ペルシーレス(上)
セルバンテス
荻内勝之 訳
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筑摩eブックス
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目次
査定書
原本版本照合証明書
勅許書
検閲証
ドン・フランシスコ・デ・ウルビーナより、ミゲル・デ・セルバンテスによせる、墓碑銘
ルイス・フランシスコ・カルデロンより、ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラの墓前にたむける、ソネート
レモス伯爵への献辞
第一巻
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章――蛮人島のイスパニア人が客に聞かせた身の上話
第六章――夷パニア人の身の上話が続く
第七章
第八章――ルティリオが身の上を語る
第九章――ルティリオの身の上話が続く
第十章――恋するポルトガル人の身の上話
第十一章
第十二章――渡海船の正体
第十三章――トランシラが父に代って話を続ける
第十四章――鎖につながれた男女の素性
第十五章――(この大いなる物語、その第一巻第十五章)
第十六章――(ペルシーレスとシヒスムンダの物語、その第一巻第十六章)
第十七章――王子がタウリサのその後を語る
第十八章――マウリシオが占星術によって水難を予知する
第十九章――二人の兵士のしわざ。ペリアンドロとアウリステラはふたたび離ればなれになる
第二十章――深雪の島での珍事
第二十一章――(ペルシーレスとシヒスムンダの苦難の物語、その第一巻第二十一章)
第二十二章――船長の話。国もとのポリカルポ王が主催する盛大な祭典のこと
第二十三章――優勝者が兄ペリアンドロとは。これを知ったアウリステラの嫉妬
第二巻
第一章――一行もろとも渡海船が転覆する
第二章――世にも不思議な出来事が語られる
第三章
第四章――シンフォロサの恋の打ち明け話が続く
第五章――ポリカルポ王と娘シンフォロサのやりとり
第六章
第七章――二部から成る(その一)
第七章――(その二)
第八章――クローディオがアウリステラに手紙を渡す。蛮人アントニオが誤ってクローディオを殺す
第九章
第十章――ペリアンドロが旅のできごとを語る
第十一章
第十二章――ペリアンドロの愉快な物語が続く。アウリステラが攫われる
第十三章――ペリアンドロが素晴らしい海の冒険を語る
第十四章
第十五章
第十六章――ペリアンドロの話が続く
第十七章
第十八章
第十九章――レナートが庵島へ来たいきさつを語る
第二十章――ペリアンドロとクラティロ王愛用の名馬のこと
第二十一章
以下、第三―四巻は下巻
解説 もうひとりのドン・キホーテ
ペルシーレス 上
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査定書(1)
本官、王室ならびに陛下諮問院付書記官ヘロニモ・ヌーニェス・デ・レオンは、左記決定に相違のないことを証明する。
当諮問院が出版を許可した著作物一件、ミゲル・デ・セルバンテス作『ペルシーレスとシヒスムンダの物語』は、慎重審査の結果、一折四マラベディ(2)と査定された。これにもとづき、五十八折綴当該書籍の販売価格は、一部に付き、二百三十二マラベディ以下とされ、版本各部巻頭に本査定書の添付を命じる。
本査定証明書は当諮問院の指示、およびミゲル・デ・セルバンテスの請求に応じて、右添付条件を満たすべく、発行されるものである。
マドリード、一六一六年、十二月二十三日。
ヘロニモ・ヌーニェス・デ・レオン(3)
査定額 一折四マラベディとして五十八折分、都合六レアル二十八マラベディ。
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原本版本照合証明書
本書、表題『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難の物語』が原本と一致して相違ないことを証明する。
マドリード、一六一六年、十二月十五日。
学士 ムルシア・デ・ラ・リヤーナ(1)
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勅許書
以下の事実が報告によって明らかになった。すなわち、汝、故ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラの妻、ドニャ・カタリーナ・デ・サラサル(1)が、上記ミゲル・デ・セルバンテス遺筆の労作、『ペルシーレスの苦難』に関し、出版許可、ならびに、二十年、もしくは朕のさだめる有効期間を有す版権を申請したこと、それに対して余の諮問院が受理のうえ現行印刷法のさだめる諸手続きの履行を命じたこと、当該命令を汝が履行したこと、等。よって、朕は本勅許書の授与を許可する。
朕は汝に対し、左記の許可および資格を授与する。
一、本勅許書の日付後十年間、汝、もしくは汝の委任者にかぎり、当該著作物を印刷、および販売できるものとする。ただし、印刷は巻頭に、王室ならびに諮問院付書記官、ヘロニモ・ヌーニェス・デ・レオンが署名捺印のうえ、右諮問院に提出された原本のみをもって行われるものとする。また、版本は原本との照合手続のため、販売に先立って、上記原本とともに右議会に提出され、朕の任命する検閲官の公式検閲証明を受けるものとする。
なお、当該著作物の印刷者は、当該著作物が朕の諮問院による原本版本照合、および査定を受けるまでの期間は巻頭の第一折を印刷せず、著者もしくは印刷依頼者には、原本とともに版本一部のみをあたえて、原本版本照合、および査定にそなえさせることとし、巻頭の第一折はこの手続きの終了後にかぎり印刷するものとする。ただし、この一折は、本勅許書兼版権授与証、検閲証、査定書、および原本版本照合書の貼付にあてるものとし、これに違反する場合は、朕の王国の印刷令、その他該当する諸法のさだめる処罰をうけるものとする。
勅許書一、前記十カ年間に汝の許可なく当該著作物を印刷、もしくは販売した者は、印刷済み当該書籍の全て、ならびに鋳型、印刷機械の一切を没収のうえ、五万マラベディの罰金刑に処す。なお、上記金額は、三分の一を王室金庫に納入し、三分の一を担当裁判官、三分の一を告訴人に分与するものとする。
一、朕の諮問院審議官、司法行政院長、および審議官、王室付兼宮廷付執達吏、大審院諸官、代官、代官補佐、都督、州長、村長、ならびに朕の諸国諸領全市町村裁判官、および検察官は、朕の発行する本勅許書にしたがって職務を遂行し、その内容および形式を逸脱しないものとする。
サン・ロレンソにて、一六一六年、九月二十四日。
朕、国王(2)
国王陛下の勅命により
ペドロ・デ・コントレラス
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検閲証
本官が勅命により閲読した結果、本邦著名の士であり、すぐれた作物の父として国体の高揚に貢献するところ隠れない、ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラの著作『ペルシーレスの苦難』は、われらの聖カトリック信仰、ならびに公序良俗にそむかず、健全な愉楽をうむところ多大であると認められ、かの聖ヒエロニムス(1)がオリゲネス(2)『雅歌』注解を、「オリゲネスの仕事中の最高傑作(3)」と評したごとく、当該著作もまた著者全作物中、才知の冴え、教養の輝き、娯楽の妙において卓絶の感があり、思うに、死出の山におもむかんとする老詩聖が、まこと尊ぶべき叡智の胤をうたいこんだ、傑作中の傑作である。以上、本官の所見を記す。
マドリード、一六一六年、九月九日。
検閲官 ホセ・デ・バルディビエソ(4)
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ドン・フランシスコ・デ・ウルビーナ(1)より、
聖フランシスコ教団第三会士葬をうけた当代の傑士、
敬虔なるキリスト教徒、第三会士(2)の名にはじぬ堂々たる往生をとげた
ミゲル・デ・セルバンテスによせる
墓碑銘
旅人よ、巡礼の
セルバンテスここに眠る。
亡骸(なきがら)は土にうもれども、
名は神聖、かくれなく
旅路は果つれど、
誉れは尽きず
作物また不滅にして
現世より来世へ
渡る、堂々たる
通行手形。
ルイス・フランシスコ・カルデロン(1)より、
才知あふれるキリスト教徒
ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラの墓前にたむける
ソネート
いよやかな舎利殿ならぬ
つましき石の下に
見よ、旅人よ、忘却の時に耐える
文豪の聖灰を。
タホ河(2)を称えてどよめく岸の
砂は無数。詩人をなつかしむイスパニアの
民の声もまた尽きず、
ほこらかに桂冠をさずけ、労をねぎらう。
作物は滑稽と洒脱の極致にあり、
興味は津々、格調は高雅、
着想は敬虔にして徳義の鑑。
鬼才に寄せるイスパニアの民の
思いはひとつで知らぬ者なく、
その遺骸に永遠の涙をそえる。
レモス伯爵への献辞 レモス伯爵、アンドラーデ伯爵、ビリャルバ伯爵、陛下閣員、
イタリア高等諮問会議長、ラ・サルサ宣教騎士団長、アルカンタラ騎士団長、
ドン・ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ閣下(1)にささげる
すでに片足鐙(あぶみ)にかかる
こんな文句で始まってずいぶん流行(はや)った唄(2)がありますが、ほぼこのまま起筆の言葉にかえさせていただきます。あたかも本状のために作られたかのような、うらめしくもなるセリフではございます。
すでに片足鐙(あぶみ)にかかる
末期(まつご)の苦しい息のしたより
閣下に一筆、したため候(そうろう)。
きのう終油の秘蹟をすませ、きょう本状の筆をとります。余命は短く、苦しみは尽きず、望みはうすくなるばかりではありますが、ただただ生きたいの一心で生きており、なんとしても御足にくちづけのかなう日まではもちこたえたいと願っております。それというのは、御帰還(3)の雄姿を拝せばその嬉しさで命もながらえるのではというもしやがあるからですが、さりながら、もはや定まった命であるなら、この存念なりともお聞き届けあり、願わくは、彼岸にまかりてなお閣下の僕(しもべ)たらんとする者のあることを、心の片隅にでも留め置きください。献辞とはいえ、わたしはまるで予言でもできるかのように早々と御帰還を祝い、この目はすでに、歓呼の声に迎えられる閣下の御尊姿にふれて欣喜するとともに、念願のことどもが閣下のおひきたてのおかげで成就するという、身にあまる光栄に浴しております。念願と申しますのは、『庭の日々』や『音にきくベルナルド(4)』への未練が断てないからでありますが、万に一つ、奇跡的にも延命がかないますれば、かならずやこの二作を書き上げてお目にかけ、またおほめにあずかった『ガラテア(5)』も完成させる所存でございます。
それでは、作品の献上をお約束し、閣下のご健勝を祈りつつ、敬白。
マドリード、一六一六年、四月十九日(6)。
閣下の僕(しもべ)、
ミゲル・デ・セルバンテス
親愛なる読者諸君。エスキビアス(1)といえば、そうそうたる家柄を揃えているとか、名代の酒処であるとか、なにかと評判の土地であるが、先日のこと友人ふたりとここを訪ねての帰路、背後からあわただしく鞭を鳴らして迫り来る騎行の男があった。それが声を張りあげてわれわれを呼び止めるので、手綱を引いて待ち受けたところ、驢馬を叱咤して追いついたのは墨染め学徒、つまり黒ずくめの田舎学生であった。見ると蔓眼鏡、円靴、鐺(こじり)付の時代物の剣、垢光りの舶来襟(バローナ)、それには三つ組の襟止めをしているが、これもテカテカ、しかもそいつは一部欠けていて、ずり落ちようとする襟を支えるのに苦心惨憺のもようである。
その学生がそばまで来て言うのに、
「都へお上りとお見受けしますが、お目当てはきっとご仕官か僧禄でしょう。国王陛下もトレドの猊下も目下都におわします由、それにこの駿足が音をあげるほどのお急ぎようとなると、他のことではありますまい」
そこで友人のひとりが応じて、
「ミゲル・デ・セルバンテス殿の痩馬のせいですね、その歩きようたるや、大股なんてものじゃないんですから」
と言ったのであるが、その男はセルバンテスの名を聞くやころげるように驢馬をおり、鞍袋や頭陀袋がずり落ちるのに目もくれず当方に飛びついて握手をもとめてきた。そして、
「そういえば確かにあなただ、あなたです、隻腕の壮士、高名かくれない大文豪、詩神の寵児とうたわれるお方は」
と一気に讃辞を浴びせてきたのだ。当方としては誉めちぎられて知らんふりもできず、型通り相手の肩を抱き寄せ背を叩いてそれに応じたわけだが、気の毒にそのはずみで、せっかくの舶来襟がずり落ちて全くの形無しになってしまった。
「それは、事実をご存知ない読者のみなさんの買いかぶりというものです。わたくしはいかにもセルバンテスですが、詩神の寵児でもなければ、お言葉のような偉い男でもありません。それはともかく、どうぞ驢馬にお戻りください。残る短い道中に話の花でも咲かせましょう」
学生はこころよく応じ、残る道中をくつわを並べて並足で歩いたのであるが、わたしの病気が話題になると、
「水腫症ですね。かりに海が真水で、そいつを飲み干したとしても治る病気ではありません。水はほどほどにして、食べることです。食うのがなにより、薬は無用」
と、ていねいに引導を渡してくれたのである。
「みなさんそうおっしゃってくださいますが、よし水は運命とあきらめて辛抱できるにしても、肝心の命のほうがもちそうにありません。このからだに温かい血が流れるのもよく続いてこんどの日曜日まででしょう(2)、こいつが止ると息の根も止ります。せっかくお近づきになれたのに、命の瀬戸際とは恨めしいかぎりです。ご好意にも報えそうにありません」
トレド橋を別れ路にわたしはそれを渡ってマドリードに入り、学生はセゴビア橋(3)から入るべくその方へ向かった。
この出来事について言うべきことは噂にまかせておこう。まず友人たちが語り伝えずにおくまい、その噂を聞きたいのは、誰よりもかく言う本人であるが。
わたしは再び学生の肩を抱いて別れを惜しみ、学生はそれに応えてから一鞭当てて遠ざかった。驢馬の背の騎士はぐらぐらと座りが悪く、見送るわたしの気持もぐらついた。思うに、この日の出会いからは面白いものが書けそうであるが、如何せん、一時になにもかもは無理というものである。いつの日か糸のほつれをよりもどし、言い残したことや綴るべきことに筆をむける日がこよう。
ではひとまず諧謔洒脱よ、さらば。粋な文句よ、さようなら。友よ、ごきげんよう。ひと足お先に。いずれ未来で。
第一巻(ペルシーレスとシヒスムンダの苦難の物語、その第一巻)
第一章
そこは牢というより、おびただしい人間を生きながらに葬った、まるで墓穴のようなところであった。いましもその奈落の獄中に向かって、狭い口にかぶさるように、蛮族の男コルシクルボがなにごとかを叫んでいる。それは岩にとどろき、地底をゆるがす、すさまじい声であった。しかし、その深淵にいてコルシクルボの言葉を解しえたのは、なめた辛苦の数知れぬ薄幸の女、クロエリアただひとりであった。
「やい、クロエリア、おとといの若造を出せ、うしろ手に縛ったやつだ。この繩につなげ。若造がすんだら、娘を用意しろ。おれたちがたっぷり可愛がってやる。このあいだかっ攫(さら)ってきたなかから、飛びっきりの上玉をえらんでおけ。そいつには目がくらむほど御天道さまを拝ませてやる。うまい空気もたらふくだ、こっちには掃いてすてるほどあるんだから」
コルシクルボはこう言って荒繩をたらし、ほどなく仲間の四人の手をかりてたぐりあげた。現れたのは年のころなら十九か二十、水夫の着る粗末な麻をまとい、しかもがんじがらめにされてはいるがなお筆舌につくしがたい、世にもうつくしい若者である。蛮族の男たちはまず繩目手枷(てかせ)をあらため、頭のほこりをはたいてやったのであるが、その髪はまるで幾重にも渦をまいた黄金の珠(たま)の環(わ)のようである。ついで顔面をぬぐってやった。と、男たちのあいだに一斉に感嘆の吐息がもれた。そもそも若者をこうして引きあげたのは命をうばうためであった。ところがそこには、そんな彼らの石の胸をさえやわらげずにおかない、妖(あや)しいまでの美貌があったのだ。
若者は哀れっぽいようすをみじんも見せなかった。キッと顔をあげ、くまなく天を見渡し、澄んだ声でよどみなく言った。
「広大無辺の慈悲を垂れ給う神よ、おかげで牢獄の常闇(とこやみ)に朽ち果てることなく御光明の下で往生がかないます。これでもキリスト教徒のはしくれですから絶望することは本意にそむきますが、こうまで難儀がうち続いては、いっそこのまま身罷(みまか)りたいと願わないでもありません」
これは蛮族の男たちには珍紛漢(ちんぷんかん)であった。まったく未聞の言語なのだ。彼らはだまって牢の口を巨石でふさぎ、若者を繩つきのまま渚へ引きたてた。そこには、何本もの丸太を強靱(きようじん)な蔓(つる)や柳の枝で組みつらねた筏(いかだ)の用意があった。
のちに知れるが、このあたりの蛮族はこの筏を舟のごとくあやつって、二、三海里さきの島へ往来している。
男たちはさっそく筏に乗り組み、虜囚をなかほどに引きすえ、時をうつさず、ひとりがそなえてあった大弓をとった。そしてやはりとほうもなく大きい矢をつがえるや、すばやく引きしぼって、ねらいを若者の胸板にさだめた。矢尻は石、必殺のかまえである。
他は手ん手に櫂(かい)形の棒をにぎり、ひとりがかじをとり、あとの男たちが漕手(こぎて)となって対岸の島へと筏をすすめた。
巨矢の飛来をまつ若者は、覚悟のうちにも怯(おび)えをかくせなかった。肩をこわばらせ、眉をつりあげ、唇を真一文字にむすんで、心中ひたすら天にむかって祈りをささげていた。この窮地を救えとはもはや願わないが、せめて耐える勇気を授けたまえ!
すると、蛮族の岩のような心も美にうがたれたか、射手の胸に人をあわれむ情(なさけ)がきざした。これほどの若者の命を矢刃(しじん)にかけるなどあろうべきことか。こう悟るとむごたらしい殺生はもはやしのびず、かまえていた弓矢をがらりと投げすて、若者のそばへ駆けより、すでに殺意のないことを身振り手真似でつたえた。
このころ筏は、二島をへだてる瀬戸のなかばにさしかかっていた。ところが、そこへにわかに一陣の風が巻きおこったのである。不馴れの水夫(かこ)は為す術(すべ)をしらなかった。ただうろたえるばかりで、筏はたちまち蔓を断たれ、丸太はばらばらになった。その残骸のひとつ、五、六本の丸太からなる部分に若者はいた。一難去って、いままた風波の難がせまっている。
海は渦巻く柱となり、風と風が激突して熾烈(しれつ)な戦いをくりひろげた。蛮族の男たちは波の餌食となり、桎梏(しつこく)の虜囚をのせた丸太は瀬戸をぬけ、みるみる沖合いへと流された。逆浪が容赦なく頭上をおそい、空をさえぎり、不運をうったえる若者の祈りが天にとどくのをはばんでいた。しかし、とどかぬ祈りにも神の冥護(めいご)はむくいていた。がんじがらめのため、丸太ひとつにつかまることもできない絶体絶命の若者であったのに、間断なく爪をふるう怒濤も、彼を千尋(ちひろ)の底へうばいさることはできなかったのだ。
このあいだにも丸太は沖へ沖へと流されたが、そのうち不思議なことに島の岬へと進路をかえた。そして、その鼻をめぐったところでいくぶん穏やかな海にむかえられ、ようやく時化(しけ)をのがれることができた。
若者はうちひしがれた身を起して四海を見た。まぢかに、やはり異変の海を避けて、ここを安堵の港とばかり沖がかりした一隻の渡海船があった。船でも流木の上の物影に気づいたらしく、ボートをおろして正体を確認にきた。見ると、目をうたがうほど美しいうえ、あまりにも痛々しい姿の若者である。だれからともなく同情の嘆息がもれ、ただちに、本船へ救助しようということになった。意外な漂流物をむかえた船縁(ふなべり)のおどろきもひと通りではない。
若者はかかえられるようにして船上の人となった。ところが腹には三日も物が入っておらず、それだけでも衰弱をきわめていたのにあの荒波にしたたか打ちのめされた身体であったから、足の踏んばりようもなくどっと甲板に倒れた。船長もこれを見たが、元来が憐憫(れんびん)の情にあつい人だったのでいたく哀れをさそわれ、ただちに若者を介抱するよう部下に命じた。
その場で繩枷がとかれ、芳烈な酒や食物が運ばれた。やがてその甲斐あって、死んだようになっていた若者の顔に生気がもどり、眼を開いた。そして、まっすぐ船長を見た。若者は一瞬、あたりをはらう威風と華奢(かしや)をつくした衣裳に目くらみ、声をうばわれたがまもなく言葉をさぐりあてた。
「ご親切に神の御報いのあらんことを。このように自由のきかないからだでは心もくじけるばかりですから、お礼の言葉を繰り返すほかに、どんな御恩返しがかないましょう。ただ、五体も思うにまかせない惨めな男にも自惚(うぬぼ)れが許されるなら、恩を知ることにかけては人後に落ちないと申して憚(はばか)りません」
言い終えて船長の前にひざまずくため身を起そうとしたが、力およばず、二度三度とこころみてそのたびに甲板にうつぶした。そこで船長は、若者を下甲板の船室へ運ぶよう命じ、濡れた衣類を脱がせてかわいた清潔なものに着がえさせ、蒲団二枚がさねの寝台にやすませ、眠らせることにした。
部下はすぐさまそれにとりかかった。若者も無言のうちにしたがったが、そのとき、またもや自力で起きあがろうとして足を踏んばった。船長もそれを見た。そして若者の気骨にあらためて舌を巻き、すぐにもこの人物の正体を知りたいという強い欲求にかられた。いったい何者か。名は。なにゆえあのような窮地におちたのか。
しかしながら、礼儀をおもんじる船長はその欲求をおさえた。自分の願望をみたすより、若者の回復につとめるのが先だ。
第二章
部下は船長の旨(むね)をふくんで若者を寝床につかせた。しかし若者の瞼(まぶた)の裏には、つぎつぎと悲痛な想いがかけめぐっていた。しかも、間仕切り板の隙間からは深い嘆息まじりの咽(むせ)び泣きが洩れきこえ、瞼はとても合いそうになかった。耳を澄ますと、
「こんな辛い目に遇うのも、お母様のおなかにいるときから、きまっていたんだわ、不幸がわたしの宿命(さだめ)なのね。お母様はわたしを、しあわせとは無縁の星の下へお捨てになったにちがいないわ。そうよ、生んだのではなくてお捨てになったんだわ、こんな生れつきなら、かりそめにも生れたとは言えないわ。この世に生をうけたかぎり御天道様がほほえんでくださると、そんなあまい気でいたわたしがばかだったのね。奴隷に売られるなんて、こんなむごいことがあるのかしら」
「どこのどなたか存じませんが」このとき若者が声をかけた。「うれいや悲しみは、打ち明けることですこしは晴れると申します。板の隙間からでも、お身の上のことをお聞かせください。わたくしなど何の役にも立ちませんが、ともに泣いてさしあげることならできるかと」
「それではお言葉にあまえて」と反応があった。「運命のむごい仕打ちをかいつまんでお聞かせいたします。でもあなたさまは……この船はあの時化(しけ)を避けてまもなく、蛮族が船がわりにつかっているという丸太で漂流中の、半死半生のおひとを助けたと聞きましたが、もしやあなたさまでは……」
「そう、わたしです」
「とおっしゃいますと……」
「わたしのことは、お話をうかがってからにいたしましょう。さきほどのご様子では、ずいぶん辛いことがおありのようですが……」
「それでは、手短かにお聞かせいたします。まずこの船の船長で一行の主君でもあるおかたは名をアルナルドと申され、デンマーク王のお世継ぎであらせられますが、この王子のもとへ思いも寄らぬいきさつから、わたくしがおつかえするさるお嬢様がひきとられておいでになりました。この世の綺麗(きれい)をぬきんでた、絵にも筆にもあらわしようのない、それはそれはおうつくしいお方でご発明のきこえもめでたいのですが、しあわせの薄いことでもやはり並外れておいでなのです。お名前はアウリステラと申され、お家は王家にゆかりがあって、ゆたかな知行をあずかるご身分です。
ところが、誉めても誉め足りないほどのこのお嬢様が、あるとき何者かの手で奴隷に売られるはめになりました。そのときの買手がアルナルド王子だったというわけです。王子はお嬢様をおそばに置いてご寵愛(ちようあい)になり、いまもなお深くお心にかけていらっしゃいます。それがたいそうなご執心で、お嬢様を奴隷の身分からといて妻にめとりたい、しかも正室としてむかえたいと望まれたほどですが、それは父王様のご意向にもかなっていました。気品といい、たしなみの良さといい、一国の王妃の座にすえてもなお畏れ多いものがある、こうお思いになるほどお気に召したのです。
ところがお嬢様は、ゆえあって生涯をむすめで通す誓いを立てているとおっしゃり、どんな望みをかなえてやるといわれても、たとえ殺すとせまられてもこの誓いは破れないし曲げることもできない、と言い張ってこの縁談をお断りになりました。しかし、王子はこれしきのことではお諦めになりませんでした。そして、こころもとなげにもあれこれ意をもちい、手をつくしたすえ、しょせんは女、時がうつれば心もかわるだろうとお思いになって、どこまでも望みをつないでおいでになりました。そんなある日、お嬢様がとても奴隷とは思えない、お妃様のようなお召し物で渚を散歩なさっていました。そこへ突然、海賊がボートを乗りつけて、あっというまにお嬢様をうばい、どこへともなく拉致(らち)し去ったのです。王子はこれが、以前にお嬢様を売りに来た海賊の一味のしわざだと目星をつけました。
このあたりの海には海賊が横行して、浦々だけでなく島の奥深くにまで害をたくましくし、うつくしい娘と見るやたちまち掠奪、あるいは買いとって、獰猛(どうもう)な蛮族の住む向かいの島へ売りとばしています。この蛮族のなかには、秘術をおこなう男で最高の智恵者として崇められている年寄りがおり、ことごとくがこの男と悪魔の言に追従し、島から世界を征服する王が生れるなどというでたらめな予言さえ頭から信じきっています。
だれがその王になるか、それを知るてだてとして秘術師はこんな命令を出しました。島に近づく男という男をとらえてかたっぱしから生贄(いけにえ)にせよ、そしてその心臓を焼き、灰を島中の身分の高い男に食わせるべし、眉ひとつしかめず平らげる者がいればそれを島の王位につかせよ、世界を手にするのはこの王の胤(たね)である、と。さらに、娘を買いあさり、攫いまくって、その中から一番器量のいいのをえりすぐり、灰をのんで偉大な世継ぎを約束された男にめあわせよ、とも言いそえています。だから娘たちの扱いは、買った攫ったのへだてなく、蛮族とは思えないほど丁重のようです。それにずいぶん高い値で買いとられています。金塊や、このあたりの海に無尽蔵にある美しい真珠との交換ですから、これに目をつけて大儲けをたくらむ海賊や商人の来航があとを断ちません。王子はこれをご存知なので、こいしいお嬢様もこの島にとらわれているとにらみ、探りをいれる目的で、これからわたしを蛮族に売り渡そうとしているのです。波がおさまりしだい上陸する手筈になっています。蛮族と暮すなんて、これが泣かずにいられるでしょうか。わたしの器量では妃などおぼつきませんし、お美しいお嬢様がいらっしゃればなおさらです。だからこのように泣いたり、愚痴をこぼしたりしていたのです」
声の主はこう言って口をつぐんだが、若者の胸には激しく込み上げるものがあった。こらえようとして板に口を押しあてると、板も若者のながす熱い涙を貰ってぬれた。しかしややあって若者は女にたずねた。王子とお嬢様のあいだには、すでに情を交したような気配はぜんぜんないのか。それにしても、人間の欲望の法(のり)には信仰の掟(おきて)をも打ち破る激しい力があると思われるのに、一国などという遣(つか)わし物にさえおいそれと靡(なび)かないのは、ほかに心をほだされているからではないのか、とたずねたのである。
声の主がいうのに、お嬢様は一時期ペリアンドロとかいう男性を好いていたらしい。彼女を生国からつれだした騎士で、心のやさしい、だれからも慕われる人物だそうだが、それでも彼女は天に不運を訴えるときでさえ、たまさかにもその男性の名を口にしたことがない。
では、あなたにはその男性との面識があるのか、と若者はさらにたずねた。
すると、会ったことはないが、聞くところによるとお嬢様をつれだした人物とか。自分はこの騎士がお嬢様をよんどころなく置き去りにしたあとでおつかえするようになった、という返事があった。
ここへ甲板から声があってタウリサを呼んだ。身の上話をしている女の名である。
「時化がおさまって波もおだやかになりました。わたしを呼んでいます。いよいよ売られてまいります。どなたかは存じませんが、これでお別れです。島の畜生どもは男の心臓も狩りあつめています。あの思いあがった連中の迷信の犠牲にならないよう、くれぐれもご用心を」
ふたりは間仕切りを離れ、女はその足で甲板へ出た。若者はひとしきり考えこんだが、やがて寝床を離れることにし、船の者に衣服の用意をたのんだ。そこでまもなくあの麻物と同じ裁(た)ち方をした緞子(どんす)が運ばれた。
王子は機嫌よく若者をむかえ、となりに席をとらせた。女は、森や湖の妖精と見まがう艶麗な衣裳に着換えているところであった。これを感嘆して見守る若者の耳もとに口を近づけて、王子は自分の恋の顛末をはじめ、このたびの計画のあらましを語り、これで首尾よくアウリステラを探し出せるだろうかと助言さえもとめた。
若者は、女から聞いたことと王子から得た情報をもとにして、アウリステラが蛮族に捕えられている場合に起こりうることをすばやくおもんぱかり、あれこれ思案をめぐらせたすえこう言った。
「若輩者ゆえおかしできる知恵は持ち合せておりませんが、なんとしてもお役に立ちたいと存じます。お救いいただいた命ですから、なげうってでもご恩にむくいるのが当然です。
わたくしはペリアンドロと申し、高貴の家に生れましたが、門地が高いだけでなく不運の数もここではお話ししきれないほど積み重なりました。それはともかくお話しのアウリステラですが、実を申しますとあれはわたくしの妹で、ちょうど一年前ふとしたことから離ればなれになり、わたくしも手を尽してたずね歩いておりました。名といい、先程らいのお誉めの美しさといい、行方不明の妹に相違ありません。妹を救い出すのになぜ命を惜しみましょう。もしものときには、殿下がわたくしに代ってあれの無事をおよろこびくださるだけで本望というものです。とにかく他人事ではありません。あれこれ考えてみましたが、こうしてはいかがなものでしょう、わたくしにとってはいちばん危険な方法ですが、どれよりも確実で、てっとり早くすみます。
お話によると、この娘を蛮族に売って妹の消息をさぐらせる手筈とか……そのあと別の娘を売りに島へもどり、この娘に合図をさせて、例のいかさまな目的でやつらがしきりに買い集めている男や女の中に、妹の居る居ないを知る……」
「そうなんだ。そのために連れてきた娘は四人いるが、このタウリサは妹殿の身のまわりの世話をしていた関係で顔見知り、ということでえらんだわけだ」
「なるほど、それはご名案」ペリアンドロはうなずいた。「しかし、その役にはわたくしがうってつけではないでしょうか。年恰好も顔立ちも娘で通ると思いますし、もともと他人(ひと)事(ごと)ではありません。それになんと申しましても、妹の顔をいちばんよく知っているのはわたくしですから。お任せくださるなら直ちにも。なにぶん事態は急を要しますので、即断がよろしいかと」
王子はこの提案にしたがった。万障をさしおいて実行にうつすことにし、さっそく、救出後アウリステラに着せるべく取り揃えていた衣裳の山からいくつかを選んで、ペリアンドロに着せた。
と、これが艶冶無双(えんやむそう)、人間の目にふれた最高の美女となった。アウリステラはさておき、いかなる美姫も色褪(あ)せよう。
船上は恍惚の魔魅にかかって陶然となったのである。タウリサも、ただうっとり……だが、王子の心境は複雑であった。これがアウリステラの兄だという承知がなければ、男だと思うだけで、金剛の石心をも穿(うが)つという嫉妬の鋭鋒に胸貫かれていたことであろう。恋する者の胸はたとえ堅固な確信や慎みを十重(とえ)二十(はた)重(え)に鎧(よろ)うとも、嫉妬という鋭い槍のまえには張り子にすぎないのだ。
こうしてペリアンドロの扮装が成り、船は蛮族の目に止りやすいよう、いくぶん沖へ移動した。
王子はアウリステラのことで頭がいっぱいであった。兄妹の素姓も、あの遭難のわけも、ついぞ問うゆとりがなかった。順序としては、ペリアンドロに大事をゆだねる以前になされるべき問いであったろう。しかし、なにはさておき望みのものを贏(か)ちうる手立てに現(うつつ)をぬかすのが、恋の奴(やつこ)の常ではある。王子も然り、こうして知るべきときに心の馬をよそへ走らせることとなり、知ってはならないときに知るはめにおちいるのである。
さて、船は島から少々遠ざかり、吹き流しの長旗や三角旗で満艦飾をほどこした。三角旗が風を打ち鳴らし、長旗が水面を掃くように接吻などして、まことに賑やかな光景である。海は平らか、千里に雲なく、笛喇叭(ラツパ)など幾多の楽器の、勇壮かつ軽快な施律に船上はみなうっとりと耳を奪われていた。ほど遠くないところからこれを聞きつけて島の住民も浮かれ出たようだ。なにごとかと海上に耳目を引き寄せられ、磯辺はみるみる人の山となった。手ん手に、あの大弓と長い矢がある。
船は島のほぼ一マイルまで接近し、多数の大砲でいっせいに号砲をはなった。ついでボートをおろし、王子、タウリサ、ペリアンドロと水夫六名が乗り組んで、槍を竿に、白布の旗をとりつけた。これは地球上のほぼすべての国で慣しとなっている、友好のしるしである。
島でのことは次章で知れよう。
第三章
ボートの接近とともに人の山はますますふくれあがり、近づく者の正体をわれさきに見ようとしてひしめきあっていた。あちこちで白布が旗めき、無数の矢が虚空にはなたれた。これも友好と歓迎のしるしである。おそろしく身軽に海浜を跳ねまわる者もいた。このあたりの海域でも、われわれの海と同じく潮の干満があった。折り悪しく下げ潮にぶつかってボートは接岸できなかったが、島から二十人ばかりが浅瀬をわたって、ボートに手のとどくところまで近づいた。蛮族のうつくしい女をひとりかついでおり、この女がまず口をきいた。ポーランド語である。
「どこのどなたか存じませんが、ご用の向きなり、ご入用の品があればお申しつけください。当方の領主、いいえ太守と申しておきましょう、その者がたずねております。娘を売りにいらしたのなら高くひきとりますが、ほかの品は無用です。暮しに欠かせないものは、よそから求めずとも島で間に合っております」
王子には多少ポーランド語の心得があったので娘に、おまえは生来の蛮族か、それとも買われてきたのかとたずねた。
すると女がこたえて、
「おたずねすることにこたえるだけにしてください。わたくしが余計な口をきいて話が長引きますと、主人の機嫌をそこねます」と言ったので王子は、
「われわれはデンマーク王国の者である。私掠と商いを事とし、物々の交易をいとなんでいる。買い手があれば獲物を売るわけだが、さきごろこの娘を手にいれた」と言いながら、ペリアンドロを指した。「うつくしい中でも、とりわけうつくしい娘だ。はっきりいって、これほどの玉は世界ひろしといえど、ふたつと見つかるまい。この島で女を買いあつめていると聞いてきたが、これを買いそこなうほど目無しではあるまい。島の博士殿の予言とやらがあたるとすれば、このように絶世の美貌と気品を兼ねそなえた娘のことだ、かならずやみめかたち万人にすぐれ、勇をぬきんでた世継ぎの胤をみごもろう、請けあう」
蛮族の男たちは王子の言葉を女に翻訳させた。それが伝わると、太守に連絡するためか、四、五人が岸辺へむかった。
王子はこの間をぬすんで通詞(つうじ)の女に声をかけ、島にはいまも買われて来た女がいるか、この娘に匹敵する美女はいるかとたずねた。「いいえ」女は答えた。「娘はおおぜいとらわれておりますが、わたくし並の者さえ見あたりません。実は、わたくしもその不幸な女のひとりで、いっそう運の悪いことに妃にまつりあげられそうなのです」
男どもが戻ってきた。さらに何人かがふえ、その中には太守も加わっている。けばけばしい衣裳から一目でその身分がうかがわれたのだ。そのときペリアンドロは薄衣で顔をかくしていた。いずれ電光石火のまなざしで蛮族の男どもを射抜くためであった。
女は太守の言葉を伝えて、娘の薄衣をとれと言った。王子はそれにしたがった。そこで、ペリアンドロは立ちあがって面を見せた。そうして天をあおぎ、さもあわれげに不運を歎くと見せかけたのであるが、そのときみずからにそなわる双輪の太陽をめぐらせ、キラッとその閃光の一撃を蛮族の頭目の眼に見舞った。刹那(せつな)、頭目はつんのめって、ふかぶかと土をなめたと言っておこう、女人と思いこんだ麗像を彼ら独特の流儀で、這(は)いつくばって伏し拝んだのである。
効果はてきめん、太守と通詞の女のあいだに二言三言あっただけで、取引きはその場で成立した。太守に異議はなく、王子の言い値で売買されることとなったのである。
男たちはいったん島へひきかえし、無刻印の金塊と目の醒(さ)めるような真珠の束をかかえて戻り、数量には頓着(とんじやく)せず、無造作にうずたかく積みあげた。王子はそれと引き換えにペリアンドロを太守の手に渡し、近日中に別の娘を売りに戻るつもりだ、この娘ほどではないが買って損のいく品でもない、と通詞の女を介して言い残した。
ペリアンドロはボートの者たちとひとしきり別れを惜しんだ。目には光るものさえあった。が、それは女々しい気持から湧いたのではなく、幾瀬の苦難を一度に思い起しての涙であった。
王子は号砲をはなつ命令を本船へ、太守は鳴り物をうつ合図を島へ送った。これを受けて砲声と蛮族の楽音がとどろき、けたたましく紛然と天にみなぎった。こうして、歓呼と鳴り物のなかをペリアンドロは男たちの肩を輿(こし)にして上陸し、王子は本船へ戻った。このとき両者のあいだには、つぎのような了解があった。すなわち風の邪魔さえ入らなければ、島から見えないだけの間合いを保って船を近づけておく。そうしていずれタウリサを売るという口実で、やむをえずば実際に売ることになろうがかならず引き返し、ペリアンドロの送る合図でアウリステラの存否を知る。彼女が居ない場合はペリアンドロの救出に全力をあげる。必要とあれば部下を総動員し、蛮族どもとの一戦も辞さない、と。
第四章
取引きに立ち会った蛮族の男どものなかに、太守に同行したブラダミロという者がいた。島きっての腕力の持主で、顔役のひとりでもあった。しかしなにかにつけて横車を押し、その傍若無人ぶりたるや無比で、肩をならべる者といえばおのれをおいて無きが若(ごと)しというありさまであった。
この男がペリアンドロに一目惚れし、わがものにしようと企んだ。女だと思いこんだことでは、並の男となんら変るところがなかったわけである。しかし、予言のさだめる胆だめしを受ける気は毛頭なかった。
ペリアンドロが島の土を踏むのもまちきれないように男どもは殺到し、底抜けにはしゃぎながら、奪いあうようにして、巨大な天幕のなかへ担ぎこんだ。それは無数の小さい天幕の群にかこまれ、広々とした、ここちよい草原に張られており、いずれも家畜や野獣の皮でこしらえたものであった。
取引きの通詞(つうじ)をつとめた女は片時もペリアンドロのそばを離れず、彼の解さない言葉ではあったが、なにくれと声をかけて慰めていた。
太守は、向かいの島の牢にとらえてある男を連れてこい、と手配した。彼も眉唾(まゆつば)の予言にたぶらかされ、自ら灰をのむためである。手下はただちに命令に従った。同時に、香気のつよい白地のなめし皮を卓布がわりに地面に敷き、そこへ乾燥果をまき散らすようにひろげた。そうして、太守がまず手をつけ、居合せた身分のありそうな連中も坐りこんで頬張りはじめ、ペリアンドロにも手真似ですすめた。
ブラダミロだけはそれに加わらなかった。かたわらで大弓に顎をあずけ、目は、女と信じて疑わない人物に釘付けであった。太守が席をすすめてもまったく耳をかさず、やがて大きく吐息をもらしたかとおもうと、ぷいと背をむけ、そのまま天幕を出ていった。このとき、牢へむかった手下のひとりが引き返して、太守になにごとかを告げた。牢獄の島へ渡ろうとして海辺までいくと、ちょうど筏が着いたところで、男をひとりと牢番の女を運んできたという。この知らせで、太守以下その場の者はみな食うのをやめ、席を立ち、天幕を出て、筏の着いたという方へむかった。ペリアンドロが同行を希望すると、太守は相好(そうごう)をくずして狂喜した。
とらわれの男と牢番の女はすでに陸へ揚げられていた。もしや見覚えが……そう思ってペリアンドロは、自分と同じどん底で辛苦をなめた気の毒な男にじっと視線をむけた。しかし男は、顔を見られまいとしてかうつむいたきりで、目鼻立ちはうかがいようがなかった。だが、牢番とよばれる女には、たしかに見覚えがあった。思わず息をのみ、胸を突かれた。なにを疑おう、まぎれもないクロエリア、いとしいアウリステラの乳母であったのだ。クロエリア!
声は喉まで出かかった。しかし蛮人どもに間柄(あいだがら)をけどられてはまずい、彼はそうこころづくとあえて声をかけず、はやる気を噛みころした。しばらくはなりゆきを見守ることにしたのだ。美女ペリアンドロとの晴れの祝言(しゆうげん)を待ちこがれる太守は、胸ときめかせて例の胆だめしにのぞむこととなり、引き出された男を即刻血祭にあげるよう命令した。心臓を灰にして飲むという、あの笑止千万な胆だめしである。
男たちは寄ってたかって若者の手足をとり、うしろ手にしばりあげてその場に引き据えた。麻布で目隠しする以外に儀式らしいところはない。
若者はひと声も発しなかった。小羊のように観念して、命根の断たれるのを待っていた。
ところが、そのとき老女クロエリアが長い沈黙をやぶって叫んだ。声には、老いを感じさせない鋭い気魄(きはく)がみなぎっている。
「何をなさる、太守殿。男でもない者を贄(にえ)になさる気か。これは世にもうつくしい女人ですぞ。女では効験(こうけん)がありますまい。お嬢様もひとことおっしゃってください。あきらめてはなりません。お命を粗末になさっては罰があたります。神様を信じるのです。きっとお救いくださいます。しあわせになれますとも」
虐刃の影は、ねじふせられた若者の喉元にせまっていた。しかし、ひとをあやめることに何のためらいもなさそうな蛮人どもも、老女の一喝(いつかつ)にけおされたか、あげた手をおろし、太守は繩枷と目隠しをとかせた。そして若者の顔をまじまじと見た。なるほど、かつて拝んだことがないほど美しい女の面輪(おもわ)であった。ペリアンドロをのぞいて、広いこの世に並ぶ者はあるまい。むくつけき夷心(えびすごころ)のうちにも、そう思わずにはいられなかったのである。
虐殺をまぬがれた男はアウリステラであったのだ。これを知ったときのペリアンドロの心中を、どの舌が語りえよう、どの筆が綴りえよう! 目はくらみ、胸はつぶれ、足はもつれた。それでもようやく歩み寄り、彼女を抱きしめて言った。
「あいたかった! 魂を分けあったふたりだもの、どんなに心配したことか。やっと生きがいを取り戻せた。こんなところでは、幸とも不幸ともつかないけれど、こうして会えたのがしあわせでなくて何だろう。ぼくだ、兄のペリアンドロだ」
周囲をはばかる囁(ささや)き声であった。そして続けて言った。
「おまえ、妹よ、はやまってはいけない。蛮族でも女をあやめたりはしないのに、おまえのほうから自棄(やけ)になって死ぬなんて、やつらよりむごいじゃないか。神様を信じないでどうする。あぶないときには、いつだってお救いくださったお方だ、これからだって、きっと手を伸べてくださる」
「兄さん」男として贄(にえ)になる覚悟でいたアウリステラが言った。「兄さん、もうこれで、何があっても怖くないところへ、一緒に行けるのね。お会いできたのはうれしいけれど、こんなところで、こんな姿で……」
ふたりは手をとりあって泣いた。ところがその涙を、その場へ着いたばかりのブラダミロが見た。屠(ほふ)り殺されようとする男に同情して女が泣いている。身内か友人か、いずれにしても顔見知りにちがいない。てっきりそうと独り合点した彼は、ここはどうでも一肌ぬいでみせねばなるまい、と考えた。そこで、ずかずかと割りこむやふたりの手をとり、あたりを睨めまわし胴間声で凄みをきかせるに及んだ。
「命が惜しくば、ふたりに指一本ふれるんじゃない。娘はおれさまがもらった、ぞっこん惚れたんでな。男は逃してやれ、娘のたのみだ」
これを聞いた太守は、怒髪天を衝(つ)くばかり、ブラダミロの言いたい放題にはさせておかなかった。やにわにかたわらの強弓をつかむや、長くていかにも鋭い矢をつがえ、弓手(ゆんで)のかぎり弦も切れよと引き絞って、一気に放ったのである。ねらいは寸分もあやまたなかった。矢は猛然とブラダミロの大口を襲い、そこをふさいで舌の根のうごきを封じたのみか、魂をえぐり出し、さらには並いる者すべてのど胆をぬき、まさしく唖然とさせ、魂消(たまげ)させたのである。
見事といえば見事な腕前であった。が、あまりにも無謀な一矢、それ相応の報いは避けられなかった。というのは、ペリアンドロを運ぶ海上で荒波にのまれたあのコルシクルボに一子があったが、その者が矢よりも自慢の韋駄天(いだてん)走りで太守めがけて突進し、ふりかざした短剣を、ズブとその胸に食らわせたからである。石剣とはいえ、鋼鉄にまして鋭い切っ先であった。
太守はその場で瞼をとじて常夜(とこよ)に入り、その死によってブラダミロの仇討ちは成就した。しかし、これは双方の一族の胸奥に憎悪の火をはなち、手ん手に武器をもたせることとなった。復讐心にあおられた者たちのあいだに、一矢をむくいれば一矢がみまう、死の応酬の火蓋(ひぶた)がたちまちにして切られたのである。矢種はつきても腕や刃はつきず、父子兄弟の絆さえまっぷたつに裂かれた、文字どおり血で血をあらう凄惨な戦いとなった。あたかも不倶戴天(ふぐたいてん)の敵のごとく斬りむすび、鎬(しのぎ)をけずり、和睦(わぼく)の余地はまったくなかった。
矢交い血煙る殺戮のまっただなかで、老女クロエリア、通詞の娘、ペリアンドロ、アウリステラは身を寄せあって怯え惑うばかりである。
と、狂乱のさなか、おそらくブラダミロの側に与(くみ)する者であろう、幾人かが飛ぶように修羅の巷をくぐりぬけるや、太守の私有地とおぼしき隣接の森に火をはなった。木立ちはまたたくまに猛火につつまれ、折りからの強風にあおられて、あたり一面は見る見る火の海と化した。このままでは、目を焦がされるどころか、ひとり残らず灰燼に帰すことも避けられまい。
すでに日は暮れ果てようとしていた。かりに夜というものがもともと白昼のように明るいものであったとしても、この夜ばかりは真暗であったろう、いわんや本来が漆黒のとばりであってみれば、この夜の闇は一層ふかいのだ。そのとばりをつんざいて、断末魔の絶叫、威嚇、罵倒、猛火の炸裂音がとどろいた。しかし、激怒と復讐心の煮えくりかえる蛮人たちの胸中には、それが恐怖となって入りこむ隙間はいささかもなかった。だが助けをもとめることもできず、途方に暮れて身を寄せあう者たちにとっては、胆の凍える恐怖であった。
しかし進退これきわまっても、神は彼ら四人をお見捨てにならなかった。奇跡としか思えない、意外なことがおきたのである。
日はとっぷりと暮れていた。それはすでに述べたように気味悪い闇で、光といえば森の火のみが物のありかを認めるに足る光をくばっているだけだった。このころである、ひとりの蛮族の若者がペリアンドロに近寄って、彼にもわかるカスティリャ語で話しかけてきた。
「むすめさん、わたしについておいでなさい。お連れのかたがたにもそう伝えて。うまくいけば、お救いできます」
ペリアンドロは無言でそれに応じ、アウリステラとクロエリア、そして通詞の女にもためらわずについて来るよう促した。こうして一行は累々たる屍(しかばね)を踏み越え、散乱する弓矢をまたいで若者のあとに従うことになった。森の火が背後から風を吹きおくって一行の足を軽くしたが、老齢のクロエリアと妙齢のアウリステラの二人は遅れがちであった。そこで若者はその筋骨たくましい肩にクロエリアをのせ、ペリアンドロもアウリステラをかつぎあげた。しかし通詞の娘はなかなかの健脚で、まだ元気もあり、男の足にぴたりとついていた。
こうして、文字どおり倒(こけ)つ転(まろ)びつ海へたどりつき、磯づたいに一マイルほど北進したところで、四人は大きい洞穴の中へみちびかれた。干満に応じて潮の出入りする道であった。奥へ進むほど曲りくねり、広く狭くなり、立っては歩めず屈(かが)んだり這ったりするところもあった。やがて、らくに足を運べるようなところに来た。外界へ出たらしい。そんな気配がしたとき、若者の口から、野原へ出たと聞かされた。闇夜のことであったし、山々をなめつくそうとする猛火の火照(ほてり)もそこまでは届いていなかったから、ペリアンドロたちが洞穴から外界へ出たことに気づかなかったのもうなずける。
「よかった!」若者はこのときもカスティリャ語で言った。「神のおかげです。ここまでくれば、もう大丈夫」
ところがこのとき、巨大な光芒が彼らにむかって飛来するのが見えた。彗星か、それとも宙を駆ける物の怪(け)か。若者がその謎を明かさなかったなら、一行は背筋が凍ってその場に立ちすくんだにちがいない。
「あれは父です。迎えに来てくれたのでしょう」
そこでペリアンドロは、たどたどしいながらもカスティリャ語で言った。
「どなたかは存じませんが、ほんとうにありがとうございました。あなたはわたしたちの命の恩人です。わずかばかり死期がのびたに過ぎないとしても、何とお礼を申しあげてよいやら」
まもなく、光の玉がその場に着いた。五十がらみの、蛮族らしい男が大きい炬火(たいまつ)をかかげていたのだ。彼はそれを地面に立てた。こうして父は息子を抱きしめて迎え、カスティリャ語で、連れがあるようだが何があったのかとたずねた。
「父さん」息子が言った。「早く帰ってお話ししたり、ご相談しなくてはならないことがあります。大変なことになりました、島は火の海です。ひとはほとんど灰になったか、焼け死にました。父さん、急ぎましょう。お連れしたのは、火の粉と蛮族の刀から、さいわいぼくがお救いできたひとたちで、どなたもお疲れのうえ、とてもご心配のようですから、母さんたちにお願いして安心させてあげましょう」
父親が先頭に立った。クロエリアは元気を取り戻していて、もう他人の背をわずらわさなかった。だが、ペリアンドロは美しい肩の荷をおろそうとはしなかった。アウリステラは彼にとって掛け替えのない宝なのだ、なんで重かろう。
やがて、絶壁の立ちはだかるところへ行き着いた。その根元は奥深い虚(うろ)で岩屋になっており、岩がそっくりそのまま屋根であり壁でもあった。そこから、蛮族のみなりをしたふたりの女があらわれた。十四、五歳の娘と三十歳そこそこの女で、そろってうつくしい。少女はとくに綺麗だ。
その少女が声をかけた。
「父さん、兄さん、お帰りなさい」
「お帰り。無事でなによりだわ」
いっぽうの女もこうしか言わなかった。
しかし通詞の娘は、蛮族らしい女の口からこの島では聞き慣れぬ言葉を聞かされてひどくおどろいた。どこで覚えたのか。それをたずねようとした。しかしちょうどそのとき父親が、岩屋の床に毛皮を敷くようにと出迎えのふたりに言いつけたので、そのまま問うきっかけを失った。ふたりは壁に炬火を立てかけ、てきぱきと動いて、言いつけどおり岩屋の奥の間から山羊や羊などの毛皮を出して床に敷きつめ、おいおい厳しくなる冷えにそなえた。
第五章――蛮人島のイスパニア人が客に聞かせた身の上話
夕餉は簡単で粗末なものであった。とはいえ、安堵(あんど)の胸を過ぎる食物には格別の味があった。新しい炬火(たいまつ)をともすと煙りはしたが、部屋はいちだんと暖かくなった。夕餉を盛る器は、銀製でもピサの名陶でもなかった。蛮族の兄妹などは掌(たなごころ)を皿にしていたし、椀(わん)などもコルクよりはいくぶん見栄えのする樹皮にすぎなかった。それに、名酒処カンディア(1)からはなにしろ隔絶の地のことゆえ、冷えわたる岩清水が代って膳をにぎわした。
クロエリアは瞼がおもくなった。人と人との語らいがどんなに楽しいものであるにせよ、老いの身には眠りが至上の友である。
年嵩(としかさ)の女が奥の間に床を延べてクロエリアをやすませた。敷くのも掛けるのも獣の皮であった。この女が席に戻るのを待って、イスパニア人がカスティリャ語で語りはじめた。
「まずわたしからお話ししましょう。先にそちら様のお身の上をうけたまわるのが順序かと思いますが、あとを受けるわたしが自分の話に身をいれすぎて、うかがったことが聞きっぱなしになって印象がうすれては失礼にあたりますから。
ところでわたしは、幸運にもイスパニアのさる由緒ある土地(くに)に生れました。親はひととおりの身分の者でしたから、なに不自由なく育てられ、長じては諸学への門戸たる古典学をかじるようになりました。ところが、星は文芸より武芸の道を照らすこととなり、若い盛りをケレス神やバッカス神とはまじわらず、ウェヌス神(2)もわたしには愛想をつかしていたようです。そんなわけで、もちまえにひかれるまま郷里を出て、皇帝カルロス五世陛下のドイツ諸侯誅伐(ちゆうばつ)の軍に加わりました。かの地では武運(マルス)の後盾(うしろだて)にめぐまれて、天晴れな武者よとうたわれもし、陛下のお誉めにもあずかりましたが、なによりの収穫は良き友を得、寛(ひろ)い心と嗜(たしな)みの大切を教えられたことです。キリスト者軍神(マルテ)が指南する学びの庭の徳目というのがこれです。
こうして一廉(ひとかど)の者と認められ、そこばくのたくわえもできたころ、まだ達者でいた両親の顔を見たいとか友人との旧交もあたためたいとかで、しばらく国もとへ帰っておりました。ところがこのあいだに、あの運命という得体の知れぬ女神がわたしのやすらぎを妬むあまり、その掌にあるという輪をまわし、いわば頂点にいたわたしをいまのどん底へ振り落すことになったのです。そのとき女神がさしむけた手の者というのが、隣郷を治める有爵(テイトウロ)(3)の次男坊で、騎士(4)にも叙されている男でした。
この者がわたしの村へ祭見物にきて、郷士(5)や騎士の仲間とともに広場にたむろしていたときのことです。たまたま居合せたわたしにむかって、せせら笑いなど浮かべながら、親分風をふかせて、
『アントニオとやら、箔(はく)をつけたな。フランドルかイタリアか知らんが、弾(たま)の下をくぐるだけでそうも貫禄がつくものか。いや、でかした、気にいったぞ、アントニオ』
と声をかけてきたのです。そこでわたしは、
『おおせのアントニオめに相違ございませんから、お言葉は身にあまる光栄と存じます。しかしながら、御前様(ごぜんさま)、御領内の民びとや御家来衆をお誉めになる術(すべ)としてならそれらしいお言葉と申せましょうが、そもそもわたくしめの一分(いちぶん)はフランドル出征の以前からこの身にあてがわれたものです。あまつさえ、母の胎内をくぐりぬけた日以来、賤しからぬ氏素性(うじすじよう)を継いでいるわたくしでございますから、いまことさらに持ち上げられる理由は言うまでもなく、おとしめられるいわれもないと考えます。さりとて、御前様の良き僕(しもべ)でありたいと願う気持にいつわりはございませんゆえ、至らぬ者ではありますが、相応の面目というものを立たせてやっていただきとうございます』
とこたえました。するとそばにいた郷士で、わたしの親友であった男が、騎士にも聞える声でこう言ったのです。
『アントニオ君、そこまでへりくだることはないよ。だいいちここはイスパニアなんだから、ドン某(なにがし)に御前様(ごぜんさま)はへんだ』
これに対して、わたしより先にその騎士が、
『なに、あれでいいんだ。アントニオはおれをイタリア風に呼んだにちがいない。むこうではあなたが御前(ごぜん)になる』
と言ったので、わたしは、
『わたしはこれでも礼儀と言葉づかいは、ひととおりわきまえているつもりでおります。御前様(ごぜんさま)を御前(ごぜん)とお呼びするのは、だんじてイタリアかぶれからではございません。わたくしをおまえと呼び捨てて憚らぬおかたである以上、イスパニア流にお呼び申し上げても御前(ごぜん)であらせられると思ったまでのこと。それはそれ、わたくしとて一郷(いちごう)を預る者の子であり、そこそこの功労(はたらき)によってかくあるかぎり、御前(ごぜん)と呼ばれてしかるべきものと自負しておりますので、その儀をわきまえぬ者は……』と、腰の物に手をかけ、
『身のほど知らずの無礼者』
と言うが早いか、抜く手を見せず、脳天にしたたかな一太刀をあびせました。面喰らった相手には事のさまが飲みこめず、しばらくは刃向かうどころではありませんでしたので、こちらから抜き身を構えてあおりたてました。するとようやく事態に気づいたか、辱(はじ)をすすごうと剣をとって果敢なところを見せたのですが、それ以上手をくだすまでもなく脳天の出血が激しくて、その天晴れなこころざしもむなしくなり、どっと崩れ伏しました。
するととりまきの連中は殺気立ち、じりじりと迫り寄っていまにも切りかかってきそうでしたので、わたしはその場を逃れて両親の家へ退きました。父母はわたしの身の危険をいち早く察して、敵は数を頼んで手強いからとりあえず国を出て身を隠せと言い、路銀と俊足の馬を用意してくれました。わたしは忠告どおりひそかに家を抜け出し、二昼夜ぶっとおしで馬をとばしてアラゴンまで逃れ、そこでこの空前の急行軍に一息いれたあと、さらにあわただしく馬を走らせてドイツへ、そこで陛下の軍へ復帰しました。
ところが、そこへもあの騎士が大勢の追手をひきつれてあらわれたという情報が入ったのです。どうでもわたしを殺さずにはおかないという執念です。これにはさすがに身の毛がよだち、再びイスパニアへもどりました。敵の懐中こそ一番安全な隠れ家だと思ったからです。そして闇にまぎれて両親に会って、路銀と金目(かねめ)の品をふたたび用意させ、その足でひそかにリスボンへとんで、イギリス行きの出帆まぎわの船をひろいました。船にはイスパニア観光を終えたイギリス騎士の一行が乗り合せていました。イスパニア国を隈なくとはいかぬまでも、名の知れた都市はたいてい見物したとかで、帰国の途についたばかりの連中です。
ところが、わたしは船上でも些細なことからイギリス人の水夫といざこざを起し、そいつをぶん殴ってしまったのです。この一発が起爆剤となって、仲間の水夫だけでなく乗組員がいっせいに騒ぎはじめ、わたしにむかって手当りしだいに物を投げつけてきました。わたしはあわてて船尾楼へ逃げ込み、そこに居合せたイギリス人の騎士を楯にたのみました。おかげでその場はなんとか無事におさまったのですが……
騎士たちのとりなしがあって連中は鎮まりましたが、それには一つ条件が付いていました。わたしを海へ投げ込め、さもなければボートなり小舟なりにうつして、イスパニアへでもどこへでもさっさと帰してしまえ、というのです。
結局、ボートへうつされることになりました。水二樽とバター一樽、それに乾パンを少々あてがわれ、急場を救ってくれた騎士への礼もそこそこに、一対の櫂(かい)をかかえて乗り移ったのです。
船は消え去り、あとには暗い夜がやってきました。わたしは果てしない海にひとりぼっち、進路は波と風にまかせるしかありません。天を仰いでひたすらに祈りました。北極星をにらんで方位の見当だけはつきましたが、位置はつかめません。それでも六昼夜は漕ぎ続けました。ただし、腕に望みを託したわけではありません。神頼みというほうが当っているでしょう。しかしなにしろ漕ぎっぱなしですから、そのうち腕は馬鹿になってきて、言うことをきかなくなります。やむをえず櫂はとりはずして引っ込め、腕の回復と海のおだやかになるのを待つことにしました。
そうしてあおむけになり、目をとじ、黙祷して、天上のありとあらゆる聖者に救いをもとめました。ところがいつのまにか、途方に暮れていることが嘘のようにひどく睡気がさし、五感がもうろうとなり、まどろんでいるうちに眠りこけてしまいました。人間の本能というやつには感心します。しかしながら、昏々たる眠りの中へも厄介なものが侵びこんできました。夢魔というやつです。そいつが入り込んで、千姿万態にわたしの死にざまを現じたのです。どれもこれも惨々な死にかたで、大半が水難でしたが、なかには狼に食われたり猛獣に引き裂かれるのもありました。寝ても覚めても死神がまつわりついていた、というわけです。
ところがつぎには、この安らかならぬ眠りを破って、不意に大波が襲ってきました。雲をつく山のようなうねりです。船は見る見る水びたしになってしまいました。そいつを大慌てで掻い出し、再び櫂をつかって漕いでみたのですが、まったくその甲斐がありません。その辺の海はアブレゴ(6)の名で知られる南西風の繩張りらしく、そのときもそいつが大暴れにあばれ、笞打たれた手負いの海が狂ったように逆立っていたのです。これを笹舟のようなボートで乗り切ろうというのがどだい無理な話なので、じたばたしても始まらない、と腹をくくりました。そこでまたまた櫂をおさめて、もとどおり波と風の好きにまかせることにしたわけです。
しかし、そのあいだに称えた波題目(なみだいもく)やら願掛けは数知れず、わたしのこぼす万斛(ばんこく)の涙を加えて、海は一層高くなりました。ただし、死に臆して流した涙ではなく、因果のむくいをいまさらながら思い知らされて泣いてしまったのです。
こうして幾日、幾夜たったでしょう、ますます荒れくるう海を漂流するうちに、とある島へと流れ着きました。岸には狼がうようよしているばかりで、人間の住む気配はありません。だから上陸はあきらめ、狼を避けるために岩陰へボートをまわし、そこで乾パンなどをほおばりました。ぶよぶよに湿っていましたが、空きっ腹にまずいものはありません。夜は前夜よりも明るく、波もおだやかになっていました。どうやら気持よい明朝(あした)を迎えられそうだし、空には星さえまたたいて、海路の日和は約束されているようでした。
このとき岩陰から上を見ると、浜辺にいた狼どもが薄明(うすあかり)のなかに群らがっていました。ところがそのうちの一頭が口をきいたのです。ほんとうに、しかもそれがまぎれもないイスパニア語で、
『おい、イスパニア人、食い殺されたくなければさっさと立ち去れ。よそへ行って運をつかめ。わしのことを何者であるかなどとは詮索するな。ただ、畜生にも情のあることだけはありがたく思え』
これが驚かずにいられましょうか。とは言っても、腰を抜かしたわけではありません。忠告にしたがって沖へ漕ぎ出すだけのゆとりは残っていました。なにしろ命の瀬戸際のことですから、くわしいことを覚えておけというのが無理でしょう、さっぱり記憶にありませんが、そのまま生死の境を行きつ戻りつする思いで何日か漕ぎ続けました。ところが、ある日すさまじい疾風に巻き込まれ、気がついたらこの島にいたのです。ほかでもない、先ほど潜りぬけておいでになった洞穴のあるところです。あそこにボートが漂着していたわけです。洞の中は船底がつかえるほど浅かったのに、返す波が激しくてボートを沖へ引き戻されそうでした。
そこで下りて水に入り、砂地に足をふんばってボートをつかまえていました。それでも結局、残念ながらボートは攫われてしまいました。まさしく取り返しのつかないことになったわけです。命もろとも攫われたも同様です。しかし、ものは考えよう、ボートがなければ少なくとも水難の心配はなくなる、おれはいま陸地に立っているのだ、と思うとかえって心が安んじてきました。命あっての物種(ものだね)、生きてさえいれば救われる望みもあるというものです」
さてそのみなりから、夷(エビス)を冠(かぶ)せて夷(エビス)パニア人と呼べそうなこの男の身の上話がここまできたとき、クロエリアが眠る奥の間から絶え入るような呻き声が聞えた。アウリステラとペリアンドロが先に立ち、明りをかざして様子を見にいくと、クロエリアが毛皮に座ったまま壁に寄りかかっていた。生気の失せたその目が天井に釘付けになっている。
アウリステラはすがりついて、いたわりの悲痛な声をかけた。
「ばあや、なぜ。いやよ、そんなことってあるの、わたしをひとりぼっちにするなんて。これからわたしはどうしたらいいの、ばあやだけが頼りなのに」
老女クロエリアはかすかながら意識を取り戻し、アウリステラの手をにぎりしめて言った。
「ばあやだって、どんなにかお嬢様のことを……お嬢様のご無事を見届けるまでは、どんなことがあっても生きながらえとうございますが、それが神の御意にかなわぬことなら、慎んで服します。お嬢様が運よく国もとへお帰りになれましたなら、いいえ、きっとお帰りになれます、そのときはばあやの両親に、すでに他界しておりますれば血筋の者にでも、ばあやのことを、イエス・キリスト様とその御神体である聖ローマ・カトリック教会の御教えをまっとうして往生したとお伝えください。これでお別れです、もう声が……」
これを最後に老女は主の御名をとなえながら瞑目(めいもく)して、か黒の闇に入った。乳母の死をいたむアウリステラの目の前も真暗になり、気を失ってくずおれた。見守るペリアンドロの目も泉となって光るものをたたえた。一同も涙の川にぬれた。やがて、彼女は彼の腕のなかで意識を取り戻したが、涙はふたたび堰(せき)を切り、慟哭(どうこく)はひとしお激しくなって、あたりの岩さえ貰い泣きをした。
埋葬は翌日ときまり、蛮族の兄妹を死者の枕辺にのこして、他は短い残夜をねむることとなった。
第六章――夷パニア人の身の上話が続く
日の出はいつもより遅いようだ。島の劫火(ごうか)はいぜんとして燃え続け、その煙が陽光をさえぎっていたのである。
夷(エビス)パニア人は息子を島の偵察に出した。それは日課のようにもなっていた。
ペリアンドロたちは寝つけなかった。アウリステラが乳母の死を悼(いた)んでまんじりともしなかったので、ペリアンドロは夜明けまで彼女に付き添った。ふたりで岩屋の外へ出て、あたりを見まわした。一帯は、大自然が造成したものであるのに、まるで人の手のたくみが加えられたかのごとく、実にみごとに出来あがっていた。そこはそそり立つ裸岩にかこまれた円形の地であった。周囲はざっと五、六キロ。野生樹が一面に生い立ち、味はさておき、食用になりそうな実をたわわにつけている。また草原がひろがり、ゆたかな岩清水にうるおって、ふかい緑にもえていた。
ペリアンドロがこの景観に見とれているところへ、夷パニア人が声をかけた。
「おふたりともこちらへおいでください、クロエリアさんを葬ってあげましょう。それがすんでから、身の上話の続きをお聞かせします」
ふたりはそれにしたがい、岩のくぼみに土や石を積みあげてクロエリアを埋葬した。そのときアウリステラが、故人がキリスト教徒であったしるしに十字架を立ててやりたいと希望し、それを聞いて夷(エビス)パニア人が、岩屋にある大きい十字架を墓標にしてやろうと申し出た。そして、いよいよ墓前に冥福を祈って故人との別離のときがせまると、アウリステラはまたも泣きくずれ、さそわれてペリアンドロも涙を禁じえなかった。やがて一同は、前夜をすごした岩屋へ戻って厳しい寒さを避け、そこで、島の様子を見にいった若者の帰るまで、ふたたび夷パニア人の身の上話に耳をかたむけることとなった。語り手はやわらかい毛皮に席をとり、静聴をうながして前夜の糸をたどった。
「さて、わたしは返す波にボートを攫われました。浅瀬においてきぼりです。すなわちすでにお聞かせしたように、もろともに故国(くに)へ帰れる望みを攫われたともいえるでしょう、それっきり、いまだにそのボートをとりかえせる見込みが立たないわけですから。それはさておき、やむなく洞穴をどんどん奥へはいって行くと、やがてこの土地へ出ました。そして何たることだ、わが不運の生涯は大自然が造営したこの劇場で一大悲劇として上演されるのか、などと思いながらあたりを見まわすうちに、人間の住む気配のまったくないことが分りました。山羊や小さい生き物が目にとまるだけなのです。しかし、しばらく一帯をさぐっているとこの岩屋が見つかったので、さしあたっての棲(す)み家(か)にさだめました。
それからあたりをくまなく歩きましたが、一体ここはどこだろう、地名だけでも知りたいがたずねる相手はないものか、もしや人声でもと思って、もときた洞穴をひきかえしました。するとありがたいことに、神がわたしをお見捨てではなかったことが分りました。人間がいたのです。十四、五歳になる蛮族の娘が、磯の岩間伝いに五色の貝などの海幸(うみさち)を漁(すなど)っているところでした。娘はわたしに気づいたとたん、集めた貝を投げだして立ちすくみました。わたしはそばへ行っていきなり抱きあげましたが、よほどおどろいたと見えて声もたてません。そこでわたしは娘を抱きかかえたまま洞穴をくぐりぬけてここへ戻り、娘をおろしてから、手に接吻したり顔を撫でたり、身振りや手真似をつくして危害をくわえる意志のないことを伝えました。
すると娘は、しばらくは穴のあくほどわたしを見つめていましたが、しだいに馴れてきたのです。そのうちわたしのからだをあちこち触りはじめ、やがてすっかり安心しきった様子で笑い声さえ洩らし、しまいには抱きついてくるほどになりました。そしてふところから、麦で作ったものではありませんが、パンのようなものを取り出してわたしの口に押しこみ、島の言葉でなにやら話し掛けてきました。後日分ったのですが、食え、と言ったそうです。もちろん食べました。なにせ腹が空いていたのです。次にはわたしの手を引いて、あの小川まで連れ出し、手真似で水を飲め、と言いました。見れば見るほどかわいい娘です。蛮族の娘は仮の姿でじつは天使ではあるまいか、そう思ったほどかわいいのです。
岩屋へ戻るとわたしは、ぜひまた来てくれるように頼みました。それも手真似だけではこころもとなくて、通じないのは承知の上で言葉を混じえて熱心に頼んだのです。それから、あらためて娘を抱きしめました。すると今度は無邪気に額にくちづけなどし、きっと戻る、という仕草をみせました。
娘が去ったあとあらためてこの辺を歩き、木の実の種類や味をたしかめました。ありがたいことに、胡桃(くるみ)、榛(はしばみ)、梨が多く、これならどうにか命をつなげる、と思うと急に元気がわいてきました。その夜はここで過しましたが、朝が待ち遠しくてたまりません。明けてからも、今か今かと娘を待ちました。しかし、蛮族の島だとするとほかにも蛮人がいるわけだから、会いに来ると見せかけて、仲間に引き渡すつもりではあるまいか……そんな心配もつのりましたが、結局のところは取り越し苦労でした。東雲(しののめ)を背に、その黎明さながらに美しいあの娘が、わたしをとらえる仲間を引き連れてではなく、食物を山とかかえて小羊のように従順に戻ってきたのです」
勇猛なイスパニア人の話がここまできたとき、息子が偵察から戻った。島は丸焼け寸前だし、住民は矢刃(しじん)と火炎の餌食(えじき)となって全滅に近いと言う。焼死をまぬがれたのは、わずかに筏で海へのがれた者たちだけらしい。島を脱出するなら今だ。火の手のまわらない場所へいったん出よう。そこで、この呪わしい島からの脱出方法を考えよう。近くに、ここより温順な蛮族の島がある。場所を移せば運も変るだろう。
「まあ落ち着け。父さんの身の上をお聞かせしているところだ。苦労はとても語り尽せないが、あとすこしで切り上げる」
「でも、お疲れでしょう」年嵩(としかさ)の女が口をはさんだ。「話がずいぶん長引きましたから、あなたもお疲れでしょうし、みなさんも退屈なさったと思いますわ。あれからわたしたちふたりの間にあったことなら、わたしにまかせてくださいな」
「いいとも」イスパニア人がこたえた。「おまえの語りっぷりも披露してもらおう」
「それでは」といって女は語りはじめた。「その日からわたしはここへ足繁く通うようになり、そのうちに夫との間に、この子たちが生れても不思議ではない仲ができました。このひとを夫(おつと)と呼ぶのは、このひとのいう真のキリスト教徒のならわしどおりに、このひとがわたしのすべてを知るのに先立って、夫婦をちぎったからです。ふたりはたがいに言葉を教えあい、このひとはカトリックの教理も説いて、あの小川でわたしに洗礼を施してくれました。国もとの習慣だという儀式こそ略しましたが、このひとは諳(そら)んじていた信仰告白をとなえ、わたしは霊魂に証印を刻まれて信仰を自覚しました。わたしは異なる三位格、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体を信じます。そして、その総体が唯一真正の神であらせられること、つまり父も子も聖霊もそれぞれが神でありながら、異なった三柱ではなく唯一真正の神であることを信じます。また、地上における神の代理人であり副王であらせられる教皇が、聖霊の統治下で管理あそばされるローマ・カトリック教会の考え、かつ信じるところを信じます。つまりキリスト様のあとの世の初代法皇、すなわちキリスト様の花嫁たる教会の初代教皇聖ペドロ様、このおかたの正統な後継者を首長とする聖ローマ・カトリック教会が考えかつ信じるところを信じます。天の門の女王にして天使とわれらの元后、父には宝、子には形見、聖霊には愛、罪人には救いでありまた頼みでもあらせられる生涯の聖処女マリアの事蹟や、そのほかのことも、このひとからおそわりました。それをいちいちあげずとも、わたしがカトリック教徒であることはおわかりいただけると思います。愚かで迷いがちなわたしが粗野な魂をこのひとにあずけると、主よ、感謝します、このひとは慎みを知る敬虔な魂にして返してくれたのです。こうして晴れて身をささげ、ごらんのようにこのひとの子供をみごもって、まことの神をたたえる者の数をふやしました。島にふんだんにある金塊や、以前から貯えていた真珠を折(おり)をみて運んできたのも、いつかこの牢獄のような島をぬけだせる、そしてきっとごらんの十字架にまします主の羊の群にくわえられ、だれにもさまたげられずに安心してお祈りできる日が来る、と信じて待っているからです。主人のアントニオが話したかったのは、こんなところではないでしょうか」これが彼女の夫、夷(エビス)パニア人の名である。
「そのとおりだ、リクラ」これが蛮人妻の名である。
一同は波乱に富んだ身の上に三嘆を惜しまなかった。蛮族の母娘に強い共感をおぼえたアウリステラはもちろん、くちぐちに、かならず悲願成就の日が来ると言ってふたりを励ました。
息子も父親の名を継いでアントニオというが、このとき彼が、そのように悠長にかまえているときではないと言い、火勢は強まるばかりでいずれは山々をなめつくそう、その飛火にやられてはおしまいだ、早く脱出の手筈をと言って一同をせきたてた。
「わかった」と父親はうなずいた。
「わたしは」とそばからリクラが言った。「明後日まで待ったほうがいいと思うの。晴れて海が穏やかなら、目と鼻の先に島が見えますが、そこからときどき物売りが来ます。この島の品物と交換するわけです。それが明後日になっていますから、わたしが出かけて、たぶん向うの言い値になるでしょうが小舟を一艘わけてもらいます。島の人が残らず死んでしまったとすれば、舟を買うわけを聞きただす者もいないでしょう。とにかく、舟がなくては逃げようがありません。あなたがたは、どこか別の洞穴で火を避けていてください。でも、それにしてもただの丸木舟です。獣の皮で水は防いでありますが、あのひとたちも波のおだやかなときにしか出さないような舟ですから、時化(しけ)の絶え間がないという沖では危ないでしょう。ご存知の迷信を伝え聞いて娘や男を売りにくる船とはちがって、布を張ってありませんから、遠方へ出かけるのには向きません」
ここでペリアンドロがたずねた。
「アントニオさんはここに隠れ住んでからずいぶん経つのに、その舟で逃げ出す機会はなかったのですか」
「ありませんでした」とリクラがこたえた。「海岸の見張りが厳重で、わたしでも舟を買う交渉ができず、また買う口実にも困っていました」
「家内の申しますとおりで」夫があとをひきとった。「舟が頼りないからではなかったのです。しかし、千載一遇のこの好機をのがす手はありません。家内に火を逃れるという口実でとなりの島の商人と取引きさせ、舟と食料を買わせます」
一同はこれにしたがって岩屋を出た。火炎と矢刃(しじん)の爪跡は目をおおわんばかりであった。そこには非理非道や怨憎や憤怒などというものの焔(ほむら)がまじわるところにかならず現出する、死の百態があった。筏でからくも島をのがれた蛮人たちは、沖合いから家郷の大火をみつめていた。牢獄の島へむかう者もいる。
またアウリステラも、牢にとりのこされている者がいないか確かめたかった。しかしその必要はなかった。囚われのみなりをした二十人ほどの男が筏で渡ってきたのである。彼らは浜辺に接吻して無事をよろこんだわけだが、自分たちが助かったのは、ある蛮族の男が脱出の手引きをしてくれたからだと言った。
そして、蛮族の脅威が去ったのは火事のおかげだとその男から聞かされていたので、彼らは拝むように火を見つめた。
ペリアンドロたちは脱出者の一行を温かくむかえ、いたわりの手をさしのべた。苦労を語る者、言葉にならず黙している者、さまざまである。
囚われの人々を救出するほど情(なさけ)ぶかい者が蛮族の中にいたとは、また、筏で逃れた蛮人たちが誰も牢獄の島へ渡っていなかったとは。リクラは、それが信じがたいといった様子であった。
彼らによると、脱出の手引きをした蛮族の男というのは、一行にイタリア語でこの島の炎上を告げたのだが、そのさい、この島の金や真珠を奪って牢での苦労を埋めあわせるようにと勧め、自分も別の筏であとを追う、そしてここで落ちあって島を出る方法を考えようと言い残したらしい。
彼らは思い思いに身の上を語った。涙をさそう悲惨な体験もあれば、おもわず吹き出す話もあった。
やがて、リクラのいう舟が六艘ほどやって来て接岸したが、いっこうに買い手があらわれないので品物は陸揚げしなかった。そこへリクラが来て、積荷ぐるみ六艘とも買いとる交渉をしたのであるが、二艘を帰りの足にとっておいて四艘を売るという答で、法外な値をふっかけてきた。それでもリクラは岩屋から金塊をもち出して、欲しがるだけ払った。
こうして、牢をのがれてきた者たちに二艘、うち四人に別の一艘をあたえて、そこへ食料を積めるだけ積み込んだ。残る一艘にはアウリステラ、ペリアンドロ、アントニオ父子、佳人リクラ、賢女トランシラとそれにアントニオ夫妻の一人娘うるわしのコンスタンサが乗ることとなったが、出発を直前にして、アウリステラがいたましいクロエリアの亡骸に別れを告げたいと言うので、一行も付き添って墓前にひとしきり袖をしぼった。かくして一行は戻る磯辺への道で、さしぐむ涙を押えかねたが、脱出できる喜びも顔面にかくせなかった。やがて船に戻ってからは跪坐し、天を仰いで一心に無事を祈るとともに、水先の導きを乞うた。
こうしてペリアンドロたちを先手(さきて)にした無帆の船団はいよいよ沖をめざしたのであるが、このとき岸辺にいかにも身の軽そうな蛮族の男があらわれ、トスカナ語で一行を呼びとめた。
「キリスト教徒のおかたならお願いです、信徒のよしみでわたしも積んでいってください」
すると後続船のひとりが、
「あれは牢からわれわれを救ってくれた蛮人です。できれば」と先を行くペリアンドロたちに声をかけた。「わたしたちに代って、あの親切に報いてやってくださればありがたいのですが、同行させてやれないものでしょうか」
頼まれたペリアンドロは、食料を積んだ舟を戻して男を乗せるように手配した。
大喜びで歓声をあげて、恩人を迎えいれた一行の船出の櫂は軽い。
第七章
そのまま四マイルほど進んだであろうか、行く手に一杯の大きい渡海船が見えた。順風を満帆(まんぱん)にはらんで襲いかからんばかりの勢いである。ペリアンドロはつぶやいた。
「王子の船にちがいない。首尾をさぐりに戻ったのだ。見つからなければいいが」
二人の出会いも、示し合せのことも、すでにアウリステラの耳に入っていた。
彼女も困った。王子のもとへは帰りたくない。王子との一年間のことは手短ながらペリアンドロに伝えてあったし、王子がふたりの間柄を訝(いぶか)ることもあるまいが、万が一を思うと気が気ではなかった。加えて、王子というしたたかな恋敵を前にすれば、ペリアンドロが嫉妬することも火を見るより明らかだ。いまここでふたりを会わせてはまずい。とかく恋する者の胸は、悋気(りんき)に魅入られたが最後、愛の誓いや慎みの枷では鎮まらないものである。が、風がこの懸念を吹き払ってくれた。風向きが変ったのである。
渡海船はいったん素早く帆を巻きあげ、つぎの瞬間、ふたたび主檣帆まで張ったかと思うと、またもや追風にのって飛ぶように遠ざかって行った。
アウリステラは胸をなでおろし、ペリアンドロも安堵(あんど)の息をついたわけだが、同行の者たちの気持はちがう。あの大船に乗り移って、もっと安全で、らくな航海をしたいと願ったのだ。
しかしそんな願いをよそに渡海船は二時間たらずで水平線に没し、追跡も事止みとなって、さしあたっての進路を近くの島へ転じた。島は白雪の高峰を背負って浮かび、一見手を伸せば届きそうなところに見えたが、すくなくとも三十キロはあったろう。風に励まされ、櫂をとりなおした一行は、しだいに深くなる暮色の海原を島をめざして漕ぐ手を急がせた。
その間に蛮人島暮しのアントニオが北極星と大熊座の指極星を測定した。これによると、島に着いたのは深夜であった。寄せる波も返す波も穏やかでやさしい。一行は島の土を踏むと同時に、船を陸に引き揚げた。
ところが、凍てつくような夜の寒さを避ける場所が見あたらなかった。
ペリアンドロの指示で女たちは先手船(さきてぶね)に籠り、身を寄せ、抱きあって暖をとった。男は交代で寝ずの番に立ち、あたりを警(いまし)めながら朝を待つことにした。もっとも、明るくなれば位置も知れようが、住人の有無も分らないままであったので気が張りつめ、瞼はかたく、だれひとり寝つけそうになかった。そこでと、蛮人島のアントニオがやはり蛮人島に長かったイタリア人に身の上話を依頼し、眠れぬ夜をまぎらわすこととなった。蛮人姿であの島に住んでいたからには、さぞかし珍奇な話がと思ってのことである。
「承知しました。とは言いましても、とてつもない難儀の連続ですから、信じていただけるかどうか」
しかしペリアンドロが、
「なんなりとお話しください。世の中には想像を絶するようなこともあります。実際、わたしたちもずいぶんそんな目に遇ってきました」と水を向けると、
「では、この船でご婦人方に」と受け、「お伽噺(とぎばなし)のかわりにでもなれば幸いです。あるいは、かえっておやすみの妨げになるかもしれませんが、語り手のために泣いてくださるお方でもあれば、その涙のひとしずくで長い苦労も水に流せます」
「わたしは、どんなに」船の中のリクラが言った。「瞼は重くったって、長いあいだの御難儀御不運を聞けば、きっと他人事とは思えなくなって、涙が涸れるまで泣いてしまいそうだわ」
アウリステラも同じ気持をあらわした。男たちもこの舟をかこんで、全員が蛮人装束の男の話に耳を傾けることとなり、彼は次のように語り始めた。
第八章――ルティリオが身の上を語る
「わたしは名をルティリオと申します。故郷は、イタリアでもその名を知られたシエナの町です。ダンス教師としてけっこう受けがよく、わたしがその気にさえなっていれば運が開けようというところだったのですが……
この町に、さる財産家の騎士が住んでおりました。その娘というのが、お頭(つむ)のほうはともかくたいした器量よしで、父親はフィレンツェの騎士との縁談をすすめていましたが、頭のたりないところは花嫁修業で埋め合わせてやろう、とそんな親心がはたらいたのでしょう、それにはダンスがぴったりだ、ということになってわたしにお声が掛かりました。容姿の端麗、起居振舞(たちいふるまい)の艶美といったものを最大限に披露する稽古事としては品のよいダンスが一番ですから、年頃の、ましてや高貴のお嬢さんとしてはこれを習わないという手はありません。そんなわけでわたしにお呼びが掛かり、踊りの手解(てほど)きをすることになりました。ところがいまも申しあげたように、とにかく呑み込みの悪い娘でしたから、わたしとしては手足の所作を振り付けたのにとんだところを振り動かし、胸を踊らせ、心を寄せてきたのです。こちらもそれについ乗せられ、運命のいたずらというのでしょう、釣りこまれて恋のえじきとなり、果ては手に手をとってローマへ駆け落ちとあいなりました。それにしても、恋の道行(みちゆき)は高くつくものです。これがわたしの運の尽きとなりました。罪というやつは笞を背負って歩くようなもので、絶えずびくびくしながら逃亡を続けていたわけですが、案の定、父親が訴え出て追手がまわり、わたしは手が後へまわってしまいました。娘と口裏を合せて夫婦を言い張ってみたものの、御上は耳を貸さず、裁判の結果は情状酌量の余地なし、ということで死刑です。
牢ではわたしなどほんのコソ泥にすぎず、相部屋の連中はどれもこれも、したたかな悪事をはたらいたやつばかりでした。やはり吊るされるのを待っていたのです。
そこへある日、見知らぬ女がわたしを訪ねてきました。イスパニア語の魔女(エチセラ)に当るファトゥチェリエというやつで、同じ牢につながれていたところを、この女の薬草やまじないが病に効くというので獄長のおかみさんが、医者も匙(さじ)を投げた娘の難病をなおさせるために請け出したとか。
へたの長談義にならないうちに、かいつまんでお話しいたしましょう。この女が、夫婦になるなら牢を脱(ぬ)けさせる、ともちかけてきたのです。手枷首枷、あとはぶらさがるのを待つだけという切羽(せつぱ)の際のことですから、もちろん二つ返事で承知しました。そうと決れば大船に乗ったつもりでいろ、さっそく今夜のうちに鎖も枷も解いてやる、邪魔者にはこだわるな、何としても脱けさせるから、たとえ幾百万の追手をくりだしてこようと恐れるには及ばない、手も足も出せないところへ連れていく、女はこう申しました。魔女どころか、救いの女神ではありませんか。晩になると、約束どおり女が来たわけですが、杖の先につかまれ、ついてこい、と言われたときにはさすがに尻込みしました。しかし、助かりたいの一心が先に立ちました。だから手招きに応じて足を運んだところ、枷も鎖も、そうです、解けていたのです。しかも牢中の扉という扉が開き、囚人も牢番も白河夜船だったのです。女は表へ出たところで地面にマントをひろげ、さあ、思い切って足を乗せろ、いまだけは神に祈るなと言いました。わたしはそのとき、これはいかん、空を飛ばされる、という予感がなかったわけではないし、これでも歴(れき)としたキリスト教徒ですから魔法に誑(たぶら)かされたわけでもありませんが、死ぬよりはましだと焼け糞で足をのせたところ、ムニャムニャ、と女は例の珍紛漢(ちんぷんかん)な呪文をとなえました。そのとたんに、すっと舞いあがったのです、マントが。おそろしいのなんの、胸のなかで片っ端から聖者の名を呼びました。ところが、女にはわたしの怯えが見通しのうえ、心中の祈りさえも聞えたらしく、それを強く制しました。
『そんな薄情な。神頼みもできないなんて、それではますますお先真暗だ。福の元締めは神様なんだから』
わたしはこうこぼしながら、結局目をつむって悪魔に身をゆだねました。魔女の乗り物は悪魔と相場がきまっています。
こうして四、五時間飛ぶと、見知らぬ土地のたそがれの空にさしかかりました。
やがてマントはこの地におりました。ところが、着陸するや、
『もう大丈夫、人間どもの邪魔は入らない』
と言ったかと思うと、女は矢庭(やにわ)にむしゃぶりついてきたのです。わたしはとっさに突き飛ばしました。ところが、よく見ると相手は狼だったのです。胆を冷やすどころではありません。狼狽(うろた)えて、歯の根も合わずふるえるばかりでした。しかし、人間死にものぐるいになると思わぬ力が出るものです。わたしはたまたま懐中にしのばせていた短剣を、抜きはなちざま、狼の胸をめがけてがむしゃらに突きました。すると狼はのけぞって倒れたのですが、みるみるその姿が変り、血を流しきって命根尽きたときにはあの魔女のからだに返っていました。思えば、あわれな女です。
こういうわけでわたしは結局ひとりぽっち、西も東も分らない土地に放り出されたわけですから、そのときの心境はご推察いただけるでしょう。とにかく、朝を待ちました。
ところが、待てど暮せど地平線に太陽のあらわれる気配はまったくなく、そのまま死体のそばにいるのも気味悪くなりましたのでその場を離れ、いらいらしながら星の動きに目を凝らしました。星座の位置から考えて、とっくに昼でもおかしくない時刻です。そんな不可解な時間がどれほど経っていたでしょう、ひとの話し声が聞えました。ごく近くです。さっそく駆けつけました。そして何よりもまず、ここはどこかと尋ねました。すると、わたしと同じトスカナ語で、
『ノルウェーです。でも、なぜそんなことを。このあたりでトスカナ語ができる人間はわれわれだけだと思っていましたが……どちらから』と問い返してきました。
『それが、とんだ災難で。命の恩人というのがとんでもない食わせ者だったのです』
わたしはそう答えて、マント飛行のことや、魔女を殺したことも手短に話しました。すると相手は、それは大変でしたねと同情を前置きにして、
『しかし、助かったのは不幸中の幸い、天佑(てんゆう)ですよ、感謝しなきゃ。この極北の地にはそういう妖しい術を使う魔女が跋扈(ばつこ)しておりましてね。しかも女だけではありません、妖術、魔法を使う手合いには男もいますよ。つまり、やつらが化けた狼には雄もいるということです。もっともやつらになぜそんな芸当ができるかはまったく不明ですし、カトリック教徒のわたしとしては、やつらにそんなことができるとも思えないのですが、一再ならずそういう体験を聞かされているうちに、まったくの作り話とも言いきれなくなりました。おそらく悪魔が幻を現じているか、あるいはこのへんの性悪(しようわる)なやからの忌(いまいま)しい行いに、神が祟(たた)るというか、天罰を下されるのでしょう』
それにしても一体何時ごろなのか、このようすでは夜が延々と続いて一向に明けそうもないがとたずねると、相手がこたえるのにこの北辺の地では一年は四分され、ぜんぜん日を拝めない暗夜の三月(みつき)、日の出前の薄明の三月、お天道様が顔を出しっぱなしで昼間ばかりの三月、それに日没後の薄明の三月になるとかで、そのころは日の出前の薄明の時期に当る、ということでした。いくら待っても日が昇らないはずです。それから、すぐには国へ帰れないだろう、とも言いました。イギリス、フランス、、あるいはイスパニア方面へ向かう商船があるそうですが、昼間の時期にしか出ないのです。
そのひとは、そういうわけだから帰りの便があるまでこの土地で暮すことになろうが、手に職はあるのかとたずねました。
わたしは踊りが商売で、とんぼ返りなら名人芸だし、手品をやらせても玄人(くろうと)裸足(はだし)だとこたえました。
すると相手は声を立てて笑い、そんなものは技術か商売か知らんが、いずれにしても、ノルウェーにかぎらず近隣のどこの国へ行っても流行(はや)らない、それより金細工の心得でもないのかとたずねました。
そこでわたしが、手先の仕事なら自信がある、手解(てほど)きさえしてくれればなんとかやれるはずとこたえたところ、
『そんなら、わたしのところへいらっしゃい。そのまえに、あなたに殺された哀れな女を葬ってやりましょう』
ということになり、女を埋めてから町へ行きました。往来を歩いて買物などをする人は手に手に炬火(かがりび)をかかげています。
わたしはみちみち、この国へはいつごろ、どういうわけで来たのか、イタリア人らしいが本当かなどとたずねました。
そのひとの言うには、先祖が商いに来てこの地で所帯を持ったのが始まりであって、国の言葉も子から孫へと代々に伝えられており、自分はその六代目に当るそうで、
『すっかりこの土地に根をおろし、かわいい妻子もおりますから、イタリアのことも、そこに住んでいると父母から聞かされている親類からも疎(うと)くなるばかりで、ここの暮しにとけこんでいる』ということでした。
結局わたしは、そのひとの店で働くことになりました。奥さんや子供のこと、おおぜいの使用人や財産のこと、それから受けた待遇のことなどは話せばきりがないでしょう、ただ二、三カ月の見習い期間が過ぎたころから食うだけは自分で稼げるようになった、とだけ言っておきます。
やがて、昼間ばかりが続く時期がそこまで来ていたある日、師匠でもある主人がこれまでのように近隣の島だけでなく、遠い国へも足を伸して大量の商品を届けることになりました。そこでわたしは、自分でこしらえた品が売れるし、めずらしい見聞もできるぞと喜び勇んでその伴(とも)を買って出ました。やがて実際、見るもの聞くものみなめずらしく、奇習異俗にふれておどろきっぱなしのきわめて楽しい旅がつづいたわけです。ところが、二月(ふたつき)ほど経ったとき、船は大時化(しけ)に巻き込まれ、そのまま四十日間も海上をふりまわされることとなりました。そして最後に、きょう脱出した蛮人島のすぐ近くで岩礁に乗り上げたのです。船は大破して、生き残ったのはわたしだけでした」
第九章――ルティリオの身の上話が続く
「まず目についたのは、立木に吊された蛮族の男の死体でした。蛮族の土地だ、そう気づいたとたん自分の死にざまが数知れず思い浮かび、一斉に目の前でまわりはじめました。どれもこれも真に迫っており、生きた心地はありません。
しかし窮すれば通ずとか、奇計を思いついて、まず死体のひとつを木から下ろしました。つぎに素裸になり、身につけていたものを残らず砂に埋め、死人の衣類を剥いでそれを着ました。ご覧のようにけものの皮を巻きつけるだけで、からだに合せて切ったり縫ったりしたものではありませんから、寸法のことは気になりません。
しかしみなりはこれでいいとしても、言葉が分らなくてはすぐに他所(よそ)者(もの)がばれてしまいます。そこでわたしは聾(つんぼ)と唖(おし)を装うことにし、島の奥へ奥へと、とんぼ返りを打ちながら飛ぶように走りました。
やがて、おおぜいの蛮人がいるところへ着きました。土地の言葉でなにやら口々に問いかけてきます。後日知りましたが、どこの何兵衛だ、どこから来てどこへ行くのか、といった内容です。わたしは口をもぐもぐさせたり、大袈裟な身振りを見せてこたえるふりをし、跳んだり、はねたり、宙返りをうって見せながら人垣を抜けました。ところが、子供たちは群をなしてどこまでも付きまとってきます。作戦は大成功だったのです。その日からわたしは蛮族の唖で通り、とんぼ返りや滑稽な身振りを見世物にして、集まる子供たちから食い物をもらうようになったわけです。そうやって三年の歳月、蛮族にまじって暮しました。一生いたとしても見破られなかったでしょう。
島の言葉は、好奇の耳をそばだてて聞いているうちに、おおかた分るようになりました。住民の信頼を一身に集める博識の老人がいて、子孫の大繁栄を予言していることも知りました。その老人の命じる胆だめしのために男を贄(にえ)にし、娘を買ったり攫ったりするのも、火事の日までこの目で見てきました。あのときは、火を逃れた足で牢へ駆けつけ、あなたがたに急を告げました。それから舟を見て海へ走り、こうしてお仲間に加えていただいたという次第です。ほんとうにありがとうございました。あとは運を天にまかせましょう。あのどん底から這いあがれたのですから、航海もきっと無事ですよ」
ルティリオがこう締めくくると、一同はしばし感慨にふけった。
アウリステラにはあの夜臨終のクロエリアから受け取ったものがあった。彼女はいまそれを取り出してペリアンドロに手渡した。二個の蝋の玉である。ダイヤモンドをちりばめ、値がつけられないほど豪華な十字架をくるんだものと、やはり値の知れない、二粒のつぶらな真珠を収めたものであった。
この兄弟はきっと高貴の出に相違ない。人品骨柄にそう頷かせるものがあったが、二個の珠玉を目の前にして一行はいよいよその感を強めた。
アントニオは夜明けとともに島の様子をさぐりに行った。しかし、行けども行けども深雪におおわれた山また山である。そこでやむなく引き返して、無人島らしいと報告し、さらに、冷気を避ける場所も見つからないので島を変えたほうがよい、食料も底をついたから補給を急ぐと言って一行を促した。
一行はさっそく舟を浮かべ、乗り組みを完了して、舳(みよし)を近くの島へ向けた。
どの舟にも櫂は二丁きりであったが、その二丁を精一杯はたらかせて進んでいるとき、後方の一艘から甘くやさしい歌声が流れて一行の耳を撫(な)でた。ポルトガル語である。アントニオはこの言葉をよく解したので、誰より先にそれを知った。
声はいったん止んだが、まもなくカスティリャ語で歌いはじめた。奏楽の伴(とも)はないが、静寂の海原を刻む櫂の音がその役を果している。せりふはこうだ。
海うらら、風からら、星さやか
船は行く、あなたは旅人、船たのし
麗しく大いなる安らぎの浦をたずね
なれぬ波路をいとわず、脚は軽く、胸は弾む。
スキュラ、カリュプソ、潮路に
ひそむ難所を越えてどこまでも
堂々の船の旅。守りの神は
汚れない志ひとつ。
港は遙か、望みはかすむ
それでも舵は曲げるまい
おろかな過ちおかすまい。
移り気は心にすむ大敵
こころざしを貫かずに
しあわせ手にしたためしはない。
歌が終ると、蛮族のリクラがつぶやいた。
「こんな大変なときに、気楽に歌などうたっていられるなんて、よほど暢気(のんき)なお方なのね」
が、ペリアンドロとアウリステラはそう取らなかった。暢気どころか深く恋を患っているにちがいないと思った。恋は互い、病む者の気持はなぜか通うものだ。そこでわざわざ一行の同意をえて声の主を同舟に加えることにした。すぐ側で聴きたかったし身の上のことも尋ねたかったのである。こんなときに歌が出るのはよほど思い詰めてか、さもなければ全くの無神経としか思えない。舷側を接し、声の主はペリアンドロたちの舟に温かく迎えられた。そして、ポルトガル語なまりのカスティリャ語で、
「あんな歌でもお耳に止り、こうしてお仲間に入れていただけたことを感謝します。しかし、この舟にご厄介をかけるのも、あとしばらくです。命の糸が心の重荷に耐えかねて、もう切れかかっています」
「なにをおっしゃる」とペリアンドロが励ました。
「神様がついていてくださるし、われわれだってひと様の苦労を見捨てる者ではありません」
「弱音をお吐きになってはいけないわ」アウリステラも言った。「闇が深いほど光が明るくなるように、苦しみが募るほど強くなるのがほんとうの希望というものでしょう。諦めるのは卑怯です。望みを捨てるのは臆病者のすることです」
「おかしな言い方かもしれませんが」ペリアンドロが言った。「歯を食い縛って、唇と歯の間に足を踏ん張ってでも、魂の逃げ道を塞いでください。広大無辺な神の慈悲を疑うのは冒涜です」
「道理です」声の主がこたえた。「苦しみはいつ果てるとも知れませんが、もっともなお言葉です」
漕ぐ手を休めず進むと、二時間ほどでめざす島へ着いた。まだ残照がある。ここにも人間の住む気配はないが、奥深く森が続き、木はたわわに実をつけている。旬(しゆん)を過ぎて多少しなびてはいるが、食えなくはない。
一行は土を踏むと同時に船を陸揚げにし、大急ぎで枝を刈り集め、夜寒を避ける小屋作りにとりかかった。みんなが入れる大きさでなくてはならない。枯木を擦り合せる周知の方法で、火をおこした。みんなが力を合せたので小屋はまたたく間に出来上がり、火の気が入って快適な住まいとなった。粗末な掘立て小屋でも、一行にとっては城である。やがて、飢えがいやされ睡気がさしたころ、ペリアンドロが、さきほどの歌の主から身の上話を聞きたいと言った。あのようなところに囚われていたからにはけっしてありきたりの境遇とは思えない、だからぜひその不運のあらましを語ってほしい、と水を向けたのである。
相手はよく礼儀をわきまえていて、繰り返し乞う労をとらせず、こう話しはじめた。
第十章――恋するポルトガル人の身の上話
「かいつまんでお聞かせします。ゆうべの悪夢が正夢なら、この話がわたしの生涯の幕を閉じることになるでしょう。
わたしはポルトガルの貴族で、豊かな資産と、そこそこの天分にも恵まれて生を受けました。名をマヌエル・デ・ソサ・コイティニョと申し、郷里はリスボン、軍人です。実家の垣根続きにはペレイラという、名門貴族の血をひく騎士が屋敷をかまえておりましたが、その家に、両親から行く末の杖とも柱とも頼られて、厖大な身代を継ぐことになっている一粒種の娘がありました。それは家柄、財産、器量、いずれも群を抜いて、国中の貴公子から妻に望まれていた娘ですが、わたしは隣どうしというありがたい立場にありましたので顔を合わせる機会も多く、いつしか深く恋に焦がれるようになっておりました。そして、おぼつかなくも彼女との結婚を考えはじめたのです。それからというものは、他の男に先を越されはしまいかと心配でたまりませんでしたが、口説きや贈物になびくような相手でないことは十分承知していましたから、わたしはそういう小細工はいっさいつかわず、身内の者を仲に立てて先方の両親に話を持ち込み、娘を貰い受けたいと率直に申し込みました。家柄や財産ではわたしの家もひけをとりませんし、年恰好も釣り合っていました。
返事は、娘レオノラはまだその年頃ではないからあと二年待て、そのあいだに無断でよそへやったりはしないということでした。
わたしとしてはがつんと第一撃を食らったわけで、この痛手に夢を破られ、彼女を諦めようかしらとも思いましたが、わたしには礼を尽して求婚しているという強みがあったので、その後も誰に憚(はばか)ることなく堂々と実のこもった愛の忠義を尽し、やがて町中が二人の間柄を知るようにもなりました。彼女はというと、慎みの城に籠ってどこまでも控え目ではありましたが、両親の許す間柄でしたから、相応の愛を寄せてくれたとは言えないまでも、こちらの気持を尊んで、疎(おろそ)かにはしませんでした。
ちょうどこのころ、わたしは陛下からベルベリアの要塞の総大将に抜擢されました。非常な大任です。そして出征の日が来ました。この日がわたしの命日にならなかったのは不思議なくらいですが、人間はしばらく会えないくらいで死んだり、憔悴したりはしないようです。その日、二年後のことで念を押すため、娘の父親に会いに行きました。父親は気のつく人でしたから、こちらの胸中を察し、奥さんと娘にも出征の挨拶ができるようにお膳立てをしてくれました。そのとき母親に付き添われて客間に入ってきた彼女の姿は、清楚とか優雅とか気品とかいうものの一切が、さながら化身となって現れたようでした。それほど美しいものを息のかかるほど近くから拝むことになったわたしは、あまりの感激で喉が詰り、声を出そうとしても舌がひきつって言葉にならず、口を開いたまま唖然と立ちつくすしかありませんでした。しかし娘の父親は、いまも申しましたように察しが早くおもいやりのある人でしたから、このありさまを見ると、わたしの肩をやさしく抱くようにしてこう言ってくれました。
『舌というやつは、いつよりも旅立ちのときが正直なんだよ、余計なことを言わないものね。こういうとき人の心を伝えるのは言葉ではない。どんな雄弁より、今の沈黙にきみの気持が一番よく表れている。心置きなく行きたまえ。きみが無事任務を果し、元気に帰還する日を待っているよ。あとのことは任せておきなさい。レオノラは聞き分けのいい娘だし、家内もわたしの希望に添ってくれる。わたしの気持はいま言ったとおりだ。わたしたち三人がこうなんだから、きみは何も心配しなくていい』
この言葉を胸に深く刻みこんで、わたしは片時も忘れたことがありません。生きている限り忘れないでしょう。奥さんとレオノラは黙ったままでした。
わたしはついに一言も語らずじまいで、そのままベルベリアへ渡りました。そして陛下へのご奉公をはたして恩賞にもあずかり、二年後にリスボンへ帰還しました。このころレオノラの評判は、リスボンはおろか国境を越えて遠くカスティリャ国へも達し、ほうぼうの貴公子から縁組をもとめる使者が殺到していましたが、なにもかも両親にまかせていたレオノラは、そういう縁談には少しも気を留めなかったようです。そこでわたしは二年後という約束でしたから、あらためてレオノラに結婚を申し込みました。
……いけない、急がなくてはもうだめです。死神が戸を叩いて、もうそこまで迎えに来ています。おしまいまでお聞かせできないかもしれません。なんとかお話しできれば、これまでの苦しみも報われるのですが……
ある日娘の親から知らせがありました。次の日曜日に望みのレオノラをやる、と言ってきたのです。わたしは狂喜しました。さっそく親類縁者や友人を招き、早々と引出物をくばって、三国一のレオノラをめとる男は自分だということを晴れがましく披露しました。そして当日、町のみんなに付き添われて聖母院という修道院へ行きました。花嫁はそこを式場にえらんで大司教の許可をとり、前日からわたしを待っていたのです」
傷心の騎士はここで一息つき、さらに続けた。
「修道院へ着くと、華燭の典の用意万端がととのっていて、町中国中の貴顕紳士の歴々がそろって出迎えてくれました。やがて神殿に楽音と合唱がひびき、回廊から三国一の花嫁のお出ましとなりました。修道院長をはじめ、幾人もの尼僧が介添役として従っています。つぶよりの真珠をちりばめた白繻子(しろじゆす)、錦紗(きんしや)に緑の透かしをあしらったカスティリャ・ドレス、身の丈(たけ)に余るすべらかしの髪は日を欺く金色で、帯、首飾り、指環の類は一国が天秤(てんびん)にかかるほど贅を尽したものでした。くどいようですが、これほど綺羅(きら)をみがき、豪華絢爛(けんらん)をきわめた千金万金を呼ぶ晴れ姿が、万場の御婦人方の羨望の的となったことは疑う余地がありません。
男たちも同様に息をのみました。わたしはと申しますと、自分が仮に世界に君臨する帝王であってもあまりにも過ぎた花嫁ではないか、と思って畏れがましくなったほどなのです。
神殿の中央には祭壇が設けてあり、祝賀の気分がたちこめるなかで、いよいよ式典がはじまりました。まず花嫁が壇上にのぼってその美しい姿を披露しました。満堂はこれを暁の雲に見まがい、伝えきく森の女神、清純のディアナの再来かと仰いだわけです。
くらべようがない、と言って口をつぐむ者もありました。わたしは天にも昇る気分で壇上にあがり、花嫁の足元に拝むようにひざまずきました。するとそのとき、ひときわ大きい声が響きわたり、それが音頭をとるように、会場のいたるところから一斉に、『新郎新婦殿、一日も早く子宝に恵まれて共白髪(ともしらが)、子々孫々の代までも仲むつまじく、お幸せに。心の城を嫉(ねた)み猜(そね)みに開け渡さず、ひとを恨まず幾久しく幸多く』という戒めや祝詞が掛かりました。町中が祝福してくれているのだ。わたしは喜悦満面でした。
ところが麗しのレオノラはわたしの手をとり、たかぶる声で、その場に立ったままこう言ったのです。
『父があなたに、あの日から数えて二年間はわたくしをどこへも縁(えん)づかせない、と約束したことはご承知置きのとおりです。そしてわたくしも、もし記憶違いでなければ、この世で連れ添う相手なら、あなたさまをおいてございませんと申し上げました。あれは、わたくしのような者にお寄せくださった過分のご好意、一途のお求めにほだされてのことでした。その約束を父はいまこうして果し、わたくしも自分の言葉を実行させていただくことになったわけですが、そのまえに、一言だけおことわりしておくことがございます。嘘というものは、たとえそれを相手のためによかれと思ってつかったり、あるいは一時の方便として言ったとしても、そのままほうっておくと勝手気儘にひとり歩きをはじめるものですから、思わぬところで真意に背き、罪をつくることになりかねません。だからわたくしも、あなたにお約束したことで誤解を招かないように、ここではっきりと申しあげます。実はわたくしには夫があるのです。その人が生きているかぎり、どんな事情があってもほかのおかたとは結婚できません。とは申しましても、この世の誰かに懸想(けそう)してあなたを裏切ったわけではありません。わたくしの相手は、天に座(ましま)すイエス・キリスト様です。神であり、まことのお人であるキリスト様がわたくしの夫なのです。あのおかたには、あなたより先にお約束しておりました。あのかたとの誓いには、嘘いつわりはひとかけらもございませんが、あなたに対しては言葉を装っていたにすぎません。固く心に決めていたわけではないのです。もちろん、地上の男性なら、かならずあなたをえらばせていただきますが、わたくしは天上からえらぶことにしたのです。そうなると、神様しかございません。これをもし裏切りとか無礼とかお思いなら、お気のすむまで罵るなり、ぶつなり存分になすってください。贈物や脅しで人の心は動きません。たとえ殺されても、わたくしは十字架のおかたに嫁ぎます』
こう言ったかと思うと、その場で修道院長と尼僧が花嫁衣装を脱がせ、垂れ髪に鋏を入れたのです。わたしは唖然となってそれを見つめましたが、やがてこみあげる涙をこらえ、悲しみをひた隠しにして、再び彼女の前にひざまずき、奪うようにしてその手にくちづけをしました。レオノラは憐れみ深いまなざしを向け、わたしのうなじに優しく手をふれました。そのとき、わたしは立ちあがって、満堂に響く声で言いました。
『マリア・オプティマム・パルテム・エレギト(マリアは善きかたを選びたり)(1)』
そしてそのまま、友人にかかえられるようにして家へ帰りついたのですが、この思いがけない事態は脳裏に焼き付いて夢寐(むび)にも忘れられず、家にこもったきり、気も狂わんばかりの毎日を送りました。そしていま、それがもとで命を落すことになったのです」失恋のポルトガル人はこう言って大きく吐息し、そのまま気絶して伏した。
第十一章
ペリアンドロが抱き起したとき、ポルトガル人はすでに事切れていた。思いもよらない、いたましい出来事であった。
「こうして永い眠りにおつきになった今」アウリステラがつぶやいた。「蛮族の牢につながれるという不幸の発端も、先日の夜のこともうかがえなくなりましたが、さぞかし辛い目にお遇いになったことでしょう」
これを聞いてアントニオがうなずいた。
「災難というやつはどこまでも執念ぶかくて、厄介払いがきかないようだ。地の果てまでも親友づらをさげて付きまとい、こっちがくたばるまでは、離れようとしないのだから」
一行はポルトガル人を手厚く葬ってやることにした。身につけていたものをそっくり昇天の衣とし、土のかわりに白雪を盛った。
十字架は肩衣の胸のもので間に合せた。それはクリストゥス騎士団(1)の十字架であった。故人が騎士であることはこれを見るまでもなく、人柄や物腰からほぼ知れていたので、その不運を思うと同情を禁じえず、墓前にしばし追悼の涙を供えることとなった。
そうこうするうち夜が明けた。海は鏡のように平らかで、やさしく人々を迎えようとしていた。一行は舟を浮かべて、悲喜こもごも、期待と不安のいりまじった心境のうちに、ふたたび、当てのない航海の途についた。
多島の海であった。だがたいていは無人島で、人が住んでいるところはあってもほとんど未開にひとしく、蛮族とかわらないほど粗暴な連中なのだ。しかし、それでも構わないではないか、迎えてくれるならすがりつこう、あとに残してきた雪と氷の険阻な峰々ほど冷酷ではあるまい。一行はそんな気にさえなっていた。
彼らは人間の住む気配のない無数の小島を縫うようにして、磯にも入江にも立ち寄らず漕ぎ進んだ。
ところが、十日ばかり行くと舟の浸水が激しくなり食料も底をついてきた。そこで、行く手の高峰を背負う島にむかって櫂をとりなおし、人間の腕力など知れたものではあるが、頼もしい神の後押しを得て目的の島へ辿り着いた。見ると海岸を男がふたり歩いている。トランシラが大声でその島の名を訊いた。だれの所領か、住民はカトリック教徒なのか。
彼女にも分る言葉が返ってきた。ゴーランディア(2)だという。カトリック教徒の島ではあるようだが、無人島同様の状態で、船宿が一軒あるだけらしい。海岸の男は、あれをまわれば港だと言って岩鼻を指さした。
「どなたかは存知ませんが、補給のご用ならわれわれを見失わないで付いておいでなさい、港へご案内します」
それはありがたい。一行は陸からの水先案内をえて、櫂にも弾みがついた。そして示された岩鼻をまわると、なるほど港と呼べる入江があり、大小合せて十二、三隻が錨を降ろしている。一行は狂喜した。これで大船(おおぶね)に便乗できるのだ、もっと安全な航海ができる。
いよいよ上陸である。碇泊中の船と宿から人が出て一行を迎えた。うるわしのアウリステラは兄とアントニオ父子の背につかまって下船した。衣裳や装身具はアルナルド王子がペリアンドロを売るときに着せたものである。そして艶麗(えんれい)なトランシラ、ついで蛮人島生れの可憐な少女コンスタンサ、それに母親リクラが続くとおのずとはなやいだ行列となり、残る男どもが供人をつとめた。
港にぱっと花が咲いたような、美女麗人の一隊である。岸辺は言うまでもなく、船から船へも感嘆の吐息は走った。とりわけ、アウリステラの麗姿にふれて驚きを隠せる者はない。まるでひれふして拝まんばかりなのだ。
上陸の一行を代表して、言葉の通じる美しいトランシラが言った。
「わたくしどもは、苦しい旅のすえようやくこのお宿に辿り着いた者でございます。けっして怪しい者ではございません。この出立ちからもお察しいただけますように、争いをもとめてまいったのではありません。女はもとより、殿方も、長旅に疲れ果てておりますゆえ、剣をふるうどころではありません。どうかお宿をお貸しください。それから、お船にも便乗させていただければこの上ない幸いです。わたくしどもの舟には、荒海に乗り出す勇気も力も残っておりません。金や銀でこの希望をお聞き届けくださるなら、喜んでおのぞみだけお支払いいたします。どんなに高くても、わたくしどもにはただ同様にありがたいことです」
このとき、碇泊中の船の者らしい男が、なんとイスパニア語でこれに応じた。
「われわれはあなたがたのような美しいご婦人を疑うほど無粋ではありません。化けの皮とか猫かぶりとか申しますが、その美しさを隠れ蓑にできる嘘はありますまい。宿の亭主はよくできたおひとだし、船の連中もいいやつばかりです。船へなり宿へなり、お気に召すほうへお越しください。みなさんのように美しいご婦人は大歓迎です」
これを見ていた、というよりこのカスティリャ語に耳をそばだてていた、蛮人島暮しのアントニオが言った。
「わたしは自分の国へ帰り着いたような気分ですよ。美しいカスティリャ語の聞けるところまで近づいたんですから、難儀ともこれで縁が切れます。まず船宿へまいりましょう。今後のことはそこで、しばらく骨を休めてから相談しましょう。これまでよりずっと安全な航海ができますよ」
このとき、マストの上の水夫が英語で叫んだ。
「船だ、大型だ、追い風にのって全速で接近してくるぞ」
その場は俄然さわがしくなったが、みな一歩もうごかずに船を待ち受けた。見ると大きい渡海船である。みるみる近づき、たちまち目前に迫った。風をいっぱいに孕んだ帆には真紅の十字架が染めぬいてあり、メイン・マストの旗にはイギリスの紋章がくっきりと浮かんでいた。
渡海船は入港と同時に大砲二門と小銃二十丁ほどで礼砲を放った。陸でも、友好の旗を振り歓呼の声をあげた。答礼用の銃砲がなかったからである。
第十二章――渡海船の正体
礼式の交換がすむと、渡海船は投錨してボートをおろした。まず水夫が四人乗り組んで敷物をしき、櫂を握ってから、六十歳前後の老人が乗り移った。黒いビロードをひきずるように羽織っている。裏地は毛羽の長い黒絹のフラシ天。帯も絹。高く尖った、やはりビロードの帽子を着用している。続いて二十四、五歳の、凜(りん)として逞しい若者が乗り組んだ。黒いビロードのこしらえ。手には黄金づくりの太刀。腰帯には、短剣がある。
つぎに、男女二人がまるで投げ棄てられるようにボートへ放りこまれた。一本の鎖で対につながれており、男は四十前、しおたれてはいるが、根は向意気の強そうな面構えである。女は五十過ぎであろう、哀れっぽく沈んださまが窺(うかが)われる。幾漕ぎもなくボートは岸に着き、銃をもつ兵士が手伝って老人と若者、鎖の男女を陸へかつぎ上げた。
トランシラもみんなのそばでボートを見守っていたが、突然アウリステラにむかって、
「腕にむすんでいらっしゃる薄衣で、わたしの顔を隠してくださいません? 人違いじゃなければ、あのボートにわたしの顔見知りがいるようなの」と言った。
おやすい御用、とアウリステラが薄衣をひろげたところへボートの者たちが上陸し、歓迎をうけた。
フラシ天の老人はまっすぐトランシラの前へ駆け寄った。そして、
「わたしの術がまやかしでなく、運に見放されてもいないなら、きっとおまえだ。これでわたしも先が開けた」
と言うが早いか、トランシラの薄衣をはぎ、その顔を見た。とたんに老人は気を失った。トランシラが抱きとめていなかったら、その場に卒倒していたことであろう。
まったく不意のことであった。歓迎の者たちもおどろきを隠せない。そしてさらにトランシラの口から、思いがけない事実が明らかにされた。
「お父さまが、なぜこんなところへ。霜のお髪のご老体を、だれがこんな遠いところへお連れしたの」
「だれでもない」と、いっしょに上陸した、凜々たる若者がよこあいから言葉をはさんだ。「きみを連れかえりたいの御一心に導かれておいでになったのだ、お父上にはきみのいない幸せなどお考えになれないもの。ぼくだってきみを、いとしい妻を、最愛の女性を取り戻しに来たんだ。お父上とぼくは安全な港への案内者たる北極星をさがす旅に出て、こうして天の御加護があって見つけることができた。さあ、マウリシオ殿を介抱してさしあげよう。お父上にお喜びいただかないとぼくだって心底からは喜べないよ。マウリシオ殿はきみの父上、ぼくはきみの歴とした夫なんだから」
マウリシオに意識が戻ると、交代にトランシラが気を失い、アウリステラが駆け寄って介抱した。若者は名をラディスラオというが、彼はふたりのそばへは行かなかった。トランシラに対する節度を守ったのである。それはさておき、感きわまっての気絶であれば、そのまま昇天しないかぎりその失神状態は長く続くものではない。事実、トランシラの意識はほどなく蘇った。
これをみはからって、旅籠(はたご)というか、船宿の亭主が、
「さぞお疲れでしょう、こちらへお越しになって、ゆっくりとおくつろぎください。そとよりは凌(しの)ぎやすいでしょう、つもる話もおありでしょうし」
とすすめ、一行はそれにしたがった。ゆうに一船団が泊れる広さである。つがいに縛られた男女も歩いた。銃をかついだ護送兵が鎖をささえた。ふるまいものを取りに、本船へ急いで引き返す者もある。やがて、火が入り、膳がならび、一行はとりあえず飢えをいやすことになった。魚の種類が豊富で、肉料理は鳥の一品だけであったが、量はたっぷりとあった。これはこのあたりに棲息する鳥で、その生態が実に奇妙なので、ここに一講釈添えよう。
まず、水をかぶる磯浜に杭を立てる。杭は時日が経つにつれて、水につかった部分は腐るが、その朽木(くちき)から小鳥の雛が生れる。それが陸へ飛来し、成鳥に達するとうまい肉を付け、食膳に供されて、無類の珍味と賞されるのである。おもな棲息地はイベルニアとイルランダ(1)であり、この鳥はバルナクラと呼ばれている。
さて、一行はこれで舌鼓を打ったのであるが、新来者のくわしい話を聞きたくて食事のすむのが待ち遠しかった。食事の終るのと同時にマウリシオが食卓をたたいて静聴を乞うと、一同はくちびるを結んで息をこらし、好奇の耳をそばだててその方をむいた。
「さて、イベルニア島を囲むようにして七つの島がございます。わたくしの出身地はその一つ、血筋をたどれば、名を申しあげるだけで由緒の程が知れる、あのマウリシオ家(2)につながっております。宗旨はカトリックであって、邪宗に惑う日和見信者の奴輩ではありません。父母のもとでは学問の道に進んで文芸を学ぶとともに、これも学ぶと申すのでしょうか、武芸に励みましたが、いつしか占星術をもっぱらとするに至り、いまではその道の博士で通っております。さて年頃になって、同じ町のさる良家の娘と世帯をもち、ごらんの娘をもうけました。土地にはさまざまのしきたりがありましたが、わたくしの場合は筋のとおったものにはしたがい、とおらないものには表向きだけ調子を合せておりました。うわべだけでもそうするほうが都合よいと考えたからです。この娘は、男手ひとつで育ててきました。二(ふた)誕生で母親に死なれたからですが、このときすでに若くなかったわたくしとしても、老いて頼むべき杖を失ったわけです。娘の養育は老骨には荷が勝ち、手に余るものがありました。そこで、婿の心配をしてやる年になったころ、この肩の荷をおろしたい、娘にはあらたな杖を、つれあいをと願って探し当てたのが、ラディスラオというこれなる頼もしい青年なのです。もちろん娘の同意をえてのことでした。その場かぎりの間柄ではなく、生涯連れ添うわけでありますから、本人の希望を聞いたうえで納得する相手といっしょにさせてやるほうが適切だし、それが親のつとめと申せましょう。そうでなければ夫婦の間にはもめごとが絶えず、たいていは不幸な結果をまねきます。
ところで、わたくしの国にはまだまだ陋習(ろうしゆう)がはびこっております。これからお話しするのはとりわけひどいものです。ふつう、縁談がまとまって婚礼の日がまいりますと、花婿花嫁、双方の兄弟、親類縁者、さらには町の貴顕紳士がひとつの館にあつまります。実はこれらがいわば刑の執行人と立会人で、花嫁は豪華に飾られた奥の間にいて、口にするのさえはばかられる、それはそれはひどい辱めを受けるときを待つのであります。つまりその部屋へ、花婿の兄弟、もしくはそれに近い身内の男がかわるがわる押し入り、花嫁の園生(そのう)をおそい、新床で夫にささげるべき花の枝(え)を手折ることになるのです。女の操や純潔の美徳を踏みにじる、まったくもって野蛮きわまりない、忌わしい風習です。きむすめであることほど豪華な花嫁道具がありましょうか。疵物(きずもの)をよろこんで引き取る男はいますまい。きれいな肌に羞(はじら)いの色がさしてこそ花、いかに美を誇ろうと、地にまみれては買いたたかれます。
わたくしは、口をすっぱくしてこの蛮風をいさめました。しかし、そのたびに命をおびやかされ、口をつぐまざるをえませんでした。俗に習慣は第二の天性、断つは命を断つに等しと申しますが、このときはじめてこの諺の真義を思い知らされました。
さて、トランシラは控えの間で処女喪失のときを待っています。そこへ花婿の兄弟のひとりが、いかさまな儀式の露払いよろしく忍び込みました。と、そのときトランシラが部屋から飛び出したのです。日をも欺く艶やかな出立ちで、手槍を掻い込み、獅子の歯噛み、虎の眼をむいて、満座の中へ躍(おど)り込んだのです」
一同は思わず身をのりだして老人をみた。トランシラに至っては、当時の心理状態がまざまざと甦ったとしか思えない。突如、立ち上がり、唇をわななかせ、髪を逆立て、満面朱をそそぎ、眼は火焔を吐き、さすがの美貌も形無しの形相(ぎようそう)である。こうまで変ると、芙蓉の顔も夜叉(やしや)と化す。
トランシラはここで父親の話をひきとるが、それは次章にゆずろう。
第十三章――トランシラが父に代って話を続ける
「父の申しますとおりわたくしは大広間へ飛び込み、あたりを睨(にら)み回して、怒鳴りつけました。
『さあ、来るなら来なさい、野蛮人。こんな浅ましい風習を続けている文明国がどこにあります。けがらわしい。あなたがたには信心などかけらもないでしょう。いかさまな儀式の隠れ蓑を着て他人の畑に鍬をいれるとは何事です。そんな不心得者は人間のくずです。この槍の先には、ものの道理という味方がついていて、わたしを守ってくれるはずです。女の操や乙女の花に泥をぬる料簡違(りようけんちが)いは断じてゆるしません』
こう言い放って人垣を飛び越え、そとへ出て、その勢いで海岸まで突っ走りました。そこでしばらくためらっていましたが、近くに小舟がつないであったのでそれに飛び乗りました。天が差し向けてくれたとしか思えなかったのです。櫂は二丁、小さいのがついていました。わたくしはそれを力一杯漕いで沖へ向かったのですが、すぐに船を連ねて追手がくり出すのが見えました。もともと船脚(ふなあし)の速い船に、漕ぎ手をそろえておりますから、とても逃げきれそうにありません。櫂を投げ出して観念しました。
でも、そのまま捕まるのは癪(しやく)です。命の続く限り辱を雪(すす)がずにおくものかと覚悟し、槍をしごいて待ち受けました。
ところがそのとき、これも天のおぼしめしでありましょう、にわかに風が強くなり、船は櫂をつかわないのにどんどん沖へ走り、激しい潮流にのってさらに遠くへ来たのです。追跡の船は急流に尻込みして引き返したと思われます」
「そうなんだ」ここへ婿のラディスラオが口をはさんだ。「きみに魂を持ち去られたぼくだ、追いかけずにはいられなかったが、夜の闇にきみを見失ってからは死んだものと諦めていた。それでも、きみは町中の人の口の端(は)にかかって生きていた。あの武勇伝があるからね。あれはいつの世までも語り草になるだろう」
「夜になると」トランシラが続けた。「風は海から陸へむかい、わたくしはそれに押されてとある漁村へ流れ着き、漁師に救われました。とても親切な人たちでした。宿を貸してくれたうえ、嫁入り前なら婿の世話もまかせておけと言ってくれるほどで、もちろんわたくしが逃げ出す原因になった、あんなしきたりは持ち出しませんでした。とはいえ潮気立つ荒磯(ありそ)の純朴な胸にも、人間の欲望は侵びこんでいます。あの晩、潮焼けの荒くれたちは網に飛び込んだわたくしのことで寄り合い、分配できるものではないから、夕方漁場でみかけた海賊船に売りとばそう、金にして分けようと企んだのです。
海賊に売るより身代金をせしめるほうが得よ、とわたくしのほうから話を持ちかけることもできたでしょうが、町の野蛮人の世話にはなりたくありませんでした。あくる朝、海賊が来ました。漁師はぬけめなく花嫁衣裳の宝石類を剥ぎ取ったうえで、わたくしを海賊の手に渡しました。いくらになったかは知りません。ところが彼らは、なりわいこそ海賊ながら、わたくしの町の者よりはるかに礼儀をわきまえていました。奴隷として売るのではない、女王様だ、噂の蛮人島の予言が当れば世界帝国の皇后にもなれる、と言って慰めてくれたのです。
島に着き、蛮族に迎えられました。言葉を習いおぼえたのもこのころからです。島の風俗習慣、儀式、眉唾の予言のこと、こちらのかたがたとの出会い、あるいは一緒に島を脱出したときのこと、島の大火のことなどなど、こうして助かるまでのいきさつはいずれ折を見てお聞かせいたしますが……それにしても、どうしてお父様にここがお分りになったの、こんなに運よくめぐりあえるなんて」
トランシラはこう締めくくった。一同はその語り口を誉め、美貌に詠嘆した。アウリステラをおいて並ぶ者はない。
おもむろに、父親のマウリシオが口を開いた。
「トランシラ、おまえも知ってのとおり、諸学諸分野のなかでも特に有意義で、わたしの興味をひいたものは占星術だった。人間は過去を知り現在を見ると、未来をも予見したいと思うものだが、この自然な願望は占星術が成功したときに満たされる。おまえが闇に消えてすぐ、わしは天体を観測した。恒星の位置を確認し、日月諸惑星の運行もしらべて、黄道十二宮との位置関係を判断した。これは占星術解釈に不可欠の作業だ。科学は嘘をつかないが、扱いを誤ると人をあざむく。占星術もその例外ではない。天体はめまぐるしい速度で位置を変える。星は動き、星相互の影響関係も刻々と変化する。それゆえ、正しい判断を下せるときというのは、経験に照らして最も蓋然性の高いものを抽き出したときだ。最高に暁達(ぎようたつ)した占星術師は悪魔だと言えるだろう。もちろん、外(はず)れることもまれではないが、彼一流の科学に加えて臆測という道具を備え、過去の経験が豊富であるとともに現在の情報を的確につかんでいる。だから容易に未来を読むこともできるわけだ。それにくらべると駆け出しといえるわれわれには、そういう資料が足りず、いつも手探りなので確実な答が出ない。
それはさておき、わたしの占星にはこう出た。おまえの失踪は二年続き、今日という日ここで会える。そしてわたしは若返って活気を取り戻し、かわいいおまえとの再会を神に感謝する、ただし、多少の禍いは伴う、と。思うに、禍いは幸福の御意見番、めでたい席へ天下ご免で罷(まか)り出、吉凶は糾(あざな)える繩のごとし、と説法もする」
「こうしてご再会がかなったのは」黙って聞いていたアウリステラが言った。「わたしたちの旅にも幸先のいいことです」
女囚もトランシラの話に耳を奪われていたが、重い鎖を苦にせず立ち上がったと思うと、一方につながれている男が引き止めるのを振り放し、一段とたかぶる声で言った。
第十四章――鎖につながれた男女の素性
「おめでたいところへ水を差すようだけど、引かれ者の減らず口にも耳を貸してちょうだい、手間はとらせないよ」そしてトランシラに目をやった。「娘さん、お国のしきたりに悪態をついておいでのようだけど、それでは人助けも肩代りも、野蛮だってことになりはしないかい。どんなにすばらしい馬だってそうさ、人にも馬場にも馴れてはじめて、名馬と呼ばれるんだよ。
これと同じことで、しきたりという大義名分があってそいつで世間体を保てるとすれば、どんな慣習だって女の操を汚すことにはならないわ。船に乗らせたって、学校出たての金筋(きんすじ)よりは、下っ端でも経験豊富な筋金入りの水夫のほうが舵は確かさ。技術向きのことでは経験がものを言うってこと。亭主とのことにしても、おぼこは見掛けだおし。知っておくほうがうまくいくものよ」
言い終るのを待たず、鎖の一方の男が、拳骨を固めて女をののしった。
「ロサムンダ(1)、いやさロサ・淫(イン)ムンダ、過去、現在、いや未来永劫に、無垢(ムンダ)な薔薇(ロサ)を淫(イン)し続けるおまえのことだから(2)、いまさらおどろきはしないが、良家の子女がなによりも大切にしている慎みや操を、よくもそこまで貶(けな)せたな。
御一同、ここにつながれているふてぶてしい気違い女こそ」男はこう言って一同をみまわした。「かのイングランド王の愛妾、悪名高いロサムンダであります。イングランドの風俗の壊乱はあまねく世に語りつたえられ、どなたのご記憶にも新しいことと存じますが、こ奴こそ王の首根っこを押え、国を傾けさせた女です。法を曲げるのも意のままなら、善を滅ぼすのもこいつの胸先三寸、したい放題をして悪をはびこらせた女であり、欲に惚け、淫に爛(ただ)れ、あからさまに王を侮(あなど)るふるまいを続けてきました。しかし、目に余る増長ぶりがついにおのれの墓穴を掘ることになりました。王の心をつなぎとめていた金剛の絆が切れ、金縛りも解けました。王はこの女を遠ざけ、かつての寵愛とはうって変った厳しい処置をとったのです。
この女が栄華のきわみにあって幸運の鬣(たてがみ)をつかんでいるころ、わたしはというと、用いられないくやしさを噛みしめつつ、自分のような不遇の忠臣の実態を世間に知らせようと腐心していました。わたしは生来舌に毒を持ち、口に針を含んでいます。弁筆の立つにまかせて、悪をすっぱぬくことを無上のよろこびとする者です。皮肉ひとつで友ひとり、いや百万べん命を失っても悔いはなく、投獄、追放、脅迫、体罰、いずれにも舌を縛られたり言を引っ込めさせられたことはありません。しかしながら、この女にもわたしにも最後の報いを受けるときが来ました。王は市中だけでなく諸国諸州に触れを出し、この女がたとえ金品をちらつかせても、パンと水以外あたえてはならない、わたしの身柄とひと括(くく)りにつないでこの辺に散らばる無人島へ流せ、と命じたのです。もちろん、こいつと二人三脚するくらいなら、わたしは死んで地獄へ落ちるほうがましです」
「それはこっちで言いたいせりふだ、クローディオ」ロサムンダが食ってかかった。「わたしだって、なんべん身投げを考えたことか。そのたび思いとどまったのは、おまえと心中するなど真平だからよ。行き先は地獄と定まっていても、おまえさえいっしょでなければ天国さ。なるほど、わたしは色仕掛けで男を手玉に取ってきた。でも、相手は豚野郎のうすのろにかぎっていた。それにひきかえ、おまえは高徳の人士を見境なく毒牙にかけてきたんだ。あれでどんな得があった。藁(わら)より軽い気休めじゃないか。おまえというやつは他人の顔に泥をぬりたくり、信用を台無しにし、秘密を嗅ぎまわって名門をきずつけ、国王、市民、友人、親兄弟、だれかれなく噛みつくほかに何をした。うがったことを言ったつもりで、さんざんに憎まれ口をたたいただけじゃないか。わたしはおまえの毒気に当てられて死ぬなんて、まっぴら御免だね。神も聖者もおまえだけは避けて通るというもんだ。わたしは陛下のお許しさえ出れば、国へ帰って別の死に方を探すことにしてるんだよ」
「しかし」クローディオが反駁した。「わしは何ひとつでっちあげたことはない。良心に疾(やま)しいところもない」
「嘘でなきゃ」ロサムンダが応じた。「何でもあばきたてて、人の耳に入れりゃいいってもんじゃないんだよ。自分が何をしゃべり散らしたか、胸に手を当てて考えてみな、ずきんと痛むはずだ」
「ロサムンダにも分がある」マウリシオがひきとった。「内々の過失は、ことに民人(たみびと)の上に立つ王侯君主の落度であれば、軽々しく表沙汰にすべきではない。王侯の非を鳴らし、臣下に主君の過誤を吹聴するのは、一個人の領分ではあるまい。それでは王の心を改めることにはならず、逆に民心を王から隔てるばかりだ。ひとを諫(いさ)めるには兄弟の情をかけてやるのが道であるのに、なぜ主君にだけそれを拒み、面を冒(おか)して事をあらだてるか。そのようなこころない仕打ちに対して、人間というものはますます頑固になり、意地を張りとおすものだ。しかも、痛くもない腹をさぐられることだってあろう。濡れ衣で世間から踏んだり蹴ったりでは堪忍も限りがあるではないか。毒舌家、風刺家、皮肉屋が蔑(さげす)まれ、辱しめられ、ときとして追放流罪に処されるにはそれなりのわけがあるのだ。与太にしては頭が切れる、切れても与太と言われるのが関の山。俗にも言う、反逆は迎えられても反徒は追われる、と。また、筆が奪った名誉というものは巷(ちまた)に飛び散って取り返しがつかなくなり、そうなると名誉を奪った罪は消えない」
「それは百も承知」クローディオが言った。「しかしながら、書くな、しゃべるなとおっしゃる前にこの舌を、この手を切り落してください。舌はなくとも、大地の腹深く口を突っ込み、声をふりしぼってミダス王の葦を待つことになるでしょうが(3)」
「名案があります」ラディスラオが一同に話をもちかけた。「ふたりを和解させるには、結婚がなによりの策だと思います。結婚という秘蹟(サクラメント)には有難い祝福があるし、賢い者どうしなんだから、いっしょになればおのずから新しい道が開けるでしょう」
「こいつと夫婦に」ロサムンダが言った。「なるくらいなら、この胸をこのナイフでえぐって、まず魂を解放してやるわ。こんな因業者(いんごうもの)とくっつくなんて、耳にするだけで死にたくなるよ」
「わたしはまだ死にたくない」クローディオが言った。「口先三寸で人を斬るのがわたしの生き甲斐だ。みごとに斬れたときの満足感をおもうと、まだまだ命が惜しい。しかし、今後、王侯君主には言葉を慎むつもりだ。王の手は長くどこまででも伸びて、逃げおおせる者はない、もう懲りごりだ。長い物には巻かれよ、とはよく言ったものだ。キリストの慈愛の精神も教えている、名君につかえる者はその健かな長寿を祈れ、暗君につかえる者は正しく矯めて改心に導け」
「それがわかっているなら」蛮人島のアントニオが口をはさんだ。「善心に立ちかえれる見込みはある。前非を悔いても拭いきれないほどの重罪はない。毒舌は両刃の剣といえよう。骨を断つこともあれば、鞘(さや)をそこなわず、稲妻のごとく敵の剣をくだくこともある。話というやつは陰口という塩をきかせると興味は倍増するが、後味はにがくなる。頭が軽薄な話し手は口まで軽く、舌先が悪意をはらむと、そこから生れてくる子の性根は腐る。また、言葉はまるで飛礫(つぶて)だ、ひと騒動おこすまでは出たところへ帰るどころか、はねかえりもしない。いったん口から吐いたものは、どう悔んでも取り返しがつかず、罪も消えない。もちろん、心底からの後悔が心の病の特効薬であることは、さきほども言った通りだ」
第十五章――(この大いなる物語、その第一巻第十五章)
ここへ、ひとりの水夫が駆け込んできた。そして大声で、
「大きい船が全速で接近してきます。旗印などはまだ見えません」
と言い終らないうちに、続けざま砲声が聞えた。接近中の船が港の入口あたりで、友好と不戦の合図として号砲をはなったのである。マウリシオの船の大砲と、同乗の兵士の銃で、答礼が送られた。
船宿の者たちはただちに岸壁へかけつけた。入港したのはアルナルド、あのデンマークの王子の船であった。ペリアンドロには一目でそれがわかった。しかし、すこしもよろこべなかった。それどころか、不吉な予感に胸がふさがれた。アウリステラにも、同じ不安と動揺があった。彼女は、これまでのいきさつから王子の気持をよく察していただけに、ふたりの男の胸が仮借ない嫉妬の矢弾につらぬかれるような事態は避けたかった。しかし、ふたりの気持の折り合いをどう取り持てばよいのか、それを考えるゆとりはなかった。
アルナルドはボートに移乗して、まっすぐ陸へむかった。ペリアンドロは足をはこんで出迎えた。だが、アウリステラは一歩もうごかなかった。かのペネイオスの娘(1)が駿足のアポロンに追われたとき、両脚は捩(よじ)れた根になったというが、いっそあのように自分の両脚も根になればいい。その場にふんばっていたかった。
王子はペリアンドロに気づくと、家来が肩をかすのももどかしく、舳先から飛びおりて島の土を踏み、その場でペリアンドロの腕に迎えられた。
そして開口一番、
「ペリアンドロ君、このうえに妹殿アウリステラがいれば文句なし、何の心配もなくなるんだが」
「それが、いるんですよ」ペリアンドロがこたえた。「アウリステラは無事です。殿下の御誠意と真心が神に通じ、妹も心懸けをみとめられたのでしょう」
このころ王子の素姓は、家来の口から出迎えの人たちに伝わっていた。アウリステラはいぜん彫像のように、黙して動かない。そばには蛮族のみなりをした女二人、リクラとコンスタンサがいた。
アルナルドは、アウリステラの前にひざまずいて言った。
「無事でなによりです。やっと、想(おも)いの道の北極星を取り戻しました。一途のあこがれが不動の星にみちびかれて、やすらぎの港へたどりつきました」
アウリステラに声はなく、涙が薔薇の頬をぬらすばかりであった。
アルナルドは当惑した。悲しくて泣くのか、うれし涙か、それが判らないのだ。
アウリステラから目を離さずにいたペリアンドロは、王子のとまどいを察してこう言った。
「妹は感激で胸がいっぱいのようです。黙っているのは、思いがけずお会いできた驚きと喜びをどうあらわせばいいか、迷っているからでしょう。頬をぬらすのはうれし涙にほかなりません。妹は生れに恥じぬだけ感謝の念もあつく、殿下の私心のないご好意、ご親切に対しましても、それ相応にむくいたいと願っております」
一行は船宿へ入り、卓上はふたたび馳走でにぎわった。そして人々は胸うちとけ、なごやかな雰囲気にひたったのであるが、それは波々と葡萄酒が盛られたからであった。波を枕の旅路のつかれには、どんな神酒(ネクタル)よりこの酒が効く。
この二回目の宴席は王子を歓迎して設けられたものであった。
席上ペリアンドロは蛮人島での出来事を、アウリステラ救出のいきさつもふくめて、細大もらさず王子に伝えた。王子は手をやすめて聴き入り、一同は感嘆をあらたにした。
第十六章――(ペルシーレスとシヒスムンダの物語、その第一巻第十六章)
ペリアンドロの話が終るのを待ちかねていたように、宿の主人が言った。
「この空模様では、時化の心配はまったくありません。見渡すかぎりちぎれ雲ひとつなく晴れあがって、寄せる波もおだやかです。鳥も沖へむかってはばたいていきます。このまま、崩れず長持ちするでしょう。願ってもないお客様をお迎えできたのに、もうご出発をおすすめしなければならないとは、この上天気がうらめしくなります」
「わたしもそれを考えておりました」マウリシオがひきとった。「ご丁寧なおもてなしに対しお礼の言葉もございませんが、羽根が生えたように帰郷を待ちこがれる者ばかりなので、のんびりとご好意にあまえてもおれません。わたしは、船長や同行の兵隊さんさえよろしければ、今夜宵の口にも船出したいと思います」
アルナルドもうなずいた。
「潮時というやつはいったん逃すと、なかなか戻ってきませんからね。ことに、波の上を行くときは取り返しのつかないことになります」
結局寄港中の人々は、残らず本来の目的地イングランドへ向けて、その晩船出することになった。
王子は席をはずしてペリアンドロの手をとり、宿のそとへさそって、人の気のないところで言った。
「妹殿がわたしの国許にいた二年の間にわたしが打ち明けた思いのほどは、妹殿の口からもきみに伝わっていると思うが、わたしはあのひとの純粋な気持をきずつけたり、固い決心をさまたげるような、強引な手はつかわなかったつもりだ。権柄(けんぺい)ずくで身の上を問いただしたことだってない。その必要もなかった。心の寛さ、気品、思慮の深さ、いずれを見てもおのずと高貴のほどはうかがい知れ、世界に君臨する女王の器だとさえわたしは思っているのだ。だから妃に迎えたいと繰り返し申し入れ、父からも口添えしてもらったが、承知してはくれなかった。返事はいつも、大願成就を期してローマへ詣でる、それまでは不如意(ふによい)の身の上ということだった。素姓も、ご両親のことも聞かせてはもらえなかった。いまも言ったように、それを無理強いしたおぼえは毛頭もない。血筋がどうであろうときみの妹殿は、デンマークはおろか地上のどの国の妃にもふさわしい女性だ。こんなことを言うのは、ペリアンドロ君、察しの早いきみのことだから分ってくれるだろうが、いま持ち上がっている話がきみたち兄妹のためにも、けっして悪い話ではないと思うからなんだ。わたしは今すぐにも、あらためて結婚を申し込む。誓って言うが、あのひとが望むときに望むところで式を挙げるつもりだ。この賤(しず)の家(や)でも名にしおうローマの都の金色の甍(いらか)の下でもわたしは選ぶものではない。人の心というものは望みのものが手の届くところにあるときのほうが、遠くから見ていたときより迷いやすいものだが、わたしは焦(こ)がれ死にに死のうとも、節操を失わないつもりだ、約束する」
王子はこう言ってペリアンドロの言葉を待った。
「たださえ畏れ多い殿下からかさねがさねのご親切にくわえて、いままた妻に兄弟にと過分のお言葉をたまわり、妹ともども、なんとしてもお報いしたいとは存じますが、はっきりと申し上げて、おこころざしはお受けできても、ご希望には添いかねます。遠く国を離れたしがない巡礼の兄妹には、願ってもないお話に相違ありませんから、よそさまの目にはお断りするなどもってのほかのこと、狂気の沙汰としかうつらないでしょうが、わたくしどもは宿命と神のご選択にみちびかれて聖都へ詣でる途中なのです。ローマへ着くまではいわば脱け殼の身であって、意志をはたらかせる自由も許されてはおりません。しかし運よく聖地を踏み、諸聖人の霊廟を参拝できた暁には意志の自由がもどりますから、そのときこそだれはばからず、殿下のおこころざしに添うことができます。そのときお約束を果していただければ、由緒正しいお妃様と、義理ながら実の兄弟より実のある兄、この両方をお迎えになれるはずでございます。
それからご好意にあまえて、いまひとつお願いがございます。わたくしども兄妹の氏素姓は、今後ともおたずねにならないでください。ありのままは申し上げられません。嘘いつわりでその場を言いぬけることはできましょうが、そのような作り話で殿下を騙(だま)したくはないのです」
「いずれは兄弟の、きみとわたしだ」アルナルドが言った。「きみの望みどおりにしよう。わたしはいわば封蝋(ふうろう)の蝋、きみは封印、なんなりと刻みつけてくれ。きみさえよければ、今夜イングランドへ向けて発とう。イングランドからなら、フランス経由でローマは近い。どの順路を取るにしても、邪魔でなければ伴をさせてほしい」
ありがた迷惑である。しかし旅は長い、そのうちどうにかなろう、ペリアンドロはそう思ってこの申し出だけは聴き入れた。それゆえ未来の義兄弟は肩を叩き合いながら宿へ戻り、出発の打ち合せをすることになった。
アウリステラは、ふたりが席を立つのを見ていた。それが招く結果をおもんぱかると、胸がふさぐ。王子の慎重な人柄もペリアンドロの分別も承知していた。それでいながら、心配の種は尽きないのだ。王子の愛は疑いの余地がないほど強い。が、身分という嵩にかかったところもなくはない。力ずくで迫ってくる恐れも、ないとは言えない。恋する者の胸は、相手にまったく脈のないことを知るや、忍耐を狂気に、礼儀を不遜に豹変させる……
そんな思いをよそに、ふたりは和気あいあいと戻ってきた。アウリステラがほっと胸をなでおろしたことは言うまでもない。
話は変るが、アルナルドの身分を知った毒舌のクローディオはその足元にひざまずいた。そして、護送兵に鎖を解かせてくれ、ロサムンダから切り離してくれ、と嘆願した。そこで、ふたりの身分、罪状、宣告された刑のことをマウリシオがひととおり王子に語ったところ、王子はクローディオをあわれみ、鉄の桎梏を解いてやろう、ふたりの身柄をまかせてくれ、と護送隊長に申し入れた。イングランドの王とは盟友の仲なので、赦免を取りつけてやるつもりであった。このときクローディオが言った。
「民を統(す)べる者がおしなべて善政を行えば、謗(そし)る者もおりますまいに。悪政をしいておいて聞えばかり良かれと望むのは、虫が良すぎるというもの。徳を尽してもなお、悪意の牙にかかって中傷を受ける世の中で、暴君なんぞそれを免れんや。しかるに、毒麦や悪の種をまく者が、健かな実りをどうして期待できましょう。殿下、御供の末尾にお加えください、殿下のお人柄を月よりも高く謳(うた)いあげてごらんにいれます」
「よしてくれ」アルナルドがこたえた。「わたしは、あたりまえのことをしているまでだ。それにつけても、ほめ言葉の生き死にはそれを口にする人間の出来不出来が決する。ほめるとは、美徳をめでることであろう。つまるところ、有徳(うとく)の士の口にかかってこそ讃辞、品性卑しむべき奴輩(どはい)の甘言は侮辱にほかならぬ」
第十七章――王子がタウリサのその後を語る
兄と王子はそとで何を話してきたのだろう。アウリステラはそれを知りたく、兄から聞き出せる機会を待っていた。王子からは、腰元タウリサのその後のことを聞きたい。
ところが、彼女のそんな気持をどう読みとったか、王子のほうから話しかけてきた。
「あなたには、憶えておくべきことがいくつもあるだろうに、うち続く難儀の空でお忘れになったようだ。そうだとすると、いっそ、わたしのことも忘れていてほしい。忘れてくれるということは、いっときにせよ、わたしがあなたの記憶の中に住んでいたことの証(あかし)だもの。憶えのないことは、忘れようもないからね。忘却は過去の記憶の上につもる新雪とか……そう思うだけで、わたしは本望だ。いや、それさえ、もうどちらでもかまわない。記憶を掘りおこしてもらいたいとも思わない。あなたにつかえるのはわたしの宿命(さだめ)であって、わたしの意志はあなたに服従するようにつくられているのだ。
あなたが海賊の手にわたった後どんな目に遇ったかは、兄上からつぶさにお聞きした。どれもこれも想像を絶することばかりで、耳を疑うほどおどろいた。
それにしても、人は難儀が続くと、義理からもおぼえておくべきことを忘れることさえあるようだ。あなたは父のことも、腰元のタウリサの安否もたずねてくれなかったが、父は変りなく、あなたの帰りを一日千秋の思いで待っている。タウリサは一緒に連れて来た。あなたの消息をさぐらせるため、蛮族に売るはずだった。兄上とわたしが知り合ったいきさつや、ふたりで示し合せていたことは、兄上から伝わっていると思う。あれから何度も島へ引き返そうとしたが、あいにくの向かい風で近寄れず、さきほどまで、あらためてあの島へ向かうつもりでいた。それが神助をえて、心のやすらぎに、あなたにめぐり逢えた。タウリサは重病をわずらって一命も危うくなり、おとといあのあたりの海で、アイルランドへ向けて航行中の渡海船に預けた。たまたま、わたしの友人のふたりの騎士の船だった。わたしの船の具(そな)えは一国の王子のものというより、海賊船さながら薬もなければ看護できる者もいないので、まずアイルランド王のもとへ送り届けることにしたのだ。わたしが迎えに行くまでそこに預かってもらい、十分な治療を受けさせる。
ところでわたしたちの出航だが、さきほど兄上と相談してあしたに決めた。行く先はイングランドか、イスパニア、フランスでもいい、そのあたりへ着けばあなたの目的にかなった準備ができると思う。あなたの大願が成就する日まで、あなたの理解を支えにわたしは欲望をおさえる。このことも兄上と約束済みで、あとはあなたの気持しだいになっている。すこしでも不都合があるなら、計画をとりやめてもいい」
「わたしは何もかも兄に任せます」アウリステラがこたえた。「兄は分をわきまえておりますから、殿下のご意向にそむくとは思えません」
「だからといって」王子が言った。「わたしは誰にも命令するつもりはない。むしろ従いたい。身分を笠にきて、先達に指図しているとは思われたくない」
王子とアウリステラはこんな言葉をかわした。彼女は、この内容をつぶさにペリアンドロに伝えた。
その夜、王子をはじめペリアンドロ、マウリシオ、ラディスラオ、護送隊長、イギリス船の乗組員、それに蛮人島を脱出した者全員が加わって、出発の準備にとりかかった。
第十八章――マウリシオが占星術によって水難を予知する
マウリシオとラディスラオの船には、ロサムンダとクローディオを護送してきた一隊の将兵も乗り組んでいた。この船に蛮人島の牢獄からの脱出組が加わり、アルナルド王子の船には、リクラ、コンスタンサ、アントニオ父子、ラディスラオ、マウリシオ、トランシラが乗り、そして王子の取り計らいで、クローディオとロサムンダも同行を許された。ルティリオも王子の船に乗った(1)。かくて一行は船宿で食料を買えるだけ買い込みその夜の船出を待ったのであるが、出港直前にマウリシオが航路の占いを立てたところ、凶近しと出た。ただしこの難を切り抜ければ、あとの船路は大吉とある。危険とは水難のことであるが、原因は時化ではない。もちろん陸上の嵐でもない。淫欲のからんだ裏切り行為、ということであった。
王子との同舟はペリアンドロの心配の種となった。裏切り行為とは、王子がアウリステラをてごめにすることではあるまいか、そのために同乗させたにちがいない……しかしその疑心暗鬼は度量のひろさにかき消された。気にはなるが、信じたくない。畏れ多くも一国の王子だ、その胸に背信が宿るなど。
とは思いつつ、マウリシオに頼んで、危難の出どころを念入りに占ってもらうことも怠らなかった。
危険は必至だが、原因は不明。大騒動は避けえないが、だれにも死相があらわれていないのは不幸中の幸い。しかし、一行の計画の半ばは流れ、順調なすべり出しに待ったがかかろう。これがマウリシオの答であった。
では、しばらく船出を見合せてはどうか、とペリアンドロが提案した。日時をずらせば、星辰の影響関係が好転するのでは……
「いや」マウリシオがこたえた。「命に別状のない以上、思い切ってぶつかるほうが得策だ。方違(かたたが)えなどすると、かえって命取りになりかねない」
「そうと決れば」ペリアンドロが言った。「賽(さい)はなげられた。いさぎよく乗り出しましょう。人事を尽くして天命を待つ」
王子はたっぷり心付けをして、船宿の行き届いたもてなしをねぎらい、人々はそれぞれの事情にかなった船に乗り組んだ。いよいよ出帆である。
王子の船は、小旗、吹き流し、色とりどりの三角旗などが、へんぽんとひるがえる出帆であった。錨を巻きあげる音にまじって大小の砲が一斉にとどろき、笛、喇叭など、楽器の旋律が中天に翔(はばた)いて別れを告げた。
「ごきげんよう! さようなら!」
アウリステラは芙蓉の顔をふせたきりである。不吉を予見してか、心配は隠せない。そんな彼女からペリアンドロは目を離さなかった。王子も同様、彼女を凝視していた。ともに、目を開いていれば視線はおのずと彼女にむかい、ものを思えばきまって彼女のことであった。ふたりにとって、すべての喜びの源泉がそこにあったと言えよう。やがて日は落ち、星の明るい、静かな夜となった。ただ、身を寄せ合おうとする雲が、やわらかい風に仲を裂かれていた。
マウリシオは空をにらみ、ふたたび星占いを立てた。遭難はありありと見えているが、いぜんとして、原因は不明である。
彼はその気がかりを抱いたまま、いつのまにか甲板でうとうととしていた。
ところが、突然、がばっと跳ね起きて叫んだのである。
「反乱だ、反乱だ、王子、起きてください、ご家来がお命をねらっていますぞ!」
王子はこの声に飛び起きた。ペリアンドロのそばで横になっていたが、寝入ってはいなかった。
「どうなさった、マウリシオ殿。敵はどこです。われわれに弓を引くのはだれです。この船の者はみな味方ではありませんか、わたしに忠誠を誓った家臣や郎党ばかりですよ。雲ひとつない上天気、海はこんなに穏やかで、座礁したわけでもない……小判鮫でも現れましたか(2)。そうでもないとすれば、血相変えて何をこわがっておられます。おどかしっこなしですよ」
「おっしゃるのはもっともですが、とにかく、船底へ潜水夫をお入れください。夢でなければ、船は沈みます」
ただちに五、六人の水夫が船底の水溜めにもぐった。いずれも腕のいい潜水夫で、溜り水の中をすみずみまでさぐった。しかし、浸水のきざしは見つからず、甲板へもどって異常のないことを告げた。船底の溜り水は生温かく、強臭を発していた。船底へ海水が侵入していない証拠である。
「そうですか、それはよかった」マウリシオが言った。「年寄りのとりこし苦労なのでしょう。厄介なやつに見込まれたものです、夢にさえ怯えるありさまですから。それにしても、逆夢であってくれればいいのですが……今度ばかりは、へぼ易者の身の上知らずで、正真正銘の、老いぼれの腰抜けでありたいと思います」
王子が言った。
「マウリシオ殿、あなたの夢で御婦人方の夢がさめてしまいましたよ、落ち着いてください」
「申しわけないことをしました。しかし、もう大丈夫です」
マウリシオはもとどおり甲板で横になり、船上にはふたたび閑々とした平穏がもどった。
ここちよい晩である。ルティリオは帆柱の根元に背を寄せかけて、この空気を満喫していたが、もちまえの美声にわれ知らずうっとりとなって歌いはじめた。故郷トスカナの言葉を、やさしい帆風になびかせたのだ。イスパニア語になると、こうなる。
人の世の王は賢(さか)しく
畏(かしこ)き御手の懲(こら)しめをまぬがれ
もろびとの遺産をのせて
方舟(はこぶね)にうつり住む。
おごれる者たかぶる者を逃さない
死神(パルカ)の、いまも迫る淫らの手さえ
ここには及ばず。大いなる
やすらぎの地、そびゆる丘。
いと高く浮かぶ館、獅子と
子羊あい和すところ、鳩と
鷹がむすばれる。
これぞ奇跡、奇跡の愛、
生れながらの性でさえ、
共に難儀に当れば隠れる。
この歌詞をだれより深く解したのは、蛮人島暮しのアントニオである。
「いい喉だ。あのソネートが彼自身の作なら、詩人としても立てる。職人ふぜいに詩がつくれるとはいえないが……いや、そうとは言いきれない。わがイスパニアでも、よろずの職から歌詠(うたよ)みが輩出している」
こうつぶやくのが、王子、マウリシオ老人、ペリアンドロらの耳に入った。寝つけずにいたのだ。
マウリシオが言った。
「さよう、職人にも詩人はいる。詩は手先でなく心にあるが、仕立屋にも戦の庭の匠(たくみ)にも、詩心があって不思議はない(3)。そもそも魂はみな等しいものであり、はじめは同一の集団の中で創造主によって形成されるが、やがて別々の肉体に吹き込まれてその器(うつわ)の形になじむ。したがって出来不出来が生じたり、星回りに影響されて、学問へ、あるいは技芸へと傾きを異にする。が、ずばり申して、詩は生得の別才だ。ルティリオに詩才があっておどろくには当らない。ダンスを教えていたこととは無関係だ」
「ダンスも名人で」アントニオが添えた。「とんぼ返りは雲を凌(しの)いだとか」
「嘘ではありません」ルティリオは残らず聞いていた。「トスカナからノルウェーまで魔女のマントで飛んできたときには、誓って申します、たしかに天をかすめました。あれはお聞かせしなかったでしょうか、ノルウェーで狼に変身した女を殺したことは」
「北国に雌雄の別なく狼に化ける人間がいるというのは」マウリシオが受けた。「まことしやかな迷信だ」
「では」王子が訊いた。「イングランドの山野を狼になった人間が徘徊するという噂は、あれはどうなんです」
「イングランドでは、ありえないことです。あのように温暖で肥沃な島では、狼はおろか、人に害する畜生は、蛇(へび)、蝮(まむし)、蛙(かえる)、蜘蛛(くも)、蠍(さそり)なども育ちません。もちろん、よそから連れてきても、すぐに死んでしまいます。また、イングランドから土を運んで、たとえば蝮をかこむと、尻込みして越えることができず、その中でくたばります。人間が狼になるというのは医者のいう狼狂ですね。自分を狼だと思いこんで、狼のように吠える病気です。同病者が山野にむらがって、犬か狼のように吠えながら、立木を裂き、人を襲ってその生肉を食(は)むのです。地中海最大の島シチリヤにはいまでもこの病気があり、土地ではこの患者を狼人間と呼んでいます。伝染性の強い病気で、自覚症状があり、自分から周囲の者に、逃げろ、縛ってくれ、檻に入れてくれなどと頼むそうです。吠えたてるだけでなく、人を引き裂いたり食い殺したりするからです。まったくこのとおりらしく、シチリヤの島では、縁談があればかならずこの病気の有無をたしかめ、一緒になってから発病した場合には離婚が認められます。プリニウス(4)も彼の第八の書第二十二章でこの病にふれています。それによると、アルカディアの住民にもこの病気があるそうです。患者は、まず湖水を渡ります。着ているものは脱いで樫の木に掛けておくとか。そして裸で森の奥へ入り、以前から狼になってそこにいる親戚の群に加わります。しかし、九年後には湖水を引き返して元の姿に戻るという話です。もちろんこれはみな嘘っぱちで、空想の産物に過ぎませんが」
「そうでしょうか……」ルティリオが言った。「とにかく、わたしは狼を殺したのに、足元の死体は魔女だったのです」
「それならありうる」マウリシオが言った。「妖術や幻術をつかう者は確かにいる。やつらは魔法の力で幻影を映し出して人の目を欺く。しかし、はっきり言って、本来の姿からほんとうに変身できる人間などはいない」
「わたしもひとつ賢くなった」王子が言った。「そっくり信じていた口なのだ。そうなると、イングランドのアーサー王が鴉(からす)になったという説もあやしい。あの開明な国民さえ、ゆめにも疑わず島の鴉の殺生を禁じているが」
「起源は存じませんが」マウリシオがこたえた。「みなそう信じて勝手な想像をしているようです」
話は一晩続いたことになる。空がしらみはじめたのだ。それまで黙って聞いていたクローディオが口を開いた。
「いくら金(かね)になっても、わたしはそんな話の真相をしらべる気にはなりませんね。狼人間がいようが、王が鴉や鷲に化けようが、わたしには何の興味もありません。ただ、鳥になるなら鷹より鳩にねがいたい」
「黙れ、クローディオ。口を慎め。まだ懲りずに剣の舌で王を突くか」
「滅相もない」クローディオがこたえた。「もう懲りごりです。猿轡(さるぐつわ)をかまされているんですからね。舌に錠をかけられているようなものです。今後は、どんなに腹が膨れようと、口は開きますまい。鋭い批判や辛辣な風刺はかならず人をよろこばせますが、同時に恨みをかうことも免れません。しかし、口をつぐんでいれば、賞罰いずれの報いも受けません。余生は、殿下におすがりして安穏に暮しとうございます。もちろん、悪い発作が起きて、舌が踊り出すこともありましょう。多くの真相が、巷間(こうかん)で一花咲かせようと隙をうかがいながら、歯牙の間で悶え死にすることでしょうが、それもすべて神のおぼしめしです」
そこでアウリステラが言った。
「神意(みこころ)の前に口を慎もうという心懸けは立派だわ、クローディオさん」
ここへロサムンダが来て会話に加わり、アウリステラに言った。
「その男が口をつぐんでいられるというなら、わたしだって改心できるわ。この身にやどる淫婦の性(さが)もその男の減らず口も、生れつきにちがいないけど、わたしの悪性はきっと直るわ。女(じよ)、冶容(やよう)にして淫す、とかいうけれど裏を返せば、女の色香は歳とともに老け、容色が褪せれば淫らな欲も衰えるってこと。ところが、毒の舌は歳をとらず、のうのうと生きて世故たけるばかり。こういう老獪な毒舌家は、五感の喜びをことごとく舌先にあつめていよいよ盛んに毒やら針やらを吐くのさ」
「どっちもどっちね」トランシラが口をはさんだ。「行きつく先は身の破滅だわ」
「しかし、われわれの行く手は」ラディスラオが言った。「明るく栄えている。風はおあつらえむきだし、海はしずかだ」
「たしかにゆうべは穏やかだったわ」蛮人島のコンスタンサも加わった。「でも、マウリシオさんの夢にはおどろいた、てっきり海に呑まれたと思ったもの」
「実は、お嬢さん」マウリシオが言った。「神もレビ記で、占いをするなかれ、夢を信じるなかれ、と言っている(5)。夢判断は誰にでもできることではないからね。しかし、いま仮にこのキリスト教の真理をおそわっていないとし、また神の言葉も思い出していないとしてあの恐ろしい夢を大胆に判断するなら、あれは通常の夢ではない。夢というものは、神のお告げや悪魔の幻術でないかぎり、昼間の辛気が原因であったり、過食暴食による発散気が脳に昇って意識をみだすことから生じるものだ。ところが、わたしが翻弄(ほんろう)された夢は、占星術でものみこめないふしぎな夢だった。恒星惑星の位置測定、吉方凶方判断、天宮図観察、そういうことは全然しないのに、この目にありありと見えたのだ……われわれは、いまと同じ顔ぶれで、巨大な木造の館にいた。そこへ雷が、雨や霰とふってきた。館はまるで蜂の巣のように穴があき、そこから雲海がなだれこんできた。七つの海が徒党をくんで押し寄せたとしかおもえなかった。だから、あぶない、沈むと叫んだのだ、あっぷあっぷやりながら。まだ安心しきっているわけではないんだよ。動悸がとまらない。適切な判断をくだすには落ち着きが肝要で、それが正確な占星をおこなう必須条件でもあるが、なにしろこの船は木造、そのうえ天に雷、宙に雲、下を向いたら海水ときている、気が気でないのはあたりまえだ。しかも待ち伏せている危険が、地水火風の天災ならともかく、淫欲のからんだ謀叛となると一層気がかりだ」
「どうも納得がいかない。板子一枚下は地獄の船の旅に」アルナルドが言った。「色欲も淫欲もないでしょう。清廉潔白な恋路なら、晴れの日を期して、たとえ火の中水の中、厭(いと)いはしないが……」
自分にはやましいところがない。王子はアウリステラやペリアンドロなど、自分の恋を知っている者たちに、これをはっきりさせておきたかったのであろう。
王子はさらに言った
「君主は家臣の前に、常に身辺をいさぎよくしておくべきだ。謀叛を恐れるのは、みずからにうしろめたいところがあるからだ」
「そうですとも」マウリシオが言った。「ぜひそうあっていただきたい。それはともかく、きょう一日は様子を見て、夜までなにごともなければともに無事を祝うとしましょう」
日は極西の涯(はて)、テテュス(6)の腕に抱かれんとしている。海路はあくまで平穏で、順風、快晴、水夫をおびやかす一片の雲もない。空も海も風も、一体となって航海の無事を約束していた。
ところがこのとき、沈着を誓ったマウリシオが動顛(どうてん)して叫んだのである。
「海に呑まれますぞ。今度はまちがいない」
第十九章――二人の兵士のしわざ。ペリアンドロとアウリステラはふたたび離ればなれになる
王子がこたえた。
「なにごとです、マウリシオ殿。海に呑まれるったって水はどこです、波は?」
これにこたえたのはひとりの水夫である。血相変えて、甲板へかけあがってきた。口からも目からも泡を吹いている。舌はもたつき、言葉はつかえた。
「船底は穴だらけで、堰を切って浸水しております。ここも危険です。避難してください。退船、退船。王子は貴重品をお持ちになってボートか小舟へ。一刻の猶予もなりません、水はそこまで来ています」
船は水浸(みずびた)し、立往生である。航海長は一気に全帆を巻き上げた。大混乱のうちに退船の準備がなされた。王子とペリアンドロはボートを降ろし、アウリステラ、トランシラ、リクラ、そして蛮族の娘コンスタンサを乗り移らせた。ロサムンダも、置いてきぼりを喰うまいと飛び乗った。王子のすすめでマウリシオもそこへ飛びこんだ。
このとき二人の兵士が、船腹に取り付けてある小舟を降ろそうとしていた。ところが一方が独り占めしようとしたので、他方が腰の短剣でその胸を貫いた。そして、
「自業自得だ、思い知れ。死に際になって、やっと俺も目が覚めた」
と叫ぶや、降ろした小舟で逃げようとはせず、ざんぶと海に身を投げ、波間で消え消えに声を放った。
「王子、よく聞け、俺が叛逆の張本人だ。この期におよんで嘘は言うまい。俺が、最前この手にかけた男とたくらんで船底を蜂の巣にしたのだ。どさくさまぎれにボートを降ろして、アウリステラとトランシラをかっ攫うためだった。それがとんだあてはずれで、仲間をみちづれにおれもこの世とおさらばだ」
これを最後に、千尋の海底へと旅立った。水は呼気をさまたげ、彼を永遠の静寂(しじま)へと葬り去ったのである。
だれもが、これと同様の危機に怯えた。船は脱出準備で戦場のさわぎである。アルナルド王子は、身投げ男の声をこの騒動のなかで聞いた。王子とペリアンドロは、男が降ろそうとしていた小舟へかけより、そこへ移乗するまえに若いアントニオをボートのほうへ移らせた。そのとき、食料を積みこむのを忘れた。続いて王子が、ラディスラオ、父親アントニオ、ペリアンドロ、クローディオをともなって乗り組み、直ちにボートのあとを追った。
ボートはすでに本船からかなり離れていた。本船は水船同様で、帆柱が墓標のように突っ立っていた。日はとっぷりと暮れた。小舟はボートから遠い。ボートのアウリステラは声をかぎりに兄の名を呼び、彼もいとおしく妹の名を繰り返した。トランシラとラディスラオも同様であった。
「こいしいあなた!」「いとしいおまえ!」
声は波間でひっしと抱き合ったが、ふたりが再会できる見込みがうすれるとともに、彼らの必死の努力もくだかれ希望も切れぎれにさかれていった。海は闇に包まれた。風はあちらとこちらでは方向を異にし、小舟とボートをさらに引き離した。小舟は軽量で乗り組みの人数も少なく、わずかな風浪にも翻弄されて、ボートからは離れるばかりであった。いっぽうボートは、乗る人の重さより涙の重きに耐えかねて、小舟を待つ一行が念じていたことでもあるが、立ちつくしたように動かなかった。しかし闇が深くなるにつれて、事態はますます悲観的になった。なにしろ無案内な海域で、しかも天気はいつ崩れるやも知れなかった。陸上ならば露をしのぐ場所くらいは見つかろうが、ここではそれさえ望めない。櫂も食料も積んでない。唯一の救いは、心配で何も喉を通らないことであった。
マウリシオは、艇長であり水夫であった。が、あやつろうにも櫂がなくてはお手上げで、船はさめざめと降りしきる泣哭の涙をためていまにも沈まんばかりであった。一行は、ふと、空を仰いだ。満天に輝いていたわけではないが、闇をすかしてまたたく星が好天の前兆を送り届けている。しかしながら、あいかわらず現在地はつかめなかった。
心は安んじることなく、睡気など思いもよらず、まんじりともできない夜であった。やがて朝は駆け足で、と言いたいところだが、この朝ばかりは思案投げ首であった。心のよすがを乗せたまま闇に吸いこまれたボートが、ひょっこり姿を見せはしないか。この窮境を救ってくれる船は現れないか。だれもがそんな期待を胸に、ようやく白みかけた水平線に目をこらすと、左舷に島影ひとつ。ありがたい。が、ぬかよろこびであった。まぢかに陸をみて大喜びしたのも束の間、風がなくては近寄れないのだ。これに気づくと、目前はまたもや漆黒の闇となった。
だが、マウリシオには救われる確信があった。死ぬほどの目に遇うことは遇うが、けっして死にはしない。前述のとおり、彼の星占にはそう出ていたのである。
はたして、神風が起きた。
おかげでボートはしだいに島へ吹き寄せられ、広い浜辺に漂着した。一面雪でおおわれた島であった。人間の住む気配はないが、荒涼たる雪原もいまの一行にとっては綿のようにあたたかく、あたりの寂寥にさえ朋輩のやさしさがこもっていた。一行は助け合って上陸した。
若いアントニオは、アウリステラとトランシラの強力(アトランテイス)をつとめた。ロサムンダもマウリシオもその肩にのって上陸した。一行は岸から遠くない岩陰に身を寄せた。用心のため、ボートは陸揚げした。神についで頼りになるのがこれである。
若いアントニオは背負いの弓を手に、島の探索を買って出た。このままでは、早晩飢えが命取りになる、という懸念からであった。
しかし、人が住んでいればなんとかなる。腹のたしになる獣はいないものか。
アントニオは一行の同意をえて、身軽に島の奥へとむかった。彼は地面ならぬ、まるで珪石のようにこちこちに凍てついた雪の山野に足を踏み入れずんずんと奥へ進んでいったわけだが、そのあとを、見咎(みとが)められないようにひそかにつける者があった。淫婦ロサムンダである。用をたしにでも行くのだろう、と咎める者がないのをさいわい、岩陰を出て彼を追ってきたのである。
若者はまもなく彼女に気づき、一行の目の届かなくなったころを見計らって、ふりむきざまにらみつけて言った。
「何用だ。いかにもわれわれは因窮をきわめているが、おまえの助けまで借りるつもりはない。引き返せ。弓矢の用意もなくて狩の手助けができると思っているのか。足手まといにならぬうちに、さっさと帰れ。それとも、ほかにわけでもあるのか」
「まあ、うぶなこと」淫婦はこたえた。「ちっとも分ってくれないんだね、わたしの気持を。せっかくいいことを教えてやろうと思って来たのに」
女はこう言いながら、若者に身をすりよせてきた。
「弓矢のおまえは、まるでアポロン。いやもっといい男だわ。そして、わたしはダフネ(1)。逃げるどころか、追いすがるダフネ。色香の褪せたわたしではなく、昔のロサムンダを想っておくれ。王の首根っこを押え大臣を顎でつかっていたころを。ああ、おまえは若くて頼もしい。わたしはおまえに燃えている。胸焦がす恋の炎は、雪でも氷でも消せはしない。ふたりで楽しく暮したくはないかい。わたしはおまえのものだと思っておくれ。イングランドへ行こう。幾千の槍の衾(ふすま)が待とうと、かならずおまえを財宝の隠し場所へつれていってやる。だれでもない、おまえのために集めた宝なんだ。秘密の道をぬけていけば簡単。ミダス王を凌ぐ宝の主におなり(2)、クロイソスの富もかすむ(3)」
口車はここで止った。しかし、手はアントニオの手を弄(まさぐ)り、からみついた。若者はその猥(みだ)りがわしい口説きに誑(たら)しこまれず、手を払いのけて言った。
「放せ、ハルピュイア(4)。ピネウスの膳の清浄を穢すな(5)。よさないか、エジプト女郎(6)、けがらわしい。わたしはおまえの奴隷ではない。みだらな真似はゆるさんぞ。口を慎め、蛇女め。邪淫の本性は見た。われわれは飢え死にを待っているだけかもしれないし、生きのびる道を断たれるかもしれない。いや、それを待つまでもなくいまにも落命するやもしれないが、それがどうした、わたしは自分の意志のおもむくところへ行く。おまえなどの言うままになって堪るか。帰れ。これ以上つきまとうとただではおかん。この気違い沙汰をほかの者に告げるぞ。すぐに引き返せば、この破廉恥もなかったことにしてやる。一歩でもついてくるなら、命はないものと思え」
さすがの毒婦ロサムンダも、胸に釘を打たれた。訴えかけることも、うらめしさを涙の露にこめることもできなかった。アントニオは聡(さと)しく女から遠ざかり、毒婦は岩陰への道を引き返した。こうして、アントニオはさらに島の奥へ足を踏み入れたのであるが、求めるもののてがかりは何もえられなかった。雪はいよいよ深く、道は険しく、人跡のまぼろしだにない。これ以上深く進むと、道に迷うだけだ、諦めよう。アントニオは、やむなく来た道を引き返した。一行は天をあおぎ地にうなだれて不運をなげいたが、やがて、不毛の無人島に長居は無用、海へ戻ろうと声をあわせ、マウリシオの指揮に従った。
第二十章――深雪の島での珍事
日が傾きそめたころである、沖合いに一隻の大型船が見えた。たすかった! 一行は沖の一点に黎明を見た思いであった。それは接近して帆を巻き投錨をおえたと思うと、ただちにボートを下ろし、島へ向かってきた。ちょうど、島に見切りをつけた一行がボートへ戻り岸を離れたときであった。
何者であろう、待ってそれを確かめよう、とアウリステラが提案した。
渡海船のボートは着岸して雪に乗りあげ、いかにも凜々しく逞しそうな、きりっとした若者がふたり颯爽(さつそう)と降り立った。ふたりして、たいそう美しいひとりの娘を担いでいる。娘は意識がないと見え、ぐったりとなって動かず、地面におり立つこともできないようだ。ふたりはボートで乗り出したばかりの一行に声をかけた。引き返して証人として立ち合ってもらいたいことがある、と言う。
しかし櫂を貸してもらわないかぎり、一行には、戻ろうにも漕ぐものがない。マウリシオがこたえてそう言った。
そこで、岸のボートの水夫たちが漕ぎ寄って一行のボートを曳き、雪原へ戻した。それから凜々しい若者はおのおの盾をかまえ、白刃を取ってふたたび雪原に降り立った。
アウリステラには不吉な予感があったので、気を失った美しい娘のほうへ恐る恐るながら近寄った。一行もそれにならった。
ところがそのとき、剣を構えた騎士の両人が彼らを呼び止めた。
「お待ちください。ひとまずわたくしどもの話をお聞きください」
「こちらの騎士とわたくしは」ひとりが言った。「この病気の女性を争って決闘することになりました。われわれの恋の鞘当ては血を見ずには決着がつきそうになく、どちらかが倒れるまで続ける覚悟です。彼女がひとりを夫に選んでくれれば、剣をおさめ、胸を鎮めることもできましょうが、それはもはや叶(かな)わぬこととなりました。こう申しますのは、ご一行に立ち会っていただきたいからです。手出しはいっさい無用、一対一で堂々と勝負します。娘の命はわれわれに命を賭けて戦わせるほど強いものですが、この孤島でとりとめる方法があればともかく、ないとなれば一刻をあらそいます。それゆえ、お名前や、ここにいらっしゃるわけを問う暇はありませんが、鳥さえ通わぬこの島を櫂も持たずに出ようとされるには、きっと深いわけがおありでしょう」
マウリシオは立会人を引き受けた。かたわらに臥(ふ)す娘から意志を聴き出すことを諦めたふたりは、白刃を抜いて向かいあった。娘の選択を仰げず、剣に裁定をゆだねたのである。干戈(かんか)が交わった。相方とも修業した技を生かすゆとりなどなく、型も流れも、歩みも送りも知ったものかはただ猛然と火花を散らせて渡り合ったが、やがて一方が心臓のあたりを刺しつらぬかれ、他方は脳天を割られて相討ちとなった。しかし頭を割られたほうは、神からしばしの猶予をたまわって息があり、娘のそばへ這いよるや、頬をすりあわせて言った。
「勝ちました! あなたはわたしのものだ。たとえこのしあわせが束の間に消えようとも、片時にせよあなたを贏(か)ちえたよろこびを思うとわたしはまたとない果報者、末期の息の下からささげるこの魂を胸の片隅にでも納めておいていただきたい。あなたはもう操にこだわらなくてもいいのです、わたしはあなたの夫なのだ」
ほとばしる鮮血が娘の顔を朱に染めたが、娘に意識は戻らず、唇にも何ら反応が見られない。漕手(こぎて)をつとめた水夫の二人がボートからその場へ駆けつけ、心臓をつらぬかれた男の死を確認した。頭を割られたほうは、かくも高い代償を払って得た妻の、その口に口をかさねて魂を吹き込み、息絶えて雪原にくずれた。
アウリステラは病気の娘の顔をぬぐってじっくりと見ることをさておいて、この一部始終をまたたきもせずに見守っていたが、そのときそれを思いついて娘のそばへ寄り、彼女を愛して死んでいった男から降り注いだ顔一面の鮮血をぬぐった。そして見ると、タウリサではないか。アウリステラが王子のもとにいたころの腰元、タウリサであったのだ。そういえば、王子は彼女をふたりの騎士にあずけ、アイルランドへ届けるよう依頼したと言っていた。アウリステラは気が遠くなるほど驚いた。からだ中の力が抜けていく思いだった。悲しいどころではなかったのだ。うつくしいタウリサは、すでに事切れていた。それを知ったときアウリステラの悲しみは堰を切った。
「あんまりだわ」アウリステラは声をあげた。「神様はわたしに不幸を思い知らせようとしてこんなこみいったことをなさるのね。いっそ殺されたほうがどんなにしあわせでしょう。命の切れ目が不運の切れ目なら、せめてものしあわせ。死んで尽きる難儀なら執念深くいつまでもつきまとってはこないでしょうから。なのに神様は邪魔ばかりお入れになって、わたしからやすらぎの道をとりあげ、いつまでも茨の道を歩けとおっしゃるのね……でも、悔んでばかりはいられないわ。いたずらに嘆いているときかしら。タウリサがかわいそうなら早く葬ってやるべきだし、わたしひとりの涙で、生きている人みんなを悲しませてはいけないわ」
アウリステラはマウリシオの口をとおして、渡海船の水夫に、本船へ戻ってそこから墓掘り道具をもってきてくれるように頼んだ。マウリシオも沖の船へ同行した。船長、もしくは航海長に、一行の便乗を乞うためである。さしあたっての行先は相手まかせだ。
この間に島ではアウリステラとトランシラがタウリサの埋葬を準備した。死者が敬虔なキリスト教徒であったので、アウリステラは衣服を脱がすのをためらい、そのまま葬ることになった。
マウリシオは交渉をすませ、墓掘り道具をたずさえてもどった。やがてタウリサの埋葬が行われた。しかし渡海船の乗組員たちは、カトリック教の掟にのっとって、決闘による死者の埋葬をこばんだ。
ところでロサムンダは、アントニオに淫らな思いを打ち明けて追いかえされたときから罪の意識にさいなまれ、人の顔を正視できず、伏し目がちでいたが、いよいよタウリサを埋める段になると顔をあげて言った。
「ご慈悲です。罪を憎んでもなさけがおありなら、この身を哀れとおぼしめしください。わたしはものごころがついて以来、理の道を踏みはずした女です。若い盛りをひとも羨む美貌にめぐまれ、それをさいわいにしたい三昧をつくし、欲しいものは何でも手に入れてきましたが、そこを邪淫の性につけこまれてしまいました。そして、取り憑かれたまま切れない仲になり、その手を借りてすでにご存知のように、王の首根っこを押え、廷臣を顎でつかって有頂天になっておりました。ところが知らぬまに、年波という、女の色香を剥(は)ぐ盗賊に侵び入られ、まだ迷いの覚めないうちに面皮を剥がれて、このように醜い顔を人前にさらすことになってしまったのです。でも、魂は年波の害をうけません。そこに根を下ろした邪淫の性も安泰で、わたしもそれと手を切るどころか、いつまでも情欲の流れに身をまかせ自堕落を続けておりました。さきほども、そちらの蛮族の青年を見ているうちにむらむらと燃えあがり、追いすがって想いをうち明けたのです。しかし、傾けた恋の炎を青年は氷のように冷たく撥ね返しました。わたしは崇められるどころか蔑まれ、好かれるどころか忌みきらわれたのです。ところが、そんな仕打ちにますます火をかきたてられて、この胸はもう耐えきれません。燃え尽きそうです。ああ、死神がそこまで来て、命の裾を引いています。手が伸びてきました。前非を悔いる者に後生です、ご慈悲を。この情欲の業火を雪と氷で鎮めてください。こちらの娘さんといっしょに埋めていただきたいのです。生前がどんな莫連女(ばくれんおんな)でも、骨になってしまえば清純な娘さんの骸(むくろ)を穢(けが)すことはできないでしょう。清らかな遺骨はどこにあっても汚れないはず」
ここで、アントニオに言葉を向けた。
「あなたは立派な青年です。これからは誘惑の多い年頃ですが、年増女の甘い口や、姥桜(うばざくら)の色香に迷わないよう、神のお導きにおすがりなさい。純真なお耳を淫らな言葉ではしたなく穢したことを許してください。今となっては虫がよすぎるかもしれませんが、気持だけは分ってほしいの」
こう言って、大きく吐息し、気絶して死んだようになった。
第二十一章――(ペルシーレスとシヒスムンダの苦難の物語、その第一巻第二十一章)
「険山氷雪に閉ざされた絶海の孤島にまで遠征して」マウリシオが言った。「恋というやつ、何をたくらんでいるのか、わたしにはとんと見当がつかない。パポスもあれば、クニドス、キュプルス、エリュシオンの野もあるではないか(1)。あの佳境を捨てるとは物好きなことだ。あちらでは珍味佳肴(かこう)を絶やさず自由奔放に暮せると聞くし、享楽の恋の棲家(すみか)は安堵の胸、平らかな心であって、涙の海や恐怖の山ではあるまいに」
女たちは呆然となっていたが、マウリシオの言葉に黙ってうなずいた。やがて、涙の袖をしぼりつつタウリサの埋葬をすませたころ、ロサムンダの意識も回復した。
一行はボートで沖の渡海船へ移り、大歓迎を受け、馳走にあずかった。しかし、ロサムンダだけはまたもや息絶え絶えになり、死の門を叩いていた。
帆が張られた。水夫たちは頭に立つ者の死を悼んでから、新しい船長をえらび、ふたたび航海の途についた。しかし、船路に当てはない。王子は彼らのことをアイルランド人だと言っていたがそうではなく、イングランドに対して叛旗をひるがえしたとかいう島の者で、海賊を業としていた。
マウリシオは海賊同伴の旅には不満だった。彼らの荒々しい習性や、質(たち)の悪い世渡りのことを思うと気が気でないのだ。こちらには絶世の美女アウリステラや、むすめ盛りの美貌を誇る愛娘トランシラ、みなりが好奇の目をそそらずにおかない少女コンスタンサもいる。そこへもってきて相手は海賊だ、けしからんことを企んで不思議はない。齢(よわい)をかさね、世間を知っているマウリシオだけに、それを考えると心配でならない。若いアントニオは見張りをつとめた。アンプリサスの牧童アポロン(2)と同じ役目である。両眼はまんじりともせずあたりを警(いまし)め、夜を徹して、美しく、か弱い羊の群を見守った。
ロサムンダは漣々(れんれん)と己を恥じた。そのあまりに衰え、やつれ、ついにある晩部屋で冷たくなっているところを発見された。思えば哀れな女である。一行はひとしきり同情と憐憫の涙を流してその死を悼み、渺茫(びようぼう)たる海原に葬った。だが、若くたくましいアントニオが彼女の胸につけた火は、大海の水をもってしてもおそらく消えまい。
一行は海賊に、イングランドかスコットランド、それが無理ならアイルランドかイベルニアへ向かうようにと頼んだ。しかし、大きい獲物にありつくまでは水や食糧の補給以外どこへも上陸しない、という返事であった。
蛮族の女リクラは、イングランド行きを承諾させるにたるだけの金塊を持っていたが、今それを見せては強奪されるにちがいない、と考えた。
しかし、首領は一行に別室をあたえて手下の狼藉が及ばないよう配慮した。こうしておよそ三カ月海を渡り歩き、島へ立ち寄ることがあってもすぐに沖へ出る、放浪の航海が続いた。これが海賊稼業の日常である。無風で潮流も動かないときには、当然船脚(ふなあし)も止った。
新しい船長はよく気のつく男で、便乗者の部屋をひんぱんにたずね、長旅のつれづれを慰めることにつとめた。しかもなかなか気のきいた話をし、滑稽な物語などもたびたびしたが、羽目をはずさずにみんなを楽しませた。またマウリシオも同様にして一行の気分をほぐそうとした。
しかし、アウリステラ、トランシラ、リクラ、コンスタンサ、つまり女たちは離ればなれのいとしい者たちのことが気がかりで、船長やマウリシオの話にも興じられないことが多かった。しかしそんなある日、彼女たちが船長の話に聞き入っていることがあった。その話は次章に出る。
第二十二章――船長の話。国もとのポリカルポ王が主催する盛大な祭典のこと
「イベルニアに近い島の一つが、わたしの郷里です。とても大きい島で、歴とした王国を名乗っています。ただし王は世襲ではなく、住民の選挙で決ります。国一番の人格者が選ばれるわけです。取引も拝み倒しも通用せず、袖の下も口約束も効きません。国民の総意にもとづいて選出された王に、絶対的な権力が与えられます。王位は健康の続く限り終身のものですが、王でない者は次の王位を目ざして自己を磨き、王はその地位に恥じないよう一層徳を励みます。野心家の出る幕はありません。欲張りも閉め出され、どんなに抜け目ない偽善者でもすぐ化けの皮が剥がれますから、国民は安心して暮すことができ、正義と慈悲につらぬかれた善政が栄えます。王は富者にも貧者にも等しく耳を傾けて、その訴えを迅速に処理し、法が賄賂(わいろ)や血縁で曲げられることもありません。商いにも節度があります。無法者におびやかされることなく、国民のだれもが権利を保証されています。
この厳正な慣行にしたがって、いまはポリカルポというお方が治めています。人望が厚く、文武にすぐれた王です。この方に、即位のときから二人の美しい娘があり、妹をポリカルパ、姉をシンフォロサとおっしゃいます。幼くして母御を亡くされましたのでお淋しかったことでしょうが、世話のかからない、しっかりしたお子たちでしたから、男手一つで立派に成人され、国の鑑(かがみ)になっています。御一家そろってのすぐれたお人柄を、国民は心から敬い慕っているのです。
ところで王は、塞(ふさ)ぎや鬱(うつ)症が人の心に悪の芽を育てるとお考えになって、娯楽のある暮しを奨励され、祭や芝居など公の催し物を盛んになさいました。なかでも盛大なのが、戴冠記念日の行事です。これは、ギリシャ人がオリンピックと呼んだ競技会を、そっくりそのまま継承しようとするものです。走ったり、投げたり、技を比べたりする試合のことで、各種の賞があり、相手を組み伏せた者も栄誉を授かります。
会場は広い浜辺にあって、枝を編んだ日よけを張り、真中に壮麗な壇を設けます。国王の御一家は、ここから御観覧です。あるときポリカルポ王は、この祭典を例年になく豪華盛大に開くことにしました。
その日、天覧席はすでに王や大臣を迎え、祝砲や鳴り物が開会を告げようとしていました。そして、四人の、若くいかにも足の速そうな走者が、左足を前に、右足を浮かせて合図を待っていました。出発線にある合図の紐が切られさえすれば、いつでも競走路へ飛び出せる構えです。これが切られると、所定の地点へ向かって一斉に駆け出すことになっています。そこが決勝点です。
と、このとき、海上を一艘の小舟が近づいてきました。塗りたての船縁(ふなべり)が真白に輝き、櫂は左右六丁ずつ、漕手(こぎて)は十二人。いずれも、広い肩、厚い胸、筋骨たくましい腕、颯爽たる若者です。着ているものも白一色。舵を取る若者だけが臙脂(えんじ)色の水夫着でした。
舟はみるみる接近して、若者たちは岸を待たず飛び降りました。そこで王は発走を遅らせ、飛び入り参加と思われるそれらの若者から、ひととおり、名と来航の目的を問うことにしました。
進み出て王に言葉を向けたのは、舵を取っていた若者で、つややかで曇りのない頬は雪に紅(べに)をさしたようでした。頭には金の環が無数に渦巻き、目鼻立ちは過不足なく端正で、満場の目を奪い、わたしもうっとりとなりました。
若者は言いました。
『陛下、われわれはこの競技会を伝え聞き早速やってまいりました。参加をお許しください。遠方から参った者ではありません。すぐ近くのスキンタ島に碇泊中の渡海船から来た者です。あいにくの向かい風で船をまわせず、こうしてボートを漕いできました。正々堂々と戦って、ぜひ栄冠をかちえとうございます。他国者ではありますが、陛下のご裁量によって技と力を試す場をお与えください。陛下にもご満足いただけるよう、名誉にかけて頑張ります』
『いいとも。きみのように立派な青年からそう丁重に頼まれては、断わりようがない。大会を大いに盛り上げてくれたまえ。ふさわしい褒美(ほうび)をさせてもらう。きみはとっても強そうだから、優勝は独占かな』
紅顔の若者はひざまずき、うやうやしく一礼して、素早く退き、四人の走者が待つ出発線のうしろに立ちました。仲間の十二人は一隅に陣取っています。ラッパの合図で紐が切られ、五人は一斉に飛び出しました。そして二十歩も行ったでしょうか、飛び入りの若者はそこですでに六歩先んじ、三十歩で十五歩、そしてなんと、決勝点へ入ったときには半道の差をつけていました。うしろの四人はまるで立往生です。驚きました。ことにシンフォロサ姫は興奮が醒(さ)めず、目は若者に釘づけでした。満場が息をのむほどの美青年の、羚羊(かもしか)のような四肢に、若い姫がうっとりとなるのは道理でしょう。そのときわたしは、自分が思いを寄せているポルカルパ姫のほうに気をとられていたのですが、シンフォロサ姫の素振りも目にとまりました。
それにしても、外国人にやすやすと優勝をさらわれたので、選手はみな口惜しくてたまりません。
第二番目の種目は剣術でした。さきほどの俊足の若者も参加しました。そして、六人と立ち会って全勝です。目、鼻、口、脳天を打ち、突き、叩いて、文字どおり指一本触れさせず勝ったのです。
見物はやんやの喝采で、文句なしに若者の勝利を認めました。
つぎは組討ちです。相手はやはり六人。この競技で、若者の強さは最高に際立ちました。岩乗な胸、筋骨隆々たる肩、たくましい腕、それに巧みな技が加わって、六人を片っ端に組み伏せ、肩を押えて仕留めました。
ついで出場者はみな、地面に立ててある重い棒を抜きました。第四番目は、その棒を投げる競技です。若者は棒の重さを確かめてから前方の観衆に合図を送り、棒の落ちる場所を空けるように言いました。そして、一方の端をつかんで、振りかぶりもしないで投げました。ものすごい腕力です。棒は遙か場外の海上に達して、ズバと水中につきささりました。
まるで怪物です。歯が立ちません。たいていの選手が尻込みし、挑戦意欲を失いました。つぎは弓と矢が与えられ、枝のない高い立木が指し示されました。てっぺん近くに手槍が一本ささっていて、鳩が一羽つながれています。それを射落す競技です。まず自信ありげな一人がわれこそと進み出て、一の矢を放ちました。命中です。ただし当ったのは槍の先で、鳩は驚いてばたばたしただけです。つぎの選手も劣らず自信ありげで、たしかに見事な腕前でした。が、鳩をつなぐ糸に命中したのです。絆(ほだ)しを解かれた鳩は、勢いよく羽ばたいて、舞い上がりました。と、そこへ矢を放ったのが、勝ちっぱなしの若者です。矢は、合点承知とばかりヒョッという音を残して空を裂き、鳩に追いついて、その心臓をつらぬき、射落して命を仕留めました。会場はこんども大喝采です。競走、剣術、組討ち、棒投げ、弓術、いちいち挙げませんが、ほかにも多くの種目がありました。これらの全種目に若者はゆうゆうと優勝し、仲間に出る幕を残しませんでした。
大会は夕方終り、ポリカルポ王が立ち上がって審判団を呼び、若者の表彰にとりかかったのですが、そのとき、若者は王にひざまずいてこう言いました。
『直々(じきじき)のご褒美に与(あずか)るのはこの上ない喜びですが、それはまたの機会に願えれば幸いです。実は、船には留守番がおりません。それに海も暗くなってまいりました。こんど参りますときは、もっとゆっくりさせていただきます』
王が若者の肩を抱いて名をきくと、ペリアンドロ、と答えました。
麗しのシンフォロサ姫は美しい花の冠を脱いで、この凜々しい若者にかぶせ、しとやかに言葉をかけました。
『こんどお見えになるときは、あなたを父の独り占めにさせませんわ』
第二十三章――優勝者が兄ペリアンドロとは。これを知ったアウリステラの嫉妬
嫉妬よ、したたか者よ。魂に取り憑いて、離れるときは命を道連れという、まさしく不治の病魔め。麗しのアウリステラよ、早まるな。狂い病に胸を開け渡してはならない。とはいえ心の馬に手綱はかからず、目にもとまらぬ駿足で、そもそも実体がないから自在に胸の壁を抜け、魂の奥まで忍び込む。
シンフォロサを夢中にさせ、花冠を賜わった若者が兄ペリアンドロであったとは。そして、あの姫の言葉。アウリステラは激しい猜疑(さいぎ)にとらわれ、咽(むせ)ぶように嘆息してトランシラにすがった。
「あなたは旦那様のことが心配でしょうが、わたしは兄のことなんかどうでもいいの。船長さんのお話ではとっても強くて、勇ましくて、一等賞も冠もいただいたそうだけど、妹は異郷の空で途方に暮れているのよ。よその女の人にもてはやされていい気でいるなんて、あんまりだわ。遠い国で冠や優勝杯に現(うつつ)をぬかしているときかしら。険しい岩間や怒濤の山に妹を置き去りにしておいて、ひとりで勝手にやれ、命に別条はなかろう、そう思っているんだわ、きっとそうよ」
船長もこれに耳を傾けていたが解釈に困った。しかしともかく話を続けよう、と思ったがそれもできなかった。俄に風が巻き起って言葉を吹き飛ばしたのである。突然の激しい風であったので船長は水夫を指揮するためその場を離れた。縮帆、調帆、固定。水夫は一斉に持ち場につき、やがて船は追い風に翻弄されながら山をなす波を越えていった。
マウリシオたちは水夫の邪魔にならないよう、部屋に控えていた。ペリアンドロの名が出たときアウリステラがあのように驚いたのは何故か、トランシラには呑みこめなかった。兄の活躍が誉めたたえられて、なぜ妹が不機嫌になるのか。この問に、アウリステラがこたえた。
「わかってちょうだい、わたしは巡礼なの、理由はどうしても言えないけれど。たとえこのまま死ぬことになっても、口外は許されない理由があるの。でも、もしもわたしの素姓が知れることがあれば、そのときには、いまわたしがなぜ驚いたかも理解していただけると思うわ。それが分れば、めげず試練に立ち向かう真直ぐな志のことや待ち構えていた幾多の苦難のこと、そして思いがけないめぐりあわせによって出口の見つかった迷路のこともご承知いただけるはずよ。兄妹の絆は切っても切れないものでしょう。わたしと兄の間にはそれに加えて、さらに太い絆があるわ。恋に悋気(りんき)はつきものだけど、わたしが兄に嫉妬するのは、もっと正当な理由からよ。シンフォロサ姫はほんとうに船長さんがおっしゃるほど美しいのかしら。でも冠を授けようとしたとき、姫が兄にうっとりと見とれないなんて考えられないわ。兄はあんなに素敵で頼もしい男性でしょう、あなたもごらんになったはずよ。だから姫が兄にわたしのことを忘れさせようと企んだとしても不思議はないわ」
「でも、よく考えると」トランシラが言った。「船長さんのお話は、あなたが蛮人島にとらわれる以前のことよ。あれからお兄さんに会えてお話ができたじゃないの。変ったところがあった? お兄さんは、あなたのことで頭がいっぱいなのよ。それにしても、やきもちが過ぎるわ。妹が兄さんのことで嫉妬するなんて」
「トランシラ」マウリシオが口をはさんだ。「愛というものにはさまざまな事情があって、首をかしげることもある。その掟(おきて)もさまざまで、人それぞれだから、他人様の気持を詮索するのは無躾(ぶしつけ)だ。根掘り葉掘り問いただすのはよしなさい。自分のことで好奇心をたくましくするのは自由だが、他人様のことは直接の関わりはないんだから勝手な想像をめぐらすのもよくない」
よく出来た人だ、分別がある、とアウリステラは思った。その父親にひきかえ娘のトランシラは、根が愚かというのではないが、すべてを聞き出さずにはおれない無遠慮なところがある。
風が止んだ。水夫たちは、ほっと息をついた。便乗の者たちも落ち着いた。
船長は再び一行の部屋へ顔を見せ、話に加わった。ペリアンドロの名を聞いたときアウリステラがなぜ驚いたのか、彼もそれが気になっていたのである。
アウリステラの頼みで先程の話題に戻ることになった。
姫がペリアンドロに示した好意は花冠でおしまいなのか。アウリステラは心中を覚られまいとして、さりげなくたずねた。
姫にはそれ以来、彼をご愛顧めされる機会がなかった。船長は身分の高い女性の好意を、ご愛顧、と呼んでこう答えた。ところが、その後船長の気苦労が増したという。当初、姫の素振りに変化はなかったが、しだいに、ペリアンドロを忘れられずにいることがはっきりしてきたのだ。競技会の日が過ぎてからも彼の魅力がしばしば話題になり、そのたびに姫は彼を雲の上の人にまつり上げていたのであるが、いつしかそれだけでは満足できなくなった。そこで、父王に会わせるという口実をもうけて、船を出せ、ペリアンドロをさがせ、と船長に命じたのだ。船長はこれでいっそう確信を強めたという。
「でも、そんなことってあるかしら」アウリステラが訝(いぶ)かった。「身分の高い、それこそ雲の上にいらっしゃる、やんごとないお姫様が、こともあろうに下賤の者に心をお寄せになり、それを態度でお示しになるなんて。それに王侯の身分は、恋とは反(そり)が合わないはずだし。いくら身分にとらわれないといっても、そんなに美しいお姫様ともあろうお方が、見ず知らずの若者にひと目惚れなんて考えられないわ。たかがボートの舵取りではありませんか、十二人ばかりを指揮する、それも裸の、船を漕ぐ男はみんなそうだけど……」
「落ち着きなさい、アウリステラ」マウリシオがなだめた。「人間の営みのなかで、恋ほど偉大で長続きのする奇跡はないのだよ。ごく頻繁に起きるし、いつの世にもあるものだから普段は見過しやすい奇跡だがね。恋は王杖と牧人の杖を結び、貧富貴賤を平にし、不可能を可能にし、死神もどきの能力さえ持っている。兄上の立派さは、あなたも認めるでしょう。わたしも感心している。男らしく、気品があって、姿は端正で、世にもまれな美しい青年だ。美にふれた者はその虜(とりこ)になり、美しいほどに、またそれを知る度合いが深いほどに愛も深く、敬慕も厚くなるのが自然で、シンフォロサ姫がいかに高貴のお方であろうとも、兄上に恋慕して不思議はないでしょう。姫が愛しているのは、ただのペリアンドロ君ではない。美しく、頼もしく、凜々しくそして万能で、人間のあらゆる長所を具備した男性、それが姫の相手だ」
「なんですって、このお嬢さんの兄さん、ペリアンドロが?」船長はおどろいてたずねた。
「ええ」トランシラがこたえた。「離ればなれのお兄さんのことを、とても心配していらっしゃるんですわ。わたしたちもアウリステラさんとはとてもいいお友だちだし、お兄さんとも一緒でしたので、お気の毒で黙って見ておれません」
一行は、王子の船での遭難のこと、ボートが離ればなれになってからのことを、分りやすくかいつまんで船長に話した。
さて、作者は以上をこの壮大な物語の一の巻とし、ついで二の巻に入ると、いよいよ奇々怪々、事実でありながらいかに霊妙かつたくましい想像力をもってしても思いつかない、すなわち想像をも絶する事件の数々を語る。
ペルシーレスとシヒスムンダの苦難、その第一巻――完
第二巻(ペルシーレスとシヒスムンダの苦難、その第二巻)
第一章――一行もろとも渡海船が転覆する
そもそもこの物語の作者先生は、物語より恋する者の心理を語るほうが得意とみえる。船長の話からアウリステラが焼餅をやいたのに事寄せて、焼餅の講釈をおっぱじめ、二の巻の冒頭の一篇をほぼそれに当てているのだ。しかし、嫉妬はすでに万書の論じるところであるから、この翻訳本では(さよう、お手元にあるのは翻訳本である)冗慢な枝葉末節は刈り込み、もっぱら本筋を追うことにする。
となると、風は忽然(こつぜん)と気色(けしき)ばみ、黒雲は群(むれ)を呼び、宵(よい)は闇を包み、海上は墨を流したように暗くなったと起さねばなるまい。はたして、漆黒の闇を裂いて雷電が襲ったのである。前触れの稲妻が走るだけで船上は震えあがった。射竦(いすく)められた。待ち構えていたように嵐が牙をむき、もはや水夫の手に負える状況ではない。恐怖と時化が気脈を通じて、どっと襲いかかったのである。
それでも、船上ではめいめいが持ち場について急に応じた。死を避けるというより、少しでも長く生きのびるためであった。板子一枚に命をあずける荒くれは、簡単にはあきらめない。たまたま波に(も)ぎ取られた柱の一本であろうと、そんなものにさえ希望を託してしがみつき、そのようにしがみつけるところがあることをたいそうな幸運に思った。
マウリシオは娘のトランシラを、アントニオは母と妹を抱き締めた。だがかわいそうに、アウリステラには涙のほかにすがれる者がなかった。死神の袖にすがるおもいで涙をしぼるばかりである。このとき、信奉するカトリックの教えがゆるしたなら、おそらくよろこんで死神のふところへ飛びこんだことであろう。しかしその場では、結び目のように、というより糸玉のように身を寄せ合う人々の群に加わって、耳をつんざく雷鳴、稲妻の閃光、水夫たちの叫喚が飛び交う戦場を逃れ、船底へ転がりこんだ。
船は、雲を凌ぎ天を衝(つ)くかと思うと、つぎの瞬間には帆柱で海底の砂をさらった。船底の冥府(めいふ)ではそれに気づかずにすんだが、だれもが目を閉じて死を待った。というより、見えない死に怯えていた。もとより死はどんな姿で、何をまとってあらわれようとも恐ろしいものにちがいないが、目にも見えず予告もなく健康で元気な人間を襲う死は、なおさら脅威である。
嵐は水夫の為す術(すべ)もないまでに荒れ狂った。船長にも打つ手はなく、一行の望みも尽きた。指揮も号令も途絶え、天の救いをもとめる、祈りとも叫びともつかぬ声だけが船上をうごめいた。
命の瀬戸際である。トランシラやアウリステラの脳裡にラディスラオやペリアンドロの面影がさすことすらない。おそるべき死神の力。人間の生涯の記憶をことごとく抹殺する。悋気(りんき)さえ感じさせないとなれば、不可能を可能にすると言っても過言ではあるまい。
漏刻(ろうこく)は時を刻まず風見(かざみ)は吹き飛び、位置を知る手段は何一つなく、船上は阿鼻叫喚(あびきようかん)の地獄と化し、人々は叫び、喘ぎ、祈ったが、やがては船長さえ意気を失い、水夫も人間の力の限界を思い知らされたように消沈して虚脱状態に陥り、しだいに声もうすれて、あれほど不運を呪っていた人々の口からは溜息さえ洩れなくなった。
勝ち誇る海は甲板を我が物顔であばれ、高い帆柱にも手をかけた。この侮辱に対し、帆柱は海底の砂をかきむしって報復したが、それも長くは続かなかった。光とは無縁の朝、というものがあるとするならやがて朝がおとずれたころ、船は前へも後へも進まなくなり、座りこんだように動かなくなった。船舶にとっては沈没につながる、最も危険な状態である。
はたして、突風の一撃を喰らって転覆した。仕掛けでもあったかと思われるほど、まっさかさま、ものの見事にくつがえされたのである。一行をのせたまま帆柱を海底に向け、腹を見せた船体は、さながら浮かぶ墳墓であった。
さらば、純真なるアウリステラよ。さらば、けなげな志操よ。きよらかな誠信のあゆみよ、おまえにもやすらぎのときが来た。なんじらの永眠の地は、そびえる御陵(みささぎ)ではなく、瀝青(れきせい)におう板子のあわいだ。トランシラよ、貞女の鑑よ、老いたる賢父の祝福をうけて嫁にいけ。ラディスラオには添えずとも、希望だけは捨てるな。いや、いまごろはその夢に手をひかれてふたりは新床か。そしてリクラよ、おまえにも安らぎのときが来た。子供たちを、アントニオを、コンスタンサをしっかりと抱きしめて、神に引き合せてやれ。神はおまえたちの命をお召し上げにこそなったが、天国では至福のものにしてくださるのだ。
船は転覆し、人々は不帰の客となったにちがいない。ということで、この悲壮な物語の作者はかく惜別の辞を綴ったわけであるが、物語のほうはあいかわらず次章へと送られる。
第二章――世にも不思議な出来事が語られる
はてさて、船を転覆させたのはいいが、ここで作者先生みずからも転覆してしまったようだ。というか、物語の筋が頓挫してしまったのである。これには本人もこまったと見えて第二章の書き出しが五、六とおりも残っている。しかしそこはそれ、禍福は糾(あざな)える繩の如しとか、うまい文句を並べてこの場を切り抜けている。悲喜は対(つがい)、有頂天は愚、愚痴も愚とも言う。なるほど次の出来事がそれをみごとに立証することになる。
すでに述べたように、船は水没、死者は土なき野末にうもれ、のぞみはすべて水泡と帰したかに見えた。だが慈悲深い神というお方は遅ればせながら、われわれの来た道をつけてきて、難儀を処理してくださるものである。このときはすでに鎮まった海に仕向けて、船を徐々にとある浜辺へと移動させたもうた。おりからの凪(なぎ)で海は鏡、恰好の波止場となっていた。実際ごく近くに、幾隻もの船が泊れる港があった。
水面には賑やかな町並が映っている。町は小高い丘の上にあり、色とりどりの建物が軒を接してたて込んでいた。
船体はすぐに町の人たちの目にとまった。鯨だ。いや、魚だ。それにしても大きい魚だ。ゆうべの嵐に遇い、波に打ち寄せられて仰向けになったのだろう。浜辺には続々と市民が押しかけ、漂着物が船だと分ると、ただちにこの国の元首ポリカルポ王に報告した。王はさっそく供の行列と美しい娘姉妹ポリカルパ、シンフォロサをしたがえて現場を検分し、ろくろを用意させ、転覆船のまわりに小舟を配置して、港へ曳航するよう命じた。
ところが数人が船腹にのぼったところ、船内から音がするのだ。人の声さえ聞えるようなので、生存者があるらしいということになって、ただちに王に報告された。
そのとき、王のそばに控えていたひとりの老騎士が言った。
「あれは地中海に面したジェノバの海岸でした。イスパニアのガレー船が、操帆の誤りから、ちょうどこの船のように転覆したのを見たことがあります。腹を上に向けて、帆柱が海底に突きささった恰好で、ちょうどそれを起そうとする人々がせわしく立ち働いている最中でした。ところがやはり今のように、中から音がしたのです。そこで腹に穴をあけてのぞきこんだところ、船内に光が射すのと入れ違いに人間が這いあがってきました。船長と四人の乗組員でした。わたしはそれをこの目で見たし、イスパニアの数々の物語本にも出ています。あのときガレー船の腹から甦って第二の人生を授かった連中のなかには、まだ生きている者があるかもしれません。ですからたった今ここで同じことが起きたとしても、驚異にはちがいないでしょうが、奇跡とはいえません。奇跡は自然の秩序を越えたところで起ります。驚異は奇跡のようではあるが奇跡ではなく、まれにしか起きない事柄をさします」
「そこまで分っていながら、何をぐずぐずしている」国王が言った。「ただちに船腹を切りたまえ、その驚異とやらを見たい。船が腹から生きた人間を産み落すとなれば、わたしとしては奇跡としか言いようがないが」
船腹はただちに鋸で切られることになり、人々は固唾を呑んでこの出産を見守った。やがて大きな孔が穿(うが)たれ、一目でそれとわかる死人や、死人さながらの生存者が発見された。そうこうするうち、だれかがさし入れた腕に娘の反応があった。胸の鼓動が伝わってくる。生きている証拠だ。つぎつぎに手が入って獲物が引き上げられた。だが、かならずしも鯛がかかるとはかぎらない。どの手にも生魚がかかるわけではなく、死魚をつかまされることもある。が、ともかく、半死半生の者たちも空気と光をえて息をとりもどし、生気を回復して、目をぬぐい、手足をのばし、重苦しい眠りから覚めてあたりを見た。なんと、アウリステラはアルナルド王子の腕に、トランシラはクローディオの、リクラとコンスタンサはルティリオの腕にかかえられているではないか。アントニオ父子(1)はだれの腕にも支えられていなかった。這いあがるのも独力であった。マウリシオも同様である。
アルナルドのおどろきはよみがえった者たちより大きく、茫然自失、死人よりも死人に見えた。アウリステラは王子の顔を見ながら、王子とは気づかずに言った。彼女がまず沈黙を破ったことになる。
「にいさん、おきれいなシンフォロサ姫もご一緒なの?」
「なんだって!」アルナルドは意外の感をかくさずつぶやいた。「助かったことを神に感謝するだけで胸がいっぱいかと思ったら、シンフォロサのことまで……どういうわけだ」
と不思議に思いながらさしあたっては問にこたえて、たしかにシンフォロサもいると言い、なぜ彼女のことを知っているのかとたずねた。ペリアンドロの活躍ぶりが船長の口から伝わっているなど王子の知るよしもない。アウリステラが姫のことをたずねるわけに至っては、狐につままれたようであった。それにしても、そのわけを知っていたなら嫉妬の執念ぶかさ、したたかさに舌を巻いたことであろう。悋気の虫め、死神の鎌に巣くい、ぐるになって、恋病む胸の命の瀬戸際にまで侵び入るか。
生き返った者たちと呼んでおこう、彼らにいくらか人心地が戻り、生者、すなわち救出に当った者たちの興奮も去って、事の次第を考えるゆとりができたころ、再会した者たちは誰からともなく、なぜこの土地に、なぜ船がここへと互いがいきさつを尋ね合った。船は、腹の穴から空気が抜けてそこに水を孕んでいた。そこで王は、港へ曳航して機械で陸揚げするように命じ、人々はすぐさまその準備にとりかかった。
船腹上の生存者たちは残らず上陸し、ポリカルポ王をはじめ姫姉妹や国のお歴々から大歓迎を受けた。ことに彼らをうならせたのは、アウリステラのたとえようのない美しさであった。シンフォロサ姫もこれを目のあたりにした。そのおどろきは尋常のものではなかった。トランシラの美貌も称讃の的であった。若くて溌溂とした夷(えびす)娘コンスタンサも、母親ゆずりの可憐な魅力とめずらかな装いで沿道の衆目をあつめた。町の中心地はさほど遠くなく、乗り物の用意もなかったので、一行は徒歩で向かった。
いつのまにかペリアンドロも加わっており、妹アウリステラに声をかけた。ラディスラオもいる。蛮人島のアントニオもいる。夫は妻と、父は娘と、あれからのことを語り合って、話は尽きそうになかった。しかしアウリステラだけは、シンフォロサに眼を奪われて声もなかった。が、やっとのことで喉を開いてペリアンドロに言った。
「兄さん、あの美しい人は、もしや、ポリカルポ王の姫君シンフォロサ様ではありませんか」
「そうだよ。美しいお方だろう。淑(しと)やかさも兼ね備えていらっしゃる」
「それはお淑やかでしょう、あんなにおきれいなんだもの」
「仮にそれほどでないとしても」ペリアンドロがこたえた。「ぼくには、そう思わざるをえない義理があるんだよ。わが妹殿にはそれを分ってもらいたい」
「義理がらみで誉めるとおっしゃるのね。それなら兄さん、わたしのことは誰よりも義理があるはずだから、この世で一番美しいと思ってくださるんでしょう」
「神様と人間をくらべるわけにはいかないように、口をきわめて誉めちぎるとしても、そこには限度があるよ。天使より美しいと言うのは儀礼上の誇張にすぎず、義理がらみならこうは言わなくていい。ただし、この規準もおまえには合わないね。おまえの美しさは誇張のしようがなく、誉め過ぎるということもない」
「こんなに醜くやつれてさえいなければ、いまの兄さんの言葉をよろこんで信じられるのに……わたしはいま神様にお祈りしているところなのよ、早く嵐が止んで静かな凪になりますように、心が安んじますように、と。だから、それまでは、よそのきれいな女(ひと)に現(うつつ)を抜かしたら嫌よ。わたしのことを忘れないでね。義理だてもいや。くどいでしょうが聞いてほしいの、わたしにだって、兄さん、美しいところがあってよ。義理もないじゃなし……おねがいだからこの器量で満足してください。兄さんの心の隙間は、わたしのことで埋めてちょうだい。みめかたちはご覧のとおりだけど、心の美しさと合せ見れば調和の美というものに気づくはずだわ、まんざらでもないつもりよ」
ペリアンドロは当惑した。妹が焼餅をやいている。かつてない取り乱しようだ。あの分別はどこへ消えた。気持を打ち明けることはあっても節度と慎みを欠いたことはなく、人前(ひとまえ)でもふたりきりでも、兄妹としてふさわしくないことを口走った例(ためし)もない。
王子はペリアンドロがうらやましかった。ラディスラオは新妻トランシラとぴったり、しあわせそうだ。マウリシオ老人は娘夫婦に見守られ、アントニオは妻子にかこまれて満足そのものだ。ルティリオは一行の再会をよろこび、毒舌のクローディオは水をえた魚のように、転覆船の珍事を沿道に触れ歩いた。
こころの寛いポリカルポ王は、町に着いた一行を壮麗盛大に歓迎し、王宮を宿舎としてあてがった。アルナルドを遇するにあたっては、デンマークの世継ぎだということから、特別の配慮を怠らなかった。王子をこの長旅に立たせたのがアウリステラへの恋情だということもすでに知っており、その美しさを目のあたりにして、無理もない、と巡礼に身をやつした一国の王子の心境に共感を覚えた。
ポリカルパとシンフォロサ、すなわち姫君姉妹の希望で、アウリステラはふたりの部屋に泊ることになった。シンフォロサ姫の目はアウリステラに釘付けであった。この女性はペリアンドロの妹だ、恋人ではない。よかった。姫はアウリステラをそのように作りたもうた神に感謝し、胸をなでおろした。すると、うらやむべき美貌にもかぎりない親しみを感じ、ペリアンドロの妹アウリステラを大好きになった。だから張りついたようにそばを離れず、一挙手一投足が気になり、片言隻句に耳をそばだてた。魅力は増すばかり、声の色にまでうっとりとなった。アウリステラが姫を見るさまにもそれに近いものがあった。しかし心境はまるで異なる。シンフォロサが純粋の好意を寄せていたのに対し、アウリステラは嫉妬の眼を向けていたのである。
一行は数日間この国で疲れを癒(いや)した。王子はデンマークへ帰る仕度を進めていたが、言うまでもなく、アウリステラとペリアンドロの行くところなら、どこへでも付き従うつもりだ。自分の意向はかならず兄妹のそれに合せる。王子は、口癖のようにそう言った。そのころ、暇と好奇心をもてあましぎみのクローディオは、王子の挙動をつぶさに観察し、彼を苦しめている恋の首枷はちょっとやそっとで切れそうにないと見てとった。そこである日、ふたりきりになれたのを幸い王子に言った。
「これまでのわたくしは、畏(かしこ)い身分を畏(かしこ)まず、毒舌の禍が我が身にふりかかることもかえりみないで天に唾し、世間に王侯の非を鳴らしてまいりました。しかし殿下にはこうして内密に申しあげます。殿下のためによかれと思うこの志に免じて、どうか差し出口にも耳をお貸しください」
王子はこの前置きの真意をつかみかねて複雑な気持になったが、それが分るまでは話を続けさせることにし、なんなり言ってみよとうながした。そこでクローディオの舌は水を得たようになめらかに動きはじめた。
「殿下はアウリステラを愛していらっしゃいます。いや愛しているどころではございますまい、あの娘なくしては夜も日も明けぬこのごろ、とお見受けいたします。しかしあの娘の氏素姓については、本人の口ずから洩れることのほかは何もご存知ないご様子。しかも実のところ、本人はなにも洩らしていないときておりますから、まずわたしの勘は当っているでしょう。殿下はあの娘を二年余りもおそばにお置きになったと聞いておりますが、そのあいだには、頑としてなびかぬあの娘を宥(なだ)めほぐそうとして、考えられる手はことごとくお試しになったとか。結婚という、なにより誠意のある、効果的な方法もお示しになったと聞き及んでおります。しかるに殿下、いまなお振り出しから一歩も進んでおられず、娘を観察しておりましても気のあるふしは毫(ごう)も見えないではありませんか。このありさまから推すかぎり、殿下はどこまでも根気がおよろしく、あの娘は恐ろしく物分りが悪いようです。しかし、一国の王子を袖にするからには余程のわけが、とわたくしは睨(にら)んでおります。年頃の娘が、荒海をさまようのみか天険なお厳しい極寒の地を放浪、しかも身の上をひた隠しにしているとなれば、このこと自体が怪しむべきことです。連れの若者と兄妹だというのは、まっかな嘘とも考えられます。それにいたしましても、殿下、死をさだめられている人間が天から授かるもののうち、なにより尊いものは誉れを知る心であり、生命はその次です。だからこそ、分別があるなら理性で欲望を制すべきでしょう。けっして溺れてはなりません」
クローディオはここで一息いれ、この深刻な哲理をいよいよ熱烈に弁じようとした。ところが、たまたまそこへペリアンドロが来て彼は口をつぐまざるをえなかった。まだまだしゃべることはあるのだ。王子も続きを聞きたかったが、仕方がない。ペリアンドロのうしろにはマウリシオ、ラディスラオ、トランシラ、それにアウリステラも続いている。しかし彼女は気分がすぐれずシンフォロサの肩につかまっているのがやっとで、すぐに寝室へ移されることになった。アウリステラが病気。それにはペリアンドロも王子も心配どころではなく、胸中に激しい動揺をおぼえたが、両人ともこれを分別の陰にかくした。分別のお陰がなければ、おそらく彼女同様、医者の世話になることは避けられなかったろう。
第三章
アウリステラの具合が悪いと知らされたポリカルポ王は、すぐさま何人もの医者を呼んで診察させた。医師団は、とりあえず脈をみた。脈搏は病状を訴える舌の役を果すものであるから、医者はこれを読み、アウリステラの疾患は肉体にはなく心にあると診断した。しかし、ペリアンドロは医者より先にこれに気づいていた。王子も薄々ながら感づいていたし、だれよりも鋭敏にクローディオが見抜いていた。医師団は、患者をひとりきりにしないこと、陽気な娯楽で気分をほぐしてやること、本人が望めば音楽などで慰めてやることも大いによろしい、という治療法を示した。
そこで、シンフォロサが付き添って看病することになったが、アウリステラとしてはとんだ有難迷惑である。自分がこうして患っているのは、そもそもこの姫のせいなのだ。それが分っていてなぜ顔を突き合せていたいものか。顔突き合せて苦しむよりはひとりでいて病気が治らないほうがまだましだ、どうせ胸の内を打ち明けるつもりはないのだから、と思った。慎みが舌を縛り、覚悟の上で口に錠をおろしていたのである。
やがてシンフォロサとポリカルパの姉妹だけを残して、みんなはアウリステラの部屋を出た。シンフォロサは頃合いを見計らって妹を退かせ、アウリステラとふたりきりになったのであるが、急に彼女の手を激しく握りしめたかと思うと、自分の口を彼女の口に押し当て、燃える吐息を吹き込んだ。アウリステラの胸中へ自分の魂を移そうとしたのだ。アウリステラはこの新たな好意の押し売りを、どう解釈していいか分らなかった。
「お姫様、どうなさいました。姫こそご病気では。お心を患っておいででしょう、それもずいぶんのお苦しみよう。わたくしにできますことならなんなりとお申しつけください、からだは弱っていても気持はしっかりしております」
「ありがとう」シンフォロサがこたえた。「やさしいお気持、とってもうれしく思います。だからお言葉に甘えて言ってしまうわ。わたしたちの間には隠し事も遠慮もいらないんだもの。おねえさま、これからはずっとこう呼ばせて、いいでしょう、おねえさま。わたしは恋をしているの、愛しているの、夢中なの。あら、わたしったら何か言った? 言わなかったわよね。そんなはしたないことしないわ、立場があるもの。でも黙って死んでいかなきゃならないの? この病気は奇跡でしか治らないのかしら? 沈黙が舌の代りにしゃべってくれるのかしら。目は口ほどに、と言うけれど、こんなに内気で恥しがりやの目に、恋する女のうずく想いを打ち明ける勇気があるかしら」
シンフォロサは深く吐息をつき、はらはらと言葉を濡らした。それは痛々しく同情をさそい、アウリステラはその目をやさしく拭って彼女を抱きしめた。
「そんなに思い詰めていらっしゃるのですか。でも言葉を押し殺してはよくありません、少しでも口を開いて悩みやためらいを吐き出さなくては。わたくしにだけでもお話しください。打ち明けたぐらいでは悩みは消えないかもしれませんが、少しは楽になると思います。彫刻のようなお姫様でも恋をなさるということは、生身の人間であらせられる証拠です。人の心は絶えず揺れ動いておりますが、誰かを恋い慕わずにいられないのも常のことです。姫は誰に恋しておいでなのです。誰を愛していらっしゃるのです。意中のお方とはだれです。雄牛に焦がれたり、芭蕉の木に夢中ならいざ知らず、人間の男性が相手であるかぎりわたくしは少しも驚きません。姫と同様にわたくしも女ですから、秘めた想いもないとは申しません。もっとも、それは熱の華(はな)のようにあらわれることはあっても、魂の名誉を思って口外したことはありません。しかしいずれはどんな不都合や支障があっても、それを突き破ってあらわれるでしょう。最後には遺言ででも自分の死因を知ってもらいます」
シンフォロサは相手をまじまじと見つめた。一言一句が神託のように尊く思われたのである。
「ああ、おねえさま」シンフォロサは言った。「おねえさまをこの国へお連れくださったのは神様なのね。ひとりで苦しみ悩むわたしを憐れんで、奇跡のようにおねえさまと巡り会わせてくださったんだわ。おねえさまを暗い船のお腹から明るい外界へ出してくださったのは、わたしの恋の闇路に光をともし、悶える想いに出口をつけてくださるためだったのね。そうとわかれば、勿体ぶらずに言ってしまうわ。実は、お兄さんは以前にもこの国へおいでになったことがあるの」
姫はここでペリアンドロが前に来たときの模様を話した。競技会での彼の活躍ぶりを、対戦相手のことや獲得した賞のことまで前述のように語ったのだ。あのときすでに、まだ恋心とは言わないまでも、ペリアンドロへのひたむきな好意が芽生え、彼の益荒男(ますらお)ぶりに強くひかれたのであるが、彼の去った後のうら淋しさ、女心のやるせなさ。彼の雄姿は瞼に焼きついて消えなかったという。愛恋の筆が描くペリアンドロには、ただ者ならぬどこか王子のような、真実王子ではなくてもそれにふさわしい威風があった。
「そんな絵姿が知らずしらず胸に刻まれ、惹(ひ)かれるまま何の抵抗もなく、いまも言ったように好きになり、愛し始め、身も世もなく恋してしまったの」
ここへポリカルパ姫が戻らなかったなら告白はさらに続いたと思われる。彼女もアウリステラを慰めに来て、竪琴で弾き語りに歌った。シンフォロサは口を閉ざし、アウリステラの目の前は真暗になった。しかしこの沈黙と暗闇の中でふたりの耳は、ポリカルパの比類ない美声にひき寄せられた。土地の言葉で歌ったのであるが、後日アントニオがカスティリャ語に翻訳すると、こんな歌詞であった。
かなわぬことと知りながら
諦めきれずにいるより、キンティア、
その苦しさを解き放ち、命の手綱をゆるめよう、
忍ぶのが意地や名誉ではない。
黙りとおすつもりでも
おまえは情熱のとりこ
開け渡した胸の火は
沈黙の壁を焼き崩す。
悶える心の扉をひらけ
病める声を震わせ、心の音を舌で打て、
それが道理だ、正気の沙汰。
声出せば愛のたぎりの激しさだけは
いずれ世間が知るだろう
口許に熱の華があったもの。
シンフォロサにはこの歌の意味がだれよりもよく分った。妹は姉の気持を察して歌ったのである。シンフォロサは初めはだれにも胸を開かず沈黙の闇に葬るつもりでいたが、妹にも、アウリステラに見せたようにすがる思いで打ち明けたことがあったのだ。
姫はそれ以後もたびたびアウリステラとふたりきりでいることがあった。周囲には、自分の都合ではなく礼儀を重んじて付ききりで客の世話をしているように思わせた。そんなあるとき、話題は再び彼女の悩みに及んだ。
「ご迷惑かもしれないけれど、もう一度聞いてちょうだい。せつなくて、言わずにはいられないの。黙っていると、胸が張り裂けそう。もう立場など気にせず言ってしまうわ、お兄さんを死ぬほど愛しているってことを。あのひとの素晴らしさを知れば知るほど、どうしようもなく引かれていくのよ。ご両親のことも生国のことも財産のことも家柄の高い低いも、なにもかもちっとも気にならなくなったわ。あのひとは神様からあんなにたくさんのものを授かっているんだから、それで十分。わたしが好きなのはあのままのお兄さんよ。何の飾りもないお兄さんを愛しているの。お兄さんそのものをお慕いしているということ。こうして聞いていただくのもあなたのお人柄に、あなたそのものにおすがりしてのことよ。だから、はしたないことを言うかも知れないけれど、叱らないで助けてちょうだい。わたしには父にも内緒で母が遺してくれた財産があるし、選挙によるとは言え父は一国の王、わたしはその娘よ。しかもごらんの年頃だし、器量もとりたてて言うほど美人じゃないかもしれないけれど、ひとが顔をそむけるほどでもないつもり。だからおねがい、お兄さんをわたしのお婿さんに……いいでしょう、そうなればわたしたちは姉妹だし、母の遺産もあなたと分け、お婿さんだって見つけてあげる。それから、父の在位後、いや在位中でもかまわない、お兄さんが王に選ばれるようにするわ。それが無理なら、母の遺産でどこかの国を買うつもりよ」
姫はアウリステラの手にすがり、せつせつと訴えた。あふれる涙がその手に降りかかり、アウリステラも貰い泣きに濡れた。恋を患う者の心中の痛みを彼女は身をもって知っていたのだ。その苦しみに限りはない。立場からいえばシンフォロサは憎い恋敵であったが、このときばかりは同情せずにいられなかった。心の寛い者は敵の弱みにつけこんで復讐したりはしないものだ。いわんや、シンフォロサは復讐心を煽るような態度に出ていない。そんな彼女に罪があるとするなら、自分も同罪のはず。悩みも同じ、思い乱れていることに変りはない。わが振りを見ずして、なぜ彼女だけを責められよう……それでも、ひとつたしかめずにはいられないことがあった。兄はあなたに対して、どんな些細な素振りにしても、好意のようなものを示すことがあったか。あなたは言葉にせよまなざしにせよ、兄に愛を伝えたことがあるか。
一度として彼を正視できたことがない、と姫は言った。自分の立場や身分を考えると、そんな勇気は湧かなかった。目さえそのように恥じらっていたのだから、口にするなど思いもよらぬことであった。
「わかりますわ。でも、兄のほうから、なにか素振りを見せたと思いますが……あの人だって木石ではありませんから。お姫様のようなお美しい女性に心を動かされないはずがありませんわ。だから、わたしから兄に伝えるより先に姫様から直接お話しなさったらどうかしら。それには口実をもうけて兄をひきたててやる機会が必要でしょう。どんな冷たい、石か氷のような胸でも、思いがけない栄誉には目を覚まして燃え上がるものです。そうしてひとたび兄がお姫様に傾いてくればあとは簡単、きっとお姫様の満足のいくようにさせてみせます。何ごとも初めは苦労が多いものです。ひとを好きになったときはなおさらです。でも、あせって女の大切なものを失ってはなりません。娘の身で愛する男性に尽しすぎると、いくら清純な間柄でもそうは見られないものです。女にとって大切なものを、欲望の渦に巻き込まれてはなりません。でも、思慮分別をもってすれば大丈夫です。それから、愛情。これは思いの丈を巧みに導いてくれる先生です。愛があれば、どんなに狂おしい思いでも名誉をそこなわずに伝える機会がきっとめぐって来ます」
第四章――シンフォロサの恋の打ち明け話が続く
なるほど、と恋する姫はアウリステラの言葉を傾聴していたが、その提案にはふれず先程来の告白に戻った。
「そのとき芽生えた愛がどんなに激しくて、わたしがお兄さんにどれほど惹かれるようになったか聞いてちょうだい。父の近衛隊長を呼んであの人を捜しにやり、力ずくでも連れてくるように言いつけたの。その捜索隊の船というのが、あなたの乗っていた船というわけ。隊長はあの船で、ほかの大勢といっしょに死体で見つかったわ」
「やはりそうでしたか」アウリステラがこたえた。「いまお伺いしたことは、ほとんど隊長さんから聞いていました。分りにくいところもありましたが、姫のお気持についてはそのときから知っていたのです。でもそのお気持は姫様から直接兄に打ち明けるか、わたしからお伝えするまでは抑えておくほうがいいと思います。わたしから話すには、姫と兄の間にあったことを詳しくお聞きしておく必要があります。姫からじかにお話しいただけるかもしれませんが、わたしから伝える機会もあるでしょう」
姫はアウリステラの好意にあらためて感謝し、アウリステラは姫にいっそう深い同情を覚えた。
いっぽう王子とクローディオの間でもこの種のやりとりがあった。クローディオは王子の恋火に水を差そう、気持を変えさせようと企んでいた。さても恋々たる思いが胸に満ちている身であってもかりに独りでいるといえるとするなら、すなわち王子が独りでいるところへクローディオが来た。
「殿下、先日も申し上げましたように女心とは移ろいやすいもの、あてにはなりません。天使に見紛うともアウリステラは女、その血肉を分けた兄といえどもペリアンドロは男です。だからといっていたずらに人を疑えと申すのではありませんが、とにかく慎重が肝要です、節度をわきまえていただかねばなりません。理性に照らしてお考えあそばされるなら、おんみずからの立場にお気づきでございましょう。父王陛下のさびしいご心境も察してあげるべきです。ご家来衆も殿下のお帰りを待ちわびていることでございましょう。王子不在の国は水先案内のいない船同然であり、存亡の機を招くことは必定でございます。王侯君主の結婚相手というのは器量ではなくて家柄、財産ではなくて人柄で決めるのが道理です、そのようにしてすぐれた世継ぎをもうける義務があります。君主の血筋がびっこでは、民人からうしろ指をさされます。王の偉大でもって妃の卑小を補うというのは通用いたしません。毛並のよい名馬と名馬が結ばれてこそ、その胤のめざましい働きが期待できるというものです、どこの馬の骨とも分らぬ駄馬ではそうはまいりますまい。好いた惚れたの欲望が幅をきかせるのは下々(しもじも)の間のことであって、高貴のおかたには似つかわしくありません。殿下、くれぐれも自重あそばされ、即刻お国元へお帰りなさいませ、欲に惑わされてはなりません。
ぶしつけを承知で申し上げましたが、なにとぞお目こぼしいただきとうございます。中傷毒舌で悪名高いわたくしではありますが、根まで腐り果てているとはお思いくださいますな。わたくしがこうして一命をとりとめることができましたのは、殿下のご庇護とお力添えをたまわったからこそ。こうして雨露をしのげるのも殿下のおかげ。星回りも好転し、沈みっぱなしの運もようやく上を向いてきたところでございます」
「忠告はありがたいが」王子がこたえた。「従うわけにはいかない。運命が許さないのだ。アウリステラに嘘はない。ペリアンドロは兄だ、彼女がそう言った、それを疑いたくはない。わたしにとって彼女の言葉はすべて真実だ。わたしは彼女を無条件で愛している。彼女の美しさの底知れぬ深みへわたしは求めて引き込まれていくのだ。彼女の胸の内以外にわたしのとどまるところはない。あのひとゆえにわたしは生き、この命はあの女性のためにある。だからクローディオ、もう何も言うな。何を言っても無駄だ。わたしの行動を見ておれ、おまえの忠告のむなしさを覚(さと)るだろう」
クローディオは肩を落し、うなだれて王子の前を退いた。諫言めいたことはもう何も言うまい。決心は固かった。人を諫めようとする者にはそもそも次の三つの条件が必要なのだ。一に威厳、二に慎重、三にお呼びがかかること。
ポリカルポの宮殿では恋をめぐってこのような動静の変化、画策、思惑があり、恋する者の心頭に平穏はなかった。アウリステラは嫉妬に懊悩し、シンフォロサは胸を焦がし、ペリアンドロは当惑するばかり、王子は執念の男となった。一方、マウリシオは国へ帰る計画を着々と進めていた。娘のトランシラは帰りたくなかった。花婿のラディスラオは彼女にさからえず、さからう気もなかった。大アントニオは妻子をともなって一日も早くイスパニアの土を踏みたかった。ルティリオもイタリアに帰れる日を待ちこがれていた。めいめいがそれぞれの欲望を抱いていたが、どれも満たされることがないのは人間の本性のなさしめるところであろうか、人は神が完全なものにお造りくださったにもかかわらず、何かが足りないと思いこんでばかりいるのだ。その欲望を捨て去らないかぎり、この不足が満たされることはあるまい。
さてシンフォロサは、ペリアンドロ兄妹が自分の恋の訴えを早急に裁判にかけてくれるようにと、兄妹がふたりきりになれる機会を仕組んだ。彼女の生き死にはその判決しだいなのだ。
アウリステラによる冒頭の陳述はこうであった。
「兄上、だいじなあなた、わたしたちの巡礼の旅には、苦しいこと恐ろしいことが余りにもたくさんありました。死にそうな目に遇ったのも一度や二度ではないし、いつもなにかに怯えて生きてきました。だからもう、安心して暮せる方法を考えてはどうでしょう。一つ所に落ち着いて暮したいのです。それには、ここがぴったりだと思います。ここにいれば、兄さんにはどっさり財産が転がりこむはずです。口先のことではなくて、ほんとうにそうなります。そのうえ、とっても美しくて貴いご身分の女性も、兄さんのものになります。とびきりお美しいかたです。兄さんをお婿さんに望んでいらっしゃいますが、兄さんのほうから手を尽してお願いして、お嫁になってもらうだけの値打ちがある女性です」
こう話し続ける相手をペリアンドロはまたたきも忘れて見つめた。耳を疑った。この調子で何を言おうとしているのか。その真意をつかもうと素早く考えをめぐらせていたが、彼がそれに思いあたるより先に妹が言葉を続けてその疑問を解いた。
「兄さん、これからはあなたがどんな立場にいても、こうお呼びします。兄さん、シンフォロサ姫はあなたを愛しています。結婚を望んでいらっしゃいます。あのかたには、信じられないほどの財産があるそうです。でも、ご器量のほうは信じられます、嘘やお世辞で飾りたてなくても美しいかたですから。それに気だてがよくて、才媛で、ご聡明で、しかも女らしいおかただとわたしは思います。もっとも、あなたほどのご身分のおかたですから、相手としてこれ以上のお方は望めないというわけではありませんが、いまの境遇ではけっして悪い話ではないでしょう。あなたもわたしも国を離れ、あなたは兄さんに追われる身で、わたしには不運がつきまとっています。ローマへの旅路ですが、これはもがけばもがくほど、長く険しくなるにちがいありません。わたしの志はまだくじけてはいませんが、すでに揺らいでいます。心配でたまらないのです。こわいのです。こんな状態を続けているうちに死んでしまうのかと思うと、たまらないのです。だから、わたしは信仰の道に入ってそこで命を全うしたくなりました。そして、あなたにも落魄(らくはく)の憂き目を見ず、つつがない一生を送っていただきたいのです」
アウリステラはここで口をつぐんだのであるが、頬を伝う珠の雫はとめどがなかった。言葉とは裏腹な思いを明かす涙であった。
彼女は掛け布からそっと枕辺に手をのぞかせ、寝がえりをうって兄に背を向けた。この極端な態度といい言葉といい、ペリアンドロには耐えきれなかった。目はかすみ、喉はつまり、舌はもつれ、へなへなと、その場にくずれるように寝台に寄りかかった。妹が振り向くと、兄は気を失っていた。彼女はその顔をそっとなでた。彼も気づかないうちに二筋の濡れるものが頬を伝わっていたのである。
第五章――ポリカルポ王と娘シンフォロサのやりとり
人それぞれの性癖には、ただ結果だけが見えて、その根本の原因は不明なものがある。ナイフで衣を裂くのを見て歯が浮いたり痺(しび)れたりする人がいるし、ネズミを見て縮みあがる大の男もいるだろう。わたしはカブラを切るのを目にして震えが止らない男とか、食卓にオリーブを出されて飛びすさる賓客を見たことがあるが、その原因をたずねられてもこたえようがない。これこそという答が出てもせいぜい、その人間の寒暑湿乾の四体液の結合に対し星が反撥するからだ、ぐらいにとどまる。右の諸例や、これに類するありふれたなんでもないものに縮みあがったり腰を抜かしたりして反応するのも、みな星のせいだという一言で片づけられる。
人間は笑う動物、と定義されることがある。動物の中で人間だけが笑う。また、泣哭動物とも言われる。すなわち泣くことのできる動物である。しかし、やたら笑うのが馬鹿の証拠であるように、めそめそしすぎるのも分別に欠ける。ちなみに、思慮のある成人男子が泣くのは、次の三つの場合にかぎってうなずける。罪を犯したとき。赦(ゆる)しを得たとき。嫉妬に悩んでいるとき。これ以外の涙は、ひきしまった男の顔には釣り合わない。
さて、気を失ったペリアンドロに目を移そう。彼の涙は罪人のものでも悔悛者のものでもない。が、やはり許されてしかるべき涙、すなわち嫉妬ゆえの涙で、だからこそアウリステラのように拭ってやる者にさえめぐまれたのだ。しかし彼女は成りゆきでそうしたのではなく、思うところがあるからこそ、このような状態に彼をさそいこんだのである。やがて彼は正気に返った。ちょうどそのとき、部屋へ入ってくる者の足音がした。振り向いて見ると、リクラとコンスタンサがすぐうしろに立っている。アウリステラを見舞いに来たのだ。いいところへ来てくれた。このままふたりきりでいると返事に詰る。ここは冷静に考えねば。妹背を言い交したアウリステラが、何故このように……ペリアンドロは思案の首で部屋を出た。
さて、愛の大法廷で進められる審判の初の判決はどう下ったか、そればかりが気がかりなシンフォロサ。リクラでもコンスタンサでもなく、この姫が真先にこの場へ現れて不思議はないのだが、父王から直ちに顔を見せよ、ぜひともと呼びつけられたので来られなかったのだ。言いつけどおり父の部屋へいくと、父はひとりで引き籠っていた。娘が入ってくると直ぐさま脇に座らせ、しばらく無言でいたが、やがて他聞を憚(はばか)ってか囁くように言った。
「娘よ、まだ子供のおまえには恋がどういうものか分らなくてもいいし、そう言うわしにしても、もうその掟にしばられる年ではないのだが、そのことわりが通らないこともある。たとえば年端(としは)もいかぬ娘が恋に身を焼くこともあれば、老いぼれじじいが狂って胸を焦がすこともあるのだ」
自分の恋は父に覚(さと)られている。シンフォロサはそう思わざるをえなかった。しかし、もっとはっきりするまで耳を傾けることにして、その場は黙っていた。父の告白がすすむにつれ、娘の動悸も激しくなった。
父は続けた。
「母上が亡くなってから、わしはおまえたちだけがたのしみで生きてきた。おまえたちはわしの救いであり、よき相談相手だった。わしはおまえも知ってのとおり、堅くやもめを守り通してきたわけだが、それはわし自身の信用を落さないためでもあったし、カトリックの教えに背かぬためでもあった。ところがこのたびの客人を迎えてからというもの、悟性の歯車が狂ったか、順調に流れていた人生があらぬ方へ向かい、冷静に物事を処理していたわしが、えもいえぬ欲情の奈落へまっさかさまに落ちてしまったのだ。これを黙っていれば、狂い死にに死ぬだろう。かと言って、口にすれば体面が保てない……ええい、何を回りくどく言っているのだ、何もかもおまえに打ち明けてしまおう、もう堪えきれん。胸に止(とど)めておきたいが、口が黙っておらん、勝手にしゃべり出すのだ。わしはアウリステラに狂っている。あれは可愛い。実に美しい。わしはあれに老骨の髄まで焼き焦がされてしまったのだ。しかしながら、あの目に宿る明星は、この目の闇に光をくれた。あの美貌が、この老いぼれに生気を甦らせてくれた。叶うことならおまえたち姉妹に新しい母親を迎えてやりたい。あの娘には、十分それだけの値打ちがある。おまえたちさえ承知してくれれば、世間がどう言おうと、わしは耳をふさぐ。狂ったの気違いのと言わば言え。王位を剥奪するなら、するがいい、わしはアウリステラの腕の中を治める。世界広しと言えど、あれに優る国はない。
こんなことを言うのは、この気持をおまえの口からあの娘に伝えてほしいからなのだ。是が非でも承知させてくれ。あの娘の身になって考えても、けっして無理な話ではないはずだ。彼女に欠けるところがあるとしても、あの聡明さが補って余りある。年の差はわしの身分で埋め、財産の多寡(たか)は娘の若さでなんとかなる。王妃の座の居心地は悪くないはずだ。人の上に立つのは嬉しいものだ。名誉を悦ばない者もない。それに、身分の釣り合った結婚だけがしあわせとは限らん。おまえがこの役を上手(うま)く果して吉報をもち帰ってくれれば、わしのほうはおまえの幸せのためにひと骨折ってやる。よく聞け、高貴の者が努めて手に入れるべきものが四つある。良い連れ合い、良い家柄、良い馬、良い弓矢だ。はじめの二つは、男子はもちろん女子も同様に、いや男子以上に心掛けて獲得すべきものだ。妻の立場は夫の不足を補うのではなく、夫に不足を補ってもらうところにある。卑賤の女を娶(めと)ったからといって、高い身分や王侯君主の座が下がるわけではない。結婚によって、相手を同等の身分に引き上げてやることができるのだ。それゆえアウリステラは、いまが何者であろうとわしの妻にさえなれば王妃であり、兄のペリアンドロはわしの義兄弟になれる。そこで、あの者をおまえの婿にしてやろうと思っている。義兄弟という肩書きがつけば、名誉もそなわる。そうなればおまえは、わしの娘であると同時にあの者の妻としても、尊敬をあつめることになろう」
「でもなぜ分るの、お父さまには、ペリアンドロが独身だと。かりに独身だとしても、お婿さんになってくれるかしら」
「諸国巡礼の旅にあるということが何よりの証拠だ。世帯をもっていて出来ることではない。おまえと一緒になる気があるかどうかだが、あのように賢明な男のことだから、二つ返事で承知するだろう。まちがいない。損のいかないことは覚るはずだ。それにあの者の妹は、美しいということで玉の輿に乗れるのだ、おまえにそれだけの器量がそなわっていて、あの者を婿にむかえられぬわけがない」
うれしい約束である。最後の一言だけでもシンフォロサの望みをかきたて、雀躍(こおど)りさせるのに十分であった。そんなわけで、父の希望に添って取持ち役をひきうけ、交渉にさきだって前祝いをのべた。しかし、ひとこと断った。ペリアンドロを婿に迎えることについては慎重に考えてほしい。あの有能さから推して只者でないことは知れるが、いますぐ縁談は早急に過ぎる、何日かじっくりと観察すべきだ。
とは言いつつ、あのひとと一緒になれるなら、将来望みうるしあわせの悉くがふいになっても悔いはない、と思った。高貴で慎み深い女性の胸の内と外とにはこのような隔りがある。
ポリカルポ父娘がこんな相談をしているころ、別の部屋では、ルティリオとクローディオの間で別の相談が進んでいた。クローディオの経歴と性癖についてはすでに書いたが、とにかく悪知恵がはたらき、その才を駆使して痛烈な毒舌を吐く。馬鹿や間抜けでは他人の揚げ足はとれないし、鋭い厭味も言えない。すでに述べたように、悪口はうまく言いえても誉めたことではないが、それでもなお世間は毒舌の鬼才には喝采を送ることがある。話というものはあたかも料理に塩をふりかけるように、毒言という調味料をきかせることで一段とうまくなる。だから辛辣な毒舌家は有害とみなされ、罵られ、罪科(つみとが)の責めをうけることさえある反面、その知恵ゆえに赦され、称えられることもあるのだ。
この中傷家は舌禍を招いて、奸婦ロサムンダとともに国を追われたのであった。イングランド王はこの女の淫性とクローディオの毒舌を同罪に処したのである。さてそのクローディオが、ルティリオとふたりきりのときに言った。
「ルティリオ、他人に秘密を打ち明けるのはいいが、あとになって、他言はしてくれるな、自分の命が危ないなどと泣きついて口止めするのは愚の骨頂とは思わぬか。わしの考えはこうだ、ぶちまけたいならぶちまけろ、秘密を打ち明けたければ打ち明けろ。命が惜しい? なるほど、聞き手は舌禍の圏外にいるから何の気なしに口外するだろう、だがしかしそれを承知でしゃべるんじゃないか、人の口に戸を立てようたって無理なことさ、洩れて困るなら初めから黙ってりゃいい、それが一番の戸締りだ。これはわし自身百も承知なんだが、実は思うことがあって喉元舌先で大騒ぎをしている。早く声に乗せろ、広場へ出して世間に会わせろと犇(ひしめ)きあっているのだ。胸に戻すと奴らは腐りやがる。そうなると胸が破裂しかねない。ルティリオ、耳をかせ。あの王子だが、アウリステラの尻を追いかけ回して、あれではまるで影法師だ。国は老い先みじかい父親の手にまかせっきり、あっちで行き迷いこっちで沈没、涙をのんだり溜息をついたり、自分で種をまきながら咲いた不運を嘆いている。またあの放浪の兄妹、やつらをどう見る。氏素姓を明かさないのは、高貴の身分を隠すためではなかろうか。顔見知りとてない異国だ、その気になればどんな血筋でも騙(かた)れそうなものではないか、ちょっとばかり知恵を働かせてそれらしく振る舞えばいいのだ、太陽の子とも月の孫とも名乗れば名乗れぬことはない。身分というものは、ひとさまに害が及ばないかぎりどう騙っても許される。もちろん誉めたことではない。名誉や称讃はあくまで美徳に対する褒賞であり、その美徳は恒(つね)で堅実なものに限るからだ。まやかしはよくない。偽善ではいかん。それにしても何者であろう。組打ち、剣術、競走、跳んだりはねたりでも、右に出る者は皆無というではないか。あの美貌はさながらかのガニュメデス(1)だ。やつは身を売り買いされたこともあると聞くが、今ではアウリステラという牡牛の番をする見張り(アルゴス)になりきり、盗見は遠眼鏡からもゆるさない。来し方、行く末、謎の謎だ。それにしても、とくに気になることがある。十一個あるときく天体に誓って言うが、ルティリオ、ペリアンドロとアウリステラは兄妹ではないぞ。いくら信じようとしても、納得のゆかないことが多すぎる。ふたりが海山いとわず、荒野を谷を、宿から宿を転々と、手に手をとって歩いてきたことからして訝るべきことだ。ふたりの路銀は、すべて蛮族の女リクラとコンスタンサの物入れから出ている。ずっしりと金塊の詰った袋だ。しかし、アウリステラ自身に手持ちがないわけではない。ダイヤの十字架と二個の真珠はたいした値打ち物だ。ところが、あれを手離さないのはどういうわけだ。いつでもどこかの王様に宿を借りたり、王子の親切にあまえられると思っているならとんでもない話だ。
話は変るが、ルティリオ、おまえはトランシラの大冒険と父親の占星術をどう思う。娘は女傑気取り、父親は星占いの神様然として鼻高々、だが婿のラディスラオは早く国へ帰りたがっている。身を固めて落ち着きたいのだ。そのためには国のならわしにも耐える気でいる。ここでも暮せなくはないが、いつまでも外国に居候するわけにもいくまい。
つぎに料理するのは夷(エビス)パニア人だが、あの力みようはどうだ、この世の雄を一身で誇示しているではないか。あの男、運良く国へ帰れたら、まず何をすると思う。女房子供に毛皮を着せて見世物に出す。あいつは呼び込みだ。でかい布切れいっぱいに蛮人島の絵図を描いて、十五年間隠れ住んだという岩窟やら、囚われのいた地下牢をさし示しながら、蛮人どものばかばかしい迷信のことや、突然発生した島の大火の顛末をしゃべりまくる。トルコあたりに抑留されていたキリスト教徒が、引き揚げてきてよくやるあれだ。足枷になっていた鎖を背負い、捕虜生活の苦しい体験と称していかにも哀れに語る、御涙頂戴の一席があるだろう。ただし、あれは大目に見てもいい。眉唾ものも多いが、人間には想像を絶する災難がふりかかることだってあるからな。遠流の罪人の難儀がそれだ。これには誇張がない。すべて信じていい」
「つまるところ、何が言いたいのだ」ルティリオがたずねた。
「おまえの将来のことだ」クローディオが応じた。「せっかく手につけた職も、この国では宝のもちぐされではないか。ここではダンスはもちろん、娯楽は何ひとつ流行(はや)らん。バッカスが卑猥な笑みを浮かべてふるまう杯の、好色の飲料があるのみだ。
ここでわし自身のことを言うと、命拾いをしたのは王子が見かねて慈悲をかけてくれたおかげだが、わしは神にも王子にも恩義は感じておらん。それどころか、人生をやりなおすためなら、王子を犠牲にすることも辞さない。おまえと組んで運を切り開くつもりだ。持たざる者どうしの友情は永く続く。境遇の一致が心の絆になるからだ。しかし、持てる者と持たざる者の間ではそうはいかん。友情を保とうとしても釣り合いがとれず、絆が切れるのだ」
「おまえさん、なかなかの哲学者だね」ルティリオが言った。「しかし、運命を変えるったってどうすりゃいいんだ。おれには想像もつかん。おれは所詮不運の生れつきだ、おまえさんのように学問はなくてもそれくらいは分る。おれたちのように卑賤の出で何ができる。神様のよほどのお気に入りでなきゃ、指定の席へだって容易に這い上がれない。もちろん才能があれば別だ。しかし、はやい話がおまえさん自身を見な、何かまともな才があるかい。舌をふるって毒の種をまくだけの能じゃないか。おれにしても、だれが筋目になって引き立ててくれる。背伸びしても飛び上がっても、ひとりじゃせいぜいがとんぼ返りの高さどまり。おれはバッタで、あんたはラッパ。おれは高いところに吊られる咎人、あんたはへらず口の島流し、さぞかし結構な絵がかけることだろう。たのしみにしてるよ」
さすがのクローディオも返す言葉に窮した。と見るや、これなる大物語の作者先生、この沈黙にかこつけて本章を締めている。
第六章
それぞれに、胸中を明かす相手がいた。ポリカルポ王には娘、クローディオにはルティリオといった具合である。しかし、とまどい悩むペリアンドロには、自分以外に打ち明ける者がいなかった。アウリステラの言い草を噛み返しては思い砕くばかり、なにひとつ胸の隙の開く材料がないのだ。
「いったい、どうなっているのだ」ペリアンドロはつぶやいた。「アウリステラがぼくの結婚を? どうしたというのだ。気でも狂ったのか。あれほど固く言い交したことを忘れたとも思えないし。ぼくがシンフォロサと? そんなばかな。万国万宝を積まれてもぼくの心が変るものか。妹を、シヒスムンダをなんで諦めよう、ぼくがペルシーレスであるかぎり」
ペルシーレス、と言ってハッと口をつぐんだ。もしやだれかに聴かれはしなかったか。あたりを見回したが人影はない、胸を撫で下ろし、独言を続けた。
「あれはきっと焼餅だ。ゆきずりの風、天照らす日、足下の大地、恋する者はそんなものにさえ嫉妬を燃やすというが……なぜもっと冷静に考えてくれないのだ。なぜ訳もなく自分を卑下する。自分の美しさをなぜ貶(おとし)める。おまえだけを一途に思うぼくの心のよろこびをなぜ奪う。志をつらぬき操を立て通すのが、愛を知る真の誇りだとぼくは思っている。なるほどシンフォロサは美しい、財産もある、生れもいい。しかしおまえと並べると醜い、貧しい、賤しい。人間の胸に愛が芽生えるのは選択か宿命によるが、宿命の愛は不変で完全だ。いっぽう選択の愛の場合にはだれかを愛するように仕向けたり動機づけたりするものがあり、それが満ち欠けするものなので、それにつれて愛も満ち欠けする。このことはそっくりそのままどこから見ても真理なので、それに照らして見るとすれば、ぼくの愛は限りなく、しかも言葉ではあらわしようがないし、ぼく自身むつきもとれない幼少のころから、おまえを好きになったのだからこれは宿命の愛だ。時が経ち、物心がついてそれに気づいた。それ以来おまえはますます愛らしくなり、ぼくの目はいつも釘付けだった。見れば見るほど可愛くなり、おまえの姿は胸に刻まれて拭えないものになった。そしてふたりの魂は固く結ばれてひとつになった。死んでも裂くことはできないはずだ。シンフォロサのことなど少しも気にしなくていい。美しいひとにはちがいないがぼくとは無縁の女性だ、押しつけないでくれ。帝王の座や君主の位にぼくの目がくらむものか。この心が動いたりするものか。これからもあのやさしい声で兄と呼んでくれ。これは独り言になってしまったが、こうして頭の中でつながってきた言葉をそっくりおまえに聞かせたい。が、それは無理だろう。おまえに見つめられると声が出なくなる。ことに、不機嫌なおまえは苦手だ。険(けわ)しい目差しに射すくめられると、舌がもつれてしまう。だから書くことにする。そのほうがいい。紙に記しておけば言葉は変らないし、繰り返して読んでもらえる。そうすればこの真実、このまごころ、この誇らかな想いをありのままに信じてもらえる。そうだ、書こう」
こう決心すると、いくぶん気持が落ち着いた。口で言うよりペンに託したほうがいまの自分を素直に出せる。
というわけであるから、われわれとしてはペリアンドロには手紙を書かせておき、ひとまずシンフォロサ姫がアウリステラに語る言葉に耳を傾けよう。姫は、ペリアンドロが妹にどう返事したか、知りたくてたまらない。早くアウリステラとふたりきりになってそれを聞き出したい。ついでに父の意向も伝えよう。この件は一も二もなく承知してもらえるだろう。富や地位を袖にする人間などいまいと踏んだのだ。ことに女性はそういうものに弱い。大抵が生来の欲深で、望み高く、とかく権力に目が眩みやすい。
シンフォロサ姫が部屋へ戻ってきた。アウリステラはすこしも嬉しくなかった。あれ以来兄にはまだ会っていないので返事のしようもない。しかし姫は自分のことよりもまず父の用件から切り出すつもりでいた。はじめにこれを知らせておけばアウリステラの機嫌が良くなるにちがいない、そうなれば自分の知りたいことも聞き出しやすい。事の成否は彼女が握っている。姫は言った。
「あなたってほんとうに神様のお気に入りなのね。だって、降って湧いたように幸せが巡ってくるんですもの。実は父が、つまりこの国の王があなたを見染めて、ぜひ妃に迎えたいと言っています。わたしはあなたの返事をいただきに来たの。あなたがお受けしてくだされば、わたしは父にそれを伝えて、ごほうびにお兄さんをお婿さんとしてもらえることになっているの。あなたは女王様、お兄さんはわたしのもの。あなたには財産がどっさりはいってくるわ。もちろん父はもう年だから、あなたには不満なこともあると思うけど、命令を下したり、家臣をはべらせておく喜びには事欠かないわ。すてきなお話でしょう。あなたからもこれに見合ったいいお話を聞きたいわ。素晴らしい贈り物に対しては、素晴らしいお返しを期待できるはずよね。これからあなたとわたしは、とっても仲よしの義姉妹。二心なく愛し合えるお友だちよ。そうよ、聡明なあなたらしく考えてくださるだけでいいの。お兄さんは何と言った? 伝えてくださったんでしょう。承知してくれたんでしょう。うんと言わなきゃおかしいわ。神様のお告げみたいにありがたく思わない男がいたら、きっと頭が変なのよ」
アウリステラがこたえた。
「兄ペリアンドロには身分賤しからざる騎士としてのたしなみが備わっておりますし、諸国遍歴の巡礼だけあってものを知っております。なぜと言って、ひろい見聞と読書は人間の才知を肥やすと申しますもの。それに、わたしも兄もこれまでさんざん辛い目に遇ってきましたから、落ち着いた暮しがどんなに良いものかは身にしみて存じておりますし、いまそんな暮しをさせてくださるとおっしゃるのですから、喜んでお受けすべきかと思います。しかしいまのところ兄は何とも申しませんので、良いも悪いもお伝えすることがありません。そんなわけですから、お姫様、いますこし時間をいただきとうございます。お約束くださったことの素晴らしさを兄とふたりでじっくりと考えてみたいと思います。話がまとまって念願が叶ったとき、ほんとうに良かったと思うためにもそうしたいのです。なにしろ生涯に一度きりのことですから間違いがあっては大変です。結婚はやりなおしがききませんから、踏み切るまえに熟慮する必要があります。もちろん、このたびのお話に対してはすでに答が出ているのも同然で、きっとお気持に添えるはずです。わたしとしては、せっかくのありがたいお話ですから、お言葉に甘えてお受けするつもりでおります。兄をこちらへ寄こしてください。必ずいい返事をひきだしてご報告します。わたし自身のことも、一応は兄と相談して決めます。なんといっても兄ですから、その意向を尊重して従わなくてはなりません」
アウリステラは姫を抱きしめて、強く親愛の情をあらわした。姫はまもなくペリアンドロを呼びに行った。
ペリアンドロはひとりきりで部屋にとじこもり、ペンを握っていた。そして書いては消し、消しては書き、加えて削りまた加え、書き起しからして何度も何度も綴りなおしたが、やがて次のように落ち着いたと原作は伝えている。
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口には託せず筆に頼むことにしたが、その筆すらこころもとなくていっそ死んでしまいたいと思うことさえある。こんなありさまではありのままの気持を綴るなど、かなわないことなのかもしれない。いまになってわかったが、聡明なひと必ずしもいつの場合にも適切な助言ができるとはかぎらないようだ、問題が経験のある事柄なら判断の狂うこともないのだろうが。だから悪く思わないでくれ、とにかくおまえの勧めには従えない。おまえはぼくの気持を分ってくれないばかりか、自分の本心さえ忘れている。そうとしか思えないのだ。早く自分を取り戻してくれ。並はずれて賢明なおまえが根も葉もないことに惑わされ、慎重を欠いて、悋気に身をまかせるとはどういうことか。自分が誰であるかを自覚し、ぼくが誰のものかを忘れないでほしい。そうすれば、自分の美しさが人間の望みうる最高のものであることに気づくはずだ。また、ぼくの愛と誠が想像もできないほど強いことも分ってくれるだろう。その分別のある判断を信じてほしい。おまえほど美しく魅力的な女性はこの世にいないのに、ほかの女性に胸を焦がすなど取り越し苦労もはなはだしい。よけいな心配はいらない、願掛けの旅を続けよう。焼餅はこれっきりにしてくれ。出発についてはできるだけ早い機会に、ぼくからうまく頼んでおく。この国を出ることで、ぼくは煉獄の苦しみからのがれられるのだ。おまえの嫉妬の火さえ消えれば、ぼくの胸も晴れる。
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六回も書きなおしたあげく、こんな具合にまとめた。そうこうするうちにアウリステラが人をよこして呼びにきたので、書いたものを折りたたんで彼女の部屋へ向かった。
第七章――二部から成る(その一)
ルティリオとクローディオ、この両人、沈んだ人生の新規蒔き直しを志したのはいいが、ひとりは持ち前の悪知恵、ひとりは厚顔に物言わせて、自分こそポリカルパ姫に、あるいはアウリステラにふさわしい男であると自惚(うぬぼ)れるにおよんだ。ルティリオは姫の美声と詩才、クローディオはアウリステラの稀代の美貌に満悦で、いずれも、この気持を罪咎うけずに打ち明けられる機会をねらっていた。高貴の叔女に向かって、彼らのような卑賤の男がこれまでは畏れ多くて思いもよらなかったことを言うとなると、よほどの覚悟がいる。しかし身分はいかに高貴でも、節操のないふしだらな女性には、下卑の徒輩からも目をつけられたりくどかれる隙がある。また身分のある女性には威厳があって、控えめで隙のないことが要求されるが、だからといって尊大で冷やかな、気のつかない女であってはならない。威厳と慎みを兼備してはじめて貴婦人なのである。しかし、これなる俄(にわか)騎士二人の気違い沙汰ともいえる求愛作戦は、目当ての貴婦人の側に威厳の欠如やふしだらがあってつけこんだものではない。
何がそうさせたかはさておき、ルティリオはポリカルパ姫、クローディオはアウリステラにあてて次のような文をしたためた。
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ルティリオからポリカルパ姫へ
姫、異境に寄寓する身の上でいかに高貴の家柄を叫んでみたとて、それを証明してくれる者がいなくてはむなしいことであり、誰にも信じてもらえまいが、姫を想って夜も日も明けぬと打ち明けて憚らないことが、すなわち卑しからざる血筋の証かと。この気持にいつわりのないことはいかにしても示すつもりであり、姫にはそれを要求する権利、わたしには実行する義務があります。それゆえ、妻に迎えたいと申し上げるが、けっして身分不相応な願いではないはず。まちがっても高望みとはお思いくださるな。高貴な精神は高貴なものを求めてやまないものであります。なお、本状へのご返事は両の御眼の合図でけっこう、姫のまなざしの冷温がわたしの生死を握っております。
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ルティリオはこれをポリカルパ姫に渡すべく折りたたんだ。彼が頼りにしていたのは瓢箪(ひようたん)から駒という諺である。まず手紙をクローディオに見せると、クローディオはアウリステラにあてた次のような手紙を取り出した。
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クローディオからアウリステラへ
世人が恋着の網にかかるのは顔貌の美、立居振舞いの艶、人品の貴、心様の優などという餌に魅かれるからであり、それらの魅力を相手のうちに見つけて懸想するのであろうが、わたしはちがう。この身が恋の軛(くびき)、首枷、足枷につながれ、その掟に胸を開け渡すのはほかでもない、同情からだ。おまえほどの美形がこともあろうに奴隷に売られ、牢櫃(ろうびつ)の憂き目を強いられ、生死の境をさまよったことも数知れぬと聞き及んでは、石の胸も不憫がろう。凶刃喉元に迫り、火粉袖に降りすさび、雪に凍え、頬に咲く二輪の薔薇の色褪せるまで飢餓にさいなまれ、ついには海に呑まれ、そして吐き出されたおまえ。それにしてもどこから湧くのか、茨の道を乗り越えるその力は。おまえを慰みものにせんとして国を飛び出し、今なお付き纏(まと)うどこかの王子の、あの能無しが何ほどの役に立とう。おまえの兄とて、兄に相違ないとしても、おまえを難儀から救うにはあまりにも非力だ。さきざきの約束を真に受けて待ち設けるのは愚の愚、いま望みうることをあてにせよ。天が約束する安全な生活をえらべ。わたしはまだ若いし、地の果てにのがれてでも生きぬく術を心得ているのだ、この国からおまえを救い出し、執念深いアルナルド王子から解放するくらいわけはない。このエジプトを脱出して約束の地へ連れていってやる。美(うま)し国、わが愛するイングランドには住めないが、イスパニア、フランス、イタリアがある。そして、何よりもはっきりと約束しておこう、おまえをわたしの妻にめとってやる。
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これを聴いてルティリオが言った。
「おれたちはどっちも狂ってる、羽根もないのに空を飛ぶ気でいるんだから。この求婚作戦には羽根蟻の羽根しかないんだ、手紙は破り捨てたほうがいい。恋いこがれて書いたならともかく、暇を持て余してのいたずら文だ、なんとかできる見込みでもあれば恋が芽ばえて育ちもしようが、どうにも望みがないではないか。成算があるならともかく、わざわざ好んでおのれの墓穴を掘らねばならないわけがどこにある。打ち明けたその場で首に繩がかかるか、ばっさりやられるのが落ちだ。いいか、惚れた素振りを見せるだけでも忘恩のそしりを受けるのみか、恩を仇(あだ)で返したことになるのだ。踊りの手解(てほど)きの手に鑿槌(のみつち)もって商売変えした男と一国の姫が、どう釣り合う。島流しのぼやき男が、千国万国にもなびかぬ女と天秤にかかるか。舌を噛み切ってでも口に出しちゃいけない。さっさと愚を悟って考えなおしな。おれとしては手紙は渡さず、破って火にくべる」
「勝手にするがいい」クローディオが言った。「わしは取っておく。アウリステラに渡す渡さないはともかく、わが才知の誇るべき証として保存しておく。しかし、誘惑かならずしも人を害するものではないのだ、いま渡さないとこの場のためらいを歯軋りして悔むことになるかもしれん」
盲蛇に怖じず、正真正銘の愚者によるいつわりの求愛工作、顛末やいかに。
やがて、ペリアンドロがアウリステラと水入らずで話せるときがきた。彼は用意の手紙を渡すつもりで彼女の部屋をたずねた。
ところが面と向かうと、思い設けてきたせりふも言い訳も忘れてしまい、口を開くとこうなった。
「ぼくをよく見てくれ。ぼくはペリアンドロだ。かつてはペルシーレスだったが、いまはきみの望みどおりペリアンドロだ。ぼくたちの心の絆は死ぬまで解けないはずなのに、それを無視するようなあの言葉はどういうわけなんだ。天の神々に免じて、いや、それ以上に美しいきみ自身に免じて、お願いだ、シンフォロサの名は二度と口にしないでくれ。姫の美貌や財産に目が眩んできみの素晴らしさ、きみの美しさを忘れるなどありえないことだ。心もすがたも、きみに優る者はいない。きみの魂を通して息づいているぼくの魂を、今あらためてきみに捧げる。いうまでもなく、きみと初めて会ったときからこの魂はきみのもの、こと新しく何かを加えて捧げるわけではない。きみの魂がぼくの意識に刻まれ、忘れえぬものとなって以来、なにはさておいてもきみに尽すことがぼくのつとめになった。とにかく早く元気になってほしい。ぼくはこの国を出る方法を考え、旅を続けるために出来るだけの手をうつ。ローマは天国というが地上のもの、天国にあるわけではないのだ、道中の難儀がどんなに厳しくてもちょっと道草を食ったと思えばいい、かならず着ける。勇気という大樹が無敵の腕をふるって味方してくれる」
ペリアンドロがこう訴えているあいだにアウリステラの目はうるんだ。嫉妬とも同情ともつかない涙である。しかし、ペリアンドロの思い遣りがしだいに胸に浸み入った。そのやさしさに包まれた彼の真意に彼女は今触れた思いがし、その反応が言葉こそ少なかったが、つぎのようにあらわれた。
「いまはもう、素直にあなたを信じられます。あなたにすべてを任せます。一刻も早くこの国を出ましょう。よそへ行けば、悋気の病もなおると思います」
「ぼくのせいできみが苦しんでいるならあまんじて責めを受け、申し開きをすることできみの嘆きを鎮めることもできるだろうが、思いあたるふしがなくては言い訳のしようもない。さあ、一刻も早く以前のきみに返って、みんなに笑顔を見せてくれ。それともまだ治らないと言い張って、ぼくらを悩ませたいかい。きみの希望どおりにするよ、できるだけ早くこの島を出よう」
「わかったわ。でも早くしないと取り返しのつかないことになるわ」アウリステラが応じた。「大枚の結納の約束や誓いを並べてわたしに結婚を迫るひとがいるのよ。それも並の結納ではなくて、少なくともこの国はくれるらしいわ。ポリカルポ王がわたしを後添えにと言って娘のシンフォロサ姫を仲に立ててきたの。姫は姫で好意のつもりかもしれないけど、わたしを義理の母に持てば兄さんと一緒になれると言って喜んでいるわ。そんなことになったら大変でしょう、このままだととんでもないことになるでしょう、そこのところ兄さんが判断して慎重に打つ手を考えてください。それから、わたしが疑り深いばっかりに兄さんを不愉快にさせたこと、許してください。愛しているからこそ、あんなに言ってしまったの」
「愛には」ペリアンドロが言った。「嫉妬がつきものだというけれど、とるにたりないことから生れた嫉妬は、むしろ適当に相手を刺激する拍車のようなもので、かえって恋慕をつのらせる。逆に、相手を信じきっていると熱がさめて恋は消えかねない。しかし分別のあるきみなんだから、これからはもっと澄んだ目で、いや、きみほどきれいな目をもつ者はこの世にひとりもいないからそうは言えないけれど、あんなに意地を張らないで、もっと素直にぼくのことを見てもらいたい。芥子粒ほどもない些細な落度を取り上げて、まるで天を衝く山のような焼餅をふくらませてぼくを困らせないでほしい。それはそれとして、王と姫はきみの裁量で適当にあしらってもらいたい。脈がありそうなところを見せて言いくるめれば、ふたりをいらだたせずにすむと思うよ。話はこれくらいにしておこう。長引くとよけいな疑いを抱く者もいるからね」
こう言ってペリアンドロがアウリステラの部屋を出たとき、入れちがいにクローディオとルティリオが来た。ルティリオはポリカルパ姫にあてた手紙を破りすてたところである。クローディオは折り畳んで懐中におさめている。ルティリオは自分の気違いじみた企みを悔いているが、クローディオは筆の立つのを得意がり、自分の大胆な振る舞いに誇らしげである。しかし、ひとの一生が二分できるものとして、その一半を記さずに終ることをクローディオはいずれ思い知らされる。
第七章――(その二)
ポリカルポ王は恋に狂っている。アウリステラの気持を一刻も早く知りたくて、じっとしていられない。しかし、望みどおりの返事を得ることには自信も確信もあったので、一方的に早々と祝言を計画し、披露宴の手筈もととのえ、彼女への贈り物も用意した。前祝いとして臣下にも祝儀をふるまった。とにかく手回しがよかったわけである。ところがひとつ見落していることがあった。自分の年齢に気づかなかったのだ。七十と十七の違いが十分にわかっていなかった。十歳若いとしても釣り合わない。人はこのように欲情というやつの甘い口にたらしこまれて惑うものであって、どんな分別ざかりの人でもあらぬ想いにたぶらかされることがあって、色にさそわれ、ひきこまれるようにめろめろと恋におぼれていくのだ。
シンフォロサの心境は父親とは異なっていた。なりゆきに自信がもてず、望みが増すほど不安はつのる。家柄、品位、美貌、この姫に欠けるものはないが、それらは望みを羽ばたかせるための翼にはならず、逆に翼を切り落す役にまわった。恋い悩む者は自分などに愛の見返りを受ける値打はない、と思うものである。愛は不安と切れない仲にあり、いつでもどこでも二人連れだ。愛を傲慢だと呼ぶ向きもあるが、そういうものでもない。愛はまた謙虚で、人なつっこく、従順なものだ。相手を苦しめまいとして愛する権利を放棄する愛もある。それのみか、恋をする者は相手を至高の存在として崇(あが)め、失うより先に身を引くことさえある。
父親よりも人の心の機微を知る麗しのシンフォロサ姫は、こういうことにも想いをめぐらせていた。胸には期待と不安が入り混じっている。やがて、アウリステラの部屋を訪ねた。こわい、うれしいような気もする。事のなりゆきが彼女をもてあそんだ。
アウリステラはひとりでいた。運命の鍵をにぎる知らせをいま聞くのだ。部屋へ入っても興奮は鎮まらない。言葉をかけて問いただすより、食い入るように相手を見つめ、その表情から自分の生死の判決を読みとろうとした。その気持をすばやく察したアウリステラは、ほほえみを浮かべて、すなわち陽気をよそおったわけだが、こう言った。
「いらっしゃい。お姫様の希望の大樹に、まだ不安の斧は入っておりません。ただし姫様のしあわせも、わたくしの幸運も、訪れが思ったより遅くなるようです。でも、必ず来ます。人に恥じない志を果そうとするなら、それを妨げる邪魔がはいっても、それで絶望して成就をあきらめるのは早計です。兄が申しますには、お姫様のように品位のある美しいおかたを知った以上、好きにならないのが不思議で、どう逆らっても惹かれてしまうそうです。だから、お姫様のほうで好意を感じてくださっているということを聞いて大層喜び、これこそ願ってもない名誉だと申しております。でもその幸せを手に入れるには、そのまえに、わたくしとの結婚を執念深く迫っているアルナルド王子の望みをくじく必要があります。兄と結婚してくださるだけでは困ります。王子をなんとかしていただかないと、わたしは王子に嫁がなくてはなりません。魂のない肉体でも生きていることになるなら、兄と離ればなれに暮すことにも耐えていけるでしょうが、兄はわたしを動かす精神であり命をくれる魂ですから、兄がお姫様と結婚してお国にとどまり、わたしは兄のいない王子の国へ行くとなると、とても生きてはいけません。兄はこれを考えて、王子が強引な振る舞いに出ないうちにひとまず兄妹そろっておとなしく王子の国へ行き、そこからわたしたちが国を出たとき以来の大願であるローマ詣を許可してくれるように頼もう、そのほうが無難だと申しております。これまでもそうでしたから、王子はきっとわたしたちの言うことを聞いてくれると思います。こうして自由になれれば、お国へ引き返してくることも簡単です。王子の裏をかいて、望みどおりわたしはお父上と、兄は姫と結婚できます」
これに対しシンフォロサが答えた。
「お姉さまがそんなふうに言ってくださると、うれしくってお礼の言葉もないほどだし、今の気持はとても説明できそうにないからそっくりそのまま承っておくとして、いまからわたしがお話しすることは、助言としてではなく忠告として聞いてちょうだい。あなたはいまこの国にいて、父の保護下にあるのよ。だから父は誰からもあなたを守ってくれるわ、喜んで。あなたを失う危険は徹底的に取り除いて、誰にも横取りさせないわ。あなたがた兄妹をアルナルド王子が無理矢理連れ出すなんてことも不可能よ。王子は父の意志にいやおうなく従うことになるわ。王子は父の領地、父の宮殿にいるんだもの。あなたは父の妃になり、わたしの母になってくださるわけだけど、その意志をいまはっきり示してちょうだい。兄さんがわたしとの結婚を拒まないってことも約束してちょうだい。アルナルド王子がこの話をつぶそうとしてどんな邪魔を入れてきても、わたしが防いでみせるわ」
ここでアウリステラが言った。
「賢明な殿方は昔のことと今のことを参考にして未来を予測します。お父上があからさまにせよ密(ひそ)かにせよわたしたちをむりやりお国にとどまらせようとなさいますと、きっと王子の気にさわって憤慨させることになるでしょう。王子はどう低くみつもっても、お父上のお国より強大な国の、いずれは王となる人物です。一国の王となれば、侮辱や陰謀に対して仕返しをくわだてるのは、火を見るよりあきらかです。わたしたちがそろって親戚になれるのはうれしいことですが、手ばなしには喜べません。払う犠牲も無視できません。必ず戦争を招きます。わたしたち兄妹がこのままここに留まるにせよ、いったん出て引き返すにせよこの心配は消えませんが、そこはよくしたもので、神様がついていらっしゃいます。神様はわたしたちにどこまでも辛くお当りになるようでいて、ちゃんと光明の射すようにご配慮くださるものです。わたしたち兄妹はひとまず王子に同行しようと思います。そのためにご理解のあるお姫様からお父上に、わたしたちの船出のことをぜひ頼んでいただきたいのです。そうしていただければ、この国へ早く引き返してこられます。そしていずれはお国で、王子の国ほど強大ではないにしても安心してお父上のご分別におすがりできますし、お姫様もやさしくて気高い兄と結ばれることになり、わたしたち兄妹の魂も離ればなれにならずにすみます」
これを聞いたシンフォロサは狂喜してアウリステラを抱きしめ、首っ玉にかじりついて、口といわず目といわず接吻を浴びせた。
ちょうどそのとき、蛮族姿のアントニオ父子と母娘がはいってきた。うしろにマウリシオ、ラディスラオ、トランシラが続く。いずれもアウリステラの病状をわがことのように心配し、じっとしていられず見舞いに来たのだ。
シンフォロサはまんまとだまされたわけだが、はいってきたときの不安が嘘のように、いかにもうれしそうに出て行った。恋をする者の胸は、うれしい約束にはその影にでもあざむかれるのだ。
病人と見舞い人が交す決り文句がすんで、老マウリシオが言った。
「国では乞食をしていたほどの貧乏人で、残してきたのは生れ育った山河くらいという極端な場合でも、久しく故郷を離れているのは辛いものです。いわんや、代々約束された財産をあとにしてきた者の思いは、察して余りあります。アウリステラさん、こう申すのはわし自身、寄る年波に死に支度をせかされて、一日も早く生れ故郷に帰りたい、朋輩、親兄弟、息子たちに死に水を取ってもらいたい、手厚く葬ってもらいたいなどと願わずにいられないからです。これはここに集まっているわれわれの誰もが求めている幸せでしょう、みな他国から来てこの国に寄寓する身の上で、異国では見つけようのないものをそれぞれ故郷に残しているのです。アウリステラさん、われわれはあなたのお気持次第で、すぐにもこの国を出ることができます。あなたが同意してくれれば、すぐにも準備は整います。あなたを置いてきぼりにはできません。その寛い心、類まれな美しさ、深い思慮が一体となって、まるで磁石のようにわれわれの心をひきとめているのです」
「すくなくとも」ここで大アントニオが口をはさんだ。「われわれ夫婦と息子たちにとって、この娘さんは心の磁石だ。ご本人が一緒はいやだとおっしゃるならともかく、そうでないのにご一緒できないとなると死ぬほど辛い」
「お気持はとてもうれしく思います」アウリステラがこたえた。「いますぐおこころざしに応えるのが道理でしょうが、わたしの一存では決めかねます。でも、殿下と兄に頼んで、ぜひお気持に添えるようにしたいと思います。わたしはもうすっかり元気になりましたから、さしさわりはございません。先のことを思いわずらわず、晴れ晴れと出発の吉日を待ちましょう。神はあれほど恐ろしい危険からお救いくださったのみか、これまでもお守りくださったのですから、きっと懐しい故郷へ送り届けてくださいます。わたしたちは命のあるかぎり、どんな苦難にも耐えるべきです」
アウリステラの返事の思慮深さ、信心の深さに一同は強く胸を打たれた。
ここへ、一途ながら、なんとも淫らな欲望のとりことなっているポリカルポ王が入ってきた。すこぶる機嫌がいい。娘シンフォロサの口から、その欲望が叶うと聞いたからである。
老いらくの恋の衝動は偽善のマントにくるまって歩く。偽善者というのは、もしだれにもそれが知られていないなら、だれを欺いているわけでもない、自分だけを欺いているのだ。この老人は、結婚という隠(かく)れ蓑(みの)の影に淫靡な欲望をひそませているといえよう。
王に続いてアルナルドとペリアンドロが入って来た。王はアウリステラの回復をよろこび、その晩、全快を神に感謝するため、向う八日間は町中に灯明を立てて祝賀の催を開くように命じた。
ペリアンドロはアウリステラの兄としてその好意に厚く礼を言った。アルナルドも、求婚者としての立場からそれに倣(なら)った。
ポリカルポ王は王子をまんまと騙(だま)し通せるとみて、内心ほくそえんでいた。王子はアウリステラの回復をよろこんで心がおどるばかりだったので、王のたくらみを察知できる由もなく、この国を出る方法を考えて頭がいっぱいだった。遅くなればそれだけ望みのかなう日が先になる。
マウリシオも故郷へ帰ることばかりが気になった。しかし星占いを立てたところ、恐ろしい難儀が出発の妨げになると出たので、王子とペリアンドロに知らせた。そのころふたりはすでにシンフォロサ姫とポリカルポ王のたくらみに気づいていただけに、マウリシオの占星を深刻に受けとめた。強大な権力者というものが恋情にとりつかれた場合にはいかなる不都合があっても目的を達成せずにおかないものであり、そんなときは相手に対していかなる敬意も払わず、約束も果さず、遠慮も義理も感じない。この王の場合がまったくそれであり、彼には客人たちに対する負い目が全然ないに等しかったので、客人からつけこまれる弱味もなかったわけだ。王子もペリアンドロも十分こうした事情を知っていたのである。
三人は額を集めて方法をこうじた。その結果マウリシオが港へ行き、碇泊中の船のうちから自分たちを密かにイギリスへ渡してくれる船をさがすことになった。乗船の方法はどうにかなる。とにかく実行に移すまで、ポリカルポ王のたくらみに気づかないふりをしなければならない。
これはアウリステラにも詳しく伝えられた。彼女は計画に同意し、そのときに備えて、自分はもちろん、みんなの健康にも十分気を配らなければと思った。
第八章――クローディオがアウリステラに手紙を渡す。蛮人アントニオが誤ってクローディオを殺す
物語によるとクローディオの思い上がり、厚かましさは際限なく、ついにアウリステラの手にあの破廉恥きわまりない手紙を渡した。彼はこの手紙のことをさる神聖な者への讃歌だとか、一読せざるは人間として恥ずべきことだとか言い、読めば感嘆に堪えまいなどといつわった。
のせられてアウリステラはそれを開いた。そして、つい好奇心にひかれるまま、腹を立てるどころか最後まで目を通した。が、読み終えて元どおりにたたんだときの両眼は、クローディオを睨みつけ、ふだんのやさしい輝きとはうって変って激怒の炎を吐いていた。
「さがりなさい。穢(けが)らわしい。恥を知りなさい。わたしに落度があっておまえにこのような悪ふざけを許したというなら、わたし自身の名誉と信用にかかわることですから、罪はわたしがかぶりましょう。でも、今度ばかりは許せません。おまえの気違い沙汰は忍耐の限りを越えています。同情の余地はありません」
クローディオは呆然となった。前述のように彼の後半生は、この破廉恥ゆえに取り返しのつかないことになるのである。恐怖のあまりクローディオの胸は縮み上がった。そして、彼の命根はこの破廉恥が王子とペリアンドロの耳に達するときまでももたないわけだが、この場は一言もなく目を伏せ、背を向けて去った。そのとき彼女にひとつの心配ができた。それは取り越し苦労ではなく、それなりの理由があった。望みを断たれたクローディオが、どんな復讐に出るかもしれない。彼が王の企みを知ったなら、それに付け込まずにはおくまい。それが心配だったわけで、事の一切を王子とペリアンドロに打ち明けることにした。
このころ、若いアントニオはひとりで自室にいた。そこへ突然女がはいってきた。四十前であろうがまだ老いの影はなく容色も衰えず、十歳は若く見える。身につけているのはこの国の装束ではなく、イスパニアふうに装っている。アントニオは生れ育った蛮人島の習俗以外、その方面に詳しくなかったが、この女がこの国の者でないことはひと目で分った。
アントニオは起立して礼儀正しく彼女を迎えた。蛮人島育ちではあったが、そのたしなみは十分に養われていたのである。ふたりは腰かけた。この年頃でも淑女と呼べるとして、この淑女はしばらくアントニオの顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
「ふいに女が現れたので驚いたようね、お若いひと。聞けばうわさの蛮人島の生れとか、女を迎え入れることには慣れてないのね。しかも島の人間が相手じゃなくて、もっぱら石や巌(いわお)と付き合ってきたそうだから、凜々(りり)しくて頼もしいけど、心も岩みたいに硬く険しくてわたしのような手弱(たおや)女(め)には取り付く島もないみたい。逃げないで。安心してらっしゃい。こわがらなくてもいいのよ、取って食おうというんじゃないから。人間離れしたことを言って誑(たぶら)かすつもりもないわ。その証拠に、おまえにも分るイスパニア語をしゃべっているだろう。イスパニア語には見ず知らず同士をたちまち百年の知己にする力があるんだよ。わたしの名はセノティア。イスパニアはグラナダ王国、アラマでとれたアラマ育ち。セノティアといえば、イスパニアは言うにおよばず諸国諸州で知らない者はないわ。わたしには特殊な力がそなわっていて、その特技で名を馳せているわけ。四年ほど前までグラナダにいたけど、カトリック羊の番犬どもがうるさくて飛び出したのさ。わたしはハガル(1)の末裔で、ゾロアスター教の修業を積み、そのほうでは抜群の才を認められているんだよ。太陽をごらん。あの輝きを消せと言うなら、雲で隠して証を立ててみせるわ。真昼も一瞬にして真暗闇にできるし、望みとあれば大地を鳴動させ、風と風を闘わせ、海を狂わせ山々を激突させ獣を吼えさせることだってやってみせるわ。ほかにも、いろいろできるよ。原初の混沌のすさまじい模様を再現してみせようか。そうすりゃ、いやでも信じるだろう。アラマの町にはいつの世にも、わたしと同じセノティアの姓で呼ばれる女がいて、この術を受け継いでいるのよ。世間ではわれわれがこの術を身につけて魔女になると言っているけど、われわれが行うのは正しくは幻術、もしくは妖術さ。魔女のやつらは人のためになることなど何ひとつしないで、たとえば齧(かじ)りかけの空豆、頭のない針、先の折れた留針、上弦下弦月形刈りの髪などという、ちゃんちゃらおかしい小道具で人を誑かすだけのことさ。また、解りもしない文字をもてあそんだりね。また、何かを企んでたまたまうまくいくことがあるとしても、それはやつらにとって事がたやすいからではなくて、神がやつらを懲らしめるために、悪魔を使ってうまくいったと思いこませるだけなのさ。われわれ妖術師や幻術師の道具立てのほうは、もっと大がかりよ。われわれは星辰を用い、天体の運行を読み、草木、岩石、言語の効能に精通し、また活性と非活性を調合することによって、あたかも奇跡を現じるごとく世間の度胆を抜く技を見せるのさ。だから良くも悪くもわれわれはうわさのたねになり、この能力を善用すれば評判はよく、悪用すると叩かれる。でも考えてごらん、われわれの本性はもともと善より悪に傾いているようだから、欲を抑えかねて人様に害を加えることになるわけ。だって、そうでしょう。侮辱された者が腹をたてて復讐したり、愛想づかしをされた者が、毛嫌いされながらもがむしゃらに愛されようとするのを誰がとめられて。人の気持を変えたり惑わせたりするのは自由意志に逆うことだから、術は効かないし、薬草にだって無理な相談なのよ」
イスパニア女の話は延々と続き、結局何を言いたいのだと、アントニオはこの間ずっと女をするどい目でにらみつけていた。
しかし、セノティアは続けた。
「お聞き、りこうな夷(エビス)さん、イスパニアには異端審問官という連中がいて、わたしはそいつらに追い回されたあげく国からつまみ出されたんだよ。仕方なく出たってことは、つまみ出されたってことになるだろう。それからさんざんひどい目に遇い、東へ西へさまよいながら、この島に流れついた。でもやつらがそこまで来ているような気がして、いっときたりとも油断できなかったよ。犬どもに裾を噛まれているような気がして何度振り返って見たことか。もちろん今でもすっかり安心というわけじゃないけど、それはともかく、ここへ来てすぐにポリカルポの前任の王と近づきになり、この国の連中に幻術を見せたところ大変な驚きようだった。だからわたしはそれを売りものにすることに決めたのさ。いまでは金貨にしてゆうに三万エスクードは貯まっている。それ以来ずっとこの商売に打ち込んできたので、ほかの愉しみに気を取られることはなかったけれど、幸か不幸かおまえがこの島に現れた。そして、おまえさえ来なければほかに気を奪(と)られるなどありえないはずなのに、いまではおまえがわたしの運命の鍵を握ってしまったのだ。わたしをどう思う、醜女かい? おまえがそう思うなら、気に入るように美しくなるよ。三万エスクードで不足なら、いくらでも望みを言っておくれ。欲の皮をいっぱいに張って懐をうんと肥やしなさい。さあ、いくらほしい。望みの額をお言い。おまえが喜ぶなら、深海の真珠貝でも取ってきてやるよ。空飛ぶ鳥も落してやる。大地の草木はおまえのために実をつけ、地底に隠れるどんな宝も、たちどころにこの場に出してあげる。おまえを絶対無敵の、平時には神としたわれ、戦場では鬼とおそれられる男にしてやる。運命の流れを変えて、常に人から羨(ねた)まれ、羨むことを知らない男にしてやるよ。そのかわりわたしと結婚しておくれ、などと野暮なことは言わないわ、奴隷としてそばに置いてくれるだけでいいの。端女(はしため)でもかまわないし、夫婦愛まで望みはしない。おまえのものになれるなら、どんな仕打ちも喜んで受けるわ。若くて物分りのいいおまえのことだから、礼まで添えて聞きいれてくれそうだけど、ありがたがる前に、いま言った術を見ておくのも悪くないよ。見たいなら、わたしに危害を加えないと約束しておくれ。そのたくましい手に触らせてくれるだけでいい」
女はこう言って腰を上げ、アントニオに抱きついてきた。
アントニオはたじろいだ。どんなおぼこ娘でも、これほど初心(うぶ)な当惑ぶりは見せまい。童貞の城を強敵に攻められた彼は、とびすさって弓をつかんだ。たえず身に具えるか手の届くところに置いていたのだ。その弓にすばやく矢をつがえ、二十歩ほど後退りし女に狙いをつけた。
いかに恋い焦がれる相手でも、命を的にされてはたまらない。とんだ淑女のセノティアは、仰天して体をかわし矢をさけた。間一髪、矢は喉元をかすめた。賢明なアントニオも、このときばかりは身形(みなり)にまして野蛮な男であった。
だが、矢はむなしく宙を裂いた、かというとそうではない。これはちょうど毒舌のクローディオが部屋へ足を踏み入れたときであったが、彼がこの外れ矢を買って出た、という恰好で矢は彼の口を塞ぎ、舌を貫き、命根を底無しの沈黙の淵へ突き落したのである。因果応報とはまさにこのことであろう、罪業重なる男であった。
逃げるセノティアは振り向いてこの殺戮の瞬間を見、二の矢の恐怖にふるえた。彼女の術をもってすれば不可能はなかったはずだが、狼狽のあまりそれに訴えるゆとりはなく、ほうほうの体で逃げた。この怨み、晴らさずにおくものか。それにしてもつれない、残酷だ、彼女は歯軋りした。
第九章
かくしてアントニオの手は血で汚れた。実は怪我の功名なのであるが、クローディオの悪企みのことを聞かされていなかった彼には、セノティアのふしだらしか念頭になく、おのれの弓の未熟を悔やむばかりであった。
しかしまだ息があるかもしれないと思い、クローディオに駆け寄ってそれを確かめたが、すでに事切れていた。何ということを。自分はやっぱりどうしようもない野蛮人だ。と彼が事態の重大さにおののいているところへ父アントニオが来て、クローディオの血みどろの死体を見た。矢から判断するかぎり息子の仕業としか思えない。おまえがやったのか。父の問に子はうなずき、いきさつも問われるまま、素直に答えた。父は呆(あき)れ、憤慨して息子を叱りつけた。
「まだ野蛮人が抜けないのか。よく聞け。恋い慕ってくる者を殺すようなら、おまえを毛嫌いする者に対してはどんなむごい仕打ちをする気だ。それほど廉潔が大切なら、なぜ耐えることをしない。この種の危険は武器をとって立ち向かっても防げるものではない。逃げるが勝だ。かのヘブライの若者は言い寄る淫婦の手にマントを置いて逃げた。あの故事(1)をみならえ。よいか愚か者、相手は女性ではないか、無骨な振舞いは慎め。弓を取れば無敵のおまえかもしれないが、その弓も捨てろ。女の恋着が弓矢で払えると思うのが間違いのもとだ。惚れたが最後、どんな障害も遮二無二突き破って望みを果すのが女というものだ。だから神に背けと言うのではない。廉潔な志を穢そうとする者に対しては改心を説け、いきなり罰してはよくない。このような闘いは今後だっていく度も経験することになるだろう。その若さ、その器量が仇になって闘いを呼ぶのだ。ただし、いつもいつも言い寄られる立場に立てるとは思うな。いつかはおまえのほうから求めるときが来ようし、望みを満たされぬまま、悶々として死んでいくことすら考えられなくはない」
息子はうなだれて父の説諭を聞いた。みずからを恥じ、悔やんだ。そして言った。
「父上、もうおっしゃらないでください。ほんとうに悪うございました。硬すぎて野蛮とか軟らかすぎて締りがないなどと、人から指をさされないよう、これからは心を入れかえます。クローディオを葬る段取りは父上にお頼みします。できるだけのことをして償ってやりたいと思います」
クローディオが死んだ、という報はこのころはやくも宮廷中に伝わっていたが、原因のほうは知られていなかった。恋い乱れるセノティアが、それを隠したからだ。蛮族の若者がクローディオをあやめた、理由は不明、と告げたのである。
その死報はアウリステラの耳にも届いた。彼女がまだクローディオの手紙を手に持っているときであった。それを兄か王子に見せて、クローディオの無礼を懲らしめてもらおうと思っているところであったのだ。しかし彼女は、天がその役を代行してくれたのを知って手紙を破った。それには、死人を筈打つまいとする寛恕も働いたようである。まことにキリスト教徒らしい分別といえよう。王はこの事件におどろき、自分の宮殿で遺恨晴らしをするなどなんぴとといえど断じてゆるさんと言って憤慨したが、真相の究明はアルナルド王子にゆだねた。王子はアウリステラやトランシラの嘆願を聞きいれてアントニオをゆるし、クローディオを埋葬するよう指図した。だが殺害のいきさつについては深く究明せず、過失だというアントニオの申し開きを全面的に信じた。そのときアントニオは骨の髄まで野蛮人だと思われるのがこわくて、セノティアの誘惑のことはおくびにも出さなかった。
事件は一応の落着をみて、クローディオの埋葬が行われた。アウリステラはセノティアのように胸中に復讐心など宿していなかったが、なりゆきで復讐を遂げた形になった。セノティアは残忍な射手めにどう復讐するか、頭にはそれしかない。そして二日後、アントニオは急病に倒れた。衰弱が激しい。医者には原因がつかめず、匙を投げた。母のリクラは泣き通しに泣き、父親アントニオは胸に鑢(やすり)をかけられる苦しみであった。アウリステラやマウリシオの心痛もただならず、ラディスラオもトランシラも同情にたえなかった。こんなありさまを見るにみかねたポリカルポ王は顧問セノティアを呼び、アントニオの病気をなんとかしてやれないものか、医者にもわからず手の打ちようがないのだと助言を求めた。するとセノティアは、死病ではないから安心しろ、今しばらく治療を続ければ全快すると言った。王はそれを神託のようにありがたく信じた。
シンフォロサ姫にとって、こうした事態は何の気がかりでもなかった。それどころか、これでペリアンドロの出発が延びると思うと、むしろはしゃぎたいようなうれしい気分になれた。一度は国を出ないと帰ってくることもないのが理屈、そんなら出発は早いほうがよいと考えなくもなかったが、一緒にいるうれしさが勝って、できるなら行かせたくないと思うのであった。
そんなある時、ポリカルポ王、王女姉妹、アルナルド王子、ペリアンドロ、アウリステラ、マウリシオ老人、ラディスラオ、トランシラ、それにルティリオが一部屋に居合すことがあった。ルティリオはポリカルパ姫にあてた手紙を破り捨てはしたが、後悔の念にさいなまれ、沈み込んでいた。まるで実際に大罪を犯して、周囲から白眼視されているような気持であった。右記の面々はアントニオの病室に集まったのである。アウリステラが、ぜひ見舞ってやってほしいと声をかけたからだ。彼女はアントニオにも両親にもあふれる好意と信頼を寄せていた。島の大火から自分たちを救い出してあの棲処(すみか)へ案内してくれたのは、他の誰でもない、この青年であった。だから彼に対しては忘れられない恩があるのだ。わけはそれだけではない。逆境を共にする者たちの気持は自然と通い合って友情を結実するものである。思えば、リクラ、コンスタンサ、アントニオ父子と共に経験した苦難は数限りなく、そこには単に恩義の絆ではなく、神の選択と運命が橋渡しする親愛の情というものが通っていた。
さて、一同は前述のごとくアントニオの病室に集まることが多くなったわけだが、そんなある日、シンフォロサがペリアンドロに身の上話をせよとせがんだ。はじめてこの島を訪れたときのことだが、あのときはどこから来たのか、何よりもそれを知りたい。父王の当選記念日の競技会で優勝を独り占めにしたときのことである。
ペリアンドロはこれを受けて、なぜこのような旅をしているか、その理由だけは妹とともにローマの土を踏むまでなにびとにも明かせられないが、それ以外のことならなんなりと話そうと言って応じた。
そこで一同はどこからでも適当なところから始めてくれればいい、どんなことでも聞きたい、と身をのりだした。ペリアンドロが身の上話を引き受けたことをだれよりも喜んだのは、アルナルド王子であった。ペリアンドロ本人の口ずからその正体を知る手がかりがえられる、と期待したからである。右の同意をえて、ペリアンドロの身の上話がはじまった。
第十章――ペリアンドロが旅のできごとを語る
「それではお言葉に甘えて、お話しいたしましょう。まずお聴きいただく物語の第一頁はこうです。わたしと妹が彼女の乳母をともなって船旅をしている場面をご想像ください。その船というのが、表向きは商船を装っていましたが、その実船長は大海賊だったのです。あるとき、とある島の沿岸を掃くように船は進んでいました。つまり樹木の一本一本が見分けられるほどごく近くを走っていたわけですが、そのとき妹が長い船旅の疲れを訴えたので、陸で休養をとらせてほしいとわたしから船長に頼みました。すると船長は、妹の希望とあれば聞き容れないわけにはいくまいということで承知し、備えの小舟に水夫を一人付けて、わたしたち兄妹と乳母クロエリアを上陸させてくれました。島に着いてまもなく、その水夫が海へ注ぐ一筋の小川を見つけました。両岸からはうっそうとした緑の森が覆いかぶさり、澄んだ水がまるで水晶の鏡のようで、とても気持のよいところです。川を上ろう。
水夫がこの提案に同意してくれたので、わたしたちはどんどん流れを溯り、やがて本船の見えないところへ来ました。ところがそのとき水夫が櫂を休め、舟を停めてこう言ったのです。
『ここで今後のことを相談なさったほうがよろしいですよ。こんなちっぽけな舟ですが、これからはこれを本船と思って頼るしかありません。沖の本船へ帰ったら、ひどい目に遇うでしょう。お嬢さんは手込めにされ、兄さんのあなたも命があぶない』
つまり船長は妹さんを辱しめあなたを殺す気だから身の安全を確保する方法を考えなさい、自分はどこへでも何があってもあなたがたと行動を共にする、ということでした。これを聞いたわたしたちがどれほど驚いたか、それは、ものごとがどうやらうまくいきそうだと思っているところへ不吉な知らせが入ってがっかりさせられたという経験の多い人には、よくお分りいただけると思います。わたしはひとまずその知らせを感謝し、いずれ落ち着いたときに恩返しをしたいと約束しました。そのときクロエリアが、『お嬢様の大切なお品をわたくしが身に付けて持ってまいりましたのが、不幸中の幸いです』と言いました。
わたしたち四人は、さっそく今後のことを相談しました。川をさらに溯って行けば、万が一、本船から追手が来ても身を守る場所があるだろう。水夫の見方はこうでした。
『しかし、たぶんやつらは来ないでしょう。このあたりの島々では近寄る船をことごとく海賊船とみなし、見つけると同時に武器をとって自衛するんですよ。だからひそかに夜襲でもかけないかぎり、海賊の掠奪は成功しません』
なるほどと思ってわたしも櫂をとり、彼と力を合せて舟を進めました。そうして手を速めて二マイルも行ったでしょうか、さまざまな楽器の音が流れてきました。そして間もなく目の前に森が現れたのですが、それがなんと動くのです。すいすいと川を渡って行くではありませんか。ところが近寄って見ると、森だと思ったのは木の枝を山のように積んで偽装した小舟の一群であって、楽の音はその上で奏でていたのです。
わたしたちは発見され、たちまち周りを取り囲まれたわけですが、そのとき急に妹が船上で立ち上がりました。たおやかに丈なす髪が背に流れ、額には乳母の編んだ留緒(とめひも)が獅子毛色に輝いています。誰もが女神の降臨かと仰ぎ見るほどの立ち姿でした。実際、群をなす舟の男たちは、あとになって知ったのですが、妹を女神に見紛えて思わず感嘆の声を洩らしたそうです。水夫にはその言葉が解りました。
『すごいぞ、喜べ、女神様だ、漁師のカリノと類まれなセルビアナとの結婚を祝うためにわざわざ足をお運びくださったんだ』
口々にこう言ってわたしたちの舟に接舷して綱をかけ、ほど遠くないところまで曳航して、そこで下船を命じました。わたしたちが陸を踏むのを待ちかねたように漁師らしい男たちが群を成して取り巻き、代る代るそばへ来て、土下座でもするように妹の裾にうやうやしく接吻しました。妹は水夫から聞かされたことで胸騒ぎを感じ、不安の色はかくせませんでしたが、それでもあのときの美しさは漁師たちが女神だと思い込んでも不思議のないほどでした。妖しいまでの麗しさだったのです。どんどん奥へ進むと、杜松(ねず)の大木を組み上げた婚礼の祭壇が見えました。床には香りのよい花や萱草(かんぞう)が彩色豊かに、まるで毛氈を敷いたように広々と咲き誇っています。壇上には二組の男女がいて、ちょうど立ち上がるところでした。若い娘とたくましい若者で、娘のひとりは極めて美しく、ひとりは恐ろしいほどの醜女です。若者のひとりは凜として涼やか、ひとりはそれほどでもありません。その四人がそろってアウリステラの足元にひざまずき、目鼻立ちのすぐれた若者が代表して言いました。
『どこのどなたか存じませんが、きっと天上からお見えになったのでございましょう、ようこそお越しくださいました。お陰さまでわたくしどものみすぼらしい婚礼が、花の咲いたように豪華になりました。弟ともども、謹んでお礼申し上げます。もしも深い海の底からお越しなら、お住まいは水晶の宮殿かと思いますが、わたくしどもの棲家には貝の壁、藤の屋根、あるいは藤の壁に貝の屋根しかございません。しかしささやかながら胸に喜びの黄金を飾り、真珠の心でおもてなしさせていただきます。黄金や真珠でもわたくしどもの喜びは表しきれませんが、美しく貴重なものといえば他に存じませんので、こんな喩え方をしました』
若者が言い終ったところで妹が近寄り、肩に手をかけて返礼しました。彼女の気品、威風、美貌がその仕草に余すところなく現れ、見守る周囲は息を忘れました。
このとき、男振りでは劣るほうの若者が立ち上がり、他国からの賓客を賑やかな奏楽で歓迎しようと周囲をうながしました。
そこで美醜ふたりの娘は、おそるおそる妹の手に接吻し、妹はふたりをやさしく抱いて礼を返しました。
同行の水夫はこれを見てひと安心し、沖で待つ本船のことを漁師たちに話しました。実はやつらは海賊である、この女性をかどわかしに来るかもしれない。彼女は貴い身分のお方で、さる王家の姫君であらせられる……。嘘も方弁、こう言っておけば本気で妹を守ってくれると思ったのです。
案の定、漁師たちはそれを信じ、ただちに陽気な奏楽をやめて、川の両岸から呼応するように戦いの合図を打ち鳴らしました。このころ日が暮れ、わたしたちは花婿と同じ岩屋へ案内されました。漁師たちは河口までの一帯に見張りを配り、一方で(うえ)を仕掛け、網を打ち、釣り糸を垂らして、新来の客のもてなしにおおわらわでした。花婿は歓迎の意をいっそうはっきりさせるためにわたしたちの接待役をつとめ、その晩は花嫁と一つ所で過すことをせず、彼女たちは妹や乳母クロエリアと部屋を共にしました。花婿のほうは、わたしと水夫と友人といっしょに女性のために寝ずの番をつとめました。
天には満月がこうこうと冴え、地には歓迎の篝火(かがりび)が輝き渡りましたが、花婿の希望で用心に用心を重ね、男は屋外で女は岩屋で食事をすることになりました。ごちそうは膳にあふれんばかり、山の獣あれば海の魚、獣魚の肉が山海の幸を代表して味を競いあい、甲乙つけがたいといったところです。
食後、カリノはわたしを川岸への散歩に誘いました。そのとき彼は思いつめた様子で歩を運んでいましたが、そのうち泣き出さんばかりに声を曇らせて、こう言いました。
『いいところへおいでくださいました。まったく奇跡のようです。おかげで婚礼が日延べになりました。あなたのお智恵を拝借できれば、わたしの悩みも消えます。話と申しますのはあの美しい娘と醜い娘のことですが、わたしはどういう運命か、美しい娘のセルビアナを妻に迎えることになっています。ところが、こんなことを言うと馬鹿か気違いか、よほど趣味の悪いやつだとお思いでしょうが、実はわたしはレオンシア、つまり醜いほうの娘を愛しているのです。説明も言いわけのしようもありませんが、これはどう変えることもできない事実です。けっして夢や幻を見ているわけではありません。わたしの心の眼にはレオンシアの素晴らしさが手に取るように見えます。彼女こそこの世のだれよりも美しい女です。もうひとつお伝えしておきたいのは同じ花婿のソレルシオのことですが、彼はセルビアナを死ぬほど愛しています。これはわたしの独り合点ではありません。わたしたち四人の気持は組み合せが食い違っているのです。こんなことになったのは、縁談をまとめた両親や親類に逆らうまいとしたからです。
しかし、男が一生連れ添って面倒を見なければならない相手を、本人ではなく周囲の意向が決めるような慣習は納得できません。今夜はその縁(えにし)の鎖につながれることを承知するところでしたが、計らずも、天恵をえてあなたがたをお迎えすることとなり、式は中断しています。いまなら、まだ打つ手があります。だからご相談することにしたのです。よそのお方なら、誰にも気兼ねせず考えていただけると思います。どうしようもないとなれば、村を出る覚悟です。両親や親類が何を言おうと友人がどう騒ごうと、村へは一生戻りません』
わたしはうなずきながら聞いていましたが、素晴らしい考えがひらめき、口をついて出てきました。
『村を出るにはおよびません。妹に話してみましょう。家出のことはそれからでも遅くないじゃありませんか。あの美しい娘が妹です。あれは稀にみる賢い女で、美貌だけでなく頭脳の鋭いことでも神がかっています』
こう言って岩屋に戻り、漁師とのことを妹に詳しく話したところ、わたしがカリノに言ったことがそっくりほんとうになるように妹は頭を働かせました。そして八方円くおさまる方法を思いついたのです。まず花嫁たちを呼び寄せて、次のように言いました。
『おふたりとも今日からずっとわたしのほんとうのお友達なんですから、そのつもりで聴いてくださいね。じつはわたしはどういうわけか神様から、すぐれた器量をたまわっただけでなく、なんでも見抜ける鋭い目を授かっていて、相手の目を見るだけで心を読み取ったり、そのひとが考えていることをずばり言い当てることができるのよ。その証拠に、さっそくおふたりのことを当ててみましょうか。まずレオンシア、あなたはカリノを愛しています。それからセルビアナ、あなたはソレルシオ。ね、当ったでしょう。おふたりとも若い娘なんですもの、恥しくて口にできないことだってあるわよね。だからわたしは考えたの、わたしが代弁してあげよう、と。わたしの言うようにしてくだされば、おふたりとも必ず満足のいくようにしてあげます。黙ってわたしに任せてちょうだい。きっとうまくいくわ』
ふたりは黙っていましたが、妹にひしと抱きつき、手に接吻を繰り返して、すべてが妹の言うとおりであること、とくに相手があべこべになっているというところが図星であることを認めました。
やがて夜が明け離れ、さわやかな朝焼けの日の訪れです。漁師たちは刈りたての緑葉で船の装いを改め、あの華やかな楽音を奏でて賑やかに囃(はや)し立て、お祭り気分が湧き上がりました。花嫁花婿は祭壇へ向かいます。前夜の場所です。花嫁は前夜とはちがった婚礼衣裳をまとっています。
妹はわざと前夜と同じものを着けて現れました。しかし美しい額にはダイヤの十字架、耳には真珠が輝いています。いずれも、ご覧になればうなずかれるでしょうが、値の踏みようがないほど素晴らしいものです。こうして妹は、この人間の世を超越する者のように見せ掛けたのです。
彼女はふたりの花嫁の手を取り、新床のある祭壇に立って花婿のカリノとソレルシオを呼び寄せました。
カリノは計画のことを知りませんから当惑していましたが、とにかく壇に上がりました。そして司祭も用意ができ、いよいよカトリック教のならわしに従った婚儀が始まろうとしていたときです、妹が参列者全員に注目をうながしました。
会場は水を打ったような唖者の静けさ、あたりの空気がそよともしないほどの沈黙でした。
満場が耳目を傾けるなか、妹は澄んだ声で朗々と、
『神の御意(みこころ)を伝えます』
と言い、セルビアナの手をソレルシオに、レオンシアの手をカリノに握らせました。
『みなさん、もう一度言います』妹は続けました。『これは神の思し召しです。また、これこそこの四人の望むところなのです。気紛れや思いつきではありません。ごらんなさい、花嫁も花婿もみな幸せに輝いているではありませんか。結婚を誓い合うハイという声が聞こえるではありませんか』
四人は抱き合いました。満場はこれを合図に目の前で行われた夫婦の組み替えを承認しました。そしていまさらながら、すでに言ったような妹の美しさと神がかった眼力に恐れ入るばかりです。なにしろ、九分どおり出来上がっていた夫婦を、このように鶴の一声で組み替えさせたのですから。
かくして結婚式がとり行われ、続く祝宴には四艘のボートが色とりどりの装いをこらして、華やかに登場しました。櫂は左右にきちんと六丁ずつ、両舷にはこれまた色鮮やかな小旗が無数にはためき、それぞれの艇の十二人の漕手(こぎて)の装いは真白の薄麻、わたしが初めてこの国へ来たときと同じものです。
旗取り競漕だと分りました。競馬の走路の三倍ほどのところに別の船があって、そこに幟旗がへんぽんと翻っています。旗は緑の天鵞絨に錦の綾、流れにくちづけしたり水面をあざやかに舞い踊るほど長いようです。
ほかにも一艘彩色豊かな船があって、その船頭がこの催しを指揮しているのですが、彼の声は見物のざわめきや楽音に掻き消されてしまいます。川には枝葉を積んだ船がいくつも群がっていましたが、競漕の四艇の邪魔にならないよう両脇に寄せられました。もちろん、両岸や祭壇にいる見物の目障りにならないところへ集められたわけです。漕手は櫂を握り、腕をまくりました。筋骨隆々、太い神経や血管がくっきりと浮かんでいます。そうやって出発の合図を待つわけですが、そのさまは、獲物をねらって鎖を振り切ろうとするアイルランドの猛犬さながら、じりじりして口から火を吐かんばかりです。やがて、合図がありました。四艘は一斉に漕ぎ出しました。その勢いは水面を進むというより、宙を飛ぶようなものです。まもなくキューピッドの帯印をつけたボートが先頭を切り、三艘身に近い差をつけたものですから、それだけの差があればめざす優勝は間違いなかろう、と見守るだれもがそんな期待を抱きました。二番艇の漕手はしぶとい強力ぞろいでしたから望みは残っていましたが、一番艇が一向に疲れをみせないので、いまにも諦めて櫂を投げ出さんばかりです。しかし、勝負の行方ほど予測のつかないものはありません。試合とか決闘の最中、観客は声や合図や他のいかなる方法によっても競技者に何かを伝える応援をしてはならないというきまりはありますが、キューピッドがそれほど水を開けるのを見ると、優勝はキューピッドにきまったと言わんばかり、そんな規則はそっちのけで両岸から大声援を飛ばしました。
『行け行け、キューピッド、《愛》に敵なし』
ところが、この声援にうっとりと陶酔したのでしょうか、《愛》の漕手の力が鈍りました。
追う者は、この隙を見逃しません。二番艇は《利益》を象徴する小さいながら豪華に装った巨人を旗印にしています。これが猛烈に櫂をふるってぐんぐん差を縮め、たちまち《愛》と並んだのです。そのとき《利益》の一方の舷側が《愛》に接触して、その右舷の櫂を残らずもぎとりました。自分の櫂は寸前に引っ込めていて無事でしたから、相手のどさくさに乗じて先頭に躍(おど)り出ました。
これで先程まで《愛》の勝利を歌ってやんやの声援を送っていた観衆の期待をむなしくさせたわけですが、次には寝返りを打たせてしまいました。
『《利益》勝て、《利益》がんばれ』
というわけです。三番艇は《敏速》を象徴する裸女像が看板です。身の丈に余る両の翼があり、手にラッパを持たせれば《敏速》というよりむしろ《名声》のような恰好です。これが《利益》の成功を見て刺激され、自分にだってと奮起して《利益》と並ぶまでに頑張りました。ところがそのとき舵とりが舵を切り損ない、先を行っていた《愛》と《利益》の間に絡みこんだので、三艘とも櫂がもつれて用をなさなくなりました。びりは《幸運》を旗印にするボートで、これはすでに疲れ果てて櫂も投げ出さんばかりでしたが、先行の三艘の複雑な絡み合いを見ると、どさくさに巻き込まれないように二艇からは少々離れた航路をとり、そこで、よく言うように鉢巻きをしめなおして脇をすりぬけ、先頭に立ったのです。
ここで声援はまたもや鞍替え、《幸運》に向けられました。漕手はますます張り切り、尻上がりに調子づいて有頂天でしたから、いま尻目に掛けてきた連中によって仮にさきほどと同じ水を開けられることになったとしても、追いつき追い抜き優勝に漕ぎつける自信が十分にありました。事実、櫂より運のおかげとはいえ、みごとに優勝を果したのです。
結局、運を掴んだのは《幸運》だったというわけですが、このままわたしが体験談を続けても運は付きそうにありませんので、このへんでしばらくお休みをいただき、続きは今夜のうちにおしまいにします。わたしの不運におしまいがあればのことですが……」ペリアンドロはこう締めくくったのであるが、このとき急に病床のアントニオが失神状態に陥った。それを見た父親は原因を覚ったかのようにその場を立ち、一同を残して、いずれそうと知れるわけだがセノティアをさがしに部屋を出た。この魔女と父親アントニオとのあいだで何があったかは、次章で語られる。
第十一章
ペリアンドロの話は長かった。筆者が思うに、王子とポリカルポ王にはそば近くアウリステラを見つめる喜びがあったし、シンフォロサ姫にはペリアンドロの息のかかるところにいられるうれしさがあったからその長話をなんとか聞いていられたが、かりにそれがなかったとしたらとても耐えられなかったにちがいない。しかしマウリシオとラディスラオにはあまりにも回りくどい、余計なことをしゃべりすぎる。自分の不幸を語るのに他人の幸せをひきあいに出すのはどうかと思った。とはいえ穿(うが)った事も言うし、巧みな綾もある。一同が楽しんだことに変りはなく続きが待たれた。
父親アントニオは、めざすセノティアをほかならぬ王の執務室で見つけた。そして、いると見るや、いきなり短剣を抜き放ち、イスパニア人気質を剥(む)き出しに激怒し、後先をかえりみず襲いかかって、やいセノティアと呼ばわりざま腕を締め上げ、剣を振りかざして怒鳴りつけた。
「おのれ魔女め、命が惜しければ悴(せがれ)を元どおりにしろ、元気なからだに戻せ、いますぐだ。息子の命をどこへ隠した。孔の潰れた針か頭の折れた待針とでもいっしょくたに針山へ閉じ込めやがったか、それとも扉の隙間か、悪党め、さあ、きりきり吐きやがれ!」
怒気満面のイスパニア人に抜身を突きつけられたのである。セノティアは歯の根も合わぬほど震え上がり、いますぐ息子をもとの元気な姿に戻すと約束した。世界中の病人をたちどころに回復させるという約束でも、断ち切れなかっただろう。それほどの凄みがあったのである。
「放しておくれよ、イスパニアの旦那。物騒なものを振り回さないで。もとはといえば、あんたの息子が弓矢でまいた種じゃないか。女は生れつき執念深いんだ、なのにあのようにみくびられ、さげすまれたのでは、火に油、怨みを晴らさずにおくものじゃない。あんたの息子があんまり邪険にすぎるから、こっちだって意地になるんだ。もっと人間らしく教育するんだね。情を乞うて慕い寄る者に冷水を浴びせるようなことは、金輪際(こんりんざい)させるんじゃないよ。それはそれとして、息子のことは安心しな。あしたになれば床が上がってぴんぴんしてるさ」
「嘘をぬかすと承知せんぞ。草の根分けてもさがし出し、息の根を止めてやるから覚悟しておけ」
アントニオはこう言って手を放した。セノティアはまだ縮み上がって、復讐どころではない。つれない若者の命を刻々とむしばんでいる呪符をあわてて取り除いた。実は自分のほうこそ彼の男振りに魅せられていたわけだが……
扉の魔法の小道具が取り除かれると、たちまち、封じ込められていた若者の健康が広場へ飛び出て、顔色が戻り、目に輝きがよみがえり、全身に雄々しい生気が復活した。親しい者たちの喜びは言うまでもない。
父親は息子とふたりきりになって言った。
「いいか、よく聞け、わざわざこんなことを言うのはほかでもない、神をあなどるなと言っておきたいからだ。これだけは胆に銘じておけ。わしはおまえの爺さんから教えられた真正なカトリックの掟を、十五、六年来おまえに伝えてきた。だから、これくらいのことは分るはずだ。カトリックの信仰によって人は救済を得てきた。今後もそうだ。この掟を守る者だけが、神の国へ召される。それはこの世が続くかぎり変るものではない。聖なる掟は教えている。侮辱を受けた者がなすべきことは、相手をこらしめることではなく、説き喩して罪を悔い改めさせることだ、と。いいか、罰のことは裁判官に任せておけ。われわれの役目は改心を促すことだ。それには条件があるが、おいおい教えてやる。おまえに堪忍袋の緒を切らせて、あまつさえ神の御心をないがしろにさせようとする者もいようが、だからといって弓で脅したり矢に訴えたり、淫りに口ぎたなくののしってはいかん。挑発にのらず身をかわして聞き流せばおまえの勝だ。その心掛けさえあれば今度のような目に遇うこともない。おまえにはセノティアの呪いが掛っていたのだ。時を限った呪いで、おまえのからだは次第に衰弱し、十日後には命を失うはずだった。大事に至らなかったのは幸い神の思し召しがあって、わしの勘が当ったからだ。さあ、わしについてきなさい、みなさんに元気な顔をお見せしよう。ペリアンドロ君の話の続きも聞ける、今夜で終るはずだ」
息子は父親の言葉にけっして背かないことを誓った。清廉をけがそうとする誘惑の手は今後も執拗にのびてこようが、神助にすがって払いのけます。
若いアントニオからにべもなくあしらわれたセノティアは、その傲慢を思うと悔しいやら、恥しいやら、なさけないやら、しかも父親からもあのように罵倒され脅しつけられたのだから侮辱はかさなる。無粋な蛮人め。このまますごすご引っ込むと思ったら大まちがいだ。自分の手は汚さずに怨みを晴らしてやる。これを胸に、ポリカルポ王をたずねた。
「この宮殿でおそば近くお仕えするようになってからというもの、わたしが陛下のために骨身を惜しんだことがございましょうか。陛下もわたしの忠義をお汲み取りになられて、数々の秘密をお打ち明けくださるほど、全幅の信頼をおいて厚く用いてくださいました。これは陛下ご自身がよく承知のことと思います。さればこそ、ご聡明な陛下にはとっくにお気づきのことと信じて申しあげます。人は己のこととなると、とかく目に霞がかかります。とりわけ色恋が絡むと、これこそと思っても、その判断は十中八九狂っているものです。と申しますのはほかでもございません、陛下はアルナルド王子の一行を出発させるお考えのようですが、それがそもそもあまいとんだお考え違いだからです。目の前にいても陥せないアウリステラですよ、見えないところに行かれてはどう攻めます。はっきり申し上げて、陛下はお年を召されております。この事実は自他ともに認めざるをえないことでしょう。その、いわば老いぼれのもとへ、うら若い娘がわざわざ夫婦の約束を果しにもどりましょうか。それどころか、ペリアンドロと手に手を取って、そうなのです、ふたりは兄妹とは真赤ないつわりかもしれないではありませんか。また、アルナルド。あの若い王子にしても、あきらかにアウリステラにぞっこん参っており、どう見ても妃に迎えようとしています。陛下、せっかくの機会にやつらの見え透いた手にのって、いっぱい食わされるのがおいやなら、いまちゃんとやつらを足止めにしておくべきです。そして、やつらの中にいる蛮族のならず者、あいつの思い上がりも狼藉も厳しく処分しなければなりません。あれはあのクローディオという男を殺害し、恐れ多くも、陛下の宮殿を血で汚した張本人です。したがって陛下は、わたしの言うとおりになされば、情実におぼれるお方ではなく厳正なお裁きを貫く明君だという評判をほしいままにされることでございましょう」
王はセノティアの讒言(ざんげん)に釣り込まれて耳を傾けた。一言一言がするどい釘のように胸に食い込んで、決断と実行へと駆り立てていたのだ。その目にはすでにペリアンドロに抱かれたアウリステラが映っていた。しかもそれは、妹のようではなく、愛しあう男女の抱擁であった。さらには、デンマーク王国の冠を戴いたアウリステラの姿も見える。そして、自分の恋路をアルナルド王子めがあざわらっている。嫉妬という魔魅の病がいまや王の魂を芯(しん)までふかく冒し、その冠に号令して、何の罪もない者に対して筋ちがいな復讐をそそのかしているのである。王はセノティアの思うつぼにはまってすっかりその気になり、これからも焚きつけられるままに動きそうだ。しかしセノティアはあんまりすらすらいくのもどうかと思ったので、今夜ペリアンドロの身の上話が終るからそれまで時間をかけて策を練ろうと言って、さしあたってはこの木偶(でく)の興奮を鎮めることを怠らなかった。
王はおおいに満足し、セノティアは悶々としながら胸の牙を研(と)ぎ、王にあやかって望みを達する好機をのがさず、縦横に姦計をめぐらせた。
夜になった。一同は前夜と同じように談話の場に集まった。そこでペリアンドロは話の筋がうまくつながるようにと、前夜の部分を一部繰り返しいったん船競(ふなくら)べに戻った。
第十二章――ペリアンドロの愉快な物語が続く。アウリステラが攫われる
ペリアンドロの話にもっとも喜んだのは、麗しのシンフォロサ姫であった。一言一句がヘラクレスの吐く鎖(1)のごとく彼女を縛り、語る姿はまばゆいまでに魅力的で素敵だったのである。
さてペリアンドロはいまも言ったように話の糸口をつかんで、こうつないだ。
「はたして、《好運》は《愛》も《利益》も《敏速》も追い抜きました。好運(つき)がまわらないと、どんな敏速も足をあげたまま待つしか手がなく、利益も無益、愛も存分に実力を発揮できません。それにしてもこの漁師たちの祭は見掛けこそきらびやかではありませんが、楽しいことではローマの凱旋の祭典にまさるとも劣りません。おそらく、素朴で飾り気のないところにこそ、何にもましておもしろいものが隠れていることが多いのでしょう。
ところで人間の運命というのは、たいていがいくつもの細い糸で吊られており、この糸は変り目になるとほつれたり縺(もつ)れたりしやすくなるものですが、漁師たちの運命の場合もそうでした。またわたしの不運の糸も、よじれによじれてますます強くなってしまいました。実はその晩わたしたちは気持よい緑にさそわれるように、揃って川中の小島へ渡りました。新郎新婦はまだ夫婦めかさず、幸せをとりもった縁結びの神でもあるわたしたちになにくれと気をつかって、もてなすに余念がありませんでした。さて、こうしてむこう三日間、この小島で祝宴が催されることになりました。
折から春の真盛り、山水風物のすがすがしいこと、月は映え、水はささやき、木々は誇らしげに実をつけ、花々はふんぷんと香気を漂わせています。祭が終るまでここにいることになっていましたが、やっぱり来てよかったと思いました。全体としてはもちろん、どれひとつをとっても、そう思わせるのに十分です。
ところがわたしたちが渡ってまもなく、その小島の森の一角から五十人ほどの賊が飛び出してきたのです。奪(と)るものを奪ればすぐにずらかろうという、身軽なこしらえでした。それにしても、不意をつかれるということはそれだけで自分の不注意に負けたようなものですが、われわれもほとんど防戦できず、賊をけちらすどころかあっけにとられ、あれよあれよと目をみはるばかりでした。その間に賊どもは飢えた狼のごとくかよわい牝羊の群を襲い、牙に掛けてくわえ込むとはいわないが腕にかかえこみ、妹のアウリステラ、乳母のクロエリア、それに花嫁ふたりをさらって逐電したのです。あらかじめこの四人だけを狙っていたとしか思えません、大自然から並ならぬ美貌を授かった女性はほかにもたくさんいたのに無事だったわけですから。
もちろん、この不慮の事態に対してわたしは腑抜けのように突っ立っていたわけではありません、賊を追って猛然と駆け出し、見失ってなるものかと目をむいて声のかぎりに口ぎたなく罵り呼ばわりました。もともとそんなことを屁とも思わないやつらにむかって、万に一つも恥を知り、意趣晴らしのために引き返せばと思って罵声をあびせかけたわけです。しかし、奪(と)るものを奪ったら用のあるはずもなく、わたしの声も耳にはいらなかったか聞きすてたのでしょう、いつのまにか掻き消えたように姿をくらましてしまいました。
花婿とわたしはおもだった漁師を数人混ぜて、いわゆる寄り合いをひらき、われわれの不注意で攫(さら)われた婦女子の奪回策を相談しました。
漁師のひとりが言いました。
『このあたりの海に賊の船がいるにちがいない。あれだけの人数をたやすく上陸させることのできる場所ということになる。やつらはおそらく、きょうの婚礼で村人が集まることをまえまえから知っていたのだろう。わしはそう睨んでいるが、そうだとすればこちらから何隻かで出かけていって、やつが要求するだけの身代金を払おうじゃないか、それが最善の策だと思う。相場にこだわっている場合じゃない。花嫁を人質に取られては、婿の命とひきかえでも文句は言えまい』
『その役は』そこでわたしは言いました。『わたしに任せてほしい。わたしにとっては、世界中の人の命を集めたほどかけがえのない妹のことでもあるから』
カリノとソレルシオも同じ意味のことを言いました。彼らは人目もはばからず泣き、わたしは心の中で死ぬような思いでいました。
話がこう決ったころすでに夕闇がせまっていましたが、それでもわたしと花婿は六人の漕手(こぎて)といっしょにほの暗い海へボートで乗り出しました。そして沖へ出たころ日はとっぷりと暮れ、海上は真の闇となって、船影などひとつも見えなくなりました。
そこで、夜明けを待つことにしました。明るくなれば見えると思ったからです。そして案の定、運よく波間に二隻の渡海船を発見しました。浦を出る船と入る船です。出ようとしている船はわたしたち兄妹の乗っていた船でした。旗にも帆にも見覚えがあったのです。その帆は真紅の十字を染めぬいたものであり、いっぽう島に接近中の船は緑の十字で、どちらも海賊船です。
女たちを攫ったのは、沖へ向かう船にちがいありません。そこでわたしが指図をして、こちらからは槍の穂先に白旗を揚げて戦意のないことを示し、うけもどしのことを交渉するために漕ぎ寄りました。もちろんわたし自身が捕えられる恐れもあるので、その用心も欠かしませんでした。
やがて船長が甲板にあらわれたので、わたしが声を張りあげて呼びかけようとしたそのときです、ドドーンとすさまじい雷のような音がして、声は足どめを食ったと言うか、断ち切られたと言うか、そのまま掻き消されてしまいました。島に接近中の船が浦を出る船に対し、宣戦布告の合図として放った大砲の一撃でした。ただちにこちらからも、劣らずすさまじい応砲があり、たちまち不倶戴天の敵のごとく撃ち合いをはじめました。
わたしたちは流弾を避けてその海戦場を離れ、遠くから戦況を見守りました。やがて砲火を交えることおよそ一時間、二隻は舷を接して渡りあい、かつて見たこともないほどの激烈な戦闘になりましたが、そのうち島に向かう船に運が向いたのでしょうか、より勇猛だったのでしょうか、この船の連中が島を離れようとしていた船に飛び移り、またたくまに甲板の敵をひとり残らず殺して、海へ投げこみました。そして刃向かう者がないと見るや、船内の掠奪にかかりました。海賊船のことですからどうせたいしたものはないでしょうが、わたしにとってはこの世のなにものにも代えがたい貴重な品があるはずでした。やつらはこの船から戦果として、第一級品とでも言えるわたしの妹をはじめ、セルビアナ、レオンシア、それにクロエリアを奪ったのです。妹の美貌を見て、身代金をしこたませしめられるこの上ない値打物だと踏んだにちがいありません。
わたしたちは勝ち船の船長と交渉するため漕ぎ寄ろうとしました。ところが、わたしの運命というのはいつも風にもてあそばれてきたわけでありまして、そのときも陸からの風が起って海賊船を吹きやってしまったのです。櫂ではとても追いつけませんし、こうなると、身代金をどれほど積む気になってもどうしようもなく、取り返すにももう手の施しようがありません、すごすごとひき返さざるをえなくなりました。相手は風まかせの海賊船のことですから、行先の見当などかいもくつきません。せめて国籍でもわかれば望みもつながるのでしょうが、身元についてはさっぱり手掛りがありません。
海賊船は潮路はるかに飛び去り、わたしたちはすごすごと川へ戻り、漕ぎ帰りました。漁師たちは村中の船をそろえて待機していました。
これは言ったものかどうか迷うんですが、順序として話さないわけにはいかないでしょう、実はこのときわたしの胸に一種の霊感が入り込み、突然人が変ったわけでもないのに、神憑った精神状態になったのです。わたしは立ち上がって群なす船を呼び寄せ、注目を促してだいたいこんなことを言いました。
『諸君、手をこまねいているときではない。それでは運は開けまい。うろたえていて幸せをつかめるものか。運命はおのが手で切り開くべきものであろう。精神一到なにごとかならざらん。富者の子に生れても小心者は、胴欲者の物貰いに似て常に貧しい。わたしはなぜこんな話をするのか。それは諸君を激励し、諸君にみずからの手で運を切り開いてほしいからだ。細々と漁(すなど)る今の暮しの網と別れ小舟を捨てて、大いなるはたらきを目ざし、その中に秘蔵された財宝を求めようではないか。大事に取り組むことを、わたしは大いなるはたらきと言おう。土にしがみつき、汗水たらした報いがその日暮しではなんの名誉か。諸君は生涯をこのまま終ってもよいのか。なぜ鍬を槍に持ちかえない。そうすれば旱魃も冷害も恐れずに暮せるのみか、人にすぐれた人物とうたわれて、栄ある名誉を手にできるではないか。戦いは臆病者をいじめる継母といえるが、勇者には実の母である。戦功に対する褒賞は今生(こんじよう)を越える。若き勇士諸君、いま諸君の同胞のかけがえない宝がさらわれた。あの船を見たまえ、あれを逃してはならない。きっと神の御配慮であろう、幸い一隻は残されたのだ、あれに乗って追跡しようではないか。われわれは今日から海賊の仲間入りをするのだ。ただし、欲の皮の突っ張った白波稼業ではなく、われわれは正義を行う。船をあやつるのは諸君のお手のものではなかったか。食料も、航海に必要な物資も、あの船に残っていよう、敵は女を拉致しただけでほかの物には手をつけていない。われわれが受けた侮辱は測り知れないが、それを雪(すす)ぐ道は大きく開かれている。さあ、こころざしの有る者はわたしに続け。カリノとソレルシオも勇をふるって行動をともにしてくれるはずだ。これはふたりの頼みでもある』
終るのを待たず船から船へとさざめきが伝わり、思い思いに意見を交す声が聞えましたが、そのときひときわ高く一同を代表する者がありました。
『旅のおかた、あなたには船長として陣頭指揮にあたっていただきたい。みなあなたに従う』
幸先よく、その場で決起の総意が固まりました。ここで彼らに考えるいとまを与えては決心が鈍ります。それを恐れてわたしはただちに小舟を出し、うしろに四十艘ほども従えて、残った海賊船に漕ぎ寄せました。そしてその船に乗り込んで隈々まで点検し、不備不足を確認したところ、航海に不可欠なものは全てそなわっていました。そこでわたしは全員に上陸をさしとめました。別れにひき返せばきっと女子供に泣きつかれて、せっかくの決心も骨抜きになるにちがいないと考えたからです。みんなわたしに従い、親兄弟や妻子との別れはめいめいが胸のうちで済ませました。信じがたいことですから、話し手への礼儀として信じていただくしかありませんが、実際、島へひき返した者はひとりもなかったのです。いでたちは乗船時の着のみ着のままで、持ち場は特に定めず、みんなが適当に甲板員に、あるいは航海士になりました。そしてわたしは全員の希望で船長に推され、神助をたよりにその大任を負うことになりました。
まず手はじめにさきほどの戦闘による死体を片づけ、血の海を浄めさせました。それから攻撃用、防御用をとわず、見つけた武器はいったん一カ所に集めたあと、乗組の各員にふさわしいものを持たせました。また食料の貯蔵量を調べ、乗組員数とにらみあわせてだいたいの日割り計算をしました。
つぎに全員で航海の安全と大願成就を神前に祈り、それから帆走の用意をさせました。帆はまだ帆桁に縛られたままだったのです。
すでにお聞かせしたようにそのときは陸風でしたから、それをいっぱいに孕(はら)んでわたしたちは前途洋々、意気軒昴として果敢に大海へと乗り出しました。進路は海賊船が向かったと思われる方角です。
さて、みなさん、わたしはひょんなことから漁師たちと知り合い、宝物のようなかわいい妹と組んで立派に仲人の役を果し、その妹を賊難にあって奪われ、いわば素寒貧になったところで追跡船の船長に選ばれました。かくのごとく、わたしの運命の輪は一瞬たりとも休まず、果てしなく回転を続けます」
「まいった」このときアルナルド王子が口をはさんだ。「まいりました。ペリアンドロ君、きみはちっとも疲れを見せないが、聞くほうはもうくたくただ、こうまで難儀が続いてはね」
するとペリアンドロは、
「殿下、万事出来事はいわゆる余地、つまりそれが起る場所があるから起るのであって、それがないところでは起るはずがないわけですが、わたしという人間はあたかもその余地として生れついているように思われます。しかも、難儀専用の余地です。ただしこうして妹と再会できた以上は禍(わざわい)転じて福となる。どんなに辛くても生きているかぎり、ほんとうの難儀とは言えないようですね」
ここで、トランシラが口をはさんだ。
「そこのところの理屈はなんだか、ペリアンドロさん、わたしにはよくわからないんですが、ただお身の上のことはだれもが知りたがっているんだから、おしまいまで聞かせてくださらないと、これだけははっきりと分かります、あなたご自身がたいそう悔むことになりますわよ。だって、想像を絶するようなことばかりなので、お話を勝手に曲げたりでっちあげたりする人が現れないともかぎりませんもの。中傷を書く人だってたくさんいるはずよ。でもわたしには、いまや盗賊の頭(かしら)におなりになったあなたの雄々しいお姿を、そうよ、あなたに従う勇ましい漁師たちはもうれっきとした盗賊だわ、そのお姿を想像するだけでもうわくわくしちゃうわ。開業早々の冒険はどんなかしら。初手柄は? 早くお聞きしたいわ」
「今夜中に」ペリアンドロがこたえた。「できればおしまいまでいこうと思います。いまのところはまだ始まったばかりなんですが」
ペリアンドロの話はここで一区切りつき、一同のうなずくところとなって続きは今夜のおたのしみにまわされた。
第十三章――ペリアンドロが素晴らしい海の冒険を語る
アントニオの呪いは解け、元の凜々しい若者に戻ったが、それと同時にセノティアの邪淫に発した欲望がふたたび頭をもたげた。
またその欲情が激しくたかぶるにつれ、彼を失う恐れがいっそう胸をしめつけるのだ。邪悪な思いを断ちきれずそれに身をまかせている者は、その原因になっているものが目の前から去らないかぎり、いつまでも迷いから覚めることがないのだ。セノティアがそうで、彼女は王の客人をひとりたりとも町から出すまいとし、そのために持ち前の奸智を可能なかぎり駆使して謀略をめぐらせ、ふたたび王をそそのかしにかかった。人殺しの野蛮人を野放しにしておくのか、あのふてぶてしい態度をこらしめないでどうする。相応の罰を下せとは言わぬが、とにかく逮捕し少なくとも脅(おど)しつけることでこらしめるべきだ、そうすればもっと凶悪犯に対してよくやるように裁きの場で温情を見せることだってできる。
しかしポリカルポ王はそれにのらずセノティアの言うようにはしなかった。王が言うのに、アントニオのことはすでに王子の預りとなっているから、それは王子の権威を侮辱することになる。また恋しいアウリステラはアントニオを身内同様に思っているので彼女の機嫌を損なわないともかぎらない。しかもあれは避けようのない不慮の事故であり、殺意があったわけではなく運が悪かったのだ。したがって、身柄を引き渡せと言う口実にはならない。そのうえクローディオを知る者は口々に彼の自業自得をとなえている。誰知らぬ者のない中傷家だったのだ。
「陛下、話がちがうではありませんか。先日は逮捕するとおっしゃったはず。ついでにアウリステラも足どめにするおつもりではなかったのですか。今になってやつを捕える気がないなんて。みんな行ってしまいますよ。アウリステラが戻って来なくてもいいのですね。ああすればよかった、こうしておけばよかったと泣いても悔やんでも後の祭、慈悲の名においてなさることでしょうが、取り返しのつかないことになりますよ。恋する者が望みを果すために罪を犯したとしても、それはそもそもがその者のせいではないということから罪でもなければ本人が犯したことにもならず、意志を牛耳る愛の仕業なのです。しかも陛下は一国の王、たとえ多少の行きすぎや不当があっても、それは厳格という言葉で置きかえることができます。いまいったんあの若造を捕えるとすればまず裁判にかけ、その後あらためて憐憫をもって釈放するのです、そうすれば、厳正でしかも寛恕を知る明君の名を確固たるものにできるにちがいありません」
セノティアはこのように王を焚きつけ王のほうは独りでいてもどこにいても四六時中そればかり考えこむようになった。王子の機嫌を損なわずにアウリステラを引き留めることができようか。王子の身分も権勢も恐るるに十分であっただけに、どう出ればよいか決めかねた。王がこのように悩んでいるころ、娘のシンフォロサも気がかりは尽きなかったわけだが、彼女はペリアンドロたちの出発を待っていた。彼女はセノティアのように悪賢くも非道でもなかったので、いずれはもどると楽観していたのだ。そうこうするうちにペリアンドロが身の上話を再開するときがきた。それはこう続く。
「船は行手を風にまかせて飛ぶように走り、乗り組んでいた者の中にその航海に反対をとなえるような者はひとりもなく、運を天にまかせて潮路を渡っていたときのことです、帆柱のてっぺんからひとりの乗組員が落ちるのが見えました。が、甲板には届かず綱にひっかかって宙づりになりました。綱は、はじめから首に巻きつけていたのです。わたしはいそいで駆け寄ってその綱を切ってやり、命の切れるのを食い止めました。彼は二時間ほど死んだように気を失っていましたが、やがて目を開きました。そこでわれわれが、首を吊ろうとしたわけをたずねると彼はこう答えました。
『わたしには、子供がふたりあります。三歳と四歳になる息子です。その母親は二十二を越えないのに苦労にかけては限界を越えています、この腕ひとつが一家の暮しを支えていたのですから。さっき帆柱の上にいて妻子を残してきた方角に目をやると、子供がまるでそこにいるかのようにひざまずいて両手を天にささげ、父親の無事を祈っているのが見えたのです。ふたりはいたいけな言葉でわたしを呼んでいました。母親が泣き叫び、薄情者、人で無しとわたしを罵っているのも見えました。これが疑えないほど強烈に脳裏に浮かんで、見えたとしか言いようがないのです。そのとき船は飛ぶように走って妻子から遠離(とおざか)るばかりで、しかも行先も知れない、自分がこの航海に加わらなければならない義務はないと言ってもいいくらいだ、と考えているうちに気が転倒し、絶望のあまり綱を引き寄せ、首に巻きつけました。いつ果てるとも知れない苦しみを、ひと思いに断つことにしたのです』
事情を聞いて同情しない者はありませんでした。そして口々に、きっと近いうちに山のような宝を手に入れて帰れる日が来る、と言って彼を慰め励まし、早まったことを繰り返さないよう、そばにふたりの仲間をつけました。それから、この出来事が伝染して真似をする者が出ては困るので、わたしはみんなにこう言いました。
『この世で一番卑怯なことは、自分で自分を殺すことだ。自殺は待ちもうけている苦労に耐える勇気がないということの証だ。人間にとって死ぬほど辛いことがあろうか。ないとすれば、それをできるだけ遅くするのが正気の沙汰ではないか。命さえあればいずれ運は開かれ、幸せがめぐってくる。自殺でことが済んだり、運がつかめると思ったら大まちがいだ。あらたな苦しみが始まり、事態はますます悪化する。自殺をくわだてる者が出たからといって諸君が動揺するようでは困るのだ。われわれはきょう壮途についたばかりだが、勇気を奮って進もうではないか。行手には千の福、万の幸せが待っている』
すると乗組の全員にうながされて、ひとりがこう言いました。
『偉大なる船長、大いなる苦労なくして大いなる事業は成りません。また、大勇を必要とする行動は一部を理性に、大部分を命運によって左右されますが、あなたを船長に選べるということがなによりのしあわせです。これで、あなたのおっしゃる未来の大成功を確信し心置きなく航海を続けることができます。なあに、年老いた父母には泣き暮してもらいます。残った村人も食うや食わずになるでしょうが、水に棲む虫けらでも立派に育っているのです、陸に住む人間を神がお見捨てになるはずがありません。さあ、号令してください。もっと高く帆を張りましょう。帆柱に見張りをあげてください。われわれの胆っ玉をごらんにいれます。あなたの部下に臆病者はおりません』
感激でした。わたしはよくぞ言ってくれたと礼を言い、帆をぜんぶ張らせました。こうしてその日一日航海が続きました。そして翌朝のこと、帆柱の見張りが叫びました。
『船だ、船が見えるぞ!』
方角は、大きさは、と甲板からも声がかかりました。
われわれの船とほぼ同じ規模で、進行方向に見えるということです。
『追跡!』わたしは号令しました。『戦闘用意。海賊船なら攻撃だ。漁(すなどり)の網を捨てた諸君の勇気を見せてもらうときがきた』
ただちに帆をいっぱいにはらませました。そして二時間あまりの追跡ののち間近に迫ってやがて舷を接するところまで追いつき、不意をついて襲いました。こちらから四十人ばかりの部下が飛び移ったのですが抵抗はまったくなく、剣を濡らす一滴の流血もありませんでした。そこには、わずかの水夫と下僕らしい者しかいなかったのです。船内を隈なくさぐったところ、船室のひとつに、目鼻立ちのすぐれた男と並はずれて美しい女がいて、ひと尋(ひろ)ほどの鎖の両端に鉄の首枷で軛されていました。別の一室ではひとりの老人が豪華な寝台に臥せていました。思わず身が引き締るほどの威厳と風格をそなえた人物です。その男は四肢が思うにまかせず、身動きできないようでしたが、わずかながら上体を起し首をもたげて、
『剣はおさめるがよい。誰を相手にそのような物騒なものを振り回す。この船にはおまえたちに刃向かう者などおりはせぬ。そのように他人を犠牲にしてまで運をつかもうとする生業を働くのは金に困ってやむにやまれずのことか、そうだとすればちょうどよいところへ来た、おまえたち、幸運がつかめるぞ。いますぐおまえたちを喜ばしてやれる金銀財宝の山はないが、わしがいる。ダネア人(びと)の王(1)、レオポルディオだ』
と言いました。ダネアのレオポルディオ、そのひとがなぜここに。一国の王ともあろう者が、このように無防備で。名を聞いたわたしは、それが不思議で一歩進み寄り、言葉にいつわりはないかとただしました。相手にはそんな疑心を寄せつけないほどの威風がみなぎっていましたが、それにしても不可解な船上のがらんとしたひそやかさ、わたしは信じきれなかったのです。
『部下を鎮めて、しばらくわしの話を聞きたまえ』老人はこう答えました。『語れば長いこみいったわけがあるが、手短に言おう』
仲間もわたしも声をのみ、息をつめて老人の口元を見つめました。
『わしはダネア国の王権を神から授かるものだ。父のあとを継ぎ、父も先祖を継いでいる。つまり、わしの場合は武力や金銭で強奪した王位ではない。それで成人して身分相応の妃を迎えたが、それは胤を残さず先立った。それ以来わしは、長い間かたくつつましくやもめを守り通していたのだが、ところがあるときとうとう、わしひとりの罪だが、なくなった妻の腰元に懸想するという過ちを犯してしまったのだ。これは、繰り返すが誰の罪でもなく、わしの自業自得、犯した罪を他人になすりつける気持は毛頭ない。それにしてもその女が身分相応に振舞っていれば、いまごろはわしの妃の座にあるはずで、おまえたちも見たであろうが、あのように首枷につながれることもなかったであろう。だがあの女はこの白髪を若い侍従燕に乗りかえて、しゃあしゃあとわしの名誉を傷つけ、それのみかこの一命を奪おうとさえ企んで、寝首をかかんがため、密かに大がかりで巧妙きわまりない姦計をめぐらせていたのだ。もしもあの陰謀が事前に発覚していなかったなら、この首はいまごろ胴につながっていまい。わしは野に晒され、やつらの頭にはダネア国の王冠が載っていよう。あわやのところでわしは陰謀に気づいたわけだが、そのころふたりも発覚を知った。そして、応報の罰とわしの怒りの爆発を恐れて、ある晩やつらは出発まぎわの小型船にかけこみ、姿をくらました。それを知ったわしは、逆立つ髪を羽根のようにして港へ馳せつけた。そしてやつらが逐電して二十時間も経っていることが判ったが、わしは怒りにかられるまま、前後もなくやみくもに復讐を叫んでこの船にとびのった。そうして追跡がはじまった。この追跡は王としての権威や地位が仕向けたのではなく、わし個人の復讐心がそうさせたのだ。十日後、フエゴ島というところでやつらを見つけ、不意を襲って捕え、あのように首枷につないでダネアへ護送することにした。国へつれ帰れば裁判にかけ、きびしく追及して相応の罰を言い渡す。いま言ったことには嘘もいつわりもない、張本人があのふたりなのだ。やつらがいやおうなく事実を語っている。わしはダネアの王だ、おまえたちには金貨十万枚をやる。手持ちはないが、望みの場所へ届けさせよう、約束する。口約束で不足ならもっと確実な方法がある。わしをおまえたちの船に乗せて人質にとれ。そうしておいて、もうおまえたちのものともいえるこの船でわしの家来のどれかをダネアへつかわし、望みの場所へ金を持って来させればよかろう、話はこれだけだ』
そのとき仲間はうなずきあい、わたしに総代としての弁をうながしました。うながされるまでもなく、船長として当然そうできたし、またそうすべきだったのでしょうが。しかしわたしはカリノ、ソレルシオ、それにおもだった者たちにもひととおりうかがいを立ててからにしました。彼らの希望で指揮権を任されてはいたものの、事実それを振り回して図に乗っていると思われたくなかったからです。そうしたうえでわたしが王に返した言葉はこうです。
『陛下、抜刀して乗り込んだからといって、けっして金に困っての物取りではなく、他に怪しからぬことを企んでいるわけでもありません。われわれは賊を追うものです。島々を荒し、海に寇(あだ)をなす海賊の退治がわれわれの目的です。お見かけしたところ陛下はそのような徒輩とは縁遠いおかたですから、陛下のお命に危害を加えたりするつもりは毛頭ございません。それどころかご必要とあれば、この剣を陛下のお役に立たせる所存であり、われわれには何のさしつかえもございません。また大枚の身代金をとのことですが、お気持だけで十分、受け取るわけにはまいりません。そもそも陛下は捕虜ではありませんから身代金など無用のことです。ご安心のうえ、つつがなく航海をお続けください。そのかわり、ひとつお願いがございます。われわれがご想像ほどの悪人ではなかったことに免じ、陛下に侮辱をはたらいた両人をこの場で赦してやってはいただけないでしょうか。王の偉大さというものは厳正な裁きは言うまでもありませんが、慈悲をかけることでもまた、一層輝きを増すものと存じます』
その時レオポルディオ王はわたしの足元にひざまずこうとしましたが、病身には無理でしたし、わたしにしても畏れ多くて受けられる礼ではありません。それはともかく、持ち合わせがあれば火薬と食糧を融通してほしいと頼んだところ、ふたつ返事で承知してくれました。そこでわたしは先の進言を続けて、罪は赦さないとしても身柄だけはわたしの船にまかせてほしい、わたしが責任をもってふたりとも二度と陛下に対して侮辱をはたらけない場所へ連れて行くから、ともちかけてみました。
すると、そうしよう、名誉を穢(けが)した張本人と顔をつきあわせていたのではいつまた怒りが爆発するやもしれないから、処置はまかせると言って承諾してくれました。
そこでわたしはただちに全員を指揮して火薬と食糧を運び、続いて枷だけ解いておいた囚人を移すため王の船へ引き返そうとしたのですが、そのとき急に強風が吹きはじめたのでそれを断念せざるをえなくなりました。二隻は吹き離され、そのまま再び舷を接することはできなくなりました。
やむなく甲板から大声をかけて別れを告げたわけですが、王は召使いにかかえられて病床を出、われわれの声に応えてくれました。
それではわたしの話もここでしばらく暇を頂戴し、次なる大冒険を語るための活力をたくわえることにいたします」
第十四章
ペリアンドロのめずらしい遍歴談を、一同は興味津々として聞いた。その語り口がこの上なく楽しい。ただしマウリシオ老人だけは不満があるらしく、娘のトランシラに耳もとでささやいた。
「今の身の上話だが、なあ、トランシラ、ペリアンドロ君はもっと要領よく手短に話せるものをとわしは思うね。船の祭や漁師の結婚式のことはあんなにくどくどと説明しなくてもよさそうなものだ。話にエピソードの飾りものをはさみこむのは結構だが、そいつが話の本体を食うほど長くては腰折れだ。それにしてもわしには、ペリアンドロ君が自分の才知と話し上手をひけらかしているとしか思えん」
「そうかもしれないわ」トランシラが同感を示した。「でもはっきり言って、わたしとしては話の長い短いは気にならないわ。だってはじめからおしまいまでとってもおもしろいんだもの、わくわくしちゃう」
それにしても前にも言ったと記憶するが、シンフォロサ姫ほど彼の話に聞き惚れた者はいなかった。一言一句に魂がとろけ、われを忘れてうっとりと耳を傾けた。
しかしわれにもあらぬポリカルポ王の耳に、ペリアンドロの言葉はとまらなかった。さっさと切り上げろ、わしは忙しいのだ。望む幸せが手をのばせば届きそうなときは、遠く隔たっているときよりいらいらと気の急くものである。
シンフォロサ姫は話の続きを早く聞きたくて、翌日また同じ場所に集まろうとせがみ、当日ペリアンドロはそれに応じてこう語り始めた。
「さて、漁の網を銃と剣に持ちかえて荒海に乗りだしたわたしの仲間を見てやってください、彼らはいま、金銀ならぬ名誉という富を得たわけですが、わたしはというと、レオポルディオ王に対するわたしの寛大な処置をよく思わない者もいるのでは、と多少心配でした。王をあのまま行かせることは、わたしの独断ではなく彼らの意志でもあったのですが、人間の性格というのはみんなが一致しているわけではありませんからみんながみんな満足に思っているわけではなく、わたしがそれを気にしても無理はないでしょう。しかも王が身代金として約束した金貨十万枚、あれに代るものが容易に得られようとは思えません。わたしは全員にこう説明しました。
『諸君、王の申し出た大金を返上したことで、せっかくのぼろ儲けをふいにしたなどと悔しがらないでくれ。一ポンドの真珠より一オンスの名誉に天秤は傾くのだ。これは名誉のすばらしさを知る者のみが知る喜びだろう。卑賤の者も徳を励めば誉れに浴すが、富貴の者でも悪徳に流れれば汚名を受ける。寛容は最高の美徳のひとつであり、名声の母胎でもある。その証拠に、寛恕の人には風格があるが欲の皮の突っ張った者はみなみすぼらしい』
一同の表情はなごみ素直に耳を傾けてくれましたので、わたしは言葉を続けようとしましたが、そこへ、船が見えるという報告がありました。前方至近。風上に向かって帆走中。そこでわたしは話を切り上げ、全員を持ち場につかせました。全速前進、追跡。間もなく大砲の射程内にはいり、こちらから縮帆停船を命じる威嚇射撃をすると、前方の船はただちにそれに服して帆をおろしました。ところが、接近するにつれて世にも奇怪な光景が目前に迫ってきました。斜桁や帆綱に人間が吊り下がっているのです。四、五十人もいたでしょう。目を疑いつつ接舷して部下がなだれこんだところが、なんの抵抗もありません。それもそのはず、船上はすでに血の海だったのです。脳天を割られた男、四肢を切り落された男、半死半生の男たちがのたうちまわっています。血へどを吐いてうめく者、魂を吐き出して息絶えんとする者、子供のように泣き叫ぶ者……阿鼻叫喚の流血地獄に食いさしの肉や魚が泳ぎ、鮮血にまみれる酒器にまだ酒の香が漂って、この大虐殺が宴(うたげ)のさなかのできごとであったことを物語っています。
屍を踏み越え瀕死の男たちにつまずきながら船上に散開した部下たちは、まもなく船尾楼に達したわけですが、そこで十二、三人の美女の一隊を発見しました。先頭には隊長とおぼしき女性が立ちはだかっています。鏡にもなろうかと思われる、艶々しい白の胸甲、喉輪のいでたちで、腰当ても腕当ても具していませんが、兜はと見ると、それは色とりどりの宝石を無数にちりばめた蜷局(とぐろ)蛇(へび)の作り。手槍をしごいての出迎えです。黄金の鋲(びよう)が柄をかざり鋼鉄(はがね)の長い穂先が鋭く光っています。その雄々しい颯爽(さつそう)とした出立ちには、勢いこんで駈けつけたわたしの部下たちも一瞬たじろぐほどで、驚嘆のあまり目をこすりました。
わたしはそれを自分の船から舷側越しに見たのですが、じかに会ってみるために乗り移りました。それはちょうど、彼女がこう言いはじめたときです。
『たかが女の十人、二十人、束になって向かったところで、驚きはしても縮み上がりはしないでしょうが、わたしたちとて今も今この手で仇を討ちとげた者、誰が来ようと一歩も退きません。血に飢えているならわたしたちを襲って血を吸い、命を食らいなさい。女の大切なものに手をつけさえしなければ命は喜んであなたがたにあげます。わたしは名をスルピシアといい、ビトゥアニア国の王クラティロの姪です。さきごろ叔父の仲人によって、天分財産共に申し分なく、血筋の誉も高い偉君ランピディオに嫁ぎました。この航海の目的はそろって叔父王を訪問することで、随行には万全を期して、日頃から篤(あつ)く用いている郎等下男を選びました。ところが、女の色香と酒香はどんな健全な悟性をも狂わせるということを思い知らされました。彼らに恩義を忘れさせ、かわって淫欲を植えつけたのです。家来たちはゆうべ酒を過して眠り込みましたが、なかにまだ起きている者がいて、その者たちが夫を手にかけ、さらにわたしたちに牙を向けて、畜生のふるまいに及ぼうとしたのです。しかし自分を守るのは人間の本能、女とてそれは同じことです。夫の仇を討つまでは死ねません。わたしたちは必死に抵抗して、相手が酒に足をとられているところを一気に攻め、武器を奪いました。そこへ、バッカスの精に冒(おか)されていない下男四人が味方に馳せ来て、やつらを退治し、甲板にあのような死人の山を築いたのです。さらに帆柱や帆綱にも、見ての通りたわわに実をつけて仇討ちを成就させました。ぶらさがっているのは四十人ですが五万といても同じ目に遇わせたでしょう。やつらが戦える状態でなかったのにくらべ、わたしたちはみな怨みを晴らそうとして夢中でした。だからこそ、このような残酷行為に及んだのです。あなたがたはこちらからさし出すまでもなくむりやりに奪いとるつもりでしょうが、お金(かね)ならあげます、欲しいだけ持っていきなさい。断っておきますが、わたしのほうから気持よくくれてやるのです、遠慮はいりません。ただし、わたしたちの操に手は触れさせません。こんなものをとっても、人のそしりを買うばかりで、一文の得にもならないでしょうし』
これには感動しました。事実われわれが海賊であったとしても、胸打たれずにはいなかったでしょう。
このとき漁師のひとりが、
『これは驚きですね、きょうもまたレオポルディオ王ですか。船長、このお方にもわれわれの寛容なところをお見せしましょう。さあペリアンドロ船長、気前よく引き揚げましょう、獲物は、本能の欲求に打ち勝った誇りだけで十分です』
と言ったので、
『諸君が望むなら』とわたしはこたえました。『わたしに異存はない。とにかく信賞必罰だ。こういうおこないは天祐によって報われるが、逆に意地汚ないと天罰が下る。ではとりあえず帆柱の忌わしい果実をかたづけてくれ。甲板の汚れを洗い流そう。御婦人方は奴隷ではない。進んでお役に立とう』
部下はすぐ作業にとりかかりました。これを見たスルピシアは呆然としてまさかという驚きを隠せないままわたしの前にひざまずき、どうにもその場の事態が呑みこめないといった様子で返す言葉にも詰っていましたが、それでもやがて、うしろに控える腰元を呼んで側の者に宝物箱と金庫を持ってこさせるように命じました。腰元は言われるままに指図し、そして降ったか湧いたかまたたくまに、金銀財宝がうなるほど詰った四つの箱が、わたしの目の前に並べられたのです。そこでスルピシアが開く箱に漁師たちの目は吸い寄せられました。その輝きの素晴らしさ。おそらく、いやおそらくを抜きに、それまで気前よく見逃そうとしていた漁師たちのなかにも、目の眩んだ者がいたでしょう。手元に確保されている物と、いずれ入ってくるという予定の物とでは大ちがいですから。スルピシアは豪華な金の首飾りを取り出しました。ちりばめられた宝石が、目も覚めるように燦然とかがやいています。
そして彼女は言いました。
『船長さん、ほんの気持だけのものですがお納めください。夫を失くした哀れな女からの、せめてもの恩返しです。きのうはあのひとの腕の中で幸せの絶頂にのぼり、きょうは部下のみなさんがたの分別におすがりすることができました。こちらの宝物はみなさんに分けてあげてください、岩をも砕く力があると申しますから』
そこでわたしは、
『貴い奥方の下され物は、すなわち主君からの賜り物として、ありがたく頂戴いたします』
とこたえて首飾りを受けとり、部下に向かって言いました。
『この首飾りはいまわたしのものになった。だからどう扱うかはわたしの自由のはずだ。しかし、わたしはこんな素晴らしいものを独り占めにする気はない。そこで諸君のだれかに買い手のつくまで保管してもらい、いずれ売れたときにその金を全員で分けることにしたい。そのかわり、スルピシア様が諸君にとおっしゃる品は辞退してほしい。そうすれば諸君の名は天にまで高まるだろう』
するとだれかが応じて、
『さすがは船長。しかし今の忠告が必要とお認めになったことを恨めしく思います。おっしゃるまでもなくお気持は察しておりました。首飾りもお返しください。われわれには船長が約束してくださった名誉があります。名誉に首飾りは巻けません。名誉は箱に納まりません』
と言ってくれましたので、わたしは大いに満足でした。スルピシアがこの気前のよさに驚いたことは言うまでもありません。
そんなわけで結局は逆に彼女のほうから、ビトゥアニア国までの航海に必要な水夫や護衛として部下を十二、三人借りたいと希望を言うほどでした。わたしは快諾し、うまくやってくれそうだということだけを目安にして適格者十二人をえらびました。彼らもその任をよろこんで引き受けてくれました。
われわれはこの機会に、底をつきかけていた酒や食料を大量に融通してもらいました。風は、スルピシアにもわたしにもおあつらえ向きでした。もっともわたしたちに定まった行先があったわけではありません。わたしたちはたがいにさよならを交わし、別れぎわにカリノとソレルシオとわたしの名を彼女に伝えました。彼女はわたしたち三人を抱きしめて別れを惜しみ、部下たちにも目でその気持を告げました。彼女は泣いていました。それは悲喜こもごもの涙であったでしょう。すなわち一方で夫の死を悔んで泣き、同時に賊害をまぬがれたことを喜んで泣いたのでしょう。無理もありません、一時はわたしたちをてっきりほんとうの海賊だと思っていたのですから。そうこうするうち船はたがいに離れて、遠ざかりました。
そうそう、スルピシアに首飾りを返したときのことを話しておかなくては。どうしても返す、と言ってきかないわたしに根負けしたかたちで箱に戻したのですが、値打ちを認めずに突っ返したとでも思って腹を立てたかもしれません。
わたしは部下と進路を相談し、結局風にまかせることにしました。ほかの船もたいていそうしているはずだし、進路は異なっても風向きが変るまでは間切り航海をするのがふつうだと判断したのです。
やがて日が落ち、あかるく静かな晩になりました。船には操船教授と航海長を兼ねる漁師がいたのでその者を呼びよせて船尾楼にこしかけ、そこで天空に目を凝らしはじめました」
「このぶんだと」このときマウリシオが娘のトランシラにささやいた。「天球図の講釈をおっぱじめる気だ。いまの話が天体の運行に何の関係があるというのだ。わしとしてはさっさと話を切り上げてもらいたい。さっさとこの島を出たいからだ。あれが恒星これが惑星などとお勉強しているときではない。第一、天体のことでいまさらペリアンドロから教わることがあるか、このわしが」
ペリアンドロは父娘の私語を一息ついて聞き流し、さらに次のように語り続けた。
第十五章
「そのうち、睡魔と静寂がわたしの仲間の五感を支配しはじめ、船上は声ひとつなく静まりかえっていました。そのころわたしは、そばにいた水夫から航海術のいろいろを教わりながらくつろいだ時間をすごしていましたが、そのとき突然雨が降りはじめたのです。それが大粒どころではなくて、雲海が滝のようにどどっと落下してくるとしか思えません。まるで、海水がのこらず天界に舞い上がり、船めがけて一気に急降下してくるようです。船上はおおあわてで右往左往しながらあたりを見回しました。ところが空には雲のかけらもなくて、時化の気配などどこにも見当らず、まったく不思議でうす気味の悪いったらありません。そのときそばから前述の漁師が、
『これはきっと、あれだ。ナウフラゴと呼ばれる怪魚のしわざにちがいありません。目の真後に大きい孔があって、そこから雨を降らせるのです。ナウフラゴだとすれば、早く手を打たなければ命とりになります。大砲を一斉にぶっぱなしましょう、やつらは音に弱いのです』
と言い終らないうちに、ものすごい大蛇のような鎌首が甲板を襲い、水夫のひとりに食いついたと見るや、あっという間にまるのみにしてしまいました。
『ナウフラゴだ』航海長が叫びました。『ぶっぱなせ、空砲でいい、音を出せ、ひっぱたいてもむだだ、がんがんやれ、助かる道はそれしかない』
水夫たちは初め、食いつかれまいとしてうずくまったまま腰も立たないありさまでしたが、この声に何人かが大あわてで砲を放ちました。また一方では鬨の声をあげるやら、備えの龍吐水(ポンプ)にかけつけて水をかい出すやら、船はその間に帆という帆を残らず張ってあたかも敵艦隊の包囲を突破するごとく、頭上からおそうこの未曾有の大危機をくぐりぬけました。
さて翌日の暮れ方、船は見知らぬ島の岸近くを通りがかりましたが、もしかしたらそこで水を補給できるかもしれないということになって、そこからほど遠くない沖に停泊し、夜明けを待って上陸することにしました。そこで帆を巻き上げ、錨をおろし、それから疲れた身体を快い睡魔にあずけて横になり、とろけるように眠りました。
そして翌朝、いよいよ上陸です。心地よい浜辺を踏みしめて歩きました。ところがその浜辺の砂というのが、嘘でも誇張でもなく砂金と小粒の真珠ばかりでできているのです。
島を奥へ進んでいくと、目前に緑野がひらけました。萌える草のその緑は、それが草であるゆえかと思うとさにあらず、実はエメラルドであったからです。その緑のあいだをぬって、よく言う水晶のような水ではなく、溶けたダイヤモンドがまるで水晶の蛇のように曲りくねって流れています。
さらに行くと色とりどりの樹木が生い茂る森がはじまり、その美しさに息を呑み、うっとりとなりました。美しいはずです、ルビーが桜桃か、桜桃がルビーか、そんな実をたわわにつけた枝があり、薔薇かトパーズで頬を染めた林檎(りんご)、龍涎香(りゆうぜんこう)の薫りを漂わせて夕焼の茜(あかね)色に映える梨など、ひとことで言えばわたしたちの知る果物のすべてが旬にあって、季節の移りかわりに影響されることがないようです。春であり、さわやかな初夏であり、凌ぎよい夏であり、すがすがしい秋であり、まことに嘘のような気候なのです。
見えるものはどれもこれもみな、われわれの五感を酔わせるものばかりです。目は絶美絶佳の景観に見とれ、耳はやさしいせせらぎや、湧き出す水、とびかう無数の小鳥などの声音(せいおん)を楽しみます。木から木へ、枝から枝へ、小鳥たちは囚われているわけでもないのに、籠の鳥のように森を離れません。鼻は草や花や果物から漂う香りに酔い、口は果物の甘味をたたえ、手はその感触から南海の真珠を、印度のダイヤモンド、ティバルの黄金(1)をなつかしみました」
「クローディオが死んだのは」このときラディスラオが岳父のマウリシオにささやいた。「なんとも残念。生きていれば見ものでございましょうね、ペリアンドロ君はこの話で、やつが得意の舌をふるうネタをたっぷりと提供してやったことになります」
「失礼なことを言うもんじゃないわ」トランシラがたしなめた。「どう言おうとかまわないけど、ペリアンドロさんの話の進め方をうまくないなんて、ぜったい言わせないわよ」
ペリアンドロはといえば、まえにも言ったように、周囲の私語が耳につくたびに一息入れては話をつないでいた。話というものはいかに楽しくても、長すぎると興味がうすれ、いらいらさせることさえある。彼はそれをよく知っていたのだ。
「これまでは、ほんのさわりにすぎません」ペリアンドロはこう続けた。「いまからお話しする摩訶不思議は、そうとう物分りがよくなくちゃ認知していただけないし、語り手への礼儀としてでも信じていただけないかもしれませんが、それはともかく、とある岩の割れ目から何者かがあらわれる場面をご想像ください。わたしたちはこの目で見たのです。決して幻覚ではありません。まずはじめに、岩の隙間からさまざまな楽器の甘い音色が洩れきこえて、耳をくすぐりました。続いていぶかしげに目をこらしているところへ、一台の馬車があらわれました。材料が何なのかは見当がつきませんでしたが、とにかく形は、そうですね、嵐の海の難破船さながらで、それを十二頭の屈強な淫獣シミオ(2)が牽(ひ)き、ひとりの、世にも美しい女性が乗っています。絢爛豪華な綾錦、淡黄(うすぎ)に冴える夾竹桃(きようちくとう)の花鬘(はなかずら)、手にする黒い杖には盾のような文字板が輝いて、《官能》の二文字が読みとれます。そのうしろには大勢の美女が随き従い、手に手に種々の楽器を携え、甘美でものがなしいそれでいてどの音色も聞く者を悦楽の境にひきこまずにはおかない、それはそれは気持のよい節を奏でています。
仲間もわたしも陶然となり、石像のように立ちつくして声もありません。
と、《官能》の女性がわたしのそばまで来て、甘く拗(す)ねたような声で言いました。
『お若いかた、なかなか度量がありそうだけど、わたしを敵にまわすと、命とは言わないまでもたのしいことがなくなりますよ』
こう言って通りすぎました。ところがそのとき、楽器を持つ娘たちがわたしの仲間を攫ったというか、七、八人の水夫を誘惑して手をとり、そのまま主人のうしろからもとの岩間へ消えてしまいました。
これはいったいどういうことだ、と仲間を振り返ってたずねようとしたとき、さきほどとは異なった、甘く艶やかなひとりの声ではなく、さざめき合うような嬌声が聞えて、ついそれに気を奪われてしまいました。で、それは美女の一隊のさんざめきでした。ざっと見て、また先頭のひとりを見て、その美女たちがたしかにまだむすめであることがわかりました。しかも先頭のひとりというのは、なんと妹のアウリステラだったのです。身内でさえなければ、この世のものとも思えない彼女の美しさをここで誉めちぎりたいところですが……さがし求めていた妹が見つかったわけです。もうどうなってもいい、と言いきれるほどの感激でした。わが最愛のものと思いもよらぬところでめぐりあえたのです。離すものか、命にかえても。
妹は左右にひとりずつ仲間の娘を従え、そのひとりがわたしに言いました。
『わたしたち《禁欲》と《節操》は《純潔》さんの仲良しでいつも一緒なんですが、きょうは《純潔》さんが、あなたの大切なお妹さんアウリステラに扮装して聖都ローマへ詣でたいとおっしゃるので、わたしたちがお供をつとめることになりました。苦しい巡礼の旅ですが、大願成就の日まで妹さんのそばを離れません』
わたしは欣喜してこれを聞き、美女の群に目を見張りながら、実は耳を目を疑いまったく狐につままれたようでしたが、それでもうれしさを声高らかにあらわしたくなりました。そこで、
『ああ、わが魂のこよなき慰めよ、みめうるわしき者たちよ、われは果報者なり、この世にありても末のいかなる世にありても、甘くほころび、咲きにおう者たちよ』
と言おうとしたのですが、あんまり声をふりしぼったものですからとたんに目がさめ、美女の群も消えて、わたしはというともとどおり船上にいて、仲間もだれひとり消えた者はなくみんなそろっておりました」
ここでコンスタンサが言った。
「じゃ、眠ってたの」
「ええ、いまのたのしい経験はみんな夢だったのです」
「わたしはアウリステラさんご本人に」コンスタンサが続けた。「岩から出ていらっしゃるまでどこにかくれていたか、たずねようとしてたのよ」
「兄さんたらあんな話し方をするものだから」アウリステラがうけた。「わたしも嘘だか本当だか分らなくなってきてたの」
ここへマウリシオが口をはさんだ。
「まさしく空想のなせる技だ。想像の中ではさまざまなものごとが演じられているわけだが、それはきわめて強烈なまざまざとした現れようをするから、ひとの記憶というやつにとりつきそのまま居座り、ありもしないことなのに現実さながらに見える」
アルナルド王子はこの間ずっと黙って唇をかむようにして、ペリアンドロの口ぶりや表情を見ながら考えをめぐらしていた。客死の毒舌家クローディオはアウリステラとペリアンドロの兄妹関係を疑っていたが、さきほどの話からではまだその裏づけを取れそうにない。
しかし、ここで彼が沈黙を解いて言った。
「ペリアンドロ君、話を続けたまえ、夢はもうたくさんだけど。疲れが重なると次から次へと複雑な夢を見るものだ。ところで、きみがはじめてこの国へ姿を見せたときのことだが、どこから現れたんだね、比類ない美姫シンフォロサ殿が早くお聞きになりたいそうだ。王の戴冠記念祭で、きみが堂々の優勝を遂げたときのことだよ」
「夢があまりにも楽しくて」ペリアンドロがこたえた。「つい夢中になり、手短に済ますべきところで回り道をするという失敗をおかしてしまいました。どんな話でも脱線がすぎるとまずいにきまっておりますのに」
ポリカルポ王は黙っていた。目はアウリステラに釘づけで、思いもそこに集中していた。それゆえペリアンドロの話が長びこうがちょん切れようが指ほども、というより毫も気にならなかった。しかしペリアンドロは、退屈しはじめた者もいることだからとそれを思いやって、話をできるだけ簡単にまとめることにした。
それはこうだ。
第十六章――ペリアンドロの話が続く
「さて、目がさめたところまでお話ししたわけですが、それからわたしは仲間と今後の進路を相談しました。その結果、風にまかせようと決りました。目的は海賊の探索だ、やつらは風に逆らうまい、となると、われわれもそうすればかならずどこかで出会うというのがその理由です。そのときわたしは、まるで馬鹿丸出しに、夢の中で妹に会ったときのことをカリノとソレルシオに話し、あのときそばにいたのはふたりの花嫁ではなかったか、きみたちも見たはずだがとたずねたんですよ。すると両人は笑いながら、夢にでもそんなところを見たならおまえこそぜひ詳しく話せ、と逆にせがまれてしまいました。
そしてふた月、語るほどのこともなく航海が続きました。ただし、この間に掃討退治した海賊船は六十を越えます。やつらは骨の髄まで海賊ですからこちらも容赦せず、掠奪品は押収し、こちらの船に山のように積みました。仲間はおおいに満足で、漁師から海賊に商売がえしたことを悔やむ者などはもうおりません。盗っ人のものをまきあげても、盗っ人にはならないでしょう。
ある晩、強風が吹きはじめました。何日も吹きっぱなしに吹いていっこうに止みません。風をいっぱいにはらんで、船脚はぐんぐんとのびました。そうして、一度も帆を巻かずにひと月ちかくも、いまも言ったように進路を変えずに走り続けました。風の吹きはじめた位置で航海長が緯度を測定し、その後の時速と航海日数を掛けて算出してみるとほぼ四百レグア進んでいました。そこでふたたび緯度を測定したところ、北極の間近、ノルウェーの領海でした。ところが、そのとき航海長が悲痛な声をあげました。
『運(つい)てない。風向きのほうからゆずりでもして好転してくれないかぎり、われわれの命もここで行き止まりです。これは氷海といって、海が凍結する海域です。いま氷に見舞われたら、そろって氷づけは免れません』
と言い終えるのを待つまでもなく、見ると両舷にも龍骨にもすでに流れる氷の塊がまつわりついていました。海は刻々と凍りつつあったのです。氷の山が海中でふくれあがって航行を妨げています。
われわれは大あわてで帆を巻きました。氷の山に衝突したら船はこっぱみじん間違いなしです。海はその日の夜にかけてますます厚く固く凍りました。そして船は四面から押しあげられて、まるで指環にはめこまれた宝石のような恰好で氷の上に乗っかってしまったのです。
これを見ると同時にわれわれの五体も凍てつきはじめ、胆が冷え、胸がふさがって、生きた心地はありません。危機は目前に迫っています。だから食糧の切れめが命の切れめと判断して、そのときから配給制をとり、すこしずつ分配しました。当然、ひどい飢えに苦しむことになります。
船の四方を見渡しても、希望をつなげそうなものはなにひとつ見あたりません。ただ七、八海里離れたところに黒い物影がみとめられるだけです。われわれと同様に運悪く氷海に閉じこめられた船であろう、とみんなの見方が一致しました。
これまできわどい思いはいくたびも、数知れず味ってきましたが、あれほどいやな目に遇ったことはただの一度もありません。いっそひとおもいにやってくれればまだしも、あのようにじわじわ締めつけられては、気持のほうが先にまいってしまうのです。死を待つときの恐しさは、たちの悪さでは死ぬこととなんら変りません。さっさと死ねれば、余計な恐怖に苦しまずにすむでしょうに。とにかくこのままでは遅かれ早かれ、餓死は免れません。そこでやけくそというわけではありませんが、いちかばちかの決断を下しました。食糧が尽きて飢え死にするとなるとそれは人間の想像を絶する、むごたらしい最後になるだろう。それよりは船を下り、氷を渡り、遠くに見える船らしいものにたどりついて、腹のたしになるものを手に入れよう、力ずくでもやむをえないと決めたのです。
ただちに実行に移しました。つまり小規模ながら全員で一部隊を編成して氷上に降り立ち、ちぢかむ足に勇気をふるいたたせたのです。わたしが先頭に立ち、文字通りこけつまろびつ七転八起、目標の船のすぐそばまでたどりつきました。大きさはわたしたちの船とほぼ同じです。
人がいました。甲板に立ってわれわれを見ており、来訪のわけを察して大声で呼びかけてきました。
『目の色変えて、何用だ。何が欲しいのだ。われわれの命の死期を早めにきたか、それとも仲良くいっしょにくたばりたいのか。帰れ。ひもじければ繩をかじれ、瀝青(あぶら)をたっぷりと吸った薪を食らえ。当てにしてもらっちゃ困る。我が身が先で、人は後、それが人助けの順序だ。氷は二月(ふたつき)続くというが、われわれには二週間分の食糧しかないのだ、それをおまえたちに分けてやれるものか、考えてもみろ』
わたしはこたえました。
『追い詰められれば道理に盲い礼儀もへちまもないのが人間だ、どんな無謀に出るか知らないわけでもあるまい。だから快くわれわれを迎えてはどうだ。双方の食糧を出し合って仲良く一緒に食おうではないか。無益な殺生はしたくない。力ずくは避けたいのだ』
嘘をついている、食糧は実はもっとある、と睨んでこう言ったのです。ところが、相手は自分たちの多勢と位置の有利を心得ていたのでこの脅しにのらず、もちろん要求を呑むどころか、持ち場に散って攻撃の構えを見せました。そこで、わがほうの勇者たちはもともと死を覚悟の上のことですからいやましに勇をつのらせ、猛然と敵船を襲いました。そしてわがほうはほとんど損害を受けずに乗っ取ったのです。そのとき部下のあいだから、首を刎(は)ねて皆殺しにしようという声があがりました。弾丸の節約になるし、食糧がやつらの腹の中へ消えていくのも防げるというわけです。
わたしは反対しました。すると神がそれに満足してくださったのでしょう、すぐに報いがありました。その報いというのをこれからくわしくお話しするわけですが、そのまえにお耳に入れておくことがあります。実はわたしたちが占領したのは、妹と漁師の花嫁を攫った海賊の船だったのです。
それを知ったわたしは、声をいかめしくして問いただしました。
『ぬすっとめ、言うんだ、われわれの大切な宝をどこへ隠した、あれはわれわれの命だ。返せ、妹のアウリステラを。親友カリノとソレルシオの生きがいを返せ、セルビアナとレオンシアだ』
するとひとりがこたえました。
『漁師の娘たちなら、死んだ船長がアルナルドに売った、デンマークの王子だ』」
「その者の言うとおりだ」このときアルナルド王子が口をはさんだ。「アウリステラと乳母のクロエリアと美しい二人の娘を海賊らしい者から買った。思いのほかいい買い物だった」
「いやはやおそれいりました」とここでルティリオが驚嘆の声を発した。「まったくの奇談なんですが、なにしろおそろしい回り道が続きましたからね、たいてい道に迷ってしまうんじゃありませんか、ペリアンドロさん」
「こんなにおもしろい真に迫ったお話のできる人っているかしら」シンフォロサ姫である。「でも、お気のすむまでおうかがいしたいとはみんな思っているんだけど、もうちょっと短くならないかしら、できれば」
「承知しました」ペリアンドロがこたえた。「これほど大変な複雑なできごとが要領よくおさまるかどうか、とにかくやってみましょう」
第十七章
こうだらだらと話が長引いては、さすがのポリカルポ王もたまらない。じりじりしてくる。もちろんペリアンドロの話に耳を傾けていたわけではないが、アウリステラをわがものにする手だてをじっくりと考える余裕もない。しかし、寛大で誠実な王であるという評判にはたがわなかった。客の人品骨柄をそうとうなものとにらみ、なかでもデンマークの世継ぎアルナルドに対しては、その身分が選挙でなく世襲のものであることから、一目も二目も置いていた。また、ペリアンドロの行動に見られる風格や勇気からはただ者でないことがうかがわれたし、アウリステラの美貌は高貴の血を思わせるに余りあった。それだけにまわりくどい順序をふんだり、いたずらに計りごとを重ねず、すらすらと一足跳びに望みをとげたかった。彼女を自分のものにするに際しての不都合や異論は、夫婦というベールで包みかくせばよい。この年で嫁を取るにはさしさわりも多かろうが、まだ取り繕えなくはない。年にこだわっているときではない。あらぬ想いにいつまでも悶々とするよりは、結婚に踏みきったほうがよい。王がこうした思いに駆り立てられ、つき動かされているころ、そのようにそそのかした張本人であるセノティアも同じ思いにせきたてられ、懊悩していた。そしてついにふたりで謀(たばか)り、後日ペリアンドロが身の上話を続けるまでに、次のような計画を断行することにした。二日後の夜、非常事態をいつわって町中に警鐘を流し、同時に宮殿の四、五カ所に一斉に火を放つ。宮殿は安全な場所をもとめて逃げまどう者たちで右往左往の大混乱になろう。その機に家来を手配して、蛮族の若者アントニオと麗しのアウリステラを奪う。一方で娘のポリカルパ姫にも言いつけて、彼女が一行の身を案じて馳せつけたかに見せかけて、王子とペリアンドロに急を告げる。そしてそのまま、アウリステラとアントニオのことは伏せておいて、脱出を手引きし海岸へ避難させる。港には一行を収容する船が待つ。
その夜が来た。三時ごろ早鐘が鳴りはじめ、町中が上を下への大混乱におちいった。火の手があがった。またそれを見たポリカルポ王の胸には、火より激しい炎が燃えあがった。いっぽう、娘ポリカルパはこの大騒動の中で沈着に行動し、ペリアンドロたちにきちんと事態を急報した。姫は言った。恋に狂った父があなたがたを欺いて、恥知らずにもアウリステラと蛮族の若者をかどわかそうとしている。
これを聞いて王子とペリアンドロは直ちにアウリステラ、マウリシオ、トランシラ、ラディスラオ、蛮族の父子、リクラ、コンスタンサ、それにルティリオを呼び寄せ、ポリカルパ姫へのありがとうもそこそこに一団となって、先頭に男が立ち、彼女に教えられた道を港へ走った。そして途中なんの妨害も受けずに、安全な船に乗ることができた。船長も水夫もポリカルパ姫から事前に知らさせ、買収されていたのだ。だから救いを求めに来る者があれば船に迎え入れ、時をうつさず出航してイングランド、もしくはできるだけ遠方へ直行するという手筈になっていた。
火事だ、火事だ! 町中に叫喚が乱れ飛んだ。火は宮殿の主(あるじ)の勅許を知ってか思う存分猛威をふるい、轟音をともなって燃え広がった。その火の海をアウリステラ掠奪の首尾やいかにとポリカルポ王が顔面を覆って忍び行き、魔女セノティアもアントニオ誘拐の成否のほどを知りたくて走った。だが王の、もしやが的中していた。目前の事実がそれを語っていた。ひとりのこらず船で逃げたあとであったのだ。やつらはあの船で逃げていく、あれを撃て! かけつけた王の命令で港の砲台と艦船がすべて一斉に火を吹き、町はあらたな轟音にふるえた。住民は何者が攻めて来たとも、どんな異変が起きたのかも知らないまま、戦々恐々となって右往左往するばかりであった。
恋するシンフォロサ姫にも事態は明るくなかった。しかし、そのように事態に暗かったことがまだしも救いであったのであろう。
恐怖が絡んでもつれがちの足ではあったが、それでもそれを頼りに王宮の塔屋のひとつへかけ登った。宮殿を嘗めつくそうとする火の手もそこまでは届かないだろうと思ったのだ。ところが、妹ポリカルパもそこに避難していた。そしてペリアンドロたちの逃走の模様を、見ていたように姉に伝えたのである。シンフォロサはそれを聞いて悲しみのあまり気を失った。話さなければよかった、と妹は悔やんだ。
やがて日が昇った。前夜の大混乱の原因をつきとめようとして待ちかまえていた者たちには明るい朝であったが、ポリカルポ王の胸に光は射さず、一寸先も見えない悲憤の闇である。セノティアは地団駄ふんで口惜しがり、役立たずな妖術をののしり、伝授した師匠を呪った。
シンフォロサ姫は依然として気を失っていたが、かたわらで妹が姉の不運に同情の涙を絞って名を呼び、叩いたり、ゆすぶったりして介抱することも怠らなかった。やがて気をとりもどした姉は沖に目をやった。そこには自分の魂の一半、いやその大部分をもぎりとった船が、矢のように沖へ飛び去っていく。いまや彼女はあたかもかの裏切られた女王ディドとなり、逃げるアイネイス(1)にむかって怨みを投げ、天に吐息、地に涙、宙に声を放って次のように言葉をつらねた。
「いとしいひと。憎いあなた。波路はるばるおいでくださったのは、わたしを泣かせるためだったのね。嘘でもよかったのよ、甘い言葉でだましてほしかった。そのほうが、どんなに幸せだったかしれないわ。お願い、帆を巻いて。少しでも長くあなたの船を見ていたいの。お願い、帆をおろして。あなたが乗ったお船だと思うだけで慰められるの。これほど頼んでも行ってしまうのね。これほどすがっても帰ってこないのね。これほど愛しているのに、応えてくれないのね。わたしは王の娘ではあるけれど、あなたの奴隷で満足なのよ。あなたのめがねに叶うほど美しくはないかもしれないけれど、足りないところはあなたを愛する想いの丈で補ってみせるわ。この火が国中を焼き尽してもかまわないわ、あなたが帰ってきてくれるなら歓迎の花火になるもの。でもあなたはやっぱりわたしを棄てて逃げて行ってしまうのね。お金はいくらでもあげるのに。火の手の回らないところに隠してあるのよ。神様があなただけのために守ってくださるわ」
そしてそこで妹に向かって言った。
「ねえ、少し帆が縮んだと思わない? 船脚が落ちたでしょう、まあうれしい、引き返す気になったのよ、わたしの気持が通じて小判鮫みたいに船をとめたんだわ、きっとそうよ」
「おねえさま」妹がこたえた。「しっかりしてちょうだい。おねえさまは思いつめているからそう見えるんだわ、気のせいよ。おねえさまの気持になどおかまいなしに、どんどん遠くなっていくわ。おねえさまのはげしい吐息に吹き飛ばされて行くみたい」
ここへふいに国王、つまり姉妹の父親が来た。娘同様、奪われた魂の一半ならぬ彼の場合は全てをこの高い塔から見るためであった。しかしそれはすでに水平線に沈んでいた。
さて宮殿の火つけ役が、一変、火消し役に回ることになったわけであるが、やがて住民は、大混乱の原因が国王ポリカルポの邪恋とそれを操る魔女セノティアの陰謀悪知恵であったことを知るに至り、その日のうちに王を国外追放、魔女を帆柱で絞り首に処した。
しかし、王女姉妹シンフォロサとポリカルパは国民の崇敬を集めていたので、ふたりに対してはそれを十分に考慮したはからいがなされた。だが、それもシンフォロサ姫にとって心底喜べる幸せからは遠かった。ペリアンドロが彼女の幸福の鍵を持ち去ったのだ。
逃走中の船では、全員が無事に脱出できたことを繰り返し神に感謝していた。そしてポリカルポ王の謀略をあらためてくわしく知るに至ったが、彼らとしては、事の是非はともあれ恋ゆえの沙汰であってみれば、必ずしも許せないことではないという感想であった。より大きなあやまちであっても、恋がひきおこしたものなら許しもしよう。恋情のとりことなった心に冷静な判断は望めないし、こんな場合は理性さえつまずくものだ。
風はあったが雲はなく、海路の面はやさしかった。船上の想いは一路イングランドへ向かっていた。その後の行先は着いてから考えよう。そう決めると思案の雲も晴れ、心は軽く、行手を阻むものの影など夢にも見えなかった。
それから三日間波は穏やかで、続く三日は風脚がいくぶん速まったが、その次の日には暮色の海原がすさみはじめ、やがてしだいに大時化の模様が濃くなった。海の天気は変りやすく、それに似てわれわれの人生も無常だ。恒常を保証するものは何もない。
しかし、さいわいその心配だけはほどなく晴れた。運よく近くに島が見えたからである。水夫たちはそれが《庵島》だと知って喜びをかくせなかった。そこには入江が二つあり、どちらにも二十隻あまりの船舶が碇泊できるはずなのだ。それはあたかも防波堤で囲んだ港のようであって、そこに入ればどんな風も恐くない。
また島には二つの庵があるという。一方の庵主はレナートと名乗る高位のフランス騎士、他方もやはりフランスの、エウセビアという貴婦人であった。そしてふたりの身の上というのが、耳を疑うほど数奇なのである。
時化になるならそれを避けるためになるし、そのふたりの身の上話もぜひ聞きたい。というわけで船は舳をただちに島へ向け、舵をあやまたず、首尾よく一方の入江に達して錨を下ろした。それから、島にはそのふたりのほかに住む人はないと聞いていたので、王子はマウリシオとラディスラオ、それにルティリオ、ペリアンドロらにもはかって、ボートを下ろすように命じた。その晩は、波という浮沈たえまない枕ではなく、落ち着いた陸地で過すことにしたのだ。それは、アウリステラやトランシラの疲れをいやすためでもあった。しかしアントニオの考えとしては、自分と息子、それにラディスラオとルティリオも船に残ったほうがよさそうであった。水夫たちとはまだつきあいが浅かったので、海のものとも山のものともつかず信用しきっていなかったからである。
実際にはアントニオ父子だけが水夫とともに留守をひきうけた。海の男にとっては瀝青の染む船板こそ大地だ。陸の人間が庭の花々、薔薇や葉鶏頭の薫りをたのしむように、船乗りという人種は脂(あぶら)や瀝青(ピツチ)の香りを腹一杯かいで満足とするのである。
上陸した者たちは岩陰で風を避けた。いそいで枝を大量に刈り集めて焚き、明りを配ると同時に暖をとった。野宿の不便にはだれもが慣れていたので、この夜もとくにつらいとは思わなかった。トランシラの頼みでペリアンドロが再び身の上話の口を開いたことも、緊張をほぐすのに役立った。彼は一応は遠慮したが、王子をはじめ、ラディスラオやマウリシオからもぜひと言う声がかかり、さらにはアウリステラにもせがまれたし、またそもそもこういう時と場にふさわしい内容でもあったので、それではと言って話をひきうけ、次のように語った。
第十八章
「鏡の海の平穏で嵐の体験を回想し、平時に戦乱の恐怖を振り返り、健やかな現在にかつての病を語る。これは人間のこのうえない喜びのひとつとさえいえるでしょうが、これがもしほんとうなら、こうして人心地ついたところで、辛かった日々のあれこれをお聞かせできるのもうれしいことといわねばなりません。もちろん、まだ難儀と縁が切れたわけではありませんが、これまでがひどい難儀の連続で散々でしたから、いわばいまは一休みというところです。わたしが思うのに、人間の運命というものはひとたび波にのると、幸運は幸運をよんで果てしがないほど続くし、また不運は不運でやはり同じように続くと言えるでしょう。
それはとにかく、わたしの難儀もどうやら逆運の峠を越しました。これからは楽な下りです。最悪の難儀は死ぬことですが、悲惨のどん底で死をまぬがれれば、そのあとかならず運命は変ります。不運が重なるのではなく、不運から幸運へ、幸運からさらにそれ以上の幸運へと、尻上がりによくなるものです。いまわたしの幸不幸の鍵をにぎる原因ともいうべき妹は、このように無事です。この幸せは、望みうる最高の幸せに至る足場かと思います。ではこうして落ち着いたところで、話を続けさせていただきましょう。
さて、あっけなく敵船を乗っ取ったわれわれは、すでにお話ししたように、妹と漁師の花嫁ふたり、それにクロエリアの四人がこのアルナルド殿下に買い取られたことを知ったわけです。
やがてわれわれは、この氷づけの船のすみずみにまで部下を入れて、食糧をさがしてまわりました。ところがそうしているときに氷上を見ると、いつのまにか、われわれの知らないうちに陸地とおぼしき方角から、四千をこえる武装兵の軍団が船に向かってひしひしと押し寄せてきているではありませんか。これには、海よりも、わたしたちの背筋が凍りました。あわてて武器をかまえたものの、それは防戦のためというより、本能的に男らしいところを見せたに過ぎません。
さらに驚いたことに、兵士はことごとく一本足で跳び歩いています。右足で氷を蹴り、その足を左の踵に乗せ、その恰好でかなりの距離を滑走するのです。この要領で蹴りを繰り返してさらに進むわけです。やがて軍団はこうして散開、船を遠巻きに包囲しました。そしてひとりが、のちに総大将だとわかりましたが、友好を象徴する白旗をかかげて、声の届くところまで接近し、ポーランド語ではっきりと言いました。
『われわれはこの海域を領有するビトゥアニア国王クラティロ陛下の軍隊である。国王は軍隊に命じて常時この海域を巡回させ、氷づけになった船舶を救出している。船が救出不可能なら乗組員と積み荷だけでも助ける。代償は積み荷だ。諸君がこの処置に応じるなら武器をすてて出てくればよい。命は助ける、身柄も自由だ、捕虜にはしない。よく考えて返事をすることだ。不服ならば、いつでも攻撃するがいい。わが常勝軍団の力を披露する』
わたしは意外にあっさりと包囲の意図が分って、ほっと一息つき、仲間と相談したいから時間をくれ、とこたえました。そして漁師たちの意見を求めたわけですが、そのときみんなのあいだで、死は最悪のぎりぎりの場合だ、死ぬほどの難儀はない、だから恥をさらさずにすむかぎり生き抜こう、そのためには出来るだけのことをやってみるべきだ、という総意がまとまりました。ここで籠城して死を待つのは愚かだ。戦っても勝ち目はない。それなら取引きに応じたほうがましだ。けっして不名誉ではない。ひとまず降服しよう。いまは不運をしのんで時をかせごうというわけです。
これに近い結論を総大将に告げたところ、相手はすぐには攻撃態勢を解かず、武器をかまえたまま、どかどかと船に乗りこんできました。そしてたちまちのうちに船内の物品をことごとく没収し、大砲から船具にいたるまで棒きれひとつ残さず一切合財氷原に降ろし、用意の牛皮を広げてそれにくるみました。こうしていちおう荷造りを確かめてから綱で曳いて運ぶのですが、それが実にうまいもので、荷くずれがまったくありません。われわれが乗り捨ててきた船も同様に裸にし、われわれの身柄は別の獣皮に乗せて、陽気なかけ声とともに曳き、二十マイルばかりのところにあるという陸地へと向かいました。幾千の軍勢が海上を足を濡らさず滑走して、それが奇跡でもなんでもないのですから、見ものというしかありません。こうしてその夜海岸にたどりつき、その場で朝を待ちました。一夜明けると、あたりは人の山です。凍結した氷づけの獲物を見ようと群がったのです。
中に、美しい馬にまたがり、皇室の紋章からすぐにそれとうなずけるクラティロ王の姿があり、くつわを並べてひとりの美女が見えます。黒い薄衣ですっぽりと身をおおってはいますが、それをすかして白銀の甲冑が浮かび、その艶やかさといい、王の凜々しさといい、息を忘れるほどの光景です。ところがわたしはその女性を見て、おや、と気づきました。その美女はほかでもない、数日前部下が自由を保証して丁重に見送った、あの麗しのスルピシアだったのです。
王がわれわれ降服者の検分のために近寄ると、総大将がわたしの腕をとって一歩進み出て、
『畏き陛下に申しあげます。ごらんください、人間の姿をしたものでこれほどのものを、かつて人の目が見たことがあるでしょうか。この若者ひとりでも獲物は最高です』と言いました。すると、
『夢かしら、まさか』という声とともにスルピシアが馬を飛びおり、『それともわたし、目がどうかなったのかしら、でもわたしを助けてくれたペリアンドロだわ、そうでしょう』
と言うが早いか同時に、抱きついてきました。王は姪の親愛な歓迎ぶりを不思議そうに見ていましたが、それにつられるように馬を降り、彼女にならって、双手でわたしを迎えてくれました。
このさきどうなることかと気が気でなかった部下の漁師たちも、ふたりの大歓迎を見て息をとりもどしました。うれしくて目の前に光が射し思いがけない天恵に声をあげて感謝せずにはいられませんでした。単なる恩恵ではなく、神様ならではの特別のご慈悲だと思えたのです。
スルピシアは叔父王に、
『このおかたは人間としての最高の礼儀をわきまえ、最大の寛容を知る人です。わたしは身をもってそれに触れることができましたが、叔父様もご自身の眼識でとくとお確めあそばせ、この凜々しさをご覧じろ』
と言いました。これは謝辞のつもりなんでしょう、あるいはまだ狐につままれたようなところもありましたが、『夫が殺されたあとわたしを見逃してくれたのはほかでもないがこのおかたです。わたしの差し出した宝石の値打をご存知だったにもかかわらずお受けとりにならなかったのも、そればかりか、さしあげたものをいったんお受けとりになってからそれをよりいっそう素晴らしいものにしてお返しくださったのもこのおかたよ、できればあれを何倍にもして返してくださるおつもりだったに違いないわ。この青年が事情を察して部下のみなさんを説得し、十二人をわたしにつけてくださったおかげでこうしてわたしは無事叔父様にお目にかかることができたんですのよ』
と言って、お世辞というか誇張というか、とにかく誉めちぎりました。わたしは耳まで赤くなったのを憶えています。自分のことだと思うと気恥しくて身の置き場もなく、どうにか王の足元にひざまずき、手に接吻を求めましたが、それも先を越され、王の差し伸べた手でわたしは抱き起されてしまいました。
この間に、スルピシアを送り届けた十二人が群衆をかきわけて仲間に合流し、抱き合い、肩を叩きあって再会を喜びました。そしてたがいに声をはずませて、あれからの喜び悲しみを語りあいました。新来の仲間は氷海の体験を誇張もたっぷり入れて話し、先着の連中は手にした財産のことを得意げに説明していました。
『これはスルピシア様からいただいたものだ、よく見ろ、金の鎖だ』とひとりが言えば、
『わしはこの宝石をいただいた、その鎖の二本分の値打はある』と負けず、
『これを見てくれ、金貨だ、こんなにあるぞ』と誇れば、
これに対抗して別の仲間が、
『おまえたちがもらったものを全部合せても、この指環にはかなうまい、ダイヤモンドだ』
といった調子です。このとき人だかりの中でひときわ大きい物音をたてるものがあって漁師たちのざわめきもかすんでしまいました。巨大な荒馬のいななきです。それをいかにも屈強のふたりの馬丁がくつわをとって鎮めようとするのですが、手に負えそうにありません。見れば黒地に白雪の降りた斑、稀代の名馬です。まだ鞍を置かない裸馬で、話によると王の乗り馬になる光栄を拒み通しているとか。何度も鞍をつけようとしたらしいのですがそのたびに大暴れにあばれて、手のつけようがなく、これには王も頭をいためているとか。だからこれをよく乗りこなす者があれば一領を取らせるとさえ約束しているそうです。
王の口からこれを手短に聞かされて、すぐにわたしはあることを思いつきました。それはこうです」
とペリアンドロの話がここまで来たとき、王子は人の足音らしいものを感じた。それは一行が身を寄せる岩の一方から近寄ってくる。
王子は立ちあがり、剣に手をかけ、耳をすまして身構えた。ペリアンドロも唇をむすんでそれに倣(なら)い、女たちは不安げに身を寄せあった。男たちは音のする方をキッとにらんだ。とりわけペリアンドロの眼がするどかった。
と雲居にかすんだおぼろ月の薄明の中を、一行に向かって正体不明の二つの影が近づいた。そして、そのひとつが、はっきりと口をきいたのである。
「どこのどなたか存じませんが、突然のことゆえ、きっとご不審にお思いでしょうが、けっして怪しい者ではございません、お役に立てばと思ってまいりました。このような吹きさらしでは、さぞお困りでございましょう。どうぞわたくしどもの家へお越しください、あの山のいただきにございます。何もございませんが、火も入っておりますし明りもあります。お食事も、気の利いたものはございませんが、お口に合いそうなものを見繕ってお腹のたしにしていただきます」
そこで、わたしは言いました(1)。
「あなたがたは、もしやレナート殿とエウセビア殿ではありませんか。清らかな真実の愛を貫いてこの地で幸せにお暮しだということは、かねがね噂に聞いておりました」
「不幸せと言ってくださるほうが当っております」人影がこたえた。「それはともかく、わたしたちは確かにご指摘のふたりです。さあさあ、あばら屋ですがぜひお越しください、いまのわたしたちはせいいっぱい心をこめてみなさんをおもてなしいたしたいと思っている者です」
王子はこのわざわざの好意をすなおに受けることにした。それと言うのも、夜気が身を切るほど冷たかったからだ。
一行は立ち上がってふたりの案内に従い、やがて小高い丘を登った。そこには、二つの庵があった。そのなかには目をたのしませるためのぜいたくな飾り付けなどはなかったが、質素につつましく暮すには快適な住いに思われた。庵は一方が多少大きめで、一行はまずそこへ案内された。庵内には二丁のランプがあり、それが三種の御神体を奉納した祭壇を照らし出している。つまり十字架の創造主、万人の上を憂う天の元后の栄像、そして、天の星の瞳より多くのものを眠りの中で見たというあの愛弟子の像である。
一行はひざまずいて作法どおり祈りをささげた。それから祭壇脇の一室へ通され、粗末ながら心づくしの夕餉を囲んで堂守の善意に舌鼓をうったのであるが、その詳細はくどくど語るにはおよぶまい。ただ一行はこのときはじめて、粗末な僧衣の二人がすでに老境にさしかかっていることに気づいたとだけ言っておこう。それにしても、かつてエウセビアには稀代な美貌がそなわっていたにちがいない、その残照さえまばゆいのだ。
アウリステラと、トランシラと、コンスタンサの三人はその部屋でやすむことになった。よく乾いた蒲(がま)の穂綿を寝台がわりに敷きつめた。ほかにも数種の草をまぜたが、それは寝心地をよくするというより香りを添えるためであった。男たちは、庵内の思い思いの場所で横になった。その寝床の固さもさることながら、底冷えも劣らずきびしい。
かくして例のごとく時間は駈け足で過ぎ、夜は飛び去り、明るく静かな朝が訪れた。そして海はいかにも慇懃にまた愛想よく一行に手招きなどして、あたかも船出をさそうかのようである。海の天気は当てにならない、ともしもこのとき上陸してきた航海長が言っていましめなかったとしたら、一行はおそらくその誘いに乗せられていたことであろう。海はおおらかに微笑みかけるが、やることは逆でやがて噛みつく。
なるほど、とうなずいて一行は航海長の注意に従った。世界に並びない博学といえど、船をあやつることにかけては一介の水夫にもおよばないのだ。
女たちは草の寝床を、男は固い敷石をはなれて戸外に出、丘に立って四方の景観を望んだ。島の周囲はせいぜい十二マイルほどだが、木々はたわわに実をつけ、さわやかな水が豊かに流れ、緑は萌え、花々はかぐわしく咲き競って人々の五感のすべてを同時に等しく酔わせた。
日の出後まもなく尊ぶべき庵主は客たちを呼び入れ、露をぬぐった緑の蒲(がま)を床一面に敷きつめた。はたしてそれは王宮の敷物もかくは、と思われるほど快適な絨毯(じゆうたん)となった。この上に種々の果物を生乾とりまぜてひろげ、パンも出たが、それは世辞にも焼きたてとはいえず、すでに乾パンの仲間である。巧みに細工されたコルクの器もこの席の賑わいで、澄みきった冷たい液体をたたえていた。心地よい敷物、うまそうな果物、コルクの褐色を浮かべながらどこまでも澄みきった清水、それに空腹が手伝って一同を席に向かわせた、というより否も応もなく席につかせた。こうしていかにも簡単ではあったが、さりながら美味な朝餉となった。
食後、王子がレナートに身の上話を希望した。どのようないきさつがあってこの辺境の小島に、かかる侘の庵を結ぶようになったのか。
レナートは騎士としての礼儀を忘れてはいなかった。ぜひと言う相手に二度手間をとらせず、快く承知して、身の上の真相を次のように語り始めた。
第十九章――レナートが庵島へ来たいきさつを語る
「過ぎた日の逆境というのは、いまが順境であればお話しするにしてもその楽しさが倍加するものですが、いまのわたしにはかなわないことです。わたしは時化を避けるどころか嵐のまっただなかにおります。わたしはフランスの富裕で篤実な貴族の家に生れました。成人して騎士道修業にはいり、身分相応の望みもいだくようになりましたが、そんなあるとき、おそれおおくも王妃に仕える上臈エウセビア殿に想いを寄せるようになりました。とは申しましてもその気持をまなざしにこめて告げていたのにすぎませんが、彼女のほうもそれには取りあわなかったか気がつかなかったか、目にも口にも素振りを見せませんでした。しかるに恋というものは、はなから相手にされなかったり、つれなくされて全く脈がないとわかったときには急速にさめてしまうことが多いものですが、わたしの場合は反応のないことでかえって希望が高くはばたき、彼女にふさわしい相手になろうとしていっそうつくすようになりました。ところがここへ、やはりフランスの地位も財産もある騎士で、リブソミロという人物が絡んできます。他人のことを根掘り葉掘り嗅ぎまわる癖のある、ひどく妬みっぽい男で、この騎士がわたしの恋心を嗅ぎつけるや、とんでもない思い違いをして嫉妬に狂ったのです。本来なら同情してくれてもよさそうなことなのに……恋の苦悩の極めて辛いものに二種あります。愛しても愛されないのがそのひとつ。あとひとつは愛して疎まれる場合でしょう。別れも嫉妬の苦しみもこれほどつらくはありません。
結局この男が、わたしのほうから名誉を傷つけるようなことは何もしていないのに、ある日のこと、恐れながらと陛下に訴え出て、わたしがエウセビア殿と不義をはたらいているとか、それはご威光をあなどり騎士道にそむく不埒なふるまいであるとか讒言するにおよびました。そしてこの証しは剣で立てると言い、ペンや証人はエウセビア殿の品格を穢しかねないから無用だと主張するに及んだのです、それまでといえばさんざんに淫婦だの破廉恥だのと彼女のことをののしっておきながら。
王はこの訴えを真にうけて直ちにわたしをお呼びになり、こういう次第であるがまことかと問いただされました。もちろんわたしは事実無根をとなえ、エウセビア殿の名誉にかかわることなのでできるだけ穏やかにと考慮しながら、結局リブソミロに対してそれは嘘だと言うに至り、その結果剣で黒白を決することになりました(1)。しかしキリスト教がそれを禁じているのでその掟に背いてはならないという理由から、王は領内での決闘をお許しにならず、ドイツ自由都市のひとつを代替地としてお示しになりました。その日、指定の武器は剣と円盾でしたからリブソミロはそれだけを持って決闘場にあらわれました。立会人と介添人が型どおりの手続きをすませてから、わたしたちは太陽をまんなかにして相対しました。
わたしには一点のやましさもありません。真実と道理を味方にして、心置きなく堂々と立ち合いました。相手はというと、良心の呵責に逆らって、ふてぶてしく虚勢をはっている様子がありありと見えます。それにしても、おお大いなる天よ、酷うございます、お裁きはあまりにも不可解です。わたしは全力を尽したのです、勝敗を御意にゆだねました。清廉潔白うしろ暗いところは微塵もなかったのです。何を恐れましょう。剣術の腕前や身の軽さで劣るからといって、いささかも臆するものではありませんでした。ところがどういうわけか、気がついたときわたしは地面に倒れており、目の前に剣を突きつけられて絶体絶命の状態でした。
『早くやれ』わたしは言いました。『しかし腕で勝ったとは思うな、運のいいやつめ。さあ、さっさとやれ、この魂をえぐり出せ。肉体を守れないような腰抜けの魂などは、きさまにくれてやる。悪うございました、参りましたと言わせたかろうが、身に憶えのないことがなぜ言えよう。もとより罪深い身であってみれば、さらに酷い罰にも甘んじようが、自分をあざむく偽証の罪まで重ねたくはない。そんな恥をさらして生き長らえるより、名誉の死をとる』
すると相手は、
『そうまで言うなら、こいつを脳みそにぶちこんでやる。吹き出す血が、おれの正しさとおまえの罪の動かぬ証拠だ。いやでも白状させてやる』
と剣をふりかぶったのですが、ここへ立会人が割ってはいってふたりを分け、わたしを死んだものとみなして相手の勝利を認めました。彼は仲間に胴上げされてひきあげ、わたしひとりが地にまみれ砂をかんでその場に残されました。やつの剣でとどめをさされるのだけは免れ、傷は思ったより浅く命に別状はなかったものの、心の痛手は涙血を吐いていました。やがてわたしは下男たちにひきとられて国元へ帰りましたが、道中でも、国にもどってからも、とても天を正視できませんでした。恥と不名誉がどっしりと重く瞼にのしかかっていたのです。友人の励ましも嘲笑に聞え、明るい空も暗雲に閉ざされていました。町中が自分の不名誉を噂しているようで、人だかりを見ると背中に白い眼を感じないときはありませんでした。そして鬱々と沈みっぱなしで悩み暮す日が続いてとうとう耐えきれなくなり、結局、こんな暮しはもういやだ、早く抜け出したい、このつらさを少しでも忘れたい、それがかなわぬならこの世ともおさらばだという覚悟で国を出ることにしたのです。家督は弟にゆずりました。そしてある日、数人の下男を連れて船に乗り、極北のこのあたりに向かって生れ故郷を発ちました。だれからもうしろ指をさされないところへ来たかったのです。わたしの名を沈黙の中に葬りたかったのです。
そして着いたのがたまたまこの島であったわけで、ここならと気に入ったので下男の手を借りてこの庵を建てました。つまりここに籠ることにしたのです。下男は国へ帰しましたが、年に一度はわたしの骨を拾うつもりでたずねてくるように頼みました。
忠義なものたちでしたし、こちらからもそれに報いるだけのことはしてやりそれ以上のものも約束しましたから、わたしのこの言いつけというより頼みごとと言うのでしょうが、これは素直にきいてくれました。
下男は去り、無人の島にわたしひとりが残りました。以来森を友とし、草と語らい、花と遊び、清泉に憩い、清流に慰められる日々となりました。こんなに素晴らしい仲間を得られるということが前から分っていたのなら、もっと早い機会に決闘して負けておけばよかった、そうすればもっと早くこのやすらぎを知ったのにと、はじめてそんな心境になり悔やまれるほどでした。こころたのしい絶境こそなんといっても淋しいときの友、静寂は媚びへつらうことなく耳を喜ばせてくれる声です。この聖なる絶境、この快い沈黙を称えるためにはどのように言葉を尽せばいいのでしょう。
しかしそれはこれくらいにして、話を戻しましょう。なにをさておきこれをお話ししなければ、はたして一年後、下男が戻ってきたということを。そのとき憧れのエウセビア殿をおつれしてくれたのです。さよう、このかたです。下男が一切を知らせたところ、わたしに済まないことをした、恥をかかせて申しわけない、これからは罪をではなく苦しみを分ちあいたいとおっしゃって、国も両親も財産も華やかな宮廷生活もお捨てになったばかりか、名誉をさえ世間という軽口雀の噂の種にくれてやって下男の船に同乗を求められたのです。言うまでもなくこれによって、なんでも軽々しく信じてしまう世間ですからだれもがわたしたちのことを、やっぱりそうだったのかといやがうえにも確認したことになります。
わたしはエウセビア殿のお気持を喜んでお受けし、ここにお迎えしました。美しい女性と思いがけずふたりきりになれたわけですから、くすぶりかけていた欲情が一気に燃え上がりそうなものですが、天の御心とこのかたの慎みのおかげでそれは避けることができました。わたしたちは正式に結婚したのです。以来情炎を冷雪に埋め、動く彫像となって愛と平穏の暮しにはいりもう十年になります。下男は毎年欠かさず訪れ、そのつどここではどうしても手に入らない品物を持ってきてくれます。聴聞僧が一緒だったこともあります。この庵にはお祈りに必要な道具はみなそろっています。休むときは別々ですが食事は一緒にとり、天国のことを語り合いながらともに地上への未練を断ち、神の慈愛を信じて永遠の命を授かるときを待っています」
レナートの身の上話はここで終った。その運命の数奇さに一同はしばらく声もなかった。神には人間の切なる願いを退けて罰を下されることもあるのかとことさらに思ったからではない。人間の目にはあまりにもむごいと思われるような懲らしめでも、神がそういう懲罰を下されるのにはつぎの二とおりのわけのどちらかがかならず当てはまる。一同はそれを知っていたのだ。つまり悪人に対しては確かに懲罰を下されるのであるが、善人に下されるのは向上を促す鞭撻である。一同はレナートを善人とみなして励ましの言葉を惜しまず、エウセビアにも同様の態度を示した。彼女がそれをこの上ない慰めとして聞き、丁重に感謝したことは言うまでもない。
「隠遁暮しも悪くないなあ」レナートの話に聞き入っていたルティリオが、沈黙を破った。「自由で安楽な、聖なる絶境、すばらしいではありませんか、孤独な暮しも。夢に見たことはあるが、ぜひ一度味わってみたいものです。この手に抱きしめて、こころゆくまで楽しみたい……わたしの憧れですよ」
「気持はわかるが」マウリシオが言った。「それはそれ相当の地位も身分もある人の考えることだろう。田舎の羊飼いが人里離れたところに籠ったり、餓死寸前の貧乏人が飢えの心配のない隠遁生活を選んだからといって、誰がおどろくかね。ものぐさをむさぼって生きていけるんだから、暮しはむしろ前より楽になる。また、かりにわたしのような者が他人に苦しみを肩がわりさせるようなことがあれば、たとえ相手が慈悲深いおかたであっても、それは見過せない怠惰なのだ。カルタゴのハンニバルのような人物が庵に籠るとか、カルロス五世陛下が修道院におはいりになったとでもいうならなるほど驚きもしようが、一介の食うや食わずの平民がどこへひき籠ろうと、誰の関心もひきはしない。しかしレナート殿の場合はちがう。このおかたは貧乏暮しを逃れていらしたわけではない。考えに考えた末この暮しをおとりになったのだ。ここでは無の中に無数の有があり、孤独の中に友が住む。これ以上失うものもない。だからいっそう安心してお暮しになれるのだ」
ここへペリアンドロが口をはさんだ。
「若輩のわたしですが、かりにこれまでの波乱の運命に揉まれているうちにもっと齢(よわい)を重ねてきたとするなら、名を沈黙の墓場に葬り、孤独を友として至福を感じることもあるでしょう。しかしまだまだ欲が絶ち切れず、とても隠れ住む決心はつきません。さしあたっては、ゆうべのクラティロ王の荒馬に話の続きをせかされて、ひっこみのつかない状態です」
ペリアンドロは身の上話を再開するつもりなのだ。一同はこれを大歓迎し、なんどもなんども始まってはまた中断を繰り返し、いつ果てるともしれず続いてきた話が、ここでまたもや次のごとく流れはじめた。
第二十章――ペリアンドロとクラティロ王愛用の名馬のこと
「さて、クラティロ王は、すでにお話ししたように、あの美しく大いなる駻馬に惚れこんでいました。だからぜひ手なずけたいというわけですが、これはわたしにとっては今後とも世話になる王に恭順の意を表すとともに、自分の印象をよくしておく絶好の機会ですから、わたしにやらせてもらいましょうと買って出ました。わたしのことはすでにうるわしのスルピシアが誉めちぎって紹介していましたから、彼女の言葉の証しをたてるための好機でもあったのです。
しかしじっくり作戦を練るいとまはありません。わたしは猛然と馬にかけより、あぶみを使わず、といってももともと付いていなかったのですが、がむしゃらに飛び乗りました。ところがそいつを止めようにも手綱ではちょっと役に立たず、そのまま崖っ淵まで暴走してしまいました。下は海です。いけない、と思ってあらためて腹を思いきりに締めつけたわけですが、さすがの荒馬もこたえたとみえて宙を蹴って舞いあがりました。そして人馬もろとも底知れぬ海へざんぶり、といくまえに空中でわたしは思い出しました。海は凍っている、このまま落ちるとおれのからだはこなごなだ、荒海と心中か。ところが、そうはならなかったのです。この者には成すべきことがあると神が思し召されたのでしょうか、馬は四肢を踏んばってよく落下の衝撃に耐え、わたしもはるかかなたへ投げ飛ばされはしましたがかすり傷ひとつ負わずにすみました。
崖の上からこれを見ていた人々は、てっきり死んだと思って疑わなかったそうです。だからわたしが起き上がるのを見て、奇跡だと思ったとか。しかし、この無鉄砲は気違い沙汰だといわれました」
墜落した馬が無傷だったと聞かされて、マウリシオはまさか、信じられないという顔をした。彼としては、足の三本や四本は折ったと言ってもらいたかった。そうすれば単に語り手への礼儀としてではなく、心底からいま聞いた豪胆な飛行を信じられるのに……だが一同がペリアンドロに寄せる信頼は厚く、疑心がこれ以上つのることはなかった。嘘つきのつらいところはたまにほんとうを言ってもそれを信じてもらえないことであるが、いっぽう信用の厚い者には嘘をも信じてもらえるというありがたい特典がある。
したがってマウリシオの疑いも、ペリアンドロの身の上話を中断するには至らなかった。
「さてわたしは馬をひいて岸へもどり、再びまたがって、同じ道を走らせました。もう一度飛び降りるつもりでした。しかしそれは無理でした。馬は崖っ淵の盛りあがった岩に前足をつっぱり、手綱を振り切って尻をついたように坐りこんだのです。そして、たらりたらりと恐怖のあぶら汗を流し、獅子が子羊になったかのように、手に負えない猛獣が子供でも寄りつけるほどおとなしくなったのです。そこで王の馬取りが鞍を置き、楽々と試し駆けをしました。すばらしい駿足で、しかもいまやおどろくほど従順な馬です。王のご満悦は言うまでもなく、スルピシアもわたしのことを誉めちぎった直後のことだけに鼻高々の喜びようでした。氷は三カ月間張りつめていました。この間に、王が建造中の船が完成しました。それはそのあたりの海が航行可能になりしだい海賊掃蕩に向かう船です。こうしてまきあげ没収する品で国庫は大いに潤っているわけです。
完成までの間、わたしは狩の供をつとめるなどして王に親しく仕えました。わたしにとってその狩は機敏な判断とか練達の技、不屈の闘志といったものの見せ場でした。それというのは、からだを動かす訓練の中でなにからなにまで狩ほど戦(いくさ)に似たものはないからで、戦につきものの飢え、渇き、疲労、死の危険といったものが狩猟にもついてまわります。スルピシアはわたしにたいしても部下にたいしてもよく世話を焼き、王もそれに劣らず丁重にもてなしてくれました。スルピシアと同行した十二人の漁師は、すでにいっぱしの財産家になっていたし、わたしと苦労をともにした者たちも豊かな暮しができるようになっていました。船が完成すると、王は大規模な艤装をほどこし、万全の準備を整えて、わたしを船長に任命しました。わたしの希望をいれてくれたのです。王は何事に関しても一切無理強いしない人で、このときもこちらの希望を十分に汲んでくれたといえます。わたしは王の手に口づけして謝辞を述べるとともに、デンマーク王のもとにいると聞かされていた妹アウリステラの捜索許可を願い出ました。
王は、十分なことをしてやれなくて残念だがと前置きし、思い通りにやりなさいと一切を任せてくれました。一国の首長たるにふさわしい、人徳と度量がにじみ出た、血筋をいつわらぬはからいです。スルピシアにもそれが言え、どこまでも寛大な女性でした。わたしたちは彼女からもらった金銀財宝を満載して、そろって壮途につきました。
第一の目的地はデンマークです。わたしたちはそこへ行けば妹が見つかるという期待をふくらませていました。ところが航海中に入手した情報によると、デンマークの海岸で娘が数名海賊にさらわれ、その中に妹もいたというのです。わたしたちは再び涙を片手に、海賊退治の毎日を送ることになりました。花嫁たちも妹と同じ目に遇ったにちがいない。そう思って、カリノもソレルシオも食事が喉を通らなくなりました」
「そのとおり。ふたりも一緒だった」王子が口をはさんだ。
ペリアンドロは語り続けた。
「わたしたちはこのあたりの海を隈なく掃蕩し、島から島をかけめぐって妹の消息をたずね歩きました。それにしてもそのあいだじゅう、わたしにはひとつの確信のようなものがありました。世界中の美しい女性のお気にさわることを言うつもりはありませんが、妹の場合はどんな暗闇にいても明眸皓歯の輝きで居場所がわかり、どんな迷路からも聡明の糸を伝って脱出できると思ったのです。海賊を懲らしめ、囚われの人々を解放する航海が続きました。財物はもとの持ち主に返してやりましたが、その持ち主の入手経路の怪しいものはとりあげました。こうしてさまざまの財物を満載して波間に暮したわけですが、そのうち部下の間に、漁の暮しに戻りたい、妻子の待つ島へ帰りたいという希望が高まりました。カリノとソレルシオも、これほどさがしても花嫁が見つからないのはすでに島へ帰っているからではないか、と思うようになりました。
それ以前のことです、たしかスキンタ島といったと思いますが、その島に立ち寄ったときポリカルポ王の記念祭のことを知り、そろって参加しようじゃないかということになりました。ところがあいにくの逆風で船を近づけることができません。そこで櫂をとって水夫姿のまま、すでにご存知のように会場まであの細長いボートを漕いで行ったのです。そして全種目に優勝したわけですが、これがきっかけになってシンフォロサ姫がわたしの素姓をしつこくたずねるようになりました。そのためあのようにさまざまな手を使ってきたのです。本船へ戻ってからいよいよ漁師たちと別れることになり、わたしは辛苦をともにしてきたしるしにボートを分けてほしいと頼みました。彼らはそれを快く聞き入れてくれました。望めば本船でもくれたでしょう、ひとりで行かせたくない、一緒に島へ来てほしい、だが志のある身とあればやむをえない、あれほど手を尽しても妹殿は見つからなかったがと、ともに経験した困難を振り返りながらボートをくれたのです。そして結局、六人がわたしに同行してくれることになりました。その場で払った前金と約束の報酬に応じてのことです。こうして別れを惜しんだのち、ボートで向かったのがあの蛮人島です。住民の風習、いかさまな予言などについてはすでに聞かされていました。あれはみなさんもご存知のことですから、ここでは省略いたしましょう。
さて、わたしは蛮人島に着いたのはいいがすぐにとらえられて、人間を生きながらに葬ったような地底の牢につながれてしまいました。そして数日後ひっぱり出されたときには、いけにえになる運命が待っていたのです。ところが運ばれる途中の海で大時化にあい、船がわりの丸太筏がバラバラになって、両手枷首繩つきのわたしはその片割れのひとつに乗ったまま、どんどん沖へ流されました。しかしやがて幸いこちらの王子のご慈悲によって救われたのです。それから殿下の指揮下、わたしは妹の所在をつきとめるスパイが目的で再び島へ渡りました。このときは兄妹という間柄を見破られないように女装しました。はたして、妹はいました。男を装ったまま贄(にえ)になろうとしていたのです。それに気づいたときわたしは心臓の止る思いでしたが、幸い乳母のクロエリアがつき添っていて、その乳母が蛮人どもに向かって、女を殺して効き目があるかとすでに叫んでいたので、わたしからもそう言って妹は命びろいをしました。ふたりがどういういきさつでそこにいたかは、いずれ妹の口から聞けると思います。
島でのその後のことはすでにご承知のとおりです。わたしの話はこれでおしまいですが、妹が補ってくれるでしょうから、ふたつを合わせて考えていただけば、わたしたちの身の上に起きたことの正確なところをぜひお知りになりたいというご希望に対しても十分にそえると思います」
第二十一章
断言できるほどの確信はないが、敢えて言えばマウリシオをはじめ熱心に聞き入っていた者のうちでも何人かは、ペリアンドロの話のすんだことを喜んでほっとした。いかに重大な話であっても、長すぎるとたいていの場合が退屈だ。アウリステラもこうさとってか、兄の話の事実を裏づけるためには自分の身の上を語る必要があるのに、そのときは口を開かなかった。彼女は王子のもとから拉致されてやがて蛮人島で兄に発見されたわけであり、その間の出来事は少くてほんの一言二言ですむはずなのだが、それでも適当な機会がめぐりくるのを待つことにし、兄の話に一言もそえようとしなかった。もっとも、何かを加えたかったとしても、その暇はなかっただろう。満帆に風をはらんだ渡海船が一隻、沖合を飛ぶように接近するのが見えたのだ。身の上話のほうは立ち消えになった。
船はほどなく島へ着き、一方の入江に錨を下ろした。それはレナートの見知った船である。
「下男と友人が来てくれたのです。いつもの船にちがいありません」
そうこうするうちに陽気な掛け声とともに帆を巻き上げる作業が見え、まもなくボートがおろされ、次々とひとが乗り移って上陸しはじめた。岸ではレナートをはじめ、その場の者たちがみな庵を出てその者たちを迎えた。船を降りてきた者はおよそ二十人であった。なかにひときわ風格のある一行の長らしい人物がおり、双手を広げてレナートにかけ寄った。そして言った。
「兄さん、おめでとう。最高の吉報です」
レナートはその男を抱きしめた。誰でもない、弟シニバルドである。
「元気なおまえに会えたんだ、これ以上の吉報があるか。いまのわたしには心から喜べることなどありはしないが、おまえに会うことだけは例外だ。毎日の辛さがふっとんでしまう」
シニバルドは振り向いてエウセビアにも双手を広げ、そして言った。
「お喜びください、あなたにもおめでとうを言わせていただきますよ。さっそくお話しして長い苦しみから解いてさしあげます。あの男が死んだのです、おふたりの仇が。病死でした。息をひきとるまでの六日間は口のきけない状態が続いていましたが、神に召される六時間前にそれが叶い、おふたりを讒訴したことを深く後悔して打ち明けたのです。兄をねたむあまりあのような非道を思いついたと告白し、ついですべてを語って罪を認めたうえ、無実のあなたがたを陥し入れた悪事の裁きをこの際潔く神にゆだねるだけでなく、真相が公器によって広く流布されることをさえ願うに至りました。これをお聞きになった陛下は、公けの場でおふたりの名誉回復をお認めになり、兄さん喜んでください、あなたの勝利とエウセビア殿の潔白や節操の確かさを諸州にお広めになったのですよ。そして、さぞ辛い思いをしたであろう、できるだけのことをして償ってやらねばというお言葉を下さって、すぐさまおふたりを迎えに行くよう命じられたのです。おふたりにとってこれ以上の吉報があるでしょうか、どうです」
「まったく」アルナルド王子が口を開いた。「わたしはこれほど感動的なことをほかに知りません。宝の山を掘りあてても、これには及ばないでしょう。この世でなにがうれしいといっても、失った名誉の回復ほどうれしいことはないのです。レナート殿、この財産をいついつまでも大切になさい。あなたが壁になれば彼女は蔦(つた)。あなたが蔦なら彼女は楡の木。あなたが喜びなら彼女はそれをうつす鏡、善意と感謝の鑑です。たぐいないエウセビア殿と仲むつまじくお暮しになることを祈ります」
言葉こそ異なれ一行の間からはふたりに対して同じような祝福が次々と投げかけられた。つづいて話題はヨーロッパを初め世界の諸地域の情勢に移った。一同は海をめぐっている間に世界の動きから疎くなっていたので、次から次へとシニバルドにたずねることがあった。
彼によると、ヨーロッパの話題の中心は、ダネア人の王レオポルディオとその同盟諸侯から圧迫を受けるデンマークの老王の苦境である。王が国難にあえいでいるというのに世継ぎの王子アルナルドは久しく行方不明で、家柄は無名も無名、まったく氏素姓の知れぬ奴隷女のあやしい眼光に誘われるまま蛾のようにあとを追っているという噂だ。話題はトランシルバニア王の戦い、人類の共通の敵トルコの動静にも及んだ。また、神聖ローマ皇帝にしてイスパニア王であらせられて、マホメット門徒に睨みをきかせ、教会に寇(あだ)す者をちぢみ上がらせたカルロス五世陛下崩御の報もあった。ほかにも朗報変報とりまぜて百報があり、一同の耳目をさらったが、アルナルド王子だけはそれに加わっていなかった。父王の苦境を知らされたときからうなだれ、手を頬に当てて思いつめたようすであったが、やがて顔を上げ、天を見すえ、ひときわ声を震わせて言った。
「恋と名誉と親孝行の板ばさみで、ああつらい、胸がはりさける。恋よ、許せ。わたしは行くがおまえを見捨てるわけではない。名誉よ、恋ゆえにおまえを邪険にするのではない。お気の毒な父上、しかしもうご安心ください、せがれはもどります。家臣よ、いま行くぞ。恋の奴ではあっても卑怯者ではない。誰にも負けない美しい恋をすればこそ、何ものにも臆(おく)さずおまえたちのために戦えるのだ。類まれなアウリステラゆえにわたしは自分のものをかちとりに行く。愛だけではたりず、王位にあってこそ釣り合うものを求めてわたしは行くのだ。愛があっても貧しい者はよほどの運に恵まれないかぎり望みをはたせない。わたしは王としてアウリステラを妻に望み、王としてアウリステラに仕え、恋する男としてアウリステラを称えたい。だが王位を守ってもアウリステラに見合う男になれないときには、彼女の冷酷を呪うより、わたしはおのれの運命を呪う」
一同はこれに耳を奪われた。もっとも驚いたのはシニバルドであった。そこでマウリシオはアルナルドがデンマークの王子であることを彼に告げ、王子をとりこにしている奴隷女とは実はあの女性だ、と言ってアウリステラを指さした。シニバルドはまじまじとアウリステラを見て、なるほど王子が現をぬかすのも無理はない、けっして気違い沙汰ではないと思った。繰り返して言うが、アウリステラの美貌には、見る者の胸をことごとくとらえて放さないものがある。彼女ゆえの過ちなら、言いわけもたつ。さてその日のうちに、レナートとエウセビアの帰国が決った。船はフランスへ向かうわけだが、途中デンマークへたち寄って王子を送り届けることになり、王子はマウリシオ、娘トランシラ、婿ラディスラオの同行を望んだ。いっぽう、この島へ逃げてくるのに使った船にはペリアンドロ、アントニオ父子、アウリステラ、リクラ、麗しのコンスタンサたちが乗ってイスパニアへ向かうことになった。
ルティリオは自分はどちらに回されるのかとその指示を待っていたが、それを聞く前にレナートの足元にひざまずいた。そして、自分にぜひとも庵を継がせてもらいたい、遭難船のために灯台に火を入れる人間も要ることだからぜひ島に残りたいと申し出た。この地でこれまでの人生の垢を落して、まっとうな死に方をしたかったのだ。その殊勝な志にうたれた一同が口添え役を買って出たこともあって、人情と寛容の人レナートは願いのすべてを聞きいれ、自分が残していくものが役立てばいいが、とにかく土を耕す暮しに欠かせないものはみなそろっている、と添えた。また王子は、国情が落ち着けば年に一度は補給船をさし向けてやる、と言って援助を約束した。ルティリオは一同のひとりひとりの足元に口づけする仕草を見せ、一同は彼を抱きしめ、新しい庵主の尊い志に感動して涙さえ浮かべた。他人を地獄へひきずりこみたくなるほどの悪人でないかぎり、たとえ自分の生きかたは改められなくても、他人がそうするのを見るのはうれしいものである。
二日間で全員の出発準備がととのった。出航まぎわには別れを惜しむ言葉が尽きなかった。王子とペリアンドロ兄妹の惜別の情景には、ひときわ胸をうつものがあった。王子が彼女に向けた言葉には熱い恋情がみなぎっていたが、それでも慎みは保たれていたので、ペリアンドロの胸を灼くには至らなかった。トランシラは泣き、マウリシオとラディスラオの目も乾いてはいなかった。リクラもむせびコンスタンサも涙し、父子の瞼も、こみあげるもので濡れた。
レナートの道服をゆずりうけたルティリオははやくもそれを着て、一行の間をあっちへ行ったりこっちへ来たりしながら、出航前のひとりひとりにむかって涙にしめる声で別れを告げた。
はたして好天、風はどちらへ向かう船にとっても絶好という航海日和、帆はその順風に高々と張られ、丘をのぞむと庵近くでルティリオが一行の無事を祈っている。
という情景であるが、われらの奇談の作者は、この一場をもって第二の巻の終幕としている。
――以下、下巻へ続く。
査定書
(1)当時、出版物には、査定書をはじめ、原本版本照合証明書、勅許書、検閲証などの添付が義務づけられていた。
(2)マラベディも、また以下にでるレアルも貨幣単位。当時三四マラベディが一レアル。
(3)詩人でもあった。ロペ・デ・ベガ編『詩選集』に作品がある。
原本版本照合証明書
(1)医者。一六〇九年から校正官。一六三九年没。当時の書物には不可欠の名前。
勅許書
(1)一五八四年一九歳の時、三七歳のセルバンテスと結婚。一六二六年没。二人の間に子はなかった。
(2)フェリペ三世(在位一五九八―一六二一年)。
検閲証
(1)ラテン教父(三四七―四一九年)。ラテン語訳聖書『ヴルガタ』の訳者。
(2)アレクサンドリア学派の代表的神学者(一八五―二五四年)。旧・新訳聖書全般にわたる注解を残している。
(3)原文ラテン語。
(4)宗教詩人。セルバンテスの詩集『パルナソス山への旅』(一六一四年)、『ドン・キホーテ 後篇』(一六一五年)の検閲者でもある。
ドン・フランシスコ・デ・ウルビーナより、ミゲル・デ・セルバンテスによせる、墓碑銘
(1)マドリードの人。劇作家ロペ・デ・ベガの最初の妻の甥。他は不詳。
(2)平信徒が俗社会にいながら修道生活の理念を実践するための会を第三会という。セルバンテスは死の三週間前、一六一六年四月二日に入会。
ルイス・フランシスコ・カルデロンより、ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラの墓前にたむける、ソネート
(1)司祭。トレドの人と思われる。他は不詳。
(2)タホ河はイベリア半島で最長の河川。半島中央部南寄りからリスボンに達し大西洋に注ぐ。砂は黄金色、とうたわれる。
レモス伯爵への献辞
(1)第七代レモス伯爵(一五七六―一六二二年)。セルバンテスは他に『模範小説集』(一六一三年)、『新作喜劇八篇、幕間劇八篇』(一六一五年)、『ドン・キホーテ 後篇』(一六一五年)をこの伯爵に献じている。
(2)〈すでに片足鐙にかかる/末期の苦しき息のしたより/貴女(きみ)に一筆したため候/生きて出ることあたわずに/ましてや再会かなわざれば〉という一節。当時の演劇界に君臨した劇作詩人ロペ・デ・ベガも『オルメドの騎士』(一六四一年)の第二一八〇―二二二四行にこの五行を織り込んでいる。
(3)レモス伯は一六一〇年から一六年にかけてナポリ副王であった。
(4)いずれも現存しない。セルバンテスは前者の完成を『模範小説集』(一六一三年)および『喜劇八篇』(一六一五年)のそれぞれの序文で約束している。
(5)セルバンテスの最初の小説。牧人小説。一五八五年に前篇が出版され、その中でも後篇のすみやかな完成を約束しているが、結局果せなかった。
(6)セルバンテスの死は四日後の四月二十三日。同じ日、英国ではシェイクスピアが他界している。ということから、近代の小説の父と演劇の祖の奇しき因縁を想い、ドン・キホーテ型人間とハムレット型人間の対比をいっそう印象的に語る人もいるが、実は、当時のスペインがすでにグレゴリオ暦を採用していたのに対して、英国はまだユリウス暦であったので、今日のグレゴリオ暦に換算するとシェイクスピアの死は、五月二日のこととなる。
(1)スペイン、トレド県の一村。セルバンテスの妻の実家がある。二人はここで結婚式をあげた。
(2)セルバンテスの死亡日、一六一六年四月二十三日は土曜日。
(3)トレド橋はトレドから、セゴビア橋はセゴビアから通じる街道上にあり、いずれもマンサナーレス川にかかる。渡るとすぐ、トレド門、セゴビア門があってマドリード市街に入る。セゴビア橋は川の流水部分の数倍の長さがあった。マンサナーレス川は水量の少ないこと、流速の緩慢なことにまつわる笑話が多く、海を飲み干す、というたとえとの呼応が面白い。
第一巻
第五章
(1)クレタ島の都市。甘味美香のぶどう酒を産す。
(2)ケレスは豊饒と結婚の女神。バッカスは酒神。ウェヌスは恋の女神。
(3)カルロス五世の時代のスペインの大貴族は二つに分類される。二十五の貴族が大公(グランデ)、三十五が有爵(ティトゥロ)。
(4)宗教騎士団の団員。
(5)カスティリャの小貴族。一五四一年には十万八千人いた。
(6)アフリカに発して南風(ノトス)と西風(ゼピュロス)の間を駈ける風。
第十章
(1)ルカによる福音書、第十章四十二節。
第十一章
(1)ポルトガルの騎士団。一三一七年創設。団員は胸に赤い十字、その上に銀十字を重ねまとっていた。
(2)バルチック海のゴットランドと思われる。
第十二章
(1)イベルニアはイルランダすなわちアイルランドの古名。セルバンテスは別の島とみなしている。
(2)アイルランドの名門フィッツモーリス家か?
第十四章
(1)英仏にわたる広大な領土を支配した英国王ヘンリ二世(一一三三―八九年)の愛妾。史実が時代を超越して登場。
(2)言葉のあそび。munda(ムンダ)はラテン語で「清浄、無垢」の意、inmunda(インムンダ)はその反対語で「不浄、淫ら」の意。
(3)小アジアのプリュギアの伝説上の王ミダスはアポロンの怒りにふれて耳をろばの耳に変えられる。王の理髪師がこれを知って人に話したくてたまらなくなるが、王の怒りを恐れて、地に穴を掘り、そこへ秘密を語って声を埋める。ところがそこから葦が生え、風にそよいで秘密を語ったと伝えられている。
第十五章
(1)ダフネのこと。テッサリアのペネイオス河神の娘で、名は「月桂樹」の意。
第十八章
(1)一六一七年初版では「マウリシオとトランシア」が重複。いずれかが「ペリアンドロとアウリステラ」となるべき誤記、誤植か。
(2)日本ではコバンイタダキ、フナスイツキ、ソロバンウオともよばれる、全長四〇センチ余りになる魚。頭部背側に小判形の吸盤があり、これで大きな魚などに吸いつく性質にちなむ名。ここでは船腹に吸いついてそのバランスをくずし転覆させることもあることが暗示されている。
(3)セルバンテスの時代、スペインに通称“トレドの仕立屋”、アグスティン・カステリャノという詩人がいた。
(4)ローマ帝政初期の廷臣(六二―一一三年)。書簡集十巻がある。
(5)レビ記、第十九章二十六節。
(6)ティタン神族の女神。太陽の沈む極西の涯に住む。
第十九章
(1)一巻十五章註1を参照。
(2)一巻十四章註3を参照。ミダス王に歓待されたシレノスが、触れた物すべてを黄金に変えてほしい、という王の望みをかなえた。
(3)リュディア王国最後の王(在位、紀元前五六〇―前五四六年)。比類ない富者として知られた。
(4)「掠める女」の意。タウマスとエレクトラの子。
(5)サルミュデッソスの王。太陽神ヘリオスが怒り、ハルピュイアに彼の食物をけがさせ、かつ奪わせた。
(6)ポテパルの妻をさす。創世記第三十九章に「彼女はヨセフの着物をとらえ、わたしと寝よう、と言った。ヨセフは着物を彼女の手に残して外にのがれた」とある。
第二十一章
(1)いずれもアフロディテ(ウェヌス)、すなわち愛神崇拝の地。
(2)アポロンはテッサリアのアンプリサス河岸でペライの領主アドメトスの家畜を管理していた。
第二巻
第二章
(1)父のほうのアントニオはこの船に乗っていないはず。作者の思い違いか。
第五章
(1)トロイアのトロスの子。最も美しい少年とされる。ゼウスが天上にさらって酒盃の捧持者とし、そのかわりに父親に神馬を与えた。
第八章
(1)アブラハムの妻サライのつかえめ。エジプト女。アブラハムの子を産む。イシマエルである。
第九章
(1)一巻十九章の註6を参照。
第十二章
(1)ケルト族の間に伝わっていたヘラクレス伝説。
第十三章
(1)ダネアは当時の地図ではデンマークのこと。セルバンテスは別国とみなしている。
第十五章
(1)ローマを貫流して地中海に注ぐテヴェレ川の水は粘土をふくんで黄金色。ティバルまたはテヴェレはアラビア語のティブルで「純金」の意。
(2)中世やルネサンス期に、猿が官能と色情を象徴するイコンとして多く登場し、シミオと呼ばれる。
第十七章
(1)カルタゴの女王ディドは漂着したアイネイスを恋し、ふたりは結ばれるが、やがてアイネイスは神命に従うため彼女を棄てて船出し、残されたディドは火葬壇に登って自殺する。
第十八章
(1)「わたしは……」ではなく「ペリアンドロは……」であろう。彼の身の上話が中断したことを作者は忘れたらしい。
第十九章
(1)相手を嘘つき呼ばわりすることが決闘を成立させる条件の一つであった。
解説 もうひとりのドン・キホーテ
荻内勝之
セルバンテスの伝記を読むと、もうひとりのドン・キホーテに会う思いがする。それもそのはずで、彼の一生を知る手懸りが乏しいため、伝記作者はたいていその僅かな資料の周辺を彼の著作から推測して埋めてきたという事情があるのだ。だから結果として、セルバンテスはドン・キホーテかドン・キホーテはセルバンテスかというパズルのような伝記が浮び上がってきてもおかしくないわけだ。大当り『ラ・マンチャの男』では染五郎という役者が二役を演じているが、このような仕立て直しができるのも右の事情が一役買っているからかもしれない。いずれにせよ、この作家の作品の自伝めいた部分をそっくり頂戴して伝記に結びつけた場合には、草葉の蔭の本人もにんまりとするような一篇の物語が出来上がるだろう。ちなみに、『ペルシーレス』の「序文」は、彼が死の四日前にしたためた遺言として、またその頃の彼の身辺を伝える体験談として、本篇をさしおいて引用されることが多いが、これとそっくりの体験が死の三年前に出た詩篇の「余話」に登場するからはてさてと当惑させられる。どうやらセルバンテスという作家には、自身の辞世さえ作り話の延長線上に置くほどの虚構癖があったようだ。
しかし、この虚構癖の背後に韜晦されたものが、人間セルバンテスの、何かしら手ごたえのある遺物のように思えてならない。だからこそ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、セルバンテスを、「作家として、最大の小説家のひとりとしてだけではなく、一個の人間」として(リチャード・バーギン『ボルヘスとの対話』)考え、その意味でホイットマンの「これは書物ではない、これにふれる者は人間にふれる」という言葉を反復しているのであろう。
『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難――北辺物語 (Los trabajos de Persiles y Sigismunda, historia septentrional)』の作者ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラ (Miguel de Cervantes Saavedra) は、一五四七年九月二十九日前後に、マドリードに近い大学町アルカラ・デ・エナレスで生れた。父親ロドリゴはいちおう外科医であったといわれるが無免許で、ラテン語を修めずスペイン語で間に合せる「俗語医」すなわち瀉血、罨法の「職人」にすぎずしかも耳が不自由だったそうだから、一家の暮し向きも想像がつき、ミゲル少年は母親のこぼす亭主の愚痴を毎日のように聞かされていたようだ。だが、彼女は頼もしい母親であったと思われ、後年ミゲルとその弟がアルジェで捕虜になったとき、奔走して身代金を作ったのがこの女性である。彼女はロドリゴとの間に男子四人、女子三人をもうけ、ミゲルは次男であった。父親は小貴族の最下位に当る郷士の血筋を引いて、ミゲルが生涯それを誇りにしているのだが一家で彼だけがその遠い先祖のサベドラ姓を復活させて名乗っている理由はここにあるかもしれない。また先祖はひととおりの身代を築いていたらしいが、その後零落し、ロドリゴに至っては血筋に恥ず「手職」に甘んじたようだ。それにしても当時のスペインには中産階級がなくて国民は貴族と平民に大別され、その両者の権利と意識の較差は極端であったが、貴族の最下級に位する郷士の数は人口の九分の一にもなり、気位ばかりが貴族で、生活の裏付けを持つ者は少なかったというからロドリゴのような例は珍しくないわけだ。一家はミゲルが五歳のとき宮廷のあったバリャドリードへ移り、その後も、患者の多い土地を求めてか、ミゲルが二十歳になるまでにコルドバ、セビリヤ、マドリードなどの都市を転々とするが、貧乏とは縁が切れなかったようだ。その間に彼がどこかのイエズス会学校で初等教育を受けたとする説があって、根拠として、この修道会学校が彼の生れた頃からスペイン各地に新設されたものでしかも学費不要であったことが考えられたり、彼の作品にここの学園生活のくわしい描写があることなどがあげられている。また、ここが教育手段として早くから演劇を採用し、後にはロペ・デ・ベガなど多彩な演劇人を世に送り出していることから、セルバンテスの劇作志向がここで萌したと見ることもできるわけだが、それにしても流浪に近い環境から推して、彼が何らかのまとまった学校教育を受けたとは思えない。セルバンテスの少年期の人間形成に大きく関った学びの園があるとすれば、おそらく、無力な父に従って体験した長い旅路であったろう。そして旺盛な好奇心が幅広い見聞や読書へと導いたと言っておこう。しかし、二十一歳の一時期を彼がマドリードのさる私塾で学んだことは確かであり、ここで、エラスムスに傾倒する塾長を通じてその人文主義にふれたことが想像されるし、また文才の萌芽もみせる。というのは塾長が編んだ王妃葬儀録にセルバンテスの詩文数篇がのり、師が彼を紹介して「わが秘蔵の愛弟子」と呼んでいるからだが、詩文の出来栄えはさておき、彼にとっては、詩人としての幸先きよいデビューとなりえたにちがいない。
ところが当人はこの本が出るのを待たず一五六九年末にはなぜかイタリアへ旅立って後世にその理由をめぐる論争の種を残しており、一枚の古文書の判読如何では、未来の文豪は受刑寸前に逐電したという筋書きもできるのだが、ここではその顛末をさておいて、スペイン滞在中の枢機卿アックワ・ヴィヴァに扈従してイタリアへ行った、としておく。世界に窓を開くルネサンスのイタリアは文芸を志す青年の憧憬地であった。一方マドリードは帝国の王城地とはいえ十年前までは寒村にすぎず、志のある青年を引き留める文化は未墾であった。人口は急激に膨らんだものの、大部分は地方産業の荒廃による離農、失業者が流入したものと見なしてよく、セルバンテス一家が遷都のたびに新都へ移っているのもこの大きな社会変動と無関係ではあるまいと思われるが、軍隊もまた流民の受け皿であった。具体的に言えば、当時たとえばマルタ島から北海に至るカトリック防衛の重荷を担うスペインは、折しもナポリを中心に地中海地域の領有圏に部隊を集結して、回教徒勢力との間近い決戦に備えていた。無職者や武を志す青年がこの機にイタリアへ集まるわけである。作品の随所で文武両道の兼備を唱うセルバンテスがその一人であって不思議はなく、一五七〇年に彼はナポリ駐屯軍に志願し、七五年まで地中海諸域の合戦に加わる。しかし後衛にあっては各地を旅して見聞をひろめ、古今の著作物も繙いたようで、この五年間は彼に終生消え難い感銘を刻んだと思われ、その後の彼の文芸の道にとっても尽きせぬ糧ともなったし、またキリスト教世界の大義を意識したり、冒険心を自覚する機会ともなった。とりわけキリスト教、回教両勢力が地中海の覇権を賭けたレパントの海戦は生涯の特筆すべき大事件であった。このとき彼は艦上でマラリア熱に冒されていたにもかかわらずそれをおして突撃隊の先頭に立ったそうで、壮烈な戦闘の最中に、胸に二発と左腕に一発の銃弾を受けたと言われる。それがもとで生涯左手の自由を失うことになるわけだが、以後彼は「レパントの片手んぼ」とか「隻腕の壮士」の異名をとってそれを誇りともし、のちに剣をペンに持ち替えてからは、いわく「右手の名誉をさらに高める」旗印としたと見なしてよい。しかし、後半生の不遇をかこつときにはこの古傷が痛み、国家や世間に対する複雑な感情の屈折の中で恨みの音を発することにもなる。
一五七五年、彼はレパントで総大将を務めた王弟から大尉昇進の推薦状を得て、帰国の途についた。幸先きは悪くなかったわけだ。ところが、航海中に回教徒の海賊に囚えられ、アルジェで売られて奴隷となる。この間のいきさつや五年間におよぶ収容所の体験は『ペルシーレス』や『ドン・キホーテ』の中で登場人物の口を通してほのめかされ、四度におよぶ脱走の企ての中で示した彼の不屈の精神力が解放後も語り草になったことを伝えている。
一五八〇年十月、セルバンテスは再び故国の土を踏む。時に三十三歳、彼の英雄時代はここで終る。十一年ぶりに帰還したレパントの英雄を迎える故国の風は冷たかったわけであり、まず職がなく、マドリードの家族にも窮乏生活が続いていた。それでも彼には、王弟の推薦状こそアルジェで失ったが、願い出れば相応の待遇を受けられるという望みがまだ残っていた。そこで一五八一年、当時リスボンに移っていたスペイン宮廷をはるばる訪ねるのであるが、結局アフリカのスペイン軍へ密書を届けるという、そのとき限りの任務で涙金にありついただけであった。また翌年には半生の活路を新天地アメリカに開こうとあらたに決心を固め、赫々たる過去の業績をかざしてその地の官職を申請するが、そっけなく「本国で適当な職を見つけられよ」とあしらわれる。顧みるに、一兵士の昔日の功労や国家への献身が報いられる時世は、油の切れかかったスペイン帝国を去り、思想宗教を異にする新興勢力へ移っていたのであり、もちろん当ての外れた英雄はセルバンテス一人ではなくスペインにあふれていたわけで、彼らの要求はすでにドン・キホーテ的時代錯誤となっていたのだ。セルバンテスの後半生は幻滅、屈辱、悲惨の連続であったと言われるが、これには右のような帝国の凋落というもう一つの運命の様相がかさね写しになって悲壮な印象を増幅しているように思える。それにしても戦場やアルジェの牢では、大義や名分の下に「為すべきこと」があったが、後半生は晩年に至るまでそれを見出せなかった。
一五八三年ごろ彼は一篇の牧人小説を執筆中で、翌年には完成、版元に渡す。その間にひとつの恋をし、女子を生せて引き取る。もっとも、腹を痛めたのはこの恋の相手ではなく、姉の私生児を実子としたという説もある。
一五八四年六月、右にいう牧人小説『ラ・ガラテア』が出版されたが、反響はかんばしくなかった。同年十二月に三十七歳のセルバンテスはトレドの近郷エスキビアスの十九歳の娘と結婚し、以後八七年までこの町に住んで、妻の持参金で暮しながら劇作家として本格的に売り出す準備をすすめる。その頃の作品で今日残っているのは『アルジェでの扱い』と『ヌマンシア』であるが、他にも二、三十篇を書いたと彼は言う。彼は根が芝居好きで、劇作への情熱も尋常ではなかったようだ。世は折しも芝居の黄金時代を迎えてマドリードやセビリヤには常打劇場がつぎつぎと新設されていたし、貴人の私邸での臨時興行も盛んになっていたので、脚本の需要がかつてなく高まっていた。しかも小説や詩の出版が面倒な書類手続きや有力者の庇護を必要としたのに対し、芝居は原稿のままで座元に売れる手っとり早い現金収入の道であったから、セルバンテスとしても文名もさることながら生活の糧を得る手段として劇作を志し大いに張り切ったのかもしれない。
しかし芝居は流行のテンポがめまぐるしく、大向うは新趣向に貪欲であった。その現実を敏感にとらえ、むしろ観客の新奇癖をリードして人気を独占していたのがロペ・デ・ベガである。ところが、「ロペは役者を悉くその臣下とし、その法の下におき、自分の芝居で世界を牛耳った」と回想するセルバンテス本人はこの世界では何の用意もない、遅れて来た人であった。『ヌマンシア』は現代の上演にも耐えるドラマ性を備え、事実上演されているが、当時は看板もかからず、こうして筆の近道で躓いた彼は方向を変え、長い遠回りをする。
「他に為すべきことがあったから」と晩年に書いているが、その「為すべきこと」とは小役人の仕事であり、一五八七年、妻をエスキビアスに残してセビリヤに居を移し、海軍の食料徴発人になる。帝国が対英戦争に備えて、いわゆる「無敵艦隊」を編成していたころである。当時すでにスペインの農業経済は破綻して久しかった。ゆえに彼の仕事は涸れ井戸の水を汲むに似ていたわけだが、とにかくアンダルシア地方の田舎を回って麦、油、家畜類を集めた。農民の怨嗟の視線を背に受けながらアンダルシアの荒野を荷馬車の後から行くセルバンテスの心境は複雑であったろう。
それにしても、このころのセルバンテスを不遇というときには、彼が大作家をめざしていたことが前提となる。彼がもし俗語医の伜という境涯に相応な人生で足れりとしていたとすれば彼の後半生を不遇とはいえまい。しかし異教徒の血をひく何十万という人間を根こそぎ国外に追放し、「生粋カトリックにあらずば人に非ず」とした社会において、真相はともかく、自分が純正な宗門の氏子であることを主張し、それのみか特権階級の身分を名乗る者にとって、相応の境涯にないことは存在しないに等しかった。当時の芝居に、百姓として育てられた貴族の青年が、「おまえは誰か」と貴婦人から尋ねられて、「わたしは今のところ居りません。そのうち居りましょう」と答える場面がある(ティルソ・デ・モリーナ『公爵邸の照れ屋』)。セルバンテスもまた「そのうち居るはず」と答える人であった。彼の求める存在の証しが、血筋や家柄にあったとは思えないが。
彼が十五年近くも歩いた世界はというと、地方には百姓、凡百の間抜け村長、書記のいる村があり、そこは人足や旅芸人、イカサマな行商人、学生くずれ、浪々の郷士、無宿の渡世人、復員兵、あるいは迫害を逃れるモーロ人、兇状持ち、盗賊、破戒僧等々いわゆる疎外された者たちで賑わう街道につながっていた。そしてその街道の集まるところにはスペインの、といわず、世界のセビリヤがあり、その繁栄その荘厳の大道具をどんでん返しにしたところには人生劇場の楽屋裏、曲者どもの巣があった。セルバンテスは社会の忘れられた部分にかくれもなく息づいているこのような、反英雄的人種のしたたかな生きざまや、彼らの立場でしか見えない一個の現実をあるときは共有し、またあるときは観察者の目で見ていたと思われるが、もちろん英雄的事業の末期的症状ともいえるスペインの絢爛豪華にも同じ観察者の目を向け、「たまげた沢山、この仰山なことよ」と荘厳な御陵に驚いてみせる皮肉も身につけ、ここで『ドン・キホーテ』に代表される作家セルバンテスが形成されていったとさえ言えそうだ。
一五八八年、無敵艦隊は潰滅的な打撃を蒙り、帝国の威勢はいよいよ地におちる。そして九〇年、彼は再度、「スペインを食いつめた者の流れ先」新大陸の官職を申請するが、また却下され、前職に戻る。九二年には、横領の濡れ衣を着せられて投獄寸前までいき、これで失職する。そこでまた芝居を思いつき、さる一座と執筆契約を交して、「今期我邦芝居中の傑作以外は報酬を求めず」という自信の一筆まで添えるが、結局、書いた形跡はない。九四年にはまたまた徴税人になり、九七年、公金を預けていた銀行が破産して、経営者が雲隠れしたため、問責されて獄に入り、四カ月ほどで釈放されたようだが、その後数年間、すでに五十を過ぎたセルバンテスがどこでどう暮したかは定かでない。しかしともかくこの間に『ドン・キホーテ』を着想し、筆を進めたと思われる。一六〇二年から三年にかけて、またもや投獄、という説もあるが、いずれにせよ、一六〇三年にはマドリードに戻り、翌年バリャドリードに転居して姉たちと家庭生活を送ることになり、ここが『ドン・キホーテ』全篇を仕上げ、翌年の出版と大成功を見守る場所となる。以後もここで彼は「右手の名誉をさらに高めるため」の新たな冒険に着手する。振り返ってみると旅から旅のこの五十年は作家セルバンテスの長い「取材旅行」であった。
一六〇五年一月、『ドン・キホーテ』が出る。これはその年のうちに六版を重ね、その後も増刷、重版が続き、英、仏訳も作者生存中に出た。また、内外で模倣作品を生み、芝居にもなって、ドン・キホーテとサンチョの冒険は幅広い社会層の人気を集めた。この大成功は経済的にはさして潤いをもたらさなかったが、セルバンテスはこれを契機に大の語り手となり、書くことによって多年の無為を解消するようになる。しかしそれは十年近い沈黙という形で進められた。
すなわちすでに六十の声を聞き、老いを自覚していた作家としては好評の『ドン・キホーテ続篇』に専念して当然と思える時期に、彼はその完成を急がず、過去二十年間の沈黙の穴を埋めるべく多岐にわたる果敢な企てに挑むのである。そして中には構想だけで終るものもあるが、一六一三年から一六年の死に至るまでのあいだに大半を実現するわけで、列挙すれば一三年の『模範小説集』、一四年の詩篇『パルナソス山への旅』、一五年の『喜劇八篇、幕間劇八篇』、同年の『ドン・キホーテ続篇』、そして遺筆となった一七年の『ペルシーレス』がそれである。
この数年は、自身が「文は白髪で書くにあらず、悟性で書く」と言い、さらに、「こいつは年とともに冴える。月並な文句だが私は『ペルシーレス』の上木をめざしてとっくに鐙に足をかけており、いまやわが名声と作品の数を倍増せんとしている」といわばミニサイズ『ドン・キホーテ』である『パルナソス』の中で大見栄を切っているように、彼の存在を知らしめ、模倣者まで出現した『ドン・キホーテ』の作者に安んじず、多様かつ豊穣このうえない時期に入っていた当時のスペイン文学の全形式に挑戦した。実際に後世をして「いま仮に十七世紀のスペイン文学の作品がことごとく消失したとしても、セルバンテスの作品さえ残っていれば復元できる」と言わしむるほどの成果の見られた気魄の晩年であった。しかし同じく『パルナソス』において、「真の傑作には、相応の称讃を」と洩らすように、世評は期待に遠かった。それゆえであろう一人称書きのこの詩篇の冒頭まもなくセルバンテスは「さらば、どこかの腹を空かした郷士殿よ」とあきらかに自分自身と思われる者に向かって別れを告げ、案の定「私は貴殿の軒下で野垂れ死にしないうちに国を去り、私自身からも脱け出る」と言い残して、空想を天翔け、詩人の聖地パルナソスへ行って正当な評価をアポロンに訴えるのである。
だが「韻文でかいたベラスケス」といえるほどまで神々を戯画化しているこの作品からは、彼の訴えを転倒させてしまうしらけた諦観のような意識もうかがわれる。彼はここで、自身をいま一人のドン・キホーテとして茶化すことによって、名声欲を虚栄とよび、それへの執念を断てなかった生涯を自嘲的にみつめており、彼がパルナソスの夢の中で見た「虚栄」とは、「雲を衝き、手が東西の涯に届くほど」の大女で、しかも、腹が「水腫症を病み、海を飲み干したほど膨らんでいる」にもかかわらず美しく、その目の魅惑からは誰一人のがれえないものだという。私すなわち主人公セルバンテスはこの腹の破裂する音で目が覚めた。
さらに興味深いのは、虚栄に関するこのエピソードが、同じ『パルナソス』の「後日談」と二年後に書く『ペルシーレス』の「序文」にまたがって、すでに病を得て死を待つセルバンテスの心境を象徴的ながら反映していることである。「後日談」によると、パルナソスから帰った数日後セルバンテスは街頭で一人の青年に呼び止められる。青年は「襟がやたらに大きく、アトランテの肩でも借りなくては支えきれそうにない」装いであったという。高襟が貴族や生粋教徒の身分誇示、あるいは詩人の虚栄の象徴であったころの話である。この青年がセルバンテスに抱きつくや、「御著作とお人柄の名声に感銘する大ファン」であると名乗る。そして二年後、彼は『ペルシーレス』の「序文」でこれに酷似する出会いを語るのだが、ここでは青年(学生)の襟はずれ落ちるなど、装い全体が滑稽なまでの時代物にすり替えられており、ロバの背で揺れる姿がいっそうおかしみをさそう。セルバンテスが自分の病気のことを話すと学生は、「それは水腫症です。海を飲み干しても治る病気じゃない」という。あっさりと引導を渡された彼は、やがて死床となるマドリードの家に向かい、学生はおそらく仕官を求めて街道を遠ざかる。家郷を出て、前途という開かれた空間に栄光を尋(と)めゆく青年と、その雲の中をさまよっていま帰郷せんとする老人との、四月なかばのマドリードの橋、つまり当時マドリードで旅の象徴のように見なされていたセゴビア橋のたもとの出会いであった。
その数日後この出会いを思い出し、自病を「虚栄症」と診たてたセルバンテスは、「雲を衝き東西の涯に広がる魅惑の美女」からは今生では逃がれえないと悟りながら、なお未練を残しつつ学生より一足先に来世へと旅立つ。一六一六年四月二十三日のことであった。死因は糖尿病か肝臓疾患であったろうと今日の学者は言う。
セルバンテス (Miguel de Cervantes Saavedra)
(一五四七―一六一六)マドリード近郊のアルカラ・デ・エナレスの貧しい外科医の家に生まれる。各地を転々とし、正規の学校教育を受けずに成長。一五七〇年、軍隊に志願し、数度の戦いに参加。レパントの海戦で負傷、左手の自由を失う。七五年スペイン海軍総司令官の感謝状を携えて帰国の途中、海賊船に捕らえられ、アルジェで五年間の奴隷生活を送る。帰国後、文筆家を志すものの生活は辛酸を極める。一六〇五年、近代小説に大変革をもたらし、後の世界文学に大きな影響を与えることとなる『才智溢るる郷士ドン・キホーテ・ラ・マンチャ』を発表、現在もなおスペイン文学の最高峰と讃えられる。以後、多くの短編小説や詩、戯曲などが出版される。
荻内勝之(おぎうち・かつゆき)
一九四三年ハルピンに生まれる。神戸外国語大学大学院修士課程修了。現在、東京経済大学教授。専攻はスペイン文学。著書に『ドン・キホーテの食卓』『スペイン・ラプソディ』『コロンブスの夢』等がある。 本作品は一九八〇年六月、国書刊行会より刊行され、一九九四年八月、ちくま文庫に収録された。
ペルシーレス(上)
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2003年1月31日 初版発行
著者 セルバンテス
訳者 荻内勝之(おぎうち・かつゆき)
発行者 菊池明朗
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) KATSUYUKI OGIUCHI 2003