだが、すぐに飽きちまって、引出しの中、それも支払済み小切手の束の後ろにしまいこんでしまったままだ」
「当時もまだ操作可能の状態にあったんですね?」
「ぼくの知る限りではそうだ。じつは、買った当座は動きが硬《かた》かったが、歯止めにやすりを掛けに出したんだ。すると、文字通りのヘア・トリッガー〔羽根毛でも引ける軽い引金〕になってしまい、ちょっと触れただけでも、すぐズドンときてしまう。もっとも、標的《ひょうてき》の演習にはその方が便利なんだ」
「しまったときは装填《そうてん》してあったかどうか、思い出しませんか?」
「さあ、どうかな、してあったかも? なにせ遠い昔のことだから――」
「拳銃の薬包で、机の中に入れておいたのはなかったんですか?」
「そうだ。それなら断定的に答えられる。あの場所には、バラの薬包は一つもなかった」
ヴァンスが再び席に戻った。
「さて、グリーンさん、今後なにかの偶然で拳銃が見つかったとしたら、もちろん、マーカム検事かヒース部長に届けてくれますね?」
「そりゃ、言われるまでもない。喜んで、そうするさ」こう保証したチェスターの態度には雅量ある人の心ばえが見えた。
ヴァンスが時計に一瞥をくれた。
「さてと、フォン・ブロン先生はいまだに患者とご同席のようだから、どんなもんでしょうね、シーベラさんに一目お逢いするという案は?」
チェスターが席を立ったが、紛れもなく、拳銃問題が片づいたことにホッとした様子で、そのまま進んで拱門の近くの呼鈴の紐に近づいた。ところが、伸ばした手をふと止めて、やめてしまった。
「おれが自分で連れてくるか」と、彼が言い、急いで部屋を立ち去った。
マーカムがにっこり笑ってヴァンスのほうに振り向いた。
「拳銃行方不明説に関する君の予言、あれは、どうやら暫定的立証が立ったということらしいな」
「いや、ぼくが恐れているのは、そのヘア・トリッガーつきの、珍貴な武器が姿を現わすことはないんじゃないかということさ――少なくとも、このてんやわんやに一応の見通しが立つ日まではね」ヴァンスがいつになく謹厳な顔をした。例の浮薄な癖も当座は掻き消えている。だが、それも長いことではなかった。やがて揶揄《やゆ》するかのように睫毛《まつげ》をあげると、ヒースに向って、ひやかし半分の流し目をくれた。
「ああ、部長なるひとの申せしかのがっつき屋の新参者め! おそらくは、はじきを持ってとんずらしやがった――渦巻模様に魅入《みい》られたか、はたまた、真珠のハンドルに魔がさしたか!」
「大いにありうることだが、拳銃はグリーンがいった通りの消え方をしたのかも知れないよ」と、マーカムが屈服して見せた。「いずれにしろ、君のは過大評価というものだ」
「おっしゃる通りでさあ、マーカム検事さん」と、ヒースがどら声で唸《うな》って見せた。「それになんですな、家族のものを相手にして、いくらしんねりむっつりやったところで、ラチのあく話じゃねえ。奴らなら、ゆうべまだ事件がアツイ間に、あっしがしょっぴいてみたんでさあ。誰もなんにも知っとらん。これに間違いねえです。この『やま』であっしがどうしても面《めん》を通さにゃならん人物は、エイダ・グリーンとかいう女の子だけでさあ。ひょっとすると、そこからネタが割れるかもしらねえ。賊が部屋にいた時、この女の子の部屋の灯がついていたというんなら、賊の面《めん》を見ていたってことだってねえもんでもねえ」
「部長!」と、ヴァンスが情《つれ》なさそうに首を振った。「あんた、その謎の窃盗犯人のことになったら、ますます猟奇趣味《りょうきしゅみ》が嵩《こう》じつつあるんじゃないの?」
マーカムが物思いに沈んだように、葉巻の端の吟味を始めた。
「それは違うよ、ヴァンス。わたしも気持としては、部長と同意見だ。猟奇的想像を逞《たくまし》くしているのは君のほうだと思うがね。どうやら君に誑《たぶら》かされこの捜査に乗り出したのはわたしが軽率だったような気がする。だからこそ、わたしは背景にひっこんで、君に演壇を提供してやったわけだ。やはり、エイダ・グリーンがいまはわれらの唯一の希望だよ」
「ああ、君が信じ易き、廉直《れんちょく》の心なかりせば!」と、ヴァンスが溜息をつき、落着かぬ様子で姿勢を移した。「さてと、われらが心霊術師のチェスター君、シーベラを拉致《らち》するのに、とんでもなく道草を喰《く》ってるじゃないか」
ちょうどこの時、大理石の階段で足音がカサッと聞えたかと思うと、二、三秒後、シーベラ・グリーンがチェスターに伴われ、拱門に姿を現わした。
第五章 殺しの可能性
(十一月九日、火曜日、午後三時三十分)
シーベラはしっかりした、威勢のいい大股《おおまた》で入ってきた。首をぐっともたげ、一同の上に、大胆な訊問するような視線を投げかけた歩き方である。この女は背が高く、しなやかな、運動家らしい造《つく》りをしている。美女とはいえないにせよ、容貌のどこかに冷やかな、彫りのきいた魅力があり、見る人の注意を引きつけるところがある。顔は生命力と緊張に溢《あふ》れ、その表情には、傲慢《ごうまん》とは紙一重の、一種の気位の高さがあった。縮れ毛の黒髪を、流行の断髪《ボッブ》がりにしているのだが、ウエーブはかけていない。この髪の線の峻厳《しゅんげん》さがそうでなくても凛然《りんぜん》としすぎている顔だちに一層のアクセントをつけている。薄茶色の瞳がくっきりと間《ま》を取って開き、毛の深い、水平に伸び切ったような眉毛が、その上を掩《おお》っている。鼻は筋が通り、高鼻の気味がある。口は大きくて、締まっていて、薄い唇には、残忍の気配を漂《ただよ》わせている。着つけはいたって簡素で、極端なショート・カットの黒のスポーツ着に、混色織りの毛のストッキング、それにロー・ヒールの男物|紛《まが》いのオックスフォード靴〔甲にレースのひものついた短靴〕を履《は》いている。
チェスターが地方検事を古い知己だと言って紹介したが、残りの一同については、マーカムに紹介の労を取らせた。
「なんですこと、マーカムさん、チェットがあなたをお気に入りの理由を、あなたご存じ?」と、彼女が言ったが、一種独特の金属音の高い声だ。「メアリボン・クラブで兄がゴルフに勝てるのはほんの少し。あなたがその貴重な相手の一人だからなんですのよ」
彼女は中央の机の前に坐り、ゆっくりと膝《ひざ》を組んだ。
「シガレットを下さらないこと、チェット」その口調には、注文をも強制命令にしている響きがあった。
ヴァンスがすぐ立ち上がり、ケースを差し出した。
「ひとつ、この |Regie《レジー》 をやってみませんか、グリーンのお嬢さん」彼がとっておきの社交場礼儀を出し、熱心にすすめた。「これがお口に合わないようでしたら、ぼくは早速他のブランドに宗旨替えをしてご覧に入れますよ」
「まあ、せっかちな方!」シーベラは煙草を抜きとり、ヴァンスが火をつけるのを許してやった。それから、椅子に深く腰をおろし、マーカムのほうに謎を掛けるような流し目をくれた。「昨夜はとんだドンチャン騒ぎをやらかしたんじゃありませんこと? この古い屋敷で、あれほどのお祭りがあったためしはないんですもの。あたし、ぐっすり寝てしまって、素通りされちゃったわ。なんて運がいいんでしょう!」がっかりだといわんばかりに、彼女が仏頂づらをした。
「チェットが呼んでくれたときは、後《あと》の祭り。ほんとにいやらしいったら――チェットらしいわ!」
どういうわけか、この女の蓮《はす》っ葉《ぱ》さは、別なタイプの女性からなら受けたであろうような不快感をわたしに伝えてはこなかった。それよりはむしろ、シーベラという女が、内なる感受性の鋭さにもかかわらず、人生のどんな不運に際会しようと、むざむざ屈服してしまう少女ではないように見えてならなかった。そういうわけだから、彼女の表面的な冷酷さも、歪曲《わいきょく》されてはいるにせよ、負けん気の強い、勇気の裏返しに過ぎないのだとわたしは分析した。
しかし、マーカムは彼女の態度にむっときたらしい。
「グリーン氏が事態を軽視しなかったという件で、氏を非難する資格は誰にもないですよ」と、彼が彼女を戒《いまし》めた。「無防備の女性を残虐無道にも殺害し、そのうえ、若い乙女《おとめ》に対して殺人未遂を犯した行為が、娯楽の対象になりうるものでは決してないのです」
今度はシーベラがマーカムに非難の視線を投げかけた。「あーら、マーカムさんたら、あなた、あたしが二年間も拘束されていた、あの物々しい修道院の最高マザーとそっくりな口のきき方ね」それから、彼女が急に真剣になり――「起きてしまって、もうどうにもならないことを、真面目くさった顔で議論してどうなるというのですの? それはともかく、ジュリアって、自分のちいさい世界の隅にも灯《ともしび》を照らすってことをしたことのない女でしたわ。いつだってひねくれ根性で、他人のあら捜しばかりしていて、これじゃ『その人の徳行および始終《しじゅう》の行為《わざ》は書《ふみ》に記《しる》されん』なんて柄《がら》じゃ絶対ないんだから。こんなことをいって妹の道に外《はず》れているのかも知れないけど、あの人がいなくなって、あの人を慕う人間なんて、ひとりもいないはずです。チェットとあたしが、後を慕って焦《こ》がれ死にしないことだけは確かよ」
「じゃ、もう一人の妹さんに対する無残な狙撃事件はどうだというんです?」マーカムは忿懣《ふんまん》やる方ないといった態度だ。
シーベラがすぐそれと分るぐらいに眼蓋《まぶた》を細め、顔の線を(硬《かた》くずした。だが、ほとんど同時にその表情は吹っ消されてしまった。
「ところで、エイダは蘇生《そせい》の見込みあり、そうなんでしょう?」彼女の努力にもかかわらず、ある種の冷酷さを声から消し去ることができなかった。「これからは長い、楽しい休息が待ってることでしょうよ、あの子。それも看護婦にかしずかれてね。ねんねえの妹が一人、命が助かったからといって、なんであたしがさめざめと貰い泣きしなければなりませんの?」
ヴァンスは、シーベラとマーカムのこのやりとりをつぶさに観察していたが、ここで対話に加わることにした。
「おい、おい、マーカムよ、グリーン嬢の情緒生活と本件とが、どんな関与《かかわり》があるというの? ――ぼくにはあるとは思えんがね。なるほど、お嬢さんの態度は、こういう局面に臨んで若い貴婦人が取るものだとされている世の道徳律とは、厳密には一致せんかも知れない。だけど、こういう人生観にも、それなりの立派な理由があるんじゃないのかね。ぼくらは道学者ぶるのはやめて、グリーン嬢の協力を求めるようにしたらどうだろう」
若い女はこう言った人のほうに、悦に入ったような、感謝するような視線をちらと投げかけたが、マーカムはどっちでもいいと言いたげな黙認のゼスチュアをした。もはや現在の訊問を重要性のあるものと彼が考えてはいないことは明白だ。
ヴァンスが若い女のほうに、魅惑するような微笑を送った。
「ほんとはぼくが悪いんです、グリーンのお嬢さん、みんなでここに押し掛けてきたりして」と、まず弁明をして――「お兄さんから窃盗説に対して不信の表明があったとき、それじゃマーカム検事に乗り出して調べてみろとせき立てたのは、なんとあなた、ぼくだったんだから」
彼女が理解を示すようにうなずいた。「まあ、チェットって、時々すてきな第六感をしてるのね。兄の数すくない価値の一つですわね」
「それじゃあなたも同様に、窃盗説には懐疑的だとお見受けしますが」
「懐疑的?」彼女が短い笑い声をあげた。「あたしって、徹底的懐疑主義者なのよ。窃盗犯人なんかにつき合いはないけど、お目にかかれたら、さぞかし楽しい思いがするんでしょうね。だけど、あたしのようなはすっぱな頭ではなんとしても想像できないことが一つあるわ。ゆうべのかわいい旅芸人――あのしがないやり口で、この魅惑的な職業がつとまるものなのかどうか、そこんところなの」
「あなたの話を聞いてると、ぼく絶対にわくわくしちまうな」と、ヴァンスが宣言した。「だってそうでしょう、われわれ少数派の意見は、ここにおいて完全な一致を見たわけだから」
「チェットは自分の意見を述べるに当り、なにか知性的な説明をしたんですの?」
「とは思えませんね。むしろ、自分の感じを基礎にして、形而上学的因果律を設定するというご意見のようですな。お兄さんの確信のよってきたるところは、ぼくが理解する限り、ある種の心霊現象による霊感の訪れです。知ってはいるが説明はできない。確信はあるが証拠はない。無限に実体がない――事実、幽界|魂魄《こんぱく》の気味さえあるんです」
「チェットにそんな霊魂を語る天分があったなんて、これは意外だわ」彼女が兄に向って、茶目っけな、しかし鋭い視線を投げた。「兄って、ほんとは根っからの平凡人ですのよ。兄をよく知るようになれば、きっとあなたもお分りですわ」
「おい、やめろよ、シーブ!」と、チェスターがじりじりとなって、異議を申し立てた。「警察は窃盗犯人を血眼になって追っているって話をけさおまえにしてやったら、泣きじゃくって喜んだくせに、何をぬかすんだ?」
シーベラは返事をしなかった。首を微かに振って前屈《まえかが》みになると、煙草を暖炉の火に投げこんだ。
「話変わって、グリーンのお嬢さん」――ヴァンスがさりげない発言をした――「兄さんの拳銃が紛失しましてね。しかもそれにまつわる神秘というのが、一筋縄《ひとすじなわ》ではゆかんのです。兄さんの机の引出しから、影を姿もないように掻き消えたんです。どうでしょう、家のどこかで見かけたことはない?」
銃の話が出て、シーベラが微かに硬《こわ》ばった表情をした。瞳は執着心の表情を帯びてきたし、口もとがめくれ上り、うっすらと皮肉な微笑の色さえ浮んできた。
「チェットの拳銃がなくなった。そうなの?」彼女の質問は無感動のもので、心そこにないといわんばかりだ。「いいえ……見たことはないけど」と言って、一瞬|間《ま》を置いてから――「けれども、先週はチェットの机の中にありましたわ」
チェスターが怒りに震《ふる》える身体を重そうに前に乗り出した。
「おれの机で、先週なにをしてたんだ?」と、彼が詰問《きつもん》した。
「あら、癲癇《てんかん》を出さないでよ」少女はぞんざいに言った。「ラブ・レター捜しなんかするもんですか。チェット、あなた恋なんて、想像もできないことじゃなくって?……」そう言って、自分の発想に悦に入っているらしい。「あたしただ、あなたが借りていったまま返してくれない、あの古いエメラルドのネクタイ・ピンを捜していただけだわ」
「あれはクラブだ」彼が憮然《ぶぜん》として説明した。
「あら、ほんと? どうだかね。いずれにせよ、見つからなかったわ。だけど、拳銃はほんとに見たわ――なくなったって、あなた確かなの?」
「ばかなことをいうもんじゃない」と、彼がどら声で喚《わめ》いた。「いたるところを捜したんだ――おまえの部屋もな」と、意趣返しのつもりで、彼がつけ加えた。
「まあ、やりそうなことね、あんたなら! だけど、そもそも持っているって認めることはないじゃないの」彼女の口調には軽蔑があった。「いたずらに巻添えを喰うようなことをわざわざいうここともないもんだわ!」
「こちらの旦那が」――とまた人間ではないかのようにヒースを指さし――「おれに拳銃を所持しているかと聞くもんだから、『イエス』といってしまったんだ。おれがいわんでも、どうせ召使いの誰か、わが親愛なる家族の誰かが告げ口していただろうからさ。真実こそ最善の道と思ったんだ」
シーベラが風刺家《ふうしか》のような微笑を浮べた。
「あたしの兄は、ご覧の通り、旧時代の道徳の亀鑑《かがみ》なのです」と、彼女がヴァンスに向って言ったが、紛れもなく、放心状態にあった。拳銃をめぐる挿話が、どういうわけか、彼女の自信を揺るがしてしまったのだ。
「グリーンのお嬢さん、あなたは窃盗説には魅力を感じないということでしたね」ヴァンスは物憂げに目を半分閉じたまま煙草をふかしていた。「悲劇を解明するものとして、何か他の説をお持ちですか?」
若い女は首をもたげ、計算するように彼を見つめた。
「女を二人も狙撃した上、一物も取らずに逃げ出したこそ泥の話なんて、もちろん、あたしには信じられないわ。だけど、そうだからといって、あたしに代案の提示ができるかというと、必ずしもそういうことにはならないわ。あたし、婦人警官じゃないことよ――なれたら、すてきに愉快なスポーツだろうと思ったことはちょくちょくあるんだけど――それに、犯罪者を追いつめるのは警察の職務だと、あたし認識不足かも知れないけれど、そう思ってましたわ。あなただって、ヴァンスさん、窃盗説は信じていらっしゃらないんだわ。でなかったら、チェットの勘《かん》とやらの裏付けを取ろうとはなさらないはずよ。昨夜この家で、この狂乱を起こしたのは誰だと、あなたならお考えですの?」
「これはしたり、お嬢さん!」と、ヴァンスが片手を挙げて抗議のしるしとした。「ぼくにこれっぽちでも分っていたら、無躾《ぶしつけ》な質問であなたをわずらわしたりするもんですか! ぼくは文字通り、底なき無知の沼地に、鉛の足を抜き足差し足、さまよえる旅人のようなもんですよ」
ヴァンスの取りとめもない語り口にもかかわらず、シーベラの瞳は疑惑で曇ってきた。だが、やがて、彼女が朗《ほが》らかに笑い出し、手を差し出した。
「いま一本の Regie を下さいな、ムッシュー。あたしって、危うく真面目になりかけるところだったわ。真面目なんてまっぴらご免だわ。だって、真面目な人生なんて退屈でしようがないじゃありませんこと。おまけに、皺《しわ》だってできるでしょう〔マルシアリスの格言より〕。それにあたし、まだまだ若くって、皺なんか!」
「エノン・ド・ランクロ〔十六世紀、パリ社交界の花、才色兼備の女〕のようなもんですな、あなたはいつも若くて、皺などはとてもとても」と、ヴァンスがマッチをすって煙草に火を添えてやりながら、そう応酬した。「さはさりながら、真面目哲学はおいといて、姉さんと妹さんのふたりを殺したいだけの十分な理由を持っていそうな人物について、あなたなら示唆できるのじゃないですか?」
「ああ、その件だったら、あたしたち全員が容疑者じゃないこと? わが家《や》は、どんな意味でも、理想的な家庭的|団欒《だんらん》なんかじゃないし、グリーン家って変人の展覧会みたいなもんよ。上流の、礼節正しい社会の亀鑑《かがみ》とかで流行している、あの家族愛なんていうものはまるっきしないんだし、隙《すき》さえあれば相手の(喉《のど》につかみかからんばかりに、あることないこと、いがみ合い、睨《にら》み合いしてるんだもの。こんなのドタバタよ――家庭なんていえるもんですか。とっくの昔に殺人が起こらなかったのが不思議なくらいだわ。それにあたしたちみんなが一九三二年まではここに住んでいなければならないんです。それがいやなら、自分で生計を立てろ、というんです。もちろん、自分の力で恥しくないだけの暮らしができる人間がいるわけでなし。世にも楽しい父系遺産もあったもんだわ!〔シーベラがここで言及しているのはトバイアス・グリーンの遺言状のことで、これによると、グリーン・マンションは二十五年間は手つかずに維持さるべきこと、ただし、この期間、相続人がこの不動産上に居住しない場合は相続権を喪失することが規定してあった。〕」
彼女は数瞬ふさぎこんで、煙草をふかしていた。
「そうだわ、この家では、誰だって外《ほか》の者全部に対して殺意を抱くだけの理由が十分にあるんだわ。そこにいるチェットだって、あたしを締め殺さないでいるというのも、行為の後の神経|亢進《こうしん》で、せっかくのゴルフが台無しにされるのが、つまらないと思っているだけのことなのよ――そうでしょう、チェット兄さん? レックスだって、あたしたちみんなを劣等人種だと思っているわ。とっくの昔に皆殺しにしなかったのは、自分が高度の博愛主義者なればこそと解釈しているだけのことよ。母さんだって、これまでにあたしたちを殺さなかったのは、外《ほか》でもない、自分が全身麻痺に陥り、やる手段《てだて》の見当がつかなくなったからだけのことだわ。ジュリアだって、同じことだわ。あの姉ったら、あたしたち全員が油注ぎの火刑になったって、へっちゃらな顔をして見物してたんじゃないかしら。それに、エイダだって」――彼女の眉間《みけん》が曇り、異常な獰猛《どうもう》の色が瞳に浮んできた――「あたしたちが根絶やしにされるところを拍手喝采で迎えるでしょうよ。あの子は、ほんとは、うちの人間じゃないんです。だから、家族全員を憎んでいます。かくいうあたしだって、わが愛《いと》しき家族全員をやっつけてしまうことに良心の苛責《かしゃく》は感じないはずだわ。いくどかやっつけてしまおうかと考えたんだけど、ただ、これはと思う、徹底した方法で決心がつかなかっただけのことだわ」彼女が煙草の灰を床にふるい落した。「まあ以上のようなわけね。あなたがたが殺しの可能性を探《さが》しておいたというんなら、たっぷりありましてよ。この由緒床しき屋根の下、資格のない人間なんているもんですか」
彼女の言葉は風刺の意図をこめたものだったけれども、その底流には陰鬱な、恐るべき一つの真理が横たわっているのだという感情をわたしは避けることができなかった。ヴァンスも、表面的には悦に入ったように耳を傾けていたが、彼女の語尾変化の一つ一つ、表情の演技の一つ一つまでも吸収して、その相手構わぬ告発の内容と目前の問題との連環の糸を探《さぐ》ろうと懸命だったのがわたしには分っていた。
「さもあらばあれ」と、彼がぞんざいに言った。「あなたはまさに驚くべくも率直な近代女性ですな。それにしてもですよ、あなたの逮捕はいまのところぼくから推薦はしませんよ。あなたをクロとする証拠がぼくにはこれっぽちもないんだから、だってそうでしょう? こいつは飛んだ癪のたね、てなところかな?」
「あら、がっかりだわ」と、若い女は失望の真似をして、溜息をついた。「でも、そのうち、手掛りの一つくらいはお掴《つか》みになれてよ。ご覧遊ばせ、殺しの一つや二つ、また持ちあがってくるわ。殺人者がたったあれっぽちの獲物で、仕事をほうり出すなんて、あたし夢にも考えたくないもの」
折しも、フォン・ブロン医師が客間に入ってきた。チェスターが席を立って挨拶をし、儀礼的な紹介も忽《たちま》ちに終った。フォン・ブロンはどこか抑制した慇懃《いんぎん》さで最敬礼をしたが、彼のシーベラに対する態度には、愛想こそ失わないにしても、極端によそよそしいところがあるのがわたしの目にとまった。おや、とわたしは思ったが、この男はこの家の古い友人でもあり、だから、社交的な礼儀の多くは無くもがなですませているのだろうとわたしは思い返した。
「先生、あなたの報告はどういうことになりますかな?」と、マーカムが質問した。「きょうの午後、若いお嬢さんの訊問をしても支障はないですね?」
「とくに支障はないと思います」フォン・ブロンはそう返事しながら、チェスターの横に腰をおろした。「エイダはいま反動熱が少しあるだけでして。もちろん、ショックからまだ立ち直れず、出血による衰弱はかなりあります」
フォン・ブロン医師は人触わりのよい、つるつる顔の四十男で、目鼻立ちの小さい、ほとんど女性的な顔に、どんな波風が立っても愛嬌《あいきょう》をくずすことのない物腰をしていた。その典雅さにはあまりにも技巧が目立ち――「職業的」という形容詞がぴたりと当てはまるのだろうが――この男の醸《かも》し出す雰囲気には、野心に燃えるエゴイストが感じられた。しかし、わたしは反撥よりも魅力をはるかに多く感じさせられていた。
ヴァンスは相手の話し振りをしげしげと観察していた。その若い患者を訊問することにかけては、ヒースなどよりもまだ気が逸《はや》っているらしい様子だ。
「では、特別重傷というわけでもないのですね?」と、マーカムが質問した。
「さよう、重傷ではないです」と、医師が念を押した。「すんでのところで命とりになるところでして。弾丸があと一インチ深く入っていたら、肺裂傷を起こしていたと思われる。まさに危機一髪というところですな」
「ぼくの諒解するところ」と、ヴァンスが割って入った。「銃弾は左側|肩胛骨《けんこうこつ》帯の上部を横断面に貫通していた。そうでしたね?」
フォン・ブロンが同意を示すように首を下に傾《かし》げた。
「銃は紛《まぎ》れもなく背後から心臓を狙ったものでありました」と、彼がやわらかい、抑揚をつけた声で言った。「しかし、爆発の瞬間、エイダが微かに右に身体をひねったらしく、銃弾はその結果、直接胸部を貫通することなく、第三脊椎髄と同水準のあたりで、肩胛骨沿いに裂傷して走り、肩胛骨|靭帯《じんたい》を破裂させつつ、三角筋の中に埋没《まいぼつ》したものであります」そういって、彼が自分の左腕の三角筋の位置を指し示した。
「ならば彼女は」と、ヴァンスが示唆した。「明らかに攻撃者に対して背を向け、駆け出そうとした。ところが、攻撃者は彼女を追跡し、拳銃がじかに背中に触れんばかりの位置に構えた――それがあなたの解釈なんですね、先生?」
「さようです。どうやら情況はそうとしか見えないのです。そこで、前にも申した通り、決定的瞬間に彼女が少し方向転換をし、それで命拾いをした、ということになります」
「それにしては、即座に床に昏倒するもんですかね、実際の負傷は表皮裂傷だったにもかかわらずですよ?」
「ありえないことではありません。苦痛が相当なものだったのみならず、ショックのことも計算に入れなければなりません。エイダは――いや、本件については、女ならみんなそうでしょう――直ちに失神状態に陥ったものと思われます」
「ならば、合理的仮説としてですね」と、ヴァンスが追及した。「この攻撃者は、一発でしとめたものと思いこみ、ゆめゆめ疑いもしなかった、ということになりそうですな?」
「それが真相だったと考えて、まずは差支《さしつか》えありますまい」
ヴァンスは一瞬煙草をふかしていたが、眼は横へ外《そ》らしたままだった。
「なるほどね」と、彼が同意した。「そう考えて差支えないとぼくも思うが――その前提に立つ限り、当然の帰結として、もう一つの結論が導かれる。つまり、エイダ嬢は化粧台の前面に立っていた。ここは寝台から相当の距離だ。そこで、武器は文字通り背中にくっつけられていた。となれば、以上によって、この出逢いは予察に基づく攻撃の性格を帯びてくるということになる。『がさ』を起こしたどこかの誰やらが、出まかせ次第にぶっぱなしたという説は消去されるわけだ」
フォン・ブロンが一分の隙《すき》も見せまいとする表情でヴァンスを見、それから、ヒースに向って、事問いたげな視線を送った。そして、返事を考量するかのように、一瞬沈黙していたが、やがて口を開いた時には、言葉尻を捉《とら》えられないように用心した言葉になっていた。
「むろん、そのような状況判断も可能ではありましょうな。まさしく、諸般の事実を綜合《そうごう》すれば、その種の結論の可能性を指向するものがあります。と申しても、反面においては、侵入者は最初からエイダの至近距離にあったとも考えられるわけでして、そうなれば、銃弾があのように致命的な個所を外《はず》れ、肩へ抜けたという事実は、偶然中の偶然だったとも考えられるわけです」
「お説もっともです」と、ヴァンスが譲歩した。「にもかかわらずですよ、予察動機の考えを放棄せよというのなら、狙撃直後、家令が入室した時、なぜ部屋に灯《あかり》がついていたのかという事実の解明が必要になってくるでしょう」
フォン・ブロンはこの供述を聞くと、世にも呆《あき》れたといわんばかりの驚きを示した。
「灯がついていたんですって? へえ、なんともはや、恐れ入りましたなあ!」彼が眉間に皺を寄せ、ただならぬ困惑の様子を見せると、ヴァンスの情報をしきりと同化しているように見えた。「それにしてもですよ」と、彼が反駁《はんばく》してきた。「その事実自体が狙撃の説明になるのかも知れませんな。侵入者が灯のついた部屋にはいってきたというのなら、居住者から後で警察に人相を報告されてはまずいと思いたち、相手構わず発砲した、というのはどうでしょう?」
「ああ、なるほどね」と、ヴァンスが呟《つぶや》いた。「いずれにせよ、エイダ嬢に会って話をしてみたら、解明の手掛りがえられるだろうという希望があるということになりたいものですな」
「そこんとこですぜ、早速とっかからんという手《ヽ》はないですぜ?」と、ヒースがぼやいた。いつもの辛抱強い堪忍袋の緒も切れかかっているのである。
「ま、そう性急なことをいいなさんな、部長」と、ヴァンスがたしなめた。「フォン・ブロン先生もいまおっしゃったばかりじゃないですか。エイダ嬢は衰弱がひどいって、だから、前もって知れるだけのことを知っておけば、その数だけお嬢さんへの質問も省《はぶ》けるというもんだ」
「あっしは数は用はねえです」と、ヒースが説諭するように言った。「たった一つ、その女がホシの面《めん》を見たかどうか、見たなら、人相書きをいってくれれりゃ、それでいいんでさあ」
「その事情なればこそ、部長、ぼくは心配しているんだ。あなたの切なる願いは一敗地に塗《まみ》れるんじゃないかって」
ヒースが敵意をさらけ出すように葉巻をペッペッと噛んで見せた。ヴァンスはとり合わず、またフォン・ブロンのほうに向いた。
「もう一つ、質問があるんですが、先生。エイダ嬢の負傷とあなたの診察との間には、どれだけの時間の経過があったのです?」
「家令が供述してたじゃねえですか、ヴァンス先生」と、ヒースが我慢しかねたように口を挟《はさ》んだ。「先生は半時間後には到着したんだって」
「そう、そんなところですな」フォン・ブロンがすらすらと、分り切ったことをいうような口調で言った。「スプルートから電話があったとき、わたしは運悪く診察に出掛けていまして、十五分ぐらいして戻ったので、すぐ飛んできたわけです。幸い、わたしの住まいはこの近くでして――四十八丁目東ですから」
「それで、あなたが到着された時、エイダ嬢は意識不明だったのですね?」
「さよう。相当な出血でして。しかし、あの料理女が傷口にタオルの繃帯《ほうたい》を当てがっていてくれました。これがむろん役には立ちましたが」
ヴァンスが彼にお礼をいい、席を立った。
「さてと、恐れ入りますが、これから患者のところへご案内願えると大変有難いですな」
「興奮は禁物ですよ、よろしいですな」と、フォン・ブロンが戒め、自分でも席を立って、先に階段へ向った。
シーベラとチェスターはわたしたちに随《つ》いてこようかこまいかと迷っている様子だったが、わたしが廊下の入口で振り返った時、二人の間にチラチラッと質疑し合っている視線が交換されているのが見えた。一瞬後、二人は二階の廊下にいるわたしたちに追いついていた。
第六章 告発
(十一月九日、火曜日、午後四時)
エイダ・グリーンの部屋は簡素で、ほとんど峻厳《しゅんげん》なといいたいくらいのインテリアではあったが、清潔さが沁《し》み渡り、それに女らしい飾りつけがそこはかとなく組み合わされ、住む人の行き届いた気の配りようを語るに十分なものがあった。部屋の左手、グリーン未亡人の居間に通ずる化粧室への扉の近く、簡素なデザインの、シングル用のマホガニー製の寝台が置いてあり、その向うに戸が見えるが、これが石のバルコニーに面して開いていた。右手、窓ぎわには化粧台が見える。その化粧台の前面に拡《ひろ》がる琥珀《こはく》色の中国製|絨毯《じゅうたん》の上に、大きい、不規則な形の、褐色《かっしょく》の斑点が見える。傷ついた女が倒れた跡なのである。右手の壁の中央は暖炉になっているが、これが高い樫《かし》の鏡板で囲んだマントルピースになった、いわゆるチュードル王朝風の暖炉である。
わたくしたちが入ってゆくと、寝台に寝ていた若い女はいぶかしげにこちらを見、青い頬《ほお》にサッと赤味を走らせた。右の腹を下にし、顔を入口に向け伏せっているが、繃帯《ほうたい》をした肩は枕具で支え、きゃしゃな白い左手を青の模様織りの掛布の上に出している。前夜の恐怖の名残りがまだその青い瞳に影を留めているかのようだ。
フォン・ブロン医師は女のほうに歩みより、寝台の縁《へり》に腰掛けると、自分の手を女の手の上に置いた。その態度は保護するようでいて、またよそよそしい風情もあった。
「こちらの皆さんが君に二、三質問したいそうだ、エイダ」と、彼が説明し、安心なさいというように微笑を一つした。「君もこの午後はうんと元気も出たことだし、それでわたしがご案内したのだ。君、耐えられると思うかい?」
彼女が気《け》だるそうにうなずいたが、瞳は医師を見たままである。
ヴァンスはこれまで、暖炉の横に立ちどまり、四隅の台座の手彫りを鑑定していたが、やっとこちらを向き、寝台に近づいてきた。
「部長」と、彼が言った。「差支えなかったら、まずぼくからグリーン嬢に話をさせてくれませんか」
ヒースは、情況が如才ない機転と細かい神経を要求する場面であることを見てとるや、直ちに脇役として身を退《ひ》いた。わたしは今でも思うのだが、この人物が本質的には度量のひろい、濶達《かったつ》な心の持主であることはこの振舞いによく現われていた。
「グリーンのお嬢さん」と、ヴァンスが寝床の傍らに椅子を進めながら、静かな、温情のこもった声で言った。「ぼくらは昨夜の悲劇につきまとう神秘《ミステリー》の幕を少しでも剥《は》がしたいと努力しているのですよ。それで、あなたはぼくらを助けることのできる立場にある唯一の人物なのだから、できるだけありのままを思い出していただきたいのですがね」
若い女は深い息を吸った。
「とても――とても恐ろしくって」と、彼女がじっと前方を見つめたまま、弱々しそうに言った。
「あたし、寝入ってしまってから――さ、どれくらいの時間がたっていたのかしら――ふと、何かに目が覚め、それが何だったか今もいえないんですけど――それっきり、寝つかれなくなったの。すると、世にも不思議な感じがひしひしと迫ってくるじゃありませんか」そういって、彼女は目を閉じたが、心なしか、全身に身震《みぶる》いが走っている。「それはまるで誰かが部屋にいて、あたしを狙《ねら》っているみたいで……」彼女の声がかぼそく消え、やがて、押しひしがれたような沈黙に変わった。
「部屋は暗かったの?」と、ヴァンスが優《やさ》しく尋ねた。
「真っ暗闇よ」彼女がやおら目を彼のほうに移した。「だからこそ、あたし戦慄《せんりつ》してしまったの。だって、何《なん》にも見えないんだし、そこにいるのは幽霊じゃないか――いいえ、悪鬼の霊じゃないかって、想像されてきて、大声を出そうとするんだけど、声が出ないのです。喉《のど》はカラカラと乾いてきて――おまけに、強《こわ》ばってくるやら……」
「恐怖作用による筋肉収縮の典型さ、エイダ」と、フォン・ブロンが説明した。「多くの人が恐怖に駆られると発声能力を失うんだ――それから、どうなったの?」
「あたし、二、三分震えたまま横になっていたんだけど、部屋のどこからも音ひとつしないの。だけど、あたしには分ってたわ――ホントに分ってたわ――人間か物《ヽ》か知らないけれど、その何者かがいて、あたしに危害を加える意志を持っているってことが。……やっと、あたし、自分に鞭打《むちう》って、そっと起き上がり、灯をつけようと思ったの――だって、暗闇にはもう耐えられないんですもの。そして暫くすると、あたし、この寝台の横に立っていたわ。その時初めて、窓のうっすらとした明《あか》りが目に入ってきたので、やっとのことで、あたりの物に現実感が湧《わ》いてきたんです。そこであたし、手|探《さぐ》りで歩き始め、扉の傍らのスウィッチのほうに向った。一歩か二歩進んだかと思うと……突如……一本の手が……あたしに触わり……」
彼女の唇が震え出し、ぱっちり見開いた瞳孔《どうこう》に恐怖の表情が現われた。
「あたし――あたし、ただ、茫然《ぼうぜん》と立ちすくみ」と、彼女がもがくように言葉を続けた。「後《あと》はどうなったかも分らない。もう一度叫ぼうとしたけど、もはや口さえも開くことができない。それから、身体をくるりとまわし、駆け出そう――その物――から逃げようとして、窓のほうに向った。そこへゆきつくかゆきつかないかのうちに、誰かがあたしの後を追ってくる音が聞え――奇妙な、足をひきずるような音がして――ああ、これであたしもおしまいだわ、と思ったわ……その瞬間、ぐわんという物凄い音がし、ぐっと熱いものがあたしのうしろ肩をしたたか叩いたと思ったら、とたんに吐き気と悪寒《おかん》がしてきたの。やがて、窓の明りが消え、どんどん身体が沈んでゆくような気がしてきて――深い、深い……」
彼女が言葉を切った時、張りつめた沈黙が降りてきた。彼女の物語は、その単純さにもかかわらず、途方もなく活写めき、生き生きとしていた。聞き手に、話の感動的な精髄だけを伝えるという工夫の良さには、どこか名優の科白《せりふ》を思わせるものがあった。
ヴァンスは数瞬の間《ま》をおき、やっとしゃべり出した。
「恐ろしい目に遇ったもんですね」と、彼が同情するように呟いた。「できることなら、細かい点であなたをわずらわしたくないのだが、数点とっくりとお話してみたいことがありましてね」
ヴァンスの心遣いを感謝することの証《しるし》に、彼女が微《かす》かに微笑《ほほえ》み、待った。
「よっく考えてみませんか。なんで目を覚ましたのか、思い出せそうにないですか?」
「いいえ――あれからも思い出そう、思い出そうとしてみるのだけど、物音ひとつしなかったわ」
「ゆうべは部屋の鍵は掛けないで休んだの?」
「そう思うわ。あたし、普通に鍵は掛けないんです」
「そこであなたは、扉が開く音も閉じる音も聞かなかった――どっちの扉も?」
「そう。なんにも、家の中はしいんと静まり返っていたわ」
「それなのに、誰かが部屋にいるのは分った。これはまたどうしてなの?」ヴァンスの声は優しさの中にも執拗《しつよう》さがこもっていた。
「あたし――分らないわ……やはり、あたしに予感させるものがあったに違いないわ」
「まさにその通り! さ、よっく考えてみなさい」と、ヴァンスが心騒ぐらしい女ににじりより、かがみこんだ。「ひとのにおい、なんてどう? ――その人物があなたの寝台をかすめて通ったとき立てた微かな気配だとか――ほのかな香水の匂いだとか……?」
彼女が痛々しげに眉をひそめた。まるで捉《とら》えどころのない恐怖の原因を思い出そうと努力しているようだ。
「考えることもできないし――思い出すこともできないんです」まさに消え入らんばかりの声である。「あたし、ただ恐ろしいばっかりで、失神してしまってたのね」
「惜しむらくは、その根源が辿《たど》れないもんですかね」ヴァンスが医師を横目で見やった。こちらはいかにもとうなずき、こう言った。
「紛《まぎ》れもなく、何かの連想作用なんだろうが、その刺激要因は意識外で消えてしまっている」
「さて、グリーンのお嬢さん、あなたはそこにいた人物を知っているような感じはしませんでしたか?」と、ヴァンスが続けた。「つまり、感覚的に親近感のある人物のような感じでは?」
「はっきりは答えられないの。あたしに答えられることは、あたしにはそれがとっても怖かったということだけだわ」
「しかし、あなたは起き上がり、窓のほうに逃げだしたとき、それが近づいてくる音を聞いたのでしょう。その音に、どこか親近感はなかったの?」
「とんでもないわ!」彼女が初めて強い語調の言葉を使った。「足音だけだったわ――やわらかい、滑るような足音だけ――」
「もちろん、暗闇《くらやみ》を歩く人間なら、みんなそんな音を立てますよ。それとも寝室用のスリッパを履《は》いている人間だって……」
「ほんの二、三歩だったんです――たちまち、あの恐ろしい音と焼けつくような痛みが!」
ヴァンスが一瞬待った。
「よっく考えて、その足音のことを思い出してみませんか――いや、そういうよりも、あなたの印象を。あなたならどっちだと思います、男の足音、それとも女の足音?」
青かった女の顔に、また一層の青味が走った。恐怖に見開いた瞳が部屋にいるだけの人間の上を走って通った。彼女は二度ばかり唇を開き、何かしゃべろうとしたが、そのつど自分を抑《おさ》えた。やっと言い出した時には、低い、打ち震える声になっていた。
「分らないわ――まるっきり分らないわ」
短い、甲《かん》高い、辛辣《しんらつ》であざけるような笑いが降って湧《わ》いたように起こった。シーベラだった。唖然《あぜん》として釘《くぎ》づけになった目が、一斉にその方向に向けられた。シーベラは顔を紅潮《こうちょう》させ、両手で脇腹《わきばら》をしっかと押《おさ》えながら、寝台の足許に棒立ちになっていた。
「なによ、あんた、どうして皆さんにいわないの――はっきりとあたしの足音を認めたと?」シーベラが、彼女一流の痛烈な口調で、妹を詰問した。「内心じゃ、そう言いたくてむずむずしてるんじゃないこと? もう嘘《うそ》をつくだけの勇気もなくしてしまったとおいいなの――どうせ、べそっかきのずる猫《ねこ》のくせして」
エイダははっと息を呑《の》み、医師に寄り添うように身体をすくめた。医師が厳しい、咎《とが》めるような目でシーベラを睨んだ。
「おい、シーブ、お黙《だま》り!」激情の嵐の後に続いた驚愕《きょうがく》の沈黙をまっさきに破ったのはチェスターだった。
シーベラが肩をすくめ、窓べに歩みよった。すると、ヴァンスが、また寝台の女に注意の目を向け、まるで何事もなかったかのように、再度訊問に取りかかった。
「もう一点、聞かねばならんのです、グリーンのお嬢さん」と、前よりももっと優しい口調である。
「あなたはスイッチを探そうとして、部屋を手探りに進んだ。その時、その姿なき人物と接触するにいたった、それはどこです?」
「入口まで約半分のところ――そう、あの中央の置机の向うでしたわ」
「一本の手があなたは触れた、とあなたは言いましたね? だが、どんなぐあいに触れたんですか? ぐいと押したの? それとも抱きつこうとしたの?」
彼女が漠然と首を振った。
「どっちでもないわ。どう説明していいか分らないけど、まるで、あたしが自分ではまりこんでゆくような感じがして。その手が差し出されていて――あたしを探《さぐ》ろうとしているのに、といった感じなの」
「あえていうならば、大きい手、それとも小さい手? 例えば、手の力の印象はどう?」
再び沈黙が続いた。再び少女の呼吸がはずみ出し、怯《おび》えた視線をシーベラに投げかけた。こちらはこの時、窓に面して立ちつくし、横庭の、黒い、揺《ゆ》れる梢《こずえ》を見つめていたのである。
「分らないわ――ああ、分らないわ……」彼女の言葉は、苦悶《くもん》を押し殺したような絶叫に近かった。
「あたし、気をつけなかったんですもの。あんまりに突然で――恐ろしさが一杯で!」
「やはり、考える努力をしてみて下さい」ヴァンスが低い、執拗な声で迫った。「きっと、印象が残っているに違いないのです。男の手、それとも女の手?」
シーベラが、つかつかと寝台に歩み寄った。顔面|蒼白《そうはく》になり、瞳はらんらんと燃えている。一瞬、傷つき倒れた女を睨み、それから、決然としてヴァンスのほうに向き直った。
「あなたはあたしに階下で訊問しましたわね。狙撃犯人に関するあたしの意見を。あの時あたしお答えしなかったけれども、いまならはっきりとお答えできてよ。犯人は誰か、言いましょうか」彼女が寝台のほうに首をぐいと突き出し、そこに伏せっている静物に対し、震える手を指し示した。「ほら、これが犯人だわ――このめそめそ声の、猫っかぶりのよそもん、この天使づらの、さかしら顔の小悪魔が犯人でなくて、誰が犯人なもんか!」
告発にしては、これはまたあまりにも信じがたい、あまりにも意外な内容ではないか! 一同はただ唖然となったまま、暫くは声を発する者もいなかった。やがて、エイダの唇から呻き声が洩《も》れたかと思うと、絶望の痙攣《けいれん》発作のうちに医師の手にしがみついていた。
「まあ、シーベラったら――ひどいわ、ひどいわ!」と、彼女が喘《あえ》いだ。
フォン・ブロンは身体を硬《こわ》ばらせ、ある怒りの光が彼の目を過《よ》ぎった。しかし、彼にいい出す隙《すき》も与えないほどすばやく、シーベラは告発をまくし立てていた。それは論理的ではないにせよ、驚嘆すべき内容のものだった。
「そうですとも、やったのはこの子にきまってるわ。そのくせ、皆さんを誑《たぶらか》そうとするなんて! これまでだってあたしたちを誑かそうと企《たくら》んできたやり口とそっくりじゃないの! この子はあたしたち一家が憎いんです――父がこの子を連れこんできて以来、ずっと憎んでいるんです。この子はあたしたち一家に恨みを抱いてるんです――あたしの持っているものすべて、あたしたちの血管を流れている血そのものが恨めしいんです。この子の血がどんな曰《いわ》くのあるものか、誰が知るもんですか! あたしたちが憎いのは、自分が平等者でないからなんだわ。あたしたち一家を皆殺しにしたって平気なはずよ、きっと。まず第一に、ジュリアを殺したのは、ジュリアが一家を切りまわし、この子には、食うだけのことは自分で稼《かせ》げといって、別扱いにしたからなんだわ。この子はあたしたち一家を軽蔑してるんだわ。あたしたち邪魔者を全部殺すことを企んでるんだわ」
寝台に伏せた女は、憐《あわ》れを乞うような視線を、かわるがわる、わたしたちの上に投げかけた。その目には、遺恨の色はなかった。いま耳にしたことの現実性を疑うかのように、ただ茫然自失となって、信じられないといった様子である。
「まさに興味しんしんたり!」ヴァンスの例によって母音を長く引いた発音だった。みんなの目を彼の上に集中させたものは、この言葉そのものというよりは、そこに含まれている逆説《アイロニー》の口調だった。シーベラによる弾劾《だんがい》の最中にも、彼はずっと観察を続けていたのだが、いまもまだ視線を離さなかった。
「あなたは本気で妹さんが狙撃犯人だと告発するのですか?」そういう声のどこかに楽しそうな、いや、ほとんど友好的な調子さえこもっていた。
「本気ですとも!」彼女が臆面《おくめん》もなく宣言した。「この子はあたしたち全部を憎悪してるんです」
「憎悪という点になったらですよ」と、ヴァンスが微笑した。「グリーン家のどなたにも、『愛と慈《いつく》しみを汝らに寄することますます強し』という態度にはぼくは気がつきませんでしたな」〔コリント後書より引用〕彼の口調には、人を傷つけようとする心はなかった。「そこであなたの告発だが、なにかそれを裏づける特定の訴因がおありですか、お嬢さん?」
「特定のといったって、この子がわたしたち一家を亡き者にしようと企んでいること、さらに、グリーン家の金を相続する人間が一人もいなくなったら、ありったけのもの――安楽も贅沢《ぜいたく》も自由もみんな――一人占めにしようと、この子が企んでいること、もうそれだけでも十分に特定的じゃありませんこと?」
「お説の通りの告発内容の兇悪性に鑑《かんが》みれば、立証価値があるほど特定的だとはとてもいえんでしょうな。そこで、ちょっと考えてご覧なさい。もしもあなたが刑事裁判の証人に呼ばれたとする。その時、どんな方法で犯罪の手口を説明するつもりです? エイダ嬢自身が背中を撃たれたという事実は、あなただって全然無視はできない。だってそうでしょう?」
告発が砂上の楼閣《ろうかく》に過ぎないという事実に対して、シーベラはいま初めて思いが及んだらしく、むっつりとなってしまい、口許をぐっとひき締めると、挫折《ざせつ》感を怒りで現わしていた。
「前にもいったじゃありませんこと、あたし、婦人警察官じゃないって」と、彼女が応酬した。「犯罪はあたしの専修学科じゃありませんもの」
「ついでに、論理学もさっぱりのようですな」ヴァンスの声に、どこか幻想めいた口調が忍びこんでいた。「が、多分、あなたの告発についてぼくが解釈の誤まりを犯しているのかも知れない。あなたのいわんとするところはこうなんじゃないかな? ――つまり、エイダ嬢はお姉さんのジュリアを射殺した。その直後、誰かほかの人間――未知の第三者、確かそれが法律用語でしたかね――が、エイダ嬢を狙撃した――犯意は復讐心、というところかな? いうなれば、犯罪二重奏」
シーベラの混乱は紛れもないものだったが、例の強情っぱりの怒りだけはちっとも和らいでいなかった。
「仕方がないわ、仮にそれが事の真相だったとしたところで」と、彼女が意趣返しでもするように切り返してきた。「忌々《いまいま》しい限りだわ。その第三者がヘマをやらかしたとは!」
「そのヘマが不幸の原因になる人物がいずれは出てきますよ」と、ヴァンスがきっぱりと予言した。「それにしては、ぼくにはそんな二重犯罪説をまじめになって論じる余地があるとは見えないんですよ。だってそうでしょう、姉妹とも、同じ銃――32口径回転銃――で撃たれている。しかもこの間、二、三分の間隔しかないんだ。どうやら単独犯行説で我慢しなくちゃいけないようですな」
シーベラの態度が突然茶目っけな、計算するようなものに変わった。
「チェット、あんたの銃はどんな型だったかしら?」と、彼女が兄に質問した、
「ああ、32口径さ――旧型のスミス・アンド・ウェッソン回転式、それがどうしたい?」チェスターは痛々しいぐらい落着きを失っていた。
「あら、ほんと? なあに、それはそれだけのことだわ」彼女はわたしたちに背を向けると、再び窓べに歩み去った。
部屋の緊張がいくらか解けた。フォン・ブロンは傷ついた娘のほうにかいがいしく身体を傾《かし》げ、枕具を整頓《せいとん》してやった。
「みんな気が顛倒してるんだ、エイダ」と、彼がいたわるように言った。「この場で起こったことを気に病んではいけないよ。シーベラも明日は後悔して、仲直りしてくるよ。今度の事件で、みんなが神経をやられてるんだ」
若い女は感謝の視線で見あげた。この医師の管理下にある限り、気分が楽になるらしい。
一瞬ののち、彼がすっくと立ち上がり、マーカムを見た。
「望むらくは、ご用ずみと思いますが――少なくとも、本日のところは?」
ヴァンスもマーカムも立ち上がった。ヒースとわたしもそれにならった。その時だ――シーベラがまたこっちに向って颯爽《さっそう》とやってきた。
「お待ち!」女王のような命令だった。「ふと思い出したことがあるの、チェットの拳銃のことよ! あたし、行先を知ってるわ――この子がとったんです!」と、再び告発するようにエイダを指さす。「先日この子がチェットの部屋にいるのを見かけたんです。その時は、なんであそこをうろちょろしてるんだろうと、そう思っただけのことだったけど」彼女がヴァンスに向って、勝ち誇った流し目をくれた。「これなら特定的でないこと?」
「それはいつでした、グリーンのお嬢さん?」前と同じように、ヴァンスの冷静な態度のおかげで、彼女の毒気がもたらしたこの場のとげとげしい雰囲気も、いくらか中和されたように見えた。
「いつって? はっきりとは覚えてないけど、先週のいつかだわ」
「あなたがエメラルドのネクタイ・ピンを捜していた日じゃないですか、多分?」
シーベラが躊躇《ちゅうちょ》し、それから憤然となって言った。「記憶ないわ。正確な時を覚えていなければならない理由もないんだし。でも、これだけははっきりしてるわ。あたしは廊下を通りかかっていた。チェットの部屋をふと見ると――扉が半開きになってたのよ――この子がちゃんとそこにいたんだわ……机の傍《そば》によ」
「それで、エイダさんが兄さんの部屋にいるというのは、それほど異例なことなんですか?」
ヴァンスが特別に興味もないといわんばかりの言い方をした。
「この子はあたしたちの部屋には絶対に入ってこないんです」と、シーベラが言い放った。「レックスの部屋にゆくぐらいのものよ、ずっと昔、ジュリアが命令したんです、出入りしちゃいけないって」
エイダが、姉に向って、果《は》て知れぬ懇願の視線を投げかけた。
「まあ、シーベラったら」と、彼女が呻《うめ》いた。「あたしが一体何をすれば、そんなに憎まれねばならないの?」
「白《しら》をお切りでないよ!」相手の声は耳ざわりの、ぎしぎし軋《きし》むものになっていて、ぴたりと狙いすました眼には、ほとんど悪鬼邪神のような表情が燃えくすぶっていた。「あること、ないこと、みんなだよ! そりゃ、あんたって利巧もんさ――やり口は、淑《しとや》かで、裏でこそこそ、顔は殊勝げで、お情けちょうだい式、態度ときたら、めそめそと涙もろくって。それもこれも、みんなあんたの手なんだから。だけど、このあたしの目を瞞着《まんちゃく》しようたって、そうはさせないからね。あんた、ここにきてからというもの、あたしたち一家を憎んでるじゃないの。だから、虎視《こし》たんたんと、あたしたち一家を皆殺しにする日を待っていたんでしょう――そのための企みと陰謀の日には日を重ねて――なんという卑怯もんの『ずる』なの、あんたって!――」
「シーベラ!」それはフォン・ブロンの声だったが、鞭《むち》がぴゅんと鳴ったかのように、この理不尽な長広舌の流れをずたずたに寸断した。「いい加減にしないか!」
彼はつかつかと進み出て、すごい剣幕で女をまともに睨《にら》みつけた。わたしは女のあられもない言葉にも驚いていたのだが、この医者の態度にも度肝《どぎも》を抜かれてしまった。そこには、ある種の奇怪な親密さがあった――こういう慣れ慣れしさが意味するものは、たとえ長い間の、友好的な立場を占める侍医としても、異例なものだと、わたしには見えてならなかった。ヴァンスもこれには気がついていたものと見える。彼の睫毛《まつげ》が微かに上がり、この場面を熱心な興味で見守っていたからである。
「あなたはヒステリーを起こしているんだ」フォン・ブロンは凄《すご》みの眼差《まなざ》しをまだやめず、そう言った。「あなたは自分が何をいっているのか分っていないんだ」
他人がその場にいなかったら、この男はもっと高圧的な言葉を使っていたのだろう、とわたしは思った。しかし、彼の言葉はそれなりの効果を持っていた。シーベラは眼を伏せたが、突然、変化が現われた。顔を両手で掩《おお》い隠したかと思うと、全身をわななかしてすすり泣きを始めたのである。
「あたしって――ごめん、気が狂って――なんてお馬鹿なんでしょう、こんなことをいうなんて!」
「シーベラを自分の部屋に連れていったがいいと思うがね、チェスター」フォン・ブロンがいつもの職業的口調に戻っていた。「大体、こういうことは、妹さんには緊張が強過ぎるのだ」
若い女はもう一言もいわず、部屋を出ていった。後からチェスターが続いた。
「近ごろの近代女性というのは――これことごとく神経ですな」フォン・ブロンが警句まじりの批評をした〔「神経の太さ、これ男なり」という古い諺《ことわざ》がある〕。それからエイダの額に手をあてがい――「さ、お嬢さん、これだけの興奮の後はぐっすり眠れるように、何か差しあげましょうね」と言った。
彼が薬の調剤をしようとして、薬箱を開《ひら》くか開かないかの時、甲高い、がみがみいう声が隣室から明晰《めいせき》に流れこんできた。わたしはこの時初めて気がついたのだが、グリーン未亡人の居室につながる化粧室への戸が微かに開きっぱなしになっていたのだ。
「あのごたごたは何だい? さらでだに人騒がせをした上に、いまさら何もやかましいもめごとを聞かせなくってもいいじゃないかい? だけど、もちろん、そうだったわね、あたしの苦しみなんか問題じゃないっていうんだろうよ……看護婦! エイダの部屋へのその扉、それは締めておしまい。あたしがなけなしの安息を取ろうとしているところだと知ってるくせに、それを開《あ》けとくなんて、大きにお世話だよ。おまえ、わざと開けといたんだろう、あたしを悩ますつもりで……それから、看護婦、先生に言うておくれ。お帰り前に、あたしがぜひお逢いしたいと。背骨の突き刺すような痛みがまた起こってきたんだよ。だけど、誰もあたしのことなんか思ってくれないのさ。全身麻痺でここにこうしているこのあたし――」
扉が静かに閉じられ、それっきり癇癖《かんぺき》の強い声は聞えなくなった。
「母さんたら、ほんとに扉を締めてもらいたいんなら、とうの昔に締めてもらえたはずなのに」と、エイダが気だるそうに言ったが、ゆがんだ青い顔に、嘆きの表情が浮んでいた。「なぜですの、ブロン先生、お母さんって、いつもあんなふりをなさるわ――みんなが故意にお母さんを、いじめているみたいじゃないこと?」
フォン・ブロンが溜息をついた。「前にも言った通り、エイダ、君はお母さんの癇癖をまじめに受け取っちゃいけないよ。あの焦慮性と不平癖は病気の一部なんだ」
われわれは少女に別れを告げたが、医師は廊下まで随《つ》いてきた。
「大した発見がなくてすみませんでした」と、彼が弁解するように言った。「エイダが攻撃者を見ていなかったのが、この際一番の不幸でした」次に、自分からヒースに向って、こう話しかけた。「ところで、食堂の壁の安全金庫を調べて見ましたか? 何も紛失していませんでしたか? 暖炉の上の、大きなニエロ象眼の背後にも、一つあるんですが、お分りでしたか?」
「まっ先に捜査しましたとも」巡査部長の声は少し侮蔑気味だった。「おっと、それで思い出しやしたぜ、先生、あしたエイダさんの部屋の指紋を取りに、係りをよこしますんで、どうぞよろしく」
フォン・ブロンが愛想よく承諾し、それから、マーカムに片手を差し出した。
「あなただろうが、警察だろうが、わたしでお役に立つことがあったら」と、彼が愛想よくつけ足した。「遠慮なくそうおっしゃって下さい。お手伝いできればどんなに嬉しいことか。わたしができることがあるとは思えないが、世の中のことはどこでどうなるか分りませんからね」
マーカムが彼に礼を述べ、それから、わたしたちは階下の廊下に降りてきた。スプルートが待っていて、わたしたちの外套を着せてくれた。ほどなく、わたしたちは地方検事の車に乗りこみ、吹雪《ふぶき》のなかを掻《か》き分けるように走っていった。
第七章 ヴァンス、事件を分析す
(十一月九日、火曜日、午後五時)
わたしたちが刑事裁判所ビルに帰り着いたのは、もう五時に近い頃だった。スワッカーがマーカムの個室の、陶器と青銅でいぶした艶《つや》消しのシャンデリアに灯を入れてくれていたけれども、幽鬼のような、陰鬱な雰囲気が部屋を領していた。
「なにが上流家庭なもんか、ええ、マーカムよ」と、ヴァンスが溜息をつき、総革張りの、深い椅子に靠《もた》れかかった。「絶対に、上流家庭なもんか! 古き精気は病み衰え、花の盛りも過ぎにけり、という家系譜《かけいふ》さ。もしも現世代のグリーン一族の父祖らの霊が甦《よみがえ》り、白く塗りたる墓より立ちあがり、いま見るおのが子孫の不甲斐《ふがい》なさを見せつけられたとしたら、こいつは、天を仰いで嘆息することだろうて……。さしも由緒を誇れる旧家門も、安逸と懶惰《らんだ》をむさぼる環境に置かれては、退化|凋落《ちょうらく》の一途を辿《たど》る。めぐる因果の不思議さよだ! 西にウィッテルバッハあり、東にロマノフ王朝あり。かのローマのユリアヌス・クロウディウスまた然り。サラセンのアッバース王朝また然り――すべてこれ、種族崩壊の標本さ……国についても同じことが言えるんだ。だってそうだろう。奢侈《しゃし》と、しどけなき放逸こそ腐敗の要因なんだ。かの武将を皇帝として戴けるローマはいかん? かの権勢並びなきアッシリアの『サルダナパールの死』はいかん? ラムセス王朝末期のエジプトまたは、かつて地中海を制覇したヴァンダル族〔ゲルマンの一派〕のアフリカ帝国が簒奪者ゲリメルの下に滅び去った跡はいかん? すべてこれ、いとどしくも悲しき物語じゃないか!」
「君の深遠な学説は、社会史家にとっては、まこと時のたつのも忘れさせるくらいのもんだろうがね」と、マーカムが偽《いつわ》らぬ焦慮の色を見せながら、愚痴った。「現在の状況下では、遺憾ながら、特に啓蒙的でもないし、関連性があるともいえないね」
「ぼくだったら、その点について、そうは断定しないと思うんだ」と、ヴァンスが暢気《のんき》そうに反駁《はんばく》した。「それどころか、ぼくはここに、グリーン一族の宗族的気質ならびにその内部関係を披瀝《ひれき》し、君の熱心かつは深遠なる考察をわずらわしたいと思うんだ。これひとえに、君がため、闇夜行路の道をゆく、現段階での捜査の道しるべにしたいとのぼくの微意からさ……。だって、ほんとにそうだろう?」――と、ここで剽軽《ひょうきん》な口調を帯び――「大いなる不幸とはいうべし、君も部長も、社会正義とかなんとかいうものの固執観念の虜《とりこ》になってるんだ。ところが、どうして、社会のほうにいわせれば、グリーン家のごとき家系譜《かけいふ》こそ、廃絶《はいぜつ》してしまったほうが、はるかに福祉に貢献できる性質のものなんだぜ。それにしても、こいつ、やけに魅力に満ちた矛盾じゃないか――魅力だらけだ」
「残念ながら、ぼくには、君のいう、社会的矛盾とかに対する熱意がないんでね」と、マーカムが邪険に言い放った。「ぼくの印象によると、この犯罪自体は、あさましくも平凡な犯罪に過ぎない。しかし、君の介入さえなかったら、ぼくはけさ、なんとか巧い口実を設けて、チェスター・グリーンにお引き取りを願っていたはずなんだ。それをどうだ。例によっての暗号もどきの注釈に、呪術|紛《まが》いの首振りを混《ま》じえての差し出口――愚かなりしぼくは、むざむざそれにはまりこんでしまったというわけさ。なんだろうね、君はさぞかし楽しい午後のひとときを持てたんだろうが。こっちのほうは、おかげで三時間分の仕事がたまってしまって、これからが一苦労だ」
彼の苦情の意味は、わたしたちに席を外《はず》せという露骨な謎だったのだ。しかし、ヴァンスはいっこうに立ち去る気配を見せなかった。
「なあに、まだ帰る気は毛頭ないよ」と、彼がひやかすような笑いを浮べ、宣言した。「現在の悲しむべき誤謬《ごびゅう》の状態のまま、君をひとり寂しく放っておくには忍びんからね。君には指標《ガイダンス》が必要なんだ、マーカム。そこでぼくは、君と部長のために、わが思いのはばたきのありったけを披露しておこうと心にきめたのさ」
マーカムが眉をひそめた。ヴァンスの人柄はよく理解していたから、相手の軽佻浮薄《けいちょうふはく》もたんにうわべだけのものであり――事実は、なにか特に重大な意図の隠《かく》れ蓑《みの》にしか過ぎないことを知っていたのだ。それに、長い、緊密な友情の結果、彼もよく知っていたのだが、ヴァンスの振舞いは――外観はどんなに不条理に見えるにせよ――決して取りとめもない奇想の結果なんかではなかったのだ。
「まあいいだろう」と、彼が黙認を与えた。「だが、言葉の経済は大いに感謝するよ」
ヴァンスが嘆かわしそうに溜息をついた。
「どうだ、その君の態度! この狂乱の現代にこそ命脈を保つ、息をもつかせぬスピード精神のなんという典型!」彼が詮索《せんさく》的な目をじっとヒースに注ぎ――「どうです、部長、あなたはジュリア・グリーンの死体を見た、そうでしたね?」
「もちろん、見やしたとも」
「寝台での姿勢は自然でしたか?」
「『がいしゃ』のふだんの寝姿がどうなってたか、とんと分らんですがね」ヒースはどこか反抗的で、機嫌《きげん》が悪かった。「半分起きかけていやした。肩の下には枕が二つばっかり、掛布をたくしあげ」
「その姿勢に、普通でないものはなかったの?」
「あっしの見たところでは、格闘の跡はなかったでさあ。それがあんたの質問の意味ならば」
「両手は? 掛布の外、それとも下?」
ヒースが顔をあげた。かなり驚いた様子である。
「外へ出ていた。おっと、その話になるてえと、両手ともカバーをしっかり握っていましたっけ」
「わし掴《づか》み、ですな、事実は?」
「ま、そんなところでさあ」
ヴァンスがすばやく前に乗り出した。
「それで顔は、部長? 被害者は睡眠中を撃たれたの?」
「そうとは見えねえんだ。目はパッチリ見開き、真《ま》一文字に睨《にら》んでましたっけ」
「パッチリ見開き、真一文字に睨んだ瞳!」と、ヴァンスが鸚鵡《おうむ》返しに言ったが、その声には一抹の熱気が湧いていた。「女の表情の指し示すものは何だとあなたなら解しますか、恐怖? 戦慄《せんりつ》? 驚愕《きょうがく》?」
ヒースが抜け目なさそうにヴァンスを眺《なが》めた。「そりゃ、すきずきでしょうな、言い方なら。とにかく、『がいしゃ』は口をポカンとしていやした。まるで不意に何かを見て驚いたというんでやしょうかね」
「ところが、両手はベット・カバーをわし掴《づか》みに掴《つか》んでたんだろう」ヴァンスの視線は虚《うつ》ろな空間をさまよっていたが、やがて、ゆっくりと立ち上がり、首を垂れたまま、事務所の端から端までいったりきたりし始めた。地方検事の机の正面にくると、つと立停《たちど》まり、両手を椅子の背に靠《もた》せ、前方に屈みこんだ。
「聞くんだ、マーカム、あの家では何か恐ろしい、想像を絶したことが起こりつつあるんだ。出たとこ勝負の、流れもんの暗殺者が、ゆうべ正面玄関からはいりこみ、この被害者二人を狙撃した、なんて絶対にあるもんか! 犯罪は企画され――熟慮断行されたものなんだ。誰かが狙いすましていたんだ。その誰かとは、勝手知った者であり、スイッチのありかを知った者であり、いつみんなが就寝するかを知った者であり、いつ召使いたちが退がるかを知った者であり――つまり、絶好の機会に、絶好の方法で、一撃を加えることを知っていた者なんだ。あの犯罪の背後には、なにか深遠な、この世ならぬ動機がひそんでいる。昨夜起こったことの中には、深層のそのまた深層がある――うっすらと暗く、腐臭《ふしゅう》の漂《ただよ》う、人間の魂の暗室がある。どす黒い憎悪、人倫《じんりん》に外《はず》れた欲望、醜怪きわまる衝動、あさましくも飽くなき野心――どん底にあるものはそれなんだ。それでも君は椅子にそっくり返り、この意味を認識することを拒否するというんなら、むざむざ殺人者の術中に陥るだけなんだ」
そう言う彼の声には、奇怪な、陰《いん》にこもったなにものかがあり、これがいつもの典雅で、冷笑家のヴァンスかと、つい疑いたくなるくらいだった。
「あの屋敷は汚染されているんだ、マーカム。腐敗の果て、まさに崩れ落ちんばかりだ――腐敗は、恐らくは、物理的なものではないにせよ、それよりはもっと恐ろしい潰瘍《かいよう》作用なんだ。あの古い家系譜の心臓であり、精髄であるところのものが瓦解《がかい》し、いままさに滅びなんとしている。だから、内部に住む者のすべてが、同時に腐り、精神も知性も性格も、分解作用を起こしているんだ。彼らを汚染している環境そのものは、じつは、彼らが自分で創《つく》り出したものなんだ。君は今度の犯罪をそんなに軽んじているようだが、この犯罪はこうした舞台背景では不可避の犯罪なのだよ。よくもまあ、もっと恐ろしい、もっと醜怪な犯罪に発展しなかったものだと、ぼくはつくづく不思議に思うくらいだ。これぞまさしく、この世のものではない館《やかた》の全面的崩壊が、いまや第三紀的位層に達したことの表徴でなくて何だ?」
彼が一瞬|間《ま》をおき、片手を伸ばし、いかにも世も末だといわんばかりのゼスチュアをした。「状況を考えてみたまえ。あそこにあるのは、古さびて、寂寥《せきりょう》として、だだっぴろい家だ。その家から、いまは死に絶えた幾世代かの、かび臭い雰囲気がじわじわと滲《にじ》み出し、内も外も色|褪《あ》せ、病《や》んで窶《やつ》れ、煤《すす》けて黒く、今は昔の、夢去りし日の幽霊どもが、うようよと徘徊なし、いまもなお手入れのゆき届かぬ地面にそそり立ち、河の汚水にひたひたと裾裳《すそも》を洗われて……そして、この映像の上に、あの六人組を重ねて見たまえ。てんで統一のない、チグハグな組合わせ。イライラと落着きがなく、病んで狂ったいのちたち。四半世紀の間は、日ごと夜ごと、離れることなく、住み続けよ――それが大将のトバイアス・グリーンの歪曲《わいきょく》された理想主義だったんだ。そこで連中は、あのかび臭い、時代の瘴癘《しょうれい》の立ちこめる中で、日ごと夜ごと暮らしているってわけだが――これという新しい世界の条件に適応する能力もなく、独力で討って出るには非力すぎるか、臆病すぎるかのどちらかで、足許から崩れてゆく安全保障と腐敗にしかつながらない安逸にしがみつき、お互いがお互いの姿に対する憎悪を募らせつつ、投げ合っているものは冷笑、遺恨、嫉妬、敵意……。お互いがお互いの神経を髄まで磨《す》りへらし、恨みつらみに身を焦がし、憎しみに燃えたぎり、邪曲《よこしま》な考えに惑溺《わくでき》し――苦痛のありったけ、喧嘩のし放題、嘲《あざけ》りの出まかせ……。そして最後に訪れる爆発点――すべてこうした自己増殖的、内攻的憎悪がもたらすところの、論理的かつは不可抗力的な変容以外に何があるもんか!」
「お説ごもっともだがね」と、マーカムが同意した。「しかし、とどのつまり、君の結論は、文学的とはいわないにせよ、純粋に理論的なものに過ぎない――一体、どんな有形の連環《リング》があれば、グリーン・マンションでの超現実的には違いない一般状況と、昨夜の殺人事件との間の因果関係が成立するというのかね?」
「有形の連環は全くなし――そこがこの事件の怖《おそ》ろしい所以《ゆえん》さ。だが、継ぎ目はある。いまは影だけのもんだがね。ぼくは屋敷内にはいった途端、それを感覚で知ったんだ。そして、きょうの午後一杯、盲目的にそれを探ろうと、手を出してみたんだ。ところがそいつは、出遇うたびごとに、するりするりと逃げてゆく。まるで、迷路とゆきどまり、廊下と隠し戸と悪臭漂う地下|牢《ろう》ばっかしの家みたいなもんだ。正常なものは全くなし。あるものは精神異常――夢魔の中の家。そこに住む住人は、不思議な、この世ならぬ生きものたち。そのめいめいが、ついにゆうべ躍り出た、あの幽玄にして捉《とら》えがたい、陰険な、化け物めいた恐怖を反映しながら、いまもなおあの古い廊下を徘徊しているのだよ、君。君はそれを感じなかったのかい? あの連中と面《めん》を通している時、連中が連中の内なる邪悪な考えや猜疑心《さいぎしん》と格闘しているのを観察した時、このおぞましき物の化《け》が、うっすらとした影になり、絶えずめらめらと妖《あや》しい光を放っては消えていくのを、君は見なかったというのかい?」
マーカムは不安そうに身じろぎをし、前にある書類の束を伸ばしていた。ヴァンスのいつもにない厳粛さに打たれたのである。
「君のいわんとしていることは完全に分るよ」と、彼が言った。「しかし、ぼくをしていわしむれば、君の印象がぼくらを新しい犯罪解釈に一歩でも近づけようとは思えないんだ。グリーン・マンションは不健康だ――それは異議なし――それに、あの中の人間だって、なるほど、不健康だ。だが、君はあの雰囲気に対する感受性が過敏だったのじゃないかとぼくは思う。君の話を聞いていると、ゆうべの犯罪がまるでボルジア家の相次ぐ毒殺騒ぎにも比肩すべきものだと言いたいんじゃないのかい? それが駄目なら、ド・ブランヴィリエ公爵夫人殺しか、それとも、ドルススの子、ゲルマニクス将軍の毒殺事件か、それとも、ロンドン塔に幽閉されたヨーク王朝王子の連続絞首刑事件でもいいぜ。ぼくも認めるにやぶさかではないが、なるほど舞台背景は、あの種の隠微な、ロマンチックな犯罪と一脈通じるものがあるにはある。だが、要するに、『おしこみ』とか『たたき』とかが、いまもなお毎週のように、全国いたるところで、やたらとはじきをぶっぱなしているんだ。グリーン家の女二人が撃《う》たれたのとそっくり同じ手口でだよ」
「君は事実に対して目をつむろうとしてるんだ、マーカム」と、ヴァンスが真剣になって断言した。「君は昨夜の犯罪につきまとう不可解な特徴の数点を見|過《す》ごしているんだ――ジュリアの、死の瞬間における、恐怖に満ちた、茫然自失たる態度が第一点。次は、二つの銃声の間の間隔の論理が解明されない点。次は、二つの部屋とも灯がついていた点。次は、エイダの供述、手が伸びてきたとかなんとかいう点。次は、強制侵入の形跡の欠如――」
「雪の上の、あの足跡はどうなんで?」ここで口を挟《はさ》んだのは、ヒースの無感動な声だった。
「なるほど、どうなんだろうね?」と、ヴァンスがくるりと向きを変えた。「こいつもこの醜怪な事件全般と同じように不可解ですな。犯罪の行われた後三十分以内に、誰か家との間を往復した人間がいた。しかも、その誰かは、他人に見届けられる心配もなく、こっそり入りこめる人間なんだ」
「その件には謎なんかねえでさあ」と、実務家の部長が主張した。「あそこには召使いが四人もいる。そのどいつかが、この『やま』の共犯《れつ》だと考えりゃ、どうということもねえ」
ヴァンスが皮肉な微笑を浮べた。
「そこで、家の中にいた、その共犯者だが、この男、定めの時刻に正面玄関を開けてやるほどの雅量があったくせに、『お客さん』に対して、ネタのありかを通知するのを忘れたのはもとより、家の間どりをお教えするのもぬかったというわけか。そこで、このお客、家にあがってはみたものの、あわれ道を踏み迷い、狙った食堂も無事通過、二階をぶらりぶらりと散歩して、闇の廊下を手探りの暗夜行。そこで紛れこんだが、貴婦人の閨房《けいぼう》のあちらこちら。挙句《あげく》の果ては、きりきりばったんを起こしてしまい、家具に隠れて見えぬはずのスイッチは見つけるやら、電灯はつけて歩くやら。スプルートがすぐ傍にいるというのに、物音一つ立てぬ忍び足、そこで階段をお降りになり、後はゆうゆうと大股の散歩足、正面玄関から退場なし、自由世界へと消え去りぬ……。妙な強盗もあったもんですな、部長。いや、もっと妙なのは、家の中にいる共犯者だ――いや、あんたの説明じゃ筋が通らん――絶対に、筋が通らんですよ」彼が再びマーカムに向きを変えた。「以上によって、この狙撃事件のほんとの意味を説明する鍵《かぎ》を見つけるには、あの屋敷自体に存在するところの不条理の状況を認識するしか方法がないんだよ、君」
「しかし、状況なら、われわれは知っているさ、ヴァンス」と、マーカムが辛抱強く反論した。
「ぼくも認めよう、なるほど、それは異例な状況だ。しかし、必ずしも犯罪を生むほどのものとはいえない。対立的人間要素が一緒に配置され、その結果、相互憎悪が発生するというのはよくある例だ。しかし、たんなる憎悪だけが殺人動機になるというのは滅多にないことだし、ましてや憎悪が、犯罪行為の証拠として、立証力を持つことはない」
「お説もっともだ。だが、憎悪と強制併置の両方が重なると、世にあらん限りの異常特質を生むこともないことではない――暴虐なる激情、唾棄《だき》すべき悪《あく》、悪鬼にひとしい詭計《きけい》。しかも、現在の場合は、解明を必要とする、奇怪にして不吉な事実が枚挙に遑《いとま》がないんだ――」
「ははあ、それで君も前よりは有形的になりつつあるよ。そこで、その解明を要する事実とは何だい?」
ヴァンスがシガレットに火をつけ、机の端に腰掛けた。
「例えばだ、チェスター・グリーンは何故ここにまっ先にきて、君の助けを懇願したのか? 拳銃が紛失したからなのか? そうかも知れん。だが、それが説明の全部だとはぼくには思えないんだ。つぎは、拳銃そのものはどうなったか? ほんとに消えたのか? それとも、チェスターが隠したんじゃないのか? この拳銃の件はやけにおかしい節《ふし》があるんだ。それにシーベラは先週見たといっている。それだって、ほんとうに見たのだろうか? この拳銃の遍歴《へんれき》の跡を辿ることができるなら、われわれは事件について、もっと分ってくることがあるはずだ――さらに、チェスターは第一撃をいとも容易に聞いたのに、レックスは、エイダの部屋の隣りにいながら、第二撃は聞かなかったと供述している――これは何故だ? それから、二つの銃声の間のあの長い間隔――これにも何らかの説明が必要だ。次は、スプルート。家令だというのに外国語に堪能《たんのう》で、その晩はたまたまラテン語の警句集マルシアリスを読んでいたという――君、考えてもみたまえ、マルシアリスとは傑作じゃないか! ――外では、暗い事件が起きつつあるという時にだよ。それに奴さん、まっすぐ現場に急行しながら、誰にも遇《あ》わず、誰の音も聞いていない――それから、あの神がかりのヘミング! 軍旅の長たる聖霊が異端背信の徒バビロンの子らを討ち滅ぼしたように、グリーン一族を滅びに追いやるんだとかなんとか、あの神託《しんたく》めいた宣告《おふれ》の意味をどう解したらいいのか? あの女はひそかに、なにか得体の知れない超自然の観念を抱いている――それだって、とどのつまりは、それほど得体の知れないものではないのかも知れないじゃないか――次は、ドイツ人の料理女。ここにいるのは、当り障《さわ》りのない表現でいえば、過去を持つ女だ。外観は愚鈍に見えるかも知れないが、決して召使い階級の女じゃない。それなのに、十数年の間、グリーン一族の配膳係りとして忠節をつくしている。君、覚えているだろう? どうしてグリーン家に傭われたのかという彼女の説明を。あの女の夫がトバイアス大将の友だちだった。そこで、トバイアスが、彼女の好きなだけ料理女として家におってよろしいという命令を出したとういうんだぜ。この女の解明も必要だ――マーカム――いや、うんと洗ってみる必要がある――次はレックスだ。頭頂突出型、胴体はひょろひょろ、おまけに周期的の癲癇発作《てんかんほっさ》。ぼくらの訊問に対して、あの逆上ぶりはどうしたというんだ? あの振舞いようは、強盗未遂なんかわれ関せず、われ知らずといった傍観者の態度でないことは確かだ。――次は、これは繰返しだが、電灯の件。一体、誰が、なぜ、灯《あかり》をつけたんだ? しかも、両方の部屋ともだぜ? ジュリアの部屋は発砲以前についていた。彼女が紛れもなく犯人を見、犯人の意図を察していたことでこれは分る。ところが、エイダの部屋は、発砲|以後《いご》なんだ! これこそは、解明をしてくれ、してくれと、向うから大声で叫んでいる事実なんだぜ。解明しない限り、これはもう狂気の沙汰、不合理の矛盾、理解を絶した神秘以外の何ものでもない――最後はフォン・ブロン。真夜中に、スプルートが電話を掛けた時に在宅していなかったのはなぜなんだ? それなのに、あんなに迅速《じんそく》に到着しえたというのは、どうしたというんだ? ただの偶然か……。つぎは、ところで、部長、例の二組の足跡、あれは医師|一人《いちにん》のあしどりみたいでしたか?」
「あれはなんとも『がん』のつけようがねえです。雪がさらさらしてるもんで」
「どっちみち、足跡は大して重要じゃないのかも知れない」
ヴァンスが再びマーカムに向い合い、事件の概要の続きを始めた。「次に――二つの攻撃には、矛盾点が幾つかある。ジュリアは就寝中を正面から狙撃されているのに対して、エイダは寝台から起き上がったあと、背中を撃たれている。ところが、殺人者としては、女がまだ寝ている間に近づき、狙《ねら》いを定めようと思えば、そうするだけの時間はたっぷりあったはずなんだ。なぜ犯人は、女が起き上がり、自分のほうに近づくのをひっそりと待っていたのか? 既にジュリアを殺し、家じゅうを叩き起こしてしまった後なのだから、待つなんてことが大体できるわけはない。これでも君は、犯人が恐慌を来したというのかい? それとも、冷静そのものだったというべきか? ――次に、たまたまあの夜、ジュリアの部屋に鍵が掛かっていなかったというのは、これはどうしたわけだ? この点は、ぼくは特に解明したいと思っている。――次は、君も多分気がついていることと思うがね、マーカム、シーベラを客間で訊問しようという段になって、チェスターが自分から呼んでくるといい出し、長いこと、二人っきりでいたじゃないか。レックスの場合は、スプルートを呼びにやったろう。ところが、シーベラの場合は、なぜ自分で連れにいったのか? そして、あの遅れは、いったいなぜなんだ? 最後に二人が姿を現わすまでに、どんなやりとりがあったのか――ぼくは解明の鍵を掴《つか》みたくて、じりじりしてるんだ。――次はシーベラ。窃盗説をあれほどきっぱり否定しておきながら、それに代る説は何だと訊問されると、あんな韜晦《とうかい》趣味を発揮するのはなぜなのか? グリーン家の者全員、彼女自身をも含めて、片っぱしから容疑者の可能性があると主張した時の、あの諷刺めいた真情の底にひそむものは何なのか? ――そして次は、エイダの物語の顛末《てんまつ》。あれは、君、不思議で不可解、いやほとんどお噺《はなし》めいたものを含んでいるんだぜ。見たところ、部屋では物音一つしなかった。なのに、彼女はひしひしと迫るものの気配を感じた。それに、あの伸びた手と、ひきずる足音――これは絶対に解明を必要とすることなんだ。それに、男か女かと問われた時のあの逡巡《しゅんじゅん》した様子。それから、シーベラにいわせれば、それは自分へのあてこすりだといった時の断定の内容。これだって、解明せねばならんよ、マーカム。――次は、シーベラのエイダに対するヒステリックな告発。この背後にあるものは何なのか? 次に忘れてはならないのは、シーベラとフォン・ブロンとの間に演じられた、あの奇怪な一幕。男が女のあられもない逆上ぶりを叱《しか》り飛ばしたあの場面さ。こいつはすてきに変だよ。あそこにあるのはある種の仲さ――君も見ていた通り、女はすぐ男に服従したね。次に、君もきっと観察したことと思うが、エイダだって、あの医師には参っているよ。訊問のあいだ、女の媚《こび》を満身に現わすかのようにからだをすり寄せ、物ほしげな、大きな瞳を上げて男を見、保護を求めるあの態度はどうだ。もっとも男のほうに、お値段の高い医者が女のしとねに仕える時の、ふんわかふんわかした、職業的作法しか示さなかったがね。ところが、この男がシーベラに対する態度はどうだ? まるでチェスターを勇者版にしたようなところがあったじゃないか」
ヴァンスがくわえた煙草を深く吸いこんだ。
「そうなんだ、マーカム、君の仮説的窃盗の存在をぼくが信ずるまでには、納得のゆく説明をつけねばならない事実が多いんだよ」
マーカムは一瞬、物思いに耽《ふ》けったまま坐っていた。
「君の正調|叙事詩《じょじし》的総編集は謹《つつし》んで拝聴したがね、ヴァンス」と、やっと彼が言った。「しかし、遺憾ながら、霊感の火《ともすもの》はなかったな。君は一連の興味ある可能性を示唆《しさ》したし、裏づけ捜査をやってみるだけの値打ちのある点も、いくつか指摘した。にもかかわらずだ、君の分析に潜在性の比重がありとすれば、それはたんに個々の項目の総和にあるのであって、それぞれを個として還元すれば、特にどうという印象的なものはなんにもない。つまり、君の綜合分析の単位となっているところの整数間には、因果の糸がない。したがって、各単位ばらばらに考察するしか方法がない。そこが問題だ」
「ああ、性懲《しょうこ》りもなき、君の法律びんたかな!」ヴァンスが立ち上がり、部屋をいったりきたりし始めた。「ひとつの犯罪をめぐり、奇妙にして、解明されざる事実の総和がここにある――それをしも印象的でもなければ、全体における個の単位も印象的ではない、というにいたっては! いや、はや! もうやめたよ。ぼくは理性なるものを放棄するよ。さまよえるアラビア人と同じさ。天幕をひき払い、黙《もだ》して消えゆかんとすだよ」彼が外套《がいとう》を手に取った。「君のいう、とっぴょうしもない、夢かまぼろし、うつつをぬかした窃盗君は君に任せておくよ。鍵もないのに人さまの家にあがりこみ、盗んだ『ぶつ』は『おけら』、電気のスイッチの隠し場所は、ちゃんと心得ているのに、階段のありかは五里霧中、女どもをズドンとやって、その後で灯《あかり》をパッとつける。ぼくの親愛なるリカルグス君よ〔スパルタの法律家〕、彼を捕えたら、ここはひとつ、憐憫《れんびん》の徳を発揮して、精神病室に送りこむこった。ぼくは保証していいが、その男、絶対に法律的無責任にきまってるさ」
マーカムは、あれだけの反論はしてみたものの、じつは強い感銘《かんめい》を受けていたのだ。彼の押しこみ強盗説は、ヴァンスのために、ある程度は足許をすくわれるように崩《くず》されていたはずだ。しかし、この説にしても、徹底的に吟味《ぎんみ》するまでは放棄したくないとするマーカムの気持がわたしには十分すぎるほど分っていた。事実、次の言葉は彼のこの態度のあかしだったであろう。
「本件が外見よりは根が深いかも知れないという万一の可能性を、ぼくは否定するものではないがね。しかし、現在のところ、正規の路線以外に、捜査を正当化するには、手掛《てがか》りがなさすぎるんだ。いやしくも相手は名門の人たちだ。その家族のなんぴとに対しても、容疑の証拠がこれっぽちもないという時に、その行状を摘発し、世の指弾を招くというのは、暴虐きわまる醜聞を煽動《せんどう》することであり、到底われわれの容認しうるところではない。さらに、それは正義に反した、危険な法手続きでもある。われわれは少なくとも警察の捜査が終るまでは待たねばならない。その時、なんの進展もないというのなら、もう一度品揃えをやってみて、どうするかを決定すればよろしい。……ところで、部長、君のほうのやっさもっさはどれくらいですむのかね?」
ヒースがくわえていた葉巻を外《はず》し、考え深そうにそれを眺めた。
「そいつはなかなか難問でさあ、検事さん。デュボアが明日中には指紋調べをすませるでしょうから、大至急で常連の洗い出しをやるつもりでして。それにもう二人に命じて、グリーン家の召使いたちの身許を洗っているところでして。うんと時間がかかるかも知れんし、早いとこやっつけられるかも知れんし、成り行き次第です」
ヴァンスが溜息をついた。
「せっかくの粋《いき》で、しゃれた犯罪だというのに、心細い話じゃないですか。ぼくはこんなのに出喰わさんもんかと、むしろ張り切っていたんだ。だって、ほんとにそうなんだ。ところがどうだ、君らときたら、召使い若かりし頃の情事はいかにと、そんな下らんものをほじくる話ばっかりしてるじゃないか。ああ、歎《なげ》かわし、歎かわし!」
彼は外套のボタンを掛け、身づくろいをすると、入口へ歩いていった。
「さしずめ、伝説の英雄かたり、ジェイソンの金羊捜しじゃないかね〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』の有名句。ギリシア伝説による〕、君らが変な宝捜しに乗り出している間、ぼくは家にひっこんで、ドラクロワの『日記』の翻訳のつづきでもやっているよ」
だが、ヴァンスは、これほど長い間志していたこの宿題を終了させる運命にはなかった。三日後、全国の新聞の第一面は、ぎらぎらした大見出しで、旧家グリーン・マンションに起こった第二の、どす黒い、不可解な悲劇を報じていた。この結果、事件の性格はがらりと様相を変え、これを近代屈指の「有名犯罪事件」に名をつらねせしめるほどの名声を一挙に博したのであった。この第二撃の後、流しの強盗という説は一掃された。あの呪われた屋敷の、うす暗い廊下を、目に見えぬ、死に神の恐怖が徘徊しているということには、もはや一点の疑いもなかった。
第八章 第二の悲劇
(十一月十二日、金曜日、午前八時)
わたしたちがマーカムに役所で別れを告げた次の日は、天候の厳しさが急に解けた。太陽も出てきて、寒暖計は華氏三十度近くまでも上がった。ところが、第二日目の夜の幕が下りる頃になって、細かい、じめじめした雪が降り始め、うすい純白の毛布をニューヨーク市の上に拡《ひろ》げた。しかし、十一時近く、空は再び晴れた。
わたしがこれらの事実を述べるのは、これがグリーン・マンションにおける第二の犯罪と奇妙な関係があるからである。足跡がまた正面の歩道に現われた。さらに、雪がねばっこいやわらかさを持っていたために、警察はまた一階の廊下と大理石の上り階段に足跡を発見したのである。
ヴァンスは水曜日と木曜日を書斎に閉じこもり、味気ない読書をしたり、ヴォラールの編集によるセザンヌの水彩画目録を調べたりしていた。『ウジェーヌ・ドラクロワの日記』三冊本は机の上に置いてあったが、わたしの見たところ、開いてさえなかった。彼はそわそわとし、放心した様子で、夕食での長い沈黙――その食事すら、居間にとりよせ、大きい薪火《たきぎび》の前で食った――を見るにつけても、何か彼の心を懊悩《おうのう》させているものがあることが、あまりにも明白だった。それだけではない。いくつかあった社交の約束にも、断りの手紙を送っていたのだし、侍従兼家事用人のカリーにも命令を出し、訪問客があっても、「留守だ」と言わせていたのである。
こうして、木曜日の夜、夕食の後でコニャックをなめながら坐っていた時のことだった。ヴァンスが、目では暖炉の上のルノワール描く『湯浴みする女』の形《フォルム》をぼんやりと辿《たど》りながら、考えていることを声に出した。
「じれったい話さ、ヴァン、ぼくはあの呪いのかかった家の雰囲気《ふんいき》をふるい落せないで困ってるんだ。多分、マーカムの言う通りなのかも知れんね。事態を真面目《まじめ》に取っちゃいかん、というのが彼の態度なんだから――喪に服している家族を犬猫みたいに追いかけるわけにもゆくまいしね、このぼくが神経過敏だからというだけの理由でだよ。だけど」――彼が微かに身体をゆすった――「こいつは気の滅《め》入る話だ。たぶん、ぼくが弱気になり、情緒の波にせかれているのかも知れん。ここでひとつ宗旨替えでもして、ホイッスラーかベックリンかの徒輩の情緒派でも集めてみるか? 君、我慢できるかい? |Miserere nostr《ミゼレール・ノストリ》〔「慈悲なき者よ、黙れ。黙らざるならば、何か他に聞くべきものを語れかし」――前出マルシアリスの有名な言葉〕……いや、そこまではゆくまい。だが――こん畜生め! ――このグリーン家殺人のやつ、ぼくの熟睡《うまい》に取り憑《つ》いて、どうしても離れんのだ。それに事件はまだ終っていない。既に起こったことだけでは、有終の美に欠けている。それがとっても怖ろしい……」
翌る朝のまだ八時にならない頃だった。マーカムが第二のグリーン家惨劇の知らせを持ってきたのは。わたしが早起きをして、書斎でコーヒーを飲んでいるところへ、マーカムが姿を現わした。唖然《あぜん》となったカリーをば、たった一回、無愛想に首をうなずいて見せただけで押しのけての登場である。
「ヴァンスをすぐ起こすんだ――いいかい、ヴァン?」と、彼が挨拶抜きで始めた。「大変なことが起こったんだ」
わたしは急いでヴァンスを連れにいったが、こちらは不平顔でカシミヤの寝間着に手を入れると、のんびりと書斎にやってきた。
「これはどうしたい、親愛なるマーカムよ!」と、彼が地方検事を詰《なじ》った。「真夜中に、社交的訪問とはどういうことか?」
「社交的訪問なもんか!」と、彼が辛辣《しんらつ》な命令口調で言った。「チェスター・グリーンが殺されたんだ」
「おや、そうかい!」ヴァンスが呼鈴を鳴らしてカリーを呼ぶ。煙草に火をつけると――「コーヒー二人分、服を一人分」と、現われたところでいいつけた。それから、彼は火の前の椅子にしずまり、マーカムに向って、剽軽《ひょうきん》な視線を投げかけた。「なんだろうね、またぞろ珍妙な窃盗がと。いや、堅忍不屈の若者かな。今度こそ家紋入りの皿がなくなったの?」
マーカムが笑いのない笑いを一つした。
「いや、皿は手つかずだ。いまはぼくも窃盗説は捨ててもいいと思う。どうやら、君の予感が当っていたようだ――君のこの、超能力なんかくそくらえだがね!」
「いとど悲しき君が物語、いまぞ心おきなく語りたまえ」ヴァンスは、こんな軽口を叩いていながら、一方ならず興味をおぼえていたのだ。ここ二日ばかりの憂鬱も、いまは心|逸《はや》らんばかりの緊張に場所を譲っていた。
「この知らせを深夜少し過ぎに本部に電話したのはスプルートだ。殺人課の交換手がヒースの家にうまくつなげたものだから、部長は半時間もせぬうちに、グリーン家に到着した。いまも向うにいる――けさの七時にぼくに電話してきたんだ。すぐゆくと返事はしたが、そんなわけで、電話では細かい様子は聞かなかった。ぼくが知っているのは、チェスター・グリーンが昨夜|撃《う》たれて即死したということ、しかもその時刻は前の事件と全く同じ――十一時半を少しまわったところだ、ということだけだ」
「その時彼は、自分の部屋にいたの?」カリーが運んできたコーヒーを移しながら、ヴァンスが尋ねた。
「自分の寝室で発見されたとヒースはいってたと思う」
「正面から撃たれたの?」
「そう、心臓を貫通、至近距離だ」
「まさに興味しんしん! いうなれば、ジュリア殺しの二の舞い!」ヴァンスが内省的になった。「すなわち、あの古い屋敷が二度目の生贄《いけにえ》を要求したわけだ。だが、なぜチェスターを? ……ところで、発見者は?」
「シーベラだ。確かヒースはそういっていた。あの女の部屋は、覚えているかい、チェスターの隣りなんだ。だから、銃声で起こされたんだろう。ところで、ぼく|ら《ヽ》は出かけなくっちゃ」
「おや、ぼくも招待かい?」
「ぜひきてもらいたいんだ」マーカムはもはや相手の同行を希望する気持を隠そうとはしなかった。
「いやあ、是が非でもいきたいと思ってたとこさ、だってそうだろう?」ヴァンスはだしぬけに部屋を出ていった。着換えをしにいったのである。
ヴァンスの家は三十八丁目東にあるのだから、同じ東のグリーン・マンションまでは、地方検事の車で二、三分とはかからなかった。大きな鉄門の外には、巡回巡査がひとり見張りに立っており、拱門《きょうもん》になった表玄関の下の階段には、私服がひとり配置されていた。
ヒースは客間にいて、到着したばかりのモーラン警視と熱心に話しこんでいた。さらに、殺人課の人間が二人、窓べに立って、命令を待っていた。邸内はなんともいえぬ沈黙に掩われていた。家族の姿はまだ見えない。
巡査部長がすぐ迎えに出てきた。いつもの赤ら顔はどこへやら、眼には騒ぐ心が映っている。彼がマーカムと握手をし、次に、ヴァンスに向って、親しい歓迎の視線を投げかけた。
「あんたの勘が当りましたよ、ヴァンス先生! この家にゃ、大っぴらの一六勝負に出てきた奴がいますぜ。狙《ねら》いは『ぶつ』じゃねえです」
モーラン警視もわたしたちと一緒になったが、再び握手の儀典が繰り返された。
「この事件のおかげで、世情騒然となりそうですね」と、彼が言った。「それに、わが警察としては、手早く片づけんことには、目ん玉の飛び上がるくらいの悪評に捲込《まきこ》まれるのがオチですわ」
マーカムの顔の不安の表情が深まった。
「早く仕事に取り掛るに越したことはない。警視、あなたも手を貸して下さるまいか」
「その要はあるまい、と思うがね」と、モーランが冷静に回答した。「警察関係のことだったら、ヒース巡査部長に一任しとくよ。そこで、あなたも――このヴァンス先生も――いらっしゃることだし、わたしなんか役立たずですわ」彼がヴァンスに愛想よくほほえみ、別れを告げた。「わたしと連絡を密にするように、部長、いるだけの人間を使いたまえ〔警視ウイリアム・M・モーランは昨夏死亡したが、八年間刑事局長を勤めていた。まれに見る、傑出した資質の人間だったが、彼の死によって、ニューヨーク市警察本部は最も有能にして信頼するに足る役人の一人を失ったことになった。彼は昔、州北部の有名な銀行家だったが、銀行は一九〇七年の恐慌で破産閉鎖させられたのであった〕」
警視が去ったのを見て、ヒースがわたしたちに犯行の模様を語った。
十一時半頃、家族も召使いも引き退った後で、銃声が起こった。シーベラはその時寝台で本を読んでいたから、はっきりと銃声を聞いた。彼女はすぐ起き上がり、数分間耳を澄ましていたが、それから使用人階段を忍び足で上がった――その立ち上がりは、彼女の部屋の扉から二、三フィートの場所になっている。彼女は家令を起こし、それから二人でチェスターの部屋にむかった。ドアに鍵《かぎ》は掛っておらず、部屋の灯《あかり》も煌々《こうこう》とついていた。チェスター・グリーンは少しうずくまるようにして、机の近くの椅子に坐っていた。スプルートが歩みよったが、一見して死んでいるので、すぐ部屋を出、扉に鍵を掛けた。それから、彼は警察とフォン・ブロンの両方に電話を掛けた。
「あっしがきてみると、フォン・ブロンはまだ到着していなかった」と、ヒースが説明を始めた。
「家令が電話した時、またもや外出中で、伝言を受け取ったのはやっと一時近くになってからだということでして。こいつはしめたぞ、とあっしは思いました。なにしろこれで、外の足跡を調べるのにもっけの幸いというもんだ。門をはいるなり気がついたんだが、誰かいって戻ってきた奴がおる。前の時とそっくりだ。そこであっしは警笛を吹いて、巡回中の巡査を呼び、スニットキンがくるまで入口を見張らせることにし、それから、歩道の端から外《はず》れんように気をつけてやってきて、邸内に入ったわけです。きてみて、家令が玄関を開《あ》けてくれた途端、まず気がついたのは、ホールの絨毯《じゅうたん》の上にある、小さい水溜《みずたま》りでした。これじゃ、つい今しがた、やわらかい雪を足につけたまま入ってきた奴がいるに違いない。ホールには、その外にも二個所ばかり濡《ぬ》れた跡があり、二階に昇る階段にも濡れた足跡がついておる。五分後、スニットキンが外の道路から合図をしまして、そこであれに外部の足跡を調べろといってやったわけです。足跡ははっきりしておりまして、そこでスニットキンとしても、かなり正確な寸法がとれたわけです」
スニットキンに足跡の仕事に取り掛らせておいて、部長のほうはチェスターの部屋に上がってゆき、現場検証を行ったらしい。ところが、椅子に坐って殺されている被害者の外にはなんら異状を認めなかったので、そこで、三十分後、再び廊下に降りてきて、食堂に向った、そこでシーベラとスプルートが待たされていたのである。二人の訊問を始めた途端、フォン・ブロン医師が現われた。
「あっしは先生を二階に連れてゆきやして」と、ヒースが説明した。「すると、先生は死体を一目見たっきり、なんだかんだとぐずついている。そこであっしが、邪魔しねえでくれといいますと、先生の奴、外の廊下でグリーン嬢と五分か十分しゃべっていたかと思うと、それっきり戻ってゆきやした」
フォン・ブロン医師の退去直後、殺人課からあと二人の刑事が到着し、次の二時間は家の全員に対する訊問に過ごされた。だが、シーベラを除けば、銃声を聞いたことすら認めた者は一人もいなかった。グリーン未亡人に対する訊問は行われなかった。三階で寝ていた看護婦のクレーヴン嬢をやって様子を見させたところ、未亡人はぐっすり眠っているということであった。そこで、部長としては、邪魔をしないことに決めた。エイダも起こさないことにした。同じ看護婦の話では、この若い女は九時から眠っているのだという。
ところが、レックス・グリーンだけは、訊問をしているうちに、漠然として、さらにどう見ても矛盾しているとしか思われない一片の証拠を提出した。彼の話はこうだ。雪がやんだ時刻、つまり、十一時少し過ぎには、彼は寝床の中で目を覚ましていた。それから、約十分後、廊下を足ずりしてゆくような微かな音と、そっと扉の閉じる音とを聞いたような気がした。その時は、別段どうとも考えなかったし、ヒースに問いつめられて初めて思い出したのだという。それから十五分ばかりして、彼は時計を見た。時刻は十一時二十五分だった。そして、その直後寝入ってしまった。
「こいつの話に一つだけ変な点があるんでして」と、ヒースが批評した。「それは時間でさあ。奴さんがまっとうな話をしてるというんなら、この物音と扉の閉じる音とを聞いたのは、銃声が起こる二十分かそこいら以前だということになりますんで。ところがその時間に、家ん中で目の覚めてた人間はひとりもいねえんで。あっしは正確な時間について随分と締めあげてみやしたがね。その頑固なことといったら、まるで蛭《ひる》みたいな奴でさあ。奴の時計とあっしんのを比べてみたんですが、それがその通りなんで。どっちみち、この話にゃ大したこともないようですな。風の吹きまわしで、扉が自分で閉まったのかも知れんし、奴の聞いたのは外の街路の物音で、それを廊下だと勘違いしたのかも知れんですからな」
「さはさりながら、部長」と、ヴァンスが口を挟《はさ》んだ。「ぼくだったら、レックスの話は記録に留め、後の思索のたねにするでしょうね。どういうわけか、ひっかかるんだ」
ヒースが鋭い目で見上げ、まえに何か質問しようとしたが、気が変わったらしく、こう言っただけだった。「もう記録ずみでさあ」それから、マーカムに対する報告の終りに掛かった。
屋敷の居住者全員に対する訊問を終ると、ヒースは部下を見張りにつけ、一旦、殺人課へ戻り、警察の全機構に活動開始を命じたところで、再びグリーン・マンションに引き返してきたが、まだこの朝の早い時刻だった。目下、検屍官、指紋係り、写真班の到着を待つばかりだという。家の召使いたちに対しては、彼の命令で、自分の場所を離れないようにさせてあるし、家族全員の朝食については、スプルートに命じて、それぞれの部屋に運ばせることになっているのだという。
「この『やま』には苦労させられそうですぜ、検事さん」と、彼が結びの言葉を述べた。「この一件は、まかり間違えば、どっちに転ぶか知れたもんじゃねえです」
マーカムが厳粛にうなずき、ヴァンスのほうをちらと見た。こちらのほうは憂《うれ》わしそうな視線をトバイアス・グリーンの古い油絵に据《す》えたままだった。
「この新しい進展で、君の以前の印象を整理するのに寄与する点があったかね?」と、検事が質問した。
「この由緒ある屋敷が、死を呼ぶ毒気で湧《わ》き立っているという感じは実証されたね、少なくとも」と、ヴァンスが答えた。「これぞまさしく『悪魔の饗宴』さ」そういって、マーカムにユーモアのある微笑を投げかけ――「どうやら君の仕事は、穢《けが》れし悪霊を制し、もろもろの病いを癒《い》やすという、どえらい仕事になりかけてるんじゃないかという気がしてきたよ」
マーカムが渋い顔をした。
「それじゃ、呪文《じゅもん》の配合だけは君に任せることとして……部長、検屍官がやってくる前に、死体を一目見せてもらおうか」
ヒースは一言もいわず、わたしたちを案内した。階段の頂まできたところで、彼がポケットから鍵を取り出し、チェスターの部屋を開けた。電灯はまだ煌々とついていたが――河の上に出っぱった窓から、ほのかに射す、どんよりとした日の光に照らされ、病みだれた黄色い丸い玉に見えた。
部屋は奥行きが長く、間口が狭《せま》く、時代錯誤的なインテリアの組み合わせになっていた。それは典型的な男部屋で、居心地のよい、ふしだらの気分が漂っていた。新聞やスポーツ紙が食卓にも机にも散らかり、灰皿がいたるところに置いてある。一隅にある酒|棚《だな》は戸が開いたままだ。ゴルフ道具が一式、つづれ織のにしきを張ったチェスターフィールド調の大きなソファの上に投げ出してある。寝台は眠った形跡がないのがわたしの目にとまった。
部屋の中央、旧時代式のカット・グラスのシャンデリアの真下に、チッペンデール調の両そで机があり、その傍らには、『眠り凹《くぼ》み』と称する、安楽用の椅子が置いてある。チェスター・グリーンが寝間着とスリッパのままで、死体となって靠《もた》れかかっていたのは、この椅子である。少し前につんのめったような姿勢で、首を微かに後ろにそらし、房飾《ふさかざ》りの背に凭《よ》りかかっていた。シャンデリアからの光が、彼の顔に当って、幽鬼めいた照明になっている。わたしはそれを見ただけで、全身に怖気《おぞけ》が走った。ふだんも飛び出していた眼球が、いまにも眼窩《がんか》から突き出してこんばかりになっていて、言語に絶した驚愕《きょうがく》を現わすかのように凝視したままだ。でれっとした顎《あご》をぺらぺらに開いた唇《くちびる》が、この恐怖につんのめされたような驚きの表情を一層強く引き立てている。
ヴァンスは死人の面相を熱心に研究していた。
「部長、当ててみませんか」と、彼が視線もあげずに尋ねた。「チェスターもジュリアも、この世にお暇乞《いとまご》いをする時は、同じものにお目に掛った、そう思わんですか?」
ヒースが不安そうに咳《せき》をした。
「そうですな」と、彼も認めた。「二人ともおったまげちまった。そいつは間違いっこねえ」
「おったまげたはいいや、部長さん! 君よ、よろしくわが造り主《ぬし》に感謝を捧げよですな――想像力などという厄介なもので呪われてこなかったことを! この悪鬼《あっき》の行為の全真実は、このまんまるい目玉、このあんぐりした口にあるんだ。エイダの場合と事違い、ジュリアもチェスターも、おのれの生命を奪わんとするものを見たんだ。だから、悶絶《もんぜつ》の果て、仰天したまんまの顔で、この世を去っていったんだ」
「だけど、そいつから情報の割り出しはできっこねえでさあ」ヒースにとっては、例によって、実際主義のほうが最高の値打ちがあるわけだ。
「確かに、口による情報はね。されど、ハムレットもいうように、『げに、人殺しの罪は、舌はなくとも、因果の不思議、いつかは露《あら》わるる』」
「おい、おい、ヴァンス、有形の世界に戻ってくれろよ」と、マーカムが辛辣《しんらつ》な口調で言った。「君、なにをいいたいんだい?」
「ええじれったい! それが分ればね。そこはかとなく、もやもやとして、やはり分らん」と、彼は前屈みになり床から小さい本を拾いあげたが、ちょうど死人の片腕が椅子の肘《ひじ》かけからだらりと下がっている真下にあったものだ。「さては、わがチェスター君、この世におさらばという瞬間まで、文学趣味にご傾倒と見えるな」彼がさりげなく本を開けた。「『水治療法と便秘』か! さよう、まさしくチェスターは『結腸』持ちを気に病むたちの人間ではあった。腸内血行停止はゴルフの適当なスタンスに障害になる、とかなんとか誰かにいわれたんだろう。きっと、あの男のことだ。いまごろは永世天国の花園に遊びながら、不凋《ふちょう》の花を刈り取っているところだろうさ――ゴルフ・コースの地ならしの下工事にと言ってね」
ヴァンスが、突然、真面目な口調に変わった。
「この本の意味するところが分るかい、マーカム? チェスターはここに坐ってこれを読んでいた。そこへ殺人者がやってきた。ところが、彼は立ち上がろうともせず、助けを呼ぼうとさえもしなかった。あまつさえ、侵入者が直接自分の正面に立つのさえ平気だった。本を下におこうともせず、ゆったりと椅子に靠《もた》れて坐っていた。何故だ? それは、殺人者がチェスターの知っている――しかも信用している誰かだったからだ! そこへ、銃が突如として持ち出され、彼の心臓を狙った。この時、彼は茫然自失し、身動き一つできなかったんだ。そして、まさにこの困惑と不信の寸秒の間《かん》、引金はひかれ、銃弾は彼の心臓を貫いたんだ」
マーカムが深い困惑に落ちこんだまま、ゆっくりとうなずいた。ヒースは死体の姿勢をさらに綿密に研究し始めた。
「そいつはいい考えですな」と、部長もついに譲歩した。「そうだ、奴は犯人が乗っかかってきても、なんにも疑わなかったに違いねえです。ジュリアだって同じでさあ」
「まさにその通りだ、部長。二つの殺人には世にも表徴的な類似性がある」
「そうはおっしゃいますがね。先生が見落している点が一つありますんで」ヒースの眉《まゆ》が波立ち、心騒ぐ渋面のような顔になった。「チェスターの扉はゆうべは鍵が掛っていなかったに違いねえです。そりゃ、彼がまだ寝台に入っとらんだったことを見れば分るです。そこで、この犯人はなんの苦もなくはいってこれたというわけでさあ。ところが、ジュリアだが、これはもう着物を脱《ぬ》いで、寝台にはいっとった。それに、あの女は夜は鍵を掛ける癖でしたからね。だけど、この『はじき』のホシは、どうやってジュリアの部屋に潜《もぐ》りこめたとおっしゃるんで、ヴァンス先生?」
「それには問題はない。ひとつの暫定的仮説として、こんなのはどうですかね? 例えば、ジュリアは既に着物を脱ぎ、スイッチを消し、例の女王然たる寝台におさまっていた。そこへ、ドアを叩く音がする――多分、相手がすぐと分る叩き方なんだろう。彼女は起きて灯《あかり》をつけ、扉を開ける。そこでまた寝台のぬくもりを慕って戻ってくる、訪問者と楽しく語らいながらだ。訪問者のほうは、多分――多分どころじゃないな――その間《かん》、寝台の端かなんかに坐っていた、やがて突如、訪問者は拳銃を取り出し、一撃を加え、急ぎ退場となる。あわてたために、灯を消すのも忘れてしまった。こういう説だったら――細部について争う気はないけれども――チェスターのほうのお客に対するぼくの考えともぴったり合うはずだと思うんだがね」
「ひょっとするてえと、おっしゃる通りかも知れませんや」と、ヒースが怪訝《けげん》な顔をしながらも認めた。「ところが、エイダの狙撃になるてえと、なんでまた、あんなてんやわんやをやらかしたんで? あの『やま』は暗闇《くらやみ》で踏《ふ》んだもんですぜ」
「合理主義哲学の教えるところによればですよ、部長」――ヴァンスが茶目っけの衒学《げんがく》趣味を出した――「万象に合理あり。されど、有限なる人間精神は呪わしくも制約さるとね。われらが韜晦《とうかい》趣味豊かな犯罪者が、エイダの処理に当って技法を変更したというこの事実にせよ、おぼろめく事象の一つで、ざらにあることなんだ。だけど、あなたの説は核心に触れたところがある。われらの未知者 |inconnu《アンコニュ》 によるこの殺人戦術の逆転の理由を発見できるならば、捜査はうんと『はか』がゆくことでしょうよ」
ヒースは返事しなかった。部屋の中央に立ったまま、いろんな品物や家具の上に目を走らせていた。そのうち、彼が衣裳《いしょう》用の押入れに歩みより、引き戸を開き、内部にあった吊《つ》り電球を点《とも》した。彼はそのまま物を思うように立ちつくし、押入れの内容物を覗《のぞ》いている。そこへ、廊下を歩くどたばたした足音が聞えてきたかと思うと、スニットキンが開いたままの入口に姿を現わした。ヒースがくるりと振返り、部下に話す隙《すき》も与えず、つっけんどんに尋ねた。
「あの足跡から何か出てきたかい?」
「ネタはちゃんと仕入れていまさあ」スニットキンが部長のほうに進みより、長いマニラ封筒を差し出した。「寸法を測って、型取りをするぐれえのこと、わけもねえ話でしたがね。だけど、あっしに言わせりゃ、これでどんぴしゃりとゆくわけにはゆかねえ。なにしろあんた、これぐらいの足型になったら、全国一千万人が残したって見分けはつかんときたもんだ」
ヒースが封筒を開き、薄っぺらな白いボール紙の型紙をひっぱり出したが、靴の敷き革に似ている。
「この足型をつけた奴は一寸法師じゃねえことは確かだな」
「おっとそこが浅墓《あさはか》というもんで」と、スニットキンが説明した。「サイズだけじゃ、どっちともいえねえんでさあ。なぜかちゅうと、こいつは靴の足型じゃねえんですからな。この足型をつけるんならゴール人の靴っていう、つまりオーバーシューズに決まってまさあ。ところが、もうこうなったら、履《は》いている人間の実際の足よりどれだけ大きいのか、分りっこねえ。サイズ8から10まで、足幅AからDまでの靴だったら、どんな靴の上からだって履けるんでさあ」
ヒースが見た目にもがっかりして、うなずいた。
「オーバーシューズなことは確かなんだな?」これこそ本ネタだという明るい希望があったところのものを、このまま『お宮入り』させるには忍びないのだ。
「そいつは逃《のが》れっこなしでさあ。ゴムの軌条《きじょう》が数ヵ所で鮮かに出ているし、浅い、ひしゃく型の踝《くるぶし》は、火を見るよりも明らかでさあ。どっちみち、あたしの結果はジェリムに確認してもらいますがね」〔アントニー・P・ジェリム警部はニューヨーク警察本部の犯罪学者として最も敏腕かつ努力家の一人であった。初め、ベルティヨンの説による人体測定の専門家として、経歴を踏み出したのだったが、その後、足型の専門に転じた――これを精密複雑な科学の領域にまで昇格させたのは、彼の功績によるものである。数年間ウィーンに滞在して、オーストリアの方法論を研究、足跡の科学的写真学をも開発した。これによって、彼はロンド、ビュリア、ライスと並び称されるにいたった〕
スニットキンの視線が、当てもなくさまよううちに、押入れの床に落ちた。
「あの足跡をつけたのは、まあこういったもんですな」と、彼が指さしたのを見れば、それは靴棚《くつだな》の下に無造作に投げこまれていた、一足の脛の長い防寒靴だった。それから彼が前屈みになり、一方をつまみあげ、じっと眺めながら、ぶすっとした声でいった。「サイズだって、おんなじだ」彼が部長の手から型紙を取り、それをこのオーバーシューズの底に当てがった。まるで同じ裁断機にでも掛けたかのように、ぴたりと合った。
ヒースがこれまでの意気消沈《いきしょうちん》から急に飛び上がってきたかのように、威勢がよくなった。
「こいつは、一体全体、なんちゅうこった!」
マーカムも既に傍によっていた。
「別にどうってことじゃないさ。むろん、チェスターが昨夜遅くどこかへ外出した、ということだろう」
「だけど、それじゃ理窟《りくつ》に合わねえです、検事さん」と、ヒースが異議を唱えた。「夜の夜中のあの時間に用がありゃ、奴のことだ、家令を使いに出すにきまってまさあ。それに、どっちみち、この附近じゃ、あの時間になりゃ、店は閉まってるんだ。よろしいですか、あの足跡がつけられたのは、雪がやんだ時刻、つまり十一時以降しかないんですからな」
「それに」と、スニットキンが補足した。「あの足跡を見ただけでは、これをつけた人間が家を出て引き返してきたのか、それとも、外からきて引き返していったのか、どっちともいえねえんで。なんとなればですな、たった一つの足跡だって、お互いに重なり合ったのがねえんですからな」
ヴァンスは窓べに立って外を眺めたままだった。
「そこが、だってそうでしょう、興味しんしんたる点ですな、部長」と、彼がコメントした。「ぼくならレックスの供述とともに、これを記録に留めておきますね。あとでとっくりと研究の材料にするために」彼がぶらぶらと机まで戻ってきて、感慨深げに死人を見つめた。「いや、部長」と、彼が言葉を続けた。「ぼくにはチェスターがゴム製の靴を履《は》き、抜き足さし足、闇夜を忍んで、なにやら摩訶不思議《まかふしぎ》な用足しに出掛けたなんて図は想像できませんね。どうやらその足跡に関しては、別な説明を探《さが》さねばならないような気がするんです」
「それにしたって、この足跡とこのゴール人の靴のサイズがぴったりだとは、これは滅法変じゃねえですか」
「仮にだね」と、マーカムが意見を出した。「その足跡がチェスターのでないとするならば、論理の必然として、殺人者がつけたものと仮定せざるをえない」
ヴァンスがやおらシガレット・ケースを取り出した。
「そうだね」と、彼が同意した。「その仮説でまずは安全だろうよ」
第九章 三つの銃弾
(十一月十二日、金曜日、午前九時)
折しも、検屍官のドーラマズ医師が――これがまた、きびきびとして神経質で、どこかツンとした風のある男で――わたしが玄関で見かけた刑事の一人に案内されてはいってきた。一座の人間にウインクして、帽子と外套《がいとう》を椅子の上に投げ出すと、ひとりひとりと握手を始めた。
「これはどうじゃ、部長、君のお得意さん、何をやらかそうというんだね?」彼が椅子の上の生気を失った死体をじろりと一|瞥《べつ》しながら尋ねた。「一家皆殺しかね?」怖ろしい意味を秘めた自分の冗談に対する返事も待たず、彼は窓に歩みよると、ガチャンと日除けを上げた。「ご列席の皆さんはもう死体の検証はおすみのようで? それならば、どれひと仕事」
「とっととやっておくんなさい」と、ヒースが言った。チェスターの死体は寝台に移され、手足を拡《ひろ》げられた。「弾丸《たま》はどうでやしょう、先生? 死体解剖の前に取り出せる見込みはねえもんですかい?」
「検針《プルーブ》もピンセットもなしに、どうしてやれというのかね、君?」ドーラマズ医師は寝間着のもつれをめくりあげると、傷口の検査に掛った。「しかし、なんとかやってみようよ」それから、すっくと立つと、おどけた様子で、部長を斜《はす》に見た。「さて、お次は君の番だ。死亡時刻はどうだ、という例の質問はせんのかね?」
「それはちゃんと」
「へえ! いつもそうこなくっちゃ。死体を一目見ただけで、正確な死亡時間を決めるなんざ、こいつはどっちみちまやかしさ。われわれ同業がやれるのは、せいぜいが概算だ。死後硬直は人が違えば、時間も違う。わしが正確な時間ですって差し出したところで、部長、君はそれをあんまり重視しちゃいけないよ。とは申しながら、どれひとつ……」
彼が寝台上の死体を手でまさぐり、指の屈折をほどき、頭部を動かし、傷口のまわりの凝血に目を近づけたりしていたが、やがて、つま先立ちになって、身体をぶらんぶらんさせながら、天井を睨んでいた。
「十時間というのはどうかね? つまり、十一時半から十二時の間だ。当ったかい?」
ヒースが人の好さそうな笑い声をあげた。
「お見事、先生――どんぴしゃりでさあ」
「なに、なに! 一事が万事、当てごと上手で通してきたわしだ」そういうドーラマズ医師の態度は、世にも濶達《かったつ》自在な人間に見えた。
ヴァンスもマーカムに随《つ》いて玄関まで出てきた。
「率直な人だな、君んとこの、あの名医は。あんな人がわが善政を標榜《ひょうぼう》する政府の公僕だとはね!」
「公職には誠実な人は多いんだ」と、マーカムが彼を叱責した。
「わかっているよ」と、ヴァンスが溜息をついた。「われらの民主主義はまだ若い。藉《か》すに天の時を以てせよだ」
ヒースがわたしたちのところにきた。ちょうどその時、グリーン未亡人の入口に看護婦が姿を現わした。その背後の部屋の奥から、がみがみ声の、独裁者のような言葉が飛び出してきた。
「……誰でもいいから、責任者をつかまえて、いっておやり。あたしがぜひお目にかかりたいとね――すぐにだよ、分ったかい! 言語道断《ごんごどうだん》にもほどがある。こんなに騒いで喚《わめ》いて、人が苦しんで臥《ふ》せっているというのに、安息のひとときも与えないなんて! あたしのことをかまってくれる人間がどこにいるもんか……」
ヒースが渋面を作り、階段を見やった。が、ヴァンスがマーカムの腕を取った。
「さ、婆《ばあ》さんのご機嫌をとり結ぶとしようじゃないか」
わたしたちが部屋にはいってゆくと、グリーン未亡人は、例によって色彩豊かな枕具を背にして、例の通り、寝台に起き上がっていたが、つんとした様子で肩掛けを掻《か》き合わせた。
「おや、あんたでしたの?」と、彼女が挨拶《あいさつ》した。表情も和らいだようである。「あたしまた、またあたしの家を勝手にのさばっているあのいやらしい巡査どもだと思ったもんだから……一体このどんちゃん騒ぎはどうしたというんですの、マーカムさん? 看護婦が言うには、チェスターが撃《う》たれたという話、ほんとに情けないったらありゃしない! どっかの人たちが撃ち合いがしたいんだったら、選《え》りに選ってあたしの家にくることはないでしょうに――哀れな、しがない、こんな老婆を悩ますなんて、以《もっ》ての外だわ。撃ち合いなら、外《ほか》の場所がたんとあるじゃありませんこと!」彼女に言わせれば、殺人者がおのれの犯行の場所にグリーン・マンションを選んだとは、無思慮にもほどがある――こんな癪《しゃく》にさわることもないもんだ、というところらしい。「だけど、いずれはこんなことになるんじゃないかと、あたし近ごろそんな気がしてたわ。あたしの感情は誰もかまってくれないんです。それに、あたしの血を分けた子供までがあたしを苦しめることにかけちゃ道徳もへちまもないんだから、他人さまに心づかいをしてもらおうと思うのが無理な話かも知れませんわね」
「殺意を決意した人間は、奥さん」と、マーカムが応酬したが、あまりの冷酷さにむかっとなっていたからである。「おのれの罪で他人がどんな迷惑を蒙《こうむ》るかを考慮する余裕《よゆう》のないものでして」
「そうなんでしょうね」と、彼女は自分の身がいとおしそうに呟いた。「だけど、それというのも子供たちが悪いからだわ。子供の道に外《はず》れない子供だったら、人さまがここに押し入ってきて、殺そうなどとはしませんわ」
「そして、不幸なことに、目的を達する、ということもないでしょう」と、マーカムが冷やかにつけ加えた。
「でも、仕方がないじゃないの」彼女は突如、辛辣《しんらつ》な口調に変わった。「罰よ。この哀れな母が、ここにこうして全身麻痺で臥《ふ》せっていて、治《なお》る希望もないというのに、あんな仕打ちを重ねてきたんだもの。だからといって、少しでもあたしの楽になるようにしてくれるとお思い? とんでもないわ! あたしはここにこうして、くる日もくる日も、脊椎《せきつい》の痛みに耐えかねて、臥《ふ》せっているしかないんですのよ。それなのに、子供たちときたら、あたしのことを一顧だにしないんだから」彼女の獰猛《どうもう》な老いの目に、いまはある種の陰険な視線が現われた。「いいえ、あたしのことを思う瞬間はありましてよ。ほんとに、あるんだわ! あたしをどけてしまったら、どんなによかろうという思いだけはね。そしたら、あたしのお金をそっくり……」
「そこで、奥さん」と、マーカムが出し抜けに割っていった。「昨夜、息子さんが死に際会されたとき、あなたは眠っておいででしたね?」
「そうかしら? え、まあ、そうかもね。だけど、不思議なことが一つあったわね。いつもは開《あ》けっぱなしのあたしの扉をわざわざ閉じておいた人間がいるんです。これじゃあたしに目を覚ますなというようなものじゃございませんこと?」
「では、あなたは、息子さんを殺す理由を持つ人間には誰も心当りがないのですか?」
「まさか、あたしがそんな! 誰もあたしにゃ物を言わないんです。あたしは哀れ、疎《うと》んぜられ、独りぼっちの、かたわの年よりの……」
「では、奥さん、もうこれくらいで失礼します」マーカムの口調には同情と呆《あき》れとがこもごもこもっていた。
わたしたちが階段を降りている間に、締めてきたはずの扉を看護婦がまた開き、半分開きのままにしているのが見えた。患者の命令どおりにしているのであろう。
「いやまったく上流婦人とは言えんな」一同が客間に入ったところで、ヴァンスがにやにや笑いをした。「一瞬のことだが、マーカム、君があの婆さんに横びんたを喰らわすんじゃないかと、ひやひやしたよ」
「ほんとに、そうしたくなったよ。しかし、同時に憐《あわ》れにもなってね。にもかかわらずだよ、あの種の完全な自我中心《エゴ・セントリック》な妄想こそ、精神的苦悩の緩和剤《かんわざい》なんだ。あの女の世界では、今度の呪われた事件全体が、自分を顛倒させるために仕組まれた陰謀に映ってるんだな」
スプルートが入口に現われて、恭《うやうや》しく立っていた。
「みなさまにコーヒーでもお持ちいたしましょうか?」彼の彫りの深い、皺《しわ》だらけの顔には、一切の情緒が現われていない。過去二、三日の出来事も、この男の心をいささかも動かしていないかのようだ。
「いや、有難《ありがと》う、スプルート」と、マーカムがそっけなく言った。「だが、お願いだ、シーベラ嬢にここにくるように言ってくれないか」
「イエス・サー!」
老人はすり足で去った。二、三分後、シーベラが威勢よく入ってきた。煙草をすいながら、片手は鮮かな緑のセーター・ジャケツのポケットに入れたままである。何喰わぬ態度はしているが、顔面は蒼白で、その白さが、唇の濃いクリムソンの口紅に映《は》えて、鮮かな対照をなしている。瞳にもやつれの色が見える。やっと口を開いた時にも、心にそぐわない役割を演技しているかのような、とってつけた声の響きがあった。それにもかかわらず、わたしたちに快活な挨拶を送った。
「おはよう、どなたも。社交的ご訪問をいただくにしては、どすぐろい主催者もあったもんだわね」彼女は椅子の肘掛けに腰を下ろし、落着きなく片足を揺さぶっていた。「きっとグリーン家に遺恨を抱《いだ》く人間がいるんですわ。ああ、かわいそうなチェスター! 靴も履《は》かないで死んじまうなんて。フェルトの寝室用スリッパであの世へとは! あんなに運動の好きだった人が、なんという最期なのでしょう! さて、なんでしょうね、あたしがここに呼ばれたのは、あたしの物語をしろっていうことなんでしょう? どこから始めようかしら?」彼女は立ち上がり、燃えさしの煙草を暖炉に投げこむと、マーカムの正面にある、背の直立した椅子に坐り、筋《すじ》ばった、先細りの両手を出して、前面のテーブルの上にのせた。
マーカムが数瞬彼女を観察していた。
「あなたは昨夜は起きていて、寝台で読書をしていた、そうですね? そして、その時、お兄さんの部屋で銃声が起こった?」
「ゾラの『ナナ』をね、はっきりいいますと、母があんなのを読んじゃいけないと言うものだから、すぐ買ってきちゃった。でも、がっかりだったわ」
「そこで、銃声を聞いてから、どうしました、ありのままを述べて下さい」と、マーカムは続けたが、女の蓮《はす》っ葉《ぱ》なのにむかつく心を抑えようと努力しているところだ。
「あたしは本を置き、起き上がり、キモノを着、数分間、扉のところで耳を澄ましていました。それっきり、なんの音もしないので、そっと覗いてみたの。廊下はまっ暗で、静寂だけがなんだか幽霊が出るような感じで。この場合、チェットの部屋に出掛けていって、銃声のことを調べてみるのが妹の道にふさわしいとは思うのだけど、正直に白状しますけど、マーカムさん、あたし、臆病風に吹かれちまって。そこで、あたし、出掛けるには出掛けたが――そうよ、願わくば真実をして最後の勝利者たらしめよだわ――あたし、召使いたちの階段を駆け上がり、わが家の『アドミラブル・クライトン』〔スコットランドの知勇兼備の軍人、冒険家。古来、伝記、芝居で有名〕を叩き起こし、それから一緒に調査を始めました。チェットの扉は鍵が掛っていない。恐れ知らずのスプルートがそれを開けますと、チェットがそこに坐っている。まるで、亡霊でも見ていたような様子! どうしてだか分らないけど、これは死んでるな、とすぐ分ったわ。スプルートが中に入り、それに触《さわ》っている。その間、あたしは待っていて、それから二人で食堂に下りていったんです。スプルートがあちこちに電話をし、その後で、あたしのためにコーヒーを作ってくれたわ。ところが、その味ときたら、これがまた殺人的な味で。そうこうして半時間もしたころ、この紳士が」――と、首をヒースのほうに向けて合図し――「いらっしゃったけど、それはそれはおいたわしいぐらいのふくれっつら。でも、スプルートの差出すコーヒーをお断わりになったところは、さすがでしたわ」
「そこでその銃声以前の話だが、あなたはなんの物音も聞かなかったのですね?」
「コトリとも。みんなは早く寝に就きました。この家で最後に聞いた物音といえば、母親が看護婦に向って言っている声ぐらいのもんだわ。それがまたなんとも優しい、愛情のこもった声だこと! おまえまで家の人間の真似《まね》をして、あたしを無視するでないよとか、あしたのお茶は九時きっかりでないと承知しないよとか、おまえは扉をどんと閉《し》める癖があるからおよしとか。それから、十一時半までは、平和と静寂が支配したと思ったら、その途端、チェットの部屋から銃声が聞えたんです」
「その静寂の中絶はどれくらいだったの?」と、ヴァンスが尋ねた。
「そうね、母の日課の、あの家族への悪口がすむのは一般的に十時半だから、静寂は約一時間続いた、というところかしら?」
「そして、その期間中、廊下でことりという足音すらも聞いた覚えはないの? それとも、扉がそっと閉じる音とか?」
若い女は関心がなさそうに首を振り、セーターのポケットに入れている小さい、琥珀《こはく》のケースから煙草をまた一本取り出した。
「残念ですけど、聞きませんでしたわ。だけど、そう言ったからといって、この家のそこいらじゅうでこそっという足音や扉の閉まる音を立てた人間がいなかったということにはならないわね。あたしの部屋は奥にあり、河の音とか、五十二丁目の音とかで、家の前面で何が起ころうと、みんなその音にこもってしまうんだから」
ヴァンスが彼女に近づき、マッチの火をさしてやった。
「ねえ、あなた、あなたはちっとも怖《こわ》がっているようじゃないですね?」
「あら、あたしがなんで怖がらねばならないの?」彼女が処置なしといわんばかりのゼスチュアをした。「あたしの身の上に何かがふりかかるというのなら、何をしようがふりかかるものはふりかかるんだわ、だけどあたし、近く死ぬという気はしないの。あたしを殺したいと思う理由を持つ人間なんているわけはないんだし――そりゃ、むろん、昔のブリッジ仲間ならどうかしらね? でも、みんな害意のない、立派な人たちで、極端な行動に走るような人間とは思えないわ」
「ところがですよ」――ヴァンスは相変わらずさりげない口調である――「あなたの姉と妹ふたり、兄ひとりに対して害意を持つ理由のある人間だって、一見して誰もいないじゃありませんか」
「その点になると、あたしにはそれほど割り切れないの。わたしたちグリーン一族って、お互いの秘密を明かさないんです。この先祖の霊の社《やしろ》では、どすぐろい不信感が渦巻いているんだわ。お互いに嘘《うそ》をつくのが、この家の人生哲学なのです。そして、その秘密を堅く守るという点になったら、家族めいめいが秘密結社みたいなもんで、死んでも言わないでしょう。この一連の狙撃事件には、きっとある理由がつながっているんだと思うわ。ただのピストル演習がしたさに、こんな悪党の真似をする人間がこの世にいるもんですか」
彼女は暫く物思わしげに煙草をふかし、それからまた言葉を続けた――
「そうよ、これにはきっと、背景になる動機があるんだわ――あたしにそれを言えっていわれても、金輪際《こんりんざい》言えないけど。むろん、ジュリアって、そりゃつむじ曲《まが》りの、不愉快な女で、そのくせ、家にこもったきり、自分のいろんな錯綜感情を家族の者を砥石《といし》にして発散させていたわ。だけど、あの女が二重性格者だったのかどうか、そこまでは誰も分らない。だけど、この種のひねくれもののオールド・ミスが抑圧感情から解放されると、最極端の異常行動に走るもんだそうじゃないの? それにしても、あのジュリアに恋の火花を散らすロメオがわんさと群がってきたなんて、とてもとても」彼女は自分の思いつきにおかしくなったのか、滑稽《こっけい》なしかめっつらをして見せた。「それにひきかえ、エイダのほうは、学校で習った代数でいえば、未知数ですわね。あの子がどんな出生なのか、知っていたのは父《とう》さんだけ。しかも、絶対にいおうとしなかったんですもの。そりゃ、あの子には浮気をする時間もないんです――母《かあ》さんがなんだかんだと、手許に引きつけてるんだから。だけど、若くって、顔もきれいだし、といってざらにある型だけど」――この言葉には毒気がちらりと見えた――「だから、グリーン・マンションの神聖の社《やしろ》を一歩外へ出たら、どんな結びつきを結んでいるやら、それは知れたもんじゃないわ。次に、チェットのことだけど、兄を大好きだった人間はいなかったでしょうよ。兄を褒《ほ》めた言葉なんて聞いたことがないもの。ゴルフ・クラブのプロの教師ぐらいのもんでしょう。それだって、チェットが成金趣味を出して、チップをはずんだだけのことなのだわ。チェットって、敵を作る天才だったわ。彼の過去から、狙撃動機はいくつだって発見できるでしょうよ」
「これはまた、エイダ嬢有罪説について相当な宗旨替えをなすったもんですな」ヴァンスが好奇心のなさそうなしゃべり方をした。
シーベラが少し照れ臭そうな顔をした。
「あの時、逆上してたってわけね、あたし?」といって、次は傲然たる声に変わった。「だけど、なんといったって、あの子はここの人間じゃないんです。それに、ずるい猫《ねこ》っかぶりだわ。あたしたちみんなが綺麗サッパリ殺されっちまったら、あの子、拍手喝采《はくしゅかっさい》なんでしょうよ。あの子を好きなのは、料理女だけみたいだわ。といって、ゲルトルートって、お涙ちょうだい式のドイツ女で、誰にでも傍惚《おかぼ》れするんだから。この辺の野良犬とか、棄て猫だとか、半分は養ってるんですよ。うちの裏庭は夏になると、まるで本物の飼い場になるんですのよ」
ヴァンスが一瞬沈黙した。突然、彼が顔を上げ――
「あなたの言葉から察するに、お嬢さん、あなたはこの一連の射殺事件を外部の者の仕業だというのがいまの意見のようですが」
「他の意見の方《かた》がいらっしゃるの?」と、彼女は反問したが、その様子には心の不安を見すかされて愕然《がくぜん》としたという風があった。「だって、二度とも犯人に侵入され、雪の上に足跡があったんでしょう? だったら、外部の者だという証拠じゃないの?」
「まったくですな」ヴァンスがそう保証したが、いささか強調が過ぎた嫌いがあった。自分の訊問が相手に与えた恐怖心を少しでもやわらげようとする努力であることは目に見えていた。
「あの足跡の示すところによれば、侵入者が二度とも正面玄関からはいってきたことは否定しうべくもないわけでして」
「さらに、将来のことについては、あなたはなんにも心配する必要はないです。お嬢さん」とマーカムがつけ加えた。「本日、わたしから命令を出します。いままで起こったことの再発の危険がいささかでもある間は、裏も表も、家中|隈《くま》なく厳重監視を続けることにしますから」
ヒースが無条件の賛意をうなずいて見せた。
「さっそくその手配をしておきます、検事さん。これからは、昼も夜も、二人の張り込みをここにつけることになりますんで」
「まあ、なんてスリルがあるんでしょう!」シーベラが叫んだ。しかし、わたしの見るところ、彼女の瞳には、不思議な不安の影があった。
「もうこれ以上お引き止めしません、お嬢さん」と、マーカムが言って、自分でも立ち上がった。「しかし、ここの訊問が終るまで、お部屋に残っていて下さると有難いんですが。もちろん、お母さんの部屋にゆかれるのは差支えありません」
「ご親切さま、心からね。だけどあたし、美貌のため、失われた眠けを少し取り戻したいの」そう言いながら、友情の手を振りつつ、彼女はその場を去った。
「次は誰にしやしょうか、マーカム検事」ヒースは既に立ちかけ、消しかけた葉巻をすぱすぱと喫《す》って火をつけようとしている。
だが、マーカムが返事する隙もなく、ヴァンスが手を挙《あ》げて制止し、乗り出すようにして耳を澄ましていた。
「なんだ、スプルート?」と、彼が叫んだ。「ちょっとここへ出てきなさい」
老家令はすぐ姿をあらわしたが、例によって従容《しょうよう》として恭《うやうや》しい態度で、虚《うつ》ろな人待ち顔の表情をしてかしこまっている。
「呆《あき》れたよ、だってそうだろう」と、ヴァンスが言った。「こっちがせっせと働いている時に、なにも君が廊下のカーテンの間を見えつ隠れつ、心配顔でうろつく必要はないんだよ。君の思慮深さと忠誠心は有難いがね、なにか用があったら、こちらから呼ぶから」
「お気に召しますように」
スプルートが立ち去ろうとした。ヴァンスが急に停めた。
「せっかくきてくれたんだから、一、二の質問をしようか」
「イエス・サー」
「第一、 君にうんと気をつけて思い出してもらいたい。昨夜君が家の戸締まりをした時、なにか変わったことはなかったかどうか?」
「いいえ、なんにも」と、問われた人は即座に返事した。「あったとすれば、けさ警察にそう申し上げていますんで」
「次に、君は部屋にひっこんでから、なんでもいい、物音とか人の動く気配とかを耳にしなかったかね。例えば、扉の閉じる音とか?」
「いいえ、ひっそり閑《かん》としておりました」
「次に、君はじっさいは何時に眠りについたの?」
「しかとは申せませんが、おそらく、十一時二十分頃じゃないかと思います。あえて推量をしますならば」
「次に、シーベラ嬢に起こされ、チェスター氏の部屋で銃声がしたという話を聞かされた時、君は大いに驚いたかどうか?」
「まあ、そういうところで」と、彼が認めた。「わたしはいささか面喰らいました。もちろん、感情を隠すことには努めましたが」
「そして、物の美事に隠しおおせたんだろうな」と、ヴァンスがドライに言った。「だが、ぼくのいう意味は違うよ。つまり、君は、あの事件以来、この家でまたこんなようなことが再発するのを予期していなかったかどうかだ?」
彼は鋭い目つきで老家令を見守ったが、相手の顔つきは砂漠のごとき乾燥と、滄溟《そうめい》のような謎を秘めていた。
「そう申しちゃ失礼ですが、おっしゃる意味がはっきりとは呑みこめませんで」返って来た返事は無色透明のものだった。「もしもチェスターの旦那さまが、下世話《げせわ》に申して、バラされるんじゃないかという予感がしたというのなら、きっとその通りご注意申し上げたでしょう。それがわたしの義務というもので」
「ぼくの質問をすり換えちゃいけないよ、スプルート」ヴァンスが厳然と言った。「第一の悲劇に続いて第二の悲劇が起こるんじゃないかという予感がしなかったかどうか、それを訊《き》いているんだ」
「総じて悲劇《わざわい》は大挙して寄するが世の常とか。と申して失礼ではございますが、この世は次に何が起こるやら、誰にも分りませんです。運命の仕業を予感しようなどと、わたしはせめて、ただ、何事も覚悟が第一かと……」
「なんだ、去りたまえ、スプルート――とくと、去りたまえ」と、ヴァンスが言った。「不得要領の修辞学がほしかったら、おれはトマス・アクィナスを読むからな」
「イエス・サー!」老人はしゃちほこばったお辞儀を一つして、その場を去った。
彼の足音が消えるか消えないかに、ドーラマズ医師が意気|揚々《ようよう》とはいってきた。
「ほら、お待ちかねの銃弾だよ、部長」彼が客間の椅子の上に放《ほう》り出したのを見れば、にぶい色の鉛の小さい円筒だった。「まぐれ当りさ。突入口は第五|肋間筋質《ろっかんきんしつ》、それより対角線を斜行、心臓を貫通、その後、後部|腋窩《えきか》を経て、不等辺正形筋前葉末端の接点にて埋没《まいぼつ》、そこでわしが表皮下を偶然さぐったところ、手応えあり。さっそくペンナイフでえぐり出した、とこういうわけだ」
「うへえ! ちんぷんかんとはこのことでさあ。だけど頭痛はしませんぜ」と、ヒースがおどけた顔をして言った。「『たま』さえ手にいれりゃ」
彼がその銃弾を拾いあげ、手のひらにのせた。目尻《めじり》を寄せ、口はへの字に結んでいる。それから、チョッキのポケットを手探ると、別の銃弾を二つ取り出し、今度の銃弾と並べた。彼がゆっくりとうなずき、この不吉を告げる証拠品をマーカムに差し出した。
「この家で発射された弾丸三つがこれであります。すべて32口径の『たま』でした――そっくりのようであります。もう逃《のが》れっこありませんや、検事さん。三人の『がいしゃたま』はみんな同じ『はじき』でやられてますぜ」
第十章 閉じた扉
(十一月十二日、金曜日、午前九時三十分)
ヒースがしゃべっている時だった。スプルートが廊下を通り抜け、正面玄関をあけたのを見れば、フォン・ブロン医師を迎えているところである。
「おはよう、スプルート」例の愛想のいい声でそう言うのが聞えた。「なにかあったの?」
「いいえ、さようなことは」感情表出の全くない返事だった。「地方検事と警察の方がお見えです。どうぞ、外套《がいとう》を」
フォン・ブロンは客間をちらと覗き、わたしたちを見ると、気をつけの礼をして、そこで、ドーラマズ医師を認めると、
「ああ、おはよう、先生」といって、進み出てきた。「先夜はわたしの患者のため、ご協力をいただきながら、十分な御礼もしなかったようで。ここで遅ればせながら――」
「礼などどうでもよろしい」と、ドーラマズが保証した。「患者のぐあいはどうです?」
「傷口の癒着《ゆちゃく》はうまくゆきました。化膿《かのう》なし。これから一目見てきたいと思いまして」彼は事問いたげに地方検事のほうを振り返り――「差支えないでしょうな?」
「どうぞお構いなく、先生」と、マーカムがいい、すぐさま立ち上がった。「お伴させてもらいますよ、よろしかったら。エイダ嬢に二、三質問してみたい点もありますし、立ち会っていただいたほうがよろしいでしょう」
フォン・ブロンが素直に同意した。
「どれ、わしはゆこうか――ひと仕事だ」と、ドーラマズが涼しい顔で言った。それでも、暫《しばら》くぐずついていて、わたしたちみんなと一々握手をし、それから、玄関の戸から消えていった。
「エイダ嬢は兄の死を聞かされているのかどうか、確認したほうがいいんじゃないかな」と、一同が階段を昇っている間に、ヴァンスが提案した。「でないとしたら、この厄介な仕事は当然あなたの責任ということになりますな、先生」
二階の廊下は、スプルートからフォン・ブロンの到着を知らされたものと見え、看護婦が待っていたが、その話によると、彼女の知っている限りでは、エイダはまだチェスターの殺人のことを知っていないはずだということであった。
見れば、エイダは寝台の中で起き上がり、膝《ひざ》の上に雑誌を拡《ひろ》げている。顔色はまだ青いが、若やいだ活力が瞳から輝き出している。これを見ても、彼女が本当はもっと強い人間であることが歴然としていた。わたしたちの突然の出現に驚いた様子を示したが、医者の姿を見て安心したものらしい。
「けさの気分はどうかね、エイダ?」と、医者は職業的な肌ざわりのよさを出しながら、質問した。「君、こちらの皆さんを覚えているね?」
エイダは不安そうな視線をこちらに投げかけ、それから、微かにほほえみ、お辞儀をした。
「はい、覚えていますわ……分ったのかしら――皆さんは何かその――ジュリア殺しの件で?」
「そうではないらしい」と、フォン・ブロンが彼女の傍《かたわ》らに坐り、手を取った。「そうではなくて、他のことで、君にぜひ承知してもらわねばならないことが起こってね」医師の声には、躍起となって同情を示そうとする心が見えた。「昨夜チェスターが事故に遇《あ》ってね――」
「事故ですって――まあ!」彼女の瞳が大きく見開き、微かな戦慄《せんりつ》が走っていった。「とおっしゃるのは……」彼女の声が震え、途切れた。「おっしゃる意味は分りますわ……チェスターは死んだのね……」
フォン・ブロンが咳《せき》ばらいをし、あらぬ方向を見ている。
「そうなんだ、エイダ。ここは勇気を出し、それに――むざむざ――そのう――圧倒されちゃいけないよ。分るね――」
「狙撃されたって! まさか?」この言葉が彼女の唇から自然に飛び出し、恐怖の表情が顔中を走った。「ジュリアとあたしの場合とそっくりだわ」彼女の瞳は、彼女だけにしか正体の分らない、ある種の恐慌に呪縛《じゅばく》されたみたいに、まっすぐ虚空を凝視していた。
フォン・ブロンが口をつぐんだ。ヴァンスが寝台につかつかと寄った。
「ぼくらは、君に、嘘をつくつもりはないけれどもね」と、彼がやわらかく言った。「君はまさしく真実を言い当てたよ」
「では、レックスはどうなの――シーベラは?」
「お二人は大丈夫だ」と、ヴァンスが保証した。「だけど、お兄さんの運命がジュリア姉さんや、君自身のものと同じだと考えたのはなぜなの?」
彼女がゆっくりと彼のほうに視線を向けた。
「分らないわ――ただ感じで分るんです。あたし小さい少女の頃から、この家になにか恐ろしい出来事が起こるんじゃないかと想像していたもんで、それで先夜は、ついにその時がきたのだという感じがして――ああ、どうして説明していいものやら。でも、あなたが何かを期待している、すると、必ずそれが起こる、とでもいうのかしら」
ヴァンスが理解ある態度でうなずいた。
「不健康の気に満ちし古屋敷、人の心を毒して、世にあらん限りの物《もの》の化《け》の思いを抱《いだ》かしむ。さもあればあれ、むろん」と、彼が軽い調子で、つけ加えた――「なあに、超自然なものはなんにもありやしないさ。君がそういう幻想を抱いたことと、これらの破局が現実に起こったことの間には、偶然の一致しかないんだ。だって警察は窃盗説なんだからね」
少女はなんにも答えなかった。マーカムがもう一度保証するような微笑を浮べながら、身体を乗り出した。
「それにこれからは四六時中家を監視するのに二人の人間をつけるわけですから」と、彼が言った。「だから、ここの完全な権利を持つ人間以外は誰もはいれません」
「ほらね、エイダ」と、フォン・ブロンが口を挟んだ。「君はもうなんにも心配することはないんだよ。後《あと》はただ、快《よ》くなることだけだ」
しかし、彼女の目はマーカムの顔から離れなかった。
「だってどうして分るんですの?」と、彼女が質問したが、緊張した、不安な声である。「そのハン――その人物が外部からはいったのだと?」
「二回とも、彼の足跡を正面の歩道に発見したのです」
「足跡――ほんとですの?」彼女が熱心に尋ねた。
「それは疑いないです。完全に明らかな足跡でして、しかも、ここにきて、あなたを狙撃しようとした人物の足跡なのです。こっちの部長が」――彼はヒースを手招きした――「君、お嬢さんにあの型紙をお見せしてくれないか」
ヒースがポケットからマニラ封筒を取り出し、スニットキンがこしらえたボール紙の型を抜き出した。エイダはそれを手に取り、調べていたが、やがて安心の溜息が彼女の唇から洩《も》れた。
「それにね、ほれ、ご覧の通り」と、ヴァンスが微笑した。「この人物、不粋な足の奴でね」
少女が型紙を部長に返した。彼女の恐怖は去っていて、それまで瞳を呪縛《じゅばく》していた異象《まぼろし》めいた影も消えた。
「さて、グリーンのお嬢さん」と、ヴァンスが、さりげない声で続けた。「ほんの二、三、質問をしたいんだ。第一、看護婦が言うには、君は、昨夜九時には休んだ。その通りなの?」
「あたし、そのふりをしましたの。だって、看護婦は疲れてるのに、母ったらがみがみ言って。だけど、ほんとに眠ったのは、何時間か後でしたわ」
「なのに、兄さんの部屋の銃声は聞かなかったの?」
「そうよ、その頃までには眠っていたんでしょうね、きっと」
「それ以前は何も聞かなかったの?」
「家族の者が引き退り、スプルートが戸締まりしてからはなんにも」
「スプルートが引き退ってから、長いこと目を覚ましていたの?」
少女が一瞬、顔をしかめ、思いに耽《ふけ》った。
「多分、一時間くらい」と、やっと答える気になった。「だけど、はっきりしないわ」
「一時間を大きく超えることはなかったはずだがな」と、ヴァンスが指摘した。「なんとなれば、銃声が起こったのは十一時半直後なんだから。そこで、君は何も聞かなかった――廊下では一切の音がしなかった、そうなの?」
「まあ、いいえ」恐怖の表情がまた顔に這《は》いよってきた。「なぜそんな質問を?」
「お兄さんのレックスが」と、ヴァンスが説明した。「十一時少し過ぎ、微かなすり足と扉の閉じる音を聞いたとおっしゃっているんでね」
エイダが目をうつむき、自由なほうの手で、支えていた雑誌の縁を握り締めていた。
「扉の閉じる……」それは鸚鵡《おうむ》返しの言葉になっていたが、ほとんど聞き取れなかった。「まあ、それにレックスが聞いたなんて?」突如、彼女が目を見開いた。唇も自然にほころんでいる。思い出に愕然《がくぜん》となったまま、それが取り憑《つ》いて離れないのだ――それが彼女の呼吸をはずませ、恐怖に叩きこんでいるのだ。
「あたしだって、その扉を閉じる音を聞いたわ! いま、やっと思い出したけど……」
「その扉はどの扉なの?」と、ヴァンスが尋ねたが、逸《はや》る熱気を鎮《しず》めるような声だ。「その音はどの方角からきた、と言えると思う?」
少女が首を振った。
「いいえ――とっても微かで。ほんのいままで、忘れていたくらいです。だけど、確かに聞いたわ……。ああ、それがどうかしたのかしら?」
「たぶん、なんでもないだろうがね」ヴァンスがさりげない態度を装った。彼女の恐怖を和らげる計算だった。「風だろう。きっと」
しかし、あと二、三の質問をしてから、われわれが彼女の部屋を辞去する際にも、彼女の顔はまだ深い不安の色を帯びたままなのがわたしの目にとまった。
客室に戻ってきた時、ヴァンスはいつになく考えこんでしまっていた。
「あの若い子が何を知り、何を疑っているか、こいつが分る手があるというんなら、ぼくはあることでも大目に見るかな」と、彼が呟いた。
「あの子は魂を揺さぶられるほどの経験を通ってきたんだ」と、マーカムがやり返した。「すっかり怖気《おじけ》づいている。だから何を見ても、新しい危険が待っているように見える。さりとて、何物をも疑う力もなくなった。疑う力さえあれば、喜んで話すどころじゃないさ」
「そう信じたいもんだね」
次の一時間かそこいらは二人の小間使いと料理女との訊問にかかりきりになった。マーカムの彼らに対する反対尋問は徹底を極めたもので、たんに二つの悲劇に関連した現在の事情のみならず、グリーン家の一般条件にまで及んで、微に入り細に入って質問が行われた。過去における家庭内の挿話が夥《おびただ》しく取り上げられたし、彼の訊問が終った時には、この家をめぐる雰囲気について、彼もかなり明瞭な認識を得ていた。ところが、殺人事件のこととなると、たとえどんな迂遠《うえん》なものにせよ、それと因果関係のありそうな情報は明るみに出てこなかった。かなりはっきり浮んできたことは、グリーン・マンションには、遠い昔から、憎悪と悪感情と一触即発の敵意が多量に存在してきたという事実であった。召使いたちの口から洩れてきた物語は決して愉快なものではなかった。それは、日ごとのいさかい、苦情、悪口雑言《あっこうぞうごん》、ふてくされた沈黙、嫉妬、威嚇《いかく》など、あらゆることの総記録であった――走り書きめいて、とりとめのない記録ではあったにせよ、それでもやはり、慄然《りつぜん》とさせるものには違いなかった。
こうした人倫に外《はず》れた状況の細部は大部分が、年上の小間使い、ヘミングの提供によるものだった。最初の面接の時ほどの法悦境にはなかったにせよ、それでもこの女の解説は聖書の引用句で綴《つづ》り合わせたようなもので、主《しゅ》はあたしの罪咎《つみとが》ふかき傭い主たちが遇うべきことをよしと見給い、この恐るべき運命を授け給うたのだとかなんとか、そんな文句が多かった。それにもかかわらず、彼女が描いてみせた人生縮図は、この十年間、彼女の周囲で生起したことのすべてをよく映《うつ》し出していて、色はどぎつく、偏見もはいってはいたにせよ、まこと一幅の鮮かな活人画になっていたのである。ところが、ならば全能の主《しゅ》が、神を涜《けが》せしグリーン一族に対していかなる手段《てだて》にて、復讐《あだがえし》の罰を下し給うたかという段になると、この女は曖昧《あいまい》とおぼろの幕の中に隠れひそんでしまうのであった。主が義《ぎ》とせられる荒敗《ほろび》の事蹟《みわざ》が成就《じょうじゅ》せられる日まで、われは主《しゅ》の定めおかれし務めの座――彼女に言わせれば「主の証《あか》しびと」たるの職分――に忠ならんとするものだ、と彼女が言い張ったところで、マーカムもとうとう見切りをつけた。
これに反し、若い小間使いのバートンは、あたしはこれでグリーン家とはおさらばですわ、と誤解のしようのない言葉で言い切った。本心から恐ろしくなったのだ――シーベラとスプルートとに相談したところ、もう給料も払ってもらったし、いつでも出ていっていいと言われたのだという。訊問から三十分もしないうちに、彼女は鍵を戻し、荷物を持って出ていった。彼女が後《あと》に残していった情報も、ヘミングのおべんちゃらと似たり寄ったりのもので、それの傍証だといっていい。ただし、この女の見方は、二つの殺人事件が怒れる神の懲らしめだというようなものではなく、もっと実際的で、もっと俗世の考え方だった。
「この家《うち》では、なにもかも変てこりんなのよ」と、彼女は言ったが、さすがにいつもの男ごころを捉《とら》えるシナも一瞬忘れてしまったらしい。「グリーンっておかしな人種よ。それに、使用人だっておかしな人ばっかし――スプルートさんてのは外国語の本をよむんだし、ヘミングってのは、『火と硫黄』がやがて落ち、人殺しと淫行を懲らしめたもうとかなんとか口走り、それに料理女ってのはもっと訳が分らない。いつも一種の譫妄《せんもう》状態に陥っていて、優しい人間的なことを尋ねても返事もしないんだから。そこへきて、本家の人のひどさったら!」彼女が目玉をくるくるさせた。「グリーンの奥さまは心情がまるっきしない。あれが正真正銘の鬼ばばあ。時にあたしを見る目はまるで絞《し》め殺したいと言わんばかり。もしあたしがエイダお嬢さまだったら、とうの昔に気が狂ってるわ。だけど、そのエイダお嬢さんだって、五十歩百歩よ。うわべはお上品でお淑《しとや》かみたいだけど、部屋ん中で地団駄踏んで口惜しがっているところを見たけど、まるで悪魔か鬼女。それに一度などは、あたしも思わず耳を手でふたをしたほど、そりゃ汚い言葉であたしを罵《ののし》るんだもの。次のシーベラお嬢さんは本物の氷柱《つらら》――癇癪《かんしゃく》を起こした時だけは氷柱が解けて、あんただって殺しかねないし、殺しておいて、冗談のたねにして平気な女よ、あれなら。それに、あのひととチェスターの旦那の仲にしたって、とっても変なぐあいでしたわ、ジュリアお嬢さんとエイダお嬢さんが撃たれて以来というもの、人の見ていないところでは、こそこそひそひそと密談ばっかりやってるの。それにあのフォン・ブロン先生って、なんであんなにちょいちょいやってくるのやら。深い魂胆のある男よ、きっと。なにかと言えばシーベラさんの部屋にもぐりこみ、扉を閉《し》めっちまって。女はピンピンしているというのにそうなんだから。お次はレックスの旦那。これがまた変な男。あの旦那に傍《そば》にこられると、あたしいつでも虫ずが走ったわ」といって、彼女は実地に身体をぶるぶるさせた。「ジュリアお嬢さんはそこへゆくとあんまり変じゃなかったけど、人間嫌いで、それにけちんぼう!」
バートンは滔々《とうとう》とまくしたてたが、その態度は、町の噂雀《うわさすずめ》が自分のプライドを傷つけられたと思いこみ、あることないこと、考えなしに大げさにしゃべりまくっているのに似《に》ていた。だが、マーカムは一度も制止をしなかった。この小間使いの饒舌の泥の地層から、砂金でも掬《すく》い出そうとしていたのであろう。しかし、最後にすべてを篩《ふるい》にかけて洗ってみたら、残ったのはわずか二、三粒のキラキラ輝く醜聞《スキャンダル》の粒だけ、というに等しかった。
料理女にいたっては、もっと解明の光のないものだった。生れつき無口なところへ、話題が犯罪のことになると、もう呂律《ろれつ》が廻《まわ》らないくらいになった。この女の鈍重な外面は、自分がいやしくも訊問に掛ったという事実に対して、内心の癒やされぬ鬱憤《うっぷん》を隠す隠《かく》れ蓑《みの》にしか過ぎないようである。事実、マーカムが辛抱強く口を割らせようと追及している間に、わたしの印象に強く刻《きざ》みついたことなのだが、この女の無反応は故意による防禦姿勢であって、沈黙だけが自分の牙城なのだと言わんばかりの風が見えた。ヴァンスもまた、この女にこうした態度を感じ取ったようである。面接が一瞬途切れた瞬間を捉《とら》え、彼が椅子を動かし、彼女と直面するところまで近づけていったからである。
「フラウ・マンハイム」と、彼は言った。「このまえここにきた時、あなたはトバイアス・グリーン氏があなたの旦那さんの知り合いだったと言い、さらに、あなたの旦那さんが亡くなった時、この知り合いの関係で、ここに職を頼んだのだと言いましたね」
「それがどうして悪いんです?」と、彼女が頑固に反問した。「わたし貧乏で、ほかに頼れる人がいなかったんだもの――友だちが」
「ははあ、友だちがね!」と、ヴァンスがその言葉を捉えて、ピタリと相手を押えた。「そこであなたは昔グリーンの大将《だんな》と友だちづき合いをしていたのだから、あの人の過去のことで、今度の情勢に何か関係のあることを知っているはずだね。だってそうだろう、ここ二、三日の間に犯された犯罪はずっと昔起こったことと因果の糸がつながっていると考えて、全然ありえないことではないのだからね。われわれには、もちろん、それが何であるかは分らない。しかし、あなたがこの点で手伝ってやろうというんなら、これほど有難いこともないんだがね」
ヴァンスがしゃべっている間、女はきりっと身体を引き締め、威厳をつくろっていた。膝《ひざ》に置いた両手は握り締め、口のあたりの筋肉が硬《こわ》ばっている。
「わたしなんにも知りません」それが彼女の唯一の返事だった。
「ならば」と、ヴァンスがなめらかに言った。「グリーンの旦那があなたに対し、好きなだけここにいてもいいという命令を出したという、むしろ特筆に値する事実をあなたは何と説明するの?」
「グリーンの旦那は大変親切で、寛容な方でした」と、彼女がきっぱりした、戦闘的な声で主張した。「あの方を非情だといったり、よこしまな人だと非難する声もありましたけれども、わたしや、わたしの身内に対してはいつも親切にして下さいましたもの」
「あなたの旦那のマンハイム氏とは、どんな知り合いだったの?」
一瞬沈黙が続いた。女の目は虚ろに前方を見ていた。
「夫がある時困ったことになりまして、それで助けていただいたのです」
「どういう縁でそういうことになったの?」
また沈黙。それからやがて――
「一緒になにかの取り引きをしていたのですわ――旧世界でですけど」
彼女が眉をひそめ、不安な様子をした。
「いつのことなの?」
「覚えていません、わたしが結婚する前のことです」
「そこで、あんたがグリーン氏と初めて逢ったのは、どこなの?」
「ニューオーリンズのわたしの家です。商売でやって見えたのです――わたしの夫も一緒に」
「そこで、つまり、あなたにも親しくしてくれた、とこういうわけか?」
女は頑《かたく》なに沈黙を守り続けた。
「ちょっと前」と、ヴァンスが追及した。「あなたは『わたしや、わたしの身内』という句を使いましたね――あなた、子供さんがおありなの、マンハイム夫人?」
この面接調査の間を通じて、初めて彼女の表情に根本的な変化が起こった。怒りの光が一筋、きらりと目から輝いた。
「ありません!」否認は絶叫に近かった。
ヴァンスが数瞬、知覚を失ったかのように煙草を吹かしていた。
「あなたは、この家に職をうるまで、ずっとニューオーリンズに住んでいた、そうだね?」
やっと彼が尋ねた。
「そうです」
「ご主人もそこで死んだの?」
「そうです」
「それは十三年前のこと、そうだね――それはあなたがグリーンの旦那に逢った年から数えて、何年前?」
「約一年ですわ」
「すると、十四年前ということになる、どうだね?」
いま、恐怖に近い心配の色が、ふてくされて落着き払った女の顔に現われた。
「それからあなたは、グリーン旦那の助けを求めるために、はるばるニューヨークにやってきた」と、ヴァンスが思案した。「ご主人の死後、きっと職をくれるだろうと、それほどの自信があったのは何故なの?」
「グリーンの大将は大変親切な方でした」と言って、後は何も言わない。
「大将はきっと」と、ヴァンスが答えを出した。「ほかに何かあなたに好意を示してくれた。それであなたは彼の寛容を当てにできると考えた――てなもんじゃないかな?」
「阿呆らしい!」彼女が口をきりっと結んだ。
ヴァンスが話題を変えた。
「さて、この家で犯された犯罪についてどう思うかね?」
「わたしはどうも思いません」彼女はもぐもぐと言ったが、声に現われた不安がこの主張を裏切っていた。
「何か意見があるにきまってるじゃないの、マンハイム夫人、この家に長年いるあなたなのだから」ヴァンスの食い入るような視線は女から離れない。「ここの人たちに害を加えたいという理由を持つ人間、あなたなら、それは誰だと思います?」
突如、女の自制心が崩れ去った。
「ディ・リーベル・ヘル・イエズス〔愛するイエスさま〕! 知るもんですか! 知るもんですか!」それは苦悶の絶叫に近かった。「ジュリアさまとチェスターさまだったら、たぶん――確かに〔|gewiss《ゲヴィス》〕、無理もないでしょうよ。人さまを見れば憎み、嫌い、冷酷で、愛なんて知らない人間なんだから。だけど、かわいいエイダが――デア・ジューセ・エンゲル〔やさしい天使〕のあの人にまで、害を加えようとするなんて、なぜですの?」そういって、険悪な顔つきをしたが、再び例の鈍重な表情にゆっくりと戻っていった。
「なぜなんだろうね、ほんとに?」ヴァンスの声には、同情の響きが明らかだった。そのまま間を置いて、彼が立ち上がり、窓べに歩いていった。「もう部屋に引き取っていいんだよ、フラウ・マンハイム」と、振り返りもせず彼は言った。「かわいいエイダにはこれ以上のことは起こらないように、きっとわれわれの手でやって見るよ」
女はのっそりと立ち上がり、ヴァンスの方向に不安な目をくれつつ部屋を去った。
女がこちらの話の聞えない距離に去ったが早いか、マーカムがくるりと向きを変えた。
「こんな故事来歴を掘り返して何の役に立つんだい?」と、彼はいらいらと詰問した。「ぼくらが取り扱っているのはここ二、三日の出来事なんだぜ。それなのに君は、十三年も昔、トバイアス・グリーンが一人の料理女を傭った理由がどうのこうのと貴重な時間を空費しているじゃないか」
「この世には因果《いんが》の糸というものがあってね」と、ヴァンスがやわらかに示唆した。「しかも、この因と果を結ぶ糸は、とんでもない長い時の経過を伴うことがしばしばなんだ」
「異議なし、ただし、このドイツの料理女と現在の一連の殺人と、一体どんな関連の糸があるというんだい?」
「ないかも知れない、たぶん」ヴァンスがまた部屋の中央にもどってきたが、目は床の上に落したままであった。「だが、マーカムよ、この総崩れと、なんらかの関連のありそうなものはなんにもない――そう見える反面には、なんでもかんでもが関係があるようにも見えるじゃないか。家全体がうっすらとした表徴の色に染まっているんだ。なん百という影の手が犯罪者を指さしているというのに、君がその方向を見究めようとする瞬間、手は消えてしまう。まさしく、夢魔さ! 意味を持つものはなにも存在しない。しかるが故に、すべてが意味を持つのさ」
「さても哀れなヴァンスよ! 君はついに正気の人にあらずだ!」マーカムの口調には、苦悩と非難がこもごもこもっていた。「君の議論は呪術師のおぼろめく誑言《たわごと》よりもまだいけない。トバイアス・グリーンが過去においてマンハイムなる人間と取り引きがあったからといって、どうだというんだ? 二十五年か三十年昔の噂に信憑性《しんぴょうせい》があるとしたら、むろん、トバイアスの大将はまぎらわしい不正取り引きを業とする人間であった〔一八九〇年代の昔、わたしがまだ小学生の頃、わたしの父がトバイアス・グリーンの恋の道行きについて、小説を地でゆくような話をしていたのを聞いた覚えがある〕。なにか得体の知れない用件で、地の果てまでも飛び廻っていたかと思えば、帰国のたびに財を築いていった。さらに、大将がドイツに長期滞在していたというのも周知の事実だ。君が今度の件で手頃な説明を探ろうというので、彼の過去を掘り返す段になったら、わんさとありすぎて持てあますくらいだ」
「君はぼくの奇想を誤解しているんだ」ヴァンスがやり返したが、暖炉の上の、トバイアス・グリーンの古い油絵の前に佇《たたず》んだままであった。「ぼくがグリーン一家の伝記作家になろうなんて、そんな野心はひらに願い下げだ。ところで、トバイアスって、まんざら悪い顔もしてないじゃないの」と、彼は片眼鏡を直しながら、肖像画の品定めをしつつ、そう批評した。「まさに興味しんしんたる一人物さ。力動的な前額、これには学者の風貌以上のなにものかがあるな。いかつい、物をほじくるような鼻。そう、トバイアスが人生の荒波にも臆することがなく、幾多の探究に乗り出したことは疑いはない。残忍な口だな、しかし――いや、ほんとは不吉の相がある。あの頤鬚《あごひげ》の下から、頤を一目見てみたいもんだ。丸味があって、深い亀裂《きれつ》が一線に走っている、というところかな――これと同質のものはチェスターの頤にもあったが、あれのはただの似せ画だ」
「大いに啓発されるね」と、マーカムがひやかした。「しかし、けさのぼくにとっては、骨相学なんか路傍の石さ――さ、白状するんだ、ヴァンス。まさか君、昔の同志マンハイムの亡霊が甦《よみがえ》り、ここなる地上に降臨なし、暗い過去のどこかでトバイアスのために受けた憎っくき仇を返さんとて、グリーン家|末裔《まつえい》の上に、復讐の鉄槌《てっつい》を加えている、とかなんとか、そんなメロドラマ風の妄想の餌食にされてるんじゃないだろうね? 君がマンハイム夫人に行った質問を見ていると、そうと推論せざるをえないじゃないか。されど、願わくば、マンハイムが死んで返らぬ人だとうい事実を看過せんでくれろよ」
「おれは葬式にいってないんでね」と、ヴァンスがだらりと椅子に坐り直した。
「言わずもがなのへらず口、そんなのはよしたまえ」マーカムがぴたっと抑《おさ》えた。「それより、君の頭を過《よ》ぎっているものは何だい?」
「君、それはすばらしい比喩《ひゆ》だ。まったくその通り、ぼくの精神状態を言いえて妙だよ。『わが頭を過ぎるもの』――それは無数さ。だが、なんにも残らない。過ぎるだけ! ぼくの頭脳は文字通り、篩《ふるい》さ」
ヒースが自分から議論に割ってきた。
「あっしの意見によるてえと、本件のマンハイムの角度、あれは『おけら』でさあ。あっしらは現在の時点を問題にしてるわけでして。この『はじき』のホシはたったこのいまでも、この辺にいるに違えねえです」
「恐らく、あなたの説の通りでしょうな」と、ヴァンスが譲歩した。
「だが――ああ、じれったい! ――神はわれを打ちて盲目《めしい》にしたまうか! 事件のあらゆる角度が――そうだ、角度というからには、尖点《せんてん》も、弧《こ》も、接線も、抛《ほう》物線も、正弦《せいげん》も、半径も、双曲線《そうきょくせん》もみんなだ――大挙して襲いかかり、ぼくは溺《おぼ》れんばかりなんだ」
第十一章 痛ましき訊問
(十一月十二日、金曜日、午前十一時)
マーカムがいらいらと懐中時計を出して見た。
「これはいかん」と、彼が苦情を言った。「正午には重要な約束があるんだ。一当りレックス・グリーンに当ってから、後のことは暫《しばら》く、君に全権を一任するよ、部長。残りはもう大した用事はないだろうが、君のきまった仕事はひとわたりすましておきたまえ」
ヒースは陰鬱そうに立ち上がった。
「さようです。まず第一にやるべきことは家中をしらみつぶしに裏づけ捜査して、拳銃の所在を発見するこっでさあ。拳銃さえ見つかりゃ、見通しはついたと同じこっですからな」
「部長、あなたのせっかくの熱意に水をさしたくはないのだけれどもね」と、ヴァンスがのんびりと、例の母音を長びかせた声で言った。「ぼくに囁《ささや》く天の声があるんだ。あなたがいとし恋しと追いもとめているその武器は、するりするりと忍びの名人じゃないかって」
ヒースが消沈《しょうちん》した顔をした。彼も明らかにヴァンスと同じ意見だったのだ。
「ほんにこいつはくそったれ事件でさあ。とっかかりがなんにもねえ――張り切る材料がなんにもねえときたもんだ!」
彼が拱門《きょうもん》のところにゆき、呼鈴の紐を猛烈な勢いでひっぱった。スプルートが姿を現わした途端、レックス・グリーンの身柄を直ちに持ってこい、とまるで吠えたてんぐらいに要求し、そのままその場に立ちつくしている。引退《さが》ってゆく家令の後ろ姿を獰猛《どうもう》そうに見送っている姿はまるで言葉の次には暴力ででも自分の意志を通そうとして、そのための口実を探《さが》している人間のように見えた。
レックスが神経質そうな姿を現わした。喫《す》いかけの煙草を唇からだらりと下げている。眼はくぼみ、頬はこけている。例の短い、殺《そ》げた指でもじもじとスモーキング・ジャケットの縁《へり》をつまんでいるのが、まるで瞳孔拡大剤《ハイオシン》の中毒症に罹《かか》った人間みたいだ。わたしたちに恨めしそうな、半ば怖気《おじけ》づいた一瞥をくれると、マーカムが合図した席に坐ろうともせず、挑戦的な態度で、すっくと立ちはだかった。突然、彼は凶暴な声で詰問した。
「ジュリアとチェスターを殺した犯人を、あんたたちはまだめっけていないんですか?」
「そう」と、マーカムが認めた。「しかし、再犯に対する予防措置には万全を講じました……」
「予防措置? どんな?」
「表にも裏にも人を配置し――」
からからと笑う声がマーカムの言葉を寸断した。
「そいつは大した効能書きだ! ぼくらグリーン一家を狙っている犯人は、いいですか、鍵《かぎ》を持ってるんだ! 鍵をね。だから、奴の思いのままに侵入できるんだ。それを誰が停《と》められるもんか!」
「お見受けするところ、あなたの話にはいささか誇張があるようですな」と、マーカムがおだやかにやり返した。「いずれにせよ、ごく近いうちに、その人物をめっけたいものだとわたしたちは思っています。そういうわけで、あなたにもご足労願ったわけでして――あなたの証言で、大いに助かる可能性があるのです」
「ぼくが何を知ってるというんだ?」言われた人の言葉は挑発的で、煙草を数服深く吸いこんだが、灰が自分のジャケットに落ちたのさえ気がついていない。
「昨夜銃声が起こった時、あなたは眠っていた、そうでしたね?」マーカムの静かな声が続いた。
「ところが、ヒース部長の報告によると、あなたは十一時過ぎまで目を覚ましていて、廊下の音を聞いていたんだという。ならば、何がどうなったのか、話してみませんか」
「なんにもどうにもなりゃしない!」と、レックスが衝動的に叫んだ。「ぼくが休んだのは十時半だ。ところが興奮して眠れやしない。そこで、それから少したって、月が出てきて、寝台の足のほうから斜めに差してきた。そこで起き上がり、日除けをおろした。それから十分もした頃、廊下をカサコソという音がしたかと思うと、すぐその次に、そっと扉の閉じる音がした――」
「ちょっと待って下さい。グリーンさん」と、ヴァンスが遮《さえぎ》った。「その音について、もう少し具体的に言えませんかね、なんの音みたいでした?」
「ぼくはなんとも注意を払わなかったんだ」いかにもめそめそした返事だった。「どんな音にだって取れる音だ。誰かが包みをどさりと置いたとも、何かをひきずって廊下を歩いていったとも。それとも、スプルートのじじいが寝室用のスリッパを履《は》いて通った音とも取れる――いや、彼の音らしくはなかったな――つまり、ぼくはその音を聞いた時、それとスプルートとを連想しなかった、という意味だが」
「そして、それから」
「それから? ぼくはさらに十分か十五分か、寝台に寝たまま目を覚ましていた。ぼくは不安だったし――同時に、なんかの期待もあった。そこで何時だろうと思って、灯《あかり》をつけ、半分ほどシガレットを喫い――」
「ちょうどその時、十一時二十五分だった、そうでしたね?」
「その通り。それから二、三分して、ぼくは灯を消した。すぐに眠ってしまったらしい」
一瞬、沈黙が続いた。ヒースが威儀を正したはよいが、威圧的になっていた。
「おい、グリーン。きさま、『はじき』の件で、なにを隠していやがるんだ?」この質問は藪《やぶ》から棒《ぼう》式で、いかにも兇暴な響きがあった。
レックスがさっと身構えた。唇はたわんで開いてしまい、持っていた煙草は床に落ちた。肉の薄い頤の筋肉をぴくぴくさせると、部長のほうを睨みつけたが、いまや跳《と》びかからんばかりだ。
「なにがどうしたというんだ?」もはや罵声に近かった。彼の全身がかたかた震えているのが、わたしの目にとまった。
「おまえさんの兄貴の回転銃をおまえさんはどこへやったか、覚えてるかという意味だ」ヒースが頤をぐっと突き出し、情容赦もなく追及した。
レックスの口がいまや忿怒《ふんぬ》と恐怖の痙攣発作《けいれんほっさ》を起こしかけていて、彼は発言能力を失っているように見えた。
「きさま、どこへ隠しやがった?」再びヒースの声がぎしぎしした響きを立てた。
「回転銃? ……おれが隠した? ……」やっと、レックスが言葉になる言葉を言えるようになった。「き、きさま――どぶねずみの岡っぴきめ! おれが銃を持っているとかなんとかたわけたことをぬかすんなら、とっととおれの部屋へ上がってゆき、こてんぱんにバラしてでも捜してみるがいいや――このくそったれ!」彼の両眼はぎらぎら光り、上唇はひんめくれ、歯がむき出しに見えた。だが、その態度にあったものは忿怒だけではない。恐怖もあったのだ。
ヒースは身体を乗り出し、まだなにか言おうとした途端、ヴァンスが立ち上がり、部長の腕に制止する手を置いた。だが、遅すぎた。彼が先手を打って止めようと明らかに希望していた事態がついに持ち上がってしまったのだ。ヒースの次の言葉を待つまでもなく、既に言ったあのやくざな言葉だけでも、この生贄《いけにえ》にとっては、恐ろしい反動を呼び起こすだけの刺激になっていたのだ。
「この下司下郎《げすげろう》の豚め! きさまが何とぬかそうが、おれがこたえると思っとるんか!」と、彼が喚《わめ》き、麻痺《まひ》した人さし指を突き出し、部長を指した。後《あと》はただ、呪いと悪口雑言が甲《かん》高い泉となって、ひきつった唇からとめどもなく流れ出した。この狂気の怒りは、一切の正常の枠《わく》を越えたものに見えた。でっかい首をつんのめらすように突き出した姿は大蛇に似ていた。顔面は紫症《チアノーゼ》を起こし、湾曲してしまっている。
ヴァンスも立ち上がり、身構えつつ、相手を油断なく見守っていた。マーカムは本能的に坐っていた椅子を後ろにずらしていた。ヒースまでがレックスのこの常軌《じょうき》を逸した敵愾心《てきがいしん》には面喰らっている。
一体どうなることやらと案ぜられていた時、ちょうどそこへ、フォン・ブロンが急ぎ足で部屋に入ってきて、若者の肩に制止の手を置いた。
「レックス!」と、彼が落着き払った、威厳のある声で言った。「落着きなさい。エイダを苦しめるだけなのだよ」
言われた人はとつぜん口をつぐんだが、兇暴な態度だけはまだ全部は去っていない。医師の手を憤然と払いのけると、くるりとまわれ右をして、フォン・ブロンに対決した。
「大きなお世話だ、余計な口をきくない!」と、彼が叫んだ。「きさまはしょっちゅう家ん中をひっかきまわしてるじゃないか。呼びにもやらんのにやってきてみたり、他人のことに余計な首を突っこんだり。母さんの麻痺はただの口実なんだ。きさまが自分で言ったじゃないか。母さんは全治しないんだって。それをどうしたい。相も変わらずやってきては薬を差し出し、そうしておいて、後からのツケが聞いて呆《あき》れる!」彼が医者に向って、狡猾《こうかつ》そうな流し目をくれた。「そうさ、きさまなんかに誤魔化されてたまるか! きさまがやってくるわけは分ってるんだ。シーベラが狙いだろ!」また例の鎌首をもたげると、ずるそうににやっと笑った。「町医者ごときには、定めしいいカモだろうて――おい、そうじゃねえかよ? 金はうんとあるし――」
ハタと科白《せりふ》が停《と》まった。彼の目はフォン・ブロンを離れなかったけれども、身体は尻ごみをし、例の痙攣がまた始まった。震える指がまた持ち上がってきて、しゃべってゆくうちに、次第に逆上した声になっていった。
「おっと、シーベラの金だけじゃ満足できん。きさまはおいら全部の金がほしいんだろ。だからきさまは、彼女に全遺産を相続させるように、なんだかんだと企らんでいるんだろ。そうだ。そうだったのか! きさまだな、この一連のことを仕組んだ奴は……。けしからん! きさまが、チェスターの銃を取ったんだ――取ったにきまってる。家の鍵だって取ったんだ――合鍵を作らせるぐらいわけはねえもんな。道理でお忍びができるわけだ!」
フォン・ブロンが悲しげに首を振り、憂《うれ》いの中にも寛容をこめた微笑をした。甚だばつの悪い一幕だったが、彼はこの役を美事にこなした。
「さあ、レックス」と、彼が静かに言った。不良少年に対して物を言っている人間のような態度である。「それだけ言えば気もすむだろう」
「気なんかすむかい!」と、若者は叫んだが、目には幽鬼の光がある。「きさまはチェスターが拳銃を持っていることを知っていた。あれを買った年の夏、兄貴と一緒にキャンプにもいったじゃないか――ジュリアが殺された直後、兄貴がそう言って教えてくれたんだ」
彼の数珠玉《じゅずだま》のような、ちっちゃい目が大きな首から飛び出しそうに睨んでいた。突如、発作が起こり、彼の衰弱し切った肉体を震《ふる》わせた。指はまたジャケットの縁《へり》をもじもじとつまみ出していた。
フォン・ブロンがすばやく歩み寄り、彼の肩に両手をかけて揺さぶった。
「いい加減にするんだ、レックス!」その言葉は鞭《むち》打ちの命令だった。「君がこんな風に頑張るんなら、わたしとしては、君を精神病院に隔離の措置をとらざるをえない」
この脅迫は、わたしの見るところ、なくもがなの野蛮《やばん》な口調で言われたものだったが、効果はてきめんだった。レックスの瞳に、妖怪にでも憑《つ》かれたような恐怖の色が射した。突然、へなへなになったかと思うと、フォン・ブロンの言いなりになって、その後《あと》に随《つ》いて部屋から出ていった。
「絶妙の標本だな、あのレックスってのは」とヴァンスがコメントした。「あれじゃ、心の友に選んでくれる人間もいるまい。長大頭|畸形《きけい》症――外皮性興奮。だけど、ねえ、部長、正直な話、あんたあの子をあんなにこづいちゃ可哀想だよ」
ヒースが不平を鳴らした。
「先生が何とおっしゃろうが、奴が全部シロだとは言えんでしょう。ようござんすか、あっしゃなにがなんでも、奴の部屋を徹底的に『がさ』入れし、あの『はじき』を捜し出して見せまさあ」
「ぼくの見る限りではねえ、部長」と、ヴァンスがやり返した。「あんなおっかなびっくりの男が、この屋敷内の大虐殺を立案する能力があるとは思えないんですよ。そりゃ何かの拍子にのぼせ上り、手当り次第の飛び道具でやたらと打ちまくる、ということはあるかも知れませんがね。深い企《たくら》みを温存し、千載一遇の時に討って出てくる、ということはまず考えられんですよ」
「奴はしん底から怯《おび》えていることがあるに違いねえです」ヒースが憮然《ぶぜん》とした顔をして、あくまで頑張った。
「その理由だってあるんじゃないの? ここらあたりの、この姿なきガンマンが次の標的に自分を狙うんじゃないかって心配しているのかも知れないし」
「おっと、そのガンマンがもう一人この場にいるというんなら、レックスをまず狙わなかったとは。こいつはえらく趣味の悪い奴でさあ」ついさっき投げつけられた豚呼ばわりに対する癪の虫がまだ収まらんと言いたげな巡査部長の言葉であった。
折しも、フォン・ブロンが客間に戻ってきたが、浮かぬ顔をしている。
「レックスは鎮《しず》めておきました」と、彼が言った。「ルミナールを五グレーン与えましてね。これで二、三時間は眠るでしょうし、目が覚めたら後悔するでしょう。きょうのように激烈なのは珍しいわけでして。神経過敏――つまり、脳神経衰弱症ですな。斧《おの》の柄《え》がすっぽ抜けたようになり、抑制ができんたちでして、しかし、危険なことはありません」彼がすばやくわれわれの顔を吟味《ぎんみ》してから――「どなたか、相当厳しいことをおっしゃったのでしょうな」
ヒースが屠所《としょ》に牽《ひ》かれる羊みたいになった。
「『はじき』はどこに隠した、とあっしが尋ねたもんで」
「ああ!」と、医師は疑問と非難をこもごもまじえた視線を部長に投げ――「そいつは残念だ。レックスには細心の注意が必要なのです。こちらがあの子に対して強い対立を示さない限りは大丈夫なのです。しかし、拳銃の質問を何の目的であの子にされたのか、わたしにはとんと理解できませんですよ、あなた。まさか、あの子が、この恐ろしい狙撃事件に一枚加わっていると疑っていらっしゃるんじゃないでしょうな」
「いや、教えてもらいやしょうか、先生、撃ったのは誰か」と、ヒースが喧嘩腰に応酬した。「そしたらあっしもお教えしましょう、あっしが疑ってないのは誰かって」
「遺憾ながら、その点の解明はわたしには力およばずでして」フォン・ブロンの口調からは、いつもの愛想のよさが滲み出ていた。「しかし、レックスが加わっていないことだけは保証できます。彼の病理学的状態から見て、それではあまりにも釣合《つりあ》いが取れません」
「そんなのは、ハイ・クラスの殺人者《キラー》の半分が言う科白《せりふ》でさあ、こっちに証拠を押えられた時の弁解にね」と、ヒースが反撃した。
「これじゃ、あなたとは話になりませんな」フォン・ブロンが遺憾げに溜息をつき、マーカムの方向に人の気を逸《そ》らさぬような顔色を向けた。「レックスにあんな馬鹿げた告発をされ、わたしとしては大いに当惑したわけでありますが、こちらの警官があの子に拳銃所持の容疑をかけたことを事実上お認めになった現在、これで事実も完全に明白になりました。罪を他人に転嫁するというのは、ごくありふれた自衛本能の型でありまして、もちろん、自明のこととは思いますが、レックスは容疑をわたしに振り向けることによって、嫌疑から逃れようとしたものに過ぎません。これは不幸なことです。あれとわたしは長い間のよい友だちだったのですのに。ああ、かわいそうなレックス!」
「ところで、話変わって、先生」ヴァンスのだるそうな声が聞えてきた。「チェスター・グリーンが初めて拳銃を入手した年、キャンプにいって、あなたも一緒だったとかというあの点。あれは真実なのですか? それとも、レックスの自衛本能が生んだ幻想に過ぎないのですか?」
フォン・ブロンが貴公子然とした優雅な物腰で微笑し、それから、少し首を一方に傾《かし》げ、昔を思い出すような所作をした。
「真実といえば言えるでしょう」と、彼が認めた。「わたしは一度チェスターのキャンプ旅行に同道したことがあります。そう、そういえばほんとにそうかも――ただし、明確な陳述と受け取られては困ります。遠い、遠い昔のことでした」
「十五年前、たしか、グリーン氏がそう言ってましたよ、あ、そう――ああ失われしものよ。飛びゆく年は疾《と》く去りぬ〔古来あまりにも有名なホラティウスの句、時の早さの詩句はほとんどこの発想による〕。いとど哀れをとどめける! ところで先生、グリーン氏は特にその外征の際、回転銃を携行していたかどうか、思い出しませんかね?」
「そうおっしゃられると、一|挺《ちょう》持っていたのを思いだすような気がしますな。ただし、ここでもまた、明確な陳述をしたくないと思いますが」
「たぶん、彼が射的練習に使っていたのを回想していただけるんじゃないですかな」ヴァンスの声は甘美で淡々としていた。「ぽんぽん射ちまくり、狙うは木の幹《みき》、ブリキの空罐《あきかん》とか、当り構わず――というのはどうで?」
フォン・ブロンが回顧の後にうなずいた。
「さ――さよう、大いにあるかも……」
「そこであなたも、手慰みにぽんぽんと、てなもんかな?」
「なるほど、そう言えば」と、フォン・ブロンが夢見るように言った。子供の頃のいたずらを回想している人のようだ。「さよう、まったくありうることで」
ヴァンスが興味を失ったように黙りこみ、医者も一瞬ためらってから立ち上がった。
「もう失礼したいと思いますので」そして優雅なお辞儀をして、玄関のほうへ歩みかけた。「あ、ところで」と、彼が立ち停《ど》まり――「ついうっかりするところでしたが、皆さんがお帰りになる前に、グリーン未亡人がぜひお逢いしたいとのことでした。失礼ですが、あのひとの機嫌を損じないようにすることが賢明だということをお忘れなく。あの人は皇太后陛下みたいなもんでして、それに疾患のせいで、すぐ逆上し、横暴にもなっていられるのです」
「先生、あなたがグリーン未亡人の話をなすったのを嬉《うれ》しく思いますよ」と、ここでしゃべったのはヴァンスだった。「ちょうどぼく、奥さんのことであなたに質問しようと思っていたところでして。奥さんの麻痺の本質はなんなのです?」
フォン・ブロンが驚いた、という様子をした。
「まあ、いうなれば、末梢性全身麻痺――つまり、下肢および胴体下半身の麻痺でありまして、併発症としては、脊髄および神経に対する感覚障害を起こし、圧迫を誘発し、これが激痛を伴うのであります。しかしながら、四肢の緊張性痙攣は付随しておりません。十年前、きわめて急性の発作を起こし、予告兆候の発生は見られなかったものであります――恐らくは交叉《こうさ》脊髄炎の後遺症だと思われます。これが治療としては対症療法による外《ほか》なく、できるだけ安静を保つこと、これによって心臓活動を整調するしかありません。血液循環のほうは、ストリキニーネ六十分の一を一日に三度投薬しておけば大丈夫です」
「もしかしたら、ヒステリー性筋肉運動不随の可能性はどうでしょう?」
「とんでもない! いいえ、ヒステリアはありません」と言ってから、医者の目玉が急に吃驚《びっくり》したように、大きく見開かれた。「ははあ、なるほど。いやいや。回復の見込みはないですよ。局部的にだって。なにしろ器官麻痺なんだから」
「萎縮《いしゅく》症は?」
「ま、さよう。筋肉萎縮は目下顕著であります」
「大変有難うございました」ヴァンスが目を半分閉じて、そっくり返った。
「いいえ、どういたしまして――そこでどうか、マーカム検事、ご記憶願いたい。わたしにできることがあったら、なんなりとぜひ協力させてもらいます。どうぞご遠慮なくお呼び出しを願います」彼がまたお辞儀をし、出ていった。
マーカムが立ち上がり、脚を伸ばした。
「さて、お次はこっちが出頭命令に応ずる番だな」彼はおどけて見せた。事件の暗い憂鬱を払い退《の》けようとする時、彼がよく用いる、お得意の地口《じぐち》だ。
グリーン未亡人がわれわれを出迎えた態度には、阿諛迎合《あゆげいごう》的とでも形容したいくらいの卑屈さがあった。
「あたくし分っていましたわ。きっとあなたなら、この哀れな、役たたずの、老いらくの跛《ちんば》の願いを聞き入れて下さるだろうって」と、彼女は言ったが、訴えんばかりの微笑をこめている。「もっとも、あたし、無視されるのには慣れてますけどもね。この世には、あたしの願いごとに注意を払ってくれる人間なんていないんですものね」
いつもの看護婦が枕許に立ち、老婦人の肩の下の枕具を直していた。
「これでお楽ですか?」と、看護婦が言った。
グリーン未亡人がうるさいというゼスチュアをした。
「大きにお世話だこと、あたしが楽かどうかって! ほっといておくれったらほっといておくれ、看護婦! おまえはいつだって邪魔ばっかししているくせに、なにさ! 枕はどうもなってないじゃないの。もうここには用はないから、さっさとエイダのところにいって、介抱《かいほう》しておやり」
看護婦は長い、我慢強い息を一つすると、部屋から無言で出てゆき、ガタンと戸を閉めた。
グリーン未亡人は、またもとの愛想のいい態度に戻った。
「エイダのようにあたしの用が分ってくれる人間がいるものですか、マーカムさん。あのかわいい子がすぐにも快《よ》くなって、またあたしの世話をしてくれるようになったら、あたし、どんなに安心なことでしょう。看護婦だって、そりゃ、精一杯心得通りのことはしているんでしょうがね。さあ、皆さん、どうぞお坐りになって……でも、皆さんみたいに立てるようになったら、あたし、金に糸目はつけませんことよ。全治の見込みを絶たれた麻痺患者の境涯がどんなものか、誰が分るもんですか!」
マーカムは差し出された招待を受けようともせず、夫人の話が終るのを待ち、おもむろに言った。
「どうかわたしが万斛《ばんこく》の同情をお寄せしている者であることをお信じ下さい。……フォン・ブロン先生の伝言によると、奥さんはわたしにご用がおありなそうで」
「そうなの!」と、相手の心を計算するように見つめ――「あなたにお願いがありますの」
彼女が一瞬口をつぐんだ。マーカムは会釈《えしゃく》はしたが、返事はしなかった。
「あたしはあなたにお頼みしようと思ってたこと――それは、この捜査を打ち切ってほしいということです。あたしには、きょうこれまでの気苦労と人騒がせでもうたくさんです。だけど、あたしなんかどうでもいい。あたしが考えているのは家門のこと――グリーン家代々の名誉のことですわ」誇りの色がいま彼女の声に現われた。「一体なんの必要があれば、あたしたちを泥沼の中にひきずりこみ、|canaille《カナイユ》〔下司下郎〕どものために、根も葉もない醜聞の餌食にされなければならないというんですの? あたし、平安と安静がほしいのです、マーカムさん。あたしのこの地上での命もそう永くはないでしょう。ジュリアとチェスターがあたしをないがしろにし、あたしをひとりぼっちで苦しむまま放っておいたがために、応報の罰を受けたからといって、あたしの家が警察に蹂躪《じゅうりん》されていい訳がどこにありますの? あたしは年老いた女です。そして『かたわ』です。あたしだって、ささやかな考慮には値する人間に違いありませんわ」
彼女の顔が曇り、声は辛辣味《しんらつみ》を帯びてきた。
「一体、皆さんはどんな権利があれば、ここにきて、家じゅうをひっ掻きまわし、こんなにも陵辱《りょうじょく》にも等しい方法であたしを苦しめようとなさるのです? 今度の騒ぎが持ち上がって以来、あたしは一分の平安だって取れないし、背骨は痛んで、もう呼吸もできないくらいなのです」彼女がいびきみたいな大きな息を数回した。彼女の目が怒りにぎらつき出した。「あたしの子供たちがいままでよりも優しい人間になるなんて、望むだけ野暮な話だわ――どうせ非常無思慮の子供たちですもの。だけど、あなたは、マーカムさん――部外者であり、縁なき他人であるあなたが、どうしてこんな騒ぎをひき起こし、あたしを拷問の苦しみに追いやる必要がどこにおありなの? それこそは陵辱的――非人間的といわずしてなんでしょう!」
「法の執行者があなたの家に出入りしたことがあなたのお邪魔になったというのなら、残念に思います」と、マーカムが厳粛に答えた。「しかし、わたしとしては他に方法がないのです。犯罪が発生すれば、それを捜査し、わたしの権限として与えられたあらゆる手段を尽して、有罪者を正義の裁きにかけるのがわたしの義務なのです」
「正義!」と、老婦人はその言葉をさも軽蔑《けいべつ》するように繰り返した。「正義は既に施されたりだわ。この長年の間、ひとりここに頼りなき身を横たえているあたし――このあたしが受けた仕打ちに対し、りっぱに応報の罰がくだったじゃありませんか」
この女の、自分らの子供に対する残忍かつは苛責《かしゃく》するところのない憎悪、さらには、そのうち既に二人までが死の劫罰《ごうばつ》を受けたことに対する、この女の殺人鬼にも似た満足感――そこにはもうほとんど、身の毛のよだつようななにものかがあった。さすがに、生れつき同情的なマーカムも、女のこうした態度を見せつけられ、反撥《はんぱつ》心が湧《わ》いたものと思える。
「息子さんとお嬢さんの殺人というこの事態に対して、あなたがどんな愉快の充足を感じておられるにせよ、いいですか、奥さん」と、彼は冷然と言った。「殺人者を発見するという義務からわたしが解放されることにはなりません。ほかに何か承わるべき筋でもありましたでしょうか?」
暫く、彼女は無言で坐っていた。彼女の顔には無能力者の激情が乗り移ってきつつあった。マーカムに集中した視線はもう兇暴の光さえ放っていた。だが、やがて、遺恨にたぎる警戒の眼《まなざし》しにもゆるみが訪れ、彼女が深い息を一つした。
「いいえ。もう退《さが》っていただきましょう。言うことはもうなんにもありません。それにどうせ、このしがない、頼りのない女をかまってくれる人がどこにいまして? あたしとしたことが、いまのいままで迂濶《うかつ》にも程がありましたわね。この世には、あたしの慰めを考えてくれる人間はいないんだってことに気がつかぬとは! ここにこうしてただひとり、病いの床に臥《ふ》せ、自助の力も奪われて――みんなの厄介者にされているこのあたし……」
わたしたちの脱出行の間にも、彼女の哀れっぽい、自己憐憫《じこれんびん》のくりごとは追いかけてきた。
「だって、マーカム」と、ヴァンスが言った。わたしたちが一階のホールに降りてきてからのことである。「皇太后陛下の説にも、まんざら合理性がないとは言えないよ。陛下の思《おぼ》し召《め》しにも考察に値するものがあるさ。天の使命を告げる銀のらっぱが、君を呼ばわってこの探求の道に就《つ》かしめた。それはそれでいい。だが――ああ、やんぬるかな! ――君よ、いずくの方を探《たず》ねんとするか? 君、この家に正気なものはなんにもないんだぜ――普通の正常なる合理主義を許容するものはなんにもない。あの女の忠告を聞き入れ、ここは探求の道におさらばするのも悪くはないぜ。たとえ君が真実を知ったところで、『ピリクの勝利』〔惨憺たる敗北の待つ勝利のこと〕に終る可能性がある。いや、その真実はこれらの多重犯罪そのものよりももっとすさまじいものになりはしないか、ぼくは、それが恐ろしいんだ」
マーカムよりの答えはなかった。彼はヴァンスの異端ぶりをよく知っていた。さらに、ヴァンスその人が未解決の問題を金輪際投げ出すような人間じゃないことをよく知っていたのだ。
「あっしらにも、いくらかの手掛りはありますぜ、ヴァンス先生」と、ヒースが荘厳な声でいったが、熱はなかった。「例えば、例の足跡でさあ。それに、行方不明の『はじき』だって、これから見つければいいんでさあ。デュボアが二階で指紋も取っているところでして。召使いたちの身許調査もいずれ近々上がってくるでしょうし、ここ二、三日がやまで、どっちに転ぶか知れたもんじゃありませんや。夜にならんうちに、十数人をこの事件に配属させるつもりでいますんで」
「その熱心さはあっぱれと言う外ないですな、部長。だが、真実が隠されているのは――それはこの古い屋敷の雰囲気の中なんだ――有形の手掛りの中じゃないんだ。それは、これらの古い、ごたごたした部屋のどこかなんだ。暗い隅《すみ》、扉のうしろから、顔を覗かせているんだ。ほら、ここですよ――この、目の前のホールなんだ、恐らく」
彼の口調には、胸騒ぎと苦悶に満ちた響きがあった。マーカムが鋭い視線を投げた。
「君の意見はともかくとしてだよ、ヴァンス」と、彼が呟いた。「しかし、問題はいかなる方法によって、その根源を突きとめるかだ」
「そんなこと分りっこないさ。とどのつまりは妖怪《ようかい》でしかないものを突きとめる――はてさて、君ならどうするかい? どうやらぼくの人生経験には、幽霊とのつき合いが乏しいんだ、だってそうだろう?」
「また例の誑言《たわごと》か!」マーカムが飛びつくように外套に手を入れ、ヒースのほうに振り向いた。
「君はどんどんやりなさい、部長。ぼくとの連絡は絶やさないように。君の捜査活動になんにも進展がない場合には、次の手段を相談することにしよう」
こうして、彼とヴァンスとわたしは、待っていた車に乗るべく部屋を出た。
第十二章 ドライブ行
(十一月十二日―十一月二十五日)
裏づけ捜査はニューヨーク警察本部|生粋《きっすい》の伝統に従って推進されていった。火器の専門家、カール・ハーゲドン警部〔ハーゲドン警部は「ベンスン殺人事件」の際、ヴァンスに技術的資料を提供した専門家で、その結果、犯人の身長の割り出しができた〕は銃弾の精密な科学鑑定を行った。その結果、三つの銃弾とも同一拳銃から発射されたものであることが判明した。軌条特性を調べて、このように断定されたのである。さらに、彼が自信をもって発表した事実によると、問題の銃は旧式のスミス・アンド・ウェッソンで、その型式のものは現在は製造中止になっているという。しかし、これらの調査結果は、チェスター・グリーンの行方不明になった銃と殺人者の使用したものとが同一だとする説の傍証にはなったけれども、その反面、既定の事実、または容疑事実に対しては、寄与するところは何もなかった。窃盗器具の専門家、コンラッド・ブレナー警視補〔「カナリヤ殺人事件」で彫刻入りの宝石箱について鑑定報告をしたのがブレナー警視補であった〕は現場の徹底的検証を行い、押し込み強盗の物証の発見に努めたが、破壊忍び込みの形跡はなにもえられなかった。
ニューヨーク警察本部の指紋鑑定の担当官、デュボアとその助手のベラミーは、グリーン家の全構成員はもちろんのこと、フォン・ブロン医師の指紋までも採取するという徹底した作業を行い、これらを一階二階の廊下および射撃現場の各部屋で発見された指紋と一々照合するという地道《じみち》な作業を重ねたけれども、この捜査過程が終了した時でも、身許不明の指紋は何一つ浮んでこなかったし、既発見の、撮映《さつえい》ずみの全指紋は論理的に説明のつくものばかりだった。
チェスター・グリーンの『ゴール人の靴』は本部に押収され、ジェリム警部の手によって、スニットキンが採取した測量結果と紙型に比べて、綿密な照合が行われたが、新しい事実は一つとして発見されなかった。ジェリム警部の報告によれば、雪上の足跡は、調査を命ぜられたオーバーシューズによるものと考えてもいいし、同じサイズ、同じ靴型でありさえすれば、他のどんな靴がつけた足跡と考えてもいいということで、良心的に判断する限り、これが精一杯の鑑定結果だ、と彼は述べた。
捜査結果によると、グリーン・マンションで、オーバーシューズの所持者はチェスターとレックスだけである。レックスのはサイズ7で――チェスターの押入れで発見されたものよりサイズが3小さい。スプルートはゴム長だけしか使用していないし、サイズは8。フォン・ブロン医師は冬場はゲートルを愛用する癖があり、悪天候の時はいつもゴム・サンダルを履《は》いているのだという。
行方不明の拳銃の捜査には数日を要した。ヒースはこの仕事を特にこの方面で訓練された係員に移管し、万一の場合に備えて捜査令状を取りつけて持たしてやった。しかし、係員たちの邪魔になるような妨害行為は起こらなかった。邸内は地下室から屋根裏にいたるまで、体系的に徹底した捜査が行われた。グリーン未亡人の居間までも捜査を受けた。老婦人は初めは反対したが、しまいには折れ、警官の仕事が終った時には少しがっかりした様子を見せたくらいであった。隈《くま》なく捜されなかった部屋はトバイアス・グリーンの書斎だけである。グリーン未亡人が鍵を絶対に手放そうとしないのだし、過去においても、夫の死後は唯の一人として入室を許可したことがないという事実を考えれば、ヒースとしても、夫人から鍵の引き渡しをきっぱり拒絶された後では、強行手段はよくないと判断したのである。だが、その代り、邸内の隅《すみ》から隅まで、部長の部下たちによって、残る隙間もないくらいに捜査が行われたのだったが、拳銃の跡を物語るものは影も姿も現われず、せっかくの努力も徒労に終った。
死体解剖の結果も、ドーラマズ医師による予備検診と矛盾した点を浮び上がらせるまでには至らなかった。ジュリアもチェスターも、その死因は心臓貫通銃創による即死であり、しかも、その銃弾は至近距離で構えた拳銃から発射されたものだと断定された。両人の死体とも、他の死因による可能性は全くなく、さらに、格闘の跡も全く存在しないという。
二つの殺しがあった夜、同じ時刻に付近に居合わせた者数名が浮んできたが、身許不明者か、または不審な者でグリーン・マンション近くで姿を認められた人間はいなかった。そして、靴屋がひとり、たまたま屋敷と向い合わせの五十三丁目のナーコス・アパート二階に住んでいたが、この男の供述によると、二つの射撃があった時刻、窓べに坐り、就寝前のパイプ煙草を楽しんでいたけれども、街路の端のほうに通っていった人影は全然なかった。自分は神に誓ってもそう断言できると言っているのだという。
以上にもかかわらず、グリーン・マンションに張り込ませた監視の手が弛《ゆる》められたわけでは決してない。屋敷の両入口には、昼夜を分たず、警察官が配置されていたし、構内の出入者は、誰かれの区別なく、厳重な検査を受けた。監視があんまり厳重なものだから、初めて取り引きにやってきた商人などは不便でしようがないし、時には配達に苦労するとこぼしたくらいである。
召使いたちの身許調査も次々と集まってきたが、細部についてははかばかしいものはなかったけれども、判明する事実の一つ一つが本人と犯罪との因果関係を排除するのに役立つものばかりなのである。第二の悲劇直後、グリーン邸を去っていった、あの若いほうの小間使い、バートンは、ジャーシーシティ〔ニューヨークのすぐ対岸〕に住む、ある中流の会社員の娘であることが判明した。彼女の経歴に瑕《きず》はなく、遊び友だちもすべて同じ階級の、素直な市民ばかりだった。
ヘミングについては、分ったところでは、現在は寡婦《かふ》だが、グリーン家に傭われる直前までは、ペンシルベニア州アルトゥーナの住民、そこで鉄工場の工員をしていた夫に代わって、家庭を牛耳っていた女だという。以前の隣人たちの間では、彼女が神がかりの信者だったこと、その宗教心のゆえに、夫までも窮屈で、とってつけたような清廉《せいれん》の道に強引にひきずりこみ、それで法悦の歓喜に耽《ふけ》る女だったという語り草がいまも絶えないという。夫が炉の爆発で殺された時でも、これこそは隠せる罪障に対し、神の手が夫を打ち砕《くだ》きたもうたのだと宣言したくらいだという。現在の友人関係も、あるか、ないかくらいで、そのすべてが「イーストサイド再洗礼教会」という小教派の主要メンバーだった。
グリーン家の夏の間の庭師――中年のポーランド人で、クリムスキーといったが――は、ハーレムの秘密酒場にいるところを発見されたが、合成酒のウィスキーでべろんべろんに酔っていた。夏の終り以来、ある時はしたたかに、ある時は程よく、ずっとこの天国的無頼を楽しんできているのだという。この男は忽ち捜査の対象から外《はず》された。
マンハイム夫人およびスプルートの素行および友人関係に関する調書からも、浮び上がってきたものは何もなかった。事実、この両名の素行はその型の人間によくある、判で捺《お》したようなもので、外部世界との接触にしたところで、まるで幽霊の影を思わせるくらいの貧弱なものだった。スプルートについては、心の友らしいものはなく、面識のある人間といえば、パーク街にいる英国人の玄関番ひとり、付近の商人数人ぐらいのものだった。元来が孤独主義者で、なけなしの娯楽にしたところで、ひっそりと伴侶なしに楽しんでいるという型だ。マンハイム夫人については、夫の死後グリーン家に住みついて以来、屋敷の外へ出たことはめったになく、家の人間を除けば、ニューヨークでの知り合いは絶無というところらしい。
以上の報告により、グリーン家ミステリーの解決方法として、邸内共犯者説の角度から手掛りを求めようとしていたヒース部長のせっかくの希望も無惨に打ち砕かれた。
「なんですか、犯人内部説なんて考えはあきらめんといかんようですな」
チェスター・グリーンの射殺事件があってから数日後のある朝、彼がマーカムの役所にきて、ぼやいてみせた。
ヴァンスが――ちょうど居合わせたので――のんびりと部長を見やった。
「ぼくならそうは言わんですよ、だってそうでしょう、部長。それどころか、あれは疑いもなく内部にいる者の仕事ですよ。ただ、あなたが考えているような態様《たいよう》じゃない」
「するてえと、先生の考えでは、家族の人間の誰かがやったとおっしゃるので?」
「まあ――おそらく。どこかそういった線でしょうな」ヴァンスが考え深げに煙草を深く吸った。「いや、ぼくの意味は必ずしもそうじゃない。状況だ――一連の条件だ――雰囲気、とでもいうのかな――有罪なのはね。隠微にして捉え難く、死を呼ぶ猛毒。それが一連の犯罪劇の犯人だ。しかも、この毒はグリーン・マンションで発生しつつある」
「雰囲気だとか毒だとか、どっちにしろ、同じことでさあ、こいつをひっくくれと言われたんじゃ、あっしも男|冥利《みょうり》につきるというもんで」ヒースがさも軽蔑したように鼻を鳴らした。
「なあに、肉に宿れる魂の、血を持つ人間の生贄《いけにえ》が、どこかであなたの手錠を待っていますよ、部長――雰囲気の、そう、言うなれば、代理者がね」
マーカムはこれまで事件のいろんな報告書を暗記するぐらい読んでいるところだったが、ここで重い溜息をつくと、椅子に深く靠《もた》れかかった。
「そうさね、神頼みしかあるまいね」と、彼が苦々しげに独白した。「その代理者が身許を割るようなヒントでも残してくれんもんかね。新聞はここを先途と攻撃を集中している。けさもここへ別な記者の代表がやってきてたんだ」
有体《ありてい》に書くと、ニューヨークの新聞史上でも、これほど執拗《しつよう》に一般大衆の想像力を抉《えぐ》った事件はそうザラになかったのだ。ジュリアとエイダという、グリーン家の二人の娘に対する狙撃事件も扇情《せんじょう》的に報ぜられたことに違いはなかったけれども、あの場合はまだ通り一ぺんの取扱いだった。しかし、チェスター・グリーンまでが殺害されるに及んで、全く違った情緒が新聞のストーリーを掻《か》き立てるようになった。そこにあるのは、どこかロマンス風の残酷物語――犯罪史の忘れられたページを再演するなにものかだった〔グリーン家射殺事件とどこか気脈を通ずるものとして利用された有名犯罪事件には次のようなものがあった――ランドル、ジヤ・パプティスト・トロップマン、フリッツ・ハールマンおよびベル・グネス夫人に対する大量殺人、ベンダー家に対するホテル殺人事件、オランダのファン・デル・リンデン家毒殺事件、ベラ・キスに対するブリキ樽《だる》絞殺事件、ウイリアム・パーマー医師によるルーグレー家殺人事件、ベンジャミン・ネーサンに対する殴打致死事件〕。多くの欄がグリーン家年代誌に捧げられた。遠い昔の、埋《う》もれたロマンスを探り出そうというので、あちらこちらで、戸籍登記所の倉庫が掘り返された。先代のトバイアス・グリーンの履歴もひっ掻きまわされ、その前半生の物語は町の一般大衆の間で、知らぬ者はいないくらいになった。こうした華麗で煽情的な物語風の記事と並んで、グリーン家全員の写真が新聞を賑《にぎ》わす一方では、グリーン・マンションそのものの角度を違えたいろんな写真が掲載され、最近起こったばかりの犯罪に、火炎の花を添えるかのような物語のイラストにされていた。
相次ぐグリーン家殺人事件の物語はアメリカ中に拡《ひろ》がったのみならず、ヨーロッパの新聞までが紙面を割《さ》いた。この悲劇は、一門の社会的名声と先祖のロマンチックな歴史との絡《から》み合いで脚色されたのだから、大衆の猟奇趣味と俗物根性とを二つながら満足させるものがあり、人気はいやが上にも沸騰《ふっとう》した。
当然なことながら、警察と地方検事局は記者団にうるさくつきまとわれることになったし、ヒースもマーカムも、これまでの犯人逮捕の努力が水泡に帰したために、心痛の極に追いやられていたというのも、またやむをえぬ話ではあった。マーカムの事務所では、何回となく会議が召集されたが、そのたびに捜査の手直しが慎重に行われたのだけれども、使いものになる代案は現われなかった。チェスター・グリーン殺害後二週間したころ、事件はいまや迷宮入りの様相を呈してき始めていた。
だが、この二週間のあいだもヴァンスは拱手《きょうしゅ》傍観していたのではない。状況は彼の興味を促し、かつ捉《とら》えつづけていたのだ。チェスター・グリーンが初めてマーカムを訪れ、助けを求めたあの朝以来、一度として彼の念頭を去ったことはなかったのだ、彼は事件のことをほとんど口にしなくなったが、それでも会議には欠かさず出席していたのだし、彼が折節《おりふし》に洩らすコメントから察しても、事件の提供する問題に魅惑されると同時に、また混迷の淵《ふち》に叩きこまれてもいる彼の姿がわたしにはよく分っていた。
グリーン・マンションで演ぜられた犯罪の秘密を握るものは屋敷自体だというのが彼の固い信念だったから、彼は屋敷を訪問することを先決問題にしていたぐらいで、数回はマーカムのお伴としてではなく、単身でも出掛けていった。いや、じつをいうと、マーカムは二度目の事件以来、一度しか訪れていなかった。こう書いたからといって、彼が使命を回避したというのではない。現実問題として、彼がなしうることはほとんどなかったのだし、また当時は、彼の役所の日常の事務が特にたてこんでもいたのだ
シーベラの強い主張により、ジュリアとチェスターの葬儀が合同で行われ、一回の葬礼ですますことになったが、式場に当てられたのは、「マルカム葬礼場」の私設礼拝堂〔土葬以前の死体修理を行う私設の会社。ニューヨークのあちこちにある。普通ならば、教会で行うのが正式の祭礼〕であった。通知を受けたのは内輪《うちわ》のごく少数だけだった〔それでも、物見高い群集が建物の外部にはたかっていた。葬礼にまつわる煽情的な連想に惹《ひ》きつけられたのであろう〕。さらに、ウッドローン墓地での埋葬式は厳格に身内の者だけに限られた。フォン・ブロン医師はシーベラとレックスに付き添って礼拝堂にはいり、祭礼の間も二人と一緒に坐っていた。エイダは順調に快方に向ってはいたけれども、まだ家に閉じこもり、出席しなかった。グリーン未亡人は麻痺のためにもちろん参列できなかった。いずれにせよ、夫人が出掛けることは決してなかったろうとわたしは思う。祭礼を屋敷内で行ってはという意見が出たとき、強硬に反対したのは彼女だったからである。
ヴァンスがグリーン・マンションに初めての非公式訪問を試みたのは、葬式の翌《あく》る日だった。シーベラが全然驚いた様子も見せずに、彼を受け入れた。
「ようこそ、おいでなさい」と、彼女は挨拶したが、陽気に近かった。「あたし、ひと目見た時から、あなたは警察官じゃないって分っていましたわ。Regie を|喫《す》う警察官なんて、想像できない図ですものね。それにあたし、誰か話し相手がほしくってたまらないとこだったの。もちろん、あたしの知っている人みんなが、いまではあたしを疫病《えきびょう》扱いにして、近づかないんですのよ。ジュリアがこの愚かしき世を去って以来というもの、あたし社交の招待を受けたこともないわ。死者への哀悼《あいとう》、とかなんとか世間はいうのね、こんなのを。ところがこっちは、こんな時こそほんとに気晴らしがほしいんだわ!」
彼女が呼鈴の紐《ひも》を引き、家令を呼ぶと、お茶を注文した。
「スプルートにはお茶を作らせたほうがずっといいわ、ああ、あれのコーヒーのまずさったら、話にもなんにもなりやしない」と、彼女はとりとめもないことを言い出したが、どこか現実から遊離した神経過敏のような節が見える。「きのうという日の、なんて楽しかったことでしょう! 葬式なんて、どれもこれもいやらしい茶番劇よ。司会の聖職者が逝《ゆ》ける人の栄光を讃《ほ》め始めた時なんか、あたしまじめな顔ができなくて弱っちゃったわ。それに、あの牧師ったら――おかわいそうに――初めから終りまで、内心は残酷な猟奇の虫に取りつかれっぱなし。あれだけ好奇心を満足させてあげたんですもの、文句のいえる義理じゃないわね、きっと。あの親切な讃め言葉のお礼にって、あたしが小切手をお送りするのをきれいサッパリ忘れたからって……」
茶の用意がされた。ところが、スプルートが引き退《さが》ろうとする寸前になって、シーベラが家令のほうに向き直り、すねたように――
「お茶なんかもうご免だわ。あたし、スコッチのハイボールにしてちょうだい」彼女がヴァンスにいかが、という目つきをしたが、彼はここのところはお茶で、と固辞した。そこで、若い女はひとりでハイボールを飲み出した。
「あたしって、このところ刺激がほしく耐《たま》らないの」と、彼女が呑気《のんき》そうに説明した。「『ここな四方|掘《ぼり》の別荘に』〔有名なシェイクスピアの用語、清浄な乙女が幽閉されている場所、『以尺報尺』より〕というところかしらね、あたしの若い、癇癖《かんぺき》な神経を食い荒らすのよ。それに、名門というこの重荷、ああ、これが押し潰《つぶ》してきそうだわ。いまじゃあたし、ほんとに名門の誉《ほま》れをいただいちゃったってわけね、そうじゃないこと? 違うわね、グリーン家全員がいまじゃ名士なのね。殺人の一つや二つがあったくらいで、ある家柄がこれほどの不条理きわまる有名を馳《は》せるなんて、阿呆《あほう》らしくて、阿呆らしくて。きっとあたし、そのうちハリウッドに迎えられるかもね!」
彼女がからからと笑ったが、いささかとってつけたような笑いに、わたしには見えた。
「豪勢も度を過ぎると駄目ね! 母なんか、楽しんでさえいるんですもの。ありったけの新聞をとり寄せて、わが一家の記事を貪《むさぼ》るように読んでいるの――これぞ天の恵みだわ、だってほんとにそうなのよ。母はひとのあら探《さが》しも忘れてしまい、背骨が痛いという言葉も、このところぷっつり聞かずしまい。『神は劣れる風に調和を与えたまう』〔コリント前書〕――それとも、風が吹けば桶屋《おけや》が儲《もう》かるだったか知ら? あたしって、古い文句の引用はサッパリね、こんがらかっちまって……」
彼女は半時間かそこいら、こんな蓮っ葉な調子でわめいていた。しかし、この無感覚ともいえる精神状態が純粋なものなのかどうか、それとも、掩《おお》いかかる悲劇の屍衣を払い退《の》けようとする勝気の努力なのかどうか、わたしには確《しか》と見定めができなかった。ヴァンスは面白そうに、熱心に聞いていたが、少女には抑圧された精神から解放されるための情緒の吐《は》け口が必要なのだ、と言わんばかりの態度である。だが、立ち去るずっと以前から、彼は巧みに話題を誘導して、ありふれた世間話に変えてしまっていた。わたしたちが帰ろうとして立ち上がると、シーベラが、ぜひまたきてね、としきりに懇願した。
「あなたって、愉快な方ね、ヴァンスさん」と、彼女は言った。「あなたは、決して道学者じゃないわね。それに、喪中《もちゅう》のあたしに、一度だって悔やみをおっしゃらないんですもの。呆《あき》れた話だわ、ほんとに。あたしたちグリーン一族には、わんさと押しよせ、さめざめと涙の雨でかき濡《ぬ》らす親族もいないんですもの――もっとも、それがあったら、あたし自殺してしまってるわ、きっと」
ヴァンスとわたしは、それから一週間の間に二度訪問し、二度とも丁重に受け入れられた。シーベラの昂然《こうぜん》たる意気に変わりはなかった。彼女の家庭に、ああも突然、ああも出し抜けに襲いかかった戦慄と恐怖を彼女が感じ取っていたにしても、うまく隠し掩《おお》せていたと言う外はない。ただ、むきになってざっくばらんな話をしようとしたり、喪の悲しみの影を消そうとして誇張した言動を取ったりするところを見れば、この女は自分が直面させられた恐ろしい経験の影響から逃《のが》られないでいるのだ、ということがわたしにはよく分っていた。
ヴァンスは、度重なる訪問の間、犯罪事件のことに直接触れたことは一度もなかった。この態度を見て、わたしは何が何だかサッパリ分らなくなってしまった。彼が何かを探《さぐ》り当てようとしている――それに間違いはない。だが、いまやっているような、ちゃらんぽらんなやり方で、一体どんな進歩がえられるのか? そこのところがわたしには分らないのだ。もしもヴァンスという人間をよく知っていなかったとしたら、この男はシーベラに対して、個人的興味を覚えるようになったのだと、思いたくもなるくらいなのだ。だが、こんな下らぬ考えは、湧《わ》いてくるその鼻先から放《ほう》り出すことにわたしは決めていた。それにしても、わたしが見ていると、訪問を重ねるたびに、彼はいよいよ得体の知れぬ瞑想《めいそう》に沈みこんでしまうのである。ある晩など、ちょうどシーベラとお茶をいただいた後のことだったが、自分の居間の、暖炉の前に一時間も坐りこんだまま、ダ・ヴィンチの「トラッタート・デラ・ピッチュラ」〔絵画論〕をひろげたまま、一ページもめくらないでいたこともあった。
こうしたグリーン・マンションへの訪問のある晩、ヴァンスはレックスと逢《あ》って話をした。初めのうち、青年はわたしたちの姿を見ただけでも不機嫌で、むっつりとしていたが、わたしたちが引き上げる頃になると、ヴァンスと二人して、アインシュタインの相対性理論だとか、ムールトン・チェンバレンの微惑星仮説だとか、ポアンカレの数理論だとか、わたしのような、しがない俗人の理論をはるかに超《こ》えた次元の話題ばっかり取り上げて話し合っていた。レックスはすっかり議論に熱中してしまい、ほとんど友人に対する時のような態度を取り始めた。別れに際しては自分から手を出し、ヴァンスに握手を求めたくらいである。
またもう一つの訪問の際、ヴァンスはシーベラに頼んで、グリーン未亡人に敬意を表する機会をえた。これまでの警察による迷惑の段、くれぐれもお許し下さいますように――そう言う彼の弁明には、半公式の匂《にお》いがあった――という一言《ひとこと》で、忽ち老いたる貴婦人の優渥《ゆうあく》なるおぼしめしが彼の上に降りてきた。奥さんの健康には、わたしとしては憂慮おく能《あた》わざるものがあるのでありまして、と彼がいい、彼女の麻痺症について矢継早やの質問を連発した――脊髄痛の本質がどうだとか、興奮症状の兆候がどうだとか。彼の同情ありげな憂慮の風情《ふぜい》につい誘《さそ》われて、老婦人からも精緻《せいち》かつは詳細をきわめた人生悲歌が繰り拡《ひろ》げられた。
ヴァンスとエイダとの会談は二度に及んだ。こちらはもう床を離れていたが、腕にはまだ三角|巾《きん》を吊《つ》ったままである。なのに、どういうわけか、この女はヴァンスに近づかれると、|farouche《ファルーシュ》〔操が堅い、はにかみ、残忍ななどの矛盾した意味あり〕に見えてきた。ある日、わたしたちが邸内にいると、フォン・ブロンがやってきたが、ヴァンスは自分の身を退くことにした。まるで、自分がいたんじゃ医師が話がしにくかろうと言わんばかりなのだ。
前にも書いたが、こうした一見当り障《さわ》りのない社交儀礼のやりとりで事足れりとしている彼の動機はどこにあるのか、わたしはさっぱり見当がつかなかった。彼のほうから悲劇の話題に口火を切ったことはないのだし、あったとしても、世にも迂遠《うえん》な婉曲《えんきょく》話法でしかないのだ。というよりは、故意にこの話題を回避しているような様子さえ見える。それでも、わたしが気がついていたことがある。態度はどんなにさりげないものであるにせよ、彼は家じゅうの全員を綿密に観察していたのだ。どんな言葉の陰影も、どんな隠微な反応も、彼の注意から逃れるべくもなかった。彼がやっていることは――わたしには分っていたのだ――自分の対話の相手のひとりひとりについて、印象を蓄積し、行動の極致の態様までも分析し、心理の根元の源《みなもと》にまでメスを入れることだったのだ。
わたしたちが四度目か五度目かにグリーン・マンションを訪ねた時のことだった。あるエピソードが起こった。事件の後日の発展に解明の光を投げかけるという意味で、ここでこの挿話のことを書いておく必要がある。当時のわたしはこのことを大したこととは思っていなかった。にもかかわらず、この一見|些細《ささい》な事柄が、遠からずして、世にも険悪な意味を持つものであったことが判明する運命になっていたのだ。いや、事実は、このエピソードが存在しなかったとしたら、グリーン家の陰惨きわまりない悲劇がどんなに恐ろしい長丁場に発展したものやら、もはや想像を絶するものがあるからなのだ。それがそうならなかったというのも、ヴァンスが例の不思議な、精神の閃《ひらめ》きを発揮し――それはいつもは超絶的な直観による閃きとしか見えなかったけれども、じつは、永い時間をかけた、幽玄で深遠な合理の演繹《えんえき》による結果だったのだ――あわや危機寸前という瞬間になってこの挿話を回想し、すばやく他の事件との相関の糸を辿《たど》ったればこそなのである。それらの他の事件も、それ自体は瑣末《さまつ》なものに見えるかも知れないが、前記の事件と同調させ統合させる時、ある途方もない、恐ろしい意義を持つものであることがやがて判明するはずである。
チェスター・グリーンが死んで、二度目の週を迎えたころ、めだって温和な天気に変わった。数日の間は、美しい、晴れ上がった日が続き、空気は爽《さわや》かで、陽光に溢《あふ》れ、生々《せいせい》とした気分がみなぎっていた。雪も全く消えたくらいで、大地を踏む足取りにもしっかりしたものが感じられた。雪|解《ど》け後による、あのぬかるみも全くなかった。木曜日、ヴァンスとわたしは、いつもの訪問よりも早く、グリーン・マンションを訪れたが、門前にフォン・ブロン医師の車がパークしているのが見えた。
「おやおや!」と、ヴァンスが述べた。「望むらくは、侍医のパラケルスス〔稀代の錬金術師で、奇説珍談の持ち主。医学にも秀で、人間は霊魂を四つ持つという説を立て、プラトン以来の輪廻説に反対した〕どのがすぐに退去なさらぬといいのだがね。この男はぼくを魔界にひきずりこむんだ。グリーン家との関係は果たして奈辺《なへん》にありや? 思うだけに好奇心をイライラさせられる」
フォン・ブロンは、わたしたちがホールにはいってゆくと、もはや立ち去る寸前だった。シーベラとエイダが、そのすぐ背後に立っている。この様子では、二人とも医師と一緒に出掛けるところらしい。
「こうもいい天気なもんで」と、フォン・ブロンが幾らかあわてたように説明した。「若い娘さんたちをドライブに連れてゆこうと思いましてね」
「あなたとヴァン・ダインさん、一緒にいらっしゃいませよ」と、シーベラがすかさず合槌《あいづち》を打ち、ヴァンスに向って、主人役の笑顔を見せた。
「もしもお医者さんの気紛《きまぐ》れ運動が、あなたがたの心臓にさわるようでしたら、きっとあたしがハンドルを握りますわ。腕前だって、専門のお抱え運転手にも負けないのよ」
フォン・ブロンの顔に不快の色がサッと走るのをわたしは見たが、ヴァンスは躊躇《ちゅうちょ》なく招待を受け入れた。それから数瞬後、わたしたちは医師の大きなダイムラーに心地よく陣取って、市の中心を走っていた。シーベラは前方の席、運転者席の隣り、エイダを挟《はさ》んで、ヴァンスとわたしは後部席である。
車は第五番街《フィフス・アヴェニュ》を北に上り、右折してセントラル・パークを抜け、七十二丁目西口に出、それからまっすぐ『リバーサイド・ドライブ』に向った。ハドソン河が眼下に一枚の青草|毛氈《もうせん》のように拡がり、ニュージャージー側の断崖《だんがい》が、昼下がりの静かに澄み切った大気の中で、鮮かなエッチングを描き出していた。まるでドガの画のようだ。ダイクマン街道にきたところで左折して、道をブロードウェイに取り、さらに右折して、スパイチン・ダイヴィル道路を経て、バリサイド・アヴェニュに出た。ここからは水辺に沿う、古い、森のある別荘地が見渡せる。それから、生垣《いけがき》のはえた私道を抜け、再び町に向い、シカモア・アヴェニュに出、さらに走って、リバデール・ロードに出た。さらに北上して、ヨンカースを走り抜け、ノース・ブロードウェイでヘイスティングに出、さらにロング・ビュー丘の中腹を走った。ドッブズの渡しをも通過、ハドソン街道に入り、アーズレーにきてから、「カントリ・クラブ」のゴルフ場の横を西に右折し、とうとう、ハドソンと同じ水準のところに出てきた。アーズレーの停車場を越えると、道は狭い砂利道になり、河沿いの小高い丘を登ってゆく。車は幹線道路を東に取る代わりに、この閑散とした田舎道を走り、ついに一種の牧場地のような高台に出てきた。
そこからさらに進むこと一マイルそこそこで――ここはアーズレーとタリー・タウンの中間に当る――わたしたちの直接前面に、小さい、焦茶《こげちゃ》色の丘が大きく立ちはだかってきた。まるで丸い石だ。その麓《ふもと》にくると、道は急角度で右に折れ、そそり立つ岬《みさき》の鼻沿いに走っていた。このカーブは狭くて、危険なカーブだ。一方は丘の急傾斜面がそそり立ち、一方は河に面した、切り立つ岩の断崖絶壁になっている。落ち口の縁《へり》には、へなへなの木の柵《さく》を立てて、囲いにしてあるのだが、不注意な、まして無謀な運転者にとってはどれほどの保護に役立つものやら、言わずと知れた話だな、とわたしは思ったりしていた。
この急角度のS字路の一番外縁にきたところで、フォン・ブロンが車を停めた。車の前輪をまっすぐ断崖の縁に向けたままである。わたしたちの前面に開けてきた展望の何という素晴らしさ! なんマイルもなんマイルも、上も下も、ハドソンの壮大な眺《なが》めが一望の下に見える。しかも、この地点には、孤絶感さえ漂っている。背面の丘が、奥の陸地の視界を完全に遮《さえぎ》っているのだ。
わたしたちは数瞬坐ったまま、この壮観を飽《あ》かず眺めていた。やがて、シーベラがしゃべり出した。その声にはむらっ気が見えたけれども、同時に奇怪な挑発感がその生命を叩きこんでいるように見えた。
「まあ、殺人にはもってこいの場所じゃないこと!」と、彼女が叫び、絶壁の斜面に身体を乗出して見おろしている。「ひとを射殺するなんて危い橋を渡る必要もないもんだわ。ほれ、ご覧遊ばせ、この、こぢんまりした、かわいい柵まで、自動車で連れてきて、自分はさっさと飛び降り、後は野となれ山となれ――自動車もろとも――ここの崖からまっ逆さまに突き落とせば、それですむことだわ。また不幸な自動車事故が一つ、てなわけね――それに、誰だって金輪際分りっこなし……ほんとにあたし、真面目に犯罪をやってみようかしら?」
エイダの身体をさっと戦慄が走るのがわたしの肌に伝わってきたし、彼女の顔が蒼白になるのもわたしは気がついていた。シーベラの言葉は、この妹が最近経験したばかりの、あの恐ろしい拷問苦のことを考え合わせれば、非情、無思慮の謗《そし》りを免れないな、とわたしは思った。シーベラの言葉にひそむ、この残酷さには医師も気づいたらしく、驚愕《きょうがく》したような顔で彼女を振り返った。
ヴァンスはすばやい一|瞥《べつ》をエイダに投げかけると、張りつめた沈黙の中で白けきった空気を吹き飛ばすかのように、こんな軽口を叩いた。
「さりとても、われらラッパの響きに驚かざるべし、ですな、グリーンのお嬢さん。だってそうでしょう――このいと清き日に、汚れたる罪人のことをまじめに考えられる人間なんているもんじゃない。こんな時には、テーヌの風土説が特に心の慰めになるんですよ」
フォン・ブロンはなんにも言わず、ただ、叱責の眼をシーベラの顔から離さなかった。
「ねえ、戻りましょうよ」と、エイダが哀れげに絶叫し、まるで空気が急に冷たくなったとでもいうかのように、膝《ひざ》のローブに潜《もぐ》りこむような姿勢をした。
フォン・ブロンは一言もいわず、車をターンさせた。一瞬後、わたしたちはニューヨークへの帰路についていた。
第十三章 第三の悲劇
(十一月二十八日と十一月三十日)
つづく日曜日、十一月二十八日の夕刻、マーカムはモーラン警視とヒースをスタイヴィサント・クラブに招待し、非公式の会談を持った。ヴァンスとわたしは、彼と夕食を取った後だったので、二人の警察官が到着した時には、その場に居合わせた。一同はマーカム愛用のクラブの喫茶室の隅《すみ》に引き退《さが》ったが、すぐグリーン家殺人事件の一般討議に移った。
「呆《あき》れた話だよ、まったく」と警視は言ったが、その声はいつもよりも沈着だった。「捜査の重点にすることがなんにも浮んでこないとはね。これが一般的殺人事件だったら、たとえ本筋の線にすぐにはぶっつからんでも、辿《たど》ってゆく線が無数にあるものなんだ。ところが今度の件では、集中すべきものが絶無という体《てい》たらくだ」
「その事実自体がですよ」と、ヴァンスが応酬した。「本件のきわめて截然《せつぜん》たる特徴を示すものであって、これこそは看過すべからざる点なのである、とまあ言いたいですね。だってそうでしょう。これは重要かつ基本的な手掛りに違いない。この手掛りの表徴性にメスを入れることができたとしたら、われわれは既に解決への緒《ちょ》に就《つ》いたに等しい、とぼくは思いたい」
「すてきな手掛りもあったもんだ!」と、ヒースが愚痴《ぐち》って見せた。「警視どんのいうことにゃ、『巡査部長、おまえはどんな手掛りをつかんだかい?』そこであっしが言うことにゃ、『めっぽうすてきな手掛りをつかみやした』そこで警視どんが言うことにゃ、『そんならそれはどんな手掛りかね?』そこであっしが言うことにゃ、『どこからどうと手のつけられんという事実というのがその手掛りという奴で』ときたもんだ」
ヴァンスが微笑した。
「あなたは訓詁《くんこ》学の才能がおありだ、部長、ずぶのしろうとのぼくがですよ、表現しようと努力したことはこうなんだ。つまり、ある事件に手掛りが全く存在しないとする――ポアン・ド・デパルト〔出発点〕もなければ、標示となる兆候もない――こういう場合には、全体を一つの手掛りと見よ、ということですよ。いや、そういうよりは、全体を謎《なぞ》を解く要因の一つと考えて、まあ大過はないということですよ。なるほど、ここでの最大の困難は、こうした一見因果関係のない断片を因果の立つように嵌《は》めこんでゆくことにある。あえて言わせてもらうなら、この件でぼくらは少なくとも百個の手掛りを握っている。しかし、その一つとして、他との関連が取れない。取れない以上、その一つとして意義を持たない。この一件はよくある馬鹿げた文字合わせの謎解きみたいなもんだ。文字の配列が狂わせてあるのだから、目に見えないものは、意味のない、ごたごただけだ。解読者のなすべきことは、文字の順列・組み合わせを行い、なんらかの意味のある単語または文章に転換することだ」
「手掛りが百もあるとおっしゃいますがね、そのうち八つか十ばかり教えてもらうわけにはゆかねえですかい?」ヒースが皮肉たっぷりの注文を出した。「こっちはなにかこう、具体的なことに取っかかりたくてしようがねえんでさあ」
「先刻ご承知のことばかりですよ」と、ヴァンスは相手の冷やかし半分の手に乗ることを巧みに避けた。「そういっちゃなんだが、あなたが最初の警報に接してから起こったことのすべてを手掛りと見なしていいでしょうな」
「違いねえ!」と、巡査部長はまたもやむっつりとした陰鬱に沈みこんでしまった。「足跡、行方不明の拳銃、レックスが廊下で聞いた物音。ところがどうだ、こいつをみんなたぐっていった結末はどうかというに、ただの袋小路、にっちもさっちもゆかねえ」
「なるほど、あの一連のことはね!」と、ヴァンスが紫煙の環《わ》を上に吹き上げた。「そう、あれも手掛りといえば手掛りですよ。だけど、ぼくがもっと特定的にいわんとするのは、グリーン・マンションに存在するところの条件――あそこでの環境を統合するところの有機体――状況の心理的構成素因、そういったものなんだ」
「おい、おい、例によって形而上学説とか、幽界の霊の仮説だとか、脱線するのはもうよしたまえ」と、マーカムが辛辣《しんらつ》な調子で、不意に割り込んできた。「わたしらとしては二者選一の道しかない。実際的なモーダス・オペランディ〔運用論〕を求めるか、それとも潔く敗北を認めるかだ」
「これはしたり! マーカムよ、もし君が混沌《こんとん》的事実に統合を与えることもせず、秩序づけの作業も怠るというのなら、それだけでも君は敗北を自認したことになるんだぜ。しかも、その秩序づけを君がなしうるところの方法論はただ一つ――真摯《しんし》かつは徹底的な分析の過程だけなんだ」
「では、それだけでも意味のあることってのを、二つか三つ、示しておくんなさい」と、ヒースが挑戦した。「そしたら、あっしが手っとり早くまとめて見せまさあ」
「部長のいう通りだと思う」と、マーカムがコメントした。「君も認めろよ、わたしらは足掛かりになる、意義のある事実はまだ一つとして握ってないじゃないか」
「なあに、もっと出てくるさ」
モーラン警視がおやという顔をし、眼を細めた。「それはどういう意味です、ヴァンス先生?」どうやらヴァンスの言葉が警視の心にある共感の糸に触れたようである。
「終りはいまだきたらざるなりだ」と、ヴァンスがいつにもない暗鬱なしゃべり方をした。「画は点睛《てんせい》を欠いているんだ。いま一つの悲劇を見るまでは、この残忍絵の画布に有終の美はないんだ。しかも、この事の呪わしい点は、これを制する手段《てだて》がないということにある。いまのいま、既に働きつつある恐怖《おそれ》を阻《はば》める力はこの地上にはない。起こらんとすることは起こらしむべし」
「あなたもそうお感じでしたか!」警視の声はいつもの調子からは外れていた。「正直な話、しんからこんなに怖気《おじけ》立つ事件はわたしも初めてだ」
「おっと、警視どん、忘れちゃ困りますぜ」と、ヒースが反駁《はんばく》したが、あまり自信のある態度ではなかった。「あっしらは朝晩となく人間を張り込ませているんですぜ」
「それでは保障にならんでしょうよ。部長」と、ヴァンスが主張した。「殺人者《キラー》は既に邸内にあり。この殺人者こそ、あの屋敷の死を呼ぶ雰囲気と不可分の真髄をなすものなんだ、そこに在ること年久しく、壁の石そのものから滲み出る瘴癘《しょうれい》の気によって育《はぐく》まれてきた人間なんだ」
ヒースがはっと目を上げた。
「そいつは本家の一員ですかい? 先生はいつぞやもそんな話をなすってたじゃないですか?」
「必ずしもそうではない。しかし、トバイアス氏の父権的思想から生まれたところの、錯倒《さくとう》の状況に毒された誰かでしょうな」
「そこでどうだろう? あの家に人間を入れて、万事を監視させるという案は?」と、警視が提案した。「それとも、家族各員を説得して、分散させ、別々の住所に移すという方法もある」
ヴァンスがゆっくりと首を振った。
「邸内にスパイという案は無駄だと思いますね。いまでもみんながスパイなんじゃないですか? お互いにお互いを監視し合い、しかも恐れと疑いをもって監視し合っているんですからね。次に、家族の分散案ですが、財布の紐《ひも》をひとりで握っている老グリーン夫人が梃子《てこ》でも動かぬ障害になるだけじゃなく、トバイアスの遺言の結果として、あなた方役人が世にも厄介な法的|紛糾《ふんきゅう》に捲《ま》き込まれてしまうんじゃないですか。伝え聞くところによれば、四半世紀たっぷり、トバイアスの朽ち果てた肉体をば、蛆《うじ》が喰いちぎるまで、邸内に居続けなかった者は一ドルだってもらえないことになっている。のみならず、たとえ法律の力で、グリーン家の血統につながる、なけなしの人間をば分散させることに成功し、屋敷を閉鎖してしまったとしても、殺人者を封殺したことにはならないでしょう。そいつの心臓に、浄化の杭《くい》が叩きこまれる日まで、このことに終りはあらず、でしょうな」
「おい、おい、ヴァンスよ、今度は吸血鬼信奉論に宗旨替えかい?」今度の事件で、マーカムの神経は亢進《こうしん》の極に達していたのだった。「それじゃ家の周囲に呪いの輪を描き、玄関にはニンニクをぶらさげる、とくるんだろう?」
マーカムの自暴自棄を現わす、この度外れた評言こそ、わたしたち一同が落ちこんでいた絶望的精神状態をいみじくも物語るものであるように見えた。だから、そこには長い沈黙があった。
やっと気を取り直し、当面の問題の実務的な要因に皆の注意を最初に向けたのはヒースだった。
「さっきお話しのあった件ですがね、ヴァンス先生、つまり、グリーンの大将《だんな》の遺言の件。あっしもずっとあのことを考えてたんでさあ。だけど、その遺言の条項が全部分ったとしたら、何か役に立つことが見つかるんじゃねえですか。その屋敷にゃ何百万とかがあって、それがそっくり、あっしの探知したところによると、あのばあさんの遺産になっているというんでさあ。あっしが知りたいのは、それがそっくりばあさんの好き放題に処分できる権利があるかどうかということでさあ。次に、ばあさん自身がどんな遺言状をこしらえているかも知りたいもんですな。これだけの金がひっかかってるんじゃ、なんらかの動機にぶっつかるかも知れませんぜ」
「同感――同感!」ヴァンスが偽らぬ讃歎《さんたん》の目でヒースを見た。「これまでのところ、こんな分別に富む提案はなかったですよ。脱帽しますよ、部長。さよう、トバイアス大将の金が事件と関係を持つ、というのはありうることです。直接の関係はないかも知れない、多分ね。だが、その金が行使する影響力――つまり、金が作用するかくされた力――こいつが、この一連の犯罪と絡《から》んでいることに疑いはない――どう思うかい、マーカム? 第三者の遺言状の内容を探知するには、どうやればいいのかい?」
マーカムがこの点について熟考した。
「現在の場合、大きな困難があるとは思えないね。トバイアス・グリーンの遺言は、もちろん、法廷記録になっているが、遺言検証判事の登記簿を閲覧するまでには少々時間を要するだろう。それから運よくぼくはバックウェイのおやじとのつき合いもある。グリーン家顧問弁護士のバックウェイ・アンド・オールダイン法律事務所の上席株主だよ。先生とはこのクラブでも時に顔を合わせるし、一回か二回、先生のために手心を加えてやったこともある。こっそりグリーンの遺言状の条項を教えてくれるように頼みこめるだろうと思う。明日になったら、できるだけのことをしてみよう」
半時間後、会議は解散し、わたしたちは家に戻った。
「ぼくの悪い予感だが、あの遺言状も大した役には立たんのじゃないかね」ヴァンスがその夜遅く、暖炉の前でハイボールをすすりながら言い出した。「この奇っ怪な事件の要素はみんなそうだが、どれもがある意義を持っているには違いないんだが、それが把握《はあく》できるのは、最後の画に当て嵌《は》める場所が見つかってからのことじゃないのかね?」
彼は立ち上がり、本|棚《だな》へ歩みよると、小さい書籍を取り出した。
「どれ、ここ当分〔プロ・テンポーレ〕はグリーン家のことは念頭から没却することにして、『サテュリコン』〔古代ローマの作家ペトロニウスの代表作〕にでも耽《ふけ》ってみるか。群小の史家はローマの凋落の理由について侃々諤々《かんかんがくがく》の説を立てているがね。とわに正しき答えは、この町の頽廃を描いたペトロニウスの不滅の古典にちゃんと用意されているのさ」
彼は腰を落ちつけると、本のページをめくった。だが、彼の態度には集中心は全然なく、眼は絶え間なくテキストからさまよい出していた。
二日後――十一月三十日、火曜日――午前十時を少しまわった頃、マーカムがヴァンスに電話をよこし、直ちに事務所にきてくれということだった。ヴァンスは「近代美術館」で催されている黒人彫刻の展覧会にまさに出掛けようとしている時だったが、この贅沢《ぜいたく》は、地方検事の緊急指令を尊重して、無期延期とすることにした。そして、半時間もしないうちに、わたしたちは刑事裁判所ビルに到着していた。
「けさエイダ・グリーンから呼び出しがあってね、すぐにもわたしに逢《あ》いたいということだった」と、マーカムが説明した。「そこで、ヒースをやりましょう、必要ならばわたしも後で出向きますと言ってやったところ、彼女は特別な理由でもあるのか、そうしてもらいたくない、自分がやってくると言って頑張るんだ。家を離れたほうがもっと自由にしゃべれる事柄だと言うんだね。どういうわけか、気が顛倒しているらしく、そこでわたしもすぐいらっしゃいと言ったわけだ。それから君に電話し、ヒースにも通告した、とこういうわけだ」
ヴァンスが腰を落ちつけ、煙草に火をつけた。
「あの少女が環境の雰囲気を払い落とそうとして、どんな機会だろうが捉えようとしたにしても、異とするには当らないだろう。それにだよ、マーカム、あの女はぼくらの捜査にとって、大きな価値のあることを何か知っているというのが、ぼくの達した結論でもあるんだ。だってそうだろう、大いにありうることじゃないのかね。あの女が心に秘めていたことを、われわれに話してみようという点にいまようやく到着したんだと」
ヴァンスがまだしゃべっているうちに、ヒースが案内されてきたので、マーカムが簡潔に状況を説明してやった。
「あっしが思うにですよ」と、ヒースがむっつりといったが、大した興味はなさそうである。「こっちにとっちゃ、これがいとぐち発見の最後のチャンスなんじゃねえですかね。これまでのところ、こっちの手で挙《あ》げたのはガセネタばっかりだったでしょう。どいつだろうがかまわん、ネタを二、三|吐《は》いてくれんことにゃ、こっちはもうあがったりというところでさあ」
十分後、エイダ・グリーンが案内されて事務所に入ってきた。顔の青味はなくなり、腕にはもう三角|巾《きん》も吊《つ》っていなかったけれども、衰弱の印象はまだ痛々しかった。しかし、これまでの特徴だった、あのおどおどしたというのか、尻込《しりご》みするというのか、あんな物腰はきれいになくなっていた。
彼女はマーカムの机の正面に坐り、暫くは、どう切り出したものか、騒ぐ心と争ってでもいるかのように、日光を見て眉をひそめていた。
「じつは、レックスのことなんです、マーカムさん」と、やっと彼女が言った。「あたくし、ここへくるべきだったのかどうか、ほんとに分らなくなってしまいますわ――自分が大変な不忠者になるのかも知れないんだし……」自分の優柔不断を訴えて、人に分ってもらおうとするような視線を、彼女はマーカムに向けた。「ああ、教えて下さいまし、もしある人間があることを知っている――それは悪いことで、危険なことだということを知っている――しかも相手は、とっても自分に近い、とっても自分に親愛な人物だったとした場合、その人間は告げ口をしても許されるのでしょうか? たとえそのことで相手の人物が恐ろしい罰を受けることになるかも知れないと分っていたとしたら?」
「それは状況によりけりです」と、マーカムが荘重に回答した。「現在の局面では、あなたの姉さんと兄さんの殺人事件に関する解決に役立つことを、もしあなたが知っているというのなら、話すのはあなたの義務です」
「たとえそのことがあたしを信用して、打ち明けられたことであってもですの?」と、彼女が執拗《しつよう》に喰い下がった。「それに、たとえその人間があたしの家族の一員であってもですの?」
「たとえそのような条件の下でも、と、わたしは考えます」と、マーカムが父性愛のこもったしゃべり方をした。「世にも恐るべき犯罪が二つも犯されているのですよ。殺人者を正義の裁きに付《ふ》すためのものであれば、なにごとによらず、絶対に隠し立てをしてはいけません――相手が誰であろうとも」
少女は自分の心騒ぐ表情を現わした顔をふと横に外《そ》らしたが、やがて、突如決心したかのように、かぶりを上げた。
「じゃ、お話します……いいですこと、あなたはレックスに向って、あたしの部屋の銃声を聞いたかって訊問なさいましたわね。ところがレックスは、それは聞かなかったと答えました。なんと、あの人、あたしに打ち明けたんですのよ、マーカムさん。事実、あの銃声を聞いたんですって。だけど、それをあなたに言うと、自分が起き上がってゆき、みんなに知らせなかったとは変じゃないかってあなたに思われるのがいやで、認めるのが怖《こわ》かったんですって」
「一体、どんな理由があれば、レックスは寝台で黙って起きていたのに、みんなには寝ていたふりをしたんだとあなたは考えますか?」マーカムは少女の情報が自分の心に掻き立てた烈しい興味を抑制しようと、しきりに努めていた。
「そこがあたしにも分らないのです。彼は言ってもくれないし。だけど、きっと理由があったのですわ――あったに決まってますわ――心から恐ろしがっている、なにかある理由があったにきまってますわ。あたし、教えてくれって頼んだんですけれども、レックスって、こうとしか説明してくれないんですのよ、銃声だけが聞えたんじゃない……」
「銃声だけが聞えたんじゃない!」マーカムがいまは興奮を隠し切れず、鸚鵡《おうむ》返しに言っていた。「では、他にもなんらかの音を聞いたが、あなたの話によると、それも彼をしんから恐怖に追いやった原因だ、というんですね? しかし、そうならそうと、あの時われわれに言えばよさそうなものだが?」
「そこが不思議なとこなの。あたしが尋ねると、かんかんに怒ってしまって。だけど、なにか知っていることがあるに違いないのです――なにか世にも恐ろしい秘密が。あたしはきっとそうだと思います……。ああ、あたしって、やはり、お話すべきではなかったのだわ。これでレックスはきっと検挙されることになりますわね。だけど、やはりあんな恐ろしい事が起こってしまったのですもの、あなたには知っていただかなくてはと、あたし、そう思ったものですから。それにあなたにお話したら、あなたがレックスにお話になり、彼が何を心に秘めているのか、あなたの力で白状させるようになさるだろうと思ったものですから」
再び彼女が懇願するようにマーカムを見やったが、その瞳には、ある得体の知れぬ恐怖に対して人間が示す、あの不安の色があった。
「ああ、心からお願いしますわ。どうか彼に訊《たず》ねて下さいまし――そして――きっと見つけて」と、彼女は哀願の口調でいい続けた。「きっと、あたしが――もっと安全になれるように――もしも――もしも……」
マーカムがうなずき、彼女の手を優しく叩いた。
「われわれの全力をつくして、きっと語らせて見せます」
「でも、あの家ではやらないで下さいまし」と、彼女がすばやく言った。「しもじもの人間もいますし――なにやらと物事も――あたりには。レックスだって、怖気づいてしまうでしょう。ここにこい、と言って下さい、マーカムさん。あの恐ろしい場所に彼をいさせないで、お願いです。あそこでは壁に耳あり、しゃべればきっと誰かに聞かれてしまうのです。レックスはいま家にいます。ここにこい、と言って下さい。あたしもきているって言って下さい。きっとあたしだって、彼によく言ってやるお手伝いができますわ……。ああ、お願いです。どうぞそうして下さい、マーカムさん!」
マーカムが時計をちらと見、面会予定表に目を走らせた。彼としても、レックスを訊問のため出頭させたいという熱意にかけては、エイダに劣らないものがあることはわたしには分っていた。やがて、一瞬のためらいの後、彼が受話器を取り上げると、スワッカーに命じて、グリーン家につないでくれと言った。続いて起こった会話をわたしが聞いていた限りでは、レックスに検事局までくるように説明するのに相当苦労していることが明らかだった。その証拠に、やっと目的に成功するまでには、強制執行がどうのこうのと、法的|威嚇《いかく》までも、言外に匂わすという手段を弄《ろう》したからである。
「あの男は明らかに罠《わな》にかかるのを怖がっていますよ」と、マーカムが受話器を元に戻しながら、考え込むようにコメントした。「しかし、直ちに着換えをしてやってくると約束してくれました」
ほっとした表情が若い女の顔を走った。
「もう一つ、あなたにお話しなければならないことがありますの」と、彼女があわてて言った。「大したことじゃないかも知れませんけど。先夜、一階の廊下の奥、階段の近くで、あたし、一枚の紙切れを拾いましたの――ノートのちぎれ紙みたいな。それにはうちの二階の四つの寝室の図面が書いてあって、インキで小さい×印が四つつけてあるのです――一つはジュリアの部屋、一つはチェスターの部屋、一つはレックスの部屋、そして後の一つがあたしの部屋です。そして、下の隅っこに、世にも変てこな符号というのか画というのかが数個書いてありますの。一つはハートに三本の釘《くぎ》が刺さったもの、一つは、なんだか鸚鵡みたいなもの。それからもう一つは、三つの小石とその下に一本の線を引いたみたいなものの画……」
ヒースがガバッと前面に乗り出した。例の葉巻も半分口の途中でやめてしまっている。
「鸚鵡に石が三つだと……いいかね、グリーンのお嬢さん、鸚鵡には矢があって、それには番号がついていたでしょう?」
「そうなの」と、彼女が熱心に答えた。「それだって、そこにあったわ」
ヒースが葉巻を口に持ってゆき、猛然たる満足感で、噛み潰《つぶ》した。
「こいつは曰《いわ》くつきですぜ、マーカム検事」と、彼が宣言したが、声からは動揺を隠そうと懸命だ。「そのものは表徴《シンボル》というもので――やつらは符牒《ふちょう》といってやすがね――ヨーロッパ大陸の香具師《やし》仲間、とくにドイツとオーストリアに多いんです」
「石はですよ、浅学非才《せんがくひさい》のぼくの知るところ」と、ヴァンスが横から口を出した。「殉教者聖ステパノの証人《あかしびと》の思想を現わす表徴ですよ。汝《なんじ》石もて殺さる、ってあるでしょう? オーストリアはスチリア地方の百姓暦によると、石は聖ステパノの表象になっている」〔もちろん、ヴァンスの駄じゃれ。S音のさわやかな頭韻を踏み、スチリアが石を語源にすることへの連想であろう。大体、聖ステパノの教派も教会もない〕
「そこへくるてえと、あっしは学がねえんですがね、先生」と、ヒースが答えた。「だが、あっしの知ってるのは、ヨーロッパの香具師仲間でこの符牒がはやってるってことでさあ」
「そうそう、そうに違いない。ぼくがジプシー族の表象言語を調べていた頃、やたらと石に出っくわしたもんだ。こよなくも心ときめく研究題目でね」ヴァンスはエイダの発見には全く興味がないかのようである。
「その紙切れを手許にお持ちですか、グリーンのお嬢さん?」と、マーカムが尋ねた。
「あら、すみません」と、彼女が弁解した。「重要だとは思わなかったもんだから。持ってこなかえればならぬほどのものだったのですの?」
「あんた、破って棄てたんじゃなかろうね?」と、ヒースが興奮して、横から質問した。
「どういたしまして。安全に持っていますわ。しまったところは……」
「こいつは絶対、その紙切れを入手せねばならんです、マーカム検事」巡査部長は立ち上がり、地方検事の机に歩みよった。「こいつが捜してた糸口《いとぐち》に違えねえです」
「みなさんがそんなにほしいとおっしゃるんなら」と、エイダが言った。「あたしからレックスに電話して、持ってくるように言いますわ、あたしが説明すれば、在りかは分るでしょうから」
「そいつはいいや。そんなら出掛ける手数も省けるし」ヒースがマーカムにうなずいて見せた。
「奴さんが出掛けんうちに、きっと捜して下さいよ、検事」
受話器を取り上げると、再びマーカムがスワッカーに命じ、レックスを電話口に出せと言った。暫しの遅れの後、通話がつながり、検事が受話器をエイダに渡した。
「ハロー、レックス、あなたなの」と、彼女が言った。「怒っちゃいや。心配すること、なんにもないわ。……あなたにお願いしたいことがあるの。ほら、あたしたちの秘密の郵便箱ね。あそこにあたしの個人用の青い便箋を入れた封筒があるわ、それを取って、マーカム検事さんの事務所に持ってきて下さらない? いいこと、取るところを人に見られちゃ駄目よ……それだけよ、レックス、さ、急いで、ダウン・タウンで一緒にお食事をしましょうよ」
「グリーン氏の到着までは、少なくとも三十分はかかるでしょうから」と、マーカムが言い、ヴァンスのほうを振り返り――「ぼくは応接間一杯の客を待たせているんだ。なんなら君とヴァン・ダイン君とで、若いお嬢さんを株式取引場に案内したらどうかね。死にもの狂いの仲買人たちの狂態ぶりも一興だろうよ。いかがです、お嬢さん?」
「すばらしいわ!」と、少女が絶叫した。
「君もお伴させてもらったら、部長?」
「あっしがですかい?」と、ヒースが鼻息を吹いた。「頭にくるのは、もうようござんす。あっしはひとっぱしり、司令のところにいって話しこんでいまさあ」
ヴァンスとエイダとわたしは数ブロックではあったが、車でブロード・ストリート十八番地までゆき、エレベーターに乗り、待合室を通り〔ここで制服の守衛が強制的にわたしたちの外套を脱がせた〕、それから、取引場の立合会場を見下ろす参観者用の二階席に出ていった。この日、市場は異常な活況を呈していた。地獄の伏魔殿さながらの会場は耳を聾《ろう》せんばかりで、取引掲示板あたりの熱狂ぶりは、どこか逆上した暴徒の蜂起《ほうき》を思わせた。わたしはこの光景には見慣れていたので、特にどうという感銘は受けなかったし、ヴァンスはヴァンスで、本来が騒音と無秩序をしんから嫌いなのだから、うんざりした顔に苦悩まで現わしながら見ていた。しかし、エイダの顔は忽ち輝き出した。瞳は閃《ひらめ》き、頬は紅潮している。らんかんから身を乗り出し、魅せられた人の呪縛《じゅばく》状態にあった。
「ほら、見えるでしょう、グリーンのお嬢さん、人間が時にいかに愚かなるものかを」と、ヴァンスが言った。
「ええ、でも、なんてすばらしいんでしょう!」と、彼女が答えた。「だって、あの人たち、生きていますわ。人生を感じていますわ。戦う目標を持っていますわ」
「自分でもあんなのが好きになれると思いますか?」と、ヴァンスが微笑した。
「あたし、讃美してよ。あたしって、いつもなにかわくわくすることに憧《あこが》れているの――なにか……あんなね……」彼女が下のおし合いへし合いする群集を片手で指した。
あの荒涼たるグリーン・マンションで何年も、病人相手の単調な奉仕に過ごしてきた彼女にしてみれば、この反応は容易に理解できることではある。
ふとわたしが目を上げた瞬間、驚いたことに、ヒースが入口に立って、参観者の間をしきりに捜しているのが見えた。その姿は、心の騒ぐような、いつにもなく凄《すご》いもので、首をふりふり見渡している様子にも、苛立《いらだ》った熱気があった。わたしが手を挙げて、彼の注意を促すと、彼が忽ちこっちへやってきた。
「親分がすぐあなたにきてくれと言うとります、ヴァンス先生」その口調には容易ならぬ不吉なものがあった。「あっしに連れてこいという命令でして」
エイダが部長をじっと見つめたが、恐怖の青味が一筋さっと顔に拡がった。
「おや! おや!」と、ヴァンスが仕方がないという真似ごとに、肩をすくめて見せた。「せっかく面白くなりかけていたところなのになあ! されど、親分の命令とあらば是非《ぜひ》もなし――てなもんじゃないですか、ね、お嬢さん?」
だが、ヴァンスがマーカムの予期せぬ召喚命令を盛んにひやかして見せたにもかかわらず、エイダは得体の知れぬ沈黙に陥ったままだった。車で検事局に帰る間も、一言もしゃべらず、つんと坐ったっきり、何も見ていないはずの目でただ虚空を睨んでいた。
刑事裁判所ビルに戻りつくまで、それは無限の時の連続のように見えた。交通はこんでいたし、エレベーターですら、長く待たされてしまった。ヴァンスは冷静に状況を受け取っているように見えたが、ヒースの唇はぐっと締まったきり、鼻の息もはずんでいて、まるでぴんと張りこめた興奮に圧倒され、もだえている人間のようだ。
地方検事局にはいってゆくと、マーカムが席を立ち、少女にむかって、この上もない慈愛の眼差《まなざ》しを送った。
「しっかりしなくてはいけませんよ、お嬢さん」と、彼が静かな、同情をこめた声で言った。「なにか悲劇的な、予想外のことが起こったようです。遅かれ早かれ、誰かがお知らせしなければ――」
「レックスなんでしょう!」彼女がへなへなと、マーカムの机の前面にある椅子の中に崩《くず》れ落ちた。
「そうです」と、彼がやわらかに言った。「レックスです。皆さんが出掛けて二、三分後、スプルートから電話があり……」
「そして射殺されたんでしょう――ジュリアとチェスターとそっくりだわ!」彼女の言葉はほとんど聞き取れなかったが、それはうす汚い、古い事務所を恐怖感で襲った。
マーカムが首を傾《かし》げた。
「あなたが直接電話でお話しになってから五分としない頃、誰かがレックスの部屋に入り、彼を撃ったのです」
乾いたすすり泣きが少女の身体を揺さぶった。彼女は両腕の間に顔を埋めた。
マーカムが机をまわり、片手をやさしく少女の肩に置いた。
「まともに直面するしかないんだ、いい子だ」と、彼が言った。「わたしたちは直ちに家に赴《おもむ》き、全力を尽すつもりです。あなたも一緒の車できませんか?」
「ああ、あたし、帰りたくありません」と、彼女が呻《うめ》いた。「あたし恐いわ――あたし恐いわ……」(つづく)
◆グリーン家殺人事件(上)◆
ヴァン・ダイン/坂下昇訳
二〇〇六年二月二十五日 Ver1