ペルシーレス(下)
セルバンテス
荻内勝之 訳
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筑摩eブックス
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目次
第一巻、第二巻は上巻
第三巻
第一章
第二章――巡礼の一行。イスパニアの旅。一行の上に珍事奇事がもちあがる
第三章――木に隠った娘。その身の上
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
第二十一章
第四巻
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章――ペリアンドロとアウリステラの素姓が知れる
第十三章
第十四章
解説 『ペルシーレス』をめぐって
文庫版あとがき
ペルシーレス 下
第三巻(ペルシーレスとシヒスムンダの苦難、北斗物語、その第三巻)
第一章
われわれの魂というのは転々とたえまなく移ろうもので、それが留(とど)まり安らぐところとなると、それをつかさどる中枢、すなわち神の御許(みもと)しかないようだ。そもそも魂は神に召されるべく創造(つく)られているから、その御許こそが安らぎの場なのである(1)。魂からしてこうであるから思念が移ろいやすいことはおどろくまでもなくて、あれは駄目これがいい、あれは捨てようこれはこのままという具合に移ろうわけであるが、最善の思念はどれかというと、悟性の狂いがからんでいないかぎり、安らぎにもっとも近い思念を最善とみなせよう。
右はアルナルド王子がアウリステラにかしずかんとする宿望を須臾にして放棄した、あの軽薄さを弁解する意味で言及されたものである。しかし王子にはかならずしも放棄したとはいいきれないところがあるから、留保したというのが正しかろう。一身の面目を立てようと願う気持は人間が何をさておいても満たそうとする欲求であるが、王子の魂にもこの欲求がとりついていたのである。王子は隠者の島を去るにあたってある晩、ペリアンドロとふたりきりの場でこの気持をつたえ、妹アウリステラ殿にまちがいのないように、未来のデンマーク王妃としてくれぐれも大切にしてほしいと請うた(是非ともと願うとき、人は頼むというより腰を折って請う)。たとえ自分が運命のいたずらゆえに王国の再興をはたせず、大義のための企てのさなかに命を落すことになろうとも、アウリステラを一国の王の後室として待遇してもらいたい、そしてその身分で伴侶を選ばせてやってほしい。もちろん、まえまえから認め、繰り返し口にもしてきたことであるが、アウリステラには威光のうしろだてなどは全くいらない、身ひとつでデンマークといわずこの世の最大の王国の女王である、それだけの器量の女性だとも言った。これに対するペリアンドロの返事は、こころざしには感謝の言葉もない、妹のことはふさわしい扱いをしたい、似つかわしい遇(あしら)いを心掛けるということであった。
しかし、ペリアンドロはこれらの言葉をひとこともアウリステラに伝えなかった。恋の相手にむける賛辞は恋する者がみずからの言葉として送るべきであって、まるで他人事のように言付(ことづ)けるなどもってのほかだと考えたからである。第三者の魅力を借りて恋しい人の気をひくのはいさぎよいことではない。恋人に披露する魅力は自分のものでなくてはならない。自分が音痴だからといって人に歌わせてはいけない。自分がたいして好男子でもないからといって神話の美青年ガニュメデス(2)をダシにするのもなさけない。つまるところ、わが身の足らずを他人の余りで埋めあわせるのは、なんとも卑しいことである。
このような知恵は誰かがペリアンドロにさずけたという種類のものではない。ペリアンドロは天与の財にかけては抜群にめぐまれていたのである。もちろん、この世のめぐりあわせの中で得たものについても右に出る者のほとんどないことは言うまでもない。このあいだに帆が孕む風は一つであったが、船はそれぞれ異なった進路をたどった。これは航海術の数ある神秘のひとつである。船は、いわば透明のではなく、紺碧の水晶を砕いて進んだ。海原は綿ぶとんにくるまったようでもあった。風は、こわれやすいものにでもふれるかのようにそっと水面にさわるだけであった。船はやさしく海の唇に口づけした。船はまるで宙を行くように軽やかにすいすいと海をすべり続けた。かくして、どこまでも静かで落ち着いた航海が十七日続いた。帆をはったり巻いたり調節する必要はなかった。このさいわいは、行く手に嵐が待つかもしれないという恐怖で帳消しにならないかぎり、航海者には比類ない喜びであろう。それからさらに数日たったある明け方、主檣(メインマスト)で陸影をもとめて目をこらしていた水夫が声をあげた。
「万歳万歳、よろこべ陸だ、陸が見えるぞ。いや天国だ、天国とよばせてもらおう、あれはまぎれもないリスボンだ」
その知らせは船上のみんなの目から随喜の感涙をしぼった。わけてもリクラ、アントニオ父子、娘コンスタンサの感激はひとしおであった。彼らにとっては、待ちに待った約束の地への到着であったのだ。
夫は妻の首をかかえるようにして言った。
「さあ、いよいよ、蛮人島育ちのおまえが神に仕える道をまなべるぞ。これまでにわたしが聞かせたものと異なるわけではないが、ここには何でもふんだんに揃っている。神をお祀りする立派な寺院がある。寺では公教の典礼儀式も見られるし、いやさかなすキリストの御慈愛にも目を見張るはずだ。また、この町にはいくつもの病院というものがあって病を退治している。病院は病の仕置人だ。病院で命をおとす者は、かぎりない贖宥の聖寵にくるまって天国の生命をえる。この町では愛と慎みが手をつなぎ足並をそろえている。礼節が驕慢を寄せつけず、勇気が臆病の入り込む隙を与えない。住民は好人物ばかりだ。折目が正しく、気前がよく、ものの心を知って恋をしる。リスボンはヨーロッパ最大の都会で、商いも一番だ。東洋の富はここで陸揚げされ、ここから八方へ配られる。リスボン港に入っている船は、数えあげられないことはないが、帆柱が樹林をなして、まるで動く森をそっくり収容したような景観がある。ここの女性の美しさにはだれしも目を奪われ、恋をさそわれる。男性の凜々しさにも、彼らの言葉を借りると、ほれぼれするとのことだ。それだけじゃない、リスボンは聖なる貢ぎ物をどしどし天へ献上している土地だ(3)」
「アントニオさん、お話はそれくらいにして」ペリアンドロが口をはさんだ。「あとは見ての楽しみに残していただきたいですね。みなまで出てしまうと興醒めてしまいます。目にしたときにはっと驚きそうな、新鮮なものを残しておいてくださらなくっちゃ。そうしてくだされば、興味がじわじわと深まって、さあこれからというときに最大に達するというわけです」
陸地を踏めるときが刻々と近づいてきた。アウリステラは胸がわくわくしはじめた。これまでは海の移り気、風の気紛れにさらされて港から港、島から島へと渡り歩いてきたが、いまそれから解放される。ローマへは、そのつもりになれば船に乗らなくても行ける、足も濡らさず歩いていける。これを思ったときはなおさらうれしかった。
サンヒアン(4)に着いたのは正午ごろであったろう。そこで船の入港登録をすませた。そのときサンヒアン城のカスティリャ人城主(カステリヤーノ)とそ(5)の部下が乗船してきたが、みなアウリステラの麗容やペリアンドロの凜々しさ、アントニオ父子の蛮人姿、リクラの端麗な容姿、コンスタンサのすがすがしい美しさを見て息をのんだ。やがて、一行が外国人で、ローマへ詣でる途中だということが伝わった。ペリアンドロは一行をここまで送り届けてくれた船乗りの労を気前よくねぎらった。リクラは蛮人島から持ちだした黄金をポリカルポ島で現金にかえてきたが、ここでそれを役立てた。船乗りはそれを物に変えるためリスボンへ行くことにした。サンヒアンのカスティリャ人城主はリスボンの都督のもとへ報告を送った。ときの都督は、ブラガの大司教(6)であった。王がリスボンを留守にしていたので、そのひとが不在を埋めていたわけである。城主は外国人の風変りな一行の来航のこと、アウリステラの類ない美しさのことを伝えた。コンスタンサの器量のよさも加えた。蛮族風のいでたちは、器量を台無しにするどころかいっそうひきたたせている。ペリアンドロの凜々しさを伝えることも忘れなかった。野蛮人とは思えない、思慮分別の深さからはどう見ても都育ちとしか言えない、と報告には絶賛してあった。
船はリスボンに入港した。上陸地はベレン(7)であった。アウリステラがベレンの修道院の名声にひかれ、まっさきにそこを訪ねたいと強く希望したからである。誰にもさまたげられず、のびのびと、故国の歪んだ儀式を介さずに真の神を拝みたいと願ったのである。ベレンに異国人が上陸した、と聞きつけてきた人々で港の界隈は埋った。だれもが、その珍客を見ようと駈けつけてきたのである。人間はだれしも好奇心が旺盛で、珍奇なものには目がない。
かくして世にもまれな麗人たちの珍奇なる一行はベレンを出た。その出立ちは、まずリクラからいうと美貌は良、蛮族の装いがきわだつ。コンスタンサは、美貌は優、毛皮を巻きつけている。父アントニオは腕と足を露出、他の部分は狼の皮でおおっている。息子アントニオも同様のいでたち、手に弓をたずさえ箙(えびら)を背負う。ペリアンドロは緑色のビロードの旅行外套、同地のズボン、船乗りふうにまとめ、先細の頭巾。ただし、黄金の髪の環はかくれない。アウリステラの装束は北辺の綺羅の粋。立ち姿は玲瓏と輝き、顔はこの世の美の最高の結実であった。とにかく一行は全体をみても、どのひとりをとっても、目を見張り、息を忘れる面々であり、なかでも際立っていたのが、比類ないアウリステラと凜々たるペリアンドロであった。
一行は、里人都人の波の中をリスボンへ着き、都督のもとへ案内された。迎えた都督は感嘆のあまりしばらくは声もなかったが、やがて一行の素姓、身の上、今後のことなどを矢継早にたずねて、あきるということがないようであった。返答はペリアンドロがひきうけた。この種の質問はおそらくこれからも何度となく受けることになるだろう。そう予想して返事は以前から研究してあった。だから、以後も時に応じ、場に合せて、ひととおり身の上を語ることになる。両親のことはいつも伏せたが、身の上のことは、すべてとはいかないまでも、かなりの部分のあらましを披露して聴き手を満足させた。副王が手配してリスボンでも指折りの大邸宅が一行の宿舎に当てられた。そこはたまたまさるポルトガル人の立派な騎士の屋敷であったが、うわさのアウリステラを見ようとする人々はそこへもおしかけた。評判の中心はアウリステラであったが、一行全員がうわさの人であった。そこでペリアンドロは、蛮族のよそおいを巡礼に変えたほうがよいと考えた。行列ができるおもな原因は一行の装束であろう、これがもの珍しくてぞろぞろついてくるのだ。まるで町中に追いまわされているみたいだ。旅の目的地がローマであることを考え合せても巡礼の装束はおあつらえ向きである。実際それは実行され、二日後にはどこから見ても巡礼らしい一行となった。
さて屋敷の一行が外出したある日のこと、町の中でひとりのポルトガル人がペリアンドロの足下に走り寄ったかと思うと名を呼び、足もとに抱きついてきた。
「奇遇です、ペリアンドロ殿、ようこそおいでくださいました。お名前を存じているのを不思議にお思いでしょうが、わたしは、あなたも囚われておいでになった蛮人島から大火の中を救われた、あの二十人のうちのひとりです。ポルトガル人の騎士、マヌエル・デ・ソサ・コイティーニョの最期もみとりました。マウリシオとラディスラオが、娘の、あるいは花嫁のトランシラを探しに来たあの船宿のことですよ。さいわいわたしは帰りつきました。そしてマヌエルが恋に殉じて死んだことを遺族に伝えたのです。遺族は信じてくれました。この目で見たと言わなくても信じたはずです、恋に殉じるのはポルトガル人の習性のように考えられていますから(8)。そこで兄弟のひとりが家督をついで葬式を出し、一族の礼拝堂に白い大理石の墓標をたてました。その下にほんとうに故人が葬られているような造りです。ちょうどよい機会ですからそこへご案内しましょう。粋な、含蓄のある墓碑名が刻んであります」
これは嘘言ではない。聞いているうちにペリアンドロはそう判断した。しかし顔にはまったく見覚えがない。
それはさておき、一行は男のいう寺院へ行って、礼拝堂と墓碑を見た。碑文はポルトガル語で刻まれている。それを父アントニオがほぼカスティリャ語にして読みあげるとこうなった。
ポルトガルの騎士
マヌエル・デ・ソサ・コイティーニョの生霊ここに安らう
ポルトガル男児にさえあらざりしかばいまなお存命せん
手を下したるはカスティリャ人か(9)
いな故人は全能の恋の手にかかりしものなり
その生前を知れば
旅人よ
その死をうらやまざるべからざらん
なるほど、誉めるだけのことはある。ペリアンドロは碑文を見てうなずいた。ポルトガル民族の碑文の才は絶妙である。
それで尼さんは、つまり故人が愛した女性は、恋人の亡くなったことを知ってどんな反応を示したか。アウリステラはポルトガル人にそれをたずねた。彼によると、訃音をきいて何日もたたないうちに他界した。日ごろの苦行のせいもあろうし、あまりに思いがけないことで悲痛に耐えられなかったからでもあろうという。そのあと一行は高名の絵師を訪れ、そこでペリアンドロがこれまでのおもな出来事を残らず一枚の大画布に描いてくれるように注文した。絵師は、画布の一角に炎上する蛮人島を描いた。そばに牢獄の島、すこし離れて筏、つまりアルナルドがペリアンドロを発見して渡海船に救助したときの組み丸太をかいた。別の部分には雪の島があった。恋するポルトガル人が息絶えた場所である。アルナルドの家来が穴をあけた船もあり、そばに端艇と艀が離ればなれになる場面もある。タウリサをめぐる恋敵の決闘も彼女の死も描かれている。また一度はアウリステラたちの墓穴になった船腹を鋸でひく図、ペリアンドロの夢に現れた楽園の島もあった。美徳と悪徳の二軍を見た島である。怪魚ナウフラゴが船に接近し、水夫をふたり(10)攫って腹中に葬るところも見えるし、氷海に閉じこめられたときに船を襲撃した場面や、クラティロの軍に降服したときの模様もペリアンドロは忘れずに描かせた。大胆きわまりない荒馬馴しの場面も落さなかった。あのときは獅子がまるで羊になった。一度肝を潰すとあんな獰猛なやつでも嘘のようにおとなしくなる。ポリカルポ王の祭典でペリアンドロ自身が勝利をたたえられる場面も小さく素描風にそえられた。このように、ペリアンドロが体験した出来事のおもな場面はほぼみんなそろった。リスボンの市街も見える。一行の上陸も、あのときのままの服装で描かれた。また、同じ画布にポリカルポ王の島の炎上も見える。アントニオの矢がクローディオを射貫く場面もある。セノティアが帆柱に吊されている。隠者島もある。僧衣をまとったルティリオも描かれた。この絵は抄本のようなものであって、体験談を繰り返す手間が少しでも省ければと思って描いたのだ。身の上話をせがむ者もいようから、そのときは若いアントニオがこれで絵解きをする。それにしても評判の絵師の筆がもっとも冴えているのはアウリステラの肖像であり、この一枚に美人画の名手の本領が見えるというのが一行の感想であった。とはいえ、アウリステラの美しさは、神憑りでもないかぎり、人間技ではとてもとても絵にはあらわせない。
リスボンには十日間滞在した。寺を詣で、魂を救済への直道へ導く毎日であった。十日後、一行はカスティリャへの旅路についた(11)。副王の許可をとり、これさえあればこわいものはないという効き目の強い身分証明書や通行手形も得、宿舎を提供してくれたポルトガル騎士にも、恋するポルトガル人の弟でアルベルトという、なにかと親切に便宜をはかってくれた人にも挨拶をすませた。出発は都合によって夜中にしなければならなかった。装束を変えたことから前ほどは人目をひくまいと思われたが、明るいうちだとやはり人が出てわずらわしかろう。こんな心配が先立ったのである。
第二章――巡礼の一行。イスパニアの旅。一行の上に珍事奇事がもちあがる
アウリステラは妙齢でコンスタンサはさらに弱年、リクラは中年の女性であるから長い道中には車がいる。人を揃え、荷物も支度しなければならない。しかしアウリステラは大陸に着けばそこからローマまでは徒歩で行くと誓っていたので、その決意が呼び水となって一行の意気を喚起し、男女ともに徒歩で行くことを神前に誓った。必要とあれば門前に物を乞うもよし、と加えるほどであった。こう決ると、リクラは財布(さいふ)のヒモを固くしめた。ペリアンドロは、アウリステラの持つダイヤの十字架を手放さずにすむので、あの値のしれない真珠とともにいざというときのためにとっておいた。結局わずかに驢馬を一頭買って人間が背負いきれない荷を肩がわりさせ、杖にも護身具にもなる錫杖と細身の剣の鞘だけを用意したにすぎないことになる。かくしてまことにキリスト教徒らしい、慎しいこしらえで一行はリスボンを出たのであるが、絶世の美と豊かな思慮の持主たちに去られたあとのリスボンは、まさに灯が消えたようにさびしくなった。町ではあちらでもこちらでも、寄るとさわると、異国からの巡礼たちのことをなつかしみ、あの絶美このうえなくすぐれた心ばえを話題にした。
一行は一日に二、三レグアの道のりをこなしていくことにした。やがて、バダホス(1)に着いた。カスティリャ人の代官はリスボンから報告を受けとっていた。それによると、異形の巡礼が立ち寄るという。一行は町に入って、とある旅籠に投宿したがそこにたまたま、有名な役者をそろえた芝居の一座も泊っており、ちょうどその晩、一座は公演許可を得るために代官屋敷で試演することになっていた(2)。その彼らもアウリステラとコンスタンサの顔を見たわけだが、途端に、二人を見たかぎり誰もがもらさずにはいられないあの驚異と感嘆を体験した。
しかしその驚きを一座の誰よりも明瞭に示したのは、才知あふるる座付詩人であった。彼の仕事は既作を加筆改作したり、新作をつくったりすることである。この仕事には誠意にまして創意が必要で、労多く報いは少ない。だが詩とは素晴らしいものである。澄明の清流のごとく不浄を寄せつけない。ありとあらゆる猥雑物の中をぬけながら、太陽のごとく何ものにも染まらない。見る目に応じて評価の変る技であり、密閉されたところから射出する光線であり、ものをこそ焦がさないが目を眩ます。それはよく調律された楽器でもあって、感覚を甘くやさしくたのしませ、たのしませるとともに節度をそなえた有益なものである。さて、この詩人は生活の必要ゆえにパルナソス山(3)を旅籠屋にかえ、カスタリア(4)やアガニッペ(5)を、ぬかるみや水溜りのある道、村はずれの小宿にかえざるをえなかった。その彼がアウリステラの美しさにだれよりも驚嘆した。そしてまたたくまに彼女の姿を想像の舞台に引っぱり出して、これはいける、と目をつけた。カスティリャ語ができるできないは気にもとまらない。容姿は抜群だし、あでやかなところも魅力だ。彼は彼女が短ズボンをはいて男装の麗人を演じる場をすばやく想像し、ぱっと脱がせて妖精に変化(へんげ)させ、時をおかず威厳のある女王陛下に早替りさせた(6)。笑いをさそうものから格調高いものまで、着せてみない衣裳はなかった。風格があっておおらかで、分別と才気があってしかも淑やかこの上ないという舞台振りだから、ちょっとした一枚看板の美人役者にもこなせないほど極端に異る役柄でも、彼女なら演分(しわ)けられる。
それにしても劇作詩人というものの想像力の奔放自在なことよ。なにしろよもや、まさかと思うことにだって大胆に挑戦するんだから驚くほかはない。華奢(きやしや)としかいえない基(もと)いの上になんとどでかい夢想の楼閣を築くことか。彼には何だって出来てしまう。すべてが容易にすらすらとはこぶことになっているから、ツキはなくても見通しは明るい。このことは右なるわれらの当世詩人が如実に示すところでもある。彼は、ペリアンドロの冒険の絵図を目にして生涯にない興奮を覚えた。この絵の場面を残らず盛りこんで芝居をつくろう、という大いなる欲求がむらむらと湧きあがってきたのである(7)。しかし、その狂言を喜劇とよぶか、悲劇それとも悲喜劇とよぶかは決めかねていた。筋の初めの部分は仕上っているとしても、中ごろや結末の見当がつかないからだ。それもそのはず、ペリアンドロとアウリステラの人生はまだ進行中である。その結末がくればおのずからふたりを扱う出し物の種目も決るわけであるが、別に、最大の難題があった。海だとかあれほど多くの島、猛火、大雪原などといった場面のいったいどこに、従者、知恵袋、道化などの出る幕をつくればいいのか。これが問題だ。しかしながら、詩人はその芝居を作ることを断念しなかった。たとえ詩の法則をやぶり、作劇法をまげることになっても従者の役柄は割りこませる。というわけで名案をさがしていたのであるが、その計画をアウリステラに伝える機会を得て、大女優になれる、請けあうともちかけた。二、三回舞台に立つだけで、金貨が雨のようにふってくる。錬金術では黄金に似ていれば黄金、銅に似ていれば銅ということになっているが、当世の貴公子という存在もそんな産物であるから、あなたなら二、三回の出演で黄金がごっそり鉱山(やま)ごと滝のごとくふってこよう。それにしても、貴公子連はどれもこれも舞台の妖精には弱い。全女神、半女神、稽古場造りの女王にも、外見だけのおさんどんにも、たちまち参ってしまう。また当節は、天覧芝居ともなると女優はまるで黄金の下袴の裾を引きずるようなもので、はねたあとものぼせあがった騎士の小姓などが家までおしかけ、御足にくちづけをとなる。さらに、巡業の旅のたのしさも説いた。身をやつした騎士の二、三人は従えることになるだろう。彼らは、彼女にかしずく召使いであり恋の奴でもある。詩人はなによりも主役につくことのすばらしさを説き、その名誉を雲居の高みにまで称揚した。そしてカスティリャの古い諺を地でいく者がいるとすればそれは美しい女役者であろうと言い、美人役者の名誉(うけ)と利益(もうけ)は同袋におさまる(8)、とまとめた。
アウリステラの返事は、おっしゃることが一言も分らない、承知のとおりカスティリャ語を解せないからであるが仮に解せたとしても自分の考えは別にある、芝居ほど楽しいことではないかもしれないが、すくなくとも、もっと慎しい生業を選ぶつもりでいるということであった。
詩人はあまりにもそっけなく断られて消沈したが、自分の足元の蒙昧に気づいたため、そのたくらみの虚栄と狂愚の羽根の輪をたたんだ。その晩、一座は代官屋敷へ試演に出かけた。代官は美しい巡礼の一行の到着の知らせを受けていたので、迎えをやって芝居に招待した。リスボンからの報告が一行のすばらしさを伝えていたからであり、ぜひ何かの役に立ちたいという気持を表明するために呼んだともいえる。ペリアンドロは招待に応じた。アウリステラにも相談したし、ふたりが先達として立ててきた大アントニオにも相談してのことであった。
代官夫人をはじめ町の淑女連がそろって待つ場へ、アウリステラ、リクラ、コンスタンサ、それにペリアンドロ、アントニオ父子と続いて入っていった。居並ぶ者は、まさかと言わんばかりに目を疑いつつ、うっとりと見とれ声さえのんだ。新来の巡礼の無比の威風に当てられた者の、否応ない三嘆の光景である。謙虚でしかも気品のある一行であったので、迎える側もおのずとその風にそまり、芝居の出し物はいちばん真面目なものがよいということで、かの『ケパロスとプロクリスの物語(9)』が上演されることになった。妻プロクリスがやきもちをやきすぎ、夫ケパロスが必要な注意を怠ったばかりに、夫は槍を投じ、それが妻の命のみか彼の喜びを永遠にうばったという物語である。韻文はこの上ない出来栄えであった。ファン・デ・エレラ・デ・ガンボア(10)の作といわれるだけのことはある。この詩人は未成(うらなり)という冴えない渾名(あだな)で呼ばれているが、その詩才となると詩界の最高域に達している。芝居のあと淑女連はアウリステラの美しさをひとつひとつこまかくかぞえあげた。あたかもその姿にひとつの完成品を見るようであったことから、一同はそれに無欠「完璧」の辞を当てた。男たちはペリアンドロの凜々しさをほぼ同じ言葉で表し、コンスタンサの美しさや兄アントニオの男らしさにも同様の称賛を送った。
一行はこの町に三日間滞在した。その間に代官は気前のよい騎士ぶりを発揮し、夫人もいっぱしの女王を気取った。それは彼女がアウリステラたちみんなに対して奮発した贈り物や餞別にあらわれている。一行は感謝の意を述べ、旅先からはどこにあっても必ず便りをすると約束した。かくしてバタホスを出て、グァダルーペの聖母院(11)へと一行は向かった。そして三日間歩いた。その間に五レグア進み、とある山中の、樫や雑木の森で夜を迎えた。その日の陽気、雲行きは、天が春分や秋分のような均等分点で停止させていた。暑くてだるいこともなく寒くて辛いこともないから、やむをえずば山中でも夜を過ごせる。人里で宿をとるのと変らない。そういうわけもあるし町が遠いということもあって、アウリステラが、しだいに輪郭がはっきりしてきていた牛飼いの牧童小屋に泊めてもらおうと提案した。
一行はアウリステラの希望にそうことにした。ところが、森を二百歩ほど行くか行かないうちにすっかり夜になって真暗になったので、一行はやむをえず歩みをとめ、牛飼いのかがり火にじっと目を注いだ。その明りが北極星の役割をはたして、おかげで道に迷わずにすみそうである。と、真暗な闇の中に物音がした。一行は足をとめた。青年アントニオは弓をつかんだ。弓はアントニオにとって、片時もそばを離れぬ相棒であった。
こうしているところへ男がひとり馬で近づいた。そして顔ははっきりしないが、こう言った。
「ぶしつけながら、このへんのおかたでしょうか」
「いいえ、ちがいます」ペリアンドロがこたえた。「遠いところからまいったものです。ローマへ詣でる異国の巡礼で、とりあえずグァダルーペのほうへまいります」
「グァダルーペ、なるほど、では」と馬上の男は言った。「異国にも慈悲や礼儀はありましょうが、惻隠(そくいん)の情もまた、洋の東西を問わない、と思ってよいでしょうか」
「もちろんですとも」アントニオがこたえた。「どこのどなたか存じませんが、われわれでお役に立てることなら、ご遠慮には及びません。ご想像にたがわないことをお目にかけましょう」
「実は、これを」騎士は言った。「この黄金の鎖をお預かりいただきたいのです。二百エスクードにはなります。それから、この赤ん坊を。これには値がつけられません。すくなくともわたしには判らない。トゥルヒーリョ(12)の町でこの子をあるおかたにお渡しください。町でよく知られたふたりの騎士ですが、ひとりはドン・フランシスコ・ピサロ、ひとりはドン・ファン・デ・オレリャーナ(13)といいます。いずれも若く、分別があり、裕福で、そろって立派な人物です。どちらかにお渡しねがいたい」
こう言って、リクラに赤ん坊を手渡した。憐れみ深いリクラが手を広げて進みでたのである。赤ん坊は泣き出していた。くるんであった産着が豪華か粗末か、そのときは判然としなかった。
「その子を預かるよう、どちらかの騎士におっしゃってください。生みの親のことと不運のいきさつはいずれ遅からずふたりに知れるはず。お届けくだされば、その子は幸せになれます。ではこれにて御免。追われております。追手はここへも来てわたしのことを問うでしょうが、見なかったとおこたえください。それならご迷惑はおかけしないはずです。あるいは、このほうがたやすければ、三、四人が馬で駆けぬけポルトガル、ポルトガルだと叫んでいたと。では、ごきげんよう。急ぎます。追手も気になりますが、立たさねばならない面目がありますゆえ拍車を」
男は馬の腹をひとけり、稲妻のように遠ざかった。と見えたが、ほどなく馬首をめぐらして引き返した。そして、
「洗礼はまだです」
と言い残して、ふたたびあわただしく駆け去った。
見送る巡礼の一行はというと、リクラは赤ん坊をかかえ、ペリアンドロは黄金の鎖を首にかけ、若いアントニオは弓に矢をつがえて構えを解かなかった。父親は錫杖がわりの仕込杖の鞘をいつでも払える構えである。アウリステラは、あまりにも思いがけない出来事であったので、きょとんとなって、どうすればいいか分らなかった。しかし突然の珍事に驚き戸惑っていた一行の、この状態に終止符を打ったのもアウリステラであった。何はともあれ、とりあえず牛飼いの家まで行こう、そこへ行けば赤ん坊に食べさせてやるものがあるだろう、生れたばかりのようだ、からだは小さいし泣き声も弱々しいからいくときも経ってはいまい、というアウリステラに一行は従った。そして、足元の不安ななかをようやく牧童小屋にたどりついた。ところが、一夜の宿を借りたいと頼もうとしたとき、女がひとり、小屋に現れた。それが沈痛な声で泣いている。泣き喚くというのではなく、胸の声が押し殺され、呻きになって伝わってくる。身を飾るものはまとっていないが、着衣からは裕福で、身分もあるようにうかがわれた。女は顔を見られまいと苦心しているようであったが、かがり火や灯火に照らしだされたのを見ると、美しいというには可憐、可憐というには美しい。とにかく、年を見る目のあるリクラが十六、七とみた。
やがて、追われてでもいるようすだが、それとも他に危急のわけがあるのかと牧童がたずねた。
すると、少女はいたいたしげにこたえた。
「おねがいです、すぐにわたしを地下へでもお連れください。誰にも見つからないところへ、かくまっていただきたいのです。それからなにか食べものをおめぐみください。ふらふらで死にそうです」
「まかせておきなさい」年老いた牧童が言った。「ひとの難儀を見て見ぬふりするわたしたちではない」
老牧童は巨大な樫の立木にぽっかりと空いた虚(うろ)の洞へ急ぎ、その中に、羊や山羊(やぎ)のやわらかい皮を敷いた。牛馬とともに羊、山羊も飼っているのである。これで寝床まがいのものができた。急場を凌(しの)ぐこしらえとしては十分である。老牧童は娘をかかえあげて穴の中におさめ、とりあえず、ありあわせの食物を与えた。乳粥であった。欲しければ、ぶどう酒もある。こうしておいて、穴の口に別の皮を掛けた。汗や涙をふきとるためのものである。
リクラは、腕の中の赤ん坊はきっとこの娘の子にちがいないと思いながら様子を見守っていたが、やがてその親切な老牧童に声をかけた。
「もうひとつご親切におすがりしたいことがございます。わたくしが抱いておりますこの赤ん坊にもおなさけをかけてやってくださいませ。さぞかしおなかをすかしていることでしょう」
こう言って、赤ん坊を引き取ったときのいきさつを手短に説明した。
老牧童はいちいちうなずくのももどかしくさっそくリクラの願いに応じた。すなわち牧童のひとりを呼んで、赤ん坊を山羊小屋へ連れていくように、そうして適当な一頭をつかまえて乳を飲ませてやるように言いつけたのである。ところが、これが済むか済まないか、赤ん坊の泣き声がやむかやまないかのとき、一団の男が騎馬で小屋へ乗りつけた。そして、行き倒れのような女はこなかったか、赤ん坊をつれた騎士はとたずねたが、何の情報も手懸りも得られなかったので、驚くべきあわただしさで先をいそいだ。人助けをした者たちはほっと胸をなでおろした。その晩、巡礼の一行は思ったよりも落ち着いた時を過せた。牧童たちもよい仲間ができて、予期せず楽しい気分になれた。
第三章――木に隠った娘。その身の上
樫の木が孕(はら)んだ、とでも言っておこう。また雲も闇を孕み、幹中に閉じ隠(こも)っている女の身を案じる人々の目をもくもらせた。しかし牧童頭でもある憐れみ深い牛飼いは少しも戸惑わなかった。迎え入れた客の世話に必要なものは配慮をおこたらず、なんでもととのえた。赤ん坊は山羊の乳を吸った。木に隠った娘は粗末ながら滋養物を摂った。巡礼たちは久びさに快適な宿をえた。
娘は追われているということが分った。それは憐憫をさそわずにおかないわけであるが、それにしてもこの娘は、またこの寄辺ない産ぶ子は何故こんなことになったのであろう、やがてだれもがそのわけを知りたくなった。しかしアウリステラは、翌日までは何も尋ねないほうがいいという意見であった。舌というのは精神が動転しているときにはすらすらと回転せず、雀躍すべき幸運さえ思うようには語れないものである。ましてや沈痛の憂き目など。そんなわけで、牛飼いの老人は何度も木の様子を見に行ったが、中の娘には健康状態以外は何も問わなかった。返事は、元気のなくなる理由はおおありではあるが、追手から逃げ切れさえすればすっかり元気になるはず、追手は実の父と兄である、ということであった。
牛飼いは、念には念をいれて娘を隠匿してから、樫をはなれて巡礼のところへ戻った。巡礼の一行は、その夕べを牧童のかがり火や炉火の明りのもとで過した。夜空から届く明りにいっそうの明るさが加わったのである。一同は、いずれ疲れが出て五感を睡魔に開け渡さざるを得なくなるからというのでそれまでに相談した結果、赤ん坊の身柄はさきほどこの子を山羊に対面させて乳母がわりにしようとした牧童が、二マイルほど離れた小村に住む老牧童の妹のもとへ預けることになった。黄金の鎖も持っていって、養育費として渡すことにし、赤ん坊の身元についてはここからずっと先の別村の生れということにした。
すべてが手筈どおり運ばれた。これで、万が一、追跡者が引き返してきても、あるいは新たに繰り出されてきたとしても、失踪人など知らないとか、それらしい人物さえまったく見かけなかったと言い通せる確信と用意ができた。こんな手筈をととのえ、空腹をみたしたのちの時間は睡魔が目を征服し、沈黙が舌を制し、その間に夜は去り、朝が駆け足でやってきた。だれにも爽快な朝であった。だが木の洞に隠れっぱなしで、まばゆい陽光をのぞき見さえできずに怯え震えている娘は別であった。
そこで、用心のために羊の群の近くにも遠くにもあちらこちらに間隔をおいて見張りを立て、怪しい者が来れば知らせるように手配しておいてから娘を木から出してやり、新しい空気を吸わせて、昨夜から知りたかったことを聞き出すことになった。曙光のもとで見る娘の顔は、ため息が出るほどに美しかった。アウリステラに次ぐ綺麗の席次はコンスタンサに与えるべきか、それともこの娘に与えたものかと迷うほどであった。どこへ行っても首席はアウリステラがさらった。大自然は彼女に並ぶ者を産もうとしなかったのである。尋ねたいことはいろいろとあり、打ち明けさせるにはあれやこれやと水をさし向ける必要があったが、やがて娘はひとえに礼儀と感謝のつもりで、消え入りそうな気力を励まし、息も弱々しく次のように語りはじめた。
「お聞かせするうちに、節操を疑われるような不始末を打ち明けねばならないでしょうが、たとえそうなっても構いません。お気持に副(そ)えずに恩知らずと言われるよりはましです。礼儀をわきまえていることをお分りいただくためにもお言葉に従います。わたくしはフェリシアーナ・デ・ラ・ボスと申します。この村から遠くない町の者です。両親は、身代はさておきひととおりの貴族です。わたくしは今より少しはましな器量でしたから、きれいだとか美しいとか言って気にかけてくれる男性もなくはありませんでした。天が生地として授けてくれた町のすぐ近くに、とてもお金持ちの郷士が住んでいます。この郷士はいいとこずくめの立派なお人柄を買われて、騎士として扱われるほど人望もあるおかたですが、この郷士に息子がひとりあります。お父さまの限りない財産を継ぐべきおかたであるわけですが、ご性質のよい点ならもうたくさんうけついでいます。またその郷士と同じ町に、さる騎士が住んでいて、この騎士にも息子があります。身分は貴族ですが財産家ではありません。暮し向きは並の堅実なもので、卑下することも奢るほどのこともないわけですが、実は、わたくしの父とふたりの兄はこの貴族の青年にわたしを縁づかせる準備をすすめておりました。だから裕福な郷士のほうがわたしを嫁にと言ってきたのに背を向けて耳を貸しませんでした。それにしても目下わたしが嘗めさせられている不運も今後の憂き目も、みんな天がわたしのために用意したものでしょう、実はわたしは金持郷士の息子を夫として授かり、父にも兄にもかくれて、彼に身をまかせてしまったのです。母はおりません。それがなによりの不幸かもしれません。わたしは彼とひそかに逢瀬をかさねていました。こういうことができる機会というのはめったにそっぽを向かないものでございまして、どんな邪魔をものぞいて手をのべてくれます。ところがこうして忍び逢い、密か事を重ねているうちに、わたしは服の前が合わない身重になり、破廉恥がお腹にたまってきました、夫婦を契った者どうしの交わりが破廉恥といえるとしてのことですが。このころ父と兄たちは、さきほどの貴族の青年と結婚させる話をわたしの知らないところで決め、勝手にその気になってゆうべ本人を家へつれてきたのです。先方の身内の者がふたり付いていました。わたしたちをその場で婚約させる手筈だったのです。わたしはルイス・アントニオ、つまり貴族の青年はこういうんですが、彼がはいってくるのを見て気を失いそうになりました。もっと驚いたのは、父が、部屋へ戻ってふだんよりも念入りにおめかしをしろと申したときです。その場でルイス・アントニオの妻になる支度をせよということなのです。そのときは臨月に入ってから二日が経っていました。そんなときに寝耳に水のようなことを聞かされて息が止るほど驚いたわたしは、支度を口実にして部屋に閉じ籠り、いつも秘密を打ち明けていた侍女にすがりつきました。そして、あふれる涙をそのままに言いました。
『どうしたらいいの、レオノーラ。もう何もかもおしまいだわ。ルイス・アントニオが控えの間に来て、わたしを待っているのよ。あのひとと結婚しろだなんて。大変なことになってしまったわ。いくら運が悪いといったって、こんなひどいことがあるかしら。お願い、いっそ何かでこの胸を刺し通してちょうだい。この肉体(からだ)から、まず魂だけは逃してやりたいの。自分でも何をしでかすか分らないのよ、だから魂に恥をかかせないためにも、お願い。もうだめ、耐えきれないわ、死んでしまいそう』
わたしはこう叫んで大きく息をつきました。ところが、そのはずみで、床に赤ちゃんを産み落してしまったのです。あまりにも突然のことでしたから、侍女は右往左往してうろたえるばかりですし、わたしも気が転倒して打つ手も何も浮かばず、父でも兄でもどちらでもかまわないから部屋へ入って来て、結婚させるかわりに、いっそのこと墓場へ送りつけてくれればいいと思って待っていました」
フェリシアーナがここまで話したとき、用心のために立てていた見張りから合図があった。何者かが近づいたという。そこで老牧童はこれまで見せたことのないほど素早い動作で、フェリシアーナをもとの立木へ保護しようとした。彼女が危機をのがれる避難所としてはどこよりそこが安全なのだ。そこへ、見張りたちは戻ってきた。人の群が近づくのが見えたが、途中で道を外(そ)れたからもう安心だと言う。一同はほっとした。そこで、フェリシアーナ・デ・ラ・ボスは身の上の話に戻って言葉を続けた。
「ゆうべのわたしがどんなにあわてたことかお察しください。おむこさんは広間で待っている。ところが庭先では間男、と言えるとして男がわたしに声をかける頃合をうかがっている。その彼は、わたしがどんなに困っているか気づいていないし、ルイス・アントニオの来訪も知らないのです。わたしはあまりの出来事で気が狂いそうでしたし、侍女は侍女で赤ん坊を抱いたままおろおろするばかりでした。父と兄は、忌々しいことに、婚約の場へ出てこいと言って急ぎ立てるし、わたしでなくても、どんなしっかりした気丈な人でも気が遠くなったでしょう、それはそれは大変な窮地に追いこまれたのです。考える力などとてもとても、正気の状態ではありませんでした。だからそれからのことは自分でもよくおぼえていないのですが、気絶寸前のときに父が部屋へはいってきて、『何でもいいから早く着て出て来なさい。飾りたてる分は器量でおぎなえばいいんだ。おまえの器量なら申し分のない晴れ着になる』と言うのが聞えました。
ちょうどこのとき、父の耳に赤ん坊の泣き声が聞えたのだと思います。侍女は赤ん坊を安全な場所へ隠そうとしていたか、ロサニオに渡すところのようでした。ロサニオというのはわたしが決めていた意中の人の名です。父は耳を疑い、燭台を手にしていぶかしげにわたしの顔をのぞきこみ、顔色をみて、気を失わんばかりのわたしの驚きを読みとったわけですが、そのとき赤ん坊の泣き声が、こんどは父の耳に突き刺さるほどはっきりと響き渡りました。父は剣の柄に手をやって、声のする方へ走りました。わたしの朦朧とした目先にも白刃の閃光が走り魂の真中を恐怖が突き抜けましたが、人間だれしも命を守ろうと必死になるのはあたりまえのことなのでございましょう、危ない、殺されると思ったときはじめて、助かりたいという気持が湧いてきました。そこで父が背を向けている一瞬をのがさず一気に螺旋階段を駆け降り、そこから往来へ容易に飛びだすことができました。こうして町から野へ出て、そこからはどの道を行ったのか思い出せませんが、とにかく怖いやら恐ろしいやら、無我夢中で、足に羽根でもはえたかのように走りました。このからだのどこにあれだけの力があったかは今も分かりません。道端の崖っぷちから何度も身を投げようともしました。命の始末さえつければ自分の始末もつくような気がしたのです。そしてまた何度も何度も地面に坐りこもう、道のまんなかで寝っころがっていよう、見つかるなら見つかれという気にもなりましたが、こちらの灯を見たら元気が湧いてきて、早く辿りつこう、あそこまで行けばくたくたのからだを休められると思って一所懸命になりました。救われたと思うより一息つけると思ったのです。そうして、お目にかけたような姿で辿り着き、ご親切とご慈悲のおかげでここにこうして居られる次第でございます。わたしの身の上のことでいまここでお話しできるのはこれだけです。結末は天におまかせし、地上にいるあいだはみなさまのお力添えにおすがりしたいと思います」
可哀相なフェリシアーナ・デ・ラ・ボスはここで話をおえた。聞く者はみな感嘆をかくさず、憐憫をおしまなかった。
ペリアンドロは、赤ん坊を引き取ったことと鎖を預かっていること、それから渡していった騎士とのやりとりをつぶさに話した。
「ほんとうですか」フェリシアーナが驚いた。「もしやその子はわたしの……その子を連れていたのは、もしかしたらロサニオでは。その子をひとめ見せていただければわかるはずだわ。顔はたしかめなかったので顔だけでは見分けがつかないかもしれませんが、その子をくるんである布を見ればきっとわかります。侍女は何の用意もしていませんでしたから、部屋にあったありあわせの布でくるんだにきまっています。それならわたしにも見覚えがあるはずです。それで分らないとしても、きっと血すじというものがあります。血が役立ちます。目には見えない気脈を通して、血がふたりの間柄を伝えてくれるはずです」
それを聞いていた牧童が言った。
「赤ん坊はもうわたしの村の妹と姪に預けてありますから、ふたりに連絡して、今日のうちにでもつれてこさせましょう。ここでお待ちくだされば、美しいフェリシアーナさん、今おっしゃった方法でおたしかめになれます。もうご安心なさい。うちの者もおりますし、この木だって追手の目をくらますおあつらえの目隠しです」
第四章
「兄さん、しみじみと思うのに」アウリステラがペリアンドロに言った。「辛いことや危険なことは、海路だけでなく陸地のいたるところにまで繩張りを広げているのね。だって不運や災いは、山の上にそびえたつ者にも谷間にひきこもって住むひとの上にも隔てなく降りかかってくるんだもの。いわゆる運命については、よく話に聞いたことがあるわ。思うときに思うままに、思う相手にしあわせを恵んだり、かと思うと奪ったりもするそうだけど、どう考えても、見る目のない気紛れ者よ、わたしたちから見れば地にあるべき者を天高く持ち上げたり、月の山々にそびえている者を地に落して平気なやつなんて。何を言ってるかよく分らなくなってきたけど、言いたいのはわたしたちがこのかたにお目にかかったときとても驚いたでしょう、あれはごくもっともな驚きだってこと。お名前はフェリシアーナ・デ・ラ・ボス(1)とおっしゃるそうだけど、今は身の上の不幸を語る声にもご不自由なお身の上なんだもの。わたしには、あのかたがほんの数時間前、まだお家にいらっしゃって、お父さまをはじめお兄さまや召使いにも分からないようにひそかに、どうやれば自分の大胆な望みがかなうかと知恵をしぼり、時をうかがっているさまが手にとるように見えるわ。そうかと思うと立ち木の虚(うろ)にひそんで宙を舞う蚊、地をはう蚯蚓(みみず)におびえていらっしゃる姿も見えるというわけ。あのかたの場合、『名士列伝(2)』のような転落でないことははっきりしているけれど、引き籠って、ひとのお手本になるような暮しをしたい娘たちにとっては良いいましめよ。これを思うにつけ、兄さんにぜひお願いしておきたいことがあります。兄さん、きっときっと、わたしの貞操をおろそかにしないようにしてください。お父さまやあなたのお母さまのもとを離れたときからわたしの貞操はあなたの手にお預けしてあるんですもの。もちろんこれまでの経験から、人里離れた、さびしいふたりきりのところでも町中でたくさんの人がいるところでも、あなたの思いやりは痛いほど感じますが、ひとの気持は本来変りやすいものですから、それが時とともに移り変るのではないかと心配です。わたしの貞操はあなたの貞操で、同一の望みがわたしたちを支配し、同一の希望がわたしたちを支えているということを忘れないでください。わたしたちの道は遠いけれど終りのない道はないはずです、怠惰という邪魔さえなければ。いくら感謝してもしきれないことですが、すでに神様が油断のならないアルナルド王子の同行をしりぞけてわたしたちをイスパニアへつれてきてくださったのですから、遭難や嵐や盗賊の心配もなく先を行くことができます。イスパニアは世界のどこよりも平穏で神に祝福された土地だという評判ですから、きっと安心して旅ができるにちがいありません」
「なるほど、妹殿」ペリアンドロがこたえた。「いちいちがきみの思慮分別のよさを思わせる言葉だ。女としてはもちろん気懸りなんだろうけれど、きみはしっかりしているから、ちゃんと自分を励ましてへこたれそうにない。それにしても不安はもっともだから、安心してもらうためにぼくは新たな機会をみつけてもっと確実な信用をとりつけるように心懸けるよ、これまでのぼくがどうだったかを考えてくれればきみの心配などふきとんでしまうんだけど。希望だってわいてくるし、その希望が安心につながって、もちろん真底から喜んでもらうこともできるはずさ。でもこれからは機会を見つけてもっと信用してもらえるようにつとめるよ。これ以上この牧童小屋にいてもぼくたちに出来ることはないし、フェリシアーナのことでも同情してあげられるぐらいで何の役にも立ちそうにないから、とりあえずあの子をトゥルヒーリョへ連れていこう、頼まれたんだもの。子供といっしょに鎖を渡していったのは、どうやら報酬のつもりらしい」
ふたりがこんなことを話している間に老牧夫が妹と赤ん坊をつれてやってきた。彼が村に人をやって赤ん坊を連れ戻したのである。フェリシアーナに頼まれてその子が自分の子かどうかたしかめるためであった。フェリシアーナは赤ん坊を受け取って右からも左からもくりかえして見つめ、帯も解いた。しかし、自分が産んだ子だと認知できる手懸りはひとつもなかった。のみならず、もっとはっきりしたもの、すなわち母性本能というのが情念を動かして自分の子を認知させるということにもならなかったのである。赤ん坊は男児であった。
「この子じゃないわ」フェリシアーナは言った。「この掛け布は、生れてくる子のために侍女が選んでおいたものではないし、この鎖も」そのとき彼女は鎖も見せられたのであった。「ロサニオの持ち物ではありません。この坊やは誰かほかの人の子だと思います。わたしの子ではありません。もちろん、わたしの子ならこんなうれしいことはないでしょう、一度失ったものが戻ってくるんですから。ロサニオはトゥルヒーリョに友だちがいると言ってました。しょっちゅうその人の話をしていましたが、名前にはすこしも記憶がありません」
「それはそれとして」老牧夫が言った。「巡礼のみなさんに赤ん坊を預けていった人がトゥルヒーリョへ届けるように頼んだということははっきりしているんだから、わたしが思うに、預けていったのはきっとロサニオさんですよ。わたしとしては、これが何かのお役にたてばの話ですが、赤ん坊は妹にまかせ、牧童をふたりほど付けてトゥルヒーリョへ向かわせたらいいと思います。相手の騎士はふたりのようですが、どちらかが受け取ってくれるでしょう」
フェリシアーナの返事は、牧夫の足もとにくずおれ、すがりついて泣くことであった。それは牧夫の提案に同意するというしるしでもあり、巡礼のみんなも同様にこの老牧夫の意見に賛成した。そして、鎖を彼にまかせることで準備はすべてととのった。
そこで、厩(うまや)から一頭を引き出して、牧夫の妹が乗った。彼女は、すでに言ったように(3)、お産をすませたばかりであったので、いったん村にたち寄って自分の子の世話は隣人にまかせ、問題の赤ん坊をつれてトゥルヒーリョへ向かう手筈であった。グァダルーペへ向かう巡礼の一行は少し遅れて彼女と同じ道を行くことになっていた。実際、予定どおりに事はすすめられた。大急ぎであった。問題が問題であるだけに、ぐずぐずすることは許されなかったのだ。
フェリシアーナは何も言わなかった。が、その沈黙でこそ、自分のことでこんなに親身になってくれる人たちに対する深い感謝をあらわしていた。しかも、感謝するだけではなかった。フェリシアーナは巡礼の一行がローマへ向かっていることをすでに知っていてアウリステラの美しさ、聡明さ、ペリアンドロの礼儀正しさ、あるいはコンスタンサとその母リクラが交わす会話の楽しさ、そしてまたアントニオ父子のやさしい心づかい、そういうものに好感の目差しを向けていた。彼らとうちとけて言葉をかわすようになったのはついさきほどのことであるが、その短い間に、ひととおりこれらのことがらに気づき、強い印象をうけながら彼らをよく観察するようにもなっていた。それもあったし、何よりも自分の名誉が地に落ち、埋れてしまった土地を捨てるためであったが、フェリシアーナは、ぜひとも自分を巡礼としてローマへ連れていってほしいと頼み込んだ。これまでは罪をわたり歩く巡礼であったが、もし天が同行の機会を慈悲深く与え給うなら、今後はその慈悲の中を行く巡礼になりたい。
フェリシアーナがこの気持を打ち明けたところ、その願望をかなえてやろうとアウリステラがすぐに心をくだいた。フェリシアーナが恐怖と不安につきまとわれていることに同情し、その不安から解放してやりたいと一心に欲したからである。ただ、出産直後の長旅は無理ではないかという心配があったので、フェリシアーナにその旨を話したところ、それまでは黙っていた老牧夫が、「人間の女性も獣もお産のことになると大差はない」と言った。要するに、獣は出産後になにひとつ特別の世話を受けなくても秋霜烈日に耐えられるようになる。人間の女性もそれと同様というわけで、手を貸さなくてもふだんの暮しにもどれる。それなのにいつのまにか、産後の肥立ちのために特別の養生とか用心をすることが習慣になってしまっているにすぎないというのである。
「わたしが思うのに」老牧夫は続けて言った。「イブが最初の子を産んだときは、寝床に横になることもなく屋根や壁で囲いもせず、近ごろのお産でみられるような至れりつくせりはおそらくなかったでしょう。フェリシアーナさん、がんばりなさい。あなたの志は敬虔で、教徒の鑑だ、ぜひ貫きなさるがいい」
これにくわえてアウリステラが言った。
「巡礼衣裳の用意がないからって心配はいらないわ。わたしはこれを作ったときに、念のために一着余分に作っておいたのよ。フェリシアーナ・デ・ラ・ボスさん、それをあなたにおゆずりするわ。それにしても、声(ラ・ボス)という名はたぶん苗字じゃないでしょう、何か特別のいわれがあるなら、衣裳をお貸しするかわりにといったらなんだけど、聞かせてくださらない」
「先祖からうけついだ名ではありません。わたしの歌をおききくださった方々が口々に絶世の美声と折り紙をつけてくださったことから、このうえない美声のフェリシアーナと呼ばれるようになったのです。今もし泣きくれていないで喉をお聞かせできる状態なら、実際のところをお分りいただけるでしょうが。いずれにしても、事情が変って涙をぬぐえる時がくれば歌います。陽気な歌は無理でも、哀しく切ない哀歌(エンデチヤ)なら歌えます。節をつくって心をなぐさめ、涙の声で人を酔わせる歌です」
これを知ってみんなはすぐにも聞きたい、歌ってもらいたいと思ったが、彼女自身が言ったように今はそのときではないので、だれもせがむまでには至らなかった。
翌日フェリシアーナは用のなくなった衣服を脱いで、アウリステラがゆずった巡礼装束に着替えた。真珠の首飾りと二個の指輪もはずした。装身具というものが家柄を語るものなら、これらの品は彼女が富裕な高貴の出であることを語っていたといえよう。リクラがそれを預かった。彼女は一行の財産の出納係である。かくしてフェリシアーナは第二の席次を占める女遍路となった。アウリステラが首席、コンスタンサが第三席を占めるとしてのことである。ただし、このことでは意見が分れた。すなわち第二席をコンスタンサにする者もいたのだ。だがアウリステラをしのいで首位を奪う美形は、この時代には存在しなかった。
フェリシアーナは新しい衣裳に着替えると急に元気が出た。旅発ちへの意欲が湧いてきた。アウリステラはこの様子を見て一行に出発の同意を求め、親切な老牧夫をはじめ牧童小屋のみんなに別れを告げて、カセレスへと向かった。いつもと変らない足どりであった。このほうが疲れにくいからである。女の脚に疲れがでると驢馬が背を貸した。また小川の岸辺や泉のほとりに腰を下ろすこともあった。緑の草原がこころよい憩いに招いてくれることもあった。いうならば疲労と休息がいっしょになって一行と歩調を合せた。怠惰と勤勉も同行した。道がはかどらないのは怠惰のせい、足をとめないのは勤勉ゆえである。それにしても、いかにけなげな志でもめでたしめでたしで終ることはめったにない。たいてい邪魔がはいることになっており、この麗人の一隊の志の場合は、動機こそちがえ目的において一致していたが、その志が妨げられるように天は仕向けたのだ。それはいかなる妨害であったか。一行はここちよい緑の草原の小さい牧場に腰をおろしていた。草原をぬけて小さいせせらぎが流れ、その澄んだやさしい水音が一行のほほをさわやかになでていた。茨や枸杞(くこ)があたり一面によく茂って垣根とも日除けともなっていた。疲れをいやすにおあつらえの、絶好の場所であった。と、突然かん木の茂みから緑の草原へ若い男が飛び出した。旅の装束で、その背中には剣が突き刺さっており、胸を貫通して切先が出ている。男はうつぶせに倒れ、倒れざまに言った。
「神よ、我とともにいませ」
言い終るのと魂が抜け出るのとは同時であった。この異様な事態を見て、誰もが慌てて立ち上がったのであるが、まっ先に駈けつけて助けようとしたのはペリアンドロであった。しかしすでに事切れていた。そこで、思い切って刺さっていた剣をひきぬいた。
一方、アントニオ父子は茨の茂みをとび越えて、下手人らしい者が潜んではいないかとあたりを探した。残酷きわまりない、卑劣なやり方だ。背中からやられていることから卑怯者の手にかかったということが判る。しかしそれらしい者はどこにもみあたらないので父子は引き返した。殺された男はまだ若く目鼻立ちも体格も立派だったので、一行はいっそうの不憫を感じた。遺体をひととおり調べてみると、黒いビロードの半外套の下に胴着をつけていたが、そこに四曲にまいた金環の鎖がのぞき、そこからやはり金製の御受難像が垂れていた。そして胴着とシャツの間につくりの豪華な黒檀の箱があり、中に麗婦人の肖像画がおさまっていた。なめらかな板に描かれたもので、ふちまわりには、小さいが、はっきりとした文字で次のような韻文が書いてあった。
凍らせ、燃えさせ、見つめ、語る、
艶美の奇跡、
絵になっても変らぬ魅力
あなたの立姿。
まっさきにこれを読んだペリアンドロは、この殺人には恋が絡んでいるとにらんだ。みんなして懐中を調べ、すみずみまで探ってみたが、身元を知る手懸りになりそうなものは何も見つからなかった。ところが、こうして探っている最中にバラバラッと雨でも降りかかるように、男が四人とび出してきたのだ。いずれも弓矢を構えている。父親アントニオは彼らの徽章を見て、いちはやく聖同胞会(サンタ・エルマンダ)の弓(4)方だと知った。ひとりが叫んだ。
「御用だ。強盗、殺人、および剥ぎ取りの罪で逮捕する。手を放せ。しょっぴいてやる、年貢の納めどきだ」
「ばかを言うんじゃない」若いアントニオがやりかえした。「泥棒呼ばわりとはなにごとだ、盗人や泥棒をだれより憎むわれわれをつかまえて」
「しらばっくれるな」捕卒が噛みついた。「そのホトケが何よりの証拠。害者の所持品もおまえたちの手にあるし、手の血は何だ。悪事の証拠はそろっている。おまえたちは強盗で、追い剥ぎで、人殺しだ。ただちに、強盗追い剥ぎ殺人の罪にふさわしい償いをさせてやる。巡礼の衣裳などで本性をくらまし、キリスト教徒の善人の猫をかぶって悪事をかくそうったって、そうは問屋がおろさんぞ」
これに対する若いアントニオの返答は、弓に矢をつがえ、相手の腕を射ることであった。実は、胸を射ぬこうとしたのであった。仲間の捕卒はその一矢にひるんだか、もっと安全に捕り物をしたかったか、背を見せて逃げながら大声で人を呼んだ。
「誰かっ。われわれは聖同胞会だ。手を貸せ」
その名のごとく同胞は神聖なるものであった。あっというまに、まるで奇跡のように二十人あまりの捕卒があつまったのである。それが無抵抗の一行に弓矢を向け、逮捕して牢獄へひきたてていった。アウリステラの美しさにも、ほかの女巡礼にもいっさい敬意を示さず、殺された男の死骸とともにカセレスへ護送したのだ。そこの代官はサンティアーゴ教団(5)の騎士であった。彼は死人と負傷した捕卒を見、他の捕卒からの報告やペリアンドロが血まみれになっていたという証拠、さらには副官の見解も参考にした結果、ペリアンドロが真実を盾にとって弁明したにもかかわらず、また道中手形や通行許可などリスボンで入手した各種の書類を見せて訴えたにもかかわらず、ただちに全員を拷問にかけることにした。しかしそれとは別に若いアントニオが一行の行状を描いた例の絵解きを広げて弁舌たくみに講じ物語ったところ、これは証拠となって一行の潔白を印象づけた。また出納係のリクラは司直や検察官というものの性癖をほとんど、あるいはまったくといっていいほど知らなかったので、一行の力になってやるという素振りをおおっぴらに見せていたひとりに、こっそりと、額は定かではないが金をつかませて、うまく取り成してくれるように頼んだ。だが結果は金を捨てたことにしかならなかった。渡り鳥(巡礼)の羽がたいした値打ちの毛であることを嗅ぎつけたペテン師どもは習性をむきだしにして、骨まで刈りとろうと狙ったのだ(6)。もしも無実の強みが悪意の刃をうちのめすことを天がお許しにならなかったならば、一行は思う壺にはまったにちがいない。ところが事は次のように運んだ。町の宿主というか、旅籠の亭主が、運ばれてきた死体を見て、見覚えがある、と代官に申し出たのだ。
「代官様、お役人が運んでおいでになった死人はきのうの早朝、もうひとりの騎士らしいお方とご一緒にわたくしめの宿をお発ちになったおかたです。ところがお発ちになるすこし前にわたしの部屋でわたしとふたりきりになって、声をひそめてそのおかたがおっしゃいました。
『御亭主、真のキリスト教徒とみこんでお願いする。もしわたしが六日経っても戻ってこなければ、お渡しするこの書き付けをお上の前でお開き願いたい』
こういって、どうぞこれをごらんください、この書き付けをお預けになりました。この中には、もしやこのたびの不可解な事件にかかわることが書いてあるのではないでしょうか」
代官は書き付けを受け取って開いた。見ると次のようなことが書いてある。
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わたくし、ドン・ディエゴ・デ・パラセスは某日――として日付けが来る――身内のドン・セバスティアン・デ・ソランソに同行して帝都をはなれました。それはドン・セバスティアンが同行を求め、この遠出には彼の名誉と生命がかかっているといったからでした。わたくしは、彼がわたくしに対して抱いていたあらぬ猜疑を裏づけることになってはまずいし、やましいところもなかったので彼の悪企みを承知の上で同行を承諾いたしました。わたくしを殺める目的で連れだしたものと思います。もしわたくしが殺されて死体となってみつかったなら、騙し討ちに遇った、濡れ衣を着せられて死んだ、とご承知ください。
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続いて署名がきている。
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ドン・ディエゴ・デ・パラセス
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この書き付けを代官はきわめて迅速にマドリードへ送った。マドリードではお上のほうで下手人探索のあらゆる手がうたれた。下手人は張り込み中の自宅へある晩立ち戻ったが、かんづいて、馬を下りるところまで来ず、馬首をめぐらして、それっきり行方知れずとなった。かくして一件は迷宮入りとなり、死人は単なる死人として片づけられ、留置人の鎖が解かれた。このとき、リクラの持っていた死人の鎖はお上の御用のために召しあげられ、女の肖像画は代官の目の保養に供された。捕り方の傷は弁済された。若いアントニオは絵解きを談じて町中を感嘆させた。取り調べのあいだ中もフェリシアーナ・デ・ラ・ボスは町にいたが、人目につかないようにと病気を装って床についていた。やがて一行はグァダルーペへ向けて出発したがその道中は珍事をふりかえって、興味ある話題にこと欠かなかった。フェリシアーナが喉を披露してくれる機会がもう来るだろうとの期待もあった。やがて歌い出すにちがいない。時が経っても癒されず命が尽きても尽きない、そんな悲しみはないのだ。しかし彼女は自分が種をまいた不幸に対して慎みを示した。今の彼女には泣哭が歌であり、呻吟が声であった。がそんな気分もいくぶんほぐれかかったころあの思いやりの篤い牧夫の妹とばったり出会った。彼女はトゥルヒーリョから戻る途中で、赤ん坊をトゥルヒーリョでドン・フランシスコ・ピサロおよびドン・ファン・デ・オレリャーナの手に渡したところ、ふたりは赤ん坊が友人ロサニオ以外の者の子であるはずがないと考えたという。場所から推してそうなるのだ。というのは、それほどまで自分たちを信用してくれる知人となると、あのへんでは他に思いうかばなかったからだ。
「ともかく、いずれにせよ」と百姓の彼女が言った。「われわれを信用してくれた人のせっかくのお気持を裏切るべきではない、とふたりの騎士は言っておりました。そんなわけで、みなさん、子供はトゥルヒーリョのおふたりに渡してまいりました。わたくしでお役に立てることがまだありましたら、おっしゃってください。わたしはあの鎖をまだ手放さずに持っています。また、キリスト教徒であることは心の鎖のようなもので、わたしはその鎖によって黄金の鎖より偉大なものにつながれており、義務を感じています」
それにこたえてフェリシアーナが、鎖はよほどのことがないかぎり手放さずにいつまでも大切にとっておおきなさい、と言った。高価な品は貧乏人の家には長くいつかない。手放す気はなくても質に入れたきりとか、売り払って二度と買い戻せなくなるものである。女はここで一行に別れを告げた。一行は、彼女の兄やほかの牧夫たちによろしくと挨拶をことづけた。かくしてわれらの巡礼は、しだいに聖地グァダルーペへと近づいていった。
第五章
グァダルーペ山脈の峻峰は、囲いこむように連なってひとつの谷を形成している。そこに通じる入口はふたつあり、敬虔なる巡礼の一行はその一方に足を踏みいれたのであるが、やがて、先へ行くにつれて新たな感動のたかまりの波が次から次へと胸中に生れた。しかし、その感動が極致に達したのは雄大荘厳な修道院を見たときであった。その外壁のむこうには天の元后のご聖像が安置されている。ご聖像は、繰り返すが、囚われ人には解放であり、鉄鎖には鑢(やすり)、受難には救済である。ご聖像はまた諸病にとっては健康、悩める者には慰めでもあり、孤児には母、ふしあわせの埋めあわせなのである。
一行はグァダルーペの寺院へはいった。みな内壁にはさぞや豪華なチレの紫螺、シリアの鍛子、ミラノの錦織りなどの飾り物がと思っていた。ところがそんなものはちっとも見当らなかった。あるのは跛が置き去りにした松葉杖や盲人が残した蝋製の義眼、手ん棒が掛けていった義手、死人が脱いでいった死衣などであった。どれもこれも、不幸のどん底におちたのち、生き返り、元気になり、自由をとりもどし、満足を得た証左である。ことごとくが、鴻大なる慈母の恩沢によるものである。大いなる母は、いやさかの御子に限りない慈愛の軍勢を添えてその小天地に繰り出させたまう。
このようにさまざまな奇跡を物語る供物は、敬虔な巡礼の胸を打たずにはおかなかった。一行は寺の中を隈なく見回した。あたかも鎖にくるまった俘虜たちがその鎖を掛ける奉納の壁を目ざして海の向うから天翔けて飛来し、怪我人は松葉杖をかつぎ、死人は経帷子を脱いで、めいめい置場をさがしているかの情景であった。しかし神殿にはもう空いた場所がなかった。それほど多くの供物が壁をうずめていたのである。
ペリアンドロはこんな光景をかつて見たことがなかった。アウリステラも同様であった。リクラ、コンスタンサ、アントニオにとってはなおさらのことである。息をのみ、飽きることなく見つめた。さまざまに思いを馳せて感嘆をかくさなかった。やがて、敬虔なキリスト教徒らしく作法に従って跪座し、聖体となりたまう神をたたえ、ご聖母には、ご聖像の信頼と名誉にそむかず御心をかけさせたまえ、と祈願した。しかし、ここで特筆すべきことがあった。麗しのフェリシアーナ・デ・ラ・ボスは、ひざまずき、胸の前で掌を合せていた。目には珠の筋が光っているが、表情はあくまでおだやかで、唇も微動だにさせず、生きている気配を示す表情や動作はいっさいなかった。と彼女が、一念天に届けとばかり、声を帆に挙げ、おぼえの節を朗々と吟唱しはじめたのである。セリフは後日文字にして一行に渡されることになるが、耳を傾けた者はひとりのこらず陶然となって聴きいった。なるほど、自賛するだけの喉である。こうして彼女はかねてからひと声耳にしたいと願っていた一行をうならせ、堪能させたわけだ。
その歌が四連ほどすすんだころのこと、他郷者とみえる数人が表門から堂へはいってきた。彼らはまず信仰のしきたりに従ってひざまずいたわけだが、そのときはまだフェリシアーナの歌が続いていたので、その美声にやはり感嘆した。ひとりはかなりの年らしい。その男がそばのひとりに、振り向くようにして言った。
「神のご聖寵に浴する天使の声か、さもなくば娘のフェリシアーナ・デ・ラ・ボスにちがいない」
「疑いの余地はありません」ひとりがうなずいた。「まちがいありません。この腕が狂いさえしなければ、この場で成敗されるべき宿命(さだめ)の女です」
その男はこう言いながら短剣をにぎりしめ、荒々しい足取りで、顔面は蒼白、ただならぬ気色でフェリシアーナの方へ向かった。老翁はそのあとを追いかけ、背後から言った。
「待て、せがれ、ここは惨劇の舞台ではない。折檻の場でもない。しお時を待て。あの親不孝ものはどうせ逃げられはしない。あわてるな。おまえは他人を成敗するような気でいるかもしれないが、血を分けた者の罪をさばくのは身を切るように辛いことだ」
これを耳にし、騒ぎを感じたフェリシアーナはあわてて口をふさいだ。巡礼をはじめ、その場にいあわせた者はみな何事かとざわめきたった。そんな人々の目をよそにフェリシアーナの父と兄は、彼女を堂の外へ連れだしたが、そこにもたちまちのうちに町中の人が集まった。取締りの町方も駆けつけて、親兄弟というよりも仕置人と呼ぶにふさわしいふたりから、ひとまずフェリシアーナをひきはなした。
騒動の中にあって父親は娘に、兄は妹にむかって大声をはりあげた。役人は事情がのみこめるまで彼女を保護することになったが、そのとき広場の一角から六人ばかりが騎馬を組んで躍り出た。うちふたりが誰であるかを、巡礼の一行はすぐに想像できた。ひとりはドン・フランシスコ・ピサロ、ひとりはドン・ファン・デ・オレリャーナであったのだ。この両人といっしょに、黒のタフタン織りの覆面で顔をかくしたもうひとりの騎士がいた。何事ゆえの大声かと両人が周囲にたずねると、親兄弟を名乗る男があの巡礼女をあやめんとするところで、役人が女を保護しているという説明が返ってきた。ドン・フランシスコ・ピサロとドン・ファン・デ・オレリャーナの両人がこれを聞いている間に、覆面の騎士は馬をおり、剣の柄に手をかけ、覆面をとり、フェリシアーナをかばって身構え、凜乎として声を放った。
「娘ごフェリシアーナの罪の報いはこのわたくしが受けるべきものです。ただし、それは娘が親の許さぬ相手と結婚することが命と引き換えになるほどの大罪であればのこと。フェリシアーナはわたくしの妻、わたくしは、何をかくしましょう、ロサニオです。このたびは小細工してかちえたものではありますが、わたくしの身分から申しますと納得ずくでもいただけたはず、わたくしは貴族です。証人を出せとおっしゃるなら出しましょう。彼女を養っていくだけの財産もあります。しかるに、わたくしが幸運によってかちえたものを、あなたがたのご威光を笠に着たルイス・アントニオにみすみすくれてやるわけにはまいりません。しかし、それにしてもおふたりを知らぬまに舅に、あるいは義兄にしたことでお怒りなら重々お詫びしますが、恋情の激しい力はどんな正気の判断をも狂わせ迷わせるのが常とお察しください。おふたりがあまりにもルイス・アントニオに肩入れなさるのを見て、ついつい、おふたりに対してはらうべき敬意を忘れておりました。この点に関しては、あらためてご海容願いとうございます」
ロサニオがこう言っている間じゅう、フェリシアーナは彼にぴったりと張り付いたようにしがみつき、腰帯をにぎり、怯えまどい、ふるえ、胸ひしぎ、心むせび、気を失わんばかりで、そのすがたがいっそう彼女を美しくしていた。しかしふたりの返答を待たずドン・フランシスコ・ピサロは父親を、ドン・ファン・デ・オレリャーナは兄を抱きしめた。いずれも心を許した友なのであった。ドン・フランシスコは父親に言った。
「あなたのように物分りのよいおかたのなさりようとも思えません、セニョール・ドン・ペドロ・テノーリオ。なにゆえご自分の手でご自分をお辱めになるような愚かなことをなさいます。この種の侮辱は制裁を加えるには及びません。元を正せば言いわけが立つものでしょう。ロサニオの何が不足でフェリシアーナにふさわしくないと申される。ロサニオを失ったフェリシアーナにこれから先何が残るとお思いか」
ほとんどこれと同じことを、あるいはこれに近いことをドン・ファン・デ・オレリャーナは兄に言った。そしてさらにつけ加えて、こう言いもした。
「セニョール・ドン・サンチョ、腹立ちまぎれの焼けっぱちはろくな結果を招きません。腹を立てるのは心の癇症です。癇癪をおこしては何もかもぶち壊しです。娘御がよい婿殿をお見立てになったのに、しかるべき儀式やしきたりの順序を踏まなかったことを根にもっての意趣返しとはうなずけません。せっかくお築き上げになった安堵の館をみすみす打ち壊し、台無しになさるおつもりですか。セニョール・ドン・サンチョ、実を申しますと、あなたの大切なお身内をひとりわたくしどものところに預かっております。あなたの甥御です。ご自分の存在を否定なさらないかぎり、甥御の認知を拒絶なさるわけにはまいりますまい。あなたと瓜二つの赤ん坊ですよ」
父親がドン・フランシスコに返した答は、息子ドン・サンチョのところへ行ってその手から短剣をとりあげ、同じ足でロサニオを抱きしめに行ったことであった。ロサニオは、いましも岳父であることを認めた人物の足元に伏して接吻をくりかえした。フェリシアーナも父の前にひざまずき、涙を流し、むせび泣き、ひとしきり現をなくした。歓喜はその情景を見守るみんなにも伝染し、できた親父さま、できた息子、友人もよく事理をわきまえているし説得力があるなどと口々にほめたたえた。代官は一同を屋敷に招き、聖修道院の院長は山のような祝い物を贈った。巡礼の一行は舎利殿を詣でた。そこには霊威にすぐれた荘厳な御形身が数多くそろっており、彼らはめいめい罪を告白し、堅信の秘蹟を受けた。この間、三日ほどであったがドン・フランシスコは農婦から受けとり預かっていた子供を、人をやってつれてこさせた。ロサニオがペリアンドロに託し、同時に鎖も渡したあの晩の子供である。その子のあまりのかわいさに祖父は受けた侮辱をすっかり忘れて、
「おかあさんはよく頑張った。でかした、でかした。種も立派だ」
と言いながら抱きしめ、目をうるませて赤ん坊の顔をぐしゃぐしゃにしたが、それを接吻でぬぐい、霜の鬚でふきとった。
アウリステラはフェリシアーナに、ご聖像の前で歌ったあの歌のセリフを書き写したものがほしいとせがんだ。フェリシアーナは、あれはほんのひとくさりの四連までに過ぎず、全体は十二連から成り記憶しておくだけの値打ちはあると言った。
そこで筆写したものがこれである。
永遠の精神から外へと
比翼の精霊が飛び立つ前のこと、
また、緩急さまざまな天球が
運行を指定される前のこと、
また、あの原初の闇が
黄金色の太陽の髪を見る前のこと、
神はご自身のために
聖く、純粋な、無垢の民の家を建てたもうた。
高く岩乗な土台が
謙虚の低頭の上に据えられて
いっそうの謙虚をこころがけるにつれ
建物はいっそう峨々としてそびえた。
地が来て、海が来た。そして風が
うしろに低く垂れて控え、
火が来て、同じ運命(さだめ)によって
足下に月を踏まえた。
至福の建物の
柱は信仰であり、希望の
壁は慈愛がかためて
神のごとく、かぎりない耐久力を得、
住み心地は心のぬくもりで増し、
正義と堅忍不抜の
立派ゆえ、うける
幸せの序階は心慎しければ、なお高まる。
至高の王城を飾るのは
底無しの井戸、涸れずの泉、
垣内の菜園。健かな果実は
人びとの祝福と栄光。
右を見ても左を見ても、
峻々たる糸杉、いよやかな棕櫚、
そそりたつヒマラヤ杉があり、こうこうたる鏡面が
おちこちに恩寵の光を配る。
庭に、栴檀、実芭蕉、
エルコのバラ(1)があり、
色彩はあの色、炎のケルビン(2)を
しのいでさらに美しく、
罪科の闇の黒い影も
この屋敷には迫らず近寄らず、
きょう地に顕われたこの家は
すべて光、すべて栄光、すべて天上。
ソロモンの神殿が、きょう全容をみせたが、
神のみ可能な完璧な仕上がりで、
工事の工匠のふるう
槌音ひとつ聞えなかった。
きょう、近寄りがたい太陽の光照が
燦爛と来現し、
きょう、マリアの暁星が
新たな光輝を日に送った。
きょう、太陽より早く、星がまたたく。
それは、前兆のならわしを踏まない
不思議なしるしながら吉兆であり、
魂を喜悦と幸せが満たす。
きょう、謙虚は頂上に立った。
きょう、いにしえの鉄の
鎖がくだけはじめ、日輪よりも麗しい
賢女エステル(3)が世に現れた。
われらの幸いのために神より生れた娘よ、
なよやかにして強靱なあなたは
地獄の蛇の、邪意の
額を叩き割ってくださった。
髪には簪(かんざし)、われらの死には命なる
あなたの適切な仲介のおかげで、
神と人との不和の死闘が
穏やかな和解に至りました。
正義と平和が、きょう、聖処女よ、
あなたの中で一体となり、和平を
よろこぶ甘美な接吻をかわしました。
それは来たるべき収穫の月の約束としるしです。
あなたは、聖日の朝明けには
暁光、正義の人には
栄光、罪人には確かな希望、
古き嵐には凪であらせられる。
あなたは天によって永遠へと召された
鳩、御子(みことば)に汚(4)れぬ肉身を授けた
妻、あなたのおかげで
アダムの罪は幸いとなりました。
あなたは神の御腕であって、
アブラハムの酷い刃を押え、
まことの贄にと、われらに
従順な子羊をたまわりました。
育ちたまえ、麗樹よ、旬の果を
疾くみのらせたまえ、魂はそれを当てに、
原初の大罪によって着せられた喪服を
裳裾引く晴着に着替えんとしています。
限りなく寛い進貢に
ふさわしいまことの報いは
あなたにおいてこそ作られます。聖母よ、
信じたまえ、あなたは万物の救済者です。
すでに、天界の神聖なる大広間では
使者が速やかに出発の用意をととのえ
いまにも黄金色の翼を動かさんばかり、
伝書を無事に運び届けようとしています。
弥栄(いやさか)あれ聖処女よ、あなたから漂う美徳の
香りは、神の大いなる御力が、
あまさずあなたに傾けられるよう
請い、急がせる役を果しています。
フェリシアーナがあのとき途中まで歌った詩句は、文字にするとこのようなものであった。アウリステラは理解を越えたところでこれを嘆称した。かくしてもめごとは解決し、和解が成った。フェリシアーナもその夫、父、兄もみな町へ帰った。彼らは、のちほど子供を送り届けてくれるようにドン・フランシスコ・ピサロとドン・ファン・デ・オレリャーナに依頼したが、フェリシアーナは待っている間にも不祥事があっては困ると言って自分で連れ帰り、この一件がかくのごとく落着したことを喜ばない者はなかった。
第六章
巡礼の一行はグァダルーペに四日間滞在し、その間にあの神聖な修道院の霊宝什物を見始めた。始めたというのは、わずか四日で全部を見てしまうことは不可能だからである。一行はグァダルーペからトゥルヒーリョへ行き、あの気高い騎士のふたり、ドン・フランシスコ・ピサロとドン・ファン・デ・オレリャーナの大歓迎を受けた。そこではフェリシアーナの事件が再び話題にのぼって、あれは声がよいだけではなくて分別もある娘だとか、父親と兄のとった態度は見上げたものだと異口同音にほめた。また、アウリステラはフェリシアーナが別れぎわに申し出た丁寧なはなむけの贈物のことをあらためて感謝した。
トゥルヒーリョを発ったのは二日後のことで、一行はタラベラ(1)に向かった。タラベラは折からモンダの祭(2)の準備に大わらわであった。祭のおこりはキリストの御誕生のずっと以前のことであるが、それをキリスト教徒が自分たちに合うように改変したもので、かつては異教徒が女神ウェヌスをたたえた祭であったが、今では童貞の中の童貞マリア様を崇めたてまつる祭事になっている。一行はしばらく逗留してその祭を見たかったが、旅程にゆとりがないので、先をいそぎ、望みは果せなかった。
さてタラベラから六レグアほど行ったところであった。前方を女巡礼が歩いていた。めずらしいことに女のひとり旅である。呼びとめるのに声をあげる手間はかからなかった。沿道のさわやかさに誘われたか、足がくたびれたかはさておき、女巡礼が草原の緑に腰をおろしたのである。
一行はそこへ追いついた。間近に見ると、ぜひともここでひとくだり紹介しておきたくなる姿恰好である。年の頃は、女の盛りを過ぎて初老にさしかかっていると思われたが、その顔かたちたるや吐気をもよおさんばかりなのである。ちなみに、鼻は山猫の鋭眼をもってしても発見はむずかしかろう。それほど低く扁平で、おそらくピンセットでもってしても鼻毛一本つかめまい。ところが眼球は顔面に影を落すほど突起していた。着ているものは巡礼マントで、それがボロボロの綴れ衣であった。しかも、踵まで垂れさがった長々しいしろものである。マントの上には肩掛けをはおっているのだが、半分以上が皮のつぎはぎで、それさえ破けて山羊皮(コルドバン)か羊皮(バダナ)か見分けがつかなかった。腰にはスパルト藁の荒繩を巻きつけており、それはそれは太くて頑丈そうで、巡礼衣の腰帯というより、ガレー船の錨綱にもってこいである。ほおかむりは目の粗いものであったが白くて清潔で、頭にはヒモもリボンもない古い帽子をのせている。足元のこしらえは草鞋がけで、そいつもすっかり草臥れていた。手には錫杖がある。牧杖形で先端には鋼の穂先がついている。左肩に瓢箪をかけているが、身の丈の半分はありそうな代物だ。首からは数珠(ロザリオ)が重く垂れており、その「我らの主よ」の珠(3)の大きさは、輪抜け遊び(4)の木球以上かと思われる。ようするに襤褸が歩いているようなものであり、一見、どこから見ても苦行者風で、そしてやがて知れるが、頭のてっぺんから爪先まで、つむじ曲りなのである。
一行はその場へ着くと声をかけて挨拶し、女もそれにこたえた。花の美声とは縁遠くて、鼻のぺちゃんこの程度を見れば当然うなずける鼻声である。一行は行く先や巡礼のわけをたずね、そうこう言葉を交わすうちに女と同じくその場の心地よさにさそわれ、女を囲むようにして腰を下ろした。一行にとっては衣装ダンスであり、食料庫であり、水売りでもある驢馬には草をはませておき、自分たちも空腹を満たすことにして、女にも快く皿をすすめた。女は尋ねられたことには次のようにこたえた。
「わたしの巡礼は、ありふれたやつですよ、暇潰しの申しわけにぴったりの巡礼なんですから。しかし、さしあたってのことを申しますと、まず大都トレドにまいりまして、サグラリオ(5)のご聖像を参拝します。そこからニーニョ・デ・ラ・グァルディアへ行き、ノルウェー鷹よろしく、くるっと回り道をして、ハエンの聖ベロニカで道草を食って、四月のおしまいの日曜日までの時間を潰します。その日はアンドゥハル(6)の町から三レグアほど行ったシエラ・モレナの山中でカベサの聖母のお祭があるのです。この祭は世界でも指折りの有名な祭ですよ。聞くところによると、タラベラのモンダの祭がまねたような、いにしえの異教徒の祭でも、この祭をしのぐほど盛大ではなかったし、いまもそれほどではないとか。わたしははっきりと頭に刻みこんでおりますから、できることなら、目の前で手にとってありありとごらんいただけるように引き出して言葉で描いてお見せしたいですね。そうすればどんなにすばらしいお祭かお解りいただけるし、わたしがこれほど誉めちぎるわけもわかっていただけると思います。しかしながら、その仕事は文才のある方におまかせしましょう、わたしのような脳たりんでは叶わないことです。陛下がおわすマドリードの御殿の回廊にこの祭の様子を細大もらさず写した絵があるんですよ。岩塊とよべそうな山があり、頂上には修道院が建っていて、カベサの名で呼ばれる御聖母の像が安置されています。この岩山は、のびのびと開けた平原のまん中にあって、周囲にはいっさい山らしいものも岩塊もなく、ひとりにょきりと突起しているところから古くはカベソとよばれ、カベサの名は御聖像の住まうこの山にちなんで付けられたものです。山の高さは四分の一レグア、ふもとの周囲は優に半レグアほどもありましょうか、修道院はこのように広々した心地よい土地に立っています。このふもとに恭しく接吻するハンドゥラ川の流れにうるおって、年中緑が絶えず、しのぎよいところです。この修道院はその位置や岩山、ご聖像、数々の奇跡、近郷はもちろん遠国からもやってくるおびただしい参拝人や、今お話ししたおごそかなお祭の一日ゆえにくまなく世に知られ、イスパニアでは指を折って思い浮かべても、これをしのぐほどの名所はありません」
巡礼の一行は、これなる、年齢こそ古いが新顔の巡礼の話に聞き入った。そんなに素晴らしいものなら彼女に相伴して行ってみたい、とつい気をそそられもしたが、旅程をはかどらせたい気持が先立って、にわかの欲求に前途をまどわされはしなかった。
「それから先が」女は続けた。「どんな旅になるか、わたしにも見当がつきません。分っているのはどこへ行っても時間を潰し暇をうずめるところがあるということで、今も申しましたように、当節流行の巡礼にはこれと似たり寄ったりが多いんですよ」
これに対して父アントニオが言った。
「ご婦人、どうやらお手前には巡礼がお気に召さないようですな」
「とんでもない」女はこたえた。「巡礼の旅は正道をはずさない、尊い、見上げたおこないです。だからこそこれまで続いてきたし、これからもずっと絶えないでしょう。しかしわたしは、たちの悪い巡礼には腹をたてています。たとえば神聖なものをだしにして大儲けしたり、他人様の立派なこころがけを踏みにじって汚ない金をつくるやつらを憎むのです。ほんとうの乞食のあがりを巻き上げる輩のことです。例をあげればきりがないので、もう申しません」
このとき、すぐそばの街道を騎馬で来る男があった。それがちょうど一行のところに差し掛かり、帽子をとって会釈し、愛想をつくったときである。乗っていた馬が、あとで思うと前足を道の凹みにとられたのだろう、けつまずいてどっと倒れたものだから、主人はもんどりうって投げだされた。五体無事には済まないだろう、荒っぽい止りようをする旅人だと思いながら一行は助けにかけよった。青年アントニオは馬をつないだ。荒々しい牡馬であった。主人のほうはみんなでできるだけの介抱を施した。こういう事故にごくふつうに行われる応急手当てである。ひとくち水を飲ましたというわけだ。そして、たいしたことはないということが分ったので、馬に乗っても大丈夫、旅を続けるがいい、と安心させた。すると男は、
「こんな良い道で落馬するというのは、これは何かの虫の知らせにちがいない。気懸りになっている前途の難所でころんでも起きあがれるように、運命がわざわざ仕掛けてくれた転落でしょう。巡礼のみなさん、まあひとつ聞いてやってください、何の得になる話でもありませんが。じつは、わたしはこの国の者ではありません。生国はポーランドなのです。餓鬼のじぶんに国を出て、外国人のあこがれの的と申しますか、万国の母なる国、イスパニアへやってまいりました。そしてイスパニア人に仕え、カスティリャ語をおぼえ、こうしてしゃべっております。それから、諸国漫遊という、誰もが抱く夢に従ってポルトガルへ行き、大都リスボンへまいりました。ところが、リスボンへ着いたその日の晩に、ある事件に巻き込まれたのです。これをお聞かせして、信じてくださるなら、あなたがたは珍しいおかたです。信じてくださらないとしても気にはいたしません。どう扱われようと真実は真実、真実にはどこへ行っても席が用意してあるもので、自分の上にだって座りますよ」
ペリアンドロもアウリステラも、そして他の面々も、落馬の男の即興ながらうまい語りくちに感心した。ペリアンドロは先を聞きたくなって、なんなりと話を続けてもらいたい、ここにいるものはみんなおっしゃることを信じる、礼儀はわきまえているし人生経験も豊かな者ばかりだと言った。
それに気をよくして旅人は話を続けた。
「リスボンに着いた晩のことです。本通りをあちらではルーアというんですが、わたしはそこを歩いておりました。宿を変えようと思いまして、というのは最初に馬をつないだ宿がひどかったのです。ところが道幅の狭い、あまりきれいとは言いにくい所を抜けようとしたとき、マントで顔をかくしたポルトガル人が現れ、であいがしらにわたしを突き飛ばしたのです。ひどい勢いでしたからわたしは尻餅をつきましたが、この侮辱にカッと怒りを呼び醒まされたわたしは剣に復讐を託して抜き放ちました。相手も威勢よくたけだけしく抜きました。そこでわたしが、なにしろまっ暗い闇夜で運命もわが幸運の灯りには盲目でしたから相手に向かって盲滅法に剣を振り回したところ相手は仰け反って倒れ、魂を神のみぞ知る所へ吐きだしたのです。わたしはそれを見てようやく自分のやったことに気づき、怖くて茫然となりました。いかん、逃げなきゃと思ってずらかろうとしたのですが、その当てがありません。しかしそこへ人の気配がし、近づいてくるようでしたので、自然と羽根がはえて飛ぶように、足を空に大通りを引き返し、隠れ場所と剣を洗えるところをさがしました。役人に捕えられたときにはっきりとした証拠を持っていてはまずいと思ったからです。そんなわけで生きた心地もなく、びくびくしながら行くうちに、立派なお屋敷の灯が見えたので夢中でそこへ駈け込みました。戸は開け放されていて、一階の調度がすばらしい部屋でした。そこから奥へ足を進めると、やはり調度の整った広い部屋があり、その部屋の明りの照らし出す方を見ると婦人がひとり豪華な寝台に横たわっていました。彼女は驚いて起き上がり、わたしに誰何して、何用か、どこへ行くつもりかと言い、誰にことわってそこまで入りこんだか、無礼ではないかと問い詰めてきました。
そこでわたしは言いました。
『奥さま、矢継ぎ早に問われてもこたえようがございません。ただわたしは外国人で、どうやら表通りで人間ひとりをあやめてしまったとしか申し上げられません。わたしに罪があったというより、相手に運がなかったか思い上がりが過ぎたかでございましょう。お願いでございます。あなたさまを見込んでお頼みします。どうか役人からわたしを匿まってください。おそらく手はそこまで回っています』
『カスティリャのお方ですか』婦人はポルトガル語でたずねました。
『いいえ、ちがいます』わたしはこたえました。『遠い異国の地よりまいった者です』
『解りました。たとえ骨の髄までカスティリャの人間であったとしても』婦人はこたえました。『できることなら助けてさしあげたいし、じっさい、なんとかして助けてさしあげます。さあ、寝台におあがりになって、この壁掛けの後におまわりなさい。壁に窪みがありますから、そこでじっとしていらっしゃい。役人が来ても、この家で無礼なことは許しません。わたしの言うことなら何でも信じるはずです』
さっそく言われるとおりにしました。壁掛けを押し上げると窪みがあったので、その中で縮こまって息をころし、必死になって神に祈り、びくびくはらはらしていたわけですが、そのときこの家の召使いが部屋にはいってきて、叫ぶように言いました。
『奥さま、坊ちゃまが、ドン・ドゥアルテさまが何者かに殺されました。右目のあたりをひと突きに刺し貫かれて担ぎ込まれておいでになりました。下手人はまだわかっておりません。争いの原因も不明です。切り合いの音をきいた者もおりません。男がこの屋敷へ逃げこむのを見たという少年がいるのみでございます』
『殺したのはその者にちがいないわ、きっとそうです』
婦人はなおも言いました。
『それなら、袋のねずみです。あの子のことでは、こんなことになるのではないかと前から心配していました。ほんとうに親不孝者が。あの傲慢がたたったのでしょう。言わないことではなかったのです』
そこへ四、五人が死人を担ぎ込んで床におろし、悲嘆にくれる母親の目の前に置きました。母親は沈痛な声でこう言いました。
『ああ、復讐心が魂の扉をこんなに強くたたいている。でもわたしには約束がある。復讐心よ、おまえの気にいるようにはできません。そうはいっても、やっぱりつらい。胸が裂ける』
母親の悲痛なくやみごとを聞いているわたしの胸中をお察しください。わが子の亡骸を目の前にして、わたしを下手人だと見抜いていたことは十分に想像できますから、仇討ちするなら、煮て食おうが焼いて食おうが意のままであったのです。そのときのわたしに何ができましょう。黙って、観念して待つしかありません。役人が部屋へ来たときはなおさらです。役人は婦人に向かって丁重に申しました。
『このおかたをあやめた者がお屋敷へ逃げ込むところを目撃した少年がありますので、ご無礼とは存じますがお騒がせいたします』
悲嘆の母親が何とこたえるか、わたしは耳をそばだて息をこらして待っていましたが、母親の返したのは、キリストの教える憐恕のにじみ出た寛大な言葉でした。
『そのような者が当屋敷に逃げ込んだとしても、この部屋へはまいっておりません。あちらのほうをお探しください。それにしても、一人の死をもう一人の死でつくろうなど詮無いことです。わる気があって働いた侮辱でないときはなおさらでしょう。その者が見つからないことを祈ります』
役人は屋敷内を捜索するために退(ひ)き下がり、放心状態のわたしには正気が戻りました。
婦人は召使いに息子の遺骸をかたづけるよう、死衣を着せ、ただちに埋葬の手配をするよう命じ、ひとりにしてほしいと言ってその場の者を全て退かせました。親類縁者友人知人が弔問や慰めに続々と訪れていたようですが、それを聞く気分にもなれなかったようです。こうしておいて、下女を、たぶんもっとも信用のできる者だったのでしょう、それを呼んでなにごとかを耳打ちし、戸をきちんと閉めるように念を押してさがらせました。下女は言いつけどおりにし、婦人は寝台に腰を下ろして壁かけを押しました。わたしは胸に釘を打たれる思いでした。心臓は折檻の恐怖をかくせず早鐘のように鳴っていました。
婦人はそれを感じとり、声をひそめていたいたしげに言いました。
『どなたかは存じませんが、お聞きのとおり、あなたはこの胸から息をうばい、目からは光を、いえ他ならぬこの身の杖柱である者の命をもぎとっておしまいになりました。しかしながら、あなたの罪ではないとわかったかぎり、さっきの約束は守ります。仇討ちは思い止めねばなりません。ここへ飛び込んでこられたときに、逃げのびさせると確言した以上、かならず逃げのびさせます。わたくしの申すことに従ってください。わたくしがうっかり目を開いてあなたの顔に見覚えができては困りますから、両手で顔をおおったままで、いま隠れていらっしゃるところからお出になってください。それから、いますぐ下女がまいりますから、あとに従って行っていただきます。下女はあなたを屋敷の外へおつれして、金貨百エスクードをお渡しします。それを役立ててこの場を切り抜けてください。わたしはあなたの顔を知らず、手懸りになる証拠もありません。だから落ち着いておいでなさい。あわてると見破られます』
このとき下女が戻って来たので壁布のうしろから出て、顔を手でおおったまま、感謝のしるしに、ひざまずいて寝台の足に接吻を繰り返してから下女のあとに従いました。下女は終始口を閉ざしたまま、わたしの腕をとり、庭に出て、ランプは持たず、暗がりの中を歩いて、裏口から街頭へ手引きしてくれました。そこでさっそく剣の血を洗い落し、ゆうゆうとした足取りで表通りへ出ました。それから、先に申した宿が見つかったので、なにごともなかったような涼しい顔で門をくぐったわけですが、いましがた騎士が殺された、と宿の主が惨事のあらましを語りました。騎士はたいそうな名門の若様であるが、手のつけられない暴れん坊なので、それが恨みをかって密かな敵をつくり、結局こんな結末をもたらしたにちがいない、と詳しく聞かせてくれたのです。神の御慈悲に繰り返して感謝し、ドニャ・ギオマール・デ・ソサというすでにその名を知った恩人の寛恕、度量、有情のはからいを讃えているうちにその夜は過ぎました。明くる朝、河岸へ行くと、人を満載した渡船が見えました。東洋諸島へ向かうという出帆間近の大船がサンヒアンに碇泊しているとか。それに乗船する人々なのです。わたしは宿へ引き返し、馬を宿の亭主に売って一握りに収まるものに変え、それに未来のすべてを託して河岸へと戻りました。そして渡船にのり、翌日は早くも、港を出て風を孕んだ大船の人となり、予定通りの船路をたどりました。
そして十五年間をラス・インディアス(7)で暮しました。その間、一騎当千のポルトガル人たちとともに軍隊で働いたのです。いろんなことがありました。物語に書けばきっとおもしろい、きわめつきの傑作になると思いますよ。ことに、あちらでは向かうところ無敵というポルトガル民族の偉業は、今といわず未来の世々代々にわたって永久に称えられるべき題材ですね。かの地でわたしは少々の黄金と真珠を蓄えました。嵩はなくとも値打ちものです。それであるとき、ちょうど隊の将軍がリスボンへ帰還するというので、その機会に便乗して、わたしも黄金と真珠をもってポルトガルへ帰りました。そしてリスボンから故国に向けて旅立ちましたが、途中で、まずイスパニアの名のある代表的な都市を見ておくことにしました。そこで貴重品を現金に換え、その金を道中に必要な分だけ手形にして、さしあたってはマドリードへ向かいました。大君フェリーペ三世(8)の遷都後まもないころでした。ところが運命は、人生という大海に浮かぶわたしの風雲の船を順風ではこぶことに倦み疲れたのでしょう、浅瀬に乗り上げて船をこっぱみじんにするという気紛れを起しました。それと申しますのは、ある晩、ここからほど遠くないタラベラの町に着いたわたしは町外れのさる旅籠に馬をつないだのですが、それが宿にはならず墓になった次第で、つまりそこにわたしの名誉の埋もれる墓が用意されていたのです。
恋よ、おまえは途方もなく恐ろしいやつだ。わたしがいうのは浅薄で、慌て者で、好色で、意地わるな色恋のことだが、おまえたちにかかってはどんな気高い志も、慎しい心懸けも、思慮深い意図も、何もかもやすやすと踏み躙られてしまう。こんなことを申しますのは、その旅籠に逗留していたときでございますが、たまたま、年の頃なら十六ぐらいの娘がはいってまいりました。あとで二十二だとわかりましたが、そのときはそれくらいにしか見えませんでした。上着は羽織らず、三つ編みで、着ていたものは粗末なものでしたが、さわやかで、小綺麗で、すれちがったときは五月の花畑のような馥郁(ふくいく)たる香りをただよわせ、その移り香はわたしの五感の中でまるでアラビア香水をふりまいたようでした。娘は旅籠の若い給仕のそばへ行き、耳元になにか囁いて、大声で笑い、そしてくるりと背を向け、旅籠を出て、向かいの家にはいりました。給仕はそれを追いかけ、追いつきはしませんでしたが、したたかに娘の背中をけとばしたので、娘は目ん玉からつんのめって家の中へ転がり込むことになりました。これを見た旅籠の女中が腹だたしく給仕に言いました。
『よしなさい、アロンソ。なんてひどいことするのよ。足蹴にするなんて、ルイサが何をしたというの』
『この程度なら、俺の目玉の黒いかぎりどんどん食らわしてやる』アロンソがこたえました。『マルティーナ、口出しはよしやがれ。ああいう出過ぎた女には手をかけるだけじゃ足りないんだ。足でも何でも使わなきゃ』
こう言い放つと、わたしとマルティーナを残して引っ込みました。そこでわたしはマルティーナに、ルイサというのがどんな女で、亭主持ちか独身者かをたずねました。
『まだひとりよ』マルティーナはこたえました。『でもまもなく、今のあいつが、給仕のアロンソが亭主になるはず。だから親どうしが約束しているのをいいことに、アロンソはルイサを時も場所も見境いなく、しょっちゅう踏んだり蹴ったりするんだよ。たいていはあの娘のほうで殴られるようなことをしてるわけなんだけど。というのは実を申しますとですね、お客さま、あのルイサという娘(こ)は少々蓮葉で、だらしがなくって、羽根を伸し過ぎるんですよ。口が酸っぱくなるほど言ってきかせるんですが、馬の耳に念仏、たとえ目の玉をくりぬかれても目が醒めないでしょう。娘にとって最高の嫁入り道具は純潔ですよ、これほど分りきった真実はないのに。その点わたしはわたしを産んでくれた母親に感謝しておりますわ。母は家の外を見るなんて節穴からだって許しませんでした。玄関の敷居まで行くなんてもってのほか。母が口ぐせのように申しておりましたものですから、俗にいう女と牝鶏は(9)、とかなんとかもよく知っておりました』
『立ち入ったことをおたずねしますが、マルティーナさんとおっしゃいましたね』わたしは口をはさみました。『それほど深窓の狭いところに育ったあなたが、なぜまた、ことさら世間の目につく、旅籠づとめをなさっているのでしょう』
『いや、それは話せば長いことになります』マルティーナは言いました。『話すべき時節がきて、心の痛みにも耐えられるようになれば、まだまだくわしくお話ししなければならないことがあります』」
第七章
巡礼の一行は巡礼の話を傾聴したわけだが、そのうち次第に、このポーランド人の胸の痛みがいかなるものか知りたくなった。もちろん肉体に感じているはずの痛みのことはよく分っている。
ペリアンドロは巡礼に言った。
「なんなりとお気に召すままに、些細なことも交えて、納得のいくまでお聞かせください。添え物をあしらえば話に重厚さが増すことはよく知られております。晩餐の豪華な雉(きじ)に添えて、いちごやみずみずしくておいしそうな野菜サラダは捨てがたいものです。言葉のうまみを生かしてこそ、話題が何であれソースのきいた話になると言えるでしょう。どうぞ一代記をお続けください。アロンソのこと、マルティーナのことをお聞かせください。ルイサを蹴とばすならお気のすむまで蹴とばせばよろしいではありませんか。亭主を持たせるもよし、ひとりもので通させるのもよし、あばずれで節操のないこと、あたかもちょうげんぼう鷹のごとき女にするもまたうべなり。つまり肝腎なのはルイサという女の羽根の伸し具合いではなく、何がどうなったかという事柄にあると、小生の星占には出ておりますがね」
「そんなにおっしゃっていただけるなら」ポーランド人は言った。「お言葉に甘えて洗いざらいお聞きねがって、ご判断を仰ぎたいと思います。その夜わたしはありったけの、と申しましても心細いかぎりの判断を働かせて、宿の女の隣人といいますか、知人と申しますか、わたしの目には世にも稀な、あかぬけのした、艶(あで)やかな、色気のあふれる娘でしたが、その娘のことを思ってひと晩中悶々として過ごしました。際限なく空想をめぐらして宙に延々と無数の楼閣を築きました。その中でわたしはとっくに娘を女房にし、子供さえつくっていたわけで、ついには世間がどう言おうとかまうものかと開きなおり、旅のそもそもの目的を捨てて、女神ウェヌスと結婚しよう、タラベラに住もうと決心をかためました。そうなんですよ、給仕にしたたか蹴とばされながら、なお女神に見劣りしないほど美しい娘でした。夜が明けてからも思いの丈の脈をとってみたのですが、このまま娘と夫婦になれないようなことになれば、ほどなく、まず失意の底に沈み、ついにはかわいい娘の目の虜になっている命も運の尽き、と思うほど悶々としておりました。だから不都合は多々ありましたが、気にかけず父親にかけあって娘を嫁に貰おうと決めました。そこで真珠をとりだし金をひろげて父親に見せるとともに、その財産を守るだけでなく殖やすための才能もやりくりも心得た男である、と言って自分を売り込みました。この手前味噌も財産をみせびらかすという手も効果はてきめんでした。父親は手袋みたいにくしゃくしゃになって二つ返事で乗ってきたのです。持参金などあてにしていないことをにおわせたら、ますます愛想よくなりました。わたしとしては娘の器量だけで見返りは十分、それだけで結構な納得のいく取引きだと思ったのです。アロンソは口惜しがりました。ルイサは女房になったものの、ふくれ面をしていました。それがはっきりと分ったのは二週間ほど経ってからで、そのときわたしを苦しめ悩ますことになる破廉恥をしでかしてくれたのです。女房はわたしの貴重品と金を持って逃げたのです。アロンソのやつが糸を引いて誑(たぶら)かし、そそのかしたのです。女房はわたしを虚仮(こけ)にして無念の歯軋りをさせ、町中に自分の不貞、ふしだらの噂のタネをまいておいて、タラベラから消えました。この恥を雪がずにおくものかとわたしの気は逸(はや)ったものの、相手が雲隠れしてしまったのでは、復讐の刃は自分に向けるしかありません。何度も繩を手に首を吊ろうとしました。しかし運命はわたしが被った侮辱の恨みを晴らすようにと時をもうけてくれました。憎い駈落者が召し捕られて、マドリードの牢へ送られるように仕向けてくれたのです。わたしはその牢から損害賠償と告訴のために出頭せよという知らせを受け取りました。そこでわたしは、やつらの血でわたしの名誉に付いた染みを抜こうと決心して出てきたのです。ふたりの罪はわたしの両肩に重くのしかかる荷物でした。もう、へとへとになるまで苦しめられました。ふたりの命を奪うことでこの重荷を取り除くつもりです。殺してやります、なんとしても殺してやる。恨みを晴らさずにおくものか。わたしが侮辱には目をつむっちゃいない男だということを世間に知らせてやる。魂の髄まで毒をおよぼす侮辱はなおさらのことだ。マドリードへ行くぞ。馬から落ちはしたが、もう大丈夫だ。あとは馬に跨がるばかりだ。蚊一匹、邪魔させん。坊主の説教も、上人様の泣き陥しも、天女の宥めすかしにも聞く耳持つものか。山のように金を積もうが、国をあげて頼みにこようが、どんな大物が上から命令しようが、おさだまりの出しゃばりが群をなして説き伏せにこようが、なにがなんでも聞くものか。油が水をはねるように、わしの名誉はやつらの罪を許しはしないのだ」
こう言ったかと思うとやにわに立ちあがり、先を急ごうとして馬に跨がらんばかりであった。これを見てペリアンドロが腕を押え、引き留めて言った。
「落ち着いてください。頭に血がのぼってはお目がみえません。不名誉をこの上なお世間にひろめ、さらけ出すことになるのがお分りになりませんか。その名誉の泥に気づいているのは、これまではタラベラであなたを知っている人たちだけで、その数はごく僅かでしょう。なのにあなたは今わざわざマドリードまで出張して恥をさらし、天下の笑い者になろうとしていらっしゃる。例の、冬のあいだに懐中で毒蛇を育てた農夫の二の舞を踏もうとしていらっしゃる。夏が来て蛇が毒を使えるようになったころ蛇はいなくなっていました。天のはからいによって去っていったのです。ところが農夫はこのご慈悲を感謝するどころか蛇をさがし出してまたまた家へつれ帰り、懐中に巣をかけさせようとしたのです(1)。見つけてならぬものは探さぬが最高の知恵、を忘れましたか。また俗に言う、逃げる敵に銀の橋(2)をご存知ないのですか。男の最大の敵はおのが女房、とも言うではありませんか。しかし、これはたぶんキリスト教ではなく他の宗教での話でしょう。異教では夫婦は一種の妥協と便法であって、そのかたちは、いわば家や地所を貸借するのに似ています。それに対してカトリック教でいう結婚は秘蹟です。この結婚は死、もしくは死よりも厳しいものによってのみ解消されます。夫婦の同居が免除されるのはこの場合だけです。しかし、ふたりの絆の結び目をほどくことはできません。あなたがお上から憎いふたりを引き取ったとしましょう。ふたりは両手を縛られ、観念して広場の式台にひきだされ衆目にさらされ、あなたはあたかもふたりの血で、おっしゃるように汚名をすすげるかのごとく、処刑台上で剣を振りかざし、首を刈りとらんと構えている。それでご自分がどうなるか考えたことがありますか。さっきも言ったように、いっそう広い世間に恥をさらすだけではありませんか。それ以外の何が期待できます。復讐はたしかに懲しめにはなるでしょう。しかし罪は消せません。こんどのような場合は、つぐないが本心からのものでないかぎり、少なくとも侮辱を受けた人物が生きている間中、罪はまだ虎視眈々として世間の記憶の中に生き続けます。そういうわけですから、自分を取り戻して、慈悲に出番をおゆずりになったほうがよろしいですよ。裁判沙汰はお避けなさい。だからといって、奥さんを許して家へ連れ戻せとすすめているわけではありません。
そんなことを強制する法はどこにもありません。わたしが言ってるのは、奥さんを放っておけということです。それが奥さんに対するこのうえない厳罰になります。奥さんから離れてお暮しなさい。そうすれば生きておれます。いっしょにいたのでは、きっとあなたは生きていません、生ける屍のようなものでしょうから。ローマ人はよく離縁という手を使いました。許し、引き取り、苦しみ、諭すというのも情のある処置なのでしょうが、そのためには忍耐に忍耐をかさね、分別を失ってはならず、おそらく現世のことではそのような忍耐や分別は貫き通せません。こんどの場合のようにやっかいな重荷がのしかかっている人生ではなおさらそんなものは当てにできません。最後にひとこと、ふたりの命をとれば、死罪を犯すことになります。よくお考えください。世間体のためとはいえ、許されることではありません」
こう言うペリアンドロにじっと耳を傾け、まじまじと目を注いでいた烈火のポーランド人が、口をひらいた。
「お年からは思いも寄らないお言葉。お若いに似合わぬ分別がおありになる。その若さですでに老熟の智をそなえておいでだ。あなたの舌は天使が操っているとしか思えない。うけたまわるうちに気持がなごんできました。国へ帰ります。決めました。ご高配を給わったことを天に感謝する以外は考えますまい。そこでじゃが、手をおかしくださるまいか。さっきは腹立ちまぎれで威勢がよかったのに、ものわかりがよくなると張り合いが抜けて腰まで抜けたようです」
「お安いご用」父親アントニオが言った。
こうしてポーランド人はまずみんなと抱きあって別れを惜しみ、手を借りて騾馬(らば)の背の人となった。とりあえずタラベラへひきかえして、財産に関わる用件をかたづけ、それが済みしだいリスボンから海路祖国に向けて発つという。名を告げてオルテル・バネドレと言った。カスティリャ語のマルティン・バネドレにあたる。縁があったらその節はよろしく、と彼は別れを惜しみ惜しみタラベラをさして手綱をひきしめた。一行はその身の上と語りっぷりにあらためて感心しながらそれを見送った。
巡礼の一行は近くの村でその夜は泊った。それから二日後、前述の年配の女巡礼も道連れになってトレドのサグラ山塊についた。砂で聞え、水の澄むこと水晶を溶かしたかのごとき名流タホ(3)を眺むところである。
第八章
タホ河の名声は限りなくひろい。地上の最果ての民にさえあまねく知れている。人から人へ伝わってその存在は世に響き渡り、一見の願望を抱かせずにはおかない。極北の人々のあいだでも身分のある者は、ラテン語といにしえの詩人に精通しているのがふつうであった。だから北方の民の中では最高位の人物のひとりに数えられるペリアンドロにもやはりそのたしなみがあった。このこともあったし、また当時はガルシラソ・デ・ラ・ベガ(1)という、嘉しても嘉しても嘉したりぬ詩聖の珠玉の詩篇が、タホここにあり、と天下にうたい、ペリアンドロもそれを愛好して繰り返し読み、日ごろから絶讃していたので、この清流を望むと、声を発して言った。
「《サリシオはここで歌い終った(2)》をあらためて、《サリシオはここで歌い始めた》というべきか。彼の牧歌は、ここまできて独りごちではなくなった。サリシオの笛はここで鳴りひびき、その音を合図に流れは足を止め、樹々の葉は一斉にそよぎをやめ、風もぴたりと止んで、いずれもサリシオの歌を称える声に道をゆずったのだ。声は口から口へ、人から人へと伝わって隈なく地上にひろがった。いざ、さいわいなるかな清澄の水、金色の砂よ。いや、黄金ならぬ、黄金から生れ出た砂よ、これなる、しがない巡礼を迎えたまえ、いま遠方より称えつつ、近くより跪座して拝まんと欲する者を」
こう言いながら大都トレドを眺望し、言葉を続けた。
「いざ、巌なす岩根よ、イスパニアの誉れよ、都々(まちまち)の光明よ、ゴートの武人の形身を懐ふかく代々に護り続け(3)、亡びた栄光を甦らせるカトリック儀式の鑑よ、宝庫よ。いざ、聖都よ、永遠に栄えあれ、訪ね来た者に道をひらけ」
ペリアンドロはこう言ったわけだが、同じたしなみが父親アントニオにもあったなら、その口から出ても不思議のない文句である。なぜこんなことを引き合いに出すかというと、自分の目で見ても得られないような知識や体験が、読書によって確かなものになることがよくあるからであるが、しかしその原因はといえば、ものを注意深く見る人なら本を読ませても観察が細心で、逆に、注意散漫な見方をする人なら何を読んでも目に止らないということにあり、結局は見ることが読むことを超越しているからだ。
ちょうどこんな時だった。一行の耳にいくつもの楽器のはずんだ音が聞えてきた。それはトレドの町を囲む谷にこだまし、広がっていた。見ると彼らの行手に、一団の、ものものしい軍団ならぬ、太陽よりも美しい娘たちが群をなして近づいて来るのである。土地の衣裳をまとい、胸には飾りビーズや刻像のペンダントがある。珊瑚や銀が形よく納まってよく似合い、真珠や金もこの日だけは胸に出る幕がなく、金は長い垂れ髪にまぎれこんで黄金にまがう金髪となって輝いている。末は背に流れて広がるが、花薫る緑の冠が上を束ねている。その日ばかりは、そしてこの娘たちには、ミラノの緞子(どんす)よりも、フィレンツェの繻子よりも、クエンカ名産パルミーリャ天鵞絨(4)がだんぜん素敵だ。つまるところ、娘たちの素朴さが、これ以上はないという都会の豪華にもたちまさっていたわけだ。見かけは地味で質素だが、いかにも爽やかなすがすがしさを発散している。花尽し、バラに埋り、その雰囲気はまことに情趣に溢れ、前述の種々の楽器の音にのって思い思いに踊っているようでありながら、乱れを見せず、つづまやかな流れをつくっている。
どの群を見ても、遠巻きに囲むようにして、村の若い衆がまっ白のリンネルをまとい頭には綾織りのはちまきを締めてたかっていた。親戚であったり知人であったり、それぞれの村の隣近所の連中なのであろう、小太鼓(タンボリル)をたたく者、横笛(フラウタ)を吹く者、サルテリオ琴を弾く者もいるかと思えば、ソナーハスを打ち鳴らす者、アルボーゲ笛(5)を吹く者もいる。これらの音の総和がひとつの音となり、音楽が目的とする調和をかもしだして心を楽しませるのであった。
さてこれらの群、もしくは踊る娘のかたまりのひとつが巡礼の一行の前を通り過ぎようとしたとき、土地の村長らしい、後刻そうと察せられる男が娘のひとりの腕をつかんで引き止め、頭のてっぺんから爪先までジロジロながめた末、声を震わせ、目をむいて言った。
「なんとなさけない、トスエロ。おい、トスエロ。恥を知れ、ろくでなし。今日の舞踊祭をなんと心得ておるか、冒涜もはなはだしい。かけがえのないお祭が台無しだ。こんなバチあたりをお許しくださる神がいると思うか。これがわが娘のクレメンタ・コベーニャの仕組んだ芝居ということになれば、噂は金聾(かなつんぼ)にだってまる聞えだ。言わないことではない」
と言い終らないうちに、もうひとりの村長(6)が登場して言った。
「ペドロ・コベーニョさん、聾にまで聞えればそいつは奇跡というものだ。しかしわしとあんたは、おたがいの言い分を聞き合いっこするだけでいいじゃないか。まず、うちの息子のトスエロが何をしたと言うんだね、ずいぶんとお怒りのようだが。もしあんたの目に照らして罪になることをしでかしたとしても、裁くのはわしだ。息子を懲らしめる権限も方法もわしが握っている」
これに対してコベーニョがこたえた。
「罪はとっくに明らかだ。男のくせに女の恰好をしている。それもただの女ではない。御殿女中が祭に着る服装だ。トスエロ殿、これでも罪はとるに足りないと思われるか。わしも、娘のコベーニャがこの辺をうろついているんじゃないかと気が気でない。というのは、あんたの息子が着ているこの衣裳は、どう見てもうちの娘のものだからだ。それに悪魔めがこの隙につけいって、したい放題にし、わしらの知らん間に、しかも教会の祝福も受けさせずにふたりをくっつけるようなことになったら困るじゃないか。親に内緒のなれあいどれあい結婚で、うまくいった前例があるかね。教会裁判所の人間にうまい汁を吸わせるのが落ちじゃないか。目が飛び出るほどふんだくるんだから」
これに対して、トスエロに代って、その場に立ち止って耳を傾けていた多数の百姓娘のひとりが口をはさんだ。
「じつを言うと、村長さん、マリ・コベーニャはトスエロとできちゃって、もうトスエロのマリになってるし、トスエロはマリのトスエロになってるのよ。うちの母さんが父さんのもので、父さんが母さんのものであるのと同じ。マリはもう身重(みおも)で踊ったり跳ねたりできるからだではないわ。ふたりを一緒にしてあげなさいよ。そしたら悪魔は糞食らえ、できたことはできたこと、天からの授かりものを教会が祝福してあたりまえ」
「なるほど」トスエロがこたえた。「あんたのいうとおりだ。両人は似合いの夫婦ではないか。ちゃきちゃきの譜代教徒(7)ということでも肩をならべているし、財産も同じ物指しではかれる間だ」
「そんならそれで」コベーニョがこたえた。「娘をここへ呼んでもらいましょう。本人の口からはっきりしたことを聞きたい。口重(くちおも)ってわけではないんだから、うちの娘は」
そこへコベーニャが来た。すぐ近くにいたのだ。開口一番は、
「この崖で躓(つまず)いて転落した女の、わたしは初めでも終りでもないわ。トスエロはわたしの亭主でわたしは女房。父さんたちが許してくれなくても神様に許していただくわ」
「わかった、わかった」父親が言った。「恥はウベダの丘(8)に紛れこませて、よくもしゃあしゃあと。しかし、できたものはしかたがないし、あとへ退けないというのなら、万事トスエロ殿にお任せして進めていただこう」
「さすが」さきほどの村娘が言った。「コベーニョ村長はダテに年をとってらっしゃらないわ。この子たちまだ式を挙げてないんだから、さっそく済ませてやってくださいよ。われらの母でまします神聖教会のお指図どおり、一心同体にさせておやんなさいよ。わたしたちは楡の広場へ踊りに行くわ、せっかくのお祭が独身ごっこのままごとに邪魔されちゃたまらないもの」
トスエロはこの娘に同意し、男のわらべと女のわらべがその場で夫婦を契って、めでたく一件は落着し、祭もつつがなく進行した。それにしても、揉め事がすべてかくのごとく真実によってあっさりと処理されてしまうと、涎を垂らして待ちかまえる裁判所の書記の筆もからからのボサボサに乾いて、商売は乾上がったりであろう。
ペリアンドロとアウリステラ、そして一行のみんなもこの縁結びの係争を愉快に見物した。百姓娘たちの美しさにも感心した。一つに括って見ると、そこには人間の美しさの原点、中間、極致がそろっているように思えた。
ペリアンドロはトレドへは寄らずに先を行こうと言った。アントニオがそう願ったからである。彼は、早く故郷へ帰りたい、両親の顔を見たい、という気持に急き立てられていた。すぐ近くまで来ているし、トレドを見るにはいまの慌しい旅程では無理がある、見所を堪能するにはもっと暇がいると彼は言う。これと同じ理由で、当時都が置かれていたマドリードへも回らないことにした。そこにどんな面倒が待ち構えていて先の道中の妨げになるやもしれない、と考えたからでもあった。さらに、年配の巡礼女が言うのに、都のおちこちに、大物顔役の小せがれのちんぴらが親の威光を笠に着てのさばり、嘴の黄色いひよっこのくせに、美しい女とみると身分家柄おかまいなく飛びかかってかもにするとか。気紛れの遊び相手に人品骨柄は求めない。器量に食いつくそうだ。これに加えて父アントニオが言った。
「そういうことであれば、鶴の知恵をみならわなくては。渡り鳥の鶴がリマボの山を越えるときのことですが、山中には彼らをえじきにせんとして猛禽が待ち伏せています。ところが鶴はこの危険を予知してそこを飛ぶのは夜中にし、さらに一羽一羽があらかじめ小石を口にくわえます。うっかりにも声を出して感づかれては命取りになるからです(9)。鶴でさえこうですから、われわれはもっと頭を。いまのわれわれにとって最高の道はこの名流の岸をどんどん歩くことです。トレドの町は右手に見送って、またの機会にとっておき、まっすぐオカーニャ(10)へまいりましょう。わが故郷キンタナール・デ・ラ・オルデン(11)はその先です」
アントニオの組んだ旅程を見て、女巡礼は、自分は気ままに自分の道を行くことにすると言った。麗しのリクラは女に金貨二枚を与えて布施とし、女は丁重に礼をのべて一行と別れた。
われらの巡礼の一行はアランフェス(12)を通った。その景観は、折しも春のことであったので、一行を感嘆と同時に歓喜させた。広い相似形の通路があって、青々とした無数の木々が垣根や防壁の役を果していた。その緑はあざやかなエメラルドのようである。
エナーレス(13)とタホの両名流が交わり、くちづけし、抱き合うところも見える。一行は山脈をかたどる噴泉をながめ、庭園の調和、花の種類の多いことに感心して溜息をついた。池も見た。住む魚は砂の数より多い。うまそうな果樹の園も見た。枝は、幹にかかるたわわな重荷を軽減してやろうと思ってか、地面を這っているほどだ。ひととおり見てからペリアンドロは思った、世界にひろがるこの名勝の評判はほんものだ、と。
一行はそこからオカーニャの町へ行った。そこでアントニオは両親がまだ健在だと知り、次に見るように、他にもいろいろと朗報をえた。
第九章
故郷の空気を胸にしたアントニオは、浮き立つばかりに心がはずんだ。また、エスペランサの御聖母院(1)を参拝した一行は法楽にひたった。リクラも息子も娘も胸がわくわくしていた。母は舅夫婦に、息子と娘は祖父母にもうじき会える。両親がせがれの不在を嘆きかなしみながらもまだ生きていることは、すでにアントニオ自身が情報を得て知っていた。あのときの諍いの相手は親の領地を継いだが今は故人になっている、ということも彼の耳に達していた。またアントニオの父と故人の間には和解が成立しているという。決闘の複雑な定め書きにもとづくさまざまな検分の結果、アントニオが相手に加えたとされていた恥辱は実は恥辱ではないということが証明されたのだ。争いの中で言葉をかけたときアントニオは剣を抜いていたわけだが、そもそも白刃のきらめきは言葉から力を奪うものである。したがって抜剣して吐いた言葉は人を侮ることにはなるが辱しめる力を持たない。それゆえ、そういう状況の言葉に対して意趣晴らしをしようとする者は恥辱をそそいでいると思うべきではない。次の一例に明らかなように、相手の侮蔑を懲らしめると解釈すべきである。
わたしがある明白な真実を語ったと仮定しよう。ところがもの分りの悪い男がいて、それは嘘だ、何度繰り返そうが嘘であることに変りはないと言い張って剣をぬき、どこまでも嘘つき呼ばわりをやめないとしよう。このとき嘘つき呼ばわりされた側のわたしとしては、語った真実を弁明する必要は全然ない。真実はあくまで真実であるからだ。しかし、わたしに対する無礼は懲らしめる必要がある。すなわち嘘つき呼ばわりされた者は、その相手に堂々と決闘を申しこむことができるのだ。恥辱を受けたわけではないので、それをそそぐまでは誰とも決闘できないという掟はここには介入しない。いまも言ったように侮蔑と恥辱の相違はきわめて大きいのである。
要するに父親と相手のつきあいが深まり、ふたりが懇意の間柄になってから事のおこりをくわしく調査した、ということをアントニオは知ったのである。これらの朗報を得て不安が消え去り心も軽くなったアントニオは、翌日道連れともども先をいそいだ。昔の一件の後日談は知りえたかぎりを一行にも話した。自分を仇と狙っていた人物の弟が、兄の跡目を継ぎ、亡き兄と同様に父との親交を保っているという。アントニオは父親に自分が息子だということを不意には知らせず、再会の喜びを大きくするためにも、遠まわしに名乗ることにした。人は突然の不幸の衝撃がひどくて死ぬことがあるが、喜びもあまりに思いがけないと殺生能力がある。
三日後の暮色の中を、一行はアントニオの村、父の家についた。父は母といっしょに通りに面した玄関口に腰かけていた。あとでそうと知れたわけだが、初夏の暑い時期であったので、いわゆる涼をとっていたのである。一行はそろって門口に立った。父親に最初に声をかけたのはアントニオである。
「もしやこの村に遍路の宿はありますまいか」
「村はみな教徒でございますから」父がこたえた。「どの家も遍路宿のようなものですが、かりにないとしても、うちがあります。十分広うございますから、村中に代ってお泊めできます。わたくしどもにもどこかの旅の空に身内がおりましてね、いまごろやはり宿をさがし歩いていることでしょう」
「ご主人、もしかしたら」アントニオがたずねた。
「この村はキンタナール・デ・ラ・オルデンというのでは。だとすればここに郷士で、ビリャセニョール(2)の姓はありませんか。じつは、ずいぶん遠い国でのことですが、たしかビリャセニョールというお方に懇意にしていただいたことがありまして、もしその方がこのあたりにいらっしゃるのなら、わたくしも道連れの者も宿の不自由はないのですが」
「それで、名は何と申しました」母親が口をはさんだ。「お知り合いのビリャセニョールは」
「アントニオです」アントニオがこたえた。「そしておやじ様の名前はたしか、ディエゴ・デ・ビリャセニョールだと聞いた憶えがあります」
「なんですって、そんなら」母親はとびあがって言った。「そのアントニオはわたくしどものせがれです。ふとした災難がもとで十六年前に村を出ましたが、わたくしどもは涙の涸れるまで泣き、吐息の尽きるまで嘆き、声のかぎり祈って帰りを待っております。この目が常闇の夜のとばりにつつまれる前に一目会いたいのです。それで」母は続けた。「お会いになったのはいつごろです。別れてずいぶん経ちますか。達者でおりますか。国へ帰ると申しておりましたか。親のことは覚えておりましたか。もういつだって帰ってこれるんですよ。あの子を仇と狙う人はもうおりません。あの子をこの土地から追い出した人たちも、いまではみんな友達になっているんですよ」
このやりとりを一言のがさず聞いた老父は大声で下男を呼び、部屋に明りをともして、ありがたい遍路の一行をお通しするようにと命じておいて、わが子とは露知らずアントニオをしっかりと抱きしめて言った。
「何を知らせてくださるからお泊めするというわけではありません。こうしておいでくださるだけで宿はお貸しいたします、ここをお通りになるお遍路さんはみなお泊めすることにしているんですから。それにしてもうれしい便りをお持ちくださいました、元気が湧いてきましたよ。張り切っておもてなしさせてもらいましょう」
召使いたちはこのときすでに灯をともし、一行を家の中に招き入れていた。中庭があって、そこへ美しい清楚な娘がふたりあらわれた。いずれもアントニオがいなくなってから生れた妹である。ふたりは美しいアウリステラと、じつは姪にあたるすずやかなコンスタンサ、美貌の義姉リクラを迎えてくちづけの挨拶を交した。ところが、はじめに声をかけた新来の客が両親と肩をならべて入るのを待っているところへ、あわただしい人の群が入り込んできた。見ると椅子を担いでおり、上には男がひとり死んだようにぐったりとすわっていた。娘たちにはそれがおじ(3)を仇と狙っていた人の跡をついだ伯爵だということがすぐにわかった。
あわただしい人の動きや両親の混乱、新来の客を迎えての接待もあって姉妹は騒動のわけを誰に尋ねればいいかも分らず、おろおろするばかりであった。アントニオの両親は伯爵のそばへかけつけた。背中に銃弾を受けている。村に宿営していた二中隊の歩兵と村の衆がおこしたいざこざに巻きこまれて、背から胸へ撃ちぬかれたのである。伯爵自身が撃たれたその場で友人ディエゴ・デ・ビリャセニョールの家へ運ぶように家来に命じたもので、運んできたときがちょうど息子とその嫁、ふたりの孫、ペリアンドロ、アウリステラたちを招じ入れようとしていたところであった。アウリステラはアントニオの妹たちの手をとって、騒動から離れたところで人目につかない部屋があれば、自分をそこへつれていってほしいと頼んだ。
ふたりは頼まれるとおりにしたわけだが、アウリステラを見ては飽くことを知らずその類ない美しさに溜息をついた。
コンスタンサは胸の中で湧きたっていた肉親の血にひかれて、叔母にあたるふたりのそばを離れたくなかったし、離れられなかった。三人の年恰好は同じで、美しさでも肩をならべていた。若いアントニオにしても同じ気持であって、彼は行儀作法も客としての礼儀もうっかり忘れて無邪気にはしゃぎ、そのあまり叔母のひとりに抱きついた。すると見咎めてこの家の下男が言った。
「巡礼のおかた、失礼ながら、お手をおはなしください。この家のあるじは悪ふざけをお許しになる方ではございません。ぶしつけ破廉恥はすてておけませんから、こちらとしては無理にでも手を戻していただきますよ」
「なにをおっしゃる、兄弟」アントニオはこたえた。「これはまだほんの手はじめで、本番はこれからさ。できれば神さまの手もお借りしてこちらのご婦人方をはじめ、この家の衆みんなと仲よしになりたいと思っているんだよ」
このころすでに重傷の伯爵はりっぱな寝台に横たわり、外科医がふたりよばれて血を止め傷を見たが、どちらも致命傷の診断を下し、人間の手には負えない、と匙を投げた。
村中が武器をとって兵隊たちと対決する構えであり、兵隊の方は、来るなら来い、と村人が攻めてくればすぐに応戦できる態勢についていた。隊長の苦心の説得も、村の僧侶や神官の懸命の奔走も、騒ぎを鎮めるにはまったく効き目がなかった。民衆というものは些細な動機で騒動をおこすことが多く、それはあたかも波のように増大する。海の波は穏やかな風に動かされて次第に高まり、やがて北西の烈風レガニョン(4)が西の軟風ゼプュロス(5)をとらえて大旋風に巻き込むころには、天にまで届くのだ。その天が早々に朝を呼び寄せたころ、隊長たちは賢く慮って兵を移動させた。村人は兵隊に対する憤懣が癒されず遺恨があったが、村境にとどまった。そのあいだにもアントニオは小刻みに、ゆっくりと、ときには突飛なことをして両親を驚かせながら正体をみあらわし、これが孫、これが嫁と紹介したのであるが、見つめる老父母の目には涙が噴いた。またアウリステラの美しさ、ペリアンドロの凜々しさも満面これ驚嘆といえるほどのおどろきをさそった。
思いがけない、それだけに量りしれない喜びであった。息子たちの突然の出現は伯爵の不幸が落す翳をうすれさせ、ぼやかし、なかったかのように忘れさせたともいえよう。伯爵は刻々と危うくなっていた。それでも父は息子たちを伯爵に紹介し、傷が癒るまでこの家で養生し、必要なものは遠慮なくお使いくださいと申し出た。伯爵は動こうにも身動きできなかった。所領まで運べそうもないほど容態が悪く、恢復の望みは薄れるばかりであった。
アウリステラもコンスタンサも、根がやさしいので伯爵の枕辺を離れるに忍びなかった。それゆえ、医者が患者をひとりにしてやるよう指示し、少なくとも女性の付き添いはまずいと言ったにもかかわらず、教徒としての思いやりと労りの精神からも放っておけなくて、つききりで看病に尽した。しかし、天の御配慮はわれわれ人間には根拠をあかさないままに地上のことがらを秩序づけ、処理するものであり、このたびは伯爵の生涯が末期に至るように望まれ、かつお取り仕切りになったのである。そんなある日伯爵は、命との別れに先立ち、生きながらえることの不可能をさとって、ディエゴ・デ・ビリャセニョールを枕辺に呼び、ふたりきりになって次のように言った。
「わたしはローマへ行くつもりで家を出ました。今年は教皇の大本山宝物殿御開帳の年で、大赦の聖年でもあるので、その名にたがわぬ無限の慈悲にあずかれます。わたしは富裕の騎士としてではなく、一介の箪食瓢飲の巡礼として身軽な出立ちで歩いておりました。そしてこの村を通りかかったのです。ところがご承知のように、ここに宿営していた軍隊と村の衆の間に衝突があって、それに巻き込まれ、他人の命を救おうとしておのれの一命を落すこととあいなりました。善意が裏切られて負った傷とはいえ、その傷が刻々と命を縮めています。誰にやられたかは判りません。民衆は騒動をおこすと見境がなくなるようです。わたしは自分ひとりの死は辛くありませんが、お上の裁きとか仇討ちという名目によって他にもたくさんの命が消されるのが心配です。それはともかく、騎士としてキリスト教徒として、自分に関わることはできる限り片付けておく意味で、わたしをこんな目に遇わせた下手人と共犯者をすべて許すと言っておきます。また、こちらで受けたご恩は感謝に堪えません、身の程を尽してお礼させていただきます。この気持はありきたりの方法では表しきれません。考えに考えてのことですが、そこに旅行カバンが二個あります。着替え類と、たいした嵩ではありませんが、金貨と貴金属で二万ドゥカード(6)ばかりが詰っています。それで足りなければ、ポトシ(7)の山腹が抱く巨宝もことごとく同じ目的に当てます。わたしが生きているうちにお受け取りください。というのは、孫殿ドーニャ・コンスタンサに受け取っていただきたいのです。結婚の支度金としてさしあげる。持参金にお使いください。ついでにこの手で婿の世話もさせてもらいます。相手はほどなくこの世の者ではなくなるが、残る孫殿は高貴の未亡人となり、同時に高貴の家の娘ともなるはずです、孫殿をここへ呼び、わたしとの縁を結んでくれる然るべき人をおつれ願いたい。孫殿には品格も、信仰心も、美貌も、世界の元后の座にふさわしいものがあります。驚かれるには及びません。耳をお疑いあるな。有爵と郷士の娘との縁組は前代未聞のとっぴな思いつきではないはず。孫殿には女性として世のきこえをこよなく高める淑徳がそなわっている。これは天の御意です。わたしの望むところもこれに傾いています。あなたを察しのよいお方と見込んでの頼みです。よもや反対なさるまい。なにもおっしゃらず、いますぐ孫殿と縁を結んでくれる然るべき人を呼んでいただきたい。金銭や貴金属の譲渡や婚姻の手続きをする者もいっしょです、後日に禍根を残さないためにも」
ビリャセニョールはこの言葉に耳を疑った。伯爵は正気を失っている。そう信じて疑わなかった。最期がいよいよ間近いと思った。こういう時期にはすばらしい箴言が聞かれるか、あるいはおそろしい世迷い言が飛び出すかである。そこで、ビリャセニョールは次のようにこたえた。
「わたくしどもはご回復を心からお祈りしております。元気さえ戻ればお目の雲も晴れ、お怪我でうなされることもないでしょう。お譲りになろうとしている財産がどれほどで、奥方をどこから迎えようとしているかがはっきりと分るはずです。あなたさまと孫めとでは身分がちがいます。縁のできる近しさではありません。奥方におさまるなどとんでもありません。また、せっかくの名利ではありますが、わたくしはそれを孫で買うほどさもしい男ではございません。そんなことをしたらただでさえ口さがない世間がなんと申しますか。あなたさまを引っ張り込んだとか頭を狂わせたとか、取り入ったのたらし込んだのと囁く声が、もう聞えております」
「言わせておけばいい」伯爵は言った。「世間というやつは、どこに目がついているやら。あなたを見る目だってあやしいものだ」
「分りました。それでは」ビリャセニョールは言った。「戸を叩いている幸運を追い返すほど、うつけ者になる気はありませんから」
こう言って部屋を退き、伯爵の言ったことについて、妻と孫、それにペリアンドロ、アウリステラとも相談した。みんなの意見は、迷うことではない、願ってもない好運だからためらわずに掴むべきだ、然るべき人をすぐにも呼んで事を進めようと一致した。
それはさっそく実行に移され、二時間と経たないうちにコンスタンサは伯爵の奥方となった。金銭も宝石類も彼女の所有に移された。その場で可能ないっさいの手続きも認定もすんだ。結婚式には、音楽ではなく泣哭と哀号とが奏でられた。伯爵の命が刻々と終焉に近づいていたのである。そしてついに結婚の翌日、すべての秘蹟を授かったのち伯爵は新妻コンスタンサの胸の中で息をひきとった。コンスタンサは黒いベールを被(かず)き、跪座し天を仰ぎ見て、
「わたくしは誓って……」と言ったが、それが終らないうちにアウリステラがさえぎった。
「何をお誓いになるのです、奥方」
「尼になることを」伯爵夫人がこたえた。
「それもよろしいでしょう。しかし、いま誓うのはおよしなさい」アウリステラが言った。「神におつかえする仕事はせっかちに決めてはなりません。成り行きに振り回されるようでもいけません。旦那さまのお亡くなりになったことで、おそらく実行できない、また果したくないことをお誓いになろうとしたのでしょうが。お気持は神さまとご自身のお手に素直にお任せなさい。ご聡明なあなただし、ご両親もお兄さまも賢いお方ですから、じっくりお考えになれば、あなたにとっての最善の道が開けてきますとも。だから今は旦那さまのお葬式の手筈をととのえることにして、あとは神様にお任せすればいいのです、思いがけなく伯爵夫人にしてくださったお方なんですもの、いっそう名誉のある称号を授けてくださることも考えられます。今の称号より長続きのする、いっそう位の高い身分にしてくださるにちがいありません」
伯爵夫人はこの意見に納得して従った。そして伯爵の葬儀の段取りをととのえたところへ、故人の弟のひとりがやってきた。遊学の地サラマンカ(8)で兄の死報を受け取ったのである。弟は兄の死を悼んで泣いたが、その涙も領地を相続できるうれしさでたちまち乾いた。もちろんその場で右の事実を知るわけであるが、とにかく兄嫁を抱きしめ、不満はかけらも見せなかった。そして亡骸はいずれ引き取ることにして、とりあえずここに預けたまま都に向けて旅立った。兄の殺害者に対して裁判を要求するためである。訴訟はすすめられて、結局、隊長の首がはねられ、村人の多数も罰せられた。この間にコンスタンサは結納金と女伯爵の称号を得た。ペリアンドロは旅を続ける準備をととのえた。これから先は、父親アントニオも妻リクラも、これまでのたいへんな巡礼行で疲れていたので同道を望まなかった。しかし、息子アントニオもなりたての女伯爵も疲れをみせず、ふたりがアウリステラとペリアンドロに同行しないなど考えられないことであった。
一行の旅の体験を描いた絵巻は、まだ祖父の目には触れていなかった。そこで、ある日アントニオがそれを披露したのだが、描き落しがあると言った。アウリステラが蛮人島へ来るまでの足取りである。アウリステラとペリアンドロはこの島で、一方が男装、他方が女装というあべこべの奇しき変身をとおして巡り会ったのだ。アウリステラが掻い摘んで物語ることとなった。つまり事情はこうである。アウリステラとクロエリアと漁婦ふたりはデンマークの海岸で海賊に攫われたわけだが、そのとき海賊どもは獲物を分けあうためにさる無人島へやってきた。ところが、「均等に分けることができなかったので、頭目格のひとりが、取り分はわたしだけで十分だと言って、そのうえに歩(ぶ)さえつけて公平をはかりました。こうしてわたしは彼の手に渡りました。ひとりぼっちで、不運をともにしてくれる道づれはありません。この男はわたしに男装をさせました。女の姿では風が言い寄る(9)、と思ったのです。何日もこの男に連れられてほうぼうを歩き回りました。わたしは女の大切なものが脅かされない限りにおいて、その男に仕えました。こうしているうちに、ある日蛮人島へやってきたのです。そこで突如、蛮族に捕われ、男はわたしを守ろうとして手向かって殺され、わたしはたくさんの人が囚われている洞穴に連れていかれました。そこで傷ましいクロエリアに会いました。クロエリアはわたしに劣らぬ不運の数々を経てそこに連れてこられたもので、彼女の口から蛮人たちの性質とか、彼らが守り続けている恐ろしい迷信のこと、それに、眉唾のふざけた予言のことなどを聞きました。同時に、その深い地底に兄のペリアンドロがいるらしいということも聞きました。蛮族は兄を生贄にするために穴から出したそうですが、大急ぎだったので、クロエリアのほうから声をかける間がなかったそうです」そこでアウリステラは男装していたのを幸い、その人物のそばまで行って事実をたしかめたくなったという。クロエリアはそれを止めようとした。しかしアウリステラはそれを振り切って実行した。本気で蛮人たちの贄になる覚悟であった。いっそひと思いに命が果ててくれたほうがいいと自分に言い聞かせた。分を刻むように命の危険にさらされて、その度に死をなめさせられるよりもましだと思ったのである。これ以上アウリステラが語る必要はなかった。その後のアウリステラに何があったかは誰もが知るところであったからだ。
ビリャセニョール翁は今の話をそっくり絵に加えることを望んだ。しかしみんなの意見は、加えないだけでなく、すでに描かれた部分も全部消してしまうべきだと一致した。なぜかというと、あれほど壮大稀有な出来事であるから画布のように傷みやすいので流布されるのはもったいない、銅版画に彫っておくか、人々の記憶に刻んでおくべきだというのである。
それでもなおビリャセニョールは絵巻きをとっておきたかった。孫や、類ないアウリステラの美貌、ペリアンドロの凜々しさが見事に描いてあったから、その絵姿を見るだけのためにも保存しておきたかったのだ。
ローマに向けて発つ準備をととのえるうちに数日が経った。大願成就の誓いを果せる日が待ち遠しい。父親アントニオは残ることにしたが、息子は留まりたくなかった。なりたての女伯爵もその決意の程では劣らなかった。というのは、すでに言ったように、彼女がアウリステラに寄せる好意はきわめて強く、ローマへどころか、つれだって行けるものならあの世へまでもいっしょに行きたい気持であった。出発の日になった。袖は涙にしぐれ、名残り惜しげな抱擁が交された。とりわけリクラの涙は痛々しかった。離(さか)りゆく息子たちを見送っていると胸が裂かれるようであった。祖父は一行にはなむけをした。年寄りの祝福は縁起をよくする特権があるのかもしれない。道中の世話をするよう、屋敷の下男がひとり供としてつけられた。かくして発足となった。家には寂寥と父母が残り、一行は悲喜こもごものうちに先を続けることとなった。
第十章
長い巡礼には多様な出来事がつきものである。多様性とは様々な異質な事柄から成り立っていることであるから、必然的に事件はそれぞれが異質なものになる。
この物語はその事実を如実に示していよう。ここで起きる事件のなかにはややもすると話の筋糸を断ち切るものもあり、われわれはそれをどこで継げばよいか、はたと迷ってしまうわけである。したがって出来事はどれもみな語るに適したものとはかぎらないということになる。語らずにすむものがある。語らないからといって、物語が損なわれるとはかぎらない。あまりにも畏れ多いゆえに黙っておくべき事柄もある。また、卑俗に過ぎるゆえに言ってはならないこともある。しかしながら物語にはもともと真実という味がそなわっているから、そこで書かれることはなんでもその味に染まっていくとも言え、それが物語のよさであって、作り話にはないものである。作り話の場合、筋ごしらえは狂いなく味付けは念入り、そこへまことしやかさをあしらうのがミソで、そうすれば悟性とは息の合わない嘘というネタを丸めているにもかかわらず真の調和ができあがる(1)。
さて、右の真実を借りて言っておこう。麗姿を揃えた巡礼の一行は道中を続けていくうちに、大きくも小さくもない、その名は思い出せないが、とある村里についた(2)。村には広場があって、通らないわけにはいかないところになっているが、その広場に行きかかると、中央に大勢の人が集まっていた。中に若いふたりの男がいて、周囲の耳目もそこへ引き寄せられている。ふたりは捕虜生活から解放されて間もない姿をしており、絵図を地図にひろげて講釈のさいちゅうである。すぐそばには重そうな鎖が二本あって、ふたりが担いできたものとみえる。重苦の逆境を物語る勲章といえよう。ひとりはまだ二十四、五にもなっていまい。それがよく通る声で、弁舌この上なく老練にふるいながら、手にした河馬皮、わかりよく言えば鞭(むち)をときおり唸らせ、その音が耳に突き刺さり宙に炸裂している。御者が馬を叱り脅しつけるために鞭で空を打つのにそっくりである。
長口上をきく聴衆にまじって、この村の村長がふたりとも居合せた(3)。いずれも年配の男であったが、一方はいくぶん若い。鎖を解かれた捕虜の講釈の第一声はこうであった。
「さて、村の衆、これにごろうじるはアルジェの町の図である。地中海の健啖、底無しの腹と呼ばれ、さらには、海賊の国際的策源地、盗賊の根城、逃げ込み場としても知られている。賊はこちらに描かれた小さい港から船出してヘラクレスの柱(4)の彼方プリュス・ウルトラへと大胆に乗り出し、七つの海を荒し回るわけであって、果てしない大洋に囲まれた遠海の島々の住民が、トルコくんだりから海賊がこようなど、夢思わず安穏に暮しているところを襲って掠奪することさえある。さてこちらの船だが、ちっぽけなのは絵だからご辛抱願うとして、じつは縦列に並んで二十とふたつの座を備えるガレオタ船(5)である。船主であり、船長でもある男は、舳(とも)から艫(へさき)への通路に突っ立つトルコ野郎で、手に一本の腕を持っているね、あれは、それ、そこにいるキリスト教徒の腕をばっさり切り落したもの。あれを鞭か笞(しもと)みたいに振り回して、座につながれている他のキリスト教徒をぶん殴って回る。なぜかというと、こっちに四隻のガレー船が見えるが、これが執拗に追い迫っており、もうそこまで来ているので捕まってはならじと慌てている。そちらに見える最前列の捕虜にお目を移していただこう。顔はさっきの腕の切れっ端で打擲されて人相も分らぬほど血だらけだが、あれはこのガレオタで舳座をつとめた小生で、その横にいるのがこちらの相棒だよ。小生ほど血にまみれていないのは、さほど殴られなかったからと言っておこう。ほらほら、耳を澄ませば聞こえる。語るも涙のこの物語に泣いてくださるおひとならかならずや、凄まじい威嚇やら罵声が耳に届いていることでありましょう。あれこそは、このガレオタの艦長でドラグ(6)と呼ばれる、犬畜生の吠える声。残忍非道を看板にしているだけに、その残酷はシチリアの暴君ファラリスにもブシリス(7)にも劣るものではない。いまも今、少なくとも小生の耳には、ロスペニ、マナオラ、デニマニョク(8)という言葉が聞えてくる。やつが悪魔のごとく猛り狂って吐き散らすトルコ語で、どれもこれもキリスト教徒の捕虜を罵倒し侮辱するために向けられたもの。われわれをユダ、腰抜け、邪宗徒、糞ったれと罵るのである。さらにひどい脅しの手は、死に腕を鞭にしてわれわれ生き身の人間を打ちのめす手だ」
村長のひとりはどうやら長い間アルジェに抑留されていた体験があるらしく、小声で同職にささやいた。
「この男の話には、これまでのところは怪しいふしはなく、全体としては捕虜を騙っているようには見えないがね、細かいところを突っついたときに何が出てくるか、それが楽しみだ。じつは何を匿そう、わたしはあのガレオタにいたんだよ。しかし、舳座にあんなやつがいた記憶はない。アロンソ・モクリンとかいうベレス・マラガ(9)出身の男ならいたが」
こう言って捕虜に向かって声をかけた。
「お若いの、おまえさん方を追っていたのは誰のガレー船だったね。それで、そのときに晴れて解放されたのかね」
「ガレーは」捕虜がこたえた。「ドン・サンチョ・デ・レイバ(10)の船で、解放はそのときではありません。追いついてくれなかったんですよ。救われたのは後のことです。われわれはガレオタを一艘奪って逃げました。サルジェ(11)からアルジェへ小麦を積んでいく船でした。それでオラン(12)へ行ってそこからマラガへ渡り、そこでわたしと相棒はイタリアに向かって旅発ちました。軍隊で亡き陛下にご奉公をと思ったのです」
「ひとつ聞きたいんだが、おまえさん方はいっしょに捕まったのかい。それで、直接アルジェへ連れていかれたのかい。それともベルベリア(13)の別の方面へ連れていかれたのかね」
「いっしょに捕まったわけではなくて」相棒の捕虜が言った。「わたしはアリカンテ(14)の沖でジェノバ行きの羊毛船に乗っていたところを拿捕され、相棒はマラガのペルチェレス(15)でした。あそこで漁師をやってたんですよ。われわれが知り合ったのはテトゥアン(16)の地下牢でした。おたがいにいい相棒で、長い間運命を共にしてきました。それにしても、この絵で頂戴した布施(ほどこし)はほんの十か十二の半端銭なのに、締めつけがきつすぎはしませんか、村長さん」
「なんの、なんの、お若いの」村長がこたえた。「本番はこれからだ。もうひとつ聞きたいんだが、きりきりと教えてくれるね。アルジェには門がいくつかあったかね。噴水はいくつで、真水の出る井戸の数は」
「こりゃまた、ばかばかしいことをおたずねで」先の捕虜がこたえた。「門は家の数だけあったっけ。噴水は数えきれず、井戸はいちいち見て回ってたら日が暮れる。だいいちあちらでは辛いことばかりで、記憶もからからに涸れ果ててしまいました。村長さんがあくまでキリスト教の慈悲をお解しくださらないお方なら、われわれはこの端銭(はしたがね)をあつめて店をたたむとしよう。ご当地とのご縁はこれまで、稼ぎ場はなにもここだけじゃないんだから」
すると村長は、ひとだかりの中にいた男をひとり呼び寄せた。見たところ村の触れ役らしい。たぶん、出番がくれば仕置人もつとめる役回りだろう。村長はこの男に言った。
「ヒル・ベルエコ、広場をひと回りして最初に見つけた驢馬を二匹引いてきな。われらの御主国王陛下のお命にかけて言うが、これなる捕虜のご両人には是が非でも驢馬で町中をお散歩していただくことになりそうだ。しゃあしゃあ抜け抜けと嘘を捏ねあげ、人を騙って、こともあろうに、まことの貧者から布施(ほどこし)を頂戴なさろうという太い御仁でな、しかもおからだは堅固なること林檎のごとくあらせられるから、鞭をびゅんびゅんやらせておくだけではあまりにももったいない。そのお手に、ぜひとも鍬をお持ちねがいたい。実をいうとわたしはアルジェで五年間、捕虜だった(17)。だから言わせてもらうんだが、おまえさんがた、どう見ても捕虜じゃないよ」
「これはまた異なことを」捕虜がこたえた。「村長さん、われわれのごとき素寒貧でも、記憶だけはしこたま貯めおけと仰せられますか。三文の害もないままごと遊びに目角を立てて、われわれほどの優等学徒ふたりまでもの名誉を毀損し、あまつさえわれわれ聖なるカトリック教の怨敵を蹴散らし、切り刻み息の根を止めんがため遠くイタリア、フランドルの地へ馳せんとする勇者ふたりを、畏くも、陛下の御手から奪うおつもりか。よろしい、村長さん、真実は神の御娘とか、こうなったら何もかも申しあげよう。実は、われわれ両人は捕虜とは真赤ないつわり、サラマンカに学ぶ学徒でありまして、学業なかば、しかも佳境にさしかかったところで諸国見聞の旅がしたいと欲するに至り、太平の世は食傷気味であったので、ぜひ一度、戦場の修羅場を踏んでみようと思い立ちました。その矢先のこと、たまたま抑留帰りが二、三人町を通りかかり、それとの出会いからこの願望を実現するお膳立てができました。やはり騙りであったと思われますが、それにかまわずわれわれは彼らからこの絵解きを買い取り、同時に、いんちきを見破られないために必要で十分と思われるだけ、アルジェに関する情報知識を仕入れたのです。それから本とか金目のものはなにもかも捨て値で叩き売り、これなる商売道具一式を背負ってご当地に立ちあらわれたという次第。われわれとしては、これ以上御用がなければ旅を続けさせていただきたい」
「わしとしては」村長が返した。「諸君のひとりびとりにぜひ百叩きを進呈しようと思っておる。それから、フランダースくんだりで長柄の槍を引き摺っていただくよりも、両の手に、水中でよく撓(しな)う櫂(かい)の鰭(ひれ)をお取り付けして掻い掻い船(ガレー)へお送りしたい。そのほうが槍よりめざましい働きができて、陛下にいっそうご奉公ができるというもの」
「村長さんは」口数の多いほうが言った。「アテネの法官を気取っておいでのようだ。職務に厳正だという評判が議会のお歴々の耳に達すれば点数を稼げる。さらには、それほど公正厳格な男ならと信用を買われて重用抜擢されるということですな。しかし、summum(スンムム) jus(ユス) summa(スンマ) injuria(インユリア) 正(セイ)に淫(イン)すは邪(ジヤ)とも申しますがね」
「お若いの、人を見てものを言いたまえ」いっぽうの村長が口をはさんだ。「当地では正義の場に邪淫(ジヤイン)の性(セイ)など混じっとらん。この村の村長は、過去も、現在も、未来においても、みなさんパンの捏ね玉の毛のように清廉潔白で固い者ばかりだ。言葉を慎め、身のためだ」
ここへ触れ役が戻って言った。
「村長さん、驢馬は見掛けませんね、一匹も。参議のベルエコさんとクレスポさんのおふたりならぶらぶらしていましたが」
「馬鹿者、驢馬をつれてこいと言ったのだ。驢馬と参議をいっしょくたにするやつがあるか。しかし、まあよかろう、引き返して、ぐずぐず言わせず、ふたりを引っぱってきなさい。判決を下すときの立会人にする。この裁判は万難を排して決行しなければならん。驢馬が欠席しているからといって遅らせるわけにはいかん。それにしても、この村は驢馬と馬鹿には不自由しないはず。ありがたいことと言わねばならん」
「村長さん、いつまでも固いことをおっしゃっていると」若者が言った。「いい死にかたは望めませんよ。考えてもみてください。神かけて言わしてもらいますが、騙ったのくすねたのといっても、年貢を払えるほども頂戴しましたか。息子に継がせるほどの財産を築いたわけでもない。その日の口を糊するものを頭をつかって稼いでいるだけじゃありませんか。それも職人や日雇いと同じように、決して楽な業ではない。親からその職さえ手につけてもらわなかった子は、どうすりゃいいんでしょう。手に職さえあれば手にまかせるものを、頭にまかせるしかないのです。世間には、鼻薬で食ってるやつらから、屋切り押し込み、追い剥ぎ、金に眩む偽証人、国家のただ飯食らい、浮浪者の数ぶやしにしかならない国家のもてあまし者まで、ダニのようなやつがうようよしている。そいつらをまっさきに懲らしめるのが正道じゃありませんか。腕の力と知恵の切れを陛下のために役立てようとして全うな道をいく貧乏人に、すこしはお目こぼしがなくては救われません。学びの庭から戦場へ移植された兵隊ほど優秀な兵隊がはたしておりましょうか。学生あがりの兵隊がみなズバ抜けていいのは腕と知恵、知恵と腕が結合し、一体となるところに奇跡的な化合物ができあがるからであり、軍神マルテはそれを大いに喜び、平和は維持され国家は強大となる」
ペリアンドロをはじめ、まわりを取り囲んでいた者は、みなこの若者の流暢で達者な弁舌に舌を巻いていた。言葉は続いた。
「村長さん、蚤取り眼(まなこ)でお調べになりたいなら、隅から隅までお気のすむまでどうぞ。見落しがあっちゃいけません、服の縫い目もお忘れなく、徹底的にごらんください。それで、もしもわれわれの所持品の中からほんの六レアルでも出てくれば、百叩きといわず、六百万遍の通し鞭だって受けようじゃありませんか。しかしこれっぽちの端銭を頂戴したぐらいのことで、天下の往来でさんざんに恥をかかされたあげくガレー船でなぶり者にされるとなると、ソロバンがあいません。もう一度念を押しておきますが、村長さん、これは肝に銘じておいてください。仕事熱心のあまり早まったことはなさらんことです。済んでから臍(ほぞ)を噛みますよ。花も実もある判官は罰して罪を憎まず、慎重を旨とし、情を知る判官は正義と情状を斟酌し、厳正と仁慈の間に明哲の光を当てる」
「おどろきだ」一方の村長が言った。「この若い衆、口数は余るが、なかなか足しになることを言う。笞打ちはよそう。わたしはその気になれん。それどころか家へお招きして、これから先の旅のことでご相談にのりたい。ただし溝を外してあちこちふらついちゃいけない、まっすぐな道を行くことを約束してもらう。今後道を外すことがあれば、仕方なかったではすまない。それはもう正真正銘の外道になる」
先の村長も意地が折れ、軟化して、やさしく同情さえこもった声をかけた。
「お宅へとられては困る。ぜひうちへお連れして、アルジェのことをひとくさり伝授してやりたい。そうすれば今後はどう経歴を偽っても尻尾を掴まれることはなかろう」
捕虜はそれに対して感謝の意をのべ、見物の衆は情状のある扱いに喝采を送り、巡礼の一行は粋なはからいに胸のすく思いを味わった。
はじめの村長がペリアンドロに向かって言った。
「巡礼のご一行も絵解きをお持ちなんでしょう、見せてもらいたいな。真赤な嘘で固めたものでもいいんだよ、正真正銘のほんとうみたいな話はないかね」
ペリアンドロは一言もこたえなかった。アントニオが、道中の用意にと身につけていた許可証、免許証、認可証のたぐいを懐中から取り出すのを見たからである。アントニオはそれらを村長に手渡して言った。
「この書類をご覧になれば、われわれが誰で、どこへ行くかもお分りになるはず。書類はいちいち広げて講釈しなくてもよろしいでしょう。われわれは施しを乞う者ではなく、その必要もありません。自由通行者として問題なく通していただけますね」
村長は書類を取り上げたが、字は読めない。だから相棒に渡したが、同じく目に一丁字とてない。書類は書記の手に渡った。書記はざっと目を通し、アントニオに返して言った。
「村長さんがた、ご一行は美男美女ぞろいであることもさりながら、これを拝見するとみなさん立派なかたばかりですよ。今夜はこの村でお過しなら、ぜひうちへお泊り願うことにします。みなさんまとめてお世話させていただきます」
ペリアンドロは礼を述べた。その夜は既にかなり遅かったので一行はその村に泊り、書記宅でもてなしを受けた。掃除のゆきとどいた家で、至れり尽せりの歓待であった。
第十一章
朝がきた。そこで一夜の宿の礼をのべて一行は旅路についたわけだが、村を出るとき、きのうの贋捕虜に出会った。村長からしっかりと入れ知恵されてきたので今後はアルジェのことで尻尾を掴まれることもなかろうという。
「要するに、まあ」ひとりが、口数の多かった方であるが、「たぶん」と口を開いた。「盗っ人には、お上公認の盗っ人とか、お墨付き持ちもいるってことですよ。早い話が、役人には悪党とぐるになって、もちつもたれつうまい汁を吸う悪(わる)もいるわけ」
連れだって、道がふたつに分れているところまで来た。捕虜たちはカルタヘナへ向かい巡礼はバレンシアへの道を行った。翌日、暁光が東雲のバルコニーに顔をのぞかせ、姿をあらわし、空の星々を掃ききよめ、太陽が日々に通う歩行路を飾りつけていた。そのころである、驢馬引きの下男は名をバルトロメといったと思うが、太陽が陽気に晴々しくあらわれて、天空の雲を、これ以上に鮮明で美しいものは願っても見られるものではないと言えるほどさまざまな色に綾取るのを見た彼が、田舎仕込みの教養を披露して言った。
「在所の村で、以前教えを説いていた説教師が言ったことなんですが、あれはほんとうかもしれないです。天界と大地が主の偉大さを告知、顕示していると言いました。わたしが知っている神さまというのは両親や坊様や年寄りの教えてくれたものですが、もしもまだ存じあげていないとしたら、たぶん、果てしなく大きい天界を見上げるたびに、神さまの足跡を辿って、存じあげようとするでしょうね。天界というのはいくつもあるんですって、少なくとも十一とか。われわれの上で輝いている巨大な太陽を見ても神を知ることができるかもしれないんですよ。円盾ほどもあるやなしにしか見えないのに、地球の何倍もあって、しかもそれほど大きいのに足が軽くて、二十四時間に三十万レグア以上も走るという話です。仮にそれがほんとうでもわたしはちっとも信じられないんですが、信用のできる人がたくさん同じことを言ってるので、悟性に無理をさせることになるけれどやっぱりわたしは信じます。それにしても、もっと驚くべきことは、われわれの足の下に別の人間がいるってことですね。対蹠人といって、その人たちの頭の上にわれわれが、こうして上にいる者が足を置いている。ありえないとは思うんですがね。われわれほどの目方の者を乗せるとなると、下の連中の頭は唐金造りでなきゃもたんでしょう」
ペリアンドロはこの若者の雑駁な天文学を笑って言った。
「きみに誤謬を悟らせて、世界の本当の姿を理解させるには、どう言えばいいのかな、バルトロメ、まず、世界の起源にまで遡る必要があるだろう。しかしきみの能力に合せて、きみに分るように簡潔に言おう。それはね、地球が天界の中心であるということを、不可謬の真理として理解すべきだということだ。中心とは、周囲から発したあらゆる線が止る分割不能な一点を言う。これも分るとは思わないから難しい表現はさておいて、ただ、地球はどこへ行っても高いところに天空をもっているということを知るだけで満足してもらおう。そして、地球上どこへ行っても、人間は天空に覆われている。だから今も見ているあの天空はわれわれを覆っているわけだが、やはりあれが、いわゆる対蹠人を覆っている。それを遮るものは全然なく、もちろんながら大自然、つまり天地を造りたもうた真の神に仕える執事が命じたとおりになっている」
若者はペリアンドロの説明を聞いて不快は感じなかった。この話はアウリステラにも伯爵夫人にも、その兄にも興味深かった。ペリアンドロはこんな具合に、講義をしたり旅のつれづれを慰めたりしていたが、そこへ、背後から一台の荷車がやってきた。徒歩の鉄砲隊員が六人ついている。ほかにもひとり、騎馬の者がいる。前の鞍骨に鉄砲がかかっている。それがペリアンドロに近づいて言った。
「もしや、巡礼のご一行、その食糧袋にお分け願える乾果物などありますまいか。きっとお持ちのこととお見受けします。目映いばかりに端麗なお姿から察して、ご一行は無一物の巡礼というより富福な騎士であらせられる。お持ち合せがあれば、護送車で元気をなくしている少年に恵んでやっていただきたいのです。二年間ばかりガレー船へ送られることになっていますが、十二人の兵隊も同罪です。先日、さる伯爵の殺害に加わった廉(かど)で漕役刑を言い渡された者たちです。隊長はもっと刑が重く、都で斬首の判決がおりたはずです」
これを聞いて、麗しのコンスタンサは涙をこらえきれなかった。胸中に、つかのまながら夫であった人の死がまざまざと浮かんだからである。しかし教徒としての慈悲が仇討ちへの欲望にうちかって、驢馬のところへ行き、糖菓の箱を取り出し、荷車に近寄って声を掛けた。
「ぐあいのお悪いのはどちらですか」
これには護送隊のひとりがこたえた。
「あの隅っこに転がっているやつです。車の轅の油を塗りたくって、顔が真黒いのがおりますね。死んだときに死に顔がきれいだといやなんだそうですよ。あの調子じゃ、もう長くはもたんでしょう、とにかく頑固で何も食おうとしないんだから」
こう言っているときに、油だらけの若者が顔をあげ、額が隠れるまで目深に被った帽子のひさしをもちあげた。それはコンスタンサの目には汚なく醜怪にうつった。若者は手をのばして箱を掴み、受けとって言った。
「あなたさまに神の報いが」
そして帽子を被りなおし、もとのように塞ぎこんで隅っこにうずくまった。さっきまで死を待っていた場所である。
ほかにも二言三言巡礼の一行は護送車の監視兵と言葉をかわし、それぞれの道へ別れていくところで会話は終った。
それから数日後、われらの麗しの一行はさるモリスコ(1)の村にはいった。そこは海岸から一レグアほどのところにあって、もうバレンシアの国であった。村には一行が泊れそうな宿はみあたらなかったが、村中の家という家が大歓迎で一行を招いていた。
その様子を見てアントニオが言った。
「この人たちのことを悪く言う者がいるなんて信じられませんね。わたしにはみんな聖人に見えますが」
「棕櫚を立て、諸手をひろげて」ペリアンドロが言った。「主をエルサレムへお迎えした者たちが何日も経たないうちに手の裏を返して、その主を十字架にかけた前例もある。それはさておき、われわれはよく言われるように、神にまかせ運にまかせることにし、招きに応じようではありませんか。それ、そこの人のよさそうなお年寄りが自分の家へ来いと手招きしております」
そのとおりであった。モリスコの老人がほとんど無理やりに一行の上着をつかんで家の中へ引っぱり込み、モリスコ風ではなくキリスト教風にもてなしたいという態度を示した。
老人の娘が一行を世話するためにあらわれた。モリスコ風の装いである。それが似合ってとても美しい。キリスト教徒の中で際立って麗しい女性でも、この娘に似ていればそれを幸いと思わない者はあるまい。大自然は御恵みを配分するにあたっては、蛮族スキタイ(2)の女子も大都トレドの婦女も平等に待遇するのだ。さて、アルハミア語(3)をつかうこの美しいモーロ娘は、コンスタンサとアウリステラの手をとったかと思うと、それを引いて一階の部屋へ隠れるようにはいっていった。そうして三人きりになり、なおも手を放さず、立ち聞く者はないかと用心深くあたりを隈なくうかがった。こうしてひととおり安全を確認すると、ふたりに言った。
「おねえさん方、のこのことまあお人好しの馬鹿羊でもありますまいに、なぜこんなところへおいでになりました、ここは人殺しの家ですよ。あの年寄りは恥かしながらわたくしの父ですが、父があなたがたを丁重にもてなすと思っていらっしゃるのですか。はっきり申し上げて目当てはほかでもない、ご一行のお命です。今夜ベルベリア人の海賊船が十六艘到来します。この村の人々を村ごとと言ってもいいでしょう、ごっそり運ぶためです。とりに戻らなくてもいいように財産もそっくり積みこみます。この村の欲張りどもは、ベルベリアへ渡りさえすれば楽ができるとか魂が救われるとか思い込んでいるのです。これまでも村中で向うへ渡っていった例はたくさんありますが、その後送ってくる便りはどれもみな渡ったことを後悔しているという報告です。きまって、さんざんな目に遭ったという泣きごとが添えてあります。ベルベリアのモーロ人たちは向うの繁栄を宣伝しています。それに乗せられて、こちらのモリスコたちがどっとおしよせ不運の罠にかかるというわけです。ご一行も、生来ご両親から授かった自由なご身分がたいせつなら、不運を避けなければなりません。すぐにここを出て教会へ避難してください。教会にはご一行をお守りしてくれる者がおります。司祭さまです。そのお方と公証人だけがこの村の代々のキリスト教徒です。教会には副助祭のハリフェもいます。わたしの叔父です。名のみモーロで所業はキリスト教徒です。そのかたがたに事情を説明してください。ラファラから聞いたとおっしゃれば、信用して匿まってくれるはずです。冗談ではありません。お聞き捨てにならないでください。酷い目に遇ってから気づいても後の祭で泣くだけでしょう」
こう言うラファラの真剣な表情はアウリステラとコンスタンサの胸を強くとらえ、すべてを信じさせたのでふたりが返した言葉はこの忠告に対する感謝ばかりであった。
ふたりはすぐにペリアンドロとアントニオを呼び、このことを告げた。そして荷物を全部まとめて目立たないようにこの家を出た。バルトロメはゆっくりと休息することを願っていたのでこの宿替えには気乗りがしなかった。がそれはそれ主人の言いつけどおりにした。一行は教会に着き、そこで司祭と副助祭に迎えられ、ラファラから言われたように事情をそっくり説明した。
すると司祭は言った。
「ベルベリアから船が押し寄せてきて、われわれを脅かすようになってから随分になりますから、やつらが襲って来るのは当り前のようになっていたのですが、ここのところあまり来ないので油断しておりました。こちらへおはいりなさい、みなさん、こちらには岩乗な塔があるし、教会の扉は丈夫な鉄張りです、余程のことでもない限りびくともしないし、燃えません」
「わたしはなんとしても」このとき副助祭が言った。「この国にはびこり寇(あたな)う茨と雑草が、刈り取られるところを見届けたい。天文学で博名の祖父が予言した時代はいつ来るのでしょう。イスパニアは隈々まで一致団結して強力なキリスト教の国になると言いました。イスパニアがキリストのまことの真理を尊び迎える孤高の聖城になるのはいつの日でしょう。わたしはモリスコですが、そうではないと言いきれたらどんなにうれしいでしょう。しかし、わたしはあくまでもキリスト教徒です。神にお仕えする者に、神は聖なる恵みを惜しみません。神は、あなたがたのほうがよくご存知でしょうが、善人の上にも悪人の上にもつねに太陽を昇らせ、正しき者にも邪な者にも雨を降らせます。これも祖父が言い遺したのですが、近いうちにイスパニアにアウストゥリア家の王(4)が君臨し、その王の英断によってモリスコ追放の果敢な決意がなされるとか。腸(はらわた)を噛る蛇(くちなわ)を退治するとでも申しますか、小麦から麦なでしこを取り、畑から雑草を毟(むし)って駆除するようなものです。ご到着の早からんことを。幸多き若君よ、賢王よ、追放の勅令をためらわず行使し給え。この国が無人の荒野と化すとも何をか怖れましょう。この国ですでに洗礼を受けている者たちも信用できないという心配は無用です。これらはいずれも重大な恐怖ではありますが、ご決断の効果はそんな心配を吹きとばしてしまうでしょう。結果はまもなくあらわれます。この地にはいずれ新たに譜代教徒が移り住んで沃野が戻り(5)、今よりはるかによい時代になります。領民となる者は、数は今ほどでなくても、今ほど賤くもなく、全てがカトリック教徒です。カトリック教徒に見守られて街道も安全になり、安心して旅ができ、大切なものを追い剥ぎにとられることもなくなります」
副助祭がこう言ったあと、みんなして扉を固く閉じ、座席の椅子を積みあげて補強した。そして塔へのぼって梯子を引き上げた。司祭は自分の手でご聖体を納骨殿からとりだして、持って上がった。また、石つぶてを用意し、二丁の鉄砲で武装し、若者バルトロメは驢馬の荷鞍もはずして、驢馬は教会の玄関に置き去りにし、主人たちといっしょに立て籠った。全員、目をみひらいて油断なく身構え、さきのモリスコ娘から得た情報にもとづいて、敢然として襲撃の時を待った。
司祭が星の運行をみて推定したのだが、真夜中を過ぎたころであったろう、彼はその場から見渡せる海上に隈なく視線を配った。月明りの中に漂う雲はなく、雲と見えるのはみなトルコ人の船である。司祭はあわてて鐘に駆けつけ激しく続けざまに打った。その音は周囲の谷間の村々や海岸に響き渡り、それをきいてあたりの海岸の守りを固める警備隊がおっとり刀で駆けつけた。しかしトルコ人が船を着け、上陸するのを食い止めるには間に合わなかった。
村人は貴重品や豪華な家財道具をまとめて船を待っていた。そしてトルコ人の歓声と鬨の声に迎えられて船に乗りこんだ。さまざまな笛をはじめ、種々の楽器の音もきこえる。合戦用であるが、陽気で軽快なものであった。一隊は村に火を放った。教会の扉にも放った。押し入るのが狙いではなく、悪行の限りを尽すためであった。バルトロメは足を奪われた。これからの旅は徒歩になろう。驢馬を台無しにされたからである。村の出入口にあった石の十字架が倒された。かくして、マホメットの名を叫びながら、猫をかぶった盗賊と破廉恥な民衆がトルコ人に走った。
海の向うで待ちかまえる悲惨がいわゆる波の舌からもう感じられる。妻子にもみじめな思いをさせることになるだろう。アントニオとペリアンドロは鉄砲を放った。続けざまに撃った。命中した弾もかなりあるはずだ。バルトロメは矢継早に石を投げた。全部驢馬のまわりへ飛ばした。副助祭は間断無く矢を射た。そしてアウリステラとコンスタンサは雨のように涙をふらした。ふたりはその場にまします神に、急迫する危機から救いたまえと祈った。火が寺に燃え移らないようにとも祈った。寺は炎上しなかった。奇跡ではない。扉が鉄造りであったからだ。また、火勢が弱かったからでもある。
夜明けは間近であった。船は掠奪の品を満載して岸を離れた。彼らはうれしい鬨の声(レリリー)をあ(6)げ、無数の笛、太鼓を鳴らした。こんなとき、人影がふたつ、教会へ向かって駆けつけるのが見えた。ひとつは海岸方向からひとつは陸の方向からだ。それが近くに来て、副助祭には、ひとりが姪のラファラだと分った。芦の茎の十字架を揚げている。ラファラは声を張り上げて言った。
「わたしはキリスト教徒よ、教徒よ。神のお恵みとご慈悲によって解放されたんだわ。自由なのよ」
もうひとりは公証人だと分った。たぶんその夜は村を留守にしていたのだろう。早鐘を聞きつけ、何ごとかと馳せ来たようだ。公証人は泣いていた。妻子をなくしたからではない。いずれも村にはいなかった。家をなくしたからである。掠奪され灰になっていたのだ。
みんな夜の明け放つのを待った。船が遠ざかり、警備隊が海岸の安全を確保するのを待って塔をおり、教会の扉を開いた。ラファラは駆けこんだ。顔は感激の涙でくしゃくしゃだが、悦びが漲るといっそう美しかった。彼女はご聖像に祈りを捧げ、まず司祭の手に接吻してから叔父と抱き合った。公証人は祈りもしなければ、誰の手に接吻もしなかった。財産を奪われた口惜しさで胸がいっぱいで、ほかに気が回らなかったのである。
興奮が収まり、難を避けていた者たちに人心が戻った。副助祭は再び意気軒昂としてまたまた祖父の予言をぶり返し、まるで天の霊魂が宿ったかのように言った。
「立ちたまえ、いざ、壮男の君よ、いざ、無敵の王よ、邪魔者は悉く踏み潰し、打ち毀し、滅ぼしたまえ。わが血筋ながら、イスパニアに暗い翳を投じ、名誉をけがす忌わしい血筋を駆逐し、一点の曇りない清浄の国を築かせたまえ。いざ、明君の誉高き卓見の指導者よ。皇国の重荷を支える今アトラスよ。ご采配によってこの不可欠な移住をすみやかに推し進め、無用の荷物ハガルの血胤(7)を満載した陛下のガレー船でこの海原を埋め尽したまえ。キリスト教の豊饒と肥沃を妨げる茨も雑草も、いかなる草も海彼の地へ打ち払いたまえ。エジプトへ渡った一握りのヘブライ人は、エジプトを出るとき家族が六十万有余をかぞえるほどに増えたと申しますから(8)、もともと彼らの数が多く安逸をむさぼるイスパニアではその恐るべき未来が見えております。やつらは宗教界に吸収されることなく、ラス・インディアスの新大陸へと間引かれることなく、戦争にとられることもないのです(9)。そのうえ誰もかれもが結婚し、全部、あるいはほとんどが子を為しているのをごらんになれば、やつらが何倍にも増え、やがては数えきれない程になるのは分りきっております。いざ、繰り返して申し上げる、追い出せ、打ち払え、陛下、御国の玉杯を日輪のごとく輝かせ、天つ空のごとく壮麗にしたまえ!」
巡礼の一行はその村に二日間滞在した。ここで、持物を点検し、失ったものを確認した。バルトロメは驢馬のあとがまを手に入れた。一行は司祭の心あたたまるもてなしに謝辞をのべ、副助祭の立派な心意気を誉めたたえ、ラファラを抱きしめ、そして、その場のみんなに別れを告げて旅を続けた。
第十二章
去ったばかりの危難や、副助祭の張り切りよう、司祭の勇ましさ、ラファラの熱意などが一行の話題になって道中を慰めた。それにしてもトルコ人が上陸し、襲撃してきたとき、ラファラはどうやって逃げ隠れたのだろう。一行はそれを訊きもらしたが、どさくさに紛れてどこかに身を潜めていたのだろう、そこで自分の宿望を達成できるときを待っていた。その宿望とは、キリスト教徒として生き、死ぬことである。一行はそう考えた。
一行はバレンシアの近くまできたが、立ち寄らないことにした。旅程を遅らせたくなかったからである。しかし、バレンシアの大きさ、住民の名望、近郊の快適さを語り聞かせてくれる人、つまりは、この町が、イスパニアのみか全ヨーロッパの都市の中でもひいでて美しく豊かであることを枚挙して語ってくれる人にはこと欠かなかった。ことに、この土地の女性の美しさ、町の清潔さが誉められ、優美で耳に快いことではポルトガル語と双璧をなす、と言って情緒たっぷりな土地言葉(1)がたたえられた。
一行は、疲れることは承知で、一日の行程を伸すことにした。バルセローナへ回るためである。バルセローナ港にガレー船が数杯入るという情報を得ており、それに便乗するためであった。フランスには立ち寄らず、ジェノバへ直行することになろう。
ビリャレアルという情趣豊かな美観の村を通過したころだが、深い木立の中から一行を出迎えるようにひとりのバレンシア娘があらわれた。里娘か羊飼いらしく、土地の衣裳をまとっていて、照る日のごとく爽やかで、日月に紛う美しさがある。その娘が、情緒たっぷりな土地言葉で、前置きもなければもったいぶった挨拶もぬきで唐突に切り出した。
「焼いたほうがいいかしら、焼かせたほうがいいかしら」
これに対してペリアンドロがこたえた。
「美しい娘さん、焼餅なら、焼きも焼かせもしないほうがいい。焼けばあなたの値打ちが落ちる。焼かせれば信用を失う。あなたを愛しているという男性が目のある人で、あなたの良さが分るなら、あなたをほうってはおかないし、もちろん首ったけさ。目のない男なら、そんなやつから愛されたってしょうがないじゃない」
「なるほど、おっしゃるとおりだわ」里娘はこたえた。そして、さよならと言って背中を向け、もとの木立に駆けこんだ。一行は今の質問もさることながら、娘の素早さ、その美しさにもおどろかされた。バルセローナへの道中では他にもいくつかの事件があったが、わざわざ記すほどのことはなかった。あげるとすれば、ただ、モンセラの聖なる山々(2)を遠くに望み、敬虔なキリスト者らしく遙拝したことであろう。しかし登攀は断念した。旅程が遅れるからである。
一行はバルセローナに着いた。ちょうどイスパニアのガレー船四杯が入港したところであった。船は礼砲を放って町に挨拶した。そして四艘の端艇がおろされ、うち一艘には東方の豪華な極上絨毯とえんじの当て布団が敷かれ、やがてあきらかになるのだがまだうら若い美女が乗り移った。装いも豪華で、年配の婦人と、やはり美しいこしらえのしとやかな侍女ふたりが付き添っている。いつものように町の衆がおおぜい出迎えた。船を見物するためでもあり、上陸する人たちを歓迎するためでもあった。われらの巡礼も好奇心を端艇に引き寄せられ、ちょうど下船する貴婦人に手を伸せば届くほどのところまで近寄った。彼女は一行をまじまじと見つめ、とくにコンスタンサに注目した。そして上陸して言った。
「美しいお遍路さん、どうぞこちらへおいでください。町までご一緒させていただいて、ぜひご恩返しをしたいのです。こう申しましても、すぐにはお分りにならないでしょうが、お連れの方々もどうぞご一緒にいらしてください。なにをさておいてもお仲間を残して行くわけにはまいりませんわ、素敵な方ばかりなんですもの」
「お言葉から察して、ご用とおっしゃるのは」コンスタンサがこたえた。「何やら大切なことのようですから、お誘いをお断りしては、礼儀しらずと笑われます。どこへでもお伴いたしましょう。連れの者も同行してくれるはずです、めったにはなれたことがございません」
貴婦人はコンスタンサの手をとり、市街から出迎えたおおぜいの騎士やガレー船のおもだった人々を従えて町へ向かった。その途中、コンスタンサは片時も貴婦人から目を離さなかった。前に会ったことがあるのかもしれないが、どうしても思い出せない。
貴婦人は同時に上陸してきた女性とともに、町の立派なお屋敷に宿をとった。もちろん巡礼の一行を他所へ行かせるわけがない。そして、ひととき一行とゆっくり言葉を交せる折を迎えて、次のように語った。
「わたくしがご一行にことさらお構い申し上げることをさぞかし怪訝にお思いでしょうが、すぐにも疑問を解いてさしあげます。そこでまずわたくしの名前ですが、アンブロシア・アグスティーナと申します。生れはアラゴン(3)のさる町で、兄はドン・ベルナルド・アグスティンと言って、碇泊中のガレー船団の船団長です。それはさておき、名をコンタリーノ・デ・アルボランチェスというアルカンタラ教団(4)の騎士がおりまして、この男性が兄の留守中、両親の目を盗んでわたくしに想いを寄せてきました。わたくしは星の導くまま、というより軽薄だったと申したほうが当っているかもしれませんが、何も失うものはないはずだと思って、妻という名でその男性を主(ぬし)にし、身も心も預けることにしました。ところが、わたくしが身をゆだねて婚約をかわしたちょうどその日、彼は陛下のご書状をうけとりました。折からイスパニア陸軍の一個連隊がロンバルディアを出てジェノバへと南下しつつあり、それを率いてただちにマルタ島方面へ向かえという命令でした。トルコ軍が南下して、マルタを狙っていたからです。コンタリーノはただちに命令に従いました。夫婦生活の甘い果実を摘む暇も惜しんで、慌しく、新妻の涙に目もくれず、書状を受けとるが早いか出征いたしました。わたくしは天が落下し、天地の間に挾まれて心臓を押し潰され、魂を掴みとられる思いでした。わたくしは何日も経たないうちに次から次へと思案をめぐらし、そのうちに矢も盾もたまらなくなって、ある決心をしました。それを実行に移すことによって一時は女の名誉にかかわるのみか、命さえ危ういほどの目にも遇うことになります。というのは、わたくしは誰にも気づかれずに家を出たのです。小姓の服を手に入れ、男に身をやつしました。そして八レグアほど先になるでしょう、ある町に駐屯していた中隊に鼓手の見習いとして入隊しました。まもなく親方に劣らずうまく太鼓が打てるようになって、この商売のご多聞にもれず、太鼓持ちの剽軽(ひようきん)者で通るようになりました。やがて別の一中隊が合流し、いっしょにカルタヘナ(5)へ向かいました。兄の率いる四隻のガレー船に乗船するためです。わたくしはその船でイタリアへ渡って夫を捜す心づもりでした。自分の無鉄砲が夫の貴い身分を汚しませんように、わがままが迷惑になりませんようにと祈っていました。しかし、気持は抑えきれずまるで盲目で、ガレー船に乗れば兄に見つかるということすら気づかないほどでした。しかし、恋わたる胸にとって踏み越えられない嵐はなく、打ち破れない難関も、立ちはだかる恐怖もありません。わたくしは険路をことごとく平らにし、恐怖を克服し、逆境のどん底にあっても希望を失いませんでした。しかしながら、ものごとは成り行きによって最初の思惑どおりには運ばないものです。わたくしの場合、もともと、どちらかというと慎重を欠いた浅はかなものでしたから、これからお話しするような状態に陥ってしまいました。
先にお話しした隊長たちの中隊の兵士が、ラ・マンチャのさる村の人々と宿営所のことで厄介ないざこざを起したのです。その結果、ひとりの騎士が傷を負って死にました。どこかの領地の伯爵だそうです。都から探索方が来て、隊長は捕えられました。兵たちは姿をくらましました。それでも何人かが捕えられ、その中に運悪くわたくしもはいっていました。わたくしには何の罪もないのです。兵士は二年間の漕刑と決ってガレー船に送られることになり、そのとばっちりでわたくしも同罪を言い渡されてしまいました。悔やんでもあとの祭です。そもそもこんなことを思いついたのが間違いなのだ、と目が覚めて、いっそ死んでしまおうと思いましたが、それではもっと酷いところに行くことになりそうな気がして、手にしたナイフを折り、首の綱をはずしました。そしてわたくしがしたことは、顔を真黒によごして出来るだけ醜くなり、護送車に放り込まれたまま、その中にとじこもっていることでした。そこで泣き暮し、何も食べずにいて、繩や剣ではできなかったことを涙と飢えにやらせるつもりだったのです。カルタヘナに着きましたが、船はまだ入港しておらず、わたくしたちは王の館に入れられて厳重な見張りをつけられました。望みは断たれ、迫る不運に怯えるばかりでした。ご一行のみなさんには、村はずれの旅籠の近くで荷車に出会ったご記憶がおありでしょう。あそこでこちらの美しいお遍路さんが」と言ってコンスタンサを指さした。「菓子箱をおめぐみになって、罪人のひとりを助けました」
「おぼえています」コンスタンサがこたえた。
「じつは、あのときお助けになったのは」セニョーラ・アンブロシアが言った。「あれはわたくしです。車の筵の隙間からみなさんを見ておりましたが、大変なおどろきでした。目の醒めるようなお綺麗な凜々しいかたばかりなんですもの、ひと目みれば誰でもはっとしますわ。やがてそのうち、ガレー船が入りました。二隻は航海中にモーロ人のベルガンティン船(6)を捕獲したとかで、戦利品を満載していました。兵士はその日のうちに船の中につながれ、着ているものを脱がされて、漕手服に替えました。悲惨な変身です。しかし、それは我慢ができます。そういう苦痛は、命とりにならない限り、耐えているうちにらくになるものです。わたくしも着替えをさせられることになり、そのとき漕刑の囚の監督官が部下に命じてわたくしの顔を洗わせようとしました。わたくしには腕をあげる元気もなかったからです。艦隊付の床屋がわたくしを見て言いました。
『こんな髭なら剃刀がちびなくていいが、それにしても、ねじりんぼうを舐めさせておけばいいような餓鬼を、なんでこんなところへ送り込んできたんだろう。船は飴玉で、櫂は棒菓子とでも思っているのかな。小僧、何をしでかしてこんなところへ送られてきた。騒動に巻きこまれたか、とばっちりをうけてこんなことになったんだろう』
こう言ってから監督に声をかけました。
『親方、この小僧は船尾で将軍閣下の給仕をさしとくほうが役に立つんじゃないでしょうかね。櫂を持たしたって、への突張りにもなりませんぜ』
おかれていた状況を考えるだけで耐えきれない思いでしたが、床屋の言葉を聞いて、心臓が止まらんばかりにおどろき、気を失って、死んだようになりました。そして気がついたのは四時間後で、それまで手をつくして介抱してくれたそうです。もしもあのとき意識があったとしたら、きっと恥かしい思いをしたことでしょう、女であることがそのとき判ってしまったはずですから。意識が戻って最初に目に入ったのは、兄と夫の顔でした。わたくしは夫の腕に抱かれていたのです。あのとき死神の影にこの目をふたがれなかったのが不思議なくらいです。舌が顎に張りついてしまわなかったのも信じられないことです。自分でも全然わけの分からないことを言ったということだけは憶えています。それからただ、兄がこう言ったような気がします。
『この恰好はどういうわけだ』
また、夫はこう言いました。
『その変装は何の真似だい、魂を分けあったきみが、からだも名誉も無事でなによりだけど、もしものことがあったらその衣裳をすぐにも死衣に替えさせていたよ』
『きみの奥さんというのは妹のことかい』兄は夫に言いました。『そうだったのか、ちっとも知らなかった。こんな恰好を見るのもはじめてだが。それにしても、きみの言うとおりならせめてもの慰めだ』
このころわたくしはいくぶん意識を取り戻していて、こう言ったと記憶しています。
『兄さん、わたしはあなたの妹のアンブロシア・アグスティーナよ。セニョール・コンタリーノ・デ・アルボランチェスの家内でもあるわ。このひとを好きになって、ちょうど兄さんもお留守だったので、その間にできちゃって、だんなさまに決めたのよ。でもこの人は花にも触れず出征していったわ。だからわたしは大胆でむこうみずで浅はかなことだけど、ごらんのような恰好でこのひとの後を追ったの』
こう言ってからわたくしは、ちょうど今お聞かせしたいきさつを話しました。さいわいそのころから運が向いてきていたようで、兄も夫もわたくしを信じ、同情さえしてくれました。ふたりの話によると、夫はモーロ人に捕えられたそうです。二隻の砲艦でジェノバに向けて航海中に、彼の乗っていたほうが襲われたとか。解放されたのが前日の夕方で、そのあと兄と顔を合せる機会もなく、気絶したわたくしのそばで会ったのがはじめてだったそうです。信じられないような奇妙な話ですが、すべて、今お聞かせしたとおりです。こちらの奥さまはわたくしといっしょに下船なさったかたですが、こちらのお孫さんふたりもご一緒で、あのガレー船でイタリアへおいでになるところです。イタリアではシチリアでご子息が王室財産をあずかるお役目におつきだそうです。今わたくしが着ております衣裳は奥さまがお貸しくださったものです。きょうは夫と兄がこころよく承知して気晴らしに上陸させてくれました。わたくしたちにはこの町にたくさんの友人がありますから、上陸はそのかたがたとの旧交をあたためるためでもあるのです。ご一行がもしローマへいらっしゃるのなら、兄に頼んで、一番近い港まで送ってさしあげます。お菓子の箱のご恩返しに、同じく箱にお乗せしてご希望のところへおつれしたいのです。わたくしがイタリアへ参りませんときは、兄に頼んでお供させます。以上がわたくしの身の上にあったことです。信じがたいとお思いになっても不思議のないことです。でも真実は、たとえ病にはかかっても、死ぬものではありません。また、広く一般に、信じることは礼儀とも言われておりますので、信じる信じないはみなさんにおまかせします、礼儀知らずなどひとりもいらっしゃらないようですから」
麗しのアグスティーナはここで話を終えたが、聞く者の驚きはますます昂って頂点に達した。またここでようやく仔細は明確になり、ここではじめてコンスタンサとアウリステラがまず佳人アンブロシアを抱きしめた。彼女は夫の意に従って、国へひきかえすこととなった。いかに美人でも戦場に女の道連れは足手纏いであるからだ。
その晩海が荒れはじめたし、このあたりの海岸線は難所が多かったので、ガレー船は沖に出なければならなかった。カタルーニャの都人は荒々しくて激昂型、かと思うと穏健で柔和でもあり、また名誉のためなら命も惜しまず、それらを守りぬくためには持てる以上の力を出す人々であった。とりもなおさず、その点では世界のどの民族をも凌ぐということである。そんなカタルーニャ人がセニョーラ・アンブロシア・アグスティーナを続々と訪問して、たくさんの贈りものをし、そこへやがて兄と夫が姿を見せて謝辞を述べた。
ところで、アウリステラは時化の海には何度となくさんざんな目に遇わされてきたので、船旅はもうこりごりであり、ガレー船には乗りたくなかった。陸路フランスを通って行きたいと思った。そのころのフランスが平和だったからでもある。
アンブロシアはアラゴンへ帰った。ガレー船は航海を続けた。巡礼は先を急ぎ、いずれペルピニャン(7)を経てフランスに入ることになる。
第十三章
われらの一行はフランス入りの第一歩をペルピニャン側から踏むことにした。アンブロシアのことが何日にもわたって道中の話題になり、彼女の数々の過ちは若げのいたりとして大目にみられた。無謀も夫への盲目の愛がさせたことならしかたないではないか。ひとまず彼女は、すでに言ったように、国もとへ帰った。ガレー船は航海を続け、われらの巡礼も旅路を歩んで、やがてペルピニャンに着き、さる旅籠に立ち寄った。その玄関先には卓が置かれ、周囲におおぜいの人が群がっていた。ふたりの男の賽ころ賭博を観戦しているのだ。賽を振るのは、この両人だけのようである。
こんなに見物が多くて、打ち手がふたりきりなのはどういうわけだろう。一行には奇妙にうつったので、ペリアンドロがわけをたずねた。話によると、対戦者のうち敗者は自由を失い身柄を国王にとられ、六カ月間船を漕ぐことになっているとか。勝者は国王の役人から金貨二十枚をもらえる。敗者となるべき者にも賽ころで運を試すために同額が与えられていた。ちょうどこのとき一方が運を試した。しかしツキがまわらず負けてその場ですぐ鎖につながれた。勝者に対しては、負けたときに逃げないようにとはじめから付けてあった用心の鎖が解かれた。残酷な博打だ。残酷な運命の籤引(くじびき)だ。勝ちと負けとでこんなにも差がある。と、このとき旅籠にあわただしく駆けつけてきた者があった。ひとりは逞しい体格の男で、マントは羽織っていない。四歳から七歳と思われる子供が五、六人縋(すが)りついており、同じく女がひとり悲痛な泣き声をあげて続くが、その手には一つの銭袋がにぎられていた。女は切々たる声で役人たちに訴えた。
「お願いです。お金はお返しいたしますから、どうかうちの人を返してください。極道のあげくに借りた金ではございません、やむにやまれぬ事情があったのです。うちの人は身を張ったのではなくて身を売ったのです。苦役とひきかえにわたしとこの子たちを食べさせようとしたのです。たとえお腹はくちくなっても、これでは砂を噛み血を啜るも同然です」
「おまえは黙って」男が言った。「その金を使えばいいんだ。わたしがこの腕でそれくらいの借りは返す。まだまだこの腕は櫂をとらせても立派なもの、鍬より見事にさばいてみせる。この腕を賭けなかったのは、これまで失くしては自由もろともおまえたちを食わしていけなくなるからだ。そんな向う見ずだけはしたくなかった」
子供たちの泣き声にかき消されて、夫婦の交す痛々しい言葉も聞えないほどであった。夫を連れ去る役人は、子供たちをなだめて、涙をふけ、万斛の涙で海があふれるとも、父親が失った自由は返してやれないと言った。子供はいよいよ火のついたように激しく泣きながら、父に言った。
「とうちゃん、行かないで。とうちゃんが行ったらぼくたち死んじゃう」
たまたま出交したこの思いがけない異様な情景は一行の胸にも迫るものがあった。ことに会計方のコンスタンサは同情にたえないようだったので、それを見てだれもがなおさら心を動かされ、嵩じて担当の役人に声をかけ、固いことを言わずに金を受けとってやれとたのんだ。あの男がこの世に存在しなかったことにすればいいではないか、女房をやもめにするのみか、おおぜいの子供を父無し子にするなど人並みの情があればできまい、と言葉をつくし心をこめて嘆願したのであり、その甲斐あって、金は戻され妻は夫を、子は父を取り戻した。
麗しのコンスタンサは女伯爵になってからは大金持であり、蛮風が抜け、すっかりキリスト教徒らしくなっていたわけであるが、その彼女が兄アントニオの意見もうかがって、博打に負けた気の毒な人たちに対して、自身をあがなうためにと金貨で五十エスクードを与えた。こうして人々は自由を得、大喜びで、前代未聞の、降ってわいたような施しを天と巡礼に感謝して帰っていった。翌日、一行はフランスの土を踏み、ラングドックを経て、プロバンスにはいった。たまたまその地のさる旅籠に三人のフランスの貴婦人がいたのであるが、いずれもきわめて美しく、アウリステラさえこの世になかりせば絶美の栄冠もけっして高望みとはいえないほどであった。おそらく、相当な身分の貴婦人なのであろう、身辺や供のこしらえからそれがうかがわれる。三人は巡礼の一行を見るやたちまち、ペリアンドロとアントニオの凜々しさ、あるいはアウリステラやコンスタンサの類ない美しさに息をのんだ。そこで自分たちのそばへ呼び寄せ、にこやかに顔を綻(ほころ)ばせ、丁寧な物腰で話し掛けて名や出身をカスティリャ語で尋ねた。イスパニアの女性が混じっていることを知ったからだが、フランスでは男女を問わずカスティリャ語を必ずといってよいほどたしなんでいるからでもある。
質問はもっぱらアウリステラに向けられた。三人がアウリステラの返事を待っている間にペリアンドロはその場をはずして、これらフランスの貴婦人の供と思われる従僕に声をかけた。どこのどなたか、行き先はと問うたわけで、答はこうだった。
「ネムル公爵というお方は、この国のいわゆる皇族のおひとりで、たいそう器量の大きい明君でありますが、好き嫌いの激しいお方でもあらせられます。ごく最近家督をお継ぎあそばされましたが、そのとき、結婚は誰の意志にも従わず自分の意志で決めると宣(のたま)われ、たとえ知行や禄高の加増を約束されようとも、たとえ王命にさからうともそれを貫く、ときっぱり申されたのでございます。これは、なるほど王はどの臣下にも意のままに嫁をあてがうことはできるだろうが、授かる者に満足を与えることまではできないというご説に基づいています。酔狂と申しますか世迷いごとなのか、あるいはこれこそご明察なのでしょうか、それともほかに言葉があればそれとして、この公爵さまがフランスの各地に家来を送り込みました。やんごとない出自を第一条件において、しかも美しい女を捜し求めよ、それを妻に迎えるというわけで先方の財産の有無は問わない、身分と器量さえ揃えば持参金として十分と仰せつけになったのです。そしてあのお三方の美しさを耳にされ、こうして家来のわたくしを遣わされて下検分に当らせ、さる有名な画家を同行させてお三方の絵姿をかくようにお命じになりました。どなたも独身で、ごらんのようにまだうら若いお方ばかりでございます。一番年長のデレアシルとおっしゃるお方はきわめてご聡明ですが、財産はありません。まんなかのベラルミニアとおっしゃるお方は明朗ご活発で、そこそこの財産がおありになります。いちばん若いお方はフェリス・フローラと申されて、財産のあることでは先のおふたりにぐんと差を付けておいでになります。どなたも公爵さまの望みをすでにご存知で、わたくしのにらみますのに、お三方とも玉の輿に乗ろうとして公爵さまを狙っておいでのようです。お三方はもともと昔の百年祭にあたる大赦にあずかろうと、まずローマへ詣でるおつもりで国もとをお立ちになり、ついでにパリへもお回りになって、そこで公爵さまとお会いになるご予定です。お三方とも自分ならきっとという楽観的なお見通しのようですが、わたくしといたしましては、ご一行がここへお着きになるのを見たとたんに、主人へのお土産はこれにきめたと思いました。それはあのお三方の楽観的なお見通しをことごとく消してしまうものになるでしょう。と申しますのは、じつはほかでもありません、お仲間のあの女性の似顔絵をかいて公爵さまにお見せしようと思っているのです。あのお方は唯一で普遍の人間美を備えた女性です。かりに彼女が美しいだけでなく尊いご身分でもあらせられるなら、こうして主人からつかわされておりますわたくしども家来はもうお役をとかれますし、公爵さまもこれ以上お望みになるものはありますまい。そこでお願いなんですが、ぜひともお教え願いたい。あの女性はどなたかのご内儀か、お名前は何と申されます、どのようなご両親の胤であらせられましょう」
これに対してペリアンドロは声をふるわせてこたえた。
「名はアウリステラと申しまして、ローマへ詣でるところです。両親のことは一度も口にしたことがありません。ひとり者であることはわたくしが保証いたします。このことはわたくしがまったく疑う余地のないほど存じているからです。それにもうひとつ、彼女のことではっきりしていることがあります。それは彼女が自由で、自分の意志を貫く女性であり、地上のいかなる君主にも屈することがないということです。なぜなら、自分の意志を天の君であらせられる御方にゆだねているからだと申しております。今申しましたことがみなほんとうであることを深く肝に銘じていただけるように、もうひとつお耳に入れておきたいことがあります。わたくしが彼女の兄だということです。しかも彼女の考えることのもっとも奥深いところまで知り抜いている兄です。そういうわけですから、たとえ肖像画をおかきになっても、何の役にも立ちますまい。それどころか、わたくしどもの両親は身分の卑しいものですから、それをご存知になれば、きっとご主人はその不都合とたたかうことになっていたずらにお悩みになるでしょう」
「それはそうかもしれませんが」相手はこたえた。「とにかく絵姿を持って帰ります。ただわたしの好奇心を満足させるだけでもいいし、女性美のまたとない奇跡をフランス中に広めるためにもなります」
こう言ってふたりは離れたのであるが、ペリアンドロはアウリステラを描く暇を絵師どもに与えないためにも、この宿をすぐに発つことにした。バルトロメは再び急いで驢馬の荷をととのえたわけだが、ここでもペリアンドロのやり方を気にくわないと思った。なぜいつもこう慌しく旅立たねばならないのか。
公爵の家来はペリアンドロが早々に発つのを見て、彼に近寄って言った。
「もう少しごゆっくりしていただければ、そうですね、せめて晩までご逗留なら、妹殿のお姿をゆっくりと念入りにかかせるんですがね。とお引き留めしたいところですがやむをえません、まあ息災でいらっしゃるがいい。絵のほうは、絵師が申しますのに、妹殿のお姿はちらっとひと目しか見なかったけれども想像の中でがっちりとつかんでいるからこまらない、たとえ妹殿がいらっしゃらずとも、目の前においでになるのと同じようにちゃんとうまく描けるそうです」
ペリアンドロはその絵師の稀代な才能を内心忌々しくさえ思ったが、だからといって出発をとりやめたりはしなかった。そこでいそいで、みめ麗わしいフランス婦人に別れを告げたところ、三人はアウリステラやコンスタンサを強く抱きしめ、よければローマまでお連れするが、と好意を申し出た。
アウリステラは、お気持はうれしいが、とできるだけ言葉丁寧に辞退した。自分たちは兄ペリアンドロの意志に従う、だから自分もコンスタンサもゆっくりできない、コンスタンサの兄アントニオも自分の兄も出発すると言っているから。
かくして一行は旅立ち、六日後プロバンスのさる村に着いた。そこでもちあがる事態は次章で語られよう。
第十四章
物語と詩歌と絵画、これら三様のものはたがいに象徴し合い、またそれゆえに似通うところがある。さればこそ、たとえば物語をかいているのにそれがじつは絵にもなっていることがあったり、同様に、絵をかいているのに実は詩にもなっているというようなことがある。物語があつかう世界は荘重一辺倒ではないし、絵画にしてもいつも壮大なものや高尚なものばかりを描くわけではなく、詩もまた天国のことばかりを詠むわけではない。物語は下世話なことも容れるし、また絵画が名なし草や野草を題材にすることもあるし、詩もたまには卑俗なものを歌って出色の出来栄えとなることがあるのだ。
巡礼の一行の馬方バルトロメがこの事実を如実に示している。われらの物語の中ではこういうぺいぺいでもちゃんとせりふをもち、耳を傾けてもらえることになっている。そんなわけでそのバルトロメが、あるときペリアンドロとおしゃべりをしていたのであるが、あの、我が子を養うために自身の自由を売った男の一件を思い出してこう言った。
「親を仕向けて子を養わせるものの力というのは恐ろしく強いんでしょうね。そのことは、きっとあの男がいちばんよく知っていますよ、自分がどん底に落ちるまいとして身を張ったかというとそうではなかった。貧しい妻子を養うために自分のからだを質草にしたのですから。そもそもわたしなんぞは、自由というものはどんなに金を積まれても人手に渡すものではないと聞かされてきました。ところが、あの男は女房の手の中におさまるほどの一握りの金で、自分の自由を売り渡しました。それにつけてまた思い出すのは、これも村の先達からきいた話ですが、村の衆がある年寄を縛り首の場所へ引き立てて行ったときのことです、綺麗に往生できるように坊さんが世話を焼いていたところでしたが、そのとき年寄が言ったそうです。
『どうかおかまいなく、気儘に死なせてください。こうなっちゃ、怖くないとは言わないが、わたしはこれまでだってもっとおそろしい目に何度となく遇ってきたよ』
たとえばどういう目に遇ったのか、と誰かがたずねました。
そこで、彼がこたえていうのに、朝早くお天道さまが顔を出すと同時に、六人のちいさい餓鬼どもがパンをせがんですがりついてくる。しかしやりたくともパンはない。『そんな貧乏がこの手に錠前開けのやっとこを持たせ、この足にフェルト靴をはかせて盗みの段取りをととのえてくれたんですよ。悪気じゃない、どうしようもなかった』これが死刑を言い渡したお上の旦那の耳に入り、それがきっかけとなって、罰にかわって慈悲がくだり罪にかわって赦しがきまったとか」
これを聞いてペリアンドロが言った。
「親が子のために為すは自身のためにほかならない。なぜなら子はもうひとりの自分であり、親という存在はその中へもひろがり続くからだ。したがって、人がそれぞれ自分のために為すのが自然で否応ないことであるように、親が子のために為すのもあたりまえだと言える。ところがそれほど自然でもあたりまえでもないのが、子が親に尽すということだろう。なぜかというと、親が子に向ける愛情は高きから低きに流れるものだからいわば下り坂であって骨はおれないわけだが、これに対して、子から親への愛は低きから高きに向かう。つまり登り坂を歩くことになる。だから、こんな諺が生れたんだ。親一人で子百人、子百人で親一人」
こんな会話に興じながら一行はフランスを歩いた。沿道には村が続いて平和で閑かなたたずまいをみせ、ことに印象的なのは点々と並ぶ別荘であった。これらの家の住人は年中ここにいて、大都会や町に住む気などまったく起さない人たちである。
われらの旅人はこういうお屋敷のひとつの前を通りかかった。街道からすこし外れたところであった。ちょうど真昼で、痛いほどの陽光が直に地面を射て暑気が厳しくなりそうであったが、屋敷の一角の高い塔が昼下がりに予想される酷暑を避けよとばかりに絶好の影を落して一行を招いていた。
そこで、こういうことにはよく気のつくバルトロメが驢馬の荷をおろし、地面に敷布をひろげ、全員がそれを囲んで座った。そしてバルトロメが場所をつくって弁当をひろげ、それをつまんで、すでに気になっていた空腹を満たすことにした。ところがその手を口に運んだかどうかというときのことである、バルトロメが天を仰いで大声で叫んだ。
「あぶないっ、天からなにやら、舞いおりてくる、下敷になりますよ、お逃げください」
いっせいに見上げた。たしかに何かが宙を落下してくる。と、正体を見分ける暇もなく、それはペリアンドロの足元近くに着地していた。見るときわめて美しい女であり、かすり傷ひとつ負っていなかった。塔の頂上から投げだされたようなのに、着ていたものが釣鐘のように大きく拡がったため、それがさいわい翼の役を果し、立ったままの姿で着地したのである。こういうことは奇跡でなくても起りうることではあるが、それでも彼女自身が呆然となって口も利けないほどであり、その飛行を見た者たちの驚愕も言うにおよばない。しかもさらに塔の上から彼らを呼ぶ女の悲鳴が聞こえた。女はひとりの男と取っ組み合っており、どちらも相手を突き落そうと争っているところなのだ。
「助けてっ、助けてえ」女は叫んだ。「おねがい、助けてっ、突き落されるう、このひとは気違いなのよ」
空飛ぶ女はいくぶん気を取り戻し、
「どなたか、あちらの入口から塔へ登って」と言って塔の根元の扉を指さし、「助けてやってください。上にはまだ、か弱い女とわたしの子供がおります。このままだと殺されてしまいます。勇気がおありのかた、おねがいです」
ペリアンドロは人の難儀を見過せる性分ではない。だっと駆けて塔の入口へ飛びこんだ。とまもなく塔のてっぺんにあらわれ、男と激しい取っ組み合いを演じた。相手はあきらかに狂人である。ペリアンドロは防戦に必死で相手の短剣を奪い取った。ところが、運命は彼の生涯の悲劇の決着をつけようとしたのであろう、ふたりが取っ組み合ったまま地に降り、塔の根元に落下するように仕向けられた。このとき狂人はペリアンドロの手にある短剣で胸を貫かれ、ペリアンドロは目、鼻、口から血を噴き出していた。彼は不運にも裾の拡がるものを着ていなかったので身体が浮かず、まともに衝撃を受けたのである。ほとんど虫の息であった。
そんなペリアンドロを見たアウリステラは、死んだと思って身を投げ、取りすがって人目も構わず彼の口に口を当てた。まだ魂が出尽していなければそれを自分の中に吸い込みたかったのである。しかしたとえ残りがあったとしても吸えなかったであろう。なぜなら、ペリアンドロの歯は食い縛ったように噛み合さっていて、探ることさえ頑(かたくな)に拒んでいたからである。コンスタンサは気ばかりが急(せ)くのであった。アウリステラのそばへ駆け寄ろうとして必死なのに足がちっとも動いてくれず、落下を見たときそのままの姿勢で立ち竦(すく)んでいた。足から根が生えたか、固い大理石の像になったかのごとく地に貼りついていた。兄のアントニオは落下地へ駆け寄って、息のある者と事切れた屍と思える者を分けた。胸中の悲痛を両の目に氾濫させてさめざめと泣いたのはバルトロメひとりだった。
その場の者すべてがかくのごとき悲嘆のまっただなかにありながら、ひとりとしてまだその感情を口に出して表してはいなかった。だが目には、その彼らに向かって近づいてくる一群の人が見えた。人々は街道から墜落者の飛行を目撃して、何事があったのかと見定めるために馳せつけてきたのである。やがてその一隊がフランスの美しい貴婦人デレアシル、ベラルミニア、フェリス・フローラたちであることが分った。近づいた三人はすぐにアウリステラとペリアンドロをみとめた。絶世の美貌というものはひとめ見ただけでその面影が脳裏に焼き付きむびにも忘れえないものであるが、ふたりはまさしくそんな男女であったのだ。ところが、眼前に展開されている惨事にできれば救いの手を、と思って乗りものをおりたかおりないかというときに、突如背後から男が七、八人武器を手にして彼女たちを襲った。
この襲撃を見てとるや、アントニオは素早く弓矢をかまえた。攻防両面にわたっていつでも使えるように備えていたものである。武器を持った男のひとりはフェリス・フローラの腕を荒々しく掴み、鞍の前にひきずりあげ、仲間を振り返って言った。
「ようし、もういいぞ、これで十分だ、ひきあげろ」
だがそのとき、かかる狼藉を容赦したことのないアントニオが恐怖など感じる暇もなく弓に矢をつがえ、弓手の伸びるかぎり矢手が右の耳に届くほど、弓蔓の両端がくっつかんばかり満月に引き絞った。的(まと)はフェリス・フローラを掠奪せんとする賊である。矢は一直線に飛び、掠奪者の胸を前後にもののみごとに貫いた。フェリス・フローラには被物の薄衣をかすっただけで被害はなかった。
ところが、賊のひとりが仲間の仇を討たんとして、矢をつがえる暇を与えずアントニオを襲撃し、脳天にしたたかな傷を負わせた。アントニオはどうと倒れ、死んだように動かなくなった。それを妹のコンスタンサが見た。そしてもはや石像のように立ち尽してはいなかった。走った。兄を助けようとしてかけよったのである。こんなとき、相手が最大の親友であれば血は凍り、肉親なら焼ける。いずれの場合も強い情愛を証すしるしだ。
このときようやく屋敷の人々が武器を手にかけつけ、貴婦人の供の者は手ん手に小石をもってかまえた。つまり武器を持たない者もこうして主人の身を守ろうとしたのである。賊は、頭目がやられ、しかも新手の邪魔が入ったので、この仕事は割にあわないと見た。報酬を払ってくれなくなった者のために命がけの仕事をするのは気違い沙汰だと考えたのであろう、馬首をめぐらせ修羅場をあとに駆け去った。
この間ずっとわれわれの耳には干戈(かんか)をまじえる音はほとんど聞かれず戦いを囃す鳴り物もなかった。それのみか、たいていこんな場面では生者が死者を前にして哀号を放つはずなのに、それがあたりの空気を震わせることもなかった。舌は唖者の沈黙の中に愁嘆をおしこめていたのだ。ただ、嗚呼(ああ)という悲痛の声のみが、ことにアウリステラとコンスタンサの塞がれた胸に籠り、圧し殺したような嗚咽に混じって洩れるのであった。ふたりはそれぞれが兄を抱き締めた。さめざめと愁嘆を演じれば塞いだ胸も開こうが、いまのふたりにはそれができなかったのである。しかしながら天はいつまでも彼女たちにその愁嘆を演じさせないまま早々と死に至らせる御意ではなかった。神はそこで、上顎に貼り付いた舌をお剥がしくださったのだ。アウリステラはようやく言葉を吐露できるようになって言った。
「あんまりだわ、でも息をひきとった者の息を探るなんてわたしは何をしているのかしら。かりに息があったとしても、その息をこの息で感じとれるはずがないわ、わが身の息が絶えだえで、声が出ているか呼吸しているかさえ分らないんだもの。なぜ、兄さんなぜ落ちたの、あんな高いところから。兄さんがこんなことになってはわたしも同じよ、打ちのめされて目の前が真暗闇。あなたほどの勢門のお方でもこの不運は食い止められなかったのね。でも、あなたが偉大でなければ、不運もこれほど大きくはなかったでしょうに。雷電は峨々たる高嶺にこそ落ちるのね。あなたという破天荒な抵抗者とまみえればそれだけ並外れて風当りの強い仕打ちをするんだわ。そうですあなたは、そんな高嶺でした。でも腰の低い山でした。いつも思慮分別と知恵の陰にいて、けっして目立とうとしたりでしゃばったりはしなかった。あなたはわたしの運命の中にあなたの運命をみつけようとしていた。ところが、死神が先回りしてあなたの行手を遮り、わたしも墓穴へ引かれていきます。もしもあなたのお母さまの女王のお耳に突然あなたの不慮の報が伝わったなら、お母さまもきっと生きてはいらっしゃらないでしょう。どうすればいいの。なんと不幸なわたし、またひとりぼっち、西も東も分らない土地で、緑の枝のつたかずら、ほんとうに頼れる人がいなくなってしまいました」
女王、高嶺、勢門などというセリフが周囲で見守る者たちの耳目を拡げさせた。コンスタンサの放つ言葉もまた耳をそばだてさせ、いっそうの注目をひいた。コンスタンサは重傷の兄を膝にもたせ、労り深いフェリス・フローラが傷口を押えて血止めを施した。手拭いを取り出し、やさしく血をぬぐい、絞ってはまた押し当てた。彼女がこんなことをするのは、恥ずかしめられようとしていた自分をアントニオが救ってくれたことに深い恩を感じていたからである。
「ああ、どうしたらいいの」コンスタンサは言った。「かけがえのない兄さん。薄幸の女と呼ばれる身分に落ちるのが宿命であったのなら、幸運がわたしを奥方と呼ばれる爵位につけてくれたことも無駄なのね。兄さんが生きていてくださらないなら、わたしも生きてはいられません。でもそれさえできないなら、神さま、ご慈悲です、わたしたちふたりの目を同じ運命の下で閉じさせたまえ。同じ墓に葬らせたまえ。どうせ降って湧いた幸運ですもの、泡のようにはかなくても、はじめからなかったと思えばもともとです」
こう言って息絶えんばかりに崩れた。アウリステラも兄と同様で死んだようになり、どちらが怪我人かと迷うばかりに生気が失せた。ペリアンドロの墜落のそもそもの原因をつくった人、すなわち塔から落ちた女性は、駆けつけてきたおおぜいの下男に命じてペリアンドロを夫君ドミシオ伯爵の寝台に運ばせ、夫君の亡骸を片付けて、弔いの準備を命じた。バルトロメは主人アントニオを抱え上げた。コンスタンサにはフェリス・フローラが、アウリステラにはベラルミニアとデレアシルが手をかした。
こうして歩みも痛々しく、愁嘆どよめく一群の人々が御殿のような大邸宅へと向った。
第十五章
フランスの貴婦人三人組があれこれ気を遣って労ったが、悲嘆のふたり、コンスタンサとアウリステラには無益であった。それもそのはず不幸というものはその傷痕がまだ生々しい時点では慰めも労りも寄せつけず、不運や惨事に不意をつかれた者の耳にはどんな同情深い労りもすぐには届かないのだ。そういえば、膿腫というのは軟化するまで痛み続け、軟化には時が要るわけで、口が開くのを待たねばならない。だから、涙も乾かず嗚咽も絶えぬ間は、あるいはまた、自分の感情を衝き動かして涙と吐息をさそう張本人が目の前にいるかぎりは、速効性の強い薬剤の投与をさして名医の術とは言えない。
そういうわけであるから、いましばらくアウリステラを泣くままにそっとしておいてやろう。コンスタンサの慟哭も妨げまい。ふたりとも慰撫の声になど耳を塞いでいればいい。そうしている間に美しいクラリシアが夫ドミシオの発狂のいわれをきかせてくれるだろう。クラリシアがフランスの貴婦人三人組に語ったところによると、夫君ドミシオは彼女と結婚する前、さる親戚筋の娘を恋していたそうで、娘はドミシオと必ず結婚できるという楽観的な希望を抱いていた。
「ところがその幸運は白紙に戻され」クラリシアが言った。「やがて彼女の運命はいつまでも消えない暗黒に変りました。発端と申しますのは、娘はロレーナというのですが、彼女がドミシオの結婚に憤慨しながら、平静を装って、三日にあげずさまざまな贈りものを寄こしたことにあります。それは、値段もさることながらとにかく豪華で見栄えのするものでした。ところがある日贈ってきたものに肌着が、そうです、かの法螺吹き女ディアネイラはヘラクレスに肌着を贈ったそうですが(1)、同じように肌着があります。リンネルの豪華な品で、目に綾な刺繍を施したものでした。夫はそれを着ました。そしてそのとたんに気を失ってしまったのです。わたくしは大慌てで脱がせました。ロレーナの女奴隷が魔法をつかうといううわさがあったので、その肌着にも妖術をかけたと睨んだからです。しかし、二日間は死んだように気絶したままでした。
そしてようやく息を吹き返したのはいいのですが、そのとき夫の意識は転倒して錯乱状態が続き、そのふるまいはすべてだれの目にも狂人のものとしか思えなくなりました。しかもおとなしい狂人ではなく、兇暴で獰猛でまったく分別を失くしており、それもあまりにひどくて鎖に繋いでおかねばならないほどだったのです」
そしてその日彼女は塔の上にいたのだが、狂人が、閉じ込められていたところから飛び出して塔へ駆け登り、彼女を窓から下へ突き落したというのである。さいわい命拾いをしたのは、天が膨張性豊かなものをそのときの着衣にさだめたもうたおかげか、それとも正確なところは、日頃から罪なき者に目をおかけくださる天の御慈悲によるものなのであろうか。クラリシアはさらに話を続け、あの巡礼の男性が塔にかけのぼって今にも狂人に突き落されそうな下女を助けた、とその模様を語った。狂人は下女に続いて、居合せた幼い息子ふたりをも落そうとしていた。ところが立場は逆になり、伯爵と巡礼は墜落、かたい地面に激突して伯爵は致命傷を負った。巡礼はドミシオから奪いとったと思われる剣を手にしたままであった。ドミシオはその剣で刺し貫かれたわけだが、そうなるまでもなく、致命傷としては落下の衝撃だけで十分であった。
このころペリアンドロは寝台で意識を失っていたが、医者が馳せつけて傷を手当てし違えた骨を嵌めるまでの治療を施した。そしてこういう症状に対する特効薬というべき飲料を与えたところ、脈がはっきり打ちはじめ、おぼろげながら側にいる者たちが分るようになった。とくにアウリステラをはっきりと認め、弱々しくてほとんど聴き取れない声であったが、こう言った。
「妹よ、わたしは普遍(カトリツク)なキリスト信仰とおまえへの愛の信仰のうちに旅立つ」
そのときはこれ以上一言も口を利かなかったし、そもそもしゃべれなかった。
医者はアントニオの血を止め傷口を診て、心配はない、傷は深いが致命傷ではないので回復は早い、天祐があろうと妹に言った。フェリス・フローラが医者に謝礼を払った。コンスタンサも払おうとしていたし実際に払ったのであるが、フェリス・フローラが先んじたので、医者はろくな治療もせずに謝礼を二重取りしたことになる。
怪我人はそこでひと月余り養生し、フランスの貴婦人三人組もその側を離れ難くて留まった。それほどよい友達になっていたのだ。アウリステラやコンスタンサ、またその兄たちがよく出来た人だったので、側にいるのがとても楽しかったからである。ことにフェリス・フローラはアントニオの枕辺から離れられなかった。それは多少控え目な愛情の兆しであり好意以上のものではなかったろう。また受けた恩に対する感謝に過ぎなかったかもしれない。アントニオの矢こそがルベルティーノの手から自分を救ってくれたのである。ルベルティーノとは、フェリス・フローラの語るところによると彼女の城の近くに城を構える領主であり騎士であった。その彼が完徳の愛ではなく淫らな愛に駆られて彼女を追い回し執拗に迫って嫁になれと言い寄った。しかし彼女は彼の普段からのさまざまな行状と悪評を知っており、そういう評判はめったに嘘をつかないものであるから、それらにもとづいて、ルベルティーノという男が粗暴で残忍で、しかも気紛れで我儘で無節操な性質の持ち主だと判断したので、この求婚に応じなかった。それゆえ、彼女が思うに、彼は彼女の冷淡な態度を怒って、山賊まがいに彼女をさらい、意志の力で及ばなかったものを腕力に任せようとしたのである。ところがアントニオの矢がその強引で卑劣な企てを断ち切ったわけで、彼女はこれに深く感動し感謝に堪えなかったのだ。
フェリス・フローラの言ったことはひとつも違わずそっくりそのとおりであった。そうこうするうち怪我人が回復し、元気が戻って活力が湧いてきた。さらにこうなると意欲も蘇って、なんとしても旅を続けたいという気持が旺盛になり、そこで必要なもの一切を揃えて実行に移すこととなった。フランスの貴婦人たちは、さきに述べたように、巡礼のそばを離れようとはしなかった。一行に対する三人の態度は、感嘆と尊敬の念に満ちたものであった。それというのもアウリステラの愁嘆の言葉を耳にして以来、この兄妹尋常の身分ではない、とうすうす感じていたからだ。畏(かしこ)い身分が綴れの下に匿され、高貴な血筋が下賤の衣を纏うこともけっして珍しくはない。三人はそれを思って複雑な気持で兄妹を見ていた。供もつれず、装束も見窄(みすぼ)らしい。これから判断するかぎり凡庸な身分の者かもしれないが、ただよう威風と顔容の端正を見ていると兄妹の人品骨柄は雲上にまで高くそびえ立つ。そんなわけだから高貴とも下賤とも、兄妹の身分はどちらとも決めかねていた。
フランスの貴婦人は一行の全員が騎馬で行けるように手配した。ペリアンドロの足が墜落がもとでまだ頼りなかったからである。フェリス・フローラは、蛮人アントニオの射矢がよほどありがたかったとみえて、その感謝のあまりくっついたように彼のそばを離れなかった。そして一行は、すでに故人となって葬られているルベルティーノの無法やドミシオ伯爵の奇異な事件を話題にして、従妹が贈った豪華な品々が伯爵の正気のみならず命をも奪ったことだとか、ただもう驚愕するばかりで信じようとして信じられないような、奥方の奇跡的な飛行のことを語り合っているうちに、とある川の岸辺についた。徒歩で渡るのはむずかしそうだ。
ペリアンドロは橋をさがすほうがいいと言ったが、他は同意しなかった。そしてあたかも従順な羊の群が狭い場所に追いやられ行手を阻まれたときのように、つまり一頭が先導して道をつけ、他は間を置かず後につくのであるが、ちょうどその一頭のようにベラルミニアが先頭をきって川へ入り、残るみんなが続いた。もちろんペリアンドロはアウリステラのそばを、アントニオはフェリス・フローラのそばを離れなかった。アントニオは美貌の妹コンスタンサにもぴったりと寄り添った。
ところが、運命の神はフェリス・フローラの運が沈む方へ手を下した。すなわち川の流れが彼女の頭を呑み込んだのである。もちろんフェリス・フローラは立っておれず、急流のまっただなかでぐらりとよろけた。と背後から信じられない素早さで、いまや礼儀を弁(わきまえ)ることでは人後におちないアントニオが追いつき、抱きとめ、彼女を肩に載せた。すなわちフェリス・フローラはほかでもない現代版エウロパ(2)となったのである。こうして対岸の乾いた砂地にフェリス・フローラは運ばれ、アントニオの機敏な善意を謝してこう言った。
「あなたってほんとうにご親切なお方なのね、イスパニアさん」
そこでアントニオがこたえた。
「これがもしあなたの危いところを見て生れた親切でなければなにほどかの値打ちもありましょうが、じっさいにあなたが危い目にお遇いになったのですから、わたしとしては胸を冷やしこそすれ、喜ぶわけにはまいりません」
かくして、綺麗きれいとくどいほど繰り返すが、まことに綺麗をそろえた一行は川を渡り、日の傾き初めたころ山間のとある農家についた。そこは農家であると同時に旅籠を兼ねており、一行はその夜の泊りを全員一致でそこにきめた。
この旅籠で起きる出来事は、別の一篇を設け筆をあらためて書く必要があろう。
第十六章
この世に出来(しゆつたい)する事柄や事件のなかには、かりに事前に想像力が働いてそうなるように仕向けえたものであっても、あとをなぞるとなると想像力によってもできないものがある。それゆえ、稀にしかないということがわざわいして捏(でつ)ち上げの嘘八百に数えられ、事実としてまともに取りあげてもらえないこともすくなくない。そこで誓いや語り手の信用によって事実を裏付ける必要が生じるわけだが、筆者はそういう出来事ははじめから口に出さないほうが無難だと言っておく。カスティリャの古い詩がそれを勧めて、こう言うからだ。
ひとが驚くことなど
言うもんじゃない、語るもんじゃない
ありていは
みんなにわかるもんじゃない(1)
玄関を潜ってまっさきにコンスタンサの目に止った人物はせいぜい二十二、三の、器量のいい娘だった。すがすがしく小ざっぱりとイスパニア風に装っており、その娘がコンスタンサに近づいてカスティリャ語で声をかけた。
「まあ、うれしい。わたしの郷里の人じゃないとしても、故国(くに)のイスパニアのおかたにお会いできるなんて、ほんとに神さまのお陰だわ。ここでは人を呼ぶのに、皿洗いの小僧まで御前様だから頭が変になってたけど、これでどうやらふつうにあなたという言葉が聞けるわ(2)」
「そうおっしゃる」コンスタンサが言った。「あなたは、おじょうさん、きっとイスパニアのお方ね」
「骨の髄までイスパニア人よ」娘は言った。「しかも、出身はカスティリャで指折りの由緒ある町」
「というと」コンスタンサがたずねた。
「タラベラ・デ・ラ・レイナ」娘がこたえ、聞いたコンスタンサにはすぐに思い当ることがあった。この娘はもしやあのポーランド人オルテル・バネドレの妻ではないか、姦通罪でつかまってマドリードの牢にいた女では。夫はあのときペリアンドロに諭されて牢の妻を捨てる決心をし、故国へ帰ったはず。と考えるとコンスタンサの脳裏には瞬く間に一連の閃きが走った。その思いつきは、実行に移したときほとんど筋書き通りにすらすらと運ぶことになる。
コンスタンサは娘の手を取ってアウリステラのところへつれていき、ペリアンドロもまじえて四人だけで場を移して兄妹に言った。「あなたがたはわたくしの心得ている占いの術をまやかしだの眉唾だのとお疑いかもしれませんが、わたくしの術の真贋は未来を予言する能力の有無によって見分けられるものではありません。未来に何が起きるか、それは神のみぞ知ることでありますから、かりに人間のだれかが言い当てるようなことがあるとしても、それはまぐれか、あるいは前兆のおかげです。似たことを経験していれば、それから察しがつくわけです。では、いまわたくしが過去の出来事のなかでわたくしの耳に届いてもいないし、また届くはずもないことを知っているとしたら、どうでしょう。それをひとつご披露しましょう。さて、おふたりの目の前にいらっしゃる女性ですが、このかたは実はタラベラ・デ・ラ・レイナのご出身で、たしか異国の、そうポーランドの男性と結婚なさいました。その人の名は、わたくしの記憶ちがいでなければ、オルテル・バネドレと言います。ところが、この女性はあるとき真向いの旅籠の若い衆とふしだらをはたらいて、夫に恥をかかせたのです。つまり、浅はかなうえ、若気にも振り回されて、いま申しました青年と駈け落ちしたのです。しかし結局マドリードで、その不義の相手といっしょのところをお上に捕まりました。それからは、牢屋でも、ここまで来る間にも随分辛酸をなめたことでしょう。それは当人の口から聞かせていただきましょう、わたくしにも察しはついていますが、ご当人のほうが正確なうえ、話がお上手でしょうから」
「かぶとを脱ぐわ」娘は言った。「なにもかもお見透し。でもいったいあなたはだれなの。どこの占師。わたしの恥ずかしい過去を残らず知っているなんて。おっしゃる通り、わたしはその不義の妻です。牢屋にいた女です。引き取り手が現れないので十年間の国外追放の刑を言い渡されました。いまは、イタリアへ向かうイスパニア兵の持ち物になって、パンのために辛酸をなめ、苦汁をのんで生きているだけで、きょう死のうあす死のうと死ぬことばかり考えています。男は、はじめの男は牢で死にました。今の男は何番目になりましょうか、牢を脱けさせてくれたやつですが、いつしかこいつのなぐさみ者になって街道を渡り歩く暮しに入り、辛い毎日を送っています。でもわたしだって、こんな行き当りばったりを続けていると魂が救われないってことを知らないほどバカじゃありません。ですから、神さまに免じて、後生です、イスパニアのおかたと見込んでおすがりします。キリスト教徒のよしみと思って、ご身分のある方々とお見受けします、ご慈悲です、あのイスパニアの兵隊からお救いください。ライオンの爪からわたしを助けて」
ペリアンドロもアウリステラも、コンスタンサの機転と賢慮に感服を隠せなかったが、同調して彼女の芝居に協力をおしまず、女にそっくり信じこませようとした。しかもこの転落女のためにひと肌ぬごう、できるだけ役に立ちたいとさえ申し出るに及んだ。女によると、そのイスパニアの兵士というのはお上の目をくらますため、女とふたり連れでは歩かず、一宿先になったり後になったりして付いているという。
「それは好都合」ペリアンドロが言った。「ここであなたのとるべき道を考えよう。なにしろあなたの過去をぴたりと言い当てた人が知恵袋なんだから、これから先の事だって悪いようにはなさらないよ。そこであなたのまずなすべきことは、心を改めることだ。そもそも善心という基(もとい)がなければ善いことのありようがないでしょう。これからはわたしたちのそばを離れちゃいけない。この異郷であなたのもっともおそるべき敵は、その若さと美貌だ」
女は泣いた。コンスタンサも涙ぐみ、アウリステラも等しく同情をあらわしたので、ペリアンドロとしても救ってやるてだてを考えざるをえなくなった。
と、こうしているところへバルトロメが来て言った。
「みなさん、はやくこちらへ、変なものが見えますよ。めったにお目にかかれるものじゃありません」
息急き切って、大変な驚きようである。だから、よほど不思議なものを見たにちがいないと思って一行はあとに続いた。すると一行と貴婦人三人組が泊っていたところからは離れて別棟があり、その中を覗き込んだところ、すだれ越しに垣間むにすぎないが、喪色につつまれた一室が見えた。もちろん暗澹たる闇が籠って、中の様子は定かにはうかがえない。
こうして部屋を覗き込んでいるところへ年寄がひとりあらわれた。これも全身喪色につつまれている。年寄は言った。
「みなさん、今から二時間後、といえば夜中の一時ごろでしょうが、御希望なら奥方のルペルタ様をお目にかけます。本人には内緒です。ごらんになればそのお方の精神状態といい、美しさといい、かならずや驚嘆をさそうでありましょう」
「しかし」ペリアンドロが言った。「こちらにおります当方の下男が、世にも不思議なものが見えると申しますので、すっとんでまいりましたが、いまのところ驚嘆に値するものといえば、忌中の一室どまりですね。これにしても魔訶不思議とは言いかねます」
「時間においでなさい」喪服の男は言った。「驚くこと請け合います。実はこの部屋にはセニョーラ・ルペルタというお方がお泊りになっています。ほんの一年前までスコットランドのランベルト伯爵の奥方であらせられた女性ですが、ご両人の結婚が旦那様の命取りになり、いまでは奥方さまのお命をも刻々と擦り減らしているありさまです。その原因と申しますのが、やはりスコットランドのクラウディオ・ルビコンという名門騎士です。この人物は財産と身分を笠にきて、傲慢で女ぐせの悪い男でした。ところがこの男がまだ娘のころの奥様にぞっこん惚れたのです。しかしながら、袖にされたというのではありませんが、奥様が急に伯爵の旦那様とご結婚なさったことからも分るように、すこしも相手にされませんでしたから、奥様のその急なご決断をルビコンは自分に対する軽蔑、侮辱と受けとりました。もちろん奥様にはご結婚をお命じになったり押しつけたりなさるご両親がいらっしゃらなかったわけではありませんし、結婚には年の釣り合いが大切なのに、それも念頭にありませんでした。というのは、夫は妻よりも、できれば十歳あるいはそれより少し上であることが望ましく、そうなれば、そろって老いを迎えられるわけですが、ルビコンは男やもめで、二十一にもなる息子があるのです。これは申し分のない好青年で、父親よりも人品優っておりますから、もしもこの息子が奥様の婿に立候補していたなら、わたくしどものご主人であらせられた伯爵さまもいまなおご健在のはずですし、奥様ももっと楽しい毎日をお暮しになれたものをとくやまれます。ところが、ある日、奥様のルペルタさまが旦那様とごいっしょに別荘へご休養においでになり、わたくしもお伴したときのことですが、そのとき人里離れたところで突然、思いがけず、ルビコンとばったり出交しました。ルビコンはおおぜいの家来を連れておりました。もちろんルビコンは奥様を見たわけですが、とたんに、自分に向けられたと思いこんでいた侮辱の記憶が目覚め、そこからかつての恋情にかわって怒りが生じ、それがこうじて、奥様を苦しめたいという一念にかられました。恋心から一転した復讐心は、受けた侮辱をはるかにしのぐものですが、ルビコンの場合も恨み骨髄に達し、自暴自棄で前後の見境もつかない状態になって、いきなり抜刀するや旦那様の伯爵めがけて突進しました。もちろん旦那様はことのいきさつに関わりはないし、しかも藪から棒なことですから身をかわすこともできなかったわけですが、そんな旦那様の胸を一突きで串刺しにして、ルビコンはこう言いました。
『貴様に恨みはないが、償ってもらう。これを残酷非道と思うのはもっともながら、俺は貴様の女房からもっと酷い仕打ちをうけた。しかも一度や二度のことではない。女房はあの氷の刃で何万遍となく俺をなぶり殺しに苛んだのだ』
わたくしはそこに居合せて一部始終を目撃しました。この耳で聞き、この目で見、この手で旦那様の傷を塞ぎました。天にも突き刺さる奥様の愁嘆も聞きました。わたくしどもは家に帰って伯爵様を葬いましたが、埋葬のとき奥様のご命令で旦那様の首を切り落しました。そして時を移さず、しかるべき方法で肉をそいで頭蓋骨だけにしました。奥様は家来に言いつけてそれを銀の櫃に納め、その上に両手をおいて次のような誓いをお立てになりました。ああ、そうそう、言い忘れるところでした。残忍なルビコンは、侮辱の意味をこめてのことでしょうか、それともいっそう残酷であらんとしたのか、あるいは、たぶん取り乱して忘れたのでしょう、剣を旦那様の胸に突き立てたまま残していったのでした。その剣はあたかもまだ生々しい血で濡れているように見えます。奥様はこうおっしゃったのです。
『天はただ佳人の名でお呼びになるけれど、わたくしは薄幸のルペルタ。これなる痛ましい形身に両手をおいて天に誓います。この手で、この才覚で、殺された夫の仇を討ちます。この惨めな命が何度死のうとかまいません。どんな苦労もいとわず、たとえ助太刀を頼んででも仇討ちは果さずにおきません。キリスト教徒にあるまじきこととは百も承知ながら、わたくしにとっては正当な願いです。この願いの叶うまでは、黒一色をまとい、部屋もまっ暗にし、卓布も悲しみの色に染め孤独を伴侶にして暮し続けることを誓います。形身は卓から離さずたえずこれを見てわれとわが心を叱咤させ、舌なき首には、ルペルタよ恨みを晴らせ、と命令してもらいます。剣も離しません。この剣の生々しい血を見るとわたくしの血は煮えたちます。この血にたのんでも恨みを晴らすまではわが胸を鎮めてなるものか』
ひととおりこうおっしゃると止めどない涙も少しはおさまり、こみ上げる嗚咽もひと息ついたようでした。このたびはローマへの旅の途中ですが、イタリアの主筋を頼って援助と助太刀をさがしにまいられるところです。 旦那様を殺した男は、いまも奥様を脅かしています。たぶん仇討ちに怯えてのことでしょう。鷲は味方にもなるが、蚊は常に敵。いま申しましたように、二時間ほどたてばとくとご覧になれます。これだけお聞かせしてもまだお驚きにならないとすれば、わたくしの話がよほど下手か、ご一行が石の心臓をお持ちか、どちらかです」
喪服に包まれた盾持ちはここで話を終え、巡礼の一行はまだルペルタを見ないうちから早々と、もちろんながら、この一件に驚嘆の色を示しはじめた。
第十七章
憤怒とは心臓附近の血液の騒乱であるという。だから人は自分を侮辱した者を見ると、あるいは思い出すだけでも胸の中の血が騒ぎだすというわけで、その結末すなわち行き着くところは復讐である。辱しめを受けた者は道理もくそもない、復讐さえできれば、胸が鎮まるのだ。この事実は麗しのルペルタが今にも納得させてくれよう。ルペルタは侮辱を受け、激怒している。彼女の仇討ちへの執念のすさまじさたるや、実は、仇がすでに死んでいて、それを知っていたにもかかわらず、その孫子にまで下って怨念をぶつけていたのである。なんとしても一族を根絶やしにしてやる。げにげに女の怨念はとどまるところをしらない。
その刻限が来た。巡礼たちはルペルタを見に行った。彼女に気づかれないところから覗き見たわけだが、聞きしにまさる美女だ。足元にまで届く被衣が真白で、卓に向かい、その上には銀の櫃に納まった夫の頭骸骨があり、その一命を奪った剣が添えてある。夫の血が付着していまだに乾かぬ、と彼女が思い込んでいる肌着もあった。これら、痛ましい過去の語り手がことごとく妻の怒りを目覚めさせた。ただし、目覚めさせる必要はなかった。けっして眠ることがなかったからである。彼女は立ち上がり、右の手を夫の頭骸骨に置いて誓文、起請を称えはじめた。喪服の盾持ちが言ったとおりである。両眼から涙が溢れ受難の形身の上に降りそそいだ。周りの空気がどんよりと曇るほど胸の溜息を吐いた。きょうはあらたな言葉を加えて、いつもの誓いをより深く胸に刻みつけた。そのときばかりは目から涙ならぬ烈火を吹き、口からは吐息ならぬ噴煙を飛ばしたと言えよう。ルペルタはそれほどの激情と復讐の執念の虜になっていたのである。
読者諸君には、号泣するルペルタがはや見える? 慟哭と忘我の境のルペルタ。兇刃を振るい、血まみれの肌着に接吻するルペルタ。言葉にならぬ哄哭を発するルペルタが見える? なるほど、しかしそのまま夜明けまでお待ちねがいたい。明ければ、何千万年先までも、諸君が生きていればの話だが、それほど永く語り草になるものをお見せしよう。
ルペルタは悲嘆の吐露の最中であった。それはほとんど快感に近い境地であった。思うに人間というのは息巻いているときほど、息を休めているもののようである。そこへ家来がひとり来た。全身喪におおわれた黒ずくめの、まるで黒い幽霊である。それが細々と声を洩らした。
「奥様、仇のせがれで色男のクロリアーノが、ただいま家来をひきつれて、この宿に馬をつなぎました。姿をおかくしになりますか、名乗りをおあげになりますか、それとも他によいお考えがありましょうか。まだお暇はございます」
「覚(さと)られてはなりません」ルペルタがこたえた。「みなのものにもよく申し付けておきなさい。故意にも不注意にもわたくしの名を出して、ここにいることを気どられてはなりません」
こう言ってから形身の品をまとめ、部屋を閉ざし、誰も通さないように言いつけた。
巡礼たちはめいめいの部屋へ戻った。ルペルタはひとりきりになって考えこんでいた。そして、なにしろひとりきりであったわけだからどういう経路で人々の知るところとなったかは謎であるが、独言に次のような、あるいはそれに似たことを言った。
「いざ、ルペルタ、心せよ、慈悲深い天は従順なる生贄の供物のごとく、仇の魂をおつれくださった。子は、とりわけひとつぶだねは親の魂のかたわれだ。さあルペルタ、女人であることを忘れるのだ。忘れたくなければ肝に銘じよ、おまえは侮辱を浴びた女だ。夫の血の叫びが聞えないのか。舌をふるえぬ口が命じているではないか、『仇を討て、いとしい妻よ、奥よ、わしは卑怯者の手にかかった』そうだわ、獰猛なホロフェルネスも慎ましいユーディットを縮みあがらせることはできなかったわ。でも確かにユーディットの場合わたしとは理由が異なるわ。彼女は神にあたなう者に鉄鎚を下し、わたしは仇かどうかさえ決めかねる仇を制裁しようとしている。ユーディットに剣をとらせたのは祖国への愛で(1)、わたしに剣を抜かせるのは夫への愛だし……でも、なんのためにこんな、なぜこんな無益な比較を。目をつむってあのこせがれの胸に刃を突き立てさえすればいいのだ。せがれに罪がなければないほど仇討ちのしがいがあるともいえるではないか。そうよなにがなんでも仇を討って、天晴れよくぞ討ったと世間に言わせてみせよう。いったん果すと決めたんだもの、どんな邪魔が入っても、果さずにおくものか。命ととっかえても仇討女の名を売り出してやる」
こう言って、その晩クロリアーノの部屋に侵入する方法をめぐらし、クロリアーノの家来を買収して侵入口をつくらせて手筈をととのえた。家来は何も知らなかったし、ルペルタほどの美女を主人の閨に通すことは、むしろ最大の忠勤であると考えたのである。ルペルタは気づかれないところに身を潜め、運を天に、よくぞと思えるばかりに息をころして仇討成就のときを待った。クロリアーノの死の一瞬こそ本懐が遂げられるときである。
残酷な血祭をくりひろげるための道具としてルペルタは細身の短剣を帯びていた。それが手頃で、かさばらない武器で、この場にあつらえ向きに思えたからである。提灯も用意した。厚手の覆いをかけたもので、中に蝋燭をともした。そして息を詰めた。呼気ひとつでも外へ洩らすまいとするほどの緊張であった。
女は怒らせると何をするかわからない。女の一念で突き崩せない難関難所があろうか。虫も殺さぬ顔で鬼みたいなことをこともなげにやってのけるものである。だが、この問題についてはこれ以上語るまい。言いだすときりがないので、しかるべきときに譲るほうがよかろう。いまのところ十分に言い尽せる言葉も知らない。
決行の時が迫った。クロリアーノは床につき、すぐに寝入った。道中が疲れたのであろう。命を狙われているなどとは夢にも思わず深く熟睡の道に入った。
ルペルタはクロリアーノが寝入るのを耳をそばだててうかがっていたわけだが、やがてその気配が見えた。ぐっすり寝入ったらしい。床についてからすでにかなりの時が経っていたし、熟睡に特有の深い寝息もきこえる。それを見計ってルペルタは十字も切らず、いかなる神にも加護を求めず、提灯の覆いを取った。こうして部屋が明るくなったところでルペルタは踏み込みやすい場所を捜した。寝台に行きつくまでに躓いてはまずいからだ。
いざ水もしたたる殺人鬼よ、いざ烈火の手弱女よ、虐殺の妖婦よ、怒れ、恨みを晴らせ、恥をすすげ、汚名をぬぐえ、そうだ仇はそこにいる。生かすも殺すもおまえの胸先三寸だ。だがよいか佳人ルペルタよ、必殺を期するならそれなるキューピッドの玲瓏たる顔(かんばせ)を正視するな。目を合わせてはならない。さもなくばこれまで思いかためてきたおまえの企みはたちまち水泡に帰す。
さてルペルタは寝台まできた。しかし手はぶるぶると震えている。だがその目ははたしてクロリアーノの顔を見てしまった。と、なんとぐっすりと眠っていたのに、その面相には妖しくもメドゥーサの盾(2)の能力がそなわっていたのだ。ルペルタは石像と化し、あまりの美しさに目眩み、握りしめていた短剣を思わずぽろっと落した。そしてなさんとしている事の残酷に気づく暇ができた。クロリアーノの目映い目鼻立ちに見入っていると、そこにはいま彼女が覆いかぶさらんとする死神の影を、霧をも払う太陽のごとく払い消す美貌が浮かびあがり、瞬く間に、クロリアーノを凄惨な贄の犠牲にする企みなどは消え去り、彼女は彼を自分の情炎に供える神聖な生贄に選んだ。
「なんと」彼女は胸中に声を発した。「いい男だこと。これが仇ではなく背の君であればこの身はいかばかりしあわせか。父親の犯した罪をなぜおまえが問われねばならない。罪のない者がなぜ苦しまねばならないのか。眩しいまでのその若さを生きて楽しみなさい、仇討ちも残忍な怨みも胸底に閉じ込めて忘れよう。世間が知れば仇を恩で報いたと、むしろわたしの名も上がろう」
こう言って取り乱し、悔やむうちに手灯が手を離れ、クロリアーノの胸に落ちた。そのとたんに蝋燭の熱さで彼は目が覚めた。火が消えてあたりは真暗になった。ルペルタは部屋を逃げだそうとしたが、それさえできなかった。いっぽうクロリアーノは大声で人を呼び、剣をとって寝台からはねおき、部屋をかけまわっているうちにルペルタにぶつかった。すると彼女は震え上がってこう言った。
「殺さないで助けてクロリアーノ、わたしはたったいっとき前まではあなたを殺そうとし、また殺せたはずの女です。でも今はこうして命乞いをするはめになりました」
ここへ彼の家来がさわぎを聞きつけ灯火を持って馳せ来た。その明りをかざしてクロリアーノが見ると、そこには彼も知る、目の醒めるような美しい未亡人がいた。その面輪はあたかも白雲の中にくっきりと浮かぶ月輪を見る思いである。
「これはいったいどういうことです、セニョーラ・ルペルタ」彼は言った。「復讐の執念でしょうか、こんなところまであなたをお連れしたのは。父があなたに対して犯した非道をわたくしに償えとおっしゃるのですね。剣を振り回しておいでなのは、わたくしの命を狙っていらしたとしか考えられません。それにしても父はすでに他界しております。すでにこの世になき者にどうして侮辱を償えましょう。しかし遺された者にはできます。だから今、父の身になりかわって、わたくしができるだけのことをして生前の父の罪の償いをさせていただきますが、その前にちょっとおからだに触れさせてはいただけないものでしょうか。失礼な真似をしようというのではありません。幽霊ではないことを確かめたいのです。もしも幽霊なら、ここへ何しに来たか、わたくしを殺しに来たか騙しに来たか、あるいは幸運を運んできたか教えてもらいたい」
「わたくしは昨日この宿に着きましたが」ルペルタは言った。「あなたのことが頭にあったからではないのです。この言葉に嘘いつわりがあれば、天罰によってわたくしの運命が、今以上ひどくなりようがあるとして、破滅してもかまいません。あなたがお着きになり、門をお入りになったときもわたくしはお姿を見ておりません。ところがお名を聞いたとたんにむらむらと怒りが目覚め、復讐心が呼びさまされたのです。そこで今夜この部屋へ忍び込めるようにあなたのご家来に掛け合い、いくらかさし上げて目をつむっていただき、その間にこうしてひそかに入り込んだのです。この剣を用意し、なにがなんでもあなたを亡き者にしよう、殺さずにおかれようかといきり立ち、あなたが寝入るのを見澄ましていました。そして隠れ場を出て用意の提灯で寝場所をつきとめ、お顔を見たのです。神々しいほどに目映い、あまりにも畏れ多い寝顔でした。だから剣の刃もこぼれ復讐の執念も消え、持っていた提灯を落してしまいました。その火であなたはお目を覚まし、声をおたてになって人を呼び、わたくしは動転してそれからのことはご覧のとおりです。仇討ちは忘れます。侮辱の形身も捨てます。これからは枕を高くしてお休みください。わたくしは、恨みを慈悲で晴らした最初の女になりましょう、もともと無実の者の罪を許すことが慈悲といえるとして」
「奥様」クロリアーノが言った。「父はあなたとの結婚を望み、あなたはお断りになりました。父は恨みに思ってご主人をあやめ、その罪科をかかえたまま他界しました。わたくしは父のかたわれとして遺されたものですから、父の魂にかわって善を行うのが当然でしょう。わたくしの魂を差し出せとおっしゃるのなら、あなたの夫としてわたしをお受けとり願いたい。もちろん今も申したように、あなたがわたくしをたぶらかす幽霊でないとしてのことです。思いがけず訪れる幸せには必ず怪しむべきところがあるものですから」
「わたくしをお抱きください」ルペルタは言った。「お抱きくだされば、幽霊みたいに掴みどころのないものではないことがお分りいただけます。そしてまたこのからだに包んでお渡しする魂が、無垢で誠のあることも」
この両人の夫婦約束と抱擁に立ち会ったのは、明りを持って馳せつけたクロリアーノの家来たちであった。かくしてその夜、甘美な和睦が酷烈な戦乱を鎮定した。激戦の野は新枕の床と変じ、瞋恚(しんい)の炎(ほむら)から平和がたちのぼり死から生が、確執から円満が生れた。一夜明け、契りたての夫婦はたがいの腕の中で朝を迎えた。
巡礼たちは目が覚めるとすぐ悲憤のルペルタのことが気になった。仇のせがれの出現のことはすでに聞いていたので、その後のことを知りたいわけだがやがて新しい夫婦のうわさがぱっとひろがり、一行からも新郎新婦にいかにも儀式めいた祝賀の辞が贈られた。その直後、部屋へ戻りしな、主家の事件を語った老僕がルペルタの部屋から出るのに出会った。奥方の前夫の頭骸骨の納まった櫃をかかえており、来る日も来る日もルペルタの涙を絞りあげた肌着も剣も見える。過去の忌わしい事件が現在の幸せの中で二度と涙を呼び醒まさないよう始末する、と老僕は言った。老僕はルペルタの心の早変りには不服がありそうだった。ついでにルペルタにかぎらず女という女のことをこぼし、悪態は控え目なほうであったが、女は節操がない、ぐらいのことは言った。巡礼が部屋をたずねる前に新郎新婦は起きていた。ルペルタの家来とクロリアーノの家来が交歓し、宿は、かくもやんごとない両人の婚礼にふさわしい宮殿となった。
こうしてペリアンドロとアウリステラ、コンスタンサと兄アントニオは新郎新婦と歓談し、さしさわりのない分に限っていたが、たがいに身の上を語りあった。
第十八章
こうしているところへ宿の玄関に現れた男がある。長く真白い顎髭(あごひげ)からみて齢八十をとうに過ぎており、着ているものからは巡礼の風でもなく法体でもないが、そのいずれにも見える。頭に被物はなく、中央がすっぽりと開けた禿頭で、まわりには白髪が長々と垂れている。その衰躯は錫杖がわりの、捩れた牧杖にあずけており、その風貌は、全容をとっても部分をとっても畏敬の念をさそわずにはおかない、老尊者のものであった。宿の女将はその威風に触れるや、ひざまずいて言った。
「ソルディーノ神父さま、今日という日は、わたくしの生涯の最良の吉日に数えさせていただきます、こうして神父さまにおみえいただけたんですもの。おいでいただいたときは、いつもいいことがあるんですのよ」
そして周囲を見回して言葉を続けた。
「みなさん、ここにいらっしゃるこの白雪の峰、白石の動く像は、あの有名なソルディーノさまのご尊影です。フランスのみか、地上のすみずみにまで評判のかくれないおかたです」
「おかみさん、まだ誉めちゃいけません」老人は言った。「相手が食わせ者だと、とんだ目に遇いますよ。福の神になるならぬを決めるのは出方ではない、引っ込みようです。どんな善徳もおしまいが悪徳だと、つまるところは善徳でなく悪徳だ。それはそれとして、評判だおれになりたくはないので、信用を得るために、一言申しあげる。きょうはこの家の用心をおこたらぬよう。と申すのは、この家では今めでたい祝言や披露の席が設けられているようだが、ここから火が出て、家はほぼ丸焼けになるからじゃ」
これを聞いてクロリアーノが妻ルペルタにささやいた。
「魔術師か易者にちがいない。未来を予言しているんだから」
これを聞くとはなしに耳に挾んで老人が言った。
「わたしは魔術師でもなければ易者でもない。星占の学をおさめた者だ。この科学は熟達すれば易をみることもできる。今回だけでもよろしい、わたしの言うことを信じてこの家を逃げ、わたしのすみかへおいでなさい、この近くの森にある。けっして広くはないが安全な宿ではある」
これがまだ終らないところへ、アントニオの下男バルトロメがきて大声で叫んだ。
「大変です、台所が火事です。すぐそばに積んであった山のような焚き木に火がつきました。手がつけられないほど燃えています。海の水を全部かけてもだめでしょう」
これに続いてほかの従者の喚き声もあがり、やがてばちばちと燃える火音が聞こえはじめて言葉を裏付けた。
まさしく真赤な真実がソルディーノの言葉の証(あかし)となったのである。火の手を食い止められるだろうか、ペリアンドロはそれを確かめにいこうともしないで、アウリステラを抱き寄せて、ソルディーノに言った。
「ご厄介になります。危険は、火を見るよりあきらかです」
アントニオも妹コンスタンサとフランスの貴婦人フェリス・フローラをともなってそれにならった。そのあとにデレアシルとベラルミニアが続いた。改心したタラベラの女もバルトロメの腰帯につかまり、バルトロメは驢馬のおもがいを引いて続いた。この一隊と新夫婦に、さらにソルディーノの予言の確かさを十分承知していた宿のおかみが加わって続いたわけだが、案内人の足は悠然としていた。
宿に残ったのはソルディーノの話の場に居合せなかった人たちで、てんやわんやで火を消しにかかったが火勢はあまりにも激しく、じたばたしても無駄だということをすぐに思い知らされた。火は一日中燃え、家はその日のうちにすっかり灰となった。もしこれが夜中のことであったら、誰も脱出できず、のちにその猛火の模様を語れる者もいなかったはずである。
やがて一隊は森についた。そこには、さして大きくはない庵があった。その奥に扉があり、暗い洞穴に通じているようである。
庵に入るまえにソルディーノは、従ってきた人たちみんなに向かって言った。
「これらの木々は閑静な影を落して黄金の屋根になってますし、広々とした気持のよい草原は、純白ではないにしてもとてもやわらかくてよい寝床にはなります。こちらの方々は洞穴へお通しします。もともとこういう場所に似つかわしい方々であるからで、もっと似つかわしくなっていただくためにお連れするわけではありません」
その場でペリアンドロとアウリステラ、コンスタンサ、三人のフランスの貴婦人、ルペルタ、アントニオ、クロリアーノを指名し、ほかのおおぜいの人たちを残し、指名した者たちを従えて洞穴に足を運んだ。庵の扉も洞穴の扉も固く閉ざすことを忘れなかった。
さて、バルトロメもタラベラの女も指名されず、お呼びもかからなかったわけであるが、これを恨んでか、あるいはもともとそろって根性が浮薄にできているからか、両人は意気投合し待ってましたとばかりに食っ付き合い、ねんごろになり、示しあわせてバルトロメは主人を、女は改悛を捨てた。そうして、巡礼衣裳二着を抜き取って驢馬の荷を軽くし、女はそれに乗り、色男は徒歩で、女は世話になった婦人たちを、男はいたわり深い主人をそれぞれ虚仮にしてそこを去った。彼らもまた、一行と同様ローマへ行くつもりであった。
前にも述べたように、物語では現実にありそうだとか真実めいているからといってかたっぱしに語ればよいというわけではない。なぜならまずそれらが信用されなければ語る意味がないからだ。しかしながら、真実がはっきりとそれらしく見えるか否かにかかわらず、物語りする者はやはり真実を言うほうがよい。それゆえこの方針にのっとって、この物語の作者は次のように話を進める。
ソルディーノは先の紳士淑女の一隊を従えて暗い洞穴の階段を、少なくとも八十段は下りたであろう、そこからまなかいにぱっと明るく澄みわたった空がひらけ、あたり一面に爽やかな草原がひろがって一行の目を喜ばせ、心地好くさせた。そこまできて、いっしょに下りてきた者たちの周りをめぐりながらソルディーノは言った。
「みなさん、これは魔法でもなんでもありません。いま下りてきた洞穴はほかでもない、ここに開けている谷間へといまの上界から下りてくる近道なのです。実は一レグアほどむこうにもっとなだらかで平坦な通り易い入口がありますが、わたしは先ほどの庵をこしらえ、またこの手で根気よく汗していま来た洞穴を掘り、谷を自分のものにしました。ここには飲み水も木の実も豊富にあって食うには不自由しません。わたしは戦場から閑静なここへ遁がれ来て、ようやく平穏を見つけました。上界のあちらで感じていた空腹とでも言いますか、虚しさは去って充たされた気分を味わいました。ここには、浮世に君臨あそばしわたし自身もお仕えした王侯君主にかわって、物事わぬ樹木があります。高く聳え一見誇らしげに枝葉を膨ませていても木々は腰の低いやつです。ここなら皇帝の疎々(うとうと)しい言葉も耳に届かず、大臣の逆鱗にも触れず、ご婦人からいみきらわれ蔑(なみ)されることもなく、家来に裏切られることもありません。ここでは、わたしの主(あるじ)はわたしです。ここでは、わたしの魂はわたしの掌中にあります。ここからなら、わたしの意志や気持を直に天に向けることができます。わたしはここで数学の研究を完成させ、星の運行、太陽や月の動きも観察し、ここに居ながら喜びの種と悲しみの因(もと)を見てきました。もっともそれらがそうなるのは先のことですが、必ずそうなるはずのもので、現実と肩を並べるほど確実だと申せましょう。いまも今ありありと見えてくるのは、アウストゥリア王朝の雄々しい若殿が荒くれの海賊の首をはねているところです(1)。この目に映るように、あなたがたにもお見せしたい。わだつうみ牙旗をなびかせ、敵の新月を海に追い落し、馬尾を切って目にもの見せ、船を焼き、敵を八つ裂きにして誅討している。ところが、あわれいたましや、こちらには王冠をいただく若武者が乾いた砂上に倒れている(2)。総身にモーロの槍を受けた手負いです。先の若殿は戦野の雷電(いかずち)、称えても称えきれぬカルロス五世公(3)の御子であり、砂上の若武者は孫君です。五世公にわたしは久しくお仕えしました。かぎりある世の軍役を神の世の軍役に変えようと思い立たなかったなら、わたしはおそらく一命の尽きるまであのお方にお仕えしたはず。わたしはここにいながらにして本も持たず、このひとり暮しの時間に得た経験だけを通して申しあげたい。クロリアーノ殿、これまで一度もお目にかかったことのないあなたの名を存じていることで信用していただけましょうが、あなた様は幾久しくルペルタ殿と仲睦まじくあられましょう。それからペリアンドロ殿、巡礼はかならず成就し、妹アウリステラ殿が妹でなくなるときがまいりましょう。薄命で早々と亡くなるということではありません。それから、そうそうコンスタンサ殿、あなたは伯爵から公爵へ位を昇り、兄アントニオ殿もその勇猛にふさわしい然るべき身分にお昇りになるでしょう。こちらのフランスの御婦人方も、いまの念願は叶わないにせよ、いずれ他にうれしいことが必ずめぐりきて、意地も体面も保てるでしょう。火事を予言し、お目にかかったことのないお方のお名前を知り、いま申しあげたようにまだ現実になっていない死を予見したということだけで必ずやお心を動かして、わたくしめの能力を信じていただくに足りるものと存じます。それからもう一つ、これがほんとうだと分ったときにはいま申しあげたことをいやでも信じていただけるでしょう、ご一行の若い衆バルトロメはあのカスティリャの女と驢馬をつれて姿をくらましました。これではまさしく足をさらわれた恰好ですからきっとお困りでしょうが、後は追わないほうがよろしい、どうせ追いつきませんから。いずれにせよあの女は天に馴染まぬ、地の者です。いまもその性根に従ったまでのことで、ご一行がせっかく説いてきかせてやったのにそれを無にしました。ところで、わたしはイスパニアの人間ですから、それだけに礼節と真実にもとることはできないわけですが、この沃野が授けてくれるものをご一行にお分けするのはたぶん礼にかなっておりましょう。また、ただ今申しあげたことがいずれ全て現実になることでわたしの言葉の真実の証しも立ちましょう。イスパニア人がひとりでこんな遠国にいることを訝(あやし)む向きもありましょうが、世界を見回せばあちらよりもこちら、こちらよりもあちらとより住みよい場所があるもので、わたしたちがいまこうして立っているここは、わたしにとってこの上ない佳境なのです。周辺には集落があって、農家と野良小屋があり、そこに住む人はみな信心深い善良な者ばかりです。わたしはそこまで出掛けて時に応じて秘蹟を授かり、人間一人生きていくのに必要なもののうち野良からは得られないものをそこで求めます。これがざっとまあわたしの暮しで、いずれここからとこしえの世の暮しに移るつもりです。では、これくらいにして上へ引き返し、つぎはからだにも糧(かて)をとらせるといたしましょう、この下では心を養いましたから」
第十九章
質素というよりは粗末な食事で、たしかになんの飾りけもなかったが、そういう食事も四人の巡礼にとってはいまやけっしてめずらしくはなく、蛮人島のことやルティリオが残った隠者島でのことが思い出された。あれらの島では木々の実を食した。旬を迎えたもの、過ぎたもの、さまざまな果実があった。また思い起されるのは島民に伝わるでたらめな予言や、盛り沢山なマウリシオの予言、あるいは副助祭によるモーロ流の予言であった。しんがりには目下のイスパニア人ソルディーノの予言がくるわけだ。
つらつら思うに八卦易断につきまとわれ、占星術にどっぷりひたったような印象のする旅であった。それにしても、星占いについては、かつて的中するところをまのあたりにしたことがなかったなら、一行も容易に信用できなかったろう。
短い食事が終わった。ソルディーノは同行のみんなをひきつれて表道に出、そこで別れることになった。その場で一行はカスティリャの女と驢馬引きバルトロメの姿が見えないのに気づいた。路銀も食糧もそっくり消えているわけであるから、困ったことをしてくれたと一行四人は弱りきって嘆き、アントニオはひとしきり愚痴をこぼしてから、自分は先に行ってバルトロメを追うと言った。女がそそのかした可能性が強い。いや、男のほうからさそったのかもしれない。どっちにしてもじっさいは手に手をとって逐電したのであろう、などと見解を述べるアントニオをソルディーノが慰めて、嘆くには及ばぬ、慌てて追うまい、下男は後日かならず盗みを悔いて立ち戻る、しかも持ち去ったものもそっくり返ると言い、一行はそれを信じた。そのとき、アントニオと一行のローマまでの旅費は全額自分が貸そう、とフェリス・フローラが善意を示した。それはありがたい、願ってもないとアントニオは救われたように謝意をあらわしてから、手の平にのるほどのものだが値は五十万ドゥカードを下らない品がある、それを担保に預ってほしいと言った。ほかでもないアウリステラがダイヤモンドの十字架とともに肌身離さず持っている二個の真珠のうち一個を念頭においてのことであった。フェリス・フローラはその品の値と称する額をにわかには信じがたかったが、それには構わず、融通するという意志をひっこめなかった。
そうこうしているところへ、八人ばかりの騎馬の一隊がいま一行のいる道をやって来るのが見え、やがて一行のそばを通って行った。その中に、女性がひとりまじっていた。驢馬の背の立派な輿に座したその女の旅装束は上から下まで緑ずくめ、帽子までが緑で、数本の華麗な羽根飾りが風に旗めき、顔面はと見ればこれも緑の頬被りにすっぽりと包まれている。一隊は通りすがりに無言の会釈を残して先を行った。徒歩の一行も声はかけず、同じく頭を下げただけであった。だが騎行のひとりが一隊を先に行かせておいて徒歩の者たちに近寄り、物腰やわらに、水を所望したい、と言った。徒歩の一行はすぐに応じ、ついでに先行の一隊のこと、とくに緑色の女性のことを尋ねた。
これにこたえて騎行の男は言った。
「先をいらっしゃるのはアレハンドロ・カストゥルーチョ様と申されるカプアの廷臣で、カプアのみかナポリ全土でも指折りの富豪です。ご婦人はその姪にあたるイサベル・カストゥルーチョ様です。お生れはイスパニアで、さきごろかの地でお父上の葬儀をおすませになりましたが、お父上のお亡くなりになったのをいい機会に叔父上がお嬢様をカプアへお連れしてそこで縁づかせようというお考えなのです。お嬢様は乗り気じゃないようですがね」
「どちらかというと」ルペルタについているあの喪服の従僕が口をはさんだ。「結婚がおいやなのではなくて、道中の長いのが苦なんでしょう。女性というのはだれしも自分にない半分を補充したくなるものじゃないんですか、それを充たすのが男だとわたくしめは思いますがね」
「わたしにはそういう哲学はわかりませんが」旅人は言った。「とにかく沈んでおいでなのです。わけはご自分でお分かりなんでしょうが。あれあれ、旦那様はもうあんなに遠くへ、いそいで追いつかなくては、ではこのへんで、ごきげんよう」
旅人はひと鞭当てて先を急ぎ、やがて見えなくなった。徒歩の一行はソルディーノと抱きあって別れを惜しみ、彼を残して旅を続けた。
そうそうひとつ言い忘れていたことがある。ソルディーノがフランス婦人に、ローマへ直行するようにと忠告したことだ。道を外れてパリへ回ってはならない、と言ったのであるが、これを彼女たちは託宣のように聞いた。そこで彼女たちも巡礼の一行の計画に従ってドゥフィネ経由でフランスを出ることにした。そこからピエモンテ、ミラノ公国をぬけ、フィレンツェを見て、やがてローマへという順路である。
これは、それまで消化してきた一日あたりの行程を伸すことも計算に入れて立てた予定であるが、それはさておき翌朝暁明の中を一行のほうへ歩いてくる者があった。なんと雲隠れして盗人とみなされていた驢馬引きバルトロメが、驢馬を追い追い、巡礼姿で現れたのである。
一行はその姿を認め、声をあげて迎えるのと同時に、なぜ逃げた、その恰好は、なぜ戻った、と口々に問をむけた。
バルトロメはコンスタンサの前にひざまずき、いまにも泣き出さんばかりの顔で一行にこたえて言った。
「なぜ逃げたかは自分にも分りません。着ているものはご覧のように巡礼衣です。旦那様がたはわたしのことをたぶん、いえ、たぶん抜きに盗人だとお思いだったのでしょうが、わたしがこうして戻りましたのはそう思われたくなかったからです。奥様、驢馬をお返しします、どうかお受け取りください。荷には手をつけておりません。巡礼の衣装を二揃え頂戴しただけです。一つはわたしの着ているこれ、もう一着はタラベラの淫売(ラメラ)が着て遍路(ロメラ)に化けています。わたしはペテン師悪魔に色情を吹き込まれるまま胸を開け渡して、自分でも悪いことは百も承知だからなお始末が悪うございますが、悪魔めの旗の下に入ることに決めました。浅はかな人間は欲望に弱いもので、わたしなどはひとたまりもなく振りまわされてしまいました。奥様、お暇をいただきとうございます。ルイサが待っております。あの女のところへ行かせてください。金子(きんす)は一文も頂戴せずにまいりますから、ご心配なく。女の色気のほうがこの手の器用より頼りになるようでございます。この手は盗みを働いたことは一度もないし、あと何百年生きようと神がわたしの正気をお守りくださるかぎり、今後も盗みだけはけっしていたしません」
この了見ちがいを思い止らせるため、ペリアンドロはバルトロメにこんこんと言ってきかせた。アウリステラもことの是非を説いたし、それ以上にコンスタンサとアントニオが言葉を尽して諭した。しかし、それもみな俗に言う馬の耳に念仏、砂漠の説教であった。バルトロメは涙をぬぐい、驢馬を残して背を向けたかと思うと、羽根がはえたように立ち去った。愚か者め、恋に狂いおったか、一行は唖然となって見送った。
アントニオもその浮かされたような去りようを見ていたわけであるが、つと備えの弓に矢をつがえた。百発百中の確かな腕である。アントニオはこの矢でバルトロメの胸を射貫いて、情欲と狂気をえぐり出そうと構えたのである。だがそのとき、彼のそばをしばしも離れたことのないフェリス・フローラが弓を押えて言った。
「およしなさいアントニオ、莫連女に魅入られたかぎり、そのくびきに繋がれるだけで報いは十分」
「なるほど、もっともです」アントニオがこたえた。「あなたが命乞いされる者をなんでわたしが無下にあやめられましょう」
さて、とりたてて語るほどのこともなく、来る日も来る日も旅は続いた。
そして、やがて一行はミラノに入った。いかにも壮大な都であり、無限の富が燦然(さんぜん)と輝き、金、金、金と黄金がうなっている。ここにならぶ武器甲冑の陳列の光景はあたかも火と鍛冶の神ウルカヌスが店を出したかの観がある。果物は無尽蔵、名刹が軒を争い、そしてまた住民の鋭い奇知が光る町でもあり、一行は驚嘆をかくせなかった。
この町のさる宿の主人が言うのに、町の名所の筆頭はアカデミア・デ・エントロナードス(1)である。会員にはそうそうたる顔ぶれが綺羅星のごとく並び、その洗練された英知の名声は古今東西にくまなく轟きわたっているとか。折りしもその日はアカデミアの開催日で、論題は、嫉妬なき愛はありうるや否や。
「十分にありうる」ペリアンドロは言った。「その真理を証明するのにたいして時間はかからない」
「わたしには」アウリステラは言った。「愛というものの正体は掴めないけれど、強い好感というものがどんなものか、それなら分かるわ」
これに対してベラルミニアは
「わたしはそういう議論には弱くて、愛と強い好感のちがいだって理解しかねるわ」
「両者の異なるところはこうよ」アウリステラは言った。「わたしたちの意志を強烈につきうごかす動機がない場合でも好感なら生れうるわ。自分に仕える下女に好感を持ったり、よく出来ていると感心する彫刻や趣(おもむき)のある絵を好きになるようなものね。こういうものは人に悋気を起こさせないわ、そもそもできないことだから。ところが一般に愛という名で呼ばれているものは、いわゆる情念の激しい昂りであって、たとえ嫉妬の情炎が絡まなくてもそれは人を不安におとしいれ、その不安がときには命取りにもなるのよ。愛はどうしてもこの不安から逃れられないとわたしは思う」
「そうなんだ」ペリアンドロが言った。「愛するものを手にしているとき、それを失うんじゃないかという不安を抱かない人はないよ。浮沈を絶対に経験しないほど確実な運命もないし、運命の輪を停止させることができるほど強い留金もない。いまのところ、旅を終らせるのが先決問題だけど、それさえなければ、ぼくが今日アカデミアで明らかにするんだけどなあ、嫉妬のない愛はありえても、失う不安のない愛はないってことを」
議論はここで終った。
一行はミラノに四日滞在し、その間に名所見物を始めた。始めた、というのはこの町を隅なく見終えようとすれば四日が四年であっても不十分と思われるからである。やがて一行はミラノをあとにし、ルッカに着いた。そこは小都ながら、美しく、また町全体が自由な雰囲気に満ち、帝権とイスパニアの翼下にあって際立ち、この小都を虎視眈々とねらう都市はあまたあるが、むしろそれらをへいげいしてそびえている(2)。この土地は他のどこよりもイスパニア人をあたたかく歓迎し、厚遇する。そのわけはここに立寄るイスパニア人が大きい顔をせず頭を低くするからであろう。もっとも、たいていが一日ぽっきりの滞在なので、かりに根がうわさのとおり傲慢であってもそのボロが露呈する時間がないということもあり、これにも一因は認められよう。
さて、ほかならぬこの小都において、本巻最大の珍事とすべき一件がわれらの旅人の上に出来(しゆつたい)する。
第二十章
ルッカの宿屋はすべてを合せると兵員一個中隊ほどの収容能力をもっており、われらの一行は街門の番兵に案内されてその一軒に投宿したわけだが、わざわざ番兵が案内したのはなぜかというと、翌朝もしくは一行が出立するとき宿屋の側からその出立の旨をいちいち番所へ報告することになっていたからである。こうして一行はさる宿の玄関をくぐったのであるが、そのときちょうど入れ違いに宿を出ようとする医者と思しき着衣の男がルペルタの目に止った。その医者が、やはりルペルタの目には宿の女将(おかみ)と見えた女に言った。
「おかみさん、わしはいまだにどっちとも言えん。あの娘は、いったい癲狂なのかそれとも悪魔憑きなんじゃろうか。癲狂性魔物憑き症と申せば間違いあるまいが。しかしながら、叔父ごが出立を急かせなければ、まだ回復の見込みはある」
「まあ、こわい」ルペルタが言った。「魔物憑きや瘋癲の家に泊められるの? とんでもないわ、悪いことは言いません、こんなところへは一歩も足を踏み入れないほうがいいわ、ほんと」
すると女将が言った。
「なに、ご安心して、御前(ごぜん)様がた」スペインでいうあなたがイタリアでは、御前(ごぜん)になる。「お泊りくださいませ。うちへは百里の彼方からでも見物に来るほど値打ちのあるものがございます」
一行はその宿に泊ることになった。アウリステラとコンスタンサは女将の言ったことが気になって、たいそう熱心なすすめようだが、いったい何を見せてくれるのか、何があるのかと問うた。
「こちらへお通りくだされば」これが女将の返事であった。「お目にかけます。ご覧になれば、なるほどと頷かれましょう」
女将は一行を案内して先に立った。一行が通されたところには黄金張りの寝台があり、年の頃なら十六、七歳と思われる美しい娘が横たわっていた。腕は斜十文字に開いて、枕元の欄干の小柱に帯でつながれており、身動きをまったく封じられた形であった。
そして、おそらくこの娘に付き添っている看護婦であろう、女がふたりがかりで娘の脚を押え込み、これも括(くく)りつけようとしている。これに対して病女は、
「手だけ括れば十分でしょう、わたしは淑女ですからね、それだけでがんじがらめに縛られたようなものよ」
と言い、巡礼の女性たちに向かって大声を放った。
「これはこれは神のご転身かはたまた天使のご体現か。わたしの病気を治してやろうと遠路いとわずの来診でしょう、そうに決ってる。だってこんなに美人揃いで、教徒の鑑のようなお方がずらりなんだものほかに考えられないわ。ただのお方ではないでしょう、そうと見込んでお願いします、この者たちに繩を解けとおっしゃって。ほんの四口か五口この腕を噛らせてくれるだけでわたしのお腹は一杯になります。それ以上の悪戯はいたしません。みかけほどは狂っていませんのよ、わたしを苛(さいな)んでいるやつもそれ以上噛らせるほど残酷じゃないわ」
「かわいそうな姪よ」そのときすでに部屋へ入っていたひとりの老人が言った。「噛るのをやめさせてくれるったって、おまえはそう言うがひどい取り憑かれようだよ。神におすがりなさい、イサベラ。その美しい肉体は食べものじゃないよ。食べるなら、おまえを目の中に入れても痛くないほど好きな肉親のおじさんが用意したものを食べなさい。空気が育(はぐく)み、水が養い、土が培ったものがあるじゃないか。おまえには財産があるしわたしには親心がたっぷりあるんだからほしいものはなんだって揃えてやる」
痛ましい娘はこたえて、
「こちらの天使のご一行だけを残してわたしをひとりにしてちょうだい。天使がいっしょなら鬼に金棒、忌々しい悪魔もいたたまれずきっと逃げ出すわ」
と言い、アウリステラ、コンスタンサ、ルペルタ、フェリス・フローラのひとりびとりにむかって残ってくれるようにと頷きかけて、他の者たちには退室を求めた。また思案にくれる老叔父からもそのように頼んだので、娘の願いは快く聴き容れられた。一行は叔父の話から、娘があの緑ずくめの貴婦人であることを知った。イスパニア人の賢者の洞穴から出た直後に街道で出会った女性だ。
あのとき殿(しんがり)の従者は女の名がイサベラ・カストゥルーチャ(1)で、彼女を結婚させるためにナポリ王国へ向かうところだと言った。
さて、病女は叔父たちが退くとすぐさま四方を見回し、指名した以外の余計者が残っていないかを一行に入念にたしかめさせた。ルペルタがすみずみまで調べて、お呼びでない者がいないことを確認したのだ。この気がかりが取り除かれるとイサベラはようやくベッドに起き上がった。そして内緒話があるという素振りを見せたのであるが、そのとき彼女の肉体から魂が脱け出たと思われるほど深い溜息とともに、ギャと裂けるような声を発し、そのとたんに気絶して死んだようにベッドに伸びた。見守る者は大声で水をと部屋の外にむかって頼んだ。イサベラの顔に浴びせるためである。ほうっておくと、このまま慌しくあの世へ旅立ってしまいそうな気配だ。
気の毒な叔父さんが馳せつけた。一方の手に十字架、一方に祝福の水に浸した聖水刷毛をもっている。司祭ふたりが同伴だ。どちらも、娘を苦しめているのは悪魔の仕業だと信じていたから、ほとんど娘のそばを離れず用心していたのである。宿の女将も水をもって駆けつけてきた。そして水をふりかけると娘は息を吹き返して言った。
「大袈裟な防火用水はもう要らん。すぐに出てやる。だが、おまえたちの意のままになると思ったらあまい。おれさまの気に入ったときに出る。そのときというのは、よくきけ、ファン・バウティスタ・マルロという者の忰(せがれ)で当地の騎士アンドレア・マルロが戻るときだ。アンドレアは目下サラマンカに遊学中で、当地における今の事態を全然知らん」
イサベラには悪魔が憑いている。聞く者のそういう思いを動かし難くする一言一句である。ファン・バウティスタがどこの何者かということは、どう考えてもイサベラがそれを知る由はない。しかしながらいちおうはハイハイと聞き届け、悪魔に名指されたファン・バウティスタ・マルロのもとへ人をやって、その悪魔に取り憑かれた美しい娘のセリフを伝えることにした。
そこで娘は、先に選んだ者と自分だけにさせよと再び命じた。司祭たちは娘のために福音書を称えてから彼女の望みどおりにしてやり、選ばれた女性たちは悪魔がイサベラから離脱するときに発するという合図について本人と確認しあった。彼女たちの間でもイサベラに悪魔が憑いているという判断は決定的であったのだ。
こうしてフェリス・フローラは再び部屋を点検し、入口を閉めて病女に言った。
「誰もいないわ、もう大丈夫、お嬢さん、なんなりとご用をお申しつけください」
「お願いです」イサベラは言った。「この綱をほどいてください。たいしてきつくはないけど、からだが思うように動かせないので、苦しくて堪りません」
さっそく手際よく応じてやると、イサベラは寝台に起き上がった。そして一方でアウリステラの手を、もう一方でルペルタの手を握って、コンスタンサとフェリス・フローラを自分の寝台の上のすぐそばに腰かけさせた。はからずも台上に美女の勢揃いとなり、娘は語り始めた。声は小さく、目には涙をためていた。
「ではお聞きください。わたしは薄幸のイサベラ・カストゥルーチャと申します。親からは高貴の家柄と土地財産を継ぎ、天からは多少の美貌を授かりました。両親はカプアのひとですが、わたくしを身籠ったのはイスパニアで、生んだのもイスパニアです。わたくしはこの宿に滞在中の叔父が皇帝の都に構える屋敷で育ちました。いやだわ、じれったい。わたくしの不遇をお聞かせするのに、なぜこんな大昔に遡らなきゃいけないのかしら。早い話が、すでにわたくしは身無し子でした。両親は叔父を後見人にしてわたくしのことを託していったのです。だからわたくしは叔父の家に住んでいたわけですが、そんなある日、たまたまある青年が上京しわたくしはその青年を教会で見かけました。それがまばたきもせず、まじまじと見つめたんです。すると……はしたないと思われるかもしれませんが、わたくしも女だということをお考えくだされば、気持はご理解いただけるでしょう。つまり教会であまり熱心に見つめたものですから、家へ帰っても見ずにいられなかったといえるほど瞼の裏に焼き付き、記憶からも拭おうとしてぬぐいきれなくなったのです。その間にも、青年の名や身分、都へ来た訳、どこへ向かうか、などを知る手だてはありました。はっきりと突き止めたのは、名がアンドレア・マルロでこの土地の、家産より家門の立ち優る騎士ファン・バウティスタ・マルロなる人のご子息でサラマンカへ遊学する途中ということでした。わたくしは彼が都にいた六日の間に手だてを見つけて文を遣り、自分はこれこれのもので財産は余るほどある、器量については教会で見て確かめられたいと伝えました。さらに、叔父はわたくしの財産を他家へ散らすまいとしてわたくしには従兄にあたる男と結婚させようとしている、しかもその男はわたくしの好みではないし事実性格も合わないと書きました。そのうえさらに、自分は心待ちにしているから好機を逸して後日に悔いをまねかぬよう、これは軽薄に聞えるかもしれないがけっして軽蔑しないでほしいと書き添えたのです。
すると彼は、いく度かは知りませんが教会でわたくしを観察したのち返事を寄こし、わたくしのことを、高貴の家柄や財産の飾りを脱ぎ去り身ひとつになっても世界の元后に値する、などと言ってきたのです。また、いっしょに学問をするためにこの町から同行してきた友人がいる、その友人をサラマンカまで送り届けたいので、すくなくとも自分が帰るまでは思いの絆を固く縛って待っているようにと言ってきました。わたくしはそれにこたえて、もちろんそうすると言い、自分の恋心は朝に生れて夕に消えるようないいかげんな軽薄なものではない、と返しました。そこで彼は誠実を大切にして友人を裏切らず、後髪を引かれる思いで、恋々たる涙に濡れつつひとまずわたくしを都に残して旅立ったのです。その涙をわたくしは見ました。その日彼はわたくしの家の門前の道を通って行きました。でもわたくしはひとりぼっちにはなりませんでした。この身は旅立たずとも、心は彼とのおしどり道中だったのです。
ところが翌日……ああ、だれにこんなことが信じられましょう。不幸という奴はひと思いにやればいいのに薄幸者を嬲(なぶ)りものにするものです。というのは翌日叔父がわたくしを連れてイタリアへ引き揚げることに決めたからです。わたくしにはイスパニアに留まる口実が見つかりません。仮病をつかっても駄目でした。脈搏も顔色も健康そのものでしたから、叔父はわたくしの病気の嘘を見破り結婚がいやで旅立ちたくないのだろうといって取り合ってくれなかったのです。でもそうしている間にも、アンドレアに事態を書き送る暇はつくりました。出発は避けられないがあらゆる手をつかってこの町を通らねばならないように仕掛ける。そしてこの町で悪魔憑きを装って時を稼ぐ。そうしている間にサラマンカを出てこのルッカへ来れよう。叔父や世間が何と言おうがここで夫婦になる。わたくしの幸せはそれをあなたが喜んでくれるなら、あなたの幸せでもあるが、事はそちらの機転にかかっている、とも書いたのです。手紙が届いていれば、料金をはずんでありますからきっと届いていると思いますが、あの人は三日のうちに来るはずです。わたくしもこちらで大奮闘しました。いまは悪魔の一個連隊が体内にいることになっていますが、先に希望があってこの胸にうれしい合図を送り続けてくれるかぎり、わたくしの気分は一オンスの愛を抱き締めているのと同じです。
これがわたくしの身の上です。ざっとこんなわけで癲狂を装い、こんなわけで病気を偽っております。わたくしを苛む悪魔は思いの焔にほかなりません。いまの空腹を我慢できるのはなんといっても満たされるときを心待ちにまっているからです。でもそうは言っても、やっぱり気が気でありません。だってカスティリャの諺にも申します、“ツキが悪いと、パンも手から口へ行く間に凍る”ものです。そこでおねがいですが、わたくしの誑言のサクラになってください、この芝居の引き立て役になっていただきたいのです。病気が全快するまでの、せめて数日間は出発しないよう叔父を説得していただきたいのです。そのうちに神様はきっとアンドレアをここへ寄こしてわたくしを喜ばせてくださいます」
イサベルの身の上の物語を傾聴した者が驚嘆したか否か、そんなことは問うには及ぶまい。物語とはもともと驚異を孕むものであり、聞く者の心中にその驚異を生み落すのである。
それはさておきルペルタをはじめ、アウリステラもコンスタンサもフェリス・フローラも計画の実現に肩入れを惜しむものではないと約束し、結末までに暇はかかるまいから、大団円を見届けるまでは町を出ないと張り切った。
第二十一章
美しいイサベラ・カストゥルーチャは自分が悪魔に取り憑かれていることを周囲に徹底的に信じ込まそうとして精魂を傾けていたわけで、いまや親友となった四人も賛助出演するところとなって、イサベラの体内で声を発しているものが正真正銘の悪魔であることをこぞって唱え、理路を整然とさせ辻褄を合わせた。それにしても愛恋の情とは凄じいものだ、恋路の関を魔物憑きに化けて破らせるとは。
そうこうする間に、日暮れ時であったろう、医者が再び往診してきた。こんどはファン・バウティスタ・マルロらしき者、すなわち恋するアンドレアの父親を伴っている。その医者たちが患者の部屋へ入るやこう言った。
「セニョール・ファン・バウティスタ・マルロ、これなる不憫な娘を見てやってください。かかる天使のごとき肉体の中に悪魔をのさばらせておけましょうか。ただいまのところ明るい材料がひとつございます。それは、悪魔めみずからがまもなく離れると申したことです。やつめはご子息アンドレア殿の来訪をしびれを切らして待っており、ご子息がお見えになればそれを合図にして出ることになっているのです」
「そう伺っています」ファン・バウティスタ氏はうなずいた。「わたくしの身内の者がそのような喜ばしい合図の伝達者になれるとは光栄です」
「神のお陰もあろうが、わしが気を利かしたことも大いにあずかっておる」そのときイサベラが声を発した。「わしの機転がなければ、おまえの伜は今頃サラマンカで何をしていることやら知れたものではない。そこなるセニョール・ファン・バウティスタ、よいか、これだけは信じるがよい。おまえの伜は聖人君子には縁遠いが男振りは最高だ。学生よりも色男の役が地についておる。それにつけても近頃の若い衆の伊達こき粧(めか)しようはなんたることか、目に余るものがあって国家に由々しい害をなしている。さらには星形落しの星拍車や穂先の丸い槍拍車、あれはなんじゃ、けしからんことではないか。駅馬に劣る賃貸し騾馬などもってのほか、まさに憂うべき現象だ」
その言葉はこれだけではすまず、つぎつぎと曖昧多義な言い草を繋いだ。具体的にいえば、二様にとれる表現であり、彼女の秘密にツーカーの女性たちだけに分る意味と、他の聞き手に向けた意味とがあった。ツーカーの女性はその真意を察し、他の連中はたんなる世迷い言として解釈していたわけである。
「お嬢さん、あなたはどこで」とそこでマルロが尋ねた。「伜のアンドレアにお会いになりました。マドリードですか、それともサラマンカ」
「ほかでもない、イジェスカ(1)で」イサベラがこたえた。「サン・ファン祭の朝のまだ朝ぼらけ、あのひとは実桜の実を摘んでいたっけ(2)。でも本当は、わたしが本当を言うなんて奇跡みたいなんだけど、実をいうといまも彼が見えちゃうわ。あのひとはいつもわたしの胸の中に住んでるんだもん」
「なるほど」マルロがうなずいた。「蚤(のみ)取り眼(まなこ)のガリガリ掻(が)く問(もん)というのは学生の日課かもしれんが、それよりは実桜など摘んでいてくれるほうが余程ましでしょうな」
「騎士の身分で学生でもある諸君は」イサベラが言った。「空想三昧に耽って、掻(が)く問に励むことなどめったにないけど、蚤(の)み回るなら、焼酎(しようちゆう)ですわ。世に蔓延(はばか)り、居ないと怪(かい)というぐらいの虫けらですから救貧所のボロ毛布は言うに及ばず、王侯君主の股引きの中にも大胆不敵に侵び込むわよ」
「なんでも詳しいんだな、糞ったれ」医者が言った。「したたかな狸爺いとみえる」
これは、イサベラの体内に住みついていると思われる悪魔に向けた罵言であった。
ちょうどこのとき、まさしく魔王がお膳立てしたとしか思えないことであるが、イサベラの叔父が喜悦を満面に浮かべて入ってきた。
「喜べ姪よ。来たよ来たよ、可愛い娘よ、ご足労願ったファン・バウティスタ殿のご子息アンドレア・マルロ殿がいまお着きになったぞ。目出度い目出度い。アンドレア殿にお会いできれば憑きものが落ちると言ったね。さあわたしたちの念願を叶えさせておくれ。いざいざ忌々しい悪魔め、鬼は外(バデレトロ)、出て失せろ(エキシフオラス)。二度と再びこの家へ立ち戻ることなど考えてくれるな。きれいに払い清めておまえなど二度と迎え入れてやるものか」
「ようこそ、ようこそ」イサベラは言った。「ガニュメデスの贋(まが)い者、似非(えせ)アドニス(3)を通してやってちょうだい。そのひとはわたくしのお婿さんなんだから。もう大っぴらに誰にも憚らず、のびのびやればいいのよ。わたくしは押し寄せる荒波を頑として撥ねつける巌のごとく、強く堅くお待ちしておりました」
まだ旅装を解かないアンドレア・マルロが入ってきた。異国娘イサベラの病気については既に実家で聞かされていたし、自分の来訪を合図に悪魔が去ることになっていたので、イサベラが首を長くして待っていることも知っていた。
青年はもともと一を聞けば十を知るほうであったし、このたびのことはイサベラがサラマンカへ送った手紙に詳しいので、ルッカへ着いてからの作戦も心得ていた。だから拍車もはずさずにイサベラの宿へ駆けつけ、部屋へ入りざま、馬鹿か気違いのように叫んだのである。
「どいたどいた、どきやがれ。下がれ下がれ、下がりおろう。地獄の小隊長では不足かと総大将おんみずからのご登場、いざいざ豪をもって鳴るアンドレア様直き直きのお出ましだ」
この喧騒と仰々しさには、ことの真相を知る者ですら面喰らった。医者にいたっては、さのみか、本人の父親でさえこう言った。
「新手(あらて)の悪魔の登場だ。イサベルに憑いている悪魔といい勝負をするぞ」
またイサベルの叔父も言った。
「福の神を呼んだのに、とんだ厄の神が舞い込みやがった」
「落ち着け伜よ、落ち着くんだ」父親は言った。「気でも狂ったか」
「狂わないでどうしましょう」イサベラが口を出した。「わたくしという女が目の前にいるのよ。わたくしは彼の思いが集まるところ、つまり中枢なんだもの。彼の望みが狙いをつける的はほかでもないわたくしなのよ」
「ずばり大当り」アンドレアが言った。
「あなたはぼくの一心を知ろしめす主(あるじ)であり、苦難の中の安らぎでありまた死中の活です。その御手をゆだねたまえ、わが妻にこそなりたまえ。恋しき君よ、ぼくのこの奴隷の鎖を解き、君が連理の枝にこそ繋がせたまえ。いまひとたび、その手をわれに与えたまえ、恋しの君よ。われを賤しのアンドレア・マルロの下座からイサベラ・カストゥルーチョの夫という高楼に昇らせたまえ。この睦まじい仲を邪魔する悪魔どもは消え失せろ。神がお合せくださる仲を裂こうという不届きな人間どもも出て失せろ」
「嬉しいことをよくぞおっしゃってくださいました、アンドレア様」イサベラが言った。「インチキ、からくり、ペテンの類はぬきにして、その御手をわたくしめに委ねて妹背の契りを結び、どうぞ妻にめとってください」
アンドレアは手を差し伸べた。と、そのときアウリステラが声高らかに言った。
「さあお手を。これでおふたりは一心同体」
イサベラの叔父もただ呆然と、訳の分らぬままに手を出したが、その手でアンドレアの手を払って言った。
「いったいこれはどういうことだね。この町では悪魔と悪魔を夫婦にさせる慣(ならわ)しでもあるのか」
「とんでもござらぬ」と医者がこたえた。「これは悪魔払いとして仕組んだ芝居でしょう。目下の事態は人知の企(たくら)める業(わざ)ではございません」
「それはともかく」イサベラの叔父が言った。「この結婚はどう扱ったものか、両人の口から直(じ)かに聞いてみよう。本気かそれとも芝居なのか」
「本気も本気よ」イサベラがこたえた。「アンドレア・マルロさまは気違いなんかじゃないし、わたくしだって悪魔など取り憑いていませんわ。わたくしは彼を愛しています。もし彼がわたくしを愛してくれて妻にと望むなら、わたくしは彼を夫に選びます」
「気違いでもなければ悪魔憑きでもありません。正気も正気、ぼくは神様から賜わったままの精神状態です」
こう言いながらイサベラの手を取り、イサベラは彼の手を取った。こうして両人はハイという誓詞を交して正式の夫婦を契った。
「なんたることだ、あんまりな」カストゥルーチョが叫んだ。「どこまでふざけるつもりだ。神様お助け。よってたかってこの年寄りの白髪を虚仮にするつもりか」
「何をおっしゃる、わしとしては」そこへアンドレアの父親が口をはさんだ。「お手前の白髪に泥を塗るような真似は何ひとつしておらんつもりだが。わしは貴族で、あり余るほどの財はないにしても、他人様の世話になるほど困ってもおりはせん。この場の事態に対しては、嘴(くちばし)を容(い)れも出しもしません。なにしろわしのまったく知らない間に出来てしまったことですからな。もっとも、恋を知る心には年の功に勝る功があって分別もつき、ややもすると衝動に駆られて暴走しがちな若者の行動も、なかなか、正鵠を射ることが多々あります。しかも的を射たときには、なまはんかな熟慮の結果を凌ぐことがある。それにしても、いま出来たことは今後も有効かどうか、それをご考慮ねがいたいものですな。無効なら無効でよろしい。わしはなにもイサベラ殿の財産で息子を引き立ててやろうと企んでいたわけではないんだから」
立会いの司祭ふたりはこの結婚を有効と認めた。それに、狂人の態で始まりはしたが正真正銘の正気でまとまった夫婦であるからという根拠が添えられた。
「それでは改めて夫婦を誓います」アンドレアが言った。
イサベラもそれにならった。これを聞くや、イサベラの叔父は心臓の羽根が折れたようにがっくりと首を垂れ、深い吐息をもらしたかと思うと、にわかに激しい発作に襲われ、白眼を剥き、そのままでは命も危ぶまれる容態に陥った。
そこで下男が来て寝床へ運んだ。入れ違いにイサベラのほうは床を払い、アンドレアが正妻として迎えて実家へ連れて行った。翌々日のことだが、アンドレア・マルロの弟に当る子供が洗礼を受けるために教会の門をくぐり、同じ門をイサベラとアンドレアも自分たちの結婚式と叔父の葬式のためにくぐった。それはあたかもこの世の奇しき因縁をわれわれに見せつけんとするかのごとき光景であった。洗礼を受ける者あれば結婚式を挙げる者あり、しかも葬られんとする者がそれと時も場所も同じくして集まったのである。だからややこしいわけだがイサベラは喪(も)を纏っていた。人呼んで死なるものは新枕の床と埋葬の墓所を、また晴れ着と喪服をいっしょくたにするからだ。われらの巡礼と旅人の一行はこのあと四日間ルッカに滞在して、新婚夫婦と貴族ファン・バウティスタ・マルロの手厚いもてなしを受けた。
さてこれをもってわれらの作者先生はこの物語の第三巻の結としている。
第四巻(ペルシーレスとシヒスムンダの苦難、北斗物語、その第四巻)
第一章
あれほど手の込んだ絡繰(からく)りによって工作されたイサベラ・カストゥルーチャの婚姻であるが、あれははたして有効なのか。われらの巡礼一行の間でも再三再四これが議論されたわけで、ペリアンドロはそのたびに繰り返し有効を唱えたが、どう続けてもこの一件の審議は彼らの手に余るようであった。それにしてもペリアンドロの腑に落ちなかったのは洗礼式と結婚式と葬式が同じ日に重なったことと、イサベラの策略にも叔父の健康の危機にも全然気づかなかった医者どもの鈍感である。一行は過去の危難の体験とともにこの出来事も語り草にした。
また一方クロリアーノとその妻ルペルタの気になっていたのはペリアンドロとアウリステラ、アントニオとコンスタンサが何者かということで、両人はこれを知りたくて道中も盛んに耳目を働かせた。フランスの貴婦人については初めて会ったときすでに知り合いであったので気にならなかった。それやこれやのうちに一行は、普通よりいくぶん歩みを速めてローマの近郷アクアペンディエンテに着いた。そして村の大門あたりで、ペリアンドロとアウリステラは一行の何歩か先を行き、立ち聞きや盗み聞きの心配がないときを見計らってペリアンドロがアウリステラに言った。
「ぼくたちがこうして国を去り安逸な暮しを捨ててきたのは、やむを得ない事情があったからで、それはきみも十分に承知のはずだ。そして今ぼくたちはローマの風を頬に受けるところまで来た。だからふたりの気持をこれまで支えてくれた希望が今やふたりの胸の中で湧き立っているといえるだろう。ぼくは待ちに待った喜びのときをいよいよこの手にできた気がする。そこできみにも、もう一度じっくりと自分の考えを確かめてもらいたいのだ。初心と変らぬ堅固な意志を保っているか、また念願を果した後も同じ気持でいられるか、それをきみ自身の胸に尋ねてほしい。とは言ってもぼくがきみを疑っているわけじゃない。歴とした王統の血が出任せの口約束や二心の胤であるはずがないからね。ぼく自身について言えることは、麗しのシヒスムンダ、きみの目の前にいるペリアンドロは今こそ父王の館できみが見たペルシーレスであるということだ。父の城できみと夫婦を誓い、たとえ逆運に落ちてリビアの砂漠を彷徨(さまよ)うとも、それを果さずにおかないペルシーレスだ」
アウリステラは自分の信念に向けられた疑心をよもやとばかり驚き、まじまじとペリアンドロを見、そして言った。
「生涯にわたくしの志はただひとつ、ペルシーレス、それは二年前あなたに委ねました。あれは強いられてのことではなくわたくしの自由意志に基づいていました。あの志はあなたがその主人(あるじ)になった最初の日以来欠けも揺るぎもしていません。それどころか、そもそも志というものがもしも増えるような質のものなら、ともに経験した数々の難儀の中で増えまた成長してきたと言えるでしょう。あなたの気持が変っていないことをわたくしはとても嬉しく思いますし、念願が叶いしだいすぐにもあなたの気持に応えるつもりです。それにしても同じ一本の首綱で結ばれ、同じひとつの頸木で繋がれることになってから先ふたりはどう暮せばいいのでしょう。国は遠く、異邦にあって知辺ひとつなく、難に遭うても頼りになる寄辺もないのです。あなたと一緒に暮すためにはどんな苦労も厭わないつもりですから、弱音を吐いているわけではありませんが、あなたに万一のことがあればわたくしも生きてはいられないとはっきりここで言っておきます。これまでは、あるいは先程までわたくしの魂はひとりで悩んできました。でもこれからはこの魂とあなたの魂でわたくしは苦しみます。ふたりの魂は一体ですから、ふたつに扱うのは正しくありませんが」
「ねえ、きみ」ペリアンドロが言った。「人間はひとりびとりが自らの運命の製作者だと言われるけれど、初めから終りまで自分の運命をこしらえるなんて誰にも出来やしないとぼくは思うんだ。だから、幸運がふたりを結びつけてくれるとしてもそれから先をどうすればよいか、ぼくにもその答は得られないけれど、さしあたりはふたりの間を裂こうとする障害を打ち壊していこう。ふたりになってからならこの地上のどこかにぼくたちを養ってくれる野はある。迎えてくれる小屋もある。雨露を凌ぐ洞穴だってあるさ。そしてなによりもふたりの魂がひとつになって知る喜びほど満ち足りたものがあるだろうか、黄金葺きの屋根もそれほど素晴らしい宿にはなり得ないよ。もちろん母の女王に居場所を知らせる手段がないわけではないし、母のほうから助けに来てくれる方法だってなくはない。しかし当座はきみのダイヤの十字架と無限の価値を持つ二個の真珠の世話になればいい。もっとも、それを崩して金にすればこれまで仕組んできた芝居は壊れることになるだろう。そもそもしがない巡礼が破れマントの下にそんな値打ちのあるものを持っているのは変だもの」
後から来る者たちが追いついたのでふたりは話を中断した。ふたりが忌憚なく語り合えたのはこれが最初であった。アウリステラが極めて慎重でペリアンドロと内緒話をするような場を作らなかったからだ。この用心と細工があればこそ次々と知りあってきた者たちの間で兄妹として通せたのである。ひとりあの油断のならない、今は亡きクローディオの蛇の炯眼のみがふたりの正体を勘繰ったに過ぎない。
その晩一行はローマまであと一日のところに来た。これまでの宿では必ずといってよいほど驚嘆すべき事件が一行の上に出来(しゆつたい)してきたわけであるが、ここでも例に洩れず、いつもの表現を借りれば、次のような驚嘆すべき事件が出来した。
一行がそろって食卓に着いていたときである。亭主の配慮と給仕のてきぱきとした働きとで盛りだくさんな料理が並べられていたわけだが、そこへ同じ宿の一室から目鼻立ちの涼しい巡礼の男が現れた。左腕に携帯筆箱をとりつけ、その手に帳面を持っている。その男が一同にむかって然るべき挨拶をしてからカスティリャ語で言った。
「そもそも巡礼の衣裳と申すものは着る者をして施しを受けるように仕向けるようですが、わたくしの着ておりますこれもやはりご一行から何にも勝る素晴らしいお布施をいただくようにせがんでおります。とは申しましても、宝石や貴金属やそういう値打ちのものを頂戴しようというのではありませんが、しかしそれでいてわたくしの懐はちゃんと暖まるという、世にも稀なものです。とにかくまあ、お聞きください。わたくしは好奇心のかたまりのような男でありましてこの魂の半分は軍神マルスの領分、のこり半分は商売の神メルクリウスと芸術神アポロンの領分です。はじめは軍役に従い、男の盛りには文芸を専らとしました。剣をとらせて武名低からずペンを持たせてもかなりいい線をいき、本もいくつか出しておりますが、その道に不案内な連中の受けも悪くなく、たしなみのある人士のあいだでもなかなかの好評が続いているんですよ。ところで、世に必要は発明の母とか申しますが、実はわたくしの頭には名状し難い空想と創意があふれんばかりに詰っておりましてね、このたびも相当に珍妙新奇なる一計を思いつきました。その一計とは、他人(ひと)様(さま)の力をそっくり拝借して本をつくることでありまして、したがって苦労は他人様のもの、利益はわたくしのものという仕組みになっています。本の題名はさしあたり『巡礼箴言精華』とでもしておきましょう。言いかえれば生の体験からにじみ出た名言集のようなもので、どうやって集めるかというと、道中あるいはどこでもよろしいが、わたくしが出会う人たちの人生経験が特異でおもしろそうだと感じたら、その人が座右銘とする警句なりその場で思いつく文句なりを一言この帳面に記していただくことにしております。この方法ですでに三百を越える箴言が集まっています。みんな一見に値し活字にするねうちのある文句ばかりです。もちろんわたくしの名で出すのではなく、それぞれの作者から文句の下に署名をいただいて、その名で出すのです。頂戴したいお布施とはこのことで、万金にもまして尊いものであると思っております」
「イスパニアのお人、たとえばどんな文句をご所望なのか」ペリアンドロが言った。「一例をお見せ願いたい。それを参考にさせていただければあとは当方の文才でどこまでやれるか、とにかくお任せいただこう」
「今朝早く」イスパニア人がこたえた。「イスパニア人の巡礼らしい男女一組がこの町に着き、素通りしていきましたが、イスパニア人なのでわたくしが今の趣旨を伝えますと、まず女のほうが、字を知らないと言ってわたくしにこう代筆させました。
〈悪女をめざす善女より善女をめざす悪女でありたい〉
そして署名は、タラベラの女巡礼にせよと言いました。
男のほうも目に一丁字なく、これも代筆です。
〈尻軽女ほど重い荷はない〉
署名もわたくしの手で、マンチャの住人バルトロメとしました。
おねだりしている箴言はこのようなものです。ご一行のような晴れがましい方々からは、これまでの蒐集分に錦の綾と七宝の光沢をそえる名文句をいただけるものと期待しております」
「心得た」とクロリアーノが進み出て「わたしとしては」と言いながら巡礼から筆と帳面を受けとった。「まずわたしからその義務を解いてもらうことにして、こう書こう」
〈無傷の落武者より討死武者は凜々し〉
そして下に、クロリアーノと署名した。つぎはペリアンドロが筆をとって、こう書いた。
〈矢弾の下にあっても主君の目差しを受ける武者は果報者〉
そして署名がくる。
次は蛮族の青年アントニオである。
〈戦の庭で贏(か)ち得た栄誉は堅固無比、黒鉄(くろがね)の刃で青銅に彫まれた栄誉なり〉
と書き、蛮人アントニオと署名した。
これで男性はおしまいなのでご婦人がたにも一句ずつ、と巡礼が筆をすすめた。そこでまずルペルタが、
〈美貌は奥床しさを伴ってこそ美貌、それがなければ見掛けだおし〉
続いてアウリステラが筆をとり、
〈貴婦人の最高の持参金は淑徳なり、美も富も時間によって剥がされ運命によって壊される〉
と書いて署名した。
そのあとはコンスタンサで、
〈娘は聟(むこ)を自分の目で選ぶべからず、他人の目で選ぶべし〉
と書いて署名した。
フェリス・フローラも同じく筆をとり、
〈服従の掟は容赦なく厳しいが、欲望の力はなお強い〉
と書いて署名した。
次はベラルミニアで、
〈女はえぞいたちであれ、逃げて泥にまみれるより捕まれ〉
と書いて署名した。
おしまいは、麗しのデレアシルの作。
〈人間一生の営みは、運も不運もみな宿命、結婚もしかり言うに及ばず〉
われらの紳士淑女の作品はこれで出揃い、イスパニア人は大いに満足して礼を述べた。そこでペリアンドロが、記載されているもので暗誦しているのがあれば聞かせてもらえまいかと尋ねたところ、一句きりだが、署名されている作者名が面白くて憶えてしまったのがあるという。
〈欲しがるな、さすれば今に天下の長者〉
署名は、カスティリャ・ラ・ビエハの一村にしてバリャドリードの近郷トルデシリャスの靴なおし職人傴僂男こと、ディエゴ・デ・ラトス。
「こりゃすごい」アントニオが言った。「よくもこんな長たらしい署名があったものだ。ところが逆に文句のほうはこのうえなく短くて簡潔ときている。それにしても、なにかが欲しくなるというのは自分にそれがないからで、何も欲しくない人はないものがないということになるんじゃないかな。そうならその人が世界一の物持ちになるのは当然」
イスパニア人は他にもいくつかの警句をならべた。それらはおしゃべりに弾みをつけ、食膳にいっそうの味覚を添えた。
男は一行と同じ席につき、手を口に運びながら言った。
「この本の版権はマドリードの出版社などへは、かりに二千ドゥカード出すといっても、絶対に渡すつもりはありません。マドリードの出版社ときたらどれもこれも版権を只同然に買い叩くことばかり考えているんですよ。只じゃないとしても著者をまるでバカにした値段です。もっとも、大儲けをたくらんで権利を買って出版したが、ソロバンが合わず骨折り損の草臥儲けってこともよくあるんでしょうが……しかしこの箴言集は出来栄えも大当りも保証されたようなものです」
第二章
イスパニア人の巡礼の本は、『合作巡礼珍語録』とでも命名できよう。この題なら、これまでの分はもちろんこれからさまざまなものが集まっても、できてくる本の中味をぴったりと言い得ているだろう。靴なおし職人ディエゴ・デ・ラトスの署名は少なからず笑いをさそったし、またラ・マンチャのバルトロメの作品にもしみじみと考えさせられた。尻軽女ほど重い荷はない。なるほど、すでにタラベラの尻軽女という荷物が骨身にこたえているのだろう、そのさまが手に取るように見える。
翌日一行は、珍奇な傑作を著していまや当世を先取らんとするイスパニア人と別れ、この一件を話題にしながら道中を続けた。そしてその日、ローマを見た。歓喜、歓喜、歓喜で一行の胸はあふれた。歓喜の中で五体が爽快に震えた。いよいよなのだ。宿願の叶うときを目前にしてペリアンドロとアウリステラは感動に胸をゆすぶられた。クロリアーノとルペルタ、それにフランス女性三人組の胸中も同様であった。ここまで来れば旅がつつがなく無事に終ることは約束されているのだ。コンスタンサとアントニオの心がこの喜びを分かちあわないわけもない。
陽光は天頂から射していた。そのため、太陽そのものは、地球からは一日のうちで一番遠いところにあったにもかかわらず、もっとも暑く、じりじりと厳しく照りつけていた。しかし近くには右手のほど遠くないところに森が広がって一行を迎えているようであったので、やがて訪れる昼下がりの酷暑をそこで遣り過すことにした。たぶん夜もそこで過すことになるだろう。ローマ入りは翌日に決めていたので時間の余裕はあった。
一行は森に入って、奥へ進み、そのうちしだいに居心地のよさそうなところへ来た。見ると草叢にはあちこちに泉が湧き、せせらぎが森を抜けて流れている。暑気を避けるにはうってつけだ。一行はそのつもりを固めた。
どんどん深く入っていくうちに、振り向いても街道を行く人びとの姿が目につかないところまで来た。あたりは風致の変化に富み、どちらを見ても快適で恰好な場所であったので、どのへんにしようかと迷っていたわけだが、そんなとき、たまたまアウリステラが視線を上に向けると、緑の柳の一枝に肖像画らしいものが懸かっていた。四つ切りの紙ほどの大きさで、板にじかに、極めて美しい女性の顔が描いてある。アウリステラはしばらくそれに注目していたが、その顔は、まぎれもない自分ではないか。彼女は驚いて呆然となりながら、ペリアンドロにもそれを見せた。
ところがちょうどそのときクロリアーノが喫驚の声を発して、その辺の草叢一帯に血が流れていると言い、生温かい血にまみれた足元を見せた。肖像画はペリアンドロが枝から下ろした。絵にしてもクロリアーノの血にしてもおそろしく謎めいており、一行が怪訝に思うのも無理はなかった。
絵の主(あるじ)は誰で血は何者の、と疑問はつのった。いったい誰が、いつどこで自分の顔を絵にできたのか、アウリステラには思い当らなかった。またペリアンドロも、フランス女性三人組を描いた画工ならアウリステラをも一目見ただけで描ける、とネムル公爵の家来が言ったことがあるのにそれを思い出さなかった。思い出しさえすれば、その場で容易に察しのつくことではあった。一行は血の跡を辿って行った。クロリアーノとアントニオもそうしたわけであるが、まだたいして行かないところで深い木立に導かれ、そこで視線は一本の木の根元に達した。見ると、凜々しい巡礼姿の男が地面にべったりとすわりこんでいる。心臓のあたりに手を当てており、総身血を浴び朱に染まっている。ふたりは愕然として目を疑った。クロリアーノが近寄って男の顔を起したときにはなおさらであった。ぐったりとなって胸に沈んだ血まみれの顔面を手拭いでふいてやったのだが、見てびっくり、手負いの男は紛れもなく、彼も知るネムル公爵であったのだ。見慣れぬ異形の出立ちだったが、それくらいのことで見分けのつかぬはずがあろうか。ふたりはそれほど親しい間柄であった。
手負いの公爵は、もしくは少なくともそれらしい人物は血糊が絡んで、眼は開かず閉じたままであったが、声を繋ぎつなぎに言った。
「どこの誰かは知らぬが、聞け、わが安らぎをみだす怨敵よ、いま少し手元を高くしてこの心の臓の真中を貫いておれば、おまえの望みも叶ったであろうに……懐の絵が勝負の行方を左右する護符や盾になるとおまえがいうので、わたしは懐から出して木にかけたが、このわたしの心の臓の中にこそ、生き写しのまことの絵姿は納まっていると思え」
コンスタンサはこの発見の場に居合した。彼女は生来がやさしくて労(いたわ)り深い女性であったので、駆け寄って傷口をしらべ、公爵が洩らす恨めしげな声には気を留めず、健気(けなげ)に血を止めにかかった。ところがこのころペリアンドロとアウリステラの前でもほぼ同様の事態が発生していた。やはり血のあとがふたりを木立の奥へ奥へと導き、その流出源の探索に向かわせたわけであるが、やがてふたりは緑の灯心草の繁茂する中を行くうちに別の巡礼が倒れているのに出くわした。その巡礼はほぼ全身朱に染まっているが、顔面だけは免がれて血にまみれず、土に汚れてもいなかった。したがって、何者であるかは顔面を拭ったり、別に手を施すまでもなく知れた。ふたりがそこに見たのは、あのアルナルド王子であった。王子は命に別状ないようだが、ぐったりと息も絶えだえである。
王子がはじめて示した生存の証しは、身を起そうと試みたことであった。そのとき王子は言った。
「むざむざ渡してなるものか、卑怯者。絵はわたしのもの、わたしの魂の絵だ。おまえはそれを横取りにした。おまえが先に手を出してわたしを亡き者にしようとしたではないか」
アウリステラは王子を見て、あまりにも思いがけないことに身がおののいた。かさなる義理からいえば、押し出されるように駆け寄って当然であったのに、ペリアンドロの手前、それができなかった。しかし、義理に固く礼儀に厚いペリアンドロは、王子の手を握り締め、王子の気持を察し、彼が伏せておきたいにちがいないことをまわりに知らせまいと慮り、声を落して言った。
「アルナルド様、お気を確かに、われわれが来たからにはもう大丈夫、お味方です。天は殿下をお見捨てではありません。助かります。お気を落されてはなりません。しっかりして、目を開けてご覧ください。殿下の友人ペリアンドロと鴻恩忘れ難いアウリステラです。ふたりとも精一杯お役に立ちたいと思う気持は今も変っておりません。何もかもお聞かせください。どうなさったというのです。いったい何があったのです。すべてわれわれにお任せください。智恵と力の限りを尽します。手傷を負われているようですが、相手は誰です。傷はどこです。すぐにお手当ていたします」
このときアルナルドは目を開いた。そうして眼前のふたりに気づいてはっとし、大変な苦痛をこらえてやっとのことながら、アウリステラの足元に畏(かしこま)った。だが手はペリアンドロの足を掻き抱いて放そうとしなかった。かかる異常時にすら、アウリステラの操に対する慎みを怠らなかったのである。王子はアウリステラをじっと見つめてこう言った。
「これは絵姿などではない。あなたは真(まこと)のアウリステラ殿に違いない。そのような麗容に潜むなどいかなる悪霊にも許されることではない、だれにそんな大それたことが出来ましょう。あなたは紛れもなくアウリステラ殿だ。そう言うわたしは、同じく正真正銘のアルナルドです。あなたに傅(かしず)く望みを片時も忘れず、はるばるあなたを尋ね探して来ました。あなたはわたしという者の中枢だから、わたしの魂はあなたの中に止まらぬ限り、落ち着きを知りません」
こうしている間に、別の巡礼が見つかった、やはり深傷を負っている模様ということがクロリアーノにも他の者にも伝わった。コンスタンサはそれを聞き、公爵の血止めは済ませていたので、第二の手負いの容態を見に駆けつけた。ところがそれがアルナルド王子なので呆然となり一瞬どうすればいいか戸惑ったが、もともと機転のきくしっかり者であったので無駄口を利かず、ひとこと、傷をと言い、アルナルドは言葉を返すかわりに右手で左腕を示した。傷は左腕ということである。
コンスタンサは直ちに王子の袖をまくり上げた。見ると上膊部を貫通する傷であった。コンスタンサは出血が続いているので急いで血止めの処置を施した。それから一方の手負いがネムル公爵であることをペリアンドロに告げ、怪我人はどちらもとりあえず最寄りの村へ運んでそこで手当をしたほうがいいと勧めた。一番の心配は出血が激しいことである。
アルナルドは公爵の名を聞くや全身を震わせ、昂奮のあまり冷酷非情の嫉妬心が、ほとんど空っぽながらまだ熱い血潮の流れる血管を通ってどっと魂の中に流れ込んだためであろう、がむしゃらに言った。
「公爵と一国の王の間の違いは歴然としているが、それにしてもそのいずれの身分にも、いや世界中の王という王の身分にもアウリステラ殿ほどの器は収まらない」
さらに続けて言った。
「公爵と同じ場所へだけは運んでくださるな。侮辱を働いた者が目の前にいて、侮辱を受けた者の傷が癒るわけがない」
アルナルドは供をふたり、公爵もふたり連れていたが、どちらの供も言いつけに従って主人をその場に残し、宿を探すために先を行って近くの村里へと向かっていた。まだ互いを知る仲ではなかったので別行動であった。
「それから」アルナルドが言った。「その辺の立木の一本にアウリステラ殿の絵が懸かっているはず。わたしと公爵はその絵をめぐって斬り合った。あれを木から下ろしてここへもってきてもらいたい。あの絵のためにわたしはこのように血みどろになったのだ。しかしあの絵の権利はそもそもわたしにある」
このころほぼ同様のことを公爵が、ルペルタやクロリアーノなど自分を囲む者たちに言っていた。しかしペリアンドロがこの場を円(まる)くおさめた。絵はとりあえず自分が手元に預っておくことにしよう、そして適当な折を見計らって、けっきょく誰になろうと持ち主がはっきりすればその人に返すという提案をしたのである。
「あの絵はわたしのものだ。それを」アルナルドが言った。「疑うなどとんでもない。本人を初めて見たとき以来その姿はこの胸に写しおいてあるのだ、このことはすでに神もお見透しのはずではなかったか。それはそれとして、絵はわたしとは兄弟になるペリアンドロ君に預ってもらう。嫉妬がつのろうと腹が立とうと、だれが名乗り出て横車を押そうともペリアンドロ君の領分には一歩たりとも入らせない。それはともかくわたしをどこかへ運んでもらいたい。目がかすんできた」
その場で、手負いのふたりを載せる物が用意され、どちらも傷の深さがこたえたというより、出血が激しくて刻々と生気を失っていたので、直ちに村里へと運ばれた。両人の従者が宿を用意していた村である。宿はこの村で整え得る最高の宿であった。ところで、この段階では、鞘当ての相手がアルナルド王子であることを公爵はまだ聞かされていなかった。
第三章
フランスの貴婦人三人は、公爵が自分たちのだれの絵よりもアウリステラの絵を遙かに高く称美している、ということを知って羨ましくまた恥ずかしくもあった。すでに述べたように公爵は三人の絵姿を描かせるために家来を派遣したのであるが、この家来の言うのに、公爵は様々な宝物類と一緒に三人の絵も所持しているが、アウリステラの絵姿となると拝まんばかりの気に入りようらしい。これは三人の意気を挫いてあまりある、遣り切れない非情な言葉であった。それというのも美しい女性にとって、他の美女が自分と肩を並べるほど美しいということは言うに及ばず、肩を並べないまでも単に比較の対象になること自体が、嬉しくないどころか死ぬほど口惜しいことだからだ。なにごとにせよ他と比較されるというのは厭なものである。もちろんこの事実は世人も異口同音に唱えることであるが、とりわけ美貌の比較は耐え難く、友情も肉親の情も身分も地位も、この呪うべき羨望の刃に対してはなんら抗(あらが)う力を持たないのだ。ここで比較された三人の美形を焼き焦がすものも羨望と呼べるだろう。
公爵の家来はさらにこうも言った。女巡礼アウリステラの絵姿に恋した公爵は彼女に会うためにはるばるパリからやって来た。そしてその朝木陰に腰を下ろして絵を手に掲げ、それに向かって、まるで生き身の本人を相手にするかのように話しかけた。もっとも当人は死んだ脱け殼同然であったという。ところがここへ別の巡礼が通りかかった。そして、公爵が絵に語りかけている言葉を聞き取れるところまで背後からそっと近寄ったのであるが、「わたくしと同役は少し離れたところにおりましたので、そのときは、その巡礼の立ち聞きをやめさせることができませんでした。しかし間もなく馳せつけて公爵にそれを伝えたところ、公爵は振り向いて巡礼を睨みつけました。すると巡礼は、何をするかと思うといきなり絵をめがけて飛びつき、それを公爵の手から奪い取ったのです。不意を突かれたあっという間のことでしたから公爵には防ぐにも防ぎきれなかったわけですが、わたしの聞き取った限りでは、そのとき相手にむかってこう怒鳴りつけました。
『泥棒、天の御品をなんとする。そのような汚らわしい手に天女の美形を冒涜させてなるものか。絵姿を返せ。おまえのような男の持ち物ではない。そもそもわたしの物ではないか』
『何を言うか』巡礼は食ってかかりました。『真実を語る証人は出せずとも、これなる剣に言わせてみせよう。この杖には剣が仕込んであるのだ。何を隠そう、わたしこそこの無二の美女の絵姿の真の持ち主。この地を離ること幾千里の遠国において大枚投じて買い求め、拝み続けてきたのみか、本人にも辛苦を厭わず誠心を尽して傅(かしず)いてきたものだ』
公爵はそのときわたくしどもに対して、その場はふたりきりにして構わず先を行け、そしてこの村で待てと仰せられました。それは有無を言わせぬ厳しい口調でしたので、わたくしどもには振り向いてふたりの顔を見る勇気もありませんでした。相手の巡礼もこれとほぼ同じことを随行のやはり家来らしいふたりの男に命じました。もっとも、わたくしはちょっぴり言い付けに背きました。好奇心も手伝って振り返って見たわけですが、そのとき巡礼は絵をそばの木に吊しました。と言ってもそこのところははっきりと目撃したのではなく推測に過ぎませんが、とにかくその直後に巡礼は、手元に寄せた仕込み杖の鞘を払って剣を抜き放った、と申しますか、何らかの武器と思しきもので主人に襲いかかったのです。主人もやむをえず剣を取って応戦しました。やはり杖に仕込んでいたのです。
わたくしども双方の家来は、引き返して仲裁に入ろうと考えるだけは一応考えましたが、わたくしは反対を唱えました。勝負は一対一の五分と五分だし、邪魔のはいる心配もないようだから両者をそのままにして先に行こう、主人の言い付けどおりにするほうが無難というもの、ここで引き返せば主に背いてしくじるのがおちだと言ったのです。今となってはどちらでもいいことですが、あのときはこういう知恵が働いたと申しましょうか、臆病風に足を取られ手を縛られたか、はたまた、まだ血にまみれていなかった剣の閃光に目が眩んだのでしょうか、足元から現場までの道は見えなくなってただただこの村へ来る道ばかりがはっきりと見えたのです。そういうわけでわたくしたちはこの村に着き、急いで宿を決めましたが、そのあと少しは胆も太くなって思い直すにいたり、主人の安否を気遣って来た道を引き返しました。そこでご覧のような状態でふたりを発見したわけですが、もしもご一行が通りがかってお救いくださらなかったら、わたくしどもが引き返しても手遅れだったかもしれません」
家来は語り終えた。貴婦人たちはこれを聞いて、まるで自分たちが公爵の歴とした愛人でもあるかのごとく同情した。しかしまた同時に、めいめいの想いの中にそれまであったはずの妄想や空想の楼閣は、つまり公爵との結婚にかける夢はきれいに瓦解した。恋愛感情というのは生れた当初であれば無視されることによってたちまちのうちに記憶から去る、あるいは忘れられる。相手による無視は、初期の愛に対して、人間の生命に対する飢餓と同様の作用をする。つまり飢餓と睡魔に対してはどんな勇気も歯がたたないように、いかに激しい情欲も無視には負けるわけだ。これは初期の恋愛感情においては紛れもない真実である。しかし、愛が長期間魂を支配して居座ってしまうと、無視も冷淡もかえって魂を刺激する拍車となり、魂は思いを果たそうとして突っ走る。
手負いの両人は、手当ての甲斐あって、一週間ほどでローマへ向けて旅立てるまでに回復した。医者はローマからの往診であった。このころになってようやく公爵は、あの鞘当ての相手がデンマーク王国の世継ぎの皇太子であることを知った。アウリステラを妻に望んでいることも同時に知ったわけであるが、この事実によって自分の目に狂いのないことを確認した。すなわち自分はアルナルド王子と同じ気持であり、アウリステラが女王の器量を認められる女性であるなら、公爵夫人としても不足のあるはずはない、と考えたのである。しかしながら思いを巡らし想像をたくましくし臆測を進めていくうちに、嫉妬が紛れ込んで心穏やかならず胸かき乱されて懊悩するに至った。だがそうこうするうちやがて出立の日になり、公爵と王子はそれぞれ別行動をとって、誰にも知られずローマへはいった。また、われらの巡礼の一行もローマの見える土地に辿り着いた。そして小高い丘から初めてローマを遙拝し、神聖なものに向かう者らしく跪座してそれを讃えた。そうしているときである、一行にまじってそこにいた見知らぬ巡礼が声を発した。目には涙が溢れている。男は言った。
さても、壮大にして権勢並びなく神聖かぎりない
栄えの都ローマよ
これなる新参の身のほど賤しくひたむきな巡礼めは
御麗姿を拝して感に耐えません
御景観は名声をしのぎ
御麗姿に見(まみ)えん讃えんとして来る
者は、神々しいまでの文豪さえ感極まって
涙し裸足になりました
これより遙拝する御料地の土塊は
殉教者の血が混る
大地に普遍の遺物です
御身には神聖の模範とならないものはなく
すべてが神の都の偉大な手本に
あわせて設計されています
ソネートを吟じ終えた巡礼は周囲の者に向かって話しかけた。
「ほんの二、三年前のこと、この聖都をさるイスパニアの詩人が訪れましたが、あれは自分の身の破滅を招き祖国の名を貶(おとし)める男でした。というのはこの誉れ高い都とその住民を悪しざまに言うソネートを作ったのです。しかしいずれ捕えられ舌の罪を首で償うことになるでしょう。わたしは詩人としてよりキリスト教徒として、男の罪を少しでも償うためと言ってもいいでしょう、そのために今のソネートを作りました」
ペリアンドロはもう一度今のソネートを聞かせてくれるようこの巡礼に頼んだ。巡礼はそれに応じ、一行は惜しみなく賛辞を送ってからやがて丘を下り、マダマの草原(1)を過ぎてポポロ門(2)からローマへ入った。そうして聖都の大門の楯や縁に接吻を繰り返したのであるが、その手前でユダヤ人らしい男がふたりクロリアーノの家来に近づいて、一行の宿はとってあるか、泊まるあてはあるかと尋ねた。なければ世話をする、王侯貴人にも相応しいところだという。
「と申しますのは、ご一行」ふたりは言った。「わたくしどもはユダヤ人でございまして、わたくしめはサブロン、相棒はアビウードと申し、室内の飾りつけ一切をお引き受けする商売を営んでおります。お泊まりになるお方のご身分に照らしてそれにふさわしい仕上げをいたすもので、ご予算に応じて出来上がりも様々ございます」
これに対して家来がこたえた。
「同行の者がひとり昨日からローマへ参って、主人にもこちらのご一行のご身分にも相応しい宿を探して、ほうぼうを当たっているはず」
「それは恐らく」アビウードが口を挾んだ。「あのフランスのお方に違いない。そのお人ならきのうわたくしどもの仲間のマナセスのところにお決めになりましたよ。あそこの造りはちょっとした宮殿です」
「まず町へ入りましょう」クロリアーノの家来は一行を促した。「どうやら相棒はこの辺にいるようですから、宿さがしはその相棒にまかせておきましょう。彼が決めたところが気に入らなければ、そのときはこのサブロン殿のおっしゃるところへご厄介になりましょう」
と決って、一行は歩き始めた。そして大門をくぐったところでユダヤ人は仲間のマナセスに出会った。見るとクロリアーノの家来も一緒だ。そのことから、ふたりが初めに宣伝していた旅館がマナセスの豪館であることが察せられた。ふたりはほくほく顔で、さも嬉しげにわれらの巡礼の一行を案内した。その宿はポルトガル門(3)のすぐそばにあった。
フランスの貴婦人たちはローマへ入るやたちまちにして町中の目を奪った。折から参籠の日でもあったので、ポポロの聖母街(4)は人で埋(うず)まった。しかしながら、その感嘆のほどであるが、フランス貴婦人を見ていた人の胸にはその感嘆が徐々に浸透したのに対して、類ないアウリステラとそのそばを行く明眸のコンスタンサを見る人々の胸には急速に浸透して、すでに根を下ろしているという感じであった。両人はあたかも天に輝く双珠の星のごとく、足並を揃えて歩んでいた。
両人のその姿は、詩人と思しきその場のローマ市民をして次のように言わしめた。
「女神ウェヌスが去(さ)んぬる時代のごとく、可愛いわが子アイネイス(5)の形身との対面に戻ったとしか言いようがない。それにしても、奉行は気のつかないお方だ。動く御神像の顔面は覆ってさしあげるよう命令ぐらい出さなくちゃ。それとも、このままにしておいてますます賢者を称嘆させ、感激家を絶句落涙させ、愚者には偶像のごとく拝ませるおつもりなんだろうか」
度外れとも桁外れともいえる礼賛の中を玲瓏と輝いて一行は進み、やがてマナセスの宿に着いた。なるほどそこは本陣宿の風格がある、ちょっとした軍団も収容できるほどの大旅館であった。
第四章
凜々たる巡礼の一行とともにフランスの貴婦人がやって来たという報は、その日のうちにローマ中に伝わった。しかし評判の的はなんといってもアウリステラの比類のない美しさであった。彼女の容姿をそっくりそのまま言い表すにはほど遠いにしても、言葉にかけては達人といわれる人びとが粋をすぐり口をきわめて称め賛え、たちまちにして人の波ができ、われらの巡礼の宿へ押し寄せた。この世の綺麗が一場に会したわけであるから、物見高さや好奇心も手伝って噂が広まるにつれて、これを拝まなければ大損とばかり人の山はふくれあがった。窓からでも顔を見せろ、と貴婦人や巡礼の女性に向かって街頭から歓呼の声をはりあげる者さえ出てくる騒ぎであった。女たちは疲れたからだを休めたくて人前には出たくなかった。とくにアウリステラにはやんやの声がかかった。しかし誰も顔を出せる状態ではなかった。玄関に群がる人々に混じってアルナルド王子と公爵もいた。どちらも巡礼の装束であったが、たがいの姿を認めることはできたわけで、その途端にどちらも手足がわななき、動悸が激しくなった。そのときペリアンドロは窓から両人を見つけてクロリアーノに告げ、さそって外へ出た。恋の奴の両人は嫉妬に狂ってあの様であったから、ここでまたどんな惨事をひきおこすかしれない、それを事前に防ぐために出たのである。ペリアンドロは王子を、クロリアーノは公爵を伴って別々にその場を離れた。王子はペリアンドロにこう語った。
「わたしがアウリステラ殿から負わされている最大の重荷のひとつは、ネムル公爵だというあのフランス騎士が彼女の絵姿をまるでわがもののように思っていることを黙って見過さねばならないという辛さだ。絵はきみの手元にあるとはいえ、わたしが確保しているわけではないから、まるでやつめの意向に添って事が運んでいるようにしか思えないじゃないか。ペリアンドロ君、わかるかい、恋する者が嫉妬と呼ぶこの病はいわば絶望の狂乱だ。この上に羨望と相手の邪慳な仕打ちとが重なって恋する胸に取り憑いた日には、その胸をなだめる思慮分別などとても望めないしほかに効く薬もない。病因は些細でもそれがもたらす結果は甚大で、軽くても正気を奪われもっとも楽にいっても命はとられる。楽というのは、恋する者は嫉妬に冒され狂いっぱなしで生き続けるより観念して死ぬほうがましだからさ。恋の中でも真の恋をする者は相手にむかって自分に夢中になれなどと野暮なことは言えないが、それほど完璧な恋人になれても自分自身、いや自分の運命の袖には縋らずにおれない。運命に任せきって生きるなんて不可能だからね。値打ちのある貴重なものはそれを持つ者あるいは愛する者にとっては心配の種で、失くしちゃならんとびくびくしどおしさ、そういう感情は恋する者の胸から片時も離れない、いわば避けようのない宿命なのだ。ペリアンドロ君、いいかい、一言念を押しておきたい。わが身の面倒さえみきれない者が口はばったいことを言うわけだが、わたしは一国の王で、曇りのない恋をしているということを忘れないでもらいたい。これまでの経験からきみもよく察し納得もしてくれていると思うが、わたしは約束は守る。国で言ったことは必ず一分も違わず実行に移す。妹殿は、類ないアウリステラ殿はあの人の品性と器量そのものが立派な持参品だから、他に何がなくてもわたしは娶る。家柄の貴賤を詮索する気は毛頭ないのだ。なぜかというとあれほどのものを彼女に授けたもうた大自然が、運命の財産を拒む道理がないからであり、しかも高徳は卑賤の身には宿り難く、また肉体の美は魂の美の反映であることを常とするからだ。前にも言ったことだけれども手短にひとこと繰り返させてもらおう、わたしは妹殿を崇拝している。彼女が仮に天上につながるお方であろうと、逆に天下の最低の出であろうと、わたしには同じだ。彼女はいま晴れてローマへ着いたわけだが、まえまえからローマへ来れば希望を叶えてくれる約束だった。だから兄上、妹殿が希望に応じてくれるようあらためて口添えを頼みたい。今後はこの王冠も王国も兄上と分かちあいたい。このわたしが、公爵がごときに出し抜かれ、恥かかされて、命を落すはめになったり、愛する人に蔑(なみ)され軽んじられることのないよう助けてほしい」
これらの理屈や約束や好意をひととおり聞いてペリアンドロは言った。
「公爵が何故殿下のお腹立ちを招いたか、仮にその原因が妹にあるなら、懲らしめないまでも叱っておきます。それだけでもきつい懲らしめになるからです。しかし妹に罪のないことははっきりしていますから、今はおこたえのしようがありません。ローマへ来ればご希望を叶えるということについては、詳細を承知していないのでこれもご返事できません。また、今お示しくださったご好意やこれまでのご親切についても、それがほかならぬ殿下のご好意で、わたくしのような者のためにと思うと感謝に堪えませんが、畏れ多いことながら、大いなるアルナルド様、この破れマントの襤褸(ぼろ)切れのようなものでも日差しを遮る雲の役目を十分に果しているとだけ申しあげておきます。今のところはお気をお鎮めください。なにしろきのう着いたばかりですから、どうするこうすると申しましても、まだ手だての工夫も浮かびようがありませんし、頭のひねりようもないし、お望みどおりに目出度し目出度しになる夢のような名案もまだひらめきません。それから今のところ公爵と顔を合せてはいけません。恋をする男は邪険にされて望みが薄くなると、開き直るもので、そうなると、それまでどんなに大切にしていたものを害してでも望みの高楼を築き上げようとして必死になるものです」
アルナルドは、わかったと言って頷いた。そして自分の権威と生活を維持するのに必要と思われるだけの金品をペリアンドロに差し出した。それには自分だけでなくフランスの貴婦人たちの分もふくまれていた。
クロリアーノと公爵の会話の内容はこれと大いに異なる。公爵は、アウリステラの肖像画を取り戻さずにおかない、と言って取り付く島もなかった。王子に権利の主張をとり下げさせる、と言ってきかないのだ。自分を婿に迎えるようアウリステラに口を利いてほしいとクロリアーノに頼みもした。領国の規模からいってもアルナルドに引けはとらない。血筋にしてもヨーロッパの名門中の名門。公爵はこのように鼻息が荒く、しかも恋する者の常として嫉妬に狂っていた。だがクロリアーノはよくそれに耳を貸し、公爵を婿に迎えることで転がり込む幸運を彼からアウリステラに提示し、返事をもらってやるということにしてその場をおさめた。
第五章
かくして恋の鞘当ての嫉妬深い両人は空中の楼閣のごとき希望を抱いて、ひとりはペリアンドロ、ひとりはクロリアーノと別れた。このとき各々のあいだではとりあえず、少なくともアウリステラが意志を示すまでは腹が立ってもそれをおさえ、無礼な態度にも目をつむることで折り合いがついていた。彼女がどちらを選ぶかについては双方が自分の有利を信じていた。王国だとか豊かな公爵領とかいう豪華なものを付録に出すわけであるから、いかに堅固な志操もゆるがずにいまい、他の人生を選ぶ気など消えてしまうはずだ。また高位高門を喜び、身分のより高きを乞い願うのは自然であり、この欲望はとりわけ女性に強いからとも考えたにちがいない。
こういう事情はアウリステラの知るところではなかった。彼女の関心は、自分の魂を救済へと導いてくれる真理の会得であって、それ以外のことは念頭になかった。彼女の生れたところは、カトリックの真の信仰があらまほしき完全な状態にはない遙かな遠国なので、真の信仰の工房の坩堝(るつぼ)で自分の信仰を純化しなければならないことを痛感していたのである。
ペリアンドロがアルナルドと別れたとき、イスパニア人の男がひとり近寄り、
「この手紙は受け取り人の名から察して、もしもあなたさまがイスパニアのお方ならあなたさま宛てでは」
と言ってまだ封を切らない一通の手紙を渡した。上書きには、蛮人ことアントニオ・デ・ビリャセニョール様とある。
誰から預ってきたかとペリアンドロが尋ねると、人呼んでノナ塔(1)という監獄に囚われているイスパニア人からと配達人はこたえ、さらに連れのタラベラ女という美しい女もろとも殺人罪で絞首刑を言い渡された者であろうとも言った。
ペリアンドロはその名に頷くと同時に、罪状にもほぼ見当がついた。そこで彼は言った。
「わたし宛てのものではないが、今こちらへいらっしゃるあの巡礼に宛てた手紙だ」
というのはちょうどそこへアントニオが現れたからで、ペリアンドロは手紙を渡し、肩を並べてその場をはなれ、封を開いてみると、次のような文面であった。
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悪因悪果。両脚の一脚は健やかでも一脚に障りがあれば跛(びつこ)。朱に交われば赤くなる。よせばいいのにタラベラ女と食っ付いたばかりにそろって止めを刺され、とうとう絞り首を言い渡されてしまいました。女と一緒にローマにいるところを、女をイスパニアから連れ出した男に見つかり、男は逆上してわたしの面前で女に手をかけました。もちろんそういうふざけた真似には厳しくこだわる気質(たち)で、そのように面子をつぶされたまま引き下がるわたしではありませんから、なんで恥をすすがずにおかれましょうか、女をかばって立ち向かい、その無礼者を棒で殴り殺しました。そしてそこをずらかったわけですが、その途中またもやひとりの巡礼男と出交して、似たような理由で、今度はわたしが散々に背中をかわいがってもらいました。こいつは女が言うのに、もとの亭主でポーランド生れの男とか、タラベラで一緒になったとも申しておりますが、女はそのとき、前に恥をかかせたからわたしが殺られたら次は自分だと思ったそうで、いつも持ち歩いていた二尺ものの包丁をためらわず抜き、男に突進して下腹に突き立てました。医者を呼ぶ必要がないまでに確かな傷でした。こうして情夫は棒の、亭主は包丁の犠牲になって、続けざまに必滅の生涯を閉じた次第。
われわれはその場で御用となり、この牢に繋がれてさんざんな目に遇っております。自白を迫られ、音(ね)をあげて吐きました。おかげでここでは捩(ねじ)と呼ぶ拷問を免れ裁判を受けましたが、それが人を食った忙(せわ)しないやり方で、もう判決が下って追放、といってもこの世からあの世へ往ってしまえと言い渡されました。早い話が絞首刑です。女は泣き通しで、これ以上はどうにも堪えられない状態ですが、あれもあなた様やコンスタンサ奥様やペリアンドロ様、それにお懐しいアウリステラ様にくれぐれもよろしくと申し、晴れて自由の身になりご挨拶に行けるならどんなに嬉しいかと言っております。また、類ないアウリステラ様がそのほうに手を回してご尽力下さるならふたりの釈放などいともたやすいこと、あのようにお美しいお方の意のままにならないことがあるはずがない、どんな四角四面も円くなると申しております。さらに、かりにお骨折りによって赦免が得られなくても、せめて望みの場所で刑を受けられるようにお力添えいただきたいとも申しております。ローマでと決っていますが、それをイスパニアに変えていただきたいのです。こちらでは死刑囚の道行に何の晴れがましさも添えず、徒歩で行き、見送ってくれる人もなく、それゆえアベ・マリアひとつ唱えてくれる者もおりません。囚人がイスパニアの人間となればなおさらです。女は、叶うことなら郷里で親しい者に見取られて死にたい、憐れんで瞼を閉じてくれる親類ぐらいはいるところで息をひきとりたいと申しておりますし、わたくしも同じ気持です。これは道理であってけっして無理難題ではないと存じます。監獄暮しはもう沢山です。南京虫の折檻を免れられるなら明日にも引き出されて処刑されてもいいと思うほどです。
そこで御主人様、ご参考までに一言。当地の裁判官はご多分にもれずイスパニアの裁判官と同じ穴の狢(むじな)で、例外なく礼儀を重んじ、筋の通ったものの付け届けには目がなく、告訴する者がいなければ必ず慈悲に傾きます。と申しますのは、もしもその慈悲が御主人様みなさまの気高い御胸に君臨するものであるなら、いいえ、必ずそうであると信じますが、われわれこそそのご慈悲をお傾けくださるのにふさわしい相手であろうと思うからです。われわれは異邦の獄舎に繋がれ、南京虫をはじめ、小者のくせに数を頼み、大物ぶって噛みつく不浄の畜生どもの食いものになっているのです。とりわけ弁護人とか検事とか判事とかの手で丸裸にされ、尻の毛までむしられているありさまです。主なる神の広大無辺のご慈悲によって、奴らから解放されることを、アーメン。われわれは鸛(こうのとり)の雛が親鳥の運んでくる餌を待つように、鶴首してよいご返事をお待ちしております。
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続いて署名がくる。
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幸薄きマンチャの住人バルトロメ
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読み終えたふたりの嬉しさは尋常ではなかった。しかし心痛もひとしおで、両人には、必ず心を強く持って最後まで諦めないようその場で手紙の届け人に言付けた。アウリステラもみんなも、袖の下や鼻薬の威力を十分に利用して望みを叶えてやりたいと思ったからで、早速打つべき手を練った。
最初の処置は、クロリアーノがフランスの大使に手を回すことであった。つまり大使は彼の血筋の者であり友人でもあったので、刑の執行を遅らせ、その間に嘆願や命乞いができるよう口をきいてもらったのである。一方、アントニオはバルトロメに返事を書こうとした。もう一通おもしろいのを寄こして一行をもっと楽しませてくれ、という趣旨であった。しかし、アウリステラと妹のコンスタンサに相談したところ、それは書かないほうがよいと口をそろえて言った。悲しみに暮れる者をいっそう苦しめることにならないとも限らないし、冗談を本気にして悩むことにもなろうと同情したのである。
結局問題の処理はクロリアーノと妻ルペルタに一任し、その両肩にすべてを託すことになった。これはルペルタのたっての願いでもあった。かくして六日後、バルトロメもタラベラの女も放免された。縁故と袖の下にお出まし願うと、いかなる険路も平になるし、難事もことごとく片がつく。
この間にアウリステラはカトリック信仰の学習に必修の事項を、少くとも国もとではまだ暗愚にしか行われていない事柄だけでも身につけておきたかった。聴悔司祭という先生にその希望を言って誠実で正真な告白を行い、念願のことを残らず教わって喜んだ。彼女を教導した聴悔司祭はわれらの信仰の主要必修の玄義を出来るだけわかりやすく説いたのである。
司祭はルシフェルの妬みと慢心のことや天の星々の三分の一(2)がルシフェルとともに奈落に落ちたことから説きおこした。すなわちこの落下によって天の諸座が空席となったいきさつ、つまり悪天使が愚かな罪ゆえに天の座を失ったことから、神がこれらの席を埋めるため人間を創造(つく)り、その魂に悪天使が失った栄光を授かる資格を与えたもうたということが示されたわけである。人間と世界の創造の真理についても、また御託身の神聖な愛に満ちた奥義についても講釈があった。理性の説明とともに聖三位一体の深淵な奥義が敷衍され、三つの位格の第二位である御子の位格が人となったことの意味も弁じられた。それは神が人となって人に代って罪を償(つぐな)うためであり、神は神として償うこともできるから、神人一体となってはじめて神は人間の犯した無限の罪を贖(あがな)うことができる、なぜなら神は御みずからを無限に贖われるが人間独自は有限であるから贖えず神は御自身では苦しむことが出来ないからである、しかし二体が一体となって資産は無限になり、償いも無限になると説かれたのだ。
キリストの死とその生涯の御受難、つまり厩で顕現されてから十字架につけられるまでのことも教授された。また秘蹟の効果や霊験も口をきわめて称えられ、われわれの難破の第二の板すなわち告解のことも言及された。罪によって閉ざされた天の道はこれがなくては開かない。生ける神イエス・キリストが御父の右に座すことも説明された。神イエス・キリストは地上で聖体となって天上と同様に命がありまた完全無欠であって、その聖なる顕在はいかなる不在もそれを分けたり隔てたりはできないのである。なぜなら神の最大の属性は、と言ってもすべて等しいものであるが、その一つがあらゆる場所に潜在として実在としてまた臨済としてあらせられることであるからだ。主が世界を裁くために雲に乗って来臨した(3)ことも、主の教会の不動の安全性と強さが事実であることも示された。地獄の門わかりやすくは地獄の力も教会には歯がたたない(4)。地上における神の副王にして天の鍵番である教皇の権威についても解説があった。教えるべきことはみな説明が尽くされ、アウリステラとペリアンドロが知るべきことはひととおり出た。これらの説教はふたりの魂を喜ばせると同時に脱魂状態にし、天に招いて遊歩させた。すなわち、ふたりはひたすら天にのみ思いを至らせたのである。
第六章
爾来、アウリステラとペリアンドロはそれまでとは違った目で互いを見るようになった。少なくともペリアンドロの側には変化があった。彼は、すでにローマへ来て大願を成就したのであるから、彼女がもう晴れて、誰にも憚らず自分には夫として接してくれてもよいはずだと思ったのだ。
一方アウリステラは、これまでなかば異教徒でありながら節操を大切にしてきたわけであるが、教義を授かってからはそれを崇拝するほどになっていた。ただし結婚がそれに背く行為だと思ったからではない。無理強いされたり是非と言って迫られたりしたわけでもないのに、はしたないと思われるようなことをしたくなかったからである。また結婚後のことは天がどこからか光明を啓示してくれるようにと願わずにいられなかった。なぜなら国もとへ帰ることは考えるだけでも恐ろしくまた無謀に思われたからである。というのはペリアンドロの兄が前々から自分を嫁にするつもりでいたので、それを虚仮にするようなことになれば自分と弟ペリアンドロに意趣返しをせずにおくまい、とそれを懸念して考え込み、身が細る思いであったのだ。
フランスの貴婦人たちはお寺巡りをし、指定聖堂にも詣でた。絢爛豪華な参詣であった。前述のようにクロリアーノがフランス大使の親戚なので、高貴な格式を張るために入用のもの一切が調達できたからであるし、アウリステラとコンスタンサがいつも一緒であり、ローマ市民の半数近くが彼女たちの後に列をなすのが常となっていたからだ。ある日バンコスという通りを行ったとき、通りに面した側壁に懸かった一枚の肖像画が目についた。頭のてっぺんから爪先まで、女を描いた全身像である。頭に冠を頂くが、それは真中で割れている。また足下に地球があり、女はそれを踏まえて立っている。その女がなんとアウリステラの絵姿であった。一行はひと目でそれを見抜いた。見違えようのない生き写しであったのだ。誰を描いたものなのか、売りものか。おどろきをかくさずにアウリステラが尋ねると、名高い絵師だと後に知れるが、持ち主が言うのに、売り物であるがモデルが誰かは分らない、仲間の絵師の描いたものをフランスで模写させてもらったにすぎず、その仲間の話ではさる異国の娘を描いたもので、巡礼装束でローマに向かうところを見掛けたという。
「あれにはどんな意味が」アウリステラが尋ねた。「頭の冠は。それに足元の地球は。冠はなぜ割れているのですか」
「あれは、お嬢さん」持ち主がこたえた。「絵かきの幻想、もしくはいわゆる狂想(カプリーチヨ)ですよ。たぶんこの娘が美の女王の冠にふさわしいということで、だから地球を踏みつけているんでしょう。それにしてもお嬢さん、あの絵のモデルはもしやあなたでは。そうとしか思えませんね。あなたなら完璧な冠がふさわしいし、絵空事の世界ではなくてれっきとした本物の現実世界でだって女王で通りますよ」
「お幾ら」コンスタンサが尋ねた。
持ち主はこたえた。
「ここへ巡礼がふたりおいでになり、おひとりは黄金で一千エスクード出す、おひとりは金に糸目はつけないとまで申されましたので、まだどちらさまにも売りかねております。もしやおからかいになっているんじゃないかしらと思いましてね。常識では考えられない額でしょう、まだ信じられません」
「ご心配はご無用ですわ」コンスタンサが言った。「ふたりの巡礼とやらが、わたくしの想像しているお方であれば、倍額でも惜しまずお出しになれますから、きっとよい商いになるでしょう」
フランスの貴婦人たちもルペルタもクロリアーノも、それにペリアンドロもみんな他ならぬアウリステラの生の顔を画像に認めて目を見張り、しばし息を止めた。見物人も、しだいにアウリステラに似ていることに気づいて誰からとなくつぶやいた。
「見ろ、売りに出ている絵はあの車で行く巡礼の女ではないか。そうなら大騒ぎして写しを見ることはない、目の前に本人がいるんだから」
人々がこんなことを言いながら馬車をとり囲みはじめたので、馬は進むことも退くこともできなくなった。そこで見るに見かねてペリアンドロが言った。
「アウリステラ、薄衣で顔を隠したほうがいいよ、その顔がまぶしくて目のくらんだ人たちで道路がごった返している。このままじゃ一歩も進めやしない」
アウリステラはそれに従った。こうして一行はようやく前進できたが、それでも混雑はおさまらなかった。アウリステラを堪能するまで見ようとしてベールをとるときを待ち構える人々がひきもきらなかったのである。
馬車が群衆の中を抜けて間もなく、絵を売る男のところへ、アルナルド王子が巡礼装束で現れた。そして声をかけた。
「わたしはその絵を一千エスクードで所望したものだ。それでよければ絵を持って一緒にきてもらいたい。全額を即黄金で払う」
ところがそこへもうひとりの巡礼が来た。ネムル公爵である。同じく声をかけた。
「いくらで売る、遠慮はいらん、言い値で買おう。わたしについてくればその場で望みの額をとらせる」
「お待ちください」絵師が言った。「どちらがお買い上げくださるか、おふたりの間でお決めください。値が不服と申すわけではありませんが、お声ばかり高くてもお足のほうが……」
このやりとりを見物する人垣ができた。絵がどちらの手に落ちるか興味津々であった。誰の目にもしがない巡礼に過ぎない両人が、黄金で千、万を払うというのであるから、ふざけているとしか思えない。
やがて持ち主が言った。
「お買い上げくださるなら、まず手付け金をいただきます。それからお宅へご案内ください。絵は早速壁から下ろしてお届けいたします」
応とばかり、アルナルドは懐中に手を入れ、黄金の鎖一連を取り出した。ダイヤモンドの飾り具が垂れている。王子は言った。
「これでよかろう。飾りも添えよう。二千エスクードを下らない。さあ、絵をこちらへ」
「こっちは一万だ」公爵もダイヤモンドを掴ませて王子を遮るように言った。「宿へ届けてくれ」
「恐れ入った」群衆の中から声が上がった。「その絵にいったいどんな曰くがあるというんだろう。ふたりは何者だ。それにあの宝石は。魔術じゃないのか。絵描きさん、悪いことは言わないから鎖は鑑定に出したほうがいいよ。品物を渡す前に石のほうもちゃんと純度を確かめることだね、鎖も宝石も贋物くさい。べらぼうな値打ちがあると言うからますます怪しい」
両太公はむっとなった。が、これ以上人前に心中をさらすまいとして、気のすむようにしてくれと言って宝石の鑑定に同意した。バンキ街はごった返しの大騒ぎになった。絵を眺めて溜息をつく者、巡礼の正体を尋ねる者、宝石に見入る者、そして誰も彼もが絵の行方を見守って手に汗を握った。巡礼はどちらも、まったく値にこだわる様子を見せない。売り手のほうは、あっさりすんなりと買い手がつきさえすれば、たとえ両人の示す額を下回っても手放しそうな気配である。
そこへたまたまローマの奉行が通りかかり騒ぎを聞きつけて原因を尋ねた。そして絵を見、宝石を手に取って見たわけだが、ただの巡礼の持ち物とは思えなかった。何かが匂うのだ。そこで奉行はそれらをいったんお上で預かることにし、絵もとり上げて巡礼をふたりとも連行した。
絵描きは泣きべそをかいた。皮算用どころか、元になるものをお上に攫われた。あそこへは一度引っぱられたら最後、仮に出られるとしても、もとの五体満足は望めない。
そこで絵描きはペリアンドロを探し出し、このいきさつの一切を話した。絵を奉行に没収されるのではないかと気が気でない、あの絵はじつはある絵師がポルトガルで本人を見て描いたもので、その絵師から自分が買い取ったと打ち明けたのだ。十分にありうることだとペリアンドロは思った。アウリステラのリスボン滞在中に彼女を描いた絵師は、ひとりやふたりではあるまい。それはそれとして、百エスクードで売ってくれるなら、絵はこちらで責任を持って取り返してやると言って請け合った。
絵描きはそれで納得した。千が百とは桁ちがいにちがいないが、この際ぜいたくは言えないし商売にはなるからだ。
その午後、ペリアンドロはイスパニアから来たという別の巡礼にまじって七寺巡り(1)をした。その同行の中にあの詩人がいた。一行がはじめてローマを目にした場所でソネートを吟じた男だ。両者は互いに気づき抱き合って再会を喜び、あれからのことを語りあった。詩人は、前日不思議な体験をしたからぜひ聞かせたいと言う。話はこうだ。さる宮廷付の猊下に人一倍好奇心が強く、金回りもよい御仁がいて、この世で最も珍奇な美術館を所有しているという噂を聞いた。そこにはかつて実在した人物の絵も、現存する人物の絵もなく、画布の用意があるだけで、そこに今後世に出るべき著名人が描かれることになっているという。とりわけ、来たるべき数世紀に詩人として名をあげる人物にあてられているとか。それらの画布のうち、二枚には画題があって一枚はトルクアト・タッソ(2)と書いてあり、その下に『エルサレム解放』とある。もう一枚はサラテ(3)と書かれ、下に『十字架とコンスタンティーノ(4)』とあった。
「それらの名が何を意味するか、見せてくれたその人に尋ねたところ、彼が言うのに、この地上には間もなくトルクアト・タッソと名乗る素晴らしい詩人が誕生するはずで、その詩人がエルサレムの奪回を謳いあげることになっており、その雄渾壮大な詩風は、彼以前のあらゆる詩人を凌ぐとか。やがてフランシスコ・ロペス・ドゥアルテなるイスパニア人が出てこのタッソのあとをつぎ、その声が天の下ひろく四方の地に満ちるそうで、とりわけキリストの聖十字架発見とコンスタンティーノ皇帝の諸戦をうたう名調子によって人々の胸を打ち陶然と酔わせずにおかないとか。英雄と信仰を称えた、まさしくその題名にふさわしい詩になるそうです」
そこでペリアンドロが引きとって、
「遙か未来の人物を描くのに、はや画布の用意ですか。そんなことを引き受ける人がいるなんて信じがたいことですが、さすがは世界の首都です。まだまだ驚くことが山とあるんでしょうね。もちろん、未来の詩人用の画布はそれだけでおしまいではないでしょう」と尋ねた。
「もちろんです」巡礼はこたえた。「ゆっくり足をとめていちいち標題を見る気はせず二枚で堪能しましたが、見回すとほかにもたくさんありました。案内者の話ではそう遠くない先のことだそうですが、わたくしが思うにその時代は百花繚乱のごとく詩人が輩出します。そんな時代の到来に神のお導きのあらんことを。そうなれば必ずや僕(しもべ)の数も増えましょう」
「言えることはただ」ペリアンドロが言った。「詩歌の豊年は飢餓の年。なぜなら、自然が率先して奇跡を起してくれない限り、詩人を差し出せば貧乏人にして返してやる、となりそこから詩人が多ければ貧乏人が増え貧乏人が増えると厄年になるという因果が生じるわけです」
巡礼とペリアンドロがこんな話をしているところへユダヤ人サブロンが近づき、ペリアンドロに声をかけて、その日の午後フェラーラ生れの女イポリタに引き合わせると誘った。彼女はローマといわず全イタリアでも屈指の美女であった。
ペリアンドロは快く招きに応じるという返事をした。しかし、もしもこのときこの女の美貌とともにその人品のほどを知らされていたなら、おそらく招きに応じなかっただろう。いかに見目麗しくても下司なものはペリアンドロの高潔な品性に釣り合わないし、耐え難いはずであったからだ。この点では、天はペリアンドロとアウリステラを同じ鋳型の中で等しく造りたもうていた。彼は彼女には内緒でイポリタに会いに行ったのであるが、ユダヤ人が彼を案内したのは善意からではなく魂胆があったからで、ペリアンドロをまんまとわなに掛けたのだ。それにしても、好奇心というのはいかに慎重で用心深い者をも躓(つまず)かせ転ばせるものである。
第七章
人は品を繕い綺羅を飾り贅を尽した豪邸に住めば、たいていの粗(あら)は隠せる。なぜなら品のいいものに接して不愉快になる人はいないし、綺羅も悪い気にさせず、豪奢な調度に不満のある者もないからだ。
この一切をイポリタは備えていた。いかにも高級娼婦である。身代はいにしえの傾城フローラと肩を並べ、お愛想(かね)づくりもさることながら礼儀作法(おとこあしらい)も心得たものであった。すなわち器量で眩惑させ富で信用を集め、礼儀作法と呼べるとしてそれで崇拝者をつくり、馴染みの衆からは下へも置かない扱いを受けていたのだ。色香がこれら三種の品格を着込めば、向うところ敵なく、青銅の胸をも砕き鉄の鎧も貫き大理石の意志も挫くものであり、さらに嬉しがらせや、誑(たら)し込みの手練手管を身につければ、その威力は倍増する。いずれも女が魅力を巷間に誇示するのに最も都合のよい特性である。
いま描いて見せたほどの美女を目の前にして、その美貌に眩まず、しかもその女の卑しい生業を見抜けるほど鋭い悟性の持ち主が、はたしてこの世にいようか。それにしても美は一方で人を盲目にし、一方で目を開かせるもので、目眩めく美を欲望が追い、開眼の美を改心の志が追うのだ。
イポリタの邸宅にはいったとき、こういうことはまったくペリアンドロの念頭になかった。しかし、色情は不測の基礎の上に詭計をうち建てるのを常とするからであろうか、ここにも思いがけず一個の詭計が構築された。それはペリアンドロの意中に築かれたのではない。イポリタの心に仕掛けられたのである。それもそのはず色情はふつう悪所の女と呼ばれるこれらの女性にはたいした労もなくとりつくのであり、この女たちは悔い改めようとして悔い改まらないところにいるのだ。
彼女はペリアンドロを町で見かけたわけだが、その貴(あて)な男ぶりもさりながら、彼がイスパニア人だと聞くだけで胸が躍った。イスパニア人はいいカモだから欲しいものは何でもせしめられるし、思う存分に楽しめるにちがいない、と思ったからで、この企みをサブロンと計り、自分の屋敷へ誘い込むように示し合せたのだ。屋敷は巡礼を迎えるというより新婚の閨に見紛うばかり入念に手が入り調度がそろっていた。ところで、ローマでは令夫人(セニヨーラ)イポリタの名で通るこの女にピッロ・カラブレスという情夫(ひも)がいた。刃傷沙汰の絶えない短気者の凶状持ちで、その財産は人切り包丁と手先の器用、あるいはイポリタの舌先でせしめたものであり、こういう武器のおかげで欲しいものは何でも手に入ったので、誰の子分にもならずにすんだ。しかしこの男を潤わせたのは何よりも器用な両脚が備わっていたことである。ピッロは手よりも足の器用を頼みにしていた。いつでもどこにいてもイポリタから目を離さず、ときには飴を、ときには鞭を与えてつきまとうことが欠かせぬ日課であった。これらの飼い鳩には必ず鷹のような鳥が執念深くつけ狙って、いずれ爪にかけずたずたに引き裂かずにはおかないものである。ヤクザで愚かな徒輩の無情な渡世だ。
さて、名ばかり騎士のこの男が、ちょうどユダヤ人とペリアンドロがイポリタを訪れたときに居合せた。
イポリタは男を奥へ呼んで言った。
「あんたはどっかへ消えててちょうだい。この金の鎖をあげるから、遊んでおいでよ。今朝サブロンがあの巡礼から巻き上げたものよ」
「イポリタ、俺の目は節穴じゃないぞ」ピッロが逆らった。「俺のにらんだところでは、奴はイスパニア人だ。イスパニア人がお前の手も握らずに、百エスクードはくだらない鎖を手放したりするものか。大いに気になる」
「いいからピッロ、お願い、あんたは鎖を持ってどこかへ行ってておくれよ。イスパニア人は油断がならないけど鎖のことはわたしに任せて。返さずにすむようにするから」
ピッロはイポリタの手から鎖を受け取った。イポリタ自身が、その朝、人を遣って買わせた鎖である。これで釣って情夫を撒き、四の五の言わせず追っ払った。
こうして枷がとれ、五月蠅(うるさ)いがちゃがちゃ虫が消えて邪魔者から解放されたイポリタは、ためらわず媚をつくってペリアンドロにしなだれかかり、平気で彼の首に腕をまわしてきたのである。そして言った。
「イスパニアの殿方って、みなさんお勇ましい方ばかりだと聞いているけど、ぜひその評判を確かめさせていただきたいわ」
この大胆な攻勢を受けたペリアンドロは、屋敷全体が頭上から崩れかかる思いであった。やっとのことで女を手で押し止め、突き放すように胸先で制して言った。
「イポリタ殿、この装束を冒涜してはなりません。少なくともわたしは許さない。イスパニア人であっても、巡礼の場合はむやみに勇ましく振舞う必要はないでしょう。しかし、わたくしでも勇気をお見せする方法があるならおっしゃってください。おたがいの迷惑にならないことなら文句はありません、承知しましょう」
「巡礼さん、あなたは身も心も巡礼でいらっしゃるのね。でも、おたがいの迷惑にならないことなら何でもおやりくださるということですから、どうぞこちらの広間へお通りになって。大広間と化粧部屋へご案内するわ」
これに対してペリアンドロがこたえた。
「わたくしはイスパニア人ですがことのほかの小心者で、敵の大軍団を向うにまわすよりはあなたおひとりのほうが怖くてたじたじのありさまです。別に案内の人をつけていただけないでしょうか、それならどこへでもお供いたしますが」
そこでイポリタは女中ふたりとユダヤ人サブロンを呼んだ。三人はすぐに現れ、女中たちが大広間の案内を言い付けられた。
部屋の扉が開かれた。後日ペリアンドロが語ったところによると、世界でも珍しい金持ちか物好きな王様でもなければ、とても揃わない家具調度があり、パルラシオスやボリュグノトス、アペレス、ゼウクシス、ティマンテス(1)などの筆の最高傑作が一堂に揃っていた。イポリタが私財をつぎこんで買い求めたものである。敬虔なるラファエロ・デ・ウルビーノや神聖なるミケランジェロの傑作も並んでいた。ちなみに偉大な君主の富というのはこのようなものによって誇示されるべきであり、これでこそ誇示できると言えるだろう。宮殿も豪壮な王城も装厳な寺院も絵画の傑作も、君主の権勢と富の証しとしてふさわしく偽ることがなく、これらを好敵手とばかり時間が翼をはやめ足を励まして挑戦するが、それを尻目にして過去幾世紀もの輝きを誇示し続けるのである。
なるほどイポリタ、たしかにたいした財産(よきもの)だ。だが、あれほど多くの肖像画(レトラト)の中に一枚でよいからおまえの善(よ)き所行(トラト)の絵があって、ペリアンドロの所行を見守ってやるならどんなに善いことか。そのペリアンドロは、当惑しどぎまぎし途方に暮れたようすで辟易(へきえき)して、大広間の豪奢の山がどこで尽きるかと見回していたが、そこには純白のテーブルがあり、豪華な籠にさまざまな鳥がいて、その楽唱が卓上に降りそそぐように漂い渾然とした中に快い調和があった。
ヘスペリデスの園(2)、魔女ファレリーナの園(3)、あるいはあの名高い空中園(4)など、世に聞こえた庭園のことはペリアンドロの耳にも届いていたが、いずれもこの部屋や大広間の造りには及び難いように思えた。しかし彼はなにしろ気が動転していた。その潔癖さに祝福あれ。ペリアンドロはその潔癖感を二枚の板で挾まれ締めつけられるようで、ものがありのままには見えなかった。むしろそのような悦楽のかたまりのような品々にうんざりし、さらにはそれらがいっせいに彼の趣味を逆撫でにしていたほどだったので、彼はついに耐えきれず、礼儀を無視して大広間から脱出しようとした。イポリタが妨げなければ飛び出していたろう。そのとき、彼は手を振り回して礼儀もくそもない乱暴な言葉を吐かねばならなかった。
女はペリアンドロの肩衣を掴んで引き止めたわけであるが、そのはずみで胴着の胸が開きダイヤモンドの十字架が見えた。数々の難所をくぐってきた品である。それが女の目を眩ませ分別を奪った。ペリアンドロに逃げられると思った女は力こそなよなよしかったがとっさに一計を案じたのだ。もしそれがいま少し抜かりなく運んで効を奏していればペリアンドロを窮地に追い込んでいただろう。ペリアンドロは今様エジプト女の手に肩衣を残したまま(5)帽子も杖も腰帯も肩衣も持たずに屋敷から飛び出した。こういう闘いは逃げるが勝ち、ぐずぐずしてはならない。ところが女はすぐに窓から乗りだすようにして人通りに向かって叫んだ。
「泥棒、そいつを捕えて。虫も殺さぬ顔をしてるくせにひとの家へ入り込んで盗みを働いたふといやつよ。町ひとつ買えるほどの値打ちのあるものをとったのよ」
たまたま付近に教皇警護の衛兵(6)がふたりいた。彼らには現行犯逮捕権があるらしいが、泥棒と聞いたものだから、その疑わしい権力を行使してペリアンドロをとらえ、胸座(むなぐら)をつかみ、十字架を引きちぎっておいて念仏を唱えろとばかり遠慮会釈なく殴りつけた。これが召し捕ったばかりの犯人に下されるお上のお足である。吟味など口にもしない。
そんなわけで、ペリアンドロは十字架を没収された身に十字架を負うはめになったわけだが、衛兵に向かって彼らと同じ国語で、自分は泥棒ではなく身分のある者で、十字架は自分のものであって女の財産ではない、調べればわかると言い、奉行のもとへ連れて行って、速やかに事実を確認してほしいと頼み現金も握らせた。これと彼らの言葉で話したこととが効を奏して、未知の間柄にも気心が通じ、衛兵は女にはとりあわず、ペリアンドロをただちに奉行の前へ連行した。女はペリアンドロが引き立てられるのを見て窓から引っこみ、我が顔を掻き毟らんばかりに嘆いて下女たちに言った。
「わたしはなんて愚かなことをしたんでしょう。喜ばせたい人を怒らせ、尽したい人に酷いことを。この心を奪ったからといってあの人に泥棒の罪を着せてしまったわ。こんな愛情ってあるかしら。これが恋しい男への仕打ちかしら。罪もない人を繩にかけるなんて。あんな正直な人に恥をかかせてしまったわ」
彼女は言葉を続けて、教皇の衛士ふたりが巡礼を捕え連れ去ったいきさつを下女に説明し、ただちに馬車の用意を命じた。それはペリアンドロのあとを追いかけ、進んで彼の無実の申し開きをするためであった。惚れた男が痛めつけられる様を思うと、女は針の筵(むしろ)に坐ったようでじっとしていられなかったのである。薄情な女になるよりも偽証がばれるほうがましだと思った。残酷な仕打ちそのものは弁解してすむものではないが、偽証のことでは申し開きが許される。恋情の罪にすればよいのだ。恋心というやつは途轍もない言葉を吐き散らして露骨に欲望を示し、好きな相手をさえ苦しめる、と。
イポリタが奉行の屋敷に着いたとき、奉行は十字架を手にしてペリアンドロの事件を取り調べているところであった。ペリアンドロはイポリタが入って来るのを目にすると、すぐに奉行に言った。
「いまおいでになった女性は奉行がお持ちの十字架をわたしが盗んだと申されますが、十字架の材質や価、あるいは嵌め込まれたダイヤの正確な数をご存知ならわたしもご言い分を認めます。天使かなにかの霊が耳うちでもしてくれないかぎり、分るはずがないからです。その女性はわたしの胸に懸かっているのをご覧になっただけなのです。しかも一度きり」
「セニョーラ・イポリタ、こたえなさい」と奉行が言った。もちろん手懸かりを与えないように十字架を伏せてのことである。イポリタはこたえた。
「わたくしが恋に盲いて正気ではなかったと申し上げれば、巡礼さんの疑いは晴れるはずです。わたくしは恋ゆえにこんな罪を犯してしまいました。お奉行さま、どうぞわたくしをご存分にお裁きください」
そしてペリアンドロとの間にあったことを一部始終奉行に語った。奉行は大いに驚いた。彼女が恋をしたということよりその無謀に驚いたのである。それにしても情欲の無軌道はこの種の輩の常である。そこで奉行はイポリタの仕業を戒めて一応は叱りつけたが、その口で、大目に見てやれとペリアンドロにとりなしてやった。こうして奉行はペリアンドロを釈放し、十字架を返し、この一件に関しては一文字も記録に残さなかった。これは少なからぬ幸いと言うべきであろう。
それにしてもアウリステラの肖像画の前金として宝石を手放そうとした巡礼であるが、あれはいったい何者であろうか、奉行は一刻も早くそれを知りたかった。またペリアンドロとは、またアウリステラとはいかなる人物なのか。
ペリアンドロがこたえた。
「絵はアウリステラを、つまりわたくしの妹を描いたものです。あの巡礼たちはもっと豪華な宝石を持っておりましょうが、この十字架はわたくしのものです。わたくしの氏素姓ははっきりさせるべきときがくればお聞かせいたしますが、今明かすことはわたくしの意志では叶いません。妹が決めることになっております。お奉行のお手元にあるその絵はすでにわたくしが相応の値段で買い取ったものです。ついでに申しあげますと、それを求めるときに競り合いはありませんでした。ああいう競争は冷静な判断に基づかず怨念や妄想がからんでいるものです」
すると奉行は、同額を出すから絵はぜひ自分が買い取りたいと話を持ちかけた。そうそうたる絵師の傑作がローマを世界の冠たるものにしているが、アウリステラの絵を加えれば、それらを凌ぐ一枚になると思ったのだ。
「差し上げます」ペリアンドロはこたえた。「お奉行のようなお方の持ち物になれば絵も本望と申せましょう」
奉行は礼を述べた。そしてその日のうちにアルナルドと公爵を釈放し、それぞれに宝石を返したが、絵だけは抜かりなく自分のものにしたわけだ。何かひとつくらいはせしめなくては。ここではそれが至極道理なんだから。
第八章
わが家に向かうイポリタの心は、悔いるというより思い乱れていた。考え込み、恋情の懊悩に苦しんだ。芽生えたばかりの恋情は冷くあしらわれると消えるものであるが、ペリアンドロがイポリタに対して食らわした肘鉄は逆に情炎をかきたてることになった。そしてたかが巡礼だ、それにこちこちの木石でもあるまいから手を変え品を変えれば靡くにちがいない、イポリタはそう思った。しかし、自分に言い聞かせるようにひとりこうつぶやいた。
「あの巡礼が貧乏人なら、あんなに豪華な十字架を持っているのは妙だ。ダイヤの質と数から考えて、あの男はかなりの裕福にちがいない。そうとすればあの砦は兵糧攻めでは陥ちそうにない。あの城をとるには策略と作戦を変えなくちゃ。それにしても、あの若僧、もしや何者かに魂を絆(ほだ)されているのではあるまいか。アウリステラという女は実の妹ではないのでは。もしもそうならわたしが食らったあざやかな肘鉄をあの女に向けさせて苦しめることはできないものか。そうだ一か八かでここを突けば道は開けるかも。アウリステラめがくたばればいいのだ、死にやがれ。すぐにもあの女に呪いをかけてやる。あの薄情者めがどんな顔をするか、それだけでも見もの。とにかく計画を実行しよう。アウリステラを病気にしてやる。まずペリアンドロの目の前から太陽を奪ってやる。恋が芽生える一番の原因は何といっても器量だ。器量が消えたら百年の恋もさめる。アウリステラを取り上げればペリアンドロも柔らいで折れてこよう。試してみなくちゃ分らない。駄目でもともと。ちょっとでも効き目があれば試して損はない、と世間も言う。これに耳を貸そう」
こう考えると幾分慰められた。屋敷に帰りつくとサブロンが待っていたので、企みを打ち明けた。この男の女房はローマでは右に出る者がないという名うての魔女、それをあてにしたのである。そこでまず金品を積み口約束で喜ばせておいてから、女房の手を借りたいと頼んだ。ペリアンドロの心は動かせそうにないからそれは諦めるが、アウリステラの健康を奪ってほしい、そして様子を見て、必要とあらば命をとってもらいたい。
サブロンは、女房の能力と知恵を持ってすればたやすいこととこたえ、前金として若干の金を受け取り、翌日からただちにアウリステラの健康を崩しにかかることを引き受けた。
イポリタはサブロンを抱き込んだわけであるが、半分は脅迫であった。ユダヤ人というのは金と脅しで意のままに操られる連中で、まさかと思うこともやってのける。
ペリアンドロはクロリアーノをはじめルペルタ、アウリステラ、フランスの貴婦人三人、アントニオ、それにコンスタンサたちにも捕えられたときの模様を語った。イポリタの恋着のこともアウリステラの絵を奉行にゆずったことも伝えた。
あんな娼婦に見込まれたということはアウリステラには面白くなかった。ローマでも今をときめく美しい女でそのうえ淫奔、また金があって如才ないと聞いていたからである。それにしても嫉妬の虫というのはたった一匹で、しかもたいてい蚊ほどの小兵なのに、恋の奴の胸中には疑心暗鬼というものが棲んでいてその小兵をオリンポスの山よりも大きくふくらませるのだ。そうなると慎みは舌を縛って胸の辛さを訴えさせまいとし、沈黙という繩で魂を締め上げ、魂はこの拷問に耐えず肉体の生命を捨てる気で逃げ口をさがすのである。
言い訳を聞く以外に嫉妬を癒す方法はないようだ。しかしその言い訳さえ聞けないときには命などどうでもよくなる。それにしてもアウリステラの場合は、ペリアンドロの誓いに対して疑いを抱くくらいなら、何度でも死んだほうがましだと思った。
その夜、バルトロメとタラベラの女が主人一行を宿に訪ねた。あれ以来初めてのことであった。ふたりは牢からはたしかに放たれてはいたものの、自由の身とは言い難く、固い枷で絆されていた。夫婦という枷である。両人は結婚したわけだ。ポーランドの男の死はルイサを自由にした。あの男は運命の導きで巡礼となりローマへ来たのであったが、祖国に帰り着く前にローマでばったりと出くわしたのである、イスパニアにいるころペリアンドロに諭されて探すまいと決めていた相手に。なるほど、運命というものは自分の意志で築けるものではないからこれも当然といえば当然だろうが、その流れを変えることさえできなかったのだ。
その晩、アルナルドも婦人たちのご機嫌を伺いに来て、国もとの戦乱が鎮まったのち、一行との再会を期して新たに出発してからの体験を語った。隠者島にも立ち寄ったと言う。だがそこにルティリオの姿はなく、代って別の隠者がいた。その者が言うのに、ルティリオはローマにいるとか。漁夫の島も訪ねた。花嫁はいずれもすでに帰り着き、達者で幸せに暮している。ペリアンドロと航海をともにしたという者たちとも会った。風の便りに、ポルカルパは亡くなり、シンフォロサは結婚を拒み続けていると聞いた。また蛮人島には再び人間が住みつくようになり、あの眉唾な予言の信仰はさらに堅固なものになっているとか。マウリシオは婿のラディスラオとともに娘トランシラを連れて祖国を離れ、波風立てずに暮そうとイングランドへ渡った。アルナルドは戦後ダネア人の王レオポルディオとも会見した。王は胤を遺すために後添えを迎え、あの男女は許したという。つまりペリアンドロと漁師の一行に出会ったとき捕えてあった裏切者ふたりのことである。王は一行から受けた厚遇を深く感謝していた。また、アルナルドがこの体験談の行きがかりから口にした名にはおそらくペリアンドロの、あるいはアウリステラの両親の名もあったろう。実際ふたりがはっとする箇所もあり、悲喜こもごもの思い出が今さらのように蘇り、万感胸に迫るものがあった。
ポルトガルでは、とくにリスボンでアウリステラの絵がもてはやされているとか。コンスタンサやフランスの貴婦人の美しさも、フランスで、あるいは街道筋一帯で旋風を巻き起しているそうだ。クロリアーノは類ないルペルタを妻に選んだことで分別と度量が絶賛の的となっている。またルッカの町はイサベラ・カストゥルーチョの知恵や、アンドレア・マルロの電撃的な恋の噂でもちきりとか。両人に天使のごとき暮しをさせるために、神が悪魔のふりをしてアンドレアを運んできたことになっているという。ペリアンドロの墜落事件が奇跡として扱われていることも話題になった。道中で若い巡礼詩人に会ったが、その詩人はゆっくり行きたいと言って道づれを断った。ペリアンドロとアウリステラの体験を芝居に書くためらしい。両人の身の上のことはポルトガルで絵解きになって広まっており、それを見て知ったことを頭に刻みこんでいるそうで、詩人はまた、アウリステラさえその気になってくれればぜひ結婚したいと願っているという。
アウリステラは詩人の気持を有難く思った。そして陰ながら、綴れを羽織って来るようなことがあれば、着物のひとつも誂えてやりたいとさえ言った。傑出した詩人の精神は、どんなに素晴らしい報酬にも価するのだ。
アルナルドはコンスタンサとアントニオ兄妹の家にも立ち寄ったという。両親も祖父母も堅固であったが、息子たちのその後の消息が知れないので案じているとか。コンスタンサには戻ってもらいたいと言っていた。義弟にあたる伯爵と結婚させたいかららしい。伯爵が亡兄の賢明な選択を引き継ごうとしているのは二万ドゥカードを人手に渡したくないからか、それともコンスタンサの功徳ゆえか。おそらく後者であろう。この話に一同は湧いた。中でもペリアンドロとアウリステラはアントニオたちふたりを実の弟妹に思っていたので、嬉しさはひとしおであった。
アルナルドの話を聞くうちに一同の胸中で、ペリアンドロとアウリステラは尋常の身分の者ではないという思いが、またもや強くなった。伯爵との結婚とか何千何万という金銭に関わる問題にも慣れているからには、さぞ名門の大家の出なのであろう。
アルナルドはフランスでレナートに出会ったことも語った。決闘に敗れて正義を疑われたが、その後相手の告解によって、天下晴れて勝利を認められたフランスの騎士である。以上、この物語の傑作な展開の中に王子が登場し、関わりを持った出来事は多いがこのとき思い出さなかったもの話題にならなかったものはほとんどない。さらに、アウリステラの絵の所有権が自分にあるという主張もここで再確認した。そもそもあの絵をペリアンドロが所持していることは、公爵と自分の意志に逆らう、もっとも、ペリアンドロの機嫌を害ねないために自分はその侮辱に対して目をつぶっているが、と王子はこぼした。
「あの絵があなた様のものであると理解しておりましたなら、アルナルド様」ペリアンドロが言った。「失礼のないよう絵はお返ししたはず。しかし絵は公爵の運と手回しがよくて公爵の手に落ちたものです。それを王子が強引にお取り上げになったのではありませんか。不服をかこつ道理がありましょうか。恋をする者が不満の原因を自分の欲望の物指ではかるのはどうかと思いますし、そんなことでは満たされないでしょう。また、それは理性が命じるところでもありません。理性に従うべきです。いずれにしてもアルナルド様、わたくしとしては、殿下はご不満でしょうが公爵の納得する方法を取ります。それは妹のアウリステラに絵を持たせることです。妹こそ誰よりも正当な持ち主でしょう」
ペリアンドロの案は王子を得心させた。アウリステラも同感であった。
かくして問題は一応の決着を見た。
翌朝、サブロンの女房のユダヤ女がかけた隠呪、毒盛、妖術、魔法がアウリステラの身に効き目を見せはじめた。
第九章
さすがの病魔も、アウリステラの麗姿を真向うから襲うことはみずからの醜怪をわきまえてか畏れがましく、いきなりその美に手をかけることはためらった。だから背後から攻撃し、背中に悪寒を与えたのだ。それは明け方のことであった。アウリステラはその朝床から起き上がれなかった。そしてたちまち食欲がなくなり目から生気が失せ、やがてまるで長患いのように憔悴した。そしてそのありさまはたちまちコンスタンサの気分にも影を落し、ペリアンドロにも同様の打撃を与えた。最悪の事態さえ危惧されて気が気でならず、幸薄い一行であるだけに胸騒ぎがやまなかった。
発病後二時間と経たないうちに頬の紅薔薇は暗紫に変じ、丹花の唇は青褪め真珠の皓歯は黄玉となり、頭髪には霜が降り手は皺襞に被われ、もとの目鼻立ちは見る影もなく面相は見るも無残に崩れた。だからといってペリアンドロには、アウリステラの美貌が衰えたとは思えなかった。彼の目に映るのは病臥のアウリステラではなく、魂の中に描き上げてきたアウリステラであったのだ。また彼の耳元には、少なくともその後二日間アウリステラの声が聞えていた。舌が縺れて切れ切れの、消え入りそうな声ではあったが。一方フランスの貴婦人たちの案じようも並ならず、付きっきりの看病を続けていたので、はた目にも痛々しいばかりに疲労が重なって、こちらにも看病が要るかと思われるほどであった。
医者が呼ばれた。選りすぐりの名医である。少なくとも知名度にかけては指折りの者が集められた。ちなみに、医術の質は評判で決るものだ。ゆえに、幸運な兵士というものがいるように、巡り合せのよい医者というものが存在する。しかしツキとか好運は、同一物であろうが、これらは羅紗袋とか銀の小箱にはいって貧者にさえ回り来ることがあるものなのに、いずれもアウリステラの扉だけは叩かず、銀にも羊毛にも入ってこなかったので、アントニオとコンスタンサの兄妹は、いけないこととは知りながらもしだいに悲観的になっていた。
だが公爵の場合そんなことはなかった。公爵の抱く愛はアウリステラの美貌がきっかけで生れたものであったので、肝心の美貌が消えるにつれ、あっさりとその愛もうすれた。愛が魂の奥深く根を張っていてこそはじめて墓穴の縁まで愛する者につき合えるのである。死は醜怪極まりないもので、そのような死にもっとも類似したものは病魔である。それだけに醜怪なものを愛するというのは人間業とは思えない。奇跡にも等しいことなのだ。
いずれにしても、アウリステラは刻々と衰弱し、彼女を知る者はみな回復を絶望視するに至った。ペリアンドロのみが、彼のみが固く信じていた。彼のみが愛を貫き、彼のみが不屈の胸で逆運を受けとめ、アウリステラに迫りつつ彼をも脅かす死に立ち向かっていた。ネムル公爵はアウリステラの回復を二週間だけ待ち、その間は毎日かかさず医者にアウリステラの経過を尋ねた。しかし回復の見込みがあるという医者はいなかった。病因すら見当がつかなかったのである。このような事情もあったし、フランスの貴婦人たちからも相手にされなくなったし、なによりもアウリステラという黎明の天使が陰府の天使と化してしまった(1)ので、公爵は、見えすいてはいるが、少しはもっともらしいところもなくはない口実を思いついて、ある日病臥の床のアウリステラを訪ね、ペリアンドロも見守るところで言った。
「わたしは不運な男です。美しいあなたをれっきとした妻に迎えることが念願であったのに、それが叶わぬこととなりました。前には失意のあまり命を落しかけたことがありますが、今度は魂をなくすことになりそうなので、それだけは避けるために、別の道を行ってあらためて運を試します。このままではどう足掻(あが)いても好運に恵まれないことが見えすいているからです。しかし、いずれ、頼みはしなくても不運が押しかけて身の破滅になるか、失意のうちではなくても、不運のどん底で果てるでしょう。じつは、母が帰れと申しております。嫁まで決めて待っているのです。だからいちおうは母に従いますが、できるだけ旅を長びかせ、道中で死神が襲ってくればいいと思っています。そのとき死神は、あなたの美しさと病の記憶がわたしの魂の中にあるのを見つけることでしょう。でもあなたの死の報だけは聞かずにすむよう神に祈っています」
目には涙が光っていた。アウリステラは返す言葉に詰った。あるいは、ペリアンドロの前で誤解を招くようなことを言いたくなかったからであろう。枕の下に手を入れ、絵を取り出して公爵に返すのが精一杯であった。公爵は手に接吻して好意を謝した。ところが、横あいから手を出してペリアンドロが公爵から絵を取り上げて言った。
「さしつかえなければ、公爵様、絵をわたくしにお貸しください。そうしていただければ、わたくしもひとつの約束を果せます。閣下にご迷惑はおかけいたしません。その約束を果せないと、わたくしは立場がなくなります」
公爵は絵を返した。さのみか、財産も命も名誉も喜んで差し出そうではないか、自分にできることならそれ以上のことでも厭わない、という見得をきって兄妹のもとを去った。このままローマで別れて二度と会うまいと思ったからだ。如才のない恋をする男であった。好機を逸さぬ要領の良さでは右に出る者はあるまい。こういう成り行きがアルナルドを目覚めさせたとしても頷ける。宿望が微塵に砕け、一大巡礼行が水泡に帰す寸前であることも本気で考えているはずだ。実際、すでに述べたように、死はアウリステラの裾を踏むところまで迫っており、王子はなかば公爵と同行する気になっていた。道中を一緒にすることはともかく、少なくとも気持だけはつき合ってそのままデンマークへ帰ろうかと思った。しかし、彼には愛も憐憫の情もあった。愁傷のペリアンドロと命の瀬戸際のアウリステラを見捨てて行けようか、それは忍びがたい。そこで王子はアウリステラを見舞い、お役に立つことがあれば何なりと申しつけてほしい、と言って一行のもとに留った。悲観的な材料ばかりで不安は尽きないが時が経てば事態は好転するかもしれない、と思って待つ決心を固めたのであった。
第十章
フリア(1)の残酷な魔術が効き目を顕してアウリステラの健康を蝕み、損ねていたわけであるがそれを喜んだのはイポリタである。アウリステラはわずか一週間で、別人のように、見る影もなくやつれ、声を聞かなくては彼女だとさえ判らないありさまであった。医者も匙を投げ、彼女を親しく知る者はみな力落ちて悲嘆に暮れた。その間フランスの貴婦人たちは実の妹の面倒を見るように、親身の看病を尽した。中でもフェリス・フローラは格別の親愛を寄せていた。
容態は悪化の一途を辿った。それのみか病魔の猛威はアウリステラに留まらず、指定の繩張りを越えて周囲の者たちにも飛び火した。アウリステラに近しいということではペリアンドロほど身近な者はなかったわけであるから、そこにまず火がついたのである。もっともそこでは、アウリステラの場合のようにユダヤの魔女の毒盛や呪いがなんらかの特定の効力を発して直接彼に作用したわけではない。アウリステラの病気を案じる彼の心痛があまりに激しくて、それが彼のからだの中で、アウリステラに対するのと同様の効力を発したのであり、彼もしだいにやつれ、アウリステラと同様に命さえ危まれるに至った。
イポリタもそれに気づいた。これでは自分の首を自分で締めるようなものではないか。つまりペリアンドロの病気がどこから来ているかは手に取るように読めていたのである。だからアウリステラを救うことでペリアンドロを助けようとした。今やアウリステラはすでに骨と皮で血の気はなく、その命は死神の扉を叩くだけの毎日としか思えない状態であった。間もなく扉は開く。アウリステラはそう覚悟を決めて待っていた。それにしてもカトリックの奥義伝授を受けた者としては、魂がからだを出るときに確かに秘蹟を経てこられるよう、道をこしらえて待ちたかったので、信者として必要な手続きは全霊を傾けて済ませた。厚い信仰心を裏付ける、日頃の立派な心懸けのにじみ出る行為である。ローマで受けた教えを胆に銘じていることもこれで明らかだ。こうしていよいよ天命に従う覚悟を固め、心を安らかにし、千金万国の約束も、高位高門も忘却のかなたへ押しやった。
アウリステラが死ねばペリアンドロも死ぬ。すでに述べたように、イポリタはこれを悟ったので、ユダヤ女のもとへ駈けつけ、アウリステラを憔悴させていた呪いの威力を柔らげるかそっくり解除してしまうように言いつけた。アウリステラが死ねばペリアンドロも死に、ペリアンドロが死ねば自分も生きてはいられないだろう。三命を一撃でもって奪うような方法を発案するなど夢にも思わなかったのに。ユダヤ女はイポリタの言葉に従った。あたかも他人の健康も病気も、すべてこのユダヤ女の手に握られているかのようである。あるいはこの世の苦患(くげん)が神意によるものとはかぎらないのと同じように、天罰といわれるものさえかならずしも神意によらないかにも見えてくる。しかし実際は、神がわれわれの罪を懲らしめようとしているのだ。つまりこのユダヤ女にいわゆる魔法使いの技法を使わせて他人の健康を奪うことを、いわば強制的に許可しているのである。すなわち呪詛や毒物を用いて誰の命をも意のままに、時間を切って奪うことをあきらかにお許しになっており、この危険は手の施しようがなく避けられない。影も形もないからである。命取りになるほどの原因がどこにあるか、それが突き止められないのだ。ゆえにこの病を癒せる薬師(くすし)とは神の広大無辺のご慈悲であり、そのご慈悲が医学を応用するのである。
こういう事情で、アウリステラの病状の悪化は止んだ。それはまた回復の兆しであって、彼女に美貌の太陽が戻り、顔という空に薄明の曙が射した。また頬には再び薔薇がほころび、瞳に陽が戻った。さらには憂鬱の影が去り、声の艶がもとに戻った。そして唇の紅が澄み、歯は象牙の白になり、やがてもとの真珠の皓歯になった。こうしてたちまちのうちに、どこから見てももとのように麗しい瑞々しい、艶やかな、馥郁たる女人に返ったのである。ペリアンドロにも同じ結果があらわれ、フランスの貴婦人、クロリアーノ、ルペルタ、アントニオ、そしてその妹、喜びも悲しみもアウリステラと分かちあう仲良しのコンスタンサなど、他の者にも同様の反応があった。やがてアウリステラは、天に向かって病気健康の別なく変らぬ恵みと慈しみを賜わったことを感謝したわけだが、彼女はそんなある日ペリアンドロをそばへ呼び、ふたりきりになったのを見計らって話しかけた。
「兄さん、わたくしは神の思し召しに従って、二年前からあなたを兄さんという心嬉しく慎しみ深い名でお呼びしてきました。その間はけじめを失わず、不謹慎不愉快な呼び方はうっかりにもいたしませんでしたし、こうお呼びできる幸せがいつまでも続いて、命の尽きるまで終らないことを願っています。幸せというものは長く続くほどなお幸せで、また慎ましい幸せほど長く続きます。兄さんはよくご存知でしょうし、わたくしもここで教わりましたが、わたくしたちの魂は休みなく動揺し、神様の御許でしか留まることができません。そこが魂の中枢です。また、この世の欲望は無限で、それは鎖か数珠のように一本に繋がって天に達したり、あるいは地獄に落ち込んだりします。兄さんはたぶん、こんな話し方はわたくしらしくなくて、年に不相応だとか、最果ての辺境で受けられる教育の限りを越えたことを申しているとお思いになるでしょうが、これは経験がわたくしの魂の白紙にませたことを書いたものとでもご承知おきください。その白紙にわたくしはまず何より神を知り、神を見ることにのみ至福があるということを書き込まれました。この目標に至らんとする方法はことごとくが善なる方法、神聖なる方法、歓迎すべき方法であり、それらはたとえば慈善、謹慎、童貞などです。少なくともわたくしはそう理解しています。また、あなたがわたくしにお寄せくださる愛については、わたくしの願いがあなたの願いでもあるほど大いなる愛であると理解しています。わたくしは一国の跡目を継ぐ娘です。母上がわたくしをあなたのご両親の両王のもとへ預けたわけは、あなたもよくご存知のように、迫る戦乱からわたくしを疎開させるためでした。あのようにお国のご厄介になったのが事の起りとなって、わたくしはあなたと一緒にここへ参りました。その間中わたくしはあなたに従って寸分もそれたことがありません。あなたはわたくしの父であり兄であり、陰であり日向(ひなた)であり、さらには守護天使であり先生であり教導者でした。そのあなたがわたくしをこの大都へお連れくださったのであり、おかげでわたくしはキリスト教徒としてのあるべき姿になれました。そして今わたくしが願っていることは、できれば回り道をせず、危険を避け、心安らかに天国へ行くことですが、この念願はわたくしが前にお渡ししたものをお返しくださらないかぎり、成就しません。すなわちあなたの妻になると申し上げたわたくしの決心と約束を取り消していただきたいのです。約束はお忘れください。わたくしはあの決心を無理にでも捨てます。天国ほどの至福を贏ち得るためには、地上のものはすべて、たとえ両親や夫でも捨てなければならないのです。ほかに男性があってあなたを捨てるというのではありません。神ゆえにあなたを諦めるのです。でも神は御自らあなたのためにご尽力くださいます。神ゆえにわたくしをお諦めくださるのですから、見返りとしてはるかに大きい償いがありましょう。わたくしには妹がございます。器量は、死すべき者に美が備わるとしてのことながら、わたくしに劣りません。どうか、妹とご結婚なさってください。そしてわたくしが治めるはずだった国の王におなりください。そうしてくだされば、わたくしも念願が叶い、お気持を裏切らずにすみます。なぜうつむいておしまいになるの、兄さん。なぜ目を伏せてしまうの。お気に障ることを言ったのでしょうか。わたくしはとんでもないことを願っているのでしょうか。それならそうと、はっきりおっしゃってください。お答がいただきたいのです。お気持だけでもお聞かせくだされば、わたくしも考え直して、なんとかして自分の気持と折り合いをつけて、あなたのお気持も済むような道を探します」
ペリアンドロは押し黙ったようにこれを聞いていたが、そのわずかの間にも彼の脳裏には数限りない思惑が浮かんだ。それはみな自分にとって最悪の事態を予測させることばかりであった。なぜならアウリステラに疎まれたとしか思えなかったからであるし、また今彼女が世を捨てることは、自分に死ねと言うに等しかったからでもある。彼女と結婚できないなら、自分にはこの世に生きていく理由もなくなるのだ。これは彼女だって十分わかっているはずではなかったのか。彼はこんな思いの中を行きつ戻りつ、一語も返さずにしょんぼり肩を落していたが、ふと腰を上げ、その場をはずした。入れちがいにフェリス・フローラとコンスタンサが来たので、それを出迎えついでに部屋を去ったのだ。残ったアウリステラは今言ったことを反省し、悔やんでいる、と言うべきか否かは決めかねるが、作者の知るかぎりではとにかく困惑し思案に暮れていた。
第十一章
水は狭い管から出ようとするとき、急げば急ぐほど捌(は)けないもので、前を流れる水とその後を流れる水が押し合いへし合いひしめき合って、かえって滞り、流れが通ってどっと捌けるまでは、どの部分も道をゆずらない。
恋い悩む者の胸がはらむ言葉も同じ現象を起すようだ。言葉という言葉が先を争うように舌へ押しかけ胸裏を伝えようとして肩を突っ張りあうので、皮切りの一言が決らないのだ。黙っているほうが言いたいことを言える場合が少なくない。
この事実はペリアンドロの行動に端的に現れた。彼は、アウリステラを見舞った者たちにろくすっぽ挨拶もしなかったのだ。次から次へと思案することがあって頭が一杯だった。千思百考がつのって胸にわだかまるばかりであった。厭われてしまった、もう何もかもおしまいだ、そんな気持で部屋を出たのであるが、アウリステラから言われた様々なことがらについて、どう返事したものかわからないし、こたえる気にもならないし、その力もなかった。アントニオ兄妹がアウリステラのそばへ行くと、彼女はまるで重苦しい夢から覚めたばかりのようであった。そして独言をつぶやいている。はっきりと聞きとれる声だ。
「とんでもないことをしてしまったわ。でも、あれでよかったんじゃないかしら。気持は伝えておくほうがいいはずだわ。わたしとしては曲りくねった険しい不安な道は避けて、めでたい終着点がはっきりと見える平坦な近道を旅するほうがいいはずだもの。ペリアンドロが足手纏いになるわけではないけど、でもやっぱり一緒じゃないほうが早く着けそうな気がするし誰のことよりもまず自分の勤めを果さなければ。天国と御栄光に関わることが第一だから、肉親のことだって後回しにすべきだわ。それにそもそも、ペリアンドロは肉親なんかじゃないんだから」
「何をぶつぶつおっしゃっているの」コンスタンサが声をかけた。「アウリステラ姉さん。伺っているうちにわたしたちとしてはなんだかわけが分らなくなってきましたが、いまのお姉さんのお話はまるで支離滅裂。ペリアンドロさんが兄上でないなら、おふたりは馴れ馴れしすぎるし、ご兄妹なら、一緒に行くの行かないので大騒ぎすることはないでしょう」
アウリステラは、はっとして我に返った。コンスタンサに言われて、不注意に洩らした言葉を繕おうとした。しかしうまくいかない。一つの嘘を繕うには、急遽、嘘を重ねなければならず、そうすることによって真実らしさはいっそう薄れ、逆に疑惑のほうが濃くなる。
「わたしって何を言ってたのかしら」アウリステラは言った。「ペリアンドロが兄かどうかもわからなくなってしまったわ。はっきりしているのは、わたしの魂だということ。ペリアンドロがいるからわたしも生きている。ペリアンドロがいるからわたしも息をしている。ペリアンドロゆえにこの五体を動かし、ペリアンドロゆえに食餌をとっている。でも、わたしは理性の埒外には出ないし、心変りの隙もつくらないし、身分のある女がやはりあのように身分のある兄に対して守るべき礼節もないがしろにしていないわ」
「おっしゃることが呑み込めません」アントニオが口をはさんだ。「今のお話では、ペリアンドロさんは兄上のようでもあるけれど、ないようにも取れます。この際、差しさわりがなければ思い切っておふたりの素姓をお聞かせください。兄上であるなしにかかわらず、今となってはもう、そろってご身分の高いおふたりであることは否めませんよ。われわれのことなら、わたしと妹のコンスタンサのことですが、われわれはいつまでも子供ではありませんから、何をお聞きしてもおどろきはしません。蛮人島を出たのはほんの昨日のことですが、ご承知のように嘗めた苦労のかずかずが先生になっていろんなことを教えてくれましたから、お陰でちょっとした手懸かりがあれば少しくらいは混み入ったことも理解できます。とくに恋愛問題はおのずから正体が明らかになってくるものです。ペリアンドロさんが兄上でなく、またあなたが彼の正式の奥方であるとしても、わたしたちは驚きません。もちろんおふたりが互いに堅く清らに操を守り通して天に恥じず、また誰からも後ろ指をさされない慎重なおふたりであるとしても、けっして驚きません。なぜなら恋という恋がみなせっかちで大胆なわけではないし、恋する者がみな相手をものにする喜びを求めて魂の能力(1)を無視するわけではないからです。ですから繰り返してお願いします。あなたとペリアンドロさんの素姓をお打ち明けください。彼とはここで擦れ違いましたが、目には今にも噴き出さんばかりの涙をため、まるで猿轡を噛んだように口を結んでいらっしゃいました」
「不幸なわたし」アウリステラが言った。「いっそわたしも永遠の沈黙に身を任せていたほうがよかったのよね。ものが言えなくなれば猿轡もいらないもの、ペリアンドロは猿轡を噛んでいたとおっしゃったけど。それにしてもわたしたち女ってほんとうに浅はか。辛抱がなくて、口が軽くて。黙っていたときは魂が落ち着いていたのに、口が開いたとたんにその落ち着きが消えてしまったわ。でも、こうなったら落ち着きはどうでもいいし、ついでにわたしの一生のこの悲劇もこれっきりになってしまえばいいから、何もかもお話しするわ。神様はあなたがたおふたりを実のご兄妹にしてくださったけど、ペリアンドロはわたくしの兄ではなく、夫でもなく、情夫でもありません。欲の道を突っ走って女の名誉を漁る徒輩ではないという意味です。あの人はさる王国の王子で、わたくしもさる国を継ぐべき王女です。家柄ではふたりの間に優劣はありません。国の大きさではわたくしが多少優っています。でも意志の違いもなく気持も相通じ、互いに望むところを確かめあって間違いを避けてきました。ふたりの意志を狂わせたり動揺させたりするのは運命だけであり、また、否応なく期待しなければならないのも運命です。ペリアンドロの喉をふさいでいる痼(しこり)でわたしの喉もふさがれていますから、今はこれ以上申しあげられません。それより、お願いです、あの人を探すのを手伝ってください。何も言わずに出て行ったので、迎えに行かない限り帰ってはこないと思うのです」
「そんなら、ぐずぐずしてはいられません」コンスタンサが言った。
「出かけましょう。でもひとを愛する者は愛の絆に繋がれていますから愛する相手を離れてそう遠くへは行けません。追いかけましょう、すぐに見つかりますよ。すぐに会えますとも。きっとうれしい結果が待っていますわ。まだ少し気がかりにこだわっていらっしゃるように思えますが、そんなものとはさっぱり縁を切って、ペリアンドロさまとご結婚なさったほうがいいわ。おふたりが対等になれば、誰にも気兼はいらないでしょう」
アウリステラは腰を上げ、続いてフェリス・フローラとコンスタンサ、それにアントニオも加わってペリアンドロを探しに出た。アウリステラが王女だということは三人の間ではすでに疑うべくもなかったので、これまでとは違った目で彼女を見るようになり、敬意を新たにして世話を焼いた。
ところがペリアンドロは、探しに来る者の目からできるだけ遠ざかろうとしていた。だからローマを出た。徒歩であった。そうして塩っぱい孤独、傷心の吐息、あるいは絶え間ない嗚咽といったものが道づれとみなされないものなら、ペリアンドロはひとりぼっちで歩いていた。それにしても彼の胸にはこの悲哀と幾多の思いがまつわりつき、片時として離れなかった。
「どうしよう」ペリアンドロは誰に言うとなくつぶやいた。「麗しのシヒスムンダ、きみは王女に生れ、大自然の恵みを豊かに授かり、万人にたち優って麗しく、またすぐれて聡明、しかもこよなく淑やかな女性だ。きみがぼくのことを兄で通すのはけっしてむずかしくはなかったはずだ。確かに四六時中目を光らせて胡乱(うろん)なことを企む意地悪の権化みたいな奴に勘ぐられることもあったけれども、ぼくは怪しまれるような態度は見せなかったし、他人に打ち明けるつもりもなかった。きみが神ときみ以外の何者をも当てにせず、きみひとりで誰も伴わず天国へ導かれたいなら、ぼくは目出度くそうなることを祈る。しかし、きみが望みの旅路につくについては、それによってひとつの罪を犯さずにはすまないかもしれないということを忘れないでほしい。それにしても、妻よ、あの考えを秘め続け、ぼくを欺し通してくれていたなら、ぼくを殺さずにすんだのに。あの考えをぼくに打ち明ける前に、なぜぼくの魂を愛の根っこごとごっそりと引き抜いてくれなかったのか。ぼくの魂はきみのものだから、きみの意志に委(まか)せ、ぼくはぼくの魂から身を退く。さようなら。いとしいきみよ。ぼくがきみのためにしてあげられる最善のことといえば、きみを諦めることでしかないんだもの」
やがて夜の帳が降りた。ペリアンドロはナポリに通じる街道にいたが、そこを少しそれたところで、せせらぎを聞いた。それは林をぬって流れており、その岸辺でペリアンドロはどっと身を崩し、口をつぐんだが、吐息だけは止らなかった。
第十二章――ペリアンドロとアウリステラの素姓が知れる
思うに禍と福のあいだの隔りは極めて小さいようで、それらはあたかも共点をもつ二本の線のごとく、離れかつ異なった本源より発して一点に集まる。
閑かなせせらぎと明るい夜空を友に、ペリアンドロはさめざめと泣いた。木々も貰い泣きし、涼しい微風が涙を拭った。そして脳裏に浮かぶのはアウリステラのことばかりであったわけだが、そこへこの傷心を癒せる術が風に乗って運ばれて来た。というのはペリアンドロの耳にローマでは聞きなれない言葉が流れてきたのだ。耳を澄ますとほかでもない自分の国許(もと)の言葉である。だれかがつぶやいているのか、歌っているのか、それはいまのところ判然としないが、好奇心にさそわれるようにペリアンドロが声の方へ近寄り耳をそばだててごく近くまで接近してみると、歌声でもなければつぶやきでもなくてふたりの人がふつうの調子で話をしているところであった。しかし、それにしてもこの遠隔の地でなぜノルウェー語が聞かれるのだろう。何よりもこれが不思議だ。ペリアンドロは立木の陰に身を寄せ、自分と木が同体になるようにし、息をこらした。声は言った。
「ノルウェーで一日が二分されることは、わざわざご説明いただかなくとも分ります。実はわたしはしばらくあちらに住んでいたんですよ、とんだ目に遇ったのがきっかけで。だから、一年の半分が夜で、半分が昼だってことも知っています。もっとも、そういう事実は知っておりますが、なぜそうなるかは見当もつきません」
そこでもう一つの声が言った。
「その不思議な現象の訳(わけ)は、いずれ地球儀の上で手を取ってお教えします。訳と言ってもあの辺の緯度帯(1)では、この辺で昼夜合せて二十四時間あるのと同じで、ごく自然なことですが。ところで、すでにお話ししたように、ノルウェーの最果てに位置して北極のほぼ真下に世界の最北とされる一島があります。少なくともあの辺ではそう信じられています。名はティレといい、ウェルギリウスは農事詩の第一巻の次のような一節でトゥレと呼んでいます(2)。
……水夫は御霊験のみを尊び
さいはてのトゥレもあなたのしもべ
ギリシャ語でいうトゥレは、ラテン語のティレです。島の規模はイングランドにほぼ等しいか、わずかに小さいくらいで、人間の暮しに必要なものは何でもふんだんに揃った豊かな島です。さらに北へ行くと、まさに北極の直下、ティレを離(さか)ること三百レグアの海にフリスランダと呼ばれる島があります。四百年ほど前に発見され、広く人の知るところとなった土地ですが、それは大きい島で、歴とした王国の名があります。ティレを治める王はマグシミーノと申され、女王エウストキア様の子です。父王様は男子ふたりを遺してほんの数カ月前にご他界あそばされました。そのおひとりがこのマグシミーノ様で、国を継がれるお方です。あとひとりはペルシーレスと申されるお心の優しい若様で、この上ない天賦に恵まれ、母親のエウストキア様は目に入れても痛くないほどのお可愛がりようです。このペルシーレス様の優れたお人柄についてはわたしなどどう口を極めて誉めようが誉めきれないほどで、舌足らずなことを申してはかえってペルシーレス様の名誉を貶(おとしめ)ることにもなりかねませんから控えておきます。わたしは養育係(じい)として幼少のみぎりよりお育てしてまいりましたので贔屓目もあってお話ししたいことはたくさんありますが、どうせしゃべり足りないでしょうから、黙っていることにします」
あれは爺のセラフィドにちがいない。聞いていたペリアンドロにはすぐ分った。自分のことをあのように誉めちぎる人間は他に考えられない。また、聞き手も誰あろう、ときおり打つ相槌の声の調子から考えて、ルティリオだ。ペリアンドロが驚いたの驚かないの、これは読者のご判断にお任せしよう。話者はやはりセラフィドであり、彼が話を続けてこう言ったときペリアンドロはさらに驚いた。「フリスランダの女王エウセビア様にはご息女がおふたりあります。そろってお美しいお方ですが、姉のシヒスムンダ様は並みはずれています。妹君は母親と同名でエウセビアと申されます。姉君のほうは、地球上に散在している美をことごとく一身に集めたほどの天性の美貌を備えたお方です。ところがあるとき、この国に対してさる敵国が戦争を仕掛けたことがあり、女王は、方法は存じませんがそのシヒスムンダ様をティレのエウストキア様のもとにお預けになりました。戦火を避けて安心できるところで育てるためです。しかし、わたしの見るところでは、姫を預けた第一の理由はこれではありません。実はマグシミーノ様に姫を見染めさせ、妃に迎えるように仕向けるためだったと思うのです。と言うのも絶世の美貌からは、大理石のようにこちこちの胸をも蝋のようにとろけさせ、天地のごとく隔絶したものをも結びつける力が期待できるからです。
もちろんわたしのこの勘は、はずれていたかもしれませんが、少くとも結果から判断するかぎり、当らずといえども遠からず、マグシミーノ様はシヒスムンダ様にぞっこんの思いようなのです。姫がティレにお越(こ)しになったとき、マグシミーノ様は国を留守にしていました。そこで母の女王がマグシミーノ様の許へ使者をやって姫の絵姿を送り届けたわけですが、マグシミーノ様の返事は、いずれは自分の妃になる人として姫をまちがいのないように心して世話をするよう、とのことでした。ところが、その返事はわたくしの倅(せがれ)の、倅とお呼びするのはわたくしがお育て申したからですが、弟君ペルシーレス様の胸に矢のように突き刺さりました。これをお聞きになってからというものは、何を耳にしても胸の隙が開かず、以前のはつらつとした若さはどこへやら、王子といえば誰もが思い浮かべて喝采を送っていた活発なおふるまいが火の消えたように見られなくなり、何よりもおからだを壊し、回復を諦めきったご様子になりました。
医者にも見せましたが病因がつかめないので手のほどこしようもありません。心の病は脈には表れないので、診断が厄介で、不可能に近いのです。母御はわが子が正体不明の病魔にかかかって死んでいくのを見るに忍びませんから、どこを患っているのか、それだけでも打ち明けておくれ、と再三再四説得なさいました。それというのは症状の自覚があるのは本人ですから、原因も本人にしかわからないとお思いになったからですが、このような母親の痛々しいまでの頼みと説得の前にはそれまでかたくなに強情をはりとおしていたペルシーレス様も折れて、実はシヒスムンダを死ぬほど愛している、とお打ち明けになるに至りました。しかしながら、兄を立てねばならない、その義理にはずれるくらいなら、このまま死んでしまったほうがいい、とご決意を固めておいでだったのです。すっかり力をお落しになっていた女王ですが、これを打ち明けられたときには生き返ったようにお喜びになり、それくらいのことならなんとかしてやれる、とおっしゃってペルシーレス様を力づけ希望を持たせました。そのとき女王はたとえマグシミーノの機嫌を損ねることになってもかまわない、人間ひとりの命がかかっているのだ、それを救うためには兄弟の怒りもさておいてよい、相手がもっと畏れ多い者であっても譲らせよう、というおつもりだったのです。そこでエウストキア様はペルシーレス様に死なれることがどんなに辛いことかをシヒスムンダ様に切々とお話しになり、マグシミーノの性格には険があって疎ましく思うこともあるが、ペルシーレスはその正反対で、この世のありとあらゆる美徳がそなわっている、とお誉めになりました。それも極端でマグシミーノ様のことでは必要以上に具体例をあげてその短所を強調し、ペルシーレス様の魅力については口をきわめてお誉めになるありさまでした。
まだ少女の面影がぬけず、打ちとけて相談できる相手もないシヒスムンダ様でしたが、この説得に対するご返事として、自分の意志では決めかねるし自分には助言者もないが、ただ貞節を大切にしたいと思っているから貞節が守られるかぎりそちらの意に従う、とおこたえになりました。女王はその場でシヒスムンダ様を抱きしめ、さっそくペルシーレス様にその返事をお伝えになり、彼がマグシミーノ様の帰国前にシヒスムンダ様とふたりで島を出るという話がそこでまとまりました。シヒスムンダ様がいなくなったことの兄への言い訳には、カトリック教の奥義をおさめるためにローマ詣を誓ったということにしました。じつはカトリック教は、あの辺の北方諸国では危機に直面しているのです。出発に先立って、ペルシーレス様はシヒスムンダ様の貞節を傷つけるような言葉や振る舞いはいっさい慎むとお誓いになりました。こうして、女王はたくさんの宝石と助言をお与えになって、ふたりを送り出しました。この話は、その後まもなく女王からじかに伺ったことです。
マグシミーノ様がお帰りになったのは二年ちょっとたってからのことです。敵が新手をくり出したため戦争が長びき気は急(せ)いてもご帰還できなかったのです。マグシミーノ様はまっ先にシヒスムンダ様のことをお尋ねになり、いないと聞くや、さっと顔色が変りましたが、旅立ったと知ると、着いたその足であとを追ってご自分も出発なさいました。まさか弟が、とペリアンドロ様のことを信じてはいましたが、気が気ではありません。恋をする者から不安が拭えるとすれば、それはよほど不思議なことです。
母御はマグシミーノ様の決心を知るとわたしをそっとお呼びになって、ひとつ頼みがある、ペルシーレスに万が一のことがないように、からだにも名誉にもまちがいのないように守ってやってほしい、とおっしゃるとともに、わたしが先回りして兄マグシミーノが追っていることを弟に知らせるようにとお命じになりました。マグシミーノ様は二隻の大船をしたててご出発、ヘラクレスの水門(3)を抜け、時化や嵐をくぐってティナクリア島(4)にお着きになり、さらにそこから大都パルテノペ(5)に来て、今はここからほど遠くないテラキナという町にご滞在中です。そこはナポリのはずれの町で、ローマには一番近いところですが、実はそこでお倒れになったのです。マグシミーノ様はいわゆる土用熱にかかって命も危ぶまれております。わたしのほうはリスボンに上陸し、そこからはペルシーレス様とシヒスムンダ様の消息を辿るようにしてやってきました。行く先々で旋風を巻き起こさずにおかないほど器量の評判が高い巡礼の男女といえば、おふたり以外には考えられませんからね。それがもしもペルシーレス様とシヒスムンダ様でないとすれば、この世に舞い降りた天使としか言えないでしょう」
「おふたりが」セラフィドの話を聞く男が言った。「もしもペルシーレスとシヒスムンダとはおっしゃらず、ペリアンドロとアウリステラというなら、確実な情報があります。と申しますのは実はわたしはそのおふたりとは知り合いで、あれからもうずいぶんになりますが、われわれは様々な辛苦を分ちあった仲なのです」
男は蛮人島での苦難をはじめ、いろいろな体験を語った。やがていつしか夜が明けたので、ペリアンドロはふたりに見つからないようにその場を離れ、アウリステラのもとへ引き返すことにした。兄が来たことを知らせ、どうすればその怒りをかわせるか、彼女の知恵を借りるためであった。こんな遠方にいながら兄が追ってきていることを知ることができたのは奇跡としか思えなくて、そんなら、と思い直したペリアンドロは、後悔に胸を痛めるアウリステラの目の前に戻ることにし、捨てそうになっていた念願達成の希望を回復せんとしていた。
第十三章
傷の痛みの刺し込みや疼きというものの激しさは傷がまだ生々しくて熱い血と憤怒にくるまっているうちはまぎれているものであるが、ひとたび血が冷めてからは、怪我人を苦しめ、その辛抱を打ち砕くまでに痛烈だ。魂の苦悶の場合にもそれと同様のことがある。すなわち苦しみを気にする時と場所の余裕ができたとき、死ぬほどの苦しみが始まる。
アウリステラはペリアンドロに自分の気持を告げて、かねてからの思いを遂げた。ペリアンドロなら何でも聞き容れてくれるものと信じて疑わなかったので、何の屈託もなく打ち明けて、いつものように応じてくれるものと思っていたのである。しかしペリアンドロのほうは、すでに述べたように、返事を避けて口をつぐみ、ローマを出てしまった。それから前述のようないきさつがあって、ペリアンドロはルティリオの姿を認めた。そのときルティリオは爺のセラフィドに、蛮人島での出来事を詳しく聞かせていた。しかもシヒスムンダとかペルシーレスというのはもしかしたらアウリステラとペリアンドロのことではあるまいか、とかふたりならローマに行けば会えるはずだ、知り合ったときからふたりは正体を隠し兄妹を偽ってローマをめざしていた、ともルティリオは言った。そして、マグシミーノが王であるという島やアウリステラが王女であるという遠い島々の住民の暮しについて、セラフィドにしつこいほど尋ねていた。
セラフィドはこの問に対しティレ、もしくはトゥレ島のことを、現今では一般にイスランダと呼ばれているが、この島は北の海の最果ての島である、と繰り返した。もっとも、「さらに先には、繰り返しますが、フリスランダという別の島があります。ベネチアの人ニコラス・テモ(1)が一三八〇年に発見した島です。これはシチリアほどの大きさで、それ以前は人跡未踏でした。そこを治めるのは女王エウセビア様、すなわち、わたしが探しておりますシヒスムンダ様の母御に当るお方です。またこれとは別に、やはり大きくてほとんど年中雪におおわれた島があって、グリーンランドと呼ばれていますが、その島の岬には寺号をサント・トマスという修道院が建っていてそこには四つの民族の修道士が住んでおります。つまりイスパニア人、フランス人、トスカナ人、それにラテン人で、ここの修道士たちはそれぞれの言葉を島のおもだった人びとに教えています。これは島を出てどこへ行っても不自由なく意志の疎通ができるようにとの計らいです。また申し上げたとおり、島は万年雪におおわれておりますが、さる小高い山の頂上に清泉が湧いており、それがじつに不思議な泉であって一聞に値します。と言うのは、その泉から大量の温泉が噴出しているからで、その湯が溢れ出て海に達し、さらに広がって、氷海を溶かすのみか温暖に保ち、あたり一帯の海では多種多様な魚類がおもしろいほどとれます。その魚のおかげで修道院と島全体の暮しがたっています。魚を商って儲けているわけです。また泉は粘着性のある岩石も産出し、この石からは粘りのある瀝青が抽出されますからこれを用いて家をこしらえますと家はやがて大理石のように堅固になるのです。あの辺の島については」セラフィドはルティリオに言った。「お話ししたいことがまだ山ほどありますが、それにしても不思議なことばかりですから信じてはいただけないかもしれません。しかしどれもこれも嘘いつわりのない事実なのです」
これらはどれもがそのときペリアンドロの耳に入った話というわけではなく、後になってルティリオがこうこうであったと語ったものもあるが、話題の二島についてはペリアンドロの知るところを補いながら多くの人々が加わって辻褄を合わせた。やがて日が高くなった。ペリアンドロは、ヨーロッパ随一ともいわれる荘厳なサン・パウロ教会の近くにいた。そこでふと見ると、一団の人びとが続々とこちらへやって来る。騎行の者、徒歩の者、いろいろであり、近づくにつれて分ったのだが、アウリステラと、フェリス・フローラ、コンスタンサと兄アントニオであり、イポリタもいる。イポリタはペリアンドロの失踪を知るや、自分こそまっさきに見つけ出そうと思い、その手柄を人に取られまいと張りきっていた。そこでまず、アウリステラの跡をつけた。もっとも行く先はユダヤ人サブロンの女房が耳打ちしてくれたので、それを辿るだけでよかったのだ。世間とはつき合いのないこの女房であったが、イポリタだけは懇意にしていたからうなずける。
ペリアンドロは美男美女の一団に自分のほうから足を運び、まずアウリステラに声をかけて顔色をうかがったのであるが、そこにはきのうの厳しさはなく穏やかな表情があった。目がずっと優しい。そこで彼は一行に、昨夜爺のセラフィドとルティリオを見かけたことを伝えた。そして兄のマグシミーノ王子がテラキナにいて、土用熱にかかり、治療のためローマへ来ようとしている。それはお忍びの旅で、しかも自分たちを捜すために偽名を使っている、と言った。どうしよう。ペリアンドロはアウリステラをはじめ一行に相談をもちかけた。兄王子の性格から考えて、見つかったらただでは済まない。
あまりにも思いがけないことを知らされて、アウリステラは目の前が真暗になった。今の高潔と立派な志操を守り通せる望みが、たちまちのうちに消えただけでなく、愛するペリアンドロと一緒になれるもっと平坦な道があるなら、とようやく思うようになっていたのに、その望みさえ危うくなってしまったのだ。
一行はみなそれぞれ知恵を貸そうとして頭をしぼった。ところがこうしたらいい、とまっさきに親切を買って出たのは狂恋の女富豪、招かれざるイポリタである。ペリアンドロと妹アウリステラはともにナポリへ行ってはどうか、そのためには十万ドゥカードでも自分が用立てる、もっと必要とあらば全財産をはたいてもいいと彼女は見栄をきったのだが、これをたまたまそこに居合せたピッロ・エル・カラブレスが聞き逃がさなかった。この男にとっては、残酷な死の宣告を聞くも同然の言葉であった。ピッロのようなヒモを嫉妬に狂わせるものは、つれない素振りではなくて利害意識である。このまま放っておくと、イポリタを食いものにできる利権がパーになる。そう思うとお先真暗となり、ペリアンドロに対して、殺したいほどの憎しみが沸き上がるのを鎮めきれなかった。ペリアンドロの男ぶりとか品格は、繰り返して言うと、群を抜いているわけであるが、ピッロの目にはいっそうのことで、癪に障るほどいい男に見えた。恋敵の一挙手一投足がことさら華々しく堂々とうつるのは、悋気の目には如何ともしがたいのだ。
ペリアンドロはとりあえず、気持はうれしいが、と言ってイポリタの気前のいい申し出をことわった。しかし他の者には名案を披露する暇がなかった。というのは、そこへルティリオとセラフィドのふたりがあらわれたからである。彼らの四つの目がペリアンドロの姿に気づくや、あらそうように駆けよって足元に平伏(ひれふ)した。みなりこそ変れ、依然として威風あたりを払うペリアンドロであったのだ。ルティリオはその腰に、セラフィドは首に抱きついた。そしてルティリオはうれし泣きに声をあげて泣き、セラフィドも感激にむせんだ。
周囲は、こつぜんと繰り広げられた随喜の対面をまたたきも惜しんで見守っていた。ただピッロひとりが、しゃくにさわって、腹の虫がおさまらないようであった。かっかと燃える火よりも熱い鉗子で身をじりじりと焦がされる思いであった。ペリアンドロばかりがでっかい顔をして下にも置かない扱いを受けている。そう映るといよいよ頭に血がのぼった。と、やにわに前後の見境なくがむしゃらに、いやすべて承知であったかもしれないが、つかんだ剣を抜き放ちざま、ペリアンドロめがけて切りつけた。ちょうどセラフィドが腕をまわしている右肩のあたりである。気違いに刃物、力まかせの一撃で、剣はななめに左肩へぬけ、胸を貫通した。
この瞬間をまっさきにイポリタが見、まっさきに叫んだ。
「何てことをするの、ひどい、あんまりだわ。どこまでわたしを苦しめたら気がすむの。その人が何をしたというの。なぜ死ななきゃならないのよ」
セラフィドは腕を解き、ルティリオも手をゆるめた。セラフィドの腕は熱い血でべっとりと濡れている。ペリアンドロはアウリステラの腕にかかえられるように倒れた。喉には声なく、洩らす吐息なく、目には涙さえなく、胸にぐったりと顔をうずめ、腕をだらりと左右に垂れた。
もはやこれまで。結果を待つまでもなく一目でそう思わせるに足る一撃であった。それだけに周囲の者たちへの衝撃も強烈であり、その顔色を奪い、死相さえ刻んだ。その死神が、出血の激しさにつけこんでペリアンドロの命のありかに押し入らんとして足を早めていたからである。ペリアンドロの命が果てるときが、すなわち一行の生涯の最後にもなりかねないということだ。少なくともアウリステラの命はすでに歯牙の間にあり、彼女は今にもそれを吐き出さんばかりである。
セラフィドとアントニオはピッロに飛びかかり、相手はしゃにむに抵抗したがそれをとりおさえ、かけつけた人たちに渡して奉行所へ送り届けた。奉行は四日後のことだが、更生の見込みのない殺人者としてピッロを絞首刑に処した。こうしてピッロは、死ぬことによってイポリタに彼女自身の人生を返した。以後の彼女は自分の人生を生きたのである。
第十四章
この世にあって人間が味わっている喜びというのは、あまりにも無常である。そこには一片の確実性の保証も期待できないのだ。
アウリステラは決心を打ち明けたことをいったんは後悔したが、自分の考え方しだいで、あるいは自分が改めることによって、ペリアンドロの意志の向かうところまで戻れると思うと目の前が明るくなって彼を探しに出たのであった。彼の意志こそ自分の運命の車輪の釘であり、自分の思いが辿る軌道であるというふうに自覚するようになったからで、実際それは思いちがいではなかった。ペリアンドロのほうも、アウリステラの望むところから外れまいと決心を固めていたからである。
それにしても、気まぐれな運命のまやかしを見よ。そこにはもう今しがたのアウリステラはなく、まるで別人がいた。笑おうとして泣き、生きんとして死に、嬉しい、ペリアンドロに会えると思って開いたはずの目にいつのまにか、その兄マグシミーノの姿が浮かぶのであった。それもそのはず、本人がテラキナ方面からローマに向かって、車を連ね、行列を従えてあらわれたのである。
マグシミーノは手負いのペリアンドロをとり囲む人々に目をとめ、何の騒ぎかと車を寄せた。それをセラフィドが出迎えるかたちになった。
「マグシミーノ様、とんでもないことになりました。およろこびいただけるはずでしたのに。この美しい娘の腕の中の手負いは、弟君ペルシーレス様で、娘は類ないシヒスムンダ様です。お急ぎの甲斐あってご対面が叶えられたというのに、それがこのように無残な、むごたらしいことになっては、殿下がおふたりをお喜ばせあそばそうにも、叶わぬこととなりました。あとはただ、葬ってさしあげることしか残されておりません」
「ひとりでは往かさない」マグシミーノが言った。「わたしも一緒だ、このからだでは」
と言ってマグシミーノは車から顔を出し、吹き出す血で朱に染まってはいたが、弟だとわかる者の姿を認めた。シヒスムンダにも気づいた。彼女はあまりの驚きに顔色を失っていたが、だからといって目鼻立ちが醜くなっていたわけではない。ひとめでそれと分った。思うにこの不幸に見舞われる前のシヒスムンダは美しかった。だが不幸のどん底に落ちた今は絶美の観があった。痛ましい事件というものは、美しい者をますます美しくするのであろう。
マグシミーノは転落するように車から降りてシヒスムンダの腕に支えられた。そう、もはやアウリステラとは言うまい、フリスランダの王女であり、また、マグシミーノにとってはティレ国の王妃でもあるのだ。このようなめまぐるしい稀代の変化は、ふつう運命と呼ばれるものの力によってもたらされるのであるが、それとて天の確固たる摂理に他ならない。
マグシミーノは少しましな医者にかかろうとテラキナを出てローマへ向かったのであったが、テラキナの医者は、ローマまで命はもつまいと診た。治療の腕はさておき、脈がないのを脈がないと診立てることにかけては経験豊富でよく当てるようだ。たしかに、土用の熱に当てられた病というのはほとんど脈のない死病なのだ。
はたして、聖パブロ寺院の真前の平野(ひらの)の真中で、醜怪な死が凜々たるペルシーレスを襲って地に倒し、さらにマグシミーノをも葬り去らんとしているわけだが、最期を悟ったマグシミーノは、右手で弟の左手を掴んでシヒスムンダの手を取らせ、声は切れ切れに、息も絶えだえに、力尽きなんとして言った。
「弟よ、妹よ、愛すべき子らよ。おまえたちの名誉のために、言っておきたいことがある。弟よ、わたしの瞼を合わせてくれ。この目を閉じさせて永遠の眠りにつかせてくれ。それからその手でシヒスムンダの手を取って、はっきりと結婚を誓え、わたしの頼みだ。おまえたちの結婚には、そのおびただしい血とご一同が立会人だ。父母(ちちはは)の国はおまえが継げ。シヒスムンダの国もおまえのものだ。早く健やかなからだに戻って、永遠に栄えさせよ、汝の国を」
温かい、優しい、そして悲しい言葉であった。それがペルシーレスの意識をよみがえらせた。そして死が兄の息にとどめを刺したとき、遺言どおり兄の瞼を合せ、それから悲喜こもごもながら、弟は結婚を約束し、シヒスムンダの夫となることを誓った。
不慮の死の痛ましさがその場の一行に実感となって伝わると、あたりの空気はたちこめる吐息でどんよりとなり、地には涙の雨が降った。マグシミーノの亡骸は車で運ばれて、聖パブロ教会に納められた。いっぽう半死半生のペルシーレスは、亡骸を運んだ車で、治療のためローマへ連れ帰られた。そこにはすでにベラルミニアとデレアシルの姿が見えなかった。ふたりとも公爵とつれだってフランスへ帰ったのだ。
シヒスムンダが結婚した、と寝耳に水のごとく聞かされたアルナルド王子は、耳を疑いつつ、無念の色をかくせなかった。自分は類ない美を紳士的に贏ち得ようとして、精進と献身の年月を重ねてきたのに、いまやそれが水泡と化したのである。なんとも口惜しい。かえすがえすも悔やまれてならないのは、あの毒舌のクローディオの言にとりあわなかったことであり、今いやおうなく証拠を見せつけられることになった。痛手は深く、呆然となった王子はその失意のあまり、何も言わずにペルシーレスとシヒスムンダのもとを去ろうと思った。しかし、ふたりは王位に就く身分であるし、振り返ってみると事情も頷けなくはなかったので、これが自分にあてがわれた運命かも、と考えなおして顔を出すことにした。
アルナルドは丁重に迎えられた。不満もあろうが、とふたりは言い、そして彼をなだめる意味で、あなたのお妃には王女エウセビア、すなわちシヒスムンダの妹はどうかともちかけた。アルナルドは機嫌よくそれを受けた。父親の許しを得に帰る必要さえなかったならふたりに同行してすぐにも旅立ったことだろう。それにつけても、何はともあれ、高位の者の結婚だけでなく、結婚にはすべて、子の意志と親の意志が一致することが望ましい。
アルナルドは、未来の義兄の傷が治るまでそこを離れず付き添い、回復を見届けてから父王の許へ帰った。嫁取りの準備をするためでもあった。
フェリス・フローラは蛮人アントニオと結婚することに決めた。アントニオが手にかけた男の身内が住んでいる土地では暮す勇気がなかったからである。またクロリアーノとルペルタはローマ詣でをすませてフランスへ帰ったわけだが、国もとへの土産話には不自由しなかった。謎の女アウリステラの一件で十分であったのだ。ラ・マンチャの男バルトロメとカスティリャの女ルイサはナポリに現れ、そこでひどい死にかたをしたという。まともな生き方をしなかったからだ。
ペルシーレスは兄を聖パブロ教会に安置し、伴の家来をまとめて再びローマの諸寺へ参詣した。またコンスタンサのことでも親身になって世話を焼き、シヒスムンダは彼女にダイヤモンドの十字架を贈ったうえ、国許まで彼女を送り届けて、義弟にあたる伯爵と結婚させた。それから、教皇の御足に接吻して魂を鎮め、大願を成就し、ペルシーレスを伴侶にえて曾孫の代まで生きた。つまり長く幸せな晩年に曾孫の顔を見たのである。
――ペルシーレス 完
第三巻
第一章
(1)セルバンテスは牧人小説『ラ・ガラテア』(一五八五年)で、「いつまでも変転と欲望の果てしないのが人間の魂の本性である。魂が休止できるところは、魂そのものの中枢、すなわち神をおいて他にない」(第四巻)と書いている。
(2)二巻五章の註1を参照。
(3)セルバンテスは一五八一年七月から一五八二年二月までリスボンに滞在している。
(4)テージョ河口に近い聖ジュリアン城(スペイン王フェリーペ二世建設)のことであろう。
(5)ポルトガルは一五八〇ー一六四〇年までカスティリャ王国を中心とするスペインの支配下にあった。スペイン語のカスティリャには「城」の意味がある。城主は「カステリャーノ」。
(6)ブラガはポルトガル北部の町。中世以来ポルトガルの宗教的中心地の一つ。セルバンテスがポルトガルに滞在した時期ドミニコ会のバルトロメ・デ・ロス・マルティレスがブラガの大司教であった。
(7)当時はリスボン市外区、いまは市内。ヴァスコ・ダ・ガマの出航地として知られる。
(8)この性格は当時のスペイン芝居で、「ポルトガル人」という役柄にもなっている。
(9)支配者カスティリャ人に向けるポルトガル人の反感、憎悪はしばしば流血沙汰になってあらわれ、当時これをとりあげた小説や演劇はポルトガルにもスペインにも多い。
(10)作者の記憶ちがいか。二巻第十五章で食われた水夫はひとり。
(11)セルバンテス自身、一五八二年にポルトガルからカスティリャへの帰路、バダホス、グァダルーペ、トゥルヒーリョ、タラベラの各地を経て、タホ河岸をアランフェスまで辿ったと考えられている。
第二章
(1)リスボンからマドリード方面へ向かう街道沿いのポルトガルとスペインの国境の町。
(2)セルバンテスの時代、このような試演が勅令によって義務づけられていた。三幕物を出せる一座の規模は十五、六人であり、座長はたいていが芝居を書いた。座付作者とは厳密には芝居を書く座長をいう。なおこの世界では詩は劇、詩人は劇作家と同義。
(3)ギリシャの名山。神話では詩神が住み、詩人には聖地。
(4)パルナソス山の岩壁の割目から流出している泉。アポロンと詩神たちの聖なる泉。
(5)ヘリコーン山麓にある同名の泉のニンフ。詩神の泉。
(6)当時、女優の男装、早替りをとりいれる芝居がはやった。
(7)ラ・バレラの『スペイン古典劇目録』(一八六〇年)で「十七世紀六大劇作家」の一人とされるフランシスコ・デ・ロハス・ソリーリャ(一六〇七ー四八年)の第一戯曲集(一六四〇年)に『ペルシーレスとシヒスムンダ、会うて別れてまた会うて』がはいっている。
(8)「名誉と利益は一つ屋根の下にやどらず」という諺もある。
(9)ギリシャの伝説。妻プロクリスが夫ケパロスに愛人ができたと疑う。狩に出た夫がネペレ(雲)やアウラ(微風)を呼んでいる、と召使いから伝えられた妻は、これらを女の名と思いこんで、ひそかに夫のあとをつける。ところが夫は物陰にひそむ妻を獲物とまちがえ、槍を投じてあやめる。
(10)この名の詩人が実在したか否かは不明。
(11)カセレス県トゥルヒーリョ郡グァダルーペ村にあるジェロニモ派聖母院はイスパニアのマリア信仰の最重要聖所のひとつ。
(12)カセレス県のトゥルヒーリョ郡。ペルー征服のフランシスコ・ピサロ、ゴンサロ・ピサロの出身地。
(13)いずれも実在の騎士。兄弟であって、一六〇七年にトゥルヒーリョ郡議員をつとめたドン・フェルナンド・デ・オレリャーナの子。同家の一員ドン・ペドロ・デ・オレリャーナが、トゥルヒーリョにおいて一六一五年三月二十一日にフェリシアーナ・デ・セルバンテス・デ・ガエテという女性(フェリシアーナ・デ・ラ・ボス?)と結婚している。トゥルヒーリョのセルバンテス・デ・ガエテ家は作者ミゲル・デ・セルバンテスの親類筋。
第四章
(1)この名前フェリシアーナ・デ・ラ・ボスは、声に恵まれた女の謂。
(2)ジョヴァンニ・ボッカチオの作。
(3)作者の思い違いか。まだ言ってはいない。
(4)主として市外、街道の犯罪取締りにあたった警察隊。養蜂、畜産業者の自警団が十四世紀に教皇の認可を得て「聖」と称されるようになった。捕卒は弓で武装して弓方と呼ばれた。十五世紀にはカトリック両王の治下に封建貴族の治安破壊を取り締る国家機関となるが、本書の書かれた十七世紀には衰退、逆に悪評を高めた。
(5)一一七〇年、レオンの騎士ペドロ・フェルナンデスが創立。国王による認可の地は物語が進行中のカセレス。団員を「カセレスの道士」ともいう。創立の翌年サンティアーゴ・デ・コンポステーラの教会の認可を受けた。中世、サンティアーゴへの巡礼者の道中警護にたずさわったと信じられている。実際はイスラム教徒撃退がおもな役目。
(6)渡り鳥も巡礼もスペイン語ではペレグリーノ peregrino。また、「羊毛を刈る」という表現には「ひと儲けする」の謂がある。
第五章
(1) エルコ草のこと。シリアの砂漠に生える。花は白く小さい。白バラは聖母マリアの象徴。
(2) 智天使。火の車上の立姿、四つの天使として描かれる。
(3) 旧約聖書「エステル記」中の人物。ユダヤ人。ペルシャ人からユダヤ民族を救った。美女。
(4) Verbo。神なる子(三位一体の第二位格)。イエス・キリストをさす。従順な子羊もキリストの別名。
第六章
(1)トレド県の町タラベラ・デ・ラ・レイナのこと。
(2)タラベラの田舎に伝わる祭礼。「牧原の聖母」をたたえる祭。ケレス神信仰が起源。
(3)ロザリオの区切りをつける他より大きい珠。爪繰りつつ、そこに当ると主の祈り「我らの主(パドレヌエストロ)よ」をとなえるロザリオの大珠。
(4)「珠はねじれ輪を抜けない」ということわざがある。とがった足のついた輪を地面に立て、表面の凹んだ棒で木球をくぐらせる遊びであったらしい。
(5)以下に出てくるサグラリオ聖堂、ラ・グァルディアの幼児堂、聖ベロニカ、カベサの聖母堂はいずれも有名な至聖所。
(6)ハエン県の町。大部分がモレナ山脈の麓、ハンドゥラ川流域の盆地に位置する。山脈の最高峰はカベソ山とよばれる。カベソは「孤立峰」の謂。頂上にカベサの聖母の御堂がある。一九三六ー三九年の内戦中の包囲戦で知られる。
(7)新大陸。中南米のこと。
(8)スペイン国王(在位一五九八ー一六二一年)。スペインの首都は一六〇一年、マドリードからバリャドリードへ移され、一六〇六年、ふたたびマドリードへ。
(9)女と牝鶏は戸外一歩で堕落、とか、女と牝鶏は隣家まで、ということわざがある。
第七章
(1)イソップ寓話の『男と蛇』。
(2)あらゆる便宜をはかって相手を助けてやれ、の意。
(3)タホ河はスペインの北東部に源を発し、イベリア半島を東西に横断してリスボンで大西洋に注ぐ。『ドン・キホーテ』(一六〇五年)の序言に「君が人文学や宇宙学に蘊奥を極めた男だということを示すには、君の物語の中にタホ河の名を挙げるようにするんだ、(中略)『タホ河ハ、イスパニア諸邦ノサル国王ニヨリテ銘記サル。源ヲ某(ナニガシ)ノ地ニ発シ大洋(オセアーノ)ニ注グ、ソノ間名高キリスボア市ノ城壁ヲ洗ウ。而(シカ)シテ黄金ノ砂ヲ有スト称セラル然々云々』」とある。
第八章
(1)スペインの詩人(一五〇三ー三六年)。彼の『牧歌 V』は「タホのほとり、うまき寂莫あり、青柳の茂れるところ……」とタホ河の情景を全篇に織り込みながら恋人イサベル・フレイレの死を絶唱する。時にあたりて剣をとり、時にあたりて筆をとる、と詠じる華胄詩人でもあり、セルバンテスが理想とする詩人像を具現していた。
(2)『牧歌 T』第二二五行。サリシオがガラテアのつれなさを彼女に語りかけるかのように嘆く場面。ペリアンドロはその声を笛にたとえる。
(3)五七九年から七一一年までトレドは西ゴート王国の首都。トレドの枢機卿はスペイン・カトリック教会の最大の権力者。
(4)クエンカは新カスティリャ地方の県。この生地の最高級品は青色であった。農村婦人の晴れ着。
(5)サルテリオは東洋から伝来の十五、六絃琴。ソナーハスはタンバリンから太鼓を除いたような打楽器。アルボーゲは二本の竹管を束ねた笛。
(6)スペインでは中世から近世にかけて、各村に、すくなくとも二名の村長が置かれた。村長は王権の代表者であり、司法権を有す判官でもある。
(7)キリスト教徒で、先祖にイスラム教徒やユダヤ教徒のいない者。
(8)スペインのハエン地方、標高四〇〇ー八〇〇メートルのなだらかな丘陵が点々とつづき、三五キロメートルほどの帯状をなす。それらの丘の形が似ていて見分けにくいことから、紛らわしいことのたとえ。
(9)シェビル = ボニーリャ版註では、セルバンテスはこれをプルータルコスの『倫理論集』からとったとする。ただし、そこでは鶴ではなく鵞鳥。
(10)トレド県の町。
(11)もとサンティアーゴ騎士団の荘園であった。この騎士団は巡礼の守護隊と信じられていた。
(12)マドリード南方四九キロ、トレドの東方四二キロ。タホ河沿いの離宮の町。王宮、島の庭園、王子の庭園、農夫の家、水兵の家などから成る王の保養地。
(13)じっさいは、エナーレス川はハラマ川に注ぎ、ハラマ川がタホ河に注ぐ。
第九章
(1)オカーニャの町外れにあった修道院。
(2)フェリーペ二世の時代、この村にこの姓の郷士が実在した。
(3)アントニオのことなら、「おじ」ではなくて「兄」のはず。作者の勘違いであろう。
(4)スペイン語で犬などが歯をむいてうなることをレガニャール rega?ar という。レガニョン rega?on はうなるものの謂。
(5)ギリシャ神話の西風神。
(6)金貨の名称。はじめは一一四〇年シチリアで、十五ー十七世紀にはスペインで鋳造された。
(7)ボリビア南部の鉱山。巨万の富の代名詞。
(8)一二五〇年創立のスペインの最古の大学がある町。十六世紀には一万人近い学生がいた。マドリードの北西二三三キロ。
(9)子どもというものは、突然吹きおこった一陣の風となって女性の子宮にはいった祖先の霊魂の生れかわりだという古代人の考え方がある。スペインの雌馬は風の方向に尻をむけただけでも子をはらむ(プリニウス『博物誌』第四章三十五および第八書六十七)。
第十章
(1)当時史伝と物語あるいは長篇小説を区別するスペイン語はなくどちらもイストリアであった。虚構作者が史伝を強調するのは伝統的であったが、セルバンテスの場合は史伝めかせているにすぎない。なお『ドン・キホーテ続篇』に「史伝は余談になどふけらず事実を伝える」(永田訳)とある。会田訳はこれを「物語は余談などよりも真実に力を」とする。
(2)『ドン・キホーテ』(一六〇五年)は、「名は思い出したくないが、ラ・マンチャのさる村に」で始まる。
(3)三巻八章の註6を参照。
(4)ジブラルタル海峡のこと。
(5)二本マストの帆船。両側に十六ー二十本の櫂、大砲数門を備える。
(6)ベルベリアの戦士。赤鬢コロディーノの副官。
(7)事実はエジプトの王。
(8)ロスペニは「売女」、デニマニョクは「罰当り」の意。マナオラは不明。
(9)マラガ県の町。十七世紀にはぶどう栽培が盛んであった。
(10)ナポリのガレー船の船長。
(11)現在のシェルシェル。アルジェの西方八〇キロ。
(12)アルジェリアの港町。シェルシェルに近い。
(13)北部アフリカ。
(14)スペインのムルシア県の港町。地中海に面す。
(15)地中海に面するスペインの港町。マラガのはずれにあった魚の塩漬け加工地区。無頼の徒の天国であったという。
(16)モロッコの港町。海賊の本拠地であった。
(17)作者にも同じ体験がある。
第十一章
(1)スペインのイスラム教徒は、キリスト教徒による国土再征服後は、アフリカ方面へ撤退するか、洗礼を受けてキリスト教に改宗するかの選択をせまられ、多くは、洗礼をえらんだ。これによって、公式にはスペインにイスラム教徒(ムスリム)はいないことになるが、たいてい改宗は形式だけで、じっさいにはイスラム信仰を捨てず、生活様式も変えなかった。彼らはモリスコと呼ばれた。しかし、一五六六年以降は圧迫がきつくなり、最終的には一六〇九年に追放令が布告され、五年間ほどで約五十万人が北アフリカへ強制移住させられた。バレンシアは最大のモリスコ居住区で、一六〇九年に十三万五千人がキリスト教諸国の用意した船舶で北アフリカへ移住させられた。この強制移住に従わずに逃亡した者や反乱を起こす者もあった。
(2)前六世紀から前三世紀ころまで黒海北岸の草原地帯を支配したイラン系民族。
(3)アルハミアはアラビア語で「異国の」の意味。アラビア文字で書かれたカスティリャ語をいう。一般にモリスコのつかうカスティリャ語をさす。
(4)ハプスブルグ王朝のスペインにおける一統をアウストゥリア朝といい、カルロス一世(在位一五一七ー五六年)からカルロス二世(一六六五ー一七〇〇年)まで五代続く。ここでは、カルロス一世ともフェリーペ二世とも考えられる。
(5)モリスコは進んだ農業技術をもち、勤勉で、生産力はキリスト教徒をはるかに上回った。彼らが去った土地にはキリスト教徒の植民が進められたが、沃野に戻った地方は少なく、一般に近代スペインの衰退の主因の一つとみなされている。
(6)レリリーは、アラビア語で、「アラーの他に神なし」の意。
(7)「創世記」中のアブラハムの妻であるエジプト女ハガルの子イスマエルの子孫。イスラム教徒のこと。
(8)「出エジプト記」第三十八章二十六節に、六十万三千五百五十人とある。
(9)モリスコ(改宗教徒)と前からのキリスト教徒には権利の不平等があった。モリスコは官職、聖職につけず、軍隊に入れず、新大陸渡航資格も、大学入学資格も有しない。キリスト教徒でも「血の純正」を証明しなければこれらの特権は得られなかった。
第十二章
(1)バレンシアの言葉はカタルーニャ語の一方言。響きがポルトガル語に似る。
(2)バルセローナから六〇キロ。切り立った奇岩に抱かれて、ベネディクト派修道院がある。サンティアーゴ、グァダルーペとならぶスペインの代表的聖地。
(3)スペインのアラゴン地方。もとのアラゴン王国。
(4)スペインの宗教騎士団。十二世紀中ごろにサラマンカの騎士グループが創設した。今日まで続いている。
(5)ムルシア県にあり、地中海に臨む港町。カルタゴのハンニバルが建設したとされ、カルタゴにちなんでカルタヘナという。
(6)二本マストの帆船。
(7)今日では西仏国境のフランス側の町であるが、一六四一年までスペイン領であった。
第十五章
(1)ギリシャ神話。ディアネイラは夫ヘラクレスの愛をつなぎとめようとして夫の下着に媚薬としてネッソスの血を塗るが、それは毒血で、ヘラクレスを腐蝕して殺す。ディアネイラはみずから縊れた。
(2)ギリシャ神話。エウロパに恋したゼウスは白い牡牛の姿になって彼女に近づき、たわむれて背に乗った彼女をクレタ島につれ去り、ゴルテュンの泉のほとりで交わる。
第十六章
(1)驚異をひきおこすことを文芸のおもな役目の一つとする考えがセルバンテスの、あるいは彼の時代の文芸理論の主流であった。
(2)一巻五章を参照。
第十七章
(1)ユーディットは旧約聖書外典の一書「ユーディット」中の主要人物。ユダヤ人の寡婦。アッシリアの王ネブカトネザル軍の猛将ホロフェルネスの首をとってベツリアの町を包囲から救う。
(2)ギリシャ神話。メドゥーサを見た者は石になる。女神アテナはメドゥーサの首を盾の中央につけた。
第十八章
(1)レバントの海戦の模様。若殿とはキリスト教徒軍連合国艦隊の総大将ドン・ファン・デ・アウストゥリア、海賊とはトルコ軍の総大将アリ・パシャ。
(2)ポルトガル王ドン・セバスティアン。一五七八年、「アルカサルキビルの戦い」(モロッコ)で戦死。
(3)スペイン国王カルロス一世のこと。神聖ローマ帝国皇帝としては、五世。
第十九章
(1)イタリア語でいうアッカデミア・デリントロナッチ Accademia degli Intronati (一五二五ー一七五一年)のことらしい。現実のそれはミラノではなくシエナにある。文芸アカデミア。おもに演劇の上演にあてられた。初期の定期的開催のアカデミアの中で最も有名なもの。スペイン語のエントロナードスは「奉戴者」の意。イタリア語のイントロナッチは「つんぼ」の意。
(2)十三世紀には、ピサ、フィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァなどがルッカの支配権をめぐって争った。ルッカは十四世紀に自治都市となり、それが十九世紀まで続いた。セルバンテスは短篇小説「びいどろ学士」(一六一三年)の中で、「小さい町ながらも、じつに見事に建設された、しかもイタリアのどの土地よりもいちばんイスパニア人に好意を示し、歓待するルッカ……」と書いている。
第二十章
(1)イサベル↓イサベラ、カストゥルーチョ↓カストゥルーチャと、なぜか同一人物名の表記があいまい。以下原文に従う。
第二十一章
(1)スペインのトレド県の村。当時ここに有名な瘋癲病院があった。
(2)サン・ファンはバプテスマのヨハネのこと。祝日は七月二十四日。早朝に実桜の実を摘む習慣があった。この習慣は今日でもアンダルシア地方に残っているとか。当時のスペイン語では「実桜の実を摘む」は「ぺてんにかける」ともとれた。
(3)ギリシャ神話。ガニュメデスもアドニスも美少年。
第四巻
第三章
(1)マダマのヴィラを囲む草原。ヴィラは枢機卿ジュリオ・デ・メジチの命でラファエロが設計。
(2)フラミニア街道にある。ポポロ広場に通じる。今日のフラミニオ門。
(3)マルコ・アウレリオ門のこと。
(4)聖母マリア教会がある。
(5)ウェヌスはアイネイスの母。アイネイスはローマ人の共通の先祖。ウェルギリウスの『アイネイス』はラテン文学最大の叙事詩。
第五章
(1)ローマの最も重要な牢獄であった。一六九〇年に破壊された。
(2)「尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した」「黙示録」十二章四節。
(3)「人の子が雲に乗り来たるを見た」「ルカ伝」二十一章二十七節。
(4)「地獄の門これに勝たざるべし」「マタイ伝」十六章十八節。
第六章
(1)ローマ巡礼のいわば「札所」。サン・ピエトロ、サン・パオロ、サン・ジョヴァンニ・デ・レトラン、サン・セバスティアン、サンタ・マリア・ラ・マヨール、サンタ・ロレンソ、サンタ・クルスの七寺。
(2)タッソ(一五四四ー九五年)。『エルサレム解放』は一五八一年の作品。
(3)フランシスコ・ロペス・デ・サラテ(一五八五?ー一六五八年)。五行先の「ドゥアルテ」もサラテのことであろう。
(4)『コンスタンティーノ皇帝による聖十字架発見の偉業を称える詩』のこと。一六四八年の出版であるが、ずっと以前に手書きの写しが出回った。
第七章
(1)いずれも紀元前五ー前四世紀のギリシャの画家。
(2)ギリシャ神話のヘスペリデス姉妹の住むところ。黄金のりんごが植わる園。姉妹はこの番をする。
(3)ファレリーナはイタリアの詩人。マッテオ・マリア・ボイアルド(一四四一ー九四年)作『恋するオルランド』の登場人物。
(4)バビュロンの女王セミラミスが造営した空中園。巨大なテラスを積み重ね、上に土を置き、特殊装置でかんがいして、庭園をきずいたもの。甘美な園の代名詞のようにいわれる。
(5)エジプト女とはポテパルの妻をさす。「創世記」第三十九章に「彼女はヨセフの着物をとらえ、わたしと寝よう、と言った。ヨセフは着物を彼女の手に残して外にのがれた」とある。
(6)スイス人護衛兵。
第九章
(1)「イザヤ書」十四章十二節に「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった……」、十五節に「しかしあなたは陰府に落され……」とある。
第十章
(1)サブロンの妻の名が出るのはこの個所が最後である。ただし、Julia(フリア)は、Judia(ユダヤ女)の誤植とも考えられる。
第十一章
(1)記憶、悟性、意志。
第十二章
(1)プトレマイオス図法によれば、北極周辺の第十九緯度帯では六カ月が昼、六カ月が夜。
(2)『農事詩T』第二十九、三十詩行。
(3)ジブラルタル海峡。
(4)シチリア島。
(5)ナポリ。
第十三章
(1)ニッコロ・ゼノのことらしい。一三九〇ー九六年にかけて北海を航海したという。
解説 『ペルシーレス』をめぐって
荻内勝之
『ペルシーレス』は作者の死後、妻カタリーナの申請に基づいて一六一七年にマドリードで出版された。これには作者の「最高傑作」という文字通りの折紙が付き、その称讃にふさわしく年内に『ドン・キホーテ』を上回る十版を重ねまもなく仏、英、伊訳が出て、本国では芝居にもなった。また十八世紀には模倣作品が、さらに十九世紀ロマン主義の時期には英、仏語の新訳も出て、著者の代表作と見なす者もあった。しかし以後は一部の人々による再評価の呼びかけを除くと、一般にほとんど顧みられなくなったと言えるだろう。もちろんこうなったのにはそれなりの理由があるわけだが、ここではその異色な空想性が祟ってか、『ドン・キホーテ』を主役にすえた数多のセルバンテス論に水を注す余計者として厄介払いを受けてきた観さえあることをあげておこう。つまり成熟した人類の最高の文学所産ともいうべき近代小説を創始し、それによって超自然的な世界観やその文学的範例の枷から人間を解放したはずのセルバンテスに、子供だましの妖精物語まがいの所産は似つかわしくないというわけだ。一九七八年、マドリードで「国際セルバンテス学会」が開かれ、内外の二百名の学者が八つの分科会で三百余の研究を披露したが、右の現状を反映してか、『ペルシーレス』を主題にしたものは皆無であった。
原作の出版状況も似たようなものである。注釈本は久しく一九一四年版の一種があったのみで、それも一般読者にとってはオリジナルに対する余りの忠実さが恨みになるような、つまりたとえば句読点以外に校訂らしいものがなくて、しかも現在容易に入手できないものである。訳者はスペインのさる大学からこれを借り出そうとして二週間、手を替え品を替えて日参した経験がある。普及本の類となるとスペイン古典文学の網羅を謳うエスパサ・カルペ社の「古典叢書」にさえ未収であり、極小活字の無注釈本一種に終始する。と連ねると幻の名作めいてくるが、実は一九六九年、こういう趨勢の中で「カスタリア古典叢書」という斬新な企画の文庫に、小振りながら簡明な注釈付の本格的な校訂本が入った。本訳書は、ファン・バウティスタ・アバージェ・アルセによるこの校訂本を底本とし、アメリカのシェヴィルとスペインのボニリャの共同執筆による前述の一四年版をおもに参考とした。
蛇足ながら、セルバンテスの著作には推敲を重ねたものが多いが、『ペルシーレス』の場合は最後の手直しをする暇がなかったとみえて段落構成や文章に未整理部分が少くなく、それは巻が進むにつれて増す。各章ごとの題辞の有無もその一例であるが、各章数の表記においても、たとえば「第一巻第一章」と巻数が表示されているところと、ただ「第一章」と巻数の省略されているところが見られる。本書では後者の表記に統一した。各章の題辞の有無や不揃については、後半には走り書き程度のもの、無題のものが多数見られ、巻によって執筆時期の異ることがこの一因と考えられる。アバジェ・アルセに従えば、前半は一五九九ー一六〇五年、後半は一六〇二ー一六年に書かれた。
『ペルシーレス』は、来歴の謎を秘める世にも美しい兄妹が繰り広げる、壮大な巡礼絵巻である。ふたりは北極に近い島国を出て荒海に翻弄され、猛火をくぐり地底にとらわれ、海賊に襲われ魔女の呪いにかかり、別離と再会をくり返しながらポルトガル、スペイン、フランスを経て聖都ローマで大願を成就する。物語は恋、冒険、信仰という三本の糸が織りなす波瀾万丈のいわゆるビザンチン小説風の奇譚をなしていて、例のごとく本筋にさまざまな人々のエピソードがからんで主人公の冒険のサスペンスを盛り上げている。たとえば、スカンジナビアや北海ではトスカナからの逃亡者やポルトガルの失恋の騎士、あるいはゾロアスター教の魔女とかアイルランドの占星術師、イングランドからの流刑者、ダネアの老王、リトワニアの王姪などがエピソードの主人公となって幻想的ないわば「極北版デカメロン」を形づくるのだ。いっぽう陸路南欧では、作者周知の地だけに現実的な雰囲気が濃厚になるわけだが、そこにはたとえば旅芸人、学生、遊女などいわゆるピカロ小説風の世界が作者の体験をもじって登場するかと思えば、美女の仇討とか一枚の絵をめぐる死闘、さらには改宗教徒の反乱や軍隊と農民の武力衝突、あるいは骨肉の確執、謀殺といった、流行の写実的な短篇小説の世界や牧人小説をにぎわせていた血なまぐさい事件が主人公を巻き込む。
またこの陸路の初めには、一見些細だが物語全体に大きく関る趣向がある。それは、主人公の一行がリスボンに着くまでの自分たちの数々の冒険を一枚の絵解きに描いて各地で披露するとか、旅芝居の座付作者が一行の登場する海洋大芝居の構想を語るという趣向であるが、それによって海路の過去が陸路に甦ることになり、一時的に仕掛けられたこのからくりによって物語全体が芝居のようにも見えてくるのだ。物語は読み進んできた読者には上演を待つまでもなく芝居として再現されるわけで、これによって夢想的な海路の世界がそれとは様変りした陸路の世界に、まるで血管をつなぎ合せたように違和感なく血液を送り込むと言える。これはセルバンテスが『ドン・キホーテ』では見せなかったみごとな技巧であり、『ペルシーレス』を小説のプロの小説と言わせるに足る手法であろう。
プロの芸という意味でやはり注目させられるのは、数々の挿話の処理の仕方だ。『ドン・キホーテ』の前篇は長すぎる挿話や相互の関連、一貫性を欠いた挿話が多く、それが挿話過多症として指摘されるが、セルバンテスは『ペルシーレス』ではそれを繰り返していない。では、どう処理したか。一個の挿話を本筋を中断するかたちで断片的に配置した。これで挿話がもたれないばかりか、物語の本筋が一本調子をまぬがれてたっぷりとサスペンスをはらむのだ。挿話という大道具小道具が心憎いほどの芸によって配置され、『ペルシーレス』はなによりも冒険の興味と緊張で読ませる本になっている。後述するが、セルバンテス自身この作品を執筆中に、これを「娯楽本」とよび、本来主題にこだわらない騎士道小説の当世版をねらっていると予告している。『ドン・キホーテ』をものした作家としてはこれは一見自己韜晦に思えるかもしれないが、出来たものを見るかぎり、作者の本音と思ってよいだろう。もっとも、「主題にこだわらない」と言うが実際にはタテ糸となる一個の主題が本筋を貫いているばかりか、挿話と挿話の間にも統一された主題、世界が見出され、しかもそれが本筋とも一貫しているのだ。これもこの作品の挿話処理法のきわだった特徴である。
『ペルシーレス』には本筋と挿話の全般にわたって一貫した世界がある。だがそれはけっして彩色きわだった世界ではなく、隠れたところにある。作者は登場人物に異様な体験をとっかえひっかえ語らせるという趣向のヨコ糸を表に立てているのでタテ糸の世界は見えにくいが、それはひとことで言うと「探索」だ。『ペルシーレス』は主人公が未完成の社会を後にして恐怖に満ちた異境を回りながら「約束の地」を探索する小説であり、挿話を語る副人物のそれぞれにも求める一点があって、それぞれが「探索」の旅を展開し、主人公の「探索」の世界のミニチュアのような構造をつくっていると言えるだろう。こうしてセルバンテスは『ペルシーレス』が挿話の過多や不統一でバランスを失うことを避けえたばかりか、作品の好味を一段と増すことに成功したとも言えるが、この「探索」を効果的に演出するために彼が一種の祭式的な、畳みかけるようなパターンを用いていることにも注目したい。
たとえば作品の題名にある「苦難(トラバホ)」は「試練」ともいえる言葉であって、主人公が「最果て」の国あるいは「地底」の牢から「世界の頭」「地上の天国」ローマという「聖域」に至るまでに経験する苦難を魂の「試練」として暗示していると思われるが、実はこの試練のひとつひとつが、たとえばどん底の「闇から光」、「囚われから解放」あるいは「死から生」に至る「再生」を祭式的に反復しているのだ。同様に副人物も、たとえば「浮かぶ墳墓」さながらの転覆船から生還するような「再生」のパターンを繰り返し、しかもそれはひとつの「再生」を祝賀するうたげの中に次の「死」が暗い底流から浮かび上がるようなポリフォニックな旋律に貫かれているから、ちょっと比類のないうまさというしかない。
そしてもうひとつ、「探索」の主題と「再生」の旋律にそって、やはり表立ってはいないが作品のタテに織り込まれた太い糸のあることを指摘しておこう。前出のアバージェ・アルセはそれを「プラトンの『ティマイオス』から十八世紀に至るまでの西洋人に共通するひとつの根本的な前提」と言い、アレクサンダー・ポウプの『人間論』の言葉を借りて「存在の巨大な鎖」とよんでいる。この鎖の最底部は無生物、最高部は神の足元であり、被造物の全てが、質的に、下なるものより大きく上なるものより小さい環となって連なっているという伝統的な前提があったわけだ。すなわち無生物、植物、感覚のあるもの、貝からライオンそして人間と続く動物、諸階級の天使、神へと連なる鎖であり、この鎖はまた神の足元へ上昇しようとする「完成」への階段でもあるという。
アバージェ・アルセは『ペルシーレス』をこの「存在の鎖、階段」に「引き付けられた精神」が構想した小説だと考え、それを証明するために次の三点をあげている。第一点は、この小説に登場する様々な人間の間にある序列で、それは最劣等人間としての蛮族、それよりは高等だが欠点だらけのクローディオとロサムンダ、彼らよりはるかに高等なアルナルド、彼よりも肉体的精神的に上位のペルシーレスとシヒスムンダ、この両人よりはるかに上にある教皇と続く。第二点は、この鎖を神に近づこうとする上昇、あるいは「完成」をめざす階段として見る場合だが、それはもと蛮族のリクラ、イタリア人ルティリオ、ペルシーレスとシヒスムンダと続く。第三点は、この小説の地理的配置までが存在の鎖に類似した序列に従っているということで、それは小説が始まる蛮人島、それよりは輪郭が明確なデンマークとかイルランダ、ついでポルトガル、イスパニア、フランス、イタリアという周知の土地、そして「地上の天国」ローマへと連なっている。
このように「存在の鎖」は『ペルシーレス』の構想を支える精神的前提となっているが、アバージェ・アルセはこの構想に大きく関与した要因にはもっと表立った明白なものがあると言って、この小説の形式となっている「ビサンチン風」と「巡礼」をあげている。そこで、ここからはアバージェ・アルセを離れるが、とりあえず『ペルシーレス』とビサンチン小説の関係にふれておこう。
『ペルシーレス』の人物や行動はすべて祖型的であり、『ドン・キホーテ』に見られるような多義的、個性的な人間はここにはいないと言えるだろう。セルバンテスは『ペルシーレス』を着想するに際して人間行為の皮相から距離をおいたのだ。ここでは人間の精神を窮極的に支配するものは生=死=再生の旋律で、セルバンテスはこれを強調するために、『ドン・キホーテ』で描いたような人間行為の多義性や無限の色彩を切り捨て、価値や情緒の体系を単純化する古来の物語(ロマンス)形式を採用したのではあるまいか。そうだとすればこれら二作品の相違は、二つの異る文学形式の相違といえ、それぞれが一個の人間に聞こえる人生観の異なる旋律の再生と言える。では彼はいかにして物語(ロマンス)の方法を取り込んだのか。セルバンテスはこの作品をあくまで「娯楽を第一の目的とする」冒険小説として書いたと言い、書き出し部分の工夫もその意図にそって着想したようだ。彼は『ドン・キホーテ』を、「あるところに、何の某が住んでいた」という伝統的なスタイルで書き起こしている。つまり「ラ・マンチャのさる村に……一人の郷士が……」という調子である。ところが『ペルシーレス』では方法を変えた。いきなり得体の知れない蛮族の男がなにやら大声で叫び、がんじ搦めに縛られた世にも美しい青年が地底から吊り上げられるのだ。そして名も、囚われた訳も不明のその青年が縛られたまま嵐の海を筏で漂流する……となって、読者は発端から異様な、戦慄的な事件の真只中に引き込まれるわけで、これは小説に限っていえば当時としては前衛的な、大胆な技法であった。そしておそらく今日でもその効果を失っていないだろう。たとえば、次のような発端に導かれる現代の推理小説もある。
「……臚も櫂もつけぬ一葉の小舟が……浮きつ沈みつ、沈みつ浮きつ……しかも、その小舟のうえには……大きなガラス張りの箱が……その箱のなかには……人間ひとり、身動きもしないで仰臥しているではないか。生きているのか死んでいるのか、男か女か……淡路島の島影づたいに……小舟はしだいに海峡のほうへ流れていきます……ガラス箱からはい出して、よろよろと……立ちあがったのは、年のころ十九か二十のそれこそたとえようもない程の美少年……」(横溝正史『仮面劇場』)。
まるで瀬戸内海版『ペルシーレス』である。また、次のような書き出しでもこれと同質の効果を期待できるだろう。
「山賊の視線は、陸揚げされた船と人間の屍の山から少しく離れたところで意外な光景にぶつかった……それはそれは美しい娘がひとり岩に座していたのだ……彼女の眼差しはかたわらでぐったりとなったひとりの若者に注がれていた。深傷の若者は死んだように目を閉じているが……生死の境にありながら、人間の肉体の美がここに極まったとしか思えないほどの若者であった」(英訳からの拙訳)。
これは三世紀のシリアの作家ヘリオドロスが書いた長篇の散文小説『エチオピア物語』の発端であり、アリストテレスが言うインメディアレスすなわち物語を事件の真只中から起こす方法の典型でもある。この作品は伝えられるギリシャ古典小説のなかで最もポピュラーであったと聞く。十六、七世紀のヨーロッパでも翻訳が出回って、セルバンテスも読んだ。物語はテッサリア出身の貴公子テアゲネスとデルポイの巫子カリクレイアが恋を忍び、身をやつしてエジプトに逃れるが、乗った船が海賊船で、ナイル河口に着くと賊は仲間割れして殺し合い、払暁に散乱する屍をエジプトの山賊が大砂丘の上から見下ろすという場面から始まり、その後両人は離ればなれになるが、やがてカリクレイアがエチオピアの王女であることが判明し、両人は安住の地を得てめでたく結ばれる。物語の構造は物語の中の物語の中の物語の中の……というビザンチン小説の典型的なもので、時間の処理といい幻想性といい、今日のSFも顔負けの「技巧の極致」を示している。
セルバンテスは「カリクレイアとテアゲネス」の題でも知られるこの小説を絶讃している。そして、『ペルシーレス』がこれに「張り合う」物語になることを宣言した。完成の三年前のことである。彼はまた『ドン・キホーテ』の中でも、このギリシャ小説を模範にしたと思われる小説作法を書いている。これは一種の「騎士道小説論」のかたちをとった文章で、まずこの小説形式のよさを列挙して、題材や登場人物が多様なこと、時間や空間の処理が柔軟なこと、あるいは驚異的な事柄を書ける受容性などに認め、つぎにそのような長所を生かした真の騎士道小説をつくるコツとして、完全に虚構でありまた驚異をはらんでいながら本当らしさを失ってはならないことをあげ、そんな条件を満たした作品として『エチオピア物語』をほのめかしている。そして自らこの模範のような作品を執筆中、と予告するのだが、それが、当世騎士道小説ともいうべき巡礼小説『ペルシーレス』である。(余談ながら、十六、七世紀のスペイン文学の主人公は、はじめに騎士、つぎに牧人、ピカロ、巡礼、という順序で変化するが、その軌跡はこの両端、すなわち騎士と巡礼がほとんど重なるほどの円を描く。というのは騎士はキリスト教的大義に導かれ、巡礼はカトリック改革、反宗教改革運動の象徴的人物として登場するからである。トリエント公会議は巡礼を奨励するが、これを文教政策に反映させたスペインでは十七世紀に巡礼小説が簇生する。そして演劇界の帝王ロペさえ演劇流行の端境期には巡礼小説にも手を染め、浩瀚な『祖国の巡礼』を書くことになるのだが、これがまたヘリオドロスに角逐する意気込みを示し、このロペが後年セルバンテスへの皮肉もこめて、「ヘリオドロスを模倣して、似たものになれた作家はない」と言う。セルバンテスとロペの、世に言う「文学合戦」の一端である。)
ところで、セルバンテスが言う「驚異」と「本当らしさ」、つまり「現実性」を兼備した題材というものを、ヘリオドロスは当時のギリシャ人には謎を秘めていた、ナイル河流域という土地に求め、いっぽうセルバンテスは「北極に近い」島々やスカンジナビアという、当時の小説の舞台としては新奇な土地をえらんだ。そこでこれらの地域に関するセルバンテスの知識だが、これは、ラテン語名でオラウス・マグヌスと名乗るスエーデン人が一五五五年にラテン語で著した『北辺の民』などに由来すると聞く。さらに彼が北辺をえらんだ動機を考えると、彼より半世紀も前に、現実のなかにある驚異的なものなら「ノルウェー、スエビア、イスランダ、東インド、もしくはヘラクレスの柱の彼方において最近発見された土地」に求めよ、と言ったタッソの言葉が極めて暗示的だ。また、南の回教勢力を一応食い止めた十七世紀のスペイン人の関心は、「北狄」とでもいおうか、北からカトリック世界を脅かす新敵、邪宗世界に向いており、セルバンテスはこの事実を見逃さなかったともいえる。
しかし、彼にとって周知の地域にも「驚異」がないわけではない。人々の日常を脅かしたり、好奇心をそそったりしている驚異的な事柄には、その時代のその世界の多くの人々の間でそれなりに合理的な因果関係をもって信じられている「現実」もあるのだ。これを暗示してか、アレッホ・カルペンティエールは次のように指摘する。「驚異的なものを感得するには、第一に信仰をもたねばならない。聖者を信じない者は聖者の奇跡によっては病気をなおせないし、ドン・キホーテ的でないものは『アマディス』や『ティラン』の(ような騎士道小説の)世界へ肉体、精神、富もろとも飛び込んではいけない。不思議ながら狼に化身した人間に関する『ペルシーレス』のなかで、ルティリオがのべた言葉は真実性をおびているが、それはセルバンテスの時代に人々が狼狂という病気にさいなまれている、と考えられていたからだ。同様に、魔女のマントにのってトスカナからノルウェーまで飛んだ人物の話もまことしやかに伝えられている」(『この世の王国』神代修訳)。
カルペンティエールはラテンアメリカの現代小説の特徴の一つを「現実の驚異的なもの」の存在にあると考え、自身の小説でもそれを生かそうとするキューバ作家であるが、同世代のグァテマラの作家アストゥリアスなら、カルペンティエールが引用した狼狂や空飛ぶマントの話を、おそらくかの地のインディオやメスティーソの間の、彼の言う、「ある種の魔術的想像力から生れてくる現実」とか、「魔女的リアリズム」の範疇に入れて、次のような例を加えるだろう。「幻覚、あるいは人がまわりの環境から受け取る印象は、徐々に現実に変化していくが、ある一定の宗教的、祭儀的な素地のある地方では、特にその傾向が強く見られる。……たとえば、泉に水を汲みに行った女が淵に落ちたり、男が落馬するとする……その場合、インディオやメスティーソは、女が淵に落ちたとは考えず、淵が女を蛇か泉に変える必要があった、だから女を引き寄せたのだ、と考える。落馬した男も、いつもより酒を飲みすぎたからそうなったのではなく、馬から落ちたときに、石で頭を割ったのなら、石が彼を呼び寄せたのだし、溺れ死んだのなら、川が彼を呼び寄せたのだ」(ギュンター・ロレンツ『ラテンアメリカとの対話』木村栄一訳)。
『ペルシーレス』や騎士道小説が、それを生んだスペイン語文学の宗主国で、人に遇わず時に遇わず、ついに空飛ぶマントでか、遙か現代のラテンアメリカに来て、『エチオピア物語』がスペインにおいてそうであったように、新しい小説の先駆として迎えられ、そして甦っている理由を端的に物語る一文である。
セルバンテスはまた、実際に見聞きして読者の記憶にまだ新しい、稀代の出来事を再現させたり、あるいは模倣することからも驚くべき現実を創り出している。たとえば『ペルシーレス』に登場する主人公の巡礼からして、万人の知る史実の模倣であるとも考えられるのだ。セルバンテスはその史実の現実性を借用することによって、この作品を、「完全に虚構であり、驚異をはらんでいながら、本当らしさを失わない」物語にしようとしたようだ。たとえば第三巻の幕開けの舞台は当時殷盛を極めた港都リスボンであるが、この文明の中に「人間の心臓を灰にして飲む」蛮族の、原始人さながら、四肢はあらわ、腰に狼の皮をまとい、弓矢を帯す男たちと、同じく毛皮を巻きつけた蛮族の母娘、さらに、極北の半蛮の島国から来た、世にも美しい王子と王女が登場する。いずれも聖都ローマをめざす巡礼者である。彼らはそのみなりで万都の好奇心をさらい、沿道の大歓迎を受け、貴人の邸宅で丁重にもてなされる。そして先々で同様の歓待をうけながらローマへ向かうわけであるが、この一行のたどるリスボンからの道というのは、一五八一年にセルバンテスがこの帝都に職を求め、空しく引き返した道でもあった。そしてまた、唐突な言及に見えようが、それに遅れること三年、日本から来た、いわゆる「天正遣欧少年使節」が、ローマ法王への使書をたずさえて歩いた道でもあった。その一行は、随行のバテレンの報告や現地の記録によると、「日本の公子」として迎えられ、やがてスペインに入るが、沿道は熱狂の渦となり、トレドを経てマドリードへ向かう道中は国を挙げての出迎えであったという。さらに、マドリードでは「世に類例をみないほど華麗な式典」が挙行され、「地の果てジパング国の貴公子」を見ようとする人々で王宮前はうずめつくされた。また大学町アルカラでは、「学生たちによる劇が上演された。それは一行が日本を出発してローマ教皇に恭順を誓いに行くという筋書の、二時間ものであった」ともいう。このころセルバンテスはマドリード、もしくはトレドに近いエスキビアスに住んでいた。この町には当時も今もトレドからマドリードに至る幹線道路が通っており、使節一行もここを行ったわけであるから、折しもこの町とマドリードを往復して暮していたはずのセルバンテスが何らかのかたちで「地の果ての王子」の来訪を知ったことは想像に難くない。もしかしたら沿道に駆けつけた見物人の一人であったかもしれない。それはともかく、「地上最大の旅」の一行のことは、相次いで刊行された実録物によっても当時巷間の話題を独占するほどの観があったそうだ。ローマでも、人々は、「使節に手で触れようと」押しよせ、何よりも「衣服の珍奇に驚いた。それだけでも、地の果て、地球の裏側からの来訪者だと信じるに足り、好んで描写し、各地に報道した」という。『ペルシーレス』の一節を読む思いがする記録であるが、動乱に明け暮れる九州ナガサキを出て、マラッカ、ゴア、喜望峰を回る二年半の命がけの航海と、疫病の陸路を経て、三年後ローマの七寺に詣でた地の果ての王子の巡礼は、彼らを迎えた人々にとっては「手で触れる」ことさえできる現実であり驚異であった。ところが、そういう出来事がまだ人々の記憶に生々しかった時期に、同じ最果ての戦乱の島国から、二年余の苦難の航海と陸路の試練を経て「ローマの聖堂」をめぐる、王子と王女の物語が出たのである。当時の読者にとって、この物語は、これまで評されてきたように「あまりに空想的な」、単なる妖精物語にすぎないものであっただろうか。
『ペルシーレス』は、一つの世界が演出した「巡礼の時代」の所産であり、その極めて当世的なテーマゆえに、『ドン・キホーテ』を上回る人気を博したが、そのテーマと成功をもたらした世界の後退とともに忘れられたと言えるだろう。しかし、物語(ロマンス)という文学形式をふくらませて人間精神の永遠の探索とか、生=死=生の旋律、あるいは驚異的なものの支配する世界などを、信じるに足る現実として再現し、それによって物語形式そのものの受容力を実証した『ペルシーレス』の意義は大きく、いまようやく忘却を脱して、これに触発された現代作家の間で、この形式の有効性を再認識、再利用させるに至っている。
文庫版あとがき
僕は一九七〇年、二十六歳のとき、『ペルシーレス』と出会った。東京のイタリア書房の棚にあった。スペインのカスタリア社の古典叢書の一巻で、一年前に出たばかりの本だった。セルバンテスが『ドン・キホーテ』のほかに長編小説を書いていたことを僕は知らなかった。大学でスペイン文学をかじり、修士課程までやったというのに、まだ触れたことがなかったのだ。
さっそく読みはじめたら、息もつかせぬおもしろさで、止まらなくなり、一気に読んでしまった。同じセルバンテスの作品のどれよりも、また同時代の作家のどんな作品よりも楽に読めて、物語にひきこまれていく。古典の教養がいらない。予備知識なしでも、物語のスピード、スリル、サスペンスが滞らない。
そのころ僕はある先生の家に居候していた。先生は『百年の孤独』という本を翻訳中だった。「題名は、孤独の百年がいいかな、それとも、百年の孤独にしようか」と先生が言えば、僕が「百年の孤独のほうがすわりがいいんじゃないでしょうか」ときいたふうなことを言う。スペイン語文学の翻訳へのあこがれがはっきりしてきたころだ。
先生は『百年の孤独』の原文のお気に入りの箇所に赤線を引いて「すごいだろう」と興奮を僕に伝える。僕は僕で『ペルシーレス』発見の喜びをしゃべりまくる。スペインでもこのカスタリア版が出るまでは学者も学生も読まず、入手もむずかしかった作品だ。日本でこれを読んだ人はきわめて稀であったにちがいない。だから題名についても定まった訳がない。僕は先生にたずねた。「副題は『極北物語』と訳すべきでしょうか、『北斗物語』にしましょうか」
やがて僕は自分のアパートに住み、そこで『ペルシーレス』を翻訳しはじめた。出版社から話があったわけではない。面白かったから、日本語におきかえてみたくなっただけのことだ。とくに、冒頭が気に入った。「蛮人島の地底の牢からシケの海に出て、いかだで漂流する主人公、世にも美しい、年のころなら十九か二十、がんじがらめに縛られているが、高貴のほどがうかがいしれる」。これがぐいぐい読ませる。
僕はその後も先生と会うたびに『ペルシーレス』の面白さをしゃべって熱くなったが、ある日、先生が「翻訳しないか」と言った。僕は「もうできています」と答えた。そんなら、と先生は僕を国書刊行会に紹介した。こうして『ペルシーレス』は世界幻想文学大系の第二期にはいることになった。
この出版にはスペイン大使館から奨励金が出ていたので、僕はできたての上巻を大使館に送った。『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難 上』である。後日、文化担当官から手紙がきた。礼状のようなものだったが、別の一文が添えられていた。題名についてだ。
「訳書の題名の中のシヒスムンダは、正しくはセヒスムンダであります。同書の全ページに記された原題名の中のSigismundaについても、正しくはSegis――であります。後編ではこの部分を訂正されたい」
「正しくはセヒスムンダ」という指摘は文化担当官が初めてではなかった。スペインにいてこの本の題名を口にすると、きまったように、セヒスムンダ、でしょう、と人は言う。スペイン人なら誰もが知る芝居の主人公の男がセヒスムンドで、スペイン人はこれに慣れていた。仮に女の名ならセヒスムンダとなる。セヒスムンダしか考えられないのだ。セルバンテスが異境色を強調するために、わざわざシヒスムンダにしたことを知る人は少ない。
それにしても、文化担当官はなんらかの書物で原題名を確認しなかったのか。担当官の部屋にはフランスのラルースの百科事典があったが、あれを見るぐらいのことはしてもよかったろうに、と思う一方、僕はもしやと考えた。百科事典がまちがっているのではあるまいか。そう思って手元の同じラルースの百科事典をひらいた。なんと、セヒスムンダ、となっている。百科事典もまちがっている。
『ペルシーレス』はスペインでも読む人が少ない。題名にさえ馴染みがないわけだ。
そんな日本語訳を十五年前に出版した国書刊行会はきとくな会社である。そしてまた、それをあらためて文庫本で出すという筑摩書房も思い切ったことをする。「やりましょう」と言った編集部の加藤雄彌さんには内緒にしていたが、『ペルシーレス』はオリジナルが一六一七年に出て以来、当初の十年ほどをのぞくと外国語への翻訳はほとんどなく、僕が知るかぎりでは、一八三〇年ごろに英語の抄訳が出たのみだ。今これを知った加藤さんは営業を考えて真っ青になっている。
セルバンテス (Miguel de Cervantes Saavedra)
(一五四七―一六一六)マドリード近郊のアルカラ・デ・エナレスの貧しい外科医の家に生まれる。各地を転々とし、正規の学校教育を受けずに成長。一五七〇年、軍隊に志願し、数度の戦いに参加。レパントの海戦で負傷、左手の自由を失う。七五年スペイン海軍総司令官の感謝状を携えて帰国の途中、海賊船に捕らえられ、アルジェで五年間の奴隷生活を送る。帰国後、文筆家を志すものの生活は辛酸を極める。一六〇五年、近代小説に大変革をもたらし、後の世界文学に大きな影響を与えることとなる『才智溢るる郷士ドン・キホーテ・ラ・マンチャ』を発表、現在もなおスペイン文学の最高峰と讃えられる。以後、多くの短編小説や詩、戯曲などが出版される。
荻内勝之(おぎうち・かつゆき)
一九四三年ハルピンに生まれる。神戸外国語大学大学院修士課程修了。現在、東京経済大学教授。専攻はスペイン文学。著書に『ドン・キホーテの食卓』『スペイン・ラプソディ』『コロンブスの夢』等がある。 本作品は一九八〇年八月、国書刊行会より刊行され、一九九四年八月、ちくま文庫に収録された。
ペルシーレス(下)
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2003年1月31日 初版発行
著者 セルバンテス
訳者 荻内勝之(おぎうち・かつゆき)
発行者 菊池明朗
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) KATSUYUKI OGIUCHI 2003