ヴァン・ダイン/井内雄四郎訳
ベンスン殺人事件
目 次
はしがき
一 ファイロ・ヴァンスくつろぐ
二 犯罪の現場で
三 女のハンドバッグ
四 家政婦の陳述
五 情報収集
六 ヴァンス意見を述べる
七 報告と訊問
八 ヴァンス挑戦に応じる
九 犯人の身長
十 容疑者ひとり消える
十一 動機と脅迫
十二 四十五口径コルトの所有者
十三 グレイのキャディラック
十四 鎖の環
十五 ファイフイー専用
十六 認めたことと隠したこと
十七 偽造小切手
十八 自供
十九 ヴァンス反対訊問をする
二十 セント・クレアの説明
二十一 かつらの啓示
二十二 ヴァンス自説を説明する
二十三 アリバイ調べ
二十四 逮捕
二十五 ヴァンスその方法を説明する
解説
登場人物
ファイロ・ヴァンス……博識の素人探偵
ジョン・F・X・マーカム……ニューヨーク州の地方検事
アルヴィン・H・ベンスン……ウォール街の株仲買人
アンソニー・ベンスン少佐……その兄
アンナ・プラッツ……アルヴィン・ベンスンの家政婦
ミュリエル・セント・クレア……若い美貌の歌手
フィリップ・リーコック大尉……セント・クレアの婚約者
リアンダー・ファイフィー……ベンスンの親友
ポーラ・バニング……ファイフィーの女友だち
エルシー・ホフマン……ベンスンの秘書
ビグスビー・オストランダー大佐……退役軍人
ウィリアム・M・モラン……刑事課課長
アーネスト・ヒース……殺人課の部長刑事
オブライエン……ニューヨーク警察警視正
「メイスンさん」と彼はいった。「命を助けていただいて、ありがとうございました」
「どういたしまして」とメイスンはいった。「わたしはあなたの命には関心ありません。わたしの唯一の関心は、あなたの問題をきちんとすることだけでした」
ランドルフ・メイスン『運命を正す者』
はしがき
もし皆さんがニューヨーク市の統計をご覧になれば、ジョン・F・X・マーカムが地方検事をつとめた四年間は、未解決の重要犯罪の件数が、その前任者のだれの在任期間よりも、はるかに少なかったことを見出されるにちがいない。同検事は地方検事局にあらゆる犯罪捜査方法を採用し、その結果、警察が迷宮入りかとあきらめていた多くの難事件が、ついに解決されたのである。
しかし、同検事は多くの重大な起訴に個人的にかかわりあい、有罪の判決を獲得したとされているが、実は同検事は、多くの有名な事件において、たんに人形として存在したにすぎず、実際にそれらの事件を解決し、検察側に証拠を提供した人物は、市当局とはまったく無関係であり、かつて世間の目にふれたこともない。
当時たまたまわたしはこの人物の法律顧問であり、かつその個人的な友人であった関係から、この驚くべき奇妙な事情を知ることができたのである。しかし、つい最近まで、わたしはそれらの事実をおおやけにする自由を持たず、現在ですら、その人物の名を洩らすことを許されていない。そのため、わたしは以下の ex-officio(職務上の)の報告を通じて、くだんの人物をかりにファイロ・ヴァンスと呼ぶことにした。
むろん、この人物の知人のうちには、わたしの報告を読んで、その正体を推測できる方もいるだろう。そうだとしたら、わたしはそれらの方々に、その秘密を守ってくださるようお願いしたい。というのは、当の人物は目下イタリアに行って暮らしており、自らが唯一の中心的役割を演じたかずかずの難事件の記録を、おおやけにすることをわたしに許しはしたものの、その名を伏せておくことを強くわたしに求めているからである。そして、わたしは自分の思慮のなさから、彼の秘密が世間に知れわたることを好まない。
この物語は、あの悪名高いベンスン殺人事件を、ヴァンスがどのように解決したかを述べようとするものである。実際この事件は、その犯行の意外性、関係人物の著名さ、法廷にもち出された驚くべき証拠によって、ニューヨークの犯罪史上でもまれにみる興味深いものといえた。このセンセーショナルな事件は、ファイロ・ヴァンスが、マーカム検事の捜査で一種の amicus criae(法廷の助言者)として登場した多くの事件の最初のものだった。
ニューヨークにて
S・S・ヴァン・ダイン
一 ファイロ・ヴァンスくつろぐ
六月十四日金曜日午前八時三十分
あの重大な六月十四日の朝、アルヴィン・H・ベンスンの殺害された死体が発見されたとき──それは今なおさめやらぬセンセーションを巻き起こしたのだが──わたしはたまたまファイロ・ヴァンスのアパートで、彼と朝食中だった。ヴァンスと昼食や夕食をともにするのは珍しくはなかったが、朝食をともにするのは、ちょっとした出来事であった。ヴァンスは朝寝坊で、昼の食事までは incommunicado(部屋に閉じこもっている)のが普通だったからである。
こうして早朝から会ったのは、事務上の、というよりはむしろ、美学上の問題からだった。前日の午後、ヴァンスはケスラー画廊で催されたヴォラール〔フランスの画商。印象派の画家のコレクションで有名。著書に『セザンヌ伝』などがある〕のセザンヌの水彩画のコレクションを下見して、とくに気に入った作品を数点見つけたので、その買い入れについての指示を与えるため、わたしをこの早朝の朝食にまねいたのである。
ここで、この物語の語り手としてのわたしの役割を明らかにするために、わたしとヴァンスの関係について、一言述べておく必要がある。わたしの家庭には、法律の伝統が深く根をおろしている。だから、高校をおえると、わたしもほとんど当然のようにハーヴァード大学の法学部に入れられた。わたしがヴァンスに出会ったのは、そこでだった。そのころのヴァンスは、よそよそしく、皮肉で、辛辣な新入生で、教授にはきらわれ、級友にはおそれられる存在であった。その彼が、教室を離れた友人として、よりによって大勢の在学生のなかから、なぜわたしを選んだのかは、今もってよくわからない。他方、わたしがヴァンスを好きになった理由は簡単明瞭である。彼はわたしを魅惑し、興味をいだかせ、新しい種類の知的な気晴しを与えたのだ。しかし、彼がわたしを好きになったのは、こういう魅力がわたしにあったからではない。昔も今も、わたしは平凡な男で、保守的な、型にはまった精神の持ち主だ。だが、少なくとも、わたしの精神はこわばっていなかったし、重苦しい法律手続きにはあまり感銘を受けなかった。わたしが親ゆずりの職業を好きになれなかったのは、そのためであり、そういう特徴が、ヴァンスの心に、無意識のうちに、ある種の親近感をいだかせたのだろう。たしかに、わたしがヴァンスの気に入ったのは、一種の引立て役、ないしは避難場所としてであり、彼はわたしのなかに自分の性格にないものを感じとったのだ、というあまりありがたくない説明も成り立つだろう。しかし、理由がなんであれ、わたしたちはいつもいっしょであり、歳月がたつにつれて、二人の交際は離れがたい友情にまで実をむすんだのである。
卒業と同時に、わたしは父の法律事務所、ヴァン・ダイン・アンド・デイヴィスに入り、五年間の退屈な見習期間のあと、若い共同経営者となった。現在、わたしはブロードウェイ二一〇番地に事務所を持つヴァン・ダイン・デイヴィス・アンド・ヴァン・ダイン法律事務所の次席ヴァン・ダインである。わたしの名が事務所の便箋の頭書にはじめてのったちょうどそのころ、ヴァンスはヨーロッバから帰国した。わたしの見習期間中、ヴァンスは向うで暮らしていたのである。そして、おばが亡くなり、そのおもな遺産相続人に定められた関係で、わたしを訪れ、相続した財産を入手するためのいろいろな技術的手続きを委任した。
この仕事は、わたしたちの間の新しい、いくぶん風変わりな関係のはじまりとなった。ヴァンスは、事務的な処理をするのが、いっさい大嫌いときているので、いつのまにやら、わたしが彼のあらゆる金銭関係の後見人、代理人ということになった。ヴァンス関係の仕事はあれこれあって、わたしが法律問題にさこうとする時間をすべて占めてしまうことがわかったし、かつヴァンスは、いわばおかかえの法律上の雑役夫を持つだけの贅沢ができたので、わたしは事務所の机を永遠に閉じ、もっぱら彼の必要と気まぐれに奉仕することにした。
ヴァンスがセザンヌの絵を買う相談をしにわたしを呼びよせた日まで、わたしの心のなかに、ヴァン・ダイン・デイヴィス・アンド・ヴァン・ダイン法律事務所から、わたしのささやかな法律的才能を奪ったことにたいして、なんらかの後悔の気持を隠し持ち、あるいは押し殺していたとしても、あの重大な朝を契機として、その気持は永久に消えてしまった。というのは、あの有名なベンスン殺人事件をはじめとして、その後ほとんど四年の間わたしは、若い弁護士などがめったにおめにかからないような驚くべき犯罪事件を目撃する特権に恵まれたからである。実際、その間わたしが目撃したぞっとするような多くの劇は、わが国警察史上のもっとも驚くべき秘録の一部を形づくるものである。
ファイロ・ヴァンスは、これらの劇の中心人物であった。わたしの知るかぎり、かつて犯罪捜査に適用されたことがないような分析的・演繹的手法によって、ヴァンスは警察も、地方検事局もあきらめて投げ出した多くの重大な犯罪を解決することに成功した。
ヴァンスとの特別な関係のために、わたしは彼が手を貸したすべての事件に関与したばかりでなく、彼と地方検事の間でかわされた事件に関する非公式の討議のほとんどに同席した。そして、元来きちょうめんな性質だったので、かなり完全にその記録をつけておいた。そのうえ、ヴァンスがときどき説明してくれるあの独自の、犯人を決定する心理的方法を、記憶の許すかぎり正確に、書きとめておいたのだ。こうして、わたしが一文の得にもならない努力をして、資料を集めたり、記録したりしたことは幸運だった。なぜなら、今、事情が変わって、思いがけずわたしの記録をおおやけにできるようになってみると、わたしはそれらの事件を、その間のさまざまな副筋や、継続しておこった段階にわたって、すべてことこまかく提示できるからである。この仕事は、もしわたしのおびただしい書抜きや、adversaria(雑多な蒐集)がなかったら、不可能だったと思われる。
ヴァンスを横道にひきこんだ最初の事件が、アルヴィン・ベンスン殺人事件だったことも幸いした。この事件は、ニューヨークの causes celebres(世間の注目を集めた裁判)のなかでも、もっとも評判になったばかりでなく、ヴァンスにその稀有の推理力を発揮する絶好の機会を与え、事件の性格と重大さから、これまでヴァンスの日頃の好みや、気質とはまるで無縁の活動分野に、彼の関心をよびおこしたからだ。
この事件は、ヴァンス自身が一月まえ、なにげなく地方検事に注文して、知らぬまに自らの平凡な日常生活を破壊することになったとはいうものの、いわば思いがけず、突然に彼の生活に侵入してきたかたちだった。それは、六月なかばのあの朝、わたしたちが朝食を終えないうちに降りかかり、セザンヌの絵を買う件を一時中止させてしまったのだ。その日おそく、わたしがケスラー画廊におもむくと、ヴァンスがとくに欲しがっていた水彩画のうち、すでに二枚が売却済だった。ヴァンスはベンスン殺人事件の謎を解くのに成功し、少なくともひとりの無罪の人間が逮捕されるのを救ってやったにもかかわらず、今日にいたるまで、それで自分が欲しがっていた二枚の小さなスケッチを買いそこねたのが完全につぐなわれたとは、決して感じていないようである。
その朝、わたしが、ヴァンスの執事であり、従者であり、家令であり、ときとしては特別料理人である、得がたい老イギリス人の召使カーリーの案内で居間に入ると、ヴァンスは、あや絹のドレッシング・ガウンに、グレーのスエードのスリッパをはき、ヴォラールの『セザンヌ伝』を膝の上にひろげて、大きな肘かけ椅子に坐っているところだった。
「坐ったままで失礼するよ、ヴァン」と、ヴァンスはのんびりと声をかけた。「ぼくの膝には、近代美術の発展の重みが全部のっているんだからねえ。それに、こうして平民同様に早起きすると疲れるよ」そういいながら、彼は『セザンヌ伝』のページをめくっては、あちらこちらの複製の挿絵をじっと眺めていた。
「このヴォラール先生は」と、ようやくヴァンスは口を開いた。「芸術恐怖症のわが国に、なかなか気前のいいところを見せたもんだ。実際、今度こちらに送られてきたセザンヌのコレクションは立派なものだ。ぼくは昨日うやうやしく拝見させていただいた。もっとも、ケスラー先生がずっとこっちを見張っていたんで、無関心なふりを装ったが。その際、今朝画廊が開きしだい、きみに買ってきてもらいたい作品をマークしておいたよ」そういいながら、ヴァンスはしおり代りに使っていた小さなカタログを渡した。「いやな役目を仰せつかった、といいたいんだろう」とヴァンスはもの憂げに微笑して、つけたした。「小さなマークのついたこの白い紙なんか、法律でこりかたまったきみの頭には、たぶんなんの意味も持たないだろうからね。まったく、きちんとタイプした法律書類とは、似ても似つかぬ代物だ。なかには、さかさに掛けてあるんじゃないかと思う絵もあるだろう。実際、一枚はそのとおりで、ケスラー先生さえご存知ない。しかし、心配ご無用、ヴァン。とっても美しい、値打ちのある小品で、数年後の値段を考えると、むしろ安いくらいだ。実際お金をありがたがる連中には、すばらしい投資になる。アガサおばが亡くなったとき、きみが雄弁をふるってすすめてくれたローヤーズ・エクイティ株なんかより何万倍もいい(事実、ヴァンスが二百五十ドルと三百ドルで入手した水彩画が、四年後三倍になった)」
ヴァンスの情熱のひとつは(もし純粋に知的な熱中ぶりを情熱とよべるなら)美術だった。せまい、個人的な意味ではなく、もっと広い、一般的な意味での美術である。美術は彼の支配的な関心であるばかりでなく、そのおもな道楽であった。ヴァンスは日本や中国の版画についてひとかどの権威であり、つづれ織や陶器に通暁していた。かつてわたしは、ヴァンスが、数人の客に向かって、タナグラの小像〔古代ギリシアの町。みごとな陶器の小像で有名〕について即席の causerie(講演)をしたのを耳にしたものだ。その講演を書きとめておいたら、きっと有益で、楽しい専巧論文ができたことだろう。
ヴァンスは蒐集本能にふけるだけの充分な資産があったから、すばらしい、選り抜きの絵画や objets d'art(美術品)のコレクションを持っていた。彼のコレクションが雑多に見えたとしても、それはただ表面上だけであり、そのどれをとっても、形や線になんらかの原則が含まれ、相互に関連性を持たぬものはなかった。美術に通じた者なら、だれしも、ヴァンスをとりまくすべての作品が、時代や metier(手法)や表面的な魅力の点で、いかに大きくへだたっていようとも、基底において、一貫した統一を保っているのを感じとることができただろう。ヴァンスは、確乎とした哲学的見解を持った蒐集家であり、たぐいまれな人間のひとりである──わたしはいつもそう感じていた。
東三十八番街にあるヴァンスのアパートは、実際は古い邸の上二階を美しく改装し、部屋を拡げ、天井を高くするために一部建直しをしたもので、古今東西の美術の傑作でいっぱいだったが、決して雑然とはしていなかった。彼の絵画は、イタリアのルネサンス以前のものからセザンヌ、マチスにおよび、原画のコレクション中には、ミケランジェロとピカソといった、およそへだたった作品が収められていた。その中国の版画コレクションは、我が国でもっともすばらしい個人コレクシヨンのひとつであり、李竜眠〔北宋の画家〕、李安忠〔北宋の画家〕、壬高民《じんこうみん》〔不明〕、夏珪《かけい》〔南宋の水彩画家〕、牧谿《もっけい》〔南宋の画家〕の逸品が含まれていた。
「中国人は」と、かつてヴァンスはわたしに語ったことがある。「東洋の真に偉大な芸術家だ。彼らの作品は、ひろい哲学的精神を、もっとも強烈にあらわしている。それに比べると、日本人は浅薄だ。装飾的配慮の域を少し脱した程度の北斎の作品と、深い思索と自覚にもとづいた李竜眠の芸術との間には大きな相違がある。満州族の支配下に、中国の芸術が堕落したときでさえ、そこには深い哲学的特質が、そう、いってみれば、崇高な sensibilitie(感受性)が認められるのだ。文人画と呼ばれる模写の、近代的模写のなかにさえ、深い意味を含んだ絵画がある」
ヴァンスの芸術における趣味の広さは、目を見張らせるものがあった。そのコレクションは、博物館をしのぐばかりに、多岐にわたっていた。アマジス〔古代エジプトの王朝年代〕時代の黒い絵模様入りのアンフォラ壺、エーゲふうのコリント前期の花瓶、クーバチャやロードス島〔クーバチャもロードスも古代文化の栄えたエーゲ海の島〕の皿があるかと思えば、アテネの陶器、十六世紀イタリアの水晶岩の聖水盤があり、チューダー朝〔イギリスの王朝年代〕の白鑞器〔錫と鉛の合金〕、チェリーニ〔十六世紀イタリアの彫工〕の青銅の偏額、リモージュ製〔フランス南部の町〕の三幅のほうろう細工、ウァルフォゴナ作のスペインふうの祭壇の衝立が見え、エトルリア〔古代イタリアの北部地方をいう〕の青銅器が数点、インド製のギリシアふう仏像、明朝の女神観音像、多くのすばらしいルネサンス時代の木版画、幾つかのビザンチン、カロリンガ朝〔八世紀から十世紀にかけてのフランスの王朝〕、初期フランスの象牙細工などがあった。
ヴァンスのエジプト美術のコレクションには、ザカジブ〔エジプトにある町の名〕から発掘された金の水差し、ナイ夫人の小像(ルーヴル美術館所蔵の小像と同じくらいすばらしい)、第一テーベ王朝時代のみごとな彫刻を施した二つの石碑、聖牛やアムセットをあらわしたものを含む、さまざまな小さな彫刻、カラシスコスの踊り子を彫った幾つかのアレンチンの鉢などが収められていた。書斎には、近代の油絵や線画の大部分が掛けてあって、湾曲したジェームズ一世時代の本棚の最上段には、フランス領ギニア、スーダン、ナイジェリア、象牙海岸、コンゴの儀式用仮面、物神像などの魅力的なアフリカ彫刻の一群が並べられていた。
ヴァンスの芸術的本能について、これほどながながと語ったのは、あるはっきりした目的のためである。というのは、あの六月の朝、ヴァンスのためにはじまったメロドラマティックな出来事のかずかずを完全に理解するためには、この人物の penchante(性向)をおおよそ把握しておかなければならないからである。彼の美術への関心は、その個性の、重要な、ほとんど支配的といってもいい要素となっていた。わたしはこれまでヴァンスほど、表面的にはむら気にみえながら、しかも本質的には堅実な人間に会ったためしがない。
ヴァンスは、世間がディレッタントと呼びそうな人物だった。しかし、そう呼ぶのは公正でない。彼は、並はずれた教養と才気をそなえていた。生まれはもとより、天性貴族的なヴァンスは、断乎として俗世間から超越し、その物腰には、あらゆる下劣なものに対する名状しがたい侮蔑が認められた。彼と接した大部分のひとびとは、ヴァンスを俗物だと見なしていた。しかも、彼の謙譲と軽蔑には、いかさまめいたところは、みじんもなかった。彼のスノビズムは、社交的な面でも、知的な面でも、あらわれていた。彼は卑俗や悪趣味を嫌う以上に、愚劣さを嫌っていたと、わたしは信じている。わたしは彼が c'est plus qu'un crime; c'est une faute(それは罪悪だ、過失だ)というフーシェ〔フランスの政治家、外交官。権謀術策で有名〕の有名な文句を引用するのを耳にしたことがある。そして、彼は文字通りそう信じていたのである。
ヴァンスは、あけすけに皮肉をいったが、毒を含むことはまずなかった。それは軽口で、ユヴェナリス〔ローマの調刺詩人〕ふうの皮肉だった。退屈しきった、高慢ちきな、だがすこぶる意識的で、洞察力にとむ、人生の観察者──そういえば、もっともよくヴァンスを評することになろうかと思う。あらゆる人間的な反応に、ヴァンスは鋭い興味をいだいていたが、それは人道主義者のいだく興味ではなく、科学者のそれであった。そのうえ、彼はたぐいまれな個人的魅力の持ち主だった。ヴァンスは感心できないというひとびとでさえ、彼を好きにならずにいることは同じくらいむずかしかった。ヴァンスのいくぶん時代がかった態度や言葉づかい、オックスフォード大学院時代の名残りである、かすかなイギリス訛りや抑揚──それらは、彼をよく知らない人には、きざだと思われた。しかし、実際彼には poseur(気取り屋)のところは、皆無に近かった。
ヴァンスはまれにみる美貌だったが、口もとが、メディチ家〔ルネサンス期のフィレンツェの君主。大金融業者〕の肖像画(わたしがとくに考えているのは、ナショナル・ギャラリー所蔵のブロンツィノの筆になるものである。ピエトロ・デ・メディチとコシモ・デ・メディチの肖像画、そしてフィレンツェのヴェッキオ宮殿にあるロレンツォ・デ・メディチの大メダルの肖像である)のあるもののように、苦行者めいた、冷酷な感じを与え、そのうえ、吊りあがった眉根には、どこか人を小馬鹿にしたような尊大なところがあった。鷲を思わせるきびしい輪郭にもかかわらず、その顔は、きわめて感受性にとんでいた。額はひろく、スロープし、学者というよりは、むしろ芸術家を思わせた。つめたい灰色の眼は、ひろく間があいていた。鼻は、のみで刻んだようにまっすぐで、ほっそりとし、細いが突き出た顎は、異常に深い割れ目がついていた。最近ジョン・バリモアの『ハムレット』を見たとき、なんとなくわたしはヴァンスを思い出し、その前も、フォーブス・ロバードスン主演の『シーザーとクレオパトラ』(いつかヴァンスが副鼻腔炎で頭のレントゲンをとったとき、それに添えられた説明書に、彼を「きわめて長頭型」で、「図抜けた北欧型」と書いてあった。また、こう書いてあった。頭蓋指数七十五、鼻は狭長で、指数四十八、顔面角八十五度、垂直指数七十二、上部顔面指数五十四、瞳孔間隔六十七、顎は中程度の突出で、一〇三、頭蓋のトルコ鞍異常に大なり)の一場面でも同じような印象を受けた覚えがある。
ヴァンスは身長ほぼ六フィート、優雅で、しかも力強い筋肉、精神的な忍耐力をそなえているという印象を与えた。フェンシングの達人で、大学時代フェンシング・チームのキャプテンをつとめ、適度に戸外スポーツを好み、とくに骨折って練習しなくても、万事うまくやってのけるこつを心得ていた。ゴルフのハンディは、わずか三で、あるシーズンには、アメリカのポロチームの一員として、イギリスと戦ったこともあった。にもかかわらず、歩くのが大嫌いで、なにか乗り物があれば、ただの百ヤードだって歩こうとはしなかった。
服装にかけては、ヴァンスはいつも流行を追い、一分のすきもなかったが、かといって、けばけばしくはなかった。かなりの時間をクラブでついやし、お気に入りは「スタヴィサント」だったが、その理由は、彼がわたしに語ったところでは、会員の大部分が政治家や実業家で、したがって頭を使うような議論には、一度だってまきこまれたことがないからだった。ときどき、もっとも新しいオペラを見に出かけ、シンフォニー・コンサートや室内楽リサイタルの会員になっていた。
ついでながら、彼はわたしがこれまでに見たもっとも巧みなポーカーの名手のひとりだった。わたしがこのことにふれるのは、ヴァンスのようなタイプの人間が、たとえばブリッジやチェスよりポーカーのような庶民的なゲームを好んだということが、奇妙で意味ぶかいというばかりでなく、ポーカーに含まれる人間心理についての彼の知識が、これから述べようとする物語に密接に関連するからである。
ヴァンスの心理学的知識は、実際驚くべきものだった。彼は本能的に人間にたいする正確な判断力に恵まれており、この才能は、読書と研究とあいまって、驚くべき程度にまで体系づけられていた。彼は心理学の学問的原理に通暁し、大学での勉強も、もっぱらこの主題に集中するか、あるいはそれに付随するものだった。わたしが不法行為とか、契約とか、憲法、慣習法、衡平法、証拠、訴訟手続きとかいったせまい分野に閉じこもっている間に、ヴァンスはあらゆる方面の文化的成果を探索していたのである。彼は、宗教史、ギリシア古典、生物学、公民学、政治経済学、哲学、人類学、文学、理論心理学および実験心理学、そして古代および近代の諸言語のコースを選択した。(ヴァンスと知りあってまもない頃、彼はわたしにこういった。「文化には多くの言語がある。世界中の知的・美的業績を理解するには、多くの言葉を知ることが絶対に必要だ。とくに、ギリシア・ラテンの古典は、翻訳で読むとだめだ」。わたしがここで、彼のこの言葉を引用したのは、ヴァンスが英語以外のいろいろの言語で貪欲に読むことが、その驚くべき記憶力と相まって、彼自身の言語に影響を与えているからである。彼の話し方が、ある人々にはときにペダンティックに聞えるかもしれないが、わたしはこの記録を通じて、文字どおり彼の言葉を引用しようとつとめ、彼のありのままの姿を伝えようとした)しかし、もっとも彼が興味を持ったのは、ミュンスターベルク〔ドイツの心理学者。実験心理学で高名で、ウィリアム・ジェームズに招かれ、ハーヴァード大学で講義をした〕とウィリアム・ジェームズ〔アメリカの哲学者、心理学者で、長らくハーヴァード大学で教鞭をとった。作家ヘンリー・ジェームズの兄〕の講義だった、とわたしは思う。
ヴァンスの精神は、本質的に、言葉のもっとも広い意味において、哲学的だった。ふしぎなほど彼は因襲的な感傷や世間的な迷信にとらわれず、人間の行為の底にひそむ真の衝動や動機を見抜くことができた。そのうえ、かるがるしくものを信じる態度をあくまでしりぞけ、自らの心理過程で、冷徹で論理的な正確さを守り抜こうと努力した。「人間のあらゆる問題は」と、かつてヴァンスはわたしにいったことがある。「板にしばりつけたモルモットを検査する医者のように、臨床的な冷静さと、シニカルな侮蔑をもって扱わないかぎり真相に達することは不可能だ」
ヴァンスは、活気があるというのではないが、忙しい社交生活を送っていた。それは、さまざまな家族的なつながりに対する彼の譲歩だった。だが決して社交的な人間ではなかった。わたしは、ヴァンスほど集団本能の発達していない人間を見たことがない。彼が社交界に出かけるとき、それは、たいてい、やむをえずだった。実は、あの忘れえぬ六月の朝食の前夜も、「義務」のひとつに出かけたのだ。さもなければ、わたしたちは、前の晩、セザンヌについて相談しただろう。カーリーがいちごと卵入りのベネディクト酒を給仕している間中、ヴァンスはそのことをこぼしっぱなしだった。あとになって、わたしは、そういう邪魔が入ったことを、偶然の神にふかく感謝せずにはいられなかった。というのは、あの朝九時に地方検事が訪ねてきたとき、もしヴァンスにのんびりと朝寝を楽しんでいられでもしたら、わたしは、自分の生涯で、もっとも興味ぶかい、わくわくするような四年間を見逃すことになったろうし、ニューヨーク中でもっとも狡猾で、命知らずの犯罪者の多くが、依然として野放しになっていただろうから。
ヴァンスとわたしが椅子に腰をおろして、二杯目のコーヒーと煙草を楽しもうとしたちょうどそのときに、カーリーがせっかちに鳴る玄関のドア・ベルに応えて、地方検事を居間に案内した。
「これは驚いた!」と地方検事は、わざと驚いて、両手をあげて叫んだ。「ニューヨーク随一の flaneur(怠け者)で、美術通が、はやばやと起きているなんて!」
「それで恥かしくて、まっ赤になっているところなんだ」とヴァンスが答えた。
そうはいうものの、地方検事が冗談気分でないことは明らかだった。突然、真顔になって、「実は、ヴァンス、重大な用件で来た。とても急いでいる。きみと約束したから、ちょっと寄ってみただけだ……実は、アルヴィン・ベンスンが殺されたんだ」
ヴァンスは、もの憂げに眉毛をあげた。「そうか、今頃ね」とだるそうにいった。「なんて人騒がせな。だが、たしかに殺されるだけの男だよ。とにかく、きみがこぼすことはない。まあ、坐って、カーリーのとびきりうまいコーヒーを一杯やりたまえ」そういうと、相手がなにかいいかけるまえに、早くも立ちあがって、呼鈴をおした。
マーカムは、ほんの少しためらった。「まあ、いいだろう。一、二分でどうということもない。だが、ひと口だけだよ」そして、わたしたちの向いの椅子に腰をおろした。
二 犯罪の現場で
六月十四日金曜日午前九時
ジョン・F・X・マーカムは、諸君もご承知のように、ニューヨークを定期的に訪れるタマニー・ホール〔ニューヨークのタマニー・ホールを本部とする民主党の団体で、スキャンダルで有名〕への反対運動のさい、独立改革派から立候補して、郡の地方検事に選ばれた。マーカムは四年の任期をつとめ、もし反対派の政治的陰謀ですっかり票が割れなかったなら、再選されていたにちがいない。彼は疲れを知らぬ働き者で、刑事や民事のあらゆる捜査方法を検事局にとり入れた。そして、その清廉潔白さから、選挙民の熱烈な賞賛を勝ち得たばかりでなく一党派的な立場から彼に反対したひとびとの間にまで、ほとんど前例を見ないほどの信頼感をもたらした。
就任後わずか数カ月で、ある新聞は、マーカムを「番犬」と呼び、このあだ名は、任期の終りまで、彼につきまとって離れなかった。実際、四年の在職期間中、検事としての業績のすばらしさは、今日にいたるまで、しばしば法律や政治を論じるさい言及されるほどである。
マーカムは四十代なかばの、背の高い、がっしりした体格で、きれいにひげをそり、どことなく若々しいその顔は、すっかり白くなった髪と喰いちがっていた。世間でいうハンサムではなかったが、まごうことのない風格をそなえ、近頃公職についている連中にはめったにお目にかからないほどの社会的教養を備えていた。そのうえぶっきらぼうで、ねばり強い気質だったが、そのぶっきらぼうさは、育ちのよい、しっかりした土台をおおう外皮となっており、よく見受けられることだが、お粗末な、うわべだけのお上品さの間から、下部構造の粗野さがのぞいているのとはちがっていた。
義務やわずらいの緊張から解放されたときのマーカムは、こよなく優雅な人物だった。だが、彼と知りあった最初のころ、わたしは、彼の丁重な態度が、突然きびしい権威的な態度に変わるのをたびたび目撃した。それはまるでべつの──きびしく、不屈で、永遠の正義のシンボルのような──新しい人格が、その瞬間、彼のうちに生まれたかのようだった。わたしたちの協力が終わるまで、しばしばわたしはこの変貌を見せつけられることになったのだ。実際、あの朝、ヴァンスの居間で、わたしと向いあわせに坐ったときだって、マーカムのきびしい攻撃的な表情には、たんにそれをほのめかす以上のものがあった。わたしは、彼がアルヴィン・ベンスン殺しのことで、深く悩んでいるのがわかった。
マーカムはすばやくコーヒーを飲みほし、コップを下に置こうとした。そのとき、それまでひやかすように面白そうに相手を眺めていたヴァンスが、口をきいた。「ねえ、きみ、ベンスンという男がひとり死んだくらいで、なにもそんなに陰気に考えこむことはないだろう。まさか、きみが殺したわけじゃあるまい」
マーカムはヴァンスの軽口は無視した。「これからベンスンの家に行くところだ。よかったら、いっしょに来ないかね? きみは実際に経験してみたいといっただろう。だから、約束どおり寄ってみたんだ」
そのとき、わたしは数週間まえ、スタイヴィサント・クラブで、近頃ニューヨークで人殺しがふえたという話が出たさいに、ヴァンスがいつか地方検事のお伴をして、捜査に行きたいといい、マーカムが、こんど重大事件が起こったら、つれて行くと約束したのを想い出した。ヴァンスは、人間の行動にひそむ心理への関心から、そういう希望を持ち、マーカムとの長い友だちづきあいから、それを持ち出すことができたのである。
「なんでもよく覚えているんだね、きみは」とヴァンスは、もの憂げにいった。「こっちは迷惑だが、たいした才能だよ」彼は暖炉棚の上の時計をちらと見た。九時少しまえだった。「それにしても、礼儀知らずな話だね。こんなに早くから会いに来る人がいるなんて」
マーカムは、いらいらと椅子から乗り出した。「好奇心が満足させられれば、朝の九時に人前に出る恥かしさもつぐなえる。そう思うなら、急ぎたまえ。ドレッシング・ガウンにスリッパ姿じゃ、とてもつれてはいけないね。着換えをするのに、五分以上は待てないよ」
「なぜ、そんなに急ぐんだい?」とヴァンスはあくびまじりにいった。「だって、やっこさん死んでいるんだろう。まさか逃げ出しはすまい」
「さあ、立ちあがって」とマーカムはせきたてた。「この仕事は冗談事じゃない。きわめて重大なんだ。見たところ、大変なスキャンダルになりそうだ。いったい、きみはどうするつもりかね?」
「どうするって? つつしんで、庶民の偉大なる復讐者のお伴をするよ」とヴァンスは立ちあがって、うやうやしくお辞儀をしながらいった。
ヴァンスはベルを鳴らしてカーリーを呼び、着換えを持ってくるようにいいつけた。「マーカム閣下がとりおこなう死体との接見式に参列するからには、なにかきちんとしたものがほしいね。絹の服では寒くないだろうか? それに、なにをさておき、ラベンダー色のネクタイを」
「まさか緑のカーネーションもつけるんじゃなかろうね」とマーカムは不平をいった。
「おい、おい。きみはヒッチェン〔処女作「緑のカーネーション」で有名なイギリスの大衆作家〕を読んだんだね。地方検事ともあろう者が。とにかく、ぼくが boutonniere(襟飾りの花)なんかつけないのは、きみだって百も承知のはずだ。あんな飾りはもう人気を失ったよ。あんな習慣をまだ忠実に守っているのは、roue(道楽者)か、サキソフォン吹きだけだ……ところで、死んだベンスンというのは、どんな男かね?」
カーリーに手伝わせて、ヴァンスは、かつてわたしがこういうさいにお目にかかったことがないほどのスピードで、服を着換えていた。うわべはふざけていたが、その底に、わたしは新しい経験──その鋭い、観察力にとむ精神に劇的な可能性を約束するような経験──を追い求める人間の真の熱意を感じることができた。
「きみもあるいはアルヴィン・ベンスンを知っていると思うんだが」と地方検事はいった。「今朝早くベンスンの家政婦から、所轄署に電話がかかってきてね。主人が服を着たまま、居間の愛用の椅子に腰かけて、頭を射抜かれて死んでいるのを見つけたというんだ。その報告は、むろん本部の電信課に伝えられ、勤務中の部下から、すぐぼくのもとに連絡があった。ぼくは事件を型通り警察にまかせるつもりでいた。ところが、半時間後、アルヴィンの兄のベンスン少佐が電話をかけてきて、とくにぼくに事件を手掛けてほしいという。少佐とは二十年のつきあいだから、うまく断われなかった。そこで、急いで朝食をすませ、ベンスンの家に出かけることにした。ベンスンの家は、西四十八番街にある。で、きみの町角を通りかかったとき、ふときみの頼みを思い出して、いっしょに行く気があるかどうか、立ちよってみたという次第だ」
「それはどうもかたじけない」とヴァンスはつぶやいて、玄関のドアのところにある小さな多彩色の鏡のまえで、ネクタイを直していた。それから、わたしのほうを振り向いて、「さあ、ヴァン、いっしょに死んだベンスンを見に行こう。マーカムの手下のデカさんが、ぼくがあのろくでなしを嫌っていた事実をきっとかぎつけて、ぼくを犯人だというにちがいない。そうなったら、だれか法律の専門家がいてくれたほうが、安心だからね。べつに文句はないだろう、マーカム?」
「むろんだとも」とマーカムは即座に答えたが、できるものならわたしをつれて行きたくないような感じだった。しかし、わたしは儀礼的に辞退するのには、あまりに深く事件に関心があったので、ヴァンスとマーカムのあとから階段を降りて行った。
待たせてあるタクシーに乗りこんで、マディスン・アヴェニューを走りだすと、わたしは以前もたびたび感じたことだったが、傍らにいる二人のかくも異なった男たちの奇妙な友情に、少しばかりふしぎな気持がした。マーカムは直情径行で、因習的で、やや厳格で、人生に接するのに生真面目すぎ、他方、ヴァンスはのんきで、快活で、どんなにきびしい現実に接しても風変わりな皮肉さを保っている。しかも、この気質上の相異が、どこか二人の友情の土台となっているように思われる。まるで、互いに相手のなかに、自分にはとても持てそうにない経験や感覚があるのを認めているような具合である。マーカムは、ヴァンスには、人生の堅実で変わらざる現実をあらわしており、ヴァンスは、マーカムにとって、知的冒険の、のんきで、エキゾチックで、ジプシー的な精神を象徴しているのだ。彼らの友情は、実際、表面にあらわれた以上のものだった。マーカムは、ヴァンスの態度やら意見やらを烈しく批判していたが、実際には、彼の知人のだれよりもヴァンスの知性をふかく尊敬していた、とわたしは信じている。
その朝、わたしたちが市を車で走らせていたとき、マーカムはなにか一心に考えこみ、陰気そうだった。アパートを出てから、わたしたちは一言も口をきかなかった。だが西へ、四十八番街へと曲ったとき、ヴァンスが口をきいた。「死体の前で帽子をとるのは別として、こういった早朝の人殺しの儀式には、なにか特別の社交的なエチケットがあるのかい?」
「帽子を脱ぐ必要はない」とマーカムはどなるようにいった。
「これは驚いた。まるでユダヤ人の会堂そっくりだ。いやあ、結構。たぶん靴は脱ぐんだろうね、足跡を乱さないように?」
「いや」とマーカムは答えた。「お客はなにも脱ぐ必要はない。そこが、きみたちハイカラな連中の、ふつうの夜会とはちがうところさ」
「マーカム」とヴァンスは、例のもの憂げな咎めるような口調でいった。「きみの生まれつきの恐るべき道徳家ぶりが、また姿をあらわしたね。今のきみの言葉なんか、まさにエプロース・リーグ〔イギリスのメソジスト教会創設者であるジョン・ウェズリーを中心とする宗教運動〕そっくりだ」
マーカムはほかのことに心を奪われていたので、ヴァンスの軽口の相手にはならなかった。「一つ、二つ、きみに注意しておきたいことがある」とマーカムは生真面目にいった。「どうやら、この事件は、かなりうるさくなりそうだ。嫉妬や、功名争いがいやというほど起きるだろう。今の段階で事件に顔を出すというので、警察にはいやがられるにちがいない。だから、どうかやっこさんたちの神経をさかなでしないようにしてもらいたい。いま現場に行っているぼくの部下の話だと、どうやら警視はヒースを係にしたらしい。ヒースというのは殺人課の部長刑事で、きっと今ぼくが名声を挙げるために事件に乗り出してくると思いこんでいるようだ」
「制度上は、きみはヒースの上司じゃないのかい?」とヴァンスはたずねた。
「むろんだとも。だから、かえって事が微妙になってくる……ほんとうに、少佐が呼び出してくれなかったらよかったのに」
「アトラスの神よ〔ギリシア神話に登場する巨人の神で、罰として天を双肩に担わされた〕」とヴァンスは溜息をついた。「世間はヒースのような連中でいっぱいだ。まったく困ったもんだ」
「誤解しないでくれよ」とマーカムはあわてていった。「ヒースはいい男だ。実際、あんないい男はいない。ヒースが係に任命されたことひとつをとってみても、本部が事件をいかに重視しているかがよくわかる。ぼくが乗り出すことについては、なにもいやなことはないだろう。それはよくわかってもらいたい。ただ、ぼくは、なるべくおだやかな雰囲気であってほしい。ヒースはぼくがきみたち二人を見物人としてつれて行けば、当然不快に思うだろう。だから、お願いだから、ヴァンス、すみれの花みたいにおとなしくしてほしいのだ」
「もしなんだったら、はにかんだバラのほうがいいね。ともかく、ぼくは神経過敏なヒース君とやらに、バラの花びらの吸い口つきの極上の Regie 煙草〔ヴァンスが愛用する特別製のトルコ煙草〕をさっそく一本進呈することにしよう」
「そんなことをしたら」とマーカムは微苦笑した。「たぶんヒースはきみを容疑者として逮捕するだろう」
わたしたちの車は、突然第六アヴェニューにほど近い四十八番街の上手の古い砂岩造りの邸宅の前で止まった。それは上流階級の建物で、間口が二十五フィートあり、耐久性と美観がニューヨークの建築家の間でまだ考慮されていた時代に建てられたものだった。設計は、同じ区画にある他の家々に歩調をあわせた月並みな設計だったが、飾りの多い頂部とか、入口や窓のあたりの石の彫刻には、一抹の豪奢で個性的なものが認められた。
通りと家の正面の間には、舗装した浅い空堀があって、高い鉄柵がめぐらされ、正面玄関が家への唯一の出入口をなしていた。それは通りから六フィートも高く、ひろい石段を十段昇ったところに位置していた。玄関と右手の壁の間には、頑丈な grilles(鉄格子)のはまった大きな窓が二つついていた。
邸の前にはかなりの数の熱心な弥次馬が集まっており、石段の上には、数人の敏捷そうな青年がうろうろしていたが、どうやら新聞記者のようだった。制服姿の巡査がタクシーのドアを開けてくれ、マーカムに大げさに敬礼すると、これ見よがしにぽかんと見とれている弥次馬を掻き分けて、わたしたちの通る路を開けてくれた。小さな玄関口にはもうひとり制服の巡査が立っていて、マーカムを認めると、わたしたちのために外のドアを開け、威儀を正して最敬礼をした。
「Ave Caesar, te salutamus(皇帝陛下に敬礼)」とヴァンスはにやりとして、ラテン語でいった。
「黙っていてくれ」とマーカムは唸り声を挙げた。「きみの結構な引用なんか拝聴しなくたって、こっちはもう充分に頭が痛いんだ」
わたしたち一行が彫刻をほどこした堂々たる正面ドアを通って、玄関ホールに入ると、地方検事補のティンウィディーが出迎えた。彼は生真面目な、色の浅黒い青年で、早くも顔に皺がより、人類の悩みの大半を自分が引き受けているといった様子だった。
「おはようございます、主任」とティンウィディーは、いかにもほっとしたようにマーカムに挨拶した。「お出でくださって大助かりです。この事件は面倒になりそうですよ。ありきたりの殺人ですが、手がかりがひとつもないんです」
マーカムは暗くうなずいて、その肩越しに居間のなかを覗きこんだ。「だれが来てるんだね?」
「警視正以下、全員ですよ」とティンウィディーは、まるでその事実が関係者全員にとって兇兆でもあるかのように、あきらめたように肩をすくめた。
そのとき、血色のよい、短く刈りこんだ白い口ひげをはやした背の高い、がっしりした体格の中年男が、居間の戸口にあらわれ、マーカムを認めると、手を差し伸べ、ぎくしゃくと近寄ってきた。わたしはすぐその男が、ニューヨーク警察をとりしきるオブライエン警視正だとわかった。
勿体ぶった挨拶が二人の間で取り交わされ、それからヴァンスと私が警視正に紹介された。警視正はわたしたち二人には黙ってうなずいただけで、マーカム、ディンウィディー、ヴァンス、そして、わたしを従えて、居間にもどった。
部屋は、玄関ホールを十フィートばかり行ったところにある大きな二枚ドアが出入口になっていて、かなり大きく、ほとんど正方形で天井が高かった。通りに面して窓が二つあり、家の正面とは正反対の北側の壁の右端に、もうひとつ窓があって、舗装した中庭に臨んでいた。この窓の左手には、裏手の食堂に通じるすべり戸がついていた。
部屋の様子はけばけばしく、豪奢をきわめていた。周囲の壁には、粋を凝らした額縁に収めた幾枚かの競走馬の油絵や、騎馬狩猟のトロフィーがいっぱい掛けてある。床全体ははなやかな色彩の東洋産の絨毯で敷きつめられ、ドアに面した東側の壁の中央には、装飾した暖炉と、彫刻をほどこした大理石の棚がついている。右手の隅には、銅のふち飾りのあるクルミ材の竪型ピアノが、はすかいに置かれている。その他、ガラスの戸をつけ、模様入りのカーテンで被われたマホガニーの本棚や、つづれ織で張ったゆったりした長椅子、真珠母を象眼したヴェネツィア風の低い床几、真輸の大きなサモワール(湯沸かし)を収めたチーク材のスタンドに、約六フィートの長さをしたブルー細工の象眼をほどこした中央テーブルが眼に入った。このテーブルの玄関ホールに近いほうの側に、後ろを表に向け、高い扇型の背のついた、大きな藤の安楽椅子が置かれていた。
そして、この椅子のなかに、アルヴィン・ベンスンの死体が休んでいた。
第一次大戦中、わたしは二年間前線で勤務し、たくさんのぞっとするような死体を見たにもかかわらず、この死体を見たとたん、強烈な嫌悪感を禁じえなかった。フランスでは、死はわたしの毎日の生活の避けがたい一部をなしているかのようだったが、ここでは、あらゆる周囲の組立てが致命的な暴力という観念とは対立しているからだ。まばゆい六月の陽光が室内にそそぎこみ、開け放たれた窓からは、市の騒音が絶えず入りこんでくる。不協和音であるにもかかわらず、それは平和と、安全と、秩序ある社会生活の流れと結びついていた。
ベンスンの死体は、今にもわたしたちの方に振り返り、なぜ勝手に入りこんだのかと詰問しそうなくらい、ごく自然な姿勢で椅子にもたれていた。頭は椅子の背にのせ、右足はゆったりとくつろいで、左足の上に横に重ねられていた。右腕は中央テーブルの上に気軽にのせ、左腕は椅子の肘かけにもたせかけている。しかし、いかにも自然なその姿勢のうち、もっとも驚かされるのは、右手に持った小さな本で、明らかに読んでいたと思われる個所に、まだ親指がかかっているのである(その本はオー・ヘンリーの『商売第一』で、開かれていた個所は、奇妙にも「町の報告」と題した短篇だった)。
ベンスンは正面から額を射ち抜かれ、小さな丸い弾痕は、今では血が凝結して、ほとんど黒くなっていた。椅子の後ろの絨毯にある大きな黒い汚点は、弾丸が脳髄を貫通したさいの出血の量を示していた。もしこういう怖ろしい証拠がなかったなら、ひとは彼が読書をちょっとやめ、後ろにもたれて休んでいるのだと思ったことだろう。
ベンスンは古びたスモーキング・ジャケットに、赤いフェルトの寝室用スリッパをはいていたが、まだ礼服用ズボンと夜会用のシャツをつけており、カラーはなしで、シャツの襟は楽にするためだろうか、ボタンをはずしていた。肉体的にはどう見ても魅力のない男で、ほとんど禿げあがり、太っていた。顔はぶよぶよし、太った首は締めつけるカラーがないので、二重に太ってみえた。嫌悪感で少し身震いし、わたしは死体を眺めるのはそそくさとすませ、室内にいるほかのひとびとのほうに向き直った。
手足の大きい、黒のソフトを大変あみだにかぶった逞しい男が二人、正面の窓の鉄格子を綿密に調べていた。彼らは、鉄棒を石の壁にセメントでくっつけてある個所に特別注意しているふうだった。そして、彼らのひとりは、ちょうど両手で grille(鉄格子)をひっつかみ、強度を試そうとするように、猿のようにゆさぶっていた。中背で、小さなブロンドの口ひげをはやした、もうひとりのきびきびした男は、暖炉の炉格子の前に背をかがめ、ほこりだらけのガス燃管を一心に眺めている。テーブルの向うでは、紺サージの服に、山高帽をかぶったずんぐりした男がひとり、両手を腰にあて、椅子に坐った死体を眺めながら立っている。男は鋭い、うす青い眼を細め、突き出た四角い顎をぎゅっと引き締めている。そして、まるで注意を集中させることで、殺人の謎を解いてやろうと望むかのように、夢中でベンスンの死体を見つめている。
もうひとり別の、風変わりな風采の男が、裏手の窓の前に立ち、宝石屋用の拡大鏡を眼に当てて、掌《てのひら》の小さな物体を調べていた。以前写真で見たことがあったから、すぐにわたしはこれがアメリカでもっとも有名な銃器の専門家カール・へージドーン主任だとわかった。へージドーンは年の頃五十くらい、大柄で、肩幅のひろい、場所をふさぐような感じの男で、黒いぴかぴか光る服は数サイズも大きすぎた。上衣の背中はまくれあがり、前は膝まで半分垂れている。ズボンはだぶだぶで、足首のところで、なんともこっけいな皺になっている。頭は丸くて、異様に大きく、耳はすっぽり頭蓋骨のなかに陥没したようにみえる。口元は、もじゃもじゃのごま塩ひげにすっかり被われ、ひげの毛が全部下向きに生えているので、まるで唇に垂飾りをかけたような趣きである。へージドーン主任はニューヨークの警察本部にこの三十年間関係し、その風采、態度は本部で物笑いの種になっていたのだが、火器や銃創についてのその発言は、本部のひとびとから決定的なものとして受け入れられ、尊敬されていたのである。
部屋の奥の、食堂のドアの近くに、別の男が二人、立って熱心に話していた。ひとりは刑事課の課長ウィリアム・M・モラン警視、もうひとりは、さっきマーカムがわたしたちに話した殺人課のアーネスト・ヒース部長刑事である。
オブライエン警視正のあとからわたしたちが室内に入ると、一同はちょっと仕事の手を休め、不安げに、しかもうやうやしく地方検事を見た。へージドーン主任だけはちらとマーカムを横目で見やっただけで、また夢中で手にした小さな物体を調べはじめたので、ヴァンスはかすかに微笑した。
モーラン警視とヒース部長刑事がいかめしく、鈍重に進み出て、マーカムと握手した。あとで気がついたのだが、どうやら、これは警察や地方検事局の局員の間でおこなわれる一種の宗教的儀式であるらしい。そのあとマーカムはわたしとヴァンスを紹介し、わたしたちがここに来た理由を簡単に説明した。モーラン警視は愛想よくお辞儀して、われわれの闖入《ちんにゅう》を認めたことを示したが、ヒースはマーカムの説明を黙殺して、まるでわたしたちをいないも同然に扱いだした。
モーラン警視は、室内にいる他のひとびととはちがったタイプの人物だった。年の頃は六十ぐらい、白髪で茶色の口ひげを生やし、一分の隙もない身形《みなり》だった。警察官というよりは、成功した一流のウォール街の仲買人といった感じがした。(あとでわかったのだが、モーラン警視は、かつてはニューヨーク州北部の大銀行の頭取であり、一九〇七年の恐慌で失敗したのである。ゲイナー市長時代には市の警察委員候補のひとりに昇った)
「マーカムさん」とモーラン警視は、低い落ち着いた声でいった。「わたしはヒース君に本件を担当させました。解決するまでには、少々手こずらされるでしょう。警視正でさえ、自ら予備捜査に乗り出され、精神的支援をする必要があると判断されたくらいです。朝の八時から、ここに来ておられるんですからね」
オブライエン警視正は部屋に入るとすぐわたしたちの側を離れ、表の窓のところで、おごそかな、何を考えているかわからぬ顔つきで、じっと捜査を見守っていた。
「では、これでわたしは失礼することにしましょう」とモーラン警視は言葉をついだ。「七時半にたたき起こされたもんで、まだ朝飯をたべていないんです。あなたがお出でくださった以上、わたしはもう必要ありますまい。ではこれで」そして、また握手した。
警視が行ってしまうと、マーカムは地方検事補の方に振り向いた。「この二人の紳士の面倒をみてくれないかね、ティンウィディー君。まるで二人とも森の中に放り出された赤ん坊で、どうやって捜査するのかを見たいとおっしゃるんだ。ぼくがヒース君とちょっと相談している間、いろいろと説明してやってくれ」
ティンウィディーは、いそいそとこの任務を引き受けた。おさえつけられていた興奮のはけ口になる話し相手ができて、よろこんでいるのだろう。
われわれ三人が、ほとんど本能的にベンスンの死体──結局、彼がこの悲劇の中心なのだ──の方を振り返ったとき、ヒースが不機嫌な声で、「マーカムさん、あなたが今から指揮をとるんでしょうね」というのが耳に入った。
ティンウィディーとヴァンスは何事か話しあっていた。わたしは、マーカムから警察本部と地方検事局の間にはライバル意識があると聞かされていたので、好奇心をもってじっとマーカムを見守った。
マーカムは、ゆっくりと品のよい微笑をうかべてヒースを眺め、首を振った。「いや、ヒース君。わたしがここに来たのは、きみと協力するためだ。それは、最初から承知してもらいたい。実際、もしベンスン少佐から手を貸してくれと電話で頼まれなかったら、ここに来はしなかっただろう。だから、とくにわたしの名は伏せておいてほしい。少佐がわたしの昔からの友人であることはよく知られている。たとえ今は知られていないにしても、すぐそうなるだろう。だから、わたしがこの事件にタッチしていることを伏せておけるなら、そのほうが万事好都合というものだ」
ヒースはなにかぼそぼそいったが、わたしには聞きとれなかった。しかし、大いに機嫌を直したことはよくわかった。ヒースは、マーカムを知るひとびとの例に洩れず、彼の言葉が信用できることを知っていた。個人的にはマーカムに好意を持っていたのである。
「この事件でなにか手柄があれば」とマーカムはつづけた。「それは警察本部のものだ。だから、きみが新聞記者に会うほうがいいと思う。しかし、ついでながら」と人がよさそうにつけ加えた。「なにか非難されることでも起こったら、それを引き受けるのも、きみたちのほうだがね」
「結構ですな」とヒースはうなずいた。
「じゃあ、部長、さっそく仕事にかかろうか」とマーカムがいった。
三 女のハンドバッグ
六月十四日金曜日午前九時三十分
地方検事とヒースは死体のそばに歩み寄り、立ったまま眺めていた。「ごらんの通り」とヒースは説明した。「被害者はまっ正面から射たれています。かなり強力な銃ですな。弾が頭を突き抜けて、向うの窓際の羽目板に当っているくらいですから」ヒースは、玄関のホールにすぐ近い窓のどん帳附近の、床からちょっと離れた羽目板の一点を指さした。「からの薬莢が見つかって、ヘージドーン主任が弾を取り出しましたよ」
それからヘージドーンのほうを振り向いて、「どうです、主任? なにか特徴は?」
ヘージドーンはゆっくり顔をあげ、近眼特有の眉根に皺をよせてヒースを見た。それから、ぎごちない動作をして、ゆっくりと正確に返事をした。「四十五口径の陸軍用弾丸。コルトの自動ピストルです」
「ベンスンが射たれたのは、どのくらいの距離か見当がつかんかね?」とマーカムがたずねた。
「たぶん五フィートから六フィートの間でしょう」とヘージドーンは、おもおもしく単調に答えた。
ヒースは鼻を鳴らした。「たぶん主任がそういう以上は、信用していいでしょう」と機嫌よく、軽蔑したようにいった。「四十四口径か四十五口径以下のピストルでは、人は殺せません。こういう鋼鉄を被せた陸軍の弾ときたひには、人間の頭蓋骨なんか、チーズみたいにぶち抜くんですからな。しかし、まっすぐ羽目板まで行くんだから、かなり近くから発射しなくちやいかん。それに被害者の顔に火薬の痕がなにも残っていないところを見ると、距離の点では、主任のいった数字が妥当でしょうな」
そのとき、表のドアが開いて、閉まる音が聞え、検屍主任のドアマス医師が助手をつれてとびこんできた。医師はマーカムとオブライエン警視正と握手をかわし、親しげにヒースに挨拶した。
「遅くなって申し訳ない」
ドアマス医師は皺だらけの顔をした神経質そうな男で、不動産会社のセールスマンのような物腰だった。
「これはどうしたんですか?」と医師は椅子の中の死体を見て顔をしかめ、一息にいった。
「こっちがききたいですよ、先生」とヒースがいい返した。
ドアマス医師は長年の訓練を示すひややかな無関心な態度で死体に近づき、まず綿密に顔を調べた。たぶん火薬の痕を探していたのだろう。それから前額の弾孔と、後頭部のひどい傷口をちらと一瞥し、次に死体の腕を動かしたり、指を曲げてみたり、顔をちょっと片方に押したりした。死後硬直の状態について納得がゆくと、今度はヒースの方に振り向いて、「死体をその長椅子の上に置いてかまいませんか?」
ヒースは探るようにマーカムを見た。「もういいでしょう、検事?」
マーカムはうなずいた。ヒースは窓際の二人の部下に合図して、死体を長崎子の上に移させた。死体は、死後の筋肉の硬直で坐ったままの姿勢をくずさなかったので、医師と助手が手足を伸ばさせた。それから服を脱がせ、ドアマス医師は、ほかに傷はないかどうか念入りに調査した。とくに注意したのは腕だった。次は両手をひろげさせ、掌をくわしく見た。ようやく医師は背を伸ばし、大きな色物の絹のハンカチで両手をぬぐった。
「左前額部から、まっすぐ射たれています。弾は頭蓋骨貫通で、出口の傷は左後頭部。ちょうど頭蓋骨の底部のところ。弾は見つかったでしょうね? 覚醒中に射たれ、即死です。だぶん射たれたことを知らなかったでしょう……死んでから、さよう、八時間ほど。あるいは、もうちょっと長いかもしれません」
「正確な死亡推定時刻は十二時半ではどうでしょう?」とヒースがたずねた。
医師は腕時計を見た。「そう、それでいいでしょう……ほかになにか?」
だれも返事をしなかった。しばらく間があって警視正が口を開いた。「検屍報告を今日中に欲しいんだがね、主任」
「いいでしょう」とドアマス医師は答え、診察鞄をぴしゃりと閉め、助手に渡した。「しかし、死体はなるべく早く死体置場に渡してくださいよ」そして、あわただしく握手の儀式をすませると、大急ぎで出て行った。
ヒースは、わたしたちが部屋に入ったときテーブルのそばに立っていた刑事の方を振り向いた。「バーク、本部に電話して、死体を取りに来させてくれ。急ぐようにいうんだ。それから、課に戻って、おれを待っていてくれんか」
バークは敬礼して、姿を消した。
それから、ヒースは、表の窓の鉄格子を調べていた二人の部下のひとりにたずねた。「どうかね、鉄格子の具合いは、スニトキン?」
「全然だめですよ、部長」という答が返ってきた。「二つとも、牢屋みたいに頑丈で。だれもこの窓から入りこんだ者はいませんね」
「よろしい。じゃあ、きみたち二人は、バークといっしょに帰ってくれ」
二人が行ってしまうと、紺サージの服に山高帽の小柄な男(彼の活動範囲は、暖炉らしかった)が、テーブルに煙草の吸い殻を二つ置いた。「ガスの燃管の下で、これを見つけました、部長」と気乗りしない□調で説明した。「大したものじゃないけれど、ほかにはなにもころがっていませんよ」
「よし、エメリー」ヒースは吸い殻を不機嫌そうに見た。「きみも帰ってよし。あとで課で会おう」
ヘージドーンがおもおもしく進み出た。「わたしもこれで失礼しよう。しかし、この弾はしばらく預からせてもらうよ。特殊な施条があるんでね。とくにきみは必要ないだろう、ヒース君?」
ヒースはしかたなく微笑した。
「おれが持っていたって、しようがない、主任。きみが持っていてくれ。しかし、なくさんでくれよ」
「なくすもんか」とへージドーンはばか真面目に受けあい、マーカムにもオブライエン警視正にも目もくれず、なにか巨大な哺乳動物よろしく、ちょっと身体をゆすりながらよたよたと部屋から出て行った。
ドアのそばの、わたしの脇に立っていたヴァンスはくるりと向きを変え、ヘージドーンのあとからホールに入って行った。二人はしばらく低い声で立ち話をしていたが、ヴァンスがなにかたずねているらしく、内容はよくわからなかったが、「弾道」「初速」「射角」「はずみ」「衝撃」「偏流」といった単語や文句が耳に入り、いったい、なぜそんな妙なことをたずねるのかとわたしは思った。
ヴァンスがヘージドーンにいろいろ教えてもらったお礼をいっていると、オブライエン警視正がホールに入ってきて、ヴァンスにおうようにほほえみかけ、「勉強になりますか?」とたずねた。それから、返事を待たずに、「来たまえ、主任。町まで乗せてあげよう」といった。
マーカムはこれを聞きつけて、「ティンウィディーも乗せてもらえないかね?」
「いいですとも、マーカムさん」
三人は出て行った。
今や室内に残ったのはヴァンス、わたし、ヒース、地方検事の四人だけになり、まるで打ちあわせでもしたように、椅子に腰をおろした。ヴァンスは、ベンスンが殺された椅子のま向いの、食堂に通じるドア近くに座を占めた。
この邸に着いた瞬間から、わたしはヴァンスの態度や行動に鋭い関心をはらっていた。最初室内に入ったとき、ヴァンスは入念に片眼鏡をあわせたが、それはいかにも気乗りしない様子にもかかわらず、ほんとうは彼が関心を持っていることを示すものだった。精神が緊張し、周囲の印象をすばやく捉えようとするときは、きまってヴァンスは片眼鏡を取り出した。眼鏡がなくても充分見えるのに、そんなものを使うのは、わたしの見るところ、おもに知性の命ずる結果であった。眼鏡で視覚の明澄さが増すと、精神の明澄さに微妙に影響するらしいのである(ヴァンスの眼は、やや左右の焦点がちがっていた。右の眼は一・二の乱視なのに、左の限は正常だった)。
最初ヴァンスは室内をつまらなそうに眺めまわし、捜査のやり方を退屈そうに見守っていた。だがヒースが部下たちに簡単な質問をしている間、いかにも皮肉っぽい、愉快そうな表情が顔にあらわれた。そして、ティンウィディーに幾つか全般的な質問をしたあとは、うわべはぶらぶらと室内を歩きまわり、いろいろな品物を眺めたり、ときどき、あれこれと家具の間に視線を走らせた。最後に羽目板の弾痕のところにかがみこみ、調べていたが、やがて、もう一度戸口に行って、玄関ホールを眺め渡した。
ヴァンスの注意をいくらか惹いたらしい唯一のものは、死体それ自身だった。ヴァンスは二、三分間その前に立って、位置を調べ、まるで死者がどんなふうに本を持っているのか見ようとするように、テーブルの上に投げ出された腕の上に身をかがめさえした。しかし、いちばん彼の気を惹いたのは、組みあわされた足の姿勢で、長いことじっと見つめながら立っていた。とうとう片眼鏡をチョッキのポケットにもどすと、戸口の近くにいるティンウィディーとわたしのところにやって来て、ヘージドーン主任が帰るまで、ヒースやほかの刑事の仕事ぶりを、ものぐさな無関心な様子で眺めていた。
われわれ四人が腰をおろすと同時に、玄関で張番をしていた巡査が戸口にあらわれ、「所轄署の者がひとり見えています。係りの方に会いたいそうですが、通していいですか?」といった。ヒースがそっけなくうなずくと、すぐに、大きな赤ら顔の、アイルランド系の私服の男があらわれた。男はヒースに敬礼し、マーカムがいるのに気がついて、こう報告した。「西四十七番街署のマクラクリンであります。昨夜、この区域を巡回中、ちょうど十二時頃、この家の前に、グレイのキャディラックが一台とまっていました。とくにその車に気がついたのは、後ろから釣竿が何本も出ていまして、あかりが全部ついていたからです。今朝、事件のことを聞きまして、そのことを署の上司に報告したところ、こちらに来てお話しするようにいわれましたので」
「よくやった」とマーカムはほめてやり、うなずいて、あとはヒースにまかせた。
「なにかあるかもしれんな」とヒースはいったが、あまり期待していないふうだった。「どのくらい車がとまっていたと思うかね?」
「たっぷり半時間くらいでしょう。十二時前にここにいて、十二時半かそこいらにわたしがもどってきたとき、まだいましたから。しかし、その次にここに来たときは、もう消えていました」
「ほかになにか見なかったかね? だれか車内にいなかったかな、それとも持ち主らしい者がうろついていなかったかね?」
「いいえ、いませんでした」
似たような性質の質問が幾つかなされたが、それ以上なにも聞き出せず男は帰された。
「とにかく」とヒースはいった。「車の話は、新聞記者にくれてやるにはいいネタだ」
マクラクリンが訊問されている間中、ヴァンスはねむたげに、関心なさそうに坐っていた。マクラクリンの報告は、最初の数語さえ耳に入ったかどうか疑わしい。それから、あくびを噛み殺しながら立ちあがり、中央のテーブルに歩みよると、暖炉で見つかった煙草の吸いさしをひとつ、つまみあげた。親指と人さし指の間でくるくる廻しながら、吸い口を調べていたが、親指の爪で紙を破り、むき出しになった煙草を鼻先に持っていった。
ヒースはこわい顔でヴァンスを見守っていたが、突然椅子の中で身体を乗り出した。
「なにをしてるんです?」と、怖ろしくぶっきらぼうにたずねた。
ヴァンスは、上品な驚きを見せて顔を挙げた。「なあに、煙草の匂いをかいでいるだけですよ」と平然と答えた。「どちらかというとやわらかいが、気のきいた混ぜ方ですね」
ヒースの頬の筋肉が、むっとしてぴくぴく動いた。「元にお戻しになったほうがいいでしょう」それから、ヴァンスを頭から爪先まで眺めまわし、「煙草がご専門ですか?」と皮肉の見えすいた質問をした。
「いいえ」とヴァンスの声音はおだやかだった。「わたしの専門は、プトレマイオス王朝〔古代エジプトの王朝〕のかぶと虫の紋様でしてね」
マーカムがたくみに割って入った。「ヴァンス、今の段階じゃ、ここにあるものはいっさい手をふれちゃいけないんだ。なにが大切かまったくわからない。その吸いさしだって、大切な証拠になるかもしれない」
「証拠?」とヴァンスは、にこやかにくりかえした。「これは驚いた。面白いもんだねえ」
マーカムは明らかに当惑していた。ヒースは腹の中が煮えくりかえるようだったが、それ以上なにもいわず、むりに微笑さえしてみせた。どんなにヴァンスが非難されるに値するにしても、地方検事の友人にたいして、少しいいすぎたと感じたらしかった。
だからといって、ヒースは決して上役の前でおべっかを使うような男だったわけではない。彼は己の価値をわきまえており、全力を傾けてそれにふさわしい生き方をし、与えられた任務を遂行するにあたっては、自らの利害、得失をかたくななまでにかえりみなかった。この頑固な精神と堅実な性格から、彼は上役に尊敬され、重んじられていたのである。
ヒースはたくましい大男だったが、身のこなしは、まるで高度に訓練されたボクサーのように、軽くて、優雅だった。青く鋭い眼は、らんらんと突き刺すような光をおび、鼻は小さく、顎は広く卵形で、きびしい真一文字の口もとは、いつも唇をきつく噛みしめているようだった。四十をかなり越しているのに髪は白いものひとつなく、まわりが刈りこまれ、短いこわそうな毛が突っ立っていた。声は攻撃的に響いたが、めったにどなったりはしなかった。多くの点で、ヒースは刑事とはこういうものだという世間の観念にぴったりしていた。しかし、ヒースの個性にはなにかそれ以上のものが、いわば、可能性と力強さがつけ加わっていた。その朝、わたしは坐ってこの男を見守りながら、多くの明瞭な欠点にもかかわらず、思わず彼に感心している自分を見出した。
「ところで、正確な情勢を教えてくれんかね、部長」とマーカムがいった。ティンウィディーからは、ざっとあらましを聞いただけなんだ」
ヒースはせきばらいをした。「報告を受けたのは七時ちょっと前でした。ベンスンの家政婦でプラッツ夫人というのが所轄署に電話をかけてきて、主人が死んでいるのが見つかったから、だれかすぐよこしてくれというんです。むろん、その知らせはすぐ本部に連絡されました。わたしはその場にはいあわせませんでしたが、ちょうどバークとエメリーが当直中で、モーラン警視に知らせてから、ここに駆けつけたのです。所轄署から数人、すでに来ていて、きまりの捜査をやっていました。警視はこちらに来て、ざっと様子を見て、すぐ来るよう、わたしに電話したのです。わたしが来たときは、もう所轄署は帰ったあとで、殺人課からあと三人、バークとエメリーの応援に来ていました。警視はヘージドーン主任にも電話しました。事件は重大だから、すぐ主任を呼ぶべきだと思ったんでしょう。で、あなたがここへいらしたとき、ちょうど主任は着いたばかりでした。地方検事補は警視のすぐあとから来て、さっそくあなたに電話しました。オブライエン警視正が見えたのは、あなたよりちょっと前でした。ただちにわたしはプラッツという女を訊問し、部下たちが現場を調べているときに、マーカムさんが見えられたというわけです」
「そのプラッツとかいう女はどこかね、ヒース君?」
「二階で所轄署の者にひとり見張らせてあります。女はここに住みこんでいるのです」
「ドアマス君に、とくに十二時半という時間をいったのはどういうわけかね?」
「プラッツがその時間に銃声を聞いたといったので、それがピストルの音だろうと思ったのです。いろいろな事実と一致しますので」
「プラッツ夫人ともう一度話したほうがよさそうだね」とマーカムはいった。「しかし、まず第一にこの部屋になにか手がかりになるものは見つからなかったかね?」
ヒースは心持ためらってから、上衣のポケットから女物のハンドバッグと長い白のキッドの手袋を引き出し、マーカムの前のテーブルに投げ出した。
「これだけです」とヒースはいった。「所轄署の者が、あそこの暖炉の端で見つけました」
ざっと手袋を調べたあと、マーカムはハンドバッグを開け、中身をテーブルの上にこぼした。わたしは進み出て、覗きこんだが、ヴァンスは悠然と煙草をふかしながら、椅子に坐っていた。
ハンドバッグは細い金の網状になっていて、小さなサファイアをはめこんだ留め金がついていた。それは大変小さく、あきらかに夜会服用だった。マーカムは今中身を調べていたが、平べったい波模様のシガレット・ケース、ロージャー・アンド・ギャレット社の Fleure d'Amour(恋の花)香水の小さな金製の瓶。Cloisonne(七宝焼)のコンパクト、金のケースつき口紅、琥珀をはめこんだ短い華奢なシガレット・ホールダー、隅にM・St・Cと組合せ頭文字の入った、刺繍した小さなフランス・リネンのハンカチ、エール錠の鍵が入っていた。
「これはいい手がかりになりそうだ」とマーカムは、ハンカチを指していった。「この品物はみんな念入りに調べたろうね、部長?」
ヒースはうなずいた。
「調べました。ハンドバッグは、昨夜ベンスンといっしょに外出した女の物だと思います。家政婦の話だと、ベンスンは約束があって、夜会服を着て夕食に出かけたそうです。しかし、帰った音は聞かなかったといっていますが……。とにかく、このM・St・Cという女を突きとめるには、たいして手間はかからんでしょう」
マーカムはまたシガレット・ケースを取り上げ、さかさにすると、乾いた煙草の粉が少しテーブルの上にこぼれ落ちた。
ヒースは突然立ちあがった。
「この吸殻は、そのケースの煙草のものかもしれませんよ」といい、手をつけなかったほうの吸いさしをつまみ上げて、じっと見た。「こいつは婦人用の煙草です。まちがいない。それに、ホールダーで吸ったようですな」
「失礼だが、それはちがいますよ、部長」とヴァンスがゆっくり口をはさんだ。「こんなことをいってごめんなさい。しかし、煙草の端には、ちょっぴり口紅がついていますよ。吸い口が金色なので、見えにくいでしょうけれど」
ヒースは鋭くヴァンスを見た。怒るより、驚き入ったというところだった。もう一遍よく煙草を調べると、ヒースはまたヴァンスの方を振り返った。
「すると、この煙草の粉を調べれば、煙草がこのケースのものかどうかもおわかりになるんでしょうな」と皮肉っぽく、無愛想にいった。
「そんなことはだれにもわかりませんよ」とヴァンスは、だるそうに立ちあがりながら、答えた。そしてケースを拾いあげて、押して大きく開け、テーブルの上で軽くたたいた。それから、注意深く中を覗きこみ、面白そうに□の端をゆがめた。人差し指をケースの中に深く突っこんだヴァンスは、あきらかにケースの底で押しつぶされていた小さな煙草を一本引き出した。
「どうやら、わたしの嗅覚の天分も必要がないようですね」とヴァンスはいった。「この煙草と吸殻が同じものであることは、肉眼でも明らかです。どうですか、部長?」
ヒースは人がよさそうに、にやりとした。「これは大した掘出し物だ、マーカムさん」そういうと大切そうに煙草と吸殻を封筒に入れ、何か書いて、ポケットに入れた。
「わかったかね、ヴァンス」とマーカムがいった。「煙草の吸殻が大切だっていうことが」
「わかったとはいえないね。いったい、吸殻なんかなんの価値があるんだい? 吸えるわけじゃああるまいし」
「証拠になるんだよ、ヴァンス」とマーカムは辛抱強く説明した。「このバッグの持ち主が昨夜、ベンスンと帰ってきて、煙草を二本吸うくらいの時間、いっしょにいたことがわかるんだ」
ヴァンスはわざとらしく驚いて、眉をあげた。「そうかね。わかるかね。それは驚いた」
「あとは、その女を突きとめるだけですよ」とヒースが口をはさんだ。
「とにかく、その女はどちらかというとはっきりしたブルネットですよ。もし、その事実が少しでもあなたの捜査のお役に立つならね」とヴァンスはくったくなく言った。「それにしても、なぜあなたがその女性を困らせようとなさるのか、ぼくには全然わかりませんね。ほんとうに、まるでわからない」
「なぜ、その女がブルネットだというのかね?」とマーカムはたずねた。
「もしブルネットでなかったら」とヴァンスは、もの憂げに椅子に身を沈めながらいった。「その女は化粧品屋へ行って、どんなメーキャップが適当かきいてみるべきだね。彼女はレイチェルのパウダーと、ゲルランの黒ずんだ口紅を使っているようだ。ブロンドの女なら、こんなことはしないよマーカム」
「むろん、きみの専門的意見には敬意を表するが」とマーカムはほほえんだ。それから、ヒースに向かって、「すると、ブルネットを探さないといかんらしいな、部長」
「わたしはその線でOKです」とヒースは、おどけて同意した。もはや、ヒースはヴァンスが煙草の吸殻という線を駄目にしたことをすっかり許しているらしかった。
四 家政婦の陳述
六月十四日金曜日午前十一時
「さて」とマーカムが提案した。「家の中を、一通り見ておくことにするか。部長、きみはもうくわしく見たと思うが、わたしもざっと様子を見てみたい。いずれにせよ、死体の運び出しがすむまでは、家政婦を尋問したくないのだ」
ヒースは立ちあがった。「承知しました。わたしも、もう一度見たいと思います」
われわれ四人はホールに入り、廊下伝いに家の裏手にまわって行った。左手の突きあたりに、地下室に通じるドアがあったが、鍵がかかっていて、おまけに閂がさしてあった。
「地下室は現在、物置きに使われているだけです」とヒースは説明した。「そして、地下室から通りへ出るドアは、板でふさいであります。プラッツという女の寝室は階上です。ベンスンはこの家にひとりで暮らしていて、空部屋がいっぱいあります。それから、台所はこの階です」
ヒースが廊下の反対側のドアを開けると、わたしたちは小さなモダンな台所に足を踏み入れた。地上約八フィートの高さで舗装した裏庭に面した二つの背高窓があったが、しっかりと鉄格子で固められ、その上、あげさげ窓は閉められ、鍵がかかっていた。わたしたちは自在ドアを通り、居間のすぐ後ろにある食堂に入った。ここの二つの窓は、小さな石だたみの中庭──中庭といっても、実際は、ベンスン邸と隣家の間にある深い空気井戸程度のものにすぎないが──に面しており、おまけに、その窓にも鉄格子があって、鍵がかかっていた。
わたしたちはまた廊下ホールにもどり、しばらく二階に通じる階段の昇り口に立っていた。
「ご覧の通り、マーカムさん」とヒースは指摘した。「ベンスンを射った奴は表口から入ったにちがいありません。ほかに入口はないはずです。ひとり暮らしのベンスンは、泥棒のことを少々気にやんでいたでしょう。なるほど、居間の裏手は鉄格子がはまっていませんが、ちゃんと閉めて、鍵がかかっている。それに、あの窓は中庭に通じているだけだ。居間の表窓は鉄柵がしてあって、格子越しに射つこともできんでしょう。だって、ベンスンは反対の方向から射たれているんですからな……射った奴が表口から入ったことは、かなりはっきりしていますよ」
「そうらしいな」とマーカムはつぶやいた。
「こういってはなんですが」とヴァンスが口をはさんだ。「ベンスンが犯人を連れこんだんですよ」
「そうですかな」とヒースはつめたくいいかえした。「まあ、いいでしょう。いずれ、あとでみんなわかるんですから」
「むろん、そうでしょう」とヴァンスは平然と同意した。
わたしたちは階段を昇り、居間の真上にあるベンスンの寝室に入った。そこは簡素だが、立派な家具が備えつけてあり、きちんと整頓してあった。ベッドが整えられ、昨夜使われなかったことを示していた。窓のシェードは引いてあった。ベンスンのタキシードと白いピケ地のチョッキが椅子にかけてあり、翼つきのカラーと黒の蝶ネクタイが、昨夜ベンスンが帰宅したときはずして放り出したらしく、ベッドの上にのっていた。夜会用の踵の低い靴が一足、ベッドの脚もとの腰掛けに立てかけてある。ナイト・テーブルの上にある水の入ったコップには、義歯が四本はまったプラチナ台の入歯が漬けてあり、みごとな作りのかつらが箪笥の上に置いてある。
このかつらが、とりわけヴァンスの関心を惹いたようだった。彼はそばまで歩み寄り、しげしげと眺めていた。「これは面白い」とヴァンスはいった。「親愛なる故人が、かつらを使っていたらしいとはね。きみは知っていたかね、マーカム?」
「いつもそうじゃないかと思っていた」とマーカムは上の空で返事した。
入口にじっと立っていたヒースは、少し苛々したようだった。「この階には、もうひとつ部屋があるだけです」とホールを先に立って歩きながらいった。「それも寝室で、客用だと家政婦がいってましたっけ」
マーカムとわたしは戸口から覗きこんだが、ヴァンスは階段の上の手すりにぼんやリもたれたままだった。あきらかに、アルヴィン・ベンスン家の様子にはなんの興味もないらしかった。マーカム、ヒース、わたしの三人が三階に昇って行くと、ヴァンスはぶらりと下のメイン・ホールに降りて行き、わたしたちが検分を終えて降りてくると、ベンスンの本棚の本のタイトルをぼんやり眺めていた。
わたしたちがちょうど階段を降りたとき、表のドアが開いて、二人の男が担架を持って入ってきた。ベンスンの死体を死体置場に運ぶため、福祉局の救急車が着いたのである。乱暴な、事務的なやり方でベンスンの死体がおおい隠され、担架に乗せられ、表に運び出されて、車に放りこまれるのを見ると、わたしは身震いがした。しかし、ヴァンスは最初二人の男たちをちらっと見ただけで、あとはなんの注意も払わなかった。彼はすばらしいハンフリー・ミルフォード〔一九一九年から二一年まで、イギリス出版協会会長をつとめた〕の装丁本を見つけ、ロジャー・ペイン〔十八世紀イギリスの有名な装丁家〕の型押しや箔づけにうっとりと見とれていた。
「もうプラッツ夫人と会ってもいいだろう」とマーカムがいった。ヒースは階段の昇り口に行き、大きな活発な声で命令をくだした。
すぐに、銀髪の中年女が、大きた葉巻をくわえた平服の刑事に連れられて居間に入ってきた。プラッツ夫人は静かで、情け深そうな顔をした、素朴で、古風な母親タイプの女だった。どうやら非常に腕の立つ、ヒステリーとは縁のなさそうな女という印象だった。この印象は、すべて受け身で、諦めきったその態度で、さらに強められていた。と、同時に無智な者によく見うけられる無言のずるさを持ちあわせているように思われた。
「掛けたまえプラッツさん」とマーカムはやさしくいった。「わたしは地方検事だが、二、三たずねたいことがある」
プラッツ夫人は、戸口のそばの背のまっすぐな椅子に掛け、落ち着かなげにわたしたちを見渡しながら待っていた。しかし、マーカムのおだやかな、心のほぐれるような声に元気づけられた様子で、次第にすらすらと答えるようになっていった。
十五分ばかりの訊問で明らかになった主な事実は、要約すると、次のようだった。
プラッツ夫人はこの四年間ベンスンの家政婦で、たったひとりの使用人だった。彼女はこの家に住みこみ、三階、つまり最上階の裏手に部屋があった。
前日の午後、ベンスンはいつになく早く、四時頃、事務所から帰ってきて、夕食は家ではしないと彼女にいった。ホールのドアを閉め、六時半まで居間に閉じこもっていたが、それから二階へ着換えをしに行った。七時頃家を出て行ったが、行き先はべつにいわなかった。ただ、何気なくそう遅くはならないつもりだが、起きて待つ必要はないといった。ベンスンが客を連れてくるつもりのときは、いつもそうするのが彼女の習慣だったからである。それがベンスンの生きているのを見た最後だった。昨夜ベンスンが帰った物音は聞いていない。
彼女は十時半頃部屋にひきとったが、暑いので、ドアを少し開けておいた。しばらくして、大きな爆発音で眼がさめた。びっくりして、枕もとの明りをつけると、いつも起床に使う小さな目覚し時計はちょうど十二時半だった。時間が早かったので、彼女はほっとした。いつも夜外出すると、ベンスンは二時前に帰宅することは稀だったからである。そのことと、家中が静まりかえっていることを考えあわせて、彼女は先ほどの物音は四十九番街を通る自動車の爆音だったと結論し、それでそのことは心から追いやって、また眠ってしまった。
翌朝七時、彼女はいつも通り階下に降りてきて一日の仕事にとりかかった。そして表玄関へ、ミルクとクリームをとりに行く途中、ベンスンの死体を発見した。居間のシェードは全部おりていた。最初、彼女はベンスンが椅子で居眠りをしているのかと思ったが、弾痕と電燈が消してあるのを見て、主人が死んでいることを知った。そこで、早速ホールの電話のところへ行き、交換手に警察へつないでくれと頼んで、事件を通報した。それから、主人の兄のアンソニー・ベンスン陸軍少佐のことを思い出して、そこにも電話した。少佐が到着したのは、西四十七番街署の刑事たちとほとんど同時だった。少佐は彼女に幾つか質問し、刑事たちと話しあい、本部から警官が来るまえに引きあげた。
「そこで、プラッツさん」とマーカムは、自分でとっていたメモをちらと眺めながらきいた。「もう一つ、二つたずねて、それでおしまいにしよう。最近ベンスンさんの挙動に、なにか心配ごとでもありそうな、つまり、その、なにか起こりそうだと心配しているような気配はなかったかね?」
「いいえ」と家政婦は即座に答えた。「それどころか、この一週間ばかり、とくにご機嫌がよいように見えました」
「この階の窓はほとんど鉄格子がはまっているが、ベンスンさんは泥棒とか押し込みをとくにこわがっていたのかね?」
「いいえ、とくに」と彼女はためらいがちに答えた。「しかし、いつも警察なんてなんの役にもたたん──ごめんください、こんなこと申しあげて──と、いっておいででした。それから、この市では、強盗にやられたくなかったら、自分で用心しなくちゃいかん、といっておられました」
マーカムはくすりとして、ヒースの方を振り向いた。「今の言葉を、とくにきみの手帳に書き留めておいたほうがよさそうだね、部長」それから、プラッツ夫人に向かって、「だれか、ベンスンさんを恨んでいた者はいないかね?」
「いいえ、ひとりも」と家政婦は言葉を強めた。「いろんな点で変わった方でしたけど、どなたからも好かれているようでしたし……いつもパーティに招かれたり、招いたりしておいででした。あの方を殺そうと考えるなんて、わけがわかりません」
マーカムはまたメモを見た。「今のところは、これでおしまいだ。どうかね、部長、なにか、きみのほうでききたいことは?」
ヒースはしばらく考えこんでいた。「いいえ、とくにありません。しかし、プラッツさん」と、家政婦をひややかに一瞥して、「出ていいというまで、この家から出ないでもらいたい。あとで、またたずねることがあるかもしれん。それから、だれともおしゃべりをしてはいかん。わかったね? 部下の者を二人、しばらくここに置いていく」
訊問の間、小さなアドレス・ブックの見返しに何かを書きとめていたヴァンスは、ページを破いて、マーカムに渡した。マーカムは眉をしかめてそれをちらと見、唇をすぼめた。それから、ちょっとためらったあと、また家政婦に話しかけた。
「プラッツさん、あなたの話だと、ベンスンさんはみんなから好かれていたそうだが、あなた自身はどうかね?」
プラッツ夫人は眼を膝に落とした。「それは、あの、検事さん」とためらいながら、「わたしは雇われている身で、あの方の待遇になにも不満はありませんでした」だが、その言葉にもかかわらず、彼女はベンスンをひどく嫌っているか、不満に思っているという印象がうかがわれた。マーカムは、しかし、その点は追求しなかった。
「ところで、プラッツさん」とマーカムはまた訊問した。「ベンスンさんは、なにか銃砲をこの家に持っていたかね? たとえば、ピストルを持っていたかどうか知らないかね?」
訊問がはじまって以来、はじめて彼女は動揺し、おびえさえしたようだった。「はい、お、お持ちだったように思います」と、うろたえた声でいった。
「それはどこかね?」
女は心配そうにちらっと視線をあげ、正直にいったほうがいいかどうか探るように、ちょっと眼をきょろつかせた。それから、低い声で、「そこのセンター・テーブルの隠し引出しの中ですわ。あの小さな真鍮のボタンを押せば開きます」
ヒースはとびあがって、女の指したボタンを押した。小さな、浅い引出しが躍り出し、柄に真珠を象眼したスミス・アンド・ウェッソンの三十八口径の連発ピストルが中に入っていた。ヒースはピストルを取りあげ、台架を折って、弾倉をのぞいた。「弾は全部あります」と短くいった。
女はひどくほっとした表情を浮かべ、それと聞えるほど大きく溜息をついた。
マーカムは立ちあがって、ヒースの肩越しにピストルをのぞきこんだ。「きみに預ってもらったほうがいいだろう、部長。事件とどうつながるのか、わたしにはまだよくわからないが」
マーカムはまた席にもどり、ヴァンスから渡されたメモをちらと眺め、家政婦のほうに振り向いた。「もうひとつききたいが、プラッツさん。あんたの話だと、ベンスンさんは早目に帰宅して、夕食に出かけるまえ、この部屋にずっといたわけだね。で、だれかその間に訪ねてきた人はなかったかね?」
わたしはじっと女を見守っていたが、彼女はすばやく口元をひきしめるように思われた。とにかく、彼女は答えるまえに、ちょっと椅子の中で姿勢をととのえた。「いいえ、どなたもいらっしゃいませんでした。わたしの知るかぎりでは」
「しかし、ベルが鳴ったら、必ず気がついたはずだね」とマーカムは追求した。「それで、あんたが取次ぎに出る。え、そうだろう?」
「いいえ、とにかく、だれもいらっしゃいませんでした」と彼女は、ちょっとむっとしてくりかえした。
「で、昨夜は、あんたが部屋に引きさがってから、玄関のベルは全然鳴らなかったかね?」
「ええ、検事さん」
「もし鳴ったら、眠っていても聞えたろうね?」
「はい。わたしの部屋の外は、台所のとおなじベルがありますから、同時に鳴るんです。ベンスンさまがそうなさいました」
マーカムは礼をいって、女をさがらせた。そして、女が立ち去ると、もの問いたげにヴァンスのほうを見た。「きみがこの質問のメモをぼくに渡したのは、どういうつもりだい?」
「ちょっと出すぎたかもしれないが」とヴァンスはいった。「あの女史が故人の人気をほめそやしたとき、なにか大げさなものを感じたんでね。彼女のほめ言葉は無意識のうちに反語になっていて、だから、この女はベンスンに惚れこんでいるわけじゃないなと思ったんだ」
「では、この家にピストルが置いてあるという件は?」
「ああ、あれか。あれは鉄格子のはまった窓とか、ベンスンが泥棒を怖れていたことについて、きみがした質問と同じ系列だ。ベンスンが強盗や敵を怖れていたとすれば、当然手元に武器を置いておくだろう」
「とにかく、ヴァンスさん」とヒースが口をはさんだ。「あなたの好奇心のおかげで、たぶん一度も使ったことがないすてきに小さなピストルが見つかったんですからね」
「ところで、部長」とヴァンスは、ヒースの上機嫌な皮肉を無視していった。「あなたはあのピストルをどう思います?」
「そうですな」とヒースは不器用におどけてみせた。「本官の推測では、ベンスン氏は真珠の柄のついたスミス・アンド・ウェッソンをセンター・テーブルの隠し引出しの中に入れておいたんですな」
「ほんとですか!」とヴァンスは、わざとらしく感心していった。「すばらしい推理だ」
「ところで、ヴァンス」とマーカムが、この皮肉のやりとりに割って入った。「どうして、きみは来客のことを知りたがったんだい? だれも来なかったのは明らかじゃないか」
「なあに、ぼくの気まぐれさ。プラッツ女史がなんていうか聞いてみたい衝動におそわれたもんでね」
ヒースは興味深げにヴァンスを観察していた。この人物にたいする第一印象は消え、彼は相手ののんびりした快活な外見の底には、最初想像したのより、ずっとずっしりしたなにかがひそんでいるのではないか、と疑いはじめていた。ヒースはこの人物がマーカムにした説明には完全には満足せず、なぜ検事が家政婦を訊問した際、はたから口ぞえしたのか、その真の理由を探り出そうとしているようだった。ヒースはきれ者で、人の心を見抜く世間なみの能力をそなえていた。しかし、ヴァンスは、ふつう彼が接しているひとびととはかけ離れ、どうにも謎だった。
結局、ヒースはヴァンスを吟味することはやめ、勢いよくテーブルに椅子を引き寄せた。「では、マーカムさん。お互いに仕事がだぶらないように、だいたいの活動方針を決めておきましょう。早く部下を仕事にかからせるほど、うまくいくんですから」と、てきぱきといった。
マーカムもすぐさま同意した。「捜査は全部まかせるよ、部長。必要なとき、いつでも手伝うつもりでここに来ただけだ」
「ご好意に感謝します。検事。しかし、みんなたっぷり仕事があるようですね。ハンドバッグの持ち主を割り出したり、ベンスンの夜の生活の仲間を探すために部下をまわしたり。名前はいくらか家政婦から聞き出せるでしょう。出発点として、それで上等です。それに、例のキャディラックも追う必要がある。それから、ベンスンの女関係も洗わなくちゃいかん。結構いたでしょうからな」
「その点は、わたしが少佐からなにか聞き出せるだろう。こっちが知りたいことはなんでも話してくれると思う。ベンスンの仕事関係の知人も、その線から洗えるよ」
「その方面は、わたしより検事のほうが適任でしょう。とにかく、早く糸口を見つけないといけませんな。ベンスンといっしょに昨夜食事をして、ここに来た女性を割り出せば、今よりずっといろいろなことがわかるでしょう」
「いや、ずっとわからなくなるかもしれませんよ」とヴァンスがつぶやいた。
ヒースはさっと顔をあげ、思わずかっとして唸り声をあげた。「ヴァンスさん、一言いっとくが──あんたは、こういった事件についてなにか勉強したいそうだから──世間でなにか重大なまちがいが起こったときは、事件の中の女を探すのが、無難なやり方というもんだ」
「なるほど」とヴァンスはにっこりした。
「cherchez la famme(事件の陰に女あり)というわけですか。昔からの考え方ですよ。ローマ人でさえその迷信で苦労したもんだ。Dux femina facti(行為を指導するのは女なり)という言葉がありますよ」
「ローマ人がなんていっているか知らないが」とヒースはいいかえした。「それは正しい考えだ。まちがっているとはいわせませんぞ」
またもや、マーカムがたくみに割って入った。「その点は、すぐにわかるだろう、両君。そこで、部長、なにかほかに提案したいことがないのなら、わたしはこれで失礼しよう。ベンスン少佐には、昼飯のとき会いたいといっておいた。夕方までには、なにかきみに情報をあげられるかもしれない」
「わかりました」とヒースはうなずいた。「もう少しここでねばって、なにか見落としていないか見てみましょう。内と外にひとりずつ見張りを置いて、プラッツという女を見張らせます。それから、新聞記者に会って、謎のキャディラックと、ヴァンスさんが隠し引出しから見つけたあやしいピストルのことを話してやりましょう。奴らは充分それでおさえられますよ。なにか見つかったら、電話します」
ヒースは地方検事と握手すると、ヴァンスのほうに向き直って、「では、これで」と明るくいった。わたしも驚いたが、マーカムもきっと驚いたろうと思う。「今朝は、なにかのご勉強になったらいいんですが、ヴァンスさん」
「勉強になったのなんのって、きっとあなたはびっくりするでしょう、部長」ヴァンスは無頓着にいった。
ヒースの眼にはまたもやずるそうな、探るような光が浮かんだのに、わたしは気がついた。しかし、それはすぐに消えうせた。「そうですか。それは結構でした」とヒースは、短くいった。
マーカム、ヴァンス、わたしの三人が外に出ると、張番中の巡査がタクシーを呼んでくれた。
「わが偉大なる gendarmeric(警察)は、犯罪の神秘きわまりない内奥に迫るのに、あんなふうにするのかね?」と車が町を走りだしたとき、ヴァンスは感に耐えぬようにいった。「あんな逞しい若者たちに、どうやって犯人を突きとめることができるんだい、え、マーカム?」
「きみの見たのは、まだほんの序の口だ」とマーカムはいった。「一応やっておくべき手順というものがあるんだ。われわれ法律専門家のいう ex abundantie cautelae(警戒措置)というやつだ」
「しかし、驚いたもんだね。大したやり方だ」とヴアンズはほっと溜息をついた。われわれ俗人のいう quantum est in rebus inane(そこにはなんと多くの虚栄心があることか)というやつさ」
「きみはヒースの腕を買ってないようだが」とマーカムは苛立ちをおさえていった。「あれは切れる男だよ。実力以下に見られることはよくあるが」
「そんなもんかねえ」とヴァンスはつぶやいた。「とにかく、ほんとうにありがとう、マーカム。厳粛な捜査手続を拝ませてくれたんだからなあ。べつに向上しなかったにしても、とても愉快だった。それにしても、あのアスクレピオス〔古代ギリシアの医神。ここではドアマス医師のこと〕大先生には惹かれたねえ。あんなにきびきびして、無感動で、死体とつきあって平然としているなんて。あの先生は、医学をやるかわりに、刑事になって、本気で犯罪と取り組むべきだったねえ」
マーカムは暗い顔で黙りこみ、ヴァンスの家に着くまで、窓の外を眺めながら、心配そうに瞑想にふけっていた。「どうも気にくわん」と彼は車が横着けになったとき、いった。「この事件は、どうも奇妙な感じがしてならない」
ヴァンスは、ちらっと横眼でマーカムを見やり、「マーカム」といつになく真面目にいった。「きみはだれがベンスンを射ったと思うかい?」
マーカムは、むりにちょっとほほえんでみせた。「わかったらいいんだが。謀殺罪はそう簡単には解決されないもんだ。それに、この事件は、とくに複雑なような気持がする」
「これは驚いた」とヴァンスは、車から降りながらいった。「ぼくはまた、とてつもなく単純な事件だと思ったが」
五 情報収集
六月十五日土曜日午前
読者は、アルヴィン・ベンスン殺人事件のまき起こした騒ぎをよくおぼえておられるだろう。それは、否応なしに世間の想像を掻き立てずにはおかないような犯罪のひとつであった。すべてロマンスの根底には謎があるもので、ベンスン殺人事件のまわりには、計り知れない神秘の雰囲気がただよっていた。事件を取り巻く情況に、なにか明りがさすまでには、多くの日時がかかったが、それまでの間には、幾多の ignes fatui(鬼火)があらわれて世間の想像力をあざむき、とてつもない憶測が各方面でおこなわれた。ベンスン自身は、どう見てもロマンチックな人物ではなかったが、ニューヨークの有名人であり、その人となりは多彩で、はなやかだった。彼はニューヨークの富裕で、放縦な社交界の一員で、熱烈なスポーツマン、むこうみずなギャンブラー、名うての道楽者であり、その生活はネオンの巷で過ごされ、しばしば世間の注目をあつめた。ナイト・クラブやキャバレーでのベンスンの行状は、ブロードウェーのスキャンダルを扱った地元のいろいろな新聞、雑誌のどぎつい物語や記事に、長い間、この上ないネタを提供していたのである。
ベンスンとその兄のアンソニーは、前者の急死した当時、ウォール街二十一番地にベンスン・アンド・ベンスン商会という名で、株式仲買店をいとなんでいた。二人は、ニューヨーク株式取引所の規約や細則から見れば、おそらく少々モラルに反する点があっただろうが、ウォール街の仲買人仲間からは、やり手の実業家だと思われていた。二人は気質も趣味もまるで正反対で、事務所以外ではほとんど顔をあわせなかった。アルヴィン・ベンスンがその余暇のすべてを快楽の追求にささげ、ニューヨークの主だったカフェーの常連だったのに反し、兄のアンソニーは、前大戦に少佐として従軍し、落ち着いたごくふつうの生活を送り、夜はたいてい自分のクラブで静かに過ごしていた。しかし、二人ともそれぞれ仲間うちでは評判がよく、それを通じて大勢の顧客を作りあげていた。
はなやかな財界に起きたこの事件は、当然それを扱う新聞の方針にも影響をおよぼした。それに、殺人が起きた当時、ニューヨークの新聞は、センセーショナルなネタが一時品切れになっており、そのため事件は、この種の事件としては、稀なほど派手に、各新聞の一面をにぎわせた(あの有名なエルウェル事件は、それから数年後におこった。それはある点でベンスン事件に似たところがあり、エルウェルはベンスンよりもっとよく知られ、関係者たちも社会的にもっと著名だったが、これほどのセンセーションは巻きおこさなかった。実際、エルウェル事件の報道には、ベンスン事件が数回引合いに出され、市議会の野党側の新聞のごときは、マーカムがもはやニューヨークの地方検事でないのは残念であると述べたほどだった)。全国の有名な探偵は、功名心にはやる新聞記者のインタビューを受け、未解決の有名な殺人事件が回想された。透視家や占星術師は、日曜新聞の編集者に狩り出され、さまざまな超自然的方法で謎を解かされた。毎日のように写真やくわしい図面が、こうした新聞の呼び物となっていた。
グレーのキャディラックと、真珠柄のついたスミス・アンド・ウェッソンのピストルは、どの新聞記事でも特別扱いされていた。マクラクリン巡査の陳述にあうように「修正」され、改造されたキャディラックの写真が登場し、なかには、後部座席から釣竿が突き出た写真さえあった。ベンスンのセンター・テーブルの写真がとられ、隠し引出しが拡大され、「組合せ」としてのせられた。ある日曜雑誌のごときは、専門の家具師を雇い、家具につける秘密の物入れについて記事を書かせたほどだった。
事件は、最初から、警察の観点からすれば、やっかいな難事件だった。ヴァンスとわたしが現場を去ってから一時間たらずのうちに、ヒース部長刑事指揮のもと、殺人課の刑事たちによって組織的な捜査が開始された。ベンスンの家はもう一度徹底的に調べられ、個人的な手紙にはすべて目が通された。しかし、悲劇に光を投じるようなものはなにひとつ見出されなかった。ベンスン自身のスミス・アンド・ウェッソン以外には、なにも兇器は発見されず、窓の grilles(鉄格子)はすべてもう一度調べあげられたが、どれも頑丈で、加害者が鍵を使って入ったか、ベンスンに入れてもらったかのどちらかだということを示していた。ヒースは、プラッツ夫人が自分とベンスン以外には鍵を持っていた者はいないと断言したにもかかわらず、どうしてもベンスンが加害者を招じ入れたかもしれないという可能性を認めようとはしなかった。
ハンドバッグと手袋を除いては、決定的な手がかりはまるでなかったので、唯一の可能な方法は、ベンスンの友人、知人になにか事件解決の糸口になりそうな事実をたずねることだけだった。ヒース部長刑事がハンドバッグの持主を割り出そうとしたのも、この方法によってだった。ベンスンがあの晩を過ごした場所を突きとめるにも特別の努力がはらわれた。しかし、多くの知人にききあわせ、ふだん行きつけのカフェーをことごとく訪ねたが、あの晩、ベンスンを見かけた者は皆無であった。警察の知りえたかぎりでは、ベンスンがあの晩の計画をだれかに話した様子もない。その上、警察が徹底的に洗ったのに、役にたちそうな一般的情報も、すぐには出てこないのだ。見たところ、ベンスンには敵はなく、だれかと烈しい喧嘩もしていない。その身辺は、いつもと変わるところがなかった。刑事たちはそう報告した。
アンソニー・ベンスン少佐は、弟の素行をよく知っているはずであり、当然、主要参考人として情報提供を求められた。事件の当初、地方検事局が主に活動したのは、この方面においてだった。マーカムは、犯罪の発見された日、さっそくベンスン少佐と昼食をともにした。少佐は、たとえ弟の人格を傷つけることになっても、よろこんで捜査に協力する旨申し出たが、その提言はほとんど役に立たなかった。少佐は、わたしは弟の知人・友人はたいてい知っているが、こんな罪を犯す理由のありそうな人間は知らないし、警察が犯人を逮捕するのに役に立ちそうな人間も心当りがない、とマーカムに述べた。しかし、同時に、弟の生活には自分の知らない一面があることを率直に認め、その隠れた事実が、なにかはっきりさせられないのを遺憾に思うといった。そして少佐は、弟の女関係は少々常識はずれだったことをほのめかし、その方面から動機が発見される可能性がないわけではないと述べた。
ベンスン少佐のこのあいまいで不充分な情報にもとづいて、さっそくマーカムは地方検事局から有能な部下を二人選び出し、警察本部の捜査員の活動のさまたげにならないよう、ベンスンの女関係だけに限って捜査しろと命令した。また、訊問のとき、ヴァンスが家政婦にあきらかに関心を示していたので、彼女の前歴や親族関係を調べるため、部下をひとり差し向けた。
その結果、プラッツ夫人はペンシルヴェニア州のある小さな町で、ドイツ人の両親(二人とも今では死亡していた)の子として生まれ、十六年以上やもめ暮らしをしていることが判明した。ベンスン家に来るまえは、ある家庭に十二年勤めたが、そこを去ったのは、女主人が世帯を持つことをやめて、ホテルに移ったからだった。まえの雇い主の話だと、プラッツ夫人には娘がひとりいたが、一度も見たことがなく、なにも詳細は知らないとのことだった。これらの事実にはなんの手がかりもなく、マーカムはただ形式的にその報告をファイルにしておいた。
ヒースはニューヨーク中、あのグレーのキャディラックを探させたが、自分ではその車が直接事件に関係があるとはほとんど信じていなかった。車探しの件では、新聞が大々的に書きたててくれて、大いに役立った。そして、実際キャディラックが事件の謎を解く鍵になるかもしれないと思わせるような奇妙な事実があらわれて、警察を興奮させた。ひとりの道路清掃夫が、自動車にあった釣竿のことをなにかで読んだか、聞いたかして、セントラル・パークのコロンバス・サークル近くの自動車道路の道ばたで、どこもいたんでいない釣竿の継ぎ節を二本見つけたと、警察に届け出たからだ。問題は、その継ぎ竿が、マクラクリン巡査がキャディラックで見たものの一部かどうかということだった。車の持ち主が途中で投げすてたのかもしれないし、また、だれかが公園を車で通り抜けるときに、紛失したのかもしれない。ともかく、それ以上の情報はあらわれず、犯罪が発見された次の日の朝になっても、事件の解決という面では、なんら見るべき進展はなかった。
その朝、ヴァンスは手に入るかぎりの新聞を買いに、カーリーをやらせ、一時間以上かけて、事件に関する記事をあれこれ熟読した。ヴァンスが新聞を斜めにでも目を通すというのは異例のことであり、ふだんの習慣とはまるで無関係な問題に、彼がにわかに興味を持ったのを見て、わたしは驚きの言葉を口にせずにはいられなかった。
「ちがうんだよ、ヴァン」とヴァンスはもの憂げにいった。「ぼくはセンチメンタルになったのでも、人間的になったのでもない。人間的という言葉は、今日ではまちがって使われているけれどね。ぼくはテレンティウス〔古代ローマの喜劇詩人〕とともに、Homo sum humani a me allenum puto(私は人間だから、人間についての何事も、私には無関係ではあり得ない)というわけにはいかないんだ。人間的と呼ばれているものの大半は、ぼくとはまったく無関係なんだから。しかし、きみ、この犯罪界の小さな突風は、なかなか面白いじゃないか。あるいは、雑誌記者がいうように、intriguing(興味津々)たるものだ。いやな言葉だがね。ヴァン、ほんとにきみはヒース部長刑事との貴重きわまるこの会見記事を読んで見るべきだ。なにしろ、やっこさん、『自分はなんにも知らない』ということをいうのに、一段全部を使っているんだから。大した男だよ。すっかりあの男が好きになりかけたね」
「ほんとうに知っていることを新聞から隠すためのヒースの作戦かもしれないよ」
「いや、ちがう」とヴァンスは、あわれむように頭を振りながら、「この朝刊のヒースみたいに、ひとりの殺人犯をつかまえるために、自分が人間としての推理力を全然備えていないことをわざと見せびらかすほど虚栄心の少ない人間なんて、ありゃしない。あったとすれば、気狂い沙汰だ」
「とにかく、マーカムなら、まだ発表されていないことをなにか知っているか、疑っているかもしれない」
ヴァンスはしばらく考えこんだ。「それはありえないことじゃない。ジャーナリズムがこういうおしゃべりをしている間、あの男は慎ましく奥に引っこんでいたからねえ。ぼくたち自身で、もっと事件を徹底的に調べてみたらどうだろう?」
ヴァンスは電話のところに行って、地方検事局を呼び出し、スタヴィサント・クラブで昼食をともにする約束をした。
「スティーグリッツの店のナデルマン〔ポーランド生まれのアメリカの彫刻家〕の彫刻はどうする?」と、わたしは、その朝、こうしてヴァンスの家を訪れた理由を思い出してたずねた。
「今日はギリシア的なシンプルな美を味わう気分にはなれないね」とヴァンスは答え、また新聞を読みだした。
ヴァンスのこの態度に驚いたというだけでは、わたしの気持を充分伝えてはいないだろう。長いつきあいの中で、わたしは彼がなにかほかの気晴らしのために、美術への情熱をあとまわしにした例を知らなかった。そして、法律とその運用に関する事柄が、彼の関心を惹いたことは一度もなかったのだ。わたしは、なにか異常なものが彼の頭に働いているのをさとり、それ以上口をきくのを遠慮した。
マーカムは約束の時間に少し遅れてクラブに来た。ヴァンスとわたしは、すでにいつもの隅のテーブルについていた。
「やあ、尊敬すべきリクルゴス君〔紀元前四世紀のギリシアの法律家〕」とヴァンスは呼びかけた。「新しい重要な手がかりが幾つか発見され、世間はきわめて近い将来に、捜査の重要な進展を期待してよろしい、とかなんとか、そういったむだ口をたたくのはさておいて、実際の成行きはどんなかね?」
マーカムはほほえんだ。「どうやら新聞を読んでいるようだね。記事をどう思う、きみは?」
「典型的だね、まったく。念入りに、苦心して、大切なところ以外は全部書いてあるんだから」
「そうかね」とマーカムはおどけていった。「では、うかがうが、きみのいう『大切なところ』とは、なんのことかね?」
「ぼくの愚かなしろうと考えでは、ベンスンのかつらこそ、めぼしい、大切なもののひとつだと思うんだが」
「そう、少なくともベンスンはそう考えていたろうね。で、ほかには?」
「箪笥の上に、カラーとネクタイがあったっけ」
「それから」とマーカムはひやかし気味に、「コップの中の義歯もお忘れなく」
「そうだ、すばらしい!」とヴァンスは感嘆してみせた。「たしかに、義歯も事件の大切なところのひとつだ。請けあってもいいが、わが偉大なるヒース君でさえ、義歯には気がつかなかったらしいから。しかし、あそこにいた、ほかのアリストテレス先生方も、観察のおそまつなことでは、ヒース君と兄たりがたく、弟たりがたし、というところだったっけ」
「どうやら、きのうの捜査に感心しなかったらしいな、ヴァンス?」
「とんでもない」とヴァンスは地方検事に請けあった。「あきれて、ものがいえないほど感心させられたよ。捜査全体が、まさに愚劣さの極致だ。手がかりになることが、すべてうやうやしく無視されている。少なくとも一ダースくらいの points de depart(出発点)があって、みんな同じ方向を指しているのに、だれひとり、その pourparleurs(手がかり)に気がつかなかったんだから。みんな、煙草の吸いさしを探したり、窓の鉄格子を調べたり、ばかげたことに大忙しだ。ところで、あの grilles(鉄格子)はなかなか魅力的だったね、フィレンツェ風のデザインで」
マーカムは、ヴァンスの毒舌に、なかば面白がり、なかば気を悪くしていた。「警察を信じたまえ、ヴァンス。けっきょく、うまくやるから」
「ひとを信じるきみの性格には、感嘆のほかないよ」とヴァンスはつぶやいた。「ところで、ぼくを信用して打ち明けてほしいんだが、ベンスン殺しの犯人の見当はついたのかね?」
マーカムはためらった。「これは、むろん、ここだけの話だが」としばらくしていった。「今朝、きみの電話のすぐあと、ベンスンの女関係を洗わせにやった部下のひとりから報告があって、あの晩、ハンドバッグと手袋を残していった女が見つかったそうだ。ハンカチにあったイニシャルが手がかりになったんだ。そして、その女について、興味ある事実が幾つか浮かんできた。思ったとおり、その女はベンスンの夕食の相手だった。女優でね、ミュージカル・コメディのミュリエル・セント・クレアという名前だ」
「かわいそうに」とヴァンスは溜息をついた。「きみの子分どもが、その女を見つけなければいいがと望んでいたのに。ぼくは彼女と知りあう光栄には恵まれなかったけれど、知っていたら、見舞状を出すところだった。すると、きみは juge d'instruction(予審判事)の役をつとめて、彼女をさんざんいじめるわけだろう?」
「むろん訊問することになるだろう。もし『いじめる』というのが、そういうことならば」
マーカムはなにか心配ごとがあるらしく、食事の間、あとはほとんど口をきかなかった。
クラブのラウンジに坐って、煙草をくゆらせていると、近くの窓際にぼんやり立っていたベンスン少佐が、マーカムを見つけて、わたしたちのほうへ近づいてきた。少佐は、年は五十くらい、丸顔で、真面目で親切そうな容貌をし、がっしりした、まっすぐな身体つきだった。彼はヴァンスとわたしに軽く会釈し、すぐに地方検事のほうに向き直った。
「マーカム、昨日、きみと昼食をたべてから、ずうっといろいろ考えていたんだが、もうひとつ、きみにいっておいたほうがいいと思うことがある。実は、アルヴィンととても親しくしていたリアンダー・ファイフィーという男がいるんだよ。この男なら、きみになにか有益な情報を提供できるかもしれない。昨日は、彼のことを思い出さなかった。なにしろ、この市じゃなくて、ロング・アイランドのどこかに──たぶん、ポート・ワシントンだと思うが──住んでいるからだ。これはほんの思いつきだがね。マーカム。実際、こんな怖ろしい事件がなぜ起こったのか、よくわからない」少佐は、思わずこみあげてくる感情をおさえようとするように、急いで、ぐっと息を吸いこんだ。ふだんは消極的なこの人物が、深く感情を揺り動かされているのは明らかだった。
「それはいい考えだ」とマーカムはいって、手帳の裏になにか書きつけた。「すぐに追ってみよう」
この短いやりとりの間、関心がなさそうに窓の外を眺めていたヴァンスが突然振り向いて、少佐に話しかけた。「オストランダー大佐はどうでしょう、弟さんと一緒のところを二、三回お見かけしましたが」
ベンスン少佐は、かすかに反対の身振りをした。「ほんの知合いですよ。役には立たんでしょう」それからマーカムのほうを振り向いて、「まだなにか手がかりさえ見つかっていないんだろう、マーカム?」
マーカムは口から葉巻をはなし、指の間でまわしながら、考え深げに見つめていた。「そうともいえないがね」とややあっていった。「木曜の夜、弟さんと食事をしたのがだれかようやくわかったよ。その人物は、真夜中少し過ぎに弟さんと家に帰ったのだ」そこで、それ以上話してよいかどうか考えるかのように言葉を切り、やがて、「実をいうと、大陪審のまえに持ち出して、起訴を請求するには、もうこれ以上証拠がいらない段階になっている、少佐」
驚嘆の表情が、少佐の暗い顔をよぎった。「なんて礼をいったらいいのか、マーカム」それから、がっしりした顎をひきしめ、地方検事の肩に片手をかけた。「徹底的にやってもらいたい、わたしのために。何か用があれば、遅くまでクラブにいるから」そういうと、くるりと背を向け部屋から出て行った。
「実の弟が死んだ直後だというのに、あれこれたずねるのは、少し冷酷な気もするが」とマーカムは弁解するようにいった。「だが、世の中は止まっているわけにはいかんからな」
ヴァンスはあくびを噛み殺した。「どうして、いけないのかな?」と、もの憂げにいった。
六 ヴァンス意見を述べる
六月十五日土曜日午後二時
わたしたちは黙って、しばらく煙草をふかしていた。ヴァンスはマディスン・スクエアをぼんやり眺め、マーカムは暖炉の上にかかったピーター・スタイヴィサント老〔オランダの植民地総督。晩年をニューヨークで過ごした〕の色あせた油絵の肖像画に深く眉をしかめながら。やがて、ヴァンスは向き直って、かすかに皮肉な微笑を浮かべながらじっと地方検事を見た。「ねえ、きみ」とゆっくりいった。「きみたち犯罪捜査の専門家が、いわゆる手がかりというやつに、どんなに簡単にまどわされるか、ぼくはいつも驚きにたえないんだ。やれ足跡が見つかったの、とまっていた自動車があったの、頭文字入りのハンカチが見つかったのといっては、Ecce signum(それ、証拠だ)とばかりに盲めっぽうに追いかけてゆく。実際、これじゃ、安っぽいスリラーの読みすぎといわれてもしかたがないじゃないか。犯罪は、たんなる物的な手がかりや、情況証拠にもとづいた推理では解決できないことを、どうしてわかろうとしないのかね?」
突然ヴァンスがこう非難しはじめたので、わたしは驚いたが、マーカムも同様に驚いたと思う。しかし、二人とも彼をよく知っていたので、その口調がいかにもおだやかで、ほとんど軽口めいているにもかかわらず、今の言葉の裏には、なにか重大な目的がひめられていることを感じとった。
「すると、あらゆる物的証拠を無視しろというのか?」とマーカムは、ちょっと横柄にいった。
「断固主張するね」とヴァンスは落ち着いていいきった。「そんなことは価値がないばかりか、危険千万だ。きみたちのいちばん困った点は、犯罪者は薄のろか、とてつもないへまな人間だという抜きがたい固定観念でもって、犯罪と取り組もうとするということだ。探偵に見えるくらいの手がかりなら、犯人にだって見えたろうし、見つけられたくなかったなら、当然それを隠すか、ごまかすかしたろうと思ったことは一度もないのかね? きみたちはまた、犯罪を計画して成功させるくらいの頭のある犯人なら、ipso facto(その事実自身によって)自分の目的に都合がいい手がかりをでっち上げるくらいの頭があると考えたことはないのかね? きみたち探偵は、犯罪の外観が故意に作られたまやかしであるか、いわゆる手がかりが、きみたちを迷わせようというはっきりした目的で作られるということがありうる、ということを全然認めようとはしないらしい」
「しかし、きみ」とマーカムは、おおように、皮肉をこめて指摘した。「もし、指示的証拠や、筋の通った確乎たる推論をすべて無視した場合には、犯罪者を有罪にすることはほとんど不可能にならないかね。一般に、犯罪は局外者に目撃されることはないからね」
「それがきみらの根本的な誤りだ」とヴァンスは平然といい放った。「あらゆる犯罪は局外者に目撃されているんだ、芸術作品と同じように。犯罪者や芸術家が実際に仕事をしているところを目撃した者はいないということは、なんの重要性もない。ルーベンスがアントワープの大寺院の『十字架から降ろされるキリスト』を描いたとき、彼がたとえば外交上の仕事でアントワープを離れていたことを示す充分な情況証拠があったなら、現代の犯罪捜査官は、彼がその絵を描いたことを絶対に信じないにちがいない。しかし、きみ、やはりこういう結論は愚かしく見えるだろう。たとえ、法律的に見れば絶対争う余地のない逆の推論が成り立ったにしても、ルーベンスがそれを描いたことを究極的に絵自体が証明することはまちがいない。理由はしごく簡単だ。ルーベンス以外に、あの絵を描ける者はいないからだ。そこにはルーベンス独自の個性と天才が、はっきりと印されている」
「ぼくは美学者じゃないからね」とマーカムは、ちょっとむっとしていいかえした。「たんなる法律の実務家だから、犯罪の張本人を決めるに際しては、抽象的な仮説よりは物的証拠を優先させるだろう」
「そんなものを優先させると」とヴァンスはおだやかにやりかえした。「きっとあらゆる種類の厄介な誤ちにまきこまれることになるよ」ヴァンスはゆっくりとまた煙草に火をつけ、煙の輪を天井に吹きつけた。
「たとえば、今度の殺人事件についてのきみの結論をよく考えてみたまえ」とヴァンスは、ゆっくりと無感動な声で語りつづけた。「きみは、今では物いえぬベンスンを殺したはずの人物を知って起訴手続を請求するだけの充分な証拠を手に入れたと語った。たしかに、きみは当節のソロン先生たち〔紀元前七世紀頃のギリシアの賢人たち〕が決定的な手がかりと見なすだけの材料は、いっぱい持っているんだろう。しかし、実のところ、きみには犯人の見当は全然ついていないのだ。事件とはなんの関係もない、どこかの気の毒な女を苦しめようとしているにすぎない」
マーカムは鋭く振り向いた。「そうかね? このぼくがなんの罪もない女を苦しめようとしてるというのかね? 彼女にたいして、どんな証拠を握っているか知っているのは、ぼくとぼくの部下だけなんだ。それなのに、きみはどんな魔術的な方法で、その女が無実だということを知ったのか、ちゃんと説明してもらおう」
「なあに、雑作もないことさ」とヴァンスは、皮肉っぽく口元をぴくつかせて応酬した。「真の犯人は、きみや警察に見つかるくらいの証拠では、ちょっとでも自分に嫌疑がかからないようにするだけのずるさと賢さを持ちあわせている。だから、きみには犯人の見当がつかないのだ」ヴァンスは、議論の余地のない明らかな事実を述べる人の持つ、あのゆったりとした確信にみちた口調でしゃべっていた。
マーカムは軽蔑したような笑い声をたてた。「どんな法律破りだって、不測の事態をすべて見通せるほどずる賢くはないさ」と神託でもたれるように断言した。「どんな些細な出来事でも、それに前後する多くのほかの出来事と、密接に絡みあっている。だから、どんな犯人でも、どんなに時間をかけ、綿密に計画したところで、どこか準備に手抜かりがあり、結局ボロを出すもんだ。それはよく知られた事実だよ」
「よく知られた事実」とヴァンスはくりかえした。「とんでない。それは、ネメシス〔ギリシア神話に登場する復讐の女神〕の復讐は必ずあるという子供っぽい観念にもとづいた陳腐な迷信にすぎない。天罰は免れないというこの秘教的な観念が、占いや、占い盤と同じように、世間のひとびとの想像力にどうして訴えるのかぼくはわからないわけじゃない。しかし、マーカム、きみまでが、そんなたわけたことを信じるのかと思うと、悲しくなるね」
「きみこそ、そんなことで一日を棒にふらないほうがお為だろう」
「毎日起きている未解決の、というか成功した犯罪をよく見てみたまえ」とヴァンスは相手の皮肉を聞き流して、話しつづけた。「もっとも腕ききの探偵たちの裏を完全にかく犯罪をね。そこでわかるのは、解決される犯罪は、愚か者の企てたものだということだ。だからごくほんの少しばかり頭のある人間が、いったん悪事を働こうと決心すると、やすやすとやってのけられる。発覚することはないという確信を持てるわけなのだ」
「発覚しない犯罪は」とマーカムは軽蔑したようにいった。「おおむね捜査当局が不運だったからで、犯人のほうが賢かったからじゃない」
「不運というのは」とヴァンスの声は、さわやかなほどだった。「無能を弁護し、自らを慰めるということだ。いやしくも創意と頭脳に恵まれた人間なら、不運なんかに悩まされはしない。解決しない犯罪とは、巧妙に計画され、実行された犯罪に他ならない、そして、たまたまベンスン殺しは、このカテゴリーに属するのだ、だから、二、三時間捜査しただけで、だれが犯人か確信があるなんて、きみにいいだされると、ぼくはついきみに議論を吹っかけたくもなる」そこでヴァンスは言葉を切り、考え深げに二口三口ふっと煙草を吸った。「きみが追求している不自然かつ能弁的な方法は、どんな誤った結論でも引き出せるのだ。その証拠に、ぼくはきみが今自由を奪おうとしている若い不幸なご婦人のことを、自信をもっていっておこう」
それまで寛大な、優越的な微笑の陰に、じっと憤りを押し殺してきたマーカムは、さっとヴァンスのほうに向き直り、はったと睨みつけた。「では、ぼくも ex cathedra(権威を持って)いっておく」と挑戦するようにいいきった。「きみのその『若い不幸なご婦人』とやらについて、もう少しで確証があがりかけているんだ」
ヴァンスは泰然たるものだった。「ほう、そうかね。しかし、あれは女にはできないよ」
わたしはマーカムが激昂したのがわかった。口を開いたマーカムは、口角泡をとばさんばかりだった。「あれは女にはできないって? どんな証拠があってもかね?」
「その通り」とヴァンスは平然といった。「たとえ彼女が自供して、きみたち法律の番人がもったいぶって、確乎たる証拠とやらを山ほどお出しになったところでね」
「なるほど」マーカムの口調には、露骨に嘲笑があらわれていた。「すると、きみは自供さえ価値がないというんだね」
「その通り、ユスティニアヌス君〔東ローマ帝国の皇帝で、ローマ法の制定者として有名〕」とヴァンスは悦に入ったように答えた。「ぼくがきみに理解してもらいたいのは、まさにその点さ。実際、自供は無価値よりもっと性が悪い。誤解を生むだけだ。ときどき自供が正しかったりするので──こっけいなほど買いかぶられている女の直観とやらと同じことだが──かえって、いっそう信用できないんだ、マーカム」
マーカムは軽蔑したようにいった。「しかし、真実が発見されたとか、発見されそうだとかいう訳でもないのに、自分に不利になるようなことをなぜ自供する必要がある?」
「驚いたもんだね、マーカム。きみの無邪気な耳に、privatissime et gratis(こっそりと、ただで)こうささやかせてもらおうか。自供には、いろいろほかにも動機がありうると。たとえば恐怖や強迫の結果かもしれないし、方便、母性愛、騎士道精神、精神分析医たちがいう劣等感、誤った義務感、裏返しのエゴイズム、たんなる虚栄心、そのほか何百という原因がありうるんだ。自供は、あらゆる形式の証拠のうちで、もっとも当てにならない。だから、あの愚かしい、およそ非科学的な法律でさえ、殺人罪における自供は、ほかの証拠の裏付けがないかぎり、しりぞけているじゃないか」
「きみの雄弁にはおそれいる。しかし、もしご高説の通り、法律からあらゆる自供を追放し、すべての物的手がかりを無視しろというのなら、社会はいっさいの裁判所を閉鎖して、刑務所をスクラップにしたほうがよさそうだ」
「法理論上、それは典型的な non sequitur(論理の飛躍)だね」
「では、どうやって犯人を有罪にするんだい?」
「ある人間が有罪か、責任があるかどうかを決定するにあたって、絶対に誤りのない方法が一つだけある」とヴァンスは説明した。「しかし、ありがたいことに、警察はその運用について知らないし、その可能性に気づいてもいない。真実を知るたった一つの方法は、犯罪の心理的因子を分析し、それを個人に適用することだ。唯一の真の手がかりは心理的なものであって、物的なものじゃない。たとえば、きみ、真にすぐれた美術専門家は、下塗りの調査や、絵具の分析によって、絵を判断したり、鑑定したりはしない。絵の着想とか、筆づかいにあらわされた画家の創造的個性を研究することによって、そうするんだ。彼はこう自らに問う。この芸術作品は、その形式、技法、精神的態度において、ルーベンス、ミケランジェロ、ヴェロネーゼ、ティティアン、ティントレットなどの天才ないしは個性を作りあげている特質を含んでいるかどうかとね」
「ぼくの精神は」とマーカムは告白した。「まだ幼稚きわまる段階で、卑俗な事実に影響されやすい。そうして、今の場合、きみの独創的かつ芸術味ゆたかな比較論に対してはあいにくの話だが、ぼくはそういう一連の卑俗な事実を握っている。それらの事実はすべて、ある若いご婦人が──そうなんといったらよいか──『アルヴィン・ベンスン殺人事件』と題する opus(作品)の創造者であることを示しているんだよ」
ヴァンスはかすかに肩をすくめてみせた。「その事実とはなんなのか教えてくれないか、むろん、ここだけの話だが」
「いいとも」とマーカムは同意した。
「Imprimis(まず第一に)その女は発砲があったとき、ベンスン家にいたのだ」
ヴァンスは信じられないという仕草をした。「ほんとうかね? 実際、その場にいたのかね? これは驚いた」
「争えない証拠がある。知っての通り、女が夕食のときはめていた手袋と、持っていたハンドバッグが、二つとも、ベンスン家の居間の暖炉棚の上で発見されている」
「おお」とヴァンスは低くつぶやいて、かすかに不本意そうにほほえんだ。「すると、そこにいたのは、件の女性でなくて、その手袋とハンドバッグだったというわけか。むろん、法律的見地からすれば、ちっぽけな、とるにたらないちがいだろうけどね。なおかつ、ぼくみたいななにも知らぬずぶの素人には、残念ながら、この二つの情況を同じものとは受け取れない。ぼくのズボンは今クリーニング屋に置いてある。しかるがゆえに、ぼくは今クリーニング屋にいる、というわけかい?」
マーカムは、かなりかっとして、くってかかった。「女があの晩ずっと持ち歩いていた身のまわり品が、次の朝、相手の男の家で発見されても、きみの素人考えでは、なんの証拠にもならないというのかね?」
「ならないね」とヴァンスは静かにいった。「ということは、法律的理解力なるものが、悲しいことに、いかに不充分なものかということさ」
「しかし、ヴァンス、あの女はまっ昼間からハンドバッグや手袋を持ち歩きはしなかったろうし、ベンスンの留守中家を訪ねれば、きっと家政婦に気づかれたはずだ。それなのに、次の朝、ああいう品物がそこにあったということは、あの晩遅く女が自分でそこへ持って行ったということにならないか?」
「正直なところ、その点は全然わからない。その女性自身がきっときみの好奇心を満足させてくれるだろう。しかし、きみ、いくらでも説明が可能だよ。たとえば、亡きチェスターフィールド君〔十八世紀イギリスの貴族。女性関係で世間をさわがせた。ここでは、むろんベンスンのこと〕が、服のポケットに入れて家に持って帰ったのかもしれない。女はいつも『これ、あなたのポケットに入れておいてくださる?』とかなんとか甘ったれて、いろいろながらくたや包みを男に持たせるもんだからねえ。それとも、真犯人がなにかの方法で、あの品を手に入れて、polizei(警察)をごまかすためにわざと暖炉棚の上に置いたのかもしれない。女は自分の持ち物を、暖炉棚とか帽子掛けとかいったちゃんとした、邪魔にならない所に決して置いたりはしないよ。きっと、きみのお気に入りの椅子とか、センター・テーブルの上に投げ出しておくだろう」
「するとベンスンは」とマーカムが半畳を入れた。「その女の煙草の吸殻も、ポケットに入れて持ち帰ったんだろうか?」
「奇妙なことなんて、いくらでもある」とヴァンスは平然として答えた。「もっとも、べンスンがそうしたって、いっこうに責めるつもりはないけどね。あの吸殻は、二人がその前に conversazione(対話)しあっていた証拠かもしれないよ、マーカム」
「きみの軽蔑してやまないヒースでさえ」とマーカムがいった。「家政婦から、毎朝炉格子を掃除するということを確かめるだけの頭は持っていた」
ヴァンスは感に耐えぬように溜息をついた。「そこまで徹底的に調べたのか。しかし、まさか、それが例の女性に嫌疑をかける証拠じゃあるまいね?」
「とんでもない。しかし、きみはてんで信用してないが、にもかかわらず、それは充分立派な証拠になるだろう」
「そうだろう。いかにしばしば、無実の人間がわが国の法廷で有罪にされるかを考えると……まあ、それはそれとして、もっと話の続きを聞こう」
マーカムは、おだやかに、自信たっぷりに話しつづけた。「部下の調べでは、第一に、あの晩ベンスンは、あの女と二人きりで、四十番街にあるマルセイユという、小さなボヘミアン的なレストランで食事していた。第二に、ふたりは喧嘩した。第三に、ふたりは夜の十二時に、タクシーに乗って、いっしょに出て行った。ところで、殺人のおこなわれたのは、夜十二時半だ。しかし、女は、八十番台のリヴァーサイド・ドライヴに住んでいるのだから、ベンスンは女を家まで送り届けることはできなかったはずだ。自分の家まで連れて行かなかったなら、きっとそうしたろうと思うけれどね。そして、ピストルが発射された時刻には、家に帰っていた。女がベンスンの家にいたという証拠はまだある。女のアパートで、部下が女は一時ちょっと過ぎまで帰宅しなかったという情報を聞きこんだ。その上、女は手袋もハンドバッグもなしで、鍵をなくしたといい訳して、合鍵で自分の部屋に入ったんだ。覚えているかね、われわれが彼女のハンドバッグの中から鍵を見つけたということを。その上、以上の事実の総決算というわけでもあるまいが、炉格子にあった吸殻は、きみがあの女のシガレット・ケースから見つけたものとぴったりだ」ここでマーカムはちょっと口を閉じ、葉巻の火をつけなおした。
「その晩のことは、それだけにして」とマーカムはまた話しはじめた。「今朝、女の身元がわかると、すぐさまぼくは二人の部下に、女の私生活を洗わせた。昼に、ちょうどぼくが役所を出ようとしていると、部下から電話で報告があった。それによると、女にはリーコックという婚約者がいる。陸軍大尉で、ベンスンが殺されたと同じようなピストルを持っているらしい。更に、このリーコック大尉という男は、兇行の当日女と昼食をとり、翌朝女のアパートを訪ねている」
マーカムは軽く身体を前に乗り出し、椅子の肱をポンポンと指先で叩いて、言葉に力を入れた。
「ご覧の通り、動機も、機会も、手段もすべてそろっている。それでも、きみは女を有罪にするだけの証拠がないというのかね?」
「マーカム」とヴァンスは落ち着いていいだした。「きみの挙げた点は、頭のいい中学生なら、ことごとく簡単に論破されそうなものばかりだ」といたましげに頭を振り、「こんな証拠にもとづいて、みんな生命と自由を奪われるんだからねえ、まったく、怖るべきことだ。ぼくもわが身の安全を考えると、身震いしたくなる」
マーカムはいらいらした。「それなら、きみの叡智の高みから、ぼくの推論のどこがまちがいか指摘してくれたっていいだろう」
「見たところ、その女性についてきみが挙げた論点は、まったく推理になっていない」とヴァンスは平然と答えた。「きみは幾つかのまるで関連のない事実を取り上げて、すぐに誤った結論を引き出している。その結論がまちがいだとわかるのは、事件の心理的な徴候が、すべて逆のことを示しているからだ。つまり、この事件で唯一の真の証拠が、まぎれもなく、別の方向を指しているんだよ」
ヴァンスは今の言葉を強調するような身振りをした。彼の語調はいつになく真剣味をおびていた。「もしきみがその女をアルヴィン・ベンスン殺害のかどで逮捕するのなら、きみはすでに犯した罪の上に、更にもう一つの罪──故意の、許すべからざる愚鈍の罪を重ねることになる。しかも、ベンスンのような俗物と、なんの罪もない女の名誉を傷つけるのと、どちらが悪いかといわれたら、後のほうこそもっと非難されるべきだと、ぼくは考えたい」
わたしはマーカムの眼に一瞬不機嫌な色がひらめくのを認めたが、彼は腹を立てはしなかった。この二人は親友で、性格はまるでちがっているにもかかわらず、互いに相手を理解し、尊敬していたからだ。彼らの卒直さは、辛辣で、ときには毒舌になりさえしたけれど、実際は、尊敬しあっている結果だった。
しばらく沈黙があった。やがてマーカムは無理にほほえんだ。「きみの話で心配になってきたよ」とひやかすようにいったが、その軽口めいた口調にもかかわらず、マーカムが半分は本気であることが感じられた。「しかし、まだあの女を逮捕することにはっきり決めたわけじゃない」
「その慎重さは大いに結構だ」とヴァンスはお世辞をいった。「しかし、きみはもうあの女をおどかして、罠にかけ、法律家の大好きな証言の矛盾とやらを引っぱり出す手はずを整えたに相違ない。神経質な人間とか興奮しやすい人間なら、まるで無関係な罪を着せられて、訊問責めに会うと、一見矛盾したことをいいかねないからね。『焼きを入れる』というやつだ。実に的確な言い方だよ。人間を火あぶりにした時代を思い出させるね」
「たしかに、ぼくはあの女を訊問することになるだろう」とマーカムは時計をちらと見ながら、きっぱりいった。「部下のひとりが、あの女を半時間したら、ぼくの部屋へ連れてくるはずだ。だから、この楽しい有益なおしゃべりを、この辺で切りあげなくちゃいけない」
「その女を訊問したら、なにか有罪の証拠が得られると、本気できみは期待しているのか?」とヴァンスはたずねた。「きみが恥をかくところをぜひ拝見したいもんだよ。きみが容疑者をぎゅうぎゅういわせるのは、法律家の arcana(秘法)の一部なんだろうかねえ」
マーカムは早くも立ちあがって、ドアのほうに行きかけていたが、この一言を聞くと、立ちどまって、なにか考えこむふうだった。「きみがほんとうに立ち会いたいなら、ぼくとしては、べつに異存はないが」
マーカムは、先ほどの「恥をかく」という言葉が、ヴァンス自身のことになるだろうと考えたらしかった。そこで、わたしたちはすぐにタクシーを刑事法廷ビルに走らせた。
七 報告と訊問
六月十五日土曜日午後三時
わたしたちは、フランクリン通りから、色褪せた大理石の柱、手摺り、古風な鉄の唐草模様のある古い建物に入り、まっすぐに五階の地方検事局に行った。部屋は、建物同様、昔の空気を放っていた。高い天井、どっしりした金色の樫材の木組み、ブロンズと陶器でできた精巧な、低く吊るされたシャンデリア、ペンキ塗りのしっくい製の薄汚れた出窓、南に面した四つの高くて狭い窓──これらのすべては、過ぎし時代の建築と装飾を物語っていた。
床には、薄汚ない茶色の大きなビロードの絨毯が敷きつめられ、窓には、やはり茶色のビロードの緞帳《どんちょう》がかかっていた。壁際と、地方検事の机の前の大きな樫のテーブルの前に、大きな安楽椅子が幾つか置かれていた。地方検事の机は、窓のすぐ下で、室内に向かって配置され、大きく、ひらべったく、彫刻をした脚と、床までとどく引出しが左右についていた。背の高い、デスク用回転椅子の右側には、彫刻をした樫のテーブルがもうひとつあり、室内にはまた、幾つかの書類戸棚と大型の金庫がひとつあった。東側の壁の中央に、大きな真鍮の飾り鋲のついた皮張りのドアがあり、執務室と待合室のあいだにある細長い部屋に通じていた。そこでは、地方検事の秘書と数人の秘書が机を並べていた。このドアと向きあって、地方検事の奥の聖堂に通じるドアがもうひとつあった。また、窓と向かいあわせのドアがもうひとつあって、おもな廊下に面していた。
ヴァンスは室内をのんきに見まわした。「これがニューヨーク市の正義の母体なのか」それから、窓のひとつに歩み寄り、向うのニューヨーク市刑務所の灰色の円塔を見おろした。「そして、あそこが、法の犠牲者たちが、残りの市民たちの間で犯罪活動の競争をするのを減少させるために閉じこめておかれる oubllette(牢獄)なのか。まったくいたましい眺めだね、マーカム」
地方検事は執務机に向かって坐り、記録帳に書かれた幾つかの書置きに眼を走らせた。「部下が二人ばかり、ぼくに会いたいといって待っている」と顔をあげずにいった。「だから、その辺の椅子に掛けてくれたまえ。ぼくは社会を毒する仕事を推し進めることにする」そして、机の端のボタンを押すと、ぶ厚い眼鏡をかけたきびきびした青年が入口にあらわれた。
「スワッカー、フェルプスに入るようにいってくれ」とマーカムはいいつけた。「それから、スプリンジャーに、昼食から戻ったら、すぐに会いたいといってほしい」
秘書が姿を消すと、すぐに、背の高い、隼《はやぶさ》のような顔をした、猫背の、ぶかっこうな四角ばった歩き方をする男が入ってきた。
「なにかニュースか?」とマーカムがきいた。
「そうです、検事」とフェルプス刑事は、低い耳ざわりな声でいった。「すぐにお役にたちそうなことを見つけました。実は、お昼にご報告をすませたあと、なにかボーイから聞き出せないかと思って、リーコック大尉の家へぶらりと出かけてみたんです。すると、外出しようとする大尉に出喰わして、あとをつけてみると、まっすぐにドライヴのあの女の家へ行き、一時間以上いました。それから、心配そうな顔つきで、家に帰りました。以上です」
マーカムはしばらく考えこんだ。「とくにどうということはないかもしれんが、とにかく、ありがとう。セント・クレアがもうじき来るはずだから、なんというかきいてみよう。今日はもう、ほかに用事はない。スワッカーに、トレイシーをよこすようにいってくれ」
トレイシーはフェルプスとは正反対の男だった。小柄で、小肥りで、わざとおだやかな雰囲気を装っていた。顔はまんまるく、にこやかで、pince-nez(鼻眼鏡)をかけ、流行の服がぴったり似合っていた。
「今日は、検事」とトレイシーは、おだやかな愛想のいい声で挨拶した。「あのセント・クレアという女が、今日ここに出頭することになってますね。ですから、訊問のお役にたちそうなことを、二、三見つけてきました」刑事は小さな手帳を開いて、pince-nez(鼻眼鏡)を直した。
「あの女の歌の先生からなにか聞き出せるかと思ったもんですからね」とトレイシーはいった。「その先生というのは、もとメトロポリタン歌劇場に関係していたイタリア人で、今は自分で合唱団のようなことをやっています。プリマドンナ志望の女たちに、コーラスや舞台装置つきで、稽古をつけているんです。セント・クレアはその愛弟子のひとりというわけです。で、そのイタリア人はすらすらと答えてくれました。ベンスンのこともよく知っている様子で、ベンスンはセント・クレアの練習に何回か立ち会ったことがあり、ときどきタクシーで迎えに来たこともある、といっていました。リナルド──その男の名前ですが──の話だと、ベンスンは女に首ったけだったようです。去年の冬、あの女がクライナリオン座で端役で歌ったとき、リナルドが後見役をやりましたが、ベンスンは楽屋に入りきれないほど沢山、温室咲きの花を贈ったそうです。そんなわけで、ベンスンがあの女のパトロンかどうか聞き出そうとしましたが、リナルドはほんとうに知らないのか、それとも知らないふりをしているのか、はっきりしたことはいいませんでした」トレイシーは手帳を閉じ、顔をあげた。「なにかお役にたちましたか、検事?」
「大変結構だ」とマーカムはいった。「その線で進めてくれ。月曜の今頃、また様子を聞かせてほしい」
トレイシーはお辞儀をして、出て行った。入れかわりに、また秘書が入口にあらわれた。「スプリンジャーが来ました。ここに通しましょうか?」
スプリンジャーは、フェルプスともトレイシーとも、まるでちがったタイプの刑事だった。もっと年上で、律義な銀行の帳簿係のような、陰気くさい有能そうな風采の持ち主だった。その態度には積極的なところは少しもなかったが、こまかいデリケートな仕事を、きわめてみごとにやってのけそうな感じがした。
マーカムはベンスン少佐から聞いた名前を書きつけた封筒を、ポケットから取り出した。「スプリンジャー、ロング・アイランドに一刻も早く会いたい男がいる。むろん、ベンスン殺しの関係だ。居所をつきとめて、なるべく早くここに連れてきてほしいんだ。電話帳で名前が見つかれば、わざわざ行く必要はない。名前はリアンダー・ファイフィー。ポート・ワシントンに住んでいると思うんだが」マーカムはその名前をカードに走り書きし刑事に手渡した。
「今日は土曜日だから、もし明日こちらに出てくるなら、スタヴィサント・クラブにわたしを訪ねるようにいってくれないか。午後にはそこにいる」
スプリンジャーが行ってしまうと、マーカムはまたベルを押して秘書を呼び、セント・クレアが来たら、すぐに通すようにいいつけた。
「ヒース部長刑事が来ています」と秘書はいった。「ちょっとお暇なら、お会いしたいそうです」
マーカムは入口の掛時計をちらと見た。「まだ時間はある。通してくれ」
ヒースはヴァンスとわたしを見て、驚いた。しかし、マーカムに型通り握手して挨拶したあと、人のよさそうな微笑を浮かべて、ヴァンスのほうを振り向いた。「まだ、勉強中ですか、ヴァンスさん?」
「そうとはいえませんが、部長」とヴァンスは快活にいった。「しかし、すこぶる興味深い誤りをいっぱい学んでいるところです。あなたの探偵のお仕事のほうはどうですか?」
ヒースは急に真剣な顔つきになった。「それを検事にお話しに来たんです」それから、マーカムのほうに振り向いて、「これは難事件ですよ、検事。部下とわたしとで、ベンスンの友だちを一ダースばかり当ってみたんですが、役にたちそうなことはひとつも聞き出せない。みんな、なにも知らないか、蛤《はまぐり》のように黙りこくる奴ばかりです。ベンスンがピストルで殺られたと聞いて、びっくりぎょうてん、口あんぐりの恰好だ。どうして、そんなことになったのか、見当もつかんというんですな。どいつもこいつも、同じことしかいわん。アルみたいないい奴を殺したいなんて思う者がいるはずがない。そんなことができるのは、アルがどんなにいい奴か知らない強盗くらいのもんだろう。強盗だってそれを知っていたら、あんなことはしたかったろう……畜生、わたしは奴らを二、三人ぶっ殺して、奴らの大好きなアルのいる天国に送りこんでやりたいほどだ」
「車のほうの聞きこみは?」とマーカムはたずねた。
「それが全然・」とヒースは苦りきっていった。「ふしぎですな、あれほど広告しているのに。手に入ったのは、あの釣竿だけですよ。まあ、それは別として、本部長から今朝、死体検案書をまわしてきましたが、なにも目新しいことはありませんでした。人間の言葉に翻訳すると、ベンスンは頭部を射たれて死亡、ほかの器官は異状なし、ということです。メキシコ豆で中毒したとか、アフリカ蛇に噛まれたとかいって、事件を今以上にこんがらかせるようなことを発見しなかったのが、実際ふしぎですな」
「元気を出したまえ、部長。わたしのほうは、もうちょっと幸運だった。トレイシーがハンドバッグの持ち主を突きとめて、あの晩その女がベンスンと食事をしたことを探り出した。あの男とフェルプスは、ほかにも二、三、うまく合いそうな補足的なネタを見つけたよ。もうじき、その女が来るはずだ。なんて申し立てるか、聞いてみよう」
地方検事がしゃべっている間、ヒースの眼にくやしそうな表情が浮かんだが、すぐにそれは消え、あれこれと質問しはじめた。マーカムはくわしく話してやり、リアンダー・ファイフィーのことも教えてやった。「会った結果はすぐに知らせる」とマーカムは約束した。
ヒースが退出すると、ヴァンスはずるそうな微笑を浮かべてマーカムを見上げた。「ニーチェ〔ドイツの哲学者。強者の道徳として君主道徳を説き、この道徳の持主を「超人」と称した〕の Ubermenschen(超人)みたいにはいかないね、マーカム。この世の複雑・微妙さに、名刑事君も少々面喰らったと見える。すっかり落胆しきっていた。あのぶ厚い眼鏡をかけた青年が、部長が来たのを取り次いだとき、ぼくは胸が高鳴るのをおぼえたよ。てっきり、ベンスン殺しの犯人を少なくとも半ダースは牢にぶちこんだって、ご報告に来たにちがいないと思ってね」
「きみの希望は、どうもオーバーだ」とマーカムは批判した。
「しかし、それがいつもの警察のやり口だ。わが偉大なる道徳的新聞の見出しを信用するならば。なにか犯罪が起きると、とたんに警察は見境なく人をふんじばるものだと、ぼくは思っていた。世間をふるい起たせるためにね。しかし、悲しいかな、これでまた幻滅さ」とヴァンスはつぶやいた。「あのヒース君を許すわけにはいかないね。ぼくの信頼を裏切ってくれたからね」
このとき、マーカムの秘書が戸口にあらわれて、ミス・セント・クレアが来たことを知らせた。
この若い女が、しっかりした優雅な足どりで、尊大な、いかにも解《げ》しかねるといった態度で、少し頭を一方にかしげ、ゆっくりと室内に入ってきたとき、わたしたち一同は少々面喰らった。セント・クレアは小柄で、大変きれいだった。もっとも、「きれい」という言葉は、彼女を描写するには適切でないかもしれないが。彼女は、レオナルド・ダ・ヴィンチのきびしさをやわらげ、それに親しみとデカダンな味つけを施したカラッチ兄弟〔十六世紀イタリアの三人兄弟の画家〕の肖像画に見られるような、かすかにエキゾチックな美しさを持っていた。眼は黒く、間隔がひろく、鼻は華奢でまっすぐで、額はひろかった。輪郭のはっきりした、ゆたかな官能的な唇は、ほとんど彫刻を思わせるばかりで、口もとには、謎めいた微笑──あるいは、かすかな微笑かもしれないが──を浮かべていた。丸味のある、しっかりした顎は、ほかの道具立てと切り離してみると、少し重苦しく感じられるのだが、ensemble(全体)から見ると、そうではない。彼女の態度には、安定と性格の強さが見られたが、その静かな外面の底には、強烈な感情がひそんでいるのが感じられた。服装はその人柄とよく調和がとれ、控え目で一見平凡なスタイルだったが、そこここにうかがわれる色彩感覚や独創性のせいで、魅力的に際立って見えた。
マーカムは椅子から立ちあがり、型通り挨拶すると、机のまん前の坐り心地のよさそうな椅子をすすめた。女はほんの軽く会釈し、ちらと椅子を眺め、その隣の肘掛けのないまっすぐな背の椅子に腰をかけた。
「お調べを受ける身で、勝手に椅子を選んでごめんなさい」と彼女はいった。その声は低く、よく響き、充分訓練された歌手の話し声だった。彼女は話しながら微笑したが、それは親しみのある微笑ではなく、冷たく、よそよそしく、しかもどこか蓮っ葉なところがあった。
「セント・クレアさん」とマーカムは、丁重な、しかもきびしさのある口調で話しはじめた。「あなたは、アルヴィン・ベンスン殺人事件に密接なかかわりをお持ちです。そこで、決定的な措置を取るに先立って、若干おたずねしたいことがあって、ここにお出で願った次第です。ずばりご忠告申しあげるが、率直にお話しなさったほうが身のためですよ」
マーカムは言葉をきった。女は、皮肉な、もの問いたげな眼つきで彼を見た。
「ご親切に忠告していただいて、お礼申しあげなくてはいけないのでしょうね」
マーカムは、机の上のタイプした書類にちらと眼を落として、いっそう顔をしかめた。
「たぶんお気づきのことと思うが、例の殺人のあった次の朝、あなたの手袋とハンドバッグがベンスン氏の家で発見されたのです」
「ハンドバッグがわたしのものだとお突きとめになったやり方は、だいたい見当がつきますけれど、でも、それがわたしのものだとお決めになったのは、どうしてでしょう?」
マーカムはきっと顔を上げた。「では、あなたのではないといわれるんですな?」
「そんなこと、いってはいませんわ」ミス・セント・クレアは、またひややかな微笑を洩らした。
「わたしの手袋の好みも、サイズもご存知ないはずですのに、どうして、あれがわたしの持ち物だとおわかりになったのか、ふしぎに思っただけですわ」
「すると、あれはあなたのものですね?」
「ええ、もし白のキッドで、肘までの長さで、サイズが五と四分の三のトレフウス(店の名)の品でしたら。差し支えなかったら、返していただけません?」
「お気の毒ですが、さしあたり保管する必要がありますので、セント・クレアさん」
彼女は軽く肩をすぼめ、その話を打ち切った。「煙草を吸ってよろしいかしら?」
マーカムはすぐに机の引出しを開け、ベンスン・アンド・ヘッジスの煙草を一箱取り出した。
「いい、結構です。自分のがありますから。でも、とても気に入ったシガレット・ホールダーでしたのに。なくしてしまって、ほんとに惜しいこと」
マーカムはためらった。あきらかに、女の態度にとまどっているようだった。「では、喜んでお貸ししましょう」。と彼は妥協した。そして、別の引出しを開け、ホールダーを取り出して、テーブルの上に置いた。
「ところで、セント・クレアさん」とマーカムは、またおごそかな態度になっていった。「こういう身のまわり品が、どうしてベンスン氏の居間にあったか、そのわけをお話し願いましょう」
「お話しするようなことは、なにもありません」
「証言を拒否なさると、どんな重大な結果になるかおわかりでしょうね?」
「べつに深く考えたことはありませんけど」その口調は無関心そうだった。
「考えてくださると、いいんですがね。あなたの立場は決していいとはいえません、セント・クレアさん。ベンスンの部屋にあなたの持ち物があったというだけで、あなたをこの事件と直接結びつけているわけではないのです」
女はなにかいいたそうに視線をあげ、また口元に謎のような微笑を浮かべた。「たぶん、わたしが犯人だという充分な証拠はお持ちでいらっしゃるんでしょうね」
マーカムはこの質問を無視した。「ベンスンさんとは、ずいぶんご懇意の間柄でしょう?」
「あの方のアパートに、私の手袋やハンドバッグが見つかったんですもの。そう思う人もいらっしゃるでしょう」と彼女は受け流した。
「ベンスンは、実際、あなたに大変関心があったでしょう?」マーカムが追求した。
ミス・セント・クレアは moue(ふくれ面)をして、溜息をついた。「ええ、それはもう大変で……とても迷惑するくらい。あの方が私にどれほど関心があるか話をさせるために、私をここにお呼びつけになりましたの?」
ふたたびマーカムは彼女の質問を黙殺した。「セント・クレアさん、あなたは夜中の十二時にマルセイユをでて、帰宅なさるまでの間、どこにおられましたか? ご帰宅は、一時過ぎだったと思いますが」
「まあすばらしいこと! 何でもご存じでいらっしゃるのね。ええ、そのとき家に帰る途中だったと申し上げるほかありませんわ」
「四十番街から、八十一番街とリヴァーサイド・ドライヴまで帰るのに、一時間もかかるんですか?」
「そのくらいはかかりますわ。二、三分は、ずれるでしょうけど」
「では、そんなに時間がかかったわけを説明してもらいましょう」マーカムはだんだん苛々しはじめた。
「説明できません。時間がかかったから、かかったと言うだけよ。光陰、矢の如し、でしょ、マーカムさん?」
「そんな態度では、自分に不利になるだけですよ」とマーカムは、苛立ちを示して警告した。「あなたがベンスンさんと食事して、十二時にレストランを出て、自分のアパートに一時すぎに帰ったことがわかっているんだ。ベンスンさんが射たれたのが十二時半。翌朝、あなたの持ち物が、同じ部屋で発見されている」
「それでとても怪しい、とおっしゃるのね」と彼女はふいに真面目にいった。「しかしこれだけはいっておきますわ、マーカムさん。もし考えるだけで人を殺せるなら、ベンスンさんはとっくの昔に死んでいるわ。死んだ人の悪口をいっていけないくらいのことは知ってますけれど、本当に、わたし、あの人が大嫌いになる理由があったんです」
「じゃあ、なぜベンスンさんと食事に行きました?」
「自分でもなぜかしらって、何回もわが胸にきいてみましたの」と彼女は悲しそうに告白した。「女って、ほんとうに衝動的な動物ね。いつも、してはいけないことをしてしまって。でも、お考えになっていることはよくわかります。わたしがベンスンさんを殺すつもりなら、そうするのがごく自然な下準備だったろうっておっしゃりたいんでしょう。ね、そうでしょう? 人を殺すときは、女はまず相手の人と食事をしにゆくというわけね」
そういいながらミス・セント・クレアは化粧入れを開け、鏡にうつる姿を眺めていた。彼女はゆたかなダーク・ブラウンの髪がほつれたと思ったらしく、気どった手つきでそれを直し、眉ずみをひいたアーチ形の眉を、ちょっとの乱れでも直そうとするように指でふれた。それから頭をかしげ、惚れぼれと自分の姿を眺めてから、ようやく話し終えたところで地方検事に視線を戻した。彼女の振舞いは、自らの容姿に比べれば、現在の会話の主題などごく副次的なものにすぎないと考えていることを、はっきりと聴き手に印象づけにはおかなかった。どれほど言葉を尽くしても、この小さなパントマイムほど、彼女の無関心ぶりをはっきりとあらわすものはなかったろう。
マーカムは次第に腹を立ててきた。別のタイプの地方検事なら、必ずや職権をかさに着てもっと相手を扱いやすい精神状態に追いこんだにちがいない。だがマーカムは、ことに女性を扱うに際しては、ふつうの検事がやるようにおどしたり、いじめたりするやり方を本能的に嫌悪した。今の場合、もしヴァンスの辛らつな批評がなかったら、きっと彼はもっと威圧的な態度をとったにちがいない。そしてマーカムは、ヴァンスの言葉が気になって重苦しい不安な気持になり、その上、女ののらりくらりとした振舞いで、明らかに苦慮しきっていた。
しばらく沈黙があってから、マーカムはきびしい口調でこうきいた。「あなたはベンスン・アンド・ベンスン商会を通して、かなり投機をしていましたね?」
女はかすかに音楽的な笑い声をあげた。「少佐がおしゃべりしましたのね。ええ、柄にもなく大ばくちをやりました。わたし、欲ばりなのかもしれないわ」
「それで最近大損をしたというのは本当ですか? ベンスンさんはあなたに利ざやの赤字分を要求して、あなたの証券を売ってしまったそうですな」
「それが事実でなかったら、どんなにいいでしよう」と女は、いかに悲しそうな顔でいった。
「だから、薄汚ない復讐心か、正当なお裁きをつけるつもりで、あの人をやってしまったとでもお考えですの?」彼女はいたずらっぽく微笑し、まるであてっこゲームの質問をしているように、心待ち顔に返答を待ち受けた。
マーカムはきびしい眼つきで、ひややかにこういい放った。「リーコック大尉は、ベンスンさんが殺されたのと同じ、四十五口径のコルトの陸軍用ピストルを持っていたのは事実ですか?」
婚約者の名を聞いて、彼女は身体をこわばらせ、思わず息をのんだ。それまで演じていた役割は中止され、かすかな赤味が頬にさし、はえぎわまでひろがっていった。が、ほとんどすぐに先ほどのいたずらっぽい無関心な態度をとり戻した。「リーコック大尉のピストルの型とか、口径なんか、一度もたずねたことありませんわ」と無雑作に答えた。
「では」とマーカムは冷静に追求した。「リーコック大尉が殺人のまえの朝、あなたのアパートを訪ねて、ピストルをあなたに貸したというのは事実ではないんですか?」
「あなたもずいぶん野暮な方ですのね」とミス・セント・クレアは、はにかんだようにいった。「婚約者同士の個人的な関係にまで立ち入るなんて。わたし、リーコック大尉と婚約しているんですの。たぶん、もうご存知かもしれませんけれど」
マーカムは自らをおさえようとつとめながら、さっと立ちあがった。「あなたはわたしの質問にいっさい答えることを拒否されたものと了解してよろしいか。それとも、あなたは現在のきわめて重大な立場から脱け出す努力を拒否なさるおつもりか」
彼女は考えているようだった。「そうですわ」とゆっくりいった。「とくに現在申しあげたいことはなにもありません」
マーカムは机の上に乗り出し、両手を机に置いた。「そういう態度がどんな結果になるか、よくおわかりでしょうな?」とぶきみにいった。「この事件とあなたの関係について、わたしが知りえた事実と、あなたが身のあかしをたてる説明をいっさい拒否なさっていることの二つから、あなたに対して拘留命令を出す根拠は十二分にありますよ」
マーカムが話している間、わたしはじっと彼女を見守っていた。そして、思わず彼女はちょっと瞼を伏せたようだった。しかし、それ以外、マーカムの言葉に動揺した様子はまるでなく、反抗的に、面白そうに彼を見つめただけだった。
マーカムは突然口元をぎゅっとひきしめ、振り向いて、机の端の下にあるベルのボタンに手を伸ばした。そうしながらも、ちらとヴァンスに視線をやり、決心がつきかねるようにためらっていた。マーカムがヴァンスの顔に認めたのは、非難するような驚きの表情だった。それはマーカムの決断に大きな驚きをあらわしているばかりでなく、きみはなんという取り返しのつかない愚かな行動をしようとしているのだということを、いかなる言葉にもまして雄弁に語っていた。
張りつめた沈黙がしばらく室内を支配した。それから、ミス・セント・クレアはゆっくりと落ち着き払って化粧入れを開け、鼻の頭をお白粉でたたいた。それがすむと地方検事のほうに静かな眼差しを向けた。「では、今わたしを逮捕なさるおつもり?」
マーカムは考えこみながら、ちょっと彼女を眺めていた。そして、すぐに答えないで、窓際に行き、刑事法廷ビルと市刑務所を結ぶ「溜息橋」を見下ろしながら、ゆうに一分間は立っていた。やがて、「いや、今日はやめときましょう」とゆっくりいった。
マーカムはなおしばらくの間、考えこみながら立っていたが、急に自分の優柔不断な気持を振りはらうように、くるりと向き直った。「今日はやめときましょう」と心持ちきびしくくりかえした。
「しかし、当分ニューヨークを離れないように命令します。もし離れれば、逮捕されますよ。よく心得ていただきたい」マーカムはボタンを押し、秘書を呼んだ。
「スワッカー、セント・クレアさんを下までお送りして、タクシーを呼んであげてくれ。そのあとは、きみも帰っていい」
ミス・セント・クレアは立ちあがって、マーカムに軽く会釈した。「シガレット・ホールダーを貸してくださって、ありがとうございます」と明るくいい、それを机の上に置いた。そして、ほかは、何もいわないで、静かに部屋から出て行った。
ドアが閉まるが早いか、マーカムはもうひとつのボタンを押した。まもなく外の廊下に通じるドアが開いて、白髪の中年男があらわれた。
「ベン」とマーカムは急いで命令した。「スワッカーが下に送っていった女をつけてくれ。しっかり見張って、見失わんようにするんだぞ。女には市をでるな、といってある。あれはレイシーが探してきたセント・クレアという女だ」
男が退出すると、マーカムはヴァンスのほうに向き直り、立ったままぐっと睨みつけた。「あの若い女をどう思う?」と勝ち誇ったようにたずねた。
「いい女じゃないか」とヴァンスはおだやかにいった。「みごとな自制力だ。職業軍人と結婚するそうだが、De gustibus(蓼食う虫も何とやら)というからねえ。ぼくは、きみがほんとうに手錠を取りよせるのかと思って、一瞬ひやっとした。もしそうしていたら、きみは一生後悔したろう、マーカム」
マーカムはしばらくじっと見つめていた。ヴァンスの自信ありげな態度の裏には、たんなる気紛れ以上のなにかがあることを彼は知っていた。女を拘留しかけてやめたのは、このことを知っていたからだった。「あの女の態度は、たしかに無罪を信じさせるものじゃなかったね」と彼はいった。「もっとも、芝居はなかなかうまかった。しかし、自分にやましいところのある抜け目ない女なら、あれくらいの芝居はやっただろう」
「すると、きみは気がつかなかったかね?」とヴァンスはきいた。「あの女は、きみに疑われようと、疑われまいと、そんなことは全然気にしていなかったっていうことが。実際、あの女は、きみに放免されて、ちょっと失望していたくらいだよ」
「ぽくはそうは思わないがね」とマーカムはいいかえした。「やましかろうと、なかろうと、ふつう逮捕されるのをよろこぶ人間なんていやしない」
「ところで、ベンスンが死んだとき、あの果報者の色男君はどこにいたのかね?」
「その点に抜かりはあるものか」とマーカムは軽蔑したようにいった。「リーコック大尉は、あの晩八時以降ずっと自分のアパートにいたんだ」
「ほんとうかね」とヴァンスは軽妙にしっぺがえしをした。「まったく模範的な青年だ」
またもやマーカムはヴァンスを鋭く見た。「今日、きみの脳髄のなかで、どんな奇妙きてれつな理論があばれまわっているのか知りたいもんだ」と考え深げにいった。「ぼくはあの女を一時的に行かせてやって──だって、きみはぼくにそうして欲しいらしかったから──自分がいいと思う判断を棚上げにしたんだから、なぜ、きみも率直に切り札を教えてくれないんだ?」
「切り札? 柄の悪いたとえだね。まるでぼくが手品師かなんかみたいじゃないか」
ヴァンスがこういう返事をするときは、いつでもまともに答えたくない印だったから、マーカムは、その話はこれでおしまいにした。
「とにかく」とマーカムはいった。「きみは、さっき予言したように、ぼくが赤恥をかくのを目撃する楽しみは味わえなかったわけだ」
ヴァンスはわざと驚いたように顔をあげた。「そうだったね」それから、悲しげにつけたした。「人生に失望はつきものさ、きみ」
八 ヴァンス挑戦に応じる
六月十五日土曜日午後四時
マーカムがヒースに会見のてんまつを電話で知らせてから、わたしたちはスタヴィサント・クラブに引き返した。ふつう地方検事局は、土曜は午後一時に閉まるのだが、今日はセント・クレアの訪問という大切な用事があったため、時間が延長されていたのである。マーカムは考え深げに黙りこんでしまい、クラブのラウンジのいつもの奥まった所に腰をおろすまで口をきかなかった。それから、腹だたしげに口を切った。「畜生! あの女を釈放しなけりゃよかった。どうも黒らしいような感じがする」
ヴァンスはなるほどという様子をした。「そうかね。心霊的なんだねえ、きみは。きっと、今までずっとそうだったんだろう。正夢なんかもずいぶん見ただろうね? だれかのことを考えていると、その当人から電話がかかってくるなんていうことも、さぞかし多かったんだろう。たいした才能だ。手相を見るのかい? なぜ、あのご婦人の星占いもしなかったんだい?」
「そういうきみも」とマーカムはやりかえした。「あの女の無罪を確信しているらしいけれど、印象に頼っているだけの話で、それ以上の具体的な根拠があるという証拠は聞いていないがね」
「それがあるんだ」とヴァンスは断言した。「ぼくにはあの女が無罪だということがわかっている。おまけに、女には射てなかったということも」
「四十五口径のコルトの陸軍用ピストルは、女には扱えないなんていう誤った考えは、頭の中から追いはらうことだな」
「なるほど」とヴァンスは肩をすくめて、相手の言葉を聞き流した。「犯罪の物的証拠なんか、ぼくの計算には入っていない。そういうことは、きみたち法律屋と、筋骨たくましい刑事さんにまかせてやる。ぼくは、もっと別の、確実な方法で、結論を引き出すのだから。だから、さっきいったろう、ベンスン殺しで女を逮捕したりすれば、きみは大きな赤恥をかくだけだって」
マーカムは憤然としていいかえした。「しかし、きみは真理に達するための推理過程をすべて無視しているように見えるがね。もしかして、きみは人間の心の働きにたいする信頼をいっさい棄ててしまったんじゃないのかね?」
「神の作りたもう偉大なる凡人はかく語りきか!」とヴァンスは歎息してみせた。「きみの心はまさに典型的だ、マーカム。きみの心は、自分の知らないことは知識ではなく、自分に理解できないことは説明できない、という原理にもとづいて動いている。こんな楽な考えはないよ、きみ。なんの苦労も、心配もする必要がないからね。この世は、さぞかしきみには甘美な、すばらしいところなんだろうな」
マーカムは愛想よく寛大な態度にでた。「君は昼食の時、絶対に失敗しない犯罪捜査方法のことを話していたね。その深遠で貴重な秘訣を、しがない地方検事に教えてくれないか?」
「よろこんで」とヴァンスは大げさにお辞儀をした。(ヴァンスが犯罪分析をおこなう際の自らの心理的方法を説明した以下の会話は、むろん、わたしが記憶にもとづいて書いたものである。だが、この部分の校正刷を、わたしは彼に送り、好きなように加筆訂正してくれと頼んだ。そのため、現在の形は、ヴァンスの理論を、実際上、彼自身の言葉であらわしている)「さっき、ぼくは個人の性格と、人間の心理について話をした。われわれは、なにをするにも、自らの気質に応じて、独自のやり方でやるものだ。あらゆる人間の行為は、その大小にかかわりなく、その人間の個性の直接的表現であり、その性格の避けがたい刻印をとどめている。だから、音楽家は、一枚の楽譜を見ただけで、それがベートーベンによって作曲されたものか、シューベルトやドビュッシーによって作曲されたものか、あるいはショパンによって作曲されたものか即座にわかるのだ。画家は、キャンバスを見ただけで、それがコローのものか、アルビニー〔フランスの画家。コローの影響を受けた〕のものか、レンブラント、あるいはフランツ・ハルス〔オランダの画家〕のものかすぐわかる。まったく同じ顔が二つないように、まったく同じ性格は二つない。われわれの個を作りあげる成分の配分が、それぞれ個人によって異なるからだ。だからこそ、二十人の画家が同じ主題を描いても、その着想や仕上がりはまるでちがうのだ。どの作品も、その結果は、それを描いた画家の個性の、はっきりした、まごうかたなき表現になっている。簡単きわまることじゃないか」
「きみの理論は、きっと芸術家にはよくわかるだろう」とマーカムは軽く皮肉をいった。「しかし、そういう深遠なご卓説は、ぼくみたいな俗人にはとても理解できそうにない」
「あやまちに耳を傾ける者は、高貴なる道をしりぞける、か」とヴァンスはつぶやいて溜息をついた。
「芸術と犯罪は、少しちがうだろう」とマーカムは異議を唱えた。
「心理学的に同じことだ」とヴァンスはおだやかにいった。「犯罪には芸術作品の持つ基本的な要素がすべてある──アプローチの仕方、着想、技法、想像力、実施、手法、構成。そればかりか、犯罪には、芸術作品と同じく、その様式、外見、一般的性格において、大きな多様性がある。実際、周到に計画された犯罪は、絵画と同様その個性の直接的表現だ。そこに、犯人を探索しうる大きな可能性が存在する。ちょうど美学の専門家が絵を分析し、だれがそれを描いたか、あるいはそれを描いた人間の個性や気質を当てることができるように、心理学の専門家は犯罪を分析し、だれがそれを犯したかを告げることができる。ということは、たまたまその心理学者が犯人と知人である場合だが、もし知人でないとしても、ほとんど数学的正確さで犯人の性質や性格を述べることができる。それこそ、マーカム、人間の有罪を決定する唯一の、正確で不可避的な方法だ。あらゆるほかの方法は、たんなる当て推量にすぎない。非科学的で、不確実で、危険きわまりない」
この説明の間中、ヴァンスの態度はいかにも気軽そうだったが、冷静で自信にみちあふれ、奇妙な重みをその言葉に与えていた。マーカムは興味深げに聴き入っていたが、ヴァンスの理論を真面目に受けとっているとは見えなかった。
「きみの理論だと、いっさいの動機は無視することになる」とマーカムは異論をさしはさんだ。
「むろんのことだ」とヴァンスは応酬した。「たいていの犯罪の場合も動機は無関係な要素なんだから。ねえ、きみ、ぼくらはみな、少なくとも二十人くらいの人間を殺すだけの立派な動機がある。現実に百件のうち、九十九件までの殺人は、その程度の動機でおこなわれるんだ。そして、だれかが殺されたとき、実際の犯人が持っていたと同じくらい有力な動機を持っている無罪の人間は、何十人といるものだ。実際、ある人間が動機を持っているからといって、その人間が有罪だという証拠にはなりはしない。人間だれしも、動機なんてあるものさ。動機があるからといって、ある人に殺人の嫌疑をかけるのは、足が二本ちゃんとあるから、他人の女房と駆落ちするんじゃなかろうかと疑うのと、なんら変わらない。ある人間が人を殺し、ほかの人間がそうしないのは、気質の、個人心理の問題なんだ。すべてがそこに帰着する。それに、こういうこともある。つまり、ある人間が真の動機を──なにか大きな、圧倒的な動機を──持っているときは、むしろそれを隠し、内証にし、用心深く伏せておきたがるものだ。そうは思わないかね、マーカム? 長年の準備期間中、ずっと動機をごまかしておく、あるいは、十年もむかしの事実を偶然発見して、犯罪の五分前にようやく動機が生まれてくる、ということもあろうじゃないか。だから、きみ、ある犯罪に明らかな動機がないということは、動機がある以上に疑わしいと見ていいかもしれないのだ」
「しかし、君だって犯罪を考慮するに当たって、cui bono(誰が得をするか)という考えを排除することは難しいと思うがね」
「あるいはね」ヴァンスはうなずいた。「しかし、その考えが絶対的だというのも愚かな話だよ。第一、だれかが死ねば、必ず大勢の人間が得をするんだからね。サムナー〔アメリカの上院議員。奴隷解放を叫んで、暗殺されかけた〕を殺せだ。その理屈だと、きみは著作者連盟の会員を全部逮捕できるだろう」
「とにかく、犯罪において」とマーカムは主張した。「機会は大きな要素をなしている。ぼくが機会というのは、ある人にとってある犯罪を可能にする、都合のいいような情況と条件の一致ということだ」
「それはまるで無関係な要素だね」とヴァンスは断言した。「考えてもみたまえ。嫌いな人間を殺す機会なんか毎日いくらもある。先日の晩も、ぼくは我慢のできないほど退屈な連中を十人もアパートに夕食に招待した。社交上の義務というやつさ。正直いって、ぼくはポンテ・カネに砒素を盛るのを、やっとの思いで我慢した。理由は簡単だ。ぼくはボルジア家の連中とは別の心理的カテゴリーに属しているからね。他方、もしぼくが人殺しをする決心をしたとすれば、あの機略にとんだ cinquecento(一五世紀)のイタリア貴族と同じように、自分で機会を作り出しただろう。そして、そこに困難がある。機会なんていうものは作り出すことができるし、にせのアリバイやほかのいろいろなトリックで、自分に機会があったという事実を隠すことだってできる。きみもおぼえているだろう、犯人が犠牲者を殺すまえに、なにか悪いことがあったらしいといって警察を呼びよせ、警察より先に自分が家のなかに入って、警官が二階に上がってくるまえに相手を殺したあの事件を」(ヴァンスがどの事件のことをいっているのか、よくわからない。だが、こういう例は幾つか記録されており、探偵小説家も、しばしば、この手を使っている。最近では、チェスタートンの『ブラウン神父』中の「歪んだ形」という短篇に見出される)
「しかし、犯罪が起きた時刻に、ある人物がその現場の近くに、いや現場にいた証拠がある場合はどうする?」
「それもまちがいを生みやすい」とヴァンスはいった。「実際の犯人が現場にいず、無実の人間がその場にいて、肩代りに使われる例はしじゅうある。頭のいい犯人なら、現場にいる人間を通じて、遠くから犯罪を犯すことができるし、アリバイを作っておいて、変装して、だれにも見分けられずに犯行の場所に行くことだって可能だ。その場にいないと思われている人間が、その場にいるようにする方法はいくらでもある。その逆もしかりだ。しかし、われわれが自分の個性と性格から脱け出すことは絶対にない。だからこそ、あらゆる犯罪は必然的に人間の心理に帰着するのだ。それこそ、唯一の確実で、ごまかしようのない推理の基盤なんだ、マーカム」
「きみの理論に従えば、なぜきみが警察力を今の十分の一に減らし、そのかわりに、新聞の日曜版の付録であんなに評判の、例の心理機械をどっさり備えつけろと主張しないのか、ふしぎだね」
ヴァンスはしばらく考えこむように煙草をふかしていた。「その機械のことはぼくも読んだことがある。面白いおもちゃだね。被実験者の注意が、フランク・クレイン博士の敬虔きわまるきまり文句から、球面三角法の問題に移ると、たしかに情緒的緊張が増加して、あの機械にあらわれてくるだろう。しかし、無実の人間だって、真空管や電流計や、電磁器や、ガラスの板や、真鍮の柄がいっぱいついているあの機械に縛りつけられて、最近起きた犯罪について、ぎゅうぎゅう問いつめられたら、神経がパニック状態に陥ってしまって、指針がロシアの踊り手のように、跳ねまわることもたしかだ」
マーカムは寛大にほほえんだ。「そして、真犯人を機械にかけると、指針がじっと動かないといいたいんだろう?」
「いや、その逆さ」とヴァンスは落ち着きはらっていった。「やはり針は飛んだり、跳ねたりするだろう。しかし、それはその男が犯人だからじゃない。たとえば、その男がまぬけな奴だったら、新しい形の拷問をされるのかと腹をたて、そのため針が飛びあがるにちがいない。あるいはまた、もし利口な奴だったら、そんな馬鹿げたことに熱中する法律家先生の幼稚さを笑うまいと我慢している結果、やはり針は飛びあがるだろう」
「ご高説にはすっかり感動したよ。ぼくの頭は、タービンのようにくるくる廻っている始末だ。しかし、われわれ、あわれな俗人のように、犯罪は頭脳の欠陥からもたらされると信じている人間もいるんでね」
「それはそうだ」とヴァンスはあいづちを打った。「だが、不幸にも、その欠陥は人類すべてが持っている。徳の高いひとびとは、いわば、その欠陥を率直に出す勇気のないひとびとのことだ。しかし、もしきみが犯罪者タイプのことをいっているのなら、ぼくはここで訣別するほかはない。先天的犯罪者などという観念を発明したのは、黄色新聞《イエローペーパー》にお気に入りのロンブローゾ〔イタリアの犯罪学者〕だった。デュボイス、カール・ピアスン、ゴーリングのように真の科学者は、ロンブローゾの理論を打ちのめして、孔だらけにしてしまった」〔ピアスンとゴーリングは、二十年前、イギリスの職業的犯罪者について、大規模な調査をおこない、統計をとった。それによると、(一)犯罪生活に入るのは大部分十六から二十一歳の間であり、(二)犯罪者の九〇パーセント以上が、精神的に正常である。また、(三)犯罪者を父に持つ者より、兄に持つ者のほうが多い、ことがわかった〕
「きみの博識にはおそれいる」マーカムはそういって、通りかかった給仕に合図をし、もう一本葉巻を注文した。「しかし、概して殺人は発覚するものだから、ぼくは安心していられるがね」
ヴァンスは窓越しにかすんだ六月の空を考え深げに眺めながら、黙って葉巻をふかしていた。
「マーカム君」としばらくしていった。「犯罪についてとっぴょうしもない観念が、いまだにいっぱい残っているのには、実際びっくりしてしまう。正気な人間が『犯罪は発覚する』などという古めかしい幻想にどうして賛成できるのか、ぼくには理解できかねる。犯罪はめったに発覚しやしない。もし発覚するのなら、なぜ殺人課の必要がある? 死体が見つかるたびに、なぜ警察がこまネズミのように働く必要がある? この妄想が生まれた責任の一部は、詩人にある。チョーサー〔一四世紀イギリス最大の詩人〕がたぶん mordre wol out(人殺しは発覚する)といいだし、シェイクスピアが舌にかわって口をきくふしぎな器官が殺人にはあるとうたって、この妄想を助長した。下手人を見ると死体が血を噴き出す、なんていう途方もない話を考えついたのも、たしかどこかの詩人だったと思う。きみは、忠実なる市民の偉大な保護者として、警察に人殺しが発覚するまで、警察署が、クラブか、お気に入りの美容院か──とにかく警察が待機するところなら、どこでも結構だが──で、静かに待っていろと命令できるかい?冗談じゃない。そんなことをすれば、警察はきみを particeps criminis(共犯者)か lunatico inquirendo(気狂い)として、拘置するよう知事に要求するにちがいない」
マーカムはお人よしらしくぶつぶついった。彼は葉巻の口を切って、火をつけるのに忙しかった。
「きみたちは犯罪について、もうひとつ幻想を抱いているようだ」とヴァンスは語りつづけた。
「つまり、犯罪者は、つねに犯行の現場に戻ってくるという考えだ。この奇妙な考えは、深遠であいまいきわまる心理学的根拠にもとづいて説明されてさえいる。しかも、うけあっておくがね、心理学はそんなとてつもないことなんか教えるはずがない。たとえ殺人犯が犠牲者の死体のそばに戻ってきたとしても、それはなにかへまをやらかして、そいつをつくろうためだ。さもなければ、まちがいなくその犯人は精神病院行きだ。もし、この奇妙な考えが真実だったら、どんなに警察は楽だろう。犯行の現場に坐って、犯人が戻ってくるまで、カルタかマージャンをして、それから bastille(牢屋)に連行すればいいんだから。犯罪者の真の心理的本能は、できるだけ犯行の現場から遠ざかることなんだ、マーカム」
「とにかく、現在の事件の場合、われわれは人殺しが発覚するのをぼんやり待っているわけでも、ベンスンの居間に坐って、犯人が自発的に戻ってくるのを当てにしているわけでもない」
「それだって、犯人をつかまえる早さでは、今のきみたちのやり方とあまりちがいはないだろうがね」
「あいにく」とマーカムはいいかえした。「きみほど特別な洞察力に恵まれていないもんで、不完全きわまる人間の推理力にすがるほかはないようだ」
「そうだろう」とヴァンスはあわれむように同意した。「きみたちの活動ぶりを拝見していると、ちょっと法理論の心得がある人間なら、どんなに頑張って、勇敢に常識で攻めたてても、びくともしないという結論に達したね」
マーカムはむっとした。「まだセント・クレアという女の潔白を主張しているのか。しかし、あの女が無実だという明白な証拠がどこにもない以上、ぼくの採るべき道は、これしかないということを認めるべきだ」
「いや、全然認めないね。あの女が潔白だという証拠はいっぱいある。ただ、きみが見落としているだけさ」
「そうかね」ヴァンスの自信たっぷりな落ち着きぶりに、とうとうマーカムは平静さを失ってしまった。「よし、わかった。それなら、今ここで、ぼくはきみのご高説を全部、断固として否定する。そうして、きみがあるといいはっているその証拠のひとかけらでも、ここに出すよう挑戦する」そう荒々しくいい放ち、もう自分に関するかぎり、この話はおしまいだということを示すために、指を拡げ、ぶっきらぼうな、挑戦的な身振りをした。
ヴァンスも、少しむっとしたようだった。「マーカム、ぼくは血の復讐者でもなければ、社会の名誉の擁護者でもない。そんな役目はまっぴらだ」
マーカムは尊大に微笑したが、返事はしなかった。
ヴァンスはしばらく考え深げに煙草をふかしていた。それから、静かにマーカムのほうに向き直り、おだやかな事務的な声でこういって、わたしを驚かせた。「よろしい。きみの挑戦を受けよう。ぼくの趣味には少しあわないがね。だが、面白そうな問題だ。concert champetre(田園音楽会)事件(長年、ルーヴル美術館所蔵の「田園音楽会」は、ティティアンの作品だと公的に認められていた。しかし、ヴァンスは館長ルベルティエ氏を説得し、ジョルジオーネの作だと認めさせた。その結果、現在では、あの絵はジョルジオーネの作とされている)と同じくらい難事件だ。つまり、作者はだれかという問題さ」
マーカムは葉巻を口に持っていこうとして、突然その手をとめた。彼は先ほど「挑戦」という言葉を使ったが、本気でいったわけではない。むしろ口先だけでいったにすぎなかった。で、ちょっと不安そうにヴァンスを見た。彼は、自分のふざけ半分の無考えな挑戦を相手があっさり受けて立ったことが、ニューヨークの全犯罪史を変えることになろうとは、ほとんど悟っていなかった。
「どうやってやるつもりだ?」とマーカムはきいた。
ヴァンスは無頓着に手を振った。「ナポレオンのように、je m'engage, et puis je vois(まずやってみる。それから見ることだ)というわけさ。しかし、あらゆる援助を与えるということと、高尚な法律的反対をいっさいしないということを、まず約束してほしい」
マーカムは唇をすぼめた。彼はヴァンスが思いがけず自分の挑戦に応じたことに、あからさまに当惑していた。が、すぐに、どうせたいしたことではないというように、人のよい笑い声をあげた。「わかった、約束する。で、その次は?」
ややあって、ヴァンスはまた新しく煙草に火をつけ、もの憂げに立ちあがった。「まず犯人の正確な身長を決めることにしよう。こういうことは、むろん指示的証拠の最たるものだろう?」
マーカムは疑わしげにじっと相手を凝視した。「いったい、どうやってやるんだい?」
「きみが涙ぐましいほど信頼している、あの原始的な推論法によってさ」とヴァンスはのんびりと答えた。「さあ、もう一度現場へ行ってみよう」そういうと、面喰らってふくれながら、しぶしぶあとについてくるマーカムを従えて、戸口のほうへ歩きだした。
「しかし、きみ、死体はもう片づけてある」とマーカムは抗議した。「今頃、現場はきれいになっているにちがいない」
「それはありがたい」とヴァンスはつぶやいた。「ぼくは死体がとくに好きというわけではないんでね。それに、だらしなくちらかっているのには、ぞっとする」
マディソン・アヴェニューに出ると、ヴァンスは commissionnaire(門番)に合図してタクシーを呼ばせ、無言でわたしたちを押しこんだ。
「ばかばかしい」車が走りだしたとき、マーカムは不機嫌にいい放った。「どうやって、今頃手がかりを見つけるつもりだい? もう、なにもかも消されてしまっているよ」
「おお、マーカム!」とヴァンスは、わざと心配そうにいった。「なんときみは哲学的理論に欠けているんだろう。どんな小さなものでも、本当に消してしまえるのだったら、宇宙は存在しなくなるだろう。宇宙の問題は解決されて、造物主は空っぽになった大空に、QED(ラテン語で、証明済み)と書くだろう。われわれが生命と呼ぶ幻影を持ちつづけられるただひとつのチャンスは、意識が無限の小数点みたいなものだという事実のなかにある。きみは、子供の頃、三分の一を割り切ろうとして、紙一面に三という数字を書いたことはないだろうか? いつまでやっても、しかし、三分の一の端数が残っていた。三という数字を一万回書けば、いちばん小さな三分の一を消すことができるなら、問題はそれで終っただろう。生命についても同様だよ、きみ。なにものをも抹殺できないからこそ、われわれは存在しつづけるのだ」ヴァンスは自分の言葉に目に見える終止符でも打とうとするように、指を動かし、ぼんやりと窓越しに、燃えるような空を見上げた。
マーカムは隅によりかかって、不機嫌に葉巻を噛んでいた。うっかり挑戦してしまった自分に、むなしい怒りを燃やしているのが見てとれた。だが、もう後戻りすることはできない。あとになってわたしに語ったところでは、気持のいい椅子からむりやりひき出され、わかりきった馬鹿らしい使いにやらされたとすっかり信じきっていたらしい。
九 犯人の身長
六月十五日土曜日午後五時
わたしたちがベンスンの家に着いたとき、前庭の鉄柵にねむそうによりかかっていたパトロールの巡査が、突然気をつけの姿勢をして、敬礼した。巡査はヴァンスとわたしを希望にみちた眼差しで見やった。きっと地方検事が容疑者を犯罪の現場へ訊問のため連行してきたところだと思ったにちがいない。わたしたちは、前日の朝、現場検証の際、そこにいあわせた殺人課の刑事のひとりに中に入れてもらった。
マーカムは軽く会釈した。「万事うまくいってるかね?」
「はい、うまくいっています」と刑事は機嫌よく答えた。「ばあさんは猫のようにおとなしくしています。それに、なかなか料理も上手です」
「しばらく席をはずしてくれんかね、スニフィン」とマーカムは、わたしたちが居間に通るとき、いった。
「あの美食家の名前はスニトキンだ、スニフィンじゃない」とヴァンスは、わたしたちの背後のドアが閉まったとき、いった。
「たいした記憶力だ」とマーカムは不機嫌にいった。
「ぼくの欠点のひとつでね。きみは人の顔は絶対に忘れないが、名前は全然思い出さないという珍しい人間のひとりだろう」
だが、マーカムはからかいに乗るような気分ではなかった。「こんなところへぼくをひっぱってきて、どうするつもりだ?」と、けなすように手を振ってみせ、困ったもんだというようにどっかりと椅子に腰をおろした。
居間は、きちんと片づけられているのを除いては、この前とまったく変わらなかった。日除けが上げられ、遅い午後の日差しがさんさんと入りこんでいる。飾り立てられた部屋の調度が、陽光を浴びて、いちだんと華やかに見える。
ヴァンスはあたりを見まわして、身震いした。「なんだか引き返したくなったよ。まさしく、これは赤恥をかかされた室内装飾家がやってのけた無理からぬ殺人事件だね」
「美学者先生」とマーカムは苛々していった。「後生だから、その芸術的偏見はあとまわしにして、仕事にとりかかってくれないか。むろん」と意地悪く、にやりとして、「もし失敗に終わるのが心配なら、まだ引きさがることはできるがね。そうすれば、きみのすばらしい理論も、傷つかなくてすむというわけだ」
「そして、きみは無実の娘を電気椅子にお送り申しあげられる、という次第だろう」とヴァンスは、わざと憤然としたふうを装っていった。「とんでもない。La politesse(礼儀)からいっても、引きさがることはできない。ヘンリー王子の台詞じゃないが、『恥ずかしいことだが、余は騎士道をおこたっていた』〔シェイクスピア『ヘンリー四世』第五幕第一場の台詞〕と歎きたくはないからね」
マーカムはきっと口を結び、怖ろしい目つきでヴァンスを睨みつけた。「人間はだれでも、ひとを殺したくなる。なんらかの動機があるというきみのご高説には、一理あると考えはじめたよ」
「それは結構」とヴァンスは快活にいった。「どうやらきみもぼくと同じ考えになりはじめたらしいから、スニトキンをちょっと使いに出してかまわないか?」
マーカムは大きく溜息をつき、肩をすぼめた。「きみの芝居の邪魔にならないなら、ぼくはその opera bouffe(喜歌劇)のあいだ一服するとしょう」
ヴァンスは戸口に行き、スニトキンを呼んだ。「プラッツさんのところに行って、長い巻尺と、紐のたまを借りてきてくれませんか。地方検事が入用だとおっしゃるもんで」そうつけ加えて、マーカムに深くお辞儀をした。
「失敗したら、首をくくろうというんじゃあるまいね」とマーカムはいった。
ヴァンスは咎めるように地方検事を見た。「失礼だが」とやさしくいった。「『オセロ』の台詞でも思い出してほしいね。『忍耐心のないやからは情ない。どんな傷でも、一息には治らぬわい』で、今度は詩人から凡人になりさがるとして──ロングフェローの五歩格詩を紹介しよう。『あらゆるものは、ただ待つ人にのみやってくる』こんなことはむろん嘘だが、慰めにはなる。ミルトンは、They also serve(それはまた役立つ)という言葉で始まる詩の中で、もっとうまく述べている。だが、セルバンテス〔スペインの文学者。『ドン・キホーテ』を書いた〕の言葉がいちばんだ。『忍耐せよ、そして新たにやり直せ』とね。健全な忠告じゃないか、マーカム。健全で、気がきいている。立派な忠告はこうしたものだ。たしかに、忍耐は最後の手段さ。ほかに方法がないとき、することだ。しかし、美徳同様に、忍耐する者は、ときには報われる。もっとも、概して、やはり美徳同様に、利益がないことは認めるが。つまり、忍耐はそれ自体が報酬というわけなのだ。『悲しみの奴隷』とか、『変形されたもろもろの悪の最たるもの』とか、『偉大なる魂の持主の全情熱』だとか、いろいろといわれてね。ルソーにいわせると、La patience est amere mais son fruit est doux(忍耐は苦いがその果実は甘い)そうだ。だが、君たち法律屋さんには、ラテン語の方がいいだろう。Superanda omnis fortura ferendo(あらゆる運命は忍耐によって克服される)とウェルギリウス〔古代ローマの詩人〕はいっている。そして、ホラティウスも、同じ主題についていっている。Durumsed levius fit patientia(難しいが、忍耐によってたやすくなる)とね」
「いったい、スニトキンはなにをしているんだろう」とマーカムは不平を鳴らした。その言葉が終らないうちに、ドアが開き、スニトキン刑事がヴァンスに巻尺と紐を渡した。
「そら、マーカム、忍耐した甲斐があったろう」
ヴァンスは絨毯の上に身をかがめ、大きな籐椅子をベンスンが射たれたときあった場所にきちんと動かした。その位置を決めるのはわけはなかった。なぜなら、椅子の車輸の跡が、ふかふかした絨毯の上にはっきり見えたからである。それから、椅子の背にあった弾の穴に紐を通し、弾が羽目板に命中した個所にその端を当てがうよう、わたしにいいつけた。次は、巻尺を取り上げて、孔に通した紐を伸ばし、椅子に坐っていたときのベンスンの額の位置を起点として、五フィート六インチの距離を測った。そうして、測った距離を示すために結び目を作り、紐をぴんと張って、羽目板の弾痕から椅子の背の孔を通り、ベンスンの頭があったところの前方五フィート六インチの点まで、一直線に伸ばした。
「この結び目は」とヴァンスは説明した。「ベンスンを殺したピストルの銃口の位置を正確に示している。理由はわかるだろう? 弾道上の二つの点──つまり、椅子の孔と羽目板の弾痕──はわかっているし、大体の発射距離はベンスンの頭から五、六フィート離れた垂直線上だということもわかっている。そうすると、弾が発射された正確な点を決めるには、その垂直線まで弾道の直線をのばしていくだけでいいわけだ」
「理論的には、まさにその通りだが」とマーカムは批判した。「なぜ、そんなに苦労して空間上の一点をたしかめる必要があるのかわからんね。たいして役にも立つまいし。それに、きみは弾道に偏流があるかもしれないという可能性を見落としている」
「反対して申しわけないが」とヴァンスはほほえんだ。「昨日の朝、へージドーン主任にくわしくきいて、偏流がなかったことを知ったのだ。へージドーンはわれわれが来るまえに傷口を調べていて、その点は自信を持っていた。第一に、もっと小さな口径のピストルでも偏流が生じないような角度から、弾丸は前額の骨に命中した。第二には、ベンスンが射たれたピストルは四十五口径の大きな口径のピストルで、初速がとても大きいから、もっと離れたところから発射しても、弾丸は直線コースを辿ったろうということだ」
「しかし、へージドーンはどうやって初速を知ったのだろう?」
「その点は、ぼく自身興味があった」とヴァンスはいった。「ヘージドーンの説明だと、弾の大きさや性質とか、射ち出された薬莢なんかから、すっかりわかったというんだ。で、使われたピストルがふつうのコルト自動ピストルでなく、陸軍のコルト自動ピストル──たしか、やっこさんは合衆国自動ピストルといったと思うが──であることもわかった。二つのピストルの弾の重さは、少しちがう。ふつうのコルトの弾は二〇〇グレインだが、陸軍のコルトは二三〇グレイン〔一グレインは約〇.〇六グラム〕ある。へージドーンはずばぬけて鋭敏な触感を持っているんで、即座に区分できたんだろう。もっとも、ぼくは知っての通りの無口だから、やっこさんの生理的天分までくわしくきいたわけではなかったがね。ともかく、それは四十五口径の陸軍コルト自動ピストルだった。それがわかると、初速が八〇九フィートで、衝撃強度が三二九だとわかる。これは二五ヤード離れて六インチの白松材を貫通できる力だそうだ。驚くべき男だね、このへージドーン先生は。そんなすばらしい知識がいっぱい頭に詰まった男がいるなんて。なぜ大の男がヴァイオリンの低音奏きを一生の仕事に選ぶのかなとふしぎがるのは、もう古ぼけた話で、銃弾の特徴の鑑別に生涯を捧げる男に比べれば、ものの数じゃない」
「そんな話は、あんまり感心しないね」とマーカムはうんざりしたようにいった。「ところで、先ほどの議論に戻るとして、きみが正確な弾の発射地点を見つけたことは認めよう。で、それから先はどうなるんだ?」
「ぼくがぴんと紐を張っている間に」とヴァンスは指図した。「床から結び目までの正確な距離を計ってくれたまえ。そうしたら、ぼくの秘密を教えよう」
「このゲームも感心しないね」とマーカムは不平をいった。「ロンドン・ブリッジ〔一種の古い子供の遊戯〕のほうが、ずっとましだ」
そういいながらも、彼は距離を計った。「四フィート八インチ半」と気乗りしないようにいった。
ヴァンスは、結び目の真下の絨毯の一点に煙草を置いた。「これで、ピストルを発射したときの正確な高さがはっきりした。この結論に達するまでのプロセスは、むろんわかるだろうね」
「よくわかるとも」とマーカムは答えた。
ヴァンスはまたドアのところに行き、スニトキンを呼んだ。「地方検事がきみのピストルをちょっと拝借したいそうだ。実験をしたいとかでね」
スニトキンはマーカムのそばに歩みより、いぶかしげにピストルを差し出した。「安全装置がかかっています。はずしましょうか」
マーカムがピストルはいらないと断わりかけるとヴァンスが口をはさんだ。「いや、そのままで結構。マーカムさんは射つもりはないんだから」
スニトキンが行ってしまうと、ヴァンスは自分から籐椅子に腰をおろし、頭を弾の孔のところに置いた。「さあ、マーカム」とヴァンスはいった。「犯人の立っていた所に立って、ピストルを床の煙草の真上に来るように持ち上げて、ぼくの左のこめかみをちゃんと狙ってみてくれないか。しかし」とにっこり笑いながら、「引き金を引かないように注意してくれよ。さもないと、きみはベンスン殺しの犯人を永久に知らないことになる」
マーカムはしぶしぶいわれた通りにした。彼が狙いをつけて立っていると、ヴァンスは床から銃口までの高さを測るようわたしにいった。四フィート九インチあった。「それでよし」とヴァンスは立ちあがりながらいった。「きみは五フィート十一インチある、マーカム。だから、ベンスンを射った人物はほとんどきみと同じ身長だということになる。絶対に五フィート十インチ以下じゃない。それもよくわかるね?」
ヴァンスの実演は簡単、かつ明瞭だった。マーカムは率直に感銘をあらわした。態度が真剣になり、しばらく考えこむように眉根に皺をよせてヴァンスを見守っていたが、やがていった。「なかなかいい推理だ。しかし、犯人はピストルをぼくより高目に構えていたかもしれんよ」
「それはありえない」とヴァンスは答えた。「ぼくも射撃はずいぶんやったから知っているんだが、熟練した者が小さな的をピストルで狙うときは、腕を突っぱらせ、ちょっと肩を持ちあげて、眼と目標を結ぶ直線上に照準がくるようにするもんだ。こういう条件では、ピストルを構える高さは、かなり正確に身長に左右されるんだ」
「きみの議論は、犯人は熟練した人間で、小さな的に狙いをつけたという仮定の上に立っている」
「仮定ではない、事実だよ」とヴァンスはきっぱりいった。「考えてもみたまえ。もし犯人が射撃に熟練していなかったなら、五、六フィート離れたところから額など狙わないで、もっと大きな的、つまり胸を狙っただろう。そして額を選んだ以上、慎重に狙いをつけただろう。その上、もし犯人が射撃に熟練せず、慎重に狙いをつけて胸を射ったのではないとすれば、おそらくは一発以上射ったにちがいない」
マーカムは考えこんでいた。「なるほど、きみの理論は一応もっともであることは認めよう」とようやく譲歩した。「しかし、それなら犯人は五フィート十インチ以上なら、どんな身長でもよいかもしれない。だって、好きなだけ身をかがめて、しかも慎重に狙いをつける人間もありうるんだから」
「その通りだ。しかし、この場合、犯人の姿勢が完全に自然だったという事実を見逃してはいけない。さもないと、ベンスンの注意を惹いて、不意を襲うことはできなかったろう。彼ベンスンが不意に射たれたことは、その姿勢を見ても明らかだ。むろん、犯人はベンスンに気づかれないように、少しは身をかがめたかもしれないが……そこで、犯人の身長は五フィート十インチから六フィート二インチの間ということにしておこう。それでどうかね、マーカム?」
マーカムは返事をしなかった。
「あの愉快なセント・クレアはたぶん五フィート五、六インチ以上はないはずだ」とヴァンスはからかうような微笑を浮かべていった。
マーカムはうなって、ぼんやり煙草をふかしつづけた。
「リーコック大尉なら」ヴァンスはいった。「きっと六フィート以上あるだろう」
マーカムは眼を細くした。「なぜ、そんなことをいいだすんだ?」
「きみがいったじゃないか」
{ぼくが?」
「いや、言葉でいったわけじゃないが……しかし、ぼくが犯人の大体の身長を話したら、きみが疑っていたあの若い女にはまるで当てはまらないので、きみの活動的な精神は懸命にほかの可能性を探していることはよくわかった。そして、あのご婦人の inamorato(愛人)が、きみの心に浮かんだ唯一の別の可能性だったので、きみはリーコック大尉についてあれこれ考えているのだと結論したわけだ。そこで、大尉が条件通りの身長だったら、きみはなにもいわなかったろう。しかし、きみが犯人は背をかがめて射ったかもしれないといいだしたので、ぼくは大尉がずばぬけた大男だと推論した。と、こういうわけで、きみから発散される意味深い沈黙のなかで、きみの精神とぼくの精神は甘美に呼応して、大尉は六フィート以下ではないと教えてくれたのさ」
「きみの天分には読心術も入っていたというわけか」とマーカムはいった。「次は甲羅占いの実演を待っているよ」その口調は苛だたしげだったが、その苛立ちは、自分の信念が変わったことを認めたくない人間のそれだった。彼はヴァンスの手綱にあやつられてゆく自分を感じていたが、まだ強情に自説にかじりついていたのだ。
「むろん、きみは犯人の身長についてのぼくの実験には異存あるまいね」とヴァンスはやわらかくたずねた。
「必ずしも全部は賛成できないがね。一応はもっともだが、そんな簡単なことなら、なぜへージドーンは気がつかなかったんだろう?」
「アナクサゴラス〔古代ギリシアの哲学者〕がいっているよ。ランプが必要な者は油を入れておけって。深遠な言葉じゃないか、マーカム。見かけは単純だが、偉大な真理を含んだ名言のひとつだ。油のないランプは役に立たないからね。警察はいつも、実際あらゆる種類のランプを持っているが、油がない。だから、真昼間でなくては、なんにも見つけられないのだ」
マーカムの心は、今やべつの方向に忙しく働いていた。彼は立ちあがって、床を歩きはじめた。
「今しがたまで、まさかリーコック大尉が真犯人とは思ってもみなかった」
「どうして思いつかなかった? きみの手下のデカ君が、大尉はあの晩おとなしく家にいたといったからかね?」
「まあ、そうだ」マーカムは考えこむように歩きまわったが、突然くるりと振り向いた。「しかし、それだけではない。あのセント・クレアという女に不利な情況証拠が山ほどあったからだ。ヴァンス、きみの今日の実験はみごとだが、あの女に不利な証拠についてはなにひとつ説明していない。十二時と一時の間、あの女はどこにいたのか。なぜ、ベンスンと食事に行ったのか。どうして、あの女のハンドバッグがここにあったのか。それから、炉格子のあの吸殻はどうしたのか。どうもひっかかる。あの吸殻は。きみの説明で完全に納得できたとはいいかねる。たしかに理屈は通るんだが、ぼくのほうにもあの吸殻という立派な証拠があるんでね」
「驚いたもんだ!」とヴァンスは溜息をついた。「きみは今、怖るべき窮地に立っている。だが、そんなに吸殻が気になるのなら、ぼくがなんとか説明してあげよう」
もう一度ヴァンスは戸口に行き、スニトキンを呼んでピストルを返した。「地方検事がお礼をいってくれということです。すまないが、プラッツさんを連れてきてくれませんか。ちょっと話したいもんで」
部屋のほうに向き直ると、ヴァンスはにっこりとマーカムにほほえんだ。「差し支えなければ、もっぱらぼくがプラッツさんと話したい。きみが昨日訊問したとき、すっかり見落としていた可能性がありそうなんでね」
マーカムは懐疑的だったが、興味を持ったらしかった。「どうぞご自由に」といった。
十 容疑者ひとり消える
六月十五日土曜日午後五時三十分
家政婦があらわれたとき、彼女は最初マーカムに訊問されたときよりも、落ち着きはらってさえ見えた。その態度には陰気な、しかし強情なところがあり、ちょっと挑戦的な表情でわたしを見た。マーカムは軽くうなずいただけだったが、ヴァンスは立ちあがって、暖炉のそばの表窓に面した低い、房飾りのついたモリス式安楽椅子をすすめた。プラッツ夫人は、椅子の端にかけ、両肘をひろい椅子の肘掛にのせた。
「プラッツさん、二、三おききしたいことがあるんだが」とヴァンスは鋭く相手を見据えながら、いいだした。「ほんとうのことを全部話してくれれば、みんなが助かる。どうですか?」先ほどマーカムと話していたときの呑気な、冗談めいた態度は、すっかり消えていた。彼はきびしい、断固たる態度で、女の前に立っていた。
その言葉で、彼女は顔をあげた。生気のない顔だったが、口もとを頑固にひき結び、眼のなかのもやもやした表情が、内心の不安を示していた。
ヴァンスはちょっと待ってから、一語一語はっきりと発音しながら話をつづけた。「ベンスンさんが殺された日、何時頃、あの婦人は訪ねてきたのかね?」
家政婦の視線はひるまなかったが、瞳は大きく見張られた。「どなたもいらっしゃいませんでした」
「いや、来たはずだ、プラッツさん」ヴァンスの口調は自信にみちていた。「何時頃だった?」
「いいえ、いらっしゃいませんでした」と家政婦はいいはった。
ヴァンスは家政婦を見据えたまま、ゆっくり煙草に火をつけ、相手が眼をふせるまで、静かにふかしつづけた。それから彼女のほうに歩み寄り、きびしくいった。「正直にいえば、迷惑はかからない。しかし隠しだてすると、面倒なことになる。そうすれば罪になって、法律のお慈悲は受けられない」ヴァンスは、興味深そうに成行きを見守っていたマーカムに、いたずらっぽく顔をしかめてみせた。
家政婦は今や動揺のしるしを見せはじめた。そっと肘をひき、息づかいが早くなっていた。「神かけて申しあげますが、どなたもいらっしゃいませんでした」ちょっと声がしわがれて、内心の動揺を示していた。
「神さま持ち出すのはやめにしよう」とヴァンスは無頓着にいった。「あの婦人が来たのは何時だったかね?」
家政婦は強情に口をつぐみ、しばらく沈黙が室内を支配した。ヴァンスは静かに煙草をふかしていたが、マーカムは親指と人差指の間に葉巻をはさんだまま期待にみちて待ち受けていた。
ふたたび、ヴァンスはひややかな声でたずねた。「あの婦人は何時にここに来た?」
家政婦は痙攣するような動作で両手を握りしめ、顔を前に突き出した。「誓って、偽りは」
ヴァンスは厳然と片手をあげて家政婦を制し、ひややかにほほえんだ。「それでは駄目だ。きみの振舞いはばかげている。われわれはほんとうのことを知るためにここに来た。ほんとうのことを話してもらおう」
「ほんとうのことは申しあげました」
「ここにおられる地方検事に拘禁命令を出されたいのかね?」
「ほんとうのことは申しあげました」と家政婦はくりかえした。
ヴァンスは決然とテーブルの上の灰皿で煙草をもみ消した。「わかった、プラッツさん。あの日の午後ここにいた若い婦人のことをきみがしゃべらないつもりなら、ぼくのほうから話してやろう」
ヴァンスの態度はゆったりと皮肉たっぷりだった。女は不審そうに見守っていた。「きみのご主人が射たれた日の午後遅く、玄関のベルが鳴った。たぶん、きみはベンスン氏からお客があるということを知らされていただろう。え、どうかね? きみは玄関に出て、チャーミングな若い婦人を迎え入れ、この部屋に案内した。婦人は、マーカム君、今きみが居心地悪そうに坐っているその椅子に腰かけた」ヴァンスは言葉を切り、じらすように微笑した。「それから、きみはその若い女性とご主人にお茶を出した。まもなく、女性はいとまを告げ、ベンスンさんは二階に夕食の着換えをしに行った。どうかな、プラッツさん」ヴァンスは新しい煙草に火をつけた。「きみはとくに気をつけて婦人を見てみたかね? もし見なかったなら、ぼくが教えてやろう。どちらかといえば、petite(小柄)で、黒髪・黒眼の、地味な身なりの女だ」
家政婦の顔に変化があらわれた。眼を大きく開け、顔が蒼ざめて、息づかいが烈しくなってきた。
「さあ、プラッツさん」とヴァンスは鋭くきいた。「なにかいうことはないかね?」
家政婦は深く息を吸いこんだ。「どなたもいらっしゃいませんでした」と強情にいいはった。その強情さには、ほとんど賞賛すべきものがあった。
ヴァンスはちょっと考えこんだ。マーカムがなにかいいかけたが、思い直したらしく、じっと女を見つめたまま坐っていた。
「きみの態度もよくわかる」と、やがてヴァンスはいった。「むろん、きみはその若い女性を知っていて、彼女がここに来たことを知られたくない個人的理由があるんだろう」
それを聞くと、家政婦は顔に恐怖の色を浮かべて、坐り直した。「いいえ、あの方に前に会ったことは一度もありません」と叫んだが、急に口を閉じてしまった。
「なるほど」とヴァンスは愉快そうに流し目をくれながら、「一度も前に会ったことがないというんだね。そうかもしれない。しかし、それはどっちだっていいことだ。とにかく、きれいな女だよ、きみのご主人の家にやってきて、二人きりでお茶を飲んだとしたところでね」
「あの方がここに来たとおっしゃいまして?」と家政婦は元気のない声できいた。強情に張りつめていた反動で、無感動になってしまったのだ。
「そうでもないんだが」とヴァンスは答えた。「しかし、きくまでもないことだ。あの女から聞かなくても、ぼくにはわかっていた。それで、来たのは何時だった、プラッツさん?」
「ベンスンさまが事務所からお帰りになって、半時間ほどしてからでした」
とうとう家政婦は今まで否定し、ごまかしてきたことをすっかり放棄した。「でも、ベンスンさまはお待ちになっていたわけではありません。だって、あの方がおいでになることは全然うかがっていませんでしたし、お茶をおいいつけになったのも、あの方が見えてからでした」
マーカムは身体を前に突き出した、「昨日の朝わたしがたずねたとき、なぜあの女がここに来たことをいわなかった?」
家政婦は不安そうに室内を見まわした。
「プラッツさんは、きみがあの女にあらぬ嫌疑をかけるのを怖れたんだろう」とヴァンスは愉快そうに口をはさんだ。
家政婦はヴァンスの言葉に熱心にとびついた。「はい、その通りでございます。もしかして、あの方がなさったとお思いになりはしないかと不安になったものですから。ほんとうにおとなしい、やさしそうな娘さんですわ。ただ、それだけの理由でした」
「そうだろう」とヴァンスは慰め顔にいった。「しかし、あんなおとなしい、やさしそうな若い女性が煙草をのむのを見て、きっとびっくりしたろうね?」
家政婦の不安は驚きに変わった。「どうしてそれを……は、はい、びっくりしました。でも、あの方は悪い娘さんではありません。それはたしかです。それに、近頃の娘さんは、たいてい煙草をお吸いです。以前とちがって、それをなんとも思っていらっしゃいません」
「まったくその通りだ」とヴァンスは同意した。「しかし、若い女性がタイル張りのガス暖炉に吸殻を投げこむのは感心できないね、プラッツさん」
家政婦は不安そうにヴァンスを見た。からかわれているのではないかと思ったのだ。彼女は暖炉の中を覗きこんだ。「今朝は吸殻なんかひとつもありませんでしたけれど」
「そりゃそうだろう。地方検事の手下のデカさんが、きみのかわりに、きれいに掃除してくれたもんでね」
家政婦はマーカムを探るように一督した。彼女はヴァンスの言葉を真面目に受けとっていいのかどうか決めかねたが、その気さくな態度とか、愛想のよい声に気が楽になりはじめた。
「これでお互いわかりあえたと思うんだが、プラッツさん」とヴァンスはいった。「若い婦人がここに来たとき、ほかになにか気づいたことは? 話してくれれば、その人のためになる。ぼくも地方検事も、彼女が潔白なことを知っているんだから」
家政婦は今の言葉がほんとうかどうか計るように、ずるそうな眼で長いことヴァンスを見つめていた。結果は満足すべきものらしかった。なぜなら、彼女の答が率直であることは疑う余地がなかったからである。「こんなことがお役に立つかどうかわかりませんけれど、わたしがトーストをお持ちしますと、ベンスンさまは、あの方と口論していらしたご様子でした。あの方はなにか今後のことが心配らしく、約束はなかったことにしてほしいといっておられました。わたしはすぐに部屋をさがりましたので、あまり多くは聞きませんでしたが、出しなにベンスンさまが笑いながら、今のはちょっとおどしてみただけだ、なにも起こりはしない、とおっしゃいました」彼女はここで言葉を切り、心配そうに待ち受けた。今しゃべったことが、若い女のためになるどころか不利にならないかと心配しているらしい。
「それだけかね?」ヴァンスの口調からは、その証言がとるにたらないことがうかがえた。
家政婦は抗議した。「わたしが聞いたのはそれだけでした。でも……テーブルの上に、小さな青い宝石箱がありました」
「なに? 宝石箱? だれのものか知っているのかね?」
「いいえ、存じません。あのご婦人がお持ちになったものではないし、以前家でも見たことがありません」
「どうして、宝石箱だとわかったのかな?」
「ベンスンさまが二階へ着換えにいらしたとき、お茶の跡片づけにまいりますと、まだテーブルの上にありましたから」
ヴァンスはほほえんだ。「きみはパンドラ〔ギリシア神話に登場する人類最初の女性で、ゼウスが人間を罰するために造った。その箱はゼウスが人間界にもたせたもので、これを開けたため、あらゆる悪がとびだしたが、急いでふたをしたため希望だけが残ったという〕になって、中を覗いてみたんだね。よくわかるよ。ぼくだってそうしたろう」
ヴァンスはうしろに退り、丁寧に会釈した。「もうよろしい、プラッツさん。若い婦人のことは心配には及ばない。なにも起こりはしないから」
家政婦が退出すると、マーカムは身を乗り出し、ヴァンスに葉巻を振り立てた。「けしからん。なぜ、ぼくに情報を隠していた?」
「おい、きみ」とヴァンスは抗議するように眉をつりあげた。「いったい、なんのことをいっているんだ?」
「セント・クレアという女が、昨日の午後ここに来たことを、どうして知っているのかときいているんだ」
「知ってなんかいるもんか。推測しただけさ。炉口にあの女の吸殻があったし、ベンスンが射たれた夜、あの女はここに来なかったことがわかっていた。だから、あの日もっと早い時間にここに来ただろうと推量したまでだ。ベンスンは四時まで事務所から戻らなかったから、彼女のご訪問は四時からベンスンが夕食に出かけるまでの時間だと、わが耳にささやいた。初歩的な三段論法じゃないか、マーカム」
「あの夜、女がここに来なかったことが、どうしてわかる?」
「事件の心理的面から見て、疑う余地はない。きみにいったように、犯人は女じゃない。これも、形而上学的仮説だがね。しかし、まあ、そんなことはどうでもいい。それに、昨日の朝、ぼくは犯人が立っていた場所に立って、ベンスンの頭と羽目板の弾痕を使って、眼で弾道を計ってみた。で、巻尺を使わなくても、犯人がかなり長身だということが明らかだった」
「なるほど、しかし、女がベンスンより先にここから出ていったとどうしてわかる?」
「そうでなかったら、夜会服に着換えられたかね。実際、女は昼間から decolletees(胴の部分を大きくした夜会服)で歩きまわったりはしないもんだ」
「すると、きみはハンドバッグや手袋は、あの晩ベンスンがここへ持って帰ったというんだね?」
「そう、だれかがね。しかし、たしかにセント・クレアじゃない」
「わかった」とマーカムは譲歩した。「すると、そのモリス椅子は? どうして、女がそこに坐ったということがわかる?」
「坐っていて、暖炉に煙草の吸殻を投げられそうな椅子がほかにあるだろうか。女というものは、ものを投げるのがひどく下手なんだ。部屋越しに吸殻を投げることを許されたとしてもだよ」
「なるほど、簡単明瞭な推論だ。しかし、女がここでお茶を飲んだことは、どうしてわかった? 内密に情報でも手に入れたのか?」
「それを説明するのは、大変恥ずかしいねえ。実は恥を忍んでいうと、あそこにあるサモワールの状態からそう推測した。昨日気がついたが、使ったままで、お湯を捨てても、ふいてもなかったし」
マーカムは得意気に、さも軽蔑したようにうなずいた。「きみも、物的手がかりという軽蔑すべき法律家的レベルまで堕落したようだね」
「だから、ぼくはこんなにひどく赤面しているんだ。しかし、心理的推論だけでは、事実を否定することはできない。ただ in posse(可能性として)いうだけだ。むろん、ほかの条件も考慮しなくてはいけない。現在の場合、サモワールの状態は、ある仮定ないしは推測の基礎として役立っただけで、それで家政婦が釣り出されたことになる」
「ぼくはきみが成功したことを否定しはしない」とマーカムはいった。「しかし、きみは家政婦があの女に個人的関心を持っているといって非難したが、あのときなにを考えていたのだ? あの言葉は、たしかになにか予備知識があったとしか思えない」
ヴァンスは真顔になった。「誓っていうがね、マーカム」と真面目にいった。「べつになんの考えもあったわけじゃない。嘘と知りながら、ああいって否定させようと罠をかけてみただけだ。すると、いやはや、まんまと罠にかかったじゃないか。しかも、ぴたり図星だったらしい。あの女がなぜあれほどおびえたのか、どうもわからない。しかし、それはまあどうでもいい」
「たぶん、そうかもしれないが」とマーカムはうなずいたが、その口調は疑わしそうだった。「ところで、あの宝石箱や、ベンスンと女との口喧嘩はどう思う?」
「まだ、なんともいえないが、どうもぴったりしないね」
ヴァンスはしばらく沈黙し、それから、いつになく真剣にいった。「マーカム、ぼくの忠告を聞いて、こういう脇道にかかずらうのはやめたまえ。いっておくが、あの女は事件に関係ない。ほっておくことだ。そうすれば、きみは歳をとっても、もっと安らかな気持でいられる」
マーカムは宙を見つめたまま、しかめ面をして坐っていた。「きみはなにか知っているね。ぼくはそう確信している」
「|Cogito ergo sum《コギト・エルゴ・スム》 〔デカルトの言葉、われ思う、ゆえにわれあり〕」とヴァンスはつぶやいた。「ぼくはデカルトの自然主義的哲学にいつも惹かれるね。それはあらゆるものへの懐疑から出発して、自意識のなかに実証的な知識を追求したものだ。スピノザはその汎神論において、バークリーはその唯心論において、彼らの先駆者が得意とした省略推理法の意義をまるで誤解している。デカルトは、誤謬を犯したときでさえ、まばゆいばかりだった。彼の推理法は、科学的な不正確さにもかかわらず、分析学者の信条に新しい意義を与えた。精神は、結局のところ、効果的に作用するためには、自然科学の数学的正確さと、天文学のような純粋思索を結びつけなければならない。たとえば、デカルトの渦動説は……」
「静かにしてくれないか」とマーカムは不平を鳴らした。「ぼくはきみに大切な情報を洩らしてくれなんて、いったおぼえはない。だから、なにも十七世紀哲学論なんかまくしたてて、ぼくを悩ますことはないだろう」
「とにかく」とヴァンスは快活にいった。「あのやっかいな煙草の吸殻の一件が片づいて、ミス・セント・クレアの容疑も片づいたことは認めるね?」
マーカムはすぐには返事しなかった。この一時間の成行きが彼に決定的な感銘を与えたことは疑いの余地がない。絶えず反対ばかりしていたが、彼はヴァンスを過小評価してはいなかった。軽口ばかり叩いているものの、ヴァンスが芯は真面目であることを心得ていた。その上、マーカムはすばらしい正義感の持ち主で、ときには頑固だったが、決して偏狭ではなかった。わたしの知るかぎり、彼はどれほど自分の不利益になろうとも、真理の可能性に心を閉ざしたことは一度もない。だから、マーカムがついに心から微笑して視線を挙げたとき、わたしは少しも意外に感じなかったのだ。
「きみの勝ちだ」とマーカムはいった。「謙虚にそれを認めよう。大いに感謝している」
ヴァンスは無関心に窓際に歩み寄り、外を眺めた。「人間の心の持ち主なら否定できるはずがないこういう証拠を、きみが受け入れられると知ってうれしいね」
この二人の間では、どちらかが寛大らしいことをいうと、きまって相手は極度に感情を殺したようないい方で応じるのに、わたしはいつも気がついていた。まるで、互いの尊敬のもっと親密な面は、世間の目から隠しておきたいと望んでいるかのようだった。
だから、マーカムはヴァンスの辛辣な皮肉は気にもかけなかった。「ベンスン殺しの犯人について、否定的な提案以外になにか啓発するような提案はないのかね?」
「あるね。無限にある」
「いいのをひとつ分けてくれないか?」とマーカムは相手の冗談口調を真似ていった。
ヴァンスは考えているふうだった。「そうだな、まず最初に、背が高くて、冷静で、火器にくわしくて、射撃が上手で、被害者とかなり知りあいで、ベンスンがセント・クレアと夕食に出かけようとしていたことを知っていたか、そうじゃないかと疑うだけの理由を持っていた人間を探すことをすすめるね」
マーカムはしばらくじっとヴァンスを見た。「なるほど。わかったような気がする。悪くない考えだ。さっそくヒースに、事件当夜のリーコック大尉の行動をもっと徹底的に調べさせることにしよう」
「そうかならずね」とヴァンスは無雑作にいい、ピアノのところに行ってしまった。マーカムは狐につままれたような顔つきで、相手を見守っていた。彼がなにか話しかけようとしたとき、ヴァンスはフランスの陽気なカフェの流行歌を弾きだした。たしかその出だしは、Ils sont les vignes les moineaux(ブドウ畑に雀がいる)だったと思う。
十一 動機と脅迫
六月十六日日曜日午後
翌日の日曜日、わたしたちはスタヴィサント・クラブで、マーカムと昼食をともにした。ヴァンスが前の晩、この会合を提案したのである。ヴァンスがわたしに説明したところでは、リアンダー・ファイフィーがロング・アイランドからニューヨークに出てきたら、その場に立ち会いたいからというのだった。
「実に面白い」とヴァンスはいった。「人間ときたひには、ごくなんでもないことをわざわざ複雑にしてしまうのだ。単純で直接的なものには烈しい嫌悪を抱いている。現代の商業制度を見てみても、すべてものごとをなるべく面倒に、まわりくどいやり方でやるための巨大な機構にほかならない。当節では、デパートで十セントの買物をすると、その取引の完全な記録が三通作られ、沢山の売場主任やら店員やらのチェックを受け、署名され副署されて、いろいろな色のインキでおびただしい帳簿に記入され、それから念入りにスチール製の書類戸棚にしまい込まれるのだ。その上、実業家諸氏は、こういった無駄な chinoaserie(手続き)では満足できなくて、この制度をさらに複雑にし、混乱させる任務をおびた大勢の、金のかかる能率専門家とやらを作りあげた。現代生活のほかのあらゆる面でも同じだ。ゴルフという名のどしがたい熱病を見るがいい。あれは棒切れで球を孔のなかに叩きこむだけだ。ところが、この暇つぶしの熱中者たちは、ゴルフ用の風変わりな服装まで開発した。彼らは、足の正しい角度とか、棒に指をちゃんとからませる方法だとかを考えるのに二十年もかけている。そればかりか、このばかげたスポーツのインチキな複雑さを論じるために、英語学者にさえ意味のわからない珍妙な言葉を発明した」
ヴァンスはむかむかしたように、日曜新聞の山を指さした。「そして、ここにベンスン殺しがある。単純な、とるに足りない事件さ。ところが、法律の全機構は最大限の圧力をふるって、ニューヨーク全体に蒸気を噴射している始末だ。ちょっと頭を働かせれば、わずか五分であっさり片づく事件だというのにね」
しかし、ヴァンスは食事中は事件にふれなかった。そして、作戦上のとりきめでもあったように、その話題は避けられていた。わたしたちが食堂に入るとき、マーカムがなにげないふうで、もうじきヒースが来る予定だといっただけだった。食後わたしたちが一服しにラウンジに行ったとき、ヒースはわたしたちを待ち受けていた。その表情から、捜査の進行が満足すべきものでないことが明らかだった。
「マーカムさん」とヒースはわたしたちの椅子を整え終えていった。「前にも申しあげたように、こいつは難事件になりそうですよ。セント・クレアという女から、なにか手がかりはつかめましたか?」
マーカムは頭を振った。「あの女は白だ」そして、前日の午後ベンスン邸で起こったことを手短かに話した。
「そうですか」とヒースは幾分疑わしそうにいった。「検事さえご満足なら、わたしはべつにいうことはありません。しかし、リーコック大尉のほうはどうでしょう?」
「そのことを相談しに、きみにここに来てもらったんだ」とマーカムはいった。「リーコックにたいする直接的な証拠はないんだが、事件と奴を結びつける疑わしい点が幾つかある。身長も注文通りだし、奴が持っていそうなピストルでベンスンが射たれたという事実を見落としてははならない。奴はセント・クレアと婚約しているし、ベンスンがあの女におぼしめしがあったという点に、動機が見つかるかもしれない」
「それに今度の大戦以来」とヒースは補足した。「軍人さんは人を討つのはなんともありませんからな。あちらで血を見るのは慣れていますね」
「ひとつ弱ったことがある」とマーカムはつづけた。「リーコックを調べ上げたフェルプスの報告だと、奴はあの晩八時以降家にいたそうだ。むろん、どこかに抜け穴があるかもしれないし、君の部下に徹底的に洗わせて、どんな様子か探ったらどうかといおうと思っていたところだった。フェルプスの話だとアパートのボーイからネタをとったそうだがもう一度ボーイをつかまえてちょっと締めつけたらどうだろう。あの晩十二時半にリーコックが家にいなかったことがわかれば、きみの探している手がかりが得られるかもしれん」
「わたしがやりましょう」とヒースはいった。「今夜そっちに行ってみます。ボーイがなにか知っていたら、口を割らせるのに時間はかかりませんよ」
わたしたちがもうしばらく話していると、制服のボーイがマーカムに近づいて、うやうやしく頭をさげ、ファイフィーさまがお見えですと告げた。
マーカムは客をラウンジに通すようにいい、それからヒースに向かっていった。「きみもいて、あの男がなんというか聞いたほうがいい」
リアンダー・ファイフィーは一分の隙もないダンディで、気どった自画自賛的な足取りで近づいてきた。とても長くてほっそりした脚は、幾分膝が内側に彎曲し、短いふくれた胴体を支えている。胸は、胸高鳩よろしく、ぐっと外にそりかえり、顔はまんまるで、顎はきつすぎるカラーの上に、二つの輸になって垂れている。ブロンドのまばらな髪はぴったり後ろに撫でつけられ、細い絹糸のような口髭は、針の先のように蝋でピンと尖らせてある。ライト・グレーのフランネルの夏服に、淡いトルコ石色の絹のシャツを着こみ、派手な薄地のネクタイに、グレーのスウェードのオックスフォード靴をはいている。きちんと胸ポケットに入れた麻のハンカチからは、強い東洋ふうの香水の匂いがただよっていた。
ファイフィーはねばっこく、いんぎんにマーカムに挨拶し、わたしたちに紹介されると、ゆったりと頭をさげた。ボーイが出した椅子に腰を落ち着けると、彼はリボンにつるした金縁眼鏡を拭きはじめ、マーカムを憂うつそうにじっと見た。「かえすがえすも不幸なことでした」と溜息をついた。
「ベンスンさんとのご友情を思うと」とマーカムはいった。「こうしてお願いするのは忍びがたい思いです。ともあれ、今日はわざわざニューヨークまでお出でいただいて、大変ありがとうございました」
ファイフィーは念入りにマニキュアを施した手をあげて、どういたしましてというような仕草をした。「わたしは」とファイフィーはなんともいいようのない自己満足的な様子で説明した。「社会の公僕の方々のお役に立てるなら、これにすぐるよろこびはありません。わが身の不便は忍ぶつもりです。たしかに、こんな形でお役に立てるのは悲しいことですが」彼の態度は、|noblesse oblige《ノブレス・オブリージュ》(身分の高いものには、特権とともに義務がある)という格言に含まれた義務を心得え、それを履行する用意があることをはっきりと示していた。彼はマーカムをさもうれしそうにじっと眺め、「なんなりとお役に立ちましょう」というふうに眉を動かしたが、唇は動かさなかった。
「アンソニー・ベンスン少佐にうかがったところでは」とマーカムはいった。「あなたはあの方の弟さんと大変ご懇意の間柄だったそうですね。ですから、故人の個人的な事柄とか私的な交際関係について、なにか捜査の参考になりそうなことを教えていただけるかと思いまして」
ファイフィーは悲しげに床を見つめた。「ええ、そうです。アルヴィンとわたしは大変懇意にしていました。実際、いちばんの親友でした。その親友の悲劇的な最期を耳にして、どんなにわたしが、がっかりしたかご想像もつかないでしょう」その言い方は、アエネースとアカテス〔ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネイド』の登場人物で、二人の友情は友情の模範とされている〕の現代版といった印象を与えた。「すぐニューヨークに飛んできて、わたしを必要とする方々のお役に立てなかったのが本当に残念です」
「そうしていただけたら、ベンスンさんのほかのお友だちもよろこんだでしょう」とヴァンスはひややかだが、丁寧にいった。「しかし、そういう事情ならやむをえますまい」
ファイフィーは残念そうに眼をしばたいた。「しかし、どうも気がとがめてなりません。べつに非難されるおぼえはないのですが。悲劇のちょうど前日、わたしはキャッツキルズ〔ニューヨーク州東部にある低い山脈〕ヘ旅行に出かけたのです。アルヴィンも誘ったのですが、忙しいとかで……」ファイフィーは人生のはかり知れぬ皮肉を嘆くように頭を振った。「行けたらどんなによかったでしょう。何万倍もよかったでしょう。もし、あれがただの……」
「ごく短い旅行だったんでしょう」とマーカムは、運命の皮肉について愚痴がはじまりそうなので、あわててさえぎった。
「そうです」とファイフィーは寛大にうなずいた。「ところが大変な事故に会いましてね」とちょっと眼鏡を拭いた。「自動車がこわれて、やむをえず引き返したのです」
「どの路を行かれましたか?」とヒースがたずねた。
ファイフィーは眼鏡を念入りに直し、うんざりしたように部長を眺めた。「ご忠告しておきますが、ええと、あの、スニードさん」
「ヒースです」と部長は不機嫌に訂正した。
「ああ、そうでした。ヒースさんでした。ご忠告しておきますが、ヒースさん、もしキャッツキルズヘ自動車旅行をする計画がおありなら、アメリカ自動車クラブから道路地図をもらわれることですね。わたしの選んだルートは、たぶんあなたには向かないでしょう」そして、同等の身分の者とだけ話したいといわんばかりに、地方検事のほうに振り向いた。
「ファイフィーさん」とマーカムはたずねた。「ベンスンさんには敵がありましたか?」
相手はじっと考えこむふうだった。「いいえ、恨まれて、実際殺されるほどの敵は」
「すると、敵があることはあったということですな。もう少し話してくれませんか」
ファイフィーは金色の口髭の先を上品に撫で、人差指で頬にふれながら、どう答えてよいのやら心のなかで決めかねるふうだった。
「今のご要求に従えば、マーカムさん」とファイフィーはすこぶるいいにくそうにいいだした。
「わたしは話すのがためらわれることを申しあげなくてはなりません。しかし、お互いに紳士として、なにもかも申しあげるのが一番でしょう。アルヴィンは、多くの立派な男性の例に洩れず、そのう、なんと申しましょうか、女性にたいして、ひとつの弱点を持っていました」ファイフィーはこのようにはしたない真実を、きわめて微妙に話しているその語り口を認めてもらいたげにマーカムを見た。
「ご存知のように」とファイフィーは、相手が同情するようにうなずくのにこたえて、話しつづけた。「アルヴィンは女にとって魅力のある男ではありませんでした」(ファイフィーは、この点では自分はベンスンと根本的にちがうと思っているらしかった)「アルヴィンは自分の肉体的欠点をよく知っていて、その結果──こんな悲しむべき事実をお話しするのは、わたしもためらっていることはおわかりいただけると思いますが──女性との交際に、あなたやわたしなら決して使わないような、ある方法を使いました。実際申しあげるのも苦痛ですが、アルヴィンはしばしば女性をあざむいたのです。いわば、卑劣な方法を用いたのです」ファイフィーはそこで息をついだ。友の忌むべき欠点と、友を裏切って真実を暴露しなければならないことにショックを受けたらしかった。
「あなたが考えておられるのは、ベンスン氏が不当に扱ったひとりのことですか?」とマーカムがきいた。
「いいえ、その女性ではなくて、その女性に関心を持っている男性のことです。じじつ、その男はアルヴィンを殺してやるとおどしました。わたしがそのことをお話しするのをためらう気持はおわかりいただけると思いますが、それというのも、そのおどかしが公然となされたからなのです。それを聞いたのは、わたし以外にも数人いました」
「それなら、むろん、あなたはベンスン氏の信頼を裏切ったことにはなりませんよ」
ファイフィーは軽く頭をさげ、わかってくださってありがとうという意をあらわした。
「それはある小さなパーティでの出来事で、折あしく、わたしがその主人役だったという次第です」
「その男はだれですか?」とマーカムは丁重だが断固としていった。
「わたしから申しあげにくいのはおわかりいただけると思いますが……」とファイフィーはいいはじめた。それから、当然率直にいうべきだというふうに、身体を前にのりだして、「その男性の名をいわないのは、アルヴィンにたいして不誠実かもしれませんねえ……はっきり申しあげると、フィリップ・リーコック大尉です」ファイフィーはそこで思い入れたっぷりに、ほうっと溜息をつき、「相手の女性の名はおたずねにならないと思いますが」
「ええ、その必要もないでしょう」とマーカムは保証した。「しかし、そのときの様子を、もうちょっとお話し願えれば幸いですが」
ファイフィーは、辛抱強く諦めたように同意した。「アルヴィンは問題の女性に首ったけで、なにかと好意を示しましたが、どうも歓迎されなかったようです。リーコック大尉はそれに腹を立て、わたしの催した小さなパーティで、二人の間に不愉快な、おだやかならぬ言葉のやりとりがあったのです。たぶんお酒のせいもあったのでしょう。というのは、アルヴィンはいつもきちょうめんな男で、社交上の礼儀作法は充分わきまえていたからです。それで、大尉がかっとして、今後ちょっとでも女に手を出したら、命はないぞといったのです。それどころか、大尉はポケットからピストルを半分引き抜いたくらいです」
「それは回転式ですか、それとも自動ピストルですか?」とヒースがたずねた。
ファイフィーは部長には一瞥もくれないで、当惑したようにかすかにマーカムに微笑した。「いいえ、まちがいでした。回転式でなくて、陸軍用自動ピストルだったと思います。はっきり見たわけじゃありませんが」
「ほかにもその喧嘩を目撃した人がいたのですね?」
「ええ、何人か客がまわりに立っていました。しかし、ほんとに名前を思い出せません。実は、大尉のおどし文句などまるで気にしなかったからです。実際、アルヴィンが殺されたことを新聞で知るまで、とんと忘れていました。それから、そのことを思い出し、地方検事さんにお話ししなくてはと思ったのです」
「息づく思いに燃える言葉」と、この会見の間、退屈そうに黙って坐っていたヴァンスがつぶやいた。
ファイフィーは眼鏡をかけ直し、鋭くヴァンスのほうを見た。「今、なんておっしゃいました?」
ヴァンスは無邪気に微笑した。「グレー〔イギリスの詩人〕をちょっと引用しただけですよ。ある気分のとき、詩に心を惹かれるんですよ。ところで、もしやオストランダー大佐をご存知ではありませんか?」
ファイフィーは相手をひややかに眺めたが、ヴァンスはぽかんとした顔つきだった。「大佐ならよく存じています」とファイフィーは横柄に答えた。
「あなたのその楽しいパーティに大佐は出席していましたか?」とヴァンスはごく自然な、無邪気な口調でたずねた。
「そういわれてみると、いたように思います」とファイフィーはいって、不審そうに眉根をあげた。マーカムは話を中断されたのでいらいらして、もっとうちとけた実際的な面に話をもどそうとした。しかし、ファイフィーはおしゃべりではあるけれど、それ以上の情報はほとんど提供できなかった。彼は絶えず話をリーコック大尉のほうに引きもどそうとし、口ではそうでないといいながら、脅迫の件を自分で認める以上に重視していることは明らかだった。マーカムはたっぷり一時間、あれこれと質問を試みたが、ほかにはなにも参考になることは聞けなかった。
ファイフィーが帰ろうとして立ちあがると、ヴァンスは表を眺めるのをやめて振り返り、愛想よく会釈して、人がよさそうにじっと相手を見た。「ファイフィーさん、せっかくニューヨークにお出でくださったのだし、もっと早く来られなくて残念だとおっしゃっているのですから、捜査が終わるまでこちらにいらっしゃるんでしょうね」
ファイフィーのわざとらしい落ち着きは、急に驚いた表情に変わってしまった。「いや、それは考えていませんでした」
「そうしてくださると、ありがたいのですが」とマーカムも口を添えた。しかし、ヴァンスがいいだすまで、そんなつもりは全然なかったことはたしかである。
ファイフィーはためらっていたが、やがて優雅に諦めたような身振りをした。「では、そういたしましょう。なにかご用でしたら、アンソニア・ホテルまでどうぞ」
ファイフィーは得意げに親切そうにいい、別れぎわに寛大にほほえんでみせた。しかし、その微笑は心の底からのものではなく、見えざる彫刻家の手で顔に貼りつけられたようで、口辺の筋肉が動いただけだった。
ファイフィーが行ってしまうと、ヴァンスは笑いをおし殺した眼でマーカムを見た。「『優雅、器用そして黄金の韻律よ……』〔シェイクスピア『恋の骨折損』第四幕二場の台詞〕しかし、詩は信用しないほうがいいマーカム。わがキケロ君〔ローマの政治家・雄弁家〕は模範的な嘘つきだよ」
「あの男がまったくの嘘つきだとおっしゃるつもりなら、賛成できませんな。リーコック大尉の脅迫の件はほんとうだと思いますが」とヒースがいった。
「あ、あのことね。あれは、むろんほんとうでしょう。しかし、マーカム、あの騎士君は、きみがセント・クレアの名をいえと主張しないもんだから、おそろしく失望していたね。残念ながら、あれは女性のためにヘレスポントを泳ぎ渡ったリアンダー〔リアンダーは、恋人の尼僧ヒーローに会いに、毎夜ヘレスポントを泳いで渡ったが、ある嵐の夜おぼれて死に、ヒーローもあとを追って投身自殺した。古代ギリシアのロマンチックな物語である〕にはなれないな」
「泳ぎ渡るかどうかは知りませんが」とヒースは苛々していった。「あの男はわれわれにちょっとした手がかりを与えてくれましたよ」
マーカムは、ファイフィーの陳述がリーコックにたいする容疑を更に裏づけしたという点で同意した。「明日大尉を事務所へ呼んで、訊問してみよう」
そのすぐ後、ベンスン少佐がラウンジに入ってきたので、マーカムは彼に席に加わるようさそった。
「今、ファイフィーがタクシーに乗るところを見ましたが」と少佐は腰をおろすといった。「アルヴィンの件で、あの男を訊問してたんでしょう? なにか役に立ちましたか?」
「みんなのために、そうあってほしいものです」とマーカムはおだやかに答えた。「ところで、少佐、リーコック大尉について、なにか知りませんか?」
ベンスン少佐は驚いてマーカムを見上げた。「知らなかったんですか。リーコックは、わたしの連隊付大尉のひとりでね、一流の人物ですよ。アルヴィンをよく知っているが、わたしの印象では、ふたりはあまりうまくいっていなかった。まさか、リーコックが今度の事件に関係があると思っているんではないでしょうな?」
マーカムはこの質問を無視した。「あなたは、大尉が弟さんをおどかした晩、ファイフィーのパーティに行きましたか?」
「ファイフィーのパーティには、一、二度行った覚えがありますが」と少佐はいった。「どうも、わたしはああいう集まりは好かないんでね。しかし、アルヴィンがこれも商売の役に立つと説得するもんで」と顔を挙げ、消えかかった記憶をさぐるように、眉をしかめ、じっと空間を見つめていた。「いや、やはり思い出せません。そうだ、やはり行きました。でも、わたしの考えていることがあなたの考えていることと同じなら、それは無視なさって結構です。あの晩はみんな少々入っていましたからな」
「リーコック大尉はピストルを抜きましたか?」とヒースがたずねた。
少佐は唇をすぼめた。「そういわれれば、そんなことをしたようですね」
「ピストルを見ましたか?」とヒースは追求した。
「いや、見たとはいえませんな」
マーカムは次の質問をした。「リーコックに殺人ができると思いますか?」
「あ、むりでしょう」と少佐は力をこめていった。「リーコックは冷血な男ではない。ごたごたの元になった女のほうが、人殺しができるでしょう」
ヴァンスが口を切るまで短い沈黙がつづいた。「あのハイカラ男について、どんなことをご存知ですか、少佐? 変わった人物のようですね。あの男はなにか特別な経歴がありますか、それとも、見かけ通りの人間ですか?」
「リアンダー・ファイフィーは、現代の有閑青年の典型ですよ。青年といったって、もう四十近いですがね。甘やかされて育って、欲しいものはなんでも手に入ったと思います。とにかく、腰の据わらない男で、いろいろな道楽に手を出し、結局倦きてしまうんです。二年ほど南アフリカで猛獣狩りをして、そのことを本にしたこともあるはずです。それ以来、わたしの知るかぎり、なにもしていないでしょう。数年前、金持のじゃじゃ馬女と結婚しました。たぶん、金目当でしょうな。しかし、女の父親が財布の紐を握っていて、手当はきびしくおさえられているそうです。ファイフィーは怠け者の浪費家ですが、アルヴィンはあの男になにか魅力を感じているようでしたね」
少佐の言葉はまるで無関係なことを話しているように、無雑作でざっくばらんだった。しかし、わたしたちはみな、少佐がファイフィーにたいして強い個人的嫌悪を抱いているという印象を受けた。
「どうも魅力的な人物ではありませんね」とヴァンスがいった。「第一、気取りすぎる」
「しかし」とヒースは当惑したように眉をしかめた。「猛獣狩りをするには、よほど図太い神経が必要だ。それに、神経といえば、少佐、弟さんを射った犯人は、非常に冷静な性格の持ち主のはずですよ。相手が大きく眼を開けていて、召使が二階にいるのに、真正面から射ったんですからね。図太い神経がいりますよ」
「ほんとうにすばらしい、部長」とヴァンスが叫んだ。
十二 四十五口径コルトの所有者
六月十七日月曜日午前
翌日の朝、九時少しすぎにヴァンスとわたしが地方検事の事務所に到着してみると、リーコック大尉はもう二十分も待っていた。マーカムはスワッカーに命じて、すぐに大尉を呼び入れさせた。
フィリップ・リーコック大尉は典型的な陸軍将校で、たっぷり六フィート二インチはあるだろうか、非常な長身で、きれいに顔を剃り、背筋がまっすぐで、すらりとした身体つきだった。顔はいかめしく、無感動で、上官からの命令を待つ兵士のように、まっすぐな、熱心な態度でマーカムの前に立った。
「お掛けください、大尉」とマーカムは型通り会釈していった。「今日おいで願ったのは、たぶんもうお察しの通り、アルヴィン・ベンスン氏の件について、二、三おたずねするためです。あの方とあなたの関係について、説明していただきたいことが幾つかあるのです」
「わたしが事件に関係があると疑っておられるのですか?」リーコック大尉の話し方には、軽い南部訛りが感じられた。
「それはまだわかりません」マーカムはひややかにいった。「おたずねしたいのは、その点をはっきりさせるためです」
大尉は椅子のなかで身を固くして待っていた。
マーカムはまっすぐ大尉に眼を据えた。「あなたは最近アルヴイン・ベンスンさんを殺してやると脅迫したことがありますね」
大尉はぎくりとして、膝の上で指を握りしめた。だが答えようとする前に、マーカムは話しつづけた。「脅迫した日時も申しあげましょう。リアンダー・ファイフィー氏のパーティの席上です」
リーコックはためらっていたが、やがて顎を前に突き出して、「その通り。脅迫したことは認めます。ベンスンは卑劣な人間で、殺されて当然です。あの晩のベンスンは、いつもより何十倍も憎らしく、それに、アルコールが入りすぎていました。わたしもそうだったと思いますが」とゆがんだ微笑を浮かべ、地方検事の肩越しに、窓の外を落ち着かなげに眺めた。「しかし、射ったのは、わたしではありません。翌日新聞で読むまで、射たれたことを知らなかったくらいです」
「兇器は陸軍用コルトで、あなた方が戦時中携帯していたのと同じです」とマーカムはリーコックを見据えたままいった。
「知っています。新聞で読みました」
「あなたも同じピストルをお持ちでしょう、大尉?」
大尉はまたためらった。「いいえ」ほとんど聞きとれぬほどの声だった。
「では、どうしました?」
大尉はマーカムをちらっと見て、すばやく眼をそらせた。「ええと、なくしてしまいました……フランスで」
マーカムはかすかに微笑した。「すると、あなたがベンスンさんを脅迫した晩、ファイフィーさんがそのピストルを見たというのはどういうことですか?」
「ピストルを見たですって?」大尉はぽかんとしてマーカムを見た。
「そうです。そして、陸軍用ピストルだと証言しました」とマーカムは同じ口調で追求しつづけた。「ベンスン少佐も、あなたがピストルを引き出そうとするような仕草をしたのを目撃しています」
リーコックはほうっと息をつき、頑固に口をとがらせた。「何度でもいいますが、ピストルは持っていません。フランスでなくしました」
「たぶん、なくしたんじゃなくて、だれかに貸したんでしょう、大尉」
「いや、ちがいます」烈しい口調だった。
「少し考えてください、大尉。だれかに貸したのではありませんか?」
「いいえ、貸しません」
「昨日、あなたはリヴァーサイド・ドライブを訪問しましたね。そこへ持っていったのではありませんか?」
ヴァンスは熱心にこのやりとりを聴いていた。「うん、なかなか頭がいい」と彼はわたしの耳にささやいた。
リーコック大尉は落ち着かぬふうに身体を動かした。すっかり日焼けしているのに、顔が蒼ざめて見え、テーブルの上のなにかに注意を集中して、マーカムのまじろぎもせぬ視線を避けようとつとめている。話し声も今までの荒っぽさが、不安そうになっている。「ピストルなど持っていないし、だれにも貸したことはありません」
マーカムは机の上に身をのりだし、片手で頸を支えて、いかにも威嚇的だった。「あの朝より前に、だれかに貸したのかもしれませんな」
「あの朝より前、というと?」リーコック大尉はすばやく視線を挙げ、相手の言葉を分析するようにひと休みした。
マーカムは大尉の混乱につけ入った。「フランスから帰ってから、だれかにピストルを貸したんでしょう?」
「いや、絶対に貸しません」と大尉はいいかけて、急に口を閉じ、顔を赤くした。それから、急いでつけたした。「どうして貸せるんですか。さっきもいったように……」
「その話はそれでいい」とマーカムはさえぎった。「すると、ピストルは持っていたんですね、大尉? 今も持っていますか?」
リーコックはなにかいおうとして口を開いたが、また固く閉じてしまった。
マーカムは緊張をゆるめ、椅子にまたもたれた。「むろん、気づいておられたでしょう、ベンスンさんがセント・クレアさんにいい寄っていやがられていたことは?」
セント・クレアの名を聞くと、大尉は身体をこわばらせ、顔は赤黒くなった。そして、マーカムを脅すように睨みつけた。ゆっくりと深い息をつき終ると、大尉は歯をくいしばっていった。「セント・クレアさんの話はやめにしましょう」大尉は今にもマーカムに跳びかからんばりだった。
「残念ながら、そうはいきませんね」マーカムの口調は同情的だったが、断固たるものだった。
「あの人を事件に結びつける材料が多すぎます。たとえば、事件の次の朝ベンスンの居間で見つかったあの人のハンドバッグ……」
「嘘だ、そんなことは!」
マーカムはその言葉を無視した。「セント・クレアさん自身そのことは認めています」そして、相手がなにかいいかけようとするのを、片手で制しながら、「わたしの言葉を誤解されぬように。わたしはセント・クレアさんが事件に関係があるといっているのではない。たんに、この事件とあなたの関係について真実を知ろうとしているだけです」
大尉はマーカムを見守っていたが、その表情は明らかに、マーカムのこの言葉を疑っていることを示していた。最後に口もとをこわばらせ、きっぱりといいきった。「この問題について、これ以上申しあげることはありません」
「むろん、ご存知でしょうな」とマーカムはいった。「セント・クレアさんは、ベンスン氏が射たれた夜、マルセイユでいっしょに夕食をしたことを?」
「それがどうかしましたか?」リーコックはむっとして、いい返した。
「二人はレストランを十二時に出て、セント・クレアさんは一時すぎまで帰宅しなかったこともご存知ですね?」
奇妙な表情が大尉の眼にあらわれた。頸筋がこわばり、深い、なにごとか決意したように息をついた。だが、マーカムを見ることも、口をきくこともしなかった。「むろん、ご存知ですね、ベンスンは十二時半に射たれたということを?」マーカムは返事を待ち受けた。たっぷり一分間、沈黙が室内を支配した。「大尉、もういうことはありませんか? これ以上なにかわたしに説明したいことは?」
リーコックは返事しなかった。泰然と前を見つめたまま坐っていた。当分だんまりを決めこんだのは明らかだった。
マーカムは立ちあがった。「では、これで」
リーコックが出ていくと、すぐマーカムはベルを鳴らして、書記を呼びつけた。「ベンに、今の男をつけるようにいってくれ。どこに行って、なにをするか見てくるのだ。今夜スタヴィサント・クラブで報告を聞こう」
わたしたちだけになると、ヴァンスは半ばひやかし気味に、感心したようにマーカムを見た。
「うまいもんだ、巧妙とはいわないが。しかし、あの女性についての質問は、ひどいできだったね」
「そうだろう」とマーカムは認めた。「だが、今度は軌道にのったようだ。リーコックは疑う余地のないほど潔白だという印象は受けなかった」
「そうかね。すると、どういう点がくさいのかね?」
「だって、ピストルのことをきかれたとき、まっ蒼になったろう。神経が張りつめていた。本当に震えあがったんだ」
ヴァンスはほっと溜息をついた。
「きみはなんていう出来合いの観念の持ち主なんだろう! 無実の人間は疑いをかけられると、罪を犯した人間よりずっと神経質になることを知らないのか。罪のある人間は、まず罪を犯すだけの神経の持ち主だし、第二には、そわそわすれば、きみたち法律屋から怪しいと思われることをわきまえている。『わたしの力は十人力、わたしの心は清らかだ』〔十九世紀イギリスの詩人テニスンの詩の文句〕というのは、日曜学校のへぼジョークにすぎない。だれか潔白な人間の肩をたたいて、『おまえを逮捕する』といって見たまえ。たちまち瞳孔が拡大して、冷汗を流しはじめ、顔面蒼白になって、がたがたし、呼吸困難を起こすにちがいない。もしヒステリーか神経性心臓病なら、たぶん完全に参ってしまうだろう。そんなふうに呼びとめられて、うんざりしたように驚いて眉根をあげ、『まったく冗談じゃない。さあ、葉巻でもやりたまえ』なんていえるのは、罪のある人間だ」
「たしかにベテランの犯罪者なら、きみのいったようにするだろう」とマーカムは譲歩した。「しかし、潔白で正直な人間なら、嫌疑をかけられたって、そんなにあわてたりしないだろう」
ヴァンスはしようがない奴だというふうに頭を振った。「マーカム、きみたちにとってはクライルもヴォロノフ〔クライルはアメリカの外科医。ヴァロノフロシアの外科医で、ホルモン研究の権威〕もいなかったも同然だね。恐怖という現象は、内分泌の結果で、それ以上のなにものでもない。それが証明するところは、その人間の甲状線の発達が悪いか、副腎が正常でないかということだ。嫌疑をかけられたり、犯罪に使われた血だらけの兇器を見せられて、静かに笑ったり、悲鳴をあげたり、ヒステリーを起こしたり、気絶したり、無関心だったりするのは、その人間のホルモンの分泌量によるので、無実かどうかには関係ない。きみの考えは、もしどの人間の内分泌量も同じなら、正しいかもしれない。しかし、そんなことはありえないからね。実際、きみ、たんに内分泌が少ないからという理由で、ひとりの人間を電気椅子に送るべきではあるまい。それでは不公平だ」
マーカムがなにかいいかけるまえに、スワッカーが戸口にあらわれ、ヒースが来たことを告げた。ヒース部長刑事は満足げに顔を輝かせ、ほとんど駆けこまんばかりに室内に入ってきた。彼はマーカムに握手することさえ忘れていた。
「うまくいきそうな手がかりがつかめました。昨夜リーコックのアパートヘ行ってみました。手短かに申しあげますが、たしかに十三日の夜はずうっと家にいた。ところが、やっこさん、十二時すぎに外出して、西へ行き、一時十五分前くらいまで帰宅しなかったんです。どうですか、これは?」
「ボーイのはじめの話はどうしたのかね?」
「そこですよ、問題は。リーコックはボーイを買収して、あの晩ずっと家にいたといわせたんです。どう思いますか、マーカムさん? ずいぶんお粗末でしょう ?ボーイは刑務所にぶちこんでやるとおどしつけると、口を割りました」ここでヒースは不愉快そうに笑った。「だから、自分が警察にきかれて、口を割ったということは、リーコックにはしゃべらんでしょう」
マーカムはゆっくりうなずいた。「部長、きみの話は、今朝わたしがリーコックと話して得た結論と幾つかの点で一致する。リーコックが帰ったとき、ベンにいって部下をひとりつけさせておいたから、今夜報告があるだろう。明朝この問題を検討してみよう。午前中にきみと連絡をとる。なにか手をうつ場合には、当然きみにやってもらわなくちゃならんのだから」
ヒースが退出すると、マーカムは両手を頭の後ろに組み、満足げに椅子の背にもたれた。「これで答が出た」とマーカムはいった。「あの女はベンスンと食事して、そのあと彼の家へ戻ったのだ。大尉はどうもおかしいとベンスンの家へ行ってみると、女がいた。そこでベンスンを射った。手袋とハンドバッグがあったわけは、それで説明がつく。そればかりか、マルセイユから女の家までかかった時間、土曜日のここでの女の態度、大尉がピストルのことで嘘をついたこと、それもみんな説明がつく。さあ、これで起訴できるぞ。大尉のアリバイがくずれて、事件が固まった」
「まったくだ」ヴァンスは快活にいった。「希望は勝利の翼に乗って、跳びはねる、か」
マーカムは彼をしばらく眺めていた。「きみはある結論に達する手段として、理性をまったく否定するのかね? 本人も認めた脅迫、動機、時、場所、機会、行動、犯人──すべて条件はそろっている」
「妙になじみのある言葉だね」とヴァンスは微笑した。「それにしても、その条件の大部分はセント・クレアにも当てはまるじゃないか。第一、きみはまだ犯人をつかまえたわけじゃなし。市のどこかをうろついていることはたしかだが……それはとるにたりぬことだと、きみはいうかもしれないがね」
「たしかに、まだ犯人をつかまえてはいないが」とマーカムは反駁した。「選り抜きの部下をいつも見張らせてある。リーコックがピストルを始末するチャンスなんて、ろくにあるまい」
ヴァンスは関心がなさそうに肩をすくめた。「とにかく、のんびりとやるんだね。拙論をいわせてもらえれば、きみはたんに陰謀をあばいただけだ」
「陰謀? これはまた。どんな種類の?」
「情況の陰謀さ」
「とにかく、国際政治と無関係だとわかってうれしいよ」マーカムは上機嫌にいい返した。それから、掛時計をちらっと見て、「失礼して、仕事にかからせてもらうよ。あれこれ仕事を片づけて、委員会にも二つ出なくてはいけない。どうかね、きみは廊下を渡って、向こうでベン・ハンロンと話をして、十二時半にここに戻ってきては。いっしょに銀行家クラブで昼食をたべよう。ベンは外国の逃亡犯捜査の第一人者で、人生の大半を法の眼を逃れた連中を追いかけて世界中を歩きまわったんだ。きっと面白い話を聞かせてくれるだろう」
「それはすばらしい」とヴァンスはあくびをしながらいった。そして勧めに従うかわりに、窓際に歩みより煙草に火をつけた。しばらく彼は煙草を指の間でころがしたり、じっと眺めたりしながら、ふかしていた。「マーカム、最近はなにもかも悪くなっていくね」とやがていった。「愚かしい民主主義のせいだ。貴族まで堕落しつつある。この |Regie《レジー》(煙草)にしてもしかり。おそろしく質が落ちている。自尊心のある権力者なら、こんな下等な煙草は吸おうとしない時代もあったのに」
マーカムはにやりとした。「なにが頼みかね?」
「頼み? それとヨーロッパ貴族の頽廃となんの関係がある?」
「ぼくの観察するところでは、きみは礼儀に反するようなことをなにか頼みたいときは、かならずまず王侯貴族の悪口をいいはじめるからね」
「よく観察しているなあ」とヴァンスはそっけなくいった。それから、自分もにやりとして、「オストランダー大佐を昼食に呼んでもかまわないかな?」
マーカムは鋭く友人を見た。「ビグスビー・オストランダーのことかね? この二日ばかり、きみがみんなにたずねまわっていたあの謎の大佐か」
「その男さ。もったいぶったお馬鹿さんだ。でも、少しは啓発されるところがあるかもしれない。いわば、ベンスン一派のおやじ役で、どんなパーティのことでも知っている。まったくのゴシップ屋のじいさんさ」
「じゃあ、呼んだらいいだろう」とマーカムは賛成した。それから、受話器をとりあげた。「ベンにきみが一時間ばかりそちらにいくといっておくよ」
十三 グレイのキャディラック
六月十七日月曜日午後十二時三十分
十二時半に、マーカム、ヴァンス、それにわたしの三人がエクィタブル・ビルにある銀行家クラブのグリルに入っていくと、オストランダー大佐はすでにバーにいて、チャーリーの発明した蛤《はまぐり》スープ・ウースター・ソース・カクテル(禁酒法にふれぬ奴だ)をきこしめしていた。ヴァンスが地方検事の事務所を出るとすぐに電話して、クラブで会わないかと申し入れ、大佐もよろこんで誘いにのったらしかった。
「こちらはニューヨークきっての浮気者でねえ」とヴァンスは大佐をマーカムに紹介していった。わたしは前に会ったことがあった。「逸楽の徒で、快楽主義の信奉者だ。昼まで寝て、昼食前はだれにも会わない。今日こんなに早く連れ出すには、たたき起こして、地方検事さまがお呼びだぞとおどしつけなければならなかった」
「少しでもお役に立てれば幸いです」と大佐は大げさにマーカムに挨拶した。「驚くべき事件ですなあ、まったく。新聞で読んだときはわが眼を疑いました。実は、いや、いってもかまいませんが、この事件について、二、三考えたことがあります。わたしのほうから伺おうかと思ったくらいです」
テーブルにつくと、ヴァンスはなんの前置きもなしに質問しはじめた。「大佐、あなたはベンスンの交際範囲は全部知っていますね。リーコック大尉のことを話してくれませんか。あれはどういう男です?」
「ほう、あの色男に目をつけましたか」オストランダー大佐は、もったいぶって白い口髭をひっぱった。大佐は大きな血色のいい顔で、濃いまつ毛に小さな青い眼をし、その態度、物腰はもったいぶったオペレッタの将軍そっくりだった。「悪い考えではありませんな。あの男ならやったかもしれん。カッとくる性ですからな。ミス・セント・クレアにひどくいかれていましたからね。まったく、いい女だ、ミュリエルは。ベンスンもいかれていましたっけ。わたしだって、もう二十年若かったら……」
「今のままで充分女性にもてますよ、大佐」とヴァンスがさえぎった。「それより、大尉のことを話してください」
「そう、そう、大尉のことだった。あの男はもともとジョージア州の出身です。大戦に従軍して、なにか勲章を持っています。ベンスンが好きじゃなくて、実際嫌っていましたよ。とにかく気が短かくて、単純な男だ。それに嫉妬深い。よくあるタイプで、南部男の典型ですな。女をすぐに神聖視する。そうしちゃいかんとはいわないが。女の名誉を守るためなら、監獄へでも行きかねない。女の保護者ですな。感傷的で、騎士道精神にみちあふれている。問答無用、ずどんと一発、恋敵の頭をぶち抜きかねない男です。あんな奴をからかうのは危険きわまりない。あの女がリーコックと婚約しているのを知りながら手を出すなんて、ベンスンも呆れかえった大馬鹿だ。要するに、火遊びですよ。忠告してやろうかと思ったが、わたしにはなんの関係もなし。人のことに口出しするのは、悪趣味ですからな」
「リーコック大尉は、どのくらいベンスンを知っていたんですか?」とヴァンスはきいた。「つまり、どのくらい親密でしたか?」
「親密どころか」と大佐は大げさに手を振った。「でも、あちらこちらで、ずいぶん顔をあわせてはいましたがね。わたしは二人ともよく知っているので、よく拙宅のささやかな集りに両方とも呼びましたっけ」
「リーコック大尉は賭事は上手じゃなかったでしょう? 抜け目がないとか、そういった点は?」
「賭事が上手? とんでもない」大佐は軽蔑しきったような動作をした。「あんな下手な奴は見たことがない。ポーカーにしたって、女よりもっとまずい。興奮しすぎるんです。感情を隠しておくことができない。とにかく、気が短かすぎるんですよ」
それから、ちょっと間を置いて、「なるほど。あんたの狙いがわかりました。どんぴしゃりですな。ああいう気短かな若造が、気にくわん人間をずどんとやるんですよ」
「大尉は、その点では、あなたの友だちのリアンダー・ファイフィーとはまったくちがいますね」とヴァンスがきいた。
大佐は考えこむふうだった。「そうでもあり、そうでないともいえる。ファイフィーは冷静な賭事師です。それは保証する。あれは一時ロング・アイランドで、秘密の賭場を経営していました。ルーレット、モンティ、バカラなんかです。そのあと、しばらくアフリカで虎や猪狩りをしていました。ところが、ファイフィーには感傷的な面があって、敗けを承知で全部賭けたりする。立派な科学的な賭事師とはいえませんな! ひどく衝動的だといったら、おわかりでしょうか。しかし、人を射ち殺して、五分もすればけろりと忘れられる男であることは認めてもいいでしょう。もっとも、それにはうんと腹を立てさせる必要がある。実際、それほど腹を立てたのかもしれないし、そうでないかもしれないし。なんともいえませんな」
「フアイフィーとベンスンはかなり親しかったんでしょうね?」
「ええ、大いにね。ファイフィーがニューヨークに来ると、いつもいっしょにいるのを見かけましたよ。長い間のつきあいです。昔よくいった、気のあう同志というやつでしょう、ファイフィーが結婚するまえは、あの二人はいっしょに住んでいましたよ。うるさい女でね、ファイフィーの細君というのが。ファイフィーの奴、がんじがらめだ。もっとも、持参金はしこたまあるが」
「といえば」とヴァンスはきいた。「ベンスンとセント・クレアの関係はどうだったんでしょう?」
「わかりませんな」と大佐は短くいった「ミュリエルはベンスンを理解していなかった。それはたしかです。しかし、女というのはふしぎな動物で……」
「まったく。無限にふしぎ動物で」とヴァンスはちょっとうんざりしたように同意した。「しかし、大佐、わたしはあの女とベンスンの個人的関係をせんさくしているのではありません。ベンスンにたいするあの女の精神的態度について、なにかご存知かと思って……」
「ああ、なるほど。要するに、あの女がベンスンにたいして向こう見ずな手段がとれそうかということですな。ごもっとも。いい考えです」大佐はしばらく考え込んでいた。「ミュリエルは強い性格の女だ。非常に芸熱心だ。あの女は歌手で、わたしからいうのも何だが、とても上手です。それに思慮深くて、やり手だ。チャンスをつかむことを怖れない。独立心旺盛だ。あんな女に一度恨まれたら、わたしなら逃げ出したくなる。何事にもためらうことを知らんのですからな」大佐はしたりげに頭を振った。「そういう点、女はふしぎでね。いつもびっくりさせられる。価値感というものがない。しごくおとなしい女が、いきなり平然と男をズドンとやる」
大佐は突然坐りなおした。小さな青い眼が陶器のように光った。「そうだった!」と叫んだ。「ミュリエルは、ベンスンが射たれた晩いっしょに食事をしていましたよ。マルセイユでわたしが見たんです」
「なるほどね」とヴァンスは気乗りしないようにつぶやいた。「しかし、だれでも食事はするでしょう。ところで、あなた自身はベンスンとどのくらいのつきあいでしたか?」
大佐はどきりとしたようだったが、ヴァンスの邪念のない表情に安心したらしかった。
「わたしですか? 十五年のつきあいですよ。そう、少なくとも十五年。あるいは、もっと長いかもしれん。取り締りがきびしくなるまえは、ニューヨーク中のあちこちを案内してやった仲です。当時は活気があって、あけっぴろげで、好き勝手なことができました。ほんとうに、いい時代だった。昔のヘイマーケット〔ロンドンのウエスト・エンドにある繁華街〕もきっとこうだったんでしょう。朝飯まえまでに家に帰るなんて、全然考えもしなかった」
大佐の脱線にまたヴァンスが口をはさんだ。「ベンスン少佐とは、どの程度のつきあいですか?」
「ベンスン少佐? それは別問題だ。あの人とわたしは肌があいませんからねえ。趣味が全然ちがう。そりがあわないんだ。めったに会うこともありません」大佐はなにか説明が必要だと考えたようだった。というのは、ヴァンスがまた口を開くまえに、こうつけ加えたからである。「少佐はいわゆる『われわれの仲間』じゃない。うわついたことを認めない。わたしやアルヴィンを軽薄だと思っていて、仲間に入ってこなかった。まったくの石部金吉《いしべかねきち》ですな」
ヴァンスはしばらく黙って食べていた。それから何気なくきいた。「あなたはベンスン・アンド・ベンスン商会を通じて、かなり投機をしていましたか、大佐?」
はじめて大佐は答えるのにためらうふうだった。大げさにナプキンで口を拭いた。「ええ、道楽にちょっぴりね」と快活にいった。「しかし、まあ、ついているほうじゃなかったな。われわれはみんな、ときどきベンスンの店で運命の女神とふざけていたんです」
食事の間中、ヴァンスはこういった調子の質問を大佐にしつづけた。しかし、一時間たっても、出だしと同様、なにひとつはっきりしたことは聞き出せないようだった。オストランダー大佐は能弁だったが、その能弁たるやあいまいで、まとまりがなかったからだ。彼の話は注釈が多く、まとまりのない個人的意見を返事に盛りこむので、そこに含まれているごくわずかな情報でさえ、引き出すことは不可能に近かった。
しかし、ヴァンスに失望した気配は見えなかった。彼はリーコック大尉の性格についてくわしく問いただし、大尉とベンスンの個人的関係にとくに関心があるようだった。ファイフィーの賭博好きについても関心を示し、ロング・アイランドの彼の賭博場や南アフリカでの狩猟の経験について、大佐にながながと退屈な話をさせていた。そして、ベンスンのほかの交友関係についてもあれこれたずねたが、答にはほとんどうわのそらだった。
この会見は、なにもかもわたしには無意味に思われ、ヴァンスはいったいなにを聞き出そうとしたのか、ふしぎでならなかった。マーカムも、わたし同様、途方に暮れているのはたしかだった。礼儀上、関心があるふうを装い、大佐の信じられぬほどの長広舌の間、いかにも感心したようにうなずくのだが、ときどき眼がどこかにさまよって、ヴァンスを非難するようにちらと見る。しかし、オストランダー大佐が仲間のことをよく知っていることは疑う余地がなかった。
わたしたちが地下鉄の入口で能弁の客と別れ、地方検事の事務所にもどってくると、ヴァンスはいかにも満足げに、安楽椅子に身体を投げ出した。「いやあ、実に面白かった。容疑者を消していくのには、あの大佐は結構役に立つ」
「容疑者を消してゆく?」とマーカムは反駁した。「あの男がかね。あの男が警察の関係者じゃなくて、さいわいだ。もしそうだったら、ベンスン殺しの犯人として、ニューヨーク中の人間の半数を監獄にたたきこんだだろう」
「たしかに、あの男はちょっと血に飢えている」とヴァンスは同意した。「この事件で、だれかを監獄にたたきこむつもりでいる」
「あの老戦士の話だと、ベンスンの仲間はピストルを備えた |camora《カモラ》(暴力団)だったことになる。女の団員までいてね。大佐の話しぶりだと、ベンスンがとうの昔にピストルで孔だらけにならなかったのは、まさに奇蹟的な幸運だったという印象を与えるよ」
「明らかに」とヴァンスはいった。「きみは大佐の雷鳴のなかに、啓蒙的な稲妻があったことを見落としている」
「稲妻なんてあったかな。とにかく、稲妻の光でぼくが失明したとはいえないな」
「すると、きみは大佐の話から、たんの慰めも受けなかったというんだね?」
「別れるときのあの愛想のよい言葉以外はね、ヴァンス。別れても、べつに胸がはり裂けもしなかった。ただ、あのじいさんがリーコックについていったことは、確証的な見解と呼んでいいだろう。それは大尉にたいする告発を立証するものだ。もし、立証することが必要ならばだ」
ヴァンスは皮肉っぽく微笑した。「なるほど。そして、セント・クレアについて大佐がいったことは、あの女にたいする告発──先週の土曜日の一件だが──を立証することになるんだろう。そうして、ファイフィーについて大佐がいったことは、あの |Beau Sabreur《ボー・サブルール》(ハンサムな剣士君)にたいする告発を立証するというわけだろう。もし、きみがあの男を疑っていればの話だが。え、どうかね、マーカム?」
ヴァンスがそういい終ると同時にスワッカーが入ってきて、殺人課のエメリー刑事がヒースの使いでやってきて、できれば地方検事にお会いしたいといっていると告げた。
入ってきたエメリーを見て、すぐさまわたしはベンスン家の暖炉から煙草の吸殻を見つけた刑事だとわかった。
すばやくヴァンスとわたしを一瞥して、エメリーはまっすぐマーカムのところに行った。「地方検事、例のグレイのキャディラックが見つかりました。ヒース部長刑事がすぐお知らせしたほうがいいというので伺った次第です。アムステルダム・アヴェニュー近くの七十四番街の小さなガレージに、三日前から置いてあったそうです。六十八番署の者が見つけて、本部へ電話して、すぐわたしが急行しました。たしかに、例の車にまちがいありません。竿は別ですが、ほかの部分品は全部そろっています。ですから、セントラル・パークで見つかった釣竿はやはりこの車のもので、たぶん車から落ちたんでしょう。車の持ち主がガレージに乗り入れたのは、たぶん先週の金曜日の昼頃で、番人に口止め料として二十ドルよこしました。番人はイタ公で、新聞を読まなかったといっています。とにかく、ちょっと締めあげてやると、pronto(すぐに)泥を吐きました」
刑事は小さな手帳を取り出した。「車の番号を調べてみました。ロング・アイランド、ポート・ワシントン、エルム・ブルヴァード二十四番地リアンダー・ファイフィーの名前で登録されています」
この意外な情報に、マーカムは当惑したように眉をしかめた。そして、ほとんどそっけないくらいにエメリーを帰すと、こつこつと机をたたきながら考えこんでいた。
ヴァンスは友人を楽しげに微笑を浮かべながら見守っていた。「ここは精神病院じゃないよ、きみ」と慰めるようにいった。「大佐の話で少しは元気がでないかね。ベンスンがあの世へ行ったその時刻、リアンダーがあの近所をうろついていたことがわかったんだから」
「おいぼれ大佐なんか勝手にしやがれ」とマーカムは吐きすてるようにいった。「今ぼくに関心があるのは、この新しい事態の発展をどうやって情況にあてはめるかだ」
「ぴたりとあてはまるじゃないか。まるで、モザイクのように。きみはファイフィーが謎の自動車の持ち主だとわかって、ほんとうにまごついているのか?」
「きみほどの千里眼には恵まれていないんでね。白状するが、当惑してるんだ」
マーカムは煙草に火をつけた。当惑している証拠だった。「もちろん、きみは」とマーカムは皮肉につけ加えた。「エメリーが来るまえから、あれはファイフィーの車だとわかっていたんだろう」
「いや。しかし、そうじゃないかという気持はした。ファイフィーはキャッツキルズで車が故障した話をしたとき、その当惑ぶりを大げさにいいすぎた。それに、ヒースが道順をきくと、ひどくあわてたね。あのときの横柄さは芝居がかりすぎていた」
「きみの ex post facto(あとからの)お智恵は、大変重宝だ」とマーカムはいって、しばらく黙って煙草をふかしていた。
「この問題をくわしく調べてみよう」マーカムはベルを鳴らしてスワッカーを呼んだ。「アンソニア・ホテルを呼び出してくれ」と怒ったようにいいつけた。「リアンダー・ファイフィーをつかまえて、六時にスタヴィサント・クラブで会いたいといってくれ。必ず来るようにとな」
「ぼくはこう思うんだが」とマーカムはスワッカーが行ってしまうといった。「この車の件は、結局役に立つような気がする。あの晩、ファイフィーはたしかにニューヨークにいて、なにかの理由で、そのことを知られたくなかった。いったい、なぜだろう? リーコックがベンスンを脅迫したことをわれわれに洩らして、リーコックのあとをつけてみろとほのめかした。むろん、リーコックがベンスンからセント・クレアを取りあげたのを怒って、ああいう方法で少しばかり仕返しをしたのかもしれない。あるいは、もしファイフィーがあの晩ベンスンの家にいたとすれば、なにか本当のことを知っているのかもしれない。だから、われわれが車を見つけたことを知れば、知っていることを話す気になるかもしれない」
「そりゃ、なにかは話すだろう」とヴァンスはいった。「あいつは自分が巻きぞえをくわないかぎり、だれにでも口から出まかせをいう生まれつきの嘘つきだ」
「きみと、キュメのシビル〔シビルはギリシア神話の女予言者。そのうち、とくにキュメのシビルが有名〕なら、あの男がなにをいおうとしているかを、前もって教えてくれるだろう」
「キュメのシビルについては知らないが」とヴァンスは快活にいった。「ぼくについていえば、ファイフィーはあの晩、怒り屋の大尉をベンスンの家で見かけたというと思う」
マーカムは笑った。「そう希望するね。きみも彼の話に立ち会いたいだろう?」
「聞き逃すわけにはいかないね」
ヴァンスは早くも戸口に行き、帰ろうとしていたが、またマーカムのほうに振り向いた。「もうひとつ、ちょっと頼みたいことがある。ファイフィーについての |dossier《ドシエ》(詳しい報告書)が入用なんだ。あれは、なかなか愉快な男だ。きみの手下のお巡り君をだれかひとりポート・ワシントンにやって、あのダンディ氏の素行や社交ぶりを調べさせることだ。女性関係に重点を置いてね。絶対に後悔しないから」
マーカムはこの要求に当惑しきって、すんでのところで断わろうとした。だが、しばらく考えたあと、にっこりして机の上のボタンを押した。「お気に召すように、さっそく部下をひとり差し向けましょう」
十四 鎖の環
六月十七日月曜日午後六時
ヴァンスとわたしは、その午後一時間ばかりアンダスン・ギャラリーで翌日競売される予定のつづれ織を見て過ごし、そのあとシェリーズでお茶を飲んだ。スタヴィサント・クラブには六時少しまえに着いた。やがてマーカムとファイフィーが到着し、わたしたちはすぐ談話室のひとつに入った。
ファイフィーは最初の会見のときと同じように優雅で、気どっていた。乗馬服に、漂白しないままのリンネルのゲートルをつけ、香水の匂いをぷんぷんさせていた。「こんなに早く、また皆さんとお会いできるなんて、思いがけないよろこびです」と、まるで信者に祝福をたれる神父よろしく、わたしたちに挨拶した。
マーカムは愛想よくどころか、ほとんどぶっきらぼうに会釈した。ヴァンスはといえば、軽くうなずいただけで、自分がここにいるのをいいわけしたいのだが、それがどうしてもできないといったように、もの憂げにファイフィーを見つめながら坐っていた。
マーカムはさっそく本題に入った。「ファイフィーさん、われわれはあなたが金曜の午後ガレージに車を預けて、口止め料として二十ドルを番人に渡したことを発見しました」
ファイフィーは心を傷つけられたように視線を挙げた。「それはひどい」と悲しげに不平をいった。「二十ドルじゃない、五十ドルやりました」
「さっそく事実を認めていただいて恐縮です」とマーカムはやり返した。「もちろん、新聞で、ベンスンが射たれた晩、あなたの車が外にあったのを見られていることはご承知でしょうな?」
「そうでなかったら、いったいだれが高い金を払って、車がニューヨークにあったことを隠そうとしたでしょう」ファイフィーの口調は、相手の鈍感さに気分を害していることを示していた。
「それなら、なぜニューヨークに車を置いたのです? ロング・アイランドに帰れたじゃありませんか」
ファイフィーは悲しげに頭を振った。眼にはあわれむような色が浮かんでいた。それから、寛大に我慢してやろうといった様子で身をのりだした。それは甘い教師が出来の悪い生徒にたいするように、頭のにぶい地方検事にやさしくしてやって、少しでもその不明から救い出してやろうといった趣きがあった。
「わたしは結婚している人間ですよ、マーカムさん」とファイフィーは、そのことになにかとくに価値があるようにいった。「木曜に夕食をすませてからキャッツキルズに出発し、一日ニューヨークに泊まって、そこにいるさる友人に別れを告げるつもりでした。着いたのはかなり遅く……そう十二時すぎだったでしょうか……アルヴィンを訪ねることにしました。着いてみると、家のなかは真っ暗だったので、ベルも鳴らさずに、四十三番街のピエトロの店まで一杯やりに歩いて行きました。そこにヘイグ・アンド・ヘイグを一瓶預けであったのが、少し残っていたんです。ところが、残念ながら閉まっていて、また車のところまで歩いて戻りました。わたしがいないあいだにアルヴィンが射たれたと思うと……」ファイフィーは言葉を切り、眼鏡を拭いた。
「なんという皮肉でしょう。わたしは親友の身になにが起こったかさえ知らなかったのです。どうして知ることができたでしょう。あんな悲劇があったとは露知らず、車でサウナ風呂へ行き、その夜はそこで泊まりました。翌朝、事件のことを新聞で知り、あとの版でわたしの車のことが出ているのを見ました。そのときはじめて、なんといってよいか、心配になったのです。いや、心配というと誤解をまねく。むしろ、あの車がわたしのものだとわかれば、あるいは面倒なことになるのではないか、と気づいたのです。そこで、車をガレージに持って行き、番人に金をやって、そのことを口止めさせました。だって、車が見つかれば、かえって事件が混乱するでしょうからね」
その口調や、マーカムを見るときのひとりよがりな態度から見て、彼はまるで地方検事や警察のためにガレージの番人を買収してやったのだといわんばかりだった。
「どうして旅行をつづけなかったのですか?」とマーカムはきいた。「そうすれば、車が見つかる怖れはもっと少なかったでしょうに」
ファイフィーは相手の無神経さをあわれむような、驚き入った様子をした、「親友が非業の死をとげたというのにですか? あんな悲しい時にどうして旅行なんかする気になれるでしょうか。で、わたしは家に引き返し、家内には車が故障したといっておきました」
「自分の車で帰れるじゃありませんか」とマーカムがいった。
ファイフィーは相手のお調べにいかにも忍耐してやってるんだというような態度をとり、ほっと溜息をついた。それを見ていると、自分は世間の知覚力を鋭くしてやることはできないが、少なくとも悲しむべき理解力の不足を嘆くことはできるはずだといいたげだった。
「もしキャッツキルズに行っていれば……家内はわたしがそこに行っていると信じていますが……なんにも情報を知る方法はないわけですから、たぶん数日後でなくてはアルヴィンの死を知ることはできなかったでしょう。ところが、困ったことに、わたしは家内にニューヨークに一晩泊まることをいってなかったのです。実をいうと、マーカムさん、家内にそのことを知られたくないわけがあるのです。だから、すぐに車で引き返すと、家内はなぜ旅行を途中でやめたか不審に思うでしょう。まったく、お恥かしい話ですが……。そこで、いちばん簡単そうな方法を選んだ次第です」
マーカムは、相手の弁舌さわやかな偽善ぶりにだんだん腹が立ってきた。しばらく沈黙し、彼は突然こうたずねた。「あの晩あなたの車がベンスンさんの家にあったことと、どうやらリーコック大尉をこの事件にまきこみたいらしいあなたのご希望とは、なにか関係がありますか?」
ファイフィーはびっくりして、心を傷つけられたように眉を挙げ、丁寧に抗議するような身振りをした。「検事さん」その声には、相手の不当ないいがかりに対する深い憤りがあらわれていた。「もし昨日のわたしの言葉のなかに、わたしがリーコック大尉を疑っていることを示すような響きがあるとおっしゃるならば、こちらから申しあげますが、あの晩アルヴィンの家へ車で行ったとき、実際家の前で大尉をみたのです」
マーカムは愉快そうにちらりとヴァンスを見やり、それからファイフィーのほうに向き直った。
「それはたしかですね?」
「ええ、はっきりと見ました。昨日申しあげてもよかったのですが、そうすると、わたし自身がそこにいたことを暗黙のうちに告白することになってしまうので……」
「それがどうしたというんです。これは重大な情報ですよ。そうと知っていたら、今朝リーコックを訊問したときに使えたのに。ファイフィーさん、あなたは法の正義よりわが身の安全を第一に考えておられる。そのような態度では、あの晩の行動についてのお申し立ても、きわめて疑わしいといわざるをえませんぞ」
「これは手きびしい、検事さん」とファイフィーはあわれっぽい声を出した。「しかし、身の不徳でこうなったのですから、ご批判を甘んじて受けねばなりますまい」
「おわかりですか、ファイフィーさん」とマーカムはつづけた。「たいていの検事なら、今わたしがあなたの行動について知っているようなことを知っており、しかも、あなたがわたしにとられたような態度をとられれば、まちがいなくあなたを容疑者として逮捕しますよ」
「すると、わたしとしては検事に恵まれたわけですね」とファイフィーはおだやかにいった。
マーカムは立ちあがった。「今日はこれで結構です、ファイフィーさん。しかし、帰っていいというまで、ニューヨークにいてください。さもないと、重要参考人として拘留します」
ファイフィーはこのきびしい言葉に不本意なような、ショックを受けたような身振りをし、うやうやしく別れを告げた。
ファイフィーが行ってしまうと、マーカムは真剣な面持ちでヴァンスを見た。「きみの予言が当たったね。まさか、これほどの幸運が舞いこんでくるとは思わなかった。ファイフィーの証言で、大尉にたいする鎖の最後の環ができたことになる」
ヴァンスはもの憂げに煙草をふかしていた。「事件についてのきみの推理が満足すべきものであることは認めよう。しかし、残念ながら、心理的な反論が残されている。なにもかもぴったりだが、大尉だけがちがう。そんな馬鹿な、ときみはいうだろうがね。だが、大尉にベンスン殺しの役をやらせるのは、野牛のようなテトラツィーニ〔イタリア生まれのオペラ歌手〕に、胸を病んだミミ〔「ラ・ボエーム」のヒロインで、最後に肺病で死んでゆく〕をやらせるようなものだ」
「ほかの場合なら、きみのほれぼれするような推理につつしんで脱帽するところだがね。しかし、これだけリーコックにたいする情況証拠、推定証拠がそろっていては、ぼくの貧しい法律的頭脳には是非もない。『あの男は頭をまんなかで分け、ナプキンを襟にはさむから犯人であるはずがない』というのは、ナンセンス至極だ。それでは非論理的すぎるよ、ヴァンス」
「きみの論理には反駁の余地のないことは認めよう。論理とはすべてそういうものなんだ。たぶん、きみは大勢の無実の人間を、彼らは有罪だという論理で断罪してきたんだろう」ヴァンスは疲れたように背伸びをした。「どうかね、屋上で軽い食事でもしては? くたくたに疲れたよ、あのファイフィーのおかげで」
スタヴィサント・クラブの屋上の夏用の食堂で、わたしたちはベンスン少佐がひとりで坐っているのに出会った。マーカムが仲間に加わらないかとさそった。
「いい知らせがありますよ、少佐」とマーカムは、一同が注文をすませるといった。「犯人の心当りがつきました。あらゆる点から見て、その男にまちがいありません。明日は万事解決とゆくでしょう」
少佐はマーカムにもの問いたげに眉をしかめてみせた。「よくわかりませんな。先日のお話では、なにか女が関係しているようでしたが」
マーカムはてれたようにほほえんで、ヴァンスの視線を避けた。「あれから、いろいろとありましてね。わたしが目をつけていた女は、調べた結果、すぐ容疑者リストから消えました。ところが、その過程で例の男が出てきたのです。その男の犯行にほぼまちがいありません。今朝からかなり確信がありましたが、今しがた、ある信頼すべき証人から、犯行の直後弟さんの家の前で、その男を見かけたという情報を聞いたのです」
「差し支えなかったら、だれか教えてくれませんか?」と少佐はまだ眉をしかめながらいった。
「ええ、むろんですとも。明日になればニューヨーク中にわかるんですから。実はリーコック大尉です」
ベンスン少佐は信じられぬようにマーカムを見つめた。「まさか! とても信じられん。あの男はヨーロッパ戦線で、わたしと三年いっしょにいて、よく知っている。なにかまちがいだと思わざるをえません。警察は」と急いでつけ加えた。「考えちがいをしているんだ」
「警察ではなくて」とマーカムはいった。「わたしです、大尉を突きとめたのは」
少佐は答えなかったが、その沈黙は疑いを示していた。
「大尉については、わたしもあなたと同意見です、少佐」とヴァンスが口をはさんだ。「大尉のむかしからの知りあいから、わたしの印象を証明していただいて満足に思います」
「すると、リーコックはあの晩、家の前でなにをしていたというのかね?」とマーカムは不機嫌にいった。
「たぶん、窓の下でセレナーデでも歌っていたんだろう」とヴァンスはいった。
マーカムがなにかいおうとしたとき、ボーイ長がやって来て、一枚の名刺を手渡した。マーカムはそれをちらと見ると、満足げに鼻を鳴らして、すぐに通すようにいいつけた。それから、わたしたちのほうに向き直った。「もっとなにかわかるかもしれない。このビギンボサムという男を待ちかねていたんだ。今朝わたしの事務所からリーコックをつけて行った刑事だ」
ビギンボサムは屈強な青白い顔の青年で、どんよりした眼をしているが、動作は敏捷だった。彼は前かがみにテーブルのところにやって来て、おずおずとマーカムの前に立った。
「まあ、かけて報告したまえ、ビギンボサム」とマーカムはいいつけた。「ここにおられるのは、今度の事件でご協力を願っている方々だ」
「わたしはやっこさんがエレヴェーターを待っているところへ追いつきました」とビギンボサムはマーカムをずるそうな眼つきで見ながらいった。「奴は地下鉄に乗って、七十九番街とブロードウェーの交叉点へ行き、そこから歩いて八十番街を抜け、リヴァーサイド・ドライブに出て、九十四番地のアパートに入りました。ボーイに名もいわずに、エレヴェーターに乗ったんです。二時間ほど上にいて、一時二十分に降りてきて、タクシーをひろいました。わたしもタクシーをひろい、あとを追いました。やっこさんは七十二番街までドライブを行き、セントラル・パークを抜け、五十九番街を東に行くのです。そうして、アヴェニュー・Aでタクシーを降り、クイーンズボロー橋へ歩いて行きました。ブラックウェルズ島に向かって途中まで行くと、欄干から身体をのり出して、五・六分立っていましたが、やがてポケットから小さな包みを取り出して、川のなかに落としました」
「包みの大きさはどれくらいだった?」マーカムの質問には、おし殺したような興奮が感じられた。
ビギンボサムは両手で大きさを示した。
「で、厚さは?」
「二インチかそこらでしょう」
マーカムは、つと身を乗り出した。「ピストルじゃなかったかね、コルトの自動ピストル?」
「そうかもしれません。ちょうどそれくらいの大きさでした。それに重そうでした。奴が包みを扱うときの手つきとか、水に落ちたときの様子から考えて、そういえますね」
「よろしい。ほかにないか?」マーカムはご満悦だった。
「いいえありません。ピストルを川に落とすと、奴は家に帰り、ずっと家にいました。で、わたしも帰ってきたわけです」
ビギンボサムが退出すると、マーカムは幾分ヴァンスを思いやるように、だが有頂天でヴァンスにうなずいてみせた。「奴こそ、まさしく犯人だ。なにかいいたいことがあるかね?」
「ああ、たくさんね」とヴァンスはもの憂げにいった。
ベンスン少佐は当惑したように顔を挙げた。「どうもよく事柄がのみこめない。なぜリーコックは、リヴァーサイド・ドライブヘピストルを取りに行ったのか」
「わたしにはよくわかる」とマーカムはいった。「事件のあと、あの男はセント・クレアのところへ持って行ったんでしょう。たぶん、安全に隠しておけるというので。自宅で見つけられるのがいやだったんだろう」
「事件のまえに、セント・クレアのところに持って行ったんじゃありませんか?」
「おっしゃる意味はわかります」とマーカムは答えた。わたしも、前日少佐がセント・クレアのほうが大尉より弟を射つ能力があるといったのを思い出した。「わたし自身、あなたと同じ考えでした」とマーカムはいった。「しかし、幾つかの明白な事実から、セント・クレアの容疑は晴れました」
「その点は、充分納得されてのことでしょう」と少佐は答えた。しかし、その口調は疑わしそうだった。「なおかつ、わたしにはリーコックが下手人とは思えない」
少佐は言葉を切り、マーカムの腕に片手を置いた。「わたしはでしゃばりたくないし、あなたのすることを尊重しないというのでもない。しかし、お願いだ。あの男を牢屋にぶちこむのはもうちょっと待ってください。どんなに慎重で良心的な人間でも、まちがいはおかします。事実でさえ、ときには嘘をつく。今度の場合、その事実があなたをあざむいたと信じずにはいられんのです」
マーカムがこの古くからの知人の頼みに心を動かされたのは明らかだった。だが、義務にたいする本能的忠誠心が相手の訴えに抵抗する力となった。
「わたしは自分の確信に従って行動しなければなりません、少佐」マーカムはきっぱりとだが深い好意をこめていった。
十五 ファイフイー専用
六月十八日火曜日午前九時
次の日は捜査がはじまって四日目にあたったが、アルヴィン・ベンスンの殺害が投げかけた問題を解決する上で、重大な、ある意味ではきっかけとなった日だった。決定的なことがなにひとつ明るみに出たわけではなかったが、新しい要素が事件に投入され、結局この新しい要素が犯人逮捕のきっかけになったからだ。
ベンスン少佐との夕食を終えてマーカムと別れるまえ、ヴァンスは翌朝また地方検事局を訪ねていいかときいた。マーカムは友人の異常な熱心さに当惑をおぼえたが、同時に感動し、いいともと返事をした。しかし、内心では、うるさい相手にいられてあれこれいわれるより、自分ひとりでリーコック大尉を逮捕する手続きの準備をしたかったのだろうと思う。ビギンボサムの報告のあと、マーカムが大尉を拘留して、大陪審に回す準備をしようと決めたことは明らかだった。
ヴァンスとわたしが九時に検事局に着くと、すでにマーカムはそこにいた。わたしたちが部屋に入ったとき、マーカムはちょうど電話の受話器をとりあげて、ヒース部長刑事を呼び出すように命じていた。
そのとき、ヴァンスは驚くべきことをやってのけた。すばやくマーカムの机に歩み寄ると、受話器をその手からひったくり、がちゃんと元のところに置いたのだ。それから電話を机の片隅に押しやり、両手をマーカムの肩に置いた。マーカムは驚き呆れ、抗議することもできなかった。ようやく我に返るまえに、ヴァンスは低い、きっぱりした声でいった。その声はおだやかなだけに、いっそう強迫的だった。
「リーコックは牢屋に入れさせない。今朝ここに来たのはそのためだ。ぼくがこの事務所にいるかぎり、どんな手段を使ってでもきみを妨害してみせる。逮捕命令は出させない。きみがそんなたわけた行動に出たいのなら、方法はただひとつ。きみの部下を呼んで、ぼくをここから力づくで出すことだ。忠告しておくが、呼ぶのなら、大勢呼ぶことだね。こっちは死物狂いで戦うつもりなんだから」
この信じかねるおどし文句は、まさにヴァンスの本音であり、マーカムはそのことをよく承知していた。
「部下を呼んだりすれば」とヴァンスはつづけた。「きみは一週間たたないうちに、市中の笑いものになるだろう。その頃までには、だれがベンスン殺しの真犯人か知れわたっているだろうからね。そうして、ぼくは民衆の英雄で、殉教者ということになる。たいしたお手柄さ。なにしろ、地方検事に挑戦して、真理と正義の祭壇にぼくの貴重な自由を捧げたとかなんとかいうわけでね……」
電話が鳴った。ヴァンスがそれに出た。「いや、もういい」といって、すぐ電話を切った。それから、あとに退って、腕組みをした。
短い沈黙のあと、マーカムが口を切った。その声は怒りでふるえていた。「すぐ出ていかないと、ヴァンス、どうしても警官を呼ばなくてはいけなくなる」
ヴァンスは微笑した。マーカムがそんな極端な手段をとらないことを承知しているからだった。要するに、この二人のいさかいは知的なものであり、ヴァンスの先ほどの行動で一時肉体的なものになりかけたが、いつまでもそれがつづく危険はなかったのだ。
マーカムの挑戦的な視線は、徐々に深い当惑に変わっていった。「なぜ、きみはあんなリーコックなんかにそう関心を持つんだ?」と不機嫌にきいた。「なぜ、駄々っ子みたいに、リーコックを野放しにしておきたがる?」
「なんたる馬鹿者だ、きみは!」ヴァンスはつとめて無表情な声を装うとしていった。「ぼくが南部生まれの大尉などに特別な関心があると思っているのか。リーコックのような男は、世間には五万といる。ごつい肩に、四角い顎、野蛮な騎士道をお守り札よろしくあがめたてまつっている。あんな男を見分けられるのは、生みの母だけだろう。わかるかね、マーカム、ぼくに関心があるのは、きみなんだ。リーコックよりもっときみに傷がつくような過ちをさせたくないから、いっているんだ」
マーカムの眼から、けわしさが消えた。ヴァンスの動機がわかって、彼を許したのだ。しかし、まだ大尉の有罪をかたく信じていた。マーカムはしばらく考えこんでいたが、なにか決心がついたと見え、ベルを鳴らしてスワッカーを呼び、フェルプスをつれてくるようにいいつけた。「この事件を固めあげる計画がある」マーカムはいった。「ヴァンス、きみだって否定しようのない証拠が出てくるから」
フェルプスが入ってきた。マーカムはあれこれ指示を与えた。「すぐにセント・クレアに会いに行ってもらいたい。とにかく直接会って、昨日リーコック大尉があの女のアパートから持ち出して、イースト・リヴァーに放りこんだ包みになにが入っていたか、たずねるんだ」マーカムは前の晩のビギンボサムの報告を手短かに話した。「なんとしても口を割らせるんだ。ベンスンを殺したピストルがなかに入っていたことはわかっているんだ、とほのめかせ。おそらく、あの女はしゃべるのを拒み、出て行ってくれというだろう。そうしたら、下に降りて、成行きを待て。あの女がだれかに電話したら、交換台で内容を聞くがいい。だれかに手紙を書いたなら、途中で取りあげる。もし外出するようだったら──まず、ないと思うが──あとをつけて、できるだけ情報をとってこい。なにかつかんだら、すぐにぼくに報告してほしい」
「わかりました、検事」フェルプスはこの任務が気に入ったらしく、勇んで出て行った。
「そんな強盗まがいの方法や、盗み聴きが、きみらのご立派な職業では道徳的だと思われているのかね?」とヴァンスはたずねた。「そんな行為は、きみらのほかの美点とは調和しないようだがね」
マーカムは椅子の背に寄りかかり、シャンデリアをじっと見た。「個人的道徳は、この場合関係ない。関係するとしても、より大きな重要な考慮によってしりぞけられる。つまり、より高度な正義の要求によってね。社会は擁護されなくてはならないのだ。そして、この国の市民たちは、のさばりかえる犯罪者や悪人から身を守ってもらうことを、ぼくに求めている。ときとすると、任務を遂行する際に、ぼくは自己の個人的本能と矛盾するような行動をとることが必要になってくる。ある個人への道徳的義務なるもののために、ぼくは社会全体を危うくする権利を持たないのだ。むろん、きみにはわかっているだろうが、こういう非道徳的な手段で手に入れた情報は、その個人が犯罪的行動をおこなっている場合は別として、ぼくは使用するつもりはない。そして、犯罪の疑いのある場合には、ぼくは公共の善のために、それを使用するあらゆる権利がある」
「お説の通りだろう」とヴァンスはあくびをしながらいった。「しかし、ぼくは社会には特別の関心はない。正義なんかよりも、立派なやり方のほうがはるかに好ましいね」
そういい終ったとき、スワッカーが、ベンスン少佐が地方検事にすぐお会いしたいといっていると告げた。
少佐は二十二、三の美しい、若い女を連れていた。女は黄色の髪を断髪にし、ライト・ブルーの |crepe de chine《クレープ・ド・シーヌ》の服というシックでシンプルな出立ちだった。見るからに若々しく、幾分蓮っ葉な感じはしたが、控え目で有能そうな物腰で、すぐ相手に信頼感を与えることができた。
ベンスン少佐は、彼女を自分の秘書だと紹介し、マーカムは自分の机の向いの椅子をすすめた。
「ホフマン君から、ついさきほど、あなたに聞いてもらったほうがよさそうなことを聞きましてね」と少佐はいった。「それで本人を連れて来た次第です」少佐はいつになく真剣で、眼には期待と疑いのまじった光が浮かんでいた。
「マーカムさんに、わたしに話したとおりに話しなさい、ホフマン君」
女は礼儀正しく顔をあげ、頭のよさそうな、きちんとした声で、話しはじめた。二週間ばかりまえ──たぶん水曜だったと思いますが──ファイフィーさんが、アルヴィン・ベンスンさんを私室に訪ねて見えました。そのとき、わたしはタイプライターの置いてある隣りの部屋にいました。二つの部屋の間にはガラスの仕切りがあるだけで、ベンスンさんの部屋で大きな声でお話しになると、わたしの部屋まで聞こえてくるんです。五分ばかりすると、お二人の間で口論がはじまりました。ふだん、とても仲がいいのに変だなと思いましたけれど、たいして気にかけず、タイプをうちつづけていました。しかし、お二人の声が大変高くなって、こちらにも幾らか聞きとれるんです。ベンスン少佐が、今朝ほど、あの二人はどんなことをいっていたかとおたずねでしたけれど、マーカムさんもお知りになりたいでしょうね。お二人はずっと手形のことを話しておられ、一、二度小切手とかおっしゃいました。『義父が』という言葉も何度か聞こえ、一遍ベンスンさんが『そんなことはできない』と大声をお出しでした。それから、ベンスンさんがわたしを部屋に呼び入れ、金庫の引出しから『ファイフィー専用』と書いた封筒を持ってくるようにおっしゃいました。お持ちして、そのあとすぐに帳簿係に用があって呼ばれたものですから、あとのことはなにも知りません。十五分ばかりしてファイフィーさんがお帰りになり、ベンスンさんはわたしに封筒をお返しになりました。そうして、もしファイフィーさんがいらしても、自分が部屋にいないかぎり絶対に通してはならないといわれました。それから、封筒はだれであろうと──たとえ、そうしろと書いてあっても──渡してはいけないとおっしゃいました。申しあげることはそれだけです、マーカムさん」
秘書が話している間、わたしは彼女の話にも興味があったが、それと同じくらいヴァンスの行動にも興味があった。最初は女が部屋に入ってきたとき、ヴァンスはさりげなく彼女に視線を走らせたが、急に注意深いいきいきした眼つきになり、じっと彼女を観察していた。マーカムが彼女のために椅子を引いてやったとき、ヴァンスはっと立ちあがり、彼女のそばのテーブルの本に手を伸ばし、必要もないのにかがみこんで──わたしにはそう見えた──彼女の頭の側面を調べていた。秘書の話の間中、ヴァンスは観察をつづけていたが、ときどきもっとよく見えるように、左右に身体を傾けた。なんとも合点のいかぬ行動だが、わたしには、なにか重大な考えがあってそうしているのだということがわかっていた。
秘書が話し終わると、ベンスン少佐はポケットに手を入れて、長いマニラ紙製の封筒を取り出しマーカムの机の上にぽんと置いた。「これですよ。ホフマン君から話を聞くとすぐ、持ってこさせたのです」
マーカムは中身を調べる権利があるかどうかはっきりしないように、ためらいがちに封筒を取りあげた。
「ご覧になったほうがいいでしょう」少佐が助言した。「事件に重大な関係のあるものが入っているかもしれませんから」
マーカムはゴム紐をはずし、机の上に中身をひろげた。三つの品が入っていた。アルヴィン・ベンスンの署名入りのリアンダー・ファイフィーあて一万ドルの支払済小切手一枚、ファイフィーの署名入りのアルヴィン・ベンスンあての一万ドルの手形一枚、それに、右小切手は偽造である旨を記したファイフィーの署名入りの短い詫び状一通である。小切手は、その年の三月二十日付で、詑び状と手形は、その二日後になっている。手形の期限は九十日で、三日後の六月二十一日金曜日に期限が切れることになっていた。
マーカムは、たっぷり五分間、無言でこれらの書類を調べていた。事件に突如こういうものが入ってきて、煙に巻かれたようだった。ようやく書類を封筒に戻したときも、当惑した気配はいっこうにその顔から消えていなかった。
マーカムは秘書を綿密に訊問し、話のある部分はくりかえし述べさせたが、それ以上はなにも聞き出せなかった。で、とうとう少佐のほうに振り向いた。「差し支えなかったら、しばらく封筒を預らせてください。さしあたり、どれほどの意味があるかはわかりませんが、よく考えてみたいと思います」
ベンスン少佐と秘書が帰ったあと、ヴァンスは立ちあがって、足を伸ばした。「|A la fin《ア・ラ・ファン》(ようやく)あらゆるものは旅に出る。太陽も、月も、昼も、午後も、夜も、すべての星も。|Videlicet《ヴィデリセット》(すなわち)われらも前進を開始せりだ」
「なにを寝言をいっているのかね?」ファイフィーのけちな旧悪が露見して、事件がいっそう複雑になったので、マーカムは苛立っていた。
「面白い女じゃないか、あのホフマンという秘書は」とヴァンスは無関係なことをいった。「あの女は死んだベンスンのことはとくに好きじゃなかったし、香水がプンプン匂うリアンダーのことは、大嫌いだ。たぶん、あの男は自分が細君に誤解されているとかなんとか泣き言をいって、あの女を夕食に誘ったんだろうよ」
「うん、なかなかの美人だ」とマーカムは気のなさそうな返事をした。「ベンスンだって、モーションをかけたのかもしれない。だから、嫌われたんだろう」
「きっと、そうだろう」ヴァンスはしばらく考えこんでいた。「たしかにきれいだが、それが人を迷わせる。あれは野心的で、頭のいい女だよ。ちゃんと己れを心得ている。決してうわついた女じゃない。しっかりした、真面日なところがある。ちょっぴりチュートン系の血が入っているんじゃないかな」ヴァンスは瞑想するように口を閉じた。「マーカム、もうじき、またあのかわいいカチンカ嬢からきみのところに連絡がありそうな気がするよ」
「きみの水晶占いかね」とマーカムはもぐもぐいった。
「とんでもない」ヴァンスは窓の外をぼんやり眺めていた。「ぼくはいわば無言の境地に入って、頭蓋学的考察に耽っていたところさ」
「いや、あの女に色目を使っているのは気がついていたけれどね」とマーカムはいった。「しかし、あの女は髪を短く切って、帽子をかぶっていた。それなのに、どうして頭相など分析できるかね。もし、きみたちが頭相なんていう言葉を使うとしての話だが」
「ゴールドスミス〔十八世紀イギリスの詩人〕の牧師がいったことを忘れないでほしいな。『彼の唇を洩れた真理は世間にひろがり、彼を嘲りに来た者は……云々』というのだ。まず断わっておくが、ぼくは骨相学者じゃない。だが、時代的、人種的、遺伝的に、頭蓋骨にちがいがあることは信じている。その点に関しては、ぼくは旧式なダーウィン主義者だ。どんな子供だって、ピルトダウン人の頭蓋骨がクロマニヨン人の頭蓋骨とちがうことは知っている。法律家だって、アーリアン人種の頭とウラル・アルタイ人種の頭は区別できるし、マライ人とニグロの頭は区別できるだろう。だから、いやしくもメンデルの法則に通じていれば、遺伝的な頭蓋骨の相似は識別できるんだ。もっとも、こういう深遠な知識は、きみには無理だと思うがね。だから、あの若い女が帽子をかぶり、髪も生えていたにもかかわらず、彼女の頭の輪郭と顔の骨組はわかったといえば充分だろう。それに、ちらと耳も見ておいた」
「だから、あの女からもう一度連絡があると結論したのか?」とマーカムはひやかした。
「間接的には、そうだ」とヴァンスはいった。それから、ややあって、「ホフマンのいったことと照らしあわせると、昨日のオストランダー大佐の説明が、ぼうっと浮かびあがってきたじゃないか」
「ねえ、きみ!」とマーカムは苛々した。「まわりくどい言い方はやめて、早く要点をいってくれ」
ヴァンスはゆっくりと窓際から振り返り、考えぶかげにマーカムを眺めた。「マーカム、純理論的にたずねるがね。ファイフィーの偽小切手は、あの詑び状や期限切れがせまった手形と考えあわせると、ベンスンを殺害する有力な動機にならないかな?」
マーカムは急に坐り直した。「つまり、ファイフィーが犯人だというのかね? どうなんだ?」
「そうだな、あわれをもよおす立場だね。ファイフィーは明らかにベンスンの名を小切手に署名し、そのことをベンスンに告白した。すると、意外にも古くからの親友は弁償として九十日の手形を要求し、その上、確実に払わせるため詑び状まで書くよう要求した。そこで、その後の事実を考えてみよう。第一に、ファイフィーは一週間前にベンスンを訪ねて、喧嘩になり、そこで小切手の話が出た。おそらくダモンはピシアス〔ダモンとピシアスは、古代ギリシアの哲学者で、友情の模範とされている〕に手形の期限延長を嘆願して、『そんなことはできない』と手ひどく断わられたのだろう。第二に、ベンスンは二日後の、ちょうど手形の期限が来る一週間たらずのうちに殺された。第三に、ファイフィーはベンスンが殺された時刻に、その家にいたにもかかわらず、居所についてきみに嘘をついたばかりか、ガレージの番人を買収して車のことを口止めさせた。第四に、問いつめられて、ヘイグ・アンド・ヘイグを飲みにいったが店が閉まっていたと釈明したが、どう控え目に見ても、この釈明はひどすぎる。それに、忘れてはいけないのが、キャッツキルズの山中に孤独を求めて行ったという最初の話だって、ある人にお別れの祝福を授けるため、ニューヨークにひと晩泊まったという話と束にして、納得できるような代物ではない。第五に、ファイフィーは、大穴を狙う衝動的な賭博師だ。南アフリカでの経験からいったって、きっと銃砲には馴れているにちがいない。第六に、リーコックを容疑者にしたがり、そのためちょっぴり卑劣な告げ口をし、兇行の時刻に現場で大尉を見かけたとさえいった。第七に──なんで、そんな退屈そうな顔をするんだ──ぼくは今、きみがなによりありがたがる因子とやらを揃えてやったじゃないか。では、その因子とはなにか。動機、時、場所、機会、行為だよ。欠けているのは犯人だけだ。しかし、大尉のピストルは今イースト・リヴァーの底にある。だから、大尉のほうがファイフィーより起訴しやすいとはいえないだろう。どうかね、マーカム?」
マーカムはヴァンスの説明にじっと耳を傾けていたが、今や机の上を見つめながら魅せられたように黙りこくっていた。
「どうだろう、大尉に対してなにか決定的な措置をとるまえに、ファイフィーとちょっと話してみたら」とヴァンスは提案した。
「ご忠告に従おう」マーカムは、二、三分考えたあとで、ゆっくりと答えた。それから電話を取りあげて、「今時分ホテルにいるだろうか?」
「いるとも、お待ちかねさ」
ファイフィーはホテルにいた。マーカムはすぐ事務所に来てくれといった。
「もうひとつ、してもらいたいことがある」とヴァンスは、マーカムが電話をかけ終わったときいった。「実は、ベンスンが殺されたとき、つまり十三日の夜、きざっぽくいうと十四日の朝ということだが、関係者全員がなにをしていたか知りたいのだ」
マーカムはびっくりしてヴァンスを見た。「ばからしいことと思うだろう」とヴァンスは楽しげに話しつづけた。「しかし、きみはアリバイの信奉者だ。ときには、アリバイに失望させられるだろうがね。たとえば、リーコックだ。アパートのボーイの嘘にヒースがほんろうされ、すみれの花を売らされたって、きみは大尉をいじめることはできない。それはただ、きみが人を信じすぎることを示すだけだ。なぜ、きみはあの晩、みんながどこにいたか調べようとしないのだ? ファイフィーと大尉はベンスンのところにいた。きみはこの二人の居所しか調べていない。あの晩ベンスンの近くをうろついていた者が、ほかにもいただろう。友人・知人が、近くで押しあい、へしあいしていたかもしれない。いつもの |soiree《ソワレ》(夜会)でね。だから、もう一度忠告しておくが、関係者全員を調べれば、浮かぬ顔のヒース君も元気になるような、なにかいいネタが得られないともかぎらない」
わたし同様、マーカムも、なにか重大な動機なしには、ヴァンスがこんな提案をしないことを知っていた。数分の間、マーカムはこの思いがけない要求のゆえんを探り出そうとするように、まじまじと相手の顔を眺めていた。
「きみは全員といったけど」とマーカムはたずねた。「とくに、だれを調べればいい?」そういって、鉛筆を取りあげた。
「ひとり残らずだよ。まず、セント・クレア。リーコック大尉。ベンスン少佐。ファイフィー。秘書のホフマン……」
「ホフマンだって?」
「みんなだ。ホフマンを書いたね。その次は、オストランダー大佐……」
「おい、きみ」とマーカムが口をはさんだ。
「あとでまた、ひとりか二人出てくるかもしれない。はじめは、そのくらいで充分だろう」
マーカムがさらに抗議しようとしかけると、スワッカーが入ってきて、ヒースが外で待っていると告げた。
「リーコックのほうはどうでした、地方検事?」ヒースは部屋に入るなり、そうきいた。
「一日か二日、待つことにしよう」とマーカムは説明した。「決定的な行動をとるまえに、もう一度ファイフィーと話したい」そして、ベンスン少佐とミス・ホフマンが訪ねてきたことを話した。
ヒースは封筒と中身を調べ、マーカムに返した。「とくにどうということはありませんな。ベンスンとファイフィーとかいう男の、たんなる個人的な取引きのように思えますが。やはり、ホシはリーコックですよ。早くつかまえればつかまえるだけ、安心できますな」
「明日はそうなる」マーカムは元気づけた。「ちょっとばかり遅れたからといって、がっかりしないでくれ。大尉は見張ってあるだろうね?」
「もちろんです」ヒースはにやりとした。
ヴァンスはマーカムのほうに振り向いた。「きみが部長のために作った人名リストはどうした?」と無邪気にたずねた。「なにかアリバイについて知りたいんだ」
マーカムは眉に皺を寄せて、ためらっていた。それから、ヴァンスが口授した名前を書いた紙をヒースに渡した。
「念のために」とマーカムは不機嫌にいった。「殺人当夜のこの連中のアリバイを洗ってほしい。なにか参考になることが浮かんでくるかもしれない。ファイフィーのアリバイのように、きみがすでに承知していることも確かめてほしい。できるだけ早く報告を頼む」
ヒースが行ってしまうと、マーカムは怒りに燃えた眼でヴァンスを見た。「迷惑をかける奴は大勢いるが、そのなかでも──」といいかけた。
ヴァンスはおだやかにさえぎった。「恩知らずもあったもんだ。わかってほしいな、マーカム。ぼくはきみの守護神であり、|deus ex machina《デウス・エクス・マキーナ》(救いの神)であり、仙女の教母なんだ」
十六 認めたことと隠したこと
六月十八日火曜日午後
一時間後、マーカムがリヴァーサイド・ドライブ九十四番地に行かせたフェルプス刑事が、満足げに顔を輝かせて帰ってきた。
「お望みのものを手に入れてきました。地方検事」フェルプスのしわがれ声は、内心の誇らしさを隠しきれなかった。「わたしはセント・クレアのアパートに行き、ベルを鳴らしました。すると、セント・クレアが自分で戸口に出てきたので、ホールに入りこんで、いろいろ訊問してみました。むろん返事を拒否したので、あの包みにはベンスンを射ったピストルが入っていたことを知っているんだぞとおどしてやると、笑って、ドアをぱっと開け、『出て行ってよ、このろくでなし』ってぬかしやがる」フェルプスはにやりとした。
「急いで下に降りて、交換台に駆けつけると、あの女の部屋の信号ランプがつきました。ボーイに番号をつながせて、横にどかせ、聞いてみると、リーコックと話し中なんです。女が最初にいったのは、『警察は、あなたが昨日ここからピストルを持って行って、川に放りこんだことを知っているわよ』でした。それを聞いて、やっこさん、がっくりしたんでしょう。長いこと、なにもいいませんでした。それから、落ち着いた、やさしい声で、『心配するな、ミュリエル。今日はだれにもいわないでくれ。午前中に全部ちゃんとやっておくから』そして、やっこさん、明日まで黙っていると約束させ、電話を終わりました」
マーカムはしばらく報告を噛みしめていた。「で、二人の話から、どういう印象を受けたかね?」
「こういっちゃなんですが、十中八九、リーコックが犯人で、女もそのことを知っていますね」
マーカムは労をねぎらって、刑事を帰した。
「あの南部生れの騎士君にも、まったく困ったもんだ」とヴァンスはいった。「まもなく、あのお上品なリアンダー君と、優雅な会話をかわす時間じゃないのかね、マーカム?」
こういい終わらないうちに、ファイフィーがやってきたことが告げられた。いつもながらの洗練された物腰だったが、どこか内心の不安を隠しきれなかった。
「まあ、おかけなさい」マーカムはぶっきらぼうにいった。「もう少し、ご説明願わないといかんようですな」そして、マニラ紙の封筒を取り出して、相手に見えるように、中身を机の上に置いた。「これについて説明してもらえませんか?」
「ええ、よろこんで」ファイフィーは答えたが、その声は落ち着きを失っていた。気どった態度も幾らかうすれ、煙草に火をつけるため言葉を切ったとき、金のマッチ挟みを扱う手つきが少々神経質になっていた。
「本当なら、もっと早くそのことをお話しすべきでしたが」彼は品よく、意味もなく手を振って、書類を指しながらいった。そして、片肘に重味をかけて身体を乗り出し、いかにも打開け話をするときのような態度をとった。話しながら、くわえた煙草が上下にゆれていた。
「こんなことは、大変いいづらいのですが」とファイフィーは話しだした。「しかし、真実を明らかにするためとあらば、不平はいいますまい。そのう、わたしの家庭の事情は、どうも望ましいとはいいかねるのです。妙な話ですが、妻の父親は、わけもなしにわたしを嫌い抜いていて、雀の涙ほどの財政的援助をしてくれるほかは、なにもかもわたしから取りあげてよろこんでいる有様です。わたしに渡さない金だって、ほんとうは妻の金なんですがね。二、三ヵ月前、わたしは幾らかの金を──正確にいうと、一万ドルほどですが──使いこみ、あとで、わたしが使っていい金ではないことを知りました。義父がこのあやまちに気がついて、わたしは、妻と自分との間の誤解を避けるため、全額を返す羽目になりました。そんな誤解が生じたら、妻はきっと不幸なことになったでしょう。そこで、お恥かしいことですが、わたしは小切手にベンスンの名を使ったのです。しかし、すぐその件をベンスンに説明して、手形を書き、誠意を示すため、短い詑び状をそえました。そういったわけでして、マーカムさん」
「先週ベンスン氏と喧嘩したのは、そのことですか?」
ファイフィーはぎょっとして、怒ったようにマーカムを見た。「ああ、あの |contretemps《コントルタン》(困った出来事)をご存知ですか。そうなんです。少々意見がくいちがいまして。つまり、その、決済の期限のことで」
「ベンスンが期限通りに払えといいはったんですか?」
「いいえ、必ずしもそうではありません」ファイフィーの態度はほぐれてきた。「どうかこれ以上そのことを追求しないでいただけませんか。請けあいますが、今度の事件とはなんの関係もないのです。実際、ごく個人的な性質のことでして」ファイフィーはうちとけたように微笑した。「しかし、あの晩、小切手のことで話しに、あそこへ行ったことは認めます。しかし、まえに申しあげた通り、家のなかはまっ暗だったもので、トルコ風呂に泊まりました」
「失礼ですが、ファイフィーさん」ヴァンスが口をはさんだ。「ベンスンさんは担保なしで手形を受け取ったんですか?」
「もちろんです」ファイフィーの口調は非難するようだった。「アルヴィンとわたしは無二の親友じゃありませんか」
「しかし、いくら親友だって、あれほどの大金には担保を要求するでしょう。あなたが必ず返済できると、どうしてベンスンさんは知っていたんでしょう?」
「アルヴインには、それがわかっていたんでしょう」ファイフィーは辛抱強く、慎重に答えた。
ヴァンスはなおも不審そうだった。「では、たぶんあなたが詑び状を書いたからでしょうね」
ファイフィーは、うれしそうにヴァンスを見た。「あなたはよくわかっていらっしゃる」
ヴァンスはそこで会話から手を引いた。マーカムは半時間ばかりあれこれファイフィーを訊問したが、それ以上のことはなにも聞き出せなかった。ファイフィーはまったく同じことをくりかえし、今度の事件とはなんの関係もないといいはって、それ以上ベンスンとの喧嘩に立ち入ることを婉曲に拒んだのだ。とうとう、マーカムは彼を帰してやった。
「たいして役には立たなかった」マーカムはいった。「奴のでたらめな金銭関係を洗ったって、ろくなものは出てきやしないというヒースの意見に、賛成しはじめたよ」
「まったく、きみときたひには、おめでたいんだなあ」とヴァンスは嘆息した。「ファィフィーは、はじめてきみにまともな捜査の方向を提供してくれたのに。それなのに、たいして役に立たなかったなんて。ぼくのいうことをよく聞いて、|nota bene《ノタ・ベネ》(注意)するんだね。一万ドル云々というファイフィーの話は、まちがいなく本当だ。あの男はその金を使いこみ、穴埋めをするために小切手にベンスンの名を黙って借用した。しかし、詑び状のほかに、なにも担保がなかったとは、とうてい信じられない。友だちであろうと、なかろうと、ベンスンはあんな大金を担保なしに貸すようなタイプの男じゃない。あの男の取り戻したいのは金で、人を牢屋にたたきこむことじゃない。だから、ぼくは軽く探りを入れて、担保のことをきいたのだ。ファイフィーはむろん否定したが、ではどうしてベンスンに手形の決済がちゃんとおこなわれることがわかっていたのかと問いつめると、やっこさん煙幕を張ってしまった。で、ぼくが詑び状を書いたからでしょうと水を向けてみた。奴の様子では、なにか心にひっかかっていることを示していたからね。そう、なにか口外したくないことが。果して、やっこさん、こちらの誘い水に乗ってきて、ぼくの推論が立証されたという次第さ」
「では、それはなんだろう?」マーカムはせっかちにきいた。
「涙の贈り物さ」とヴァンスはあわれっぽくいった。「きみにはわからないのかね、背後になにものか──担保に関係のあるなにものか──があるっていうことが? きっと、そうにちがいない。さもなければ、ファイフィーは、それで嫌疑がはれるなら、喧嘩の一部始終をきみに話したろう。ところが、自分がやっかいな立場にいることを知りながら、あの日、ベンスンの事務所で起こったことを打ち明けることを拒んでいる。ファイフィーはだれをかばっているんだ。しかも、あの男は騎士道精神の持ち主ではない。だから、ぼくは疑問を持つのだ。なぜだろうと」
ヴァンスは椅子の背によりかかり、天井をじっと見た。「ぼくには、脳味噌が旋風をおこすほどのある考えがある。つまり、その担保をおさえれば、犯人もおさえられるということだ」
このとき電話が鳴った。電話に出たマーカムの眼に、楽しそうな驚きの色が浮かんだ。彼は午後五時半に、電話の主と会う約束をし、受話器を置きながら、ヴァンスに向かって手放しで笑いかけた。
「きみの地獄耳はたしかだね。ホフマンが公衆電話をかけてきて、内々で例の話につけ加えたいことがあるそうだ。五時半にここに来る」
ヴァンスはそれを聞いても、べつに驚いたふうはなかった。「昼飯のときに電話してくるだろうと思っていた」
マーカムは、いつもの探るような眼つきでヴァンスを見た。「どうも妙なことばかり起きるな」
「まったくだ」ヴァンスは無頓着にいった。「たぶん、きみが想像している以上に妙なことがね」
二十分近くの間、マーカムは相手からなにか聞き出そうとしたが、ヴァンスは突然いつものさわやかな弁舌を失ってしまったかのようだった。マーカムはとうとう怒りだした。
「きみはベンスン殺しに一役買ったが、世にもまれな当てずっぽうの名人だと結論したくなったね」
「もうひとつ結論がある」とヴァンスはいった。「ぼくの審美的仮説と形而上学的推論──きみの言い方に従えば──が着々と成果をおさめているのかもしれないとね」
わたしたちが昼食に外出する少しまえ、スワッカーが、トレイシーがロング・アイランドから報告を持って帰ったと知らせた。
「トレイシーっていうのは、ファイフィーの |affaires du coeur《アフェール・デュ・クール》(女関係)を洗いにやった男かい?」とヴァンスはマーカムにたずねた。「もしそうならうれしいんだが」
「その男だ。入るようにいってくれたまえ、スワッカー」
トレイシーは片手に黒い手帳、片手に |pince-nez《パンスネ》(鼻眼鏡)を持ち、もの柔らかな微笑を浮かべながら入ってきた。「ファイフィーのことを調べるのは雑作ありませんでした、検事。ポート・ワシントンではよく知られていて、ゴシップを拾うのは簡単でした。実際、なかなかの変わり者ですなあ」
トレイシーはていねいに眼鏡を直し、手帳を見た。「ファイフィーは、一九一〇年にホーソーンという女と結婚しています。女は金持ですが、父親が財布を握っていて、たいして恩恵に浴していません」
「トレイシーさん」とヴァンスが口をはさんだ。「ホーソーンとか甘い父親のことは、どうでもいいんです。ファイフィー白身がそのことを打ち明けてくれましたからね。細君以外の女関係があったら、それを聞かせてください。ほかに女がいますか?」
トレイシーは問いたげにマーカムを見た。ヴァンスに |locus standi《ロクス・スクンディ》(発言権)があるかどうか疑問だったからだ。マーカムがうなずいてみせたので、トレイシーは手帳のぺージをめくって、読みはじめた。
「本件に関して、もうひとりの女を見つけました。現在ニューヨークに住んでおり、ファイフィーの家の近くの薬屋にちょくちょく電話して、伝言を頼んでいます。ファイフィーも彼女を呼び出すのに、同じ電話を使っています。もちろん、薬屋の主人となにか取引きしたんでしょう。女の電話番号は手に入れました。帰るとすぐ電話局で名前と番号を当り、若干調べてみました。ポーラ・バニングといって、未亡人で、ちょっと身持ちのよくない女です。西七十五番街二六八番地のアパートに住んでいます」
トレイシーの情報はこれで終わりだった。彼が行ってしまうと、マーカムはおおらかにヴァンスに微笑した。「トレイシーは、たいしてきみに燃料を供給してくれなかったね」
「とんでもない。信じられないほど、うまくやったと思うよ。まさにわれわれの求めている情報を探り出してくれた」
「われわれの求めているだって?」マーカムはおうむ返しにいった。「ファイフィーの色事なんかより、もっと大切なことがあるのに」
「しかし、きみ、ファイフィーのこの色事こそ、ベンスン殺しを解く鍵になりそうだよ」ヴァンスはそう答え、それ以上なにもいおうとしなかった。
その午後は、ほかにも仕事が山ほどあり、大勢の面会人が待ち受けていたので、マーカムは事務所に昼食を取りよせさせ、ヴァンスとわたしは引きさがることにした。
わたしたちはエリゼーで昼食をとり、クネードラー・ギャラリーでフランス点描派の展覧会を見、それからサンフランシスコの弦楽四重奏団がモーツァルトを演奏しているエオリアン・ホールヘ行った。五時半少しまえに、また地方検事局へ行ったが、その時刻にはマーカム以外の局員はみな退出してしまっていた。
着いてすぐ、ミス・ホフマンがやって来て、率直な、事務的な口調でいい残したことを話した。
「今朝は、全部お話ししませんでした」と彼女はいった。「でも、内密にしていただけないのなら、今だって申しあげようとは思いません。だって、こんなことをお話しすれば、首になるかもしれませんもの」
「約束しますよ」マーカムはいった。「秘密は全面的に尊重します」
秘書はしばらくためらっていたが、やがて話しだした。「今朝ベンスン少佐に、ファイフィーさんと弟さんの口論のことをお話ししますと、少佐はすぐ自分といっしょに検事局に行って、そのことをいわなければならん、とおっしゃいました。しかし、こちらに伺う途中で、話の一部は省いたほうがいいだろうとおっしゃいました。はっきりといってはいかん、とおっしゃったわけではありませんけど、そのことは事件と関係ないし、かえって検事さんを混乱させるだけだということでした。それでその言葉通りにしたのです。でも、あとで事務所に帰ってよく考えてみますと、ベンスンさまのなくなったことがどんなに大変な出来事か、よくわかってきて、とにかく検事さんにお話ししなくてはと決心したのです。もし、そのことが事件に関係があった場合、なにか隠しだてしたように思われたくありませんから」
秘書は、自分の決心が賢明だったかどうか、いくらか不安らしかった。「こんなことをして、愚かな振舞いではないといいのですけど。実は、お二人が口論なさった日、ベンスンさまは、封筒以外にも、金庫から取ってくるようにおっしゃったものがあるんです。四角い、ずっしりした包みで、封筒と同じように、やはり表に『ファイフィー専用』と書いてありました。お二人が口論していらしたのは、どうやらこの包みのことのようでしたわ」
「今朝少佐のために封筒を取り出したとき、その包みは金庫のなかにありましたか?」
「いいえ。先週ファイフィーさんがお帰りになったあと、封筒といっしょに、包みも金庫に返しておいたんですけど。でも、このまえの木曜日──ベンスンさんが亡くなられた日──ご自分で家へ持って帰られました」
マーカムはこの話にわずかしか興味を示さず、会見を打ち切ろうとした。と、そのとき、ヴァンスが口をきいた。
「どうもありがとう、ホフマンさん、わざわざ包みのことを話しに来てくださって。せっかくご足労願ったんですから、一、二おたずねしたいことがあります。アルヴィン・ベンスンさんと少佐の仲はどうでした?」
秘書は面白そうに、かすかに微笑してヴァンスを見た。「いいえ、うまくいっていませんでした。性格がちがいすぎますもの。アルヴィンさんは、あまり愉快な方ではありませんでしたし、こう申してはなんですけれど、あまり人柄もよくありませんでした。とても、ご兄弟とは思えないくらいでした。いつも仕事のことで口論しあって、ひどく警戒しあっていましたわ」
「むりもないな」とヴァンスはいった。「あんなに性格がちがうんだから。それで、どんなふうに警戒しあっていたんですか?」
「そうですねえ。たとえば、ときどきスパイしあうんです。お二人の事務所が隣りあっているもんですから、よくドア越しに盗み聴きなさったりして。わたし、お二人の秘書だもんですから、よくそのところを目撃しました。わたしから、お互いのことを聞き出そうとなさったことも、二、三回あったりして」
ヴァンスはなるほどねえ、というようにほほえんでみせた。「愉快な立場とはいえませんね」
「わたしはべつに気にしていませんでしたけど」秘書はほほえみ返した。「面白かったくらいですわ」
「最後に盗み聴きしているところを見たのは、いつでしたか?」
秘書は急に真剣な顔つきになった。「アルヴィンさんが殺された日のことで、少佐がドアのそばに立っておられるのを見たんです。アルヴィンさんのところに女の方が見えて、少佐はとても関心がおありのようでした。あの日の午後のことだったでしょうか。アルヴィンさんは、その日は早目に帰宅されました。女の方が帰られて、三十分くらいしかたっていませんでした。女の方はまたあとで見えましたけれど、もちろんアルヴィンさんはいらっしゃらず、もうお帰りだと申しあげまして……」
「その女性がだれか知っていますか?」とヴァンスはきいた。
「いいえ。名前もおっしゃいませんでしたから」
ヴァンスはそのほか二、三のことをたずね、そのあと、わたしたちは、ミス・ホフマンといっしょに山の手行きの地下鉄に乗り、二十二番街で彼女と別れた。
道々、マーカムは黙りこくって、なにか考えこんでいた。ヴァンスも、わたしたちがスタヴィサント・クラブのラウンジの安楽椅子にゆったりと腰かけるまで、なにも意見をいわなかった。ややあって、もの憂げに煙草に火をつけながら、ヴァンスはいいだした。
「ホフマンがまたやってくると予言した、ぼくの微妙な心理的過程は理解できるだろう、マーカム? ぼくは、ベンスンが担保なしに偽造小切手に金を払うような男ではないし、あの喧嘩が担保のことについてにちがいないと知っていたんだ。だって、ファイフィーは |alter ego《アルテル・エゴ》(もう一つの自分)に牢屋にぶちこまれることなんて全然心配していなかったからね。ぼくはファイフィーが手形の決済をしないで担保を取り返そうとして、それで『そんなことはできない』といわれたんじゃないかと疑っているんだ。その上、あのゴルデイロックス嬢〔お伽話に登場する少女。最初欲ばりだが、あとでほどほどにすることをさとる。ここでは、むろんホフマン嬢のこと〕はたしかにいい娘かもしれないが、女の本性から考えて、二人の道楽者が口論している隣りの部屋に坐っていて、それに耳を澄まさなかったなんていうことはありえない。その間、タイプを打っていたというけれど、どうだかね。あの女は話してくれた以上のことを聞いたにちがいないとぼくは確信し、では、なぜ、話さなかったのか、と自問した。筋道の通った答はただひとつ、ベンスン少佐がそうしろといったからだ。しかし、あの |gnadigies Fraulein《グナディゲス・フロイライン》(やさしい娘さん)はまっすぐなドイツ塊の持ち主で、生まれながらの自己本位で慎重な正直さをそなえている。そこで、ぼくはあえて予言した。あの女は、後見人の寛大なる監視の眼から逃れるやいなや、あとで真相がわかったとき、わが身を救いたい一心で、残りの話をしにくるだろうとね。説明されてみると、とくに神秘的ではないだろう、マーカム?」
「その辺までは大いに結構だ」マーカムは苛立たしげに譲歩した。「で、その先は?」
「その先は皆目闇だなんて、いうつもりはない」ヴァンスはしばらく平然と煙草をふかしていた。
「怪しい包みには担保が入っていた。それはわかるだろう?」
「充分ありうることだ」マーカムは同意した。「だからといって、べつに驚かないね。きみはぼくにそうしてほしいんだろうけれど」
「推論の技術で鍛えあげたきみの法律的頭脳は」とヴァンスはくったくなさそうに話しつづけた。「むろん、あの包みが事件の当日の午後、プラッツ夫人がベンスンのテーブルの上で見かけた宝石箱だとすでにお見通しなんだろう」
マーカムは、はっと腰を浮かせたが、また肩をすくめて、椅子に身を沈めた。「そうだとしてもわれわれにどんな役に立つのかね。少佐は包みが事件と無関係だと知っていたからこそ、その話は省くように秘書にいったんだろう」
「なるほど。しかし、包みが事件と無関係だと知っていたということは、事件についてなにか知っていたということにはならないかな。さもなければ、なにが事件に関係があり、なにが無関係か、決められないはずだ。ぼくは最初から、少佐は自分で認めている以上になにか知っていると感じていた。忘れてはいけない、ファイフィーのあとを追わせたり、リーコック大尉が無実だと断言したのも少佐なんだ」
マーカムはしばらく考えこんでいた。「きみがなにをいおうとしているか、わかりはじめた」とゆっくりといった。「考えてみると、あの宝石は事件に重大な関係があるのかもしれない。あとで少佐にあって、いろいろ話してみよう」
その夜、クラブで夕食をすませてまもなく、わたしたちがラウンジに退って煙草をくゆらせているところへ、ベンスン少佐がやってきた。マーカムはすぐ少佐の袖を引いた。「少佐、弟さんの死の真相を明らかにするため、もう少し協力していただけませんか?」
少佐は探るようにじっとマーカムを見た。マーカムの口調は、表面的なさりげなさを裏切っていた。
「よろこんで、なんなりとお手伝いしましょう」少佐は一語一語注意深く噛みしめながらいった。「しかし、今のところお話しできかねることも一、二あります。わたしだけのことを考えるのなら」とつけ加えた。「話はべつですが」
「だれかを疑っておられるのですか?」とヴァンスが口をはさんだ。
「ええ、ある意味では。ある日、アルヴィンの部屋での会話を聞いてしまいましたが、死なれてみるとべつの意味が加わってきましてね」
「これは騎士道とは関係ありませんよ」マーカムは説得した。「その疑いに根拠がないのなら、きっと真実が明らかになるわけですから」
「しかし、わたしは知っているわけじゃない。推量はつつしむべきです」少佐はきっぱりいった。「わたしを抜きにして問題を解決なさるのがいちばんです」
マーカムの懇願にもかかわらず、少佐はそれ以上語ろうとせず、すぐに「では、これで」と行ってしまった。
マーカムは深く思い悩むふうで、落ち着かなげに椅子の肘掛けを指でこつこつと叩きながら、煙草をふかしていた。
「どうだい。マーカム先生、少々困惑のようだね」とヴァンスはいった。
「笑いごとじゃないよ」マーカムは不平を鳴らした。「警察や地方検事局以上に、だれもこの事件について知っているらしいね」
「みながこれほど口をつぐんでいなかったなら、そんなに困ることはないんだが」とヴァンスは楽しそうに補足した。「それに、感動的なのは、みんながだれかをかばおうとして、おとなしくしているらしいことだ。まずプラッツ夫人。彼女はベンスンの茶のみ友だちを巻きぞえにしたくないというので、あの日の午後来客はなかったと嘘をついた。セント・クレアは、だれかに疑いがかかるのを防ぐため、いっさいしゃべることを拒否した。リーコック大尉は、婚約者が関係しているらしいときみにほのめかされたとたん、だんまりをきめこんでしまった。リアンダーさえ、他人を巻きぞえにするのを怖れて、自分を微妙な立場から引き出すことを拒んだ。そして今度は少佐だ。まったく困ったもんさ。しかし、こういう気高い、自己犠牲的な魂の持ち主ばかりとつきあうのは、楽しいもんだ。精神が高揚するとまではいわないがね」
「畜生!」マーカムは葉巻を置いて、立ちあがった。「今度の事件で神経が参りそうだ。事件をかかえてひと眠りして、明日の朝とりくむことにしよう」
「問題をかかえて眠るという昔からの考えは、あやまりだね」とヴァンスは、マディスン・アヴェニューに歩いて行きながらいった。「あれは、明晰にものを考えることができない人間のいわば |apologia《アポロギア》(弁解)だ。詩人はすべて、それを信じている。やれ、自然のやさしい乳母だの、悩みの鎮静剤だの、子供のマンダラゲー〔植物の一種で、催眠作用があると信じられている〕だの、疲れた自然の甘美な回復剤だのといっている。ばかな考えだ。頭脳はねじを巻いて活動しているときのほうが、ねむったあとぼんやりしているときよりも、はるかによく働くんだ。睡眠は、きみ、鎮静剤であって、刺激剤ではない」
「じゃあ、きみは眠らずにいて、考えるさ」とマーカムは無愛想にいった。
「そうするつもりだ」ヴァンスは陽気にいった。「しかし、ベンスン事件のことじゃない。そちらのことは、四日まえに全部考えてある」
十七 偽造小切手
六月十九日水曜日午前
翌朝、わたしたちはマーカムといっしょに下町に車を走らせた。検事局に着いたのはまだ九時まえだったが、ヒースがすでに待っていた。ヒースは心配そうで、話す声には地方検事にたいする非難を隠しきれなかった。
「リーコックはどうします、マーカムさん?」とヒースはきいた。「早いとこつかまえたほうがいいですよ。ちゃんとつけてあるからその点はいいんですが、どうもくさいところがある。昨日の朝、リーコックは銀行へ行って、半時間ばかり出納係長の部屋にいました。そのあと、弁護土を訪ね、一時間以上話しこみ、また銀行に引き返して、半時間ほどいました。それから、アスター・グリルヘ昼食を取りに入りましたが、なにも食べずに、じっとテーブルを見ながら坐っていました。二時頃、住んでいるアパートを管理している不動産会社へ行き、奴が出たあとで調べてみると、アパートを明日から又貸しに出したのです。そのあと、友だちを六人ほど訪ね、家へ帰りました。夕食のあと、わたしの部下がアパートのベルを鳴らして、ホージッツさんはおいでですかときいてみると、リーコックの奴、荷作りをしてるところでした。どうも、ずらかるつもりらしいですよ、検事」
マーカムは額に皺をよせた。ヒースの報告を聞いて、不安になったのだ。だが、なにかいおうとするまえに、ヴァンスが口をはさんだ。「なにをそんなにあわてるんです、部長? 大尉は見張ってあるんでしょう。それなら、逃げられるはずがない」
マーカムはちょっとヴァンスを見て、またヒースのほうを振り向いた。「放っときたまえ。だが、もし市を出ようとしたら、つかまえるように」
ヒースはむっとして出て行った。
「ところで、マーカム」とヴァンスはいった。「今日、十二時半にはだれとも会う約束をしないでくれよ。きみは先約があるんだから。しかも、女性と」
マーカムはペンを置いて、眼を丸くした。「そんなばかな」
「きみのかわりに約束しておいたんだ。今朝、その女性に電話した。きっと、まだおやすみ中のところだったろう」
マーカムは口から唾をとばしながら、けんめいにいきどおりをこめて抗議した。
ヴァンスはなだめるように手をあげて制止した。「なあに、きみは約束を守りさえすればいいんだ。きみだといって電話したんだから、会わないというのは礼儀に反する。約束してもいい。決して彼女に会ったことを後悔しないから。昨晩は、なにもかもすっかりこんがらがってしまって、ぼくはきみが悩んでいるのを見るに忍びなかったんだ。で、ポーラ・バニング──それがファイフィーのエロイーズ〔神学者アベラールとの恋愛で有名な、十一世紀フランスの尼僧〕──と会う約束を、きみになりかわってしたというわけさ。きっと彼女が今きみを包んでいる深い憂うつを幾分なりとも晴らしてくれることは疑いない」
「おい、きみ」とマーカムはどなった。「断わっておくが、この事務所を管理しているのは、このぼくだ──」あとをつづけようとして、マーカムは急に言葉を切った。相手ののんびりした態度に、いくらさからったところで無駄だとさとったからである。それに、ポーラ・バニングと会うことは、まったく気が進まないというわけでもなかったのだろう。マーカムの怒りは少しずつおさまって、ふたたび口をきいたときは、ほとんど事務的な声にもどっていた。
「ぼくの名を使った以上、会おう。しかし、ファイフィーがその女とそれほど深い関係があったとは思えないね。あらかじめ決めておいて、ときどき寄るぐらいの仲じゃないのかね」
「ふしぎだな」とヴァンスはつぶやいた。「ぼくもそう思った。だから、昨晩ファイフィーに電話して、ロング・アイランドに帰って結構ですといっておいた」
「きみが電話したって?」
「まことに申しわけない」ヴァンスはあやまった。「しかし、きみはもう寝ていたし、眠りで気苦労をいやしているところだったから、起こすに忍びなかった。ファイフィーもとても感謝していた。感動するほどだった。妻もきっと感謝するでしょう、とかいってね。ほろりとするくらい細君思いなんだな。しかし、家をあけた理由を説明するのは、さぞかし猫撫で声で弁舌をふるわなければなるまい」
「ぼくが知らぬ間に、あとどこにぼくの名を持ち出した?」とマーカムは辛辣にいった。
「それだけさ」とヴァンスは答え、椅子から立ちあがって、窓辺に歩いて行った。彼はそこに立って外を見ながら、考えこむように煙草をふかしていたが、ふたたび室内にもどってきたときは、今までのからかうような態度は消えていた。ヴァンスはマーカムと向かいあわせに腰をおろした。
「少佐は」とヴァンスはいいだした。「事件について、われわれに語った以上のことを知っていると認めたも同然だ。むろん、きみは、この事件で少佐のとった立派な態度から考えて、その点を追求することはできないだろう。しかも、少佐は自分からきみに話すことはできないが、きみに自分の知っていることを探り出されたがっている。昨日の晩、少佐がとった態度はまさにそれだ。そこで、主義にさからってまで協力してくれと少佐に頼まなくても、少佐の知っていることを探り出す方法がある、とぼくは思う。きみはホフマンさんが話した立ち聴きのことを覚えているだろう。また、ある会話を耳にしたが、弟が殺されたことと考えあわせると、どうもそれが意味を持ってきた、と少佐がいったのを覚えているだろう。だから、少佐の知っていることというのは、会社の仕事か、少なくとも店の客のひとりに関係があるんじゃなかろうか」
ヴァンスはゆっくりと新しい煙草に火をつけた。
「そこで、ぼくの提案はこうだ。少佐を呼び出して、店の元帳と取引き台帳をちょっと見たいから、人を差し向けていいかと頼むのだ。ある顧客の取引きについて知りたいことがあるといえばいい。セント・クレアでも、ファイフィーでもいい、好きな名前をほのめかしておくのだ。そうすれば、少佐がかばっている人間がだれか、つきとめられそうな気がする。ふしぎな神がかり的な予感というやつでね。それにまた、少佐はきみが元帳に関心を持ったことを歓迎するだろうという予感もする」
この計画は、マーカムには実行できるとも、可能性があるとも思えなかった。彼がそんなことをベンスン少佐に要求したくないことは明らかだった。しかし、ヴァンスの決意がすこぶる強く、熱心にその方法を主張したので、結局マーカムも折れた。マーカムは受話器を置きながら、「少佐は快く承知してくれた。実際、できるかぎり援助してくれるらしい」といった。
「こちらの提案を快く聞いてくれると思っていた」とヴァンスはいった。「少佐がだれを疑っているか、こちらで見つければ、あの男は告げ口をしたという負い目から逃れられるわけだから」
マーカムはベルを鳴らして、スワッカーを呼んだ。「スティットに電話して、昼まえにここで会いたいといってくれ。急用があるといってな」
「スティットは」とマーカムはヴァンスに説明した。「ニューヨーク生命ビルにある計理事務所の所長でね。こういう仕事をよく頼むんだ」
正午少しまえに、スティットがやってきた。年にしてはふけた青年で、鋭い抜け目なさそうな顔をし、たえず顔をしかめていた。地方検事のために働くというのが、気に入っているようだった。
マーカムは手短かに用件を説明し、仕事の参考になる程度に事件の内容を打ち明けた。スティットはすばやく事情を呑みこみ、薄汚れた封筒の裏に、一、二なにごとか書きつけた。
ヴァンスも、マーカムが指示を与えている間に、なにか紙切れに書きつけた。
マーカムは椅子から立ちあがり、帽子をとった。「さあ、きみがぼくのかわりにしてくれた約束を守らなければなるまい」とヴァンスに不平をいった。それから、スティットに向かって、「来たまえ、スティット。判事専用のエレヴェーターで下まで連れて行ってあげよう」
「申し訳ないが」とヴァンスが口をはさんだ。「スティットさんとぼくは、その光栄をご辞退申しあげて、一般用リフトで降りる。下で落ち会おう」そういうと、計理士の腕をとって、主要待合室のほうへ連れ出した。しかし、わたしたちといっしょになるまでに十分もかかった。
わたしたちは七十二番街まで地下鉄で行き、ウェスト・エンド・アヴェニューを歩いてポーラ・バニングの家へ行った。彼女は七十五番街のちょっと角を曲った小さなアパートに住んでいた。戸口に立って、わたしたちの押したベルの返事を待っていると、中国の香料のきつい匂いがただよってきた。
「おや、これは都合がいい」とヴァンスはくんくん鼻をいわせながらいった。「線香をたく女は、きまって感傷的なんだ」
ポーラ・バニングは、背の高い、ややふとりぎみの、年の見当がつきかねる女で、麦わら色の髪に、白とピンクの肌の色をしていた。落ち着きはらった顔は若々しく、間の抜けた無邪気さをたたえていたが、それはほんのうわべだけだった。ライト・ブルーの眼はきびしく、頬骨や顎の下のかすかなたるみが、長年の怠惰で気ままな生活を物語っていた。しかし、派手でけばけばしいなりに、魅力があった。そして、やたらに家具で飾り立てたロココふうの居間に、わたしたちを招じ入れたその物腰は、うちとけて、親しみがこもっていた。
椅子にかけると、マーカムはこうして参上したことを詫び、さっそくヴァンスが質問者の役を引き受けた。まずあれこれと釈明しながら、ヴァンスは望みの情報を得るのには、どうやって近づくのが一番か決めようとするように、注意深く彼女を観察していた。
二、三分言葉で軽くあたってから、ヴァンスは煙草を吸ってよいかとたずね、女に煙草をすすめた。女は一本受けとった。それから、ヴァンスはかたじけないというように愛想よくほほえみかけ、ゆったりと椅子に背を伸ばした。その態度は、彼女が話すことはすべて同情をもって聞くつもりだという印象を与えていた。
「ファイフィーさんは、あなたを事件の巻きぞえにしないように、ずいぶん努力されましてね」とヴァンスはいった。「われわれとしても、あの方のそういう心づかいは充分に理解しているつもりです。ところが、ベンスンさんの殺害に関連したある事情から、偶然あなたも事件に巻きこまれてしまったという次第です。そこで、われわれの知りたいと思うことに答えてくだされば、われわれも、あなた自身も、とりわけファイフィーさんも助かるのです。われわれは慎重かつ理解をもって事件にあたりますから、どうかその点はご心配なさらないように」
ヴァンスはとくにファイフィーの名前に抑揚をつけて、強調した。女は不安げに眼を伏せている。心配していることは明らかで、ふたたびヴァンスの眼を見上げたとき、彼女はまるで口に出していったと同じくらい明瞭にこう自らに問うていた。「いったい、この男はどの程度知っているんだろう?」
「なにをお話しすればよいのか見当もつきませんわ」と女は驚いたふうを装って、たずねた。「あの晩、アンディーがニューヨークにいなかったのはご存知でしょ」あの優雅で、乙にすましたファイフィーを「アンディー」と呼ぶのは、まるで |Lese majeste《レーズ・マジェステ》(不敬罪)のように聞こえた。「アンディーが市に着いたのは、次の日の朝九時頃でしたもの」
「ベンスンの家の前にとめてあったグレイのキャディラックのことは、新聞で読まなかったんですか?」とヴァンスは、自分も驚いたふりをしながら、たずねた。
女は自信たっぷりに微笑した。「あれはアンディーの車じゃありませわ。アンディーは翌朝の八時の汽車でニューヨークに出てきたんです。ぼくと同じ車が、前の晩ベンスンさんの家の前にあったと知って、汽車で来てほんとうによかったっていっていました」
彼女の口調は誠実で、確信にみちあふれていた。そのことで、ファイフィーが女に嘘をついたのは明らかだった。
ヴァンスは女のあやまりを正すことはせず、それどころか、今の説明を受け入れ、殺人の当夜、ファイフィーがニューヨークにいたという疑いは捨て去ったようなふりをした。
「あなたとファイフィーさんが事件に巻きこまれたとわたしがいったのは、もう少し別の関係を考えていったのです。つまりあなたとベンスンさんの個人的関係を」
女は微笑して、われ関せずの態度をとった。「また考えちがいをしていらっしゃるのね」と気軽にいった。「ベンスンさんとわたしは、お友だちでさえありません。実際、ほとんど存じませんもの」
彼女の否定には、力がこもりすぎていた。信じてもらおうという気持が表に出て、完全に無頓着にいおうとしたのが、少々熱が入りすぎていた。
「商売上の取引きにだって、個人的な面はありますよ」とヴァンスは注意した。「とくに、間に立つ人がその取引きをする双方の親友である場合は」
ポーラ・バニングはすばやくヴァンスを眺め、眼をそらした。「なんのことをおっしゃっているのか、わたしほんとうにわかりません」顔からは一瞬あどけなさが消え、打算的になった。「まさか、わたしがベンスンさんと商売上の取引きがあったっておっしゃるんじゃないでしょうね?」
「直接的にはなかったでしよう。しかし、たしかにファイフィーさんは、あの人と商売上の取引きがありました。だから、あなたもかなり引きずり込まれたことがあるんじゃないかと思うのです」
「わたしがひきずりこまれたですって?」女は軽蔑したように笑ったが、その笑いは引きつっていた。
「どうも不幸な取引きのようでしたね」とヴァンスはつづけた。「ファイフィーさんがベンスンさんと取引きしたのも不幸だったし、あなたをひきずりこむことになったのも、重ね重ねの不幸でした」
ヴァンスの態度はゆったりと自信ありげだった。女は、どんなにうまく芝居しても、軽蔑しても、侮辱しても、相手にはなんの効き目もないことをさとった。そこで、ぐっとこらえて、愉快そうに頭から信じられないという態度をとることにした。
「どこで、そんなことをおききになりまして?」と彼女は冗談めかしてたずねた。
「ところが、どこからもきいたわけじゃないんでしてね」とヴァンスは、相手の態度に調子をあわせた。「だから、こうして、この楽しい訪問をさせていただいた次第です。われながら愚かな話ですよ。なにも知らないわたしをあわれんで、すっかり話してくださるだろうと思いこんでいたんですから」
「だって、わたしそんなことをするつもりはありませんわ」と女はいった。「かりに、その謎の取引きがほんとうにあったとしても」
「これは驚いた!」とヴァンスは溜息をついた。「がっかりですよ。よろしい。では、わたしのわずかばかりの知識をお話して、あとはご同情にすがって、もっと教えてくださることをあてにしていますよ」
ヴァンスの言葉は底にぶきみなものを感じさせたが、そのうわついた口調が女の不安をしずめる働きをした。彼女は、相手がどれだけ自分について知っているにしろ、好意的であることはたしかだと感じた。
「ファイフィーさんが、一万ドルの小切手にベンスンさんの名前を偽造したことはご存知ですか?」とヴァンスはきいた。
女は自分の返事ひとつでどういう結果になるかをはかりにかけながら、ためらっていた。「ええ、存じています。アンディーがなにもかも話してくれますの」
「では、ベンスンさんが、そのことを知って、ひどく怒ったことも? 実際、小切手を払うまえに、手形と詑び状を書かしたこともご存知ですか?」
女の眼は怒りに燃えあがった。「ええ、それも存じてます。あんなにベンスンさんのためにつくしたのに。この世の中に射ち殺されていい人間がいるとすれば、アルヴィン・ベンスンがそうですわ。卑劣な男よ。それなのに、アンディーのいちばんの親友のふりをして。考えてもごらんなさい。詑び状を書かないと、アンディーにお金は貸さないなんて! そんなもの商取引きといえますか。薄汚ない、軽蔑すべき、よこしまなペテンだわ」彼女はたけり立っていた。育ちのいい、人のよさそうな仮面はかなぐり棄てられ、自分がなにをいっているかさえ気づかずに、ベンスンに悪態をあびせかけた。彼女の言葉には、初対面の者同志のつきあいのもつふつうの控え目さがすっかり失せていた。
ヴァンスは女がまくし立てているあいだ、慰めるようにうなずいた。「まったく、心からご同情します」このヴァンスの言い方で、女はいっそう |rapprochement《ラプロシュマン》(親しみ)を感じたらしかった。
しばらくして、ヴァンスは彼女にしたしげにほほえんでみせた。「でも、担保まで要求しなかったら、詑び状を書かせたのはまだ許せたんでしょうがね」
「担保って、なんですの?」
ヴァンスは、女の口調の変化をすばやく感じとった。相手がいきり立っているのをうまく利用して、女の防御がくずれたときに、担保のことをいいだしたのだ。女がおびえ、ほとんど無意識にこうたずねたとき、ヴァンスは好機が到来したことを知った。彼女が心の均衡をとりもどし、一時的に襲った恐怖から回復するまえに、ヴァンスはおだやかに、慎重に言葉を選びながらいった。「ベンスンさんは射たれた日、事務所から、小さな青い宝石箱を家に持って帰ったんです」
思わず彼女は息をのんだが、ほかには動揺したしるしは表に出さなかった。「あの人が盗んだとお考えですの?」
こういってしまった瞬間、女は作戦をあやまったことに気がついた。ふつうの男なら、この質問で、一瞬真相からそらされたにちがいない。しかし、ヴァンスがにっこりしたので、彼女は相手がそう思っていることをさとった。
「手形の担保に自分の宝石をファイフィーさんにお貸しになるなんて、見上げたもんですな」
これを聞くと、女はさっと顔をあげた。顔からは血の気が失せ、頬紅がまだらで、不自然な色になっている。「わたしがアンディーに宝石を貸したですって! 絶対にそんな──」
ヴァンスは軽く手をあげて、じろりと見、相手を黙らせた。彼女は、今あまりに強く、はっきりしたことをいったために、あとでみじめな思いをしなくてもすむようにしてやろうというヴァンスの気持を読みとった。敵ではあるが、ヴァンスのこの思いやりのある振舞いは、いっそう女に信頼感を抱かせた。
ポーラ・バニングは椅子に深くよりかかり、両手をゆるめた。「どうして、わたしがアンディーに宝石を貸したとお考えですの?」
その声は無表情だったが、ヴァンスには質問の意味がよくわかった。それは彼女のごまかしの最後であり、あとに来る沈黙は恩赦だと、二人ともそう理解した。次の言葉は真実のはずだった。
「アンディーに宝石を貸さなければならなかったんです。でなかったら、ベンスンはあの人を牢屋に入れたでしょう」女の言葉には、ろくでなしのファイフィーにたいする奇妙な、自己犠牲的な愛情が読みとれた。「かりにベンスンがそうしないで、小切手の支払いを断わっただけだったとしても、あの人の義父《おとうさん》がそうしたでしょう。アンディーときたら、もう無分別で。無考えで。結果をはかりにかけないで、なんでもやるんです。わたしがいつもおさえているんですけれど──でも、今度のことでは、いい教訓になりました。わたし、そう信じているんです」
わたしは、この世にファイフィーに効き目のある教訓があるとすれば、この女の盲目的な誠実さこそそれだろうと思った。
「先週の水曜日ベンスンさんの事務所でファイフィーさんが喧嘩したのは、なぜだか知っていますか?」とヴァンスはたずねた。
「みんな、わたしが悪いんだわ」と女は溜息をつきながらいった。「手形の期限はせまってくるし、アンディーにはそんなお金はありません。わたし、そのことをよく知っていましたので、アンディーにベンスンのところへ行って、あるだけのお金を渡して、宝石を返してもらえるかどうか聞いてほしいと頼んだんです。でも、断わられました。おおかた、そうだろうと思っていましたけれど」
ヴァンスは同情するように、しばらく女を見つめていた。「必要以上にあなたを悩ませたくはないのですが」と彼はいった。「さっきベンスン氏にずいぶん腹を立てておられたけど、その本当の理由を聞かせてくれませんか?」
女は感心したようにヴァンスにうなずいた。「ええ、おっしゃるとおりです。わたしはベンスンを憎む立派な理由があるんです」
彼女は思い出しても不愉快だというふうに眼を細めた。「アンディーに宝石を返すことを断わった翌日──午後のことでしたわ──ベンスンからわたしに電話がありました。次の日の朝、家へ朝御飯をたべに来ないかというんです。今家にいて、宝石は手もとにある、きみさえその気なら、宝石をきみに返さないものでもないって。そんなことほのめかすのよ。ほんとにけだものみたいな男だわ。わたし、ポート・ワシントンのアンディーにそのことを電話で話してやったら、アンディーは翌朝ニューヨークヘ行くって。アンディーがここに着いたのは九時頃で、わたしたちはそのとき新聞で、ベンスンがまえの晩殺されたことを知ったんです」
ヴァンスは長いこと黙っていた。それから、立ちあがって女に礼をいった。「大変参考になりました。マーカム君はベンスン少佐の友人で、それに小切手も詑び状もこちらの手もとにありますから、マーカム君から少佐に頼んで、友人同志のよしみで二つとも破棄する許可を得ることにしましょう。さっそくにね」
十八 自供
六月十九日水曜日午後一時
わたしたちがふたたび外へ出たとき、マーカムがたずねた。「いったい、あの女がファイフィーを救うために、自分の宝石を差し出したことがどうしてわかったんだね?」
「ぼくのすばらしい形而上学的な推理のおかげさ」とヴァンスは答えた。「まえにいったとおり、ベンスンは担保なしで金を貸すような気前のいい、太っ腹の博愛主義者じゃない。そして、貧乏なファイフィーに一万ドルに相当する担保なんてあるわけがない。もしあれば、小切手の偽造なんかしなかったろう。ゆえに、だれかがファイフィーに担保を貸したことになる。そこで、ファイフィーのあの驚くべき欠点に盲目で感傷的な女以外、だれがあの男を信用してそんな額の担保を貸すだろうか。あの男がだれかに au revoir(さよなら)をささやくためにニューヨークに泊まったといったとき、このユリシーズ君の生活にはカリュプソ〔オデュッセウスに恋した海の妖精〕がいると疑うだけの人の悪さを、ぼくだって持ちあわせていた。ファイフィーのような男が相手の性別を明らかにしないとき、まず相手は女だと考えてもまちがいはない。で、ポール・プライ〔イギリスの劇作家ジョン・プールの喜劇に登場するろくでなし〕をポート・ワシントンにやって、あの男の女関係を洗ってはどうかときみに提案したわけだ。きっと、|bonne amie《ボナミ》(女友だち)が見つかるに違いないと思ってね。それから、明らかに担保にちがいない謎の包みの内容は詮索好きな家政婦が見たという宝石箱にまちがいないと思ったので、ぼくはこう考えた。『なるほど。リアンダーの心得ちがいのダルシニア〔ドン・キホーテが憧れた、でぶの田舎娘〕は、男を牢に入れまいとして安ぴか物を貸したんだな』また、ぼくは、あの男が小切手のことを説明したとき、だれかをかばっている事実を見逃さなかった。だから、トレイシーが女の名と住所を探り出すとすぐ、きみにかわって面会の約束をとりつけたんだ」
わたしたちは、七十三番街をウェスト・エンド・アヴェニューからリヴァーサイド・ドライブにかけて並んでいるゴシック・ルネサンス・シュワプふうの住宅地を通っていた。ヴァンスはしばらく立ち止まって、それを眺めていた。マーカムは辛抱しながら待っていた。ようやくヴァンスは歩きだした。
「バニング夫人を見た瞬間、ぼくは自分の結論が正しかったことを知った。あれは感傷的な女で、|amoroso《アモローゾ》(愛人)のためには宝石でもなんでも平気で投げ出してしまう、人のよい職業的な女によくあるタイプだ。それに、われわれが訪ねたとき、あれは宝石を身につけていなかったね。ああいう種類の女は、他人に印象を与えようと思うと、かならず宝石をつけたがるものなんだ。おまけに、ああいう女は、米びつはからっぽでも、宝石は持ちたがるもんだ。だから、どうやってあの女に口を開かせるか、それだけが問題だった」
「全体として、きみはみごとだったよ」とマーカムが批評した。
ヴァンスはうやうやしくお辞儀をした。「身にあまるお言葉です、サー・ヒュバート。ところで、ぼくとあの女のおしゃべりから、なにか一条の光が得られたかね?」
「もちろんだ。ぼくだって、それほど鈍感じゃない。あの女は自分じゃ気づかずに、こっちの思う壷にはまった。ファイフィーが事件の翌朝までニューヨークには来なかったと信じていて、だから、ベンスンが宝石を自宅に持ち帰ったとファイフィーに電話で知らせたなんて、平気でわれわれに話したんだ。だから、こういうことになる。ファイフィーは宝石がベンスンのうちにあるのを知っていて、殺人の時刻に現場にいた。その上、宝石は紛失していて、ファイフィーは当夜の足どりをごまかそうとしたとね」
ヴァンスは処置なしだというふうに溜息をついた。「マーカム、きみにとって、この事件には木が多すぎるんだ。だから、きみにはまるで森が目に入らない」
「きみのほうはある特定の木を見るのに忙しくて、ほかの木に気がつかないという趣きがあるようだ」
ヴァンスの顔を影がかすめた。「きみのいうとおりだといいんだが」と彼はいった。
もう一時半近かった。わたしたちは昼食をとりにアンソニア・ホテルの泉の間に立ち寄った。マーカムは、食事の間中、じっと考えこんでいた。ホテルを出て地下鉄に乗ると、マーカムは落ち着かぬ様子で腕時許を見た。
「事務所へ帰るまえに、ウォール街へ行って、ベンスン少佐を訪ねてみようと思う。少佐がホフマンに包みのことはぼくに話すなと口止めしたのが、どうも解《げ》せない。結局、宝石なんて入っていなかったのかもしれないな」
「アルヴィンが少佐に包みのことでほんとうのことをしゃべったなんて、きみは少しでも思うのかね? あれはあんまり立派な取引きじゃなかった。おそらく、少佐はアルヴィンに一文句つけたかったところだろう」
ベンスン少佐の説明は、ヴァンスの推測どおりだった。マーカムはポーラ・バニングと会ったことを話し、宝石のことをとくに強調した。少佐が自発的に包みの件にふれてくれるだろうと期待したからだ。ミス・ホフマンと約束した手前、マーカムは少佐が包みのことを知っていることを承知しているというわけにはいかなかった。
少佐はすっかり驚いて聴いていたが、次第にその眼は怒りに燃えはじめた。「すると、アルヴィンにだまされたようですな」少佐はいって、しばらく前をにらんでいたが、だんだん顔がやわらいできた。「しかし、もうアルヴィンも死んだことだし、そんなことは考えたくもない。実は、今朝、ホフマン君がわたしに封筒のことを話したとき、アルヴィンの個人的な引き出しに小さな包みがあるといったのです。しかし、そのことはあなたにいう必要はないとホフマン君にいっておきました。包みには、バニングさんの宝石が入っているのは知っていましたが、お話したところで、いっそう問題が面倒になると考えましてね。アルヴィンがいうのには、バニングさんは債務上の問題で訴えられ、補償手続がとられる直前に、ファイフィーが夫人の宝石を持ってきて、一時的に弟の金庫に預ってほしいと頼んだとかいう話です」
刑事法廷ビルにもどる途中、マーカムはヴァンスの腕をとって、ほほえんだ。「きみの当て推量は、まだうまくいっているようだね」
「まあね」とヴァンスはあいづちをうった。「故アルヴィン・ベンスン氏は、ウォーレン・ヘイスティング〔辣腕《らつわん》で有名なイギリスの政治家〕よろしく、最後までごまかし抜いて死ぬ決心だったようだね。|Splendide mendax《スプレンディーデ・メンダクス》(輝かしき偽り)というわけか」
「とにかく」とマーカムは答えた。「少佐は自分では気づかずに、ファイフィーにたいする不利な鎖の環を、もうひとつつけ加えたことになる」
「きみは鎖を集めているらしいな」ヴァンスはそっけなくいった。「セント・クレアとリーコックのために作った鎖はどうなった?」
「あれだって、まだすっかり捨てたわけじゃない。きみはそう思っているかもしれないが」とマーカムは敢然といった。
事務所に着くと、ヒース部長刑事が笑みくずれて待っていた。「すっかり片がつきました、マーカムさん。お出かけになったあと、正午に、リーコックがあなたに会いにここにやって来ました。お留守だと知ると、本部へ電話して、わたしが出たんです。リーコックは重要な用件でぜひ会いたいというもんで、急いで検事局へ駆けつけました。すると、やっこさん待合室に坐っていて、わたしを呼びとめ、『自首してきました。ベンスンを殺したのはわたしです』というじゃありませんか。わたしはスワッカーに奴の自供をとってもらい、署名させました。これがそうです」ヒースはマーカムにタイプした紙切れを渡した。
マーカムはぐったりして椅子に身を沈めた。この数日来の緊張がこたえはじめたのだ。そして、深く溜息をついた。「ありがたい。これで、苦労も終わった」
ヴァンスはいたましげにマーカムを眺め、頭を振った。「マーカム、きみの苦労はこれからだと思うがねえ」
マーカムは自供書にさっと目を通すと、ヴァンスに渡した。丹念に読んでいたヴァンスの目に、次第に面白そうな表情が浮かんできた。
「ねえ、きみ」とヴァンスはいった。「この書類は、法律的に無価値だ。いやしくも判事と名のつく人間なら、即座に法廷の外に放り出してしまうだろう。あまりにも単純で、簡潔すぎる。『前文』もなければ、『しかるがゆえに』も、『上記の理由で』も、『よって件《くだん》のごとし』も、なにひとつ書かれていない。『自由意志に基づき』も、『健全なる精神状態において』も、『記億に従って』ともなんとも書いていない。第一、大尉は自分のことを『当事者』とはただの一度もいっていない。全然無価値ですよ、部長。ぼくだったら、こんなものはポイと捨ててしまいますがね」
ヒースはすっかり得意になっていたので、ヴァンスがこういっても腹を立てなかった。寛大に微笑するばかりだった。「そんなにこれがおかしいんですか、ヴァンスさん?」
「どんなにおかしいかわかったら、きっとあなたはヒステリーを起こすでしょう、ヒースさん」
ヴァンスはマーカムのほうに向き直った。「実際、ぼくはこの自供に重きを置かない。真理を掘り起こす貴重なてこになるかもしれないが。ともあれ、大尉殿が想像力ゆたかな文学を愛好されたとは、ご同慶のいたりだ。こういうすばらしいお伽噺を手に入れたからには、少佐のためらいを取り除いて、知っていることをしゃべらせることができるだろう。ぼくの想像がまちがっているかもしれないが、やってみる価値はあるだろう」
ヴァンスは地方検事の机に歩み寄り、彼をまるめこもうとするように、ぐっと身体をのりだした。「ぼくはまだきみを迷わせたことがなかったね、マーカム。そこで、もうひとつ提案したいことがある。少佐に電話して、すぐここに来てほしいというんだ。自白した者があるといってね。それがだれかはいう必要がない。セント・クレア、ファイフィー、それともポンティウス・ピラトー〔新約聖書に登場するユダヤの太守で、キリストを裁いた〕、だれとでも思わせておきたまえ。とにかく、すぐ来てくれというんだ。起訴手続きをとるまえに、会って話したいといえばいい」
「そんな必要を認めないね」とマーカムはいった。「今夜きっとクラブで会えるだろう。そのとき話せばいい」
「それではだめだ」とヴァンスは主張した。「少佐がなにかわれわれを啓発できるなら、ヒース部長も同席して聞いてもらわなくては」
「啓発してもらう必要はありません」とヒースが口をはさんだ。
ヴァンスは驚いて感心したようにヒースを見た。「すばらしい人だ、あなたは! ゲーテでさえ |mehr Licht《メア・リヒト》(もっと光を、の意味。ゲーテの最後の言葉)と叫んだのに、あなたは光なんかあきあきしたとおっしゃる。驚くべきことだ!」
「ねえ、ヴァンス」とマーカムはいった。「なぜ、きみは問題を複雑にしたがるのかね? 少佐を呼んで、リーコックの自供について議論するなんて、ぼくには余計な時間の浪費としか思えないね。とにかく、もう少佐の証言などいらないのだ」ぶっきらぼうではあったが、マーカムの声には、なにか考え直している様子がうかがわれた。彼の本能は今の要求を拒否したいところだったが、この数日来の経験から、ヴァンスの提案には必ずなんらかの目的があることを知っていたからである。
ヴァンスは相手のためらいを見てとった。
「ぼくの要求は、今少佐の赤ら顔を拝見したいというたわけた気持以上のものなんだ。少佐にここに来てもらうことは、とても役に立つ。ぼくのわずかばかりの熱意をこめて、そういいたいね」
マーカムは考えこみ、しばらく自説を主張した。しかし、ヴァンスが折れなかったので、とうとう妥協するのが得策だとさとった。
ヒースは明らかに不快そうだったが、黙って坐って、葉巻に慰めを見出していた。
ベンスン少佐は驚くほど早くやってきて、マーカムから自供書を渡されると、ほとんど熱心さを隠そうともしなかった。だが、読み進むにつれて、顔をくもらせ、目には当惑の色が浮かんできた。
やがて少佐は眉をひそめ、顔をあげた。
「どうもよくわかりませんな。まったく驚きました。リーコックがアルヴィンを殺したとは信じられん。もちろん、わたしがまちがっているかもしれないが」少佐は失望したように自供書をマーカムの机の上に置き、椅子に身を沈めた。「これで満足ですか、あなたは?」と少佐はいった。
「こんなところでしょう」とマーカムはいった。「無実なら、わざわざ自白しにくるわけがないでしょう。リーコックに不利な証拠がいっぱいあるのです。もう二日まえに逮捕しかけたほどでした」
「まちがいなく犯人ですよ」とヒースが口をはさんだ。「最初から目をつけていた」
ベンスン少佐はすぐには答えず、次の言葉を考えているらしかった。「自白したのも、なにかひそかな動機があってのことかもしれませんな」
少佐の言葉の裏にどんな考えが隠されていたか、わたしたちみなにはわかったように思う。
「最初は、わたしも」とマーカムは認めた。「セント・クレアが犯人だと信じて、リーコックにそのことをほのめかしたのです。しかし、あとであの女は直接の関係はないと確信を持つようになりましてね」
「リーコックはそのことを知っているでしょうか?」と少佐は早口にたずねた。
マーカムはしばらく考えていた。「いいえ、知っていないでしょう。実際、わたしがまだあの女を疑っていると思っているでしょう」
「ああ!」と少佐は思わず歎息をもらした。
「しかしそれがどうしたというんです?」とヒースは苛々してたずねた。「恋人の名誉を救うために、あの男が電気椅子に坐ろうとしているとでもいうんですか? ばかばかしい。そんな話は映画だけのことで、実人生では、それほどの気狂いはいませんよ」
「そうは断言できないでしょう、部長」とヴァンスがもの憂げに口をはさんだ。「女は健全で実際的だから、そんなばかげたことはしないでしょう。しかし、男はとてつもなく愚かしいことをする能力を持っていますからね」ヴァンスは探るような視線を少佐に向けた。「どうして、あなたはリーコックがサー・ガラハッド〔アーサー王伝説中の騎士で、あらゆる苦しみに耐えた〕の役を演じていると考えるんですか?」
しかし、少佐は漠然としたことばかりを述べ、大尉の行動の動機について最初ほのめかしたことまでも、それ以上話すことを避けた。ヴァンスはしばらく質問してみたが、少佐の沈黙を破ることは不可能だった。
ヒースは苛々して、とうとう口をはさんだ。「いくらいったって、リーコックの罪を消すことはできません、ヴァンスさん。事実をごらんなさい。あの男は、二度とおれの女に手を出したら殺すぞとベンスンをおどしたのです。そのとおり、ベンスンは女と外出して、殺されました。そのあと、リーコックは女の家にピストルを隠し、足もとに火がつきだすと、ピストルを家から持ち出して、川に捨てました。ボーイを買収して、アリバイを作ったり、あの晩十二時半にベンスンの家にいるところを見られたり。訊問されると、なにひとつ説明できない。これで明白でなかったら、どうかしている」
「たしかに有力な証拠だ」と少佐は同意した。「しかし、べつの観点から説明できないでしょうか?」
ヒースは、この質問に答えようとはしなかった。「わたしはこう見ています」とヒースはつづけた。「リーコックは真夜中頃、疑いをおこし、ピストルを持って、出て行った。そして、ベンスンが女といるところをおさえ、中に踏みこんで、おどしたとおりに射ち殺した。その意味では、女も関係があるが、射ったのはリーコックだ。それに、こうして自供書もある。あの男を有罪にしない陪審なんて、アメリカ中探したっていませんよ」
「|Probi et legales homines《プロビ・エト・レガレス・ホミネス》(誠実にして法を守る人々の意)か。まったくね」とヴァンスはつぶやいた。
スワッカーが戸口にあらわれた。「ブン屋たちが騒いでいますよ」と苦い顔でいった。
「自供したのを知っているのかね?」とマーカムはヒースにきいた。
「いいえ、まだです。今のところ、なにもいっていません。だから、騒いでるんでしょう。お許しがあれば、大いに法螺を吹いておきましょう」
マーカムはうなずき、ヒースは戸口に行きかけた。つと、ヴァンスがそのまえに立ちふさがった。「明日まで、このことを伏せておけないかね、マーカム?」
マーカムは当惑した。「できないことはないだろうが……しかし、なぜ、その必要がある?」
「きみ自身のためさ。ほかに理由はない。きみの戦利品は安全にしまいこんであるんだから、虚栄心のほうを二十四時間ほどおさえておくんだ。少佐も、ぼくも、リーコックが無実であることを知っている。明日の今頃は、国中がそのことを知るだろう」
また議論がはじまったが、その結果は、先ほどと同様の結論に落ち着いた。マーカムには、ヴァンスがなにかを確信しているが、しばらくそれを洩らしたくないのだ、ということがわかっていた。ヴァンスの要求に異論を唱えたのも、彼の情報がなにかを探り出そうとする努力の結果ではなかろうか、とわたしは疑っている。マーカムが身体をのり出して、大尉が自白したことを発表するほうが得策だと重々しく論じているのを見ていると、それにちがいないと思われるのだ。ヴァンスは、いつものように用心深く、なにも打ち明けようとしないで、結局自己の主張を押し通した。そこで、マーカムはヒースに翌日まで新聞記者に発表しないよう命じた。少佐も軽くうなずいて、この決定に賛成の意をあらわした。
「しかし、ブン屋さんには」とヴァンスはいった。「明日はすばらしい発表があるといってくださって、かまいませんよ」
ヒースはうちしおれ、不機嫌そうに出て行った。
「せっかちな男だね、あの部長は」
ヴァンスはまた自供書を取りあげて、熟読した。「さてと、マーカム。きみの囚人をここに連れてきてくれないか。|habeas corpus《ハベアス・コルプス》(出頭令状)とかなんとかいうやつで。で、窓に向いあった椅子に坐らせて、きみが政界のお偉方用にとってある上等の葉巻を一本進呈してやりたまえ。そして、ぼくがいんぎんに話している間、じっと聴いていてほしい。少佐には、その間、同席していただくとしよう」
「少なくとも、その要求には異存はない」とマーカムは微笑していった。「ぼくもリーコックと話してみようと思っていたのだ」マーカムがブザーを鳴らすと、きびきびした、赤ら顔の書記があらわれた。
「フィリップ・リーコック大尉の召喚状を」とマーカムはいいつけた。
書類が運ばれると、彼は頭文字を署名した。
「ベンに渡して、大至急だといってくれ」
書記は外の廊下に通じるドアから姿を消した。
十分後、市刑務所の保安官補が、囚人を連れて部屋に入ってきた。
十九 ヴァンス反対訊問をする
六月十九日水曜日午後三時三十分
リーコック大尉は、絶望しきった無関心な態度で、部屋に入ってきた。肩をだらりとさせ、腕を元気なくたらしている。眼は何日も眠らなかった人のようにやつれ果てていた。ベンスン少佐を見ると、ちょっと背筋を伸ばし、歩み寄って手を差し出した。アルヴィン・ベンスンのことはどれほど嫌っていたにしろ、少佐には親しみを抱いていることはたしかだった。だが、突然今の立場に気がついて、きまり悪そうに横を向いた。
すばやく少佐は大尉のほうに歩み寄り、腕に手をかけた。「心配するな、リーコック。きみが犯人だとは考えられん」
大尉は気づかわしげに少佐を見た。「むろん、わたしが射ったのです。射つぞとおどしておいたのです」単調な声だった。
ヴァンスは進み出て、椅子をすすめた。
「おかけなさい、大尉。地方検事が、ベンスンさんを射ったときの様子を聞きたいそうです。いくら自白しても、それを裏づける証拠がないと、法律的には無効ですからね。それに、今回の事件には、あなた以外にも疑わしい人物がいますので、あなたの有罪を実証するために、若干答えていただきたいことがあるんです。実証できないとなると、われわれとしても、ほかの容疑者を追求しなければなりますまい」
ヴァンスはリーコックと向きあって腰をかけ、自供書を取りあげた。「あなたは、ベンスンさんから不当な仕打ちを受け、そのため十三日の夜、十二時半頃同氏の家に出かけて行ったことを認める、とこの中でいっている。その不当な仕打ち……云々《うんぬん》とは、ベンスンさんがセント・クレアさんにいいよったことを指すんですか?」
リーコックの顔には、むっとした挑戦的な表情があらわれた。「なぜベンスンを射ったかは関係ないでしょう。セント・クレアさんのことは、この件からはずしてくれませんか?」
「わかりました。では、そうお約束しましょう。しかし、動機だけは完全に聞いておく必要があります」
短い沈黙のあと、リーコックはいった。「よろしい、さっき申しあげたことが動機です」
「あの晩、ベンスンさんがセント・クレアさんと食事に出かけたことを、どうして知ったのですか?」
「マルセイユまでつけて行ったからです」
「それから、家に帰ったんですか?」
「そうです」
「あとで、ベンスンさんの家に行ったのはなぜですか?」
「考えれば考えるほど、我慢できなくなったからです。目の前がかっと燃えあがって、とうとうコルトを取り出し、殺すつもりで出かけました」その声には情熱がこもっていて、嘘をついているとはとても思えなかった。
ヴァンスはまた自供書にふれた。「『西四十八番街八十七番地に行き、表口から入りました……』こうありますが、ベルを鳴らしましたか? それとも、戸には鍵がかかっていませんでしたか?」
リーコックは答えかけて、ためらった。明らかに、新聞で読んだ家政婦の証言を思い出したのだ。家政婦は、あの晩ベルは鳴らなかったと断言していた。
「どちらでもいいでしょう」大尉は時を稼ごうと努力した。
「われわれは真相を知りたい。それだけです」とヴァンスはいった。「しかし、べつに急ぎませんから」
「そんなに重要なら申しあげましょう。ベルは鳴らしませんでした。戸に鍵もかかっていました」
大尉のためらいは、もう去っていた。「ちょうど家のまえに着いたとき、ベンスンがタクシーで乗りつけて──」
「ちょっと待ってください。家のまえに、もう一台車がとまっているのに気がつきませんでしたか? グレイのキャディラックですが」
「ええと、気がつきました」
「乗っていたのは、だれだかわかりましたか?」
また短い沈黙があった。
「はっきりとはいえませんが、ファイフィーという男だったと思います」
「すると、その男とベンスンさんは同時に家の外にいたんですね?」
リーコックは眉根にしわを寄せた。「いいえ、同時にではありません。わたしが着いたときはだれもいなかった。二、三分して出てきたら、ファイフィーがいたんです」
「あなたが家の中にいたとき、ファイフィーが車で乗りつけた──そうですね?」
「ええ、きっとそうにちがいありません」
「なるほど。では、また少しあとに戻しましょう。ベンスンさんがタクシーで乗りつけた。で、そのあとどうしました?」
「奴のそばへ行って、話したいことがあるといいました。家に入れというので、いっしょに入りました。ベンスンは鍵を使って戸を開けました」
「では、大尉、あなたとベンスンさんとが家の中に入ったあと、なにがあったか話してください」
「ベンスンは帽子とステッキを帽子掛けに置き、二人で居間にいきました。ベンスンはテーブルのそばに坐り、わたしは立ったままで、いいたいことをいいました。それから、ピストルを抜いて射ちました」
ヴァンスはじっと相手を見つめ、マーカムは緊張して身をのり出した。「そのとき、ベンスンさんが本を読んでいたのはどうしてです?」
「わたしがしゃべっている間に、本を取りあげたんでしょう。無関心を装おうとして」
「よく考えてください。あなたとベンスンさんは家に入ると、すぐホールから居間に行ったんですね?」
「そうです」
「すると、大尉、ベンスンさんが射たれたとき、スモーキング・ジャケットにスリッパばきだったという事実は、どう説明しますか?」
リーコックは神経質そうに部屋中を見まわし、答えるまえに、舌で唇をしめした。
「今考えてみると、ベンスンは最初二、三分ほど、二階にあがっていました。あまり興奮していたもんで」と大尉は懸命につけ加えた。「とても全部おぼえていられません」
「むりもありませんね」ヴァンスは同情するようにいった。「しかし、ベンスンさんが降りてきたとき、どこか髪に変わったところがあるのに気がつきませんでしたか?」
リーコックはぼんやりと顔をあげた。「髪ですって? 質問の意味がよくわかりませんが」
「髪の色のことですよ。ベンスンさんがテーブル・ランプの下で、あなたのまえに坐ったとき、なにか髪の様子がちがっているのに気づきませんでしたか?」
大尉は眼を閉じ、その時の光景を思い浮かべようとつとめているようだった。「いや、おぼえていません」
「ささいなことなんですがね」とヴァンスは無頓着にいった。「降りてきたとき、ベンスンさんの口のきき方に変なところがありませんでしたか? つまり、声がこもるとか、ちょっとひっかかるとか」
リーコックは明らかに困りきっていた。「おっしゃることがよくわかりません。いつもと同じ話し方だと思いましたが」
「テーブルの上の青い宝石箱に気がつきましたか?」
「いいえ」
ヴァンスは、しばらく考えこむように煙草をふかしていた。「ベンスンさんを射って居間から出るとき、むろん明りは消したでしょうね?」すぐ返事がないので、ヴァンスのほうから助け舟を出した。「消したにちがいないでしょう。だって、ファイフィーさんは車を乗りつけたとき、家中真っ暗だったといっていますから」
そこで、リーコックはそうだというようにうなずいた。「そうでした。ちょっと思い出せなかったのです」
「やっと思い出していただきましたね。では、どうやって消しましたか?」
「そのう──」と大尉はいいかけて、言葉につまった。それから、やっと「スイッチをひねったんです」
「では、スイッチの位置はどこですか、大尉?」
「おぼえていません」
「ちょっと考えてください。きっと思い出せます」
「ホールに通じるドアのそばだったと思います」
「ドアのどちら側でした?」
「そんなことおぼえているもんですか」大尉はあわれっぽい声を出した。「わたしはそのう──あがっていましたから。しかし、ドアの右側だったように思います」
「部屋に入るときの右手ですか、出るときの右手ですか? どちらです?」
「出るときのです」
「すると、本棚が置いてあるほうですね」
「そうです」
ヴァンスは満足したようだった。「では、ピストルの問題に移りましょう」と彼はいった。「なぜセント・クレアさんのところへ持って行ったのですか?」
「わたしは臆病で、アパートで見つからないかと心配だったんです。あのひとに疑いがかかろうとは全然思いませんでした」
「ところが、セント・クレアさんに疑いがかかったんで、すぐピストルを持ち出して、イースト・リヴァーに捨てたんですね?」
「そのとおりです」
「そして、弾倉の薬包が一発なくなっていた。そのこと自体充分疑われてもしょうがない情況だった。そうですね?」
「そう思いました。だから、ピストルを捨てたんです」
ヴァンスは眉をしかめた。「それは変だ。ピストルは二挺あったにちがいない。河さらいをしたところ、コルトの自動ピストルが一挺見つかったんですよ。ところが、弾倉は詰まっていた。大尉、たしかですか、セント・クレアさんの家から持ち出して、橋から放り投げたピストルがあなたのだったというのは?」
わたしはピストルを河から引き揚げた話は聞いていなかったので、いったい、ヴァンスはなにをもくろんでいるのだろうと思った。結局、セント・クレアも巻きぞえにしようとしているのだろうか。マーカムも不審に思っているようだった。
リーコックは、しばらく返事をしなかった。口を開いたときは、ひどく不機嫌になっていた。「ピストルは二挺ありません。あなたが見つけたのが、わたしのです。弾倉は、わたしが詰め直しておきました」
「ああ、それなら説明がつく」ヴァンスの口調は、楽しげで自信にみちていた。「もうひとつだけ、おたずねします、大尉。あなたは、なぜ、今日ここに来て、白白したんですか?」
リーコックは顎を突き出し、この反対訊問中、はじめて眼がいきいきと輝いてきた。「なぜって? それがとるべき唯一の名誉ある方法だからです。あなた方は無実の人間に不当な疑いをかけた。わたしは無実の人間が苦しむのに耐えられなかったんです」
これで会見は終わった。マーカムはいっさい質問しなかった。保安官補が、大尉を連れ去った。
戸が閉まると、奇妙な沈黙が室内に降りかかった。マーカムは両手を頭の後ろで組み、天井を見つめたまま、猛烈に煙草をふかし、少佐は椅子の背によりかかって、感心したように満足げにヴァンスを見つめている。ヴァンスは口もとに薄い笑いを浮かべながら、横目でマーカムを眺めている。三人の表情、態度は、この会見にたいする各人各様の反応を正確に伝えていた。マーカムは当惑し、少佐は満足し、ヴァンスは皮肉たっぷりというふうに。
沈黙を破ったのはヴァンスだった。「これで、あの自供がどんなにばからしいものか、わかったろう、諸君」彼の口調は屈託なく、ほとんどもの憂げなくらいだった。「純情、高潔なるリーコック大尉は、おそまつきわまる法螺吹きさ。あれほど下手な嘘つきはありえないね。とてもあの愚かさは真似できない。そのくせ、自分を犯人だとわれわれに思わせようとするなんて、まことにあわれを催すね。おそらく、きみが自供にとびついて、ただちに死刑にしてくれると思ったんだろう。きみは気がついただろうが、あの夜どうやってベンスン邸に入りこんだかも、考えておかなかったのだ。ファイフィーがあのとき外にいたといわれて、にっくき敵と bras dessus bras dessous(腕を組み合って)家のなかへ入ったと即席で説明してみたものの、ほとんど台無しだ。その上、ベンスンが半分寝巻き姿であることもおぼえていなかった。そのことを教えてやると、やっこさん、つじつまがあわなくなり、あわててベンスンを二階に駆けあがらせ、大急ぎで着替えさせる始末だ。幸い、新聞には、かつらのことは出ていなかったので、ベンスンが服や靴をとり換えたとき、髪を染めたとほのめかしてやっても、ぼくのいっていることが、大尉にはさっぱりわからなかった。ところで、少佐、弟さんは入歯をはずすと、こもるような言い方になったでしょう?」
「非常なものでした」と少佐は答えた。「あの晩、アルヴィンが義歯をはずしていたとすれば──あなたのおたずねから、そう判断するんですが──きっとリーコックも気がついたでしょう」
「大尉が気づかなかったことは、まだほかにもある」とヴァンスはいった。「たとえば、宝石箱とか、スイッチの位置なんか」
「あれには、大尉も弱ったようですな」と少佐はいった。「アルヴィンの家は旧式で、部屋のスイッチは、シャンデリアから垂れているのだけです」
「そのとおりです。しかし、大尉の最大の失敗は、ピストルの件でした。あれで、すっかりお手あげになった。薬包が一つなくなったから、ピストルを河へ放りこんだといっておきながら、弾倉はいっぱい入っていたと指摘してやると、自分で詰め直したといいわけし、見つかったピストルが自分のだと、ぼくに思わせようとした。話はごく簡単だ。大尉はセント・クレアが犯人だと思いこみ、自分が罪をかぶる決心なんだ」
「そういう感じですね」と少佐はいった。
「しかし」とヴァンスは考えこんでいた。「大尉の態度には解せぬところが少々ある。事件とはなにか関係があるのは疑う余地がない。さもなければ、次の日、セント・クレアのアパートに自分のピストルを隠すはずがない。あれは、ほかの男が自分のフィアンセに気があると思うと脅迫したり、悪くすると、脅迫を実行しかねない大馬鹿者だ。それに、なにか心にやましいところがある。それはまちがいない。だが、なんに対してやましいのか。たしかに殺人に対してではない。今回の事件は計画的だが、大尉は計画など持ちあわせていない。あれは |idee fixe《イデー・フィクス》(固定観念)に憑《つ》かれて、きりりと褌《ふんどし》を締め直し、騎士道的にものごとをやってのけ、結果はすべて自分で責任をとる──そういうタイプの男だよ。ああいった種類の騎士道は、真の |beau geste《ボー・ジェスト》(優雅なる振る舞い)で、その信奉者はすべての人に己れの武勇を知ってもらいたがる。そして、この世からドン・ファンを退治しに乗り出したとなると、つねに明晰だ。たとえば、大尉は恋する姫君の手袋やハンドバッグを見落としはしなかったろう。かならず持ち去ったに相違ない。実際、大尉がベンスンを射ち殺してやりたいと思ったことは、射ち殺さなかったことと同じくらいたしかだ。明白すぎることだよ。大尉がやりたかったことは心理的に可能であり、ああいうふうにやることは心理的に不可能なんだ」ヴァンスは煙草に火をつけ、くるくる舞いあがる紫煙を見つめていた。
「想像に走りすぎるといわれるかもしれないが、大尉は殺すつもりで出かけたが、すでにだれかがやったあとだったんだろう。おそらく、そんなところだろう? そうすれば、ファイフィーが大尉を見かけたことも、翌日ピストルをセント・クレアのところに隠したことも説明がつく」
電話が鳴った。オストランダー大佐が地方検事に話があるというのである。マーカムは、ちょっと話したあと、不機嫌な顔をヴァンスに向けた。「きみの血に飢えたご親友が、まだだれも逮捕しないのかときいてきたよ。まだ犯人の見当がつかないのなら、貴重な助言をもっと提供しようというわけだ」
「きみは、なにかやたらにお礼をいっていたね。きみの精神状態について、どんな説明をしたんだい?」
「まだ、お先真っ暗だといってね」とマーカムは、暗く疲れたように微笑した。それが、リーコック大尉有罪説を自分が完全に捨て去ったことを、ヴァンスに知らせるマーカム一流のやり方だったのだ。
少佐はマーカムのそばに歩み寄り、片手を差し出した。「お気持はわかります。こういうことは、がっかりするもんです。しかし、無実の人間が苦しめられるよりは、罪のある人間が逃げるほうがましですよ。あまり無理をなさらずに。がっかりして、身体をこわさないでください。すぐに、ちゃんとした解決案が浮かびますよ。そのときは──」と顎をひきしめ、喰いしばった歯の間から、あとの言葉をいった。「わたしも、もう異論を唱えません。お手伝いします」
少佐はマーカムに凄味のある微笑を見せ、帽子をとりあげた。「事務所に帰ります。ご用があったら、いつでもどうぞ。あとでまた、お役に立てるかもしれません」少佐は親しげな、感謝にみちたおじぎをヴァンスにして、出て行った。
マーカムは、しばらく黙って坐っていた。「畜生」と苛立たしげにいった。「この事件は、一時間ごとにむずかしくなってくる。もう、くたくただよ、ヴァンス」
「そんなにむきになることはないさ」ヴァンスは気軽にいった。「人生の |trivia《トリヴィア》(些事)を気にしたって、なんの得にもならないよ。
なにごとも新しくなく
なにごとも真実でなく
なにごともとるに足りない。
何百万の兵隊が戦争で殺されたが、そのため、きみの白血球は害されもしないし、きみの脳細胞はただれもしない。ところが、きみの担当区域で、ありがたいことに、ひとりのろくでなしが殺されただけの話なのに、きみは汗水たらして、夜っぴて起きて働いている。なんたることだ。ひどい矛盾じゃないか」
「矛盾がないことは──」といいかけたマーカムを、ヴァンスがさえぎった。
「エマスン〔アメリカの詩人・哲学者〕の引用なんかやめたまえ。エラスムス〔オランダの神学者で、ルネッサンスの先覚者〕のほうがはるかにいい。『愚神礼讃』をぜひ読むべきだ。無限にはげまされることうけあいだ。あの好色なオランダの学者なら、アルヴィン |Le Chauve《ル・ショーブ》(禿頭王)が死んだことを、そんなに歎き悲しみはしなかったろうに」
「ぼくは、きみみたいな≪ごくつぶし≫に生まれてきたんじゃない」とマーカムはいい返した。「ぼくは選ばれてこの地位に──」
「わかった、わかった。『これより尊しはなし』とかなんとかいうんだろう。まあ、そう神経過敏になるのはやめたまえ。大尉がへまをやって、結局牢屋から追い出されたって、少なくとも、まだ五つの可能性が残っている。プラッツ夫人、ファイフィー、オストランダー大佐、ミス・ホフマン、ポーラ・バニング夫人。なぜ、ひとりずつみな逮捕して、自白させないんだ? ヒースが飛びあがって喜ぶだろう」
マーカムはすっかり意気消沈して、このひやかしにも腹を立てなかった。むしろ、ヴァンスの快活な口調で、かえって気が楽になったようだった。
「実のところ」とマーカムはいった。「それこそ、ぼくのしたいことなんだ。ただ、だれをまず逮捕するか決めかねて、そうしないだけさ」
「見上げたもんだ」とヴァンスはいった。「ところで、大尉をどうするつもりかね? 釈放されたら、がっかりするだろう」
「勝手にがっかりするがいい」マーカムはそういって、電話に手を伸ばした。「早く手続きをとったほうがいいだろう」
「待ちたまえ」ヴァンスは手をあげてマーカムをおさえた。「もう少し殉教者の恍惚にひたらせてやるんだね。せめて、あと一日はよろこばせてやったらいい。ションの囚人〔スイスのレマン湖畔にある城。イギリスの詩人バイロンに有名な『ションの囚人』という詩がある〕のように独房に押しこめておけば、大いに役立つだろうと思うね」
マーカムは黙って受話器を置いた。わたしは、だんだん彼がヴァンスの指揮を受け入れるようになっていくのに気がついた。マーカムがこういう態度をとったのは、彼の精神が極度の混乱にあったため──むろん、確信が持てないことも、ある程度彼に影響していたかもしれないが──ばかりでなく、ヴァンスが口に出していう以上のことを知っているらしいことに、大きな理由があったのだ。
「ファイフィーとあの婦人が、この事件にどうあてはまるかを、考えてみようとしたことがあるかね?」とヴァンスはたずねた。
「何千という謎といっしょにしてかね。考えたことがあるさ」とマーカムは怒りっぽく答えた。「しかし、論理的に考えようとすればするだけ、ますます謎めいてくる」
「おおざっぱにいって、きみ」とヴァンスは批評した。「人間のやることには謎はないもんだ。ただ、問題があるだけだ。そして、ひとりの人間からはじまった問題は、かならず他の人間に解決できる。人間心理についての知識と、その知識を人間の行為に適用することが必要なだけさ。簡単な話じゃないか」
ヴァンスは掛時計をちらと見た。「きみのスティット君は、ベンスン・アンド・ベンスン商会の帳簿とどう取り組んでいるのかな。期待にみちみちて、報告をお待ち申しあげているのに」
これはマーカムにはあんまりだった。ヴァンスの長ったらしい思わせぶりな文句と、奥歯にものがはさまったようなあてこすりに、とうとう彼は自制心を失ってしまったのだ。マーカムは身体を前にのり出して、怒りをこめて片手で机を殴りつけた。
「きみの高慢ちきな態度には、もううんざりした。きみはなにかを知っているか、なにも知らないのかどちらかなんだ。なにも知らないのなら、知識をほのめかすような真似はやめてくれないか。知っているなら、教えてくれて当然だ。ベンスンが射たれて以来、ずうっときみはああだ、こうだとほのめかすようなことばかりいっている。だれが犯人か、目星がついているのなら、ぼくも知りたいものだ」
マーカムは椅子の背によりかかり、葉巻をとり出した。丹念に端を切って、火をつけるときも、一度も顔をあげなかった。癇癪玉を破裂させたのを、少々恥じ入っているようだった。
マーカムが癇癪玉を破裂させている間中、ヴァンスは平気な顔で坐っていた。そして、足を伸ばし、じっと長い間マーカムを見やっていた。「マーカム、きみがぶざまに癇癪玉を破裂させたのを少しもとがめるつもりはないんだ。この事態では、腹も立とうというものさ。だが、この小喜劇にも幕をおろす時が来たようだ。ぼくは実際、きみをかついでいたわけじゃない。実をいうと、ぼくは、この問題について、興味津々たる考えがあるんだ」
ヴァンスは立ちあがって、あくびをした。「まったく暑い日だな。しかし、やるべきことはやらなくてはなるまい。え、どうだ?
偉大さは俗世にかくも近く
神は人間にかくも近し
義務の声低く<なぜ>とささやくとき
若者は答へん、われなしえりと。
(アメリカの詩人エマスンの『自由意志』中の一節)
ぼくはその崇高な若者で、きみは義務の声なんだ。もっとも、正確には、きみは低くささやいたわけではなかったがね Was aber ist deine plicht?(ドイツ語。汝の務めは何か、の意)ゲーテ答えて曰く Die Forderung des Tages(時の要請)なりと。だが、その要請がもっと涼しい日にきてほしかったね」
ヴァンスはマーカムに帽子を手渡した。「さあ、|Postume《ポスツーメ》(来たまえ)。天《あめ》が下のよろずには期あり。よろずの事務には時あり(この『伝道の書』からの引用は、ヴァンスがいつも旧約聖書を読んでいることを、わたしに思い出させる。「ぼくは職業的文学者の作品にあきると」と、かつて彼はいった。「聖書の荘厳な文体に刺戟を見出す。現代人はなにか書かねばならないと感じたら、少なくとも一日に二時間は聖書の歴史家とともに過ごすべきだね」)。今日はこれで事務所は終わりにして、スワッカーにそういいたまえ。これから美人を訪ねるんだ。ほかならぬセント・クレアさ」
マーカムはヴァンスのふざけたような態度は、すこぶる重大な目的を隠す仮面であることを知っていた。また、ヴァンスが知っていること、ないしは疑っていることを話すときは、独自の話し方をし、その話し方がいかにまわりくどく、非合理的に見えようとも、そうするだけの立派な理由があることを知っていた。その上、リーコック大尉の徹頭徹尾でたらめな自白の仮面がはがれて以来、真相に達しうる少しの望みでもあれば、どんな提案にでもとびつく精神状態に陥っていた。だから、マーカムはすぐベルを鳴らしてスワッカーを呼び、今日はこれで事務所から帰ると告げた。
十分後、わたしたちは地下鉄に乗って、リヴァーサイド・ドライブ九十四番地に向かっていた。
二十 セント・クレアの説明
六月十九日水曜日午後四時三十分
「ぼくたちが今乗り出した真相の探求は」とヴァンスは途中でいった。「少々面倒かもしれない。だが、意志の力をふるって、ぼくとともに忍耐してほしいんだ。ぼくがやろうとしている仕事が、どんなに扱いにくい代物か、きみには想像もつかないだろう。それに、愉快なものでもない。涙もろくなるには、ぼくはまだ少し若すぎるが、しかも、きみ、犯人を見逃してやろうという気持に半分ばかりなっているんだ」
「なぜセント・クレアを訪ねるのか、そのわけを教えてくれないか?」とマーカムは諦めたようにたずねた。
ヴァンスは愛想よく応じた。「ああ、いいとも。実際、きみに知ってもらったほうがいい。セント・クレアのことで、解明しなければならないことが幾つかある。まず、あの手袋とハンドバッグだ。あの品物について明らかにするまでは、『けしの花も、まんだらげも、そなたが昨日味わった甘い眠りにさそうことはあるまい』〔シェイクスピア『オセロ』第二幕第三場の台詞〕というわけさ。それから、おぼえているだろう、ベンスンが射たれた日、女の客がベンスンにあって、それを少佐が聞き耳を立てたとホフマンが陳述したことを。その客がセント・クレアじゃなかろうかと、ぼくは疑っている。あの日、事務所でなにがあったか、なぜ、あの女があとでもう一度やって来たのか、ぼくは知りたくてたまらない。それに、あの日の午後、あの女はなぜベンスンの家へお茶を飲みに行ったのか。そして、二人の語らいで、あの宝石がどんな役割を演じたのか。そのほか、ほかにもある。たとえば、なぜ大尉はあの女のところヘピストルを持って行ったのか。なぜ大尉はフィアンセがベンスンを射ったと考えたのか。実際大尉はそう信じきっているんだからね。また、あの女はなぜ最初から大尉が犯人だと思ったのか」
マーカムは懐疑的なようだった。「あの女が全部そのことを話すと期待しているのかね?」
「希望は高らかだ」とヴァンスは答えた。「完全にして、心やさしき騎士が自ら犯人だと自白して牢屋につながれているのだから、あの女は心の重荷をおろしたって、なにひとつ失うものはないだろう。ただ、横暴な態度はいけない。きみたち警察の威丈高な反対訊問は、絶対にあの女にはなんの効果もないんだから」
「じゃあ、どうやって情報を引き出そうというのかね?」
「画家のいう |morbidezza《モルビデッツア》(柔軟さ)をもってさ。最高に洗練された紳士的なやり方でさ」
マーカムはしばらく考えていた。「ぼくは口出ししないで、ソクラテスの弁駁はいっさいきみにまかせよう」
「実にすばらしい提案だ」とヴァンスはいった。
先方に着くと、マーカムは室内電話で、重大な用件で訪ねてきたと告げた。わたしたちはすぐに中に通された。セント・クレアはリーコック大尉の居所について心配しているようだった。ハドスン河を見おろす小さな客間でわたしたちの向い側に坐った彼女の顔は蒼ざめ、しっかりと握りしめられた手は、心持ふるえていた。ふだんのひややかで控え目な態度はあらかた失われ、眼には心労による不眠のあとが歴然とあらわれていた。
ヴァンスはただちに要点に入った。彼の口調はほとんど軽薄といっていいほど軽やかで、たちまちのうちに緊張した雰囲気はほぐれ、わたしたちの訪問を気軽に見せるのに成功した。
「お気の毒ですが、リーコック大尉は、ベンスン殺しの犯人は自分だと愚かにも自首して来られました。しかし、わたしたちとしては、あの方の bona fides(正直さ)について完全に満足したわけではないのです。いわば、シーラとカリプディス〔むかし、航海者に怖れられたシチリアのメッシーナ海峡の有名な暗礁〕の間を漂っている状態で、実際大尉がほんとうの悪人か、それとも chevalier sans peur et sans reproche(恐れを知らぬ廉潔の騎士)か、決めかねている有様です。あのうしろ暗い行いに及んだ説明にしても、どうも大雑把で、肝心な点となるとあいまいです。いちばん困るのは、実際にはありもしないスイッチで、ベンスンの部屋の明りを消したと申し立てていることです。そこで、わたしの心には、大尉はだれかを犯人だと思いこみ、その人をかばおうとして、必死でそんな武勇談をこしらえあげたのではなかろうかという疑いが生じてきたのです」
ヴァンスは軽く顎をしゃくって、マーカムを指した。「ここにおられる地方検事は、かならずしもわたしと同じ意見ではありません。しかし、ご承知のとおり、法律家の頭というものは信じられぬほどこちこちで、いったんこうだと思ったら、ほかの考えを受けつけられないのです。あなたもおぼえておられるでしょう、ベンスンさんのこの世での最後の晩、あなたがいっしょにおられたということや、その他似たような些細な理由から、マーカム君は、あなたがあの紳士の死になにか関係があると本気で結論したのです」
ヴァンスはマーカムにふざけて非難するような微笑を向け、話しつづけた。「セント・クレアさん、大尉がかくも英雄的にかばおうとしている人物は、あなた以外にありません。そして、少なくとも、わたしはあなたの潔白を信じて疑わない。ですから、あなたの生活とベンスンさんの生活が交叉した幾つかの点について、われわれに説明していただけないものでしょうか。お話しくださったからといって、リーコック大尉やあなたになんらご迷惑をかけることはありません。いや、むしろ、マーカム検事の心中に去りやらぬ、大尉についての疑いを晴らす大きな助けとなるでしょう」
ヴァンスの態度は女の心をやわらげるのには効果を発揮した、が、マーカムはといえば、ヴァンスにさんざん酷評されて、口をはさむことこそ遠慮したものの、心中大いにいきりたっているのが見てとれた。
セント・クレアはしばらくヴァンスを見つめていたが、「わたしには、なぜあなたを信頼しなくてはいけないのか、またなぜ信じなくてはいけないのか、よくわかりません」としずかにいった。
「しかし、リーコック大尉も自白したことですし──最後にあの人と話したとき、そんなことをしそうな気がしたのですけれど──ご質問にお答えしてはいけない理由はありません。しかし、あなたはあの人の潔白を本当に信じていらっしゃいますの?」その質問は無意識の叫びのようだった。おし殺してきた感情が、冷静の殻をつき破って爆発したのだ。
「もちろんです」とヴァンスは真剣にいった。「マーカム君も証言してくれると思いますが、さきほど役所を出るまえにも、わたしはリーコック大尉を釈放するように頼みこんだくらいです。あなたの説明をうかがえば、そうすることがいかに賢明であるか彼に納得してもらえるかもしれないと思いまして、いっしょにここにうかがうように説き伏せたのです」ヴァンスの口調や、物腰にあるなにものかが、セント・クレアに信頼の気持を吹きこんだようだった。
「なにをおたずねになりたいんでしょうか?」セント・クレアはきいた。
ヴァンスは内心の憤りをやっとおさえているマーカムにもう一遍非難するような視線をなげかけ、また女のほうに向き直った。
「まず第一に、あなたの手袋とハンドバッグがなぜベンスンさんの家にあったのか、そのわけを、こ説明願いましょう。そのことが、いちばん地方検事の心を悩ませているのです」
彼女はまっすぐな、率直な視線をマーカムに向けた。「あの晩、わたくし、ベンスンさんにさそわれて、ごいっしょに食事をしました。二人の間で、不愉快なことがいろいろあり、帰る頃には、あの方の態度にますます腹がたってきて、タイムズ・スクエアで運転手に車をとめさせ、ひとりで帰ることにしました。腹がたっていたのと、帰りをせいていたせいで、ハンドバッグと手袋を置いてきたらしいのです。ベンスンさんの車が行ってしまってから、はじめてそのことに気がつきました。お金も持っていませんし、しかたなく家まで歩いて帰りました。わたしの品物があの方の家にあったところを見ると、きっとあの方がご自分で持っていったんでしょうね」
「わたしもそうだろうと思っていました」とヴァンスはいった。「とにかく、ここまで歩いて帰ると大変だ」とマーカムにじらすような微笑を向け、「実際、セント・クレアさんは一時まえには、ここに戻れなかったわけだ」
マーカムはこわい顔をして、返事をしなかった。
「さて、次は」とヴァンスはつづけた。「どういう事情で、夕食にさそわれたのか、ご説明願いましょうか」
女の顔は曇ったが、声はいぜん落ち着いていた。「わたし、ベンスンさんの会社でずいぶん損をしましたけれど、突然直感で、それはあの方がわざとわたしに損をさせているからで、その気になれば、あの方はわたしに手をかして、取り戻せるはずだと気がついたのです」そこで、彼女は眼を伏せた。「ベンスンさんは、しばらくまえから、なにかとわたしにいいよって、迷惑していました。卑劣な真似をされて放っておくわけにはいきません。で、会社へ行って、はっきり自分の疑いをいったんです。すると、あの人は、その晩いっしょに食事をしながら、その件を話しあおうじゃないかといって。わたし、あの方の肚《はら》はわかっていましたけれど、こちらも必死だったものですから、とにかくお願いしよう。そう思って、行くことにきめました」
「あなたはどうしてベンスンさんに、何時には切りあげるなんておっしゃったんですか?」
セント・クレアはびっくりしてヴァンスを見たが、ためらうことなく答えた。「ベンスンさんは、今夜はひとつ派手にやろうとかなんとかいうもので、わたし、とてもきっぱりといってやりました。うかがうことはうかがいますけど、十二時になったらおいとまします。どんなパーティでも、そうすることにしていますからって。それというのも」と彼女はつけ加えた。「わたし、歌の勉強が大変で、どんな場合でも、十二時には帰宅することにしているんです。それが、自分に課した犠牲というか、束縛のひとつというか、そんなことなんです」
「たいへん結構な、賢明なことですね」とヴァンスはほめた。「つきあっている方は、みなそのことをご存知ですか?」
「ええ。そのため、わたし、シンデレラというあだ名がついたくらいですわ」
「たとえば、オストランダー大佐やファイフィーさんは、そのことを知っていましたか?」
「ええ、ご存知でした」
ヴァンスはちょっと考えていた。「ベンスンさんが殺された日、なぜあの人の家へお茶を飲みに行ったんですか? だって、あの晩いっしょに夕食することになっていたんでしょう」
女はさっと顔をあからめた。「べつにやましいことはありませんわ。ベンスンさんの会社を出たあと、いっしょに食事をするのがいやでたまらなかったので、もう一度頼んで、約束を取り消させたらと、会社へ戻ってみました。すると、もういないので、直接お宅へ行くことにしました。ベンスンさんは笑って相手にしてくれず、お茶でも飲んでいけっていって、夕食の着換えにタクシーで、わたしのアパートまで帰してくれました。ベンスンさんが迎えに見えたのは、七時半頃でした」
「そして、約束を取り消してほしいと頼んだとき、リーコック大尉の脅迫のことをいって、ベンスンさんをおどかそうとした。しかし、ベンスンさんは、あんなことはおどかしだといった。そうですね?」
またしても、女の顔に驚きの色があらわれた。「そうですわ」とささやくようにいった。
ヴァンスは慰めるようにほほえんだ。「オストランダー大佐は、マルセイユで、あなた方を見かけたといっていましたよ」
「そうなんです。わたし、ほんとうに恥かしいわ。大佐はベンスンさんの人柄をご存知で、二、三日まえも、わたしに忠告してくださったばかりですの」
「大佐とベンスンさんは仲のいい友だちだとばかり思っていましたが」
「ええ、一週間まえまでは。でも、大佐はベンスンさんが最近なさった株の買占めで、わたしよりずっと損をなさったんです。それで、ベンスンさんがわざとわたしたちをだまして、利益を得たんだとはっきりおっしゃいました。あの晩、マルセイユでも、大佐はベンスンさんに口もきかないほどでした」
「あなたがベンスンさんとお茶を飲んだときにあったすばらしい宝石はどうですか?」
「あれは餌ですわ」とセント・クレアは答えた。彼女の軽蔑にみちた微笑は、手きびしくベンスンをののしる以上に雄弁に、彼をとがめていた。「ベンスンさんは、宝石でわたしの頭を狂わせるつもりでした。真珠の首飾りを出して、夕食のときつけていくようにいいましたけれど、わたし、お断わりしました。すると、もしきみにものを見る目があれば──とか、なんとかうまいことをいって──あれとそっくり同じような宝石を、二十一日にはきみのものにできるんだ、といいました」
「もちろん二十一日ね」とヴァンスはにやりとした。「マーカム、聞いているかね? 二十一日には、ファイフィーの手形の期限がくる。もし払えなかったら、宝石はいただきというわけだ」
ヴァンスはまたセント・クレアに話しかけた。「ベンスンさんは、食事のとき宝石を持ってきましたか?」
「いいえ、わたしに真珠を断わられて、だいぶがっかりしたようですわ」
ヴァンスは、機嫌をとるように愛想よく女を見つめながら、しばらく沈黙した。「さて、今度はピストルのことを、あなた自身の口から聞かせてください。法律家の言い草じゃないが、あとからあなたを巻きぞえにするかもしれませんがね」
だが、セント・クレアは明らかに巻きぞえにされることなど怖れていなかった。「殺人のあった翌朝、リーコック大尉がここに来て、ベンスンさんを殺すつもりで、十二時半頃あの人の家へ行ったといいました。しかし、外でファイフィーさんを見かけ、あの人がベンスンさんを訪ねるところかと思い、計画をあきらめて、帰宅したそうです。わたし、ファイフィーさんに見られたかもしれないと心配になって、ピストルはここに持ってきて、もし訊問されたら、フランスでなくしたとおっしゃい、とすすめました。わたし、本当に大尉がベンスンを射ち殺し、わたしを驚かさないように、紳士の義務として嘘をいっているものとばかり思ってしまって。ですから、大尉があとでわたしからピストルを取りあげて、捨てたとき、ますますそうにちがいないと思いこんだんです」
彼女はマーカムにかすかにほほえんだ。「あなたのご質問にお答えしなかったのは、そのせいです。そうすれば、たぶんわたしがやったとお考えになり、リーコック大尉をお疑いにならないだろうと思いましたの」
「ところが、大尉は全然嘘をついていなかったんですよ」とヴァンスはいった。
「ええ、今ではそれを知っています。もっと早く知っていればよかったわ。もしほんとうにやったのなら、わたしのところにピストルなど持ってきたはずはありませんものね」女の目は涙で曇った。
「ほんとに、お気の毒に! リーコックさんは、わたしが犯人だと思って、自首したんですわ」
「まことに、いたましいことです」とヴァンスはうなずいた。「しかし、大尉はあなたがどこからピストルを手に入れたと思っているんでしょう?」
「わたし、軍人に知りあいが多いもんですから。大尉のお友だちとか、ベンスン少佐のお友だちとか。それに、去年の夏、山で面白半分に、ずいぶんピストルの稽古をやりました。ですから、大尉がそう考えても、むりありませんわ」
ヴァンスは立ちあがり、ていねいに頭をさげた。「ほんとうにありがとうございました。大いに助かりました。マーカム君は、今回の事件について、いろいろ説を立てていましてね。その第一は、あなたが単独で殺したという説。第二は、あなたと大尉の a quatre mains(共犯)という説。第三は、大尉が a capella(単独で)引き金をひいたという説なんです。法律家の頭というものは、ずいぶん精巧にできていて、幾つもの矛盾する説を同時に信じられるんです。この事件で悲しむべきことは、マーカム君がいまだに、あなた方お二人を単独、ないしは共犯で、犯人だと信じようとしていることです。ここにうかがうまえにも、マーカム君を説得しようと努力したのですが、失敗しました。そこで、あなたの魅力的な唇から、直接話をうかがうように、主張したわけです」
ヴァンスは唇をかみしめて、こちらをにらみつけているマーカムのそばに歩み寄った。「ねえ、マーカム、セント・クレアさんかリーコック大尉のどちらかが犯人だという妄想に、もう固執しないだろうね、どうなんだい? ぼくが頼んだように、リーコック大尉に同情して、釈放してあげてくれないかね?」そういうと、懇願するように、芝居気たっぷりに、両腕をひろげて見せた。
マーカムの怒りは頂点に達していたが、冷静に立ちあがると、女のほうに歩み寄り、手を差し出した。「セント・クレアさん」とやさしくいった。ふたたび、わたしはこの人物の太っ腹に敬服した。「ヴァンス君は、わたしの頭は信じられぬくらいこちこちで、偏狭だといいましたが、わたしはあなたとリーコック大尉が犯人だという見方を棄てたことをお約束します。しかし、わたしは悪口をいったヴァンス君も許すつもりです。あなたに対して、重大なあやまりをおかすところを救ってくれたわけですからね。釈放する書類に署名次第、大尉はお返ししますよ、セント・クレアさん」
リヴァーサイド・ドライブまで歩いてきたとき、マーカムは猛然とヴァンスに喰ってかかった。
「ぼくが大尉をぶちこんでおいたんで、きみがぼくに釈放してくれと頼みこんだだって! ぼくがあの二人をどちらも犯人だと思っていないことはよく承知してるくせに。まったく、女となると鼻の下の長い男だ」
ヴァンスはほっと溜息をついた。「おやおや。この事件で、もう助けはいらないというのかね?」と悲しげにいった。
「あの女の面前で、ぼくを馬鹿にして、なんの得があるんだ?」とマーカムは口角泡をとばしていった。「きみの道化芝居で、どんな収穫があったのか、よくわからないね」
「なんだって!」とヴァンスは驚きあきれたといったふうをした。「今日聞いた証言は、犯人をきめるのに、はかり知れないほど役に立つにちがいない。それに、手袋とハンドバッグのこともわかったし、ベンスンの事務所を訪ねた女がだれかもわかったよ。セント・クレアが十二時と一時の間になにをしていたか、なぜベンスンと二人で食事をしたか、なぜ最初ベンスンとお茶を飲んだか、どうして宝石があそこにあったのか、なぜ大尉があの女の家にピストルを持って行って、あとで捨ててしまったか、なぜ白首したのか、すべてわかったじゃないか。ほんとうにまあ、これだけいろいろとわかったのに、きみときたら満足しないのか。これで、ずいぶん様子がはっきりしてきたのに」
ヴァンスは立ち止まって、煙草に火をつけた。「セント・クレアがいったことでほんとうに重要なのは、あの女が夜外出すると、必ず十二時には切りあげてくることを、友だちが知っていたということだ。その点を、きみ、見落としたり、軽視してはいけないな。そこが、いちばん大切なことだ。ずっと以前にきみにいっておいたが、ベンスンを殺した人物は、あの晩彼女がベンスンと食事をすることを知っていたんだ」
「次には、だれがベンスンを殺したか、教えてくれるつもりだろう」とマーカムはひやかした。
ヴァンスは煙の輸をひとつ空に吹かした。「そんなことなら最初からわかっている」
マーカムはあざけるように鼻を鳴らした。「これは、これは。そんな天啓を、いつ授かったのかな」
「最初の朝、ベンスンの家へ行って、五分もしないうちにね」
「おや、おや。じゃあ、なぜぼくにそっと教えてくれなかったんだ? こんな骨折りをせずにすんだのに」
「それはできないね」ヴァンスは半分おどけて説明した。「きみには、ぼくの経外書的〔出典の怪しい聖書の外典〕知識を受け入れる態勢がなかったからね。まず第一に、きみが迷いこみたがっていた、多くの暗い森や沼地から、お手々をとって、辛抱づよく引き出してやる必要があった。なにしろ、きみは驚くほど想像力に乏しいからなあ」
ヴァンスは通りかかったタクシーを呼びとめた。「西四十八番街の八十七番地まで」それから、したしげにマーカムの腕をとった。「今から、ちょっとプラッツ夫人とおしゃべりしよう。そのあと、ぼくの大事な、大事な秘密をなにもかも聞かせてあげることにしよう」
二十一 かつらの啓示
六月十九日水曜日午後五時三十分
家政婦は、わたしたちの訪問を、ひどく不安げに迎えた。彼女は大柄な、丈夫そうな女だったが、身体から幾らか力が抜けたようで、顔には長い間の心配の跡があらわれていた。家に入ったとき、スニトキン刑事はわたしたちに、あの女は事件の進展についてあらゆる新聞に丹念に眼を通し、際限もなくその問題についてきき出そうとするといった。
家政婦はわたしたちがいるのにもほとんど気づかぬふうに居間に入ってきて、ヴァンスがすすめた椅子に、怖るべき、だが逃れることのできない試練に引き出された女のようにあきらめきった様子で腰をおろした。ヴァンスが鋭い視線を向けると、彼女はおびえたようにヴァンスを一瞥し、すぐ顔をそむけた。二人の眼が会った瞬間に、自分が大事に隠してきた秘密を、相手に気づかれたと思ったような恰好だった。
ヴァンスは、なんの前置きも、前提もなしに、質問しはじめた。「プラッツさん、ベンスンはかつらのことを、とくに気にしていたかな? つまり、かつらなしで、たびたび友だちに会ったかね?」
女はほっとしたようだった。「いいえ、とんでもありません」
「よく考えてごらん、プラッツさん。きみの知るかぎり、ベンスンさんはかつらなしで、人前には決して出なかったんだね?」
家政婦は、しばらく眉に皺をよせて、黙っていた。「一遍だけ、かつらをとって、オストランダー大佐に見せていらっしゃるのを見たことがあります。オストランダー大佐は、ちょくちょくお見えになる年配の方です。大佐とはむかしからのお友だちで、いっしょにお暮らしになったこともあるそうです」
「ほかには?」
家政婦はまた、考えこむように眉根をよせた。「いいえ、ございません」と、しばらくしていった。
「御用聞きはどうかな?」
「御用聞きには、とくに気をつかっておいででした。それと、知らない方にも。暑い日は、よくかつらをはずして、ここにお坐りでしたけれど、いつもあの窓のシェードをおろしていらっしゃいました」家政婦は、廊下広間にいちばん近い窓を指さした。「石段から家のなかがよく見えるんです」
「これはいいことを聞かせてくれた」とヴァンスはいった。「すると、石段の上に立つと、窓とか鉄格子をたたいて、部屋のなかにいる者の注意を惹けるんだね?」
「はい、簡単に。わたしも一度お使いに出て、鍵を忘れて、そうしたことがあります」
「すると、きみは、ベンスンさんを殺した人間は、そうやって中に入れてもらったと思わないかね?」
「はい、そうかもしれません」家政婦は勢いよく、ヴァンスの考えに飛びついた。
「ベルを鳴らさないで、窓をたたくほどだから、よほどベンスンさんと知りあいなんだろう。プラッツさん、きみはどう思うかな?」
「はい、そう思います」その口調はあいまいで、明らかに理解しかねるようだった。
「もし知らない人間が窓をたたいたら、ベンスンさんは、かつらを脱いだままで、中に入れただろうか?」
「いいえ、そんなことはなさらないでしょう」
「あの晩、ベルが鳴らなかったのはたしかかね?」
「それはもう絶対に」
「玄関の石段には、明りがあるだろうか?」
「いいえ、ありません」
「ベンスンさんが、だれが窓をたたいているのか見ようとして外を覗いたら、夜でもだれかわかるかね?」
家政婦は返事をためらった。「さあ、どうでしょうか。わからないと思いますけど」
「玄関の戸を開けないで、外にだれがいるか、見る方法があるかな?」
「いいえ。ときどき、あればいいのにと思いましたけど」
「すると、だれかが窓をたたいたら、ベンスンさんは声で相手を見分けたにちがいないね?」
「そうだろうと思います」
「鍵がなかったら、家に入れないのはたしかだね?」
「はい、そのとおりで。戸はひとりでに鍵がかかるようになっています」
「ふつうのスプリング錠だね?」
「はい」
「すると、歯止めをひねっておけば、錠をかけておいても、どちら側からも開けられるわけだね?」
「はい、そういう歯止めがついていましたけど」と家政婦は説明した。「ベンスンさまが動かないようにしてしまわれました。危険だからとおっしゃって。歯止めがあると、わたしが外出した場合、家をあけっぱなしで出ることになりますから」
ヴァンスは廊下広間に出て行った。彼が玄関の戸を開けたてしている音がした。「プラッツさん、きみのいうとおりだ」と戻ってきたヴァンスはいった。「だれも鍵を持っていないのはたしかだね?」
「はい、わたしとベンスンさま以外は」
ヴァンスは相手の言葉にうなずいた。
「きみは、ベンスンさんが射たれた夜、寝室のドアを開け放しておいたといったね。いつでも、開け放しにしておくのかね?」
「いいえ。たいてい閉めておきます。でも、あの晩はたいそうむし暑かったものですから」
「すると、開け放しにしておいたのは、ほんの偶然だね?」
「はい、ほんの偶然でした」
「いつもどおりドアが閉まっていたら、銃声が聞えたと思うかね?」
「眼がさめていたら、聞えたと思います。でも、眠っていたら、聞えないでしょう。こういう古い家のドアは頑丈ですので」
「それに、実に美しい」とヴァンスはいって、廊下に向かって開いている、頑丈なマホガニーの二枚ドアを、ほれぼれと眺めていた。「ねえ、マーカム。いわゆる文明というやつは、美しい永続性のあるものをいっさい破壊して、安っぽい間に合わせのものを作ることにほかならないね。きみもオスヴァルト・シュペングラー〔ドイツの歴史哲学者。その大著『西洋の没落』は、西欧文明の崩壊を予言し、第一次大戦後の西欧思想に大きな影饗を与えた〕の『西洋の没落』をぜひ読むべきだ。非常にすぐれた書物だよ。どこか野心的な出版社が、われわれの |argot《アルゴ》(方言)にどうして翻訳しないんだろう。現代文明と呼ぶこの頽廃した時代の全歴史は、最近の木工細工にも認められる。たとえば、あのすばらしい古い戸を見たまえ。斜めに張られた鏡板、飾りのある浮出し、イオニアふうの壁柱、彫刻した横木、みごとなもんじゃないか。あれと、毎日何万と作られている平べったい、うすっぺらな、機械製の、シエラック塗りの板切れとくらべてみるがいい。|Sic transit gloria mundi《シク・トランシット・グロリア・ムンディ》(かくて世の栄光は移りゆく)を、つくづく感じるね」
ヴァンスは、しばらく戸をじっと眺めていたが、突然プラッツ夫人のほうに振り向いた。家政婦は、興味ありげに、だんだん不安そうに、じっとヴァンスを見つめていた。
「ベンスンさんは食事に出かけたとき、宝石箱はどうしたかね?」とヴァンスはきいた。
「どうもなさいません」と家政婦は神経質そうに答えた。「そこのテーブルの上に置いて行かれました」
「出かけたあと、見たんだね?」
「はい、しまっておこうと思いましたけど、手をふれないことにいたしました」
「ベンスンさんが外出したあと、だれも戸口に来たり、家に入ったりはしなかったね?」
「いいえ、ありません」
「たしかだね?」
「はい、たしかです」
ヴァンスは立ちあがって、部屋中を歩きはじめた。家政婦のそばを通りかかったとき、突然立ち止まって、彼女と向いあった。「プラッツさん、きみの結婚まえの苗字はホフマンだね?」
怖れていたことが、とうとうやってきた。家政婦の顔は蒼ざめ、眼は大きく見開かれて、下唇が少したれさがった。
ヴァンスは立ったまま彼女を見つめていたが、その眼はひややかではなかった。「この間、きみの魅力あふれるお嬢さんにお会いしたよ」
「わたしの娘?」と家政婦はようやく口ごもった。
「ホフマンさんだよ。あのブロンドの魅力的な娘さんだ。ベンスンさんの秘書の」
家政婦はしゃんと坐り直し、くいしばった歯の間からいった。「あれは、わたしの娘ではありません」
「おい、おい、プラッツさん」とヴァンスは子供にでもいうように、相手をしかった。「なんで、そんなばかげた嘘をいうんだ。先日、ベンスンさんとここでお茶を飲んだ女性に、きみが特別関心を持っているのを、ぼくに追求されて、どんなにきみが心配したか忘れはすまい。きみは、その女性をぼくにホフマンさんだと思われないかと心配していたんだ。しかし、なんでホフマンさんのことをそんなに心配しなくてはいけないのかね、プラッツさん? たしかに、あれはいい娘だ。あの娘がプラッツよりホフマンという名のほうがいいといったって、責めるわけにはいくまい。プラッツはふつうドイツ語では場所の意味だが、衝突、爆発という意味もある。ときには、甘パン、イースト・ケーキの意味もある。ところが、ホフマンは廷臣という意味だ。イースト・ケーキより、はるかに立派じゃないか」ヴァンスは愛嬌よくほほえんだ。その態度は、相手を落ち着かせる効果があった。
「いいえ、そうじゃありません」と家政婦は訴えるようにヴァンスを見ながらいった。「ホフマンを名のらせたのは、わたしです。この国では、頭のいい娘なら、機会があれば、貴婦人《レディ》になることができますし、それに──」
「よくわかるとも」とヴァンスは楽しそうに口をはさんだ。「ホフマンさんは頭がいい。きみは自分が家政婦をしていることが世間に知れると、娘さんの出世の邪魔にならないかと心配したんだね。で、いわば、娘さんのしあわせのために身を隠した。なかなかできないことだ。娘さんはひとりで暮らしているのかい?」
「はい、モーニングサイド・ハイツに。でも、毎週会っていますけど」その声は、ほとんど聞きとれないほどだった。
「むろん、そうだろう。会いたいだけ会うがいい。ところで、お嬢さんがベンスンさんの秘書をしているので、きみはここの家政婦になれたというわけかい?」
家政婦は、きびしい表情を目に浮かべて、ヴァンスを見上げた。「そのとおりでございます。ベンスンさまの人柄は娘から聞いておりましたし、しじゅう、ここに娘を呼びよせて、よぶんの仕事をおさせになるもんですから」
「それで、きみはここに住みこんで、娘さんを守ろうとしたんだね?」
「はい、そのとおりです」
「事件の翌朝、マーカムさんがきみに、ご主人はこの家のどこかに銃を置いていないかときくと、どうしてきみはあんなに心配したんだい」
家政婦は眼をそらせた。「べつに、心配などいたしません」
「いや、心配してたよ、プラッツさん。そのわけを、ぼくがいってあげよう。きみは、ホフマンさんが殺したと思われはしないかと心配してたんだ」
「いいえ、そんな──」と家政婦は叫んだ。「娘はあの晩、ここに来ませんでした。それは誓います。本当なんです……」彼女はすっかり動揺してしまった。一週間も張りつめた神経が参ってしまったのだ。家政婦は絶望的に周囲を見まわした。
「さあ、プラッツさん」とヴァンスは慰めるようにいった。「ホフマンさんが今度の事件に関係があるなんて、だれひとり信じてはいないから」
家政婦は探るようにヴァンスの顔をそっと見た。最初は信じないようだった。長い間、その不安が心にかかっていたのは明らかだった。ヴァンスは今の言葉が真実であるのを納得させるのに、たっぷり十五分もかけ、ようやくこの家を引きあげたとき、どうやら彼女は気持が落ち着いたらしかった。
スタヴィサント・クラブヘ行く途中、マーカムは無言で、一心になにか考えこんでいた。プラッツ夫人との会見から得られた新事実に、すっかり悩まされているふうだった。
ヴァンスは夢みるように煙草をふかしながら、ときどき顔を向けては、通りすぎる建物を眺めていた。わたしたちは四十八番街を抜けて東に車を走らせ、ニューヨーク聖書協会ビルのまえまで来ると、ヴァンスは運転手に車をとめさせ、その建物の美しさを眺めるようにいいはった。
「キリスト教の価値は、その建物によってのみ立証されているといっていいくらいだ」とヴァンスはいった。「幾つかの建物は別として、このニューヨークで目ざわりにならない建物はすべて、教会か、それに関連した建物だ。アメリカ人の美学的信条はこうだ、大きいものはすべて美しいと。摩天楼と呼ばれている四角い穴のあいたばかでかい箱は、大きいからという理由だけで、アメリカ人の崇拝を集めている。四十列穴のあいた箱は、二十列穴のあいた箱よりも、二倍美しい。単純きわまる公式さ。通りの反対側にある、あの小さな五階建てを見るがいい。ニューヨークのどの摩天楼より、何万倍も美しくて、印象的に見えるがね」
クラブヘ車を走らせる途中、ヴァンスは一度だけ、しかも間接的にしか、事件のことにふれなかった。
「マーカム、親切な心は、宝冠よりも尊いね。ぼくは今日善行をほどこした。だから、実際、自分が徳の高い人間みたい感じがする。|Frau《フラウ》(夫人)プラッツも、今夜はぐっすり Schlafen(眠れる)だろう。かわいいグレートヘン〔ゲーテの『ファウスト』に出てくる娘の名〕のために、おそろしく心配してるんだ。見上げた婆さんさ。実に母性的で……未来の何某令夫人が疑われていると思うと我慢できなかったんだ。それにしても、なぜ、あんなに心配したんだろう」そういって、ヴァンスはいたずらっぽくマーカムを見た。
屋上庭園で食事をすますまで、それ以上、事件の話はなにも出なかった。わたしたちは椅子を後ろにずらし、マディスン・スクエアの街路樹の頭ごしに町の夕景色を眺めながら坐っていた。
「さて、マーカム」とヴァンスが口を切った。「あらゆる偏見を捨てて、きみたち法律家がいうように、正しく事態を考えてみたまえ。まず、プラッツ夫人が、きみに銃砲のことをたずねられて、なぜ、あれほど心配したか、またベンスンのお茶の相手に彼女が個人的な関心を持っていることをぼくにいわれて、なぜあわてたか。今では、そのわけがわかった。そこで、この二つの謎は消滅した……」
「家政婦とあの娘の関係を、どうして知ったのかね?」とマーカムはきいた。
「ぼくの色目のおかげでね」とヴァンスはマーカムをとがめるように見た。「はじめて会ったとき、ぼくがあの娘に色目を使ったのをおぼえているだろう。いや、あのときのことは許してあげよう。あのときぼくらが、頭蓋骨の特徴について少々議論したのもおぼえているだろう。ぼくはすぐ気がついたんだが、ミス・ホフマンは、ベンスン家の家政婦の肉体的構造をすべてそなえていた。短頭で、頬骨がとび出していて、顎がせり出しておらず、平べったい頭頂骨と、中間型の鼻を持っている。それから、ぼくは耳を見た。プラッツ夫人は、尖った耳たぶのない『牧羊神』型の──ときおりダーウィン型と呼ばれる──耳を持っているのに気づいたからだ。こういう耳は遺伝する。ミス・ホフマンの耳は、多少はちがうが、それと同じ型なのを見つけたとき、ぼくは二人の血縁関係をかなり確信した。ほかにも類似点はある。たとえば、肌の色や身長など。二人とも背が高いからね。その上、二人とも身体の中央部が、四肢にくらべて非常に大きい。肩がせまくて、手首足首が小さく、お尻が大きい。ホフマンがプラッツの結婚まえの苗字だというのは、ほんの当て推量だが、そんなことはどうでもいい」
ヴァンスは椅子のなかで、もっと楽になるように姿勢を直した。「では、きみの法律的考慮へのお力ぞえまでに……まず、十三日の晩十二時半少しまえに、悪者がベンスンの家に来て、居間の明りを見て、窓をたたき、すぐ中に入れてもらったと仮定してみよう。この仮定から、訪問者について、どういうことがわかるだろう?」
「ベンスンがその人物と知り合いだったというだけさ」マーカムは答えた。「しかし、それじゃ、なんの役にも立たない。あの男の知り合い全部を |sus per coll《スス・ペル・コル》(絞首刑)にはできないよ」
「それ以上のことがわかるのさ」とヴァンスはいい返した。「疑いもなく下手人はベンスンのもっとも親しい仲間のひとりか、少なくとも、ベンスンが身なりなどかまう必要のない人間だったことを示している。まえにきみにもいったように、ベンスンがかつらをはずしていたということは、現在もっとも重要な点だ。かつらは、禿げに悩める中年のボー・ブランメル〔ロンドンの社交界で鳴らした伊達男ジョージ・ブランメル〕にとって、|sine qua non《シネ・クア・ノン》(欠くべからざる)装身具なんだ。きみは、この点についてプラッツ夫人のいったことを聞いたはずだ。乾物屋の小僧にさえ禿げを隠すほどのベンスンが、輝かしき冠もつけないで、たんなる知人に会うと、きみはただの一瞬でも思うかね? それに、義歯まで全部はずしていた。そればかりか、カラーもネクタイもつけず、古びたスモーキング・ジャケツに寝室用スリッパといういでたちだった。その光景を想像してみたまえ、きみ。カラーもつけず、シャツの袖口と金の飾りボタンをむき出しにした男なんて、どう見てもぱっとしない。まさに、巻き毛用の紙を巻きつけた貴婦人と同じだ。そんな裸も同然の恰好で、ベンスンが |tete a tete《テータ・テート》(差し向かい)で会える人間がどれだけいると思うかね」
「たぶん、三、四人だろう。しかし、それを全部つかまえるわけにはいかないね」
「できるものなら、きっときみはそうしたいんだろう。しかし、その必要はあるまい」
ヴァンスはケースから、また一本煙草を取り出して、話しつづけた。「ほかにもまだ、貴重な推定ができる。たとえば、犯人はベンスンの家庭内の様子をかなりよく知っていた。家政婦の寝室が居間からだいぶ離れていて、いつもどおりドアが閉まっていれぱ、銃声で眼をさます怖れはないことを承知していたにちがいない。それに、あの時間には、ほかにだれもいないことも知っていたはずだ。それから、もうひとつ。犯人の声はベンスンにすっかりお馴染だったということだ。ちょっとでも声が疑わしければ、ベンスンは日頃から強盗を怖れていたし、リーコック大尉の脅迫も気になっていたことだし、絶対に中には入れなかったろう」
「もっともな仮説だ。で、ほかには?」
「宝石だよ、マーカム。ポーラの愛のあかしだよ。きみは、あの宝石のことを考えてみたかね? あの晩ベンスンが帰宅したとき、宝石は中央のテーブルの上にあった。翌朝は、どこかに消えていた。したがって、犯人が当然持ち去ったことになる。え、どうかね? あの晩、犯人がやってきた理由のひとつは、あの宝石にあったかもしれない。そうとすれば、あれがあそこにあることを知っていたベンスンの |personae gratae《ペルソネ・グラテ》(親友)はだれか。そして、とくにあれを欲しがっていたのはだれか、ということになる」
「そのとおりだ、ヴァンス」とマーカムはゆっくりうなずいた。「きみのいうとおりだ。ぼくは、ずうっと、ファイフィーのことが気にかかっていた。今日、ヒースがリーコックの自供書を持ってきたとき、ぼくはもうちょっとで奴の逮捕令状を出すところだった。それから、あの自供がだめになったとき、ぼくはまたあの男を疑いだした。今日の午後なにもいわなかったのは、きみがどう考えたか知りたかったからだ。今きみのいったことは、ぼく自身の考えと完全に一致する。ファイフィーこそ、犯人だ──」
マーカムは椅子の前足を、急に床にどしんとおろした。「それなのに、畜生、きみときたら奴を逃がしてしまった!」
「くよくよするな、きみ」とヴァンスはいった。「ファイフィーは、奥さんのところでのんびりやっているよ。それに、きみの友だちのベン・ハンロンは逃亡犯を連れもどすことにかけては、ベテランだ。悩めるリアンダー君は、しばらく、ほっとくさ。今晩つかまえる必要はないし、明日になったら、いらなくなるだろう」
マーカムはくるりと向き直った。「なんだって。いらなくなるだって。なぜかね、ヴァンス?」
「つまり」とヴァンスはだるそうに説明した。「あいつは、気持のいい楽しい男じゃないからね。惚れこむほどの玉じゃない。必要以上に、あんな奴にまわりでうろうろして欲しくないもんだ。ついでにいっておくが、あれは犯人じゃない」
マーカムはすっかり面喰らって、腹も立てなかった。一分間ずうっと、ヴァンスを探るように見つめていた。「きみにはとてもついていけない。ファイフィーが潔白なら、いったい、だれが犯人だというんだ?」
ヴァンスはちらと時計を見た。「明日の朝、ぼくの家に食事に来ないかね。そのとき、ヒースに頼んであるアリバイ調べも忘れずに。そうしたら、だれがベンスンを殺したか教えてやるよ」
その口調のなにものかが、マーカムに感銘を与えた。ヴァンスに約束を守るだけの自信がなかったら、そんなことをいうはずがないことをさとったからだ。彼はその言葉を無視したり、割り引きして考えたりするには、ヴァンスを知りすぎていた。「なぜ、今教えてくれないんだ?」とマーカムはたずねた。
「大変残念だが」とヴァンスはあやまった。「今夜、フィルハーモニーの『特別演奏会』に行くんでね。セザール・フランクのニ短調を演奏するんだ。ストランスキーの気質は、あの全音階的感情にまさにおあつらえ向きだ。きみも来ないかね? 神経が休まるよ」
「ほっといてくれ」マーカムは不平を鳴らした。「ぼくに必要なのは、ブランデー・アンド・ソーダだ」
マーカムはわたしたちといっしょに、タクシーのところまでついてきた。
「明日は九時にね」とヴァンスは、シートに坐りながらいった。「役所は少し待たせるさ。ヒースに必ず電話して、アリバイ調査書を忘れずにね」そして、車が動きだすと、車から身を乗り出して「それからマーカム。プラッツ夫人の身長はどれくらいだと思う?」
二十二 ヴァンス自説を説明する
六月二十日木曜日午前九時
マーカムは、翌朝九時きっかりに、ヴァンスのアパートにやってきた。彼は機嫌が悪かった。
「ねえきみ」と食卓につくなりいいだした。「昨夜、別れ際にきみがいった言葉は、どういう意味なんだ?」
「メロンを食べたたまえ、きみ」とヴァンスはいった。「北ブラジル産で、とてもおいしい。しかし、胡椒や塩で風味を台なしにしてはいけない。あきれた食べ方だよ、あれは。メロンにアイスクリームを詰めるほどではないけれど、アメリカ人のアイスクリームの食べ方ときたら、実にひどいもんだ。パイの上にのっける。ソーダ水の中に入れる。ボンボンみたいに、固いチョコレートに包む。甘いビスケットの間にはさんで、アイスクリーム・サンドイッチと称する。泡立てクリームの代わりに、シャーロット・ルユス〔カスタード入りのカステラ〕に入れさえする──」
「ぼくの知りたいのは──」といいかけてマーカムは、ヴァンスにさえぎられた。
「メロンについて、いかに人々があやまった考えを抱いているかは驚くべきものだ。メロンには二種類しかない。マスクメロンと西瓜だ。朝食用のメロンはことごとく、キャンタルウブも、シトロンも、ナットメッグも、キャサバも、ハニーデューも、マスクメロンの変種なんだ。ところが、世間は、キャンタルウブは属名だと思っている。フィラデルフィアの人間は、すべてのメロンをキャンタルウブと呼んでいる。しかし、このタイプのメロンは最初、イタリアのキャンタルポで栽培され……」
「実に面白い」マーカムは、なかば苛立ちを見せていった。「昨夜のきみの言葉は……」
「メロンのあとで、カーリーがきみのために作った特別料理が出る。それはぼくの味覚上の |chef d'oeuvre《シェフ・ドゥーブル》(傑作)でね。むろん、カーリーに手伝ってもらったが。この着想というか、配合、編成のために数カ月かかったね。まだ名前はつけていない。おそらく、きみが適当な名をつけてくれるだろう。その料理を作るには、まず、固ゆで卵をきざんで、ポール・デュ・サリュー・チーズをおろしたものと混ぜあわせ、タラゴン草を少々加える。こうしてできたぺーストを、すずきの白身の薄切りにくるむ。フランスのパンケーキみたいに。それを絹糸で縛って、特別に作ったアーモンドの粉をまぶし、塩抜きバターで料理するんだ。むろん、これは作り方のごくあらましで、本当に微妙な点はいっさい省いてあるがね」
「おいしそうな料理だ」マーカムは熱のない口調でいった。「しかし、なにも料理の講釈を聞きに、ここに来たわけじゃない」
「どうも、きみは食べる楽しみの意義を低く評価しているね。食べることは、人間の知的進歩の確実な案内者だ。個人の気質をはかる確実な物差しであると同時にね。野蛮人は、野蛮人らしく料理し、食べた。人類の最初の頃、人間は消化不良の流行に苦しめられた。悪魔、鬼、地獄の観念などは、みなその頃の産物だ。それは、人間の消化不良が生んだ悪夢なのだ。人間が料理の技術をマスターするにつれ、人間は文明化されだした。料理芸術の絶頂に達したとき、人間は同時に知的・文化的栄光の絶頂に到達した。|gourmet《グルメ》(美食家)の芸術が衰えるとき、人間もまた衰える。アメリカの無趣味な規格化された料理は、アメリカの衰退の典型といえる。完璧に調合されたスープはね、マーカム、ベートーヴェンのハ短調シンフォニー以上に人間を高尚にする……」
食事の間中、マーカムはヴァンスのおしゃべりを黙って聞いていた。二、三回話題を事件のほうに引きこもうと試みたが、すべてヴァンスのおしゃべりに無視された。ヴァンスがマーカムの訪問の目的にふれたのは、ようやくカーリーが食卓を片づけたあとだった。
「アリバイの報告書は持ってきたかね?」とヴァンスは口を開いた。
マーカムは、うなずいた。「昨晩、きみが帰ってから、ヒースを見つけるのに二時間かかったよ」
「それはお気の毒に」とヴァンスは低い声でいった。
ヴァンスは机のところに行き、整理箱のひとつから、ぎっしり書きこんだ二つ折のフールスキャップを一枚取り出した。「ざっと眼を通して、博識のきみのご意見をうけたまわりたい」とヴァンスはそれを手渡しながらいった。「昨夜、コンサートのあとで作ったんだ」
あとでわたしはその書類を手に入れ、ベンスン事件に関するわたしのほかの覚え書や書類といっしょにファイルにしておいた。以下は、その忠実な写しである。
[仮定] アンナ・プラッツ夫人は六月十三日の夜、アルヴィン・ベンスンを射殺した。
[場所] 彼女はベンスン家に寝泊りし、兇行の時刻同家にいたことを認めた。
[機会] 彼女は同家に被害者ベンスンと二人きりだった。
窓はすべて内側から閂または鍵がしてあった。玄関の戸は鍵がかかっていた。ほかには侵入する方法はまったくない。
プラッツが居間に行くのはごく自然であり、おもてむき、家事上の用件をたずねに入ったのかもしれない。
彼女がベンスンのまん前に立ったとしても、必ずしも、ベンスンは顔を挙げなかったかもしれない。だから、ベンスンは読書の姿勢だった。
ベンスンの注意を惹《ひ》かずに、彼を射殺する目的で、これほどに接近できる者がほかにありえようか。
ベンスンは家政婦のまえでは、どんな恰好だろうと気にしなかったろう。義歯やかつらをはずし、寝巻き姿を家政婦に見られることに慣れていた。
同家に住むプラッツは、犯行に都合のいい時間を選ぶことができる。
[時] 家政婦は起きて待っていた。彼女は否定しているが、ベンスンは自分の帰宅する時間をいっておいたかもしれない。
ベンスンがひとりで帰宅し、スモーキング・ジャケットに着換えるのを見て、彼女は同夜はもはや来客のないことを知った。
家政婦はベンスンの帰宅直後の時間を選んだ。ベンスンがだれかを連れて帰り、その人物がベンスンを殺したように見せかけるためである。
[手段] 家政婦はベンスンの銃器を使用した。ベンスンが一丁以上の銃器を所持していたことは疑いない。なぜならば、銃器を置くには居間よりも寝室のほうがありうるからであり、スミス・アンド・ウェッソンは居間で発見されたことから見て、おそらくもう一丁は寝室にあったと思われる。
家政婦として、プラッツは二階にピストルがあることを知っていた。ベンスンが読書のため居間に降りたあと、彼女はピストルを手に入れ、エプロンの下に隠して持ち出した。
彼女は、犯行後、ピストルは棄てるか、ないしは隠すかした。処理する時間は、夜中たっぷりあった。
ベンスンが屋内に銃器を所持しているかどうかときかれたとき、彼女はおびえてしまった。われわれが寝室に銃器があったことを知っているかどうか、はっきりしなかったからだ。
[動機] 彼女は娘にたいするベンスンの振舞いを案じて、家政婦の職を手に入れた。娘が夜、同家に仕事に来るときは、いつも聴き耳を立てていた。
最近、彼女はベンスンがよからぬ意図を持っていることを察知し、娘に危険が差し迫っていると信じた。
プラッツのように、娘の将来のため、自己を犠牲に供する母親なら、娘を救うためなら殺人をおかすことも躊躇しないだろう。
その上、宝石がある。彼女は宝石をどこかに隠し、娘のために保管しているのだ。外出の際、ベンスンは宝石をテーブルの上に置いていっただろうか。もし、しまって行ったとすれば、同家のことに精通し、充分時間的余裕に恵まれたプラッツ以外に、だれがそれを発見できようか。
[行動] 彼女はセント・クレアがお茶に来なかったと嘘をつき、あとでセント・クレアが犯罪とは無関係だと知っていたからだと釈明した。これは、女性独特の直観だろうか。いや、彼女は自分が犯人であるがゆえに、セント・クレアは潔白であることを知っていたのである。無実の者が疑われることを望むには、彼女は母性的感情を持ちすぎた。
彼女は昨日、娘の名前にふれられて、大いに心配した。二人の関係がわかっては、ベンスン殺しの動機が露見しないかと怖れたのだ。
彼女は銃声を聞いたことを認めた。否認した場合、実験によって、居間での発砲が彼女の部屋まで大きく聞えることが証明されることもありうるからである。そうなれば、自分に嫌疑がかかるにちがいない。眼が覚めたとき、人は明りをつけて、正確な時間を確かめたりするだろうか。また、屋内に銃声らしい物音が聞えたとすれば、調べてみるなり、主人に知らせるのがふつうではなかろうか。
最初の訊問のとき、彼女は明らかにベンスンを嫌っているようだった。そして、訊問されるたびに、はっきり不安をあらわした。
プラッツは冷静、利口、かつ意志強固なドイツ的な女であり、かかる犯罪を計画・実行することが可能である。
[身長] 約五フィート十インチ。実験で得られた犯人の身長と同じである。
マーカムはたっぷり十五分もかけて、この「要約」を数回読み返し、読み終わると、さらに十分ばかり黙りこくった。それから立ちあがって、室内を歩きだした。
「上等の法律文書とはいえないがね、それは」とヴァンスはいった。「しかし、大陪審にだって理解できるだろう。むろん、きみが書き直して、推敲し、無意味な文句や難解きわまる法律用語でいっぱい飾り立てても結構だ」
マーカムはすぐには返事せず、フランス窓のそばに立ち止まって、通りを見おろしていた。それから、いった。「きみのおかげでうまくいった。まさにすばらしい。ぼくは最初から、きみがなにを狙っているのかふしぎに思っていた。昨日のプラッツの訊問なんか無意味としか思えなかった。白状するが、あの女を疑ったことは一度もなかった。ベンスンはよほど恨まれたにちがいない」
マーカムはくるりと振り返り、頭をたれ、両手をうしろに組んで、ゆっくりとわたしたちのほうに寄ってきた。「あの女を逮捕するのはどうもいやだ。妙な話だが、あの女と今度の事件を結びつけて考えたことは一度もなかった」彼はヴァンスのまえで立ち止まった。「第一、きみ自身だって、最初はあの女を疑っていなかった。ベンスン邸にやってきて五分以内に、だれがやったかわかったなんて、大法螺を吹いていたくせに」
ヴァンスは面白そうに微笑して、椅子のなかで身体を伸ばした。
マーカムはだんだん腹が立ってきた。「ひどい奴だ! きみは次の日、どんな証拠があろうと、これは絶対、女にはできないといったはずだ。そうして、芸術だの、心理学だのなんのといって、長広舌をふるったじゃないか」
「そのとおりだ」ヴァンスはまだほほえみながらいった。「あれは女にはできないよ」
「女にはできないって」マーカムの咽喉が急にふくれあがった。
「そう、女にはできないね」ヴァンスはマーカムの手にある紙片を指さした。「そいつはちょっと、きみをかついでみたんだよ。かわいそうに、プラッツ婆さん。あの女はまったく潔白だ」
マーカムは紙をテーブルに投げ出し、腰をおろした。こんなにマーカムが怒ったのを見たことがなかったが、彼はみごとに自分をおさえていた。
「ねえ、マーカム」とヴァンスは、無感動な、もの憂げな口調でいいはじめた。「ぼくは、きみのいわゆる情況証拠とか物的証拠とかが、どんなに愚劣であるか、きみに示してやりたくてしようがなかったんだ。プラッツ夫人に対するぼくの告発は、むしろ自慢できるものだ。それで、きみはあの女を有罪にできるとぼくはかたく信じている。しかしね、きみ、きみの高邁《こうまい》なる法律理論と同じことで、そいつはまったく本物らしくて、しかもあやまりだらけなんだ。情況証拠なんて、マーカム、およそ愚の骨頂さ。その理論は、現代のデモクラシーの理論に似ていなくもない。デモクラシーの理論は、選挙で愚民の票を多く集めれば、英知が生まれるというわけだが、情況証拠の理論は、弱い鎖の環を充分な数だけ集めれば強い鎖ができるというんだからね」
「きみが今朝ぼくをここに呼んだのは」とマーカムはひややかにいった。「ぼくに法律論を講義するためかね?」
「いや、とんでもない」とヴァンスは楽しげに否定した。「ただ、ぼくの説明を受け入れてもらうには、きみにその下拵《ごしら》えをしておく必要があったんだ。なぜなら、ぼくは真犯人に対して、なんの物的証拠も、情況証拠も持っていないからね。しかも、マーカム、ぼくはきみがそこの椅子に坐って、どうすれば罰せられずに、ぼくを苦しめて殺せるか、計画しているのを知っているのと同じくらいたしかに、その男が真犯人であることを知っているんだ」
「証拠がなくて、どうして結論が出せるかね?」マーカムは恨みがましくいった。
「もっぱら心理的分析という、個人の持つ可能性の科学とでもいおうか、そういうものによってだ。人間の心理的性格は、それを読みとれる者にとっては、ヘスター・プリン[アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンの長編小説『緋文字』の女主人公]の緋文字のように、はっきりした烙印がついている。もっとも、ホーソーンは一度も読んだことがないがね。ニューイングランド的気質は我慢できないのだ」
マーカムは口をぐっと結び、ヴァンスにひややかな兇暴な視線を向けた。「きみはぼくがきみの犠牲者の腕をつかんで法廷にひきずり出し、判事に向かって、『これがベンスンを殺した男です。証拠はなにもありませんが、死刑を宣告してください。わたしの聡明この上ない友人であり、すずきの詰め物料理の発明者ファイロ・ヴァンス君が、この男はよこしまな性格だといっていますから』ということを期待してるのかね」
ヴァンスは、ほんのちょっと肩をすくめた。「ぼくは、きみがその犯人をつかまえないからといって、べつに悲しんでしょげたりはしない。ただね、きみが無実の人間を追いかけまわすのをやめさせるためにも、真犯人を教えてやるのは人道的かと思ったまでだ」
「わかった。じゃあ、教えてくれ。そして、ぼくに仕事にかからせてくれ」
ベンスン殺しの犯人がだれか、実際ヴァンスが知っているということについては、マーカムの心にはもはや疑いはなかったとわたしは信じている。しかし、なぜヴァンスがこのように何日間も彼をやきもきさせたか、そのわけを完全に理解したのは、その朝ずっと遅くなってからだった。そして、ようやくそれがわかったとき、マーカムはヴァンスを許したが、今のマーカムの怒りは忍耐ぎりぎりのところだった。
「その紳士の名を教えるまえに、ひとつ、ふたつ、しなければならないことがある」とヴァンスはマーカムにいった。「まず、アリバイの報告をちょっと見せてくれないか」
マーカムは、ポケットからタイプ書きの書類つづりを出して手渡した。
ヴァンスは片眼鏡を直して、丹念に目を通した。それから、部屋を出て行って、だれかに電話する音が聞えた。戻ってくると、もう一度報告を読み直した。とりわけ、そのひとつを、可能性をはかるように、じっと見つめていた。
「機会はあるな」ヴァンスは最後にそうつぶやき、決心がつかないように、じっと暖炉のなかを見つめていた。それから、もう一度ちらと報告を見た。「この報告では」とヴァンスはいった。「オストランダー大佐は、十三日の夜、モリアティーというブロンクス区の参事会員といっしょに四十七番街のピカデリー劇場で、ミッドナイト・フォリーズを見物している。十二時少しまえに到着し、最後まで見物し、終わったのは二時半頃。きみはこの参事会員と知りあいかね?」
マーカムは鋭く相手の顔を見た。「会ったことはある。彼がどうしたのかね?」わたしは、その声に興奮をおし殺した驚きがあったように思う。
「この参事会員氏は、今頃どこをうろついているだろう?」とヴァンスはきいた。
「家だろう、きっと、それとも、サモセット・クラブかな。ときには、市庁で仕事がある」
「それは、それは。政治家らしくもない。すまないが、モリアティー氏が在宅か、クラブにいるか、たしかめてくれないか。もし、お邪魔じゃなかったら、ちょっと話したい」
マーカムはヴァンスを突き刺すような眼で見た。それから無言で、書斎の電話のところに行った。
「モリアティー氏はちょうど在宅で、市庁に出かけるところだった」と戻ってきたマーカムはいった。「その途中、ここに寄ってくれと頼んでおいた」
「がっかりでないといいんだが」ヴァンスはほっと溜息をついた。「しかし、やってみるだけの価値はあるだろう」
「きみは、判じ物遊びでもしているのか?」とマーカムはいったが、その質問には、ユーモアも、人のよさも感じられなかった。
「誓ってもいいが、ぼくは決して本筋を混乱させようというんじゃないんだよ」とヴァンスはいった。「きみがふんだんに持っているあの素朴な信頼の気持を少しふるいたまえ。そのほうが、ノルマン的な勇猛さより好ましい。犯人は、必ず午前中に引き渡す。ただ、いいかね、その人物が犯人だときみに納得させる必要がある。このアリバイ報告は、ぼくが |coup de boutoir《クー・ド・ブトワール》(好ましからざる提案)をする際に、大いに役立ちそうだ。先ほどもいったように、アリバイは扱いにくい危険な代物で、大いに疑ってかからなければならない。アリバイがないということは、まったくなんの意味も持たないのだ。たとえば、この報告によると、ホフマンは十三日の夜、アリバイがない。映画館に行って、それから帰宅したと申し立てているが、だれも彼女を見た者はない。たぶん、ベンスン邸へ母親を訪ねてゆき、遅くまでいたんだろう。どうだ、疑わしいじゃないか。しかし、たとえベンスンの家にいたとしても、彼女の唯一の罪は、母親への愛情だったにすぎない。他方、この報告には、いわゆる鋳鉄のような堅牢なアリバイが幾つかある。ばかげた比喩さ。鋳鉄なんて、すぐこわせる。そして、ぼくはたまたまそのうちのひとつがインチキだと知っている。だから、マーカム、おとなしく、もうちょっと辛抱したまえ。このアリバイをこまかく検討することが、ぜひ必要なんだから」
十五分後、モリアティー氏がやってきた。彼は二十代後半の、真面目で着こなしのいい、美男子で、わたしの持つ市参事会員のイメージとまるでちがっていた。彼は、ブロンクス訛りのほとんどない、はっきりした正確な英語をしゃべった。
マーカムがモリアティー氏を一同に紹介し、手短かにここに来てもらったわけを説明した。
「その件については、つい昨日も、殺人課の人がひとり訪ねてきました」とモリアティー氏は答えた。
「その報告は受けていますが」とヴァンスはいった。「少し漠然としすぎていましてね。あの晩、オストランダー大佐と会われてからの行動を正確に話していただけませんか?」
「大佐のお招きで夕食をし、フォリーズを見物しました。マルセイユで落ち会ったのが十時。そこで夕食をとり、十二時少しまえにピカデリーに行き、二時半頃までいましたか。それから、大佐のアパートまでいっしょに歩いて行き、一杯やっておしゃべりし、三時半頃地下鉄で帰りました」
「昨日、刑事には、劇場ではボックスにいたとおっしゃいましたね」
「ええ、そうです」
「あなたと大佐は、上演中、ずっとボックスにおいででしたか?」
「いや、一幕目が終わったとき、わたしの友人がボックスに来たもので、大佐は席をはずしてトイレに行きました。二幕目がすむと、わたしと大佐は通路に出て、一服やりました」
「一幕目がすんだのは、何時でしょう?」
「十二時半か、そのあたりでしょう」
「その通路というのは、どこにありますか? わたしの記憶では、劇場の横に沿っていて通りに抜けられるはずですが」
「ええ、そのとおりです」
「ボックスの近くに出口があって、通路に出られますね?」
「ええ、出られます。あの晩もそうしました」
「一幕目のあと、大佐はどのくらい席を離れていましたか?」
「二、三分でしょう。正確にはいえませんが」
「大佐が帰ってきたのは、二幕目の幕があがったときですか?」
モリアティーは考えていた。
「そうではなかったように思います。幕が開いてから、しばらくしてだったと思います」
「十分くらいですか?」
「はっきりわかりません。それ以上でなかったことはたしかです」
「すると、幕あいが十分あったとして、大佐は二十分くらい席をはずしていたんですね?」
「ええ、だぶん、そんなもんでしょう」
これで会見は終わった。モリアティーが帰ったあと、ヴァンスは椅子にもたれて、考えこみながら煙草をふかしていた。
「意外な幸運だ」とヴァンスは感想を述べた。「ピカデリー劇場は、ベンスンの家からほんの角をまわったところにある。きみは様子が呑みこめたかね? 大佐はモリアティーをミッドナイト・フォリーズに招待して、通路に面した出口近くのボックスに席をとる。十二時半少しまえに席をはずし、通路から外に出て、ベンスンの家に行き、窓をたたいて入れてもらい、殺してから急いで劇場に戻ってくる。二十分もあれば充分だろう」
マーカムは身体をおこしたが、なにも意見をいわなかった。
「さて、これから」とヴァンスはつづけた。「示唆的な状況と、確証的な事実を眺めてみよう。セント・クレアの話だと、大佐はベンスンの扱っていた投機で大損し、ベンスンの腹黒さを非難していたそうだ。一週間も、ベンスンに口をきかなかった。そこで、二人の間には敵意があったのは明らかだ。大佐はマルセイユでセント・クレアがベンスンといるところを見かけている。そして、彼女がいつも十二時には帰るのを知っていて、十二時半を都合のいい時間として選んだ。最初は、もっと遅くまで、そう一時半か二時まで、待つつもりだったかもしれないが。陸軍将校だから、コルトの四十五口径は持っていたろうし、おそらく射撃は上手だろう。大佐はきみにだれかを逮捕させたくて、やきもきしていた。だれでもかまわないように見えた。それで、そのことをたずねに、きみに電話をかけさえした。大佐は、ベンスンがあの格好で平気に中に入れそうな、ごくわずかな人間のひとりだし、ベンスンとは十五年来の友人だ。プラッツ夫人の話だと、ベンスンがかつらを脱いで、大佐に見せたのを見たことがあるそうだ。その上、大佐はあの家の事情をよく知っているにちがいない。ベンスンにニューヨークの夜のすばらしさを案内しがてら、たびたびあそこに泊まったこともあるだろう。どうかね、この推理は気に入ってくれたかな?」
マーカムは立ちあがり、ほとんど眼を閉じたまま、部屋中を歩きまわっていた。
「なるほど。それで、きみは大佐にあれほど関心があったのか。みんなに大佐を知ってるかとたずねたり、昼食に招いたり……。まず第一に、なぜ大佐が犯人だと結論したんだね?」
「犯人」とヴァンスは叫んだ。「あのやくざで、とんまな老いぼれが犯人だって! とんでもない、マーカム。大佐はあの晩ほんとうにトイレに行って、眉毛を撫でつけたり、ネクタイを直したにちがいない。実際、ボックスに坐っていれば、舞台の女たちからよく見えるからね」
マーカムは突然立ちどまった。醜い色が頬にのぼり、眼が怒りに燃えていた。しかし、まだなにもいいだせないうちに、ヴァンスは相手の怒りなどどこ吹く風と、落ち着きはらって、話しつづけた。
「ぼくは驚くほど運よくやってのけられた。それはともかく、大佐はトイレに行って、めかしこむような旧式のしゃれ者にすぎない。そんなことだろうと思っていたが。まったく、今日の進展ぶりは驚くべきものだった。もっとも、きみを怒らせてしまったがね。現在、きみには五人の容疑者がいる。そのうちのだれに対しても、きみはちょっと法律的に工夫すれば、有罪にできるんだ。とにかく、告発することはできるのさ」
ヴァンスは、瞑想するように頭を後ろに傾けた。「まず、セント・クレアだ。きみはあの女が犯人だと確信し、少佐に逮捕する手筈はすべてととのったといった。犯人の背丈についてのぼくの実証なんか、法廷では意味がないといって、棄ててしまえるよ。次は、リーコック大尉だ。きみがあの男を牢屋にぶちこむのをふせぐため、実際こっちは腕力までふるわされる始末だった。あの愉快な自供はむろんのこと、きみはみごとにリーコックを有罪にできるだろう。きみが困難に出会ったら、むこうのほうから助けてくれるだろう。なにしろ、有罪にしてもらいたくてたまらない男なんだ。三番目に、あの愛すべきリアンダー・ファイフィーがいる。ほかのだれよりも、あの男は裁判しやすいと思う。|embarras de richesse《アンバラ・ド・リッシェス》(うんざりするほど)たくさん情況証拠がそろっているんだから。どんな陪審だって、よろこんで有罪にしてくれるだろう。ぼくだって、あの服装だけで有罪にしてやるよ。四番目は、誇りをもって、プラッツ夫人を挙げることにしよう。これまた情況証拠が完璧で、手がかりだの、推定だの、法律的なんとかだので満ちあふれている。五番目には、オストランダー大佐のご登場を願おう。大佐に対する告発は、たった今おさらいずみだ。もうちょっと時間があれば、もっと念入りに仕立上げられたのに」ヴァンスはここで言葉をきり、皮肉っぽくマーカムに微笑した。
「この五人組のどれをとっても、犯人だと推定する条件に叶っている。いずれも、時間、場所、機会、手段、動機、行為についての法律的要求をみたしている。たったひとつの欠点は、五人がみな無実であることだ。困ったことだが、しかたがない。そこで、少しでも疑わしい人間がすべて無実だとすれば、どうしたらいいだろう? 困ったもんだ」
ヴァンスはアリバイ報告を取りあげた。「このアリバイを検討する以外に、方法はないね」
一見こんななんの関係もない脱線によって、いったいヴァンスがどんな目標に到達しようとしているのか、わたしはまるで想像できなかった。マーカムも、けげんな顔つきだった。だが、わたしたち二人は、気狂いじみてはいるけれど、ヴァンスのやり方のなかにひとつの筋道があることを、一瞬たりとも疑わなかった。
「さあ、今度は少佐の番だ。当ってみる気はないかね? 長くはかからない。この近くに住んでいるんだから。少佐のアリバイは、すべてアパートの夜勤のボーイの証言にかかっている。さあ、行こう」ヴァンスは立ちあがった。
「ボーイが今いるって、どうしてわかる?」とマーカムはさからった。
「さっき電話して、わかったのさ」
「しかし、こんなことはまったく意味がない」
ヴァンスは、マーカムの腕をつかみ、ふざけてドアのほうへ引っぱろうとした。「そのとおりだよ」とヴァンスはいった。「しかし、何十回もいったろう、きみは人生を真面目に考えすぎるって」
マーカムは懸命に抵抗し、あとずさりして、つかまえた腕を振りほどこうとした。だが、ヴァンスは断固たるものだった。熱っぽいやりとりがあった末、とうとうマーカムが折れた。「こんな手品はもうまっぴらだ」とマーカムは、タクシーに乗りこみながら愚痴った。
「ぼくだって、とっくにまっぴらだ」とヴァンスはいった。
二十三 アリバイ調べ
六月二十日木曜日午前十時三十分
ベンスン少佐の住むチャタム・アームズは、四十六番街の、第五、第六アヴェニューの中間にある小さな高級独身者用アパートだった。素朴で品のよい正面にある入口は、通りと同平面で、歩道からわずか石段を二段昇ったところにあった。玄関のドアを開けると、左側に |cul-de-sac《キュル・ド・サック》(袋小路)のように小さな応接間のあるせまいホールがあった。奥にエレヴェーターが見え、その脇に、せまい鉄の階段がエレヴェーターの通路を取り巻くように走っており、その下に電話の交換台が押しこめられるようについている。
わたしたちが着いたとき、制服姿の若者が二人勤務中で、ひとりはエレヴェーターのドアによりかかり、もうひとりは交換台に坐っていた。
ヴァンスは入口近くでマーカムを引きとめた。
「電話で聞いたところでは、このボーイたちのひとりが、十三日の夜、勤務中だったそうだ。どちらだか探して、地方検事の肩書きでおどかして、おとなしくさせてくれないか。そうしたら、ぼくに引き渡してくれたまえ」
マーカムはしぶしぶホールの奥に入って行った。ボーイたちに一、二質問して、マーカムはそのうちのひとりを応接間に連れてきて、横柄に用件を説明した。(ボーイの名は、ケリー街六二一番地に住むジャック・プリスコだった)
ヴァンスは、相手の知っていることをすべて心得ている人のような自信たっぷりな様子で、質問しはじめた。「ベンスン少佐は、弟さんが殺された夜、何時頃帰宅した?」
ボーイは大きく眼を見開いた。「十一時頃で、ショーが終わってすぐでした」彼はほんのちょっとためらっただけで答えた。
以下、紙面を節約するために、二人のやりとりを劇の台本ふうに記す。
ヴァンス 少佐がきみに話しかけたんだね?
ボーイ そうです。芝居を見に行ったが実にひどい芝居で、頭が痛くなったといわれました。
ヴァンス 一週間もまえにいわれたことを、なぜそんなによくおぼえているんだろう?
ボーイ だって、あれは少佐の弟さんが殺された夜でしたから。
ヴァンス すると、あの事件ですっかりきみは興奮して、あの晩のベンスン少佐のことはすべておぼえているというのかい?
ボーイ そうですよ。殺された人の兄さんですから。
ヴァンス あの夜帰宅したとき、少佐は日にちについて、なにかいったかな?
ボーイ いいえ、べつに。ただ、あんなひどい芝居に行ってしまったのは、十三日のせいだろうといわれましたけど。
ヴァンス ほかになにかいったかい?
ボーイ(にやりとして) 十三日をきみの幸運の日にしてやるといって、ポケットにあった小銭を全部くださいました。五セント、十セント、二十五セント、それに五十セント銀貨を一枚。
ヴァンス 全部でいくらあった?
ボーイ 三ドル四十五セントありました。
ヴァンス それから、少佐は部屋に行ったんだね?
ボーイ ええ、わたしがエレヴェーターで上げました。三階にお住まいです。
ヴァンス そのあとで、また外出したかな?
ボーイ いいえ。
ヴァンス どうしてわかる?
ボーイ お出かけになれば、見たはずです。一晩中、エレヴェーターを動かしたり、交換台にいるかしていましたから、わたしに見られずに、出かけられるはずがありません。
ヴァンス きみひとりで夜勤をしたのかい?
ボーイ 十時以後は、ボーイはひとりだけです。
ヴァンス 玄関以外に出られるところはないのかな?
ボーイ いいえ、ありません。
ヴァンス その次にベンスン少佐を見かけたのはいつだった?
ボーイ(ちょっと考えて) ぶっかき氷が欲しいということで、お持ちしました。
ヴァンス それは何時だった?
ボーイ はっきりわかりません。あっ、そうだ。十二時半でした。
ヴァンス(かすかに微笑して) たぶん、時間をきかれたろう?
ホーイ そうです。居間の置時計を見てくれとおっしゃって。
ヴァンス なぜ、そんなことをきいたんだろう?
ボーイ それが、氷をお持ちすると、もうお休みで、居間の水差しに入れておいてくれとおっしゃるんです。いわれたとおりにすると、暖炉の上にある置時計は今何時かとおたずねでした。懐中時計がとまったので、時間をあわせたいということでした。
ヴァンス それから、どういった?
ボーイ とくに、べつに。ただ、だれから電話がかかっても、ベルを鳴らさないでくれということでした。眠りたいから、起こしてもらいたくないといわれるんです。
ヴァンス とくに、そこのところを念をおしたんだね?
ボーイ ええ、そんなところです。
ヴァンス ほかにはなにか?
ボーイ いいえ。おやすみとおっしゃって、明りを消したので、わたしは下に行きました。
ヴァンス どの明りだい?
ボーイ 寝室のです。
ヴァンス 居間から寝室が見えるかな?
ボーイ いいえ。寝室は廊下のところにありますから。
ヴァンス すると、どうして明りを消したのがわかる?
ボーイ 寝室のドアが開けてあって、明りが廊下にさしていましたから。
ヴァンス きみは出て行くとき、寝室のドアのまえを通ったろう?
ボーイ そうです。通らないと出られません。
ヴァンス ドアはまだ開いていたかい?
ボーイ ええ、開いていました。
ヴァンス 寝室のドアはそれひとつ?
ホーイ そうです。
ヴァンス きみが部屋に入ったとき、少佐はどこにいた?
ボーイ ベッドです。
ヴァンス どうしてわかった?
ボーイ(ちょっとむっとして) 見たんですよ。
ヴァンス(少し間をおいて)あとでまた少佐が降りてこなかったのは、たしかだろう?
ボーイ 降りてきたら、見えたはずだといったでしょう。
ヴァンス きみがエレヴェーターで上に行っているあいだに、きみに見られずに降りられないだろうか?
ボーイ できるでしょう。でも、少佐に氷をお持ちしてから、二時半頃モンタギューさんが帰られるまで、エレヴェーターは動かしていません。
ヴァンス すると、ベンスン少佐に氷を持って行ってから、モンタギューさんが二時半に帰ってくるまで、きみはだれもエレヴェーターで上げなかったんだね?
ボーイ ええ、そうです。
ヴァンス その間、ここのホールを離れなかったろうね?
ボーイ ええ、ずうっとここに坐っていました。
ヴァンス すると、最後に十二時半に見たとき、少佐はベッドに入っていたんだね?
ボーイ そうです。朝早く、どこかの女の方から弟さんが殺されたと電話があるまで寝ておられました。それから十分して、少佐は降りてきて、外出されました。
ヴァンス(ボーイに一ドルやって) ありがとう。もういい。われわれがここに来たことはだれにもいうな。さもないと、牢屋行きだ。いいかい? さあ、仕事に戻るんだ。
ボーイが行ってしまうと、ヴァンスは訴えるようにマーカムを見た。
「さて、マーカム。社会を守るため、正義の要求に応えるため、最大多数の善のため、そして、|pro bonne publico《プロ・ボネ・プブリコ》(公共の善)とかなんとかのため、もういちどきみは生来の好み──その他、なんと呼ぼうと結構だが──に反する行動をとらなくちゃいけない。俗にいうと、今すぐ少佐の部屋をちょっと覗いてみたいんだ」
「なんのために?」マーカムの口調は、抗議を叫ばんばかりだった。「きみはすっかり頭がどうかしたんじゃないのか。ボーイの証言には、どこにもごまかしはない。ぼくは利口ではないかもしれないが、ああいう証人が嘘をついていないくらいはわかる」
「たしかに、ボーイは嘘はついていない」ヴァンスは落ち着きはらって同意した。「だからこそ、部屋に行ってみたいんだ。来たまえ、マーカム。今時分、少佐が |en surprise《アン・シュプリーズ》(不意に)戻ってくる気づかいはない。それに」とヴァンスはご機嫌をとるようにほほえんだ。「きみはあらゆる援助を惜しまないと約束したろう」
マーカムは烈しく抗議したが、ヴァンスも負けず劣らず烈しく自説を主張した。数分後、われわれは合い鍵で、ベンスン少佐の部屋に侵入した。
ヴァンスはまっすぐ居間に入って行った。右手の壁に暖炉と暖炉棚があり、その上に旧式のマホガニーの置時計がおいてある。むこうの角の暖炉棚の近くに、小さなテーブルが置かれ、水差しと六つのコップを収めた銀のアイス・ウォーター・セットがのせてある。
「あれが、かの便利な置時計か」とヴァンスはいった。「そして、こちらがボーイが氷を入れたという水差しか。シェフィールドの模造品だね」
ヴァンスは窓際に行き、二十五フィートか三十フィート下の、舗装した裏庭を見おろした。「少佐がこの窓から脱け出すわけにはいかないな」と彼はいった。
そして、向きを変え、しばらく廊下ホールを眺めていた。「ドアが開いていれば、ボーイには寝室の明りが消えるのが簡単に見えたはずだ。通路の壁はまっ白だから、反射はずいぶん明るかったろう」
それから、引き返してきたヴァンスは、寝室に入って行った。入口に面して小さな天蓋つきのべッドがあり、傍らに電気スタンドののったナイト・テーブルがあった。ベッドの端に腰かけたヴァンスは、あたりを見まわし、ソケットの鎖を引いて、明りをつけたり、消したりした。それから、マーカムをじっと見た。「ボーイに知られずに、どうやって少佐が脱け出したかわかったろう?」
「空を飛んでだろう」とマーカムはいった。
「そんなところだ」とヴァンスは答えた。「それに、すこぶる巧妙だ。いいかね、マーカム。十二時半に、少佐はぶっかき氷が欲しいとボーイに電話した。ボーイが持ってきて、部屋に入り、開いたドアから覗いてみると、少佐はベッドにいた。少佐は居間の水差しに氷を入れるようにいいつけた。ボーイは廊下ホールを通って、居間を横切り、隅のテーブルに行った。そのとき、少佐はボーイに声をかけ、暖炉棚の時計は何時かときく。ボーイが見ると、十二時半だ。少佐はもう起こさないでくれといい、おやすみという。そして、ナイト・テーブルのこの明りを消して、ベッドから飛び出す。むろん、ちゃんと服を着ていたのだ。ボーイが氷をあけて、ホールを戻ってくるまえに、すばやく共用廊下に飛び出し、階段を駆け降りて、エレヴェーターが降りてくるまえに、通りに出てしまう。帰りしな、ボーイが寝室のドアのまえを通りかかったとき、たとえ覗いてみたとしても、部屋はまっ暗だから、少佐がまだベッドにいるかどうか全然見えないわけだ。どうだい、実に頭のいいやり方だろう?」
「むろん、それも可能だろう」マーカムは譲歩した。「しかし、きみのまことしやかな想像も、帰りをどうしたか説明できないね」
「それは少佐の計画のなかで、いちばん簡単だ。たぶん、通りの向う側のどこかの門口で、ほかの下宿人がアパートに入るのを待ち受けていたんだろう。ボーイの話だと、モンタギュー氏が二時半頃帰ったそうだ。そのとき、少佐はエレヴェーターが上にあがった頃を見すまして中に入りこみ、階段を歩いて昇ったのだ」
マーカムは辛抱づよく微笑したが、なんにもいわなかった。
「きみも気づいていたと思うが」とヴァンスはつづけた。「日付や時間をはっきりさせ、それをボーイの心に印象づけるのに、少佐はずいぶん苦労した。へたな芝居、頭痛、厄日。厄日なもんか。たしかに、十三日さ。しかし、ボーイには運がいい日だった。お金をひと握り。みんな銀貨だ。チップにしちゃ変じゃないか。でも、一ドル札だったら、忘れられていただろう」
マーカムの顔は曇ったが、その声はあいかわらず無感動で静かだった。「ぼくはプラッツについてのきみの推理をとるね」
「なるほど。しかし、まだ終わったわけじゃない」ヴァンスはいいながら、立ちあがった。「兇器を見つけたいものだ」
マーカムは、面白そうに、だがなおも信じかねるようにヴァンスを見守っていた。「むろん、そうなれば、ひとつの決め手にはなるだろう。しかし、きみは本気で見つかると思っているのかね?」
「やすやすとね」とヴァンスは楽しげにうけあった。
ヴァンスは置き箪笥のほうに行き、引出しを開けはじめた。「目下留守中のご主人殿は、弟の家にピストルを残していかなかった。それに、投げ棄てるにはあまりに抜け目ない。このまえの戦争で陸軍の少佐だったから、そんな武器を持っていたって当然だ。実際、少佐がピストルを持っていることを知っている者だって、何人かいるだろう。また、もし少佐が無実だったら──少佐はぜひわれわれにそう考えてほしいらしいが──いつもの置き場所に置いて悪いはずがない。ピストルがないほうが、あるよりも、もっと疑いをかけられるにちがいない。それに、そこには興味津々たる心理的要素が含まれている。疑われるのを怖れる潔白な人間なら、むしろ隠したり、捨てたりするだろう。たとえば、リーコック大尉のように。しかし、身におぼえのある人間は、潔白らしく見せようとして、殺したあとで、元のところに返しておくだろう」
ヴァンスはまだ置き箪笥のなかを探していた。「だから、唯一の問題は、少佐がいつもどこにピストルをしまっていたか、それを見つけ出すことだ……この箪笥にはないな」とヴァンスは最後の引出しを閉めながら、つけたした。
今度は、ベッドの足元に置いてある旅行鞄を開けて、中身をあらためた。「ここにもない」とヴァンスは無頓着につぶやいた。「あとそれらしいところは衣裳用の押入れだけだ」
部屋を横切って、ヴァンスは押入れのドアを開け、ゆっくりと電灯のスイッチをひねった。上の棚に、ふくらんだピストル・ケースつきの陸軍用ベルトが、だれにもすぐ見えるように置いてあった。ヴァンスはすこぶる慎重にそれを持ちあげ、窓際のベッドの上に載せた。
「あっただろう、きみ」とヴァンスは快活にいいながら、ちかぢかと覗きこんだ。「ベルトとケース──蓋はべつだが──をとくに注意して見てほしい。ぶ厚くほこりをかぶっている。蓋は比較的きれいで、最近開けられたことがわかる。むろん、断定することはできないが……しかし、きみは手がかりにうるさいからね、マーカム」
ヴァンスは注意深くケースからピストルを抜き出した。「見るたまえ、ピストルにもほこりはついていない。最近掃除したんだろう」
ヴァンスは次に、ハンカチの隅を銃身に押しこんだ。それから、引き出して、持ちあげてみせた。「ほらね。銃身の内部も汚れていない。それから、ぼくのセザンヌのコレクションを法学士の学位にかけても結構だが、薬包は一発もなくなっていないと思う」
ヴァンスは弾倉を抜き出して、薬包をナイト・テーブルの上にあけた。薬包はわたしたちのまえに、きちんと並んだ。全部で七発で、この型のピストルの全部の弾だった。
「マーカム、きみの尊重する手がかりをもうひとつ提供しよう。長いこと弾倉に入れてある薬包は、少し変色するものだ。留め板が気密性じゃないからね。だが、よく封をして箱に収めた新しい薬包は、長い間光沢を保つんだ」
ヴァンスは、弾倉からころがり出した最初の薬包を指さした。「見るたまえ、この薬包はほかのより少し艶がいい。これは最後に弾倉に詰められたものだ。それから推定すると──きみは推定の名人だが──これは新しい薬包で、ごく最近に入れられたことになる」
ヴァンスはマーカムの眼をまっすぐに覗きこんだ。「これはへージドーン主任が預っている薬包のかわりに、ここに入れられたのだ」
マーカムは、催眠術の魔力を払いのけようとするように、急に頭を持ちあげた。彼はやっと努力して微笑してみせた。「ぼくはまだプラッツについてのきみの推理のほうがすぐれていると思うがね」
「少佐についてのぼくの肖像は、まだ輪郭ができただけだ」とヴァンスは答えた。「はっきりした形をとるのは、これからだ。しかし、まず簡単な教義問答をしてみよう。どうして少佐は、アルヴィンが十三日の夜、十二時半に家にいることを知ったのか。少佐は弟がセント・クレアを夕食にさそったことを知っていた。少佐は盗み聴きをするとホフマンがいったのをおぼえているだろう。それに、セント・クレアが十二時には必ず帰宅するといったのを聞いていた。昨日セント・クレアと別れたあと、彼女がわれわれに話したことのなかには、真犯人を断罪するのに役立つことがあるとぼくがいったのは、彼女が十二時には必ず会合を切りあげるといったことを指していたのだ。だから、少佐は弟が十二時半頃には在宅し、ほかにはまずだれもいないと確信していた。それに、待つことだってできるじゃないか。弟は |en deshabille《アン・デザビエ》(裸同然の姿)ですぐ会ってくれるだろうか。もちろんだ。少佐はとんとんと窓をたたく。少佐の声はすぐわかった。アルヴィンは兄のまえで、服装なんか気にする必要はさらさらなく、義歯もかつらもはずして会うことをなんとも思わなかったろう。では、少佐の身長はぴったりか。ぴったりだ。この間、ぼくはきみの事務所で、わざと少佐のそばに立ってみた。ほぼ五フィート十インチ半あった」
マーカムは、中身を取り出したピストルを無言で見つめていた。ヴァンスは、ほかの容疑者にたいする仮説を組み立てているときとは、まったくちがった声でしゃべっていた。マーカムはその変化に気づいていた。
「さて、今度は宝石だ」とヴァンスはいった。「いつかぼくがいったのをおぼえているかい。ファイフィーの担保を見つけたときは、すなわち犯人の肩に手をかけるときだといったのを。そのとき、ぼくは少佐が宝石を持っていると考えていた。包みのことはいわないように少佐からいわれたとホフマンが話したとき、ぼくの確信はつよまった。アルヴィンは十三日の午後、宝石を家に持ち帰った。少佐はきっとそのことを知っていたのだ。この事実が、あの夜アルヴィンを殺害する決心に影響した。少佐はあの安ピカ物が欲しかったんだ、マーカム」
ヴァンスは元気よく椅子から立ちあがり、ドアのほうへ歩いて行った。「さあ、あとは宝石を見つけだすだけだ。犯人は宝石を持ち去った。さもなければ、あれが家から消え去るはずがない。宝石はこのアパートのどこかにある。もし少佐が事務所に持って行けば、だれかに見られるかもしれないし、銀行の貴重品保管所に預ければ、行員が宝石紛失の一件をおぼえているかもしれない。その上、ピストルについてあてはまるのと同じ心理が、宝石についてもあてはまる。少佐は最初から潔白を装ってきた。実際、宝石はほかのどこよりここのほうが安全だ。事件が片づいてから、始末する時間はたっぷりある。ちょっといっしょについてきてくれないか、マーカム。きみのつらさはよくわかる。きみの心臓は麻酔剤に弱いときているからねえ」
マーカムは呆然として、ヴァンスについて廊下ホールを歩いて行った。わたしはすこぶるマーカムに同情した。今やヴァンスが真剣に少佐の罪を実証していることは、はっきりマーカムにわかっていたからだ。ヴァンスが少佐のアリバイを調べたいと提案したとき、マーカムはその本当の目的に不審を抱いたのではなかろうか。そして、彼があれほど反対したのは、ヴァンスの人をじらせるやり方にむっとしたためもあるだろうが、同時にその調査の結果を怖れたからではなかったか。それは、長い間のベンスン少佐にたいする友情が裏切られ、とうとう真相にぶつかって、ためらったというのではなかったろう。今になってよくわかるのだが、マーカムは避けがたい情況のなかで、なんとかしてヴァンスの気持を自分が誤解しているのだと思おうとし、事件の進展の一歩ごとに烈しくさからって、運命それ自体を変えようと苦闘していたのである。
ヴァンスは先頭に立って居間に入り、五分間ほど立ったまま、室内のさまざまな家具を目で調べていた。他方、マーカムは戸口に立って、両手を深くポケットに突っこんだまま、眼をほそめてヴァンスを見守っていた。
「もちろん、専門家をつれてきて、部屋中を片っぱしから捜査してもいいんだが」とヴァンスはいった。「その必要もあるまい。少佐は大胆かつ抜け目ない人物だ。あの広い四角い額、丸い人を威圧するような眼つき、まっすぐな背骨、引っこんだ腹を見ればいい。少佐の心理作用は、すべて直截《ちょくせつ》だ。ポーのD大臣〔ポーの短編『盗まれた手紙』に登場するフランスの老獪《ろうかい》な政治家〕と同様に、苦労してどこかの片隅に宝石を隠すことの無意味さを知っているだろう。それに、隠してもしょうがない、要はただ、人に見られないところに置いておけばいい。それには当然、錠と鍵がいる。しかし、寝室には、そういう |cache《カーシュ》(隠し場所)はない。そこで、ぼくはここに来たわけだ」
ヴァンスは隅のずんぐりした紫檀の机に歩み寄り、引出しをあけようとしたが、どれも鍵はかかっていなかった。次は、テーブルの引出しを当ってみたが、それにも鍵はしてなかった。窓際の小型のスペインふう用箪笥も、やはり同じことだった。
「マーカム、鍵のかかった引出しさえ見つかればいいんだが」とヴァンスはいった。
ヴァンスはもう一度室内を点検し、寝室に戻ろうとしたとき、彼の眼は、センター・テーブルの下の棚にある雑誌の束に半ば隠された、サーカシア産のクルミ材でできた葉巻箱の上にとまった。ヴァンスは突然立ちどまり、急いで箱のところに行き、蓋を開けようとした。箱は鍵がかかっていた。
「はてな」とヴァンスはいった。「少佐はどんな葉巻を吸うんだろう。ロメオ・エ・ユリエタ・ペルフェシオナードスだと思うがね。しかし、そいつは鍵をかけてしまっておくほどの値打ち物じゃなし」
ヴァンスはテーブルの上にあった頑丈な青銅の紙切りナイフを取りあげて、その尖端を葉巻箱のちょうど錠前のま上の隙間に刺しこんだ。
「そんなことをしちゃいけない!」とマーカムが叫んだ。その声には、叱責と苦痛の響きがあった。
しかし、マーカムの声がヴァンスに届くまえに、鋭くきしる音がして、ぱっと蓋があいた。なかには、青いビロードの宝石箱が入っていた。「ほらね。『ものいわぬ宝石は、言葉より利発だ』というだろう」とヴァンスは、あとに退っていった。
マーカムは沈痛きわまる表情で、葉巻箱を見つめながら立っていた。それから、ゆっくり向きを変え、崩れるように椅子に身を沈めた。「ああ、ぼくはなにを信じていいのかわからない」とマーカムはつぶやいた。
「その点では」とヴァンスは答えた。「きみはあらゆる哲学者と同じく、いたましい苦境に陥っている。しかし、きみは六人もの罪のない人間をあっさりと有罪だと信じようとした。それなのに、真犯人である少佐にたいして、なぜためらいを感じるんだ?」彼の口調はあざけるようだったが、その眼にある奇妙な不可解な表情がその声を裏切っていた。そして、わたしの記憶では、この二人は固い変わらぬ友情に結ばれていながら、ただの一度も感傷的な言葉、あるいは同情的な言葉さえもかわしたことがないのだった。
マーカムは肘を膝につき、両手で頭をかかえこんで、絶望的な様子で前にかがみこんでいた。
「しかし、動機は!」と彼はいいはった。「ひと握りの宝石のために兄弟を殺す者はないだろう」
「そのとおり」とヴァンスは同意した。「宝石はたんなる付録さ。事件には重大な動機があったのだ。これから、それを確かめるわけだ。あの計理士からの報告が来れば、すべてが、あるいは少なくとも大半が明るみにでるだろう」
「それで、きみは帳簿を調べさせたいといったのか」マーカムはきっぱりと立ちあがった。「行こう。徹底的に調べてみる」
ヴァンスはすぐには動かなかった。暖炉棚の上にある東洋ふうのデザインの、小さな古いろうそく立てを一心に見つめていた。「おや」とヴァンスはつぶやいた。「模造品にしては、実にみごとなもんだ」
二十四 逮捕
六月二十日木曜日正午
アパートを引きあげるとき、マーカムはピストルと宝石箱を持ってきた。五番街の角のドラッグ・ストアから、マーカムはヒースにすぐ検事局に来るように、そのときへージドーン主任も連れてきてほしいと電話した。また、計理士のスティットにも、なるべく早く報告するように電話した。
「これでよくわかったろう」わたしたちが刑事法廷ビルに行くためタクシーに乗りこんだとき、ヴァンスがいった。「ぼくのやり方のほうが、きみのよりはるかにすぐれているということが。最初からだれの犯罪か知っていれば、外見にまどわされることはない。知らないと、たとえば巧妙なアリバイにだまされやすい。ぼくがきみにみんなのアリバイを洗ってくれと頼んだのは、少佐が犯人だとわかって、きっと立派なアリバイを用意しているにちがいないと思ったからだ」
「それなら、なぜみんなのアリバイを洗う必要がある? オストランダー大佐のアリバイを崩そうとして、時間つぶしをする必要はないだろう?」
「そっと少佐の名前をほかの連中の名前のなかに入れておきでもしなかったなら、どうして少佐のアリバイが手に入るかね。最初から少佐のアリバイを洗ってくれと頼んだなら、きっときみは断わったにちがいない。まずオストランダー大佐のアリバイから洗ったのは、抜け道がありそうだったからだ。そして、ぼくの選択は好運だった。ほかの連中のアリバイのひとつが崩せれば、少佐のアリバイを洗うのに、もっときみが力を貸してくれるだろう。それが、ぼくにはわかっていた」
「しかし、きみがいうように、最初から少佐が犯人だと知っているのなら、なぜぼくに教えてくれなかった? そうすれば、この一週間やきもきせずにすんだのに」
「そんなにあっさりいってくれるな、マーカム」とヴァンスはいい返した。「最初から少佐が犯人だなどといおうものなら、きみはぼくを |scandalum magnatum《スカンダルム・マグナツム》(名誉毀損)と誹誘の罪で逮捕していただろう。しかし、ぼくは一度だって、きみに嘘をついたことはない。絶えず暗示を与え、重要な事実を指摘して、きみが自分で犯人を見破ることを期待していた。ところが、きみは腹が立つほど強情に、ぼくの暗示はいっさい無視するか、誤解したのだ」
マーカムはしばらく沈黙した。それから、「きみのいうことはよくわかる。しかし、なぜきみは次から次とわら人形を作っては、ぶちこわしにかかったんだね?」ときいた。
「きみは、身も心も、情況証拠とやらに金縛りにされていた」とヴァンスは指摘した。「少佐を犯人だときみに突きつけるには、情況証拠なんてなんの役にも立たないことを、まずきみにわからせなければならなかった。少佐にはなにひとつ不利な証拠はない。あの男がそうしたのだ。だれも少佐が犯人かもしれないという可能性を考えてもみなかった。兄弟殺しなどは |lusus naturae《ルスス・ナツーラエ》(造化の戯れ)で、カイン〔アダムの長男で、弟アベルを殺した。旧約聖書中の人物〕の時代以来、考えもつかぬことだった。ぼくが工夫をこらせばこらすだけ、きみはあれこれとけちをつけて奮戦し、ぼくのささやかな努力を失敗させようと、想像しうるかぎりのあらゆる手段を弄した。きみも男らしく、ぼくがこれほど熱心にやらなかったなら、少佐は絶対に疑われることはなかっただろうということを認めたまえ」
マーカムはゆっくりとうなずいた。「しかし、今でもまだわからないことが幾つかある。たとえば、なぜ少佐は、ぼくがリーコック大尉を逮捕しようとしたとき、あれほど熱心に反対したんだろう?」
ヴァンスは頭を振った。「まったく単細胞だなあ、きみという男は。きみには絶対に悪いことなんかできないね。すぐにつかまってしまうだろう。少佐は自分が犯人をつかまえるのになんの関心もないふりをすれば、またきみが犠牲者を投獄しようとするのに反対だと見せかければ、どんなに自分の立場が堅固なものになるか、それがわからないのか。自分にかけられるかもしれない嫌疑を追いはらうのに、これほどよい方法はないだろう。おまけに、少佐は自分がなにをいっても、きみが決心をひるがえすような人間ではないことをよく承知していた。きみはそれほど気高い人柄なんだから」
「しかし、少佐は一、二度セント・クレアが犯人だと考えているような印象を与えたがね」
「ああ、それは少佐が抜け目ない男だから、うまく機会を利用したのだ。少佐がリーコックに疑いがかかるようにたくらんだことは疑いない。リーコックはセント・クレアのことで、公然とアルヴィンを脅迫した。セント・クレアはアルヴィンと二人だけで夕食をとることになっていた。してみると、翌朝アルヴィンが陸軍用コルトで射ち殺されているのが発見されたとき、大尉以外にだれが疑われるだろう。少佐はアルヴィンがひとり暮らしで、アリバイを作るのが難しいことを知っていた。ファイフィーを証人に推薦したところを見ても、どれほど少佐が狡猾か、きみにもわかったろう? 少佐は、きみがファイフィーに会えば、必ず脅迫の件を耳にすることをわきまえていた。それに、少佐がファイフィーの名を挙げたとき、いかにもあとから思いついたように振る舞ったことを見逃してはいけない。少佐はいかにも何気なく見せたかったのだ。まったくずる賢い悪党さ」
マーカムは暗い顔で、じっと聴いていた。
「ところで、少佐がうまく機会を利用したといったが、その機会というのは」とヴァンスは話しつづけた。「きみは少佐に、アルヴィンがだれと食事したか知っているといって、少佐の計算を狂わせてしまったのだ。そして、きみはその人物を起訴できる証拠は充分あるといった。そのとき、少佐にはきみの考えが気に入ったのだ。この騎士道精神旺盛な市では、どんな証拠があろうと、チャーミングな女性が殺人で有罪を宣告されることはない。〔英米法では、一般市民から選ばれた陪審員が裁判に参加する陪審制度が採られている〕少佐はそのことをよく知っていた。それに、少佐はあの事件でだれも罰せられないですめばよい、と思うだけのスポーツマンシップは持ちあわせていた。だから、きみがあの女に容疑を切り換えることは歓迎するところで、彼女を巻きぞえにするのはまっぴらだというふりをして、たくみに芝居をやってのけたのさ」
「だから、きみはぼくにあの男の帳簿を調べてほしい、それから自白のことで相談したいから事務所まで来てほしいとぼくにいわせたとき、セント・クレアに容疑をかけているとほのめかせといったんだね?」
「むろん、そうだとも」
「では、少佐がかばっていた人物は?」
「ほかならぬ少佐自身さ。だが、きみにはセント・クレアをかばっていると思ってほしかったのだ」
「少佐が犯人だと確信していながら、なぜオストランダー大佐を事件に巻きこんだのかね?」
「あの男なら少佐を火葬にする薪を提供できるだろうと思っていたからさ。大佐はアルヴィン・ベンスンの親友で、とてつもない |camarilla《カマリヤ》(金棒引き)だから、ベンスン兄弟の不和を聞きつけて、真相を感づいているかもしれない。それに、あらゆる逆の可能性を取り除くためにも、ファイフィーについての情報を得ておこうと思ったのだ」
「しかし、ファイフィーについての情報は入手ずみだったじゃないか」
「いや、ぼくのいうのは物的な手がかりじゃない。ファイフィーの性格というか、心理というか、とりわけ賭博師としての個性が知りたかったのだ。これは、きみ、打算的で冷血な賭博師の犯罪だ。そういうタイプの人間以外に、この犯罪はできなかったろう」
マーカムは目下、ヴァンスの説には興味がないらしかった。「少佐は金庫にある宝石のことで弟が嘘をついたといったが、あのとき、きみは少佐を信用したかね?」とマーカムはきいた。
「ずる賢いアルヴィンは、決して宝石のことなんか兄貴にしゃべらなかったろう」とヴァンスはいった。「ファイフィーが訪ねてきたとき盗み聴きしたのが、少佐の情報源だと思うね。少佐の盗み聴きといえば、そこからぼくは犯罪の動機を察したのだ。きみのお馴染のスティットに、その点を明らかにしてほしいものだ」
「きみの説に従えば、この事件はかなり急いで思いついたようだね」とマーカムはいったが、実際、それは質問と同じだった。
「実行するこまかい点は、急いで思いついたものだろうね」とヴァンスは訂正した。「少佐はしばらくまえから、弟を殺してやろうと考えていたにちがいない。いつ、どういうふうにやるかはまだ決めていなかった。たぶん少佐は一ダースもの計画をたて、破り棄てたのだろう。ところが、十三日に好機が訪れた。あらゆる条件が少佐の目的にぴったりだ。少佐はセント・クレアが夕食に行く約束をしたのを耳にし、そこからアルヴィンがたぶん十二時半にはひとりで家にいると判断する。その時刻にやってしまえば、リーコック大尉に嫌疑がかかる。少佐はアルヴィンが宝石を持って帰ったのを見ている。これまた天の与えた絶好の機会だ。待ちに待った好機が、ついに到来した。あとはただアリバイを作って、|modes operandi《モドス・オペランディ》(実行方法)を考え出すだけだ。少佐がいかにやったかは、すでにぼくが説明ずみだ」
マーカムはしばらく考えていたが、ようやく顔をあげた。「きみの説明で、少佐が犯人であることは納得できた。だが、検事としてぼくはそれを立証しなくてはいけない。ところが、現実の法的証拠、がろくにないのだ」
ヴァンスは軽く肩をすぼめてみせた。「ぼくはきみたちのばかげた法廷だの、愚にもつかぬ証拠の規定には関心はないんでね。だが、きみを納得させたからには、ぼくがきみの挑戦を避けたなどとはいわせないよ」
「そんなことをいうつもりはない」とマーカムは暗い顔つきでうなずいた。徐々に、彼の口もとの筋肉が引きしまった。「きみは自分の役割を果した、ヴァンス。あとはぼくがやる」
わたしたちが検事局に着いたとき、ヒースとへージドーンがすでに待っていた。マーカムはいつもの控え目な事務的な態度で、二人に挨拶した。もうすでに彼は自信を取り戻し、任務を果すときの彼の特徴であるぶすっとした力強さで、日の前の仕事にとりかかった。
「とうとう真犯人を突きとめたようだ、部長」とマーカムはいった。「まあ掛けたまえ。すぐにざっと話をする。しかし、まず一つ、二つしておきたいことがある」
マーカムはベンスン少佐のピストルを、へージドーンに渡した。「このピストルを調べて、ベンスン殺しの兇器かどうか教えてほしい」
へージドーンは重々しく窓際に歩み寄った。窓枠にピストルを置くと、彼はだぶだぶの上着のポケットから、幾つか道具を取り出して、ピストルのそばに置いた。それから、宝石屋用の拡大鏡を片眼にはめ、長々としたいかけ屋めいた仕事を開始した。彼はまず銃床板を開いて、歯止めを引きもどし、発火栓を取り出した。次にスライドをはずして、連桿《れんかん》のねじをゆるめ、反動スプリングを抜き取った。わたしは今にも彼がピストルをすっかり分解するのかと思ったが、どうやら銃身のなかに光が通るようにしたいだけらしかった。すぐにピストルを窓に向かって構え、銃口に眼を当てていたからである。へージドーンは五分近くも銃身のなかを覗きこみ、太陽の反射が内部のいろいろなところにあたるように、少しずつ銃身を前後に動かしていた。
ようやく、無言のまま、彼はゆっくりと苦労してピストルを元通りに組み立てる仕事にかかった。それから、のっそりと席にもどり、しばらくの間、ぱちぱちとまばたきをしながら坐っていた。
「検事」とヘージドーンは頭を前に突き出し、鉄ぶちの眼鏡越しにマーカムを見つめながらいった。「どうやら、このピストルのようですね。断定的なことはいえませんが。しかし、あの朝弾丸を見たとき、特殊な施条の痕があるのに気づきましたが、このピストルの内部の施条は、あの弾丸の弾と一致するように思います。むろん、断定はできかねますが。ヘリクソメーター〔顕微鏡を使って銃身の内部を隅々まで検査できる器械のこと〕で、このピストルの銃身を調べてみたいと思います」
「しかし、きみはこのピストルだと思うんだね?」とマーカムはたずねた。
「はっきりとはいえませんが、そう思います。まちがいかもしれませんが……」
「よろしい、主任。持って行って、すっかり調べたら、すぐに電話で結果を知らせてくれたまえ」
「あのピストルにまちがいなしだ。大丈夫ですよ」へージドーンが行ってしまうと、ヒースが請けあった。「あの男のことはよく知っていますが、確信がなかったら、ああはいいません。で、いったいだれのピストルです?」
「すぐに教える」マーカムはまだ真相にたいして闘っていた。すべての疑わしい抜け穴がふさがるまで、少佐の犯行であることを自らにも保留しておくつもりだった。「それを話すまえに、スティットの報告を聞いておきたい。ベンスン・アンド・ベンスン商会の帳簿を調べにやったんだが、まもなく戻ってくるだろう」
十五分ほどすると──その間、マーカムはなんとかほかの仕事を片づけようと急いでいた──スティットが入ってきた。彼はマーカムとヒースに沈んだ声で挨拶し、ヴァンスを見つけると、感謝をこめてほほえんだ。「おかげで助かりましたよ。大当りでした。もうちょっと長くベンスン少佐を引きとめてくださったら、もっとよくやれたんですが。あそこにいる間中、少佐はずっとわたしを見張っているんですからね、まったく」
「できるだけやったんですがねえ」とヴァンスは溜息をついた。それからマーカムのほうを振り返って「ぼくは昨日昼食の間中、どうやったらスティットさんが調査しているあいだ、少佐を事務所から引き離しておけるか、そればかり考えていた。リーコックが自供したと聞いて注文どおりの口実ができたわけだ。実をいうと、少佐にここに来てもらう必要はなかったんだ。ただスティットさんに自由に調べさせてあげたかったんだ」
「なにかわかりましたか?」とマーカムは計理士にきいた。
「ええ、たくさん」と計理士は簡潔に答え、ポケットから一枚の紙を取り出して、机の上に置いた。「ここに簡単な報告があります。ヴァンスさんの助言に従って、まず株式台帳と会計の補助帳簿を調べ、売買受取書をチェックしました。仕訳台帳は放っておいて、会社の幹部の活動に調査を集中した次第です。それでわかったことですが、ベンスン少佐は以前から、自分名儀に書き換えた証券を担保にして、利鞘《りざや》かせぎの見返り品にしていました。また、だいぶ非上場株の投機をやっていた様子です。正確な額はわかりませんが、相当損をしていますね」
「では、アルヴィンのほうは?」とヴァンスはたずねた。
「同じですね。だが、アルヴィンのほうは運がよかった。数週間まえ、コロンバス・モーターズの共同投機をして儲けています。そして、その金は自分の金庫にしまいこんであります。少なくとも、秘書の話だとそうでした」
「すると、ベンスン少佐がその金庫の鍵を手に入れれば」とヴァンスはいった。「弟が殺されたことは幸運ですね」
「幸運?」とスティットはおうむ返しにいった。「刑務所に行かなくてすむだけでしょう」
計理士が行ってしまうと、マーカムは反対側の壁を見据えたまま、石像のように坐っていた。少佐の罪を本能的に認めまいとしてつかんだわらが、またひとつ彼の手から奪い取られてしまったのだ。
電話が鳴った。マーカムはゆっくりと受話器を取りあげた。電話を聴いているマーカムの眼に諦めきった表情が浮かぶのを、わたしは見た。マーカムは憔悴《しょうすい》したように、椅子の背によりかかった。「ヘージドーンからだ。あのピストルにまちがいないそうだ」
それから、身体を起こすと、ヒースのほうに向き直って、「ピストルの持ち主はね、部長、ベンスン少佐なのだ」
ヒースはひゅうと軽く口笛を吹き、驚いて少し眼を丸くした。しかし、次第にいつもの無表情な顔にもどった。「しかし、べつに驚きもせんですよ」
マーカムはベルを鳴らしてスワッカーを呼んだ。「ベンスン少佐を呼び出して、今から犯人を逮捕するから、すぐお出でいただけたらありがたいと伝えてくれ」マーカムがスワッカーに電話を頼んだ気持は、わたしたち一同によくわかったと思う。
それから、マーカムはヒースのために、手短かに少佐の罪状を説明した。それがすむと立ちあがって、机のまえにあるテーブルの椅子を並べ直した。「ベンスン少佐が来たら、ここに坐ってもらうつもりだよ、部長」そして、自分の椅子の真正面にある椅子を指さした。「きみは少佐の右側に坐ってくれ。それから、フェルプスか、いなければほかの者でもいいんだが、左側に坐らせてもらいたい。しかし、ぼくが合図するまで、絶対に行動しちゃいかん。合図したら、逮捕して結構だ」
ヒースがフェルプスを連れてもどってきて、めいめい椅子にかけたとき、ヴァンスがいった。「ご忠告しておきますが、部長、用心したほうがいいですよ。追いつめられたとわかったら、少佐は死物狂いにかかってきますから」
ヒースはひどく軽蔑したように苦笑した。「逮捕するのは、これがはじめてじゃないんでね、ヴァンスさん。ご忠告には充分感謝しますがね。それに、少佐はそんな男じゃない。とても神経質ですからな」
「では、どうぞご勝手に」とヴァンスはそっけなく答えた。「しかし、警告だけはしておきます。少佐は冷静で、一か八かのチャンスに賭けたり、髪の毛一筋動かさずに、有金全部はたけるような男です。しかし、とうとう追いつめられて負けたとわかったら、これまで抑えてきたものが、安全弁を失って、肉体的に爆発するでしょう。情熱も、感情も、感激もなしに生きてきた人間は、いつか必ず吐け口を求めます。ある者は爆発し、ある者は自殺する。しかし、原理は同じです。たんに心理的反応の問題にすぎません。そして、少佐は自己破壊的なタイプではない。だから、きっと爆発するにちがいないというのです」
ヒースはふんと鼻を鳴らした。「われわれは心理学は苦手でね。しかし、人間の性格なら心得てますわ」ヴァンスはあくびを噛み殺し、無雑作に煙草の火をつけた。しかし、わたしは彼が今坐っているテーブルの端から少し椅子を後ろにずらしたのに気がついた。
「検事」とフェルプスがしわがれ声を出した。「これでご苦労も終わりですね。わたしはリーコックの奴が犯人だとばかり思っていたんですが。ベンスン少佐に目をつけたのはだれですか?」
「今度の仕事のいっさいの功績は、ヒース部長と殺人課が受けるべきものだ」とマーカムはいい、「気の毒だが、フェルプス、地方検事局と、そのすべての関係者は、それには関知しないことになる」とつけ加えた。
「人生とはそんなものですわ」とフェルプスは哲学的な言い方をした。
わたしたちは少佐が来るまで、緊張した沈黙のなかで待っていた。マーカムは放心したように煙草をふかしていた。二、三度スティットの置いていった報告をちらと眺め、一度冷水器のところへ水を飲みに行った。ヴァンスは手元の法律書を行き当りばったりに開け、面白そうに微笑しながら、西部の判事が下した贈賄事件の判決のところを読んでいた。ヒースとフェルプスは職業柄、待つのには慣れていて、ほとんど身動きしなかった。
ベンスン少佐が入ってくると、マーカムはことさら何気なく挨拶し、握手するのを避けるため引出しの書類を忙しそうに探していた。ヒースは、しかし、ほとんど陽気なほどだった。少佐のために椅子を引いてやり、天気がどうとかこうとかながながとおしゃべりをした。ヴァンスは法律書を閉じ、足を引いてしゃんと坐った。
ベンスン少佐は愛嬌よく、しかも威厳があった。すばやくマーカムを一督したが、かりになにか不審に思ったにしろ、表には出さなかった。
「少佐、もし差し支えなかったなら、二、三たずねたいのですが」マーカムの声は低かったが、よく響いた。
「なんなりとどうぞ」と少佐は気さくにいった。
「あなたは軍用ピストルを持っていますね?」
「ええ、コルトの自動ピストルを」少佐はいぶかしげに眉をあげた。
「掃除して、弾を詰め直したのはいつですか?」
少佐は顔の筋肉ひと筋動かさなかった。
「はっきりとはおぼえていないが、何回も掃除しました。でも、ヨーロッパから帰って以来、弾は詰め直していません」
「最近だれかに貸しましたか?」
「いいえ、おぼえているかぎりでは」
マーカムはスティットの報告を取りあげ、ちょっと見た。「お客から頭金取引きの証券を返してくれといわれたら、どうするつもりでしたか?」
少佐は軽蔑したように上唇を釣りあげ、歯を覗かせた。「なるほど、そうだったのか。友情の影に隠れて、帳簿を調べに人をよこしたりして」少佐の顎の後ろに赤い斑点があらわれ、耳のほうまで拡がっていくのが見えた。
「そんな目的で人をやったのではない」少佐の非難はマーカムの胸にぐさりときた。「今朝あなたのアパートに自分で入ってみましたがね」
「すると、きみは家宅侵入までやったのか」少佐の顔は今やまっ赤になり、額には青筋が立っていた。
「して、バニングさんの宝石を見つけましたよ。どうしてあそこにあったんです、少佐?」
「そんなことは、きみの知ったことじゃない」と少佐はいった。その声はあいかわらず冷たく、落ち着いていた。
「なぜ、ホフマンさんに口止めしたんですか?」
「それもきみの知ったことじゃない」
「弟さんを殺した弾があなたのピストルから発射されても、わたしの知ったことじゃないというつもりですか?」とマーカムは静かにたずねた。
少佐は口もとに嘲《あざけ》りを浮かべ、じっとマーカムを見据えた。「なんという裏切り行為だ! 逮捕するためにここに呼びよせて、疑われているとはつゆ知らない人間に、罪を着せるような質問をするなんて。まったく卑劣きわまる奴だ、きみという男は!」
ヴァンスは身を乗り出した。「いいかげんにしたまえ!」その声は非常に低かったが、鞭のように鋭かった。「マーカム君が、友人として、あなたが潔白であってほしいと必死にたずねているのがわからないんですか?」
少佐はかっとして、突然ヴァンスのほうに向き直った。「ひっこんでいろ、このへなちょこ!」
「ごもっとも」ヴァンスはつぶやいた。
「それから、きみには」と少佐は震える指でマーカムを指さした。「今に吠《ほ》え面《づら》がかせてやる」
あらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》が少佐の口から流れ出た。鼻孔はふくらみ、眼は燃えあがっていた。少佐の怒りは人間のものとは思えず、さながら卒中にかかった人のようだった。顔は引きゆがみ、おぞましく、気狂いじみていた。
その間、マーカムは頬杖をつき、眼を閉じて、じっと耐えていた。ついに少佐が怒りのあまり、呂律《ろれつ》がまわらなくなると、マーカムは眼をあげ、ヒースにうなずいてみせた。それこそヒースが待ちに待った合図だった。だが、ヒースが行動するまえに、少佐はぱっと椅子から立ちあがり、はずみをつけて身を一回転させ、ヒースの顔面にすさまじい鉄拳をくらわせた。ヒースは椅子に倒れ、床の上に気絶してしまった。フェルプスが身をかがめて飛び出したが、少佐は膝をあげ、したたかその下腹を蹴とばした。フェルプスは床に沈み、うめきながら、ころげまわった。
少佐はそれからマーカムのほうに向き直った。眼は狂人のように輝き、唇は後ろに引きつっている。鼻の孔は烈しい息づかいのたびにふくれあがっていた。肩はせむしのように丸くなり、拳を握りしめたまま、両腕を身体から離してたらしていた。その態度は、まさに怖るべき制御しがたい悪意の化身であった。
「次は、きさまだ!」咽喉からしぼり出された、悪意にみちたその言葉は、動物の唸り声のようだった。そういいざま、少佐はぱっと飛びかかった。
この乱闘の間中、眼をなかば閉じ、大儀そうに煙草をふかしながら、静かに坐って眺めていたヴァンスが、急にテーブルの角をまわって進み出た。彼は両腕を前にさっと出し、片手で少佐の左手首をつかんだ。それから、すばやく踵をまわして、後退したように見えた。少佐のつかまれた腕は、肩甲骨の後ろまでねじあげられた。苦痛の叫びがあがり、ヴァンスにつかまれたまま少佐は急にぐったりした。
このときまでに、ヒースは息を吹き返していた。彼はよろめきながらも急いで立ちあがり、走りよった。かちゃりと手錠が鳴った。少佐はどしんと椅子に倒れ、痛そうに肩を前後に動かした。
「たいしたことはない」とヴァンスは少佐にいった。「さく状靱帯がちょっと切れただけです。二、三日したら直りますよ」
ヒースが進み出て、無言でヴァンスに片手を差し出した。その動作はお詫びであり、と同時に、相手にたいする讃辞だった。わたしはそういうヒースが好きになった。
ヒースと少佐が行ってしまい、フェルプスが安楽椅子に助け起こされると、マーカムはヴァンスの腕に片手を置いた。「さあ、行こう。ぼくは、もうくたくただ」
二十五 ヴァンスその方法を説明する
六月二十日木曜日午後九時
同じ日の晩、サウナ風呂と夕食のあと、陰うつで疲れきったマーカムと、はれやかで元気なヴァンス、そしてわたしの三人は、スタヴィサント・クラブのラウンジの奥の間に坐っていた。
わたしたちは三十分も黙りこくって煙草をふかしていたが、そのときヴァンスが、自分の考えに区切りをつけるかのように、こういった。「ヒースのように頑固で、想像力のない連中が、犯罪人と社会との間に、人間の垣根を作るんだ。まったく悲しむべきことさ」
「現代にはナポレオンなどいないのだ」とマーカムはいった。「いたとしても、刑事なんかにならんだろう」
「いや、刑事になりたくたって、体格ではねられてしまうだろう〔ナポレオンは小柄で有名〕。ぼくの理解するところでは、きみの手下の巡査君たちは、もっぱら身長と体重をもとにして選ばれているらしい。体格について、一定の条件をみたすことが要求されている。まるで、彼らの扱う犯罪が、暴動とギャングの果たしあいだけみたいにね。大きいこと、これが芸術においても、建築においても、定食においても、刑事においても、偉大なるアメリカの理想なんだ。すばらしい観念だよ」
「とにかく、ヒースは太っぱらな男だ」とマーカムは弁解するようにいった。「今じゃきみのことをなんとも思っていないよ」
ヴァンスはにっこりした。「あれだけ夕刊でほめられれば、だれだって機嫌よくなるだろう。きっと殴った少佐まで許したにちがいない。それにしても、巧みな一撃だったね、あれは。回転力の応用だ。ヒースはよっぽど頑丈な身体にちがいない。でなかったら、あれほど早く回復するわけがない。フェルプスのほうはかわいいそうに。生涯、膝がこわいだろう」
「きみは少佐の反応を正確に予想した」とマーカムはいった。「してみると、きみの心理学的なたわごとのなかにも、どこか取り柄《え》があるのを認める気持になってきた。きみの美学的推理で捜査がうまくいったんだからなあ」
ややあって、マーカムはヴァンスのほうに向き直り、問いたげにじっと見た。「最初から、どうしてきみは少佐が犯人だと確信したのかね?」
ヴァンスは椅子の背にもたれかかった。「しばらく、この犯罪の特色を──いちじるしい特徴を──考えてみたまえ。発砲する直前、ベンスンと犯人は話しているか、議論するかしていた。一方は坐り、他方は立ったままだった。それから、ベンスンは本を読んでいるふりをした。いうだけのことは全部いってしまったんだ。本を読みだしたのは、もう話はこれで打切りだという身振りなんだ。わざと以外に、人と話しながら本を読む者はいないからね。犯人はもはや望みなしと見て、男らしく対処しようというかねての覚悟どおり、やおらピストルを取り出し、ベンスンのこめかみめがけて、引金をひいた。それから、明りを消して、出ていった。これが現場から示された現実の事実なんだ」
ヴァンスは二、三服煙草をくゆらせた。「さて、その事実を分析してみよう。きみに指摘したとおり、犯人は胴体を狙わなかった。命中するチャンスははるかに大きいが、殺せるチャンスはずっと少ないからね。犯人は難しくて危険だが、同時により確実で効果的なやり方を選んだのだ。いわば、犯人の手口は大胆不敵で、直接的だった。鉄のごとき神経と、高度に発達した賭博師的本能を持つ者のみが、こんな率直な大胆きわまるやり方で殺せるのだ。それゆえ、神経質な者、興奮しやすい者、衝動的な者、臆病な者はすべて自動的に容疑者として除外できる。犯罪が手際よく、事務的におこなわれていることは、現場に証拠となりそうな物的手がかりがいっさい残されていないことと考えあわせて、この犯罪が怖るべき自信と勝負度胸を持った人間に、冷徹に、緻密にあらかじめ企てられ、計画されたことをはっきり示している。そこには微妙なもの、想像的なものはいっさい見られない。この犯罪のあらゆる特徴は、攻撃的でぶこつな精神──いい換えれば、静的で、決断力があり、豪胆で、直接的かつ具体的に事態に対処するのに慣れた精神の持ち主を示している。マーカム、きみも外面的な特徴から人間の性格を判断するくらいはできるだろう?」
「きみの理論の趣旨くらいはわかるつもりだよ」とマーカムは、少々あやふやな返事をした。
「それなら結構。行為の正確な心理的性格が決定されれば、あとはただ与えられた条件のもとで、今度の事件とまさに同じやり方でやるような、精神と気質を持った関係人物を見つけるだけだ。たまたま、ぼくは少佐をずっと前から知っていた。だから、あの朝情況をざっと見た瞬間、少佐がやったことはぼくには明らかだった。この犯罪は、あらゆる点で、あの男の性格や精神の完全な心理的表現だった。しかし、かりに個人的に少佐を知らなくても、大勢の容疑者のなかから、彼を取り出すことができたろう。なぜなら、犯人の個性をはっきりと正確に知っているのだから」
「しかし、少佐と同じタイプの、べつの人間がやったらどうなる?」とマーカムはきいた。
「われわれの性格はみなちがう、ときにどんなに似ているように見えてもね。それに、今回の場合、少佐と同じタイプと気質を持ったべつの人間がやったということが、万が一考えられたとしても、蓋然性の法則を考慮しなければならない。ほぼ同じ個性と本能を持った人間が二人、ニューヨークにいたと仮定しても、二人ともベンスンを殺す理由があったということがありうるだろうか。だが、ファイフィーが事件に登場し、あの男が賭博師で狩猟家だとわかったとき、その可能性はほとんどなかったけれど、ぼくは機会を見てあの男の性格を調べてみた。ぼくは個人的には知らないので、オストランダー大佐から情報を得ることにした。で、大佐の話を聞いて、たちまちファイフィーは |hors de propos《オール・ド・プロポ》(問題外)だとわかった」
「だけど、ファイフィーは度胸がある。向う見ずな賭博師で、たしかに追いつめられていた」とマーカムは異論を唱えた。
「なるほど。だが、向う見ずな賭博師と、少佐のような大胆で、分別のある賭博師の間には、大きな差が、心理的な深淵がある。実際、彼らを動かしている衝動はまるで逆だ。向う見ずな賭博師は、恐怖と、希望と、欲望によって動くが、冷静な賭博師は便宜と、信念と、判断によって動く。一方は感情的で、他方は理性的だ。ファイフィーとちがって、少佐は生まれながらの賭博師で、無限の自信にみちている。この種の自信は、外見的にはよく似ているが、向う見ずとはちがう。それは自分は絶対にまちがわず、安全だという本能的な信念にもとづいている。フロイド学派のいう劣等感のまさに逆だ。自我狂、|folie de grandeur《フォリー・ド・グランドゥール》(誇大妄想)の変種といってもいい。少佐はその持ち主だが、ファイフィーの性質にはそれがなかった。そして、この犯罪はそういう人間が犯したものだということを示しているので、ファイフィーが潔白だとわかったのだ」
「ごくぼんやりとだが、ようやくわかりかけてきた」とマーカムは、ちょっと間を置いていった。
「しかし、ほかにも心理的な、あるいはその他のしるしがあった」とヴァンスは話しつづけた。「ふだん着のままの死体、二階に置いてあったかつらと義歯、家の事情に犯人が精通していたらしいこと、ベンスン自身が犯人を家のなかに入れたという事実、あの時間に、ベンスンがひとりで家にいるのを犯人が知っていたということ──これらはすべて少佐が犯人であることを示している。犯人の推定身長も、少佐のそれと一致している。しかし、これは大して重要じゃない。ぼくの推定が少佐の身長と一致しなくたって、それは、世界中のへージドーン主任がどういおうとも、弾に偏流があったことがわかるだけなんだから……」
「では、あれほどきっぱりとこの殺人は女にはできないといったのはどうしてかね?」
「まず、あれは女の犯罪ではないからね。つまり、女なら、あんなふうにはやらないということだ。どんな理性的な女でも、殺人というような根本的な問題となると、感情的になるものだ。女がああいう犯罪を冷静に計画し、あれほど事務的に能率よくやってのける──五、六フィートの距離から、被害者のこめかみを狙って一発で殺す──というのは、人間の性質について、われわれが知っていることにまったく反するからねえ。それに、女は坐っている相手と立ったまま議論したりはしない。坐っているほうが安全な気がするらしい。女は坐っているほうがうまくしゃべれる、男は立ったほうがうまくしゃべれる。それにまた、女がベンスンのまえに立っていたとしても、相手に気づかれずにピストルを取り出し、狙いをつけることはできなかったろう。男がポケットに手を突っこむのはごく自然な動作だが、女にはポケットはないし、ハンドバッグ以外にピストルを隠す場所はない。怒った女が目のまえでハンドバッグを開ければ、男は必ず用心する。女の性格はたいへん不安定だから、怒った女の行動には男は疑い深くなるものだ。しかし、なによりも、犯人女性説が支持できないのは、ベンスンの禿頭と寝室用のスリッパさ」
「さっき、きみは」とマーカムはいった。「あの晩犯人は、必要とあらば思いきった手段をとる覚悟で、あそこに出かけたといったね。ところが、今度は計画的な犯行だといっている」
「そのとおりさ。二つの言い方は決して矛盾しない。あの殺人は計画的だった。これは疑う余地がない。しかし、少佐は被害者が死なずにすむよう、最後のチャンスを与える用意があったのだ。ぼくの推理はこうだ。少佐は財政的危機に追いこまれ、刑務所が眼のまえにちらついていた。そして、弟は自分を救えるだけの金を金庫のなかにしまっていることを知っていた。そこで、あの犯罪を計画し、それを実行する決意で、あの晩弟の家に行った。しかし、まず弟に苦境を話し、金を貸してくれと頼んでみた。おそらく、アルヴィンは勝手にしろとでもいったのだろう。少佐は殺人だけは避けたいと、少々哀願ぐらいしただろう。しかし、アルヴィンが相手にしないで本を読みはじめたので、これ以上訴えても無駄だとさとり、あの兇行におよんだのだ」
マーカムはしばらく煙草をふかしていた。やがて、「きみの推理はすべて認めるとして、わざとリーコック大尉に疑いがかかるように、少佐が殺人を計画したことが、なぜわかったのかな?」ときいた。
「形態と構成の原理を完全に理解している彫刻家が、彫像の肝要な部分がなにか欠けていれば、正確に補うことができるように」とヴァンスはいった。「人間の心を理解している心理学者は、ある人間の行為のなかに欠けた要素があれば、それを補うことができる。ついでながら、メロスのアフロディテ──つまり、ミロのヴィナスのことだが──の欠けている腕をめぐって、あれこれ無駄口を闘わす向きもあるけれども、まさに愚劣のきわみだ。美的構成の法則をわきまえている有能な芸術家なら、元どおり正確に腕を復元できるだろう。こういう復元は、たんに脈絡の問題にすぎない。欠けている要素を、すでにわかっている要素と一致、調和させればことたりるのだ」ヴァンスは言葉を微妙に強めるため、つねになく身振りをしてみせた。
「さて、嫌疑の裏をかく問題だが、あらゆる計画的犯罪において、重要な要素となる。そして、この犯罪の全体的着想は実証的、決定的、かつ具体的だから、そのおのおのの構成部分も当然実証的、決定的、かつ具体的になる。したがって、少佐としてはたんに自分が疑われないようにすべてを整えるだけでは、消極的な考えすぎて、この犯罪行為の他の心理的様相とうまく一致しない。それでは、あまりに曖昧で、間接的で、漠然としすぎるだろう。この犯罪を考えつくような実際的な精神の持ち主なら、当然特定の、具体的な疑惑の対象を用意しておくだろう。そこで、リーコック大尉に不利な物的証拠がいっぱいになりはじめ、少佐が熱心に大尉を弁護しはじめたとき、ぼくは大尉が鴨にされたことを知ったのだ。正直にいって、最初ぼくは少佐はセント・クレアを犯人に仕立てたのかと疑った。だが、彼女の手袋とハンドバッグがベンスンの家にあったのがたんなる偶然だとわかり、少佐が大尉の脅迫の事実をわれわれに語るのに、ファイフィーから聞いたといったので、ぼくはあの女が犯人役になったのは、はじめから計画されたのではないことがわかったのだ」
しばらくしてマーカムは立ちあがり、背伸びをした。「これで、ヴァンス、きみの仕事は終わったよ。そして、ぼくの仕事がはじまったばかりだ。今ぼくに必要なのは、眠ることだ」
一週間たたぬ間に、アンソニー・ベンスン少佐は、弟殺しの罪で起訴された。諸君もご記憶のとおり、ルドルフ・ハンサッカー判事担当のその公判は、全国的な反響を呼びおこした。アソシエイテッド・プレスはその加盟各紙に、毎日ニュースを発送し、アメリカ中の新聞は、何週間にもわたって裁判の成行きをはなばなしく報道し、第一面を飾り立てた。地方検事局が激しい論戦のあと、いかにしてこの裁判で勝利を獲ち得たか、証拠の性格が間接的なため、陪審の評決が第二級殺人となったこと、控訴院の再審で、アンソニー・ベンスンが最後に二十年以上の禁錮刑に処せられたこと──これらの事実は、すべて公式な、あるいは公けにされた記録のなかに収められている。
マーカムは検事として法廷にあらわれなかった。彼は被告の長年の友人だったので、その立場は苦しいものであり、事件を主席地方検事補サリヴァンにゆだねたことに対しても、なんら非難されなかった。ベンスン少佐は、刑事裁判では稀に見る有能な弁護人にとりまかれていた。フラッシュフィールド、バウアー両氏も弁護陣のなかにいた。フラッシュフィールドはイギリスでいうソリスター役〔法廷弁護士と訴訟依頼人の間に立って、もっぱら訴訟事務を扱う下級弁護士〕を果たし、バウアーはアドヴォケートとして働いた。彼らは可能なかぎりの法律的手段をつくして戦ったが、被告に不利な証拠の山をまえにして、圧倒されざるをえなかった。
他方、マーカムは少佐の有罪を確信したあと、ベンスン兄弟の事業状態を徹底的に検討し、スティットの最初の報告以上に事態が悪化していることを発見した。ベンスン商会の証券は常習的に個人的投機のために流用されていた。アルヴィンはうまくつくろって、莫大な利益を得ていたが、少佐のほうは投資によって無一文同然になっていた。少佐が流用した証券を取り返し、刑事上の罪に問われるのを免れるただひとつの望みは、弟をすみやかに殺害する以外にはなかったことを、マーカムは証明できた。また、犯行の当日、少佐が弟の金庫から金を持ち出す以外に、果しえないような固い返済の約束をしたことも、法廷で明らかにされた。そればかりか、それらの返済約束には、弟の財産を振り向ける旨述べられていた。また、すでに担保に入っている証券を、四十八時間期限の手形の見返りに提供している例もあった。この事実だけでも、弟が生きていれば、少佐を刑務所行きにするのに充分だった。
ミス・ホフマンは、検察側にとって、有用な気のきいた証人となった。ベンスン商会の営業状態についての彼女の知識は、少佐にたいする検察側の追及を強化するのに大いに貢献した。
プラッツ夫人も、ベンスン兄弟の間で烈しい口論がしばしばあったのを洩れ聞いたと証言した。
兇行の二週間たらずまえ、少佐が弟から五万ドル貸りようとして失敗し、「おまえの生命とおれの生命と、どちらかを選ぶ羽目になったら、吠え面かくのはおまえだぞ」とおどした、とプラッツ夫人は陳述した。
チャタム・アームズのエレヴェーター・ボーイの話では、事件当夜、二時半にアパートに帰ってきたといわれるシオダー・モンタギューは、タクシーがアパートのまえに曲るとき、ヘッドライトの光のなかで、ひとりの男が通りの反対側の家の御用聞き用入口に立っているのが見えたが、どうやらベンスン少佐のようだったと証言した。この証言は、少佐が逮捕されたあとファイフィーが出頭し、ヘーグ・アンド・ヘーグを飲みにピエトロの店まで歩いていく途中、少佐が第六アヴェニューを四十六番街のところで渡るのを見たと証言しなかったなら、ほとんど価値がなかったろう。ファイフイーは少佐がブロードウェーのレストランからでも帰るところだろうと考え、そのときは、その事実になんの重要性も認めなかったと釈明した。ファイフイー自身は、まったく少佐に見られていなかった。
この証言は、モンタギュー氏の証言とともに、少佐が念入りに仕組んだアリバイをすっかり崩してしまったのだ。弁護側は二人の証人は人ちがいをしたのだと強硬に主張した。しかし、陪審員はこの証言に深く動かされ、とくにサリヴァン地方検事補が、ヴァンスの教えに従って、事件当日、少佐がボーイに見つけられずにどうやって外出し、帰宅したか、図面を使ってくわしく説明したとき、大きな感銘を受けた。
また、宝石が犯人以外には、現場から持ち出せなかったことも証明された。ヴァンスとわたしは、少佐のアパートで宝石を見つけた事情を証言しに、法廷に喚問された。犯人の身長に関するヴァンスの実験も法廷でおこなわれたが、この問題にはこみ入った科学的な反論がたくさん出て混乱したせいか、奇妙にもほとんど反応を呼ばなかった。しかし、ピストルについてのヘージドーン主任の鑑定は、弁護側がもっとも反論しにくい障害となった。
公判は三週間にわたり、多くのスキャンダラスな事柄が明るみに出た。もっとも、マーカムの示唆を受けて、サリヴァン検事補が、運悪く事件の巻きぞえを喰った無実のひとびとの私事は、できるだけ法廷に持ち出すまいと努力はしたのだが。ただ、オストランダー大佐だけは、証人として喚問されなかったことで、マーカムを許そうとはしなかった。
公判の最後の週、ミュリエル・セント・クレアは、ブロードウェーの大きな喜歌劇の出し物にプリマ・ドンナとして出演し、その後二年近くロングランをつづけるほどの成功をおさめた。そして、騎士精神旺盛なリーコック大尉と結婚し、今なお幸福そのものである。
ファイフィーはやはり妻と暮らしていて、あいかわらず優雅である。「なかよしのアルヴィン」はいなくなったが、定期的にニューヨークに出てくる。わたしはときどき彼がバニング夫人といっしょのところを見かけることがある。とにかく、わたしは彼女が気に入っている。ファイフィーは一万ドルを工面して──どうやってかは知らないが──彼女の宝石を取り戻してやった。ついでながら、公判では、宝石の持ち主は明らかにされず、わたしは大いにほっとした。
少佐に評決がくだった日の晩、ヴァンス、マーカム、それにわたしの三人は、スタヴィサント・クラブに坐っていた。わたしたちはいっしょに食事をしたのだが、この数週間の出来事については、だれひとりふれなかった。しかし、やがて、わたしはヴァンスの唇に皮肉な微笑がゆっくりと浮かぶのを見た。
「ねえ、マーカム」とヴァンスはけだるくいった。「なんともはや奇怪きわまる裁判だったねえ。ほんとうの証拠は、なにも提出されなかったんだから。ベンスンはまったく仮定と推測と暗示と推論だけにもとづいて有罪を宣告されたんだ。神よ、不注意にも、法律のライオンの巣に落ちた罪なきダニエル〔旧約聖書に登場する、紀元前六世紀のユダヤの預言者〕を救いたまえ、だ」
驚いたことにマーカムはおごそかにうなずいた。「そのとおりだ」とマーカムはいった。「しかし、きみのいう心理的理論とやらで有罪判決に持ちこもうとすれば、サリヴァンはきっと気狂い扱いにされたろう」
「たしかにね」とヴァンスは溜息をついた。「きみたち法律の啓発家は、理知的に仕事をするとなると、まるで無能ときてるからねえ」
「理論的には」とややあってマーカムはいった。「きみのいうことは明白だ。しかし、ぼくはあまり長い間、物的事実ばかりを扱いすぎてきたので、今さら心理学だの芸術だのに宗旨変えできそうにもない。しかし」と軽くつけたした。「これからも、ぼくの法的証拠でうまくいかない節は、ぜひ協力を頼みたいな」
「いつでもお役に立つよ、マーカム」とヴァンスは答えた。「しかし、いちばんきみがぼくを必要とするのは、むしろ法的証拠から見て文句なしに犯人らしい人物があがっている場合じゃないのかね」
この言葉は、たんに気さくな冗談としていわれたものだったが、奇妙に予言的であることが、あとになってわかったのだ。(完)
解説
先日なにげなくテレビをつけたら、アメリカの漫画をやっていた。そのなかに、ファイト・ヴァンスという犬の探偵が登場する。はて、どこかで聞いたような名だと思ったら、どうやらヴァン・ダインお得意のファイロ・ヴァンスをもじったらしいことに気がついた。
シャーロック・ホームズのもじりなら、ちょっと思い出すだけでもモーリス・ルブランのエルロック・ショルムズをはじめとして、推理小説、コメディ、漫才にいたるまで、枚挙にいとまがない。ホームズ名探偵の今なお衰えぬ人気のほどがわかろうというものだが、ファイロ・ヴァンスのもじりは寡聞にしてはじめてだった。だが、他の作家の作品や映画でもじられるほどの探偵はそうざらにないはずだから、これも、アメリカにおけるヴァン・ダインの名声が今なお高いことを示すものかもしれない。
周知のように、近代推理小説の創始者は、エドガー・アラン・ポーである。ポーは、『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェの怪事件』『盗まれた手紙』という三つの短編によって、探偵と謎解きという要素を中心にした物語である推理小説というジャンルを創設し、そのゆたかな可能性を切り開いた。
ところが、今日のアメリカ推理小説の隆盛を知る者には想像もつかないが、ポー以後、アメリカの推理小説界は、長いあいだ不振をきわめていた。ポーが開拓したこのユニークなジャンルは、かえってフランスで継承され、イギリスでみごとに発展した。巻末の年譜を見てもわかるとおり、コナン・ドイル、オースチン・フリーマン、G・K・チェスタートン、E・C・ベントリー……とつらなるイギリス推理小説の華やかさは、じっさい目を見張らせる。アメリカにも、A・K・グリーンやラインハートがいたといったところで、ペダンティックにしか響くまい。
長年のこの不振を打ち破るには、S・S・ヴァン・ダインの出現を待たなければならなかった。彼は、そのすぐれた創作活動によって、従来たんなる娯楽読物と見られがちだった推理小説の地位を大きく向上させ、このジャンルの独自性を明確にした。もしポーの功績が、推理小説のジャンルの開拓者ということにあるとすれぱ、ヴァン・ダインのそれは、このジャンルにゆたかな肉づけを与え、今日のアメリカ推理小説の黄金時代開幕の契機となったことにあるといえる。
ヴァン・ダインは、本名をウィラード・ハンチントン・ライトというアメリカの美術・文芸評論家、ジャーナリストで、一八八八年アメリカ南部のヴァージニア州シャーロッツヴィルに生まれた。自叙伝『半円を描く』で語っているように、小さいときから物を書くことが大好きな、旺盛な知識欲の持ち主だったらしい。
やがて、カリフォルニア州のセント・ヴィンセント・カレッジとポモナ・カレッジに進み、ハーバード大学大学院で英語学を専攻した。しかし、専門以外の科目にも関心を持ち、とりわけ人類学と民俗学の成績がよかったので、特待生に選ばれた。また、画家を志ざし、ミュンヘンとパリに留学し、さらにオーケストラの指揮者になろうとして、何年間も音楽理論を研究したこともある。外国語にもすこぶる熱心で、ギリシア、ラテンの古典語をはじめとして、フランス、ドイツ、イタリア各国語をせっせと勉強した。
一九〇七年「ロサンゼルス・タイムズ」紙の文芸記者となり、以降、二三年まで批評家H・L・メンケンの活躍で有名な「スマート・セット」誌をはじめとして、六つの新聞・雑誌の編集にたずさわり、毎月、文芸、美術、音楽に関する記事を書きつづけた。かたわら、『八月十五日後のヨーロッパ』(一九一三)、『ニーチェの教理』(一九一四)、『近代絵画──その傾向と意味』(一九一五)、『創造的意志』(一九一六)、『絵画の将来』(一九二三)など九冊の学究的著作をあらわした。また、一九一六年にはリアリズムの手法で書かれた『期待の人』という長編小説をあらわしているが、ごく少数のひとびとに注目されたにとどまり、売行きはよくなかった。とにかく、驚くべき筆力と該博な知識である。
第一次大戦勃発当時は、パリに生活し、一日十四時間も著述に没頭し、ルシタニア号の最後の航海でアメリカに帰った。このイギリスの客船は、本国に戻る途中、大西洋上でドイツ潜水艦の無差別攻撃によって沈没し、大勢のアメリカ人乗客が死んだため、ついにアメリカが連合国側に立ち、ドイツに参戦するきっかけとなったことは有名である。ライトは、一九一〇年、「ロサンゼルス・タイムズ」紙がマクナマラ団のダイナマイトで爆破されたときも、烈しい頭痛で十分まえに退社して助かっており、推理小説家に転じてからの順調さといい、よくよくラッキーな男である。
帰国後、それまでの猛烈な仕事ぶりがたたって神経を害し、二カ月をサナトリウムで過ごした。病がいえてから、また美術に関する著作を二冊あらわしたが、一九二三年またしても病気がぶりかえし、二五年のなかばまで、約二年半の病院生活を送ることを余儀なくされた。
回復期のあいだ、医者から頭を使うようなまじめな本はいっさい禁じられたので、過去七五年間に欧米で著かれた約二千冊の推理小説を片っぱしから読破し、丹念に、分析的にノートをとった。そして、推理小説には独自のテクニックがあり、他の小説とはまったくちがった娯楽を含んだ文学ジャンルを形成していることに気がついた。
一九二五年の夏には退院したものの、収入の道はとだえる。少なくとも今後一年はまじめな著作や研究をすることを禁止されるやらで、これまでの推理小説の行き方を脱した、論理的分析に耐えられる本格的な作品を造り出そうとした。そして、三つの作品の梗概を、ハーバード大学の級友で、スクリブナー社のパーキンスのもとに持ちこんだ。パーキンスは梗概を読んで、「これこそぼくの求める本だ」といい、三つとも引き受けることを承知した。
こうして、一九二六年十月、処女作「ベンスン殺人事件』出版をもって、推理小説家S・S・ヴァン・ダインが誕生した。ペンネームを用いたのは、推理小説を書くことでこれまで築きあげた美術・文芸評論家としての業績が傷つけられ、将来また評論活動に戻る道が閉ざされることを恐れたからである。この一事をもっても、当時のアメリカで、いかに推理小説の地位が低かったかが察せられよう。なお、ヴァン・ダインはオランダ系の祖先の名からとったものであり、S・Sとあるのは、蒸気船《スチームシップ》の略字である。この新進推理小説家の正体が明らかにされたのは、一年半後のことだった。
『ベンスン殺人事件』は非常な好評で、一週間のうちに初版が売切れ、二カ月のうちに大部数を出し、三版を重ねるという有様であった。ブロードウェーの名花「カナリヤ」殺しを扱った第二作『カナリヤ殺人事件』(一九二七)も圧倒的な人気を博し、たちまち七カ国語に翻訳され、映画化もおこなわれた。
ニューヨークの旧家に続発する陰惨な殺人を主題にした第三作『グリーン殺人事件』(一九二八)は、前二作よりさらに好評で、ベストセラーとなり、作者に多大の収入をもたらした。
前述のように、ヴァン・ダインがパーキンスのもとに持ちこんだのは、この三作で、それ以上書く気はなかったらしい。しかし、「アメリカン」誌の依頼で、マザー・グースの童謡にのせて、次々と無気味な殺人がおこなわれる第四作『僧正殺人事件』(一九二九)をあらわした。これは、『グリーン殺人事件』とともに、彼の最高傑作とされるもので、私自身はより巧緻なプロットと戦慄的な雰囲気をたたえた『僧正殺人事件』のほうを評価しているが、推理小説もここまで来れば、一個の完璧な芸術作品だと感じずにはいられない。
その後、ヴァン・ダインは、エジプト学の神秘性に取材した『かぶと虫殺人事件』(一九三〇)、古代中国の陶器と犬をめぐる奇怪な殺人事件を描いた『ケンネル殺人事件』(一九三二)と、次々と作品を発表した。この第六作で、彼は「ひとりの作家が、生涯に六つ以上の創意ある推理小説を考え出すことはむずかしい」といい、これで筆を絶つつもりだった。
だが、出版社からのたっての求めで、竜伝説のまつわる庭園プールの殺人を題材にした『ドラゴン殺人事件』(一九三三)、飲み水による殺人を扱った『カシノ殺人事件』(一九三四)、競馬の賞金のからんだ『ガーデン殺人事件』(一九三五)、営利誘拐の登場する『誘拐殺人事件』(一九三六)、悪鬼の密室での犯罪を取上げた『クレイジー・アレン殺人事件』(一九三八)、エメラルドの宝石屋の番人殺しに取材した『ウィンター殺人事件』(一九三九)と、合計十二の長編を生み出したが、自らの予言どおり、のちの作品になるほど質が低下していった。そして、第十二作を発表した年の四月十一日、冠動脈血栓症のため、ニューヨークで死去した。享年五一歳。遺族は再婚の夫人と、先夫人との間に生まれた娘の二人で、遺産は一万三千ドルと、意外に少なかったという。
ここで、『ベンスン殺人事件』にふれることにして、まずこの作品がなぜあれほど圧倒的な人気を博したのか、その理由から考えていくことにしよう。
前述のように、アメリカの推理小説は、ポー以後まったく低調で、犯罪ロマンスや犯罪実録まがいのものが支配的だった。そこへ推理小説というジャンルの特殊性を充分わきまえた、緻密な構想と論理的骨格をそなえた本格的な作品が出現したのである。読者がこれを熱心に迎えたのは、むしろ当然といえた。ヴァン・ダインは、彼自身を思わせる博学で、高踏的で、ディレッタントな気取り屋の探偵ファイロ・ヴァンスを創造し、推理小説にしては例外的ともいうべきさまざまな外国語や文学作品からの引用で飾りたてた、凝ったペダンティックな文体を駆使して、作品に文学的な香りを吹きこんだ。
これはヴァン・ダインの純文学にたいする憧れ、ないしはコンプレックスの反映といえなくもないが、ともかく狙いはみごとに適中し、従来、推理小説に近づこうとしなかったハイブラウな読者をも魅了した。そして、このペダンティックな文体は、その後の作家たちの間で、大勢の模倣者を生み出すことになった。
すでにこの訳書を読まれた方にはおわかりかと思うが、『ベンスン殺人事件』は、いわゆるアリバイ崩しの作品ではなく、心理分析による真犯人の割出しを試みた作品である。主人公ファイロ・ヴァンスは、物的証拠をいっさい無視することを主張し、「犯罪は芸術作品と共通したところがあり」、心理学者は「犯罪を分析し、だれがそれを犯したかをいうことができる」という。この理論にもとづいて、ヴァンスはベンスン殺しの、大胆不敵で用意周到な手口を心理的に分析して、真犯人を突きとめるのである。
犯人の身に自らを当てはめ、心理学的分析によって犯人を指摘することは、すでにポーが『盗まれた手紙』のなかでおこなったことであり、ヴァンスの方法がユニークに見えたとしても、心理学や美学に関する知識がながながとくりひろげられるから、そう見えるにすぎない。むしろ、ちょっと推理小説に親しんだ読者ならすぐに犯人がわかるのに、いっこうに犯人の名が挙げられず、くどくどと説明がつづき、読者を退屈させてしまう。これが本作の最大の欠陥であろう。やがて、作者はこの方法の限界をさとり、第三作『グリーン殺人事件』以後は、採用するのをやめてしまった。
最後に、この作品の第一作としての特徴について簡単にふれておく。
第一は、これからヴァン・ダインの作品群のなかで活躍することになる主人公ヴァンスについて、その容姿、性格、趣味、博学などを、うんざりするほどくわしく述べていることである。そのためヴァンスの人柄がほうふつとし、親友のマーカム地方検事との表面は辛辣だが、深い友情などが鮮かに描き出され、物語に厚みを与えているのである。当時の読者は、こういう面にもそれまでのアメリカの推理小説にない新鮮な驚きを見出したにちがいない。
第二は、作品の随所に見られるアメリカ文明の現実と衆愚政治化した民主主義にたいする諷刺である。たとえば、ヴァンスはニューヨークの摩天楼についていう。「アメリカ人の美学的信条はこうだ、大きいものはすべて美しいと。摩天楼と呼ばれている四角い穴のあいたばかでかい箱は、大きいからという理由だけで、アメリカ人の崇拝を集めている。……単純きわまる公式さ」高踏的で、洗練された美的感覚を重んじた作者の造り出した人物ならではの言葉である。
ヴァン・ダインがもっとも尊敬した推理小説家は、ポーとコナン・ドイルであった。彼はポーからは、そのペダントリーと心理分析的推理方法を、ドイルからは厚みのある性格描写と、フェア・プレーの精神にもとづいた緻密な知的ゲームとしての推理小説の面白味を学びとり、それをアメリカの現実に生かしたということができよう。『ベンスン殺人事件』は、推理小説としての密度の上では、『グリーン殺人事件』や『僧正殺人事件』に遠く及ばないとしても、早くもヴァン・ダインらしい特色が芽生えていることは疑いない。(訳者)
◆ベンスン殺人事件◆
ヴァン・ダイン/井内雄四郎訳
二〇〇六年二月二十五日 Ver1