銀色の恋人
タニス・リー
井辻朱美・訳
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)|成層圏《ストラト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)生きる|術《すべ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)金色じみた[#「じみた」に傍点]
[#ここから1字下げ][#改ページ]
-------------------------------------------------------
第一章
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
ママ、わたしロボットに恋をしてしまったの。
だめ、この言いかたはまずいわ。
ママ、わたし、恋をしているのよ。
ほんとうなの?
ええ、そうよ。かれの髪はとび色、目はとても大きいわ。こはくのようよ。そして肌は銀色なの。
沈黙。
ママ、わたし、恋をしているの。
いったいだれと?
名前はシルヴァー。
金属みたいね。
そうよ。シルヴァー・イオナイズド・|自動制御《ロコモーティヴ》・|人間型《ヴェリシミュレーテド》・エレクトロニック・ロボットの略だわ。
沈黙。沈黙。沈黙。
ママ……
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1
わたしはシェ・ストラトス([#ここから割り注]成層圏の家の意[#ここで割り注終わり])にある母の家、雲のなかに没する家でおおきくなった。それはとてもきれいな家だったが、ひとからそう言われるまで、わたしはそれに気づかなかった。「なんてきれいなおうちでしょう」とみんな言った。それで、きれいな家だとわかったのだ。わたしにとって、それは単なる家にすぎなかった。おそろしく金のかかった家だった。ひどい悪趣味というものは、なにかで代用するとすれば、ほかのもっとひどい悪趣味でするしかない。たとえば家の名前だが、それはどう考えても俗悪なもので、それははからずも母の、俗物性に対する無関心を示すものであった。こう言えば母がどういうひとか、いくらかわかっていただけると思う。もう少し母についてお話しするべきだろう。
母は五フィート七インチの背丈があった。濃いブロンドで、濃い緑の目をしている。六十三歳だが、三十七くらいに見える。若返りの定期コースを受けているからだ。母は子どもを作るのはおそくするつもりだったが、若返りコースのおかげで、それもなんでもないことだった。母はわたしを選んだ。そして人工授精をうけて、五ヵ月後に、三、四時間しかかからないプレシプタ法でわたしを生んだ。子どものためだからとわたしは母乳で育てられた。そののち、母はいたるところにわたしをつれあるき、時には湿地だの、廃墟だの、広いうねる大洋だの、世界じゅうをめぐりあるいた。でも、わたしはよく覚えていない。六つになったころ、母はそれに飽きてしまって、シェ・ストラトスに行き、以来そこをほぼ動かないでいるからだ。シティは二十マイルほど離れたところにあり、晴れた日には家のバルコニー・バルーンからよく見える。わたしはいつもシティが好きだった。とりわけ遠くの明かりがネックレスや宝石の山のように輝いているのが見える夜のシティが。母はわたしがそんなふうにシティを形容するのを聞いて、なんて月並みな比喩だろうと言ったことがある。でも、わたしには、シティは夜、そんなふうに見えるのだ。だから、ほかにどう言っていいのかわからない。わたしの比喩がいつもいつもお粗末なものにしかならないとすると、この記録も前途多難である。そう、比喩など使わないほうがいいのかもしれない。
わたしのことに話をもどそう。
わたしは十六歳、五フィート四インチ。でも母は、もう少しのびるはずよ、と言う。わたしが七つのとき、母はわたしのためにファイ・エクセレンス・チャートを作らせ、わたしの骨格からみて美的な理想的体重と筋肉のつきかたを調べた。わたしは六ヵ月に一度カプセルを飲み、その体重と筋肉を保つようにしている。つまりわたしは少しぽっちゃりしている。わたしの骨格はヴィーナス型で、基本的に肉感的なのだ。母はまたわたしの皮膚と目の色にいちばん合う色彩チャートも作らせた。だからわたしは月にいっぺん分子再構成の操作をうけて、髪をあわいブロンズ色に保っている。本来の髪の色がなんだったのかもう覚えていないが、褐色系ではなかったかと思う。わたしの目は緑だが、母ほど濃くはない。
ところで母の名前はデーメータ。わたしはジェーン。でもふだんは母のことは「ママ」と呼び、母のほうはわたしを「あなた」とか「ダーリン」とか呼んでいる。母によれば、言葉で愛情をあらわす方法は時代おくれだということだ。母にはさまざまの主張や意見があるので、助かる。わたし自身の意見をあまりたくさん持たずにすむからだ。
しかし、いまとなっては、そのことがすべての障害となってしまった。
わたしは前にもいくらかものを書いたことがある。というか、わけのわからない詩のようなものを。でも、どうやってこれを書いたものかしら。無謀だったのかもしれない。いや、どうしても書かなければならない。そもそもの始まりから書かなければならないと思う。いや、始まりの直前からだ。わたしはしょっちゅうやすやすと恋に落ちていたが、相手は映画や本のなかの人物であり、劇の俳優だった。同じくらいの年の友達が六人いる。――六は統計によれば、とても安定した数字だそうだ――そしてそのうち三人には母親だけでなく、父親もいた。クローヴィスには父親がいるが、かれはわたしにこう言った。きみはあっというまに恋に落ちるが――相手はいつも非現実的な人間だ――それはきみに父親がいないからさ。わたしは、自分の恋した俳優は現実に存在する人間だと反論した。「それは議論の余地があるね」とクローヴィス。「まぁ、説明させてくれ。きみが惚れこんでいるのは、そういう人間の演技がつくりだしたものさ。もし、生身のかれらに会ったら、きっといやになるぜ」クローヴィスはある朝、自分の意見を証明するために、ひとりの俳優を紹介してくれた。わたしがその前の晩、劇を見てひとめ惚れした相手だ。しかし、わたしははずかしくて、相手がまともに見られなかった。それから、かれとクローヴィスが愛人同士だとさとって、恋やぶれ、はずかしさもどこかへ失せて、相手をにらみつけた。クローヴィスは言った。「だから言っただろ」あれはまったく、ずるい手口だった。心ひそかにわたしは、自分が自分でなくて、クローヴィスであったら、と望んだ。クローヴィスは背が高くすらりとして、黒いまき毛をしているし、同性愛で、避妊の注射を受ける必要がないものだから、あんな注射を受けるのは危険だとみなに言いまくっているのだ。
ほかの五人の友達はそれほど好きというわけではなかった。ダヴィディードはいまは赤道上にいて、沈泥について研究している――このことは、わたしとかれが気があわなかった理由の一端を説明してくれるだろう。エジプティアはとても押しつけがましくて、なんにでも采配をふるいたがった。しかし、すばらしくきれいだった。感情がはげしくて、ときにわたしは閉口した。クロエは気だてがよかったが、おもしろみはなかった。ジェイスンとメディアは兄妹で、やはり父親を持っていたが、信用できなかった。一度家に来たとき、かれらはあるものを盗んだ。アステロイド産のちいさな青い石だ。かれらはそしらぬ顔をしていたが、わたしはかれらが盗んだのを知っていた。母が、青い石はどこかとたずねたとき、わたしは自分の考えを話すべきだと思ってそうしたが、母のほうは、友達のジェイスンとメディアをかかわりあいにするくらいなら、自分がこわしたように言いつくろうべきだと言った。友達に対する信義。かれらを裏切るのは、思いやりのないやりかただとわかっていたが、わたしにはそれ以外の方法が思いつかなかったのだ。無神経であることは、わたしの最悪の欠点のひとつだ。わたしにはたくさん欠点がある。
とにかく、エジプティアがヴィデオ電話で連絡してきたときのことから始めよう。彼女はさんざん泣きわめいた。あたしってふしあわせだわ。だって、あたしにはすばらしい才能があるのに、それをどうしていいかまだわからないのだもの。彼女は十八を出たばかりだったが、それでも人生があまりに速くすぎさってしまうことをひどく恐れていた。たいていのものは百五十歳あるいはそれ以上まで生きるが、エジプティアときたら、いつ彗星が地面に激突して、人類が滅びてしまうかわからない、あたしときたらなにひとつすばらしい目にあっていないのに、と言うのだ。エジプティアはこういう悪夢を山ほどかかえていた。だれが慰めようとしてもむだなので、ただすわって、見守り、耳を傾けてやるしかない。
エジプティアは色彩チャートもファイ・エクセレンス・チャートも受けたことはない。最近、彼女の黒い髪は藍色がかってきて、体は節食のためにひどく痩せてきた――彼女のもうひとつの不安とは、地震が頻発して食料危機になることで、彼女はそれにそなえて、何日もひもじい思いをする訓練をしているのだそうだ。やっと泣きやんだと思ったら、泣いていたのは、今日の午後オーディションがあるからだと言う。それからまた泣きだした。劇場に声と容姿のテープを送ったのは、そうしなければいけないと悟ったからだそうだ。あたしの才能は演技において姿をあらわすかもしれないのだもの。でもいまはそれがあやまりだったことがわかった。そうはなりっこない。オーディション会場はコンコルダシス劇場で、もう何週間も候補者を募集している。とてもちいさな劇で、出演者の負担金もそうかからない。俳優たちもそれに出るために金をはらわなければならないが、海底でプレ‐コロンビア海溝の探査をしているエジプティアの母親は、不在のかわりに、娘にたっぷり金を残していってくれた。
「おお、ジェーン」エジプティアは言った。青くそまった涙が青いマスカラから流れている。
「おお、ジェーン! 心臓がものすごくどきどきしているのよ。死にそうなぐらいよ。オーディションの前に死んでしまうわ」
わたしの目はもう濡れていた。今度は心臓まで、苦しいほど大きくどきどきと打ちだした。わたしはものすごく感じやすいたちで、耳に入った病気の症状という症状をすぐあらわしてしまう。母はそれを、想像力の産物だと言った。
「おお、エジプティア」わたしは言った。
「おお、ジェーン」とエジプティア。
わたしたちは喉をひくひくいわせながら、ヴィデオのたがいの端末機にしがみついた。
「あたし、どうしよう」エジプティアがかすれ声を出す。
「わからないわ」
「オーディションに行かなきゃ」
「そうよね」
「こわいわ。地面がふるえだすかもしれない。アステロイドとぶつかったときの地震を覚えてる?」
「ううん」
その当時はどちらも生まれていなかったが、エジプティアはしょっちゅうそのことを夢に見ているものだから、混乱しているのだ。シェ・ストラトスにいて地震のきざしなんてわかるかしらとわたしは思う。ここはぜったいに安定しているはずだ。それでもときおり、風が強いときには、ゆるく揺れることがある。
「ジェーン」エジプティアが言った。「いっしょに来てよ。あたしといっしょにいて。あたしがオーディションを受けるのを見てて」
「あなた、何をやるの?」
「死よ」と言って、彼女はそのすばらしい目をぐるりとまわした。
母はわたしがエジプティアといっしょにいるのを好んでいる。母はエジプティアは少し正気でないと思っている。わたしにはいい刺激になるし、他人に対する責任感を養うたすけになるだろう、と。エジプティアのほうは、もちろんわたしの母を恐れている。
バクスター・エンパイアは母が乗って外出中だ。どのみちそれに乗るのはぜいたくすぎる。おまけにわたしは車も飛行機も運転できない。で、わたしはキャニオンまで歩いていって、公共飛行艇を待った。
頭上の滑走路は太陽を受けて美しく輝いている。そうしてキャニオンからたちのぼる塵はうっすらとした蒸気のようだ。飛行艇を待っているあいだに、わたしはシェ・ストラトスを、というか、それがあるはずのところの、ぼんやりとした青い幻を見上げた。地上から実際に見えるものといえば、鋼鉄の支柱だけなのだ。
飛行艇が来る直前に、滑走路がひゅっと音をたてる。これはだれでもが知っているというわけではない。シティのなかではあまりにうるさくて聞こえない。わたしはプラットフォームにあるシグナルを押した。飛行艇が近づいてきて、巨大なガラスのかぼちゃのように止まった。
中はからっぽだったが、席のいくつかは切り裂かれていた。今朝の事件だろう。さもなければ、夜間の補修システムが発見してなおしている。
飛行艇はキャニオンのへりの上を、まるで空中に投げ出されるように、シティのほうへ向かってゆく。家より低いところに来てしまったので、シティはどこにあるのか見えない。それが、巨大な灰青色の円錐を押したて、輝く窓のガラスと柱を積みかさねて、地平線に姿をあらわすのを待つしかない。
だが、それ以外のことがわたしの注意を奪った。飛行艇を操縦しているロボットには奇妙なところがあった。通常なら、それは当然、操縦用の指をそなえ、コイン・スロットを持ったただのボックス型だ。今日はその飛行ボックスに頭がのっている。それは、若返り処置を受けていない四十歳くらいの男の頭(あるいは、処置を受けたもともと七十歳の男の頭)のようで、いくらか個性的だった。目と髪は無色で、顔は銅色ともいうべき色をしていた。わたしがスロットにコインを入れると、その頭がこう言って、わたしを仰天させた。「ご搭乗ありがとうございます」
わたしは切り裂かれていない席に腰を下ろし、頭をながめた。もちろんみなと同様に、わたしだってロボットは数多く見ていた。シティでは、機械と名のつくものなら、なんでもロボットに運転されているのだ。母でさえ、シェ・ストラトスで、家庭用ロボットを三台使っていたが、それらはぴかぴかの青い金属製で、顔のあるべきところは偏光スクリーンになっていた。わたしには宇宙飛行士のように思えた。あるいは月面かアステロイド上でひとが着る宇宙服に。わたしはいつもロボットたちを宇宙飛行士≠ニ呼んでいた。シティではロボットはそれ以上に無個性で、走行装置の上にのったボックスであったり、壁にはめこまれたパネルであったりする。
やっと、わたしは操縦士に言った。「どうして今日は頭があるの?」
相手が答えられるとは思わなかったが、もしかしたらと思ったのだ。ところが答えた。
「わたしは実験型です。あなたにくつろいでいただけるように、こうしているのです」
「そうなの」
「前よりいいと思われますか」
「わからないわ」わたしはぎこちなく言った。
「わたしは、2 1/2 イースト・アーバーにあるエレクトロニック・メタルズ株式会社の設計になるものです」
「まあ」
「わが社の製品のカタログをご希望でしたら、わたしの左耳のそばのボタンを押してください」
「母にきいてみるわ」
デーメータは言うだろう。「物事は自分で決定しなければいけませんよ」
でも、わたしは無色の髪の後頭部を見つめていた。本物そっくりだったが、奇妙な感じだった。
ばかばかしい気がした。でも同時に、相手はじゅうぶん人間らしくも見えたので、ぶしつけな態度はとりたくなかった。
ちょうどそのときシティの輪郭が見えてきた。
「今日は」と頭は告げた。「シティでもいくつか、いろいろな実験型に出くわされるでしょう。九つの精巧仕様型が作動中です。場所は二十三番街、デラックス・ハイペリア・ビルディングの前庭、カーサ・ビアンカの三階、スター・ストリート――」わたしが混乱していると、それは言った。「――それにコンコルダシス劇場に通じる大階段です」わたしは、エジプティアがヒステリーを起こしているさまを目に浮かべた。「どの型番にもお寄りになって、ご質問くださいますように。精巧型はカタログを配布しておりません。お宅でどれかをお求めになりたい場合は、モデル・ナンバーとアルファベット登録名をおっしゃってください。精巧型はどれも特別の登録名がありまして、お客さまに覚えていただけるようになっております。それにはナンバーはありません。それからほかにも……」
わたしは興味をなくした。飛行艇はレザンジュ橋を越えかかっていた。下にはくもの巣そっくりの桁がはりめぐらされ、その下には、化学薬品に汚染されて、表面があわいこはく色をした、夢幻的にかがやく紫色のオールド・リヴァーがあった。わたしは、この水から生え出ている奇怪に変形した植物と、船を追ってとび、顎をかみあわせる、こうらをまとった不気味な魚に、ずっと魅了されていた。観光の一大名勝地であるオールド・リヴァー。その向こうのシティでは、貧しいひとびとが機械が残しておいてくれた仕事、古い下水道の清掃――狭すぎ、腐食が進んでいてロボット装置には安全でない――のような悲惨な仕事に従事している。あるいはデパートでの優雅な仕事、とりわけもっと華やかなセカンドオーナー・ショップでの仕事に。たとえばこんな文句を売りものにしている店だ。「ここでは従業員全員が人間でございます」裕福になっても、こういうものに執着するのはふしぎだ。母などはわたしを一文なしでシティに送りこんで、一年間生活させようと考えた。貧乏なひとがどうやって生きているのかわからせるために、仕事をさせて。「そういうひとたちは気骨があって、しっかりしているのよ」と母は言った。社会学的には母は高度な意識を持っていたのだ。だが、けっきょく母は、わたしの恵まれた境遇が、人生観をつくってしまうだろうと悟った。かりにわたしが貧乏なひとたちにまじって成功したとしても、それは正当でない理由のためであって、評価するにはたりないと。
わたしはジャギッドの屋根の上のプラットフォームで飛行艇を下り、エレベーターで地下鉄まで下りていった。通路のひとつではギャングの抗争事件がおこっていて、ロボット・サイレンの悲鳴が聞こえたが、何も見えなかった。残念だったが、よかった。わたしは一度外でひとが刺されるところを見たことがある。そのときは動転しなかった。刺されたひとは運び去られ、だめになった部分を交換される。もちろん分割払いで費用ははらうことになる――あきらかに裕福には見えないひとだった――つまりいずれ破産ということだ。でも後になって、わたしは突然、そのひとがどんなふうに倒れたかを思い出し、血を思い出して、ナイフがかれに刺さるところを思い浮かべ、わきばらにすさまじい痛みを感じた。それが消えるまで、母は催眠療法をほどこしてくれた。
エジプティアはコンコルダシス劇場にのぼってゆく大階段の下に立っていた。金粉でメイキャップし、レモン色の絹の裏のついた青いベルベットのマントをはおっていた。みんな彼女を見ていた。トパーズがひとつ、額のまんなかに輝いている。わたしを見てはげしく手をふった。
「ジェーン! ジェーン!」
「ハロー」
「おお、ジェーン」
「どうしたの」
「おお、ジェーン、おお、ジェーン」
「上に行きましょうか」
彼女は片腕をさっとふりあげ、わたしは赤面した。わたしは自分がとるにたらないような、それでいて傲慢なような、おちつかない気持ちがした。この感情を分析しているとき、だれかが急いでやってくるのが見えた。男だ。興奮したように、エジプティアのふりあげた腕をつかんだ。
「こいつはいい。あんたのナンバーは」
エジプティアとわたしはまじまじと相手を見た。かれの目ときたらとびだしていた。
「あっちへ行ってよ」エジプティアは言った。彼女の目には涙がいっぱいだった。人生のこんなおろかしい仕打ちには耐えられない。
「いや、支払いはできるよ。こんなのははじめて見た。人間そっくりだとは聞いていたが、いやはや。これだ。あんたをもらうよ。あんたの登録ナンバーは? おっと、そうだ、あんたには番号がないんだ。ほかのタイプなんだ。オーケー。アルファベットなんだろ。ええと、金属に関係ある名前だと聞いたな、あんたならゴールドか。ちがうかな? G・O・L・D? そうだろ?」
エジプティアは高いビルのてっぺんに目を上げた。火あぶりになろうとしているジェイハンさながらに。突然わたしには事態がわかった。
「あなたは誤解してらっしゃいます」とわたしは男に言った。
「きみはだめだよ」とかれは言った。「きみがどうしようって言うんだい。きみは同性愛なのか。きみは本物の女の子を探しなさい。きみのような若い子が面倒を起こしちゃいけないよ」
「彼女はちがうんです」わたしは食いさがった。
「彼女が? これこそわたしの求めていたものだ」
「ちがうんです」わたしは躍起になって言った。「彼女、わたしの友達です。精巧仕様型のロボットじゃありません」
「ロボットだよ。わたしは聞いたんだ。大階段で作動中だって」
「ちがいます」
「ああ、神さま」エジプティアが叫んだ。ほかのひととはちがって、神さまは答えてくださらなかった。
「だいじょうぶよ、エジプティア。おちついて、お願い」わたしは男に言った。「彼女、ロボットじゃありません。行ってください。さもないと、コードを押して警察を呼びますよ」
すぐにわたしはそんなことを言わなければよかったと思った。かれは、エジプティアやわたしと同様、金持ちなのだから、自分専用のコードを首のまわりだか、手首だかにかけているか、ボタンに埋めこんでいるかしているだろう。わたしは、自分がとても無作法で性急なまねをしたと感じたが、ほかにどうしていいかわからなかったのだ。
「そうか」とかれは言った。「わたしはエレクトロニック・メタルズに手紙を書いて、苦情を言うよ。わたしの心の一片をね」
(まるでなにかの外科手術みたいだとわたしは思った。箱に入ったプレパラートを連想した)
だがエジプティアはさっとかれに向きなおった。トパーズにもひけをとらないぎらぎらの目でにらみつけ、獲物をねらう猛鳥のような甲高い声をあげた。彼女をロボットだと思っていた男は階段をななめにあとずさった。エジプティアはかれにもわたしにも心を閉ざしてしまったように見えた。いきおいよくマントを体にまきつけると、大股に階段をのぼっていった。
わたしは彼女がのぼってゆくのを見おくっていた。あまりあとを追いたくなかった。母ならそうしろと言っただろう。面倒を見るため、責任を持つために。
秋のよく晴れた日だった。気持ちよく暖かい一日。ビルの壁も暖かく、ガラスの光はやわらかく、空はとても高くはるかにあって美しかった。家では空はすぐそばに見える。わたしは男のこともエジプティアのことも考えたくなかった。この光に属していること、わたしに属していることを考えたかった。突然、あばらと背骨のあいだになにかしら痛みに似たものを感じた。消化不良だったのかもしれないが、まるで鍵をさしこんでまわしたようだった。まるでとてつもなく重要なことを悟って、ある瞬間をさえ待てば、それがなんだか思い出せる、そんな感じだった。だが、そこに五分ほど立っていたにもかかわらず、それは思い出せなかった。そしてその感じはにぶく甘美な痛みとともに薄れていった。まるで恋に落ちていて、夜の闇だか朝の光だかのなかにひとりきりで去っていかなければならないことを映画が終わる直前に悟る瞬間のようだった。ああ、おそろしい。でもすばらしい。感じられることはすばらしい。わたしがこれを書き記すのは、このことが次に起こったことに何らかの心理学的影響をおよぽしているかもしれないからである。
わたしはエジプティアが劇場の中で死を演じて、死んでゆくところを想像しはじめた。そしてやっと大階段をのぼりはじめた。
てっぺんには噴水のあるテラスがあった。噴水はガラスのアーチの上にふりそそいでいるので、ガラスの下に立って噴水を浴びながら、しかも濡れないでいられる。噴水の向かい側に、かつては壮麗であった劇場のみすぼらしく剥げ落ちた正面があった。カチカチと音をたてる機械仕掛けのライオンが扉のそばを歩きまわっている。そのようなものを見たのははじめてだった。あれは精巧仕様型なんだろうか。そのときあるものがわたしの目をとらえた。
とび色のものの上に比類なく輝かしく照りつける太陽だった。
わたしは見つめ、その色彩の中に目をあそばせた。赤色は目をやすめてくれないことを知っていたが、それでもその色はこころよかった。
それから、その赤がなんであるのかわかった。それは背中をこちらに向けて、数人を相手に話している若者の長い髪だった。
それからかれは歌いだした。思いもかけない声だった。わたしはまた体が熱くなり、狼狽を感じた。こんなにこみあった人通りのはげしい場所で、声をいっぱいに張って歌っているひとがいるなんて。同時にわたしは喜びを感じた。美しい声だった。吟遊詩人のようだったが、未来の吟遊詩人だ。まるで音のなかで時が円環を描いているようだった。ああ、もしわたしが歌えたら。その声を聞きながら、わたしは漠然と考えた。あんな音が楽々と喉から流れ出たら。
かれのジャケットには鏡のかけらがいくつかついて光っていた。わたしは、かれもエジプティアのようにオーディションに来て、外でウォーミングアップをしているのかと思った。それからかれは歌いやめ、ふりかえりかけた。わたしは思った。もしかれが醜男だったら。かれはさらに体をまわしてゆき、横顔が見えた。醜くなかった。そうしてまわりのちいさな集団に向かって何かをさし示しながら、かれはすっかりこちらを向いた。わたしを見ているのではなかった。ハンサムで、目はふたつのとび色の星のようだった。そう、ほんとうに星のようだった。そして皮膚はメイキャップした俳優のように青白かったが、つぎにわたしはそれが銀色であることを知った――顔も、喉も、前をあけたシャツのなかのX字型の胸も、袖口から垂れているレースの中から出ている両手も、銀色だった。骨格や唇、爪にすこしも違和感のない自然な色合いで溶けこんではいるものの、それは銀色だった。銀色。
ばかばかしい。わたしは泣きだした。あんまりだ。どうしていいかわからなかった。母なら喜んだろう。その行為は、わたしの基本的な感情――それがなんであれ――が充分に解放されていることを意味したから。しかし、母ならわたしがさらにそれをコントロールすることをも求めただろう。わたしにはそれは無理だった。
それで、わたしは噴水の下を歩いてゆき、涙が羨望のためにかれるまで噴水を見つめた。それからいったいぜんたいなんで泣いたのかわからなくなって、途方にくれた。
わたしが外に出たとき、いまでは二十人ほどになった集団は散りはじめていた。みんなかれの登録名だかなんだかを書きとったことだろう。でもたいていのものには買えない値段にちがいない。
わたしはじっとかれを見つめていた。ひとがいなくなったら、自分でスイッチを切るのだろうか。だがかれはそうはしなかった。ぶらぶらと歩きまわりはじめた。肩にギターを吊していたが、いままでわたしは気づかなかった。かれは無造作にそれをかき鳴らした。狂った音楽。
そのとき、まったく突然、そして不可避的に、かれはだれかが見つめているのにやっと気づいて、わたしのほうにやってきた。
わたしはおびえた。かれはロボットなのに人間そっくりで、わたしには説明のつかないやりかたで、わたしをおびやかした。子どものように走って逃げたかったが、おびえすぎていて逃げられもしなかった。
かれはわたしから三フィートのところにきて、ほほえみかけた。完璧な連動。すべての筋肉、顔の筋肉さえもが自然に動いていた。かれはどこからどこまで人間に見えた。まったく自然の存在のようでもあった。ただ、そうであるには美しすぎることをのぞいては。
「ハロー」かれは言った。
「あなた――」とわたし。
「わたしですか?」
「あなた――その――ロボットなの」
「ええ。登録名はシルヴァー。S・I・L・V・E・R。シルヴァー・イオナイズド・自動制御・人間型・エレクトロニック・ロボットの略です。わかりやすい名前でしょう」
「いいえ」とわたしは言った。「そんなことないわ」それからまたしても突然、わたしは泣きだした。
かれの微笑が消えた。心配しているようだった。目は朽ち葉色の鉛の池のようだった。かれの反応はすばらしかった。わたしはかれを憎んだ。ボックスか、車輪だったらよかったのに。あるいは人間だったら。
「どうなさったのですか」かれはやっと、ごくやさしくたずねた。おかげで事態はいっそう悪くなった。「わたしの役目はあなたに楽しんでいただくことです。わたしはしくじったようですが、なにか個人的なお悩みにふれるようなことをしてしまったのでしょうか」
「怪物」わたしはつぶやいた。「よくもわたしの前に立って話しかけられるわね」
かれの反応は驚くべきものだった。目がつめたく意地悪くなった。いままでに見たこともないほど冷たい微笑を向けると、かれは頭をさげた。そしてほんとうにきびすをかえして、さっさとわたしから去っていったのだ。
コンクリートが口を開いて、わたしをのみこんでくれればよいのに。わたしはほんとうにそう思った。十歳にもどって母のいる家に駆けてかえりたかった。母はわたしをなぐさめ、教えてくれるだろう。全能の母は。あるいはわたしは百二十歳になって、賢くなり、なにも気にかけないようになりたかった。
ともかく、わたしはテラスから逃げだした。クローヴィスのところへとんでいった。
[#改ページ]
2
クローヴィスの住居は、澄んできらめくニュー・リヴァーを見おろしていた。岸ぞいに住んでいるひとびとは川に面した窓を開いている。汚染されたオールド・リヴァーぞいに住むひとはそうではなく、冬でさえ、フィルターつきエアコンを使用している。そこではどの窓枠にもこんな警告が彫りこまれている。〈医師会総長はこの窓を一日十分以上あけると、健康に重大な危険をおよぼすことを確言する〉クローヴィスは、オールド・リヴァーの岸に住んでいながら、ずっと窓をあけっぱなしの友人をたくさん持っている。「建物にこびりついている汚れをごらんよ」とかれらは言うのだ。「どうしてあのいまいましい医師会総長だのくそったれのシティの警察署長は、このひどい川にしゃかりきになる前に、空気と、排気ガスをきれいにしようとしないんだい」クローヴィスも言う。自分はニュー・リヴァーのながめがあまりに衛生的で退屈なものだから、窓をあけたためしがないと。だが、かれはいままでのところ引越したりはしていない。
わたしが十五階について、クローヴィスの扉に言葉をかけたとき、扉はずいぶん長いことあいてくれなかった。やっとあいたとき、クローヴィスは、同棲中の愛人を追い払うために、降霊実験をやろうとしていた。
クローヴィスはひとづきあいが好きではなかった。ときおり女と関係したが、それも中性的な女たちとだった。前にクロエと十ヵ月同棲していたことがあるが、そのあいだも男の愛人たちが、ひっきりなしに出入りした。ほんとうに、鏡像愛≠ニいう言葉はかれのためにあるようなものだった。かれは同性と寝るだけでなく、その愛人がみなかれにそっくりなのだ。こんどの相手も例外ではない。すらりと背が高く、黒いちぢれた髪をした若者が、長椅子の黒玉のように真っ黒なクッションの上に横になって、おごそかな目でわたしを見つめていた。
「オースティンだ」とクローヴィス。
「ハロー」とオースティンは言った。
わたしはあのロボットがハローと言ったのを思い出した。わたしにむかってほほえみながら、音楽的な声で。ああ、ここに来なければよかった。
「で、こっちがジェーン」クローヴィスはオースティンに言った。「ジェーンはほんとうは女装した男の子なんだ。まずわからないだろ」
オースティンが目をぱちくりさせた。かなり頭の回転がにぶいようだ。クローヴィスとはりあいたかったので、わたしもかれを憐れんだ。
クローヴィスは文字や基本的な句読点と一から十までの数字を書いたプラスティックのカードを、降霊テーブルのまわりに並べおえたところだった。
「起きてこっちにきて座って、オースティン。それからジェーン、きみはそっちにいないで、こっちに来る」
この軽口めいた言いまわしから、クローヴィスが相当に鬱状態であるのがわかった。かれはテーブルの前の絨毯の上に足を組んで座った。
「おお、クロー」オースティンが鼻にかかった声を出した。「こんな現代的な建物のなかで、どんな霊がひっかかってくるって言うんだい」
「ぼくがつりあげるのを見て驚くぜ」クローヴィスは言った。
オースティンは信じなかった。が、こそこそとテーブルの向こう側に行った。
「でもこの家はできたてのほやほやじゃないか」なおも鼻を鳴らした。
「座れってば」クローヴィスが吠えた。
「ああ、わかったよ。おまえはがんがんわめくんだから。座るよ。だけど、ガキの遊びじゃないか」
かれは絨毯の上にロープそっくりに体を折り畳んで座った。わたしもそっちへいって、反対側に腰をおろした。カットグラスの杯――一年前にクローヴィスの愛人のひとりがかれに向かって投げつけたので、少しかけてしまった――が、テーブルのまん中にのっている。わたしたちはその上に指を一本ずつかけた。
「ガキのやることじゃないか」とオースティン。「万が一、これが動いても、押されたからさ。おまえ、手がふるえてるぞ」
「ぼくの手はふるえてない」とクローヴィス。
「おお、そりゃあ、そうだろうさ」オースティンは言った。
わたしはとても孤独な気持ちだった。そして泣きだしたが、ふたりとも気づかなかった。わたしは頭を垂れ、涙がまっすぐ膝の上に落ちるようにした。膝の上で、涙は奇妙な抽象的な黒い水玉模様を作った。次の滴がどこに落ちるか想像するのは、かなりおもしろかった。
「なあ、おまえ」とオースティン。「退屈だぜ」
「ぼくはいつもやってるんだ」クローヴィスは言った。
「おまえも退屈なやつだな」
「ぼくは退屈さ」
「おれは退屈なやつが嫌いなんだ」
グラスはまったく突然動きはじめた。テーブルの上をすべるように行ったり来たりしはじめ、文字や数字のカードのふちにそって流れるように円を描きだした。
「おお」とオースティン。「おまえがやってるんだ」
クローヴィスはグラスから指を離した。グラスはオースティンとわたしの指だけで、そのまま動きつづけた。
「彼女だ」オースティンがせせら笑った。「そうだったんだ」
「ジェーン、グラスから指を離して」クローヴィスが言った。
わたしはそうした。グラスはオースティンの指をつけたまま、ぐるぐるまわりつづけていた。
「わっ」オースティンがさけんだ。グラスに噛みつかれでもしたように、指を離した。だれの手も借りずに、グラスはテーブルの上をまわりつづけていた。
「おお、神さま」とオースティン。
「相手がほんとに神さまだとは思わないね。たずねてみたら」
「こいつに向かって言ったんじゃない」
「みんな」クローヴィスが、三十人もの聴衆を前にしているように言いはじめた。「指をもどすんだ。まず、ジェーン。それからオースティン。それからぼくだ」
わたしはクローヴィスの言ったとおりにし、オースティンもこわごわ従ったが、グラスにふれたとき、きゃっと言った。クローヴィスがグラスに手をのせると、オースティンが言った。「この部屋でだれか死んだのかい」
「今のところまだだよ」
「じゃ、どうして何かがとりついてきたんだ」
「ひとはどこでだって死ぬさ。それに忘れてはこまる。この建物ができる二十年前、この敷地には共同アパートがあった。そいつがくずれて、大量の死人が出た。ぼくらはいわば、瓦礫と骨の上に座ってるわけさ」
「とんだところに話をもっていくなよ。いったいどうしてくずれたんだ」
「聞いたことがないのかね」クローヴィスは辛抱強く言った。「地震や津波や地殻変動の話を。ヘモロイドをとっつかまえてから起こったやつさ」(クローヴィスはアステロイドのことを|痔疾《ヘモロイド》と呼ぶのだ)「東ヨーロッパの三分の一が沈んで、北アメリカ大陸が太平洋の七十二の島を併合したときだよ。まあ、そういう、見落とされがちな、ささいなことさ」
「ほう」とオースティン。「そいつは歴史の授業のつもりか」
グラスがテーブルからぽんととびあがり、耳ざわりな音をたてて、再び落下した。
わたしは地震で死んだあらゆるひとびとのこと、悲鳴をあげながら海に押し流されてゆくひとたちのことを考え、声をたててしゃくりあげそうになるのをこらえた。わたしは廃墟のあとや沼地を山ほど見てきたが、おさなすぎて、よくは覚えていない。わたしはシェ・ストラトスが空から落下するところを見た。シティが紫色の河と、澄んだ河の中にたおれこむのを見、シルヴァーが水底にとらわれているのを見た。死んでいるのではない。水はかれを殺せない。だが、そこで錆びてゆくのだ。涙が服の膝のしみにつけ加わって、あらたな不気味な大陸を形作った。
「どうする?」オースティンが言った。グラスはテーブルの上をウシガエルそっくりにはねまわっている。
「なにかたずねて」
「ううむ。そこにだれかいるのか」
「目には見えないがね」とクローヴィス。
「ああ、うむ、そうだな。あんたはだれだ?」
グラスはNの文字のところにとんでゆき、それからOのところへ行った。
「つまり」とクローヴィスがきっぱりと、「よけいなことはきくなというわけだな。あんたは」クローヴィスは精力的なグラスに向かってたずねた。「ここにいるだれかにメッセージがあるのか」
グラスはAの文字へ、つづいてUへ、Sへ、Tへ――
「うわあ」
「座れよ、オースティン」
「だけど――」
「そう、オースティン。オースティンは、メッセージをききたがっている」
「おれはいやだ」オースティンが仰天してわめいた。「おれは知りたくない」
グラスはてきぱきとつづってゆき、クローヴィスは文字を追い、言葉にしていった。「キミニハ障リヲナスモノガツキマトッテイル。危険ヲ辞スルコトナカレ。スバラシイコトガ待ッテイル。ダガ、ココデハナイ。心セヨ。
わかった。ありがとう」とクローヴィス。
グラスはふるえ、それから止まった。
「おまえが追い払っちまった」とオースティンが不平を言った。
「意味はわかったろう。どうやらぼくが障りをなすものらしいぜ。なんてやつだ。ぼくの家に入りこんできて、ぼくを侮辱するとはな。おい、どこへ行く」
オースティンはそそくさと立ち上がって、扉のほうに歩きはじめていた。
「煙草だよ」
「やめたんじゃなかったのか」
「なに、昨日だけさ」
扉がひらいて、かれを通し、通りすぎるときに、クロゼットがかれの三色ジャケットをさしだした。扉はぶうんとうなりながら閉じ、やがてエレベーターの音が聞こえた。
「もっと早くやればよかった」クローヴィスが降霊テーブルを片付けながら、ぼやいた。「でもあいつ、もどってくるな。もどってきて、少なくとも一日は考えてから、やっとお告げが身にしみて、おさらばする気になる」
テーブルには仕掛けがあった。電気にはやたらくわしいジェイスンがクローヴィスのために作ってやったのだ。針の頭ほどの大きさの電磁石をグラスの中にとりつけた――知っていれば見えないことはない。クローヴィスは文字の配列を記憶していたし、メッセージはいつもほとんど同じだった。クローヴィスはほんとうにひどく残酷なのだ。愛人たちを打てあそんで、かれらが出ていく気になって出ていくのを見守っているのだ。もちろん、長い目でみれば、そのほうがいいのだけれど。
「ハロー、ジェーン」エレベーターの音がとおざかってゆくと、クローヴィスは言った。「植物に水をやろうというつもりだったんなら、場所が少々ずれてるよ」
「見られてたなんて知らなかったわ」
「そんなにひどく泣いて? ぼくがいつから盲目になったというんだい」
わたしは泣きやみ、クローヴィスはりんご酒を一杯もってきてくれた。かれのなぐさめは、遠くからかけてくれる言葉と動作にかぎられている。わたしにさわったこともないと思う。かれが愛人にだってさわっているのを見たことはない。愛人たちのほうはいつもさわりにくるのに。いまさらクローヴィスに抱きしめられたら、かえって驚きだ。
わたしはかれにS・I・L・V・E・Rの話をした。すじみちだててというより、手早くだった。それは自分自身の気持ちがわからなかったからでもあるし、オースティンが帰ってきたらまずいと思ったからでもあった。
クローヴィスは距離をおいた優雅な態度で聞きいっていた。窓の外では、ニュー・リヴァーがおそい午後の陽光にきらめいていた。
「なんておぞましいアイデアだ」わたしがしゃべりやめると、かれは言った。「金属の男。まるでギャグマンガだな。傑作だよ」
「ちがうわ。そんなんじゃないわ――かれは――かれは――」
「美しかった。そりゃ、そうだろうね」
「つまりね――どうしてロボットであり、なおかつ――」
「それはありえない。そうじゃないんだ。そいつはただの金属さ。流体状に動く金属に加工して、皮膚みたいにしただけだ。何年もそういう研究が進んでいたじゃないか。だれかが創りだすはずだったんだ。時計仕掛けと機械仕掛けで、外見は筋肉組織ってやつをね。よくできたスーパー男性ロボット。ひとかわむいてみれば、歯車と滑車ばかり――という代物さ。おい、ジェーン。ぼくの絨毯の上に吐かないでくれよ」
「そんな。大丈夫よ」
「もしそいつが――それが――ほかの人間全員にそういう効果を及ぼすとしたら、エレクトロニック・メタルズ株式会社はこの広告キャンペーンを後悔するようになるぜ」
「みんなもすっかり感動してたわ」
「それに、きみは神経過敏だし」
「わたし――」涙がふたたびあふれてきた。
「かわいそうに、ジェーン。なんて大げさな感情反応だい。で」とクローヴィスは言った。「そいつにはいちおうなんでも一式ついてるんだろう。一体買って、ワードローブのなかにしまっておくか。オースティンみたいなやつをやっかいばらいしたくなったら、ロボットを出せばすむ。あるべきものがついてるんだろうから」
「え?」
「ジェーン、きみの態度は白々しいとしか言いようがないぜ」
「ああ、それはついているんでしょうね」
「きみはその精巧仕様型の重要な点を見落としていると思うよ。そいつらはセックス用のおもちゃなんだ。飛行艇のロボットは九種類って言ったんだろ。九種類の精巧仕様型――」
「ちがうわよ、クローヴィス」
「ちがわないさ」
「でもかれは歌ったわ。ギターを弾いていたわ」
「ほかの機能も完備ってわけさ。ロボットはなんでもできる。心のないきれいな音楽、そんなところだろう」
「ちがうわ、あれは――」
「そしてベッドの中でも、きれいきっぱり心がない、と。とはいえ、ぼくみたいなのにはこたえられないがね」
クローヴィスがこういうことを言うとき、かれはどこかしら取り乱している。わたし自身の狼狽が影響しているのかしら。わたしはかれがひとつしか年上でないことを、ふだんは忘れている。ふだん、かれはずっと年上、二十歳ほどに思えるのだ。あのロボットも見かけは二十くらいに見えたっけ。
「それに」とクローヴィスが念を入れた。「そいつは出てきて、オースティンに一曲弾いてもやれるわけだ。――きみ、気分が悪いんだな」
「ええ」
「バスルームの場所は知ってるね」
「ええ――」
わたしは緑色のバスルームにかけこみ、ばたんと扉をしめた。吐き気のするときのように、淡い緑の洗面台にすがりついたが、具合いはちっとも悪くなかった。とうとう大理石のタイルの上に長々と身をのばした。なにがいけないのか、どこに行きたいのか、だれといっしょにいたいのか、わからなかった。そこにひっくりかえっていると、エレベーターの音がし、扉が開く音が聞こえた。クローヴィスが腹立たしげに言っている。「裏街で買った安マリファナを頭の上でふかすなよ」
わたしがこそこそとしのびでると、オースティンはリズム・テープをかけ、窓の前でぐるぐるまわっていた。川向こうに強力な双眼鏡を持った人間がいて、見てくれないか、とでも思っているのだろう。
「タクシーを呼ぼうか」とクローヴィス。「ジャギッドから出ている新しい路線があるんだ。運転手が人間でね。新手の商売さ。長続きするとは思えないが」
「飛行艇に乗る。午後五時に、ラシーヌ街の角から出るのがある」
「ラシーヌはぶっそうな停留所だ。あんたの金髪の顔に傷が入らないようにね」
「ポリコードを持ってる」
「それでおまわりを呼んだことはあるのか。ぼくは一度あるが、やつらが助けにくるまで、たっぷり二分はかかったよ。それだけ時間があれば、ぼくは上から下まで別人のごとくつくりかえられてるところさ」
オースティンはくすりと笑い、荒っぽく腰をゆすった。
ふたたびなにもかもが正常になった。わたしも正常になろう。わたしはもうエジプティアのことを思い出し、彼女を探しにいくべきかどうかと考えていた。劇場に行くか、アイランドにある彼女の家に行くか、彼女がときどき花咲く葡萄のあいだで酒を飲んでいることのあるバビロンの庭園に行くか。それともひとりでどこかへ行くか。わたしがひとりで行ける場所は山ほどあった。それともクロエかメディアに電話するか。しかし、自分がそのどれをもしないのがわかっていた。家に帰ろう。クローヴィスが予言したように。
シェ・ストラトスはわたしの避難所だった。何かいやなことがあると、そこへ帰りつくまで、体ががたがたふるえているような気がする。家に帰ろう。母にわけを話そう――クローヴィスのところへ寄ったのは、単にそれをのばすためだったのだ。母にうちあけようと思うと、わたしはもうずっと安全な気がしていた。おそらくわたしの反応が異常なものだということになるのだろうが。
ともかくクローヴィスはわたしに帰ってもらいたがっていた。かれはコーヒー・テーブルの上の紙に、背中から鍵のつきでた、長髪の美しい若者の絵をいたずら描きしていた。
「そんなうちひしがれた顔をするなよ、ジェーン。きみは少々おかしいよ。いつもと同じにね。帰ってやすんだほうがいい」
オースティンが両手を、かれの体に走らせ、わたしにはキスを投げてよこした。
そのときのクローヴィスは嫌いだった。わたしはあのロボットそっくりにきびすをかえし、戸口に行って外に出た。
生活保護にたよって生きていくのは奇妙なことにちがいない。毎月掌紋をとって、毎週小切手を郵便で受け取るのは。ありとあらゆる種類の職業訓練所があるが、たいていのものは袋小路につながっている。一大ロボット・ブーム――特にアステロイドがすべてを混乱におとしいれてから――は、あちこちに底なしの穴をあけ、人間はその中で必死に泳ぎ、沈むまいとしている。母によれば、創造的芸術こそもっとも安全で、職にもありつけるということだ。だが、ロボットが音楽を美しく精妙にかなでることができ、天使のように歌えるようになったら、どうなるだろう。
そして、もしかれらが愛の相手さえつとめられるなら――
わたしはおろかにも、さっきからそのことで吐き気をもよおしている。だが、それはそんなにひどいことだろうか。もし、かれらに愛の行為が可能なら、手触りも皮膚や肉にそっくりなのだろうし、人間らしいのだろう……あらゆる面において。だが、それは嫌悪感ではなかった。なぜかしら、そのほうが始末が悪かった。わたしは結局公衆電話で呼んだタクシーに乗り、手に爪をたてて、ふたたびこみあげてきた吐き気に耐えていた。
わたしは生きるのがあまりうまくはない。ときには生きる|術《すべ》を身につけられないのではないか、まっとうに生活できないのではないか、とおそろしく思う。わたしがもっと年をとったら、おそらく三十くらいになったら――
タクシーはハイウェイをつっぱしっていた。塵が両側にまいあがり、夕陽を浴びて美しい金色に輝く。それを見ると心がなごんだ。ロボットの運転手はパネルとコイン・スロットと記録装置でできているにすぎなかった。飛行艇はもっと安いし、乗り心地もいい。なんといっても百フィート上空を飛ぶのだから。
バクスター・エンパイアも空中を飛ぶもっとも古い垂直上昇機だ。母はそれをよくジャングルで使い、その刃で邪魔になる森の梢を切りはらいながら、上昇してゆく。そして切断された猿の体の部分が窓の外を落ちてゆく。幼いころの旅の大事な部分は忘れてしまったとはいえ、そのことだけは覚えている。そしてわたしが泣いたことも。母は、何ものもほんとうに死ぬのではないのよ、と言った。人間でも動物でも。わたしたちのなかの霊的な力は肉体の死のあとも生きのび、霊的な、別の身体のなかで生きつづけるのよ。そのとき、わたしは五分間、母が猿を殺した言いわけをしているだけなのだと、反抗的に考えた。猿を殺したことはたいしたことではない、だって、かれらはほんとうに死ぬのではないのだから、という言いわけ。でもそれでも、母の言ったことが正しいのだと思った。それを信じるほうがやさしかった。
十年もたったいま猿のことを考えるなんて変だ。猿と、劇場の外にいた赤い髪のロボットのあいだにどんな関係があるのだろう。わたしはかれのことを考えまいとした。でも母に話してしまうまでは無理だろう。それも変なことだ。自分のかかえている問題、わたしを悩ませるできごとで、母をわずらわしたくないときでさえも、わたしはそれを母と話しあうまでは、どうにもそれらをもてあましてしまう。というか、母に話して、母がどうすればよいか教えてくれるまでは、だ。母の言ったとおりにすると、わたしにとってめちゃくちゃに入りくんでいた人生がやっとすっきりしてくるのだ。一方で母の意見に従いながら、おそらくまちがっているだろう自分の考えを追いつづけることにも抵抗はない。わたしの生きかたもそれに似ている。わたしは母の言ったことをし、母の忠告に従うが、なぜかわたしの生――人生に対するわたしの真実の反応――はまったくちがったものになり、ちがった方向へ行ってしまう。まったく変だ。いまこうして書きはじめるまでは、考えもしなかったことだが。
十二分くらいして、家をささえているすらりとした鋼の支柱が見えてきた。だが、濃くなってくる光のなかにも、家の輪郭はまったく見えなかった。わたしはタクシー料金をはらい、おりて、針葉樹のあいだのコンクリートの白い径を歩いていった。家のエレベーターはいちばん近い支柱の中にあって、わたしが話しかけると、いつも「ハロー、ジェーン」と答える。わたしがちいさな少女だったころ、家じゅうの機械が話しかけたものだ。わたしはだから、昔も今も、知能を備えた機械には慣れていた。それらとはまったく気安い関係にあった。
今日までは。
エレベーターは速度を増しながら、絹のようになめらかにのぼってゆく。それからゆるゆると速度を落として、支柱のてっぺんに近づくが、加速も減速もまったく感じられない。わたしは母はまだ帰っていないだろうと思った。どこかの会合に出ているか、講演をしているか。だが、小径にはかすかなペア・オイル・ガソリンの匂いがあった。バクスターの燃料のガソリンだ。そして針葉樹はVLOの下方排気でいくらか不機嫌そうに、後ろへそりかえっているようだ。だが、わたしの考えちがいかもしれない。わたしが十一で、とても興奮して、家に駆けてもどったとき、母がいないのにバクスターのガソリンの匂いを感じたことがある。わたしは家のなかにとびこみ、やはり母がいないのを知った。あれは願望充足の心理的錯覚だった。必要とするときに母はそこにいるはずだとわたしに思わせようと、嗅覚神経がいたずらをしたのだ。母はいなかったし、何時間も帰ってこなかった。
エレベーターがとまり、扉がするするとあいたとき、わたしはまたしてもかすかなかすかな、母の香水――ラ・ヴェルト――の残り香をかいだ。
子どものころ、ラ・ヴェルトの香りをかぐと、幸福感で笑いだしたものだ。ある朝などわたしはそれを絨毯、クッション、壁かけにふりかけ、家じゅうが母そっくりの匂いになった。母はわたしといっしょにすわり、とても注意ぶかく、わたしの心理を説明してくれた。そのうちに、いっさいから匂いが消された。母はわたしを打ったり、たたいたりしたことはない。どなったこともない。そういうことは失敗のしるしなのだと言っていた。子どもにはなんでも説明してやらねばならない。そうすれば大人と同じようにむだなく行動することができるのだ、と。
おかしなことに、わたしは子ども時代、自分をいまより大人だと思っていた。
エレベーターの開いたところはロビーで、圧倒するようなたたずまいだった。(「なんて威圧的!」)エジプティアははじめて見たとき、そう言った。まるで凍った白いアイスクリームでできていて、わたしをのみこんでしまいそう。だが、それはほんとうは褐色のすじ入りの白い大理石だった。鉛筆のように細い柱が何本かずつまとまってのび、夜、微光を発する円板につながっている。だが昼間は、太陽光はまるい高い天窓から入ってくる。その窓は高くて実際にはたいして外が見えない。いまは金色じみた[#「じみた」に傍点]空がちらと見える程度だ。形容詞をかってにつくりあげるべきではないのだろうが、そうとしか言えない。ロビーのまんなかには、次の階に通じる透かし細工のエレベーターがある。母が、古い映画かなにかで見たものを真似してデザインしたのだそうだ。ロビーの隣にはバスルームがつづき、ロボットや機械をしまってある家の下の倉庫や、台所、配線室、ワイン貯蔵所に通じる扉がある。それからふたつのバスルームのついたふたつの客用住居が、東側に付属している。エレベーターでのぼると、客用の部屋とおなじようにいろいろなもののついた中二階と、閉まっていて宇宙飛行士≠オかあけられないテープ室がある。テープの内容は、家の記録やビジネス文書、さもなければごく貴重な古代の文書である。母だけがここに入る。図書室もあり、アステロイドの衝突で変化する以前の地球をあらわした貴重な地球儀が置かれている。バルコニー・バルーンのひとつが図書室から突き出ていて、わたしはときどきそこにすわって、本を読もうとするが、けっきょく一度も読んだことはない。空に気をとられて集中できないのだ。
最上階は北側に母の部屋と書斎とスタジオが集まっていて、防音装置がほどこしてあり、ここにも鍵がかかっている。ほかの部分は展望室で、すばらしい半円形が家の外側をぐるりととりまき、花のように開いて、巨大なバルコニー・バルーンにつながっていて、それはまるで空をたたえたおおきな水晶の泡そっくりだ。そこに入ると、空が部屋を満たす。部屋の中にいるのではなく、空のなかにいるようだ。この効果を高めるため、家具はごくシンプルなもので、ガラスか淡く白い材質でできており、それらが上層の対流圏の色彩を反射する。もちろん|成層圏《ストラト》にいるわけではない。それは危険だ。ここでさえ、屋内は与圧を加え、酸素を補給してある。窓をあけるのも無理だ。カーテンをしめることもしないが。
その夜、わたしが展望室に入ってゆくと、部屋は金色に染まっていた。泡のなかにある金の絨毯、金の椅子、テーブルは、これ以上ありえぬほど淡い色のアモンティラード・シェリー酒でできているようだった。天井の化学照明はともっていなかったが、空の金のほのおをうつしていた。空は黄色のプラム・ワインのようだった。わたしは西側の泡のひとつのなかに入ってゆき、ぼうっとしながら、そこにくりひろげられる日没を見つめていた。何週間もがたったようだった。高いところではいつもそうなのだ。だが、空が冷たくなりはじめるとすぐ、わたしは東側の泡のほうへ行ってアステロイドがあらわれるのを見た。それは巨大な青緑の星のようだったが、風をともなっており、海の潮はそれにこたえて、大いなるうねりをなして蕩揺するのだった。アステロイドは地球にぶつかるところだったが、いくらかの部分は落下の途中で燃えつき、月の引力もそれに作用した。アステロイドは変化をこうむり、そして安定した。わたしにもそうなる権利があると思う。人間はアステロイドの上を歩いている。ジェイスンとメディアはアステロイド産の青い石を盗んだ。アステロイドは美しいけれど全世界の三分の一の人間を殺した。統計ではそうなっている。
部屋の南側のカーブのところに、もうひとつちいさい付属建物がある。ちいさな階段があって、わたしの部屋に続いている。部屋は緑とブロンズと白で、わたしの身体的な色彩計画にあわせてある。現代的な女の子がほしがるものならなんでも備わっていた。ヴィジュアル機器、テープデッキ、プレーヤー、鏡台一式、服でいっぱいのクロゼット、エキゾティックな家具、ゲーム、本。でも、窓はあっても、それらはバルコニー・バルーンではないので、わたしは展望室にいることが多い。
わたしはなにげなくピアノのほうに歩いていった。ピアノはいま、空の色をうけて、ラヴェンダーグレーに染まっていた。そこへ母が入ってきた。
母は孔雀の服を着ていた。衿が頭より高くそびえ、雄孔雀の尾をかたどってひらいている。ガスのほのおのような、真っ青と黄色の斑紋を持つ孔雀。また出かけるところらしい。
「ここへいらっしゃい」母は言った。わたしがそうすると、彼女は両腕をまわして抱きしめた。ラ・ヴェルトの豪奢な香りがわたしをつつみ、わたしは安堵を覚えた。それから母は腕をゆるめ、わたしをつかまえて、にっこりした。母は美しく、目はグズベリーのように緑色をしていた。
「エジプディアの面倒をみてあげた?」
「そうしようとしたの、ママ。ママ、お話があるの。意見をきかせてほしいの」
「わたしは出かけなきゃいけないのよ。もう遅刻なの。出かける前にあなたが帰ってくると思って待っていたんだけど。手短かに話してくれない?」
「それは――無理よ――無理だと思うわ」
「じゃ、明日にしてね、ジェーン」
「ああ、ママ」わたしはすすりあげ、また泣きだした。
「ねえ、言ったでしょう。わたしがいっしょにいられないとき、どうしたらいいか。あなた前にもやったことあるわね。なにも入っていないテープを出して、なにがあったか記録するの。わたしがここに座って、手をにぎっていてあげると想像しながら。そしたら明日、おひるか、一時ごろには再生できるから、よく話しあいましょうね」
「ママ――」
「ダーリン」母はわたしをやさしくゆすった。「ほんとに出かけなきゃいけないのよ」
「どこへ?」わたしは無関心にたずねた。
「昨日話した晩餐会よ」
「覚えてないわ」
「それはあなたが覚えたくなかったからよ。ねえ、ジェーン。袖を放して。あなたは頭のいい、ものわかりのいい子でしょ。それに、自分で考えるように言ったでしょう」
「それからママに話すようにとも言われたわ」
「だから話しあいましょう。明日」
赤ん坊のとき、母はわたしをどこにでもつれまわってくれたが、幼児になると、ときどきおいて出かけなければならなくなった。母はものを書いたり、調査したりするとても忙しい職業で、熟練した調香師であり、宝石鑑定家で、神学者であり、修辞学者でもあった――そして、講義もすれば、さまざまな才能でひとを喜ばすことができた。母がわたしをおいてゆくとき、わたしはいつも涙をこらえきれなかった。でも、いまはどのみち泣いているのだ。
「ねえ、ジェーン」母はおでこにキスしてくれながら、言った。「あなたの部屋へ行って、お風呂に入って盛装して、お化粧していらっしゃい。ジェイスンか、ダヴィディードに電話して、あなたも晩餐に行くといいわ」
「ダヴィディードは赤道にいるのよ」
「あらあら。そこが暑いと知っていて行ったんならいいけれど」
「目まで沈泥に埋まっているのよ」母を追って、部屋からエレベーターまでもどりながら、わたしは言った。「ママ、わたしすぐ寝てしまうわ」
「それはずいぶん消極的だこと」母はわたしを見た。長いトルコ石色の爪が、エレベーターのボタンを押した。「ダーリン。あなたまだ恋人がいないから言うけれど、わたしが勧めたように、定期的にマスターベーションをしたほうがいいわ」
わたしは赤面した。もちろん、赤面するなんてばかげているのはわかっていた。だから、目を伏せはしなかった。
「ええ、わかったわ」
「あなたの身体的タイプだと、とても性的に成熟しているの。でも体は体のことを自分で学んでいくものだわ。わかるでしょう、ダーリン」
「ええ」
「じゃあね、ダーリン」母は言い、エレベーターは、孔雀をとじこめた鳥籠のように沈んでいった。
「いってらっしゃい、ママ」
非現実的なしずけさと沈黙が家のなかにひろがっていたが、わたしは第二の支柱から白いシボレーがおしだされるかりかりという音をききつけた。そのちいさな灯火がまたたきながら闇のなかに消えてゆくのが見えた。わたしは目を凝らしていたが、やがてそのちかちかも見えなくなった。
[#改ページ]
3
わたしは、床より低くなったバスのなかで眠りに落ちたが、バスルームのヴィデオ電話で目がさめた。わたしは映像のほうのスイッチを切って、出た。エジプティアからだった。
「ジェーン、ジェーン。あたし受かったのよ」
あたりはざわざわしてパーティ会場かなにかのようだった。
「なにに?」わたしは眠たい声でたずねた。
「ばかね。コンコルダシス劇場の劇のことよ。オーディションで認められたの。あたしたち、ずっと昔からの知り合いみたいに意気投合しちゃったのよ。あたし、予約金を払ったの。バビロンの庭園でパーティを開いたのよ。すごいパーティ。シャンペンは雨みたいにざあざあ、テラスから流れ落ちてるわ」
わたしは母の忠告を思い出した。
「わたしも行っていいかしら」
「ああ」エジプティアの声はさらに聞こえづらくなった。
わたしはどのみち行きたくなかった。バスの中は冷たいし、気分は沈んでいた。でも母は、わたしには外出がいちばんだと思っている。
「あんたの好きなタイプのパーティじゃないわよ」とエジプティア。
ふだんなら、ここでひきさがるはずだった。いままでもしょっちゅうそうしてきた。どうしてエジプティアはいつもわたしをわがもの扱いしたがるのだろう。同性愛者でもないのに。わたしのことをはずかしがっているのかしら。わたしはなぜか口にしていた。
「つまらないわ。ひとりぼっちなんて耐えられない」
ときどき、わたしはエジプティアの真似をすることで、反応をひきだすことができた。前にも直観的にそれをやったことがある。そのときは無意識だったが、いまは計算ずくだった。パーティには行きたくない。でも、ひとりにもなりたくない。
「ほんとにめいっているのよ。エジプティア。あの男が大階段であなたをめちゃくちゃにしたとき、わたしものすごくショックだったの。とてもいっしょになんか行けなかった。あのあと、あなたがどうなったか心配で」
「そう」彼女はかすれた声を出した。目がうるんでいるのが見えるようだ。あのときのことを思い返しているのだろう。
そして、わたしは嘘をついていた。こんな意識的な嘘はいけないのはわかっていた。それも、別にほしくもないもののためにつくなんて。
「エジプティア、わたし、パーティに行ってあなたに会いたい。あなたが無事なのを見たい。あなたが喜んでるのを見たいわ」
「庭園の三階の天蓋の下よ……」
たぶん彼女がパーティの費用を出したのだろう。もちろんそうだ。そしてあの残酷な劇場側は、彼女のひとりよがりの幸運を文字どおり食いものにしているのだ。そんなところへ、わたしはなぜ行きたいのか。
だが、信じられないようなことが起こっていた。わたしは急いでいた。バスから出て、ワードローブへ直行。歌まで歌っていた。が、自分の歌がどんなにへたくそか思い出してやめた。わたしはまた一瞬足をとめた。グリーンのランジェリーとグリーンのドレスを身につけた段階で、自分のゆたかなお尻を見ようとして。ヴィーナス型は、ほんとうのことをいえば好きではない。一度、酔っぱらったクローヴィスが、きみはは少年ぽい雰囲気がある、と言ったことがある。「でも、わたしはヴィーナス型よ」クローヴィスは肩をすくめた。たぶんわたしの顔がそうなのだろう。わたしの顔はほぼ卵型だが、顎がとがっていて、中央にごくごくかすかなくびれがある――それが雄猫みたいなのだろうか。
わたしは自分で髪を上げようとしたが、無理とわかって、またときおろした。クリームとパウダーとシャドウ、ハイライト、マスカラ、ルージュ、グロスを片はしから使って、お化粧をした。やがてわたしの顔はずっとおとなっぽく、自信にあふれて見えるようになった。ときどききれいとか、魅力的とか言われることはあるが、自分ではよくわからない。わたしはむしろほかの誰かになりたいと思う。
電話についた自動装置でまたタクシーを呼び、午後九時にはシティにもどった。シティは夜にはまったくすばらしい。ビルは何千もの光のキューブ、闇のなかにどこまでもそそりたつ光のキューブでできているようだった。とおくから見ると、ダイアモンドの棒だ。でも、こんなのはひどい比喩なのだろう。宝石のような車の列が道路を動き、また飛行艇がばら色の煙を出して騒音とともに頭上をとびすぎる。わたしは興奮した。もどってきてよかった。
タクシー代を払って、バビロンに流れこむ動く階段に足をかけたときには、少なくとも二十五歳にはなった気がした。葉かげのネオンに照らされて溶けたエメラルドのように見える垂れさがった苔や花輪の中を、階段は流れてゆく。
秋の夜気はやわらかだった。しげみのなかの明かりの列はそのやわらかさのなかに溶けこんでいて、オーケストラとステレオのハードな音をともなって天蓋の下から流れ出る箇所でだけ、はっきりと見えた。エジプティアの天蓋の下で明かりはもっとも鮮明だったが、それも、みなのきつい美しい化粧のせいだったかもしれない。
わたしは光のひろがりのふちから、金貨をじゃらじゃらつけたエジプティアが、すらりとしたハンサムな男といっしょにスネークダンスを踊っているのを見ていた。彼女のまわりでは、ほかにもいくつかのカップルが同じことをしていた。人間や瓶が草の上にところせましと折りかさなって、青い煙の奔流が宙を流れていた。クローヴィスなら大喜びしそうなパーティだ。かれときたら、とてつもなくあきれるほど無作法になれるのだから。
だれかが近づいてきた。二十一くらいの男で、こう言った。「きみ、だれ?」
「ジェーンといいます。エジプティアの友達よ」
「彼女に友達がいたとは知らなかった。ぼくの友達になれば、はいれるよ」
「ありがとう」
「いやいや」かれはわたしの、プレ‐アステロイド期のアジアの絹のドレスを見た。わたしのワードローブには、高価でないもの、また高価であることがわからないものは一枚もない。「きれいなお金持ちのお嬢さん」若者は言った。みてくれはよかったが、いやらしい感じだった。「きみもドラマのオーディションを受けない?」
「わたしは演技できないの」
「できない人間はないさ。だれだって一生演技しつづけているんだ」
「舞台の上でじゃないでしょ」
「コンコルダシス劇場には舞台なんかない。テーブルをくっつけて舞台にするんだから」
冗談なのだろう。どう言えばいいのかわからなかった。わたしにはウィットの才もなかった。
かれはわたしの手をとって――かわいていたが、ぐにゃぐにゃした感じの手だった――天蓋の下へつれてゆき、自分の名前はロードだと言った。緑がかった泡立つ酒をグラスに注いでわたしてくれながら、わたしの唇にキスした。男にキスされるのは――たとえ情熱的に口をあけてのキスでも――まったくおもしろみがない。こう言ったら、いかにも恋を味わいつくしてあきあきした、というふうに聞こえるだろうが、そうではなく、ただほんとうにつまらないのだ。わたしは興味のあるふりをしようとするのだが、うまくいったためしがない。何も起こらない。ただ遠いところでぞくぞくするような感じがあって、それが快いものになってほしいと思うのに、そうはならず、ただ皮膚一枚の下に漠然とむずがゆい感じがあるばかりなのだ。で、わたしは、ロードという若い男から身をひいた。するとかれは言った。「すてきだぜ、きみははずかしがりなんだな」わたしは赤面した。化粧のせいでそれが見えなかったのは幸いだった。でももう二十五歳の気にはなれなかった。十一みたいな気がした。もう帰りたい。
そのときリズム・テープに間があって、スネークダンスは終わりになった。エジプティアがわたしを見つけて、こっちに来てくれないかしら。それともわたしのことなど気づかないふりをしているのかしら。でも彼女はパートナーにうちこんでいるようで、わたしのほうなど見もしなかった。彼女はすばらしくエキゾティックに見えた。わたしは氷のような酒をすすり、彼女が劇場で成功すればいいのにと、ほんとうに思った。彼女の目はきらきらしていた。地球にぶつかるはずの彗星のことなど忘れていた。
「おい、もうリズムはいい」だれかが叫んだ。「歌をききたくて今夜はずっと待ってるんだ。ほんとに実在するのか。それともこっちがパーティをまちがえたのか」
ほかの声がいくつも、異口同音に気のきいた実在論的コメントをつけくわえた。
わたしは歌のテープが、それも騒々しいのがかかるのだと思い、緊張して待った。だが、たくさんのひとがグラスをふりまわしながら、さっきまでみなが踊っていた空間に殺到してきた。「即興曲!」だれかがわめいた。みんなかなりハイになっている。わたしはうらやましいと思った。またしても失敗だ。タバコを吸うのもむずかしい。煙はわたしの喉から肺へ下りてゆくことを断固拒否した。まったくさまにならない。わたしはいつも、ハイになっていないのに、なっているふりをしなければならない。(だれだって演技しつづけているんだ)
そのとき別のリズム・テープだか、同じテープだかが、かかった。それから、フォー・ビートのあとに、歌が流れた。もちろんリズムにメロディはない。リズムはパーカッションとビートだけで、ダンスをするためのものだ。わたしは前に、そのリズムの上にひとが即興の歌や曲をのせるのを見たことがある。クローヴィスはこれが得意だったが、かれの歌はいつも卑猥だった。今ながれている歌は荒々しく、言葉は花火のようだった――が、それらはわたしから矢のように離れ去ってゆき、ギターのコードがその背後からたちあらわれ、共鳴をつけ、わたしの骨の内部のうつろのなかにとらわれでもしたように、そこにとどまっていた。ほとんどのひとびとが静かになって聞き入っていた。だが、わたしにキスしたロードなる男は言った。「なかなかいいじゃないか。予想外だな。前に見たことがあるかい。えらく感動的だ。おいで、見せてあげよう」
わたしは考えていた。いったいだれが歌っているのだろう。でもロードに向かってはこう言った。「ううん、見たくないわ」
そしてわたしは知った。
ロードがぐにゃぐにゃの手をわたしの腰にまわし、荒々しい音楽のほうへつれていこうとし、わたしの足は草の上でよろめいた。そしてギターの音は、わたしの爪先から、足へ、おなかへ、心臓へと馳せのぼり、わたしの頭をいっぱいにした。血は、それとは逆に大地のほうに馳せおりていくようだった。わたしは緑の酒のグラスを落とした。息ができない。死にそうな気がする。
わたしの案内人はぺちゃくちゃしゃべりつづけていた。わたしは聞いていたが、耳にははいらなかった。エジプティアは劇団のスタッフにむかって、ロボットとまちがえられた顛末を、軽蔑と絶望の口調で語ってきかせたのだそうだ。そこで彼女の新しい友人が三人、その本物のロボットを探しに出かけた。エジプティアは金貨をちりばめたスカーフかなにかのように自分の金をちらつかせ、見せびらかしていた。自分を愛してくれ、自分の才能を発掘する手段を与えてくれるものたちに気前よくしようという考えにとりつかれて。みなは人間型ロボットの登録番号をしらべ、エレクトロニック・メタルズ社に電話をし、パーティのためにかれを借りだした。天蓋やテープや、小さな木枠入りの酒瓶を芝生の上まで運びあげつづける機械を借りるのと同じように。
わたしたちは人だかりの周辺にきていた。かれが歌っていた。あのロボットが歌っていた。かれは、さっきまで血が流れていたわたしの血管の中に歌をそそぎこみ、いまは血ではなく、ギターの音とリズムがそこを流れていた。かれの歌がわたしの喉でふるえているのが感じられた。まるでわたし自身も歌っているかのようだった。かれの姿は見えなかった。みながみちをあけてくれ、かれを見ることができるなら、わたしは死んでもいい。
どうしてわたしはここた来たのだろう。とるものもとりあえず急いできた。まるでこのことを知っていたかのように。でももし知っていたら、ぜったいに来なかっただろう。
だれかが身動きした。すると銀の模様をぬいとった白いモスリンの上衣の袖が見えた。そして、銀の手と、スチールの弦のうえの光の斑が。わたしは目をつぶった。そして、人だかりをむりやり押しわけてかれのほうに進んでいこうとした。文句をいわれ、こづかれたが、それでもみなはしぶしぶ通してくれた。わたしは体の前に空間ができたことでやっと、自分が人ごみを抜け出したのを悟った。いま、わたしの前にいるのはかれだけだ。
地面はリズムのビートでふるえ、ギターの疾走がそれにおおいかぶさった。音、音の奔流。巧緻をきわめた音だったが、脆弱ではなかった。ロボットのようではなかった。人間の楽士のものにしては輝かしすぎたけれど。人間にはこれほど澄んだ音をすみやかにころがすことはできない。だが、この音には深さがあり、色彩があった――あたかもかれが、その演奏でなにかを表現しているかのように。歌のない短い間奏曲があったが、それからかれはまた歌いだした。すべての言葉が聞きとれた。意味をなしてはいなかったが、それでも覚えていたかった。短いフレーズのみがあちこちに残され、歌がとびさったあと、わたしという存在のふちにうちよせられた――ほのおの雪、緋色の馬、翼もつメリーゴーラウンド、シティの灯を散らしたフロントガラス、疾走する車、鳥の群れのように飛びさる世界、世界――
わたしは目をあけ、叫びださないように自分の舌を噛んだ。
かれは頭を垂れていた。髪が落ちて、顔と広い肩、銀のぬいとりをしたモスリンの上衣にかかっていた。クローヴィスはこんなジーンズを持っていた。嵐の雲の色をしたジーンズ。そしてかれなら、こんなドラゴンの血の色をしたブーツを好んだかもしれない。そうでないかもしれない。ロボットの髪は暗い赤いビロードのよう、フラシ天のようだった。眉とまつげは黒いシナモンの色をしていた。胸にも毛があった。銀の皮膚の上のほそいとび色の密生。わたしにはそれがこわかった。どこかへ行ってしまっていた血が津波のように、心臓をさして流れもどってきて、わたしは息がつまるかと思った。
「しずかに」だれかがロードに言っていた。まだわたしに話しかけていた、あるいは話しかけようとしていたのだろう。わたしにはそもそもなにも聞こえていなかった。
歌は終わり、リズムセクションも終わった。もちろんかれは、コンピューターとおなじに、いつリズムセクションが終わるか察知できるのだから、それに合うように適当に歌を切りあげたのだろう。人間にはそんな真似はできない。セクションの逆順を知っていないかぎり。
だれかがテープを切った。沈黙があった。それから爆発的な拍手がおこったが、われにかえったひとびとの苦笑のなかに消えた。パフォーミング・マシンに喝采するなんて。
そのとき、かれが顔を上げた。S・I・L・V・E・Rが顔を上げた。みなを見て微笑した。愛想のよい微笑。あたたかい笑い。かれはみなに喜びを与えることを望んだ。みなの心をさらってゆくことを望んだ。もしみなの心をさらってゆくことができ、喜びを与えられたのなら、かれは満足なのだ。心からの満足。
わたしはかれと目を合わせるのがこわかった。わたしの顔じゅうがひきつりはじめた。でも視線は合わなかった。なんでもないはずだわ。かれがぜんまい仕掛けのこはくの目でわたしを見たとしたって。
エジプティアとそのパートナーがひとをかきわけてやってきた。エジプティアは絹のかたまりのように、ロボットの足もとにくずおれた。彼女はシャンペン入りのグラスをかれにさしだした。
「飲める?」
「もしお望みとあらば」かれは答えた。その声にはおもしろがっているような優雅な調子があった。
「じゃ」とエジプティア。「飲んで!」
ロボットはシャンペンを飲んだ。酒に興味はないけれど、優雅なふるまいを心がけていて、優雅にふるまう人間が飲むように――レモネードを飲むような飲みかただった。
「おいおい、もったいないなあ」だれかが声に出して言った。
「たしかに」シルヴァーはみなににっこりしながら言った。はなやかな笑みで、目に白目があるのと同じように、歯も真っ白だった。口にも爪にも、そんなふうな、かすかに人間を思わせる色があった。
「あなた、ほんとうにきれいだわ」エジプティアはロボットに言った。
「ありがとう」
ひとびとはどっと笑った。エジプティアはロボットの手をとった。
「恋の歌をうたって」
「手を放していただければ」
「まず、あたしにキスして」
ロボットは頭をさげ、彼女にキスした。それは長い長いキスだった。おそらくエジプティアの心が望んでいたのと、きっかり同じ長さだったのだろう。ひとびとは拍手喝采しはじめた。わたしはまた気分が悪くなった。それからふたりは身をはなし、エジプティアはことさらに演技めいてつくろった感動の面持ちで、ロボットを見つめた。それから人だかり、彼女が雇ったひとびとに目をやり、こう言った。「ご報告。これから男のかたは無用になりますわ」
「ねえ、きみ」とロードが言った。「女性型ロボットもあるんだぜ」
エジプティアはロボットの足もとに座って、恋の歌をうたってくれ、ともう一度頼んでいた。かれはギターにふれ、そして歌いだした。歌は五世紀ほど昔のもので、歌詞はちがっていたが、それでもそれは『グリーンスリーブス』だった。
「ああ、恋人よ、つれないひとよ。わたしをむごくうちすてて。もし情熱の極限が歌ならば、それがなければわたしの回路はこわれてしまう」
ふたたび哄笑があがった。エジプティアも笑っていた。
「グリーンスリーブスこそわたしの喜び。夏の葉のようなドレスをまとったグリーンスリーブスよ、わたしは決して噛みつかない――グリーンスリーブス、あなたがお望みでないかぎり」
喚声があがった。ノースリーブのガウンのエジプティアはにっこりして、口をとがらしてみせた。するとかれは最後のコードを弾き、まっすぐにわたしを見た。わたしは自分の服が何色だったか思い出した。
わたしは石にでもなったような顔をしたのだろう。ぴくりとも動けなかったが、頬と目はかあっと燃えていた。とっさに顔をそむけることもできなかった。わたしを見つめているかれの目は無表情だった。いままでに出会ったことのあるどんな冷淡さとも、秘められた残酷さともちがっていた――いや、わたしの想像にすぎないのだろうか。ロボットは人間に残酷にふるまうことが許されるのだろうか――にこりともせず、暖かさも見せないことが。
狂おしいやけっぱちの気持ちで、わたしはエジプティアに目をすべらせた。
彼女ははじめてわたしを見つけたような顔をし、一秒前までなやましいクレオパトラを演じていたその場所で、今度は友情を演じながら、立ち上がってふわふわと漂うような足取りで近づいてきた。
(だれだって演技しつづけているんだ)
「まあ、ジェーン。やっぱり来たのね」
彼女はわたしに腕を投げかけた。恐怖のさなかにもいくらかほっとしたわたしは、相手の服を汚さないよう注意しながらしがみついた。母から学んだ気配りである。彼女の肩ごしに見える銀のロボットは顔をそむけ、ギターを合わせだした。みなかれのそばに腰をおろし、あれこれとたずねていた。かれはそれに答えながら、みなを笑わせつづけた。さっきまでかれが見えなかったのは、ずっと人垣に囲まれつづけていたからなのだ。備わった機知。ああ、わたしにそれがあったら。
「ジェーン、あんたすごく素敵よ。シャンペン飲まない?」
わたしはいくらか飲んだ。
この鉛のような感じがなくなってくれればいいのに。それだけを思っていた。あるいは、心の中のもうひとつの燃えるような思いがなくなってくれれば、と。だが、どちらもなくならなかった。かれはまた演奏した。わたしはひとりで座っていた。ずっと離れたしげみのなかに座って、言うことをきかない涙をおしもどそうとしていた。最後にあのいやらしいロードがわたしを庭の中のひとつの木立につれていき、重くふさをつけた葡萄の木の下にすわらせた。かれはわたしを愛撫し、キスし、わたしはなすがままになっていたが、頭の中ではこう考えつづけていた。がまんできないわ。どうやってやめさせたらいいかしら。
午前一時ごろ、かれが、いっしょに来い、自分の家に行こうというので、わたしは一計を案じた。
「わたし――わたし今月は避妊の注射を受けていないのよ。受けなければいけない時期なのに」
「ぼくは受けたさ。気をつけるし」
「だめよ、わたしはヴィーナス型なの。とても妊娠しやすいのよ。危険すぎるわ」
「いったいぜんたい、今までどうして言わなかったんだ」
自意識と羞恥心に責められ、わたしは葡萄を見つめた。もう一度泣いたら、マスカラが流れて、かれはわたしをいやになって、行ってしまうだろう。だから、もちろん泣いてはいけないのだ。わたしはあのロボットのことを考えた。ロボットがエジプティアにキスしていたことを、そしてキスしてくれと頼むだろうあらゆる女たちのことを。わたしが頼めば、かれはキスしてくれるだろう。あるいは噛みつくことも――わたしの言うことはなんでもしてくれるだろう。もしだれかが、エレクトロニック・メタルズ社に代金を払ってくれさえすれば。
「気分がよくないの」わたしはロードに言った。「吐き気がするのよ、ごめんなさい」
「ぼくにへどをかけないでくれよ」かれは立ち上がって逃げていってしまった。
葡萄酒がいくらか残っていたので、わたしは木立に座って飲んだが、なんの味もしなかった。わたしはずっと昔のイタリーにいるつもりになろうとした。まわりに葡萄のふさがあり、重厚な秋の夜が、恋人のように街に身を寄せているイタリーに。だが、どこかでバンドがかなではじめ、別の場所でリズム・テープが鳴っていた。
葉のすきまから漏れる光をうけて、かれの銀の皮膚は輝いていた。かれが十フィートの距離にきたとき、髪が燃え上がった。かれがわたしのほうに来るのだと思い、わたしの心臓はとまった。それから、自分がストリートのほうにおりてゆく、機械仕掛けでない階段のそばにいるのに気づいた。かれはただ庭園を出ていこうとしているだけなのだ。ギターをいっぽうの肩につるし、わたしがたったいま入りこもうとしていた古代イタリーふうの血の色の真っ赤なマントを、もう片ほうの肩にかけて。
かれはわたしを通り過ぎ、階段を下りていった。かろやかに駆け下りていった。ユーカリの木がかれをさえぎり、姿は見えなくなった。
心臓がはげしくうちはじめ、わたしはぱっと立ち上がった。
長いスカートをたくしあげ、かれを迫って、階段を駆け下りた。
灯火が明るく、歩道には何人かひとがいて、車がびゅんびゅん通りすぎていた。あいている店も劇場もバーもこうこうと看板やウィンドウを輝かせていた。そしてかれはその明かりとネオンのあいだ、ひとや車のあいだを、あるときはほっそりした黒いシルエットに、あるときは真紅の、あるときは白いシルエットになって通りぬけていった。美しい堂々たる足取りで。飛行艇がプリズムのように通り過ぎたとき、かれは頭をのけぞらせ、見ようとした。あまりに人間らしかった。
皮膚だけがかれを裏切っている――けれど皮膚だってメイキャップかもしれない。かれは俳優のような身のこなしをしていた。だからメイキャップのようにも見える。ストリート上のひとはかれを見つめ、見送った。何人がわかっただろう。もしエレクトロニック・メタルズ社の名前を聞いていなければ、だれにもわからないだろう。
わたしはあとを追った。かれはどこへ行くのだろう。あらかじめプログラムされていて、もどるのだ――どこへ? 店へ? 工場へ? 倉庫へ? そこでボックスに入れられるのだろうか。目のスイッチを切って。あの微笑も音楽も切って。
ひとりの男がわたしの腕をとった。わたしはかれにわめいてやった。かれもびっくりしたし、わたしも驚いた。わたしはハイヒールで駆けだした。
ペイン通りとビーチ通りのまじわる角で、ロボットに追いついた。
「ごめんなさい」わたしは言った。息が切れていたが、それは走ったせいでも、ハイヒールのせいでもなかった。「ごめんなさい」
かれは足をとめ、前方を見た。それからゆっくりとふりむいて、わたしを見おろした。
「ごめんなさい」わたしは口早にくりかえした。かれを、かれの顔を、あまりに近くで見ることにのぼせあがっていた。「わたし失礼なことをしたわ。あんなことを言うべきじゃなかったわ」
「何を」とかれはたずねた。「おっしゃったのですか」
「わたしがなんて言ったか覚えているでしょう」
「あなたを覚えていなければならないのでしょうか」
顔面にもろに平手打ちをくらったようだった。りこうになるのだ。見下してやるのだ。だが、わたしにはできなかった。
「あなたは、わたしを困らせるために歌ったじゃない」
「どの歌です?」
「『グリーンスリーブス』よ」
「いいえ」とかれは言った。「あれはただ歌っただけです」
「わたしをじっと見てたわ」
「それはあやまります。あなたがいらっしゃるとは気づきませんでした。最後のコードに気をとられていたので。あれは指使いが複雑なのです」
「信じられない」
「わたしは嘘が言えません」
なにかがわたしの中ではげしく動いた。まるで機械のどこかがこわれたように。目がまばたくのを拒み、顔のなかで凍りつき、とてつもなく大きくなって、わたしの顔をのみこみそうになった。わたし自身はつばきものみこめなかった。
「あなた――」わたしは言った。「そんなふうにふるまってはいけないのじゃないの。わたしはおびえて、あんなひどいことを言ってしまったのよ。そしてあなたはわたしにいたたまれない思いをさせて、それからいってしまって、そして今度は――」
かれは重々しい顔でわたしを見つめていた。わたしが言葉を切ったとき、こう言った。
「わたしの特性についてお話ししなければいけないようですね。プログラムされていないような事態が起こると、わたしの思考プロセスのスイッチが切り替わります。それで少しのあいだ、うつろな、何も見ていないような顔になるのです。あなたがなにかしら普通でないことをなさると、そうなるわけです。別に個人的な意味合いがあるのではありません」
「わたしはあのとき」わたしは両方のこぶしを握りしめていた。「あなたが怪物だって言ったの。よくもわたしに話しかけられるわねって」
「そう」かれの目の焦点が外れ、ふたたび合った。「やっと思い出しました。今までわからなかったのですが。あなたは泣きだしたでしょう」
「わたしをなぶっているのね。わたしが言ったことで怒っているのでしょう。それを責めはしないわ。悪かったわ――」
「どうか聞いてください」かれはしずかに言った。「あなたはわかっていらっしゃらないようだ。あなたは人間の反応をわたしにあてはめようとしておられる」
わたしは一歩さがった。ヒールが歩道の割れ目にひっかかった。ひどくのろのろとバランスを失ってゆくような気がした。そしてそのさなかに、かれの手がわたしの肘をつかみ、立ちなおらせた。そして立ちなおらせてから、手がわたしの腕をすべりおり、わたしの手の上をかすめてから、離れた。それは愛撫だった。気くばりに裏打ちされた、押しつけがましくない、親しげな愛撫だった。プログラムずみの。その手はひんやりして力強かったが、冷たくはなく、金属のようでもなかった。人間離れしてもいず、かといって人間のものでもなかった。
かれの言うとおりだ。わたしを残酷にもてあそんでいたのではない。クローヴィスならそうしただろうけれど。わたしは何もかも誤解していたのだ。わたしはかれを人間として考えていた。だがかれはわたしがなにを考えようと、なにをしようと、かまわないのだ。かれを侮辱することもできないし、傷つけることもできない。かれは玩具なのだから。
わたしの顔の火照りは最高潮に達していた。わたしは地面を見つめた。
「すみませんが」とかれは言った。「わたしは午前二時までにアイランドに行かなければなりません」
「エジプティア――」わたしは言いよどんだ。
「今夜はあのひとのところに泊まります」かれは言い、美しいおおらかな笑いをうかべた。
「あのひとと寝るのね」わたしはふみこんだ。
「ええ」
かれはロボット。雇われた仕事を果たすのだ。あるいは金で買われた仕事を。よくもエジプティアは――
「どうしてそんなこと」わたしは思わず言ってしまった。
人間の男にだったら、決して言わなかっただろう。エジプティアはあんなにきれいなのだもの。だが、かれにとっては、仕事なのだ。そして――
「わたしの機能はひとを楽しませること、幸せにすること、喜びを与えることです」かれの顔にはわたしへの同情があった。わたしが葛藤を起こしているのがわかったのだろう。わたしも購買者になりうるのだから、喜ばせ、楽しませ、にっこりしてもらわなければ困るというわけだ。
「あなたは素敵な恋人になれるわね」自分がそう言っているのを聞いて、わたしはショックを受けた。
「ええ」かれは率直に答えた。ひとつの事実として。
「あなたは――だれにでも雇われれば――そのつど――求められるだけ――愛することができるのね」
「もちろんです」
「そしてそうしながら、歌うわけね」
かれ自身が笑いだした。そうするとかれの全身がある種の歓喜に輝いた。
「それはおもしろい考えですね」
ごくごくおだやかなアイロニイ。それに、かれはわたしなんか覚えていなかったのだ。かれの目の邪悪な冷淡さは、あれは思考|細胞《セル》の再調節のためだったのだ。当然。いままで、かれに逆らったものなどいなかったのだから。
わたしは頭を起こし、目をあげて、かれの目をのぞきこんだ。もうはじらう必要はない。かれは機械にすぎないのだから。
「わたしはあなたが雇われたパーティに出ていたのよ。あなたはまだ雇われてるのね。明日まで? じゃ」最後の言葉は昂然とは出てこなかった。ささやきになった。「わたしにキスして」
かれはわたしを見た。まったくしずかに、おだやかに。それからわたしに近づき、その銀の手でわたしの顔をはさんで、とび色の頭をうつむけ、銀の口でわたしにキスした。それはなれなれしくはない、マナーにかなったキスだった。おちついていて、せわしくない、だが長くはないキス。エジプティアの客としてのわたしに対するキス。それからかれはあとずさり、わたしの手をもちあげて、そこにもキスした。おまけとして。それから地下道のほうに歩み去り、わたしはふるえながら残された。そうしてわたしは一日じゅう何がおかしかったかを知った。
わたしは自分に言い聞かせた。わたしが感じた――歌う潮に洗い流されるように――のは、時計仕掛けの機械のなかを流れている電流なのだと。かれの皮膚には毛穴がなく、人間らしくなかった、と。皮膚は人間より冷やかだった、髪は草のようだった、匂いもなかった、腺もホルモンも血もないのだから、と。だがそれでも匂いはあった。男性的な、圧倒するような、あらがいがたい匂い。なにかがそこに働いているのだ――おそらく楽しませる≠スめに。そしてそこにはかれしかいなかった。ほかのすべては背景にすぎなくなり、そうしていっせいに消え去ってしまった。そうしてかれも消え去り、もうなにものもかれの代わりはできない。
わたしがこんなふうに紙に書き記しているのは、テープに向かって口で言うことができないからだ。明日、母はわたしがなにを話しあいたがっていたのか、たずねるだろう。でもこれは母に読ませるものではない。この手記はほかのだれか――あなたがだれであれ、あなたのような――決してこれを読むことのないひとのためのものだ。なぜならわたしにはこの方法でしか語ることができないのだから。デーメータに話すことはできない。できっこない。
かれは機械なのだ。なのにわたしはかれに恋してしまった。
かれはエジプティアといっしょにいる。なのにわたしはかれに恋してしまった。
かれは木枠のなかにつめこまれていた。なのにわたしはかれに恋してしまった。
ママ、わたしはロボットに恋してしまったのよ……
[#改ページ]
第二章
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
甘やかされた幼い女の子。いつもだれかに面
倒をみてもらっていた。いつもだれかが助けて
くれた。ママとか、クローヴィスとか。そして
いつも駆けてもどれるお城があった。
それなのにいまは?
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1
暗くて、書いている手元がよく見えない。なぜ書いているのかもわからない。最初の部分を書きさえすれば、なにもかもが始まるのだと、わたしは迷信的に信じているのだろうか。それに、ひとつの章を書けば、次の章は自動的にやってくるとでも思っているのだろうか。だが、事態は悪くなるいっぽうだ。これ以上悪くなるなどということがあるかしら。いや、大ありだ。
それに、わたしの中のどこかに、そうなってもかまわないという気がある。なにが起ころうとかまいはしない。わたしに必要なのは、わたしがすでに失った以外のものなのだから。それにまたわたしは考えつづける。ページにちらちらする、紫のさびのような影や、陰鬱な闇とはかかわりのないことを。明日のこと、そしてその次の日のことを。そしてわたしがどうなるのだろうということを。
眠れなかったので、朝の七時にわたしは起き上がり、母のためにテープに短い吹きこみをした。「わたしの問題はクローヴィスのことなの。ボーイフレンドたちに対するかれの冷たさ。それに同性愛者たちの互いに対するふるまいについて。でももうよくなったわ。わたしが馬鹿だっただけ」
母に嘘をついたのは、正確にはこれが初めてではなかった。だが、嘘をつきとおさねばならないと知ったのは、今度が初めてだ。放りだしてはならない。決して母には言えない。自分がすてばちになっているのか、それともどうしようもなく恥ずかしく思っているのかどうかもわからない。だがわたしは夜のあいだ、泣いてすべてを流しだしてしまおうとした。そして朝六時には、枕がぐしょぐしょになったので、床に放りだした。
解決などないことがわかった。
午前十一時に、ヴィデオ電話が展望室で鳴った。だれだかわかっていたので、出なかった。正午にもう一度鳴った。なぜだか音がさっきより大きかった。もうすぐ母が部屋から出てくるだろう。そうしたらどのみち出なければならない。それで、わたしは電話に出た。
画面のなかのエジプティアは白いキモノを着て、ゆったりとよりかかっていた。「ジェーン。あんたひどい顔ね」
「よく寝られなかったの」
「あたしもよ。おお、ジェーン――」
彼女はシルヴァーの話をした。微に入り細にわたって話した。わたしは聞くまいとしたが、聞いてしまった。美しさについて、技巧について、優しさについて、ユーモアについて、そして強靭さについて。
「もちろん、スタミナだの知識だの芸術的センスだのも組みこまれているんだわね。でも、かれは人間そのものだったわ。おお、かれは奇跡だわ、ジェーン。もう当分人間の男じゃだめね。でも今朝は失神寸前よ。過剰なエクスタシーってものすごくこたえるのね。あたし偏頭痛がしてるみたい。こめかみがずきずきする。かれには政府の健康警告書をつけるべきだわ。オールド・リヴァーぞいの窓みたいに」
わたしの脊髄のなかで一本の針金がきつくきつく張りつめていった。針金の端は頭の中にある。エジプティアはどっちのこめかみが痛むのか言わなかったので、わたしのこめかみは両方とも、ほそい釘がうちこまれるように痛んだ。部屋がかげった。針金がまんなかでぷつんと切れたら、わたしは悲鳴をあげるだろう。
「口座を調べてみたのよ。一体買えるかどうかと思って。でも今月は赤字。それに劇場のこともあるしね。おお、ジェーン。かれはあたしに、あたし自身のことをうんとたくさん教えてくれたのよ。あたしのなかのすごく繊細な感情とか――あたし、かれといると女なんだわ。ほんと、ふしぎね。かれはロボットだけど、あたし自身をいっそう女らしく感じさせてくれるの。どんな男といるより、自分の欲求や必要によりよく気づくことができるの。でも、やめて、と頼まなければならなかったわ――」
宇宙飛行士≠ェひとり、母の朝食のトレイを持ってきたので、わたしは声をかけた。「母が来るところなの、エジプティア」
「ああ、わかったわ。あとでまたかけてね」
「ええ」
わたしは電話を切り、倒れそうになったが、かろうじて、祈りのときのようなかっこうで膝をついた。そこへ母が扉をあけて入ってきた。
母は起きたばかりでも美しかった。化粧っ気なしの顔に大きな緑の目をして、髪を両肩に垂らしている。
ああ、母に話せたら――
「ハロー、ダーリン」
「ハロー、ママ」
「長椅子の下に何か落とした?」
「ああ――それは――」わたしは立ち上がった。「いまエジプティアと話してたの」つけくわえた。こう言えば、どんな奇妙なふるまいに対しても一応の説明になるだろう。
「半時間したら」と母は言った。「あなたが話したがってたこと、教えてね」
「あの――」
母に話さなければならない。話さなければ。
だめ、だめ、だめ。
「テープをおいといたわ。でももうどうでもいいことなの。ママ、わたし疲れちゃった。また寝にいきたいの」
部屋に閉じこもって、わたしはまた大泣きに泣いた。起こったことを、母に話せたらどんなにいいだろう。どんなに楽になるだろう。母ならいっさいを合理的に説明してくれる。わたしがなぜあんなふうに感じたかを説明し、どうすればいいかを説明してくれるだろう。
エジプティアが今月はかれを買えないのがせめてもの慰め。
ぞっとする。かれと寝る――なんて。
わたしは目を閉じて、ふたたびかれのキスを口の上に感じた。シルヴァー・メタルのキスを。
わたしは床のぬれた枕の上で眠りに落ちた。そしてありとあらゆる種類の夢を見たが、シルヴァーの夢だけは見なかった。
午後二時、母がインターフォーンで、部屋にかけてきて、いっしょに展望室でお昼を食べようと言った。母はわたしのプライヴァシーにはとても気を使っていて、わたしがひとりになりたいときには、わたしをひとりにしてくれる。扉をノックしになどこない。でも下りてゆかなければならないと感じた。で、わたしは下りていって、いっしょにお昼を食べた。
「とてもしずかなのね、ダーリン。他にも話したいようなことがあったの?」
「なんにも。ほんとになんでもないわ。晩餐会はよかった?」
母は晩餐会の話をしてくれた。わたしは母の言葉に耳を傾けようとした。ときどき母の言うことがとてもおかしくて、笑った。わたしは何度も、「わたし、恋に落ちちゃったの」と言いかけては、やめた。こう言ったらどんなものかしら。「わたし、特別仕様のロボットを買いたいの」母は許してくれるだろうか。ふつうわたしはほしいものを、母の口座につながっているクレジットカードで買っていた。だが、カードにはひと月一千IMUの限度額がある。むだ使いをしないからいいと思って、わたしがそうしたのだ。母のほうは、わたしのものはおまえのものよ、と言ってくれていたが。だが、母はわたしに分別を持たせたがっていた。人間型ロボットは何千もする。イオナイズド・シルヴァーだけでも、何千という値段なのだ。こんな買いものはまったく理に合わない。
どのみち、エジプティアがかれを買わなくても、ほかのだれかが買うだろう。かれはそのひとのものになる。エジプティアのものか、オースティンのものか。喜びを与えることを、かれは楽しんでいるのだろうか。かれが愛の行為をするとき、かれには何が起こるのだろう。
昼食のあと、母は展望室のテレビをニュース・チャンネルに合わせ、耳を傾けた。母は政治や社会に関するエッセイストであり、歴史学者でもあるが、おもに趣味としてだ。バルカン諸国にまたひどい不況が起こった。東ヨーロッパでは再び社会崩壊のきざしがあるようだが、誤報がとびかっている。地震がどこかの山のてっぺんを揺り落とした。西部の五つのシティでは暴動が起こっている。母はローカル・ニュースのチャンネルに切り替えようとしなかった。ローカル・ニュースだったら、精巧仕様のロボットについて何か聞けただろう。しかし母がスイッチを切ったとき、わたしの喉はぎゅっと締まり、神経も締まった。
それから、母がわたしといっしょに過ごすために犠牲をはらったことがわかった。ふつうなら母は自分の書斎でテレビを見る。なにかがおかしいと悟っただろう。どのくらいひきのばせるかしら。もし話したら、母はなんと言うだろう。「ダーリン、あなたに性的な経験があるのなら、それはまったくかまわないわ。でもあなたはヴァージンでしょ。だから、最初に人間以外の者と経験を持つのは、どうみてもいいことじゃないわ。ありとあらゆる種類のむずかしい理由から見て。まず、あなたの心理学的動機だけど……」頭のなかに母の声さえ聞こえた。母の言うとおりだ。最初にベッドに行く相手がロボットだったら、そのあとどうやってふつうの男と正しい交渉が持てるかしら。(かれは人間だわ。ううん、馬鹿ね、ちがうわ。いいえ、そうだわ)
わたしは図書室に下りていって、本を一冊手にとり、バルコニー・バルーンのなかにすわり、空が家から漂い出て、わたしの下の輝く無のなかを流れてゆくのを見た。とうとうわたし自身が、無の上に張られた一本の弦にぶらさがっているような気がしてきた。バルコニーから出て部屋にもどって、ベッドに横になりたい。シェ・ストラトスでわたしがめまいをおこしたのは初めてだった。クローヴィスはここにいると、鼠蹊部がどこまでも下に落ちこんでゆくような気がするからと言い、決してわが家を訪問したがらないのだが。
やっとわたしはクローヴィスに電話した。なんと言っていいかもわからずに。
「ハロー」オースティンの声だけがした。クローヴィスは画面のスイッチを入れておいたためしがない。
「あ、ハロー。ジェーンよ」
「ジェイムズ?」
「ジェーン。あの――」
「だめ。かれはシャワー中」
オースティンの声はあの降霊会にもかかわらず、楽天的と言えないまでも、おちつきはらっていた。
「女性かい」
「ジェーンよ」
「ジェイムズと聞こえたんだ。まあ、とにかくジェイヴン、あとにしてくれないか。来年くらいにね」
当然のなりゆきとして、わたしはクロエのダイアルをまわしたが、出なかった。ジェイスンとメディアのナンバーも見たが、まわしはしなかった。
母がインターフォーンで呼んでいた。
「テープを聞いたわ、ジェーン。あれじゃ漠然としてるわ。クローヴィスがどうしたの」
「また降霊会をやったの」
「それが気にさわったのね」
「かれが猫みたいにひとをおもちゃにするのが気にさわったのよ」
「猫はひとをおもちゃにしませんよ。ねずみをおもちゃにするのよ。あの降霊テーブルには、仕掛けがあるんだったわね」
「そうなの」
「然るべき状況の下では、霊界通信も可能よ」
「幽霊のこと?」
「サイキックな原理のこと、魂のことよ、ジェーン。正しい用語を使うのを恐れてはいけないわ、ジェーン。肉体に束縛されていない解放された魂、多くの生涯と多くの体のなかで生きてきた魂は、ときにこの世と交信したいと思うの。世紀末には――たとえばアステロイド災害以前には――この手の大きな事件があったわ。ある神学者が交信を書きとめているの。クローヴィスは、テーブル・タッピング現象をおもちゃにすべきじゃないわね」
「そうね、ママ」
「ディスペンサーの中にビタミン剤を入れておいたわ。下りてきたら、三号ロボットがわたしてくれるわ」
「ありがとう」
「もう、支度しなきゃ」
おそろしい秘密を白状してしまいそうな恐怖のなかで、何時間も母を避けつづけてきたいま、わたしはもう、重荷に負けそうだった。
「お出かけ?」
「ええ、ジェーン。わかってるでしょ。三日間田舎行きよ。ファイ‐アマルガム合金会議」
「わたし――わたし――忘れてたわ――ママ――やっぱり言わなければならないことがあったの」
「ダーリン、一日しゃべってたじゃない」
「たった四時間だわ」
「もう時間がないのよ」
「せわしないのね」
「じゃ、早く言って」
「早くなんて言えないわ!」
「じゃ、もっと前に話してくれればよかったのに」
「ああ、ママ」わたしはわっと泣きだした。こんなにたくさんの涙がどこから出てくるのだろう。人間の体の大部分は水。もう残りがないのじゃないかしら。
「ジェーン、かかりつけのお医者さんにアポイントをとってあげるわ」
「病気じゃないのよ。わたし――」
「ジェーン、スケジュールからあと半時間だけ割いてあげる。あなたの部屋に行くわ。徹底的に話し合いましょう。いい?」
パニック。パニック。
扉があいて、髪に油をつけ、ぴかぴかにおめかしをした母が入ってきた。奈落がわたしの前に口を開いた。もうものが考えられない。わたしはいつだって、母によりかかってきた。母に話せないほど、邪悪な、ふたしかな、あるいは貴重なことがあるかしら。とりわけ、母がわたしのためにスケジュールまでかえてくれたいま。
「できるだけ正確にね」デーメータは両腕をひろげて、わたしを抱こうとしながら言った。ラヴェルトの香りのなかに、祝福と、安堵のなかに。「さ、クローヴィスとなにか関係があるの?」
「ママ、わたし恋してしまったの」わたしはふたたび母によりかかった。だが、それほど強くではなかった。話すことができる。できる。「ママ、恋してしまったのよ」だめ、言えない。「ママ、わたし恋してしまったの。クローヴィスに」わたしは叫んだ。
「まあ」と母は言った。
[#改ページ]
2
そもそもの始めからすべきであったことを、わたしがやっとしたのはもう午後六時ごろだった。母はとうとう出かけてしまい、わたしは、母にひどい嘘をつき――しかもさらに悪いことに――母を遅刻させた、という罪悪感の海にどっぷりとつかっていた。母はほんとうにわたしによかれと思ってしてくれたのに。それが母の究極的目標、いやそのひとつなのだ。さいわいなことに、わたしは自分の嘘をいともやすやすと糊塗することができた。「クローヴィスが同性愛なのは知ってるわ。かれが決してわたしに応えてくれないことも」わたしは何度も何度も言った。「ただのばかげた片思いよ。ママの教えてくれたとおりやって、自分の心理学的動機を探ったわ。もうだいじょうぶ。ママに知ってもらいたかっただけ。お話しすると、いつも楽になるから」ああ、よくも母をあんなふうにだませたものだ。ほんとうのことを言ってはならないと、ああもかたく思い決めることができたのは、なぜなのだろう。母は最後に鎮静剤を調合してくれ、出ていった。鎮静剤はストロベリー風味の泡立てたクリームで、大いにそそられたが、けっきょく飲まなかった。バクスターが屋根のひさしから出てゆく轟音が聞こえ、展望室の振動もとまってから十分後に、突然、クローヴィスを愛していると言ったことがとほうもなくおかしく思われてきた。わたしは長椅子の上で吹きだし、笑いころげた。あれは、あの深刻な状況から生みだせた最高にばかばかしい言いわけだった。いつか、かれにも話そう。そうしたらクローヴィスも吹きだすだろう。
笑いがおさまると、わたしはアルコール・ディスペンサーにキイを入れ、母の好きなマティーニを作らせた。もう一度入浴してから、黒い服を身につけ、ヘアドレッサー・ユニットのスイッチを入れ、髪をカールした。鏡にうつった顔は真っ青で、目は緑とは見えないほど濃く、ほとんど黒くさえ見えた。わたしはほんとうはメイキャップは好きではない。皮膚はねばつくし、時に化粧しているのを忘れて頬をこすったりすると、紅が台なしになる。だが、昨晩落としておかなかったマスカラは、今朝の大泣きにもかかわらず、じゅうぶん残っていた。にじまないような製品なのだろう。部分的にはにじんでいなかった。わたしはそれをきちんとし、さらにいくらか塗りたし、口を秋の樺の葉$Fでふちどった。ソルティ・マティーニをおいしいような顔をして飲み、ヘアドレッサーがカーラーを外して髪をとかしてくれると、わたしは爪を黒く染めた。この支度からわたしが何をしようとしているか、ある程度わかっていただけるだろう。
ロボット・オペレーターの番号をまわしたとき、わたしの手と声はふるえていた。
「はい、何番をお調べしましょうか」
「エレクトロニック・メタルズ社の番号を」
「わかりました」
ヴィデオはわたしとともに、光の線のなかで揺れ、それから鮮明になった。まるで切り抜かれたように一人の男がちいさな空白部分に投影されている。ジャケットとズボンと、ベストとそれにあう淡い灰色の絹素材のシャツのフォーピース・スーツを着て、色つき眼鏡をクラシックな鼻の上にかけている。かれはにこやかにわたしを見た。マニキュアをした手をきつく組み合わせて。かれの前にちいさな光のサインが出た。〈スウォンソン〉と書いてある。
「エレクトロニック・メタルズのスウォンソンです。ご用はなんでしょうか」
そうしてにっこりし、唇をなめた。熱心な顔つき。セールスに燃えているのかしら。
「ただちょっとお伺いしたいんですけど」わたしは声のかすれとふるえを押さえようと、声をはりあげた。「お宅が、昨日ロボットをシティに送りこまれた会社ですか」
「ええ、そうです。はい、エレクトロニック・メタルズは当社でございます」
「特別型のと精巧仕様のとを?」
「はい、特別型は二十四のモデルがございます。メタルと強化プラスティックでできております。精巧仕様ラインは全部メタルで、九モデルございます。おききになりたいこととはなんでしょうか」
わたしの真っ青な顔はかっと熱くなったが、かれにはわからなかっただろう。
「賃貸のお値段を伺いたいのよ」
「お買い上げでなく、賃貸でございますね。ええと、そちらのほうは徐々に縮少させていただくつもりでおりますが」
「昨日、精巧仕様のが一体、貸しだされたって聞いたんだけど」
「はあ、九モデルとも貸しだしをいたしました。ですが、あれは広告のキャンペーンの一環でして。一日、ひと晩かぎりでございます。あのロボットは本当に見本用で、当座だけでございますよ」
「あれは売らないの」
「はあ、お買い上げとなれば、話は別でございますが。そのおつもりもおありになりますか」
わたしはかれのペースにはまるつもりはなかった。なぜか、かれのほうも、わたしとおなじくらい緊張しているようだ。
「そうじゃないわ。借りるつもりなの。責任者を出してくださらない」
「はあ――少々お待ちください――お気を悪くなさいませんように」人間の従業員。いい職だから、クビになるのをこわがっているのだ。わたしはみじめな気持ちになった。「あの、少々問題がございまして」
「ロボットに?」
「その、運送にでございます」
「そちらのロボットは自動機械でしょう。昨日はシティじゅうを人間とおんなじに歩きまわっていたじゃない。わたしが一体借りる場合は、いっしょに歩いてきてくれるんじゃないの」
「あの。ここだけの話でございますが、このすばらしいロボットの性能について好ましい感じを抱いておられない方もありますので。人間の雇用に対するとどめの一撃というわけでして。おわかりでしょう。少々さわぎと申しますか、トラブルと申しますか」
「トラブル?」
「はあ、警察が参りました。でもいまのところは平穏なデモだけで。なにか騒ぎでも起こらないかぎり、群衆を排除することはできません。それにもし暴力沙汰でも起きるようでしたら――わたしどもは商品をそんなところへ出したくはないわけでして――」かれは視線を落とし、色つきの眼鏡の背後で目をむいた。白い光が顎のあたりに漂い、名前の文字にかかった。メッセージ・パネルが、デスク・コンソールから見えないところでともったにちがいない。メッセージはあまり喜ばしいものではないようだった。「その――少々よけいなことまでお話ししましたようで。は、は、は。マダム、わたしどもの営業のほうへおつなぎいたします。コードとナンバーをおっしゃってくだされば、E・Mが明日にでもご希望の件についてご相談にのりますので。もしも、そのままでお待ちくだされば、いまおつなぎします」
画面はちらちらし、わたしは乱暴にスイッチを切った。
どうしてこんなことをしてしまったのだろう。明日なんて何百年もの彼方だし、明日ではおそすぎるから。
さあ、どうする?
わたしは展望室を歩いてゆき、天空の泡をみな通りすぎてから、またひっかえした。今夜は真っ赤な日没だった。クラレット色の。シルヴァーのマントのような。シルヴァーの髪のような。
わたしはニュース・チャンネルで流れていた生活保護を要求する暴動のことを考えた。生活保護手当だけではだれだって生きていけやしない。ときに狂暴化した失業者が、ロボットの循環機構を破壊することがある。通常は、埋めこまれている警告装置と防衛用の電気ショックで破壊するには、いたらないのだけれど。だが、ニュース・チャンネルは、機械倉庫が暴動で焼き討ちにあったと告げていた。何千マイルも彼方のできごと。だが、エレクトロニック・メタルズ社の外の平穏な群衆が、手におえなくなったら。水でなく、火なのだ。かれの顔も、蝋製の天使のように溶けていって――
わたしは電話のところにとんでいって、またクローヴィスにかけた。
「クローヴィスの留守番テープです。ただいまクローヴィスはソドミーの行為中です。一時間後におかけなおしください。もし同じテープが流れましたらお気の毒さまですが」
(クローヴィスはレストランに出かけるときでも、一週間海辺に出かけるときでも、このメッセージを残しておく。ダヴィディードは前、二日間かけてもかけてもこのメッセージなので、ニュー・リヴァーのアパートに出かけていって、鍵のかかったドアに向かってわめいた。そして、置き去りにされて狼狽していた男、荷をまとめて出ていこうとしていた愛人のひとりが扉をあけたら、かれはその男をなぐりつけたのだ)
日没は熱い灰の色と化し、ついで冷えた灰の色になった。夜闇がシティにつどってきて、灯火が花開くだろう。エレクトロニック・メタルズ社の外で待ちうけている群衆は、闇の中で燃える建物がどんなに美しく見えるか、気づきはじめるだろう。
わたしは、ローカル・ニュース・チャンネルを入れた。建設中の新しい地下道のこと、オールド・リヴァー岸でのギャングの抗争事件のこと、シガレットの値上がりから、地震活動のもっとも活発な地域での作物の大幅な減収にいたるまで。そのときだった。わたしは人だかりを見、声を聞いた。イースト・アーバーにあるエレクトロニック・メタルズ社の門のまわりの人だかり。状況は不穏になりつつある。みすぼらしいガラスの正面の前で、みなが叫んでいる。ニュースキャスターはロボットについて話していた。ロボットがどんなに重要であるか、労働者はどうしてロボットを憎んでいるか。ニュースは、E・Mのロボットが特別であるという事態を把握していないようだった。それとも広告に手を貸すことになってはまずいと思ったのか。人だかりは叫びつづけている。二百人くらいだ。放火が起こってもふしぎはない。でもわたしは安全だ。つけているポリコードが身を守ってくれる。つけている人間を襲った者の特徴を読みとり、すぐ警察に連絡してくれる。ともかく、警察が群衆を見守っているのだし。警察のちいさな飛行機が、画面の中、夕闇の深まってゆく空をゆきつもどりつしているのが見てとれた。ときおり、そのライトがビルやひとびとの上にたわむれる。
でもわたしはあそこに行って、何をしようというのだろう。行ってもなんにもならないだろう。あそこに行ってもむだだ。たとえ群衆と交渉できたとしても、だれが外からE・Mの扉をあけてくれる? 乱入のきっかけの張本人になってしまうかもしれない。
わたしはニュースをつけたままにし、展望室の中を歩きまわった。だれかが瓶を投げつけた。カメラがそれを追う。瓶はエレクトロニック・メタルズの建物前面にぶつかり、壊れた。
七時には飛行艇が、外のキャニオンの向こう岸を、プラットフォームさして蛾のようにとんでいく。十五分すれば、オールド・リヴァーの岸に出られる。二十分後にはサウス・アーバーに下りて、ブロックを三つ東へ向かう。アーバーは、アステロイド地震後に倒産した会社や建てなおされていないビルなどがひしめきあう巨大なごみの集積所といったすさんだ地帯で、そこここに、廃墟の上にとまる猛禽類のようにナイトクラブが点在し、修理した倉庫に正面ガラスをスプレイして、活路を見いだそうとしている企業があった。
もし飛行艇に乗りおくれたら、次のは九時だ。タクシーを呼んだら、半時間は待たされる。
警察は事件を未然に防いでくれるはずだし、わたしには何もできない。マティーニも飲みかけだし、ストロベリー風味の鎮静剤もあるし、財布にはひと月一千IMUの上限のあるクレジットカード――つまりロボットは買えないのだ――しかない。家にいたほうがずっといい。いっさいがっさい忘れられるなら、こんないいことはない。はじめてかれの髪と、ジャケットの鏡の小片を見たときからはじまって、かれにはなんの意味もない――かれには、あらかじめプログラミングされた、与えることの喜び以外の感情はおそらくないのだから――キスにいたるまでのすべてを。
あやうく飛行艇に乗りおくれるところだった。二十人くらいの旅行者が乗っていた。シティに夜遊びに出かけるらしく派手なイブニング姿のものもおり、ロボットのできないなにかの夜勤の仕事に出かける憂鬱そうな灰色の顔の労働者もいた。だが機械の運転手には顔がなかった。
シティが輪郭をあらわすのを見た覚えはない。サウス・アーバーのプラットフォームも記憶にない。走ってゆくとちゅう、おとなしそうな男たちが角で酒を飲んでいるのは見た。それから頭上の空にびっしりロボット飛行艇がひしめいていたこと。ライトをちかちかさせ、サイレンをしじゅう鳴らしながら、シティの中央に向かって雲霞のごとく集まってゆく。
ほどなく、やじったり、ののしったり、声高に論争したりしているひとびとの列にぶつかった。地面にひきずられてゆく板。ぽつんとあったストリートランプで、書いてある字が読みとれた。〈マシンを粉砕せよ〉ひとの波はわたしのまわりで砕け、わたしは通りぬけた。というか、群衆がわたしをわきに押しのけ、去っていったのだ。いくらかのガラスと紙片があとに残されていた。デモも勢いを失ったのか、真の暴力が噴出する前に強制的に排除されてしまったのか。パトカーが一台、でこぼこのコンクリートを走ってきて、わたしにライトを浴びせ、わたしのコードを認知し、また群衆を追っていった。わたしはちらちらする街灯の柱のあいだの長い影のなかに、ひとりのこされた。
わたしがエレクトロニック・メタルズ社にたどりついたとき、門は虹色のネオンサインを輝かせ、あけはなたれていた。別のパトカーが前庭にひそんでいた。隅っこにひとがかたまりあって、そのまわりをまわっているポリス・マシンにちらちら照らされながら、議論に熱中していた。
奇妙な情景だった。よくテレビや裏道で見る光景だが、わたしは決してその登場人物になったことはなかった。だが、わたしは門を入ってゆき、前庭を横切った。だれも注意をはらわなかった。わたしはドアの上の訪問者のパネルにふれた。まばゆい点があらわれた。「本日は終業しました」と低い声で告げた。シティではほとんどのショウ・ウィンドウの店の店員がロボットで、客商売熱心に終夜営業なものだから、わたしはE・M社が混乱のあまり店じまいしてしまったのかと思った。
「前にお電話したものですけど」ドアのパネルに向かっていった。「あの――お宅の精巧仕様ロボットを買いたいと思って」
「申しわけありませんが、明日いらっしゃるか、お電話くださいませんか」
「わたし、二十マイルも遠くから来たんです」わたしはそれが重要なことででもあるように言った。
「予測できなかった事態になりまして」とドアは言った。「今日は終業いたしました。申しわけありませんが、明日いらっしゃるか、お電話くださいませんか」
まったく突然、足が空気になってしまったようだった。わたしは足をなくしていた。わたしはドアをずるずるとすべりおち、黒いドレスのまま玄関の暗い地面に座りこんでしまった。電源を切られたロボットみたいだった。わたしも夜は電気を切られておしまい。
やがてひとびとも警察も去っていった。わたしは迷子になって帰り道のわからない子どものように、地面に座りこんだままでいた。立ち上がって、歩いていって、タクシーを探すのよ。ここにいたら、またパトカーがきて、病気とまちがえて連れていかれる。
門の外の闇の中に、アステロイドが青緑の裂け目のように燃えていた。地震でこわれたアパートの骨格が坂の途中に傾いている。まるで葉を落とした冬の木のように、すっかり生命を奪われて。そんなふうに見えた。いままで知らなかった生命の不安を感じた。なんてひとりよがりのおめでたい人間だったのだろう、わたしは。エジプティアがいろいろなものを恐れるのは当然だ。
家に帰ったら、シェ・ストラトスにある部屋のベッドにもぐりこみ、頭の上まで緑のふとんをひきあげてしまいたい。もうここには二度と来る勇気はない。わたしの知っているかぎりのことからすれば、かれは解体されてしまったのだ。展示用ロボット。どこかに欠陥があったのかもしれない。画面の男――スウォンソン――の口調はひどくあいまいだった。あれは単なる失業拒否のデモ以上のものだったのだろうか。いつだってデモはある。シティの評議会がエレクトロニック・メタルズに通告して、あらゆる点で人間に卓越するものの数が増えてゆくのをさしとめにかかったのではないだろうか。
やっとわたしは立ち上がり、開いた門からのネオンの光でもよくは見えないほこりをドレスから入念にはらい落とした。
次に起こったことは奇妙だった。なんだか、まるでわたしがそれをひき起こしたようだった。わたしは突然、門のあいているのがおかしいと思った。この騒ぎのなかでほうっておかれるなんて。だって、もしビルがしまっているのなら、門もしめてしかるべきだろう。そしてわたしは、だれかが門をしめにもどってくるはずだ、と決めこんだのである。そうしてその一秒後に、細い黒のピカードが前庭を走ってきて停車し、男がひとりおりてきた。ふたすじの光が顔の上半分を流れた。ネオンが眼鏡のレンズを照らしだした。かれはわたしのほうに歩いてきかけて、驚いて低い声をたてた。ジャケットの中をまさぐった。
「コードがあるんだ。手をだすなよ」
それはスウォンソンだった。
「ここから出ていかないと、警察を呼ぶぞ」
かみそりのように鋭く手厳しいひとことが言えればよかった。クローヴィスなら言えただろう。だが、|皮肉《ドライ》な機知はなく、口の中が|乾いて《ドライ》いただけだった。
「さっき電話したものです。ヴィデオにお出になったわね」
「脅迫してもむだだ」
かれはいまにもあのばかげたコードのボタンを押しそうだった。
わたしは口早にたたみかけた。「わたし、あの仕様のロボットを一体いただくことにしたのよ」
「はあ――それは」とスウォンソン。「それはそれは」かれは体をずらして、ネオンがわたしの顔にあたるようにした。「マダム、これは失礼いたしました。しかしまさかいらっしゃるとは思いませんでした。オペレーターが切ってしまったあとに」
さっきわたしに口をすべらせたために、叱責をうけたのだろう。いまは営業用の顔にたちもどろうとしているのか。それとも単に予想外の場面にとまどっているのか。
「わたしはここを閉めにきたのでして」とスウォンソンは言った。「下働きですよ」かれはドアのパネルに掌をあてた。酔っていた。「兼、取締役の娘の愛人。それが取柄で、仕事がもらえたんでしてね。連絡係、兼接客係、兼戸締まり係。でもこんなことをあなたにばらしてはいけませんな、マダム」ドアはかれを認知し、不機嫌そうにきしみながら開いた。「どうぞおはいりください」
かれはわたしを金持ちの変わりものと思っている。金持ちはあつかいやすい。金持ちらしく見えるのはおそろしいことだ。変わりものだというのは、わたしがたったひとり、スウォンソンのような来るか来ないかわからない人間を、イースト・アーバーの会社の閉まったドアの前で待ちかまえていたから。
これもガラスにスプレイがかかってみじめな玄関で、かれはどこかのスイッチを押し、門のほうを見やって、エレベーターを呼んだ。それからわたしを店舗のある階につれていった。
そこは革ばりのぱっとしないオフィスで、そのころにはわたしの気勢もだんだんそがれてきて、熱も冷え、凍りつきかかっていた。何かに指紋を押すか、サインをしないかぎり、あるいはテープに承認の言葉を吹きこまないかぎりは、いつでも破談にできるのだからとわたしは自分に言いきかせた。しかもそれらはわたしの同意なしにはできないことだ。もしわたしが同意したら、デーメータは取引を尊重してくれるかしら。そうするのが得策かもしれない。しかし、基本的にわたしは嘘はいやだった。大きな嘘は。なんて複雑なんだろう。
かれは椅子にかけ、ドリンクのトレイが壁から出てきた。わたしたちは飲んだ。かれの手はふるえていた。わたしのも。しかし、わたしたちの手は二杯目を飲んだときにもまだふるえていた。
かれの手はライウィスキーをつかみ、わたしはレモンジュースをつかんでいた。わたしたちはどちらもそれなりにハードな一日だったのだと感じた。かれはエレクトロニック・メタルズ社のことをあらいざらい話してくれたが、わたしは何も覚えていない。抜け目のないところをみせなければいけなかった。みせたつもりでいた。購買者は、なにもかもちゃんとしていることを確かめなければ。わたしの全精力はそこに注ぎこまれていた。二十語に一語は耳に入れていた。いまでもこの建物に入ったことが信じられなかった。
「ここに展示見本品がございます」かれは言い、わたしは、それがE・Mの商品紹介の前奏曲だと直観したので、そのことだけで耳を傾けた。「あの三タイプをそっくりそのままご覧に入れようと思いますが。よろしければ」かれは自分のグラスを干し、もう一杯飲み、壁が退いていったとき、わたしの腕をとった。「失礼ですが、マダム、たいへんお若くていらっしゃるようですね」
「十八よ」二十と言うべきだったろうか。
「最高の年代ですね。十八。わたくしも覚えておりますよ」(これを書いていたら、思いあたった。かれはわたしにそれとなく誘いをかけていたのだ。かれはステレオタイプなりに魅力はあったし、自分でそれを意識していたが、本人はステレオタイプではなく流行に敏感な人間のつもりだったのだろう。かれは金持ちの女の子をひっかけた経験がある。わたしも役に立つと思ったのかもしれない。わたしがかれに首ったけになって、現金をばらまいてくれれば。やれやれ。あのときは夢にもそんなことには気づかなかったのだけれど)「その、たぶん、どの型をお選びになるかはわかっております。プレ‐アステロイド期のオリエンタル・ダンスは傑作ですよ――ゴールダー系列の女性型のひとつが演じます。さてご覧にいれましょう」
わたしが十八でさえないことがわかっているのだ。わたしに誘いをかけたくせに、わたしのことをねんねだと考えている。もっとも、わたしを同性愛者だと思ったのかもしれないが。どうしたら言えるだろう。喉と魂の堰を突破して――わたしの選んだロボットが男性型だなんて。
羞恥心にいたたまれなくなり、わたしは案内のかれの手の届かないところに身をいざらせるようにして、応接間の向こうの部屋に行った。入ったのは大きな部屋で、窓はなく、やわらかい光が天井に満ちあふれていた。床はぴかぴかだった。
「赤い線からさきへ出ないでください」とスウォンソンは言った。「ここに座って、見ていましょう」上司の部屋にいるという新しい経験をほこらしそうにしながら、かれはパイプ式の椅子の中に入りこみ、わたしをも招いた。それがどこかのコントロール装置を動かすことになったらしい。奥の壁にスロットがひとつ開いて、女性がひとり入ってきた。
背が高く、ほっそりして美しかった。小麦のようなブロンドが頭と肩に後光を与えていた。黄褐色の猫めいた目がわたしの目をじっと見つめ、彼女はほほえんだ。わたしに会って喜んでいるのだということはわかった。チューリップの花弁のようなドレスにつつまれ、手には紫の薔薇を持っていた。膚は淡くしっとりしたあかがね色だった。
「ハロー」彼女は言った。「わたしはエレクトロニック・メタルズの試作品のひとつです。登録名はコッパー。C・O・P・P・E・R。|銅《コッパー》・最上級・プレ‐プログラム・エレクトロニック・ロボットですわ」彼女はなかば目を閉じた。しずけさが彼女をつつむように思われた。音楽的な声がひくくなり、眠りをさそうようになった。「すみやかにとびゆけよ。ほのおの蹄もつ馬。ポイボスの宮居へと……」彼女はいままで聞いたこともなかったような抑揚で、ジュリエットのせりふを唱えた。空気がふるえ、わたしの目には涙があふれた。彼女は愛について語っている。彼女は愛を知っている。彼女こそ愛。「……もしあのかたが亡くなったら、切り刻んでちいさな星にしておしまい。天のおもては世にもうるわしくなり、全世界が夜と恋に落ちるでしょう――」ふたりの男が壁から歩み出てきた。コッパーの兄弟だった。ひとりは中世ふうの袖のついた黄色のビロードのジャケットに、白いデニムのジーンズ姿だった。もうひとりはすもも色のジーンズと、ソーテルヌ白ワイン色の上衣に、アラビアン・ナイトふうのマゼンタ色のサッシュを結んでいる。ふたりともわたしにほほえみかけた。ふたりとも、自分が登録名コッパーだと告げた。ふたりは先月わたしが釘づけになっていたドラマのワンシーンを演じてみせた。それはオリジナルの演技をはるかにうわまわっていた。三人のコッパー・ロボットは腕を組み、わたしににっこりしながらおじぎをし、壁の中に姿を消し、壁は閉じた。
左手重壁が開く。
男がひとり出てきた。髪はつややかな黒いインクさながら、頭をおおい、肩にまで流れ落ちていた。黒い絹のような目。溶けた黄金のような膚。かれは黒をまとい、マントにはすっぱいりんごの緑色の裏がついていた。かれの登録名はゴールダーだそうだ。G・O・L・D・E・R。ゴールド・最高度・自動制御・皮膚・エレクトロニック・ロボット。かれの目はわたしを見てけぶり、わたしのもっとも深奥の意識を焼きつくした。かれはいきなりかるがると側転をはじめ、それは車輪のように流れ、すべるように動き、奇妙に優雅な威嚇的なさざなみとなり、体の輪郭をゆがめつつ着地した。それはダンスだったが、死神をも相手にまわせるダンスだった。
「日本の武術のひとつに基づいております」スウォンソンがささやいた。「優雅でもありますが、それ以上に、こうしたショウをお好みの方にとっては、立派なボディガードの役をつとめるわけです。とりわけこのタイプは皮膚が精巧にできております」しゃべりだすと、スウォンソンはとどまるところを知らなかった。黄金の真夜中のような姿が旋回し、跳躍すると、スウォンソンは言った。「コッパーのシリーズは俳優でして、シルヴァー・シリーズは音楽家、ゴールドはダンサーなのです」かれは続けたが、わたしは耳を傾けるのを忘れた。ふたりの女性――黄金のロボットの姉妹たち――がかるく手をつないで部屋に入ってくると、自分たちの名をくりかえした。彼女たちの長い指には長い爪があり、ひとりはそれをヒスイの緑色に染め、もうひとりはヒスイの白色に染めていた。彼女たちのズボンはアジアふうで、それぞれクリーム色と緑の絹でできていた。ズボンの上に、ひとりはボレロと金糸で刺繍した上衣をつけている。もうひとりはエメラルドのスパンコールをちりばめた胴着の前を、三羽の孔雀石の蝶でとめている。ダンスはゆっくりした信じがたいもので、バレエ的であり、人間に可能とは思われなかった。人間の筋肉なら脱水症状が起きるだろうし、人間の骨なら脱臼だ。彼女たちの黒髪が床を擦り、天井になびいた。「|跳躍《ジュテ》やリフトは、地上七フィートまで可能です。でも教師としても有能ですよ。魅力的な教師でね。人間の体にとってもすばらしい運動になります。あれと同じようにはいきませんが。いやはや、実にすばらしいとお思いになりませんか」スウォンソンはライウィスキーを飲み、ほうっと息をはいた。ゴールダーの女性型に対する態度は、単に無邪気とはいいかねた。わたしの態度もいまにそうなると見こしているのだろう。
彼女らが去ると、コッパー型が出ていったときと同じように、わたしの胸は張り裂け、ばらばらになった。わたしは第三のドアがあくのを待ちかまえた。今度こそ――
ドアがあいた。シルヴァーの姉妹のひとりが入ってきた。とび色の髪には青いカーネーションがさしてあった。彼女は血の色のふちどりをした雪白の服を着ていた。台にのったキーボードが後ろからすべってきた。彼女はその前に立ち、わたしの知らない曲を弾いた。火山から噴き上げられる火花の奔流のような曲を。それからわたしを見て、にっこりした。彼女がなんというかはわかっていた。「わたしはシルヴァー……」
扉から男がひとり入ってきて、わたしの呼吸はとまってしまった。かれではなかったのだ。似てはいるが、同じではない。同じ髪なのに、ちがっている。同じこはく色の目。だがちがう。身のこなし、声。いずれも同じだが、ちがっている。ちがう、ちがう。まったく、完全にちがっている。似ても似つかない。わたしはかれが何を着ていたかも覚えていない。かれをろくに見もできなかったらしい。
「わたしはシルヴァーです。S・I・L……」
目鼻立ちさえ同じではなかった。わたしはとても嬉しかった。泣きたいほどだった。銀色の女性は電気ピアノでヴィヴァルディを弾き、それに対して銀の男は未来派的なメロディを歌った。美しい聞き覚えのない声で。歌詞は星についてだった。星に恋した少女の話。星は少女に言いつづけた。「わたしはあなたよりはるかに年をとっている……」
「こいつはまずい」とスウォンソンが言った。「もうひとりはどこへいった?」
わたしの目はぼやけた。銀のロボットは壁の中へ歩み去った。
「この手はもう一体あるんですよ。申しわけございませんな、マダム。きょうは厄日です。展示見本は三体ありまして。シルヴァー型ももうひとつあるのです。男で。まったく展示が台無しだ。ギターを持って入ってくるはずのやつなんですがね。まったく。このショウの段取りに何昼夜もかけたっていうのに、連係がうまく行かないようで。申しわけございません」かれは壁のフォーンのところに行き、あやふやな手つきでボタンを押した。わたしがゴールダー型を欲しいはずということなど忘れている。かれが腹を立てているのは、自分の芸術的演出が妨害されたからなのだ。
わたしの目には膜がかかった。レモンジュースは苦くなった。三番目の銀のロボットはどこなのだろう。どこなの? どこ? ああ、かれはばらばらに分解されているのだ。ワイヤーにからまれた、すりきれた歯車の塊。スクラップされてしまう。ごみために捨てられて。溶かされて。
たったいまのわたしみたいな生意気な金持ちの十四の小娘のための、美術のオブジェにされてしまう。
ばかなことを考えるのはよそう。どうしてわたしは……かれがばらばらになっているという考えに固執するのだろう。
「どうして――」
スウォンソンはフォーンにつばきをとばしてどなっていた。
「なんだって。どうしてわたしに言っておかないんだ。いつだ。え? え? わからんぞ」
それからかれはフォーンのところからもどってきた。わたしを見た。
「あなたのような聡明なレイディならご推察いただけますでしょう。ほかのをごらんになるにも及びますまい。もう一体の銀の男と同じですよ。もちろん脱がせて全身をごらんになりたいとおっしゃるお客さまもございますが。しかしですね。マダム――マダムとお呼びしていてよろしいのでしょうか――マダムはそれをお望みではありませんでしょう」
わたしは椅子のパイプの腕を握りしめ、かれがたった今言ったことの意味を考えるのを断固拒否した。
「もう一体は?」わたしは言った。
「はあ、いまいましいマシンがメモを残しておりました。わたしの手に届かなかったのですが。なにかしら検査がありまして。もちろん欠陥ということではございませんですよ」酔っていてさえ、かれは大事な雇い主の製品であることをすんでのところで思い出した。「展示見本を外に出すときは定期的に行なっていますチェックでして。それはもう念を入れますので。どんなちいさなことも――なおざりにせず、この数年で、モデルを完成の域までもってきました。それだからこそ、エスコートなしで、ロボットをシティに出せるわけでございます(つまり、実際は少々危険を冒しているわけですが、まあ、ここだけの話でございますよ)。ともかくといたしまして。見栄えもいたしますでしょう。もちろん帰ってきているのですが、検査がすんでないというわけです」
「それは――」わたしはなんと言っていいのかわからなかった。ロボットの健康状態をなんといってたずねたものだろう。わたしはふるえていた。ぶるぶると。わたしは母のまねをしようとした。「そのロボットにどこか悪いところがあるんですか」
「何もございません。E・Mのコンピューターにひっかかるようなことはなにひとつございませんとも。数字の示度が少しちがっているだけでして。ほかのものや型全体に影響を及ぼすようなものではないことは、これはもう保証いたします。コンピューターがどんなものかはご存じでしょう。まつげが一本ずれていても……機械のほうの用語でなんとか申しますね。お客さまにご心配いただくようなことは全然ございません。ここではおざなりの検査しかできませんので、明日生産センターのほうへまわします」
「どこへですって?」
「生産センターですか。地下ですよ。あなたも妙なことにご関心がおありですね、マダム。そこにはおつれできません。大きな声では申せませんが、この居心地よいドアマンの職を失いますので」
「そのロボットなんです。その検査中のが――わたしのほしいロボットなんです」ああ、わたしはなぜ口に出してしまったんだろう。かれがぎょろりと目をむいた。わたしは息をのんだ。自分の顔が赤くなっているのか、真っ青なのかわからなかったが、つめたい火照りが顔から、体じゅうにひろがった。わたしはこの冷やかな熱とふるえに耐えながら、なんとかおちつこうとした。そうして、押しころされたささやきを押しだした。「友達に勧められたんです。わたしのほしいのはかれなんです。かれだけです」スウォンソンがあんぐりと口をあいたままでいるあいだに、こうつけくわえた。「もしその型がまだここにあるなら、見たいんですけど。かれ、いえそれを。たったいま」
「はあ」スウォンソンは言った。ふいにかれはウィスキーのことを思い出して、にっこりし、もう少し飲んだ。そうしたらまたさらにグラスに注いだ。「で、おいくつとおっしゃいましたですかな」
「十八。もうすぐ十九よ」
「わたしがなぜおたずねしているか、おわかりでしょう。ただの召使でなく、コンパニオンというか、演技者であるこういう品物をお買いになる場合……とにかく十八以上ということになっておりますからね。そうでない場合は、おかあさまのサインが必要になります。お名前は」
「名前はあなたに関係ないわ」わたしは自分の勇気に驚いた。「買うと決めるまではね。それにわたしはまだ買うと決めていないわ。わたしのほしいのを、売っていただけないようだから」
「だめ、と申しあげましたか」
「じゃあ、かれにあわせてちょうだい」
「かれ≠ニお呼びになることをこれからもお忘れにならないように。お気をおつけください。問い合わせてこられる方はほとんどそうですな。かれとか彼女とか言って。まったく馬鹿にした話だ。E・Mのやりかただ。愛人の父親のやりかたらしい」
わたしはひるんだが、なんとかもちこたえた。
「かれにあわせてくれるの」
「病気見舞いですな」スウォンソンはわたしの感じていた恐ろしい興奮、自分自身ではなんだかわからなかった興奮を邪悪にも言いあてた。「けっこうでしょう。マダム。では患者を見舞ってやることにいたしましょう」
ライウィスキー片手に、かれは先に立ったが、もうわたしのために自動でないドアをあけてくれることはしなかった。で、ドアはわたしの鼻先でいちいちバンとしまった。わたしは――ひっかえしたら、みちがわからなくなる――帰れなかった。やがて明かりのついていない小部屋のある廊下に入った。そしてスウォンソンの白いスエード靴が敷居を越えると、明かりがぱっとついた。冷たい光、かたくなで青白い光だった。テレビで見る病院の場面のようだった。
ふたをした棺のようなものが直立していて、そのあちこちの穴からワイヤーが出て、カチカチブンブンと音をたてているボックスの中に吸いこまれている。
「さ、ここです」とスウォンソン。「あそこのノブを押してごらんください。そうしたら何から何まですっかりごらんになれますよ」
わたしはこわかった。長いこと動けないでいた。
やっと、歩いていって、ノブにふれた。すると機械の音が停止し、棺の前面のふたがゆっくりと上がっていった。ほんとうのことをいえば、ここに書き記したくはないのだが、記述をひきのばしてもしかたがない。検査用の棺の中のものはしなしなした卵型のプラスティックの袋に包まれていて、そこにワイヤーがとりつけてあった。袋のてっぺんから頭部だけが出ていた。それはとび色の髪につつまれたシルヴァーの頭だったが、ほそながい暗いシナモン色の眉の下には、ふたつの穴があいていて、中にはちいさくきゃしゃな銀の滑車がいくつも回転をつづけていた。まったく時計の内部のようだった。
「なんでしたら、もっとよくお見せしましょうか」スウォンソンが意地悪そうに言った。かれは袋のところにきて、どこかの合わせ目を開いた。するといっぽうの肩と、銀の骨格の腕があらわれた。もっと多くの小滑車が中で回転していたが、手首から先はなかった。取り外されているのだった。スウォンソンはわざわざそれを指さした。
「指は特別の検査がありますのでね。音楽家型には重要なことで。ほかの部分はどこへ行ったんでしょうな」かれは袋の中をのぞきこんだ。
わたしはシルヴァーがギターを弾いて、ほのおのような歌を歌ったときのことを思い出した。あの火のような和音を。それから、かれがエジプティアにキスしたあのやりかたを、それから庭園の階段をかろやかに、クラレット色のマントをなびかせて駆け下りていったさまを、そして通りを闊歩しながら頭をのけぞらせて飛行艇を見送ったことを、そうして口をわたしの口に重ねたときのことを。
「こうしてみると、あまりさまになってはおりませんな」とスウォンソンが言った。
わたしのなかでなにか奇妙なことが起こりはじめていた。混乱していたのではっきりとはわからなかったが、それに気がつき、にぶい石のような解放感を覚えた。わたしののぼせは醒めたのだ。当然だ。だれが醒めずにいられる?
「そうね」とわたしはスウォンソンに言った。「悲惨ね」
そうしてわたしはくるりと背を向け、室から出ていった。
廊下で待った。もうふるえはしなかった。やがて――失望しながら――かれが出てきて、わたしを案内してもとの応接間にもどった。そこでわたしはもう少し考えさせてくださいと言った。かれが反論したとき、わたしは言った。「母にきいてみなくては」
「それはそれは。あなたが未成年なのはわかってましたよ。とんだ時間つぶしでしたな――」
「出してちょうだい」
「まったく小娘のくせに――」
「出して。でないとポリコードを使うわよ」
「ただの面白半分だったんですな。こっちこそいい迷惑だ。お金持ちのお嬢さまか。一生、一日だって働かなくてすむご身分で」
「母はE・Mの取締役と親しいのよ」
スウォンソンはわたしをじっと見た。信じてはいない目だったが、それでも取締役について自分の言ったことをぼんやりと思い出しかけていた。愛人の父親について、そしてE・Mについて、そして、自分がそれらについてなんと考えていたかを。かれはそうしながら、心ここにあらずといった顔でエレベーターを呼んでくれた。
わたしは冷静に下へおりた。自分で自分がよく見えていた。わたしは前庭に入っていき、門が開いた。よろめきもせず、そこから出ていった。門は背後で閉まりはしなかった。わたしは優越感に満ちた微笑を浮かべた。なぜなら――かれはまたしてもオートロックをかけるのを忘れたのだ。
[#改ページ]
3
わたしは二十五になったような気分だった。知的で洗練されている気がした。わたしはおろかさからも、幼い夢からも自由になった。いまはなんでもしたいことができる。わたしはなんてばかだったのだろう。わたしは自分がほこらしかった。うまくやりとおした。成長して賢くなった。自分自身を解放した。母のトレーニングもやっとむくわれたのだ。わたしは完全に一人前だ。わたしには自分が理解できる。
わたしはシルヴァーのことを考え、かすかにすまなく思った。あれに感情があるからではない。でもあんなふうにばらばらになって。とはいえまた組み立てられ、筋肉や肌の色がめだたないようにジョイント部分にはスプレイがかけられるのだろう。再構成。わたしは半秒間だけ、考えた。あんなふうに袋に、棺にはいっているのは、どんな気分がするものなのだろう。それから、ロボットにはなにもわからないのだということに気がついた。明かりと同じようにスイッチを切られているのだから明日、あれは地下に持っていかれ、すっかり分解されて、似ても似つかない姿になるだろう。
わたしはエスカレーターに乗って、ペイシェンス・メイデル橋にのぼり、酸素のつまったガラスのトンネルを通って、オールド・リヴァーを越えた。ときおり足をとめ、住宅街の灯が下の有毒の水に映っているのや、てっぺんがガラスでできたきらきらの川船が、泡だつ澪や、からみあう奇形の魚を残して進んでゆくのを見つめた。橋の上では三、四人がいつものように芸を披露していた。みなうまかった。ひとりは、少女が弾いているマンドリンにあわせてお手玉をあやつっていた。ひとりはすばらしい声をしていた。もちろん、あのロボットの声ほどではなかったけれど。
橋を下りると、スタリアズ・セカンドオーナー・デパートとフィン・ダールズ食料品マートで騒ぎが起こっていた。警察とライトと救急車の海。巨大なベークト・フルーツの缶が路上にころがり出て、走りすぎる車にはねとばされては、また別のにはねられていた。
わたしはうんざりした。シティの暴力さわぎと生活の不穏さはよくわかっていた。わたしはジャギッド行きのバスに乗り、レストランに入ってアイス・コーヒーをたのんだ。そして、チョコレート・フレーヴァーのストローで最初のひとくちをすすったとき、だれかが腕をつねった。
「ずいぶんと夜遊びね」メディアがわたしの向かいに腰を下ろした。
「おかあさんは知ってるの?」ジェイスンがその隣に腰を下ろす。
ふたりはほそい目でわたしをじっと見ていた。
わたしはさっきひどくつねられたときも、息がつまりはしなかった。わたしはつねられることなどへでもないような状況をのりこえてきたのだ。何にも動じなかった。というか、あるいは麻痺していたのかもしれない。
「母は田舎よ」
「おやおや」とメディア。「シェ・ストラトスではご乱行というわけね」
エジプティアと同じように、メディアも髪を青みを帯びた黒に染めていたが、彼女のはエジプティアのような長い絹のロープではなく、ちりちりにちぢれていた。ジェイスンの髪は色彩チャートにしたがっていて、ベージュのような色で、膚はケープ・エンジェルでサーフィンをして、こんがりと日焼けしていた。だがメディアは黒いサンシェードの下に寝ころがっているので、決して日に焼けない。どうしてこのふたりがわたしの友達なのだろう。友達なんかじゃないのに。
「反ロボット・デモに行ったの?」わたしはたずねた。かれらが行ってないのはわかっていたが、わざと言ったのだ。安全な境涯をぬくぬくと楽しむために。
「どのデモなの」とメディア。
「ほら、人間そっくりに見えるあのロボットのだよ」とジェイスン。「どっかのばかどもが騒ぎを起こしたのさ。おかあさんの帰ってくるのはいつごろかい」
「そんなに先ではないわ」
「おかあさんの帰ってくる前にパーティをやらないか」
「彼女、いい子すぎてそんなことできないわよ」とメディア。
「へえ、そうなの」
「そうなのよ」とわたしは言った。
「あんた、ずいぶん太ってきたわね。あのカプセルなんかやめたらどう? あたし究極のエウニケ・タイプになるはずなの――がりがりになるやつ。でもあたしはピルをディスポーザーに捨てちまってるのよ」
わたしは二十五で、賢明だった。このときばかりは、自分がほんの少しぽっちゃりしているにすぎないことがわかった。
「気分転換に髪、赤くしてみたら?」ジェイスンがわたしに言った。
変だった。胃がでんぐりがえるようだった。ジェイスンはわたしのしでかした愚行をきいたのだろうか。そうでないといいのだが。ジェイスンは会話の優位に立つのが好きだ。子どものころ、わたしがおびえると、かれはわたしの面倒を見てくれた。おない年だったが、とても親切だった。というか親切らしかった。でもかれは力を持つのが好きなのだ。同じ日に、かれはまたわたしをおどかそうとした。わたしをなぐさめてやることができるから。そういうたちの人間なのだ。何匹かのちいさなペットを飼っていて、それらはしょっちゅう病気をしていて、かれの世話を必要とした。だが、ペットはすぐまた病気になるので、とうとうジェイスンの父親――ジェイスンとメディアには父親がいる――は、かれがペットを持つのを禁じた。以来、かれは機械仕掛けのおもちゃで遊んでいる。
「このひと、おかあさんがだめだっていうことはぜったいしないのよ」とメディアが言った。
彼女はまた立ち上がり、ジェイスンも立ち上がった。まるで、糸でたがいにつながっているみたいだ。彼女は十六歳半で、かれは十六だ。かれらはスプリット・テンポ妊娠法で生まれたので、ほんとうは双子である。
「じゃあね、ジェーン」ジェイスンが礼儀正しく言った。
「じゃあね、ジェーン」とメディア。
かれらは出てゆき、下に三脚の車輪のついたロボットのウェイターがやってきて、ジェイスンとメディアの勘定をわたしにつけた。わたしが払うことになっていると、言ったらしい。払えないからではなく、単なるいやがらせなのだ。で、わたしもいやがらせをして、断わってやり、ウェイターにはふたりの住所を教えた。ふたりの父親は怒り狂う(またしても)だろう。わたしもふだんならこんなことはしないで、払ってやるのだが。でも今夜は特別だ。おお、今夜のわたしには翼がある。
世界が鳥のように飛んでいる。わたしの車も飛んでいる。シティの灯がフロントガラスにばらまかれて、まるで夜のかけらのようだ。わたしも飛んでいる。空は回転する円盤。翼と雪と鋼とほのおでできたメリーゴーラウンド。わたしたちは空を進んだ。真紅の馬にうちまたがって――
これはなんなのだろう。歌――これは――これは――シルヴァーの歌った歌。
わたしはウェイターのロボットと飲みかけのコーヒーをおいて立ち上がった。ブースに入ってクローヴィスにかけた。
「こちら病院です」クローヴィスが用心深い声を出した。
「ハロー」とわたしは言った。
「よかった。オースティンがおりかえし電話してきたのかと思った」
「クローヴィス」
「なんだい、ジェーン」
「クローヴィス」わたしは言った。「クローヴィス。クローヴィス」
間。
「どうしたんだ」クローヴィスの声はものすごくやさしかった。一瞬、まるで――まるで――あの声に思われた。
「クローヴィス、あの――クローヴィス、クローヴィス」
「おかあさんはどこ?」
「出かけてるの。クローヴィス――」
「はいはい、クローヴィスだよ。きみはどこにいるの」
「思い出せないわ。あ、そうだ。ジャギッドよ。レストランの中」
「迎えにはいけないんだけどね。わかるだろう。下りるとタクシー・パークがある。タクシーをひろって、ここへおいで。十分以内につかないと、心配するよ。ジェーン?」
「え?」
「できるね」
「クローヴィス! おお、クローヴィス。目から黒い水が出てきたわ」
「マスカラが流れ落ちてるんだよ」
「ああ――そうだったわ。つけてたんだわ」わたしは笑った。
「とにかくおちついて、タクシーをひろって」とかれは言った。
わたしはすっかりおちつき、うきうきした気分だった。化粧室に入って顔を洗い、それからタクシー・パークに下りていった。すばらしいシティの星空のような夜景が見おろせた。いや、上にも横にもだ。シティの灯はフロントガラスにまきちらされている――わたしは飛んでいるのだ――そういっしょに空を進んで。
「ニュー・リヴァー・ロードの二十一番地」わたしは運転手に言った。運転手は驚くほど人間そっくりのロボットだった。「まあ」わたしは黒い爪をかれのほうにひらひらさせながら言った。
「あなたってまるでE・Mの特別型みたいに真にせまってるわ」
「なにみたいにですか」
「エレクトロニック・メタルズのコッパーとゴールダーとシルヴァー」
「聞いたことがありませんが」
「あなた、分解されたことある?」
「わかりませんね」
「分解されるってどんなものかしら。まるで――まるで」
「すみませんが」とかれは言った。「お降りになるとき、そんなふうにお泣きにならないでいただけませんか。仕事にさしつかえますので」
かれはもちろん人間だった。わたしはジャギッドの新案の人間の運転手のことを忘れていたのだ。
かれはエジプティアよりずっと忍耐強かった。
灯がフロントガラスにぶつかってくる。わたしたちは飛んでいた。
わたしは涙をとめようとした。最悪なのは、なんで泣いているのか自分にもわからないことだ。
クローヴィスの住んでいる建物の十五番目の回廊にのぼったとき、声をかけるよりはやくかれの部屋のドアがヴィジョンに反応してぱっと開いた。クローヴィスは絨毯のまんなかにはだしで立っていた。バスローブを着て、顔をしかめていた。
「かれが死んでしまうわ」わたしは言った。「かれが殺されちゃう」
クローヴィスがくれた鎮静剤にはほかの味がついていなかった。苦かった。わたしは予備の寝室で眠った。黒いサテンのシーツが敷いてあるが、ときには緑や薄黄色のサテンにかわる。わざとサテンが敷いてあるのだ。ひと晩じゅうベッドの端から端へとすべりつづけるように。クローヴィスはいつも客を居心地悪くさせる。早く出ていってもらいたいからだ。薬を飲んでいたので、わたしは眠った。目がさめると、かれは中国のお茶を一杯、それにりんごをひとつくれた。
「貯蔵庫になにか食べ物があったら、かってに食べていいよ」
夢遊病者のように、薬でふらふらしながら、わたしはインスタント・トーストをいくつか見つけだした。クローヴィスは戸口に立っていた。
「セレノールの量が多すぎたかな。昨日の晩、自分がなんて言ったか覚えてるかい。きみは劇的に興奮してたよ」
わたしはインスタント・トーストがホット・プレートの上でふくれあがってゆくのを見ていた。そして、銀色のふたつの眼窩の中に歯車がまわっているのを。
「いや、セレノールが足りなかったんだな」わたしが泣きだすと、クローヴィスは言った。
わたしはかれにあらいざらい話した。かれの長椅子にすわり、エジプティアもうらやむほど雄弁な身振り手振りで。
「よくもそこまでやったねえ」クローヴィスはわたしにティッシュの大箱をわたしてくれながら言った。そうして床にとんだトーストをひろった。「臆病なちいさなジェーンが、エレクトロニック・メタルズ社の力に対抗したとはね。その馬鹿の名前はなんていうの」
「ス――ス――スウォンソン――」
「スウォンソン、そうだ。やつに会うのは楽しみだな」
「え?」
「え?」クローヴィスはわたしの驚きの声をまねした。
「クローヴィス、わたし、二度とあそこにひっかえせないわ。何もできないわ。あのひとに、十八歳未満だって言ってしまったもの。お金が足りないのよ。それに母はきっと出してはくれない――」
「同じことを二度言うなよ。さ、ついておいで」
クローヴィスはメイン・リヴィングにもどり、ヴィデオのついていない電話のダイアルをまわしながら、受信装置の感度をあげた。
わたしはさっきまでかれがいた、貯蔵庫に通じる戸口に立っていたが、やがてエジプティアのあまったるい誘惑的な眠たげな声が聞こえてきた。
「おはよう、エジプティア」
「あら、まあ。いま何時だと思ってるの。ひどいわよ。こんな時間にかけてくるなんて馬鹿じゃないの」
「馬鹿には電話は使えないぜ。察するところ寝てたんだな」
「あたしは寝ることなんかないの」彼女は官能的なあくびをした。「眠れないんだから。おお、クローヴィス。こわいのよ。こわくて眠れないの。あたし、役をもらったの。コンコルダシス劇場が『孔雀に兄の屍を求めよ』をやってるのよ。で、アンテクトラをやれるのはたったひとりしかないってわけ。つまりあたし。あたしだけが役とひびきあうもの、きらっとくるものを持ってるの――でも、クローヴィス、まだ役になりきれていないの。できない。クローヴィス、あたしどうしたら――」
「きみにすてきなすてきなプレゼントを買ってあげるよ」とクローヴィス。
「なに?」
「ジェーンの話じゃ、きみはあるロボットに思召しがあるんだって」
「まあ、クローヴィス。ほんとに? でもだめ、だめだわ。役に集中しなけりゃならないもの。独身でいなきゃ。アンテクトラは処女だもの」
「こっちはその劇を知らなくて幸いだよ」
「それでシルヴァー――かれ、シルヴァーっていうんだけど――かれはきわめつきの恋人だわ。かれには――」
「どうか、言わないでくれたまえ」とクローヴィス。「劣等感を持ちたくないんでね」
「あなたなら、きっと惚れちゃうわよ」
「どうやら、だれでもかれには惚れるみたいだな。来年は市長にでも立候補したらどうかね。ところで、E・M社では、副業にミートパイも作っている地獄のごとき地下室でかれを分解してるそうだが」
「クローヴィス、いったいなんの話?」
「つまりきみがその金属のかれになんかしたんだろう。時計仕掛けがどこかおかしくなったのさ。かれはミートチョップだか、パイだかにされる運命」
「あたし、なんにもしないわよ。会社はあたしに弁償しろって言ってるの?」
「ぼくがはらうのさ。買い取り。十八のきみの名前を使わせてもらうよ。手持ちの札をうまく使えれば、割引きがきくね。欠陥商品として」
「クローヴィス、あなたってほんと親切ね。でもほんとに受け取るわけにはいかないのよ」
「じゃ、きみがフリーになるまで、ジェーンに賃貸ししたら。ま、言うなれば、やつの腕前をにぶらせないために」
「ジェーンは男なんか――」
「そうでもないと思うがね。どう、ジェーン――」
エジプティアは黙ってしまった。わたしはガラスのほうを向いていた。動けなかったし、いまにもこわれてしまいそうだった。
「一時間後に」とクローヴィス。「橋のアーバー側で」
「アーバーなんかに行かないわよ。襲われてレイプされちゃう」
「もちろん、エジプティア。星に願いでもかけるんだね」
クローヴィスは切った。ダイアルをまわした。
「エレクトロニック・メタルズですか。いや、サービス課じゃなくて、スウォンソンとかいう鳥みたいな名前のひとにつないでほしいんですが」
かれは待った。わたしは言った。「クローヴィス、無理よ」だが、そのときスウォンソンの声が聞こえてきたので、言いやめた。全身が秋の木の葉のようにしなびていく。わたしは床にすわりこみ、頭を壁につけた。セレノールが全身をかけめぐった。
もうろうとしているわたしにも、スウォンソンがしおれはじめたのがわかった。
「シルヴァー型が一体、欠陥だとどうしてご存じなんですか」
「ぼくのスパイはどこにでもいるんでね」
「まさか。こちらをごらんいただき――」
「ぼくはヴィデオは使わないのさ」
「もしかして――ははあ――あのいまいましい女の子が。そうでしょう。あなたもお金持ちの坊ちゃんで――」
「ぼくも大金持ちのお坊ちゃんさ。おちついてくれたまえ。きみには羽毛があるんだろう」
「ええ? いったいぜんたい――」
「スワン」とクローヴィスは明確に発音した。「ソン」
「つづりはですね、S・W・O・H」スウォンソンがわめいた。
「S・H・I・T(糞の意)でもこっちはいっこうかまわない」とクローヴィス。「ぼくは、あんたのところの不良品の粗悪品のがらくたをおとといの晩借りたレイディの代理で電話したんだ」
わたしは立ち上がって、緑のバスルームに入り、バスタブに水を入れはじめた。それ以上聞いていられなかったのだ。
十五分ほどしてわたしが水のなかに体を浸していると、クローヴィスがドアをノックして、言った。
「きみはまったくけしからん聴衆だよ、ジェーン。だいじょうぶかい。――手首でも切ったんなら、その手は水の中につけといて、壁紙は汚さないでおいてくれ。血はものすごく落ちにくいんだから」
「だいじょうぶよ。ためしにかけてくれてありがとう」
「ためし? スウォンの息子はまったく外見だけ鉄で、中身はゼリーみたいな野郎だ。ところで、デーメータの祝福をもぎとりしだい、現ナマでぼくに返してくれるだろうね。そうしたらエジプティアも計画から外しちまえる」
「まさかうまくいったなんて」わたしは言った。涙が水の中に流れ落ちた。わたしはだれにもとめられない蛇口だった。
「ぼくがなぜこんなことをしてるんだろうね」クローヴィスはだれかにたずねていた。「だれかさんのために世界じゅうをかけずりまわって、ナットとボルトでできたがらくたを手に入れてやってさ。そいつは戸口を入ってくるなり、エンコしちまうかもしれない。あるいはもっとまの悪い、決定的に悲惨な瞬間にね。いや、ごめん、ハニー、悪かったね」
かれは行ってしまい、マホガニーのバスルームでシャワーがしゅうしゅうと音をたてているのが聞こえた。
それからどのくらいたったかわからないが、かれが口笛を吹きながら、外へ出ていく音がした。男性同性愛者についての世間の噂はほんとうじゃないのかしら。少なくとも、クローヴィスには口笛が吹けるのだから。
わたしはタブの中に横たわって、活性化オイルを皮膚から洗い流した。母がいつもいけないと言っていたことだ。(「皮膚用の基礎栄養液はいくらでも瓶からとっていいけれど、自然のものをむだにしてはいけないわ、ダーリン」)
クローヴィスが本気のはずがない。かりに本気だとしても、エレクトロニック・メタルズが欠陥ロボットをわたすわけがない。またデモ隊がもどってくるではないか。それにエジプティアはサインしたら、自分の正当な所有権を主張して、かれをとっておくだろう。あるいはかれはもう冷たい金属片の山になっているかもしれない。
しかし、泣いているときでさえ、わたしの涙のテンポは目まぐるしく変化した。いまはひじょうに速かった。わたしは突然いそいでバスを出ることにした。エジプティアのパーティに行った夜と同じように。わたしにはなぜだか、わかっていたのだ。
ふたたびエレベーターの音がしたとき、わたしの内部へも一台のエレベーターが下りていった。ドアが、入れてくれ、と言ったとき、わたしは一瞬考えさえもしなかった。ぱっとドアをあけはなった。するとそこにはオースティンがいた。
「クローは?」
わたしはまじまじとかれを見た。まさかかれとは夢にも思わなかった。
「ぼくがハンサムなのはじゅうじゅうわかってるがね」
「あなたなら鍵を持ってると思ったわ」わたしはたどたどしく言った。
「やつの顔にたたきつけてやったさ。あのくそいまいましい降霊会め。あのテーブルに仕掛けがあったのを知ってるか。あんたは知ってたんだろう、な」
「クローヴィスはいないわ」とわたしは言った。
「じゃあ、待たせてもらうよ」
「海岸に行ったの」また嘘をついた。オースティンは信じた。
「だれかがやつの顔に砂を蹴りかけてくれることを祈ってるぜ」
かれは背を向け、流れるように廊下を去ってゆき、ボタンを押してエレベーターを呼んだ。わたしはやましいが嬉しくなった。エレベーターはかれを飲みこんでいってしまった。
わたしがスイッチを入れると、クローヴィスのおしゃべり時計は午後一時を知らせた。わたしはこれで三十回目に髪に櫛を入れた。わたしは黒いドレスを着て、黒い爪をし、白く緊張した顔をしてすわり、窓からニュー・リヴァーを見つめていた。打撲傷を負ったように見える雲。雨になるかもしれない。わたしのほうの雨はとまっていた。涙はかわいた。クローヴィスが戸棚ひとつにいっぱい貯めこんでいる本物のコーヒーを入れたが、飲めなかった。コーヒー・テーブルの上にはほこりが積もっていた。この建物の自動クリーナーは何日もお呼びがかからなかったらしい。
わたしは何を待っているのだろう。クローヴィスが電話してきて、だめだったよと言うのをか。それともドアが開いて、クローヴィスが入ってきて、肩をすくめ――驚くべきことにかれは昨夜はそれをやらなかった――忘れたほうがいいよ、ジェーン、と言うのをか。とにかく男性に関するこの種の不安は、現実の肉体をそなえた父親がいないためではないだろうか。
昨夜、わたしは自分で自分がとてもよくわかっていた。たった一時間のあいだだけ。女性がロボットを愛するはずがないことがわかっていた。内部の時計仕掛けをさらした人形なんかに、なんの興味が起きるだろう。だのにわたしはあの真理にとどまっていることができなかった。わたしにとって――かれは生きたものなのだ。ひとりの男性なのよ、クローヴィス。本物の。
エレベーターの音がした。
この廊下の端にくっついた張り出しにちいさな部屋がなかったかしら。そこに住んでいるひとかもしれない。
あたかも水面下にあるように、ドアがふるえ、さざなみうって開いた。クローヴィスとシルヴァーが入ってきた。
シルヴァーは青い服を着て、マルベリー色のブーツをはいていた。わたしはふたりから目が離せなかった。それからクローヴィスの顔を見た。クローヴィスは驚いていた。かれがずいぶん長いあいだ驚いていたのは明らかだった。かれはわたしのところにきて、言った。「ジェーン、ジェーン、ジェーン」それからプラスティックの書類入れをわたしてくれた。「書類だよ」クローヴィスは短く言った。「再構成のオーダーの控え。所有証明書と銀行のスタンプが押してあるキャッシュふりこみの領収書。二年間の保証書だけど、不完全な検査を客が不問に付したしるしに斜め線が入れてある。それからエジプティアのサインした確認書。きみがローンをはらうんだよ。まあ、六ヵ月払いか、何年払いかは知らないがね。エジプティアはうすうす疑ってる。どこかでうまくまるめこまれたんじゃないかって。で、ぼくは彼女をランチにさそって、スチールグレーの毛皮のマントを買ってやるつもりだが。そいつもきみの借りだぜ」
「払えないかもしれないわ」わたしは言った。ぼうっとしていた。シルヴァーはドアのそば、わたしの視界のふちすれすれに立っていた。部屋のほかの部分を焼きつくして灰にしてしまう青い炎として。
「では、法廷で会おう」とクローヴィス。
わたしはうつろな口調で言った。「オースティンが来たわ。あなたは海岸だって言っておいたけど」
「海岸に行くさ」とクローヴィスは言った。「足の下にはもう砂の感触がある。しばらくやつをまくさ」かれの顔にはまだ驚きがあった。かれはわたしに背を向け、シルヴァーのところへもどり、かれをちらと見、そばを通りぬけ、ドアのところに行った。「何がどこにあるか、わかってるね」クローヴィスはわたしに言った。「もしわからなかったら、いまのうちに確かめとくほうがいい。ジーザスが悲鳴をあげて、逃げてったから」部屋のドアがかれの後ろでばたんと閉まり、蝶番がきしんだ。わたしはひとりになった。そばにいるのはエジプティアのロボットだけ。
わたしはむりやり目をやってかれを見た。ブーツから長い足を、そして――片手、両方の手。両わきにゆったりと垂らしている手。腕。胴体。青い上衣の上に髪が輝いている肩。喉。顔。無傷の。完全な。虎のような目。おだやかに安らいでいる。だが、これはなんだろう。わたしの錯覚なのだろうか。どこかしらぼうっとしているような、病気からやっと回復したひとが見せるようなあの表情……。いや、錯覚なのだ。
かれは自分の持ち主がだれで、だれが借りたのか、知っているのだろうか。わたしが言わなければならないのだろうか。
かれのこはく色の目がゆっくりと長くまたたいた。ああ、目がこわれていなくて嬉しい。はじめて見たときと同じように美しい目。かれはわたしに微笑した。「ハロー」と言った。
「ハロー」わたしは言った。あまりに緊張していたので、言ったことも気づかないほどだった。「わたしを覚えている?」
「はい」
「なんて言ったらいいのか、わからないわ」
「なんでもお好きなことを」
「そうね、じゃあ。座ってちょうだい。お茶はいかが」
かれは笑った。かれの笑い声はほんとうに好きだ。ずっと好きだった。でもその声はわたしの心をうちくだいた。かなしかった。いま、かれがいっしょにいることがとほうもなくかなしかった。こんなにかなしかったことはない。どれほどの涙を流してもたりないほどのかなしさ。
「わたしはくつろいでいます。いつでも。そのことのために、お気を使っていただくにはおよびません」
わたしは鼻白んだ。だが、言いかえされるのに対する心の準備ができた。かれに言わなければならない。いままでずっと喉の奥に押しもどしてきたことを。かれはわたしのためらいを見てとった。片方の眉をあげてみせた。
「なんでしょう」人間。人間そっくり。
「なにがあったかわかってる? 自分が何をされたか」
「された?」
「エレクトロニック・メタルズに」
「はい」とかれは言った。なんの変化もなく。
「あのとき、あなたを見たの」かすれたなまなましい声になった。
「すみません。あなたには気分のよいものではなかったでしょう」
「でもあなたは」わたしは言った。「あなたは?」
「わたしが?」
「あなたは意識がなかったの?」
「意識という言葉は正確にはあてはまりません。なんというか、部分的にスイッチを切った状態ですね。検査のためには、少なくとも脳の半分が機能していないと」
わたしの胃はよじれた。
「つまり、気はついてたのね」
「ある意味では」
「その――痛いものなの?」
「いいえ、痛みはありません。わたしの神経中枢は、苦痛反射というより危険反射で動くのです。人間の場合とちがって、わたしの場合、危険の信号としての苦痛は不必要です。ですから、痛みは感じません」
「あのひとがなんて言ったか、わたしがなんて言ったか、聞いたでしょう」
「と思います」
「あなたにはなにかを嫌うことができないの」
「はい」
「憎むことも?」
「はい」
「恐れることも?」
「それはあるかもしれません」とかれは言った。「わたしは人間のように自分を分析することはありませんから。何かをもたらすものは外からやってきます」
「あなたは買われたのよ」わたしは言った。「エジプティアのものよ。で、わたしが借りてるの」
「それで?」
「で、怒ってる?」
「わたしが怒っているように見えますか」
「あなたは一人称を使うのね。わたし、と」
「ええ。ほかの言いかたをしたらおかしいでしょう。混乱しますし」
「わたしはあなたの気にさわることを言ったかしら」
「いいえ」かれはまた、ごくしずかに笑った。「なんでもお好きなことをおききください」
「わたしのこと、好き?」
「あなたをよく知りません」
「でもロボットとして、わたしをいままで以上に知ることができると思う?」
「あなたがそうさせてくだされば、あなたがよくいっしょにおられる人間より、あなたを理解できると思います」
「そうしたい?」
「もちろんです」
「わたしと――寝たい?」わたしは叫んだ。心臓が痛み、気持ちはかっかして、苦しくてかなしかった。そして――おそれてもいた。かれにはどれひとつとして縁のない感情。
「あなたがわたしにさせたいことでしたら、なんでもよろこんで」
「なんの感情もなく?」
「あなたがお喜びなら、たいへん嬉しく思います」
「あなたはきれいだわ。きれいだって知ってる?」
「ええ。それは」
「ひとを磁石みたいにひきつけるわ。それも知ってる?」
「それはメタファーですか。ええ、知っています」
「それ、どんな感じ?」わたしはシニカルに響かせようとした。だのに、お日さまってなあに、とたずねる子どものような口調になってしまった。「それ、どんな感じなの、シルヴァー」
「わたしに対するいちばん簡単なつきあいかたは、わたしをあるがままに受け入れてくださることです。あなたはわたしになれないし、わたしもあなたになることはできません」
「あなた、人間になりたいと思う?」
「いいえ」
わたしは窓のところに行き、ニュー・リヴァーを見つめ、かれの姿がサファイアと銀色にあわくガラスに映っているのを見た。
わたしはそれに向かって言葉を形作った。ささやき声にすらしなかったけれど。あなたを愛してるわ。愛してるわ。
声に出してはこう言った。「あなたはわたしよりずっと年上ね」
「そうでしょうか。わたしはわずか三歳です」
わたしはふりかえって、かれを凝視した。おそらくほんとうなのだろう。かれはわたしに笑いかけた。
「いいでしょう。わたしは二十から二十三のあいだに見えるように作られています。でもスイッチが入れられたときから計算すると、子どもにすぎませんね」
「ここはクローヴィスの家なの」わたしは自分が言っているのをきいた。「クローヴィスがあんなにびっくりするなんて、あなたいったい何を言ったの」
「あなたと同じように、あのひともわたしがロボットだと思いにくいらしくて」
「かれ……あなたに愛の行為をしかけたいと思ったの?」
「はい。でもそれはおぞましいことだと思って、押し殺していたようです」
「あなたもおぞましいと思う?」
「また同じ質問ですね。さっきも別の言いかたでおたずねになりましたね。もうお答えしたと思いますが」
「あなたはバイ・セクシュアルなの?」
「だれといっしょにいても合わせられます」
「そのひとを喜ばすために?」
「はい」
「喜ばすと、あなたも嬉しいのね」
「はい」
「あなたはそんなふうなときに喜びを感じるように、プログラムされているのね」
「事実問題として、人間もある程度まではそうでしょう」
わたしは部屋の中にもどった。
「わたしに、なんと呼んでほしい?」
「わたしに別の名前をつけたいとおっしゃるのですか」
「シルヴァー――それは登録名でしょ。名前じゃないわ」
「名前のなかにいったい何があります?」
「薔薇はほかの名前で呼んでも薔薇だわ」
「でも」とかれは言った。「わたしをローズなどと呼ばないでください」
わたしは笑った。クローヴィスが驚いたのと同じに、わたしも驚いていた。でも驚きの質はちがっていた。
「けっこうですね」とかれは言った。「あなたの笑うのが好きです。はじめて耳にしました」
剣に刺しつらぬかれたような気がした。かれがなにも感じていないときに、わたしはどうしてこんなにたくさんのことを感じるのだろう。いや、かれはまったくちがったふうに感じるので、なにも感じていないように見えるのだ。
「わたしのことはジェーンと呼んでちょうだい」
「ジェーン。ジェーン。水晶の|板《ペイン》、すべすべの大理石の|粒《グレイン》を打つ|雨《レイン》のひびき、ほそく青白い名前の|鎖《チェイン》」
「やめて」
「なぜですか」
「ジェーンにはなんの意味もないのよ。やさしすぎる名前だわ。わたしの名前から詩をつくったひとなんかいなかったし、あなたはだれの名前からだってつくれるんでしょ。わたしのはただの平凡な名前よ」
「でもその響きは純粋に音楽的です。明快で澄んでいて美しい。考えてごらんなさい。いままでお考えになったことがないのでしょう」
驚いて、わたしは頭をあげた。
「ジェーン」言いながら、名前をあじわい、名前を耳できいた。「ジェエン、ジェイン」
かれはわたしを見つめていた。虎のような目はやわらかに輝き、わたしを飲みこんだ。
「わたし、母といっしょに住んでいるの。シティから二十マイル離れたところの、空中の家に。ほんとうに空の中よ。窓のそばを雲がとおるわ。そこへ行きましょう」
かれは重々しい注意深い目でわたしを見つめていた。そのまなざしが何を意味するのか、わたしはいちはやく察した。
「あなたにどうしてほしいのかわからないの」わたしは心もとなげに言った。ちがう。ほんとうじゃない。だが、わたしのしてほしいことは、不可能だから、言わないほうがいい。「わたしはエジプティアじゃない――わたしは経験者じゃないのよ。わたしはただ――どうか誤解しないで――」
「わたしを恐れないでください」
でもわたしは恐れていた。かれはわたしの心臓に銀の釘をうちこんだのだ。
[#改ページ]
4
最初から、かれといっしょに、ここクローヴィスのアパートに残っているつもりはなかった。クローヴィスは極力ひきのばすだろうが、それにしてもいつ帰ってくるかしれない。おまけに、わたしたちがあの黒いサテンのシーツの上をすべりながら愛の行為を行なっているだろうと、思い描くに決まっている。シルヴァーに対するかれ自身の興味も、問題をややこしくする原因だ。シルヴァーといえば、わたしはシルヴァーと呼ぶつもりはないのだが、まだなんと呼んでいいか思いつかないでいる。
それから、ふたりしてタクシーで郊外のハイウェイをとばしながら、わたしはかれをシェ・ストラトスのわたしの部屋にもつれてゆきたくないのだと悟った。そしてそのとき突然、そう、突然、決定的な確信をもって、またおそろしいショックとともに、わたしは悟った。わたしには|家庭《ホーム》がなかったのだ。ただ、ひとといっしょに住んだことがあるだけだ。クローヴィスと、あるいはクロエと。あるいは母と。もし母がたったいま家にいるとしたら、かれをそこにつれていくことはできない。かれの存在について説明しなければならなくなるからだ。「もう三体も自動ロボットがいるでしょ。そのほかにもロボット的品物がたくさんあるし」「でもかれは人格をもったロボットなのよ、ママ」「ほかのロボットができないことで、どんなことができるの」それは……
で、わたしはタクシーの中で悩みのために石化していた。しかし、さっきストリートに出た瞬間、わたしは木の人形になった。だれもかれもが、かれを見た。この前のように。そしてこの前のように百人中九十九人が。かれがロボットとわかっているからではない。わたしたちはこみあった交差点をわたり、かれはまるで恋人のように、友人のようにわたしの手をとった。わたしを力づけようとして。わたしがいちばん近いタクシー・パークまで、かれといっしょに三街区も歩いていったあの行為は、わたしにとってはまったく勇気のいるものだった。かれの反応はノーマルだった。興味、警戒心、地下鉄やエスカレーターやどのストリートがどこに通じるのかといったことになじんでいるさまは、ずっとシティに住んでいるもののようだった。かれの感覚と反応はもちろんノーマルではないけれど。一度かれは、わたしをひっぱってあるひさしの下を通らないようにさせた。「上のエアコンから、水滴が落ちてますよ」わたしは気づかなかったし、言われても見えなかった。だが、その下をとおったふたり連れが首をたたいて、畜生と言うのがわかった。かれはまたわたしにでこぼこの舗道をよけさせたし、いつもならへりにどうしてもぶつかってしまう人ごみを、そのなかをすらすらと、まるでひとりの人間のようにいっしょにすりぬけさせてくれた。
タクシーの運転手はロボットだった。かれはそのことにはまったく反応しなかった。かれは飛行艇に乗っているあの頭だけのものにどう反応するだろう。かれと同じ工房の製品なのに。
ストリート上で、わたしは不安のあまり質問しつづけ、やめることができなかった。いくつかは同じ質問をちがった形で言っただけだった。しかも半分は答えすら意識していなかった。いくつか露骨すぎるようなあけすけな質問もした。「あなたは木枠の中で寝るの?」「わたしは眠りません」「でも木枠は?」「だれかがわたしの循環機構のスイッチを切って、隅へたてかけておくのです」それはぞっとするような冗談に聞こえた。かれは自分は嘘がつけないと言っていたが、それでもわたしには信じられなかった。ときに通りすがりのひとがわたしたちの会話を聞いて、まじまじと見つめた。別のことがぼんやりとわかってきた。これほど異様なことが、これほど一般に知られていないというじわじわする驚き。あの広告キャンペーンもデモも、ニュースを広めるにはほとんど役にたたなかったらしい。もしかしたらそのこと――これらのロボットが人間として通用することを、実際に浸透させ、示してみせる――こそが眼目で、真の凱歌であるのかもしれなかった。ごらんなさい、これほど優れているのですよ(これらのロボットは)、と。
こう言えばわたしがいかにも理性的であるように聞こえるだろう。が、あのときの内心はそれどころではなかった。
タクシーに乗りこんだときはほっとした。それからまた心配になった。というのもまたかれとふたりきりになったからだ。わたしは居心地の悪い思いを味わった。わたしは背が低くて、太っていて、不器量で、子どもっぽい。着こなせないような服を着こんでいる。でもクローヴィスがかれを救うチャンスをくれた以上は、かれをあの検査用の小部屋に置き去りにすることはできなかった。目も外され、内部の機械をさらしながら、死んでゆこうとしているかれ、しかもそれを知っているかれを。
わたしは残酷に口にし、それから自分を恥じた。「もし会社があなたを徹底的検査にまわすとして、あなたをばらばらにしてしまったら、それはあなたたちにとって死というものなのかしら」
「たぶんそうでしょうね」とかれは言った。
「それ、こわいこと?」
「考えたことがありません」
「死ぬことについて、考えないの?」
「あなたはあるのですか」
「ええ、しょっちゅうじゃないけれど。でも――検査とか、あなたの目とか、手とか――」
「わたしは部分的に意識しているにすぎません」
「でも――」
「ジェーン、あなたはまた、わたしがそのように作られていないことを、させようとしていますよ。つまり自分自身を感情的に分析することを」
わたしは景色が流れ去ってゆくのを見、塵とモーヴ色の空を見た。雷がどこかでとどろいて、遠い山々をどよもしている。かれも窓の外を見ていた。かれも景色がきれいだと思うかしら、それともなんの意味も感じないのかしら。それに、人間の美しさもみにくさも、同じように無意味なのかしら。
タクシーは家に通じる径に着き、わたしは料金を払った。モーヴ色の塵がコンクリートに騒々しく吹きつけられ、針葉樹にふぶいた。家を支えている鋼の支柱は、風防つきライトのやわらかくふしぎな光のなかで、シルヴァーとほとんど同じ色に見えた。
「ハロー、ジェーン」エレベーターが言った。
上昇してゆくエレベーターの中で、かれは壁にもたれかかり、あたりを見まわしていた。わたしはかれを見ていた。こんなことをしなければよかった。わたしはばかだ。どうしてもこうせずにはいられない。
エレベーターがロビーについたとき、三人の宇宙飛行士≠フひとりがキャスターで転がって、ハッチのほうへやってきた。シルヴァーはどうするだろうと思ったが、かれは無視し、相手のほうもシルヴァーを無視した。
わたしたちは鳥籠型のエレベーターで展望室にのぼった。
中にはいると、ものすごい雷の音がして、部屋じゅうがピンクがかった白色に照らしだされ、ついで濃い紫に染まった。シェ・ストラトスはほかから切り離され、安定に保たれているが、それでもこれほど近いところの嵐には圧倒的な力がある。子どものころわたしはおびえたが、母がわたしをいつもここに連れておりて、嵐を見せながら、なぜここが安全なのか、自然とはなんとすばらしいものかを教えてくれた。それで十になるまでには、もう嵐などこわがらない自信ができ、よく展望室に下りては嵐を見、デーメータの賞賛をかちえたものだった。だが、次の閃光が空を裂き、とどろきが部屋をゆすぶると、わたしはこわくないとは言いきれなくなった。
だが、シルヴァーは部屋を歩いてゆき、バルコニー・バルーンのなかに入った。嵐がかれを打ち、真っ白に染め、それからコバルト色に変えた。たった百フィートしか離れていないところで、波が割れるように雲が裂けたかと思うと、そこから雨が滝のように落ちだした。雨の反射がシルヴァーの金属の顔から喉へ流れくだった。
「この景色どう?」わたしは明るく言った。
「すばらしい」
「いいと思える?」
「芸術的にですか。ならそうです」
かれは窓から離れ、ピアノのふたにふれた。中に雲がわきたち泡立って、わたしはめまいを感じた。かれとそれはなんというかありうべからざる動きをしていた。かれとそれの皮膚が溶け流れるようでもあり、静止しているようでもあった。かれはいきなり両手ですべてのキイをかきならし、雷のような音をたてた。
「調律が悪いですね」
「そう?」
「正確ではありません」
「ロボットのだれかになおすように言うわ」
「わたしがいまなおしますよ」
「母が弾くの。母にきいてみなくちゃ」
かれの目がうつろになった。今度はわたしにもわかった。わたしが変則的な反応をしたので、思考のプロセスが切り替えられたのだ。かれもロボットだから、ピアノを精密に調律することができる。だが、わたしは喜んでそうしてもらうかわりに、「だめ」と言った。あたかもかれが人間と同じに仕事をしそこなうことがあるとでもいうように。
「わたしの部屋は上よ」わたしは言った。
わたしはきびすをかえし、建物の張り出した部分を通りぬけて、階段をのぼった。かれがついてくるものと思いこんでいた。
入るとすぐに、わたしはコンソールのマスターボタンにふれた。そうするとすべての窓に緑のシルクのブラインドが下りた。ペルシア絨毯のまわりを見まわした。しだれた植物の鉢、機械できちんと整えられたベッドが見えているあいた扉、古代ローマふうのバスルームが見えているもうひとつの扉。ステレオのテープデッキ。ヴィジュアル装置。ゲーム機器。そんなものがわたしにむかってぴかぴかに、威圧するように、輝きかけていた。わたしはよそもののように前にすすんで、それらのものに触れてみた。書棚の本、クロゼットの中の服(どれにもそれに合うふた組のランジェリーがついている)。人形の戸棚まであけてみた。中には昔のおもちゃが、まるで病院の待合室で待っているように、きちんとならんでおさまっていた。わたしが自分で買ったおもちゃはひとつもない。わたしの買ったもの――最近のもの、たいして重要でないもの、マニキュアやイアリングなど――でさえ、なぜ買ったかといえば、母がいつも言うからだ。「ねえ、こういうものがあなたに合うのよ」あるいはクローヴィスが、エジプティアが、そう言うからだ。クロエがくれたものもある。おもちゃでさえずっと昔選んでもらったもので、わたしはそれらをこよなく愛した。だが、いまここにあるあわれなものたち、愛を失ってしまったものたちは、決してあらわれることもなく、いっしょに遊んでくれることもない医者を待ちつづけている。かれらのかなしい毛皮を見ると、涙があふれてきた。わたしがどんなに涙もろいかは、お話ししたと思う。
わたしは、かれがついてこなかったことに気づいて、長椅子にすわって、涙の雨を顔につたわらせ、動かずにいた。やがてピアノが突然シンコペーションとメロディをかなではじめた。雷がはじけ、ピアノが雷を追って高音にのぼりつめ、下降しながら踊った。
わたしはブロンズ色のディスペンサーからとったレタス色の緑のティッシュで顔をふき、また下へおりていった。展望室の南の端に立って、かれが終わるのを待っていた。かれが音楽の海に浸りこみ、没しては浮上するたびに、あげた扇型のピアノの蓋の上に、サテンのような髪がはずんだ。それからかれは立ち上がり、ピアノをこちらにまわってきながら、わたしににっこりした。
「なおしました」
「なおして、とは言わなかったわ。あなたはわたしについて上に来るはずだったのに」
「はっきりさせておくことがほかにありますよ」とかれは言った。「わたしは自動制御の人間型ロボットではありますが、それでも機械的反応で動く部分が多いのです。わたしに何か特別なことをさせたい場合は、もっとはっきり言ってくださらなければなりません」
わたしはぎくりとした。「なんですって」
「いっしょに上へくるように、言ってほしいのです。そうしたらピアノを放りだして、ついていきますから」
「ばかにしてるわ!」わたしは叫んだ。叫ぶつもりもなかったし、叫びたくもなかったのに。ほとんどなんの意味もないかんしゃくだった。ただ、わたしの心の奥ふかくで進行しているなにかの重要な徴候であったとは言える。
かれの顔はつめたく無表情になり、目は悪魔的になった。
「そんなふうにわたしを見ないで」
かれの顔からもやがぬぐわれ、変化がおこった。かれは言った。「そのことは前にもお話ししました」
「思考プロセスの切り替えね。信じないわ」
「それについてもお話ししたと思います」
「あなたにわかってるとは思わない!」わたしは叫んだ。
「自分のことはわかっています」
「うそ」
「そうでなければ、機能できません」
「母ならあなたを気に入るわ。自分を知ることはとても大事だものね。わたしたちはだれもそんなことできないのよ。わたしだって」
かれは辛抱強くわたしを見つめ、理解しようとしていた。
「あなたに命令しなけりゃいけないのね。なにかしてもらいたいことをしてもらうために」
「少しちがいます。指示、ということです」
「エジプティアはあなたをベッドにつれこんだときは、どういう指示を与えたのよ」
「指示の内容が前もってわかっていました」
「どうやって?」
「あなたはどうだと思います?」
人間。人間そっくり。
「エジプティアはきれいだわ。芸術的にいって。あなただって認めるでしょう」
「はい」
「わたしではうんざりで申しわけなかったわね」
「それではまるで」とかれは言った。「後悔しておられるように聞こえます」
「明日、彼女のところへ送りかえしてあげるわ、クローヴィスのところへ」わたしは何を言っているんだろう。どうしてとまらないのだろう。「あなたなんていらないわ。わたしの考えちがいだったわ」
「申しわけありません」かれはしずかに言った。
「わたしをがっかりさせたので悪いと思っているのね。わたしを喜ばせられなかったから」
「はい」
「あなたは、だれでもかれでも喜ばせたいの?」わたしはわめいていた。雷が閃光を発した。家がふるえる。それともこれはわたしの動悸?「あなたは自分をいったいなにさまだと思ってるの? イエス・キリスト?」
稲妻。炎。とどろき。部屋がなくなり、もどってきたときには、かれがわたしの前にいた。両手をかるくわたしの肩にかけた。
「あなたはなにか特殊な心理的外傷にぶつかっておられます。それを話してくだされば、何かしてさしあげられると思いますが」
「それは、あなたよ」わたしは言った。「あなたこそそれだわ」
「人間がいまのあなたのように反応するのを予言している学派があります」
「エジプティアがあなたの最初の女性ね」わたしは言いはった。
「エジプティアは、あなたと同じように少女です。それにいかなる意味においても、初めてでは――ありません」
「検査のこと? 実地テスト? ピアノとギターと歌と、そしてベッド?」
「当然です」
「なにが当然なの」わたしはかれから身をひいた。
「ビジネスの見地からみれば当然です」かれの言ったことはもっともだった。
「でもおかしいことがあるわ」わたしは言った。「あなたは検査に通ってなかったのでしょう」
かれはじっとわたしを見おろした。かれは五フィート十一インチほどあった。かれの背後で空は血を流しながら暗くなってゆき、かれの髪も血を流しながら闇にかわっていった。かれの目は色のないふたつのほのおだった。
「寝室は上よ」わたしは言った。「ついてきて」
わたしはのぼってゆき、かれはついてきた。わたしたちは部屋に入った。わたしはドアを押して閉めた。わたしは自動冷蔵器に入っている白ワインの緑の瓶のところへいき、ふたつのグラスに注いだ。それからはっと気づいたが、それでもふたつめのグラスをとりあげ、かれの手の中に押しこんだ。
「むだになります」とかれは言った。
「あなたが人間だと思ってみたいの」
「思っておられるのはわかります。わたしは人間ではありません」
「じゃ、わたしを喜ばせるためにそうして。わたしを楽しませるために」
かれはゆっくりと飲んだ。わたしはあっというまに飲んだ。わたしはすぐぼうっとなった。稲妻がブラインドからさしいったが、気にならなかった。
「さあ、寝室にきて。母がわたし独自の色彩チャートに合うように特別にデザインしたの。そして、わたしを愛して」
「だめです」かれは言った。
わたしは唖然とした。
「だめ? あなたはいやと言えないはずよ」
「わたしの語彙は、あなたの考えておられるほど限られてはいませんよ」
「だめですって」
「ええ。なぜなら、あなたはわたしを求めていないから。というか、あなたの体が求めていないからです。そのほうが重要なことです」
「あなたは、わたしを喜ばせなくてはいけないのでしょ」わたしは言いはった。
「レイプすることで、喜ばせたくはありません。たとえ、あなた自身のご要望でも」
かれはグラスを置いた。昔の絵画にある貴族のように、腰から身を折って一礼し、出ていった。
わたしはぽかんと口をあけたままたちつくしていた。稲妻がブラインドに光をあびせ、雷は遠のいた。かれはまたピアノを弾きだした。これほどばかなこと、これほどみじめなことがわが身に起こるとは信じられなかった。だが、しかたがないのだということもわかっていた。
わたしはピアノをききながら、自分の部屋でひとりで飲みつづけ、かなり酔ってしまった。ときどき、ほかにだれもいないとき、わたしはこっそりピアノを弾く――とてもお話にならない腕だが。かれはたっぷり一時間、すばらしい演奏をくりひろげた。知っている曲もあり、知らないのもあった。クラシックも、未来派もあり、流行曲も、即興曲もあった。まるでわたしには見えなくてもともっている展望室の明かりのよう。あさって、母が帰ってくる。そうしたら山ほど面倒が起こる。地平線の山々と同じくらい大きな面倒。ただ今日だけ、明日だけ。なのにわたしはいっさいをぶちこわしてしまった。
わたしはシャワーを浴び、髪を洗い、温風乾燥機でかわかした。次から次へと服をきがえたが、どれも気に入らなかった。それからきつすぎる黒のジーンズをはいてみた(そうしたらきつくなかった。でも今日、わたしはほとんど食べていないし、ヴィーナス型用カプセルは明日飲むはずなのだ)。それやら、デーメータが嫌いなので、一度も袖を通したことのない、クロエのくれた絹のシャツを着た。
ピアノはずっと前からやんでいた。いま午後五時四十五分で、展望室の嵐は終わっていた。青い日没が空と家具をつつみこみ、かれの姿は見えなかった。かれはいなかった。
わたしはさっきかれに、そのうち送り返すのだということ、エジプティアが正当な所有者だということを話した。かれは出ていってしまったのだろうか。ロボットにそんなたぐいの決断ができるだろうか。わたしは展望室の外に出た。エレベーターは中二階に下りていたが、ロビーまではいっていない。血の大波が全身をかけめぐった。あたかも血液が情報を持ちのぞんでいるかのように。わたしはエレベーターを呼びもどして、下に下りた。かれは図書室にいた。バルコニー・バルーンに向かいあう長い椅子にすわっていた。明かりがついている。かれは本を読んでいた。光が必要らしかったが、一ページめくるのに十五秒ほどしかかからなかった。
わたしは図書室に入った。はずかしかった。かれのところに行き、椅子のそばの床にすわって頭をかれの膝にもたせかけた。それが自然なことに思えた。かれの手がのびてきて、わたしの髪をなでたのも、自然に思えた。
「ハロー」かれは言った。
当然ながら、声には怒りなどなかった。わたしは、かれが怒っていないことに、怒りを覚えかけた。
「きいて」わたしはしずかに言った。「説明するわ。あなたに面と向かってではなく、こうやってもたれて言うわ。わたしはまだすこし酔っぱらっていて、すごくリラックスしている。いいかしら」
「ええ」とかれは言った。
わたしは目を閉じた。
「わたしはとても馬鹿なの。そしてとてもわがままよ。それはわたしがお金持ちだし、現実の人生についてよく知らないからなの。それに守られてきたから。欠点もたくさんあるわ」
かれは低く笑った。
「口をはさまないで」わたしはとてもしずかに言った。「あやまりたいの。あなたはわたしの――わたしのかんしゃくなんかなんとも思っていないのでしょう。でもあやまりたいのは自分のため。ごめんなさい。なぜかっていえば、わたしは混乱しているの。男のひとと性的関係を持ったことがないから。デートはしたけど、重大なことはなにもなかった。楽しんだことはないわ――わたしはヴァージンだもの」
「でもあなたは十六でしょう」
「たいていの友達は十三か四で性的体験を持ってるわ。とにかく、わたしはいまは男のひととつきあいたいとは思わないの。それはいやなの」わたしは間をおいた。効果をはかったからでなく、自分の気持ちをおちつけるためだった。「だって」と言った。「わたしはあなたを愛してるの。どうか笑ったり、たしなめたりしないで。いまに過ぎ去るなんて言わないで。過ぎ去らないわ。あなたを愛してるの」わたしの声はおちついていた。自分でそれがわかって感動した。「あなたが愛することがないのは知ってるわ。愛せないのも。わたしたちはあなたから見れば、似たりよったりのお菓子のきれのようなものだわ――やめて」それはかれの体が笑いにふるえるのを感じたからだった。「でもあなたといっしょにいられる時間は、二日もないわ。母が帰ってくるし、エジプティアがあなたを返してくれと言ってくるの。わたし、自分にその準備があるかないかわからないけれど、どうかわたしを愛してちょうだい。それを自慢にしたいんでもないし、爪を切るみたいになにかをやっかいばらいしたいためでもない。退屈してるからでもないわ。そうじゃなくて、ほんとうに、ほんとうに――」わたしは言いやめ、頬をかれにこすりつけた。かれの長い指がわたしの頭をつかむようにして、ひきよせた。わたしはやっと正しいことが言えた。かれはわたしに感情の喜びを――身体のでないにしても――与えてくれるだろう。わたしをたすけてくれるだろう。機能をはたしてくれるだろう。けれどかれのやさしさがせまってきた。かれのたのもしさとやさしさが。わたしはかれを信じた。かれに真実を――脚色されていない、なけなしの真実――わたしの弱さ、わたしの子どもっぽさをうちあけた。自分のしたことの責を甘んじて受けるために。わたしはかれを知らなかった。かれを知ることはできない。だが、わたしはかれを信じた。
わたしはゆっくりと立ち上がり、手をおろし、かれはその手をとり、椅子から立ち上がり、わたしとならんで、わたしの顔に見入った。かれの目にはいたわりがあふれていた。そうしてある種のいたずらっぽい喜びが。それはよこしまであり、それは喜びであった。
「愛してるわ」わたしはかれの目を受けとめながら言った。
「知っています。クローヴィスのアパートの窓であなたはそう言ったから」
「きいていたの? でもわたしはささやき声さえ出さなかった――」
「あなたがガラスに映っているのが見えました。あなたがわたしの姿を見たように。そして唇の動きで」
「じゃあ……知っているのね。わたし、こわがらずにそう言えるようになりたかったの。だから思わず言ってしまった」
「愛してる≠ニ思わず言ったのですね。それを言うのを恐れることはありません。わたしの知るかぎり、わたしをほんとうに愛した人間はあなたがはじめてです」
「そんな、でも――」
「興味をもたれたことはあります、もちろん。たんなる熱中です。愛ではなくて」
「わたしにおもねってくれなくていいのよ」
「そんなことはしません、ジェーン」
「こう思わせてくれない?」わたしは言った。「わたしが指示する必要はないんだと。お願い」
「必要はありません」
かれはわたしを抱きよせた。まるで潮の牽引力のようだった。やさしく、あらがいがたく。泳ぎたわむれ。口の感触。そのしめりけ――人間、そっくり……キスの興奮だけがまったく異なったものだった。それからかれはなんの重さもないようにわたしを抱きあげ、エレベーターの中に運んでいった。
わたしはエジプティアではない。きりもなく細部にたちいった描写はさけたい。わたしはこわかった。そして同時にこわくなかった。わたしは燃え上がっており、絶望に満たされてもいた。かれの裸身はまばゆかった。デーメータはずっと昔に、ヴィデオを選択して、男性の裸体というものを見なれるようにしくんでくれていた。それでもかれは美しく銀色だった。腰にはほのおの輝きがあった。どうして男性のペニスは醜いものと考えられているのだろう。かれのすべては美しかった。すべてが。そしてわたし――わたしは自分を意識して緊張していた。けれどかれの優しさと気遣いが、そんなことをなんでもなくしてしまった。かれの優しさと気遣いが。わたしは涙もにじまず、出血さえもしなかった。傷つきさえも。しかし、かれはかがやかしくわたしを満たしていた。かれの髪が潮のようにわたしの上によせかえした。かれのどの部分も金属には思えなかった。目で見る以外には。ふれると皮膚のようだった。それも、凹凸も傷もない完璧な皮膚。そうしてわたしがとうとう恥じいりながら、すまなそうに、けれど溝足してこう言ったとき――「ごめんなさい。わたし、だめだわ。つまり、クライマックスに――」そんなおそろしい言葉もなんでもなかった。そんなことさえ言えた。そうしてほとんど次の瞬間、わたしの内部をしめている圧力が高まってゆき、突然エクスタシーの大波がうちよせ、わたしは息をつめ、かれにしがみついた。その波が去ってゆくまで。
かれはわたしを両腕で抱きしめていた。わたしは言った。
「でも、あなたは、どうだったの」
「いいえ」
「でも――あなたには――そうじゃないの?」
「わたしには必要ないことです」そうして、闇の中のかれの声にはおもしろがっているような調子があった。「お望みなら、そのふりをすることはできます。よくやることです」
「いやよ。わたしにはしないで。絶対に。お願いだから」
「わかりました」
わたしは眠りに落ちた。アステロイドがのぼり、ブラインドにひとつの穴をうがって、さしこんでくるまで。わたしは目をさました。かれが隣にいた。腕をわたしに巻きつけて。目は眠っているように閉じられていた。だが、わたしが身動きするのに気づくと、かれは目を開いた。わたしたちはたがいを見つめた。かれが言った。「あなたはきれいですよ」
わたしは否定したかった。だが、それがほんとうであることがわかっていた。かれといっしょにいる、たったいまのこの瞬間には。
わたしの喜びはかれの喜びだった。あんなこと、かれには愛することができないなどということを言ったなんて、わたしはおかしかったのだ。かれはわたしたちのだれをも愛することができる。かれは愛だ。
朝、わたしたちはいっしょにシャワーを浴びた。
「あなたもシャワーの必要があるの?」
「シティのほこりにあっては、だれだって必要ですよ」かれは緑の滝の下で髪をぬらしながら言った。「心配はいりません。わたしは錆に完全に耐性がありますから」
かれはわたしを喜ばせるために、いっしょに朝食を食べた。かれは若者そっくりに食べた。狼のように効率よく食物をのみくだすやりかたで。
「味、する?」
「それなりの機構を働かせれば」
「ばかげてるわ」わたしは言い、笑った。
わたしの笑いはかれをまきこんだ。それからかれの独壇場になって、わたしはなにも言えなくなった。ばかばかしいほどに魅惑的な声、別の人格、たわむれの歌、ジョーク。
宇宙飛行士≠フひとりが朝食の後かたづけをしにきて、わたしは、かれとは似ても似つかないこのもうひとつのロボットの存在に当惑して、口をつぐんだ。宇宙飛行士≠ヘヴィタミン剤とファイ・エクセレンス・カプセルののったちいさなトレイをよこした。わたしはそれを飲むつもりだった。そのつもりだった。だが、忘れてしまった。
わたしたちはベッドにもどった。エクスタシーが去ってゆくと、わたしはまた泣いた。
「あなたにはおそろしいことでしょうね」わたしはすすり泣いた。
「わたしがおそろしがっているように見えますか」
「演技するのね。それもあなたの性格のうちだわ。ついでに、わたしがきれいだと言うことも」
「あなたはきれいですよ。あなたの肌はクリームのようだ」
「ほんとうに?」
「そして目は宝貝の殻の光沢に似ています。海のあらゆる色彩がそのなかにあって」
「そんなことないわ」
「そうなのです」
「みんなにそう言うんでしょう」
「そうではありません。それに、言うことはみな別々です。それも、ほんとうであるときにかぎります」
わたしはベッドから出て鏡のところにいき、うつしてみた。髪を頭上にあげ、目を大きく見開いて。寝具の中のかれは、眠っている雄ギツネのようだった。微笑しながら、わたしの喜びを感じとっていた。
「あなた、オーガズムのふりをしたの」わたしは大胆にたずねた。「エジプティアのときに」
「何度も何度も」かれは言い、その声のなかのアイロニカルな狼狽の響きに、わたしはまた吹きだした。
かれが次にわたしを愛してくれたとき、エクスタシーはわたしをつらぬきとおす槍のようだった。わたしは叫んだ。そうして驚いた。
「ふりをしただけよ」と言った。
正午の数分前に電話が鳴りだし、ベッドぎわのコンソールの上で低いブーンという音をたてた。切り替え。わたしは画面は切って電話に出た。これでうつる心配はない。
「悪い知らせなんだ」クローヴィスだった。
「ひとちがいでしょ」とわたしは言った。「どなた?」
「ジェーン、ふざけないでくれよ。デーメータはいつおもどりだい」
「明日よ」
「こう早く、きみのみちならぬ恋のお邪魔をして悪いんだが、エジプティアが自分の権利を行使したがってさ。なんでもきみの金属のお相手を六時間貸し出すのにサインしただけだって。六時間だけ。きみはかれがほしい。ぼくは金を払った。でもこっちは手が出せない。エジプティアは十八で、名義は彼女のものなんだから」
「あのひとをとめられるでしょ……」
「いや。とにかく今日はほかの仕事があるんだ。それともぼくの天職はきみのお守りだとでも言うつもりかい」
悪意。なにかがかれの内側できしみたてている。かれがわたしを助けてくれたのに、かれは放りだされたから。そして、かれはシルヴァーを見てしまったから。
「どうすればいいの、クローヴィス」
「早いフェリーで、かれをアイランドに送り返してくれ。でないと、エジプティアはヒステリーを起こして弁護士に電話するぜ。またはあの海溝にいる母親にね」
「でも――」
「あいつがきみの友達だと思ってたわけじゃないんだろう」
室内のすべてのものが動きをとめた。奇妙だった。もちろん今までだってなにひとつ動いていたわけではない。だが、すべてが生き生きしていた。いまはもうそうではない。
「わかったわ」
「あるいは、なんならこっちへ送ってもらってもいい。それ、かれをね。エジプティアがとりにくれば、ぼくがなだめられる」
「あなたのアパートへ」
「ぼくのアパートへさ。川のまんなかとでも思ってくれなくてよかったよ」
「お金はかえすわ」わたしは言った。わたしはシーツの端をひねって固いよじれた結び目をつくっていた。
「急ぐにはおよばないよ」
わたしは電話を切った。
「どうしたんです」わたしの恋人がたずねた。腕がわたしの肩を抱きにきた。
「聞こえなかった?」
「聞きました」
「クローヴィスがあなたをほしがってるわ。そのあと、エジプティアが」
「どうやら、わたしは法的にはそのふたりに属しているようですね」
「かまわないの?」
「あなたを残していくのが気にかかる、と言わせたいのですか」
わたしはかれに抱かれた。すべてが空しいこと、すべてが終わってしまったこと、樹木から落ちた褐色の葉のように死んでくずれてしまったことがわかっていた。
「あなたを残していくのは気にかかりますよ、ジェーン」
「でもあのひとたちにも同じようにふるまうんでしょ」
「わたしは、ひとに求められるようなものになるのです」
わたしはベッドを出て、バスルームに入った。蛇口をひねって両手で長いこと水を受けていた。なんの理由もなく。もどってくると、かれは身じまいをして、マルベリー色のブーツをはいていた。
「あなたがここにいたいと思ってくれるとうれしいわ」
「思います」
「わたしのそばだけに」
「わたしを変えることはできません。あるがままのわたしを受け入れてくださらなければ」
「二度と会えないかもしれないわ」
かれはわたしのところに来て、もう一度わたしを抱いた。わたしはかれの服の感触を知った。髪と皮膚――どちらもそうではないのだけれど――の感触と同じように。みじめきわまりなかったが、それでもその感触はわたしをなぐさめてくれた。
「二度と会えなくても」とかれは言った。「もうわたしはあなたの一部です。あなたは、わたしといっしょに過ごしたことを後悔しておられますか」
「ううん」
「では喜んでください。たとえ終わってしまったことでも」
「終わらせたくないのよ」わたしは狂おしくかれを抱きしめたが、かれはキスして、わたしをもぎはなした。そつなく、決然として。
「あと十分で飛行艇が来ます」
「そんな――まにあわないわ」
「わたしほど速く走れる人間はまずないでしょう」
「お金は?」
「ロボットは無料です。スロットをたたけば、コインと同じように記録されます。電気の波長で」
「あなたの明るさが憎らしいわ。おいていかれたら、わたしには何も残らないのに」
「全世界がありますよ」かれは言った。「それに、ジェーン」かれは部屋の戸口に立っていた。
「忘れないでください。あなたは」かれは言いやめて、唇だけでその言葉をかたちづくった。「きれいですよ」
そうしてかれは行ってしまった。そしてその目のすべての色彩と光はくだけ、消えてしまった。
[#改ページ]
5
その日のことは書くまでもないだろう。わたしはかれのことばかり考えた。かれがクローヴィスのアパートに着くところを思い浮かべた。会話とあてこすり。かれがそれ以上に機知にとんだ答えをかえす。ほんものの日の光のようなかれのすばらしい微笑。かれらがベッドにいるところ。ほとんどなまなましく見えた。まるで奇怪な映像のように――泳ぐような腕の動き、肉の輝き。わたしの心は見まいとした。だのに考えずにほうっておくことはできなかった。クローヴィスを殺したかった。ナイフをつかんで、かれを殺したい。エジプティアも。そして、逃げだしたかった。外につどう闇の中に。外のほかの国に、ほかの世界に。
そうして午後七時ごろ、事態を一変させるようなことが起こった。わたしは不幸な乱れたベッドの上にまっすぐ身を起こしていた。そのときあの計画が浮かんできたのだ。気ちがいじみた計画、ばかげた計画。まるでかれがわたしに思考というものを教えてくれたかのようだった。あらたな、論理的な、なみはずれた方法で思考するやりかたを。
わたしは、ファイ‐アマルガム合金会議がどこか覚えていなかったので、情報オペレーターにたずねなければならなかった。待ちながら、わたしは確信が去ってゆくのをも待っていた。だが、それはどこにもゆかなかった。
それから会議場の番号につないでもらって、そのまま母が見つかるまで二十分待った。それでも確信は失せなかった。
「どうしたの、ダーリン」母が言った。
「ママ、わたし、自分のカードで買えないようなものすごく高いものを買ってしまったの」
「ジェーン。あと五分で、わたしが司会をする会議がはじまるのよ。あとにできない?」
「だめ、ママ。悪いけどいまでないとだめなの。それで、クローヴィスが払ってくれたの」
「あの話をしてくれたあとでクローヴィスに会っていたの? もっと慎重になったほうがいいわ」
「もうあのことはいいの」わたしは短く言った。
「ダーリン。画面のスイッチを入れてちょうだい」
わたしはいどむような気持ちでスイッチを入れた。母はわたしが裸でベッド、愛のベッドにいるのを見た。いままで自分が持っているとは知らなかったクリームのような肌と、宝貝の殻の光沢のような目をして。母はともかく、自分の相手にしているのが別人であること、いままでに会ったこともない人間であることを、悟ったようだった。
「そのほうがいいわ」母は言ったが、それが本心でないのはわかった。「あなた休んでいたのね」
母はいつもわたしに自分の身体を知れと言ってきたではないか。身体と気楽につきあえるように。いまはそんなことはいくらか不必要だと考えているようだ。
「ママ、クローヴィスが払ってくれたのよ。で、いまはわたしそれが使えないんだけれど。今晩かれにキャッシュをふりこんでくださらない?」
「その品物はいくらしたの?」
わたしはレシートを開き、冷たい口調で読み上げた。
母も冷たい態度になった。
「それはずいぶんな値段ね、ダーリン」
「そうだと思うわ」(でもうちなら払えるでしょう。うちはお金持ちの部類だもの)
「いままでそんなことしたことなかったのに、ジェーン。それ、いったいなんなの。車?」
「精巧仕様型ロボット」
ママ、わたし愛して――
「ロボットなの。なるほど」
「ピアノが弾けるの」
「あなたの言った金額からすると、当然でしょうね」
「つまりね、ママ。長いこと考えてきたんだけど、わたしなんというか――」言ったら最後よ、ジェーン、ジェーン、ジェーン。「自分ひとりでアパートに住むのがいいんじゃないかと思うの。数ヵ月だけでも、シティで」
「アパートに」
「わたしはどうしようもないねんねだわ。ママ。友達はみんな自分だけで住んでるのに」
「あなたには自分だけの部屋があるでしょ」
「それとこれとは話が別だわ」
「あなたの部屋はあなたのものよ、ジェーン。なんでもそろっているわ。アパートを持つのとおんなじ。そこで、なんでも好きなことをしていいのよ。完全に自由よ。アパートにいる以上よ。だってアパートには法的な規制があるでしょ」
「そんな――わたし――」
「あなたがまだまだ子どもっぽいことはわかりますよ。どうして日常の雑事をひとりでやっていこうなんて考えるの? それがどういうものかさえわかっていないでしょう。たとえオートマティック・アパートでも、よほど自我が強固でないと。ジェーン、あなたは――このことは帰ったらよく話しあいましょう」
「アパートでやっていくのに役立つようにロボットを買ったのよ」
「そう。あなたはもう手をうってしまったのね」
「でも、クローヴィスに払ってくださらない?」
「ダーリン、あなたはわたしに命令しようとしているみたいね。それがどんなにばかげたことかわかっているはずでしょ」
「お願い、ママ」
「もう行かなくちゃ、ダーリン。明日の晩、顔をあわせたら、ようく話しあいましょうね。あなたの意見をテープにとっておいたら。意識的によく考えて言いたいことをまとめるほうがいいでしょう。おやすみ。よくお眠りなさい」
電話と画面は切れた。
わたしはふるえ、悪態をつき、シーツを噛みしめた。
明日また母とこれを一からくりかえさなければならないのだ。そして母が勝つ。ばかばかしい。戦う相手は母ではないのに。エジプティアは十五のときから、母親の財産を好き勝手に使う権利を持っていた。月額のリミットはあったが、それだって次のふりこみがなされる前に、彼女が使いこみすぎてしまうのをふせぐためだけだ。だが、リミットの条件は月額二万IMU。クローヴィスはわたしの知るかぎりなんのリミットもついていない。クロエとダヴィディードもそうだ。かれらは倹約の習慣があるけれど。そしてまだ家にいるジェイスンとメディアだって、ケープ・エンジェルに自分たちだけの海の家があるし、プッシュボタン加速のロールス・アマダ車を持っていて、父親のサインをまねることで金を使っている。父親はまったくこれに気づいていない。また、かれらはそれぞれ二週間に一千の上限のついた六枚のクレジットカードの中から適当に使い、おまけに万引きまでしている。
そして、わたし。わたしは月額一千IMUだ。いままではそれでじゅうぶんだった。
はっきりいえば、じゅうぶん以上だった。なぜなら月の半分は母がわたしの服を買ってくれていたから。寝具も、石鹸も……わたしは自分の部屋部屋をあらあらしい目で見回した。必要なものはなんでもそろっていた。必要以上に。わたしは感謝すべきだ。目が豪華きわまる俗悪品にとまった(最悪の俗悪とは、俗悪はいけないという理由だけで俗悪を避けることだが)。それはアンティークのオリエンタル・ランプで、ヒスイの豹がわきについていた。母はわたしにふんだんに金をかけてくれた。絨毯ひとつとっても何千もの値段だ――
皮膚がむずむずした。なにかが頭の中でかちっと鳴った。
「だめ」わたしは声に出して言った。「だめ、だめ!」
わたしはシルヴァー――かれにはほかの名前をあげたかったが、まだあげていなかった――が歩道を歩いてゆき、あおむいて飛行艇を見送るのを見た。バルコニーの暗い空を背後にしたかれの頭。あれは二度目にわたしにキスするほんの少し前だった。かれがわたしを抱きしめた感じ。そうして槍がわたしをまっぷたつにした。わたしはあの小部屋を思い出し、かれの身体の時計仕掛けの神経が露出していたことを思い出した。クローヴィスとエジプティアがかれの所有権を争って喧嘩しているさまが浮かんだ。
夢遊病者のように、わたしはベッドから出た。ふっと母のことを考え、ラ・ヴェルトの香りさえ感じた。だがかれの匂いがわたし自身の皮膚の上に残っていて、心理的なものにすぎない母の香水の香りを消してしまった。
「いいわ。そうよ。もしあれがわたしのものだと思われているのなら」
自分で決定すべきだ、と母なら言うだろう。わたしはすでに一度お伺いをたてたのだ。彼女のほうは自分の意見を告げた。
「わかったわ、ママ。わたしが決定するわ」
自動冷蔵器にはまたワインがいっぱいになっていたので、わたしはまた少し飲み、それからカーサ・ビアンカ、シティ最大の、最高級セカンドオーナー・ストアに電話した。
自分が何をしたのかはっきりわからないうちに、わたしはシェ・ストラトスのわたしの部屋の中身いっさいを査定しにきてほしいと頼んでいた。裕福なものも時世によっては没落し、家財を売りはらう。しかし、カーサの人間のアシスタントに話をつけたとき、かれらは相当に驚いていた――驚き、かつ欲の皮をつっぱらせていた。もちろん、わたしをうまくまるめこむつもりだ。わたしはE・Mからきたレシートを見、S・I・L・V・E・Rの説明を見た。精巧仕様ロボット。そして値段。それだけはとってやろう。そしてほかのものを手に入れられるほどは。たとえばどこかの古いアパートを買える値段ぐらいは。それからあとは例の一千IMUのカードでやっていかれるだろう。慎重でさえあれば。
わたしは何をしているのだろう。自分でわかっているのだろうか。氷のような水が背すじをつたい落ち、頭はがんがんし、気分がよくない。けれどわたしはさらにワインを飲み、身じまいをして、顔に粉をはたいて、カーサ・ビアンカから派遣される者と自分のあいだにバリヤーを築こうとした。それからエレベーターに、外来者を受け入れる指示を与えた。エレベーターは、「ハロー、ジェーン。イエス、ジェーン。わかりました」と答えた。
査定員は一時間後に到着した。すばらしくハイカラな四十くらいの女性で、若返りコースは受けていないか、まだ効果が出ていないかだった。彼女は血のように真っ赤な長い爪をして、自分の仕事について心理学的にひどい勘違いをしているようだった。それともその爪はひとをおじけづかせるためなのだろうか。エレベーターからロビーに出てきた彼女は猛禽類のようだった。
「こんばんは」と彼女は言った。「わたしはカーサ・ビアンカから派遣されましたジェラルダインです」
「どうぞ、こちらへ」わたしは言った。パーティのマナーで。そう、いつもパーティでは、わたしはいまのようにおじけづいている。
わたしたちは鳥籠に乗って展望室にのぼった。
「あのすみませんが」とジェラルダイン。「おうちの他の部分もふくまれるのでしょうか」
「いいえ、わたしの使っている部屋だけです」
「お気の毒に」
わたしたちは展望室を通りぬけ、彼女は叫び声を上げた。藍の雲がバルコニー・バルーンに接していた。雲のなかには星がめちゃくちゃにちりばめられている。アステロイドが東のかたにネオンのようにかがやき、神々しくてよみとれない広告をかかげていた。
「ああ」とジェラルダインは感嘆詞を一手にひきうけていた。「ところで」と張り出し部分の階段を登りながら、「お売りになる財産がたしかにあなたのご所有のものであるという証明が必要なのですが、そのことをご存じでしょうか」
彼女ときたら、わたしが十歳の小娘でいいように扱えると思っているらしい。そうするつもりなのだ。わたしは彼女にいらいらしていた。思いがけなく母が帰ってきて、このいっさいに終止符を打ってくれたら、と望みさえした。わたしはいったいなんということをしてしまったのだろう。
「ここです」部屋に入ったときわたしは言った。宇宙飛行士≠フひとりが片付けておいてくれた部屋だ。
「そうですか。お電話では家財道具いっさいというお話でしたけれど」
「納得できるようなお値段を出していただけるのでしたら」とわたしは言った。声がふるえていた。
「いったいぜんたいどういうわけで、ここをお出になるんですか」ジェラルダインがためいきまじりに言った。
「恋人のところにいって住むんです。母は部屋の模様替えをしたいと言いますし」
ジェラルダインは大きな革バッグをあけ、軽量のミニ・コンピューターを出して、サイドテーブルの上にすえつけた。
「よろしければ、いま所有証明をお調べいたしますが」
わたしは目録テープをわたした。それにはわたしの個人ボディ・コードと、室内のすべてのものの記載と音響記録が入っていて、彼女のコンピューターはそれをテストし、正しいことを確かめた。目録はデーメータのテープ置き場にしまってあったが、宇宙飛行士≠フひとりにとってこさせたのだった。
コンピューターがかちかちとお決まりの音をたてている間に、ジェラルダインはぐるりと歩きまわって、ときどき、なにかしらをとりあげては、それにちいさな計測器をあてがった。
「コンピューターが一瞬で全額を出しますから」彼女は言った。「でもいいものをずいぶんお持ちですね。カーサ・ビアンカは大部分お引き取りできると思いますよ」
「衣類もあるの。化粧品戸棚も。ドレッサーも。デッキとテープも全部。なんならバスの備品もとってちょうだい。配管だけは困るけど」
「個人の一存でそういうことはできかねます」彼女は言った。
わたしはびくっとしたが、すんでのところであやまるのをこらえた。
「で」とジェラルダイン。「あなたの恋人がこういうものをくださるといいですね」
わたしは今度は黙っていた。そんなのよけいなお世話だわ。わたしの恋人、わたしの愛するひとが、最愛のひとが、何をくれようとくれまいと。そもそもくれられるものがあろうとなかろうと。
わたしは人形の戸棚をあけた。
「まあ!」とジェラルダイン。「いくつかは――」彼女は言いさしてやめた。「もちろん中古のおもちゃは家具より売りにくいものですわ。でもよほど保存がよろしいようですね。これでお遊びになったことはおありですの」
「半永久品なのよ」
母は、わたしがおもちゃ相手に攻撃本能を発揮してくれることを望んでいた。だから髪が決してとれない、耳もかけないものを選んでいた。傷ひとつないユニコーンの揺り木馬があり、つやつやの炭のように黒い毛皮の熊があった。「ほらね」心の中でわたしは言った。「ひとがあんたたちを買って大事にして、いっしょに遊んでくれるわ。今度こそね」わたしはジェラルダインの前では泣かないつもりだった。泣くものか。
わたしはワインをついだが、彼女には勧めなかった。彼女はどのみちわたしをこころよく思っていないのだ。
コンピューターは白い光とともに紙を吐きだした。ジェラルダインは注意深くそれを読んだ。
「そうですね。すべてきちんとしておりますね。スキャンしてみましょう。さ。サービス課のほうから明日いちばんでお値段をお知らせいたしますから。あるいはもしお望みならば、今夜おそくになるかもしれません」
「明日までにぜんぶもっていっていただきたいんだけど。お金のことも。そうしていただけないんだったら、ほかの会社にあたってみるわ」
「まあ、それは」とジェラルダイン。「わたくしどもの仕事は迅速でございますよ。でもそれほどとはまいりません。それほど速い会社はまずございませんね」
グラスをもっときつく握りしめていたら、こわれていたろう。映画の一場面のように。
「じゃ、けっこう。お手間をとらせて悪かったわね」
ジェラルダインはわたしを凝視した。驚いたようだった。
「わかりました。たいへんお急ぎのようですね。おかあさまは、このことをご存じないんですね」
「コンピューターによれば、この部屋のものはみんなわたしのものだとわかったでしょ」
「ええ。でもおかあさまは鳥が巣を飛び出すことを、まだご存じないんですね。そうじゃありません?」
母は知っている。わたしが話したもの。
ジェラルダインは白い革のスーツケースを見た。
「あのなかに何がありますの。おっしゃらないでもわかりますよ。服が二、三枚。お気に入りの化粧品のバッグ。ボーイフレンドのお写真。どういうことかしら。あなたの恋のお相手は独立していらっしゃるかた?」
コンピューターは黄色の光を出し、操作を終えた。スキャンは完全だった。
「バスルームとベッドルームは?」わたしはたずねた。
「このフレッドは壁を通してものが見えます。で、どうなさいます?」
わたしは自分を強いてふりかえって、彼女を見た。目がぬれてきていたが、わたしはまばたかなかった。水晶体は平たく冷酷だった。わたしの顔は銀色だった。
「二時間以内に、見積もりを出してちょうだい。わたしが納得いったら、次の一時間で運送機械をよこしてもっていって」
「はい、マダム。会社にそのように伝えますわ」
「十時までに連絡いただけないようだったら、ほかをあたります」
「真夜中にそんなことをひきうけてくれる会社はうちのほかにございませんよ」とジェラルダインは言った。彼女はコンピューターをまたバッグにつめこみ、計測器を落としこんだ。「便宜をおはかりできるかもしれません」と言い、ヒスイの豹をとりあげた。「もしかしたら」
わたしはとてもにぶかった。彼女が豹を持って立っていた時間は何年ものあいだに思われた。やっとわたしは彼女が賄賂をほしがっているのだと悟った。わたしはなにか社交上のエチケットを犯しでもしたように、すっかりのぼせあがってしまった。心の中を手探りしていると、ジェラルダインは豹を下ろし、きびきびと出ていった。
わたしは鳥籠型エレベーターのところまで送ってゆき、ボタンを押した。ジェラルダインは濃いマスカラに彩られた、下に小じわのあるかたくなな悲しげな目で宙に見入っていた。わたしは狂おしく考えた。だれもが何かしら高価なもので彼女に賄賂をしているのかしら。彼女のアパートは目前にせまった定年にそなえてコレクターズ・アイテムで埋まっているのだろうか。わたしはなんだか気の毒な気がしはじめた。彼女の疲れた肌、食人種のような爪。
ロビーについて、彼女は外に出て、予備のエレベーターのほうに歩いていった。ドアのところで彼女はためらった。ふりかえって、わたしを見た。
「たいへんだと思いますよ」彼女は言った。「貧しいということは。やってごらんになるのでしょうから、申しあげておきますけれど」
わたしはうちのめされた。ばかばかしい。
「ジェラルダイン」わたしはかさにかかって言った。突然、彼女に豹をやりたくなったからだった。不正も重大なこととは思われなくなった。
「どこへお送りしたら――」
「とっておおきなさいな。いまにいくらでもお金が入り用になりますよ」
ドアがしまった。わたしはロビーの床にすわりこみ、彼女もだれかの娘であったことがあるのだろうかと思った。わたしはそこにさらに四十五分ほどのびていたが、電話が鳴った。カーサ・ビアンカだった。真夜中にそちらへついて、お支払いをする――わたしがいままでに持ったことのない大金だった。それで充分だった。
カーサ・ビアンカの運送車がきて、いっさいがっさい持っていったときのわたしの態度といったら。わたしは泣いた(いいかげんに涙の記事はカットしたいと思うのだが)。わたしの生命が持っていかれるようだった。奇妙だ。いまのいままで夢にも考えたことがなかったのに。奇妙だ。
あれらのもののことを考えたとき、どれひとつとして自分のものに思えなかったのに。だが、そのときわたしは、あっというまにからになってゆく部屋の中を、機械を避けながらいそがしく歩きまわっては泣いていたのだ。さよなら、わたしの本。さよなら、わたしのネックレス。さよなら、象牙のチェス・セット。さよなら、炭色の黒い熊。
さよなら、わたしの子ども時代。わたしのルーツ。わたしの昨日。さよなら、ジェーン。
いまのあなたはいったいだあれ?
わたしは母あてにテープを残し、コンソールの上においた。母が入ってくれば、ライトがついて合図するようにした。わたしはあまりすじみちのとおった人間ではないが、なんとかすじみちをつけておきたいと思った。わたしは母を愛していること、いまに連絡をすることを説明しようとした。わたしのしたことも説明しようとした。シルヴァーのことはなにも言わなかった。ひとことも。それでもわたしの言ったことはすべてかれについてだった。わたしはかれの名前だけをくりかえしてもよかったのだ。母にはわかっていると思う。わたしの賢明な、そつのない、すばらしい母には。母にはなにひとつ隠しおおせない。
わたしと、カーサ・ビアンカの支払い小切手を中に入れた白いスーツケースは、午前四時の飛行艇でシティに向かった。飛行艇のなかには与太者の一団がいて、わたしにみだらな言葉をわめいたが、ポリコードを持っていることを察してか、何もしかけてこなかった。わたしはそれでもかれらがこわかった。こんなふうにひとのすぐそばにいたことはなかった。時間の遅いときはいつもタクシーで、明るいストリートや、別の通廊か、道の反対側を走った。まるで母のオーラがわたしを守ってくれていたようだった。いま、わたしは自分で自分を追放した。もう安全ではない。
あのときのことを思い出すと、体がこなごなになる気がする。いままでも、自分があんなことをしたのが信じられない。わたしは、レザンジュ橋のたもとのボックスから、レンタル会社の電話番号をまわした。そして妥協して、教えられた住所へタクシーをとばした。
管理人は人間で、わたしにたたきおこされたのでぶつぶつ言っていた。まだ真っ暗だった。外には街灯の光もなかった。もよりの街灯はストリートの前方五百フィート先だ。わたしの窓からは、れんがの瓦礫と鉄のけた[#「けた」に傍点]が見えた。地震でくずれ落ちる前がどんなだったのか、わたしにはわからないが、雑草がその上をおおっていた。夜明けの光が薄汚い窓からしのびいってくるまで、このことはわからなかった。そして廃物をおおう雑草の秋の色はわたしをふしあわせにした。いっそうふしあわせに。
もちろん眠れなかった。わたしは窓のそばの古い長椅子にのせたスーツケースに体をよせていた。ここにはいられない。|家《ホーム》に行かなければ。でも|家《ホーム》はどこだろう。
朝になっても、わたしはうずくまったままでいた。次にすべきなのは、エジプティアのところへ行くこと。そしてクローヴィスのところへ。クローヴィスにお金を返して、エジプティアを説得して。それからシルヴァーをつれてくる。わたしはほんとうにかれを買えたのだ。カーサ・ビアンカが家具を買ってくれたのだもの。かれはわたしのものになるだろう。ああ、わたしにはできない。これだけのことのあとで、けっきょくできない。かれを買うことも、所有することも。こんな恐ろしい場所につれてくることも。
わたしはうとうとし、目がさめたときには、太陽はけたを恐れるかのように、その後ろに小さくなっていた。胃がむかつき、痛んだ。家の貯蔵室で自分でサンドイッチを作って食べただけだっけ。わたしは借りたアパートの汚れたバスルームの蛇口から水を飲んだ。水は化学薬品の匂いがし、細菌がうようよしていた。
母はもうじき家にもどるだろう。母はどうするだろう。わたしは狂おしい気持ちになり、部屋から家具もろともわたしがいなくなっているのを見つけたときの、母の動転のさまを思いえがいた。わたしは母にほんとうにおそろしいことをしてしまったのだ、ということがわかりかけていた。賃貸アパートの建物のひびわれたセメントの階段をおり――ここのエレベーターはこわれているので――ロビーの公衆電話にとんでいきたかった。だがわたしにはそうできないのがわかっていた。とうとうわたしは、自分がおそれていること、すさまじく猛烈に、デーメータをおそれていることを悟った。わたしの幸福しか望んでいない母、彼女に理解できるかぎりの最上の幸福をしか望んでいない母を。
やっとわたしは使いかけのノート、お金とわずかな衣類といっしょにスーツケースに入れてきたノートを見つけだし、これを書きだした。わたしに起こった出来事の第二章を。
あたりが真っ暗になると、わたしは頭上のみじめな裸電球をつけた。だが、これも金がかかるだろう。わたしは心配になった。今月はあとカードで三百IMUしか残っていない。残りをいったいぜんたい何に使ってしまったんだろう。今夜は寒い。ウォールヒーターをつけたい。でももう少し待ってみよう。
星々がけたの中にとらえられた。このストリートの名前は実際に|忍耐《トレランス》≠ニいうのだ。
シルヴァー、あなたがほしい。あなたがほしい。これはみんなあなたのせいよ。けれどあなたを責めるわけにはいかないわ。あなたにとっては、わたしなんか存在していないもの。(生きた肉の感触はもしかしてあなたにはぞっとするものだったのじゃない?)でも、あなたといっしょにいたわたしはきれいだった。あなたがいっしょにいた一晩と何時間か。わたしはきれいだった。前には決してそうではなかったのに。
疲れた。明日、心を決めよう。
飛行艇が飛んでゆく。ここはしずかだ。電線がひゅうひゅう鳴っている音がするし、下からは決して眠りにつくことのないシティの喧騒が聞こえる。
[#改ページ]
第三章
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
薔薇はほかの名前で呼んでも
その本質にはかわりがない
そう知るべきであろう
あるいはキスの色
あるいはほのおの彩
薔薇にはもうひとつの名前がある
それを愛と呼ぼう
わたしはそれを愛と呼びたい
愛は海のよう
たえまなくうつりかわり
それでいてかわりなく
ひとつのもの
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1
わたしはあの夜、第二章を書いたあとで、かれの夢を見た。はじめて見たかれの夢だった。わたしたちはいっしょにシティの上を飛んでいた。飛行艇にのってではなく、宗教画にある天使の翼にのってだった。翼が開いたり、閉じたりするたびに、その動きが身体をかけめぐるのが感じられた。飛ぶのはやさしく、すばらしいことだった。かれがわたしのほんの少し先を飛んでいるのを見るのはすばらしかった。わたしたちはこわれたけたの上を過ぎ、ふたりの影が秋の草のオレンジ色の葉のあいだの地面に落ちた。飛行の夢はセクシュアルな意味合いのものと考えられている。そうなのかもしれない。だが、そういう感じはしなかった。
目がさめると、夢に見たと同じように朝はやくで、窓からオレンジ色のものがからみついたけたが見えた。わたしたちの影が落ちたあのけただった。その堆積の向こうにはシティの青い亡霊がぼんやり見えた。円錐形の塊が一列に並んで、遠くデラックス・ハイペリア・ビルが柱のようにそびえたっている。景色はもうみにくくもなく陰気でもなかった。太陽がその上に照っていた。もしこの堆積物が五年ほうっておかれたら、ひょろひょろした若木が生えてくるだろう。空はシルヴァーの上衣と同じほど青かった。
夢と、太陽と、秋草にぼうっとしながら、わたしはバスルームに行き、お湯を出した。高くつくことはわかっていたが。わたしはシャワーを浴び、服を着て、髪をとかした。髪はちがって見えた。顔も。髪は色があせてきていて、分子再構成処理が必要だった。ほうっておけば、ブロンズ色がすっかりすくなくなるだろう。だが、わたしは鏡台一式を売ってしまった。美容院へ行って、合う色を選び、分子再構成をしてもらうこともできるが、正確な色ではないだろう。それに高くつく。わたしはにぶい褐色だか何色だか知らないが、わたしの色彩チャートに合わない色にもどらざるをえない。でも顔は――いったい何が起こったのだろう。わたしは体を四分の三ほどまわしてみて、少し頬がくぼんだのを知った。高くほっそりしているが、まぎれもない頬骨があらわれていた。わたしは年上に見えたと同時に、奇妙に幼くも見えた。わたしはしみのある鏡に身を寄せた。そうすると、わたしの目はひとつになった。緑と黄色の斑点のある目に。
わたしはカーサ・ビアンカの支払い小切手をポシェットに入れて、肩にかけ、外に出ると、ひびわれたセメントの階段を下りていった。
そのときの感情は言い表わせないが、たしかにいままでとはちがっていた。ストリートはさびれた大通りにつながり、上を年代物の高架が走っていた。長く使われていないのでさびついている。わたしはフード・カウンターで、ロールパンとりんごとプラスティックのカップ入り紅茶を買い、シティ中央バスを待ちながら、それを飲み食いした。同じここにいてさえ、昼の光の中では、わたしのとるべき道は以前よりずっとはっきりした。もちろん今までにもときどき老朽化した地域に来たことはあった。いつもほかのだれかといっしょに、よそものとしてだが、それでもいくつかのはんぱな知識は仕入れていた。
青い空は歩道をおもむき深いものに見せていた。ひとびとがそこを動きまわっている。走ったり、口論したりして。そしてフード・ショップからは湯気が出ている。高架からは花が咲きこぼれている。
わたしはずっとシティを知っていた。今だって、少しもシティを恐れる必要はない。わたしのジーンズはみすぼらしく見えた。昨日はいたまま、もしゃもしゃした古い長椅子の上で寝てしまったからだ。これならだれの注意もひくまい。シャツのほうもみすぼらしくなりそうだ。
「またバス、遅れてるね」わたしの後ろで、女性が舌たらずの言葉で、ほかの女性に話しかけていた。「飛行艇に乗るのにサウスまで歩こうとも思ったけど、高いし」
「機械の故障なんだよ」相手の女性が言った。「下町じゃちゃんと運行してくれないのが、問題だねえ。シティの中心じゃ、きちんとしてる。でもここは外れてるからね、どこでも歩きってわけさね」
それからふたりはささやきあい、わたしは、話の内容が自分のことだと悟った。緊張と恐れで、体が熱くなったり冷たくなったりした。それから女優≠ニいう言葉がいかにも気の毒げに、嘲笑と興味をもって口にされるのが聞こえた。わたしは仰天した。いくらこの貧民街でも、自分があのエキゾティックなエジプティアのようなものに思われるなんて。同時に嬉しくもあった。街の片隅出身の女優であるということは、わたしも生活のために苦労をしているということだ。みなはわたしを憎まないだろう。わたしは可能性のひとつのシンボルであり――とはいってもそのために飢えかねなかった。
やっとこさバスが来た。わたしはビーチ通りで下り、マグナム銀行に入っていって、小切手を現金化した。
女優。わたしは女優だと思われている。あのコッパーのように。
それから飛行艇が来た。わたしは習慣にひきずられてそれに乗り、金を払いながら後悔した。わたしはお金に対してとてもつつましやかだったのに、突然不必要なぜいたくに陥った。これこそわたしが状況に適応してゆけないといういちばんの証拠ではないか。だが、いまはそんなことを考えてもはじまらない。母のこともだ。クローヴィスのことも、エジプティアのことも、かれのことさえも。
わたしはラシーヌで下り、ニュー・リヴァー橋をクローヴィスのアパートのある建物さして歩いていった。
かれの住まいの戸口まで来たとき、体じゅうの骨という骨が突然溶けたようになったが、わたしはドアに向かって、入っていいかとたずねた。
もしかしたらかれ、いやかれらは外出中かもしれない。あるいは――忙しいか。そうなら、ドアはあかないだろう。
ドアはあかなかった。あかなかった。それからあいた。
わたしは歩み入った。楯か何かのようにポシェットを体の前にかまえて。そうして長椅子や枕や趣味のよい装飾品の置いてある居間をぐるりと見わたした。だれもいない。
わたしのおなかのなかで、二匹の蛇が争いあったが、わたしは無視した。黒いクッションのある長椅子に腰を下ろし、ガラスにうつるかれの姿に向かって「あなたを愛してるわ」と言ったあの窓のほうを見つめた。かれはわたしを見、あの言葉を理解したのだった。
数分後、クローヴィスが外出でもするようなダークブルーのスリーピースを着た姿で、メイン・ベッドルームから出てきた。かれはいつものように優雅でくつろいだ雰囲気だったが、わたしを見るやいなやぱっと赤くなった。大人のクローヴィスが赤面するなんて、はじめて見た。苦しげな血の色の彼が皮膚の内側にぶつかって、その勢いでこめかみまで脈がかけのぼったというふうだった。わたしはかれが十七だったことを思い出した。そしてわたしも同情だか、感情移入だかのせいで顔に血がのぼりはじめたが、視線を落としはしなかった。背を向けて、ドリンクのディスペンサーに向かって歩きだしたのは、クローヴィスのほうだった。
「ハロー、ジェーン。何を飲む?」
「飲み物はいらないわ。あなたのお金を返しにきたの」
「それはそれは。ぼくは代わりにシャイロックよろしく肉を一ポンドもらわなければならないかと思っていたよ」
かれは何かをついだグラスを手にふりかえり、それを飲み干した。ふたたび冷静にかえっていた。
わたしは立ち上がり、財布をあけて、かれの前のテーブルに大きな札を数えてのせた。かなり時間がかかった。かれはときどき飲み物をすすりながら、見ていた。かれのシャツの袖口にはレースがついていて、シルヴァーが大階段で着ていたルネッサンスふうのシャツそっくりだった。
わたしが手をとめると、かれは言った。
「かれはここにいないよ」
「わかってるわ」わたしだってわかっていた。気のせいであろうとなかろうと、かれがここに、わたしの近くにいたら、わたしにわかったはずだもの。「じゃ、エジプティアに何を買ってあげたのか教えてちょうだい。毛皮のコート?」
「いや、そいつは彼女が自分で買ったよ。後払いで」
「じゃ、おごってあげたランチの代金払いましょうか」
「いいよ、ジェーン」とクローヴィスは言った。「ジェーン、ほんとにもっとあとでよかったのに」
「だめよ」
「払ってくれってママに泣きついたのかい」
わたしはかれを見すえた。まったくふしぎだ。こんなにかれが憎くて嫌悪をおぼえるほどなのに、なおかつこんなに親しみを感じるのは。クローヴィスと喧嘩する気はまったくなかった。かれにうちあけたくもなかったが、それでも何かがそうさせた。もしだれかにうちあけるとすれば、その相手はまずかれだったからかもしれない。
「どうやってお金を作ったか知りたい?」
「ぼくがしんそこ驚くことかい?」
「かもね」わたしはひるまずに言った。「わたしは自分のものを全部売り払ったの。少なくとも自分のものだと思っていたものをね。わたしの部屋の中身よ。ベッドや椅子や、装飾品や本やステレオ。いっさいがっさい。それから服の大半、それに――」
「なんたることだ」クローヴィスは言った。かれは箱からシガレットを一本とり、オートマティック・ライターにこすりつけて、吸いはじめた。「それで、デーメータが今朝七時半に電話でぼくをたたき起こしたんだな」
わたしはかれから身をひいた。一歩さがりさえした。
「ママ、なんて言ってた?」
「いつもどおり丁寧かつ冷静。まあ、そこそこにね。ただこうさ。クローヴィス、ジェーンはそちらにおります? ぼくは、いませんが、いま何時かご存じなんですか、と言ってやった。すると、彼女は、そんなにじゃけんにしないでください、クローヴィス、ジェーンがどこにいるか、お心あたりはありませんか、と言ったよ。ぼくは、かいもく見当がつきませんな、と答えた。じゃけんにするのは楽だった。自然にそうなってた。そしたら、彼女は切った」
「あなた、ひとりだったの」
「ひとりっきりさ」
「かれといっしょじゃなかったのね」
「かれ? ああ、ロボットか。いや。あいつなら、エジプティアに送り返した。彼女がほしがってたからね。何かの用で」
「あなたもほしがったでしょ」
「ああ。きみはぼくの見え見えの欲望に気づいていたのか。ぼくも遠慮というものがないからね」
「でも、わたしはいまお金を返したわ。あなたの権利はないのよ」
「いかにも。でもエジプティアは――」
「エジプティアならまるめこめるわ」
「きみが?」クローヴィスはまじまじとわたしを見返した。「これがあのかわいいジェーンのせりふかね。愛が人間の精神に及ぼすなんたる奇跡、なんたる化学変化!」
わたしは自分のしたことについて、ただしゃべるつもりだった。それ以上のことをするつもりはなかった。だのにわたしの腕はばね仕掛けのようにはねあがり、クローヴィスの顔をひっぱたいていた。痛かったにちがいない。そしてクローヴィス、潔癖で、ベッドルームの中以外ではひとと接触しない主義のクローヴィスは、恐怖をおぼえたことだろう。
そう、痛かったのだ。かれはわたしから後ずさり、目をそらして、ものすごく冷たい声で言った。
「これ以上やるつもりなら、出てってくれ」
「わたしがここにいたいとでも思ったの」
「いや。きみはきみの金属のおもちゃを追いかけてシティじゅう走りまわってればいいさ」
「あなたがかれを送りつけたエジプティアのところへ行くわ。どうしたの、クローヴィス。あなたもかれに本気になる前に、かれを追いだしちまわなければならなかったってわけ?」
「何を言うんだ。きみの頭に血がのぼって制御不能になってるからって、ほかの人間を同じ尺度ではかるなよ」
わたしはごくりと息をのみ、ほとんどからっぽになった財布をにぎりしめて、ドアに向かってかけだした。
エレベーターの中で、わたしは何度もくりかえした――制御不能、制御不能。それからヒステリックに笑いだした。たしかにわたしは制御がきかなくなっている。だからなんだというのだ。わたしはヒステリックに笑いながらエレベーターから下りた。そこで待っていた、大々的な若返り処置を受けたカップルがびっくりした。
人生は足をひきずりながら歩く道。何をためらうことがあろう。足をとめでもしたら、こわくなる。何がこわいかわかってしまう。だが、なんておかしいんだろう。ひと月前だったら、エレベーターの中で――あるいはどこででも――ひとりで笑っているのを見られたら、恥ずかしさに身をちぢめていたと思う。わたしはクローヴィスをひっぱたいた。だが、かれの言ったとおりだ。わたしは変わった。
アイランドにわたるにはフェリーに乗らなければならない。橋が修繕中で閉鎖されているからだ。そうでなかったら、徒歩三十分の道のりを歩いたのに。
アイランドをとりまく水はかつて貯水池に使われていて、水辺にそって木が生えているので、フェリーはカーブしなければならない。未知の、あるいは未来の、あるいは存在しないかもしれない読者のかたはご存じかもしれない。そしてコンクリートのプラットフォームが橋塔の上にのり、裕福なひとびとの塔が風光明媚な庭園のなかにそびえている。
エジプティアはてっぺんの階に住んでいるので、プライヴェートなルーフガーデンがある。その中央にはミニチュアの高さ十フィートのやしの木々とプールがある。外壁に設置されたエレベーターで、卵型の金めっきの戸口までのぼってゆくと、あのトレランスの賃貸アパートを見たあとでは、いっさいが信じられぬもののように思われる。それともあの賃貸の建物のほうが信じられないのだろうか。たしかにこれは階級の呼び声だ。わたしはまっすぐにシェ・ストラトスに帰ってもよいのだ。
(クローヴィス、ジェーンはそちらにおります? ジェーンがどこにいるか、お心あたりがありますか。きっとエジプティアにも同じ電話をしたのだ。ジェイスンとメディアにも。そしてクロエにも。でもダヴィディードは別。かれは赤道にいるから、ママ。でもエジプティアにききさえすれば、おそらくクローヴィスがばらしてしまったシルヴァーのことがわかるはず。シルヴァー。かれのことをそう呼びたくはない。それは登録名だもの――わたしはエジプティアと争わなければならないのかしら)
エレベーターは金めっきの卵型の扉の向かいにつき、わたしを、扉の前の高い塀にかこまれた囲いにはきだした。エジプティアの鉢植えの植物は枯れかかっている。彼女がホースの栓をひねるのを忘れたのだ。植物が茶色にからからにひからびたとき、彼女はそのために涙を流す。後悔してももうおそい。
わたしはドアパネルにふれた。
「どなたですか」
ドアの声はエジプティアのものだ。ビロードのように官能的な、再生された声。
「ジェーンよ」
「ちょっとお待ちください」
かれはエジプティアの声を気に入ったと思う。かれは音楽家だもの。彼女の声はさまざまの抑揚に富んでいてすばらしく音楽的だ。かれはここにいる。感じられる。わたしはばかなまねをすることになるだろう。わたしは自分の全世界を売ったのに、エジプティアは「だめ」と言う。わたしには何も残っていないのよ。でも彼女は言うだろう。「だめ」と。そう、それでもかまわない。エジプティアがかれを返してくれと言ったというのは、たぶんクローヴィスのでっちあげだろう。だが、クローヴィスは――意地悪な見かたをすれば――楽しんだのだ。そう、かれを楽しんだ――それからかねてほのめかしたように、エジプティアのところに送りかえした。悪意に満ちたこぎれいな結末のつけかた。そしてエジプティアは愛人をうけとって、また一晩を過ごした。あるいは夜の一部を。彼女がかれの価格をほかのもの――いまはわたしだが――にはらってもらったということは、彼女を説得する理由にはならない。彼女こそ切札のエース、正当な法的所有権を持っているのだから。彼女は、「だめ」と言うだろう。
十分してから、もう一度パネルにさわってみた。
「どなたですか」
「ジェーン。さっきも言ったけど」
「エジプティアには連絡をつづけています。ジェーン。お待ちください」
彼女はいまかれとベッドにいるんだわ。だから応えないのよ。だから入れてくれないんだわ。かれにしがみついて、エクスタシーに叫んでいるのだ、わたしと同じように。かれの顔が彼女の上にある。あるいは彼女の長い黒髪にうもれている。彼女はすばらしく美しい。住まいも超豪華だ。かれは芸術的な目で賛嘆するだろう。わたしはかれが賛嘆するようなものをなにか提供できるかしら。あの悲惨きわまる部屋。わたし。ひっかえしたほうがよさそうだ。
でもわたしはそうしなかった。
突然ドアがあいた。
とたんにすさまじい、思いもかけない騒音がわたしを襲った。わたしは思わずドアからすさったが、それから前に進み、ためらいながら入口に立っていた。おかげでドアは閉まることができなかった。
そうしているうちに、ロードが鏡だらけの長い廊下をこそこそとやってきた。ロードだということは覚えていた。シルヴァーに再会したあの晩、バビロンの庭園の中に案内してくれたぐにゃぐにゃの手のロード。そしてロードのほうもわたしを見覚えていた。
「おお、なんと、きみか」きどった姿勢になって言った。
「ええ、なんと、わたしよ」わたしは言った。楽しい気持ちになった。かれの言った言葉をおうむがえしにしたにすぎなかったけれど、それでも気のきいたことを言えたように思えたからである。(この手はこれからも使えるかしら)
「じゃ、入ったら。ちょうど『孔雀』の苦悶の修羅場でね」
劇の話だろう。
「ふつうはゴッドヴィル劇場でリハーサルするんだが」かれは鏡にうつるおのが姿をのぞきこみながら、つけくわえた。「いとしのエジプティアがみんなを招待してくれたのでね。これからフェリアーズでランチにするところだ。きみも来るかい」
「遠慮しとくわ」
「どうもきみって酔っぱらって吐いちまった子としての印象が強くてねえ」
わたしは何か言い返したかったが、何も思いつかなかった。それからひらめいた。
「あなたのガールフレンドはみんなよくそういう手を使ったんじゃない? あなたはお酒のせいだと思ってるかもしれないけど」
わたしはかれのそばを通り過ぎて玄関を抜け、エジプティアの広いサロンに入っていった。頭がわんわん、がんがんしていた。自分自身も信用できなかった。わたしはぼうっとして、熱にうかされたようにそこに立って、かれを探し、でも見つけることができなかった。床はきれいに片づけられ、五人の男優がそこで派手な喧嘩をしていた。かたや隅には三人の女優が頭をのけぞらせ、目を伏せ、腕から手先までぴんとのばして立っていた。端にはほかにも、立ったりリクライニングチェアに横になったりしている数人の男女がいた。ひとりはインド虎の皮をまとっていた。ちいさな機械をそばにひきつけた男はコーヒー・テーブルの上に足を組んですわり、スクリプトを調べている。ほそくてすてきなその男は一、二度、ほそくすてきな声で呼んだ。「ちがう、ポール、腰だ、腰だよ。コリンス、それじゃまるで相手にアイスクリームを売りつけてるみたいだよ。そうじゃなくて、相手のはらわたをえぐるんだ」
「おれのアイスクリームを食っちまったって?」きらきら光るステッチの入ったジーンズの若者コリンスが叫びかえした。
近くの戸棚の上にのせてあったボンボンのトレイがにぶい音とともに床に落っこちた。
エジプティアは中二階の寝室に通じるちいさな階段の上に立っている。その顔が真っ青なので、わたしはだいじょうぶだろうかと思った。それからそれが役柄のためのメイクだということに気づいた。彼女はわずかに体を乗りだしていた。目は宙にうがたれたふたつの穴、中心が金色をした穴だった。彼女はほかのものが知りもしなかったような深さで、そのシーンを生きていた。完全無欠で非現実的だった。ほんとうだ。なにかしら名状しがたい甘美な意味において、彼女はロボットのようだった。かれは、このことに反応をしめしたろうか。彼女のしみひとつない肌、なめらかで水気の多い果実のような肌に、彼女の海のような髪に?
最後の俳優が倒れた。
エジプティアの唇が開いた。いよいよ彼女のせりふだ。そうして、わたしの愛だの精神的外傷だの、人生の混沌だの、かれが見つからないことに対する恐れだの疑惑だのそれらいっさいの重荷にもかかわらず、わたしは呪縛され、せりふを待ちうけた。そしてまさにその瞬間、ロードが部屋の反対側からこう叫んだのだ。「エジプト。きみのちいさな金髪の友達がきてるよ。ちょっと面倒みてやってくれるかい」
できるものならかれをぶち殺したかった。わたしはみなの注目の的になり、かれの失策のとがを負わされて、恥じいった。エジプティアのロボットのような光学レンズの目がまばたいた。失神からよみがえったかのように。わたしを見はしたが、だれだかわからないようだった。彼女はだれ? アンテクトラの苦悶に満ちた世界の住人ではない。
わたしは歩み寄った。
「邪魔をするつもりはなかったのよ」
「別に……いいわよ。どうしたの」
「お話があるの。今でなくていいわ。終わってからで」
「そう」彼女の目が閉ざされた。わたしは彼女がくずおれるかと思った。頭がくらくらした。
「おお、ジェーン」と彼女は言った。
「かれはどこ?」とわたし。「それだけ教えて、お願い。お願い、エジプティア」
「だれのこと?」
ふいに、わたしたちそれぞれの苦悶のなかの回路が接触した。
「シルヴァー」
「どこかにいるわ――ベッドルームか――屋根の上か」
「いっしょじゃないの。どうして?」
「ダーリン、かれはロボットよ」
回路がつながったときと同じように突然、わたしは彼女の声のなかにかすかだがまぎれもなく残酷なものをききとった。身をひくどころか、わたしは彼女の両腕をつかまえ、彼女の大きな目はわたしの上をさまよった。すべてに対して開かれている目。何も見ていない目。
「エジプティア、わたしありったけのものを売りはらったの。母の家を出たわ。クローヴィスにお金を――かれの代金を返したの」
やっと彼女に届いた。彼女の内部に向けられた集中力の、蜂蜜のようにすべすべしたスロープの上で。
「ありったけ?」彼女はかすれ声を出した。「でもあんた――」
「わかってるわ。自分のものを全部売りはらってやっとお金が作れたの。服まで売ったわ。エジプティア。でもあなたなら、あなただけは、わかってくれるでしょう」
わたしたちの背後では、話が聞こえないので俳優たちが退屈しきったため息をもらし、エジプティアのミネラル水や酒をのみ、ヴィタミン剤やビルを口に放りこんでいた。わたしはかれらの存在など信じるのをやめていた。ただ彼女をしっかりとらえていた。
「きいて、エジプティア。あなたは感じやすいし、とても繊細だわ。あなたは自分を愛している――かれはロボットよ。でもわたしはかれを愛してしまったの。ほかのひとにはどんなにばかげて聞こえるかわかってる。でも、あなたはわかってくれるひとよ。あなたなら。わたし、かれを愛してるの、エジプティア」
わたしは彼女の基準にうったえていた。彼女の目は涙でうっとりうるんでいた。わたしの目も同じにちがいない。
「ジェーン……」
「エジプティア、かれはわたしの命だわ」
「ええ、ジェーン、わかるわ――」
「エジプティア、わたしにかれをちょうだい。ここから連れてゆかせて。あなたにはなんでもある。才能も――」わたしは本気でそう言った。ほのおの香りのように、その一端をかいまみた。そうして真理を使って嘘をつくのは効果的だ。「あなたは才能があるわ――でも、わたしは――かれが必要なの。エジプティア。エジプティア!」
彼女はきつくわたしをひきよせた。傲然たるまなざしでわたしを見つめた。彼女こそアンテクトラ。彼女こそ神。
「連れておいきなさい」彼女は言って、わたしを放した。
わたしはそのわきをすりぬけ、階段をかけあがり、ベッドルームに通じるロビーに入った。ルーフガーデンに通じるドアがひとつあり、わたしはやみくもにそれを選んだ。めまいがしていた。わたしはプールの所に歩いてゆき、そのわきにくずおれた。そして笑った。ほんとうに気が狂ったかのように大声で笑った。自分を両腕で抱きしめて、身をゆすり、ぜいぜいとあえぎながら、色あせた金の肩かけのような髪をふりまわした。
彼女をまるめこんだわ。でもほんとうにばかばかしいのは、わたしが自分の言葉を一言一句信じていたこと。
やがて、わたしは立ち上がった。
非物質的なスポンジケーキ色の雲の艦隊がのろのろと、青い空を横切っていた。ちいさな鉢植えがかたかた揺れていた。プールは果汁のように緑色をしていた。ギターを体の前にななめにかけ、両腕で抱きかかえるようにしながら、かれが、わたしから十フィートと離れていない水辺にすわっていた。暗青色の服を着て、影がかれの上にもつれ、顔を隠していた。表情はおごそかでしずかだった。目は無表情でうつろで、スイッチが切り替えられるところだった。しだいしだいにその顔が澄んできた。かれは微笑しなかった。わたしは不安を覚えた。
かれは言った。「どうしたのですか」
「なんですって?」わたしはなんと言ってよいのかわからなかった。「わたしに会えて嬉しくないの? あなたはだれに会ったって嬉しいのだと思っていたわ。クローヴィスといて楽しかった? そしてエジプティアといて、もっともっと楽しかった?」
かれは答えなかった。ギターをわきに置いた(ギターと余分の服はエジプティアのものにちがいない。わたしといっしょに出てきたとき、それらは置いてきたのだから)。かれは立ち上がって、わたしのほうに近づいてきた。そしてすぐそばでたちどまり、わたしの顔を見おろした。
わたしはかれの顔が見られなかった。わたしはもう一度言った。「母の家を出てきたの。お金はクローヴィスに全部返したわ。エジプティアに、あなたが必要だって話したら、あなたを手放すと言ってくれたの」わたしは当惑して顔をしかめた。彼女はどうしてかれを手放すなどということができるのだろう。「わたし、スラムにあるネズミ穴みたいなところに住んでるのよ。あなたは人間で、わたしの恋人のふりをしなければならないわ。どうやって生きていったらいいのかわからないし、とどのつまりはのたれ死ぬかもしれない。そうしたら、あなたはエジプティアのところに帰ればいいわ。昨日は彼女と寝たの?」
「わたしは眠りません」
「わたしのいう意味はわかるでしょう。ね?」
「いいえ」とかれは言った。「わたしは彼女のロボット倉庫のなかで眠りました。昨夜はあのひとは男性といっしょでした」
わたしは目をあげて、かれの考え深げな平然とした美しい顔を見た。
「彼女――そんな――」
「信じられないほど驚いているのですね」
「くたばれ、エジプティア!」わたしは叫んだ。男の子のつくような悪態だったが、わたしは文字どおりのことを思っていたのだ。こんな怒りはいまだかつて感じたことがなかった。目がくらんだ。
かれはごくそっとわたしの手をとった。
「ジェーン、なんでもないことです」
「重大なことだわ」
「わたしは機械です」
「それにクローヴィス――クローヴィスなら――」
「クローヴィスはわたしをロボット倉庫に入れませんでした」
「それはそのはずよ。ああ、なんてこと」わたしはすてばちになって叫び、かれはわたしを抱きしめた。わたしたちは身をよせあった。ふたりの影がすみずみまでしずかに、果汁のようなプールの中に映っていた。
やっとわたしは言った。
「もし、わたしといっしょに来たくないなら、それでもいいわ。ここのほうが芸術的ですもの」
かれは言った。「あなたのつけているのはなんの香水ですか。すてきな匂いがする」
「なんにも。なんにもつけていないわ」
「じゃ、あなたの香りですね」
「そんなはずないわ。人間の体なんてあなたにはぞっとするものに決まっているわ。もし匂いがかげるとしたらだけれど」
「人間の体はすばらしく誘惑的ですよ。だって、それも物質の別のかたちにすぎないではありませんか」
「下にはぐちゃぐちゃの内臓があってね」
「それも機械の一種でしょう。いくらか効率が悪いかもしれませんが。生物としてはずっとすばらしい」
「うう」わたしは子どもみたいに言った。かれは笑った。
わたしはそこでかれを見て言った。
「もういいわ。これはわたしの決断。でもわたしはあなたのために魂を売ったのよ」
「そうですか」とかれは言った。「それを買いもどしたいですか」
「ただ、あなたが欲しいだけ」
かれの目は暗かった。影のせいかもしれない。
「では、わたしはそれに値するようにつとめましょう」
[#改ページ]
2
「ここがそんなにひどいところですか」二時間後、かれはそう言っていた。わたしはトレランス街のスラムのアパートの入口で立ちすくんでいた。
「暖房はつけられると思うの。冬までには。気をつけてお金を節約すれば。ひび割れや穴はふさぐ方法があるでしょうし」
「ありますよ」
「でも、ああ、とてもひどいわ。それに臭い――」
「臭いなんかありません」
「あるわよ。人間のみじめさの臭いが」
「じゃあ、陽気におなりなさい。そうしたらなくなります」
わたしはあっけにとられてかれをまじまじと見た。かれは即席のばかばかしい冗談を言ったのだ。わたしは声をあげて笑った。部屋の色合いが明るくなった。わたしは夢のあとで、太陽がさしこんできたのを思い出した。
「でも」わたしははげた壁に手をあてた。「どこから手をつけていいかわからないわ。やりかただって」
「なるほど」とかれは言った。「わたしが投資だったわけですね」
わたしたちはまたシティに出た。かれはわき道の歩道に入り、わたしを案内していった。そして変わった安い食料品店や家具屋に入っていった。食べる必要のないかれが、どの食品を買えばいいかわたしに教えてくれた。わたしだってときどきは自分で考えた。かれは高架下のアーチの下に、糊の缶や板が鏡にたてかけておいてある露店を見つけた。かれはどこに何があるかなんでも知っているのだ。思いもかけない場所がみんな役に立つ。
日も暮れかかり、わたしたちは食べ物の屋台に足をとめた。かれには人間としてふるまうよう頼んだものの、わたしの不安は色あせていた。わたしにとって、かれは人間だった。こってりしたおいしい食べ物をしこたまつめこんで、自分の食欲に驚いた。わたしだけが食べた。そしてこのことをふくめていろいろなことについて考えはじめた。
「財政がきびしいのでしょう。わたしに食べるふりをさせるのに、お金を無駄使いすることはありませんよ」
「少なくともコーヒーは飲んで。それにもう寒いわ。みんなコートを着てる」(わたしでさえ、そうだった。わたしは毛皮のジャケットを長椅子に広げ、カムフラージュのために、はげおちたしっくいをこすりつけさえした)「エジプティアからあなたの衣類をもらってくればよかった」
かれはおもしろがった。「いまでもとってこれますよ。わたしなら」
「だめよ!」
「彼女が一服もって、わたしを誘惑するからですか」
「そうよ。あなた、寒そうなふりできる?」
「口から泡をふいて、歩道にぶったおれることもできますよ。もしお望みとあらば」
「やめてよ」わたしは息がつまりそうになって言った。
だれかがわたしたちのわきに寄ってきた。油でいためたペッパーやオニオン、パン、ビーフ、マスタードの煙につられて。
「おお、なんて寒さだ」シルヴァーははっきり言って、足を踏みならした。
新しい客はちらとかれを見て、うなずいた。
たそがれ、星々が点々と輝きそめ、下町のストリートランプと――星よりずっと数は少ないが――|妍《けん》を競ったころ、シルヴァーは高い塀にはさまれた碁盤目のような街区を通って、わたしを魚の油のほのおに照らされている市場の中に連れていった。明かりがかれをとらえ、冷やかな黄金の色に見せた。かれは柱から柱へわたしを案内していった。かれの腕にはすでに、板や糊や溶剤やしっくい、パン、乾燥ミルク、オレンジなどの入った紙袋が楽々とおさまっていた。そんなものをかかえているにもかかわらず、かれは物語から抜けだしてきたような雰囲気を持っていた。わたしはかれから目を離せなかった。わたしがかれを買ったことなど忘れていた。どこでもひとはかれを見た。わたしだけではない。かれは、たいてい気にもとめず、目があったときには相手ににっこりした。すると相手の顔にはぱっとほのおが燃え上がる。
「ここに市場があること、どうして知ってるの」
「何がどこにあるか、わたしの知らないことはありません。シティのあらゆる建物、あらゆる裏通りにいたるまで。あらかじめプログラムされているのです。広告のキャンペーンのとき便利だということもありますし、一般的な便宜もあります。これから、わたしがいかに便利かわかっていただけるでしょう。やれやれ、寒いな」だれかが通りかかったので、かれはつけくわえた。
わたしたちは衣料品を売る露店でたちどまった。汚れたもの、派手なもの、かろうじて着られるようなもの。閉鎖に追いこまれた劇場からの払い下げ品、没落した裕福な人間から買いとった第二の持ち主が自分も困窮して売りはらったもの。母なら、だれかが袖を通したものなどいやがっただろう。たとえわたしの服だって着たがらなかったひとだ。
店の女主人はかれに熱烈に惚れこんでしまった。値段を半値に落としてくれた。かれにうってつけの、十六世紀ふうの暗赤色のビロードのマントがあった。彼女はかれにそれを着せかけ、そうしながらぎゅっと抱きしめた。着る前に、かれが、なんて寒さだ、と言ったからである。
「まあ、この髪」と彼女は言った。「自然の色じゃないのね」
「まあね」とかれは言った。
「似合ってるわよ。それにメイキャップも。ね」彼女は突然わたしをも視野に入れて言った。「こっちはいかが。たったの二十にしておくわ」
ほのおの下は暖かかった。黒い秋空にふきあげる夏の昼の暖かさ。はるか彼方に、シティの中心部が砂糖の絶壁のようにそびえ、その砂糖つぶのひとつひとつは灯だった。見せられたジャケットもきらめいていた。緑の孔雀の羽根と鏡の小片がついている――最初にかれを見たとき、かれが着ていたあのジャケットにそっくり……
「二十は無理なんだ」とかれは言っていた。「キャッシュでは」
「じゃあ、お持ち合わせはいくら?」
わたしは皮膚の下がこわばるのを感じたが、かれはただにっこりして、首をふった。その目は悪魔のように抗いがたいものだったので、わたしはかれが催眠術でもかけたのかと本気で思った。女主人はこう言った。「十。では十でいかが。お嬢さま、白いお顔と大きな目にお似合いよ」
わたしはジャケットが欲しかった。かれといっしょにいるから。それがかれのことを思い出させたから。それに孔雀がついているから。でもそれを着たらずいぶん太って見えるだろう。
「掘り出し物だと思うよ」かれはわたしに言った。
わたしは自分が金を払っていることに気がついた。カーサ・ビアンカからもらったキャッシュの残りの中から。
いっしょにその場から歩きだしたとき、わたしは言った。「あんなことしなければよかったわ」
「いや、するべきですよ。あれは食べ物とはちがう。よく似合ってすてきですよ。それにお金もうけのみちはありますし」かれは言った。「使う一方ではなくて」
わたしはいぶかしくなり、突然心配になった。一瞬世にもおそろしい不安を感じたのだ。かれがそばにいる今でさえ。オイル・ライトの光が、|雹《ひょう》のように、目のなかにきつく刺さった。
「どうやって?」
「ほらまた、涙に気をつけて」かれが言った。わたしは自分の表情がどうなっているのか悟った。
「歌で。わたしはE・Mのために通りで歌ったことがあります。あなたのために歌いましょう」
「だめよ」その考えはわたしをいっそう不安にした。なぜだかわからなかった。機械に対する賢明な不信をいだき、旗をかざして不穏な空気を漂わせた群衆のイメージと、その考えが恐怖のなかでまじりあった。「それはいけないわ――もしひとがお金を払ってくれたら」
「払う価値があるほどじゅうぶん楽しんでもらったらいいでしきつ」
わたしはじっとかれを見た。人間そっくりの超自然のものの顔が、問いかけるように、見返していた。
「こわいのよ」わたしは言い、立ち止まって、孔雀のジャケットのわずかな重みを抱きしめた。
「こわくはありません」かれが近づくと、かれの存在以外のいっさいはかすんだ。光さえ失せ、かれの髪の輪郭をほのおのようにふちどるものにすぎなくなった。「あなたは自分にプログラムしているんです。こわがりながら物事をしていくように。けれどもうこわくはありません。それから」かれは驚いたことにこう言った。「あなたは、わたしをなんと呼ぶことに決めたのですか」
「あの――わからないわ」
「じゃ、あなたがくよくよすべき問題はそれだけです。わたしのほうはずいぶん期待をもたせられて、まだ名前がもらえないのですからね」
わたしたちは歩きつづけた。足をとめ、絹光沢しあげのペイントの大きな瓶を買い、まぜあわせる色を買った。
「女性はみんなあなたに夢中になるわ」わたしはねたましそうに言った。
「みんなではありませんよ」
「みんなだわ。さっきのお店の女のひとは、半値にまけてくれたし」
「それは最初から二倍の値をつけていたうえ、こちらが値切ってくると思ったからです。ほんとうにひいてくれたのは、あなたに売ったジャケットですよ」
わたしたちはカーテンを少し買い、カヴァーをつけなおさなければならないような枕をひとつ買った。
わたしは誕生日の朝の子どものように興奮がはじけるのを感じた。それからまた驚きの波。
「わたし、いったいぜんたい何をしているのかしら」
「あなたはアパートを住みやすいところにしようとしているんでしょう」
「そんなことすべきじゃ……」
「そら、プログラムされ、動機づけされてる」かれは言った。そしてプログラムを走らせるときのコンピューターのガーガーカチカチという音をそっくり真似しはじめた。
「やめてよ」わたしは当惑してささやいた。
「あなたもやめるなら」
わたしは顔をしかめた。薄い紙につつまれたジャケット、ソーセージ型の枕の包みの中に目を凝らした。わたしはいままでに選択の自由を行使したことはなかった。そしていま、そうしている。変な気分だ。それにかれ。かれはロボットではない。わたしの選択に手を貸しにきてくれ(何を買え、とは言わずに)、包みを持ってくれ、勇気を与えてくれる友達。
「わたし勇敢だった?」市場から出て、さびれた広場を横切りながら、わたしは狼狽しながらたずねた。「きっとそうだったにちがいないと思うわ」
星々を背に地震の遺跡が浮かびあがった。鳥かこうもりかがそこを宿りにしている。翼が空を打つ音と、ちいさなキイキイいう声が聞こえる。
「わたしがこわいのは、こわがるべきだと今でも思っているから――母や家や友達をおいてきたからじゃなくて、お金がないからでもなくて、美しい銀細工に心を奪われてしまったからでもなくて」
ふたりして笑った。何がおこったのか、わたしにはわかった。かれのものの言いかたがまねできるようになったこと。こんなことはほかのだれに対してもできなかった。わたしはクローヴィスの機知をうらやんだが、それはたいてい意地悪すぎてわたしにはまねできないものだった。けれどシルヴァーの場合は――ああ、ちがった。シルヴァーじゃないんだっけ。
「シルヴァー。あなたはだれにでも、どんなものにでも合わせられるのね。でも、このことで、わたしに合わせてくれてありがとう」
「あなたを幻滅させたくありません。あなたはふつうのひとより合わせやすい」
わたしたちは|家《ホーム》に帰った。|家《ホーム》。ふしぎだ。そう、わたしはもう|家《ホーム》という言葉を使っている。かれのいるところならどこでも|家《ホーム》なのだ。シルヴァーがわたしの家。廃墟のけたのなかで、ミルクのように白い子猫が不気味な歌を歌っていた。猫の幽霊みたいだった(猫にも幽霊があるのかしら、というか魂があるのかしら)。
「すごく寒いわ」部屋の中でわたしはあわれっぽい声を出した。
「それはわたしのせりふのはずでしょう」
わたしはなさけない顔でウォールヒーターを見た。
今ではニッケル貨と銅貨の小銭しかないし、わたしのカードには来月になるまで三百しか残っていない。
かれはマントを脱ぎすててわたしにかけ、わたしをその中につつんで、自分のほうにひきよせた。
「あなたを暖かくするだけの体温はないと思いますが」
「かまわないわ」
わたしたちはしずかにキスした。それからわたしは言った。
「あなたがその気にならないときは、わたしを抱いてくれなくていいのよ」
「あなたがその気なら、わたしもそうなります」
「それは信じないわ。そうでない時だってきっと――」
「いいえ。わたしの感情および身体的バランスは一定不変ですから」
「そんな」
「どこかで辞書を二冊ほど飲みこんだこともあります」
わたしたちは長椅子からマットをひきずりおろした。その下のベッドにはパッドがかけてあり、そちらのほうがいたんでいなかった。わたしはほとんど新品のまだらの敷き物、最近クリーニングしたらしい匂いがわずかにする、その敷き物をひっぱって、ふたりの上にかけた。その下にわたしは横になって長いことかれを愛撫し、かれをたしかめ、かれを愛した。
「わたしがこうしていると気になる?」わたしはやめることができずに、おずおずときいた。
「ええ、大いに」
「わたし、きっとへたなのね」
「とんでもない。あなたはすばらしい恋人になりつつありますよ」
「どうしてわかるの。あなたにはなんの意味もないことでしょう」
「肉と血をそなえた人間にとっての感じとはちがうでしょう。でも味わうことはできます」
「芸術的にね」わたしは笑った。「しかるべき循環が働きだすときには」
「それに近いでしょう」
「エジプティア――」わたしはつぶやいた。かれの皮膚――人間のものではないがそれでも肉体、魔物の肉体であった――の匂い、かれの髪におぼれながら。「もしエジプティアのときあなたが楽しまなかったのだったら――」
「まるでそうでないほうがよかったような言いかたですね。わたしは満足でした」
「そう……彼女はものすごく賢いひとよ」
「エジプティアはまったくの受け身でした。楽しみは、彼女が何を喜ぶかを見つけることでした」
数分後、奇妙な翼がわたしの内部ではばたきはじめ、わたしは思わず言ってしまった。「何があなたを喜ばせるか見つけられたら、と思うわ。ほんとにそれができたら」
「あなたはわたしを喜ばせてくれている」とかれは言った。それはほんとうだった。わたしの喜びがわたしのなかで高まるにつれ、かれの顔にも喜びがあらわれてきた――別々のものでありながら、依存しあった喜びが。
「あなたばかよ」わたしはかすれ声で言った。「そういう意味じゃなくって――」
わたしが沈黙のなかにひきさがったとき、アパートの部屋は低いかたかたいう音をたてた。いまはオレンジの匂い、糊と紙袋の匂いがする部屋が……。
「あなたといっしょにここにいることもできるし、ここで仕事をはじめることもできます」
「いっしょにいてほしいのよ。あなたのそばで眠りたい――たとえ、あなたが――その――眠らないとしても」
「つまり、あなたは」とかれは言った。「わたしがほかのどこよりもあなたのそばにいたいのかどうかということを、たずねておられるのではありませんか」
「わたし、そんなに執念深い?」
「いいえ、もっと悪いですよ」
「まあ」
「あなたの髪の色が変わってきていますね」
「ええ。残念だわ」
「そうですか? 変化が完全に終わればむしろ喜ばれると思いますが」
「そんなことはないわ。きっとひどい色になるわ」身をちぢめてかれにおしつけ、子どもっぽくあやしてもらい、うとうとしながら、わたしは安全だと感じていた。わたしは完全。わたしたちはひとつの舟のなか、あるいはミルクホワイトの鳥の背中の上。
「鳥?」かれはおだやかにたずねた。「鳥でもあるのですか」
「ええ、そうよ。虹かもしれない」
かれは夜中のどこかで、わたしを置いていったのだろう。カーテンをとおしてくるまばゆい朝日の中で目をあけたとき、天井には青空があった。青空と暖かい雲、そして弓のかたちをしたアマツバメのような鳥たちが。鳥は静止したまま雲のあいだを矢のように飛んでいた。そして霧のようにあわく、しかしすべての色をすきとおるような色彩でそなえた虹が、ドアのそばの左手の隅から、窓に近い隅までふうわりとかかっていた。それは本物のようだった。本物に見えるほどだった。
かれは建物のどこからか――もしかしたら怒りっぽい管理人のところから――拝借してきたにちがいない古い山形のクロミウムの梯子のてっぺんに座っていた。わたしが目をさまして天井を見たときの驚きぐあいから、かれはとてつもない喜びを味わっているようだった。
「でも、あなたは音楽家でしょ。画家じゃなくて」わたしは夢のつづきのように言った。
「ペイントのなかにはどうやればいいかしおりが入っていました。機械であるということば――そう、失敗がないということです」
「きれいだわ――」
「まずバスルームをごらんなさい」
わたしはバスルームに駆けこんだ。天井は夕映えだった。近くはやわらかな真紅で、遠くはあわいばらいろ。白いくじらが雲の浅瀬でひなたぼっこをしていた。
「空にくじら?」
「お風呂が海だとしてごらんなさい。そしてくじらがいまいましいほどジャンプがうまいとしたら」
五日後、ひびわれた階段をのぼってドアをあけたものは、まったくみちがえるような室内に踏みこむことになったろう。
かれはわたしの希望をきき、わたしたちはいっしょにそれを検討した。アイデアはエスカレートした。かれは夜はほとんどそれにかかりきりだった。一度わたしが闇のなかで目をさまし、なんだか思い出せない理由で泣いたとき、かれはベッドにもどってきてわたしをなぐさめてくれた。朝には、ふたりとも糊でふとんにくっついてしまい、お風呂に漬かってようやくはがした。かれの発明と、シティおよび市場、価格の高低に関する正確な知識のおかげで、ごくわずかな出費でこういうことが可能になったのだった。わたしは三百IMUの貯金を少ししか使わないですんだ。たしかにわたしはサンドイッチと果物と、横町の店のおいしいジャンクフードを食べて生きていた。母のもっていた徹底的な栄養学の知識は、機械による厨房とシェ・ストラトスの貯蔵庫から、完全にバランスのとれた食事を生みだしていたし、食べるのに最適な時間、最適なもの、その理由、ヴィタミンに対する理解、そうした事柄を、母はわたしにたたきこもうとしていた――それらはわたしにいまでも幽霊のようにつきまとっていた。しかし、わたしはにきびも出さず、頭痛も起こさず、嘔吐もしなかった。思うに母があまりにいい食生活をさせてくれていたので、わたしの体にはそれらに対する免疫ができてしまったのだろう。わたしの食事や生活や、それからもちろん睡眠や仕事、愛の時間のとりかたは、母に電話することに対する巨大なバリヤーになっていた。「ハロー、ママ。ジェーンよ」わたしは一日に何百回も頭の中でくりかえした。一度、かれにこう言ったことがある。「わたし、母がこわいのだと思うわ」するとかれはわたしの手をとっていっしょに階段をのぼりながら、言った。「その言いかたからすると、こわがっていたのはお互いかもしれませんね」けげんな思いで、わたしは説明を求めた。かれは笑って、話をそらしてしまった。どんなふうにだか思い出せないけれど――
母はこのアパートを見てなんというだろう。わたしのように、入ってくるたびに、「なんてきれい!」と喜びの声をあげるようなことはないと思う。そう、そんなことは言うはずがない。葉脈入りの大きな葉っぱのようなヘッドボードのついた真鍮のベッドでさえも、母には感銘を与えないだろう。それに真鍮のベッドよりさきに目に入るものはいっぱいある……
ひびもふさいでぴかぴかになった壁は、クリームホワイトにぬってあった。雲とアマツバメから下がっている淡い金のペーパーランプには金色の金属の線が入っており、夜そこに明かりをつけると、壁じゅうに金の斑がとんだ。それからシルヴァーのつけた棚の上の色つき蝋燭からはすばらしいきらめきと輝きがさし出ていた。蝋燭は同じ色のものは一本もなく、それぞれ色つきガラスの皿の上にのっていた。皿というのは、実はニッケル貨で買える値段の傷物のガラスのソーサーひとやまをガラスエナメルで着色したものだ。鏡にも、まばゆいガラスの染料で、葉っぱや山々や野の花などが描いてあった。山の斜面や植物の蔓や花びらはいずれも、鏡のしみやかけた部分を隠している。壁には壁かけがあった。文字どおり何百というちいさなカーペットのはぎれ――サンプルとしてただでくれるもの――をつぎあわせたものである。わたしたちは一日じゅう店から店へと歩きまわり、カーペットを見せてくれと言い、「決めかねる」ので、家具に合うかどうかを調べるためにひとつかみのサンプルをもらった。はぎれをはりあわせるには何時間もかかった。その効果たるやすばらしいものだった。天井の虹にもひけをとらないモザイク模様。椅子はなかったが、大きな濃い緑の毛皮の枕に腰かけることができ、またひざかけとショールとでひだを寄せ、君主の椅子のようにみせた長椅子があった。きれいな窓にかけたカーテンは蒼い空の光の色で、天井をひきたてた(カーテン上の点々としたちいさなほころびは、アイロンでつく刺繍アップリケ――金と銀でできたちいさな神話の生き物と城――で隠すことができた)。ドアはクリームホワイトで、壁に溶けこんでいる。おそるべき機能的なキッチンのハッチ(浮き彫りのミニチュアのオーヴンとその背後にあるので使用不可能な電動ベル)はウォールペインティングになった。天井と同じような雲をちりばめた青の中を、大きな帆を持つ翼のある船がすべっていた。船の横腹から金ぴかの大砲が突きだし、それが取っ手部分だった。わたしたちはこれも塗ったが、それはまったくおろかなことだった。船の翼はがちょうの翼をかたどっていた。
バスルームはあかね色だった。壁は生のセメントとこわれたタイル製で、補修にかかったときには救いようがないと思われた。それから朝の四時に別の市場で、青空色のテントのような防水のカヴァーオールが見つかった。だれもひきとり手がないのでただみたいな値段だった。店の主人は風邪をわずらっており、ひたすら家に帰りたがっていた。それを適当に、とはいえシャーリングやひだ飾りは切り落とさないようにして、裁断し、壁いちめんに貼りつけた。防水加工のおかげでシルクのように見えたし、妖しいオリエンタルふうの幻想の余地も生まれることになった。特にばら色の雲からばら色のペーパーランプがつりさげられて、ひだのすみずみまでを電気的なマゼンタ色の光のすじで照らしだしたときには。わたしたちはバスや洗面台、トイレを全部青にぬりなおした。青のエナメルは安物で、六ヵ月以内にひびわれを起こすかもしれなかった。しかしとりあえず、どの部分もラグーンを思わせる仕上がりになった。次の晩、シルヴァーは床をはがし、新しい床板を張って、磨いてぴかぴかに光らせた。バスルームはいまや金色のパイン仕様材で張られ、千IMUもかかったようなできだった。少なくとも五百以下には見えない。
「こういうこと、どうして知ったの」わたしは何度も何度もかれにたずねた。
「説明書を読んで」かれは何度も何度も、ごく無邪気に答える。
もちろんロボットは説明書を読むことができるし、そのとおりにするにはどうしたらいいかわかって、そのとおりに仕上げるのだ。わたしはかれのことをたぐいまれな有能な人間と考えることをやめなければいけない、とずっと自分に言いきかせてきた。ほんとうにそうだ。それでもそれは難しく、おまけにかれに人間のふりをしてほしいと望んだのはわたし自身だった。
最初の週の最後の午後、管理人が息を切らしながら階段を上がって家賃をとりにきた。たぶん払ってもらえないだろうと思っていたようだ。
「四分の一ヵ月だけでいいよ」かれは、片手にプラム、片手に画家用の長い絵筆をもって立っているわたしに言った。「一週間分だけ。このあとは来月の最初の週に四分の三ヵ月分をとりにくるまで上がってこないよ」月の終わりはあと数日後にせまっていたので、この言葉はたいして意味がなかった。かれはつまり、それまでにわたしが残金をはらわずに夜逃げすると思っているのだ。「法律的に正当なことなんで」かれは言った。「でも、あんたのボーイフレンドは梯子を何に使ったのかね」かれはわたしのわきにわりこもうとしたので、わたしは入れてやった。かれは、あたかも有名な大聖堂に入ったかのように立ちすくみ、息をのんだ。「万人向きじゃあないが楽しいところだね」ほかにもっと気のきいた言いまわしはないのかしら。
わたしはかれがこう言葉をつぐのを待っていた。「あんたは家賃をぜんぶこいつにつぎこみなすったね。出てってもらわなくちゃならないよ」と。だがかれは、シルヴァーとわたしが昨夜堆積物のなかから掘ってきて、こはく色のガラス製のひびの入った室内便器に植えた巨大な観葉植物に目をやっただけだった。「枯れてしまうよ」
「じゃ、それのお葬式にお呼びしましょうか」枕の上にすわって、一ページ十五秒の速度で、今朝買った安い古本を読んでいたシルヴァーが言った。
管理人は顔をしかめた。
「この部屋は一人用なんだけどね」
わたしは恐怖が体を突き刺すのを感じたが、シルヴァーは言った。「ぼくは彼女に家賃をわたしてません。お客だから」
ぶつぶつ言いながら、管理人はこのいいわけを受け入れ、シルヴァーはにっこりしてみせた。
わたしはそのときには家賃と電気代をかき集めにかかっていた。いまではぜんぶ小銭に化けている。するとシルヴァーが立ち上がって、おそろしい訪問者をバスルーム観光につれだした。怪物がぶつくさこんなことを言っているのだけが聞こえた。「わしが住みたいぐらいだわ」とか「天井の白いものはなんだね、へえ」とか。それからびっくりした声で、「まったく本物みたいだ」
ふたりがもどってくると、シルヴァーは管理人とわたしに安物のワインを注いで勧め、管理人はそれをごくりと飲み干した。やっとこさかれと家賃をやっかいばらいしたときには、わたしはかんしゃくを起こしていた。わたしとかれが汗水垂らしてつくりあげた美しい部屋が、あの老人のばかなあら探しで汚された気がした。
「かれは感受性を忘れてしまったんですよ」とシルヴァーは言った。「それに病気で。副作用で別の病気が出る薬を処方してもらっているんです」
「どうしてそんなことわかるの?」
「梯子を拝借した晩、ちょっとおしゃべりをして、聞きだしたんです」
「あいかわらずだれでも幸福にしようとしているのね」
「あいかわらずね。骨の折れる仕事ですよ」
わたしはかれを見、いっしょに笑った。わたしはかれのそばに行って、腕をまわした。絨毯の床は愛を交わすにも絶好の場所だった。
観葉植物は月末には、天井までのびて、つやつやの葉を扇状にひろげた。
そうして月末になった。
[#改ページ]
3
翌月の最初の朝があける前の晩、わたしたちは外の堆積物の上のけたのひとつに座って、星々が、最後までしがみついている葉っぱのあいだを通りすぎているのを見ていた。遠くシティの中心が光の花を広げてゆく。わたしたちはよくここにきた。最初はかれの提案だった。ときどきかれはそこでしずかにギターを弾き、わたしに歌ってくれた。堆積物のなかは美しかった。たそがれには神秘的で、どこかの森の心臓部のように野性的で、まわりには安全な文明のすそ野がひろがっていた。ときどきあの白い猫があらわれ、わたしたちは猫用の肉の皿をもってゆき、おいてやった。猫には決まった家がないらしかったが、それでもシルヴァーはその完璧な視力によって、猫の後ろ足の小さなしるしを見つけた。ごく最近狂犬病の予防注射をうけた跡だった。しかしその晩は猫も来なかったし、星も出なかった。わたしはかれに身をもたせかけて横になり、かれといっしょにマントにくるまっていた。そしてこう言った。「わたしの人生でいちばん幸せな時だわ」
かれはふりかえり、わたしにキスして言った。「ありがとう」
わたしはふいにかれの知性の中に備わっている無垢にうたれた。わたしはかれを抱きしめた。その身体の冷たさ、いや涼しさを不満に思ったことはなかった。そしていまは、わたしの身体も冷えていたので、むしろ暖かくさえ感じられた。
「あなたがわたしを愛していないのも気にならないくらい。わたしとても幸せなの」
「でもわたしは、もちろんあなたを愛しています」
「それは、わたしを幸福にできるからでしょ」
「そうです」
「それはわたしが、あなたの幸福にできるどんな人間とも同じようだから。あなたはだれでも愛せるのよ。だからあなたのは、わたしが愛とよぶものではないわ」いまではそれも苦にならない。わたしはほがらかで無頓着だった。かれはほほえんだ。
わたしは決して決して、かれの美しさに飽きることなく、見なれてしまうこともなかった。
「愛してるわ」わたしは言った。「晩ご飯を食べにいきましょう。いい? 人間のふりをしてくれる?」
「もしあなたがそのためにお金を使ってもかまわないのでしたら」
「ええ、ええ、もちろんだわ。明日わたしはまた一千IMU入るんだもの」
「実を言うと」とかれは言った。「食べ物はなかなかおいしいですね」
「あなたがそう思うの?」
「それははずかしいことでしょうか」
「そうよ、そうだわ」とわたしは言った。「非難すべきことだわ」
会話のなかのわたしたちの関係は、わずかのあいだいつもと入れ替わった。かれはいつもふざける側で、わたしのほうはまだジョークを学んでいたのだ。
「あなたがわたしを変えたのよ。変えてもらってとても嬉しいわ」
わたしたちは中に入り、わたしは髪を洗った。部屋改造の仕事にとりかかってから髪を洗うひまもなかった。塗ったり、糊を扱ったりするあいだ、スカーフでしばっていたし、ドライシャンプーで重くなっていた。水で洗うと、ドライヤーなしでは、かわくのにとても時間がかかるからだ。でも今夜は湯沸かし器をふんだんに活用した。ぬりなおした鏡の前で髪をかわかしはじめると、鏡の青い山やしげったたくましい葉のあいだから、光のたてがみ、アッシュブロンド色のたてがみがあらわれた。
母はなにか勘違いをしていたのだ。母が、だろうか。それとも機械がか、色彩チャートがか。それともわたしの天然の髪の色そのものが、年齢とともに変わったのだろうか。そう、そうに決まっている。なぜって――
「ああ」わたしは髪にさわってみた。「きれいだわ。前とは全然ちがった美しさだわ」
「そしてそれがあなた本来の髪ですよ」とかれは言った。
わたしはずっと前にエジプティアからもらったおさがりのドレスを着た。デーメータはそれがわたしに似合うとは思っていなかった。わたしもそうだった。だが、その服は、光のあたりぐあいによって白からトルコ青まで変化するふしぎな素材でできていたので、わたしは捨てずにとっておいた。今夜のわたしにはよく似合う。わたしは奮発してくじゃくのジャケットを着込み、ボタンをかけた。ちょうどよかった。ほっそりしたジャケットだった。わたしはやせて背がのびていた。そして髪は月光の色をしていた。わたしは泣いてしまった。
「ごめんなさい。なぜだかわからないのよ――」
「わかっているでしょう」かれはわたしが泣きやんで笑いだすまで、抱きしめていてくれた。
「気の毒なデーメータ」
「どういう意味?」
「もし、わたしがおなかがすいたと言っても信じないでしょうね」
「どうして母が気の毒なデーメータなの?」
「わかっているでしょう。髪を見て、自分にたずねてごらんなさい」
でもわたしは興奮して熱に浮かされていた。考えはわきにのけておいて、ふたりして急いで建物を出、いまでは見なれた通りを抜け、部分的にしか動いていないエスカレーターでサウス・アーバーの飛行艇のプラットフォームにのぼった。
わたしたちはシティの中心部にくりだした。だれかに会ってもこわくはない。わたしのなかのある部分はそれを期待していた。いったいだれが、わたしだとわかるだろう(わたしはかれの言ったことを忘れていた)。
ハンガー・アンド・アンサーにすわって、こんがり焼けたステーキと、星型にぬいたちいさいローストポテトを食べながら、わたしは思った。いまならだれにでも電話できる。エジプティアでもクローヴィスでも、母でも。ワインは赤かった。かれの髪によく合っていた。自分の魅力に無頓着なのとおなじに、ワインもかれ自身をそれほど楽しませはしないようだった。
わたしたちはシティを横切って歩いて帰った。
最後の葉が舞い落ち、わたしたちの足の下でかさかさとくずれた。オールド・リヴァーぞいのストリートはまた閉鎖されていた。門のところで、使いすてのくさい酸素マスクを買わないかぎり入れてもらえない。わたしたちはペイシェンス・メイデル橋をわたった。まんなかには〈速く歩いてください〉と看板が出ていたし、芸人はいなかった。半分の標識をすぎたところで、だれもいないことがはっきりした。なぜかわからないが、かれとわたしは歌いだした。歩きながら口をついて出てくるばかばかしい歌。もう速く歩きはしなかった。紫の水の中でうなっている魚の歌。猫に一匹とってやろ――そして――魚が猫を食べちゃった――そして――魚に毛皮を着せてやれ――魚に喉声教えてやれ――これが猫だって言ってくれ――キャットフィッシュ(ナマズ)は体をふくらます。
橋を渡りおえたとき、信号は緑だった。わたしたちがイースト・アーバーへ向かいだしたとき、ふたりの芸人の姿が見えた。パフォーマンス中ではなく、敷き物の上にすわっていた。少年と少女。弦が三本切れたギターの上で、紙につつんだフレンチフライポテトを食べている。
さっきの決心にもかかわらず、わたしはためらった。それはジェイスンとメディアだったのだ。
一年前に、かれらは同じことをやった。単純なやりかただった。ジェイスンがひどい歌をがなり、メディアがひとびとのあいだをまわる。音痴の人間が金を払ってくれるかもしれないので、皿をもって。それをしながら、彼女はすりをやる。ふつうは現場をおさえられてしまう。この前もそうだった。どちらも未成年だが、父親はかなりの罰金をとられた。
「どうしたのですか」わたしがあとずさるのを感じて、シルヴァーがたずねた。
「知ってるひと。気にくわない相手なの」
こう言っているうちに、ジェイスンが目をあげ、わたしをまっすぐに見た。驚きの表情がひろがった。ごくゆっくりと、かれはメディアをつついた。かれらのほそいまたたかない目が同じように凍りついた。先に進んで、かれらに会うしかない。ふたりはシルヴァーのことを知ってるかしら。わたしのことも。わたしとシルヴァーのことも。それとも。
「ハロー、ジェーン」とメディア。
「ハロー、ジェーン」とジェイスン。
わたしはシルヴァーに片手をとられたまま、足をとめてふたりを見た。とほうもなく遠くにあるように思われはしたが、かれの手の力がわたしを勇気づけてくれた。
「ハロー」わたしは言った。それから口早につめたく、
「どなたでした?」
ジェイスンが笑った。
「知ってるくせに」
「知ってるでしょ」メディアも言った。「あなた、ジェーンじゃない?」
「ブリーチヘア悪くないね。ダイエットも。おかあさんは知ってるの」
では、ふたりはわたしがシェ・ストラトスを逃げだしたことを知らないのだ。いやそれとも……
「いい晩だった?」わたしは礼儀正しくたずねた。
「すりのほうは上々」メディアはつんけんと言った。
ジェイスンが作り笑いを浮かべた。わたしの向こうのシルヴァーに向かって。ふいにジェイスンの笑いがぎこちなくなった。
わたしはシルヴァーに目をやった。前にも見た表情があった。金属の仮面のように、目が燃え、表情が読みとりがたく、恐ろしくなった。循環スイッチが切り替わったのかしら。
「きみのかっこいい友達、だれさ」ジェイスンが言った。その声には前ほどの確信がなかった。「それともぜったい秘密なのかな」
「おかあさんは知ってるの?」メディアがくりかえした。
わたしは頭がからっぽになって立ちすくんでいた。シルヴァーはかれらにむかって、世にもおだやかで冷静な、そして死ぬほど魅惑的な声で、こう言ってきかせていた。あたかもそれがかれらの人生の比喩ででもあるかのように。「いま、音孔に、ポテトチップを落っことしたね。ポテトにとってもギターにとっても残念なことだよ」
「大きなお世話だ」ジェイスンが言った。
「あたしは、銀のメイクは嫌いよ」とメディア。「あなたなんの劇に出てるの。それとも、失業中? ジェーンにめぐりあえてよかったわねえ」
「ジェーンは大金持ちさ」とジェイスン。「ぼくらももちろん金持ちだ。でも、ぼくらは失業中の俳優なんかと友達づきあいはしない」
「でもジェーンはおひとよしだし」
「きみにとってはめでたいことさ」
ふたりは黙った。この場で思いつけることはみんな言ってしまって。
みんなくだらないことだとわかっていたが、それでもそれらがこわかった。もうシルヴァーが見られなかった。手首のところに、三日前の晩に市場で買ったシルヴァーの上衣の刺繍のあるカフス部分のぎざきざがあたるのがわかった。立ち去るきっかけはわたしが作るべきなのだ。シルヴァーはそれをする立場にない。
そのときわたしはジェイスンとメディアに何が起こっているのかさとりはじめ、その効果に目をみはった。かれらはもじもじしていた。はっきりと目に見えて身もだえ、ちいさなこわばった目がかれを見つめてはすべり落ちた。そしてメディアの顔はおそろしい黄色に変わり、ジェイスンの日焼けした耳は真っ赤になっていた――かれらがもっと小さいときでさえ、こんなふうになったのを見たことはなかった。そしてふたりの手はよわよわしくフレンチフライポテトをひきさき、目は地面に吸いつけられ、背中は、まるですさまじい麻痺に襲われたかのようにこわばっていた。わたしはシルヴァーをふりかえることはできなかった。かれの残忍な殺人的なまなざし――かれはなんの意味もないと言っていたが――は放射線のようにふたりをつらぬき、無慈悲にかれらをしなびさせていた。
やっと口を開くことができたのはメディアで、彼女はかんばしった細い声で叫んだ。「どうしてにらむのをやめないのよ。無作法だって知らないの? やめさせてよ」
だがふいによろよろと立ち上がったのはジェイスンのほうだった。ギターや不法な小銭やポテトチップをとりあげようともせず、メディアに手を貸そうとさえせず、わたしのわきを通りすぎ、橋に通じるエスカレーターにとびのった。声も出ないほどとりみだしたメディアが金とギターをひっつかんで、弟のあとを追う。すでにふりかえっていたわたしには、シルヴァーがふりかえって、かれらの後ろ姿を目で追うのがわかった。メディアがふりかえった。一度だけ。でもジェイスンはふりむかなかった。メディアはエスカレーターのてっぺんにいた。その顔は黄色の骨っぽい三角形で、口からかすれ声を出していた。というか、出しているように見えた。それから彼女はジェイスンのあとを迫って走りだした。
わたしも茫然としていた。シルヴァーがもういっぽうの腕をわたしにまわすまで、動くこともできなかった。
かれの顔が変化していることがわかったので、かれを見上げた。
「あなたはだれでも幸福にしたいんだと思っていたわ」
「そうです」
「でもあなたの循環機構が切り替わってたわ」
「正確にはそうではありません」
「じゃ、あのふたりをおどそうと思ったの」
「黙らせようと思ったのです」
「でも、あなたにはどうでもいいことでしょうに」
「あなたの手の温度が変わりました。ものすごく冷たく」
「わたしがあなたを買ったから、わたしに忠実だってわけね。ゴールダーのロボットが個人のボディガードになるように」自分のぎこちなさに驚きながら、わたしは言った。
まばたかぬ宝石のようなかれの目が、わたしを見返した。長い沈黙があった。
「ジェーン」かれは言った。それだけだった。
わたしはふいにこわくなった。双子と会ったことが、かれがふたりにした薄気味の悪いことが。かれといっしょにここにいることがこわくなった。かれの身が心配になり、自分の身も心配になった。
「なあに」わたしはささやいた。
「もう先へ行きましょう」
そしてかれはわたしを放した。わたしの手をさえ。そしてわたしたちは歩きだした。けんかした恋人たちのように。夜はナイフのように冷たかった。
その夜はベッドも冷たかった。わたしたちはその中で愛の行為をしなかった。
朝の光がさしこんできて、わたしは目をさました。シルヴァーは虹のカーペットの上に膝を折って座っていた。身じまいをすませており、頭を垂れているので、髪が顔をおおっていた。まるで美容瞑想のみごとな広告のようだった。わたしが起きたのに気づくと、かれは顔をあげた。にっこりしたが、それは一度も見たことのないようなほほえみだった。
「外を少し歩いてきてもいいですか」
もちろんわたしが決めるのだ。かれはわたしの所有物だから、わたしの許しを得なくてはなちない。
「いいわ……」
わたしは「だいじょうぶ?」とさえ言えなかった。かれは機械なのだもの。見た目はだいじょうぶだった。そして見た目と同じくらい、どこかがおかしかった。
「一時間でもどります」
「いつでも好きなときに帰ってくればいいわ」
「いいのですか」とかれは言った。
「ええ。わたし食料品を買って、今月のカードで払ってこなくちゃ。家賃を払うのに小銭がいるの」
「いっしょにきてほしいですか」
「けっこうよ」わたしは明るくなんでもなげに言った。
かれは筋肉という筋肉に伸縮性があるかのように――おそらくそうなのだろう――すうっと立ち上がった。
かれが出ていったあと、わたしは、かれをエジプティアのところから連れてきてからはじめてひとりきりになった。ひとり≠ヘいまではあらたな意味を持っていた。まるで自分が半分に断ち切られたようだった。わたしの半分はこの部屋にいて、半分はストリートを歩きまわっている。どこをだかわからないだけ。
わたしは立ち上がり、長椅子からエメラルドのショールをとってそれにくるまり、ライムの香りのお茶を少しばかりいれた。すわって熱いお茶を飲みながら、窓の外を見た。木から、鳥の屍のように最後の葉が落ちてゆく。
わたしはいままでのこと、ジェイスンとメディアに全うまで、すべてがすばらしくうまくいっていたことを思い返した。会ってから――でもいったいあのとき何が起こったのだろう。ダヴィディードの沈泥のように心の中にどっと流れこんできたのは、スウォンソンのいまわしい言葉だった。「これは検査に通っていませんで」その言葉の意味をふかく考えるというのではなく、ただその悪夢めいた効果だけが残った――シルヴァー、滑車におきかえられたあの目……しかしいま、わたしは奇妙な不均衡、ふしぎな矛盾に気づきはじめている。すわってふるえながらお茶を飲んでいると、エレクトロニック・メタルズで作動するのを見たほかの精巧仕様のロボットたち、コッパー、ゴールダー、そしてふたつのシルヴァー型の姿が思い出された。あれらはなんてなまなましく見えたことだろう。外見もふるまいも、くせも動きも、話しかたも。知らなかったら、本物の男女だと思うほど真にせまっていた。しかしそれでいながら、どこかしらしっくりしないところがあった。ロボットだとわかっていなければ見すごしてしまうかもしれないが、それでもどこかしら人間の男女とはちがうところ。どこか機械を思わせるところ。わたしの想像なのかもしれないが、シルヴァー、わたしのシルヴァー――S・I・L・V・E・R――はかれらとはまったくちがっているのではなかろうか。シルヴァーはほんとうに人間そっくりで、人間に見える――たとえそうでないことを知ってるときでも――のではないだろうか。だからこそE・Mのコンピューターの検査にひっかかったのでは。自動機械に会社がプログラムする以上の自主性のようなもののために。
でもどうして? そしてなぜ?
ちがう、わたしの気にかかるのはそれではない。わたしはただかれを失うのがこわいのだ。所有していながら、かれを失うのが。かれはローマ帝国時代の奴隷ではない。けれど、かれは機械だ。そう、機械、機械。ふいに自分の思いのいまわしさと狂おしさが、驚愕した心の目の前にありありと浮かびあがってきた。わたしは機械を愛した。愛し、信頼し、自分の世界のいしずえをその上に築いた。そしてこのゲームでわたしは、機械の思いやりなんどというものに賭けていた。
ぞっとした。夢中遊行しているとちゅうで、目がさめたら、未知の無人の場所にいたようなものだ。
ぼうっとしながら、わたしはシャワーを浴び、服をつけ、クレジットカードと財布をもって、ふらふらとシティに出た。金があるということを確かめねばならない。それにアパートから出る必要があった。果物や石鹸をかかえてもどってみれば、シルヴァーも家にいて、いっさいはいままでどおりかもしれない。そう、それこそこのいやな呪縛を断ち切る手だ。
シティは雨だった。高架から離れて歩きだしたとき、ロボットの救急車が何台も、サイレンを鳴らしながら、わきを通りすぎた。だれかがホットベイク・ショップの外でひかれたらしい。じわりと、いやな感じと恐怖があった。
わたしはブールヴァールから外れた大きな店のひとつにはいった。バスルームにほしいと思っていた真紅のガラス瓶があったから。それは純然たる装飾品で、わたしはいまでも心の底では裕福なつもりでいるらしかった。瓶を買えば、このわけのわからない恐怖から逃れられるかもしれない。店員にとってもらって、クラッカーとネクタリンを入れたワイヤー・バスケットのなかにそれを入れたときには、ほんとうにほっとしかかった。わたしはあとバスタオルを何枚かとり、それから中古品のコーナーでペーパーナイフをとった。そのとき救急車が一台窓を通りすぎた。テレビで見たことのある、ひとの刺されるシーンが浮かんできた。そのときは表面上はなんでもなかった。ただ、心の底のひきだしのようなもののなかで大きな衝撃があった。わたしはレジに並んでいた。母は自己分析を教えてくれた。だからなぜこんなに急に死やけががこわくなったのか分析してみなければならない。そうしてわたしは考えた。もどったら、かれがいるだろう。長椅子にすわってギターを弾いている。冬。雪がくる。アパートにかれといっしょにうずめられてしまう。すばらしい冬眠。そのとき、家に帰ってもかれがいないのではという想像が浮かんできた。
わたしが払う順番がきた。この店はオートマティックだが、ときどき機械がおかしくなることがあるので、退屈そうな女店員がそばにすわってマニキュアをしていた。
わたしの品物が機械に吸いこまれ、チンと合計額が出た。わたしはカードをカード・スロットにさしこんだ。ベルが鳴って、品物とカードとおつりが機械のもう一方の口から出てくるかわりに、鋭いブザー音がした。赤いランプがカード・スロットの上につき、カードがもどされてきた。
わたしが立ち往生していると、退屈そうな女店員が目をやって、立ち上がり、近づいてきた。
「お客さまのカードは期限切れでございます」
「いいえ、これは期限なしの、毎月ふりこみのカードだわ」
彼女はスロットからカードをとりあげ、ながめた。
「さようですね」
一千IMUのカードはこのへんではあまりないだろう。店員がその額を声に出してくれないといいのだけれど。彼女はそうしなかった。
「もう一度やってみましょう」と言い、カードをスロットに押しこんだ。またブザーが鳴り、カードが吐きだされてくる。
後ろに人だかりができはじめた。みんなつめたくささやきあっていて、わたしは顔から火の出る思いがした。うらはらに心臓のほうは冷えてきた。どういうことなのか、わたしにはもうわかった。
「そうですね」と店員は言った。「だれかがお客さまのカードをさしとめたようですね。お心あたりのかたがありますか」
はずかしさと恐怖に目もくらみながら、わたしはカードに手をのばした。
「キャッシュでお支払いになりますか」店員はものうげにたずねた。カードをわざとわたしの手の届かないところに持っているようだ。それをおいて、逃げだしたいという思いにかられた。
「お金が足りませんので」
「そうですか」彼女はカードを返してくれた。わたしの雇い主が――というのも町のこの地域では会社しかカードを発行していないからで――わたしを首にしたため、食料品のスーパーでカードを使おうとしたと思っているようだ。
わたしは店から出た。やましさが顔にあらわれ、皮膚がふるえた。ストリートでわたしは文字どおりどちらへ曲がっていいかわからなくなり、でたらめに左へ折れ、また別の雨ふりのストリートに、そして別のストリートにと入っていった。どこへゆくあてもつもりも意志もなしに。
デーメータはできるだけ早く、おそらく月はじめにわたしのカードをさしとめたのだ。そうに決まっている。そうする理由はあるもの。わたしは挨拶もせずに家から逃げだした。これ以上、母の金を受けとる期待などしてはいけなかった。いまではこれ以上ないほどはっきりと理解できた。どうしてわたしはカードを持って逃げられるなどと思ったのだろう。洞察をさまたげていたのは、おろかな子どもっぽい考えだ。わたしのなかの何かが、母がつねに与えつづけていた暗示を信じていた。わたしは娘だから、母の金はわたしの金だという暗示。おろかだった。そんなことが通るはずはなかった。
ではなぜわたしは電話ボックスの中でためらったのか。女性が出てくるのを待って雨のなかに立ちつづけ、それから中にはいって扉をしめたとき。キャッシュとしては十IMUだけ残っていた。家賃すら払えない。が、母の家にかけるにはじゅうぶんだ。
コインを入れ、ボタンを押したとき、わたしは考えた。ママはすごく忙しいからいないかもしれない――それから、考えた。ママはいるだろう。電話を待っているだろう。わたしの声を、わたしの狂おしい泣き声、「ママ、ママ、助けて」という声を待って。
そのときわたしはもうこわくなくなった。ただわびしい気持ち、自分がちっぽけでとても疲れているような気がした。それがほんとうのこと。それだけのこと。わたしが電話するのは助けてもらうため。許してもらい、泣きつき、泣き落とすため。
わたしはだれかが外から石を投げてひびを入らせた、つめたくしめったガラスに、額をおしつけた。シティのこのあたりにヴィデオ電話はない。わたしの姿は母には見えない。それがいいことか悪いことか。わたしは信号音を数えた。母は十二まで待たせてから、自動応答のスイッチを入れ、それがふたつめに応えた。
「おはよう、どなたですか」
「ジェーンよ」わたしは言った。雨が唇に落ち、わたしは言いながらはじめてその名の響きを味わった。ジェーン。水晶の板、すべすべの大理石の粒をうつ雨のひびき、ほそく青白い鎖――
「お待ちください、ジェーン。デーメータのスタジオにおつなぎします」
わたしの謙虚な気持ちは落ちこみ、わたしはうつろになった。母の声がやがて聞こえた。礼儀正しく暖かく、話しやすそうでさえあった。声は言った。「ハロー、ジェーン」エレベーターの声と同じに。
わたしは送話器をきつくにぎりしめ、それは蝋のように溶けだすかと思われた。
ジェーンよ、ママ。ジェーン。
「ハロー、ママ」わたしは言った。「いいお天気ね」
間。
「あなたはお天気の話をするためにかけてきたんじゃないでしょう」
わたしは、ガラスのひびに両断された自分のぼんやりした像にむかって、苦く笑った。
「ええ、でもそうなのよ。そしてハローというためにね。ママ。ハロー、ママ」
「ジェーン。よくものを考えて。あなたの最近の行動は異常よ。あなたらしくないわ。大人になるための変化だといいけれど」
「ママ。わたしは十六よ。二十六じゃないわ。九十六でもなくて十六なのよ」
「そう? じゃ、どうして六つの子どもみたいにふるまうの」
わたしは身震いした。わたしが誘いをかけたのだ。彼女は切りかえしてきた。的確におだやかに――そして有無をいわせぬ調子で。雨がしとしと降っていた。玉葱のフライとぬれた舗道の匂いがした。そして……ラ・ヴェルトの香り。ラ・ヴェルトがボックスをいっぱいにしていた。
「ほんとにただちょっとかけてみただけよ。とてもうまくやってるって言いたくて」
目に涙があふれたが、わたしはそれを押しもどした。すると涙は乾いてしまった。
「あなたが電話してきたのは、どうしてわたしがあなたの月額のクレジットを停止したかきくためじゃないの」
わたしはすさまじい勝利感の大波を感じた。
「あら、そうなの」
母は信じないだろう。母は図星をさしたことを知っている。わたしが嘘をついていることも。しかしそれでも、彼女はそれを言わざるをえなかった。言うのはわたしではなかった。
「そうなのよ、ジェーン」母はしんぼう強く言った。「あなたのお金は凍結されたわ。無期限に。というかわたしが解除するときまで」
わたしはつったって、雨を見つめていた。いつのまにか手は送話器から離れ、わたしは湯気でくもったガラスにウサギの絵を描いていた。
「ジェーン」母はきっぱりと言った。
「ママ、どうしてわたしをジェーンと呼ぶの。そうよ、どうしてプロセルピナと呼ばないの。伝説のデーメータの娘だわ。わたしなんか、プロセルピナほど魅力的になれないだろうと思ったの? ママ」
「どこにいるの」母はふいにたずねた。罠。わたしが居場所を口走ると思っているのだ。
「電話ボックスの中」
「そのボックスはどこ?」
もう遅いわ、ママ。
「ストリートにあるわ。シティの中のストリートよ」
「ジェーン」母は言った。「あなた、なにか不法なドラッグをやっているんじゃない?」
「ちがうわ」
「あなた、自分がどんな状況になっているか、ほんとうにわかってるの。あなたのカードは使えないのよ。ほかに正当にお金を手に入れるみちはないわ。もしあなたが、なにか仕事でもと考えているのなら、それは不可能に近いと言っておいたほうがよさそうね。まず、あなたは労働カードを持っていない。どこの会社でもそれを発行する前に、ボディ・プリント・リーディングにかけるわ。それからあなたの身元を割りだし、お金持ちの女性の娘だと知るわね。そうしたらわたしに、扶養するつもりがあるのか、とたずねてくるわ。いまはほんとうに職が少ないのよ、ジェーン。あなただってうすうすわかってるでしょうけど。働く必要のないひとはそもそも相手にされないの。それに、きかれたら、わたしはもちろん扶養します、と答えるわ。あなたはわたしの選んだ子どもだもの。あなたは家へ帰るしかない。そうしたら、あなたのいるものはお金でもなんでもあるのよ」
「ママ、前に言ったじゃない」わたしは口の中で言った。「貧しいひとたちの苦しさを理解するのに、シティで仕事を見つけるべきだって」
「わたしの認めがあれば、できたかもしれないことよ。でもわたしが認めなければ無理ね」
ボックスの中は暖かかった。ウサギがガラスの下まで走りおりられるほどに。
「あなたのすべきなのはどこかの銀行――州のならどこでもいいわ――へ入って、名のること。そしたら家へ帰る分の交通費だけは出してもらえる」
「|家《ホーム》」わたしは言った。
「|家《ホーム》よ。もうあなたの部屋は模様替えしたし、家具もまたそろえてあげたわ。あなたが出ていったときの状況について、ほじくりかえすようなわたしでないことはわかってるでしょ」
わたしは突如笑いだした。
「ジェーン。お願い。もう一度、自分をコントロールして」
「ママ。ママはわたしに泥棒になるチャンスしか残してくれないのね。わたしはどこかの店に押し入るか、通行人の財布をひったくらなけりゃいけなくなるんだわ」
「お願い、ばかなことを言わないで。ジェーン。そんなヒステリーはみじめだわ――わたしがあなたの動機についてどんなにうまく解釈できるとしても、あなたとはやっぱり母子よ。あなたが実人生でうまくやっていけないのを心配するからこそ、帰っておいでと言ってるのよ。あなただって心の底ではそれがほんとだってわかってるでしょう、ジェーン。わたしがただあなたのためを思って言ってることが」
使いふるされたせりふりそう、決まり文句を恐れちゃだめよ、ジェーン。それで言いたいことが言えるのなら。ボックスの中は暑く、わたしは息もできなかった。なにげなく喉に手をやると、ポリス・コードに触れた。わたしは言った。「わたしのポリコードはまだ生きてるの、ママ?」
「ええ、ジェーン。あと三日だけ。そのあと管区のコンピューターからあなたのプリントをとりさげるわ」
「それもわたしに良かれと思ってのことなの?」
「鋭いところをつくわね、ジェーン。わたしは親切にするために、きびしくせざるをえないのよ」
「そう。シェイクスピアね。ハムレット」わたしはほとんど不可能な息を吸いこんだ。「カーテンの後ろにいた老人を刺し殺したばかりの狂人のせりふ。そして深層心理学的には母親と寝たがっていた男のせりふ」
わたしはスイッチを勢いよくたたきつけ、はずみで皮膚が裂けて血が流れだした。
雨はいよいよ激しくなっていた。雨のむこうにぼんやりと、だれかが電話のあくのを待っているのが見えた。
いま大切なのはわたしの顔を見られないこと、わたしのおちいっている状況を悟られないこと。わたし自身なにがなんだかわからないでいるのに。わたしはスイッチをたたきつけたことなどなかったかのように、なおしばらく通話を続けているふりをした。顔はかっと火照り、両手は冷たかった。いま何が起こったのかさえはっきりわからなかった。「だめよ、ママ」わたしは通じていない電話に向かって言った。「だめ、ママ。だめよ」むっとするボックスを出れば気分がよくなるだろう。ずっと。アパートに歩いて帰り、家賃をとりにきた管理人をかわし、両腕には荷物ひとつなく、シルヴァーのいない部屋に入ったら。もちろん、シルヴァーはいないだろう。かれは悟ったのだ。ロボットはほかの機械から特別なテレパシーかなにかで連絡を受け取るのかしら。わたしはかたくなだった。かれはいま、裕福な法的所有者エジプティアのところかもしれない。わたしはどうしたらいいのだろう。
うなだれて、わたしはボックスの扉を押し、倒れるようによろめき出た。寒気と雨が波のように押しよせてきて、溺れそうになった。だれかが、わたしを支えた。電話を待っていたひとだ。
そしてわたしの気分の悪さに恐ろしい狼狽が加わった。
「だいじょうぶよ」わたしは無理に言いはった。
そのとき匂いが、感触が、ふれた感じそのものが――わたしは雨の中を見上げ、頭の中が澄み、世界が安定した――「あなた!」
「わたしです!」
シルヴァーはわたしを見おろしていた。おもしろがるように、思いやりをこめ、かわらぬようすで。髪は雨でほとんど黒に見え、シャワーを浴びたときのように頭にはりついていた。まつげから、雨のビーズがさがり、あふれていた。かれの皮膚は雨でできていた。
「どうしてあなた――」
「あなたが店から出てくるところを見ました。わたしは数ブロック離れていました。追いつくこともできたけれど、速く走らなければならないし、あなたはわたしに人間のふりをしてほしかったのでしょう、ね」
「シルヴァー。もう終わったの。なにもかも絶望。でもあなたが行ってしまったのでなくて、とても嬉しいわ」
[#改ページ]
4
「ジェーン、もし泣く必要があるのなら、枕でなくてわたしの胸にしてくれませんか」
「な――なぜ?」
「あなたが枕をくるんだ緑の布は色落ちするようですし、顔がじつに珍妙な緑のまだらになっていますよ」
わたしはとびあがって、鏡のところに走っていった。鏡を見て、わたしは笑い泣きした。バスルームで顔を洗ってからもどった。そしてかれのそばにすわった。
「あなたの胸で泣くつもりはないわ。これ以上なぐさめてほしいとも、抱きしめてほしいとも思わない。だってもうじきあなたなしでやっていかなくちゃならなくなるんですもの」
「そうなんですか」
「わかってるでしょ。何が起こったか話したわね。お金がないの。食べ物もないし、家賃も払えない。仕事にもつけない――たとえわたしに特技があったとしても。ここにはいられないわ。母はあなたを家につれてこさせてはくれないもの。たしかよ。たとえ許してくれても母はきっと――なんというのかしら――わたしの感情を解剖して……悪気はないんだけど。でなければ――ああ、わからないわ。わたしの母に対する話しかたはとても変だったわ。わたしらしくもない。でももう絶望的だってことは確実」
「管理人には会いました」とシルヴァーは言った。「あなたがショールに向かって泣きじゃくっているとき、下へ下りてみました。管理人はわれわれが、閉鎖になった劇場の俳優だと思っています。でもわたしが言ったのではなく、向こうが言ったのですよ。かれは痛みも副作用もなくなって、しごく上機嫌でした。家賃はもう一週間待つと言ってくれました。だれだってそうしてくれます。それにあなたは少なくとも第一週目は払ったんですから」
「でも一週間でお金はできないわ」
「できますよ。おまけに労働カードがなくても」
「無理よ」
「だいじょうぶ」
かれはギターをひきよせ、よどみない調子で歌いはじめた。賢明で滑稽で狡猾でばかばかしい歌を、これまたよどみない指さばきと和音にあわせて。息をのんで、わたしは見つめ、耳を傾けていた。かれの目がわたしに笑いかけた。かれが歌うと、口がすばらしい形をつくり、髪は狂ったように吹きなびいた。
「お金を投げてください、レイディ」かれは最後の和音を鳴らして、誘惑的に言った。
「だめ。それは不法なことよ」
「ひとはいつでもやっています」
「そう。ひと[#「ひと」に傍点]は。でもあなたはみんなよりうまいわ。フェアじゃない。でしょう?」
「ほかのだれかが歌っているところでは、商売をしないことにしましょう。お金をください、というのもやめて。ただ音楽をやって。どうなるかようすを見るのです」
「だれかがあなたの正体を――あなたが何であるか――知ったら?」
「これが」とかれは言った。「正当な商売だということもできますよ。こう考えてみたら」かれはギターの上からおごそかな目でわたしを見た。とっておきのばかばかしい目つきで。「あなたはほかのオットセイにはできない芸をするオットセイを買ったんです。そしてお金がなくなった。だからオットセイを路上に出して、その鼻の上に十トントラックをのせてやって、あなたが帽子をもってまわる」
「あなたはオットセイじゃないわ」
「鼻の上に十トントラックをのせられてはかないませんよ」
「わたしには――うまくいくなんて想像もできないのよ」
かれはギターをわきにおいて、わたしの両手をとり、かれの顎の下にあてさせた。そしてわたしの顔を見上げた。
「いいですか。あなたは雲の中にあるあなたの家に帰るほうがいいんですか。わたしがあなたを楽しませなくなって、あなたがもう幸福でなくなったのなら――」
「幸福?」わたしは叫んだ。「あなたといっしょにいてずっと幸福だったわ。あなたといっしょのときだけ生きていられたわ」
「たしかですか? あなたには山ほど選択余地がありますから。もし、ただわたしの側のことが心配なのなら、前から口をすっぱくして言っているように、わたしはロボットです。わたしの機能は奉仕すること。あなたが角のスーパーで買う卵剥き器のような金属機械といっしょですよ」
「やめてよ」
「ほんとうのことです」
「ちがう」
「ちがいません」
かれは頭を下げ、わたしの両手の中においた。顔は見えず、わたしの指にはかれの髪の毛があふれた。そして突然ちいさなしずかな衝撃とともに、わたしは何が起こったのか、何が起こりつつあるのかを悟った。ただ信じきれなかった。かれにはわかっているのだろうか。かれは信じているのだろうか。
「シルヴァー」わたしは自分にも聞こえないほどちいさな声で言ったが、かれの聴覚はささやき声をとらえるだろう。声にならないささやきすらも。「はじめてわたしを見たとき、なんて思った?」
「ここにもひとりお客さまがいると」
「シルヴァー、わたしがひどいことを言った――不安で混乱してたからだけど――とき、あなたのしたすさまじい目つき。あれは昨日の晩、あなたがジェイスンとメディアに向けた目つきといっしょだわ」
「かもしれません。おそらくあなたがあれの効果を教えてくれたのでしょう。非友好的ふるまいの手段として」
「あなたはあのふたりに敵対して、わたしの味方をした」
「理由は話しました」
「わたしも話したわ。でもあれだけじゃない」
「ジェーン。この話はもう何回もしたでしょう。わたしの反応は人間のものとはちがうのです。あなたの要望ですから、ここではあえて人間のふりをしています。それはちゃんと理由があることです。けれどあなたとふたりきりのときは、事実を受けいれてほしいのです――」
「ちがう」わたしはなおも低い声で言った。「あなたこそ受けいれるべきだわ――あなたのふるまいはロボットや機械みたいじゃないわ。そのことをあなたはぜったい受けいれなかった――」
かれはわたしの手を放し、そばを通りすぎて窓により、外をながめた。刺繍のある上衣の布地には、肩の緊張を物語る新しいしわとひきつれができていた。人間の緊張。
「あなたはそれを思うと不安になるのよ」わたしは言った。「でも心配しないで。それは悪いことじゃない。どうして悪いことがあるかしら」
かれが何も言わなかったので、わたしは口をつぐんだ。ブラシをとりあげ、まだしめっている髪を、ぴしぴしと音をたてて大きくときはじめた。ひとすきごとにわたしは自分に言いきかせた。たとえ不法なことでもかまわない。かれが歌って、わたしがお金を集めるわ。メディアのように。なぜなら、このままにはしておけないから。ぜったいに。とりわけ今は。今だけは。
ブラッシングが終わると、かれは窓から離れ、部屋のまんなかで足をとめ、わたしを見た。その顔はこのうえなく深刻だった。そしてわたしをはじめて見たかのように、油断なくとぎすまされていた。
「もちろん、わたしがここに残れば、母はひとをやとってわたしの居所をつきとめ、ひきずって帰ろうとするかもしれないけれど」それは冗談のつもりだった。
かれは言った。「あなたのおかあさんは決してそうはしないでしょう。どこからどこまでバランスのとれた、完璧な、よく適応した、目にいれても痛くない、洗脳されきった、頭のからっぽな娘を望んでいたのに、それがかなえられなかった事実をおおやけにしたくないはずです」
「あなたってどこまで残酷になれるの」わたしはおどろいた。「クローヴィスよりひどいわ。だってクローヴィスの残酷さは嘘の上になりたっているのだもの」
シルヴァーは事務的な雰囲気をすて、わたしににっこりしてみせた。かれは長椅子に腰をおろしてこう言った。「わたしの髪をといてください」そこでわたしはかれに近づき、言われたとおりにした。そしてかれがわたしにもたれかかってリラックスするのを感じた。わたしはかれと過ごした一秒一秒のことを思いつづけた。幾度も幾度もくりかえして。
「あなたは上手ですよ」
「あなただって」
「わたしのはプログラムされたものです」
そこでわたしもほほえんだ。心の底に狂おしいものがはずんだ。かれはむりやり打ち消そうとしている。だがわたしはかれを追いつめることはしなかった。わたしは寛容に、そして畏怖を覚えながら、この話題をうちきった。
「ひとからお金を集めるときどうすればいいかしら」
「ではあなたもその気になったんですね」
「ええ。群衆のへりをまわるの、それともそこにつったってる?」
「わたしが人間の歌い手よりずっとうまいのなら、人間からお金をとるのはまちがっていると思っていましたが」
もちろん、わたしがかれのなかにこの変化をひきおこしたのだ。かれをロボットだと認めることによって――だがそのときでさえ、わたしは決して、決して、ほんとうには……なんと狡猾な手だったろう。なんと心理学的に正当な手。わたしは自分が何をしているかの計算さえしていなかったのだ。
「わたしはもう気にしないわ」わたしは戦略でそう言った。
「とにかく使える手は使ってお金を集めるのが先決でしょう。忘れないでください、あなたも歌うんですよ」
わたしはブラシを落としそうになった。
「わたしが?」
「もちろん」
「歌えないわ」
「歌えます。聞きました」
「だめ」
「そうすれば歌に人間らしさが加わるでしょう」とかれは言った。「あなたには即興的に重唱をつける才能があります。いっしょに歌っているときの半分は、とても効果的かつ独創的なオブリガートをつけるじゃありませんか。自分で気づかなかったのですか」
「それは――音にちゃんとついていけないからよ」
「完璧なハーモニーになっていなかったらそうも言えるでしょうね。あなたには生まれつきの才能がありますよ」
「あれは――単なるお遊びだわ。わたしなんかへたで――」
「それはもしかして」かれはしずかに言った。「デーメータがあなたに歌がへただと言ったということですか」
わたしは口をつぐんで、考えた。思い出せない。けれど――
「歌えるなんて思ったこともなかったわ」
「わたしが言うんです。あなたはうまいと」
「でもいやなのよ」
「どうしていやだってわかります?」
わたしは確かに自分の全能感をなくしていた。
「できないわ」わたしは金切声をあげた。「できないったら」
かれはほほえんだ。
「オーケー」
正午には雨もあがった。わたしたちが外出したときには、世界はしめって灰色でつやつやして、不平をもらしていた。かれは赤と黒のマントをきて、肩からギターをつるし、わたしはいまではひどく汚れた毛皮のジャケットをはおり、ペンキのはねが派手にあがったひどく汚れたジーンズをはいていた。トレランス街から離れ、ブールヴァールにそって高架の下を歩いていきながら、わたしはときどきかれに言った。「わたしだめよ、シルヴァー」
そしてかれは気軽に答える。「オーケー」
ひとびとがすれちがってゆく。いまは池か湖と化してしまったストリートの水たまりにふみこんで、しぶきとはねをあげながら。たいらな屋根のいくつかは貯水池になり、絵のような滝となって下の舗道にそそいでいた。いそいで家路につくべき日であって、外出する日ではない。わたしはいやでもシェ・ストラトスでの日々を思い出した。暖かな図書室で本をもってぬくぬくと体をちぢめ、あるいは展望室で音楽のテープをかけながらキャンディを食べていて、そのまわりで冷たくよそよそしい空は金属のクリームのようにほぐれたり巻いたりし、雨は槍ぶすまさながらに降っているのに、わたしは安全に、繭のなかにこもって、母が帰ってくるのを待っている。そして、「ママ。熱いバタートースト食べない?」そしてデーメータは、古典的な家庭の喜びに対するわたしの子どもっぽい弱点を知っていて、うなずいてくれる。そして宇宙飛行士≠フひとりが、中国のお茶とトーストとストロベリーとオレンジのジャムをのせたトレイをもって、よたよたと入ってくる。そして母は今日のできごとを話してくれ、わたしは笑う。母がわたしに今日のできごとをたずね、わたしが話す。けれどわたしのできごとはとても退屈で、自分でもそれがわかっていて、母を退屈させないように適当にはしょって話す。母が退屈しているのがわかっていたから。正確にはわたし本人に対してではない。そして母はそれをとてもうまくカムフラージュしていたけれど、わたしにはなぜかそのカムフラージュがわかった。そしてなにかしらとびあがるほどおもしろいこと、母の興味をひくことをしてみたいなあと、漠然とした白日夢にふける――たとえばカレッジにもどって、比較宗教学の本を読むとか、南アメリカだかどこだかに旅行するとかして、仮説をたずさえて帰り、それを公に発表し、母に面目をほどこさせるとか。そしてトーストを食べおわると、母はわたしにキスして、なにかしら信じられないほど複雑で価値のあることをするために、自分の書斎に行ってしまう。そしてわたしは、バルコニー・バルーンの中を吹きまくる風や雨にわずらわされることもなく、やわらかいカーペットの上で眠りに落ちる。
母はすばらしかった。でもわたしは恐れていた。わかりかけてきた――正確にはなにが? わたしは恋人という媒体を通してわかってきた。わたしの、機械でありながら機械でない、美しいすばらしい恋人を通して。かれは言ったのだ。「デーメータもあなたを恐れている。デーメータはあなたを、型紙の本から型紙を切りぬくように切りとろうとしていた。ただあなたがそれにぴったりしなかった」そしてわたしはいまかれといっしょにここにいる。ぬれて冷たい歩道を一文なしで歩いている。けれど州の銀行に行きさえすれば、母の家に帰る交通費がもらえるのだ。それを考えてごらん。それから、かれの髪をとかしているとき、かれが目を閉じて背中を向けていたことを。かれは言った。「あなたは上手ですよ」かれは言った。「食べ物の味は気に入りました」かれは窓から外をみていた。答えることができないか、したくなかったかで。そうわたしが、あなたはロボットみたいな反応をしない、あなたはいままでも決してしなかった、と言ったとき。
混乱のさなか、幸福に近く、恐れにも近い気持ちで、わたしは店のガラスに自分の姿がかれの姿といっしょに映るのを見ていた(こういう迷信がある。かれに魂はない。だから鏡に映るはずがない。影もできるはずがない)。わたしの像は、小麦色のブロンドの髪をして、ほっそりと――ばかばかしいほどほっそりとした新しいジェーンだった。わたしの腰はいま二十二インチしかない。ジーンズがなぜこんなに似合わないかという理由のひとつは、わたしが腰まわりを相当に――それもへたくそに――詰めなければならなかったこと。そうしなければ足首のまわりに落ちてくるからだ。
どうしてストリートで歌っていけないことがあろう。おもしろいかもしれない。宗教の勉強よりも。ママ。わたしはストリートシンガーよ。
わたしはぼんやりと思い出した。子どものころ、母の運転するシボレーに乗ってどこかに行くとちゅうで歌ったことがある。しばらくして母は言った。「ダーリン、あなたがその歌を好きでうれしいわ。でもどうか音をまちがわないでね」ときどきわたしはピアノで音をひろった。簡単な左手の伴奏をつけて。母に聞こえないときにかぎってだった。母のピアノはすばらしくうまかった。わたしは自分に音楽の才能がないとわかっていた。どうしてどうして。かれといっしょに歌ったとき、わたしはとてもリラックスしていたので、ふだんは表面にないような才能がひょいと出てきたのだ。ひょっこりと偶然に。でも人前では――人前ではあがってしまう。ひどいことになる。お金どころか石がとんでくるかもしれない。だれかが警察を呼ぶかもしれない。
わたしたちは、両側の店から流れでる光であたたかく照らされているアーケードの入口に来た。部分的に屋根のある通りが、二軒の店のあいだのアーチ型の中をとおっている。それは広い通りで、ひとは冷たいしぐれ模様の空をさけようとそこへ折れてゆく。同じ理由でアーケードの端から端までいったりきたりしているひともいる。商売にはいい場所だ。わたしにでもわかる。
シルヴァーは、まるで自分がアーケードの持ち主で三百年間毎日ここに来ているとでもいうふうに堂々と、アーチの入口から入っていった。
かれがギターを前にまわしたとき、わたしは不安な声でささやいた。「わたし、どうすればいい?」
かれはびっくりしたようにわたしを見た。
「歌わないってことですか」
「シルヴァー」
「だめなんですね。わかりました。じゃ、そばに立って、通行人のなかの同性愛でない男性に無言のアピールをしてくれればいいです。クッキーの缶を地面において。それでいいでしょう」
わたしは缶をおいた。自分がブラマンジェみたいにそこにつったっていて、歌うときよりもっとまの悪い思いがするところを想像した。かれはどうやらひとりでやってくれるつもりらしい。わたしを飼っておくために。わたしのペットのオットセイ、わたしの奴隷、わたしの卵剥き器は。かれにやらせるべきだわ。そうよ。わたしになんかできない。
最初の和音でわたしはとびあがった。それは同時に、アーケードの中をびちゃびちゃ歩いている、何人かのひとたちの耳をそばだてさせた。もちろん全員ではない。下町では、芸人はめずらしくない。
それからかれは歌いだした。それは前にきいたことのある歌で、どこかを走っている列車の歌だった。煙突から熱い煙と湯気を出して走る古い列車。メロディは列車にあわせてがたごとはずんだ。あらあらしくて陽気な歌、灰色の憂鬱な日をまぎらわすには絶好の歌だった(わたしは自分がまの悪い思いをしていないのに気づいた。歌にあまりにもひきこまれていたのだ)。
わたしは通りの壁によりかかって、目を半眼にした。ひとはわたしが通行人をひっかけようとしているのだと思っただろう。歌はわたしを心の中でげらげら笑わせ、外面ではしずかにほほえませた。そのときひとびとが足をとめるのがわかった。いまは四人がアーチの口のまわりに立っていた。だれかが灰色の端から入ってきて、これも足をとめた。最初のコインが缶の中に落ちたとき、わたしはとびあがって、うしろめたくそれをのぞき見た。見ていないようなふりをしながら。それは大きな額ではなかったが、とにかくはじまりだった。
自分があっというまに慣れてしまったのがふしぎなほどだ。ほんとうにふしぎ。まるで前にもこんなことをしたような気がする。でもそれは大道芸人をたくさん見てきたからなのだと思う。わたしは、ただ通りすぎる多数のひとびと、耳を傾けてそれから金を投げずに通りすぎるひとたちの顔にあった尊大な表情を思い出した。そして金を与えるものの顔にもひとしくあったその尊大な表情を。一度クローヴィスはひとりの若者にありたけの札をやってしまったことがある。若者は、かたずを飲む聴衆の前で、輪とナイフと、油をそそいだ燃える蝋燭――どういうふうにか、いつも燃えていない端を手につかんだ――を見事に手玉にとっていた。すると、おそらくクローヴィスが魅力を感じたにちがいないこの若者は、くるくるまわる刃と炎のあいだから、かれに声をかけたのだ。「メルシー、ボー・ムッシュー」
シルヴァーはむろん完璧に、むろん疲れ知らずに、弾きつづけた。突然通りのまんなかには五十人ほどの人垣ができ、コインは缶のなかにとびこんでは、はねかえってとび出た。缶の中にはもうおさまりきらなかったからである。今度は芸人の作法も役にたたなかった。どうすればいいのだろう? 五十人の面前で缶の中身を財布に注ぎこむことはできない。でも缶がいっぱいではこれ以上もらえない。わたしは思いわずらうあまり、いつ歌が終わったのかわからなかった。それは盛大な拍手の中にのみこまれた。
シルヴァーは弾きやめて聴衆に一礼し、かれのしぐさの真に中世的な美しさに、わたしは息づまるような思いを味わった。かれの雰囲気のかげにいれば安全だと思われた。だれもわたしに気づかないだろう。人垣のなかのだれひとりとして動く気配を見せなかった。唯一の動きは、後ろから割りこんでこようとしているふたりの女性のものだった。だれも仕事がないのか、それともきょうは休みの日なのか。あとのほうにちがいない。失業者がお金を投げるはずがないもの。お金を投げず、投げる気もなく、ただで楽しませてもらおうとするだろう。
だがこれほどしずかな観客をひきつけるのは、大道芸人には異例のことだった。場所選びの賢明さ。まわりのどの店もまだ入口を閉ざしていないのに、文句も出ない。
群衆はシルヴァーが次に何をするかを見守っていた。
かれは考えるように、いくつか音を鳴らしてから、言った。
「レイディーズ・アンド・ジェントルメン。リクエストをお受けします。歌をリクエストしてください。それを歌いましょう。しかし一曲につき前払いでクォーター貨一枚です」
何人かはばかにするようにしのび笑いをもらした。わたしは緊張した。わたしはこういうほのめかしにあったことがない――ふだんなら何か言ってやるところだ。ひょろりとした男が叫んだ。「かりに金を払って、あんたの歌が気にくわなかったらどうする?」
シルヴァーはきつね色の目でじっと相手を見た。冷やかなじらすような、楽しんでいるような目で。
「お金は」とかれは優雅な悪意をこめて言った。「いつでもお返しします。あなたがご親切に十分前にくださったコートのボタンと同じように」
男はおろかしく口をぽかんとあけ、ひとびとはどっと笑った。だれかがかれをつついてわめいた。「払えよ、しみったれ」だがシルヴァーがはっきりと、うっとりするような声をさしはさんだ。「ボタンもお支払いのうちです。ボタンも役に立ちます。果物の種だのからからになった犬の糞だのでないかぎり、なんでもけっこう。ありがとうございました。最初のリクエストをどうぞ」
ひとびとは波のようにゆれ、ささやきかわした。やがてひとりの女が、最近批評家に絶賛された劇のなかの退屈なラブソングの名を叫んだ。シルヴァーはうなずいて弦をあわせ、半小節ひいた。女はいどむようにクォーター貨を投げ、シルヴァーはうけとって、前に銅貨が落ちたところにきちんと置いた。それからその歌を歌った。それはかなしく、深い意味をたたえたものになった。
歌が終わると長い沈黙があり、だれかが女に向かって、貨幣をとりもどすかとたずねた。すると彼女は群衆をかきわけてきて、シルヴァーの手に札を一枚おしこみ、そそくさとその場を去り、アーケードから出ていった。その顔はピンクで目はぬれていた。あの歌は彼女にとってなにかしら特別なものだったのだ。彼女の反応はわたしを不安にしたが、長く考えているひまはなかった。次から次へとリクエストがあった。
幾人かは貨幣をわたしの手のなかに押しこんだ。わたしも共犯だとみられている。けれどわたしはそれにも慣れた。足はブーツの中でこわばって、ふたつの氷のかたまりのようだった。背中は立ちっぱなしで痛んだ。どのくらいそこにいたのかわからない。頭がぼうっとしてほとんどのぼせたようになった。体と心がふたつの別々の仕事に従事しているようだった。
かれは二十曲ほど歌った。ときどきわずかな人数が去ってゆく。ふえてゆくほうが多い。だれかがかれの注意をひこうと、きいたこともないような名の歌をたのんだ。
「聞いたことがありませんが」
シルヴァーは言った。
「だれもないだろうよ」声は叫んだ。
「でも」とシルヴァーは言った。「その題にあう歌を即興でやってみましょう」
みなは待ちうけ、かれは歌った。それは美しかった。かれはそれも覚えておくのだろう。かれはどんな歌でも忘れることがなかった。だれかの歌った歌でも作った歌でも。銀貨が一枚、わたしの頭のうしろの壁にぶつかり、缶の隣にはねかえって落ちた。興奮して、ひとびとは騒然となりはじめた。
「ありがとう」とシルヴァーは言った。「でもミサイルはもうけっこうです。ガールフレンドの目がつぶれでもしたら、彼女は今夜キャッシュを数えられなくなりますから」
ガールフレンド。おろかしくもわたしは赤くなった。みなの目がわたしに集中する。すると、さっきコートのボタンを投げた痩せた客がまだそこにいて、このとき叫んだ。
「おれのリクエストだ。彼女の歌をききたい」
あまりにおそろしくて耳が信じられず、こわいとさえ感じられなかった。でも、「さあ」とボタンの男は言った。「彼女だっていい声なんだろ。いつ歌うんだ?」
これに呼応して、なりゆきを楽しんでいた群衆が声をあわせ、わたしにも歌えと叫びだした。
シルヴァーがちらとわたしを見、それから手をあげた。するとかれらはしずかになった。
「彼女はきょう喉をいためているんです」シルヴァーが言い、わたしの血液はまた静脈と動脈の中を流れはじめた。それからかれはつけくわえた。「明日でしたら」
「明日もここに来るのかい」ボタンの男がなおもたずねた。
「よそへ行けと言われないかぎりは」
「じゃ、明日もここへ来るぜ」ボタンの男は陰気な声で言った。
かれは背をむけ、人波をかきわけてゆこうとしたが、そのときシルヴァーがかれによびかけた。
「このレイディの歌はわたしより高くつきますよ」
ボタンの男はかれをねめつけた。
「へえ、なんで?」
「なぜなら」とシルヴァーはすらすらと言った。「彼女のほうがうまいとわたしは思うからで、わたしが値段を決めているからです」
ボタンの男は畜生と言い、ひとびとはシルヴァーの騎士道精神に喝采した。わたしは氷のような汗の風呂に漬かりながら、缶のそばの地面のお金に目を吸いつけていた。
シルヴァーはさらにふたつリクエストを受けてから、嵐のような抗議の声にもかかわらず、今日のセッションはおしまいだと宣言した。みなが理由をたずねると、かれは体が冷えたからと言った。
ひとびとが散りはじめると、シルヴァーは金を、マントの内ポケットとわたしの財布に分けて入れた。遠くで軍隊が移動するようなくぐもったジャラジャラという音が、わたしからも、かれからもした。わたしは叫んでしまった。「わたしたち強盗にあうわね」
「それほどはかせいでませんよ」
「ここは貧しい地域だもの」
「知っています」
「わたしのポリコードはじき無効になるわ。もしだれかに襲われても、あなたにはどうしようもないわね」
かれは眉をあげてわたしを見た。
「それは、どうしてですか」
「あなたはそういうプログラムをされていないもの。あなたはゴールダーじゃない」どうしてわたしの声はこんなに意地悪く響くんだろう。
かれは言った。「あなたはきっと驚きますよ」
「あなたはいつだって驚かせてばかり」
「どういうことですか」
「どうってことないわ。全部がそう。あなたにはものすごく簡単なこと。きっとわたしたちのこと見下しているんでしょう。手にくっついたパテみたいなものだって。あなたの金属の手にね」
わたしは少しばかりまた泣いていた。自分が何を言っているのか、なぜ言っているのかよくわからなかった。「かれは明日もくるわ。そういうタイプの男だもの。やってきてわたしをやじるわ」
「あなたに興味があるんですよ。もし歌いたくなければ、かれなんか無視なさい」
「あなたなら無視できるでしょう。でもわたしはだめ」
「どうしてです?」
「わかってるくせに。わたしはあなたを信じていたわ。なのにあなたはみんなに、わたしが歌がうまいなんて思わせたりして。わたしがああ言ったあとで――」
「わたしはあなたが歌うかもしれないと思わせただけです。歌う必要はありません。目玉としてはすできですよ。神秘的な唖のブロンド――唖というのは音楽的にということですが。あなたのかせぎ高はいよいよ上昇します。一ヵ月もしたら、あなたがハッピーバースディをひと声歌うだけで、みんな狂気乱舞ですよ」
「ばかなこと言わないで」
「わたしは希少価値的なばかですよ」
「黙って」わたしは言った。
かれは凍りつき、こはく色の目をあげ、その場に釘づけになった。機械のスイッチが切り替わって。
「あなたなんかと」わたしは同じ調子で続けた。「いっしょにいるべきじゃなかったわ。あなたにはみんなゲーム。あなたはなにも感じない。理解もしない。その金属の頭のなかで、わたしを笑ってるの?」わたしの声はいまはほんとうにおそろしく、出てくる言葉もすさまじくおそろしかった。「あなたはロボット。機械だわ」わたしは口をつぐみたかった。淡い記憶――前に勝利だと思ったこと、かれのなかに人間的な弱さを垣間みた喜びの記憶は――いまは、わたしがかれを傷つける必要性を増すだけのように思われた。だれかがわたしを傷つけた。傷つけた。わたしは気づかなかったのだ。だからいま、できるものなら、あなたを傷つけてあげる。「ひとつの機構が働くとちいさなランプがひとつつく」恐ろしくもあった。けっきょくそれはほんとうのことじゃないの? 「そのランプはこういうしるし。ジェーンに親切にすること。ばかなジェーンに。彼女が歌えるふりをすること。彼女がベッドでうまくやってるふりをすること。ふり、ふり、なぜってそうしないと、彼女はあなたをエジプティアのところに送りかえすから。エジプティアはあなたが何ものかよく知っている。エジブティアは夜にはあなたをロボット貯蔵庫に入れるわ。人間の男のほうがいいから。でもジェーンは不適合者。ジェーンは変態。ジェーンはロボットに思召し。まあ、なんて幸運かしら。ジェーンはあなたをとっておくでしょう。あなたに、人間みたいなふりをさせて。ばかなジェーン。いつだって笑顔ひとつに弱いんだから」
わたしはがたがたふるえていたので、財布のなかのコインが、地震にあったときのレジみたいな音をたてた。かれはわたしを見ていたが、わたしはかれのほうを見なかった。
「わたしがここでセッションを打ち切った理由は」とかれは言った。「あなたがそばで凍え死にしそうな気配を感じたからです。アパートまで送っていきますよ。それからわたしはひとりで次の仕事をしてきます。市場がいいでしょう」
「そうね、あそこでもあなたは人気者になるわ。女をひとりくらいつれてこれるわよ。男でも。そしてかれらを幸福にしてやったらいいでしょ」
「あなたを幸福にするほうがいいです」かれの声は完璧に冷静だった。完璧に。
「できっこないわ」
「すみません」
「すまながることはないわ。あなたにはすまないなんて感情あるわけないんだから」
もうじゅうぶん。わたしは自分に言いきかせた。もうやめるの。ひとことだって本気じゃないくせに。
いいえ。わたしは自分に言った。かれはわたしをずっとばかにしてきた。もてあそんで、道化者にして。さっき群衆を手玉にとったとおんなじように。
わたしはなおも自分に言った。かれの非人間的なところをもっともっとついてやったほうがいいんだわ。かれにナイフみたいに刺さるまで。
わたしはものすごく冷たく、同時にものすごく暑かった。足は鉛だった。座りたかったが、しめった舗道しかなかったので、そこに座った。次の瞬間、かれがわたしをひっぱりあげて立たせた。わたしの腕を痛いほどきつくつかんで、アーケードのなかにおしこみ、つっきって、外のストリートにもどった。むだのない動き。ロボットだから。あなたは推理――いえ計算――したんだわ。人目の多いところにいけば、わたしがすこししずかになるって。
太陽は傾き、ケイシーズ・キッチンの上に、調理用モレキュラー・ストーブのようにあかあかと照りつけていた。
バスがきて、かれはわたしをひっぱって乗りこんだ。座れなかった。バスはかまどのように暑く、手すりにつかまっていると、ひとびとがわたしたちの間にわりこんだ。そのときかれの青白い、ほとんど金属に見えない顔が、窓の外の宙に目を放っているのが見えた。その顔はこわばって冷たくおそろしかった。ほかのだれかがこんな表情をしていたら、わたしはさぞ恐れたろう。だが、それはかれだったから、恐れることはできなかった。怒りはわたしの中でしずまってゆき、かわりに不信と深い嘔吐感がおそってきた。わたし自身に対する吐き気。かれにもわたし自身にもぶつけることのできない吐き気。
わたしたちはブールヴァールで下りて、トレランス街へ歩いてゆき、アパートに入って階段をのぼった。どちらも口をきかなかった。アパートは氷のようで、宝石のような色彩さえ色あせて見えた。
わたしは中に入り、かれに背中を向けてたたずんだ。
そしてなにか言おうとしかけた――なんだったか思い出せない――とき、そのとちゅうでしずかにドアがしまり、わたしはふりかえった。かれがドアの向こう側にいるのがわかっていた。コインの音は聞こえたが、かれの足音はしなかった。かれはしずかに階段をおりてゆき、ギターがぽろんと奇妙なうつろな音をたてた。マントが弦をこすったにちがいない。
かれはわたしのために家賃をかせぎにいった。食費を。わたしのために。被服費を。わたしのために。わたしはかれが、灰色を深めてたそがれに入ってゆこうとしている灰色の午後のなかに立ち、黄金の声で、こはく色の歌を、銀と緋色と青の歌を歌っているのを知っていた。わたしがかれを買ったからでもなく、奴隷だからでもない。かれが、親切だから。かれが、わたしのいとうべき弱さをも我慢できるほど強いから。
わたしは気分が悪く寒かった。ベッドからひきずりおろしたかけぶとんにくるまり、ウォールヒーターの前にすわりこんだ。
母のことを考えた。わたしのことを。機械が母の胎内に精子を挿入するさまを思いえがき、別の機械がプレシプタ法でわたしをひっぱりだすところを思いえがいた。わたしがどんなふうに卵から育っていったか。どんなふうに母が母乳で――それがわたしのためにいいから――育てたか。母の体内から機械が母乳をとり、機械がわたしの口に運んだ。たくさんの機械が関与していた。わたしだってロボットのようなものだった。
わたしはシルヴァーのことを考えた。かれの顔――こわばって無表情なあの顔。「あなたには感情なんかないもの」わたしが笑ったとき、いっしょにベッドにいるとき、かれが歌っているとき、かれはほんとうにうれしそうな顔をしなかったか。また堆積物の中のけたから日光がさしこみ、それらをすべりぬけるとき、三羽の野生のがちょうがジェット機のように空にとびたつときには。
暗くなったので、わたしは蝋燭を幾本かつけ、青いカーテンをしめた。今朝かれがわたしをおいて出ていったあのようす。帰ってこないのではないかと、わたしは心配したっけ。いまも同じ心配をしているのかしら。いいえ、そうじゃない。わたしはもう何もこわくない。ただ寒いだけ。そして自分に吐き気がするだけ。
わたしはベッドに入って眠りに落ちた。わたしは夢の中で、何百という大群衆にむかって歌っていた。ひどいできだった。けれどみなは喝采した。そしてシルヴァーが夢の中で言った。「あなたはもうわたしを必要としないでしょう」かれはばらばらになっていた。針金と滑車と時計仕掛けに。
わたしはのろのろと目をさました。はっとしてではない。恐怖にでもない。わたしの目はかわいていた。あきらめの感じがあった。だが、何に対するあきらめかはわからなかった。わたしはいくらかの寒気、ちいさな痛み、単なる身体の不調のしるしを味わった。それが物事をああも暗くみせていたのだ。いまではずいぶんよくなった。身体的には。
わたしは眠り、ずいぶんたってから目覚めた。ずいぶん眠った。ずいぶんと。
やっとわたしは服を着てロビーの電話のところに下りてゆき、ダイアルして時間をきいた。午前三時だった。かれはまだ帰ってこなかった。
[#改ページ]
5
ありとあらゆることがらが心の中を通り過ぎる。究極的な機械であるかれ――がわたしをおいて出ていったことは、もうどうでもいい。けれどわたしは、自分が強盗について言ったことを思い出した。かれは驚くほど強靭ではあるが、それでも十人のギャングを相手にまわして勝ち目があると思えない。たとえかれのプログラミングがかれに自己防衛を認めている――つまり同時にわたしの身を守ることになるからだが――としても。もしだれかがかれを棍棒でなぐって、路上に部品がころがり出たら、いったいどうなることだろう。不気味にも滑稽で、ありうることとも思われない。わたしはかれがロボットだと知り、口にし、夢も見ていたが、それでもわたしにとってかれは人間に思われた。
だがこれらのことを思いめぐらしているわたしは冷静だった。母の与えてくれた精神分析的トレーニングのたまものかもしれない。わたしは自分がかれを、いままで会った男と同じように分析しかけていることに気づきはじめた。
分析の結果は、まことにそっけなくこう出た。かれは襲われてやしない。あなたがかれを傷つけたのだ。かれには感情がある、あるいは獲得した。かれがとる手は、悩んで、あなたを傷つけにかかること。同じしっぺがえし。人間だけがするように。けれどもしかしたら、かれは人間がそうするものだと気づかないかもしれない。あるいは自分のしていることが人間と同じだとは。だから、かれには自分を制御できない。
わたしはこの啓示に驚き、ぼうっとなった。わずかに熱があり、それに気づいていなかったが、わたしがこうも不気味な想像に対しながら、高揚して自信に満ち、冷静でいられたのは、疑いもなくその熱のせいだったのだ。
わたしはブーツをはき、孔雀のジャケットを着、いちばん上に毛皮のジャケットを着こんだ。それから鏡に自分をうつしてみた。
「これからどこへいくの。ジェーン、ごめんなさい、ジェインね」
「シルヴァーを探しによ」
「どこにいるかわからないでしょ」
「わかるわ。市場のフィッシュ・オイルランプの下で歌ってるわ」
「まあ、ジェイン。すばらしいひらめき。あなたがそんなに利発だとは知らなかった。終夜営業の市場だものね。もちろんふたつあるうちの……」
「最初のほう」
「そう、きっとそうね」
「出かける前に、ジェーン」
「なあに、ジェイン?」
「メイキャップして」
わたしは鏡の前に立ち、彼女がわたしをメイキャップしてくれた。雪のように青白い顔をし、ほおにはかすかな熱っぽい赤みがさしていた。まぶたはアイシャドウのチューブからしぼりだした銀色。それから彼女はマスカラ・チューブを使い、まつげを真夜中のしげみのように濃く黒くした。わたしたちはたがいの唇をすきとおったこはく色で、官能的に、誘惑的にぬりあった。
熱のおかげで、わたしたちはこれまでにないほど手がたしかだった。
わたしはストリートに走り出た。トレランス街を走りぬけた。ブールヴァールの角で、アステロイドが見えた。わたしは笑いだした。
ストリートのひとつで、わたしは歌いだした。はじめてのことだった。わたしの声はどこかしらほかのところから出てくるようで、わたしは自分の声をきくことができた。凍った大気の中にひびく鐘のようにかろやかだった。ほそくてすきとおっていた。それは――
「いいことがあったのね」だれかが通りすぎながら言った。
「いい声だ。へべれけに酔っぱらってるのかもしれないが」
ありがとう。未知の、親切な批評家たち。
市場はわたしの前にはじけ出た。真昼のようにまばゆく金色に。
黄金のなかのシルヴァーを。ほのおを求めて。のぼる朝日を求めて。
ルシファー。わたしはあなたをそう呼ぶべきだったのだ。天使。邪悪な天使。光をもたらすもの。けれどもうおそすぎる。いまはもうあなたをほかの名前では呼べない。
シルヴァー。
かれは歌っていた。その声が聞こえた。わたしはかれを見つけた。ぎっしりとひとがつめかけていたが、やっとかれらの肩のあいだに、かれの顔が見えた。それは二度目にかれを見たときのようだった。ああ、わたしの恋人、愛するひと。かれの顔は愛をささやくように、ギターの上にうつむけられていた。そこにはある種の光があった。かれがみずからにまとう光が。かれは群衆からあらゆるエネルギーをひきだし、それをみずからのうちにおさめ、ふたたびかれらに向けて投げかえした。星のような光、太陽のような光。わたしにはいまこそ見えた。それがなんであるかわかった。かれは人間ではなく、機械でもない。かれは神に近いもの。どうしてかれを変えようなどと思ったのだろう。わたしにかれを変えられなくても、かまわない。もういい。かれといっしょにいること、愛すること――それだけでいい。
歌が終わった。群衆は爆発的な声をあげた。かれは目を上げ、わたしを見た。群衆の中を見通して。二度目にわたしを見たように思われたとき――かれがバビロンの庭園で『グリーンスリーブス』を歌ったときと同じように。するとかれの顔はしずかになり、なにごとかを問いかけているかのように思われた。あなたは何をしたのですかと。わたしは何をすべきなのだろう。わかっていた。わたしはかれがいつもわたしといっしょだったことを思い出した。わたしはかれのもとに歩みより、かれの手をそうっとなぜた。「ハロー」と言った。そしてそばに立ち、ふりかえって、ひとびとに向かいあった。コインや札の山がそこらじゅうにできていた。だれかがある歌の名前を叫んだ。シルヴァーはちらとわたしを見、ためらった。「あなたが教えてくれた」わたしは言った。「あなたを信じるわ」
かれは和音を鳴らし、歌いだした。わたしは三つめの言葉で声を合わせ、いままでずっとそうしてきたように重唱に入った。とてもやさしかった。そうすると、群衆のなかからごくかすかな嘆賞の声がきこえた。嬉しかった。シルヴァーはわたしにやめろとも言わず、こちらを見もしなかった。ひとびとはリズムにあわせて手をたたきだした。
ふたりの声、かれの声、彼女の声が、いっしょに舞い上がるのが聞こえた。それはわたしたちの髪と同じ色彩を持っていた。かれのはほのおのようでとび色で、暗くゆたかだった。わたしのは透明で澄みきって、淡いブロンドの音の鎖だった。|鎖《チェイン》。ジェイン。ジェインの声。それは美しかった。
歌が終わると、ひとびとは足をふみ鳴らして叫んだ。わたしのためにそうしてくれているひともいるのがわかった。コインが降ってくる。だがその音ははるか彼方だった。わたしは先へ進みたかった。もう一度歌いたかった。でもシルヴァーは群衆に向かって首をふった。人垣は散りはじめた。あっというまだった。呼びもどしたいとさえ思った。
それからひとりの女がひとをかきわけるようにしてやってきた。シルヴァーにわたしたマグからは、湯気とアルコールの芳香がたちのぼっていた。
「寒さがしめだせるよ」彼女は言った。わたしを見た。「これはブロンドのお嬢さん。あのジャケットを着てるんだね」わたしがいちばん上にはおっていたコートの前はあいていた。それはあの服の店の女性だった。「あんたもいるとは知らなかったよ。知ってたらもう一杯もってきてあげたのに」
「いっしょに飲めますよ」シルヴァーが言って、わたしにマグをわたした。
わたしは飲んだ。コーヒーだったが、ブランディが入っていた。
「いいジャケットよ」彼女は、まだそのへんにうろうろしている群衆や通行人に、そのジャケットの出所を知らしめるべく言った。しかたなく、わたしは毛皮をぬいで、市場に孔雀を輝かせた。
「値打ちものでしたわ」わたしははっきりと大きな声で言った。「とてもあったかいし――」
「あたたかすぎるかもね」彼女はわたしのおでこにさわった。「それほどの熱じゃないけど、あんたも家に帰ったほうがいいわよ」
「母はいつもそうしてました」
「彼女、寝てなきゃいけないわよ」女はシルヴァーに向かって言った。片目をつぶってみせた。突然わたしは、かれと彼女のあいだに性的な陰謀などないのだと悟った。わたしをふくめて、みんなが、陰謀の対象なのだ。わたしは声をあげて笑った。
シルヴァーはわたしの毛皮のジャケットの前をしめてくれた。
「今夜はもう終わりにします」
「それがいいね。あんたはじゅうぶんやったよ。でもあんたの仕事はいいよ。あの歌、気に入ったよ。あの薔薇の歌ね。ええとほら――」
かれは金を厚い布の袋に入れながら、その歌を歌ってきかせた。
「薔薇はほかの名前で呼んでもその本質にはかわりがない。そう知るべきであろう――あるいはキスの色、あるいはほのおの彩」
それは即興だった。わたしは黄金の夜にもたれてくつろぎ、わたしの声をまじえた。わたしの新しいふしぎな声で、かれのメロディを拡大した。「薔薇にはもうひとつの名前がある。それを愛と呼ぼう。わたしはそれを愛と呼びたい。愛は海のよう。たえまなくうつりかわり、それでいてひとつのもの」
女はわたしを見た。
シルヴァーは言った。「これはジェーンの作った歌ですよ」
「愛は海のよう。わたしはかれを愛してるの」わたしは女に言った。ブランディがわたしの頭を、熱が血管を満たしていた。
「そう、|家《ホーム》を持たない愛」女はわたしたちに笑いかけた。
わたしたちは市場を出た。かれはわたしをマントのひだの中につつみこんでくれ、わたしは文字どおりかれの翼の下にいた。
「だいじょうぶですか」
「おだやかでかるい人間の病気のひとつ。なんでもないわ」
「どうしてここに来たんですか」
「いっしょにいたかったから」
「どうして歌ったんです」
「わたし、歌った?」
かれの腕がわたしをとらえた。
「あなたは自分のなかのある壁を乗り越えた」
「そうだわ。ばかばかしい壁だった」
家まではあっというまだった。というかそのように思われた。セメントの段をのぼりながら、シルヴァーは言った。「もう家賃の半分はかせぎました。朝ご飯にドーナツを買う危険をおかしてもいいと思いますが」
わたしたちはアパートに入った。ヒーターをつけっぱなしにし、十本の蝋燭をつけてきたので、もったいなくもあり、危険でもあった。けれどそれがなんだろう。
「わたし、銀のメイキャップを買うわ。わたしの皮膚もあなたみたいにするの。ばかばかしいでしょうね。あなた、いや?」
「いいえ」
わたしは長椅子にすわったつもりだったが、気がついたら寝っころがっていた。奇妙だった。体温が実際にさがってゆくのがわかった。飛行艇がプラットフォームに近づくときのように、すうっと下降してゆく。わたしは病気ではない。病気にならないだろう。何もかもうまくゆくことがわかっていた。
シルヴァーのマントとギターが壁にもたせてあって、ひだと木質に蝋燭が照り輝いていた。芸術写真や絵画によく見るように。シルヴァーはわたしの隣にすわって、じっとわたしを見ていた。
「わたしはだいじょうぶ。でもあなたはどうしてそんなに気を使ってくれるの」
「忘れないでください。あなたは、わたしと、エジプティアのロボット倉庫をへだてる唯一のものですからね」
「ごめんなさい。わたしは、無意識的に、そして意識的にも、あなたに人間の気分になってもらおうとしていたらしいの」
かれは笑うだろうと思った。だが笑わなかった。かれはつかんでいるわたしの手を見おろした。
明かりがすうっと暗く意味深くなるような気がした。どれかの蝋燭が燃えつきたのだろう。
「わたしは人間のような気分がしています」かれはやっと言った。「人間のふりをするために、人間のようにものを感じようとしてきました。けれど程度というものはあります。わたしは機械です。人間のようにふるまい、いくらかは人間のように感じる機械、でもそれは人間とまったく同じ感情を持つということではありません。けれどそれをのぞけば、おそらくたいへん不幸にもわたしは、あなたに関しては感情的な反応を身につけてしまったようです」
「あなたが?」わたしは低く言った。わたしは信じた。疑いはなかった。わたしは驚くほどやさしい気持ちだった。
「論理的に見れば、これはみんなあなた自身の反応に対する反応です。あなたはわたしに対して奇妙な、感情的な反応のしかたをします。そしてわたしはその反応に対して反応している。つまり、わたしはあなたの必要を満たそうとしているだけとも言えます」
「いやよ。それは。あなたがわたしの必要にあわせてくれるなんてもうたくさん。わたしが、あなたの必要にあわせたいの。シルヴァー、わたしに何をしてほしい?」
かれは目をあげて、わたしを見た。その目ははるかにはるかにひきしりぞいてゆくようだった。横から見た海のようでもあり、水平線の深さを持っていた……
「どこのだれでも、あなたは何がしたいか≠ネどとロボットに向かって、ききはしないでしょう」
「わたしがそう言ってはいけないという法律があるの?」
「人間の優越性という法律があります」
「あなたのほうが優れてるわ」
「そうではありません。わたしは人工のものです。作られたもので、時間を知りません。魂も」
「愛してるわ」
「わたしも愛しています」かれはかぶりをふった。疲れたように見えたが、わたしの想像だったかもしれない。ちらちらする火のせいかも。「あなたを幸福にできるからではなくてです。たとえそれができるとしても。健全な機械的なプログラムされた理由からでもありません。わたしはただどうしようもなくあなたを愛しているんです」
「うれしいわ」わたしはささやくように言った。
「あなたは狂ってる」
「わたしはあなたを幸福にしたいのよ。あなたの中にはその要求がある。わたしの中にもあるの」
「わたしがたった三歳だということを忘れないでください。わたしはこれから土台を作り上げなければならないのです」
わたしはかれにキスした。わたしたちはたがいにキスした。愛の行為をはじめたとき、それはいつもと同じようであり、同じようにすばらしかった。ただ、いまは、わたしは自分に何が起こるかを考えることなく、それに集中することもなかった。すばらしい戦慄の波がわたしの上に、中に、よせかえし、わたしはその中で泳いだが、目指してゆく水平線の明かりはちがっていた。それはわたしの明かりではなかった。
わたしはこのとき自分がそのふりをしていたとは思わない。何かを考えていたとも思わない。わたしはからっぽの胃にブランディを流しこんでいて、おだやかな発熱状態で、そして母にはねつけられたり、公衆の前で歌ったりした後だった。書きつづっている今も信じられない。読者よ――あなたがたも信じてくださらないだろうと思う。もしこれを読むことがあれば、わたしが読んでいただくとすれば。
わたしはいちいちの行為を、ささやきを羅列したくない。エジプティアならするだろう。彼女の手記を読めば――手記など書かないだろうが――彼女はヴィデオ電話を通じて、自分の生命のありったけをシャンペンのように、ひとの耳に流しこむ。
まったく突然、わたしがもう行く手も目標も見えなくなったころ、というか、そんな夢想もふっとぶほど頭が痴れきって、何もわからなくなって、それでも自分自身からははるかにはるかに遠いところにいて、身体からも遠く、そしてどういうわけかかれの身体の中にいたとき――唐突にわたしは知ったのだ。その瞬間、かれは身をもたげ、わたしを見おろした。狼狽したように。くぐもったさまざまな色の光の中で、かれの顔はほとんど苦悶しているようだった。おのれをかみしめているようだった。それからふたたびわたしの上に身を伏せた。わたしは、かれの身体が力を集め、深い水底にもぐってゆくときのように張りつめるのを感じた。かれの髪がわたしの目にかぶさったので、わたしは目を閉じた。そして口のなかで、かれの髪の絹のような味を味わった。わたしは、かれに何が起きたか察していた。しずかなはげしい盛り上がるようなうねりが、かれの中をつらぬいていった。肉体の地震。声をあげたのはわたしのほうだった。オーガズムが自分のものででもあるかのように。だが、わたしの身体はかれの快楽に共鳴しただけで、わたしの喜びとはかれの喜びであった。わたしはかれが以前に知っていたものを知った。すなわち愛するものの喜びのなかに、喜びを感じることを。
静寂はとても長かった。わたしは横たわって、蝋燭の蝋が受け皿にはぜる音を聞いていた。聞きながら、わたしはかれに、かれの髪に、うなじに、キスした。かれを愛撫し、抱きしめた。
とうとう、かれは身を起こした。かたひじをついて、わたしを見おろした。顔に変化はなかった。おもしろがっているような、おだやかな、考えぶかげな表情。
「機構的にはまったく不可能なことです」
「なにかあったの。わたし気づかなかったわ」
「ありましたとも」かれはしずかに言った。「人間の男だったらあなたに証拠を見せられたでしょう。信じられないかもしれません、あれが――」
「見せかけじゃなかったこと? あなたのことはずいぶん知ったわ。あなたがふりをするとき、どんなふうかもわかっているわ。あれとはちがう。証拠なら、あってもなくても同じ。どのみちほかの薬のもだけど、先月は避妊の注射を受けなかったわ」
「ジェーン、あなたを愛しています」
わたしはほほえんだ。「知ってるわ」
かれはわたしのそばに横たわって、少なくとも二時間のあいだ、わたしはうとうとしなから、頭の中で歌をこねまわし、それから眠りに落ちた。
こうしてわたしたちは物語のおしまいにきた。ここまで読んでくだされば、わたしたちがたがいになんと言ったか、たがいについてどう感じたかを、これ以上お聞きになりたくないだろう。書く必要もないことだ。この記録――これは記録だ――はだれのためのものだろう。シルヴァーでさえ見たことはない。わたしが書いていたことは知っているけれど。でもこれはおそらく、機械に恋した――そして逆も真の――すべてのひとびとのための記録。
わたしは歌を書いた。いつでもそれができたし、たいしたことだと思わなかった。ときには即興で歌えた。わたしは駄洒落や地口も得意だった。
ひとびとはどよめき、そしてお金を投げてくれた。ボタンをくれた男はわたしにまたボタンをくれた。最初にわたしの歌を聞いたとき、かれはわたしたちにふたつくれた。シルヴァーが設定した値段の二倍だった。
ときどきわたしは自分自身を遠くから、鳥のように高いところからながめる。歌ったり合わせたり、ひとびとのために、そしてひとびととともに演奏しながら。ときに群衆は二百を越すことがある。するとわたしは驚く――これがわたしなの。もちろんわたしのはずがない。これはジェイン。ブロンドの髪の、二十二インチのウエストで、銀の皮膚をして、孔雀のジャケットを着、紫のサテンで裏打ちしたエメラルドグリーンのビロードのマントをはおったジェイン。まるで皮膚が一枚わたしをつつみこんだかのようだ。それを通してものがやっと見えるだけ。それから皮膚はぱっと裂ける。
ひと月半たったいま、わたしたちはこのすばらしいむさくるしい場所に住んでいる。
昨日は雪がふり、今朝もふった。すごい雪だったので、わたしたちは外出しなかった。愛をかわし、自家製のワインを作った。後者の作業で、砂糖が爆発して、あやうくキッチンのハッチがふっとぶところだった。後者だということは強調しておこう。そしてこの手記をすっかり書き終えた。
白い猫がやってきて、わたしたちが二週間前に買ったばかりの真鍮のベッドのまんなかにあたたかな雪の玉のようにまるまった。文字どおりうってつけの歌の題材だった。それはわたしたちが上で動きまわると、ふんだんにキイキイいう音をたてた。猫ではなくて、ベッドがである。猫はほんとうは管理人のものだった。わたしたちはこまぎれにして家賃を払い、かれは文句を言わなかった。いかにも素朴に、しかし無意識に、かれはシルヴァーに惚れていた。
何日かわたしたちはものを食べなかった。ときどきぜいたくな夕食をとった。演奏することになると、どんな店もわたしたちにどけとは言わなかった。ときには、中で歌ってくれとさえ言われた。
クローヴィス、エジプティア、クロエに会ってから長い年月がたっている。母デーメータに会ってからも。母に電話したいという誘惑はときおりひどく強くなったが、わたしは抵抗した。泣きつく必要はない。母はわたしがどこにいるか知らないが、わたしの勝ったことは知っている。ときにわたしは母の夢を見、すすり泣きながらめざめる。かれがなぐさめてくれる。わたしはめんどうをかけてごめんなさいと言う。わたしの偏執的なこのくせで、口論になるが、最後はセックスで終わる。ベッドがきしきし鳴り、猫は――その場にいあわせれば――悲痛な声をあげる。
考えないようにしていることがある。わたしが六十になって、かれがいまと同じであること。若返りのコースがある――そのころにはふたりともお金があるかもしれない。かれは金属がぼろぼろになるかもしれないと言いはり、不吉ながちゃがちゃいう音をたてて、部屋をはいまわってみせる。そしていつ彗星が地表に激突するかもしれない、とも。なにもかも糞くらえ、だ。
堆積物は氷と雪で白くなった。部屋は輝き、わたしたちはわたしたちの銀色に輝く。
わたしはかれを愛している。かれはわたしを愛している、これは自慢ではない。自分でも信じられずにいる。けれどかれは愛している。おお、神よ、かれは愛している。
そしてわたしは幸福である。
[#改ページ]
第四章
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
「みんな、ごらん」星が言った。「わたしはこ
んなにまばゆく燃えている」そうしてそれはノ
ヴァとなった。光が薄れたとき、星はもはやど
こにもなかった。
この物語の教訓は明らかである。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1
腕全体が痛くてこれが書けない。なぜ書こうとしているのかわからない。何かの役に立つとでもいうのだろうか。これはセラピイの一種だろうか。わたしはもう記録としてこれを書くのではない。なんて子どもっぽいことだろう。しかしもしわたしが子どもっぽく、だれかのためにこれを書いているのでないとしたら、自分のために書いているのにちがいない。そしてそれはわたしに別段益するところはないだろう。だからこんなことは。
いいえ、わたしは書かなければならない。
書きはじめさえすれば、楽になるだろう。はじめること。あの言葉――わたしは幸福である――から。でも、できない。
わたしは幸福である。わたしはまばゆく燃えている。ああ神さまわたしは死んだほうがよかったそしてこの残忍な世界もわたしといっしょに死んでいれば。
いいえ、書かなければならない。だから書こう。世界が死にたえてほしいとは思わない。けれど右の言葉を消そうとは思わない。紙を引き裂こうとも思わない。ただ続けていこう。どうか力を。だれか。ジェイン、わたしを助けて。
雪は青空のもとで陶器のようになった。天候はすばらしく、寒気はダイアモンドのようだった。二日して、ワインとレーズンが切れたので、わたしたちはまたかせぎに出た。わたしたちはたいてい屋内の場所を選んだ。特にグリーン通りとグランド通りの角にあるムジコード‐エクトリカを。ご存じないかもしれないが、ムジコードはシティのこっちがわで最大大手の二十四時間営業の楽器店で、アーバー地区の貧乏人の飢えた夢と同じだけ、シティの中心に住むお金持ちをひきつけた。店内には破壊行為防止装置、盗難防止装置がたくさんしかけてあって、装飾はほとんどそれといってよかったし、店で独自にロボットの警備員をやとっていた。シルヴァーは店内のあらゆる楽器が弾けたし、それの値打ち以上にひびかせることができ、顧客たちの購買意欲をかきたてたので、いつも歓迎された。ここでは金をかせぐというより、ムジコード側が日当をはらってくれ、ときには夜おそく、上のレストランで酒の入ったディナーをおごってくれた。
最初、わたしは店でしょっちゅう顔見知りに会うだろうと思い、自分の新しい性格でどんなふうにかれらと対したらいいのか不安だった。だが、わたしの友人たちは奇妙なスノビズムから、流行歌以外は、モーツァルトを少々たしなむ程度で、あまり音楽の趣味はなかった。
けれど、店に入ってきてシルヴァーの音楽の才能に惚れこんだ音楽家たちとの会合が二度ほどあった。嫉妬を感じ、高揚し、そしてひそかにほくそえみながら、わたしは世にもふうがわりな会話に耳をかたむけていた。かれらはシルヴァーがどんなバンドにいたのか、どうしてプロにならないのか、などということをたずねつづけていた。わたしに向かって自分は嘘がつけないと言明したかれは、じつに巧みな嘘をついてのけた。かれは、とおくの街でプロのステージに立っていたが、過当競争がいやになって逃亡を夢見たと、表情たっぷりに語り、また、筋力がよわってフルタイムの演奏ができなくなる、手首だか脊髄だかの奇病の話をでっちあげた。もちろんそれがまったくの嘘というわけでないことが、わたしにもだんだんわかりだした。かれは歌を即興で作るのと同じに、そういう話を即興で作るのだ。しかしそれから数日音楽の夕べがつづいた。才能と発明と上機嫌とがうちあげる華麗なる花火大会ともいうべきもので、しめっぽい地下室や傾いた屋根裏部屋やうちすてられた倉庫が舞台だった。かれらは演奏し、かれも演奏した。興奮が高まり、それは狂おしくすばらしいものだった。かれの才能のみがかれらを用心深くさせ、ときにはたじろがせた。けれどわたしはそうしたセッションのあいだじゅうすわっていて、こう考えていた。とてもすてき。それからはっきり意識的に考える。あの言葉を書き下ろしたときと同様に。わたしは幸福である、と。
わたしたちは午前二時ごろムジコード‐エクトリカから出て、店々の明かりに黄金色になった雪の中にたたずんだ。わたしたちは外から、緋色のピアノの列をふりかえった。その一台を、シルヴァーが午後から晩にかけて弾いていたのである。ストリートに向かって開かれたラウドスピーカーつきの、大きなスクリーンが窓ごしに大音響を放っていた。わたしはちらと目をやって、どこかで地震があったニュースを見て、顔をそむけた。
「疲れた?」わたしはかれにたずねた。
「あなたはいつもそれを言いますね、頭のおかしいお嬢さん」
「ごめんなさい。あなたは疲れないのね。疲れたりしないんだわ」
「あなたは?」
「だいじょうぶ」
「ではパーラーまで歩いていって、またレモンファッジ・アイスクリームで気分を悪くすることができますよ」
「家に帰って、猫がまた蝋燭をかじっていないかどうか見るのでもいいわ」
「言ったでしょう。猫に骨を一本買ってやれば、あのくせはとまりますよ」
わたしたちは雪の中に立っていた。かれに緋色のピアノを買ってあげることができたら。
「あそこで考えていた新しい歌の歌詞を書きとめましたか」かれがたずねた。
「まだよ。でもあなたに詰したから、あなたが覚えていてくれるでしょ。わたしも覚えてるわ。白いほのお――なんてこと――気味の悪い歌ね。アイデアが次から次へと出てくるのよ。長続きはしないと思うけど。いまにひからびるわ。わたしがひからびちゃったら、あなたどうする?」
「水をあげますよ」
スクリーンのチャンネルが自動的に切り替わって、音量が上がった。そこを動かざるをえなかった。だが、わたしの目は自然にスクリーンに吸いつけられた。くすんだガラススプレイのかかった正面玄関に虹色のネオンが見え、そのネオンはエレクトロニック・メタルズ社という文字を作っていた。一瞬、それは無意味なものにすぎなかった。それからネオンが消え、文字は黒い骨組みだけになり、わたしはニュース解説者の声がラウドスピーカーから流れてくるのを聞いた。
「今夜、エレクトロニック・メタルズ社は最後の灯を消しました。人間そっくりのロボットを創りだそうとしていたこの会社はとうとう、人間にかわるものを作ることができないのを認めたわけです」
「シルヴァー」わたしは言った。
「わかっています」
わたしたちはそこでじっと見つめていた。雪は足の下で、わたしの動悸にあわせてゆっくり鳴っていた。
今度はスクリーンに、革ばりの椅子のある、ちいさなからっぽの部屋が映った。だれかがこちらを見ていた。色つきの眼鏡をかけ、今度はフォーピースでなくファイブピース、すなわち、ズボン、ジャケット、ベスト、上衣、ネクタイ姿。どれもクリーム色のウール製だった。スウォンソン。受付の男だ。状況がわかった。親しみやすい愛想のよさ、気安そうな、喜んで情報を提供しますという顔、きつくくみあわされたマニュキュアの両手。
「わたしどもは大いなる望みを抱いておりました。お客さまに対する究極的なサーヴィスです。審美的にすぐれているだけでなく、つねにご家庭でみなさまを楽しませることのできるロボットを作ることです。歌い手、踊り手、話術の達人。コンパニオン。けれど金属の塊にプログラムできることには限度があるというのがいつわらざる真実でありまして」
画面が変わった。スウォンソンは消え、微笑した人間そっくりの首のついた黄色の金属の箱の列が映った。「ごきげんよう」それらの首がカナリアのように唱えた。「ごきげんよう。ようこそ。料金をお願いします」
画面が変わり、スウォンソンがふたたびあらわれた。
「あの路線は悪くありませんでした。ただのスロットよりは感じがよかったと思います。かなりの流行を見ました。飛行艇会社は設置を考えています。わたくしどもは、自分の限界を認識いたしまして……」
切り替え。にこやかな首と、かわいらしいふたつの少女の手のついた灰色の金属の箱。「おはようございます。マダム。きょうはどのようなヘアスタイルにいたしましょうか」
切り替え。「わたくしどものゆきづまりとは」とスウォンソンが言った。「人間の芸術家に匹敵するようなものを作ろうとしましたことです。つまり創造的な人間ですね。わたくしどもの精巧仕様型です。当然ながら、コンピューターはこの四年間むだな努力をつづける羽目になりました。そしてわたくしどもはそれが無理と悟ったしだいです。人間にはインスピレーションというものがあります。予測不可能性とでも申しましょうか。人間には機械のおよびもつかない才能があるのです」
切り替え。若い女性がずっととおくの舞台に立っている。カメラがすうっと寄っていく。するとそれにつれてハイライトが輝き、彼女の白ワイン色のガウンに、銅色の肌に、小麦色の黄色の髪に、流れる。甘く音楽的な声はすらすらとよどみなく言葉をつむぎだす。「すみやかにとびゆけよ、ほのおの蹄もつ馬――」そしてもう一度。「すみやかにとびゆけよ、ほのおの蹄もつ馬――」もう一度、もう一度、もう一度。どれもまったく同じ抑揚だった。
「完璧なパフォーマンスでして」スウォンソンが言い、カメラは彼女のまわりをまわった。「いついかなるときも変わりません。ヴァリエーションがないのです。つまり――まったく――創造性がないのです」
切り替え。スウォンソンが座ってにこやかに手をくみあわせている。
「しかしまったく生きているようですね」その場に映っていないインタビュアーが微妙なあてこすりをこめて言った。かれはスウォンソンにある種の非難を向けている。スウォンソンはそれを知っていた。
スウォンソンはさらににっこりし、笑みをひろげた。まるで顔面筋肉の運動をしているようだ「特殊擬似仕様でして」
「人間と見まちがえますね」ニュース解説者が非難をこめて言った。
「ええ、それは、そうですね。遠くから見れば」
切り替え。すもも色の剣のしるしをぬいとった黒いオリエントふうの衣装の黄金の男が、まがった剣を宙にふりまわし、それから停止した。カメラがさっと寄る。四フィートの距離で、人間との区別がついた。皮膚の不透明な金属の色――それは耐熱処理されたソースパンの加工部分のように硬直した色だった。
「この皮膚でいつもわかってしまうのです」とスウォンソンは言い、カメラは金属のまぶたの裂け目にそってすべっていった。まつげは黒いラッカーの針のようだった。「型にはまったしぐさはまったく本物らしいのですが、頭部の動きや歩行がまずいですね」
切り替え。黄色のビロードをまとった銅色の皮膚の男が、画面を歩いて横切った。このぎこちなさがおわかりでしょう。一度これが目につけば、どうしてもそこに目がいってしまいますね。
「ですからばかばかしいのは」とスウォンソンは言った。「これらのロボットをシティで発表した日の、一般大衆のヒステリックなさわぎです。新製品の紹介だったのですが――ほんとうに驚きでした――」
「まったくですね」(インタビュアー)「ある種の神話が作られたと言ってもいいですね。自分で行動できるまったく自律的なロボットですからね」
「当然ながら」(スウォンソン)「どのロボットにも人間のつきそいがつきました。慎重を期してというわけです。そうでないと収拾がつかなくなります。ひとびとがわれわれのロボットを過大評価した度合いはばかばかしいようなものでした。ええ、もちろん、ロボットは利口です。おそらく最高でしょう――しかし、われわれのロボットがしたと言われているようなことは、しょせん機械には無理なことですよ。飛行艇やフェリーや地下鉄にひとりで乗って旅するなんて――」
切り替え。古いフィルム。見覚えがある。イースト・アーバーでのデモの群衆――その上をさまよう警察のライト。だれかが瓶を投げる。カメラがそれを追う。瓶はエレクトロニック・メタルズ社の正面部に当たって、こなごなになった。
わたしは声をたてたのにちがいない。シルヴァーがつめたい指で、わたしの掌をはさんだ。人間の皮膚の感触。
「だいじょうぶですよ」
「そうじゃないわ。ほら――待って」
スウォンソンが画面にもどった。
「ともかくもE・M社の最終的な失敗は、あそこの外にいたひとびとを喜ばせるでしょうね。かれらはわれわれのしたこと――したとされていることにおびえていたのですから」
「では、E・Mは顔をつぶされたわけですね」ニュース解説者。嬉々として。鬼の首でもとったように。
「面目まるつぶれですよ。やっかいなことがわかったのです。このウルトラ精巧仕様の機械はものすごくエネルギーを食うのでとちゅうで動かなくなってしまいます」
切り替え。黄金の娘が踊っている。空電。金属の像はこの世のものならぬ角度で、片足をのばし、髪が目にかぶさったかっこうで停止した。ばかばかしくもこっけいだった。笑うべき姿だった。人間にとうていおよばない機械、ひとつの動作も完遂できない機械。
(電池切れのがらくた、とクローヴィスは言った。「戸口を入ってくるなりエンコしちまうかもあるいは、もっとまのわるい、決定的に悲惨な瞬間にね」)
わたしの心を読んだかのように、インタビュアーが言った。「それに、このロボットは――なんと申しましょうか――友好的な交際機能もそなえているんですね。いわばガールフレンドの代わりもつとまると。ガールフレンドがこんなふうに硬直してしまったら、困りますよね」
「ええ。その可能性があったわけで」
「それはひどい」
スウォンソンはにやっとした。その笑いはこう告げていた。「いくらでも攻撃なさるがいいです。うけてたちますから」
「では、われわれ人類は」とインタビュアーが言った。「どうやら最高の種として今日まで生き残ったわけですね。人間は芸術ならびに思索において、頂点に立っている。そして愛においては――どうでしょうか」
「そうですね」とスウォンソン。
「こうおたずねするのもなんですが、E・Mのこれからの計画といったようなものについてお聞かせいただきたいのですが」
「はあ、わたくしどもは州から外へ出ることを考えております。どこか東のほうへ。さびれた農業地帯向きの機械でも」
「たとえばおたくのトラクターがにっこりするなんてことはあるんですか」
「だれか物好きなひとがそういう絵でも描かないかぎり、ありませんね」
そして切り替え。漫画が画面をおおった。にんまり笑っている金属のトラクターの絵だった。それにはまつげと長い金の髪があった。
わたしは目を閉じ、またあけた。雪がまぶしかった。ほかにも足をとめて、このローカル・ニュースを見ているものがいないかと恐れながら、わたしはふりかえった。ひとりの酔っぱらいが千鳥足で通りをわたってゆく。足をすべらせたらしい。天高く遠く刺すような宝石の輝きが見え、飛行艇の近づいてくるのを告げていた。シティはいたるところでおだやかにおのれに向かって吠えていた。だが、このニュースを見てしまったものには、そんなものはなんでもなかった。シティじゅうのひとびとがこれを見たのだ。見て、そして信じたろうか。
「奇妙ですね」シルヴァーがつぶやいた。
「こわいわ」
「あなたがおびえているのはわかります。なぜですか」
「わからないの」
「うすうすは」
「帰りましょう。お願い。早く」
わたしたちは、無言で歩いた。マントで雪を擦って、ルネッサンスのふたりの王侯のように。だれかとすれちがうたびに、わたしは不安になった。かれの正体がわかるのではないかしら。わたしたちをまじまじ見るのじゃないかしら。
でもそんなことあるはずがない。ニュースは、ロボットが人間と見まちがうことはありえないと告げていた。近くへよれば、皮膚がソースパンみたいで堅い堅い金属だとわかるはずだと。(わたしはどんなカメラよりも、修整された欺瞞的なあの静止画像よりも、近くで寝た。毛穴のない皮膚だが生命感があり、なめらかだが堅くはない。金属的だが、金属ではない……)そしていつもそれでばれるという、いくらかこわばってぎくしゃくした歩行や、ぎこちない動作――いくらか調子はずれの人形のような。そしてシティをひとりで歩きまわれないということ。判断力がないこと。あの日あのロボットがわれわれのあいだを歩いているのを見たひとたちは、いまでは、自分たちがひどいまちがいをしたと信じているのだろうか。そう。そうに決まっている。人間は信じたいことを信じるものではないか。だれだって自分たちから職を奪う機械が、自分たちの歌や想像や恋人まで奪うとは信じたくあるまい。
だれかがエレクトロニック・メタルズに入れ知恵をし、どうすればいいか、どう言えばいいかを教えたのだろう。そしてスウォンソンはいつもながら針のむしろに座らされ、それをし、そのとおり言ったのだ。嘘を。論理的ですじのとおった、耳にこころよい嘘を。シティの警察署長はどのくらいの補償費をE・Mに払う義務があるのだろう。かなりの額。市場からもっともおもしろい製品を撤去させることになるのだから。カメラを使って、ロボットがさして有能でないという効果的な宣伝を行なうことにするまでに、相当もめたことだろう。そしてそれから――それから、もちろん、ロボットは分解される。黄金のトルソはばらばらにされ、黒い目ののぞいていたところには黄金の歯車がまわり、黄金の目ののぞいていたところには銅色の歯車がまわっているのが見える。
「歯が鳴ってますよ」かれは言った。
「わかってるわ。どうか足をとめないで」
画面にはシルヴァー系列のロボットは映らなかった。ピアノをひいている銀色の少女も銀色の男(シルヴァーの兄妹)もどちらも。どうしてだろう。シルヴァー型があったことを誰にも思い出させないためだろうか。みんなに向かって、自分たちが人間そっくりに作りあげたロボットが、実際はぎくしゃくしたぎこちない自動人形だったことを告げればいい。そうしたらみんな信じる。シルヴァーをはぶくことで、自分たちの見たのは黄金と銅色だけだったと思わせればいい。そうすればみんなシルヴァー系列の存在を忘れる。バーガンディ・ウィスキー色の髪ととび色の目のシルヴァー系列を。でもなぜ、シティの警察署長と、E・Mの責任者はシルヴァー系列を忘れたのだろう。どうして。いまいましいシルヴァー型が一体、いまも野放しになっているから? このシティに? 完全無欠の、人間そっくりの、人間以上の、神のような、美しい、創造的インスピレーションに富んだロボットが一体。もしひとに気づかれたら、わたしたちは市民のリンチに会うだろう。
わたしは現実の世界に暮らしていて、勇敢に人生の真実に向きあっていると思っていた。けれどそうではなかったのだ。わたしは偶然に、わたしたちに関して、いままでに起きていてもよかったような騒動をまぬがれてきたにすぎない。トレランス街のアパート、わたしたちの縄張り、わたしたちのロマンティックな詩的な生きかた。それらは実際の人生となんと隔たっていたことだろう。あれはまた別の繭にすぎなかった。けれどいまや事実の斧の一撃が落ちてきた。
わたしはだれにも自分の住所を知らせていない。だれも知らない。だからだれもシルヴァーがどこかは知らないだろう。それとも探していたのだろうか。いや、それは気ちがい沙汰だ。
わたしたちは家の建物について、階段をのぼった。ドアのかげの暗がりから、だれかがぬっと立ち上がるのではないかと思った。だれもあらわれなかった。わたしたちはドアをあけた。ライトがぱっとつき、声が叫ぶ? 降伏しろ、と。だが部屋はからだった。猫さえ窓のおおいから外に出ていっていた。(あなたがみごとにかっこうよく布を切ったときのことを覚えている? 「わたしは説明書を読んだだけです」)
かれはわたしをウォールヒーターのところに連れてゆき、スイッチを入れ、わたしたちはいっしょに、夜が明けるように温度が上昇してゆくのを見つめていた。
「シルヴァー。外へ出るのはやめましょう」
「ジェーン、あのことはしばらく続いていたのを、われわれが知らなかっただけです。でもなんの問題もなかったでしょう」
「幸運よ。幸運だったんだわ」
「わたしは買われたし、代金だって済んでいます。おそらくリストから消されているでしょう」
「消せやしないわ。シティの評議会がずいぶんからんでるもの。あなたを野放しにしておけないのよ」わたしはかれを見つめた。ヒーターのやわらかなほのおが、かれの横顔を闇に浮かびあがらせた。「あなたはこわくないの?」
「いいえ、わたしは。わたしは恐れるという感情は持てないでしょう。あなたはいくつかの感情を教えてくれましたが、恐れは別でした。痛みと同じように、恐れも防衛的なものです。わたしは痛みを感じません。恐れも。おそらくわたしは自己を防衛するように作られてはいないのでしょう。ひじょうに基本的なレベル以上には」
「やめて。ますますひどいわ」
「わかります。そのことは」
「外出しないでいましょう」
「どのくらいですか」
「わからないわ」
「食べ物と、家賃は」
「それなら、わたしがひとりで出るわ」
わたしはかれの手首を、レースと皮膚をつかんだ。力強い指の流れるような動きが、わたしの手にはねかえってきた。
「反対しないで、わたしの言うとおりにしてちょうだい」
「反対はしていません」かれは言った。その顔は重々しかった。
わたしたちはほのおに照らされた闇の中に立っていた。長い長いあいだ。
わたしたちはアパートに五日間閉じこもっていた。それはおそろしい、いかにも閉所恐怖症的な日々だった。わたしたちは奇妙なこと、たとえばかれはわたしを攻撃から守ることはできるだろうが、自分自身を守ることはたぶんできないだろう、とか、ある種の星のあいだの距離とか、壁の内部はどうなっているのだろうか、とかを話題にした。わたしたちはまた、堆積物のあいだを健康のために散歩することを論じた――実際にやってみようとは思わなかったが。わたしはりんごとクラッカーを食べていた。望みはなかった。このさきの見通しはまるでなかった。とうとうあるやっかいなこと、やっかいきわまる単純なことが、わたしをストリートに追いたてた。避妊注射を受けそこねたので、わたしはこのところまた、十二や十三のころと同じように生理がはじまっていた。そうなることはわかっていたが、それに対して当座の準備しかしていなかった。それで飢えのためというより、衛生のために、わたしはまた危険な世界にもどらざるをえなくなった。
わたしはトレランス街のブールヴァールを走った。いたるところで視線がわたしを糾弾した。高架の下で、太った女が店から出てきて、わたしの腕をぐいとつかんだ。「あんたはロボットと寝てる牝犬だね」とは言わなかった。こう言ったのである。「市場に来てくれないんでみんな残念がってるよ。あんたたちふたりがどうしたかってみんな心配してる。かれはどこ? 病気じゃないのかい」
「いいえ、そうじゃないわ。外があんまり寒いものだから」
わたしはそのほかにどんな問答をしたか忘れた。ひとしきり話したあと、彼女はわたしを放免してくれた。アパートにもどったとき、わたしはがたがたふるえていた。けれどそれから悟った。シルヴァーも何度となくくりかえして言った。これで何も変わっていないことがはっきりしたと。
次の日、わたしはまたひとりで外出した。ストリートからストリートへ、店から店へ歩いていった。二度ほどひとから挨拶された。だれもわたしを非難しなかった。わたしのなかの張りつめたワイヤーのようなものが、ゆるみ、たるんだ。E・Mの撤退はちいさな波にすぎず、それはシティの岸辺を洗っただけで、気づかれずに去っていった。
かれは真鍮のベッドの上に足を組んですわり、ちいさな音でギターを鳴らしていた。「明日あなたがまた外に出て、何もなかったら、夜、いっしょに出かけましょう。歌の場所だけ。実験です」
「だめ――」
「だいじょうぶ。でないとあなたは、あのかわいそうな猫の蝋燭を食べる羽目になりますよ」
それで翌日、午後三時ごろわたしは出かけた。凍った歩道を歩き、あのアーケードに入っていった。かれが最初に歌った場所であり、わたしが自分で歌うのをさんざんしぶった場所――歌うことがなにかしらこわいことででもあるように――歌うことが。
わたしはアーケードの中に目を走らせた。アーチの下にはだれもいないが、ひとびとはいそぎ足であちらの店からこちらの店へ歩き、また店内に出たり入ったりしていた。長いすきとおったつららがひとつの軒からぶらさがり、矢印さながらに下の雪をさしていた。そこにはジェイスンとメディアが立って、ふたつのそっくりなこわばった微笑を浮かべながら、わたしを見返していた。
[#改ページ]
2
「ハロー、ジェーン」
「ハロー、ジェーン」
「うう、なんて銀色の顔をしてるんだい」
「そうよ、ジェーン。かな。すごい銀色だわ。メイキャップなの、それともかれのがうつっちゃったの」
わたしは忘れていた。心臓があばらのあいだで狂おしく打ち、息が喉もとまでぜいぜいと這い上がってきた。歌を学ぶことは、声のコントロールを学ぶことであるのを忘れていた。でもわたしはそのときなんとかやってのけていた。
「何をだれからうつったんですって?」
「ちぇっ」とジェイスン。「なんて完璧な文法だ。きみのへんてこな俳優の友達からだよ」
ふたりは知っているのかしら。どうしてここに? まるでわたしを待っていたみたいに――
答えちゃだめ。スイッチオフ。ほうっておくの。
「寒くない?」わたしは言った。
「きれいな緑のマント着てるきみはどうってことないだろうね」
「それ、かれの?」メディアがたずねる。
「だれのって?」
「あんたの失礼な友達よ」
「わたしにはたくさん失礼な友達がいるもの」
「まあ。それあたしたちのこと?」
「彼女、あいつのこと話したくないのさ。痴話喧嘩でもしたんだろ。かれといっしょになるために、このスラムに住んでるってのに、みっともない話だな」
ふたりは知っているのだ。みんな知っているのだ。わたしの住所も知っているのかしら。シルヴァーがどこかも。どうしてそんな……
「あんたたちが言ってるのが、橋のところで会った赤い髪のひとなら、わたしたち別れたの。かれ、東へ行ってしまったわ」
「東?」
「州の外へね」(スウォンソンとE・Mとその新しい農業機械のように)「劇のいい役があるんですって」
「そして、きみをひとりでほうっていったの? このスラム街に?」
「ジェイスン、いったいぜんたいどうして思いついたの、わたしがこのへんに住んでるなんて」
「きみはおかあさんのところを出たろ。おかあさんはクレジットカードやポリコードを全部さしとめた。それで、あちこち聞きまわったのさ。あんたの人相をくわしく言ってね――ダイエットに気を使ってる、ブリーチヘアの女の子って――そして、きみが東へ行ったとやらいう友達といっしょに通りで歌っているのを知った。なんて勇敢なんだ。歌えもしないのに。ぼくらみたいに芸人をやったのかい。きみがこのアーケードに来たってのも聞いた」
かれらはわたしを探っていたのだ。悪意とおせっかい以外の何ものでもない理由で。そして今日はシルヴァーとわたしがアーケードに来ることにしていた日だった。かれらはそれも探りだし、ここに張って待っていたのだ。そしてこの日この時間にこの場所にくることが習慣だったので、わたしは考えもなしにそうしてしまった。罠の中に歩いていってしまったことになる(ふたりはかれがロボットだと知っている。エジプティアかクローヴィスと話して。ふたりは知っているのだ)。でも――わたしたちがどこに住んでいるかは知らないはずだ。だからこそここにやってきたのだろう(かれらのうす笑いを浮かべた顔が、ドアのそばにあるのが目に浮かんだ)。もちろんそうだ。わたしたちの家はだれも知らないはず。だれにも言わなかった。音楽家たちのロフトを訪問したことはあるが、招きかえしたことはなかった。
「実際問題として、わたしはこっちには住んでいないのよ。ここで会ったのは偶然ね」
「ああ、ディケンズ的偶然の一致ね」ジェイスンが言った。
「どこに住んでるの、ジェーン」メディアがにんまりしながらたずねた。その目はコブラの薄切りのようだった。彼女がしんそこ憎かった。そのすさまじいちりちりの青い髪も。
「わたしがどこに住んでるかって? オールド・リヴァーの近くよ」
「ぜったいに窓をあけないのね」
「あんまりはね」
「おもしろいでしょう」
「そうね。とにかくわたし行かなくちゃ。さよなら」
「さよなら、ジェーン」
「さよなら、ジェーン」
ふたりは身動きもせずつったっていた。わたしはアーケードを出、もうすこしで道を折れ、家まで走って帰りそうになった。だが、外の通りの寒さがおおいかぶさってきて、長靴はずっと深い雪のなかにざくざくとめりこんだ。わたしは突然、あまりにそそくさと逃げてきたことに気づいた。むかつくようなめまいのする興奮におそわれながら、わたしは道を歩いていって、ケイシーズ・キッチンに入って、まっすぐに品物の棚のあいだの通路を抜けた。クロミウム・インスタント食品の前で立ち止まったとき、そのカーブした表面に、戸口を入ってくるジェイスンとメディアのぐにゃっとゆがんだ像がうつった。
気づかないふりをしよう。人混みを探して、まくのよ。
ああ、なんてこと。人混みなどない。寒くて、お金は少ししかないのに。
どこかに人だかりがあるはずだ。
なかった。
ケイシーズにはなかった。クックリーにも。十ほどの店にわたしは入っていって通りぬけた。小路でもかれらをまこうとした。ぐるぐる迂回して、わたしだけの知っている――かれといっしょにそこを通ったから――細小径をとった。往来のはげしい道をダッシュして横切り、かれらを引き離そうとした。けれどかれらはともかくくっついてきた。わたしは店の正面にうつるわたしの影の数ヤード後ろに、かれらの影が流れこむのを見た。
太陽は動いていった。ストリートはたそがれて暗くなってゆき、別の光で明るくなった。もうおそい。だのにわたしは家に帰れない。寒さで体が痛んだ。そして空腹で、怒りで、恐怖で。わたしは古着屋にとびこみ、古びた毛皮のコートの列のあいだでかれらをふりきろうとした。ほとんど成功したかと思って、帽子のあいだから別の扉に向かったら、世にも恐ろしいことにジェイスンの耳ざわりなしわがれたくしゃみが聞こえた。その音は弾丸のようにわたしの身体をつらぬいた。わたしは走った。店からとびだして、外のストリートをつっぱしった。すべったり、よろめいたり、点々とならぶ街灯の柱にすがりついて、体をたてなおしたりしながら。かれらも走ってくるかしら。あのふたりがひっくりかえって、足を全部折ってくれますように。
ふたりは走った。走ったのにちがいない。わたしには聞こえなかった。かれらはイタチのように、わたしよりうまく走った。いつのまにか、わたしはフィッシュ・オイルランプのともる終夜営業の市場につづく広場についていた。はあはああえぎながら足をとめると、胃につきささるような痛みがあった。かれらが追いついてきた。わたしの両側から、まるで灰色の影そっくりに。
「ジェーン、いったいどこへ行くんだい」
「あんたたち、わたしをつけてるの」わたしは叫んだ。
「ええ?」メディアがジェイスンの顔を見る。
「まあ、そんなもんだ」かれはもっともらしく言った。「家まで送っていってあげようと思って」
「川がこっちの方角じゃないってことだけはたしかよね、ジェーン」
それで? わたしはとにかく息をしずめることにした。そのあいだに考えるのだ。考えられるとすればだが。シルヴァーのところ、トレランス街のアパートへ行ってはならない。オールド・リヴァーもだめ。かれらはドアまで来たがるだろうから。あそこにはドア一枚も持っていないのだもの。
「送ってもらう必要はないわ」
「あると思うわ」とメディア。
「だってきみのポリコードもなにも作動してないんだろ。危険だよ」
「わたしがどこに住んでるか知りたかったんでしょ」
「ぼくらに知られちゃ困る理由でもあるのかい」
「まさか、そんなことないわよね、ジェーン」
「ぼくら友達だろ」
どこへ行けばいいのだろう。かれらをどこへ連れてゆけば、かれらが飽きてわたしを放免してくれるだろう。現金はほとんど持っていない。コインが数枚、それだけだ。レストランに入ることもできない。かといって寒い外へ出るのはもう耐えられない。手にも足にも感覚がなかった。走ったときに足の指の骨が折れてしまったのかもしれない。まだ感じられないだけだろう――目がひりひりした。かれらは言うだろう。凍えてるじゃないか。家に帰りたいんだろう――どうして帰らないのさ。あんたが何もそこに隠してないのなら。ロボットなんかしまいこんでいないのなら。
「わたし帰らないわ」わたしは吐きだすように言った。
「どうして、ジェーン」
「エジプティアに会いにいくの」
「へえ」ふたりの顔が落胆の表情になった。わたしは一点とった。なぜだかわからないが。「つまり彼女の出てるあのおどろおどろしいばかげた芝居のことかい」
「彼女、いつも言ってたわ。ジェーンは初演の晩にぜったいに来るべきだって。来てもらえないと死んじまうわって。あたしのことはどうしてこうも無視できるのかしらね」メディアは少し顔をしかめた。「でもあなたまだ行かないの?」
メディアの言葉はエジプティアの口調そのものだった。ただエジプティアの美しい声だけが欠けていた。パニックのさいちゅうに、わたしはやましさに刺しつらぬかれるのを覚えた。エジプティアはすばらしかったのに、わたしは、すてきだわ、という電話もせず、だいじょうぶ、うまくいくわ、とも言わなかった。彼女が、わたしとかれ――彼女のおもちゃだった――に対する興味をぜんぶなくしてくれることを期待し、わたしは彼女のことを心からしめだした。共感呪術によって、向こうにも同じことが起こるのを期待したかのように。彼女はこのうえもなく、すばらしく親切だった。そして今夜は彼女が、アンテクトラが、孔雀に向かって兄弟の屍のことをたずねる初演の夜だ。自分自身の胸の悪くなるような恐怖をとおして、彼女の苦悶がまざまざと眼前に浮かんできた。
「そうだよ」ジェイスンが言った。「ぼくらもいっしょに行こう。ほんとに行こうかと思ってたんだ。少なくとも、まずアイランドに直行だ」
わたしたち三人は歩いていった。かれらのポリコードがきらきらした。かれのは首かざりについていて、彼女のは腕輪だった。ああ、そんなものがなくて、このわたしにふたりが殺せたら。地震の遺跡には、雪がつもっていた。舞い落ちる雪が星を隠していた。シルヴァー! シルヴァー!
エジプティア、ごめんなさい。でもかれらから逃げられるチャンスが手に入れば、あなたのことは忘れるわ――ああ、神さま、チャンスをください。
「サウス・アーバーに行って、飛行艇に乗ろう」ジェイスンが言った。
アステロイドがこわれたビルの上にのぼった。凍てつくような大気のなかで、それはいつもより大きく見え、わたしのエスコートふたりの顔に青緑の光をそそいでいたが、おそらく目の錯覚なのだろう。
わたしたちは歩いた。かれらはもう何も話しかけなかった。ときどきふたりで話しあった。ときにはわたしのことについて。
「俳優なんておそろしく馬鹿だぜ」
「そうよ。ひどい夜になるでしょうよ。でもジェーンが行きたいっていうんだから」
「彼女、痩せない? 骨格にはふつりあいなほどね」
「おかあさんがなんて言うことか」
かれらは自分たちが典獄だということを知っている。けれどいままでのところはうまくいってない。わたしの家に案内させるのに失敗したではないか。わたしは家に帰らないもっともらしい理由を作りだしたから、かれらは、わたしがだれかあるいは何かを隠しているという確信を持つことができない。そう確信できない。
飛行艇のプラットフォームについて、すべりこみで四時三十分の便に乗りこむことができた。
ふたりが乗りこんで、わたしを、明かりのついたかぼちゃの中にひっぱりこもうとしたとき、わたしはなかばとびおりようかと思ったが、かれらはそうさせてくれなかった。
「ほら、ジェーン」
「わたし、運賃持ってこなかったのを思い出したわ」
ジェイスンはためらった。かれらは大金持ちで、万引きもしているくせに、ものすごくけちだった。わたしは一瞬、かれらがやっとわたしを見放してくれたかと思った。だがそのとき、かれがメディアに言った。「彼女の分、出せるだろ」
そしてメディアは無表情な顔で憎々しげに言った。「いいわよ。出しとくわ。フェリーの分もね。ジェーンはいまじゃ貧民のひとりなんですものね」
「覚えてるかい」ジェイスンが言った。「彼女がジャギッドでぼくらの勘定を払おうと言ってけっきょく払わないでおいて、店からパパに請求書がいったこと。あれはおかしかったね」
わたしたちは腰を下ろした。黄金のシャンペン泡の形をした飛行艇はシティの空のほうへ漂ってゆき、わたしは泣きたかった。こごえた指の痛みと絶望に。
シルヴァーはわたしを待ってるわ。ストリートは危険。わたしにはポリコードがない。かれは自分の身は心配ではないらしかったけれど、それでもわたしのことは心配するのでしょう、シルヴァー。
「ここの建物、おもしろいかっこうしてない?」ジェイスンが言った。「想像してごらん。もしちいさな爆弾でも持っていて、あそこにおっことしてやるなんてさ。ドカン、ドカンて」
「そしたらもっとおもしろいわね」メディアが平然と言った。「火につつまれて」
ふたりとも地獄に落ちるがいいわ。ああ、地獄が実在して、ふたりが永遠にそこで悲鳴をあげていればいい――
いいえ、そんなことどうでもいいわ。いま、それで事態が変わるわけがないのだもの。
フェリーを待っている群衆がいた。ジェイスンはわたしの腕をつかんでいた。わたしとほとんど背はかわらない。わたしはかれを桟橋からつきおとしてやろうかと思った。でも、泳いでもどってくるだけだろう。
フェリーが来て、わたしたちは乗りこんだ。船は水を分けてゆき、林をまわって、アイランドに向かった。
「劇は真夜中になるまで始まらないんだ」ジェイスンがつまらなそうに言った。「でもジェーンは知ってるだろ。六時間以上、エジプティアの愚痴を聞いてなきゃならないな」
「なにかエジプティアをおもしろがらせるようなことできないかしら」とメディアが言った。「彼女の化粧品の箱にちいさな毛虫を入れるとかさ」
「しっ」とジェイスン。「ジェーンに言ったら、つつぬけだよ。お楽しみがなくなっちまう」
「彼女のストッキングの中に糊を入れるってのは」
「そいつは親切なこった。でもエジプティアにとっての親切っていうのはどんなことかな」
「おお、ジェイスン」メディアは鼻声を出した。「どうかあたしの足の指にキスしてちょうだい――感じるわ。まるで女になった気分よ」
わたしは、水が渦巻きながら通りすぎていく手すりのそばに立ち、聞くともなくぼんやりしていた。なぜか、かれらの会話がすみずみまで思い出せる。けれどそんなことはどうでもいい。やがて人工庭園アイランドの桟橋につき、わたしたちは下りて、エレベーターのところまで歩いてゆき、それでエジプティアの家までのぼった。
そのときまでは身動きのとれない気持ちだった。
ジェイスンがエジプティアのドアに向かって、ジェイスンとメディアだ、と言い、わたしをはぶいたころには、わたしはものすごくむかむかして、もうどうでもよくなってしまった。
枯れた鉢植えがあちこちにあって、わたしたちに向かって石と化した鉤爪をふりあげていた。夜は奇妙でちらちら光り、恐ろしかった。わたしはこの前ここにきたときの状況を思い出し、舌をかんだ。自分を抑制しておく唯一の方法がそれだった。もしロードがまた出てきたら、それこそおしまいだという気がした。
ドアがあくと、だれもいず、入ってゆくわたしたちの姿だけが鏡に映っていた。ひどくしずかだった。もっとも香とタバコと、エジプティアが松かさを燃している圧倒的な暖かい松脂の匂いがした。
広いサロンにはだれもいないようだった。黄色の蝋燭がいたるところにともっていた。ひじょうにきちんとして、美しく、豪華きわまる歓迎だった。わたしの気分の悪さがふっと消えていった。そのときわたしは思わず大声をあげそうになった。
床のまんなかにほのおが燃え、大きな地味な色のソファのひとつが四分の三ほどそれをおおいかくしていた。頭がふりかえり、真紅の暈が暗赤色の髪をふちどっていた。それはシルヴァーだった。それは――
「もし玄関からここまでのあいだに何か盗んできたんなら」とクローヴィスが言った。「もどしておいてくれたまえ。これはきみたちの身のためだ。エジプティアは、まさにいま、メイキャップに最後の仕上げをしてるが、しょっちゅうアンテクトラの性格におちいって――というかもっと悪いことに――ヒステリーを起こしかけてる。それにだれかがきみらふたりを殺すのを見たいというのは、ぼくも大いに望んでるところでね――まったく」
わたしは息をのみこんだ。
「ハロー、クローヴィス」
優雅にゆっくりとふりかえり、わたしの姿を目にとめて、かれはぱっと立ち上がった。凍りついたようだった。わたしはなぜ自分が見まちがえたかわかった。クローヴィスのまき毛は肩までのび、すこし赤く染めてあった。シルヴァーに似せるために? 鏡像趣味が逆になったの? 部屋はちらちら輝いていた。わたしたちは喧嘩別れしたが、またこうしてかれに会ってみると、安堵があまりに大きくてわたしは床にくずおれそうになってしまった。
「ジェーン。きみ? 金髪のかつらに銀色の肌の?」
「かつらじゃないわ。わたしの、分子再構成していない本来の色よ。そうよ、わたしよ」わたしはほのおのように熱い気分だった。マントの前をあけ、それが落ちるにまかせた。
「これはこれは。よく見せてくれ」
かれは部屋を横切ってきて、わたしの一ヤード前で足をとめ、しげしげとながめて言った。
「ジェーン、きみは三十ポンドは痩せたね。前からわかってた。きみはほんとに千五百の値打ちはあるきれいな男の子だよ。胸つきのね」
これを聞いて、わたしはどうにも涙がとまらなくなってわっと泣きだした。
ジェイスンがくすくす笑い、クローヴィスは言った。「きみらふたりは貯蔵庫へ行って、地下室に電話してワインを持ってこさせてくれ。辛口の、いっぱい入った赤をね――もしあったらスローモットを」
「あたしたち、あなたに言われたとおりにしなきゃならないわけ?」メディアがたずねた。
「そうだね。きみらが先週またしでかしたことをおとうさんに告げ口されたくなかったら」
「パパは別に気にしないわ」
「それがまちがい。おとうさんは気にするんだ。きみのおとうさんがこないだ、ぼくの父と話してたんだが、どっちもきみらが教育を受けたほうがいいということで一致した。おとうさんは、きみらふたりをダヴィディードのとったのと似たような学科の課程に送りこもうと考えてるところだ。沈泥とか。そんなような色彩や成分の何かだ。もっと臭いのひどいやつさ」
「嘘つき」ジェイスンが言った。
「学科の科目に関してはそうかもしれんがね。ほかのことはちがうぜ。ワインをとりにいかないでもいいよ。いまにわかるから」
とかげそっくりに、メディアはするりとサロンからすべり出た。ジェイスンはふたりを結んでいる目に見えない絆にひきずられ、ちらとクローヴィスをふりかえってから、彼女のあとを迫った。
わたしの大泣きは、驚いたことに、涙が出なかった。ほとんどあっというまにとまってしまった。おそろしい双子がかくもくだらぬ役割におとしめられたことで、わたしはあいた口がふさがらなくなった。
「いったいぜんたい、あのふたり何をしたの。ああまでこわがるなんて」わたしは言った。
「万引きとちいさな放火だよ。ぼくは偶然その場にいあわせたので、父親につたわる前に損害を弁償してやった。父親は本気でやつらを追いはらうことを考えているがね」
「あなたがどうして」
「あたりまえじゃないか。ぼくはとても寛大な気分だよ。いまはやつらをゆするねたがあるんだ。また新しい降霊実験が必要でさ。ポスト・オースティン氏のために。そいつはなんと無理心中のマニアでね。ジェイスンがうまくいかさまをやってくれるだろう。あのトラップ音とほかの家具の鳴る音がずれるようにね。前にはそいつで失敗したんだ。で、こんどはきみだが、いったいどうしてる?」
「わたし――」
「まず、きみはどうして今夜ここに来た? どこかであのものものしい『兄に孔雀の屍を求めよ』なんて代物の広告を見たのかね。たとえば指名手配中のプラカードかなんかに? きみが来たのに反対してるんじゃないよ。エジプティアは自分もふくめてほかの全員を、ここ三週間というものきりきり舞いの目にあわせてる。彼女の仲間の詩人連はもうひとことも口をきかないぜ。今夜ステージでせりふだって彼女に向かっては言うかどうか。でも少なくとも、彼女の「おお、どうしてジェーンはいっしょにいてくれないのかしら」という嘆きだけはきかないですみそうだ」
「クローヴィス」
「なんだい、ジェーン」
わたしはかれを見た。成長しながら、相手も成長してゆくのを見てきたこのハンサムな顔、クローヴィスの顔を。かれがわたしの過去の最後の名残。かれは敵なの? かれが電話してきてシルヴァーをとりかえしたときは、わたしはそう思ったものだ。かれが顔を赤くして、わたしにいやみを言い、わたしがかれの顔をひっぱたいたときには。でももうそうじゃない。かれを信じてもいいかしら。かれは助けてくれるかしら。そもそものはじめにそうしてくれたように。
「クローヴィス、わたしすぐに帰らなきゃ」
「じゃあ、エジプティアの死の咎はきみの良心に重くのしかかるぜ。ぼくのも言うにおよばずさ」
「帰らなきゃ。お願いだから、双子がわたしのあとを追いかけないようにとめてね」
「そんなことするかい?」
「あのふたり、わたしを狩りたててきたの。午後いっぱいわたしを追いかけまわして、どうしても追いはらえなかったの。家には帰れなかったの」泣いてはいなかったが、それでもわたしはまた涙なしで泣きじゃくっていた。すてばちな気持ちで両手をかれのほうにひらひらさしのべながら――というのも、かれはさわられるのをいやがるし、わたしのなかの何かが、かれに肉体的にすがることをこばんでいたからだった。
「ジェーン、ぼくは救いがたいほど鈍いんだがね。いったいなんで家に帰れないんだい」
「クローヴィス、知らないの?」
「というと。きみはデーメータと切れたね。どっかの掘ったて小屋に住んでる。あるいはプロの夜の女になってる。どっちにしてもなぜ――」
「エレクトロニック・メタルズのニュースを見なかった?」
「ぼくはニュースなんか見たことない。もしきみの言ってるのが、じわじわと目にみえない虫くいの進行によって、E・Mが破産したってことなら、そいつは知ってるよ。あれが評議会の目くらましだというのも、そのとおりさ。大衆の反乱をふせぐためにはなんでもやるんだろうな」
わたしはいくらか冷静になった。じっとかれを見た。
「エジプティアはどんなふうに思ってるの、廃止になったロボットの法的所有者として」
「きみは突然、目は鋭く頭は計算高くなったんだな。昔のかわいいジェーンとは別人だね。エジプティアだって? そう、彼女に電話がかかってきた。そしてロボットは欠陥があるから、返してくれないか、燃やしてしまうから、と言われた。かれらは彼女にキャッシュを返して、補償として心づけまではずもうとしたよ」
長い長い沈黙。かれはわたしをもてあそんでいるのだろうか。そんな気がしはじめた。
「そして」わたしは口に出した。「エジプティアはなんて答えたの」
「エジプティアは言ったよ。「どのロボットなの」って。それで会社が説明すると、あのロボットは何週間も倉庫につっこんである、かきまわして捜しだすなんてめんどうくさくてまっぴらだって。心づけのほうだけど、彼女はまったく金には無関心だった。芸術活動を通じて自分を知ることにしか関心がないんだ。彼女は、まあたとえば砂漠で野生のいちじくを食べていても幸福になれるような人間なんだから。するとエレクトロニック・メタルズはあきらめて電話を切ったよ。以来電話はないみたいだ。エキセントリックで健忘症、かつ大金持ちの女優の倉庫の中の、使用されていない、忘れられたロボットなんか眠らせておいたほうが金の得だと判断したらしいな。そうでないとすれば、会社はさわぎを起こしてよけいな社会的緊張をふやすのがいやだったんだろう」
わたしの目は絶望的に大きくなった。
「彼女が、そのとおり言ったの?」
「そのとおり言ったよ。だって彼女に電話がきて、そう言ったとき、ぼくは不運にもそばにいたんだから」クローヴィスはうなずいた。「彼女が画面からふりかえったとき」かれはささやくように、「もちろんぼくはちょっと驚いて言った。「でもジェーンがここへきて、きみをくどきおとしてあのロボットを持っていったんじゃなかったっけ。ぱりぱりの現ナマと真の愛情を支払って」するとエジプティアはトパーズ色の目を大きくして――ちょうどいまきみがやったみたいにさ――叫んだ。「ああ、そうだったわ! すっかり忘れてた。ジェーンが持っていったんだわ」傑作じゃないかい」
「忘れてたの――」
「彼女はそういうひとなのさ。完璧に、あきれるほど、自己中心。エジプティアにとって現実的なのは自分だけ。あとは自分を高めもし、破滅もさせる野蛮な神々だけだね。きみはかれに惚れてたね、ジェーン。でもエジプティアはエジプティアにしか恋しない」
「そしてクローヴィス、あなたはE・Mに電話して、さっきのがまちがいだって言ったの?」
「いったいぜんたいなんでまたぼくがそんなまねをしなくちゃならないんだ」
「悪意で」とわたしは言った。
いくらか驚いたことに、かれは笑ったのだ。そして目を伏せた。
「なるほど。きみはいつまでもぼくにあいつのことを忘れさせまいとしてるんだな」
「あなただって忘れていないわ。あなたの髪――」
「ジェーン。ぼくはあいつと寝た。特別の経験だった。認めよう。シェイクスピアならソネットをふたつくらい走り書きしたろう。でもあれはぼくに気づかせただけだった。もうもう八千万回目くらいになるが、人間とは度しがたいごみ、がらくたの集積だってことを。きみがほんとうに知りたいのは、ぼくがE・M社に電話してきみとかれ――シルヴァー――がまだいっしょに住んでることを告げ口したか、またはこれからするかどうかってことだろう。驚きあきれてものも言えないが、きみらはまだいっしょに住んでるんだろう? それから貯蔵庫にいるわれらのちいさなふたりの放火犯人だが、I&M調査探索会社を設立したはずだが」
わたしは長いふるえる息を吸いこんだ。声はしっかりおちついて、はっきりと出た。
「答えはイエスよ、クローヴィス」
「ぼくのほうの答えはノーだ。まことにめでたいね」
「ええ、E・Mは本気だわ。もしかれがまだ歩きまわってると知ったら――」
「歯車と時計仕掛けの状態に逆もどりか」
かれがそう言うのをきくと、自分でも思っていたのにもかかわらず、わたしはうちのめされ、あらたな吐き気と恐怖でいっぱいになった。いつあのふたりの怪物がもどってくるかもしれない。
「ぼくは」クローヴィスは言いかけていた。「ジェイスンがどんなふうにきみのいどころをつきとめたかについちゃ、おっかない理論を持ってるんだがね」
しかしわたしは割って入った。「クローヴィス、お金すこし貸してくれない? というかすこしくれる? だっていつ返せるかわからないもの。でももしふたりでシティから逃げだして、田舎に行けたら……」
「それはいいアイデアかもしれないね。金は持ってっていいよ。でもね、こう言うとメロドラマに聞こえるか知れないが、E・Mだか評議会だかは、ハイウェイや州の外の飛行艇停留所に秘密の検問所をもうけてるかもしれない」
わたしはかれを見つめ、かれの体をつきぬけてその背後を見つめた。
「ああ、まさか。そこまでは考えなかったわ」
「くじけるなよ。ぼくがかわりの案を出してやる。このあたりにしばらくいるんだ。連絡する必要があるから」
「クローヴィス」
「それがぼくの名前だよ。イスカリオテのユダじゃない。だから安心して」
「どんな計画?」
「まるできみのおっそろしいおかあさんみたいだな――」
ガラスがくだけるような声がわたしの耳に刺さり、わたしはよろめいた。
「ジェーン! ジェーン!」
わたしは糖蜜のなかを動くように、のろのろとふりかえった。エジプティアが中二階の寝室からつづいている階段の上に立っていた。閃光とあわだつ闇、ある種の嵐の感じがあったと思うと、彼女はわたしめがけて身をおどらせた。衝撃は軽かったが、はげしい暴力的な力だった。わたしにしがみつき、ひしと抱きしめて、放そうとしなかった。「ジェーン、ジェーン、ジェーン。あんたがきてくれるの、わかってたわ。あんたなら理解してきてくれるって。あたしにはあんたが必要だもの。おお、ジェーン、あたし――ものすごくこわいの」
わたしは溺れるものの心地を味わった。彼女をつきはなしたいという衝動が高まってきた。だが彼女は恋人のようになれなれしく、彼女の恐怖は、奇妙な、高くて聞こえないほどの歌をかなで――はりつめたワイヤーのようにびりびりと、こちらにつたわってきた。
「話はあとで」クローヴィスが言った。
「クローヴィス――」
「あとで。ぼくを信じろ。きみにはわかってるはずだ」かれは貯蔵庫のほうに行ってしまった。
「スローモットが来るかどうかみてくる」
エジプティアは蛇のようにわたしにしがみついていた。香水がわたしを圧倒した。そしてわたし自身のパニックは、ともかくも消えはじめていた。
わたしの恋人はわたしみたいにヒステリックではない。恐れたりしないで、わたしを待っていてくれるだろう。わたしが知り合いと話しこんでいるのだ、あるいは食事しているのだと思って。
それにクローヴィスが力になってくれる。わたしたちがあのきれいな家と、友達になった白猫をおいて出ていくために。
「エジプティア」わたしは言った。涙がまたじんわりとこみあげてきた。「こわがることないわ。うまくいくわよ。きっと、きっと」
すると彼女はわたしから身を離し、雄々しくほほえんだ。わたしはわけのわからないことをつぶやきながら笑いだした。さっき涙の出ない大泣きを演じたときのように。
エジプティアは仰天していた。
「どうして、あたしのこと笑ってるの」
「だって、こんなめちゃくちゃな状況でも――あなたはあんまりきれいなんですもの」
彼女はそこに立っていた。劇場用のメイキャップをした肌はぬくもった桃さながらで、まぶたはテラコッタと黄金のスパンコールの色で、スパンコールは胸にもびっしりとちりばめられて、むきだしの乳房をおおっていた。髪は淡い青のすじが入って、凝った長たらしいまき毛にむりやり形づくられ、その上にちいさな金の王冠がのっていた。金と銀の鱗が交互にならんだスカートをはき、しなやかな腕にはルビーの目をした濃い青色の機械仕掛けの蛇がからまって、それがたえまなくぐるぐるまわっていた。
いちばんおかしいのは、コスチューム姿でわたしに向かいあって、恐怖とばかばかしい自意識ともろさの中からこちらを見ている彼女のなかに、わたしがまたしても、彼女が自身に感じている偉大さを、見てしまうことだった。そしてわたしはもっとあらあらしくはげしく笑った。とうとう彼女はむっとしたようなわけのわからない顔で、自分も笑いだした。
いらだち、侮蔑、好感、そして愛。それらがマッチのようにしゅっとこすりあわされて、燃え上がった。どうしようもなく笑いながら、わたしたちは長椅子の上に倒れこみ、彼女の鱗の層になったスカートが、ブリキ缶がストリートを転がっていくような音をたてた。わたしたちは金切声をあげ、腕をふりまわし、彼女のオリエントふうの上靴はサロンの向こう端にすっとんでいった。
[#改ページ]
3
スローモットの瓶は三本あり、クローヴィスとエジプティアとわたしは座って、ほのおと蝋燭の明かりで、それを飲んでいた。ジェイスンとメディアはコーヒーポップを飲んでいた。わたしは十五のとき、それを飲むといつもしゃっくりが出たものだ。双子は大きな部屋の向こう側の床に座って、ジェイスンの発明した不気味なチェスをやっていた。かれらはなにか品物を盗んだのかもしれないが、エジプティアは気にしないだろう。彼女は自分が明日の朝まで生きてはいないだろうと知っているのだ。彼女は死の予感を二つもっていた。ひとつはステージに出たとき。心臓が張りさけるだろう。もうひとつは幕切れだ。緊張が彼女の限界を越えてしまう。それはまったく滑稽な話ではなかった。彼女は本気で言っていたし、おびえていた。だがそれ以上に彼女がこわがっていたのは、観衆の前でアンテクトラを演じなければならないことだった。それほど大きな劇場ではないし、たぶん満員にはならないだろう。批評家がひとりふたり来ているかもしれない。それから当然のことだが、撮影班が一、二枚写真をとるだろう。それを公開することはないと思われる。けれどエジプティアにとっては、それどころではなかった――もしわたしだったら、いまのべたことだけでもすくみきってしまう――わたしが路上でデビューする前だったら、ずっとささいなことでそうなっていたろう。エジプティアを悩ませているのは、自分でないような演技をしてしまう恐怖だ。というか、アンテクトラでない演技を。彼女はせりふの一部分を言ってみてはサロンを歩きまわり、長椅子に沈みこみ、狂ったように笑い、泣いた――彼女のドラマティックなメイキャップは幸いにも涙でくずれないようにできていた。彼女はスローモットをすすり、唇からグラスに、蝶々の羽のような金の形をうつした。
「アンテクトラは処女なの。彼女の官能の危険な力は内にこもっているの。彼女は、悲しみと苦しみと怒りに駆りたてられているわ。怒りのデーモンにつきまとわれるの」これらの感情をあたかも熟知しているかのように、彼女は言った。彼女がそれらをほんとうに感じたことなんてあるのかしら。そしてアンテクトラの状況の説明は脚注そのもので、せりふと同じに借り物のようだった――「感情のつむじ風。あたしにできるかしら。ときどきこの役の力が自分の中にあるような気がするんだけど。まるで火山みたいに。でも今は……あたしできる?」
「できるよ」とクローヴィス。
「できるわ」とわたし。
「ぼくのルークでおまえのルークは死んだよ」部屋の向こう端でジェイスンが言っている。
「この力が」エジプティアは蝋燭のあいだを牝豹のように這いながら、言った。「あたしを食いつくしてしまうかもしれない。いいわ。たとえ死んだって、この力に殺されたって。この仕事をなしとげて死ねるんなら本望よ――おお、ジェーン。わかってくれるわね。あんたなら」
「ええ、エジプティア」
クローヴィスはのびた髪に顔をかくしてあくびをした。わたしはシルヴァーのことを考えた。シルヴァーのことを一瞬でも忘れたからではない。十二のとき、わたしは心身症的な歯痛になり、何ヵ月も奥歯の一本がしくしくした。三時間ごとに鎮痛剤をのむと、痛みはやわらぐが、完全には消えない。その執拗な痛みはいつまでもつづき、そのうちわたしは慣れてしまって、三時間が過ぎ去って猛烈に痛みだすときだけ、思い出すようになった。それがいまのわたしの状態だった。危機感と狼狽、シルヴァーがわたしの不在を心配していることへの心配、絶望的な罠に落ちていること、どうにもそこから脱けだせないこと――それらが鈍い痛みだった。ワインと、気安さと、エジプティアの恐怖が鎮痛剤だった。痛みはかすかで、耐えられないものではなかったので、心からしめだしておくことができた。だが光がクローヴィスの髪――赤い髪の上をさまようときは猛烈にうずいた。わたしはそのたびごとに、ここからとびだし、夜の闇のなかに駆けこみたいという衝動にかられた。クローヴィスがきっと双子をひきとめてくれる。でも双子は、自分たちの予想どおりだったことを知るだろう。それにクローヴィスのほのめかした援助も失われてしまう。
かれは絹とベロアのジャケットの下に、刺繍のあるシャツまで着ていた。シルヴァーの話をしてもあんなに理性的だったくせに、真似するくらい影響をうけている。クローヴィスを信頼できるだろうか。いや、わたしはもうクローヴィスを信じてしまったのだ。住所を教えなかったにしても、ほかのことはみなうちあけてしまった。
「あたしのクイーンを自由にして。あんたのナイトに彼女の左手を切らせてあげるから」とメディアが言った。
「まったく」とクローヴィス。「あのふたりがきみのチェスセットで切った張ったを実演してないといいがね、エジプティア」
「世界はチェスの盤よ」とエジプティアは言った(なにかの引用だろうか)。「おお、こうべを血ぬられたる塵につけよ。ひざまずいてくびきを受けよ、低くされたる地よ。これは世界ではない。神々は死んだのだ。ひざまずけ、そなたら。誇りを捨て、ひざまずくのだ」
「あたしのナイトが、あんたのナイトを去勢するわ」
「それはだめだよ。ぼくのナイトは武装してる」
「でも、鎧の継ぎ目は弱いでしょ」
「あそこの床にはきっとばらばらの手足がころがってるぜ」とクローヴィスが言った。
わたしはシルヴァーに電話すらできない。ロビーに電話はある。管理人にかけることはできるかもしれないが、ナンバーが思い出せない。かりに思い出せたとしても、電話すれば、家に連絡する相手のいることがわかってしまう。トイレに行くという口実を使って、上の階にあるエジプティアの親子電話で、ナンバーをいろいろためしてみようか――だめだ。ひとつを使えば、ほかの電話のコンソールに青いコールライトがついてしまう。ジェイスンとメディアに見られる。きっと目を光らせているだろうから。
クロエは今夜ここに来られない。ウイルスを持っているから。どうしてわたしは持っていないのだろう。
「宮殿の女たちよ」エジプティアが言った。「わが兄はそなたらには神ぞ。が、このけだものどもにとりては、屍肉をくらうものなり。この詐欺師どもをむさぼりくらうもの――」
「おやおや」とクローヴィス。「劇のほうもチェスと同じになってきた。ぼくのかよわい胃袋がこの劇に耐えられると思うかい」
「ちゃかさないで、クローヴィス」エジプティアがやけを起こしてわめいた。
「もう十時半だよ。タクシーを呼んでくる」
「ああ、神さま」とエジプティア。「もう出かける時間?」
「そうだね。ジェーン、彼女にもう一杯ついでやって」
わたしはそうしていいものかどうかと思った。彼女はものぐるおしくなっていて、とても酔っぱらうどころではないようだったが。コスチュームをつけおえ、ここでメイクもすませた。彼女の感情的な性格がほかの俳優たちと不和を起こしていたからだ。「あたしになんにもしてくれないんだから!」と彼女は言った。エジプティアにしてみれば、ほかの俳優たちは当然、彼女を支える機械であるべきだった。悲しいかなかれらはそのことを悟らなかった。あるいは悟ったから、来ないのかもしれなかった。
わたしは彼女の灰青色の毛皮のケープコートをとってきた。内側でボディ・メイキャップがこすれていくらかはげるだろう。彼女はそのコートを、わたしがシルヴァーをシェ・ストラトスにつれて行った日に買ったのだった。
「おお、ジェーン。おお――ジェーン――」
「わたしはここよ」わたしの言いかたはおとなっぽく忍耐強かった。思いやりに満ちていて、あたたかだった。ほんの少しだけ同情しながら楽しんでいるようなところもあった。わたしの口調はシルヴァーにそっくりだった。
「ジーェーン――」
彼女はわたしをじいっと見た。ギロチンが彼女を待っている。もうじき護送車が戸口につくだろう。
「あなたはきっとうまくやるわ」わたしは言ってきかせた。「うますぎて、アステロイドがコンコルダシス劇場の上に落ちてくるわ」
クローヴィスが少ししてもどってきた。
「連絡をつけるのに何ヵ月もかかるかと思った。あと半時間で桟橋につく」かれはわたしを見て、ごく押さえた声でつけくわえた。「タクシーを呼んだのは二番目の電話さ」
「クローヴィス――」かれが謎の計画を実行にうつしたのがわかった。
「あとでね」かれはジェイスンとメディアに一瞥を投げた。ふたりは考えこむような目でこちらを見ていた。「盤の上のやつらを皆殺しにしたほうがいいぜ。十分以内に出発だ」
「ああ、あのおそろしい劇か」とジェイスン。
「きみらは来なくてもいいさ」クローヴィスが言った。
「いくわよ」メディアが言った。「ジェーンといっしょにいたいの。ずいぶん長く会ってなかったものね」
「やれやれ、奇妙な夜だ」クローヴィスは空に向かって言った。わたしたちはエレベーターのシャフトの前の囲いに入っていた。
「何がどうしたっていうんだい」ジェイスンがたずねた。
「ぼくにわかるかね」
エレベーターが来て、エジプティアはわたしの腕のなかでふるえた。フェリーのところに下りてゆくと、夜の宝石のようなビル群がせりあがってきた。大いなるしずけさがあったが、それは雪の冷たさにすぎなかった。フェリーは無人だった。タクシーは川の向こう側に待っている。
大階段をのぼって、冬は使用されない噴水のトンネルを抜け、劇場に入ったのは、午後十一時十五分だった。噴水、それはまさしくはじめてシルヴァーを見た場所だった。
正面玄関にはもうかなりのひとが集まっていた。わたしたちは横手にまわって、がらんとした舞台裏に入り、さらにがらんとしたエジプティアの控え室にきた。ウォールヒーターが不承不承に動きはじめると、エジプティアはふるえた。
「わが父は殺され、わが兄は弑されたり。死は孔雀の家の遺産なり。みんな出ていって。ジェーン以外はみんな。ジェーン、あたしをひとりにしないで」
「外で待ってるわ」
メディアが言った。ドアを見張っているつもりだろう。
わたしはどのみち残らねばならない。クローヴィスの知らせをきくために。それがなんであろうと、もう心配はしていなかった。前と同じようにわたしはふたつに引き裂かれ、ここにいながら、トレランス街のアパートに駆けて帰る、予知に似た悪夢のなかにもいた。
廊下を、見覚えのあるコリンスとかいう若者が金属のブーツをはき、金属の鱗のあるマントをつけ、陰気にチキンの足をかじりながら、重い足音をたてて通りすぎた。
劇の監督をしていたハンサムな痩せた男が二十分後に顔を見せた。不機嫌そうなつんけんした態度だった。
「ああ、来たのかね」エジプティアに言った。彼女の目がすがるようにかれを見たが、かれはもう見切りをつけているようだった。このさきエジプティアの出演作品はないだろう。彼女がいかに大金持ちでも。かれの顔にそう書いてあった。「最後のアドヴァイスだがね、代役がふたりいることを忘れないでくれよ」
彼女は口を開いたが、かれは出ていった。ドアがはずれそうな勢いで、ばたんとしめた。この建物はがたがきているようだ。
「あたしを憎んでるのよ」茫然として、エジプティアはささやいた。「あたしは気前よくしてやったのに。家だって使わせてやったのよ、ジェーン。あたしはかれらと一体なのに。だのに、あたしを憎むなんて」
真実を告げるべき時ではない。少なくとも、たったひとつの真実は。
「みんな妬んでるのよ」わたしは言った。「あなたに食われるのがわかってるから。それにどのみち、みんながアンテクトラの敵って設定なんでしょう。劇の上で役に立つじゃない」
「孔雀の悲鳴」彼女は言った。「凶兆と呪殺の鳥」
わたしはまた彼女のボディ・メイキャップをなおしてやった。彼女がしなければならないようなことを、たとえばこのわたしができるかしら。わたしの中のある部分は、できると告げはじめていた。そしてわたしがいまの彼女と同じように、いやもっとおびえているさまを、思いえがきはじめた。
「ジェーン、あんたはほんとに変わったわ」彼女は汚れた鏡の中のわたしをいまはじめて見つめながら言った。「あんたはきれい。憑かれたみたいで。とてもおちついていて。賢くて」
「つきあってる相手のせいよ」わたしは思わず口に出してしまっていた。
「そうなの」彼女はあいまいに言った。クローヴィスの言ったとおり、忘れているのだ。「あんた恋人がいるの、ジェーン」
ええ、エジプティア。|銀色の金属の恋人《シルヴァー・メタル・ラヴァー》が。
「そんなとこね」
すると彼女はわたしをぎょっとさせることを言った。「あのロボットはどうしたの、ジェーン」
「ああ」わたしは自分をはげました。「かれ、すばらしいわ。ときどきはね」
「そうね」彼女はかなしそうだった。「どんな男より、きれいで利口なんだわ。そしてずっとやさしくて。あんたもわかった? それにあの歌。かれ、あたしにラブソングを歌ってくれたわ。あたしがどんなに愛を必要としてるか、そして、あたしが愛なしでは生きていけないってことをわかってくれてたわ……すてきな歌だった。それにかれの手――いまも感じるの――」
もうこれ以上がまんできないと感じた瞬間、古傷がいまもなまなましいのを発見して愕然とした瞬間、彼女は口をつぐんだ。おそろしいサイレンがわたしたちの頭上で金切声をあげ、わたしたちはともににぶい恐怖の中に投げだされた。
サイレンにつづいてちいさな笑い声がきこえた。みんなが彼女のためにしかけたジョーク≠セったらしい。「開幕五分前だよ、エジプティア」
わたしは、彼女がひきつけを起こすかと思った。だがそうではなく、彼女は突如、変容した。
「さあ、行ってちょうだい、ジェーン。ひとりきりにならなきゃ」
外に出ると、ジェイスンとメディアがわきにすべりこんだ。
「三列目に席をとった。クローヴィスったらなんてブルジョワなんだろう。きみはクロエの席に座るんだ。いちばん悪いとこだけど。おかしいね。きみは来るつもりなのに、席をとっておかなかったなんて」
だがもっとおかしいのは、クローヴィスがなにやら手品をやってのけ、席を入れ換えてしまったことだった。双子が仰天したことに、かれらは最前列だった。ふたりだけが――おまけに隣どうしでもなかった。
「やれやれ」とクローヴィスは言った。「手ちがいがあったらしい。察するところ、われわれ全員に対する劇場側の復讐の一部だね」
双子はこれで劇のあいだじゅう、二列うしろのわたしがまだいるかどうか見るのにしょっちゅうふりかえらねばならず、首に痙攣でも起こす羽目になるだろう。
クローヴィスとわたしは列の端に腰を下ろしたが、そのときかれが言った。「エジプティアの最初のせりふのあとで出たほうがいい。馬鹿が十人、通路を走っていく。かれらが舞台にたどりついたら、こんどは大乱戦。身の毛もよだつ特殊効果だ。目玉だの腸だのが飛び出る。ぼくは見ないようによそを向いている。が、ジェイスンとメディアは釘づけだろうな。そのときが狙い目だ。双子が気づいても、ひとをかきわけて外に出るには半時間かかる。そして運がよければ通路でまた新手に出くわすというわけ。これもちょいとした行列だ」ジェイスンとメディアがふりかえって、こっちを見ていたので、クローヴィスは手をふった。「もしきかれたら、きみが気分が悪くなって帰ったと言うよ」
「嘘だって悟るわ」
「ああ。きみの救いがたいにぶさのことを忘れていたよ。だけど、それもあんまりネックにはならないさ、この計画なら」
「クローヴィス、お金、貸してくれるって言ったわね」
「明日、かれといっしょにタクシーで八十三号線にきてくれ。それぐらいの金はあるかい」
「ええ」
「八十三でタクシーを下りてキャニオンの滝のある側に来てほしい。そこに正午だ」
「母の家から数マイルのところだわ」
「それがなにか? おかあさんには会わないですむと思うよ。その場所をえらんだのは、シティから離れていて、州の境の内側だからだ。役人もほかの見張りもいないだろう。それにジェムがそこにVLOを着けられるから」
「何をですって?」
「垂直離陸飛行機。あの汚らしいうるさくてくさい飛行機械だよ。おかあさんご推賞のバクスターみたいなやつ。ジェムは、アンティーク飛行機社のテスト・エンジニア兼パイロットだ。博物館の格納庫から、いつものようにおんぼろ飛行機を借りだして、キャニオンに下り、きみらを好きなところに連れてってくれるはずだ。一時間くらい前に電話したら、うんと言った。ところが、比較的にぶいやつだから、きみさえボーイフレンドがロボットだと言わなけりゃ、ぜったい気がつかないね。シルヴァーにとっちゃめんどうだろうが。ともかくジェムはきみらを送ってくれて、どっかに着くだろう。そしたら、かれはもどってきて、その晩はぼくといっしょというわけだ。しかたない。まじめに言って、こいつはぼくがはらう犠牲だよ、ジェーン」
「クローヴィス、わたし――」
「いるものはなんでも持っていくといい。グランドピアノより小さいものなら。あの飛行機はやたらでかいから。キャビンには手荷物ひとつとお金をのせておく。ユニットと、もしぼくがどっかの銀行でくずすひまがあったら、札も。どう、絨毯の上に――絨毯があればだが――身を投げて感謝の涙にむせんでもらいたいもんだが。ぼくにすがりつくとか、失神するとか」
「まさか。でもあなたのしてくれたこと、決して忘れないわ。決して」
「ジェムも喜ぶだろうよ。でもそっちは考えないようにしてる」
「わたし――」
「ぼくが異性に興味があって、手に手をとって駈け落ちしてくれたらって言うんだろう」
「わたしの言いたいのは、あなたにお返しができたらと思うんだけど、しかたがないってこと」
「どうせぼくはきみらの子どもの名付け親にもなれないんだからね。子どもなんてありゃしないだろ」
「わたしはどうだかわからないわよ。デーメータがわたしを生んだ方法。シルヴァーはきっとびっくりするぐらいいい養父になるわ。わたし、おとうさんを持ったことなかったもの」
「きみはじつに欲張りだな」クローヴィスは言った。そしてライトが、まったくデリカシーなしに――装置が貧弱で不可能なためか、画期的新機軸をうちだすためか――突然消えた。
観客はざわざわと不満の声をあげた。
「ジェーン」とクローヴィスは言った。「ひとついまいましく重大なことを忘れてた――大急ぎで言う。ジェイスンがきみらを見つけたのは――やつの十八番だ――きみの自動誘導装置だ。今日より前に、あいつと会ったとき着ていた洋服はやめるんだ。何か小さいものがついてるから探して」
「なんですって」
「聞こえたね。あまり正確とは言えないが、それであいつらは捜査の輪をちぢめていったんだ。このひと月のあいだ、ふたりで熱中していたゲームさ」
「でも――」
不気味な赤みがかった褐色の光が幕の下にあらわれ、幕があがった。わたしたちは黙った。わたしの心は沸騰していた。
自動誘導装置? ペイシェンス・メイデル橋で、ジェイスンはわたしのわきを走りすぎた。そしてメディアは――わたしはこの考えを追いつづけねばならなかったが、そのとき、血の色をした煙をまとっているだけの裸のステージが、わたしの前にぽっかりと口をあけた。そして煙の中からエジプティアが、高い台の上を歩いてきた。体をこわばらせ、目をつぶり、金属をまとってきらきら輝いていた。
一瞬、わたしは彼女がどうなってしまうかと思った。だが、彼女がなったものはアンテクトラだった。たちどころにそれがわかった。彼女は爆発の現場から逃げてきた、耳が聞こえなくなり、人間性をなくした狂人のようだった。そのすさまじい美しさは目を射た。彼女は両手をあげ、血にひたした(これはひどく血なまぐさい劇になるのだろう)布をかかげた。
「こうべを垂れよ」彼女はわたしたちに言った。「こうべを垂れよ」そしてほかのすべてのことはともあれ、わたしの心臓はでんぐりがえった。彼女はせりふを二度くりかえしたのだ。髪の根がぞっと逆立ち、満員の劇場中で同じようなことが起こっているような気がした。彼女は歌手のように音域をさげた。たっぷり一オクターブはさがったと思う。「こうべを血ぬられし塵につけよ。ひざまずいてくびきを受けよ。低くされたる地よ」
彼女はそこに立っていた。メロドラマふうに、狂ったように。そしてわたしたちは彼女の一語一語をかたずをのんで待ちうけた。
「これは世界ではない。神々は死んだのだ」
わたしはふるえた。彼女は墓から出でたるものだ。
当然ながら、彼女はほかの俳優など存在しないかのようにふるまった。ほかのものは存在しなかった。かれらは影だった。アンテクトラだけが燃えあがる苦悩のなかに、おのれの破壊された世界のなかに生きていた。
「誇りを捨て、ひざまずけ」
わたしは呪縛され、座りつづけていた。水をうったようにしずまりかえっていた場内に、武器のぶつかりあう耳ざわりな音が聞こえてきた。十人の戦士が通路を走りぬけ、観衆は喜びの喚声でこれを迎えた。
「泣け、もろもろの天よ」エジプティアは戦いの音をつらぬく声でよばわった。「血とほのおを涙と流して」
戦士らは彼女の前に集結した。雷鳴がとどろいた。稲妻が舞台を走る。台上で、その光を浴びたエジプティアはほのおにつつまれているように見えた。
「出ろ」クローヴィスがささやいた。
「え?」
「出るんだ、ばか」
「ああ――」わたしはふらりと立ち上がり、通路にひっくりかえりそうになった。ストロボライトのほのおと嵐のすさまじさに隠れて、わたしは出口に走り、シティの夜の正常で凍てつくような現実の中に出た。
下町行きのバスに乗るだけのお金しかなかった。バスはなかなか来なかった。停留所について下りたときには、バスの時計でもう午前一時二十六分だった。わたしは十時間も外出していたことになる。クローヴィスは、わたしがただの機械でなく、人間を待たせているとまでは思わなかった。クローヴィスでさえ、そこまでは信じなかったのだ。友人たちにつかまって逃げられなかったとはいえ、わたしだって基本的には同じことを考えていたのではないか。もちろんかれはとりみだしたりせず、おちついて、わたしの長い長い不在のわけを考えていてくれたろう。わたしは前もって、かれにわたしたちの危機について強調しておいたのだから。もちろんかれは平静だ。機械的な理性をもって。
わたしはストリートからストリートへ走り、まるで実体のある黒い水のなかを走っているようだった。夜は異様なほど生気に満ちていた。
アパートの部屋に駆けこんだとき、かれは虹のカーペットの中央に立っていた。頭上の明かりがついていて、かれの姿がはっきり見えた。かれを見ることは、大地の中心を目にすることのようだった。わたしはまた平衡をとりもどし、足が地についた。だがかれはまったく身動きもせず、まったく無表情だった。
「無事ですか」かれはわたしに言った。
「ええ」
「わたしがいるときに帰ってきてくれてよかった。わたしは七時からあなたを探しに歩いていました。これからまた出かけるところでした」
「出かける? でも――」
「あなたが危ない目に合っているかもしれないのに」かれはやさしく言った。「あるいは殺されているかもしれないのに」
かれの言いかた――わたしには返す言葉もなかったが――はわたしをゆすぶり、わたしは一撃をくらったように心がしびれて、言葉も思いも頭から吹きとんでしまった。言葉と思いと今夜のできごとは重大なことだったから、わたしはすぐにしびれの中をひきかえし、それらをとりもどそうとした。かれの反応と、それに対する自分の反応を分析するひまもなく、
「ちがうわ。聞いて。何があったのか」わたしはごく事務的に言った。理性のある、冷静な機械から発せられるはず――と思っていた――の質問に答えようというつもりで。
そしてわたしは大急ぎで全部話した。わたしが聞いてと言ったので、かれは耳を傾けた。一瞬、間をおいて、かれは長椅子に腰をおろし、頭を垂れた。わたしはそばにすわって、最後まで話をした。
「逃げられなかったのよ。できなかったの。電話さえ――下の階のナンバーがうろおぼえだったし――そのあと、クローヴィスを待ってなくちゃいけなくなったので。気ちがい沙汰だと思うでしょ。でもかれのプランどおりにやってみない? 明日、どこか他のところへ行くの。ふたり組のスパイが脱走するみたいに。ええ、逃げないとだめだと思うの」
「あなたはこのシティと、シティの権力におびえきっているから」とかれは言った。「ここを出るしかしかたないようですね」
「わたしを責めてるの? やめて。わたしはこわいの。ちゃんと理由があってのことよ。わたしは午後いっぱいと夜いっぱい、それにおびやかされてたんだから」
かれはわたしに腕をまわし、わたしはかれにもたれた。深い沈黙が感じられた。かれは一マイルも彼方にいるように思われた。
「エジプティアは」わたしはのろのろと、ためすように言ったが、何のためなのか自分でもわからなかった。「エジプティアは驚きだったわ。いくつかせりふを聞いただけだったけど――シルヴァー、どうしたの。あなたが怒ることができるなんて夢にも思わなかった。でも怒らないでちょうだい。わたしのせいじゃなかったのよ。わたし、ここに帰れなかったんだから。もしこれがばかげた興奮だと思っても、少なくとも重大な興奮だということは信じて。ただのばかなことじゃない。それにクローヴィスから自動誘導装置のことを聞いてからは……ああ、神さま。調べてみたほうが――」
だが、かれの腕はきつくなり、わたしは動いてはならないのだときとった。わたしは動かず、黙って、待っていた。
やがてかれは話しだした。しずかによどみなく。それはいつもの音楽的な歌い手の声ではなかった。ただごくかすかなユーモアの香辛料だけがきいていた。
「一度か二度、あなたに言ったことを覚えています。あなたは、わたしにわたし自身の感情を追求させようとしている、わたしはそれをするように作られていないのに、とわたしは言いました。けっきょくそれはあやまりだったようです。というか、わたしがそれをすることを学んだのかもしれません。ほかのたくさんのこと、人間独特のくせを学んだのと同じようにして。あなたが行ってしまったとき――」
わたしはささやいた。「ほんとに帰れなかったのよ――」
「わかっています。あなたが生きていて無事であることも。あのドアからあなたが入ってくるまで、わたしにはわかりませんでした。もしわたしが人間なら、ジェーン、ふるえていたでしょう。わたしが人間なら、シティのこっちがわの無料病院をかたはしからたずね歩いて、だれかがそんな人間は入院していないと言うまで、椅子でも投げつけていたでしょう」
「ごめんなさい、ほんとに、ほんとに」
「いちばんふしぎなのは、わたしがみずから入りこんでしまった内的|過程《プロセス》でした。あなたはどこかで死んでしまって、二度と会えないのだと思いこんでしまったのです。それがどういうことなのか、わたしがどうなるのか、わかりました。あなたは、わたしに恐れがわかるかとたずねました。いまはわかります。証拠はなくても信じてください。ふるえることも、汗を流すことも、涙を流すことも決してないこの体の内側で、三歳の子どもがそのすべてをしているのです。たったいまも、思いきり」
かれはうなだれていたので、わたしにはその顔が見えなかった。
わたしは両腕をかれにまわし、ぎゅっと、きつく抱きしめた。
かれがわたしを求めていたことに対し、喜びというよりむしろ自分を恥じる気持ちがあった。わたしは自分がふとしたはずみにかれに、決定的に許しがたいことをしてしまったのを悟った。なぜならわたしはついに、どこからどこまでも、完全に、かれが人間であることを証明してしまったのだ。かれが自分の種族のものから離れては生きられないことを、知らしめてしまったのだ。
[#改ページ]
4
その朝、午前五時を少しまわったころ、地震がシティを襲った。
わたしは目をさました。真鍮のベッドが揺れていたからだ。シルヴァー――瞑想に似たトランス状態のようなものに入ることができ、眠ることはないが、そうしているときは時の感覚もなくやすらいでいるように見える――はわたしより早く、その状態から出てきた。わたしは夢を見ていたのだと思った。暗くて、なかば開いたカーテンからさしこむかすかな雪の光しかなかった。それから、カーテンがひとりでにそこまで開いたのだということ、いっぺんに数インチ開いてしまったことに気づいた。
「大地がふるえています」かれは言った。「でもこの感じでは、そんなにひどくはないでしょう」
「ひどいわよ」わたしは叫んで身を起こした。
ベッドは一フィートばかり床をすべっていた。震動が建物をつたわってくる。不気味な外の音に気がついた。きしむような、うめくような、ひびわれるような音。そして金切声がして、わたしは最初それをシティから聞こえる恐怖の叫びだと思った。
「ストリートに出たほうがいい?」わたしはかれにたずねた。
「いいえ。もうおさまっています。第一波は十分前に来ました。ほとんど感じられないようなものでしたが。あなたは目もさまさなかったし」
蝋燭が一本棚から落ちた。
「おお、シルヴァー! 猫はどこ?」
「ここにはいません。覚えていますか」
「ええ。あの猫に会えなくなるとさびしいわ……わたしったら、どうして地震のさなかにこんなことが言えるのかしら」
かれはやわらかく笑った。そしてわたしをベッドの中にひきこんだ。
「あなたはほんとうにはこわがっていないからですよ。だから」
「そう。こわくないわ。どうしてかしら」
「わたしといっしょにいて、わたしを信頼しているから。わたしがあなたにだいじょうぶだと言ったから」
「愛しているわ」わたしは言った。
何かしら重くやわらかなものが窓にぶつかった。それからあらゆるものが、鋭いがたんという音とともにとまった。まるでシティが、刃物を積んで急ブレーキを踏んだトラックになったようだった。
うしろめたいようなわくわくした気持ちで、わたしはベッドから下り、窓のところに行った。地震は実際、小規模だったが、わたしは初めてだった。わたしの中のある部分は、シティの遠いスカイラインが平たくなって、ほのおに包まれているのを期待していた――ニュース番組でしょっちゅう見た地震中継の場面だった。ところがシティのスカイラインはもう見えなかった。堆積物のなかの三つのけたは、巨大な蛇のようにかまくびをもたげ、雪の皮膚をそこらじゅうに脱ぎちらして、いしゆみのように堂々とそりかえっていた。その雪のいくらかが窓にぶつかったのだ。いまけたはシティをまったくおおいかくし、かつての姿のグロテスクなパロディのように身をよせあっていた。ひとつの凶兆のように。
ざわめきと叫び声がぼんやり聞こえた。ひとびとがストリートに飛びだして、何があったのか話しあっている。それからロボットの救急車がとおりすぎた。見えなかったが、サイレンは聞こえた。つづいてもう一台。また一台。衝撃は比較的軽かったのに、死傷者があったのだ。わたしは気の毒にと思った。ひとごとのように。わたしたちは安全だったから。わたしは、エジプティアの劇が地震の前に終わってよかった、と思ったのを覚えている。彼女とクローヴィスなら何があってもだいじょうぶだという気もした。
わたしたちがベッドにもどって、最後のしなびたりんごをわけあったとき、はじめてわたしは鋼の足にささえられた母の家のことを考えた。ロビーに行って電話したほうがいいかしら。だが、ロビーはいまごろ、身内にかけるものたちでごった返しているだろう。わたしはほんとうは何を感じているのだろう。
わたしはシルヴァーに話した。
「あの家はだいじょうぶでしょう」かれは言った。「安定しています。問題は高さですが、支柱にはそのぶんくふうがしてあるでしょう」
「知りたいような気がするの。母に何かなかったかどうか。そうじゃないかしら」
「そうでしょうね」
「母はわたしのことを心配しているかしら。しているわね。わからない。ああ、シルヴァー、わからないわ。母とはずっといっしょだったのに、母がわたしを案じているかどうかわからないのよ。あなただったらわたしを案じてくれるわね」
「ええ、あなたはやたら心配をかけますからね」
そののち、管理人がドアをたたき、だいじょうぶかとたずねた。わたしはだいじょうぶと叫んでから、あなたは、と言い、白猫のことをたずねた。
「猫はまぶたひとつ動かさなんだ。それが動物というもんじゃね。動物が逃げださなかったら、大災害じゃないんだ」
かれが行ってしまうと、わたしはやましい気持ちがした。きょう出ていくことを話さなかったから。わたしたちは家賃としてできるだけの金をおいていくつもりだった。実際、今月も過ぎてしまうので、家賃の大部分だった。わたしは猫にさようならを言いたかった。デーメータはいつも猫を家の中で飼うのはむずかしいと言っていた。爪をたてたり、枕に毛をつけたりするから。母の言うとおりだけれど、それがいったい何だというの。
わたしはシルヴァーに身をよせて眠った。そしてシェ・ストラトスが空から落ちてくる夢を見た。いたるところに廃墟と瓦礫があり、宇宙飛行士≠スちがそらぞらしくお茶とトーストのトレイを持って動きまわっている。「ママ」わたしは廃墟に声をかけた。「ママ、どこなの?」
「きて、ここよ」母の声がした。彼女はちいさな丘の上に立っており、黄金の鎧をまとっていた。わたしは目をやり、つかのまの恐怖を味わった。母の左手が切り落とされ、代わりにロボットの手がつけられていた。わたしは母のそばにいき、母はわたしを抱きしめたが、鎧が固く、母にふれた気がしなかった。おちつかない気持ちだった。
「あなたの弟は死んだのじゃないかしら」母はにこやかにほほえみながら言う。
「わたしの――弟――」
「ええ。おとうさんも」
わたしは泣いた。弟や父がだれであるか知らなかったから。
「それをテープに吹きこんでおいて」デーメータは言った。「帰ったら、再生してきくわ」
「どこへ行くの?」
「農場の機械を作りにいくのよ。言ったでしょ」
「覚えてないわ」
「それは覚えていたくないからよ。ねえ、ジェーン。わたしの鎧を放して」
バクスター・エンパイアが廃墟の上のほこりっぱい空に舞い上がり、その上昇の風で、わたしたちみなを地上にひらたく押しつけた。母が立っていたところには、不具の猿が横たわっていた。あれがわたしの弟なのかしら。すると猿はジェイスンの姿になり、かれは五体満足で、わたしに言った。「ハロー、メディア。ぼくは自動誘導装置を孔雀の中に入れてやった。おかしいだろ」
わたしは目をさました。明るくなっていた。シルヴァーはシャワー室で、ざあざあと水音が聞こえた。わたしは横になったまま、天井の青空と雲と鳥と虹がはっきりしてくるのを見ていた。涙が流れるままにしておいた。この天井を見ることはもうないのだ。
ほかのものといっしょに孔雀のジャケットもおいていかなければならない。孔雀は呪われた鳥なの? 母のドレス、エジプティアの劇、わたしのジャケット。ジャケットの下に着ていたドレスもおいていかなければ。橋のたもとで、ジェイスンとメディアに会った晩に着ていたものだ。
ジェイスンがわたしのわきをかすめるように通りすぎたことが、思い出された。あんなふうに逃げたのはわざとでもあったのだ。かれらはすりがうまかった。練達の窃盗犯だった――どちらにとっても、粘着力のあるものを服の中にすべりこませるほうが盗みよりは簡単だったろう。しかし今朝午前二時三十分に、わたしはあの夜着ていたものを裏返して見たが、何も見つからなかった。どこかに落ちてしまったのだろう。だからかれらははっきりとわたしの居場所をつきとめられなかったのだ。近所に落ちたので、かれらはまちがえたのだろう。でなければ、装置がとても精巧で目に見えないようにしてあって、いまもついているのかもしれない。ジェイスンが探りあてるのに失敗した理由は、装置の力が弱かったからで、それも時間さえあればうまくいっただろう。クローヴィスの降霊実験のグラスについていたマイクロ磁石はほとんど見えないほどで、ひじょうに正確なものだった。ジェイスンがあれをしかけたのは一年前だ。かれらは橋のそばにすわって、探偵するのに好都合な人間が通るのを待っていたのにちがいない。そうしたらあらわれたのはなんとおばかさんのジェーンだったというわけだ。
そうでなくても、ともかくあの衣類ひとそろいを持っていくのは危険すぎる。あの晩のブーツもおいていくことにした――もう一足、はきふるしているが、すてきな緑のがある――下着もおいてゆかなければ。装置がそんなに奥に入ることがないのはわかっているが、それでも万が一ということがある。
シルヴァーがシャワー室から出てくると、わたしは起き上がって、ごくごく事務的にシャワーを使った。しぶきの下に横になっていたのはたったの三分で、真紅の天井と青い壁と空をとぶくじらを見て、泣いた。
服を着てから、家賃の一部と猫のえさの缶詰の最後の缶を真鍮のベッドの上においた。シルヴァーは管理人あてに、東部の友達が芝居の仕事をくれた、とメモを書いた。わたしたちはこのときまでに、西部へ行くことに決めていた。ゆくゆくはパリとまで考えた。
わたしはあれこれの布製バッグに衣類や、ベッドにかけていたショールやタオル、がらくた、そして奇妙な迷信にかりたてられるように、そのとき完成していたこの原稿の三章までをつめこんだ。わたしはふたりの脱走の転末を書きくわえようと思っていたらしい。あるいは昔の女性が旅行するときしたように、日誌をつけたかったのかもしれない。
シルヴァーがバッグを全部とギターを持った。わたしは青と金の傘を持たされた。
九時すこし前に、わたしたちは建物からそっとぬけだした。白猫はストリートで、陽気に自分の影を追いかけていたが、わたしたちを見てとんできた。わたしは息がとまりそうになって、やっと涙を押しもどした。
「いっしょにつれていけたらいいのに」
「この猫を必要なのは、われわれよりあの老人のほうですよ」
「ええ、わかってるわ」
「猫を買いましょう」
「買えるかしら」
「訓練して歌を教えこむとか」
こらえていたにもかかわらず、涙がひとつぶ猫の鼻に落ち、猫はぎょっとして飛んで逃げた。わたしの手首に偶然とはいえお別れの爪跡をのこして。
「ほら」とかれは言った。「お別れのプレゼント」
わたしたちはシティの中心部まで歩いていくつもりだった。ここから郊外までタクシーをとばすのは不可能に近い。
ブールヴァールに出ると、地震が思ったよりひどいことがわかった。
子どもが飽きてこわしてしまったおもちゃのように、高架は宙をまたぎ、大きくのしかかって、下のストリートをめちゃくちゃにしていた。それを見たとき、あのとき聞いたおそろしいきしむような音、甲高い悲鳴を思い出した。けたがむきを変えた音だと思っていたのに。下町なので、高架を排除する作業はたいして行なわれていなかったが、個人私有の破壊作業用のヴァンが二台、あたりを走りまわっていた。だが、自動車道は閉鎖されている。
わたしたちは、さび色の道路の陥没を運よくまぬがれた屋台でドーナツを買った。女主人は湯沸かしの湯気の向こうからわたしたちをじっと見た。
「ジャックはグラスを全部だめにしちまった。みんな割れてしまって」
わたしたちはお気の毒にと言い、お茶を飲んで出た。
地震自体はたいしたものではなかったが、以前の地震の傷跡がまだ残っていたこの地帯にとっては致命的だった。まるで二十年前に残しておいたつけを、とりたてにもどってきたといったふうだった。
最初の交差点に出ると、ブールヴァールとまじわる道から流れこむ乗りもので大混乱がおこっていた。乗りものどうしが、狂ったけだもののようにブーブーとやたらに警笛を鳴らしあっていた。さらに先に進むと、前の地震でこわれかかった二十五階のビルがついにくずれおちて、ストリートをふさぎ、この道も通れなくなっていた。いたるところ百鬼夜行のありさまだった。
アーバー地区に近づくと、こんどはわたしたちも、ロボットの警官によって、サイドストリートや小路に追いこまれた。車が一列に玉突き衝突し、高架交差道から外れて、風の中の帆のように向きをかえながら落ちていった。
「ひどいわ」わたしはぼんやりと言った。
「あのビルをごらんなさい」
わたしは見た。どこも変わっていないようだった。十分してやっとわかった。かれは、溝に横たわっているあるもの――わたしは吹きとばされた袋か何かかと思っていたから、わたしの目をそらせようとしていたのだ。
地下鉄についたとき、わたしはおびえた。地震はたいした規模ではなかったにせよ、地下のいかなる傷やひびも見逃さず、それを割り、かみ砕き、裂いて、トレランス街がぶじだったのは偶然の幸運だという悪夢のような証拠をしめしていた。
「このようすじゃ地震の主力はあなたのおかあさんの家のほうから来てますね」シルヴァーは言った。
「ええ、クローヴィスはちょうどその中間だし」
「ニュー・リヴァーに行ってみますか」
「いいわ。ひと目がこわいの。でもかれに電話するわ」
わたしは電話ボックスにはいって、クローヴィスの電話番号をまわした。何も起こらなかったが、カチッという音がした。例のソドミーのテープが流れてくるかと思ったが、機械的な声がこう言った。「地震による混乱のため、この回線は現在つながっておりません。これは、おかけになった先方が被害を受けているということではありません。ただ、このボックスへの視聴覚回線が損傷を受けております」
わたしはふるえながら立ちつくしていた。クローヴィスのことも、わたしたちふたりのことも心配だった。わたしは狂おしく、これが計画に影響するだろうか、と自問しつづけていた。飛行機を操縦してくれるはずの、会ったこともないジェムという男がくずれた塔の下敷きになっているさま、あるいは骨董品のVLOが粉々になっているさまが目に浮かんだ。
ボックスを出る前に、時報サービスにかけた。十一時二十二分前だった。滝の側に、十二時についていなければならない――もし計画がまだ生きているなら。生きているとして、行動しなければならない。
「シルヴァー、回線が不通なの」
「偶然ですよ」
「どのくらいお金ある?」
かれは教えてくれた。
「ここから電話でタクシーを呼べるわ。ビーチからまわしてもらえるでしょう、こっちの端まで」
「そして回り道してニュー・リヴァーのあたりをいってもらえば、どうなっているかわかりますよ。道があればですが」
それで事態がずっとたやすくなった。ひとつには、タクシー会社は街からずっとはずれた下町に車をまわすのをいやがるからだ。ときどきタクシーが外の平野に行けと言われ、そこで強盗されることがある。だがわたしは裕福なニュー・リヴァー地区へまわるようにつけくわえた。そこでもうひとりひろうつもりがあるようにほのめかしたので、会社はオーケーした。
タクシーは五分で来た。
車はふだんとちがう横道を走っていった。二つか三つの行きかたがまえもってインプットしてある。ロボット警官がいたるところにいた。わたしは、シティが無規制状態に陥っているのを見ておちこみ、不安になった。わたしの内部で、安堵とパニックがあらそった。計画はつぶれてしまったかもしれないが、それでもこの混乱のなか、だれがたったひとりの銀の皮膚の男をさがそうと歩きまわるだろう。
ラシーヌ街から出て、かつては歩行者専用だった地下道を通りぬけると、ニュー・リヴァー地区だった。わたしは息をのんだ。沈泥の研究家ダヴィディードならまる一日、ここでフィールドワークができただろう。まるでだれかが巨大なへらで川をひっくりかえしたようだった。凍ったきらきらの泥が土手にとぐろをまき、建物の前面にははねをあげていた。だがどの建物も無事だった。クローヴィスの住まいのそばを通りすぎた。煉瓦ひとつ落ちていなかったし、一階のエアコンの箱がいくつかななめになっていたが、上の階のはそのままだった。
「川に圧力が逃げたんでしょうね」
シルヴァーが言った。
「じゃ、かれは無事だわ」
そのはずだ。母がそうであるように。これ以上調べたり、心配したりしているひまはない。
タクシーは漂流物のようにシティを漂ってゆき、渋滞につかまり、それから脱けだすのに三十五分かかって、やっとハイウェイに入った。それから次の十分はのろのろ進んだ。ハイウェイから下りる車は少ないのに、入ろうとする車は何百とあったからだ。いたるところからひとが出てきていた。身内や友人の見舞い、あるいは見物に。ローカル・ニュースは地震のニュースと興奮を流しているだろう。いつもどおり役に立たない「ここに近づかないでください」という警告も加えて。そんなものに気をとめる人間がいるだろうか。
タクシーはガラス面のついた時計をつんでいた。
「もう十二時十分前だわ。無理ね」わたしは言った。
わたしたちはこの道を一世紀前に来た。紫の嵐が吹きまくっている以外、なにもない道を。あのときわたしは心臓に銀の釘をうちこまれ、かれに話しかけることもできず、黙っていることもできなかった。
「ジェーン、もしだれかがわざわざに乗ってきて着陸するとしたら、たぶん数分は待ってくれるでしょう」
タクシーは突然わき道に折れた。
「どこへ行くのかしら」
「まっすぐ八十三号線に入るのでしょう」
「どうしてわかるの」
「わたしのシティの地理のプログラムには郊外数マイル四方も含まれていますから。でも、あたらしいシティに行ったら、わたしもあなたと同じように迷子になりますね」少し間をおいて、かれはやさしく言った。「ジェーン、見て」
窓から見ると、はるか彼方、雪をかぶった地平線の上、キャニオンのてっぺんの口のあたりのハイウェイの線の向こうに、飛行機の滑走路が黄金の木綿糸のように輝き、ほかの垂直な光の線がそびえたっていた。空にはちいさな雲があった。つめたく青く動かない。シェ・ストラトス、あのばかばかしい家はまだ立っている。無事で。
何かがはじけ、どっとわたしの中に流れこんできた。
「おお、シルヴァー。これで、ほっとしたわ」
「わかります」
一分後、タクシーは坂道をくだって、キャニオンの滝のある側につづくけわしい峡谷につっこんでいった。タクシーは車輪をいためるつもりはなく、停止した。
タクシー代としてありがね全部はたかなければならなかった。だがこれはある意味で倫理的な行為だった。
ほどなくわたしたちは凍った土の壁のあいだをくだっていった。かれはバッグとギターを持ち、わたしは傘を持って、階段のほりこまれているところに向かった。
キャニオンはアステロイド以前の地震でできたもので、新たな地震の影響を受けていなかった。底は滝の名前の由来となった大石がなだれ落ちて三方がふさがっており、そこに、なめらかな、木も岩もない雪の床の舞踏会場ができていた。固くて青くてアルミニウムのようだった。VLO着陸にはうってつけの場所だ。こうして、徒歩でゆかねば近づけない、隠れた場所でもある。
最後に見た時計では十二時六分過ぎだった。
「もう行っちゃったのかしら」わたしは言ったが、おのずと笑みが浮かんできた。もしそうなら、飛んでいくところが見えたはずだ。あれだけ近くまできていたのだから。
「そうでしょうね」滝の中はものすごく寒かった。まるで金属のスプーンのくぼみに立っているようだ。奇妙なこだまが聞こえ、ささやきが聞こえた。飛行機が来たら、轟音は耳を聾するばかりだろう。
「もちろん、遅れてるのよ」
「五分たっています」
「八分。もし来なかったら、どうする?」
「あなたはかれをののしる。わたしはあなたをかついでシティにもどります」
「あなたが何をするですって?」
「かついで。この、二、三十マイルばかりを。なんなら時速八十マイルで走りましょうか。ハイウェイは比較的平坦ですから」
わたしは笑った。笑い声が銀のスプーンにわんわんこだました。
「もし、迎えが来なければ、悪いけどそうして」
「別に。簡単なことです」
「おまけに、ものすごくひと目をひくわね」
そのとき飛行機の音がした。
「おお、シルヴァー。よかったわ。うまくいきそう」
わたしは空に目を凝らしたが、見えたのはラヴェンダー色の冬空だけだった。
「飛行機が見える、シルヴァー?」
「いいえ。見えません。たぶん、飛行機じゃなくて、キャニオンの壁がほかの音をゆがめたのでしょう」
「じゃあ、なあに」
「車です。ほら。ブレーキの音が」
「だれがこんなところに車をとめるかしら」
「クローヴィスじゃないですか」
「じゃ、何か手違いが起こったんだわ」
わたしはこんなふうにしかそのときの感情を書きあらわせない。まるでだれかが、わたしの手足のバルブをゆるめてしまい、貴重な液体が流れ出てしまったような感じ。その液体が身体的な痛みとともに流れ出てゆくのがわかった。気分が悪くなって、もう終わりだと思った。唇は凍りつき、舌は木でできているようだったが、わたしはなんとかそれを動かした。「シルヴァー……うしろに岩があるわ。わたしには無理。あなたなら乗りこえられる、とびこえられるし、向こう側に下りられる。キャニオンをのぼれるわ。わたしはだめ。もし背負ってもらったら、あなたがのろくなって、もっとむずかしくなる。だって表面が――平らじゃないもの。さっき、平坦な表面って言ったでしょ」
かれはふりかえって、わたしを見た。注意深い表情。その目がすうっと光を失い、つめたい金色がかった赤いほのおになった。
「岩を走るのは楽ではありません。ええ。かなり、かなりおそくなるでしょう」
「あなたは急がなければ」
「どうして」
「それは――わからない。でもあなたは逃げなければいけないのよ。さ、シルヴァー」
「あなたをおいては行けません」
「わたしならなにもされないわ」
「ありとあらゆることをされますよ。もうポリコードはないし。もしわたしの助けがいるようになって、わたしがここにいなかったら」
かれはわたしの言ったことが、わたしより先にわかっていたのだ。かれはいつだって、わたしよりよく知っていた。かれらが――かれらが――
「わたしならいいの、シルヴァー。どうか、お願いだから逃げて」
かれは動かなかった。ただ顔をめぐらして、もときたほうを見やった。わたしは力なく、希望もなく、同じようにふりかえった。するとかれは言った。「それにどちらにしても、わたしを遠くまで逃がさない手段を持っているでしょう」
かれら。五つの人影が舞踏会場への階段を下りてきた。みな毛皮のコートを着て、帽子をかぶっていた。熊のようだった。滑稽に見えた。
かれらはわたしたちのほうにゆっくりと進んできた。わざとだとは思わない。かれらは寒そうだったし、下はすべりやすい。だれひとり見覚えはなかった。それから雪の反射がふたつのガラス面をかすめた。
VLOは来なかった。そんなものは実在しなかった。エレクトロニック・メタルズが実在した。クローヴィスはけっきょく、わたしたちを売ったのだ。
「まだ時間があるわ」わたしは言おうとした。
「いいえ」かれはふたたびかれらから目をもどし、わたしの前に立った。わたしにかれらが見えないように。かれが男たちをさえぎっていた。ずっと前に、世の中のきつすぎる光や恐れをさえぎってくれたときのように。そうしてわたしはそれらに耐えることを学んできた。「ジェーン」とかれは言った。「こんなことはなんでもありません。重要なのは、わたしたちが持っていたものだけです――聞いてください。あなたを愛しています。あなたはわたしの一部、わたしはあなたの一部です。そのことは決してかわりません。あなたが死ぬまで、わたしはいっしょにいるでしょう」
「やめて、シルヴァー――シルヴァー――」
「いいえ。信じて。ほんとうのことです。わたしは恐れていません。恐れるのは、あなたのことだけです。わかりますか」
わたしはかぶりをふった。かれはわたしの両手をとり、自分の顔におしあてた。そしてわたしを見、わたしにほほえんだ。それからもう一度ふりかえった。かれらはすぐそばにせまっていた。
スウォンソンが先頭だった。
「なんてばかなお嬢さんだ」かれは言った。「お友達のものを盗んで逃げたりして。不法なことなんだよ」
かれがわたしを見分けたとは思わない。だがかれはどのみちわたしを嫌っていた。わたしのために、こんな寒いなかを出てこさせられたのだ。かれはいつも損な役割をわりあてられていた――群衆のさわぎや抗議電話の後始末をしたり、門をしめたり、テレビのインタビューに出てばかなふりをしたり、逃げる機械と小娘をおいかけて、冬の郊外まで遠出させられたり。
事態を変えられるようなことはなにひとつ思いつかなかったけれど、それでもなにか言いたかった。スウォンソンはわたしに歯を見せて言った。「だれも損害賠償を求めなかったら運がよいと思うんだな。それはわれわれの仕事じゃない。われわれの仕事はいま、ここだ。こういうロボットがどんなに危険か知らなかったのかね。いつ突然ショートするかもしれないんだよ。欠陥商品なんだ。そう、あんたはいままでおそろしくラッキーだったんだ」
わたしはお願いと言いかけて、やめた。シルヴァーはわたしのそばに立って、しずかにかれらを見ていた。だれもかれの目をまともに見返さなかった。
「それ、このお嬢さんのバッグをこっちへよこすんだ」スウォンソンが言った。「ギターを持ってってくれ」ほかの四匹の熊の一匹に向かって言った言葉だった。「あれはE・Mの所有物だ」
シルヴァーはそっとバッグを下ろした。男たちがそれをとった。指定された男に、かれはギターをさしだした。「これはどうも――おお、畜生」男は口をかみしめた。
「まったく本物に見えるだろう」スウォンソンが言った。「中からがらくたが出てこないかぎりはね。さ、お嬢さん。あんたのタクシーを道路にとめておいた。乗ってシティに帰りなさい」
「彼女にはお金がありません」シルヴァーが言った。
男たちはぎくりとした。スウォンソンは咳ばらいした。もう一匹の熊のほうをふりかえった。「あのいまいましいタクシーの中に現金を少し入れてこい。運賃分だけだ」
その熊は走り去った。かれらは従順な部下のようだった。もしシルヴァーが抵抗したら、かれらはかなうかしら。そのときわたしは何かがスウォンソンのポケットから出てくるのを見た。手袋をはめた手につかまれて。かれはそれをおもちゃにしていた。わたしには並んだボタンが見えた。
「どうか」とシルヴァーが言った。「彼女の前でだけはやめてくれ」
スウォンソンはまた咳ばらいした。かれの息が白く空中に漂った。キャニオンがふるえる。「おお、心配するな。おまえが歩けるときに、車まで運んでいくと思うか。さあ、歩くんだ。左、右。左、右」
シルヴァーは歩き、わたしも歩いた。男たちもいっしょに歩いた。だれも口をきかなかった。わたしたちは階段をのぼり、峡谷の中に出た。てっぺんに着くと、タクシーがもどってきていた。熊がそのサイドによりかかっていた。
「運賃は全部すんだし、シティの中心行きになっています」ごくはれやかな声で言った。「よろしいでしょうか、スウォンソンさん」
「よし」
スウォンソンは歩きつづけ、シルヴァーも歩いた。わたしが歩こうとすると、熊の一匹が腕をつかんで、ひきとめた。わたしのバッグはタクシーのそばにあった。
「さ、あなたのタクシーだ、お乗りなさい」
「お願い」わたしは言った。「いっしょに行かせて。シティの中心まで――だけ」
「申しわけないが、そいつはだめだね」
「お願い。お願い、わたし何もしないから」
シルヴァーはみなより背が高かった。歩いてゆくかれは若い王を演じる俳優のようだった。マントが肩からひるがえっていた。白と青の単調な光の中で、髪が燃え上がってみえた。そうしてかれはわたしから離れ、古代のひつぎのような黒い長い車に向かって歩いていった。「お願い」わたしはそばの男に笑みを見せて言った。かれの袖をひっぱりながら。「お願いよ。わかって」
かれはわたしをふりはらった。興奮してかれは言った。「こいつはただの金属だぞ。見かけはともかく――中身はちがうんだ。忘れるんだよ。こいつらは危険なんだ。あんたはけがをするかもしれない。こいつらは隔離して、溶かしてしまうんだ。一時間ですむ。あっというまだ。なにもたいしたことじゃない」
わたしは両手をかれにさしのべたが、かれはあとずさった。
シルヴァーは優雅に頭をさげて車に乗りこんだ。窓はスウォンソンの眼鏡と同じように色がついていて、もうかれの姿はみえなかった。ほのおのような髪さえ。かれの髪、かれの髪。
スウォンソンが車に乗りこんだ。ほかのものたちを呼んだ。わたしがあとを追って道をかけよるのをさまたげていた男は、かれらのほうへ走っていった。とちゅうで一度すべって、ころびそうになった。
「お願い」わたしはむなしいからっぽの距離に向かって呼びかけた。
車は動きだした。つもっていた雪がふわりと舞いとんだ。車は力強い動きで、走りだし、小さくなっていった。
「お願い」
車は見えなくなった。
機械的に、わたしはよろよろとかけよって、タクシーのドアをあけた。そしてひとつずつバッグを中に積みこんだ。傘も。それから乗りこんで、ドアを閉めた。
わたしはタクシーの中に座っていた。泣いてはいなかった。ちいさな、ごくかすかな音をたてていた。わたしにはなんとも形容できない。どうにもとまらなかった。まだ「お願い」と言おうとしているのかもしれなかった。わたしは座って、タクシーの時計を見た。
かれらのあとを追うことすら思いつかなかった。かれらは少なくとも、そのことだけはたたきこんでくれた。
一時間ですむ。
おいていかれたら、わたしには何ものこらないのに。
全世界がありますよ。
一時間ですむ。
手首の、猫にひっかかれたところが痛んだ。
わたしは時計を見つめていた。かれが何をされているか思い浮かべさえもしなかった。それがどんなことだろうと思いもしなかった。かれが死ぬのを感じはしなかった。
「ジャックはグラスを全部だめにしちまった。みんな割れてしまって」
一時間が過ぎると、わたしは左のブーツをぬぎ、タクシーの時計のガラスにたたきつけた。そしていちばん大きなかけらを手にとると、それで手首を切った。
血はたいそう赤い。暖かい感じがしてきた。何もかも暗くなってゆく。でも闇のなかには、ちいさなまばゆい銀のほのおがともって燃えている……
もしあのかたが亡くなったら、切り刻んでちいさな星にしておしまい。天のおもては世にもうるわしくなり、全世界が夜と恋に落ちるでしょう……
どこかでとてつもないごうっという音がした。空が落ちてくる。空にかがやくシルヴァーの星、ばらばらになったかれの手、かれの足、かれの四肢、かれの胴体、かれの生殖器すら、光を放つだろう。オシリスのように、ロミオのように、ディオニュソスのように。
天はキャニオンに落ちた。
それからタクシーのドアがこじあけられた。
「ああ、これは」だれかがわたしに言った。その相手が、吐き気をこらえて痙攣をとめようとする音が聞こえた。だがわたしは目を閉じ、眠りに落ちた。
[#改ページ]
5
記憶の中の病院はぼんやりした白い閃光の中にかすんでいる。傷の入ったフィルムのようだった。そのことは書かなくてもいいだろう。いまは体のどこにも残っていない痛みのことも。だがあのときは痛みが全身をかけめぐっていて、寝返りさえ困難だった。わたしは痛くてうめきながら、トイレに行くのをてつだってもらったことを覚えている。その痛みはみな身体的なものだった。その下に、それとはまったく別に、身体のものではないほそい灰色の痛みがテープのようにまわりつづけていた。幾度か夢を見た。わたしは子どもで、だれかがわたしの黒い毛の熊を火に投げこんでしまった。熊はばらばらになって、溶けてゆき、わたしは恐怖の悲鳴とともに目をさます。また父のところに連れていってもらう夢も見た。わたしの誕生に必要な精子を提供してくれた男。だが、在宅のはずのときにいつ行っても、父はいない。これらは象徴的な夢だった。わたしは夢――かれの夢は見なかった。
やっと意識がはっきりしたのは、見覚えのある部屋の中で一瞬どこだかわからなかった。それからすこし体を動かすと、足がすべった。シーツは濃い緑のサテンだった。そしてクローヴィスが椅子のひじに腰をかけて、わたしを見ていた。
ふたつのことがあった。かれの髪はまだ長かったが、もう分子再構成された暗い赤ではなく、黒だった。そうして顔はうつろで、それがかれを奇妙にきよらかに見せていた。
「シーツのことは悪かった。忘れていたんだ。明日替える」
クローヴィス。わたしはクローヴィスの予備のベッドにいるのだ。クローヴィスの家の。わたしたちを裏切ったかれの。口の中がからからだった。わたしは低く言った。「ハロー、ユダ」
かれはゆっくりとかぶりをふった。速い動作をしたら、わたしがめまいを起こすとでも思っているように。
「ちがう、ジェーン。ぼくじゃない」
わたしは何か感じているの? かれを傷つけたい? 殺したい? いいえ。わたしは何もしたくない。もう死にたくもない。死ぬことだっておっくうだった。しかし会話をはじめてしまった以上、先を続けなければならなかった。
「あなたはE・Mに電話して、わたしたちの居場所を教えたわ」
「ぼくじゃない」
「あなたが知ってるはずの場所よ。あなたがそこにが来ると言ったんですものね」
「VLOは来たんだ。だれがきみを見つけたと思う。あの不運なジェムだ。かれはきみに止血帯をかけて、飛行機の中に運びこんだ。それからあの信じられない代物でシティの上をとんで――そいつはまったく不法なんだが――州立インペリアル病院の屋根におりた。そこには地震の死傷者がイワシみたいに押しこまれていたが、かれはきみを受け入れてもらえるまでてこでも動かなかった。かれに、あんなことができるとは知らなかったよ。かれがしたなんて思えない。あいつはいま阿片ベースのトランキライザーを打ってるが、それでも血色がもどらないだろうよ。いやはやまったく、ジェーン、きみは自分になんておそろしいことをしてくれたんだ」
「VLOが来たのなら、遅すぎたのよ。あなたはE・Mが先に着くようにしくんだんだわ」
「あれが遅れたのは、アンティーク飛行機社の格納庫の半分が地震でこわれたからだ。ジェムは身の危険なんか度外視で、できるかぎり早くVLOを出した」
「あなたとは話したくないわ。ここにいたくもないし」
「わかったよ。きみが、ぼくをこのけがらわしい陰謀の張本人だと思ってるのはわかる。ひとりにするよ。じっとして元気になったら、出ていったらいい」
かれは立ち上がって、視界の端の霧のようにぼんやりしているところへ消えていった。霧がかれをほとんどのみこみかけたとき、かれは言った。「おかあさんから電話があった。一時間ごとにかかってくる。おかあさんに来てもらいたいかい」
わたしは突然泣こうとした。それはたいそうむずかしかった。涙が出てこなかった。まるで石を生みだそうとしているようだった。努力をうちきったとき、心臓は雷のようにとどろき、クローヴィスがまたわたしの上にかがみこんでいた。
「ジェーン――」
「いや。来てほしくないわ」わたしは口をつぐんだ。
やがてクローヴィスは出ていった。わたしはベッドから出ようとした。最後に覚えているのは、どうしても出られなかったことだ。
わたしの手首には大きな白い完全密封防水のばんそうこうが貼ってあった。来月になれば、もどって糸をぬいてもらうことになる。それから傷跡を消す処置を申しこむことができる。クローヴィスはコーヒー・テーブルの上の置き手紙にそう書いていた。かれは自分が治療代をはらうと書いていた。デーメータもよろこんで払うだろうと。かれは、わたしが元気になって起きられると判断した日に、わたしをひとりきりにして出ていった。わたしを信頼しているようだった。わたしが前にしたことをくりかえさないと知っているようだった。どうして、またくりかえす必要があろう。わたしにはそのエネルギーはない。死ぬには相当の決意がいる。相当の確信と。だれかが手をかしてくれないかぎり。
書き置きには、デーメータに電話しないように頼んだ、とあった。だが、二度ほど電話が鳴り、わたしは母だとわかっていた。二度目にわたしはやみくもに手をのばし、スイッチを入れた。
「ハロー、ママ」
「うう」男の声が笑った。「ぼくはいくらかおかまっぽいほうかもしれないが、だれかの母親にまちがえられたことだけはないね」
わたしはためいきをついた。礼儀正しくしなければ。やっとのことで言った。「ごめんなさい」
「いいさ。もしかしてクローヴィスがそこにいる?」
「いないわ。外出中」
「畜生。レオが電話してきたって言ってくれる?」
わたしが?
「いいわ」
「レオだ。|愛《ラブ》のL、|食用《エディブル》のE、おお、神よ≠フO。さあ、言えるかどうか、くりかえしてみて」
「レオね」わたしはかれほどの機知もなく、棒のようにくりかえした。むしろいどむように。
「グッバイ」かれは言い、スイッチを切った。
わたしはクローヴィスのメモの下に、走り書きをした。レオから電話、と。
わたしは緑のバスルームに入って、三、四時間バスに漬かっていた。心がすこしずつすこしずつ動きだした。悲しみを押さえつけるのはまちがっている。わたしは悲しみを抑圧しているのかしら。わたしはシルヴァーのことを思った。泣こうとした。涙が出てこなかった。わたしはさまざまなとるにたらない理由で泣いたものだ。テレビや、劇や、本のために、あるいは困惑して、あるいは子どもっぽい恐れを感じて。だが、いまは泣けなかった。
エレベーターがのぼってくる音がしたとき、わたしはほっとした。たまらなくほっとした。もうひとりきりではない。クローヴィスが入ってきてそこいらを動きまわっている音がした。一度かれは口笛でひとふし吹いて、すぐやめてしまった。
わたしは意地をはって、バスルームから出た。バスローブを持って、裸でかれの前を横切っていって、寝室に入った。かれは通りすぎるわたしをまじまじと見、それから顔をそむけた。
予備のベッドに入って横になっていると、やっとかれがあらわれた。
「おなかはすいてないかい。貯蔵庫は食料品であふれかえってる。松露でも、パテでも、卵でも、アンゼリカでも、ローストビーフでも……そぼろ肉をのせたトーストでも」
わたしは、かれを無視することにすさまじい解放感があるのに気づいていた。かれがそこにいるのは、無視されるためなのだ。
「ねえ、ジェーン、ほんとうにぼくじゃない。何があったか、ききたいかい」
わたしが答えないでいると、かれはののしりはじめた。そしてまた出ていった。わたしは長いこと横になっていた。やがて胃袋が猛烈な空腹に鳴りはじめた。とうとうわたしは起き上がり、客用クロゼットをあけた。そこに、かれは、わたしのバッグの中にあった数少ない服をつるしておいてくれた。胃はますますはげしく鳴った。服にふれると、シルヴァーと住んでいて、それらを着ていたときのことがよみがえった。わたしは泣こうとしたが、涙が出てこなかった。黒い、絵の具のとんだみすぼらしいジーンズは、ヒップとウエストのところをへたくそにつめてあった、それもかなりの長さを。毛皮のジャケット。刺繍のあるウールのドレス。ルネッサンスふうのドレス。エメラルド色のマントのふちは溶けた雪でしみになっている。そして、これ、このドレスはスラム街では一度も袖をとおさなかった。この黒いドレスは、エレクトロニック・メタルズに行って、シルヴァー以外の全部のロボットの演技を見せてもらった夜に着たものだ。シルヴァー、人間的すぎて検査に通らなかったシルヴァーは、四角い箱の中で、目も手もなくなっていて――わたしは口をあけて叫ぼうとした。でも叫ばなかった。かなしみが、恐怖が、怒りが、なんになるというの? だれがそれで動かされるの? だれが物事をただしてくれるの? 法律? 評議会? 神さま? でもわたしは黒いドレスをクロゼットから出して、体の前にさしあげて見た。そして思いもかけないことに、袖の片一方が裂きとられているのに気づいた。
わたしはつかのま立ちつくし、それからドレスを落とした。わたしはローブをひろいあげ、またそれを着た。外に出た。クローヴィスは長椅子の黒いクッションのあいだにもたれて、りんご酒を飲んでいた。
「レオが電話してきたのか」クローヴィスは言った。「魅力のありすぎる人間のつらいところだな」
「あれはジェイスンとメディアだったのね」わたしは言った。
「きみのメモじゃレオだぜ」
「わたしの言っている意味はわかるでしょ。あれはジェイスンとメディアだったんだわ」
「あれはジェイスンとメディアというのは、文法的におかしいんじゃないか。あれらは、ジェイスンとメディア、じゃないのか。あれはジェイスンだった。そしてメディアでもあった」
「やめて、クローヴィス。答えて」
「ぼくを信じるか」
「黒いドレスの袖を見たわ」
「ジェイスンの装置は布地にくっついていた。光を吸収するので、ほとんど目に見えない。きみの小指の爪くらいの大きさだが、粘着力が強い。きみはもう服につけていたくないだろうと思って、ごみのディスポーザーに捨てたよ。もしきみがこのさきも貧しいままでやっていこうというのなら、新しいドレスを買ってあげる。あるいは新しい袖をね」
わたしは貯蔵室に入って、インスタント・トーストとハムと卵をこしらえ、ハッチのそばに立ったまま、がつがつと食べた。食べているあいだはシルヴァーのことを考えなかった。ジェイスンのことも。メディアのことも。
クローヴィスはモーツァルトをかけていた。部屋にもどったとき、かれは何かをスケッチしていたが、あれがなんだったのか、わたしは知らない。
「真実を知りたければ、教えてあげよう」
「それ、重大なことなの」
「と思う。ぼくにとっては。ぼくが現代版のミニチュアの黒死病だというきみの考えは気にくわないから」
わたしは窓辺に立って、川を見ていた。光は失せ、アルミホイルのような氷が水面に輝いていた。泥はとうの昔になくなり、きれいに片づけられていた。宝石がビルにともっていた。けれどそれがなんだろう。
「エジプティアがスターになったのは知っている?」
「劇場で?」
「正確にはちがう。劇場の建物はあらかた地震でくずれてしまった。骨董の格納庫そのものさ。テレビの見出しはすばらしかった。彼女は〈シティをゆすぶった娘〉と呼ばれていたよ。もうひとつはなんだっけ。そうだ、忘れられるものか。〈劇場を滅ぼした娘〉だ」
「よかったわ」わたしはおうむのように言った。感情もなしに。昔の思いをくりかえして。「地震が、劇がかかる前でなくて」
「いや。あれは打ち上げパーティのさいちゅうだった。そうだ、ぼくらが五時五分すぎにそろってホールでかなり安いシャンペンを飲んでいたときに、屋根が落下してきたんだ。まったくばかばかしい晩だった。あの劇も、エジプティアも。彼女が演技できないのはわかってるだろう。彼女は、演技じゃなくて、そのものなんだ。だがエジプティアの魔法は、あの自己催眠にある。彼女は自分を信じてる。自分の口ではなんと言おうとね。そしてそれがあたるんだ。彼女はもちろんスターだ。映画の契約にもサインしたよ。アフリカでハンティングをするんだ。彼女はもうあっちへ行ってしまった。こんな話をするのも、わけがあるんだ。きみが突然、彼女の居場所を知りたくなるんじゃないかと思ってね」
わたしはかつてこの窓辺にいた。ガラスに映る姿に向かってささやいた。愛してるわ。そしてかれはそれを知っていた。苦痛がはげしくわたしをつらぬいた。言いあらわしがたい苦痛が。わたしは額をガラスに押しあてた。どうしてわたしを死なせてくれなかったの。いまごろわたしは闇の中にいただろう。あるいはどこかの、魂を持たないロボットなどお呼びでない、かれとは無縁の霊界に。かれは金属の、機械の集まりにすぎなかったのだもの。魂もなく、時間もない――
「ジェーン、聞いているのかい」
「ええ。と思うわ」
かれは恐れを感じたろうか。わたしを慰めるためにああは言ったけれど。かれは、事実だとわかっていたときにも、わたしを慰めるために追跡など信じていないふりをしていたのだ。ああして死ぬのは、かれにとって苦痛だったのだろうか。かれは痛みを感じないとは言っていた。わたしはかれに喜びを感じることを教えた。いいえ、かれがみずから学んだ。でも喜びを感じるとしたら、どうして苦しみも感じないことがあろう。わたしはかれに恐れと欠乏を知らせてしまった。そして、かれはわたしに生きることを学ばせた。わたしはただ死にたいだけだったのに。
「おお、ジェーン」クローヴィスが言った。かれはわたしのそばに立っていて、いつもの優雅なしぐさとはふつりあいなぎこちなさで、わたしの手をとった。「頼む、ジェーン。きみはそれに打ち勝たなければならない。きみはそうしたくないだろう。でもそうしなければいけない」
「どうして?」わたしはたずねた。知りたかったのだと思う。
「なぜなら――畜生、ぼくにはわからない。きみは?」
「なぜなら、かれがわたしに言ったからだわ。全世界があるって。かれは言ったわ、わたしはあなたの一部だ、あなたの生涯が終わるまでいっしょにいる、なにものもそれを変えることはできないって。そして、いまはわたしが、かれの唯一残っている部分なのよ。あのひとたちはかれをばらばらにして、火に投げこんでしまったけれど」
「知ってる」クローヴィスは言った。わたしの手をにぎった。
「溶かしてしまったの。スクラップに」
「知ってる」
「かれの残っている部分はわたしだけ。永遠にそれだけだわ」
そのとき涙がこみあげ、わたしは涙を流した。そしてクローヴィスは、心ならずも、しかし驚くほどやさしく、わたしを抱きしめてくれた。
あのときわたしは泣いたが、いまはもう泣けるとは思わない。これからさきもずっと。
ずっとあとになって、かれはE・Mがどんなふうにわたしたちのことを知ったか、どうやって居所を見つけたか、教えてくれた。
わたしが劇場を出たあと、劇はますます高潮してゆき、観衆は熱狂した。エジプティアが完全にかれらを掌握しており、大多数の役者たちは彼女を目立たせまいとするのをあきらめてしまった。役者とはそうしたもので、勝者がすべてなのだ。二回目の幕合いまでには、役者たちは彼女の控え室に出入りし、凍った薔薇をさしいれ、求婚をはじめていた。鷹揚で寛大なエジプティアはかれらを許し、胸にむかえいれた。最後のシーンでアンテクトラは、兄の亡霊の跳梁をしずめるために、自害してはてる。いっさいはフィルムにおさめられた。征服された撮影班は、午前三時のローカル・ニュースにこのショットを割りこませようとしていた。この結果、打ち上げパーティの会場は大騒ぎになった。帰ろうとしていたクローヴィスは、レオにつかまってしまった。かれはライバル会社の俳優のマネージャーで、上演を笑ってやるつもりで来て、喝采するはめになった。レオは冗談半分、クローヴィスに、『血ぬられたエルシノア』と銘打った縮約版でハムレットをやらないかともちかけた。そのとき地震が建物を襲った。最初はなんでもないようだったが、やがて天井にまっぷたつにひびが入り、しっくいやセメントのかたまりが部屋になだれ落ちてきた。
死者はなかったが、けが人は数えきれず、今度の血は本物であった。
クローヴィスはけがひとつなく、隠れ場所からはいだした。するとエジプティアがステージに立ちはだかっていた。メイキャップをしていてもあおざめた顔で、体はこわばり、緊張症の発作かなにかのようだった。
彼女はいつも地震をひどく恐れていた。彼女のえがく死と破壊の幻想と夢は、まさにこの瞬間のためにあったのだった。いまこそ自分は頂点にのぼりつめた。神々は自分をはらいのけるであろう。だが、彼女はこの大災厄のただなかに立ちつくし、生き残った。彼女はそのときまで、わたしがそこにいないことに気づいていなかった。するとジェイスンがあちこちの傷の血をぬぐいながら、言った。「ジェーンはロボットの愛人と遊ぶために、スラムに帰っちまったぜ」彼女がまったく理解しないので、かれは自分の魔法の道具のことを得々と説明し、どうやってわたしたちの居場所をつきとめたか教えた。いまにしてわかる。ジェイスンとメディアはどんな権力にも、わたしたちを売るつもりはなかった。自分たちの楽しみにとっておくつもりだった。だが、エジプティア――彼女の頭の中になにが起こったかわかるような気がする。
彼女は、E・Mの精巧仕様型について言われていることを、無意識のうちに耳に入れ、気づいていたにちがいない。そして自分の経験から、それが真実以上の真実であることを意識していた。あのすばらしい恋人、すばらしい音楽家。男なんかいらなくなる、と彼女は自分で言ったのだ。もちろん、それは人間がいらなくなるという意味でもある。失業大衆が仕事を奪った機械を憎むのと同じように、エジプティアもたったいま手に入れたばかりのものを失う恐怖を味わった。彼女は天才だ。自分でも感じていた。いまそれを知らぬものはいない。みな彼女の足もとにひれふし、彼女の運命は輝く道のように開けている。だが、もし機械が彼女以上の才能を持っていたら? 彼女がそこまで深く考えたとは思わない。エジプティアは考えはしない。感じるのだ。クローヴィスの言ったように、彼女は演じるのではなく、そのものになる。おそらく最初から、バビロンのパーティのあとで、俳優たちはしょっちゅうシルヴァーのことを話題にして、かれがどんなに利口かを話していたのだろう。たぶんかれらはほかのロボットのこと、演技をするロボットについても話題にしたろう。彼女の心の中にときおり種子がまかれた。地震は残像あるいは予知像のようなものだった。それは彼女にとって、わたしにとっての凶兆のようなものだった。彼女はまだなかばアンテクトラで、アンテクトラは予兆をよみとるのにたけていた。それは彼女をゆすぶり、おびやかしつつ解き放った。おそろしい残虐なイドの中に。彼女はほとんどトランス状態のまま家に帰り、コリンスが同行した。おそらくその晩、彼女は別の種類の比較もしたのであろう。それがひきがねになった。シルヴァーがベッドにおいて優っているのなら、かれはまた彼女の職業においても優るかもしれない。午前九時ごろシルヴァーとわたしがシティを通りぬけているとき、彼女はエレクトロニック・メタルズに電話した。法的にはあたしがかれの所有者よ。不法に、あの娘がかれをつれて逃げた。でもあの娘は見つかるはず。ある人間が誘導装置をつけている。そして、彼女はジェイスンとメディアの住所を教えた。
ジェイスンは協力したくなかったが、E・Mはシティの評議会を後ろだてにしてせまった。腕をねじりあげられた。痛い思いをしたのならいい気味だと思う。E・Mはジェイスンの誘導装置をとりあげ、幸運を手にした。あとになってメディアがクローヴィスに、このことを話したのである。エジプティアのはたした役割のこともふくめて。コリンスはエジプティアのベッドからさまよい出て、この話をおおっぴらに広めていた。
わたしが二十五歳のふりをし、かれを愛していないと自信満々で、エレクトロニック・メタルズから出てきたあの晩。電気仕掛けの機械なんか自分になんの意味もないと確信して、ジャギッドのレストランに入って、チョコレート・フレーヴァーのストローで、コーヒーを飲んでいたとき――ジェイスンとメディアがわたしの腕をつねった。ひどいつねりかただった。かれらのいつものやりくちだった。わたしは飲み物にむせそうになった。だが、あの行為は、気楽な仲間同士の会話の口火を切るしるしというより、わたしの袖に機械をしっかりつけるためのものだった。小さい、カムフラージュされた機械。発見されなかった機械。わたしは橋で出会った晩のできごとだと思っていたのだが、それより前の晩、ジャギッドでのことだった。かれらはあそこで網をはっていて、わたしがかかったので、喜んだのだ。
はじめはわたしの動きなど退屈だったにちがいない。クローヴィスのところへ行き、それからシェ・ストラトス――軌跡からわたしの行く先がわかったと思う。ところが、そのあとなんたる驚きか、わたしはスラム街へ行った。そしてそこにいつづけた。
(あれを脱いだあと、どうしてわたしはあれを荷物につめて、流浪の旅に持って出たのだろう。ほかにも着るものはあった。あれには一度も手をとおしていない。おそらくあれは、はじめに、わたしがかれを死から買い戻したひとつの象徴だったのだろう。あのドレスがけっきょくかれを殺すことになった)
あの双子はわたしを見つけようと必死になった。ペイシェンス・メイデル橋で会ったあの晩、かれらはもうすでにあのへんに目をつけ、手分けして調べていたのだろう。自動誘導装置の弱点は建物の中では力が弱まることだ。わたしがもしニュー・リヴァーへ行って、軌跡が見えなくなれば、クローヴィスの家にいるのだと推察するのはやさしいことだったろう。あるいはキャニオンのほうへ行って軌跡が弱くなれば、母の家だと。ところがスラム街では、ふたりはあちこち探りまわってもわたしの住みかそのものをたずねあてることができなかった。そばまでつめることができなかった。それなのに、真に重大なときに、シルヴァーとわたしはあの黒いドレスを衣類のバッグにつめ、トレランス街を出たので、信号は星のようにはっきりした。E・Mが発信機のピックアップを押収し、作動させたときには、軌跡をぼかすものはタクシーの薄い壁しかなかった。わたしたちを追跡するのはやさしかった。地震後の交通の混雑のことを考えに入れても。滝の側でわたしたちに追いつくのはかんたんだった。そしてVLOは遅れた。
そういうわけだったのだ。わたしはもうこの話につけくわえはすまい。もう終わったことだ。
もうこの手記も終わりにしていいはずだ。
糸が抜けるころには、腕の痛みも楽になるだろう。あるいはこれは精神的な痛みかもしれない。
何ヵ月も、あるいは一生つづく痛みかもしれない。
クローヴィスが裏切ったのではなくて嬉しいと思う。ジェイスンが電話してきたとき、クローヴィスが即座にスイッチを切ってくれたのが嬉しい。エジプティアのことは、だれかからきいた物語のようにしか思えない。憎むことさえできない。憎むにはエネルギーがいる。母が電話してきて、わたしは話した。まるで知らない人間と話しているようだった。どちらも礼儀正しかった。母は、わたしのIMUカードはまた復活して、月額二千になったと言った。ポリコードも新しくなったと。わたしはありがとうと言った。ママのお金を使う気はないわ。なんとかして、使わないですむようにするわ。ポリコードはトレランス街の家に残してきてしまった。クローヴィスは、新しいコード番号が認可されたら、別のひとつをあげようとつぶやいた。クロエが会いにきた。なんと言っていいかわからないようだった。また別の晩、レオがクローヴィスといっしょに入ってきて二日いた。クローヴィスは狩りたてられているような目つきになりかけている。
いまでもあのとき死んでいたほうがよかったと思う。ほんとうに。でも自殺は二度とできない。いまではこわくてできない。あのおそろしい、忍びよってくる、あたたかさ。まるで凍死するみたいな。闇がつどってきて、その中に、わたしの愛するものの星がうずまいていた。
いまはときどきかれの夢を見る。あのとき見たようなかれ――目がなくて、中の機械仕掛けの露出したかれの姿を。巨大なハンマーがいくつもかれの上に落ちてくる。炉がかれを溶かす。かれはなにも感じないように見える。目をさますと、わたしは横になってクローヴィスのスペア・ルームの闇に見入っている。
ひと晩か、そこら前、そうした夢のひとつのあとで、わたしは起き上がって、明かりをつけ、この最後の章を書きはじめた。
クローヴィスには、この原稿のことを話した。いまは本の厚さだ。自伝。それともこれはギリシア悲劇なのだろうか。クローヴィスは言った。「たのむから出版だけは思いとどまってくれよ。きみは牢獄行きだ。そこの食事はひどいと聞いてる」
なぜか、わたしは出版など考えてもみなかった。これは、ここに出てくるだれかの手によって、これから何年も、完全防湿の箱に入れられ、地中にうめられるか、あるいは、スラム街のどこかの床板の下に隠されている運命なのだろう。
だがそれがなんだろう。むなしいことだ。意味もないこと。なにもかも。
奇妙だ。この最後の章を書きはじめたくはなかった。そしていまはやめたくない。そう、やめてしまえば、かれとわたしとの最後のきずなが切れてしまう。わたしの愛するものとの。かれはいつまでもわたしとともにいるだろう。けれどかれそのものはいない。わたしはひとりになる。ひとりきりに。
しかしわたしはいまもひとりだ。こんな原稿が何になるだろう。
だから、わたしはここで筆をおこう。
[#改ページ]
第五章
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
ママ、ママはシティの評議会を冒収できるほどお金持ちだということを知っていた?
ええ、ジェーン。何度も何度も買収できるほどね。
うれしいわ、ママ。だって、それこそいましてもらいたいことだもの。
ジェーン、何を言っているのか、全然わからないわ。
そう、ママ。ママはわたしの言うことがわかったことはなかったわ。でもこのことではおとな同士の話をしましょう。
それはすばらしいことね。
評議会を買収してほしいというのはね、ママ、そうすれば、この原稿を無事に出版できるからなの。
中に何が書いてあるのか教えてくれない?
そうね。ママ、ママも出てくるわ。あまり具体的に書いてはいないけれど。でも、名前は全部変えることができる。たとえば、ママの家をどこかほかの場所に設定するとか、そういうことも。
ジェーン、あなたがなぜ出版したいのか知りたいわ。
お金を作るためじゃないわ。だれかを非難するためでもない。いまはわたしも貧民だけど、貧民を鼓舞するためでもないの。ほんとうはわたしにもわからない。絶望のためでもなく、憤りのためでもないわ。自己顕示のためでもない。でもこの気ちがいじみた事件はほんとうのこと。ママは、この最後の章に驚くと思うわ。ほんとうよ、きっと。ママも読んでくれなくては……
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1
抜糸がすんで、傷跡消去処理の第一回目をうけた(「ジェーン、あなたはそんなふうに、歩くニヒリズムの広告をやっていることはないわ」)時点では、レオは三度目の、そしてもっとも効果的な、クローヴィスの家への移住計画をこころみていた。もちろんクローヴィスの家は、レオの家の三百倍もいい。だが、おもな理由はかれがクローヴィスにすっかり熱をあげていたことだ。黒髪で、愛人の例にもれずすらりと背の高いレオは、クローヴィスから目を離すことができず、家にいりびたっていた。レオは、自分が何をやっているか、でなく、クローヴィスしか見ないので、しょっちゅう酒と涙をこぼした。そして一度視力障害をともなう偏頭痛をおこしたとき、かれは両手で目をおおって座り、薬を待ちながら、ふるえ声でこう言った。「いつもこれが起こると、二度となおらないんじゃないかと思うんだ。二度と見えなくなるんじゃないかって。そしたら、二度ときみの顔が見えなくなる」「そりゃそうだ」クローヴィスはつけつけと言った。「ぼくの死ぬのを見ないですむよ」
わたしはけっこうレオが好きだった。かれはわたしがクローヴィスの家にいるのを不快がっているようではなく、わたしに関心を示しさえした。「まったく、彼女はなんで男の子じゃないんだろう」かれがわたしの立場についてふれなかったのが、気遣いだったのか、無知だったのかわからない。
もっともクローヴィスはしだいにおちつかなくなり、しょっちゅう外出した。所有されている状態のレオを残し、自分は所有されることなく。
そのころにはわたしは、自分のからっぽな余生をどうすごすか考えはじめていた。労働カードは問題外だ。母が手をまわしていたし、たとえわたしが使おうが使うまいが、クレジットのふりこみを再開してくれた。それでわたしは、かりになにかができたとしても、法的に正当に職につくことは望めなかった。そして、クローヴィスに頼らずに生きていくことも無理だった――でもクロエのような手を使って十ヵ月もいすわるのはいやだ。だが、そのときには、自分が何をしたいのか、わからなかった。というか、何もしたくなかったのである。
「いまのきみならモデルがやれるよ」とクローヴィスは言った。
だが、モデルは何百人もいるし、わたしの身体がいまではモデル向きだとしても、顔立ちがふうがわりだからだめだろう。
「また何か書いたら? 今度は出版してさ」
「初版を出すのにお金をはらわなけりゃ」
「お金なら出してあげるよ」
それでわたしは書こうとした。ストーリーをひとつふたつ。だがなにひとつ浮かんでこなかった。人物はいつも同じだった。わたしの知っているひとびと――クローヴィスや、デーメータや、エジプティア。どうしても最初のページから先に進めなかった。四十回ほど最初のページを書いた。シルヴァーのことを書こうとは思わなかった。言えるだけのことは言いつくしてしまったし、それでいて決して充分ではなかった。
自分のことにかまけていたので、クローヴィスとレオの関係の避けがたいなりゆきにはまったく気づかなかった。ある午後のこと、雪が雨にかわり、クローヴィスはずぶぬれになってつかつかと入ってきた。十九世紀ふうのコートをクロゼットに投げつけ、それがひっかかると、こう告げた。「今朝エジプティアから支離滅裂なひどい手紙がきたよ。だれかが彼女を砂漠の墓の中につれてったらしい。彼女が古代の王女そっくりに見えるからっていうんでね。そして月光に照らされた砂の上に、そこらのスフィンクスとならんで立っていると、ほっそりした幽霊がそばを通りすぎるような気がするんだってさ」
「きみは幽霊を信じてないだろ」レオが言った。
「きみは信じてるのか」
「おれは迷信的なんだ。たいがいの俳優はそうさ。そう、おれは信じてるね。スター座にかかっているおれの一座には幽霊が出るんだ。きみがきてハムレットをやってくれたら、きっとそいつが――」
「そいつはおもしろい」クローヴィスは言った。「ここで降霊実験をやろう」
レオは笑った。「ここで? 冗談だろう」
「まさか」
クローヴィスは降霊用のテーブルとグラスと、文字と十までの数を書いたプラスティックのカードを出してきた。
「なんだか不吉なことが起こりそうだな」
「ひとによっては幸運かもしれない」とクローヴィス。
かれはカードを並べはじめた。
「おれは散歩に行きたいんだが」とレオは言った。
「ご勝手に。ジェーンとぼくだけでやるから」
「へえ」
「いいだろ、ジェーン?」クローヴィスはわたしを見なかった。わたしの一部はこう言いたがっていた。「またインチキの手を使ったら」だが、次のように言うほうが簡単だったので、わたしは無気力な声を出した。「いいわよ」
「ジェーンだって気が乗らないんじゃないか」とレオ。
「そんなことないさ。彼女は好きなんだ。ねえ、ジェーン」
「ええ、クローヴィス」
「そういうふうには闇こえないけどな」
「ねえ、今度は偏頭痛で耳のほうがおかしくなっちまったんじゃないか」
クローヴィスは絨毯の上にあぐらをかいた。ちいさなにぶい痛みが、わたしの中をよせかえしていた。オースティンとやった降霊実験の直後に、わたしははじめてシルヴァーに会ったのだ。
「ジェーン、こっちにきて、レオに教えてやってくれよ。なにもこわいことなんかないって」
わたしは立ち上がってそこに行き、腰を下ろした。カットグラスの杯を見た。レオは窓際に逃げていってしまった。クローヴィスは特別しずかな声でわたしに言った。「わけはきかないで、ちょっとだけ押すんだ、ね」
「どういう意味?」
「わけはきくなって」
「しかたない。やるよ」レオが言った。やってきて、クローヴィスの髪に片手を走らせてから、いっしょにすわった。クローヴィスがびくりとしたのがわかった。
わたしたちはそれぞれ指を二本ずつグラスにかけた。わたしの内部で、痛みがじわじわとふくらんでいった。だが、それをどうしようという意志もなかった。どうしようもないのだから。わたしはうつろな目を宙にさまよわせていた。わたしはどこかはるかなところ、わたし自身の内側にひきしりぞいていくような気がしていた。こう叫んだちいさな声は無視した。もしこれがあの初めてのときだったら。もし時をもとにもどせたら。
「これはこれは」クローヴィスがずっと遠くで、だが、なさけなくおじけづいた声で言っていた。「動いてる」
もう、クローヴィスといっしょにはいられない。もうこんなことには耐えられない、こんなゲームには。かれは不正直だ。愛されることを恐れている。また愛することをも――グラスははっきり力強く動いていた。
「何かつづってる」レオが言った。
ばか。レオってつづってるのよ。
「J」レオが言った。「A――きみだね、ジェーン」
「名宛て郵便」クローヴィスの声はひびわれていた。やりすぎだ。
「I」とレオ。「I? それからN」間があり、それからまたグラスは動いた。「また同じつづりだ」レオが言った。「J・A・I・N。つづりのできない霊らしい。畜生。ますます強くなる。たしかに何かが起こってるぜ、クローヴィス」
「そうさ」クローヴィスは言い、咳ばらいした。「ジェーンに話したがってる。ジェーン? 起きてくれ。あんたを呼んでるよ。ほらまただ。J・A・I・N。こんなふうに名前をつづるやつってだれだい」
わたしはまばたいた。室内のようすが目に入ってきた。雨の光で痛いほどまばゆく、ほかのふたつの生命に活気づけられた部屋。
「なに? どういうこと?」
「ジェーンをJ・A・I・Nとつづるやつだよ」
「そんなひといないわ」
グラスは動いた。
「今度は別のところへ行くぞ」レオが忠実にのべた。まるで画像が故障したので、実況中継のいっさいを口でやらなければならないアナウンサーのように。「ア・ナ……タ」
「あなた」クローヴィスが言った。
「どういう意味だろう」
「ぼくにはわかる」クローヴィスが言った。「ジェーンは、自分の名前をIでつづるものはいないと言った。そしたらグラスはアナタだと言った」
「おれじゃない」とレオ。
「やれやれ、何をまた」とクローヴィス。「彼女だよ」
「こいつは茶番になりそうだな」
「JAIN」クローヴィスが言った。グラスがすっとんだ。「スベスベノダイリセキノ|ツブ《グレイン》ヲウツアメノヒビキホソクアオジロイクサリ――こいつはでたらめだな――雨の響き? すべすべ? |穀物《グレイン》? いったいどんなパンが焼けるんだ――」
グラスはわたしたちの指の下でとまった。
わたしは目を閉じた。
「クローヴィス、いつわたしのものをかきまわして、原稿を読んだの?」
「きみのあの字じゃ、一言一句判読できやしないね」
わたしは目をあけ、かれを見つめた。かれの顔はおそろしく真っ青で、レオとは対照的だった。レオの顔は興奮で真っ赤だった。
「クローヴィス、どうしてこんなことをするの。恨みでもあるの? それともばかげた心ない冗談のつもり――」
グラスが動いた。わたしはクローヴィスの顔がさらに青ざめるのを見た。かれはまるでグラスが自分に口をききでもしたように、じっとそれを見つめかえしていた。
「ぼくじゃない」
「あなただわ」
「グラスは」とレオ。「コレハ――ワタシガアナタヲ――タノシマ――」
「楽しませるために」クローヴィスが先を読んだ。
グラスはテーブルをさっと横切った。
「アリガト――ありがとうだって」レオが信じられない顔でのべた。「クローヴィス、このテーブルに細工をしたのか」
「近ごろはしてない」かれはグラスから手をひき、絨毯の上に体をのばした。「だれだかわかったね、ジェーン」
「ジェーン、おれをこのものとふたりきりにしないでくれよ」わたしが手をひくと、レオは言った。
「あなたも手をどけていいわ、レオ。ひとりでに動くと思うわ」わたしは怒っていた。ほんとうに久しぶりの怒りだった。「グラスの中に磁石がしかけてあって、テーブルの中には針金が走ってるのよ。あなたがプログラムしたくせに」
クローヴィスはしわがれた声で笑った。
「ここまで皮肉なタイミングでアリガトウ≠ニ言えるプログラムなんてないぜ」
グラスはレオの手の下でまわっていた。
「コ――ギ」そしてしばらくして「コギト・エルゴ――われ思う、ゆえにわれあり――なんだ、これは。コギト・エルゴ。うっ」レオは笑いだした。「まったくそのとおりだ」片手をそうっとグラスから離した。グラスはテーブルの上をかけめぐった。レオは感動したように見つめていた。わたしはかたい怒りの塊が心につかえるのを感じながら、見ていた。「ショ・ウ・コ」とレオ。「じぇーんノ――タメノ――ショウコ。ウ・タ。歌だ」
わたしはふりかえった。レオはひとつひとつ字を読みあげていた。それから単語ごとにまとめて、いかにも誇らしげに言った。「白いほのおの柱のなかの、
神の貌に見入り、
そのうるわしさにひかれ
その見通す目をおそれた。
「わたしがつれないとだれが言ったのか」
神よ、あなたはまばゆく燃えかがやき
あなたと争いたくはない――
それは愚か者のおこない――
「ではピストルを下ろし
剣を鞘におさめよ」
わたしはひとこともかえさず
言われたとおりにした
星がつめたく冷えてゆくとき
神のほほえみはわたしをあたためた」
グラスはとまった。
「ううむ」とレオ。「こんなの聞いたことがあったっけ」
「あなたはないわ。だれも知らないわ。かれ――かれは知っていた。わたしが言ったのだもの。でもわたしは紙に書いたことはなかった。ムジコード‐エクトリカで思いついた詩。E・Mのニュースが流れたときに――わたしがかれにこの言葉を言ったの。かれはどんな詩でもぜったい忘れないの。そういうふうにプログラムされているから。でもわたしは忘れていた。書いたことがなかったもの。原稿にも書かなかった。どこにも書かなかったわ。クローヴィス、どうしてわかったの?」
「ぼくじゃないんだよ、ジェーン」クローヴィスは床にひっくりかえったまま言った。石のように白い顔を天井に向けて。
グラスが動いた。わたしはそちらに身をかがめた。
「あなたなのね」わたしは言った。「あなたがどうしてここに?」
ジェイン。グラスは言った。わたしは、それが言葉をつむぎだすのを待った。
「ワタシハアナタノ一部ダカラ」グラスがつづった言葉を、わたしは読みあげた。「でも――」わたしは答えて言った。「幽霊――魂が――」
驚イタ? かれはグラスをとおして言った。
「いまどこにいるの」
オ話シシテモアナタハ信ジナイデショウ。
レオはのけぞるようにして、わたしをじっと見、それからクローヴィスに目をやった。
「あなたなしで生きていきたくないわ」わたしの声は遠く小さく聞こえた。起こっていることを自分が信じているのかどうかもわからなかったが、いまとなってはもう自分をおさえきれなかった。「シルヴァー、ここでひとりきりで生きていたくない」
マタ会ウデショウ。グラスは言った。ワタシタチハイクツカノ場面デイッショデシタ。ソレハ何カヲ意味スルハズ。
「シルヴァー――シルヴァー――」
アナタヲ残シテユクノガ心配デスガ、ソウスルシカアリマセン。
「いつ――いつ、あなたに会えるの」
アア、ワタシニ、アナタノ死ノトキヲ予言サセナイデクダサイ。
「そんな――」
愛シテイマス。アナタハキレイデスヨ。イツマデモキレイナママデイテ、ワタシノ代ワリニワタシノ生ヲ生キテクダサイ。
「行かないで――」
コンナコトハナンデモアリマセン‥じぇいん。じぇえん。じぇーん。ココニハスベテノ時ガアルノデス。アナクモ知ッテイルヨウニ、ホントウニ。人生ノ長サナドナンデショウ。
「あなたが行ってしまったら、わたしはまた信じられなくなるわ」
努力シテ。イッショウケンメイ。
「あなたの言いかたはまるであのときの――」
ソウデナクテハ、アナタニワカラナイデショウ。
「シルヴァー、またこういうことは起こる?」
イイエ。
「シルヴァー――」
愛シテイマス。マタ会ウデショウ。ドウカ心配シナイデ。
グラスはとまった。
「待って」わたしは言った。
グラスはもう動かなかった。
わたしは手をのばし、さわってみた。もう動かなかった。
もう決して。
「なんてことだ」レオが言った。
わたしはじっと座っていた。ほかのふたりが動きはじめた。クローヴィスが立ち上がった。かれはドリンク・ディスペンサーのところに行った。クローヴィスとレオは飲み物を飲み、クローヴィスはわたしにももってきてくれ、テーブルの上においた。その手はふるえていた。わたしは何をしているかもわからないうちに、その手をつかんでいた。
「放して、ジェーン」
「まず、わけをきかせて」
「ぼくにはわからない。放せよ」
わたしは放した。
「いったいぜんたい、今のはだれなんだ」レオがたずねた。
「ぼくらの友人だ」クローヴィスが言った。わたしは泣きだしたが、しずかにだった。もう二度と泣けないと思っていたのに。だが、そんなことを思ったのも一瞬だった。「ジェーン。グラスをごらん。降霊グラスだ。磁石がついていたところを見てごらん」
わたしはグラスをとりあげて、のぞきこんだ。涙を手でぬぐって。磁石などなかった。欠けたところすらなかった――別のグラスだったのだ。
「オースティンはある晩ここにとびこんできて、テーブルをつかんでぼくに投げつけた。ぼくがよけると、テーブルは壁に激突した。グラスのほうは――かれが食っちまうかと思った。いかさま降霊会だ、おまえは嘘つきだ(どっちもかれは何日も前から知っていた。あいつは衝動でかっとなるというより、じわじわ頭にくるタイプらしい)と言って、あいつが楽しく水入らずで荒れ狂った時間ときたら。そして、しゃくりあげながら、おまえが窓からとびおりるか、おれがとびおりるかだとおどした。ぼくが後者のほうがいいと言ったら、あいつは、おまえが下の路上にどんな模様を作るかみてやろう、と言った。だが、ぼくがポリコードのことを思い出させて、もう押してしまったんだと言ったら、そそくさと出ていった。テーブルの仕掛けの針金はひきちぎられ、グラスは二十八個の破片になっていた……二十九かな。それから、あんな重大事件でジェイスンと喧嘩別れしたあとで、やつになおしてくれとは頼みがたくてね。今度は自分でグラスに細工しようとしたんだ。でもうまくいきそうもなかった。この酒はちっともきいてこないな」
「じゃあ、ほんとうだったのね」
「おそろしいことにね。きみが念力というかテレキネシスで動かしたんじゃなければだが」
「コギト・エルゴ、うう」レオが皮肉な声を出した。
クローヴィスはかれのほうになかば体を向けた。「レオ。いままでなかなか楽しかったが、きみが荷物をまとめて出ていってくれれば、もっとありがたい」
「なんだって」レオは仰天した。
「出ていけ。ぼくらはもう終わりだ」
「プリンス・チャーミング。この暮らしから足を洗うつもりか」
「洗いにいくのは、バスルームだ」クローヴィスは最高に優雅な身のこなしで立ち上がった。「そこで犬のようにげえげえやってるよ。いっしょにきてぼくの頭をおさえたくないんだったら、出口を探したほうがいい」
そしてクローヴィスは出てゆき、バスルームのマホガニーの扉が音をたててしまった。そして水の遮蔽音がぼんやりと聞こえはじめた。
レオとわたしは顔を見合わせた。
「あいつ、本気なのかい」レオは言った。そしてクローヴィスに慣れているらしく、急いでつけくわえた。「出ていけってこと」
「本気だわ」わたしは言った。「お気の毒だけど」
レオはひどい悪態をつき、飲み物をおいて、持ち物をとりに、主寝室のほうへ行った。
「きっと」かれはシャツを投げとばしながら叫んだ。「愛人の幽霊だったんだな」
「ええ、レオ」
「畜生」
わたしの中で何かが溶けていった。わたしはかれが出ていくまでなんとかこらえていたが、それからごくしずかに、ごくおだやかに笑いはじめた。
ワタシノ生ヲワタシノ代ワリニ生キテ、とわたしの愛するものは言った。それはたやすいことではない。これからもやさしくはないだろう。もう、あのこと――かれがそこにいて、わたしに話しかけたように思われたあの瞬間――をはっきり思い出すことがむずかしくなりはじめている。霊。どうしてロボットに魂があるのだろう。わたしはたずねたことはなかった。少なくとも、かれは答えなかった。答えたのだったかしら。わたしたちは以前に会った。また会うだろう。もし魂が存在するのなら、どうしてそれが金属の身体の中で進化をとげないことがあろう。肉の体の中で行なわれるように。そしてもし魂が何度もこの世にもどってくるのなら――いつの日か、わたしたちはだれでも全身、交換臓器と若返りコースの、あるいは金属的化学的部品の世話になって、みんなロボットに近いものになるのだろうから――そうしたら金属の身体こそ唯一魂が宿るべきところになるだろう。
かれがE・Mの不良品検査にひっかかったのも無理はない。
ああ、あなた、魂を持ったあなた、生きて彼方――どこか――にいるあなた、いまもこののちも死することのないあなた。してみれば、けっきょく死は、わたしにとって、飛行艇に乗りこむようなものなのだろう。空に漂ってゆき、プラットフォームについたときには……かれがそこにいるの?
でももしそうなら、このばかげた生をこれから生きつづけることはいっそう苦しい。
けれど、そうしなければならない。わたしのなかのかれの生を生きること。
わたしはもうスラム街にもどっている。前に行ったいろんな場所に行くと、ひとびとがかれのことをたずね、わたしはもうなんと言っていいかわからずにいる。するとその顔から、多くのひとたちは察する。そしてわたしの腕をぎゅっとつかむ。あるいはわたしに、またかれに対する同情で目をうるませる。けっきょくかれはロボットではなかったのだ。みんなにそのことを告げる必要もない。かれの死をいたむのは正当なことだもの。この本が出て、紙面の稲妻の中に真実が読まれるときまでは。そうしたらみなはわたしを笑うだろう。憎むか、それとも。そしてストリートには暴動が起こるだろう。だれかがわたしを刺しに来るかもしれない。でもわたしは自分の死をはやめるために、これを出版するのではない。
わたしは、シルヴァーといっしょにギターや、ピアノやなにやかやをプレイしたことのある路上音楽家のひとりに会った。わたしの知らせ――わたしはまったくかけねなしの真実で、かれは殺されたと言った――をきくと、若者はわたしの両手をとって、言った。「お金がいるんじゃないの?」わたしは、「もらうよりかせいだほうがいいわ」と言った。するとかれは、あんたの歌を覚えている、ぼくらの場所にきていっしょに歌おう、もらったお金は分けあおうと言った。そこでわたしはそうした。わたしたちはそうしたし、かれらもそうした。
かれでなくて、ほかのものといっしょに歌うのは奇妙だった。かれでなく、かれらといっしょに新しい歌をためしてみるのは奇妙だった。パイン街の灰色の部屋に帰ってひとりで横になり、眠れないでいるのは奇妙だった。灰色の部屋たちよ。いまにおまえの天井を青と真紅にぬってあげる。床には虹の絨毯を敷いてあげる。そして猫を飼って、ちいさなふくふくした犬のように、ひもをつけていっしょに歩けるようにしよう。でもまだだ。わたしの心が、あのこわれたけたのように、地震で位置を変えた煉瓦のように、新たな昼と夜のすきまにはまりこんで落ち着くまでは。
クローヴィスはわたしがこんなことをするのをひきとめようと、一晩説得した。夜があけたときには、わたしたちは舌で相手を完膚なきまでに切り刻んでおり、目は真っ赤に血走り、顔は蒼白で弱々しく笑いあった。議論の争点としてでも、また個人的な名前をあげるときでも、わたしたちは決してシルヴァーのことを言わなかった。あるいはかれに対するわたしたちの気持ちを。だから、わたしたちはまだ友達なのだと思う。数日前、百本の薄紫の薔薇が届いて、こんなメモがそえられていた。「役に立たないものならきみも受けとれるだろう。クローヴィス」
かれのシルヴァーに対する感情はわからないままだ。シルヴァー。わたしは前に、どんな名前であなたを知っていたのだろう。
ああ、愛するひと。
とうとう母に電話したとき、彼女は王者のようにわたしの声を受け入れ、シェ・ストラトスでの昼食に招待してくれた。わたしが母を利用したがっていると思っているようだ。そうするそぶりをちらつかせれば、ついに母に興味をもってもらえるかもしれない。母はそれに同意さえするだろう。母は、法律にも貧民にも基本的には敬意を抱いていなかった。もっともばかげたもっともあからさまなしかたで、それらをはるかに見下していた。
あの家をまた目にするのが楽しみでさえある。あそこに行くことが。そしてひどく緊張してもいる。いちばん、衝撃的な服を着ていこうと思う。ぴっちりした細い緑とすみれ色の服。鈴がついて、刺繍がついて、ビーズのついた服。そしてブーツは四インチのヒールのもの。
エレベーターはいまでもわたしに、「ハロー、ジェーン」と言うかしら。
母はわたしを抱きしめるだろうか。それとも冷然としているだろうか。また援助してくれるのだろうか。拒むのだろうか。おそらく、とうとうわたしは知ることになるのだ。母がほんとうにわたしを好きであったのかどうか。
これは何よりも、わたしに課せられた実習と呼ぶにふさわしい。抽象的なコースは決まっている。おそらくあと百三十年ものあいだ、やりとおさねばならないだろう。学び、成長し、経験を積んで、いろいろなものを見、聞き、真実や友情を集め、かれのもとへゆく飛行艇に乗りこむときには、それらをみんな贈り物のようにもってゆくのだ。もしわたしが老いたとき、いまと同じように感じていれば。いや、来年まだ同じように感じていれば。
けれど、わたしはあの事件がほんとうであったことを信じている。一本の論理の糸がとおっていた。かれを失うことは不可能な、信じがたいことだった。こう言うほうがずっとずっとやさしい。シティの夜の灰色のしずかな喧騒に向かって、はっきりと声に出して。「愛するひと、愛するひと。わたしはまたあなたに会うでしょう」
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
-------------------------------------------------------
*このファイルは
銀色の恋人 早川文庫
(一九八七年七月三十一日 発行
一九九一年七月三十一日 五刷)
を底本とし、OCRをかけて目視校正したものです。
*あとがきは省略しました。