イワン・デニソビッチの一日
ソルジェニツィン/小笠原豊樹訳
目 次
イワン・デニソビッチの一日
解説
[#改ページ]
主要人物
[#ここから1字下げ]
シューホフ(イワン・デニソビッチ)……本編の主人公、もと集団農場《コルホーズ》農民。戦時中ドイツの捕虜収容所から脱走して反逆罪に問われ十年の刑を宣告された。
チューリン(アンドレイ・プロコフィエビッチ)……シューホフの属する一〇四班の班長。富農《クラーク》出身という理由で軍隊から追放された。
パブロ……一〇四班の副班長。ポーランド分割でソ連領となった西ウクライナ出身の青年。
キリガス……ラトビア人の煉瓦工。赤ら顔で肥った、ユーモラスな人気者。
セーニカ・クレーフシン……ナチスの強制収容所で奇跡的に生き残った男。耳が不自由である。
ブイノフスキー……もと海軍中佐。イギリスの海軍将校と親交を結んでいたので投獄された。
シーザー……もと映画監督。第一作を撮り終えぬうちに逮捕された。口髭の濃い国籍不明の青年。
アリョーシカ……バプチスト教徒。シューホフの隣りの寝台の青年。
フェチュコフ……もと官吏。「山犬」と呼ばれて、みんなの嫌われ者。
ゴプチック……快活な少年。ベンデラ派のパルチザンに牛乳を運んで逮捕された。
エストニア人……もと漁師と、もと大学生の二人組。実の兄弟のように仲がいい。
ボルコボイ……残忍な規律監督官、中尉。
コーリャ・ブドブーシキン……医療部の助手、文学青年。
ダッタン人……看守。
ほかに、ラトビア人、モルダビア人、食堂主任、職長、|Ю《ユー》八一号、看守たち、警護兵たち、守衛たち、労務進行係、廃疾者たち、など。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
イワン・デニソビッチの一日
朝の五時、いつものように起床の合図が鳴った。本部バラックの脇のレールをハンマーで叩く音。とぎれとぎれの響きが、指二本の厚さに凍りついた窓ガラスを通して、かすかに伝わり、まもなく静まった。この寒さでは、看守も永いこと鳴らすのが億劫《おっくう》とみえる。
音は消えたが、窓の外は、シューホフが用便に立った真夜中とすこしも変わりない、闇また闇だ。黄色いあかりが三つ、窓に映って見える。二つは立入り禁止区域〔有刺鉄線の両側二メートル幅の地帯〕の、一つは収容所《ラーゲリ》構内のあかりである。
なぜかバラックの扉をあけに来る様子がない。当番の者が用便桶に棒をさしこんで、かつぎ出す音もきこえない。
シューホフは、起床合図を聞きもらしたことは一度もなかった。いつも合図と同時に起きる。点呼までの一時間半は、公《おおや》けのものではない、自分の時間だった。収容所《ラーゲリ》の生活を知る者は、つねに内職のチャンスを逃すまいとする。だれかに、古服の裏地で、指なし手袋のカバーを縫ってやってもいい。金まわりのいい班員の寝床まで、乾いたフェルト靴〔膝までの防寒用長靴〕を運んでやってもいい。山と積まれた靴のまわりで、はだしで足踏みしながら、えらび出す手間がはぶけるわけだ。あるいは、衣料配給所をひとまわりして、掃除をしたり、何かを運んだり、相手構わずサービスする。あるいは、食堂へ行って、テーブルの上の食器を集め、見あげるばかりに積みかさねたのを食器洗い場まで持って行く。これをやると、たべものにありつけるが、それだけに志願者が多くて、どうにもならない。しかも、食器に何か残っていたら、つい我慢しきれなくなって、食器をなめてしまうのが問題である。シューホフは、最初の班長だったクジョーミンのことばを、はっきり記憶していた。一九四三年ですでに服役十二年目という、この収容所《ラーゲリ》の古狼は、いつか森の空地の焚火のかたわらで、戦線から引っ張られた新入りたちに、こう言ったのである。
「いいか、ここの掟は、すなわち密林だ。ただし、こんな所でも人間は生きられる。収容所《ラーゲリ》で身をほろぼすのは、食器をなめる奴、医療部に行きたがる奴、それから政治将校《クーム》に密告する奴」
政治将校《クーム》に密告というのは、もちろんクジョーミンの義憤だった。密告する連中は、わが身を守ることが上手なのだ。ただし、他人を犠牲にして身を守る。
いつも合図と同時に起きるシューホフだが、今日は起きなかった。ゆうべから、どうも具合がよくなかったのである。寒気がするかと思えば、体のふしぶしが痛んだ。おまけに一晩じゅう体があたたまらなかった。夢うつつで、ひどい病気になったと思い、またいくらかよくなったかとも思った。朝が来るのがいやだった。
けれども朝はとどこおりなくやって来た。
だいたい、ここで体があたたまろうはずはない。窓には氷がこびりついているし、壁と天井が接するあたりには、バラック中(なんというバラックだろう!)白い蜘蛛の巣が張っている。霜だ。
シューホフは起きなかった。寝台の上段に横たわり、頭には毛布とラシャの上衣をかぶり、綿入れの胴着の片袖を裏返して、そこに両のくるぶしを突っこんでいる。目で見なくとも、バラック内の様子や、自分の班の一隅のありさまは、音でよくわかった。そら、廊下を行く重い足音、あれは当番の連中が八ベドロ〔約百リットル〕入りの用便桶を一つ運び出すところだ。これは廃疾者のやる軽労働とされているが、なかなかどうして、中身をこぼさずに運び出せたらえらいものである! そら、七五班で、乾燥台から出したフェルト靴の束を、床に叩きつけた。つづいて、われわれの班でも叩きつけた。(おれたちの班も、今日はフェルト靴を乾かす番だったな)。班長と副班長が何も言わずに靴をはき、その寝台が軋む。副班長は、ただちにパン配給場へ、班長は本部バラックの生産計画部へ出かけるのだ。
いや、いつものように、ただ生産計画部の労務進行係へ出頭するのとは、わけがちがう。シューホフは思い出した。今日は運命のわかれめなのである。シューホフたち一〇四班は、作業場建設工事から引き抜かれて、新しい現場「社会主義生活本部」へやられるという話があった。ところが、この社会主義生活本部たるや、雪の斜面に囲まれたただの野っ原なので、何を始めるにせよ、まず穴を掘り、杭を打ちこみ、自分らが逃げ出せないように有刺鉄線を張りめぐらさなければならない。それから、おもむろに建設工事である。
そこへやられたら、まず一ヵ月は、体をあたためる場所はどこにもない――掘立小屋一つないことは確実だった。焚火もできない。だいたい何を燃やしたらいいのだ。一心不乱に穴を掘るだけが救いなのである。
班長は心配そうな顔で、交渉に出かけて行った。どこかほかの間抜けな班に肩代りさせるつもりだろう。もちろん、手ぶらでは話にならない。脂肉《あぶらみ》を半キロも主任のところへ持って行く。あるいは、一キロ。
失敗してももともとだ。ひとつ医療部へ行って、作業を一日休まして貰うように頼んでみようか。なにしろ、こう全身がガタがきてしまっては。
それに、今日は、どの看守が当直だっただろう。
当直は――思い出した、一・五人力のイワン、やせて、ひょろっとした、黒いひとみの軍曹である。ちょっと見るとこわそうだが、人柄がわかれば、こんなにおとなしい看守はほかにいなかった。営倉にぶちこんだり、規律監督官のところへ引っ張って行ったり、そういうことはけっしてしない。じゃあ、九号バラックに食事の番がまわってくるまで、もうすこし寝ていても大丈夫だろう。
寝台がガタンといい、ぐらぐら揺れた。同時に二人が起き出したらしい。上段では、シューホフのとなりのバプチスト教徒アリョーシカ、下段では元海軍中佐のブイノフスキーだ。
用便桶を二つ運び出した当番の老人たちが、だれが湯を汲みに行くかで言い争いを始めた。女のように、くどくど言い争っている。二〇班の電気溶接工が、たまりかねてどなった。
「うるせえ、ランプの芯《しん》みてえな野郎どもだな!」――そしてフェルト靴を投げつけた。「いい加減にしやがれ!」
フェルト靴は、ばたんと柱にぶつかった。老人たちは口をつぐんだ。
隣りの班では、副班長がぶつぶつ言っている。
「ワシーリ・フョードルイチ! 食糧係にちょろまかされましたよ。くそ。いつも九百グラムのを四個渡されるのに、今日は三個しか寄越さねえ。だれの分をへずったらいいのかなあ」
これは小声で言ったのだが、その班の全員は、もちろん、耳をすまし、固唾《かたず》をのんでいた。だれかから、夕食の一片がけずられるのである。
鋸屑《かんなくず》をかためて作ったマットレスの上にシューホフは依然として横たわっていた。いっそ決着がついてくれればいい。猛烈な悪寒に襲われるか、それとも、ふしぶしの痛みが消えるか。だが、そのどちらでもないのだ。
バプチスト教徒が祈りの文句を呟いているあいだに、ブイノフスキーが小便から帰ってきて、だれにともなく、妙に意地わるい調子で宣言した。
「さあ、頑張れよ、ソビエト海軍軍人諸君! たかだか零下三十度だ!」
途端に、シューホフは決心した。医療部へ行こう。
と、そのとき、だれかの厚かましい手が、シューホフの胴着と毛布をひっぱがした。シューホフは、顔からラシャの上衣をはねのけて、上体を起こした。すぐ目の下、寝台の上段まで首をのばして、やせたダッタン人が立っている。
当直の番でもないのに、こっそりやって来やがったのか。
「シチェー〔ロシヤ文字の「シチャー」を訛っ発音〕の八五四号!」と、ダッタン人は、黒いラシャの上衣の背についている白い布にしるされた番号を読んだ。「営倉三日、|作業には出る《ヽヽヽヽヽヽ》!」
その凄みをきかせた独特の声がひびきわたるや否や、バラックの薄くらがり(電燈が全部ともっていないので)の至る所、五十台の寝台に寝ていた二百人の人間が、いっせいに動き始め、まだ起きていなかった者は、あわてて服を着始めた。
「どうしてでしょうか、看守どの」と、実感よりもずっと哀れっぽい声を出して、シューホフは訊ねた。
作業には出るといえば、これはまだ半分だけ営倉にはいったようなもので、スープは貰えるし、ものを考えるひまもない。ほんとうの営倉となると、作業にも出されなくなるのである。
「起床合図で起きなかっただろう? 本部へ来い」と、ダッタン人は面倒くさそうに言った。なぜ営倉に入れられるかは、ダッタン人にも、シューホフにも、ほかのだれにも、わかりきっていることだった。
鬚のない、皺くちゃのダッタン人の顔には、なんの表情も浮かんでいない。第二の獲物を求めて、ダッタン人は振り向いたが、このときはすでに、薄くらがりにいる者も、電燈の下にいる者も、寝台の上段の者も、下段の者も、左膝に番号をつけた綿入れズボンに足を通そうとしていた。服を着終わった者は、上衣の前をかきあわせながら、出口へ急いでいる。外に出て、ダッタン人をやりすごそうというわけである。
おなじ営倉行きにしても、もっと身におぼえのある理由があるのなら、シューホフはこれほど口惜しい思いをしなかっただろう。いつも人より先に起きていただけに、口惜しさはなおさらだった。しかし、ダッタン人にとやかく言ってみても始まらない。そこで、格好をつけるためにぶつぶつ呟きながらも、シューホフは綿入れズボンをはき(左膝の上のところには、薄汚れたぼろ切れが縫いつけられ、剥げかかった黒のペンキで|Щ《シチャー》―854と書いてある)、胴着を着こみ(これには胸と背中に、番号が二つはいっている)、床に山と積まれたフェルト靴から自分のをえらび出し、帽子をかぶり(これにも番号入りのぼろ切れが額についている)、ダッタン人について外へ出た。
シューホフが連れて行かれるところは、一〇四班の全員が見ていたが、だれも言葉をはさもうとはしなかった。何か言っても、なんの役にも立たないし、だいたい何を言えるというのだろう。班長なら何とかとりなしてくれるかもしれないが、あいにく不在である。シューホフのほうでも、ダッタン人のご機嫌を損じないために、仲間にことばをかけることはしなかった。朝めしは、とっておいてくれるだろう。こっちの気持ちを察して。
二人は外へ出た。
氷点下の大気は、息づまるような霧をはらんでいた。遥か離れた両角の望楼から、二台の大型サーチライトが、立入り禁止区域で光を交差させている。立入り禁止区域のあかりと、構内あかりがともっている。どちらも数がやたらに多いので、星の光は薄れて見える。
フェルト靴を雪に軋ませながら、囚人たちがそれぞれの用事で駆けまわっている。便所へ行く者、衣料配給所へ行く者、差入れ品保管所へ行く者、個人炊事場へ碾割《ひきわり》を預けに行く者。みんな申し合わせたように首をすくめ、上衣の前をかきあわせている。単なる寒さのせいというよりは、この寒さのなかで今日も一日すごさねばならないと思うと、自然にそんな姿勢になる。だが、ダッタン人は、しみだらけの青い襟章のついた古外套を着て、寒さなぞ物ともしない態度で、すたすた歩いて行く。
二人は通過した。「ブール」つまり石づくりの収容所《ラーゲリ》内監獄の高い板塀の前を。囚人たちを警戒して有刺鉄線を張りめぐらしたパン焼き場の前を。一面に霜をかぶったレールを太い針金で柱に吊した本部バラックの角を。これまた一面霜に覆われ、あまり低い温度は見えないように風除けをつけた温度計の柱の脇を。シューホフは希望をこめて、乳白色の小さな円筒を盗み見た。零下四十一度になっていれば、作業に出なくてすむのである。しかし今日は、どう見ても四十度まで行っていないようだ。
本部バラックにはいると、すぐ看守室へ連れて行かれた。すでにシューホフがみちみち推理していたことだが、やはりあたっていたようである。営倉はただの口実で、看守室の床がまだ洗ってないだけのことなのだ。今しもダッタン人はまじめくさって、シューホフを許してやると言い、代わりに床洗いを命じた。
看守室の床洗いは、戸外の作業に出ない特殊な囚人、つまり本部バラック付きの当番の仕事ということになっている。けれども、そういう囚人は、本部バラックに永いこと住みついて、所長や、規律監督官や、看守長の部屋に自由に出入りし、そういった連中の用を足しているうちに、平看守の知らないことを小耳にはさむようになり、やがて平看守どものために床を洗うのは卑しい仕事だと思い始めた。看守たちは、一、二度注意してはみたものの、事情を悟ると、床洗いには作業要員を引き抜くようになったのである。
看守室では、ストーブが焚かれていた。垢じみた作業服一枚になった二人の看守が将棋をさし、もう一人は、毛皮外套のバンドをしめ、フェルト靴をはいたまま、狭いベンチで眠っている。部屋の隅に、バケツと雑巾が置いてある。
シューホフは、ほっとして、ダッタン人に詫びのことばを言った。
「ありがとうございました、看守どの! もう二度と寝すごしたりいたしません」
ここの掟は単純である。仕事がすんだら、さっさと帰る、それだけのことだ。いま仕事を与えられたシューホフは、ふしぶしの痛みを忘れたようである。素手でバケツをさげると(手袋はあわてて枕の下に忘れてきた)、井戸の方へ歩き出した。
生産計画部へやって来た班長たちが、何人か柱のまわりに集まり、その一人、元ソ連邦英雄の、まだ若い男が、柱によじのぼって、温度計の霜をこすり落としている。
下からは、くちぐちに指図する声。
「息をまともに吹っかけるなよ、温度があがらあ」
「阿呆! 温度があがるだと! 感じねえよ!」
その人ごみのなかに、シューホフの班長チューリンの姿は見えなかった。バケツを下に置き、両手を袖に突っこんで、シューホフは面白そうに見守った。
若い男が、柱の上から、しゃがれ声で言った。
「二十七度半だ、くそ!」
もう一度、確かめるように温度計を睨んでから、跳びおりた。
「器械が狂ってるんだよ、いつだってでたらめなんだ」と、だれかが言った。「こんなとこに、正確なのを置いとくはずがねえじゃねえか」
班長たちは散って行った。シューホフは、井戸へむかって駆け出した。耳覆いを垂らしてはいたが、結んでいなかったので、耳が寒気にちぎれそうだ。
井戸の外囲いは厚い氷に覆われ、ようやくバケツをおろせるだけの穴があいていた。綱も棒のように凍っている。
感覚の失せた手で、湯気の立つバケツを下げて、シューホフは看守室に帰り、両手を井戸水に突っこんだ。いくらかあたたかい。
ダッタン人はいなかったが、看守の人数は四人にふえ、将棋をさしていた奴も、眠っていた奴も、みんな寄り集まって、一月は黍《きび》がどれだけ割当てられるだろうと議論している。(収容所《ラーゲリ》付属部落では食糧難が深刻だったが、看守たちは、部落民とはちがって、とうに配給切符がきれたあとでも、いろんな食糧品を割引きで買えたのである)
「間抜け、ドアをちゃんとしめろ! 風がはいる!」と、一人の看守が話なかばでわめいた。
さて、朝っぱらからフェルト靴を濡らすのは、間尺にあわない。かといって、バラックまでひとっ走りしたところで、履きかえの靴があるはずもない。この履物というやつについて、シューホフは、囚人生活八年のうちに、さまざまな経験をしてきた。いつかは、ひと冬をフェルト靴なしで歩きまわったこともあるし、編上靴すらなくて、樹皮の草履と「チェリャビンスク・トラクター工場靴」(これはタイヤのギザギザがそのまま残ったゴム草履)ですごしたこともある。現在、履物の事情はいくらかよくなっていた。シューホフは、十月に頑丈な編上靴を手に入れた(なぜ手にはいったかというと、配給所まで副班長にしつこくくっついて行ったからだ)。この靴は、爪先がしっかりしていて、あたたかいポルチャンキ〔足首から下へ巻きつけるネルの四角い布、ロシヤ独特の靴下〕を二枚重ねても履けるほど、ゆったりしていた。シューホフは一週間というもの、新しい靴の踵をこつこついわせて、ひどくご機嫌に歩きまわったものである。そして十二月になると、さらにフェルト靴が支給になった。なんたるバラ色の人生だろう、生きていてよかった。という感じ。
ところが、経理部のいやな野郎が所長に言いつけた。フェルト靴を支給したのなら、編上靴はとりあげるべきです。囚人が一度に二足も持っているのは、これは乱脈もはなはだしいではありませんか。そこで、シューホフは、ひと冬ずうっと編上靴をはくか、それとも編上は返して、雪どけ時分になってもフェルト靴をはくか、二つに一つをえらぶ羽目に陥ったのである。せっかく油を塗って、手入れして、まだ新品同様の編上靴だったのに、ああ!
八年のあいだに、この編上靴ほど惜しかったものは、ほかにない。山と積まれたほかの靴のなかに埋もれたあの靴は、春になったとて、もう見つからないだろう。
いまシューホフは、ようやく心を決めた。すばやくフェルト靴をぬぎ、それを部屋の隅に置き、おなじ所にポルチャンキをぬぎすて(スプーンが床にあたって、カチンといった。どんなにあわてて営倉入りの支度をしても、スプーンだけは忘れない)、はだしになって、雑巾に水をたっぷり含ませ、看守のフェルト靴めがけて突進したのである。
「おい! こいつ! もっと静かにやれ!」と、一人があわてて両足を椅子の上にもちあげた。
「米? 米は規準がちがうよ、米と比較しちゃいかんな!」
「なんでそんなに水をだぶだぶ使うんだ、馬鹿野郎。そんな洗い方があるか」
「看守どの! ほかに洗い方がありません。泥がこびりついてるんで……」
「お前、かあちゃんが床を洗うとこを見たことねえのか、低能」
ぽたぽた水の垂れる雑巾を片手に、シューホフは体を起こした。無邪気な笑顔をつくると、欠けた歯が目立つ。これは一九四三年、ウスチ・イジマ〔バレンツ海にそそぐペチョラ河のほとりの町。そこの収容所〕で壊血病にかかり、九死に一生を得たとき欠けたのである。まさしく九死に一生だった。赤痢で猛烈な下痢がつづき、消耗しきった胃は何ひとつ受けつけなかった。そのときの名残りで、今でも舌ったらずな喋り方をする。
「看守どの、かあちゃんとは四一年に別れたっきりであります。どんな女だったか忘れました」
「そういう洗い方をしやがって……いったいできねえのか、やる気がねえのか、悪党。こういう奴らに、めしを食わせる価値はねえな。糞でもくらわせりゃいいんだ」
「チンポコじゃあるまいし、毎日洗うことはねえよな。じめじめしていけねえ。おい、いいか、八五四号! ちょっぴり湿る程度に、そうっとこすって、さっさと帰んな」
「米か! 黍《きび》と米じゃ比較にならんよ!」
シューホフは、てきぱきと仕事を片付けていった。
仕事というやつは棒に似ていて、両極端が二つある。人間のために仕事するときは、その質が問題だが、馬鹿野郎のための仕事は、うわっつらだけでいい。
そうでもしなけりゃ、とうの昔に、一人残らずくたばっていたところだ。わかりきったことさ。
乾いた部分がぶちにならぬよう注意しながら、シューホフはひとわたり床板をこすり、水をしぼりもしない雑巾をストーブの蔭に投げ捨て、戸口で自分のフェルト靴をはき、看守たちのいつも通る道にバケツの水をぶちまけると、急ぎ足で蒸風呂の横を通り、見るからに寒そうで暗いクラブの建物のそばを通って、食堂へむかった。
まだ医療部へも行かなければならない。またもや全身が痛み出している。それに、食堂の前で看守とぶつからないようにすること。単独行動をとる者は、捕えて営倉へ入れるべしというのは、所長のきついお達しだった。
今日は、ひどく珍しいことだが、食堂の前に人だかりがしていないし、行列もできていない。なにげなく、さっとはいる。
戸口から派手に吹きこむ寒気と、スープの湯気のせいで、食堂のなかには、蒸風呂のような湯気が立ちこめていた。いろんな班の連中が、すでにテーブルについたり、通路で押し合いながら、席のあくのを待ったりしている。人ごみのなかを、どいたどいたと叫びながら、各班から、二、三人ずつ出た当番が、スープと雑炊の食器をのせた木の盆を運び、テーブルのあきを探す。それでも、きこえない奴が盆にぶつかって、阿呆、のろま、気をつけろ。スープがこぼれて、ピチャッ、ピチャッ! 当番は、あいたほうの手で、相手の首筋をピシャリ! これでもくらえ! さあ、どいたどいた、駄目だよ、狙ったって、なんにもありつけないよ。
むこうのテーブルでは、若い男が、スプーンを食器に突っこむ前に、まず十字を切っている。きっと西ウクライナ〔戦前のポーランド領、のちドイツとのポーランド分割でソ連領となった〕出身の新入りだろう。
ロシヤ人は、どっちの手で十字を切ったらいいのか、それすら忘れてしまった。
食堂のなかは寒いので、たいていの者は帽子をかぶったまま食事しているが、けっして急ごうとはしない。キャベツの黒い葉っぱの下から、煮すぎてくたくたになった小魚をすくいあげ、骨をテーブルに吐き出す。吐き出された骨が、テーブルの上で山のようになると、新しい班に席をゆずるまえに、だれかがサッと払い落とす。まもなく骨は床の上でこなごなに踏み砕かれる。
それなら初めから床に骨を捨てればいいのだが、これは不潔なことと見なされている。
食堂の中央には、柱とも見え、つっかい棒とも見えるものが、二列に並んで立っている。その一本の蔭で、シューホフとおなじ班のフェチュコフが、朝食の番をしていてくれた。この男は、シューホフより程度がわるく、班員仲間では最低の人間だった。外見上、すべての班員は、おなじ黒い上衣を着て、似たような番号札をつけているが、内実はひどく個人差があり、いろんな段階がある。たとえば、ブイノフスキーには食器の番をさせられないし、シューホフにしたところで、どんな仕事でもというわけにはいかない。さらに低い段階の班員もいる。
シューホフの姿を見ると。フェチュコフは溜息をついて、席をゆずった。
「もうすっかり冷えちゃったよ。かわりに食っちまうとこだった。お前、豚箱に入れられたと思ったからさ」
言うなり、さっさと帰って行った。どうせシューホフがご馳走してくれることはあるまいと判断したのだろう。二つの食器とも、左官屋のように、きれいに平らげるにきまっている。
シューホフは、フェルト靴のなかからスプーンをとりだした。このスプーンは、貴重品である。アルミの針金を材料に、砂の鋳型で作ったこのスプーンは、シューホフといっしょに北部地方を転々したのだった。「ウスチ・イジマ、一九四四年」と銘まではいっている。
次にシューホフは、丸刈りの頭から帽子をとった。どんなに寒かろうと、帽子をかぶったまま食事する気にはなれないのである。上澄みのできたスープを掻きまぜながら、すばやく実のはいり具合を点検する。まあまあ、中くらいの入りだ。大鍋の上の方からすくったのではないが、底をさらったというのでもない。なにしろフェチュコフに番をしていてもらったのだから、ジャガイモのひと切れくらいつまみ食いされても、文句はいえない。
このスープの取柄は熱いことだけなのだが、今シューホフがありついたスープは、完全に冷えきっていた。それでも、普段とおなじようにゆっくりと、慎重にスプーンを運ぶ。たとえ火事になろうと、急いでたまるものか。眠ることを別にすれば、収容所《ラーゲリ》の住人が自分のために生きている時間は、朝めしの十分と、昼食の五分と、夕食の五分だけなのである。
スープの実は、来る日も来る日も変化しない。それはひとえに、冬場にそなえどんな野菜を貯蔵するかにかかっていた。去年は塩づけ人参しか貯蔵しなかったので、スープの中身は九月から六月まで人参一本槍だった。今は黒くなったキャベツである。収容所《ラーゲリ》の人間がいちばん満腹できる時期は六月で、その時分に貯蔵野菜がすっかりきれ、碾割《ひきわり》を使うようになる。いちばんひどいのは七月。スープ鍋にイラクサを刻んで放りこんだりする。
小魚は、ほとんど骨ばかりで、骨にくっついていた身は、煮るうちに溶けてしまい、頭やしっぽのあたりに、わずかばかり残っていた。もろい魚の骸骨の網の目から、鱗《うろこ》も肉もしゃぶりつくし、さらに骨を噛みしめて汁を吸うと、シューホフは残骸をテーブルに吐き出した。どんな魚だって、たべられない所は一つもない。鰓《えら》だろうが、しっぽだろうが。目玉は、あるべきところにあれば食べるが、煮くずされて、大きな魚の目玉が食器のなかで単独に浮かんでいるときは、たべなかった。そのことで、シューホフはほかの連中によく笑われるのである。
今日、シューホフは倹約していた。バラックへ寄って、配給のパンを受けとるひまがなかったから、パンぬきの食事というわけである。パンは、あとで別に要求すればいい。そのほうが腹がふくれる。
もう一つの食器は、マガラ〔ヒエの一種〕の雑炊《ぞうすい》だった。これも冷えて、全体が一つの塊になってしまったのを、シューホフはおもむろに突きくずす。しかし、マガラは冷たくても構わない。熱いときだって、味もなければ満腹感もない、ただの草なのだ。ただし色は黄色で、ちょっと黍《きび》に似ている。碾割《ひきわり》のかわりにこれを使うことを考え出したのは、もともと中国人だったという。炊きあがりの目方が三百グラムなら、それだけで充分なのだ。にせものの雑炊でも、雑炊の代用品としては立派に通用する。
スプーンを丁寧になめ、元通りフェルト靴にしまうと、シューホフは帽子をかぶり、医療部へ出かけて行った。
空は依然として暗い。収容所《ラーゲリ》の照明のせいで、星は見えない。相変わらず、三台のサーチライトの幅広い光束が、立入り禁止区域を切り裂いている。「特殊ラーゲリ」と呼ばれるこの収容所が出来たばかりのころは、まだ実戦用の照明弾がたくさん保管されていて、すこしでも薄暗くなると白や緑や赤の照明弾が立入り禁止区域に打ちあげられ、まるで戦争だった。その後、照明弾の打ち上げは、やらなくなった。たぶん予算の関係だろうか。
起床合図が鳴ったときと何の変わりもないくらやみだが、馴れた目で見れば、さまざまな細かい微候から、まもなく点呼の合図があることは明らかだった。|びっこ《ヽヽヽ》の配下で助手をつとめている男が(びっこと呼ばれる食堂の当番は、自分の負担で助手を一人かかえていた)、六号バラックの廃疾者たち、つまり外の作業に出ない連中に、食事の番を知らせに行った。あご鬚を生やした老画家が、文化教育部の方へ、よたよた歩いて行った。絵具と筆をもらって、囚人番号を書くのである。またもやダッタン人が、中央通路を大股に横切って、本部バラックの方へ急ぐ。もう戸外に出ている姿は、ちらほらとしか見えない。だれもが、もういちど寝床にもぐりこみ、名残り惜しい最後の数分間、体をあたためるのである。
ダッタン人に見つからぬよう、シューホフはすばやくバラックの蔭に隠れた。もういちどもろにぶつかったら、えらいことになる。いついかなるときでも、油断は禁物だった。どの看守にでも、一人でいるところを見つからないようにしなければいけない。いつも群集のなかにいること。看守は、仕事をいいつける人間を探しているか、さもなくば八つ当りの相手を欲しがっているのである。どのバラックにも注意書が貼ってあった。看守と擦れちがう際は、五歩手前で脱帽し、二歩行きすぎて着帽すべし。一部の看守は見て見ぬふりをし、どうでもいいような顔つきで歩いているが、なかには、この規則を唯一の楽しみにしている奴もいた。この帽子の規則のせいで、何人が営倉に入れられたことか! そう、やはり物陰に隠れて、やりすごすに若《し》くはない。
ダッタン人が通りすぎ、ようやく医療部に足を向けようとしたシューホフは、はっと思い出した。今朝は、点呼前に、七号バラックののっぽのラトビア人のところへ、自家製タバコを二包み買いに行く約束をしていたのだ。ごたごたしているうちに、けろりと忘れていた。のっぽのラトビア人が差入れの小包を受けとったのは、ゆうべのことだから、あしたになれば自家製タバコは品切れだろう。そしたら、また差入れがあるまでひと月は待たなければならない。その自家製タバコは秀逸だった。適当な強さで、香りもいい。茶色がかったいい色で。
思いまどったシューホフは、立ちどまって足踏みをした。七号バラックへ引返そうか。だが、医療部はつい目と鼻の先だ。シューホフは勇を鼓して、医療部の入口の階段を上った。靴の下の雪が、音高く軋った。
医療部の廊下は、いつもの通り、歩くのが恐ろしくなるほど清潔だった。壁には白いエナメル塗料が塗られている。調度も白一色。
だが、どの病室のドアもしまっている。医者連中は、きっと、まだベッドにもぐりこんでいるのだろう。当直室では、助手の青年、コーリャ・ブドブーシキンが、清潔な白衣姿で、しゃれた小机にむかい、何か書きものをしていた。
ほかには、だれもいない。
シューホフは、上官の前に出たように帽子をとり、収容所《ラーゲリ》のしきたりとして、見るべからざる方向に視線を走らせた。コーリャは一行一行をきちんとまっすぐ書き、各行の出だしは大文字で、あたまがきちんと揃い、右側にはいくらかずつの余白をあけている。とくにひとみを凝らさなくても、すぐわかることである。これは仕事ではなくて、内職なのだ。しかし、シューホフには、そんなことは問題じゃない。
「じつは……ブドブーシキンさん……どうもなんだか……具合がわるくて……」と、何か他人の物をねだるように、ひどく遠慮しいしい、シューホフは言った。
ブドブーシキンは手を休め、落着いた大きな目を上げた。青年は頭に白いキャップをかぶり、白衣を着ているが、番号札は見あたらない。
「なんで今ごろ来るんだい。どうして、ゆうべ来なかった? 朝、診察をやらないことは知ってるだろう? 作業免除者の名簿は、もう生産計画部へ行ってるよ」
そんなことは、シューホフも知っている。ゆうべ来たところで、簡単に作業免除にはならないことも、わかっている。
「でも、コーリャ……ゆうべ来りゃよかった時分には、まだ、|なに《ヽヽ》が、そんなに痛まなかったから……」
「|なに《ヽヽ》とは何だい。どこが痛むんだ」
「いや、よく考えると、べつに、どこということはないんで、全身がなんとなく……」
シューホフは、折あらば医療部にへばりつこうとしている連中の仲間ではない。そのことは、ブドブーシキンも承知していた。しかし、朝、この青年の権限で仕事を免除できる人数は、二人と限られていて、その二人は今朝もう決定してしまったのである。机の上の緑色がかったガラス板の下に、その二人の名前が書きこまれ、名前の下に線が引いてある。
「とにかく、もっと早く気がついてくれりゃよかったんだ。点呼まぎわに来るなんて、どうかしてるぜ。さあ!」
ブドブーシキンは、消毒箱の上に張ったガーゼの穴から体温計をとりだすと、消毒液をぬぐって、シューホフに渡し、体温を計らせた。
シューホフは、壁ぎわのベンチに、ベンチごとひっくり返らないぎりぎりの線まで、ごく浅く腰掛けていた。好きこのんで、こんな居心地のわるい姿勢をとっているわけではない。これは自分が医療部とは縁のない人間であり、ここへ来たのも大した用事のためではないということを、天下に示すためなのである。
ブドブーシキンは書きものをつづけている。
医療部は、立入り禁止区域にいちばん近い構内の端れにあるので、ここまでは何の物音もきこえてこない。柱時計が時を刻む音もしない。囚人には時計は無用のものである。時間は、看守たちが知っている。ネズミがカサコソいう音すらきこえない。その目的で飼われた病院の猫が、ネズミを一匹のこらず捕えてしまったのである。
こんな清潔な部屋の、こんな静けさのなか、明るい電燈に照らされて、まるまる五分間も、仕事をせずに坐っていられるとは、まったく夢のようだった。シューホフは四方の壁を眺めまわした。壁には何もかかっていない。自分の胴着を眺めた。胸の番号が、まるで引っ掻かれたように消えかかっている。書き直さねばなるまい。体温計をはさんでいないほうの手で、あご鬚にさわってみた。だいぶ伸びた。十日以上前に風呂にはいったとき以来だ。しかし、そう苦にもならない。あと三日もすれば風呂がたつから、そのとき剃ろう。床屋の前で行列をつくって、時間を無駄にすることはない。身ぎれいにしたって、シューホフには見せる相手があるでなし。
次に、ブドブーシキンの純白のキャップを眺めていると、シューホフは、ふと、ロワーチ河畔の野戦病院のことを思い出した。顎を負傷して、その病院にはいったのだが(なんという抜け作だったのだろう!)、自分から進んで原隊に復帰したのである。五日間も寝ていられたところだったのに。
現在ならば、夢にまで思う。二、三週間、病院で寝ていられるような病気にかかりたい。生命には別条なく、手術の必要もないような病気。三週間もじっと動かずにいられるのなら、食事は実なしスープでも文句ない。
だが、シューホフは思い出した。このごろは病院にはいっても、休息どころじゃないのだ。どこからかの囚人部隊といっしょに、新しい医者がやって来たのだった。スチェパン・グリゴーリッチといい、すばしこくて、口やかましくて、自分でもせっせと動きまわり、病人たちに休息を与えない。歩ける患者は全員、病院の近くの作業に引っ張り出すことを、この医者は考えついた。塀を立てたり、道を作ったり、花壇に土を運ばせたり、冬には保雪作業〔水分の蓄積と、冬作物の保温のための農法〕をやらせる。病気には、作業が最良の薬というつもりだろう。
馬だって、働かせすぎれば、くたばるものだ。これをわかってもらわなくちゃ。まあ、しんどい煉瓦積み作業でもやらせれば、あの医者だっておとなしくなるかもしれない。
……ブドブーシキンは、まだ書きものをつづけている。まさしく内職にはちがいないが、それはシューホフには理解しにくい内職だった。きのう書きあげたばかりの長い詩を清書しているのである。スチェパン・グリゴーリッチ、つまり作業療法を信じているあの医者に、今日その詩を見せる約束である。
収容所《ラーゲリ》でしか起こり得ないことだが、このブドブーシキンは、スチェパン・グリゴーリッチにすすめられて、みずから助手と名乗り、実際に助手になり、無知な作業要員たちを稽古台にして、静脈注射の打ち方などをおぼえたのだった。稽古台のほうは、どいつもこいつも気がいいものだから、この医者の助手がじつは助手でもなんでもないのだということは、夢にも疑ったりしないのである。コーリャは、大学文学部の学生で、二年生のとき逮捕されたのだった。スチェパン・グリゴーリッチは、この青年に、娑婆では書けなかったことを、監獄のなかで書かせてやろうと思ったのである。
……まっしろに氷が張りつめ、不透明になった二重窓のガラスを通して、かすかに点呼の合図が伝わってきた。シューホフは、溜息をついて、立ちあがった。ひどい寒気は相変わらずだが、どうやら作業免除は望みうすらしい。ブドブーシキンは、手をのばして体温計を受け取り、目盛りを見た。
「ほら、たいしたことはない。三十七度二分だ。八度になってりゃ、はっきりするんだけどね。作業免除はできない。なんだったら、自分の責任において残ればいい。あとで診察を受けて、医者《せんせい》が病気と判断すれば、作業免除だけれども、健康体と診断されたら、サボタージュの罪で監獄行きだ。やっぱり作業に出たほうがいいんじゃないかな」
シューホフは何とも返事せず、うなずきもせずに、帽子をぐいとかぶると、外へ出た。
あったかい所にいる奴に、凍えた奴の気持ちがわかるものか。
締めつけるような寒気だ。氷点下の大気が、肌を刺す濃霧のように、シューホフの全身をとらえた。思わず咳が出る。寒気は零下二十七度、シューホフの体温は三十八度。さあ、喰うか喰われるかだ。
小走りに、シューホフはバラックへ駆け戻った。中央通路には人影一つなく、収容所《ラーゲリ》ぜんたいが、がらんとした感じである。この短い痴呆したような一瞬、もはや、だれもかれもが退路を絶たれたことを意識していて、そのくせ、いや、点呼なんかありゃしないのだと、自分で自分を偽わろうとしている。警護兵たちは、あたたかい兵舎のなかで、眠そうな頭を銃に押しつけている。この寒さに、望楼にのぼるのは、やはり楽な仕事ではないのだろう。守衛詰所では、守衛たちがストーブに石炭を投げこんでいる。看守室では、看守たちが、身体検査に出て行く前に、最後のタバコを今まさに吸い終わろうとしている。囚人たちは、すでにありったけのぼろ切れを着込み、ありったけの縄をバンドがわりに使い、寒気にそなえて顎から目までをぼろ切れで包み、フェルト靴をはいたまま寝台の毛布の上に横たわり、気を失ったように目をとじている。まもなく班長が大声で叫ぶだろう、「出かけるぞぉ!」と。
一〇四班も、九号バラック全体とともに、まどろんでいた。副班長のパブロだけが、くちびるを音なく動かしながら、鉛筆で何かの計算をやっている。そして寝台の上段では、シューホフの隣人、バプチスト教徒のアリョーシカが、小ざっぱりした姿で、福音書を半分ほども書き写した自分の手帳を読んでいる。
シューホフは、まっしぐらに、ただし音はすこしも立てずに駆けこむと、副班長の寝台に近づいた。
パブロは頭をあげた。
「営倉じゃなかったですか、イワン・デニスイッチ〔デニソビッチをちぢめて〕? 無事でしたか?」(西ウクライナの人間は、頑固に習慣を変えようとしない。収容所《ラーゲリ》でさえ、正式の姓名を呼び、あなた呼ばわりする)
そしてテーブルから配給のパンをとり、シューホフに手渡した。パンには砂糖がひとつまみ、ちょうど小さな白い丘のようにふりかけてある。
シューホフは、ひどく急いでいたが、それでも丁寧に返答した(副班長といえども上官であり、時には所長以上の実権を握ることがある)。それから大急ぎで、パンの砂糖をくちびるですくいあげ、舌でなめとり、同時に片足を寝台の支えに掛け、寝床の片付けに登りながら、パンを喰い入るように見つめ、規定の五百五十グラムの重さがあるかどうか、片手で計ってみる。この配給のパンというやつを規定以上に貰ったことは、監獄でも収容所《ラーゲリ》でも、シューホフの経験では千度に一度もなかった。むろんいちいち秤にかけてみたわけではないし、根が臆病なので、騒いだり権利を振りかざしたりする度胸もないのだが、シューホフのみならず、ほかのすべての囚人がとうの昔から心得ていたのは、正直に計量する人間がパン配給場で永つづきしたためしはないということである。規定に満たないのは毎度のことで、ただ不足分が大きいかどうか、それが気がかりなばっかりに、毎日こうして睨みつけるのだ。今日は、そんなにひどくちょろまかされていないだろうか。今日は、ほとんど規定に近いのじゃなかろうか。
「約二十グラム不足だ」と、シューホフはひとりぎめして、パンを二つに割った。割った半分を、胴着のふところに突っこんだ。胴着の裏には、特別に隠しポケットを縫いつけてある(工場で作った囚人用の胴着にはポケットがないのだ)。残りの半分、朝食を節約した分は、その場で食べてしまうつもりだったが、急ぎの食事は食事とはいえない。満腹感はないし、無駄に体内を通過するだけである。そこで、その半分を戸棚に入れておこうと手をのばしかけたが、また思い直した。当直の連中が、今までに二度も、盗みを働いたかどで吊しあげられている。なにしろ、車馬出入り自由のアパートの中庭のように広いバラックなのである。
結局、パンを両手に持ったまま、イワン・デニソビッチは、フェルト靴をぬぎ、ポルチャンキとスプーンを巧みに靴のなかへ残し、はだしで上段にのぼると、マットレスのほころびを拡げ、その鋸屑のなかにパン半分を隠した。それから帽子をぬぎ、帽子の内側から針と糸をとりだした(これもまた慎重に隠してある。というのは、身体検査のとき、帽子にまでさわられるからだ、いつだったか看守の指に針が突き刺さり、おかげでシューホフは、あやうく頭をぶち割られそうになったのだった)。ちょい、ちょい、ちょいと、三針縫えば、パンを隠したほころびはみごとにふさがれた。この間、口のなかの砂糖はすっかり溶けてしまっている。今にも労務進行係が戸口でどなり出しそうで、シューホフの全身は極度に緊張していた。指が器用に動くあいだにも、シューホフの頭は先へ先へと走り、次の段階を考えている。
バプチスト教徒は、黙読というよりは囁きに近い声で、福音書を読んでいた(ひょっとすると、シューホフのために、わざとそうしていたのかもしれない。バプチスト教徒という奴はアジテーションが好きだから)「『あなた方のうち、人殺しとして、泥棒として、悪人として、または他を侵害する者として、苦しむ人など一人もないように。けれども、キリスト教徒として苦しむのなら、恥じることなく、そのような運命を与え給うた神をたたえるがいい』〔「ペテロ前書」四章一五、六節〕」
アリョーシカはたいした奴で、この手帳を壁の割れ目に上手に隠してあるのだが、まだ一度も検査にひっかかったことはない。
相変わらず敏速な動きで、シューホフは上衣を横木に引っ掛け、マットレスの下から、指なし手袋と、わるいほうのポルチャンキと、縄と、二本の紐がついたぼろ切れをとりだした。それからマットレスの鋸屑を均《なら》し(鋸屑はぎっしり詰まっていた)、毛布をまるめ、枕を定位置に放り投げ、ふたたび、はだしで床におりると、ポルチャンキを巻き始めた。まず、いいほうのポルチャンキを巻き、その上にわるいほうのを重ねて巻く。
そのとき、班長が大きな咳払いをして、立ちあがり、号令をかけた。
「一〇四班、出かけるぞぉ! 外へ出ろぉ!」
途端に、班の全員が、眠っていた奴もいない奴も、起きあがり、あくびをして、出口の方へ歩き出した。班長は収容所《ラーゲリ》生活すでに十九年、点呼一分前より早く号令をかけたことはない。「外へ出ろ!」と声がかかったら、もうぎりぎりの刻限ということである。
班員たちが、重い足をひきずって、無言でひとりひとり、まず廊下へ、それから入口へ、入口の階段へと出て行き、二〇班の班長がチューリンにならって、「外へ出ろぉ!」と号令をかけたとき、シューホフはようやく、二枚重ねたポルチャンキの上にフェルト靴をはき、胴着の上に上衣をひっかけ、縄をバンドがわりにきつく締めあげていた(革のバンドは、だれが持っていても取り上げられる。特殊ラーゲリでは革バンドは禁止されている)
シューホフは身支度をすませ、入口のところで自分の班の尻尾に追いついた。番号札のついた班員たちの背中が、ドアをぬけて、入口の階段へ出て行く。持ちあわせの服をありったけ身につけて着ぶくれした班員たちは、ななめの列をつくり、お互いに急《せ》きたてることもなく、重い足どりで中央通路へむかう。きこえるのは、雪の軋む音ばかりだ。
東の空がいくらか緑色をおび、明るくなっているが、あたりはまだまだ暗い。東からは、鋭い、意地わるい風が吹きつける。
朝の点呼前の、この時間ほど辛いときはなかった。暗いし、寒いし、腹はへっているし、まる一日の仕事が前途に控えているのだ。口は重くなる。互いに話をする気にもなれない。
中央通路のかたわらでは、労務進行係の助手がいらいらした様子で待っていた。
「おい、チューリン、いつまで待たせるんだ。年中、手間どりやがって」
労務進行係の助手を、シューホフはこわがっていたが、チューリンはそんなことはない。この寒さに口をひらくのは億劫だと言わんばかりに、チューリンは無言で歩きつづける。班員たちも、それにつづいて雪を踏む。すた、すた、きゅっ、きゅっ。
脂肉《あぶらみ》一キロは、まちがいなく届いたらしい。あたりの班を見ればすぐわかる。一〇四班は今日も、いつもの作業隊に編入されたのだ。例の「社会主義生活本部」には、もっと間抜けで哀れな奴らがまわされるのだろう。やれやれ、今日みたいな日に、あそこへ行く奴こそ災難だ。零下二十七度で、風が吹いているのに、小屋なし、火の気なしじゃあ!
班長には脂肉《あぶらみ》がたくさん必要である。生産計画部にも届け、自分の腹にも入れてやらねばならぬ。だが、自分に差入れがなくとも、班長が脂肉《あぶらみ》に事欠くことはなかった。班員のだれかが小包を受けとれば、必ず班長にも付届けがある。
それをやらないと、生きていけないのだ。
労務進行係が黒板に書きこむ。
「チューリン、お前んとこは、今日は一名病気、出動は二十三名だな」
「二十三名です」と、班長はうなずく。
だれだ、休んだのは。パンチェレーエフがいない。あいつが病気だって?
たちまち、ざわめきが班員たちのあいだを流れる。パンチェレーエフの野郎、また構内に残りやがった。病気だなんてうそつけ。保安課に頼まれたんだ。まただれかのことを密告するぜ。
昼間、大っぴらに呼び出して、二時間でも三時間でも留めておく気なのだ、保安課は。昼間なら、だれに見られる心配も、聴かれる心配もない。
そのために医療部を利用したのだ……
中央通路は、集まったラシャの上衣の群でまっくろである。通路に沿って、各班が、ゆっくりと押し合いながら、身体検査を受けに前進する。シューホフは、胴着の番号を書き直してもらうつもりだったことを思い出し、中央通路の人ごみを突っ切って、反対側へ出た。そこでは、二、三人の囚人が、絵描きの前で列をつくっている。シューホフも、その列に加わった。この囚人仲間の番号札というのは、じつに厄介なしろもので、これがあるばかりに看守には遠くから目をつけられるし、警護兵には番号を控えられるが、適当な時期に書き直さないと、なぜ番号を大事にしないのかと言われて、すぐ営倉に入れられるのである。
収容所《ラーゲリ》には絵描きが三人いて、おえら方のために無報酬で絵を描き、交代で朝の点呼時に番号札を書く。今日の当番は、白い鬚の老人だった。絵筆で帽子の番号を書いているところは、まるで坊さんが聖油を信者のひたいに塗ってやっている図だ。
一筆、二筆、書いては、すぐ手袋に息を吐きかける。毛糸で編んだ薄い手袋なので、手がたちまちかじかみ、うまく数字を書けなくなる。
絵描きに胴着の[Щ―854]を書き直してもらうと、どうせすぐ身体検査なので上衣の前をかきあわせようともせず、シューホフは縄を手に持って、自分の班に追いついた。追いつくなり、すぐ気がついたのは、おなじ班のシーザーがタバコを吸っている、しかもパイプではなくて、巻きタバコを吸っていることだった。ありがたや、一服吸えるぞ。だが、シューホフは、まともに頼みこむような真似はしない。シーザーのすぐそばへ行って、なかば横を向き、あらぬ方を眺めた。
あらぬ方を眺め、無関心をよそおっているが、ちゃんと観察はしている。一服吸いこむたびに(シーザーは物思いにふけっているのか、ときどき思い出したように吸うのだ)、赤らんだ灰の環がじわじわとホルダーに近づき、タバコは刻々とみじかくなってゆく。
そこへ、山犬のフェチュコフが寄って来た。シーザーのまん前に立つと、目を輝かして口許を見つめた。
シューホフは、タバコを全然切らしていて、晩まで手に入れる見こみはなかったから、やはり全身に期待をこめ、緊張していた。いま、そのみじかい一本のシガレットは、自由そのものよりも好ましく感じられる。だが、フェチュコフのように身を落として、あからさまにシーザーの口許を見つめる気にはなれなかった。
シーザーは国籍不明の人間である。ギリシャ人のようでもあり、ユダヤ人のようでもあり、ジプシーのようでもあり、判然としない。まだ若い男だ。かつては映画を撮っていた。しかし、第一作を撮り終えぬうちに、引っ張られたのだった。黒くて濃い口髭を生やしているが、それをここでも剃り落とさないのは、書類の写真がそうなっているからだという。
「シーザーさん!」と、たまらなくなって、フェチュコフが泣き声を出した。「一服でいいから、吸わしてくださいよ!」
顔が、むきだしの欲望にひきつっている。
……シーザーは、黒いひとみを覆っていたまぶたをうすくひらき、フェチュコフを見た。この男がパイプを愛用するようになったのは、喫煙中に邪魔をされたり、一服せがまれたりしないための用心だった。タバコが惜しいのではなくて、思考を中断されるのが惜しいのである。強い思考を内部に呼びさまし、その思考の助けをかりて、何事かを見出すこと、そのためにシーザーはタバコを吸うのだという。だが、火をつけるかつけないかに、何人もの目に、「ストップ、最後まで吸うなよ!」とでも言わんばかりの表情があらわれる。
……シーザーは、シューホフの方に向き直って言った。
「どうぞ、イワン・デニスイチ!」
そして火のついている吸いさしを、琥珀のホルダーから、親指で押し出した。
シューホフは思わず身ぶるいし(そのくせシーザーがすすめてくれるのを心待ちにしていたのだ)、あわてて片手でありがたく吸いさしを受けとり、それを落とさないように、もう一方の手を下にあてがった。シーザーが、ホルダーのまま渡してくれなかったことは、べつに気にもならない(きれいな口の奴もいるが、不潔な口をしている奴もいるのだから)。それにシューホフの指は鍛えられているので、じかに火をつかんだって火傷しないのだ。そんなことより、山犬フェチュコフを出しぬいて、今こうして、くちびるが焦げるまで、思うぞんぶんに煙を吸いこんでいること、これがすべてなのである。ふう! 煙は飢えた肉体を駆けめぐり、足にも頭にも浸みこんだ。
幸福感が全身にみなぎった折も折、イワン・デニソビッチは、囚人たちのどよめきを耳にした。
「シャツを取り上げられるぞ!……」
囚人の生活とはこんなものだ。シューホフはもう馴れている。ただ、自分の頸を絞められぬよう注意すればいいだけのことだ。
しかし、なぜシャツを? シャツは配給品じゃないか?……どうも、おかしいぞ……
身体検査まで、あと二班が残っているだけだった。一〇四班のだれもが、気がついた。本部バラックから、規律監督官のボルコボイ中尉が出て来て、何事か看守たちにどなったのである。すると、ボルコボイが現われぬうち、ちゃらんぽらんにやっていた看守たちは、俄然張り切って、けだもののように囚人たちに挑みかかり、看守長は大声で叫んだ。
「シャツのボタンをはずせぇ!」
噂によると、ボルコボイは、囚人たちにはもちろん、看守たちや、収容所長にさえ、こわがられているという。神さまも茶目っ気があるとみえて、うまい名前をくださったものだ! ボルコボイは、どう見ても狼にしか見えない〔ボルコボイは「狼男」の意〕。色は黒く、背は高く、しかめっ面をして、足早に歩きまわる。バラックの蔭から急にぬっと出て来て、「こんな所になんで集まっておる?」と言う。こちらは逃げも隠れもできない。
以前、この中尉は、革を編んでつくった腕の長さほどの鞭を、持って歩いていた。営倉では、その鞭で囚人を打ったのだという。晩の点呼のときも、囚人たちがバラックの脇に集まっていると、うしろから忍び寄ってきて、ピシャリと首筋にその鞭をくらわせた。「なんで整列せんのか、悪党」。囚人たちは、たちまち散りぢりになる。なぐられた者は、頸をおさえ、血を拭き、沈黙を守っている。その上、営倉にまで入れられては、たまらないからだ。
最近は、どうしたわけか、鞭を持ち歩かないようになった。
ふつう厳寒のときの身体検査は、規則がそうやかましくない。囚人たちは、上衣の前をあけ、上衣の裾を両側にひらいて、そのままの恰好で五人ずつ前に出ると、五人の看守が検査をする。まず、縄でくくった胴着の脇腹をポンポン叩き、規則で許された右膝の唯一のポケットを、上から叩く。看守たちは手袋をはめていて、何か怪しい物にさわった場合でも、すぐ手袋をぬごうとせず、「これは、なんだ?」と、面倒くさそうに訊ねる。
朝、囚人たちを身体検査するのは、何を探すつもりなのか。ナイフか? ナイフは、収容所《ラーゲリ》に持ちこむことはあるが、持ち出すことは、まずない。朝の検査は、囚人が食糧を三キロも身につけて脱走するのを防ぐためだった。ひところは、昼食の二百グラムのパンを警戒するあまり、各班はそれぞれ木の箱を作り、班員のパンをひとまとめにして、その木箱に入れて運ぶべしという命令が出たほどである。なんでそんなくだらないことを考えついたのか、事情はよくわからない。たぶん、余計な心配をさせて、人をいじめてやろうというだけのことだったかもしれない。囚人たちは、自分のパンをちょっとかじって印をつけ、それを木箱に収めるのだったが、なにぶんパンというやつは似たような顔をしているし、もともとは一つのパンなのである。作業場に着くまで、もしかしてすり換えられやしないかと、そればかりが心配で、囚人同士、争いをしたり、時には掴み合いの喧嘩をしたりした。たった一度だけ、作業場から三人の囚人が自動車で脱走し、パンの木箱を一個盗んで行ったことがある。上の連中も、ようやくそれで目がさめ、木箱はぜんぶ守衛詰所で薪にしてしまった。以来、ふたたび、パンは各自携行ということになったのである。
ほかに朝の身体検査の目的としては、囚人服の下に民間の服を着こんでいないかどうかということがある。だが、民間品はとうの昔に洗いざらい取り上げられ、刑期終了まで返さないと言い渡されたのだった。もっとも、この収容所《ラーゲリ》では、いまだかつて刑期を終了した者にお目にかかったことがない。
そのほかには、手紙を隠していないかどうかを調べられる。自由人〔収容所の近くの部落に住む労働者のこと。刑期が終わっても何らかの事情で故郷へ帰れない元囚人が多い〕に頼んで発送するために持ち出すのである。ただ、ひとりひとりについて手紙の有無を調べていたら、昼までかかってもすむかどうか。
さて、ボルコボイが一声叫ぶや否や、看守たちはすばやく手袋をとり、胴着の前をあけろ(せっかくバラックのあたたかみを貯えてきたのに)、シャツのボタンをはずせ、と命令し、何か規則違反の品物を隠していないかと全身をまさぐり始めた。囚人たちが、列から列へ、ボルコボイの命令を伝えてきた。囚人に許されたシャツは上下二枚のみ、あとは脱げ! 先に検査のすんだ連中は、うまいことをしたものである。もう門の外へ出た奴らもいるのに、こちとらは、脱げ! とくる。規則に反した奴は、この寒さだというのに、即刻脱がねばならない。
こんな具合に始まったが、調べる側にまずいことが起こった。門のあたりが、がらがらにすいてしまって、警護兵たちが詰所から、早くしろ! 早くしろ! とどなるのだ。そこで一〇四班にたいしては、ボルコボイは怒りを憐れみに変えた。余分の物を持っている者は、記録をとられるだけで、今晩それぞれ衣料配給所へ品物を持って行けばよろしい。その際、いかに隠したか、なぜ隠したかを、紙に書いて提出すること。
シューホフは、さあ、胸なりと心なりと探って貰いましょう、疚《やま》しいことはひとつもないよ、という具合で、ぶじ合格だったが、シーザーはフランネルのシャツを記録につけられ、ブイノフスキーは、セーターとも胴着ともつかぬものを見つかった。まだ収容所《ラーゲリ》へ来てから三ヵ月にしかならないブイノフスキーは、つい駆逐艦に乗っていた時代の癖が出て、大声でわめいた。
「諸君は、氷点下の戸外で、人を裸にする権利があるのか! 刑法第九条を知らないのか!……」
権利はあるのだ。刑法も知っているのだ。ということを、あんたが知らないだけさ、海軍中佐どの。
「諸君はソビエト人ではない!」と、中佐はしつこく言う。「諸君は共産主義者ではない!」
刑法うんぬんはまだ我慢していたボルコボイも、そうまで言われると、険悪な顔でどなり返した。
「独房禁錮十日間!」
それから低い声で看守長に言った。
「夕方までに手続きをしてくれ」
連中は、朝の営倉入りを好まない。人的資源が欠けることになるからだ。昼間はさんざんこき使って、夕方からは営倉というやり方である。
例の「ブール」は、中央通路の左手にあった。石づくりの建物二棟である。一棟は、この秋に増築された。一棟では不足だったわけである。房はぜんぶで十八あり、いくつかの房がさらに独房に仕切られている。収容所《ラーゲリ》のほかの建物は木造だが、監獄だけは石づくりだ。
シャツの下にもぐりこんだ寒さは、もうとても追い払えなかった。これでは、なんのために服を着たのかわからない。シューホフは、依然として背中が痛かった。いま病院のベッドで眠れたら、どんなにかいいだろう。ほかには何の希望もない。厚い毛布をかぶって眠りたい。
囚人たちは門の前に立ち、シャツのボタンをかけたり、縄をしめ直したりしていた。門の外には警護兵たち。
「早くしろ! 早くしろ!」
うしろからは、労務進行係が急ぎ立てる。
「早くしろ! 早くしろ!」
門の連続である。立入り禁止区域の手前の第一の門。次に第二の門。守衛詰所のあたりには、両側に手摺がある。
「とまれ!」と、守衛がどなった。「まるで羊の群だな。五列にならべ!」
夜明けの光がさしそめていた。詰所の蔭の警護兵たちの焚火も燃えつきようとしていた。点呼の前には、いつも焚火がたかれる。体をあたためるためと、人数をかぞえるための照明と、両方を兼ねて。
一人の守衛が、大きな鋭い声で、数をかぞえる。
「一! 二! 三!」
五人ずつにわかれた囚人たちは、ぞろぞろと出て行く。前を見ても、うしろを見ても、五つの頭、五つの背中、十本の足。
もう一人の守衛は、点検役で、反対側の手摺にもたれ、何も言わずに、相棒の勘定が正しいかどうか確かめている。
ほかに、中尉がもう一人立って、見守っている。
これは収容所《ラーゲリ》側の責任者である。
人間は金《きん》よりもいくらか貴重であるらしい。もし有刺鉄線のむこうで人員が一人でも足りなくなれば、責任者は自分の体を張ってそれを埋めねばならない。
班員たちは、ふたたび合流する。
今度は、警護隊の軍曹が、数をかぞえる。
「一! 二! 三!」
囚人たちはまたもや五人ずつにわかれ、ぞろぞろと通りすぎる。
警護隊の副隊長が、反対側から数を確かめる。
もう一人、中尉。
これは警護隊側の責任者である。
誤りは絶対に許されないのだ。一人でも余計に記録してしまったら、かわりに自分が身を引かなければならない。
そして警護兵は、いるわ、いるわ! 発電所建設工事にむかう作業隊を、ぐるりと半円形にとりまいて、小型機関銃を構え、こっちの顔をまともに狙っている。それから灰色の犬どもをしたがえた犬係の看守。一匹の犬は、まるで囚人たちを嘲笑うように、歯をむき出している。警護兵たちは、ほとんどが短い半外套姿で、長い毛皮外套を着ているのは六人しかいない。それは望楼へ登る番にあたった奴だ。
もういちど警護兵たちが、発電所建設工事行きの作業隊の人数を、五人ずつ数える。
「夜明けは一番寒いんだ」と、元海軍中佐が注釈を入れる。「なぜかというと、夜間の冷却現象の最終段階だからね」
海軍中佐は、何事によらず、注釈するのが好きな男だ。たとえば何年何月の月齢はというと、新月か満月かをずばり教えてくれる。
一見、頬がこけ落ちて、もう駄目な男のようだが、まだまだ意気盛んな海軍中佐である。
立入り禁止区域を出て、いくらか強まった風に吹かれると、たいていのことにはびくともしないシューホフの顏の皮膚だが、寒さはまるで咬みつくように感じられた。このまま発電所工事の現場まで、ずっと向かい風を浴びて行くとなると、顔にぼろ切れをかぶらねばなるまい。シューホフが向かい風よけに作ったぼろ切れには、ほかの囚人のとおなじように二本の長い紐がついていた。囚人たちが発明したこの顔覆いは、たいそう便利なものである。シューホフは、目から下をぼろ切れで覆い、二本の紐を耳の下に通して、うなじで結んだ。次に、帽子の縁を下げて、うなじを隠し、上衣の襟を上げる。それから、帽子の前側の縁を下げて、ひたいを覆う。こうすると、出ているのは、目だけになる。シューホフは、上衣の裾を、縄でしっかりと締め直した。これで万事快適だが、指なし手袋が薄っぺらなので、手はもうかじかんでいる。シューホフは両手をこすりあわせ、打ちあわせなどしてみたが、いずれ手はうしろに組んで目的地まで行かなければならないのである。
警護隊の隊長が、もう毎日聞き飽きている囚人用の|お経《ヽヽ》を読みあげた。
「聴け、囚人諸君! 行進中は厳重に隊列を守ること! 間隔をあけすぎず、詰めすぎず、五列横隊を乱さず、話をせず、脇見をせず、手はうしろに組む! 左右に一歩でも出れば逃亡と見なし、|警告なしに《ヽヽヽヽヽ》警護兵は発砲する! 前へ進め!」
先頭の二人の警護兵は、すでに歩き始めていたらしい。囚人の隊列の先頭が揺れ、肩の揺れがうしろへ伝わってきた。警護兵は、隊列の左右二十歩のところを、お互いには十歩の間隔をおき、小型機関銃を構えて歩き出した。
もう一週間も雪がふっていないので、道は踏みかためられていた。収容所《ラーゲリ》の角をまがると、風がななめに顔に吹きつける。みんな手をうしろに組み、目を伏せて、葬列のように進行した。視野にはいるのは、前の二、三列の人間の足と、踏みかためられた小さな地面ばかり。その地面へ、自分も足をおろさなければならない。ときどき警護兵が叫ぶ。「|Ю《ユー》の四八号! 手をうしろへ!」「|В《ベー》の五〇二号! ぼやぼやするな!」まもなく、警護兵たちはあまりどならなくなった。吹きすさぶ風が、視野を妨げるのである。ぼろ切れで顔を覆うことは、警護兵には許されていない。楽な商売じゃなかろう……。
どんなにどなられても、もうすこしあたたかい日なら、隊列のなかで話が始まるのである。だが今日は、みんな背をまるめ、だれもが前の人間の背中に隠れるようにして、それぞれの思いにふけっている。
囚人は、考えることさえ自由ではない。いつも心はおなじ思いに帰り、何度もおなじことを反芻《はんすう》する。マットレスに隠したパンは見つからないだろうか。今晩、医療部へ行ったら、作業免除にしてくれるだろうか。元海軍中佐は営倉に入れられるだろうか、入れられないだろうか。シーザーは、どうやってあんな上等な下着を手に入れたのだろう。きっと衣料配給所の係に賄賂をやったのだ。それ以外の方法が考えられるか。
朝めしがパンぬきで、しかも冷えたのをたべたせいか、今日のシューホフは空腹を感じていた。たべものを求めて腹が鳴り出さないように、シューホフは収容所《ラーゲリ》のことを考えるのをやめて、近いうちに家へ出す手紙のことを考え始めた。
隊列は、囚人が建てた木工場の前を、住宅地区のそばを(このバラックを建てたのは囚人だが、住んでいるのは自由人だ)、新しいクラブの脇を(これも囚人が基礎工事から壁の装飾までやったが、映画を観るのは自由人たちだ)通過して、曠野《ステツプ》に出た。行手の空は夜明けの光に赤らみ、風は正面から吹きつける。右も、左も、見渡す限り、まっしろな雪野原で、樹は一本も見えない。
新しい年、一九五一年の初めだった。シューホフには、この一年に手紙を二通書く権利がある。この前、手紙を書いたのは、去年の七月で、返事を受けとったのは十月だった。ウスチ・イジマの収容所では、規則がちがっていて、なんなら毎月手紙を出してもかまわなかった。ただし書くことがない。だから結局は、今とおなじ程度にしか手紙を書かなかったのである。
シューホフが家を出たのは、一九四一年の六月二十三日〔独ソ開戦の翌日、月曜日〕だった。日曜日、ポロームニャの教会へ行って来た人たちが、戦争だと言う。ポロームニャでは、郵便局がその知らせを受けたのだが、当時のチェムゲニョーボ村ではだれもラジオを持っていなかった。手紙によれば、今では、どこの家でも、有線放送のラジオが、がなりたてているという。
いま手紙を書くのは、底なしの淵に小石を投げこむようなものだった。落ちたもの、沈んだものからは、応答がない。どんな班で働いているか、班長のアンドレイ・プロコフィエビッチ・チューリンがどんな男か、などということを、手紙に書いて何になろう。今では、家に手紙を書くよりも、ラトビア人のキリガスと話しているほうが、話題に困らないのだった。
そして返事も年に二度来るだけだから、娑婆の様子はちっともわからない。集団農場《コルホーズ》の議長が新人になったといっても、毎年、新人になっているので新味がない。集団農場《コルホーズ》が拡張されたといっても、前にも拡張され、ふたたび細分化されたことがあったのだ。あとは、だれが労働ノルマを果たさなかったので、私有地の面積を千五百平方メートルに制限されたとか、だれさんの家のすぐ前まで公有地になったとか。
細君が書いてよこすことで、シューホフがどうもよくわからないのは、戦後、集団農場《コルホーズ》の人員がちっとも増えていないということだった。若い者は、男も女も、なんとかうまく立ちまわって、一人残らず都会の工場や、泥炭採掘場へ行ってしまうという。農民は、半数が戦争から戻らなかったが、帰って来た連中も、集団農場《コルホーズ》では働かず、住むことだけ住んで、仕事はよそでしている。いま集団農場にいる男は、組長のザハール・ワシーリッチと、大工のチホンだけだ。チホンは今年八十四だが、ついこのあいだ結婚して、子供もできたそうだ。とにかく、集団農場を実際にきりまわしているのは、一九三〇年以来ずっと働いている女たちだけなのである。
それがシューホフには、どうしても理解できなかった。住むだけ住んで、よそで仕事をするとは、どういうことだろう。シューホフは、個人農場も、集団農場も、どちらの生活も知っているつもりだが、何はともあれ百姓が自分の村で働かないというのは――どうもピンとこない。出稼ぎみたいなものだろうか。草刈りなんかは、どうなっているんだろう。
細君の手紙によれば、出稼ぎはとうの昔からやらなくなった。以前から、この村の特技とされていた大工仕事もやらないし、籠編みもやらなくなった。今どきだれがそんなことをするだろう。そのかわり、ちょっと面白い仕事が流行《はや》っている。つまり、敷物の彩色。だれかが復員のとき彩色用の型板を持ってきたのが事の始まりで、それからというもの、流行るわ流行るわ、彩色の名人がぞくぞく出現した。
彩色工たちは、一定の職場を持っているわけではない。集団農場の仕事は、草刈りや収穫のとき、ひと月ほど手伝うだけで、あとの十一ヵ月間は、集団農場員だれそれに私用のため休暇を与えるという書きつけを貰い、税金もかからない仕組みになっている。そうして、時間が惜しいのか飛行機に乗ったりして全国をまわり、いろんなところで敷物の彩色をやって、何千何万と儲けている。なにしろ、もう捨てても惜しくないような古敷布に彩色すると、一金五十ルーブリ也の敷物になるのだから。一枚描くのに一時間とかからないそうだ。そして細君は、イワンも帰ってきたらそういう彩色工になることを、強く希望していた。そうなったら、この辛い貧乏暮しから脱け出て、子供たちを技術学校に入学させ、腐れかかった古い小屋をとりはらって新しい家を建てよう。彩色工はみんな家を新築している。鉄道線路の脇に新築するとなると、昔は五千ルーブリもあればよかったが、今じゃ二万五千ルーブリもかかるだろうけれど。
そこでシューホフは、手紙で細君に質問した。おれは生まれつき絵が苦手だが、それでも彩色工になれるものだろうか。それから、その敷物というのは、なんでそんなによく売れるのだ、何が描いてあるのだ。細君の返事に曰《いわ》く、彩色は馬鹿だってできる。ただ型板をあてがって、穴のあいてるところを絵筆で塗ればいいのだ。敷物には三種類あり、一つは「トロイカ」といって、きれいな三頭立ての馬車を騎兵将校があやつっている絵。もう一つは「鹿」で、もう一つはペルシャまがいの図柄になっている。種類はそれだけなのに、どこへ行ってもみんなにありがたがられ、飛ぶように売れるのだ。なぜかというと、ほんものの絨毯は五十ルーブリどころか、何千ルーブリもするのだから。
そういう彩色敷物とやらを、片目ででもいいから、シューホフは見たかった……。
いくつかの収容所《ラーゲリ》や監獄を転々するうちに、イワン・デニソビッチは、あしたのこと、一年先のこと、家族を養うことなど、思いわずらう習慣をなくしてしまっている。何によらず上官が代わりに考えてくれるので、そのほうがなんだか楽なような気もするのだった。それに刑期は、冬から夏へ、冬から夏へと、まだ二年も残っている。それにしても、この敷物の話は刺激的だった……。
どうやら、かなりちょろい、派手な仕事らしい。それに、村の仲間におくれをとるのは癪だし……だが心の底では、イワン・デニソビッチはその敷物の仕事をやりたくなかった。ずうずうしく、厚かましく、時には袖の下もつかませねばならない仕事ではないか。シューホフはもう四十歳、歯は半分も欠けてしまったし、頭は薄い。他人とやったり取ったりすることは、収容所にいても、どうも上手になれなかった。
あぶく銭には何の価値もない。自分の力で稼いだのだという実感がわかない。年寄りの言う通りだ。勘定のすんでいない物は、ながもちする。シューホフの手は、まだまだ労働能力を残していた。娑婆へ出たら、暖炉職人か、指物師か、ブリキ屋ぐらいにはなれるだろうと思う。
ただし、市民権を剥奪されたことがあると、どこでも使ってくれない。だいいち、すぐには自宅に帰れない。やっぱり、敷物の仕事をやるしかないのだろうか。
とかくするうちに、隊列は、広大な建設現場に到着し、守衛小屋の前で停止した。囚人たちよりも先に、長外套を着た二人の警護兵が、敷地の一画から野っ原を横切って、むこうの望楼へ歩いて行く。全部の望楼に警護兵が配置されぬうちは、中へ入れてくれないのである。肩に小型機関銃を背負った警護隊長は、守衛小屋の方へ歩いて行った。守衛小屋の煙突からは、絶え間なく煙が立ちのぼっている。板やセメントが盗まれぬよう、囚人出身ではない守衛が、一晩中そこに詰めているのである。
有刺鉄線を張りめぐらした門のむこう、広い現場のむこう、さらに反対側の有刺鉄線のむこうで、靄に包まれたように大きくて赤い太陽がのぼりそめていた。シューホフの隣りにいたアリョーシカは、くちびるに笑みを浮かべて、嬉しそうに太陽を見つめている。頬はこけ、配給のパンを貰う以外に何の内職もしていないというのに、いったい何が嬉しいのだろう。このバプチスト教徒は、毎日曜、仲間のバプチスト教徒とひそひそ話し合っている。収容所《ラーゲリ》生活も、この連中には蛙の面に水といった感じである。
顏覆いのぼろ切れは、呼吸のせいですっかり湿っぽくなり、その湿り気が寒さに凍ってカチカチになりかけていた。シューホフは、ぼろ切れを顔から頸にはずし、風に背を向けた。どこといってとくに服の破れはないのだが、薄い指なし手袋をはめた手はかじかみ、左の足指は感覚がなくなっている。フェルト靴の左を一度焦がして、二度も修理をしてあるのだ。
腰、背中から、肩へかけて、ひどい痛みようだ。これで仕事ができるだろうか。
ふり向くと、班長と顔が合った。すぐうしろの列にいたのである。班長は、肩幅がひろくて、全体的に大柄な男だった。今は、ゆううつな顔をして立っている。この班長は、班員たちがへまをやるのは容赦しなかったが、食物のこととなると、非常に気をつかってくれた。なにしろ二度目の刑期をつとめている男で、収容所《ラーゲリ》管理局の申し子みたいな人物である。収容所《ラーゲリ》の内情を知りすぎるほど知っている。
収容所《ラーゲリ》では、班長がすべてだ。いい班長にぶつかると第二の人生を楽しめるが、わるいのにあたったら一巻の終わりである。アンドレイ・プロコフィエビッチ・チューリンを、シューホフはウスチ・イジマ時代から知っていた。そっちでは、別の班に属していたのだが。やがて、刑法五十八条〔スパイ行為、サボタージュ、反体制プロパガンダなど「社会的に危険な要素を含む活動」を取りしまるための条項〕でやられた連中が、ウスチ・イジマの普通収容所から、ここの強制収容所へ移されたとき、えらばれてチューリンの班にはいった。所長や、生産計画部や、監督官や、技術者たちとは、シューホフは没交渉でいられる。どんな場合でも、班長がその鉄のような胸で、楯の役目をつとめてくれるからだ。その代わり、班長が、ちょいと眉や指先を動かすだけで、こちらはどんな用にでも馳せ参じなければならない。収容所《ラーゲリ》では、ほかの人間をだますことはできても、チューリンの目はごまかせない。とにかく、チューリンについてさえいれば安全なのである。
シューホフは、作業の場所はきのうとおなじですか、ほかの場所へ移るんですか、と班長に訊ねようと思ったが、何か考えこんでいるらしい様子を見て遠慮した。
「社会主義生活本部」行きからうまく逃げたあと、今度は作業ノルマのことを考えているのだろう。ノルマ査定によって、今後五日間の食糧の割りあてが変わってくるのである。
班長の顔は、あばただらけだ。まっすぐ風上に向いているのに、顔をしかめもしない。まるで樫の樹皮みたいな皮膚である。
班員たちは、手をこすりあわせ、足踏みしている。ひどい風だ! 六つの望楼ぜんぶに警護兵が配置されたのに、まだ中へ入れて貰えない。この上、何を警戒しているのか。
そら、来た! 警護隊長が点検役の守衛といっしょに守衛小屋から出て来て、それぞれ門の両脇に立った。門がひらいた。
「五列に並べ! 一! 二!」
なんだかパレードのような感じで、囚人たちは隊伍をととのえ、歩き出した。中にはいりさえすれば、言いつけられなくても、することはわかっている。
守衛小屋のすぐむこうに、管理事務所があり、その前に監督官が立って、班長たちに指図している。班長たちも自発的にそこへ集まって行く。「デール」と呼ばれる囚人仲間の職長も、そこへ行く。こいつは正真正銘の悪党だ。仲間の囚人たちを犬畜生扱いする。
八時だ。八時五分すぎ(つい今したが、蒸気機関がピーッと汽笛を鳴らした)。お上は、囚人が時間を浪費しないか、どこかあたたかい所にもぐりこまないかと目を光らせているが、囚人の一日は長い。あわてる必要はすこしもない。門をはいるや否や、囚人たちはなんとなく中腰になって、あちこちに落ちている木っ端を拾い始めた。これは穴に隠しておいて、あとでストーブの燃料にする。
チューリンが、副班長のパブロに、いっしょに事務所へ来いと命じた。シーザーも、事務所行きになった。シーザーは金持ちで、月に二度も差入れがあるから、然るべき人物にはちゃんと賄賂をつかませてある。そして事務所でぬくぬくと、ノルマ査定か何かの手伝いをするのだ。
一〇四班の残りの班員たちは、さっさと現場にむかって歩き出す。
霧に包まれた赤い太陽が、がらんとした建設現場の上にのぼった。組立建築《プレファブ》用の部品が雪をかぶっている。煉瓦積み作業をやりかけて、途中でやめてしまった場所である。掘削機《エクスカヴァートル》のこわれたハンドルがころがっている。放り出されたスコップ。鉄屑。いたる所に掘られた溝、壕、穴。自動車修理工場は、仮の屋根をつけて骨組だけはできあがり、小高くなった場所では、発電所の工事がもう二階まで進捗《しんちょく》している。
囚人たちは散らばってしまって、姿が見えない。望楼の上の六人の番兵と、事務所のあたりの人ごみが見えるだけだ。今こそ、われわれの時間である! 作業命令は前夜のうちに徹底させておけと、規律監督官はだいぶ怒ったそうだが、なかなかそうもいかない。朝までに、計画ががらりと変わってしまうことは珍しくもないのである。
このひとときは、われらのもの! 上の連中があれこれ相談しているあいだ、すこしでもあたたかい所を見つけて、のんびり腰をおろしている。これから一日辛い目にあうのだ。ストーブの近くの場所がとれれば、ポルチャンキをはずして、すこし火にあぶる。そうしておくと足が一日あたたかい。しかし、ストーブなしでも、もちろん結構。
一〇四班は、自動車修理工場のなかにはいって行った。去年の秋以来ここには窓ガラスがはいり、三八班がコンクリート・ブロックを作る作業をやっている。型にはいっているブロックがあり、すでにできあがって積み重ねられたブロックがあり、鉄筋がどっさり置いてある。天井は高いし、下はまだむきだしの地面なので、それほどあたたかいわけでもないが、石炭だけはけちをせずに、ぼんぼんストーブを焚いている。もちろん、それは人間用の暖房ではなくて、ブロックを固まらせるためなのだ。温度計までかかっていて、日曜日、囚人たちが作業に来ないことがあると、自由人が来てストーブを焚いている。
三八班の連中は、むろん他の班をストーブに近寄らせず、ストーブをぐるりととりまいてポルチャンキを乾かしていた。まあ、いいさ、われわれは隅っこにひっこんでいるよ。それもわるくない。
シューホフは、いろんな所に坐った経験をもつ綿入れズボンの尻を、ブロック用の木型の縁に落着かせ、壁に背中を寄りかからせた。背中をのばすと、上衣と胴着がピンと張って、左胸の心臓のあたりを何か硬いものが圧迫する。その硬いものは、内ポケットにしのばせてあるひと切れのパン、例の朝めしを倹約して昼めし用に持って来た半分のパンだ。普段だと、昼めし前にこれに手をつけることはしないのだが、いつもは朝めしのとき半分をたべている。今日は、それすらたべていない。結局、倹約にもならなかったと、シューホフは悟った。今、このあたたかい場所で、パンをたべてしまいたいという誘惑は強かった。昼食までには五時間ある。長い時間だ。
背中の痛みは、足に移動していた。どうにも足に力がはいらない。くそ、ストーブにあたれたらなあ!……
シューホフは、手袋をぬいで膝に置き、上衣の前をあけ、カチカチに凍った顏覆いのぼろ切れを頸からはずし、それを幾つかに折り畳んでポケットに収めた。それから、白い布に包んだパンをとりだし、ひとかけらもこぼすまいと布で受けるようにしながら、すこしずつ食いちぎっては、もぐもぐ噛み始めた。二枚の服の下にあって体温にあたためられたパンは、ちっとも凍っていない。
収容所《ラーゲリ》にはいってから、シューホフは、幾度となく、村にいたころの食事を思い出したものである。ジャガイモをフライパンに山盛りたべたし、雑炊は一鍋そっくり平らげたし、もっと前には肉の大きな塊をたべたこともあった。牛乳は腹が裂けるほどガブ飲みしたし。しかし、あれはまちがっていたのだと、収容所《ラーゲリ》にはいってからのシューホフは思った。たべものというやつは、ちょうど今シューホフがこの小さなパン切れをたべているように、全神経をそのたべものに集中して、舌でよく味わい、口のなかでさんざんころがさなければいけない。そうすれば、この湿った黒パンひと切れが、どんなに香り高く感じられることか。この八、九年間、シューホフは何をたべていた? なんにも。しかし、たべるときの手間は? そりゃあ、もう!
というわけで、シューホフは二百グラムのパンに神経を集中し、そのあたりには一〇四班の全員がぼんやり腰をおろしていた。
実の兄弟のようによく似た二人のエストニア人が、低いコンクリート・ブロックに腰をおろし、かわるがわる、一本のホルダーで半本のタバコを吸っている。この二人のエストニア人は、どちらも色が白く、どちらも背高のっぽで、どちらもやせていて、どちらも鼻が長く、目が大きい。どちらかが欠けると呼吸するのも苦しいというように、いつも互いにひっついている。班長も、この二人を引き離そうとはしなかった。なにしろ、たべものは必ず半分わけするし、寝るところもおなじ寝台の上段なのである。そして隊列のなかでも、朝の点呼のときでも、夜、床へはいってからも、ひっきりなしに何かぼそぼそ話し合っている。ところが、この二人は兄弟でも何でもない。知り合ったのも、この一〇四班に編入されてからなのである。一人は漁師だったそうで、もう一人は、ソビエト政権が成立したとき、まだ赤ん坊だったが、両親に連れられて、スウェーデンへ行った。成長してから、エストニアの大学へ行こうと、みずからの意志で戻って来たのだという。
よく、民族などというのは問題じゃない、どんな民族にだって悪人はいると言う。しかし、シューホフが出っくわした限りのエストニア人には、悪い奴は一人もいなかった。
さて、みんなは腰をおろしている。コンクリート・ブロックの上、ブロック用の木型の上、あるいは地面にじかに。朝っぱらから喋る気にもなれず、だれもが思いに沈んで、押し黙っている。山犬フェチュコフは、どこからか集めてきたタバコの吸殻を(痰壼からでも平気で拾ってくるのだ)、膝の上でよりわけ、吸える部分を一枚の紙に集めている。フェチュコフは娑婆に子供が三人いるが、父親がぶちこまれたとき、子供たちは揃って縁を切り、細君は再婚してしまったのだという。だからだれも差入れをする人はいないのだった。
さっきから横目でフェチュコフの仕事を見ていたブイノフスキーが、大きな声で言った。
「また、なんでそんな汚ないものを集めるんだ。くちびるが梅毒にかかって、ぶつぶつになるぞ! 捨てろ!」
元海軍中佐は命令するのに馴れているから、いつでもこんなふうに、命令口調で話をする。
だがフェチュコフは、ブイノフスキーの命令を受けつけない。元海軍中佐も、差入れがない組なのである。なかば歯の抜けた口で意地わるく笑いながら、フェチュコフは言った。
「まあ見てな、中佐さん、八年もここにいりゃ、あんただって、こうやって拾うようになるから。あんたより気位の高い人は、この収容所《ラーゲリ》にも大勢来たけどよ……」
それはフェチュコフの考えだ。しかし、この元海軍中佐は持ちこたえるかもしれない。
「なんだって、なんだって?」と、耳の遠いセーニカ・クレーフシンが口を挟む。さっき身体検査のときブイノフスキーがどなったことが話題になっていると、勘ちがいしたらしい。「そう、喧嘩する必要はなかったな!」悲しそうに頭を振った。「あんなことを言わなきゃ無事にすんだのに」
セーニカ・クレーフシンは、物静かな男だが、その半生は不幸の連続だった。片方の鼓膜が破れたのは、一九四一年のことだという。その後、戦争で捕虜になり、脱走し、捕えられ、ブッヘンバルト〔ナチスの強制収容所〕にぶちこまれた。ブッヘンバルトでは奇跡的に生き残り、今はここでおだやかに刑期をつとめあげようとしている。喧嘩は身の破滅だと、しきりに力説する。
その通りだ。ぶつぶつ言いながらでも、精いっぱい働くのが一番。我を張れば、怪我をする。
アリョーシカは、何も言わずに両手で顔を覆った。お祈りの文句を呟いている。
シューホフは、パンをほとんど全部たべ終わったが、端っこの皮のところを、すこしだけ、半円形に残しておいた。なぜかというと、雑炊をたべるとき、どんなスプーンを使うよりも、パンで食器を拭きとるようにしたほうが、きれいにたべられるからである。残した皮を、シューホフはまた白い布に包み、その包みを胴着の内ポケットに入れ、寒さにそなえて前をしっかりあわせた。さあ、準備完了、いつでも仕事を始められる。いや、作業の割りあてが手間どってくれれば、そのほうがもちろんありがたいのだが。
三八班の連中が立ちあがり、それぞれの仕事場へ散って行った。ある者はモルタル作りに、ある者は水汲みに、ある者は鉄屑を運びに。
だが、チューリンも、副班長のパブロも、まだ班へ戻ってこない。一〇四班の班員たちは、もうかれこれ二十分も待っていた。冬は労働時間が短縮されているので、夕方は六時までである。だれもが、これはなかなか運がいいぞと思い始めていた。夕方は、もうそれほど先のことでもないような気がしてくる。
「それにしても、だいぶ吹雪がご無沙汰しているな!」と、赤ら顔の肥ったラトビア人、キリガスが溜息をついた。「一度も吹雪がないなんて、妙な冬じゃないか!」
「そうだな……吹雪か……吹雪か……」と、班員たちは溜息まじりで相槌を打った。
このあたりでは、吹雪が始まると、作業に出るどころではない、バラックから出るだけでも命がけである。バラックから食堂までは綱が張られ、これにつかまって行かないと、たちまち迷子になる。雪のなかで凍死した囚人は、犬のえさになるのがオチだ。しかし脱走はできないだろうか。チャンスはある。吹雪のときの雪は非常にきめが細かいが、吹きだまりになると、コチコチに硬くなるのである。そういう吹きだまりを伝って、有刺鉄線を越え、脱走した奴がいた。遠くまでは逃げられなかったけれども。
冷静に考えてみれば、吹雪にはいいところが一つもない。囚人たちはバラックにとじこめられる。石炭の分配がおくれて、バラックのあたたかみはどんどん逃げてしまうし、麦粉の輸送がとまるので、パンはなくなる。調理場では大恐慌だ。しかも、吹雪が三日つづこうと、一週間つづこうと、その期間はぜんぶ休日と見なされて、あとでその日数だけ日曜日にも作業へ出なければならない。
それでも囚人たちは吹雪を好み、待ちわびるのだった。すこしでも強い風が吹くと、だれもが空をふり仰ぐ。純綿を頼む! 純綿を!
つまり、雪よ降れということである。
強風のために積った雪が舞いあがるだけでは、ほんものの吹雪とはいえない。
だれかが三八班のストーブにあたりに行こうとして、すぐみんなに引きとめられた。
そのとき、チューリンがはいってきた。暗い表情である。班員たちは、たちまち察した。何か仕事が出たな。急ぎの仕事が。
「さあて、と」――チューリンは一同を見まわす。「一〇四班、全員いるか」
とは言っても、チューリンの班でだれかがどこかへ逃げ出す気づかいはないから、べつに人数を確かめもせず、てきぱきとチューリンは作業の割りあてを指令した。エストニア人二人と、クレーフシンと、ゴプチックは、ほど遠からぬ所から、大型のモルタル用の槽《ふね》を発電所まで運ぶこと。つまり、この班が、去年の秋から中断されていた発電所建設の仕事にまわされたことは、明らかである。さらにほかの二人は用具置場へやられた。そこには、副班長のパブロが先に行って、用具を受けとっている。ほかの四人は、発電所の周囲、発電機室の入口、その内部、階段などの雪掻き作業をする。それから発電機室にストーブを焚く者が二人。燃料は石炭、足りない分は板を割って薪にする。それから、一人は橇を使って発電所までセメントを運ぶ。それから水汲みに二人、砂運びに二人。もう一人は、砂の上の雪を払い、凍った砂を鉄梃《ハンマー》で砕くこと。
まだ命令を受けていないのは、シューホフとキリガスだけ。この班では優秀な二人である。二人を呼んで、班長は言った。
「ところで、きみたち!(班長は二人より年上でもないのに、|きみたち《レビヤータ》〔「子供たち」の意〕と呼ぶ癖があった)午後は二隊でスラッグ・ブロックを積んでもらう。例の、去年の秋、六班が途中で放り出した所だ。その前に、発電機室をあっためてくれないか。あの部屋は、でかい窓が三つもあるから、あの窓をまずふさがなきゃならん。手伝いはあと何人かつけるから、窓をふさぐ材料を探してくれ。発電機室じゃ、モルタルを作るし、みんなが体をあっためる。暖房しないことには、犬みてえに凍え死だ。わかったな?」
さらに何か言おうとしたところへ、ゴプチックが駆け寄ってきた。これは年の頃十五、六の若者で、豚の子みたいにバラ色のほっぺたをしている。ほかの班が、モルタル用の槽《ふね》を渡してくれないので、喧嘩になっているという。チューリンは、すぐ、そっちへ飛んで行った。
この寒さに作業を始めるのは辛いが、肝心なのは、仕事へ踏み切ることだ。それだけが問題である。
シューホフとキリガスは、顔を見あわせた。この二人は、今までにも何度かいっしょに仕事して、お互いに大工の腕と煉瓦工の腕を尊敬しあっている。それにしても、このがらんとした雪野原で、窓をふさぐ材料を見つけることは楽ではないだろう。だが、キリガスは言った。
「ワーニャ〔イワンの愛称〕! 組立建築《プレファブ》の材料のそばに、タール・ペーパーを一巻き隠してあるとこを知ってるんだ。じつは、おれが隠しておいたんでね。行くか?」
キリガスはラトビア人だが、ロシヤ語はペラペラである。故郷の村の近くに、旧教信者〔十七世紀以来のロシヤ正教の一分派、革命の前後を通じて迫害された〕の村があって、小さいころロシヤ語を習ったという。収容所《ラーゲリ》に来てからは二年にしかならないが、天はみずから助くるものを助くというここの原則をよく心得ていた。キリガスの名前はヨガン〔ロシヤではイワン〕なので、シューホフのほうでも、この男をワーニャと呼んでいる。
二人は、タール・ペーパーを取りに行くことにした。その前に、シューホフは、ひとっ走り、自動車修理工場まで行って、鏝《こて》を取って来ると言った。手に合った軽い鏝というのは、煉瓦工にとっては必需品である。しかし、どこの現場でも、道具は朝、貸与され、夕方返却すべしというきまりになっている。だから、次の日にどんな道具があたるかは、運まかせである。だが、シューホフはあるとき用具係の目をごまかして、具合のいい鏝を一梃くすねてしまった。その鏝を夕方になると、毎回ちがう場所に隠し、翌日、煉瓦積み作業があれば、こっそり取りに行く。もちろん、今日、一〇四班が「社会主義生活本部」の方へやられれば、シューホフはまたもや鏝なしですごさねばならなかったわけだ。いま、シューホフは小さな石を脇へどけ、穴を探った。ほら、ちゃんとある。それを取り出した。
シューホフとキリガスは、修理工場を出て、組立建築《プレファブ》の材料が置いてある場所へ歩き出した。二人が呼吸をするたびに、息がまっしろに凍る。陽はすでに昇っていたが、霧に包まれて光線は地上に届かない。太陽の両側には、霧の柱のようなものが立っている。
「霧の柱だぜ」と、シューホフが顎でそれを指しながら、キリガスに言った。
「柱なんて、|め《ヽ》じゃねえさ」と、キリガスは答え、声を立てて笑った。「柱と柱のあいだに有刺鉄線を張らないうちは、わるい景色じゃねえよ」
キリガスは、口をひらけば冗談を言う。だから班のだれからも愛されていた。収容所《ラーゲリ》にいるほかのラトビア人たちときたら、キリガスをまるで奉っている! それは、キリガスが月に二度は必ず差入れを受けとり、たべものに不自由していないということもあった。収容所《ラーゲリ》の人間らしくもない、いい血色である。自然に冗談も出ようというもの。
この現場は、恐ろしく広かった。端から端まで行くには時間がかかる。シューホフたち二人は、途中で八二班の連中に逢った。八二班はまた穴掘りだという。穴はそんなに大きくなくてもいい、さしわたし五十センチに、深さも五十センチ程度でいいのだが、ここの地面は夏でも石のように固く、この厳寒のさなかでは、まずまともに掘ったのでは、とうてい埒《らち》があかない。ツルハシを使うのだが、ツルハシは地面にぶつかってカチンと火花を発するだけで、土はいっこうに掘れない。囚人たちは、つくづく穴を眺め、あたりを見まわすが、暖をとる場所はどこにもないし、作業をやめるわけにもいかない。仕方なく、またツルハシを振り上げる。ツルハシだけが唯一の暖房である。
シューホフは、顔見知りのビャーチッチ人〔古代スラブ民族の一つ〕を見つけて、忠告した。
「おおい、お前たち、穴を掘るんなら、掘る所でまず焚火をすりゃいいんだ。地面がやわらかくなるぜ」
「許可がおりねえよ」と、ビャーチッチ人は溜息をついた。「薪をくんねえもの」
「どっかで拾ってくりゃいい」
キリガスは、ペッと唾を吐いた。
「しかしねえ、ワーニャ、上の連中がもうすこし利口だったら、この寒さにツルハシで地面を掘らせたりなんか、するもんだろうかね」
そしてキリガスは、ぶつぶつと口のなかで悪態をつき、まもなく黙りこんだ。氷点下の大気のなかでは、会話もできない。二人はどんどん歩きつづけ、組立建築《プレファブ》用の資材が雪に埋もれている場所に近づいた。
シューホフは、キリガスと組んで仕事するのは好きだった。この男の唯一の欠点はタバコを吸わないので、差入れの小包みにもタバコがはいっていないことである。
それにしても、キリガスは抜け目のない男だ。二人が、よいしょと板を持ち上げ、もう一枚持ち上げると、ほんとうに、タール・ペーパーが一巻き出てきた。
それを取り出した。さて、どうやって持って行こうか。望楼に見つかることは、問題にならない。警護兵たちは、囚人の脱走にばかり気をつかっているから、作業場の内部では、資材をみんな薪にしてしまっても、文句を言わない。それから、収容所《ラーゲリ》の看守とばったり出っくわしても、たいしたことはない。だいたい看守自身が、何か燃料になるものを持ち出すチャンスはないかと、いつも心がけているのである。囚人仲間は、もちろん、こんな組立建築《プレファブ》なんぞ糞くらえと思っているし、班長連中も同様だ。ただ面倒なのは、自由人の監督官や、囚人仲間の職長やのっぽのシュクロパーチェンコである。このシュクロパーチェンコというのは、平《ひら》の囚人なのだが、特別任務を与えられ、組立建築《プレファブ》用の資材を囚人たちがくすねないよう番をしている。だれかが目を光らせていて、シューホフたちを捕えるとすれば、それはまずこのシュクロパーチェンコなのだ。
「なあ、ワーニャ、やっぱり、横にして運ぶのはまずいよ」と、シューホフが名案を思いついて言った。「こいつは縦にかかえて、体でカバーしながら、そうっと持って行こう。遠くから見りゃわからないよ」
これはうまい思いつきだった。タール・ペーパーをかかえては、とても歩きづらい。二人は、ちょうど第三の男を中に挟むように、タール・ペーパーを体と体で挟んで、歩き出した。傍から見れば、二人の男が仲むつまじく歩いている図である。
「しかし、あとでこれが窓に張ってあるのを見たら、監督官だってすぐわかるよな」と、シューホフが言った。
「おれたちの知ったこっちゃねえさ」と、キリガスが元気よく言った。「発電所に来たときは、もう|こうなっていました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と言やあいいんだ。まさか引っ剥がしもしねえだろう」
それももっともだ。
薄い指なし手袋をはめた手は、すっかりかじかんで、感覚がなくなっていた。左のフェルト靴も相変わらずである。問題はむしろフェルト靴のほうだ。手は仕事を始めれば、あたたまるのだから。
だれも通った跡のない雪野原を通過すると、用具置場から発電所へ、橇が通った跡に出っくわした。もうセメントは運んでしまったらしい。
発電所は一段と小高い所にあり、そこが建設用地のはずれにあたっていた。しばらく前から、ここには人が来なかったので、発電所のまわりは、うず高く雪に覆われている。それだけに、橇の跡と、作ったばかりの小道は妙に目立っていた。われわれの班が通ったのだ。すでに、木のシャベルで、発電所のまわりと、車の通る道の部分だけ、雪かきが始まっている。
巻場機《ウインチ》を作ったら、仕事はよほど楽になるだろう。ところが、いつかモーターが焼け切れて、それ以来、修理していないようだ。とすると、またまた二階まで何もかも担いで上がらなきゃならんのか。セメントも、スラッグ・ブロックも。
二ヵ月前から、この発電所は、雪のなかに見捨てられて、灰色の骸骨のように立っていたのである。今や一〇四班がやって来た。一〇四班の原動力は何か。縄のバンドで締めあげたからっぽの胃袋である。刺すような寒さ。暖をとる場所はない。ひとかけらの火も、火花もない。それでも一〇四班がやって来た。ふたたび活気がみなぎった。
発電機室の入口に、問題のモルタル用の槽《ふね》が置いてある。ひどいおんぼろ箱だ。こりゃ運びこむだけでバラバラになるぞ、とシューホフは思った。班長は体面上、悪態をついたが、だれのせいでもないことは明らかである。だが、キリガスとシューホフが、タール・ペーパーを体に挟んで戻ってきたから、班長は機嫌を直して、すぐに新たな仕事を指図した。シューホフは、ストーブに煙突をつけて、焚きつけをよくする。キリガスは、エストニア人二人の手を借りて、モルタル用の槽《ふね》を補強する。セーニカ・クレーフシンは、長い材木を適当に斧で割って、タール・ペーパーを釘づけするための横木をつくる。タール・ペーパーの幅は窓の半分くらいしかないのである。しかし、材木をどこから持ってこようか。モルタルのために屋内をあたためるとなれば、監督官も文句を言うまい。班長はあたりを見まわし、それにつられて、班員たちもあたりを見まわした。解決策はただ一つ。二階へ上がる階段の手摺がわりの板をとっぱずすのだ。注意して上がれば、落っこちることはない。ほかにどうしょうもないじゃないか。
それにしても、収容所《ラーゲリ》の囚人たちは、五年も十年も、どうしてこうよく働くのだろう。いやだと言えば、それまでのことではないだろうか。夕方まで適当にのらくらしていれば、夜はこっちのものではないか。
ところが、そうはいかないのである。そのためにこそ、班というものが考え出されたのだ。ここの班は娑婆の班とはちがう。イワン某がいくらいくらの賃金を貰い、それとは別個にピョートル某がいくらいくらの賃金を貰う、といった作業班ではない。収容所《ラーゲリ》の班とは、監督官が囚人たちを督励するのではなく、囚人同士がお互いに尻をひっぱたきあうための仕組みなのである。だから、班の全員に食糧の特配があるか、さもなくばみんなが餓死するか、二つに一つなのだ。貴様は働かんと言うが、おれは貴様のせいで腹をへらしていなきゃならんのか。冗談じゃねえ、馬鹿野郎、働きやがれ!
それに、たとえば今のような状況では、なおのこと、サボっているわけにはいかない。好むと好まざるとにかかわらず、せっせと働かなければ、どうにもならないのだ。あと二時間も暖房なしでいれば、自分を含めて班の全員がピンチに追いこまれるのだから。
用具は、すでにパブロが持って来て、えらび出すばかりになっていた。煙突らしきものもある。もちろんストーブに合うようなしろものではないが、小さなハンマーと斧があるから、なんとかなるだろう。
指なし手袋をはめた両手をこすりあわせてから、シューホフは二本の煙突をならべ、接ぎ目を叩き始めた。ときどき手をこすりあわせては、また叩く(鏝《こて》は、ここでも手近かに隠してある。おなじ班の人間でも、すり替えたりしないとは保証できない。キリガスすら信用できない)
すると、頭からあらゆる考えが洗い流されたようになった。もう、今のシューホフは何も思い出さないし、何も思いわずらわない、ただ煙突の接ぎ目をいかに巧みに接ぎあわせ、煙らないようにするか、それしか考えていない。ゴプチックを呼んで、針金を探しに行かせた。窓のところで、煙突を吊らなくてはならない。
片隅には、もう一つ、煉瓦の煙突がついた背の低いストーブがあった。上部の鉄板がまっかに焼け、その上に凍った砂をのせて、乾かしている。いつのまにか、このストーブには火が入り、元海軍中佐とフェチュコフが二人がかりで、モッコで砂を運んできたものらしい。モッコを運ぶのに、あたまは要らない。だからこそ班長は、娑婆で人の上に立っていた連中に、その仕事を割りあてるのだ。フェチュコフは、むかし、どこかの役所の部長だか局長だかだったという。いつも車を乗りまわしていたとか。
フェチュコフは、はじめ元海軍中佐をいじめようとして、ちょっと凄んだりした。元海軍中佐は、憤然としてフェチュコフをぶんなぐり、それでいがみあいにはけりがついたらしい。
班員たちが、砂ののせてあるストーブにあたろうと寄って来た。班長が気合いを入れた。
「こら、おれにあっためて貰いたい奴はだれだ! まず、仕事、仕事!」
殴られて懲りた犬には、鞭を見せるだけでいい。寒気はきびしいが、班長はもっときびしいのだ。班員たちは、またそれぞれの仕事に戻った。
班長が低い声でパブロに言うことばが、シューホフの耳に入った。
「お前はここに残れ、監督を頼む。おれはノルマ査定を片付けてこなくちゃならん」
仕事そのものよりも、仕事のノルマ査定が肝要なのである。利口な班長であればあるほど、このノルマ査定には神経を使うのだ。これはすぐ食事に響いてくる。完成しなかった仕事は完成したように見せかければいいし、低い査定率はなるべく高くするように、なんとか努力しなければならない。そのためには、班長の知恵が必要になってくる。それから査定係への、あの手この手だ。やはり付届けが要る。
でも考えてみれば、このノルマ査定というのはだれのためのものだろう。収容所《ラーゲリ》当局のためのものである。当局は、建築工事を一つ請負うと、何万ルーブリという余分の金を儲けて、監督官にはボーナスを出したりする。あの鞭を持ったボルコボイなんか、その口だ。こちとら囚人は、晩めしのパンを二百グラム余計に貰うだけ。二百グラムの人生ということだろうか。
バケツ二杯の水が運びこまれたが、途中ですっかり凍っている。運んでも無駄だと、パブロが言った。それより雪を溶かせばいい。バケツはストーブの上にのせられた。
ゴプチックが、ま新しいアルミ線を持って来た。電気工が使うような種類である。ゴプチックは報告口調で言う。
「イワン・デニスイッチ! スプーンにしたらちょうどいい針金です。スプーンの作り方を教えてくれませんか」
このいたずらっ子ゴプチックを、イワン・デニソビッチは愛していた(シューホフ自身の息子は小さいころ死んで、家には成人した娘が二人いる)。ゴプチックは、ベンデラ〔西ウクライナの民族主義パルチザンの指導者。一九五〇年ころまでソビエト領内で地下運動をつづけ、五九年にドイツで殺された〕派の連中に牛乳を運んだというかどで逮捕され、大人なみの刑を宣告されたのだった。人なつこい子で、大人たちの機嫌をとるのが上手だ。ただし、こずるいところもある。差入れが来ると、こっそり一人でたべてしまう。夜中にもぐもぐ口を動かしていたりする。
まあ、いずれにせよ、みんなにわけてやることもできないのだが。
二人は、スプーン用の針金を別にして、片隅に隠した。シューホフは、二枚の板を組みあわせて梯子のようなものを作り、煙突を吊るために、ゴプチックを登らせた。ゴプチックは、リスのように身軽に梯子を登り、釘を打ち、針金を釘に引っ掛け、煙突の下に通した。シューホフも、その間にもう一本の煙突を、窓の外で垂直に接ぎあわせた。今日は風がないが、あすはわからない。こうしておけば、煙の逆流が防げるのである。この煙突はだれのためでもない、自分たちのための煙突なのだ。
一方、セーニカ・クレーフシンは、もう材木を割り、横木をこしらえていた。釘を打つ役目は、やはり身軽なゴプチックだ。するする高い所へ登り、上から大声でわめいたりしている。
陽はさらに高く昇り、霧を追い払っていた。さっきの霧の柱は消え、屋内にまで赤い光がさしこんできた。ストーブに、盗んだ薪が放りこまれた。このほうが、よほど愉快である!
「一月の太陽であったまるのは、牛の横っ腹だけだ!」と、シューホフが自信ありげに言った。
キリガスは、モルタル用の槽《ふね》の修繕を終わり、念を押すようにハンマーでポンとひと打ちして叫んだ。
「なあ、パブロ、これだけの仕事をやったら、班長さんから百ルーブリいただかなくちゃな。びた一文もまけられないよ!」
パブロは笑った。
「まあ、パン百グラムってとこだね」
「検事さんから足し前を貰えばいい!」と、上からゴプチックがどなった。
「あかん、あかん!」と、シューホフがどなりだす(タール・ペーパーの切り方を、ゴプチックがまちがえそうになったのである)
自分で手本を見せてやる。
新しいストーブに、班員たちがあたりにきて、パブロに追い払われる。キリガスには助手がつけられ、モルタル運搬用の箱を作ることを命じられた。モルタルを二階へ運ぶのである。砂運びには、さらに二名が追加された。ほかに、二階へ班員が行って、足場や、積みかけの煉瓦壁の雪掻きをする。もう一人は、ストーブの上で乾いた砂を、モルタル用の槽《ふね》に投げこむ。
戸外から、エンジンの音がきこえた。スラッグ・ブロックを積んだ車がやって来たのだ。パブロが駆け出して行って、両手をふりまわし、ブロックをおろす場所を指示する。
タール・ペーパーは、つぎつぎと張られていった。こんなものを張っても、何ほどの効果があるだろう。ただの紙ではないか。それでも、なんとなく壁のように見える。屋内は暗くなった。ストーブの火が、いっそう明るく感じられた。
アリョーシカが石炭を運んできた。何人かが叫ぶ。ストーブにくべろ! ほかの何人かが叫ぶ。くべるな! 薪で沢山だ! どっちの言うことを聞いたらいいかわからずに、アリョーシカは突っ立っている。
フェチュコフが、ストーブの前にうずくまり、間抜けめ、火に直接フェルト靴をおっつけた。元海軍中佐がフェチュコフの襟首をひっつかみ、モッコの方へ突きとばした。
「この悪党め、砂を運ばんか!」
元海軍中佐は、収容所《ラーゲリ》の仕事を、海軍の勤務とおなじように考えている。命令はあくまでも守るべし、というわけだ。ここひと月でめっきりやつれた海軍中佐だが、依然として意気軒昂たるものがある。
いつまで保《も》つかわからないが、三つの窓にタール・ペーパーが張られた。もう戸口からしか光は入って来ない。寒さも、そこから入ってくる。パブロは、戸口の上半分をふさぐように命じた。出入りのときは、腰をかがめればいい。早速ふさぎにかかった。
この間、三台のダンプカーが、つぎつぎとブロックを運んできた。さて、問題は、巻揚機《ウインチ》なしで、どうやってこのブロックを二階に上げるかである。
「煉瓦工は、上へあがって、見てもらうよ!」と、パブロが呼びかけた。
煉瓦積みは、高級な仕事の部類に属する。シューホフと、キリガスは、パブロといっしょに、二階へあがった。それでなくとも狭い階段だが、セーニカが手摺をひっぱがしたので、壁にしっかりくっついていないと落ちそうになる。おまけに、段々に雪が凍りついて、角はすっかりまるくなり、ともすれば足をとられそうになる。どうやってモルタルを運んだらいいだろう。
三人は、中断している煉瓦積みの現場を眺めた。雪はもうシャベルで払ってある。ここから始めることにしよう。まず積みかけの煉瓦の上にこびりついた氷を削りおとし、箒で掃き捨てなければならない。
ブロックをどうやって、上まで持ってくるか。三人は下をのぞきこんだ。こうしたらどうだろう。階段をいちいちのぼって運ぶのではなく、まず四人が下から足場へ放り上げる。足場で二人が中継ぎし、二階ではさらに二人がそれを受ける。こうすれば能率があがるだろう。
二階では、風は強くないが、かなり体にこたえる冷たさだった。作業を始めても、体はあたたまるまい。積みかけのブロックの蔭に入れば、いくらかあたたかいだろうが。
シューホフは頭を上げ、空を仰いで、あっと驚いた。空は晴れわたり、太陽はもう中天にかかっている。仕事をしていると、なんと時間の経つのが速いんだろう! 今までにも幾度となく思ったことだが、収容所《ラーゲリ》では日々がまたたくまに過ぎ去り、あとをふり返るひまもない。そのくせ、刑期はすこしも縮まっていない感じだから、不思議である。
三人がまた下へおりると、班員たちはみんなストーブのまわりに集まり、海軍中佐とフェチュコフだけが砂運びをやっていた。パブロは腹を立てて、ただちに八人をブロック上げ作業にやり、二人にはセメントと砂を混ぜる作業を、あとの二人には水汲みと石炭運びを割りあてた。キリガスが仲間に言った。
「じゃあ、箱の仕事を片付けちまおうぜ」
「おれも手を貸してかまわないかね」と、シューホフがパブロに許可を求めた。
「よろしいよ」と、パブロがうなずいた。
モルタル用に雪を溶かすべく、大きな桶が運ばれてきた。だれかが、もう十二時だと言った。
「そう、かれこれ十二時だな」と、シューホフも言った。「お日さんが、一番高いとこまで来てるから」
「一番高いとこまで来たんなら」と、海軍中佐が反対した。「十二時じゃなくて、一時だぞ」
「どうしてだい」と、シューホフはびっくりして訊ねる。「昔っから言ってるよ、日が一番高くのぼりゃ昼だって」
「それは昔のことだ!」と、海軍中佐がぴしゃりと言う。「その後、法律ができてな、日が一番高くのぼりゃ午後一時だとさ」
「そりゃだれが作った法律かね」
「ソビエト政府にきまっとる!」
元海軍中佐はモッコをかついで出て行ったが、シューホフはそれ以上問題を追及しなかった。太陽までがソビエト政府の法律を守るなんて、そんなことがあってたまるか。
トントン、コツコツ叩いて、ようやくモルタル運搬用の箱が四つできた。
「ようし、ストーブにあたってもいいよ」と、二人の煉瓦工にパブロが言った。「セーニカ、きみも、昼めしのあと煉瓦積み、やる。今のうち休んでおくね」
さあ、おおっぴらにストーブにあたれるぞ。どうせ昼めし前に作業は始められないのだ。モルタルをこねたって、すぐ凍ってしまう。
石炭はすこしずつ白熱して、すでに安定したあたたかみを発散していた。ただし、それが感じられるのはストーブのまわりだけで、屋内ぜんたいは相変わらずの寒さである。
四人は指なし手袋をとり、ストーブに手をかざした。
だが、足はけっして靴をはいたまま火気に近づけぬこと、これは鉄則である。編上靴だとひび割れができるし、フェルト靴は逆に水分を発散して、足はちっともあたたまらない。あたためようとさらに火に近づけると、焼け焦げができる。どうせ新品は期待できないから、春まで穴のあいた靴ですごさなければならない。
「シューホフにゃ苦労がないさ」と、キリガスがからかうように言う。「もう片足は娑婆に出たようなもんだからな」
「その、はだしのほうの足か」と、だれかが口をはさみ、一同は笑った(シューホフは左のフェルト靴を脱ぎ、ポルチャンキを火にあぶっていたのである)
「シューホフも、もうじき出られるのか」
キリガス自身の刑期は、二十五年だった。かつてよき時代には、一律に十年というのが常識だったが、一九四九年以来、だれも彼もが見境いなしに二十五年を宣告される。十年ならば、なんとか保《も》ちこたえることもできるが、二十五年を生きながらえるというのは……。
シューホフは、こんなふうにみんなの注目を浴びるのは、まんざらでもない気持ちだった。こいつはまもなく出られる、運のいい奴だとみんなは言う。しかし実をいえば、シューホフ自身はそれを本気で信じてはいなかった。たとえば、戦争中に刑期を終えた者が、とくに指示があるまではということで、一九四六年まで出所できなかった前例がある。もともと三年の刑期だった男が、結局、五年もとめておかれた例もあった。法律なんて、いくらでも裏返しがきくものである。十年の刑がすんだら、さあ、あと十年ということにもなりかねない。あるいは、追放処分か。
しかし、時には心が締めつけられるような感じになることもある。とにかく刑期は終わりかけ、糸巻きはどんどんほどけているのだ……ああ! この足で自由の大地を踏めるとは。
けれども収容所《ラーゲリ》生活のベテランは、けっしてそんなことを口に出して言いはしない。今もシューホフはキリガスに言った。
「自分の二十五年を気にするもんじゃないよ。きみが二十五年ここにいるかどうかは、まだだれにも何とも言えないんだ。おれが、まる八年ここにいたことだけは、事実だがね」
要するに、今までどおり、うなだれて生きていけば、なぜこんな所へ入ったのか、いつ出られるだろうなどと、くよくよ考えるひまもありはしないのだ。
書類によれば、シューホフは反逆罪で投獄されたのだった。事実、シューホフは自分に不利な証言をした。敵軍の捕虜になり、祖国を裏切ることを企て、ドイツの情報機関から任務をさずけられて、捕虜の身分をとかれた、というわけである。ただし、どんな任務をさずけられたのかということになると、シューホフ自身も、取調べにあたった判事も、さっぱりわからなかった。だから最後まで、ただ任務と言っただけである。
シューホフの選択は単純だった。署名しなければ一巻の終わり、署名すれば、しばらくは生きていられる。だから署名したのだ。
事の次第は、こうだった。一九四二年二月、北西部戦線で、シューホフたちの部隊は完全に包囲された。飛行機は食糧を投下してくれなかった。だいたい飛行機がなかったのだ。しまいには死んだ馬の蹄を切りとり、その角質の部分を水につけて、やわらかにして食べたりした。おまけに弾薬もなかった。結局、ドイツ軍にじわじわと追いつめられ、森のなかで捕虜になった。シューホフは、その森に作られた捕虜収容所に二日間いてから、ほかの四人をかたらって脱走した。森や沼地をさまよい、奇跡的に友軍と出会った。ところが友軍の機関銃手があわてて引金を引いたので、二人は殺され、一人は重傷を負って、やがて死に、つまるところ二人が生き残った。森で迷っていたと利口な申し立てをしておけば、何事もなかっただろう。だが二人は正直に、ドイツ軍の捕虜収容所から逃げて来たと報告した。捕虜収容所から? でたらめを言うな! 五人いれば、それぞれの話をつきあわせて、信用して貰えただろうが、二人では駄目だった。つまるところ、ドイツ軍としめしあわせて脱走をよそおった悪党ということにされてしまった。
不自由な耳を傾けていたセーニカ・クレーフシンは、捕虜収容所からの脱走の話だとわかると、大声で言った。
「捕虜収容所からなら、おれは三度脱走したぜ。三度とも捕まった」
セーニカは辛抱づよい男で、いつもたいてい黙っていた。人の話を聞きとりにくいせいもあって、ほとんど会話に加わらない。だから、この男の過去はあまり知られていなかったが、なんでも、ブッへンバルトの収容所では地下組織をつくり、蜂起を計画して、武器を持ちこんでいたという。ドイツ人は、この男を後手に縛って吊し、棒でひっぱたいたのだった。
「ワーニャ、お前はその八年間、どんな収容所《ラーゲリ》にいたんだ」と、キリガスが反駁した。「普通の収容所《ラーゲリ》にいたんだろう? 女のいる収容所《ラーゲリ》だろう? 番号札もつけてなかったんだろう? この特殊ラーゲリで八年間暮してみろ! 生きて出られたためしはねえんだから」
「女がいた?……女《バーバ》はいなかったよ、バランばっかりだ……」
バランとは材木のことである。
ストーブの火を見つめながら、シューホフは北部ですごした七年間を思い出していた。三年間、材木の運搬をやったり、鉄道の枕木をこさえたりしたっけ。伐採場では、そう、ちょうどこのストーブの炎のように、焚火の炎が揺れた。昼間ではなく、夜の伐採場。昼間のうちに作業割りあてを完遂しない班は、夜まで居残ることという規則があったのだ。
そして夜半すぎに収容所《ラーゲリ》へ帰って、翌朝はまた森へ行った。
「いやぁ、なんといっても……ここはまだ平和だと思うよ」と、シューホフは息洩れのする喋り方で言った。「ここの規則がいいからな。仕事がすんでも、すまなくても、夕方になりゃ帰れるだろう。それにパンの分量も百グラム多いしさ。ここなら人間が生きていかれる。特殊ラーゲリといったって、名前はどうでもいいじゃないか。番号札がそんなに苦になるかい。たいした問題じゃないよ、番号札なんぞ」
「平和だって?」と、フェチュコフが半畳を入れた(昼休みが近いので、みんなストーブのまわりに集まってきていたのである)。「寝ているところをグッサリやられるんだ! それでも平和かよ!……」
「それは、密告する奴だけだ。やられるのは」と、フェチュコフをおどかすように、パブロが指を一本立てた。
ほんとうに、最近この収容所《ラーゲリ》では、新しい事態が発生していたのだった。二人の有名な密告常習者が、ある朝、起床時刻に、寝台で切り殺されたのである。つづいて、何の罪もない男が、たぶん人ちがいだったのだろう、あの世へ送られた。そこで一人の密告常習者などは、当局に泣きついて、「ブール」の石づくりの監房に逃げこんだのである。奇妙なことだ……普通の収容所では、こんなことはけっしてなかった。ここでも初めての事件なのだが……。
とつぜん蒸気機関の汽笛が鳴った。まるで咳払いでもするように、初めは嗄れ声で、それからようやく大きな音で鳴りだした。
半日経過したのだ! 昼休みだ!
えい、おくれをとったぞ! もっと早く食堂へ行って、行列にくっつけばよかった。この作業場には十一の班が来ているが、食堂には一時に二つの班しか入れないのである。
班長はまだ戻って来ない。パブロはすばやくあたりを見まわして、決定を下した。
「シューホフと、ゴプチック、いっしょに来る! キリガス! あとでゴプチックをここへよこすから、そしたら、みんな連れて来る!」
ストーブのそばがあくと、すぐほかの者に占領された。まるで女を抱くように、みんなストーブを抱きたがる。
「さあ、睡気ざましだ!」と、班員たちは叫ぶ。「タバコにしようぜ!」
そしてタバコをだれが吸い出すかと、お互いに監視する。だが、だれも吸わない。タバコが切れているか、それとも人に見せたくなくて隠しているか、どちらかだ。
シューホフは、パブロといっしょに外へ出た。ゴプチックはうしろからウサギのように走ってくる。
「すこし温度が上がったね」と、出た途端にシューホフが言う。「零下十八度ってとこかな。煉瓦積みには、いい温度だ」
二人はふり返って、ブロックの山を眺めた。発電所の足場には、もうかなりの数のブロックが上げてある。二階に到着しているのも相当ある。
シューホフは目を細めて、太陽をふり仰いだ。やはり元海軍中佐の言った法律のことが気になったのである!
だが、あけっぴろげの戸外では、依然として風が刺すように冷たい。忘れるなよ、今は一月だぞ。風はそう言っているようだ。
作業現場の食堂は、まんなかにストーブを据えた小さな掘立小屋だった。壁は薄板を接ぎあわせ、その外側に錆びた鉄板を張って、ようやく隙間をふさいでいる。小屋のなかは衝立で二つに仕切られ、調理場と食堂になっている。しかし、どちらにも床はない。たくさんの足に踏まれた地面は、いたるところ凹凸だらけである。調理場といっても、四角いストーブが一つあり、その上に大鍋がのせてあるだけだ。
この調理場は、料理人と衛生監督官の二人に管理されている。朝、収容所《ラーゲリ》を出るとき、料理人は、収容所の調理場で碾割《ひきわり》を受けとる。一人あたま約五十グラム、一班につき一キロ、つまり、この作業場全体で、一プード〔約十六・四キロ〕に少し欠けるわけだ。その碾割の入った袋を担いで、三キロの道のりを、料理人みずからが歩くのではない。ちゃんと腹心の囚人がいて、それが担ぐ。自分で骨を折るよりは、ほかの囚人からすこしずつ食物の分量をへずって、その腹心に余分にやって担がせるのである。ほかに水を汲み、薪を割り、ストーブを焚きつけるのも、料理人がするのではない。やはり一部の作業要員や、廃疾者同様の連中にやらせて、余分のたべものをやる。なにしろ自分の腹は痛まないのだから、惜しげはない。
そして、この食堂で食事をする者は、外へ出てはいけないという規則がある。つまり、食器も収容所《ラーゲリ》から持って来なければならないので(ここに置きっ放しにすると、夜、自由人にかっぱらわれる)、いつも五十枚ほどの食器を(これを運ぶ奴も余分の食物にありつける)大急ぎで洗って、つぎつぎと回転させて使うのである。食器が持ち出されないように、食堂の入口では、やはり料理人の息のかかった囚人が張り番をしている。しかし、その囚人がいくら厳重に見張っていても、袖の下のせいか、たんに目をごまかされるのか、食器の持ち出しはあとを絶たない。そこでさらに、食器探しの役がいて、作業現場をくまなく歩き、汚れた食器を集めて、食堂へ持ち帰る。この男も、張り番の囚人も、もちろん余分の食物を貰えるのである。
料理人がすることといえば、碾割《ひきわり》と塩を大鍋にぶちこみ、脂肉《あぶらみ》を鍋に入れる分と自分用とにわけ(わるい脂肉は鍋に入るが、いい脂肉はけっして囚人たちの口に入らない。だから囚人たちは、わるい脂肉が配給されると喜ぶのである)、煮えてきたら鍋をかきまわすだけである。衛生監督官は、こんなことすらしない。ただ坐って、眺めているだけだ。雑炊ができあがると、まっさきに衛生監督官が好きなだけたべる。次に、料理人が好きなだけたべる。その時分に、当番の班長が(これは毎日交代する)やって来て、班員にたべさせていいものかどうか毒見をする。この当番は、平の囚人の倍だけたべてもいいことになっている。
それから汽笛を鳴らす。班員たちが集まってきて行列を作り、調理場の窓口から、底にちょっぴり雑炊の入った食器を受けとる。これには碾割が何グラム入っていますかなどと訊くわけにはいかない。そんなことを言ったら、張り倒されるのが関の山だ。
むきだしの曠野《ステップ》に、風が吹き荒れる。夏は乾ききった風、冬は凍てつくような風。昔からこの曠野には何も生えない。有刺鉄線を張りめぐらした内部では。なおさらのこと。小麦はパン配給所に、カラス麦は食料品置場に育つとしか言いようがない。そしてどんなに骨を折って、汗水たらして働いても、この土地では、所長が定めた分量以上のたべものは手にはいらないのだ。その規定の分量さえ、料理人や、その腹心の囚人のために、けずられてしまう。この食堂でも、収容所《ラーゲリ》でも、倉庫でも、いたるところで泥棒また泥棒だ。盗みをする連中は、自分ではツルハシをふるったりしない。ツルハシを使うわれわれは、与えられるものを貰う。そして調理場の窓口から離れる。
だれもが、喰いものにできる相手を、喰いものにするのだ。
パブロとシューホフは、ゴプチックを連れて、食堂にはいって行った。ぎっしり並んだ背中また背中で、低いテーブルもベンチも見えない。坐っている奴より、立喰いをしている奴のほうが多いようだ。固い地面に穴を掘っていた八二班は、まっさきに飛んできたらしく、いい場所を占領していた。たべ終わった者は、なかなか出て行こうとしない。ほかに体をあたためる場所があるだろうか。坐れない連中は悪態をつくが、蛙の面に水である。どんなに悪態をつかれても、寒いよりはましではないか。
パブロとシューホフは、人ごみをかきわけて進んだ。ちょうどいい時に来たようである。今どこかの班が食器を受けとっているところで、もう一つの班が行列をつくっているだけだった。やはり副班長たちが窓口の前に立っている。とすると、今がわれわれのチャンスだ。
「食器! 食器!」と、料理人が窓口のむこうから叫び、こちらから囚人たちが食器を返す。シューホフも、からの食器をかき集めて、窓口に突っこむ。余分の雑炊がめあてではない、ただわが班が食事に早くありつけるようにしたい一心である。
仕切りのむこうでは、何人かの囚人が食器を洗っている。これもまた、たべもののためだ。
パブロの前に立っていた副班長に、新しく雑炊を入れた食器が渡され始めた。パブロがふり向いて叫ぶ。
「ゴプチック!」
「はい!」と、戸口から答える少年の声は、子山羊のように細い。
「うちの班を呼んで来な!」
ゴプチックは走って行った。
今日の雑炊はわるくない。カラス麦の碾割だ。これは、そうたびたびお目にかかれなかった。たいていは、マガラが日に二度で、時には小麦粉を水にといただけの中身だったりする。カラス麦は、いちばん満腹感があるから、そこがありがたいところなのだ。
むかしシューホフは、どれだけのカラス麦を馬に食わせたことだろう。そのカラス麦のひとつまみを、全身全霊をあげて待ちわびるようになろうとは、夢にも思わなかった!
「食器! 食器!」と、窓口のむこうから叫ぶ。
一〇四班の順番になった。先頭の副班長は、自分の食器に普通の倍の「班長給与」を貰い、窓口から離れた。
これも一般班員からへずった分なのに、だれも文句を言わない。班長はすべてこれだけの量を貰うことになっていて、それは自分でたべても、副班長に与えても構わない。チューリンは、いつもパブロにやっていた。
シューホフは、二人の老囚人をテーブルから追い払い、一人の若者には丁寧に席をあけてくださいと頼み、十二個の食器を置く空間を確保した。その上に六個の食器を重ね、そのまた上に二個を重ねるのである。あとはパブロから食器を受けとり、数をかぞえ直し、ほかの班の者に盗まれないよう監視する。小突かれて、ひっくり返されてはまずい。あたりでは、ベンチに坐ったり、ベンチから立ちあがったりして、みんな懸命にたべている。境界線をはっきりさせておかねばならない。こいつが抱えているのは、自分の食器か。それとも、わが班のに手をつけたんじゃあるまいな?
「二! 四! 六!」と、窓口のむこうで料理人はかぞえる。一度に両手で二個ずつ渡すのである。こうすれば、まちがいがすくなくてすむ。
「二、四、六」と、パブロが窓口へむかって、低い声で復唱する。そして二個ずつの食器をシューホフに渡す。シューホフはそれをテーブルにならべる。シューホフは声に出しては数をかぞえないが、だれよりも数には敏感である。
「八、十」
ゴプチックめ、なぜ早く班員を連れてこないんだろう。
「十二、十四……」と、勘定は進む。
そこまで進んで、調理場の食器が足りなくなったのである。パブロの頭と肩のむこうを、シューホフはのぞきこんだ。料理人の二つの手が、窓口に二個の食器を置き、それをつかんだまま、ちょうど何か考えこんだように停止している。料理人の上半身はうしろを向いていた。食器洗いの連中を叱りつけているのかもしれない。そのとき、からになった食器が窓口に差し出された。料理人は、今までつかんでいた二個の食器を放し、からの食器をとりこんだ。
シューホフは、テーブルに置いた雑炊入り食器の山から一瞬目を放し、ベンチを大急ぎでまたいで、窓口の二個をひっつかんだ。そして料理人にというよりは、パブロにむかって、あまり大きくない声で言った。
「十四」
「おい! どこへ持って行く」と、料理人がどなった。
「うちの班のだよ」と、パブロがどなり返した。
「うちの班はわかってるが、勘定をごまかさんでくれ!」
「十四だよ」と、パブロは肩をすぼめた。副班長の立場からすれば、食器の数をごまかすのは、もってのほかなのだが、万一の場合は責任をシューホフに転嫁できると思って調子をあわせたのだろう。
「十四は、もうすんだじゃないか!」と、料理人はカッとなった。
「あんたが、十四と言っただけだよ! 言っただけで、食器は手でおさえてたんだ!」と、シューホフがやりかえした。「嘘だと思うなら、かぞえればいい。ほら、テーブルにみんな並べてあるから!」
そう料理人にどなった折も折、二人のエストニア人が混雑をかきわけて近寄って来た。シューホフはすばやく二人に二個の食器を渡した。そして大急ぎでテーブルの上を点検した。盗めば盗むチャンスはあったのに、あたりのほかの班の連中は案外のろまである。
料理人の赤ら顔が、窓口にあらわれた。
「どこだ、食器は?」と、きびしく訊ねる。
「どうぞ、ごらんください!」と、シューホフは大声で言う。「おい、お前、邪魔だよ、見えないよ!」だれかを突きのける。「ほれ、まず二つ!」上に重ねた二個を持ちあげて見せる。「あとは四個ずつ三列。ね、勘定は合ってるでしょう」
「お前らの班はまだ来ないのか」と、小さな窓口から料理人はうさんくさそうに訊ねた。鍋にどれだけ残っているか、食堂側からのぞかれないように、こんな小さな窓口を作ったのである。
「まだ来ないです」と、パブロは首を横に振った。
「てめえの班が来ないのに、なんでめしだけ持っていくんだ」と、料理人はまた大声を出した。
「来た、来ましたよ、うちの班が!」と、シューホフが叫んだ。
なるほど、戸口のあたりから、元海軍中佐の軍隊調の蛮声がきこえる。
「何をぼやぼやしとるか。食事のすんだ者は外へ出る! 席をゆずる!」
料理人は何かぼやいたが、元の姿勢に戻り、窓口にはふたたび手だけがあらわれた。
「十六、十八……」
そして最後のには倍の分量を入れて、
「二十三。終わり! 次の班!」
班員たちがどやどや入って来た。パブロが、坐っている者の頭ごしに、食器を渡す。一つのテーブルには、とても坐りきれない。
夏ならば、一つのベンチに五人坐れるが、今はみんな着ぶくれしているので、四人がやっとである。四人でも、スプーンを使うとき肘がぶつかりあう。
うまくごまかした二人の雑炊のうち、片方は自分のものになると計算した上で、シューホフは自分の本来の食器をかかえこみ、大急ぎでたべ始めた。まず右足をあげ、フェルト靴のなかから、「ウスチ・イジマ 一九四四年」と銘を入れたスプーンを取り出し、帽子をとり、それを左の腋の下にかかえ、スプーンで雑炊をかきまわす。
この瞬間は、食事に全神経を集中しなくてはいけない。シューホフは、食器の底をうっすらと覆った雑炊をすくいあげ、慎重に口へ入れ、舌を動かしてじっくりと味わう。それにしても、一刻も早く、たべ終わったところをパブロに見せなければならない。パブロはたぶん二杯目をすすめてくれるだろう。だが、二人のエストニア人といっしょに入って来たフェチュコフが、ごまかしの現場を目撃したらしい。さっきから、パブロの前に突っ立って、自分の雑炊をたべながら、わが班の残りの四人分の食器をしきりに眺めているのである。一人前でなくとも、せめて半人前でもくれないかと、パブロに圧力をかけているのだ。
色の浅黒い、若いパブロは、しかし悠々と倍の分量の雑炊をたべていた。あたりの気配に気づいているのかどうか、あるいは二人分ちょろまかしたことをおぼえているかどうか、その表情だけでは何ともいえない。
シューホフは雑炊をたべ終えた。初めから二人分たべる気構えでいたためだろうか、いつもカラス麦の雑炊から得られる満腹感を味わえない。シューホフは、内ポケットから、白い布に包んだパンの皮をとりだし、食器の底や側面にくっついている雑炊の残りを、きれいに拭きとり始めた。拭きとったのを、ぺろぺろなめ、また拭きとる。食器は、すこし曇ってはいるが、まるで洗われたようにきれいになった。シューホフはその食器を肩ごしに食器集めの係に渡し、一分間ほど、帽子をとったまま、ぼんやり坐っていた。
二人分ちょろまかしたのはシューホフだが、その所有権は副班長にあるのだ。
パブロは、すこしおくれて、たべ終えた。食器をなめはしないが、スプーンを丁寧になめて、ふところにしまい、十字を切った。それから、残りの四人分のうちの二つにちょっとさわって(混んでいるから体を大きく動かせない)、それがシューホフのものであることを確認するようなしぐさを見せた。
「イワン・デニソビッチ。一つ、自分でたべる。もう一つ、シーザーのとこへ、持ってってやってください」
事務所にいるシーザーのところへ食事を運ばなければならないことを、シューホフは忘れていたわけではない(シーザーは、この現場でも、収容所《ラーゲリ》でも、自分から食堂へ行くような下司な真似はけっしてしないのだった)。忘れてはいなかったが、パブロが二人分の食器にさわったとき、シューホフの心臓は、一瞬、鼓動をとめた。ひょっとしたら、パブロは両方ともくれるんじゃなかろうか。その一瞬がすぎ去り、心臓はふたたび正常な鼓動をつづけた。
さて、合法的に手に入れた獲物を、シューホフはゆっくりとたべ始めた。新たに入って来た班の連中に背中を押されても、びくともするものではない。気がかりなのは、あと一人分あまった雑炊を、フェチュコフに取られはしないかということだった。フェチュコフは、自分でちょろまかす勇気はないくせに、人にたかることにかけては名人なのだ。
……近くのテーブルには、元海軍中佐ブイノフスキーが坐っていた。食事はとうに終えていたが、一〇四班に余分のたべものがあることは知らないらしく、副班長の手許にあと何人分残っているだろうかと、ふり向いて見ることもしない。ただ、いい気持ちにあたたまって、ふたたび厳寒の戸外や作業現場へ出て行く元気もなく、ぼんやりしているのだった。さっきは海軍仕込みのよく響く声で、食事のすんだ連中を追い払ったくせに、今は自分が席を占領して、あとから来た連中に迷惑をかけている。ブイノフスキーは、収容所《ラーゲリ》へ来て、共同作業をするようになってから、まだ日が浅かった。だから今のような瞬間は(自分でも気づいていないだろうが)、重要な瞬間なのである。つまり口やかましい横柄な海軍士官から、気が小さくて、動作の緩慢な囚人に変貌する瞬間である。二十五年の刑期をかんばり通すためには、そういう緩慢さがどうしても必要なのだ。
……早く席をあけろと、みんなが大声をあげ、ブイノフスキーの背中を突っついている。
パブロが言った。
「中佐! 中佐さんよ!」
ブイノフスキーは、うたたねから醒めたように、ぞくっと身をふるわせ、あたりを見まわした。
パブロが、欲しいかとも訊かずに、雑炊の入った食器を差し出した。
ブイノフスキーの眉毛が上がり、その目は奇跡でも見るように雑炊を見つめた。
「たべなさい、たべなさい」と、パブロが安心させるように言い、最後に残った班長の雑炊を持って、出て行った。
ヨーロッパ各地や北極海までも航海した元海軍中佐のひびわれたくちびるに、申しわけなさそうな微笑が浮かんだ。それからブイノフスキーは、わずかばかりのカラス麦の雑炊、ほとんど脂肉も入っていない、まるでカラス麦をお湯にといただけのようなしろものを、倖せそうに、がつがつたべ始めた。
……フェチュコフは、シューホフと海軍中佐を意地わるい目でにらみ、立ち去った。
やはり中佐にやるのが本当だったのだ、とシューホフは思っていた。今に、この中佐もここでの暮し方をおぼえるだろうが、現在はまだ馴れていないのだから。
だが、シューホフには、まだかすかな望みがあった。ひょっとしたら、シーザーが雑炊をゆずってくれないだろうか。いや、もう、二週間も差入れが来ていないから、まず無理かもしれない。
二杯目の雑炊も底まできれいに平らげ、また例のパンの皮できれいになめとってから、シューホフはとうとうパンの皮をたべた。それから、もう冷えてしまったシーザーの雑炊を持って、立ちあがった。
「事務所へ行くんだ!」と、戸口で食器の持ち出しを見張っている囚人に、シューホフは言った。
事務所は木造の小屋で、守衛小屋のそばにある。朝見たときとおなじように、煙突から盛んに煙が立ちのぼっていた。ストーブを焚くのは当番の囚人で、この囚人は伝令の仕事も受け持ち、時間計算で賃金を貰っている。この事務所では、薪に不自由することは絶対にない。
キイッと音を立てて、外側のドアをあけ、次にシューホフは、麻屑を一面に貼りつけた内側のドアをあけた。寒気がまっしろな蒸気の塊になって、中へなだれこむ。シューホフは手早くドアをしめた(ぐずぐずしていると「このうすのろ、ドアをしめろ!」とどやされる)
事務所の内部のあたたかさは、まるで蒸し風呂のように感じられた。氷がすこし溶けかかった窓ガラスからさしこむ日の光は、発電所の現場のように意地わるくない、むしろ楽しげな感じである。その光のなかで、シーザーのパイプから立ちのぼる煙は、教会のお香にそっくりだった。ストーブは、癪にさわるほど赤く灼熱している。煙突まで赤くなっている。
こんなあたたかい所では、腰をおろした途端に眠ってしまうだろう。
事務所には、部屋が二つある。奥の、監督官の部屋のドアが細目にあいていて、そのむこうから監督官の大声がきこえた。
「われわれは労働賃金を浪費しているし、建設資材を浪費している。組立建築《プレファブ》用の板は言うに及ばず、貴重な木材を、囚人らは割って薪にし、暖房用に燃やしているが、諸君はそれに気がつかんのだ。このあいだは、強風が吹いておるというのに、囚人らはセメントの荷を倉庫の前でおろし、あと十メートルばかりの距離をもっこで運んだ。その結果、倉庫の周囲は、くるぶしまでセメントに覆われ、作業要員は帰るとき全身まっしろだった。なんたる浪費か!」
ははあ、会議をやっているらしい。きっと職長を集めたのだ。
入口の近くのベンチに、当番の囚人がすわって、うとうとしていた。その隣りでは、曲がった竿にそっくりの、のっぽのシュクローパチェンコ、すなわち|В《ベー》の二一九号が、窓の外をじっと眺めている。大事な組立建築《プレファブ》の資材を盗まれないように、ここから監視しているのだ。タール・ペーパーには、ついに気がつかなかったな、ざまあみやがれ。
やはり囚人の事務員が二人、ストーブでパンをあぶっている。焦げないように、針金で網まで作ってある。
シーザーは、自分の机の前にでんとすわって、パイプをふかしていた。入口に背中を向けているので、シューホフが入って来たのに気づかない。
シーザーのむかい側には、|Х《ハー》の一二三号がいた。この人は、二十年の刑を宣告された、やせっぽちの老人である。雑炊をたべている。
「いいや、ちがうな」と、シーザーが思いなしか穏やかな口調で喋っていた。「客観的に見て、やはりエイゼンシュテインは天才ですよ。『イワン雷帝』なんか天才的といえないかね。仮面をかぶった親衛隊員《オプリーテニキ》の踊りなんか凄かった! 寺院の情景《シーン》もさ!」
「ただの衒《てら》いだね!」と、口に近づけたスプーンを止めて、|Х《ハー》の一二三号は腹立たしげに言った。「あまりにも芸術的なものは、芸術じゃないんだ。日々の糧《パン》のかわりに、胡椒や罌粟《けし》の実ばっかりじゃないかね! しかも政治思想は最低だ。独裁政治を正当化してるんだからな。三世代にわたるロシヤ知識人の伝統を侮辱するものだよ!」(ようやくスプーンを口に運ぶか、興奮のあまり、雑炊の味もしないらしい)
「しかし、ほかの解釈は許されなかっただろうからな……」
「ああ、|許されなかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》だと? そんなら、天才なんぞと言うのはよしなさい! おべっか使いがくだらない命令を実行に移したと言いなさい。天才ならばだね、自分の芸術上の考え方を、専制君主の好みに合わせたりするものか!」
高級な会話を邪魔するのがこわくて、シューホフはわざと、ごほん、ごほん、咳をした。いつまでも、ここに突っ立っているわけにはいかない。
シーザーはふり返ったが、シューホフには目もくれず、まるで雑炊が空中から忽然と現われたかのように食器を受けとると、すぐまた議論に戻った。
「しかしね、芸術とは|何を《ヽヽ》じゃなくて、|いかに《ヽヽヽ》だからな」
|Х《ハー》の一二三号は猛り立って、机を拳でドンドンと打つ。
「ちがう、きみの|いかに《ヽヽヽ》なんか糞でも喰らえ、問題は芸術がわたしの内部の善なる感情を喚起するか否かなんだ!」
雑炊を渡してしまったシューホフは、適当な時間だけ、そこに立っていた。シーザーがタバコをご馳走してくれるのを、待っていたのである。だがシーザーは、シューホフがうしろに立っているのを完全に忘れてしまったらしい。
そこでシューホフは廻れ右して、そっと外へ出た。
外はそんなに寒くない。これくらいの気温なら、煉瓦積みもうまくいくだろう。
シューホフは、小道を歩いて行って、雪のなかに鋸《のこぎり》の小さな破片が落ちているのを見つけた。こんな切れっぱしは何かの役に立とうとも思われないが、将来どんな必要が生じるかわかったものではない。拾って、ズボンのポケットに入れた。発電所のどこかに隠しておこう。貯蓄は財産に勝る。
発電所に着くと、まっさきに、隠しておいた鏝《こて》をとりだし、縄のバンドに挟んだ。それから、モルタルを作る部屋へ行った。
日のあたる戸外から入ってくると、そこはずいぶん暗く、外よりも寒いように感じられた。それに湿気も多いようだ。
みんなは、シューホフがしつらえたストーブと、砂をのせたストーブのまわりに集まり、体から湯気を立てていた。ストーブのそばの席にありつけなかった者は、モルタルの槽《ふね》のへりに腰掛けていた。班長はストーブのそばに陣どり、今しも雑炊をたべ終わるところである。パブロはその雑炊をストーブであたため直してやったらしい。
班員たちは、ひそひそ喋っていた。朝方よりは、いくらか元気が出たようである。イワン・デニソビッチは事情を聞かされた。班長が仕事のノルマ査定について有利な取り決めをしてきたのである。上機嫌で帰ってきたという。
班長がどんな仕事をでっちあげてくるかは、班長その人の腕次第である。たとえば、今日だって、午前中に何をやったか。何もしなかった。ストーブを据えたって賃金にはならないし、窓をふさいだのも賃金にはならない。これは生産のためじゃなくて、自分らのためにしたことだ。しかし報告書には、何か書きこまなければならない。たぶん報告書にかんしては、シーザーがうまいことをやっているのだろう。班長がシーザーに一目《いちもく》おいているのも、何か、わけがありそうだ。
有利なノルマ査定を取り決めたということは、今後五日間、パンの配給がふえるということである。いや、五日ではなく、四日間だけだろう。当局はいつだって一日ごまかすのだ。休みの日には、収容所《ラーゲリ》の全員、よきもあしきもひっくるめて、おなじ扱いをされる。だれも腹を立てないように、みんなに平等、というのが口実だが、これは要するにわれわれからのピンはねだ。よかろう、囚人の胃の腑はどんなことだって耐えしのぶ。今日はちょっと足りないが、あしたはたらふく食ってやろう。そう考えながら、休みの日の夜は、だれもが眠りに落ちるのである。
しかし考えてみれば、これは五日間働いて四日しか食えないということではないか。
班員たちはひっそりしている。ある者はタバコをこっそり吸っている。暗い所に集まって、タバコの火をじっと見つめている。まるで大家族だ。この班というものは、確かに大家族である。ストーブのそばで、班長が二、三人の班員を相手に喋っている話に、みんな耳をかたむけている。めったに無駄話をしない班長だけに、こうして喋りだしたのは、よほど上機嫌なのだろう。
この班も、食事のとき帽子をかぶっていられない部類の人間である。帽子をとった頭は、すでに老人の頭だ。ほかの囚人とおなじく丸坊主に刈ってあるが、ストーブのあかりで見ると、だいぶ白いものがまじっている。
「……大隊長の前でもブルっちまうのに、相手は連隊長だろう? 『赤軍兵士チューリン、ご命令により出頭いたしました……』そうすると、太い眉毛の下から、じろっと睨みやがってな。『名前は、父称は?』おれが名前を言うと、『生年月日は?』そのときは一九三〇年だから、おれはまだ二十二の小僧っ子だった。『じゃあ、チューリン、赤軍兵士の本分を言うてみい』『労働者大衆に奉仕することであります!』そうすると青筋を立てて、机を両手でドカンとやった! 『労働者大衆に奉仕するとぬかす貴様は何者だ、言うてみい!』おれもいい加減カッときたが、我慢して言ったさ。『第一級機関銃手であります。教練および政治課程を成績優秀で終了し……』『何が第一級か! 貴様の父親は富農《クラーク》だ! 見ろ、カーメニから書類が来たぞ! 貴様のおやじは富農《クラーク》で、貴様は逃亡中の身ではないか。二年前からのお尋ね者ではないか!』おれは青くなって、黙りこくった。それを見つかりたくないばっかりに、もう一年も家に手紙を書かなかったんだからね。家の者の生死もわからなかったし、むこうでもおれのことは生きたか死んだかと思ってただろう。『貴様それでも良心があるのか!』連隊長の奴、手足をぶるぶる震わしてどなった。『労働者農民の政府を瞞着する気か!』こりゃ殴られるなと思ったが、殴らない。六時間以内に追放しろと命令を出しやがった……外は十一月の寒さだろう。なのに冬の軍服を剥ぎとられて、夏服と、おんぼろのポルチャンキと、丈の短いマントを寄越された。頑張れば奪《と》られずにすんだんだが、おれはまだ青二才で規則を知らなかっただろう。チンポコまで縮みあがっちまった。おまけに身分証明書には、[富農出身者の理由よりに除隊]なんて書きやがる。そんな証明書じゃ、どこにも就職できっこないよ。故郷までは汽車で四昼夜かかるのに、無料パスもくれない、食料一日分もくれない。一食だけめしをくわせて、それっきり兵営からつまみ出されたんだ。
……ところが、三八年に、コトラスの臨時収容所で、元の小隊長にばったり逢ってさ。そいつも十年の刑を喰らったんだ。そいつから聞いたんだが、この連隊長と人民委員部の奴は、二人とも三七年に銃殺されたそうだ。もうプロレタリヤか富農《クラーク》かなんてことは問題じゃない。良心があろうが、なかろうが……おれは十字を切って言ったね。『やっぱり天に神様はいらっしゃるんだなあ。永いこと辛抱なさったから、こらしめもきびしいよ』」
雑炊を二杯もたべたので、シューホフはむやみにタバコが吸いたくなっていた。七号バラックのラトビア人から自家製のタバコを買えるとすれば、借りはそのとき返せる。シューホフは低い声で元漁師のエストニア人に言った。
「なあ、エイノ、一本だけ、あすまで貸してくれよ。おれは借りを返さなかったことなんか、ないだろう」
エイノは、シューホフの目をじっと見つめ、おなじ視線を親友に移した。タバコに限らず、この二人は何でも共有していて、絶対に一人が勝手に使うということをしない。何か二人でぼそぼそ相談しあってから、エイノは赤い紐のついたタバコ入れをとりだした。そのタバコ入れから、規格品のタバコの葉をつまみ出し、シューホフの掌にのせて、その分量を目測し、もう一つまみ追加した。ちょうどシガレットを一本巻けるだけの分量である。それよりはけっして多くない。
シューホフは新聞紙を持っていた。それをやぶき、タバコを巻き、班長の両足のあいだに落ちていた石炭のかけらを拾って火をつけ、吸った! 吸った! 全身がぐらぐらする。酔いに似た感じが、足を、頭を駆けめぐる。
吸い始めたときから、部屋の奥の緑色の目が、こちらを見つめているのは感じていた。フェチュコフだ。憐れみを垂れて、山犬野郎に一服吸わせてもいいが、今日はさんざん方々でたかっていたのを、シューホフは目撃している。セーニカ・クレーフシンに吸わせてやったほうがよかろう。セーニカは、可哀想に、班長の話がきこえないものだから、首をかしげて、黙って火にあたっている。
班長のあばた面は、ストーブの火に照らされていた。まるで他人の噂話でもするように、班長はあからさまなお喋りをつづけている。
「手持ちのがらくたを、四分の一の安値で故買人《けいずかい》に売りつけてさ。闇のパンを二個買った。その頃はもう配給切符の制度になっていたからね。で、貨車に便乗して家へ帰ろうと思ったが、便乗禁止のうるさい法律があった。しかも汽車の切符は、金があっても手に入らないという時代だ。金がなけりゃ問題にもならない。まともに切符が買えるのは、旅行証明書を持っている奴か、さもなきゃ出張の役人だけだった。だいたい停車場に入ることもできない。改札口には民警がいるし、ホームの両側には鉄道保安官がぶらついていてね。日は西へ傾いて、水溜りには氷が張り始めた。さて、今夜はどこで寝ようか……おれは、えいとばかりに石塀を乗りこえて、二個のパンをふところに、駅の便所へ入った。便所なら、いつまで居たって、だれにも追っぱらわれない。まもなく、おれは乗客をよそおって悠々と出て行った。服はまだ軍服だったからね。ちょうどホームに入っていたのが、ウラジボストック発モスクワ行きの列車だ。客がお湯を汲みに下りて来ていて、やかんで頭を殴りあったりして大騒ぎ。二リットル入りのやかんを下げて青い上衣を着た若い娘が、お湯を汲めなくてまごまごしている。かわいい足にお湯をひっかけられるか、足を踏んづけられるかと、ビクビクしてるのさ。で、おれが、『さあ、このパンを持っててください、お湯を汲んであげよう!』湯を汲んでるうちに、汽車が動き出した。その娘は、おれのパンをかかえたまま、どうしたらいいかわからないで半べそさ。やかんをあきらめて逃げだしそうだ。そこでおれはどなった。『走んなさい、すぐぼくも乗るから!』娘は走り出した。おれはそのあとを追っかけて、すぐ追いついて、進行中の列車に片手でその娘を押し上げ、自分もデッキに乗っかった。車掌はおれを見ても、つまみ出そうとしない。ちょうどその汽車に兵隊が大勢乗っていたんで、そのなかの一人とまちがえたんだろうな」
シューホフは、セーニカの脇腹をつついた。さあ、可哀想に、吸えよ。木製のホルダーに詰めて差し出した。こいつになら吸われても何ともない。セーニカは、芸術家みたいに変わり者だ。片手を胸にあて、頭を縦に振った。まったく、このつんぼときたら!……
班長は物語りをつづける。
「その車室《クーペ》には娘が六人いてね。実習から帰ってきたレニングラードの女学生だ。テーブルにはパンやバターがあるし、壁にはコートが掛けてあるし、ちっちゃなスーツケースにはカバーがかかってる。まだ人生の何たるかを知らない娘たちさ。青信号しか見たことがないんだ……喋ったり、ふざけ合ったり、いっしょにお茶を飲んだりしたあげくに、あなたのお席はどこ、ときた。おれは溜息をついて、真相を打ち明けたね。お嬢さん方、わたしが逃げ出して来た席じゃあ、あんた方はとても生きていけないでしょうね……」
あたりはシンとしている。ストーブが赤く光っている。
「娘たちは、ああ、とか、おお、とか言って、いろいろ相談したあげく、おれを寝台の一番上の段にかくまってくれた。コートで隠してね。ノボシビルスクまで、そうやって隠れて、ぶじに行き着いた……話は飛ぶが、そのときの娘の一人に、その後ペチョーラで恩返しをしたよ。三五年にキーロフ騒ぎ〔レニングラード地区の党幹部で政治局員だったセルゲイ・キーロフは一九三四年に暗殺され、その後の大粛清のきっかけとなった〕に巻きこまれて、一般収容所でだいぶ参ってたんだが、衣料部の仕事にまわされるように工作してやったんだ」
「そろそろ、モルタルを作り始めますか」と、パブロが班長に囁いた。
班長はきこえないらしい。
「夜おそく、野菜畑を横切って、家に帰った。その夜が明けないうちに、また出て来たがね。弟を連れ出して、もっとあったかい地方へ、フルンゼへ行ったんだ。ところが、おれも弟も、たちまち食うに事欠いた。町を歩いていたら、大釜でタールをぐらぐら煮ていて、浮浪者がそのまわりに坐っている。おれは近寄って行って、『なあ、ズボンなしの諸君よ! おれの弟を預かって、教育してくれないか。生き方を教えてやってくれないか!』そしたら預かってくれたよ……今じゃ、おれもその連中といっしょになりゃよかったと思うが……」
「その後、舎弟とは逢ってないのかね」と、元海軍中佐が訊ねた。
チューリンはあくびをした。
「そう、一度も逢ってない」またあくびをして言った。
「さあ、みんな、しんみりした話はもう沢山だ! 発電所も住めば都さ。モルタルを作る奴は始めてくれ。汽笛を待ってることはないぞ」
これぞ班というものである。所長は、労働時間中にだって作業要員を動かそうともしないが、班長は休憩時間中にでも、必要があれば働けと言う。なにしろ班長は親代わりだ。伊達や酔狂で人を働かせるわけじゃない。
モルタルを作る連中が動きだすとすれば、煉瓦工も休んではいられないだろう。
シューホフは溜息をついて、立ちあがった。
「氷を削りに行こう」
氷を削るために、小さな斧とブラッシ、煉瓦積みのために、石工用のハンマーと、物指しと、紐と、下鉛《さげなまり》をとりあげた。
血色のいいキリガスは、シューホフを眺めて、顔をしかめた。班長に言われもしないのに動きだすなんて、と思っているのだろう。キリガスは、班のたべもののことを考えないですむから倖せだ。この禿げあたまの男は、たとえパンを二百グラムへずられたって、差入れで食っていけるのである。
それでも不承不承、キリガスは立ちあがった。自分の差入れだけで、班員ぜんぶを養うわけにもいかないと悟ったのだろう。
「待てよ、ワーニャ、おれも行くから!」
早くしろ、早くしろ、栄養のいい野郎め。自分のために働く必要がありゃ、もっと早く立ちあがっていたはずだ。
(シューホフが急いで立ったもう一つの理由は、下鉛《さげなまり》をキリガスに取られたくないということだった。これは用具置場から一つしか持って来られないのである)
パブロが班長に訊ねた。
「煉瓦積みは三人でいいですか。もう一人つけなくていいですか。モルタルのほうが足りなくなるかな」
班長は眉をひそめて考えこんだ。
「おれを入れて四人にしよう、パブロ。きみはここでモルタルを頼む! 槽《ふね》がでかいから、六人もつければいいだろう。槽《ふね》を半分ずつにわけて、片方からできあがったモルタルを汲み出し、反対側ではどんどん混ぜればいい。さあ、一分たりとも無駄にはできないぜ!」
「ようし!」と、パブロは威勢よく動きだした。この男は若くて血色がよく、収容所《ラーゲリ》生活にまだ痛めつけられていない感じである。ウクライナの小麦団子《ガルーシカ》をたらふくたべて育った体は、いかにも健康そうだ。「あんたが煉瓦積みで、おれがモルタルか! どっちが速いか競争だね! じゃあ、一番でかいシャベルはどこだろうかな」
これが班というものなのである! 森に隠れて鉄砲を射ったり、夜中に部落に殴りこみをかけたりしていたパブロが、ここでは、ごらんのとおりの働きようだ! しかし、班長となると、問題はこれほど単純じゃない!
シューホフは、キリガスと連れ立って、二階へあがった。うしろから、セーニカが階段をのぼってくる足音がきこえる。つんぼなのに、みんなの話がわかったらしい。
二階の壁の煉瓦積みは、ほんの初まりのところで中断されていた。どこも三段ほど積んであるだけで、それより高いところはあまり見あたらない。このくらいの高さが一番積みやすいのである。膝から胸までは、足場なしで積める。
その足場というのは、小さな三本足の台なのだが、一つ残らず囚人たちに持ち去られていた。ほかの建物に移したり、あるいはほかの班にゆずりたくないばかりに燃やしてしまったりしたのである。まともな仕事をしたいのなら、あすにも足場を作らなくてはいけない。でないと、作業がストップするだろう。
発電所の二階からは、遠くまで見渡せた。この作業場ぜんたいが雪に覆われて人影もなく(囚人たちは作業開始の汽笛が鳴るまで屋内で体をあたためている)、望楼はくろぐろとそびえ立ち、とがった杭から杭へ有刺鉄線が張ってある。有刺鉄線は、太陽の方角に向くと見えなくなる。日のきらめきが強いので、目をあけてはいられない。
ほど遠からぬ場所に、蒸気機関が見える。空が汚れるほど、もくもくと吐く煙! 折しも、それがぜいぜい息をつき始めた。まともな汽笛が鳴りだす前に、いつもこの病人の喘息みたいな音を出す。それ、鳴りだした。シューホフたちも、たいした超過勤務をしたわけではなかった。
「おおい、スタハノフ労働者! 早いとこ下鉛《さげなまり》を貸してくれよ!」と、キリガスが急きたてた。
「そっちの壁はまだ氷だらけじゃねえか! 晩までかかっても落とせねえんじゃねえのか? そんなありさまじゃ鏝《こて》は使えねえぜ」と、シューホフがやり返した。
昼前に決めておいた、それぞれの分担の壁と取り組もうとしたとき、下から班長が叫んだ。
「おおい、きみたち! 箱のモルタルが凍っちまわないように、二人ずつ組んでやろう。シューホフ! きみはクレーフシンと組め、おれはキリガスと組むから。さしあたり、ゴプチックに、キリガスの壁の氷を落としてもらうぞ」
シューホフとキリガスは、顔を見あわせた。もっともなやり方である。そのほうが能率的だ。
二人はそれぞれの斧を手に取った。
雪野原に日の光のきらめく遠景は、もうシューホフの目に入らなかった。三三五五、戸外へ出て来た作業要員たちは、あるいは朝からやりかけになっていた穴掘り作業へ、あるいは鉄骨を植えに、あるいは仕事場の棟上げに、散らばって行くが、そんな光景もシューホフの目に入らない。シューホフは、自分の受持ちの壁だけを見ている。腰の上の高さまで積まれている左手の隅から、キリガスの受持ちの壁とぶつかる右手の隅まで、それだけが自分の領分である。セーニカに、その部分の氷を削りおとせと指示してから、シューホフはみずからもせっせと、斧の峰や刃を使って氷を砕き始めた。氷のかけらが、あたりに散らばり、顔にまで飛んでくる。シューホフの仕事ぶりはめざましかったが、あたまのなかはからっぽだった。心も、目も、氷の下の壁そのものを、スラッグ・ブロック二個分の厚さの発電所の正面《ファサード》を見つめている。この壁を作りかけた前任者は、どんな奴か知らないが、およそ不器用な、でなければ、いい加減な仕事の痕跡を残していた。それなのにシューホフは、この壁をすでに自分の壁として感じているのだった。ほら、このへっこんでいる所は、一段だけ積み直しても駄目だ。三段前から積み直し、モルタルも厚めに塗らなきゃいかん。この飛び出している所は、二段の積み直し。そしてシューホフは、壁を目に見えぬ境界で区分した。左の隅から、このへんまでは、シューホフが自分で積む。そこから、キリガスとの境までは、セーニカが積む。キリガスは、いくらかセーニカの領分まで手伝ってくれるだろう。そうなれば、セーニカも助かる。二人がその境い目でもたもたしているあいだに、シューホフが受持ち分を半分以上やってしまえば、この組の仕事も早くあがろうというものだ。そこでシューホフは、必要なブロックの数を胸算用した。折からブロック運びが始まったので、上ってきたアリョーシカを、シューホフはつかまえた。
「おれんとこへ頼むぞ! ここに置け! ここにも」
セーニカの氷かきはもう終わりかけていた。シューホフも、ワイヤー・ブラッシを両手で持って、片っぱしから氷のかけらを掃きおとす。一番上のブロックは、完全にきれいになったとはいえないが、薄い灰色の雪が残っているだけになり、とくに椄ぎ目はきれいになった。
シューホフが氷を掃きおとしているあいだに、班長が上がってきて、片隅に物指しを立てる。シューホフとキリガスの領分には、とっくに物指しを立ててあるのだ。
「おおい!」と、パブロが下から叫ぶ。「上の連中、生きているかあ。モルタルを上げるよぉ!」
シューホフの体に冷汗がふき出た。まだ紐を張ってない! シューホフは喘いだ。よし、こうしよう。一段や二段ではなく、三段分いっぺんに、すこし余裕をつけて紐を張る。そしてセーニカが仕事をしやすいように、シューホフは外側から積みだし、内側はすこし残しておいてやる。
壁の上縁に三段分ほどあけて紐を張りながら、シューホフは、どこから積んだらいいのかを、ことばと手ぶりでセーニカに伝えた。つんぼは了解したらしい。くちびるを噛み、班長の分の壁を横目で眺めているのは、じゃあ、いっちょう行くか、あいつにゃ負けないぜ! と言うつもりだろう。セーニカは声をたてて笑った。
もう階段を上がって、モルタルが運びこまれている。二人ずつ四組でモルタルを運びこむ。班長の命令で、モルタルの槽《ふね》を煉瓦工のそばに置いてはいけないということになった。ブロックを積んでいるうちに、モルタルが凍ってしまう。槽《ふね》ではなくて、運搬用の箱を、二人の煉瓦工が直接使える場所に置く。そしてモルタル運びの者は、その間、二階でぐずぐず寒がっていないで、ブロックの運搬を手伝う。箱がからになったら、すぐに次の組が交代し、前の組は下へ行って、箱をストーブであたため、残っていたモルタルを溶かし、自分たちの体もあたためる。
キリガスの壁と、シューホフの壁に、モルタルの箱が一つずつ運ばれた。モルタルは、もうたいしてあたたかくもないのに、この寒さで湯気を立てている。だが鏝《こて》ですくって、壁に塗りつけ、ちょっと油断していると、たちまちカチカチになる。そうなったが最後、ハンマーの柄で叩こうが、鏝で叩こうが、絶対に剥がせない。そしてまたブロックを、ちょっと曲げて積めば、曲がったままで凍りつく。その場合は、斧の峰で叩いて剥がし、もう一度モルタルを塗らなければならない。
だが、シューホフの腕は確かだった。スラッグ・ブロックは、一つ一つに癖がある。かどやふちが欠けているのがあり、サイズの大きすぎるのがあり、そういう特徴をシューホフはすぐに見分け、このブロックはどの場所に積まれたがっているか、どの場所がこのブロックを待っているかを、瞬間的に判別する。
湯気のたつモルタルを鏝ですくいあげ、壁に塗りつけるときは、下のブロックの継ぎ目がどこだったかを記憶していないといけない(上に積むブロックの中央が、ちょうどその継ぎ目にあたるようにする)。モルタルの塗り方は、ちょうどブロック一個分をつなぐに必要なだけ、それより多くても少なくてもいけない。シューホフは次に、ブロックの山からブロックを一個とりあげる(ただし充分に注意しないと、指なし手袋がやぶける。このブロックというやつは、ひどくザラザラしているから)。それから、鏝でモルタルをならし、次の瞬間、ぴしゃり、ブロックを積む。積むが早いか、鏝で叩いて歪みを正す。こうしないと、できあがった壁が垂直にならない。縦から見ても横から見ても、壁はまっすぐでなければならない。歪みを正した瞬間、ブロックはもう凍りついている。
次に、ブロックの脇にはみ出たモルタルを、鏝の刃ですばやく削りとり、壁からそぎ落とす(夏だと、このモルタルを次のブロックに利用できるのだが、今は不可能である)。それから、下のブロックの椄ぎ目をもういちど確かめ(下のブロックが欠けていることがよくある)、モルタルを左に厚く、右に薄く塗りつけて、次のブロックをただ積むのではなく、右から左へ滑らせるようにして置く。こうすると余分のモルタルが左のブロックとのあいだに入るわけである。それから縦横の曲がりを直す。よし。次!
本格的な作業の始まりだ。二段も積んで、前の仕事の雑なところがカバーされれば、仕事は軌道に乗るだろう。今しばらくは、神経を集中しなければならない!
シューホフは外側の一列を積みながら、どんどんセーニカに近づいていく。セーニカも、すでに班長とわかれて、こっちへ近づいてくる。
シューホフは、モルタル運搬の連中に目くばせした。早く、モルタルを、モルタルを、こっちへ頼む! 鼻水を拭うひまもない忙しさである。
セーニカと合流したときは、もう一つの箱から底をさらうほどモルタルが不足していた。
「モルタル!」と、シューホフは壁の外へむかって叫ぶ。「今いくよう!」と、パブロが叫ぶ。
箱が来た。まだ水っぽいのを、どんどん使う。だが箱の側面には、もうモルタルが凍りつき始めている。おい、きみたち、へずりとってくれ! 運ぶだけが能じゃなかろう! 早く! 次!
シューホフも、ほかの煉瓦工たちも、すでに寒さを感じなくなっていた。強引な、急速な作業のせいで、まず最初の暑さがやってくる。上衣と、胴着と、二枚のシャツという厚着のために、肌が汗ばむのである。だが、仕事は一秒たりとも中断されず、あとからあとから進行する。一時間も経つと、二度目の暑さがやって来る。今度は、にじみ出た汗が乾くのである。しかし、問題は足が寒くないということで、あとはどうでもいい。刺すように冷たい微風も、シューホフたちの心を煉瓦積みから引き離すことはできない。ただクレーフシンは、ときどき両足をこすりあわせている。かわいそうに、靴のサイズが四十六なので、かたちんばのフェルト靴をはいている。それがすこしきついのだ。
班長が時たま、「モルタル!」とどなる。シューホフも負けずに、「モルタル!」と叫ぶ。仕事の実績がある者は、一時的にせよ班長の気分を味わえるのである。シューホフは意地でも隣りの組に負けられない。今や、自分の弟でも、モルタルを取りに走らせたいところだろう。
はじめ、モルタルを運んでいたのは、ブイノフスキーと、フェチュコフだった。階段が急だし、すべりやすいので、元海軍中佐はなかなか早く運べない。シューホフがすこしはっぱをかけた。
「中佐、お早く頼みますよ! 中佐、ブロック!」
ところが、一回ごとに、中佐はすこしずつ敏捷になり、フェチュコフがまいってきた。怠け者め、運びながら箱を傾けて、モルタルをこぼし、すこしでも荷を軽くしようとする。
一度、シューホフは、フェチュコフの背中をどやしつけた。
「このぐうたら野郎! 役所にいた頃は、さぞかし袖の下を取っていやがったんだろう」
「班長!」と、元海軍中佐が叫ぶ。「もうすこしましな男と組ませてくれ! こういうへなちょこ野郎とは、ともに働けん!」
班長はさっそく配置がえを命じた。フェチュコフは、下からブロックを足場へ投げ上げる。どれだけ働いたかわかるように、ほかの人間とは組ませない。海軍中佐には、アリョーシカがつけられた。アリョーシカはおとなしいから、だれの命令でもよく聞く。
「出発、全速力!」と、海軍中佐が号令をかける。「煉瓦工に遅れをとるな!」
アリョーシカはひかえめな笑顔を見せる。
「もっと早くするなら、もっと早くしましょう。あなたの命令どおりにしますよ」
二人は階段を下りて行った。
こういうおとなしい男は、班の宝である。
班長が下のだれかにむかって叫んだ。ブロックを積んだ車が、もう一台来たらしい。半年もぜんぜん来なかったかと思えば、こうして火がついたように、あとからあとから来たりする。とにかく、ブロックが来ているあいだに働いておこう。しかも今日は第一日だ。今のうちにどんどんやっておけば、あとが楽になるだろう。
また班長が下にむかってどなる。巻揚機《ウインチ》がどうとか言っている。シューホフは、何事なのか知りたかったが、仕事に追われて訊ねるひまもない。モルタル運びの二人が教えてくれた。電気技師が、巻揚機《ウインチ》のモーターを直しにやって来たのである。いっしょに、自由人の電気関係監督官もやって来た。技師は器械を直し、監督官はそれを眺めている。
いつもそうなのだ。一人が働き、一人が監視する。
もし巻揚機《ウインチ》が直れば、ブロックも、モルタルも、楽に上げられるようになるだろう。
シューホフがすでに三段目にかかっていたとき(キリガスも三段目だった)、もう一人の監視人、「デール」と呼ばれる建設工事の職長が階段をあがってきた。この男はモスクワっ子で、かつては中央の役人だったという噂がある。
シューホフは、キリガスのそばにいたので、顎をしゃくって職長《デール》を指した。
「ああ!」と、キリガスはめんどうくさそうな身ぶりをした。「ああいう上の連中は、おりゃ知らんよ。もし階段から落っこったら、教えてくれ。あとは知らん」
職長《デール》は、上がってくれば、煉瓦工のうしろに立って、仕事ぶりをじっと眺める気だろう。こういうただ眺めている連中が、いちばんシューホフの癇にさわるのだった。豚みてえな面をしやがって、技師になり上がるつもりなのだ! いつだったか、こいつが自分で煉瓦積みの手本を示したことがあったが、シューホフは腹をかかえて笑ったのである。われわれの考えでは、自分の手を使って建物を一つ建てられる奴でなけりゃ、技術者になる資格はない。
故郷のチェムゲニョーボ村では、石づくりの家は一軒もなく、どこの家も木造の小屋だった。小学校も木造で、橇を六台も使って材木を運んだものだった。しかし収容所《ラーゲリ》で煉瓦工が必要となれば、こうしてシューホフも煉瓦工になっている。二つも技術を身につけた人間は、あと五つでも十でもおぼえられるにちがいない。
ざんねん、職長《デール》はつまずいただけで、落っこちはしなかった。ほとんど駆け足で、一気に階段をのぼってきた。
「チューリン!」と、とび出さんばかりの目つきでどなる。「チューリン!」
職長《デール》のうしろから、パブロがシャベルをかついだまま、階段をのぼってきた。
職長《デール》の上衣は収容所《ラーゲリ》のものだが、真新しくて、小ざっぱりしている。帽子も小ぎれいで革製だ。みんなとおなじように、|В《ベー》七三一と番号札はついている。
「何だね」と、チューリンが鏝を持ったまま職長に近づいた。班長の帽子はひんまがり、片目が隠れている。
何事か起こったのだ。知らん顔もできないが、モルタルは箱のなかで凍ってしまう。シューホフは、ブロックを積みつづけながら、耳をすます。
「いったいどういうわけなんだ!」と、職長《デール》はつばをとばしてわめく。「これはもう営倉ですむ問題じゃない! 刑事事件だぞ、チューリン! また刑期を延長されてもいいのか!」
ここで初めて、シューホフは事情を悟った。キリガスの表情をうかがうと、キリガスも悟ったらしい。タール・ペーパーだ! 窓のタール・ペーパーが見つかったのだ。
シューホフは、自分のことはちっとも心配していなかった。班長は絶対に裏切ったりしないだろう。心配なのは、班長の身の上である。われわれには、班長は父親みたいなものだが、奴らにしてみれば、その班長もただの一囚人なのだ。北部の収容所で、班長が二度目の刑を申し渡されたのも、これに似た事件のためだったのである。
ああ、班長の顔がゆがんだ! 足もとに鏝を投げ捨てた! そして職長《デール》にむかって一歩踏み出す! 職長《デール》はうしろをふり向いた。パブロが、シャベルを構えて立っている。
シャベル! さっきシャベルを持って上がってきたのも、わけがあったのだ……。
つんぼのセーニカも、事情を察したらしい。両手を腰にあてて、職長《デール》に近寄った。セーニカは森の精みたいに頑丈な男だ。
職長《デール》は、目をぱちくりさせ、急におびえた表情になって、あたりを見まわし、逃げ路を探した。班長は職長《デール》に顔を近寄せ、低いがよくとおる声で言う。
「きさまみてえな伝染病野郎に、そう何度も刑期を延長されてたまるか! 一言でも喋ってみろ、吸血鬼野郎、その日のうちに息の根をとめてやる、忘れるなよ!」
班長は全身を怒りにふるわせている。どうしてもふるえがとまらない。
パブロも鋭い目つきで、じいっと職長《デール》を睨みつける。
「なんだよ、きみたち、どうしたんだよ!」と、職長《デール》は蒼白になり、階段からすこし離れた。
班長はもう何も言わずに、帽子をかぶり直し、さっき投げ捨てたとき曲がってしまった鏝をとりあげ、自分の受持ちの壁へ帰った。
パブロは、シャベルをかついで、ゆっくりと階段を下りて行った。
ゆっくり、ゆっくりと……
職長《デール》はここに残るのも恐ろしいし、下におりるのも恐ろしいらしい。どっちつかずの姿勢で、キリガスの蔭に隠れた。
キリガスは作業をつづけていたが、それはちょうど薬局で薬を調合しているようだった。顔つきまで医者に似て、けっして急ごうとしない。われ関せずといったように、職長《デール》にはさっきから背中を向けている。
職長《デール》はこわごわ班長に近寄った。さっきの横柄さはどこへやら。
「監督官には何と言っておこうか、チューリン」
班長は、ふり向きもせずに、作業をつづけている。
「|前からこうなっていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と言えばいい。来てみたら、こうなっていた、ってな」
職長《デール》は、まだ帰ろうとしない。今すぐ殺されはしないことがわかったのだろう。ポケットに手を突っこんで、右に左に歩きまわっている。
「おい、|Щ《シチャー》の八五四号」と、不機嫌な声で言った。「なんでモルタルをそう薄く塗るんだ」
だれかに八つ当りしたいのだ。シューホフのブロックは曲がっていないし、継ぎ目もきれいである。だから、モルタルが薄い、ときた。
「失礼ですが、申し上げます」と、シューホフは息もれのする喋り方で、嘲りをこめて言った。「今モルタルを厚く塗っておいたら、春になれば、この発電所ぜんたい溶けて流れてしまうんであります」
「きみは煉瓦工だろう、それだったら職長の言うことを聞きたまえ」と、職長《デール》は顔をしかめ、ほっぺたをふくらませて言った。これはこいつの癖だ。
まあ、場所によっては、薄くても厚くてもかまわないようなものだが、ただ気候がこんなに寒くっちゃね。もうすこし人間を憐れまなくちゃいけない。能率ということもあるし。いや、わからん人間に説明したって、無駄というものだろう!
職長《デール》は、そっと階段の方へ歩きだした。
「巻揚機《ウインチ》を直してくれよ!」と、その背中にむかって班長が言った。「おれたちをロバかなんかと間違えないでくれよな。二階までブロックを手で運ばせるたあ何事だ!」
「上に運んでる者には、それなりの報酬が出るさ」と、職長《デール》が階段に足をかけて、おとなしく言った。
「|手押し車使用《ヽヽヽヽヽヽ》か? なんなら手押し車を使って、その階段を上り下りしてみたらどうだい。運搬箱使用《ヽヽヽヽヽ》で計算して欲しいな!」
「おれに言っても、どうにもならんさ。[運搬箱使用]は経理のほうで通しゃしないよ」
「経理だと! この班はな、四人の煉瓦工の仕事のために、全班が働いてるんだぞ。それで稼ぎはいくらだ?」
休みなくブロックを積みながら、班長は下にむかって叫ぶ。
「モルタル!」
「モルタル!」と、シューホフもつづいて叫ぶ。三段目はすっかり仕上がり、四段目にとりかかるところである。紐を一段高くしなければならないが、なにしろこの忙しさだ、一段くらい紐なしでも積めるだろう。
職長《デール》は、寒さに背をまるめて、雪野原を歩いて行った。事務所へ行って、ストーブにあたるのだろう。どうだ、不愉快だったか。チューリンのような古つわものに喰ってかかるなら、それ相応の覚悟が必要なんだ。こういう班長とは仲良くしていりゃいいのに。うるさくかまうことはなかったのに。労働はしなくていい、配給のパンは多い、部屋は個室で、なんの不足がある? 要するに、いばりたかっただけなんだろう。あたまのいいとこを見せたかったんだろう。
下から来た者が報告した。電気関係の監督官と、技師は帰ってしまった。巻揚機《ウインチ》はとうとう直せなかったという。
じゃあ、ロバの仕事がつづくわけか!
シューホフが方々の生産現場で経験したことだが、そういう器械はひとりでにこわれるか、囚人たちにこわされるか、どちらかの運命をたどるのだった。材木運搬用のコンベヤーをこわしたこともある。チェーンに棒を突っこんで、締めつけたのだ。それも休息したい一心からだった。休憩なしで、日がな一日、材木運びを命じられてみろ。
「ブロック! ブロック!」と、班長は憤然として叫んだ。下から投げる奴も、途中で受けとめて運ぶ奴も、みんな糞くらえ、てめえのおふくろとやっちまえ。
「モルタルをどうするか、パブロが訊いてます」と、下からの声。
「どんどん作れ!」
「いま槽《ふね》に半分です!」
「あと一槽作れ!」
さあ、大車輪だ! 五段目にとりかかる。最初は背中を曲げて積んでいたのに、今はもう胸の高さ! 窓もなし、ドアもなし、ただ二つの壁をあわせるだけで、しかもブロックはふんだんに使えるのだから、こんな|はか《ヽヽ》のいく仕事はない。紐を高く張り直すひまも惜しいほどだ。
「八二班は用具を返しに行ったよ」と、ゴプチックが報告する。
班長は少年をジロリと見る。
「自分の仕事をしろ、小舅《こじゅうと》みてえな小僧だな! 煉瓦を運べ!」
シューホフは顔を上げた。なるほど、日は西に傾いている。まっかに色づき、灰色がかった靄のなかへ沈んで行く。こっちは、せっかく調子が出てきたところなのに。いま五段目だ。五段目までは仕上げてしまおう。
モルタルを運ぶ連中は、息切れのした馬のようだ。元海軍中佐も、すこし蒼ざめている。むりもない、中佐はもう四十の坂をこえているのだ。
寒気が加わってくる。手を動かしていても、薄い手袋のなかの指はしびれる。左のフェルト靴に冷たさが浸みとおってくる。シューホフは足踏みする。トントン、トントン。
壁にかがみこまなくてもよくなった代わりに、今度はブロックを取るとき、モルタルをすくうときに、背中を曲げなければならない。
「おい! きみたち!」と、シューホフが有無をいわさぬ調子で言う。「ブロックを一個ずつ取ってくれないか! 積むのを手伝ってくれないか!」
海軍中佐は、喜んで手伝いたいが、もう消耗しきったという。それに、そんな仕事には馴れていない。だが、アリョーシカは言う。
「いいよ、イワン・デニスイッチ。どこに積むのか、言ってください」
このアリョーシカは、何を頼んでも、いやと言ったためしがない。ほかの人間がみんなこんなふうになったら、シューホフもそうなるだろう。だれかに頼まれたら、助けるのが当り前じゃないか。その点じゃ、アリョーシカたちは正しい。
そのとき作業場ぜんたいに、発電所までも、はっきりときこえた。レールを叩く音である。作業終わり! シューホフは、憑《つ》かれたようにモルタルをすくった。くそ、せっかく骨折ったのに!……
「モルタルだ! モルタルを持ってこい!」と、班長が叫ぶ。
下では、新しいモルタルを一|槽《ふね》、作ったばかりである! もう積みつづけるよりほかに手がない。その一槽は、いま使わなければ、あすにはもう何の役にも立たない。石のように固くなって、ツルハシでも割れないだろう。
「やっちまおうぜ、みんな!」と、シューホフは呼びかけた。
キリガスは、ふくれっ面になった。大急ぎの仕事がきらいなのだ。だが、こうなっては逃げられない、懸命に仕事をつづける。
箱を背負い、鏝を手に持って、パブロが下から駆けあがってきた。煉瓦積みに加わる。これで煉瓦工は五人になった。
さあ、椄ぎ目をいちいちふさぐのが大変だ! シューホフは、どんなブロックをどこの椄ぎ目に積んだらいいか、あらかじめえらぶことができるから、ハンマーをアリョーシカにゆずった。
「はみ出たモルタルを頼むぜ!」
急ぎの仕事というやつは、ろくなことがない。みんなが猛烈に急ぎ始めた今、シューホフはかえって急がず、とくと壁を睨んだ。セーニカを左へやり、自分は右の隅に立って、曲がりを点検した。今いい加減な積み方をしておくと、あすの朝の直しがえらい手間になってしまう。
「ちょっと待った!」と、パブロから煉瓦をとりあげ、シューホフは自分で直した。もういちど隅から見ると、セーニカのところが弓なりに曲がっている。あわてて駆け寄り、二個の煉瓦でその部分を直す。
元海軍中佐が、おいぼれた去勢馬のように、えっちらおっちらモルタルの箱を運んできた。
「あと二箱くるよ!」と叫ぶ。
今にも足からぐんにゃり倒れそうなのに、仕事だけはつづけている。こんな去勢馬を、シューホフはむかし飼っていたことがあった。かなりいたわってやっていたつもりだが、やっぱりくたばってしまった。死んでから皮を剥いだっけ。
太陽は地平の彼方に没していた。もうゴプチックに言われなくても、一目でわかる。ほかの班は、すでに用具を返却したばかりか、守衛小屋のあたりに、ぞくぞくつめかけていた(作業終わりの合図のあと、すぐ外へ出る者はいない。厳寒の戸外で寒がっているよりか、屋内であたたまっているほうがいい。その間、班長たちが話し合い、妥協点に達すると、みんな一時に外へ出る。もしも妥協点が見つからないと、囚人というのはひねくれた人種だから、お互いにほかの班より遅く出ようとして、真夜中まででも屋内に坐っているのだ)
班長も、さすがに、遅くなりすぎたと気づいたらしい。用具係の奴は、もう十度も、チューリンのことを汚ないことばで罵倒しているだろう。
「ええい」と、班長は叫んだ。「モルタルなんぞ糞くらえ! モルタル係! 下へ行って、槽《ふね》のモルタルをかっさらって、余った分はぜんぶ穴に埋めちまえ。上に雪をかけて、見えないようにするんだ! パブロ、きみは、ほかの二人と用具をまとめて、返却しに行け。おれはあとで、ゴプチックと、鏝三梃だけ別に返しに行く。この二箱分だけ積んじまうからな」
みんな走りだした。シューホフのハンマーはとりあげられ、紐もはずされた。モルタルを運んでいた者も、ブロックを投げ上げていた者も、いっせいに下のモルタルを作っていた部屋へ走って行った。二階にいても、することがないのだ。上に残ったのは三人の煉瓦工、キリガスと、クレーフシンと、シューホフだけである。班長は歩きまわり、作業の結果を眺めている。満足そうだ。
「立派なもんだよな。半日でさ、あのぼろ巻揚機《ウインチ》も使わなかったのに」
キリガスのモルタルがまだすこし残っている。シューホフは考えた。用具置場で、班長が鏝のことでがみがみ言われるのは、どうも癪にさわる。
「なあ、みんな」と、シューホフは思いきって言った。
「鏝をゴプチックに渡しなよ。おれの鏝は員数外だから、おれがあとは積むよ」
班長が笑って言う。
「いやあ、お前さんは刑期が終わっても娑婆へ出ないほうがいいんじゃないか? あんたがいなくなったら、収容所《ラーゲリ》が泣くぜ!」
シューホフも笑う。ブロックを積みつづける。
キリガスが、ほかの鏝を持って行った。セーニカは、キリガスのモルタルをこちらの箱に移し、シューホフにブロックを差し出してやる。
ゴプチックは、パブロに追いつこうと、雪野原を用具置場へむかって駆けだす。一〇四班ぜんたいが、班長を残して、野原を横切る。班長は一つの権力だが、警護隊のほうが権力としてはずっと強いのだ。もし集合に遅れたと記録されれば、すぐ営倉行きである。
守衛小屋のあたりは、もう人でいっぱいだ。全員が集まっている。どうやら警護兵がもう人数をかぞえ始めたようである。
(帰りには人数を二度かぞえる。一度は、とじた門の前で、門をあけていいかどうか確かめる意味で。もう一度は、あけた門を囚人たちが通過するとき。その場合、人数が合わないと、門の外でもう一度かぞえる)
「そんなモルタルなんか気にするな!」と、班長が手を振る。「外に捨てちまえばいいんだ!」
「行っていいよ、班長! あんたは、むこうへ行っていたほうがいい!」――(シューホフはふだん班長をアンドレイ・プロコフィエビッチと呼んでいたが、今この仕事のせいで班長と対等になっていた。「おれは対等になったぞ」と思うのではなく、なんとなくそう感じるのである)。そして大股に階段を下りて行く班長のうしろ姿にむかって、シューホフは冗談を言った。
「しかしまた、どうしてこう労働時間が短いんだろうね。調子が出た矢先に仕事終わりじゃあね!」
残ったのは、シューホフと、つんぼのセーニカだけである。この男とは、お喋りをしないですむ。いや、この男には喋る必要もないのだ。だれよりも利口だから、口で言わなくてもわかってくれる。
モルタルをぴしゃり! ブロックをぴしゃり! 押しつける。曲がりを直す。モルタル。ブロック。モルタル。ブロック……。
班長は、モルタルなんかけちけちするな、外に捨ててしまえと言ったけれども、その点では、シューホフの気質は馬鹿みたいに一徹だった。収容所《ラーゲリ》で八年暮しても、その気風はあらたまらない。どんな物でも、どんな仕事でも大事にすること。無駄使いをしないこと。
モルタル! ブロック! モルタル! ブロック!
「終わったあ、こん畜生!」と、セーニカが叫んだ。「さあ行くべえ!」
箱をつかんで、階段へ駆けだした。
だがシューホフは、うしろへ下がって、最後の一瞥をくれた。警護兵に犬をけしかけられようと、この習慣は変えられない。まあ、おおむねよろし。今度は、右へ走り、左へ走って、横の線を確かめた。この目が、水準器の代用品である! よし! まだ腕は鈍っちゃいない。
シューホフは、階段を走っておりた。
セーニカはもう外へ出て、丘を駆けおりて行くところだった。
「早く! 早く!」と、ふり向いて言う。
「先に行け、すぐ行くから!」と、シューホフは手を振る。
それから、モルタルを作っていた部屋に入る。鏝をそう簡単に手放してなるものか。あした、シューホフは仕事に出られないかもしれない。シューホフの班は「社会主義生活本部」へやられるかもしれない。ひょっとしたら、ここにはあと半年も来られないかもしれない。それでも鏝を失くすわけにはいかないのだ。あくまで隠しておくこと!
ストーブは二つとも消えていた。暗い。恐ろしい。暗いのが恐ろしいのではなくて、みんな行ってしまって、自分だけ点呼におくれ、警護兵にどやされるのが恐ろしい。
だが、必死であたりを見まわし、隅に恰好の石を見つけた。その石をひっくりかえし、下に鏝を隠すと、元どおりにした。これでよし!
さて、一刻も早くセーニカに追いつかねばならぬ。セーニカは百歩ほど離れたところでシューホフを待っていた。クレーフシンは、困っている友人を見捨てたりしない。いつも共同で責任をとろうとする。
背の高い男と、低い男は、並んで走りだした。セーニカは、ちょうど頭半分だけシューホフよりも高い。またこの男の頭ときたら、馬鹿馬鹿しくでかいのである。
世の中には、ひまな連中がいて、だれから頼まれもしないのに、競技場で駆けっこをしたりしている。そんな連中を、ここで一日働かせ、濡れた手袋に、擦り切れたフェルト靴といういでたちで、この寒さのなかを走らせてみたいものである。
二人は、狂犬のように息を切らした。はッはッ、はッはッ! と息の音しかきこえない。
きっと班長が、守衛小屋で、うまく言いわけしてくれるだろうが。
それでも、群集にむかって、まっすぐ走って行くのは恐ろしい。
数百の喉がいっせいに吠え始めた。おふくろとひっつけ、おやじくたばれ、間抜け、阿呆、老いぼれ。五百人に腹を立てられて、恐ろしくない奴がいるだろうか!
しかし、もっとこわいのは、警護兵がどう出るかだ。
いや、警護兵はなんともなかった。班長は一番うしろの列にくっついている。もう言いわけをして、何もかも自分の責任だと言ってくれたのだろう。
だが囚人たちはどなりつづける、悪態をつく。半分つんぼのセーニカにさえ、その声はきこえたとみえる。一息つくや否や、今度はセーニカが負けじとどなり始めた! いつも黙っている男だけに、吠えだすともの凄い! 拳を振り上げて、やるなら来いと言わんばかりだ。囚人たちは静かになった。何人かが笑いだした。
「おおい、一〇四班の諸君! そいつは、つんぼじゃなかったんだな」と、だれかが大声で言った。「今のはテストをしてみたんだよ」
みんなゲラゲラ笑いだした。警護兵まで笑った。
「五列に並べ!」
まだ門はあけていない。警護兵たちは自信がないのだ。門から群集が押し返された(まるでそうすれば帰りがすこしでも早くなるというように、みんな馬鹿面をして門にへばりついていたのである)
「五列に並べ! 一! 二! 三!……」
数をかぞえられるたびに、五人ずつ何メートルか前まで進む。
シューホフは、ようやく息が正常に戻り、空を見上げた。おや、赤紫色に濁った月が、もう空高く昇っている。すこし欠け始めている。きのうの今頃は、もうすこし高く昇っていたようだ。
何もかもうまく収まって、気をよくしたシューホフは、元海軍中佐の脇腹を突っついて質問する。
「ねえ、中佐、あんたの科学だと、欠けた月はどこへ行っちまうんだい」
「どこへ、だと? 無学の者はしょうがないな! 見えなくなるだけだ!」
シューホフは、頭を振って笑う。
「見えなくなるなら、どこへも行かないってことは、なんでわかるんだい」
「じゃあ、きみの解釈だと」と、元海軍中佐は呆れて言う。「毎月、月は生まれ変わるのか」
「そう考えていけないかね? 人間だって毎日のように生まれてるんだもの、月が四週間に一度生まれ変わって、なぜわるいかね」
「話にならん!」と、海軍中佐は唾を吐いた。「海軍には、こういう阿呆な水兵は一人もおらなかったぞ。じゃあ訊くが、古くなった月はいったいどこへ行くんだ?」
「それをあんたに訊いてるんだよ。どこへ行くんだい」と、シューホフは口をぽかんとあけた。
「きみが言ってみろ。どこへ行くんだ」
シューホフは溜息をつき、息もれのする口で言った。
「うちのほうじゃ、こう言ってたな。古くなった月は、神様が砕いて、星にするんだと」
「ああ、無知文盲の徒輩だな!」と、元海軍中佐は笑いだす。「こんなのは珍しいくらいだ! じゃあ、なにか、シューホフ、きみは神を信じておるのか」
「どうして?」と、シューホフはびっくりして言う。「雷が鳴るのを聞いたって、信じないわけにいかないじゃないか!」
「じゃあ、神はなぜそんなことをするのかね」
「そんなことって?」
「月を砕いて、星にしたりするのかね? どうして?」
「そりゃ簡単だよ!」と、シューホフは肩をすくめる。「ときどき流れ星があるだろう。だから補充しなきゃならないのさ」
「こら、まっすぐ前を向け!」と、警護兵がどなった。
「ちゃんと列を作れ!」
もうここまで数えてきたのだった。四百台の十二組が前へ進むと、しんがりは二人だけ、ブイノフスキーとシューホフである。
警護兵は眉をひそめ、画板に貼りつけた書類をのぞきこむ。足りない! またもや足りない。ああ、なんと面倒な勘定だろう!
現在かぞえたところでは四百六十二人だが、実は四百六十三人いなければならないのである。そこでまた囚人たちは門から追いやられ(またまた門にへばりついていたのだ)、さて、もう一度――
「五列に並べ! 一! 二!」
この数え直しがじつにじれったいのは、こうやって浪費されてしまう時間が、公《おおやけ》の時間ではなくて、私《わたくし》の時間だからである。このあと曠野《ステップ》を通って収容所《ラーゲリ》までたどりつき、収容所《ラーゲリ》に入る前には、またもや行列をつくって身体検査を受けなければならない! 囚人たちは、だれもが大急行で走って、人を押しのけても先に身体検査を受け、すこしでも早く収容所《ラーゲリ》に入ろうとする。まっさきに入った奴は、いうなれば殿様である。食堂は待っているし、差入れはまっさきに受け取れるし、物品保管所にも、個人炊事場にも、文化教育部で手紙を受け取り、あるいは検閲官に手紙を提出するのにも、医療部にも、理髪所にも、風呂にも――どこへでも、まっさきに行けるのだから。
もちろん、警護兵だって、一刻も早くわれわれを解放し、自分の時間を獲得したいのである。かれらにしたところで、そうのんびりできない。仕事は多いし、時間は足りないのだ。
なのに人数が合わない。
すぐ前の五人が数えられた次の瞬間、シューホフは、なんということなしに、自分たち最後の列が三人になったような気がした。いや、やっぱり二人だ。
数える役の兵隊が、画板をかかえて、警護隊長のところへ行った。何かひそひそ話している。警護隊長が叫んだ。
「一〇四班の班長!」
チューリンが半歩前に出た。
「はい」
「発電所の現場に、お前の班の者は残っていないか。よく考えてみろ」
「残っておりません」
「よく考えろ、ちがっていたら承知せんぞ!」
「いいえ、まちがいありません」
だが班長は横目でパブロを眺めた。だれかがモルタルの部屋で、いい気持ちに眠っちまったんじゃないのか。
「班別に集まれェ!」と、警護隊長が叫んだ。
五人ずつ、いろんな班の人間が入りまじって、でたらめに並んでいたのだから、さあ大変、大騒ぎである。ほうぼうで、くちぐちにどなる。「七六班、こっちだ!」「一三班! ここだ!」「三二班!」
一〇四班は、ちょうど後尾に集まっていたので、そこに整列した。シューホフが今あらためて気づいたことだが、だれもが手ぶらである。あまり夢中で働いていたから、木っ端を拾うひまもなかった。わずかに二人だけ、小さな薪の束を持っている。
これは毎日のゲームみたいなものだった。いつも作業終了の合図が鳴るまでに、囚人たちは木っ端や、棒切れや、板っ切れを拾い集めて、それを紐や縄でひとまとめにして、持って帰るのである。だが難関は、守衛小屋の前に立っている監督官や職長で、こいつらに見つかると、ただちに全部捨てろと命じられる(連中はもう何百万ルーブリも煙にしてしまったから、そんな木っ端で補いをつけようというのだろう)。しかし囚人たちにも囚人たちの思惑がある。つまり、それぞれの班員が棒切れ一本ずつでも持って帰れば、バラックの温度はわずかながら上がるだろうということだ。当番に与えられるのは、一つのストーブにつき五キロの粉炭で、これではとうていバラックをあたためられない。そういうわけで、囚人たちは棒切れを折り、なるべく短くして、上衣の下に隠すのだった。監督官の目さえくらませば、こっちのものである。
一方、警護兵たちは、作業現場では、けっして薪を捨てろと言わない。警護兵も、薪を欲しいのだが、自分らで運ぶわけにはいかないのである。だいいち制服が許さないし、それにわれわれを射つための小型機関銃で両手がふさがっている。だから警護兵は、収容所《ラーゲリ》まで来ると、「何列から何列まで、ここに薪を捨てろ」などと命令するのだ。ただし、この連中の奪い方には、まだ情がある。収容所《ラーゲリ》の看守にも、囚人たちにも、すこしずつ残しておくし、時には、まるまる囚人たちのために取っておくこともある。
そんなわけで、毎日のように、囚人たちはみんな薪を運ぶようになった。もちろん、ぶじに持って行けるかどうかはわからないし、いつ取り上げられるかもしれないのだが。
どこかそのへんに木っ端でも落ちていないかなと、シューホフがきょろきょろしているうちに、班長は人数をかぞえ、警護隊長に報告した。
「一〇四班、全員揃っております!」
シーザーも事務所から出て、仲間に加わっていた。パイプをすぱすぱやりながら、霜のつき始めた黒い口髭を動かして訊ねる。
「どうだったね、中佐、仕事のほうは?」
体のあったまった奴に、凍えた奴のことがわかるものか。仕事がどうだったとは、なんとしらじらしい質問だろう。
「どうだったと?」と、中佐は肩をすくめる。「くたくただよ、背中をのばしているのがやっとだ」
つまり、タバコを一服吸わせろという謎である。
シーザーは、パイプを差し出す。この班では、元海軍中佐だけが、シーザーの話し相手だった。ほかには心を割って話し合える人間はいない。
「三二班が一人足りない! 三二班!」と、騒ぎが起こった。
三二班の副班長と、もう一人の青年が、修理工場の方へ、一目散に走って行った。群集のなかでは、だれだ? どうしたんだ? と口々に訊ねている。まもなく情報がシューホフにも伝わってきた。背の低い、顔の浅黒いモルダビア人がいないのだという。どのモルダビア人だ? ルーマニアのスパイだったと噂のある、本物のスパイだったといわれる、あのモルダビア人か?
スパイだったといわれる人物は、どの班にも五、六人はいるが、たいていはでっちあげのスパイである。書類にはスパイと書いてあっても、じつはただ敵国の捕虜だったというだけの者が多い。シューホフも、そういう意味でのスパイである。
ところが、そのモルダビア人は本物なのだそうだ。
警護隊長は、囚人リストをちらと眺めて、たちまち顔色がどす黒くなった。もしスパイが逃亡したとなれば、警護隊長が全責任を負わなければなるまい。
一方、囚人たちの渦に巻きこまれて、シューホフもじりじりしていた。なんてえ嫌な野郎だ。ゲジゲジめ、シラミめ、犬の糞め、強《ごう》つくばりめ。もう空はまっくら、月が照って、星が出て、寒さはつのる一方だというのに、小僧っ子め、どこへ隠れやがった。まだ働き足りなかったのか、とんちきめ。夜明けから日没まで、十一時間の労働時間じゃ不足なのか。今に見やがれ、検事に油をしぼられるから!
作業終わりの合図にも気がつかないで、そんなに夢中で働く奴なんて、人間じゃねえよ。
シューホフは、ほかならぬ自分が、ついさっきまで夢中で働いていたこと、ほかの連中がさっさと門の前に集まるのを歯がゆく思ったことなど、けろりと忘れていた。今のシューホフは、みんなといっしょに寒さにふるえ、みんなといっしょに腹を立てている。あのモルダビア人め、あと三十分も待たせてみろ、警護兵さえ許可したら、狼が子牛を裂くように八つ裂きにしてくれる!
ほんとうに寒さがきびしくなってきた! もうじっと立っている者は一人もいない。足踏みをしている奴、二歩前に出ては二歩うしろに下がるのをくり返している奴。
はたしてモルダビア人は逃亡できるだろうかと論じ合っている連中もいた。そう、昼間のうちに脱出したのなら話は別だが、どこかに隠れて、望楼の監視がいなくなるのを待っているのならば、とても無理だろう。有刺鉄線の下から這い出た跡が見つからぬ限り、三日三晩、捜索はつづけられるし、望楼の監視も三日三晩つづくのだ。必要とあらば、一週間だって監視の手はゆるまないだろう。古くからの囚人ならだれでも知っていることだが、規則がそうなっているのである。逃亡が成功したとなれば、警護隊がひどい罰を受けるのはわかりきっているから、寝食を忘れた捜索が行なわれるのだ。その結果、のぼせきった警護兵に捕まった脱走者は、生きて帰れないことだってある。
シーザーは元海軍中佐を説きふせようとしていた。
「たとえば、鼻眼鏡が船の索具にひっかかってただろう、おぼえてるかい?〔エイゼンシュテインの名画「戦艦ポチョムキン」のなかの一場面。以下もおなじ〕」
「うん……」と、元海軍中佐はタバコを吸っている。
「でなきゃ、乳母車が階段をどんどんころげ落ちてくる情景《シーン》だ」
「そう……だが、海軍の生活は、あんなちゃちなものじゃない」
「いや、ぼくらは現代の撮影技術に毒されているだけで……」
「それに、肉にわいていた蛆《うじ》は、まるでミミズみたいだったじゃないか。あんな蛆が実際にいたのかね?」
「しかし、あれ以上小さくちゃ、映画じゃ見えないよ!」
「とにかく、ああいう肉を、洗いもせず、蛆を落としもせず、われわれの収容所《ラーゲリ》で魚がわりに使ったりしてみなさい、われわれだってただじゃあ……」
「あああ!」と、囚人たちが喚声をあげた。「ううう!」
見ると、修理工場から三人の人影が走ってくる。モルダビア人が見つかったのだ。
「ううう!」と、門のそばの群集は不満の声を出す。
三人が近づいてくると、
「悪党! 糞ったれ! ごろつき! 犬のキンタマ! 瘡《かさ》っかき! ごみため野郎!」
シューホフもいっしょになって叫ぶ。
「悪党!」
いや、まったく、五百人から三十分ずつ盗むなんて、冗談にも程がある!
モルダビア人は、うなだれて、ネズミのように列に駆けこもうとする。
「とまれ!」と、一人の警護兵が叫び、ノートに書きこむ用意をする。「|К《カー》の四六〇号。どこにいたのか」
近寄って、カービン銃の台尻でモルダビア人を小突く。
まだ悪態をついている囚人たち。
「ぐうたら! 妾の連れ子! ションベンたれ!」
だが大部分の者は、警護兵がカービン銃の台尻を使った瞬間から、しんとなった。
モルダビア人はうなだれ、体をちぢめている。三二班の副班長が前に出る。
「この野郎は、壁塗りの足場にのぼって、わたしの目の届かない所で、いい気持ちに眠っちまったんです」
言うなり、拳を固めてモルダビア人を、がんと殴った! 肩のあたりを、もう一発!
これで警護兵の顔を立てたわけである。
モルダビア人はよろめいた。おなじ三二班からマジャール人が出て来て、モルダビア人の尻を蹴とばした。一発、二発!
これはスパイをやるのとは、だいぶわけがちがうだろう。スパイなんか、阿呆でも、やればできる。スパイの生活は、体裁がよくて、浮き浮きしたものだ。だが、十年の刑を受けて、収容所暮しとなると!
警護兵は、カービン銃の構えをといた。
警護隊長がわめく。
「門から離れろぉ! 五列に並べぇ!」
畜生、また勘定か! もう事情がはっきりしたのに、なんで教え直さなきゃならんのだ。囚人たちはどよめいた。すべての不満は、モルダビア人から警護兵に向けられた。どよめいて、門から離れようとしない。
「何だぁ?」と、警護隊長がどなった。「雪の上に坐りたいのか。すぐ坐らせてやるぞ。あしたの朝まで坐らせてやるぞ!」
ほんとにやりかねない男だ。今までにも何度かあった。坐るどころが、寝そべらされたこともある。「伏せ! 警護兵、射撃用意!」そういう事実を囚人たちは思い出したから、そろそろと門から離れ始めた。
「離れろ! 離れろぉ!」と、警護兵たちは急きたてる。
「まったくなあ、なんで門にへばりつきやがるんだ」と、後尾の者が、先頭の連中に腹を立てる。そして人波に押され、うしろへさがる。
「五列に並べ! 一! 二! 三!」
月の輝きはいちだんと増していた。赤紫色がすっかり消えて、澄みきっている。もうたっぷり四十五度の高さには昇った。今夜の自由時間も無駄になったか!……モルダビア人の畜生め。警護兵の畜生め。糞おもしろくもない生活め!
先頭の連中は、数えられると、すぐうしろを向き、伸びあがって、最後尾が二人か三人か確かめようとしている。今や、そのことに全生活がかかっているという感じだ。
シューホフは、最後尾に今度は四人いるような気がした。恐怖に息がつまった。一人余分だ! また数え直し! だが、それは山犬フェチュコフだった。元海軍中佐のタバコの吸い殻を狙って、自分の列から、ふらふら出て来たのである。それが一人ふえたように見えたのだった。
警護隊の副隊長が、フェチュコフの首筋を思いきり殴った。
いい気味だ!
最後尾は三人になった。ありがたや、人数が合った!
「門から離れろ!」と、またもや警護兵たちが急き立てる。
だが、今度は囚人たちはぶうぶう言わない。守衛小屋から兵隊たちが出て来て、門の外側をとりかこんだのを、だれもが見たからである。
やっと出られる。
自由人の職長や、監督官の姿は見えなかった。これなら薪をぶじに持ち帰れるだろうか。
門があいた。丸太の横木のそばには、朝とおなじように、警護隊長と点検係が待ちかまえている。
「一! 二! 三!……」
ここでもう一度、人数が合えば、望楼の番兵が下りてくる手筈になっている。
それにしても、望楼から作業現場を横切って、ここまで歩いてくるのは、やれやれ、ご苦労なことだ! 最後尾の囚人が外へ出て、勘定にまちがいなければ、すぐ全部の望楼へ下りて来いと電話で連絡するのである。もし頭のいい警護隊長であれば、それからただちに囚人たちに出発を命じる。どうせ囚人は逃げられっこないし、望楼から下りて来た連中はまもなく隊列に追いつけるのだから。しかし、頭のわるい警護隊長であれば、囚人たちとくらべて警護兵の頭数の少ないのが恐ろしく、そのまま全員を待たせる。
今日の警護隊長は、阿呆の部類に属した。望楼からの到着を待っている。
一日、厳寒のなかで過ごした囚人たちは、死ぬほど凍えきっていた。しかも終業合図のあと、さらに一時間も寒い思いをしたのだ。しかし、どんな寒さよりもこたえるのは、夜の時間を失くしてしまったという思いなのである。もう収容所に帰っても、なんにもできない。
「どうしてそんなに、イギリスの海軍のことをよく知ってるんだい」と、すぐ前の列でだれかが訊いている。
「いや、つまり、わたしはひと月近くもイギリスの巡洋艦に乗っていたことがあるんだ。私用の船室まで与えられてな。護衛艦隊の連絡将校だったんだ。ところが、戦争が終わって、あるイギリスの海軍大将が、何を思ったか、わたしに記念品を送ってくれた。[感謝のしるしに]と書いてな。わたしは、驚きもし、困ったことになったとも思ったよ!……そういうわけで、今はこんな所に……ベンデラ派なんぞといっしょに押しこめられて、まったく憤懣やる方ないとはこのことだぞ」
ふしぎだ。こうして眺めると、ふしぎな気分になる。がらんとした曠野《ステップ》、人っ子一人いない作業現場、月の光にきらめく雪野原。警護兵たちは、互いに十歩の間隔をおいて、機関銃を構え、すでに行進の位置についている。そして、まっくろな囚人たちの群。そのなかに、|Щ《シチャー》三一一と番号つきの上衣をまとった男。かつては金の肩章をつけ、イギリスの海軍大将と交際していたその男が、今はフェチュコフとモルタルの箱を運んでいる。
人間はどうにでも変わることができるのだ。どうにでも……。
やっと警護兵が勢揃いした。例の「お経」はぬきで、いきなり、
「前へ進め! 速足!」
よしてくれ、何が速足だ! どのみち、ほかの現場の連中より遅れてしまったのだから、急いだって、なんにもならない。囚人たちは、以心伝心で意見一致していた。お前さん方が、さっきはあんなに手間どったんだから、今度はおれたちが手間どる番だよ。お前さん方だって、一刻も早く、あったかい所へ行きてえんだろうが……。
「歩幅を広く!」と、警護隊長が叫ぶ。「先頭の者、歩幅を広く!」
何が、歩幅を広く、だ! 囚人たちはうなだれて、葬列のようにのろのろと進む。もう失うものは何一つない。どうせ収容所《ラーゲリ》へ着くのはびりっけつなんだから。おれたちを人間扱いしなかった報いだ、喉が裂けるまでわめきやがれ。
警護隊長は、しばらくのあいだ、「歩幅を広く!」とどなっていたが、やがて囚人たちがこれ以上早く歩く気がないのを悟ったらしい。しかし、いきなり機関銃をぶっぱなすわけにもいかなかった。囚人たちは、ちゃんと五人ずつ、列を乱さずに行進しているのだ。ここで囚人たちを急がせる権利は、警護隊長にはありはしない(朝だって、のろのろ歩くことで囚人たちは救われたのだ。急ぎ足で歩く奴は、時間の終わりまで体が保《も》たない。すぐ汗をかいて、倒れてしまう)
規則正しい行進がつづいた。雪の軋み。小声で喋る奴もいるが、たいていは黙っている。シューホフはふと思い出した。朝、収容所《ラーゲリ》で、何か、し残したことがあった。それは何だったろう。そうだ――医療部! ふしぎだな、仕事に夢中で、医療部のことはすっかり忘れていた。
ちょうど今が、医療部で診療をやっている時分である。晩めしをぬきにすれば、飛んで行って間に合うだろう。しかし、ふしぶしの痛みはもう消えたようだった。これでは体温も計ってもらえないだろう……要するに時間の無駄だ! 医者の手をわずらわさなくとも、直っちまったじゃないか。ここの医者ときたら、荒療治なんだから。
医療部の魅力はみるみる消え失せ、今のシューホフは晩めしをいかにして増やそうかと考えていた。唯一の頼みはシーザーである。すでに永いこと差入れがないようだから、もう来てもいい頃だろう。
と、とつぜん、囚人たちの隊列の様相が一変した。規則的な足並みが乱れ、どよめきが起こり、ひどい動揺が始まったのである。前の列との間隔が急にあいたので、シューホフたち最後尾の者は走って追いついた。それから何歩か歩くと、また駆け足である。
見晴らしのきく所へ出て、シューホフにはようやく事情がわかった。シューホフたちの右手、曠野《ステップ》の遥か彼方に、別の作業隊があらわれ、こちらへむかって、まっすぐ進んで来るのである。むこうも気がついて、急ぎだしたらしい。
それはたぶん機械製作工場へやられた連中で、人数は三百人もいるだろうか。やはり運わるく手間どってしまったとみえる。原因は何だろう。かれらの場合は、たぶん仕事そのもので遅くなったのだ。何かの機械の修理が終わらなかったというようなことだろう。しかし、あいつらは一日中あたたかい所にいたんだから、まだ楽だ。
さあ、どっちが勝つか! 囚人たちは本気で走りだした。警護兵たちも小走りに走りだし、隊長だけがどなる。
「間隔をあけるな! 順に詰める! 詰める!」
馬鹿野郎め、何をがなってるんだ。詰めてるからこそ、こうして走ってるんじゃないか。
だれが何を言おうと、だれが何を考えようと、みんなほかのことは忘れ、関心は一点に集まっていた。
「あいつらの先を越せ! 負けるな!」
何もかも入れまじっていた。味の濃いのと薄いのがごっちゃになり、すでに警護兵は囚人の敵ではなくて味方だった。敵は、むこうの作業隊だ。
どいつもこいつも変に陽気になり、仏頂面をしているのは一人もいない。
「急げ! 急げ!」と、後尾の者が先頭の者に叫ぶ。
われわれの隊列は、収容所《ラーゲリ》に通じる街路になだれこみ、機械製作工場の連中は住宅のむこうに見えなくなった。お互いに盲競走である!
機械製作工場の連中の先を越さねばならないのは、一つには、かれらの身体検査がいつも長びくということがあった。いつか密告者が切り殺されたとき、収容所《ラーゲリ》当局は、凶器はたぶん機械製作工場で作られ、そこから収容所《ラーゲリ》へ持ちこまれたのだろうと、目星をつけたのである。だから、そこで働く連中はとくに厳重な身体検査をされるようになった。晩秋、すでに地面が凍りかけているときでも、容赦なく命令される。
「機械製作工場の者は、靴をぬげ! ぬいだ靴を両手に待て!」
はだしで身体検査を受けなければならない。
最近でも、氷点下の気温だというのに、警護兵が好き勝手にえらんだほうの靴を脱がされる。
「おい、右の靴を脱げ! お前は左を脱げ!」
言われた囚人は片方のフェルト靴を脱ぎ、反対側の一本足で立って、脱いだフェルト靴をさかさまにし、ポルチャンキをふるって、ナイフを隠していないところを見せる。
だが、シューホフの聞いた噂によると、ほんとかうそかわからないが、機械製作工場の連中は夏のうちに、バレーボールの柱を二本、収容所に持ちこみ、その柱のなかにナイフをぜんぶ隠してあるという。それぞれの柱に、長いナイフを十本ずつ隠してあるのだそうだ。だから収容所の至る所から、今でもときどきナイフが発見される。
さて、半ば駆け足で新しいクラブの前を、住宅地区を、木工場の脇を通過して、もう一つ角を曲がると、あとは収容所《ラーゲリ》の守衛詰所まで一直線だ。
「わあっ!」と、囚人たちはいちどきに喚声をあげる。
この角がゴールだ! 機械製作工場の連中は百五十メートルもおくれている。
囚人たちはようやく歩調をゆるめた。だれもが上機嫌である。ウサギどもが、蛙どもはまだわれわれをこわがっているぞと喜んでいる図だ。
やっと収容所《ラーゲリ》。朝出たときとおなじ風景である。あたりはまっくらで、頑丈な塀の上から、あかりが照らしている。守衛詰所のあたりは、ことに明るい。身体検査にそなえて、小さな広場は真昼のように照明されている。
だが、まだ守衛詰所に行き着かぬうちに……
「とまれ!」と、警護隊の副隊長が叫び、機関銃を部下に渡して、隊列に駆け寄った(機関銃を持ったまま囚人たちに接近してはいけないことになっている)
「右側の者、薪をぜんぶ右に捨てろ!」
おおっぴらに薪を運んできた連中である。一つ、二つ、三つと、小さな薪の束が飛ぶ。隊列のなかに薪を隠そうとする奴もいるが、近所の囚人たちにたしなめられる。
「お前のせいで、ほかの奴まで取り上げられていいのか! よく見えるように、ちゃんと放れ!」
囚人にとって最悪の敵はだれだろう。ほかの囚人である。囚人同士がお互いにもつれあわずにすめば、何のこともないのだが、えい、くそ!
「前へ、進め!」と、副隊長が叫ぶ。
一同は守衛詰所に近づいて行った。
守衛詰所には、五本の道路が集中している。一時間ばかり前ならば、囚人たちがどの道路にもひしめきあっていたのだった。これら五本の道路が舗装されて正式の街路になるとすると、ちょうど守衛詰所のあたり、これからシューホフたちが身体検査を受ける場所が、未来の町の中央広場になるわけである。今、五つの方面から囚人たちが集まってくるように、将来はパレードの人波がここに寄せてくるのだろうか。
看守たちは、もう詰所のなかでストーブにあたっていた。億劫そうに出てくると、囚人たちの行く手に立ちふさがる。
「上衣のボタンをはずせ! 胴着のボタンをはずせ!」
そして両手をひろげる。抱擁に似たしぐさで身体検査をする。脇腹をポンポン叩く。おおむね朝とおなじである。
ボタンをはずすのは、もうわずらわしくない。やっと、うちに帰れたのだから。
|うちに帰る《ヽヽヽヽヽ》と、みんながそう言うのである。
もう一つ別の家のことは、一日中思い出す余裕もない。
先頭の囚人たちが身体検査を受け始めた。シューホフはシーザーに近寄って、話しかけた。
「シーザーさん! 身体検査がすんだら、ひとっぱしり小包受取り所へ行って、行列の場所を取っていてやろうか」
シーザーは、ふり向いてシューホフを見つめた。かたちの整った黒い鬚の先のほうが、白く凍っている。
「どうして場所を取っていてくれるんだい、イワン・デニスイッチ。差入れは来てないかもしれないぜ」
「来てなくたって、おれは別に損はしないもの。十分間待って、あんたが来なかったら、バラックに戻るよ」
(シューホフは内心では計算している。もしシーザーに差入れが来ていなかったら、ほかの奴に場所の権利を売りゃいいんだ)
シーザーも差入れをあてにしていた矢先とみえる。
「じゃ、頼む、イワン・デニスイッチ、場所を取っておいてくれ。十分間以上は待たなくていいよ」
身体検査の順番は、どんどん近づいてきた。今日のシューホフには、隠すものは一つもないから、順番が近づいてきても、ちっともこわくない。ゆっくりと上衣のボタンをはずし、縄のバンドをといて、胴着の前をあけた。
そのとき、たとえ規則にふれる物を一つも持っていないにせよ、八年間の収容所《ラーゲリ》生活で身につけた慎重さが出たのである。シューホフは、ズボンの膝ポケットに片手を突っこみ、からっぽかどうか確かめた。確かめるまでもなく、初めから、からっぽなのだが。
だが、そこには鋸の破片が入っていたのである! 今日の昼間、現場の雪野原で、ただもったいないと思って拾った、あの鋸の切れっぱしだ。収容所《ラーゲリ》に持ち帰るつもりは毛頭なかったのだ。
持ち帰るつもりはなくても、持ち帰ってしまった以上、捨てるのは惜しい! 研いで小さなナイフにすれば、靴の修理や、服のつくろいに利用できるではないか!
初めから持ちこむつもりなら、うまい隠し場所を考えついてもいただろう。だが今、身体検査は二列前まで迫っている。二列のうち前の一列は、もう前進して、検査を受け始めた。
風よりも早く決断しなければならない。前の五人の蔭に隠れて、こっそり雪のなかに捨てるか(捨てた跡は見つかるだろうが、だれが捨てたのかはわかるまい)、それとも持ちこむか!
この鋸が見つかって、ナイフであると判定されれば、十日間の営倉行きになるかもしれない。
それにしても、こんな恰好の靴ナイフは拾いものではないか。パンとおなじくらい貴重なものではないか!
捨てるのは、もったいない。
シューホフは、それを片方の指なし手袋のなかへ入れた。
すぐ前の五人が、身体検査を受け始めた。
あとは、前にも後にも三人しか残っていない。セーニカと、シューホフと、さっきモルダビア人を探しに行った三二班の若者と。
囚人は三人で、看守は五人だから、うまく立ちまわることはできる。右の二人の看守のうち、どちらをえらぶかだ。シューホフは、若いルーマニア人を敬遠して、白い鬚の老人をえらんだ。老人は、もちろん経験豊富だから、その気になられれば発見される率も多いが、また老人であるだけに、さぞかし仕事には飽きあきしているに相違ない。
シューホフは、おもむろに、鋸のかけらの入ったのと入っていないのと両方の手袋をとり、それを片手に持ち(何も入っていないほうを前に出して)、おなじ手で縄バンドを持ち、胴着の前を大きくあけ、上衣と胴着の裾をせいぜい高く上げて(身体検査のとき、こんなに協力的にするのは初めてだが、今は疚《やま》しいところがないのを誇示しなければならない。さあ、どっからでもよく見ておくれ!)――命令が下るや、白い鬚の老人に近づいて行った。
白い鬚の看守は、シューホフの脇腹と背中を叩き、ズボンの膝ポケットを叩き、異常ないので、次に胴着と上衣の裾をさぐり、ここにも異常ないので、もう検査を終えようとしてから、念のためというように、シューホフがさっきから差し出していた手袋の片方を――何も入っていないほうをつかんだ。
看守は手袋をつかんだだけだが、シューホフは心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。もう一方の手袋をつかまれたら、シューホフは営倉で腐らなければならない。日に三百グラムのパンと、三日に一度のスープ。どんなに体が弱り、どんなに腹がへるだろうと、シューホフは想像した。今でも、体はやせ、たいした満腹感は得られないけれども、営倉ではそれどころじゃないのだ。
シューホフは心のなかで、懸命に祈った。『神様! お救い下さい! 営倉はかんべんして下さい!』
こういうさまざまな考えは、看守が最初の手袋をつかみ、次にもう一方の手袋を探ろうと手を移しかけるまでの短い瞬間に、シューホフの心を横切ったのだった(もしシューホフが手袋を両方まとめてではなく、片方ずつ両手に持っていたら、看守も両手でいっぺんにつかんだにちがいないのだ)。だが、このとき、看守長が、たぶん仕事を早くすませたかったのだろう、警護兵にむかって叫んだ。
「じゃ、機械製作工場の連中だ!」
白鬚の看守は、シューホフのもう一方の手袋にはさわらず、手を振って、通れというしぐさをした。助かった。
シューホフは、ほかの班員たちに追いつこうと走りだした。市場で馬をつなぐ場所にあるような長い横棒が、囚人たちを両側から牛か馬のように挟み、班員たちはそこに五人ずつ列を作っている。シューホフは、ほとんど足が地につかないような感じで走った。もういちど神様ありがとうございましたとお祈りするひまはない。そんなことをしたって意味はない。
この作業隊を引率してきた警護兵たちは、全員、脇へどいて、機械工場から来た警護隊に場所をゆずり、上官の到着を持っていた。身体検査の前に投げ捨てた薪は、そっくり警護兵たちに拾い集められ、身体検査のとき看守のとりあげられた薪は、守衛詰所のそばに山と積まれている。
月はますます高く昇り、皓々たる夜景のなかで、寒気はいちだんと強まってきた。
警護隊長は、四六三名の受領証を受けとるべく守衛詰所へむかって歩きかけ、ちょっと立ちどまって、ボルコボイの副官のプリャーハに二言三言、何か耳打ちした。プリャーハがどなった。
「|К《ケー》の四六〇号〔「カー」を訛って「ケー」と言った〕!」
隊列のなかで小さくなっていたモルダビア人が、ふうっと溜息をついて、隊列を離れ、右側の横木のそばまで行った。相変わらず、うなだれ、肩をすぼめている。
「こっちへ来い!」と、プリャーハが横木の外側をゆびさした。
モルダビア人は、ぐるっとまわって、外へ出た。そして、手をうしろに組んで、そこに立っていろと命じられた。
きっと、脱走を企てたという罪がきせられるのだろう。「ブール」行きである。
囚人たちが門まで行き着かぬうちに、右と左から二人の守衛が出て来て、人間の背丈の三倍はある高い門をゆっくりとひらいた。中から号令がきこえた。
「五列に並べぇ!」(「門から離れろ」はこの場合、必要ない。収容所《ラーゲリ》の門はどこでも内側にひらくようになっているので、たとえ中から囚人たちがどっと押し寄せたとしても、門をこわすことはできない)「一! 二! 三!……」
こうしてまたもや人数をかぞえられ、日が暮れてから、収容所《ラーゲリ》の門をくぐるときほど、囚人が寒さにふるえ、腹をへらしているときは、ほかにない。こんな場合、晩めしの柄杓一杯のスープ、くちびるが焼けるほど熱い、実の入っていないスープは、囚人にはまるで旱天《かんてん》の慈雨《じう》なのである。だから囚人は、がぶりと、むさぼるようにスープを飲む。このとき、柄杓一杯のスープは自由よりも貴重であり、過去のあらゆる生活よりも、いかなる未来の生活よりも貴重なのだった。
収容所《ラーゲリ》の門を入ってくる囚人は、遠征から帰ってきた兵士たちのように、わいわい騒ぎ、がやがや喋り、手足を振りまわし、当るべからざる勢いである。
本部バラックの当番は、この囚人たちの大波を、恐ろしそうに眺めている。
朝の六時半に点呼の合図が鳴って以来、このとき初めて、囚人は自由な人間になる。外側の大きな門を通りぬけ、内側の小さな門を通りぬけ、中央通路の手摺りのあいだを通りすぎれば、あとはだれがどこへ行こうと勝手である。
だれがどこへ行こうと勝手だが、班長は労務進行係に捕まる。
「班長諸君! 生産計画部へ!」
シューホフは走って「ブール」の脇を、バラックのそばを通りすぎ、小包受取り所へ行った。シーザーは、あわてず騒がず、悠然と、人だかりのしている柱の方へ歩きだした。その柱にはベニヤ板が打ちつけられ、その板にコピー用の鉛筆で差入れのあった者の名前が書き出されている。
収容所《ラーゲリ》では紙に書くということは、滅多にない。たいていはベニヤ板に書く。ベニヤ板のほうが固くて、しっかりしている。看守や労務進行係が人数を計算するのにも、これを使う。翌日には、表面を削って、また書けるから、経済である。
外へ作業へ行かなかった連中は、ここでちょっとした内職をやる。つまり、ベニヤ板でだれに差入れが来たかを読むと、ここや中央通路でその人間を待ち伏せて、番号を教えてやるのである。これはたいした稼ぎにはならないが、タバコの一本ぐらいにはありつける。
シューホフは、小包受取り所に着いた。それはバラックに建て増しされた差掛け小屋で、その小屋にさらに外室がついている。外室にはドアがないので、寒気は自由に出入りするが、それでも屋根があるだけ、なんとなく屋内に入った感じにはなる。
外室では、壁ぎわに行列ができていた。シューホフも並んだ。前には十五、六人いる。とすると、一時間以上かかる。消燈までの時間がまるつぶれだ。しかし、発電所に行った囚人たちのなかで、差入れの掲示を見に行った者は、シューホフよりもうしろに並ばなければならない。機械製作工場の連中もおなじだ。その連中は、たぶん、あしたの朝、出直さなければなるまい。
行列に立っている者は、みんな袋や雑襄をさげていた。奥のドアのむこうでは(シューホフはこの収容所《ラーゲリ》へ来てから一度も差入れを受けとったことがないのだが、人の話によれば)、差入れの小包みはすべて開封され、看守が中身をいちいちとりだして、あらためるのだそうである。だから中身は切られたり、折られたり、さわられたり、ちぎられたりで、無疵のものはあり得ない。もしもガラス壜やブリキ罐に入った液体があれば、栓をぬいて、中身だけ、ごぼごぼとあけてしまう。こちらは掌か袋で受けるよりほか仕方がない。何が心配なのか、容器は渡してくれないのである。饅頭《ピローグ》や、菓子や、ソーセージや、燻製があれば、これは必ず看守に上前をはねられる(文句を言おうものなら、これは禁じられている品物だ、許されていない品目だとどやされて、全部とりあげられるのがオチである。要するに差入れを受けとった者は、看守から始まって、最後まで、別《わ》けて、別けて、また別けてというように運命づけられているのだ)。小包みの検閲が終わると、またもや小包みの箱はとりあげられっぱなしである。中身はぜんぶ持参の袋に入れるなり、上衣の裾でかかえるなりして、逃げるように帰って行く。すぐ次の囚人が呼ばれる。あまり急がされるので、カウンターに何か忘れてしまうこともあるが、取りに戻っても無駄だ。残っているはずがない。
ウスチ・イジマの収容所《ラーゲリ》にいた頃、シューホフも二度ほど小包みを受けとったことがあった。だがシューホフは細君に手紙を書いた。どうせ無駄になるんだから、もう送らないでくれ、送る分があったら子供らにやってくれ。
もちろん、娑婆で家族を養うほうが、ここで自分一人を養うよりも、ずっと骨が折れなかった。それにしても、小包みがどれほどの経済的な負担になるか、シューホフはよく知っている。十年間も家族にそんな負担をかけつづけるわけにはいかない。だから、差入れは全然ないほうが気が楽なのだ。
だが、そう心に決めても、おなじ班のだれかが、あるいはバラックの近くの者が小包みを受けとるたびに(それはほとんど毎日のことだった)、その小包みが自分あてのものではないことを、シューホフは痛いほど感じないではいられなかった。そして細君には復活祭の差入れをすら固く禁じていたし、金持ちの班員の使いとして以外、差入れ名簿の書きこまれる柱には近寄ったこともないのに、シューホフはなぜか時たま空想にふけるのである。今にもだれかが駆けこんで来て、こうどなるのではないだろうか。
「シューホフ! どうして受けとりに行かないんだ。小包みが来てるぜ!」
しかし現実には、だれも駆けこんで来はしない……。
そして、チェムゲニョーボ村と、なつかしいわが家を思い出す機会は、ますます少なくなっていた。ここの生活は、起床から消燈まで、シューホフをきびしく締めつけて、下らぬ思い出にふけるひまを与えない。
今、まもなく脂肉《あぶらみ》にかじりつき、パンにバターを塗り、茶に砂糖を入れるという希望にわくわくしている連中のなかで、シューホフはただひとつの望みにすがりついていた。なんとかして自分の班といっしょに食堂へ入り、冷えたのではない、熱いスープにありつくこと。つめたいスープは、熱いスープの半分の価値もありはしない。
シーザーの名前が差入れの名簿にないとすれば、シーザーはとうにバラックへ帰って、顔でも洗っているだろう。名前があったとすれば、今頃は、いろんな袋や、プラスチックのコップをかき集めているだろう。そのために十分間だけ待っていようと、シューホフは約束したのである。
その列のなかで、シューホフの耳に情報が伝わった。今週はまた日曜がないだろうという。日曜にも働かせられるのだ。それはシューホフに限らず、だれでもが予期していたことだった。ひと月に日曜が五日あれば、そのうち二日は必ず作業に出される。それはわかっていたことだが、あらためて情報を聞くと、げっそりした気分になった。せっかくの日曜をとりあげられて、がっかりしない奴がいるだろうか。しかし、今あたりで喋っていることも一理ある。つまり、日曜が休みになったところで、いつも何かしら構内の仕事に狩り出されるのである。風呂の建物の建て増しとか、新しい塀を立てるとか、中庭の清掃とか。でなければ、マットレスを日に干せとか、ごみを払えとか、南京虫を退治しろとか命令が出る。さもないときは、ひとりひとりカードと照らし合わせて、囚人たちの首実検をやる。あるいは、私物の点検と称して、みんな中庭に追い出され、身まわり品をかかえて半日もしゃがんでいなければならない。
囚人が朝めしのあと寝ることは、そんなに当局の神経にさわるのだろうか。
行列は、すこしずつだが前へ進んでいた。三人の男が――理髪師と、事務員と、文化教育部勤務の囚人が入って来て、ほかの囚人たちを押しのけ、わがもの顔に前へ出た。だが、この連中はただの囚人ではない、収容所《ラーゲリ》のちょっとした顔役で、戸外の作業にはけっして出ない横着者どもである。一般の囚人たちは、こういう連中を犬の糞よりも程度のわるい奴と見なしている(こいつらはまた一般の囚人を、同様に見なしているのだが)。けれども、こいつらと争っても、なんにもならない。顔役どもはお互いに団結が固いし、看守たちともうまくいっているのだ。
シューホフの前には、まだ十人ばかり残っていた。うしろには、もう七人もつながっている。このとき、あけっぱなしの入口から、首をすくめて、シーザーが入って来た。差入れ品の真新しい毛皮の帽子をかぶっている(この帽子にしてもそうだ。シーザーは、然るべき筋に袖の下をつかませて、この都会風の粋な帽子をかぶる許可を得たのだ。ほかの囚人の場合だと、擦り切れた軍隊帽子さえ取り上げられ、収容所《ラーゲリ》の豚皮の帽子を支給されるのに)
シーザーは、シューホフに笑顔をみせると、さっきから行列のなかで新聞を読んでいた眼鏡の男に話しかけた。
「よう! ピョートル・ミハルイチ!」
途端に、二人とも罌粟《けし》の花みたいに明るい笑顔になった。眼鏡の変人が言う。
「ほら、『夕刊《ペチョールカ》』の最近号ですよ! 帯封で来たばかりです」
「ほんとですか!」と、シーザーはその新聞をのぞきこむ。天井の電燈は恐ろしく暗いのに、どうしてあんな小さな字が読めるんだろう。
「この劇評は面白い。ザバッツキー〔モスクワ芸術座の高名な演出家〕の芝居の初日ですな!」
モスクワっ子というのは、まるで犬みたいに、遠くからでも匂いでお互いにそれとわかるらしい。出っくわすと、まさに犬そっくり、鼻面をつきあわせて、匂いを嗅ぎ合う。しかも喋り方の早いこと早いこと、あれほどの早口はそうそうだれにでもできるもんじゃない。おまけに、その早口を聞いていると、ロシヤ語はあんまり出てこない。まるでラトビア人かルーマニア人のお喋りだ。
だが、シーザーは、いろんな袋を持ってくるのを忘れてはいなかった。
「じゃあ、おれは……シーザーさん……」と、シューホフは息もれのする口で言う。「もう行ってもいいかね」
「ああ、いいとも」と、シーザーは新聞から黒い口髭をもちあげた。「で、おれはだれのうしろだい? おれのうしろはだれなんだい?」
シューホフは行列の場所を教え、シーザーが晩めしのことを思い出すのを待たずに、こっちから訊ねた。
「晩めしを運んでやろうか?」
(つまり、食堂からバラックへ、飯盒《はんごう》に入れて運ぶのである。これは、ほんとうは禁じられていて、さまざまな規則が出されていた。もし捕まれば、飯盒の中身は地面にあけられてしまうし、本人は営倉行きである。それでも囚人たちは運ぶのをやめなかった。消燈前に、ほかの用事をかかえた者は、とうてい食堂まで行くひまがないからである)
晩めしを運ぼうかと訊ねたほんとうの意味は、こうだった。『あんたは、そんなしみったれじゃないよな? 晩めしをおれにくれないなんて言い出さないな? だって晩めしは、雑炊ぬきで、スープ一皿だけじゃないか!……』
「いいよ、いいよ」と、シーザーはにんまり笑った。
「晩めしはきみにゆずるよ、イワン・デニスイッチ!」
待ってました! シューホフは、籠から放たれた鳥のように、小包受取り所から駆け出して、構内を走る、走る!
至る所、囚人たちが徘徊している! ひところ、所長は、囚人が単独で構内を歩くことを禁じていた。どこへ行くにも、それぞれの班でかたまって行くこと。一班ぜんぶを収容できない場所、たとえば医療部や便所へ行くときは、四、五人ずつかたまり、一人が責任者になって誘導し、用件がすみ次第、ふたたび隊列を作って帰ること。
その所長は、やけにこの規則をふりまわしたのだった。もちろん、だれもこれに逆らう者はいなかった。
看守たちは、単独で歩く者を捕え、番号を記録し、「ブール」にぶちこんだ。けれども、この規則は崩れた。たいていの悪法が崩れるように、すこしずつ、なしくずしになったのである。早い話が、だれかが看守に呼ばれるたんびに、四、五人ずつまとまって行くのは大儀ではないか! あるいは、だれかが衣料配給所へ何かを取りに行くとき、ほかの人間がついて行ったって、面白くもおかしくもない。それから、さっきの文化教育部の男が、思い立って新聞を読みに行こうとする場合、だれがいっしょについて行くだろう? さもなくば、フェルト靴を直しに行く奴、乾燥台へ行く奴、ただなんとなくバラックからバラックへ行く奴(これは厳禁されていた)、という具合に、いろいろな場合がある。とてもいちいち禁止できたものではない。
この規則によって、所長は囚人たちの最後の自由をとりあげようとしたわけだが、やはりうまくいかなかったのである。太鼓腹め、ざまあみろ。
走って行く途中で看守に出っくわしたシューホフは、念のためにちょっと帽子を浮かせてから、一気にバラックに駆けこんだ。バラックのなかでは、大騒ぎだった。だれかのパンが盗まれたというので、当番がどなりつけられ、当番も負けずにどなり返している。一〇四班の寝床のあたりには、人影はない。
帰って来て、マットレスがひっくり返されていなければ、昼間、バラックの点検はなかったわけである。そんな晩は、シューホフは幸福な気分になるのだった。
上衣をぬぎながら、シューホフは自分の寝台に駆けつける。上衣を放り上げ、鋸のかけらの入った手袋を放り上げ、マットレスを探ってみる。朝のパンはそこにあった! ほころびを縫っておいたのは、賢明だったわけである。
それ、駆け出せ! 食堂へ!
今度は、看守にはぶつからなかった。何人かの囚人が、配給のパンのことで口論しながら、こちらへ歩いて来るのとすれちがっただけである。
戸外は、月の光に皓々と照らし出されていた。あかりは色褪せ、どのバラックも黒い影をひいている。食堂の入口は幅広い四段の階段になっているが、そこも影に包まれていた。だが、階段の上の小さな電燈は、風に揺れ、寒気のなかでキイキイ軋っている。霜のせいか、汚れのせいか、電燈の光は虹色に輝いている。
ここにもまた所長の厳命がゆきとどいていた。どの班も、食堂へ行くときは二列に並ぶこと。それから、食堂に着いたならば、階段の前で五列に並び、食堂の当番の指示によって入ること。
食堂の当番たちは、|びっこ《ヽヽヽ》一人にぎゅうじられていた。|びっこ《ヽヽヽ》は、びっこを売りものにして、廃疾者と見なされているが、じつは、こいつ恐ろしく頑健なのだ。いつも白樺の木で作った杖を持ち、食堂の階段の上に突っ立って、自分の命令にそむいて入ろうとする者を、この杖でおどかす。だが、この男はちゃんと相手をえらぶのだった。なにしろ、くらやみで背中を見ただけでだれだか言いあてるほど目のきく男だから、逆に殴り返されそうな奴はけっして殴らない。やられるのは、しょぼたれた奴ばかりである。シューホフも一度どやされたことがあった。
当番とは名ばかりで、まるっきり殿様である! しかも料理人たちとぐるになっているのだ!
今夜は、いちどに沢山の班が殺到したためか、あるいは何かの都合で整理がつかなかったのか、階段に大勢の囚人たちがむらがっていた。階段の上には、|びっこ《ヽヽヽ》と、|びっこ《ヽヽヽ》の助手と、食堂主任おんみずからの姿が見える。犬どもめ、看守の手を借りずに、自分たちだけで人ごみをさばくつもりらしい。
食堂主任は、よく肥えた男で、頭はカボチャそっくり、肩幅は一アルシン〔七十センチ強〕もある。精力があり余っているせいか、歩くときはまるで手足にバネが入っているよう。いつも番号の入っていない白い毛皮帽子をかぶっているが、自由人でもこんな帽子をかぶる人はすくないだろう。そして羊毛のチョッキを着ているが、さすがにボルコボイに気がねしたとみえて、そのチョッキの胸に切手ほどの大きさの番号札をつけている。しかし背中にはつけていない。いずれにせよ、この食堂主任はこわいもの知らずで、囚人たちみんなに恐れられていた。片手に数千人の生命を握った男である。一度、囚人たちが、寄ってたかって、この男をつるしあげようとしたことがあったが、料理人たちが主任の味方にまわったので成功しなかった。この料理人どもがまた、悪党のなかの悪党みたいな奴らなのである。
一〇四班がすでに中へ入ったとなると、事は面倒だ。|びっこ《ヽヽヽ》は収容所《ラーゲリ》中の人間の顔をおぼえているから、ほかの班といっしょでは絶対に入れないだろう。主任がいるときは、|びっこ《ヽヽヽ》も意地になるのだ。
階段の横の手摺りを乗りこえて、びっこが脇を向いた隙にもぐりこむこともできる。シューホフも、これを何度かやったことがあった。しかし主任がいては、まずい。見つかれば、こてんこてんにのされて、医療部へ通わなければならなくなる。
早く、早く階段に近づくことだ。黒い上衣の波をかきわけて、一〇四班がまだ入っていないかどうか、確かめなければなるまい。
だが、このとき人波は急に揺れだし(消燈時刻が迫っているから、みんな気が立っているのだ!)、まるで要塞に攻め寄せる兵隊たちのように、一段、二段、三段、四段と、階段の上まで押しあがった!
「とまれ、へなちょこ野郎ども!」と、|びっこ《ヽヽヽ》がわめき、前列の者に杖を振りあげた。「うしろにさがれ! さもないと、叩っ殺すぞ!」
「さがれねえよ」と、最前列の者もわめく。「うしろから押すんだ!」
うしろから押しているのは事実だが、前の連中はそれに大して逆らっていない。あわよくば、この勢いに乗じて食堂に入ろうと思っているのだ。
すると、|びっこ《ヽヽヽ》はちょうど踏切りの横木のように、杖を横にして胸の前に構え、満身の力をこめて、囚人たちに突っかかって来た。|びっこ《ヽヽヽ》の助手も、その杖に手を貸し、食堂主任も、なりふり構わず、押しっくらに加わった。
その三人の力ときたら、たいしたものだ。なにしろ肉をたらふく喰らっている! 前列の囚人たちは、仰むけにひっくりかえり、うしろの囚人たちの上に、麦束みたいにバタバタ落ちて来た。
「びっこの糞野郎……今に見やがれ!……」と、だれかが叫んだが、群集にまぎれて顔は見えない。ほかの囚人たちは、何も言わずにぶっ倒れ、踏んづけられぬうちに、何も言わずに起きあがった。
階段の空間ががらんとした。食堂主任はうしろへ下がり、|びっこ《ヽヽヽ》は一番上の段に立ってどなった。
「馬鹿めら、五列に並べ、何度言ったらわかるんだ! 順番がくれば入れてやる!」
シューホフは、階段のすぐ前のあたりに、セーニカ・クレーフシンらしき頭を見つけた。ほっとして、人ごみをかきわけ、そこへ行こうとする。いや、駄目だ、こう混んでいては、とても前へ出られない。
「二七班!」と、びっこが叫ぶ。「入れ!」
二七班の者が階段を駆け上がり、ドアへと急いだ。それにつづいて、みんながまたもや階段に押し寄せる。シューホフも、ありったけの力で押した。階段がぐらぐら揺れ、上の電燈がキイキイいう。
「またか、豚ども」と、|びっこ《ヽヽヽ》はかんかんになって、二、三人の肩や背中を杖で殴りつけ、突きとばす。
ふたたびしずまった。
見上げるシューホフの目に、|びっこ《ヽヽヽ》と話し合っているパブロの姿が映った。チューリンはこういう人ごみで押し合うのを好まないから、いつも副班長のパブロが班員たちを連れてくるのである。
「一〇四班、五列に並べぇ!」と、パブロが階段の上から叫んだ。「通してやって下さい、みなさん!」
そう簡単に通してくれるものか!
「おい、この背中、どいてくれ! おれは一〇四班だ!」と、シューホフがすぐ前の背中をゆすぶる。
その男も通したいのだろうが、四方から挟まれて身動きがとれないでいる。
群集は揉み合い、波のように揺れる。これも一杯のスープに、お定まりのスープにありつかんがための苦労なのだ。
シューホフは別の方法を試みた。左手の階段の手摺りをつかみ、縦の鉄棒を順々に手操って行って、宙にぶらさがったのである。シューホフの足が、だれかの膝にぶつかった。たちまち、脇腹を蹴り返され、わいせつな罵倒を浴びたが、シューホフの片足は、すでに階段の一番上の段にとどいていた。一〇四班の仲間がそれを見つけて、腕を貸した。
食堂主任が、戸口からふり向いて言った。
「おい、びっこ、あと二班だ!」
「一〇四班!」と、びっこが叫んだ。「こん畜生、どこへ行きやがる」
杖で首筋を殴られたのは、ほかの班の囚人である。
「一〇四班!」と、パブロが叫び、自分の班を中へ入れる。
「ふう!」と、息をついて、シューホフは食堂へ入り、パブロの命令を待たずに、あいた盆を集め始めた。
食堂の光景は、いつものとおりだった。湯気が渦巻き、テーブルにむかう囚人たちはヒマワリの種のようにくっつきあい、テーブルのあいだでは、ほかの囚人たちが右往左往し、そのなかをかきわけて、食器をのせた盆を運んでくる男がいる。だが、シューホフは永年の経験で目がするどくなっていた。|Щ《シチャー》二〇八号が運んでくる盆には、食器が五つしかのっていない。とすると、それが最後の運搬なのだ。最後でなければ、もっと沢山のせているはずである。
シューホフはその男に近づき、うしろから囁いた。
「なあ! その盆を、次に使わせろな!」
「あそこの窓んとこで一人待ってるだろう。約束しちまったんだ……」
「待たせときゃいいさ、ぼやぼやしてるからいけないんだ!」
取引きが成立した。
その男は盆を席まで運び、食器をおろした。シューホフは盆をつかんだ。だが、約束した男は駆け寄ってきて、盆の片端をつかんだ。見れば、シューホフよりも体格の貧弱な男である。シューホフは、盆をつかんだまま、男を押して行って、柱に突き飛ばした。男の手から盆が離れた。シューホフは盆を小脇にかかえ、窓口へ走った。
窓口の前の行列に立ち、盆がないので困った顔をしていたパブロは、大よろこびだった。
「イワン・デニソビッチ!」――そして、すぐ前に並んでいる二七班の副班長を小突いた。「早くしろよ! 何ぐずぐずしてる? おれたち、盆、あるんだよ!」
おや、抜け目のないゴプチックが、盆をもう一つ持って来た。
「ぼやぼやしてるから」と、ゴプチックは笑って言う。「かっぱらってきたよ!」
ゴプチックは、収容所《ラーゲリ》人種として見こみがある。あと三年も苦労すれば、どうわるく見つもっても、パンの配給所の係ぐらいには出世できるだろう。
第二の盆を、パブロはエルモラーエフに持たせた。この男は頑丈なシベリヤ人である(やはり捕虜になったせいで十年の刑を受けたのだった)。ゴプチックは「お夜食」の終わったテーブルを探しにやられた。シューホフは窓口の脇に盆を置いて待機する。
「一〇四班、頼みますよ!」と、パブロが窓口にむかって叫ぶ。
窓口は全部で五つあった。三つは食器が中から出て来る窓口で、一つは特別給食のための窓口(特別食を貰う胃潰瘍の患者は十名いた。ほかに事務員たちは闇取引きで全員この特別食を受けていた)、残る一つは食器の返却口である。窓口の位置は低くて、腰の上ほどの高さしかない。だから料理人の姿は見えず、その手と柄杓しか見えない。
料理人の手は、よく手入れの行きとどいた白い手だが、恐ろしく毛が沢山生えている。まるでボクサーだ、料理人じゃなくて。今しも、その手が鉛筆を握り、壁のメモ用紙に書きつけた。
「一〇四班、二十四個!」
パンチェレーエフも食堂に来ていたのだ。何が病気だ、あん畜生。
料理人は、三リットルは入ろうというどえらく大きな柄杓をつかみ、その柄杓で大鍋を、とろり、とろりとかきまわした(注ぎ足して、ほとんどいっぱいになった鍋からは、猛烈な湯気が立ちのぼっている)。それから七百五十グラム入りの柄杓に持ちかえると、鍋の中身を軽くすくった。
「一、二、三、四……」
シューホフはじっと観察していた。濃い部分が鍋の底へ沈まぬうちに、すくいあげられて、どの食器に入ったか。どの食器に、水っぽいところが入ったか。それから盆に食器を十個のせて、運搬を始めた。二本目の柱の蔭からゴプチックが手を振っている。
「こっちだよ、イワン・デニスイッチ、こっち!」
食器運びには充分に慎重を期さなければいけない。シューホフは、食器をゆすらないように、そうっとすり足で歩き、声だけは張りあげる。
「おい、|X《ヘー》の九二〇号[「ハー」を訛って]!……気をつけろ、おっさん!……どいたどいた、坊や!」
この人ごみでは、中身をこぼさずに食器一つ運ぶのも容易ではないのに、シューホフは十個いっぺんに運ぶのである。ゴプチックが確保しておいた席に、そうっと盆をおろすと、中身は一滴もこぼれていなかった。おまけに、ちゃんと計算して、自分の坐る側に一番濃いところの入った食器が来るよう、盆を置く角度を按排してある。
エルモラーエフも十個運んできた。ゴプチックと、パブロが、二個ずつ持って、すぐやって来た。
キリガスは、盆にパンをのせて運んできた。今日は仕事の種類によって配給量がちがう。二百グラム貰う奴もいれば、三百グラム貰う奴もいるが、シューホフは四百グラムである。端っこの皮のついている四百グラムの塊をとり、シーザーの分を、まんなかのやわらかい所から二百グラムとる。
班員たちが、食堂の四隅から集まってきた。晩めしを受けとると、好きなところに腰をおろして、さっさとたべ始める。シューホフは食器を分配し、だれに渡したかを記憶にとどめながら、自分が目星をつけた食器は確保しておく。特に濃いところが入った食器にスプーンを突っこんだ。予約ずみというわけである。フェチュコフは、まっさきに食器を受けとって、立ち去った。自分の班では、おこぼれにありつく見こみがないと悟って、いっそのこと食堂中をほっつき歩き、たべ残しをかっさらうつもりなのだろう(だれかがたべ残しの食器を押しやると、時には何人かの手がいちどきに、まるで禿鷹のように飛びついてくることがあった)
シューホフは、パブロと二人で、食器の残りをかぞえた。数は合っている。チューリンの分には、濃いスープをえらんで、シューホフはその食器をパブロに渡した。パブロの食器の中身を、ドイツ風の飯盒に移した。この飯盒は小型なので、上衣のなかに隠して運ぶことができる。
盆はすでにほかの班にゆずった。パブロは倍量の食器をかかえて腰を落着け、シューホフも二人分の食器を引きよせた。ここで、二人の会話はばったり途絶える。神聖な瞬間の到来である。
シューホフは帽子をとり、膝に置いた。スプーンで片方の食器の中身を点検し、もう一方を点検する。まあまあというところ。魚もいくらか入っている。晩のスープは朝よりも薄いのが普通だった。朝は、これから働かせるのだから囚人に栄養をつけなければならない。夜は、あと寝るだけではないか。
シューホフはたべ始めた。初めは上澄みの液体だけを飲む。熱い液体が喉を通りすぎると、内臓どもがいっせいにスープにむかってもがき始めるような感覚に襲われた。ああ、このここちよさ! この一瞬のためにこそ、囚人は生きているのだ!
もうシューホフには、不平も不満もなかった。長い刑期も、長い労働時間も、今度の日曜がとりあげられたことも、すでに問題ではない。今のシューホフは内心で叫んでいた。生きのびること! 何がなんでも生きのびること、やがては神様が何もかもお終いにしてくださる!
両方の食器から上澄みを飲んでしまうと、片方の中身をもう一方に移し、スプーンで最後の一滴まですくいとった。こうして一つにまとめてしまえば、もう一方の食器に気を散らさずにすむ。
自由になった視線を、あたりの食器に向けた。左隣りの囚人のスープは、まるでただのお湯である。料理人の奴らめ、何てことをしやがるんだ、てめえらも囚人のくせに!
シューホフは、残りの液体といっしょに、キャベツをたべた。ジャガイモは、二つの食器に一つしか入っていない。シーザーの分に入っていたのである。中くらいの大きさで、もちろん凍っていたやつだから、すこしガリガリしている。魚はほとんどないに等しく、ときたま肉ばなれした骨が見え隠れするだけだ。しかし、魚の骨や鰭《ひれ》は一つ残らず噛みしめて、栄養のある汁を吸わなければいけない。それには時間がかかるが、今のシューホフは、どこへ急いで行く必要もなかった。今日はまるで祭日だ。昼めしも二人分、晩めしも二人分平らげたのである。こういうことのためならば、ほかの用事は放っておいたってかまわない。
ただし、ラトビア人のタバコを買いに行く必要はある。あしたの朝は、もう品切れになっているだろうから。
シューホフは、パンには手をつけなかった。スープを二人分たべて、おまけにパンでは、ぜいたくすぎる。パンは、あしたまでとっておこう。人間の腹というのは恩知らずだから、あしたになれば、またもや不平を言いだすのだ。
シューホフは、あたりにはたいして気も使わず、自分のスープをたべ終えようとしていた。正々堂々と自分の分を確保し、ほかの人間のを狙う必要がないのだから、あたりに気を使うこともないわけである。それでも、まん前の席があいて、そこに背の高い老人、|Ю《ユー》八一号が坐ったときは、いやでも注意を引かれずにはいられなかった。この老人は六四班に属しているのだが、さっき小包受取り所で並んでいたときシューホフが聞いた噂によると、今日、一〇四班の代わりに「社会主義生活本部」へやられたのは、その六四班なのである。かれらは、一日いっぱい、体をあたためる場所もなくて、自分らの囲いを作るべく、有刺鉄線を張りめぐらす作業をやったにちがいないのだ。
シューホフは、この老人について、いろんな噂を聞いていた。もう何年か数えきれないほど、方々の収容所《ラーゲリ》や刑務所を転々して、その間、一度の恩赦もない。十年の刑期がすめば、すぐまた十年追加されるのだという。
シューホフは、すぐ前に坐った老人をしげしげと眺めた。収容所《ラーゲリ》独特の曲がった背中が多いなかで、この人の背中は目立ってまっすぐである。テーブルにむかっているところは、まるでベンチの上に何か敷いてでもいるように、背が高く見える。頭には、刈るべきものが一つもない。結構な生活のせいで、髪はとうの昔にすっかり脱け落ちたのだった。老人の目は、食堂のなかのことどもを、きょろきょろ追ったりせず、シューホフの頭の上あたりの虚空を、しかと睨んでいる。実の入っていないスープを、欠けた木のスプーンで規則正しく口へ持って行くが、みんなのように食器にかがみこまず、スプーンをいちいち高いところまで運ぶのである。歯は、上歯も下歯も全然なく、歯のかわりに硬くなった歯ぐきでパンをもぐもぐ噛んでいる。顔はやつれてはいるが、けっして廃疾者の衰えは見せず、石を刻んだような硬さである。ひびだらけの汚れた大きな手は、この人が楽な仕事をしたことがどんなに少なかったかを語っていた。へたばるまいという気持ちが、その胸のなかにどっかり坐りこんでいる感じだ。三百グラムのパンを、ほかの連中のように、スープのこぼれた不潔なテーブルにじかに置かず、洗いざらした端布《はぎれ》の上にきちんと置いている。
しかし、シューホフには、老人を永いこと観察しているひまはなかった。食事を終えたシューホフは、スプーンをよくなめてフェルト靴にしまい、帽子をぐいとかぶり、立ちあがり、自分のとシーザーのとパンを二個つかんで、外へ出た。食堂から出るときは、別の階段を通らなければならない。そこには当番が二人立っていて、ドアの掛け金をはずし、人を通し、また掛け金をかける、それだけを専門にやっている。
たらふくたべ、満ち足りた気分で外へ出たシューホフは、消燈時刻までもうあまり時間もないが、ラトビア人のところへ行ってみようと決心した。そこで九号バラックにパンを置かずに、直接七号バラックの方へ急ぎ足で歩きだした。
月は遥か中空にかかり、まるで浮き彫りのように、すがすがしく、白く見える。夜空ぜんたいが、すがすがしい。ところどころに光度の強い星だけが見える。だが、空を眺めることこそ、シューホフの生活とは一番縁遠いことだった。シューホフはただ、寒さはまだきびしいなと思っただけである。自由人から入って来た話によれば、今晩は零下三十度になり、あすの朝は四十度までも下がるだろうという。
ひどく遠くの音がよくきこえた。どこかの村でトラクターが唸っている。建設中の新しい国道では、掘削機がやかましい音を立てている。収容所《ラーゲリ》の構内を行き来するフェルト靴が、雪を軋ませる。
風はない。
シューホフは、自家製タバコを手に入れるときは、金を出して買わなければならなかった。今までの相場だと、コップ一杯が一ルーブリである。ただし娑婆では、おなじ分量が三ルーブリもするし、種類によってはそれ以上することもある。収容所《ラーゲリ》の物価は独特で、娑婆とはぜんぜん比較にならない。なぜかというと、ここではだれも現金を持てないことになっているから、貨幣価値が高いのである。この収容所《ラーゲリ》では、労働の報酬は一文も支払われない(ウスチ・イジマではシューホフは毎月三十ルーブリ平均稼いでいたのだった)。もしも近親者から現金が送られてきたとすると、それは本人に渡されないで、本人名義の口座に入れられてしまう。この口座からは一ヵ月に一度だけ金を引き出して、売店で石鹸や、駄菓子や、タバコの「プリマ」を買うことができる。そういう品物が気に入るかどうかは別として、いくら買うかは、あらかじめ所長に報告しなければならない。品物が気に入らず、買わなかったとしても、報告しただけの金額はちゃんと口座から引かれてしまう。
シューホフには、内職で金を稼ぐことだけが現金収入の道だった。注文主の提供した布地を使ってスリッパを縫ってやると、二ルーブリになる。胴着をつくろってやる場合は、値段は話し合いできめる。
七号バラックは、九号バラックのように大部屋が二つつながった建物ではない。七号バラックには長い廊下があり、十のドアがあって、各部屋に一班ずつ割りふられ、寝台が七つずつ詰めこんである。そのほかに便所があり、バラック長の個室がある。絵描きも個室に陣取っている。
シューホフは、ラトビア人の部屋に入って行った。ラトビア人は寝台の下段に寝そべって、両足を上段にかけ、隣りのラトビア人と何か早口に喋っていた。
シューホフは、そのそばに腰をおろした。今晩はと言った。ラトビア人も今晩はと言ったが、足をおろそうとはしない。狭い部屋だから、みんなが聴き耳を立てている。だれが何しに来たんだろう。ラトビア人もシューホフも、そのへんの呼吸を心得ていたのである。だから、シューホフも、初めはあたりさわりのない話をする。どうだね、調子は? うん、まあね。今日は寒いね。うん。
ほかの連中が、また、それぞれの話に戻るのを待って(ちょうど朝鮮戦争のことで議論していた。中国が介入したら世界大戦になるだろうか、ならないだろうか)、シューホフはラトビア人の耳に口を寄せた。
「タバコ、あるか」
「あるよ」
「見せろ」
ラトビア人は、足を通路におろし、上半身を起こした。このラトビア人はけちな男で、タバコをコップに詰めるとき、ほんの一服分でも多く入れたら損だというように、びくびくしている。
ラトビア人は、タバコ入れの蓋をあけて、シューホフに見せた。
シューホフはひとつまみ取って、掌にのせ、よくよく見る。この前のとおなじだ。茶色がかった色も、刻み方もおなじである。シューホフは匂いをかいでみた。おなじだ。だがラトビア人には、こう言った。
「なんだか、ちがうみたいだな」
「おなじだよ! おなじだよ!」と、ラトビア人は腹立たしそうに言う。「おれんとこは、いつもおなじやつなんだ。ちがうのは置いとかない」
「わかった、わかった」と、シューホフは折れる。「じゃあ、コップ一杯詰めこんでおくれ。吸ってみて、うまかったら、もう一杯もらうかもしれないよ」
ラトビア人がけちけちするのを見越して、[詰めこんで]という言葉をわざと使ったのである。
ラトビア人は、枕の下から別のタバコ入れを取り出した。さっきのタバコ入れより大きなやつである。次に戸棚からコップを出した。プラスチックのコップだが、分量がどれだけ入るかは、シューホフがちゃんと知っている。ガラスのコップに変わりないのだ。
ラトビア人は、ぱらぱらと、ゆるく詰め始める。
「もっとぎゅうぎゅう入れろよ!」と、シューホフは指を突っこんで、模範を示す。
「わかってるよ!」と、ラトビア人はコップをひったくり、指で押すが、シューホフがやったよりは生ぬるい。そしてまた、ぱらぱらと入れ始める。
シューホフは、胴着のボタンをはずし、綿のあいだの、自分にしかわからない隠し場所にある紙幣を探りあてた。その紙幣を両手で綿の上からすこしずつずらし、小さなほころびの所まで持って来た。このほころびは、紙幣の隠し場所とは全然ちがう所にあり、二本の糸で簡単にかがってある。さて、紙幣がそのほころびに達すると、シューホフは二本の糸を爪で切り、紙幣を縦に細く折って(すでに細長く折りたたんであったのだが)、そのほころびから外に出した。二ルーブリである。古くなって、パリとも音を立てない。
部屋のなかでは、だれかが大声で喋っている。
「お前を憐れむって? あの鬚のおやじ〔スターリンのこと〕がか? 奴は実の兄弟さえ信用しちゃいねえんだぜ。お前なんか牛蒡《ごぼう》ぐらいにしか思っちゃいねえよ!」
この特殊ラーゲリのいいところは、言論の自由が|たっぷり《ヽヽヽヽ》あるということだった。ウスチ・イジマでなら、娑婆じゃマッチ不足だそうだぜと囁いただけで、営倉に放りこまれ、刑期を十年追加されたものだった。しかし、ここでは、耳をつんざくほどの声で、好きなことを喋っても、密告者はそんなことを密告しないし、看守も知らん顔をしている。
ただ、ここでは、それほどお喋りをするひまがないのだが……。
「おい、ぎゅうぎゅう詰めろよ」と、シューホフがうるさく言う。
「よし、よし」と、ラトビア人はひとつまみだけ足す。
シューホフは、内ポケットから自分のタバコ入れを出し、コップ一杯のタバコをそれに移した。
「じゃあ」と、シューホフは心を決める。すばらしい最初の一服をあわただしく吸う気にはなれないのだ。「もう一杯詰めてくれ」
またもや口争いをくり返し、二杯目のコップの中身をタバコ入れに詰めかえると、シューホフは二ルーブリを渡し、ラトビア人に、じゃ行くよというしぐさをして、外へ出た。
外へ出るや、またしても駆け足でバラックへ帰る。シーザーが小包みを受けとって戻ってきたところを、見逃してしまう手はない。
だが、シーザーはすでに寝台の下段の自分の席にすわり、ぽかんと小包みに見愡れていた。小包みの中身は、寝台の上や、戸棚の上に、すっかりひろげられているが、そこはシューホフの上段の蔭になって、あかりが直接とどかないので、それほど人目につかない。
シューホフはかがみこみ、元海軍中佐の寝台とシーザーの寝台のあいだに立ちふさがるようにして、片手で晩めしのパンを差し出した。
「あんたのパンだよ、シーザーさん」
『ああ、受けとったね』とは言わなかった。それは、シューホフは行列に立っていてやったから、当然、分け前を貰う権利があると、ほのめかすことになるからである。もちろん権利があることはわかっている。しかし、収容所《ラーゲリ》生活八年を経ても、シューホフはまだ山犬にはなっていなかった。それどころか、月日が経てば経つほど、ますます自分の立ち場を固く守るようになっている。
だが、目に見るなと命令するわけにはいかない。収容所《ラーゲリ》生活で鍛えられた鷹のようなシューホフの目は、瞬時のうちに、寝台と戸棚の上にひろげられたシーザーの小包みの内容物をなめまわしていた。まだ包み紙を剥がしてないのや、袋のなかに入ったものもあるのに、シューホフの敏速な視線と、とぎすまされた嗅覚は、思わず知らず読みとった。シーザーが受けとったのは、ソーセージ、コンデンス・ミルク、大きな魚の燻製、豚の脂肉、独特の匂いのする乾パン、別の匂いのするビスケット、角砂糖がおよそ二キロ、それからバターらしきもの、それからシガレット、パイプ・タバコ、まだほかにもある。
これだけのことを、「あんたのパンだよ、シーザーさん」と言う短い瞬間のうちに読みとったのである。
髪をふりみだし、酔いどれのように興奮したシーザーは(食物の小包みを受けとると、だれでもこういう状態に陥る)、片手を振って言った。
「きみにあげるよ、イワン・デニスイッチ!」
スープに、パン二百グラムといえば、晩めし全部だ。これで、シーザーの小包みについてシューホフが要求できる分は、いっぱいになったと言わねばなるまい。
そこでシューホフは、すっぱりとあきらめた。シーザーが今ひろげている数々のご馳走には、もう期待しないこと。期待で腹を刺激して、あげくに何も貰えなかったりしたら、それ以上悲しいことはない。
パンが四百グラム、それから二百グラム、それからマットレスのなかには、まだたっぷり二百グラムはある。これだけで充分ではないか。二百グラムは今たべて、あしたの朝は配給の五百五十グラムをたべ、残る四百グラムは仕事に持って行く。すばらしいじゃないか! マットレスに隠した分は、そのままにしておこう。シューホフが、マットレスを縫っておいたのは賢明だった。戸棚に入れておいて、七五班の奴みたいに盗まれてみろ、苦情の持って行きどころがない。
こう考える者もいる。差入れを受けとった奴は、いうなれば、ぎっしり詰まった袋だ。その袋をやぶけ! だが、よく考えてみれば、楽に手に入った物は、いともらくらくと出て行くのである。よくあることだが、差入れが来ないうちは、やがて差入れを受けとるはずの奴だって、一杯の雑炊のためにサービスしたり、一服のタバコをねだったりする。やがて差入れが来たとき、看守や、班長や、職長に、わけてやらないわけにはいかないではないか。しかも、小包みはしばしばいろんな物のなかに紛れこんで、差入れの名簿になかなか現われないことがある。みんなが食物を預かって貰う保管室、そこへシーザーもあすの点呼前に差入れ品を持って行くだろうが(盗難よけと、身体検査のときのわずらわしさをなくすためとで、所長がそういう命令を出したのである)、その保管室の係にも、いくらか分けてやらないと、食物は必ず減ってしまう。一日いっぱい、そこに坐って、ネズミみたいに他人の食物の番をしているのだもの、盗むなというほうが無理である! そしてまた、シューホフのようにサービスした奴には、何もやらないですむか? そしてまた、特に新しい下着を出してくれる風呂当番にも、ほんの気持ちだけでも分けてやらずにすむだろうか。それから、ちゃんと紙を使う理髪師にも(つまり、かみそりを囚人の裸の膝でではなく、ちゃんと紙で拭いてくれるという意味だ)、おこころざしだけ、タバコの三、四本もやらなければなるまい? それから、手紙を紛失しないよう、特に別扱いしてくれる文化教育部の係には? 一日サボって、構内でごろごろしていたいのなら、医者には? それから、シーザーの場合の元海軍中佐のように、一つ戸棚を共同で使っている隣人にも、知らん顔をしているわけにはいくまい? 差入れ品の数までいちいちかぞえられる隣人には、どんなに厚かましい奴だって、分けないわけにはいかないのだ。
かくのごとき次第で、他人の大根がいつも太く見える単純な人間は、勝手にうらやんでいるがいい。シューホフは人生の機微に通じているから、他人の財産をあてにするような真似はできないのである。
シューホフは靴をぬぎ、上段の寝床にあがると、指なし手袋から鋸《のこぎり》のかけらを出し、しばらくそれを眺めた。あした、適当な石を探して、その石で砥《と》いで、靴修理用のナイフを作ろう。朝晩すこしずつ砥いだとして、四日もあれば、すばらしく鋭利なナイフができるだろう。
だが今のうちは、あしたの朝まで、この破片を隠しておかなければならない。寝台の桟《さん》と板のあいだに入れておこう。そこで、下に元海軍中佐がいないのを幸い、というのは中佐の顔に埃を落としたくないからだが、シューホフは、鉋屑《かんなくず》ではなく鋸屑を詰めた思いマットレスの頭の方をすこし持ちあげて、鋸の破片を隠しにかかった。
上段の近所の連中、つまりバプチスト教徒のアリョーシカや、通路のむこうのエストニア人の二人組は、シューホフを眺めていた。しかし、この連中は信用がおけるから大丈夫だ。
べそをかいたフェチュコフが、バラックに入ってきた。すっかり背をまるめている。くちびるに血がついている。きっと、晩めしのことで、また殴られたのだろう。だれの顔も見ず、涙を隠そうともせずに、フェチュコフは通路を歩いて行って、上段の寝床に入り、マットレスに顔を埋めた。
思えば、きのどくな男である。きっと刑期の終わりまで体が保《も》たないだろう。どうしてもここの生活に適応できないのだ。
このとき元海軍中佐が現われた。特別にいれた茶をやかんで運んできて、上機嫌である。バラックには、茶を入れた樽が二つあるが、この茶はとても茶と呼べたしろものではない。なまぬるくて、それらしき色がついているだけで、得体の知れない液体。饐《す》えたような、腐ったような、樽の匂いがする。この茶は要領のわるい囚人のためのものだ。ブイノフスキーは、もちろん、シーザーから本物の茶をひとつかみまきあげて、それをやかんに叩きこみ、大鍋のある所までひとっ走りしてきたのだろう。じつに満足そうな様子で、下段の戸棚に寄りかかった。
「お湯で指を火傷《やけど》するとこだったよ!」と、自慢そうに言う。
下段では、シーザーが紙をひろげて、その上に差入れ品を一つ、二つと積んでいる。その光景を見ていると、心がかき乱されそうになったので、シューホフはマットレスを元どおりに直した。だが、下段の連中は、やはりシューホフの助けを借りずにはすまないのだ。シーザーが通路に立ちあがり、シューホフに目くばせする。
「シューホフさん! そら例の……営倉十日間《ヽヽヽヽヽ》を貸してくれよ!」
営倉十日間とは、小さな折りたたみナイフのことである。シューホフはそれをやはり桟のあいだに隠していたのだった。大きさこそ手の指の半分もないが、切れ味のいいことといったら、指五本の厚さの|脂肉)あぶらみ)だって楽々と切ってしまう。シューホフはこのナイフを自分で作り、折あるごとにせっせと砥いでいたのだった。
シューホフは手をのばして、そのナイフを取り出し、貸してやった。シーザーは頭をこっくりさせて、下段にもぐりこんだ。
こういうナイフも、稼ぎのたねになる。なにしろ見つかれば営倉行きという貴重品なのだから。とにかく、人間の良心をちょっぴりでも持ちあわせている奴なら、ソーセージを切るからナイフを貸せ、お前は糞でも喰らえ、とは、なかなか言えたものではないだろう。
だから、今や、シーザーはまたもやシューホフに借りができたわけだ。
パンと、ナイフの一件が片付いたので、次の仕事として、シューホフはタバコ入れを取りだした。そして昼間借りた分だけ目分量でつまみ出し、通路ごしにエストニア人に差し出して、ありがとうと言った。
エストニア人は、くちびるをちょっと動かして微笑らしきものを見せ、隣りにいた兄弟分に何か呟いてから、そのタバコをさっそく巻き始めた。シューホフのはどんなタバコか、ためしてみるつもりなのだろう。
お前さんがたのよりゃわるくないぜ、どうぞ存分におためしなさい! シューホフは、自分でもタバコを吸おうと思ったが、腹時計はすでに点呼の時刻が近いことを告げている。今時分はよく看守どもがバラック近辺をぶらつくのである。タバコを吸うなら、通路に出なければならないが、シューホフはあたたかい上段の寝床を離れたくなかった。バラックのなかはちっともあたたかくない。天井には相変わらず霜が凍りついている。夜中にはどうせ冷えこむだろうが、今のうちは寝床のほうが凌ぎやすい。
シューホフは、そこで二百グラムのパンをすこしずつちぎり始めたが、下段で茶を飲みながら話し合っている元海軍中佐とシーザーの声が、なんとなく耳に入ってきた。
「たべなさいよ、中佐、遠慮はいらない、たべなさい! この燻製をたべなさい。ソーセージをたべなさい」
「ありがとう、いただくよ」
「パンにバターをつけなさい! モスクワの本物の棒パンだよ!」
「ああ、ああ、ちょっと信じられんな、どっかでまだこんな棒パンを作ってるのかね。こう突然、物資が豊富になると、いつも思い出すことがあるんだ。あれは、いつだったかな、アルハンゲリスクにいたとき……」
バラックの半分で、二百の喉ががやがや喋っていたが、それでもシューホフは、レールを叩く音を聞きわけた。だが、ほかの者には全然きこえないらしい。シューホフは、もう一つのことに気がついた。団子鼻というあだ名の看守がバラックに入って来たのである。これは背の低い、赤ら顔の青年だ。手に紙切れを持っていることと、歩きぶりから判断して、どうやら、タバコを吸っている者を捕まえに来たのでも、囚人たちを点呼に追い出しに来たのでもないらしい。だれかを探しに来たのだ。
団子鼻は、紙切れをチラとのぞいて、訊ねた。
「一〇四班はどこだ」
「ここです」と、何人かが答えた。二人のエストニア人はあわててタバコを隠し、煙を手で払った。
「班長はどこだ」
「何ですか」と、チューリンが寝床から足を床におろして言った。
「理由書を出すように命じられた者は、もう書いたか」
「今書いています!」と、チューリンがけろりとして答えた。
「もうとっくに提出しなきゃいかんのだぞ」
「うちの班の奴は学がないんでね、字を書くのが容易なこっちゃないんですよ」(これは、なんと、シーザーと元海軍中佐のことなのだ。たいした班長である。絶対にことばでは負けない)。「それに、ペンもインクもないしね」
「ペンとインクぐらい、そなえておけ」
「取りあげられますよ!」
「つべこべ言うな、班長、貴様もぶちこむぞ!」と、団子鼻はそれほど悪意のない口調で言った。「あす朝、点呼までに、理由書を看守室へ提出すること! それから、許可を得ていない物品は、すべて保管所に提出するよう、班員に徹底させろ、わかったか?」
「わかりました」
(海軍中佐は助かった! とシューホフは思った。中佐自身は、ソーセージに夢中で、話も耳に入っていないらしい)
「それでは、と」と、看守が言った。「|Щ《シチャー》の三一一号は、お前の班か」
「表を見てみないとね」と、班長は曖昧に言った。「七面倒くさい番号を、いちいちおぼえていられませんよ」(ブイノフスキーを一晩でも救ってやろうと、班長は点呼まで引きのばす作戦をとったのだ)
「ブイノフスキーはいるか」
「え? はい、いますよ!」と、シューホフの下の隠れ家から、元海軍中佐が返事をした。
やれやれ、すばしこいシラミは、いつもまっさきに櫛《くし》にひっかかる。
「お前か? そうだ、|Щ《シチャー》の三一一号だな。支度しろ」
「どこへ行くんです」
「わかっとるはずだ」
海軍中佐は溜息をつき、咳払いをしただけだった。おそらく、暗い夜、荒れ狂う海に駆逐艦を進めることのほうが、今、楽しい会話を中断して、凍りつく営倉へ行くことよりも、よほど楽だったにちがいない。
「何日ですか」と、中佐は低い声で訊ねた。
「十日だ。さあ、急いだ、急いだ!」
このとき、当番たちがどなり始めた。
「点呼だよ! 点呼! 点呼に出ろ!」
してみれば、点呼のためによこされた看守は、もうバラックに入っていたのだ。
元海軍中佐はふり向いた。ラシャの上衣を持って行こうか。むこうでは、どうせ上衣を剥がされ、胴着だけにされる。じゃ、このままで行こう。中佐は、ボルコボイが忘れてくれることをあてにして(だがボルコボイは、だれのどんなことでも忘れたためしがなかった)、ちっとも支度をしていなかったのである。胴着にタバコを隠すことさえしなかった。手で持って行っても無駄なこと。身体検査でたちまち取りあげられる。
だが、中佐が帽子をかぶっているあいだに、シーザーがタバコを二本こっそり渡した。
「じゃ、みんな、さよなら」と、元海軍中佐は一〇四班の班員たちになんとなくうなずいてみせて、看守のあとにつづいた。
頑張れよ、負けるな、と何人かの声がそのうしろ姿を追ったが、この際、何と言って励ますことができるだろう。「ブール」を作ったのは一〇四班だから、だれもがあの営倉の構造をよく知っている。壁は石材で、床はセメントで、窓は一つもない。ストーブはあるが、壁の氷が溶けるだけで、床には水溜りができる。寝床はむきだしの板一枚で、寒さに歯の根も合わない。パンは一日に三百グラム、スープは三日おき。
十日間か! この営倉に十日間、規則どおりに坐っていたとすれば、体はもう一生涯使いものにならなくなる。胸をやられて、死ぬまで病院暮しだろう。
十五日の重営倉を喰らって、今では地下に眠っている奴の例もある。
このバラックに住む限り、せいぜい幸運を祈って、営倉には入らないようにすることだ。
「さあ、三つ数えるうちに出ろ!」と、バラックの責任者がどなった。「三つ数えても出ない奴は、番号を控えて、看守どのに報告するぞ!」
このバラックの責任者というのが、これまた相当の悪党だ。われわれと一晩中おなじバラックに閉じこめられているくせに、上官ぶって、傍若無人に振舞うのである。この男はみんなにこわがられていた。なにしろ看守に密告することと、面《つら》を殴ることが仕事なのだから。そのくせ、喧嘩で指一本失くしたことを理由に、資格は廃疾者である。顔つきはいかにも獰猛《どうもう》だった。その顔を見ただけで、与太者だったことはすぐわかる。ところが、きせる罪に事欠いて、例の刑法五十八条を適用され、この収容所《ラーゲリ》に入れられたというわけだった。
ほんとうに番号を控えられ、看守に報告されたら、すぐ営倉二日、作業には出る、とくるだろう。みんなは俄《にわ》かにどやどやと動きだした。熊みたいに寝台の上段から飛び下りた連中も、狭い戸口にむかって押し寄せた。
たった今巻いたばかりの貴重なタバコを持ったまま、シューホフも巧みに飛び下り、両足をフェルト靴に突っこみ、さて行こうとして、ふとシーザーが可哀想になった。また何かシーザーに貸しをつくろうという魂胆ではなく、ほんとうに気の毒になったのである。シーザーは、自分のことは大いに考えているのだが、ここの生活というものをまったく理解していない。小包みを受けとったら、ぽかんと見愡れていないで、点呼前に保管室へ持って行くべきだったのだ。がつがつ食べることは、あとでもできる。この期におよんで、シーザーは小包みをどうする気だろう。袋をかかえて点呼に出たら。五百人のもの笑いのたねになるだけである。ここに置いておけば、点呼がすんで、まっさきにバラックに駆けこんで来た奴が、かっぱらうに決まっている(ウスチ・イジマでは、もっとひどかった。仕事から帰るときは、いつも悪党が先頭に立ち、後尾の者が入って来ないうちに、戸棚をすっかり掻きまわしてしまうのである)
シューホフに眺められて、シーザーはすっかりあわてていた。今さら、あわてたって、もうおそい。ソーセージや脂肉《あぶらみ》をふところに突っこんでいるが、そんな姿で点呼に出て行って、無事にすむと思っているのだろうか。
気の毒になったシューホフは、教えてやった。
「残っていなさい、シーザーさん、最後の奴が出るまで、この暗いとこにもぐっているんだ。看守と当番が寝台をいちいち調べに来たら、そこでゆっくり出りゃいい。病気のふりをするんだよ! おれは前の方にいて、すんだらまっさきに帰ってくるからね。いいかい……」
言うが早いか、走って外へ出た。
初め、シューホフは勇敢に人波を押しわけて進んだ(ただし、巻きたてのタバコはちゃんとてのひらに握っている)。だが、バラックの中央の廊下に出ると、入口まで見渡したところ、だれひとり急いでいる者はいなかった。だれもが、しぶとい獣のように、左右の壁に二列に貼りついて、中央には人一人通れるだけの空間をあけてある。阿呆な奴は、寒い所へ出て行くがいいさ、おれたちは今しばらくここにいるよ。一日中寒い所にいたのに、また十分間も余分に凍えていられるものか。間抜けは今日くたばれ、おれはあしたまで生きのびるぞ!
普段なら、シューホフも壁に貼りつく組だったが、今ばかりは、のっしのっしと出て行きながら、左右の囚人たちをからかった。
「何をびくびくしてるんだい。シベリヤの寒さは初めてじゃなかろう? 外へ出て、狼のお日さんであったまるこったな! おい、おっさん、火を貸してくれよ!」
入口の近くでタバコに火をつけ、シューホフは階段に出た。狼のお日さんというのは、シューホフの故郷で、月のことを冗談半分そう呼ぶのである。
月がずいぶん高く昇った! もうすこしで一番高くなる! 空はまっしろで、すこし緑色がかり、明るい星もちらほらとしか見えない。雪はまっしろに輝き、バラックの壁もまっしろで、電燈は薄ぼんやりした感じである。
むこうのバラックのそばには、まっくろな人ごみが見える。囚人たちが整列しているのだ。そのむこうのバラックも。バラックからバラックへ話しかける声は、ほとんどない。雪の軋む音がきこえるばかり。
階段から、うしろむきの姿勢で、五人がおりて来た。つづいて、三人。その二列目の三人に、シューホフは加わった。パンをたらふくたべ、そのあとタバコをくわえて、こうして立っているのも、またわるくない。いいタバコだ。ラトビア人は嘘をつかなかった。なかなか強《きつ》いし、香りもいい。
囚人たちはドアから徐々に出てくる。シューホフたちの列のあとには、もう二、三列つながった。いったん出てしまうと、廊下で壁にひっついている連中のことが、無性に腹立たしくなる。あいつらのために、こうして寒い思いをしなきゃならんのだ。
囚人たちは、時計というものを見る機会がない。囚人たちに時計が何の役に立つだろう。要するに、もうじき起床時刻かどうかがわかればいいだけのことではないか。あるいは、点呼まで、昼休みまで、消燈まで、あとどれくらいか、だいたいの感じがつかめればいい。
それでも、夜の点呼は、午後九時ということだった。ただ、それが九時に終わるということは絶対にない。いつも二度、三度とやり直しがあって、寝るのはまず十時である。そして午前五時には起床合図で叩き起こされる。今日、作業終わりの合図の前に、モルダビア人が眠りこんでしまったのも、無理からぬことだった。囚人は、あたたかい所へ行くと、すぐ眠ってしまう。こういう睡眠不足が一週間も蓄積されるので、作業のない日曜となると、バラック中が死んだように寝ている。
えい、ようやく出て来やがった! 囚人たちが階段をどさどさおりて来た! バラックの責任者と看守どもに、尻を蹴とばされているのだ! いい気味だ、畜生めら!
「そのざまは何だ!」と、先頭の連中がうしろに叫んだ。「それでうまいことやった気か? 糞をかきまわしてクリームにする気か? 早く出りゃ点呼も早くすんだんだぞ」
やっとバラックの全員が外へ出た。四百名だから、五人ずつ並ぶと八十組である。先頭のほうはきちんと五列を作っているが、尻尾のほうはうやむやになっている。「おい、うしろ、きちんと列を作れ!」と、階段から責任者が叫ぶ。
カボチャ野郎ども、列を作りやがれ!
シーザーが戸口から出て来た。背をまるめ、せいいっぱい病人の演技をしている。そのうしろから、バラックのむこう半分の当番が二人、こちら側の当番が二人、それから、びっこの囚人が一人。この連中が第一列になったので、シューホフの列は三列目になった。シーザーは尻尾のほうへ追いやられた。
階段の上に看守が出て来た。
「五列に並べぇ!」と、健康そうな喉いっぱいに、うしろの囚人たちにむかって叫ぶ。
「五列に並べぇ!」と、もっと健康そうな喉で、バラックの責任者がわめく。
カボチャ野郎ども、並びやがれ。
責任者は階段を駆けおりて、口汚なくののしる。殴りつける。
だが、相手をちゃんと見定めている。おとなしい囚人しか殴らない。
列がととのった。バラックの責任者は元の位置に帰った。そして看守といっしょにかぞえ始める。
「一! 二! 三!……」
勘定がすんだ五人ずつの組は、一目散にバラックへ駆けこむ。看守との付き合いも、今日はこれで終わり!
数え直しがなければ、ほんとうに終わりなのである。奴らは、無駄めし食いめ、でかい頭をしているくせに、牛飼いよりも数の勘定が下手だ。牛飼いは学校へ行かなくたって、ちゃんと牛を追い、歩きながらでも、子牛の数が揃っているかどうかわかる。奴らは教育を受けたくせに、しどろもどろなのである。
去年の冬、この収容所《ラーゲリ》には、靴の乾燥台というものがなかった。だから、夜の点呼が二度、三度、四度と重なったときは、みんなフェルト靴をバラックに置きっ放しにして、外へ出たのだった。服さえ着ないで、毛布を体に巻いて出たこともある。今年からは乾燥台ができたので、毎日ではないが、三日に一度ずつ、どの班にもフェルト靴を乾かす順番がまわってきた。そして数え直しも、バラックのなかで行なわれていた。おなじバラックの、通路をへだてた向う側へ、追いやられるだけになったのである。
シューホフは、まっさきに駆けこみはしなかったが、まっさきに駆けこんだ者から目を離さなかった。シーザーの寝床まで行くと、シューホフは腰をおろした。フェルト靴をぬぎ、ストーブのそばの寝台にのぼって、フェルト靴を乾燥台にのせる。ここは早い者がちだった。シューホフはまたシーザーの寝床に戻る。あぐらをかいて坐り、片目でシーザーの枕元の袋を監視し、片目で自分のフェルト靴があとから来た奴に押しのけられないように警戒する。
「おい!」と、シューホフはいらいらして叫ぶ。「お前! 髪の毛の赤い奴! 靴でひっぱたくぞ! てめえの靴だけいじれ、他人《ひと》の靴にさわるな!」
囚人たちは、ぞくぞくと、バラックになだれこんでくる。二〇班で叫び声。
「靴を渡して来い!」
フェルト靴を渡しに行った連中は、バラックから閉め出されるだろう。戻って来て、ドアを叩いて、
「看守どの! バラックに入れてください!」
だが、もうそのときは、看守たちは本部バラックに集まり、例のベニヤ板で計算しているだろう。脱走者がいないかどうか、人数が合うかどうか。
まあ、今日のシューホフは、そんなことはどうでもいい。ほら、シーザーも、寝台のあいだの通路を、ふらふら戻って来た。
「ありがとう、イワン・デニスイッチ!」
シューホフはうなずき、リスのようにすばやく上段へのぼった。二百グラムのパンをたべてしまうか、タバコをもう一本吸うか、それとも、すぐ寝てしまおうか。
けれども、シューホフは、運のよかった一日に浮き浮きした気分である。なんとはなしに、すぐ寝てしまう気にもなれない。
就寝の手順は簡単だった。黒っぽい毛布をマットレスから引き剥がし、マットレスの上に横たわって(シューホフは一九四一年に家を出て以来、敷布の上で寝たことがない。女がなぜ敷布のことをとやかく言うのか、今のシューホフにはふしぎなくらいだった。洗濯物がふえるだけではないか)、鉋屑を詰めた枕に頭を置き、両足を胴着でくるみ、毛布をかけて、その上に上衣をかける。これで、神様、ありがとうございます。また一日が過ぎました!
営倉ではなくて、ここに寝ていることだけでも、じつにありがたい。
シューホフは頭を窓に向け、アリョーシカはおなじ寝台の上で、仕切りをへだてて、逆方向に頭を向けていた。こうすれば、あかりが枕元を照らす。アリョーシカはまた福音書を読んでいるのである。
この寝台は、電燈にわりあい近いので、読書はできるし、縫いものもできる。
シューホフが、神様ありがとうございますと、声に出して言うのを聞くと、アリョーシカはふり向いた。
「イワン・デニソビッチ、やっぱり、あなたの心は神に祈りたがっているんですね。どうして素直にお祈りをなさらないんです?」
シューホフは、アリョーシカを横目で見た。アリョーシカの目は二本のローソクのように光っている。シューホフは溜息をついた。
「それはね、アリョーシカ、お祈りは、おれたちの苦情みたいなもんだからさ。とどかないか、却下《ヽヽ》か、どっちかだよ」
本部バラックの前に、そういう箱が四つ備えつけてあった。月に一度、政府の全権委員が箱の中身をあらために来る。大勢の囚人がその箱に請願書を放りこみ、日数を指折りかぞえて、返事を待つのだった。二ヵ月か、いや、ひと月も経てば、返事が来るだろう。
だが返事は来ない。来ても、却下《ヽヽ》である。
「それは、イワン・デニスイッチ、あなたのお祈りの回数が足りなくて、しかも誠意がこもっていないからですよ。だから、お祈りが効かないんです。お祈りというのは、しつこくなければなりません! 信仰さえ持てば、山をも動かすと言われるくらいですからね」
シューホフは冷笑を浮かべて、タバコをもう一本巻いた。エストニア人から火を借りた。
「馬鹿なことを言うなよ、アリョーシカ。山が動くとこなんか見たこともないぜ。じつは、おれ、山というものを見たことないんだ。あんたがコーカサスで、仲間のバプチスト教徒とお祈りしたときは、山が動いたかい?」
こいつらも哀れな連中だ。神に祈るのはいいが、自分らはいったいどんなわるいことをしている? みんな一律に二十五年の刑を宣告されたのは、そういう時期にたまたまぶつかったからだ。今は二十五年の刑しか存在しないんだ。
「わたしたちは、そんなことを祈ったんじゃありませんよ」と、アリョーシカは言い、福音書をかかえて、シューホフの枕元に寄って来た。「この世のはかない物質のなかで、主が祈りの対象としてお許しになったのは、日々のパンだけです。『われらの日々のパンを今日も与え給え!』」
「そりゃ配給のパンのことかい」と、シューホフが訊ねた。
アリョーシカは、ことばよりも熱のこもった目つきで、両手を組みあわせ、ふりしぼるようにして、喋りつづける。
「イワン・デニスイッチ! 差入れが来るようにとか、余分のスープにありつけるようにとか、そんなことを祈ってはいけないのです。人間にとって価値あることも、神の御前ではくだらないことなのです! お祈りは精神的なことについてなされねばなりません。主がわたしたちの心から、悪の|うわかす《ヽヽヽヽ》を取り去ってくださるように……」
「じゃ、こういう話はどうだ。うちの近くのポロームニャの教会じゃ、司祭が……」
「あなたの司祭の話はやめてください!」と、アリョーシカはひたいに皺を寄せて、苦しそうに言う。
「いや、まあ、聴けよ」シューホフは肘をついて、上半身を起こしていた。「うちの近くのポロームニャじゃ、司祭より金持ちの奴は一人もいない。たとえば屋根を葺《ふ》くとしても、普通の家は日に三十五ルーブリの手間賃だが、司祭の家は百ルーブリさ。それでも文句なしに払うんだからな。そのポロームニャの司祭ときたら、三つの町の三人の女に生活費を出して、四人目の女と暮しているんだ。そのへんの主教なんか、鼻であしらってな。よく肥えた手を主教に差し出すとこなんか、見せたいくらいだ。ほかの司祭が何人来ても、みんな引き揚げて行っちまう。宝の山を一人占めする気なのさ……」
「どうして司祭の話なんかするんです。ギリシャ正教の教会は、福音書から離れてしまっています。あの人たちは、固い信仰を持っていないからこそ、ぶちこまれずにすんだのです」
シューホフは、タバコを吸いながら、アリョーシカの興奮を冷静に眺めていた。
「アリョーシカ」と、シューホフは相手の手を払いのけ、バプチスト教徒の顔に煙を吹きかけた。「おれは、べつに、神様に逆らいたいわけじゃないんだ。ちゃんと神様を信じているさ。ただ、おれは天国や地獄を信じていねえんだなあ。どうしてお前さん方は、おれたちを馬鹿扱いして、天国や地獄の話をするんだい。それが気にくわねえとこなんだよ」
シューホフは、ふたたび仰向けに横たわり、元海軍中佐の私物に焼け焦げができないよう注意して、タバコの灰を寝台と窓のあいだに落とした。アリョーシカはまだ何か喋っているらしいが、考えに沈んだシューホフの耳には入らない。
「要するに」と、シューホフは結論のように言った。「いくら折ったって、刑期が縮まるわけでなし。起床から消燈まで、毎日くり返すだけのことだ」
「ですから、そういうことを祈ってはいけないんですよ!」と、アリョーシカが体をふるわせて言った。「娑婆が何です。娑婆じゃ、信仰の最後のひとかけらさえ、茨に荒らされてしまうんです! わたしたちは、牢獄にいることを喜ぶべきなんだ! ここには、魂について考える時間があります! 使徒パウロもこう言われました。『なぜあなた方は涙を流し、わたしの心を悩ませるのか。わたしは囚われ人になりたいだけではなく、主イエスの御名のために死にたいのだ!』[「使徒行伝」二一章一三節]」
シューホフは、何も言わずに、天井を見つめていた。ほんとうに、今では、自由の身になりたいのかどうか、自分でもよくわからなくなっている。初めの頃は、熱烈に自由にあこがれ、もう何日経った、あと何日残っていると、毎晩のようにかぞえたものだった。だが、やがて、それにも飽きてしまった。そのうち、ここを出ても、家には帰れず、依然として追放の身でいなければならないことが、だんだんわかってきた。ここと娑婆と、どちらが暮しよいのだろう。どうもわからない。
刑期の終わりを待ちのぞむのも、家に帰りたい一心からだった。
それが、どうせ帰して貰えないとなると……。
アリョーシカの気持ちに、嘘いつわりはないようだった。その声にも、目つきにも、監獄にいる喜びがあふれていた。
「なあ、アリョーシカ」と、シューホフは解きほぐすように言った。「あんたの場合はうまくいってるさ。監獄へ入れとキリストに命令されて、キリストのために、あんたは監獄に入ったんだろう。でも、おれの場合は、なんのためだ? 四一年に、戦争の準備がまだよくできていなかったためかい? おれが、そのことと、何か関係があるかね?」
「どうやら数え直しはないみたいだな……」と、キリガスが自分の寝台で呟いた。
「ほんとうだな!」と、シューホフはそれに答えた。「本日は数え直しなし、とでも煙突にチョークで書いておくか」そしてあくびをした。「もう寝るとしよう」
その途端、静まり返ったバラックのなかに、外のドアの錠をはずす音がひびきわたった。フェルト靴を渡しに行った二人の囚人が、廊下に駆けこんで来て、叫んだ。
「数え直しだよぉ!」
すぐあとから看守が入って来た。
「通路のむこう側に移れ!」
もう眠っていた奴もいるのに! みんなぶつぶつ言いながら、起きだし、フェルト靴に足を突っこんだ(綿入れズボンは、初めから穿きっぱなしである。毛布だけでは、下半身が寒くて寝つかれない)
「くそ、鬼め!」と、シューホフは悪態をついた。しかし、まだ眠ってはいなかったので、それほど腹は立たない。
シーザーが片手を上にのばして、ビスケットを二個、角砂糖を二個、それにソーセージのひと切れを、シューホフにくれた。
「ありがとう、シーザーさん」と、シューホフは下段をのぞきこんだ。「なんだったら、あんたの袋を、おれの枕の下に隠しといてやろうか」(上段から掻っぱらうのは、そう楽な仕事ではない。それに、だれがシューホフの寝床を探ったりするだろう)
シーザーは、紐を結んだ白い袋を、シューホフに渡した。シューホフはそれをマットレスの下に押しこみ、ほかの囚人たちが追い出されるまで、時期を待った。通路の床にはだしで立つ時間を、なるべく少なくするためである。だが、看守はすぐに歯をむきだした。
「おい、そこの隅っこの奴!」
そこでシューホフは、そっと、はだしで床に飛び下りた(フェルト靴とポルチャンキは、ストーブの上に具合よく収まっているから、取りはずすのはもったいない!)。他人のためには、あんなに沢山のスリッパをこしらえたのに、自分のは一足もないのである。いや、はだしには馴れていた。どうせ永い時間ではないのだ。
昼間、履いているのを見つかれば、スリッパだって取りあげられる。
フェルト靴を乾燥台にのせた班員たちは、みんなシューホフとおなじ気持ちらしかった。スリッパをつっかけた者、ポルチャンキを巻いたままの者、でなければ、はだしの者ばかりである。
「早く! 早く!」と、看守がどなった。
「ぼやぼやするな、殴られたいのか」と、バラックの責任者も出て来ている。
一同は、バラックの向う半分に押しこまれた。おくれた連中は廊下にはみ出している。シューホフも廊下の壁ぎわ、用便桶のあたりに立っていた。足元の床は湿っていて、氷のような空気が入口から吹きこんでくる。
全員が追い出されると、看守とバラックの責任者は、だれか暗い所に隠れていないか、ぐうぐう眠っている奴はいないかと、もういちど確かめに行った。一人多くても、少なくても、数え直しが面倒なことに変わりはない。さんざん探して歩いてから、看守と責任者は戸口に戻って来た。
「一人、二人、三人、四人……」今度は一人ずつ数えているので、スピードが早い。シューホフは十八人目だった。数えられるが早いか、駆け足で寝台へ戻り、横木に片足をかけて、えいっとばかり上段へのぼる。
これでよし。両足をふたたび胴着の袖でくるみ、体に毛布をかけ、その上に上衣をかける。さあ、寝よう! まもなく、バラックの向う半分の連中が、こっちへどやどや追い出されて来るだろうが、われわれには関係ない。
シーザーが帰って来た。シューホフは袋を返してやった。
アリョーシカが戻って来た。こいつは要領がわるいから、みんなを喜ばせるわりには、ちっとも自分は得をしていないのだ。
「ほれ、アリョーシカ!」と、シューホフはビスケットを一枚わけてやった。
アリョーシカは、にっこりする。
「ありがとう! でも、シューホフさんの分はあるんですか!」
「いいから、たべなよ!」
こっちは、いつでも、また手に入れられるんだから。
シューホフは、ソーセージのひと切れを口に入れた! 噛みしめる! 噛みしめる! 肉の香り! ほんものの、肉の汁。たちまち胃の腑に落ちて行った。もうソーセージの影も形もない。あとは、朝、点呼の前にたべよう、とシューホフは思った。
そして薄い不潔な毛布を、頭からかぶった。寝台のあいだの通路に、バラックの残り半分の囚人たちが、どやどや入ってきたけれども、そんな音には耳をかさない。囚人たちは数え直しを待っている。
眠りに落ちるとき、シューホフは満足しきっていた。今日は、いろんなことがうまくいった。営倉には入れられなかったし、一〇四班は「社会主義生活本部」へやられなかったし、昼めしの雑炊を一杯ちょろまかしたし、班長は有利なノルマ査定を決めてきたし、シューホフの煉瓦積みは快調だったし、鋸のかけらは身体検査のとき見つからなかったし、晩方シーザーのおこぼれにあずかったし、タバコは買ったし。それと、病気はどうやら直ったようだし。
一日が過ぎ去った。どこといって陰気なところのない、ほとんど倖せな一日が。
起床から消燈まで、これとそっくりの日が、この男の刑期中には、三千六百五十三日あった。余分の三日は、閏年《うるうどし》のせいである……。(完)
[#改ページ]
解説
エレンブルグの中編『雪どけ』がスターリン体制以後の新しい文学的気運のさきがけであったとすれば、ソルジェニツィンの諸作品、とりわけ『イワン・デニソビッチの一日』は、そのような気運のたかまりのなかで一つの頂点をかたちづくった記憶すべき名作である。『雪どけ』と『イワン・デニソビッチの一日』をあわせ読むことにより、読者は最近十年間の――ソビエト文学の再生の時代の新傾向を掴むための糸口を与えられるだろう。
一九六二年、「ノーブイ・ミール」誌の十一月号に発表された中編『イワン・デニソビッチの一日』は、アレクサンドル・イサーエビッチ・ソルジェニツィンの処女作であるが、この小説の題材がスターリン時代の矯正労働収容所《ラーゲリ》であり、作者ソルジェニツィンがほとんど文学歴をもたぬ四十四歳の新人であって、しかもラーゲリ生活の体験者であるということは、世間の関心がこの一作に集中する成果を招き、広汎な論議がまきおこった。すなわち、この作品もまたソビエト文学の他の目ぼしい作品とおなじく、ジャーナリスティックな好奇心を浴びて生まれ出るという運命をまぬがれることはできなかったのである。
「ノーブイ・ミール」誌の編集長である詩人のA・トバルドフスキイは、とくにその点を考慮して、この小説に異例の序文をつけ、「……『イワン・デニソビッチの一日』は、回想録という意味でのドキュメントではない。個人的な体験のみがこの物語にこれほどの信憑性と真実性を伝えることができたとはいえ、これは記録ではないし、作者個人の思い出でもない。これは紛れもない芸術作品であり、与えられた生活素材が芸術的に照明されたからこそ、独特の価値をもつ証言となり、芸術的ドキュメントとなったのである……」と言った。
まことに、強制収容所という題材そのもののほかに、この小説にはなんらセンセーショナルなところがない。主人公の囚人イワン・デニソビッチ・シューホフは無実の罪で収容所に入れられた元兵士だが、もともと平凡な一農夫であり、悲惨なところや英雄的なところはすこしもない。小説は早朝の起床合図から始まり、シューホフを中心とする囚人たちの生活ディテールが――点呼や、食事や、煉瓦積みの労働や、闇取引が、ほとんど細密描写のように丹念に彫り出される。その文体はまったく感傷性を欠いていて、しかも非常に粘着力が強く、野放図なほど余裕があって、しかも繊細である。たとえば、夜、就寝前にシューホフが仲間からお裾《すそ》分けしてもらったソーセージの一片をたべる場面はこうだ。
「シューホフは、ソーセージのひと切れを口に入れた! 噛みしめる! 噛みしめる! 肉の香り! ほんものの、肉の汁。たちまち胃の腑に落ちて行った。もうソーセージの影も形もない。あとは、朝、点呼の前にたべよう、とシューホフは思った。
そして薄い不潔な毛布を、頭からかぶった……」
ほとんど生理的に訴えてくるような、それでいて硬い、恣意的なもののかけらも見あたらぬ文章である。小説の結びで、収容所のあかりは消え、主人公シューホフはその日一日を回想しながら眠りに落ちる。そして結句の衝撃的な二行は、われわれを戦慄に近い感動へ誘いこむのである。
確かにこれは「芸術的ドキュメント」だが、これを書かずにはいられなかった作者ソルジェニツィンのなみなみならぬ文学的決意を、われわれは感じとらないわけにいかない。人はこの小説から幾通りもの思想傾向を汲み出すことができるだろう。主人公シューホフの収容所内における生活態度は、われわれのなかに残っている農民的な部分の力強さや、その生命力の勝利ということを暗示するし、躍動的に描かれたシューホフの労働場面は、スターリニズム下で変質し果てたソビエト人の労働観にたいする全面的否定とも受けとることができる(ドストイエフスキイの『死の家の記憶』の労働場面を参照せよ)。だが、小説全体として見るとき、われわれをもっとも感動させるのは、この作家が、やがて燃えつきるのか、或いはこれから燃えさかるのか一見判別不可能な、かぼそいけれども持続的な火種のようなもの――人間的なものの核をとり出してみせたことであり、そのような人間性の核をもっとも非人間的な環境のなかに発見したことなのである。『イワン・デニソビッチの一日』の芸術的価値のすべては、その点にこそかかっていると言わなければならない。