森の生活(ウォールデン)
ヘンリー・デヴィッド・ソロー/神原栄一訳
目 次
経済
住んだ場所とその目的
読書
孤独
訪問客
豆畑
ベーカー農場
より高度な法則
動物の隣人たち
暖房
先住者……そして冬の来訪者
冬の動物
冬の池
むすび
ソローの生涯
訳者あとがき
[#改ページ]
経済
以下のぺージ、と言うよりもその大部分を書いた当時、私はマサチューセッツ州はコンコードの森の中にいて、最も近い隣人から一マイルも離れたウォールデン池《ポンド》のほとりに自分で建てた家に住み、自分の手による労働だけで暮らしを立てていた。私はそこで二年二ヶ月生活した。現在は再び文明生活にもどっている。
もし町の人たちが私の暮らしぶりについてこと細かな詮索《せんさく》をしなかったら、私も読者のみなさんに自分の個人的な事柄を押しつけるようなことはしないだろう。私の生活ぶりを、ことさらに奇をてらうものと言う人もいるだろう。だが、私にしてみればまったくそんなことではなく、当時の事情を考えればきわめて自然で素直なことであったように思われるのだ。ある人たちは、何を食べていたか、寂しくはなかったか、恐《こわ》くはなかったか、というようなことをたずねた。私が収入の何割を慈善のために捧げたかを知りたがる人もいたし、大家族を抱えている人は、私がかわいそうな子供たちを何人養ったか知りたがった。こういうわけなので、私がこの本の中でこれらの質問のいくつかに答えようとしても、私になんら特別な関心を持っていない読者にはお許しいただきたいと思う。たいていの本では、私、すなわち一人称の言葉は省かれているものだが、この本ではそれが執拗《しつよう》に使われている。その点が本書と他のおおかたの本との、自我に関する主な違いである。
われわれは、話をするのは結局一人称であることをふつうは忘れているものだ。もし私に、私自身を知っているのと同程度に良く知っている人間が他にいれば、私は自分の事をそれほど多く語りはしないだろう。不幸にも経験が狭いので、私の書く主題はこれだけに限られてしまうのである。さらに、私の側としても、すべてものを書く人たちには、まず第一に、そして最終的にも彼自身の生活を気取らないで正直に述べて欲しいと思うし、他人の生活について耳にした事柄だけを書くにとどめてはもらいたくないのだ。何か遠方の土地から親類あてに書き送る消息のようなものを求めるのである。もし彼が誠実に生活したのならば、その生活は必らずや私にとってはある遠い土地での珍しい生活であったに違いないからだ。ここに書くことは、おそらくとくに貧しい学究向けのことが多くなるだろう。そうでない読者は、自分に当てはまる部分を受け取るようにしてくれるだろう。誰もわが身に合わない上着を着ようとむりやり縫い目を引っ張るようなことはしない、と信じている。その上着でも、それが体に合う人には十分役に立つのだから。
中国人やハワイ諸島の原住民のことよりも、私はニューイングランド〔アメリカ北東部の六州〕に住むと言われている、私の書く物を読んでくれる諸君について述べてみたい。諸君の現状、とくにこの世界、この町での諸君の外見的な様子と事情について、それがどんなであるか、現にあるようなひどい状態でなければならないものか、それははたして改善できないものなのか、について少々述べてみたいと思う。
私はコンコードをずいぶんと歩き回ったが、店といわず、事務所といわず、畑といわず、いたる所で住民がさまざまな驚くべき仕方で苦行でもしているように見えた。バラモン教徒について聞いた話……自分の周囲に四ヶ所もの焚火《たきび》をして、その熱にじっと耐えつつ太陽とにらめっこをして坐っているとか、炎の上に頭を下にして自分を吊《つる》すとか、首をひねって肩越しに天空を見つめ、「ついには元の自然な姿勢が取れなくなり、また、首がよじれて液体以外は胃に通ってゆかなくなる」とか、一本の木の下に生涯ゆわえつけられて過ごすとか、イモムシのように這《は》って遠くの地方に旅をするとか、あるいは柱のてっぺんに一本足で立っているとかの話……の中のこうした意識的な苦行の姿ですら、私が毎日目にする光景にくらべると、ほとんど信じがたい、驚くべきもの、などとは言えない。ヘラクレスの十二の仕事〔ギリシア神話。神ゼウスと人間アルクメネの子、大力無双の英雄へラクレスは、ゼウスの妻ヘラに憎まれ、十二の難事を成就するよう命ぜられた〕も、この隣人たちのしている仕事にくらべると取るに足らないものだ。ヘラクレスの仕事は十二だけで、やがては終る。だが、ここの人たちが怪物を退治したり、生け捕りにしたり、何か仕事を仕上げたりするのを私は一度も見ることができなかった。彼らには、九つの首を持つといわれるヒュドラ〔ギリシア神話。ヘラクレスに退治された大きな海へビ〕の首の根を熱した鉄棒で焼き落としてくれる味方のイオラスはいないし、一つ首をたたきつぶしても、またすぐ二つの首が生えてくるのだ。
私はこの町の若者によく会うのだが、彼らが農地、家、納屋、家畜、農具といった物を相続したことが彼らの不幸となっている。こうした物は、手に入れるよりそれから免れることの方が難しい。彼らが呼び込まれて働くはめになった畑がどんな所かをもっと澄んだ目で見るためには、広々とした牧草地に生まれて、オオカミの乳で育てられた方がよかったのである。誰が彼らを土の農奴としたのか? 人間はみな一斗の塵《ちり》を食う苦しみを背負っているとはいうものの、なぜ彼らは六十エーカーもの土地を抱え込んで食わなければならないのか? 生まれるとすぐ自分の墓を掘りはじめなければならないのはなぜか? 彼らはこうした相続物を後からうんうん押しながら人間生活を送り、なんとか生きてゆかなければならないのだ。その重荷にほとんど押しつぶされて窒息せんばかりの、哀れな不滅の魂にいくつ出会ったことだろう!
彼らはみな、縦七十五フィート、横四十フィートの納屋……そのオージアス王の牛舎掃除〔ギリシア神話。ヘラクレスに課された十二の仕事の一つ〕はいつまでも終ることがないのだ……と耕地、草地、牧場、森林地合わせて百エーカーもの土地をうんうん押しながら人生の旅路をのろのろとたどる人たちであった。そんな世襲の厄介物と苦闘する必要などない、分け前を持たない人たちでさえ、この数立方フィートの肉体を治め、耕すのは大変な仕事だというのに。
だが、人間は誤解して苦しんでいるのだ。人体の大部分は間もなく肥料として土中にすき込まれてしまうのだ。一般に必然と呼ばれている、見せかけの運命に使役されて、人間は古い書物にもあるように、虫が食い、錆《さび》で腐り、泥棒が押し入って盗み出す宝をせっせと蓄える。その時が来るまでは分からないにせよ、人生の最後に到達してみて分かるように、それは愚かな人間の生涯なのだ。デウカリオンとピュラー〔ギリシア神話。プロメテウスの子でテッサリアの一国王とその妻。大洪水の難をのがれた後、神託を受けて石を投げると、夫の投げた石は男に、妻の投げた右は女になった〕は、頭越しに石を背後に投げて人間を造ったと言われている……
サー・ウォルター・ローリー〔一五五二?〜一六一八? エリザベス一世の廷臣、詩人〕は、これを格調高い韻文で次のように訳している……
[#ここから1字下げ]
それゆえにわが種族は、苦しみと悩みに耐える堅固なる心を持つなり、
われらが肉体の、石にも似たる質なるを証《あか》しつつ
[#ここで字下げ終わり]
頭越しに石を背後に投げて、その落ちる場所を見もしない、おかしな神託への盲目的な服従についてはこれくらいにしておこう。
比較的に自由なこの国においてさえ、たいていの人間は、たんなる無知と誤解のために、自分から求めて作り出した人生の苦労と必要以上に荒っぽい労働とに忙殺されて、もっとすばらしい人生の果実をもぎ取ることができないでいる。過度の労働でその指があまりにも武骨になり、震えがひどくてそうすることができないのだ。実際、労働する人間には、毎日が忙しくて天真の性情を保持する暇などなく、他人に対する最も男らしい関係を維持する余裕がないのだ。そんなことをしていようものなら、彼の労働の価値が市場で下がってしまうだろう。彼には、機械となる以外何物にもなれる時間はないのだ。頻繁《ひんぱん》に知恵を働かしていなくてはならない者に、どうして自分の無知なることをしっかり自覚していること……彼の成長には必要なことなのだが……ができるだろうか? 彼を裁くに先立って、われわれは時には無料で彼に衣服を与え、強壮剤を飲ませて体力を回復させてやらなければならない。天性の最もすばらしい特質というものは、果実の白い粉と同じで、最も慎重に扱ってのみ保持できるのである。にもかかわらず、われわれは自分を、そしてお互いをそれほど優しく扱ってはいない。
みんなの中には貧しくて、生活に苦しみ、時にはいわばふうふうあえいで暮らしている人もいることは、われわれがみなよく知るところである。この本を読む諸君の中には、実際に食べたすべての食事、どんどんすり切れてゆく、またはすでにすり切れてしまった上着とか靴の支払いができないままに雇われて働く一時《いっとき》をごまかして、その借りるか盗むかした時間を過ごそうとこのページまで読み進んできた人もきっといるだろう。
私の目は経験によって鋭くなっているから、諸君の多くがどんなに卑しい、こせついた生活をしているかがよく分かる。仕事になんとかもぐり込もうとしているか、借金から抜け出そうとしているか、いつもどちらかの両端に立っている。借金というものは遠い昔からある泥沼で、ラテン人には≪他人の真鍮《しんちゅう》≫と呼ばれていた。彼らの貨幣には真鍮でできていたものがあったからだ。つまり、常にこの他人の真鍮によって生き、死に、そして葬られるのである。いつも借金の返済を約束し、明日返すと約束しては、今日支払いができないままに死んでゆく。国法に触れないかぎり、じつにいろいろな手段を講じて他人の歓心を買い、引き立ててもらおうと躍起《やっき》になる。嘘をつき、お世辞を言い、投票をし、自分を慇懃《いんぎん》の殻に押し縮め、あるいは、薄くて蒸気のような人の好さにまで自分を薄めては隣人を説得して靴、上着あるいは馬車を作らせてもらい、雑貨を輸入させてもらおうとする。病気の日にそなえていくらかの金を蓄えようとして病気になる。古箪笥《ふるだんす》の中、壁の裏側の靴下の中、さらに安全な場所として煉瓦《れんが》造りの銀行、というぐあいに場所がどこであれ、また額が多かろうと少なかろうと、とにかくなにがしかの金を蓄えようとする。
黒人奴隷と呼ばれる、確かに卑屈なものではあるが、われわれにはやや縁遠い奴隷制度の廃止に力を入れるなんて、そんな上滑りとも言えるようなことがよく私たちにできるものだ、とときどき思うことがある。北部と南部を双方とも奴隷のように駆使する、鋭い、やり手のお偉方《えらがた》が大勢いるというのにだ。南部に親方《おやかた》がいるのはつらいことだ。そして、北部にいるのはいっそうよくないことだ。だが、自分を奴隷のように追い使うのは最もよくないことである。人間の内なる神性、などとよくも言えるものだ! 昼間や夜分に市場へ向かう街道の家畜御者を見るがよい。彼に神性らしきものの動きが認められるか? 彼の最高の義務とは馬に秣《まぐさ》と水を与えることなのだ!
海運業の景気の問題に比較すれば、自分の大切な運命など眼中にない、といったありさまだ。彼は心の中の「偉がり屋|殿《どの》」のために馬車を駆っているのではないのか? どれほど彼が不滅性を具《そな》えているというのか? 不滅性にも神性にも乏しくて、自分自身へのうぬぼれた評価と自分自身の行為でうる名声との奴隷となり、囚人になり果ててしまい、いかに彼らがちぢこまってこそこそ歩いているか、いかに一日中、漠然《ばくぜん》とおびえているかを見るがよい。世間の評価は、自分自身がひそかに下す自己評価にくらべれば弱い暴君にすぎない。自分自身をどのように考えているか……人間の運命を決定する、というより示すものは、じつにそれなのだ。うぬぼれた幻想と想像から自己を解放することは、西インド地方〔砂糖栽培に黒人奴隷が多かった〕で奴隷を解放することほどにも至難なことである……それの実現のためにウィルバーフォース〔ウィリアム・ウィルバーフォース。一七五九〜一八三三。イギリスの奴隷解放運動家〕のような人はいないものだろうか?
また、自分の運命に対して抱いている、あまりにも生々しい関心が表面に表われないようにと、最後の審判の日を控えて背掛け用のクッションを織っている地主の婦人連中を考えてみるがよい。彼女らは、まるで永遠を傷つけずに時間を浪費することができるとでも考えているかのようである。
大多数の人は静かな絶望の生活を送っている。いわゆるあきらめとは、確認された絶望のことである。絶望した都会から人は絶望した田舎へ行き、ミンクやジャコウネズミの臆病《おくびょう》さをもって自分を慰めなければならない。固定的な無意識の絶望は、人間のいわゆる遊びとか娯楽の下にさえ隠れているものだ。そうしたものには本当の楽しさなどない。楽しさは仕事をした後にやってくるものだからだ。だが、絶望的なことをしないのが賢い人たちの特色の一つである。
教理問答式の言葉を借りて、そもそも人間の主要目的は何か、生活の真の必需品とその手段は何か、と考えてみると、人は熟考のすえ、他のどんなものよりもそれを好んだために今の生活様式を選んだように思われる。ところが、彼らは他に選びようがないとまじめに考えている。だが、慧敏《けいびん》で健康な天性を持つ人は、天地がなんら変ったこともなく無事に営みを続けているのを忘れない。偏見を捨てるのに遅すぎるということはない。いかに古くからあるものでも、思考や行動の様式は証拠なしには信頼できない。人がみな、今日真実として受け売りし、無言のうちに通用させていることが明日誤りだと分かることもあれば、ある人たちが自分の畑にうるおいの雨を降らせる雲だと信じていたのが、煙のような空《むな》しい見解であったりすることもある。老人がわれわれにはできないと言うことをやってみると、できると分かることもある。昔の人には昔の行動が、新しい人には新しい行動があるのだ。昔の人は、かつては火を燃やしておくのに燃料を持ってくる必要があることすら知らなかっただろう。今の人は釜《かま》の下にわずかばかり乾いた木を置いて、いわば老人なら目を回すような速度で、鳥のように速く地球の周囲をぐるぐる回る。老人が指導者として青年よりも適格だというものではないし、ほとんど同じ程度にも達していないものだ。失っただけ獲得していないからだ。最も賢明な人でも、その人ははたして生きることによって何か絶対的に価値のあることを学んでいるだろうか、と疑ってみてよいのだ。
実際には、老人は青年に与えるべきそれほど重要な忠告など持ってはいない。彼ら自身の経験が非常に偏《かたよ》ったもので、その生活は、彼らがそう思い込んでいるように、いろいろと私的な理由から惨めな失敗に終っているのだ。ただ彼らには、自分たちの経験を非とするだけの誠実さが多少残っている。要するに、昔よりも年を取ったということだけで、その他では若い者と同じということだろう。私はこの地上に約三十年生きているわけだが、先輩から有益な助言、とはいかなくとも、せめて真剣な助言をまだ一度も聞いたことがない。彼らは何一つ適切に教えてくれたこともないし、また、おそらく何も教えられないのだろう。ここに私がまだその大部分を試みたことのない一つの実験、人生があるのだ。彼ら老人が人生を試みたといっても、それは私にはなんの益にもならない。今後私が自分で価値ありと考える経験をする場合も、自分に助言を与えてくれた人たちは、それについてはなにも話してくれなかった、と必らず思うことだろう。
ある農夫が私に、「植物性の食べ物だけでは生きてはゆけないよ。骨を作るものがまったく摂《と》れないからね」と言う。そして彼は、自分の体に骨の原料を供給するために、一日の一部を後生大事にささげる。そう言いながら牛を追って歩いているのだが、その牛が現に骨は植物からできていて、あらゆる障害物をものともせずに、彼とそのガタガタいう犂《すき》を引っ張ってゆく。ある物がごく無気力な病的社会で真に生活の必需品となっていても、それは別の社会では贅沢品《ぜいたくひん》でしかないし、他の社会ではまったく知られてさえいないものである。
人間が生活している全領域は、丘も谷もすべて先人によって究《きわ》められ、手当てされつくされている、と思っている人がいる。イーブリン〔ジョン・イーブリン。一六二〇〜一七〇六。イギリスの日記作家〕が述べるところでは、「賢いソロモン王は、木を植える際の樹間距離まで勅令《ちょくれい》で規定した。またローマの奉行《ぶぎょう》は、何回まで隣人の土地にドングリ拾いに立ち入っても不法侵入にならないかを定めた」という。ヒポクラテス〔紀元前四六〇〜三七七。ギリシアの医師で医学の祖とされる〕は爪の切り方の指図《さしず》さえ残している。すなわち指の先と同じとし、長すぎても短かすぎてもいけないというのだ。人生の変化や歓喜を味わいつくしてしまったと考える退屈感と倦怠そのものは、疑いもなくアダムの時代からすでにあった。だが、人間の能方は一度も測定されたことがないのだ。また、今まで人間が残した先例を標準にして今後何ができるかを判断すべきでもない。今までにどんな失敗をしていようと「悩むなかれ、我が子よ、汝《なんじ》がなさずに残せしものを誰か挙げえん」である。
われわれは自分の生活を多くの簡単な方法で試すことができるだろう。例えば、私の畑の豆を熟させるその同じ太陽が、同時にこのわれわれの住む地球に似た一群の遊星をも照らしている、と考えてみることである。もし私がこのことを忘れずにいたとしたら、それでいくつかの誤りは防いでいただろう。豆作りをしていた当時は、私はこんなふうに考えていなかった。星はなんとすばらしい三角形の頂点をしていることか!なんと遠く相隔たったいろいろな存在が、宇宙のいくつもの館《やかた》で、同じ瞬時に、同じものを眺めていることか!
自然と人間の生活は、われわれの体質と同じく種々様々である。世の中が他人にどんな前途を提供することになるか誰が語れるだろうか? お互いの目をとおして一瞬のうちにものを見抜くこと以上に大きな奇跡は起こりうるだろうか? われわれは一時間のうちに世界のすべての時代に、そうだ、各時代のすべての世界に生きなければならないのだ。歴史、詩、神話! これほど驚嘆すべき、これほど教えるところの多い、他人の経験についての読み物を私は知らない。
私の隣人たちが善と呼ぶものの大部分を私は心の中で悪だと信じている。そして、私になにか後悔することがあるとすれば、おそらくそれは私のした善行であろう。あんな立派なことをするなんて、なんという悪魔が私にとり憑《つ》いていたのだろう! ご老人よ……七十年間もこの世に生きて、ある種の名誉も勝ち得ていないわけではないあなた……あなたが精いっぱい賢明なことをおっしゃっても、私にはすべてそんなものから逃れよと勧める、抵抗しがたい声が聞こえてくるのです。一つの世代は、他の世代がしたことを座礁《ざしょう》した船のように見捨てるものなのです。
私たちは、現にそうしているよりも、ずっと多くのことを信頼してさしつかえないと思う。自分について思い煩《わずら》うことを省いて、それを他の事柄に誠実に仕向けるがよい。自然はわれわれの強さにも弱さにも同様に適応しているものである。絶えず心配し、緊張している人がいるが、これはほとんど不治の病気といってよい。われわれは、自分の仕事の重要さを誇張させられている。それにしては、なんと多くの事がわれわれにされないままになっていることだろう! もし病気になったらどうするか? できることなら信頼などによらないで生きてゆこう、と心に決めるとは、なんとわれわれは用心深いのだろう! 一日中、油断なく気を配り、夜は夜でいやいやお祈りをして不確実なものに身をゆだねる。自分の生活をあがめ、変化の可能性を否定しつつ徹底的に誠実に生きるように強いられる。これ以外に方法はないと言う。だが、じつは一つの中心から半径を描ける数だけ生き方はあるのだ。すべて変化は考えてみれば奇跡であるが、それは各瞬間に起こる奇蹟である。「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知れるなり」と孔子は言っている〔子曰、由、誨女知之乎。知之為知之、不知為不知、是知也。『論語』巻第一「為政編」〕。ある人〔孔子をさす〕が想像上の事柄を実際に経験して、それを悟性にかなう事実にしたのなら、やがてすべての人もそれを土台に彼らの生活を築いてゆくだろう、と私には見通しがつくのである。
私がこれまで述べてきた苦労や心配の大部分は何についてのものなのか、また、どの程度心を悩ます、少くとも気をつかう必要のあるものなのか、ということをしばらく考えてみることにしよう。
表面的には文明のまっただ中にいても、原姶的な辺境生活をしてみるのは多少とも有益なことである。ぎりぎりの生活必需品とはいったいどんな物か、それを得るのにどんな方法が採られたのか、を知るだけでもよい。また、人々はごくふつうにどんな物を買い、何を蓄えていたか、つまり、どんな物が最も一般に不可欠な日用品なのか、を知るには、昔の商人の売上台帳を調べてみることすらためになるものだ。ちょうど、われわれの骨格が先祖の骨格とたぶん区別できないように、時代の進歩は人間存在の根本法則にほとんど影響を与えていないからである。
私のいう<生活必需品>という言葉は、人間が努力のすえに獲得するあらゆる物の中で、最初から重要であったか、または長い間使用しているうちに人間生活に非常に重要になった物で、野蛮、貧乏、人生観のいずれかのために、それなしにすまそうとする者が皆無でないまでも、ほとんどいない、といった物すべてを意味している。多くの動物にとってのこの意味での生活必需品はただ一つ……食物だけである。草原の野牛にとっては、好みにあった数インチにのびた草、それに飲み水である。森の隠れ場や山の日蔭を求めないとすればである。食物と隠れ場以上の物を要求する動物はいない。この風土での人間生活の必需品は、正確には食物、住居、衣服、燃料の数項目に分類できるだろう。こうした物を確保して初めて、われわれは自由に、成功の見込みをもって人生の真の問題に対処する準備がととのったことになるからだ。人間は住居だけでなく、衣服と調理した食物を発明した。そしておそらく火の暖かさと、続いてその利用法……最初は贅沢なものとして……を発見したことから、現在のように火のそばに坐る必要性が生じたものだろう。
ネコや犬がこの同じ第二の天性を身につけているのを見る。適当な住居と衣服でわれわれは自分の体内の熱を適正に保つ。だが、それが過度となって燃料を使用するようになって、つまり体内の熱よりも高い熱から料理なるものが始まった、と言えないだろうか? 博物学者ダーウィン〔一八〇九〜八二。イギリスの進化論者〕がティエラ・デル・フエゴ〔マジェラン海峡で南米大陸と分かたれている群島〕の住民について語っているところでは、彼の一行が十分に着込んで火のそばに坐っていても暖かすぎるとはぜんぜん思わなかったのに、裸の未開人たちは火からさらに離れていながら、驚いたことに、「その火にあぶられてタラタラ汗を流している」のが観察されたという。同様にニュー・ホランド人〔オーストラリアは昔ニュー・ホランドと呼ばれた〕は、ヨーロッパ人が衣服を着て震えている時でも裸でいて平気だという。この未開人の頑強さと文明人の知性を兼備することはできないことなのだろうか? リービッヒ〔一九〇三〜七三。ドイツの農化学者〕によると、人間の体はストーブで、食物は肺内部での燃焼を持続させる燃料だという。寒い天候では多く食べるし、暑いと食べるのも少ない。動物の体温とはこの緩やかな燃焼の結果であり、病気や死は、燃焼があまりにも急激な場合に起こる。または燃料の欠乏とか、通風上のなんらかの欠陥から、火が消えて起こることもある。もちろん、生命の熱と火を混同してはならないのだが。まあ、類推はこの程度にとどめておこう。
したがって、以上述べたことから考えると、<動物の生命>と<動物の熱>とはほとんど同義語のようなものである。というのは、食物はわれわれの体内の火を絶やさぬための燃料と考えることができる……そして燃料は食物を調理したり外部から温めて、われわれの体温を高める役目をするだけである……が、住居や衣服はこうして発生し、吸収された<熱>を保持する役目をするだけだからだ。
そういうわけで、われわれの体にとって第一に必要なことは、暖かさを保つこと、内なる生命の熱を保つことである。だから、われわれは食物、衣服、住居だけにかぎらず、寝床についてもなんと苦心していることだろう! 寝床はわれわれの夜着であり、モグラが穴の突き当たりに草や木の葉で作った寝床を持っているように、われわれもこの住居の中の住居をととのえるために、鳥から巣や胸の羽毛を奪い取る。貧しい人はこの世の中は冷たいとよく訴える。そしてわれわれは人間の苦しみの大部分をこの社会的な冷たさのせいにするが、同様にそれを直接に体の冷たさのせいにもするものだ。夏になると一種の極楽生活ができる地方もある。そこでは、燃料は食物を調理する時以外は不要である。太陽が火であり、多くの果物は太陽の光でよく料理されたも同然となる。一方、食物は一般に種類も増し、いっそう入手しやすくなる。衣服と住居はまったく、あるいはなかば不要となる。
今日この国では、私自身の経験から分かるのだが、二、三の道具、ナイフ、斧《おの》、鋤《すき》、手押し車など、それに勉強好きな人には灯火、文房具、手もとに数冊の本が、必要な物の次に位する物である。そして、これらはすべてわずかな代価で手に入る。しかし、賢くない人の中には、生きるために……つまり快適に暖まっていられるために……、そして最後にはニューイングランドなる故郷で死ぬために、地球の向こう側、野蛮で不健康な地方にまで出かけていって十年、二十年と商売に身をささげる人もいる。贅沢なほど富んでいる人たちは、ただたんに気持よく暖まっているだけでなく、不自然に熱せられている。すでにそれとなく言ったように、彼らは料理されているわけだ。もちろん<現代風>にではあるが。
大部分の贅沢品と多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上に不可欠なものでないばかりか、積極的な妨害物である。贅沢品や慰安物に関しては、最も賢明な人たちは常に貧しい人たち以上に簡素で乏しい生活をしてきたのである。中国、インド、ペルシア、ギリシアの古代の哲人は、外面的な豊かさでは彼ら以上に貧しい者はなく、内面的な豊かさでは彼ら以上に富んだ者のいない階級であった。彼らのことはそれほど多くは知られていない。が、<われわれ>が彼らに関して現在そのことだけは知っているということは注目すべきことだ。もっと近代の、人類の改革者、恩人たちについても同じことが言える。<われわれ>が自発的な貧困とでも呼ぶべきものの卓越した見地からものを見るのでなければ、誰も人間生活を公平ないし賢明に観察などできるものではない。農業、商業、文学、芸術、いずれにおいても、贅沢な生活から実る果実は贅沢である。今日では哲学の教授はいても哲人はいない。とはいっても、かつて哲学が生きる上で賞賛すべきものであった以上、それを教授することも賞賛すべきものではある。哲人であるということは、たんに精妙な思想を抱くことではないし、また一派を創始することですらない。英知を愛するがゆえに、その命ずるところに従って簡素と独立と寛大と信頼の生活を送ることである。人生の諸問題の「くつかを理論的にとどまらず、実際的にも解明することである。大学者、大思想家の成功なるものは一般に宮廷人的成功であって、王者然たる成功でも男性的な成功でもない。彼らの祖先たちと実際は同じで、彼らはたんに妥協によってなんとかやりくりして生きてゆくのであって、どんな意味においても人類のいっそう崇高《すうこう》な種類の生みの親とはいえない。
ところで、人類はなぜ堕落するのだろう? 家族を断絶させるものは何か? 国民を無気力にし、破滅させてしまう贅沢なるものの性質とはどんなものか? われわれ自身の生活の中にその贅沢がまったくないと確信できるか? 哲人は、その生活の外面的な様式においてすら、自分の生きている時代に先んじている。自分の同時代と同様に食べ、住み、着て暖を取ることはしない。人は哲人であれば必らず他人よりもすぐれた方法で、その生命の熱を保持するものである。
人間は、以上述べたいくつかの方法によって暖められると、今度は何を望むものだろうか? まさかもっと多くの、もっとこってりした食物、もっと広くて、もっと立派な家、もっとすばらしい、もっと多くの衣服、もっと多くの、途切れれることのない、もっと熱い火、といった今までと同じ種類のさらに高度の暖かさではないだろう。これら生活に必要な物を手に入れてしまうと、今度はそうした物を余分に持つことにかわって、別の物を選ぶことになる。すなわち、卑屈な労働から解放されてやっと休めるようになったところで、今度は人生を冒険することに向かう。どうやら土壌は種子に適しているようである。種子が根を下ろしたのだから。種子は今や自信をもってその芽を上にのばしてもよさそうである。なぜ人間はその根をそんなにしっかりと地中に下ろしたのか? それは根ざしたのと同じ割合いで、彼が上なる天空に昇るためにほかならないのではないのか? 高級植物はやがて地上高く、空気と光の中に結ぶ果実のために尊重されるし、下等な野菜とは違った扱いも受けるのだ。野菜は、二年生のものでも根が食用として完成するまでしか栽培されないし、時にはこの目的を達成するのに上の部分が切り落とされることもあるから、たいていの人は開花期にそれを見ても分からないことだろう。
天国、地獄、いずれにいても自分のことをしっかり処理し、自分がどんな生き方をしているかを知らないままに最も富んでいる人以上に立派な家を建て、また、惜し気なく金を使い、それでいて決して貧しくならない人……かつて夢想されたようにそんな人間が本当にいるとすればだが……そうした強くてたくましい人々に私は人生のルールを押しつけるつもりはない。また、まさしくあるがままの現状の中で自分への励ましと霊感を見い出して、愛する者のいつくしみと熱情とでそれを大切にする人たち……私はある程度まで自分をこの種の一人だと思っている……にもそうするつもりはない。どんな境遇にあっても立派にやっている人たち(彼らは、自分が立派にやっているかどうか知っている)に話しかけるのではなく、やろうと思えば改善できるにもかかわらず、不満を抱いてはただただ自分の運命や世の中の苛酷さに不平をいう大多数の人たちに、主として話しかけているのである。
自分たちは義務を果たしている、と称してそれを理由にいかにも口やかましく、慰めようもないほど運命の苛酷さについて不平を並ベる人がいる。また、余財を蓄えてはみたものの、その使い方も、それから逃れる術《すべ》も知らず、かくて自分自身にはめる金銀の足枷《あしかせ》を作り上げた、見たところ裕福そうだがあらゆる人々の中で最もひどく貧しい階級の人たちを私は心に置いているのである。
もし私が過去数年間、どんなふうに人生を過ごしたいと思っていたかを語ろうとすれば、それはおそらく私の実際の経歴に多少とも通じている読者を驚かせるだろうし、まったくそれを知らない人々をきっと愕然《がくぜん》とさせるだろう。ただ胸に秘めていたいくつかの計画をほのめかすだけにしておこう。
天候がどうであれ、昼夜を問わずどんな時刻であろうと、私は仕事のちょうどよい潮時をはずさないように、そしてある量の仕事を終えるごとに、それを心覚えのために棒切れに刻み込んでおこうとしてきた。過去と未来という二つの永遠の接するところ、すなわち、まさしく現在の瞬間に立とう、現在を真摯《しんし》に生きようとしてきた。私の話に若干《じゃっかん》、曖昧《あいまい》な点があることを諸君は許してくれるだろう。私の仕事には大方の人の仕事以上に秘密めいたところがあって、しかもそれは故意に隠し立てするのでなく、仕事の本質そのものから切り離せないものなのだ。自分の仕事については喜んですべてを語りたいと思っているし、家の門に「立入禁止」などと書く気も、もうとうない。
昔、猟犬一匹、栗毛の馬一頭、キジバト一羽がいなくなったことがあって、今だにその行方を追っている。すいぶん大勢の旅行者にそのことを話もしたし、足跡はどんな形で、どう呼べば答えるか説明もした。その犬の吠《ほ》え声やその馬の蹄《ひづめ》の音を聞いたとか、そのハトが雲の蔭に消えるのを見たとさえ言う人にも一、二出会った。彼らは、まるで自分が失った主人公のようにしきりに連れもどしたがった。
日の出と夜明けだけにとどまらず、できれば自然そのものを先回りして待ち受けることだ! 夏と冬の朝、近所が誰一人としてまだ仕事をしていないうちに私は何度自分の仕事に取りかかったことか! 大勢の町の人たちも確かに私が仕事からもどるのに出会っているはずだ。早朝の薄明をついてボストンに向かう農夫、あるいは仕事に出かける樵夫《きこり》もいた。なるほど太陽が昇るのを実質的に手助けしたことはないが、日の出に居合わせることだけは確かに最も重要なこととしていたのだった。
風の中に聞こえる音に耳を傾け、聞いては大急ぎでそれを伝えようと町はずれで過ごした何日もの秋の、そして冬の日よ! 私はそれにほとんど全力を傾注し、おまけに風に逆《さから》って走って息を切らした。もし私の伝える内容がいずれかの政党にでも関係する事柄であったとしたら、間違いなくそれは、最新情報として『ガゼット』紙に掲載されていただろう。ある時は崖や木の上の展望台から見張っていて、何か目新しいことが起これば打電しようとした。あるいはまた、夕方、丘の頂上で空が落ちてくるのを待っていたこともあった。いくらかでも捕まえようとしてのことだが、たっぷり捕まえたことは一度もなかった。しかも、その捕まえたものもマナ〔旧約聖書。「創生記」第十六章。イスラエル人が荒野で神から授けられた一種の食物〕のように日向《ひなた》ではふたたび溶《と》けてしまうのだったが。
長い間私は新聞の報道員をしていた。その新聞はたいして発行部数の多いものではなく、編集長は、私の寄稿したものの大部分を一度も印刷にふさわしいと認めてはくれなかった。そして、文筆家にはごくふつうにあることだが、骨折りへの報酬として私は労苦を得るだけであった。だが、この場合は骨折りそのものが十分な報酬であった。
長年私は吹雪と暴風雨の予報官を自任し、その任務を忠実にはたした。また、街道はともかく、森の小道、つまり、あらゆる間道の番人として、季節をつうじてそこが通れるように、谷間には橋が架《か》かっていていつでも渡れるようにしておいた。そこは一般の人たちの足跡があって、通行できると便利なことを示している通り道であった。
私は、柵《さく》を跳び越えては忠実な牧夫に大変な迷惑をかける、町の手に負えない家畜の世話をした。また、めったに人の行かない、畑の隠れた場所や隅にも目を配った。もっとも、今日は黒人のジョーなりソロモンなりが、どこそこの畑で働いているかいないか、などといったことを必らずしも知っていたわけではないが……そんなことはどうでもよかったのだ。私はアカコケモモ、サンドチェリー、エノキ、アカマツ、クロトリネコ、シロブドウ、キスミレに水をやった。もし水をやらなかったら、乾季には枯れていたかも知れない。
要するに、私は自分の仕事に忠実にうち込んで、長い間こうしたことを続けていった、と自慢ではなしに言えると思うのだが、やがて私には、町の人たちが私を町役人の列にもくわえてくれないし、私のこの仕事を手頃な手当のついた閑職にもしてくれないことがだんだんとはっきりしてきた。私の会計簿……忠実に記入したことは誓って言える……はじつに一度も監査もされず、まして承認されたこともなく、支払いを受けたり決算してもらったこともなかった。だが、私はそんなことに頓着《とんちゃく》しなかった。
それほど以前のことではないが、放浪中のインディアンが私の近所に住む有名な弁護士の家に篭《かご》を売りに行った。
「篭はどうでしょう?」と彼はたずねた。
「いや、うちではいらない」という返事であった。
「なんだと! おれたちを干乾《ひぼ》しにするつもりなのか?」
インディアンは門を出てきながら叫んだ。じつに裕福な暮らしをしている白人の隣人を見て……ただ議論を組み立てていさえすれば、あとはなにか不思議な力によって富と地位が自然と弁護士についてくるのを見て……彼は心中ひそかに考えた。商売をしよう。篭を編もう。おれにできることはこれだ。篭さえ作れば、自分の役目はそれで終りだ。その後それを買うのは白人の役目だ、と考えた。それを相手が買うだけの価値があるように作ること、少くとも相手にそう思わせること、あるいは、ほかにも何か相手にとって買う価値のある物を作る必要があることに彼は気づいていなかった。私もまた目の細かい一種の篭を編んだのだが、誰かに買ってもらう価値のある物には仕上げなかった。それでも私の場合は、それを編む価値のない物とは少しも思わなかった。他人が買うだけの価値があるように篭を作るかわりに、むしろそれを売らずにすむ方法を研究したのである。人が賞賛し、成功とみなす生活は一種類だけだ。われわれは、他の種類の生活を踏みつけておいて、どれか一種類だけを誇大に考えてもよいものだろうか?
仲間の市民が私に裁判所での地位も、副牧師の職も、どこか他での生活も提供してくれそうもないし、自分でやりくり算段してなんとかやってゆかなければならないことも分かったから、私はそれまで以上にもっぱら森の方に顔を向けた。そこでの方がもっと私は知られていたからだ。私は、ふつう必要な資本を手にするのを待たずに、すでに持っているだけのわずかな資本を使って事に取りかかろうと決心した。
ウォールデン池《ポンド》に行った目的は、そこで安上がりの生活をしようとか、高くつく生活をしようとかいうのではなく、ある私的な仕事をできるだけ障害を少なくしてすることであった。常識、才覚、あるいは実務的才能が多少欠けているばかりにその仕事がなしとげられない、などということは、悪いとはいわないまでも、愚かなことのように思われた。
私は常に厳格な仕事上の習慣を身につけようと努めた。そうした習慣は、すべての人に欠くべからざるものだ。もし商売が中国との取り引きなら、セイラム港〔ボストンの北東にある港〕にあるようなどこか海岸のちょっとした商館で、根城《ねじろ》としては十分であろう。わが国に産するような物、純国産品、多くの氷とマツ材、わずかばかりの大理石を常に自国の船で輸出する。次のようなこともよい思惑《おもわく》だろう。すなわち、細部にまでわたって、すべてみずから監督すること。水先案内人と船長、船主と海上保険業者を兼ねること。みずから売買に当たり、会計係もすること。受け取る手紙のすべてに目を通し、発送する手紙は全部書き、あるいは読むこと。昼夜を問わず、輸入品の陸揚げを監督すること。ほとんど同時に海岸の多くの場所に行くこと……最も高価な荷がジャージー〔ニューヨーク市と対する港町〕の海岸によく陸揚げされることがあるから。根気強く地平線ぞいに目を走らせ、海岸に向けて航行する船とはすべて連絡を取って、自分自身の電信機の役目をはたすこと。はるか遠く、途方もない相場で取り引きの行なわれる市場に商品を供給するため、絶えず品物を送り続けること。市場の商況、あらゆる国での戦争や平和の見通しにいつもつうじているよう心がけ、貿易と文明の傾向を予測すること。あらゆる探険的な遠征が得たものを利用し、新航路と航海術の進歩のすべてを利用すること……海図を研究し、暗礁《あんしょう》、新しい灯台、浮標の位置を確認し、絶えず対数表を訂正すること。計算者の間違いから、いつもの桟橋《さんばし》に到着するはずの船が岩に乗り上げて砕けることがよくあるから……ラ・ペルーズ〔フランスの航海家。一七八八年出航後、行方不明となる〕の悲運は無数にあるのだ。科学全般にわたって遅れないよう心がけ、すべての偉大な発見者や航海家、偉大な冒険家や商人、カルタゴの航海家ハンノー〔紀元前五世紀頃にアフリカ西岸へ渡航〕や、フェニキヤ人たちから現在にいたるまでの人々の生活を研究すること。最後に、ときどき在貨調査をすること。自分の現状を知るためである。
じつにこれは人間の諸能力を酷使する大仕事だ……損益、利息、正味目方算定と減損見積り添え量、あらゆる種類の測定、と広範な知識を要求する問題である。
ウォールデン池《ポンド》は仕事にうってつけの場所だ、と考えたが、それは何も鉄道や氷の取り引きのためばかりではない。そこには口外するのが良策ではないかも知れない種々の利点があるのだ。そこは良い足場で地盤も良い。ネバ川〔ソ連ヨーロッパ部の北西部にある。河口の沼地を埋め立てて現在のレニングラードを建設した〕の湿地帯のように埋め立てる必要もない。もっとも、自分でいたるところに杭《くい》を打ち込んで、その上に建物を建てなくてはならないが。西風をともなった上げ潮とネバ川の氷は、ペテルブルグ〔現在のレニングラード〕を地表から押し流してしまうだろうと言われているのだ。
通例の資本がなくてもこの仕事には入ってゆけたから、すべてこうした企てにもやはり不可欠な資材はどこで入手できたかを推測するのは、容易なことではないだろう。ただちに問題の実際的な部分に入ってゆくが、衣類についていえば、われわれが衣類を買う際には、それが本当に有用な物かどうかということよりも、目新しさとか、他人がそれをどう思うかなどを顧慮《こりょ》して左右されるものである。なすべき仕事を持つ人には、衣類を身に着《つ》ける目的が第一に体温の保持、第二に社会の現状では裸をおおうことにあることを思い起こさせるがよい。そうすれば、衣装箪笥《いしょうだんす》に新しい衣服を買いくわえてゆかなくても、いかに多くの必要または重要な仕事がなしとげられるものであるか判断できるだろう。一着の服に一度きりしか袖《そで》をとおさない国王や女王は、両陛下御用の仕立屋が仕立てたものにせよ、体になじんだ服を身に着けるという快適さを体験できない。彼らは、きれいな衣服をかけておく木馬も同然である。着物は日を追ってそれを着る者の性格の特徴を受け入れてわれわれ自身に同化し、やがてわれわれは自身の肉体を捨てる時のように、躊躇《ちゅうちょ》と医療手当と多少の儀式めいたことをしないでは、その着物を脱ぎ捨てるのをしぶるようになる。いまだかつて、継ぎはぎした衣類を身につけているからといって、私の評価が低くなった人など一人もいない。しかし、一般的には健全な良心を持つことなどよりも、流行の、または少くとも小ざっぱりとした継ぎはぎのない衣服が欲しいという願望の方が強いことは確かである。だが、かりに衣服のほころびが繕《つくろ》われていない場合でも、それによって露呈《ろてい》される最大の悪徳は、多少不用意だ、というぐらいのところであろう。私はときどき知人たちを次のようなテストで試してみることがある……誰が膝頭《ひざがしら》に一ヶ所継ぎがあたったのや、あるいは二つばかり余分な縫い目のある物を着ていられるか? というテストである。
大部分の人は、そんな物を身に着けていれば有望な前途がめちゃくちゃになる、とでも信じているように振る舞う。彼らにしてみれば、破れたズボンをはいて町へ行くよりは、足をくじいてびっこを引き引き行く方が気楽なのだろう。たまたまある紳士の脚に故障が起きても、それは治すことができるが、彼のズボンの脚に同様な故障が起こればなんとも致し方がない、というわけだ。それは、彼が真に尊敬すべきものを考えないで、現にみなから尊敬されているものを考えているからだ。われわれは、人間は少数しか知らないが、上着やズボンは数多く知っている。最後の手段として、かかしに衣服を着せて、自分はぼんやりそのそばに立っていてみるとよい。誰でもまず、かかしに挨拶するだろう。
先日、トウモロコシ畑を通ると、帽子と上着が杭《くい》にかかっていて、そのそばにその農場の所有者がいるのが目に入った。それ以前に会った時よりもわずかばかり日焼けが濃くなっているだけだった。ある犬の話を聞いたが、その犬は衣服を着て主人の屋敷に近づいてくる知らない人にはすべて吠えるが、裸の泥棒には簡単になだめられてしまうというのである。人間が衣服を脱がされたら、どの程度までその相対的な階級というものを維持できるかということは興味ある問題である。その場合、最も尊敬される階級に属する文明人の仲間を確実に見分けられるだろうか? マダム・プァイフェル〔一七九七〜一八五六。二度にわたり世界を漫遊したオーストリヤの旅行家〕が東から西へと冒険的な世界旅行を続けてアジアのロシヤ領まで故国に近づき、さて当局者に面会にゆく段になって、旅行着でない物を着てゆかなければ、と考えたと言っている。彼女が「今や文明国に入っていて、そこでは人は着ている物で判断される」からだ。わが民主的なニューイングランドの町々においてさえ、偶然に富をわが手にして、それを衣服や身の回りの品物で顕示すれば、その所有者はほとんど世間一般の尊敬を受けている。だが、そうした尊敬の念を抱く人たち……そういう人が多数を占めているが……は、それだけ異教徒的だということであって、宣教師をさし向けてもらう必要があろうというものだ。その上、衣服には裁縫ということがつきもので、これまた際限がないと言ってもよい種類の仕事である。少くとも婦人服にはこれで終りということがない。
何かしようとする仕事をついに見つけた、という人は、その仕事をするのに着る新しい服など手に入れる必要はない。いつからか屋根裏に埃《ほこり》にまみれてあった古い物で結構だ。古い靴は、英雄にとってもそれが彼の従者……英雄が従者を抱えることがあれば……に役立った以上に長く役立つだろう。素足は靴よりも古く、彼はそれで間に合わすこともできる。夜会だの、公式の集まりだのに行く人間だけが新しい服、それを着て人間が一変する回数分の着替えを持つ必要があるのだ。だが、私は自分の上着とズボン、帽子と靴がそれを身に着けていつでも神を礼拝できるような物であれば、それで結構だ……そうではないか? 自分の古着……例えば古い上着……が実際ぼろぼろに着古され、もとの元素に分解されてしまってから、それを誰か貧しい少年に与える。そして、その少年がまた誰かもっと貧しい少年……この少年はより少ない物で暮らせるのだから、むしろこの少年の方が富んでいると言うべきかも知れないが……に与える。この場合、ぼろだからそれは慈善的な行為とはならない、ということでは決してない。新しい衣服は要求するが、服を着る新しい人間の方はどうでもよい、といった仕事はすべて警戒せよと言いたい。新しい人間がいなくて、どうして新しい服が体に合うようになるだろうか? 現在何か新しい仕事が目の前にあるなら、古い服を着てそれをやってみることだ。すべて人間は何か<それを着てなす>べきものを欲するのではなく、何か<なす>べきもの、と言うより何か<ある>べきものを欲しているのだ。
何かの方面で行動し、企画し、またはその方面に乗り出して、その結果古い服を着た新しい人間のように自分を感じて、その服を着ていることが、古い瓶《びん》に新しい酒を人れておく〔新約聖書「マタイ伝」第九章第十九節〕ようなものと感じるようになるまでは、たとえその服がどんなにぼろで汚れていても、新しい服を調達すべきではない。われわれの更衣の時期は、鳥の羽毛が抜け変わる時期のように生活が重大な局面にある時であるべきだ。アビはその危機を過ごすために寂しい池に引きこもる。同様にヘビも内的な勤勉さと拡大とで殻を脱し、イモムシもその衣を脱ぎ捨てる。衣服はいちばん外側の表皮で、生にともなう煩《わずら》わしさにすぎない〔『ハムレット』第三幕第一場第六十七行〕からだ。もしやたらと新しい服を身に着けると、いつかは他国の旗を掲げて航行していることが見破られて、最後には人類一般はもちろん、われわれ自身の意見によっても社会からお払い箱にされるだろう。
われわれは、外生植物のように外側から増殖して生長するかのごとく衣の上に衣を重ねる。外側の、しばしば薄っぺらで意匠に凝った衣服は外皮、つまり義皮で、生命とはべつだん関係がなく、あちこち剥《は》ぎ取っても別に致命的な損傷とはならない。われわれがつねに身に着けている、もっと厚味のある衣服は細胞質の皮膚、すなわち厚皮である。だがシャツはわれわれの内皮、すなわち真皮で、それを剥ぎ取れば樹皮を剥がすも同然で人は死ぬ。すべて種属は、ある時期には何かシャツに相当する物を着ているように思う。人間は服装をごく簡素にして、暗がりでも自分の物を手さぐりできるようにし、あらゆる点で簡潔に、用意よく生活して、もし敵が自分の住む町を占拠するようなことがあっても、昔の哲学者のようになんの懸念《けねん》もなく、手ぶらで城門を出てゆけるようにありたいものだ。一着の厚手の上着は、たいていのことでは三着分の薄手の上着ほどの用をたすものだし、安い衣類がじつに買い手に手頃の値段で手に入る。五年は着られる厚手の上着一着が五ドルで買えるし、厚手のズボンは二ドル半、牛皮の靴は一足一ドル半、夏の帽子は二十五セント、冬の帽子は六十二セントだし、もっと上等の品でも、ほんの申しわけ程度の費用で家庭で作ることもできる。自分で<かせいだ>、こういうひとそろいの衣服を身に着けていて、その人に敬意を表する、物わかりの良い人を見い出せないような貧しい人はどこにもいない。
私が特別な型の服を注文すると、女性の仕立屋はむずかしい顔をして、「今は<みなさん>そういうのはお作りになりませんが」と、<みなさん>の部分をまるで運命と同じほどの超人格的な権威でも引き合いに出しているかのように、きわめてさらっと言ってのける。私の注文が本気で、そうした型破りな注文を彼女が信じられない、というそれだけの理由で、私は自分の欲しい服を容易には作ってもらえない。このご神託のような言葉を聞くと、私はしばらく考え込んでしまう。その言葉の意味するところを理解し、どの程度の血縁によって<みなさん>がこの<私>とかかわり合いがあり、私に身近な影響を及ぼす一つの問題に<みなさん>がどんな権威を持てるものかを解明しようとして、その言葉を一語一語吟味してみる。そして結局、私も彼女と同じく神秘的な調子で、また<みなさん>をさらっと何気なく使って彼女に返答する気になる。
「なるほど、先頃まではそうは作らなかったのですが、今はみなさんそんなふうに作っています」と。こんなに寸法を取っても私の人格を測りもせず、肩幅ばかりをまるで上着をかける釘《くぎ》のように測るのでは、いったい何の役に立つのだろうか? われわれはグレーセス〔ギリシア神話カリテス。美の女神の三姉妹〕もパルカ〔ローマ神話。運命の三女神〕も崇拝しないで、「流行」を崇拝しているのだ。流行が絶対的な権威をもって紡《つむ》ぎ、織り、そして裁断するのだ。パリのサルの頭目が旅人の売る赤い帽子を買ってかぶると、アメリカ中のサルがすべてそのまねをする。私は何事にせよ、まったく簡単で正直なことを人の援助によってこの世でなしとげることに絶望的になることがある。そうするためには、まず人々を強力な圧搾機にでもかけて、その古い観念を搾《しぼ》り出して、それが当分立ち直れないようにする必要があろう。それでもなお仲間の中には、誰も知らないうちに産みつけられた卵から孵《かえ》るウジムシのように気まぐれな考えを持つ者が出てくる。そういうものは、火で焼いても死なないものだからで、結局は骨折り損になるだろう。だが、エジプトの小麦がミイラによってわれわれの時代に伝えられているところを見ると、それもまあ、仕方のないことなのだろう。
全般的にいって、服装はわが国でも、どこの国でも芸術的な品位を持つにいたるまで高められたとは主張できないと思う。現在は手に入る物をどうにかやりくりして身にまとっている、といったところだ。難破船の船員のように、浜辺や、空間的にも時間的にも手近なところで見つけられる物を身に着けて、お互いに仮装用の衣装にも似たその服装をあざ笑っている。どの世代も古い流行を笑うが、新しい流行にはいとも信心深く従う。ヘンリー八世やエリザベス女王の衣装を見ると、まるで人食い島の王や女王の衣装のようにおもしろがる。人間離れのした衣装は、すべて、みじめかグロテスクかである。人に笑いをはばからせ、どんな人の衣装でもそれを神聖なものとするのは、その衣装から見つめる真剣なまなざしと、その内で過ごされる誠実な生活だけである。道化役者が腹痛の発作に襲われれば、その装飾的な衣装もまた苦しい気分を表わすものとなるだろうし、兵士が砲弾に当たれば、まとっているぼろも気高い紫衣となるだろう。
新しい衣服の型を求める男女の、子供じみた、野蛮な趣味のため、今の世代が今日求めている特定の模様を見つけようと、いかに大勢の人が万華鏡《まんげきょう》を振り振り、横目でそれをのぞき込んでいることだろう。製造業者は、この趣味もたんなる気まぐれであることをちゃんと心得ている。同色の糸が二、三本多いとか少ないとかの違いだけの二種類の柄のうちで一方はすぐ売れてしまい、他方は棚ざらしとなる。が、一季節が過ぎると売れ残りの柄が最も人気を集めるようになる、といったこともよくある。それに比較すれば、入れ墨《ずみ》は一般に言われるほど忌《い》まわしい習慣ではない。皮膚の厚さに深く彫り込まれていて変えられない、という理由だけで野蛮とは言えない。
われわれの工場制度が衣類を手に入れるための最良の方式とは信じられない。職人の条件は日々イギリスのそれに似てきている。私が聞いたり観察したりしたかぎりでは、その主な目的が人間を適切、正当に装ってやることよりも会社を富ませることにあるのが確かな以上、それも驚くにはあたらない。結局、人間はねらいをつけたものだけを射当てることになる。だから、当面は失敗することがあっても、高いものをねらった方がよい。
住まいについて言うと、わが国より寒い国で長期間家屋を持たないで済ませた人たちの実例はあるが、今や住まいが生活の必要物であることは否定しない。サミュエル・レイング〔一七八〇〜一八六八。旅行家で、『ノルウェー王朝年代記』を翻訳〕は、「ラップランド人〔ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北部とその隣接地域に住むフィン族〕は革の服をまとい、頭から肩にかけて革の袋をかぶって、来る夜も来る夜も雪上に寝る……どんな毛織物を身に着けていても、その寒気にさらされる者は命が絶えるほどの寒さの中でである」
と言っている。彼は彼らがそうして眠っているのを見たのである。しかも、「彼らが他の種族よりも頑丈なわけではない」と付けくわえている。たぶん人間は、地上に住むようになって間もなく、家というものの便利さ、すなわち住居の安楽さ……この言葉は元来家庭の、というより家屋の与える満足を意味していたのかも知れない……を発見したのだろう。もっとも、家といえば主として冬や雨の季節が連想され、一年の三分のニは日傘《ひがさ》だけあれば家はなくてもしのげるような気候のところでは、この安楽さもきわめて部分的、一時なものに違いないが。わが国の気候では夏、家は昔はほとんどもっぱら夜間の住まいであった。インディアンの書いたものでは、彼らの小屋《ウイグワム》は一日の行程を表わす記号で、樹皮に刻まれたり描かれたりしている一列の小屋《ウイグワム》は、その数の回数だけ彼らがキャンプをしたことを意味している。
人間は四肢が長大で強健に生れていても求めて自分の世界をせばめ、自分にふさわしい空間に壁をめぐらそうとしなければならない。人間は最初、裸で戸外にいた。だが、うららかで温暖な天候の昼間はそれで十分快適であったが、焼けつくような太陽の下はもとより、雨季や冬には急いで家という覆《おお》いを着なかったら、おそらく人間なる種属はその初期に滅びていただろう。伝説によれば、アダムとイブは他の衣服が用いられる前から木の葉や枝を身に着けていた。人間は暖かさ、もしくは安楽の場所……最初は肉体的な、ついで情愛の暖かさの……である家というものを欲しがったのである。
人類の揺藍期《ようらんき》に、ある冒険好きな人間が、ある時、身をかばって岩のくぼみに這い込んだ、と想像してよい。子供はみなある程度世界を原始から生きなおすもので、雨が降ろうが寒かろうが戸外に出てているのが好きだ。また、本能から馬ごっこもすれば、家ごっこもする。幼少の頃、棚の形をした岩や洞穴の入口を見つけた時の好奇心を覚えていない者はいないだろう。それは最も原始の祖先が抱き、今なおわれわれの内に残っている部分でもある生来のあこがれであった。洞穴から始まってシュロの葉の、木の皮や枝の、織って広げたアマ布の、草や藁《わら》の、板やこけら板の、石や瓦《かわら》の屋根へと進んできた。
そして、ついには大気の中での生活がどんなだったのか分からなくなってしまい、その生活はわれわれが考える以上にいろいろな意味で家庭向きのものとなってしまった。炉辺から畑までが大変な距離になってしまったのである。天空の星とわれわれとの間になんの邪魔物も介在させずに、もっと昼夜の多くの時間を過ごせばよいだろうに。屋根の下で詩人は多弁を振わず、聖人はそんなに長々とそこに住まわなければよいだろうに。鳥は洞穴の中ではさえずらないし、ハトも小屋の中ではその純潔さを大切にはしない。
だが、もし家を建てるつもりなら、結局は気がついてみたら、工場とか、道しるべのない迷宮とか、博物館、養老院、監獄、壮麗な霊堂などに住んでいた、ということにならないよう、いささかヤンキーの賢明さを発揮することだ。まず第一に、風雨をしのぐのに絶対必要な住まいとはいかに簡単なもので事足りるものであるかを考えてみるがよい。この町でペノブスコット・インディアン〔ペノブスコット湾とペノブスコット川の両岸に住んでいたアルゴンキン族の一部族〕が薄い木綿のテントに住んでいて、周囲にほぼ一フィートの雪が積もっているのを見たことがある。雪がもっと積もって風を防いでくれたら彼らは喜ぶだろうに、と私は思った。以前、自分の本来の研究を追求する自由を残しつつ、どのように誠実に生計を立てていったらよいか、ということが今日以上に私を悩ました問題であった頃……不幸にも今ではそれに多少冷ややかになっているが……鉄道線路わきに縦六フィート、横三フィートほどの大きな箱をよく見かけた。工夫たちが夜間に道具を保管しておく箱だが、それを見て、困っている人はみなこのような箱を一ドルで買って、ともかく通気を良くするために錐《きり》で穴を数個開け、雨の時と夜はその中に入って蓋《ふた》をすれば、思い通りの自由が得られてその魂も解放されるだろう、と考えたものだった。これは決して最悪なことでも見下げはてたことでもない、選択の一方法のように思われた。夜は好きなだけ夜更かしできるし、いつ起きようが家賃を催促する下宿の主人や家主につきまとわれずに出歩ける。こんな箱でも凍死もせずに住めるのに、多くの人はさらに大きく、贅沢な箱の家賃を支払うために死ぬほども苦労している。私は決して冗談を言っているのではない。経済なるものは往々にして軽々しく扱われる問題だが、実際はそれほど簡単には片づけられない。ほとんど戸外で生活をする、粗野で丈夫な種族の住む快適な家が昔ここに建てられたわけだが、それはほとんどそっくり自然がそのまま彼らの手に供給する材料だけでできているものであった。マサチューセッツ植民地の支配下にあったインディアンの監督グッキン〔ダニエル・グッキン。一六一二〜七八。『マサチューセッツ・インディアンの歴史的集録』を出版〕は、一六七四年にこう書いている。
「最上等の家は非常に整然と樹皮でおおわれていて、隙間のない、暖かいものであった。樹皮は樹液がすっかり上がってしまう季節に幹から剥《は》ぎ取って、まだ緑色をしているうちに重い材木でそれに重しをかけ、それから大きな断片にしたものである。もっと並みの家は、イグサの一種から作るむしろでおおってあり、これまたかなりしっかりしたもので暖かだが、横皮のものほどではない。……私が見た中には長さ六十フィートから百フィート、幅三十フィートほどのが数軒あった。……彼らの小屋《ウイグワム》によく泊ったが、最上等のイギリスの家ぐらい暖かであった」
家の中には通常巧みに編んで縫い取りしたむしろが敷かれてあって、壁もそれでおおわれ、さまざまな家財道具もそなえられていた、と彼はつけくわえている。インディアンは屋根に穴を開けてそこにむしろを掛け、それを紐《ひも》で動かして風のぐあいを調節するほどにまで進歩していた。そのような宿舎は最初はせいぜい一両日で建てられ、二、三時間で取り壊されて片づけられた。そうして、各家族がそれそれ一軒、またはその中の一室を自分たちのものとしていた。
未開の状態にあった時は、すべての家族に最高級の住宅にも劣らない、彼らの原始的で単純な要求を十分に満足させる住まいがあった。ところが、空の鳥がその巣を持ち、キツネが穴を持ち、未開人がその小屋《ウイグワム》を持つというのに、近代の文明社会では、全家族のせいぜい半数ぐらいしか住まいを持っていないといっても過言ではないと思う。文明がとくに進んでいる大都市や町では、住まいを持つ者の数は全体の中のごく一部にすぎない。残りの者は夏冬欠くことのできない物となった、このいちばん外側の衣服のために年々家賃を払い、その年額はインディアンの小屋《ウイグワム》がある村一つを買えるほどにも達し、そのため彼らは生涯貧しいままでいなければならない。
私は、住まいを持つことに比較して借家は不利だ、とここで主張するつもりはない。だが、未開人は住宅が安価だからそれを持ち、文明人は一般にそれを持つ資力がないから借家住まいをしていることは明白である。そして、結局はその借家も楽に借りているのではない。しかし人は応酬するだろう。この家賃を払うだけで、貧しい文明人は未開人の小屋《ウイグワム》にくらべたら宮殿のような生活を確保できるのだと。一年に二十五ドルから百ドル……この程度が全国的な相場である……の家賃を払うだけで、数世紀にわたる改良の結果である広々とした部屋、きれいなペンキと紙、ラムフォード式暖炉〔ラムフォード伯、ベンジャミン・トンプソン[一七五三〜一八一四]発明の改良暖炉〕、壁の下地塗り、日除け用|板簾《いたすだれ》、銅製ポンプ、ばね錠、便利な地下室、そのほか数多くの物から便益を受ける資格が与えられる。だが、こうした物を享受しているといわれる人たちがごくふつうにはすべて<貧しい>文明人であるのに、それを持たない未開人の方が未開人として<富んで>いるのは、いったいどうしたわけだろう? 文明とは人間の生活状態の真の進歩のことだ、と主張するのであれば……私もそう思う。ただし賢明な人だけがその便益を善用するのだ……文明はいっそう良い住宅をいっそう高くつかないようにして作り出した、ということが示される必要がある。
物の値段とは、それと引き換えに直接または究極的に要求される、私が生命と呼ぶものの量のことである。このあたりの平均的な家は、たぶん八百ドルぐらいはするだろう。そして、これだけの額を蓄えるとなれば、たとえ足手まといとなる家族がいなくても、労働者の生涯のうちの十ないし十五年はかかるだろう……各人の労働の金銭的価値を一日一ドルと見積もってである。もっともこれ以上のも以下のもあるだろうが……したがって、稼いで<自分の>小屋《ウイグワム》を手にするまでには、通常なら生涯の半分以上を費していなければならないことになる。もし小屋《ウイグワム》を買わないで家賃を払ってゆくにしても、どっちみち感心できない二者からの選択であるから、それが良い方を選んだことになるかどうかは疑問である。未開人がこの条件で小屋《ウイグワム》を宮殿と交換したら、賢明だったといえるだろうか?
将来にそなえて蓄える資金としてこの余分な財産を持つことのほとんど全利点といっても、個人に関するかぎりでは、それは主に葬式代に充当できることぐらいのもの、とでも私が考えているように想像するかも知れない。が、人は自分を葬る必要などないだろう。にもかかわらず、自分の葬式代となる家を持つかどうかが、文明人と未開人との重要な相違点となっている。そして、社会が文明人の生活を一つの<有機的組織>とし、種属の生命を保存し完成させるために、個人の生活を大きくその組織に吸収して犠牲にすることの中には、無論われわれお互いの利益になるようにとの計らいがあるだろう。だが私は、この利益なるものが現在どのような犠牲のもとに獲得されているかを明らかにし、その不利益を少しもこうむることなく、すべての利益を確保できるような生き方が可能であることを示唆《しさ》したいのである。貧しき者は常に汝らとともにあり〔新約聖書「マルコ伝」第十四章第七節〕とか、父たち酸っぱきブドウを食いたれば、子らの歯浮く〔旧約聖書「エゼキエル書」第十八章第二〜四節。以下の引用も同じ〕とか言うのはどんな意味であろうか?
「神なる主は言う……誓って言う。汝ら再びイスラエルにおいてこの諺《ことわざ》を用いることなかるべし」
「それ、すべての魂は我に属す。父の魂も子の魂も我に属すなり。罪を犯せる魂は死ぬべし」
近所の人であるコンコードの農夫たち……彼らは少くとも他の階級と同じくらい裕福だが……を考えてみても、大部分の人は、ふつうすでに抵当に入っているものを相続しているか、または自分が借金で購入した畑を名実ともに自分のものにするため二十年、三十年、四十年と働き続けている人たちである……その労苦の三分の一は家の費用とみなしてよいだろう……しかも、その支払いは通例まだ済んでいないことが多い。負担額が時には畑の価格より大きくて、そのため畑そのものが一つの大きな厄介物となることがあるのも事実だが、それでも人はそのことはよく承知の上だ、といって相続している。税金|査定《さてい》人に聞いてみて、町で自分の畑を名実ともに自分の所有にしている人をすぐさま十二人と挙げることができないのを知って私は驚いた。これらの家屋敷の歴史を知りたければ、銀行でそれがどこに抵当に入っているかたずねてみることだ。その畑で働いて、実際に借金をすっかり払ってしまった、という人は非常に少数だから、近所の人は誰でもその名前を挙げることができるだろう。そういう人がコンコードに三人といるかどうか疑問である。
商人について言われること、つまりその大多数、百人中九十七人までは必らず失敗するということは、農夫の場合も同様に当てはまる。しかし商人については、その一人が適切にも、その失敗の大部分は純粋に金銭的な失敗でなく、都合が悪いから契約どおり実行しないからだと……すなわち、失墜《しっつい》するのは彼らの道徳的人格だ、と言っている。失敗の性格がこんなだとすれば、それはこの上なく見苦しい失敗とも言うべきで、そのうえ残りの三人もたぶん自分の魂を救うことには成功していないだろうから、正直失敗する人よりさらに悪い意味で破産しているのではないかと思われる。破産と支払い拒絶は、われわれの文明の多くがそこから跳び上がってとんぼ返りを打つ跳躍台《ちょうやくだい》であるが、未開人は飢饉《ききん》という弾性のない板の上に立っている。それでも、まるで農業なる機械の継ぎ目がすべて円滑《えんかつ》に動いているかのように、ミドルセックスの家畜展覧会は毎年ここここで派手に行なわれている。
農夫は、暮らしの問題をその問題自体よりさらに複雑な公式で解こうと努める。靴紐を入手するのに牛の群れに投機をする。安楽と独立を捕えるためにまったく巧妙に罠《わな》を仕掛けて、さて立ち去ろうとして片足をそれにはさまれてしまう。これが彼の貧しい理由なのだ。同じ理由から、われわれはみな贅沢に囲まれていながら、無数の原始的な慰めという点では乏しい生活をしている。チャップマン〔一五五九頃〜一六三四頃。エリザベス朝時代の詩人、劇作家で、『イリアス』『オデッセイア』の英訳者〕が歌うとおりだ……
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偽りの人の世よ……
……この浮世のおごりゆえ
天来の慰めはみな薄れゆく
――『シーザーとポンペイウス』
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農夫は自分の家を手に入れると、豊かになるどころか、そのためかえって貧しくなることがある。彼が家を所有したというよりも、家の方が彼を所有した格好である。私が理解するところでは、それはちょうどミネルバ〔ローマ神話。ギリシア神話のアテナ。知恵と技芸の女神〕の建てた家に対するモモス〔ギリシア神話。非難とあら捜しの神〕の妥当な反対理由であった。モモスは、「いやな隣人を避けるために移動できるように造られていない」と難じたのである。この異論はもっと強く唱えられてよいものだろう。われわれの家は始末に困る代物《しろもの》で、そこに住むというより閉じ込められていることがよくあるものだ。避けるべきいやな隣人とは、とりもなおさずわれわれ自身だからだ。この町に住み、ほとんど一世代にわたって町はずれの自分の家を売り払って村に移りたいと思いながらも、その念願は果たされず、死にでもしないかぎり自由にはなれそうもない家族を一、二、私は知っている。
かりに<大多数の人>があらゆる改善をくわえた近代的な家をついに持つなり、賃借するなりできるようになったとしよう。文明は家を改善してはきたが、そこに住む人間を同様に改善してはこなかった。文明は宮殿を建てはしたが、貴族や王をつくるのはそれほど簡単なことではなかった。<文明人の追求することが未開人のそれとくらべて、より価値あるものでないとすれば、もしその生涯の大部分をたんに低級な必要物と安楽の獲得にあくせく過ごすとすれば、文明人が未開人よりも上等な家に住まわなければならない理由がどこにあろうか?>
ところで、貧しい<少数者>の暮らしはどうであろうか? おそらく、若干《じゃっかん》の者が外見的な環境では未開人よりましな位地に置かれたのにちょうど比例して、他の者は未開人以下に落ちぶれてしまっていることが分かるであろう。一方の階級の奢《おご》りと他の階級の貧困とで釣り合いが取れているのである。一方に宮殿があれば、他方には救貧院と「もの言わぬ貧しき者」がいる。エジプト王ファラオたちの墓にとピラミッドを築いた幾万という人たちは、ニンニクを食い、自分たちは死んでもろくに葬られなかったのではなかろうか。宮殿の軒蛇腹《のきじゃばら》を仕上げる石工は、夜はおそらく小屋《ウイグワム》にも劣るあばら屋にもどるのだろう。通常の文明のあかしが見られる国であれば、住民の大部分の生活状態は、未開人ほどには悪くないだろうと想像するのは間違いであろう。私が今言っているのは、堕落した裕福な人たちのことではなく、貧に窮した人たちのことである。
このことを納得するためには、あの文明の最近の進歩である鉄道に面して、いたる所にある掘っ建て小屋を見れば十分であろう。毎日歩いて見ているのだが、そのあたりでは人が豚小屋に住んでいて、明かりをとるため冬の間もずっと戸は開け放たれており、積んだ薪《まき》もないし、またとうていあるなどとは考えられないこともしばしばで、老人も若者も、寒さと貧窮から縮こまる長い間の習慣ですっかり萎縮《いしゅく》してしまい、手足と機能の発達がすべて阻《はば》まれているありさまである。その労働のおかげで現在の世代を特色づけるいろいろな仕事が達成された、この階級に注目してみるのは、確かに正当なことだろう。
このような状態はまた、多かれ少なかれイギリスの各種の工員たちの状態でもあり、イギリスはじつに世界の大救貧院なのである。あるいはアイルランドを引き合いに出してもよい。この土地は白人の、または文明化した地点の一つとして地図上に印づけられている。そのアイルランド人の物質的な状態を、北米インディアン、南洋諸島人、または文明と接触して堕落する以前の、他の未開種族のそれと比較してみるがよい。だが私は、あの民族の支配者が平均的な文明国の支配者たちにもおとらず賢明であることは疑わない。彼らの生活状態は、どんな不潔さが文明と共存できるものかを証明しているにすぎないのだ。わが国の主要輸出品を生産し、彼ら自身が南部の主要産物となっているわが南部諸州の労働者たちにここで改めて言及する必要はなかろう。ただ<ふつう程度>の境遇にあるといわれている人々だけに話をかぎることにしよう。
大部分の人は、家とは何かを一度も考えたことがないらしく、近所の人たちが持っているようなのを持たなければ、と考えるためにその必要もないのに現実に生涯貧乏暮らしをしている。それは、まるで仕立て屋の裁断してくれるものはどんな種類の上着でも着なければならないかのようであり、シュロの葉やウッドチャック〔北米産マーモットの一種〕の皮の帽子をかぶるのをしだいにやめてゆきながら、一方では王冠を買う余裕がない、と生活難をかこつようなものなのだ! 現に持っているのよりもはるかに便利で贅沢だが、それに支払う余裕がないことは万人が認めるような家を考え出すことはできるのである。われわれは、時にはもっと少ない物で満足すべきことを学ぼうとはしないで、常にこうした物を手に入れようと汲々《きゅうきゅう》としなければならないものだろうか? 尊敬すべき市民たちは教訓と実例とで、若者は死ぬまでにいくつかのいりもしないてかてかの靴やら、雨傘やら、来もしない客のための空っぽな客間やらを用意しなければならない、とまじめくさって教え込む必要があるものだろうか? われわれの家具類がどうしてアラビヤ人、インド人のより簡素であってはならないのか? 天からの使者、人間に対する神からの贈り物をもたらしてくれた人としてわれわれが神格化している人類の恩人たちを考えてみても、彼らの背後には一人の従者も、また流行家具を積んだ荷車も、続いているように私の心には浮かんでこない。あるいは、かりに道徳的にも知的にもアラビヤ人にまさっている程度に比例して、われわれの家具は彼らのよりさらに手の込んだ物であるべきだ、ということを認めるにしても……そう認めるのもおかしな話ではなかろうか?……それがいったいどうだというのか? 現在われわれの家にはそうした家具がいっぱいに散らかっており、家事にたけた主婦なら早速その大部分をごみだめに一掃して、朝の仕事をすっかり片づけてしまうだろう。朝の仕事! オーロラ〔ローマ神話。曙《あけぼの》の女神〕の薄紅、メムノン〔ギリシア神話。トロイア戦争でアキレウスに殺され、ゼウスによって不滅にされた。その像は女神の紅の指から発する朝日に照らされると楽音を発したという〕の音楽とともに、人間はこの世で朝はどんな仕事をすべきだろうか? 私は石灰石を三個机上に置いていたことがあるが、心の家具がまだまったく埃《ほこり》を払われないでいる時に、石灰石の方は毎日埃を払う必要があるのを知って驚いてしまい、厭気《いやけ》がさして窓からほうり出してしまった。そういうことだから、どうして私が家具のそろった家など持てるはずがあるだろうか? 私はむしろ戸外に坐っていたいと思う。人間のひらいた土地でなければ、草にはまったく塵《ちり》が宿ることがないから。
俗衆がそんなに勤勉に追い回す流行を作り出すのは、贅沢で放蕩《ほうとう》な人間たちである。いわゆる最高級の旅館に宿泊する旅行者にはそのことがすぐ分かるものだ。旅館の主人は彼をサルダナパラス〔紀元前六六八〜六二六。最後のアッシリヤ王。文弱なため国の衰亡を招いた〕のような柔弱な人間に見立てて、旅行者は、自分をその主人のなすがままにまかせようものなら、完全に無気力にされてしまうからである。私の考えでは、鉄道の客車も安全と便利さよりも、贅沢のためにより多額の金を投ずる傾向がある。安全、便利さなどはそっちのけで、寝椅子、長椅子、日除《ひよ》け、その他多くの東洋的な代物《しろもの》がそなえつけられた近代的な応接間も同然のものとなるおそれがある。そうした物は、もともと回教国の婦人部屋《ハーレム》や柔弱な帝政時代の中国人のために発明されて西洋に持ち込まれた物で、米国人《ジョナサン》はその名を知っていることすら恥すべき代物なのだ。私ならビロードのクッションの上で押し合いへし合いしているよりも、南瓜《かぼちゃ》の上に坐ってそれを独占している方がましだ。凝った周遊列車に乗って、途中ずっと<|悪い空気《マラリア》>を吸いながら天国におもむくよりも、風通しの良い牛車で地上を乗り回している方がましである。
原始時代に見られる人間生活の単純さとむき出しの状態そのものは、少なくとも人間をまだ自然のたんなる寄寓者のままにしておいたという、この利点を暗示している。食物と眠りで元気を回復してはふたたび自分の旅路に思いをめぐらす。いわばテントに宿るようにこの世に住んで時には谷を渡り、時には広野を横切り、時には山の頂上をよじ登ったのである。ところがどうだ! 人間はその道具の道具になりはててしまった。飢えては自由に木の実をもぎ取っていた人間が農夫となった。雨風をしのいで木の下に立った人間が家を持つようになった。われわれはもはや一夜を明かそうと野宿することはなく、地上に住みついて天を忘れた。キリスト教を精神の開拓ならぬ、たんに進歩した<地上開拓《アグリ・カルチャー》>法として採用した。現世のためには家族の宏壮な住宅を建て、来世のためには家族の墓を建てた。芸術の最高傑作は、この状態から自分を解放しようとする闘いの表現であるが、われわれの芸術の効果といえば、それはこの低級な状態を安楽にして、あのいっそう高級な状態を忘れさせることだけである。優れた芸術作品がわれわれに伝えられてはいても、それを置く場所がこの村には現実にはない。というのは、われわれの生活も、家も、街路も、それにふさわしい台座を提供してくれないからである。絵をかける釘もなければ、英雄や聖徒の胸像を安置する棚もない始末だ。家なるものがどう造られ、どう支払われ、あるいは支払われずにいるか、内部の経済がどう処理され、維持されているか、を考えると、そこを訪ねた客が炉棚の上の安ぴか物をほめている間に、足もとの床が抜けて地下室に転落し、土ではあるが、かたくてれっきとした土台にまで落ちてゆかないのが不思議に思われるくらいだ。
いわゆる裕福で洗練された生活なるものは、それに跳びついて手にしたものであることが私にはどうしてもよく分かってしまうので、その跳躍の方にすっかり気を取られてしまい、その生活の飾りである美術品などは楽しんでいられないのだ。記録に残っているもので、人間の筋力だけに頼って跳んだ純粋な飛躍の最高は、あるアラビヤ人の跳んだもので、平地で二十五フィートを跳び越えたといわれているのを思い出す。人為的な支えがなければ、人間はその高さ以上ではふたたび地に落ちるに決まっている。そんなえらく不相応な物の持ち主に問いただしたくなる第一の質問は、誰があなたを支えていてくれるのか、ということである。あなたは失敗する九十七人中の一人なのか、成功する三人中の一人なのか? この質問にまず答えて欲しい。それからであれば、たぶん私もその安ぴか物を拝見して、結構な物と思えるかも知れない。本末転倒《ほんまつてんとう》した馬の前の荷車などは、美しくもなければ役にも立たない。家を美しい物で飾り立てる以前に、まず壁を全部裸にし、生活を裸にする必要があるし、立派な家政、立派な生活を土台としてすえなければならない。
ところで、美しい物に対する趣味は、家もなく、家政を切り盛りする人もいない戸外でこそ、最もよく培《つちか》われるのである。
ジョンストン翁〔エドワード・ジョンストン。一五九九〜一六七二。マサチューセッツ州の政界に重きをなした。一六五四年、ニューイングランド沿革史ともいうべき本文中の書名の本を出版した〕は、その『奇跡を行なう摂理』の中で彼と同時代であるこの町の最初の入植者たちについて話し、こう語っている。
「彼らは最初のすみかとして丘の麓《ふもと》の地中に穴を掘って入り込み、材木の上に土をほうり上げ、最も上の地上に近い側で土の上にいぶり火を起こした」。彼はさらに言う。「神の恵みにより大地が彼らを養うパンを生み出すまで、家は造らなかった」そして、最初の年の収穫がいかにもわずかなものであったので、「彼らは長い間パンを薄切りにしなければならなかった」
ニューネーデルランド地方〔当時アメリカのオランダ植民地。一六六四年以降はニューヨーク、ニュージャージー、デラウェアの三植民に分かれた〕の書記官は、そこの土地に住みつくのを望んでいる人たちの参考にと、一六五〇年、オランダ語でさらに詳しく、こう述べている。
「ニューネーデルランド、とくにニューイングランドの人たちは、初めのうちは望み通りに農家を建てる資力がないので、六、七フィートの深さで、縦横は適当と思われるだけの四角な穴を地下室ふうに掘って、内側は壁をすっかり木材でおおい、土が崩れるのを防ぐために、その木材の上に樹皮または他の物を張った。この地下室に板材で床を張り、頭上には天井として羽目板を張り、円材の屋根をくっきりと高く上げ、その円材を樹皮や緑の芝地でおおって、この家に全家族ともども二年、三年、四年と湿気もなく暖かく暮らせるようにした。そして、家族の大きさに応じて地下室には仕切り壁が取りつけてあったという。ニューイングランドの裕福なおもだった人たちも、植民地に入植した当時は、その最初のすみかを三つの理由からこの方式で建てはじめた。理由の第一として、建築に時間をかけすぎて次の季節に食糧が不足するようなことがないようにするためである。第二には、彼らが祖国から連れて渡った大勢の貧しい労働者を失望させないためである。三、四年たって土地が農業に適するようになると、多額の金を投じて立派な家を建てた」
われわれの祖先の主義は、まずさし迫った必要を満たすというものであったらしく、彼らが採ったこの方針には少くとも慎重さが見られる。だが、現在はさし迫った必要がはたして満たされているだろうか? 私も近頃の贅沢な住宅を一軒手に入れようかと考えてはみるのだが、つい思いとどまってしまうのだ。それは、いわばこの国が<人間的>修養に適した態勢になっておらず、われわれはその<精神的>パンを、先祖が小麦パンを薄切りにしたよりもはるかに薄く切らなくてはならないからだ。とはいっても、最も粗野な時代でも建築上の装飾はすべて無視するわけにはいかない。貝のすみかのように、家の内側でわれわれの生活と直接触れる所をまず美しく飾るべきであって、家の外側に美をかぶせるのはやめるべきなのだ。だが悲しいことに、一、二軒の家に入ってみて、その内側が何で飾られているかを私は知っている。
洞穴や小屋《ウイグワム》に住み、皮の衣服を着て暮らすことができないほどわれわれは堕落していないが、人類の発明と産業とが提供してくれる便宜……それは多大な犠牲を払ってもたらされたものだが……は、それを受け入れる方が確かに得策であろう。この近辺のような所では、板、屋根板、石灰、煉瓦などは、格好な洞穴、まるごとの丸太、十分な量の樹皮、良質の粘土、平たい石などよりも安価に入手できる。この問題について私が心得顔《こころえがお》で話すのは、それについては理論的にも実際的にもよくその事情に通じているからである。今少し頭を働かすならば、われわれは現在、最も裕福な人たちよりも裕福になり、われわれの文明を天恵のものとするようにこれらの材料を利用できるのである。文明人とはより豊かな経験を持つ、より賢明な未開人のことである。だが、私自身のした実験に急いで話を進めることにしよう。
一八四五年三月の末も近かった頃、私は一|挺《ちょう》の斧《おの》を人から借り、自分の家を建てようと考えていた場所のすぐ近く、ウォールデン池《ポンド》のそばにある森に行って、丈高で矢のようにすくすくのびた、まだ若いストローブマツを材料にするため切り倒しはじめた。人から借り物をしないで仕事を始めるのは難しいことだが、借り物をして、仲間に自分のやろうとしていることに関心を持たせるのは、最も寛大なやり口だろう。斧の持ち主は、それを私に渡しながら、これは目の玉のように大事にしている物なんだ、と言った。だが、借りた時よりも切れ味をよくして私はそれを返した。働いた場所は快適な丘の中腹で、マツ林におおわれており、その林をとおして池と、マツやヒッコリーの生えた森の中の小さな野原が見渡された。池の氷はところどころで溶けてはいたが、また溶け切っておらず、一面に黒ずんで水に浸っていた。そこで働いた日は少しばかり雪が舞った。しかし、帰途、鉄道線路に出る頃は、たいていその黄色の砂の土手がおぼろげにかすんだ大気の中に輝きながら延びていて、レールが春の陽光にキラキラ光り、われわれとともに新たな年を生きはじめようとやってきたヒバリやタイランチョウ、その他の鳥のさえずりが聞かれた。気持のよい春の日々で、人間が不満とする冬は大地と同じように、溶けつつあり、冬眠していた生命はのびのびとその手足をのばしはじめていた。
ある日、斧の柄が抜けたので、楔《くさび》を作ろうと緑色のヒッコリーを切って石でそれを打ち込み、膨脹させるためにそっくり斧を池の穴に浸した時、一匹のシマヘビが水中に走り込むのを見た。ヘビは、私がそこにいる間、すなわち十五分以上も特別に苦にする様子もなく池の底で寝ていた。おそらく冬眠状態からまだ完全に覚めていなかったからだろう。同じ理由から人間も現在の低級で原始的な状態にとどまっているように私には思われた。だが、あらゆる生活の根源なる生命の力が自分を呼び起こしているのを感じるなら、必然的に人間はもっと高度の霊的な生活へと高まることだろう。
これより前、霜の降りた朝のことだが、道端でヘビが数匹、体の一部はまだ無感覚で硬直したまま、太陽がそこを溶かしてくれるのを待っているのを見かけたことがあった。四月一日には雨が降って氷を溶かした。そして、濃霧の立ちこめるその日の朝早く、仲間からはぐれたガンが一羽池の上を探り歩いて、迷い子のように、あるいは霧の精のようにクワックワッと鳴いているのを聞いた。
こうして数日間、私は角材、間柱《まばしら》、垂木《たるき》を切ったり刻んだりしていた。小さな斧を振るい、人に話せるような学者めいたこともあまり考えないで、独り歌を口ずさみながら……
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人はさまざまなことを知っていると言う、
だが、見よ! そんなことは、すっかりすっ飛んでいってしまった……
芸術も科学も、
そして数多くの応用なども。
誰でも知っているものといえば
ただ吹く風ばかり
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私は主要な角材を六インチ角にし、間柱の大部分は二面だけ、垂木と床材は一面だけを削り、残った樹皮はそのままつけておいたので、鋸《のこぎり》で引いたようにまっすぐで、しかもずっと丈夫であった。木はそれぞれ元の部分でていねいに≪ほぞ≫接《つ》ぎした。その頃までには他の道具も借りてあったのである。毎日森で過ごす時間はさほど長くはなかったが、それでもたいていはバターつきパンの昼食を持参した。昼には切り落としたマツの枝の中に腰を下ろして、昼食を包んだ新聞を読んだ。手に松脂《まつやに》がべっとりとついて、パンにはマツの香りがほのかに移った。数本のマツを切り倒したが、マツとはいっそうなじみになっていたから、仕事の終る頃はマツの木とは敵というよりは友だちになっていた。森をぶらついている人が斧の響きに引きつけられてやってくることもあって、私が木《こ》っ端《ぱ》を切り飛ばしながら、われわれは楽しくおしゃべりをした。
仕事は急がないで十分に念入りにしたから、家は四月中頃にようやく骨組ができあがり、棟《むね》上げするばかりになった。これより先、板が欲しかったので、フィッチバーグ鉄道に勤めるアイルランド人のジェームズ・コリンズの小屋を買い取ってあった。彼の小屋は珍しく上等な物だということであった。それを見に行った時は、彼は留守であった。窓が非常に引っ込んで高いため、初めのうちは窓の内側から姿を見られずに外側を歩き回った。とんがり屋根の小さな家で、ごみが堆肥《たいひ》のように五フィートも周囲に積んであり、他にはたいして見るべき物もなかった。屋根は日にさらされてだいぶん反《そ》り返り、もろくはなっていたものの、最も傷んでいない部分であった。戸の敷居はなく、戸板の下方は年中ニワトリが出入りする通路になっていた。
コリンズのおかみさんが戸口に現われて、中に入って見てくれと言う。私が近づいていったので、ニワトリは小屋の中に追い込まれた。中は暗く、大部分が土間になっていて、湿っぽく、べとついて悪寒《おかん》をもよおさせるようで、剥《は》がすとボロボロにくずれそうな板がここに一枚、あそこに一枚と敷いてある。彼女は明かりをつけて、屋根と壁の内側を見せてくれた。二フィートの深さで一種のごみ捨て穴になっている地下室に落っこちないよう私に注意しながら、板の床がベッドの下まで張ってあるのを見せてくれた。彼女自身の言葉で言うなら、「頭上の板も上等だし、まわりの板も上等、窓もしっかりしている」……
その窓にはもともとガラスが二枚入っていたが、最近ネコがそこから出たと言う。ストーブ、ベッド、坐る場所、その家で生れた赤ん坊、絹のパラソル、金めっきで縁取りをした鏡、オークの若木に釘で留めた新しい特許のコーヒー挽き、全部でそれだけであった。ジェームズが間もなく帰ってきたので、売買契約はすぐに成立した。今晩四ドル二十五セント支払って明朝五時に彼は立ち退き、その間は誰にも売らない、ということにした。六時に私はそれを引き取る手はずであった。地代だの燃料代だのと理由をつけてはなにか不明瞭でまったく不当な請求をされる前に、早く来て機先を制する方がよい、と彼は言った。彼は、やっかいな事はこれだけだと私に保証した。六時に小屋へ向かう路上で彼と家族の者に会った。ひとからげの大きな荷物に持ち物全部……ベッド、コーヒー挽き、鏡、ニワトリ……が入っていたが、ネコだけはいなかった。ネコは森に入って野良ネコとなり、後で聞いたところではウッドチャックの罠《わな》にかかって、ついに死んでしまったとのことである。
釘を抜いてその朝のうちに家を取り壊わすと、車に少しずつ積んで池のほとりに運び、日にさらして反りをもどそうと思って草の上に板を並べた。森の小道を車を引いてゆくと、早いツグミが一羽、一声二声鳴いて聞かせてくれた。一人の若いアイルランド人が私に告げ口をして、同じアイルランド人の隣人シーリが、私が車で板を運んでいる合間に、まだ使える、まっすぐな打ち込めそうな釘とつぼ釘と大釘をポケットに入れたと知らせてくれた。だが、私がもどってくると彼は立ち上がって軽く挨拶をし、素知らぬ顔をして。いかにものんびりと取り壊した跡を見上げなおした。まったく仕事がなくて、と言っていた。彼は見物人を代表してそこにいたわけで、おかげでこの見たところなんの変哲もない出来事をトロイアの神々の引っ越しにも似たものにしてくれた。
ウッドチャックが以前穴を掘ってあった南下がりの丘の斜面に、私は地下穴を掘った。ウルシやクロイチゴの根元から、最も植物に汚されていない深さを過ぎて、どんな冬にもジャガイモの凍らない細かな砂に達するまで、六フィート四角で七フィートの深さに掘り下げた。側壁は傾斜しているままにして石は積まなかった。それでも日が当らないので砂は崩れなかった。わずか二時間の仕事であった。私はこの土掘りがとくに面白かった。地球上いたる所で、人はむらのない温度を求めて穴を掘るからだ。都会の最も豪華な家屋でも、その下にはやはり昔ながらに根菜類を貯蔵する地下室があって、地上に建造物がなくなったずっと後でも、後代の人は地中にくぼみを認める。家はやはり穴の入り口にある一種の玄関のようなものにすぎないのである。
ついに五月の初め、必要からというよりも隣人愛を深める好機とばかりに家の棟上げをした。それをしてくれた人たちの人物という点では、私ぐらい恵まれていた者はいまだかつていなかっただろう。彼らは、いつの日かさらに崇高な建物の棟上げを手伝うよう運命づけられているものと私は信じている。
七月四日、板を張り、屋根を葺《ふ》くと、すぐこの家に住みはじめた。板はていねいに縁《へり》を薄くそいで重ねてあったから、雨はまったく漏らなかったのである。だが、板張りの前に車で二台分ほどの石を両腕に抱えて池から丘に運び上げ、一隅に煙突の土台をすえた。秋の除草を終えて暖をとる火が欲しくなる前に、炉を築いた。その間は朝早く戸外の地面で炊事をした。その方がいくつかの点で便利だし、快適だと今も思っている。パンが焼け上がらないうちに嵐になれば、板を二、三枚火の上にさしかけ、その下に坐り込んでパンのぐあいを見ながら楽しい数時間を過ごした。当時はひどく手がふさがっていたので、読書は少ししかしなかった。だが、地面に敷いた、物入れやらテーブルクロスの役目をしてくれる、ごく小さな紙切れが読書に劣らない楽しみを与えてくれた。実際、それは『イリアス』〔ギリシアの詩人ホメロスの作と伝えられる二四巻のトロイ攻囲戦を歌った大叙事詩〕を読むのと同じ目的にかなうものであった。
私よりもっともっと慎重に構えて家を建てるのは価値のあることだろう。例えば戸、窓、地下室、屋根裏部屋などを造ることには人間の天性に照らしてどんな根拠があるか、と考えたり、時にはただ一時的に必要という以上の十分な理由が見つかるまでは決して地上に建造物を建てない、といったぐあいにである。人間が自分の家を建てるのには、鳥が自分の巣を造るのと同じ合目的性がある程度存在する。自分の手で住居を建てて本当に素朴に、そして正直に自分と家族に食物を供給するなら、ちょうど鳥がそうした仕事をする時は通常歌うように、詩才が一般に発揮されるのではなかろうか? しかし悲しいかな、われわれは他の鳥の造った巣に卵を生み、そのおしゃべりな非音楽的調べでは一人の旅人にも慰めを与えられないコウウチョウやカッコウに似ている。家を建てる喜びは、永久に大工にまかせておくべきであろうか? 大多数の人の経験の中で、建築はどの程度のものとなっているだろうか? あちこち歩いていても、自分の家を建てるという、そんな簡単で当然な仕事に従事しているところに一度も出くわしたことがない。われわれは社会に従属している。「仕立て屋九人で一人前」と言うが、九人で一人前の人間は何も仕立て屋にかぎったことではない。牧師、商人、農夫みんな同じだ。この分業はいったいどこで終るのだろうか? また、それは結局どんな目的にかなっているというのだろう? 確かに他人が私のことを考えてくれるのはさしつかえないことだ。だが、だからといって私に、自分自身のために考えることをやめさせるまでそうするのは好ましいことではない。
なるほどわが国にいわゆる建築家なるものがいることは事実である。そして、少くとも建築の装飾に理由づけをし、それに必然性と、したがって美とを持たせようという考えを、まるでそれが天から自分に与えられた啓示であるかのように、抱いている人のことも耳にしている。彼の考え方からすれば、それは大いに結構なことなのだろうが、それはやはり美術道楽の域を出ていない。彼は感傷的な建築改革家で、建築を土台から始めないで軒蛇腹《のきじゃばら》から始める。それは、ボンボンにはすべてアーモンドかウイキョウの芯《しん》が入っているように……アーモンドは砂糖なしの方が健康に良いと思うのだが……装飾に真実の芯をどのように入れて正当化するか、ということであって、居住者、つまり中に住む者が本当に内部も外部も建築して、装飾の方は成り行きまかせ、といったものではなかった。装飾とは何か外面的なもの、上面だけのものであると……ブロードウェーの住民がそのトリニティ教会を自分たちのものとした時の請負契約のようなものによって、カメがそのまだらの甲羅《こうら》を、貝がその真珠母の色合いを獲得した、などと今まで理性あるどんな人間が想像しただろうか?
だが人間は、カメが自分の甲羅の様式とは関係がないのと同様、自分の家の様式とは関係がないのだ。また、兵士にしても、自分の優れている点を示す正確な<色>を工夫してその軍旗に塗るというような無意味なことはするに及ばない。敵の方からそれを見つけてくれるだろう。試練がやってくれば、彼は色を失うことがあるかも知れない。先に述べたこの人物は、軒蛇腹に寄りかかってその中途半端な真理を、じつは彼よりも良く心得ている自然のままの素朴な居住者におずおずとささやいて聞かせているように私には思われた。今日建築について見られる美は、すべて本当の意味でただ一人の建築家であるその居住者の必要と性格から……外観などに気をつかわないで、ある無意識な真実と気高さの中から……じょじょに内から外へと生まれてきたものであることを私は知っている。そして、今後も生まれるこの種の美は、すべて同じ無意識な生活の美に付随するものだろう。この国で最も興味を引く住居は、画家が知っているように、通常は貧しい人たちの、見栄など張らない、粗末な丸太小屋や田舎の家である。そういう家を<画趣に富む>ものとしているのは、そこを自分のすみかとする居住者の生活であって、たんなる外面上の特徴などではない。都会人の生活が同様に素朴で、想像に快感を与え、その住居の外観上の形に効果を求めて汲々《きゅうきゅう》とするところがないなら、その郊外の小住宅も同じく興味を引くものとなるだろう。大部分の建築上の装飾は文字通り空虚なもので、九月の強風は、その本体を損なわずに装飾だけを借り物の羽毛飾りのように吹き飛ばしてしまうだろう。地下室にオリーブもワインもない者は、<建造物>などなくてもすますことができるのだ。文学で文体の装飾に同じような大騒ぎを演じたら、聖書の建築家が教会の建築家と同じほどの時間を聖書の蛇腹について費やすとしたらどうなるだろうか? じつにこのようにして<美文>、<美術品>、そしてその教授連中は造られたのだ。実際、二、三本の棒をどんなふうに頭上や足下に傾斜させて取りつけるか、またその住む箱にどんな色を塗りたてるかが大関心事となっているありさまだ。いくらかでも真剣な意味で棒を斜めに取りつけたり、家を塗ったりするのなら、それにも多少の意義はあるだろう。だが、魂がその住人から抜け出てしまっている以上、それは自分自身の棺桶を作るのと……墓を建てるのと同じで、「大工」は「棺桶屋」の別名にすぎない。人生に絶望し、あるいは冷淡になったすえに、ある男はこう言っている。……足元の土をひとつかみ取り上げて、その色に家を塗れ、と。彼は自分の最後の狭い家、つまり墓のことを考えているのだろうか? そんなものなんか銅貨をほうり上げて表が出るか、裏が出るかで色を決めればよい。それにしても、なんと莫大《ばくだい》な暇を持てるようになることだろう! だが、なぜ一握りの土を取り上げるのか? 自分の家は自分の顔の色に塗る方がよい。自分にかわってその家に青ざめさせたり赤面させたりしたらよいではないか。田舎家の建築様式を改良する計画だなんて! 誰かが私の装飾をととのえてくれるとでもいうのなら、私もそれを身につけることにしよう。
冬が来る前に煙突を建てて、家の側面には、すでに雨は通さないようになっていたが、こけら板を張った。板といっても荒削りの丸太から取った、不完全な、樹液の多いもので、鉋《かんな》で端をまっすぐにしなければならなかった。
こうしてきちんとした、こけら板葺き、漆喰《しっくい》塗りの家が自分のものとなった。間口十フィート、奥行き十五フィート、柱の高さ八フィートで、屋根裏部屋、押入れ、両側に一つずつ大きな窓、二つの落とし戸、一方の端に戸口、その反対側に煉瓦の炉があった。家の正確な建築費は、使った材料分は普通価格で支払い、私が自分でした仕事は全部手間賃を計算しないことにして次のようになる。自分の家がいくらかかっているか正確にいえる人は極めて少ないものだし、家を建てるいろいろな資材の個々の価格を言える人は、いるにしてもさらに数少ないから、詳しく述べることにする……
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板(大部分は仮小屋の板)  八・〇三五ドル
屋根と側面の廃物こけら板  四・〇〇
木舞《こまい》            一・二五
古物窓 二枚(ガラス共)  二・四三
古煉瓦 一千個       四・〇〇
石灰 二樽(高かった)   二・四〇
毛(必要以上の量であった) 〇・三一
暖炉盾用鉄材        〇・一五
釘             三・九〇
ちょうつがいとねじ     〇・一四
掛け金           〇・一〇
白亜《はくあ》            〇・〇一
運送費           一・四〇
合計  二八・一二五ドル
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以上が無断居住者の権利として勝手に使った材木、石、砂をのぞく材料のすべてである。また、すぐ隣りに小さな木の小屋があるが、それは主に家を建てた残りの材料でできている。
現在の家と同じ程度に私を満足させてくれて、しかもそれと同じ程度の費用でできるというなら、早速私はその壮大さ、豪華さではコンコードの目抜き通りに立っているどんな建物をもしのぐような家を建てよう。
こうして私は、風雨をしのぐ場所が欲しい学究は、彼が現在毎年支払っている家賃を出ない出費で生涯のすみかを持てるものだ、ということが分かった。もし私が相当以上に自慢しているように見えると言うなら、それに対して私は自分自身のためよりも人類一般のために大言壮語するのだ、と弁解しておこう。そして、私のいろいろな欠点や矛盾した言行も私が述べていることの真実性を冒《おか》すものではない。多くのお体裁や偽善……それはいわば私の小麦から分離させることが難しい籾殻《もみがら》のようなもので、それについては誰にもおとらず残念に思ってはいるが……はあるが、この点では私は自由に呼吸し、ゆったりして手足をのばしていようと思う。その方が精神と肉体の両組織にとって非常なくつろぎとなる。謙遜《けんそん》によって悪魔の代弁者になり下がるようなことはすまい、と心に決めたのだ。真理のためにはふさわしい言葉を使うように努めるつもりだ。ケンブリッジ大学〔現在のハーバード大学〕では、私の部屋よりわずかに広いだけの学生の部屋が、部屋代だけで年に三十ドルもしている。大学当局は三十二部屋を一つ屋根の下に一緒に並べて造れる有利な立場にありながら、またそこに住む学生は大勢の騒々しい隣人に煩《わずら》わされ、おそらく四階に住む不便さも我慢しなければならないのにである。
こういう点でわれわれにもっと多くの真の知恵があれば、すでに多くのことを身につけているのだから教育はもっと少なくてすむだろうし、知育を受けるための金銭上の費用も大半は不要になると思わざるをえない。ケンブリッジその他で学生は便宜を要求するわけだが、そのために学生当人および周囲の者の双方に適当な措置を講じた場合の十倍の人生の犠牲を学生に払わせている。最も多額の金が要求されることが決して学生の最も欲していることではない。例えば、授業料は学期の支払いの中で重要な一項目だが、学生が同時代人の中の最高の教養人に接することで身につけるはるかに価値のある教育には、まったくなんの料金も課されはしない。大学創設の方式は、通常何ドル何セントと寄付を集めて、次は極端なまでに分業の原則に盲目的にしたがって……これは、あらゆる事情を慎重に考慮した上でなければしたがってはならない原則である……学校建築を投機材料としている請負人を呼び入れ、その請負人はまた実際に基礎工事をするのにアイルランド人その他の職人を使う、というやり方である。一方、学生になることを望む者は、その学校に自分自身を適応させるように努めるという。こうした手抜かりのために、後に続く世代が償いをしなければならないことになる。学生や大学から利益を得たいと願う者が自分たちで基礎工事をしても、<この方式よりはましだ>、と私は考える。人間にどうしても不可欠な労働を避けることによって、渇望《かつぼう》する暇と閑居を獲得するような学生は、不名誉で無益な暇を得るだけで、暇を実りあるものにできる唯一のもの、つまり経験というものを自分自身から詐取していることになる。
「学生はその頭ででなくて、その手で仕事をすべきだ、とおっしゃるのではないでしょうね?」と人は言う。まさにその通り、と言うつもりはないが、あるいは人が大変それに近いと考えるかも知れないことを私は言っているのだ。社会が彼ら学生を支持してこの金のかかる勝負をさせてくれている間は、彼らは人生を<遊び暮らしたり>、ただたんに人生を<学んだり>しているべきではなく、終始人生を真剣に<生きるべきだ>、と言っているのである。青年は、早速生きる実験を試みるのが、生き方を学ぶ最良の方法ではないだろうか? そうすることが数学と同様、彼らの精神を鍛練《たんれん》するのだろうと思われる。例えば、少年に人文科学や科学について何か知って欲しいことがあれば、私なら彼をただ誰か教えてくれる人のもとに送り込むといったよくやるコースは採りたくない。そこでは生きる術以外は何でも教えられ、練習させられる。だが、世界を望遠鏡や顕徴鏡をとおして眺めはしても、自然の目で眺めることは決してしない。化学を学んでパンの作り方を知らず、機械学を学んでも、それがどのように獲得されるものかを知らない。海王星の新衛星を発見しても自分の目の中の塵《ちり》を見つけられず〔新約聖書「マタイ伝」第七章〕、自分自身がどんな風来坊的な衛星になっているかに気づかない。あるいは、酢《す》の一滴中に怪物を観察していながら、身のまわりに群がる怪物にむさぼり食われる。必要なだけ読書をしつつ自分で採鉱し、溶かした鉱石で自分のジャックナイフを作った少年と、その間ずっと研究所の鉱物学の講義に出席し、父親からロッジャーの懐中ナイフをもらった少年とでは、どっちが一カ月後により進歩していただろうか? どっちが自分の指を切る可能性が多いか?
驚いたことには、大学を卒業する時、私は航海学を履修《りしゅう》したと知らされた! とんでもないことだ。もし実際に港から一度乗り出していたら、航海学についてもっと多くのことを身につけていたことだろう。<貧しい>学生でも勉強して経済学だけは教えられるが、あの哲学の同義語ともいうべき生活の経済は、われわれの諸大学では真剣に教えられてもいない。その結果アダム・スミス〔一七二三〜九〇。『国富論』の著者であるスコットランドの経済学者〕やリカード〔デビッド・リカード。一七七二〜一八二三。『経済学原理』の著者であるイギリスの経済学者〕やセー〔ジーン・バプテスト・セー。一七六七〜一八三二。フランスの経済学者〕を読んでいながら、自分の父親を取り返しのつかないほどの借金に追い込むのだ。
われわれの大学の場合と同じことは、多くのいわゆる「近代的改善」についてもいえる。それには幻想がまつわりついている。そこには必らずしも明確な進歩があるわけではない。悪魔は、その最初の出資とそれに続く何回もの投資に対する報酬として、最後まで複利の取り立てを続ける。発明なるものは、われわれの注意を大切な物事からそらす、きれいな玩具であるのがふつうである。それは改善されていない目的を達成するための改善された手段にすぎない。鉄道に乗ればボストンやニューヨークに連れていってくれるように、すでにあまりにも到達しやすくなってしまった目的を達成する手段である。メイン州からテキサス州に電話を架設しようと急ぎに急いでいるが、メイン州とテキサス州には何も通信すべき重要なことなどないかも知れないのだ。耳の遠い上品な婦人にしきりに紹介されたがっていたが、いざ引き合わされて彼女のらっぱ形補聴器の一方の端を持たされてみると、何も話すことがなかったという男のような、おかしな状態に双方ともあるのだ。その主な目的は分別よく話すことでなく、速く話すことのようである。われわれは大西洋の海底にトンネルを掘って、旧世界を数週間に相当する分だけ新世界に近づけたいと熱望しているが、輻の広い、平たいアメリカ人の耳に最初に漏れ聞こえてくるニュースといえば、それはアデレード王女〔一八四〇〜一九〇一。ビクトリア女王の第一王女〕が百日咳《ひゃくにちぜき》にかかっている、ぐらいのところかも知れない。要するに、一分間に一マイル駆ける馬に乗った男が、最も重大な知らせを伝えるわけではないのだ。その人は福音の伝道者でもなし、バッタと野蜜を食べながらやってくる予言者〔新約聖書「マタイ伝」第三章第四節〕でもない。フライング・チルダース〔十八世紀初頭に不敗を誇った競走馬〕が穀物をどっさり製粉場に運んだことがあるかどうかは疑わしい。
「あんたが金を蓄えないのは不思議だね。旅行好きなんでしょう。今日にでも汽車でフィッチバーグに行って、あの地方を見物できるだろうに」と人は私に言う。だが、そんなことをするより私はもっと賢明である。最も遠く旅行する人とは歩いてゆく人だ、ということを知っているのだ。私は友人に言う。
「君と僕と、どっちが先にフィッチバーグに着くか試すとしよう。距離は三十マイル、汽車賃は九十五セント、ほぼ一日分の賃金だ。この同じ道路で働く労働者の賃金が一日六十セントだった頃を覚えているよ。さて、僕は今徒歩で出発して夜にならないうちにそこへ着く。一週間連続してこの割合で旅をしたことがあるんだ。君の方はその間、汽車賃をかせいで、明日の何時かにそこへ着く。あるいは、運よく早目に仕事にありつけば今晩着くかも知れないね。いずれにせよ、君はフィッチバーグには行かないで一日の大部分をここで働くというわけだ。だから、鉄道が延長されて世界をぐるりと一巡しても、僕はいつも君より先にいると思うんだ。未知の土地を見てそうした種類の経験をすることに関しては、僕の方がだんぜん君を引き離しているよ」
こうしたことは普遍的な法則で、誰もそれを出し抜いたりはできない。そして、鉄道についても同じだと言ってよい。世界一周の鉄道をみなが利用できるようにすることは、地球の全表面を地ならしするのと同じことだ。株券で資金を集め、工夫が鋤《すき》を使う活動をせっせと続けてゆきさえすれば、ついには誰もがまたたく間に、しかも無料でどこかへ乗ってゆけるものと人はぼんやり考えている。しかし、群集が駅に殺到して、車掌が「みなさん、ご乗車ください!」と叫んでも、さて煙が吹き払われて水蒸気が水滴に変わる頃になってみると、数人は乗っているものの、残りはみな汽車にひかれているだろう。そしてそれは「悲しい事故」と呼ばれ、また、そうだろう。確かに、汽車賃をかせいだ者は結局いつかは乗れるだろう。ただし、その時まで長生きすればのことだ。だが、その時までにはおそらく旅行への適応性も欲望も失ってしまっているだろう。老境に入って人生で最も価値のないその時期に不確かな自由を楽しむために、人生の最も大きな部分を金もうけに費やすということは、私にあるイギリス人のことを思い出させる。彼は、後日イギリスにもどって詩人の生活を送るのに、まずひと財産作ろうとインドに渡ったのである。本当はすぐにも彼は屋根裏部屋に上がるべきだったのだ。「なんだと!」土地のすべての掘っ建て小屋から大勢のアイルランド人が飛び出してきて叫ぶ。「おれたちが敷いたこの鉄道が、たいしたものじゃないと言うのか?」私は答える。<比較的>結構なもの、というところだね……この仕事をしないでいたらもっと悪いことをしていたかも知れない、という意味だよ。だが君たちは私の兄弟なんたから、こんな土ほじりなどするよりもっとましに時間を使っていたら、と思うんだよ。
家を仕上げる前、臨時の出費にそなえて何か正直な、気持の良い方法で十ドルないし二十ドルもうけたいと思って、近くの二エーカー半ほどあるサラサラした砂地に主としてソラマメ、他にジャガイモ、トウモロコシ、エンドウマメ、カブラを少々まいた。土地全体は十一エーカーあって、そこには大部分マツとヒッコリーが生えており、前の季節に一エーカー当たり八ドル八セントで売られた所である。「なんの役にも立たない土地で、キイキイ鳴くリスを養っておくだけ」の所だ、と一人の農夫は言っていた。私は所有者でもなし、たんなる無断居住者にすぎなかったから、この土地には肥料はぜんぜんやらなかったし、二度とそんなに広く耕作するつもりもなかったから、全体的な除草は一度もしなかった。耕していて根株をいくつか掘り出したが、それは長い間燃料となった。その跡の新しい土の小円形部分は他より豆のできが良かったから、夏の間ずうっと見分けがついた。家の裏の枯れて大部分は売り物にならない木と、それに池から引き上げた流木とが必要な燃料の不足分をおぎなってくれた。自分でも鋤を手にはしたが、耕すのに家畜一組と人間一人を雇わなければならなかった。最初の季節の畑の支出は農具、種子、手間賃などで十四ドル七十二セント半であった。トウモロコシの種子は人からもらった。これは、あり余るくらい作るのでもなければ値段は言うほどのものではない。ソラマメ十二ブッシェル〔三八四リットル〕、ジャガイモ十八ブッシェル〔五七六リットル〕、エンドウマメとサトウトウモロコシを少々収穫した。黄トウモロコシとカブラは遅くなってしまって、ものにはならなかった。
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畑からの全収入は 二十三ドル四十四セント
支出       十四ドル七十二セント半
差し引き残高   八ドル七十一セント半
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となる。この他にこの計算書を作成した時まで食べていたのと手もとにあったのとで四ドル五十セント分の作物があった……手もと分の見積もり額は、自分で作らずに買ったわずかばかりの草の代金を差し引いても、まだたっぷり余るものであった。すべてを計算に入れてみると、すなわち人間の魂と今日の現在の時の大切さを考慮すれば、その実験に占められた時間は短かったにもかかわらず、いや、かえってある程度実験が一時的な性格のものであったために、私のあげた成績はその年、コンコードのどんな農夫のあげたものにもまさっていたと信じている。
翌年はもっとうまくやった。必要な土地三分の一エーカーほどをぜんぶ鋤で起こした。アーサー・ヤング〔一七四一〜一八二〇。『フランス農業紀行』で知られるイギリスの農学者〕のものを含めて農業に関する数多くの有名な著作に少しも恐れ入ったりしないで、二年間の経験から次のことを学んだ。人間は質素な生活をして自作のものだけを食べ、自分の食べるだけしか作らず、作った物をわずかばかりの贅沢で高価な品物と交換などしなければ、数ロッド〔一ロッドは約二十五・三平方メートル〕の土地を耕作するだけで事足りること、耕すのに牛を使うよりも鋤で起した方が、また、古い畑に肥料をやるよりもときどき新しい土地を選ぶ方が安上がりなこと、必要な畑仕事は全部いわば左手で夏の間に半端な時間を利用してできるもので、現在のように雄牛、馬、雌牛、豚に縛りつけられないですむこと、である。私はこの点に関しては公平に、また現在の経済的、社会的仕組みの成功とか失敗とかには関心を持たない者として話したいと思う。私はコンコードのどんな農夫よりも独立的であった。家や畑に縛りつけられるわけでもなし、そのときどきに自分の極めて風変わりな性向に従うことができたからだ。すでに暮らしは彼らよりも楽であった。かりに家が火事で焼けたり、作柄が思わしくなかったりしても、それ以前とほとんど変わらない暮らしをしていたことだろう。
私はいつも、人間が家畜の主人であるというよりも家畜の方が人間の主人となっていて、前者、つまり家畜がそれだけいっそう自由だと思っている。人間と牛は仕事を交換している。といっても、必要な仕事だけを考えるなら、牛に相手して耕す畑は人間だけで耕すのよりもずうっと広く、牛の方がずうっと有利な立場にあることが分かるだろう。人間は、自分がする交換仕事の一部を、例えば六週間で乾草を作る、といった具合にするのだが、それはなま易しい仕事ではない。あらゆる点で質素な生活をする国民……つまり哲人の国民……なら、きっと動物の労働を利用するなどという大きな過まちは犯さないだろう。なるほど、哲人の国などというものはいまだかつて存在したことも、近い将来できそうにもないし、またその出現がはたして望ましいことなのかどうか私には確信もない。だが、<私>なら、何かの仕事をさせようと馬や牛を飼い馴《な》らして養っておくようなことはしなかっただろう。たんなる馬方か牛飼いになってしまうことを恐れるからだ。また、そうすることで見たところ社会が得をするようでも、一人の得が他の一人の損となるかも知れないし、馬丁の少年には主人と同じ満足する理由がないかも知れないではないか? 家畜に助けられなければ建設できない公共事業もあったことは認め、また、人間に牛馬とともにその仕事の光栄を分けさせるとしても、だからといって、その場合、人間はもっと人間に値いする仕事をなしとげられなかったのだということになるだろうか? 人間が家畜に助けられて、不必要で技巧的なばかりか、贅沢で無益な仕事をしはじめると、少数者が牛との交換仕事をすべてする、言い換えると、最強者の奴隷となることが避けられなくなる。人間は、こうして自分の内なる動物のために働くばかりか、このことの象徴として自分の外なる動物のために働く。煉瓦《れんが》や石造りのがっしりした家は数多くあるが、農夫の繁栄は今もなお納屋がどれくらい家を日蔭にするかで計られる。
この町には雄牛、雌牛、馬の、近辺では最も大きな畜舎があるそうだし、公共建築物もよそに遅れは取っていない。だが、この郡には自由に礼拝し、自由に言論を戦わすための公会堂の数が極めて少ない。いろいろな国の人たちが建築物をもって自分たちの記念を後世に伝えようとするのはよくないが、だからと言って抽象的な思想の力をもってするのもいけないというわけはないだろう。東洋にあるすべての廃虚よりも「バガバッドギータ」〔一世紀頃のサンスクリットの詩。後年『大叙事詩』の中の一篇となった〕の方がどんなに賞賛すべきものであることか! 塔や神殿は王侯の奢《おご》りである。質素独立の精神は王侯の命令で動くものではない。天才はいかなる皇帝の従者でもなく、その素材は、ごく少量をのぞけば金でも銀でも大理石でもない。いったい何の目的であれほど多くの大理石がハンマーで打ちたたかれるのだろうか? アルカディア〔古代ギリシアの一地方で理想的な田園郷〕では、私が行った時は大理石を打っているのを見たことがなかった。諸国民は、後世に遺す打ちたたかれた大理石の量で自分たちを永久に記憶させようという、まるで気違いじみた野心にとりつかれている。それに使う労力を、態度を上品にみがき上げるのに費したらどんなものだろうか? 一片の良識は、月までとどく記念碑よりも長く忘れられないで人の心に残るだろう。私は、石は本来のあるべき場所にあるのを見るほうが好きだ。テーべの町〔エジプト、ナイル河畔の古代都市で遺跡が多い〕の壮大さは低俗な壮大さであった。正直な人間の畑の境界となっている一ロッド〔約五メートル〕の石垣は、人生の真の目的からはるかにそれてしまった百の門を構えるテーベよりまともなものだ。野蛮で異教的な宗教や文明は壮麗な神殿を築くが、キリスト教と呼ばれうるものはそんなことはしない。国民の打ちたたく石は、大部分が自分たちの墓石となるだけだ。国民は自分たちを生きながらに埋葬する。ピラミッドについていうなら、あれほど大勢の人間が、ある野心家の間抜けのために墓を築いてその生涯を費すほど卑しめられていられた、という事実以外に驚嘆すべきことは何もない。そんな間抜けはナイル川で溺死《できし》させて、その死体は犬にでもくれてやった方がもっと賢明で男らしかったろう。彼らやその間抜けを弁護して、そのしたことの言い訳を考え出してやろうと思えばできるだろうが、そんなことをしている時間は私にはない。
建物を建築する者たちの宗教と芸術についていえば、その建築がエジプトの神殿であろうと、合衆国の銀行であろうと、世界中どこでも同じようなもので、それは真の価値以上に高くつくものだ。建築の主なる動機は虚栄で、ニンニクとパンとバターが好きなことが、それを支えている。有望な青年建築家バルカム君がそのビトルービウス〔紀元前一世紀のローマの建築家。当時の唯一の建築書を残す〕の建築書の裏に硬い鉛筆と定規で設計図を引き、その仕事は石工《いしく》のドブソン・アンド・サンズに請負わせる。三千年の歳月がそれを見下ろしはじめると、人間はそれを見上げはじめる。高い塔や記念建築物についていうなら、かつてこの町に中国まで穴を掘ろうと企てた気違いがいて、彼の言うところでは、中国の鍋《なべ》や薬罐《やかん》のカタカタと音を立てるのが聞こえる所まで掘り進んだそうだが、私は、彼の掘った穴を見にわざわざ出かけていって感心しようなどとは思わない。大勢の人たちが西洋、東洋の記念建築物に関心を寄せて、誰が建てたのかと知りたがる。だが私としては、当時そんなくだらない物を建てなかった人……そんなくだらない物から超然としていた人を知りたいと思う。だが、私の統計の話を進めてゆくことにしよう。
一方で私は測量、大工、その他村の日雇い労働をして……十指におよぶ職業を持っているので……十三ドル三十四セント稼《かせ》いだ。八ヶ月間……そこに住んだのは二年以上だが、この計算書を作成した七月四日から三月一日までの期間……の食費は、自分で作ったジャガイモ、わずかばかりのアオトウモロコシ、エンドウマメを計算に入れないで、また最後の日に手もとにあった分の価格は考慮しないで次のとおりであった。
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米               一・七三五ドル
糖蜜〔最も安い甘味料〕     一・七三
ライ麦粉            一・〇四七五
トウモロコシ粉(ライ麦より安い)〇・九九七五
豚肉              〇・二二
以下は全部失敗した試み
小麦粉(トウモロコシより高い) 〇・八八
砂糖              〇・八十
ラード             〇・六五
リンゴ             〇・二五
干しリンゴ           〇・二二
サツマイモ           〇・一〇
カボチャ 一個         〇・〇六
スイカ 一個          〇・〇二
塩               〇・〇三
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確かに全部で八ドル七十四セントを私は食べたことになる。だが、大部分の読者も私自身と同罪で、諸君のも印刷してみれば似たようなものになることを知っていないと、私だってこうして恥知らずに自分の罪を公表などしない。翌年は夕食用としてときどき一食分の魚を捕った。一度などはマメ畑を荒らしたウッドチャックを殺す……韃靼《だったん》人なら転生輪廻《てんせいりんね》をとげさせると言うところだろう……ことまでやり、実験的な気持ちもあってそれを貪《むさぼ》り食ったこともある。麝香《じゃこう》のような匂いはするが、一時的にうまかった。しかし、どんなにそれが村の肉屋によってちゃんと料理されているように見えても、長期間食べるのは良い習慣でないことが分かった。
同じ期間中の衣服費と臨時の出費は八ドル四十セント四分の三だが、この項目からは、推論できることはほとんどないだろう。
油と家事道具  二ドル
洗濯と繕《つくろ》い物は大部分他でやってもらったが、その請求書がまだ来ていないので除いておくことにして、結局支出総額……これは世界のこの地点でどうしても必要な金銭の支出先全部、いや、全部以上のものである……は次のとおりであった。
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住居             二八・一二五ドル
畑 一年分          一四・七二五
食費 八カ月分         八・七四
衣類、その他 八カ月分     八・四〇七五
油、その他 八カ月分      二・〇〇
合計六一・九九七五ドル
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さて、読者の中の自活しなければならない人たちに言うが、この支出に当てるため畑からの収穫として売った分が、 二三・四四ドル
日雇い労働の収入      一三・三四
合計三六・七八ドル
となり、これを支出額から差し引くと、一方で二十五ドル二十一セント四分の三の残となり……これは当初持っていた資金とほぼ同額で、また、今後必要な出資の目安となる額でもある……他方ではこうして自分のものとした余暇と独立と健康の他に、住みたいだけ住める快適な家が残るのである。
この統計は偶然的なものであり、したがって参考にはならない、と見えるかも知れないが、ともかくある種の完全性をそなえている以上、やはり価値を持っている。もらった物はその分だけすべて差し引き計算をしてある。上の計算から見ると、食物だけでは、金高にして一週間に約二十七セントとなるようである。食物はこの後約二年間近く、イースト抜きのライ麦、トウモロコシの粉、ジャガイモ、米、ごく少量の豚肉の塩漬け、糖蜜、それに塩で過ごし、飲料は水であった。
私はインド哲学を非常に愛好したから、米を主食にするのはふさわしいことであった。執拗《しつよう》にあら探しをして得意がる人たちの異論に対抗するために述べておく方がよいと思うが、時にはよそで食事をしても……いつもあったし、これからもその機会はあると思うが……そのためにかえって家計には損となることが何度もあった。だが、よそで食事をすることは、先にも述べたように恒常的な要素だから、こうした比較的な明細書には少しも影響を及ばさないのである。
二年間の経験から、北の緯度のこの土地でも、自分に必要な食糧を手に入れるには信じがたいほどわずかな労力しかいらないこと、人間は動物と同じく簡素な食事で十分で、しかもそれで健康と力を保持できるものであることを学んだ。トウモロコシ畑で摘み、茹《ゆ》でて塩味をつけたスベリヒユの料理だけで満足な、じつにいろいろな点で満足な食事をした。その種の名前 oleracea(料理の意)がいかにも食欲をそそるので、ラテン語の学名をここに挙げておいた。
平和な時代のふつうの日の昼、茹でた青いサトウトウモロコシに塩をふって腹いっぱい食べる……いったい分別ある人間がこれ以上何を望めるだろうか? 私が食べ物に少々変化を与えたのも、健康上の要求でなく食欲の要求に屈してのことである。なのに人間は必要な食物がないためでなく、贅沢な食物がないため餓死するはめになることがしばしばである。自分の息子が水だけ飲んでいたために命をなくしたと思っている、れっきとした婦人を私は知っている。
私がこの問題を栄養的な観点よりも経済的な観点から扱っていることを読者は看《み》て取るだろう。また、たっぷり食料を貯蔵してある食品庫がないと、私の粗食を思い切って実験しようとはしないだろう。
パンは、最初は純粋なトウモロコシ粉と塩で作った。戸外で屋根板とか家を建てる際に鋸《のこ》で引き落とした材木の切れ端に載せて、火で焼いたのだから、それはまさしく鍬《ホー》ケーキ〔トウモロコシパン。鍬の刃の上で焼いたことから〕であった。しかし、いつも煙にいぶされて松脂の香りがした。小麦粉も焼いてみたが、結局はライ麦粉とトウモロコシ粉とを混ぜたものが最も便利で厭味《いやみ》がないことが分かった。寒い時などは、エジプト人が孵化《ふか》する卵を見守るように注意深く番をして、この小さな数個のパンをひっくり返しながら順繰りに焼くのがなかなか楽しいものであった。それはまさしく私の手で実らせた穀物の実であった。それはまた、私が布にくるんでできるだけ長く保存していた別の貴重な果物に似た芳香を持っていた。昔からの必要欠くべからざるパン製造技術を研究してみた。この方面の権威のある人に会うたびに教えを請い、木の実と肉の野蛮から脱して人が初めてこのパンという食物の温和と洗練とに到達した原始時代と、酵母《こうぼ》の入らないパンの最初のものまでさかのぼり、それから例のこね粉が偶然に酸っぱくなって醗酵法を人間に教えたと考えられている段階をへて、さらにその後のさまざまな醗酵法から研究はだんだん時代をくだり、生命の糧《かて》である「上等で、おいしく、健康によいパン」へとたどってきた。
パンの魂であり、その細胞組織を満たす精(spiritus)だとある人たちが考えてベスタ神殿の聖火〔ローマ神話。炉とその女神ベスタを祭る神殿の聖火。六人の処女が消えないように番をした〕のようにうやうやしく保存されている酵母……メイフラワー号〔一六二〇年にイギリスからアメリカ大陸へピルグリム・ファーザーズを運んだ船〕が初めて運んできた貴重な数|瓶《びん》の酵母は、アメリカのためにその役割をはたして、その影響は今もなお国中のケレス(ローマ神話の、農業と穀物の女神)の祭りの大波となって高まり、うねり、みなぎっている、と私は思っている……このパン種を私は定期的にきちんと村から手に入れていたが、ついにある朝、慣例を忘れてイーストを焼いてしまった。この出来事で、このイーストさえ、なければなくてもよいことを知った……私の発見は総合的方法でなく、分析的方法によるものだったから……そこで、その後は喜んでそれを使わずにすませた。ただ、大方《おおかた》の主婦は、イースト抜きの安全で栄養あるパンなどありえないと真剣に私に言い、年配の人たちは、活力がたちまち衰えるだろうと予言した。それでも私はイーストが不可欠な要素でないことを知って、一年間それを使わないで過ごした後もこうして生者の国にいる。私はその瓶をポケットに入れて歩く煩わしさから逃れて喜んでいる。ときどき中身が飛び出して当惑したことがあったからだ。そんなものは省く方が簡単だし、いいことでもある。人間は他のどんな動物よりもあらゆる気候と環境に適応できるものである。塩、ソーダ、他の酸やアルカリもパンに入れなかった。こう言うと、私はマルクス・ポルキウス・カトーが紀元前二世紀頃に示した製法にしたがってパンを作ったと思われるだろう。
これを私は次のように解している……「こね粉のパンはこうして作りなさい。手とこね鉢をよく洗いなさい。粉をこね鉢に入れ、じょじょに水を加えていって完全にこねなさい。よくこねたら形を作り、蓋《ふた》をして」、つまり焼き釜に入れて「焼きなさい」。一言も酵母のことは言っていない。だが、この命の糧であるパンも、いつも食べていたわけではない。一時は財布が空っぽになって、一カ月以上ぜんぜんお目にかからないこともあった。
ニューイングランド人は、ライ麦、トウモロコシの穫《と》れるこの地ではみな自分の食べるパン材料ぐらいはすべて簡単に栽培できるだろうし、遠方の変動の激しい市場にそれを依存しなくてもよいだろう。なのに、われわれは単純とか独立からは程遠い生活を送っており、コンコードでは新鮮なおいしい粉はめったに店に売っていないし、もっと粗《あら》い、ひき割りトウモロコシやトウモロコシ粒となると使う人がほとんどいない。たいてい農夫は自分の作った穀物を牛馬にやって、少くともそれ以上に栄養があるとはいえない小麦粉をもっと高値で店から買っている。私は、自分で食べる一ブッシェルから二ブッシェルのライ麦、トウモロコシなどはわけなく作れることを知った。前者は最もやせた土地でも育つし、後者も最良の土地はいらないからだ。手臼《てうす》でひけば、米や豚肉はなくてもすませる。どうしても濃い甘味が必要なら、カボチャかビートから良質の糖蜜ができることを実際で知った。もっと簡単に甘味を得るにはカエデの木を二、三本植えるとよく、それが育つ間、つなぎとして今挙げたもの以外にもいろいろな代用品を使えることが分かった。われわれの祖先が歌ったように
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カボチャ、アメリカボウフウ、クルミの木《こ》っ端《ぱ》で
くちびるを甘く湿らせる液ができるのだから
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最後に、あの日用品の中でもいちばんありふれている塩についていえば、それを入手しようとすることは海岸に行ってみる好い機会となるだろう。もしまったく塩抜きですますのなら、私はおそらく水を飲む量を減らすだろう。インディアンが塩を求めて苦労した話は聞いたことがない。
こうして食物に関するかぎり、売買や交換は一切しないですんだし、住居はすでにあったから、あとは衣服と燃料を手に入れることだけだった。今はいているズボンは農家で織ったものである……まだ人間にそれだけ善いところが残っているのはありがたいことだ。農夫から職工への堕落は、人間から農夫への堕落と同様、重大な記憶すべきことだと考えているからだ……それから、新しい土地では燃料はかえって邪魔である。住む土地については、もし私が続けて居坐っていることが許されないなら、私の耕作した土地が売られた値と同じ値、すなわち八ドル八セントで一エーカー買ってもよいと思っている。だが、じつのところ私は居坐ったことでこの土地の価値を高めたと考えている。
世間にはある種の懐疑家がいるもので、野菜だけで生きてゆけると思うか、といった質問をときどき私にする。ただちに問題の根源を衝《つ》くために……根源は信念だから……そうした人たちには大釘を食べても生きてゆけるものだ、と答えてやることにしている。それが理解できないようなら、私の言わんとすることを彼らはあまり理解できないということである。私なら次のような種類のことが試されていると聞けばうれしくなる。一人の青年があらゆる臼《うす》を使わないで、自分の歯で穂のままのかたい生のトウモロコシを食べて生きようと二週間やってみた、という類のことだ。リス族が同じことを実験して成功している。人間もこうした実験に興味を持つものだ。もっとも、そんな芸当はできないか、あるいは亡夫の遺産の相続分三分の一をそっくり製粉工場に投資しているかしている少数の老婦人連中は驚くかも知れないが。
私の家具……一部は自作で、計算書には記入しなかった他のものにもまったく金はかけていない……はベッド、テーブル、机、椅子三脚、直径三インチの鏡、火箸《ひばし》と炉の薪掛け、湯沸かし、小鍋、フライパン、ひしゃく、洗面器、ナイフとフォーク各二本、皿三枚、コップ、スプーン、油瓶、糖蜜瓶、漆《うるし》塗りのランプからなっていた。スイカの上に坐らなければならないほど貧しい人などいないものだ。そんな人は能なしというものである。村のあちこちの屋根裏部屋には、運んでゆきさえすれば自分の物となる、私の最も気に入りの椅子がわんさとある。家具! ありがたいことに、家具の倉庫に助けられなくても私は坐ったり立ったりできる。哲学者でもないと、空箱ばかりでがらくた同然の自分の家具が荷造りされて、日の目、人の目にさらされて田舎に運ばれてゆくのを見ると、恥ずかしい思いをしない者はいないだろう。スポールディング〔当時コンコード近くに住んでいた一家〕の家具がそうだ。あのような荷物を見ても、私はそれがいわゆる金持ちのものなのか貧乏人のものなのか、どうしても区別がつかない。いつもきまってその持ち主が貧乏人のように思われてくるのだ。事実、そういう物をたくさん持っていればいるほど貧しいものなのだ。荷物の一つ一つに十二軒の掘っ建て小屋の中味が入っているかのようだ。一軒の掘っ建て小屋が貧しいと、これはその十二倍貧しいということだ。いったいわれわれは、その脱け殻ともいうべき家具から逃れるためでなくて、何のために<移り歩く>のか? やっとのことでこの世界から新たに家具をそなえた別の世界に移って、この世界は焼けるにまかせておく。ということではないのか? それはちょうど家財道具《トラップ》がすべての人のベルトに縛りつけられていて、われわれが住む運命にあるこの起伏ある地上を移り歩くのに、その荷物を引きずらないでは歩けないのと同じこと……自分の罠《トラップ》を引きずって歩くようなものである。尾を罠《わな》に残して逃げたキツネ〔イソップ物語。「尾を失ったキツネ」〕は幸いであった。ジャコウネズミは、自由の身となるためには三本目の脚をかみ切るだろう。人間がその弾力性を失ってしまったのも驚くには当たらない。なんとまあ、人間はしばしば身動きの取れない状態に陥っていることだろう!「失礼しておたずねしますが、身動きが取れないとはどういうことでしょうか?」
目ざとい人なら、人に会うたびにいつもその人が背後に持っている物全部、そうです、彼が自分の物でないような顔をするたくさんの物、台所道具から、後生大事に焼き捨てようとしない、あらゆるがらくたに至るまですべての物が目につくだろう。彼はそれに縛りつけられていて、なんとかして前に進もうともがいているように見えるだろう。自分だけはなんとか節穴、または門を通り抜けたものの、家具を積んだ橇《そり》が続いて出ることができない、といった人を私は身動きの取れない人だと思っている。ちゃんとした、抜け目のない様子の人で、見たところ自由そうで、しっかりした、よく心得ていそうなのが、自分の「家具」について、それに保険をかけているとかいないとか言うのを聞くと、私は哀れみを覚えずにはいられない。「でも、私の家具はどうしたらよいでしょう?」 私の陽気なチョウはそこでクモの巣にかかってしまう。長い間家具類なしで暮らしてきたように見える人でも、よく調べてみると誰かの納屋にいくらかは入れてあるものだ。私は今日のイギリスをたくさんの荷物、つまり長い間の家庭生活でたまってしまい、かといって焼く勇気もないがらくたを持って旅をしている老紳士だと思っている。大型トランクあり、小型トランクあり、紙箱あり、包みありといったありさまだ。せめて最初の三つは捨ててしまえばよいのだ。ベッドを担《かつ》いで歩くことは、今日では健康な人の力にもあまるだろう。病人に対しては、私ならきっとベツドを置き去りにして走るように忠告するだろう。一人の移民が持ち物をすべて入れた荷物……それは襟首《えりくび》にできた巨大な瘤《こぶ》のようであった……を背負ってよろめき歩いているのに出会って、彼を哀れに思ったが、それはその荷物で彼の持ち物が全部だからでなく、運ぶ物が<そんなに>あったからだ。もし私が自分の罠を引きずって歩かなければならないとしたら、その罠が軽いものであるように、急所を締めつけたりしないように、と気を配るだろう。だが、たぶんそんな物には最初から手を出さないようにするのがいちばん賢明だろう。
ところで、カーテンにはまったく費用がかからないことを述べておこう。太陽と月以外にのぞき見するものはいないし、そののぞき見は歓迎するところだからだ。月はミルクを酸っぱくしたり、肉を腐らせたりはしないし、太陽も家具を傷めたり、敷物の色をあせさせたりしない。太陽があまりに暑すぎる友人の場合は、自然が与えてくれる何かのカーテンの後ろに引っ込む方が、家計簿にカーテンの一項目を新しく加えるより、ずっと経済的なことを私は知っている。ある婦人がマットをあげると言ってくれたことがあったが、家には余分な部屋もないし、内面的にも外面的にもマットをたたいて掃除をする時間もないのでお断りした。戸口前の芝地に足をぬぐう方を選んだのである。弊害《へいがい》の始まりは避けるのが一番である。
つい最近、ある教会執事の家財の競売に出てみた。私財を積んだ人で、遺産も多かった……
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人のなす悪事はその死後も生き残る
――シェイクスピア『ジュリアス・シーザー」第三幕
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例によって、その大部分は彼の父親の代からたまりはじめた安物であった。さまざまな物の中には乾燥したサナダムシもあった。彼の家の屋根裏部屋とか他のごみだめに半世紀ものあいだ眠っていた後、今もこうして焼き捨てられもしないであるのだった。<焚き火>で焼かないで、すなわち清め滅ぼさないで<競売>に出す、すなわちさらにその品物を増大させることが行なわれていたのである。近所の人はそれを見ようと熱心に集まって残らず買い取り、屋根裏部屋やごみだめに注意深く運び、分限が定まり彼らがふたたび次の世に旅立つ時が来るまでそこに眠らせておく。人は死ぬ時ごみを蹴飛《けと》ばすのである。
未開民族の中には、われわれが今|真似《まね》てもたぶん益するところのあるような慣習を持つものがある。彼らは、少なくとも毎年その脱け殻を投げ捨てるようなことをする。実際にそうしたことをしようがしまいが、その考え方は持っているのである。バートラム〔ウィリアム・バートラム。一七三九〜一八二三。アメリカの生物学者〕がマックス・インディアンの習慣だったと述べている「収穫祭《バスク》」、または「最初の実りの祝宴」をわれわれが祝うとしたら楽しいものではないだろうか?
「町がバスクを祝う時は、新しい衣服、新しい鍋、壷その他の家庭用品や家具類を前もって用意しておいて、着古した衣類その他不要な物を集め、家々、町の広場、町全体を掃き清めてから、それを家に残っている穀物その他の古い食糧と一緒にして一つの山に積み上げ、火をかけて焼いてしまう。それから薬を飲んで三日間断食をした後、町中の火はすべて消される。断食中は一切の食欲と情欲を満足させることを控える。大赦令が出される。すると罪人はみな自分の町に帰ってよいということになる。
四日目の朝、高僧が乾いた木を擦《こす》り合わせて町の広場に新たな火を起こすと、その火から町中の家々が新しい、汚れのない炎を分けてもらうのである。
それから新しく収穫した穀物と果物で宴を張り、三日の間、踊ったり歌ったりで過ごす。それに続く四日間は近くの町から友人の訪問を受けて一緒に楽しむ。友人たちも彼らと同様、潔斎《けっさい》をすませて、準備ができているわけだ」と彼は言っている。
メキシコ人も五十二年ごとに世界は終りに来ると信じて、これに似た清めの行事をした。
この行事ほどに純粋で聖なる儀式を私はほとんど聞いたことがない。辞書に定義されているように、それはすなわち「内なる精神的な神の恩寵《おんちょう》の、外なる目に見える現われ」である。その啓示について書かれた聖書の記録は彼らにはないが、こうした儀式を行なうように、最初は直接天から霊感を受けたものと私は信じて疑わない。
五年以上、私はこうして自分の手による労働だけで自活した。そして、一年に約六週間働けば、全生活を賄《まかな》えることが分かった。冬の全期間と夏の大部分を自由にそっくり勉学に使うことができた。学校の経営もずいぶんやってみたが、収入に支出が比例する、というより収入以上にかかるものであることを知った。先生らしく考えたり信じたりしなければならないことはともかく、相応の服装をととのえて準備をしなければならないうえに、時間が食われたからである。同胞のためを思って教えたわけではなく、ただ生活のためにやったことだから、これは失敗であった。商売にも手を出してみたが、仕事が軌道に乗るまでに十年はかかりそうで、その頃はたぶん堕落の道を歩んでいるだろうということが分かった。事実、その頃にいわゆる、ひともうけしていることになるのを恐れた。
以前、暮らしを立てるのに自分は何ができるだろうか、と思案した際、友人たちの希望にそおうとしてある悲しい経験をしたことが心によみがえってきて、どうすべきか悩んだことがあり、ハックルベリーでも摘んで暮らそうかとよく真剣に考えた。その仕事なら確かに自分にもできそうだし、そのわずかな利益で十分だろうし……私の最大の特技は、ほとんど物を欲しがらないことであったから……資本はごくわずかですみ、平常の気分が乱されることもめったにないだろう、と愚かにも考えたのである。知人たちが躊躇《ちゅうちょ》することなく商売を始め、あるいは各種の職業についてゆく中で、私はハックルベリー採集を彼らの職業に最も近いものだと考えた。夏の間中、山を歩き回っては見つけたハックルベリーを摘み、それをいいかげんにさばく。こうしてアドミータス王〔ギリシア東部の一州テッサリアの王〕の羊を飼うアポロ〔ギリシア神話。音楽、医術、弓術、予言、家畜の神。後に太陽神。アポロは自分の子が殺されたのを怒って、雷鳴を製造するサイクロンに矢を射かけたが、その罰として一年間アドミータス王の羊の世話を命じられた〕の真似をするわけだ。私はまた、野草を摘み、常緑樹を乾草車に積んで森を思い出すのが好きな村人たちに、いや、都会にも運んでゆこうか、などと夢見たのだった。だがその後、商売はそれが扱うあらゆるものに禍《わざわ》いすることを知った。たとえ天の声を商う聖職についても、商売の禍いはそっくりその仕事につきまとうものなのだ。
私には私なりの好みがあって、とくに自由を尊重したし、それに耐乏生活をしてもうまくやってゆけたから、豪華な敷物だの、上等な家具だの、うまい料理だの、ギリシア式やゴシック式の家だのを手に入れるために自分の時間を費したくなかった。このような物を獲得しても自分にとって妨げにならない人、得た後にその使用法を心得ている人がいるなら、その人たちにそうした物の追求はおまかせするとしよう。「勤勉」で、働くのをそれ自体のため、あるいは、おそらくもっと悪いことをしないために愛するような人もいる。その人たちには差し当たり何も言うことはない。今よりも暇になったらどうしてよいか分からない、と言う人たちには、今の倍働くことを忠告しよう……自分の身代金《みのしろきん》を払って、自由の手形を手にするまで働くことを。私自身は日雇い労働者の仕事が、とくにそれは一年にわずか三、四十日も働けば暮らせるから最も独立的だということを知った。労働者の一日は日の入りとともに終り、その後は仕事から離れて自分の好きなことに打ち込める。一方雇い主は、毎月毎月いろいろと思案を巡らして、一年中ゆっくりくつろぐ暇もない。
要するに、信念と経験からいって、質素で賢明な生活をすれば、この地上で生きてゆくのは苦労ではなく楽しいことなのだ、と信じているのである。より素朴な民族が仕事としているのは、今日でもやはりいっそう手の込んだ娯楽であるように、である。人は私以上に汗っかきでもないかぎり、暮らしを立てるのに額に汗して働くことはない。
私の知り合いで、数エーカーの土地を相続している青年が、<資力さえあれば>私のような生活をするだろう、と私に言った。人に<自分の>生活様式を採用させたい、などと決して私は考えていない。その人が私の生活様式を十分身につけないうちに、私は私で別の生活様式を見つけているかも知れないし、それに、世の中にはできるだけ多く趣《おもむき》の違う人がいるように望むからだ。各人が自分の父とか母とか隣人とかのものと違う、<その人>自身の道を見いだして、その道を歩むように心がけてほしいと思っている。若い人は家を建てるもよし、植物を植えるもよし、航海するもよい。ただ彼がやりたいと私に言うことを邪魔をしないでさせてやるだけだ。われわれが賢明でいられるのは、船乗りや逃亡奴隷が北極星から目を離さないように数学的な点をよりどころとする時だけだ。が、それは生活全般にとっても十分な導きとなるものである。われわれは計算可能の期間内に目指す港に着くことはできないかも知れないが、正しい針路は維持するだろう。
疑いなくこの場合は、一人の人にとって真実であることは千人の人にとって、さらにいっそう真実である。一軒の大きな家は一つの屋根が上をおおい、地下室が一つ下にあり、ひと続きの壁が数個の部屋を仕切るから、小さな家にくらべて比例して高くつくということがないのと同じだ。だが、私としては離れた住まいの方がよかった。その上、壁を共通にした方が得なことを他人に納得させるより、家をそっくり自分で建てる方が通常は安上がりであろう。共通の仕切りは、格安に上げようとすればどうしても薄いものとなるし、また、その他人が善くない隣人のこともあり、仕切りの隣人の側が修理されないで放っておかれることもあるだろう。通常可能な協力はきわめて部分的、皮相的なものだけである。世の中にある、なけなしの真の協力などは、人には聞こえない協和音ともいうべきもので、無いも同然である。人に信念さえあれば、どこに住んでいようと同じ信念をもって協力するだろう。信念が無いと、どんな仲間と一緒になっても世間の他の人たちと同じ生き方を続けるだろう。協力するということは、最も低い意味だけでなく、最も高い意味でも<生活をともにする>ことである。
最近、二人の青年が一緒に世界旅行をしようと相談した話を耳にした。一方は金がなく、船乗りをしたり農夫をしたりで途中旅費を稼ぎながらの、そして他方は為替手形をポケットに入れての旅行ということであった。片方が<働く>ことをまったくしない以上、二人が長期間仲良く協力などできないのは目に見えていた。彼らはその冒険での最初の興味ある危機で別れてしまうだろう。なんといっても、私が先に述べたように、独りで行く者は今日にも出発できるが、他人と一緒に旅行する者は相手の準備がととのうまで待っていなければならないし、二人揃って出かけるまでには長いことかかるかも知れないのである。
だが、これではずいぶん自分勝手な話だ、と数人の町の者が言うのを聞いた。私はこれまで博愛的な仕事に身を入れたことがほとんどなかったことを告白する。義務感にしたがって若干《じゃっかん》の犠牲は払った。そして他方では、犠牲のひとつとして、この他人を助けるという喜びをも犠牲にしたのである。町の困っている人たちの援助に乗り出すように私を説得するため、あらゆる策をつくした人々がある。何もすることがないというなら……閑居不善をなす、というから……私も暇つぶしにそんなことでもやってみよう。だが、せっかくそれに打ち込んで、ある貧しい人たちをあらゆる点で私自身と同様安楽に暮らせるようにしてやって、その極楽生活に対して恩義を押しつけてやろうと考えたうえ、その人たちにあえて申し出までしたところ、彼らは申し合わせたように、即座にもとの貧乏のままでいる方がいいと言った。町の男女が仲間のためにこれほどさまざまな方法でつくしているのだから、少なくとも一人ぐらいは、他のもっと慈善的でない仕事をしたいようにさせてもらっていいだろうと思っている。他のどんなことでもそうだが、慈善にも才能は必要である。善を行なうとなれば、それはもう完全な職業の一つである。そのうえ、私はそれをしようと相当に努力はしたものの、妙に思われるかも知れないが、それは私の体質に合わないのだと納得するにいたった。おそらくそれが宇宙を破滅から救うためであっても、社会が私に要求する善を行なうために私が自分の天職と信じる仕事をそれと知りつつ故意に放棄するようなことはしないだろう。そして、あの似てはいるがさらに限りなく偉大な不動の精神がどこかに厳存していて、今日宇宙が維持されていることを確信している。だが、誰でも人がその才能を発揮するのを邪魔したくはない。私がお断りするこの仕事に全心全霊、全生命を打ち込んでいる人に言いたい。屈しないでやり通しなさい。最もありそうなことだが、たとえ世間がそれを悪いことをしていると呼んでもである。
私は、自分の言い分がとくに変っているとはまったく思っていない。きっと読者の多くも同じ弁明をしたいと思うだろう。何かをすることにかけては……必らずしも近所の人が善いことと言うものでなくてもいいが……自分は使われるのにもってこいの人間だとためらわずに言える。だがどんな仕事をするか、それは雇う人が考え出すことだ。言葉のふつうの意味でどんな善を行なうかは、私のたどる主要な道からはずれた問題で、大部分はまったく前もって意図しないところである。人々は実際こう言う。「自分がもっと価値のある人間になることをまず目指したりしないで、その場からそのままで始めなさい。人のためになろうと、あらかじめ親切に考えて善行を始めなさい」と。その調子で私が説くとしたら、むしろ「善い人になりはじめなさい」と言うだろう。太陽は誰もまともには仰ぎ見られないほど照り輝くまで着々とその思いやりのある熱と慈《いつく》しみを増し、それから、また、それまでの間も世界に功徳《くどく》を施しつつ自分自身の軌道で世界を巡るものなのに、もっと正確に言えば、さらに確かな学問が発見しているように、世界は太陽から功徳を受けながらその周囲を巡るものなのに、彼らときたら、太陽は月や六等星程度の輝きになるまでその火を燃やしたらそこで停止して、それからは妖精ロビン・グッドフェロー〔スカンジナヴィア起原の、陽気でいたずら好きな妖精〕まがいに動き回り、軒並みに小屋の窓から中をのぞき込んでは気違いどもを浮かれさせ、肉を腐らせ、夜の暗黒を見えるようにすべきだ、とでも考えているらしい。パエトーン〔ギリシア神話。日の神ヘリオスの子〕は、慈善によって自分が天の子なることを示したいと思って、一日だけ父なる太陽の日輪車を借りたが、車がいつもの道筋からそれて天界の下町を数区画焼き、地球の表面を焦がし、泉という泉を干し上げ、サハラの大沙漠を造り出したため、ついにジュピター神〔ローマ神話ユピテル。神々の王で天界の最高神。ここではギリシア神話の相当神ゼウスのこと〕は雷電をもって彼をまっさかさまに大地に投げ落とし、太陽は息子の死を悲しんで一年間照らさなかったのである。
腐った善から発散する臭いほど鼻もちのならないものはない。それはいかにも人間的な、そして神聖な腐肉だ。誰かが私に善を施そうと意識的に計画して私の家にやってくることが確実に分かれば、私は口、鼻、耳、目に砂をいっぱいに吹きこんで窒息させるという、あのシムームと呼ばれるアフリカの沙漠の乾いた熱翌ゥらでもヲれるように、必死になって逃げ出すだろう。多少とも彼から善の施しを受ける……そしてその毒素がいくぶんか自分の血液に混じる。それがいやなのだ。いや、こういう場合はむしろ自然に不幸で苦しむ方がよいと思っている。飢えた時に食事を与えてくれ、凍《こご》えたら暖めてくれ、溝に落ちたら引き上げてくれるからといって、その人が私にとって善い<人>だということにはならない。ニューファンドランド犬でもその程度のことはしてくれる。博愛とは、最も広義では同胞愛のことではない。ハワード〔ジョン・ハワード。一七二六〜九〇。イギリスの監獄改良につくした〕は確かにそのやり方が非常に親切で、尊敬すべき人であったし、報いられもした。だが比較的に言えば、たとえ百人のハワードがいても、最善の状態にある<われわれ>を最も援助される価値のある時期に援助しないのなら、<われわれ>にとって何の意味があるだろうか? 私や私のような者に何かの善を施そうと真剣に提案された博愛的な会合の話など一度も聞いたことがない。
火刑の柱に縛りつけられて焼かれながらも、自分たちを拷問にかけている者に新しい拷問法を教えたというあのインディアンたちには、イエズス会派〔一五三四年スペイン人イグナティウス・ロヨラの組織したローマ・カトリックの一派〕の人たちも完全に肩すかしをくった格好であった。インディアンたちは肉体的な苦痛に対しては超然としていたから、時に宣教師がどんな慰めの言葉をかけてもそれに超然としていることがあった。己《おのれ》の欲するところを人に施せ、という法則は、彼らの耳にはそれほど説得力をもって響かなかった。彼らとしては、他人からどうされようといっこうに気にしないで新しい流儀をもって敵を愛し、敵のしたことすべてをほとんど進んで許すまでになっていたのである。
貧乏人には必らず彼らの最も必要としている援助を与えてやることだ。その援助が彼らにはとうてい手のとどかないような諸君の示す手本であるにしてもだ。金をやるのならそれと一緒に自分も金を使い、彼らにやるだけであってはならない。われわれは時に妙な間違いを犯すものだ。貧しい人が不潔で、ぼろをまとい、下品に見えるほどには寒くも空腹でもないことがよくある。そうしているのはある程度彼らの趣味で、たんなる不幸ではないのだ。金をやっても、おそらく彼はもっとたくさんぼろを買うだろう。私は、自分がこざっぱりしていくらかはより流行にかなった服を着て震えていながら、ひどくみすぼらしいぼろ服をまとって池の上で氷切りをしている不格好なアイルランド人労働者を気の毒に思っていた。ところが、あるひどく寒い日、滑って水中に落ちたという男が私の家に来て暖を取った。彼が裸になるまでに、確かに随分汚れてぼろではあったがズボンを三本、靴下を二足も脱ぐのを見た。彼には私の出した着替えの服を断るだけの余裕があった。それほど<下に>着込んでいたのである。このずぶぬれになることこそ、まさしく彼には必要なことだったのだ。そこで私は自分自身を哀れに思いはじめ、彼に古着の店を一軒与えるよりも、自分にフランネルのシャツ一枚を与える方がより大きな慈善になることを悟った。悪の根に打撃を与えている者一人に対して、千人の者がその枝に切りつけているありさまで、乏しい者に最大限の時間や金を与える人は、その人の生活ぶりによって、彼が救ってやろうと空しい努力をするその窮状そのものを作り出す最も大きな働きをしているのかも知れない。それは、九人の奴隷に日曜日の自由を買い与えるために十人の奴隷の収入をささげる敬虔な奴隷飼育者である。貧しい人を家の台所に雇ってあげて彼への親切を示す人もいるが、自分自身をそこに雇う方がもっと親切ではないのか? 収入の十分の一を慈善に費して自慢しているが、あるいは収入の十分の九を慈善に費して、それで方《かた》をつけてしまうべきなのかも知れない。社会はその際、財産の十分の一だけを取りもどすことになる。これはたまたまそれを所有する者の気前のよさによるものだろうか、それとも正義の役人の怠慢によるものだろうか?
博愛は人類に十分認められている、ほとんど唯一の美徳である。いや、それは著しく過大に評価されている。そして、それを過大評価するものはわれわれの利己性である。ある屈強な貧しい男がある上天気の日、ここコンコードで私に仲間の町民の一人をほめた。その町民が貧しい人……つまり彼自身のこと……に親切だと言うのである。われわれ人類の親切なおじやおばは、本当の精神的な父母以上に評価されるものである。ある時、学問、知性ともにそなえた僧職にある人がイギリスについて講演した中で、その国の科学、文学、政治上の偉大な人物であるシェイクスピア、ベーコン、クロムウエル、ミルトン、ニュートンその他を数えあげてから、次いでその国のキリスト教的英雄について話すのを聞いたことがある。彼は、職業がらそうしなければならないかのように、彼らをすべての偉人たちよりはるか上位にすえた。
その英雄とはペン〔ウィリアム・ペン。一六四四〜一七一八。クエーカー派の牧師でペンシルバニアの開拓者〕、ハワード、それにフライ夫人〔エリザベス・ガーニー・フライ。一七八〇〜一八四五。クエーカー教徒でハワードと同じく監獄改良につくした〕であった。誰でもこれには虚偽と宗教的|口吻《こうふん》を感じるに違いない。彼の挙げた後者の人々はイギリスで最高級の人物なのでなく、おそらくたんに最高級の博愛家であるだけのことだ。
私は、博愛がとうぜん受けるべき賞賛から何かを差し引きしたいと言っているのではない。ただ、その生涯と行ないをもって人類に祝福をもたらしたすべての人に対して、公平な扱いを要求しているのだ。人間の正しさとか善意をとりわけ重んじているわけではない。そうしたものは、いわばその人の茎であり葉である。枯れた緑から病人用の薬用茶を作るような植物は大した役にも立たないし、いんちき医者にいちばん利用されるものだ。私は人間の花と果実が欲しいのである。何か芳しい香りが彼から私の方に漂ってくること、何か成熟したものがわれわれの交わりに風味をそえてくれることを望んでいるのだ。彼が行なう善は部分的、一時的な行為でなくて不断の余剰物でなくてはならないし、彼にとっては失うところがなく、また彼の意識しないものでなくてはならない。それは数多くの罪をおおい隠す慈善である。博愛家は、雰囲気としてあまりにも自分自身が捨て去った悲しみの記憶をもって人類を取り巻きすぎる。そして、それを同情と呼んでいる。われわれは絶望ではなくて勇気を、病気ではなくて健康と安楽を分け与えてやるべきで、病気が感染して広がることのないように、気を配らなければならない。南部の何という平野から悲嘆の声が聞こえてくるのか? われわれが救いの光を送ろうとする異教徒はどの緯度の下に住んでいるのか? われわれの救おうとする放縦野蛮な人間とは誰であろうか?
もし何か人間を苦しめるものがあって、そのために彼がその機能をはたせない時、その腹に痛みがある時でも……そこは同情心の宿る所だから……彼はすぐさま改革に取りかかる……この世界を。彼自身が小宇宙だから彼は発見し、その発見は真実の発見であり、そして彼こそそれを発見すべき人なのだ……世界が青いリンゴを食べたことを。
事実、彼の目には地球そのものが青いリンゴで、熟さないうちに人間の子がそれをかじるという、考えても恐ろしい危険があるのだ。こうしてただちにその激烈な博愛行為はエスキモー人やパタゴニヤ人〔南米アルゼンチンおよびチリー南部、アンデス山脈東側の地域に住む背の高い人種〕を捜し出し、人口の多いインド人、中国人の村を抱擁する。こうして彼は二、三年博愛的な活動をするわけだが、その間、神は確かに彼を自己の目的のために利用しているのだ。その活動で彼は自分の消化不良を治し、地球はまるで熟しはじめたかのように片方または両方の頬にかすかな赤みがさしてきて人生は未熟さを失い、ふたたび生きるにふさわしく、甘く健康的になるのである。私は自分が犯した以上の非道は夢にも見たことがない。私以上の悪い人間を一度も知ったことはないし、今後も決して知ることはないだろう。
社会改良家を非常に悲しませるものは、困窮している仲間への同情でなく、彼が最も敬虔な神の子でもやはり持っている個人的な悩みだ、と私は信じている。この悩みが解消されて春が彼を訪れ、朝がその寝床にやってくれば、彼は言い訳もしないで善良な仲間を見捨てることだろう。私がタバコの害を説かない理由は、一度もタバコを噛んだことがないからだ。それを説くことは、タバコをやめた人が自分の犯した喫煙という罪に対して支払わなければならない罰金なのだ。もっとも私にも噛んだことがあって、その害を説くことのできるものはたくさんあるのだが。さて、万一何かこれらの博愛行為をせざるをえないはめとなった時は、右手のすることを左手に知らせてはならない〔新約聖書「マタイ伝」第六章第三節〕。それは知る価値のないことだからだ。溺れる者は助けてやって、何事もなかったかのように靴紐を結ぶことだ。悠然《ゆうぜん》として急がずに何か自由な仕事に取りかかるのだ。
われわれの風俗は、聖徒たちとの交わりで害《そこな》われてしまった。賛美歌集は旋律をともなった神への詛《のろ》いと、神に対する永遠の忍耐とをもって鳴り響く。予言者、救済者といっても、人間の希望をより強化してくれたというよりは、その恐れを和らげたといえるだろう。人生が与えてくれるものへの素朴で押えがたい満足感も、神への記憶すべき賛美の声もどこにも記録されてはいない。健康と成功は、どんなに遠くに隔たっているように見えても、それはすべて私を益する。病気と失敗は、どんなにそれが私に同情してくれても、あるいは私がそれに同情しても、すべて私を悲しませる力となり、私に害を与える。だから、もし本当にインド的、植物的、磁気的または自然的手段で人類を復興したいのなら、同様に素朴に、健全になって眉《まゆ》にかかる雲を払いのけ、毛穴から少々生命を吸い込もうではないか。貧しい者の見守り役にとどまっていないで、世の中の価値ある人間の一人になるように努めることである。シラズのシェーク・サーディ〔一一八四?〜一二九一? ペルシアの詩人〕の詩集『グリスタン』、すなわち『花園』にこう書いてあるのを読んだことがある。
人々は賢人にたずねた。最高神が高く、蔭多く育てられた数多くの名だたる木の中で、イトスギ以外はどの木も azad、つまり、自由なものと呼ばれておりません。これにはどんな神秘的いわれがあるのでしょうか? と。賢人は答えた。それぞれ木には固有の果実と一定の季節があって、果実をつけ、季節が続くあいだだけみずみずしく、花を咲かせてはいるが、果実をつけない季節外には乾いてしぼんでいる。イトスギはそのいずれの状態にもさらされることなく、常に盛んである。こうした本性が azads、すなわち宗教的な独立者たちにはあるのだ……はかないものに心を留めてはならない。ディジラ、すなわちチグリス川は、カリフ〔回教国の教王としてのトルコ国王〕一族が滅亡した後もバグダード市中を流れるだろう。手にどっさり物を持っている時は、ナツメヤシの木のように気前よくするがよい。だが、何も与える物がない時には、イトスギのように azad、すなわち自由人となりなさい。
補足の詩
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貧しき自惚《うぬぼ》れ
貧しき哀れな者よ、お前の自惚れは過ぎる
天界での地位を要求するとは
お前の粗末な小屋、桶も同然の住まいが
安上がりな日光な中、翳《かげ》った泉のほとりで
根菜と葉菜とで、何ほどかの物ぐさで
衒学《げんがく》的な徳を育むからといって。
そこではお前の右手は
麗しい諸徳がその幹に咲き誇るべき
あの慈悲深い感情を心から裂き離し
自然を見下げ、感覚を鈍らせ
進取の心持つ者をゴルゴンのように石と化してしまう。
お前の無理強いの節制や
喜びも悲しみも知らないあの不自然な愚鈍との
味気ない交わりはわれらにはいらない
またわれらにはいらない、進取の心に勝ると
不当にたたえられる受身の忍耐も。
これら凡庸に座をすえる、低俗であさましいやからは
お前の卑屈な心にふさわしい。だがわれらが採るのは
過度を許す徳、勇ましく気前よい行為、
王者のような豪壮
万物を見る深慮、果て知らぬ雅量
古代がそれに名づける言葉を残さず
ただヘラクレス、アキレウス、テセウスのような
型のみを残している、あの英雄的な徳だけだ。
お前のいとわしい庵《いおり》にもどれ
そして新しい、光あふれる天界を見て
それら優れた人々がどんなであったかを知ろうと励め。
――トマス・ケアリ(一五九四?〜一六三九? イギリス王党派の叙情詩人)
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住んだ場所とその目的
生涯のある時期には、あらゆる地点を家を建てるによい場所として考えるものである。そういうわけで、私も自分が住んでいる所から十二マイル以内にある、あらゆる方角の土地を調べたことがある。想像の中で次々とすべての農地を買っていった。どこでも買えたし、値段も知っていたからだ。それぞれの農夫の地所を歩き回ってはそこの野生リンゴを味見し、彼と耕作の話をし、価格がいくらであろうと言い値で農地を買っては心中でそれを彼に抵当に入れた。言い値よりも高い値をつけさえした……だが、私はとても話好きだったから、権利書だけは受け取らないで、相手の言葉を権利書のかわりとした。その土地を耕し、また私はそう信じているのだが、ある程度まで相手の心も耕してやり、たっぷり楽しんでから身を引くと、その後は彼のしたいようにさせておいた。この経験から私は友人たちに一種の不動産ブローカーとみなされる資格を得ることになった。どこに坐っても、私はそこで生活できたし、風景は私を中心に八方へ展開した。家とは外ならぬ sedes、すなわち座席のことではないだろうか?……そして、それが田舎の座席なら、なおよい。早々には拓けそうもない家の敷地を数多く見つけた。村から遠すぎると思った人もいたかも知れないが、私の目には、村の方がその敷地から遠すぎるように見えた。よし、ここに住めるだろう、と私は言った。
そこで実際に一時間ほど夏と冬の生活をしてみた。どのようにして数年を過ごし、冬をしのぎ、春がやってくるのを迎えられるかを想像してみた。この地方に将来住むことになる人は、どこに家を建てても、必らずそこでは私に先を越されていることが分かるだろう。午後の半日もあればその土地を果樹園やら植林地やら牧場やらに設計して、どんな見事なオークやマツを戸口前に残しておいた方がよいか、それぞれ枯れ木はどこから見た時、いちばん見栄えがするかを決めるのに十分であった。そうした後は、その土地をたいていは休閑地として寝かせておいた。人間は手をつけないでおけるものの数に比例して富んでいるものだから。
私は、自分がいくつかの農場を買い入れる優先権を持っている、とさえ想像するまでになった……優先権さえあればそれでよかったのだ……が、実際に所有してそれに手を焼くようなことは一度もなかった。実際にいちばん所有しそうになったのはホローエル農場を買おうとした時で、すでに種子を選別したり、農場を続けていってできた作物を運ぶのに使う一輪車の材料を集めたりしはじめていた。ところが、持ち主がその権利書を私にくれないうちに、彼の妻……みなこうした妻を持っているものだ……の気が変わって、手離したがらないので、彼は十ドルで解約を申し入れてきたのだった。じつのところ、私はこの世に十セントきりしか持っておらず、自分が十セントを持つ男なのか、農地、または十ドル、またはそのすべてを持つ男なのか、私の勘定では分からなくなってしまった。だが、十ドルも農地も彼に取っておかせた。それまで持っていたことで十分であったからだ。正確に言うと、気前よくもその農地は私がそれに支払ったのと同じ値で彼に売ってやり、彼が裕福な人ではなかったので十ドルを贈り、それでもなお十セントと種子、それに一輪車の材料が残ったのである。私はこうして自分の貧しさになんら損害を与えることなく金持ちでいられたことに気づいた。ただし、風景だけはそのまま持ち続けて、その後毎年、それが産み出すものを一輪車を使わずに運び去った。風景について言うなら……
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私は見渡すかぎりの土地の王
私の権利に異議を唱える者一人いない
――ウィリアム・クーパー(一七三一〜一八〇〇。イギリスの詩人)
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詩人が農地の最も価値ある部分を楽しんでから去ってゆくのをたびたび見たことがある。一方、気難し屋の農夫は、詩人が二、三個、野生のリンゴをもぎ取っただけだと思っている。持ち主が長年知らずにいる間に、詩人は農地を最も見事な種類の目に見えない柵、韻律の柵の中に取り込んでそれをすっかり囲い、その乳を搾《しぼ》って上澄みをすくい、クリームをすべて取って、農夫には脱脂乳だけを残したのである。
ホローエル農場の真の魅力は、私にとっては次のようなことであった。村からは二マイル、いちばん近い農家からでも半マイルあり、広々とした畑で街道からは隔たっており、完全に人里離れていること。川に沿っていること。私には取るにたらないことだが、所有者の話では、その川霧が農場を春の霜から守っているという。家屋と納屋は灰色をして荒れ果て、垣根は崩れかけていて、私とその最後の住人との間に長い隔たりを作っていること。中空でコケにおおわれているリンゴの木にウサギのかじった跡があって、これからどんな種類の隣人を持つことになるかを教えてくれていることである。だが、格別の魅力はなんといってもその昔、川を舟でさかのぼった時の農場の思い出で、当時は家が繁茂《はんも》する赤いカエデの木立のうしろに隠れていて、それをとおして飼い犬の吠え声が聞こえてきたのだった。私は農場の持ち主が岩石を掘り出し、中空のリンゴの木を切り倒し、牧場に生え出ていたカバの若木を掘り返す前、つまり彼がもっと改良の手をくわえる前に買い取ってしまおうと急いだ。これらの利点を楽しむために農場を続ける準備をした。アトラス〔ギリシア神話。ゼウスの地位をねらった罰として天を双肩に担わされた〕のつもりで地球を双肩に担《にな》い……彼がそのためにどんな報酬を得たかは聞いたことがないが……その支払いを済ませて、誰にもはばからずそれを自分の物とする以外に動機も口実もまったくないあらゆることをしよう、と覚悟したのである。というのは、そこを手をつけずにそのままにしておくことさえできれば、そこからは私が望む種類の最も豊富な収穫があることを知っていたからだ。だが、前に述べたようなことになったわけである。
それで、大規模農業(菜園ならいつもやっていたが)に関して私のいえることは、種子を用意したということだけである。種子は古いほど良いと考える人が多い。時間がその良し悪しを区別することは疑いない。古いのは、私がいよいよ蒔《ま》く段になって失望するようなことはまずないだろう。だが仲間には、できるだけ長く自由で縛られない生活をしなさい、と一度だけ言っておきたい。農場に縛られるのも、郡の監獄に縛られるのもたいして相違はないのだ。
老カトー〔紀元前二三四〜一四九。ローマの執政官で著述家〕……彼の『農業について』は私にとって農業雑誌『耕作者』〔一八三三年創刊で当時広く読まれた〕の代りをつとめた……は「農場を求めようとする時は、欲張って買ったり、よく見る労を惜しんだりしないように心がけるがよい。一度見て回って十分だと思ってはならない。そこが良い所であれば、何回でも行くほど気に入るものである」と言っているが、私の目にふれた唯一の翻訳ではその部分をひどく誤訳している。私は欲張って買うようなことはせずに、生きているかぎり何回も見て回り、まず自分が死んでそこに葬られ、ついにはそれがいっそう私を喜ばせることになるだろうと思う。
このウォールデンの実験生活は私のこの種の第二回目の試みで、それをもっと詳細に述べてみようと思う。便宜《べんぎ》上、二年間の経験を一年にまとめることにする。前述のように、私は落胆に寄せる賦《ふ》を書こうというのではない。たとえ隣人たちを見覚めさせるだけでも、止まり木にとまる朝の雄鶏のように力いっぱい、誇らかに歌おうと思う。
初めて森の中に居を構えた時、すなわち昼だけでなく夜もそこで過ごすようになった時は……偶然にもその日は一八四五年七月四日、独立記念日であった……まだ家は冬仕度もできておらず、雨をしのぐ程度のもので、漆喰《しっくい》も塗っていなければ煙突もなく、壁も荒削りの風雨にさらされた板で大きな隙間があり、冬は寒かった。まっすぐな白く削った間柱《まばしら》、鉋《かんな》をかけたての戸や窓枠が、とくに朝、木材がまだ露にぬれている時分には家を清潔でいかにも風通しよく見せ、昼までには香りの良い樹脂がにじみ出ているような気がした。この家が一日中この夜明けの特性を多かれ少なかれ持ち続けるように想像されて、前年訪れたある山の家を想い出させた。これは風通しの良い、壁の塗っていない小屋で、旅神をもてなすにふさわしい、また女神が衣装の裾《すそ》を引きずって歩きでもしそうなものであった。私の住まいの上を過ぎる風は山の背を吹き渡る風にも似て、地上の音楽はとぎれとぎれに、あるいはその天上的な部分だけが聞こえた。朝の風は永遠に吹き続け、創造の詩はとぎれることがない。だが、それを聞く耳を持つ者は少ない。オリンポスの神山は、俗界をわずかに離れて、いたる所にあるのだ。
以前私が持っていた家といえば、ボートをのぞくと夏、遠足の折にときどき利用したテントだけで、これは今も巻いて屋根裏部屋に入れてある。だが、ボートの方は次々と人手に渡った後、時の流れに流されてしまった。このいちだんとしっかりした身を寄せる場所を得て、私は世の中にじっくり腰を落ち着ける方向にいくぶん前進していた。このじつにささやかに衣をまとった建造物は、私のまわりにできあがった一種の結晶体ともいうべき物で、建てた私に逆に作用を及ぼすのだった。それは輸郭だけの画のようにいくぶん暗示的であった。新鮮な空気を吸おうと戸外に出る必要もなかった。家の中の空気がまったく新鮮さを失っていなかったからだ。最もひどい雨の時でも、私が坐っていたのは家の中というよりも戸の後ろという方が当たっていた。ハリバンサ〔サンスクリットの詩篇の一つ〕に、「鳥のいない住まいは、味つけしてない肉のようなもの」とある。私の住まいはそんなものではなかった。自分がたちまち小鳥の隣人となっているのが分かるのだから。それも小鳥を鳥篭《とりかご》に閉じ込めておいてではなくて、私自身が小鳥の近くで篭に入っていてのことである。ふつうよく庭や果樹園にやってくる種類のものはもちろん、村人には決して、あるいはめったにセレナーデを歌って聞かせない、もっと野性的でもっと胸|躍《おど》らせる森の鳴き鳥……モリツグミや、ビーリ〔ツグミ〕、ベニフウキンチョ、ノスズメ、ヨタカ、その他多くの小鳥たちといっそう近づきになった。
私は小さな池の岸に座り込んだ。この池は、コンコードの村から南へ約一マイル半、そこよりはいくぶん高く、その町とリンカーンの間に広がる大きな林の真ん中にあって、われわれの唯一の有名な古戦場、コンコード古戦場からは約二マイル南である。しかし、私がいるのは林の中の低くなっている所で、他の部分と同じく林におおわれている半マイル離れた対岸が視界の限界であった。最初の一週間は、池を見渡すたびにそれが山腹の高い所にある山上湖で、底が他の湖の水面よりはるかに高いように感じた。日が昇るにつれて池が夜霧の衣を脱ぎ捨ててゆくのが見られ、柔らかなさざ波、光を反射する滑らかな湖面があちこちにしだいに現われてくる。一方、霧はまるで幽霊たちが夜の秘密の集まりを終えて帰ってゆくかのように、音もなく四方八方へと森の中にかき消える。霧さえもが山腹の霧のように他の場所より日中遅くまで木々に残っているようであった。
この小さな湖は、八月の穏かな雨風の合間には隣人として最も価値あるものとなる。その時は空気も水も完全に静まりかえっているのに空は曇り、真っ昼間の午後でも夕方の落ち着きがあって、ツグミがあたりに鳴き、それが岸から岸へと聞こえてくる。このような湖は、こうした時間に最も滑らかなものである。湖水の上は澄んだ空気の層は薄く、雲が垂れ込めてあたりを暗くし、光と反映とでいっぱいの水面それ自体がそれだけいちだんと威厳のある、地上の天となっている。最近伐り拓かれた近くの丘の頂上からは、池を越えて南の方に、そのあたりの岸をなしている丘と丘との間の広いくぼみをとおして、快い展望が開けていた。そこでは左右の丘が向かい合って傾斜しており、木の茂る谷間をかなたへ流れる流れがあるように思われたが、実際は流れていなかった。
その方向に、近くの緑の丘と丘との間から、またそれらの丘越しに地平線上の青みを帯びた遠くの、さらに高い丘が見られた。実際、爪先立ちをすれば西北にあるもっと青みがかったいっそう遠くの山並みの若干の峰……天がみずからの造幣局で造った真っ青な貨幣……と、それに村の一部も瞥見《べっけん》できた。だが他の方角には、この地点からでも、私を取り巻く林を見渡すことも、その先を見ることもできなかった。付近に水があるのは、土地に弾力を与えてそれを浮かせておく意味でよいことである。ごく小さな泉であっても、その値打ちの一つは、のぞき込んでいると、大地は陸続きでなくて島なのだと分かることだ。これは、そこでバターを冷やしておけることにおとらず重要なことである。この高所から池越しにサッドベリー牧場を眺めると……大水の時、おそらく蜃気楼《しんきろう》現象とは思うが、渦巻く谷間にこの牧場がたらいの中の貨幣のように浮かび上がっているのを見た……池の向こう側の土地すべてが、この介在する小さな水面のために、孤立して浮かぶ薄い地殻のように見えて、自分の住むこの大地が<乾いた陸地>にすぎないことに気づいたのだった。
戸口からの展望は、もっとずっと制限されていたが、少しもせせこましいとも窮屈とも感じなかった。牧草地が十分にあって、自由に想像をめぐらすことができたからである。対岸が高く盛り上がって低い潅木《かんぼく》のオーク台地となっている所は、西部の大草原、韃靼《だったん》地方のステップ草原まで続くかとも思われるほどの広がりがあって、人間の放浪家族すべてにたっぷり場所を提供している。「広大な地平線を自由に楽しむ者以外、世の中には幸福者はいない」とダモダラは家畜が新しい、もっと広い牧場を要求した時に言っている。
所と時が一変して、私は私を最も引きつけていた宇宙のある場所、歴史のある時代にいっそう近く住んでいた。私の住んだ場所は、天文学者が夜毎に観察する多くの場所と同じく、はるか遠くに離れていた。われわれは、類《たぐい》まれな楽しい所とは騒音や混乱からはるか離れた星座、カシオペアの椅子のかなた、どこか遠く隔たった、宇宙の中のいっそう天上的な片隅にあるものと想像するのがつねである。私は、自分の家が現実に宇宙の中のそうした引っ込んだ、だが永遠に新しくて汚されることのない部分にあることを発見した。プレアデス星団やヒヤデス星団、アルデバランの星やアルタイルの星に近く住むのを値打ちのあることとするなら、私はじつにそのような場所に住んだのであり、私が後に残してきた生活とはそれらの星のように隔たっていて、最も近い隣人から見ても、ごくかすかな光で遠く小さくまたたき、月の出ない夜にだけ見分けられる、といった場所に住んだのである。私が身をひそめた天地の一角とは、そういう所だった……
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羊飼いが一人生きていた
そして彼の考えを高らかに掲げた
かたわらの羊の群れが
いつも草をはむ丘のように高く
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羊の群れの方が羊飼いの考えよりいつも高い牧場にさまよってゆくようなら、その羊飼いの生活のみじめさはどう考えたらよいものだろうか?
毎日朝は、私の生活を自然そのものと同様に簡素な、またおそらく汚《けが》れのないものとするように気持よく勧めてくれた。私はギリシア人と同じく、誠実なオーロラの崇拝者である。早起きしては池で水浴する。それは一つの勤行で、私の最高の善行のひとつであった。湯王《とうおう》の浴槽の銘《めい》には、「毎日汝を完全に新たにせよ。それを何度も何度も永久に繰り返せ」という意味の文字が刻まれているという。(湯之盤銘曰、苟日新、日々新又日新。「大学」)
私にはそれが理解できる。朝は英雄の時代をよみがえらせる。戸と窓を開け放して坐っていると、空が白みはじめる頃、部屋を飛び抜ける、目には見えず、その姿も想像できない一匹の蚊のかすかなうなりに心を動かされた。それは、高らかに名誉をほめたたえるいかなるラッパの音に負う感動にも劣らないものであった。それはホメロス〔紀元前十世紀頃のギリシアの盲目の詩人。『イリアス』、「オデュッセイア」の作者とされる〕の鎮魂歌《レクイエム》であった。蚊そのものが自分の怒りと放浪を歌って空駆ける『イリアス』であり、『オデュッセイア』であった。そこにはなにかしら宇宙的なものが感じられ、禁じられるまではいつまでも世界の不滅の活力と豊饒《ほうじょう》とを広く知らせていた。
朝、それは一日で最も記憶すべき時であり、目覚めの時である。朝は最も眠けが少ない。少なくとも一時間だけは、昼夜を問わず他の時間にはまどろんでいるある部分も目覚めている。召使いなどに機械的に揺すられてではなく、われわれの守護神によって目覚まされる。工場のベルによってではなくて、天体の奏する音楽の波動と大気中に満ちあふれる芳香にともなわれつつ、われわれ自身の新たに獲得した力と、内から自然にわき上がる熱望とによって、前の晩眠りについた時よりもさらに高揚した生活へと目覚まされる……こうあってこそ夜の暗黒も実を結ぶことになり、それが光におとらないものであることが分かるのだ……こうして始まる一日でなければ、それを一日と呼べるにしても、その一日からは多くを期待できない。毎日毎日の中に、自分が今まで汚し、過ごした時間よりも早い、そして神聖な光輝く時間のあることを信じない人間は、人生に失望して下り坂の暮れゆく道をたどる者である。感覚的な生活が一時休止した後、人間の魂、というよりその諸器官は毎日活力を取りもどし、守護神は、それがどんな崇高な生活ができるかを繰り返しためすのだ。すべて忘れられないような出来事は、朝の時刻、朝の大気の中で起こるものと言いたい。べーダの経典〔インド最古の宗教文学で、四部からなるバラモン教の聖典〕には、「すべての知恵は朝とともに目覚める」とある。詩や芸術、人間の最も美しい、記憶すべき活動はこの時刻に始まる。詩人、英雄、みなメムノン〔ギリシア神話。トロイア戦争でアキレウスに殺されたエチオピアの王〕と同じくオーロラの子であり、日の出にその音楽を奏《かな》ではじめるのである。弾力的な力強い想念が太陽と歩調をともにする者には、一日はいつまでも朝である。時計が何時を告げようと、人々の様子、仕事がどうであろうと問題ではない。朝とは私が目覚めていて、私の中に曙《あけぼの》がある時だ。道徳的向上とは眠けを払いのける努力のことである。うとうとまどろんでいるから、人は一日をこのように粗末に扱うのではないのか? 彼らはそれほどへまな計算をするはずがない。眠けに圧倒されていなければ、何かをなしとげているはずだ。何百人もの人が肉体労働のできる程度に目覚めてはいるが、効果的に知力を働かせるには百万人に一人だけ、詩的もしくは神聖な生活を送るには一億人にわずか一人だけしか、十分に目を覚ましてはいない。目覚めていることは生きていることである。私は、完全に目覚めている人にまだ会ったことがない。どうすればそんな人にお目にかかれたのだろうか?
われわれはあらためて目を覚まし、しっかりと目覚めていることを学ぶべきである。それも機械的な手段などによらないで、夜明けをかぎりなく待ち望むことによってだ。夜明けは、われわれが熟睡していても見捨てたりはしない。意識的な努力で自分の生活を高めてゆく、という人間の疑うべからざる能力ほど心強い事実を私は知らない。ある絵を描き、彫像を刻み、かくして二、三の美しい作品をものにすることができるのは確かに結構なことだ。だが、われわれがそれを通して物を見る雰囲気そのもの、媒体そのものを彫刻し、描くことの方がはるかに輝かしいものであって、実際われわれにはそれができるのである。一日の質というものに影響を与えること、それが最高の芸術である。すべて人は、自分の生活をその細部にいたるまで、自分が最も高揚した厳しい時の観照に値いするものにする任務を課せられている。われわれのもつ低俗な知識をしりぞける時、というより使い切ってしまう時に、この任務をどうしたらなしとげられるか神託が明確に知らせてくれるだろう。
私が森に行ったのは、慎重に生きたい、そして人生の本質的な事実にだけ臨んで、人生が教えようと持っているものを学び取れないものかどうかを知り、死ぬ時になって自分が生きなかったことを発見するようなことがないようにしたい、と思ったからであった。人生でないものは生きたくなかったのである。生きることはそれほど大切なのだ。また、万やむをえない場合の他は、あきらめることもしたくなかった。深く生きて人生の精髄を残らず吸い出し、人生でないものはすべて追い散らすほどたくましく、スパルタ人のように生き、幅広く根元まで草を刈り取ってよく見きわめ、人生を追いつめて最も本質的なものにまで煮つめ、もし人生があさましいものと分かれば、その全体的な、ありのままのあさましさをつきとめてそれを広く世の中に知らせてやり、それが崇高なものなら身をもってそれを経験して、来世で本当のところを説明できるようにしたいと思ったのである。というのは、たいていの人は、人生が悪魔的なものか神性に彩《いろど》られているものかに関して妙に不確実な状態にあるし、また、「神を賛美し、とこしえに神をいただく」ことが、この世における人間の主要な目的である、と<いくぶん性急に>結論を下してしまっているように私には思えるからである。依然としてわれわれはアリのように卑屈に生きている。寓話の教えるところでは、われわれはずっと昔人間に変ったはずなのに。海岸に住んで毎年春にはツルの攻撃を受けたという、あの小人のようにツルと戦う。それは過《あやま》ちのうえに重ねられる過ち、継ぎのうえに当てられる継ぎだ。われわれの最善の美徳なるものは、よけいな、避けようとすれば避けられる不幸を背負うことから始まる。われわれの生はささいなことによっていたずらに溶解されてしまう。正直な人間には十本の指以上の数をかぞえる必要はほとんどないし、特別な場合でもそれに足の指十本をくわえて数える程度のもので、あとはひとからげにしておけばよい。単純、単純、単純ということだ! 私は言うが、物事はいつも二つか三つにして、百とか千とかにしないことである。百万を数えないで半ダースにしておき、計算書などは親指の爪にでもつけておけばよい。この文明生活という、変化の激しい海のただ中には、雲と、嵐と、流砂と、考慮に入れなければならない無数の条件とがあって、船が浸水して海底に沈み、目指す港に入れずじまいになりたくないなら推測航法で生きてゆかなければならず、成功するにはよほど優れた打算家である必要がある。単純に、単純に生きることだ! 一日三度の食事はやめて、必要な時に一度だけとするがよい。百皿の料理は五皿にするがよい。他もこれに応じて減らすのだ。われわれの生活は小さな州からなっていて絶えず境界が変動するので、当のドイツ人でさえ現在の境界がどうなっているのか分からないドイツ連邦のようなものである。国家自体もこれほどいわゆる国内を改善していながら……ついでながらそれはすべて外面的、皮相的なものばかりだ……国内の多数の家庭のように確固とした計算と目的を欠いているから、家具が散乱してそれ自身の仕掛けた罠につまづき、贅沢と不注意な出費とでめちゃめちゃになった、まさにどうしようもない、太りすぎの施設となっている。
それに対する唯一の救済策は、家庭の場合と同じく厳しい節約と厳格な、スパルタ式をしのぐ簡素な生活、それに志操の高揚である。国家はあまりにも放埓《ほうらつ》すぎる。人々は<国家が>商取り引きをし、氷を輸出し、電話で話し、乗物で一時間に三十マイルも走る必要があるものと考えていて、<自分たち>がそうしているかどうかは疑ってみない。だが、われわれはヒヒのように生きるべきか、人間らしく生きるべきかとなると、少々はっきりとはしていない。枕木を切り出さず、レールを作らず、日夜その仕事に打ち込むことをせず、ただ<生活>を改善するために<生活>をいじくり回していたら、誰が鉄道を建設するのか? そして鉄道が敷かれなければ、どうやってしかるべき時に楽しい天国に着けるのか? だが、家で自分の仕事に打ち込んでいれば、誰が鉄道など必要とするだろう? われわれが鉄道に乗るのではなくて、鉄道がわれわれの上を走るのだ。鉄道の下に横たわる、あの枕木が何かを考えたことがあるか? 一本一本の枕木がアイルランド人であり、アメリカ人であり、人間なのだ。レールが彼らの上に敷かれて彼らは砂でおおわれる。車両がその上を滑らかに走る。確かに彼らはしっかりした枕木(sound sleeper)、すなわちぐっすり寝込んでいる人たちだ。数年ごとに新しい人たちが大勢下に敷かれて、汽車がその上を走る。つまりレールの上を走って楽しむ人がいれば、他の人たちはその上を走られるという憂き目を見ることになる。寝ぼけて歩いている男、すなわち、あるべき場所にない余分の枕木の上を走って彼の目を覚ませでもすると、彼らはとつぜん汽車を止めて、まるで例外的な出来事のように騒ぎ立てる。枕木《スリーパー》、すなわち|眠れる人《スリーパー》たちを常態でその床にきちんと寝かせておくためには、五マイルごとに一団の人々を配置しておく必要があると知って私はうれしい。それは彼らがいつかふたたび起き上がるしるしだから。
なぜわれわれはこうもあわただしく生きて、人生を浪費しなければならないのか? 空腹になる前から餓死するものと決め込んでいる。今日の一針は明日の十針、などと言う。そして、明日の九針を節約するために今日千針を縫う。<仕事>の方はどうかといえば、何も重要な仕事などしてはいない。舞踏病にかかっていて、頭を休めておくことができない。火事だ、と私が教区の鐘の紐《ひも》を二、三度ひょいひょいと、つまりたいしてガランガランさせないで軽く引くだけで、今朝方はあんなに何度も仕事に追われていると言い訳をしていた男でも、コンコードのはずれにある農場で仕事を続けている者はまずないし、子供も女も、と言ってよいほど、みなが何もかも放棄して鐘の音に飛び出してくる。それも炎の中から家財道具を運び出すのがその主な目的なのではなく、じつのところを告白すれば、燃えるのを見るのがずっと大きな目的なのだ。それはどうしても燃えてもらわなければならないし、また……ここが大切なところなのだが……火をつけたのは私たちではないのだから。あるいは火事が消されるところが見たいのであり、格好よくやれるものなら、ひと働きして手伝ってやりたいのである。たとえ教区の教会そのものが火事であっても同じ調子だ。人は食後三十分の昼寝もほとんどしないが、昼寝をしても目を覚ますと決まって頭をもたげて、まるで他の人たちが彼の眠っていた間、見張り番でもしていたかのように「変った事はないか?」と聞く。半時間ごとに起こすように言いつける人もいるが、それはどうも他に目的があってのこととは思われない。そして、起こしてもらったお返しに見た夢を話してやる。夜の眠りの後では、ニュースは朝食と同様欠かせないものなのだ。
「ねえ、この地球上のどこかで人間に起こった、何か目新しい事を話してくれよ」……というわけで、コーヒーとロールパンを口にしながら、男が一人、今朝ワチト川〔アメリカ、アーカンソー州の温泉近くにある川〕で目玉をえぐられた〔または金を巻き上げられたの意〕という記事を読む。一方、自分がこの世の暗い、奥の知れない巨大な洞窟に住んでいて、発育不全の片目しか持っていないことなど夢にも知らずにいる。
私としては、郵便局などなくてもいっこうに困らない。そこを通じて重要な通信連絡をするのはきわめて数少いと思う。批判的に言うなら、郵便料に値いする手紙は……このことは数年前に書いておいたが……生れてこのかた一、二通しか受け取ったことがない。なんとなく考え込んでいる人に「考えていることを教えてくれれば一ペニー進呈」とよく冗談を言うものだが、一般に一ペニー郵便制度なるものは、人が考えていることに対して何回でも冗談に提供できるその一ペニーを、本気でその人に提供するという制度である。また、確かに私は新聞で記憶すべきニュースを一度も読んだためしがないように思う。男が一人、やれ物盗《ものと》りに遇《あ》った、やれ殺された、やれ事故で死んだとか、家が一軒焼けた、船が一隻難破した、汽船が一隻爆発した、牛が一頭西部鉄道でひかれた、狂犬が一匹|撲殺《ぼくさつ》された、バッタの一群が冬に現われたといった記事は一度読めば十分で、他の似たような記事はまったく読む必要がない。原則だけを知れば、無数の実例、応用は望む必要がないのではないのか? 達観した人にとっては、いわゆるすべての<ニュース>は、うわさ話にすぎないものであり、それを編集して読むのは茶飲み話に興するおばあちゃん連中のすることだ。
ところが、このうわさ話をがつがつ追っかけ回す人が少なくない。耳にしたところでは先日、ある事務所に、最近到着した外国のニュースを知ろうと大勢が押しかけて、そこの大判ガラスが数枚押し壊されたそうだ。気の利いた人ならそんなニュースは一、二ヶ月、あるいは十二年も前に十分な正確さをもって書けたのではないか、と私は真面目に考えている。たとえば、スペインのことならドン・カルロス家、王女、ドン・ペドロ、セビィラ、グラナダ……私が新聞を読まなくなってから多少名前は変っているかも知れないが……などの文字をところどころに適宜さしはさむ術を心得ていれば、また他の娯楽が不足のようなら闘牛を持ち出せば、その記事は文字通り真実なものとなって、新聞でこの見出しの下に扱われる最も簡潔明快な報道にもおとらずスペインの正確な事態と荒廃ぶりを伝えてくれるものになるだろう。
イギリスについていえば、その方面からのほとんど最後の重大なニユースは、一六四九年の革命のニュースである。この国の例年の収穫の歴史さえのみこんでいれば、その思惑がたんに金銭的な性格のものでないかぎり、繰り返し気を配る必要はまったくない。めったに新聞をのぞかない者が判断するなら、外国方面でも目新しいことなど何も起こるものではないように思われるし、フランス革命も例外的に珍しいという事件ではない。何がニュースだ! 古くなったことの決してないものは何か、を知ることの方がどんなに数段も大切なことか!
「衛の大夫伯玉が近況を知るため、孔子のもとに人を遣わした。孔子は使者をそば近くに坐らせてたずねた。ご主君は近ごろ何をしておられるか? 使者はうやうやしく答えた。主人は自分の過ちを少なくしたいと望んでおりますが、過またずに過ごすことがなかなかできずにおります。使者の去った後、聖人は言った。なんと立派な使者だ! なんと立派な使者だ!」〔論語巻第七「憲問」第十四の二五〕
一週間の最後の休息日には……日曜日という日は、むだに過ごした一週間のふさわしい結末であり、新しい週の新鮮な力強い始まりではない……牧師はだらだら間延びした説教で眠そうな農夫たちの耳を悩ますかわりに大声で叫ぶがよいのだ……「止まれ! 待て!見かけはそんなに急いでいるのに、実際はなぜおそろしくのろのろしているのか?」と。
見せかけ、まやかしが最も信頼できる事実として尊重され、真実は作り事とされる。人間がしっかりと真実だけを注視して、自分を欺《あざむ》かれるにまかせておかなければ、人生は、われわれの知るものに譬《たと》えるなら、お伽話やアラビヤ夜話にも似たものとなろう。必然的な、存在する権利のあるものだけを尊重するならば、音楽と詩が通りに鳴り渡ることだろう。あわてふためくことなく賢明である時には、偉大で価値あるものだけが恒久的、絶対的存在であること……つまらない恐れやつまらない快楽は真実の影にすぎないことを看取する。これはつねに爽快で崇高なことだ。人は目を閉じてまどろみ、甘んじて外観に欺かれては型にはまった習慣的な日常生活をいたるところに築き上げ、固定する。しかし、それはやはり純然たる虚構を基礎として打ち立てられているものである。子供は遊び暮らすが、人生の真の法則や関係を大人よりもはっきりと識別する。大人は経験、すなわち失敗することでいっそう賢明になったと思い込んで、人生を立派に生きることができないのだ。インドの書物でこんなことを読んだことがある。
「昔一人の王子がいた。幼少の頃、生まれた町から追い出されて森の樵夫《きこり》に育てられた。そうした境遇のなかで成人したので、自分を一緒に暮らす蛮族の一人だと思っていた。ところが、彼の父に仕える大臣の一人が彼を発見し、彼が何者であるかを教えた。かくて自分の素性についての誤った教えは取りのぞかれ、彼は自分が王子なることを知った。このように人の魂は、」とインドの哲人は続けて「その置かれている環境から自分の素性を誤解するものであり、誰か聖なる師によって真実が明らかにされて初めて自分が<神格>なることを知るのである」と言っている。
われわれニューイングランドの住民は物事の洞察《どうさつ》が皮相的にしかできないから、こうした下等な生活を送っているのだと私は考える。われわれは、あるように<見える>ものがすなわち<あるもの>、と思い込む。もしこの町を歩き回って真実のみを見ようということになれば、このコンコードの目抜き通り「ミル・ダム」など、どこに吹っ飛んでいってしまうと思うか? そこで見た真実について人が話してくれるとすれば、彼の話の中にはその場所など出てこないだろう。集会所でも、裁判所でも、監獄でも、商店でも、住宅でも、まあ見てみるがよい。真の凝視の前では、そうした所がじつは何であるのかを言ってみよ。それらはすべて君の叙述の中ではばらばらに消えてしまうことだろう。人間は、真理をはるか太陽系の果て、最も遠い星の背後、アダム以前、最後の人間の後にあるものと考える。永遠というものにはなるほど真実で崇高な何かがある。しかしすべてこれらの時は、所は、機会は今、ここにあるのだ。神自身といえども、その神性はこの現在の瞬間においてその絶頂にあるもので、今から経過するいかなる時代においても現在をしのぐことは決してあるまい。われわれは、周囲の真実を不断に染め込まれ、またそれに浸されることによって、初めて崇高で高貴なものすべてを感得できるのである。宇宙は絶えず素直にわれわれの思索に応答してくれる。急いで進むにせよ、のろのろ進むにせよ、軌道はわれわれのために敷かれている。それなら思索に生涯を費そうではないか。詩人や芸術家が非常に美しく気高い構想を抱けば、少なくともその後の世で子孫の誰かが必らずそれを完成させてきたのだから。
一日を自然と同様、慎重に過ごそうではないか。そして、クルミや蚊の羽根が線路に落ちたからといっては脱線するようなことがないようにしよう。朝は早く、しかもすばやく床を離れ、心静かにうろたえず朝食をとろう。客はその去来を彼らにまかせ、鐘は鳴るに、子供は泣くにまかせておこう……断然自分の一日を送るのだ、という覚悟で。なぜすっかり屈服してしまって流れに押し流されなければならないのか? 正午の浅瀬に陣取っている、昼食と呼ばれるあの恐ろしい急流と渦《うず》に落ち込んで圧倒されないようにしよう。この危険を切り抜けさえすれば、あとは下り坂だから安全である。緊張した神経と朝の活力とをもって、他の方向にも目を配りながら、ユリシーズ〔ギリシア神話。イオニア諸島中の島イタカの王で、ホメロスの大叙事詩『オデュッセイア』の主人公オデュッセウス。半人半鳥の海の精セイレネスの歌による死への誘惑を耳に蝋《ろう》を詰め、身をマストに縛りつけて免れた〕のようにわが身をマストに縛りつけて誘惑を切り抜けるのだ。汽笛が鳴るなら喉《のど》の痛みでかすれるまで鳴らせておけ。鐘が鳴っても駆け出すことはない。そうした音がどんな種類の音楽に似ているかを考えることにしよう。じっくり腰をすえて働き、意見、偏見、伝統、欺瞞《ぎまん》、外観の泥とぬかるみをとおして、パリからロンドン、ニューヨーク、ボストンからコンコード、教会から国家、そして詩、哲学から宗教、と全地球をおおっているあの表土をとおして、しっかり両足を大地に着けよう。そしてわれわれが<真実>と呼ぶかたい基底とそこに根づいている岩石に足がたっしたら、これだ、間違いない、と言おう。それから出水や霜や火の下にしっかりした<拠り所となる基盤>を求めたうえで、安全に壁や国家を築いたり、電柱を立てたりする場所を準備するとしよう。あるいは、見せかけや外観の出水がその時々にどれくらい深さがあったかを後世に知らせるために、ニロメーター〔ナイル川の水探測定装置。ニロの語義から「無」の測定装置の意もある〕ならぬリアロメーター〔真実測定装置の意の造語〕の測定器を仕掛けよう。事実と真正面に向き合って立てば、偃月刀《えんげつとう》のように日光がその両面に光るのが見え、その鋭利な刃が心と骨髄《こつずい》を断ち割るのを覚えて、めでたくこの世の生涯を閉じることにもなろう。生死は問わず、われわれは真実を求めるのみである。もしも事実死にかけているのなら、喉にゴロゴロ喘鳴《ぜいめい》を聞き、手足の冷たさを感じようではないか。もし生きているのなら、なすべき仕事に取りかかろう。
時は私が釣りに行く流れにすぎない。そこで私は水を飲む。けれども飲みながら砂の底を見て、いかに浅いかを知る。ささやかな流れは滑るように流れ去るが、永遠は残る。私はもっと深く飲みたい。底に星の砂利を敷きつめた大空で釣りをしたい。私は一を数えることができない。アルファベットの最初の文字すら知らないのだ。私は生れた時ほど賢明でないことをいつも残念に思ってきた。知性は大きな庖丁である。それは物事の秘密を見分けてその中に切り込んでゆく。私は必要以上に手先を忙しく動かしたくない。頭が手であり、足でもあるのだ。最高の能力がすベてその中に集中して組み込まれているのを感ずる。ある種の動物が鼻面と前脚で穴を掘るように、私の頭がそうする器官であることを本能は教えてくれる。それを使ってこれらの丘にわが道を掘り進んで行きたいのだ。どこかこのあたりに最も豊富な鉱脈があるように思う。占い棒〔通例ハシバミの枝で作るY字形の棒で、地下の鉱脈や水脈探査に用いた〕と、かすかに立ちのぼる水蒸気からそう判断する。さあ、これから掘りはじめよう。
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読書
自分が追求しようとすることをもう少し慎重に選択すれば、人はみな本質的に研究者、観察者となるだろう。自分の性質や運命に対しては、確かに誰でも同じく興味をもっているからだ。自分自身や子孫のための蓄財、一家または一国家の創建、そして名声を獲得することでも同じだが、そうしたことに打ち込んでいても、いつかはわれわれは亡びるものである。だが、真理を対象として扱っているかぎりわれわれは不滅であり、変化も、思わぬ出来事も恐れる必要はない。大昔のエジプト、インドの哲人は、神の像をおおっているベールの一方を持ち上げて真理を見ようとした。そして、今もなおその揺れそよぐ衣はもち上げられたままで、哲人が見たのと同じ新鮮な栄光を私は見る。遠いその昔、勇敢にその衣を持ち上げたのは哲人の内なる私であったし、今その姿を見ているのは私の内なる彼だからである。その衣には塵一つ積っていない。衣がもち上げられて神がその姿を現わして以来、時は少しも経過していないのだ。われわれが本当に善用する、または善用できる時とは過去でも、現在でも、また未来でもない。
私のすみかは、思索だけでなく、真面目に読書するにも大学以上に好都合であった。私は通常の巡回図書館の巡回範囲外に住んでいたが、かの世界中を巡回する本、最初は樹皮に書かれ、現在はただときおり亜麻紙に複写されるものの影響をそれまでになく強く受けた。詩人ミル・カマル・ウディン・マストは「坐しながらにして精神界を駆けめぐること……この利得を私は本で得た。わずかグラス一杯の酒に酔うこと……この楽しみを私は深遠な教義の酒を飲んで経験した」と言っている。時たまページに目をやるだけではあったが、ホメロスの『イリアス』〔トロイア戦争をうたった長編叙事詩〕は、夏の間ずっとテーブルに載せておいた。家を完成させ、同時に豆の手入れもしなければならなかったので、初めのうちは絶えず手を動かしている必要があり、それ以上は勉強もできなかった。それでも、今にうんと読書ができるぞ、という予想で自分を励ました。仕事の合い間に浅薄な旅行記を一、二冊読んだが、やがてそんなことをする自分が恥ずかしくなり、<おれ>が今住んでいるのはいったいどこなのか、と自問するのだった。
学究は遊興や贅沢という危険をともなうことなくホメロス、アイスキュロス(紀元前五二五〜四五六。ギリシアの悲劇詩人)をギリシア語で読むことができる。その読書は、彼がある程度本の中の英雄たちと負けるものかと競い、朝の数時間をそのページに捧げることを意味しているからだ。英雄時代の本は、たとえわれわれの母国語で印刷されていても、堕落した時代にとってはつねに不可解な言語で書かれているようなものだろう。通常の語法が許す以上の広い意味を現にわれわれが持つ知恵、勇気、寛大さから推測しながら、各語各行の意味を苦労して突き止めてゆかなければならない。現代の安っぽい、多産な印刷では、あらゆる翻訳はあるものの、われわれを古代の英雄物語作家に近づけるのにほとんどなすところがない。作家たちは相変らず孤独で、その印刷されている文字は相変らず珍しい、奇妙なものに見えるだけである。古代語の単語をわずか数語覚えるだけでも、青春時代と貴重な時間を費す値打ちがある。それは街頭の些事《さじ》を超越させて、不断の示唆と刺激になるのだから。農夫が聞いたことのある少数のラテン語を思い出して、繰り返し口にするのはむだなことではない。古典研究もやがてはもっと現代的、実際的な学問にその道を譲るようなことをときどき人は言っているが、どんな言語で書かれていようと、またどんな古いものであろうと、前向きの学究ならいつも古典を研究するだろう。古典が人間の最も崇高な記録された思想でなくて何であろう? それは朽ちずに残る唯一の神託であり、デルフォイ〔アポロの神殿があった古代ギリシア都市〕でのアポロの神託、ドドナ〔ギリシア北西部の古都。ゼウスの神託所があった〕でのゼウスの神託も与えたことのないような、最も現代的な問いかけに対する解答がその中に含まれている。古典の研究を放棄しようとすることは、自然は古いから、と言ってその研究を放棄するようなものである。善く読むこと……すなわち真の本を真の精神で読むこと……は高尚な修練で、今日の習慣が尊重するいかなる修練よりも読む者に努力を課すものである。それは、運動選手が耐える訓練、ほとんど全生涯にわたってこの目的に向かって堅忍不抜《けんにんふばつ》の意志を持つことを要求する。本は書かれた時と同じようにじっくり、慎しみ深く読まなければならない。その本を書くのに使われている国語が話せてすら十分ではない。口語と文語、聞き言葉と読み言葉の間には著しい隔たりがあるからだ。一方は通常一時的なもの……音、談話、たんなる方言で、ほとんど動物的と言ってもよく、われわれは動物のように無意識にそれを母親から学ぶ。他方はそれが完熟したもの、経験をへたものである。それが母の言葉なら、これは父の言棄であり、耳で聞くには深遠な意味がありすぎるし、話すためには生れ変ってこなければならない、取っておきの選ばれた表現である。中世にラテン語、ギリシア語をたんに<話した>だけの大衆は、偶然に生を受けることでそれらの言葉で書かれた天才の諸作品を<読む>資格を得た、というわけにはいかなかった。それらの作品は彼らが知っているギリシア語、ラテン語で書かれてはおらず、えり抜きの文学の言葉で書かれていたからだ。彼らはギリシア、ローマのさらに気高い方言は学んでいなかったし、その方言で書かれた材料そのものも彼らには紙屑《かみくず》同然で、かわりに彼らは安直な同時代の文学をもてはやした。ところが、ヨーロッパの数ヶ国が自分たちの文学を興すに十分な、粗野ながらもまったく異なる文語を獲得すると、学問は初めて復興することになり、学者は遠い昔の時代からその古い宝を見分けることができるようになった。ローマ、ギリシアの大衆が<聞く>ことのできなかったものを、いくつも時代をへたのちに少数の学者が<読み>、そして今なお少数の学者が読んでいるのである。
ときおり聞かれる演説家のほとばしる雄弁をどんなに賞賛しようとも、最も気高い書き言葉は、通常、星をちりばめた天空が雲のかなたにあるように、はかない話し言葉のはるかかなたに、あるいはそれを越えた所にある。<かなた>に、星はある。そして読める者は読んでよいのだ。天文学者は絶えずそれを解説し、観察する。それは日常の対話とか、はかなく消える息のような発散物ではない。公開の場での雄弁と呼ばれているものは、書斎の修辞を振り回しているのがふつうである。演説者はその時々の感動に身をまかせて自分の群集に、彼の言うことを<聞く>ことのできる者に話しかける。だが作家はもっと穏やかな生活をよりどころとしていて、演説者を動かす事件や群集にはかえって心を乱されるのであり、人類の知性と心に、彼を<理解>できる人なら時代を問わずあらゆる人に話しかけるのである。
アレキサンダー大王〔紀元前三五六〜三二三。マケドニア王〕が遠征の際、『イリアス』を貴重品箱に入れて持っていったのはなにも不思議なことではない。書かれた言葉は遺品の中でも最もえり抜きのものだ。どんな他の芸術作品よりもわれわれに親しみがあり、同時に普遍的なものである。人生そのものに最も近い芸術作品なのだ。あらゆる国語に翻訳されるし、また、たんに読まれるだけでなく、現実にあらゆる人の唇から音として発せられることもできる……カンバスの上に、あるいは大理石で表現されるだけでなく、生命の呼吸そのもので刻み出されることもできる。古代人の想念のシンボルが現代人の口から言葉となって発せられるのである。二千年間の夏は、ギリシア文学という記念碑に、その大理石にそえたと同様、いっそう成熟した金色《こんじき》の秋の色合いをそえただけだ。夏はその持てる落ち着いた天上的な雰囲気をあらゆる国に運び込んで、時の侵食作用から国々を保護しているのだから、本こそは世界の秘蔵の財産であり、各世代と国家の貴重な遺産である。
本というものは、最古最善のものであれば自然に、また当然各家庭の棚に置かれるようになる。書物は訴えるべきそれ自身の主張がなくても読者を啓発し、励ましてくれるから、読者の常識は本をこばまない。その著者はあらゆる社会における自然で抵抗すべからざる貴族であり、王や皇帝以上に人類に影響を及ぼす。無学でおそらく学問というものに冷笑的な商人も、冒険心と勤勉さで熱望していた暇と独立をわがものにして、さて富と流行の社会に仲間入りを許されると、最後は必然的に知性と才能の、あのいっそう高尚で到達しがたい社会に目を向けるようになり、その結果自分の教養の不完全さ、持てる富すべての空しさと不十分さだけが感じられ、さらに進んで、自分がその不足を痛感している知的教養を子供が身につけられるようにと骨を折ることでその良識を示す。こうして彼は一家の創建者となるわけだ。
昔の古典を、それが書かれている国語で読むことを身につけていない人は、人類の歴史についてきわめて不完全な知識しか持っていないはずだ。われわれの文明そのものが古典の翻訳と見なされなければ、古典がいまだかつてどんな現代語にも翻訳されていないことは明らかだからだ。ホメロスは英語で印刷されたことがなく、アイスキュロスも、またウェルギリウス〔紀元前七〇〜一九。ローマの詩人。長編叙事詩『アエネイス』の作者〕さえも同様である……彼らの作品はほとんど朝そのもののように洗練され、構成のしっかりした美しいものだ。後世の作家となると、その才能をなんとほめたたえようが、昔の作家の入念に仕上げた美と完成度、生涯をささげた英雄的な文学の労作と肩を並べることは、もしあっても稀《まれ》である。そうした昔の作品を知らない者だけがそれを忘れることを口にするのだ。そうした作品に心を傾けて、その鑑賞を可能にさせる学問と才能を自分のものにしてから忘れても決して遅くはないだろう。古典と呼ばれる遺産や、それよりさらに古くて古典的であってもそれほど知られていない各国の経典がいっそう広く収集されて、バチカンのような宮殿がベーダ、ゼンドアベスタ〔ゾロアスター教の経典〕、聖書の類、ホメロス、ダンテ、シェイクスピアのような作家の作品で満たされ、来たるべきすべての世紀がその獲得した成果を継続的に世界の広場に積み上げる時、その時代は真に豊かな時代となるだろう。そのような積み重ねによって、われわれもついには天上に昇ることを望みうるのだろう。
偉大な詩人の諸作品は、人類によっていまだかつて読まれたことがない。偉大な詩人だけが読むことができるからである。読まれたとしても、それは大衆が星を読み取るように……天文学的にではなく、せいぜい占星術的に……読まれたにすぎない。帳簿をつけて商売でごまかされないようにしよう、と数字を覚えたように、大方の人は凡俗な便利さに役立つようにと読むことを学んだ。だが高尚で知的な働きとしての読書についてはほとんど、あるいはぜんぜん知らない。一つの贅沢としてわれわれをなだめすかして、さらに高尚な能力をその間眠らせておくものが読書なのではなく、そのためには爪先で立って、最も油断なく目を見開いている時間をささげなければならないもの、これだけが高い意味での読書である。
文字を覚えた後は、文学の最高の作品を読むことが必要で、四年生、五年生になりながら、相《あい》もかわらずaとかbとかabとかと一音節の語ばかり繰り返し、生涯最も低い最前列の椅子に坐っているべきではないと考える。たいていの人は一冊の優れた本、すなわち聖書を読んで、あるいは人が読むのを聞いて、聖書の英知で自分の罪を悟らされるとそれで満足してしまい、残りの生涯を無為単調に過ごし、いわゆる安易な読書で自分の能力を空費する。われわれの所にやってくる巡回図書館に「|小さな読み物《リトル・リーディング》(Little Reading)」という標題のついた数巻からなる作品があるが、この本は私がまだ行ったことのないそういう名の町〔コンコードから二十マイル以内にレディング[Reading]とノース・レディング[North Reading]という町がある〕のことを書いたものだと思っていた。
肉と野菜との食事をたっぷりとった後でも、なお鵜《う》やダチョウのように貪欲《どんよく》にこの種の読み物をすべて消化できる人がいる。彼らは何であろうとむだにするに忍びないのだ。書く側が作品というこの食料を供給する機械なら、そういう人たちはそれを読む機械である。彼らはゼビュロンとセフローニア〔当時、流布していた読み物の登場人物〕の第九千番目の物語を読む。二人がそれ以前には誰も愛したことがないほど愛し合い、しかも、その真実の恋の道が滑らかではない様子を読む……とにかくその恋愛がどう進行し、つまずき、ふたたび起き上がっては進行していったかを読むのだ! また、ある哀れな、不幸な男が尖塔《せんとう》まで登ってゆく様子を読む。鐘楼まですら登らない方がよかったというのにだ。いい気な小説家は必要もないのに男をそこまで登らせておいて、今度は鐘を鳴らして世界中の人を呼び集めたうえ、おやおや、男がふたたび降りてくる様子をまた読ませるのだ! 私なら昔、作家がよく英雄たちを星座の間にすえたように、作家は一般的な小説の世界で見られる、そうしたやたらと上に登りたがる主人公たちをいっそのことみな人間の風見車にでも変身させて、錆《さび》つくまでグルグル回らせておく方がましだと思う。またもや彼らを下に降ろして、ふざけた手法で正直な読者を悩ませない方がいいと思うのだ。この次に小説家が鐘を鳴らしたら、教会堂が焼け落ちても腰をあげるものか、と思っている。「かの有名な『テイットル・トル・タン』の著者による中世のロマンス『テイップトー・ホップの跳躍』月に分けて刊行。注文殺到。一括《いっかつ》の注文には応じられません」こうした読み物をすベて彼らは目を皿のようにして、張りつめた幼稚な好奇心と疲れを知らない胃袋をもって飲み込むように読む。胃のひだに刺激など与える必要のない食欲であり、ちょうどベンチに腰をおろした四歳の小さな子供が二セントの金ぴか表紙の『シンデレラ姫』に読みふけっている図である……分かり切ったことだが、子供たちには発音もアクセントも強調も進歩が見られないし、教訓を引き出したりさしはさんだりする技能も向上しない。その結果は視力の減退、血行の停滞、あらゆる知的機能の全般的な衰えということになる。この種の低俗作品という菓子パンは、純粋な小麦粉やライ麦とコシ粉のパンよりもせっせと毎日ほとんどどこの竈《かまど》でも焼かれていて、いっそう確かなさばけ口があるのだ。
最も優れた本は、立派な読者と呼ばれる人たちにすら読まれていないものだ。われわれの町コンコードの教養はどの程度に達しているだろうか? ごくわずか例外はあっても、この町では、誰でも読み書きのできる言葉で書かれている英文学においてすら、最良の本、またはきわめて優れた本への趣味が見られない。この地や他の土地で大学を出た人でも、いわゆる高等普通教育を受けた人たちでも、英語の古典にはまことに貧弱にしか、あるいはぜんぜん通じていないありさまだ。また記録された人類の英知である古典や聖書の類については、知ろうとする意志さえあれば誰にでも入手できるのに、それらに親しもうとする努力はどこを見ても足りない。私は中年の樵夫《きこり》を知っているが、彼はフランス語の新聞を取っていて、その言うところによると、それはニュースを読むためではなく、そんなことよりも、生まれがカナダなのでフランス語を忘れないように「絶えず練習する」ためだと言う。この世でできるいちばん良いと思うことは何だ、ときくと、この他では英語を忘れないようにしてもっと覚えることだと言う。これは大学出の者がふつうにする、またはしようとあこがれることにほぼ匹敵《ひってき》し、彼らはその目的のために英語の新聞を取るのだ。最も優れた英語の本を一冊読み終えて出てくる人が、いったいその本について語り合える人を何人見つけられるだろうか? あるいは、いわゆる無学な者でもそれへの賛辞をよく耳にするようなギリシア、ラテンの古典を彼が原語で読んできたところだとしよう。彼は話しかけられるような人をまったく見つけることができず、その本については沈黙を守らなけれはならないだろう。実際、一人のギリシア詩人の言語上の難解さは克服しているにせよ、その詩人の機知とか詩趣の難解さも相応に克服し、敏感で英雄的な読者に分かち与えられる共感を持っている教授となると、われわれの大学にはほとんどいない。神聖な各国の経典、すなわち人類の聖者の類となると、この町の誰がその標題だけでも私に教えられるか? ほとんどの人はヘブライ人以外に経典を持つ民族のいることを知らない。一ドル銀貨を拾うためであれば、人はみな、かなり脇道にそれることも辞さない。だが、ここに金言があり、それは昔の最も賢い人たちが口にし、その価値も歴代の先哲がわれわれに保証しているところなのに……それでもわれわれは安易な読み物、入門書、教科書までしか読むことを学ばず、学校を出ると子供や初心者向きの「短編読み物」とか物語とくる。かくてわれわれの読書、会話、思索なるものはすべてピグミー族や小人にのみふさわしい、きわめて低い水準にとどまっていることになる。
私は、このわれわれのコンコードの土地が生んだ人たちよりもっと賢明な人たちと近づきになることを熱望している。このあたりではほとんど名前の知られていない人たちだ。それともプラトンの名を聞いて、その本は読まずにおこうか? プラトンがわが町の人でありながら、一度も彼には会わないといったぐあいに……隣人でありながらその話すのを聞くことも、その言葉の英知に耳を傾けることもしない、といったぐあいにだ。だが現実にはどうか? 彼の不朽なる作品を含むプラトンの『対話篇』は次の棚の上にある。が、私はそれを読まない。われわれは育ちの悪い、低級なる生活に明け暮れする無学者だ。そしてこの点では、じつは私は町のまるっきり読めない人たちの無学さと、子供や低い知能向きのものばかりを読むことを学んだ人の無学さとの間に、なんら明白な区別を立てていないことを告白する。われわれは、古代の優れた人たちと同様に優れていなければならないわけだが、ある程度は、その人たちがどれほど優れていたかをまず知ることから始めなければならないのだ。われわれはちっぽけな種族であり、その知的|飛翔《ひしょう》では日刊新聞の欄からいくらも高く飛びかけるものではないのだ。
その読者と同様、つまらないのがすベての本だというわけではない。中にはわれわれの状況に適切に呼びかける言葉もおそらくあるだろう。本当に、それを聞き、理解できるならば、その言葉はわれわれにとって朝や春よりも健康的であり、ひょっとしたらわれわれのために事物の相貌を一変させることもあろう。いかに多くの人が読書からその生活に新しい時期を画したことだろう。われわれが奇蹟としている事柄を説明し、新しい奇蹟を啓示する本がおそらくわれわれのために存在するだろう。現在言いようのない事が、どこかですでに言い表わされているのを発見するかも知れない。現在われわれを乱し、悩ませ、困惑させているその同じ問題が、かつてはすべての先賢にも順番に起こっていたのである。一つとして省略されずにだ。そして賢人たちはそれぞれ能力にしたがって、その言葉、その生活をもって問題に解答した。さらに、われわれは英知とともに寛大な心も学ぶだろう。生まれ変わりとその特殊な宗教的経験をもち、コンコード郊外で農場に雇われている孤独な男、そして彼の信ずるところによれば、信仰によって静寂な厳粛と独居に駆りたてられているというあの男には、次のようなことは本当とは思われないかも知れないが、ゾロアスター〔六、七世紀頃のペルシア人。ゾロアスター教の開祖〕も数千年前、すでに同じ道を歩み、同じ経験をしていたのである。だが彼は賢明だったので、自分のその経験が万人に共通のものであることを知り、周囲の人々をもそうした考えにしたがって扱い、ついには彼らの間に信仰を創始し、それを確立したとさえ言われている。だからこの孤独な男をゾロアスターと、また優れた人すべてが持つ、人を寛大にさせる影響力によってイエス・キリストその人と謙虚に交わらせて、「われわれの教会」などという我執を捨てさせたらよいのだ。
われわれは自分たちが十九世紀に属し、どこの国にもおとらず長足の進歩をとげていることを自慢する。だが、この村がそれ自身の文化の発展のためには、いかになすところが少ないかを考えてみたまえ。私は村人にこびへつらいたくないし、また、そうされたくもない。そんなことは双方を進歩させないだろうから。われわれは煽《あお》り立てられる必要があるのだ……牛なのだから牛のように棒で追い立てられ、走らされることだ。小学校、たんなる子供向けの学校については、比較的きちんとした制度がある。だが、冬の凍死せんばかりの文化会と、近ごろ州が言い出して滑り出したばかりのちっぽけな図書館以外に、われわれ成人向けの学校というものが一つもない。われわれは肉体の栄養物、もしくは毒となる物ならほとんどどんな物にも精神の栄養物に対する場合以上の出費をする。このあたりで普通学校と違う学校を設けて、われわれが成年男女になりかけた時期に教育から離れてしまうことのないようにすべき時である。村々が大学の役目をはたし、年輩の住民は余生を教養的な勉強に打ち込む余暇をもった……もし本当に裕福なのであれば……大学の校友となってよい時期である。世界はパリ大学が一つ、またはオックスフォード大学が一つと制限されていてよいものだろうか? 学生がこの地に寄宿して、コンコードの空の下で教養的な教育を受けることはできないものか? アベラール〔一〇七九〜一一四二。フランスのスコラ哲学者、神学者〕のような学者を招いて講義をしてもらえないものか? ああ、牛に飼料を与えたり、店番をしたりで、われわれはあまりにも長期間学校から遠ざけられ、その教育はひどく捨ておかれている。この国では、村がある点でヨーロッパの貴族がすることをかわってすべきである。村が芸術の後援者となってしかるべきである。村は十分豊かである。ただ、そうするための雅量と洗練さを欠いているだけだ。農夫や商人連中が高く評価することに村はたっぷり金をかけることができても、もっと知的な人たちがはるかに価値ありと知っていることに金をかけるように提案しようものなら、実行不能な空想と考えられてしまう。幸運だったのか、政治のおかげか知らないが、この町では会堂建設に一万七千ドルを投じたが、その殻の中に納める真の肉なる生きた才知には、百年かかろうとそれだけの金はかけないだろう。毎年冬の文化会に寄せられる百ドルの金は、町で募《つの》るどんな同額の金よりも有効に使われている。十九世紀に生きているのなら、なぜ、十九世紀が提供する便宜を受けてはいけないのか? なぜわれわれの生活がなんらかの点で地方的でなければならないのか? 新聞を読むならボストンのうわさ話など読まないで、ただちに世界で最も優れた新聞を取ったらどうなのか?……この「中立的家庭新聞」というパンの粥《かゆ》をすすり、『オリーブ・ブランチ』〔ボストン・オリーブ・ブランチ紙。メソジスト教会経営で一八三六年創刊〕をむさぼり食ってばかりいないでだ。すべての学会の報告を取り寄せようではないか。そうすれば、彼らに何か知るところがあるかどうか分かるだろう。なぜ読み物の選択をハーパー・アンド・ブラザーズ〔ニューヨークの出版社〕やレッディング社〔ボストンにあった書店〕にまかせておかなければならないのか? 趣味の洗練された貴族が、自分の教養を高めるうえでためになるあらゆるもの、天才……学間……機知……本……絵……彫刻……音楽……理学器機、その他、で自分を取り囲むように、村にもそうさせよう……われわれの祖先ピルグリム・ファーザーズが彼らだけで吹きさらしの岩の上で一冬を過ごしたからといって、いつまでも教師一人、牧師一人、寺男一人、教区図書館一つ、委員三名にとどめておくことはないだろう。集団的に行動することはわれわれの制度の精神にかなっているのだ。また、われわれは貴族以上に環境にも恵まれているし、資力もあると私は信じている。ニューイングランドが世界中の賢人を雇って教えにきてもらい、その間は家々が順番にその人たちの宿を提供して、地方的な立ち遅れから脱することができるのである。これがわれわれの欲しい、普通と違う学校である。貴族を作らないで人々の高貴な村を作ろうではないか。必要なら川に架ける橋を一つはぶいて、そのため少々回り道をすることになっても、われわれを取り巻く無知という暗黒の淵に少くとも一つはアーチを架けようではないか。
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だが、それが最も入念に選び抜かれた一流のものにせよ、本にばかり没頭して特定の書かれた国語だけを読んでいるあいだは、その国語もしょせんは方言で地方的なものであるから、あらゆる事物や出来事が比喩《ひゆ》を使わず直接に語る言語、それだけが豊富な内容を持つ、標準的な言語を忘れてしまう危険がある。あらゆる事物や出来事は多くを語るが、それが本に印刷されるのはわずかしかない。鎧戸《よろいど》からさしこむ光線も、鎧戸が全部取りはずされてしまうと、もはや記憶されないだろう。どんな方法も、どんな修練も、つねに気を配っていることの必要性をなくすることができない。どれほど申し分なく選択された歴史、哲学、詩の課程でも、また最も優れた人との交友、最も見事な生活の手順でも、見るべきものをつねに見るという修練に比較すれば、何の価値があるだろうか? たんなる読書人、学問の徒になろうとするのか? それとも物を見る人になろうとするのか? 自分の運命を読み取り、眼前のものを見るのだ。そして未来に踏み込んでゆくことだ。
最初の夏は読書はしなかった。豆畑の草取りをした。いや、時にはもっと有益なことをしていた。花なら盛りともいうべき現在の瞬間を、手仕事にせよ頭の仕事にせよ、仕事の犠牲になどしてはいられない、と思う時があった。私は人生にゆったりと余裕を持っていたかった。時には夏の朝、いつもの水浴をした後、日の出から正午まで日当たりのよい戸口に坐り、マツ、ヒッコリー、アメリカウルシに囲まれて妨げられることのない孤独と静寂のうちに物思いにふけっていると、鳥があたりでさえずったり、音もなく家の中を飛び抜けたりした。やがて、西の窓からさしこむ夕日と遠くの街道を走る旅行者の車の音で時がたったことに気づくのであった。そんな時、私は夜間のトウモロコシのように成長していた。そうして過ごした時間は、どんな手仕事をした時よりもはるかに有益であった。それは私の人生から差し引かれる時間ではなく、その分だけ普通の寿命にくわわる時間であった。私は東洋人が仕事を放棄して瞑想することの意義を悟った。概して時間がどうたってゆくかなどは気にとめなかった。一日は私の仕事を照らすかのように過ぎていった。朝であった。そしてほら! 今はもう夕方である。別に記憶すべきほどの事は何もしとげなかった。鳥のようにさえずるかわりに、私は自分に与えられている絶えることのない幸運に、ただ黙って微笑していた。スズメが戸口前のヒッコリーに止ってさえずるように、私は含み笑いをしたり、声を押し殺して歌ったりしたが、それは私の巣からスズメに聞こえていたかも知れない。
私が過ごした日々は、異教の神々の名がつけられている曜日でもなければ、二十四時間に細分されて時計の刻みにせきたてられる日々でもなかった。ピューリー・インディアンのように生きていたからである。彼らには昨日、今日、明日に対して一つの言葉しかなく、「昨日は後方、明日は前方を、また今日の日は頭上を指差して意味の違いを表現する」のだそうだ。これは、疑いなくわが町の人たちにとっては完全な怠惰とされる生活であった。だが、もし鳥や花がその標準に照らして私を吟味したとすれば、私には欠けたところがあると認められはしなかっただろう。確かに人間は自分の動機を自分自身の中に見い出さなければならない。天然そのままの日々は、まことに穏やかで、人間の怠惰をほとんどとがめたりはしないだろう。
社交、劇場、娯楽を外に求めなければならない人たちに比較して、私の生活様式では生活そのものが娯楽であり、少なくとも決して目新しさを失うことがないという、この利点があった。それはいくつも場面があって終ることのないドラマであった。つねに本当に生計を求め、学びとった最近最善の方法にしたがってその生活を規整していれば、退屈に悩まされることなど決してないだろう。自分の守護神は必らず刻々と新たな展望を見せてくれるだろう。家事は楽しい気晴らしであった。床が汚れると、朝早く起き出し、ベッドと寝具はそのままひとまとめにして家具を全部戸外の草の上に持ち出し、床に水をうって池から取ってきた白い砂をまき、それから箒《ほうき》でゴシゴシやってきれいに白くした。村の人たちが朝食を終える頃までには朝日が家をすっかり乾かして、私をふたたび家に入れてくれた。そしてそれから私はほとんど妨げられることなく瞑想するのだった。家具がそっくりジプシーの荷物のように草の上に小山を作り、本、ペン、インクを載せたままの三脚テーブルがマツやヒッコリーの間に立っているのを見るのは気持のよいものであった。家具類自体も戸外に出ているのがうれしそうで、家の中に入れられるのをいやがっているように見えた。家具類の上に日除けを張って、そこに坐り込みたい誘惑にかられることもあった。日がこれらの物を照らすのを見たり、風が自由にその上を吹き渡るのを聞いたりするのは、価値のあることだった。ごく見慣れている物でも、家の中より戸外で見る方が、ずっと興味深く見えるものだ。鳥がすぐ隣の枝に止まり、ハハコグサがテーブルの下に生えており、その脚のまわりをクロイチゴの蔓《つる》がはっている。マツかさ、クリの毬《いが》、イチゴの葉があたりに散らばっている。こうして……つまり家具類がある時、こうした物の間に置かれていたことがあって、その時にテーブルや椅子やベッドの模様にこうした物の形が移されたのではないか、とも思われるような風情《ふぜい》であった。
私の家は丘の中腹、大きな林の端にすぐ接する、樹脂の多いマツとヒッコリーの若い森の真ん中にあって、池から六ロッドほどあり、そこまで細い小道が一本、丘を下っていた。前庭には、イチゴ、クロイチゴ、ハハコグサ、オトギリソウ、アキノキリンソウ、潅木《かんぼく》のオーク、サンドチェリー、ブルーベリー、アメリカホドイモが生えていた。五月の末近くになると、サンドチェリー(cerasus pumila)が円筒形の散形花序にならぶ繊細な花を短い茎のまわりにつけて、小道の西側を飾り、その茎は、秋には大粒の見事なサクランボでしな垂《だ》れ、花輪の形をして放射線状に四方に倒れかかった。実はうまいとは言えないのだが、自然へのお愛想のつもりで味わってみた。ウルシ(rhus glabra)が家の周囲にわんさと生えていて、私の盛った土手を越えて押し寄せ、最初の年は五、六フィートにもなった。その幅広で羽状をした熱帯的な棄は、見たところ奇異な感じはするが楽しいものだった。大きな芽が春遅くに枯れているように見える乾いた枝からとつぜん吹き出して、まるで魔法にかかっているかのように直径一インチの優美な、緑色の柔かい枝となった。ときおり窓辺に坐っていると、若い、柔かな枝が無鉄砲に生長しすぎて、そのか弱い付け根に負担をかけすぎたため、そよとも風は吹いていないのに自分の重さで折れてしまい、とつぜん扇のように地面に落ちるのを聞くことがある。八月になると、開花期に野バチをたくさん引きつけていた一群のキイチゴが次第に明かるい、ビロードのような真紅の色を帯びてきて、これまた自分の重さでたわんでは柔かい茎を折った。
今日、夏の午後、窓辺に坐っていると、タカが私の拓いた土地のあたりに輪を描いている。野バトが二羽、三羽、視界を横切って飛び交い、家のうしろのストローブマツの枝に落ち着きなく止まっては、その羽ばたきで大気を鳴り響かせる。ミサゴが鏡のような池の表面にさざ波を立てて魚をくわえ上げる。ミンクが戸口前の沼地からしのび出てきて、岸辺のカエルを捕える。スゲがあちこちと飛び移るコメクイドリの体重でたわむ。この半時間、旅客をボストンから田舎へ運ぶ、ライチョウの羽ばたきのように消え去ってはまた聞こえてくる汽車のガタゴトという音を聞いていた。
ある少年が町の東部の農家に働きに出されたものの、間もなくそこを逃げ出し、ひどい格好でホームシックにかかって帰ってきたそうだが、私はその少年が行かされた所ほど世間離れした場所で隠遁《いんとん》生活をしていたわけではない。その少年は、そんな退屈な辺地は見たことがなかったのだ。人々はみなどこかへと行ってしまって、汽笛の音を聞くことさえできなかったのだ! 現在マサチューセッツ州にはたしてそんな土地があるのだろうか……
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まことわれらが村は的となりぬ
かの飛ぶがごとき鉄道なる矢の
わが平和なる野に心なごます響き
……それはコンコード
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フィッチバーグ鉄道は、私の住まいから南へ約百ロッドの所で湖水のほとりに出る。私はいつもその湖水の土手づたいに村へ行くから、いわばこの環状の土手で世間と結ばれているわけだ。貨車に乗って全路線を走る男たちが、古いなじみのように私におじぎをしてゆく。何度も私と行きあっているので、私を鉄道の従業員と思っているらしい。そして、私は、まさしくそのとおりなのだ。私も進んでどこかこの世の軌道で保線夫を務めたいと思っているのだから。
機関車の汽笛がどこかの農家の庭の上を飛ぶタカの鳴き声のように、夏も冬も私の林に響き渡る。それを聞いて、大勢のせわしい都会の商人がこの町の界隈に着いたとか、反対側からひと儲《もう》けをたくらむ田舎の商人たちがやってきたとかが分かるのである。彼らが同一地平線下にくると、線路を譲れとお互いに警告の汽笛を鳴らし合って、時にはそれが二つの町の圏内に聞こえることもある。さあ、田舎さんよ、食糧雑貨が来ましたよ。田舎のお方よ、お前さんたちへの割り当てだよ! それに答えて、そんな物はいらない、と拒否できるほど自分の農場で自立的な生活を送っている者は一人もいない。そこで、さあ、その品物へのお返しだよ! と田舎の汽笛が鳴る。都会の城壁に向かって時速二十マイルで突進する、長い破城槌《はじょうづち》にも似た材木、それに、その城壁内に住んでいる、疲れて重荷にあえぐ人たち全員が坐れるだけの数の椅子だ。こうして汽車はゴットンゴットンと大変な愛想を振りまいて田舎から都会に椅子を渡す。インディアンのハックルベリーの丘はすっかり裸にされてしまい、ツルコケモモはすべての野原でかき集められて都会へ送られる。綿が入ってきて織物が出てゆく。書物が入ってきて、それを書いた才知は出ていってしまうのである。
何台もの車両をしたがえた機関車。遊星の運行を思わせるような動きで……というより彗星《すいせい》のように、というべきだろう。その軌道が循環曲線となっているように見えない以上、あの速度であの方向に進むのでは、この太陽系にふたたびもどってくるかどうか、見る者には分からないのだから……金銀の花環となってうしろにたなびく旗にも似た、また天空高くその塊を日の光に繰り広げる、あの見覚えあるたくさんの綿毛のような雲にも似た水蒸気の雲を吐きつつ……まるでこの駆ける半神《デミゴッド》、雲をしたがえるゼウスは、やがて夕焼けの空をその従者のそろいの服にでもしようとするかのようだ……その機関車が進んでゆくのを見る時、また、その鉄の馬が大地を震わせ、鼻孔から火と煙を吹き出しながら(世人が翼を持ったどんな種類の馬、火を吹くどんな種類の竜《りゅう》を新しい神話にくわえるつもりか知らないが)、雷のようないななきで山々をこだまさせるのを聞く時、地球は今や真にそこに住むに値いする種族を初めて得たように思えてくる。万事が見た目通りで、人間が崇高な目的のために万物をその下僕《しもべ》にするのならどんなにすばらしいことか! 機関車の上にかかる雲が英雄的行為の汗か、あるいは農夫の畑の上にただよって慈雨を降らす雲のように情にあついものであれば、その時こそ、万物も自然自身も人間が用事をたしに出かけるのに喜んで同伴し、その護衛役となるだろう。
朝の列車が通過するのを見る。その時の気持は、時間的正確さではどちらともいえない日の出を見る時と同じである。汽車がボストンに向かって走る間、はるか後方に広がってじょじょに高く天空に昇る一連の雲が一時太陽を隠し、遠くの私の畑を翳《かげ》らせる。雲は天を疾駆《しっく》する列車であり、それに比較すると、地上を這いまわる、ちっぽけな列車など槍の穂の房にすぎない。鉄の馬の馬丁は、この冬の朝も山間にまたたく星の明かりで早くから床を離れ、秣《まぐさ》をやり、馬具を装着したのだ。火もまた馬に生命の熱を吹き込んで送り出すために、こうして早くから起こされたのだ。その営みも早いとともに純真なものであればよいのだが! 雪の深い時は鉄の馬に雪靴をはかせ、巨大な犂《すき》で山から海ぞいにかけて畔溝《あぜみぞ》を作っては、その後から列車が種蒔《たねま》き機のように種子としてせわしい人間と流動的な商品を国中にまき散らしてゆく。終日この鉄の馬は国中を走り回り、主人を休息させるためにだけ止まる。真夜中に私はその蹄《ひづめ》の音とあらあらしい鼻息で目を覚ます。その時刻には、鉄の馬はどこか遠い林の中の狭い谷間で、氷と雪にすっぽりおおわれた自然に立ち向かっているのだ。明けの明星を見て、やっと馬小屋に帰り着くが、休息も睡眠も取らずふたたび旅路につく。たまたま夕方、鉄の馬が馬小屋でその日のあまったエネルギーを吐き出しているのを聞くことがある。二、三時間、鉄の眠りについて神経を静め、肝臓と脳を冷やすところなのだ。その営みが長い時間に耐えられて疲れを知らぬものであるとともに、英雄的で堂々たるものであればよいのだが!
以前なら昼間足を踏み入れるのはハンターぐらいものだった所、はるか町境にある人跡《じんせき》まれな林を、明るい、この客間にもまがう列車が真っ暗な夜の闇をついて乗客も知らぬ間に矢のように通り抜ける。たった今どこか社交好きな人たちの集まる町や都市に止ったかと思うと、次にはもの寂しい沼地に停車してフクロウやキツネを驚かす。列車の発着が今では村に一日の時刻を知らせる役目をしている。列車は規則的に正確に往来するし、汽笛はずっと遠くまで聞こえるので、農夫たちはそれに時計を合わせ、かくてひとつのきちんと整った秩序で全地域が規制されているわけだ。鉄道が発明されてから、時間厳守という点で人々はいくぶん進歩したのではなかろうか? 駅にいると、駅馬車の立て場の時代よりもいっそう手短かに要領よく話したり考えたりするのではなかろうか? なにかピリッとしたものが前者、すなわち駅の雰囲気に見られる。それが引き起こした奇蹟に私は驚いている。近所の人の中には、たぶんこんな速い乗り物でボストンへ行くことなど絶対にないだろう、と私ならきっぱり予言できそうな人たちもいるのだが、その人たちが発車のベルが鳴る頃にちゃんと駅に来合わせているのだ。「鉄道流」に物事をする、というのが今や通り言葉になっている。
どんな権力によってにせよ、通路を開けよ、と頻繁《ひんぱん》に誠意をこめて警告されるのは価値あることだ。汽車が警告を発する場合は、止まって騒擾《そうじょう》取締令を読みあげたり、群集の頭上に発砲したりはしない。われわれは決して脇にそれることのないひとつの運命、すなわちアトロポス〔ギリシア神話。運命の三女神の一人。人間の運命の糸を適当な長さに切るのが役目〕を造りあげたのだ。(そうだ、このアトロポスを機関車の名前にしようではないか)
何時何分にこの太矢がどの方向に向けて放たれるということは知らされているわけだが、そうかといって誰の仕事の邪魔にもならず、子供たちは他の道をとおって学校へ行く。鉄道があるおかげでわれわれはいっそう着実に生活している。かくてわれわれはウィリアム・テルの息子のような人間となるべく教育される。空中には目に見えない矢がいたる所に飛んでいる。自分自身の道をのぞくすべての道は運命の道である。ならば、自分自身の道をひたすら歩むことだ。
私にとって商業の長所と見うるものは、その冒険的企業心と勇気である。それは合掌してジュピター〔ローマ神話のユピテルでギリシア神話のゼウスにあたる〕に祈ったりはしない。この人たちが毎日、多少とも勇気と満足感をもって仕事に精出し、自分たちが考える以上の事さえやりとげ、またおそらく彼らが意識的に企画できる以上に立派にやっているのを見る。私は、ブエナ・ビスタ〔メキシコ北部にあるメキシコ戦争の古戦場〕の前線で半時間耐えて戦いぬいた人たちの英雄的な勇気よりも、冬季間除雪車を根城《ねじろ》として暮らす人たちの、不動で快活な勇気に打たれる。彼らは、ナポレオンがきわめてまれだと考えた午前三時の勇気〔正しくは「午前二時」。その時刻に突然起こされて勇気を奮い立たせられるような兵士はまれだと言った〕をそなえているばかりでなく、その勇気はそんな早い時刻に休息につくこともなく、吹雪がおさまるか、あるいは鉄の駒が筋肉が凍てついて動かなくなる時にだけ眠る。大雪の今朝、おそらくまだ雪は狂ったように降りしきり、人の血を凍らせているだろうに、除雪車に乗った人たちの凍った息の霧の中から、内にこもった機関車の号鐘《ベル》の音が聞こえる。それは、ニューイングランド北東部の吹雪をものともせず、たいして遅れもしないで列車が<やってきた>ことを知らせる。そして除雪車に乗った人たちが雪と霜にまみれて、ヒナギクやノネズミの巣ならぬ雪を、地球の果てに連らなるシェラネバダの山々〔カリフォルニヤ州東部の山脈〕のごろごろ石のように掘り返す雪かき鉄板の上に頭をわずかにのぞかせているのが見える。
商業は思いのほか信念をもつ静朗なもので、敏活で冒険的で疲れを知らない。そのうえ、その方法においてまことに自然なもので、多くの空想的な企画や感情的な実験よりははるかに自然であり、そのため、並はずれた成功をおさめる。貨物列車がガタゴト音を立てて私を通り過ぎてゆく。ロング埠頭《ウオーフ》(ボストンの埠頭)からレイク・チャムプレイにいたるまで、ずっとその香をまき散らす貨物の匂いをかぐと、私はさわやかな、広々とした気分になる。外国のいろいろな土地、珊瑚礁《さんごしょう》、インドの海、熱帯の風土、地球の広大さといったものを思い起こさせるのだ。この夏ニューイングランドの大勢の亜麻色をした頭をおおう帽子となるシュロの葉、それにマニラ麻、ヤシの実の殻、古い綱、麻袋、くず鉄、さび釘などを見ると、いっそう世界の市民といった感じがしてくる。貨車に積んだこの破れた帆布は、紙に再生されて印刷された本になった時よりも、今のままの方が教えてくれるところがあって興味深い。誰がこの布切れほどその切り抜けてきた嵐の顛末《てんまつ》をいきいきと描写できようか? それは訂正の必要がない校正刷である。メイン州の木材が運ばれてゆく。この前の出水のとき海へ流されずに残ったもので、流れてしまったものや割って薪《たきぎ》にされたものがあって、値段は千本につき四ドル高くなっている。マツ、トウヒ、スギ……品質は今でこそ一等品から四等品まであるが、ついこのあいだまではどれも同じで、クマ、ヘラジカ、アメリカトナカイなどの頭上に揺れ動いていたものだ。最上等品のトマストン〔ニューイングランドの町の名〕石灰が音を立ててそれに続く。それが消石灰化するまでには、山の中にはるか深く埋もれていることだろう。紙の原料として梱包《こんぽう》されたあらゆる色合いと品質のぼろ、木綿と麻の落ちぶれた最低の状態、衣服のなれのはて……そんな柄など、今時はミルウォーキーででもなければイギリス、フランスの逸品やアメリカの更紗《さらさ》、縞木綿《しまもめん》、モスリンのようにもてはやされはしない……があらゆる上下両階級から集められて、一色ないし二、三の色合いの紙に再生されるために運ばれていく。その紙には、高級低級を問わず、事実にもとづくいろいろな話が書かれるのだ! この閉め切った貨車は、塩魚の匂いが、強いニューイングランドの商業的な香りがして、グランド・バンクスとその漁場〔ニューファンドランドから東方の海中にのびる浅瀬で、世界的な漁場〕を思い出させる。
塩魚を見たことがない者がいるだろうか? この世に役立つように完全に貯蔵されて、何物にも腐敗させられない、といった様子は聖徒の信仰の不屈さも赤面させんばかりである。その魚で通りを掃いたり、それを敷き石にしたりもできるし、焚きつけを割るもよし、御者はそれを盾に使って自分と積み荷を日射しや風や雨から守ることもできる。またかつてコンコードの一商人がしたように、商人が商売を始める際に、それを看板として入口にぶら下げておくこともできる。ついには最も古いお得意さんにも、それが動物なのか鉱物なのか分からなくなるが、魚自体は雪片のように清浄で、鍋に入れて煮ると土曜日の夕食にもってこいの塩魚となるだろう。次はスペイン種の牛皮で、尾はその皮を着ていた雄牛がまだスパニッシュ・メイン〔南米大陸北部のカリブ海沿岸地方〕の大草原を疾駆していた当時のよじれと、上向きに曲った角度がそのままである……これはあらゆる頑迷なものの象徴で、すべて生れつきの悪癖の矯正《きょうせい》が絶望的であることを示すものだ。実際的にいって、人の真の性質を知ってしまうと、この世の生活ではそれを善い方にも悪い方にも変える望みなど私はまったくもっていない。東洋人がいうように、「野良犬の尾を暖め、押さえつけ、丸めて紐で縛ったうえ、十二年それに手をつくした後でも、生まれつきの格好はやはりそのままのものである」
この尾に見られる頑迷さに対する唯一の有効な矯正策は、ふつうよくやることだと思うが、それを膠《にかわ》にしてしまうことだ。そうすればそのままくっついているだろう。さて、今度はバーモント州カッティングスビルのジョン・スミス宛の糖蜜、またはブランデーの大樽がくる。彼はグリーン・マウンテンあたりの商人で、自分の開拓地近くの農夫たちを相手に品物を仕入れているのだが、今頃はたぶん屋台店を見渡して立って、最近船で港に着いた荷のこと、それが自分の品物の値段にどう影響するか、などを考えながら、今朝ほどまですでに二十回も繰り返し言ってきたように、この瞬間もなお次の列車で一級品が入ってくるはずだと客に宣伝していることだろう。入荷のことは『カッティングスビル・タイムズ』紙に広告されている。
こうした品物が出てゆく一方、別の品物が入ってくる。大気をつんざく音にはっとして読書の顔を上げると、はるか北方の山々で伐採《ばっさい》されてグリーン・マウンテン地方、コネティカット州を汽車で飛び越えてきた長いマツ材が、十分とたたないうちに矢のようにこの町を通り過ぎてゆくのが見えたが、ふたたび見た時は、もうほとんど見えなかった。それが運ばれてゆくのは
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何か大きな船の
マストにされるためだ」
――ジョン・ミルトン『失楽園』第一章
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そして聞くがよい! 今度は家畜列車がやってくる。一千の丘〔旧約聖書「詩篇」第五十篇第十節〕の家畜、羊小屋、戸外の牛飼い場、棒を手にした家畜追い、羊の群れの真ん中に立つ羊飼い少年など、山の牧場以外はすべてのものが、九月の強風で山から吹き飛ばされる木の葉のように運ばれてゆく。大気は小牛や羊の鳴き声、雄牛のひしめく音に満ちあふれ、牧場の谷がそっくり通り過ぎてゆくようだ。先頭の鈴をつけた老去勢牛が鈴を鳴らすと、山々はじつに雄牛のように、小高い丘は小羊のように跳びはねる〔旧約聖書「詩篇」第一一四篇第四節〕。貨車の家畜追いも今は家畜の真ん中、彼らと同じ平面に立って、仕事がすんだ後も無用となった棒を役目の印としてまだ手にしている。彼らの犬は、犬はどこだろう? 犬にとっては、これは家畜の集団逃走である。犬たちはすっかり捨てられたのだ。彼らは臭跡を失った。彼らがピーターバロ丘《ヒル》の蔭で吠えているのが、グリーン・マウンテンズの西斜面をハアハア急を切らして上ってゆくのが、聞こえるような気がする。彼らは家畜どもの死に際《ぎわ》は見とどけられないだろう。彼らの役目は終ったのだ。その忠実さ、利口さも今では値打ちが下がってしまった。面目を失ってこそこそと犬小屋にもどるか、野性的になってオオカミやキツネの仲間入りをするだろう。こうして列車は牧場の生活を乗せて走り、過ぎ去ってゆく。だが、ベルは鳴り、私は線路を離れて列車を通してやらなければならない……
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鉄道とは私にとって何か?
私は決して見に出かけない
いつそれがつきるかを。
鉄道は二、三の窪地を埋め
ツバメに土手をこしらえてやり
それは砂埃を舞い立たせ
そしてクロイチゴを成長させる
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だが、私はそれを林の中の荷車道のように横断する。その煙や蒸気や汽笛で目が飛び出したり、耳がおかしくなるのはごめんこうむりたい。
今や列車は去り、それとともにあらゆる落ち着きない世界も行ってしまった。池の魚ももはや列車の轟音《ごうおん》を感じなくなり、私は以前にもまして孤独になった。残りの長い午後は、たぶん黙想をさまたげるものといえば遠くの街道を行く馬車か、一連の家畜のかすかな物音だけだろう。
ときとして日曜日にはリンカーン、アクトン、ベッドフォード〔いずれもウォールデン池から三〜五キロメートル離れた町〕、あるいはコンコードの教会から鐘の音が聞こえてくる。それは風向きのよい時で、かすかな、快い、いわば自然な旋律であり、この静かな野に流れてくるに値いする響きだ。林を隔てて十分に距離をおいて聞くと、この音は震《ふる》えるようなうなりを帯びていて、地平線のマツの針葉が、その奏でられている堅琴《たてごと》の弦となっているかのようだ。介在する大気が遠い山並みにその青い色を分け与えて、見る目に興味あるものとするように、すべての音は、最大限の距離をおいて聞くと、宇宙の琴の振動ともいうべきひとつの同じ効果を生み出す。この場合は、大気に濾過《ろか》されて林のあらゆる葉や針葉と交流した旋律、すなわち自然が取り上げて調整してから谷から谷へとこだまさせた、その部分が私に聞こえてきたのである。その反響はある程度独得な音で、そこにその魔力と魅力があるのだ。鐘の音の中で繰り返す価値のある部分を繰り返しているのではなく、その一部は森の声である。森の仙女《ニンフ》が歌うのと同じ、かりそめの言葉と調べなのだ。
夕方には森の向こう、地平線に見える牛の遠い鳴き声が快く、音楽的に聞こえてくる。最初のうちは、丘や谷を放浪しているのか、私にときどきセレナーデを聞かせてくれた流しの歌い手の声とよく間違えた。だが、そのうちにその声が引きのばされるので雌牛の安価で自然な音楽だと分かり、がっかりしたが不愉快ではなかった。彼の歌声と雌年の鳴き声が同類のもので、両方とも結局おなじ自然の音の表現だとはっきり悟った。といっても、それは皮肉ではなく、流しの若者たちの歌を評価して言っているつもりである。
夏の一時期、夕刻の列車が通過して七時半になると、決まってヨタカが戸口の切り株か家の棟木に止まって半時間ほど夕べの聖歌を歌う。五分とずれることなく、毎晩日が沈んだ後のある時刻に、ほとんど時計のように正確に歌いはじめるのである。私はヨタカの習性を知るめったにない好機を得た。時には四、五羽が森のあちこちで一度に鳴き、たまには一羽が他の一羽に一小節遅れて鳴くこともあって、すぐ近くなので各節の後に続く「クックッ」だけでなく、体の大きさに比例してさらに大きいが、クモの巣にかかったハエの出す音に似た「ブンブン」という変った音もときどき聞き分けられた。時には一羽が森の中で二、三フィート離れて、まるで紐につながれているように私の周囲を飛び回ることもあったが、それはおそらく私が卵のそばにいたからだろう。ヨタカは夜を徹してときどき歌い続け、ちょうど夜明け近くと夜明け頃にふたたび前のように音楽的になった。
他の鳥が静まりかえっている時刻に、オオコノハズクは悲嘆にくれる女たちのように昔ながらの「ウールール」という鳴き声をあげる。その気味悪い叫びはまったくベン・ジョンソン〔一六七三?〜一六三七。イギリスの劇作家、詩人〕的で、世を白眼視し、諷刺しているようだ。賢い真夜中の妖婆だ! その鳴き声は詩人がよく詠《よ》む、あけっぴろげで、ぶっきらぼうな「トゥーウィット・トゥーフー」でなく、おどけたところのない、きわめて荘重な墓場の小曲だ。地球の木立ちの中で人間界にいた当時の恋の苦しみと喜びを思い起こす、自殺した恋人たちの相互の慰めである。だが私は彼らの嘆き、その悲しみに沈む応答が森のあたりに震えるのを聞くのが好きだ。それは時に音楽や歌い鳥を思い出させるのだ。それは音楽の暗い、涙に満ちた一面、歌われることを望む悔いと溜息《ためいき》であるかのようだ。その鳴き声は霊である。かつては人間の姿で夜ごとに地上を徘徊《はいかい》して悪事を働き、今その過《あやま》ちを犯した場所で嘆きの聖歌または哀歌を歌って罪の償いをする、堕落した人間たちの意気消沈した霊であり、陰欝な予言である。オオコノハズクは、われわれの共通の住まいであるこの大自然の多様性と受容力について新しい観念を与えてくれる。ああ、私は生まれてこなければよかったのに! と池のこちら側の一羽が溜息の鳴き声を発し、絶望的な不安に襲われて旋回しては、灰色のオークの木の新しい枝に飛んでくる。すると、私は生まれてこなければよかったのに! と向こう側の別の一羽が震えるような真剣さで鳴き返して、……のに!とはるかリンカーンの森からかすかにこだましてくる。
ホーホーフクロウのセレナーデも聞いた。近くで聞けば、それは自然の中で最も憂欝な音とも思われて、まるで自然がこの鳴き声をもって人間の死に際《ぎわ》のうめきを定型化し、自然の唱歌隊でそれを永遠のものにしようとしたかのようである……希望を置き去りにした人間の哀れな痛々しい残骸《ざんがい》が、暗黒の谷に入ってゆきながら動物のように、だがなお人間のすすり泣きの声でうめいているようで、ある種の喉を鳴らすような旋律がなおいっそう無気味さを漂わせている……その音をまねてみようとすると、自分が「グル」の文字で始めていることに気づく……それは健康な勇ましい思念をすべて抑圧したすえ、膠《にかわ》のようにべとついて黴《かび》が生えるまでになった心を表現している。それは死体を食らう悪鬼と白痴、狂気のわめきを思わせる。だが今、一羽が距離を隔てているため、じつに美しく聞こえる調べで遠くの森からそれに答える……「フーフーフー、フーフーフー」それを聞けば、じつに昼夜を問わず、夏冬を問わず、たいていは快い連想だけがかき立てられるのだった。
私はフクロウがいてうれしい。人間のために白痴的な、気違いのような声で「ホーホー」と鳴かせておくとしよう。その声は日中の光を知らない湿地やたそがれの森には見事にふさわしく、人間がまだ認めていない広大な未開拓の自然を暗示する。それは空漠としたたそがれ、すべての者が抱く満たされない思いを表わす。終日太陽は、サルオガセのまつわる一本のトウヒが立っている荒涼とした湿地の表面を照らした。小さなタカが頭上に輪を描き、コガラが常緑樹《ときわぎ》の間でさえずり、ライチョウとウサギがその下でこそこそやっている。だが今やさらに陰欝な、ここにふさわしい夜という日が明けて、別の種類の生物がそこで自然のもつ意味を明らかにしようと目を覚ますのである。
夜遅く、遠くの橋を渡る荷馬車の音が聞こえてきた……夜にはほとんどどんな他の音よりも遠くまで聞こえる音であった……それに犬の吠える声だ。また時にはどこか遠くの裏庭のわびしげな雌牛の鳴き声も聞こえた。そうするうちに、今度は他の岸全体にウシガエルのラッパが響き渡る。彼らは太古の大酒飲みや酒宴に浮かれる連中の元気な精霊で、いまだに懲《こ》りもせずこの冥土《めいど》の湖……水草はほとんどないが、カエルがそこに住むのだから、ウォールデンの水の精がこんな比喩を許してくれるなら……で小唄《こうた》の一節を歌おうとしているのだ。彼らは、今は昔の陽気な食卓での愉快なしきたりを守りたいのだが、その声はしわがれて重々しく沈み、浮かれ騒ぎに冷ややかになり、酒は風味を失っていたずらに腹をふくらますだけの飲み物にすぎず、心地よい陶酔《とうすい》がやってきて過ぎし日の記憶を忘れさせてくれるわけでもなく、水に浸り、水|漬《づ》けとなり、水ぶくれになっているだけだ。貫禄一番のカエルが、その締まりのない口もとのナプキンにかわる、ハート型の葉に顎をのせて、この北岸の下で、かつては見向きもしなかった水をゴクリとひと飲みしては「トルルルンク、トルルルンク、トルルルルンク!」と叫んで杯を回してやる。と、すぐさま水面をつたわってどこか遠い岸辺からその同じ合い言葉が繰り返されて聞こえてくる。年輩、胴回りともニ番目のカエルが、回ってきた杯を自分に割り当てられた目盛りまでゴクリと飲んだわけだ。さて、この回し飲みの儀式が岸を一巡すると、司会のカエルは満足して「トルルルンク!」と鳴き、続いて腹のふくらみがいちばん少なく、いちばん呼吸の漏《も》れる、そしていちばん腹の皮のたるんだのにいたるまでが、次から次と順番に間違わないように同じ叫び声を繰り返す。こうして大杯は何度となく回されるのだが、太陽が朝の霧を消散させる頃には長老だけが池の表面に残って、ときどき「トルンク」と大きく鳴いては空《むな》しく応答を待っている。
自分の開拓地から雄鶏の鳴き声を聞いたことがあったかどうか、はっきりしない。私は雄鶏を歌鳥としてその歌を聞くだけの目的で飼ってみるのもいいのではないかと考えた。かつてはインドの野鶏《きじ》であったこの鳥の鳴き声は、どんな鳥の鳴き声よりもすばらしいもので、もし人間がこの鳥を飼い慣らさずに天然のままで育てることができれば、その鳴き声はガンの「ガア、ガア」、フクロウの「ホー、ホー」をしのぎ、たちまち森で最も際立つ音となるだろう。夫君の鋭く澄んだ鳴き声がやんで、雌鶏がその絶え間を満たそうと「クワッ、クワッ」と鳴く、といった様子を想像してみるがよい! 人間がこの鳥を家畜の中にくわえたのも不思議ではない……卵やおいしい脛骨《すねぼね》はさておいてもだ。
冬の朝、こうした鳥のたくさんいる森、彼らの生まれた森を散策して、木の上で野生の若い雄鶏が澄んだ鋭い声でときをつくり、それが地上数マイルに響き渡って、他の鳥のか弱い鳴き声をかき消すのを聞く……考えてもみたまえ! その鳴き声は各国人の気持をひきしめる。こうして朝起きが早くなり、しかも生涯、ひき続いて一日一日をますます早く起き、その結果、言語に絶するほど健康に、裕福に、賢明になる……誰がこうならないというのか? この外国の鳥の鳴き声は、あらゆる国の詩人が自国生まれの歌鳥の鳴き声とともに賞賛するところである。どんな気候もこの雄々《おお》しい雄鶏にはよく合っていて、その土地生え抜きの鳥以上にそこになじんでいる。いつも健康で、肺は健全、その精神は決してひるむことがない。大平洋、太西洋を航行中の船員でさえこの鳥で目を覚ます。だがその鋭い鳴き声も私を眠りから覚ましてくれたことは一度もない。犬もネコも雌牛も豚も雌鶏も飼っていなかったから、私には家庭的な物音いっさいが欠けている、と人はいえばいえただろう。撹乳器《かくにゅうき》も、糸車も、薬罐《やかん》のたぎる音も、湯沸かしの「シュウ、シュウ」という音も、子供の泣き声も私を慰めてくれない。古風な人なら今までに感覚がおかしくなり、退屈のあまり死んでしまったかも知れない。壁の中にネズミすらいないのだ。餓死してしまった、というより、食べ物で家の中に誘い込まれることがなかったからだ……いるのは屋根の上と床下のリス、棟木のヨタカ、窓下で叫ぶアオカケス、家の下のウサギかウッドチャック、家のうしろのオオコノハズクまたはネコフクロウ、池の上のガンまたは笑い声をたてるアビの群れ、夜鳴くキツネだけだ、あのおとなしい農園のヒバリやムクドリモドキでさえ、この開拓地にはついぞ訪れなかった。庭には現在、ときをつくる若い雄鶏も、「クッ、クッ」と鳴く雌鶏もいない。いや、庭すらないのだ! 囲いのない自然が敷居まで迫ってきている。若い森が窓の下で成長しつつあり、野生のウルシやクロイチゴの蔓《つる》が地下の穴蔵に忍び込みつつある。たくましいヤニマツは、場所が足りず、屋根板にこすれてギーギーと音をたて、その根はじつに家の下にまで這い込んでいる。強い風が吹くと小窓や鎧戸《よろいど》が飛ぶかわりに、マツの木が家のうしろで倒れるか、あるいは根こそぎになり、それは燃料となる。大雪で前庭の門までの道がなくなるわけでもない……門もなし……前庭もなし……そして文明世界に通ずる道もないのだ!
[#改ページ]
孤独
さわやかな夕べである。全身が一つの感じになり、すべての毛穴が喜びを吸収している。私は自然の一部となり、妙に自由な気分で自然の中を行きつ戻りつする。曇りで風があり、また涼しくてとくにこれといって注意を引くものもないのだが、上着を脱いで石の多い池の岸辺を歩いていると、すべての事物がいつもと違って、気持にぴったりしている感じだ。ウシガエルが鳴き立てて夜を招き入れ、ヨタカの歌がさざ波を立てる風に乗って水の上を運ばれる。風にそよぐハンノキやポプラの葉への共感で、私はほとんど息がつまりそうだ。それでも湖面と同様、心の安らかさはさざ波が立っても乱されはしない。夕風に立てられたこの小さな波も、物の影を映す滑らかな水面のように嵐からは程遠いものだ。もう暗くなったが、風は森でまだうなりをあげており、波はまだ岸を洗い、その鳴き声で他の生物をなだめすかしている生物もある。万物が完全に休息をとることは決してない。最も野生的な動物は休息もとらず、暗くなった今頃|餌食《えじき》を探し求める。キツネ、スカンク、ウサギらも今や恐れるところなく野原や森を徘徊《はいかい》する。彼らは自然に雇われた夜警番……夜中に動き回って、活動的な生活の日々をつなぐ鎖となっている。
家にもどると、留守の間に訪問客があったらしく、名刺が置いてある……時にはそれが花束であったり、常緑樹《ときわぎ》の花輪であったり、黄色いクルミの葉や木片に鉛筆で名前を書いたものであったりする。めったに森に来ることのない人たちは、道々もてあそぶのに、森のなにかちょっとした物をよく手に取るものだ。時にはわざと、時には何気なくそれを置いてゆくこともある。ヤナギの枝の皮を剥《は》いで輪に編み、それをテーブルの上に置いてゆく人もいた。留守の間に訪問客があったかどうかは、曲った小枝とか草、あるいは靴の足跡から分かった。性別、年齢、性格などは、落ちている花、むしり取って時には半マイルも離れた鉄道線路まで持っていって捨ててある草の束、葉巻きやパイプの残り香など、残されているちょっとした手がかりから、たいていは知ることができた。いや、パイプの香りから六十ロッド離れた街道を旅行者が通るのに気づいたことすらよくあった。
われわれの周囲には通常たっぷりと空間がある。視界は決してそんなに限られてはいない。密林がすぐ戸口まで迫ってきているわけでもないし、池にしてもそのとおりだ。絶えず多少は拓《ひら》かれてゆき、人間になじまれ、踏み込まれ、なんらかの形で占有されては囲われ、自然から人間界へ取り込まれて利用されている。いったい、どうしてこの広大な地域が、人影もまばらな数平方マイルの森が、どうぞご自由にお使いください、と私にまかされたままで、私がそれを独占しているのだろう? 最も近い隣人といっても一マイルも離れているし、丘の頂上からでないと、どこから見渡しても家から半マイル以内には一軒の家も見えない。私は森で画された自分の視界を独占している。一方には鉄道が池に接するあたりの、そして反対方向には林道ぞいの柵の遠景がある。だが、おおまかにいって、私の住んでいる場所は大草原のようにひっそりと静まり返っている。ここはニューイングランドであると同時にアジアであり、またはアフリカでもある。いわば私には自分自身の太陽、月、星、私だけの小世界がすべてそろっている。夜は、まるで自分がこの森で最初の、あるいは最後の人間のようで、家の前を旅行者一人通るでなし、ノックする音もしない。
だが、春になるとまた別で、ときおり思い出したように村からナマズ釣りに人がやってくる……彼らは、明らかに自分自身の天性が持っているウォールデン池で釣りをすることの方がはるかに多く、暗黒を釣針の餌とするのだった……だが、多くは軽い魚篭《びく》をさげてすぐ退散し、「世界を暗黒と私とに」〔トマス・グレイ。一七一六〜七一。『田舎寺院墓地にて書ける哀歌』第一節第四行〕残していった。夜の黒い核は、人間がいかに接近しても汚されることがなかった。魔女はすべて絞首刑にされ、キリスト教と蝋燭《ろうそく》が伝えられてはいても、人々は一般にまだ少しばかり暗黒を恐れているように思う。
だが私は、哀れな人間ぎらいの人、非常に気分の憂欝な人でも、きわめて美しく、優しい、そして最も無邪気で、人を元気づけてくれるような交わりを、あらゆる自然物に見い出せるものであることを折にふれて体験した。ひどく暗い憂欝症などは、自然のど真ん中に住んで、感覚をまだ持っている人間にはありえない。健康で汚れのない耳には、いかなる嵐でも耳に障らない、快い風の音楽として聞こえないものはない。純真な勇気ある人間をむりやり低俗な悲しみに引き入れる権利などなにものにもない。それぞれの季節との親しい交わりを楽しんでいる時は、人生を私にとって重荷と思わせることなど、なにものにもできはしないと信ずる。今日豆畑をうるおし、私を家の中に閉じ込める静かな雨も、決してもの寂しい、憂欝なものではなく、私にとっても益するところのあるものなのだ。雨で豆畑に鍬《くわ》を入れることこそできないが、それは畑の手入れよりもはるかに値打ちのあるものなのだ。万一、雨が長く続いて土中の種子を腐らせたり、低地のジャガイモをだいなしにすることがあっても、その雨が一方では高い土地の草にはよいのだし、草によければ私たちにとってもよいということになる。自分を他人と比較してみる時、私は自分が知る真価以上に過分に他の人よりも神の恵みを受けているように……仲間の者がもらっていない免許とか保証を神の手から授けられて、特別に導かれ保護されているように思われることがある。うぬぼれるわけではないが、もしそんなことがありうるとすれば、神々は私におもねているのだ。
私は一度として寂しいと感じたこともなく、少しも孤独感にしめつけられたこともない。たった一度、森に入って二、三週間たった頃だったが、近くに人がいることは穏やかで健康的な生活に欠くべからざるものではないのか、と一時間ほど考えたことはある。独りでいるのがなにか不愉快だったのである。だが同時に自分が少々どうかしていることに気づいて、そのうちに以前の気分にもどるだろうと見通したようであった。静かな雨の中で、こうした思いが私を捕らえていた時、忽然《こつぜん》として私は感じ取った。自然には、雨だれの音そのものにも、家を取り巻くあらゆる物音や景色にも、自分との美しく恵み深い交わりがあり、同時にまた私の生命を支える大気のように無限の説明不可能な親しみがあるのだ、と気づいたのだ。すると、人間が近くに住む場合に想像されうる利点などは取るに足らぬものとなってしまい、その後は一度もそんなことを考えたことがない。小さなマツの針葉がどれも共感で大きくふくらんで私に好意を寄せていた。われわれが未開の荒涼たる、などと呼び習わしている風景の中にさえなにかしら私と同類のものが潜《ひそ》み、私にとって最も血縁の近い、最も人間的なものは、じつは人間でも村人でもないことをまざまざと悟って、いかなる場所も二度と私に無縁ではありえないと思うのだった。
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トスカーのうるわしき娘よ
悲しみは悲しむ者の命を不時に奪う
この世に生きる彼らの日々は少ない
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私が最も楽しい時の一部は、春と秋の長い風雨の時期で、この時は午前中も午後も家に閉じ込められて、絶え間ない風のうなりと吹きつける雨の音に慰められる。早い夕暮れが長い夜を導き入れると、さまざまな思念が次第に根を下ろしてつぎつぎと展開してゆく。林の家々にとって大変なやっかいものになっている、例の北東から吹きつける雨の中で、若い女たちが棒雑巾《ぼうぞうきん》と手桶を用意して入口正面に立ちはだかり、家に浸入する水を防ぐ時などは、私も唯一の入口である小さなわが家の戸の内側に坐って家を守るのをたんまり楽しんだ。ある時、激しい雷雨があって池の向こう側の大きなヤニマツに落雷し、ちょうどステッキに溝を彫りつけるように、木のてっぺんから根元まで深さ一インチかそれ以上、幅五インチの非常に目立つ、完全に規則的な螺旋《らせん》状の溝《みぞ》を刻みつけた。
先日、ふたたびその木のそばを通りかかって、八年前、抵抗しがたい恐るべき雷電がなんら悪意のない空から落ちた時のその傷あとが以前よりもさらにくっきりとしているのを見て、私は畏怖《いふ》の念に打たれた。人はよく私に「あんな所に住んでいては、寂しくて、とくに雨や雪の日と夜は、人のそばにいたいと思うでしょうね」と言うが、そういう人には私はこう答えてやりたくなる……私たちの住んでいるこの地球全体も宇宙の一点にすぎないのです。はるか彼方の星に住む、最も遠く離れた二人の住人はどれくらい離れていると思いますか? その円盤の広さが私たちの使う器機では測れないほどなのです。どうして私たちが寂しく感じなければならないのですか? 私たちの遊星は、銀河の中にあるではありませんか? あなたのこの質問は最も重要なものとは思われませんね。人間を仲間から引き離して孤独にする空間とは、どんな種類の空間なのでしょうか? 私は、どんなに足を運んで努力したところで、二人の人間の心を互いに近づけることなどできるものではないことを知りました。人間はいったい何の近くに住みたいといちばん望むものなのでしょう? それは確かに大勢の人の近く……駅、郵便局、酒場、集会所、学校、食料品店、ビーコン丘《ヒル》〔ボストン、コモン北部の丘〕、ファイブ・ポインツ〔ニューヨーク市庁北東の昔の繁華街〕といった最も人の集まる所にではなく、ヤナギが水のある場所近くにたって根を水の方向にのばすように、みなの経験で突きとめた、われわれの生命の発するところ、われわれの生命の永遠につきない源泉に近く住むことを望むのです。これは人の性質によって違うでしょうが、こここそ賢明な人なら地下室を掘る場所なのです……ある日の夕方、ウォールデン街道で二頭の牛を市場に追い立てる町民の一人に追いついた。彼はいわゆる「かなりの財産」をため込んでいる人で……もっとも私はその財産をとくと拝見したことはないが……私にどうして人生の多くの楽しみを捨てる気になれるのかとたずねた。人生を楽しむことは、私も確かに相当好きな方だと思っている、と答えておいた。私は冗談にそう答えたのではなかった。それから私は帰宅して寝につき、一方、彼の方は闇とぬかるみをついてブライトン〔ボストンの一部をなす〕とかブライト・タウンとかへの道をたどるにまかせておいたわけだが、たぶん翌日の朝何時かにそこへ着いたことだろう。
死人にとって覚醒《かくせい》とか蘇生《そせい》のあらゆる望みは、すべての時間と場所をどうでもよいものにしてしまう。それが起こりうる場所はいつも同じで、あらゆるわれわれの感覚にとって言うに言われないほど快いものだ。たいていの場合、人間は抹消《まっしょう》的、一時的な事柄だけを自分の仕事としている。そうした仕事が、じつは、われわれの気が散る原因となっているのだ。万物に最も近くあるものは、その物を存在させている力である。<すぐ身近か>な所で最も崇高な法則が不断に行なわれている。<すぐ身近か>にあるものは、われわれがともに語らうのが大好きな、雇い入れた働き手ではなくて、われわれ自身がその作品である働き手である。
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天地の精妙な力の影響は、なんと広く、深遠なことか!
われわれがその力を認めようと努めてもそれは見えず、聞こうと努めても聞こえはしない。その力は事物の本質と一体化していて、事物から離すことはできない。
この力は宇宙にあって人間にその心を浄化させ、晴れ着をまとわせて先祖に犠牲と供物をささげさせる。宇宙はまさに精妙なる英知の大洋である。英知はわれわれの上に、左に、右にと、いたる所にある。それは四方八方にあってわれわれを取り囲んでいる。
――以上、三つの引用は「中庸」第十六章より
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われわれ人間は、私には少なからず興味ある実験主題である。この英知に取り囲まれた環境の下で、しばらくわれわれは互いとの雑談にくわわらないですますことはできないものだろうか……自分自身の想念だけに慰められていることはできないだろうか?
徳とは、捨てられた孤児のようにいつまでも孤独なものではない。必らず隣人ができるものである」と孔子は真実にも言っている〔子曰、徳不孤、必有鄰。「論語」里仁第四の二五〕
思索によって、正気のうちにわれわれは自分を忘れることができるのだ。精神の意識的な努力で、行為やその結果から超然としていることができるものである。あらゆる事物が、善も、悪も、奔流《ほんりゅう》のようにわれわれを通り過ぎてゆく。われわれは完全に自然の中に巻き込まれることはない。私は流れにただよう流木でいることもできるし、天界でそれを見下すインドラ〔インド最古のバラモン教の経典ベーダの主神。雷、雨、戦いの神〕でいることもできる。私は演劇の出し物を見て感動する<こともあろうが>、かといって、さらにずっと自分に関係の深そうな実際の出来事にすら、感動しない<こともあるだろう>。私は自分自身を一個の人間的存在としてのみ知っている。いわば、思索と感動の舞台としてである。そして他人から離れて立つように、それによって自分から遠く離れて立って自分を見ていられる、ある二重性を自覚している。私の経験がどんなに強烈でも、私の一部であってそうでないもの、私の経験には参与せず、ただそれを注視している見物人であり、あなたでないと同様に私でもないものがいて、それが批評しているのを意識している。人生なる劇……悲劇であるかも知れない……が終ると、見物人は行ってしまう。その劇は、その見物人だけから見れば一種の作り話、想像の作品にすぎない。この二重性が、時にはわれわれを容易に頼りない隣人や友人にすることがあるのだ。
大部分の時間を独りで過ごすのは健全なことだと思う。最も善良な人とでも、一緒にいればやがて飽《あ》きがきて散漫になるものだ。私は独りでいるのが好きだ。孤独ほど親しみやすい友を持ったことはない。自分の部屋に引きこもっている時よりも、外に出て人中にいる時の方が、たいていの場合孤独なものである。考えたり働いたりしている人は、どこにいてもつねに孤独である。孤独というものは、人とその仲間とのあいだを隔てる空間のマイル数で測れるものではない。真に勤勉な学生なら、ケンブリッジ大学のたてこむ一室にいても、沙漠の修道僧と同様に孤独である。農夫は耕したり木を伐ったりして終日独りで畑や森で働き、しかも寂しく感じないでいられるが、それは働いているからである。だが夜になって家にもどると、いろいろな思いにもてあそばれながら独り部屋に坐っているのに耐えられないで、「世間の人に会い」、気晴らしをし、彼の考えによればその日の孤独の償いができる場所に出かけてゆかなければ気がすまない。したがって、学生が退屈とも思わず、「気が滅入る」こともなく、一晩中、そして日中のほとんどを家で坐って過ごせるのを彼は不思議がる。だが、家にいるというものの、学生もやはり農夫と同様、<自分の>畑で働き、<自分の>森で木を伐っては、もっと凝縮された形ではあるかも知れないが、やはり農夫が求めると同じ気晴らしと、人との交わりを求めているのが農夫には分からない。
社交というものは、通常あまりにも安っぽすぎる。ほんの短い時間の合い間にも頻繁に人と会い、お互いにとってなにか新しい、価値ある事を修得する暇がない。一日三度の食事で顔を会わせては、われわれという古くて黴《かび》臭いチーズの味を改めて互いに試させる。この頻繁な会合をなんとか我慢のできるものにして戦端を開かずにすむように、というので礼儀作法と呼ばれる一組の規則を用意しなければならなかったのである。郵便局で、懇談会で、そして毎晩炉辺で顔を合わす。われわれはごたごたした生活をして互いに邪魔し合い、つまずき合う。こうしてお互いに対して多少とも敬意を失ってゆくのだと思う。あらゆる大切な心のこもったつき合いでは、これほどしげしげと会わなくても確かに事足りるはずである。工場に働く若い女たちを考えてみるがよい……独りでいることなどまずなく、夢の中ですら誰かと一緒だ。私の今住む土地のように、一平方マイルの土地に住人一人、というのならいちだんと素晴らしいことだろう。人間の価値は、触れてみなければ分らない、といったふうに皮膚にあるものではない。
ある人が森で道に迷い、一本の木の根元で飢えと疲労とで死にかけていたところ、異常をきたした想像力が自分の周囲を怪奇な幻影で取り巻き、その幻影のおかげで……彼はそれを現実だと信じていたのだ……孤独感から免れた、という話を聞いたことがある。これと同じように、肉体的、精神的健全さと堅固さとによって、この話に似てはいるがもっと正常で自然な交わりに、われわれは絶えず元気づけられ、自分は決して独りぼっちではないということが分かるようになれるものだ。
私にはじつに多くの仲間が家にいる。誰も訪ねる人のない朝などはとくにそうである。二、三の譬《たと》え話を試みて、その中のどれかから私の今の境地を知ってもらうことにしよう。私が寂しくないのは、ちょうど大声で笑う池のアビやウォールデン池《ポンド》そのものが寂しくないのと同じだ。いったいこの人里離れた池にどんな仲間がいるというのか? それでもその紺碧《こんぺき》の水には憂欝魔などはいない。そこには青衣の天使がいる。太陽は独りである。曇った日には二つあるように見えることもあるが、一つはにせの太陽である。神は独りである……だが悪魔ときたら、独りどころかおびただしい数の仲間がいる。じつに無数だ。私が寂しくないのは、ちょうど牧場のモウズイカやタンポポ、マメの葉、スイバ、ウマバエやマルハナバチが寂しくないのと同じだ。ミル・ブルック〔ウォールデンの池から北にある小川。コンコードを通って西へ流れる〕、風見車、北極星、南風、四月のにわか雨、一月の雪解け、または新しい家に入り込んだ最初のクモが寂しくないのと同様、私も寂しくはない。
雪が降りしきり、風が森で吠える長い冬の夜、古い入植者で最初の地主でもある人物の訪問を受けることがときどきあった。ウォールデンの池を掘り、岸を石で固め、その縁にマツの林をめぐらせたと伝えられている人だ。古い時代の話やら、新しい永遠の話をしてくれる。リンゴやリンゴ酒こそないが、楽しくつき合い、じつにさまざまな事柄について愉快な意見を出し合ってはふたりで結構愉快な夜を過ごすのである……非常に賢明でユーモアのある友人で、私も大好きであり、ゴフ〔ウィリアム・ゴフ。一六〇五〜七九。クロムウェルの同志で王政復古後は大赦令の恩典からもれ、義父とともにアメリカに逃れて行方をくらました。インディアンが白人を襲撃した際に現われて市民を助けたともいわれ、文学作品の題材になっている〕やホワリー〔ホワリー将軍。ゴフの義父で、彼とともにアメリカに逃れた〕以上に人目を忍んで生きている人物である。もう死んだと考えられているが、どこに葬られているかは誰も知らない。それにもう一人、たいていの人には姿を見せることのない、かなりの年配の老婦人が近所に住んでいるが、私は彼女の香り豊かな薬草園をときおり散策して薬草を摘み、話してくれる寓話に聞き入るのが好きだ。彼女には無類の豊かな才能があり、その記憶は神話をはるかに超えてさかのぼる。すべての寓話の起原や、それぞれがもとづいている事実を語ることができる。それらの出来事は彼女の若い頃に起こったものなのだ。血色のいい元気な老婦人で、あらゆる天候と季節を喜び、今なおかくしゃくとしていて彼女の子供たちみんなよりも長生きしそうな様子である。
自然の……太陽、風、雨の、そして夏、冬の……名状しがたい無邪気さと恩恵、あの健康、あの歓喜を彼らは永遠に供給してくれるのだ! そしてあの深い同情をつねにわれわれ人類に寄せていて、もし誰かがもっともな理由から悲嘆にくれるようなことがあれば、自然のあらゆるものは共感して太陽は輝きが衰え、風は情深く溜息をもらし、雨雲は涙雨を降らし、森は真夏でも葉を落として喪服をまとう。私が大地と交信せずにいられようか? 私自身がある程度まで木の葉であり、腐植土ではないのか?
われわれを健康で、穏やかで、満ち足りた状態に保ってくれる丸薬《がんやく》とはどんなものだろう? それは私やあなたの曾祖父《そうそふ》ではなく、われわれの曾祖母《そうそぼ》なる自然の、宇宙的、植物的、植物学的薬品のことだ。それを飲んで彼女はつねに自分の若さを保ち、これまでパー老人〔トマス・パー。一六三五年に百五十二才の長寿をまっとうしたと言われている〕のような長寿者を何人となく追い抜いて長生きし、その長寿者たちの朽ち果てた肉体を自分の健康の糧《かて》としてきたのである。ときどき見かけることがある、薬瓶運搬用に作られたあのひょろ長くて浅い黒い馬車のような荷車から取り出される代物《しろもの》、アケロン川〔ギリシア神話。冥界にあるとされる五つの川の一つ〕と死海の水を垂らして混ぜた、いんちきな薬をひと瓶飲むかわりに、私の万能薬としては純粋清澄な朝の空気を吸いたいものである。朝の空気! もし人がこれを一日の本源である朝の時刻に飲もうとしないなら、この世の朝の時刻の予約購入券を紛失した人たちのために朝の空気を瓶詰めにでもして、店で売る必要があるというものだ。ただ、それはどんなに冷えた地下室に置いても正午まではもたず、正午のずっと前に栓を押し出してオーロラのあとに続いて西に去ってしまうことをお忘れなく。あの老薬草医アスクレピオス〔ギリシア神話。医療の神〕の娘で、その像では一方の手にヘビを、他方の手にはそのヘビがときおり酒を飲む杯を持っているヒュギエイア〔ギリシア神話。健康、衝生の女神〕は私の崇拝するところではない。むしろゼウスの酌人ヘベの崇拝者である。この女神はゼウスの妃ヘラと野生のレタスとの間に生まれた娘で、神々や人間に青春の活力をよみがえさせるというのだから。彼女はおそらく今までこの地上を歩いた唯一の、完全に健康な状態にある、健全活溌《けんぜんかっぱつ》な若い女性であった。彼女が来る時はいつもそこに春があるのだった。
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訪問客
私は交際が人並みに好きな方で、出会う人にはどんなに威勢のよい人にでも、その場でいつでもヒルのように粘り強く応待できると思っている。生来|隠遁者《いんとんしゃ》などではないし、用事さえあれば酒場の最も剛の者の常連が帰ってしまうまで腰を落ち着けていることもできるだろう。
家には椅子が三脚ある。その一は孤独のため、その二は友情のため、その三は社交のためのものだ。思いがけず大勢の訪問客がある時は、全員に対して第三の椅子しかないわけだが、たいていの場合、客は立って場所を上手にやりくりしてくれた。ちっぽけな家に大の男と女がいかに大勢はいれるものかは驚くほどだ。二十五ないし三十人もの魂がその肉体もろとも一度に家の屋根の下に座を占め、しかもお互いに身を寄せ合ったことなど意識もせずに別れたことがよくあった。公私を問わず、われわれの家にはほとんど無数の部屋と大きな広間、それにワインその他の平和的な軍需品を貯蔵する地下室があって、そこに住む人の割には家がとほうもなく大きいように私には思われる。
家があまりに広々として堂々たるものだから、住人はその家に巣食うネズミぐらいにしか見えない。ヘラルド〔派手な服装をしてラッパを吹き、大声で重大事件などを触れて歩く伝令官〕がトレモント、アスター、ミドルセックス・ハウス〔それそれボストン、ニューヨーク、コンコードにある宏壮な建物〕のような大建築物の前で人寄せのラッパを吹くと、住民がすべて集まってくる広場にこっけいなネズミが一匹ちょろちょろ這い出してきて、やがてまた舗道のどこかの穴の中にもぐり込むのを見て私は驚くのである。
こんな小さな家に住んでいてときどき一つ不便に思うことは、たいそうな言葉でたいそうな思想を述べはじめる時など、相手客との間に十分な間隔をおくのが難しいことであった。思想なる船が目指す港に着く前には、まず航海のできる態勢をととのえ、一、二コース走ってみる空間的余裕が必要なのだ。思想という弾丸は、聞き手の耳にたっする前に左右、上下の揺れを制御して、最終的に安定した弾道におさまるものに違いない。さもないと弾が相手の頭側からふたたび飛び出てしまうかも知れない。またわれわれの文章は、聞き手に伝わるまでの間に展開して隊形をととのえる余裕が必要である。個人と個人の場合も国家の場合と同様、お互いの間に適当な、広々として自然な境界、かなりの中立地帯さえ必要なものだ。私は、池越しに向こう岸の仲間に話しかけるのが妙に贅沢なことのように感じたことがある。私の家ではお互いがたいへん身近に座を占めることになるので、さあ、聞きましょう、といった態勢を取れない……静かな水に小石を二つ近づけて投げ入れるとお互いの波動を乱し合うように、お互が聞き取れるように低い声で話すことができないのだ。それがたんなるおしゃべりで、大声で話すだけのことなら、頬を寄せてくっつき合って立ち、お互いの呼吸を感じようとかまわない。だが控え目に思慮深く話すとなると、お互いの動物的な熱気や湿気が発散してしまう間が持てるように、もっと離れて座を占めたいものだ。もしわれわれがそれぞれ内に秘めていて、話しかけられることのない、あるいはそんな事から超越しているものとの最も親しい交わりを楽しみたいのなら、われわれは沈黙していなければならないばかりでなく、一般的には決して互いの話し声が聞こえないくらい、肉体的にも離れている必要がある。
この標準に照らして考えてみれば、言葉は耳の遠い人たちの便宜《べんぎ》をはかるためのものということになる。だが、大声で叫ばなければならないとなれば、どうしても言い表わせない微妙なことも多くある。客と話しているうちに会話が崇高で荘重な調子を帯びてくると、互いに自分の椅子をだんだんと相手から遠くへずらしてゆき、ついには向かい合った隅の壁に双方ともゆきあたって、たいていの場合は空間が不足するはめになるのだった。
だが、私の「最上等」の部屋……敷物に日光こそ当たらないが、いつでも来客を迎える準備のできている私の応接間……は、家の背後のマツ林であった。夏の日に大切な客があると、私はそこへ案内した。掛けがえのない召使いが床を掃除し、家具の塵《ちり》を払い、道具を整頓してくれた。
客が一人の時は、質素な食事をともにすることもあった。話しながら即席プディングをかき混ぜたり、灰の中のパンがふくらんでゆくのを見つめたりしていてもいっこうに会話のさまたげにはならなかった。だが二十人もやってきて家に坐ると、二人分ぐらいのパンは十分あっても、物を食べることは廃《すた》れてしまった習慣も同然となり、食事についてはいっさい口にしなかった。われわれはごく自然に禁酒を実行した。だがこうすることは決して歓待の精神に反するものでなく、最も適当な思慮深いやり方と感じられた。肉体的生命の消耗と衰弱には頻繁に補給することが必要だが、こんな場合は奇蹟的に消耗と衰弱が緩和《かんわ》されるようで、活力が長時間維持された。こうして二十人はおろか、千人の客でももてなすことができた。私が家にいて、失望したり空《す》きっ腹を抱えたりして私の家から帰ってゆく人がいる時は、少くともその人たちに同情していたことだけは信じてもらっていい。こう言うと疑う主婦の方が大勢いるだろうが、古い習慣にかえて新しい、より良い習慣を確立するのはいたって造作のないことである。自分の評判のよしあしは提供する食事いかんにかかっている、などと考える必要はない。私自身のことをいうなら、私に最も効果的に他人の家に出入りをさせなくするものは、ご馳走《ちそう》しようとその家の人があれこれ忙しく用意することであり、どんな種類の地獄の番犬もこれほど有効に私に訪問を思いとどまらせはしなかった。それは、二度とこんな面倒はごめんですという、きわめてていねいな私への当てこすりだと私は解したのである。そんな場面には二度と臨むまいと思うのだ。私の客の一人が、名刺がわりにと黄色のクルミの葉に書いて置いていった、あのスペンサー〔エドマンド・スペンサー。一五五二〜九九。イギリスの詩人で『仙界の女王』の著者〕の数行を、私の小屋のモットーとしていることを誇りとしたい……
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至りて彼らその小さき家を満たす
誰一人あらぬ所にてはもてなしを求むることなし、
休息は彼らが宴《うたげ》、すべてみな彼らの意のままなり、
最も気高き心に最も善き満足あるなり
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後にプリマス植民地〔ピルグリム・ファーザーズにより一六二〇年マサチューセッツ州に開かれた〕の総督となったウィンスロー〔一五九五〜一六五五。インディアンの酋長と商取り引きをするためによく旅行した〕が連れをともなって森を通り、徒歩でマッサソイト〔ウィンスローと会商したインディアンの酋長〕を儀礼訪問した時、彼が疲労し、腹を空かして小屋に着くと、その王は彼らを歓迎したものの、その日は食事のことはなんの話も出なかった。夜になると、彼ら自身の書いたものを引用すれば……「王はわれわれを彼自身とその夫人が寝る同じ床に寝かせた。床は地面から一フィートの高さに置いた厚い板で、その上に筵《むしろ》を敷いただけのものであった。王夫妻が一方の端に、われわれ二人は他方の端に寝た。ほかに王のおもだった部下二人が、場所がないのでわれわれとくっついて寝た。そういうわけで、旅の疲れよりも宿泊の疲れがひどかった」
翌日の午後一時、マッサソイトはコイの三倍ほどもある「射止めた魚を二匹運んできた」「それを煮ると、少くとも四十人が分け前にあずかることを期待した。そしてそのほとんどの者が食べた。二晩と一日の間に食べた物といえばこの食事だけであった。われわれの一人がもしライチョウを一羽買わなかったら、きっと断食旅行ということになっていただろう」
蛮人たちが野蛮な歌を歌うので(彼らは歌いながら寝入る習慣があったから)、食物だけでなく睡眠も不足していたから、ふらふらになってはいけないと思い、また旅をする余力のあるうちに帰れるようにと彼らはそこを辞去した。宿泊の点ではなるほど彼らの受けた歓待は粗末ではあったが、彼らが不便と感じたことは疑いなく敬意を表するつもりでされたことであった。だが、食べ物に関するかぎり、インディアンたちはほかに仕方がなかったのだと思う。彼ら自身食べる物がなかったのである。そして、客に言い訳さえすればそれで食べ物のかわりとなる、と考えるほど愚かでなかったのだ。それで彼らはベルトを締めなおして空腹を我慢し、食べ物のことはなにも言わなかったのだ。その後ふたたびウィンスローが訪問した時は、彼らに食べ物の豊富な季節だったから、この点ではなんの不足もなかった。
人間に関しては、人はどこにいようと人間の不足を感ずることなどめったにないものだ。森に住んでいる間、私には生涯のどの時期よりも多くの訪問客があった。とはいっても、若干の人数という程度である。そこでは、他のどんな場所でも得られないほど好適な環境の下で数人の客と会った。だが、くだらない用向きで会いに来る人は少なくなった。この点では、町から私の住所までの距離だけによっても交友は篩《ふるい》にかけられた。私が孤独という大洋のはるか奥探くに引っ込んでいたので、そこに社交の川が注ぎ込むわけだが、概していえば、私の必要とするものに関するかぎり、最も良質の沈殿物だけが周囲に沈積されていった。そのうえまた、大洋の向こう側、未踏未開の大陸から証拠物件がいろいろ漂着するのであった。
今朝私の宿にやってきたのは、誰あろう、じつにホメロスの詩篇中に登場するような、またはパプラゴニア人〔小アジアの北部、パプラゴニア地方の精悍《せいかん》な住民で、『イリアス』中ではトロイアの味方をした〕のような素朴な男……ここに印刷できないのが残念なほど、いかにもぴったりした名前であった……である。カナダ人の樵夫《きこり》で、杭に穴をあけることができて、犬が捕えてきたウッドチャックで夕食をすませてきたという男だ。彼もホメロスは聞きかじっていて、「本がないと雨の日は何をしたらよいか、とほうに暮れるだろう」とは言うが、おそらく雨季が終る段になっても、いつも一冊の本を読みとおしていないといった程度だろう。今は遠い彼の生まれ故郷の教区で、ギリシア語そのものも発音できるある牧師が、彼に聖書の一節を読むことを教えたのであった。そして今彼に本を持たせて、私はパトロクロスが悲しげな顔でいるのをアキレウスがとがめる言葉〔ホメロスの『イリアス』で、パトロクロスがアキレウスの鎧《よろい》を着てトロイ軍に向かおうとしている場面。ギリシア戦士パトロクロスは、トロイア戦争で友人アキレウスと間違えられて敵将のヘクトルに殺されるが、アキレウスが友の復讐をする〕を彼に翻訳してやらなければならない。
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パトロクロスよ、なんで小娘のように涙にくれているのか?……
君だけにプティア〔ギリシア東部の一地方テッサリアにある地名〕の地からなにか便りがあったのか?
アクトルの息子メノイティオス〔パトロクロスの父〕はまだ生きているという、
アイアコスの息子ペレウス〔アキレウスの父〕もミュルミドン人〔トロイ戦争に参加したテッサリアの戦士〕の中で生きながらえている。
二人のいずれかが倒れたとあれば、われわれは大いに悲しんでしかるべきだが」
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「こりゃいい」と彼は言う。この日曜日の朝、病人のためにと集めた大きなカシワの樹皮の束を抱えている。「今日はこんな物を探して歩くのも悪くねえだろう」と言う。ホメロスの著作が何について書いたものか知らないのだが、彼にとってホメロスは偉大な作家なのであった。彼より単純で自然な人間を見つけるのは難しいだろう。この世にきわめて陰惨な道徳的色合いを投げかける悪徳や病気など、彼にとってはほとんど存在しないように思われた。年の頃は二十八歳ぐらい。合衆国で働いて、たぶん生まれ故郷にだろうと思うが、ゆくゆくは農場を買う金をかせごうと、カナダと父の家を十二年前にあとにしたのだった。彼は最も荒削りな型に作られていた。ずんぐりした動きの鈍い体をしているが、身のこなしは優雅で、太い、日焼けした首、黒っぽい、もじゃもじゃな頭髪、どろんとして眠そうな青い目を持ち、その目がときどき表情豊かに輝いた。平たい灰色の布の帽子、すすけた羊毛色の外套《がいとう》、牛皮の長靴という装いであった。大の肉好きで、いつもは私の家の前をとおって仕事場まで二マイルを……夏のあいだずっと木の伐採をしていたから……錫《すず》の弁当箱に昼食を入れて通っていた。弁当は冷肉で、ウッドチャックのこともあり、紐でベルトからぶら下げた石の瓶にはコーヒーが入っていた。それをときどき私に飲まないか、と勧めた。朝早く私の豆畑を横切ってやってくるが、ヤンキーのように仕事に取りかかろうとやきもきしたり急いだりする様子はなかった。彼は自分を痛めつけるようなことはしなかった。食費さえかせげば、あとはいっこうに頓着《とんちゃく》しなかった。犬が途中でウッドチャックを捕えると、まず日暮れまでそれを池につけておいても大丈夫だろうか、と半時間も思案してから……そんなことをのんびり考えるのが好きなたちだったので……昼食をやぶの中にほうっておいて一マイル半もわざわざもどってゆき、それを料理したうえ、下宿先の地下室に置いてくることもたびたびであった。朝、通りがかりによくこんなことを言っていた。
「ハトがいっぱいいるなあ! 毎日働く商売でなけりゃ猟をして欲しいだけ肉が手に入るんだが……ハトだの、ウッドチャックだの、ウサギだの……くそっ! 一日で一週間分も獲れるんだが」
彼は腕のいい樵夫で、技術的にははなやかで装飾的な仕事をするのに凝《こ》っていた。例えば木は水平に、地面すれすれに伐った。後で出てくる芽が勢いよく育つように、また橇《そり》が切り株の上でも滑れるようにというわけである。縄でくくった薪をささえる木も原木のまま使わないで、削って手で折れるぐらいの細い木、すなわち棒切れにするのだった。
彼が非常に物静かで、孤独で、同時にまた幸せそうなので、私は彼に興味を持った。彼は上機嫌と満足感の泉で、それは両眼にあふれていた。その歓喜には混じりけがなかった。ときどき森の仕事場で木を伐り倒している彼に出会ったが、そんな時には言い表わしようのない満足感を秘めた笑いと、英語は話せたのだが、カナダなまりのフランス語の挨拶とで、私を迎えてくれた。私が近づくと仕事の手を止めて、なかば喜びをおし殺して切り倒したマツの幹にそって身を横たえ、木の内皮をむいて丸めると、小さな球にして、笑ったり話したりしながらそれをかんでいた。動物的な活力にあふれていて、ときどきなにか考えごとをしておかしくなると、転げ落ちて地面をごろごろ笑い転げるのだった。よく周囲の木立を見回しては……「まったくだ! ここで木を伐っていりゃそれで十分楽しいよ。これ以上楽しみなんていらねえ」と叫んでいた。ときどき暇になると小型ピストルを持って、歩きながら一定の合間をおいて自分に祝砲を発射しては、終日森で楽しんでいた。冬になると焚き火をし、その火で昼は薬罐《やかん》のコーヒーを暖めた。彼が丸太に腰を下ろして昼食を食べていると、コガラがときどきやってきて腕に止まり、つまんだジャガイモをくちばしでつっつく。「ちっちゃな<やつ>がそばにいるのはかわいいもんだ」と彼は言った。
彼の内部では人間の動物的な部分が主として発達していた。肉体的な耐久力と満足という点ではマツや岩石のように安定していた。一日中働いて、夜は疲れはしないか、と一度たずねてみたところ、彼は誠実で生真面目な表情で、「平気さあ。今まで疲れたことなんかねえ」と答えた。だが、彼の内なる知的な、いわゆる精神的な人間は幼児の頃のまま眠っていた。カトリックの牧師が原住民を教える時の、あの単純で非効果的な方法でしか教育されていないのだ。その方法では、生徒は自覚する段階までは教育されず、ただ信頼と尊敬を知る段階にとどまる。子供は大人に成長しないで子供のままである。自然が彼を造った時、彼には頑丈な肉体と満足感を取り前として与え、七十年の一生を子供のままでとおさせようと、彼をあらゆる側面から尊敬と信頼の念でささえてくれたのである。彼はいかにも純真で無邪気だから、隣人にウッドチャックを紹介するのに紹介の言葉が不要なのと同様、彼の紹介にはどんな言葉も役には立たないだろう。
隣人もみながするように、自分で彼という人間を知るようにならなければならなかった。彼はいかなる役割も演じようとはしなかった。人が彼に仕事をさせて給料を払い、それが彼の衣食の助けとなったわけだが、彼は人々と決して意見の交換などしなかった。きわめて素朴で生来控えめなため……高望みしないのを控えめと呼んでよければ……その控えめなことが彼にあっては明白な特質とはなっていないし、自分もそれに気づいていなかった。自分より賢い人は、彼にとっては半神のような存在であった。そんな人が来る、と彼に言っても、そんな重大な事柄が彼に期待するところなどあろうはずがないし、万事がそちら様の思いどおりに運ばれて、彼などはそっちのけで忘れられているはずだ、とでも思っているような素振《そぶ》りだった。彼は、人から賞賛の声を聞いたことがなかった。物を書く人と説教者をとくに尊敬していた。その人たちのすることを奇蹟のように思っていた。私はかなり物を書く、と言うと、彼はそれをただの手習いのことと長い間思っていた。彼自身なかなか上手に字を書けたからだ。ときおり街道そばの雪に、彼の故郷の教区の名前が正しいフランス語のアクセントをつけて見事に書かれてあるのを見つけて、彼が通ったのだな、と分かった。自分の考えを書きたいと思ったことがあるか、とたずねてみた。読み書きできない人たちのために手紙を読んだり書いたりしてやったことはあるが、思っていることを書こうとしたことはない……いや、できはしないし、どう書きはじめたらいいか分からない。まったくどうにもならないんだ。それに綴《つづ》り字にも気を配らなくちゃならないし! と言っていた。
ある著名な賢人で社会改良論者でもある人物が、世界が改革されることを望みはしないか、と彼にたずねたことがあるそうだ。ところが、彼はそんなことが問題となっているのも知らず、驚いてクックッ笑いながら、例のカナダ訛《なま》りで、「いや、これで十分さ」と答えたという。彼を相手にしていると、深く物事を思索する人には示唆するところが多かったことだろう。彼を知らない人には、世事一般について彼はなにも知らないように見えた。だが私は、彼の中にそれまで見たことのない人間を見ることがあった。いったい彼はシェイクスピアのように賢明なのか、それとも子供のように素朴に無知なのか……優れた詩的意識があるのではないか、あるいは愚鈍《ぐどん》なのか、私には分からなかった。町の者は、彼が例の小さな、きちんと合った帽子をかぶって、口笛を吹きながら村をぶらぶらしているのに会うと、どことなくお忍びの王子を思わせるところがある、と私に言った。
彼が持っている本といえば暦と算数の本が一冊だけで、算数はかなり良くできた。暦は、彼にとって一種の百科事典とも言うべきもので、その中に人間の知識が要約されていると考えていた。そして事実、かなりの程度までそのとおりなのだ。私は、当時話題となっていた諸改革について彼の意見を打診するのが好きだったが、そんな時、彼は決まってその諸改革の問題を最も単純かつ実際的な見方でながめた。私に聞かれるまではそんな事を一度も耳にしていなかった。工場というものは無くてもいいか? とたずねてみた。彼は手織りのバーモント・グレーの服を着ていて、これでいいと言う。お茶とかコーヒーは無くてもかまわないか? の問いに対しては、この国で水以外に何か飲み物が出るだろうか? 水にカナダツガ〔昔、この木の葉や小枝から樵夫やインディアンが茶をつくった〕の葉を浸《ひた》して飲んだことがあるが、これは暑い時は水よりもいいと思う、と答える。お金というものか無くてもやってゆけるか、とたずねると、この制度の起原に関する最も理にかなった解釈と、pecunia〔金銭、財産の意のラテン語。語源はpecus〔牛〕。昔は牛が貨幣として用いられた〕なる語の語源そのものまで示唆して、その解釈、語源と符号するように金銭の便利さを指摘した。一頭の牛が自分の持っている財産だとして、彼が針と糸を店で買いたいとした場合、その品物の代価分だけ毎回この動物のある部分を抵当に入れてゆくのは不便だし、やがてそれは不可能になると思う、と言うのである。
彼は、数多くの制度をどんな哲学者よりも適切に弁護できた。それをすべて自分に関連づけて述べることによって、その制度の広く行なわれている真の理由を説明し、思索などはいくらしても他になにも彼には示唆するところがないのだった。また別の時、プラトンによる人間の定義……人間は羽毛のない二足動物である……と、ある人が羽をむしり取った雄鶏を見せて、プラトンのいう人間だといった話を聞くと、彼は<ひざ>が違う方向に曲っている点が重要な相違だ、と考えるのだった。「おれはなんて話好きなのかなあ! まったく、一日いっぱいでも話していられるんだ!」と叫ぶこともあった。何ヶ月ぶりかで彼と会って、この夏はなにか新しいことを考えついたか、と聞いてみた。「とんでもねえ!」と言う。「おれのように働かないとならねえ人間は、今まで考えたことを忘れないでいるだけで上出来さ。あんたと一緒に草取りをしている人間が競走する気になれば、あんたの心もそっちにどうしても向くもんさ。あんたも他の事より草のことばかり考えるようになるさ」
そんな場合に彼の方から先に、いくらか進歩したか、と私にたずねることもあった。
ある冬の日、いつも自分に満足しているのか、と聞いてみた。彼の内部にひそむ、外面的には聖職者に相当するものと、生きてゆくためのなにかいっそう崇高な動機を示唆してやりたいと思ったからだ。「満足だとも! これに満足するのもいれば、あれに満足するのもいて、いろいろさ。たんまり物さえあれば一日いっぱい背中をあぶり、腹をテーブルに向けて坐って満足している者もいるだろうさ。まあ、そうだろうよ!」と言う。だが、どうやってみても、彼に物事を精神的に見させることはできなかった。彼が抱いているらしい最高の概念は、ただ簡単な便利という概念で、それは動物にも理解できそうなものだった。このことは大部分の人間についても同様であろう。彼になにか生活様式の改善をほのめかしてやっても、まったく残念そうなふうもなく、もう手遅れだと答えるばかりだった。それでも正直や、その種の徳目は全面的に信じていた。
彼の中に、ささやかながらもある明確な独創性を見て取ることができた。そして、みずから考えては自分の意見を述べているのをときどき観察した……もっとも、これはめったにない現象で、それを見るためならどんな日であろうと十マイルの道を歩いていっても、と思う程度だった。そして、それは結局、社会制度の多くの再発足へと通じることであった。彼はためらいがちで、どうしても自分の意見を明確に表明できないらしかったが、その背後にはいつも呈示できる思想を持っていた。その思考は原始的すぎたし、また動物的な生活に浸っていたから、たんなる博識家の思考よりは望みはあったものの、人に伝えられるものに熟すことはめったになかった。だが、どんなにつねに卑しく無学であろうと、人生の最下層にも天才のいる可能性があることを彼は暗示してくれた。彼らはいつも自分自身の見解を持っており、あるいはまったく物知り顔をしない人たちだ……暗く、泥にまみれてはいるかも知れないが、ウォールデン池がそう考えられているほどにも底知れない人物なのである。
大勢の旅行者が私や家の内部を見ようと寄り道をして、訪問の口実に水を一杯|所望《しょもう》した。水は池で飲んでいる、と言って池の方を指差し、柄杓《ひしゃく》を貸そうと申し出た。独り遠く離れて生活していても、毎年この訪問からはどうしても逃れることができなかった。それが始まるのは四月一日頃のようで、この時期には誰もが動きまわっていた。訪問客の中には一風変った人物もいたが、幸運の分け前にもあずかった。貧救院その他から愚鈍な人たちもやって来た。私は、彼らがありったけの知恵を働かせて打ち明け話をするように仕向けた。その場合、知恵ということを会話の題目にした。それで埋め合わせがついた。事実彼らの中に、いわゆる貧民の<監督官>や町の行政委員などより賢明な者がいるのを知り、局面一新、主客の位置を入れ替えるべき時期だと感じた。知恵についていえば、それは半人前であろうと一人前であろうと、たいして相違のないことが分かった。とくにそう思ったのは、ある日、一人の目立たない、実直な貧民……家畜や彼自身がはぐれ出ないようにと畑で一ブッシェル〔三十六リットル〕樽の上に立ったり座ったりして、他の仲間と一緒に柵がわりに使われているのをよく見かけたことがあったが……が訪ねてきた時であった。彼は、私のような生活をしたいという希望を表明した。謙虚さと呼ばれるものなどまったく超越した、というより、むしろ<そこまではたっしていない>極度の単純さと真実性をもって、自分には「知恵が欠けている」と言った。これは彼が口にしたとおりの言葉である。神は彼をそんな人間にお造りになっていたが、それでも彼は、神は他の人と同様に自分にも気を遣《つか》って下さる、と思っていた。「子供の頃からこうだった。そんな知恵にあったことなんかなかった。他の子供らのようでなかったんです。頭が悪いのです。でも、それが神様のお思召《ぼしめ》しなんでしょう」と言う。そして、彼がそこにいて、彼の言葉の真実性を証明していた。私にとっては彼は、形而上《けいじじょう》的な謎であった。私はこのように前途に望みを持てる基盤に立って仲間の人間に会ったことはめったにない……彼の話すことはすべてそれほど単純で、それほど真実であったのだ。実際、彼は自分を卑下するに比例して高められた。初めは分らなかったが、それは彼の賢明さの結果であった。この哀れな頭の鈍い貧民がすえてくれた真実と率直という土台から、われわれの交わりは賢人たちのそれにもまさるものに前進してゆくのではないか、と思われるのだった。
通常、町の貧民に数えられてはいないのだが、そう扱われるべき人たち……ともかく世界の貧民の部類には入る……そして歓待というより収容してやりたいような気持を起こさせる人たちの来訪を受けた。彼らは熱心に助けて欲しいと言い、懇願に先立って、まず第一に決してみずからを助けまいと決めていることを私に知らせる。訪問客には、どうしてそうした状態にあるのかは問わないことにしよう。だがじつに世界一旺盛な食欲を持っているのはよいが、現に餓死しかけているようなことはあって欲しくないものだ。慈善の対象は訪問客ではない。私がふたたび自分の仕事に取りかかって、いっそうよそよそしく応答しても、訪問の終ったことに気づかない人もいる。人の動きが激しい季節には、ほとんどあらゆる程度の才知を持つ人たちが訪れた。自分で始末に困るほど才知に恵まれている人もいた……農園ふうな身ごなしを思わせる逃亡奴隷たちは、寓話に出てくるキツネのように、まるで跡をつけてくる猟犬の吠えるのが聞こえるみたいにときどき聞き耳を立てて
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おお、クリスチャンのお方よ、私を追い返すおつもりか?
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とでも言わんばかりに嘆願のまなざしで私を見た。訪問客の中に本物の逃亡奴隷が一人いて、北極星の方角へゆく手だすけをしてやったこともある。一羽のひなを育ててそれがアヒルの子であったという、あの雌鶏のように、ただひとつの思想だけを奉ずる人たち。百羽のひなの世話をさせられ、そのひなが全部たった一羽の虫を追いかけて、その中の二十羽が毎朝霧の中で迷子になる……そして、結局ちぢくれて疥癬《かいせん》だらけになる……というあの雌鶏のように、数多くの思想と、もじゃもじゃの頭を持った人たち。足を持たずに思想を持って、見ていてもむずがゆくなるような、一種の知的|百足《むかで》といった人たちなど、いろいろであった。ある人が、ホワイト・マウンテンズ〔ニュー・ヘイブンにある山で、夏の行楽地〕でやっているように訪問客が署名する名簿をそなえておいたら、と提案してくれたが、残念ながら私は記憶力が抜群で、それはいらない。
私は、訪ねてくる人たちのいくつかの特性に気づかずにはいられなかった。少年、少女、若い婦人は一般に森にいるのが楽しいらしかった。彼らは池をのぞいたり、花をながめたりしては時間を上手に利用した。ところが仕事を持つ人たちは、農夫までもが、ただただ孤独なこと、仕事のこと、それに私の住む場所が他の何かから遠く隔たっていることばかりを考えていた。彼らは森の中をときおりぶらつくのが好きだとは言っていたが、そうでないことは明白であった。生計を立てることに、またはその維持に時間をすべて取られてしまって落ち着かず、動きがとれない人たち。まるでその問題では独占権を持っていると言わんばかりに神を語り、あらゆる種類の意見をいれることのできない牧師。医者、法律家、留守中に家の戸棚やベッドをのぞく落ち着きのない主婦たち……○○夫人はどうして私のシーツが彼女のほどきれいでないのが分かったのだろうか?……若々しく処することをやめて、踏み固められた職業の道をたどることがいちばん安全と決め込んでいる青年たち……すべてこうした人たちは、ほとんどが私のような暮らしをしていたのでは、たいした善行もできないと言う。ああ! そこが問題点だったのだ。老人、虚弱者、臆病者《おくびょうもの》は、年齢と性の別なく、病気と不慮の事故と死のことばかり考えていた。彼らには人生が危険にあふれているように見えるのだ……いったい。こうした事をなにも考えなければ、どんな危険があるというのだろう?……賢明な人なら医者の某氏に即座に飛んできてもらえそうな最も安全な場所を注意深く選ぶもの、と彼らは考えていた。彼らにとっては、村は文字通り<共同生活体>、すなわち相互防衛の同盟であり、彼らは薬箱をもたずに決してハックルベリー摘みになど行かない、と考えてよい。要するに、人間生きていれば死ぬかも知れないという<危険>はつねにつきまとうものなのだ。もっとも、初めから半死半生のような状態では、その程度に比例して死ぬ危険も少いことは認めなければならないだろう。走っていて危険なら、坐っていても同じことだ。最後に、みなからうるさがられている自称改革家たちがいて、彼らは私がいつも
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これは私の建てた家
これは私の建てた家に住む男
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と歌っているものと思っており、その第三行目が
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この人たちは、私の建てた家に住むその男を悩ます人たち
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となることは知らなかった。
ニワトリは飼っていなかったのでニワトリ荒らしは恐ろしくなかったが、人間荒らしの方は恐ろしかった。
この最後の部類の人たちよりもずうっと心を慰めてくれる訪問客がいた。キイチゴ摘みにくる子供たち、清潔なシャツ姿で日曜の朝の散歩をする鉄道関係の人たち、漁夫と猟師、詩人と哲学考者、つまり、すべて自由を求めて確かに村を離れ、森に出かけてくる正直な巡礼者たちで、私はいつも「ようこそ、同胞のみなさん! 本当によく来ましたね。みなさん!」と喜んで挨拶した。そんな人たちとはかねて心が通じ合っていたからである。
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豆畑
とかくするうちに、植えた豆畑はすでに畝《うね》の長さが合計七マイルにもなって除草を待ちわびていた。最近まいたのがまだ芽を出さないうちに、最初まいたのはかなりのびていたのだから。実際、このうえ除草を気楽にのばすことは許されない状態であった。絶え間ない、尊大とも見えるこのちょっとした重労働にどんな意味があるのか、私には分からなかった。畝と豆は必要以上にたくさんあったが、私はそれに愛着を抱くようになった。それらは私を大地になじませたので、私はアンタイオス〔ギリシア神話。リビヤの怪力の巨人。体が大地に接している間は無敵の大力をほこっていたが、ヘラクレスにつり上げられて締め殺された〕のような力を得た。だが、なぜ豆を育てなければならないのだ? それは天のみが知るところであった。シンクフォイル〔バラ科で五出の複葉をもつオヘビイチゴの類〕、クロイチゴ、オトギリソウなど、以前は甘い野生の果実と美しい花しか生えていなかった地球表面のこの部分に、それらにかわって豆類を生み出させること……これが夏中の私の変った仕事であった。私は豆に何を学び、豆は私に何を学ぶのだろう? 豆をいつくしみ、除草し、朝に夕に様子を見てやる。これが一日の仕事である。それは見る目にも立派な幅広の葉をしている。私を助けてくれるものは、この乾いた土をうるおす露と雨、それに概して土地はやせ衰えているが、多少にかかわらず、その土地にそなわっているかぎりの肥沃《ひよく》さである。一方、敵は虫と冷たい日と、とりわけウッドチャックである。この最後の敵は四分の一エーカーをきれいさっぱりかじってくれた。だが、オトギリソウその他を追い出して、彼らの昔からの雑草園を掘り返すどんな権利が私にあったというのか?
しかし、そのうちに残る豆もかたくなりすぎてウッドチャックにはかじれなくなり、このまま育って別の新しい敵に会うことだろう。
今でもよく覚えているのだが、四歳の時ボストンからこの生れた町に連れて来られて、ちょうどこの森とこの野原をとおって池に出たことがあった。それは、記憶に焼きつけられた最も遠い昔の情景のひとつである。そして今宵《こよい》、今、私の笛はその同じ水の上にこだまを呼び覚ます。マツの木がまだここにある。私よりも年をへたマツだ。伐り倒されたのがあれば、その切り株で私は夕食を煮炊きしたことがあるのだ。そして新しい茂みがあたり一面に育ち、新しい幼児の目に違った様相を準備しつつある。ほとんど昔と同じオトギリソウがこの牧草地のその同じ宿根から生え出している。そしてこの私さえもが、幼時の夢にまつわる、あの空想的な風景にとうとう衣を着せる手だすけをすることになってしまった。私というものの存在とその影響の一つの結果がこれらの豆の棄、トウモロコシの葉、そしてジャガイモの蔓《つる》に現われているのだ。
私は高地に二エーカー半ばかり植えつけた。この土地は、拓かれてから十五年ほどしかたっていないし、私自身も二、三コード(約七・二〜十・八立方メートル)の切り株を掘り出したので、別に肥料はやらなかった。しかし、夏の間に除草していて掘り出した矢尻から判断すると、白人がこの土地の開拓にやってくるずっと以前に今は絶滅している種族がこのあたりに住んでいて、トウモロコシや豆を植え、ある程度までは私のこの収穫のための肥沃度を低下させていたようである。
農夫たちがそれではいけないと忠告してはくれたのだが、私はウッドチャックやリスが一匹も道を横切らないうちに、太陽が潅木《かんぼく》のオークの上にこないうちに、そして露がまだみんなあるうちに……できれば露がある間に、仕事はぜんぶ片づけてしまうよう忠告したい……豆畑の横柄《おうへい》な雑草の列を倒して、その上に砂をかける仕事に取りかかった。朝の早いうちは、造形美術家のように露に湿った崩れる砂にまみれて素足で働いた。しかし、時間がたって日中になると、太陽は私の足を焼いた。一方の端が潅木のオークの木蔭でひと休みのできる茂みに終り、他方の端は私がもうひと仕事終えるまでにはその緑の実が一段と色濃くなるクロイチゴの野原に接する、十五ロッド〔約五五・四メートル〕の長い緑の畝の間をゆっくりと行きつ戻りつして豆の採草をするのを太陽は照らしていた。雑草を除くこと、豆の茎に新しい土をかけてやること、自分がまいたこの雑草をはびこらせること、黄色の土に、その夏の思いを、ヨモギやコショウやイブキヌカボより豆の葉と花で表現させること、大地に、草でなく豆がいいと言わせること……これが日々の私の仕事であった。牛や馬、雇人や少年、進歩した耕作機具などの助けはほとんど借りなかったから、仕事はふつうよりずっとのろく、豆とは人並みはずれて親しくなった。手の労働というものは、たとえ単調な仕事に近いものでも、決して最悪な形態の怠惰とはいえない。それには不断不滅の教訓があって、学者には最高級の結果をもたらしてくれる。リンカーンやウェイランドを通ってどこへ行くのか、西に進む旅行者たちの目には、私は agricola laboriosus(どん百姓)そのものに映った。彼らは膝に肘《ひじ》を立てて、手綱を花綱状にたるませ、ゆったりと二輪馬車に乗っている。一方、私は家にへばりついて黙々と働く土の子である。だが、たちまち私の地所は彼らの視界と頭の中から消えてしまう。そこの土地が道の両側にそってかなりの距離にわたって拓かれ、耕されている唯一の場所なので、旅行者たちはいろんなふうにそこを利用するのだった。畑で働く男には、耳に入れるつもりで言ったのではない旅行者たちのおしゃべりやら、批評の言葉までが聞こえてくるのだった。「今ごろソラマメだよ! こんなに遅くにエンドウだよ!」……他の人が中耕を始めている時分に、まだまいていたのだから……。教えどおりに仕事をする牧師流の農夫にとっては、それは夢にも思わぬ事だったのである。「トウモロコシだよ、ほら、飼料にするんだよ。飼料にするトウモロコシだよ」「あの人はあそこに<住んで>いるのかしら?」
黒いボンネット帽が灰色の上着にたずねる。厳しい顔つきの農夫がひと休みできるわいとありがたがる馬を止めて、畝の間に飼料がぜんぜん見当らないが何をしているのか、と私にたずね、少量の切り屑、もしくは何かごみ類を少し、灰か漆喰《しっくい》でもよいから施肥するようにと勧める。しかし、ここには二エーカー半の畝に手車用の除草器、それにそれを引っ張る二つの手しかないから……他の車や馬はすっかりきらわれているで……切り屑は遠くまで行かなければ得られない。ゴロゴロ馬車で通り過ぎながら、同行の旅行者たちは私の畑をそれまでに通り過ぎてきた他の畑と声高に比較した。それで私には自分が今農業の世界でどんな立場にあるかが分かるようになった。この畑は、コールマン〔一七八五〜一八四九。牧師。農事に精通し、マサチューセッツ州の農業に関する報告書を出した〕の報告書には見当らない一つの畑であった。ところで、人間の手で改良されていない、天然そのままの原野に自然が産み出す作物の価値は誰が評価するのだろう? <イギリス干し草>などはていねいに計量され、水分も計算されるし、珪酸塩、カリ分も同様である。だが森、牧草地、沼沢地などの小さな谷合いや池の隈《くま》にも豊かなさまざまの実りがある。ただ穫り入れされないだけの話だ。私の畑は、いわば天然の畑と耕作された畑をむすぶ中間的な存在である。文明化した国もあれば、半文明化した国もあり、未開または野蛮な国もあるように、私の畑は悪い意味でなしに半文明化した畑であった。栽培しているのはいつでも喜んで野性と原始の状態にもどろうとする豆であり、除草器は豆を引きもどそうと、「|牛呼び歌《ランデヴァシュ》」Ranz des Vaches〔スイスの一地方で六月に家畜を谷間から山腹の牧場へ呼び上げるのに吹くアルペンホルンの曲名〕を奏でるのである。
近くのカバノキの梢《こずえ》でチャイロツグミモドキ……アカウタツグミと呼ぶのを好む人もいる……が午前中鳴く。人間と一緒にいるのがうれしいのであり、ここに畑がなければ他に農夫の畑を見つけることだろう。種まきをしていると「コボセ、コボセ……カブセロ、カブセロ……ヒッコヌケ、ヒッコヌケ」と叫ぶ。だが私がまいているのはトウモロコシではなかったから、彼のような敵からは安全であった。そんな戯言《たわごと》も同然の鳥の鳴き声、いわば一本、時には二十本の弦をもってアマチュアが奏でる、パガニーニ〔一七八二〜一八四〇。イタリーの名バイオリニスト〕風の演奏と種まきとの間になんの関係があるか、と思うかも知れないが、私は溶かした灰とか漆喰などよりはその演奏の方を採りたいと思う。その鳴き声は私が全面的に信仰する安価な敷き肥《ごえ》であった。新しい土を除草器で畝に寄せると、はるか原始の時代、この空の下に住んでいた、歴史には記されていない民族の骨が掘り起こされて、その使った狩猟や戦争の小道具がこの現代の光にさらされた。それは他の自然石……あるものはインディアンの焚き火で、あるものは日光で焼かれた跡がある……や、その後この土地を耕作した人たちが持ってきた陶器とかガラスの破片と混じり合っていた。除草器が石に当たると、その奏でる楽の音《ね》が森や空にこだまして、無限の収穫を産む私の労働の手っ取り早い伴奏となってくれた。もはや私が除草してやるのは豆ではなく、豆の除草をしているのは、私ではなかった。オラトリオ〔聖譚曲《せいたんきょく》。管弦楽をもちいた宗教的、叙事的独唱、合唱で、所作、背景、扮装をともなわない〕を聞きに都会に出かけていった知人を多少は思い出しはしても、誇らしい気持ちと、それと同程度の哀れみの念がそれにともなっていた。
ヨタカが天気の良い日の午後、よく頭上に輪を描き……時には一日中働くこともあったから……目の中、または大空の目の中にただよう一片の塵のように見えた。ときどき、天がついにずたずたに引き裂かれるかとも思われる音をたてながら舞い降りてくるのだが、無縫《むほう》の天は依然としてそのままであった。この鳥は、空いっぱいに飛び回る小さないたずらっ子で、地上の裸の砂地とか丘の頂上の岩石に産卵するが、ほとんど人目につくことはない。池の面からすくい上げたさざ波のように、木の葉が風に舞って空をただようように優雅でほっそりしている。そんな類似性が自然にはあるものだ。ヨタカは、その上を滑空してながめ渡す波の、空での兄弟であり、あの完全な、風をはらんだ翼は、海上の未熟な水の翼の動きに呼応する。二羽の雌が空高く輪を描いているのを見つめたこともある。私自身の思索を具象化するかのように交互に舞い上がっては降下し、互いに接近しては離れる。また、野バトがかすかに震えるような羽音を立てて、郵便配達人のようにせわしそうに、こちらの森からあちらの森へと飛んでゆくのに引きつけられることもあった。朽ちた切り株の下から除草器がのらりくらりした気味の悪い、異国的な斑点のある火トカゲを掘り出した。エジプトやナイル川の残した形見であり、われわれの同時代者でもある。除草器にもたれてひと息いれていると、畝のいたる所にこうした音と光景が聞こえ、目に入ってくる。それはすべてこの片田舎の土地が提供してくれる、つきることのない楽しみの一部であった。
祭りの日、町では祝砲を放つが、それがこのあたりの森に豆鉄砲のようにこだまする。また軍楽隊の音楽がこんなに遠くにまでとぎれとぎれに聞こえてくることもある。町の反対側のはずれにある豆畑に出ている私には、その大砲もホコリタケがはじけるように響く。軍事教練をしていて私がそれに気づかない地平線にやがてなにか吹き出物……猩紅熱《しょうこうねつ》とか潰瘍《かいよう》とかの……でも出てくるような気がして、終日地平線にある種のむずがゆさと病的症状を漠然と感じていることもあったが、やがて風向きが変わると風は急に畑を越え、ウェーランド街道ぞいに吹いてきて、私に「市民兵」の訓練を知らせてくれるのだった。遠くのどよめきを聞いていると、ミツバチがどこかに群がっていて、近所の人たちがウェルギリウス〔紀元前七〇〜一九。ローマの詩人。『農事篇』でミツバチを歌っている〕の忠告どおりに家庭の道具でいちばんよく音を出す物を<チリンチリン>とかすかに鳴らしながら、ハチを巣箱に呼びもどそうと懸命になっているかのようだ。その音もすっかりやんで、どよめきもおさまり、風向きが最も好都合になった時ですら、なにも聞こえなくなると、人々は最後の一匹の雄バチまで残らず無事にミドルセックス〔コンコードやウォールデン池がある郡の名称〕という巣箱にもどし終えて、今や彼らの心は巣箱に付着している蜜に向けられていることが分かるのだった。
マサチューセッツ州とわが祖国の自由がかくも安全に保たれているのを知って、私は誇らしく感じた。そしてふたたび除草を始めると、私は表現しがたい自信に満たされ、未来に落ち着いた信頼感を抱いて、いそいそと労働を続けた。
音楽隊が数時間演奏する時などは、村全体が巨大な吹革《ふいご》となって建物がすべて騒音を立てて交互にふくれあがったり、しぼんだりするかのように聞こえた。だが時にはこの森まで聞こえてくるのが真に気高く、感銘的な調べ、名誉の曲を奏でるラッパの音であることもあり、そうした時は、メキシコ人を串刺しにでもして焼いて、おいしく食べられるような気がした……というのは、なぜわれわれはいつも些事《さじ》にこせこせしていなければならないのだろうか?……そして私の勇敢な騎士振りを発揮すべきウッドチャックやスカンクはいないかと、あたりを見回した。この軍楽は、はるか遠くパレスチナで演奏されているように思われ、村におおいかぶさらんばかりのニレの梢がかすかに疾駆《しっく》して震えるように揺れ動いて、十字軍が地平線を進んでゆくのを思わせた。その日こそ、十字軍時代の<偉大な>日々の一日であるような気がした。私の開拓地からは、空は相変らずどこまでも広大な眺めだけをもっていたが。
種まき、除草、穫り入れ、脱穀、選別、販売……この最後のが最も骨の折れる仕事だった……これに、確かに味わった以上つけくわえてもよいだろうから、食べること、これらをとおして深めた豆とのあの長いつき合いは比類のない経験であった。私は豆を知ろうと決心した。豆の生長期には朝五時から正午まで除草で、その日の残りはふつう他の事に費した。さまざまな種類の雑草との親密で奇妙なつき合いを考えてみるがいい……記述に若干の重複があるだろうが、もともとこの労働には少なからず重複があるのだから……除草器で雑草の繊細な組織を容赦なくかき乱し、不公平な差別をして片方の種《しゅ》は全列なぎ倒し、片方だけを丹念に育てるのである。それはブタクサだ……それはアオビユだ……それはスイバだ……それはアカザだ、やっつけろ、ぶった切れ、根を上にして日にさらせ、細い根一本でも日陰に置くな、置けば起きなおって、二日もすれば韮葱《リーキ》のように青々としてくるぞ。相手はツル〔ギリシア神話。海岸に住む小人のピグミー族は春ごとにツルの大群に攻められた〕ではなく、日光と雨と露を味方とする、トロイ人のように強い雑草との長期戦であった。毎日、私が除草器で武装しては豆の敵なる雑草の隊列をなぎ倒し、塹壕《ざんごう》をその死骸でうずめるのを豆は見ていた。群がる仲間の雑草からたっぷり一フィートも高く突き出て、兜《かぶと》の飾り毛を風になびかせている頑強な勇将ヘクトル〔ホメロスの『イリアス』に登場するトロイアの勇者。アキレウスに殺された〕のようなのが何本となく私の武器の前に倒れた。
同時代に生きるある者がボストンやローマの美術に、他の者はインドでの観照に、また他の者はロンドンやニューヨークでの商売にささげるその夏の日を、私はこうしてニューイングランドの他の農夫たちと一緒に農耕にささげた。私は食べるために豆が欲しかったのではない。豆に関するかぎり、粥《かゆ》にして食べようが、投票の計算用に使おうが、生まれつきピタゴラス〔紀元前五八二〜五〇〇。ギリシアの哲学者。数学者。食物としての豆を断つことを説いた〕のように豆ぎらいであったからだ。豆は米と交換した。たとえ比喩や表現の材料となるだけのことでも、いつの日か寓話作家のお役に立てるように、誰かが畑で働いていなければなるまい、と考えたからだ。仕事は全体的に見てめったにない楽しみであった。が、長く続けすぎると一つの放蕩になったかも知れない。肥料はまったくやらなかったし、一度にぜんぶ除草したこともなかったが、まあ私なりにいつになくよく除草してやって、結局その報酬も得た。イーブリンも言うように、「実際、どんな混合肥料も肥やしも、この絶えず畑で働いて鋤で上を掘り、ひっくり返すことにはくらべものにならない」からであった。
「土には、とくに新しい土の場合、ある磁気のようなものが含まれていて、それが土に生命を付与する塩分、力、養分といったもの(どう呼んでもかまわないが)を吸収する。だからこそわれわれはみずからを維持するために精出して働き、絶えず土をかき回すのである。下肥その他の下等な調合肥料はこの優れた方法の代用品にすぎない」と彼は他の所でつけくわえている。そのうえこの畑は、「安息日を楽しんでいる、疲れ果ててまったく活力を失った等外品の畑」の一つであったから、サー・ケネルム・ディグビー〔一六〇三〜六五。イギリス宮内官の武人で学者。酸素が植物に大切なことを初めて唱えた〕がありうることだと考えたように、空気中から、「生命の霊力」を吸収したのだろう。ソラマメは十二ブッシェル〔約四三六リットル〕の収穫であった。
コールマン氏の報告は紳士農場主〔一般農民より地位の高い地主で、耕作には従事しない〕の贅沢な実験を主として報告するもの、という苦情があるから、もっと詳細にいうと、私の支出は次のようになる。
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除草器           〇・五四ドル
耕作、まぐわ入れ、畝立て  七・五〇(高すぎる)
種用ソラマメ        三・一二五
種用ジャガイモ       一・三三
種用エンドウマメ      〇・四〇
カブラの種子        〇・〇六
カラスよけ用白線      〇・〇二
馬耕人夫と少年 三時間   一・〇〇
収穫用の馬と車       〇・七五
合計一四・七二五
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収入は、「家長は売るべきで、買うことはふさわしくない」〔大カトー「農業論」〕という結果
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ソラマメ 九ブッシェル一二クォート売上金
一六・九四ドル
ジャガイモ(大)五ブッシェル 二・五〇
ジャガイモ(小)九ブッシェル 二・二五
草              一・〇〇
豆の茎            〇・七五
合計二三・四四
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差し引きして金銭上の利益は、他のところで述べたとおり、八・七一五ドル
これが豆作りの経験の結果である。ふつうの小粒な白のインゲンマメを六月一日頃、新しい、丸くて純粋な種だけ注意深くより分けて横は三フィート、縦は十八インチ離して列にまく。最初のうちは害虫に気を配って、虫にやられて隙間ができたら新たに植えたす。その土地が周囲に開放されている場合はウッドチャックを警戒する。彼らは手当たりしだいに柔らかい、出たての葉をほとんどきれいさっぱりかじってしまうからだ。若い蔓が出るとまたそれをかぎ出して、リスのように体を直立させて坐り、蕾《つぼみ》も若い莢《さや》も食いちぎる。しかし、霜から逃れて上等な、売り物になるような作物が欲しければ、なによりもできるだけ早く穫り入れをすることだ。こうすることで大きな損失は防ぐことができるだろう。
さらに私は次のような体験もした。私は独り言をいった。この次の夏はこうも一生懸命に豆やトウモロコシを植えないで、もしその種子がまだ失われていなければ誠実、真理、単純、無垢《むく》といったものの種子をまくことにしよう。そして、労苦と肥料をもっと少なくしても、それらの種子がこの土地に生長して私を養ってくれないものかどうかを見定めよう。この土地は確かにこういう作物ができないほど痩《や》せ衰えせてはいないはずだから、と。ああ、私はこう独り言をいったのだったが、今や次の夏も去ってしまった。そしてその次の夏、それからまた次の夏が。読者よ、私は告白せざるをえないが、私のまいた種子が事実こうした諸徳の種子で<あった>としても、それは虫食いか生命力を失っていたかで、ついに芽を出さなかったのである。一般的には、人はその先祖の勇敢さ、または臆病さと同じ程度にしか勇敢でないものだ。今の世代の人たちは、必らず数世紀前にインディアンがし、また最初に植民した人たちがそうするよう教えたとおりに、毎年毎年トウモロコシや豆を植える。まるでそここに宿命があるかのようである。先日、ある老人が彼自身を葬る穴ならぬ、少なくとも第七十回目の穴を掘っているのを見て驚いたところだ! いったい、どうしてニューイングランドの人は新たな冒険を試みないで、穀物、ジャガイモ、牧草、果樹園などに重きを置くのか……なぜそれと違う作物を作らないのだろう? なぜ種豆にはそれほどまで気を配って、一方人間の新しい世代のことにはまったく無頓着なのか? 人に会った時、先にあげた諸徳……われわれはみな他の産物などよりこの諸徳を尊重してはいても、その大部分は空中にばらまかれて浮遊していることが多いのだが……のあるものがその人に定着し、育っているのが必らず認められるようであれば、本当に食物を与えられた思いがして元気づけられることだろう。正体の捕えがたい、口では言いようのない性質………例えば真実とか正義のようなものがごくわずか、あるいはその新種でもよい、こちらにやってくるとする。この場合、わが大使たちは、このような種子を自国に送るよう訓令されるべきであろうし、議会はその種子を国中に配布させるべきであろう。誠実に対しては決して儀式ばっていてはならないのだ。もしそこに価値と友情の核心があるのなら、われわれは決して卑劣さをもってお互いを欺《あざむ》いたり、侮辱したり、排斥したりし合ってはならない。われわれはこんなにあわただしく会うべきではないのだ。大部分の人に私はまったく会わない。彼らには時間がないようだからだ。彼らは豆のことで手いっぱいだ。いつもそうしてあくせく働いている人とはつき合いたいとは思わない。彼らは仕事の合い間でも鍬《くわ》や鋤《すき》を杖によりかかり、茸《きのこ》のようにシャッキリと大地に立つことなく、いつも身をかがめ、直立しないで、まるで地面に降り立って歩いているツバメのようである。
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そして彼が話す時、その翼はときおり
飛び立とうとするかのように広がり、
そしてまたしぼむのだった
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だから、話していても天使と話しているのではないか、と思われて落ち着かない。パンは必ずしもわれわれを養ってくれるとはかぎらないかも知れないが、人間、または自然の中になにか寛大なものを認めること、なにか純粋で英雄的な喜びをともにすることは、つねにわれわれを益し、どことなくぐあいの悪い時でも関節の凝《こ》りを取りのぞいて、しなやかに、浮き浮きとさせてくれさえするのである。
太古の詩や神話は、少なくとも農耕というものがかつては神聖な業《わざ》であったことを示唆している。だが今やわれわれの目的は、たんに広大な農場を所有して大きな収穫をあげることに堕してしまい、不敬にも性急に、そして軽率に農耕が行なわれているありさまだ。祭りもなく、行列もなく、式典もなく、家畜共進会もいわゆる収穫感謝祭もその例外ではない。だが、じつはこうしたものによって農夫は自分の職業の神聖さに対する自覚を表現したり、その起原を思い起こしたりするものなのだ。農夫を誘惑するのは報酬と悦楽である。彼はケレス〔ローマ神話。農業の女神〕と大地の神ユピテル〔ローマ神話。神々の王で天界の最高神〕よりも地獄的な神プルートス〔ギリシア神話。富の神〕に犠牲をささげる。貪欲、自己本位、それに土地を財産、または主として財産獲得の手段と見なすという、われわれの誰もが縛られているひとつの卑屈な習慣によって、風景は醜くゆがめられ、農耕はわれわれの手で堕落させられ、農夫はもっとも卑屈な生活を送っている。彼は略奪者としてのみ自然を知っている。カトー〔紀元前二三四〜一四九。ローマの執政官、著述家〕は、農業のあげる利得はとくに神聖で公正なものと言っているし、またバロ〔紀元前一一六〜二七。ローマの学者。七十四巻の著書がある〕によれば、古代ローマ人は「同じ大地を母とも|農業の女神《ケレス》とも呼んで、そこを耕す者は敬虔で有益な生活を送り、彼らだけがサトゥルヌス王〔ローマ神話。農業の神で、鎌をもつ老人として絵や彫刻に描かれている〕の血統を継ぐ者だと考えていた」
われわれが耕作した畑であれ、大草原であれ、森林であれ、太陽はなんの差別もしないでそれらを眺めていることをわれわれは忘れがちである。これらはすべて同じように日光を反射し、吸収しており、また最初にあげた畑、大草原、森林は、太陽がその日々の行程の中で目撃する立派な景色の一小部分にすぎない。太陽から見ると、地球は全体が庭のように等しく耕されているように見えるのだ。だから、われわれはその光と熱という恩恵をそれに相応する信頼と広大な気宇をもって受けるべきである。私が豆の種子を大切に育てて、それをその年の秋に収穫したところで、それがどうだというのか? 長いあいだ私が見てきたこの広い畑は、私を主要な耕作者として気にとめてなどいない。私などをよそに、畑に水を与えてそれを青々とさせる、もっと温情ある自然の諸力に目を向けているのだ。豆には私に取り入れられることのない実りがある。その一部は、あるいはウッドチャックのために育っているのではなかろうか?
小麦の穂〔ラテン語では spica、古くは specaで、spe は希望の意〕が耕作者の唯一の希望であってはならない。その核または粒《グレン》〔granum=実りの意の gerendo から〕だけがそれに実るすべてではない。そう考えれば、われわれに凶作などありうるだろうか? 私は、鳥がその種子を穀物倉とする雑草の豊富さにも同じように喜ぶべきでなかろうか? 畑が農夫の納屋を満たしてくれるかどうかは比較的たいした問題ではない。真の農夫は思い煩《わずら》うことをやめるだろう……リスが今年森でクリが実ろうが実るまいが、まったく無頓着げにその日その日で労働を終え、畑の産物に対する権利をすべて放棄し、心中ではその最初の実りばかりか、最後の実りも犠牲にしているように。
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午前中の除草、それから時には読書や執筆の後、通常は池でふたたび水浴をし、小さな入江のひとつを泳いで横断して体から労働の埃《ほこり》を洗い落とすか、勉学でできた新しい皺《しわ》をのばすかして、午後は完全に自由であった。毎日または一日おきに散歩がてら村へ出かけてゆき、そこで口から口、新聞から新聞へと絶えず伝えられるうわさ話を聞いた。そうした話は、同種療法〔健康人に服用させると、患者と同じ症状を起こす薬を少量ずつ患者に用いる療法〕的に少量服用するのであれば、それはそれなりに木の葉のさやぎやカエルの鳴き声のようにじつに爽《さわ》やかなものであった。鳥やリスでも見ようと森の中を歩く気持で、村の中をぶらぶらして大人や少年たちに会った。松風のかわりに荷車の音を聞いた。家からある方向、川辺の牧草地にジャコウネズミが群居していた。他の眼界内、ニレとスズカケノキの木立ちの下には忙しそうな人たちの村があった。めいめいが自分の住む穴の入口に坐っていたり、むだ話をしに隣家に走っていったりしていて、まるでプレーリードッグのように奇妙に見えた。私は、彼らの習慣を観察しに、ときどき出かけていった。村がひとつの大きなニュースのたまり場のように思われた。一方の側に、かつてステート街のレッド商会がしたように、村を維持してゆくためにクルミや干しブドウ、塩と粉、その他の食料品を並べていた。前者の商品……つまりニュースに対する旺盛な食欲ときわめて健全な消化器をもっている人たちがいて、そういう人たちは人通りのある街路にいつまでもじっと坐り込み、ニュースは北西の季節風〔毎年夏に約四十日間吹く、地中海地方の北西風〕のように、ぶつぶつささやきながら彼らをどんどん吹き抜けてゆく。エーテルでも吸うようにニュースは意識を冒さず、ただ麻痺させて苦痛を感じなくさせる……そうでないと、それを聞いて苦痛なこともあるだろうから……だけである。村をぶらついていると、列をなすこうした御仁《ごじん》に会わないことはほとんどなかった。体を前かがみにし、みだらな表情でときどき列をあちこち見渡し、梯子《はしご》に坐って日向《ひなた》ぼっこをしているか、納屋にもたれて、それを支えるかのようにカリアチド〔着衣の列柱婦人像で柱に使用される〕よろしく、ポケットに手を突っ込んで立っている。彼らはたいてい戸外にいるから、風の便りなるものは何でも耳に入る。戸外はいわば最も粗挽《あらび》きの製粉場で、そこであらゆるうわさ話は粗くこなされ、砕かれて、それから家の中でさらにきめの細かい精密な漏斗《じょうご》にあけられる。村の中枢は食料品、バー、郵便局、それに銀行であることが分かった。そして、村なる組織の必要な一部として鐘、大砲、消防ポンプを都合のいい場所にそなえていた。家が通路をはさんで向かい合って並んでいて、通路をとおる人間をできるだけいろいろ利用するようになっている。だから、旅行者はすべてガントレット〔未開民族や軍隊で行なわれた笞《むち》打ちの刑。二列に並ぶ人々の間を罪人に走らせて、杖や綱で打つ〕を受けなければならず、男も女も子供も、旅行者を打てるようになっている。もちろん、列の先頭に最も近く構えていていちばんよく見たり、見られたり、彼に最初の一撃をくらわすことのできる人たちは、その場所代として最も高い代価を払っていた。列に長い切れ目ができはじめて、旅行者が塀《へい》を乗り越えるか、牛の通り道にそれるかして逃げ出せるような村のはずれに、ばらばらと居を構える少数の住民となると、地税や窓税もごくわずかですんでいた。旅行者を誘い込もうと、看板がいたる所にかかっている。居酒屋、食べ物の店のように食欲で釣ろうとするものもあれば、反物、宝石商のようにおしゃれで釣ろうとするのもあり、床屋、靴屋、仕立て屋のように頭髪、足、スカートで釣ろうとするのもある。そのうえ、家々の一軒一軒がどうぞとばかりつねに誘惑していて、それがいっそう恐しかったし、また、今頃の時刻には家にいるだろうと思われる仲間もいた。たいてい私はこの危険から見事に逃れたが、それはガントレットを受ける人が忠告されるように勇敢に、あれこれ考えないでゴール目指して進むか、または「堅琴に合わせて、声高らかに神々への賛美の歌を歌って、セイレネス〔ギリシア神話。頭が女で体が鳥の海の精。その歌声で近くを旅行する船を難破させ、船員を殺した〕の声をかき消しつつ危険から脱した」オルフェウス〔ギリシア神話。音楽にすぐれ、その琴の調べで鳥獣草木を魅了した〕のように、崇高な事柄に思いをはせるか、どちらかの方法によった。時にはとつじょとして家から飛びだし、誰一人私の居場所を知る者がないこともあった。お体裁《ていさい》などはあまり気にしないで、柵に壊《こわ》れた部分があるとそこから抜け出すのを決してためらわなかったのである。数軒の家には、ずかずかと上がり込みさえしたもので、歓待もされた。そこでニュースの核心ともいうべき、まさに最後の篩《ふるい》にかけられて残ったもの、最終的に落ち着くところに落ち着いた形のニュースやら、戦争と平和の見通し、世の中がこのまま持ちこたえて、ずっといけそうかどうか、などの話を聞いた後、裏口から外に出してもらってふたたび森に逃げ帰るのだった。
町にいて遅くなった時、とくに暗い荒れ模様の時などは、ライ麦やトウモロコシ粉の袋を背負って村のどこか明かるい応接間とか講演会場から夜の中に乗り出して、森の安らかな港に向かって出帆するのが大変楽しかった。外側はすっかり閉ざして、外部の自分の一部にだけ舵《かじ》はまかせておき、平穏な航海の時は舵は縛ったままにさえしておいて、思想という楽しい仲間の乗組員とともにハッチの下に引きこもるのである。「航海しながら」私は船室の火のそばでさまざまな快い思いにふけった。何度かひどい嵐にも遭ったが、いかなる天侯にも難破したことも難渋《なんじゅう》したこともない。ふだんの夜でも、森はたいていの人が考える以上に暗かった。道筋を確かめるために通路におおいかぶさっている木々の合い間をときどき見上げなければならなかったし、荷車の通り道がない所では自分が踏みならした道らしき所を足でさぐったり、また、例えば決まって最も暗い夜、森の真ん中で十八インチと離れずに立っている二本のマツの間を通り抜ける時などは、覚えのある木に手を触れてみて舵を取らなければならなかった。
暗く、欝陶《うっとう》しい夜、見えない道をさぐり、戸口の掛け金をはずすのに手を上げる段になって初めてわれに返るまで、道すがらずっとぼんやり夢想にふけりながら遅く帰宅した後などは、自分の歩いてきた足取りを一歩も思い出さず、この分だと手が口に自然にもってゆかれるように、私の体はその主人公に見捨てられても、きっと道を見つけて自宅にもどるだろうと思うのだった。たまたま何度か客が長居をして夜になり、暗い晩だったので彼を家の裏手の荷車道まで案内して、進むべき方角を教えてやらなければならないこともあった。その方向からはずれなければ、目に頼るよりも足でさぐりながら行けるはずであった。
ある闇夜に、池で釣りをして帰る途中の二人の青年にこうして道を教えてやった。彼らは森を抜けて約一マイルの所に住んでいて、道にはすっかり慣れていた。
一両日後、その一人が私に言った。あの晩は自分たちの家の近くまで来ていながらほとんど夜通し歩き回って、明け方にようやく家に着いた。それまでに数回ひどいにわか雨があって、木の葉がすっかりぬれていたので、二人ともびしょぬれになった、と言うのである。夜の闇が、よくいう「ナイフで切れる」くらい濃い時は、村道でも迷う人が多いと聞いている。村のはずれに住んでいる人が荷車で町へ買い物に出かけて、その晩泊らなければならなくなったこともある。訪問に出かけた紳士や淑女たちが、ただただ足で人道をさぐりながら進んでゆくうちに、気づかないまま、道から半マイルもそれてしまったこともある。森で道に迷うことは、いつも貴重であるとともに、驚くべき、忘れがたい経験である。吹雪の時などは、日中でも自分のよく知っている道に出ていながら、どっちに行けば村に着くのか見当もつかないことがある。自分がそこを何回となく通っているのを承知はしていても、道の様子を思い出せないで、まるでシベリヤの道を通っているかのように見覚えのない所に思われるのだ。もちろん夜だとその当惑は非常に大きい。ふだん何ということなく歩いている時でも、無意識につねに何か自分のよく知っているもの、水路標識とか岬《みさき》を頼りにして水先案内人のように舵を取っているもので、たとえいつもの航路からそれる時でも、心の中ではどこか近くの岬の位置を考えているものだ。完全に迷ってしまうか、ぐるりとひと回りさせられるまでは……人はこの世の中を目隠しされてひと回りさせられるだけで迷子となるのだから……自然の広大さ、不思議さがのみこめないのだ。人は誰でも眠りや放心状態から覚めるたびに、羅針盤《らしんばん》の指す方角を改めて見る必要がある。迷ってみて初めて……言い換えると、世界を見失って初めて……自分というものが本当に分かり出して、自分たちのいる場所、われわれの関係が無限の広がりをもっていることを悟るものである。
初めての夏も終りに近づいたある日の午後、靴屋から靴を受け取ろうと村へ出かけていって私は逮捕され、投獄された。その理由は、他のところで述べたように男、女、子供を家畜のように議事堂前で売買するような国家に税金を払わず、その権威も認めなかったからだ。私は他に目的があって森に引きこもったのだった。だが、人間の行くところどこにでも、人々はその卑劣な制度とともに追いかけていっては彼を乱暴に扱い、できればどうしようもない彼らの変てこな仲間組織に有無を言わさず加入させてしまう。確かに私はやろうと思えば激しく抵抗して多少の効果はあげられただろうし、社会を相手に「暴れ狂う」こともできただろう。だが、社会の方がかえって手のつけられない集団である以上、私は社会が私に対して「暴れ狂う」方を選んだ。しかし翌日釈放され、修繕済みの靴を受け取って、フェア・ヘイブン丘《ヒル》でハックルベリーの夕食をとるのに間に合って森にもどった。
私は、国を代表する者たちをのぞけば、誰にも煩《わずら》わされたことがなかった。書類を入れる机以外は錠もかんぬきもかけなかったし、掛け金とか窓にさす釘一本すら用意していなかった。何日か留守にすることもあったが、昼夜とも入口の戸に施錠したことは一度もない。翌年の秋、メイン州の森で二週間過ごした時でさえそうだった。それでも家は一隊の兵士に囲まれて警護される以上に大切にされていた。散歩にやってきて疲れた人たちは、家の炉端でひと休みして暖を取れたし、読書好きの人は、机上のわずかばかりの本で楽しむこともでき、詮索《せんさく》好きの人は戸棚を開けて、昼食の残りは何か、夕食には何を考えているか、なども知ることができた。あらゆる階級の人たちがこの池の方にやってきたにもかかわらず、この人たちがもとで大変な迷惑をこうむったこともないし、小さな本一冊の他はなくなった物もない。その本というのはホメロスの一巻で、その金色の飾りはどうもしっくりしなかったが、わが陣営の一兵士も今頃はそれに気づいていることだろう。私は、もし人々がみな当時私のしたように簡素な生活をすれば、盗みや強盗はこの世のことではなくなるものと信じている。それらは、十分以上に持てる者がいる一方で、事足りるだけ持たぬ者もいる社会にだけ起こるのだ。ポープ〔アレキサンダー・ポープ。一六八八〜一七四四。イギリス古典派の詩人〕訳のホメロスは、やがてしかるべく一般にゆきわたることになるだろう……
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ブナの椀《わん》だけが求められた時代には
戦いが人を苦しめることはなかった
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「公務にたずさわる人よ、なぜ刑罰などもちいる必要があるのか? 徳を愛することだ。そうすれば国民は有徳となろう。上に立つ者の徳は風に、大衆の徳は草に似ている。草はその上を風が吹けば伏すのである」〔上有好者下必有甚焉矣。君子之徳風也。小人之徳艸也。艸尚之風必偃。孟子〕
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時に人間社会やうわさ話に飽きて、村の友人を訪問する気もなくなると、ふだん住む所からさらに西、この土地ではいっそう人の行かない所……「汚れなき森、新たなる牧場」〔ジョン・ミルトン「リシダス」第一章第一九三行の言い換え〕へぶらりと出かけたり、または日の沈む頃フェア・ヘイブン丘《ヒル》でハックルベリーとブルーベリーの夕食をとって、さらに数日分を蓄えたりした。この果実は、買ったり市場に出すつもりで栽培したりする人には本当の風味は味わえない。本当の風味を楽しむ方法はただ一つしかないのだが、その方法にしたがう人はほとんどいない。その本当の味を知りたいなら、カウボーイかライチョウに聞けばよい。自分で摘んだこともない人がハックルベリーを味わったと思うのは、よくある誤りである。それはボストンまでなどとてもとどくものではない。ボストンの三つの丘にハックルベリーが育ってこの方、その本当の味はそこでは知られていない。果物のきわめてうまい本質的な部分は、市場に運ぶ車の中で擦《こす》れて取れる蝋粉《しらこ》と一緒に失われてしまって、たんなる食物となるのだ。永遠の正義が支配するかぎり、罪のないハックルベリーならただの一つも田舎の丘から市場に運び移すことなどできるものではない。
時にはその日の除草が終ってから、待ちかねている仲間と一緒になることもあった。彼はカモのように、あるいはただよう木の葉のように黙りこくって朝からじっと釣り糸を垂れ、その間あれこれさまざまな哲理をこねくり回したあげく、私が着く頃までには自分が昔の修道僧の一派に属している、という結論に到達しているのがふつうであった。釣りの名手で、また森での生活技術万端にわたってすぐれている年輩者が一人いて、私の家を釣りにやってくる人たちの便宜を図って建てたものと見て喜んでいた。彼が戸口に坐って釣り糸をととのえていると、私もうれしかった。たまにはボートの一方の端に彼、もう一方の端に私が坐って一緒に池に浮かんだこともある。だが二人の間にはあまり言葉はかわされなかった。数年来、彼は耳が遠くなっていたからだ。それでも彼がときおり賛美歌を口ずさむと、それは私の心の静穏さとじつによく調和した。われわれの交わりは、こうした乱されることのない調和の交わりで、言葉をかわす交わりよりも思い出して快いものだった。相手のいない時は……通常はそうだったが……櫂《かい》で船べりを打って反響を起こしては遠心的に広がる音で森を満たし、ちょうど野生動物ショーの檻《おり》番が野獣を挑発するように、森を覚醒させて、ついにはすべての谷の茂みと丘の中腹からうなるような音を誘い出すのだった。
暖かな晩はよくボートに坐って笛を吹いた。その音に魅せられたようにパーチ〔スズキの類〕があたりを泳ぎ回り、森の木々の残骸が散乱して肋骨《ろっこつ》のように見える水の底を月が渡っていった。以前、暗い夏の夜にときどき友人一人と向こう見ずにもこの池にやってきて、魚をおびき寄せるだろうと考えて水際近くに焚き火をし、糸に虫を何匹もつけてナマズを捕えた。夜も更けてそれが終ると、燃えさしの木を狼火《のろし》のように空中高く投げる。それは池に落ちてジュウジュウ音を立てながら消え、二人はとつぜん真っ暗闇に包まれて手さぐりする。この闇の中を、口笛を吹き吹き二人はふたたび人里にもどってゆくのだった。しかし、今やその岸辺に私は自分の家を建てたのである。
時には、村の家でそこの家族がみんな引きこもってしまうまで応接間に長居して森にもどり、翌日の食事にという考えもあって、月明かりを頼りにボートで釣りをして真夜中の数時間を過ごしたこともある。フクロウ、キツネがセレナーデを奏《かな》で、ときおり身近に名も知らない鳥のキーキーという鳴き声がした。この経験は、私にとっては忘れられない価値を持っていた……深さ四十フィート、岸から二、三ロッド〔約百〜百五十メートル〕ばかりの所にボートを泊める。時には月明かりの中、水面に尾でさざ波を立てる多数のパーチやシャイナー〔ウグイに似た銀色の小淡水魚〕に取り囲まれて、長い麻糸で水面下四十フィートに棲息《せいそく》する神秘的な夜の魚と通じ合い、また、時には穏やかな夜の微風に漂いつつ水面に六十フィートの糸を引いて、ときおり糸を伝ってかすかな震えを感じ取る。それは糸の先端あたりにうごめくある生命、鈍く、あやふやで、ぎこちない、決心ののろい、ある意志がそこにあることを示していた。ついに両手で糸を手繰って、ひげのあるナマズをおもむろに引き上げる。魚はキュウッと音を立てて、もがきながら水を離れる。とくに暗い夜、この世界を離れて遠大な宇宙創造の問題に思索を巡らせている時に、このかすかな引きを感ずるのは大変奇妙なものだった。引きが夢想を中断させて、私をふたたび自然と結びつけるからだ。この次は糸を、どうも空気以上に濃いとは見えないこの水の中に投げ下ろすと同じく、空中に投げ上げてもよいのではないか、と思われた。こうして私は、いわば、一本の釣針で二匹の魚を捕えたわけである。
ウォールデンの景色はつつましい規模のもので、非常に美しいが偉観とまではゆかず、長い間にときどき訪れるなりその岸辺で生活したりしている者でないと、それほど関心は持てないたろう。それでも池が深くて清澄なことは格別で、特筆に値いする。長さ半マイル、周囲一マイルと四分の三の澄んだ、深緑の泉で六十一エーカー半の面積がある。雲と蒸発による以外に水の流入口も流出口も見当らない、マツとオークの森の真ん中にある、涸《か》れることのない泉である。周囲の丘は水際から四十ないし八十フィートの高さまで険しくそば立っているか、南東と東では、四分の一マイルと三分の一マイル以内にわたって、それぞれ約百フィートと百五十フィートの高さに達している。丘はもっぱら森林地帯になっている。わがコンコードの水には少くとも二つの色がある。ひとつは遠くから見た時の色、他のひとつはもっと本来のもので、近くで見た時の色である。前者はいっそう光に左右されやすく、また、空模様にもよる。晴れた天気の時には少々離れた所から眺めると……水面が波立っている時はとくにそうだが……青く見えて、遠くからではすべてが一色である。荒れ模様の時は濃い石板色のこともある。だが海の場合は大気に目立つほどの変化がなくてもある時は青く、別の日には緑に見えるといわれている。あたりの風景が雪におおわれている時、川が水も氷も一様にほとんど草のような緑色をしているのを見たことがある。青が「液体、個体を問わず純粋な水の色だ」と考えている人もいる。だが、ボートからじかに水中をのぞき込むと、それはさまざまな色をしているように見える。ウォールデンは同じ地点から眺めても、ある時は青、ある時は緑である。天と地の間にあって両方の色を帯びるのだ。丘の頂上から眺めた時は空の色を映しているのに、近くでは、砂地が見える岸に接する所では黄色っぽく、それから薄緑になり、だんだん濃くなって池の中央部では一様に濃緑色になる。光のかげんで丘の頂上からでも岸に接する所が鮮やかな緑に見えることもある。これは、緑の草や木を反映しているせいだ、とする人もいる。だが、鉄道が走っている砂丘ぞいの所も、また春、葉の広がる前でも同じくそこが緑色をしていることを考えると、それはそのあたりで優勢な青色が砂の黄色と混じり合った結果にすぎないのかも知れない。とにかく、この池の虹彩《こうさい》に当たる部分はそうした色をしているのだ。
ここはまた、春になると水底から反射され、大地づたいに伝導もされる太陽の熱で氷が暖められて最初に溶け出して、まだ凍ったままの中央部のまわりに幅の狭い水路を作る、あの部分でもある。他の川や湖と同じく、晴天で水面が大いに立ち騒ぐ時は、波の表面が空を直角に映すためか、あるいはいっそう多くの光が表面と混じり合うのか、少し離れた所からは表面が空そのものより濃い青に見える。そうした時、池に乗り出してそこに映るものを見ようとさまざまに目を凝らすと、無類の名状しがたい淡青色が識別できた。それは波紋のついた、色がわりのする絹布、または剣の刃を思わせ、空そのもの以上に青く、波の反対側の固有の濃緑色と交替するのだが、後者の色は比較してみると濁《にご》っているようにしか見えなかった。記憶するところでは、それは日没前の西空に展望される雲の果てにのぞいている、あの冬空の断片にも似て、ガラスのような緑がかった青である。だが、その水をコップに一杯入れて光にかざしてみても、同量の空気と同様、無色である。大判のガラスは、製造者も言うようにその<実体《ボデー》>のせいで緑色をしているが、同じガラスでも小さいのには色がないことはよく知られている。
ウォールデンの水が緑色を呈するのに、どれくらい実体《ボデー》を必要とするものか、まだ確かめてはいない。川の中はじかに見おろす者には黒、ないしきわめて暗い褐色に見えて、たいていの池の水と同様、水につかっている者の体は黄色っぽい色を帯びるものだ。しかし、この池の水は水晶のように澄んでいるから、水浴している者の体はさらに不自然な雪花石膏《せっかせっこう》の白さを呈して、四肢が拡大、屈折して見えるのと相まってそれが奇怪な効果を生み、ミケランジェロ流の画家には格好の研究素材となる。
水はきわめて透明で、二十五〜三十フィートの水深でも容易に底が見分けられる。櫂でパチャパチャやっていると、水面下数フィートもの所にパーチやシャイナーの群れを見ることがある。体長はたぶん一インチほどしかないだろうが、前者は横目のしま模様から簡単に見分けがつく。こうした魚はこの池で生きる糧《かて》を見つけて生きているのだから、きっと禁欲的な魚にちがいないと思う。ある時、何年も前の冬のことだが、カワカマスを捕ろうと氷に穴をあけていて、岸に上がる際に斧《おの》を氷の上に投げ返したところ、斧はなにかの悪霊に操られてでもいるかのように四、五ロッド〔約二十〜二十五メートル〕ほどまっすぐに滑っていって、穴のひとつに落ちてしまった。そこは水深が二十五フィートであった。好奇心から氷の上に腹ばいになって穴をのぞくと、やがて斧がやや一方に傾いて、頭部を下に柄を上にして池の鼓動につれて静かに左右に揺れているのが見えた。そのまま放っておけば、時がたって柄が腐れ落ちるまでそこに立って揺れていたことだろう。持っていた氷用の鏨《たがね》でその真上に別の穴をあけると、近くに見つけたいちばん長目のカバノキを小刀で切り倒した。引き輪索《わなわ》を作ってそれを木の先に取りつけ、注意深く水中に降ろして上から斧の柄のにぎりにかけ、カバノキにそっている紐を引っぱって斧をふたたび引き上げたのだった。
一、二ヶ所ちょっとした砂浜がある以外、岸一帯は敷石のようにすべすべした丸くて白い石で、傾斜が急で、ひと跳びで頭も没するほどの深みにはまるような所が多かった。もしその驚くべき透明度がなければ、対岸で浅くなるまではそのあたりが底の見えるぎりぎりの所だろう。底なしと思っている人もいる。どこにも濁った部分がなく、さりげなく見る人は水草がぜんぜんないと言うだろう。元来池でなく、最近になって水につかったわずかばかりの牧草地以外の所には、気をつけて見てもショウブもイグサも見当たらないし、黄や白のスイレンさえなく、わずかばかりの小さなサイシンとヒルムシロ、それにジュンサイが一、二本生えているだけだ。だが、水浴中の者にはこうしたものもすべて見えないかも知れない。これら植物も、その中でそれが育つ水と同様、清らかで輝いている。砂利が一、二ロッド〔約五〜十メートル〕ほど水中に出ていて、そこから先は完全な砂底となる。ただ最深部には通常沈殿物が少しあるが、たぶん長年にわたって秋にただよってきた落ち葉がたまったものだろう。真冬にでも鮮やかな緑の草が錨《いかり》について引き上げられることがある。
ちょうどこうした池がもうひとつある……二マイル半ばかり西のナイン・エーカー・コーナーにあるホワイト池《ポンド》である。現在住んでいる地点を中心として十二マイル以内にある池はほとんど知っているのだが、この二つの池のように清らかで、泉に似た性質をもつ池は他には知らない。代々の民族がおそらくこの水を飲み、ほめたたえ、水深を測り、そして死んでいったのだろう。そして、今なおその水は昔ながらの緑色を呈して透きとおっている。断続的に水をたたえる泉ではないのだ! おそらくアダムとイブが楽園を追放されたあの春の朝もウォールデン池はすでに存在していて、ちょうどその時、霧と南風をともなった穏やかな春雨の中で氷が割れ、無数のカモやガンが水面をおおい、彼らは人間の堕落も知らずに、その時もやはりこのような清浄な池に満足していたのだろう。その時すでにウォールデン池《ポンド》では水の干満が始まっていて、水を浄化してそれを今日の色合いにし、世界で唯一のウォールデン池、天上的な露の蒸溜所として天からの特許を手にしていたのだ。今は忘れ去られている民族の文学の中で、どれほどこの池がカスタリヤの泉〔ギリシア南都、パルナソス山の麓にあって、アポロと芸術神ミューズの神々に捧げられた霊泉。その水は詩歌の霊感の源泉と考えられた〕となり、黄金時代にはどんな水の精霊たちがこの池を支配したか誰が知っていようか? それは、コンコードがその冠につけた品質最良の宝石である。
それでも、この泉にやってきたおそらく最初の人間がその足取りの痕跡を若干《じゃっかん》残している。池を取り巻いて茂った林が伐り倒されたばかりの所にさえ、狭い棚のような細道が険しい丘の中腹を、起伏を交互に繰り返しながら水際に近づいたり、それから遠ざかったりしているのを見て驚いたことがある。ここに人間が初めてやってきた時以来の古いものだろうが、原始人ハンターの足で踏み固められ、今もときどきはこの土地に住む人たちがそれとは知らずに通っているのだろう。この細道は冬、軽く雪の降った直後、池の真ん中に立って見る者にはとくにはっきりと分かる。四分の一マイル離れた所からは、夏なら近くではほとんど見分けのつかない多くの箇所に、雑草にも木の枝にもさえぎられることなく、きわめて歴然と一本の明瞭な起伏のある白い線として見える。いわば雪が細道をくっきりと白色の高い浮き彫りとして見せているわけだ。いつの日かこの地に別荘でも建てられることになれば、その美しい庭にこの痕跡がいくぶん残るかも知れない。
池には干満がある。だがそれが規則的なものかどうか、そして周期はどのくらいか、例のごとく知ったかぶりをする人は多いが、誰も知らない。通常水位は冬高くて夏は低いが、一般的な雨量の多少には対応していない。私が池のそばに住んでいた当時より一、二フィート低かったり、また少くとも五フィート高かったりしたことがあるのを思い出すことはできる。狭い砂洲が突き出てその片側が非常に深くなっている所があって、本岸から六ロッド〔約三十メートル〕ほどのその砂洲の上で、一八二四年頃、|寄せ鍋《チャウダー》をする手伝いをしたことがあるが、その後二十五年間はそれもできなかった。また友人たちに、その二、三年後に、彼らが知っている唯一の岸から十五ロッド〔約七十五メートル〕ほどある林の中の引っ込んだ入江でよくボートから釣りをしたと話してやっても、彼らは信じられないといった様子で聞いていたものだ。もっとも、そこが牧草地に変ってから長いことたっていたのだから。しかし池はこの二年間、着々と水かさを増して、現在、すなわち一八五二年夏には私が住んでいた頃よりもちょうど五フィート水位が高く、三十年前と同じ水位になっていて、その牧草地でふたたび釣りが行なわれている。これは外側で六、七フィート水位に差が生じているということだ。しかも周囲の丘から流入する水は取るに足らない量であるから、この増水は深部の水源に起因していると考えなければならないだろう。同じこの夏、池の水位はふたたび下がりはじめた。この変動が定期的なものであってもなくても、一段落するのにこうして何年もかかるらしいのは注目すべきことである。
私が観察したのは水位の上昇が一回、下降の一部が二回で、今から十二年ないし十五年後にはふたたび私の知っている水位まで下がるものと思っている。一マイル東のフリンツ池《ポンド》と中間にあるいくつかのもっと小さな池も、流入口から入る水と排出口から出る水による水位の変動を計算に人れて、ウォールデンに呼応して最近同じ時期に最高水位に達した。私が観察したかぎりでは、ホワイト池《ポンド》についても同様である。
この長期間にわたるウォールデンの干満は、少くとも次のようなことに役立っている。すなわち、一年あるいはそれ以上もこの高さに水が張っていると、池の周囲を歩くことこそなかなかできないが、前回の増水の後、水際に生えた潅木やいろいろな木……ヤニマツ、カバ、ハンノキ、ハコヤナギその他……を殺して、水位がふたたび下がった時、邪魔物のない、広々とした岸が残ることだ。毎日のように干満のある多くの池、すべての海、湖と違って、水位が最高の時にはウォールデンの岸は最もきれいなのだから。家の近くの池のほとりでは、高さ十五フィートもある一列のヤニマツが死んで、まるで梃子《てこ》でも使ったようにひっくり返され、かくてはびこるのを阻止されている。木の大きさを見れば、今の高さまで前回水かさが増してから何年たっているかが分かる。この水位の変動によって池は岸を所有する権利を主張し、かくて岸《ショア》は|切り取られ《ショーン》て、木々は占有権を盾に岸をわが物としていることができないというわけだ。岸はひげの生えていない湖水の唇であり、湖水がときどき顎《あご》をなめるのだ。水位の高い時は、ハンノキ、ヤナギ、カエデなどが生き続けようと必死で、水中の幹から四方八方に何フィートもある繊維状の赤い根をわんさとのばして、それが地面から三、四フィートの高さにまでも達している。岸辺のヌマスノキの潅木が、ふつうなら実がならないのに、こうした状態のもとでどっさり実をつけたのを見たことがある。
どのようにしてこうもきちんと岸に石が敷かれたのか、その説明に当惑している人もいる。町の人はみな次のような伝説を聞いている……最年長の人たちも、若い頃この伝説を聞いたといっている……すなわち、大昔、今は地中深く沈む池の底と同じほど高く天にそびえていた丘の上で、インディアンが会合を開いていた。話では彼らが非常に神を冒涜《ぼうとく》する言を弄《ろう》したことになっているが、じつは、これはインディアンが絶対に犯すことのなかった悪徳のひとつであって、考えられないことだ。こうして話し合っていると、丘が揺れはじめてとつじょとして沈下し、ただ一人ウォールデンという名の女だけが助かったので、その女にちなんで池に名前がつけられた、というのである。山が揺れた時、今ある石が転げ落ちてきて現在の岸となった、と憶測されている。
とにかく、かつてここには池がなかったこと、そして現在それがあることは確かである。このインディアン伝説は、私がすでに述べた、あの古い時代の移住者の話といかなる点でも矛盾していない。彼の記憶はしっかりしていて、占い棒を手に初めてここへやってきた時、芝地にかすかな蒸気がたち、ハシバミの棒がしっかりと下方を指すのを見て、ここに井戸を掘ることにしたというのである。石については、これら丘の上の波の作用によってはどうも説明がつかない、といまだに思っている人が多くいる。だが私の観察では、周囲の丘に同じ種類の石が驚くほどたくさんあって、そのため鉄道が池に近くにそって開かれた所では、両側に石を積み上げて土手を築かなければならなかったようである。そのうえ、石は岸の最も険しい所に最も多い。だから、あいにくこの池の名は私にはもはや神秘でもなんでもないのだ。私は石を敷きつめた者を突き止めた。この池の名がイギリスのどこかの地方……たとえば、サフロン・ウォールデン〔ロンドンの北々東三十マイルにあるエセックス州の市〕……の名に由来していないとするなら、池は初めは<|壁で取り囲まれた《ウォールド・イン》>池、と呼ばれていたものと想像できるわけだ。
池は私のできあいの井戸であった。一年のうち四ヶ月間、水はつねに澄んで冷たかった。この井戸は、町で最良のものではなかったにしても、当時は他のどの井戸にも劣りはしなかったと思う。冬には外気にさらされている水は、すべて外気から守られている泉や井戸の水よりも冷たい。一八四六年三月六日、午後五時から翌日正午まで、私の坐る部屋に置いてあった池の水は華氏四十二度で、その間に寒暖計は、屋根に日が当たっていたせいもあって華氏六十五度から七十度まで上昇したこともあった。これは、汲み上げたばかりの、村いちばん冷たい井戸水より一度低いものであった。同じ日、ボイリング・スプリングの水温は四十五度で、私が計ってみた水の中では最も暖かかった。この水は夏、浅い、よどんだ表面の水が混じらないと、私の知るかぎりで最も冷たい水なのにだ。
さらにウォールデンの水は、池が深いので夏でも日にさらされるたいていの水ほどには、決して暖まることがない。ごく暑い時は、通常手桶に水を汲んで地下室に置いたが、夜のうちに冷えて日中もずっとそのままであった。近くの泉にかよったこともあるにはあったが、池の水は一週間たっても汲み上げた当日のままで、ポンプの臭いもぜんぜんしなかった。夏、池の岸で一週間ぐらいキャンプをする人は、テントの蔭に手桶一杯の水を二、三フィートの深さに埋めておきさえすれば、氷などという贅沢品の世話になる必要はない。
ウォールデンでは一|匹《ぴき》七ポンドのカワカマスが捕れた。一匹などはすさまじい速さでリールまでも引いていって、釣り手には見えなかったのをよいことに、八ポンドは大丈夫あった、と踏んでいるが、それはまあおいておこう。中にはそれぞれ二ポンド以上のもあるパーチとナマズ、それにシャイナー、チャブもしくはロウチ(Leuciscus pulchellus)、ごくわすかしかいないブリーム〔コイ科の淡水魚〕、それに一匹四ポンドのウナギが二匹……こうしてわざわざ目方をここに挙げるのは、魚は目方が通常評判になる唯一の種《たね》であるし、ウナギが捕れた話はこれ以外にここでは聞いたことがないからである……捕れた。脇腹が銀色で背は緑がかっていて、多少ウグイに似た、体長五インチばかりの小魚もおぼろげながら記憶しているので、これは主として事実と作り話を結ぶ意味でここに言及しておく。この池は、魚はそれほど多くはない。カワカマスが、これとても豊富ではないが、この池いちばんの自慢である。
いつだったか一度氷の上に横になって、少なくとも三種類のカワカマスを見たことがあった。ひとつは細長くて幅がなく、鋼鉄色をしていて、川で捕れるのによく似ている。ひとつは明かるい金色をした種類で、緑がかった色に反映し、この池で最もよく見られるものだ。もう一種類も金色で前述のと形は似ているが、マスに大変よく似て脇腹に小さな暗褐色または黒の斑点と、それに混じってかすかな血液色の斑点がある。reticulatus(綱状の)という種名は、この魚には当てはまらないだろう。むしろ guttatus(斑点のある)の方だろう。こうした魚はどれも大変身が締まっていて、大きさから考える以上に目方がある。水が澄んでいるからシャイナー、ナマズ、パーチと、じつにこの池に住む魚すべてが川や大方の他の池の魚よりずっと清らかで、美しく、身も締っていて、それらとは容易に見分けられる。おそらく多くの魚類学者は、これらの魚の何種類かを新種に分類するのではないだろうか。清らかな種属のカエルとカメ、それにわずかばかりイシガイもいる。ジャコウネズミとミンクが池のほとりに足跡《あしあと》を残しており、時には移動中のドロガメがやってくることもある。
朝、ボートを池に押し出す際、夜の間にこっそりその下に忍び込んでいた大きなドロガメの平和を乱したこともあった。カモ、ガンも春と秋よく池にやってくるし、白い腹のツバメ(Hirundo bicolor)が池の上をすれすれに飛び、クサシギ(Totanus macularius)が夏中、石の多い岸辺でさえずる。ときどき水の上にのびるストローブマツに止まっているミサゴを驚かしたこともある。だが、この池はフェア・ヘイブン港のようにカモメの翼でその神聖さを汚されたことはないのではないかと思う。毎年姿を見せるアビは、今は多くても一羽である。以上が近来ここにやってくる、めぼしい動物の全部である。
穏やかな日、砂地の東岸近くの水深八ないし十フィートの所と、池のほかの所々に直径六フィート、高さ一フィートの円形の小山がボートから見える。あたりがすべて何もない砂地なのに、この山は鶏卵より小さい石ころでできているのだ。最初はインディアンがなんらかの目的で氷上に積み上げたものが、氷が溶けて池の底に沈んだのではないかと考えたが、それにしては形があまりにも規則的だし、その中のいくつかは明らかに新しすぎた。川にあるものと似てはいるが、この池にはヌメリゴイもヤツメウナギもいないから、どんな魚がそれを造ったのか分からない。たぶんチャブの巣でもあろうか。これが池の底に快い神秘さをそえている。
岸は不規則で単調さを免れている。いくつか湾が入り込んでいる西岸、いっそう大胆な線を描く北岸、そして美しい扇形をした南岸……そこでは岬が次々と突き出て互いに重なり合い、その間に未踏査の入江がひそんでいるのを思わせる……が私の心眼に焼きついている。森は、水際から隆起する丘で囲まれた小さな湖の真ん中から見るとき最も坐りがよくて、格段に美しい。森を映している湖水がその場合、森の最も素晴らしい前景となっているだけでなく、その曲りくねった岸で森との最も自然な、心地よい境界線を作っているからだ。斧で拓いた部分、耕作された畑が森に接するところなどによく見られる境目の生々しさ、不完全さといったものがそこにはない。木々には水辺にのびる空間がたっぷりあって、めいめいの木がその方向に最も元気のいい枝をのばしている。そこでは自然が無理のない織端《おりはし》を織っていて、見る者の目は岸辺の低い潅木から最も高い木へと段階を追って見上げる。人間が手を入れた痕跡はほとんど見当たらない。水は千年前と変るところなく岸を洗っている。
湖水は風景の中でも最も美しい、表情豊かな部分である。それは大地の目であり、見る者はそれをのぞき込んで自分自身の人間性の深さを測る。岸辺にそった水辺の樹木はその目を縁《ふち》どる細い睫毛《まつげ》で、木々におおわれる周囲の丘と崖はその垂れ下がる眉《まゆ》である。
静かな九月の午後、薄い靄《もや》で対岸線がおぼろにかすんでいる時、池の東端、滑らかな砂地の岸に立つと、「鏡のような湖面」という表現の由来が分かった。頭を逆さまにして股間から見ると、湖面はちょうど谷間を渡ってごく細いクモの糸が張られているように見えて、遠くのマツ林を背景にきらきらと光り、大気の層をもうひとつの水の層と分けている。その下を体をぬらさないで向こう岸の丘まで歩いてゆけばゆけそうにも思われるし、その上を飛ぶツバメはそこに止まれそうにも思われる。事実、ツバメがときどき間違えたようにその線の下へ急降下しては、驚いて見当違いだったことをさとる。
池の面を西方に見渡すと、水面に映る太陽も本物の太陽と同様まぶしくて、目を保護するのに両手を使わなければならない。二つの太陽が同じくらい輝いているからだ。太陽と太陽の間の水面をよく眺めると、文字通り鏡のような滑らかさだ。ただアメンボが等間隔で一面に散らばり、日を受けて動いては、水面にごくかすかなきらめきを作り出し、あるいはたぶんカモかと思うが羽毛をととのえ、または今もいったようにツバメが低く飛んで水面に触れるだけである。遠くで魚が空中に三、四フィートの弧を描くこともある。水から跳び出る所できらり、水に入る所でもうひとつきらりと光る。銀色の弧がそっくり見えることもある。あちこちにおそらくアザミの種子の冠毛でもあろうか、浮いている物があって、それに魚が跳びついて、またさざ波を立てる。水は冷えても凝固しない溶けたガラスのようで、水中のなけなしのごみがガラスの中の不純分子のように清らかで美しい。よくいちだんと滑らかな、濃い色の水を発見することがある。その部分は目には見えないクモの巣が張られているかのように、他と区別されていて、<|水の妖精《ニンフ》>が寄り集まって休息でも取る場所のようである。丘の頂上からは、魚がほとんどどこで跳ねても見える。カワカマスやシャイナーがこの滑らかな水面の虫に食いつくと、必らず目に見えて湖水全体の平衡状態を乱すからである。この単純な事実がいかに手に取るようにこちらに知れるかは驚くほどである……こうして、魚の殺虫行為は露見してしまうのだ……そして遠く離れた私の居場所からは、波紋の輪が直径六ロッド〔約三十メートル〕になるとはっきり分かる。ミズスマシ(Gyrinus)が四分の一マイルも離れている滑らかな水面をすいすいと進んでいくのを見つけることすらできる。軽く水を押し分けて進んで、二本の分岐線にはさまれた、目立つさざ波を立てるからだ。だがアメンボは見て分かるほどさざ波も立てずに水面を滑っていく。水面がかなり荒れ模様の時にはアメンボもミズスマシも見られないが、穏やかな日には、どうやらその避難所をあとに岸から大胆に滑り出し、短くすいすいと進んで、ついには湖面を横断するらしい。太陽の暖かさを心ゆくまで味わえる秋の晴れた日に、こうした高みの切り株に腰を下ろして池を見渡し、こうでもしなければ見えない水面、そこに映る大空と木々の間に絶え間なく描かれる波紋を観察するのは心をなごませる楽しみである。この広大な広がりの上では、甕《かめ》の水が揺さぶられると震える水の輪が縁《ふち》につたわっていって、やがて一切が静寂を取りもどすように、水面の乱れはすべてたちまちのうちにやさしくかき消され、静められてしまう。池で魚が一匹はねても、虫が一匹落ちても、源泉から不断に水が湧き出るように、池の生命のゆるやかな鼓動のように、そして池の胸の高まりのように波紋となり、美しい線となって知らされる。歓喜の震えと苦痛の震えは、識別しがたいものである。池に生起するさまざまな現象は、なんと安らぎに満ちていることだろう! 人間のすることがふたたび春におけるように輝く……そうだ、あらゆる葉、小枝、そして小石、そしてクモの巣が、午後もなかばの今、春の朝露にぬれているように光っている。櫂《かい》や虫のひとつひとつの動きがひらめきを作り出す。そして櫂が水面に落ちると、その反響のなんと美しいことか!
九月、あるいは十月のこうした好天の日には、ウォールデンは、私の目にはまるで数少ない珍しい宝石のように貴重に見える小石をまわりにちりばめた、完全な森の鏡である。湖水ほど美しく、清らかで同時に広大なものは、おそらく地球の表面に存在しないだろう。天の水だ。それには柵はいらない。さまざまな民族がやってきてはそれを汚さずに去ってゆく。どんな石をもってしても割れず、また、その水銀は決して剥げ落ちることがなく、その金箔《きんぱく》を自然が絶えず繕《つくろ》っている鏡。いかなる嵐も、いかなる塵もつねにさわやかなその表面を曇らすことはできない……そこに向けられるすべての不浄は残らず沈んでしまい、日光という目にはよく見えないブラシで払いのけらてしまう鏡……これは光の艶《つや》出し布巾だ……それは息を吐きかけても少しもそこに曇りをとどめておらず、むしろそれ自身の息を吐き出すと、息はその上高く雲としてただよって静かなその表面に影を映す。
一面の水は空の霊を表わしている。それは上から絶えず新しい生命と運動を受け取っている。それは陸と空との中間的な性質のものだ。陸では草と木だけがなびくが、水はそれ自身が風でさざ波となる。光の条またはその断片を見れば、微風が水面のどこを吹き渡っているかが分かる。水の表面を見おろせることは注目すべきことなのだ。たぶんわれわれはいつか空気の表面をこうして見おろし、いっそう精妙な霊がその上を通り過ぎるのを見定めることだろう。
厳しい霜がやってくる十月も後半になると、アメンボやミズスマシはすっかり姿を消してしまう。その頃および通例十一月には、穏やかな日だと水面にさざ波を立てるものはまったくない。ある十一月の午後、数日続いた風雨の後の静けさの中で、空はまだ完全に雲におおわれて大気に霧が満ちている時、池が際立って滑らかで、水面を見分けるのが難しいほどなのを見た。もはや十月の明るい色ならぬ十一月のくすんだ色をした周囲の丘を映してはいたが。私はできるだけそっと水の上を進んでいったのだが、ボートの起こすかすかなうねりがほとんど見渡すかぎりにまで伝わり、池に映っているものが畝《うね》模様にくねって見えた。水面を見渡していると、少し離れてあちこちにかすかな光が見えた。霜を逃れたアメンボがそこに集まっているようでもあり、ことによると、表面が非常に滑らかなので、底から泉が湧き出ていることを表わしているのではないかとも思った。そうした場所のひとつにそっと漕いでいってみると、驚いたことに、禄色の水の中にいる体長五インチぐらい、濃銅色をした何万という小さなパーチに自分がすっかり取り囲まれているのだった。彼らはそこで戯れ、しきりに水面へ浮かび上がってきてはさざ波を立て、時には水面に泡を残していった。雲を映す、かくも透明で底なしともみえる水の中で、私は気球に乗って空中を漂ってでもいるような気持になり、またそうした魚の泳いでいるのが空中を飛び回っているような印象を与えた。魚は、まるで私の下方で右に左にと飛び交う密集した鳥の群れのようで、その鰭《ひれ》が体に張りめぐらされた帆とも見えた。池にはそうした魚がわんさといて、どうやら冬が彼らの広い明かり窓を氷の戸で閉ざす前の短い季節を楽しんでいるらしく、そよ風が当たったか、または雨が数滴落ちてきたような様相をときおり湖面に呈させる。何気なく近づいて驚かすと、刷毛《はけ》状の枝で水を打った時のように急に尾をピチャピチャさせてさざ波を立て、たちまち深みに隠れてしまった。やがて風が立ち、霧が濃くなり、波がうねりはじめて、パーチは前よりもずっと高く、体の半分を水から出して跳びはねた。三インチの長さの無数の黒い点がいっせいに水から跳び上がる。ある年、十二月も五日になってのことだが、水面にいくつか波紋が見えた。霧が立ち篭めて今にも雨がひどく降りそうに思われたので、大急ぎで櫂に手をかけ、家にもどろうとした。顔には一滴も感じなかったが、雨はすでに降りしきりはじめたようで、ずぶぬれを覚悟した。ところが、とつぜん波紋が消えてなくなったのである。その波紋は、じつはパーチが立てていたもので、櫂の音が彼らを驚かせて深みに追いやったのだった。パーチの詳れがぼんやりと下に消えてゆくのが見えた。こうして私は結局雨の降らない午後を過ごしたのである。
かれこれ六十年も前、池が森に囲まれてまだ暗かった頃、この池によく来たという老人が語る話では、当時池にカモや池の水鳥が一面に群がっているのを見たことがあり、あたりにはワシもたくさんいたと言う。彼は釣りにやってきて、岸で見つけた古い丸太のカヌーを使ったのだった。二本のストローブマツの丸太をえぐって継ぎ合わせたもので、両端は四角に切り落としてあった。非常に不細工なものであったが、何年ももったそうで、その後水浸しになって、たぶん池の底に沈んでしまったことだろう。誰のものか彼には分からなかった。それは池のものであった。錨綱《いかりづな》に使うために、彼はヒッコリーの樹皮をより合わせて綱を作ったことがよくあったという。独立戦争の前に池のそばに住んでいたという陶工の一老人が彼に話してくれたそうだが、当時この池の底に鉄の箱が沈んでいて、その老人もその箱を見たという。ときどきは岸の方にただよってくるが、人がそれに近寄ってゆくと水底深くもどっていって見えなくなるのだそうだ。私はその古い丸太カヌーの話を聞いてうれしく思った。それは、同じ材料だがもっと優美な作りのインディアンのカヌーにとってかわったものであった。たぶん、初めは岸に生えていた木が、いわば倒れて水中に落ちて、この湖水に最もふさわしい舟として一世代の間そこに浮かんでいたのだろう。初めてこの池の深みをのぞいた時、大きな木の幹がたくさん水底に横たわっているのがぼんやり見えたのを覚えている。それらは昔、風で倒れたか、木材の安い時代であったから、最後に伐採されて氷の上に置き去りにされたかしたものだろう。だが、今では大部分が見えなくなってしまった。
私が初めてウォールデンでボートを漕いだ頃は、池は生い茂る高いマツやオークの林にすっかり囲まれ、いくつかの入江ではブドウの蔓《つる》が水際の突き出した木にまつわりついて、その下を舟で通れそうな四阿《あずまや》ができていた。岸を形造る山々は非常に険しく、山上の林には、当時とても高い木が茂っていて、池の西端から見おろすと、池はある種の見せ物が演じられる円形劇場の観があった。もっと若かった頃、夏の昼前に池心《ちしん》まで漕ぎでて、あとは徴風にまかせて湖面をただよい、ボートの座部にあお向けになり、目覚めながらにして夢を見つつ何時間も過ごしたことがあった。ついにはボートが砂地に突き当ってわれに返り、運命は自分をどこの岸に運んできたか、と立ち上がって見まわすのだった……無為が最も心を引きつけ、最も実りある仕事であった時期のことだ。一日で最も価値のある時間をこうして過ごすのが好きで、私は何回となく夏の午前をこっそり抜け出した。金銭には恵まれていなくても、うららかな時間と夏の日にはたっぷり恵まれていて、それを贅沢に使っていたからだ。またそうした時間のもっと多くを仕事場や教師の机で費さなかったことを後悔もしていない。だが私があの岸を去ってから、樵夫《きこり》がそこをなおいっそう荒らしてしまった。今後何年間かは、ときどき湖水を垣間《かいま》見ながら森の回廊をぶらつくことなどできないだろう。私の内なる詩神ミューズが今後沈黙することになってもしかたあるまい。木立が伐り倒されて、どうして小鳥に歌うことを期待できるだろうか?
今や水底の木の幹も、古い丸太のカヌーも、暗い周囲の林もなくなってしまった。村人はほとんど池の所在すら知らず、そこに出かけていって水浴することもなく、その水を飲むこともせず、少くともガンジス川と同じ聖なるはずのその水をパイプで村まで引いて、それで皿を洗うことを考えているのだ! コックをひねり、栓を抜いてウォールデンの水をわが手にするつもりなのだ! 耳をつんざかんばかりのいななきを町中に響かせる、あの悪魔のような鉄の馬が、その蹄《ひづめ》でボイリング・スプリングの水を濁らせたのだ。ウォールデン湖畔の林をすべて食い荒らしてしまったのも、その鉄の馬だ。貪欲なギリシア人に持ち込まれ、その腹の中におおぜいの人間をひそませている、あのトロイの馬〔ギリシア神話。トロイア戦争でギリシア軍が木馬に兵士をひそませてトロイアへ運び、トロイア軍を欺いて破った〕! ディープ・カットの踏み切り〔ウォールデン池に近い鉄道踏み切り〕でこの馬を迎撃して、この高慢な厄介者の肋《あばら》に復讐の槍を突き立ててくれる、この国の闘士モーア〔伝説中の英雄。全身にスパイクのついた鎧をまとって洞穴の怪物を退治した〕はどこにいるのだ!
にもかかわらず、ウォールデンはやはり私の知るすべての人間中、最も若々しさを失っていず、最もその純粋さを保持している。今までウォールデンに譬《たと》えられた人は数多いが、ほとんどその名誉に値いする人はいない。樵夫がまずこちら、それからあちらと岸を裸にしてゆき、アイルランド人が池のほとりに豚小屋を建て、鉄道がその境界を侵し、氷業者が一度氷をすくいあげたにもかかわらず、池自体は少しも変らず、水は今も私が若かりしころ視線を注いだその同じ水だ。変化はすべて私にあるのだ。今日まで数々のさざ波を立ててきた水に永久的な皺《しわ》一本寄っていない。池は永遠に若い。私は立ち止って、ツバメが昔ながらに水面の虫をついばもうとするのか、急降下するのを見ることができる。まるで二十年以上もほとんど毎日見ていなかったかのように、私は今夜も池を見て感銘を受ける……ああ、ここにウォールデンがある。何年も昔、私が見つけたそのままの森の湖水だ。この前の冬伐り倒された岸の森の跡には、別の森がふたたび相変らずたくましく出現しつつある。あの時と同じ想念が水面にわき上がりつつある。池は、それ自身とその造り主にとって同じ液体なる形をとった喜びであり、幸せなのだ。そうだ、池は私にとってもそうでありうるのだ。それは、策略などとは無縁な、きっとすばらしい人間の作品に違いない! 彼はみずからの手でこの池を円くし、その思いで深く清澄にし、その遺言でコンコードにそれを残したのだ。その面《おもて》を見れば、池も同じ感慨に見舞われているのが分かる。そして私はほとんどこう言うことができる……ウォールデン君、君だったのか? と。
[#ここから1字下げ]
詩行を飾ること
それは私の夢ではない、
ウォールデンにまことそば近く住むこと以上に
神と天国に近づくことはできない。
私は池の石の岸辺
そしてそこを吹き渡るそよ風だ、
手のひらのくぼみには
池の水と池の砂がある、
その最も深い憩いの場所は
私の想念の中に高々と横たわる
[#ここで字下げ終わり]
汽車は決して止まって池を眺めたりはしない。だが機関手、火夫、制動手、それに定期券を持っていて池を見によくやって来る乗客は、池を眺めることによっていっそう立派な人間になっているのではないかと思う。機関手は、すなわち彼の天性は一日に少くとも一回、この平穏清浄な光景を眺めたことを夜の間も忘れない。わずか一回見ただけでも、それはステート街と機関車の煤《すす》を洗い流すのに役立つ。この池を「神のしずく」と呼んだらどうか、と人は提案する。
私は前に、ウォールデンには目に見える水の入口も出口もない、と言った。だが池は、一方ではその方面から来ている一連の小さな池によって、さらに高い所にあるフリンツ池《ポンド》と遠く間接的に連なっており、他方では似たような一連の池によってさらに低いコンコード川と直接明らかに連なっている。いつかの地質学的時代に、これらの池をとおって、この池の水が流れていたものかも知れない。また、こんな事は神が許すはずもないが、少々掘り開くだけでふたたびその方向に流してやることもできるだろう。森の隠遁者のように長い間こうしてひっそり禁欲的な生活をしてきたことによって、池がこんなにすばらしい清らかさを獲得したとすれば、フリンツ池《ポンド》の比較的汚れた水がそれに混じったり、あるいは池の水自体が流れ出て大洋の波浪にその美しさを空費するようなことがあったら、残念に思わない人がいるだろうか?
リンカーンのフリンツ池《ポンド》、すなわちサンディ池《ポンド》は、わが最大の湖であり内海であって、ウォールデンの東約一マイルの所にある。それはずっと大きく、一九七エーカーの面積があるといわれていて、魚もさらに豊富である。だが比較的浅いし、とくに澄んでいるわけではない。森をとおってよくそこへ散歩に行くのが私の気晴しであった。風が自由に頬に当たるのを感じ、波がうねるのを見て船乗りの生活を思い出すだけでも散歩の価値はあった。秋になって風のある日はそこへクリ拾いに行った。クリは水中に落ちて、足もとに打ち寄せられた。ある日、さわやかなしぶきを顔に受けながらスゲの岸づたいにはい歩いていると、ボートの朽ちた残骸に出くわした。舷側はすでになく、イグサの中に残る平底も形ばかりの面影しかとどめていない。それでも血管の通っている動物の大きな朽ちた足裏のように、輪郭だけははっきりしていた。それは海岸にあるのを想像できそうな難破船のように印象的で、またためになる教訓を垂れていた。今ではたんなる腐植土に変って、見分けもつかない池の岸となっており、イグサやショウブがそこからのび出ている。私はこの池の北岸、水圧のために足には引き締ってかたく感ずる砂底に描かれた波紋と、まるで波によって植えられたかのように、その波形どおりに波打つ線の何列にも重なった形で生えているイグサに感嘆の目を見張ったものであった。そこではまた、かなりたくさん奇妙な球が見つかった。おそらくホシクサのだろうが、細い草、あるいは根からできているらしく、直径は半インチから四インチほどあって、完全な球形をしている。砂底の浅い水の中で前後に揺れ動いて、岸に打ち上けられることもある。全体が草のかたい塊《かたまり》のこともあれば、真ん中に少々砂が入っていることもある。見たところでは、小石のように波の作用でできたものと思うだろう。だが最も小さいものでも、同じざらざらした材料からできていて、半インチの長さがあり、一年の一時期にだけ作られる。なお波は、すでにかたくできあがっている物を一定の形に仕上げるというよりも、その形をすり減らしてゆくのではないかと思う。球は、乾いた状態ではいつまでもおなじ形をしている。
フリンツ池《ポンド》だと! われわれの命名法の貧弱さとはそうしたものなのだ。その畑がこの天界の水に隣接していて、その岸辺を容赦なく裸にしてしまったような不浄で愚かな農夫が、いったいどんな権利があって、自分の名をこの池につけたのか? 自分の厚かましい顔を映して見れるピカピカの一ドル貨幣や、キラキラ光る一セント貨幣の方が好きで、池に住みついた野ガモをさえ不法侵入者とみなし、ハルピュイア〔ギリシア神話。顔は女性で体は鳥の怪物。死人の魂を運び去るとされる〕のように、貪欲《どんよく》に物をひっつかむ長いあいだの習慣から、指がかたい猛禽《もうきん》の爪のように曲っている、どこかの<|けちんぼ野郎《スキン・フリント》>め……私にはどうもその名前が気に入らないのだ。私は彼に会うためにそこへ行くのでもなければ、彼のことを聞きにゆくわけでもない。彼は一度も池を<見た>ことがない。一度も池で水浴したことがない。一度も池を愛したことがない。一度も池を守ったことがない。一度も池をほめたことがないし、神が池を造られたことに一度も感謝したこともない。そんな名前をつけるくらいなら、むしろ池に泳ぐ魚、ときどき姿を見せる野鳥、または四足動物、岸に咲く野花、その生涯の歴史の糸がこの池のそれと織り合わさっている野人や子供などから名前を取った方がましである。
考えを同じくする隣人や法律が、彼に与える不動産権利証書以外になんら池に対する権利を示すことのできない彼、池の金銭的な価値だけを考え、池の存在からたぶん岸全体を詛《のろ》った彼。池のまわりの土地を疲弊《ひへい》させ、できればその中の水までも疲弊させただろう彼。池がイギリス種の牧草やツルコケモモの草地でなかったことを残念かるだけの彼……彼の目には、池は実際なんの取り柄《え》もないものに見えたのだ……できることなら水をはいて、底の泥さえ売りかねなかった彼だ。池は彼の水車を回してはくれなかったし、彼には池を眺めることを<特権>ともなんとも思えなかったのだ。私は彼の労働を、そしてあらゆる物に値段がついている彼の農場を尊敬しない。いくらかにでもなるとなれば、景色であろうと神であろうと市場へ運んでゆきたがる。彼は彼にふさわしい神を<求めて>市場へ行く。その農場には、自由に生長する物が何ひとつない。ドル以外にその畑には何の作物も実らないし、その牧草地には何の花も咲かない。その木には何の実もならない。彼は果実の美しさなど愛してはいないし、その果実はドルに換えられないうちは熟してくれない。
私に真の富を楽しめる貧しさを与えて欲しい。私にとって農夫は、その貧しさに比例して……貧しい農夫であればあるほど……尊敬と関心の対象となる。モデル農場がなんだ! 堆肥に生えたキノコのように家が突っ建ち、人間と馬、牛、豚の小屋が、清潔と不潔がすべて互いに隣り合わせになっている所だ! 肥料、バターミルクが臭う、だだっ広く油でぬるぬるしている所だ! 人間の心臓と脳髄を肥料として、高度に耕作された状態にある所だ! まるで墓地にジャガイモを栽培しようとするようなものだ! これがモデル農場なるものである。
いや、いや、最もうるわしい風景に人間の名前をつけるのなら、最も崇高な価値ある人たちの名前だけにしょう。少くとも「今なおその岸辺は、勇ましい試みの音をこだまさせる」〔ウィリアム・ドラモンド。一五八五〜一六四九。ソネット「イカルス」より〕イカリヤ海〔ギリシア神話。イカルスは父と蝋《ろう》づけの翼でクレタ島脱出をはかったが、父の注意を無視して高く飛びすぎ、太陽の熱で蝋が溶けて海中に落ちた。その海はイカリヤ海と名づけられた〕に見るように、本当にふさわしい名前をわが湖水につけてやろうではないか。
グース池《ポンド》は狭い湖で、フリンツ池へゆく途中にある。コンコード川の広がったものであるフェア・ヘイブンは約七十エーカーあるといわれ、南西一マイルの所にある。面積約四十エーカーのホワイト池《ポンド》は、フェア・ヘイブンの一マイル半先にある。これが私の湖水地方である。これらの湖、それにコンコード川が、私が使用権をもつ水域ということになる。そして昼も夜も、年々歳々、私の運んでゆく穀物をすべて粉にひいてくれる。
樵夫《きこり》と鉄道と私自身がウォールデンを汚してしまった後、すべての湖水のなかで最も美しいとはいかないまでも、最も魅力的な、いわば森の宝石はホワイト池《ポンド》である……その名は、水の驚くべき清らかさからきたものにせよ、砂の色からきたものにせよ、平凡で貧弱である。だが、他の点でもそうであるように、こうした点でもこの池はウォールデンとは双子で、その小さい兄弟である。この二つの池は非常によく似ていて、きっと地下では連なっているに違いない、と言いたくなるほどだ。岸辺には同じ石が多いし、水も同じ色をしている。ウォールデンと同様で、蒸し暑い土用の日には、どんなに深かろうと湖底からの反射光で色づいている入江を森から見おろすと、水はかすんだ青緑色、または海緑色をしている。数年前、紙やすりを作るのに荷車で砂を運ぼうとそこへ行ったことがあって、その後もずっと行っている。そこをよく訪れる人が、その池を<|緑の湖《バリッド・レイク》>と呼んではどうかと提案している。次のような事情から、たぶんそれは<|黄 松 の 湖《イエロー・パイン・レイク》 >と呼んでもよいだろう。
約十五年前、とくに変種というわけでもないが、このあたりではイエロー・パインと呼ばれているヤニマツが岸から数ロッドの深みの水面に突き出ているのが見えた。この池は陥没してできたもので、この木を、以前そこにあった原始林の一本ではないかと想像する人さえいる。一七九二年の昔、その一市民によって書かれて「マサチューセッツ歴史協会文庫」に収められている『コンコード町地誌』において、著者はウォールデン池とホワイト池について語り、「水位の低い時、後者の中ほどに木が一本見える。根は水面から五十フィート下にあるが、現在の場所で成長したものらしい。木の梢《こずえ》は折れていて、そこでは直径が四インチある」とつけくわえている。
一八四九年春、池にいちばん近いサッドベリーに住む人と語り合ったことがあるが、十年か十五年前にその木を引き上げたのは自分だ、と言っていた。彼の記憶するかぎりでは、その木は岸から十二ないし十五ロッド〔約六十〜七十五メートル〕の所に立っていて、そこは水深が三十ないし四十フィートあったという。冬のことで、午前中彼は氷を切り出していた。午後には近所の人たちに手伝ってもらって、その老いたイエロー・パインを引き抜いてやろう、と心に決めたのだった。氷を鋸《のこ》で引いて岸に向かって通路を作り、牛に引かせて木を倒し、氷上に引きずり上げた。だが、仕事が進まないうちに、木が逆さまになっていて、折れ残った枝が下を向き、細い枝の先がしっかりと砂底に突きささっているのを知って驚いたという。端の太い部分で直径が約一フィートあって、立派な挽《ひ》き材がとれると思っていたのだが、ひどく腐っていて、せいぜい燃料になるくらいのものであった。その一部は物置きに入れてあった。根元に斧やキツツキの跡があった。岸に転がる枯れ木がいつか風で池に吹き落とされて梢の方は水に浸ったが、根もとはまだ乾いていて軽かったので流れ出て逆さまに沈んだのではないか、と彼は考えていた。彼の父は八十才だったが、その木がそこになかった頃のことは思い出せなかった。まだかなり大きな丸木が数本底に横たわっているのが見られ、水面のうねりで巨大な水中のヘビがうごめいているように見える。
この池はめったに舟によって汚されなかった。漁師の気をひくほどの魚はいないからだ。泥を必要とするシロスイレンやふつうのショウブにかわってアオショウブ(Iris versicolor)が岸全体にそって石の多い水底から澄んだ水の中にまばらに生いのびていて、六月になるとそれにハチドリがやってくる。青味がかった葉と花、特に水面に映るその姿が海緑色の水と奇妙に調和している。
ホワイト池《ポンド》とウォールデン池《ポンド》は地表の大きな水晶、光の湖だ。もしこれが永久に凝固して手でつかめるほど小さかったら、おそらく奴隷たちは宝石でも運ぶようにそれを運び去って、皇帝の頭部を飾ることだろう。だが、それは液体であまりにも広く、永久にわれわれと子孫のものとなっているので、人はそれを顧みずにコイヌール〔イギリス王室所蔵のインドの宝石〕を追いかける。この二つの湖水はあまりにも清らかで、市価などつけられない。そこにはまったく不浄がない。われわれの生活よりもなんとはるかに美しく、われわれの人格よりもなんとはるかに澄明なことか! われわれは一度もその低劣さを知ったことがない。カモの泳ぐ農家の玄関先の池より、いかにずっとうるわしいことか! ここには清らかな野ガモが姿を見せる。自然の真価を認める人間の居住者がいない。羽毛に包まれて歌う小鳥は花と調和している。なのに、いったいどんな若者、どんな乙女が自然の野趣あふれる美と手を取り合っているというのか! 自然は彼らの住む町から遠く離れて、独りこの上なく繁盛《はんも》する。天を語るなら語れ! だが、君たちは地を辱《はずかし》めているのだ。
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ベーカー農場
時にはマツの木立まで散策に出かけることもあった。木立は神殿のように、または曲りくねった枝をつけて、光でさざ波を立てる、完全|艤装《ぎそう》した海上の艦隊のように立ち、柔和で緑にあふれ、多くの日蔭をつくっている。あのドルイド僧〔古代ケルト族のドルイド教の僧で、宗教、法律、教育、医術をつかさどる〕なら、オークの木立ちでする礼拝をやめて、ここで礼拝したことだろう。フリンツ池《ポンド》の向こうのスギの林まで行くこともあった。そこでは木々が白みがかった青い実におおわれて、ますます高くそびえ、いかにもバルハラ宮殿〔北欧神話。主神オーディンの殿堂。英雄の霊が、永遠の喜びと饗応を受ける所〕の前に立つにもふさわしい。ハイビャクシン〔ネズの一種で、ヒノキ科の植物〕が実をいっぱいつけた飾り環で大地をおおっている。また沼地まで行くこともあった。そこではサルオガセが花綱をなしてカナダトウヒから垂れ下がり、沼地の神々の円卓ともいうべきキノコが大地をおおい、さらに美しい菌類が蝶のように、あるいは貝殻……まるで植物のタマキビガイだ……のように切り株を飾り立てている。スワンプピンク、ミズキも生えており、クロウメモドキの赤い実が小鬼の目のように燃えて輝き、ツルウメモドキがどんな堅い木であろうとかまわず絡《から》みついては鬆《す》をとおし、それを裂いている。ノヒイラギの実がその美しさで見る者に自分の家を忘れさせ、それがまた人間が観賞するには美しすぎる、名もない他の野生の禁断の実に眩惑《げんわく》され、誘惑される。
学者を訪問するかわりに、私は遠く牧草地の真ん中、森と沼地の奥、または丘の頂上に立っている、近所ではそんなに見かけることのない特種な木を何回となく訪れたものだ。例えば直径二フィートの見事な種類のものもあるクロカバノキ、その従兄弟《いとこ》でゆったりとした金色の肌着をつけた、最初のものと同じ香りのするキハダカンバ、幹が非常にすっきりしていて美しくコケをまとい、何からかにまですべて完全なブナなどである……ブナについてはあちこちに散在するものは別として、相当大きい木のちょっとした木立がただひとつ、この村に残っているのを知っている。
昔、近くのブナの実に引かれてやってきたハトが植えたものと考える人もいる。この木を裂いて、銀色の木目《もくめ》が光るのを見るのは値打ちのあるものだ。シナノキ、シデノキ、たった一本だけよく育っている celtis occidentalis すなわちニセニレ〔アメリカンハックルベリー。エノキ属で、その実はサクランボに似て甘い〕、高いマストのように立っているマツ、インブリカリアガシ〔カシの一種。材は屋根板にされる〕、森の真ん中に仏塔《パゴダ》のように立ち、並みはずれて完全な容姿のカナダツガ、その他、挙げられるものは数多い。こうした所が夏冬私の訪れる社《やしろ》であった。
ある時、たまたま虹の弓のちょうど接地点に立った。それは大気の下層を満してあたりの草や葉にほんのりと色をそえ、私はまるで色つきの水晶をとおして見ているかのように眩惑された。それはいわば虹の湖水であり、私はしばしその中にあってイルカのように生きた。もしその状態がさらに長く続いていたら、虹は私の仕事も生活も染めていたかも知れない。鉄道の土手を歩いている時、自分の影を包む後光に驚いて、自分は選ばれた者の一人である、などとみずから想像したくなるのだった。私を訪ねてきた男は、彼の前を歩いていたアイルランド人たちの影には後光が見られず、それがはっきりと認められるのはその土地生れの者だけだと断言した。ベンベヌート・チェルリーニ〔一五〇〇〜七一。イタリアの彫刻家、金細工師。『獄中記』で有名〕が回顧録で語るところでは、彼が聖アンジェロの城に幽閉されていた時、ある恐ろしい夢または幻を見て、その後はイタリアにいようがフランスにいようが、まばゆいばかりの光が朝夕、彼の頭の影の上に現われるようになり、とくに草が露でぬれている時にはっきり見えたと言っている。これは、たぶん私が述べたのと同じ現象であるらしい。それはとくに朝認められるが、他の時刻にもあって、夜、月の光によってさえ認められる。この光は常時出ているのだが通常は気づかないまでのことで、チェルリーニのような奔放な想像力をもつ人の場合だと、それは十分に迷信の土台ともなるほどのものであろう。その上、彼はその光をごく少数の人にしか見せなかったと言っている。だが、いやしくも自分が尊敬されているのを自覚するほどの人は、実際に卓越した人ではないだろうか?
ある日の午後、乏しい野菜食の不足をおぎなおうと、森を通ってフェア・ヘイブンへ釣りに出かけた。道はベーカー農場《ファーム》の付属地プレザント牧草地《メドウ》を通り抜けていた。引っ込んだ閑静な所で、ある詩人〔ソローの友人エレリー・チャニング〕がそこについて詠んでいるが、それは次のように始まっている……
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おまえの入口は楽しい野原
その一部を苔《こけ》蒸す果樹が
光輝く小川に譲る
その流れをすみかとするは
滑るように走るジャコウネズミと
矢のように泳ぎ回る機敏なマスだ」
――「ベーカー農場」
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ウォールデンに引きこもる前に、私はそこに住むことを考えたことがあった。私はリンゴを「かすめ取り」、小川を跳び越えてジャコウネズミとマスを驚かした。ある日、それはさまざまな出来事……それがわれわれの自然生活の大きな部分を占めているのだ……の起こりそうな、そして果てしなく続くかとも思われるあの長い午後のことであった。とはいっても、私が出かけたのは午後もすでになかばを過ぎた頃であった。途中でにわか雨に遭い、やむをえず木の枝を頭上にかざし、ハンケチで雨をよけながら半時間ほどマツの下に立っていた。さて、やっとのこと池の水に体半分までつかって、ミズアオイの上に釣糸をひと投げした時、とつぜん自分が雲の影に包まれて、雷が猛烈な勢いで鳴りはじめたので、私は仕方なくそれをただ聞いていた。哀れな素手の一釣人を遁走《とんそう》させる、こうした稲妻という武器をもっている神は、さぞかし鼻高々に違いない、と思った。そこで、最寄《もよ》りの小屋に大急ぎで避難した。小屋はどの道からも半マイルの所にあるが、それだけに池には近く、長いあいだ空き家となっていたものだった……
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そしてここに詩人は小屋を建てた
今は過ぎ去った昔に。
そして倒壊への道をたどる
ささやかな小屋を見よ
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このように詩人ミューズは伝えている。だがこの小屋には、私が知ったところでは、現在アイルランド人ジョン・フィールドとその妻、それに子供が数人住んでいた。父親の仕事を手伝っていて、今雨を避けて沼地から父と一緒に走りもどったばかりの、顔の大きい男の子から、貴族の大邸宅にでもいるかのような顔つきをして父親の膝に抱かれ、湿気と飢えの真っただ中にあるその家の中から幼児の特権をもって珍来の客を不審そうに眺めている、皺《しわ》の多い、巫女《みこ》に似た、頭が円錐形の赤ん坊までいる。赤ん坊は、自分がジョン・フィールドの哀れな、飢えた餓鬼《がき》などではなくて、高貴な家系の末裔《まつえい》であり、世界中の人の希望、注視の的《まと》となっているのではないか、と思っている、といった様子である。
われわれは屋根下でいちばん雨漏りの少ない場所に一緒に坐った。外はにわか雨と雷鳴がまだ続いていた。この家族をこのアメリカの地まで運んだその船すらまだ建造されていなかった昔、私は何度もそこに坐ったことがあった。ジョン・フィールドは、いかにも正直で勤勉だが無能な男であった。彼の妻……彼女も勇ましい女で、あの丈高のストーブのくぼみで次々とかいがいしく食事を用意した。脂《あぶら》ぎった丸顔をして、胸をあらわにし、いつの日か暮らし向きを良くしようと考えているのだった。片手から棒雑巾を離すことがないのだが、その効果はまったくどこにも見当たらない。ひよこが、これも雨を避けて家の中に入ってきていたのだが、家族の一員のように部屋を歩き回り、あまりにも人間っぽくて、焼こうにもうまく焼けそうにないような気がした。立ち止まっては私の目をのぞき込み、または意味ありげに私の靴を突っつく。そうする間、この家の主人は私に身の上話をしてくれた。一エーカーにつき十ドルの約束のもとに近所の農夫の所で鋤《すき》や開墾《かいこん》用の鍬《くわ》で牧草地を掘り返し、いかに開墾仕事に精出しているか、といったことやら、一年間肥料つきでその土地を使わせてもらっていることやら、顔の大きい彼の息子が、父親がどんなに割りの悪い契約で仕事をしているかも知らずに、ずっとそばで元気に働いていることやらの話であった。
私は自分の経験をもって彼の役に立ってやろうと思って、いろいろと話してやった。彼が私の最も近い隣人の一人であること、こんな所に釣りにやってきて怠け者に見えるかも知れないが、私も彼と同様、働いて暮らしを立てていること、きちんとした、明るい、清潔な家に住んでいて、しかもその家は彼の家のようなあばら家にふつう支払う一年分の家賃とほとんど同額の費用で建てたこと、その気になれば彼自身も一、二ヶ月で自分の宮殿を建てられること、私はお茶、コーヒー、バター、牛乳、新鮮な肉などいっさい口にしないから、そうした物を買うために働く必要がないこと、またそれほど仕事に精を出さないから、それほど食べる必要もなく、食費はほんのわずかですむこと、彼がお茶とかコーヒーとか牛乳とか牛肉とかと言い出すから、その支払いのため懸命に働かなければならなくなり、懸命に働くから身体の消耗《しょうもう》をおぎなうのにふたたび懸命に食べる必要があること、だから結局働いても働かなくても同じだということ……いや、始終不満足な状態にあるし、おまけに命を磨り減らすことになるから、じつはかえって損であること、などを話して聞かせた。ところが、毎日お茶やコーヒーや肉を口にすることができるのもアメリカにやってきたおかげだ、と彼は考えていた。
だが、唯一真実のアメリカとは、そんな物が無くてもすむ生活様式の自由な追求を許し、またそんな物を口にする直接間接の結果として生ずる奴隷制度や戦争、その他のむだな出費を支持することを国家が人々に強要しようとしない国なのだ。私は、わざと彼が哲人であるかのように、または哲人になることを望んでいるかのように彼に語ったのだった。もし地球上のすべての牧草地が荒れ果てたままで残ることになっても、それが食物への奴隷状態から人間が自由になりはじめたことの結果であれば、私は喜ぶだろう。人間は、自己を啓発する最良のものを見つけるためには、歴史を学ぶ必要などないだろう。だが、ああ! アイルランド人を啓発するとなれば、それは一種の精神的開墾の鍬をもって乗り出すべき難事業である。私は彼に言った。開墾にそんなに精出すから厚い長靴とか丈夫な服が必要になり、しかも、それはすぐ汚れて擦《す》り切れてしまう。私が紳士然とした服装をしている(じつはそうではないのだが)と思うかも知れないが、軽い靴、薄地の服を身につけているだけで、しかもそれは君の物の半値にもつかない。また、労働というのでなく、たんなる気晴らしとして、わずか一、二時間でその気になれば二日間食べられるだけの魚を、一週間暮らせるだけの金をもうけられる。彼とその家族だって、簡易生活をすれば夏は家族みんなで楽しみにハックルベリー摘みにゆけるだろう、と。
それを聞くやジョンは溜息をつき、彼の妻は両手を腰に当てて肘を張り、目を丸くした。両人ともそうした暮らしを始めるだけの資力があるかどうか、やり通せるだけのやり繰り計算ができるかどうかを危ぶんでいる様子であった。そうした生活は、彼らには手探り航海にもひとしいもので、どうやって目指す港に入ってよいものやら見当もつかないのだった。したがって今も相変らず自己流に人生と向かい合って勇敢に生き、必死になっていることだろう。がっちり組んだ縦隊に巧みに楔《くさび》を打ち込んでそれを裂き、分断した上でそれを打ち負かす、といった機転を欠いているのだ……アザミをいじるように荒っぽく扱うことばかり考えて。だが彼は、圧倒的に不利な戦いをしていることになる……ジョン・フィールドは、ああ! 計算のない生活をし、かくて失敗に終るのだ。
「釣りはするかね?」とたずねてみた。
「ああ、やるよ。ぶらぶらしている時はときどき、ひと釣りするよ。いいパーチが釣れるんだよ」
「餌は何かね?」
「ミミズでシャイナーを釣って、それでパーチを釣るのさ」
「ジョン、今行ったらいいよ」
妻君が希望に顔を輝かせて言ったが、ジョンは気乗りしなかった。
にわか雨がやんだ。東の森の上にかかる虹が晴れの夕べを約束していた。私はいとまを告げた。外に出ると、この家の観察の仕上げに井戸の底をちょっとのぞいておきたいと思い、茶碗をひとつ貸して欲しいと頼んだ。ところが、ああ! 井戸には浅瀬あり流砂ありで、井戸縄は切れ、桶は沈んでいてだめだった。そうするうちに適当な台所の器が選び出された。くれた水は蒸溜したものらしく、二人でなにやら相談してえらく暇どった後、喉の乾いている私に手渡された……蒸溜したての、冷えても澄んでもいない水であった。こんな粥《かゆ》のようなどんよりした水で生きているのだ、と私は思った。目を閉じ、底の水をたくみに動かしてごみを一方に寄せ出し、彼らの純粋な歓待にこたえて思いきり、ひと息に飲み干した。問題が礼儀にかかわっているこのような場合、私は気難しいことは言わない性分であった。
雨が上がり、アイルランド人の家をあとにふたたび池に向かって歩いていると、高校から大学にまで上げてもらいながら、人里離れた牧草地や沼地や沢の窪《くぼ》み、寂しい未開の場所をあちこち渡り歩いてカワカマスを捕ろうとせかせかしているのが、ふとつまらないことのように思われた。だが、肩越しに虹を見つつ、チリンチリンとかすかな鈴の音が洗い清められた空気をとおしてどこからともなく聞こえてくる中を、赤く染った西に向かって丘を駆けおりる時、私の守護神がこう言っているような気がした……毎日、遠く広範囲にわたって釣りや狩りに行け……もっと遠く、もっと広く……そして多くの小川のそばや炉辺で心安らかに休息を取るがよい。若き日にお前の創造主を覚えておくのだ。夜明け間近かには、気も軽く寝床を離れて冒険を求めよ。昼は他の湖のほとりで過ごせ。所かまわずくつろいでいる場所で夜を迎えよ。このあたりの野ほど広い野はなく、ここでの遊びほど価値ある遊びはない。天性にしたがってのび放題にのびよ。とてもイギリスの牧草にはなれないスゲやシダのように。雷をとどろかさせよ。たとえ農夫たちの作物を荒らすおそれがあろうと、それが何だと言うのか? そんなことはお前にはどうでもよいことだ。人が馬車や小屋に逃げ込む時、お前は雲の下に雨を避けよ。衣食を得ることを職業とせず、遊びとするのだ。大地を楽しめ。だがそれを所有してはならない。冒険心と信念が不足のために人は売買し、一生を農奴のように過ごしつつ、いつまでも今の境遇にとどまっているのだ、と。
おお、ベーカー農場よ!
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風景、そこで最も貴重な要素は
汚れを知らぬささやかな日の光……
酒宴にはせつける者もいない
お前の横木の垣根に囲まれた草原には…
お前は人と論争するのでもなく
問題に当惑することもなく
初めて見た時も今も変らずおとなしく
その質素なあずき色の上衣にくるまっている……
来たれ愛を抱く人たちよ
憎しみを抱く人たちも
聖なるハトのひなも
そしてガイ・ホーク流の国賊も
陰謀などはつるし首にするがよい
頑丈な垂木《たるき》に!」
――エレリー・チャニング「ベーカー農場」
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夕暮れ時になると、人々は家庭の物音が絶えず反響するすぐ隣りの畑から、街から、すごすごと帰宅する。自分の吐く息をなんども繰り返し呼吸してその生命は凋《しぼ》んでゆく。朝夕の彼らの影はその日中の歩幅よりも長くなる。日々新たな経験と性格をたずさえて、われわれは遠方から、冒険と危険と発見から帰宅すべきなのだ。
私がまだ池に着かないうちに、ジョン・フィールドはなにか新しい衝動から気が変わって、「沼地を掘り返す仕事」をその日の日没前に切り上げてやってきた。ところが気の毒にも、私にはかなりの漁があったのに、彼の方は二、三匹追い回しただけであった。ついていない、と彼は言った。ボートの中の坐る場所を交換してみたのだが、運の方も位置を交換してしまった。気の毒なジョン・フィールドよ!……彼がこの記事を読むことはないだろうとは思うが、もし読めば、それでいくらか進歩するところもあるだろう……彼はこの原始的な新しい国にいながら、なにか昔ながらの古い国の方式で生きてゆこうと考えているのだ……シャイナーでパーチを釣るようなつもりで。もっとも、時にはそれが格好な餌となることもあるにはあるのだが。彼の視界はまったく独自なものなのだが、やはり彼は気の毒な男であり、また気の毒であるべく生れついていて、アイルランドの貧困、またはみじめな生活、その最も遠い先祖アダムのばあさん以来の、締まりけない遣口《やりくち》をひき継いでいた。そのあちこちと渡り歩く、水かきでもついていそうな、沼地をせかせか急ぎ回る足の踵《かかと》に、メルクリウス〔ローマ神話。学問、技術、雄弁をつかさどる。旅行者や盗賊の守護神で、くるぶしに翼が生えているとされている〕の足に見るような翼でも生えないかぎり、彼もその子孫もうだつが上がらないように生まれついているのだ。
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より高度な法則
魚を紐にとおして手にさげ、真っ暗闇なので釣り竿《ざお》を引きずって森の中を帰途についた時、ウッドチャックが小道をこそこそ横切るのをちらりと見て、野性的な喜びで妙にぞくぞくするのを覚え、捕えて生のままむさぼり食いたい誘惑に強くかられた。その時空腹だったわけではなく、ウッドチャックのただよわす野性味に引かれたのだ。だが一、二度、池に住んでいた頃、私はなかば飢えかけた犬のように妙に捨てばちな気分になって森の中を駆けずり回り、どんな野蛮な動物でもいい、何か食べられそうな猟獣の肉はないかと探したことがあった。最も未開な情景が奇妙にも親しみ深く感じられたのだ。
たいていの人たちにも見られることだが、私は自分の内部により崇高な、いわゆる精神的生活を志向する本能と、もうひとつ、原始的で野蛮な生活を志向する本能が潜んでいるのに気づいたことがあって、今もそうだが、私はその両者とも大切にしている。善にまさるともおとらず野性を愛しているのだ。釣りのもつ野性味と冒険性が今なお私を釣りに向かわせるのだ。時には、野蛮な生活をしてもっと動物のように日を送りたいと思うこともある。ずっと年少の頃、自然と親しくつき合うことができたのも、おそらくこの釣りと猟のおかげだろう。この二つは、他のことをしていてはその年頃ではほとんど縁がないはずの情景にわれわれを導き入れて、そこに引きとめる。漁夫、猟師、樵夫《きこり》、その他のように、特別な意味で彼ら自身が自然の一部となって野や森で一生を送る人たちは、期待をもって自然に接近する思想家よりも、時には詩人さえよりも、仕事の合い間に自然を観察するのに好都合な気分によくなるものだ。自然は自分を彼らにあらわに見せることを恐れない。旅をする者は、大草原では自然に猟師となり、ミズーリ川、コロンビア川の上流では罠《わな》の仕掛人に、セント・メアリーの滝では釣人となる。たんなる旅行者は、人からのまた聞きで生半可《なまはんか》に物事を知るだけで、権威に乏しい。自然と直接交わる人たちがすでに実地に、または本能的に知っている事を科学が報告するとき、われわれは最も興味を覚える。というのは、人間の経験という点からいって、それだけが真に<人間的な科学>だからである。
イギリスのように祝祭日は多くないし、大人も子供もそれほどいろいろな遊びをしないからといって、アメリカ人にはほとんど楽しみというものがない、と断言する人は間違っている。猟、釣り、その他それに類する原始的で孤独な楽しみは、その地位をまだいろいろな遊びに譲ってはいないからだ。私と同時代のニューイングランドの少年は、十才から十四才ぐらいまでの年頃には、ほとんどみな猟銃を肩にしたものた。彼らの猟場や釣り場は、イギリス貴族専用の特別保護区域のような局限されたものではなく、野蛮人のそれさえしのぐほど広大な範囲にわたっていた。だから、少年たちが村から出ずに共用地で遊ぶなどということはあまりないのは不思議ではないのだ。だが変化はすでに起こりつつあり、それも慈愛心が高まったためではなくて、獲物がだんだん減ってきたせいである。おそらく狩る者は狩られる動物の最大の友であろうし、愛護協会なるものもその点では例外ではないのだから。
なおまた、池で生活をしていた頃、私は変化をつけるため食事に魚をそえたいと思うことがあった。私は実際、この世で初めて釣りをした人と同じ必要から魚を捕ったわけだ。釣りに反対して私がどんな博愛主義をでっち上げようと、それはすべて作為的なものであり、自分の感情よりも理屈とかかわりをもつものだ。今のは釣りについてだけ言っていることで、野鳥狩りについてはずっと以前から違った気持をいだいていて、森に行く前に猟銃は売り払ってしまっていた。釣りをするのは、私が他人よりも慈愛の心に乏しいということではなく、哀れみの情がそれほど動くのを覚えなかった、ということである。魚や虫は可哀想だとは思わなかった。これは習慣であった。野鳥狩りについては、猟銃を持ち歩いた最後の数年間は鳥類学研究をその口実としていて、初めての鳥、珍しい鳥だけを求めて歩いた。だが現在は、じつはこんなことをするよりもましな鳥類学の研究方法があるという考えに傾いていることを告白する。その研究は、もっとずっと細心の注意を鳥の習性に向けることを要求するものであり、その理由からだけで、自分から進んで猟銃を使うまいという気になったのである。慈悲的な理由から反対はあるにせよ、これほど価値ある他の遊びが今までこれに取ってかわったことがあったとは思われない。子供に猟を許してよいものかどうかと数人の友人に心配げにたずねられた時、私は答えてやった。やらせてあげなさい……私自身が受けた教育の中でそれが最良のものの一部であったことを思い出しながら……猟師に<仕立てなさい>。最初のうちはたんなる遊猟家でけっこうだが、できれば最後にはここでは、あるいは鳥獣草木の豊富などんな荒野でも、満足のゆくまで獲物を捕るのには不足だと思うような力強い猟師に……そして、人を漁するとともにそれを猟する人間にしてやることです、と。ここまでは、私もチョーサー〔ジェフリー・チョーサー。一三五〇?〜一四〇〇。英詩の父といわれる〕の『カンタベリー物語』中の尼僧〔じつは修道士で、ソローの勘違いか?〕と意見を同じくする者だ。彼女は、
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狩人《かりうど》は信仰あつき人にあらず、という昔の高僧の聖句などには、やせこけた鶏一羽の値すら認めなかった。
――「カンタベリー物語」の序詩
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アルゴンキン族〔以前カナダのオッタワ川沿岸地方に住み、現在アメリカ西部に住む北米インディアンの一種族〕のいった、猟師は「最良の人」なる時代は、それが人類史上にあったと同様、個人の生涯にもあるのだ。われわれは、猟銃を撃ったことのない少年を哀れと思わずにはいられない。それは決して彼が慈悲深いということではなく、一方で彼の教育が悲しくもおろそかにされたということなのだ。以上が、猟銃を手にすることに躍起《やっき》となっている若者についての私の解答であった。そして、彼らがそのうちに猟を卒業することを信じていた。無分別な少年時代が過ぎると、情ある人間であれば自分と同じ境遇で細々と命をつなぐ生物をむやみに殺したりはしないものだ。窮地に陥ったウサギが子供のように鳴き叫ぶ。世の母親よ、言っておくが、私の同情は世間一般に見られるような、人と動物とを区別してとくに<人間>愛に向けられるといったものとはかぎらないのである。こうした、つまり愛の対象を人間だけにかぎる態度をもって、たいていの場合青年ははじめ森へ入ってゆくが、それはまた彼自身の最も本来的な天性の一部なのだ。最初は狩人、あるいは釣人として森へ行くが、もし彼の中にもっと立派な人生の種子があれば、ついには詩人なり自然科学者なりとして自分にふさわしい対象を見分けて、猟銃や釣り竿は放っておくようになる。大多数の人間は、この点では今なお、そしてつねに未熟な段階にある。ある国では、狩りをする牧師は別に珍しい光景ではない。そうした人間は羊の良き番犬とはなるかも知れないが、良き羊飼い〔キリストの意。新約聖書「ヨハネ」第十章第十四節。ここでは良き牧師の意〕からは程遠い。考えてみて驚いたのだが、私の知るところでは、ただ一人私という例外はあるが、父親であれ子供たちであれ同じ町の仲間みんなを丸半日間ウォールデン池《ポンド》に引きとめておいた唯一の仕事は木材伐採、氷の切り出し、その他それに類する仕事をのぞけば、釣りだけで、それ以外は何もなかった。釣っている間ずっと池を見る機会があるのに、魚をずしりとひとさげ捕らないかぎり、彼らは幸運であったとも時間をかけてやってきた甲斐《かい》があったとも思わないのがふつうである。釣りというものの、いわば澱《おり》が水底に沈んで、その目的だけが純粋に残るようになるまでには、何回となく池に通わなければならないかも知れない。だが、そうした浄化作用は疑いなくつねに進行しているのだろう。知事も、州議会の議員連中も、子供の頃は釣りに行ったのだから、池のことはかすかに記憶しているはずだ。だが、今では年を取りすぎ、威厳がつきすぎて釣りには出かけない。彼らはもはや永久に池については何も知らない。それでも、その彼らでさえ最後は天国に行けるものと思っている。州議会が池を顧慮《こりょ》することがあるとすれば、それは主として池で使用する釣り針の数を規制するためだ。州議会を餌として池そのものを釣るべき釣り針中の釣り針、すなわち真の精神的な利益をあげる方法についてはまったく知るところがない。こういうわけで、文明社会においてさえ、未発達の人間は人間進歩の過程における狩猟人の段階を通過するものなのである。
近年になって、釣りというものは自尊心を少々低下させずにはできるものでないことを、再三再四、発見した。何回となく釣りをしてみた。釣りの技量もあるし、大勢の仲間と同様、釣りに対するある程度の本能も具《そな》わっていて、ときどきそれが首をもたげる。だが、釣り上げてしまってから釣らなければよかったといつも感じる。この気持は間違っていないと思う。それは、ほんのおぼろげな暗示にすぎないが、そういえば朝の最初の光の条だって、初めはかすかにさすものだ。確かに私の中には、より低級な被造物がもつ、この本能がある。だが、慈悲心または知恵すら豊かになりつつあるとはいえなくても、年々少しずつ釣りはしなくなってきている。現在私はまったく釣りをしない。だが荒野で生活することにでもなれば、ふたたび本気で釣りや猟をしたい気持になるだろうと思う。それにまた、われわれがとるこの食事とすべての肉類には、なにか本質的に不潔なところがある。そして家事がどこで始まるものか、毎日のように見た目にこぎれいに、きちんとし、家を快適な、あらゆる悪臭や目障りな物のない状態にしておくという非常に高価につく努力がどこから始まるかが私に分かりかけた。自分が一人で自分自身の肉屋、皿洗い、料理人、そしてその料理を給仕してもらう紳士を兼ねていたわけだから、珍しく完璧な経験からこう言うことができるのだ。
私の場合、肉食に対する実際上の反対理由は、その不潔さである。それに、魚を捕え、きれいに洗い、料理して食べたところで、本当にそれが栄養になったとは思われなかったのである。魚は取るに足らぬ不必要な物で、結局は得るより損の方が大きかった。少量のパンと二、三個のジャガイモだけでけっこう間に合うものであるし、その方が手間も汚れも少くてすむだろう。同時代の多くの人たちと同じく、私も長年の間、肉、茶、コーヒーなどはめったに口にしていなかった。そうした物を有害と認めていたためというよりも、むしろどうも気持が悪かったからだ。肉食に対する嫌悪は、経験の結果ではなく、ひとつの本能的なものであった。粗食と苦しい生活をすることが、多くの点でいっそう美しいもののように見えたのである。私はそれを実行したとは決して言わないが、自分の気持を満足させる程度まではやったと思っている。自分のより高度な詩的機能を最高の状態に保つことに真剣であった人たちは、肉食を、またどんな食物でも、過食を避けようとする傾向がとくに強かった、と私は信じている。「成体となった昆虫の中には、食物摂取器官があってもそれを使わないものがある」、と昆虫学者が言っているが……カービー〔ウィリアム・カービー。一七五九〜一八五〇〕とスペンス〔ウィリアム・スペンス。一七八三〜一八六〇〕との共著『昆虫学入門』で読んだことである……これは意義深い事実である。
「こうした状態にある昆虫は、ほとんどすべてが幼虫の状態にあった当時よりもずっと少量しか食べないのが通則」と彼らは書いている。「食欲旺盛なイモムシがチョウになり……大食のウジがハエになると」、ほんの一、二滴の蜜か他のなにか甘い液体で満足する。チョウの羽の下の腹部にはまだ幼虫のなごりがある。そしてここが食虫動物に食われて死ぬ運命を招くおいしい部分なのだ。大食漢とは幼態にある人間のことである。国民全体がそうした状態にある場合もあり、その国民には空想と想像力が欠如していて、そのとほうもない大きな腹部がそのことを暴露している。
想像力を害しない、単純清潔な食事を用意して料理するのは難しいことである。だが、肉体に食物を与える時は、この想像力にも食物を与えるべきだと考える。この二つは両方一緒に同じテーブルにつくべきものである。これはおそらく可能であろう。果物を適度に食べていれば、自分の食欲を恥じなくていいし、最も価値ある研究でも妨害されることはない。だが、余分な調味料を料理に入れると害になる。贅沢な料理を食べて生活するなど無価値なことだ。たいていの人は、肉食にせよ菜食にせよ、他の人が毎日用意してくれるのとまったく同じ料理を自分の手で用意するところを見られたら、きっと恥ずかしい思いをするだろう。だが、自分の食物を他人に料理してもらうことが改められるまでは、たとえいわゆる紳士、淑女ではあっても、本当の人間の男女ではない。このことは、今後われわれがどの様に変えてゆくべきかを確かに示唆している。なぜ想像力が肉や脂肪と両立できないのかを問うことはむだかも知れない。私は、両立しないという事実だけでもうたくさんである。人間が肉食動物であるのは不面目なことではないだろうか? なるほど人間は他の動物を餌食にすることによって大部分の生活を送ることができるし、現にそうして生きてもいるわけだが、これはみじめな生き方である……罠《わな》でウサギを捕えに、または小羊を屠殺《とさつ》にいく者が誰でも思い知らされるようにだ……そして、もっと罪がなくて栄養の豊富な物だけを食べるよう人間に教える人は、人類の恩人とみなされることだろう。私自身の習慣が実際どうであれ、野蛮な種族が彼らよりも文明化した人間と接触するようになって共食いするのをやめたように、動物を食うのをやめることは漸進《ぜんしん》的な進歩の途上にある人類が必然的になすべき一事である、と私は信じて疑わない。
人は、自分の内なる天分のきわめてかすかながらも絶えることのない示唆に耳を傾けるならば……それは確かに真なるものである……肉食の習慣が人を極端な状態に、時には狂気にさえ導くこともあることを初めは知らなくても、さらに決断がくわわり、信念が強まるにつれて自分のたどる道がその方向に向かっているのを知るようになる。一人の健全な人間の感じる、きわめてかすかながらも確信に満ちた抗議は、ついには人類のさまざまな議論や慣習にうち勝つだろう。道をあやまつまで徹底的に内なる天分の命ずるところに従ったことのある者は一人もいない。肉食を避けた結果身体が虚弱になっても、そうしたなりゆきを後悔すべきものとはおそらく誰も言えないだろう。それはより崇高《すうこう》な原理に合致した生活であったわけだから。昼夜が歓喜をもって迎えられるものとなり、生活が花や香りのよい草のように芳香を放ち、いっそう弾力的で、いっそうきらびやかで、いっそう永遠的なものとなれば……それは君の成功ということになる。その時、自然の万物は君を祝福してくれるし、君は刻々自分を祝福する理由をもつことになる。最大の利得や価値は最も認めにくいものなのだ。われわれは、ともすればそうしたものの存在を疑いがちである。たちまちそれを忘れてしまう。だが、それは最高の現実なのだ。おそらく最も驚くべき、最も現実的な事実とは、決して人から人へと伝えられるようなものではないだろう。私の日常生活の真の収穫は、朝夕を染める色彩にやや似ていて、触れることもできなければ言い表わすこともできない。それはつかまえた小さな星肩、私がつかんだ虹の断片である。
だが、私としては決して並はずれに気難しかったとは思っていない。必要とあればネズミのフライもおいしく食べることができた。私はアヘン吸飲者が朦朧《もうろう》たるうちに見る天よりも自然の空の方を採るが、それと同じ理由から、長いあいだ水を飲むことにしていたのが良かったと思う。つねに素面《しらふ》でいたいのだ。酔いには無限の段階がある。水こそ賢者の唯一の飲み物だ、と信じている。酒はそんなに高尚な飲料ではない。一杯の熱いコーヒーで朝の希望を、一杯の茶で夕べのそれをめちゃくちゃにしてしまうことを考えてみるがよい! そんな物に心を引かれる時、いかに私は堕落することか! 音楽でも人を酔わすことがあるのだ。そうした、見たところ些細なことからギリシアとローマは滅亡したし、イギリスもアメリカも滅亡するかも知れないのだ。すべての酔いの中でも、自分が呼吸する空気で酔うことを望まない者はいるだろうか? 荒っぽい労働を長く続けると、どうしても飲み食いも荒っぽくなるもので、これがそうした労働を長く続けることに反対できる最も重大な理由であることを知った。だが、じつを言うと、私自身は現在、この点では以前よりもいくらかやかましくなくなっている。食卓に宗教をもち込むことも少なくなったし、食前のお祈りもしない。私が以前より賢明になったからではなく、いかにも遺憾《いかん》とすべきことではあるが、年とともにだんだんと粗雑で投げやりになったからである、と告白しなければならない。大部分の人が詩について信じているのと同じで、たぶんこうした問題も青年時代にだけ心に抱くものなのだろう。私の実際は「散々なものだ」が、私の意見を述べておこう。とはいってもベーダに、「宇宙に遍在する至高の存在に真なる信仰をもつ者は、すべて在る物、何を食べてもよい」、すなわち何を食べるか、誰がそれを調理するかは問わずともよい、とあるからといって、私自身をそこに言及されているその特典をもつ人々の一人と見なそう、などとは、もうとう考えていない。あるインド人の注釈者が述べているように、そういう人たちの場合でも、ベーダ教はこの特典を「困苦の時代」だけに制限していることに注目すべきである。
およそ食欲とはまったく無関係と思われるような食物から、言語に絶する満足感を得たことのない人はいるだろうか? 一般的には鈍感とされる味覚なるもののおかげで精神的な感得があったこと、味感をとおして霊感を得たことがあること、丘の中腹で食べた実《み》が心霊の糧《かて》になっていたことを思って、私は歓喜に震えたことがあった。「心ここに在らざれば見れども見えず、聞けども聞こえず、食えどもその味を知らず」、は曽子《そうし》〔中国春秋時代の魯《ろ》の人で孔子の弟子。孝行で知られる〕の言〔心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不如其味。「大学」〕である。
食物の本当の味を識別する者は決して大食漢でありえないし、識別できない者は大食漢以外ではありえない。清教徒でも、口腹の満足を追求する市の助役がスッポン料理に向かうと同じく、がつがつした食欲をもって黒パンの外皮にかぶりつくこともあるだろう。口に入る食物が人を汚すのではなくて、それを口にする際の食欲がそうするのだ。人を汚すのは食物の質でも量でもなく、味覚というものへの執着である。食べる物がわれわれの肉体を維持したり、精神生活を鼓舞《こぶ》したりするための糧《かて》とならないで、われわれが内に宿す、つまらない寄生虫の食い物となる場合である。猟師がドロガメ、ジャコウネズミ、その他そうした野蛮な物が好きなら、立派なご婦人も小牛の足のゼリーやら、海外から取り寄せたイワシやらを堪能《たんのう》するわけだが、双方に甲乙はつけられない。猟師は水車池に、ご婦人はジャムの壷に向かうだけのことだ。不思議なことは、よくも彼らは、そしてよくも君と私は、飲んだり食べたりでこのぬるぬるした獣的生活を送っていられるものだ、ということである。
われわれの全生活は驚くほど道徳的である。徳と悪との間には一瞬の休戦すらない。善は絶対に間違いない、唯一の投資である。世界中に響き渡るハープの調べでわれわれを震えさせるものは、善行が間違いのない投資であるというこの主張である。ハープは宇宙保険会社の外交員で、その法《きまり》を宣伝しているのであり、われわれのささやかな善行が、われわれの支払う賦課金だ。青年もいつかは無関心になってゆくが、宇宙の法則は無関心でいることがなく、永久に最も感受性の鋭い人々の味方である。吹きとおるあらゆる微風の中にある非難の声に耳を傾けることだ。それは確かにそこにあるのだから。それが聞こえない者は不幸である。われわれが弦に触れ、音栓を移動させれば、人を引きつける教訓が必らずわれわれを釘づけにするものだ。遠く離れて聞けば、雑多な騒音も音楽に聞こえる。それはわれわれの生活の卑しさに対する誇らしい、甘美な諷刺なのだ。
われわれは内なる動物を意識している。その動物は、われわれがもっているいっそう崇高な天性が眠っているのに比例して、目を覚ましている。それは爬虫類《はちゅうるい》的、肉欲的で、たぶん完全に追い出すことは不可能であろう。われわれが健康に生きている時でも体内に巣食っている寄生虫のようなものだ。その動物から退くことはできるかも知れないが、その性質を変えることは絶対にできない。私は、その動物が独得な、ある種の健康を享受しているのではないか、と懸念《けねん》する者だ。すなわち、われわれは健康で、しかも清らかでないこともありうるのではないか、ということだ。
先日、まだ白くて完全な歯と牙《きば》のついたイノシシの下顎骨を拾ったが、それは精神的なものとは別な動物的健康、力、といったものがあることを暗示していた。この動物は、節制とか清浄とかとは違うものを手段として、うまく生きてきたのだ。「人間が禽獣《きんじゅう》と異なる所以《ゆえん》のものは、至極些細なことである。凡人はすぐにそれを失ってしまうが、君子はそれを大切に保持する」、と孟子《もうし》〔中国戦国時代の儒家。孔子の孫の子思の門人に学び、王道、仁義、性善説を説く〕は言っている。〔孟子曰、人之所以於禽獣者幾希。庶民去之、君子存之。「孟子」巻第八離婁章句下〕
もしわれわれが清浄の域に達した時、結果としてどんな生活が生まれてくるか、誰が知っていようか? 私に清浄なるものを教示してくれるほどの賢人がいると分かれば、私は即刻彼を捜しに出かけるだろう。「情欲と肉体の外的感覚を統御することと善を行なうことは、心が神に近づくうえで不可欠なものである、とベーダは宣言している」が、精神はしばし肉体のあらゆる器官と機能に広くゆきわたってそれを統御し、形における最も肉欲的なものを清浄と献身に変えることができる。生殖エネルギーは、われわれが放逸《ほういつ》に流れている時はわれわれを放蕩《ほうとう》に導き、不浄にするものだが、禁欲的でいる時は活力を与えてわれわれを鼓舞《こぶ》する。貞潔は人間の開花である。天才、功、神聖などと呼ばれるものは、すべてその後に続くさまざまな果実にすぎない。人間は、清浄という水路が開いている時は、すぐにも神のもとに流れてゆくものだ。清浄がわれわれを鼓舞すれば、次には不浄がわれわれの意気を沮喪《そそう》させる。内なる動物が日ごとに死滅し、聖なるものの存在が確立されつつあることに確信を持てる者は幸いである。自分が手を結んでいる、下劣で野獣的な性質を恥ずべき理由として持たない人はおそらくいないだろう。われわれは、ファウヌス〔ローマ神話。半人半羊の林野、牧畜の神〕やサテュロス〔ギリシア神話。半人半獣の森の神。酒色を好む〕のような神または半神、獣と結びついている神か肉欲的動物にすぎず、ある程度まではわれわれの生活そのものが恥ずべきものでないのか、と私は恐れている……
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自分の内なる獣に相応の場所を割り当て、
心の森を拓《ひら》いて獣欲を制した人は
なんと幸福であろう!
………
自分の馬、ヤギ、オオカミ、そしてあらゆる獣を
意のままに使いこなし、
みずからはそれら獣のロバとなり果てぬ人!
さもなければ人は豚の牧者であるばかりか、
獣らを見境いなくたけり狂わせて
さらに悪を重ねさせた
あの悪魔らと等しかろう」
――ジョン・ダン(一五七三〜一六三一)
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肉欲はさまざまな形をとるが、すべてそれは一つのものである。すべての清浄も一つのものである。食おうと、飲もうと、同棲しようと、眠ろうと、肉体の満足のためにするなら、それは同じものだ。それはただ一つの欲情であり、人がどの程度肉欲的かを知るには、その人がこのうちのどれか一つをするのを見さえすればよい。不浄な人間は、清らかに立つことも坐ることもできない。爬虫類は、その引きこもる穴の一方の口から攻めたてられると、他の口から姿を現わすものである。貞潔であろうとするなら節度がなければならない。貞潔とは何か? 分からないだろう。われわれはこの徳目を耳にしてはいても、それがどんなものなのか分かってはいない。ただ聞いたことのある風説に合わせて、それを語っているだけのことだ。努力に知恵と清浄は由来し、怠惰《たいだ》に無知と肉欲は由来する。学究にあっては、肉欲とは精神の不活溌な習慣のことである。不浄な人は例外なく怠惰な人である。ストーブのかたわらに坐り込み、寝そべって太陽に照され、疲れてもいないのに休息する者である。不浄とすべての罪を避けようと思うなら、仕事が馬小屋の掃除であっても熱心に働くことだ。自然は克服しがたいものだが、克服されなければならない。異教徒よりも清浄でなく、もはや自己を否定せず、より宗教的に生きることもしないとなれば、クリスチャンであることがなんの役に立つだろうか? 異教的とみなされているもので、その教えが読む者をわが身を恥じる思いで満たして、たんに儀式を行なわせるだけにせよ、彼を新たな努力に駆り立てるような多くの宗教体系を私は知っている。
私はこうしたことを語るのに躊躇《ちゅうちょ》を覚える。だが、それは主題のせいではなくて……自分の言葉がどんなに卑猥《ひわい》であろうと気になどしないから……自分の不浄さをさらけ出さずにはそれについて話せないからだ。われわれは、肉欲のある形式のものについては自由に、恥ずかしいとも思わず論じるのに、別の形式のものに関しては沈黙してしまう。人間性に不可欠な機能について率直に話せないほど堕落しているのだ。古代には、人間のあらゆる機能が敬虔な気持で口にされ、法によって律されていた国もあった。現代の好みにとってはどんなに不快なことでも、インドの立法者にはくだらなすぎるとは思われなかった。食べ方、飲み方、同棲の仕方、糞尿排泄《ふんにょうはいせつ》の仕方、その他そうした卑俗な事柄を高尚に教えていて、くだらない事として不実に避けたりはしていない。
すべての人間は、純粋に自分自身の流儀にしたがってその崇拝する神のために肉体と呼ばれる神殿を建てるのであって、そのかわりに大理石をハンマーで打ってすますわけにはいかないのである。われわれはみな彫刻家、画家で、その材料とするのは自分自身の肉、血、骨である。どんな種類の気高さも、それはすぐさま人の容貌を気品あるものに変えはじめるし、どんな種類の卑しさ、または肉欲も、それはすぐさま、それを動物的なものに変えはじめるものである。
ジョン・ファーマーは一日のつらい仕事を終えて、九月のある夕方、自分の家の戸口に坐っていた。彼は多少とも労働のことにまだ思いをはせていた。すでに入浴はすませて、自分の内なる知性的人間に英気を養わせようと坐り込んでいるのだった。かなり冷え冷えとした夕方で、近所では霜を懸念する人もいた。一連の思いにふけっていると、誰かが笛を吹くのが聞こえてきた。その調べは彼の気分としっくり調和するものだった。なおも彼は仕事のことを考えていた。だが仕事のことが、こうしてずっと頭の中を駆けめぐり、心ならずも自分が仕事の計画を立ててはそれに工夫を凝らしていることに気づきなからも、それと折り返しに、そんなことはほとんどどうでもよいことだ、と思うのだった。そんなことは、絶えず剥がれて落ちる皮膚の<垢《あか》>のようなものであった。だが笛の音《ね》の方は、彼の働く世界とは別の世界から聞こえてきて耳に深くしみ入り、彼の内に眠る、ある機能に働きはじめるよう勧めるのだった。それは自分の住む街も村も国もやさしく忘れさせた。と、声がして彼に言う……なぜお前はここにいて、この卑俗な、あくせくした生活をしているのか? 光栄ある生活が開かれている時に。空のあの同じ星がこことは別な野の上にも光り輝いているのだ。しかし、どのようにこの状態から抜け出てそこに移り住むか? 彼に思いつくことといえば、なにか新たな苦行を行ない、心に肉体まで降りてゆかせてそれを救済させ、不断に増す尊敬の念をもって自分自身を扱うことぐらいであった。
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動物の隣人たち
ときどきは釣り仲間の訪問を受ける。町の反対側から村をとおって私の家にやってくるのだが、御馳走を釣ることが、それを食べるのと同じく社交的なつき合いとなっていた。
<隠者>……世の中は今どうなっているのだろうか。この三時間、スウィート・ファーン〔北米産ヤマモモ科の低木〕の上を飛ぶバッタの音すら聞こえない。ハトはみんなねぐらで眠りについている……羽ばたきひとつしない。ちょうど今、森の向こうから聞こえてきたのは、正午を知らせる農夫の角笛だろうか? 働く人たちが塩漬け牛肉の煮たのやら、リンゴ酒やら、インディアン・パン〔トウモロコシパン〕をとりにもどるところだろうか? どうして人々はああもくよくよするのだろう? 食べない者は働く必要もないのだ。彼らは、いったいどれくらい刈り入れたのだろう? 大の吠え声で、考え事などとうていできない所などに誰が住むものか。それに、ああ、煩わしい家事仕事! このうえ天気の日にドアの取っ手をぴかぴかに磨いたり、桶をごしごしやるなんて! 家など持たない方がましだ。そうだ、どこかの木の洞穴にでも住んだらどうだろう。その時は、午後の訪問客や晩餐の客にどんな人がやってくるだろう! キツツキがコツコツやるだけだ。村の人たちは群がり生きている。村では日光が暑すぎる。彼らは生まれ落ちるとすでに世間に深くはまり込みすぎていて、とても私は彼らとはつき合えない。私には泉から汲んだ水があるし、黒パンの一塊が棚の上にある。ほら聞くがよい! 木の葉のささやきがする。あれは狩猟本能にしたがっている、腹を空かせた村の猟犬でもあろうか? それとも、雨上がりに足跡を見たが、このあたりの森にいると言われる、あの行方不明の豚だろうか? 急ぎ足でこっちにやってくる。近くのウルシとノバラの木が揺れる。やあ、詩人君、あなただったんですか? 今日は世の中はどんなぐあいかね?
<詩人>……あの雲を見たまえ、あの垂れぐあいを!今日見た中で最高だね。ああいう雲は古い画にも描かれていないし、外国でも見られるものではない……スペイン海岸の沖ででもないとね。あれは本当の地中海の空だね。食べ物を調達しなければならないし、今日はまだ食べていないので、釣りに行くのもいいと思ってね。それは詩人にとっての真の稼ぎでね。私が身につけた唯一の商売というわけだ。さあ、一緒に行こうじゃないか。
<隠者>……逆らえないね。黒パンも、もうそろそろなくなるしね。喜んで早速お供しよう。だが、今ちょうど大切な思索の結論が出かかっているところなんだよ。もうすぐけりがつくと思う。ちょっとの間、放っておいてくれたまえ。でも遅くならないように、君はそのあいだに釣餌を掘っていたらいい。餌虫《みみず》はこのあたりでは、なかなか見つからないんだよ。土に肥料をまるでやっていないんでね。ほとんど絶滅の状態なんだ。餌を掘るのも魚釣りにおとらず楽しいものだよ。もっとも、それほど空腹でない時の話だがね。その楽しみを今日はそっくり君におまかせしよう。向こうのアメリカホドイモが生えているところに鋤《すき》を入れて見るんだね。オトギリソウがなびいているところだ。除草する時のように草の根の間をよく注意して見れば、三回掘り返して一匹は保証してもいいと思うよ。もっと遠くへ行ってみるというならそれも悪くはないだろう。上等な餌は、距離の自乗にほぼ等しく増加することを発見したんでね。
<隠者>(独りになって)……ええと、何を考えていたのだったかな? だいたいこんな気分でいたようだな。世界はおよそ下の方、こんな角度のところにあったと。さて、天に行こうか、釣りに行こうか? この思索をここでおしまいにしてしまっても、こんな気持のよい機会がまたやってくるだろうか? 今までの生涯で最も事物の本質との融合に近づいていたようだな。私の想念はもどってこないのではなかろうか? 口笛を吹いたらもどってくるものなら、そうして呼びもどしたいが、想念の側から浮かんできてくれる時に、ひとつ考えてみよう、などというのは賢明なことだろうか? 私の想念はその足跡をまったく残してくれていないから、私は道を見つけ出せない。考えていたのは何だったかな? ひどく靄《もや》のかかった日だな。孔夫子の三つの説〔「中庸」第十六章。本文「孤独」の章参照〕をちょっと考えてみることにするか。それが先程の状態をふたたび呼びもどしてくれるかも知れない。ふさぎ込んでいたのだったか、恍惚《こうこつ》感が湧き出しはじめていたのだったか覚えていない。メモ……ひとつの種類については、ひとつの機会しか決してないものである。
<詩人>……どうかね、隠者君、まだかね? 完全なのを十三匹取りましたよ。他にちぎれたのやら、ふつうより小さいのが何匹かある。雑魚《ざこ》ならそれでも間に合うだろう。釣針をすっぽりおおってしまわなくていいんだ。村にいるミミズはまったく大きすぎるね。シャイナーだと針に食いつく前に、ひと御馳走いただいてしまうんだよ。
<隠者>……さて、それでは出かけるとしようか。コンコード川に行こうか? 水かささえあまり増していなければ、いい釣場があるんだ。
どういうわけで今われわれが跳めているこうした物が世界を形作っているのだろうか? なぜ人間は今こうした種属の動物を隣人として持っているのだろう?まるでネズミ以外にこの間隙をうめるものがいなかったみたいだ。ピルパイ〔多くの人の手になるインドの古いお伽話《とぎばなし》集、またはその作家だが、元来は朝廷に仕える筆頭の学者の称号〕とその仲間の作家たちは、動物をできるかぎり活用したのではないかと思われる。動物たちはみんないくぶんかは、われわれ人間流の考えをもたされていて、ある意味で牛馬と同じく、荷物を運ぶ獣に仕立てられているから。
家でよく姿を見せるネズミは、外来種といわれているふつうのものではなく、村では見られない、野生で土着の種類のものであった。一匹をある著名な博物学者に送ったところ、それはおおいに彼の興味をかき立てた。家を建てていた頃、一匹が家の下に巣食っていて、二度目に床を張って鉋屑《かんなくず》を掃き出す前頃には、決まって昼食時間になると出てきて足もとのパン屑をひろい上げた。たぶん人間を一度も見たことがなかったのだろうが、やがてすっかり人なつこくなって、よく私の靴の上を走り、衣服を走り上がった。リスのようにちょこちょこと衝動的な動きで部屋の壁を苦もなく這い上がることができて、動作はリスにそっくりであった。ついにはある日、ベンチに肘《ひじ》をついて寄りかかっていると、ネズミは衣服をつたって走り上がり、袖づたいに降りて、食事をのせた紙のまわりをぐるぐる駆け回った。私の方は食事を近くに置いておいては相手をかわし、「いない、いない、ばー」をして遊んだ。最後に親指と人差し指の間にチーズをひと切れはさんでじっとしていると、やってきて手の中に坐ってそれをかじり、それからハエがやるように顔と前脚をぬぐうと行ってしまった。
タイランチョウ〔北米東部にいるオリーブ色をしたヒタキ類の小鳥〕がやがて物置に巣をかけ、コマツグミが家にさしかかるマツに寝ぐらを求めた。六月にはライチョウ(Tetrao umbellus)……これは非常に臆病な鳥である……が背後の森から家の前へと雌鶏のようにコッコッと呼びかけながら窓の下をひなを連れて通る。その動作はすべて彼女が森の雌鶏であることを証明していた。人が近づくと、母鳥からの合図でひなは旋風に吹き払われたように、とつぜん散らばってしまう。ひな鳥は乾燥した葉や小枝とじつにまぎらわしいので、多くの旅行者は、そのまっただ中に足を踏み入れて親鳥の飛び立つ音や、その心配そうな呼び声と鳴き声を聞くか、または旅行者の注意を引くために翼を引きずるのを見るかしても、近くにひな鳥のいることに気づかない。親鳥が人前でひどくしどけない格好で転げ回り、きりきり舞いをするので、しばらくはそれがどんな種類の動物なのか見きわめられないこともある。若鳥は平たくなってじっとうずくまり、首を葉の下に突っ込むこともあって、親鳥が遠くから与える指図にだけしたがい、人が近づいても、ふたたび走り出して自分の所在を暴露するようなことはしない。若鳥を踏みつけることすらあるし、しばらく目を注いでいても、それと分からないこともある。
そうしたある時、私はひらいた手の上に若鳥をのせたところ、彼らが守る唯一の事は、やはり母鳥や自分の本能にしたがって、恐れたり震えたりしないでそこにうずくまっていることであった。この本能はじつに完璧で、一度彼らを葉の上にもどしてやって一羽がたまたま葉の横に落ちた時でも、十分後に行ってみると、他のひな鳥と一緒に、まったく前と同じ姿勢のままであった。おおかたの鳥のひなのように幼いところがなく、もっと完全に発達していて、ニワトリのひなよりも早熟である。そのぱっちりとして澄んだ目の著しく大人びた、それでいて無邪気な表情は非常に忘れがたいものである。知恵が全部目に現われているように見える。その目はたんに幼時の清らかさだけでなく、経験によって浄化された英知を暗示している。そのような目は、生まれた時にできあがったのではなくて、その目が映している空とともに存在していたのだ。森はこのような宝石を他には産み出していない。旅行者がこれほど透明な泉をのぞき込めるのは珍しいことだ。無知無鉄砲な遊猟者は、よくこの時期に親鳥を撃って無邪気なひなの方はほうっておき、餌を求めてうろつき回る獣や鳥の餌食となるか、またはそれに色のよく似た枯れ葉と次第に混じり合って朽ちてゆくかにまかせる。ニワトリがこのひなを孵化《かえ》させると、ひなは何かに驚いて、たちまち四方に散り、そのまま行方知れずになるという。自分たちをふたたび呼び集めてくれる母鳥の鳴き声がしないからだ。この鳥はじつに私の雌鶏であり、ひよこである。
いかに多くの動物が、人目にこそつかないものの、野生のまま自由に森に生息しているか、あるいは猟師に感づかれるだけで都会近くで命をつないでいるかは注目すべき事だ。カワウソは、ここでなんとひっそりした生活を送っていることだろう! 身長四フィート、小柄な少年ほどに生長するが、おそらく人間の目にはチラッともふれることはないだろう。以前、家を建てた場所の背後の森でアライグマを見たし、その後も夜、鳴き声を聞いたように思う。通常私は種まきをした後、正午には木蔭で一、二時間休息して昼食をとり、畑から半マイルばかり離れたブリスターズ丘《ヒル》から湧き出て沼地や小川の水源となっている泉のそばで少々読書をした。この泉への経路は、ヤニマツの若木が一面に生えて草の茂った一連の窪地を下りてゆき、沼地のほとりにある、より大きな林に出るのである。そこに立っている枝を広げたストローブマツの下、大変閑静な日蔭に、腰をおろすのに格好な、かたくてきれいな芝地があった。私はその泉を掘り開けて、澄んだ灰色の水が出る井戸を造った。水を揺り動かさずに手桶で汲み上げることができた。この水を汲むために、真夏で池が最も暖まっている時はほとんど毎日のようにそこへ行った。そこへはまた、ヤマシギが泥の中の虫を探しにひな鳥を連れてやってきた。ひな鳥の頭上わずか一フィートを跳んで土手を降りると、ひな鳥は群れをなしてその下を走る。だが、母鳥がついに私を見つけると若鳥のもとを離れ、私の周囲にぐるぐる輪を描きながらだんだんと近寄り、四、五フィート以内まで来ると私の注意を引いて若鳥を逃そうと、翼や脚を傷めているふりをする。その間に若鳥たちは母鳥の指図にしたがい、ピーピーか弱い鳴き声を立てながら沼地を一列縦隊ですでに行進しはじめているのだった。親鳥の姿が見当たらないまま若鳥の鳴き声を聞くこともあった。ナゲキバトも泉に翼を休め、あるいは頭上の柔らかなストローブマツの枝から枝へと羽ばたいた。アカリスは私にいちばん近い枝をつたって降りてきて、とくに人なつこく、好奇心があった。森のどこか好ましい場所にしばらくじっと坐ってさえいれば、そこに生息する動物はすべてかわるがわる姿を見せてくれるだろう。
私はもっと穏やかならぬ出来事も目撃した。ある日、薪の山、というより切り株の山に行くと、二匹の大きなアリ、一方はアカアリ、他方はもっとずっと大きく、半インチ近くもあるクロアリが激烈な戦いを展開しているところを見た。いったん組みついたら絶対に離れず、木片の上でひっきりなしに戦い続け、格闘し、転がり回る。さらにあたりを見ると、驚いたことに木片という木片はすべてそうした戦闘員でおおわれていて、それは決闘〔duellum〕ではなくて戦争〔bellum〕、まさにアリの二種族間の戦争であった。アカアリはつねにクロアリと取っ組み、二匹のアカアリに対してクロアリが一匹の組み打ちもあった。これらミュルミドン〔ギリシア神話。トロイア戦争でギリシア側についた好戦的なテッサリア人〕の軍勢は薪置き場の丘という丘、谷という谷のすべてをおおい、地面には赤、黒両軍の死者と瀕死《ひんし》の者がすでにあちこちに散らばっていた。それは、私がかつて目撃した唯一の戦いで、戦いまさにたけなわの時に足を踏み入れた唯一の戦場であった。必死の戦いであった。一方はアカアリの共和主義者、他方はクロアリの帝国主義者だ。四方八方いたるところで死闘が展開され、それでいて聞こえる物音ひとつなく、人間兵士でもこれほど決然と戦ったことはいまだかつてなかっただろうと思われた。木片と木片との間、小さな、日当たりのいい谷で、今この真っ昼間に日が沈むまで、または命のつきるまで戦うことを辞さぬ覚悟で互いにしっかり組み合って動かない一組を、私はじっと見守った。小柄なアカアリの闘士が万力のように相手の胸元にがっちり食らいついていた。触角の一本はすでにかみ切っており、どんなにその戦場で転がり回ろうと、もう一方の触角のつけ根近くにかみついたまま、一瞬たりとも決して離そうとはしなかった。さらに強いクロアリの方はアカアリを左右に突き倒し、近寄って見ると、アカアリの手足をすでに数本もぎ取っていた。彼らは実際ブルドッグよりも執拗に戦った。双方とも退く気配はまったくなかった。彼らのスローガンが「勝利か死か」であることは明らかであった。そうしているうちに、この谷の斜面を一匹のアカアリが明らかに勇み立った様子でやってきた。自分の敵をすでに片づけてしまったのだろうか。それともまだ戦闘に参加していなかったのだろうか、五体満足なところを見るとたぶん後者であろう。彼の母は、「盾を持って帰るか、さもなければ盾に乗せられて帰るように」〔スパルタ人が出征する時、母が息子を戒めたという故事から〕彼に教え聞かせてよこしたものだろう。あるいは、ひょっとすると離れた所で憤怒の念に燃えていたが、今や親友パトロクロスの仇《あだ》を討たんと、または彼を救おうとしてやってきたアキレウスであったかも知れない。遠くからこの力の釣り合わない戦闘を見て……なにしろクロアリはアカアリの倍も大きかったから……彼は急ぎ足で近づき、戦っているアリから半インチ以内のところに立ちどまって身構えた。それから機をうかがってクロアリの戦士に跳びかかると、敵が自分の脚のいずれに食らいつこうとそれは選ぶにまかせておいて、自分は相手の右前脚のつけ根近くに攻撃を開始した。こうして三匹のアリは命がけでひとつにからみ合い、他のあらゆる錠前、接着剤も顔負けする新種の接合剤でも発明されたかのように離れなかった。この時までには、両軍ともひるむ者を鼓舞し、死闘を続ける戦闘員を励まそうと、それぞれにどこかの高みに軍楽隊を配置して、それぞれの国歌を奏させているのを見たとしても、私は驚かない心境であった。私自身、まるで彼らが人間であるかのようにいくぶん興奮した。考えれば考えるほど、両軍の力の差はわずかなものとなった。参戦する者の数といい、彼らが発揮する愛国心や勇敢さといい、この戦いとの瞬時の比較にもたえられる戦いは、アメリカの歴史はともかく、少くともコンコードの歴史に記録がないことは確かである。
数の点でも、大量|殺戮《さつりく》という点でも、それはアウステルリッツの戦い〔一八〇五年、ナポレオンのフランス軍がチェコスロバキヤ中部アウステルリッツで勝利をおさめた、ロシヤ・オーストリヤ連合軍との戦い〕、もしくはドレスデンの戦い〔一八一三年、東ドイツのドレスデンでナポレオンが列国の連合軍を破った戦い〕であった。コンコードの戦い〔独立戦争直前の一七七五年、イギリス軍とアメリカ市民兵がコンコードで衝突した〕はどうだ! 愛国者側が二名戦死し、ルーサー・ブランチャード〔アクトン中隊所属のファイフ奏者〕が負傷しただけではないか! だが、この戦いでは、アリたちはすべてバトリック〔コンコードの戦いで発砲を命じた少佐〕であった……「撃て! 構わぬ、撃て!」……そして数千匹のアリがデビス〔アイザック・デビス。コンコードで戦死した中隊長〕やホスマー〔アブナー・ホスマー。コンコードで戦死〕と運命をともにしたのだ。そこには、雇い兵など一名もいなかった。彼らが戦ったのは、われわれの先祖と同じく主義のためで、お茶に課される三ペニーの税金を逃れるためなどではなかったことを私は疑わない。そしてこの戦闘の結果は、関係するアリたちにとっては、少くともバンカー丘《ヒル》の戦闘〔一七七五年六月、ボストンのバンカー丘《ヒル》での戦闘。アメリカ独立戦争で最初の重要な戦い〕と同様、重要な記憶すべきものとなるだろう。
私が詳細に述べた三匹のアリがその上で戦っている木片を取り上げ、どうなるかなりゆきを見てやろうと私はそれを家の中にもち込み、コップをかぶせて窓台の上に置いた。最初のアカアリに拡大鏡を当ててみると、すでに彼は敵の残っていた触角をかみ切っており、今や手近の前脚に必死に食らいついていたが、自分の胸部はすっかり引き裂かれて、中の臓物を全部クロアリ戦士の顎《あご》のあたりにさらけ出していた。どうやらクロアリ戦士の胸板は厚くて食い破れない様子である。そして、その手負いアリの目の黒っぽいザクロ石は、戦いだけがかき立てることのできる残忍さに燃えていた。それから半時間、彼らはコップの下で戦っていた。ふたたび私が見た時は、クロアリ戦士が二匹の敵の首を胴体から離してしまってはいたが、まだ生きているその首は依然としてしっかり食いついたまま、ちょうど鞍《くら》の前輪に結びつけた恐ろしい戦利品のように、クロアリの両脇にぶら下がっていた。クロアリは触角を二本とも失い、脚は一本が一部しか残っておらず、他に数も分からないほど何ヶ所にも負傷しながらも、その二つの首をわが身から離そうと弱々しくもがいていた。それから半時間、やっとのことで彼はその目的を達した。コップを持ち上げてやると、びっこをひきひき窓台を越えて立ち去った。彼が結局その戦闘に生き残って、余生をどこかのオテル・デ・ザンバリード〔一七六〇年に建てたパリの廃兵院。ナポレオンを埋葬している〕で送ったかどうかは定かではない。だが、その後は持ち前の勤勉さもたいして価値のないものとなるだろうと思った。どっちが勝利をおさめたのか知らないし、戦争の原因も知らない。しかし、その日はその後、まるで戸口前で繰り広げられた人間の戦争での死闘、その残忍さと殺戮《さつりく》を目撃して興奮し、さいなまれた、といった感じであった。
カービーとスペンスは、フーバー〔フランシス・フーバー。一七五〇〜一八三一。スイスの博物学者で蜂蜜の研究家〕がアリ戦争を見たらしい唯一の現代作家だが、アリ戦争は昔から有名で、見た日付も記録されている、と言っている。彼らの本にはこう書いてある。
「イーニアス・シルビウス〔一四五八〜六四。ローマ法王ピウス二世〕は、ナシの木の幹で大小二種類のアリが執拗に戦った模様を非常に詳しく説明した後で、『この合戦は法王エウゲニウス四世〔一四三一〜四七のローマ法王〕時代、すぐれた法学者ニコラス・ピストリエンシスの見ている前で戦われたもので、彼は一部始終を最も忠実に記述している』とつけくわえている。
大小のアリによる似たような交戦は、オラウス・マグヌス〔一四九〇〜一五五八。スウェーデンの宗教家、外交家〕によっても記録されていて、その戦いでは小さなアリが勝利をおさめ、味方の兵士の死体は埋葬したのだが、大きな敵方の死体は鳥の餌食となるにまかせたという。この出来事は、暴君クリスティエルン二世〔一四八一〜一五五九。スウェーデン王。後にグスタブス・バサによって追放された〕がスウェーデンを追われる前に起こっている」
私が目撃したのはポーク〔ジェイムズ・ノックス・ポーク。一七九五〜一八四九。アメリカ第十一代大統領〕が大統領の時代で、ウェブスター〔ダニエル・ウェブスター。一七八二〜一八五二。アメリカの政治家でニューイングランドの指導者。逃亡奴隷法案の成立に尽力した〕の逃亡奴隷法案〔第二次のもので、妥協法案の一部として一八五〇年に議会を通過〕が通過する五年前に起きたものであった。
地下の食料保存室でドロガメでも追い回す以外に能のない数多くの村の犬が、飼い主に内緒でその重い四肢をこれ見よがしに森の中でひけらかして、古いキツネの隠れ場やウッドチャックの穴を空しく嗅ぎ回った。たぶん、森の中を機敏に、縫うように走り回るどこかのけちな犬ころに率いられているのだろうが、それでもやはり、そこに住む動物たちに自然な恐怖感を抱かせたことだろう……時には先導からはるかに遅れて、犬に駆り立てられて木に逃げ登った小さなリスに向かって雄牛のように吠え、時には、自分たちはトビハツカネズミ一家のはぐれた一員を追跡しているんだ、と仮想しつつ、体重で潅木をたわませながら駆け去ってゆく。かつてネコが石の多い池の岸を歩いているのを見て驚いたことがある。ネコが家からそんな遠くへさまよい出ることなどめったにないものだからだ。驚いたのはお互いさまであった。だが、一日中敷物に寝そべっているような、最も家庭向きなネコでも森の事情には通じている様子で、そのすばしこい、ひそやかな動きは森の定住者以上にそこになじんでいることを物語っている。
ある時、木の実を摘んでいると、すっかり野生化した一匹のネコと子ネコたちに出会った。子ネコはみな母ネコと同じく背中を丸くして、私に向かって荒々しくフウッとうなった。森に住むようになる数年前、池に最も近いリンカーンの農家の一軒、ギリアン・ベーカー方に、いわゆる「翼のあるネコ」なるものがいたことがある。一八四二年六月、彼女(雄か雌か知らないので、ふつうよく使う代名詞を使っておくが)を見にいったところ、彼女はいつものように森に猟に出かけて留守であったが、女主人が彼女のことを話してくれた。彼女は、一年と少々前の四月にその近所へさまよい込んできて、結局その家に引き取られるようになったのだ。暗い茶がかった灰色をしていて、喉に白い斑点があり、脚は白く、キツネのように大きなふさふさした尾を持っていた。冬になると毛皮が厚くなり、両脇にそって横へ平らにそれがのび出て、長さ十ないし十二インチ、幅二インチ半の帯状をした物に、また顎の下はマフのようになり、帯状の物の上面は毛がばらばらだが、下面はフェルトのように絡《から》み合っている。春にはこの付属物も落ちてしまうという。その「翼」を一対もらい受けて、今でも取ってある。それには膜らしき物がない。ムササビ、または他の野生動物の血が混じっていると考える者もいるが、それもありうることである。博物学者によれば、テンと飼いネコとの交接でいろいろな雑種が生まれているそうだからだ。これこそ私が飼うのにぴったりの種類のネコだったのだろうと思う。詩人の飼うネコも、その馬と同じく〔ギリシア神話。詩神ミューズ九姉妹が贈られたペガサスという馬には翼があって、英雄ペレロフォンがこれに乗って天空を駆けた〕翼を持っていて悪いわけがないと思うのだが? 秋には例年アビ(Colymbus glacialis)がやってきて換毛し、水浴をして、私がまだ起きないうちから森にその野性的な笑い声を響かせる。彼がやってきた、という噂でミル・ダムの遊猟家はみな緊張し、馬車または徒歩で二人、三人と連れだっては特許銃、円錐《えんすい》弾、望遠鏡持参でお出ましということになる。一羽のアビに少くとも十人がかりで、彼らは秋の木の葉のように森の中をがさがさ音を立ててやってくる。池のこちら側に陣どる者もあれば、そちら側の者もある。その哀れな鳥は、同時にあらゆるところにいるというわけにはいかないから、ここで水中に潜れば、あちらに浮かび上がらなければならない。だが今、情深い十月の風が起こって木の葉をさやがせ、水面にさざ波を立てるので、彼の敵が望遠鏡で池を見渡し、発砲して森を鳴り響かせても、アビの鳴き声はまったく聞こえないし、その姿も見えない。すべての水鳥に味方して波は気前よく高まり、腹立たしげに打ち砕ける。そしてわが遊猟家連中は町に、店に、やりかけの仕事にと、退却のやむなきにいたることとなる。とはいうものの、伎らが首尾よくしとめた例はあまりにも多すぎるのである。朝早く手桶に一杯水を汲みにいくと、この堂々とした鳥が二ロッド〔約十〜十五メートル〕以内の所を、私のいる入江から泳ぎ出てゆくのをたびたび見た。どうしようというのか見てやろうと思ってボートで懸命に追いかけると、水中に潜って完全に姿を隠して、時にはその日の夕方まで見つけられないこともあった。だが水面では私にかなわなかった。雨の時は通常いなくなった。
ある非常に穏やかな十月の午後、北岸ぞいに漕いでいると……そんな日はとくに彼らはガガイモの冠毛に似た格好をして湖水に降りているものだ……アビはいないか、と池を見渡した時は見当たらなかったのに、とつぜん一羽が私の眼前二、三ロッドの水面を岸から湖心に向かって泳ぎ出てきて、野性的な笑い声を立ててその所在を暴露した。櫂《かい》で漕いで追いかけると水に潜り、ふたたび姿を見せた時は前よりも私の近くに出てしまった。彼はまた潜った。しかし、彼の進む方向を私が見当違いしたので、次に水面に出てきた時は五十ロッド〔約二百五十五メートル〕も離れていた。私の方から間隔を広げる手助けをした格好になったわけだ。彼はまた長く、大声で笑ったが、今回は前回以上にそうするもっともな理由があったことになる。移動するのが非常に巧妙で、六ロッド〔約三十メートル〕以内には近づけなかった。水面に出るたびに首をあちこちに向けて水と陸を冷静に見渡し、最も広々とした水面で、ボートから最も離れたところに出られるようにと移動するコースを選んでいるらしかった。意を決するとそれを実行に移すのがいかに素早いかは驚くばかりだ。たちまち私を池の最も広々とした部分におびき出して、自分がそこから追い出されないようにした。彼がひとつの事を頭の中で考えているあいだに、私はその考えを察知しようと努めた。それは、池の滑らかな表面で行なわれる、人間対アビの見事なゲームであった。
とつぜん、相手の駒《こま》がチェス盤の下に消える。問題はその駒がふたたび現われそうなところに最も近くこちらの駒を置くことであった。ときにはボートの真下を潜っていったとみえて、私のいる反対側にひょっこり姿を現わす。息が大変長く続いて、疲れを知らないので、ずっと遠くまで泳いでいってから、そのまますぐまた潜ってしまう。そうなると滑らかな水面下、深い池のどのあたりを魚のように泳ぎ進んでいるものか、まったく見当もつかなくなる。なにしろ彼には池の底の最深部を訪ねる時間と能力があるのだから。ニューヨークの湖では、水面下八十フィートにアビがかかったそうだ……が、ウォールデンはもっと深いのである。魚は、自分たちの群れのまっただ中にこの無格好な別の世界からの訪問者が突進してくるのを見て、どんなにか驚いているに違いない。だが、アビは水中でも水面でと同じように自分の進むコースが確実に分かるらしく、また水中の方がずっと速く泳げる。一、二度水面に近づいて偵察《ていさつ》のため頭をちょっと出し、すぐにまた潜ってそこにさざ波が立つのを見たことがある。私は、漕ぐ手を休めて彼がふたたび姿を現わすのを待っている方が、どこに今度は浮上するか見当をつけようと気を配るよりましなことを知った。というのは、水面に目を凝らして一方をじっと見ていると、背後に無気味な笑いがとつぜん聞こえて驚くことが再三再四あったからだ。だが、それほどの巧妙さを見せた後で、なぜ水面に出るが早いか、あの大きい笑い声で必らず自分の所在を暴露するのだろう? その白い胸が彼であることを十分に暴露しているではないか? 本当に馬鹿なアビだ、と思った。水面に出る時はふつうバシャッと水音がするので、それでまた彼のいることが分かる。しかし、一時間たっても相変らず元気そうで、潜ることをなんとも思わず、最初の時よりもさらに遠くまで泳いだ。水面に出ると、動きはすべて水面下の水かきのついた脚にまかせて、胸元を崩さず、落ち着き払って泳ぎ去るのを見るのは驚きであった。鳴き声は、ふつうはこうした悪魔的な笑いであったが、それでもいくらか水鳥らしいところもあった。が、時たま最もうまく私の裏をかいて遠くに姿を現わすと、鳥というよりもオオカミに似た、長く引く無気味な吠え声をあげた。ちょうど獣が、鼻づらを地面に当ててじっくり吠える時のようであった。これがアビの鳴き声である……そして、それは遠く、広く森中を鳴り響かせる、おそらくこの地で今までに聞いた最も野性的な音であった。結局、アビは自分の才略に自信があって、私の努力をあざけり笑うのだ、と私は結論した。空はこの時すでに雲におおわれていたが、池の表面はじつに滑らかで、鳴き声はしないが彼が水面を破って出てくるのが見えた。その白い胸、大気の静けさ、水面の滑らかさ、すべて彼には不利なものばかりだった。ようやく五十ロッド〔約二百五十メートル〕のところまで近づくと、彼はアビの神にでも救いを求めるかのように、例の長くひっぱる吠え声をあげた。すると、東風が起こって水面にさざ波を立て、大気は霧雨に満たされた。アビの祈りがかなえられて、彼の神が私を怒っているような感に打たれて、私は彼が立ち騒ぐ池の面を遠くかなたに立ち去るのを見送った。
秋の日、カモが遊猟家から遠く距離を保って上手回し、下手回し、と巧妙に方向を変えながら池の中央部を離れずにいるのを何時間も見守った……ルイジアナの入江《バイウー》ではそうした芸当もそんなに見せる必要はないだろうが。飛び立たずにいられなくなると、かなりの高度で……その高さからでは、他の池や川も容易に見えたことだろう……空中にただよう黒いごみのように、池の上にぐるぐる輪を描いた。そして、とうの昔に遠くへ飛び去っただろうと思われる頃に、四分の一マイルの傾斜飛行で安全に残されている遠くの場所に舞いもどってきて、そこに降り立つのだった。だが、ウォールデンの真ん中を泳ぎ回ることで、安全以外に彼らが何を得たか、私には分からない。彼らも私と同じ理由からこの池を愛している、ということ以外は。
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暖房
十月には川辺の牧草地へブドウ狩りに行って、食べ物としてよりも美しさと香りで貴重なその房をどっさり持ち帰った。そこではまた、真珠色や赤の小粒で蝋《ろう》のような宝石、牧草にぶら下がるぺンダントともいうべきツルコケモモの実を、摘まずに眺めて楽しんだ。農夫はそれを無格好な熊手で引きちぎって、平らな牧草地はかき乱したままにしておき、ただ何ブッシェル、何ドルと無造作に計量してその牧草地からの掠奪品をボストンやこユーヨークに売り出す。それはジャムに加工されて、その地の自然愛好者たちの味覚を満足させる運命にあるわけだ。同様に、肉屋は折れてしぼむ植物にはとんちゃくしないで草原《プレーリー》の草の中から野牛の舌をかきあさる。ヘビノボラズのきらきら光る実も私の目の保養にするだけであった。だが、野生リンゴは、とろ火にかけようと少しばかり摘み蓄えた。その土地の持ち主も旅行者も見過ごしていたものである。クリが実ると、冬にそなえて半ブッシェル〔約十八リットル〕ばかり蓄えておいた。その季節に、当時は果てしなく広かったリンカーンのクリ林……現在は伐り払われ、枕木となって鉄道線路の下で長い眠りについているが……を歩き回るのは、わくわくするような楽しみであった。袋を肩に、必ずしも霜のくるのを待ってはいなかったから毬《いが》をむく棒を持って、木の葉のさらさらさやぐ音とアカリスやカケスの騒々しい批難の鳴き声の中を歩き、時には彼らが半分食い残した実を盗んだ。彼らが選んだ毬の中には、決まってしっかりした実が入っていたからだ。木に登って揺さぶることもあった。クリの木は家の裏にもあって、家をほとんど日蔭にしている一本の大木は、花盛りになるとあたり一面に香りを漂わせる一つの花束となるのだった。ただし、その実の大部分はリスやカケスのものとなった。カケスは朝早く群れをなしてやってきて、実がまだ落ちないうちから毬の中の実をついばんだ。こっちの木は彼らにまかせて、私は全部がクリばかりの、もっと遠くの林を訪れた。この実はある程度までパンの良き代用品であった。たぶん他にもたくさんの代用品を探せば探せただろう。
ある日、釣りの餌掘りをしていて、原住民のジャガイモであり、一種の伝説的な果実であるアメリカホドイモ(Apios tuberosa)〔アメリカ産マメ科の植物。根に芋ができる〕が蔓《つる》になっているのを見つけた。前にも言ったように、子供の頃それを掘って食べたことがあったのに、その記憶がどうもあやしくなっていて、夢にも思っていなかった物であった。そういえば、その後もその縮れた、赤いビロードのような花が他の植物の茎に支えられているのを、同じものとは知らずによく見たことがあった。だが、土地の耕作でそれはほとんど絶滅してしまった。甘みがあって、霜に打たれたジャガイモの味によく似ており、焼くよりも茹《ゆで》る方がおいしかった。この塊茎を見ていると、自然がそれ自身の子供たちをいつの日かここで倹《つま》しく養育することをかすかに約束しているように思われた。牛は肥え、穀物畑が波うつ今の時代には、かつてインディアン族のトーテム〔北米土人が民族、家族の紋章として崇拝していた自然物〕であったこの控え目な地下茎も、まったく忘れ去られるか、その花の咲いた蔓でのみ知られているかだ。しかし、未開の自然がふたたび君臨する日があるとすれば、その時は、柔らかくて贅沢なイングランドの穀物などは無数の敵の前におそらく姿を消してしまうだろうし、トウモロコシも人間に世話をされないと、もともとカラスがそこから運んできたといわれている南西部のインディアン神の広大なトウモロコシ畑に、カラスがふたたび最後の一粒まで運び返してしまうかも知れない。
今はほとんど絶滅しかけているアメリカホドイモだが、霜や土地の荒廃にもめげすにやがてそれは生気を取りもどして繁茂《はんも》し、自分が土着の植物なることを証明し、狩猟種族の食料としての重要さと威厳を回復することだろう。インディアンのケレスか、またはミネルバがそれを発明し、授けてくれたものに違いない。そして詩がこの地を支配しはじめるようになれば、その葉や数珠《じゅず》つなぎになった実がわれわれの芸術作品に一役買うことになるのかも知れない。
九月一日以前に二、三本のカエデが真っ赤に染まっているのをすでに見ていた。池の向こう岸、岬の突端の水際で、三本のヤマナラシの白い幹が分かれている、その下であった。ああ、その色はさまざまな話を私に語ってくれた! 一週間、一週間とじょじょにそれぞれの木の性格がはっきりしてきて、木は湖の滑らかな鏡に映る自分の姿に見ほれた。毎朝この画廊の管理人は壁にかかっている古い画をはずし、そのかわりにいっそう輝かしい、または調和のとれた色彩で優れた新しい画をかけるのであった。
ジガバチが、冬営のために、十月になると何千匹となく私の小屋にやってきて、窓の内側、頭上の壁に落ち着き、訪問客に家に入るのを躊躇《ちゅうちょ》させた。毎朝寒さで彼らの動きが鈍くなる時分に、そのうちの何匹かは掃き出しはしたものの、ことさらに追い出そうと煩ったりはしなかった。彼らが私の家を望ましい避難場所と見なしてくれたことで、かえって悪くない気分にさえなった。私とベッドをともにしても、一度も私をひどく悩ますようなことはなかった。冬とその言いようもない寒さを避けて、彼らはどことも知れないあちこちの隙間に、いつの間にか次第に姿を隠してしまった。
ジガバチのように十一月になっていよいよ冬ごもりに入る前、私はウォールデンの北東岸によく出かけていった。ヤニマツの林と石の多い岸辺からの反射で、太陽はその場所をこの池の炉端にしてくれた。できるあいだはなるべく太陽で暖まる方が、人工の火で暖まるよりもずうっと気持がいいし、健康的でもあった。こうして私は、夏が立ち去った猟師のように置き去りにしていった、まだ燃えている残り火で暖を取った。
いよいよ炉を積む段になって煉瓦工事の勉強をした。煉瓦は使い古しのもので、鏝《こて》できれいにしなければならなかったから、煉瓦と鏝なる物の性質については並み以上の知識を得た。煉瓦に付着している漆喰は五十年もたったものだが、いまだに固まりつつあるということだった。しかし、これは人が事柄の真偽におかまいなしに、ただ繰り返し口にしたがる言い習わしの一つである。そうした言い習わしは年を経るとともにそれ自体がいっそう固まり、しっかりと膠着《こうちゃく》するものであり、知ったかぶりをする人からこうした言い習わしをきれいさっぱり擦《こす》り落とすには、鏝で何度もごしごしやる必要がある。メソポタミヤの多くの村は、バビロンの廃墟から運んできた、非常に良質の中古の煉瓦でできているが、それに付着しているセメントはさらに古く、おそらくさらに硬いものだろう。それはともかく、私は、何回もの激しい打撃に摩滅しないでたえる鋼鉄なるものの特有な強靭《きょうじん》さに心打たれた。私の煉瓦にはバビロン王ネブカドネザーの名こそ見当たらないが、以前炉に使用されていたものであったから、できるだけ焚き口の部分に使われたものを多く選び出して、手間とむだを省いた。焚き口近くの煉瓦と煉瓦の隙間は、池の岸から運んできた石でふさぎ、また同じ場所から持ってきた白砂で漆喰を作った。家の最も肝心な部分として、暖炉にいちばん手間をかけた。実際、非常に慎重に仕事をしたので、朝、地面から積みはじめて、床からわずか数インチの高さの煉瓦の層が夜になって枕がわりに役立つありさまであった。それでも、そのために肩が凝って首が回らなくなった記憶はない。首がこわばっているのは昔からのことだ。
そのころ二週間ほど詩人を一人寄食させていて、そのため家が狭くて困っていた。私の所にナイフが二挺あったが、彼も自分のを持ってきて、よくわれわれはそれを地中に突き刺して研《と》いだものだ。彼は私と料理を分担してくれた。私は炉がしだいにきちんと、頑丈に積み上がってゆくのを見るのがうれしくて、進みぐあいはのろくても長持ちするようにできているんだ、というのが私の考えであった。炉というものは、地面に立ち、家を突き抜けて天にのびる、ある程度独立した建造物なのだ。家が焼けてしまった後も立ち残ることがあって、その重要さと独立性は明らかである。これは夏も終りに近い頃のことであった。今は十一月である。
北風がすでに池を冷やしはじめていた。だが完全に冷やしきるには、何週間も絶えず吹き続ける必要があった。池はそれほど深いのである。壁を塗る前、夕方に火を入れはじめた頃は、炉からの煙の出ぐあいがとくによかった。板張りに隙間がたくさんあったからだ。それでも、その節《ふし》だらけで荒削りの褐色の板、頭上高くにある樹皮がついたままの梁《はり》に囲まれて、その涼しい、風通しのよい部屋で楽しいいく晩かを過ごした。壁を塗り終ってからいちだんと居心地がよくなったことは認めざるをえないが、見た目にはそれほど楽しいものではなくなった。人間の住む部屋は、すべて頭上になにがしかのほの暗い部分ができるくらいの高さがあって、そこでは、揺らめく影が夜には梁のあたりにちらつく、というふうにあるべきではなかろうか? フレスコ画や他の最も高価な家具などよりも、こうした物の形の方が空想や想像力を快くかき立てるものである。家を風雨をしのぐ場所としてだけでなしに、暖を取るために使うようになって、今や私は初めて自分の家で生活を始めたといえるのだろう。薪を炉床から離して燃やすための、古い薪載せ台を一対手に入れた。自分で作った炉の奥に煤《すす》がたまるのを見るのは愉快なもので、いつもより権利意識と満足感をもって火をつついた。そのすみかはちっぽけで、中で物音の反響を楽しむなどほとんど不可能であった。だが部屋は一つだけ、それも隣家からは離れていて、実際より大きく感じた。家なるものの魅力が全部一部屋に集約されていた。台所、兼寝室、兼客間、兼居間というわけだ。親なり子なりが、また主人なり使用人なりが家の生活から得られる満足感をことごとく味わった。カトーは、こう言っている。一家の主人たる者、田舎の別荘にそなえておくべき物は、「油と酒の貯蔵庫、それにたくさんの樽である。苦しい事が予想されるときでも楽しい気持でいられるようにである。それは彼の利益と美徳と名誉になるだろう」
私には穴蔵にジャガイモが一ファーキン〔四分の一樽〕、ゾウムシの混じったエンドウマメが二クォート〔約二・二リットル〕ばかり、棚の上には米が少々、糖密一|甕《かめ》、それにライ麦と挽き割りトウモロコシの粉がそれぞれ一ペック〔約九リットル〕あった。
もっと広大な、もっと大勢の人が住む家を夢に描くことがある。それは黄金時代のもので、長持ちのする丈夫な材料からできており、けばけばしい飾り細工などは見当たらず、広々とした、荒削りの、がっしりした原始的な広間で、やはりただ一室からなり、天井もなければ壁も塗っておらず、むき出しの垂木《たるき》と母屋桁《もやげた》が頭上のいわば低い天を支えて、それが雨や雪を防ぐのに役立っている、といった家だ。敷居をまたいで、古代王朝の農耕神の臥像に敬意を表し終えると、こんどはそこに屋根組みを支える王真束《キングポスト》と女王真束《クイーンポスト》が臣下の礼を受けようとばかりに頭上に待ちかまえている。それは洞穴のような家で、中にいて屋根を見るには、棒につけた松明《たいまつ》をかざさなければならない。この家では暖炉の中、窓の引っ込み、長椅子の上、広間の一方の隅、もう一方の隅、またお望みならクモの巣と一緒に高い垂木に陣どって生活するのもよい。外側の戸を開くと、もう中に入っている、といった家で、いっさいの儀式はそれですんだことになる。疲れた旅人はさらに旅を続けるのをやめて、そこで手足を洗って物を食べ、語り、そして眠ることができる。大嵐の夜、ようやくたどり着いて、やれうれしやと思えるような避難場所で、家に不可欠な物はすべてそなえられていて、家政のための物は何一つない。家の宝はすべて一目で見渡せて、人の使うあらゆる物が釘に掛けられている。台所、食料品庫、客間、居間、倉庫、屋根裏部屋のすべてを一室で兼ねている。樽、梯子《はしご》、といったごく必要な物、戸棚のようなごく便利な物も見えるし、湯沸かしのたぎる音も聞こえ、夕食を作ってくれる火、パンを焼いてくれるオーブンに敬意を表することもでき、必要な家具だけが主要な装飾となっている。洗濯物も戸外には干さず、火も女主人も家の中だ。料理人が地下室に降りてゆく時は、落とし戸の所にいると、ちょっとどいてくれ、と言われるかも知れない。だから、足を踏みつけてみるまでもなく、下は地面がそのままなのか、くり抜いてあるかが分かってしまう。家は、内部が鳥の巣のように明けっぴろげでよく見え、表戸から中へ入って裏戸から出ると、どうしてもそこに住んでいる者の数人は目に入ることになる。そこの家の客となることは、そこの自由を提供されるということであり、家全体の八分の七から注意深く締め出されて特別な個室に押し込められ、そこで……独房に監禁されたうえ……おくつろぎ下さい、などと言われることではない。当節では、どこの家でも主人が、<彼のいる>炉辺に客が坐り込むことを許してくれず、裏通りのどこかに別に客用の炉を石工に造らせている。そして、客の歓待ということが客を最も離れた所に遠ざけて<おく>技術となりはてている。主人がまるで客の毒殺をたくらんででもいるかのように、料理のことは秘密にされる。私はいろいろな人の所有地に入り込んで、法の力で退去を命ぜられても仕方のないようなことがあったのは覚えているが、いろいろな人の家の中に入ったこととなると、思い出せない。ここに述べたような家で簡素に生活している王や女王をなら、行くついでがあれば、着古した服のままで訪問する気にもなるだろうが、現代的な宮殿に押し込められるのであれば、ただただそこから抜け出す道を知りたいと思うだけだろう。
どうもわれわれが客間《パーラー》でつかう言葉そのものが活気を失い、すっかり<|お世辞《パラバー》>に堕してしまうように思われるし、われわれの行為も堕落して、その言語符号が意味するところからずいぶんかけ離れたところをとおっており、使う比喩も、いわば食物が料理運搬装置をつうじて台所から要りもしない遠くの食堂へ運ばれるように、必然的に遠回しのこじつけとなっている。言い換えると、客間は台所や仕事場からそれほど遠ざかってしまったのだ。食事さえもが人工的になって、一般に食事の寓話にすぎないものとなっている。自然や真実から比喩を借りて使えるほど、自然と真実とに近く生きているのは野蛮人だけのようである。はるか北西部属領地域〔一七八九年に議会によって編入されたオハイオ川以北の地方で、もとはカナダ領〕とかマン島〔イギリスとアイルランドの中間にあるイギリス領の島〕に住んでいる学究が、どうして台所の議会で何が論議されているかが分かろうか?
ところが、私を訪ねてくる客ときたら、家で一緒に即席プディング〔トウモロコシ粉を湯、または牛乳で煮立てた濃い粥《かゆ》〕を食べるほど大胆なのは、ほんの一、二名しかいなかった。その危機が近づきつつあるのを知ると、まるでその料理が家を土台までも揺さぶり動かすかのように、あわてて退却に及ぶのだった。だが、何度となくこの即席プディングを食べたのだが、家はなんのこともなく立っていた。
凍りつくような時候になって初めて壁塗りをした。そのために池の対岸からボートで白い、きれいな砂を運んできた。この運搬方法は、必要とあればさらに遠くまで行ってもよい、という気を起こさせた。そうしているうちに、家は四方とも下まで板張りが終った。木舞《こまい》を打ちつける時に、釘を一本一本金槌で一撃するだけでしっかりと打ち込むことができてうれしかった。漆喰《しっくい》をこね板から壁に、巧みに、素早く移すことが私の野心であった。私はうぬぼれの強い男の話を思い出した。その男は、いつも立派な身なりで村の中をぶらぶらしては、職人たちにあれこれ助言を与えていた。ある日、大胆にも自分のいうことを実際にして見せようというので袖口をまくり上げ、左官屋のこね板をひったくると無事に鏝《こて》に漆喰をのせ、得意そうな表情で頭上の木舞を見やっていたが、やがてそれをめがけて大胆な動きに出た。とたんに漆喰がそっくり襞《ひだ》で飾った胸に落っこちて、完全にへまをしてしまった、というのである。
漆喰を塗ることの経済性と利便さに、私はあらためて感服した。寒さを非常に効果的に締め出して、しかもきれいに仕上がるからだ。それに左官屋がよくしでかす、さまざまな失敗についても知るところがあった。漆喰をまだ平らにのばさないうちからその中の水分を吸いつくしてしまう煉瓦なるものが、いかに水を要求するか、そして新しい炉を築くのに、手桶で何杯も水がいることを知って驚いた。前年の冬、実験的に川で獲れるウニオ・フルヴィアティリス〔Unio fluviatilis 淡水産イシガイの一種〕の貝殻を焼いて石灰をわずかばかり作ったことがあった。それで、自分の使っている材料が何からできているかも分かった。もしそうしたいと思ったら一、二マイル以内の場所で上等な石灰石を手に入れて、それを自分で焼くこともできただろう。
一方、池は、全面的に凍ってしまう数日前、いや数週間前に、いちばん日蔭になっている浅い入江に上氷が張りつめた。最初の氷はかたくて暗色を帯び、透明で、とくに興味ぶかい完全なものであり、浅い水底を調べるのにそれまでにはなかった好機を提供してくれた。厚さわずか一インチばかりの氷の上に、水面のアメンボのように長々と寝そべって、二、三インチしか離れていない水底をガラス越しの画のようにゆっくり観察できる。水はその時は決まって穏やかである。何かの動物が歩き回ったり、その跡をふたたび引き返したりして砂地には溝《みぞ》ができている。残骸としては、白い石英の細かな粒からできているイサゴムシ〔トビケラの幼虫〕の殻が故らかっている。砂にできている溝はこの虫にしては探くて幅もあるが、その中に殻が若干あるところを見ると、たぶんこの虫が作ったものだろう。しかし、氷そのものが大部分の興味の対象である。ただし、それを研究するには最初の機会を逃さすに利用することが必要である。氷が張った翌朝、それをくわしく調べてみると、はじめは氷の中に閉じ込められているように見えた泡は、大部分が氷の下面に付着していて、他にもなお水底から絶えず上がってきているのが分かる。その時は、氷はまだ比較的かたくて暗い色をしている。すなわち、氷をとおして水が見える。この泡は直径が一インチの八十分の一から八分の一ぐらいで、非常に澄んでいて美しく、顔が氷を通して泡に映っているのが見える。一平方インチに三、四十個はあるだろう。また水の中には、長さが半インチばかりで頂点を上にした鋭い円錐形の細長い直立した泡がすでにできている。氷がごく新しい時は、きわめて小さな球状の泡が数珠《じゅず》のように上下に重なっていることの方が多い。だが、こうして氷の中にできている泡は氷の下のものほど数も多くないし、見てもすぐには分からない。氷の強度を試そうと思ってときどき石を投げつけてみると、石は氷を突き抜けて水中に落ちるが、その時に空気を一緒に運び込んで、非常に大きな、よく目につく白い泡を氷の下に作った。ある日、四十八時間たってから同じ場所へ行ってみると、その大きな泡はまだ完全な形をしていた。もっとも、氷はさらに一インチ厚みを増していて、そのことは氷の端にできている層からはっきり分かった。だが、二日前から小春日和《こはるびより》のようにたいへん暖かだったせいで、氷は水の暗緑色と、底が見えるほどであった透明さを失って、不透明な白っぽい灰色をしており、厚みは倍になったものの、強度の方は前よりほとんど増していなかった。気泡がこの暖気のために非常に膨脹して隣同志がくっついてしまい、その規則性を失ったからである。泡はもはや積み重なってはおらず、袋からあふれた銀貨のようにずれて一部だけ重なっているか、またはわずかばかりの隙間を占有するかのように薄片となっていた。氷の美しさは消え失せ、水底を調べる時期も過ぎた。新しい氷の中では、例の大きな泡はどんな位置を占めているだろうか、と好奇心を起こして、氷を割って中くらいの大きさの泡が入っている塊を取り出し、裏返しにして見た。氷が新たに泡のまわりと下に張っていて、そのために泡は二つの氷の間にはさまっていた。下の氷にすっぽりはまり込んでいるが、上の氷に密着していてやや平ら、あるいはおそらくわずかに凸《とつ》面状をしているのだろう。端は丸くて、厚さは四分の一インチ、直径は四インチある。驚いたことに、泡の真下では氷が受け血を伏せたような形で非常に規則的に溶けていて、中央部で八分の五インチの高さがあり、氷と泡との間に八分の一インチもない厚さの薄い仕切り壁を残している。あちこちでこの仕切り壁の中の小さな泡が下方にはじけている。直径一フィートもある最も大きな泡の下では、おそらく氷はまったくなくなっているだろう。最初氷の下面に見た無数のごく小さな泡も、今では同様に氷に閉じ込めらられて、めいめいがそれぞれの程度に天日取りレンズ〔凸レンズ〕の働きをして下の氷を溶解し、浸食しているものと私は推測した。これらの泡は、氷にびび割れを入れてきしませる一因となる、小さな空気銃である。
ちょうど漆喰塗りを終えた頃、ついに本格的に冬がやってきて、風は、ようやく許可が下りたとばかりに家の周囲で吠えはじめた。ガンが夜ごと暗黒の中を鳴き声と羽音を立ててにぎやかにやってきて、それは地面が雪でおおわれた後まで続いた。メキシコへ渡る途中、ウォールデンに降り立つものもあれは、森の上を低空で飛んでフェア・ヘイブンに向かうものもある。夜の十時か十一時に村からもどると、ガン、でなければカモの群れが、家の背後にある小さな池のそばの森の枯れ葉を踏む音……腹ごしらえにやってきたのだ……や、急いで立ち去る際に先導の一羽が立てる、かすかな鳴き声を聞くこともあった。一八四五年には、ウォールデンは十二月二十二日の夜、初めて全面的に凍結した。フリンツ池《ポンド》と他のもっと浅い川は十日かそれ以上も前から凍っていた。四十六年には十六日、四十九年には三十一日頃、五十年には十二月二十七日頃、五十二年には一月五日、五十三年には十二月三十一日に凍った。雪がすでに十一月二十五日から大地をおおって、私をたちまち冬景色で取り囲んだ。私はさらに奥深く殻の中に閉じこもって、家の中にも、胸にも、明かるい火を絶やすまいと努めた。今や戸外での仕事といえば、森で枯れ木を集めてはそれを手に持つか担《かつ》ぐかして、また時には枯れたマツの木を両脇に抱えて引きずりながら小屋まで運ぶことであった。もう役に立たなくなった古い木の柵は、もうけ物であった。境界の神テルミヌス〔ローマ神話の神の名〕に仕えられなくなったので、火の神ウルカヌス〔ローマ神話の神の名〕にそれをささげたわけだ。夕食を調理する燃料を探しに、いや、盗むためにといってもよいだろうが、雪の中を出かけてゆくような男の夕食は、いかに興味|津々《しんしん》たるものか! そのパンと肉は格別である。われわれの町の森にはたいていさまざまな種類の薪と木屑がどっさりあって、多くの家の燃料にはこれで十分なのだが、今ではそれを誰ひとり暖を取るのには使わず、それが若木の成長を妨げる一因となっていると考える人もいる。それにまた、池の流木もある。夏の間に、鉄道敷設当時アイルランド人の組んだ、樹皮がついたままのヤニマツの筏《いかだ》を見つけた。これを私は岸になかば引き上げた。二年間水に浸って、それから六ヶ月間陸に揚げられていた後で、乾きようのないほど水がしみ込んでいたが、まったくしっかりしていた。
ある冬の日、池を横断するほぼ半マイルを、この丸太を一本ずつ滑らせて楽しんだ。十五フィートある丸太の一方の端を肩にのせ、他方の端は氷の上に置いたままうしろから押して滑ってゆくのである。数本の丸太をカバの細い枝でくくり、長いカバかハンノキの端に鉤《かぎ》をつけてそれを引きずったりもした。すっかり水がしみ込んで、ほとんど鉛のように重かった。が、火もちが良いばかりか、火力も非常に強かった。樹脂が水に閉じ込められて、ちょうどランプの中で燃えるように長い時間燃え続けるみたいで、水がしみ込んでいるからいっそうよく燃えるのだと思った。
イングランドの森林境地帯に住む人たちについての話の中で、ギルピン〔ウィリアム・ギルピン。一七二四〜一八〇四。イギリスの著述家〕は、「不法侵入者の侵入とそれにともなって森林境に建てられた家や柵」は、「古い森林取り締まり法では重大な不法妨害として考えられ、……すなわち鳥獣を脅かし、森林を損うおそれあるものとして、不法森林占拠 purpurestures の名のもとに厳罰に処せられた」と言っている。だが、私は猟師や樵夫《きこり》以上に鳥獣と緑の保存には関心があって、自分がそこの領地管理者その人のように、そのことに熱心であった。そのいくぶんかが焼けでもしたら、たとえ偶然に焼いてしまった場合でも、その森林の持ち主以上に長い間やるせない悲しみにおちいるのだった。私は、わが農夫たちが森の樹木を伐り倒すに当たっては、かの古代ローマ人が聖なる森(lucum conlucare)の樹木を間引く、すなわちそこに明かりを入れる時に抱いた、あの畏敬の念のいくぶんかでも是非もって欲しい、つまりその森をなにかの神に捧げられたものと考えて欲しいと思う。ローマ人は罪滅ぼしにと供物を捧げて、この森に祭られる神がいかなる男神または女神かは存じませぬが、私と家族、子供たちにご慈悲をお垂れくださいますように、と祈ったのである。
この時代に、そしてこの新しい国でも、薪なる物が依然としていかに高い価値……黄金にもまさる恒久的、普遍的な価値……を与えられているかは驚くほどである。今まであらゆる発明発見をしてきたにもかかわらず、薪束のそばを素通りする者はいないだろう。それはわがサクソン族、ノルマン族の先祖にとって貴重な物であったように、今もわれわれには貴重な物となっている。彼らが木で弓を作ったのなら、われわれはそれで銃床を作る。三十年以上も前にミショー〔アンドレ・ミショー。一七四六〜一八〇二。フランスの植物学者、旅行家〕は、ニューヨークとフィラデルフィアの燃料用の薪の値段は「パリの最上等品のそれとほとんど同じであり、時にはそれより高いこともある。この広大な首都では毎年三十万コード〔約一〇八七三七一・八立方メートル〕以上の薪を必要とする。三百マイルにわたって耕作地に囲まれていてもである」と言っている。この町では、薪の値段は上がる一方で、問題となるのは、今年は去年よりどのくらい高くなるか、ということだけである。格別用事もなく森にやってくる職工や商人たちも、必らず森での競売には顔を出して、伐採後の屑をひろい集める権利に対してすら高額の代価を支払う。人間が燃料や様々な工作材料を森に求めるようになってから久しい。ニューイングランド人にニューオランダ人、パリ市民にケルト族、農夫にロビン・フッド、グッディ・ブレイクにハリー・ジル〔ともに、イギリスロマン派の代表的詩人ウィリアム・ワーズワスの詩に登場する人物〕、世界中の大部分の君主も百姓も学者も野蛮人もすべて暖を取り、食物を調理するのに今も一様に森の枯れ木を必要としている。私もまたそれがなくては過ごせない。
人はみな、自分の薪の山を一種の愛情をもって見るものだ。私は窓の下に積んでおくのが好きで、木片がたくさんあればあるほど楽しい仕事を思い出させてくれるのに役立った。誰のものとも知れない古い斧が一挺私のところにあって、冬の日には時々短時間、日当たりの良い所でそれを振るって豆畑から掘り出した根株と戯れた。畑を耕していた時、例の御者が予言したように、その根株はそれを割る時に一度、燃える時にもう一度と、二度私を暖めてくれた。つまり、これほど熱を与えてくれる燃料は他にはなかったことになる。斧については、村の鍛冶屋《かじや》に頼んで柄を<|すげさせ《ジャンプ》>たらどうか、と言ってくれた人もいたが、私は鍛冶屋を<|避け《ジャンプ》>て、森から持ってきたヒッコリーの柄を自分ですげて間に合わせた。なまくらでも、少くとも柄はがっしりしていた。
数本の樹脂の多いマツは、たいへんな貴重品であった。この火の糧がまだどれほど地中に隠されているものか、と考えてみるのは興味ぶかいことである。その前の数年、私はある裸の丘の中腹をよく「踏査」した。そこは以前にヤニマツの林があった所で、横脂の多いマツの根を掘り出したことがあった。根は、ほとんど腐るということがない。少くとも三、四十年はたっている根株でも、白木質がすっかり腐食土になってしまっているのに、芯《しん》はまだしっかりしている。中心から四、五インチのところにある、地面と同じ高さで輪をなして取り巻いている、厚い樹皮の鞘《さや》によってそのことがうかがわれる。斧とシャベルでこのいわば鉱床に探りを入れて、金鉱脈にでも突き当たったかのように地中深く、牛脂のような黄色い髄質の部分を掘りたどるのである。だが、ふだんは雪のくる前から小屋に蓄えてあった森の枯れ葉で火を起こした。細く割った緑のヒッコリーは樵夫が森で野宿する際に焚きつけにされたものである。たまには私もこれを少々手に入れた。村の人たちが地平線の彼方で火を焚きつける頃、私も煙突から細い煙をたなびかせて、私が起きていることをウォールデンの谷間に住むさまざまな野性動物に知らせた……
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軽やかな翼持つ煙よ、
昇りつつ己れの翼を溶かすイカルスの鳥よ、
おのが巣なる村の上に輪を描く鳴かぬヒバリ、明け方の使者よ。
あるいは消え去る夢か、真夜中の幻の裾をからげしはかなき姿か。
夜は星をおおい、また昼は、光をくもらせ日を隠す。
汝我が香煙よ、この炉より昇りゆけ、
そして神々にこの明かるい炎を許し給えと請え
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伐ったばかりのかたい生木は、ほとんど使わなかったものの、他のどんな物よりも私の目的にかなっていた。冬の午後、散歩に出かける時に火を十分に起こしておくことがあった。三、四時間後にもどると、火はまだ赤く燃えている。私が出かけていても、家は空っぽではなかったわけだ。気持よい家政婦を残しておいたようなものだ。そこに住んでいるのは私と火であった。それにたいていの場合、わが家政婦には信用がおけた。
ところがある日、薪割りをしていて、ふと家が燃えていないか窓からのぞいてみようという気になった。こうした事でとくに心配になったのは、覚えているところではこの時だけである。見ると、火の粉がベッドについているので、家に入って手のひらほどの大きさに焼け焦げたところで消し止めた。だが家は日当たりが良かったし、風の当たらない所にあって屋根も低かったから、ほとんど、どんな冬の日でも真昼には火を絶やしておけた。
モグラが地下室に巣食って、三つに一つジャガイモをかじり、壁塗りの際に残った毛と茶色の紙でそこに心地よさそうな寝床まで作った。最も野性的な動物でさえ、人間と同様に安楽と暖かさを愛するし、それを確保しようとおおいに気をつかうからこそ、冬もしのげる。友人の中には、まるで私が凍え死にをするためにわざわざ森にやってきたように話す者もいた。動物は寝床を作るだけで、それをひそかな所で自分の体で暖める。だが、人間は火なるものを発見したので広々とした部屋に空気を閉じ込めて、自分の体から熱を奪うことなく部屋を暖めてそこを自分の寝床とし、部屋では、かさばって厄介な衣服を脱ぎ捨てて動き回り、真冬でも一種の真夏の状態をたもち、窓なるもので明かりさえ採り入れ、またランプをともして一日の明かるい時間をひき延ばしたりすることもできる。こうして人間は本能の範囲から一、二歩踏み出して、芸術に振り向ける時間を少しばかり捻出《ねんしゅつ》するわけだ。長時間激しい風にさらされた時などは、全身が無感覚になりはじめたが、家の暖かな空気の中に入って、やがて機能を取りもどし、命をひき延ばすのだった。だが、最も贅《ぜい》を凝らした家といえども、こうした点で誇るべき物などほとんどそなえているものではないし、人類はどのように最後には滅亡するか、などという推測に頭を悩ます必要もない。もう少し厳しい北風が吹くだけで、いつ何時《なんどき》でも人類の生命の糸を断ち切ることは容易にできるのだ。われわれは、ある寒い金曜日とか大雪の日とかをよく日取りの起算点にするが、それよりもうちょっとばかり寒い金曜日、もうちょっとばかり激しい大雪があるだけで、地球上の人間の存在に終止符を打つことになるだろう。
私には自分の森がなかったので、次の冬は節約のために小型の料理用ストーブを使った。だが、火の見える炉ほどは火持ちが良くなかった。それに、料理なるものがもはや大部分は詩的なものでなくなり、化学的な操作にすぎなくなってしまった。今日のようなストーブの時代では、インディアン式にジャガイモを灰の中に入れて焼いたことなど、そのうちに忘れ去られてしまうだろう。ストーブは場所ふさぎで家が臭くなるだけでなく、火が見えないから、まるで仲間を失ったような気がした。火の中にはいつも顔が見えるのである。労働者は夜、火をのぞき込んでその日のたまった滓《かす》と俗臭からわが想念を清める。だが、もはや坐って火をのぞき込むこともできなくなった。ある詩人の適切な言葉が新たな力をもって私によみがえってくるのだった……
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明かるい炎よ、私に与えられなくてはならない
お前の懐かしい、人生を映す親密な同情は。
私の希望をおいて何がそれほど明るく燃え上がっただろうか?
私の運命をおいて何が、夜はそれほど衰え沈んだだろうか?
なぜお前はわが炉と広間から追放されたのか
みんなに歓迎され愛されたお前が?
お前の存在が、あまりにも空想をかき立てるものであったのか
かくも単調なわれらの生活を照らす、日常の光としては?
お前の明かるい輝きが、われら気の合った魂と神秘的な対話を
あまりにも大胆な秘密を取り交わしたというのか?
よかろう、われわれは安全で健在なのだ、
新式の炉の傍らに坐っているのだから
そこでは薄暗い影が揺らめくこともなく、喜ばせるもの悲しませるものもなく、
ただ火があって手足を暖めるだけ……それ以上は望みもしない。
そのこじんまりした実用的な塊のそばに
今の人は坐り込んで眠りに陥ることができる。
おぼろげな過去からやってきて、
昔の薪の火のちらつく光のそばで
われらと語らった霊魂を恐れることもなく
――フーパー夫人(アメリカの女流詩人)
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先住者……そして冬の来訪者
数回の楽しい吹雪をしのいで、戸外では雪が激しく渦を巻き、フクロウのホーホー鳴く声さえ途絶えても、炉のそばで心地よい冬のいく晩かを過ごした。薪を切り出して村まで橇《そり》で運搬するのにときおりやってくる人たち以外は、何週間も道で人に会うこともなかった。だが、自然の力は私をそそのかして、林の最も雪深い所にすら小道を作らせた。前に一度そこを通った時に、風がオークの葉を私の足跡に吹き入れて、そのままそれがそこにとどまり、日光を吸収して雪を溶かして通行用の乾いた路床を作ってくれたばかりでなく、夜はその黒っぽく見える線が私を道案内してくれたのだ。人間のつき合い相手としては、このあたりの林の以前の居住者たちを思い浮かべる他なかった。町の人たちが大勢記憶している範囲内でも、私の家の近くの道も、現在よりずっと森に取り囲まれてはいたものの、住民たちの笑い声や雑談がこだまし、道の両側の林は住民たちのささやかな庭や住居であちこちに凹みが点々としていたという。私自身の記憶でも、所によってはマツが馬車の両側に同時にこすれることがあったし、この道をリンカーンまで独り歩きを余儀なくされる婦人や子供はおそるおそる通ったもので、時には道程の相当な部分を走ることもあった。その道は主として近くの村へ行ったり、森の住人の家畜の列が通ったりするためのお粗末な通路であったが、かつては変化に富んでいて今よりも旅人たちを楽しませ、その記憶にいっそう長く残るようなものであった。現在村から林にかけてきちんと開けた畑が広がっている所に、当時はその道がカエデの生えた沼地をとおって丸太を敷いた上を走っていた。その丸太の残骸はまだきっとストラットン〔現代のアームズハウス〕農場からブリスターズ丘《ヒル》にいたる今の埃っぽい道路の下に横たわっているに違いない。
私の豆畑の東、道路の向こう側に、コンコード村の紳士ダンカン・イングラハム氏の奴隷、カトー・イングラハムが住んでいた。氏は自分の奴隷に家を建ててやり、ウォールデンの森に住む許可を与えたのである……ウティカの人カトー〔マーカス・ポーシアス・カトー。紀元前九五〜四六。同名のローマの執政官の曾孫で、政治家、軍人、ストア哲学者。ポンペイウスに味方してシーザーに敗れ、アフリカのウティカで自殺した〕ならぬコンコードの人カトーというわけだ。彼はギニアの黒人であったという人もいる。クルミの木の間にあった、彼のちっぽけな地所を覚えている人も少しいて、彼は老いて入用になる時にそなえて、その木を成長させておいたのだった。だが、彼より年下で、もっと皮膚の白い山師がついにそれを手に入れてしまった。が、その山師も今では同じく狭苦しい家に住んでいる。カトーのなかば埋ずもれた地下室の穴がまだ残っている。もっともそのまわりにマツが生い茂っていて旅人の目にはつかないから、知る者はほとんどいないのだが、今でもすべすべしたウルシ(Rhus glabra)ですっかりおおわれていて、アキノキリンソウ(Solidago stricta)の最も早種の一つがどっさりそこに生えている。
さらに町に近く、私の畑のすぐ角に黒人女のジルファがちっぽけな家を構えて、町の人たちのためにリンネルを紡いではウォールデンの森に甲高《かんだか》い歌声を響かせていた。彼女は高い、変わった声をしていた。しかし、一八一二年の戦争でついにその住まいは宣誓釈放の捕虜であったイギリス兵に放火された。彼女が留守のあいだの出来事で、ネコ、犬、雌鶏もみんな一緒に焼けてしまった。生活は苦しくて、いくぶん残酷ともいえるものだった。この森を昔よく訪れたというある男がある日の昼、彼女の家のそばを通り過ぎた時、さかんに音を立てて煮え立っている鍋の前で、「お前らはみんな骨だ、骨だ!」と彼女がつぶやいているのを聞いたことを記憶している。そこのオークの低林の間に煉瓦が残っているのを見たことがある。
道路をさらに行くと、右手のブリスターズ丘《ヒル》にカミングス氏の奴隷だった「重宝な黒人」、ブリスター・フリーマンが住んでいた……ブリスターが植えて世話をしたリンゴの木がそこにまだある。今や大きな老木になっていて、その果実は私には、野性的な、リンゴ酒の味がする。つい先頃、古いリンカーン墓地で彼の墓碑銘を読んだ。少々一方に片寄った所、コンコードから退却の途上に倒れた数名のイギリス擲弾《てきだん》兵の無銘の墓の近くにあった。「シッピオ・ブリスター」とあって……スキピオ・アフリカーヌス〔ローマの名将〕とでも呼ばれてよい資格があったのに……彼が色あせてしまっているかのように、わざわざ「黒人なる」と断ってある。またいやに目立つように死の日付が入っているが、それは彼がかつて生きていたことを私に知らせる間接的な方法にすぎなかった。彼と一緒に愛想のよい妻フェンダが住んでいて、彼女は占いをやり、しかもそれは陽気なものだった。大柄で丸々と太り、黒々とした皮膚の色をしていた……実際、どんな夜の子よりも黒く、後にも先にもコンコードには昇ったことのない黒い星であった。
さらに丘を下ると、左手の林の中の古い道に面して、ストラットン家の家屋敷の跡がいくらか残っている。その果樹園は、以前はブリスターズ丘《ヒル》の斜面一帯をおおっていたのだが、ずうっと早くにヤニマツに押されて絶滅してしまい、わずかに根株が残っているだけで、その古い根は今でも村で接ぎ木用の野生の台木として使われていて、それからたくさんの木がどんどん育っている。
さらに町に近く、道の反対側、ちょうど森のはずれにブリードの家跡がある。昔の神話にはっきりと名前こそ出ていないが、ある悪魔のいたずらで有名な場所である。その悪魔はわがニューイングランドの生活にひときわ目立つ、驚くべき役割を果たし、どんな神話上の人物にも劣るところがなく、いつかはその伝記が書かれるに値いする悪魔だ。初めは友人や雇われ男を装って入り込み、やがて一家全体から衣食を奪い、そして殺害するのである……すなわち、ニューイングランド・ラム酒なるものである。だが、歴史はまだここで演ぜられた悲劇を語ってはならないだろう。その悲劇を和らげて、それに澄みきった色をそえるために、ある程度時間を介在させることにしよう。最も不明確で疑わしい言い伝えによれば、かつて居酒屋が一軒ここにあったそうだ。井戸が当時のままあって、旅人はその水で酒を割り、馬を元気づけた。それからここで人々は互いに挨拶を交わし、世間話を聞いたり聞かせたりしてからふたたび旅を続けたのである。
ブリードの小屋は前からずっと空き家となってはいたものの、つい十二年くらい前まで建っていた。私の家とほぼ同じ大きさであった。私の記憶に間違いがなければ、ある選挙の晩、いたずら小僧たちに放火されたのである。当時私は村はずれに住んでいて、ダビナント〔サー・ウィリァム・ダビナント。一六〇六〜六八。イギリスの桂冠詩人、劇作家〕の『ゴンディバート』〔一六五三年発表された騎士物語の叙事詩。未完〕を読むのに夢中だった。
ちょうど嗜眠病《しみんびょう》に悩んでいた、その冬のことであった……ついでだが、髭《ひげ》を剃りながら眠ってしまい、目覚めていて安息日を守るためには、日曜日に地下室でジャガイモの芽をかき取っていなければならなかった伯父《おじ》がいたところから、それを家系的な病気と見るべきなのか、それともチャーマーズ〔アレキサンダー・チャーマーズ。一七五九〜一八三四。スコットランドのジャーナリスト、伝記作家〕の英詩集〔一八一〇年ロンドンで出版。チョーサーからクーパーまでの大選集《アンソロジー》〕を飛ばさずに読みとおそうと努めた結果と見るべきか、どうにも分からなかった。この病気で私の精力《ナービアイ》〔ナービアイは頑強にシーザーに抵抗したゴール人の種族名。精力《ナーブ》に音が似ているところからの酒落〕はすっかり参ってしまったのだった。この本の上にちょうど顔を伏せた時、鐘が火事を知らせた。大急ぎで消防ポンプが飛んでゆく。その前をばらばらに大人と子供の一団が走る。小川を跳び越えて走ったので、私は先頭の一人であった。私たちは、火事は林を越えたはるか南の方……以前にも何度か火事現場にはせつけたことがあった……納屋か店か住宅、またはそれら全部が一緒だろう、と思った。
「べーカーの納屋だ」と一人が叫んだ。「ゴッドマン・プレイスだ」と他の一人が断言する。そのうちに屋根でも落ちたかのように新しい火の粉が林の上に舞い上がった。「コンコードから救援に来たぞ!」われわれはみんな叫んだ。車が数台、ものすごいスピードで、揺れて壊れんばかりの積み荷とともに矢のように過ぎ去った。おそらくその車にはどんなに遠かろうと行かなければならない保険会社の代理人も乗っていただろう。ときどき消防ポンブのベルがもっとゆったりと、だが確実に後方で鳴る。そして、そのことは後日ささやかれたことだが、いちばん後に、放火しておいて鐘を鳴らしたやつらがやってきた。こうして私たちは五感の証明を退けながら、真の理想主義者よろしく進んでいったが、とうとう道の曲がり角でバリバリ燃える音を聞き、塀越《へいご》しに火のほてりを現実に感じるにおよんで、ああ! 現場にやってきたことを実感するのだった。
火が近くで燃えているということだけで、私たちの意気込みは冷えてしまった。初めは火に「カエルの池」でもぶちまけてやろうと考えていたのだが、結局燃えるにまかせることにした。手遅れだったし、たいした建物でもなかったからだ。そこで押し合いへし合い消防ポンプのまわりに立ち、口もとに両手を当てて大声で自分の考えを表明したり、あるいはバスコムの店の火事も含めてこの世にかつて起きた大火災のことを声をひそめて話したりし、もし「バケツ」を持ってその場に間に合ってはせつけ、近くに満水のカエルの池があれば、この世の最後に全世界をおおうと言われているあの大火災であろうと第二のノアの洪水に変えられるものを、などと立ち見している者同志で思うのだった。結局たいした迷惑なこともしないで私たちは引き下った……すなわち、眠りと『ゴンディバート』にもどったのである。だが、『ゴンディバート』についていうと、その序文にある、才智は魂の火薬である、のくだりはのぞきたいところだ……「しかしインディアンが火薬を知らないように、人間の大部分は才智には無縁なのだ」
たまたま次の晩、ほぼ同時刻に原っぱを横切ってそのあたりを歩き、この火事のあった場所で低いうめき声を聞いて暗闇の中を近づいてみると、その一家の中で私の知る唯一の生き残りで、美徳と悪徳両方の相続者がいた。彼は、この火事に関心をもつ唯一の人間で、腹ばいになって地下室の壁越しにまだ下でくすぶっている燃え残りを見ながら、例によってぶつぶつ独り言《ごと》をいっていた。朝からずうっと遠く離れた川岸の牧草地で働いていたが、体があくとその時間を利用してすぐさま先祖と自分の幼少時代の住居を訪ねたのだった。山のような煉瓦と灰以外にはまったく何ひとつない所で、何か宝物があった記憶が彼にあって、それが石の間に隠されてでもいるかのように、腹ばいのまま、あらゆる方向、あらゆる角度から、かわるがわる地下室をじっとのぞき込んでいた。家が焼けてしまった今、せめて焼け残った物を見ているのだ。私がただその場にいることだけで暗に示されている同情に彼は慰められ、暗闇の中で、できるかぎり分かるように井戸の埋まっている場所を教えてくれた。井戸は、ありがたいことに決して燃えないものであった。昔、彼の父が切って取りつけたはねつるべの梃子《てこ》を見つけようと壁のあたりをややしばらく手探りしていたが、その重い方の端にくくってある、錘《おもり》をつるす鉄の鉤手《かぎのて》……今や彼が執着できる唯一の物……を捜し出すと、それがありふれた「はねつるべ」でないことを私に納得させようとした。私もそれに触れてみたし、今でもほとんど毎日散歩していて目に留まる。なにしろ、一家の歴史がそれにはかかっているわけだから。
ふたたびさらに左手、今では開けた畑の中の塀のそば、井戸とライラックの茂みが見える所にナッティングとル・グロッスが住んでいた。だが、ここでリンカーンの方へもどることにしよう。
これまでのどの家よりも森の奥深くで、道が池に最も接近する所に陶工のワイマンが居を定めていて、町の人たちに瀬戸物を供給し、自分のあとを継ぐ子孫を残していた。彼らも現世的な財産には恵まれず、そこにいるあいだお情けで土地を使わせてもらっていた。彼の覚え書きで読んだことだが、郡の執行官が税金の徴収によくむだ足を運んできては、他に差し押さえる物もないので、形式的に「差し押さえの木札を打ちつけていった」ということだ。真夏のある日、私が除草をしていると、瀬戸物を馬車で一台市場へ運んでゆく男が畑の向かいに馬を止めて、息子のワイマンのことをたずねた。彼はずっと以前、その息子から陶工用の轆轤《ろくろ》を買っていて、その後の息子の消息を知りたかったのである。私は聖書で陶工の粘土と轆轤のことを読んではいたものの〔旧約聖書「エレミア記」〕、われわれの使用している鉢がその当時から壊れずに伝わってきたのでも、ヒョウタンのように木になったものでもないことに、それまで一度も思いいたらなかった。そして、そんな陶芸が自分の近所で行なわれているのを聞いてうれしかった。
私が来る前のこの森の最後の住人は、ワイマンの持ち家を借りていたアイルランド人のヒュー・コイルであった(私は彼の名前を Quoil と綴ったのは、たっぷりコイルで巻いた感じを出すためだ)……コイル大佐と呼ばれていた。ワーテルローの勇士だという噂であった。もし彼が生きていれば、もう一度彼に戦わせてみるところだったのだが。ここでの彼の商売は溝掘り人夫だった。ナポレオンはセント・ヘレナに行ったが、コイルはウォールデンにやってきたわけだ。私が知るかぎりの彼は悲惨なものであった。さすが苦労人だけあって礼儀正しく、応答にまごつくほど慇懃《いんぎん》な話ぶりであった。震えをともなっていたため真夏でも外套を着込み、顔は洋紅色《カーマイン》をしていた。私が森にきて間もなく、ブリスターズ丘《ヒル》の麓の路で死んだ。だから、隣人としての彼は覚えていない。その家が取り壊わされる前……彼の仲間が「不吉な城」として、それを嫌ったのである……私はそこへ行ってみた。着古しの衣服がいちだん高い板張りのベッドの上に、ちょうど彼自身を思わせるような形で脱いで丸められてあった。彼が死んだ印として、欠けた茶碗が泉のそばにある〔旧約聖書「伝道の書」第十二章第六節〕かわりに、パイプが壊われて炉の上に転がっていた。泉のそばの欠けた茶碗は、彼の死のシンボルには決してなりえなかっただろう。彼はブリスターの泉については聞いたことはあるが見たことはない、と私に告白していたから。
ダイヤ、スペード、ハートのキング、と汚れたトランプが床一面に散らばっていた。管財人が捕えられなかった黒いひよこが一羽、夜のように黒々として、ひそやかで、鳴き声すら立てず、ただキツネに食われるのを待つだけなのが、それでも隣りの部屋で、ねぐらにもぐり込んでいた。家の裏手には菜園のかすかな輪郭が残っており、植えてはあるのだが、例の恐しい震えの発作のため、今や収穫時期だというのに一度も除草されていなかった。ブタクサ、センダングサがはびこり、そのセンダングサの実だけが私の衣服にこびりついた。最後のワーテルローの戦利品でもあろうか、ウッドチャックの皮が家の裏に広げたばかりになっていた。だが、彼には暖かい帽子も手袋ももう不要であろう。
今や地面のくぼみだけが、埋まっている地下室の石とともに住まいの跡の目印となっている。イチゴ、キイチゴ、クロミキイチゴ、ハシバミの茂み、ウルシなどが日当たりのよい芝地に生えている。ヤニマツ、あるいは節だらけのオークが炉の隅であった場所を占め、たぶん香りのよいクロカバであろう、敷き石のあったところにそよいでいる。井戸のくぼみが見えることもあって、かつてそこには泉がわき出ていたのだが、今では涙も乾いた草が生えている。時には井戸が芝草の下に平たい石で深くおおわれて、ずっと後まで発見されないこともある。最後の住人が立ち去る時にそうしていったものだ。井戸を閉ざす……なんと悲しい仕事であろう! しかもそれは涙の井戸を開くのと時を同じくしてのことだ。こうした地下室のくぼみが、捨てられたキツネの穴、動物の古い巣のように、かつては人間生活の動きとざわめきがあった場所に残されたすべてなのだ。そこでは、なんらかの形式や方言で「運命と自由意志と絶対なる予知」〔ミルトン『失楽園』第二巻五五九〕が次々と論ぜられたのだ。だが、彼らの結論について私が知りうることといえば、「カトーとブリスターがいさかいを起こした」という、このことだけに帰する。それでもそれは、より高名な哲学諸学派の歴史にほぼ匹敵するほど啓発的なものなのである。
戸も、<まぐさ>〔上部からの過重を支える水平材〕も、敷居《しきい》もなくなってしまってから一世代をへた今、なお生き生きしたとライラックが育っていて、毎年春になると芳しい香りの花を咲かせ、物思いにふける旅人に摘み取られる。かつては子供たちの手で前庭に植えられ、世話をされた……今ではひっそりとした牧場の塀ぎわに咲き、新たにできてくる森にとってかわられようとしている……その種属最後の者、一門の唯一の生存者である。あの色浅黒い子供たちも、自分たちが家の日蔭の地面に差して毎日水をやったわずか二葉の小枝がそのように根づき、自分たちや、背後にあってその小枝を翳《かげ》らせた家そのものよりも、また人間の栽培した菜園や果樹園よりも生きながらえて、彼が成人し、そして死んでから半世紀後の今、孤独な散歩者にその身の上話をかすかに語ってくれる、などとは夢にも思わなかっただろう……それが迎えた最初の春とかわらず鮮やかに花を開き、芳しく匂うとは。そのまだ柔らかく、控えめで明かるい薄紫色に私はじっと目を注ぐ。
それにしても、この小さな村、もっとどうにか開ける可能性を秘めていた種子が、どうしてこうも廃《すた》れてしまい、一方コンコードはその地歩を保っているのだろう? 自然の利に恵まれていなかったというのか……実際水利に欠けていたろうか? そうだ、深いウォールデン池《ポンド》と冷たいブリスターの泉……そこからたっぷり健康な水を飲める特権、ここの人たちは、グラスの酒を水で割る以外はそれを利用しなかったのだ。篭《かご》、馬小屋の箒《ほうき》、マットなどの製造、トウモロコシ炊《い》り、リンネル紡績、製陶業が繁栄して荒野をバラのように開花させ〔旧約聖書「イザヤ書」第三五章第一節〕、そして多くの子孫がその父の地を受け継ぐ、とはいかなかったものだろうか? そうすればその痩《や》せた土は、少なくとも低地は衰退するもの、ということへの反証となっただろうに。ああ! ここに住む人たちの思い出は、なんと風景の美を増すことの少ないことか! たぶん自然はこの私をここの最初の定住者とし、昨年春建てた私の家を村で最古の家として、もう一度初めから出なおしを試みてくれることだろう。
私が今住む地点に今まで誰かが家を建てたことがある、などということを私は知らない。古い都市跡に建てられ、その資材は廃物、その庭は共同墓地だったような町からは救い出して欲しいものだ。そこでは土は色あせ、詛《のろ》われていて、破壊が必要となる前に土地そのものが破壊されてしまう。以上の回想とともに私はふたたび森のすみかにもどって、自分を眠りにつかせたのであった。
この季節には訪問客はめったになかった。最も積雪の深い時などは、一週間も二週間もあえて私の家近くまでぶらぶらやってくる人などいなかった。だが私は野ネズミのように、または食物なしで雪に埋まり、長い間生き延びていたといわれている家畜や家禽のように、ゆったりとそこで生きていた。あるいはこの州のサットンの町に住んでいた、あの初期の入植者一家のようにである。その小屋は、主人が留守中の一七一七年の大雪で完全に埋まってしまい、一人のインディアンが煙突の通気で積雪の中にできた穴によって、かろうじてそれを見つけ、家族を救い出したというのだ。だが私には案じてくれるインディアンもいないし、またその必要もない。主人がちゃんと家にいるのだから。大雪! その言葉を聞くと、なんと気がひき立つことだろう! 大雪になると、農夫は家畜をぞろぞろ連れて森や沼地に出かけることもできず、やむなく自宅前の蔭樹を切り倒すはめになるし、雪の表面がかたいと、翌年の春になってから分かることだが、沼地の木を地面から十フィートぐらいのところで切ることになる。
雪が最も深い時に街道から家まで私が歩いた約半マイルの道は、間隔の広い、曲りくねった点線で表わすことができただろう。穏やかな天候が続く一週間もの間、まったく同じ歩数、同じ歩幅で行き来して、自分の深い足跡をつたって慎重に、まるで|割りコンパス《ディバイダー》のように正確に歩を運んだ……冬はこうした紋切り型にわれわれをはめ込んでしまうものだ……それでも、足跡は空自体の青さに満ちていることがよくあった。が、どんな天候であろうと私の散策、というよりむしろ外出を決定的に妨害はしなかった。ブナノキ、キハダカンバ、あるいはマツの昔からなじみのものとの約束を守るために、深い雪の中を八マイルも、十マイルも歩いてゆくことがよくあったから。そうした時、マツの枝は氷と雪でうなだれ、てっぺんは尖《とが》ってモミノキのようになっていた。平地で雪が二フィート近くも積っている時などは、頭上に次々と降りかかる吹雪を一歩ごとに払い落しながら、最も高い丘の頂上に登ってゆく。猟師たちも冬ごもりに入ってしった時期に、四つんばいになって這いもがきながら、そこまで進んでゆくこともあった。
ある日の午後、フクロウ(Strix nebulosa)が一羽、真っ昼間にストローブマツの幹近く、低い枯れ枝の一本に止まっているのを一ロッド〔約五メートル〕とは離れていないところから見守って楽しんだ。私が動いて足でカサカサさせても、彼にはそれが聞こえはするが、私がはっきりと見えない。大きな音を立てると首をのばし、首の羽毛を立てて目を大きく見開く。だが、じきに瞼《まぶた》が垂れ下がって、こっくりこっくりする。こうしてそれが、ネコ、まさしく翼をもつネコのように目を半開きにして止まっているのを半時間じっと見ているうちに、私自身もつり込まれて眠気を催してきた。上下の瞼の間にほんのわずかばかり隙間が残されていて、それでなんとか私とのつながりをたもっている。こうして、目を半開きにして夢の国から眺めつつ、彼の視界をさえぎるぼやけた物、ないし塵として私を認めようとしているのだった。物音がいちだんと大きくなるか、私がもっと近くへ寄ってゆくかすると、ついには自分の見ている夢をかき乱されるのに我慢がならないといった様子で落ち着きがなくなり、止まっている木の上で面倒くさそうに向きを変える。翼を思ったよりも大きく広げて飛び立つが、マツの樹間を羽ばたく時でも、翼の動きからは、かすかな音すら聞こえなかった。こうしてマツの大枝の間を、視力というよりむしろ鋭敏な枝への接近感覚に導かれて、いわば感覚的な翼でたそがれの進路を探りつつ、新たな止まり木を見つけてはそこで安心して彼の新しい日、つまり夜のはじまりを待つのである。
鉄道敷設のために牧草地をとおって築かれた、長い土手の上を歩いていると、吹きすさぶ、身を切るような風に何度となく出会う。ここは最も吹きさらしになっている所だ。寒気が一方の頬を打つと、宗教とは無縁な者だが、私はもう一方の頬も寒気に向けた〔新約聖書「マタイ伝」第五章第三九節〕。ブリスターズ丘《ヒル》からの馬車道を通るようにしても、さして楽ではなかった。広々とした畑の雪がすべてウォールデンの道の両壁の間に吹きためられて、半時間もすれば前に通った旅人の足跡がすっかり消えてしまう時でさえ、私は人なつこいインディアンのように欠かさず町へ出かけていった。帰る時にはまたもや新しい雪が積もっていて、その上をあがきながら歩くのだが、絶え間なく吹きつける北風が道の急角度に曲がるあたりに粉雪の吹きだまりをつくって、ウサギの足跡も、ハタネズミの小型活字のような細かな足跡さえも見られない。だが、真冬でも暖かくて泉の湧く沼地が見つからないようなことはなかった。そこでは草やザゼンソウがやはり常緑色をのぞかせていて、なにかの寒さに強い鳥が春のもどってくるのを待っていることもあった。
時には雨の降る中を夕方の散歩からもどると、樵夫《きこり》の深い足跡が戸口から出ているのに出くわした。彼の削った木片が炉辺に積んであって、一服したタバコの匂いが家の中に充満していることもあった。あるいは日曜日の午後、たまたま家にいると、賢明な一人の農夫が雪を踏んでやってくるのが聞こえることもあった。「世間話」をしようと、森をとおって遠方から私の家を探してやってきたのだ……彼はその職業には珍しい「自作農」の一人で、大学教授のガウンならぬ仕事着を引っかけ、納屋の庭から肥料をひと山引っぱり出すような調子で、教会やら国家やらから、つねに教訓を即座に引き出すのだった。寒くて身がひき締まるような天候下に、明晰な頭脳をもって燃え盛る炉火のまわりに坐り込んだ、自然そのままの質素な時代のことをわれわれは話した。他にデザートがなくなると、利口なリスがとうの昔に見捨てたたくさんのクルミに歯を当ててみた。殻が最も厚いのはたいてい中が空っぽだった。
最も深い雪、最も陰欝な嵐をついて、最も遠方から私の小屋にやってくるのは一人の詩人〔ウィリアム・エレリー・チャニング。ソローの親友〕であった。農夫も、猟師も、兵士も、探訪記者、いや哲学者もこの天候には恐れをなすかも知れない。が、詩人に外出を思いとどまらせることは何物にも不可能なのだ。彼は純粋な愛情によって行動するからだ。誰が彼の去来を予言などできようか? 何時であろうと、医者が眠っている時刻にでも、仕事は彼を戸外に呼び出す。われわれは騒々しく浮かれ騒いでそのちっぽけな家を鳴り響かせ、あるいは真面目なことをおおいに語り合い、その小声を反響させて、ウォールデンの谷間に長かった沈黙の埋め合わせをした。それに比較すれば、ブロードウェイなど静かでさびれたものであった。二人は適当な間隔で規則的に笑いの礼砲をとどろかすのだが、それは前の冗談、これから言おうとする冗談、いずれに対するものと取ってもさし支えのない笑いだった。粥《かゆ》をすすりながらわれわれはいろいろ真新しい人生論をでっち上げた。そして粥は、陽気さがもつ長所と哲学が要求する頭脳の冴《さ》えを結合させた。
湖畔での最後の冬にもう一人、うれしい訪問客〔エイモス・ブロンソン・オールコット。一七九九〜一八八三。コンコード超絶主義者で社会主義運動家〕のあったことを忘れてはならない。ある時、彼は村をとおって雪と雨と闇の中をやってきて、ようやく木立のあいだに私の家の明かりを見つけ出し、長い冬のいく夜かをともにした。彼は最後の哲学者の一人で……コネティカット州は世界に彼を与えたのだ……初めはこの州の物産の行商をしていたが、後には彼が言明しているようにその頭脳を行商して歩いた。そして神をせき立て、人を辱めながら今なおそれを売り歩いているのだ……クルミがその核を実らせるように、果実として自分の頭脳だけを実らせながら。彼は、現に生きている人の中で最も信念をもった人に違いないと思う。その言葉、態度は他の人が知る以上のより良い事態をつねに予想していて、時代の変転に失望することなど決してないだろう。彼には現在に賭けているものは何もない。しかし、今は比較的軽視されていても、その時期がくればおおかたの人には思いも寄らなかった法則が作用しはじめて、一家の主人、支配者たちが助言を求めて彼のもとにやってくるだろう。
[#ここから1字下げ]
その平静さが理解できないとは
なんと見る目のないことか!
[#ここで字下げ終わり]
人類の真の友……人間の進歩のほとんど唯一の友。彼は不屈の忍耐と信念をもって人間の肉体に刻まれた像、すなわち神(人間はその刻まれた神の像が磨滅し、傾いている記念碑にすぎない)を明らかにするオールド・モータリティ〔スコットランドの石工で、宗教革新運動家たちの墓の修理と保存に一生を送ったロバート・パターソン〔一七一五〜一八〇一〕の綽名《あだな》〕……いや、モータリティ(死すべきもの)よりもイモータリティ(不死のもの)と言うべきか……のような人物である。その大らかな知性で彼は子供、乞食、狂人、学者を抱擁し、すべての思想を受け入れ、通常はそれに若干の幅と品位をくわえてやる。彼こそ世界の街道に隊商宿を経営して、あらゆる国の哲学者が宿泊できるようにすべき人であり、その看板には「人間歓待。ただしその中にある獣性はお断り。正しい道を真剣に探究し、暇と穏やかな心をもつ方はお入り下さい」、と書かれてあるべきだと考える。おそらく彼は、私がたまたま知っている人の中で最も健全な精神をもち、最も気まぐれの少ない人物だろう……昨日も明日も変わるところがないのだ。昔、われわれはともに散策して語り、俗世間から離れて有効に時を過ごしたものだ。彼は、世の中のどんな制度にもとらわれず、自由に生まれた<自由の民>であったからだ。彼が風景の美を高めてくれるので、どっちを向こうとわれわれには天地が合一しているように見えた。彼は青衣の人〔敬虔、誠実、希望の表徴〕で、その清澄さを映す頭上の天こそ彼には最適の屋根であった。彼がいつの日か死ぬ、など私にはとうてい考えられないことだ……自然は彼なしではいられないのだ。
われわれは、それぞれよく乾いた思想の板切れをいくらかずつもって坐り込み、ナイフの切れ味を試しながらその板切れを削ってはカボチャマツ〔ストローブマツ〕のくっきりした、黄色っぽい木目に感嘆した。われわれは静かに、うやうやしく水の中を歩いたり、呼吸を合わせて滑らかに舟を漕いだりしたから、思想なる魚はおびえて流れから逃げることも、岸の釣人を恐れることもなく、西空に浮かぶ雲のように、またときどきとまっては、そこで崩れる真珠層の集まりのように悠々《ゆうゆう》と去来した。われわれは神話に修正をくわえたり、寓話をあちこち磨き上げたり、この土地ではふさわしい土台を提供できそうにもない空中楼閣を築き上げたりで懸命だった。偉大な観察者! 偉大な待望者! 彼と対話することは、いわば「ニューイングランドの夜興」であった。ああ! こうしたことを、われわれ……隠遁者、哲学者、前述の古くからの定住者……われわれ三人で話し合ったのだったが、それは私の小さな家をふくらませ、揺さぶり動かした。円インチ(直径一インチの円の面積)当たり何ポンドの重さが気圧のほかにかかった、などとはあえて言うまい。話のやり取りで小屋の継ぎ目が開いてしまい、空気の漏れを止めようと後で非常に退屈な思いをしながら物を詰めてふさがなければならなかった……だが、そうした類の槙皮《まいはだ》は前もって十分用意してあった。
もう一人、村にある彼の家で長く記憶すべき「充実した時間」をともに過ごした人物がいる。彼の方でもときおり私の所に立ち寄った。だがそれ以外に私は交際をもたなかった。
どこにでもあるように、ここでも私は決してやってこない<訪問客>を待つことがあった。ビシュヌ・プラーナ〔古代インド史話十八種中の一。ビシュヌはインド教三大神で、保存をつかさどる。プラーナは梵語《ぼんご》で昔話の意〕には、「所帯主たる者は、夕暮れ時に牛一頭の乳を搾る程度の、気が向けばそれ以上の時間は中庭に残って客の到来を待つべきである」、とある。私はたっぷり牛一群ぜんぶの乳を搾り終えるくらいの時間待って、この歓待の義務を果たしたものだが、人が町からこちらに近づいてくるのを、ついぞ見ることはなかった。
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冬の動物
池がかたく凍ると、あちこち数多くの地点に通ずる新しい近道ができるばかりでなく、池の表面から周囲の見慣れた景色の新しい眺めを望むことができた。フリンツ池《ポンド》を、雪でおおわれてしまってから横断した時などは、それまでにもよくそこを舟で漕ぎ回ったり、その上で氷滑りをしたりしたことがあったのに、思いのほか広々としていて目新しく思われ、どうしてもバッフィンズ湾《ベイ》以外は思い出せなかった。リンカーン丘陵が雪原の端に立つ私のまわりにそそり立っていたが、以前そこに立ったことがあるという記憶はなかった。氷の上、はっきりと距離は見定められない所をオオカミのような犬を連れてゆっくり歩を運ぶ漁師は、アザラシ狩りをする人とも、エスキモーとも見受けられるし、霧深い天候の中では、ぼんやりとかすんで動物のようにも思われて、巨人か小人かも見分けがつかなかった。夜、リンカーンでの講演に出かける時はこのコースを取ることにして、私の小屋から講演する部屋まで道路はまったく歩かなかったし、一軒も家の前を通り過ぎずに行った。途中のグース池《ポンド》にジャコウネズミの集団が住みついていて、そのすみかが氷上に高く盛り上がっていたが、私が通った時は一匹もそとには見当たらなかった。ウォールデンは、ほかの池と同じで通常は雪がないか、あっても低い吹きだまりがとぎれとぎれにあるだけで、他所《よそ》では雪がほとんど二フィート近くも積もって村人は通りしか歩けない時でも、そこは自由に歩き回れる私の中庭のようなものであった。村の通りや、ごくまれにだが聞こえてくる橇《そり》のベルの音から遠く離れて、私は氷滑りをした。雪でたわんで、氷柱《つらら》がどっさりぶら下がっているオークの林か、あるいは神々しいマツがおおいかぶさっている、十分に踏み均らされたヘラジカの庭にでもいるようなものであった。
冬の夜……昼間のこともよくあったが……音としてはホーホーというフクロウのわびしい、だが音楽的な鳴き声がどこからともなしに聞こえてきた。凍てついた大地を適当な撥《ばち》でかき鳴らしでもしたら出るだろうと思われるような音で、それはまさしくウォールデンの森の<お国言葉(lingua vernacula)>そのものであった。その鳥が鳴いているのを見たことはないものの、ついにはその鳴き声とすっかりなじみになった。冬の夜、戸を開けると、ほとんどいつでもそれは聞こえてきた。ホーホーホー、ホーホーホーと響き渡って、初めの三音節はハウ、ダー、ドゥー(今日は)の調子にいくぶん似たところがある。ホーホーだけのこともあった。冬の初め、池が一面に凍ってしまう前のある晩の九時頃、ガンの騒々しい鳴き声に驚いて戸口に出てみると、家の上を低空で飛ぶ際に発する、森の嵐のような羽音が聞こえた。フェア・ヘイブンの方向に池を渡って飛んでいったが、どうやら家の明かりのそばに落ち着くのを思いとどまったらしく、彼らの指揮官はずっと一定の拍子で鳴きどおしであった。とつぜん、ごく身近なところから、まぎれもないオオコノハズクが森の住人から聞いていたあの荒々しい、ものすごい声で一定の間隔を置いてガンに応答した。土地っ子のより広い音域とたっぷりした声量を示すことで、ハドソン湾からやって来たこの闖入者《ちんにゅうしゃ》をあばいて辱《はずかし》め、ブーブーと鳴いて彼をコンコード界隈から追い出そうと決心しているようであった。夜分、しかもこんな時刻に、おれさまにささげられている根城《ねじろ》を驚かすとは、いったいどんな魂胆なのか? この時刻ならおれさまが不意をつかれるとでも、そしておれにはお前と同じ肺や喉がないとでも思っているのか? ブーフー、ブーフー、ブーフー! その鳴き声たるや、私が耳にした最も無気味な不協和音のひとつであった。それでも、聞き分ける耳がもしあれば、このあたりの平地が一度も見聞きしたことのない諧調《コンコード》の要素がその中に含まれていた。
コンコードのそのあたりでは大切な夜の仲間である、池の氷のきしむ音も聞いた。寝つかれないで寝返りを打ちたがっているような……腸にたまったガスや悪夢に悩まされているような音だ。また、寒気で地面が割れる音で目を覚ますこともあった。誰かが家畜の列を追い立てて戸口に衝突させたような音で、翌朝見ると、長さ四分の一マイルの割れ目が地中を走っているのだった。
時には月の夜、キツネがライチョウやその他の猟鳥を求めてかたい雪面をさまよって、森の犬のように耳障りな、悪魔的な声で吠えているのを耳にしたこともある。なにか心配事に悩んでいるようでもあるし、光が欲しい、すっかり犬になりきって通りを自由に走りたい、とあがきながら、その胸のうちをどのように表出すべきかと躍起《やっき》になっているかのようでもある。今の時代というものを考えれば、獣たちのあいだにも人間同様、文明が進みつつあるのではないだろうか? 獣たちは未開の穴居人で、今だに守勢に立ちながらも転機をうかがっているように思われた。一匹が窓近くまでやってきて吠え立て、私にキツネの詛《のろ》いの言葉を浴びせては引き下がることもあった。
通常は明け方にアカリス(Sciurus Hudsonius)が屋根の上や家の側壁を上ったり下ったりして駆けまわって私を目覚めさせるのだが、彼はまるでこの目的のために森から派遣されてきたかのようであった。冬の間は、良く熟さなかった半ブッシェル〔約十八リットル〕ほどのサトウトウモロコシの穂を戸口近くのかたい雪面にばらまいて、それに誘われてやってくるさまざまな動物の身振りを観察して楽しんだ。
夕暮れ時と夜は、ウサギが決まってやってきては、たらふく食べていく。一日中アカリスは行ったり来たりで、その動きで大いに私を楽しませてくれた。初めは用心深く潅木のオークの間を近づいてきて、風に舞う木の葉のように発作的にかたい雪面を走る。驚くべきスピードで、大変なエネルギーを使い、何かの賭け事でもしているかのように、その「足」で想像を絶するほど機敏にこちらへ数歩走ってくるかと思えば、今度は同じ歩数だけあちらへ走ってゆくのだが、一回に半ロッド〔約二・五メートル〕以上は決して進まない。それからおどけた表情をし、余計なトンボ返りをしてとつぜん止まる。まるで世界中の目がすべて彼に注がれているとでも言わんばかりだ……この上なく寂しい森の奥にいてすら、リスの動きはすべて踊り子の動きと同様、観客をちゃんと計算に入れているのだ……走った距離全部をたっぷり歩ける……歩くのを見たことはないが……以上の時間を、躊躇《ちゅうちょ》とあたりをうかがうことに費す。それからとつぜん、あっと言う間もなくヤニマツの若木を頂上まで駆け上がり、態勢をととのえ、架空の観客を叱咤激励《しったげきれい》し、独り言をいうと同時に全世界に向かって語りかける……私などにはさっぱりわけが分からないが、リス自身は分かっているのだろう、と思ってみたりする。ついにトウモロコシに達すると手頃な穂を選び、気まぐれな三角法的経路で窓の前、積んである薪のいちばん上の一本にちょろちょろ駆け上がって私の顔をまともに見てから、その後何時間もそこに坐り込み、ときどき新しい穂を補給しながら、初めのうちはそれを貪欲にかじっているが、やがて穂軸が半分裸になるとほうり出す。そのうちにだんだんと贅沢になって、食べ物をもてあそんでは粒の内側だけを味見する。穂は薪の上に彼の足一本で釣り合いを取られて立っているが、うっかりすると倒れて地面に落ちる。すると、穂が生きているのではないか、と疑ってでもいるように半信半疑の滑稽《こっけい》な表情でそれを見る。もう一度拾い上げようか、新しいのにしようか、それとも立ち去ろうか決めかねている体《てい》である。今トウモロコシのことを考えているかと思えば、今度は風の音に聞き耳を立てる。こうしてこの厚かましい奴めは、午前中に何本も穂をむだにする。最後に自分の体よりも大きな、長くて太いのをつかむと、上手に釣り合いを取りながら、水牛を引きずるトラのようにそれを森の方へ運んでゆく。例のジグザグコースを取って、ときどき止まりなから重すぎるとでもいうようにかろうじて進み、その間に穂は垂線と地平線間に対角線をなして何度も何度も倒れる。なんとしても運び終えようという決心である……ともかく、まれに見る上っ調子の気まぐれ屋さんだ……こうして彼は、穂とともに自分のすみかに引き上げるわけだが、たぶん四、五十ロッド〔約二百〜二百五十メートル〕も離れたマツの木の梢まで運んでゆくのだろう。後日、トウモロコシの穂軸が森の方々に散らかっているのをよく見かけた。
とうとうカケスがやってくる。その耳障りな鋭い鳴き声は、すでに大分前、八分の一マイル先から用心深く近づきつつあった時に聞こえていた。人目を忍んでこっそりと木から木へと飛び移りながら、だんだんとこちらへ近づいてきて、リスがこぼしていった粒を拾い上げる。それからヤニマツの大枝に止まって、その喉には大きすぎる粒を急がしく飲み込もうとして息がつまる。たいへんな苦労のすえ吐き出すと、今度はそれを割ろうとくちばしで繰り返し繰り返し懸命に突っついて一時間を費す。彼らは明らかに泥棒で、私はあまり尊敬の念をもてなかった。だがリスの方は、最初こそびくびくしているが、自分の物でも取るように敢然と仕事に取りかかる。
そうするうちにコガラも群れをなしてやってきた。リスが落していったかけらを拾い上げて最寄りの小枝に飛んでゆき、それを爪の下に置くと、樹皮に潜んでいる昆虫にでもするように小さなくちばしを激しく打ちつけて、ついにはそのほっそりした喉を通れるまでに細かに砕いてしまう。こうしたコガラの小さな群れが薪の山から食事を、あるいは戸口で食べ物の屑をついばもうとして、毎日のようにやってくる。草の中で氷柱《つらら》が立てる音のようなかすかな、軽やかな、舌たらずな鳴き声か、さもなければ活溌に「デー、デー、デー」という鳴き声をあげてやってくるのだが、たまに春めいた日などは、森の方から針金を震わすような夏向きの「フィービー」という鳴き声を送ってくる。たいへんに人なつこく、しまいには一羽が私の運び入れてあったひと抱えの薪の上に止まって、恐れる様子もなく薪を突っつく。村の菜園で除草をしていた時、スズメがちょっとのあいだ肩に止まったことがあって、私は自分がつけられるどんな肩章によるよりもそれで自分が目立っているような気がした。リスたちも最後にはすっかり親しくなって、それがいちばん近道となると私の靴の上を歩くこともあった。
地面がまだすっかり雪におおわれていない頃、それにもう一度、冬も終り近くで、私の南向きの丘の斜面や薪を積んであるあたりで雪が溶ける頃、餌をあさるために朝夕、ライチョウが森からやってきた。森の中ではどっちへ歩いていってもライチョウがぴゅうと羽音を立てて急に飛び立ち、高い所の乾いた木の葉や小枝からざらざらと雪を落とす。雪は光の中を金粉のように舞い降りてくる。この勇ましい鳥は、冬などにはびくともしないのだ。時には積雪の下になってしまうこともあり、「飛んでいて軟い雪の下に突っ込み、一両日そのまま隠れていることもある」そうだ。森でなくても、拓《ひら》けた土地でライチョウを飛び立たせたこともよくある。野生リンゴの「芽をついばむ」ため、日没頃森から出てきているのだった。決まって夕方特定の木にやってくるので、利口な遊猟家はそこで待ちかまえている。森に隣り合っている遠くの果樹園では、そのために少なからぬ損害をこうむることになる。ともあれライチョウが餌にありつくのはうれしいことだ。それはまさに自然そのものに属している鳥で、木の芽とわずかばかりの水で生きているのである。
暗い冬の朝や短い冬の午後、猟犬の一群が追跡本能には抗しがたいとばかり、獲物を狩りたてて吠え叫びながら、森中を縫うように走り回るのが聞こえることもあった。ときどき響く狩猟ラッパの音で後方に人間がいることが分かった。森中がまたもや鳴り響く。が、広々とした池の面には一匹のキツネも跳び出さないし、シカを追いかける猟犬の群れも姿を現わさない。おそらく夕方には戦利品としてわずか一本、ふさふさした尾を橇《そり》からだらりと垂らして、猟師たちが宿を求めて帰るのを見ることだろう。話では、キツネは凍った大地の懐にじっとしていさえすれば安全なもので、また一直線に逃げればどんなキツネ狩りの犬も追いつけないそうだ。ところが、追跡者をはるか後方に引き離すと立ち止って休み、聞き耳を立てるので、ついには追いつかれてしまうし、また走る時はぐるり一巡して自分の古巣にもどってくるので、猟師たちはそこで待ち伏せているということだ。だが、時には土手の上を何ロッドも突っ走ってから片側に跳び降りて遠くへ行ってしまうこともあり、また、水は自分の臭気を残さないものだと知っているらしい。猟犬に追跡されているキツネが、氷上に浅い水溜まりのできているウォールデンに跳び出て途中まで行き、同じ岸へまたもどってゆくのを見たことがある、とある猟師は話してくれた。やがて猟犬たちも到着したが、ここで臭跡を失ってしまったというのである。猟師のつきそっていない、自分たちだけで獲物を追う猟犬の群れが、戸口前を通りかかって家のまわりを一巡し、一種の狂気に取りつかれていて、何物も彼らを追跡からそらすことはできない、といった様子で、私などには目もくれずに吠えたてることもあった。こうしてキツネの最近の臭跡を探り当てるまでぐるぐる回るのだ。賢い猟犬は、他のことはさしおいて臭跡探査に打ち込む。
ある日、一人の男がレキシントン〔マサチューセッツ州東部の町〕から私の小屋にやってきた。大掛かりな追跡で、一週間も一匹だけで追い回している彼の猟犬の安否をたずねてのことであった。だが、私の話すことを聞いても彼には参考にならなかったのではないかと思う。彼の質問に答えようとするたびに私をさえぎって、「でも、あなたはここで何をなさっているのですか?」と聞いてばかりいたからだ。彼は犬を見失ったが人間を見つけたというわけだ。
ある無愛想な物の言い方をする猟師……彼は毎年一度、水が最も温かい頃ウォールデンへ水浴にやってきて、決まってその時私の所に顔を見せることにしていた……がこんな話をしてくれた。何年も前のある日の午後、銃を手にウォールデンを一|巡《めぐ》りしに出かけた。ウェイランドの道路を歩いていると、猟犬の吠え声が近づいてくるのが聞こえてきた。間もなくキツネが一匹、土手から路上に跳び下りたと思うと、たちまちもう一方の土手を跳び越えて、とっさに発射した弾丸も命中しなかった。しばらく遅れて老いた猟犬が一匹、子犬を連れて猟師につきそわれずに獲物を狩りたてながら全速力で追跡してくると、ふたたび森の中に消えていった。午後も遅くなって、ウォールデンの南の茂った森で休んでいると、はるかフェア・ヘイブンの方角にまだキツネを追い回す猟犬の吠え声が聞こえた。だんだんとこちらにやってくる。犬の狩りたてる吠え声が森中に響き渡り、ウェル草地《メドウ》から聞こえてきたと思っていると今度はベーカー農場からというぐあいに、しだいに迫ってくる。猟師はしばらくの間立ち止って、彼にはなんとも言えない美しく聞こえるその調べに耳を傾けていた。と、とつぜん例のキツネが現われた。粛然《しゅくぜん》とした森の中の道路を、気軽そうな疾走の足どりで縫うように走ってくる。同情的な木の葉のざわめきがその足音をかき消す。地面を離れずに速く、静かに、追跡者を遠く後方に引き離してやってくる。キツネは森のど真ん中にあった岩の上に跳び乗ると、猟師に背を向けてまっすぐな姿勢で座って聞き耳を立てた。一瞬、哀れみの情が彼の腕を抑えたが、それも束の間の感情で、たちまち猟銃は水平に構えられた。ドーン……キツネは岩の上を転がり、地面に死んで横たわった。猟師はそのままそこで猟犬たちに聞き耳を立てた。依然として彼らは近づいてくる。そして、今やすベての通路からの取りつかれたような吠え声で近くの森は鳴り渡った。ついに例の老いた猟犬が鼻面を地面に向けて視界に跳び出てくると、狂気のように空をかんで、まっすぐ岩の方へ走っていった。だが、死んだキツネを見つけると、驚きのあまり唖《おし》になったかのようにとつぜん吠えるのをやめて、黙ったままキツネのまわりをぐるぐる歩き回った。一匹、また一匹と子犬たちも到着して母親と同様この不可解な事態にあっけにとられ、すっかり静まり返ってしまった。そこへ猟師が進み出て彼らの真ん中に立ち、こうして不可解な出来事は解明された。猟師がキツネの皮を剥いでいるあいだ、犬たちはおし黙って待ち、それからしばらくは尾のあとについて歩いていたが、最後にはふたたび森の中に姿を消した。その晩、ウェストンの一名士が自分の猟犬を探してコンコードの猟師の所にやってきて、一週間前から犬たちだけでウェストンの森からキツネを追い立てている話をした。コンコードの猟師は知っているかぎりを話してやり、毛皮を渡そうとさし出したが、相手はそれを断って立ち去った。彼は、その晩は猟犬を見つけられなかったが、翌日になって、犬たちが川を渡り、その夜は一軒の農家に泊ったことを聞き込んだ。犬たちはそこで十分に腹ごしらえをさせてもらい、朝早くそこを発ったということだった。
私にこの話をしてくれた猟師は、サム・ナッティングなる者のことを覚えていた。フェア・ヘイブン岩棚《レッジ》でよくクマ狩りをしては、その皮をコンコードの村でラム酒と交換していた男のことである……そのサムがそこでヘラジカさえ見たと話したということだった。ナッティングはバーゴイン……彼の発音ではブーガインだが……という名の有名なキツネ狩りの猟犬をもっていて、私に教えてくれた猟師もよくその犬を借りたそうだ。この町にいた老商人……彼はキャプテンでもあり、役場の吏員でもあり、議員でもあった……の「取り引き日記帳」に次のような記入がある……
一七四二年(または四三年)一月十八日、「ジョン・メルブン。貸し方、灰色キツネ一匹、二シリング三ペンス」そういうものは今日ではこのあたりには見られない。一七四三年二月七日の彼の元帳では、ヒゼキア・ストラットンに「ネコの皮半枚、一シリング四ペンス半」の貸し方がある。これはもちろんヤマネコのことだ。ストラットンはその昔、対フランス戦争の軍曹であった人で、ヤマネコ以下のつまらない獲物をしとめて貸し方とするようなけちなことはなかったろうから。貨し方はシカの皮にも認められていて、毎日売られていた。
ある男が、この近所でしとめた最後のシカの角をまだ保存しているし、伯父がやったという狩りの詳細を私に話してくれた者もいる。ここには昔猟師が大勢いて、愉快な連中だったのだ。道端でよく木の葉をむしり取り、私の記憶に誤りがなければそれを吹いて、どんな狩猟ラッパよりも野趣に富んだ美しい旋律を奏でる一人のやせたニムロデ〔「創世記」第十章第八〜九節。バビロニア・アッシリヤの伝説的な高祖で、力持ちの猟師〕のことを私はよく覚えている。
月の出ている真夜中に、森をうろつく猟犬たちと道で出会うことがしばしばあった。私を恐れるように道からこそこそと姿を消して、私が通り過ぎるまで茂みの中に声も立てずに立っているのだった。
リスとノネズミは、私の蓄えていたクルミを奪い合いして争った。家のまわりに直径一インチから四インチのヤニマツが数十本あって、前の年の冬にネズミにかじられていた……その冬は、彼らにとってはまるでノルウェイの冬だった。雪が長期間積もったままだったから、どうしても彼らは相当量のマツの樹皮を他の食べ物に混ぜる必要があったのだ。これらの木は夏になってもまだ生きていて、見たところ元気もよく、まわりは完全にかじられているのに、その多くは一フィートほどに生長した。だがさらにひと冬過ぎた頃には例外なく枯れていた。一匹のネズミがこうしてマツの木をそっくり一本食べ物としてわが物にし、それを上下にかじらず、まわりをかじるというのは注目すべきことだ。だがまあ、こういう木は密生するから、間引きをするのにそれも必要であろう。
ウサギ(Lepus Americanus)はごくありふれたものであった。一匹が私と床板一枚を隔てて冬の間中家の下に隠れていて、毎朝私が動き出すと急いで逃げ出て私をびっくりさせた……あまりあわててゴツン、ゴツン、ゴツンと頭を床板にぶっつけるのだ。捨てたジャガイモの皮をかじりに夕方よく戸口にやってくるのだが、地面と非常に似た色をしていて、じっとしている時は見分けがつかない。薄暗がりの中で窓の下に静かにうずくまっている一匹が、交互に分からなくなったり、見分けられたりすることがときおりあった。夕方戸を開けると、キイキイ鳴いて跳びながら逃げてゆく。間近に見ると憐憫《れんびん》の情をかき立てるだけだ。ある夕方、一匹が私から二歩ほど離れて戸口のそばに坐っていた。初めは恐しさに震えていたが、それでも動こうとはしなかった。やせ衰えて骨張り、ごつごつした耳と尖った鼻、貧弱な尾と細い足をもつ、哀れな小動物である。ネズミを見ていると、自然にはもはや崇高な血液が流れている種族はいなくなり、自然は疲れはてて倒れかけている、といった感があった。その大きな目はいたいけで、不健康そうで、ほとんど水腫症《すいしゅしょう》に罹っているように見えた。私が一歩前に出る。すると見よ! 体と四肢を優美にのばして、かたい雪面を軽やかな跳躍で疾走し、たちまち私との間に森をおいて隔ってしまった……野生の自由な動物がその活力と自然の品位を実証してみせたのである。ウサギがほっそりしているのは、理由のないことではない。それはじつに天性だったのだ。(Lepus=ラテン語の「ウサギ」なる語はlevipes「軽い足」から出たものと考える人もいる。)
ウサギやライチョウのいない田舎とは、いったい何だろう? 彼らは最も単純な、土着の動物的所産のひとつなのだ。現代と同様古代でも知られていた、古来の尊敬すべき種族なのだ。まさに自然の色合いと実質そのものをもち、木の葉と大地とに最も密接に組み合わさっている……そして、この二つのものも互いにそうなっているのだ。両者の相違といえば、翼かあるか、脚があるか、ということだけだ。ウサギやライチョウが跳び出す時、それはほとんど野生の動物を見ているというようなものではない。それは風にそよぐ木の葉と同じくありふれた、自然の姿にすぎない。どんな変革が起こっても、ライチョウとウサギは真の土地っ子らしく、必らず依然として栄えてゆくに違いない。森が伐り払われても、新たに萌えでる芽や茂みが彼らに隠れ場所を提供して、その数は前よりも増えてゆく。ウサギを養っておけないような田舎は、じつに哀れむべき田舎に違いない。われわれの森にはウサギとライチョウが両方ともたくさんいて、どの沼のまわりにも、どこかの牛飼い少年がその世話に当たっている、小枝の囲いやら馬の毛の罠やらが仕掛けられた、彼らの通り道ができている。
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冬の池
静かな冬の夜が明けて、なにかを質問されて、眠りの中で懸命にそれに答えようとしたのだが答えられなかった、といった感じをもって目覚めた。何が……どのようにして……いつ……どこで? といった質問のようであった。だが、すべての生物がそのすみかとしている自然は明け初《そ》めつつあり、穏やかな、満ち足りた顔で広い窓からのぞき込んでおり、<その>唇からはなんの質問の言葉も発せられない。私は答えられた質問に、自然と日光に、気がついた。マツの若木が点在する大地に深く積もる雪、それに、私の家が建っている丘の斜面までもが、進め! と言っているように思われた。自然はまったく質問を発しないし、われわれ人間の問う、どんな事柄にも答えない。自然はとうの昔から心に期しているところがあるのだ。
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おお、王よ。われらの目は賛嘆の念をもってこの宇宙の驚くべき多様な諸相を熟視し、それを魂に移入する。夜は確かにこの輝かしき造化の一部をべールでおおい隠す。だが、昼がきて、大地から天界の平原におよぶこの偉大なる作品を、われわれに顕示する。
――古代インドの叙事詩「ハリヴァンサ」より
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それから私は朝の仕事に取りかかる。それが夢でなければ、まず斧と手桶を手に水を探しにいく。寒かった雪の夜のあとでは、水を見つけるのも占い棒を要するような仕事であった。毎年冬になると、どんな風のそよぎにも敏感で、あらゆる光と影を映していた池の動き震える表面が一フィート、または一フィート半の厚さにかたく凍って、最も重い家畜の列でも支えられるほどであった。また、氷と同じ厚さの雪がその上をおおって、どこの平地とも区別がつかなくなることもある。池は周囲の丘にいるマーモットのように瞼を閉じて、三ヶ月、あるいはそれ以上もの冬眠に入るのである。丘陵のど真ん中の牧場にでもいるように雪におおわれた平地に立つと、まず一フィートの雪を、それからさらに一フィートの氷を切り開いて足下に窓をうがち、水を飲もうとひざまずいて、魚たちの静まり返った居間をのぞき込む。そこには磨硝子《すりガラス》の窓から差し込むような、和らげられた光が満ちあふれており、夏と同じあのきらきらした砂の床がある。そこに住む者の冷静な、むらのない気質にふさわしく、永遠の、波動のない安らぎが琥珀《こはく》色の薄暮の空におけるようにそこを支配している。天はわれわれの頭上だけではなく、足下にもあるのだ。
朝早く、あらゆる物がまだ霜でかりかりに凍っているうちに、人々は|釣糸巻き《リール》と質素な弁当を持ってやってきて、カワカマスやパーチを釣ろうと雪原をとおしてその細い糸を垂れる。野生的で、町の人たちとは違ったしきたりに本能的にしたがい、違う権威を信じている人たちである。彼らの往来によって、さもなければ離れてばらばらになっていそうな地方の町々も結びつけられているのだ。丈夫な厚手の外套を着込み、岸辺の乾いたオークの葉に腰をおろして昼食をとる。都会人が人為的な知識に通じているように、自然の事情に通じている人たちである。彼らは一度も書物なる物を読んだことがなく、今まで実際にやってきたことよりもはるかにわずかのことしか知っていないし、また、人に話して聞かせることもできない。彼らは、自分たちが実際にしていることを十分に分かっていないらしい。成長したパーチを餌にしてカワカマスを釣っている男がここにいる。夏の池をのぞく時のような驚きの念をもって、彼の手桶をのぞき込む。まるで彼は、夏を自分の家に閉じ込めているか、それとも、夏のひきこもっている場所を知っているかのようである。いったい、どうやって冬の最中《さなか》にこの魚を捕ったのだろうか? おお、地面が凍っているので、朽ちた丸太から虫を採って、それで釣ったのだ。彼らの生活それ自体が博物学者の研究などよりも自然に深くはいり込んでいて、彼自身が博物学者の研究主題となっている。後者は虫を探すのに苔《こけ》や樹皮をナイフでそっと持ち上げる。前者は斧で丸太を芯までたたき割って、苔や樹皮を八方に飛散させる。彼は樹皮を剥ぎ取って生計を立てているのだ。じつにこのような人にこそ釣りをする権利があるというもので、私は自然の営みが彼において行なわれているのを見るのが好きだ。パーチが地虫を飲み込み、カワカマスがパーチを飲み込み、そして漁師がそのカワカマスを飲み込む。こうして生物の諸段階の間隙はすべて満たされているのだ。
霧が立ちこめる日に池のまわりを散策していると、どこかの純朴な漁師の採用している原始的な漁法に興を引かれることがあった。氷にうがった狭い穴の上にハンノキの枝をさしかけたものであろうか。穴は四、五ロッド〔約二十〜二十五メートル〕の間隔で岸から等距離の所に開けられてあり、糸の端は引っ張り込まれないように棒切れに結びつけて、たるんだ糸を氷の上一フィートあまりのハンノキの小枝に渡し、それにオークの枯れ葉を結びつけてある。引っ張られて枯れ葉が下がると、当たりがあったと分かるわけだ。池のまわりを途中まで行くと、このハンノキの枝が霧の中に一定の間隔でぼうっと浮かび上がって見える。
おお! ウォールデンのカワカマスよ! それが氷の上や、漁師が水が入るように氷の中に小さな穴を開けて作った井戸の中にいるのを見ると、まるでお伽話の魚のような、そのまれに見る美しさに私は驚く。アラビヤが、わが町コンコードの生活には異質なように、それほどその魚は町の通りには、いや、森にとってさえ異質のものだ。きらびやかな、超絶的な美しさがあって、今町で盛んにその評判が喧伝《けんでん》されている、死体色をしたタラやハドック〔北太西洋産のコタラの類〕などとは格段の差がある。マツのような緑でもなければ、石のような灰色でも、空のような青でもなく、もしそういう物がありうるなら、花とか宝石のような、もっとまれな色をしているように私の目には見える。まるで真珠であり、ウォールデンの水の動物と化した核(nuclei)、または結晶とも言うべきものだ。もちろん、それはどこまでも完全にウォールデン的だ。カワカマスそのものが動物界の小さなウォールデンであり、ウォールデンシーズ〔ウォールデン派と呼ばれる反カトリック的な一派。十二世紀の末頃南フランスでピーター・ウォールデンが興した〕である。彼らがこの池に囚《とら》われているのは……ウォールデンの道をゴロゴロ通る荷馬車や馬車、チリンチリンと鈴を鳴らして通る橇《そり》のはるか下方、この深くて広い泉の中にこのすばらしい黄金とエメラルドの魚が泳いでいるのは驚くべきことだ。その種の魚にはどこの市場ででもお目にかかったことがない。もし市場に出るようなことがあれば、きっと衆目を集めるだろう。痙攣《けいれん》的に二、三度ピクピク動くと、それは簡単にその水の魂を天にゆだねる。死期の到来前に天界の稀薄な大気に移される人間のように。
長い間忘れられたままだったウォールデン池の底を取りもどしたいと思って、一八四六年の初め、氷の割れる前に、磁石、鎖、測鉛線を使って慎重に測量した。この池の底……正確には底なしということ……について、従来いろいろな説があったが、確かにそうした説には根拠がまったくなかった。測量の労を取りもしないで池に底がないなどと人々が長いあいだ信じているとは驚いたことだ。この付近を一度散歩した際、二つのそうした底なしといわれる池に行ってみたことがある。多くの人が、ウォールデンは地球の反対側まで完全に突き抜けているものと信じている。長時間氷の上にべったりうつ伏せになり、水という見誤らせがちな媒介物をとおして、そのうえ、時にはうるんだ目でのぞき込んで、胸から風邪をひくのを恐れるあまり、早まった結論に駆り立てられたある人たちは、もし運んでゆく人がいるものなら、乾し草の車一台が入れるほどの、とてつもなく大きな穴を見たというのである。これは疑いもなくステュクス〔ギリシア神話。三途《さんず》の川〕の源で、このあたりが幽界に入る入口だと言う。また、「五十六ポンド〔約二十五・四キログラム〕錘《おもり》」と荷車一台分の一インチロープの荷を持って林から出かけていきはしたものの、ついに底を突きとめることができなかった人たちもいる。「五十六ポンド錘」が下りてゆく途中で止まっているのにロープをつぎつぎと繰り出して、彼らの不思議の念を受け入れる、じつは無限の能力を空しく測定していたからである。だが、私は読者諸君に、ウォールデンにはまれな深さだが法外でもない所に相当しっかりした底があることを保証できる。私は、タラ釣り用の糸と約一ポンド半〔約六百八十グラム〕の重さの石ひとつでわけなく底を探ったのである。石が底を離れて、石の下の水が私の糸を引き上げるのを助けるようになると、糸はそれまでよりずっと楽に引き上げられたから、いつ石が底を離れたかが正確に分かったというわけだ。最大水深は、正確には百二フィートであった。それにその後の増水分五フィートを加えて百七フィートとなる。これは、そんな狭い池の割には驚くべき深さだ。しかも、そのうちの一インチなりとも想像で割愛などできない、正真正銘の深さなのである。池なるものがすべて浅かったらどうであろうか? それが人間の心に影響しないものだろうか? この池が象徴として深く、清らかにできていることに私は感謝している。人間が無限なるものを信じるかぎり、底なしと考えられる池もあるだろう。
ある工場主が私の突きとめた深さのことを耳にして、そんなはずがないと考えた。彼の堤防に関する知識から判断して、そんな急角度では砂はないだろうと言うのだ。だが、最も深い池でも、面積に対する割合から見ると、多くの人が考えるほどには深くないもので、中の水を排除してみてもたいして目立つような谷は残らないだろう。谷は、丘と丘にはさまれた茶碗のような形をしているのではない。この池は、面積の割には異常に深いにしても、その中心を通る縦断面で見れば、浅い皿以上に深いものではない。たいていの池は、中を空っぽにしてみれば、通常よく目にする程度にくぼんだ低湿地しか残っていないものだ。ウィリアム・ギルピンは、その風景について叙述したものはすべてつねに賞賛に値いするし、また通常は非常に正確でもあるのだが、その彼が「深さ六、七十|尋《ひろ》〔約百九・八〜百二十八・一メートル〕、幅四マイルの塩水の湾」で、約五十マイルの長さがあり、山に囲まれている、と記述しているスコットランドのファイン湖の湖頭に立って、こう言っている。「もし洪積世の崩壊、または何にせよそれを引き起こした自然の大変動の直後で、水が奔入する前にそれを見ることができたとしたら、それはどんなに恐ろしい深淵に見えたことだろう!
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そびえ立つ山々の隆起せし高さほど
くぼみし底は地に沈めり……広く、深く、
茫々《ぼうぼう》と水を張る床……
――ミルトン『失楽園』第八巻
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ところが、ファイン湖のいちばん短い部分の直径を使って、すでに承知のように縦断面では浅い皿ぐらいにしか見えないウォールデンにその比を当てはめて考えると、ウォールデンは四分の一の浅さになってしまうのだ。ファイン湖を空にした時の深淵の<大げさ>な恐ろしさにっいては、これぐらいにしておこう。確かに広々とトウモロコシ畑が続いている多くの徴笑する谷は、水の退いた、まさしくそのような「恐ろしい深淵」をなしているわけだが、そんなことなど考えてもみない住民にこの事実を納得させるには、地質学者がもつ洞察力と達見がいるのだ。研究熱心な人の目は、よく地平線上の低い丘の中に太古の湖水の岸を見つけるもので、こうした慧眼《けいがん》の人にとっては、後日湖底が盛り上がっても、それは岸の移り変わりの跡を隠すうえにもなんの用もなさない場合もあっただろう。だが、道路工事に働く人たちが知っているように、くぼんだ場所は、にわか雨の後の水たまりによって最も簡単に分かるものである。要するに、想像というやつは、少しでもわがままが許されると自然の営み以上に深く潜り、また高く飛翔するものなのだ。したがって、おそらく大洋の深さもその広さにくらべればまったく取るに足らないものであることが分かるだろう。
私は氷をとおして測量したから、凍らない港を調査する時よりも正確に水底の形を決めることができたわけで、その底が概して規則的なことに驚いた。最深部には太陽や風や鋤にさらされている、ほとんどどんな畑よりも平坦《へいたん》なところが数エーカーあった。一例でいうと、任意に選んだ一線上では三十ロッド〔約百五十メートル〕で、深さに一フィート以上の変化はなかった。また、一般的に中心部近くでは、方向を問わず百フィート先の深さの変化は三、四インチ以内に予測できた。こうした静かな砂地の池にさえ、深くて危険な穴があると言う人もいるが、このような状況下での水の作用は、起伏のむらをすべてなくして平坦にすることである。水底が規則的で、岸や付近の山並みに符合しているのは徹底したもので、遠くの岬が池をずっと横切って対岸の水底にその姿をうかがわせており、対岸の地形を観察すればその方向は決定できるほどであった。突角は水面下の洲に、平地は浅瀬に、谷と峡谷は深みと水路になっていた。
十ロッド〔約五十メートル〕を一インチとした縮尺で地図を作って、合計で百ヶ所以上の水深を記入してみると、次のような著しい一致があることを観察した。すなわち、最大水深を表わしている数字がどうも地図の中心にあるらしいことに気づいたので、定規を地図上で縦、横と当ててみると、中央部はほとんど平坦に近く、池の輪郭は決して規則的なものでもなく、最大値は縦、横ともに入江を含めて測ったのに、最大縦線が最大横線と<正確に>、最大水深点で交わっていることを発見した。このヒントは、池や水たまりだけではなくて、大洋の最深部をも知らせてくれるものではなかろうか、と私は独語した。これが、谷の反対物として考えた場合の山の高さを示す法則ともなっているのではないだろうか? 丘は、その最もせばまった部分では高さが最高とはなっていないことをわれわれは知っている。
五つの入江のうち私が測深した三つは、すべてその入り口をずっと横切って水中に洲が走っていて、内部にさらに深い水をたたえているのを観察した。つまり、湾は陸地内に水平にだけでなく、垂直にも豊かな水の広がりとなって、内湾または独立した池を形づくる傾向があって、二つの突角の方向が水中の洲のコースを示していた。海岸の港にもすべて入り口に洲があるものだ。入江の入り口がその長さにくらべて広ければ広いほど、水中の洲の上の水は内湾の水にくらべていっそう深かった。だから入江の縦、横と周囲の岸の形状が分かれば、あらゆる場合に当てはまる算式を作り上げる上でのほとんど十分な要素がそろったことになる。
この経験をもって、池の表面の輪郭と岸の形状だけを観察することにより、最深部をどの程度正確に推測できるかを知るために、私はホワイト池《ポンド》の平面図を作った。この池は約四十一エーカーの広さがあって、ウォールデンと同じく島がなく、それと分かる水の流入口も流出口もない。最大横線は二つの向かい合う突角が互いに迫り、二つの相対する湾が引っ込んだ、最小横線のすぐそばにきたので、思い切って後者の線から少々離れてはいるがやはり最大縦線上にある一点に印をつけてみた。実際の最深点は私が見当をつけた方向にさらに離れていて、私のつけた印から百フィート以内にあることが分かった。推測よりわずか一フィート深いだけ、つまり六十フィートであった。もちろん、小川が流れ込んでいたり、池の中に島があったりすれば問題をずっと複雑にするだろう。
われわれがあらゆる自然の法則を知っているなら、その地点での特殊な結果をすべて推論するにはひとつの事実、または現実の一現象の叙述を必要とするだけであろう。ところが二、三の法則しか知らないので、自然の側でのなんらかの混乱や不規則性のためではもちろんなくて、その計算に必須の要素をわれわれが知らないために、その得る結果が損われてしまうのだ。法則と調和についてのわれわれの概念は、一般にわれわれが探り知ることができる場合にのみかぎられている。だが、われわれがまだ探り知るにいたっていない、はるかに数多くの、一見矛盾はしてみえてもじつは共同的に働く諸法則からもたらされる調和は、なおいっそう驚嘆すべきものである。それそれの法則はわれわれの観点のようなもので、山には絶対的にはひとつの形しかないのに、旅行者の目には歩を進めるごとにその輪郭が変化して見え、無数の横顔があるのに似ている。切り離したり、穴を掘ったりしてみても、山の全容は理解されるものでない。
私が池について観察したことは、倫理についても同じく真実である。それは標準的な法則なのだ。二つの直径の法則のようなものが太陽系の太陽、人間の心臓の方向にわれわれを導くだけでなく、人間個々の日常的な行動と生活の波動全体を縦横に線で画してその小湾や入江にもおよび、それらの線が交わる所にその人の人格の気高さと深みがある、ということなのだろう。人の人格の深さと隠されている心底を推測するには、たぶんその岸辺の曲がりぐあいとその付近の土地、または環境を知りさえすればよいのだろう。もし彼が山また山といった環境、そば立つ岸に囲まれていて、その頂上がその胸に暗く影を映しているようであれば、それは彼にもそれに相応した深みがあることを暗示しているのだ。反対に、低くて平坦な岸は、彼がその側では浅薄なことを証明している。われわれの肉体でも、大胆に突き出した額はしだいに引っ込んでそれに相応する思想の深さを示すようになるものだ。また、われわれがもつすべての小湾、すなわち個々の特有な屈曲の入り口には洲が横たわっている。それぞれの小湾はしばらくの間われわれの港となり、われわれはそこに引きとめられ、部分的に閉じ込められる。このわれわれの屈曲は、通常気まぐれなものではなくて、その形状、大きさ、方向は岸の岬、昔の隆起の軸によって決定される。この水中の洲が嵐、干潮、潮流のためにじょじょに大きくなるか、または水が退いてその結果水面に現われると、初めは思想が停泊していた岸辺のひとつの屈曲にすぎなかった部分が切り離されて、別個の湖水となり、思想はそこにそれ自体の環境を確保し、たぶん塩水から淡水に変わり、美しい海、よどんだ海、あるいは沼となる。おのおのの個性がこの世に出現する時は、そのような洲がどこかで水面まで高まった時だと考えられないだろうか? ただし、われわれは航海が非常に拙劣だから、その思想も通常は港のない海岸を陸に接近したり沖に離れたりで、詩という湾の湾曲を知っているにとどまるか、あるいは一般の通関港に向けて舵を取って、科学という乾|船渠《ドック》に入ってしまうかである。そこでは思想はこの俗世界に合わせて修理を受けるだけで、いかなる自然の潮流も思想を個性化するために共同的に作用することがない。
ウォールデンの流入口と流出口についていえば、雨と雪と蒸発現象以外はまったく何も見つけていない。もっとも、水が池に注ぎ込んでいるところでは夏に水がいちばん冷たく、冬はいちばん暖かいだろうから、寒暖計と紐を使ってそんな場所を発見できるかも知れない。氷の切り出し人夫が一八四六年から七年にかけてここで仕事をしていた時、氷を岸に積み重ねていた人夫たちがある日、そこに運ばれてくる氷魂を、あまり薄くて他の氷と並べて積めないからと除いていたことがあった。こうして切り出し人夫たちは、あるわずかばかりの場所に張る氷が他の場所よりも二、三インチ薄いことを発見したわけだが、そのことから、そこに流入口があると彼らは考えたのだ。彼らはまた他の場所で、まあ見てみなさい、というわけで私を氷魂の上に押し出して、「底穴」と彼らが考えているものを見せてくれた。その穴から池の水が漏れ出て丘の下をくぐり、近くの牧草地に入っていると言うのである。水面下十フィートの小さなくぼみであった。だが私は、そのくぼみよりも多量に漏れる口が見つかるまでは、池に<はんだづけ>をする必要などないことを保証できると思っている。そういう「底穴」が万一見つかった時は、何か着色した粉か鋸屑をその穴の口にもってゆき、それから牧草地の泉の上に濾過《ろか》器を仕掛けておけば、水の流れに運ばれてくる粉粒がそれに引っかかるだろうから、それで穴と牧草地との連絡は証明されるだろう、と人は提案した。
私が測量している間は、厚さ十六インチの氷がかすかな風で水のようにうねっていた。水準器が氷上で使用できないことはよく知られている。陸上の水準器を氷上に立てた目盛り竿に向けて観察すると、氷が岸辺にしっかりくっついているように見えても、岸から一ロッド〔約五メートル〕のところでの上下動の幅は四分の三インチであった。中央部ではたぶんもっと大きいだろう。もしわれわれの計器が十分敏感なら、地殻のうねりも探知できないとはかぎらないだろう。二脚の水準器を岸に、三脚目を氷上にすえて後者から照準を合わせると、ごくわずかな氷の上下動が対岸の木に数フィートの差となって表われた。測深のために穴を開けはじめると、深い雪の下の氷の上に三、四インチほど水があった。積雪のためにこんなに水が氷の上にたまったのだ。だが、その水もすぐさまこれらの穴に流れ込みはじめて、二日間にわたって深い流れとなって続いた。その流れは四方の氷の表面を溶かし、また、池の表面を乾かすのに、主としてとはいかないまでも、著しく貢献した。水が流れ込んで氷を持ち上げ、浮かせたからだ。これは、排水のため船底に穴を開けるのにいくぶん似たところがあった。この穴が凍り、続いて雨が降り、そしてついに新たな冷気で一面に新しい、滑らかな氷が張ると、四方八方から中心の穴に向かって流れた水でうがたれた水路が、氷の円花飾りともいうべき、いくぶんクモの巣の形に似た黒い模様を作り出して、張った氷の内部が美しく、まだらに飾られる。また、氷が浅い水たまりにおおわれている時は、一方が他方の上に重なっている私自身の二重像を見ることがあった……一方は氷の上、他方は水面に映る木々の上か丘の中腹にあった。
まだ寒い一月、雪も氷も厚くてかたい時期に、用意周到な地主たちが夏の飲み物を冷やす氷を採取しようと村からやってくる。まだ一月の現在、七月の暑さと渇きを見越すとは、なんと感銘的な、痛ましいほどの賢明さであろうか……外套と手袋を身に着けてだ! ほかにまだ準備のととのっていないことがどっさりあるというのに。彼らは、次の世で自身の夏の飲み物を冷やしてくれる宝を、この世で蓄えようとはしないのかもしれない。かたく凍った池を切り、鋸を引いて魚の家の屋根を剥がし、そのまさに魚のすみか、空気そのものを荷車に乗せると、くくった薪のように鎖と杭でしっかりとめて、好都合な冷たい冬の大気の中を寒い穴蔵まで運び、そこに氷は横たわって夏を待つことになる。氷が通りを遠くへ引かれてゆく時、それは凝固した青空のように見える。氷切り人夫たちは陽気な人種で、盛んに冗談を飛ばしてふざけ散らし、私が彼らの中に入ってゆくと、いつも私を誘って下に立たせて、炭坑でするように一緒に鋸を引かせてくれた。
一八四六から四七年にかけての冬、ヒュペルボレオス人〔ギリシア神話。寒い北風を吹き起こす山のかなたにあると考えられていた常夏《とこなつ》の極楽浄土に住む人〕の子孫たちが百人、ある朝とつじょとしてわれわれの池に姿を現わした。橇《そり》、鍬《くわ》、手押し車、芝土切り、鋤《すき》、鋸《のこぎり》、熊手など、無格好な農具を何台も車に積み、『ニューイングランド農業人《ファーマー》』〔農業雑誌で一八二一年創刊〕にも、『耕作者《カルティヴェイター》』〔一八三八年創刊〕にも載っていないような、とんがりの二つある槍でそれぞれ武装していた。冬のライムギをまきにやってきたのか、それとも、近頃アイルランドから入ってきた、なにか他の種類の殻物をまきにやってきたのか、私には見当がつかなかった。肥料がぜんぜん見当たらないので、このあたりは土も深いし、長い間たっぷり休作していた所だからと考えて、私がしたように土地の上面だけ浅く耕すつもりだろう、と私は判断した。彼らの話によると、彼らの蔭に控えているある豪農が、その財産を倍にふやしたがっているとのことで、財産はすでに五十万ドルに達しているらしかったが、一ドル一ドルにもう一ドルずつかぶせるために、厳しい冬のさなか、ウォールデン池のたった一枚の上衣、いや、皮膚そのものを剥ぎ取ったというわけである。すぐさま仕事に取りかかると、彼らは見事な順序で耕し、馬鍬をかけ、転子《ころ》でならし、畝《うね》を立て、まるでこの地をモデル農場にでもしようと夢中になっているかのような様子であった。だが、畝にどんな種類の種子を落とすかと気をつけて見ていると、そばにいた連中が、変った鋤の使い方で、処女地の土そのものをとつぜん同じ形に掘り起こしはじめたのである。砂地、いや水の出る深さにまできれいに……じめじめした土であったから……じつにそこのがっしりした大地(terra firma)をそっくり根こそぎにし、……それを橇に積みはじめたので、彼らはきっと泥炭地で泥炭を切り採っているに違いない、と思った。こうして彼らは機関車特有の鋭い叫びとともに、どこか極地の一地点との間を……どうも私にはそう思われたので……北極の鳥ユキホオジロの群のように毎日往復するのだった。だが、時にはウォールデンおばさんも報復に出ることがあって、荷馬車のあとから歩いていた雇われ人夫が足を滑らせて地中の割れ目に落ち込み、危うくあの世に行きかけて、それまではえらく威勢のよかったのが急に弱虫になり、その動物としての体温をほとんど失って自分から私の家に逃け込んでくると、ストーブなる物の良さをしみじみ認めるのだった。また、凍った上で鋤の切っ先がこぼれたり、畝に鋤が食い込んで取れなくなり、切って取り出さなければならなくなったりしたこともあった。
以上のことを事実に即して言うと、ヤンキーの監督たちと一緒にアイルランド人が百人、氷を切り出すために毎日のようにケンブリッジからやってきたのである。その改めて述べる必要もないほどよく知られている方法で氷を一定の形の塊に切り分けると、それは岸まで橇で運ばれ、すぐさま氷置き場まで手早く引きずっていかれて、馬を動力とする鉄の鉤《かぎ》と滑車と巻き揚げ機とで同数の小麦粉の樽のように平らに並べられて、まるで雲をも突き通すように設計された方尖塔《オベリスク》のがっちりした基底部を固めてでもいるようであった。順調な日には千トンを切り出せるといい、それは約一エーカーから採れる量であった。橇が何度となく同じ道を通るので、氷にはがっしりした大地(terra firma)にできるのと同じ深い轍《わだち》と、「選鉱器の穴」のようなくぼみができていて、馬は一様にバケツのようにくり抜いた氷塊からエンバクを食べた。こうして戸外に側面で高さ三十五フィート、六、七ロッド平方〔約三十〜五十メートル平方〕の山に氷塊を積み重ねて、空気を排除するため外側の層と層との間には干し草を詰めた。風は、どんな冷たい風でも通り抜ける通路を見つけるとそこに大きな中空をうがち、あちこちまばらに細い支柱を残すだけとなって、ついには全体が崩れ落ちてしまう。最初それは巨大な青い要塞《ようさい》、またはバルバラ宮殿のように見えた。だが、彼らが隙間に粗雑な牧草を詰め込みはじめて、これが白霜と氷におおわれるようになると、それは空色の大理石からできた、神々しい、苔むした、白灰色の廃墟とも、また冬の神の住まい、すなわち暦に見る、例の老人の掘っ建て小屋とも見えて、まるで彼はわれわれと一緒にそこで夏を過ごすつもりでいるかのようだ。人夫たちの計算では、氷の山の二十五パーセントは目的地に着かず、二、三パーセントは列車の中でむだに溶けてしまうだろう、ということであった。だが、この氷の山の思ったよりもずっと多量の部分が、最初の予想とは違う運命をたどることになった。いつもより空気をたくさん含んでいて予想ほどはもたないと分かったためか、それともなにか他の理由からか、結局市場には出されなかったのである。一八四六年から七年にかけての冬に積み上げられて、一万トンはあると見積もられていたこの氷の山は、ついには干し草と板でおおわれてしまった。七月になっておおいが取られ、その一部は運び去られたものの、残りは日にさらされたままその年の夏と次の冬まで持ちこたえて、一八四八年の九月になっても完全には溶けきらなかった。こうして池は氷の大部分を取りもどしたのだった。
ウォールデンの氷は、その水と同じく、近くで見ると緑色をしているが、少し離れて見ると美しい青色で、川に張る白い氷、他の池の緑がかった氷とは四分の一マイル離れた所から見ても簡単に識別できる。ときおり大きな氷塊のひとつが氷切り人夫の橇から滑り落ちたまま大きなエメラルドのように一週間も村の通りに転がっていて、通りかかる人みんなの興味の的《まと》となることがあった。水の状態では緑色をしていたウォールデンの一部が、凍ると同じ観点からでも青く見えることがあるのに気がついた。同様に、この池の周囲にあるくぼみも、冬は池自体の色にやや似た、緑がかった水で満されているのが、翌日には青く凍っていることがあった。水や氷が青いのは、中に含まれている光と空気のせいらしく、最も透明なのが最も青い色をしている。氷は観照の興味深い対象となる。フレッシュ池《ポンド》〔ケンブリッジ近くにある〕の氷貯蔵所には、五年たってもそのまま少しも変っていない氷があるそうだ。バケツの水はたちまち腐敗するのに、凍るといつまでも新鮮なままなのは何故だろう? これが愛情と理性との相違、とは一般に言われているところである。
こうして十六日間、百人の人間が多数の牛馬とともに、見たところあらゆる農具を持ち出して、多忙な農夫のように働いているのを私は窓から見ていた。それは、まるで暦の最初のページの絵のようであった。戸外を見やるたびに「ヒバリと刈り人」の寓話〔ラ・フォンテーヌ『寓話』〕や、「種まく人」の譬《たと》え話〔新約聖書「マタイ伝」第十三章第三〜八節〕を思い出した。そして今、彼らはみなもう去ってしまっていない。たぶんもう三十日もすれば、この同じ窓から、そこに広がる清澄な海緑色をしたウォールデンの水が雲や木々を映し、寂しく水蒸気を立ち昇らせているのを見るだろう。そこに人間が立っていたという形跡などはまったく消え失せてしまっているだろう。たぶん孤独なアビが水に潜って羽づくろいをしながら笑うのを耳にし、また漂う木の葉のようなボートの釣り人が、つい最近百人の人夫たちの安全に働いていた波の上に映る自分の姿を眺めているのを見ることだろう。
こうしてチャールストンやニューオーリンズの、そしてボンベイ、マドラス、カルカッタの暑さにうだる住人がウォールデンにある私の井戸の水を飲むことになるらしい。朝、私はバガバット・ギータの壮大な宇宙創造の哲理にわが知性を浸す。それが書かれてから神々のいく年月かが経過しており、それに比較すれば、われわれの現代世界、そしてその文学などはちっぽけな、取るに足らぬもののように思われる。その哲理は、前の世界の存在様態に関連させて考えるべきものではないかと思う。それほどその崇高さがわれわれの観念とかけ離れているのだ。本を置いて私の井戸へ行く。すると見よ! そこで私はバラモンの召使いに出会う。バラモンとはブラーマとビシュヌ、インドラ〔ヒンズー教第二位の神々の一で、ベーダ神話の主神。雷、雨、戦争の神とされる〕に仕える僧で、今なおガンジス河畔の寺院に坐してベーダ経典を読み、あるいは乏しい食物と水差しをもって木の根もとに住んでいる。彼の召使いが主人のために水を汲みに来るのに出会って、われわれのバケツは、いわば同じ井戸で擦《こす》れ合う。清澄なウォールデンの水は、聖なるガンジス川の水と混じり合う。追い風に乗ってウォールデンの水はアトランティス〔ジブラルタルの西方、太西洋上にあったが海底に沈んだとされる伝説上の島で、プラトンの唱えた理想郷〕やヘスペリディスたち〔ギリシア神話。地の女神ガイアがヘラの結婚記念に贈った黄金のリンゴを守った妖精たち〕の伝説の島跡を流れ過ぎて、ハンノー〔北アフリカの古代都市カルタゴの航海家。紀元前五世紀にアフリカ西岸を航海した〕の周航の跡をたどり、ターネイトやタイドールの島〔マライ諸島の中にあるが、著者はイランより西にあると思い違いをしているらしい〕とペルシア湾口近くを漂い、インド洋の熱風の中に蒸発して、アレキサンダー大王もその名を耳にしただけにとどまった諸港に上陸するのだ。
[#改ページ]
氷切り人夫が氷を切り開くと、通常、池はいつもより早く解氷する。天候が寒くとも、水が風にかき立てられて周囲の氷をしだいにすり減らしてゆくからである。だが、その年はウォールデンではそうはいかなかった。池が古い外衣にかわる、厚くて新しい外衣をすぐまとったからだ。この池は非常に深く、また氷を溶かしたりすり減らしたりする流れの流入もないから、この近辺のほかの池ほど早く溶けることは決してない。冬のうちに池が開《あ》いたのを私は見たことがない。そして、一八五二年から三年にかけての冬も例外ではなかった。この冬はまた、あちこちの池にも非常に厳しい試練を与えた冬であった。ウォールデンは、フリンツ池《ポンド》やフェア・ヘイブンよりも一週間から十日遅れて通常四月一日頃に開《あ》き、北岸と浅い部分、つまり最初に凍りはじめる所から溶け出す。それは一時的な温度の変化に影響されることが最も少ないから、季節の絶対的進行状況をいっそうよく示してくれる。三月に入ってから厳しい寒さが二、三日も続くと他の池は開《あ》くのがずっと遅れるのだが、ウォールデンの方はほとんど連続的に温度が上昇する。一八四七年三月六日、ウォールデンの中央部にさし込んだ寒暖計は華氏三十二度、つまり氷点を示し、岸近くでは三十三度だった。フリンツ池《ポンド》の中央部では同日三十二度半あり、岸から十二ロッド〔約六〇・四メートル〕の浅い水の中、厚さ一フィートの氷の下で三十六度であった。フリンツ池《ポンド》の深い水と浅い水との三度半という温度差と、その大部分が比較的浅いという事実は、ウォールデンよりもずうっと早くそれが溶ける理由を説明している。最も浅い部分の水は、この時で中央部のよりも数インチ薄かった。真冬は中央部で最も温かく、氷もそこがいちばん薄かった。
同様に、夏、池の岸辺を歩いたことのある人なら、少々岸から離れた所よりも三、四インチの深さしかない岸辺寄りの方が、また深い所では水底近くよりも表面の方が水はずっと温かいことに気づいているはずである。春になると、太陽が大気と大地の温度を上昇させて影響を及ぼすばかりでなく、その熱は一フィートないしそれ以上もの厚い氷をとおし、浅い所では底からの反射でそれがまた水を温め、上から直接溶かすと同時に氷の下面も溶かして氷にでこぼこを作り、中に含まれている泡を上下にふくらませて、ついには完全にハチの巣のように変え、最後はただひと降りの春の雨でたちまち消えてしまう。氷にも木材と同様に木目のようなものがあって、氷塊が脆《もろ》くなったり、それに「鬆《す》が入り」はじめると、すなわちハチの巣状の外観を呈しはじめると、氷塊がどう位置していようと、気泡は水の表面だったものに直角になっている。岩や丸太が水面近くまで突き出ている所では、その上の氷はずっと薄く、この岩や丸太からの反射熱ですっかり溶けてしまっていることもよくある。聞いたところによると、ケンブリッジで行なわれた浅い木製の池で水を凍らせる実験では、冷たい空気が氷の下にも循環して上下両面に接近はするが、底からの日光の反射がこの凍るに好都合な冷気を相殺《そうさい》してまだ余りがあったそうだ。冬の真っ最中に降る温かい雨がウォールデンから雪氷を溶かし去って、中央部にかたくて黒ずんだ、または透明な氷を残すと、ここからの反射熱で岸のあたりに幅一ロッド(約五メートル)あまりの、もっと厚いが鬆《す》のとおった白い氷の帯ができる。またすでに言ったように、氷の中の泡そのものが下の氷を溶かす天日取りレンズとして働くことになる。
一年のいろいろな現象が毎日のように池で小規模に起こる。おおまかにいうなら、毎朝浅い水は、結局はそれほど温かくはならないにしても、深い水よりは早く温められるし、また晩は深い水よりも早く冷やされて翌朝となる。一日は一年の縮図である。夜は冬、朝夕は春と秋、そして昼は夏ということになる。氷がビシッ、ビシッ、バリ、バリと音を立てるのは気温の変化を示している。一八五〇年二月二十四日、寒い夜が明けて気持のよい朝であったが、一日を過ごそうとフリンツ池《ポンド》に出かけていって斧の頭で氷をたたくと、周囲数ロッドにもわたって銅鑼《どら》のように、あるいは張りつめた太鼓の皮でも打ったように反響するのに気づいて驚いた。日の出から一時間ほどたって、丘の上から斜めにさす日光の影響を感じ取ると、池はバリバリやり出す。目を覚ました人間のようにのびをし、欠伸《あくび》をしてしだいに騒々しくなる。そして、それが三、四時間続く。昼には短い昼寝をして日暮れ近く、太陽がその影響力を引っ込める頃になるともう一度バリバリ音を立てた。天候の正常な時期には、池は非常に規則的に夕方の時砲を発する。だが日中は、一面にひび割れができているうえ、空気もまた弾力性がさらに乏しくなっているから、池は完全に反響しなくなっていて、その上をたたいても、魚もジャコウネズミも日中はたぶん肝をつぶすようなことはなかっただろう。「池のとどろき」で魚は驚き、食いつきが悪くなると釣人たちは言う。毎日夕方にとどろくというわけでもなく、いつとどろくのか私には確かには分からない。だが、天候の違いがまったく認められない時にとどろくこともある。これほど大きく、冷たく、そして厚い皮におおわれているものが、これほど敏感だとは誰が想像しただろう? だが、蕾《つぼみ》が春になるとふくらむように、池は、そうすべき時がくると確実にそれにしたがって大音響を発する、自己の法則をもっているのだ。大地はすみずみまで息づき、敏感な乳頭状突起でおおわれている。最も大きな池ですら、管の中の水銀の小球のように大気に敏感である。
森に来て生活するひとつの魅力は、春がやってくるのを見る暇と機会があることだ。池の氷にはついにハチの巣状の穴が開《あ》きはじめて、散歩の時その中に踵《かかと》を踏み入れることもできる。霧、雨、それにいちだんと温かくなった日射しが雪を溶かしている。日が目立って長くなった。もはやどんどん火を燃やす必要もないから、薪の山を補充しなくても冬を越せる見込みもついた。春の最初の兆《きざ》し……姿を見せはじめた何かの鳥のあわよくば歌声でも、あるいは蓄えもすでにほとんど底をついたはずだからシマリスの鳴く声でも聞いてやろうか、ウッドチャックが冬ごもりの場所から思い切って出てくるところを見逃すまい、と私は気を配る。三月十三日、すでにアオツグミ、ウタスズメ、ハゴロモガラスの声を聞いたあとだったが、氷はまだほとんど一フィートの厚さがあった。天候が暖かくなっても、氷はそれと分かるほどには水にすり減らされてもいないし、川でのように割れて漂流することもなく、岸のあたりが幅半ロッド(約二・五メートル)ばかり完全に溶けてはいるものの、中央部はハチの巣状に穴が開いて水に浸っているだけであった。もっとも、厚さが六インチあっても足で踏み抜ける程度にはなっていた。だが、たぶん翌日の晩までには温かい雨が降り、続いて霧がでてその後は氷がすっかりなくなり、神隠しにでも会ったようにその霧とともに消え失せてしまうことだろう。
ある年、氷が完全に溶けきるわずか五日前に中央部を横断した。一八四五年には、四月一日にウォールデンは初めて全面的に開いた。四六年には三月二十五日、四七年には四月八日、五一年には三月二十八日、五二年には四月十八日、五三年には三月二十三日、五四年には四月七日頃であった。
川と池の氷が溶けて天候が落ち着くまでに起こるあらゆる出来事は、非常に極端な変化をしめす気候の中で生活するわれわれにとって、とくに興味深い。暖かい日がくると、川の近くに住む人は氷の足枷《あしかせ》が端から端まで裂けたかのように氷が夜中に砲声にも似た大きな、驚くべき音をたてて割れるのを聞き、数日以内に氷が急速になくなっていくのを見る。ワニはこうして大地を震動させて泥の中から出てくるのだ。一人の老人がいたが、彼は自然の綿密な観察者で、子供の頃、造船台に上がって自然という船の竜骨《りゅうこつ》取りの手伝いをしたことでもあるかのように、あらゆる自然の働きについてあますところなく通じていた……実際、完全に一人前で、もし彼があのメトセラ〔旧約聖書「創世記」第五章第二七節。九百六十九才まで生きたというユダヤの族長〕の年齢まで生きながらえたとしても、それ以上自然に関して身につけるべき知識はほとんどないだろう……そして、私にいろいろと話してくれた。その彼ですら、どんな自然の働きにもなお驚異の念を表明するのを聞いて、私は本当に驚いたものだ。自然と彼との間には秘密などないものと思っていたからである。その話はこうであった。ある春の日、銃とボートをもち出して少しばかりカモ猟をしてやろう、と考えた。牧草地にはまだ氷があったが、川の氷はすっかり溶けていて、自分が住むサッドベリーからフェア・ヘイブンの池までなんの障害もなく流れを下っていったのに、着いてみると、池は思いがけなく大部分がまだかたい氷原におおわれていた。暖かい日で、そんな大きい氷の塊が残っているのを見て彼は驚いた。カモが一羽も見当らないので、ボートを池の中にある島の北側、つまり裏側に隠すと、自分は南側の茂みに身を隠してカモの現われるのを待った。氷が岸から三、四ロッド(約十五〜二十メートル)ばかり溶けていて、カモの好みそうな泥底を下に、穏やかな温かい水面が広がっていた。じきに何羽かやってきそうだ、と彼は思った。一時間ほどじっと横になっていると、低い、はるか遠くかららしいがそれまで耳にしたどんな音とも違う、妙に重々しく印象的な音が、なにか大々的な、記憶すべき結果をもたらすことにでもなるかのように高まり、強まってくるのを聞いた。その重苦しい音の襲来と轟《とどろ》きを聞くと、そこに降り立とうとやってくる鳥の大群の羽音のように思われたので、彼は銃を取るやあたふたと興奮して跳び出した。ところが驚いたことに、彼が横になっている間に氷全体が動き出して、岸の方へただよっていることが分かったのである。前に聞こえた音は、氷の端が岸にこすれる音であった……最初のうちは緩やかに、少しずつ岸をかんでは砕けていたが、ついには盛り上がり、岸にそって氷片を相当な高さに跳ね飛ばしてから停止したというのである。
やがて日の光が直角にさすようになり、暖かな風は霧と雨を吹き散らして土手の雪を溶かし、霧を消散させる太陽が小豆色《あずきいろ》と白の交錯する、水蒸気の香煙けむる風景にほほえみかけ、その中をいくつもの細流や小川の奏でる妙音に心楽しく旅人は小島から小島へと道をひろい、流れの血管は、運び去りつつある冬の血液で満ちあふれている。
村へ行く途中にとおる鉄道線路の深い切り通しの斜面を緩んだ砂と粘土が流れ落ちる際に描く、いろいろな図形ほど私を楽しませてくれる現象はほとんどなかった……土質がこのように流れやすい土質で新たにその肌を露出した土手の数は、鉄道の発明以来ぐんと増えたにちがいないが、これほど規模が大きいのはざらにはない現象であった。土質はあらゆる程度の細かさと変化に富む豊かな色彩の砂で、たいていは少々粘土が混じっていた。春、霜が降りたり、冬でも雪の溶ける陽気な日には、砂が溶岩のように斜面を流れ出して、時には雪を突き抜けて飛び出し、以前は砂が見当たらなかった所にあふれ出てくる。無数の小さな流れが重なり、互いに交錯して、なかば流れの法則、なかば植物の法則にしたがう一種の合の子的な産物を展覧に供することになる。流れるにつれて砂はみずみずしい葉や蔓の形となり、厚さ一フィート、またはそれ以上もあるドロドロした枝状の堆積となって、上から見おろしたところではなにかの地衣類の、裂片状をした、縁に浅裂のある、うろこ状の葉状体〔葉、茎、根の区別がなく葉状をした植物体〕に似ている。あるいはサンゴ、ヒョウの足か鳥の足、脳、肺、腸、そしてあらゆる種類の排泄物を思い出させる。それはじつに<グロテスク>な植物ともいうべき物で、その形や色彩が青銅で模造されているのをよく見かける植物……アカンサス、チコリ、キヅタ、ブドウその他のあらゆる植物の葉よりも古代的で典型的な一種の建築用の葉飾りを思わせる。場合によっては、それは未来の地質学者にとってひとつの難問となるかも知れほい。切り通し全体は、鍾乳石《しょうにゅうせき》が日の光にさらけ出された洞窟、といった印象を与えた。砂の変化に富む色合いにはいろいろな鉄色……褐色、灰色、黄色、赤味がかった色……が含まれており、いかにも豊かな感じがして、気持のよいものであった。流れる塊が土手の裾の溝にたっすると、さらに平たく広がって<盛り上がり>、個々の流れは半円筒形の形を失って徐々に平たく幅を広げ、水分を含むにつれて混じり合って流れ、ついにはその変化に富んだ美しい色合いのまま、ほとんど平らな<砂地>となる。だが、そこではまだ元の植物の形状をたどることができる。いよいよ最後に水の中に入って河口の先にできるような<砂洲《さす》>に変わり、植物の形状は底のさざ波模様に紛れ込んで消えてしまうのである。
土手全体は二十から四十フィートの高さだが、その片側または両側が四分の一マイルにわたって春の一日の産物であるこの種の葉飾りの集まり、氾濫《はんらん》する砂でおおわれることがある。この砂の葉飾りを注目すべき物にしているのは、それがこのように、とつじょとして出現するからである。一方の側に何の生気もない土手を見て……太陽は最初片側にだけ影響を及ぼすから……他方に一時間で生い茂るこの葉飾り模様を見ると、ある特別な意味で、世界と私を創造したあの「芸術家」の仕事場に立っているような気持に……彼がこの土手をいじくり回し、あり余った精力をもってその意匠になる新しい模様をまき散らしつつ、まだその仕事を続けているところに来合わせた、といったように気持になる。地球の内臓にいちだんと近づいたような気がしてくる。この流れ出た砂が動物の内臓に似た、木の葉の集まりみたいだからだ。われわれは、こうして砂そのものの中に値物の葉を予想させるものを見る。地球が自身を葉の形で外部に表明することはなんら不思議ではないのだ。内部で葉の概念を生み出そうとして苦しんでいるのだから。原子がすでにこの法則を学び取って、それを内に孕《はら》んでいる。頭上に垂れ下がる葉はここにその雛型《ひながた》をもっている。地球においても動物の体においても、<内部にあっては>それはとくに肝葉、肺葉、腎臓周囲の脂肪の<葉>に当てはまる語である湿った厚い葉《よう》 lobe(λειβω labour, lapsus=下に流れるか滑る、陥ること。λοβοζ globus には lobe〔葉、つまり丸みのある突き出た器官。切り込みで分けられた裂片の意もある〕、 globe〔地球〕それに lap〔重なり合う〕、 flap〔垂れ下がる〕、その他多くの語がある)であり、<外部にあっては>乾燥した薄い葉 leaf となる。b の字を押しつけて乾燥すれば、f や v の字となるようなものである。この lobe の語根は lb でb の軟かいかたまり(b には葉が一つ、B には二つある)を背後から流音の l が前へ押し出した形である。globe(地球)では、語根が glb で、喉音 g がその意味に喉の働きをくわえている。鳥の羽毛と翼はさらに乾燥して薄くなった葉である。同様にまた、それは地中ののろまな地虫から軽やかに空中を舞い飛ぶチョウにまでも及んでいる。
地球そのものも、絶えずみずからを超克し、変化してその軌道を巡っている。氷でさえ、まるで水中の植物の葉が水の鏡に刻まれている鋳型に流れ込んで固まったかのように、繊細で水晶のように透明な葉からできはじめるのだ。木にしても全体がひとつの葉に他ならないし、川はまたさらに巨大な葉で、葉肉は間にはさまれた陸地、町や都市は葉柄と枝との股に生みつけられた昆虫の卵である。
日が沈むと砂の流れも止まる。だが、朝になるとふたたび流れはじめて、枝からまた枝が分かれて無数に流れは増えてゆくだろう。そこでは、あるいは血管の生成過程がうかがえるかも知れない。よく見ると、溶けかけた砂の塊から指頭に似た、先端が水滴状のやわらかい砂の流れがまず押し出されて、ゆっくりと、盲目的に探り下りてくるが、やがて太陽が高くなるにつれてさらに熱と湿気を得ると、そのうちの最も流動的な部分は、最も動きの鈍い部分もやがては従うことになる法則に従おうと懸命になって後者から分離し、内部にみずからの曲りくねった水路または動脈を作り、その中では小さな銀色の流れが柔らかな葉や枝の一段階から他の段階へと電光のようにきらめきながら続いて、時にはそれが砂の中に飲み込まれるのが観察される。水路の鋭い先端を形成するのに砂はその塊が供給できる最良の材料を使いつつ、流れながらも急速に、しかも完全にみずからを組織してゆく様子は驚くべきものである。川の源もこうしたものなのだ。水が沈積させる珪酸《けいさん》性の物質にはたぶん骨質組織が含まれているだろうし、さらに細かな土や有機物には筋肉繊維か細胞組織が含まれているだろう。人間とても溶けかけた粘土の塊以外の何であろうか?〔旧約聖書「ヨブ記」第三三章第六節〕人間の指頭は凝固した滴にすぎない。手足の指は肉体の塊が溶けてそこまで流れてきたものである。もっと温暖な気候のもとでは、人間の体はどこまで広がり、流れ出てどんな形になるものやら、誰にも分からないのだ。手は裂片と葉脈 vein(静脈の意もある)をもつ、広がったシュロの葉 palm(手のひらの意もある)ではないだろうか? 想像をたくましくするなら、耳とは裂片、lobe(耳たぶの意もある)すなわち垂れ下がりのある、側頭部に生えた地衣類 umbilcaria とも考えられるだろう。唇……ラテン語の唇 labium は流れ落ちる意の labour からか?……は洞穴のような口の上下両側が重なるか、または垂れたものだ。鼻は明らかに凝固した滴、ないし鐘乳石だ。顎はさらに大きな滴、顔からの垂れ下がりが合したものである。頬は額から顔の谷間への地滑りが頬骨にはばまれて広がったものである。植物の葉のそれぞれ丸みを帯びた裂片もまた、大なり小なりすべて濃いために今は流れずに止まっている滴だ。裂片は葉の指である。葉はそれがもつ裂片の数だけの方向に流れる傾向があって、熱その他もっと好都合な条件に恵まれていたとしたら、さらに流れ出ていたことだろう。
このようにして、このひとつの丘の中腹は、自然のあらゆる営みの原理を例証しているように思われるのだ。この地球の造り主は、ただ一枚の葉の特許を取っただけなのだ。いったいどんなシャンポリオン〔一七九二〜一八三二。フランスのエジプト学者。象形文字の解読に道を拓いた〕が現われて、われわれがついには生活という書物の新たな一|葉《ページ》をめくって新局面を開くようにと、われわれにこの象形文字を解読してくれるのだろうか? この現象は、私にとってはブドウ畑の豊作よりも気を引き立てる。なるほどその文字の性格には多少とも排泄物を思おせるようなところがあるし、肝臓、肺臓、腸が累々《るいるい》と際限なく連なっている様子は、まるで地球が裏返しにされたようでもある。だが、このことは少なくとも自然が臓物をもっていることを暗示していて、その点から考えても自然はまさしく人類の母なのだ。これは大地から出てきた霜である。春そのものである。神話が本格的な詩に先行するように、それは緑にあふれて花開く春に先駆けるものだ。胃にたまる冬の悪気〔胃に発生して脳に上がると考えられていた〕と消化不良を一掃するうえに、霜ほど効くものを私は知らない。霜を見ていると、地球はまだ襁褓《むつき》期にあって、その幼い乳飲み子の指を四方にのばしているのだ、という確信をもつ。新しい巻き毛がその最も際立った額から生え出す。そこには無機的なものは何ひとつない。この葉状の塊は、溶鉱炉から出た鉱滓《かなくそ》のように土手ぞいに横たわって、自然が内部の炉で「燃え盛っている」ことを示している。
地球というものは、書物の紙葉のように地層が重なっていて、主として地質学者や考古学者の研究対象となるにとどまるといった、たんなる死んだ歴史の断片ではなくて、花や果実に先駆ける木の葉にも似た、生きている詩なのだ……化石となった大地でなく、生きた大地なのであり、その中心に脈打つ偉大な生命に比較すれば、あらゆる動植物の生命などは寄生的なものにすぎない。地球が子を産む苦しみは、人間の残骸をその墓場から持ち上げることだろう。金属を溶かしてそれを最も美しい鋳型《いがた》に流し込んでも、とてもこの溶けた大地が流れ出て造る形のように私の胸を躍らせはしない。しかも、大地ばかりではない。その大地の上で行なわれている諸制度もまた、陶工の手中にある粘土のように思いのままな形にできるものなのだ。
やがてこの土手の両側ばかりでなく、あらゆる丘、平野、またあらゆる窪地でも、霜は冬眠していた四足獣が穴から出て、あるいは妙なる楽の音とともに海に向かい、あるいは雲の中の別の国に移り住む。穏やかな説得の言葉をそなえたその霜溶け<|Thaw《ソー》>は、槌《つち》を手にした雷神<|Thor《ソー》>〔トール。北欧神話。冬の氷を砕く「槌」と「力の帯」の二宝物をもつ神〕にも増して力強い。前者は溶かしてしまうが、後者は粉々に砕くだけだからだ。
地面の雪があちこち部分的に溶けてなくなり、二、三日暖かい日が続いてその表面が多少とも乾くと、顔をわずかにのぞかせたばかりの、最初の柔らかくて幼い年の印を、冬に耐えてきた枯れた草木の威厳のある美しさにくらべてみるのは楽しいことであった……ハハコダサ、アキノキリンソウ、ピンウィード〔ハンニチバナ科の植物〕、それに美しさがまるでその時期になって初めて円熟したとでもいうように時には夏に見るよりも目立ち、興味を引く優雅な野草たち。ワタスゲ、ガマ、モウズイカ、オトギリソウ、ハードハック〔シモツケの類の潅木〕、メドウスウィート〔シモツケの類の潅木〕、そのほか茎の丈夫な植物。春一番にやってくる小鳥たちを歓待するそれら無尽蔵の殻倉は、未亡人となった自然が身にまとう、少なくとも見苦しくはない喪服《ウイード》……雑草《ウイード》である。半月形に垂れて殻物の束に似ているホタルイの先端にはとくに引かれるものがある。それは冬の思い出の中に夏をよみがえらせてくれるし、美術において好んで模写される形のひとつで、すでに人間の心の中にある原型を表現している点で、天文学がはたすのと同じ役割を植物界においてはたしている。ギリシアやエジプトのものより古い古代の様式なのだ。
冬のいろいろな現象には、言うに言われぬ柔らかさ、か弱い繊細さがある。われわれは、この冬なる王が粗野でやかましい暴君として述べられるのに聞き慣れているけれども、じつは、彼は恋人のような優しさをもって夏の豊かな髪を飾ってやるのである。
春が近づく頃、坐って読書や書き物をしていると、アカリスが二匹一度にすぐ足もとの床下に入り込んで、聞き覚えのない奇妙なくすくす笑いをし、チュッチュッとさえずり、ピルエット〔バレーやスケートの爪先旋回〕よろしく声を旋転させ、そして喉を鳴らす。足を踏み鳴らすと、いっそう大きくチュッチュッと鳴く。夢中でふざけているうちに恐れも敬意もすべて忘れ去り、とめだてする人間を無視するような様子である。やめろ……チュッ……チュッ。私の抗議にはまったく耳をかさず、あるいはその威力にも気づかず、抑えきれない、といった様子で悪口雑言の調べにふけるのだった。
春一番のスズメだ! 今まで以上に若々しい希望ではじまる一年! あちこち露《あら》わになった湿っぽい野原にはアオツグミ、ウタスズメ、ハゴロモガラスのかすかな、銀のようなさえずりが聞かれて、冬の最後の雪片が舞い降りて鳴るかのようだ! こうした時には歴史も、年代記も、伝統も、そしてあらゆる書きとめられた啓示も無意味なものになってしまう。小川は春への賛美と歓喜の歌を歌う。牧草地の上を低く滑空するチュウヒが、眠りから覚めた最初のぬるぬるした生物を、もう漁《あさ》っている。雪解け水の流れる音がすべての谷間に聞かれ、氷は池で溶け急ぐ。草が丘の中腹で春の野火のように燃え立って……et primitus oritur herba imbribus primoribus〔「最初の雨に呼び出され、草は初めて萌えいずる」。ローマの学者バロの『農事』より〕……まるでもどってくる太陽に挨拶しようと、大地が内部の熱を送り出すかのようだ。
黄ならぬ緑がその炎の色だ……永遠の青春の象徴である草の葉は、長い緑の芝地から萌え出て夏に入り、なるほど霜に阻《はば》まれはするものの、またすぐのび続けて、去年の枯れ草の穂を下の新たな生命でおし上げる。それは、地中から細流がにじみ出るように着々と生長する。まったく細流そのものだ。というのは、のび盛りの六月の日に細流が枯渇すると、草の葉が水の流れとなって年々歳々家畜の群れはこの不断の緑流で喉を潤《うるお》し、草を刈る人たちも時期を失することなくその緑流から冬の蓄えを汲み取るからである。われわれの生命もまた同様に枯れて根に帰るだけのことで、やがてふたたびその緑の葉を永遠に向けてのばすのである。
ウォールデンは急速に溶けてゆく。北側と西側ぞいに二ロッド〔約十メートル〕幅の水路ができており、東端ではいちだんと広く開《あ》いている。大きな氷の広がりがひとつ割れて本体の氷から分離した。ウタスズメが一羽、さえずるのが岸の茂みから聞こえる……オリット、オリット、オリット……チップ、チップ、チップ、チップ、チーチャー……チー、ウィス、ウィス、ウィス。彼もまた氷を割る手伝いをしているのだ。岸の曲線に多少は呼応しているが、もっと整然とのびている氷の縁の曲線の、なんと見事なことか! 先日の厳しいが一時的なものであった寒さで、いつもになく氷はかたく、宮殿の床のように波形模様が一面に広がっている。だが、風はその不透明な氷の表面を東方に空しく吹き渡り、その向こうで息づく水面にたっする。日光にきらめくこの水のリボン、池の中の魚や岸の砂の喜びを語るかのように喜悦と活気に満ちた池の素顔を見るのはすばらしいことだ……ウグイ(leuciscus)の鱗《うろこ》が光っているのを思わせる銀色の輝きは、まるで池全体が一匹の生きた魚のようだ。これほど冬と春の対象は著しいのである。ウォールデンは、死んでふたたび生き返ったのだ〔新約聖書「ルカ伝」第十五章第二四節〕。この春は、前にも言ったように解氷が例年よりも着実に進んだのだった。
嵐と冬から静かで温和な天候へ、暗く、もの憂い時から明かるく弾みある時への変化。これは万物が宣言する重大な転機である。それは、見たところでは結局瞬間的なものだ。とつぜん、夕方も間近い頃、冬の雲がまだ垂れ込めて、軒からは霙《みぞれ》のような雨が滴《したた》っているというのに、光が家いっぱいにさし込んでくる。私は窓から外を眺めた。すると、どうだ! 昨日冷たい灰色の氷が張りつめていた所に、透明な池がもう夏の夕方のように静かに、希望にあふれて横たわり、頭上には、まだなんらその気配も見えない夏の夕空をその懐《ふところ》に映している。まるで池はどこか遠い地平と連絡があるかのようだ。遠くにコマドリの鳴く声がした。何千年ぶりに耳にしたような、また今後何千年も忘れることのない調べ……昔ながらの甘く、力強い歌声である。おお、ニューイングランドの夏の夕べのコマドリよ! それが止まっている小枝を見つけ出せるといいんだが! 私がいうのは、今鳴いている<そのコマドリ>、<その小枝>のことだ。それは少なくとも学名 Turdus migratorisu(コマツグミ)で呼ばれる鳥とは違うのである。家のまわりのヤニマツと潅木のオークも、ずいぶん長い間うなだれていたのが急にそのいくつかの性格を取りもどし、きれいさっぱりと雨に洗われて生気を回復したかのように、いっそう明かるく、緑にあふれ、生き生きして真っすぐ立っているように見える。もう雨が上がったのだと分かった。森のどんな小枝、いや、薪の山を見ても、冬が過ぎ去ったかどうかは分かるものである。暗くなって、森の上を低空で飛ぶガンの<鳴く声>に驚いた。疲れた旅人のように南の湖から遅くにたどり着いて、やっと気楽になって愚痴をこぼすやら、お互いに慰め合うやらしている。戸口に立つと、そのせわしい羽音が聞こえた。家に向かって突進してきて不意に明かりを見つけると、声を押し殺して鳴きわめきながら旋回して池に降り立った。それで私も家に入って戸を閉め、森での最初の春の夜を過ごした。
朝になると、戸口から霧を通してガンたちが五十ロッド(約二百五十メートル)先の池の真ん中を泳いでいるのが見えた。とても大柄で、それがまた非常に騒々しく、ウォールデンは彼らが楽しむために造られた人工の池のように見えた。だが、私が岸辺に立つと指揮官の合図で羽音高くいっせいに飛び立ち、隊列がととのうと総勢二十九羽が私の頭上に輪を描き、もっと泥深い池で朝の餌を口にできることを信じつつ、間を置いた指揮官の規則的な鳴き声とともに真っすぐカナダ目指して飛んでいった。カモの一隊もそれと同時に飛び立ち、騒々しい従兄弟《いとこ》たちに続いて進路を北にとった。
それから一週間の間、霧が立ちこめた朝には、取り残されたガンが一羽、仲間を求めて輪を描きながら飛び回る騒々しい鳴き声を耳にした。森が養いきれないでもてあますほどの大きな図体から鳴き声を発して、今も森から離れずにいるのだった。四月にはハトが小さな群をなして急遠度で飛ぶのが見られたし、やがてイワツバメが私の開墾地の上でさえずるのを聞いた。私の方に差し向けてよこすほど多くは町にいると思われなかったのに。これらの鳥は、白人がやってくる前から木の虚《うろ》に住んでいた特別な由緒ある種属だろう、と私は想像した。ほとんどどこの地方でもカメとカエルはこの季節の先触れ、あるいは先駆け役の一員となっている。鳥はさえずりながら翼をひらめかせて舞い飛び、植物は芽を吹いて花を咲かせ、風は渡って地軸のこのわずかな傾きを正し、自然の平衡を維持しようとする。
季節というものは、それぞれ移り来る順にそれが最高の季節のように思われるもので、春の訪れは混沌《こんとん》からの宇宙、黄金時代の実現にも似ている……
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東風は去れり。東の方《かた》ナバテアとペルシアの国へ。
朝日の下に連なる山並ヘ。
………
人は生れぬ。万物の造り主、より善き世の根源が、
聖なる種子にて彼を造りしものか。
はたまた過ぐる昔天上より分かたれし大地が、
同族なる天の種子をばもどせしか」
――オウィディウス『転身物語』
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わずか一降りの雨で、草は数段と緑を濃くする。同じ様に、われわれの前途の見込みもいっそう良い考えが流れ込んで明かるくなる。祝福されたいと思うならば常に現在に生きて、草がその上に降りるごくわずかな露の影響をも色に表わすように、われわれに起こるすべての出来事を活用し、過ぎ去った機会をなおざりにしたことに対する償いに時を過ごしては、それを義務の遂行だ、などと呼ぶことがあってはならない。すでに春だというのに、まだわれわれは冬の中にいてぐずぐずしている。心地良い春の朝には、人間の罪はすべて許されるのだ。こうした日は、罪悪に対する一時的休戦の日である。太陽がこうして燃えつづける間は、最も罪深い者でも善人にもどることができる。われわれ自身が取りもどした清浄さを通じて、隣人の清浄さをも認めるのである。昨日は隣人を泥棒、酔漢、好色者と知ってただただ彼を哀れみ、軽蔑し、そして世の中に絶望したかも知れない。だがこの春の最初の朝、太陽は明かるく、暖かく輝いて世界を再生し、隣人がなにか落ち着いた仕事に精出しているのに出会って、彼の放蕩に疲れきった血管が静かな喜びでふくらみ、その新しい日を祝福し、幼ない頃の無邪気さで春の影響を膚《はだ》に感じとっているのを見ると、彼の犯した過まちなどはすべて忘れてしまう。そんな彼の身辺には善意の雰囲気がただよっているばかりか、神聖な香りまでが新たに生まれた本能のように盲目的、非効果的にではあろうが、表現を模索していて、しばらくは南の丘の中腹も卑俗な戯言《たわごと》などはまったくこだまさせない。彼のごつごつした樹皮からは、天真爛漫《てんしんらんまん》で汚《けが》れを知らない若枝が生えたての植物のように柔らかく、みずみずしく萌え出て、新たな年の生活を試みようと準備しているのが見える。彼は主人と喜びをともにする〔新約聖書「マタイ伝」第二五章第二三節〕のである。なぜ、看守は牢獄の戸を開け放たないのか……なぜ裁判官は訴訟を却下しないのか……なぜ牧師は会衆を解散させないのか! それは、彼らが神の与え賜う暗示にしたがおうとはしないし、神が万人に惜し気なく差し出される免罪を受け入れないからである。
「伐り倒された森の木に新芽が吹き出るように、毎日朝の安らかで恵みぶかい息吹の中に育まれる良心に復帰するなら、美徳を愛し悪徳を憎むという点で、人は多少とも人間の本性に近づくことになる。同様に、人間が一日の間に行なう悪は、ふたたび出かかった美徳の芽がのびるのを妨げ、それを摘み滅ぼしてしまう。
美徳の芽がこうして何回となくのびるのを妨げられると、夕べの恵み深い息吹きもそれを維持しきれなくなる。夕べの息吹きがもはやその芽を維持しきれなくなれば、人間の本性はたちまち畜生のそれと大差のないものとなる。本性が畜生のそれに似ている様を見て、彼には生得的な理性の働きが初めからなかったのだ、と人は考える。これが真に自然な人間の情というものなのだろうか?」――孟子「告子篇」。「牛山の木の譬え」
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初めに黄金時代創られたり。復讐者なく掟《おきて》とてなく、
そはおのずから忠実と廉直を育《はぐく》めり。
刑罰も恐怖もあらず、脅し文句の
吊《つる》されし真鍮板《しんちゅうばん》に記されしことなく、
嘆願の群れ
裁き手の言葉を恐れることもなく、
復讐者なくして安穏なりき。
山で伐られし松の、いまだ外国《とつくに》を見んものと、
うねる波まで下りゆきしこととてなく、
人はおのが国の浜辺のほかは知らざりき。
常春《とこはる》ありて、穏やかなる西風《ゼファー》暖かく吹き
種子なしに生まれたる花々を慰めにけり」
――オウィディウス『転身物語』
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四月二十九日、ナイン・エーカー・コーナー橋近くの川岸、ジャコウネズミが潜むコバンソウとヤナギの根の上に立って釣りをしていた時、男の子が指で鳴らして遊ぶ四つ竹の音にやや似た、妙なカタカタという音を耳にして見上げると、ヨタカに似た、非常にほっそりして優雅なタカが一羽、さざ波のように翼をひるがえして舞い上っては一、二ロッド〔約五〜十メートル〕転がるように降下するのを何回となく交互に繰り返して、日光を受ける繻子《しゅす》のリボン、あるいは真珠色をした貝殻の内側のようにきらめく翼の裏を見せていた。この光景から私はタカ狩りを思い出して、その遊びがどんなに高尚な詩を連想させるものかに気づいた。それはコチョウゲンボウ〔ハヤブサの一種〕と呼んでもよい鳥のように思われた。が、名前などはどうでもよいことだ。その鳥は、それまでに目撃したことのない軽妙な飛び方をした。チョウのようにただ羽をばたつかせるのではなく、もっと大きなタカのように舞い上がるのでもなく、大気の野原で誇らしげな自信を見せながら戯れるのである。奇妙な、こもったような鳴き声を立てて何度となく舞い上がると、凧《たこ》のようにまた何度ももんどりうってその自由な美しい降下を繰り返し、まるで大地(terra firma)に一度も降り立ったことがないかのように大きく降下しては姿勢を立て直す。この宇宙に仲間というものはいず……ただ独り大空で戯れているのだ……また、自分が戯れているその朝と青空以外は何もいらない、といった様子であった。寂し気なところがなく、むしろその下方に広がる大地すべてを寂しく見せていた。そのタカを孵《かえ》した親鳥、親族、そして天なるその父はどこにいるのだろう? 空の居住者よ! かつて岩の割れ目で卵から孵ったという事実だけが、その鳥を地上に結びつける絆《きずな》となっているようだった。それとも、その生れた巣は雲の一角にかかって虹の縁飾りと夕焼けの西空とで編み合わされ、地上からすくい上げた柔らかな真夏の靄《もや》で裏打ちされているのだろうか? そのタカの巣も、今ではどこかの雲の断崖となっているのだ。
このほかに私には珍しい金、銀、明かるい銅色、と色とりどりの魚の収穫があって、それはひと繋《つな》ぎの宝石にも似ていた。ああ、最初の春の朝、私は何度となく高みから高み、ヤナギの根から根へと跳びつたって牧草地にはいり込んだものだった。そうした時、自然そのままの川谷と林は、ある人たちの想像するように死者が墓の中で眠っているとしても目を覚まさんばかりにも清純な、明かるい光を浴びていた。これ以上有力な不滅性の証拠は不要である。このような光の中では、万物が生きているに相違ない。おお、このような時は、死よ、おまえの刺《はり》はどこにあるのか? おお、墓場よ、おまえの勝利はどこにあるのか?〔新約聖書「コリント前書」第十五章第五五節〕
われわれの村での生活は、もし周囲の人跡未踏の森と草原がないなら、それは活気のないものになってしまうだろう。われわれには野性という強壮剤が必要なのだ……時にはサンカノゴイやクロガモの潜む湿原を歩いて渡り、シギの鳴き声を聞き、さらに野性的で孤独を好む鳥だけが巣をかけ、ミンクが腹を地面にすりつけて這い回る所でそよぐスゲの香をかぐことが必要なのである。われわれは、あらゆるものを調査して学び知ろうと熱心に望んでいると同時に、あらゆるものが神秘的で調査しがたく、陸も海も無限に野性的で、未踏査のままで、測り知れないがためにわれわれの手では測られずにある、ということであって欲しいと望んでいる。自然には、これで十分というほど決して親しめるものではない。われわれは無尽蔵な活力の壮観さ、途方もなく巨大なたたずまい……難破船の横たわる海岸、生木や朽ちかけた木の荒野、雷雲、三週間も降り続いて奔流を引き起こす雨……によって生気を取りもどさなければならないのだ。われわれ自身のもつ限界がのり超えられ、なにかの生物がわれわれの決して踏み入らない場所でゆうゆうと草を食《は》む様子を目撃する必要があるのだ。われわれならうんざりして気の滅入るような死肉をハゲタカが食べて、その食事から健康と力を得るのを見て、われわれも元気づくのだ。私の家に通じている道に馬が死んでいて、ときどき回り道を余儀なくされたが、それを見て、自然は食欲旺盛、何を食べても健康を害したりはしない、という確証が与えられ、それで回り道をしたことの埋め合わせがついたものだった。自然には生物が満ちているから、無数の生物が互いに犠牲となり、餌食となる余裕がある……サギに飲み込まれるオタマジャクシ、路上でひき殺されるカメやヒキガエルなど、か弱い生物が果肉のように平然と押しつぶされて姿を消すこともあるし、時には血肉の雨が降ったこともあるのだ! そして、私はこうしたことを見るのが好きだ。事故はとかく起こりがちなものであるから、それに大騒ぎしない術《すべ》を心得ていなければならない。賢明な人がこの世界から受ける印象は、全世界は汚《けが》れのないもの、ということである。毒も結局毒ではないし、どんな傷も致命傷とはならない。同情というものは、非常に守りがたい拠点である。同情するのなら、その場その場で急いで同情しなければならない。同情心の訴えは、定型化されることにたえられないだろう。
五月の初め、池を取り巻く松林の中で芽を出したばかりのオーク、ヒッコリー、カエデ、その他の木が風景に日光のような明かるさをそえる。とくに曇った日などは、ちょうど太陽が霧をとおしてもれて、それが丘の斜面をあちこちかすかに照らしているようであった。五月の三日、または四日には池でアビを見たし、この月の第一週中にはヨタカや、チャイロツグミモドキ、ビーリ〔ツグミ〕、モリタイランチョウ、トウヒチョウ〔北米東部にいるアトリ類の鳴鳥〕、その他の鳴き声を聞いた。モリツグミはそのずっと前に聞いた。タイランチョウはすでに再度の来訪で、あたりの様子をうかがいながら宙に浮いている、といった格好で爪をまげ、羽をばたつかせて体を支えながら、私の家が洞穴然としていて住みつけそうかどうかと戸口や窓からのぞき込んでいた。硫黄《いおう》に似たヤニマツの花粉がやがて池を、そして岸ぞいの小石や朽ち木をおおって、集めようと思えば樽に一杯でも集められそうだった。これこそ話に聞く「硫黄の雨」〔四、五世紀のインドの詩人カーリダーサの『シャクンターラ』第五幕〕だ。そして、人がだんだんと丈高な草の中に入り込んでゆくように、季節は巡って夏に人るのだった。
こうして森での最初の年の生活も終りを告げた。第二年目も似たようなものであった。私は一八四七年九月六日、ウォールデンを引き払った。
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むすび
病人に対して医者は賢明にも転地を勧める。ありがたいことに、この地だけが世界ではない。トチノキはニューイングランドでは育たないし、マネシツグミの鳴き声もここではめったに聞かない。ガンはわれわれよりも国際的で、カナダで朝食をし、オハイオ州で昼食をとって、その夜はゆっくり南部の入江で羽繕《はづくろ》いをする。野牛でさえコロラド州の牧草地で草を食むのは、いちだんと緑を増して美味《おい》しくなった草がイエローストーン河畔で彼を待つようになる時期までで、ある程度季節と歩調を合わせている。だがわれわれときたら、農場の柵《さく》が取り壊されてそこに塀がたつと、その後の生活はすっかりその中に限定されてしまい、運命は決まった、と考える。事実、町の書記にでも選ばれようものなら、この夏はティエラ・デル・フェゴ〔北米南端の複数の島。「火の国」の意のポルトガル語〕に出かけることなどできはしない。まあ、地獄の火の国にでも行くことになるかも知れない。宇宙はわれわれが認識する以上に広大なのだ。
さらに、われわれは好奇心に満ちた船客のように、船の手摺《てすり》ごしにもっとあちこちを見渡すべきで、槙皮《まいはだ》むしりばかりしている愚かな船員のように航海していてはならない。地球の反対側は、われわれと便りを交わす者の住む場所にすぎなくなっている。われわれの航海はただ大きく円を描くだけ、医者は皮膚病の処方をしてくれるだけとなっている。人はキリン狩りに南アフリカへ急ぐが、キリンが彼の追跡したい獲物でないことは確かだ。かりに猟ができても、実際にいつまで猟をしたいと思い続けるだろう。シギやヤマシギの猟もおおいに結構だろう。だが、自分自身を追いつめて射止めることの方がいっそう高尚な遊びだと私は信じている……
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目を正しく内に向けよ。すると分かるだろう
心の中の数知れない地域が
未発見のままであることが。そこを旅せよ、
そして
自分の宇宙の形状に通暁するのだ」
――ウィリアム・ハビングトン(一六〇五〜五四。イギリスの詩人、歴史家)
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いったいアフリカとは何か……西部とは何を意味するのか? われわれ自身の内奥は、発見してみれば沿岸地方のように黒いことが分かるかも知れないが、海図の上では白いままではないのか? われわれが発見を望むものはナイル川の、ニジェール川の、またはミシシッピ川の水源だろうか、それともこの大陸を迂回《うかい》する北西航路〔大西洋からアメリカ北端を回って太平洋に出る航路〕なのか? いったい、これらは人類に最も重大なかかわりのある問題なのか? フランクリン〔サー・ジョン・フランクリン。一七八六〜一八四七。北西航路の発見を企てて一八四五年に探険に出かけ、行方不明となる〕が行方不明となっている唯一の人間で、その妻だけが、彼の捜索に躍起となっていてよいものだろうか? グリネル氏〔ヘンリー・グリネル。一八〇〇〜七四。一八五〇年、フランクリン捜索の探険をした〕は、自分自身がどこにいるか知っているのだろうか? むしろ自分自身の流れや大洋を発見するためのマンゴー・パーク〔アフリカ探険家〕、ルイスとクラーク〔ともにコロンビヤ川河口にたっした探険家〕、フロビッシャー〔フロビッシャー湾の発見者〕であることだ。自分自身のさらに高緯度地帯を探険するがよい……必要なら食いつなぎ用の保存食を船に積み、あき缶を山と積んで目印としなさい。保存食はたんに肉を保存する目的で創案されたものだろうか? いや、むしろ心の内なるすべての新大陸、新世界におもむくコロンブスとなって、貿易ならぬ、思想のための新ルートを開拓することだ。すべて人間は王国の君主であり、その王国にくらべれば、ロシヤ皇帝の地上の帝国もちっぽけな国家、氷にとり残された小山にすぎない。だが、<自己を>尊ぶ念に欠け、より大きなものをより小さなものの犠牲にして、それで愛国者的だとしていられる人たちがいる。彼らは自分の墓となる土を愛しても、土なる肉体〔旧約聖書「創生記」〕を絶えず活気づける精神にはまったく理解をもたない。愛国心など、彼らの頭の中での気まぐれな妄想である。これ見よがしに費用を投じて行なわれた、あの南洋探険〔英人サー・ジェームズ・ローズの率いる一八三九〜四三年の探険で、ビクトリアランドを発見した〕にどんな意味があったというのか? それは、精神界にはいくたの大陸や海があり、各人がその地峡なり、入江なりになっていてみずからまだ探険をしていないという事実を、そしてその個人的な海、人間の本質なる大西洋と太平洋をただ一人で探険するよりも、政府の船で、五百人もの手伝いの大人と少年をともなって、寒さと嵐と人食い人種の中を数マイルも航海するほうが楽であるという事実を間接的に認めただけのことだ……
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彼らをさまよわせて、遠き果てなる
オーストラリアの人を観察させよ、
われは神をより多く持ち、彼らは道をより多く持つ
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ザンジバル〔アフリカ東海岸沖の島。一九六三年、イギリス保護領から人民共和国として独立〕にいるネコの数を数えるために世界を一周するなど、何の価値もないことだ。もっとも、もっとましな事ができるようになるまでこんな事でもやっていれば、やがて地球の内部に降りてゆく「シスムの穴」〔ジョン・クレビス・シスム。一七八〇〜一八二九。地球は内部が中空で、両極に穴があいているとの説を唱えた〕でも見つかるかも知れないが。
イギリスとフランス、スペインとポルトガル、黄金海岸と奴隷海岸、すべてがこの個人の海に面しているのだ。だが、陸地が見えなくなるまで危険を冒してそこから乗り出す船はなかった。それは疑いもなくインドへ直通の道なのに。もしすべての言語を話し、すべての国の習慣にしたがうことを学びたいなら、もしすべての旅行者よりも遠くへ旅をし、すべての風土に慣れ、スフィンクス〔ギリシア神話。下半身がライオンで上半身が女性の怪物。旅人に謎をかけて解けない者を殺したが、オイディプスに謎を解かれ、それを恥じて岩から身を投じた〕に頭を岩に打ちつけさせたいなら、その時こそ昔の哲学者が説く教訓にしたがって「君自身を探るがよい」。そして、ここで眼識と勇気が要求されることになる。戦いにおもむくのは敗北者、逃亡者だけである。逃げて兵籍に入る臆病者である。今すぐにも、あの最も遠い西への道に旅立つことだ。その道はミシシッピ川でも太平洋でも果てることがないし、ありきたりの中国や日本の方へ導いてゆくのでもなく、この地球と接線をなして果てしなく続いている。夏も冬も、昼も夜も、太陽が落ち、最後に地球までが落ちてなくなるまで永遠に続くのである。
ミラボー〔一七四九〜九一。フランスの革命的政治家〕は、「社会の最も神聖な法に公然と反抗するのにどの程度の決心がいるものか確かめるために」追い剥ぎになったと言われている。「隊列を組んで戦う兵士には、追い剥ぎをする勇気の半分の勇気すらいらないものだ」……「名誉も宗教も、十分に考え抜いた確固たる決意の邪魔をするなど、到底できるものではなかった」、と彼は言明している。この言葉は、世間並みにいえば、男らしくはある。しかし、それはむちゃでないとしても無益な力みである。もっと健全な人間なら、さらにいっそう神聖な法則に服従することによって、「社会の最も神聖な法則」と考えられているものに自分がいつの間にか「本格的な反抗」をしていることに頻繁《ひんぱん》に気づくものだし、また、自分の平常の生き方からはずれることなく自分の決意の堅ナさを試したことだろう。それは人間が社会に対して故意にそうした態度を取ることではなく、自己の本性が命ずる法則に服従することによって、どんな態度であれ、そこに見い出される態度を守り続けることである。それは正しい政府に(もしそのような政府に運よく出会うことがあったとして)対する反抗的な態度とはならないだろう。
私は森に入った時と同じ正当な理由からそこを出た。どうやら私には他にもいくつかしなければならない生活があって、森の生活だけにそれ以上時間を割くことができなかったらしい。いかにわれわれは簡単に、しかも知らず知らずのうちにひとつの特定な道筋にはまり込んで、自分のために踏み慣らした道を作るものであるかは注目すべきことだ。森に住みついて一週間とたたないうちに、私の足は戸口から池の端まで小道を作ってしまった。そして、その道を踏み歩いていた頃から五、六年にもなろうというのに、いまだにその道ははっきりと見分けがつく。じつは他の人たちもその道にはまり込んでいたのではないかと思う。だから今だに消えないでその道はあるのだろう。大地の表面はやわらかくて人の歩く跡がつきやすい。心の旅路もまた同じだ。世界中にある道路もまた、どんなに踏み減らされて埃《ほこり》っぽくなっていることか……伝統と妥協の轍《わだち》がいかにも深くできているに違いない。私は客室を取って人生の航海をするよりも、マストの前に、世界の甲板に出ていたかった。そこにいる方が山合いの月光が最もよく見えたからだ。現在は下に降りてゆきたいと思っていない。
私は、自分の実験で少なくとも次のようなことを学んだ……人は自分が抱いている夢に向かって自信をもって進み、自分の思う生活をしようと努力すれば、ふだんは予想もしていないような成功に出会うものである。何かを後に残しつつ、目に見えない境界を越えて進んでゆけるだろう。新しく、普遍的でいっそう自由な法則が、その周囲や内部に確立しはじめるだろう。あるいは、今までの古い法則を拡大してさらに自由な意味で自分のためになるようにそれを解釈し、存在のより高度な秩序に認可されながら生きてゆくだろう。生活を単純化するに比例して宇宙の法則が複雑でないものに見えるようになり、孤独は孤独ではなく、貧困は貧困でなく、弱さも弱さではなくなるだろう。もし君が空中に楼閣《ろうかく》を築いたとしても、その仕事が骨折り損だとはかぎらない。空中は楼閣を築くべきところなのだ。今度はその楼閣の下に土台をすえてやることだ。
人が理解できるように話せ、というイギリス人、アメリカ人の要求は馬鹿げている。人間だろうと、キノコだろうとそうは育つものでない。まるで英米人に分かることがいかにも重要なことで、彼らでないと人間の言うことを理解できる人がいないかのようだ。ちょうど自然は理解についてはたったひとつの秩序しか支持できず、また、四足獣と同様に鳥を、這う物と同様に飛ぶ物をいれることもできないかのようだ。ただただブライト〔ジョン・ブライト。一八一一〜八九。イギリスの政治家〕の理解できる「静かに!」と「誰が?」だけが最良の英語であるかのようだ。まるで、気のきかない言い方だけをしていれば安全、といった調子だ。私は、自分の表現が通常の意義から<逸脱《いつだつ》した>表現力をなんらもっていないこと……自分の確信する真理を表現するにふさわしいほど自分の日常経験の狭い範囲を超えて遠くへはみ出ることのない表現力を主として案じている者だ。<逸脱>! それは、どのように囲われているか、という囲われ方いかんで違うものだ。他の緯度の新しい牧草地を求めて移住する野牛は、搾乳《さくにゅう》の最中に桶を蹴倒し、牛囲いの柵を跳び越えて小牛のあとを追いかける雌牛ほどに逸脱しているとはいえない。私は、どこかで<際限なく>しゃべりたいと思う。目を覚ましかけている人が目を覚ましかけている人にしゃべるようにだ。というのは、真の表現というものの基礎をすえるには、いくら誇張して話しても十分とはいえない、と信じているからだ。一曲音楽を聞いた後で、自分がいつまでも途方もない話をしはしないか、と心配した人がいるだろうか? 未来または可能性を予想しつつ、表面的にはまったく放縦に、漠然と生きて、そこではわれわれの輪郭をぼんやりかすんだものにしておくべきなのだ。ちょうど、われわれの影が日光にさらされると気づかぬまま消えてしまうようにだ。われわれの言葉の中に含まれている揮発性の真実は、残された陳述の不備を絶えず暴《あば》くべきなのだ。真実はたちまちのうちに<転移してしまう>。そして、その字義どおりの記念碑だけが残る。われわれの信仰や敬虔さを表現する言葉は明確なものではない。だが、それも優れた本性を有する人にとっては意義深いもので、乳香のように芳しく匂うのである。
つねに最も鈍い知覚にまで下りていって、それを常識として賛美するのはなぜか? 常識とは睡眠中の人間の意識で、いびきで表現されるものである。時としてわれわれは一倍半の知恵に恵まれている人を半分の知恵しかもたない人として分類しがちなものだ。その人の知恵を三分の一しか理解しないためである。いつか朝早く起きると、空を見て朝焼けの美しさに難癖をつける人もいるのだ。カービア〔十五世紀に生まれたインドの宗教家、神秘思想家〕の韻文には四つの異なる意義……幻想、精神、知性、それにベーダの通俗的な教義……があるといわれているそうだが、この世界のこの部分では、人の著作が二通り以上に解釈されてよいとなれば、それに文句をつけることもさし支えないことと考えられている。イギリスではジャガイモの腐敗防止に躍起《やっき》となっているようだが、誰か、このジャガイモの腐敗以上に広範囲にはびこっている頭脳の腐敗をなおすために、努力してくれる人はいないものだろうか?
私は、自分が暖昧《あいまい》の域に到達したなどとは思っていない。だが、この点では、私の書いたものの中にウォールデンの氷に見られた以上の致命的な欠陥が見い出されなければ、私はそれを誇りとするだろう。南部から来た顧客は、ウォールデンの氷が青いのを……それは純粋な証拠であるのに……濁ってでもいるように思って、いやがり、色は白いが草の味のするケンブリッジの氷の方を選んだのである。人間が愛する純粋さとは、地上を包む霧のようなもので、霧のかなたに広がる青空のようなものではない。
われわれアメリカ人、そして一般に現代人は、古代人、いや、エリザベス朝の人たちと比較しても知性的小人だ、と耳に痛いほど言いたてる人がいる。だが、それが結局どうだというのだろう? 生きている犬は死んだライオンにまさるのである〔旧約聖書「伝道の書」第九章第四節〕。小人の種族に属しているという理由から首をくくって、彼がなることのできる最大の小人にならなくてもよいのか? 各人に自分のなすべきことをしっかりさせて、なるように造られているものになるよう努力させることである。
なぜ成功しようとそんなに死にもの狂いに急ぎ、そんなに死にもの狂いに物事を企てなければならないのか? 仲間の者と歩調が合っていないのなら、それはたぶん仲間が聞いているのとは違う鼓手の打つ太鼓の音を聞いているからである。太鼓の調子がどうであれ、またどんなに遠くから聞こえてくるものであれ、自分に聞こえる音楽に合わせて歩を進めることだ。リンゴやオークの木のように早く成熟することが大切なのではない。自分の春を夏に変えなければならないとでもいうのか? われわれが到達すべく生れついている状態に達しないあいだは、どんな現実を代用しようと、それがなんの役に立つというのか? 空虚な現実の海原で難破するなど、ごめんこうむりたいものだ。いったい、苦労して頭上に青ガラスの天を張らなければならないものだろうか?……それができあがっても、今度はそんなものはまるでないかのように、必らずはるかその上に広がる、真に霊妙な天を見つめることになるというのに。
クールーの町に、完全さを求めて努力することを誓った一人の工匠がいた。ある日、杖の製作を思い立った。不完全な仕事では時間がひとつの要素となるが、完全な仕事には時間など入り込むものではない、と考えたすえ、たとえそのために生涯他の仕事が何もできなくなっても、その杖をあらゆる点で完全な物に仕上げよう、とひそかに考えた。不適当な材料で作るべきではない、と心に決めて、さっそく材料にする木を探しに森におもむいた。一本、また一本と探しては捨てているうちにだんだんと友人からとり残されていった。彼が仕事に打ち込んでいる間に友人たちは年を取り、死んでいったからだ。だが、彼の方は少しも老い込まなかった。その一心不乱の打ち込みようと気高い敬虔さが、知らないうちに永遠の青春を彼に授けたのだ。時間と妥協しなかったから、時間は彼の進む道に立ちはだかるのを控え、彼に打ち勝つことができずに遠くへ離れて溜息をついているだけだった。あらゆる点で適当と思われるような材料がまだ見つからないうちにクールーの町は灰色の廃墟と化し、ようやく彼は塚のひとつに坐って杖削りに取りかかった。まだ相応な形に削り終えないうちにカンダハー王朝は終りを告げた。彼は杖の先でその種族最後の者の名前を砂にしるし、ふたたび仕事を続けた。ついに滑らかに杖を削ってみがき上げた時は、もはやカルパ〔インド教の主神ブラーマの一日の時間で、四十三億三千万年に相当する〕が時間の長さの指標とはならないほど時は過ぎていた。石突《いしづ》きと宝石で飾り立てた頭部を杖に取りつける時までに、ブラーマ神は何度も目を覚ましたり眠ったりしていた。だが、なぜ私がこんなことを長々と述べるか? 最後の仕上げのひと彫りで、その作品は驚く工匠の眼前で俄然《がぜん》広がりを見せはじめ、ブラーマ神のあらゆる創造物の中でも最も見事な作となった。彼は杖を作ることで新しい体系、充実した見事な均整をもつ世界を作り出したのである。古い町も王朝も消え失せていたが、そこにはそれらにまさる麗しく、輝かしい町と王朝がとってかわっていた。彼は今なお真新しい足もとの削り肩の山を見て、それまでの時の経過が彼とその作品にとっては幻にすぎないこと、ブラーマの頭脳から出る火花が人間の頭脳の火口《ほぐち》に落ちて火をつけるほどの時間しか経過していないことを悟った。材料は純粋、そして技もまた純粋であった。どうしてその結果が驚嘆すべき作品とならないはずがあろうか?
物事の外観をどう繕っても、それは結局真実のように役立つものではない。真実だけが永続するのだ。われわれはたいてい自分のいる所にいないで偽りの場所にいる。その天性の弱点のために、ひとつの立ち場を想定して自分をそこにはめ込んでしまう。だから同時に二つの立場にいるわけで、そこから抜け出すのには二重の困難がともなうことになる。正気の瞬間にはありのままの事実だけを尊重する。義務的に言うべきことより、言いたいと思うことを言うがよい。どんな事実も見せかけにはまさる。鋳掛屋《いかけや》のトム・ハイドが絞首台に立った時、何か言いたいことはないか、と聞かれた。「仕立て屋たちに、最初ひと縫いする前に結び玉を糸に作るのを忘れないよう言ってくれ」と彼は言った。仲間の者は唖然《あぜん》として祈りを忘れたのだった。
生活がどんなにみすぼらしくても、それにまともに立ち向かって生き、避けたり、ひどくその悪口を言ったりしてはならない。その生活は君自身ほどには悪いものでない。最も裕福な時に最も貧しく見えるものである。難癖をつける人は、天国にいてもいろいろと難癖をつけるものだ。貧しくても自分の生活を愛することだ。おそらく、救貧院にいても楽しくて胸躍るようなすばらしい時を過ごせるだろう。落日は富める人の邸宅の窓からも、養老院の窓からも同じくキラキラ照り返される。雪は春になるとその玄関先でも同じ様に早く溶ける。そこでは穏やかな精神は宮廷でのように満足して生きられないし、喜ばしいことも考えられはしない、などといったことは、私には分からない。町の貧しい連中の方が最も独立的な生活をしていることがよくあるようだ。彼らは、ためらうことなく人から物をもらえるほど偉大であるだけのことかも知れない。おおかたの人は町に扶養してもらうのを潔《いさぎよ》しとしない。その彼らが往々にして、なんとも思わず不正直な手段をもって自活しているが、その方がむしろいっそう不名誉なことのはずだ。賢人のように、庭の植物でも栽培するように貧困を栽培するがよい。衣服でも、友人でも新しいものを得ようと躍起になって心を煩わすことはない。古いものに向かうのだ。それに帰れ。事物は不変で、われわれが変わるのだ。衣服は売り払って思想を保持せよ。神は交友に不自由のないよう取り計らってくれるだろう。たとえ私が屋根裏部屋の片隅に生涯クモのように閉じ込められても、思想を堅持するかぎり、世界は私にとって依然としてその広大さを失うことはないだろう。哲人は言う……「大軍からその総大将を奪い取って混乱に陥れることはできる。だが、一人の微賎《びせん》な男でも、彼からその立てた志を奪い取ることはできない」〔子曰、三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也。論語「子罕」第九〕と。
進歩発展を求めてあくせく努力し、いろいろな力に身をまかせて翻弄《ほんろう》されてはならない。それはすべて浪費というものだ。倹《つま》しい境遇は暗黒のように天上の光を顕示してくれる。困窮と貧弱の影がわれわれを取り巻いているが、「見よ! 宇宙はわれわれの視野に広がる」。
たとえクロイソス〔紀元前五六〇〜五四六。小アジアの古国リディアの富豪王〕の富を与えられても、われわれの目的とするところは依然として変らず、そのとる手段も本質的には不変であるべきことにしばしば気づかされる。さらに、人は貧困によって生活の範囲が限定されると、例えば本や新聞が買えないとなると、いきおい最も有意義で重要な経験だけをするようにかぎられるしかない。どうしても糖分や澱粉《でんぷん》の最も豊富な食べ物を相手にすることになる。そうした生活は、いわば最も味のよい、骨に近い部分の肉を食べる生活である。むだな生活を送らずにすむわけだ。心の豊かさがいちだんと高まるから、生活がいちだん低い水準にあっても決して損をする人はいない。余分な富は余分な物しか買えない。金銭は、魂が必要とするものを買うには不要である。
私は鉛の壁に囲まれた一隅に住んでいるわけだが、それでもその壁の成分には少量の鐘銅〔鐘を造る材料で、青銅よりも錫《すず》の分量が多い〕の合金が混入している。昼の休息をとっていると、チャランチャランというもつれた音がよく外の世界から耳にとどく。同時代に生きる人たちの立てる物音だ。隣人たちは、有名な紳士や淑女との珍しい経験やら、どんな名士と晩餐のテーブルで顔を会わせたかやらを話してくれる。だが私には『デイリー・タイムズ』紙の内容と同じで、そんな事にはいっこうに関心がない。彼らの関心と会話は、主に衣服と風俗に向けられているが、どんな装いをしようとガチョウはやはりガチョウである。彼らの話はカリフォルニアやテキサスのこと、イギリスやインドのこと、ジョージアやマサチューセッツの誰それ閣下のことなど、すべて束の間のはかない出来事ばかりで、聞いていてもついたまりかねてマムルーク〔一二五四〜一八一一にわたってエジプトを支配した武士階級の軍団員〕の首領ベイのように、隣人の中庭から跳び出しそうになる〔一八一一年、マムルークが虐殺された際に首領が真っ先に逃げ出したことからか?〕。私は、本来の自分の居場所に戻るとうれしくなる……目立つ場所を派手に、これ見よがしに練り歩くのでなしに、できることなら宇宙の創始者とでも歩きたい……せかついた、神経質な、騒々しい、取るに足らない十九世紀に生きるのでなく、世紀は過ぎ去るにまかせておいて物思いにふけりつつ、立ったり坐ったりしているのが楽しいのである。いったい、人々は何を祝っているのだろうか? 誰も彼もが準備委員会の委員をつとめて、のべつに誰かの演説を待ち受けている。神はその日の会長にされているだけで、ウェブスター〔ダニエル・ウエブスター。一七八二〜一八五二。アメリカの政治家。雄弁で知られる〕が神の代弁者となっている。私は、自分を最も強く、最も正当に引きつけるものを考慮し、確定してそれに引き寄せられたいと思う……秤《はかり》の桿《さお》にぶら下がって目方を減らそうと努めたりはしたくない……事実を想定するのでなしに、現にある事実を取り上げたいのだ。自分が歩むことのできる唯一の道、いかなる権力も私を妨害できない道を行きたい。堅牢な基礎をわがものとするまでは、アーチを築きはじめることに満足してはいられない。薄氷の上で遊ぶのはよそうではないか。がっしりした底はいたる所にある。旅行者が少年に、目の前の沼地の底がかたいかどうかをたずねた話を読んだ。かたいと少年は答えた。しかし、ほどなく旅行者の馬が腹帯まで沈んだので彼は少年に言った。「この泥沼は底がかたい、と言ったのではなかったのか」。少年は答えた。「かたいよ。でも、おじさんは底までまだ半分も沈んでいないんだよ」。
社会の泥沼や流砂もこれと同じことだ。しかし、それを承知しているのは世の中によく通じている人だけである。あるめったにない偶然の機会に考えられ、言われ、なされたことだけが本物である。たんなる薄板や塗り壁に愚かにも釘を打ち込むような人間の一人にはなりたくない。そんなことをすれば、夜も寝つかれないだろう。私にハンマーを与えて欲しい。そして、壁の下地材を手探りさせてくれ。パテなどに頼っていてはならない。夜中に目を覚ましても自分のした仕事を満足して思い出せるよう、釘を深く打ち込んできちんと締めつけよ……詩神ミューズを呼び寄せても恥ずかしい思いをせずにすむような仕事をするのだ。そうしてこそ、またそうすることによってのみ、神の助けもあろうというものだ。打ち込む一本一本の釘が宇宙なる機械のリベットであるべきで、われわれがその仕事をしているのである。
愛情よりも、金銭よりも、名声よりも、むしろ真実を伝えて欲しい。こってりとした料理と酒がどっさり用意されて、こびへつらう参会者が居並ぶが、誠実さと真実に欠けるテーブルに私はつく。そして、冷やかな食卓から飢えを感じながら立ち去る。そのもてなしぶりは氷のように冷たい。彼らを凍らせるのに氷はいらない、と私は思った。彼らは酒の年代やら銘柄の有名なことやらを話してくれる。だが、私はもっと古くてもっと新しい、もっと純粋な酒、もっと栄光に輝く銘柄のことを考えていた。彼らの手には入らないし、買うこともできなかったものだ。彼らの様式も家屋敷も「接待」も私にとってはなんの意味もない。私は王を訪問したのだが、彼は私を大広間に待たせておいて、まるで人をもてなす能のない人間のように振る舞ったのだ。私の近所に木の虚《うろ》で生活している男がいた。彼の物腰はじつに帝王にもふさわしいものだった。彼を訪問していた方がもっとましであったろう。
いったい、いつまでわれわれは玄関に坐り込んで、なんにもならない、カビの生えた美徳なるものを行なわなければならないのか? どんな仕事をしてみても、そんな美徳など、たちまち見当違いなことが分かるというのに。まるで当然のことのように一日をだらだらと続く苦悩ではじめ、ジャガイモ畑の除草に人を雇い、午後は午後で出かけてゆき、計画された親切さをもってクリスチャン的な優しさと慈善を施すとは! 人間がもつ中国的な高慢、沈滞した自己満足を考えてみるがよい。今の世代は、自分たちが輝かしい系統を守る現代の後継者であることを喜び祝う傾向が強すぎる。ボストンでも、パリでも、ローマでもその連綿たる伝統を踏まえて芸術、科学、文学の進歩を満足げに口にする。哲学協会に関する記録があり、<名士連中>が公会で賛辞を述べあう! それは自分の<偉さ>に見入る人間様といった図である。「そうだ。われわれは確かに偉業をなし遂げたし、聖なる歌も歌った。それは不滅であろう」……ただし、それも<われわれ>の記憶にある間だけのことだ。アッシリアの諸学会と偉人たち……それは、現在どこにあるのか? われわれはなんと若々しい哲学者、実験者であろうか! 人間の全生涯を生きたことのある人は、ただの一人も読者の中にはいないのだ。今の時代は、人類の生活での春の季節にすぎないともいえるだろう。七年間治らない疥癬《かいせん》に苦しんだことはあっても、十七年ゼミ〔成虫として地上に出る前、幼虫の形で十三年から十七年間を地中で過ごすセミの一種〕は、コンコードでは見たことがない。われわれは、自分が住んでいる地球のほんの皮相を知っているだけだ。たいていの人は地表を六フィートと掘り下げたこともないし、それだけ高く跳び上ったこともない。われわれは自分のいる場所を知らない。それに、時間のほとんど半分近くはぐっすり寝込んでいる。それでも自分を賢明だと思い込んで、地上にひとつの秩序を打ち立てている。まことにもって深遠な思想家であり、野望に燃える魂だ! 森の地面の松葉の間を這《は》い回って、私から見えないようにと身を隠すことに懸命な虫を見おろして私は立ち、虫がそうしたつまらぬ考えを抱いて、彼に恩恵を与えたり、その同類になにか喜ばしい知らせをもたらしたりするかも知れないこの私から魂を隠そうとする理由を自問してみる時、人間という虫なる自分の上に立っているいっそう偉大な恩人、知的存在に気づくのである。
世界には目新しいものが絶えす流入する。が、われわれは信じがたいほどの退屈さに耐えている。このことを示すには、最も進んだ国においてすら、どんな種類の説教が今なお聞かれるかをほのめかすだけで事足りるだろう。喜び、悲しみといった言葉はあるものの、それも鼻にかかった賛美歌の折り返しにすぎず、一方ではありふれた、卑俗なものを信じている。表面の衣服だけを取りかえられると思っている。英帝国は非常に大きくて立派な国、合衆国は第一級の強国といわれる。われわれがつねに心に留めていさえするなら、われわれ各人の背後には、英帝国を木っ端のように漂流させることのできる潮《うしお》が満ち干きしている、ということことをわれわれは信じない。どんな種類の十七年ゼミがこの次に大地から姿を現わすか、誰が知っているだろうか? 私が住む世界の政府は、イギリス政府などとは違って晩餐後の談話の中で酒杯を傾けながらできあがったものではないのだ。われわれの内なる生命は、川の水のようなものだ。それは、かつてなかったほど今年は水嵩《みずかさ》を増して、乾ききった高台に氾濫《はんらん》するかも知れない。今年が波爛万丈の一年となって、ジャコウネズミがすべて溺死することもあるだろう。われわれが今住んでいる所が必らずしも昔から乾いた陸地であったとはかぎらない。はるか内陸にも、科学がまだそこに洪水のあったことを記録しはじめていない大昔、流れに洗われた岸を見ることがある。ニューイングランド中に何度となく流布された次のような話はみな聞いているだろう。
リンゴの木でできた古い折りたたみ式テーブルの乾燥した自在板の中から出てきた、元気な美しい虫の話だ。このテーブルは最初はコネティカット州、後にはマサチューセッツ州のある農家の台所に六十年間も置いてあったものである……卵があった場所から外側に年輪を数えてみたところでは、その六十年からさらに何年も前に生木に生みつけられた卵から出てきたものらしい。出てくる数週間前から外に出ようとカリカリやっているのが聞こえていたそうだが、おそらくコーヒー沸かし器の熱ででも孵《かえ》ったのだろう。
この話を聞いて、復活と不滅への信念が強められるのを感じない者がいるだろうか? その生命の卵は、最初青々とした生木の白太《しらた》に生みつけられ、木はそのまま枯れはてて、見たところ工作に格好な残骸へとしだいに変っていった。が、卵は何年間も何層もの木質の年輪層にうずもれて、まったく乾燥しきった生活を送っていたのだ……この数年間には、家族が食卓を囲んで坐っていると、外に出ようとカリカリやっている音を耳にして驚いたこともあっただろう……最も日常的な贈り物である家具のただ中から、いったいどんな美しい、羽のついた生命が思いもかけずその姿を現わして、ついにはその申し分ない夏の生活を楽しむ事態になるものやら、誰にも分からないのだ!
私は、誰も彼もみなこうした事情を理解できるなどと言っているのではない。しかし、こうしたものこそ、たんに時が経過するだけでは明けることのない、あの朝というものの性格なのだ。われわれの目をくらませる光は、われわれにとっては暗黒にすぎない。われわれが目を覚ましてこそ夜は明けるのだ。新たな夜は明ける。太陽は暁の明星にすぎない。(完)
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ソローの生涯
一 ソローの生きた時代
ヘンリー・ソローは一八一七年、アメリカ第五代大統領モンローが就任した年に生まれた。それは第二次対英戦争(一八一二〜一四)の後、南北戦争の前で、彼に言わせると「まったくおあつらえむきの時期」であった。建国以来領土拡張政策を進めていたアメリカは、一八〇三年にミシシッピ川とロッキー山脈との間の広大な地域をフランスから、一八一九年にはフロリダをスペインから買収した。一八四五年にはいったん独立を許したテキサスを合併し、翌四六年にはイギリスとの協定でオレゴン地方を手に入れ、一八四八年に突入した対メキシコ戦争での勝利によってアリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニアを手に入れて、この時期にアメリカ大陸における現在の領土の所有を決定的なものとしている。一八四八年にカリフォルニアで金が発見され、いわゆる「西漸運動」で各地に人口が増加して新しい州が誕生し、その歴史上比類のない速度で膨脹した。『ウォールデン』が出版された一八五四年までの二十五年間は、アメリカの物質文明が急速に近代性をおびた時期であった。各地の湖や州にはすでに汽船が航行しており、ソローの言う「鉄の馬」なる鉄道は一八三〇年頃から実用化されて都市を膨脹させ、新しい都市を激増させた。一八四一年にはボルティモア、ボストン間に電信が開通され、大都市ではガスが使用されはじめた。すでに十八世紀末から胎動していた農業中心から工業中心への動きは、こうして第二次対英戦争を契機として本格的に前進しはじめ、産業革命の進行は、アメリカを工業国として疑うべからざるものに変えつつあった。
当時の精神文化の中心はニューイングランドであった。ユニテリアニズムとイギリス文学の世界に生きていた知識人の間に、一八二〇年頃からヨーロッパの新思潮が広がりはじめて、外国書の取次店はロマン主義文学と観念論哲学に新世界を求める人たちで盛況を呈していた。
二 ソローの住んだ土地
ソローの生誕地コンコードはマサチューセッツ州の東部、ボストンから二十マイルの所に位置し、人口は約二千、民主的な気運に満ちた、独立戦争の古戦場である。森、池、動物など豊かな自然に恵まれた、四季の変化に富む、農業中心の静かな村で、その中心から四方に街路がのび、村はずれまでの通りは美しい町並みをなしていた。街路の集中する広場は繁華街であった。村の北東をコンコード川がゆったりと流れていて、その周囲は豊かな牧草地であった。南西にはフェア・ヘイブンの池が、そしてこの草深い池の東にソローの愛したベーカー農場があった。このあたりはケンブリッジの方向へ丘と湖沼が連らなり、高地には家禽が放し飼いにされている農場が点在していて、ハックルベリー摘みの人、猟師、漁師がよく訪れた。ソローは生涯外国へ行くこともなく、その生活の本拠コンコードの村とウォールデン池《ポンド》、それにフェア・ヘイブンを中心とした一帯であった。彼はこの地をこよなく愛し、その自然と文化の恵みを受けて至上の幸福感に浸っていたのだった。当時コンコードにはエマソン、ホーソン、オールコットなど新時代を代表する文人たちが居を構えていて、互いに啓発しあいながらも各々が独自の世界を構築することに懸命であった。
三 コンコードと超絶主義
こうした人々は、多数政治にともなう弊害に早くも気づいていた。また、加速度的に工業化するアメリカ社会には、後年『アメリカの悲劇』でドライザーが、『怒りのブドウ』でスタインベックが描いた資本主義のもたらす社会悪の萌芽《ほうが》があった。人々は蓄財興業を至上の天命と信じて疑わず、それに没頭して精神界の進歩向上を軽視していた。一八二〇年からの四十年間は社会改良志向が強く、精神的、身体的、経済的弱者の救済から婦人運動、労働運動、さらに平和運動が盛んで、中でも奴隷制反対運動はその中心的なものであった。宗教界では、カルビニズムの独断に抗して起こったユニテリアニズムも形式に傾きすぎて情熱を失っていた。ボストン第二教会の牧師エマソンが教会儀式の形式主義に失望して辞職し、思想家の道を歩きはじめたのもこうした事情を物語っている。文学界もクーパー、アービング、ブライアント、ウェストの出現をのぞいては低調であった。
一八三六年九月、ハーバード卒業生の数名がヘッジを囲んで哲学、神学上の問題を論じ合った。彼らの多くは牧師であったが、その奉してきたユニテリアン神学とロック哲学に不満を表明した。ヘッジクラブなるこの集まりは、その後リプレーやエマソン宅で七、八年継続されて超絶主義者と呼ばれる一群を形成するにいたり、ソローもこれに参加していた。彼らの目的とするところは、自己満足的、近視限的思想と空虚な生活から脱却して、精神界をはじめとする文化生活全般の進歩を図ろうとすることにあったから、因襲を排して理性の声に耳を傾け、神、自然、人間三者の関係を熱烈な態度で思索した。そこでは当然ながら世俗的な権威や名声の追求とは無縁で、日常経験を通じて真理と自由と真に人間的なものだけが探求され、機関誌『ダイアル』はその発表機関であった。こうした超絶主義運動は当時のアメリカ思想界を導く星となり、コンコードは文字通りその中心であった。
四 ソローの生涯
父ジョンは乾物商であったが、一八二三年から鉛筆の製造をはじめた。実直温和な好人物で、フルートを吹き、古典を愛読した。母シンシアは家計のやりくりと子供の養育に懸命なしっかり者で、恵まれない人たちへの同情心が強く、コンコード婦人慈善協会の副会長をつとめ、また、奴隷制反対婦人協会の創立にも参加した。事実を率直に口にすることをはばからないソローの性格はこの母ゆずりのものであったかも知れない。幼児のソローはかなり腕白であったらしい。五歳の頃、コンコードのはずれにあるウォールデン池に連れてゆかれて、そこがすっかり気に入った、と後日回想している。学校に通うようになって、積極的に遊び仲間にくわわらなかったせいか、「審判」、「鼻でっかちの大学者」などの綽名をもらっている。頑迷、非情とも思われる一面があって、容易に内面を他人に明かしたがらなかったが、子供の心に自然愛を育てようと願う母が子供たちを自然の中に連れ出した時は、すべてをさらけ出しているようであった。コンコードアカデミーに入学して、その自然への関心を最初の作品「四季」に表明している。この頃も思索型の読書好きな少年で、授業にはさほど熱心ではなかった。最終学期が終ってボート作りに打ち込み、それを「放浪者」と名づけてコンコードの川や池にうかべ、無心に波のリズムに身をまかせたりした。勝気な母の主張で一家はソローの進学を支援することになり、ハーバード大学にすれすれの成績で入学した。在学中の成績は平均以上で、卒業記念講演が認められるほどであったが、大学の枠にはまらない学生で、自分の興味と関心の対象であるギリシア、ラテンの古典、英文学のとくに十七世紀の詩、インド、中国の経典や古詩、思想書を読むことに力を注いだ。在学中は大学の評価方式の改善を要求する陳情書に署名したりしたものの、ダンキン事件なる学園紛争では局外者的な態度をとり、独り離れて思索にふけったり、散歩をしたりで、学友には冷たい無表情な学生といった印象を与えていた。ハーバードの教育に興味を失っていたらしく、愛校心、クラス愛といったものとも無縁で、独りひそかに自分の人生観を築きあげることにつとめていた。卒業後、一時は教職についたが、体罰に反対して免職となり、父の鉛筆製造を手伝うことになる。『自然』の著者エマソンを師として超絶主義クラブのメンバーとなり、簡素な生活のうちに読書と思索に専念して優れた著作を世に問おう、と決心を固めたのもこの時期である。この頃から書きはじめた日記はその習作でもあり、後日の講演にはそれからの引用も少なくない。兄ジョンとともに理想の教育を目指して学校を開いたこともあるが、生徒のことよりも自分のことを考えている、などと言われた。彼は兄ジョンを敬愛していて、手造りのボートでともに舟旅に出たこともあった。超絶主義者たちのひとつの試みとして「ブルック・ファーム」なる共産村の建設があったが、社会改革論者の熱意には共感しながらも、個性の自由な伸長を第一義と考えていた彼は、師エマソンとともに参加しなかった。一八四一年から二年間エマソン宅に寄寓して師エマソンから少なからず感化を受け、二人は強く結ばれていった。しかし一方では、彼は自分が師の鋳型にはめられて見られるのを嫌っていたし、事実、エマソンが抽象的、普遍的なのに対して、ソローは具体的、特殊的、という両者の個性の相違は見のがすことができない。その頃『ダイアル』の編集にたずさわっていたエマソンを助け、自分も寄稿した。恋愛問題もあったが実を結ばず、やがてエマソンも「野外では付き合いやすいが、屋内では扱いにくい」ソローを遠ざけるためもあって、ニューヨークの甥《おい》の家に家庭教師として彼を送りこんだ。だが、都会と群衆に失望し、出版界とのつながりを求めることも不調に終って、その年のうちにコンコードの自然に帰った。今や教職もあきらめ『ダイアル』も廃刊となった。病弱なこともあってその後は父の仕事を手伝いつつ、静寂に閉じこもって、いちだんと鋭い自然観察に没頭するようになる。彼の観察は徹底したもので、虫めがね、望遠鏡、帳面を常に携行し、丈夫な靴と厚手のズボンに麦わら帽子といういでたちで棘《いばら》をかき分け、樹木に登る。土地のあらゆる植物の開花期がポケットの日誌に記されている。また、地理にくわしく、あらゆる抜け道に精通していた。当時、コンコード文化会なる一種の社会教育機関があって、彼はそこの管理人、書記に選ばれ、たびたびそこで講演もした。だが、定職もなく、家庭を築くことも果たせずで、彼は焦燥感に駆られていた。静寂を友に、簡素な生活の中で読書と思索に浸り、高尚な志操を追求してゆきたい、とかねがね彼は望んでいた。
この希望の直接的な動機としては、ブルック・ファームの試みや、親友オールコットの菜食主義生活が挙げられる。やがてその念願がかなえられる時が来た。ウォールデン池《ポンド》のほとりに士地を購入したエマソンの好意で、その一部を使わせてもらうことになったのである。一八四五年三月下旬、オールコットから斧を借りて森に入った。マツを切り倒し、アイルランド人から買い取った掘っ立て小屋を解体して材料とし、自分の家と呼べる小屋の棟上げを終えたのは五月初旬であった。独立記念日から住みはじめた二年二ヶ月余の独居生活の記録は、森を出てから七年後に『ウォールデン』として出版された。森での生活中にもうひとつ、敬愛する兄ジョンを追憶して、六年前の二人の舟旅を『コンコード川とメリマック川での一週間』としてまとめ、この紀行も森を出て一年後に出版された。
彼のこの原始生活をひねくれ者の気まぐれと見る人もいたが、彼にとっては「各瞬間が戦闘の第一線にある」ような緊張の生活で、四季を通じて何物にも束縛されることなく自己修養に励む舞台であり、世捨て人の隠遁生活ともまったく異質なものであった。この期間に彼の思索を乱す事件が起きた。奴隷制度を維持し、彼には不正としか思われなかった対メキシコ戦争を進める政府に、数年来彼は人頭税の支払いを拒否していた。この事が逮捕、投獄につながることは明白であったが、それによって、とくに奴隷問題の重大さを世人に認識させるのが彼のねらいであった。投獄された夜、誰かが彼にかわって支払ったので、翌朝には不本意の釈放となった。この後、コンコード文化会で二度にわたって講演した「国家に対する個人の関係」は、納税拒否の意味を明らかにした政治論で、後に「市民政府への抵抗」と改題され、世界各国の政治活動に思想的影響を与えることとなった。森の生活に終止符を打った後は、ヨーロッパ旅行に出かけたエマソンの留守宅に住み込んで家事の面倒をみたこともあったが、エマソン帰国後は父の家にもどり、苦しい家計を支えるためにペンキ塗り、壁紙はり、除草、測量、父の手伝いなどをしながら、雑誌への寄稿、講演も継続していた。一八四九年に『コンコード川とメリマック川での一週間』を出版したが、売れ行きは思わしくなかった。一八五四年、第七稿まで推敵を重ねた『ウォールデン』の初版がようやく出て、評判も良く、喜びはひとしおであった。自然志向は森を出てからも依然として強く、独居生活中に一度メインの森に旅行していたが、森を出てからも『ウォールデン』の出版までの七年間にメインの森に一度(その後にもう一度)、コッド岬に二度(その後に二度)カナダに一度出かけて、それらの紀行は死後に出版された。カナダ旅行ではイギリス軍の訓練を見て軍隊を批判している。小旅行にもよく出かけ、一八六〇年までにモナドノック山を三度訪れている。彼は人影まばらな地域の散歩が好きで、その態度は自然科学者的といえるほどであったが、神秘主義者、自然哲学者と自称し、自然を書斎とする「神聖な孤独」を愛して自己修養に努めた。
一方、アイルランドでは一八五一年までの六年間、食糧が不作で大|飢饉《ききん》に見舞われていた。活路を求めてアメリカに移民した農民たちは貧しく、不潔で無能であった。ソローは、これを低賃金で酷使するヤンキーのせいだと考えるようになり、彼らに金を貸し与え、代筆をしてやり、子供に外套を届けてやり、寄付まで集めてやった。こうした弱者への共感が奴隷解放運動と結びつくことは当然であった。一八五〇年秋、「逃亡奴隷法」が制定されて、それに適用される逃亡奴隷の逮捕送還が行なわれると、彼は憤激して法案そのものはもちろん、日和見的な大衆を批判し、州政府、裁判所、新聞を日記の中で鋭く攻撃している。救いを求めてきた奴隷を泊めて鉄道の切符を買い与え、カナダに逃がしてやりもした。一八五四年、独立記念日に開かれた奴隷制度反対集会での講演「マサチューセッツ州の奴隷制」は激烈をきわめたもので、市民に抵抗を呼びかけ、「自分のことにだけ専念し、政府のことなど忘れて」生きてゆけると思い込んでいた自分を「愚か」だったと反省している。
先にエマソン宅で知り合ったイギリス人、トマス・チャムリーから四十四冊にのぼる東洋思想の英訳書、インド文学の研究書が送られてきて、大学在学中から東洋の心に引きつけられていた彼を喜ばせたこともあった。その後健康の衰えを感じはじめるが、晩年まで一貫して自然の野性を求め続け、降雪量の測定、樹齢、鳥の巣の調査、動植物の標本作りなどに忙しかった。またかねて興味の対象となっていたインディアンの研究も継続された。ホイットマンと会見して互いを理解し合ったのもこの時期である。父が病弱となって、仕事の代理をすることも多くはなったが、自然観察旅行も講演も続いていた。一八五九年十月十六日、熱狂的な反奴隷制運動家ジョン・ブラウンが十数名の同志とともに武装蜂起し、十二月二日、反逆罪で処刑された。彼は聴衆を前に、文字通り生命を賭して「ジョン・ブラウン隊長のための弁護」なる演説をした。これは彼の最も雄弁な演説とされ、新聞雑誌にも掲載されて、後にエマソンのブラウン擁護の演説とともに、単行本『ハーパーズ・フェリーの反響』となった。彼は武力行使そのものには必らずしも賛成しなかったが、理想に殉じたブラウンに感動せすにはいられなかったのである。一八六〇年十二月三日、午後の寒さの中をずっとフェア・ヘイブンの丘で木の切り株の年輪を数えていて風邪を引いた。それは気管支炎へと悪化したが、周囲の止めるのも聞かず約束していた講演に出かけた。翌年の十二月には肋膜《ろくまく》炎へと進んでいた。病床にあるソローについて、妹ソフィアは「ヘンリーは病気で心を乱したり動かしたりは決してしませんでした。精神力が物質に勝るということを、こんなにはっきりと見せつけられたことはありません」、と言っている。死を目前にして不眠に悩まされながらも睡眠薬を拒み続け、一八六二年五月六日の朝、「オオジカ」と「インディアン」を最後の言葉として静かに四十五歳の生涯を閉じた。妹ソフィアによれば、「何かとても美しいことが起こったかのような」死であった。
五 『ウォールデン』(副題「森の生活」)
『ウォールデン』は、ウォールデン湖畔における二年二ヶ月余りの生活経験を素材としているが、全体が一年間の枠組みの中にまとめられており、独居生活期間の前後の日記から転用された部分もある。森を去る年の二月にコンコード文化会で行なった講演「私自身のこと」、およびその後の続編ともいうべきいくつかの講演の好評に気をよくして、森での生活をまとめることを思い立ち、第一稿はその年の九月に完成した。森を出てから第七稿まで推敵を重ねたすえ、一八五四年八月九日、初版がようやくボストンのティクナー・アンド・フィールズ社から出た。章分けが決定稿通りとなったのは出版の前年で、全体は十八章から構成されているが、時には内容が著者の想念のおもむくままに章題から自由奔放に逸脱することがあって、彼の描く霊妙な自然に引き込まれて、読者が身心ともに浄化される思いでいる時、著者は唐突に教訓的感想へと叙述を一転させて読者を戸惑わせる。これは、彼が効果を予測して内容と量に配慮するタイプの芸術家ではなく、思うがままになんの忌憚《きたん》もなく、真正直にものを言い、ひたすら自分の道を突き進む、専心一途な気質によるものであろう。また、偏狭、独断、誇張を思わせる箇所もあるが、そこには論理よりも直観と印象を重んじ、東洋的な禁欲と悟りに共感を示し、わずかな自然の変化も鋭く感じとる著者の姿がある。さらに、随所に見られる故事の引用、逆説、比喩と飛躍的な叙述に振り回されて、読者は前後の脈絡を失いがちだが、そこから読み取れる著者の深い学識、人生に対する真摯《しんし》な姿勢、それにその独創性が作品の晦渋《かいじゅう》さを相殺しているように思われる。そして、そこにはきわめて型破りで個性的な「私」なる人物が鮮やかに形象化されている。以下、本作品との関連において、ソローの思想の片鱗《へんりん》にふれておきたいと思う。
六 ソローの思想
ソローについて、古くは世間に背を向ける偏屈者、人間嫌いな怠け者、新しくはステューデント・パワーやヒッピーの源流など、否定的な評価が少なくない。しかし、ウォールデン湖畔での生活とその動機は、そうした評価で片づけるにはあまりにも求道的色彩に色どられている。そこには、あらゆる虚飾を取り去った本質的な人生だけを、遠回りせず直接的に、しかも力いっぱい生きようとする姿、ひたむきに生の実相を追求する姿がある。実相を究めようとする欲求は、ソローにかぎらず、人間の高度な精神活動に普遍的なものと言えるが、その方法において彼は個性的であった。
彼は、既成社会と完全に絶縁することによってその権威とそれからの制約を退け、揺るぎない自己信頼の上に立って自分を唯一絶対の尺度とし、実験と納得のうちに生の正体を突きとめようとする。また、一方では自分より雄大なものはそれを全体的に受け入れ、みずからそれと交感し、身も心もそれに溶解させてそれを無上の幸福と観る。こうした点から、彼はたんなる観念論者でないことが分かる。彼の世界は、実験と直観の糸で織り合わされた彼独自の世界である。彼にとっては、実相、つまり永遠なるものの追求は、聖書や教会を通じてなされるべきものではなく、自然を通じてなされるべきもの、そうしてのみ成就できるものであった。人間との交際を浅薄なものと断じウォールデン湖畔に独居したのもこのためである。インディアンに興味を抱いたのも、自然の中でのびのびと生きる野性的なインディアンに生きることの本義を見たからであった。彼の科学的ともいえる程の動植物の観察も、それらが<自然の一部>であるからだ。精緻《せいち》な自然現象の観察、音に対する鋭敏な感覚、法悦忘我の境で感得する自然との一体感……これらをとおして、最も野性的で最も簡素な自然が彼を導く最善の師であるとの確信は、ますます強固なものになっていった。
彼は、有形無形を問わず外部からの一切の束縛を排して自己を磨き、個性の命ずるままに内より外に膨脹、展開してゆくところに理想の人生を見た。彼にとっては、衣食住は個性を束縛する第一のもので、それは流行と商業主義に毒され、常識なるものに迎合して没個性的となり、生きるためのぎりぎりの手段たるべきそれが逆転して、目的と化してしまっている、としか見えない。無意味な虚飾に満ちたその衣食住を獲得し、維持するために世人は働く。つまり、職業、勤勉、信用などの奴隷となり、人間、すなわち個性をそれに従属させて、自分を常識の縄でがんじがらめにする。「人間が自分の道具の道具になりさがっている」、と彼は言う。生活をぎりぎりに単純化し、迂路《うろ》を避けて<即刻>目的に向かうべし、と説く彼にとっては、善行とか慈善事業も、自分の名声のためにするものはもちろん、そうでないものも個性の完成をないがしろにしておいてまでなすべきものではない。彼は、ただただ働くだけで、霊性と知性に欠けるアイルランド人を哀れむ。そして、森の踏み均らされた特定の道筋が自分をひとつの型の生活に縛りつけることを嫌って、あこがれてはじめたそこでの生活にさえ終止符を打つのである。
実相に注がれる彼の強い関心は、彼を物質の束縛から解放し、精神の優位を確信させる。彼は獣性を退け、禁欲生活を高唱し、観察と直観と良心によって真と信ずるところに向かってひたむきに突進する。文字通り<現実に>突進するのである。人頭税の不払い、後日ガンジーやキング牧師にその運動の拠り所を与えることになったといわれる、不当な権威への反抗、奴隷制に反対する積極的な実際行動などは、たんなる隠遁者にとどまらない、実践的思想家ソローの面目|躍如《やくじょ》たるものがある。トルストイが彼を思想界の雄と評したのも、じつはこの点にかかわっていた。
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訳者あとがき
明治以来、わが国ではソロー研究が盛んで、先学の研究業績も数多く、ソロー協会も設立されている。訳出に際しては、何よりもまず読みやすいようにと心がけたが、本書の性格上、無理にかみ砕くと固有の文体から程遠いものになる恐れもあって苦心した。原文には故事の引用、逆説、比喩が多く、また、叙述に飛躍があって、正直なところ、理解の容易でない箇所もある。動植物の訳語の中には、専門的に見てどうかと思われるものがあるかも知れない。訳者の非力のいたすところであり、ご寛容を請うほかない。ともあれ、自然志向、物質万能主義への反省、権威への盲従否定などを現代の特徴とすれば、本書の現代的意義は大きい。一世紀以上も前に、現代と同質的な問題意識をもって、真摯に生を追求した一人の人間の生活と思索の軌跡を、とくに若い人たちにたどってもらい、それを生きる上での資にして欲しいと思う。
訳出に当たって神吉三郎氏訳『森の生活』(岩波文庫)、篠田錦策氏による註釈書(研究社英文学叢書)からこうむった恩恵は測り知れない。また、「ヘンリー・ソローの生涯」の執筆に当たっては、前記の二著のほか、東山正芳氏著『ヘンリー・ソーロウの生活と思想](南雲堂)、川津孝四著『ソーロウ研究』(北星堂書店)、山崎時彦氏著『非政治的市民の抵抗』(世界思想社)、酒本雅之氏著『アメリカ・ルネッサンスの作家たち』(岩波新書)、同氏著『支配なき政府……ソーロウ』(国土社)、The Days of Thoreau (Walter Harding, Alfred A. Knopf, New Yoyk. 1966)に負う所が多く、それらから少なからず字句も引用させていただいた。
ソローの世界をいわば垣間《かいま》見ただけの訳者が、ソローの思想と作品について概略的にせよ論及したのは、まさに「盲蛇に怖《お》じず」の観があるが、それが読者に対する訳者としての責務の一端のように思われたからに他ならない。さらにソロー研究の歩を進めたい読者には、前掲のそれぞれ優れた研究書に向かわれるようおすすめする。
最後になったが、本書の出版に当たって、旧制中学時代からの語学と人生の師である長谷川真先生、および大学時代の恩師で、今日まで私淑してきた大和資雄先生からのご指導と励ましにお礼を申し上げなければならない。また、亡き養父広治から受けた愛情も忘れることができない。
〔訳者略歴〕
神原栄一(かんばらえいいち) 一九二九年、樺太に生まれる。日本大学文学部英米文学科卒業。編著に「Moby Dick」(桐原書店)、論文に「Waldenと現代」他。