リラの森
セギュール夫人/江口清訳
目 次
リラの森
いい子のアンリ坊や
ロゼット姫のお話
灰色の小さなネズミ
ウールソン
解説
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わたしの孫のマラレ家のカミーユとマドレーヌへ
わたしの、ごく親しい子どもたちに
これらのお話は、たいへんおまえたちをよろこばせたので、ここに出版することにしました。
親しい子どもたちよ、これらのお話を読んだら、おまえたちをよろこばせるために、無名の身でありながら、世間のみなさんの批判におこたえしようとした、おまえたちの年とったおばあちゃまのことを、考えてくださいね。
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[#地付き]――ロストプシーン家の出であるセギュール伯爵夫人
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リラの森
ブロンディーヌ
むかし、ベナンという王さまが、いました。いい王さまでしたから、みんなに愛されました。でも、正しい人でしたから、わるものたちは、この王さまをおそれていました。
王妃のドゥセットも、王さまと同じように、いいかたでした。ふたりには、ブロンディーヌという、まだ小さいおひめさまがいました。かみがブロンドなので、ブロンディーヌとよばれていたのです。両親に似《に》て、心のやさしい、うつくしい子でした。
ところが不幸なことに、王妃は、ブロンディーヌが生まれると数か月のちに、なくなってしまいました。王さまは、長いあいだ、たいへん悲しみました。ブロンディーヌはまだ小さかったので、おかあさんがなくなったことを、はっきりわかりませんでした。ですから泣きもしないで、笑いながらあそんだり、お乳をのんだり、やすらかにねむることができました。
王さまはブロンディーヌを、たいへんかわいがっていました。ブロンディーヌも、この世でだれよりも、王さまが好きでした。王さまは、たいへんきれいなおもちゃや、とてもおいしいボンボンや、味のいい果物《くだもの》を、ブロンディーヌにあたえました。ブロンディーヌは、たいへんしあわせでしだ。
ある日のこと、ベナンの王さまは、家来《けらい》たちがみんなして、王さまがあとつぎの王子をもつために、もういちど結婚してほしいといっているということを、聞きました。王さまは、はじめのうちは、ことわっていました。でも、とうとう家来たちの願いに負けてしまって、大臣のレジェールに、いいました。
「みんなは、わしの再婚をのぞんでいる。わしはまだ、あのかわいそうなドゥセットの死を悲しく思っているので、じぶんでべつの女をさがす気には、なれない。それで、おまえにまかすから、かわいそうなブロンディーヌを幸福にしてくれるような王女をさがしてきてくれないか。これと思ういい女の人がみつかったら、結婚の申しこみをして、つれてきてくれないか」
レジェールはすぐに出発して、あらゆる王さまをおたずねし、たくさんの王女に会いました。きりょうがわるかったり、せむしだったり、いじわるそうだったりして、なかなかいい人はいませんでしたが、チュルビュラン王さまのところに行ったら、そのひとりの娘が、きれいで、りこうそうで、かわいらしく、また善良そうに見えましたので、あまりくわしくしらべずに、ベナン王のために結婚を申しこみました。
チュルビュラン王は、この王女がわるい性質で、やきもちやきで、こうまんちきで、そのうえ旅行や、かりや、けいばが大好きで、困っていましたので、やっかいばらいができると大よろこびで、すぐに承諾《しょうだく》しました。
レジェールは、フルベッド王女と、衣しょうや宝石《ほうせき》をつんだ四千頭のラバをつれて、出発しました。
ベナン王の宮殿につきますと、飛脚《ひきゃく》によって到着《とうちゃく》するのを知っていた王さまは、フルベット王女をむかえに出ました。王さまは王女を、うつくしいと思いました。でも、かわいそうなドゥセット王妃の、やさしくて善良なようすは、まるでありませんでした! フルベットがブロンディーヌを見たときの目つきがあまりいじわるそうだったので、まだ三つだったブロンディーヌは、泣きだしてしまいました。
「どうしたんだい? いつもやさしくて、おりこうなブロンディーヌが、わるい子みたいに、どうして泣いたりするの?」と、王さまがききました。
ブロンディーヌは、王さまの腕のなかにからだをかくして、さけびました。
「パパ、あたしのパパ、あたしをこの王女さまにやってはいや。とてもこわいの。いじわるそうなんだもの!」
王さまはびっくりして、フルベット王女を見ました。王女はすぐに顔つきを変えようとしましたが、王さまは、ブロンディーヌがこわがったこわい目つきを見てしまいました。
王さまはすぐにブロンディーヌと、この新しい王妃とは、べつべつにくらしていかなければいけないと、決心しました。そこで、前からブロンディーヌをやさしくかわいがっていてくれた乳母《うば》と女中とに、おもりをさせることにしました。
王妃は、ごくたまにしか、ブロンディーヌにあいませんでした。でも、ひょっこりあったりすると、王妃はいつも、にくにくしそうにブロンディーヌを見ました。
一年たって、女の子が生まれました。かみが石炭のように黒いので、ブリュネットという名がつけられました。ブリュネットもかわいい子でしたが、ブロンディーヌにはおよびません。それに、いじわるいことといったら母親そっくりで、ブロンディーヌをにくみ、いろいろないじわるをしました。かみついたり、つねったり、かみをひっぱったり、おもちゃをこわしたり、きれいな服をよごしたりするのです。でも、やさしいブロンディーヌは、けっしておこらずに、いつもブリュネットをゆるしてやろうとしました。
「ねえ、パパ、おこらないでね。この子はまだ小さいんだから。あたしが、おもちゃをこわされてどんなに悲しいかってことも、知らないんだわ……あたしにかみつくのも、ふざけてやってるのね……かみをひっぱるのも、おもしろいからなのね」
ベナン王は、ブロンディーヌをだいてせっぷんしてやるだけで、なにもいいませんでした。でも、ブリュネットがいじわるだから、そんなことをするので、ブロンディーヌがやさしいから、それをゆるしているのだと、よくわかっていました。ですから、ますますブロンディーヌをかわいがり、ブリュネットをしだいに、かわいがらなくなりました。
りこうなフルベット王妃は、そのことをよく知っていました。ですから、いっそう、つみのないブロンディーヌを、にくむようになったのです。もしも王妃が、ベナン王の怒《いか》りをおそれなかったならば、ブロンディーヌは、この世でもっとも不幸な子どもになったことでしょう。
王はブロンディーヌを、けっして、ひとりだけで王妃といっしょにさせませんでした。王さまは、善良なかたであると同時に、正しい人でしたから、じふんにしたがわない者は、きびしく罰《ばっ》したのです。ですから王妃も、したがわないわけに、いきませんでした。
ゆくえ不明
ブロンディーヌは、もう七歳になり、ブリュネットは、三歳になりました。
王さまはブロンディーヌに、二羽のダチョウにひかれた、きれいな小さい車をあたえて、ブロンディーヌの乳母《うば》のおいの、十歳になる小さい小姓《こしょう》に、それをひかせていました。
その小姓はグルマンディネといって、生まれたときからのあそび友だちで、ブロンディーヌにはたいへんしんせつでしたが、ただ、この子のわるいくせは、たいへん食いしんぼうなことで、ことにあまいものが大好きで、ボンボンの袋のためなら、どんなわるいことでもしかねませんでした。
ブロンディーヌは、よく、こういいました。
「グルマンディネや、あたしはおまえが好きだけれど、食いしんぼうのおまえは、きらいよ。おねがいだから、そのくせはなおしてね」
グルマンディネは、姫の手にせっぷんして、そのくせをなおすことをやくそくしました。けれども、やはり料理場の菓子やボンボンをぬすむことをやめません。そして、いうことをきかなかったり、食いしんぼうのために、よくぶたれていました。
やがて、このことが、フルベット王妃の耳にはいりました。王妃は、この小姓のわるいくせをうまく利用すれば、ブロンディーヌを亡《な》きものにすることができると、考えたのです。
グルマンディネが御者《ぎょしゃ》になって、ダチョウにひかれる小さいくるまにのったブロンディーヌがさんぽする庭園は、大きな森につづいていました。その森は、リラの森とよばれ、庭園とは、鉄のさくでしきられていまいた。リラの森とは、一年じゅうリラの花が咲いていましたので、こうよばれていたのです。
この森へは、だれも行きませんでした。この森が魔《ま》の森であり、いちどそのなかにはいった者は、けっして出ることができないということを、みんな知っていたからです。
グルマンディネも、この森のおそろしいことは、よく知っていましたし、この森のそばへ姫のくるまを近づかせることは、かたく禁じられていました。ついうっかりして、ブロンディーヌが鉄さくをくぐり、リラの森のなかへはいるといけないと思ったからです。
フルベット王妃は、まず毎日お菓子をグルマンディネにやって、手なずけました。そしてグルマンディネがあまりたっぷりボンボンや、ジェリーやお菓子をもらうので、もうそれがなくてはいられなくなったとき、王妃は食いしんぼうの小姓をよんで、いいました。
「グルマンディネ、おまえは、ボンボンやお菓子のいっぱいはいった箱がほしくはないかい、それとも、もうけっしてそういうものがたべられなくなるのと、どっちがいい」
「たべられなくなるんですって! そうなったら、苦しくて、死んでしまいます。そのような不幸なめにあわないためには、どうしたらいいんです?」
王妃は、グルマンディネの顔をじっと見て、いいました。
「ブロンディーヌ姫を、リラの森のそばへつれていけばいいんだよ」
「そんなことはできません、奥方《おくがた》さま。王さまから、禁じられていることです」
「おや! できないっていうのかい。ではさようなら。もうわたしは、おまえにお菓子をあげないし、御殿《ごてん》のだれも、おまえにお菓子をやってはいけないと、わたしが禁じるから」
「そんな残酷《ざんこく》なことは、しないでください! なにかほかの、わたしにできることを、お命じになってください」と、グルマンディネは、泣きながらいいました。
「くりかえしていうがね、ブロンディーヌを、リラの森のそばにつれていきなさい。そしておまえがうまくすすめて、くるまからおりるようにさせ、鉄さくをくぐって、森のなかへはいらせるんだよ」
「でも、奥方さま、姫は森のなかへはいれば、もうけっして出られないんですよ。お姫さまをあの魔の森へお入れになることは、死へ追いやることです」と、グルマンディネは、まっさおになっていいました。
「これで三度目、そしてこれが最後だよ。おまえは、ブロンディーヌをあそこへつれていくかい? 毎日、ボンボンの大箱がもらえるのと、砂糖《さとう》づけもお菓子もぜんぜんもらえないのと、どっちかにおきめ!」
「でも、王さまのおそろしい罰《ばつ》を、どうしたらのがれることができるでしょう?」
「それは、しんぱいしなくていいよ。リラの森のなかへブロンディーヌを入れたら、わたしのところへおいで。わたしが、ボンボンを持たせて、おまえをにがしてあげるよ。おまえのしょうらいのことは、わたしがひきうけるから」
「ああ、奥方さま、どうかおねがいですから、わたしにいつもしんせつにしてくださるご主人さまの身をあやめるようなことを、わたしにさせないでくださいまし!」
「おまえは、しりごみしてるんだね、いくじなし! ブロンディーヌがどうなろうと、かまわないじゃないか? そのうちに、おまえをブリュネットの小姓《こしょう》にしてあげるよ。そして、ボンボンを、かかさずあげるよ」
グルマンディネは、なおしばらく考えていましたが、ああ! とうとうボンボンのために、しんせつな小さい主人をぎせいにすることにきめてしまったのです。
それでも、なお夜昼、グルマンディネは、このような大きな罪をおかすことを、ためらっていました。でも、もし王妃の命令どおりにしなければ、食いしんぼうのじぶんをまんぞくさせることができないのも、たしかでした。そのうちに、どこかの力のつよい仙女《せんにょ》さまにおねがいすれば、ブロンディーヌをさがしだすこともできるだろうと、そう思って、王妃の命令にしたがうことにしました。
翌日の四時に、ブロンディーヌは王さまにせっぷんしてから、二時間したらもどってきますと約束して、いつもの小さいくるまにのりました。庭園は、大きかったのです。グルマンディネは、リラの森とは反対の方向へ、ダチョウを走らせました。
宮殿から見えないほど遠くまできてから、グルマンディネは方向をかえて、リラの森の鉄さくのほうへ、向かいました。
グルマンディネは悲しそうで、だまりこんでいました。おそろしい罪のために、心がいたみ、良心がとがめたからです。
「どうしたの、グルマンディネ、まっさおだよ! どうしてだか、いってごらん。あたしにできることなら、なんでもしてあげるよ」
こんなにやさしくいわれると、グルマンディネの心もくじけて、もう少しでブロンディーヌを助けたくなりました。けれども、フルベット王妃がやくそくしたボンボンのことを思うと、このような良心も消えてしまいました。
グルマンディネが返事をしようとしているうちに、ダチョウはリラの森の鉄さくにきてしまいました。
ブロンディーヌは、さけびました。
「まあ、きれいなリラだこと! なんていいにおいなんでしょう! このリラの大きな花束をつくって、パパにあげたいわ! グルマンディネ、おりていって、あたしにリラをとってきてちょうだい」
「わたしは、おりることができません、わたしがいなくなりますと、ダチョウがいなくなってしまいますから」
「そんなこと、かまわないわ! あたしがひとりで、ダチョウをうまく宮殿へつれてゆくから」
「でも、お姫さまをひとりぼっちにしておいたと、わたしが王さまにしかられます。お姫さまがごじぶんでいらっしゃって、おえらびになって花をおつみになったらいかがですか」
「そうね、おまえがしかられると、あたしもつらいからね」
そういってブロンディーヌは、ゆっくりくるまからおりますと、鉄さくのなかへはいって、リラの花をつみはじめました。
このとき、グルマンディネはからだがふるえて、どうしようかとまよいました。後悔《こうかい》にかられて、ブロンディーヌを呼びもどし、なにもかも白状しようと思ったのです。
でも、そのときはもうブロンディーヌは、十歩もなかへはいっていました。ですからそのすがたはまだ見えますのに、グルマンディネの声はきこえないらしく、少しずつ、魔の森のなかへ、はいっていくのです。長いあいだ、グルマンディネは、ブロンディーヌがリラの花をつんでいるのを見ていました。そのうちに、そのすがたは、見えなくなってしまいました。
それからなお、ずいぶん長いあいだ、グルマンディネはじぶんのおかした罪に泣いて、じぶんの食いしんぼうをのろい、フルベット王妃をにくみました。でも、ブロンディーヌが宮殿へ帰らねばならない時間が近づいたことに気づきました。
グルマンディネは、裏から馬小屋へはいって、それから待っていた王妃のところへ、かけつけました。王妃は、グルマンディネがまっさおな顔をして後悔のために、目をあかく泣きはらしているのを見ると、ブロンディーヌをおいてきたことを、さっしました。
「やったかい?」と、王妃はききました。
グルマンディネは、「はい」というしるしに、頭をさげました。
「おいで、ごほうびをあげよう」
そういって王妃は、いろいろなボンボンがいっぱいはいっている箱を見せてから、それを下男にはこばせて、宝石箱をつんできた一頭のラバの上に結びつけさせました。
「この箱を、おとうさまのところへ、グルマンディネにもっていってもらおう。さあ、いっておいで。ひと月たったら、またもう一つ箱をとりにおいで」
それから王妃は、グルマンディネの手に、金貨のいっぱいはいったさいふをわたしました。グルマンディネは、ひとこともいわずに、ラバにのりました。
グルマンディネは、ラバを走らせました。まもなく、いじのわるい、ごうじょうなラバは、荷物が重いのでがまんができずに、はねたり、そったりしましたので、グルマンディネは、箱といっしょに、地面に投げだされました。グルマンディネは、ウマもラバもあつかうことを知りませんでしたから、石の上に頭から落ちて、ひとうちで死んでしまいました。
リラの森
森のなかにはいっていったブロンディーヌは、リラのきれいな白い花をつみはじめましたが、いいにおいのする花がたくさんつめましたので、大よろこびでした。
ブロンディーヌは、花をつんでいけばいくほど、きれいな花があるのがわかりました。ですから、いっぱいになっていた前かけも、ぼうしもあけてしまって、またきれいなリラの花を、いっぱい入れました。
こうしてブロンディーヌがむちゅうになっているうちに、一時間以上たってしまいました。暑くなってきましたし、つかれはじめてきました。リラをもっているのが、重くなってきました。それに、宮殿へかえる時間だということに気づきました。
ブロンディーヌは、ふりかえってみました。すっかりリラに、かこまれているのです。ブロンディーヌは、グルマンディネの名前を呼びました。だれも、こたえません。
「ずいぶん、遠くへきてしまったらしいわ。ひきかえしてみましょう。あたし、少しつかれているけれども、グルマンディネがあたしの声をきいてむかえにきてくれるでしょうから」
と、ブロンディーヌはいいました。
ブロンディーヌは、なおしばらく歩きましたが、森ははてしなくつづいています。なんべんも、グルマンディネの名前を呼びましたが、だれもこたえません。とうとうブロンディーヌは、こわくなってきました。
「この森のなかで、ひとりぼっちで、あたし、どうなるのかしら? 気のどくにパパは、わたしが帰ってこないので、どう考えていらっしゃるでしょう? かわいそうにグルマンディネは、あたしをつれないで、どうして宮殿へかえれるでしょうか? きっと、しかられて、ぶたれるにちがいないわ。みんな、あたしのせいだわ。あたしがくるまをおりて、リラをつみたいといったからだわ! なんてあたしは、運がわるいんでしょう! こんな森のなかにいたら、今夜オオカミにたべられないにしても、そのうちにおなかがすき、のどがかわいて、死んでしまうわ」
ブロンディーヌは、大きな木の根もとにたおれて、はげしく泣きはじめました。そして、いつまでも泣いていましたが、そのうちに、たいへんつかれていたので、かなしみをわすれ、リラの花束をまくらにして、ねむってしまいました。
きれいなネコ
ブロンディーヌは、一晩じゅうねむっていました。けものたちのために、ねむりをじゃまされるようなこともありませんでしたし、寒くもありませんでした。
翌日、おそくなって目をさましたブロンディーヌは、目をこすってみて、じぶんの部屋のベッドにはいずに、木にかこまれているのを知り、たいへんびっくりしました。
ブロンディーヌは、女中を呼びました。すると、あまいネコのなき声が、しました。おびえるほど、びっくりして、地面をみますと、足もとに、大きな白ネコが、やさしくじぶんのほうを見て、ないているのです。
「まあ、かわいいこと!」
ブロンディーヌはそういって、雪のようにまっ白な、きれいな毛を、なでました。
「あたし、おまえにあえて、うれしいわ。おまえは、あたしを、おまえのおうちへ、つれてってくれるんでしょう。でも、あたし、とてもおなかがすいてるの。なにかたべなければ、歩けそうにもないわ」
ブロンディーヌが、いいおわらぬうちに、きれいなネコはまたにゃーんとないて、前足で、ブロンディーヌのそばにおいてある一つの包みを、さししめしました。包みは、白いきれいなきれで、くるんでありました。あけてみますと、中には、バターをぬったパンが、ありました。
ブロンディーヌはその一つを手にとって、たべました。なかなかおいしいのです。ネコにも、それをちぎってやりましたら、たいへんうれしそうにして、たべました。
たべおわってからブロンディーヌは、きれいなネコのほうへ身をかたむけて、なでてやりながら、いいました。
「ありがとう、あたしのきれいなネコちゃん、あたしにごはんをもってきてくれて、ありがとう。いまから、あたしをパパのところへつれていってくれる? パパは、あたしがいないので、きっとさびしがってるわ」
きれいなネコはかなしそうにないて、頭をふりました。
「あら! あたしのいうことがわかるのね。じゃあ、あたしをかわいそうに思って、こんなおそろしい森のなかで、おなかがへって寒いのとこわいので死んでしまわないうちに、どこかへつれてってちょうだい」
ネコはブロンディーヌをみましたが、そのことばがわかったというしるしに、白い頭でうなずきますと、たちあがって五、六歩、いきかけました。そして、ブロンディーヌがついてくるかどうかをみるために、ふり向きました。
「あたし、ここよ、きれいなネコちゃん。あたし、おまえについていくわ。でも、こんなに、やぶがしげっていては、どうやってとおっていくの? 道なんか、ないじゃないの」
きれいなネコは、へんじするかわりに、やぶのなかへとびこみました。すると、やぶが自然にひらいて、ネコとブロンディーヌがとおるだけの道ができました。そして、ふたりがとおってしまうと、またもとのように、やぶになりました。
このようにしてブロンディーヌは、一時間ほど歩きましたが、先へいくにつれて、森はだんだんまばらになり、草はだんだんときれいになって、花がたくさん咲きはじめ、鳥がうたい、リスが枝をつたわっていくのが、みえるようになりました。
ブロンディーヌは、そのうちに、おとうさんに会えると思い、目にみえるものすべてに、みとれていました。そして、花をつむために、たちどまろうとしました。けれどもネコは、いつもどんどん先へいってしまって、ブロンディーヌがたちどまりたいような顔をするとかなしそうになきました。
一時間ほどいきますと、ブロンディーヌは、りっぱな御殿《ごてん》にでました。きれいなネコは、その金のさくまで、ブロンディーヌを案内《あんない》しました。ブロンディーヌは、どうしてはいったらいいか、わかりませんでした。呼びりんもありませんし、さくはしまっています。きれいなネコがみえなくなって、ブロンディーヌは、ひとりぼっちになりました。
しんせつな牝《め》ジカ
きれいなネコは、じぶんのためにとくにつくられたような、小さな穴から、なかへはいったのでした。そして、たぶん、御殿《ごてん》のなかのだれかにしらせたのでしょう、金のさくが、ひとりでにあきました。
ブロンディーヌは、庭のなかに、はいりました。だれも、いません。御殿の入口のとびらがひとりでにあきました。ブロンディーヌは、まっ白な、めずらしい、大理石《だいりせき》でできている玄関《げんかん》に、はいっていきました。どの部屋のとびらも、入口のとびらと同じように、ひとりでにひらくのです。
ブロンディーヌは、きれいな客間をつぎつぎと、かけまわりました。そして、ついに、金色と青い色のきれいな客間の奥のほうに、一ぴきの白い牝ジカが、いいにおいのするやわらかい草のベッドの上によこたわっているのを、みました。れいのきれいなネコが、そのそばにいました。
牝ジカはブロンディーヌをみますと、たちあがって、そのそばにいき、こういいました。
「これは、ようこそ、いらっしゃいました、ブロンディーヌ。わたしも、むすこのボー・ミニョン〔きれいなネコのことです〕も、長いこと、あなたをおまちしていたのです」
そして、ブロンディーヌが、こわがっているようすをみますと、
「ご安心ください、ブロンディーヌ。あなたは、わたしたちのお友だちなんですから。わたしは、あなたのおとうさまの王さまを、よくぞんじあげておりまして、あなたとおなじように、あのかたにも好意をもっているものです」
「まあ、奥さま、あなたはパパをごぞんじでいらっしゃるなら、あたしを王さまのところへつれてってくださいまし。パパは、きっと、あたしがいないので、さびしがっているにちがいありませんから」
牝ジカは、ため息をついて、いいました。
「かわいいブロンディーヌ。わたしの力では、あなたをあなたのおとうさんのところへ、つれていくことはできないのです。あなたは、リラの森の魔法つかいの支配下にあるのです。わたし自身も、その魔法つかいに、したがっているのです。なにしろ、わたしよりも強い力をもっていますからね。
でもわたしは、おとうさまに、あなたのお身の上が安心だということと、わたしの家にいらっしゃるということがわかるように、夢をおおくりすることは、できるのです」
ブロンディーヌは、おそろしくなって、さけびました。
「まあ、奥さま! あたしは、これからさきも、パパにあうことはできないのでしょうか、あたしのだいすきなパパにあえないなんて?」
「ブロンディーヌ、先のことは、気にかけないことにしましょう。ききわけのいい人は、きっと、むくわれますよ。あなたも、おとうさまに、そのうち会えますよ。でも、いますぐではありませんけれど。おとなしくしてまつことです。ボー・ミニョンも、わたしも、あなたがしあわせになるためには、できるだけのことをいたしますから」
ブロンディーヌは、ため息をついて、なみだをながしました。けれども、泣いたりすることは善良な牝ジカたちの好意にそむくことだとかんがえて、むりにたのしそうに話をすることにしました。
ボンヌ・ビーシュ〔牝ジカの名前で≪善良な牝ジカ≫という意味です〕と、ボー・ミニョンとは、姫のために用意しておいた部屋をみせに、つれていきました。
ブロンディーヌの部屋は、金糸でバラの花をししゅうした絹のしきものが、しいてありました。いすなどの家具るいは、ぴかぴかする絹糸で、鳥や、ちょうちょや、虫などをししゅうした、白いビロードで、おおわれてありました。
ブロンディーヌの部屋のそばには、勉強部屋がありました。その部屋は、うつくしい真珠《しんじゅ》をししゅうした、空色のどんすのしきものが、しいてありました。いすは、銀色の波形《なみがた》もようの布が、大きなトルコ玉のついたくぎでうちつけてありました。かべには、王侯の衣しょうをつけた、気品のある若い婦人と、愛想のいい青年の大きな肖像が二つ、かかっていました。
「この肖像は、どなたのですの?」と、ブロンディーヌは、牝ジカにききました。
「いまは、そのおたずねに、おこたえすることを禁じられておりますの。そのうちに、おわかりになるでしょう。ところで、夕飯の時間ですわ。おいでなさい、ブロンディーヌ、おなかがすいたでしょう」
ほんとうにブロンディーヌは、おなかがぺこぺこで、死にそうでした。牝ジカのあとについて食堂にはいってゆきますと、そこには、奇妙なしたくのしてあるテーブルがありました。
牝ジカのためには、白いサテンの大きなクッションが、床の上においてあって、その前のテーブルの上には、あまみがあって新鮮《しんせん》な、とくべつにえらんだ干草《ほしくさ》がおいてあって、その干草のそばには、すきとおったあたらしい水をいっぱい入れた、金のおけがおいてありました。
牝ジカのまん前には、ネコのために、高いまるいいすがあって、その前に、小魚《こざかな》のあげものや、シギのもも肉のはいっている金のおわんが、おいてありました。そして、そのわきに、しぼりたての牛乳がなみなみとはいっている、水晶《すいしょう》の鉢がありました。
牝ジカと、ネコのあいだに、ブロンディーヌの食卓がありました。食卓の前には、だいだい色のビロードを、ダイアモンドのくぎでうちつけた、ぞうげざいくの小さないすがありました。
食卓には、めんどりと京ツバメのおいしいポタージュのはいっている金ざいくをしたおさらがあり、コップと水さしは、水晶の切子《きりこ》細工で、小さなやわらかいパンが、フォークと同じように金のさじのそばに、おかれてありました。ナプキンは、まだだれもこんなものは見たこともないようなうつくしい白麻上布《しろあさじょうふ》のものでした。
お給仕は、カモシカたちがしました。カモシカたちは、ふしぎなほどブロンディーヌや、牝ジカや、ネコの好きなものを知っていて、どんどん、なんでもはこんできました。
食事はたいへんおいしくて、とびきり上等のとり肉、めずらしいとりの肉、たいへん味のいい魚、おいしそうなにおいの砂糖菓子《さとうがし》やケーキがでました。ブロンディーヌは、おなかがすいていましたので、なんでもたべ、どれもおいしいと思いました。
食事がおわりますと、牝ジカとネコとは、ブロンディーヌを庭へ案内しました。庭には、おいしいくだものがありました。さんざん歩きまわりましたので、ブロンディーヌは、つかれました。ですから、牝ジカからおやすみなさいといわれると、よろこんでねることにしました。
寝室へいきますと、そこにはカモシカが二ひきいて、たいへん上手に、ブロンディーヌの着がえをしてくれました。そして、ブロンディーヌがベッドにはいりますと、ベッドのそばにつきっきりで、番をしてくれました。
ブロンディーヌは、すぐにねむりました。おとうさんのことをかんがえ、はなればなれになっていることを悲しんで、泣きながらねたのでした。
長いねむり
ブロンディーヌは、ぐっすりねむりました。目がさめましたら、どうもねむったときと、ようすがちがうようなのです。
じぶんでも、大きくなったような気がしました。ものの考えかたも、おとなになったように思われました。いろいろなことも、おぼえたようです。
ブロンディーヌは、ねむっているうちに読んだと思われる本を、思いだしてみました。また、書いたり、絵をかいたり、うたったり、ピアノやハープをひいたりしたことを思いだしました。
でも、部屋そのものは、牝ジカが案内《あんない》してくれて、じぶんがベッドにはいったときとおなじ部屋です。
ブロンディーヌは、不安になって、起きあがりますと、かがみの前に、かけよりました。みると、じぶんが大きくなっているのです。ベッドにはいったときからみると、ずっときれいになっているのです。
うつくしいブロンドのかみは、足までたれていました。ほんのりバラ色の白い顔、きれいな青い目、まるまっちい小さい鼻、小さなあかい口、ばら色のほお、すらりとした背たけ、じぶんでもじぶんの目をうたがったほど、うつくしくなっていました。
ブロンディーヌは、びっくりしました。というよりも、おそろしくなりました。で、いそいで着替《きが》えをしますと、牝ジカのいる部屋へ、かけつけました。牝ジカのボンヌ・ビーシュは、はじめて会ったときと、おなじ部屋にいました。
「ボンヌ・ビーシュ! ボンヌ・ビーシュ! おねがいだから、あたしがかわったことをせつめいしてくれませんか! じぶんでも、かわったと感じられるのですもの。きのうの晩、ねたときは、あたし、子どもでしたわ。けさ、目がさめたときは、おとなになっているのです。これは、幻覚《げんかく》でしょうか? それとも、ほんとうに一晩で、大きくなったのでしょうか?」
「ほんとうに、そうなんですよ、ブロンディーヌ。あなたは、いま、十四歳です。あなたは、七年間もねむりつづけたのです。
息子のボー・ミニョンとわたしとは、あなたがたいくつな初等教育をうけないですむようにしてあげたのです。あなたがここへいらっしゃったときは、なんにも知りませんでした。読むこともできませんでした。わたしはあなたを、七年間ねむらせました。そしてわたしたちは、その七年間、ねむったままのあなたを教育することで、すごしたのです。
あなたの目をみれば、あなたがごじぶんの知識をうたがっているのが、わかります。いっしょに、勉強部屋にいらっしゃい。ごじぶんで、じぶんの知っていることをたしかめてみるといいですよ」
ブロンディーヌは、牝ジカについて、勉強部屋にいきました。まず、ピアノにむかって、ひいてみました。そうしたら、とてもじょうずにひけることが、わかったのです。つぎは、ハープをひいてみました。すばらしい音がでるのです。歌をうたえば、じょうずに、うたえます。
こんどは、えんぴつや、えふでを手にとって、デッサンをかいてみました。すらすらかけで、絵の才能も、なかなかどうして、たいしたものです。ブロンディーヌはまた、文章も書いてみました。ほかのものとおなじように、うまく書けました。本も、目で読んでみました。ほとんどどれもこれも、前に読んだらしく、おぼえています。
ブロンディーヌはびっくりし、大よろこびで、牝ジカの首にとびつき、きれいなネコにやさしくほおずりしました。
「まあ、ほんとうにやさしいお友だちだわ。こんなにも、あたしの子ども時代をだいじにしてくださって、あたしの心や才能をのばしてくださって、なんてお礼を申していいやら! あたしの中にあるものが、みんなよくなっているんですもの。みんな、あなたがたのおかげですわ」
牝ジカは、ブロンディーヌに、顔をすりよせてくれました。ネコは、ブロンディーヌの手を、なめてくれました。
こうしたよろこびがすぎたあとで、ブロンディーヌは目をふせて、おそるおそるいいました。
「あたしをあつかましい女だと、思わないでくださいね。でも、あたしが受けたご親切に、なおそのうえお願いすることをゆるしていただければ、おとうさんがどうしていらっしゃるか、おはなししてくださいませんか? いまも、あたしがいなくなったことを、かなしんでいるかしら? あたしがいなくなってからも、しあわせにくらしていらっしゃるでしょうか?」
「あなたのおのぞみは、ごくあたりまえのことですもの、さっそく、かなえてあげましょう。さあ、ブロンディーヌ、この鏡《かがみ》をごらんなさい。このなかには、あなたがおうちを出てからのことから、現在おとうさんがどうしていらっしゃるか、みんな見えますよ」
ブロンディーヌが目をあげて見ますと、鏡の中に、父親が見えました。
王さまは、じりじりしながら、歩きまわっています。だれかを、待っているようすです。フルベット王妃が、はいってきました。そして王さまに、ブロンディーヌのことを話しています。それによると――
グルマンディネがとめるのもきかずに、ブロンディーヌはじぶんでダチョウを御《ぎょ》したいといいました。ダチョウはくるったようになって、リラの森めがけて走りだしたのです。そして、くるまはひっくりかえり、ブロンディーヌは鉄さくをこえて、リラの森の中へなげだされたのでした。
グルマンディネは、おそろしさと、しんぱいのあまり、気がへんになってしまいましたので、王妃が両親の家へかえしたということでした。
このしらせに、王さまは、絶望したようでした。そしてすぐに、リラの森へ、かけつけました。王さまは、かわいいブロンディーヌをさがしに、ごじぶんでリラの森へはいろうとなさるので、力づくで、それをとめなければなりませんでした。
人びとは王さまを、宮殿へつれもどしました。王さまは、おそろしい絶望にかられて、かわいいわが子ブロンディーヌの名前を、たえず呼びつづけています。
そのうちに王さまは、ねむってしまいました。そして夢のなかで、ブロンディーヌが、ボンヌ・ビーシュとボー・ミニョンの御殿にいるのをみたのです。ボンヌ・ビーシュは王さまに、ブロンディーヌをいつか返せるだろうということ、それからブロンディーヌは子ども時代を、しずかにしあわせに送るであろうから安心するようにと、いいました。
やがて、鏡がくもり、みんなきえてしまいました。それから、また明るくなりました。また王さまが、見えました。
王さまは年をとって、かみは白く、かなしそうです。王さまは、ブロンディーヌの小さな肖像画《しょうぞうが》を手にもって、ときどき、なみだをながしながら、それにせっぷんしています。王さまは、ひとりぼっちです。王妃も、ブリュネットも見えません。
ブロンディーヌは、かなしそうに泣きました。
「どうして、おとうさんのそばに、だれもいないのでしょう? 妹のブリュネットや王妃は、どこへ行ったのでしょう?」
「王妃は、あなたがなくなっても、ちっともかなしがらないのです。(なぜならば、みんなは、あなたが死んだものだとばかり思っていたのですから)ですから王さまは、王妃がつくづくいやになってしまって、父親のチュルビュラン王のところへ追いかえしてしまわれたのです。チュルビュラン王は王妃を、塔《とう》のなかにとじこめてしまいました。王妃は怒り、たいくつのために、まもなく塔の中で死にました。
ブリュネットは、ますますいじがわるくなり、どうにも手がつけられないので、王さまは昨年、ブリュネット姫のねたみ心といじのわるいのをかならずなおすといったビィオラン王子に、いそいでお嫁にやってしまいました。王子はブリュネットをじゃけんにあつかいました。ブリュネットも、人にいじわるすることは、じぶんを幸福にするものでないとわかりはじめました。それで、少しはよくなったようです。そのうちにいつか、あなたもブリュネットに会うでしょう。そしてあなたをお手本にして、いまにほんとうによい人になるでしょうよ」
ブロンディーヌは、牝ジカのこまかい話に、感謝しました。そして、もう少しのところで、「いつになったら、おとうさんや妹に会えますか?」と、聞くところでした。
でも、あまりいそいで、牝ジカやネコにわかれたがって、恩《おん》知らずに思われてはいけないと思いましたので、このことをいうのは、べつの機会《きかい》にすることにしました。
ブロンディーヌは毎日を、たいくつしないですごしました。というのは、することがたくさんあったからです。けれども、ときどき、かなしくなりました。
ブロンディーヌは、牝ジカとだけしか、話ができなかったからです。それに牝ジカは、勉強の時間と、食事のときしか、ブロンディーヌといっしょにいなかったのです。ネコは返事ができませんでした。ただ、わかったしるしに、あいずをするだけでした。カモシカは、熱心に、よくブロンディーヌにつかえて、なかなかりこうでしたが、話すことはできませんでした。
ブロンディーヌは、いつもネコといっしょに、散歩をしました。ネコは、いちばんきれいな道や、うつくしい花をおしえてくれました。
牝ジカはブロンディーヌに、けっして御殿の庭のかきねをこえて、森のなかにはいらないことをやくそくさせました。ブロンディーヌは、なぜいけないのかと、たびたび牝ジカにたずねましたが、牝ジカはいつもためいきをついて、こう答えるだけです。
「ねえ、ブロンディーヌ、森の中へはいりたいといわないでくださいね。あそこは、不幸な森なのですから。あの森へは、ぜったいにはいってはいけませんよ!」
ブロンディーヌはときどき、森にそった丘の上にある見はらしに、のぼってみました。そとからは、森の中の大きな木や、きれいな花や、じぶんを呼んでいるようにうたったり、とびまわっているたくさんの鳥が、見えました。
「どうして牝ジカは、あたしをあのうつくしい森へ、やりたがらないのだろう? 牝ジカがあたしを守ってくれているのに、どんな危険《きけん》があるのだろう?」
ブロンディーヌがこのようなことをかんがえているときは、ネコにはブロンディーヌの心の中におこることがわかるらしく、にゃあにゃあないて、ブロンディーヌの服をひっぱり、むりにそこからおろそうとしました。
ブロンディーヌはやさしく笑いながら、ネコのあとについて、さびしい庭園の散歩をつづけるのでした。
オウム
ブロンディーヌが七年のねむりからさめて、六か月ほどたちました。ブロンディーヌにはそのあいだが、ずいぶん長いように思われました。姫は、よく父親のことを思い出しては、かなしんでいました。
牝ジカとネコには、ブロンディーヌの心の中が、わかっているようでした。そういうとき、ネコはかなしそうに、にゃあにゃあなき、牝ジカは、ふかいためいきをつきました。
ブロンディーヌは、じぶんの気にかかっていることでも、めったに話しませんでした。なぜなら、いままでに三度も四度もこたえてくれた牝ジカにたいして、なんどもいうことは、気をわるくするだろうと、おそれたからです。
牝ジカの返事は、こうでした。
「ブロンディーヌ、あなたはおとなしくしていさえすれば、十五歳になると、おとうさまに会えるのですよ。わたしを信じてくださいね。あなたは、これからさきのことについてしんぱいすることはないのですよ。とくに、わたしたちから離れようとかんがえては、いけませんよ」
ある朝、ブロンディーヌはさびしそうに、ひとりでいました。じぶんの単調な、ひとりぼっちの生活について、かんがえていたのです。
そのときブロンディーヌは、部屋の窓を三度しずかにたたく音で、ぼんやり考えていたのを呼びさまされました。
顔をあげてみますと、一羽のきれいなみどり色のオウムがいました。のどと胸のところが、オレンジ色でした。
思いがけず、めずらしいものがあらわれたのにびっくりしたブロンディーヌは、窓をあけて、オウムをなかへ入れてやりました。
ところが、オウムが小さいするどい声で、「こんにちは、ブロンディーヌさん」といったので、いっそうびっくりしてしまいました。
「あたしは、ブロンディーヌさんが話し相手がなくて、ときどきたいくつしているのを知っているので、おしゃべりをしに、きたんですよ。でも、おねがいですから、あたしがきたことは、だれにもいわないでください。でないと、牝ジカが、あたしの首をしめてしまいますからね」
「でも、どうしてなの、きれいなオウムさん? 牝ジカは、だれにもわるいことなんか、しないわ。あの人のきらいなのは、わるい人だけだわ」
「ブロンディーヌ、もしあたしがきたことを、牝ジカやネコにいわないと約束してくれなければ、あたしはとんでいってしまって、もうけっしてきませんよ」
「あなたがそんなにいうなら、きれいなオウムさん、あなたと約束するわ。少し、おしゃべりをしましょう。ずいぶん長いあいだ、あたし、おしゃべりをしなかったから! あなたは、たのしそうね、いきいきしてるわ。あなたはきっと、あたしをおもしろがらせてくれるわ」
ブロンディーヌは、オウムの話を聞きました。オウムは、ブロンディーヌがうつくしいことや、才能があることや、知識があることを、ひどくほめました。
ブロンディーヌは、うれしく思いました。一時間ほどすると、オウムは、明日またくることを約束して、とんでゆきました。
オウムはこのようにして、なん日もきました。そしていつも、ブロンディーヌにおせじをいったり、おもしろがらせました。
ある朝、オウムが窓をたたいて、こういいました。
「ブロンディーヌ、ブロンディーヌさん! あけてちょうだい。あたし、おとうさんのしらせを、もってきたんだよ。でも、ちょっとでも音をさせちゃだめだよ。もしも、あたしが首をしめられるのを見たくなければね」
ブロンディーヌは、窓をあけて、オウムにいいました。
「ほんとにそうなの、きれいなオウムさん、あたしに、おとうさんのしらせを伝えてくれるんですって? はやく話してよ。おとうさまが、どうかなさったの? どうしていらっしゃるの?」
「おとうさんは、げんきだよ、ブロンディーヌ。あんたがいないので、泣いてばかりいるがね。あたしはね、あたしにできるだけの力で、あんたをろうやの中から自由にしてあげると、おとうさんに約束してきたんだよ。けれども、あんたもその気にならなきゃだめだよ」
「ろうやですって! では、あなたは、牝ジカやネコちゃんがいろいろあたしにしんせつにしてくれて、あたしを教育してくれたり、とてもあたしにやさしくしてくれてることを、ごぞんじないのね! あなたが、あたしをおとうさまに会わせてくださる方法を知っているときいたら、ひじょうによろこぶわ。
どうか、オウムさん、あたしといっしょにきてよ。牝ジカのおばさんにしょうかいするから」
「まあ、ブロンディーヌ!」と、オウムはまた、するどい小さな声でいいました。
「あんたは、牝ジカのことも、ネコのことも、よく知らないのよ。あの連中《れんちゅう》は、あたしのことをよく思っていないの。あたしがときどき、あの人たちのいけにえを、ひっさらってしまうものだから。
ブロンディーヌ、あんたは、あんたをここにとめている魔法を破ってしまうおまじないをしないかぎりは、おとうさんに会えないし、この森からも出られませんよ」
「どういうおまじないなんでしょう? あたしは、なんにも知りませんわ。だって、牝ジカやネコにしたって、あたしをつかまえておいたって、なんの利益があるんでしょう?」
「あの人たちのさびしい生活の、たいくつしのぎにはなるわよ、ブロンディーヌ。それでね、おまじないというのは、ただ、あんたが、バラの花を一輪、つめばいいのよ。
そのバラは、あんたをこんな生活から自由にしてくれて、あんたをおとうさんのうでに、かえしてくれるのよ」
「でも、この庭のなかには、バラの木なんて、一本もありませんわ。どうやって、つんだらいいの?」
「そのことは、またいつか話してあげるわよ、ブロンディーヌ。きょうは、もうこれ以上話していられないわ。そら、牝ジカがやってくるでしょう?……でも、バラの力をためすために、牝ジカにバラの花を一輪くださいと、いってごらん。そうしたら牝ジカがなんていうか。ではまた、あした、ブロンディーヌ、あしたね」
オウムは、ブロンディーヌの胸のなかに、恩しらずと反抗の最初のたねをまいたことで、まんぞくして飛んでいってしまいました。
オウムが飛んでいくと、すぐに牝ジカがはいってきました。牝ジカはなにか、しんぱいそうなようすでした。
「いま、だれと話してたの、ブロンディーヌ」と、ひらいている窓を、うたがわしそうに見ながらいいました。
「だれとも、話してなんかいませんでしたわ」
「たしかに、話し声が、きこえたけれど……」
「たぶん、あたしが、ひとりごとをいってたんですわ」
牝ジカは、なんにもいいませんでした。ただ、目になみだをためて、かなしそうでした。
ブロンディーヌは、オウムの話を聞いて、牝ジカやネコがしてくれたいろいろな親切を、まちがった見方でみるようになってしまいました。人間のことばを話し、ほかの動物にも知恵をつけるほどの力をもち、そのうえ、なにも知らなかった子どもを七年もねむらしたまま、たいくつもさせずに一生けんめいに教育をしてくれた牝ジカ、女王のように御殿をかまえ、かしずかれていた牝ジカ、それは、ふつうの牝ジカではなかったのです。
それなのにブロンディーヌは牝ジカがじぶんにしてくれた親切をなにもかも忘れ、ほんとうのことは、なにひとつ語らず、べつにブロンディーヌのためにあやうい目にあってまでつくす理由もない、はじめて会ったこのオウムを、いきなり信じてしまったのです。ただオウムがおべっかをいうので、信じてしまったのでした。
ブロンディーヌは、もう牝ジカやネコがじぶんにしてくれたしずかなしあわせな生活に感謝する気持ちはなく、オウムのいうとおりにしようときめてしまったのです。
その日、ブロンディーヌは、牝ジカにむかってたずねました。
「どうしてボンヌ・ビーシュさんは、あなたのもっている花のなかで、いちばんきれいで、いちばんかわいらしいバラの花を、あたしに見せてはくださらないの?」
牝ジカはからだをふるわせて、さも困ったというふうでした。
「ブロンディーヌ、ブロンディーヌ、あんな、だれでもさわる者を刺《さ》すような、たちのわるい花を、見たがるもんじゃありませんよ。ブロンディーヌ、もうわたしに、バラの話なんか、しないでちょうだい。あなたは知らないけれど、この花は、あなたにとって、たいへんわるい花なんですよ」
牝ジカのようすがたいへんきびしかったので、ブロンディーヌは反対することができませんでした。
その日は、みんなが、かなしそうでした。ブロンディーヌは気づまりで、きゅうくつでした。牝ジカはきげんがわるく、ネコはさびしそうでした。
翌日、ブロンディーヌは、窓にかけよりました。そして窓をあけると、すぐさまオウムが、とびこんできました。
「ブロンディーヌ、どうだった、あんたがバラの話をしたら、牝ジカはいやな顔をしたでしょう? あたし、あんたに、あのきれいな花をとる方法をおしえてあげるって約束したわね。それはね、あんたがこの庭から出て、森のなかにはいっていくことなのよ。あたし、いっしょにいくわ。世界じゅうで、いちばんきれいなバラのあるお庭に、つれてってあげるわ」
「でも、どうしたら、この庭から出られるかしら。ネコがいつも、あたしの散歩についてくるのよ」
「追っぱらっちゃいなさいよ。どうしても行かないようだったら、ネコなんかほったらかしといて、出ちまいなさい」
「そのバラのあるところが遠いと、あたしのいないことが、わかっちまうでしょう」
「一時間以上は、歩かなくちゃならないわ。牝ジカは念を入れて、あんたからなるべく遠くに、バラをおいたのよ。あんたがかんたんに出ていかれないようにね」
「でも、どうして牝ジカは、あたしをとらえておこうっていうの。牝ジカほど力のあるものが、子どもを教育することのほかに、べつのたのしみってないのかしらね」
「そのことは、もっとあとで説明してあげるわ、ブロンディーヌ。あんたが、おとうさんのところへかえったときにね。さあ、しっかりしなさいよ。朝ご飯がすんだら、ネコを追っぱらっといて、森の中へおいでなさいよ。あたし、森の中でまってるから」
ブロンディーヌは約束して、牝ジカにみつからないように、そっと窓をしめました。
朝ご飯がすみますと、ブロンディーヌはいつものように、庭へおりました。ブロンディーヌが、いくら追っぱらっても、ネコはただかなしそうに、にゃあにゃあないて、ついてきます。
庭の出口ヘつうじる道に出たとき、ブロンディーヌはまた、ネコを追いはらおうとしました。
「あたし、ひとりになりたいのよ。あっちへいきなさい!」
ネコは、ブロンディーヌのいったことがわからない、といったようすをしていました。ブロンディーヌは、がまんができなくなって、思わずネコをけとばしました。
ネコはかなしそうにないて、宮殿のほうへにげてゆきました。
その鳴き声を聞いて、ブロンディーヌはからだがふるえました。そしてたちどまって、バラのことなんか思いきり、ネコを呼びとめて、いままでのことをみんな牝ジカに話してしまおうと思いました。
けれども、なんだかばつがわるくて、そうすることができませんでした。そのまま歩いて出口のほうへいき、身ぶるいしながら、出口のとびらを開けました。そして、森のなかに、はいりました。
すぐに、オウムが、やってきました。
「元気をおだし、ブロンディーヌ! あと、一時間だよ。そうすればバラも手にはいるし、おとうさんにもあえる」
このことばに、ブロンディーヌは、うしないかけた決心を、とりもどしました。ブロンディーヌは、枝から枝へととびうつって道をおしえるオウムのあとについて、小道をすすんでいきました。
牝ジカの庭からみたときは、あんなにきれいだと思っていた森は、歩いでいくにつれて、だんだんと道がわるくなり、いばらや石ころで歩きにくくなりました。もう、鳥の声も聞こえなくなり、花も咲いていなくなりました。
ブロンディーヌは、なんともいえない、いやな気持ちになりました。オウムは、はやく歩かせようと、しきりにせきたてます。
「はやく、はやく、ブロンディーヌ、時間がないんだから。もしも牝ジカがあんたのいなくなったのを知って、追いかけてくると、あたしは首をしめられてしまうし、あんただっておとうさんにあえなくなる」
ブロンディーヌは息がきれて、つかれはて、うではきずつき、くつはぼろぼろになり、もうこれ以上歩くのはいやだといおうとしたとき、オウムがさけびました。
「さあ、ついたよ、ブロンディーヌ、ここがかきねで、このなかにバラがあるんだよ」
道のまがりかどに、かきねでかこったところがありました。オウムが、かきねの木戸を、あけました。
そこの地面はかわききって、石ころだらけでした。しかし、そのまんなかのところに、世界じゅうのバラのなかで、こんなにうつくしいバラはないと思われるほど、りっぱな花をつけたバラの木が一本、うわっていました。
「ブロンディーヌ。それをおとり。あんた、とうとう手に入れたね」
と、オウムが、いいました。
ブロンディーヌは、バラのとげで指をふかくさされながら、その枝をつかみました。そして、バラの花をむしりとりました。
ブロンディーヌがバラの花を手にもったそのとき、大きな笑いごえが、しました。
「ありがとう、ブロンディーヌ。これであたしは、牝ジカの力でとらえられていた監獄《かんごく》から、自由になれたんだよ。わたしは、おまえの悪霊《あくれい》さ。これからは、おまえはわたしの自由になるんだよ」
そういったとき、ブロンディーヌの手のなかのバラの花は、消えてしまいました。
「はっ、はっ、はっ!」とこんどはオウムが笑いました。
「ありがとう、ブロンディーヌ。あたしは、きょうからまたもとの、魔法つかいにかえることができる。こんなにぞうさなく、おまえの気持ちをきめさせることができたとは、思ってもいなかったよ。わたしはおまえをおだてて、じつにあっけなく、おまえを恩しらずの、いやな女にすることができたもんだ。おまえは、あたしの大敵《たいてき》であるおまえのお友だちを、破滅《はめつ》させてしまったんだよ」
こういいおわると、オウムもバラといっしょに、消えてしまいました。あとには、ブロンディーヌだけが、木のしげった森のなかに、たったひとりで、のこされたのです。
後悔《こうかい》
ブロンディーヌは、びっくりしました。じぶんのしたことが、みんなおそろしくなってきました。七年間もじぶんの教育につくし、じぶんのためにつくしてくれた友だちを、裏切ってしまったのです。
牝《め》ジカやネコは、ブロンディーヌをゆるして、受けいれてくれるでしょうか? もしも牝ジカやネコが、じぶんを受けいれてくれなかったら、これからじぶんはどうなるのだろう? それから、あのわるいオウムがいった、『おまえは、じぶんのお友だちを、破滅《はめつ》させてしまったんだよ』ということばの意味は、どういうことなのだろう?
ブロンディーヌは、牝ジカの御殿へかえるために、歩いていこうと思いました。いばらや枝のとげが、うでや顔や足を引きさくのもかまわずに、くさむらをくぐって道をさがし、歩きつづけました。そして三時間も苦しんだのち、やっと牝ジカとネコの御殿の前に、出ました。
ところが、あのりっぱな御殿はなくなって、そのあとは、荒《あ》れほうだいになっているではありませんか。御殿のまわりにあったうつくしい木や花のかわりに、アザミやイラクサがしげっているのをみたとき、ブロンディーヌのおどろきは、どんなでしたでしょう?
びっくりぎょうてんし、なげきかなしんて、ブロンディーヌは、牝ジカやネコがどうなったか知ろうと思って、荒れはてた屋敷あとへはいってみようと思いました。そのとき、一ぴきのヒキガエルが、つみ重なっている石のなかから出てきて、ブロンディーヌの前に、やってきました。
「なにをさがしているんだい? おまえの恩しらずが原因で、おまえの友だちは死んでしまったじゃないか。あっちへいきな。おまえなんかがいると、あの連中《れんじゅう》の思い出をはずかしめることになる」
「ああ、気のどくな牝ジカとネコちゃん! あたしは死んで、あたしがひきおこした不幸のかずかずを、おわびしなければならない!」
ブロンディーヌはこうさけんで、泣きじゃくりながら、石ころとアザミの上にたおれました。心の苦しみから、するどくとがった石ころも、アザミの痛みも感じないで、長いあいだ、いつまでも泣いていました。
やっとおきあがりますと、ブロンディーヌは、どこか身をかくす場所はないかと、あたりをみまわしましたが、付近には、石ころとイラクサしかありませんでした。
「いいわ、牝ジカとネコちゃんの墓だと思われるこのあたりで、じぶんの罪をつぐなうことができるなら、おそろしいけものにひきさかれようが、飢《う》えとかなしみに死のうが、かまわないわ」ブロンディーヌがこういい終わったとき、
「後悔《ざんげ》は、罪のかずかずをつぐなうことができる」という声がきこえました。
顔をあげてみましたが、大きなまっ黒なカラスが頭の上をとんでいるのしかみえません。ブロンディーヌは、いいました。
「ああ、どんなに苦しくてもいいから、後悔というもので、牝ジカやネコちゃんの命が、助かるものなら!」
すると、また、声がしました。
「しっかり、おやり、ブロンディーヌ。おまえのしたあやまちを、おまえの後悔で、つぐないなさい。苦しくても、負けてはいけないよ」
あわれなブロンディーヌは起きあがって、このかなしい場所から遠ざかりました。そして小道を歩いていきますと、森のなかに出ました。
その森は、大木があるので、草は生えていなくて、地面はコケでおおわれていました。ブロンディーヌは、かなしみと疲れでへとへとになってしまって、そのきれいな大木の一本の根もとにたおれて、泣きだしました。
「しっかりおし、ブロンディーヌ、希望をもつんだよ!」
また、こんな声が、聞こえました。みるとじぶんのそばには、一ぴきのカエルしかいません。そのカエルは、さも同情しているような目つきで、ブロンディーヌのほうをみていました。
「かわいそうなカエルさん、おまえはあたしが苦しんでいるのを、同情してくれてるようね。あたしはどうなるんでしょうね! このとおり、この世でたったひとりになってしまって?」
「勇気と、希望をおもち!」と、またどこかで、声がしました。
ブロンディーヌは、ためいきをつきました。そして、のどがかわいて、おなかがすいてきたので、なにか果物《くだもの》でもみつかりはしないかと、あたりを見まわしました。
でも、なにもありません。ブロンディーヌは、ぼろぼろ、なみだをこぼしました。
どこからか鈴の音《ね》がきこえてきましたので、ブロンディーヌはかなしい気持ちから、すくわれました。みると一頭の牝《め》ウシが、ゆっくりと近づいてきます。
牝ウシはブロンディーヌのそばまでくると、たちどまって頭をさげ、じぶんの首にかかっているおわんをみせました。
ブロンディーヌは、この思いがけない助けを感謝しながら、おわんを首からとって、ウシの乳をしぼりはじめました。そしてブロンディーヌは、二わんほど、牛乳をおいしくのみました。
牝ウシは、おわんを首につけてくれというそぶりを、またしました。ブロンディーヌはそうしてやってから、牝ウシの首にせっぷんして、かなしそうにいいました。
「ありがとう、かわいい白い牝ウシさん。きっとこのめぐみぶかいお助けは、気のどくなあたしのお友だちが、別の世界から、あたしが後悔しているのをみて、なさってくださったのにちがいないわ。そして、そのおそろしい境遇《きょうぐう》をなぐさめてくださろうとして、なさったのだわ」
「後悔は、かずかずのあやまちを、ゆるしてくれる」と、また声がしました。
「ああ! あたしが何年も、じぶんのあやまちを泣いてすごしたところで、あたし自身はじぶんのあやまちを許すことは、できないでしょうよ。永久に、許すことができないでしょうね」
そのうちに、夜が近づいてきました。ブロンディーヌはかなしみながらも、おそろしいけものをさけるためにしなければならないことを、考えなければなりませんでした。
ブロンディーヌは、もううなり声を聞いたような気がしました。みると、そこから数歩《すうほ》さきのところに、枝がいくつも重なり合っている何本もの低い木にとりかこまれた、小屋《こや》のようになっているところがありました。
ブロンディーヌは、からだをかがめて、その中へはいりました。枝を上へあげて結べば、かわいらしい小さな小屋ができそうでした。
ブロンディーヌは、夕暮《ゆうぐれ》のあかりをたよりに、小さな小屋をつくりました。そしてコケをたくさんはこんできて、寝床やまくらをこしらえ、枝を何本か折って、地面につきさし、小屋の入口をかくしました。それから、つかれたからだを、よこたえました。
翌日、日が高くなってから、目をさましました。最初のうちは、じぶんのいまの境遇《きょうぐう》がはっきりのみこめなくて、考えをまとめるのに困りました。でもすぐに、かなしい事実がはっきりしてきて、きのうのかなしみに、またなみだをながしました。
ブロンディーヌは、またおなかがへってきたので、たべるものが、心配になってきました。そのとき、また牝ウシの鈴が、聞こえたのです。
しばらくすると、白い牝ウシが、ブロンディーヌのそばに、あらわれました。きのうと同じようにブロンディーヌは、おわんをとって乳をしぼり、飲みたいだけ飲みました。
こういうふうにして、毎日白い牝ウシは、朝も、昼も、夕方もきてくれて、ブロンディーヌにつつましい食事を、あたえてくれました。
ブロンディーヌは、気のどくな友だちのことを考えてなみだをながし、じぶんのあやまちをせめることで、つらい時間をすごしていました。でもブロンディーヌは、できるだけのことをして、気をまぎらそうとしました。部屋のなかをかたづけたり、コケや木の葉で寝床《ねどこ》を作ったり、木の枝をあつめて、いすのようなものを作ったりしました。細くて長いとげをうまく使って、ピンや針をつくり、小屋のそばでつんだ大麻《たいま》の茎《くき》で糸をこしらえ、いら草のために、ぼろぼろになったくつを、じょうずにつくろいました。
こんなふうにして六週間くらしましたが、ブロンディーヌのかなしみは、いつも同じでした。
ブロンディーヌをほめていいことは、こうしたかなしい、ひとりきりの生活に耐《た》えていたことではなくて、じぶんのあやまちを心から後悔していたことです。ブロンディーヌは、後悔することで、牝ジカとネコの生命をとりもどすことができるなら、よろこんで一生涯《いっしょうがい》、この森のなかですごしてもいいと思ったでしょう。
カメ
ある日、ブロンディーヌはいつものように、小屋の入口に腰をおろして、友だちのことや、おとうさんのことを考えてかなしんでいますと、目の前に、とても大きなカメがいるのに気づきました。
「ブロンディーヌ、ブロンディーヌ、もしおまえがわたしのいうとおりにするなら、この森から出してあげるけれど、どうだね」と、カメは、しゃがれた、年とった声でいいました。
「カメの奥さん、どうしてあたしが、森から出たがっていると思うの? あたしのお友だちが、あたしのために死んだのは、ここなのよ。だからあたしも、ここで死にたいの」
「あの人たちが、ほんとに死んだと思ってるのかい、ブロンディーヌ?」
「なんですって! そんなことってあるかしら……いいえ、ちがうわ、あたし、この目で、御殿がなくなっているのを見たんだもの。オウムも、ヒキガエルも、あの方《かた》たちはもうこの世にいないっていったわ。カメさんはきっと、親切にあたしをなぐさめてやろうっていうのね。
でも、だめよ、あたし、あのかたたちにまた会えるなんて望みは、とてももてないわ。かりにあのかたたちが生きていたら、死ぬようなめにあわせたこのあたしを、こうしてひとりでほっとくはずがないでしょう?」
「だれが、そんなことをいったんだね。おまえをひとりでほっとくのは、いまあの人たちに力がないからさ。ブロンディーヌ、おまえは後悔というものが、たくさんのあやまちをつぐなってくれるということを、知ってるだろうが」
「まあ、カメの奥さん、もしほんとうに、あのかたたちが生きているなら、あのかたたちがああなったのは、あたしのせいじゃないって、おっしゃってくださいませんか、そしていつかはあのかたたちに会えるんだということを、あたしにおっしゃってくださいませんか? あたしは、あのかたたちに会えることができるなら、どんなことでもしますわ」
「ブロンディーヌ、わたしはいま、おまえの友だちについて、なんにも話すことはできないが、もしおまえが六か月のあいだ、なにも質問をしないで、あたしの背中にのって旅へ出ようという勇気があるなら、何もかもわかる場所まで、おまえをつれてってあげよう」
「あたしのたいせつなお友だちがどうしているかわかりさえするなら、カメの奥さんのおっしゃるとおりにすると、お約束しますわ」
「だいじょうぶかな、ブロンディーヌ。六か月間、わたしの背中からおりることはできないんだよ。そして、一言もしゃべっちゃいけないんだよ? 出かけた以上、もし最後までいくという勇気がないとすると、おまえは永久に、魔法つかいのオウムや、その姉妹のバラの花の支配をうけなければならないんだよ。そして、六週間も生きていられたという、小さな救《すく》いさえも、つづけてうけることができなくなるんだよ」
「すぐ出発しましょう、カメの奥さん。あたしは、不安や心のくるしみをうけているよりも、疲れや退屈で死ぬほうが、よっぽどましですわ。あたしは、カメさんのお話で胸のなかに希望がわいてきましたから、どんなつらい旅でもやってみる勇気がでてきました」
「では、ブロンディーヌ、のぞみどおりにやってみなさい。わたしの背中にのっていれば、飢《う》えも、のどのかわきも、ねむけもないんだよ。長い旅行中に、なんの事件もないんだから、少しも心配することはないんだ」
ブロンディーヌは、カメの背中にのりました。
「さあ、だまるんだ! いきついて、わたしが最初にしゃべるまで、一言も口をきいちゃいけないよ」と、カメはいいました。
長い旅
ブロンディーヌの旅は、カメがいったように、六か月つづきました。森から出るだけで三か月かかり、それから草木のない野原に出て、その野原をとおりすぎるのに、六週間かかりました。野原のはずれに、牝ジカとネコの御殿を思い出させるような、お屋敷《やしき》がみえました。そのお屋敷の並木道につくまでに、たっぷり一か月かかりました。
ブロンディーヌは、待ちどおしくて、じりじりしてきました。あの屋敷までいけば、友だちの運命がわかるのでしょうか? 早くそれが知りたくてたまらないのに、聞くことができないのです。もしカメの背中からおりて歩くことができたら、その屋敷までは、十分あれば行ってしまうでしょう。
しかしカメは、同じようにのろのろ歩いています。ブロンディーヌは、話すこともおりることも禁《きん》じられているのを、おぼえていましたから、じりじりするのをじっとがまんして、あきらめてまっていました。カメは、いそぐどころか、わざとのろくしているように思えました。
この並木道をとおるだけで、十五日もかかりました。ブロンディーヌにはそれが、十五世紀も〔一世紀は百年間です〕かかったような気がしました。ブロンディーヌは、そのお屋敷と入口を、ずっと見つづけていました。そのお屋敷には、物音ひとつしないし、少しも人のいるようすが感じられません。
やっと、百八十日間の旅がおわって、カメは足をとめると、ブロンディーヌにいいました。
「さあ、おりるんだよ、ブロンディーヌ。おまえは、勇気で勝ったのだよ。そしておまえは、よくいいつけを守ったので、約束のごほうびがもらえるというわけさ。目の前の、小さな門をおはいりなさい。そして最初に出会った人に、しんせつな仙女《せんにょ》さまにおめにかかりたいと、たのみなさい。おまえのお友だちのことは、その仙女がおしえてくれるよ」
ブロンディーヌは、ゆっくりと地面におりました。長いあいだ足を動かさなかったので、足がこわばってしまいはしないかと心配していましたが、牝ジカやネコの御殿で、花をつんだり、ちょうをおいかけていたときと同じように、足がかるく感じられました。
ブロンディーヌは、心からカメにお礼をいって、おしえてもらった扉《とびら》を、いそいであけました。すると、すぐ目の前に、まっ白な服をきた若い青年がいて、やさしい声で、だれに会いたいのかと、たずねました。
「あたくしは、しんせつな仙女さまに、おめにかかりたいのですが。ブロンディーヌが、おりいっておめにかかりたいと、おっしゃってくださいまし」
「お姫さま、どうぞわたくしに、ついてきてください」と、若い人がいいました。
ブロンディーヌは、おずおずと、その人のあとについていきました。きれいな客間をいくつもとおり、そのあいだになん人も若い人に会いました。みんな、はじめの人とおなじように白い服をきて、にこにこしながらブロンディーヌを見ていました。そのようすは、どうも顔みしりのようです。
やっと客間に来ましたが、いろいろな点で、その客間は、リラの森の牝ジカの客間にそっくりでした。ブロンディーヌは、あのときを思いだして、胸がいたくなりました。
あまりかなしい思い出にふけっていたので、ブロンディーヌは、白い服をきた青年がいなくなったのに、気がつきませんでした。
ブロンディーヌは、かなしい気持ちで、客間のなかの家具類をみまわしていました。そうしたら、リラの森の御殿になかった家具が一つあるのに、気づきました。
それは、金と象牙《ぞうげ》でみごとな細工《さいく》をした、大きな衣しょうだんすでした。とびらはしまっていましたが、それをみているうちに、ブロンディーヌは、なんともいえない気持になって、そのほうにひきつけられ、そのたんすから目をはなすことが、できませんでした。
そのとき、ドアがあいて、りっぱなよそおいの、まだ若い、うつくしい貴婦人《きふじん》が、はいってきて、ブロンディーヌのそばにきました。
「わたくしに、なにか御用ですの?」と、その人は、ものやわらかな、やさしい声でいいました。
「ああ、奥さま!」と、ブロンディーヌは足もとにひざまずいて、いいました。
「あなたさまが、わたくしの親しい、たいせつなお友だちであったボンヌ・ビーシュとボー・ミニョンのことをおしえてくださると聞いて、まいったものでございます。あなたさまはおそらく、わたくしが従順でなかった罪のために、あのかたたちを失ってしまったことは、ごぞんじでございましょう。
わたくしは長いあいだ、あのかたたちが死んだものだとばかり思って、泣いていました。そうしましたらカメが、そのうちに会えるからと元気づけてくれて、わたくしをここへつれてきてくれたのでございます。どうぞ奥さま、あのかたたちが生きているかどうか、お話しくださいまし。あのかたたちにおめにかかれるしあわせをえられますなら、わたくしはどんなことでもいたすつもりでおります」
しんせつな仙女はかなしそうに、こういいました。
「ブロンディーヌ、あなたは、お友だちがどうなったかということは、すぐにわかりますよ。けれども、それがわかっても、勇気や希望をうしなってはいけませんよ」
こういいながら仙女は、ふるえているブロンディーヌをたたせて、さっきからブロンディーヌの目をひきつけていたタンスの前に、つれていきました。
「さあ、ブロンディーヌ、ここにたんすのかぎがありますから、じぶんであけてごらん。そして、じぶんの勇気をためしてごらん」
そういって仙女は、金のかぎを手わたしました。
ブロンディーヌは、手をふるわして、たんすをあけました……たんすのなかに、牝ジカとネコの皮が、ダイヤモンドのくぎでうちつけてあるのをみて、ブロンディーヌは、どうしたでしょうか?
これをみて、不幸なブロンディーヌは、胸が張りさけるようなさけび声をあげて、仙女の胸のなかにたおれ、気をうしなってしまいました。
そのとき、ドアがまたひらいて、かがやくようにうつくしいひとりの王子が、いそいでブロンディーヌのほうへ走りよりました。
「まあ、おかあさま! かわいいブロンディーヌにとっては、少し試《ため》しかたが、ひどすぎますよ」
「へえ、そうかね、おまえ! わたしだって、この子のために胸がどきどきしていますよ。でも、おまえにしても、これが最後の罰で、これであの子が、リラの森のわるい精霊《せいれい》のむごい仕打《しう》ちから永久にすくわれるのだということを知っているではありませんか」
そういいながら、しんせつな仙女は、手にもっていた小さなつえで、ブロンディーヌにさわりました。するとブロンディーヌは、すぐ、じぶんにかえりましたが、ひどくかなしんで、泣きじゃくりながら、さけびました。
「あたしを死なせてください。生きていることが、たえられません。もうあたしには、希望もなければ、幸福もありません。あたしの大切なお友だち、あたしももうすぐあの世へいって、いっしょになりますわ」
仙女は、ブロンディーヌをだきしめて、こういいました。
「ブロンディーヌ、かわいいブロンディーヌ、おまえのお友だちは生きていて、あなたを愛しているんですよ。このわたしがボンヌ・ビーシュで、ここにいるのが、むすこのボー・ミニョンです。リラの森のわるい精霊が、むすこのちょっとしたすきを利用して、わたしたちにおそいかかり、あなたも知っている牝ジカやネコのすがたに、わたくしたちをかえてしまったのです。
わたしたちは、あなたがあのバラの花をとってくれれば、もとのすがたになれたのです。でもあのバラは、あなたの悪霊で、それをとれば、あなたが不幸になることを知っていたので、わたしはあんなすがたのままでいることにしていました。そしてあのバラをあなたの目からかくすために、わたしのすまいからできるだけ遠くにおいておいたのです。
ところがオウムが、うまくあなたに近づいてしまったのです。そのあとのことは、あなたがごぞんじのとおりです。ただ、ごぞんじないことは、わたしたちがあなたのなみだと、あなたがひとりぼっちでいることに、どんなに苦しんだかということです」
ブロンディーヌは、仙女にだかれたままで、仙女や王子に礼をのべ、いろいろとたずねました。
「よくあたしの用をしてくれた、あのカモシカたちは、どうなったでしょうか?」
「あなたをここへつれてきた、白い服《ふく》の青年たちが、みんなそうですよ。あの人たちも、わたしたちとおなじように、あんなかなしいすがたにさせられていたのです」
「それから、あたしに毎日乳をくれた、あのやさしい牝ウシは?」
「あれは、わたしたちが仙女の女王さまのおゆるしをもらって、あなたの苦しみを少しでもかるくしてあげようと思って、あなたに送ったのです。あなたを勇気づけた声は、あれはカラスで、やはりわたしたちが送ったのです」
「では、カメをおよこしになったのも、やはりあなたさまですね」
「そうですよ、ブロンディーヌ。仙女の女王さまは、あなたのかなしんでいるようすに感動なさって、長い退屈《たいくつ》な旅をあなたにさせて、あなたがすなおになったかどうかをためし、わたしとむすこが死んだとあなたに思わせて、それをあなたのさいごの罰にして、それを条件に、リラの森の悪霊《あくれい》から、あなたをとりもどしてくださったのです。わたしは仙女の女王さまに、せめてさいごの罰だけはおゆるしくださるようにとお願いしたのですけれども、聞いてはくださらなかったのです」
ブロンディーヌは、もう永久にうしなってしまって、二度と会えることができないと思っていた友だちの話を聞いたり、その顔をながめたり、せっぷんしたりして、いつまでもそうしていました。
まもなくブロンディーヌは、おとうさんのことを思いだしました。王子はすぐにブロンディーヌの心をさっし、仙女にそれを知らせました。
「さあ、ブロンディーヌ、おとうさまにおめにかかるしたくをしなさい。もう知らせてあるので、おとうさまはまっていますよ」
そのことばと同時に、ブロンディーヌは、真珠《しんじゅ》と黄金でかざられたくるまのなかに、いました。右がわには仙女が、そして足もとには、しあわせそうに、やさしくブロンディーヌをながめている王子がいました。
くるまは、まばゆいようにまっ白な、四羽の白鳥にひかれていきました。白鳥はひじょうな速さでとんだので、ベナン王の宮殿へつくのに、五分しかかかりませんでした。
王さまの家来《けらい》は、みんな王さまのまわりにあつまって、ブロンディーヌをまっていました。くるまが見えたとき、耳がつんぼになるようなよろこびの声があがりましたので、白鳥がびっくりしてしまって、道をまちがえたくらいでした。
白鳥たちを御《ぎょ》していた王子のすがたは、けらいたちの目をひきました。くるまは、宮殿の大きなかいだんの下で、とまりました。
ベナン王は、ブロンディーヌのほうへ、かけよりました。ブロンディーヌはくるまからとびおりて、王さまのうでのなかに、からだをなげいれました。
ふたりはそうやって、いつまでもだき合っていました。みんなが泣きました。しかしそれは、うれしなみだでした。
それから王さまは、ブロンディーヌの身を守り、そだててくれた仙女の手を、やさしくせっぷんしました。それから王子をせっぷんしましたが、王さまはこのパルフェ〔≪完全な≫という意味〕王子がなかなかの美男であると思いました。
ブロンディーヌの帰宅を祝って、八日間もお祝いがつづきました。
八日目に仙女は、じぶんの屋敷にかえろうと思いました。ところがパルフェ王子とブロンディーヌとが、わかれることをたいへんかなしがりましたので、王さまと仙女とは話しあって、ふたりがもうわかれなくてもいいようにしました。
王さまと仙女が結婚し、ブロンディーヌはパルフェ王子と結婚したのです。王子は、リラの森にいたネコのボー・ミニョンとおなじように、ブロンディーヌをいたわりました。
妹のブリュネットは、すっかり性格がなおって、たびたびブロンディーヌに会いにきました。夫のビオラン王子も、ブリュネットがいい王妃になるにつれて、だんだんやさしい夫になり、ふたりともたいへん幸福になりました。
ブロンディーヌは、もう心の苦しみなどは、まるでなくなり、じぶんによく似《に》た娘たちや、パルフェ王子によく似た息子たちを、つぎつぎと産みました。みんながおたがいに愛しあい、そのまわりの人たちも、みんな幸福にくらしました。
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いい子のアンリ坊や
おかあさんの病気
むかし、ご主人をなくした、まずしい女のひとが、たったひとりの坊やのアンリと、くらしていました。おかあさんは坊やを、たいへんかわいがっていました。かわいがっているのはもっともなわけで、この子くらいきれいな子は、ちょっと見あたりませんでしたから。アンリはまだ七つだというのに、おかあさんが生活のために作ったものを売りに行っているあいだじゅう、家のなかの仕事をしていました。床をはいたり、あらったり、台所のしごとをしたり、畑をたがやしたり、それがすむと、おかあさんの服やくつのつくろいまでするのです。そのほか、じぶんでできることはなんでも、いすやテーブルまでも作りました。ふたりが住んでいた家は、じぶんたちの家でしたが、人里《ひとざと》はなれたところにありました。まどからは、高い山が見えました。たいへん高い山なので、まだだれも頂上までのぼった人はありませんでした。それにその山には、急流や、そそり立つ岩や、人のこえられない難所《なんしょ》がありました。
親子は幸福に、みちたりた毎日をすごしていました。ところが、ある日、きゅうにおかあさんが病気にかかってしまったのです。おかあさんは、お医者を知りませんでした。だいいち、お医者にはらうお金など、もってはいなかったでしょう。かわいそうなアンリは、おかあさんの病気をなおすのにどうしたらいいか、知りませんでした。のどがかわくといえば、ただ水をのませるだけです。というのは、水だけしか、あたえるものがなかったからです。坊やは昼も夜も、おかあさんのそばに、つきっきりでした。そして病人のベッドの足元で、なにもつけないパンをかじっていました。おかあさんがねむりますと、アンリはその寝顔《ねがお》をながめて、さめざめと泣いていました。病気は、日一日と、おもくなっていきました。とうとうしまいに、このかわいそうな母親は、いよいよ息をひきとると思われました。もう口がきけず、なにもたべられません。ベッドの下でひざまずいて泣いている小さい坊やの顔も、見分けられないのです。アンリは絶望のあまり、さけびました。
「おなさけぶかい仙女《せんにょ》さま、お助けくださいまし、かわいそうなおかあさんの命を、すくってください!」
アンリがこの言葉を口にすると、さっと窓がひらいて、うつくしい着かざった貴婦人が、はいってきました。そしてやさしい声で、アンリにたずねました。
「わたしに、どういうことをして欲しいというのかね、かわいい坊や? おまえが呼んだので、わたしはきたのだが」
「奥さま」とさけんで、アンリはそのひざに身をなげかけると、両手をねじ合わせました。「あなたさまがおなさけぶかい仙女さまでしたら、どうかかわいそうな、ぼくのおかあさんの命をすくってくださいまし。おかあさんは、死にそうなんです。そうなれば、この世でぼくは、ひとりぼっちになってしまうのです」
仙女は感動したふうで、アンリを見ました。それから一言もいわずに、気のどくな母親のそばに行って、その上にかがみこみますと、注意ぶかくその容体《ようだい》をみてから、こういいました。
「かわいそうな坊や、わたしには、おまえのおかあさんをなおす力はないね。それができるのは、おまえだけなんだよ。もしもおまえが、これからわたしのいう旅行をやってのける勇気がありさえすればね」
「お話しください。奥さま、いってください、おかあさんをすくうためなら、どんなことでもしますから」
すると仙女は、いいました。
「おまえは、この窓から見えるあの山の上のほうに生えている≪生命の草≫をさがしに行かねばならない。その草がみつかったら、その汁をしぼって、おかあさんの口にそそぐんだよ。そうすればおかあさんは、すぐに元気になるよ」
「すぐ、出発しましょう。でも、ぼくがいないあいだは、だれがおかあさんの看病《かんびょう》をしてくれるでしょうか? それに……」そういってアンリは、なおいっそうはげしく泣きじゃくりました。「ぼくが帰って来るまえに、おかあさんは死んでしまうでしょうね」
「安心おし、坊や。もしおまえが生命の草をさがしに行くなら、おかあさんはおまえが帰ってくるまでは、なにも無《な》くてもすむだろうよ。おかあさんは、いまおまえが見ているそのまんまで、いるわけだ。でも、いろいろと危険なめにあうよ。その草を手に入れるまでは、ずいぶん苦労しなければならないよ。それを持って帰るには、たいへんな勇気と大きながまんづよさが、どうしても必要だね」
「ぼくは勇気があるし、がまんづよいから、だいじょうぶです。ただ、これだけは教えてくださいな、山にいっぱいある草の中から、どうやってその草を見分けるんですか」
「頂上についたら、その草を管理している先生を呼べばいい。そして、わたしから聞いてきたんだと、いえばいい。先生は、一本の草をおまえにくれるだろうよ」
アンリは仙女に礼をいって、その手にせっぷんしました。そしてなんどもなんどもおわかれのせっぷんをおかあさんにしてから、パンをひとつポケットに入れ、ていねいに仙女におじぎをして、出て行きました。
仙女は、七歳のこのまずしい坊やが、いままで頂上へ行こうとしてみんな命をおとしたという、そんなおそろしい山へ、たったひとりぼっちでのぼって行こうとするのを見て、微笑《びしょう》していました。
カラスとオンドリとカエル
アンリ坊やは、山をめがけて元気よく歩いていきましたが、山は思ったよりもはるかに遠くて、三十分もあれば山のふもとまで行かれると思っていたのに、たっぷり一日じゅうかかりました。
道の三分の一あたりでアンリは、わるい子どもが仕かけたわなにかかっている一羽のカラスを、見ました。かわいそうなカラスは、なんとかしてわなからのがれようと、もがいていました。アンリはかけよって、カラスの足をしめつけているひもを切り、自由にしてやりました。カラスはアンリにこう言いのこして、羽ばたきして飛びさりました。
「ほんとうに、ありがとう、いさましいアンリ坊や、きっとご恩はかえしますよ!」
アンリは、カラスが口をきくのを聞いて、たいへんびっくりしました。けれども、なお歩きつづけました。
しばらくしてアンリは、くさむらに腰をおろし、パンをたべていました。そのとき、一羽のオンドリが、キツネに追いかけられているのを見ました。オンドリは、いっしょうけんめいに逃げようとしていましたが、もうすこしで、つかまりそうです。オンドリがアンリ坊やのすぐそばを通ったので、アンリはうまくオンドリをつかまえ、ひきよせて、キツネに見られないように、うわぎの下へかくしました。キツネは、オンドリがずっと遠くへ飛びさったと思ったのでしょう、走って行きました。アンリは、キツネが見えなくなるまでじっとしていましたが、そのあとで、はなしてやりました。オンドリは、ひくい声で、こういいました。
「ほんとうに、ありがとう、いさましいアンリ坊や、きっとご恩はかえしますよ!」
アンリはだいぶ休んだので立ちあがり、歩きつづけました。
まだ目的地に行きつかないうちにアンリは、一ぴきのカエルが、ヘビにのみこまれようとしているのに、出くわしました。
カエルは恐怖《きょうふ》のあまり、からだがふるえて動けません。ヘビは大きな口をぱっくりあけて、すばやくカエルのほうへむかってきます。アンリは、大きな石ころをつかみました。そしてヘビがカエルをのもうとしたそのときに、ヘビの口めがけて、うまく石を投げました。石はヘビののどへはいり、ヘビをちっそくさせました。カエルはアンリにこう呼びかけて、ぴょんぴょんはねて行きました。
「ほんとうに、ありがとう、いさましいアンリ坊や、きっとご恩はかえしますよ!」
アンリは、カラスやオンドリが口をきくのを聞いているので、カエルが口をきいても、ちっともおどろきません。なお、歩きつづけました。
しばらくすると、山のふもとに、つきました。ところが山のふもとには、川はばがひろくて深い川が流れていて、その川はばのひろいことといったら、むこう岸《ぎし》が見えないくらいです。アンリは、たいへんこまって、立ちどまりました。でも、こう思いました。
「たぶん、橋か浅瀬《あさせ》か、小さいふねがみつかるだろう」
そして、山をぐるりと取りまいて流れている川にそって歩いてみましたが、川はどこもここも川はばがひろくて深く、どこにも橋やふねは、みつかりませんでした。アンリはかわいそうに、川べりに腰をおろして、泣きだしました。
「おなさけぶかい仙女さま、ぼくを助けにきてください!」と、アンリは、さけびました。「おかあさんの命がすくえる草が山のてっぺんにあるとわかったって、そこへ行けなければ、なんにもならないでしょう」
すると、そのとき、あぶないところをキツネから助けてやったオンドリが、川べりにやってきて、こういいました。
「おなさけぶかい仙女も、おまえのためになんにもできないんだよ。この山には、あのかたの力がおよばないのでね。でも、おまえはわたしのあぶないところを助けてくれたので、お礼の気持ちだけお見せしよう。さあ、アンリ、わたしの背中にのりなさい。だいじょうぶ、わたしがむこう岸へ連れてってあげるから」
アンリはすこしもためらわずに、オンドリの背中に飛びのりました。水の中におちるかと心配しましたが、ぬれもしませんでした。なにしろオンドリが、たいへんじょうずにアンリを背中に受けとめましたので、アンリはまるでウマの上にのっているように、しっかりまたがることができました。アンリがオンドリのとさかをぎゅっとつかむと、オンドリは川をわたりはじめました。川はたいへんはばがあるので、むこう岸につくまで二十一時間も飛びました。その二十一時間のあいだ、アンリはおなかもすかなければ、のどもかわかず、ねむくもありませんでした。
むこう岸についてアンリは、ていねいにオンドリにお礼をいいました。オンドリはやさしく羽をさかだててそれに答え、すがたを消しました。
そのあとですぐにアンリが、ふりかえって見ますと、川もまた消え去って、見えないのです。
「きっと山の精《せい》が、ぼくの来るのをじゃましようとしたんだろう。でも、おなさけぶかい仙女のおかげで、目的地の近くまでこられたわけだね」と、アンリはつぶやきました。
刈りいれ
アンリは、いつまでも、いつまでも歩きました。それなのに、川をこえたとき以来、ふもとから離れたようすはなく、頂上へ近づいたようすもありません。
ほかの子どもでしたら、その場で引きかえしたでしょう。でも、ゆうかんなアンリ坊やは、がっかりしませんでした。ずいぶん疲れていましたが、なお二十一日間、歩きました。それでも、ちっとも進んでいないのです。だがアンリは、最初の日とおなじように、すこしも勇気をなくしませんでした。
「百年歩かなければならないとしたって、ぼくは頂上へつくまで、歩きつづけるよ」
アンリがこういいおわると、目のまえに背のひくい老人がいて、いじわるそうな目つきで、こっちのほうを見ていました。
「では、おまえはどうしても、行きつきたいっていうんだね。あの山の頂上で、なにをさがそうっていうんだい?」と、老人はたずねました。
「生命の草なんですよ、おじいさん、死にかけているおかあさんを助けるためにです」
背のひくい老人はうなずいて、とがった小さなあごを、つえの黄金《おうごん》のにぎりでささえたまま、長いあいだアンリをじろじろ見ていましたが、こういいました。
「坊やの、あどけない、やさしい顔が気にいったよ。わしは、この山の精のひとりでな。よし、もしおまえが、わしの麦をぜんぶとり入れ、それを脱穀《だっこく》し、ぜんぶ粉《こな》にして、それでパンをつくってくれたら、通してあげることにしよう。麦がぜんぶとり入れられ、打たれて、粉になり、そしてパンがやけたら、わしを呼んでくれ。必要な道具は、おまえがいまいる近くのみぞの中にある。麦畑は、おまえの目のまえに、山いちめんにひろがっているよ」
背のひくい老人は、すがたを消しました。アンリがびっくりして見ると、ひろい麦畑が、目のまえにひろがっています。アンリはすぐに、ひるむ気持ちをふるい立て、うわぎをぬぐと、みぞの中にあった鎌《かま》を手にとって、せいだして麦を刈りはじめました。朝晩、百九十五日間、そうして過ぎました。
麦がぜんぶ刈りおわると、アンリは殻竿《からざお》を手にもって、麦をたたきはじめました。六十日間たたきました。ぜんぶたたいてしまうと、こんどは、麦畑のそばに立っている風車にはこんで、それを粉にしはじめました。ぜんぶ粉にするのに、九十日間かかりました。それがすむと、こんどは小麦粉をねって、焼《や》く番です。百二十日間、粉をねって、やきつづけました。パンがやきおわると、まるで図書館の本のように、うねの上に、きちんとならべました。ぜんぶ仕事が終わったとき、アンリはうれしさのあまり夢中になって、山の精を呼びました。すぐに山の精はすがたを現わして、かぞえはじめました。十六万八千三百二十九こ、パンがありました。その最初のと、いちばん最後のパンのはしをちょっとかじると、山の精はアンリに近づいて、そのほおに親しみをこめて、かるい平手打《ひらてう》ちをくれ、こういいました。
「おまえは、いい子だね。おまえのした仕事にたいして、支払いをしよう」
そういってじいさんは、ポケットから木のかぎたばこ入れを取りだすと、いじわるそうにこういって、それをアンリにあたえました。
「家に帰る途中で、このたばこ入れをあけたらいい。いままで味わったことのないようなたばこが、はいっているよ」
アンリは、たばこをのむ習慣がありません。ですから背のひくい山の精のおくりものは、たいして役にたたないように思われました。でも、そうした考えをのべるほど、アンリは不作法《ぶさほう》ではありませんでした。で、さも満足しているようすを見せて、老人に礼をいいました。
背のひくい老人は微笑しましたが、まもなくからからと笑って、すがたを消しました。
ブドウのとりいれ
アンリは、また歩きはじめました。さいわいなことに、一歩あるくたびごとに、山の頂上に近づいていることが、わかりました。三時間で、道の三分の二まできたのです。そのときアンリは、いままで気がつかなかったのですが、たいへん高い岩壁《がんぺき》で通れないのに気づきました。そこで岩壁にそって歩いてみましたが、おどろいたことに、この壁は山のまわりをぐるりと取りまいていて、三日も歩いたというのに、そこにはいるごくわずかの入口も裂《さ》けめも、みつかりませんでした。
アンリは地面の上にすわって、これからどうしたらいいかと考えました。で、待つことにきめました。四十五日間そうして待っていましたが、そのときアンリは、こうつぶやきました。
「なお百年またなければならないとしたって、ぼくはここから動かないよ」
アンリがこういいおわると、壁の一部分がおそろしい音を立ててくずれ落ち、その割れめから、大きな棒《ぼう》をふりまわしながら、ひとりの巨人が進み出てきました。
「では、おまえはどうしても、ここを通って行きたいっていうんだね? この岩壁をこえて、なにをさがしに行くんだね?」
「生命の草をさがしに行くんです。巨人さん、死にかけているおかあさんを助けるためにです。もしあなたのお力で、この壁をこえることができたら、あなたのご命令どおり、なんなりといたしましょう」
「ほんとうかね? では、聞きなさい。おまえの顔つきが気に入ったのでな。わしは、この山の精のひとりじゃ。もしおまえが、わしの洞窟《どうくつ》をいっぱいにしてくれたら、この岩壁を通してあげよう。さあ、ここに、わしのブドウの木が、ぜんぶある。いいかい、ブドウをつみとって、つぶし、その汁を樽《たる》に入れて、わしの洞窟にならべて欲しいんだ。とり入れに必要なものは、岩壁の足元に、みんなある。おわったら、わしを呼んでくれ」
そういって巨人は、岩壁のうしろに、すがたを消しました。
アンリは、まわりをながめました。目に入るものすべてが、巨人のブドウなのです。
「ぼくは小さなおじいさんの麦をぜんぶ刈ったんだから、巨人のブドウだって、だいじょうぶ、とり入れられるよ。ブドウのとり入れのほうが、麦をパンにするよりも時間がかからないし、むずかしくないだろう」
アンリはうわぎをぬいで、足元にあった鉈鎌《なたがま》を手にしました。そしてブドウの房を切っては、大桶《おおおけ》のなかに投げ入れました。とり入れをおえるのに、三十日かかりました。それがすむと、こんどはブドウをつぶし、その汁をしぼって、樽をいっぱいにしました。そして、いっぱいになった樽から、洞窟の中にならべていきました。このブドヴ酒づくりに、九十日間かかりました。樽がブドウ酒でいっぱいになり、それがきちんと洞窟の中にならべられたので、アンリは巨人を呼びました。巨人はすぐにやってきて、樽をしらべ、その最初のブドウ酒と最後のとを味わってみて、アンリのほうをふりかえり、こういいました。
「おまえは元気な小せがれだ。駄賃《だちん》をはらってあげよう。山の巨人のために、ただばたらきをしたなんて、いわれたくないからな」
巨人はポケットからアザミを一本取りだすと、それをアンリにあたえて、こういいました。
「家に帰るだろう、そのとき何かが欲しくなったら、このアザミのにおいをかいだらいい」
アンリは、こんな贈《おく》りものなんかたいしたものではないと、思いました。でも、あいそうよく微笑をうかべて、それを受けとりました。
そのとき巨人は、山もふるえんばかりに、口ぶえを吹きました。すると、巨人も岩壁も、たちまち消えてなくなり、アンリは、歩きつづけることができました。
頂上への最後の登りも、あと三十分ほどでした。そのときアンリは、切り立った絶壁《ぜっぺき》で、行手《ゆくて》をはばまれたのです。がけのはばはひろくて、とてもむこうがわへは、飛べそうもありません。また谷はふかくて、底も見えないくらいです。
アンリは、勇気をすてず、がけのへりの上を歩いてみました。そうしたら、元いた場所にもどってしまいました。つまり、このがけは、山をぐるりと取りまいているのです。
「どうしよう。やっと一つの障害《しょうがい》をのりこえたと思ったら、またべつのが待っている。どうやって、この絶壁をこえたらいいだろうか?」
かわいそうなこの子の目に、はじめて涙が、いっぱいたまりました。アンリは、がけをこえる手段を、あれこれさがしました。が、みつかりません。そこで、がけっぷちに、さびしく腰をおろしました。とつぜん、アンリは、おそろしいうなり声をきいたのです。ふりかえって見ると、十歩ばかりのところに、一ぴきの大きなオオカミが、目をらんらんと光らせて、じっとこっちを見ているのです。
「おれの領地《りょうち》に、なにをさがしに来たんだい?」と、オオカミは、おそろしい声でいいました。
「オオカミさん、ぼくは生命の草をさがしに行くんです。死にかけているおかあさんを助けるためにです。あなたのお力で、このがけをこえることができれば、ぼくはあなたのご命令どおり、なんなりといたしましょう」
「では、よかろう。もしおまえが、おれの森の中にいるえもの、鳥だろうが、けものだろうが、みんなつかまえて、焼くかパイに料理してくれたら、山の精に誓って、おれがおまえを、がけのむこうがわへわたしてやる。狩や料理に必要なものは、みんなこの木のそばにある。おわったら、おれを呼んでくれ」
こういってオオカミは、すがたを消しました。
アンリは、また勇気をふるい立てました。そこで、地面においてあった弓と矢を取りあげて、通りかかるイワシャコや、ヤマシギや、エゾ雷鳥《らいちょう》や、大雷鳥を射《い》かけました。でもアンリは、矢を射ることを知らなかったので、なにひとつ殺せませんでした。
一週間たちましたが、むだに矢をはなっただけです。そろそろ、退屈になってきました。そのとき、この旅行のはじめに命をすくってやったカラスが、そばに立っていました。
カラスはかあかあ鳴きながら、こういいました。
「あなたは、わたしのあやういところを助けてくださった。そのとき、わたしは、きっとご恩がえしをするといいましたね。いま、約束をはたしに、きたのです。なぜなら、あなたがもし、オオカミのいわれたとおりにしなかったら、あいつはえもののかわりに、あなたをがりがりたべちまうでしょうからね。ついていらっしゃい。わたしが狩《かり》をしてあげましょう。あなたはただ、えものをひろって、焼きさえすればよろしい」
いいおわるとカラスは、森の木の上に飛んで行って、くちばしと爪とで、この森に住んでいるえものをみんな、殺しはじめました。こんなふうにしてカラスは、百五十日のあいだに、百八十六万七百二十六という数になる、コジカや、イワシャコや、ヤマシギや、エゾ雷鳥や、大雷鳥や、ウズラを殺しました。
カラスが殺すと、すぐにアンリはえものを小さく切ったり、羽をむしったり、皮をはいだりして、それらを焼き、パイや焼き肉をつくりました。料理がぜんぶできましたので、アンリはそれを、森のはしに、きちんとならべました。そうしたらカラスが、いいました。
「さようなら、アンリ。まだもう一つ、こえなければならない障害があるが、わたしにはその手助けをすることはできない。ても、気をおとしなさんなよ。仙女たちが、親孝行する子を、守ってくださるから!」
アンリがカラスにお礼をいおうとしたら、そのすがたは、もう見えませんでした。そこでアンリは、オオカミを呼んで、いいました。
「さあ、閣下《かっか》、あなたさまの森のえものが、ぜんぶございます。おっしゃったように、お焼きいたしました。どうか、がけを通させてください」
オオカミはえものをしらべてから、まる焼きのコジカをがりがりたべ、パイを一つ口にほおりこんでから、舌なめずりして、アンリにいいました。
「おまえは勇敢《ゆうかん》な、なかなかいい子だね。骨折賃《ほねおりちん》をはらってあげよう。山のオオカミのために、ただばたらきをしたといわれちゃ、こまるからな」
そういうとオオカミは、森の中から棒を一本さがして持ってきて、それをアンリにくれました。
「生命の草をつみとって、どこかへ行こうとしたくなったときはな、この棒にまたがって行ったらいい」
アンリは、もうすこしのところで、こんな役にもたたない棒なんか、森の中へすてるところでした。でも、それは礼儀《れいぎ》にはずれることだと思ったので、棒を受けとって、オオカミに礼をのべました。
「おいらの背中にのりな、アンリ」と、オオカミがいいました。
アンリはオオカミの背中に飛びのりました。すぐにオオカミは、すばらしい高とびをみせて、がけのむこうがわに立ちました。アンリは背中からおりて、オオカミに礼をのべ、歩きつづけました。
魚とり
やっとアンリは、生命の草があるという庭園の垣根《かきね》を遠くから見ました。心はよろこびで、はりさけんばかりです。アンリは歩きながら、いつも上のほうを見ていました。そして体力のゆるすかぎり、はやく歩きました。とつぜんアンリは、穴の中におちこんだような気がしました。いきおいよくうしろへ飛びのいて、あたりを見ますと、水でいっぱいの堀《ほり》が、目のまえにありました。はばのひろい堀で、その長いことといったら、両はしが見えないくらいです。
「たぶんこれが、カラスのいった最後の障害《しょうがい》なんだろう」と、アンリは考えました。「いままでなんども、おなさけぶかい仙女のおかげで、ほかの障害をのりきってきたのだから、きっとこんども助けてくれるにちがいない。オンドリやカラスや、背のひくいおじいさんや、巨人やオオカミをおつかわしになったのも、みんなあのおなさけぶかい仙女さまなんだから、いよいよ最後もあのかたが、きっとお助けくださるだろうから、お待ちするとしよう」
それでもアンリは、堀のはしに出られはしまいかと思って、堀にそって歩きました。二時間ほど歩いたら、また歩きだしたおなじ場所に、もどっていました。
アンリは、べつにこまったようすも見せず、がっかりもしないで、堀のへりに腰《こし》をおろしていました。
「ぼくは、山の精が、この堀を通させてくれるまで、ここから動くまい」
アンリがこういいおわると、目のまえに一ぴきの大きなネコがあらわれて、びっくりするほどおそろしい声で、なきわめきました。
「なにしに、ここへ来たんだね? わたしの、この爪《つめ》のひとかきで、おまえをずたずたにできることぐらいは知ってるだろうな?」
「それは、よくぞんじておりますとも、おネコさま。でも、ぼくが、死にかけているおかあさんの命を助けに生命の草をさがしに行くんだと知ったらば、まさか、そんなことをしようなどとは思わないでしょうね。もし、あなたさまのお堀を通過することをおゆるしくださったら、ぼくはあなたの命令どおり、なんなりといたしましょう」
「ほんとうかね?」と、ネコはいいました。
「では、よく聞け。おまえの顔が気に入ったもんでな。よし、この堀の中にいる魚をぜんぶ釣《つ》りあげて、釣りあげた魚を焼き、塩づけにしてくれたら、むこうがわにわたしてやろう、ネコの名誉《めいよ》にかけて誓うよ。おまえが必要なものは、砂の上にある。おわったら、わたしを呼ぶんだ」
アンリが五、六歩あるきますと、地面に網《あみ》や、釣竿《つりざお》や、釣針がありました。アンリは、網なら一度にたくさん魚がとれるし、釣竿でするよりもはやくすむだろうと考えて、網を一つ手に持ちました。そしてその網を投げ入れて、よく注意して引きあげました。なにも、かかっていません。アンリはがっかりしましたが、やりかたがわるかったのだと思って、また網を投げ入れ、こんどはしずかに引っぱりました。やはり、何にもかかりません。アンリはしんぼうづよかったので、十日間のあいだ、なんどもなんどもやってみたのですが、一ぴきも魚はとれませんでした。そこで網はやめて、釣糸をたれました。
アンリは、一時間、二時間と待ちました。どんな魚も、針にはかかりません。場所をかえて、堀のまわりをひとまわりしましたが、一ぴきも魚はかかりません。二週間、そうやってすごしました。どうしていいかわからず、なさけぶかい仙女も、いよいよ最後になってじぶんを見捨てたかと、さびしい気持ちになって堀を見つめながら腰をおろしていましたら、水面がぶくぶくしだして、カエルのあたまが現われました。
「アンリ」と、カエルは呼びかけました。「あんたは、わたしを助けてくれた。こんどは、わたしがあんたを助ける番だ。もしもネコのいったとおりに実行しなかったら、ネコは昼飯《ひるめし》がわりに、あんたをたべてしまうよ。あんたが魚をとれないっていうわけはね、堀がふかくて、魚が底のほうに逃げこんでいるからだよ。まあ、わたしにまかせておきなさい。あんたは魚を焼くために火をおこして、塩づけにする樽《たる》のしたくをしておけばいい。魚はみんな、とってくるからね」
こういいおわると、カエルは水の中に、もぐりました。きっと堀の底では、たいへんな闘争《とうそう》がおこなわれているのでしょう、水面が泡《あわ》だち、ゆれ動きました。一分間すると、カエルがあらわれ、堀のへりに飛びあがりました。そして手足でつかまえたみごとなサケを、そこにおきました。アンリがやっとサケをつかまえたと思ったら、カエルはまたコイを持って、水中から出てきました。このようにして、六十日間つづけられました。アンリは、大きな魚は焼き、小さいのは樽の中に投げ入れて、塩づけにしました。いよいよ、二か月後にカエルは堀のへりに飛びあがって、こういいました。
「もう堀の中には、一ぴきも魚はいないよ。山ネコを呼んだらいい」
アンリは元気よく、カエルに礼をのべました。するとカエルが友情のしるしに、ぬれた足をさしだしたので、アンリもやさしくその足をにぎりました。カエルは、消えうせました。
アンリは二週間かかって、焼いた魚ぜんぶと、塩づけにした魚の樽をみんなならべおえたとき、ネコを呼びました。ネコはすぐに、すがたをあらわしました。
「さあ、閣下《かっか》、あなたさまの魚はぜんぶ、焼いたり塩づけになって、ここにございます。どうか約束どおり、ぼくをむこう岸にわたしてください」
ネコは魚や樽をしらべ、焼いた魚と塩づけにした魚の味をみて、舌なめずりをすると、微笑しながら、アンリにいいました。
「おまえは、勇敢な子じゃ。おまえのがまんづよさをほめてつかわそう、山ネコがただで仕事をさせたなどと、いわれたくないからな」
ネコはいいおわると、じぶんの爪をはぎとって、それをアンリにあたえました。
「おまえが病気になったり、年寄りになったと感じたら、この爪でおまえの額にさわってみるんだ。病気や苦しみ、それから老衰《ろうすい》、みんななくなってしまうよ。おまえが愛したり、おまえを愛している人たちにも、おなじように効能《こうのう》があるよ」
アンリは、こころからネコにお礼をのべて、その貴重《きちょう》な爪を受けとりましたが、すぐにそれを使ってみたくなりました。というのは、それほどアンリは疲労していて、苦しかったものですから。その爪が額にふれたとたんに、アンリはさわやかな気持ちになり、ベッドから起き出たときのように、元気になりました。
ネコは微笑して、いいました。
「さあ、わたしの尻尾《しっぽ》の上にのれ」
アンリは、いわれたとおりにしました。ひとたび尻尾の上にのったら、ネコの尻尾はぐんぐんのびて、アンリは、堀のむこうぎしにいました。
生命の草
アンリは、ていちょうにネコにあいさつをして、生命の草のある庭めざして、かけつけました。そこまで、百歩ほどしか、ありません。でも、またなにか障害がおきて、そこに行きつくのがおくれはしまいかと、気がかりでした。アンリは、庭園の金網《かなあみ》に、たどりつきました。入口をさがしたら、すぐにみつかりました。なにしろ、庭は大きくなかったからです。だがそこには、アンリの知らない草木がたくさんあって、どれが生命の草なのか、見分けることができませんでした。
うまいぐあいにアンリは、なさけぶかい仙女が、この仙女の庭を管理している先生を呼んだらいいといったことを、思いだしました。で、アンリは、大きな声で、呼びました。アンリが先生を呼ぶとすぐに、すぐそばの草木の中で音がして、まるで暖炉《だんろ》を掃除するほうきみたいに小さい、ひとりの男が、そこから出て来るのが見えました。その人は、手に本を持ち、さきのまがった鼻にめがねをかけ、博士の、大きな黒いマントを着ていました。
「なにをさがしてるんだい、坊や?」先生は、からだをまっすぐにして、たずねました。
「よく、ここまで来られたね?」
「先生、ぼくはおなさけぶかい仙女さまから聞いて、死にそうなおかあさんの病気をなおす生命の草を、あなたからいただこうと、まいったのです」
こびとの先生は、帽子をちょっとあげて、いいました。
「なさけぶかい仙女から聞いてきたとは、よく来なさった。さあおいで、坊や、さがしている草をあげるから」
こびとの先生は、植えこみの中に、はいって行きました。アンリは、そのあとについて行くのに、苦労しました。なにしろ茎《くき》が大きくて、先生が見えなくなってしまうもんですから。やっと、すこし離れたところにある、一本の植物のそばにきました。こびとの先生はポケットから、小さな刈込《かりこ》みナイフを取りだして、茎を一本切り、それをアンリに手わたして、こういいました。
「さあ、これを、仙女からいわれたように使ったらいい。ただ、これをおまえの手からはなしては、いけないよ。というのは、どこであろうと、これをおいたら、それっきりおまえの手から離れてしまって、二度とふたたび、おめにかかることはできないだろうからね」
アンリは、お礼をのべようとしました。が、そのときは、こびとはもう、薬草《やくそう》の中で見えなくなって、じぶんひとりだけでした。
「さて、いそいで家につくには、どうしたらいいだろうか? 山をくだるのに、のぼってきたときとおなじような障害にあったならば、このだいじな草、かわいそうなおかあさんに生命をあたえてくれるにちがいないこの草を、うしなうような危険をおかさなくてはならない」
うまいぐあいにアンリは、オオカミがくれた棒のことを思いだしました。
「よし、ほんとうにこの棒が、うちまでぼくをはこんでくれる力があるかどうか、やってみよう」
こういってアンリは、家に帰れるようにと願いながら、棒にまたがりました。そう思った瞬間、アンリは、からだが空中にのぼってゆくのを感じました。それは、まるで電光のような速さで、空気を切って進み、たちまち、アンリは、おかあさんのベッドのそばにいました。
アンリはおかあさんにとびついて、やさしくせっぷんしました。だが、おかあさんは、アンリがわからないのです。アンリは、一刻もゆうよせず、生命の草を、おかあさんの唇におしつけました。すぐにおかあさんは目をひらいて、両腕をアンリの首に投げかけ、さけびました。
「ああ、わが子よ、かわいいアンリ、おかあさんは、おもい病気だったのよ。でも、いまはよくなったわ。おなかが、すいてきたもの」
それから、びっくりして、アンリを見ていましたが、「なんて大きくなったんだろうね、この子は! どうしてだろうね? ほんの数日間で、こんなに大きくなるなんて、ありうるかしら?」
たしかにアンリは、からだ全体が、大きくなったのです。なぜなら、家を出て行ったときから、二年七か月と七日たっているのですから。アンリは、やがて十歳になるわけでした。アンリが、そのわけを話そうとしていると、窓がひらいて、なさけぶかい仙女が、はいってきました。仙女はアンリを抱きしめてから、母親のベッドのそばに近づくと、アンリ坊やがおかあさんの命をすくうためにしたことすべてを、どんなに危険《きけん》なめにあったか、どんなに疲労をたえしのんだことか、アンリがしめした勇気、忍耐、善意《ぜんい》のかずかずを、話しました。おかあさんはアンリを、じっと胸に抱きしめて、いつまでもはなそうとしませんでした。この幸福な感動のひとときがすぎますと、仙女がいいました。
「さあ、アンリ、山で背のひくい老人や、巨人からもらったおくりものを使ってごらん」
アンリは、かぎたばこ入れを取りだして、あけてみました。するとその中から、小さい職人たちがぞろぞろ出てきました。ハチほども大きくない人たちで、へやの中がいっぱいになりました。その人たちは、じつにじょうずに、じつにびんしょうに、はたらきはじめました。十五分間で、森ときれいな野原にとなりあった大きな庭の中に、うつくしい家がたち、家具が入れられました。
「これはみんな、おまえのものだよ、勇敢《ゆうかん》なアンリ」と、仙女がいいました。「巨人のアザミは、おまえの欲しいものをあたえてくれるだろうし、オオカミの棒は、おまえが行きたいところへ、つれていってくれる。ネコの爪は、おまえにも、またおかあさんにも、健康と若さとを、しじゅうもっていられるようにしてくれる。では、さようなら、アンリ、しあわせにくらしなさい。そして、よい行ないと親孝行とは、かならず報《むく》われるものだということを、わすれないように」
アンリは、仙女のひざに、すがりました。そして、仙女のさしだす手に、せっぷんしました。仙女は微笑をうかべて、すがたを消しました。
アンリの母親は、あたらしい家や庭や、森や野原を見るために、きっと起きたかったにちがいありません。でも、おかあさんは、服がありませんでした。病気中、アンリにパンをかかさないようにと、持っているものをみんな、アンリに売らせたからでした。
「ああ、坊や! あたし、起きられないわ。服も、スカートも、くつもないんだもの」
「おかあさん、そういうものは、すぐにそろいますよ」と、アンリが大きな声でいいました。
そしてポケットからアザミを取りだすと、母親とじぶんには、服と下着類とくつとを、家にはリンネルの布地《きれじ》が欲しいなと願いながら、アザミのにおいをかぎました。
するとどうでしょう、その瞬間、たんすは下着類や布地でいっぱいになり、おかあさんはメリノ羅紗《らしゃ》のきれいな服を着ていますし、アンリはブルーの羅紗の三つぞろいを着ていました。そしてアンリも、おかあさんも、おなじようにきれいなくつを、はいているのです。ふたりとも、うれしさのあまり、大きな声をだしました。おかあさんは、ベッドから飛びおりて、アンリといっしょに、家の中じゅうを、かけまわりました。不足しているものは、なにもありません。どのへやにも、あっさりしていて気持ちのいい家具が、そなえつけられてありました。。台所には、なべやフライパンがありました。でも、その中には、なにもはいっていません。アンリは、おいしい夕食がたべたいな、と願って、アザミのにおいをかぎました。すぐに、湯気《ゆげ》の立っているおいしそうなスープ、ヒツジのももの肉、トリの焼いたの、上等のサラダが、食器類一式そろって、目のまえのテーブルクロスの上に、あらわれました。ふたりは食卓《しょくたく》について、まるで三年間もたべなかった人のように、がつがつたべました。スープが大いそぎでたいらげられ、ヒツジのもも肉がすっかりなくなると、こんどはトリ、そしてサラダです。おなかがすっかりいっぱいになりましたので、おかあさんはアンリに手つだってもらって、食器をさげて、洗い、お皿や鉢《はち》などをしまい、台所を片づけました。それからふたりは、たんすから毛布を取りだして、ベッドをつくり、神さまや、なさけぶかい仙女に感謝しながら、ねむりました。おかあさんはそのほかに、むすこのアンリのために心からの感謝のお祈《いの》りをしました。
このようにふたりとも、たいへん幸福にくらしました。アザミのおかげで、なに不足なく、ネコの爪のおかげで心やすらかに、いつまでも若わかしくすごしました。けれどもオオカミの棒は、もう使いませんでした。なぜならば母親もむすこも、この家でじゅうぶんしあわせなので、ほかのところへ行こうなどとは思わなかったからです。
アンリはアザミに、二頭の牝《め》ウシと二頭のウマ、それから毎日の生活に必要なものしか求めませんでした。衣服にしろ、食料にしろ、余分《よぶん》のものは、けっして求めませんでした。ですから、その後ずっと、アザミはしまったままでした。アンリや、その母親が、どのくらい長く生きたか、だれも知りません。仙女たちの女王さまが、ふたりを死なない人間にして、ごじぶんの宮殿につれて行き、そこでまだ生きていると、みんなは思いこんでいました。
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ロゼット姫のお話
農場で
むかし、ひとりの王さまと王妃《おうひ》さまがいて、三人の娘さんをもっていました。王さまと王妃は、オランジーヌ、ルーセットというふたりの姉娘を、たいへんかわいがっていました。ふたりはふた子で、ふたりともきれいで、あたまもよかったのですが、性格がよくありませんでした。そのてん、このふたりは、王さまと王妃さまに、よくにていたのです。下のお姫さまは、姉さんたちよりも三つ若くて、ロゼットと呼ばれていました。感じがよく、かわいらしくて、美人であると同時に、善良《ぜんりょう》な娘さんでした。この娘さんの代母《だいぼ》には、仙女ピュイサント〔≪たいへん力のある者≫という意味〕がなっていまして、このことをオランジーヌとルーセットは、うらやましく思っていました。ふたりとも代母に、仙女をもっていなかったのです。
ロゼットが生まれて数日後に、王と王妃とはこの子を、いなかの善良な農婦《のうふ》のもとに、里子にだしてしまいました。ロゼットはその家で十五年間、たいへん幸福にくらしました。王と王妃とは、ただの一度も、娘に会いに来なかったのです。両親は毎年、ロゼットの養育費《よういくひ》として、すこしばかりのお金を農婦に送っていましたが、ただ娘の消息をたずねるだけで、その農婦の家へは一度もきたことがなく、娘の教育にも、ぜんぜん注意をはらいませんでした。ですからロゼットは、もし代母の仙女ピュイサントが先生たちを送って、必要な教育をあたえなかったら、この娘は、まるきし無教育な女になったことでしょう。このようにしてロゼットは、読み書き計算、はたらくことをおぼえました。このようにして、たいへんじょうずな音楽家になり、絵もかければ、いろいろな外国語を話せるようになったのです。ロゼットは、世界じゅうでもっともうつくしくて、あいそうがよく、もっとも感じがよくて、すぐれたお姫さまでした。ロゼットはけっして、乳母《うば》や代母にさからったことはありません。ですから、しかられたことも、まったくありません。また、知らない両親をうらめしく思ったこともなく、じぶんが育てられたこの農場以外でくらそうなどとは、思っていませんでした。
ある日のこと、ロゼットが家のまえのベンチに腰かけていますと、そこへ正装《せいそう》して、かざりのついた帽子をかぶった男の人がやってきて、そば近くまで来ると、ロゼット姫《ひめ》にお話したいのですが、といいました。
「まあ、あたくしが、ロゼット姫ですが」と、姫はこたえました。
すると、その男は帽子をとって、「では、お姫さま、父君《ちちぎみ》の王さまからあなたさまにおわたしするようにと、おあずかり申したこのお手紙を、お受けとりくださいますように」と、いいました。
ロゼットは手紙を受けとって、ひらいてみました。次のようなことが、書かれてありました。
[#ここから1字下げ]
――ロゼット、おまえの姉さんたちは十八歳になったので、そろそろ結婚する年じゃ。で、姉さんたちに婿《むこ》えらびをさせるために、宴会《えんかい》をもよおして、世界じゅうの王国の王子や王女を招待することにする。おまえも十五歳になったので、宴会に出席できる年ごろじゃ。三日間、わしのもとですごすように。一週間内に、おまえを迎えによこすからな。ただ、服装をととのえるお金は、送るわけにいかん。なにしろ姉さんたちのために、おおいにつかわねばならんのでな。それに、おまえに目をとめるものなど、だれもいないさ。だから、すきなような服装で、きたらいい。
おまえの父なる王より
[#ここで字下げ終わり]
ロゼットは、いそいで手紙を、乳母に見せに行きました。
「ロゼットさん、あなたはよろこんで、この宴会へいらっしゃるつもり?」
「ええ、よろこんで行くわ! きっと、おもしろいでしょうし、それに、おとうさまや、おかあさまや、またお姉さまにも会えるんですもの。おわったら、またここに帰って来るわ」
「でも」と、頭をふりながら乳母はいいました。「どの服を着てったら、いいでしょうね?」
「ほら、おまつりに着ていく、白い薄地《うすじ》の綿《めん》の服がいいわ」
「まあ、おかわいそうに。あの服は、いなかのおまつりにはいいけれど、王さまや、王子さまの集まりには、貧弱《ひんじゃく》すぎますわ」
「かまわないことよ、ばあや! おとうさまだって、いってるじゃないの、だれも、あたしなんか見ないだろうって。だから、ずいぶん気がらくだわ。じぶんのほうからは見ることができて、ほかの人たちは、あたしのことなんか気にかけないんだから」
乳母はためいきをついて、返事をしませんでした。そしてロゼットの着ていく服を、つくろったり、あらったり、アイロンをかけたりしました。迎えの人が来ると思われる日の前日、乳母はロゼットを呼んで、いいました。
「さあ、王さまのお祝いに着ていく服が、できましたわ。気をつけて着てくださいよ。ほかに服はないんだし、わたしがいっしょについて行って、あらったり、アイロンをかけたりできませんからね」
「ありがとう、ばあや。安心おし、よく気をつけて着ますから」
乳母は小さなスーツケースに、服、白いペチコート、木綿のくつ下、黒皮のくつ、それからロゼットの髪《かみ》につける小さい花たばを、いれました。そしてケースのふたをしめようとしたとき、まどがあらあらしくあいて、仙女のピュイサントが、はいってきました。
「ロゼットや、おまえは、おとうさんの王宮へ行くのかい?」と、仙女はききました。
「ええ、代母さま。あたし、三日だけまいります」
「その三日のために、どういう服装で行くのかい?」
「ここにございますわ、代母さま、ごらんくださいまし」
ロゼットは、ケースをあけて、みせました。仙女は微笑して、ポケットから、小びんを一つ取りだすと、こういいました。「わたしは、ロゼットが服装で、みんなをあっといわせて欲しいの。これでは、わたしのロゼットには、ふさわしくありません」
仙女は小びんをひらいて、その一《いってき》滴を服の上にたらしました。すぐに服は黄色くそまり、ひだができて、布地も大柄《おおがら》のリンネルにかわりました。またべつの一滴が、くつ下を大柄の絹のくつ下にかえました。三番めの一滴は、花たばの上におちて、それをニワトリの羽にかえました。くつは、へり布《ぬの》でつくった布ぐつにかわりました。
「これで、わたしのロゼットが、からだにつけるものがそろったわ。ロゼットや、わたしは、これらを身につけて欲しいの。なお身なりをよくするために、ここに首かざりと、髪かざりと、腕輪《うでわ》があるよ」と、仙女は、やさしくいいました。
そしてポケットから、ハシバミの実の首かざりと、サンザシの実の髪かざりと、干《ほ》したインゲン豆の腕輪を取りだして、ケースの中に入れました。
仙女は、あっけにとられているロゼットの額《ひたい》にせっぷんして、すがたを消しました。
ロゼットと乳母はびっくりして、顔を見合わせていましたが、そのうちに乳母が、さめざめと泣きだしました。
「せっかく人が苦労したっていうのに! 最初の服でも、じゅうぶん役だちましたのにね。ねえ、ロゼット! 宴会へ行くのはやめて! 病気だからといって」
「だめよ。それでは、代母さまのいうことをきかないことになります。きっとあのかたは、あたしのためになるように、なさってくださるわ。なんといってもあのかたは、あたしなんかよりずっと賢《かしこ》いかたなのだから。あたしは、行きますわ。代母さまがくださったものを、みんなもって行きましょう」
善良なロゼットは、もう身なりについては、気にかけないことにしました。そしてベッドにはいって、しずかにねむりました。
あくる日、ロゼットが髪をゆって、着がえをすませたら、すぐに王の四輪馬車が、迎えにやってきました。ロゼットは乳母にせっぷんしてから、小さなケースを馬車の中に入れて、出発しました。
王宮のロゼット、その一日め
道中は、二時間しか、かかりませんでした。というのは、王さまのいる町は、ロゼットの農場から、二十四キロしか離れていなかったからです。
ロゼットは到着して、小さな、きたない中庭におろされたので、びっくりしました。ひとりの小姓《こしょう》が、待ちうけていました。
「どうぞこちらへ、お姫さま。わたくしが、おへやへお通しするようにと、うけたまわっております」
「王妃《おうひ》さまには、おめにかかれないのでしょうか?」と、ロゼットは、おずおずとたずねました。
「二時間しますと食事にお集まりになりますので、その節《せつ》お会いになれるとぞんじます。それまでにどうぞ、身じまいをなさいますように」
ロゼットが小姓にしたがって、長いろうかを通り、突きあたりの階段をぐんぐんのぼって、べつのろうかに出ようとするところに、あてがわれたへやはありました。そこは、家具もろくにない、小さな屋根裏《やねうら》べやでした。王妃はロゼットを、女中べやに入れたのです。小姓はケースを、へやのすみにおくと、さも困ったようすをして、いいました。
「どうぞ、おゆるしくださいまし、お姫さま。このように、あなたさまにふさわしくない小べやにお通しもうしまして。王妃さまは、へやというへやをみんな、ご招待の王さまがたや王妃さまがたにあてられましたので、もう残りのへやがございませんもので……」
「いいのよ、いいのよ」と、微笑しながら、ロゼットはいいました。「へやについて、あたくしはすこしも、あなたをおうらみ申しませんわ。これで、けっこうよ」
「時間がまいりましたら、王さま、王妃さまのもとへご案内するために、お迎《むか》えにまいります」
「待っていますわ」と、ロゼットはいいました。「ではまた、きれいなお小姓さん」
ロゼットは、スーツ・ケースをときはじめました。じつをいうと、いささか気が重たかったのです。ロゼットはため息をついて、みっともない大柄のリンネルの服や、そのほかの服装品を、取りだしました。そして、へやの片すみにある、かけた鏡の前で、髪をなおしはじめました。ロゼットはたいへんじょうずに、うつくしいブロンドの髪に、トリの羽と、サンザシの実でつくった髪かざりをあしらったので、髪のかっこうが、十倍もひきたちました。
ロゼットはくつをはき、服を着がえました。ところが、おどろいたことには、着ている服が、すばらしい色のルビーでししゅうをした金らんどんすの服にかわっているではありませんか! ずんぐりした布ぐつは、小さなしゅすのくつにかわって、このうえなくうつくしい一個のルビーのバックルで、とめられています。くつ下も、絹《きぬ》ですが、そのうつくしいことといったら、まるでクモの糸でつくられたようでした。首かざりは、大きなダイヤモンドをちりばめたルビーのものにかわり、腕輪は、いままでだれも見たことがないようなものに、かわりました。ロゼットは、鏡にかけよりました。すると、ニワトりの羽が、大きなシラサギの羽かざりになり、サンザシの実の髪かざりは、仙女でもなければもてないような、うつくしくかがやく、ざくろ石のかざりになっていました。
ロゼットは、うれしくてうれしくて、小さなへやの中を飛びはねながら、ありがたい代母に、こころからお礼をいいました。代母は、ロゼットの従順さをためしてみて、そしてこのような、すばらしいごほうびをくださったのです。
小姓《こしょう》は、ドアをたたいて、はいってきましたが、ロゼットのうつくしさと、その身につけているもののりっぱなのに目をみはり、あとずさりしました。
ロゼットは小姓のあとについて、いくつも階段をおり、たくさんのへやを通って、やっと大きな客間にはいりました。そこは、王さまがたや、王子さまたち、着かざった貴婦人たちで、いっぱいでした。
みんなが足をとめて、ロゼットのうつくしさにみとれて、ふりむきました。ロゼットは、みんなから見られるのがはずかしくて、顔をあげられませんでした。
やっと小姓が立ちどまって、ロゼットにいいました。
「姫ぎみ、王さまと王妃さまです」
ロゼットは目をあげて、目のまえの王さまと王妃さまを見ました。おふたりとも、こっけいなほどびっくりして、こちらをじっと見ていられました。とうとう、王さまが、いわれました。
「奥さま、お名前をどうぞ、お聞かせくださるよう。おそらく大国の王妃さまか、または仙女さまであらせられましょうが、思いがけないご臨席《りんせき》をかたじけなくして、わたくしどもとしましては、たいへん光栄にぞんじております」
「おそれながら」と、ロゼットは、床にひざまずいて、いいました。「あたくしは仙女でもなければ、大国の王妃でもございません。殿下がこちらへまいるようにと申された、あなたの娘ロゼットでございます」
「ロゼットですって!」と、王妃はさけびました。「ロゼットが、いままで見たこともないように、こんなにうつくしく着かざって! いったいだれが、こんなりっぱな品じなを、くださったのですか?」
「あたくしの代母さまでこざいます」そしてロゼットは、そのあとすぐに、「お手にせっぷんするのを、おゆるしくださいませ。それから、お姉さまがたを、お引き会わせくださいますように」
王妃は手を、ロゼットに、そっけなくさしだしました。
そして、わきにいるオランジーヌと、ルーセットをさししめしながら、「これが、あなたの姉さんたちです」と、いいました。
かわいそうなロゼットは、父と母の、つめたいもてなしを悲しく思いながら、姉たちのほうを見て、ふたりを抱こうとしました。ところが姉たちは、おどろきと、それから抱きあうと、おしろいや紅《べに》が取れてしまうのが心配で、身をひきました。オランジーヌは、いくらか黄色っぽいはだの色をかくすために、またルーセットは、赤あざをかくすために、おしろいをぬっていたのです。
ロゼットは、きょうだいたちからはしりぞけられましたが、すぐに招待された貴婦人たちや王子たちに、取りかこまれました。ロゼットはしとやかに、しずかに話しましたし、いろいろな言葉を話しますので、まわりの人たちは聞きほれました。オランジーヌとルーセットは、うらやましくてうらやましくて、なりませんでした。王と王妃も、おこっていました。なぜならば、ロゼットがみんなの注意をひいてしまうので、だれひとりとして、ほかのきょうだいたちをかまわないからです。食卓では、あらゆる王国の中でもっとも大きく、またもっともうつくしい国の王さまである、若い国王シャルマン〔≪美男子≫の意味です〕が、ずっとロゼットのとなりにいて、食事の相手をしました。オランジーヌは、この王さまと結婚したがっていたのです。食事がすみますと、みんなの視線をじぶんたちのほうへひきつけようとして、オランジーヌとルーセットとが、歌をうたうと申し出ました。ふたりはハープの伴奏《ばんそう》で、たいへんじょうずに、うたいました。
ロゼットは性格がおとなしく、また姉さんたちがじぶんを愛してくれるようにと願っていましたので、姉さんたちの歌に、さかんに拍手をおくり、その才能をたいへんほめました。オランジーヌは、この大どかな気持ちがわからず、ロゼットにいじわるをしてやろうと、つぎに歌うようにと、すすめました。するとロゼットが、けんそんしてことわりましたので、てっきり歌えないからだと考えて、いっそうつよく、すすめました。王妃自身も、かわいそうなロゼットをはずかしめてやろうと思って、オランジーヌとルーセットに味方し、ロゼットに、ぜひ歌うようにと命じました。ロゼットは王妃に一礼して、「かしこまりました」と、いいました。
ロゼットは、ハープを取りあげました。その手つきの優美《ゆうび》なのに、姉娘たちは、びっくりしました。ですから、ロゼットが前奏《ぜんそう》をハープでつまびいたときは、やめさせたいと思ったくらいでした。ロゼットの才能のほうが、じぶんたちよりもすぐれていると、みてとったからです。しかしロゼットが、うつくしい、なだらかな声で、じぶんで作曲した、≪家族から愛され、よい人間であることの幸福≫を主題にした歌曲をうたったとき、一座の者みんなが感動して、うっとりと聞きほれているのを見て、姉娘たちはくやしさのあまり、もうすこしで気をうしなうところでした。シャルマン王は、感動しきったようすでした。王は目になみだをいっぱいためて、ロゼットのそば近くへ来ると、こういいました。
「うつくしい姫ぎみよ、わたくしは、このようにやさしい声を、はじめて耳にいたしました。もう一度お願いできれば、しあわせにぞんじますが」
ロゼットは、姉さんたちがうらやましく思っているのに気がつきましたので、疲れているからといって、おことわりしました。けれどもシャルマン王は、あたまのはたらきがよく、また人の気持ちがよくわかるので、ロゼットのことわったほんとうの理由をさっし、ますますこの姫に感じいったのです。
ロゼットの成功をこころよく思わない王妃は、夜会を早めに切りあげましたので、みんなはそれぞれ、へやにもどりました。
ロゼットは、着がえました。着ていた服や身のかざりをとって、それらをへやの中にあった、それがどうしてそこにあったのかはロゼットは知りませんでしたが、その黒たんのりっぱな箱の中に入れました。そうしたら木のケースの中に、大柄のリンネルの服、ニワトリの羽、ハシバミの実、サンザシの実、インゲン豆、布ぐつとブルーのくつ下とが、またありました。ロゼットは、すこしも心配しませんでした。また代母が助けにきてくれるだろうと、信じていたからです。それよりもロゼットは、両親のつめたい仕打ちや、姉たちのねたみごころを、すこしばかりさびしく感じました。けれどもロゼットは、それらの人たちをほとんどよく知っていませんでしたので、このつらい気持ちは、じぶんにあんなに愛想《あいそ》のよかった、よい人らしいシャルマン王の思い出によって、かき消されました。
家族会議
ロゼットが明るい、やさしい考えにふけっていたとき、王と王妃と、オランジーヌとルーセットのふたりの姫とは、怒りにもえていました。四人は、王妃のへやに、集まりました。
姫たちは、口ぐちにいいました。「人目をひく身なりで、王や王子のばか者どもの視線を集め、ちやほやされていい気になっている、あのにくたらしいロゼットをここへ呼ぶなんて、おそろしいことだわ。おとうさまが、あの子をここへ呼んだのは、あたしたちにたいする侮辱《ぶじょく》ともいうべきですわ」
「はっきりいっておくが」と、王さまは、娘たちにいいました。「あの子にここへ来るようにといってやったのは、仙女《せんにょ》のピュイサントにいわれたから、そうしたんだよ。それにわたしは、あの子があんなにきれいになったとは知らなかったものでね……」
「あんなにきれいですって!」と、姫たちは王さまの言葉を、さえぎりました。「あのひとがきれいだなんて、見当ちがいも、はなはだしいわ。ぶきりょうで、ばかですわ、あの子は。みんながちやほやするのは、着かざっているからよ。おとうさまったら、どうしてもっときれいな宝石類や、衣しょうを、あたくしたちに、くださらないの? あの高慢《こうまん》ちきな女のそばでは、あたくしたちは、まるで下ばたらきの女そっくりだわ」
「いったい、あんなにうつくしい宝石類を、どこでみつけられるんでしょうね? あれに比べられるようなものは、とても持てっこないわね。あの人の代母の仙女が、じぶんのを貸したんだわね」
「あたくしたちは代母としては、王妃さまたちしかもっていないのに、どうしてロゼットには、代母として仙女なんかを呼んだの?」
「仙女を呼んだのは、おとうさんではありませんよ」と、王妃が答えました。「仙女ご自身が、お呼びもしないのに、すがたをお見せになって、ロゼットの代母になりたいと、おっしゃったのですわ」
「いい争いをしてるときじゃないよ」と、王さまがおっしゃいました。「なんとかしてロゼットを追いはらって、シャルマン王が、あの子と二度と会わないようにしなければ」
「そんなこと、わけないじゃありませんか」と、王妃がいいました。「あした、召使いの男たちをやって、あの女の宝石類や衣しょうをはぎ取らせ、また農場へ連れもどして、そこから絶対に出られないようにさせれば」
王妃がこの言葉をいいおわったとたんに、仙女ピュイサントがあらわれて、怒ったようすで、おどかすように、おそろしい声でいいました。
「もしロゼットのからだにふれたら、もしあの子をここから追いはらって、すべての祝宴《しゅくえん》に列席《れっせき》させないようだったら、おもい知らせてやる。見さげはてた王よ、人でなしの王妃よ、おまえたちは、ヒキガエルになるがいい。そして娘たち、にくむべき姉たちよ、おまえたちは、マムシにかわるだろう。さあ、ロゼットのからだに、ふれてみたらいい!」
こう言いのこして、仙女はすがたを消しました。
王と王妃、それから姫たちはおそろしさのあまり、一言もいわずに、それぞれ引きとりました。しかし心の中は、怒りで、にえくりかえるようです。姫たちは、ほとんどねむれませんでした。翌日になると、怒りはなおいっそうこみあげてきて、目は疲れで隈《くま》ができ、顔はひきつり、おしろいや紅をつけてもかくしようがなく、おつきの女にあたりちらしていましたが、みにくさは、つのるばかりでした。王も王妃も、姫たち同様にがっかりして、心のうれいをぬぐい去ることは、できませんでした。
その二日め
ふとった女中がロゼットに、パンと牛乳をもってきて、着がえのお手つだいをしましょうと、いいました。でも、ロゼットは、女中に服装が変化するのを見られたくなかったので、ただ礼をのべて、いつもじぶんひとりで着がえをしたり、髪をなおしているからといって、ことわりました。
ロゼットは、お化粧《けしょう》を、しはじめました。髪をあらい、くしけずって、ゆいあげ、昨日のすてきなざくろ石のかざりを、つけようと思いました。ところが、おどろいたことに、黒たんの小箱はなくなっていて、そのかわりに、小さいケースがおいてあって、こんなことを書いてある紙片が、その上においてありました。
「ロゼットや、きのうのように、農場から持ってきた衣服を着なさい。すばらしい効果が見られるよ」
ロゼットは、代母が助けにきてくれるものと信じていますので、すこしもためらいませんでした。そこで、きのうとはちがったふうに、ニワトリの羽を髪にさし、服を着、くつをはき、首かざりや髪かざりをつけて、鏡に向かいました。そして鏡をのぞきこんだら、あまりのうつくしさに、目がくらむばかりでした。すばらしくりっぱな、乗馬《じょうば》すがたなのです。空色のビロードの乗馬服で、クルミのように大きな、真珠《しんじゅ》のボタンがついていました。くつ下には、ハシバミの実のように大きな真珠のふさかざりが、ぬいつけられてありました。髪には、やはり空色のビロードの小さな騎手帽《きしゅぼう》が、ひときわうつくしい大つぶの真珠でとめられ、まばゆいばかりのまっ白い羽毛がついていました。乗馬ぐつは、やはりブルーのビロードで、真珠と黄金がぬいつけられてありました。腕輪《うでわ》も首かざりもやはり真珠で、そのうつくしいことといったら、それ一つだけで、王国のすべての宮殿が買えるかと思われるほどでした。ロゼットが、ドアをノックしてはいってきた小姓《こしょう》のあとについて、へやを出ようとしたとき、一つの声が、耳元で、ささやきました。
「ロゼット、シャルマン王がさしだす馬以外の馬に、のってはいけないよ」
ロゼットは、ふり向いてみました。だれもいません。でも、この忠告が、代母からきたものなのは、うたがうまでもありません。
小姓は、きのうとおなじように、ロゼットを客間へあんないしましたが、きのうにもまして、一座がどよめきました。そのやさしくて良《よ》いすがた、うつくしい顔かたち、しとやかな身のこなし、目を見はらせる服装、それらが一同の視線と心とを集めたのです。シャルマン王は、ロゼットの来るのを待ちうけていましたので、そのすがたを見ると、前に出て、ロゼットに腕をかし、王と王妃のまえに伴《ともな》いました。王たちは、きのうよりもさらにつめたく、あいさつをしました。オランジーヌとルーセットは、ロゼットのあたらしいよそおいを見るなり、くやしさのあまり、あいさつさえも、ろくにしませんでした、
ロゼットは、このようなあつかいに、すこしばかりこまったようすでしたので、それをみたシャルマン王は、ロゼットのそばに近よって、森で狩《かり》をしているあいだじゅう、じぶんがロゼットの騎士《きし》の役をするといって、そのゆるしを求めました。
「あたくしこそ、ねがってもないしあわせにぞんじますわ、殿下」と、ロゼットは、よろこびをかくさずに、答えました。
「わたしは、まるで、あなたのきょうだいのような気がするのですよ」と、シャルマンはいいました。「うつくしい姫ぎみよ、わたしはそれほどまでに、あなたに愛情を感じているのです。あなたのおそば近くにいることをおゆるしください。あらゆることにたいして、あなたの身をお守り申すことを、おちかいします」
「お名前にふさわしい王さまと、ごいっしょしておりますことは、あたくしの名誉《めいよ》でもあり、よろこびでございますわ」
シャルマン王は、この返答に、大よろこびでした。もはやこの若い王さまは、オランジーヌやルーセットがどんなにうらもうが、どんなにじぶんたちのほうに引きよせようとつとめようが、ロゼットのそばを、けっして離れませんでした。
食事がすむと一同は、馬にのるために、玄関正面の広場に、おり立ちました。ひとりの小姓が ロゼットに、きれいな黒い馬を、ひいてきました。たちのわるい、あばれ馬らしく、ふたりの馬丁《ばてい》が、やっとおさえていました。
「こんな馬に、のってはいけませんよ、姫ぎみ」と、シャルマン王が、いいました。「ころされてしまいますよ」そして、小姓にむかって、こういわれました。「べつの馬を、つれてこい」
「王さまと王妃さまが、お姫さまを、この馬のほかにはのせてはならぬと、きついご命令で」と、小姓は答えました。
「姫ぎみ、しばらくお待ちくださるように。あなたにふさわしい馬を、つれてまいりますから。どうか、だんじて、この馬にのってはいけませんぞ」
「おまちいたしますわ、王さま」と、ロゼットは、やさしく微笑をうかべていいました。
まもなく、シャルマン王は、雪のようにまっ白な、りっぱな馬を、ごじぶんでひいておいでになりました。鞍《くら》は、ブルーのビロードで、真珠のししゅうがあり、手綱《たづな》は、黄金と真珠で、かざられていました。ロゼットが鞍にまたがろうとすると、馬がじぶんでひざまずいて、ロゼットがのって、はじめて立ちあがったのです。
シャルマンは、くり毛のうつくしい馬にひらりと飛びのり、ロゼットのわきに、馬をよせました。
王や王妃や、その姫たちは、こうしたことをみんな見ていて、怒りでまっさおになりましたが、仙女のピュイサントがこわいので、どうすることもできません。
王さまは、出発の合図をなさいました。婦人たちは、それぞれじぶんの騎士をもたれました。オランジーヌとルーセットは、ふたりとも小国の王子たちで、がまんしなければなりませんでした。どちらの王子も、シャルマン王のようにうつくしくもなければ、感じがよくもありません。で、ふたりの姫たちは、いっそうぶあいそうでしたので、これらの王子らにしても、だんじて、こんな感じのわるい姫たちと結婚などはしまいと、心のなかで誓《ちか》いました。
狩の一行について行かずに、シャルマン王とロゼットとは、森のうつくしい小道にはいって、じぶんたちの生活について、語り合いました。シャルマンが、たずねました。
「父ぎみの王さまが、あなたとずっと会っていなかったというのに、どうしてそのような、まるで仙女でなければもてないような、うつくしい宝石類をくださったのですか?」
「これらは、あたくしの善良な代母さまの贈《おく》りものなのです」
そこでロゼットはシャルマン王に、どういうふうにしてじぶんが農場でそだてられたか、またじぶんの知識や、じぶんの身につけていることはすべて仙女ピュイサントのおかげであること、その代母がじぶんを教育してくれ、じぶんが欲しいと願うものを、みんなくれることを話しました。
こんどはシャルマン王が、身の上ばなしをしました。王は七歳で両親をうしない、仙女プリュダント〔≪用心ぶかい≫という意味〕により、教育をうけたのです。この祝宴《しゅくえん》にきたのも、仙女プリュダントのすすめによったのでして、仙女のいうには、王はこの宴会で、じぶんにふさわしい、完全な婦人をみつけることができるとのことでした。
「ロゼットよ、わたしはじじつ、あなたのなかに、仙女が話した完全な婦人をみつけたと信じています。どうかわたしと生活をともにしてください。ご両親に、あなたとの結婚を申しこむことを、おゆるしください」
「ご返事いたすまえに殿下、あたくしの代母さまのゆるしを得なければなりませんわ。でも、あたくしとしましては、おそばで生涯《しょうがい》をすごすことを、たいへんうれしくぞんじますわ」
このようにして午前中は、ロゼットとシャルマンにとって、たいへん気持ちよくすぎました。ふたりは、晩さんのための身じまいをするために、王宮にもどりました。
ロゼットは、きたない屋根裏べやへ、のぼって行きました。へやにはいると、ばら色のりっぱな木の箱がありました。ふたがあいていて、中はからっぽです。ロゼットは、着がえにかかりました。身につけていたものを取っていきますと、それがひとりでにその箱の中にはいっていって、みんなおさまると、ふたがしまりました。
ロゼットは、また髪をなおし、気をくばって、着つけをしました。そして鏡のまえにかけつけましたが、思わず、感嘆《かんたん》のさけびをおさえることができませんでした。服は、まるでチョウチョウの羽でつくったような薄地で、いかにも軽そうで、うつくしくかがやいていました。そのバストや、すそや、胴《どう》まわりには、まるで太陽のように光りかがやくダイヤモンドのへりかざりが、ついていました。頭はダイヤのヘヤネットでおおわれ、うしろのほうは大つぶのダイヤがついていて、首すじまでかかっていました。どのダイヤもナシのように大きくて、それ一つで、一王国にあたいするようでした。首かざりにも腕輪にも、まばゆいばかりの大つぶのダイヤがついていて、じっと見ていますと、目がいたくなるほどでした。
ロゼットは代母さまに、こころからお礼をいいました。そうしますと、ほおに、やさしい朝のせっぷんを感じました。ロゼットは、小姓のあとについて、客間にはいりました。シャルマン王が入口に待っていて、ロゼットに腕をかし、王や王妃のいるところまで、つれていきました。そのときの、王や王妃や姫たちの、ロゼットにむけられたこわい顔を見て、シャルマンは、はげしいいきどおりを、おぼえました。で、午前中とおなじように、ロゼットのそばにずっとつきっきりで、みんなの賛嘆《さんたん》の声と、姉娘たちのにくしみの視線とを、まぢかに感じていました。ロゼットは、父や母や姉たちの、にしくみのまとになっていることを、さびしく思っていました。シャルマン王は、そのさびしそうなのに気づき、そのわけをたずねました。ロゼットは、ありのままに、そのわけを話しました。
「ロゼット、ではいつになったら父ぎみに、あなたをいただきたいと、いうことができるのですか? わたしの王国では、みんなで、あなたを愛すでしょう、だれにもましてこのわたしはね」
「殿下、あす、このことについて代母さまにお話して、ご返事を申しますわ」
食事になりました。シャルマンはロゼットのそばに席をしめて、いろいろたのしく語りあいました。
晩さんがすみますと、王さまは、舞踏《ぶとう》がはじまると、告げました。オランジーヌとルーセットは、十年もダンスの手ほどきを受けていますので、たいへんじょうずに、おどりました。でも、うつくしくは、ありませんでした。ふたりは、ロゼットが舞踏会に出るようなチャンスがなかったことを知っていましたので、さもばかにしたようすで、こんどはロゼットの番だと、告げました。つつしみぶかいロゼットは、つよくことわりました。なぜならば、みんなの視線をあびて、このうえじぶんをほこらしげに見せることは、いやでしたから。けれども、ロゼットがことわればことわるほど、ねたみ心のつよい姉娘たちは、これでロゼットがしくじってみんなの笑いものになるだろうと、それが見たいので、しきりにすすめました。しまいには王妃までも、この言いあらそいにくわわって、ぜひダンスをするようにと、つよい口調で命じました。
王妃の命令ともなりますと、従わないわけにはいきません。シャルマンは、ロゼットのこまっているようすを見て、いいました。
「わたしがお相手いたしますから、ロゼット、ごぞんじのないステップのときは、わたしがうまく、ひとりでこなしましょう」
「ありがとうございます、殿下。お気持ちがよくわかって、うれしゅうございます。よろこんで、お相手をお願いいたしますわ。たぶん、殿下に、おはずかしい思いをおさせしないとぞんじますけれども」
ロゼットとシャルマンは、おどりはじめました。これほどしとやかで、いきいきとしていて、軽やかなおどりは、見たことがありません。みんな、いよいよ感心しきってふたりに見とれていました。それは、オランジーヌやルーセットのダンスよりも、はるかにすぐれていました。ですからふたりは、もう怒りをおさえることができず、ロゼットに飛びかかって、平手《ひらて》打ちをくわせ、ダイヤモンドをひきちぎってやろうと、うずうずしていました。ふたりから目をはなさずに、じっと見ていた王と王妃とは、姫たちの気持ちを見ぬいて、ふたりを押しとどめ、その耳元で、ささやきました。
「ピュイサント仙女に、用心おし。がまんするんだよ。あしたが、いよいよ最後の日だからね」
ダンスがおわりますと、われんばかりの拍手かっさいです。みんなロゼットとシャルマンに、もう一度やってくれと、しつっこくたのみました。ふたりとも疲れておりませんでしたし、いつまでもみんなから言われているのがいやなので、立ちあがり、前にもましてしとやかに、かるくおどりました。もはやオランジーヌとルーセットは、がまんできません。怒りのために息がつまり、気をうしなってしまいました。人びとは、そっとふたりを、連れだしました。ふたりの顔は、ねたみと怒りのために、なおいっそうみにくくなり、すこしもうつくしくありませんでした。けれどもみんなは、ふたりのねたみ心と、いじのわるいのを知っていますので、同情する者は、だれもいません。ロゼットは、じぶんにたいする熱狂《ねっきょう》ぶり、拍手かっさいがあまりにはげしいので、それからのがれるために、庭に出ました。シャルマンも、そのあとを追いました。ふたりは、その夜ののこりを、もしも仙女ピュイサントがロゼットに、シャルマンといっしょにくらすことを許してくれたとして、その後の生活方針を、語りあいました。ロゼットのダイヤモンドは、ふたりが歩く小道を、ふたりが腰をおろすしげみを、まるで数知れない星のように、照らしつけていました。
やがて、わかれなければならないときが、きました。シャルマンが、いいました。
「では、明日! あすこそ、≪いつまでも!≫と、いってくださるように!」
ロゼットは、じぶんのへやに、のぼって行きました。着がえをしますと、そのうつくしい装身具は、以前にもましてうつくしい箱の中に、ひとりでに、おさまりました。それは彫りのある象牙《ぞうげ》でできていて、トルコ石の釘《くぎ》で、打ちつけられてありました。着がえをおえたロゼットは、ベッドにはいると、ろうそくを消して、ひくい声でいいました。
「あたしの愛する代母さま、あすシャルマン王に、なんとお答えしたら、よろしいでしょうか? どうか、ご返事をお聞かせくださいますように。どのようなお言葉であろうとも、あたくしは、おっしゃるとおりにいたします」
すると、仙女のやさしい声が、答えました。
「ええ、承知するとつたえなさい、ロゼットよ。この結婚を取りはからったのは、わたしなんだよ。おまえにシャルマン王を引きあわせるために、わたしがおまえのおとうさんに、おまえをこの祝宴に呼ぶようにさせたのだよ」
ロゼットは、善良な仙女に、感謝しました。そして保護者ピュイサントの、母親らしいせっぷんを両方のほおに感じてから、ねむりにはいりました。
三日め、そして最後の日
ロゼットが、やすらかにねむっているあいだに、王と王妃と、オランジーヌとルーセットとは、怒ってわめきちらし、ロゼットの成功と、じぶんたちの受けた屈辱《くつじょく》について、たがいに言いあらそい、責めあっていました。最後の希望が、のこっていました。あす、馬車競走が、おこなわれるからです。二頭の馬をつけたくるまを、婦人が走らせることになっていました。ロゼットには、くんれんしてない、カンのつよい、二頭のわかい馬をつけた、ひっくり返りやすい背たけの高いくるまを、あてがうことにしました。王妃は、いいました。
「シャルマン王にしたって、けさの、鞍《くら》をつけた馬のように、交替のくるまや馬は持っていまい。馬の一頭ぐらいはなんとかなるだろうが、馬にひかせたくるままでは、みつかるまいよ」
あすはロゼットをひと思いに殺せるかもしれない、またはひどい傷をおわせるか、顔をだいなしにすることが、できるかもしれない、そういうなぐさめが、四人のわるい人たちの気持ちを、おちつかせました。そして、それぞれベッドにはいりましたが、もし馬車競走がうまくいかなかったときはどうしようかと、ロゼットをかたづけるよい方法を、あれやこれや、考えていました。
オランジーヌとルーセットは、よくねむれませんでした。そのためにふたりは、まえの日よりもいっそうみにくくなり、やつれました。
ロゼットは、こころがおだやかで、気持ちがおちついていますので、一晩じゅう、よくねむりました。その日は疲れきっていましたので、朝おそくまで、ねむっていました。
ロゼットが目をさましたときは、お化粧をする時間も、ほとんどないくらいでした。家畜《かちく》小屋の下ばたらきをする、ふとった女が、いっぱいの牛乳と、黒パンを一つ、持ってきました。それは、ロゼットを、女中同様にあつかおうという、王妃の命令によるものでした。そんなことは、ロゼットは、すこしも気にしませんでした。で、そまつなパンと牛乳を、おいしくたべ、お化粧にかかりました。
ぞうげの小箱は、なくなっていました。ロゼットは、きのうとおなじように、リンネルの服を着て、ニワトリの羽や、そのほかの装身具をつけると、鏡を見に行きました。
むぎわら色の、しゅすの乗馬服で、まえにししゅうがしてあり、すそにサファイアや、エメラルドがついていました。騎手帽は、白いビロードで、たいへんめずらしい鳥の、色とりどりの羽かざりが、たまごのように大きなサファイアで、とめてありました。首には、これもやはりすばらしいサファイアの時計のくさりがかかっていて、その先にさがっている時計の文字板はオパールで、上のほうに一つだけサファイアがきざみこまれ、ガラスは一個のダイヤで、まかなくても針がとまらない、自動装置が、ほどこされてありました。
ロゼットは、ドアをたたく音を聞き、小姓のあとについて、出て行きました。
客間にはいると、シャルマン王が、じりじりしながら待っているのに、気づきました。王はいそいで、ロゼットのまえに行き、腕をさしだして、いそいでいいました。
「どうでした、姫ぎみ、仙女はなんといいましたか? どういう返事でした?」
「あたくしの心が、はっきりと受けとめましたこと、それは、あなたが、そうしてくださるように、あたくしが、あたくしの生命をあなたにささげよとのことでした」
「ありがとう、ほんとうにありがとうよ、ロゼット! あなたの父ぎみに、いつ申し入れしたらいいかね?」
「馬車競争からもどってきたら、いかがでしょうか、殿下」
「結婚申しこみにあたって、式は今日ただちにあげると申し入れたいが、いかがなものでしょうか? というのは、わたしはすぐにも、あなたを、家族の人たちの乱暴な仕打《しう》ちからすくいだし、わたしの国へおつれしたいので」
ロゼットは、ためらいました。そのとき、仙女の声が、耳元でささやきました。「お受けなさい」おなじ声が、シャルマンの耳元でも、ささやきました。「結婚をいそがれるように、殿下。すぐに王さまに話しなさい。ロゼットの生命は、おびやかされているのです。わたしにしても、今夜、陽のしずむときから一週間のあいだは、あの子の身を守ってやれないのです」
シャルマンは身ぶるいして、いま聞いたことを、ロゼットに語りました。それは、けっしておろそかにしてはいけないお告げなのですと、ロゼットはこたえました。なぜならそれは、あきらかに、ピュイサント仙女のお告げだったからです。
ロゼットは、王や王妃や、姫ぎみたちに、あいさつをしに行きました。だれも話しかけようとせず、見もしないのです。ロゼットはすぐに、王さまや王子さまのむれに、取りかこまれました。その人たちは、今晩でも結婚を申しこんだことでしょう。しかし、シャルマンがそばにつきっきりなので、だれもそのことについては、話そうとしませんでした。
食事がすみますと、一同、くるまにのるために、おり立ちました。男の人が馬にのり、女の人が、くるまを走らせることになっていました。
ロゼットのために、王妃によって用意された馬車が、つれてこられました。ロゼットがくるまに飛びのろうとするのを、シャルマンはつかまえて、のせませんでした。
「このくるまに、のってはいけませんよ、姫ぎみ。馬を、よくごらんなさい」
ロゼットは、二頭の馬のどちらも、四人の男により、おさえられているのを、見ました。馬は棒《ぼう》だちになり、怒って飛びはねていました。
ちょうどそのとき、青いボタンでとめた、むぎわら色のしゅすの服を着た、一人のかわいらしい騎手が、すずをふるような声で、さけびました。
「ロゼット姫の馬車を!」
すると、どうどうとした二頭の白馬にひかれた、らでんと真珠をちりばめた小さなくるまが、近づいてきました。馬具は、サファイアのかざりのある、むぎわら色のしゅすでできていました。
シャルマンは、この知らないくるまに、ロゼットをのせていいかどうか、わかりませんでした。王と王妃のわるだくみが、またおそろしかったからです。そのとき、仙女の声が、耳元でしました。
「ロゼットをのせなさい。このくるまと馬は、わたしのおくりものなのです。このくるまがロゼットをつれてゆくところへ、どこまでもついて行くように。時間がたちます。わたしは、ロゼットのために、あと数時間しか、さけないのです。どうしても日ぐれ前までに、ロゼットは、あなたの国にいなければならない」
シャルマンは手をかして、ロゼットをそのくるまにのせ、じぶんも乗馬に、またがりました。すべての馬車が、出発しました。ロゼットのくるまも、また出発しました。シャルマンは、一歩も、そのそばをはなれませんでした。しばらくしますと、ヴェールをかぶった婦人ののった二台の馬車が、ロゼットのくるまを追いぬこうとして、突進してきました。その一つが、ロゼットのくるまをこなごなにふんさいしてしまうような勢《いきお》いで、つっかかってきました。もしこのくるまが、仙女によってつくられたものでなかったら、あやういところでした。そこで逆に、重くてがっしりしたくるまのほうが、こわれてしまいました。ヴェールをかぶった女は、石ころの上に投げだされ、そのままで動きません。その女がオランジーヌであると知ったロゼットは、馬をとめようとしました。そのとき、もう一つの馬車が、ロゼットのくるまに、つっかかってきました。やはり前のとおなじように強烈《きょうれつ》に、つっこんできたのです。でも、やはりおなじ結果になりました。そのくるまは、めちゃめちゃにこわれ、ヴェールの婦人は石ころの上に投げださて、そのままだれかが来るのを待っているようです。
ロゼットは、それがルーセットであると、わかりましたので、くるまをおりようとしました。そのときシャルマンが、それを押しとどめて、いいました。「聞きなさい。ロゼット、あの声を」
その声は、こういいました。「どんどん進むように。王が大軍をひきいて、ふたりを殺そうとして、かけつけてくる。まもなく、太陽はしずむ。おまえたちをすくう時間は、もうわずかだ。シャルマン、あなたは乗馬をすてて、わたしの馬を走らせなさい」
シャルマンはすぐに、生きているここちもないロゼットのそばに、飛びのりました。馬車は全速力で走り、一時間に八十キロも、とばしました。だいぶ長いあいだ、ふたりは、王のひきいる武装《ぶそう》した多数の男に、追撃《ついげき》されていました。しかし王の軍勢《ぐんぜい》は、仙女の馬に勝つわけはありません。くるまは、あいかわらずはやい速力で走りつづけ、馬はいよいよ飛ぶようにかけて、一時間に四百キロのはやさで、とばしました。このようにして六時間走りつづけたのち、ふたりのくるまは、シャルマン王の宮殿の、入口の階段の下にとまりました。
宮殿じゅうに、あかあかと燈火《とうか》がともされ、人びとは祝宴の服装に着かえ、石段の下で、王の到着を、待ちうけていました。
王とロゼットは、ただただびっくりするばかりで、どのようにしたらこの予期しない歓迎《かんげい》がなっとくゆくか、さっぱりわかりませんでした。シャルマンは手をかして、ロゼットをくるまからおろすと、目のまえに仙女ピュイサントがいるのを見ました。仙女は、シャルマンにいいました。
「よく、お国にお帰りになりました。シャルマン王よ、わたしについてきてごらん。結婚のための準備は、すべてととのっておりますよ。ロゼットを、着がえをするために、きめられたへやにつれておいで。そのあいだに、きょうのできごとについて、あなたたちの疑問《ぎもん》に思っている点を、説明してあげよう。あたしはまだ、一時間あるからね」
仙女とシャルマンとは、ロゼットを、じつに洗練《せんれん》された趣味の家具と装飾のあるへやに、つれて行きました。へやには、ロゼットにおつかえする侍女《じじょ》も、数人いました。
仙女はシャルマンとへやを出ると、こういいました。
「ロゼットにたいする王と王妃のにくしみは、いよいよつのって、ついにわたしに復しゅうされるのを承知のうえで、ロゼットを亡《な》きものにしようとするまでになったのだよ。わたしがロゼットに害をあたえようとした馬をかえたために、馬車競争のわるだくみが成功しなかったので、ふたりは権力を使うことにした。王はかねがね、王のためにはどんなことでもやってのける暴力団《ぼうりょくだん》をもっていてね、そいつらに、あんたたちのあとを追わせたのさ。王は、あんたのロゼットにたいする愛情を見て、あんたがあの子のためなら死も辞《じ》さないと見ぬき、じぶんのにくしみのために、あんたもぎせいにしようとしたんだよ。オランジーヌとルーセットは、この王の最後のくわだてを知らなかったものだから、あんたも見たような手段で、つまり重たいがんじょうなくるまを、小さくてかるいくるまにぶつけて、ロゼットを亡きものにしようと、こころみた。で、わたしは、あの娘にふさわしいように、それぞれ罰してやったのさ。
オランジーヌとルーセットは、顔を石できずつけて、見るもむざんなかっこうさ。わたしはあの娘たちを、失神状態から立ちなおらせ、傷はなおしてやったが、顔かたちをかえた見るもおそろしい切り傷は、そのままにしておいたよ。わたしは、あの娘たちのりっぱな衣しょうを、百姓女の身なりにかえて、すぐにふたりの荒っぽい馬丁《ばてい》と、それぞれ結婚させることにした。それらの荒くれ男は、ふたりの女の性格がかわるまで、なぐったり、ぎゃくたいする役目をおわされているのさ。おそらく永久に、あの女たちの性格は、なおらんだろうがね。
王と王妃については、わたしはあの人たちを、荷馬《にば》にかえてやった。そして、気むずかしい、いじのわるい主人たちをあたえてな。ロゼットにたいする悪業《あくぎょう》のかずかずを知らしめてやるためにだ。それに、四人とも、あんたの領地内にうつしたので、たえずロゼットやあんたを賞賛《しょうさん》する声を、罰として聞かなければならないわけだ。
なお、あんたに、いっておかねばならないことがある。それはね、あの子の両親や姉たちに、そういう罰をあたえたことを、ロゼットにだまっておくことだ。あの子はよい心をもっているので、それを聞いたら、あの子の幸福がみだされる。わたしは、あんな手におえぬ悪人どもは、なおりっこないのだから、恩恵《おんけい》をほどこすべきではないし、ほどこそうとも思わないね」
シャルマンは、こころから仙女に礼をのべて、秘密をまもることを、ちかいました。そして仙女といっしょに、すでに用意されてあった花嫁《はなよめ》衣しょうに着がえたロゼットを、さがしに行きました。
それは、あらゆる色の宝石類で、花や鳥のいろいろなかざりをししゅうした、まばゆいばかりの金色のうすい布地で、鳥をかたどっている宝石類は、ロゼットがちょっとからだを動かしても、この世のもっともうつくしい楽《がく》の音《ね》よりももっと心地よいさえずりを、聞かせました。髪には、衣しょうの宝石よりもさらにうつくしい宝石をちりばめた花かんむりをつけていました。そして首と腕は、太陽のようにかがやくざくろ石で、取りかこまれていました。
シャルマンは、ロゼットのうつくしいのに、ただぼうぜんと、みとれていました。仙女がこういって、シャルマンを、われにかえらせました。
「さあ、さあ、歩きなさい。わたしは、あと三十分しきゃない。わたしは、仙女の女王さまのところに、行かなければならないのでね。そこへ行けば、一週間のあいだ、わたしのもっている、すべての力を、うしなうことになる。これは、どうにもならないおきてなのだから、だれでも従わねばならないのだ」
シャルマンは、ロゼットに、手をさしだしました。仙女が、ふたりの先にたちました。三人は、あかあかとあかりのついている礼拝堂《れいはいどう》のほうへ、歩いていきました。シャルマンとロゼットは、結婚の祝福をうけたのです。
ふたりが客間にもどったとき、もう仙女は、すがたを消していました。一週間たてばまた会えるとわかっていますので、ふたりはべつに苦にしませんでした。王さまは、あたらしい王妃を、宮廷の人たちに引きあわせました。みんなはロゼットがうつくしくて、王さまとおなじように善良なかただと思い、王さまを愛していたように、この王妃さまも愛することができると、思いました。
仙女は、たいへん親切に気をくばって、ロゼットが養育《よういく》された農場を、そこに住んでいた人たちといっしょに、シャルマン王の領地内に、うつしておきました。その農場は、庭園のつづきにあったので、ロゼットは散歩がてら毎日、乳母《うば》に会いに行けました。仙女はまたごていねいに、ロゼットが三日間の祝宴で使ったすばらしい身なりの品じなを入れた小箱を、宮殿に持ってきておいたのです。
ロゼットとシャルマンは、幸福でした。ふたりはいつも、やさしく愛しあいました。ロゼットはとうとう、父母や姉たちのおそろしい罰を知らないで、すごしました。シャルマンに、姉たちが馬車からおちて、その後どうなったかとたずねますと、シャルマンは、姉さんたちは顔をすりむいたが、それもなおって結婚していて、仙女がロゼットに、姉さんたちのことはかまわないほうがいいといっていたと告げましたので、ロゼットももはや、姉たちのことは話さなくなりました。
オランジーヌやルーセットについていえば、この女たちは、不幸になればなるほど、性格がわるくなっていきました。ですから、いつまでもみにくいすがたで、家畜小屋《かちくごや》の世話をしていました。
荷馬《にば》にすがたをかえられた王と王妃は、かみついたり、足でける以外には、心をなぐさめるものは、ありませんでした。ふたりは、ロゼットの結婚の祝宴に、ご主人をつれていかねばなりませんでした。シャルマンに愛され、うれしそうな顔をした、うつくしいロゼットを見て、人びとがさかんにほめるのを聞いても、もはや怒る気力も、ありませんでした。
ふたりは、その性格がかわらないかぎりは、もとのすがたにはかえれませんでした。なんでも六千年も、ふたりは荷馬のすがたで、ずっといたそうです。
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灰色の小さなネズミ
小さな家
プリュダンという、奥さんのいない男が、娘《むすめ》といっしょに、くらしていました。娘はロザリーといって、その娘が生まれてまもなく、奥さんは、なくなったのです。
ロザリーのおとうさんは、お金持でした。じぶんの家である、大きな家に、住んでいたのです。家のまわりには、ひろい庭があって、ロザリーは、かってに散歩が、できました。
ロザリーは、やさしさと愛情につつまれて、大きくなりました。ただ父親は、ロザリーに、口返答《くちへんとう》をすることを、ゆるしませんでした。無意味な質問をしたり、こっちからいいたくないことを、あくまでも知りたがることを禁じていたのです。このような父親の注意と監視《かんし》のおかげで、不幸にしてだれにでもあるものですが、この好奇心という欠点が、ロザリーには、ほとんどなくなっていました。
ロザリーは、高いへいでかこまれた庭から、一歩も外へ出ませんでした。また、家には召使いがいませんでしたから、父親のほかには、だれにも会いませんでした。なんでも、ひとりでに出来あがるように、思われました。衣服でも、本でも、手仕事でも、おもちゃでも、ロザリーはなんでも、ほしいものは、いつも持っていました。父親ひとりの手で、ロザリーは、そだったのでした。ロザリーは、まもなく十五歳になるのですが、べつに退屈もしないし、ここ以外のところで、多くの人びとのあいだで生活しようなどとは、すこしも考えていませんでした。
庭のすみっこに、一つの小さな家がありました。その家は、ただ一つ入口があるだけで、まどがなく、いつもしまっていました。ロザリーの父親は、毎日そこへはいって行きました。そして、かぎは、いつもじぶんで持っていたのです。ロザリーは、あそこは庭仕事の道具などを入れておく納屋《なや》だと、思っていましたので、べつにそれについて話そうなどとは、思ってもいませんでした。ある日のこと、ロザリーは、花に水をやろうと、じょうろをさがしていましたので、父親にいいました。
「おとうさん、庭の小さなお家のかぎを、くれませんか」
「そのかぎで、どうしようって、いうんだい、ロザリー?」
「じょうろが欲しいの。あそこにあると、思ったもんだから」
「いや、ロザリー、あそこには、じょうろなんか、ないよ」
こういったときのプリュダンの声が、ずいぶん変だったので、ロザリーは、父親の顔を見ました。おどろいたことには、まっさおな顔をして、ひたいに汗《あせ》を、かいているのです。
「どうかしたの、おとうさん?」びっくりして、ロザリーは、たずねました。
「いや、なんでもない、なんでもないんだよ、ロザリー」
「あたしが、かぎが欲しいといったもんだから、おとうさんびっくりしたんでしょう。でも、へんね、あのお家の中に、なにがあるの、おとうさんが、そんなにこわがるなんて?」
「ロザリー、おまえがきいたことは、そういうことじゃないだろう? じょうろなら、納屋にあるから、とっておいで」
「でも、おとうさん、あの小さなお家の中には、なにがあるの?」
「ロザリー、おまえのおもしろがるようなものは、なんにもないよ」
「でもおとうさんは、毎日あそこへ行くのに、一度もあたしを、つれてってくれないじゃないの?」
「ロザリー、おとうさんが質問されるのをきらいなのは、よく知ってるじゃないか。好奇心《こうきしん》っていうのは、人のいやしい欠点だよ」
ロザリーは、それっきりなにも言いませんでしたが、考えこんでしまいました。あの小さな家のことは、いままで考えてもいなかったのですが、それがあたまにこびりついてしまったのです。ロザリーは、こんなふうに、考えていました。
「あの中に、どんなものを入れられるかしら? あたしがあそこにはいろうといったときに、おとさうさんがまっさおになったんだから!……きっと、あそこへ行くと、なにか危険なことがあるんだわ!……でも、変ね、おとうさんは、毎日行くんだから……きっと、おそろしい動物をとじこめてあるんで、それでたべものを持っていくんだわ……でも、おそろしい動物がいるんだったら、あの中でさわいだり、うなったりする音がするはずだわ、それなのに、あの小屋では、なんにも物音がしないんだから、動物なんかじゃないわ! だいいち、そんなおそろしい動物だったら、おとうさんが、たべられちゃうわね……つないであれば、そんなこともないでしょうが……でも、つないであるなら、あたしにだって、べつに危険はないはずだわ。いったい、なんなのでしょうね?……だれかをとじこめているのかしら! でも、おとうさんは、いい人だわ。罪もない人から空気や自由をうばうなんて、そんなことできっこないわ!……どうしても、この秘密をあばいてやろう……でも、どうしたら、いいかしら?……三十分でもいいから、おとうさんからかぎを取りあげることができたら! たぶん、そのうちいつか、かぎをわすれることもあるでしょう……」
ロザリーは、変な声でじぶんを呼んでいる父親によって、もの思いから、ひきだされました。
「はい、おとうさん、あたし、ぼんやりしていましたわ」
ほんとうにロザリーは、われにかえりました。そして父親を、じっと見ました。その顔はゆがんで、まっさおで、はげしい心の動揺《どうよう》を、しめしていました。ロザリーは、なおいっそう好奇心をそそられましたが、父親を安心させるために、無関心なふりをして、陽気にふるまおうとしました。こうしてロザリーは自分がかぎのことなどすこしも考えていないというようすをしていれば、父親だって、たぶんいつもそのことを思ってはいないだろうから、そのうちにかぎを手に入れられるだろうと、考えたのです。
ふたりは、食卓につきました。プリュダンはまったく食事がすすまず、だまりこんでいました。陽気になろうと、いくらつとめても、気分がしずんでくるのです。でもロザリーが陽気にふるまい、なんでもなかったようすを示しましたので、父親もやっと、ふだんのおちつきを、取りもどしました。
ロザリーは、あと三週間で、十五歳になるのでした。父親はそのときには、お祝いとして、うれしい話をしてびっくりさせてやろうと、約束していたのです。
数日間、たちました。もう二週間、待てばいいのです。
ある朝、プリュダンが、ロザリーにいいました。
「どうしても一時間ほど、るすにしなければならない。おまえの十五歳の誕生《たんじょう》のために、外出しなければならないのさ。家で待っていてくれ。いいかい、ロザリー、けっして好奇心にかられてはいけないよ。二週間たてば、おまえは、そんなにも知りたがっていることが、わかるだろうよ。なぜなら、わたしには、おまえの考えていることがよくわかるし、おまえの心を占《し》めていることがなんだか、知っているんだ。では、行って来るよ、娘や、好奇心をつつしむように」
プリュダンは、娘をやさしく抱き、立ち去るのが、いかにも気がすすまないといったようすで、出て行きました。
出て行くと、すぐにロザリーは、父親のへやにかけつけました。テーブルの上に、かぎがわすれられて置いてあるのを見たときのよろこびは、どんなだったでしょうか!
ロザリーは、かぎをにぎると、大いそぎで、庭のすみにかけつけました。でも、小さな家についたとき、ロザリーは、父親がいった『好奇心をつつしむように』という言葉を思いだしたのです。ロザリーは、ためらいました。そして、もうすこしのところで、こんな家の中なんか見ないで、かぎを持ちかえろうとしました。すると、かすかなため息が聞こえましたので、耳を戸につけてみますと、小さな声で、やさしく歌うのが、聞こえました。
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わたしは囚《とら》われびと
この地上でたったひとり
まもなく息たえるだろう、
ここからはついに出られずに。
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「まちがいなく、おとうさんがとじこめているのは、不幸な女のひとなんだわ」と、ロザリーは思いました。
そこで、戸をそっとたたいて、いいました。
「あなたは、どなたなのです? あたしは、あなたのために、どういうことをしたらいいの?」
「あけてください、ロザリー、どうか、おねがいだから、あけてください」
「どうしてあなたは、とじこめられているの? なにか、わるいことでもしたの?」
「まあ! そうじゃありませんよ、ロザリー。わたしをここへとじこめているのは、ある魔法つかいなんです。どうか、お助けください。わたしが何者であるかをお話して、お礼を申しましょう」
ロザリーは、もはやためらいませんでした。とうとう好奇心のほうが、いうことをきく気持ちに、勝ったのです。ロザリーは、かぎを、じょうまえにさしこみました。でも、手がふるえて、あけることができません。ロザリーは、やめようと思いました。すると、小さな声が、またいったのです。
「ロザリー、わたしがあなたにいわねばならないことは、あなたに関係のある、いろいろ興味のあることなのだよ、あなたのおとうさんは、いつもそう見えてる人とはちがうんだよ」
この言葉を聞いてロザリーは、さいごの努力をしました。かぎをまわして、戸がひらきました。
いまわしい仙女《せんにょ》
ロザリーは、じっと目をすえて、見ました。内部はくらくて、なにも見えません。すると、小さな声が、聞こえてきました。
「ありがとうよ。ロザリー。おまえのおかげで、わたしは助かったよ」
その声は、地面のほうから、来るようでした。ロザリーがよく見ると、すみっこのほうに、じぶんのほうを、いじわるそうに見つめている、らんらんとかがやく、ふたつの小さな目に気がついたのです。
「うまく成功したよ、ロザリー、おまえがじぶんの好奇心に負けたおかげでね。もしわたしが歌をうたったり、話をしなかったならば、おまえは引きかえしただろうね。そうしたらわたしは、もうおしまいだった。さあ、わたしがすくいだされたからには、おまえも、おまえの父親も、わたしの意のままじゃ」
ロザリーは、じぶんがいうことをきかなかったためにひきおこした不幸の大きなことが、まだわからないで、ただ、父親がとじこめておいたのは、おそろしい敵《てき》であることがわかったので、いそいで身をひいて、戸をしめようとしました。
「お待ち、ロザリー、このいまいましい牢獄《ろうごく》の中にわたしをとじこめておく力は、もはやおまえにはない。おまえが十五歳になるのを待たなかったら、わたしはここから、けっして出られなかったろうな」
その瞬間、小さな家は、消えてなくなりました。ただ、かぎだけが、びっくり仰天《ぎょうてん》しているロザリーの手に、のこっていました。そのときロザリーは、すぐそばに、灰色の小さなネズミが、その小さな目をぎらぎらさせて、じぶんのほうを見ているのに、気がつきました。ネズミは、調子っぱずれの小さな声で、笑いはじめました。
「ひっ、ひっ、ひっ! なんて、びっくりした顔をしてるんだい、ロザリー! ほんとうに、おまえは、おもしろい子だよ。よくまあおとなしく、好奇心にかられたもんさね!
このおそろしい牢獄にとじこめられて十五年間近く、わたしは大きらいなおまえのおやじや、その娘だというのでやはりきらいなおまえに、なんにもわるさができなかったんだからね」
「あんたは何者なんです、わるいネズミめ?」
「わたしはね、おまえさん一家の敵さ! わたしは、≪いまわしい仙女≫といってな、まあ、名前のとおりさ。たしかに、みんなが、わたしをきらっているし、わたしも、みんながきらいだ。わたしは、おまえの行くさきざき、どこへでもついて行くよ」
「あたしのことは、ほっといてよ! たかがネズミなんか、こわくないわ。おまえをおっぱらう、うまい手段をみつけるわ」
「よし、お手なみ拝見《はいけん》するとしよう。わたしはどこまでも、おまえの行く足跡《あしあと》に、ついていくからね」
ロザリーは、家のほうに、かけだしました。けれども、ふりかえってみると、いつもネズミが、さもばかにしたようなようすで笑いながら、あとから走って来るのです。家の中にはいると、ロザリーは、戸をぴしゃりとしめて、ネズミを押しつぶしてやろうと思いました。しかし戸はひらきっぱなしで、どうしてもしまりません。ネズミが、しきいの上にいるのです。
「待ちな、こいつめ!」怒りと恐怖に、われをわすれて、ロザリーは、さけびました。
ロザリーは、ほうきをつかむと、はげしい一撃《いちげき》を、ネズミにくわえようとしました。すると、ほうきが燃えあがって、ロザリーの手を、焼こうとしました。ロザリーは、いそいでほうきを投げすて、床が燃えないように、足で暖炉《だんろ》の中に、押しやりました。そのとき、ぐらぐらにえているなべをつかんで、ネズミの上に、かけました。だが、にえかえっていた湯は、しんせんな牛乳となって、ネズミは、こんなことをいいながら、飲みはじめました。
「おまえは親切だね、ロザリー! わたしを自由にしてくれたばかりでなく、すばらしいご馳走までくれるんだから!」
かわいそうに、ロザリーは、しくしく泣きだしました。父親が帰ってきたのを聞いたので、どういうことになるか、わからなかったからです。
「おとうさんだわ! おとうさんよ! ああ、ネズミ、後生《ごしょう》だから、行っちまってよ! おとうさんに、みつからないように!」
「わたしは、行かないよ。だが、おまえのかかとのうしろに、うまく隠《かく》れていよう、おまえのおやじが、おまえの従順でなかったことを知るまでな」
ネズミがロザリーのうしろで、からだをまるめたとき、プリュダンが、はいってきました。すぐに、ロザリーの困《こま》りきったようすや、あおい顔色が、恐怖をみせているのに、気づきました。プリュダンは、ふるえ声で、いいました。
「ロザリー、小さな家のかぎを、置きわすれてね。おまえ、みつけたかね?」
「ここにありますわ、おとうさん」そういってさしだしながらロザリーは、まっかになっていました。
「どうして、牛乳がこぼれてるんだね?」
「おとうさん、ネコですよ」
「ええっ、ネコだって? ネコが、牛乳のなべを、へやのまんなかまで持ってきて、まき散らしたのかい?」
「いいえ、おとうさん、あたしなの。なべをはこぶとき、ひっくりかえしてしまって」
ロザリーは、たいへんひくい声で話し、父親の顔を、まともに見られませんでした。
「ほうきを持っておいで、ロザリー、牛乳のかすをすてるから」
「ほうきはありません、おとうさん」
「ほうきがないって! 出かけるときには、あったが」
「あたしが、燃やしてしまったのです、おとうさん、つい、うっかりしてしまって……」
ロザリーは、はっきりいえませんでした。父親は娘を、じっと見ていましたが、不安そうな目つきで、ちらりとへやじゅうを見まわすと、ため息をついて、ゆっくりした足どりで、庭の小さな家のほうへ行きました、
ロザリーは、いすの上に、泣きくずれました。ネズミは、じっとしています。まもなくしてプリュダンが、かけこんできました。おそろしさのあまり、顔つきがかわっています。
「ロザリー、不幸な子よ! なんということをしたんだ? おまえは、おまえの宿命である好奇心に負けてしまったんだ。おまえは、わたしたちの、もっともむごいことをする敵を、すくいだしてしまったのだ」
「おとうさん、おゆるしください、おゆるしください」とさけんで、ロザリーは、父親の足元に、身を投げだしました。「あたしは、じぶんのしたことが、そんなにわるいことだとは、知らなかったのです」
「人は従順でないと、いつもこういうことになるのだよ、ロザリー。たいしてわるいことでないと思ってやったことが、じぶんにとっても、他人にとっても、たいへん大きな不幸をつくることがあるものだ」
「でも、おとうさん、どうしてあのネズミが、そんなにおとうさんをおそれさすの? あのネズミが、もしそんなに力があるんだったら、どうしておとうさんは、あいつをとじこめることができたの? どうしてまたつかまえて、とじこめることができないの?」
「娘や、あのネズミは、わるい仙女なのだよ、そして、たいへん力があるんだ。わたし自身も、精霊《せいれい》プリュダンなのだ。おまえが、わたしの敵をすくいだしたので、おまえが十五歳になるまでかくしておくはずだったことを、これからおまえに明かすことにしよう。
いま、いったように、わたしは精霊プリュダンなのだ。おまえのおかあさんは、ふつうの人間でしかなかった。けれども徳行《とくこう》がすぐれ、また美人だったので、仙女の女王さまにも、精霊の王さまにも気にいられ、わたしとの結婚をゆるされたのじゃ。
で、わたしは、結婚のために、祝宴《しゅくえん》をもよおした。ところが不幸なことに、いまわしい仙女を招待することを忘れてしまってな。おまけに、その仙女の娘の一人との結婚をわたしがことわったあとで、べつの一人の姫とわたしが結婚するというので、だいぶ気分を害していたところだから、よけいにこたえたとみえ、わたしをはじめ、わたしの妻子にたいして、つよいにくしみを誓《ちか》ったのだ。
わたしだって、そんなおどかしは、こわくないさ。わたしもあいつに負けないくらいな力をもっていたし、仙女の女王さまからは、たいへんかわいがられていたからな。なんどもわたしは、いまわしい仙女のにくしみの返報《へんぽう》を、わたしの魔法でしりぞけたよ。
ところが、おまえが生まれでまもなくして、おまえのおかあさんがはげしい苦痛をうったえたのを、わたしはじぶんの手におえなかったので、仙女の女王さまにおすくいくださるようお願いするために、ちょっと家をあけた。帰ってきたら、おかあさんは、いないではないか。わるい仙女が、わたしのいないのを利用して、おかあさんをあやめたのだ。そしておまえに、あらゆる悪徳《あくとく》、できるかぎりの悪事をおしえこもうとしていた。さいわい、わたしが帰ってきたので、あいつの悪行《あくぎょう》をとめさせることができたが、そのときあいつは、おまえに好奇心をあたえてしまっていたのだ。これは、おまえの不幸の種《たね》になるものであって、おまえが十五歳になるまでは、やつの魔法からのがれるわけにはいかなかった。わたしは仙女の女王さまにおねがいし、じぶんの力とあわせて、この運命のいたずらとたたかった。その結果わたしは、おまえが重大な場合に、三回おまえの好奇心に負けないかぎりは、十五歳になりさえすれば、あいつの魔力にはかからない、ということにした。同時に仙女の女王は、いまわしい仙女を罰するために、あいつをネズミのすがたにかえ、おまえも知っている小さな家に、とじこめたのだ。そして、ロザリー、いいかい、おまえがじぶんから進んであの家の戸をあけないかぎり、あいつはそこから出られないだろうと、言いわたしたのだ。また、おまえが十五歳になるまでに三回、おまえのもっている好奇心に負けたときにしか、あいつは元の仙女のすがたにかえれないだろうと、言いわたしたのだ。さいごにもう一つ、もしおまえが、すくなくとも一回だけ、このいまわしい傾向《けいこう》をしりぞけたならば、おまえは永久に、わたしもともども、このいまわしい仙女の魔力から自由になれるのだ。わたしはずいぶんほねおって、これらの恩恵を手にいれたのだよ、ロザリー。わたしは、おまえと運命をともにすることを約し、もしもおまえが三回おまえの好奇心に負けたならば、おまえといっしょに、いまわしい仙女のどれいになると、誓ったのだよ。だからわたしは、おまえのもっている、あらゆる不幸の原因である、この宿命の欠点を、なんとかして取りのぞこうと、そういうふうにおまえをそだてようと、じぶんに誓ったのだ。
そのためにわたしは、おまえをこのかこいの中にとじこめ、ほかの人間たち、召使いさえも、おまえに会わせないようにした。わたしはじぶんの力によって、おまえの欲しがるものは、なんでも手にいれた。もうこれで、うまく成功したと、わたしはよろこんでいた。三週間たてば、おまえは十五歳になるし、そうすればおまえは、あのにくむべき、いまわしい仙女の束縛《そくばく》から永久に自由になれるんだからね。そのときおまえは、いままで一度も考えたことのないようにみえた、あの家のかぎを求めたのだ。わたしは、かぎを求められたときの悲しい気持ちを、おまえにかくしおおせなかった。そのわたしの困ったようすが、おまえの好奇心をしげきした。おまえは陽気にふるまい、無関心をよそおっていたけれども、おとうさんには、おまえの考えていることが、よくわかっていたんだよ。だからおとうさんは、仙女の女王さまが、せめて一度だけでも、おまえの手のとどくところにかぎを置いておいて、おまえが誘惑《ゆうわく》に負けるか、それともうまく抵抗を示すか、ためす機会をあたえるようにとお命じになったときは、どんなになやんだことか、さっしてみるがいい! わたしは、あの運命のかぎをおまえの手にわたし、おまえが誘惑に負ける機会を、あたえなければならなかったのだよ。
考えてごらん、ロザリー、おとうさんがおまえをひとりっきりにしておいた一時間のあいだの苦しみを! そして帰ってみたら、おまえが取りみだしていて、顔をあからめているので、おまえが誘惑に抵抗する勇気がなかったことが、すぐにわかったよ。ほんらいなら、おとうさんは、おまえが十五歳になる日までは、すべてをかくしておいて、おまえの生まれや、いまわしい仙女の魔力の手に落ちて、おまえが受けねばならない危険のかずかずについては、いわないでおくべきだったのだよ。
さて、ロザリー、すべてが、だめになったわけではないんだよ。おまえはまだ、この二週間のあいだに、じぶんのいまわしい傾向に抵抗して、じぶんのあやまちを、あがなうことができるんだよ。おまえは十五歳になると、わたしたちの親類のグラシュー〔≪優美な≫という意味〕王子という、うつくしい王子と、むすばれることになっている。この縁組は、まだまだ見こみがある。
ああ! わが子、ロザリーよ! おまえ自身をあわれんで! それは、おとうさんのためばかりではないんだ。いいかい、勇気をもって、抵抗するんだよ」
ロザリーは、父親のひざによりかかり、手で顔をかくして、さめざめと泣いていましたが、おわりの言葉を聞いて、いくらか勇気をふるいおこし、やさしく父親を抱擁《ほうよう》すると、こういいました。
「ええ、おとうさん、あたし、誓いますわ。あたし、じぶんのあやまちをつぐないますわ。どうか、おとうさん、あたしのそばから離れないでください。おとうさんのそばにいれば、勇気も出てきます。もし、賢明で、あたたかいおとうさんの監視《かんし》がないと、あたし、勇気がくじけそうですわ」
「ああ、ロザリー! もうわたしは、おまえのそばに、いることができないのだよ。おとうさんは、敵の勢力下にあるのだ。おそらくあいつは、わたしがおまえのそばにいて、あいつがおまえにかける≪わな≫にたいしておまえに注意することを、ゆるしてはくれまい。それにしても、あいつをまだ見ないのは、おかしいな。おれが困っているのを見るのは、やつにとっては、いいなぐさめになるはずなのに」
「わたしは、おまえのすぐそばに、おまえのむすめの足元にいたんだよ」と、灰色のネズミは、不幸な精霊に、からだを示しながら、かんだかい小声でいいました。「おまえが、もうだいぶ困っている話を聞いて、たいへんおもしろかったよ。だから、すぐに、すがたを見せなかったのさ。さあ、かわいいロザリーにお別れをしな。わたしが、この子をつれて行くからな。おまえがついて来ることは、禁じるよ」
こういいおわると、ネズミは、そのするどい小さな歯で、ロザリーの服のすそをつかんで、ひっぱりました。ロザリーは、かなきり声をあげて、父親にしがみつきましたが、おそろしくつよい力に、ぐいぐいひっぱられます。不幸な精霊は、棒《ぼう》をつかんで、ネズミの頭上に、ふりあげました。しかし、それを打ちおろそうとしたとき、ネズミがその小さい足を精霊の足の上にかけますと、精霊は、まるで立像《りつぞう》のように、動けなくなってしまいました。ロザリーは、父親のひざに抱きついていましたが、ネズミに、ゆるしてくれと、呼びかけました。だがネズミは、かんだかい、あざ笑うような小さな笑い声をはっして、言いました。
「おいで、おいで、いい子だから、おいで。おまえが、おまえのあやまちを、どうやってもう二回くりかえすかは、ここではないよ。さあ、いっしょに、世間さまを見て歩こう。わたしは二週間で、この国をおまえに見せてあげるよ」
ネズミはあいかわらずロザリーをひっぱっていましたが、父親にしがみついているロザリーの腕の力もつよく、ネズミのなみはずれた力に、よくたえました。するとネズミは、奇妙な小さなさけび声をあげました。とつぜん、家じゅうが、炎につつまれたのです。ロザリーはよくよく考えてみて、家をやかれてしまえば、父親をすくう手段はすべてうしなわれてしまい、永久に、いまわしい仙女の支配のもとにとどまることになるだろうと、気づきました。父親の生活さえちゃんとしていれば、また父をすくう機会もあるわけです。
「さようなら、おとうさん!」と、ロザリーは、大声でいいました。「二週間後に、また会いましょう。あなたのロザリーは、おとうさんをうしなったのち、きっとおとうさんを、おすくい申しますわ」
そしてロザリーは、炎につつまれないように、にげ去りました。
しばらくのあいだ、どことも知らず、走りつづけました。なん時間も、なん時間も、歩きました。とうとう疲れはて、おなかもすいてきましたので、とある家の入口で腰かけていた女のひとに近よって、声をかけました。
「奥さま、あたしを泊めてはくれませんか。おなかがすいて疲れきって、死にそうですわ。どうか一晩、やすませてくださらないでしょうか」
「どうしてそんなきれいな娘さんが、道をうろうろしているのかね、それに、いっしょにいる動物はなんだね、小さな悪魔といった顔つきをしているが?」
ロザリーは、ふりむいてみました。灰色のネズミが、さもあざけるように、じぶんを見つめているのです。
ロザリーは、追いはらおうとしました。けれどもネズミはがんばって、立ち去りません。これを見て女のひとは、あたまをふって、いいました。
「さっさといきなさい。悪魔と、悪魔に守られている人とを、泊めるわけにはいかないね」
ロザリーは、泣きながら、歩きつづけました。どこへ行っても、ネズミがいっしょでは、泊めてくれないのです。ロザリーは、森の中にはいりました。そこには、さいわいなことに、のどのかわきをいやしてくれる小川があり、果実《かじつ》や、はしばみの実が、たくさんありました。ロザリーは、たらふく飲み、たべ、一本の木の下に、腰をおろしました。そして、父親のことや、この二週間のうちに、じぶんがどうなるかと、心配そうに考えながら、いやな灰色のネズミを見ないようにと、目をとじました。疲れていたし、くらいので、ねむけがさしてきました。ロザリーは、ふかいねむりに、おちこみました。
グラシュー王子
ロザリーがねむっているあいだに、グラシュー王子は、森の中で、たいまつで狩《かり》をしていました。シカが、イヌに追いかけられて、ロザリーのねむっているくさむらのそばに、うずくまりました。イヌのむれと、狩の人たちは、シカを追って、やってきましたが、とつぜんイヌがほえるのをやめて、ロザリーのまわりに、あつまりました。王子は、イヌにまた、えものを追わせるために、馬からおりました。森の中で、しずかにねむっている、うつくしい娘を見たときの、王子のおどろきは、どんなであったでしょうか! 王子はまわりを見まわしましたが、だれもいません。ひとりぼっちで、ねむっているのです。近くによってしらべてみますと、目のまわりに、なみだのあとがあって、まだ目から流れています。娘は、あっさりした服装でしたが、絹の服なので、ゆうふくな家庭の人であることが、わかりました。そのかわいらしい白い手、ばら色の爪、くり色の髪は、黄金《おうごん》のくしで、よくくしけずられてありますし、はきものも上品ですし、きれいな真珠《しんじゅ》の首かざりといい、娘が上流の家庭の人であることを、示していました。
娘は、馬が足ぶみしたり、イヌがほえたり、人ががやがやさわいでも、目をさましません。王子はびっくりして、ロザリーから目を離しませんでした。宮廷の人はだれも、この娘を知りません。あまりよくねむっているので、グラシューは心配になり、ロザリーの手を、そっととりました。やはり、目をさましません。王子は、かるく手をゆすってみました。それでも、目をさまさせることは、できませんでした。王子は、従者《じゅうしゃ》たちに、いいました。
「このまま、このかわいそうな子を、見すててゆくわけにはいかないね。きっと、なにかわるだくみにあって、わざと道をまよわせられたんだろう。だが、どうやって、このままつれて行ったらいいかな?」
狩猟係《しゅりょうがか》りのユベールが、こたえました。
「王子さま、木の枝でたんかをつくり、それにのせて、近くの宿屋まではこばせましょう。そのあいだじゅう殿下《でんか》は、狩をおつづけになったら、いかがです?」
「なかなか、いい考えだね、ユベール。たんかをつくらせて、それにのせてはこぼう。ただし、宿屋にではなくて、わたしの宮殿にだ。この若い人は、いい生まれのかただし、天使のようにきれいだ。わたしみずから、看護《かんご》しよう。この人は、それだけの世話をうける資格のある人だからね」
ユベールと従者たちは、まもなくたんかをつくりました。その上に王子は、じぶんのマントをひろげ、それからあいかわらずねむっているロザリーに近づいて、しずかに腕で抱きあげ、マントの上に、おろしました。このとき、ロザリーは夢をみているようで、ほほえみながら、きれぎれな言葉を、つぶやきました。
「おとうさん、おとうさん!……永久にすくわれたわ!……仙女の女王さま……グラシュー王子……あたし会ったわ……きれいなかたよ!」
王子は、じぶんの名前が告げられたのを聞いてびっくりし、いよいよこれは、魔法にかかっているお姫さまにちがいないと思い、目をさまさせないように、たんかをはこんでいる従者たちに、なるべくしずかに歩くようにと、命じました。そして王子は、ずっとそのわきについていました。
一行は、宮殿につきました。王子はすぐに、王妃のへやを用意するようにと命じ、だれにもロザリーのからだに、ふれさせませんでした。そして、じぶん自身の手で、ロザリーをへやにはこび、ベッドの上にねかせました。それからロザリーにあてがわれた侍女《じじょ》たちに、目がさめたら知らせに来るようにといいのこして、出て行きました。
ロザリーは、翌日まで、ねむりました、目がさめたときは、あかるかったのです。ロザリーはびっくりして、まわりを見まわしました。わるいネズミは、そばにはいません。ネズミは、すがたを消したのです。
「では、あのいやな、いやらしい仙女の手から、のがれられたのだろうか?」と、ロザリーは、よろこびました。「きっと、あのネズミよりもつよい、どこかの仙女のところにいるんだわ」
ロザリーは、まどべに行きました。武具をつけた人たちや、りっぱな制服を着た従者たちがいました。ロザリーは、それらの人たちが精霊か魔法つかいだと思ったので、その一人に声をかけようとしたとき、歩いてくる足音を聞いたのです。で、ふりむくと、そこに優美《ゆうび》な狩の服装をしたグラシュー王子が、じぶんのほうを、うっとりした目つきで見ているのです。ロザリーはすぐと、この人が夢でみた王子だと、わかりました。そして、思わずさけんだのです。
「グラシュー王子さま!」
「あなたは、わたしをごぞんじなのですか?」びっくりして、王子は聞きました。「あなたがわたしをおぼえていられて、どうしてわたしが、あなたのお名前とお顔を忘れたのでしょうかね?」
「あたくしは、夢でしかお会いしたことがないのです、王子さま」と、ロザリーは、顔をあからめて、こたえました。「あたくしの名前なら、ごぞんじないはずですわ。あたくしでさえ、きのうはじめて、おとうさんから聞いたんですもの」
「そんなに長いあいだかくしていたあなたのお名前は、なんとおっしゃるのです?」
ロザリーは王子に、父親から聞いたことを、みんな話しました。それからまた、じぶんのもっている罪ぶかい好奇心のことや、それがもとでおこった宿命的な結果などを、率直《そっちょく》に語りました。
「王子さま、わるい仙女が火をつけた炎からのがれるために、おとうさんとわかれねばならなかったときは、どんなに悲しかったか、お察しください。それから、灰色のネズミのために、あちこちひっぱりまわされ、寒さと飢《う》えのために、死にそうな思いでした! そのうち、ねむくてがまんができなくなり、夢ばかりみていました。ここは、どこなのでしょうか、もしかして、あたしがいるところは、あなたさまのお宅ではないでしょうか」
グラシューは、どうしてロザリーが森の中でねむっているところをみつけたか、また夢の中で聞いた言葉を話しました。
「おとうさんは、あなたにいわなかったでしょうか、ロザリー、わたしたちの縁者《えんじゃ》である仙女の女王が、あなたが十五歳になったとき、わたしの妻になると、きめていたと。きっと女王が、わたしにたいまつで狩をするようにしむけ、森の中で気をうしなっているあなたをみつけさせたのに、ちがいありません。あなたも、もうわずかで十五歳になるのですから、ロザリー、どうか、この宮殿を、ごじぶんのもののように思ってください。もう王妃として、なんでもお命じになって、けっこうですよ。まもなくおとうさんも、あなたの手にもどるでしょうし、そうしたら、われわれの結婚式も、あげられるわけです」
ロザリーは、若くてうつくしい≪いとこ≫に、あつく礼をのべてから、化粧べやへ行きました。そこには侍女たちが、衣服や髪かざりなどいろいろ取りそろえて、ひかえていました。ロザリーは、身なりのことなど、かまったことがありませんから、さしだされた最初の服を着ました。それは、レースをつけた、ばら色のうすものでした。くり色の髪は王冠《おうかん》をかたちづくって、ゆいあげられ、バラをあしらったレースのかぶりものを、つけました。したくがすむと、食事へつれて行くために、王子がやってきました。
ロザリーは、きのうなんにも食べなかった人のように、おいしくいただきました。食事がすみますと、王子はロザリーを、庭につれだして、いくつもある、すばらしい温室を見せました。それらの温室の一つを出たところに、えらばれた花がおいてある小亭《しょうてい》がありました。その中に、一本の植木がはいっているようなケースがあって、ぬいつけられた布で、完全におおわれていました。ただ布地をとおして、異様《いよう》に光りかがやくものが見えるのです。
小亭の植木
ロザリーは、どんな花でも、たいへん好きでした。ですから、王子が、その異様な木にかかっている被《おお》いを取り去るか、または引きさくかと思っていました。ところが王子は、その木についてはなんにもいわないで、その場を、立ち去ろうとしました。
「この、こんなによく包んである木は、なんなのです?」と、ロザリーが、ききました。
「これは、わたしがあなたへおくる、結婚のおくりものなのです。でも、あなたが十五歳になるまでは、見てはいけませんよ」と、王子は、やさしくいいました。
「でも、被いの下で、きらきらかがやいているものは、なんでしょうか?」と、なおもしつっこく、ロザリーは、たずねました。
「もう二、三日すればわかるんだよ、ロザリー。わたしの贈りものは、ふつうのものではないと、自信をもってるよ」
「そのまえに、見てはいけませんの?」
「いけないんだ、ロザリー。仙女の女王が、あなたがわたしの妻になるまでは、見せてはいけないと、禁《きん》じているのだ。禁をおかせば、大きな不幸があると。もしあなたがわたしを愛しているなら、もう数日間、あなたの好奇心をおさえているように」
このさいごの言葉に、ロザリーは、おののきました。まさしくこれこそ、にくらしい敵のいまわしい仙女がじぶんに送って、あたしを誘惑《ゆうわく》しようとしたのだと、ロザリーは灰色のネズミと、父親をおびやかしている不幸とを、思いだしました。ですからロザリーは、その後、奇妙な被いにはふれずに、王子とともに散歩をつづけました。その日は一日じゅう、快適にすぎました。王子はロザリーを、宮廷の婦人がたに紹介し、こんご、この姫を、仙女の女王がじぶんのためにえらんでくださった王妃として尊敬するようにと、いいわたしました。ロザリーは、みんなにたいへんあいそうよく、接《せっ》しました。で、みんなも、このようなきれいな王妃をもつことを、よろこんでいました。あくる日も、そのつぎの日も、お祝いや、狩や、散歩のために、ついやされました。ロザリーは、もうすぐじぶんの誕生日がやってくる、その日はじぶんたちの婚礼《こんれい》の日だと思って、よろこんでいました。王子も、やさしくそのいとこを愛していましたし、ロザリーも王子を愛していて、はやく父親に会いたいと思い、それゆえ、この小亭のケースがかくし持っているものを、はやく見たいものだと思いました。ロザリーはたえず、このような考えに、なやまされていました。夜になると、ふしぎな被いの夢をみました。ことにひとりっきりのときは、あの神秘のなぞをとくために、小亭に行きたくて、なりませんでした。
とうとう、期待の最後の日が、やってきました。あすはロザリーが、十五歳になるのです。王子は、結婚の準備に、たいへんいそがしかったのです。なにしろ、仙女の女王さまをはじめ、知り合いの善良な仙女たちは、みんな出席するはずでしたから。ロザリーは、午前中ひとりだけだったので、散歩に出かけました。あすの幸福を考えながら、足は機械的に、小亭のほうに向かいました。ロザリーは微笑しながら考えこんで、小亭の中にはいると、たからものの上にかかっている被《おお》いのまえにいきました。
「あしたは、この被いの中になにがあるか、わかるんだわ……きょうだって、見たいと思えば、わかるわけね。だって、この小さなさけめに指をいれて……ちょっと上のほうをひっぱれば……それに、だれにも、わかりゃしないわ。ちょっと見てから、また被いをふさいでおけばいいんですもの……どうせ、あしたは、あたしのものになるんだから、きょう、ちょっと見たって、なんでもないわね」
ロザリーは、まわりを見まわしました。だれもいません。ただただ、じぶんの好奇心を満足させたいばかりに、王子の好意と、じぶんが誘惑にまければどんな危険がまっているかをも忘れて、ロザリーは、被いのさけめに指をつっこんで、そおっと、ひっぱりました。被いは上から下へと、かみなりのような音を立てて引きさかれ、びっくりしているロザリーの目に、幹《みき》がサンゴで、エメラルドの葉の一本の植木を、見せました。木にいっぱいなっている果実は、ダイヤ、真珠、ルビー、サファイア、オパール、トパーズなどの、色さまざまの宝石類で、ほんものの果実のように大きく、そのかがやきには、ロザリーも、目がくらみました。
しかしロザリーが、このめずらしい植木に見とれていたとき、まえよりももっと大きな音がして、現実にひきもどされました。からだがひとりでにもちあがって、野原の中に、うつされたのです。そこから、王子さまの宮殿がくずれ落ちるのが、見えました。おそろしいさけび声が、くずれた宮殿のあとから、あがりました。まもなく、グラシュー王子自身が、ぼろぼろの服を着、血まみれになって、くずれたあとから出てきました。王子は、ロザリーのほうへやってきて、悲しそうにいいました。
「ロザリー、恩《おん》知らずのロザリー、あなたのために、わたしがどういうめにあったか、見るがいい。わたしも、わたしの宮殿も、このざまだ。こうしたことがあった以上、三番めの誘惑にもあなたは負けて、わたしを不幸へと追いやり、じぶんも父上も、不幸へおとし入れることになるだろう。ただ後悔のみが、あなたを愛し、あなたの幸福しかねがわないこの不幸な王子にたいする忘恩《ぼうおん》を、つぐなってくれるだろうよ!」
いいおわると、グラシュー王子は、ゆっくりと立ち去りました。ロザリーはひざまずいて、泣きくずれ、王子を呼びました。けれども王子は、その絶望のさまを見るために、ふりかえってみようともしないで、見えなくなってしまいました。ロザリーは、もうすこしで、気をうしないそうでした。そのとき、灰色のネズミの、かんだかい小さな笑い声がしました。ネズミは、すぐ目のまえに、いました。
「ありがたくお礼をいいな、ロザリー、わたしが手助けしてやったんだからな。夜、ふしぎな被いのうつくしい夢を、おまえに送りこんだのも、このわたしさ。見るのをたやすくするために、被いをちょっとかじっておいたのも、このわたしさ。この最後の策略《さくりゃく》を用いなかったら、おまえはわたしの思いどおりにならなかったろうし、おまえのおやじも、グラシュー王子も、ぶじだったわけだ。だが、あともう一つ、小さなあやまちがある。それをやってくれれば、永久におまえは、わたしのものさ」
そしてネズミは、悪魔のよろこびにかられて、ロザリーのまわりを、おどりはじめました。これらの言葉がどんなにたちのわるいものであっても、もはやロザリーの怒りを、あおりませんでした。
「みんな、あたしがわるいんだわ。あたしに宿命の好奇心がなかったら、あたしに罪ぶかい恩知らずの気持ちがなかったら、灰色のネズミは、こんなはずかしいことを、あたしにさせることは、できなかったんだわ。あたしは苦悩と、忍耐と、それから三度めの試練《しれん》がどんなにむずかしいものであろうとも、かたい意志によってそれに反抗することにより、いままでの恥ずべき行為のつぐないをしなければならないわ。それに、もうあたしは、あと数時間待てばいいんですもの。なつかしい王子さまがいったように、あの人の幸福も、あたしのも、それからおとうさんのも、みんなあたしに、かかってるんだわ」
そこでロザリーは、もう動きませんでした。灰色のネズミは、なんとかして歩かせようと、いろいろとこころみましたが、むだでした。ロザリーはがんばって、宮殿のくずれたあとに、むかいあっていました。
小さな箱
このようにして、一日がすぎました。ロザリーは、ひどくのどが、かわいてきました。
「いままでおとうさんや、いとこを苦しめた罰にしては、まだまだあたしは、苦しみたりないのではないでしょうか? あたしは、ここで、十五歳になるのを待ちましょう」と、ロザリーは、じぶんにいいきかせました。
陽がくれようとしていました。そのときひとりの老婆がとおりかかって、ロザリーのそばに来ると、こういいました。
「きれいな娘さん、ちょっと、わたしにたのまれては、くださらんかのう、この小箱はなかなか重たくてな。いま、この近くの身よりのところへ行ってくるまで、あずかってはくださるまいか?」
「いいですとも、奥さん」しんせつなロザリーは、こたえました。
老婆は小箱をロザリーに手わたして、いいました。
「ありがとうよ、きれいな娘さん。長いことは、かからんよ。ただ、この箱の中になにがあるか、見てはいけないよ。というのはな、この箱の中には、おまえさんが、いままでけっして見たことがないようなもの、また、これからもけっして見られないようなものが、はいっているのだからね。それから、あんまり荒っぽく、下へおいてはいけないよ。なにしろ、この箱は、もろい樹皮《じゅひ》で、できてるんでね。ちょっとでも手荒くあつかうと、こわれてしまうよ……そうすれば、このなかにはいっているものが、わかるだろうが……だれも、この中にあるものを、見てはいけないのだよ」
老婆は、こういいのこして、立ち去りました。ロザリーは、しずかに小箱をじぶんのそばにおいて、いままでおこったいろいろなことを、考えていました。すっかり夜になりました。老婆は、もどってきません。ロザリーは、小箱を見やりました。おどろいたことに、小箱はそのまわりを、あかるく照らしているのです。
「この小箱の中で光っているものは、なんだろう?」
ロザリーは小箱をひっくりかえしたり、あちこちからながめましたが、このふしぎな光がなんであるか、わかりません。ロザリーは小箱を、また地面において、こういいました。
「この箱の中になにがはいっていようが、あたしには関係ないことだわ。この箱は、これをあずけたおばあさんのもので、あたしのものじゃないわ。これをあけたくなるといけないから、もう箱のことは、考えないことにしよう」
じじつロザリーは、ぜんぜん箱のほうを見ませんでしたし、箱のことを、すこしも考えませんでした。ロザリーは目をとじて、こうして朝になるのを待とうと、決心しました。
「あたしが十五歳になりさえすれば、おとうさんに会えるし、グラシューとも会えるんだわ。そうなれば、わるい仙女なんか、ちっともこわくなくなるんだわ」
「ロザリー、ロザリー」ネズミの小さな声が、せかせるように、いいました。「わたしは、おまえのそばにいるんだよ。わたしはもう、おまえの敵じゃない。その証拠に、もしおまえがそうしたいというなら、この箱の中にあるものを、おまえに見せてあげよう」
ロザリーは、こたえませんでした。
「では、ロザリー、おまえは、わたしがやろうということを、承知しないんだね。わたしは、おまえの友だちなんだよ。どうか、わたしを信じてくれ」
返事はありません。
すると、灰色のネズミは、もうむだに時間をすごしてはいられぬとばかりに、小箱にとびついて、ふたをかじろうとしました。
「こいつめ!」とさけんで、ロザリーは小箱をつかみ、胸にだきしめました。「もしおまえが、この小箱にふれようなんてわるい気をおこしたら、ただちに、おまえの首をひねってやるから!」
ネズミはロザリーのほうを、さもにくにくしげに、ちらりと見ましたが、ロザリーの怒りに、すすんで反抗しようとはしませんでした。ネズミはそれでもなお、ロザリーの好奇心を刺激《しげき》しようと、あれこれ手段を考えていましたが、真夜中をつげる時計が、鳴りました。その瞬間、ネズミは悲しそうなさけび声をあげて、こうロザリーにいいました。
「ロザリー、さあ、おまえの誕生したときをつげる時刻が、鳴ったよ。これで、おまえは十五歳になったんだ。もうわたしを、すこしもおそれないで、いいよ。これからはおまえは、おまえのにくらしいおやじや、おそろしい王子もそうだが、わたしの手のとどかぬところに、いることになるのだ。そしてわたしは、この恥ずべきネズミのすがたを、おまえのようにうつくしくて生まれのいい娘を、わたしがしかけた≪わな≫にひっかけることができる日まで、もちつづけなければならないのだ。さようなら、ロザリー、もうその小箱を、あけてもいいんだよ」
いいおわると、灰色のネズミは、すがたを消しました。
ロザリーは、この敵の言葉を信用しませんでしたので、最後のすすめにもしたがおうとはしないで、陽が出るまでは、この小箱はそっとしておこうと、決心しました。ロザリーが、このような決心をすると、その頭上を飛んでいたミミズクが、小箱の上に石をおとしましたので、箱はこなごなに、われてしまいました。ロザリーは、恐怖のあまり、さけびました。そのときロザリーは、目のまえに、仙女の女王さまがいられるのを、見たのです。女王は、申されました。
「おいで、ロザリー。とうとうおまえは、おまえの一家のおそろしい敵に勝ったのだ。わたしはこれからおまえを、おとうさんのところへつれてってあげよう。だが、そのまえに、飲んだり、たべたりしなけりゃね」
仙女はロザリーに、果実を一個、さしだしました。それはひとかじりしただけで、おなかがいっぱいになり、のどのかわいていたのが、いやされました。すぐに、二つのリュウがひっぱっているくるまが、仙女のそばに、あらわれました。仙女がそれにのりこみ、ロザリーも、のりました。
ロザリーは、おどろきから、われにかえると、じぶんを守ってくれた仙女に、あつくお礼をいいました。そして、父親や、グラシュー王子に再会できるかと、たずねました。
「おまえのおとうさんは、王子の宮殿で、おまえの来るのを、待っているよ」
「でも、奥さま、王子の宮殿はこわれてしまって、王子さまもけがをして、みじめなかっこうでしたが」
「おまえに、好奇心についてのおそろしさをよく思いしらせるために、そして、おまえが三度めの誘惑に負けないようにと、ああいう幻想《げんそう》をあたえたんだよ。おまえは宮殿で、たいせつな植木の被《おお》いを破るまえにおまえが見たとおりの王子と、会うことができるとも」
仙女が、これらの言葉をいいおえたとき、くるまは、宮殿の石段の下で、とまりました。ロザリーの父親と、王子とが、宮廷の人たちみんなといっしょに、ロザリーの来るのを、待っていました。ロザリーは、おとうさんの腕の中に、飛びこみました。それから、きのうのあやまちなど、まるでわすれてしまったような王子の腕の中に、飛びこみました。結婚式の用意は、すべてととのっていましたので、すぐに式を、あげることにしました。すべての仙女が、ふたりの結婚式には列席しました。それは、数日間、つづいたのです。
ロザリーのおとうさんは、子どもたちといっしょに、生活することになりました。ロザリーはもう、すっかり好奇心をなくしていました。そして、グラシュー王子をやさしく、一生涯、愛しました。ふたりのあいだには、かわいらしい子どもたちが、生まれました。ふたりは子どもたちの代母になってくれるようにと、つよい力をもっている仙女たちにおねがいしました。わるい仙女や精霊《せいれい》にたいして、子どもたちを保護《ほご》してもらうためにです。
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ウールソン
ヒキガエルとヒバリ
むかし、アグネラという、うつくしい農婦(もと、エイメ王妃)がいました。パスローズというひとりの若い女中が、いっしょに住んでいるだけで、だれひとりたずねてくるわけでもなく、こちらからも、どこへも行きませんでした。
アグネラの畑は、小さいのに、たいへん手入れが、よくゆきとどいていました。一ぴきの白い牝《め》ウシがいて、牛乳をたくさんだしましたし、ネコはネズミをたべましたし、ロバは火よう日ごとに、となり村の市場に、やさいや、くだものや、たまごや、バターや、チーズを、市場《いちば》で売るために、はこびました。
アグネラとパスローズとが、どういうわけで、またいつごろから、いままでだれも知らなかったこの畑へくるようになったのか、だれひとりとして知りませんでした。みんなは、「森の畑」と、呼んでいました。
ある晩のこと、パスローズが牛乳をしぼっているとき、アグネラは、夕食のしたくをしていました。
アグネラが、テーブルの上に、おいしそうなスープや皿をならべていたときです、一ぴきの大きなヒキガエルが、大きなブドウの葉につつんだサクランボを、むしゃむしゃたべているのに気づいたのでした。
「なんてきたならしいヒキガエルなんでしょう。わたしのサクランボをたべて!」
そういってアグネラは、サクランボをつつんでおいた葉をとりあげ、ヒキガエルを打とうとしました。ヒキガエルは、十歩ほどとびのきました。
アグネラは、ヒキガエルを外に追いだそうとしました。するとヒキガエルは、ギャアと、するどく鳴いて、あと足で立ちあがりました。その大きな目は、もえるようにまっかになり、その大きな口は、ぐっとひらかれ、怒りにまかせて、とざされました。
カエルはからだじゅうをふるわせて、のどからおそろしいうなりごえをだしました。
アグネラは、びっくりしてたちどまり、このとほうもなく大きなヒキガエルが、怒ってはきだす毒気《どくけ》をさけようとして、一歩あとずさりしました。
アグネラは、ほうきを手にもって、このみにくい動物を、追いはらおうとしました。するとカエルは、アグネラのほうへ向かってきて、さもおどかすように、前足をつきだしていいました。
「よくもおまえは、足でこのわたしにさわったね。わたしがせっかく腹いっぱいたべようとしたサクランボを取りあげて、わたしを追いだそうとする! いまにみておいで、わたしの復讐《ふくしゅう》がどんなものだか、仙女ラジューズ〔≪怒りっぽい≫の意味〕をばかにした罰《ばつ》がどんなものだか、思いしらせてやるから! おまえは、クマのように、全身毛でおおわれた息子をもつようにしてやる……」
「お待ち、妹よ!」と、よくひびくやさしい声が、高いところから、聞こえてくるようでした。アグネラが顔をあげて見ますと、入口のドアの上に、一羽のヒバリが、とまっていたのです。
「おまえは、仙女としてのおまえにではなくて、ただおまえのみにくい、きたならしい外観《がいかん》をはずかしめられたというだけで、あまりひどい復讐《ふくしゅう》をしすぎますよ。わたしのほうがおまえよりも力があるんだから、わたしはいっしょうけんめいに、これ以上おまえが悪いことをしないように、してみせます」
それからヒバリは、アグネラに、こういいました。
「気のどくな、おかあさん、気をおとしなさんな。お子さんのぶきりょうのことは、なんとか救う方法をみつけてあげるから」
「まあ、ヒバリの奥さま、あなたがお助けくださっても、息子がけもののようなおそろしいかっこうになることは、まぬがれないのでしょうね」と、アグネラがいいました。
「まあ、そうだね。でも、わたしは、おまえさんの息子を見捨てないから、安心おし。その子のみにくさをすくう、ひとつの方法があるんだよ。それはね、その子のよい心と親切のおかげで、あいての人に感謝とふかい愛情を呼びおこし、そのあいてにすすんで皮膚《ひふ》を交換させるということなんだよ。
そのあいては、アグネラ、おまえでもいけないし、パスローズでもだめなんだよ。もしラジューズ仙女のわるい気持ちからこんなことにならなかったら、その子は、ほんとうにうつくしい子なんだがね。だから、またそのうつくしいすがたと、その生まれにふさわしい≪すばらしい王子≫と呼ばれる日がくるまでは、ウールソン〔≪クマの子≫という意味〕という名にしておいたらいい」
そういって、ヒバリの仙女のドロレットは、空高く、飛んでゆきました。
ラジューズ仙女はどしりどしりと、ゆっくりと立ちさりましたが、一歩ごとにうしろをふり向いて、おこった目つきで、アグネラのほうを見ました。
アグネラはひとりきりになりますと、さめざめと泣きはじめました。そこヘパスローズが、仕事をおえて、晩《ばん》の食事をしに、はいってきました。
「王妃さま、どうかなさいましたか。なにが悲しいのでございます? だれも、家の中には、はいらなかったようですが」
「だれもこなかったけれども、ヒキガエルのかっこうをした、いじわるい仙女と、ヒバリのすがたをした、いい仙女がきたの」
「それらの仙女が、なにか王妃さまを悲しいめにあわせたのですか? いい仙女が、わるい仙女のなにかわるさをしようとしたのを、じゃましたんでしょう?」
「それが、そうじゃないの」と、アグネラは、いままでおこったことを、パスローズに話しました。
それを聞いてパスローズは、主人といっしょになって、泣きました。
「王国のあとつぎが、クマだなんて、なんて不幸なことでしょう! ご主人のフェロス王〔≪残忍《ざんにん》≫の意味〕が、もしかしてあなたさまをみつけだしたときは……」
「パスローズや、みつかりっこありませんよ! おまえも知ってるとおり、わたしたちは逃げだしてから、旋風《せんぷう》にまきこまれて、雲から雲へと乗りうつり、十二時間もそうやって、フェロスの国から一万二千キロも遠くはなれたここまできたんだから。それにおまえも、あの人が、あの人の弟アンドラン〔≪のんき者≫の意味〕や、その奥方のノンシャラント〔≪むとんちゃく≫の意味〕を殺そうとしたのをわたしがじゃましたので、わたしをひどく憎んでいるのを知ってるじゃないの。なにしろ、わたしまでも殺そうとして、それで逃げてきたんだからね」
パスローズは、エイメ王妃《アグネラ》と、しばらくいっしょになって泣いてから、王妃に食卓につくようにとすすめました。
パスローズのなぐさめの言葉にアグネラの悲しみも、だんだんとうすらいでいきました。そのうちにウールソンも、いつまでもクマのかっこうではいないで、王子さまにふさわしいすがたになるだろうと、パスローズがいいました。
ふたりはベッドにはいって、しずかにねむりました。
ウールソンのたんじょう
ヒキガエルがあらわれてから三月後に、アグネラは、ひとりの男の子を、うみました。その子は、ドロレット仙女にいわれたとおり、ウールソンという名にしました。アグネラにしても、パスローズにしても、その子がうつくしいか、みにくいか、さっぱりわかりませんでした。それほどその子は毛ぶかく、長いかっ色の毛でおおわれていたので、目と口しかみえなかったのです。
もしアグネラのような人がその母親でなく、またパスローズがまるで姉さんのようにアグネラを愛さなかったとしたら、このかわいそうなウールソンは、だれもせわをしないので、死んでしまったでしょう。なぜならこの子は、あまりおそろしいかっこうをしていたので、だれもさわろうとしなかったからです。
でもアグネラは、泣きながら、その子をだきしめました。
「かわいそうにね、ウールソン、このおそろしい毛から、なんとかしておまえを救いだしたいものだね……」
パスローズも泣いていましたが、まもなく目をふいて、アグネラにいいました。
「わたくしには、王子さまが、いつまでもこんなきたならしいクマの皮をつけているとは、どうしても思われません。きょうから、すばらしい王子さまと、お呼びすることにしますわ」
「それは、いけません。仙女というものは、命令どおりにしないのをいやがるっていうことを、おまえも知っているでしょう」
パスローズは、子どもをうぶぎでくるんで、だきあげながら、せっぷんしようとしました。すると、ウールソンの毛がくちびるにあたり、はっとして、立ちあがりました。
「これでは、あなたをだっこすることもできないわね、坊や!」と、パスローズは、つぶやきました。
でも、けっきょく、ウールソンのせわをしたのは、パスローズでした。ウールソンは、ひふだけがクマなので、かしこくて、やさしい、めずらしいほど愛情のふかい子でした。ですからパスローズにしても、すぐにウールソンをかわいがるようになりました。
ウールソンは成長するにつれて、この子のことを知らないものはないほど、有名になりました。この子が近づきますと、ほかの子どもたちは逃げてしまいますし、女の人も男の人も、この子がくると、さけるありさまでした。みんなはウールソンを、のろわれた人間だと、考えていたのでした。
ときにはアグネラが、この子をロバにのせて、市場につれて行くようなこともありましたが、その日は、野菜や、チーズの売れゆきが、ひどくわるいのでした。ウールソンがあまりそばまで近づきますと、おかあさんたちが、にげてしまうからです。
アグネラは、よく泣いていました。そしてドロレット仙女に、おねがいしてみるのですが、どうにもなりません。ヒバリがとんできますと、あたらしい希望がうまれるのですが、ヒバリはいつも、ただのヒバリでした。
ビオレット
そのうちにウールソンは、もう八歳になりました。大きくて、力がつよく、うつくしい目をして、やさしい声をもっていました。毛はこわくなくなって、絹《きぬ》のように、やわらかくなりました。ですから、生まれた日にパスローズがやって失敗したように、いたい思いをしないで、せっぷんすることができるようになりました。
ウールソンは、母親をたいへん愛していました。パスローズもまた、愛していました。ところが、ときどきウールソンはさみしくなって、ひとりぼっちでいました。じぶんが、まわりの人にこわい感じをあたえるのを、知っていたからです。
ある日のこと、ウールソンは、畑につづいている森の中を、ぶらぶら歩いていました。ずいぶん長いあいだ歩いていましたので、暑さにまいり、どこかすずしい休み場所がないかと、さがしていました。
そのとき、ウールソンは、十歩ほどはなれたところに、白とバラ色の小さなかたまりがあるのに、気がつきました。そっと近づいてみますと、小さい女の子が、ねむっているのです。三歳ぐらいでしょうか、かわいらしい子で、ブロンドのかみが、ぽってりした、白い肩《かた》を、おおっていました。
そのまるまるとした、色つやのいい、かわいらしいほおには、ふたつのえくぼと、バラ色のくちびるが笑いかけているので、よけいにかわいらしく見えました。くちびるは、少しひらかれていますので、そこから、真珠《しんじゅ》のような歯が見えました。
かわいらしいうでにのっているその顔は、じつにあどけなく、かわいいので、ウールソンはすっかり見とれてしまいました。
まるでベッドの中でねむっているように、しずかにこの森の中でねむっているこの子を、ウールソンは、びっくりしながらも、うれしそうに、ながめていました。
そうやってかなり長いあいだながめていましたが、その女の子の身なりがたいへん上品で、りっぱなのに、気づきました。
その子は、金《きん》でししゅうをした、まっ白い絹《きぬ》の服をきていました。くつもやはり金でししゅうをした、青いサテンです。くつ下は、ごく上質の絹でした。そして、そのかわいらしい腕には、すばらしい腕輪が、かがやいていました。うつくしい真珠の首かざりが、その首にかかっていました。
ちょうどそのとき、その子の頭の上で、一羽のヒバリがうたいはじめましたので、その女の子は、目をさましました。そして、まわりをみまわし、召使いを呼びましたが、じぶんひとりだけなのを知って、泣きだしました。
ウールソンは、子どもが泣きだしたのを見て、どうしていいかわからず、たいへん困りました。
「もしぼくが現われたら、この子はきっとぼくを森の動物だと思って、おそれるだろう。そして逃げだして、なおいっそう、森の中にまよいこむだろう。もしこのままにしておいたら、この子は、こわいのと空腹のために、死んでしまうにちがいない」
ウールソンが、こんなことを考えているとき、女の子は目をこっちへむけて、ウールソンのすがたに気づき、一声さけんで、逃げだそうとしましたが、あわてて、たおれてしまいました。
「こわがらないでね。ぼくはきみに、なんにもわるいことはしないよ。それどころか、おとうさんや、おかあさんを、さがしだしてあげようね」と、ウールソンは、やさしい声で、かなしそうにいいました。
女の子は、あいかわらず、大きな目を見はって、びっくりして、ウールソンを見つめていました。おびえているようでした。
「口をきいておくれよ。ぼくは、そう見えるかもしれないが、クマじゃないんだよ。不幸な男の子さ。なにしろ、みんなをこわがらせるからね。みんな、ぼくを見ると逃げちまうんだ」
女の子は、やさしい目つきで、ウールソンを見るようになりました、恐怖心《きょうふしん》はなくなりましたが、でも、まだほんとうに、そうなったとはいいきれないようです。ウールソンが、一歩、女の子のほうに近づきました。すると女の子は、おそろしさのあまり、かんだかい声でさけんで、逃げようとして、からだをおこしました。
ウールソンは足をとめて、こんどはじぶんのほうが、泣きだしました。
「なんて、ぼくはふしあわせなんだろう! ぼくは、捨てられた、かわいそうな子どもを、助けることさえできないんだ。ぼくのようすが、そんなにこわいのかね。ぼくにわかるよりも、捨てられたままになっているほうがいいなんて!」
こういいながら、ウールソンは、手で顔をおおって、地面に泣きふしました。
しばらくたちますと、ウールソンは、小さな手が、じぶんの手を顔からはがそうとしているのに気がつきました。
顔をあげてみましたら、目の前に女の子が、目になみだをいっぱいためて、立っているのです。女の子は、あわれなウールソンの、毛でおおわれたほおをなでながら、いいました。
「泣かないで、クマちゃん、泣かないでね。ビオレットは、ちっとも、こわくないの。もう、にげないわ。ビオレット、小さいクマちゃん、大すきよ。ビオレットに、お手て、ちょうだい。まだ、泣《な》っきするんなら、ビオレットが、だっこしてあげるわ」
ウールソンの絶望のなみだは、幸福のなみだに、かわりました。
ビオレットは、ウールソンがまだ泣いているのをみて、そのかわいらしい小さな口を、ウールソンの毛ぶかいほおに近づけ、なんどもなんども、せっぷんしました。
「ねえ、小さいクマちゃん、ビオレット、こわがってないでしょう。だから、せっぷんしたのよ。小さいクマちゃんは、ビオレットをたべないものね」
ウールソンは、この善良な、かわいい子を胸にだきしめて、せっぷんでおおいたい気持ちでいっぱいでしたが、そんなことをすると、なめられると思って、こわがるだろうと思いました。そこで、やさしくその手をとって、せっぷんするだけにしました。
ビオレットは、ウールソンのするままにされていましたが、にっこり笑いました。
「小さいクマちゃん、ビオレットが好き? これでいいの、小さいクマちゃん!」
この子がビオレットという名だということは、ウールソンもわかりましたが、どうしてこんなりっぱななりをした子が、ひとりぼっちで、森のなかに捨てられているのかは、さっぱりわかりません。
「ビオレットちゃんのおうち、どこ?」
「あっち、ずっと、あっち、パパとママのとこよ」
「パパの名は、なんていうの?」
「王さまっていうの。ママは王妃さま」
ウールソンは、ますますびっくりして、ききました。
「なぜきみは、森のなかで、ひとりぼっちでいるのかい?」
「あたしは、知らないわ。ビオレットは、大きなワンちゃんに、のせられたの。ワンちゃんは、どんどん、いつまでも走って、そのうち、つかれて、おっこちて、ねんねしてしまったの」
「そのワンちゃんは、どこへ行ったの?」
ビオレットは、あたりをみまわして、やさしい小さい声で、呼びました。
「アミ! アミ!」〔このイヌの名前のアミはお友だちの意味〕
イヌは、すがたをみせません。
「アミは、行っちまったんだわ。ビオレットは、ひとりきりね」
ウールソンは、ビオレットの手をとりました。ビオレットも、手をひっこめようとはしないでほほえみました。
「ビオレットちゃん、ママをさがしに行く?」
「ビオレットは、森のなかに、ひとりぼっちでいるなんて、いやよ。クマちゃん、ビオレットをつれてってよ」
「ぼくといっしょに、おいで。ぼくのおかあさんとこに、つれてってあげようね」
ウールソンは、ビオレットのために、イチゴと、サクランボをつんでやりました。
ビオレットは、もらったイチゴとサクランボを半分ずつにして、じぶんのぶんのなかから、一つずつとって、それをウールソンの口のなかにいれました。
「おたべ、おたべ、かわいいクマちゃん。クマちゃんがたべなければ、ビオレットもたべないわよ。ビオレットは、かなしい顔してるクマちゃんはきらい、泣いているクマちゃんはきらいよ」
そういってビオレットは、ウールソンが満足しているかどうか、その顔をのぞきこみました。
ウールソンは、ほんとうに、しあわせでした。なにしろ、こんなにかわいい友だちがしじゅうそばにいて、じぶんに気にいろうとしてくれるのですから。ウールソンの目は、いきいきとかがやき、その声は、いっそうやさしくなりました。
三十分ほど、そうやって歩いてから、ウールソンがいいました。
「ビオレットちゃんは、ぼくがちっともこわくないの?」
「ちっとも、こわいなんて!」
「じゃ、だっこしてもいい?」
ビオレットは返事のかわりに、じぶんのほうから、ウールソンの腕のなかに身をなげかけました。
ウールソンは腕のなかにビオレットをだいて、やさしくせっぷんしました。
「やさしいビオレット、ぼくは、きみが好きだよ。ぼくに話しかけて、ぼくをだいてくれた、ただひとりの子どもだってことを、ぼくはけっして忘れないよ」
ふたりはまもなく、畑へつきました。アグネラとパスローズとは、入口にこしかけて、話しこんでいました。
ウールソンが、きれいなきものを着た、かわいらしい女の子の手をとって、やってくるのを見て、ふたりはびっくりして声がでませんでした。
「おかあさん、森のなかで、このかわいらしい子がねむっているのを、みつけたんです。ビオレットといって、やさしい子です。ぼくのことをちっともこわがらないで、ぼくが泣いてるのをみたら、せっぷんさえしてくれたの」
「どうして、おまえは、泣いたりしたの?」と、アグネラが、ききました。
「この女の子が、ぼくをこわがったんだもの」
ウールソンは、ふるえ声で、かなしそうに答えました……
「でも、どうしてウールソンさんは、この子をつれてきなさったのでしょう! この子は、どういう子なんでしょうね?」
と、パスローズがいいました。
ウールソンはただ、この子を森のなかでみつけたときからのことを、話すだけでした。アグネラとパスローズとが、いくらビオレットに、両親のことや、住んていた国のことをたずねても、ただ両親が王であり、王妃であることだけしか、わかりませんでした。
アグネラは、ビオレットをだいて、いいました。
「いい子だね、おまえは、この不幸なウールソンが、ほんとうに好きなんだね?」
「ええ、ほんとうに! ビオレットは、ウールソンが大好き、もっと、いっしょにいたいわ」
アグネラはすぐに、このかわいそうな迷《まよ》い子をやしなってゆく気持ちになりました。
ウールソンが母親やパスローズ以外の人から愛されるのをどんなによろこんでいるかを知っただけでも、アグネラはこの女の子が、かわいかったのです。
夕食の時間がきて、みんなは食卓につきました。ビオレットは、ウールソンのそばがいいといいました。ビオレットは、明るい子で、よくしゃべったり、笑ったりしました。
ウールソンは、いままでになく幸福そうでした。それをみて、アグネラも満足でした。
食事がおわると、ビオレットは、いすの上で、ねむってしまいました。
「どこへ寝《ね》かそうかね、ベッドがないけれど」と、アグネラがいいました。
「ぼくのを、やってください。ぼくは、牛小屋でねますから」と、ウールソンがいいました。
アグネラとパスローズが、それはいけない、といいましたが、ウールソンがいいはりますのでとうとう、そうすることにしました。
パスローズがビオレットのねむっているベッドのそばで考えこんでいるアグネラのそばに、やってきました。
「なにを考えていらっしゃるんです、王妃さま? かなしそうな、お顔をしていらっしゃいますわ! わたくし、この子の腕輪《うでわ》をおみせしようと、もってまいりました。メダルがひらくはずなんですけれども、どうしてもあかないんです。たぶん、肖像《しょうぞう》か名前ぐらい、はいっていると思うんですけれど」
「こちらへ、およこし……ずいぶん、りっぱな腕輪だね。どこかで見たような気がするけれども、思いだせない」
アグネラは、腕輪を手にとって、ひっくりかえし、メダルをあけようと、いろいろとやってみましたが、パスローズと同じように、ぶきっちょでした。
アグネラは、腕輪をパスローズにかえしました。そのときアグネラは、部屋のまんなかに、太陽のようにかがやいている一人の女の人をみたのです。
その顔は、きらきらして、まっ白でした。髪の毛は、黄金の糸のようで、かがやかしい星のかんむりが、そのひたいをかざっていました。せたけは中くらいで、からだ全体が、透《す》いてみえるようです。ゆったりした服には、ひたいの星と同じような星が、ちりばめられています。その目の色は、やわらかで、いたずらっぽく、けれども、ひとのよさそうな微笑をうかべていました。
「王妃よ、わたしがドロレット仙女であることは、おわかりだろう。わたしは、おまえのむすこと、むすこがけさ、森からつれてきた小さな王女を、お守りしましょう。この王女は、おまえの義弟《ぎてい》アンドランと、義妹《ぎまい》ノンシャラントのむすめで、つまり、おまえのめいなんだよ。
おまえの夫は、おまえが逃げたあと、アンドランとノンシャラントを殺しに、やってきました。ふたりとも相手を信用して、いっしょに、たべたり、ねむったりして、幾日かすごしたのです。わたしは不幸にも、わたしが保護している王様と王妃のあいだに王子がうまれたので、それに立ちあわねばなりませんでしたから、この罪を防ぐことができませんでした。
でも、アンドラン王とノンシャラント王妃のただひとりの後つぎであるビオレット姫を逃がすのには、まにあいました。ビオレットが庭で遊んでいたのを、フェロス王はさがしだして、殺そうとしたのです。
わたしは姫を、愛犬アミーの背中にのせてやったのです。そしてアミーに命じて、おまえの王子が通りかかる森のなかに、姫をすてさせたのです。
ふたりの出生《しゅっせい》も、またおまえのことも、だれにもかくしておきなさい。父母の肖像のはいっている腕輪をビオレットに見せたりしないように、また、わたしが取りかえておくから、いま着ているりっぱな服などをビオレットにはみせないように」
それから仙女は、なおつけくわえて、こういいました。
「ここに、宝石をちりばめた小箱があるが、このなかには、ビオレットの幸福がはいっている。おまえはこの小箱を、みんなの目からかくしておいて、娘が≪みえなくなり≫、≪またみつかったとき≫にならなければ、あけてみてはならない」
「おっしゃったとおりに、まちがいなくいたします。ただ、わたしのウールソンが、まだいつまでも、あのみにくい皮膚《ひふ》をつけていなければならないのか、そのことをおっしゃってくださいまし」
と、アグネラは、いいました。
「がまん、がまん! わたしはおまえたち、ウールソンや、ビオレットを守っています。身をぎせいにしてまで愛する人と皮膚をとりかえる人があらわれるまで、ウールソンをだいじにそだてなさい。ここにゆびわが一つあるが、これをおまえは小指にはめていなさい。それが小指にあるかぎりは、おまえはなに一つとして、不自由しないでしょう」
仙女はわかれのしるしに手をふると、またヒバリのすがたになって、うたいながら、羽ばたきしてとんでゆきました。
アグネラとパスローズとは、顔を見合わせて、ためいきをつきました。
パスローズは、居間へ行ってみて、タンスをあけました。中には、服や、下着や、はきものまでが、きちんとはいっていました。
翌日、牝《め》ウシのなき声で、ウールソンが最初に目をさましました。ウールソンは目をこすりながら、きのうのことを思いだしましたので、まぐさの束《たば》からとびおりて、顔をあらいに、泉のほうへ、いそいでかけてゆきました。
パスローズも、牝ウシの乳をしぼるために朝はやくから起きましたが、家の入口はそのまま開けっぱなしにしておきました。ウールソンは、そこから音をたてないようにして家のなかにはいり、母親のへやにゆきました。そしで、ビオレットのベッドのカーテンを、そっとあけてみました。
ビオレットは、まだねむっていました。夢をみているらしく、微笑《びしょう》していましたが、とつぜん、その顔がけわしくゆがみ、さけび声をあげて、からだを半分おこしかけました。そして、そのかわいらしいうでを、ウールソンの首になげかけて、こう呼んだのです。
「ウールソン、ウールソン、助けて! ビオレットが、水のなかにおぼれる! わるいヒキガエルが、ビオレットを水のなかにひきずりこもうとする!」
ビオレットは、泣きながら目をさましましたが、まだ恐怖感《きょうふかん》がのこっているらしくて、その小さな手で、ウールソンにしがみついていました。ウールソンがいくらなだめても、安心させようとだきしめても、なお、さけぶのをやめません。
アグネラは、最初のさけび声で目をさましましたが、やっとビオレットの気持ちを、しずめることができました、ビオレットは、話しだしました。
「ビオレットは、散歩していたの、ウールソンといっしょに。ウールソンが手をかしてくれて、ビオレットをじっとみていたの。そうしたらわるいヒキガエルがやってきて、ビオレットを水のなかへ、ひきいれようとするの。ビオレットはたおれて、ウールソンを呼んだの。それで親切なウールソンは、すぐにきて、ビオレットをすくってくれたの」
ビオレットは、感動した声で、なおつづけていいました。
「ビオレットは、親切なウールソンが、大好き。ビオレットは、ウールソンのことを、けっしてわすれない」
こういってビオレットは、ウールソンの腕に、身をなげいれました。ウールソンは、じぶんの毛ばだっている皮膚のことも忘れて、なんどもなんどもビオレットにせっぷんしました。そして一生けんめいに安心させました。
アグネラは、この夢のおつげが、ドロレット仙女からのものであると、信じてうたがいませんでした。そして、これからビオレットの身を、いっそう注意しようと、決心しました。
朝ごはんがすんで、アグネラとパスローズが、家のなかの仕事をしているあいだに、ウールソンとビオレットは、いっしょに外へ出ました。ウールソンはビオレットを相手にあそんでやったり、花やイチゴをつんでやりました。
「ビオレットは、ウールソンと、いつもいっしょに散歩をする。ウールソンは、いつもビオレットと遊んでくれる」
「ぼくは、ビオレットちゃんと、いつも遊んでばかりはいられないよ。おかあさんや、パスローズのお手つだいもしなければならないからね」
「どんなお手つだいをするの、ウールソン?」
「おそうじをしたり、ふいたり、牝ウシのめんどうをみたり、草を刈《か》ったり、まきや水をはこんだり、そういうお手つだいをするんだよ」
「ビオレットも、ウールソンのお手つだいをする」
「ビオレット、きみはまだ小さいからね。でも、やってみることは、いいことだね」
家にもどると、ウールソンは、仕事をしはじめました。ビオレットは、どこへも、ウールソンのあとについてまわって、いっしょうけんめいに手助けしました。というより、手助けしているつもりだった、といったほうがいいでしょう、なにしろ、仕事をするには、あまりに小さすぎました。
でも数日後には、お茶わんやお皿をあらったり、布きれをのばしたり、たたんだり、テーブルをふいたりすることができるようになりました。ビオレットはふきげんな顔をみせたことは、一度もありませんでした。いわれたとおりにしなかったことも、口返答《くちへんとう》をしたり、おこって返事をしたりしたことも、一度もありませんでした。
ウールソンは、いっそうビオレットをかわいがり、アグネラも、パスローズも、ビオレットがウールソンのいとこであると知ってから、なおさらビオレットをかわいがりました。
ビオレットもまた、これらの人たちがすきでしたが、とくにウールソンのこととなると、じぶんのことのように夢中になりました。
パスローズがビオレットを市場へつれて行った日をつかって、アグネラは、ウールソンに、ウールソンが生まれる前におこった、思いがけない、ふしあわせな事件を話し、このみにくい毛の皮は、愛情と感謝の気持ちから、じぶんの身をぎせいにして交換を申しでる人の、白い皮膚を受けとるときまでは、ぬぐことができないのだとつげました。
それをきくと、ウールソンがさけびました。
「けっしてぼくは、そのようなぎせいをしてもらいたくないし、また、受けいれもしまい!」
アグネラが、このウールソンの決心をひるがえさせようと、いくらいっても、むだでした。ウールソンは、このような交換の話は、今後けっしてしてくれないように、また、ビオレットやそのほかの人にも話さないようにと、ねんをおしてたのみました。アグネラも本心では、ウールソンの考えとおなじでしたから、最初のうちはウールソンのたのみをはねつけていましたが、しまいには同意して、この話は、これからけっしてしないと約束しました。
またヒキガエルが……
そのご、なんの事件もなくて、数年たちました。ウールソンとビオレットは大きくなりました。
アグネラはもう、ビオレットがきた最初の晩にみた夢のことなど、すっかり忘れていました。ビオレットは、ひとりで出歩くことが、よくありました。
ウールソンは、もう十五歳になりました。大きくてつよく、すばしっこく、よくはたらきました。でも、だれひとりとして、ウールソンが美男であるか、みにくいか、いうことはできませんでした。なぜなら、絹のような手ざわりの、長くて黒い毛が、この男の顔やからだを、おおっていたからです。
ウールソンは善良で、しんせつな、やさしい青年で、いつも人にしんせつにしてやり、陽気で、いつも満足していました。ビオレットをみいだした日以来、ウールソンのかなしみは消えてなくなり、人びとのつめたい目も、苦にならなくなったのです。でも、人びとの集まる場所にはほとんどいかずに、じぶんをなによりも愛してくれる三人の女たちのなかで、くらしていました。
ビオレットも、もう十歳になりました。大きくなっても、そのうつくしさは、すこしもかわりません。その青い目は、いっそうやさしくなり、その口は、いっそうかわいらしく、いっそういたずらっぽくなり、背たけも、すんなり大きくなって、しとやかになりました。うすいブロンドの髪は、足までとどくほどで、髪をときますと、からだぜんたいをおおいました。
ビオレットは、この七年間に、いろいろなことをおほえました。アグネラは、はたらくことをおしえました。ウールソンは、読んだり、書いたり、計算することをおしえました。教育にひつような本は、どこからくるのかわかりませんが、ビオレットのへやのなかに、ちゃんとあったのです。本ばかりではありません。服や、そのほかビオレットや、ウールソンや、アグネラや、パスローズに必要な品は、みんな買いにゆかなくても、アグネラの魔法の指輪のおかげで、ひとりでにあらわれるのです。
ある日のこと、ビオレットがウールソンと散歩をしていますと、ビオレットは石にけつまずいて、たおれ、足をすりむきました。ウールソンは、ビオレットの足から血がながれるのをみてびっくりしました。どうしたらいいかわかりません。ウールソンは、そのすぐ近くに、川がながれているのに気がつきました。
「ビオレット、ぼくにつかまって、川までいこうよ。きれいな水で洗《あら》うと、らくになるよ」
ビオレットはウールソンにすがって、川べりまできました。そして、そこにすわって、くつをぬぎ、その小さい足を、きれいな水のながれにひたしました。
「ぼく、家にかけていって、布きれをもってくるよ。それで、おまえの足をつつんであげよう。待っててね、すぐにかえってくるから。あんまり、川べりのはしのほうへ行ってはだめだよ。この川は、ふかいからね。もしすべって落ちたら、ぼくにも助けられないだろうから」
ウールソンが行ってしまいますと、ビオレットは、ひどく気持ちがわるくなりました。たぶん、傷のいたみが原因だろうと思いましたが、ふしぎな予感がして川から足をひっこめたくなりました。でも、まだビオレットがそう決心するより先に、水面が波だって、ヒキガエルの大きな頭が、あらわれたのです。このみにくい動物の、怒りにもえた大きな目は、ビオレットのほうを、じっとみていました。
それは、夢で見てから、ビオレットがいつもおそれていた、ヒキガエルなのです。ですから、そのおそろしいかっこうや、いかった目つきをみたとき、ビオレットはにげることも、呼ぶこともできないほど、おそろしくて、おもわず、すくんでしまいました。
「とうとう、こっちの領分《りょうぶん》にやってきたね、ばかな、ちびめ! わたしは、おまえの家の敵《てき》のラジューズ仙女だ。ずっと前から、おまえをねらっていたんだが、おまえを守っている姉のドロレットが、おまえに夢をおくったりしてじゃましたもんだから……いまは、ウールソンもいないし、姉も旅行して、るすなので、こんどこそ、おまえはわたしのものだ」
こういいおわると、ヒキガエルは、その冷たい、ねばねばした足で、ビオレットの足をつかまえ、水底《みずそこ》へひきずりこもうとしました。
ビオレットは、悲鳴をあげて川べりの木や草にしがみつきました。
「助けて、ウールソン! 助けて、ウールソン! ビオレットは、もう、だめ! ああ!」
仙女のほうが力がつよく、草や木は、一本一本手からぬけて、最後の一本も、手からはなれました。さけび声は、やみました……。
かわいそうにビオレットは、水の底にすがたを消そうとしていました。でも、まだかみの毛だけが、水面にあらわれていました。そのときに、ウールソンが、はあはあいって、かけつけてきたのです。ウールソンは、ビオレットのさげび声をきいたので、矢のように走ってきました。
ウールソンはすぐさま、水の中にとびこんで、ビオレットの長いかみを、つかみました。ところが、ウールソンも、ビオレットといっしょに、水底にひきずりこまれていくのでした。ラジューズ仙女が、つよい力で、水底のほうへひっぱるからです。
ウールソンは水のなかにしずんでいっても、あたまだけは、しっかりしていました。ビオレットを両手でしっかりにぎって、ドロレット仙女の助けを祈りながら、水底につきますと、かかとでつよく水底をけって、水面にうかび出ました。そして片腕でビオレットをだき、もう一ぽうの手でおよぎながら、ふつうには考えられない力で、川岸におよぎつきました。
死んだようになって川岸へねかされたビオレットは、目をとじ、歯をくいしばって、もう死の影が、その顔をおおっていました。ウールソンはそのそばにひざまずいて、泣きました。
愛する妹が、たったひとりの友だちが、この世でただ一つのなぐさめであり、ただ一つの幸福であるビオレットが、生命《いのち》をうしなってよこたわっている! それをみてウールソンは、力も元気もなくなり、がっかりして、こんどはじぶんのあたまがぼおっとなって、ビオレットのそばにたおれてしまいました。
そのとき、一羽のヒバリが、さっと舞《ま》いおりました。ヒバリは、ふたりのそばにおりたつと、くちばしでふたりをつぎつぎにつっついて、とびさりました。
ビオレットのさけび声をきいたのは、ウールソンだけではありませんでした。パスローズもまた、ビオレットのするどいさけび声と、それにつづいてウールソンの、それよりもさらにつよい、おそろしいさけび声をきいたのです。
パスローズはアグネラにしらせて、ふたりして、さけび声のおこったほうへ、かけつけました。
近づいてみますと、ビオレットとウールソンとが、気をうしなってたおれているではありませんか。びっくりして、ふたりの心ぞうに手をあててみましたら、ふたりともまだ息がありました。そこでアグネラは、パスローズに、かるいビオレットを家まではこばせて、着がえをさせ、ねかせるように命じました。
ウールソンのほうは大きくておもたいので、そのままそこにねかせたままで、アグネラがかいほうすることにしました。
まもなくウールソンは、息をふきかえしました。ウールソンは目をひらきますと、母親がいるのに気づいて、なみだをながしながら、その首にだきつきました。
「おかあさん、ぼくのビオレットは死んだの? ぼくもいっしょに死にたい!」
「安心おし。ビオレットは、まだ生きている。パスローズが、家につれていって、手あてをしていますよ」
このことばに、ウールソンは、元気づけられて、母親といっしょに、家にもどることにしました。歩きながらウールソンは、いまおこったことを母親に語り、ラジューズ仙女の口からでる泡《あわ》で、あたまが重くなったといいました。
こんどはアグネラが、じぶんとパスローズとが、どういうふうにして、川のほとりで気をうしなっているふたりをみつけたかということを話しました。家につくとウールソンは、よろこびいさんで、なかへかけこみました。
ビオレットも、ウールソンを見ると、その胸のなかに身をなげいれて、わっと泣き出しました。
ウールソンも泣きました。アグネラも、パスローズも、泣きました。
ビオレットはベッドにはいりましたが、ねつかれませんでした。ウールソンがじぶんの身をぎせいにしてまでしてくれたことがありがたく、どうやって感謝したらいいか、わからなかったからです。
病気とぎせい
食事になっても、ウールソンがあらわれません。そこでパスローズが、ウールソンのへやに行ってみました。するとウールソンは、ベッドのそばにうずくまって、頭をかかえこんでいるのです。
「ウールソンさん、みんなが食事をまっていますよ」
ウールソンは、よわよわしい声でいいました。
「食事はできない。頭が、とても重たいんだ」
パスローズのしらせをきいて、アグネラとビオレットが、ウールソンのそばにかけつけました。ウールソンは、みんなを安心させるために、たちあがろうとしましたが、いすにたおれてしまうのです。熱もあるようです。そこでウールソンを、やすませることにしました。ビオレットは、どうしても、そのそばをはなれたくないというのです。
「病気の原因は、あたしです。すっかりよくなるまでは、ずっとそばにいます。兄さんのそばにいなかったら、心配で死んでしまいますわ」
アグネラとビオレットは、病人のそばに、つきっきりでした。かわいそうにウールソンは、まもなく、そばにいるふたりの顔が、わからなくなってしまいました。やがて、うわごとをいいはじめ、母親とビオレットを呼びつづけていました。
アグネラとビオレットは昼といわず、夜といわず、病人のそばに、つきっきりでした。一週間ごには、アグネラがつかれはててしまい、ベッドのそばで、うつらうつら寝いってしまいました。かわいそうにウールソンは、息づかいもあらく、目もみえなくなって、いよいよ、これがさいごだと思われました。ビオレットはベッドのそばにひざまずいて、両手でウールソンの毛むくじゃらの手をにぎり、なみだとせっぷんでおおっていました。
このとき、やさしい明るい歌声が、死んでいく人のいるへやの悲しい沈黙《ちんもく》を、やぶりました。そのやさしい歌声は、なぐさめと幸福とを、はこんでくるように思われました。ビオレットはよろこびに身をふるわせ、頭をあげました。一羽のヒバリが、ひらかれた窓にとまっていたのです。
「ビオレット、おまえは、ウールソンが好きかね?」
ヒバリは、やさしい声でたずねました。
「好きですとも、好きですとも。だれよりも、好きです。じぶんよりも好きです」
「おまえはじぶんの幸福をぎせいにしても、ウールソンを生きかえらせたいかい?」
「ええ、じぶんの幸福も、じぶん自身の生命《いのち》をぎせいにしても、ウールソンが生きかえってくれれば!」
「いいかえ、ビオレット。わたしは、ドロレット仙女だよ。わたしは、ウールソンも、おまえも、おまえの一家、みんなを愛しています。ウールソンの顔にあたったラジューズの毒気《どくけ》は、あの子を殺すでしょう……でも、もしもおまえが本気になって、ウールソンに愛情と感謝の気持ちをいだくならば、あの子の命は、おまえのものになるのだよ……だけど、おまえはまもなく、おまえの愛情の、おそろしい証拠《しょうこ》をウールソンにみせなければならなくなる。あの子が生きているかぎり、おまえはじぶんのからだをぎせいにして、あの子のためにつくさなければならない」
「まあ、奥さま、どうか、おねがいですから、あたしのウールソンをすくうために、あたしがしなければならないことを、おっしゃってください! あたしは、おそろしいものは、なにもありません。ウールソンの命が助かるならば、どんなことでも、あたしにとってはうれしいことですもの。みんな、あたしの幸福になるのです」
「よく、わかりました。それでいいんだよ。ウールソンの左の耳に三回せっぷんして、そのたびごとに、こういうんだよ、『あなたに……あなたのために……あなたとともに……』って。この治療をするまえに、よく考えなさいよ。もしおまえが、このつらいぎせいをする気にならないとすると、おまえにも不幸がやってくる。妹のラジューズが、おまえを支配するようになるからね」
返事をするかわりにビオレットは胸に手をくみました。そしてとびさっていく仙女に、愛情のこもった感謝のまなざしをなげました。それからウールソンのそばにかけつけて、ビオレットははっきりした声で、耳に三度せっぷんしながら、こういいました。
「あなたに……あなたのために……あなたとともに……」
ビオレットがいいおわると、ウールソンはふかいため息をついて、目をひらきました。そしてビオレットのすがたをみとめると、その手をにぎって、くちびるへもっていき、こういいました。
「ビオレット……ぼくは、長い夢をみていたようだよ! どんなことがおこったのか、話してくれないかね……どうして、ここにいるんだろう? どうしておまえは、まっさおなんだね、やせこけて? ほおは、まるで老人のように、やせこけている……目は、泣いたようにまっかだし……」
「しっ! おかあさんがねむっているから、おこさないように。おかあさんは、ずっと寝てなかったのよ。つかれてしまったんだわ、ウールソンは、病気だったのよ!」
「それで、ビオレット、おまえは寝ないのかい?」
「どうしてねむれるでしょうか、ウールソン? あたしがみんな原因なんだから」
ウールソンはだまって、ただ愛情のこもった目でビオレットをながめ、その手にせっぷんしました。ウールソンがたずねるので、ビオレットはいままでおこったことを話しましたが、仙女からきいた、じぶんをぎせいにしてウールソンの命をすくったことは、つつしみぶかいビオレットとしては、どうしても、うちあけることができませんでした。したがってウールソンは、そのことについては、なにも知りませんでした。
ウールソンは、からだがすっかりよくなったので、立ちあがって、しずかに母親のそばにいき、せっぷんで目をさまさせました。
ビオレットは、ウールソンが、ドロレット仙女に命をすくわれたしだいを、アグネラに話しました。
この日からというもの、ウールソンとビオレットは、いっそうふかく愛しあいました。ふたりは、仕事でどうしても別べつになるとき以外は、けっしてそばをはなれませんでした。
イノシシ
この事件があってから、二年たちました。ある日のこと、ウールソンは森のなかで、木を切っていました。ビオレットは、そこへおべんとうをもっていって、夕方、いっしょに帰ることになっていました。
おひるに、パスローズが、ビオレットの腕に、ぶどう酒、パン、ジャムの小さいびん、ハム、サクランボをいれたかごを、わたしました。
ビオレットは、午前中がまちどおしくて長くかんじられました。ですから早くウールソンにあいたくて、森のなかの近道をとりました。その道には、大きな木がならんでいて、イバラなどはなく、地面はコケでおおわれていました。
道のなかほどまできたとき、重たい足音が、いそいでこっちへやってくるのをききました。けれども、まだだいぶはなれているので、それがなんだか、わかりませんでした。
まもなく、それが大きなイノシシであると、わかったのです。イノシシは怒ったようすで、牙《きば》で地面をほり、道の木々の皮をそいで、ビオレットのほうへやってきました。そのあらあらしいはな息が、重たい足音と同じように、はっきりと聞きとれました。
ビオレットは、にげだすことも、身をかくすことも、できませんでした。ビオレットがどうしようかとまよっているあいだに、イノシシはそのすがたをみとめ、たちどまりました。
イノシシの目は、らんらんとかがやき、牙はかちかち音を立て、毛はさかだちました。イノシシは、ひくいうなりごえをたて、ビオレットめがけて、突進《とっしん》してきました。
さいわいにも、ビオレットのすぐそばに一本の木があって、その木の枝が、ビオレットの手のとどくところにありました。ビオレットは、片方の手で、その枝につかまり、木の上にのぼりました。そして枝から枝へと、イノシシが攻撃できないところまで、よじのぼりました。
ビオレットがほっと一安心したとき、イノシシはその木めがけて、力いっぱい突進してきました。
イノシシは、怒りのやりばをなくしたので、いよいよたけり狂い、その木の樹皮《じゅひ》を牙でけずりとり、木にはげしくぶつかって、木をぐらつかせました。はげしくぶつかって、それをなんどもくりかえせば、木もたおれてしまいます。ビオレットは、枝に、しがみついているだけです。
そのうちにイノシシは、むだな攻撃にあきたらしく、木の根もとにうずくまり、ときどきもえるような目で、ビオレットをにらみつけました。
何時間か、このようにしてすぎました。ビオレットはおそろしくて、ふるえながらじっとしていました。イノシシは、ときどき、たいへんいきりたって、木にとびかかり、その牙で木をさきました。
ビオレットは、イノシシが攻撃するたびごとに、ウールソンの名を呼んで、助けをもとめました。しかし、ウールソンは遠くはなれているのですから、きこえるはずはありません。
ビオレットは、だんだんと失望してきました。それに、おなかもへってきたのです。ビオレットは、たべもののはいっているかごをすてて、枝をのぼっていました。
ビオレットがこわくなって、ただ夢中になって助けをもとめているとき、ウールソンはビオレットもおべんとうもこないので、ふしぎがっていました。
「ぼくのことを、忘れてしまったんだな? いや、そうじゃない、おかあさんも、ビオレットも、ぼくのことを忘れるなんてことはない……ぼくの言いかたがわるかったんだ。きっと、ぼくが食事をしに帰ってくると思っているのだろう……ぼくを待っているんだ! きっと、心配しているにちがいない……」
そう思ったので、ウールソンは仕事をやめ、いそいで家に帰ることにしました。ウールソンもまた近道をとって、森の中をとおることにしたのです。
やがてまもなく、ウールソンは、悲鳴をききましたので、足をとめて、耳をかたむけました……心ぞうが、はげしくうちました。ビオレットの声のような気がしたからです……でも、なんでもない……ウールソンは、また歩きだしました。またさけび声が、こんどはもっとはっきりと、さすようにするどく、きこえたのです。もう、うたがうまでもなく、それはビオレットの声でした。
ウールソンは、声のするほうへ、かけだしました。近づくにつれて、さけび声ばかりでなく、うなり声が、それもはげしく物につきあたる音をともなったうなり声が、きこえてきたのてす。
ウールソンは、ただもう夢中になって、走りました。そしてついにイノシシが、まっさおになってビオレットがしがみついている木にはげしくからだをぶつけて、ゆすぶっているのを見たのです。
これをみて、ウールソンは、勇気がでました。ウールソンは、ドロレット仙女が守ってくれるようにとお願いしながら、手におのをもって、イノシシに立ちむかいました。
たけりたったイノシシは、あらあらしい息をはき、おそろしい牙をがたがたいわせて、こんどは、ウールソンめがけて突進してきました。
ウールソンは、さっとわきへよけて、突撃《とつげき》をかわしました。イノシシは行きすぎて、たちどまり、いよいよいきりたって、ぐるりとまわると、またウールソンに、つっかかってきました。ウールソンは呼吸をととのえ、おのをふりあげて、相手をまちうけていました。
イノシシは、ウールソンに、つっかけました。そのときに、まっぷたつに割れんばかりのはげしい一撃を、頭にうけたのです。けれども、イノシシの骨はかたいものですから、そんなことでは、たおれません。
イノシシのはげしいつっかけで、ウールソンはひっくりかえりました。イノシシは、相手が地面にたおれたのをみて、起きあがるひまもあたえず、その上にとびかかって、牙でつっつきまわし、ずたずたにしようとしました。
ウールソンは、いよいよだめだと思い、じぶんのことは忘れて、ビオレットをすくうことを、仙女に祈っていました。勝ちほこったイノシシは、相手の上に足をかけていました。そのとき、からかうような歌があたまのうえできこえました。
それを聞くと、イノシシはからだをふるわせて、とつぜん、ウールソンからはなれました。顔をあげてみますと、空に一羽のヒバリが飛びまわっていたのです。
ヒバリは、からかうような歌声を、なおひびかせていました。イノシシは、しゃがれたさけび声をあげて、頭をたれ、あとをもふりかえらずに、ゆっくりした足どりで、たちさりました。
ビオレットは、ウールソンの危険をみて、気をうしない、木の枝にひっかかったままでいました。
ウールソンは、ずたずたに引きさかれたと思い、からだを動かそうともしませんでしたが、からだのどこにも痛みを感じませんでしたので、いそいでたちあがりました。ウールソンは、ドロレット仙女がじぶんをすくったのだと、心のなかで感謝していました。
そのとき、ヒバリがウールソンのほうへとんできて、そのほおをやさしくつっつきながら、こうささやきました。
「ウールソン、イノシシをおくったのは、ラジューズ仙女なんだよ。わたしは、おまえをすくうのに、まにあってよかった。ビオレットが感謝しているこの機会をつかって、皮膚をとりかえておもらい。ビオレットは、よろこんで同意するだろうよ」
「そんなこと、とてもできない。それくらいなら、むしろ死んだほうがいい。一生、クマでいたほうがいい。かわいそうなビオレット! もしそんなふうにして、ぼくにたいするビオレットの愛情を利用したなら、ぼくはひきょうものになるでしょう」
と、ウールソンはこたえました。
「さようなら、がんこ者! またくるよ……」
そういってヒバリは、歌いながら、とびさりました。
ウールソンは木にのぼって、ビオレットを腕にかかえておりてくると、コケの上にねかせて、欠《か》けたびんに残っていたブドウ酒を、そのひたいにひたしました。
ビオレットは、まもなく正気にかえり、そばにウールソンが傷ひとつおわずにひざまずいているのをみて、じぶんの目をうたがいました。
「ウールソン! あたし、またあなたに命を助けてもらったんだわ! おっしゃって! どうしたら、あたしの感謝の気持ちを、あなたにおつたえできるか、おっしゃってください」
「感謝なんて、いわないでくれよ、ビオレット。ぼくを幸福にしてくれるのは、おまえじゃないか? おまえをすくうのは、ぼく自身の生命や財産をすくうことだぐらいは、わかっているじゃないか」
「あなたがそういうのは、やさしいしんせつな兄さんとしてですよね。でもあたしとしては、じぶんの感謝の気持ちと愛情とを、なにかはっきりした、形のあるもので、あなたにしてあげたいの」
「いいよ、いいよ、そのうちわかるさ」と、ウールソンは、笑いながらいいました。そして、「それはそうと、おまえは朝からなんにもたべてないんじゃないかね? 地面に、おまえがもってきたらしいおべんとうがちらかっているところをみるとね。もうだいぶおそいが、夜にならないまえに、家に帰れるといいんだが!」
ビオレットは、立ちあがろうとしました。ところが、いましがたのこわかったことと、おなかがすいてることなどで、ひどくからだが弱っていて、また地面にたおれてしまいました。
「あたし、立ちあがることができないわ。ウールソン、どうしましょう?」
ウールソンは、たいへんこまりました。ビオレットも、もう大きくなりましたから、そんな遠くまで、背おっていくことはできません。そうかといって、ひとりのこしていくことは、森にいるけものが心配です。
そのとき、ウールソンは、ふと、紙包みが一つ、足元におちているのに気づきました。ひろって、広げてみますと、パンやパイやブドウ酒のびんが、はいっていました。
ウールソンは、びんをビオレットのくちびるへ、もって行きました。ブドウ酒をひとのみしたら、ビオレットも元気がでました。パンとパイとで、ウールソンも力がつきました。
そのうちに、夜になりました。森のまっただなかにいるので、ビオレットもウールソンも、どの方面をまわって家へ帰れるのか、まったく知りません。ビオレットは、イノシシからのがれるために使った木にもたれていました。くらやみのなかでは、ここがいちばん安全だと思ったからです。
「いいかい、ビオレット、今夜はお天気であたたかいから、このあついコケの上にねて、一晩すごそう。ぼくの上衣をかけてあげるから。そしてぼくは、おまえの足もとで、ねむることにする。おかあさんも、パスローズも、心配しないさ。いままでだって、今夜のような晴れた晩には、外でねてから家にもどったことが、なんべんもあったからね」
ビオレットも、よろこんで、そうすることにしました。
翌朝、さきに目をさましたのは、ビオレットでした。ウールソンはつかれて、まだねむっていましたので、音のしないように起きあがって家へかえる道をさがしはじめました。
目をさましたらビオレットがいないので、ウールソンはびっくりしました。
「ビオレット! ビオレット!」
「ここよ。家へかえる道をさがしてたの」
「またわるい仙女がきて、おまえをさらって行ったのかと思ったよ。さあ、行こう。おかあさんやパスローズが起きない前に、早くかえろう」
ウールソンは、森のなかの道をよく知っていました。ふたりは、アグネラたちが目をさます前に、かえることができました。
火事
このことがあってから、ウールソンは、ビオレットをひとりで森のなかへ行かせたくないので、家へ食事にかえってくることにしました。
この森のなかの事件があってから、三年たちました。ある日、朝早くから、ビオレットがまっさおな顔をして、そわそわしながら、ウールソンを、外へひっぱりだしました。
「話したいことがあるから、こっちへきて!」
ウールソンは心配になって、いそいで出て行きました。
「なんだね、ビオレット、安心おし。おまえのためなら、ぼく、なんでもしてあげるよ」
「まあ、きいてください。また、きのうの晩、夢をみたのよ。こわかったわ。また、ヒキガエルがきて、あなたの命があぶないっていうの。あなたが死んだら、あたしも死ぬわ」
「なんだって! ぼくの命があぶないって?」
「ヒキガエルが、あたしに、こういったの――おまえの大好きなウールソンが、しぜんの皮膚をつけるときが近づいたよ。あの男がかえる皮膚は、おまえのだ。わたしは、おまえもきらいだし、あの男もきらいだ。あの男は死ぬ、そしておまえも死ぬ。おまえはしたくっても、おまえをぎせいにするわけにはいかない。二、三日のうちに、いやたぶん二、三時間のうちに、わたしはみごとに、おまえたちに復しゅうしてやるから。では、いいね!――
あたしは、目がさめたの。そうしたら、いつかあなたがあたしを川からすくってくれた、あのときのヒキガエルが、ガラスまどの外にいて、目をむいてあたしのほうをにらんでいるの。
まもなくヒキガエルは、すがたを消したけど、ほんとに生きている気がしなかったわ。はやく、ドロレット仙女に、お助けをねがわなくては」
ウールソンは、おそろしさに身ぶるいして、この話をききました。それは、じぶんの命があぶないということではなくて、かわいいビオレットが、身をぎせいにして、じぶんのクマの皮《かわ》を身につけるということでした。
ビオレットのほうは、おそろしさに身ぶるいするどころか、よろこびを感じていました。これでビオレットは、身をぎせいにして、愛するウールソンのためにつくせるわけですから。ただただウールソンに感謝して、いままで以上に、やさしくウールソンに語りかけました。
でも、まもなく、ビオレットは、死んでしまって、ウールソンとわかれなけれはならなくなるかもしれません。ウールソンも、同じ考えでした。ふたりは、ドロレット仙女に、お守りくださるようにと、熱心にいのりました。でも仙女は、ふたりのもとめに、応じてはくれません。
その日は、悲しみのうちに、すぎました。ウールソンもビオレットも、じぶんたちの心配ごとをアグネラには話しませんでした。
ところがアグネラも、泣いているのです。というのは、ビオレットが夢をみた日に、アグネラもまた夢をみたのでした。ドロレット仙女が、あらわれたのです。
「王妃よ、勇気をだしなさい! 二、三日のうちに、ウールソンはクマの皮をぬぎすてるよ。おまえは、≪すばらしい王子≫といって、あの子をよぶようになるんだよ」
アグネラは、よろこびと希望でいっぱいになって、目をさましました。でも、ビオレットがかわいそうでした。そしてビオレットを、いままで以上にかわいがりました。むすこの幸福の身がわりになるのは、ビオレットでしたから。
その夜、みんなは、それぞれべつべつの気持ちをもってねました。ビオレットとウールソンとは不安な気持ちで、アグネラはよろこびでいっぱいになって。
みんながねむってから、やっと一時間たったころでした。ビオレットは、こげくさいにおいがするので、目をさましました。アグネラも、同時に目をさましたのです。
「おかあさん、なにか、においませんか?」
「家が、もえてるんだよ、ごらん、あんなに!」と、アグネラがいいました。
ふたりは、ベッドからとびおりて、客間に走って行きました。そこも、となりのへやも、もう火がまわっていました。
「ウールソン! パスローズ!」と、アグネラが、大声で叫びました。
「ウールソン! ウールソン!」と、ビオレットもさけびました。
パスローズが、はんぶんはだかで、客間に走ってきました。
「もう、だめです。奥さま! もう、家じゅうに火がまわっています。出入口も、まどもしまっていて、とても、あけることはできません」
女たちは、口ぐちにウールソンの名をよびあって、出入口に走りよりました。そして力をあわせて、戸をゆすぶって、あけようとしましたが、まるでくぎづけされたように、びくともしません。どのまども、同じように、あきません。ビオレットは、つぶやきました。
「ああ、夢でみたとおりだわ! ウールソン、これで、永久におわかれね!」
ウールソンもまた、火とけむりで、目がさめたのでした。ウールソンは、戸外の、牛小屋のそばで、ねていたのです。
ウールソンは、なによりもまず、家の戸口にかけつけました。ところが戸は、人なみ以上の力でおしても、びくともしないのです。きっとラジューズ仙女が、おさえているにちがいありません。
ウールソンは、立てかけてあったはしごをかけのぼって、あいていたまどから、納屋《なや》にはいりました。そして、ほのおをかいくぐって母親やビオレットのいるへやに、おりました。女たちは、しっかりだきあって、死をまっていたのです。
ウールソンは、アグネラとビオレットを両手でかかえ、パスローズについてくるようにあいずして、納屋に走り、それからふたりをだいたままで、はしごをおりました。おりきった瞬間、はしごも納屋も、火の波にのまれてしまいました。
ウールソンは、アグネラとビオレットを火事の場所から少しはなれたところに、つれてきました。パスローズは、気がしっかりしているので、火事に気がつくと、いそいで着るものを一まとめにして、もちだしたのです。
アグネラも、ビオレットも、ねまきで、はだしでとびだしたのですから、パスローズがもちだしたものが、たいへん役だちました。
ビオレットはウールソンの手をしっかりにぎって、くちびるへもっていきました。
「ウールソン、これで三度も、あなたに命を助けられたんだわ!」
アグネラは、ビオレットをだきしめて、こういいました。
「ビオレットや、おまえがウールソンのしてくれたことに、大きな愛情をもってむくいたら、ウールソンはきっとよろこぶだろうね。おまえだって、機会さえあれば、ウールソンのためにじぶんの身をぎせいにすることは、うれしいだろう」
ビオレットが答えようとすると、ウールソンが、よこから、口をはさみました。
「おかあさん、おねがいですから、ビオレットに、ぼくのためにぎせいになるようなことをいわないでください。そんなことになったら、ぼくがどんなに不幸だか、ごぞんじでしょう!」
アグネラは、ウールソンに返事もしないで、心配そうな顔をしていいました。
「パスローズ、小さな箱は? 小箱を、もってきてくれたかい?」
「あっ、忘れました、奥さま」
アグネラが、たいへん困ったような顔をしているので、ウールソンは、どうしてその小箱がたいせつなのかと、たずねました。
「それは、仙女の贈りものなの。ビオレットの幸福が、そのなかにはいっているのですよ。その小箱は、わたしのベッドのまくらもとの、たんすのなかにしまっておいたの。小箱を持ちだすことを忘れていたのは、しっぱいだったわね」
アグネラがいいおわるのも待たずにウールソンは、もえている家のほうに走っていきました。みんながとめるのもきかずに、ウールソンは、ほのおのなかに、すがたを消したのでした。
数分間たちました。ウールソンの生死をきづかっている三人の女のひとには、それが数年間にも思えました。
ウールソンは、すがたをみせません。木のぱちぱちもえる音、ほのおのごうごうなる音が、いっそうはげしくなりました。とつぜん、おそろしい物音がしたので、ビオレットとアグネラは、絶望《ぜつぼう》のあまり、さけび声をあげました。
屋根がもえて、くずれ落ちたのです。ウールソンは、はりで押しつぶされ、焼けおちた建物のざんがいに埋《うう》まってしまったのです。
まもなく、ほのおの力がおとろえ、やがて消えました。あたりは、死んだように、しずかになりました。ビオレットはアグネラの腕のなかに身をなげいれて、ふたりして、いつまでも泣いていました。
朝になりました。かわいそうにウールソンは、けむりの出ているやけあとに、うずもれているのです。アグネラとビオレットは、ずっと、泣きつづけていました。パスローズが、ここからはなれようといっても、返事さえもしません。ビオレットが泣きながら、いいました。
「避難《ひなん》場所なんか、どうだっていいわ。朝がこようが、晩《ばん》になろうが、それがどうだっていうの! ウールソンがいなければ、あたし生きてたって、しようがないじゃないの!」
「でも、ここで、いつまでも泣いていても、たべるものもないから、うえ死にしてしまいますよ」
そういったとき、パスローズは牛小屋がやけなかったのに、気がつきました。そこで、さっそく牛小屋にかけつけて、牛乳をしぼってきました。
アグネラはからだを起こして、ビオレットにいいました。
「おまえがかなしむのは、もっともだよ。あの子は、じぶんよりも、おまえがかわいかったんだから。おまえのために、じぶんをぎせいにしたんだから」
ビオレットはいっそうはげしく泣きだしました。アグネラは、ウールソンが生まれる前にあったこと、つまりビオレットが身がわりになって、ウールソンのみにくいすがたをかえてやるようになるだろうということを、話しました。それから、このようなぎせいは、いつもウールソンがこばみつづけていることも話しました。
この話を聞いて、ビオレットは、さらにはげしく泣きました。アグネラは、なおもいいました。
「こうなっては、息子を手あつく、ほおむってやるだけです。やけあとを片づけて、ウールソンの死がいをみつけましょう……」
アグネラのことばも、かなしみのために、とちゅうで消えてしまいました。
井戸《いど》
三人は、やけくずれた家のほうへ、重い足をひきずっていきました。そして、くじける気持ちを引き立てて、けむりの出ているやけあとを、片づけはじめました。
このようにして二日たちましたが、かわいそうなウールソンの死がいはみつかりませんでした。さいごにビオレットが、半分やけた板をもちあげたところ、おどろいたことに、地面に穴があいているのです。
それは、井戸の穴でした。ビオレットの心ぞうは、はげしくうちました。
「ウールソン!」と、ビオレットは、かすかな希望に胸をおどらせて、さけびました。
「ビオレット! ああ、ビオレット! ぼくはここだよ、助かったんだよ!」
ビオレットは、うれしさにのどがつまって、声もでません。あたまがぼおっとなってしまって、ウールソンのいるその井戸のなかへ、じぶんも落ちこんでしまいました。
もしドロレット仙女が、このついらくを守ってくれなかったら、ビオレットは、あたまや手足を井戸のかべにぶつけて、からだがばらばらになってしまったでしょう。仙女が、ビオレットのからだをささえて、そっとウールソンの足もとに、おろしてくれたのでした。
ビオレットは、気持ちがはっきりしました。ふたりとも、このような幸福は、かんがえてもみませんでした! 生きて、ふたりっきりで、井戸の底にいるなんて!
ふたりの幸福は、パスローズのさけび声で、破られました。ビオレットがいなくなったので、さがしていたパスローズは、井戸をみつけたのでのぞいてみると、ビオレットの白い服を見たので、きっとビオレットがウールソンの死んでいるのを見て、井戸のなかにとびこんだのだと思ったのでした。
ウールソンが、声をはりあげていいました。
「パスローズ、しずかに。おかあさんを、びっくりさせるといけない。ぼくはビオレットといっしょに、ここにいる。けがひとつしていないし、不足なものは、なにもないよ」
「よかったですわ、よかったですわ! 奥さま、奥さま! はやくいらっしゃって……ふたりとも、ここにいるんです!」
アグネラは、半分死んだようになって、地面にすわっていましたが、ウールソンが、「おかあさん、ぼく、生きていますよ」とさけぶのを聞いて、とびおきて、井戸の穴のところにきました。もしパスローズがひきとめなかったら、アグネラは、井戸の中にとびこんだでしょう。
「王妃さま、穴の中にはいってはいけませんよ。死んでしまいます。いま、わたしが、はしごをもってきますから」
パスローズがはしごをさがしているあいだに、ウールソンとビオレットは、井戸の底で、おたがいの幸福や苦しみについて、語りあっていました。ウールソンが、いいました。
「ぼくは、ほのおをくぐって進んでいき、足先で、おかあさんのたんすをさがしたよ。けむりで息ぐるしいし、目をあけていられないからね。そのうちに、ぼくは髪をひっぱられて、この井戸につきおとされたんだ。
井戸には水もなければ、じめじめしてもいなくて、ひんやりとして気持ちがいいんだね。底には、見てもわかるように、やわらかいじゅうたんのようなものが、しいてあるし、あかりも、じゅうぶん明るい。
ほら、ここに、食料もあるだろう。ぼくはブドウ酒を飲んだきりで、なにもたべないがね。そこへ、ドロレット仙女が、おまえのすがたになって、あらわれたんだよ。ぼくは、おまえだと思ったので、両腕をひろげてだこうとしたら、それが空気や蒸気《じょうき》のようにふわふわして、手でさわることができないんだよ。
すると仙女は、笑いながら、こういったんだ。――わたしは、ビオレットのすがたをしてるだけさ。安心おし、あした、会えるだろうからね。ビオレットは、この井戸の底へ、くるだろう。そして、おまえといっしょに、この穴から出ていくだろうよ。それからおまえは、おかあさんにあえるし、うつくしい太陽も見ることができる。もっとも、そのうちに、この井戸へ、またくるようになるがね、それがおまえの幸福になるのさ――
ぼくの幸福ですって? おかあさんと、ビオレットに会えること、これがぼくの幸福じゃないんですか?――と、ぼくは、仙女にこたえたさ。
すると仙女は、――わたしのいうことを信じなさい。この井戸には、おまえとビオレットとの幸福があるんだよ――というんだよ。
そこでぼくは、またいってやった。――ビオレットは、ぼくやおかあさんのそばで生活してるのが、いちばん幸福なんじゃありませんか?――って」
「よくいってくれたわ、ウールソン! そうしたら仙女が、なんといったの?」と、ビオレットがたずねました。
「わたしは、じぶんのいうことを、よく知っているよ。この一日か二日かで、おまえの幸福に、なにか足りないものができる。それをおまえは、ここでみつけるのさ。さようなら、ウールソン!――と、仙女は答えたよ。
それから、また、こういったよ――こんど会うとき、おまえは少しもまんぞくしてないだろうよ。そのときおまえは、わたしに会わなかったほうがいいと思うだろうよ――
そういって仙女は、あとにいい匂いをのこして、とんでいってしまったんだ。だからぼくは、安心して、おまえをまっていたのさ」
ビオレットは、ウールソンに再会したので、よろこびが二倍になっていました。というのは、アグネラからじぶんがしなければならないぎせいの性質をうちあけられてから、ウールソンがどのように反対しようとも、かならずそれをなしとげようと、決心したからでした。ビオレットはウールソンに、大きな愛情のあかしをみせるよろこびしか考えていなかったのです。
ウールソンが話しおえたとき、パスローズのかんだかい声がきこえました。
「さあ、はしごをおろしますよ……おっこちないように、気をつけてください。それから、食料があったら、もってきてください。なにしろ二日間というもの、牛乳とほこりしか吸いこみませんでしたからね。おかあさんも、ビオレットも、なみだと空気だけで、生きていたんですからね……ゆっくり、気をつけて、あがってきてください。
奥さま、奥さま、ほら、ウールソンの頭が……あっ、ビオレットの頭も……そら、またいで!」
井戸から出るとウールソンは、まっさおになってふるえているアグネラの腕のなかに、とびこみました。アグネラは、なみだとせっぷんでウールソンをおおい、いつまでも、そうしていました。なにしろ、死んだと思っていたウールソンが生きていたのですから、むりもありません。やっとパスローズが、ふたりをひきはなしました。
「それはそうと、ビオレットさんは、よくまあぶじに、井戸のなかをおりられたもんですね」
と、パスローズが、たずねました。
「あたし、おりたんじゃないのよ。おっこちたの、ウールソンが腕で受けとめてくれたのよ」
「どうも、おかしいですね。きっと、なかに仙女がいたんですね」と、パスローズがいいました。
「そうなんだ、しんせつな仙女がね。いつもしんせつな仙女が、いじのわるい仙女に勝ってくれてばかりだと、いいんだけれど!」と、ウールソンがこたえました。
ウールソンは、仙女からもらったごちそうを、井戸の中においてきてしまいました。そこでパスローズは、みんながなみだをながして、だきあっているあいだに、ひとりで井戸の中におりていって、ごちそうを持ってくると、わらの束の上に、ならべました。そして、この急ごしらえの食卓のまわりに、わらの束を四つおいて、いすのかわりにしました。
「さあ、晩の食事が、できましたよ。パイもあれば、ハムもあります。それから、パンも、ブドウ酒も。仙女さま、ごちそうさま!」
みんな、おなかがすいていますから、よろこんで食卓のまわりに、すわりました。笑ったり、おしゃべりをしたり、みんな、しあわせそうな顔をしていました。
食事が終わってから、パスローズが、ふしぎそうな顔をして、仙女がいままでは必要なものを、どんどんくれたのにと、いいました。「家がやけてしまって、わたしたちは、たりないものだらけですわ。牛小屋だけがねるところだし、ベッドは、わらだけ。たべるものといったら、井戸から持ってきた、これだけです。いままでは、必要なものを欲しいといえば、なんでも出てきたのに」
そういわれたので、アグネラは、じぶんの手を見ました。まほうの指輪がないのです! これでは、今後、じぶんたちがはたらいて、毎日のパンをかせがなければなりません。ウールソンとビオレットは、アグネラの悲しそうなようすをみて、そのわけをたずねました。
「こまったわ! 火事のさわぎで、仙女からもらった指輪を、なくしてしまったの。あの指輪さえあれば、なんでも必要なものが出てきたのに! これから、どうしたらいいだろう?」
「心配はいりませんよ、おかあさん。もうぼくは大きくなったし、力はあるし。ぼく、仕事をさがします。ぼくの給料で、生活していけば、いいでしょう」
「あたしだって、なんでもできますわ。ウールソン、ご自分の仕事をさがしながら、あたしにも、仕事をみつけてちょうだい!」と、ビオレットもいいました。
「これから、仕事をさがしにいってきます。じゃ、また、おかあさん」
ウールソンはそういって、母親の手にせっぷんをすると、かるい足どりで、出ていきました。
仕事さがし
ウールソンは一時間ほど歩きましたら、大きな、りっぱな農場につきましたので、ここで仕事があればいいがな、と思いました。家族の人たちが、入口のところで、食事をとっているのが遠くからみえました。
そばに近づきますと、十歳ぐらいの、ひとりの男の子が、ウールソンのやってくるのをみて、いすから飛びおり、悲鳴をあげて、家のなかに、逃げこみました。
もうひとりの、八歳ぐらいの女の子は、にいさんの悲鳴を聞いたので、ふりむきましたが、これもまた、かんだかい叫《さけ》び声をあげました。
家じゅうの者が、いっせいにウールソンのほうを見ました。そのすがたをみると、女たちは、おろしさのあまり、叫び声をあげ、子どもたちは逃げ、男たちは、手に手に棒や、熊手《くまで》を持ちました。ウールソンのことを、動物園から逃げだした、めずらしい動物だと思って、身を守ろうとしたのです。
ウールソンは、みんながおそろしそうにさわいでいるのをみて、こういいました。
「みなさんは、そう思っていらっしゃるようですが、ぼくは、クマではありません。仕事をさがしている、まずしい若者です。なにか仕事をくださると、たいへんうれしいのですが」
クマが話をするので、びっくりした農夫は、逃げだしたものか、それともたずねてみようかと大いにまよいましたが、ついに話しかけてみることにしました。
「おまえは、だれで、どこからきたんだい?」
「森の耕地《こうち》からきた、アグネラのせがれです」
「ああ、おまえか! 子どものころ、市場《いちば》にいっては、うちの子どもたちをこわがらせたのは! どうしてまた、こんなところへ、のこのこやってきたんだい? いままでみたいに、クマらしい生活をしていればいいのに」
「わたしたちの農場はやけてしまったのです。ですからぼくは、おかあさんや妹を、はたらいてやしなっていかなければならないのです。ぼくはじょうぶですし、力もつよい。あなたのお言いつけどおり、なんでもします」
「わしが、おまえのようなきたならしいけもののはたらきを受けると思うかね。女たちはおそろしくて、死んでしまうかもしれないし、子どもたちは、気絶《きぜつ》してしまうだろう! もう、けっこうだよ。とっとと、うせろ!」
「おねがいですから、使ってください。ひとりではたらかせてくれれば、だれもこわがらせないでしょう」
「まだ、ぐずぐずしてるのかい。早く、いっちまえ! さもないと、この熊手の歯が、おまえの毛のはえてる腰にあたるぞ」
かわいそうなウールソンは、あたまをさげました。はずかしさと、悲しみで、その目になみだが光りました。ウールソンは、ゆっくりと、ののしる声を背中に聞いて、立ちさりました。
ウールソンは、人びとの目から見えなくなると、なみだをこらえることができませんでした。でも、ビオレットがじぶんのみにくい毛皮をとりのぞけることができるのだという考えは、ただの一度も出てきませんでした。
ウールソンは、なおも歩きつづけ、あるお城の前にきました。城のまわりには、人びとが集まり、行ったり来たりして、いそがしそうにはたらいていました。
「ここで、仕事がみつかるぞ。女も子どももいないし、だれもぼくをこわがっていないようだ」と、ウールソンは思いました。
ウールソンは、だれにも見られずに、近よりました。そして、ぼうしをぬいで、監督《かんとく》のような人の前に進み出ました。そして「だんなさま……」と、いいました。
その男は、顔をあげると、ウールソンをみて、一歩あとずさりをし、びっくりした顔つきで、目をみはりました。
「おまえは、何者だ? どうしろというのかね?」
「ぼくは、農婦アグネラのむすこです」
「で、なにしにここへきたのかね?」
「われわれの農場がやけてしまいましたので、母や妹をたべさせるために、仕事をさがしているのです。なにか、仕事があったらと思いまして?」
「仕事だって? クマに仕事ができるかね?」
「ぼくは、かっこうはクマでも、クマではありません。毛皮のなかでは、人間の心ぞうが脈《みゃく》をうっているのです。りっぱに仕事をやってみせますとも」
ウールソンがこのように語り、監督がばかにしたようなようすで、そのことばを聞いていたとき、わきにいた馬のほうで、さわぎがおこりました。馬がぼうだちになったり、あと足でけったりしはじめたのです。馬丁《ばてい》は馬ををしずめるのに、たいへんです。ある馬は、その手をのがれて、野原のほうへ、逃げだしました。
「クマだ、クマだ! 追っぱらえ!」と、馬丁が口ぐちに、さけびました。
「立ちされ!」と、監督《かんとく》が、大きな声でいいました。
ウールソンはびっくりして、その場にたちすくみました。
「行かないのか! 行かないと、犬をけしかけるぞ」
ウールソンは、このようなむごいあつかいに、生きた気持ちもなく、いそいで立ちさりました。けれどもウールソンは、このようないじのわるい男からひどいめにあっても、けっして失望しませんでした。
「まだ、日がくれるまで、三、四時間ある。もう少し、さがしてみよう」
ウールソンは、森の耕地から三、四キロはなれたところにある、一軒のかじ屋に行きました。このかじ屋の主人は、大勢《おおぜい》の職人を使っていました。
あわれなウールソンは、かじ屋につきました。主人は戸口にいて、職人をしかったり、おどかしたりしていました。
「だんな、なにか仕事はあるでしょうか?」
ウールソンは、近づきなから、こういいました。
「いいとも、仕事なら、いくらでもある。どんな仕事がいいかな」
かじ屋はこういって、顔をあげました。というのは、かじ屋は、ウールソンのほうをみずに、返事をしたからです。
かじ屋は、ウールソンをみると、言葉をつづけるかわりに、その目は怒りにもえ、口ごもりながら、いいました。
「ふさけるのも、いいかげんにしろ。まだ、カーニバルの仮装《かそう》をするには、はやすぎるぞ。そのみっともないクマの毛皮をぬぎすてろよ。さもないと、かじ場の火にくべて、おまえの毛皮をやきすてるぞ」
「仮装ではありません。生まれつきの皮なんです。でも、もし仕事さえくだされば、なんでもやってみせます」と、ウールソンは、悲しそうにこたえました。
「おまえに仕事をやるなんて、このきたならしいけものめ! ふくろのなかにつっこんで、動物園のおりのなかへ、送りかえしてやろうか。動物園へ行きたくなかったら、さっさと消えてうせろ!」と、怒ってかじ屋は、どなりつけました。そして、棒《ぼう》をふりあげて、ウールソンをぶとうとしました。
ぎせい
ウールソンはがっかりして、元気なく、家に帰っていきました。足がはかどりませんので、帰ったのは、だいぶおそくなりました。
ビオレットが走り出てきて、ウールソンの手をとり、ひとこともいわずに、アグネラの前につれてきました。そしてビオレットはひざまずいて、こういいました。
「おかあさま、ウールソンは、きょうはずいぶん苦しんだと思います。おかあさま、ウールソンがあたしたちのために命をおとしたと思って、あたしにおあかしになったこと、それは、あたしも仙女から聞いて、よく知っております。あたしはウールソンの皮膚をもらって、あの人をうつくしくすることができるのです。あたしの大好きな兄さんの愛情を自分のものにすることができるなんて、あたし、しあわせですわ。あたし、おねがいしますから、ドロレット仙女がお許しになった交換をさせてください。いますぐそれをなさるように、おねがいしますわ」
それを聞いてウールソンは、恐怖にかられて、さけびました。
「ビオレット! ビオレット! おだまり。おまえは、じぶんのいっていることが、わからないんだ。それは、苦しい、みじめな生活なんだよ。だれも相手にしてくれない、見る人をおそれさせる、おそろしい生活なんだよ! ああビオレット、おねがいだから、いまいったことをとり消しておくれ」
だが、ビオレットは、おちついて、きっぱりと決心して、こういいました。
「ウールソン、あなたが大きなぎせいだと思っていることをあたしがするのは、あなたにあたしの愛情や感謝の気持ちをしめしたいという、あたしのはげしい望みをはたすことなのです。もしそれをしなかったら、あたし、こんなみじめなことはありませんわ。」
「まあおまち、ビオレット。よく考えてごらん、そうなれば、ぼくは、うつくしいビオレットを、もう見ることができなくなるんだよ。みんながおまえをからかったり、おまえをこわがったりするのを、ぼくは見なければならないんだよ。ねえ、ビオレット、ぼくを、そのような苦しいめにあわせないでおくれ!」
うつくしいビオレットの顔が、くもりました。ウールソンにきらわれるかもしれないという心配が、ビオレットをおびえさせたのです。でも、このまったく個人的な感情は、ほんのわずかのあいだでした。じぶんの身をぎせいにするという愛情のほうが、そんな気持ちなど問題にしませんでした。
そしてビオレットは、返事をするかわりに、アグネラのうでに、身をなげかけました。
「おかあさま、白くてかわいらしいさいごのすがたのビオレットを、だいてください」
アグネラとウールソンと、そしてパスローズとは、かわるがわるビオレットをだき、愛情のこもった目でじっとその顔をみつめました。ウールソンはビオレットの前にひざまずいて、二十年もきなれている毛皮をそのままじぶんにつけさせておいてくれと、たのみました。でもビオレットは、大きな声をだして、呼んだのです。
「ドロレット仙女、ドロレット仙女! あたしの愛するウールソンの、健康と生命のぎせいを受けにおいでください!」
すると、ただちに、ドロレット仙女が、一五〇羽のヒバリにひかれた、大きな金づくりのくるまにのって、後光《ごこう》を背にうけながら、あらわれました。仙女は、きらびやかな色のチョウの羽の服をまとい、ひじょうにこまかい細工《さいく》なのでうすぎぬのようにかろやかな、ダイヤモンドをあみめにつけたコートを肩からはおり、それを十歩もうしろのほうまでひきずっていました。
金糸のようにかがやいているその髪には、太陽のようにきらきらしたかんむりがのっていました。はきものには、ルビーが一つずつ、はめこんでありました。そして、そのやさしい、うつくしい顔は、さもまんぞくそうに、うれしそうでした。仙女は、愛情のこもったまなざしを、ビオレットにそそぎました。
「では、むすめや、おまえは、ほんとうに、そうしたいんだね?」
と、いいました。
ウールソンは、仙女の足もとにたおれふして、さけびました。
「お聞きくださいまし、仙女さま。あなたさまは、いろいろわたしによいことをなさってくださいました。そのあなたさまが、わたしの愛するビオレットの、無分別なねがいを、おききとどけになるのでしょうか? このようなぎせいを、むりやりにわたしに承知《しょうち》させて、わたしの一生を不幸になさるおつもりですか? いいえ、仙女さまは、けっしてそのようなことは、なさりますまい」
ウールソンが、このようなことをいっているにもかまわずに仙女は、真珠のついているつえで、かるくビオレットをお打ちになり、つづいてウールソンをお打ちになって、こういいました。
「むすめよ、おまえの心のちかいにより、そうあらんことを……むすこよ、おまえのねがいに反して、そうあらんことを」
その瞬間、ビオレットの顔も、腕も、からだぜんたいが、ウールソンからはなれた、やわらかな長い毛で、おおわれました。同時にウールソンは、白い、つやつやした皮膚にかわり、このうえないうつくしさを見せました。ビオレットはそのすがたに見とれていましたが、ウールソンは、なみだをためた目をふせて、おそろしいすがたになったビオレットを、まともに見ることができませんでした。
やっと、ウールソンは、ビオレットを見て、その腕に身を投げいれました。ふたりはだきあって、泣きました。ビオレットは顔をあげて、アグネラをみつめました。アグネラはビオレットに、その手をさしだしました。
「ありがとう、けだかい、やさしい心のわが子よ!」と、アグネラはいいました。
「おかあさま、こんなになっても、あたしをかわいがってくださる?」と、ビオレットは、ひくい声でいいました。
「もちろんだとも、わたしのかわいいむすめ! いままでよりも百倍も、千倍も!」
「ビオレット、みにくくなったからといって、ちっとも心配することはないよ。ぼくにとっては、もとよりも百倍もきれいになったように思えるし、ぼくにとっては、おまえは妹だし、だいじな友だちだし、一生のぼくの友、ぼくの心の理想なのだから」
と、ウールソンもいいました。
たたかい
ビオレットが返事をしようとしたとき、空から、五十ぴきの大きなヒキガエルにひっぱられた、ワニ皮のくるまが一台、ゆっくりとおりてきました。ヒキガエルは、どれもこれも息をはき、けたたましくなきながら、おそろしい毒を、吹きかけていました。
くるまが地上につきますと、ずんぐりふとった、おもたい生きものが、くるまからおりたちました。ラジューズ仙女です。
その大きなめだまは、顔からとびでるほどです。そのひろがったシシ鼻《ばな》は、色あせてしわがよっているほおをおおっていました。口は耳までさけ、口をあけると、たえずみどり色のつばが流れていて、きたならしい歯をなめている長くてとがった、黒い舌が見えました。背たけは九メートルぐらいで、ずんぐりふとっていて、そのぶよぶよした黄色い油ぎったからだは、たいこのようにはった大きなおなかが、大部分をしめていました。
そのつめたくて、ねばねばした皮膚は、まるでナメクジのようでした。ごくわずかな、あかっぽい髪の毛は、しわだらけの首に、たれていました。大きなひらたい手は、サメのひれのようでした。服はナメクジの皮でできていて、ヒキガエルの皮のマントをかけていました。
ラジューズ仙女は、しずしずと、ウールソンのほうへ進んできました。もうウールソンではなく、すばらしい王子さまです。
ラジューズ仙女は王子の前にくると、おこった目で、ドロレット仙女をちらりと見てから、ビオレットのほうに勝ちほこったような、さげすむようなまなざしを投げて、その大きなおなかの上に、ぬらぬらしたふとい腕をくみ、かんだかい、しゃがれ声で、王子にいいました。
「わたしは、姉さんに負けた。でも、わたしには、なぐさめが一つのこっている。おまえは、このばかな女の子の幸福をぎせいにしてじぶんのうつくしさを取りもどしたのだから、けっしてうれしくはあるまい。おそろしいすがたのこの子には、近づきたくもないだろう。そうだ、うつくしいウールソン、たんと泣くがいい。いつまでも、そうやって苦しむがいい」
「いや、そうじゃありません。ぼくはビオレットに、わたしの感謝の気持ちをどうしてしめすことができるか、それがわからないので、こまっているのです」
と、王子はいいました。
ドロレット仙女は、きびしい顔をして、はげしい怒りにかられながら、つえをふりまわして、こういいました。
「おだまり、ラジューズ。おまえはいつまでも、ビオレットの不幸に、いい気になってはいられないよ。わたしが、きっとすくってやるからね。この子のぎせい心は、じゅうぶんそれだけのことはあるんだから」
「姉さんがその気なら、どんなことをしても、このむすめを助けるじゃまをしてみせる」
「いくらおまえがおこっても、こわくはないよ。おまえを、こらしめてやるから」
「わたしをこらしめるって! このわたしをおどかす気かね!」
ラジューズ仙女は あらあらしく口笛をふいて、おとものヒキガエルをひきよせると、じぶんのくるまにのって、空高くのぼり、ヒキガエルどもの毒気《どくけ》で、ドロレット仙女をちっそくさせようと、おそいかかってきました。
ヒバリたちはまいあがって、ヒキガエルどもの上をぐるぐるまわったかと思うと、急に、それらの頭上に、おそいかかりました。ところがヒキガエルどもは、からだが重たいくせに、たくみに右左へと攻撃をかわして、あまり近よりすぎたヒバリに毒気を吹きつけましたので、ころりと死ぬものもありました。
ドロレット仙女は、ともまわりのヒバリを急にくるまから放って、なお高くまいあがり、たいへんじょうずに、ヒキガエルどもの上に飛びおりさせましたので、ヒキガエルどもは、ヒバリの爪で、めだまをくりぬかれるものが、数しれずありました。あまりにすばやいので、ラジューズは、じぶんの部下をすくいに行くひまもないほどでした。
ヒキガエルのさけび声と、ヒバリのさえずりとで、耳がつんぼになるほどでした。恐怖にかられて、このたたかいをながめていた友だちに、ドロレット仙女が、注意しました。
「みんな、遠のいて、耳をふさぎなさい」
ラジューズは、さいごの努力を、こころみました。めくらになったヒキガエルどもを正面からヒバリたちに突撃《とつげき》させ、毒を吹きかけようとしたのです。しかし、ドロレットは、高くまいあがって、ラジューズは、いつも下になってしまいました。とうとう、がまんしきれずに、ラジューズはさけびました。
「おまえは、仙女たちの王妃に、助けられているんだね。あのあばずれめ、じごくの底でおめにかかりたいもんだ!」
ラジューズがこのことばをいいおわると、たちまち、そののっていたくるまは地面にどしんと落ちてきて、ヒキガエルどもはつぶされ、くるまは消えてなくなりました。ラジューズは大きなヒキガエルのすがたで、ひとりっきりになってしまいました。もう、まほうもきかなくなりました。
ドロレット仙女は、くるまをおろし、地上におりたちました。
「仙女たちの王妃さまが、おまえの大胆不敵《だいたんふてき》なふるまいを罰せられたのだ。妹よ、もし王妃さまのおゆるしをえたいなら、じぶんのしたことを、くいあらためなさい」
ヒキガエルは、返事のかわりに、毒を吹きかけましたが、さいわいにも、だれにもあたりませんでした。ドロレットは、ラジューズのほうへ、つえをさしのべました。
「おまえは、すがたを消したらいい。そして二度と、王子やビオレットや、その母親の前にあらわれるな」
ドロレット仙女がいいおわると、ヒキガエルはたちまちみえなくなりました。ドロレット仙女は、しばらくその場にじっとしたままで、手をひたいにあてて、悲しい考えを追いはらおうとしていたようでしたが、やがてすばらしい王子に近づいて、こういいました。
「王子よ、こう呼ばれるからには、おまえの生まれがおわかりでしょう。おまえは、フェロス王と、いままでつつましい農婦のすがたになっていたエイメ王妃のむすこです。おまえの父親は、その名のとおり、ざんこくな人です。じぶんの弟のアンドランや、義妹のノンシャラントを殺そうとして、じゃまをされたので、こんどは怒りをおまえの母親にむけたのでした。そこでわたしが、おまえの母親を、忠実なパスローズといっしょに雲にのせて、助けたのです。
それからビオレット姫、おまえの生まれも、王子と同じようなんだよ。おまえの父母は、アンドラン王とノンシャラント王妃さ。ふたりとも、いちじはエイメ王妃に助けられたが、あまりのんきすぎるので、とうとう殺されてしまったのだ。
フェロス王は、そのざんこくな仕打ちにたえかねた家来《けらい》たちに、殺されてしまった。それからずっと家来たちは、王子よ、おまえがきて、その国をおさめるのを、待っているんだよ。そしてわたしはその人たちに、おまえが、おまえにふさわしいようなおきさきをむかえるだろう、と、やくそくしたのだ。おまえは、おまえの父親のために殺された両親をもつ十二人のほりょの姫たちのなかから、一人をえらべばいい。みんな、きれいで、かしこく、おまえに持参金として、それぞれ王国をもっている」
すばらしい王子さまは、仙女のさいごのことばにびっくりして、だまったままで、ビオレットのほうをふりむきました。そしてビオレットが泣いているのをみると、こういいました。
「どうして泣くんだい、ビオレット? ぼくが、おまえのすがたに恥《は》じいるとでも思っているのかい? ぼくが恩しらずにも、父がほりょにした姫のなかから一人をえらんで、おまえにたいする愛情をすてるとでも思っているのかい? そんなことができるかね、ビオレット! ぼくはいままでおまえを、妹としか思っていなかった。これからは、おまえは、ぼくの生涯のよき友であり、ただ一人の愛する人、つまりぼくのおきさきになるんだ」
「あなたのおきさきにですって! そんなこと、できませんわ。こんなみにくいすがたをして、どうして王座にすわれるでしょうか? あなただって、家来たちや、となりの国の王さまたちからからかわれるのを、がまんができないでしょう。どうかあたしを、あなたのおそばで、おかあさんのおそばで、だれにもみられずに、ベールをかぶったままで、そっと、ひとりだけで生きていかせてください」
すばらしい王子は、いつまでもいいはりました。ビオレットも、なかなかゆずりません。とうとう王子は、こういいました。
「どうしてもおまえが、ぼくといっしょに王座にのぼるのがいやだというなら、ぼくのほうで王座をすてて、おまえといっしょにいままでどおり、しずかに幸福にくらすとしよう。おまえがいなければ、王さまが持つつえは、ぼくには重たい荷物でしかない。おまえといっしょなら、ぼくたちの小さな農場も、ひとつの天国さ! どうする、ビオレット?」
「そうしましょうよ、あたしたちは、長いあいだそうしていたように、つつましく、幸福に生きていきましょう」
「けだかい王子と、心やさしい姫よ、おまえたちは、じぶんをぎせいにするという、たいへんめずらしい愛情のために、むくいをうけるだろう。王子よ、おまえが火事のときにはこびこまれた井戸の中に、おまえやビオレットのために大切な宝《たから》ものがおいてある。井戸におりていって、さがしてごらん。もしみつかったら、持っておいで」
と、仙女がいいました。
王子はすぐに、井戸へ飛んでいって、まだはしごがそのままになっていましたので、いそいでおりました。底におりて、ずいぶんさがしましたが、じゅうたんのほかには、なにもありません。かべも注意してさがしましたが、宝らしいものは、みつかりませんでした。そこで、じゅうたんをあげてみました。そうするとそこに、輪のついた石がありました。王子は輪をひっぱって、石をひっぱりあげました。そこに、星を集めたように光っている、小箱があったのです。
「これが、仙女のいった宝ものにちがいない」
王子は、その小箱を手にとってみますと、クルミのからのように、かるいのです。そこで、小箱をだいじに腕にかかえて、いそいで、井戸から出ました。
外では、じりじりしながら、王子のもどってくるのをまっていました。王子は小箱を仙女に手わたしました。それをみて、アグネラがさけびました。
「この小箱は、あなたがわたしに、おあずけになったものです。火事で、やけたものだとばかり思っていましたのに」
「そう、同じものだよ。さあ、かぎがあるから、あけてごらん」と、仙女はいいました。
ウールソンは、いそいであけてみました。なにかすばらしい宝ものでも入っているかと思いましたのに、そこには、ビオレットがはじめて森のなかでみつかったときにしていた腕輪と、香油《こうゆ》のびんが入っていただけですから、みんなは、すっかり当てがはずれたようでした。
仙女は、みんなをかわるがわるみわたしてから、そのあっけにとられているようすを見て笑いながら、腕輪をビオレットに手わたして、いいました。
「これがわたしの、結婚のお祝いだよ。このダイヤモンドのどれもが、これを持っている人に、いろいろな魔力をあたえるんだからね。あらゆるききめ、あらゆる富、あらゆる美、あらゆるこころ、あらゆるのぞましい幸福を、その人にあたえるのだ。おまえとすばらしい王子とのあいだにできた子どもたちのために、これを使うといいよ」
それから仙女は、びんを手にとって、
「この香油のびんは、王子への結婚のお祝いだ。おまえも、いい匂いは好きだろう。これはとくべつの力をもっているから、きょう、さっそく使うといい。明日、またおまえたちのところへ来よう。さあ、おまえたちを、おまえの王国へつれてってあげよう」
「ぼくは、もう王国をあきらめました。ここで、ビオレットといっしょに生活したいとおもいます」
「では、だれが、おまえの国をおさめるのだね?」と、エイメ王妃が、言葉をさえぎりました。
「おかあさんさえよろしかったら、王国をおおさめになってください」と王子は答えました。
王妃は、息子の王冠《おうかん》を受けるのを、ことわろうとしました。そのとき仙女が、こういったのです。
「このもんだいは、あしたまた話すことにしよう。さようなら、ではあした。おまえたちに幸福がやってくるだろうからね」
仙女がふたたびくるまにのりますと、ヒバリたちはおおいそぎで、とびさりました。
むくわれる
王子はビオレットをみて、ため息をつきました。ビオレットは王子をみて、ほほえみました。
「りっぱだわ。あたし、あなたをこんなにうつくしくしたのかと思うと、しあわせですわ。あたし、その香油を少しばかり、手にたらしてみましょう。あなたに気に入られたいために、せめていい匂いでもつけてみたいわ」
ビオレットは、笑いながらそういうと、びんのせんをぬいて、王子に、じぶんのひたいと顔に数滴たらしてくれるようにと、たのみました。王子はびんを手にとって、いわれたとおりにしました。
香油がビオレットのひたいに落ちると、ああ、なんとよろこばしいことでしょう、おどろいたことには、毛皮がすっかりなくなって、ビオレットの皮膚《ひふ》は、もとのように白く、やわらかさを取りもどしたのです!
すばらしい王子は、じぶんの目をうたがいました。もうこれで、ビオレットとの結婚に、なんのさしさわりもなくなったのです。
その夜は、未来の希望にもえて、ゆかいにすごしました。仙女が、晩のごちそうを用意してくれました。みんなは、牛小屋のわらの束《たば》の上で、さいごの夜をすごしました。
みんな、ぐっすりねむりましたので、もうずっと前から日が出ているのに、だれも目をさましません。仙女がきて、かるくせきばらいをしました。
王子がさいしょに目をひらき、つづいてビオレットが目ざめました。みんなして、あらためてドロレット仙女に、礼をいいました。
仙女は、少しはなれたところに待たせてあった馬車を、呼びよせました。
一時間たらずで、ヒバリたちは一万二千キロメートルをとんで、すばらしい国に到着しました。仙女に知らされていたので、国の人びとや家来たちは、道路や宮殿で一行をまちうけていました。
馬車がきたのをみると、群衆《ぐんしゅう》は、よろこびの声をあげました。馬車が宮殿の前の広場にとまったときには、よろこびの声は、さらにいっそう大きくあがりました。
まずエイメ王妃が、馬車からおりました。王妃は少し年をとりましたが、あいかわらずうつくしく、しとやかでした。
つぎは、すばらしい王子で、そのうつくしい優美《ゆうび》なすがたは、金や宝石がきらめいているりっぱな服装のために、いっそうひきたって見えました。
しかし王子がビオレットの手をとって、群衆の前につれだしたとき、くるわんばかりの拍手がおこりました。そのやさしくて、かわいらしい顔、すらりとして優美なすがたは、仙女の魔法のつえで、うつくしくよそおわれ、あたまには、いろとりどりの宝石でつくられた小さいヒバリのついている王冠《おうかん》を、かぶっていました。
「すばらしい王さまばんざい! ビオレット王妃ばんざい!」のさけびはいつ果《は》てるかわかりませんでした。
ふたりの結婚式は、ドロレット仙女をはじめ、その友だちの仙女も列席して、さかんにおこなわれました。仙女たちは、それぞれりっぱなお祝いの品をもってきました。そして、すばらしい王さまとビオレット王妃さまのもてなしに、たいそうまんぞくして帰りました。
二年たって、ビオレットは、女の子を産みました。両親ににて、心のやさしい、うつくしい子でした。
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解説
これらのお話は、セギュール夫人が最初に書いた童話集、『新仙女物語《しんせんにょものがたり》』のなかの五つのお話で、そのはじめの「ブロンディーヌと、親切な牝《め》ジカと、きれいなネコの話」を、あまり長ったらしい題なので、『リラの森』とあらため、そのまま本書の題名にしました。
夫人が童話を書いたのは、孫のカミーユとマドレーヌのふたりに、この『新仙女物語』のなかにはいっている「ウールソン」のお話を、はなして聞かせたのがきっかけです。夫人はそのとき、五十七歳でしたから、ずいぶん晩年になってから、ものを書きはじめたわけですね。
その晩、ヌエットの夫人の屋敷《やしき》には、小説家のウジェーヌ・シューや、やはり小説家でジャーナリストであるルイ・ヴィヨが、きていました。夫人はつい最近、イギリスの旅行から帰ってきたばかりでした。なにか、子どもたちのためにお話をしてくださいと、ヴィヨがたのみました。
するとセギュール夫人は、帝政時代のひじかけいすに腰かけながら、やわらかな石油ランプの光の下で、まるで夢みるように、「ウールソン」のお話を、しはじめたのです。ふたりの女の子はもちろんですが、ヴィヨも、すっかり感心しました。そしてヴィヨが、この仙女童話集の出版をあっせんしたのです。
このふたりの女の子は、のちに夫人が書いた『少女たちのお手本』というお話のなかに出てきますが、髪をまんなかから分けて、ゆったりしたドレスにズボンをはいている、たいへんおとなしい少女だったそうで、夫人はずいぶんかわいがっていたらしく、この本に、ふたりにあてた序文がのっているのをみても、わかるでしょう。
ものを書く人たちにとっては、最初の作品がたいせつでして、最初の作品の根底にあるものが、大なり小なりその形を変えて、つぎに書かれる作品にも現われているものです。セギュール夫人の場合もそうでして、ふかい信仰心によってうえつけられたキリスト教の教えは、すでに最初のこの童話集に現われていまして、そのキリスト教の教えによる道徳観が、夫人のどの作品にも、示されています。
この本で申しますと、「リラの森」では、好奇心のために不幸になったブロンディーヌは、じぶんのしたあやまちを後悔し、してはいけないということをしまいという克己心《こっきしん》によって、おとうさんにも会え、幸福な生活にもどることができます。罪をおかしたら悔《く》い改めるということ、また、じぶんに打ち勝つ強い意志をもつということは、キリスト教のだいじな教えなのです。
また、「いい子のアンリ坊や」では、忍耐と勇気がどんなにたいせつであるかを、いっていますし、「灰色の小さなネズミ」では、好奇心をいましめています。「ウールソン」では、ぎせい心の偉大なことをほめたたえています。
つぎに、セギュール夫人がどういう人であるかをお話し、また夫人の作品についてふれることにしましょう。
一八一二年に、ひとりのロシアの将軍が、モスクワの町を焼きました。
ナポレオンは宮殿から、ムギの実《みの》っている平野の上に、森や林の上に、また街路の上に、ほのおのあがるのを見ました。夜があけると、ナポレオンの運命は、かわりました。すべてを焼きはらった火、それから吹きつける雪のために、フランスの大軍は、敗走したのです。
このロシアの将軍は、ロストプシーンといって、その女の子のソフィー(ロシアふうにいいますとソフィアですが)が、のちにフランスのウジェーヌ・ド・セギュール伯と結婚して、セギュール伯爵《はくしゃく》夫人となったのです。
ソフィー・ド・セギュール伯爵夫人は、一七九九年七月十九日に、ロシアのサン=ペテルスブール、いまのレニングラードに生まれました。ソフィーのおかあさんは、カテリーナ・プラタソフといって、やはりロシアの貴族でした。たいへん頭がよく、信仰心のあついおかあさんでしたが、すこし冷たい感じの人でした。両親ともにロシア人ですから、とうぜんソフィーは、アジア人らしい顔をしていました。小さいうちはほおのふくれた、かわいい子でしたが、大きくなるにつれて、ほお骨が出てきて、目つきなどは父親そっくりだったそうです。
ソフィーは子どものころから、きびしいしつけを受けて、そだてられました。おもしろいことに、ロシア人でありながら、ロシア語よりも、英語や、フランス語や、イタリア語のほうがよくしゃべれるといった教育を、されたのです。といっても、これはなにもソフィーだけが、そのような特別の教育を受けたのではなくて、そのころのロシアの貴族の子弟、ことに上流階級の女子は、じぶんの国のことばを聞かずに、大きくなったものです。
ロストプシーン将軍は、ナポレオンがエルバ島に流された一八一四年に、軍人であることをやめて、それから二年後に、パリにきました。そのときのフランスの王さまは、ルイ十八世でしたので、ナポレオンを敗走させたこの将軍は、大かんげいを受けました。
ソフィーは、一八一九年に、フランスの名門、ルイ・フィリップ家の孫にあたる、ウジェーヌ・ド・セギュール伯爵と結婚しました。セギュール伯爵は、もとナポレオンのそば近くにつかえていた人で、りっぱな風采《ふうさい》の人です。ただ、この人はびんぼう貴族で、財産などはありませんでしたので、ロストプシーン将軍は娘ソフィーのために、フランス北部のノルマンディ地方のヌエットに、ひろい土地を買ってやりました。ソフィーは、そこに大きな家を建てて、その生涯のほとんどをそこですごし、子どもたちをそだて、また孫たちのために、たくさんの物語を書いたのです。
セギュール夫人には、八人も子どもがありましたが、ひとりがかけましたので、七人だけ大きくなりました。長男のガストンは司教になって、サン=ドゥニ教会の参事会員にまで出世しました。四番めの娘ナタリーは、外交官のマラレ男爵と結婚しました。アンリエットは、正統王朝派でブルターニュ生まれの、フレスノー子爵と結婚しました。アンリエットとふたごのサビーヌは、聖母訪問会の尼僧になりました。一ばん下のオルガという女の子が、のちにピトレイ夫人となって、おかあさんと同じように、小説を書くようになったのです。
セギュール夫人は五十歳ごろまでは、腰のいたみのために長椅子にすわりつづけたり、のどをいためて声が出なかったり、おそろしい偏頭痛《へんずつう》が四十八時間もつづいて、家の人たちを心配させたこともありました。でも五十すぎてから夫人は健康をとりもどして、やせてはいましたが、すっかり丈夫になり、教会へも、かかさずに出かけられるようになりました。
夫人は、たくさんの孫たちのいいおばあさんになりました。そして、フレスノー子爵のいるブルターニュへ行ったり、外交官のマラレの赴任《ふにん》先であるロンドンを訪ねたりしましたが、たいていは領地のヌエットにいて、そこに子どもが孫たちをつれてくるのを、なによりのたのしみにしていました。
夫人が童話を書くようになったのは、「ウールソン」を孫たちに話してあげたのがきっかけになったことは、まえに書きましたが、夫人が童話作家として書きつづけようと決意するようになったのは、「リラの森」が、一八五八年一月に創刊号をだした『子どもたちの一週間』という雑誌に掲載されて評判になり、それで童話作家としてのセギュールの将来が約束されたからです。
『新仙女物語』は、一八五七年二月にアシェットという出版社から単行本になって出ました。その挿絵《さしえ》を書いたのが、当時有名なギュスターブ・ドレ(一八三三〜八三年)という人で、この本がたくさんの人に読まれたのは、挿絵もよかったからだといわれています。
とにかく『新仙女物語』は大成功で、たくさんの小さい読者をたいへんよろこばせ、たくさん本が売れましたので、おかねがどんどんはいってきました。夫人はそれらのおかねを、ヌエットの病人や、びんぼう人に、分けてやったそうです。夫人はひきつづいて、子どもたちの本を書きはじめ、夫人は子どもたちの、よいお友だちになりました。
こんな話があります。ある日、夫人がパリのリュクサンブール公園の中を歩いていますと、ひとりの男の子が夫人のほうへ走りよってきて、帽子をとりました。
「おばさま、あなたは、セギュール夫人ではないでしょうか」と、その男の子は、たずねるのです。
「そうですよ」と、夫人が答えますと、その男の子は、「じゃ、ぼくにせっぷんさせてください」といったそうで、いかに夫人が、当時の子どもたちに人気があったか、これでもわかるでしょう。
このようにしてセギュール夫人は、一八七一年に『雨のち晴』という、ひげの生えている老嬢が出てくるたいへんおもしろい物語を書いて、それから三年ほどして、パリでなくなりましたが、それまでに書いたたくさんの子ども向きの読みものは、いまでもフランスの子どもたち、いや世界の子どもたちに、大いに読まれています。一世紀もまえのセギュール夫人の童話が、いまでも世界の子どもに読まれているということは、ちょっと考えると、ふしぎな気がします。これは、子どもというものをほんとうに知っていて、どういう点に子どもが感動するかということをよく知っているセギュール夫人のような人でなければ、できないことです。
この『リラの森』の中におさめられている五つの童話だけは、浮世ばなれのした、仙女や悪霊が出てくる、おとぎ話の世界を背景にして書かれたもので、ほかの夫人の物語とは、すこしちがっています。
フランスの有名な作家であるアンドレ・モーロワが、こんなことをいっています。
「近ごろの子どもたちは、もう仙女の話をよろこばないし、頭が進んでいるので、魔法の力だとか、かぼちゃが四輪馬車に変わるというような話〔「シンデレラ姫」の中にある〕は信じないと、人はよくいっているが、わたしはそうだとは思わない。童心というものは、いつの時代にあっても、いくら科学が進歩しても、いくら世間がせちがらくなっても存在するものであって、子どもの世界では、よく童話の中で見るように、欲しいものはなんでも魔法使いや仙女にのぞみさえすれば得られるものであってほしいし、またそれがほんとうだ」と。
ほんとうに子どもは夢の世界をもっていますし、子どもに夢の世界があるということは、たいせつことなのです。いや、子どもばかりではありません。おとなにとっても、夢の世界というものは、たいせつなものなのです。夢の世界がなければ、この世に進歩も発展もありません。だいいち、息ぐるしくて、ちっそくしてしまうではありませんか。SFだとか、神秘小説だとか、科学冒険小説などは、おとなの夢物語であり、仙女とか精霊などの魔力の興味は、現代のミステリー小説を読むときの興味の喚起《かんき》と、通じるものがありはしないでしょうか。
話がいささか飛躍しましたが、セギュール夫人の児童むきの物語のなかには、もちろん子どもを物語の世界にひきずりこんで、あきさせないという創作上の技術のうまさがありますが、その物語の底には、キリスト教に根ざした、人間に必要な徳義心《とくぎしん》のすすめが、ひそんでいるのです。なにしろ一世紀近いむかしに書かれた物語なので、その当時の実社会を背景にして書かれたこのような物語には、たとえば『ふたりのおばかさん』などに出てくる教育の仕方のように、ぶったり突きとばしたりする罰課など、ずいぶん古くさい教育と思うでしょう。しかしこれは社会の風習の移り変わりからくる相違でして、やはり、していいことと、してはいけないことは、今もむかしも変わりはないはずです。またユーモアだとか、人に寛大であることだとか、愛情だとか、誠実さだとか、忍耐心だとか、克己心だとか、人間が生きていくのにたいせつな徳義心は、いくら時代がたってもかわるものではありません。
セギュール夫人の物語には、こういう徳義心のたいせつなことを、それもけっして直接に教訓として押しつけるような書きかたではなくて、ときにはユーモラスに、ときには諷刺《ふうし》するようにして表現していますので、子どもたちはしらずしらずに、徳義心を身につけることができるのです。
セギュール夫人が描いた子どもたちの世界は、主として現実の実社会を描いた作品に多いのですが、子どもたちをただ子どもたちの世界だけにとどめておかないで、そこに大人をつれてきたり、または子どもをとつぜん大人の世界へつれて行ったりして、はばのひろい子どもの≪人間喜劇≫をつくっています。夫人は、子どもたちを子どもたちだけで孤立させずに、ときには、自然な会話のやりとりのうちに、大人の世界にひき入れてしまうのです。子どもは、小さな大人だという考えかた、これもセギュール夫人の物語の特色の一つです。
セギュール夫人は、一八七四年に、息子や娘や、二十人もの孫たちにかこまれて、この世を去りました。けれども、フランスの子どもたちのよき祖母としてのセギュール夫人は、一世紀近くをへた今日でもまだ生きつづけていて、フランスのたくさんの子どもたちに親しまれ、愛読されています。
セギュール夫人の本は、この『新仙女物語』をのぞいてそのほかは、みんなフランスの児童むきの本として有名な「ばら色そう書」に、はいっています。このそう書は、表紙が甘くてとけるような感じの、幸福な生活を現わすばら色で、おおわれています。アルマン・タンプリエという人が、夫人の作品をこのそう書に入れたのでして、そのためにこのそう書が成功したと、いわれているぐらいです。
セギュール夫人の銅像は、いまでもパリのリュクサンブール公園の西南の一隅に立っていて、公園を訪ねる人に、ほほえみかけています。
一九七一年 晩秋  訳者