疑惑・アリババの呪文
ドロシー・セイヤーズ/河野一郎訳
目 次
疑惑
アリババの呪文
解説
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疑惑
列車内の空気が煙草のけむりに濁ってくるにつれ、ママリー氏は食べてきた朝食が、どうも胃にもたれているのに気づき始めた。
別に悪いものを食べた覚えはない。モーニング・スター紙の健康欄ですすめている、ビタミンたっぷりという黒パンに、おいしくカリカリに揚げたベーコンと、ほどよい固さの半熟卵、それに、サットンさんならではの、うまくいれたコーヒー――とそれだけだ。それにしてもあのサットンさんという家政婦は、まったくの見つけものだった。ありがたいことだ。妻のエセルは、この夏神経衰弱にかかってからというもの、来たと思うとすぐに暇をとってゆく不慣れな若い女中に、がまんしきれなくなっていた。かわいそうに、近ごろではちょっとしたことでも身体にさわるらしい。次第につのってくる胸のむかつきをなんとか忘れようとしながら、ママリー氏はせめて自分だけは、病気になりたくないと考えていた。病気にでもなれば、事務所の方が困るのはともかく、エセルがひどく心配するだろう。ママリー氏としては、妻のエセルに心配をかけるくらいなら、自分の大して面白くもない人生など、喜んで捨ててしまってもいい気持だった。
ママリー氏は消化剤を一錠口に入れ――このところ、いつも二、三錠を持ち歩くことにしていたのだ――そして新聞をひろげた。別に大したニュースもなさそうだった。下院で、政府の使うタイプライターについての質問があった……皇太子殿下、にこやかに全英|履物《はきもの》展示会のテープを切らる……自由党さらに分裂の危機……警察では、リンカーンの一家毒殺事件容疑者を依然捜査中……工場焼失、少女二名焼死……銀幕スター、四度目の離婚、か。
パラゴン駅でママリー氏は列車を降り、市電に乗りかえた。胸のむかつきは、はっきりした吐き気にかわってきかけていた。しかしさいわい、どうにも我慢のできなくなる前に、事務所にたどりつくことができた。顔は青ざめていたが、落ち着きを取り戻してデスクの前に坐ると、同僚のブルックスが元気よくはいってきた。
「やあ、お早う、ママリー君」と例によって大きな声で言ったあと、「どうだい、この寒いこと」とつけ加えた。
「まったくだね。こう冷えこむとやりきれんよ、実際」とママリー氏は答えた。
「べらぼうな寒さだ。きみんとこの球根は、もうすっかり植え終ったかい?」
「それがまだなんだ」とママリー氏。「実はこのところどうも――」
「いかんね。そいつはいかん。早い目に植えんといかんよ。ぼくんとこは、先週植えちまったぜ。これでうちのささやかな庭も、春には絵のような花園だ。ま、町なかの庭としては、の話だが。きみんとこみたいに、郊外に住んでる連中にはかなわんよ。やはり、こういう町ん中よりは住みいいだろうな、え? まあここでも、通りのはずれまで出りゃ、いい空気が吸えるがね。ところで、奥さんの工合はどうだい?」
「ありがとう、だいぶいいようだ」
「そりゃよかった、そりゃいい。ひとつこの冬には、また元気になってもらいたいもんだな。なにしろ奥さんが欠けちゃ、演劇協会はにっちもさっちも行かないんだ。まったくなあ、去年『ロマンス』で見せた奥さんの名演技が忘れられんよ。奥さんとウェルベックの伜とで、すっかり満場をわかしたからな。そう言えば、ついきのうも、ウェルベックが奥さんの容態を心配してたぜ」
「うん、ありがとう。いずれもうじき、またお仲間入りできるようになるだろう。ただ医者から、やりすぎちゃいかんと言われてるんだ。くよくよ心配がいかん、てね――心配事が一番いかんらしい。のんびりやってりゃいいんだが、飛びまわったり、仕事をやりすぎたりはいかんということだ」
「ごもっとも、ごもっとも。気苦労は一番身体に毒だからな。ぼくはもうだいぶ昔から、気苦労は一切せんことにしてるんだが、その結果、見てくれよ! もう五十の坂はとうに越えてるというのに、この通りぴんしゃんしてるだろう。ところで、そういうきみ自身、顔色がすぐれんじゃないか」
「消化不良の気味でね。大したことはないんだ。肝臓でもちっとやられたんだろう、きっと」
「そうだろう、そりゃきっと肝臓だ」ブルックス氏は、しゃれをとばす好機とばかり口を挟んだ。「人生万事、肝っ玉次第ってね。ハッハッハ! さあて、さてさてと――ちょっくら仕事とするかな。例のフェラピーの借地契約書はどこだったかね?」
あまりお喋りをつづける気分になれなかったママリー氏は、ほっとしたような気持で仕事にとりかかり、それから三十分ばかりは、不動産業者としての事務を黙々とつづけた。しかしそのうち、またブルックス氏が話しかけてきた――
「ところで、きみんとこの奥さん、誰かいい料理女を知らんだろうかね?」
「うん、知らんだろうな。近ごろは、めったなことじゃ見つからんからな。実のところ、うちでもやっと最近、気に入ったのを見つけたばかりなんだ。どうしたんだい? まさか、昔からきみんとこにいる料理女が、暇をとるというんじゃないだろう?」
「まさかね!」ブルックス氏は朗らかに笑いとばした。
「ああなったら主《ぬし》みたいなもんで、地震でも起こらんかぎり離れやせんよ。うちのじゃないんだ。フィリップソンのところで欲しがってるんだ。今いる女中が嫁に行くとかで。それが困るんだよ、若いのは。ぼくはフィリップソンに言ってやった――『気をつけてくれよ、よく身元のわかってるのを雇わんと、そのうち例の毒殺魔を背負いこんじまうぜ――それ、アンドルーズとかいう。まだもうしばらくは、きみの葬式に花輪を届けたくないからな』ってね。奴さん笑っとったが、こりゃ笑いごとじゃないんで、はっきりそう言ってやった。まったくね、なんのために税金を払って警察を作ってあるのかわからんよ。もうまるひと月になろうってのに、まだ掴まらんらしい。そして言うことがいいじゃないか、まだこの近辺をうろついていて、『料理女として住みこむおそれもある』ってんだからね。料理女としてというんだからな! ええ、まったく、冗談じゃないよ!」
「じゃきみは、あの女が自殺したとは思わないんだね?」
「自殺だ? ご冗談でしょ!」ブルックス氏は声を荒らげてやり返した。「そんな馬鹿な話を信じちゃだめだよ、きみ。川の中から発見されたという例の上衣は、ありゃまったくのごまかしさ。やつらが自殺なんかするもんかい、ああいう連中が」
「ああいう連中というと?」
「ああいう砒素きちがいさ。やつらは自分の身を守ることにかけちゃ、大変なものなんだ。まあ言えば、いたちみたいにこすいとでも言うかな。願わくば、次の犠牲者に手を伸ばす前に、なんとか警察であげてくれることだ。フィリップソンにも言ったんだが――」
「じゃきみは、やはりアンドルーズって女の仕業《しわざ》だと思うんだね?」
「当り前さ。もちろんあの女の仕業さ。きみの顔に鼻がくっついてるくらい確かなことだ。最初、年とった自分の父親の看病をしてたところが、老父はぽっくり死んで――ちょっとした財産を残した、というんだろう。そのあと、老紳士のところへ家政婦としてはいりこむと、その紳士もまたぽっくり逝《い》っちまった。お次が今度の夫婦者だ――砒素中毒で亭主は死に、細君の方は重態だという。そして、その家の料理女が姿を消している。それなのにまだきみは、あの女がやったのかと聞くのかい? 賭けたっていいぜ、その死んだ親父と老紳士を掘り出して調べてみりゃ、きっと口までたっぷり砒素がつまってるだろう。ああいう毒殺魔は、一度やり出すと、やめられなくなっちまうんだ。油をそそがれる、とでも言うんかな」
「かも知れんね」ママリー氏はもう一度新聞を取り上げ、失踪中の女の写真をとっくりと眺めた。「虫も殺さんような顔だがね。気のいい、母親らしいタイプの女じゃないか」
「いや、口元がいかん」とブルックス氏。人間の性格は口元に現われるというのが彼の持論なのだ。
「こういう女は絶対信用できんよ」
時間のたつにつれ、ママリー氏の気分も良くなってきた。しかし昼食はかなり用心し、小さな煮魚と、カスタード・プディングだけにして、食後もすぐにとびまわらぬよう気をつけた。さいわい煮魚もカスタードも無事におさまり、ここ二週間ばかり、ほとんど習慣のようになっていた食後の不快な痛みも、味わわずにすんだ。夕刻になると、気持もすっかり軽くなっていた。病いの床に伏し、医者の請求書に悩むのではないかという不吉な幻影に、おびやかされることもなくなった。エセルへのみやげにブロンズ色の菊を一束買い、汽車を降りて、花壇道をわが家の方へたどってゆく彼の気持は、こころよい期待に満ちていた。
ところが妻の姿が居間に見えないので、彼は少々意気ごみをくじかれてしまった。菊の花束を手に握ったまま、小走りに廊下を抜け、台所のドアを押しあけた。
料理女のほかには誰もいなかった。彼女は背を向けてテーブルの前に坐っていたが、彼が近づく気配に、なにかうしろめたそうにはっと立ちあがった。
「まあ、旦那さまでしたか、びっくりしましたわ。玄関のあく音が聞こえなかったもんですから」
「奥さんはどこだい? また加減でも悪いんじゃないだろうね?」
「はい、それが、お気の毒に、ちょっと頭痛がなさるんだそうでして。お寝かせして、四時半にお茶を入れてお持ちしました。今はたぶんよく眠っておいでだろうと思いますが」
「そうか、そいつは弱ったな」
「きっと、食堂の大掃除なんかおやりになったせいでございますよ。『さあさ、奥さん、むりをなすっちゃ毒ですよ』って申し上げたんですが、なにしろあの通りのご性分なんで。じっとしておいでになれないというのか、何かしていないと、気がおすみにならないんでございましょ」
「そうなんだ。あんたが悪いんじゃないよ、サットンさん。よくつくしてくれて、感謝してるくらいだ。それじゃちょっと二階へ行って、様子をのぞいてこよう。眠ってるようなら起こさないでおくが。ところで、今夜のご馳走はなんだい?」
「はい、とてもおいしい肉入りパイを作ってみましたけど」もし気に入らなければ、すぐにでもシンデレラなみに、南瓜にでも四頭立ての馬車にでも変えてしまいそうな様子だ。
「ふうん、パイか。実はね、ぼくは――」
「とてもあっさりしていて、おいしいんでございますよ」と料理女は異議をとなえ、見てくれとばかり、天火の蓋《ふた》をあけてみせた。「それに、バターを使って作ったんでございますよ、旦那さま、ラードは消化が悪いとかいうお話でしたので」
「いや、ありがとう。きっとおいしいだろう。どうもこのところ調子が悪くてね、ラードは合わんような気がするものだから」
「さようでございます、たしかに合わないお方もいらっしゃるようで。きっと、肝臓に風邪でも引かれたんでございましょ。この陽気じゃ、工合のおかしくならない方が不思議でございますよ」
彼女は大あわてでテーブルのところへ戻り、今まで読んでいた絵入り新聞を片づけた。
「奥さまのお食事は、お部屋までお持ちしましょうか?」
様子を見てこようと言って、ママリー氏は足音を忍ばせて二階へ上って行った。エセルは羽根ぶとんをかけて横になっていた。大きなダブルベッドに寝たその姿は、とても小さく、弱々しく見えた。彼がはいつてゆくと、エセルは身動きし、微笑みかけた。
「いま帰ったよ」
「お帰りなさい。眠っていたらしいわね。疲れて頭痛がしたので、サットンさんにつれてきてもらいましたの」
「あまり働きすぎたんだよ」彼は妻の手を取り、ベッドの端に腰を下ろしながら言った。
「そうなのね――つい工合の悪いのも忘れてしまって。まあ、きれいなお花、みんなあたしに?」
「みんなおまえにだよ、かわいい奥さん」とママリー氏はやさしく言った。「お返しに何かもらえる資格はないかい?」
夫人は微笑し、ママリー氏は何度もお返しのキスを受けた。
「さ、それでいいでしょ、いい年をしておばかさんね。さ、先にいらして。あたしも起きますから」
「いや、おまえ、寝ていた方がいいよ。サットンさんに食事をはこんでもらえばいいんだから」
エセルは反対したが、彼はきかなかった。「今むりをすると、演劇協会の集まりにも出られない。皆がおまえに出てきてもらいたがってるんだ。現にウェルベックさんも、おまえの容態を心配して見舞いを言っていたし、おまえがいなくてはどうにもならんということだ」
「そうお?」とエセルは少し元気づいたようだった。
「ご親切な方たちね。それじゃ、やっぱり寝ていようかしら。ところで、あたしの旦那さまは、一日いかがでしたの?」
「うん、まあまあだ」
「ポンポンはもう痛くなくて?」
「うん、ほんのちょっびりさ。もうなんでもないよ。かわいい奥さんは、何も心配することなんかないんだよ」
胃の痛みは、翌日も、またその翌日も味わわずにすんだ。新聞の健康欄の助言に従い、オレンジ・ジュースを飲み始めたところだったので、その効果のあらたかなのを嬉しく思った。ところが木曜日になると、夜中にとつぜん劇痛に襲われ、驚いたエセルは医者を呼ぼうと主張した。医者は彼の脈をとり、舌を見て、心配はないと思ったようだった。最近どんなものを食べたかと訊かれ、考えてみると、夕食には豚の腿肉を食べたあとミルク・プディングを食べ、それから床につく前、新しい養生法に従って、大きなコップに一杯、オレンジ・ジュースを飲んでいた。
「それですよ、原因は」とグリフィス医師は朗らかに言った。「オレンジ・ジュースは結構なものですし、豚の腿肉もそうですが、この二つを一緒にしてはいけません。豚とオレンジの食べあわせは、きわめて肝臓に悪いんですよ。どういうわけかはわかりませんが、たしかにそうなんです。それでは処方箋をお届けしますから、一日二日は流動食にして、豚肉は控えておいていただきましょう。いや、奥さん、ご心配はいりません。どこと言ってお悪いところはないようですから。それより、心配なのは、むしろ奥さんの方ですよ。それ、その目の下の黒い隈《くま》はいけません。夜よくお休みになれんのじゃありませんか――そうでしょう。薬はずっと飲んでおられますか? 結構。ま、ともかく、ご主人の方はご心配いりません。じきにまた、元気に働けるようにおなりです」
医者の予言はあたったが、そう急に全快というわけにはゆかなかった。食事はもっぱら病人食にかぎり、パンとミルクとサットン夫人が念入りに作ってくれる牛肉スープを、エセルにべッドまではこんでもらったが、金曜日は一日中ひどく工合が悪く、土曜の午後になって、ようやくふらふらする足で、階下へ降りてこられる程度になった。今度ばかりは、すっかりやられたようだった。それでも、署名がいるからといってブルックスが事務所から廻してきた書類を片づけたり、わが家の家計簿の整理くらいはすることができた。エセルが実務にはうとい女だったので、ママリー氏はいつも月末の計算の際、手助けをすることになっていた。肉屋とパン屋、牛乳屋、石炭屋の支払勘定がすむと、ママリー氏は問いたげに見上げた。
「ほかにまだ何かあるかい?」
「そうね、サットンさんにあげるお給料がありますわ。来てもらってから、ちょうど一ヶ月目ですもの」
「そうだったな。それで、どうなんだい、彼女にはすっかり満足してるんだろう?」
「ええ、とても――あなたは? 料理は上手だし、気のいい、母親タイプの人柄だしするし。一目で即座に雇ったなんて、あたしの脳波の威力も大したもんでしょ?」
「まったくだね」
「ほんとにあの時は天の佑けでしたわ。前にいたあのしょうのないジェーンが、いきなり暇を取って出て行ったすぐあとへ、偶然ひょっこり現われてくれるなんて。もうあたし、ほんとにがっくりなってたとこですもの。そりゃもちろん、推薦状もない人間を雇うなんて、ちょっと冒険でしたけど、父親に死なれたあと、ずっと母親の面倒をみてきたんだとすれば、まさかそのお母さんから推薦状をもらうわけにもゆかないし」
「うん、ま、それもそうだ」雇った当時、ママリー氏もその点に不安を感じていたが、ともかく誰か女中に来てもらわなくてはならなかったので、うるさいことは言わなかった。それに、試験的に使ってみたところが、実によくやってくれるので、今となっては文句のつけようもなかった。一度、サットン夫人の教区の牧師に手紙で照会してみてはと、ちょっと提案してみたこともあったが、しかしエセルも言っていたように、牧師さんでは料理のことはわからないだろうし、自分たちとしては、料理をまかせられるかどうかが一番聞きたいのだからということで、沙汰やみになっていた。
ママリー氏は、一カ月分の給金を数えて別にした。
「ところでね、おまえからサットンさんに言っといてくれないか、ぼくが起きる前に|どうしても《ヽヽヽヽヽ》新聞を読みたいんなら、読んだあと、きちんと畳んどいてくれってね」
「たいそうなうるさ方だこと」
ママリー氏は溜め息をついた。朝刊がちょうど処女のように、そそとした清純な姿で手にとどくことがどれほど大切なことか、彼にはうまく説明できなかった。女にはそういうことはわからないのだ。
日曜日になると、ママリー氏はずっと気分も良くなった――ほとんど元の身体に戻ったと言ってもいいくらいだった。彼はベッドで朝食をとりながら、朝刊をひろげ、殺人記事には特に念入りに目を通した。もともとママリー氏は殺人記事を読むのが大好きだった――こういう静かな郊外で毎日を送っていたのでは、とうてい味わえないような冒険を、楽しく居ながらにして味わわせてもらえるというスリルがあったからだ。
なるほど、同僚のブルックスの言っていた通りだった。警察で、アンドルーズ夫人の父親と以前の雇い主を「掘り出してみた」ところ、たしかに砒素が「口までたっぷり」つまっていたというニューズが出ている。
ママリー氏は昼食をとりに、階下へ降りて行った――じゃがいもを添えたサーロイン・ステーキに、口あたりのいいヨークシャー・プディング、そしてデザートはリンゴ入りタートだった。三日間、病人食をつづけてきた後だけに、舌ざわりのいい分厚い赤身の肉を味わうことはすばらしかった。量は控え目にしておいたが、心ゆくばかり味覚を満足させることができた。一方エセルは、あまり食欲がないらしかったが、もともと彼女はあまり肉好きな方ではなかったし、好き嫌いのはげしい性分で、その上〔まったくその必要もないのに〕肥るのを怖れていたのだ。
よく晴れた日曜の午後だった。三時になり、先ほど食べたロースト・ビーフが、どうやらうまく「落ちついて」くれたとわかると、ママリー氏はふと、いい機会だから例の球根の残りを、全部植えつけてしまおうと思い立った。さっそく古い作業用の上衣を引っかけ、植木鉢のしまってある小屋の方へ行った。小屋でチューリップの袋と移植ごてを手に取ってから、いいズボンをはいていたのにふと気がついて、膝をつくための蓙《ござ》を持って行った方が賢明だろうと思った。この前使ったのは、いつごろだっただろう? はっきり思い出せなかったが、植木鉢を並べた棚の下の隅あたりにしまっておいたような気がした。腰をかがめ、植木鉢の間の暗がりを手さぐりしてみた。あった。やはりそこだった。ところが、何か手にさわる罐がある。気をつけながら、取り出してみた。見覚えがあった――除草薬の残りなのだ。
ピンク色の貼紙《ラベル》を見ると、商品名と一緒に、はっきり目立つ字で、「砒素入り除草薬、毒薬」と書いてある。アンドルーズという例の毒殺魔が、最近使ったのと同じ薬品ではないか――ママリー氏は軽い興奮を覚えた。いささか嬉しいような気さえした。ごく間接的にでも、世間を騒がせた大事件につながりがあるかと思うと、胸がわくわくしたのだ。と、彼は、罐の栓がひどくゆるくなっているのに気づいて、驚きと軽い当惑を覚えた。
「ぼくがこんなしめ方をしておくはすがないんだが。これじゃ、中身はすっかり流れ出ちまってるかもしれん」彼は栓をはずし、罐の中を覗きこんでみた。まだ半分ほど残っているようだった。栓をはめ直し、念のためこての柄で強く叩きこんでおいた。そのあと、流し場で念入りに両手を洗った。少しでも薬がついていては、と心配だったのだ。
やがてチューリップを植え終え、母屋《おもや》の方へ戻ってくると、居間に客が来ている様子に、ちょっとどぎまぎした。ウェルベック母子《おやこ》の来てくれることは嬉しかったが、せめて来るという予告ぐらいはしておいて欲しかった。来るとわかっていれば、もっと念を入れて爪の泥も落しておいたものを。もっともウェルベック夫人が、爪に気がついたというわけではない。お喋り好きで自分の話以外にはろくに注意を払うような女ではない。ところが夫人は事もあろうに、リンカーン町の毒殺事件を話題にし始めた。ママリー氏はすっかり当惑してしまった。ふだんの時でも、お茶の席にはどうかと思う話題だ。それに、まだこの前の「さしこみ」がまざまざと記憶に残っていて、医学的症状が話題になっているのを聞くと、なんとなく胸がむかついてきたし、第一、こんな話をして、エセルに良かろうはずがない。なんと言っても、毒殺魔はまだこの附近にひそんでいるというのだ。気の強い婦人でも、不安に襲われるのが当然だ。エセルの方を見やると、案の定顔色を青ざめさせ、震えている。なんとかして、ウェルベック夫人にやめさせねばならない。さもないと、また以前のように手のつけられない、ヒステリーの発作が起こりそうだ。
彼はいきなり、話の中に割ってはいった。
「ところで奥さん、挿木にしたいとおっしゃってた例のれんぎょうですがね、ちょうど今が切り時ですよ。庭までお出で下されば、切ってさし上げますが」
エセルと若いウェルベックとの間で、ほっとしたような視線の交わされるのがわかった。どうやら息子の方は事情を察し、母親の気転の利かなさにいらいらしているらしかった。ウェルベック夫人は、いきなり話の腰を折られ、ちょっと気を呑まれた形だったが、やがていそいそと新しい話題の方へ興味を向けた。夫人はママリー氏について庭へ降り、ママリー氏が挿木によさそうな枝をえらびそろえている間、園芸について賑やかなお喋りをした。砂利を敷いた庭の小径《こみち》が、とてもよく手入れしてあると言ってさかんに賞め上げ、「うちでは、どうしても雑草を根絶しにできませんの」と言う。
ママリー氏は除草剤のあることを話し、よく利くとほめた。
「あら、あのお薬ですわね!」夫人は彼をまじまじと見つめ、身ぶるいした。「百万円上げるからって言われても、うちには置きたくありませんわ」
ママリー氏は微笑した。「いやあ、母屋からずっと遠ざけてしまってありますからね。いくらわたしが不注意な人間でも――」
ふと彼は口をつぐんでしまった。罐の栓がゆるんでいたことを急に思い出したのだ。あたかも胸の奥底深くで、おぼろげながら幾つもの考えが一つにまとまってきたような気がした。しかしそれ以上深追いはせず、挿木を包む新聞紙を取りに、台所へはいって行った。
母屋の方へ戻ってくる彼らの姿が、居間の窓から見えたらしく、二人が中へはいると、若いウェルベックはすでに立ちあがり、別れを告げようとエセルの手を握っていた。彼は母親をたくみにせき立て、外へつれ出してしまった。二人が帰ったあと、ママリー氏は先ほど引き出しから乱雑に引っぱり出した新聞紙を片づけに、もう一度台所へ戻った。片づけるのと同時に、もっとくわしく新聞を調べてみたかったのだ。気になることがあり、ぜひとも確かめておきたかった。彼は新聞を一枚、一枚、丹念にめくってみた。やはり――予感はあたっていた。アンドルーズ夫人の写真の全部と、リンカーン町毒殺事件についての記事がことごとく、念入りに切り抜かれているのだ。
ママリー氏は台所の暖炉のそばに坐りこんだ。暖かい火のそばにでもいなくては、やりきれない気持だった。みぞおちのあたりに、なにか奇妙な冷たいかたまりがつかえているような気がした――つきとめるのが怖ろしいような何かだった。
新聞にのっていたアンドルーズという女の顔つきを思い出してみようとしたが、はっきり記憶に残っていなかった。ただ彼自身ブルックスに、「母親らしいタイプ」の顔だと言ったのを覚えていた。女が失踪して以来、どれくらいの日数になるかを数えてみた。かれこれ一ヶ月になる、とブルックスは言っていた――あれは先週だった。すると、今はもう一ヶ月を越える勘定だ。一ヶ月、か。つい昨夜、サットンさんに一ヶ月分の給金を支払ったばかりではないか。
「エセルにどう話したものだろう?」とっさに考えたのは、そのことだった。なんとしても、この怖ろしい疑惑は自分ひとりで処理しなくてはならない。エセルには、どんなショックも不安も与えてはならない。しかしまた、この疑惑の根拠も確かめておかねばならない。まったく根も葉もない恐怖に取りつかれ、今までにない良い料理女に暇を出すというのは、当人はもちろんエセルにとっても、あまりにも気まぐれな、残酷な仕打ちであろう。もし暇を出すにしても、彼の気まぐれな、わがままから出たことにしておこう――妻のエセルには、怖ろしい疑惑を打ち明けることはできないからだ。どんな方法でやるにせよ、いずれ一悶着はまぬがれないところだ。エセルはわかってくれないだろうし、さりとて、理由を説明するわけにもゆかないのだ。
しかし、もしかりに、この怖ろしい疑惑に少しでも根拠があったとすれば――あの女を一刻もこの家にとどめておいては、エセルの生命《いのち》が危い。彼はリンカーンの町で殺された一家のことを考えた――主人は死に、奥さんの方は辛うじて奇蹟的に生命だけは助かったという。どんな気まずい思いをし、どんな危険をおかしても、ああいう目に会うよりはましではなかろうか?
ママリー氏は急にひどく心細く、疲れ果てたような気がした。やはり病気のせいらしい。
この病気は――一体いつごろから始まったのだろう? たしか三週間前に、最初の発作に襲われた。そうだ。しかし、胃の調子はもっと前からよくなかった。胆汁分泌過多というのか。最近のほどひどくはなかったにせよ、ともかく胆汁分泌過多症の気《け》はあったのだ。
彼は気を取り直し、重い足取りで居間にはいって行った。エセルは長椅子の隅に小さくちぢこまっていた。
「疲れたかい?」
「ええ、少し」
「あのご婦人の毒気にあてられたんだよ。まったく、ああまで喋らなくてもよさそうに思うがね」
「ほんとに」エセルはクッションに埋めた顔を、けだるそうに動かした。「おまけに、あの怖ろしい事件のことばかしですもの。あんな話、聞きたくありませんわ」
「まったくだ。しかし、あんなふうな事件が近所で起こると、世間というのはその噂で持ちきりになるものなんだ。早く捕まるといいんだが。考えてみると怖ろしいよ、もし――」
「あんな怖ろしいこと、考えるのもいや。きっと鬼みたいな女なんでしょうね」
「うん、そうだろう。ブルックスもこの前言ってたが――」
「言わないで。聞きたくないわ。静かにしてたいの。あたしはただ静かにしてたいの!」
次第に口調がヒステリックになってくるのを彼は感じた。
「いいとも、静かにしておいてあげるよ。さ、心配しないで。怖ろしいことはもう話さないよ」
その通りだ。話したところで仕方のないことだ。エセルは早く床についてしまった。毎週日曜日には、サットン夫人の帰ってくるまで、ママリー氏が起きて待っていることになっていた。エセルは病後の良人の身を案じていたが、彼はもうすっかり大丈夫だからと言って安心させた。たしかに身体の方は回復していたが、心は混乱し、無気力だった。新聞をどうして切り抜いたのか、ごくさりげなく訊いてみる決心でいた――サットン夫人が何と答えるか、反応を見ようと思ったのだ。
サットン夫人の帰りを待つ間、彼はいつもの習慣通り、ウイスキー・ソーダを一杯飲んだ。十時十五分前、庭木戸がコトリと鳴る耳馴れた音が聞こえた。足音が砂利道を近づいてくる――靴音は裏口でとまった。つづいて掛け金をはずす音、ドアをとじる音、かんぬきをかける音。そしてまた静かになった。サットン夫人が帽子をぬいでいるのだろう。いよいよ時は来たのだ。
廊下に足音が響いた。ドアがあいた。黒い小ざっばりした服のサットン夫人が、扉口のところに立った。彼は顔を合わせたくない気持を覚えた。やっと顔を上げてみた。丸顔の女だ。度の強い角ぶち眼鏡にかくれて、目の表情ははっきりと見えない。思いなしか、口元がきついような気もする。それとも、前歯が大半抜けているので、そう見えるだけのことだろうか。
「休ませていただく前に、何かご用でもございましょうか、旦那さま?」
「いや、何もないよ、サットンさん」
「ご気分はよろしゅうございますか?」健康を熱心に訊きたがるのが不気味だ。しかし、度の強い眼鏡のかげの目は、測り知れなかった。
「うん、ありがとう、大分いいよ」
「奥さまも、ご気分はおよろしいんでしょうか? 熱いミルクか何か、お持ちしてみましょうか?」
「い、いや、いいんだ、その必要はないよ」と彼はあわてて言った。相手はがっかりしたようだった。
「さようでございますか。それでは、お休みなさいまし」
「おやすみ。ああ、それからね、サットンさん――」
「はい?」
「いや、いいんだ。何でもないんだ」
翌朝、ママリー氏は固唾を呑んで新聞を開いた。週末の間に毒殺犯人がつかまっていてくれれば、どんなにか気も安まるのだが……。しかし、何のニューズもなかった。信託銀行の頭取がピストル自殺をとげたとかで、見出しはもっぱら、数百万ポンドにのぼる行方不明の金や、破産の憂目をみた株主のことを扱っていた。家でとっている新聞でも、また事務所への出勤途中買い求めた新聞でも、リンカーン町での毒殺事件は裏ページの片隅へ追いやられ、それもただ、依然捜査難航中と書いてあるだけだった。
その後の数日は、ママリー氏にとってかつてない不安なものであった。彼は朝早く起き出し、台所をうろつきまわるようになった。エセルは気にして心配したが、サットン夫人は何も言わなかった。寛大な目で彼の様子を見守り、どうやら面白がっているような気配さえ感じられた。考えてみれば、ばかばかしいことだった。朝食にだけ目をつけたところで、何になるというのだ――毎日九時半から夕刻六時まで、家を空けていなければならないではないか?
事務所では、エセルにあまりたびたび電話をかけるというので、同僚のブルックスにひやかされた。ママリー氏は気にとめなかった。エセルの声を聞き、無事なことを知るだけで、ほっとした気持になれたのだ。
何事も起こらなかった。その週も木曜日になると、自分一人のとんだ思いすごしだったような気がしてきた。その夜は帰りが遅くなった。近々結婚する友人のために催す独身さよならパーティに、ぜひ一緒に行こうと、むりやりブルックスにさそわれてしまったのだ。それでも彼だけは、徹夜で飲み明かそうという他の連中を振り切って、十一時で引き上げてきた。帰ってみると、すでに家中が寝静まっており、小さな紙片に書いたサットン夫人からの伝言が、テーブルの上にのっていた。暖めればすぐお飲みになれるよう、台所にココアが用意してございます、というのだ。彼はすでにココアを入れてある小鍋を火にかけた。ちょうどたっぷり一杯分あった。
台所のストーブの前に立ち、考えにふけりながら、ゆっくり飲み始めた。が、最初の一口で茶碗を置いた。気のせいか、何か妙な味がする。もう一度口にふくみ、舌の上でころがしてみた。かすかだが、金属的な不快な味がするような気がした。ぎょっとした彼は、あわてて流し場に駆け寄り、口に含んでいたのを吐き出した。
吐いてしまったあと、彼はしばらくその場を動かなかった。やがて、不思議なくらい慎重に、まるで糸ででもあやつられているように、食器棚から薬の空瓶を取り、蛇口でよく洗い、茶碗のココアを注意深く瓶に移した。そして瓶を外套のポケットに入れ、忍び足で裏口に近寄った。音を立てずにかんぬきを抜くのは骨だったが、やっとどうにか抜くことができた。依然足音を忍ばせ、庭を抜けて、植木鉢小屋へ行ってみた。かがみこんで、マッチをすった。除草薬の罐をどこに置いたかは、はっきり覚えていた。奥の、植木鉢を並べた棚の下だ。そっと気をつけて、罐を取り出した。マッチはバッと燃えあがり、指先を焦がしたが、次の一本をつけるまでもなく、手ざわりで、知りたいと思っていたことを知った――栓はまたしてもゆるんでいたのだ!
恐怖がママリー氏を捉えた。彼は夜会服に外套を着たまま、土臭いにおいのする小屋の中に茫然と立ち、片手に罐を、片手にはマッチ箱を握りしめていた。外へ飛び出して、誰にでもいい、この重大発見を話したい気持に駆られた。
しかしそれは思いとどまり、罐を元通りの場所にしまって、母屋の方へ戻った。庭を横切る時、サットン夫人の寝室の窓に、まだ明かりのついているのが見えた。その灯は、これまでのどの経験より怖ろしく感じられた。あの女は、ずっとこちらの行動を監視していたのだろうか? エセルの窓は暗かった。もし毒でも飲まされていれば、明かりがつき、医者を呼んだりなどで、ちょうど彼自身が発作に襲われた時のように、上を下への大騒ぎのはずだ。襲われた――まさにその言葉通りだという気がした。
しかし、自分でも不思議なくらい落ち着き払い、冷静に、彼は台所へ戻り、鍋や茶碗をすっかり洗って、もう一度新しくココアを入れ直し、それを鍋に入れたままにしておいた。そして足音を立てぬよう、寝室へはいって行った。敷居をまたぐとエセルの声が迎えた。
「ずいぶん遅かったのね、ハロルド。しょうのない坊やだこと! お楽しみでしたの?」
「うん、まあね。気分はどうだい?」
「とてもいいの。サットンさんが、何か暖かい飲み物を用意しといてくれなかったかしら? 用意しておくって言ってたんだけど」
「うん、あったけれど、のどがかわいてなかったんでね」
エセルは笑った。「そう!のどなんか、かわかないようなパーティだったのね?」
ママリー氏は否定しようとしなかった。服をぬぎ、ベッドにはいり、怖ろしい死と地獄から守ろうとでもするように、妻を抱き寄せた。夜の明け次第、さっそく行動に移るつもりだった。手おくれにならなかったことを神に感謝した。
薬剤師のディムソープ氏は、ママリー氏の大の親友だった。二人はよくスプリング・バンク街のきたない小さな店の中に坐り、油虫やあぶら菜のこぶ病についての意見を交換し合ったものだった。ママリー氏は率直に一部始終をディムソープ氏に物語り、ココアを入れた瓶を渡した。ディムソープ氏は彼の思慮と賢明さをほめた。
「夕方までには調べておくよ。もしきみの言う通りの反応が出たとすれば、さっそく行動に移らなきゃならん」
ママリー氏は礼を述べたが、その日は一日中、まるで気もそぞろで、仕事が手につかなかった。しかし、前の晩夜明けまで、パーティの底ぬけ騒ぎを見届けたブルックス氏も、彼に劣らずぼんやりしていたので、あまり目立たずにすんだ。四時半になると、ママリー氏は、今日は人を訪ねる約束があるからと、さっさと仕事を切り上げてしまった。
ディムソープ氏は分析を終えて待っていた。
「疑いないよ。マーシュ・テストをやってみたんだが、多量の砒素が検出できた――きみが妙な味を感じたのも当然だ。あの瓶の中だけでも、四、五グレインの砒素がはいってるに違いない。そら、ここに砒素の含有を示す砒素鏡ができているだろう〔マーシュ・テストによる砒素検出法〕。きみにもみえるはずだ」
ママリー氏は、無気味な暗紫色に染まった試験管を見つめた。
「ここからすぐ警察へ電話をかけるかい?」と薬剤師は訊いた。
「いや――ともかく家へ帰る。家の方が心配だ。それに、急がなきゃ列車に間に合わんから」
「わかった。ぼくにまかしといてくれ。ぼくが警察に連絡しておくから」
各駅ごとに停車する列車は、ママリー氏にはもどかしくてならなかった。エセルが――死ぬぞ――毒で――死ぬぞ――エセルが――死ぬぞ――毒で――死ぬぞ――と、車輪の音が彼の耳には響いて聞こえた。停車場をほとんど駆けるようにして飛び出し、家への道を急いだ。一台の車が、玄関の前に止まっていた。通りのはずれから車に気がつき、あとは夢中で駆け出した。すでに手遅れだったのだ。医者が来ているのだ。しまった、みすみす妻を見殺しにしてしまったようなものだ。
と、百五十メートルばかり手前まで来たとき、玄関のドアのあくのが見えた。一人の男が現われ、そのうしろにはエセルの姿が見える。訪問客は乗りこみ、走り去ってしまった。エセルは中へ消えた。助かった――無事だったのだ!
帽子と外套をかけ、平静な態度を装って部屋の中へはいるのも、もどかしいくらいだった。エセルはすでに暖炉のそばの肘掛椅子に戻っており、ちょっと驚いた様子で彼を迎えた。テーブルの上には、お茶の道具がのっている。
「お早かったのね?」
「うん――仕事がひまだったんでね。どなたかお茶に見えたのかい?」
「ええ、ウェルベックの息子さん。お芝居の打ち合わせに」彼女はごく簡単に答えたが、興奮の色を隠しきれなかった。
不安がママリー氏の心を襲った。客が来ていたくらいで、防げるものだろうか? 顔に気持が現われたらしく、エセルは驚いたように彼を見つめた。
「ハロルド、どうかなさったの? 妙な顔をなさって」
「エセル、聞いてもらいたいことがあるんだ」彼は腰を下ろし、妻の手を取った。「ちょっと不愉快なことなんだがね、実は――」
「ねえ、奥さま」
料理女が扉口に姿を現わした。
「おや、旦那さまでしたか、失礼しました――お帰りだったのを存じませんで。お茶を召し上がりますか、それともお下げいたしましょうか? ああ、それからね、奥さま、お魚屋さんのところに、グリムスビーから来たっていう若い男の人がおりましてね、なんでも、例の怖ろしい女がとうとう掴まったんですって――アンドルーズっていう。ほんとに良うございましたわ。この辺をうろついてるっていうもんで、気が気じゃありませんでしたけど、とうとう掴まってしまいましたわ。年寄りのご婦人ふたりのお宅に、家政婦になってはいりこんでいて、毒薬をたくさん身につけていたそうですわ。見つけた娘さんには、ご褒美が出るんですと。あたしも、なんとか掴まえてやりたいと気をつけてたんですけど、グリムスビーにいたというんじゃ仕方がありませんわ」
ママリー氏は椅子の腕を握りしめた。とんでもない誤りだったのだ。大声を出して叫びたい気になった。この単純で、朗らかな、噂話に夢中になっている女に、心からあやまりたかった。すべては誤解だったのだ。
だが、ココアの一件はどうだ。ディムソープ氏は? マーシュ・テストは? 五グレインの砒素は? では一体――誰が?
彼はぎょっとして、妻の方を振り向いた。妻の目には、ついぞ今まで気づかなかった怖ろしいものが宿っていた。
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アリババの呪文
ランべス街のとある薄汚い家の通りに面した部屋で一人の男が燻製の鰊《にしん》を食べながら、モーニング・ポスト紙に目を通していた。小柄で痩せぎすな男で、鳶色の髪にはちょっとわざとらしいほどきちんとウェーブがかかり、濃い顎ひげの先はきれいにそろえてある。紺のダブルも、靴下も、ネクタイも、ハンカチも、すべてがよく調和しているが、いささかととのいすぎた感じで、本当の趣味の良さからみれば満点はつけられない。靴も幾分茶が派手すぎた。紳士とは見えなかったし、さりとて貴人の従僕でもなさそうだが、いかにも上流家庭の生活に馴れているらしい様子である。自分の手で並べた朝食のテーブルにも、良家の召使に必要とされている細かな注意が行きわたっている。小さな脇テーブルへ歩み寄り、ハムを小皿に取りわける様子も、高級執事の風格十分であった。しかし隠退した執事にしては年が若すぎる。いずれは、遺産でもころがりこんだ従僕ででもあろうか。
男は健啖《けんたん》な食欲をみせてハムを食べ終えると、コーヒーを飲みながら、すでに先ほど気がついていた記事を、もう一度念入りに読み通した。
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ピーター・ウィムゼー卿の遺書ひらかる
従僕に遺産
一万ポンドを慈善事業に
昨年十二月、タンガニーカにて猛獣狩中、不慮の死を遂げた故ピーター・ウィムゼー卿の遺産は、昨日五十万ポンドと発表された。総額一万ポンドにのぼる金額は、次のそれぞれの慈善事業に贈られることになった。〔以下、遺贈を受ける先のリストがつづいて〕……卿の従僕であったマーヴィン・バンター氏には、五百ポンドの年金と、ピカデリーにある故人の邸宅使用権が遺されている。〔そのあと、数多くの個人的な遺贈リストがあがっていて〕残余の遺産は、ピカデリー一一○番地Aの邸宅に残されている稀覯《きこう》書ならびに絵画コレクションを含め、故人の母堂、デンヴァー公爵未亡人に贈られる。
――
行年三十七歳。卿は現在わが国の貴族中、もっとも財産家として知られる当代デンヴァー公の令弟にあたられる。生前の卿は、犯罪学者としてもつとに令名高く、いくつかの有名な事件の解明にも活躍された。卿はまた著名な書籍蒐集家でもあり、また社交界の花形でもあった。
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読み終ると、男はほっと安堵の溜め息をついた。
「たしかにそれに違いない。また帰ってくるものなら、誰も金をむやみにくれてやったりはしまいからな。あの男も、とうとう死んで葬られたか。これでおれは自由だぞ」
男はコーヒーを飲み終え、食器類を洗うと、帽子掛けから山高帽を取って、外へ出た。バスが男をバーモンゼーまではこんだ。男はそこでバスを降りると、薄暗い入りくんだ通りへ足を向け、十五分ほど歩いて、下町の見すぼらしい酒場の前まできた。男は店の中へはいり、ウイスキーのダブルを注文した。
店はたったいま開いたばかりだったが、どうやら開店を今や遅しと待ちかねていたらしい大勢の客が、すでにカウンターのまわりにつめかけていた。一見従僕風の男は、自分のグラスの方へ手を伸ばしかけ、その拍子に、チェックの背広にきざなネクタイをした、けばけばしいなりの男の肘に突き当たってしまった。
「気をつけろい! どうしようってんだい? ここはな、おめえみてえな奴のくる場所じゃねえんだ。とっとと出て行きな!」派手な風体の男は啖呵《たんか》を切り、おまけに相手の胸のあたりをぐいと小突いた。
「酒場は誰が来たっていいんじゃないかね?」相手も負けてはいずに、小突き返した。
「さあさ、けんかはよしてよ。このお方だって、わざとやったんじゃないんだからさ、ジュークスさん」と女給が割ってはいった。
「わざとじゃないって? そうかね、おれの方は本気なんだぜ」とジュークスと呼ばれた男は言った。
「あんたも、ちっとははずかしくないの? 店でのけんかはよしてよ――それも、こんな朝っぱらからさ」女給は頭を振りたててやり返した。
「まったくのあやまちだったんだよ、きみ」とランベスから来た男は言った。「わたしは高級な店にしか行かんので、けんかなどやったことはないが、しかしこちらの方が、どうしても騒ぎを起こしたいとおっしゃるんなら――」
「わかったよ、わかったよ」とジュークス氏は大分おだやかに出た。「おまえの鼻をへし折ったところで始まらんからな。たまにゃ、鼻の恰好が変わるのも悪かねえだろうが。ま、ともかく、こんどから気をつけなってことよ。さ、仲直りに何をおごろう?」
「いや、いや」と相手はさえぎった。「こいつは、わたしにおごらしてもらいましょう。押したりして申しわけなかった。悪気はなかったんだが。しかし、あんたのように、そうむきになって突っかかってこられてはね」
「もうその話はやめにしよう」とジュークス氏は鷹揚《おうよう》に言った。「これはおれのおごりだ。おい、ねえさん、ダブルをも一つと、いつもの奴を一つな。さあ、こっちへこいよ、あまり混んでないとこへな。でないと、また面倒な目にあわされるぜ」
彼は先に立って、隅の小さなテーブルへ行った。
「これでいい。上出来だ。この店なら心配はないと思うが、用心に越したことはないからな。ところで、例の件はどうだね、ロジャーズ? われわれの仲間入りをする決心はついたかね?」
「ああ」と、ランべスから来たロジャーズと呼ばれる男は、肩越しにあたりをうかがいながら答えた。「ああ、ついたよ。ただし、くれぐれも言っておくが、一切危険はないとわかってからだ。好きこのんで面倒を求めてるわけじゃなし、あぶない仕事に巻きこまれるのはごめんだからな。情報を提供するだけならかまわんが、それも、実際の仕事には一切加わらんという条件づきでだ。その点、了解はついてるんだろうね?」
「かりにきみが望んだところで、実際の仕事には加わらせてもらえんよ」とジュークス。「いいかね、きみは知らんだろうが、第一号は専門の腕ききにしか仕事をやらせないんだ。きみはただ、物がどこにあり、どうやったら手に入れられるか、それさえ教えてくれりゃいい。あとは協会がやってのける。大した組織なんだぜ。どういう連中がやってるのか、どういう方法でやるのかさえ、わからんだろう。誰のこともわからんし、また他の連中もきみのことは誰も知らん――むろん、第一号だけは別だが。第一号だけは全員を知ってるんだ」
「それからきみとね」とロジャーズ。
「そうだ、むろんおれもだ。しかしおれは、いずれ他の地区へ廻されるだろう。今日かぎりで、もうきみとも会えんわけだ、総会の時は別だが。しかし総会の時は、全員覆面をつけているしな」
「ほんとかい!」ロジャーズは、とても信じられないというように言った。
「本当だ。きみはまず第一号の前につれて行かれる――第一号はきみを見る。しかしきみには首領の素顔は見えない。顔みせの結果、見どころがありそうだとなれば、きみは正規に登録され、はじめて報告の連絡先も教えられる。地区別の会合が二週間に一度、それに三ヶ月に一度は総会があって、分配にあずかるというわけだ。各人はそれぞれの番号で呼び出され、分け前を手渡される仕組みだ」
「なるほど。しかし、二人の仲間が一緒に仕事をやらされる場合もあるんだろう?」
「もし昼間の仕事なら、おふくろが見たってわからんくらい、すっかり変装させられるだろう。しかし、たいてい仕事は夜だからな」
「なるほど。それじゃ訊くが――もし跡をつけられて、警察へ密告されそうになったら、どうすりゃいいんだね?」
「どうしようもないね、むろん。ただ、割に合わんから、そういうしゃらくさい真似はせん方が身のためだろうってことだ。つい先だっても、そんなお利口な考えを起こした男がいたが、結局ロザーハイズ附近の川に浮かんだぜ、貴重な報告を持ちこむ前にね。第一号には何でも見通しなんだからな」
「ふうん!――で、その第一号というのは誰なんだね?」
「いくらでも金を出すから、それを知りたいという連中がごまんといるぜ」
「誰も知らんのかい?」
「ああ、誰も。まったく驚嘆すべき男なんだ、あの第一号ていうのは。それに、掛け値のないとこ紳士だ、それも立派な紳士だ。|その上《ヽヽヽ》、彼は頭のうしろにも目がついているんだ。|その上《ヽヽヽ》、ここからオーストラリアへ届くくらい長い腕を持っている。|しかし《ヽヽヽ》、誰一人彼のことは何も知らんのだ。第二号をのぞいてはね。それに、その第二号って女が、これまた謎の人物なんだ」
「ほう、女もまじってるのかね?」
「その通り。近頃じゃ、女もいなくては仕事にならんからな。しかし心配はいらん。女連中は安心だ。奴らだって、きみやおれ同様、臭いめしは食いたくないからな」
「ところで、ジュークス――肝心の金の方はどうなんだ? ずいぶんと危い橋を渡るわけだ。それだけのつぐないはあるんだろうな?」
「つぐないってなもんじゃないぜ!」ジュークスは、大理石でおおった小さなテーブル越しに身体を乗り出して、囁いた。
「そうかね!」とロジャーズは息を呑んだ。「じゃ、儲けのうち、ぼくの分け前はどれくらいもらえるんだい?」
「公平に、他の仲間と同じだけもらえるのさ、きみ自身がその仕事に直接加わっていようがいまいが。仲間は五十人だから、五十分の一だけはもらえる勘定だ、第一号やおれなんかと同じだけ」
「ほんとかい? まさかね?」
「まあその目で見てみるんだな!」とジュークスは笑った。「ええ、どうだい、そんな真似がほかでできるかね? 前代未聞とはこのことさ。かつて例のない大英断だ。とにかく偉い男だよ、第一号は」
「それで、うまく仕遂げた仕事はたくさんあるのかい?」
「たくさん? まあ聞いてくれ。カラサースの首飾り盗難事件や、ゴールストン銀行事件は覚えてるだろう? それから、フェイダアーシャムの強盗事件、国立美術館から消えたルーベンスの名画紛失事件、フレンシャムの真珠事件――みんなわが協会の仕事さ。しかも、全部が全部迷宮入りになったままだ」
ロジャーズは舌なめずりをした。
「だがね」と彼は用心深く言った。「もしこのぼくが、まあ言えばスパイでだ、このまままっすぐに警察へ行って、きみから聞いた話をすっかり話しちまったとしたら――」
「どうだというんかね? そうだな、もし署への途中で何事も起こらなかったとすれば――まあそれだって、保証の限りじゃないが――よほど気をつけんと――」
「つまり、たえず見張りがついてるというわけか?」
「言うにゃ及ぶってね。もちろんさ。つまり、もしかりにだ、署まで無事にたどりついて、このおれ様を見つけようと、警官をこの酒場へつれてきたところで――」
「きたところで?」
「このおれなど見つかりっこないってことよ。おれは第五号のところへ行ってるだろうからな」
「第五号って誰だね?」
「いや、おれも知らん。ともかく、ちょっと待ってる間に、新しい顔を作ってくれる男だ。いわゆる整形手術というやつさ。それに指紋まで新しくね。何もかも新しくだ。われわれの仕事では、万事最新式の方法を採用してるんでね」
ロジャーズは口笛を吹いた。
「ええ、どうだね?」ジュークスはグラスの縁越しに相手の方を見つめながら言った。
「それはそうと――ずいぶんぼくに話してくれたが、もしこれでノーと言っても、無事ですむものかね?」
「もちろんだ――もっとも、くだらん真似をして、われわれに迷惑をかけなきゃの話だが」
「ふむ、なるほど。で、もし、イエスと言えば?」
「そうすれば、きみはたちまち大金持だ。ポケットには金がうなって、紳士のような暮らしができるわけだ。それに、これといった仕事は何もしなくていいんだ、ただきみが今まで住み込んで働いていた邸の様子を、教えてくれるだけでいい。協会のために一肌ぬいでくれりゃ、それこそ濡れ手に粟で金になるんだぜ」
ロジャーズは黙ったまま、しばらく思案していたが、やがて、
「よし、やってみよう!」と返事をした。
「よく決心した。おい、ねえさん! さっきと同じのをも一つたのむぜ。さあ、乾杯だ! 一目見た時から、きみならいけると思ってたんだ。それじゃ、濡れ手に粟《あわ》の金に乾杯! 第一号万歳! ところで第一号と言えば、今夜にでもさっそく会っといた方がいい。善は急げだからな」
「よしきた。どこへ行けば会えるね? この店でかい?」
「いんや。この酒場はもう使わん。居心地のいい店だから残念だが、仕方ない。いいかね、こうしてくれ――今夜十時きっかりに、ランベス橋を北へ歩く。〔おまえの住居は知っているぞと言わんばかりのこの言葉に、ロジャーズは顔をしかめた〕すると、一台の黄色いタクシーが止まって、運転手がエンジンをいじっているはずだ。『やってくれるかい?』と声をかけてみてくれ、相手は、『行き先によってはね』と答えるだろう。そしたら、『市内の一番へつれてってくれ』と言うんだ。ついでながら、一番て名の店があるが、そこへ行くわけじゃない。車の窓にはおおいがしてあるから、どこへつれて行かれるのかはわからんはずだ。しかし、気にすることはない。最初は必ずそういう手順をふむ規則なんだ。いずれ、きみが正式に仲間になれば、場所も教えてもらえるだろう。それから、向こうへ行ったら、万事命令通りにし、嘘は禁物だ。さもないと、第一号の怒りを買うからな。わかったね?」
「わかった」
「きみは度胸はある方かい? こわくはないかね?」
「もちろん、こわいことなどないさ」
「そいつはよかった! どれ、そろそろ行くとしようか。もうきみには会えんかも知れん――せいぜい元気でな。幸運を祈るぜ!」
「じゃ」
二人は自在ドアを押し、薄汚い町の通りへ出た。
*
こうして、かつての従僕ロジャーズが、盗賊の一味に加わって以来、つづく二年の間に、数多くの名士邸宅が襲われた。デンヴァー公爵未亡人邸から、大きなダイヤの王冠が盗まれたかと思うと、故ピーター・ウィムゼー卿の旧邸からは、総額七千ポンドに及ぶ金銀製の食器類が消えた。また百万長者のセオドア・ウィンスロップ氏の別荘へも強盗が侵入し――その結果、この富豪のウィンスロップ氏というのが、実は名だたる社交界のゆすり屋だったことがわかり、メイフェアの上流社会に、一騒動が起こるという一幕があったりもした。そのほか、ディングルウッド侯爵夫人の有名な八重になった真珠の首飾りが、コヴェント・ガーデン劇場で「ファウスト」の上演中、宝石の歌の合唱最中に奪われるという事件もあった。もっとも盗まれた真珠は、侯爵の手元不如意の際、夫人が本物の方は質入れしていたため、イミテーションだったことが後にわかったが、それでもあまりに見事な離れ業《わざ》に、世間はあっと驚いたものだった。
一月のとある土曜日の午後。ランベスの家の自室に坐っていたロジャーズは、ふと玄関の戸口に、かすかな物音を聞いたような気がした。彼ははじかれたように立ちあがり、廊下を駆けぬけ、玄関のドアをさっとあけてみた。通りに人影はなかった。が、居間の方へ戻りかけたとき、一通の封書が帽子掛けの上にのっているのが目についた。宛名はただ、「第二十一号へ」と書いてあるだけだ。通信を届けてくる協会のいささか芝居がかった方法には、すでに馴れていたので、彼はただ肩をすくめただけで、中を開いてみた。
通信は暗号で書かれていたが、普通の文章に直すと、次のような内容であった――
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「第二十一号に告ぐ――今夜十一時三十分、第一号邸にて、臨時総会あり。欠席は身に危険の及ぶものと心得よ。合言葉は『大詰め』とす」
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ロジャーズは、しばらくその場に立ったまま考えこんでいたが、やがて奥の部屋へはいって行った。そこには、壁に作りつけになった丈の高い金庫があった。彼は鍵の組合せ文字を合わせ、金庫の中へはいった。中はかなりな奥行きがあり、いわば小さな金庫部屋のようになっていた。「通信」と記された引き出しをあけ、たった今受け取った通信文をしまいこんだ。
ややあって金庫から姿を現わした彼は、鍵を新しい組合せにセットし、居間に戻った。
「大詰め――か。なるほど――いよいよそうらしい」そう呟いて、電話の方へ手を伸ばしかけたが――思い止まったようだった。
彼は階段を上り、屋根裏部屋へはいりこんだ。たるきの間を這うようにして、一番奥の隅へ行き、注意深く柱の節の一つを押した。隠されていたはね戸が、パタンと開いた。そこから這い出て、隣家の同じような屋根裏に出た。やさしいクークーという鳴き声が彼を迎えた。明かりとり窓の下に鳥籠が三つ置かれ、その一つ一つに伝書鳩が入れられていた。
彼は用心深く、天窓からあたりの様子をうかがった。天窓は工場らしい建物の裏の、丈の高いめくら塀を見下ろしていた。その薄暗い小さな裏庭には人影がなく、見渡すかぎり窓も見えなかった。彼は頭を引っこめ、紙入れから薄い紙片を一枚取り出すと、いくつかの文字と字を書きつけた。そして一番手近の籠に歩み寄り、鳩を出して通信文を翼に取りつけ、そっと窓框のところにとまらせた。鳩は一瞬ためらっていたが、二、三度桃色の脚を踏みかえると、翼をひろげ、飛び立って行った。彼は鳩が工場の屋根の上高く、すでに夕闇の迫った空に舞いあがり、速く消え去るのを見送っていた。
彼は懐中時計をちらと見やり、階下へ戻った。一時間後、彼は二番目の鳩を放し、さらにまた一時間後、三番目を放した。そして坐りこんで、時のたつのを待った。
九時半になると、彼はまた屋根裏へ上って行った。暗かったが、凍てついたような星が幾つかまたたいており、あけ放った窓から冷たい夜風が吹きこんでいた。何かほの白いものが、床の上でかすかに光っていた。彼はそれを手に取り上げた――暖かい羽毛。返事がきたのだ。
彼は柔らかい羽毛をさぐり、紙片を見つけた。それを読む前に鳩に餌をやり、籠に入れた。そして籠の戸をしめようとしかかって、ふと思いとどまった。
「もしわたしにもしものことがあっても、おまえを飢え死させちゃかわいそうだからね」
彼はそう言って、天窓をちょっと広目にあけておいてやり、また階下へおりた。手にしていた紙にはただ二字、「O・K」とだけ書いてあった。急いで書かれたらしく、左肩にはインクのしみが大きくついていた。彼はこれに気づいて微笑し、紙片を火の中に投げこんでしまうと、台所へ行き、卵と新しく罐をあけたコーンビーフで夕食を作り、十分な腹ごしらえをした。手近の棚に一斤分のパンがのっていたが、それには手をつけず、パンなしで食事をすませ、水道の水で食器を洗い、しばらく水を出し放しにしておいてから、ようやく水を飲んだ。しかしその際にも、飲む前に蛇口の内外を入念に拭った。
食事がすむと、鍵のかかった引出しからピストルを取り出し、異常がないか念入りに機構をしらべ、まだ封を切ってない箱から新しい弾薬を取り出してつめた。あとはまた坐りこんで、時のたつのを待った。
十一時十五分前、彼は立ちあがって通りへ出た。塀ぎわから離れているようにして、足早に歩いて行くと、明かりのまばゆい大通りに出た。そこでバスに乗り、乗り降りする客がよく見える車掌の隣りの隣りに坐った。何台もバスを乗り換えたあげくに、ハムステッドの高級住宅街に来た。そこでバスを降り、依然として塀から離れるようにしながら、ヒース街の方へ足を向けた。
月のない夜だったが、まったくの暗闇というほどではなく、ヒース街の人気《ひとけ》のない通りを横切るとき、さまざまな方角から、一つ二つと、黒い影が彼の方へ迫ってくるのを認めた。彼は大きな木の蔭で足をとめ、額から顎まで隠れる黒いビロードの覆面を顔にかぶった。覆面の下には第二十一号の番号が、はっきり白い糸で縫いとられていた。
やがて、道がやや下り坂になったところにさしかかると、ヒース街の閑静な環境の中に、一軒だけぽつんと孤立したように、瀟洒《しょうしゃ》な別荘風の建物が浮かび出た。窓の一つに明かりがついていた。彼が入口の方へ近づくと、同じように覆面をした他の黒い影もじりじりと距離をちぢめ、彼のまわりを取り囲んだ。その数は六つまで数えられた。
一番先頭の男がドアをノックした。ややあって、入口が細目に開かれた。男はその隙間に首をつっこみ、何か囁いていたが、やがてドアは広く開かれた。男は中へはいり、ドアはしまった。
三人の男たちがはいってしまうと、次はロジャーズの番だった。彼は三度強く、二度軽くノックした。ドアは二、三インチ細目にあき、その隙間に耳がのぞいた。ロジャーズは「大詰め」と囁いた。耳は引っこみ、ドアがあき、彼は中へ通された。
それ以上は何も言葉をかわさず、第二十一号は左手の小さな部屋へ通った。デスクが一つと、金庫に椅子が二つおいてある事務所風の部屋である。デスクには、夜会服を着た大柄な男が、帳簿を前に坐っていた。第二十一号は、後ろ手に静かにドアをしめた。カチャリと音がして、バネ仕掛の鍵がおりた。デスクの前へ歩み出ると、「第二十一号まいりました」と報告し、うやうやしく命令の下りるのを待った。大男は顔を上げた。ビロウドの覆面に縫い取られた第一号の文字が、白く鮮やかに目を射る。不気味に鋭い青い目が、じろりとロジャーズを見すえた。第一号の合図で、ロジャーズは覆面を取った。本人に間違いないことを入念に確認し終えると、首領は「よろしい」とひとこと言って、帳簿に記入した。その目と同じように、鋭い金属的な声だった。少しも動かぬ黒い覆面の蔭からじっと射すくめられ、不安を感じたのか、ロジャーズは足を踏みかえ、視線をおとした。去れという第一号からの合図で、ロジャーズはかすかに安堵に似た溜め息をつき、覆面をかぶり直して、部屋を出た。彼が出るのと入れちがいに、次の番の者がはいってきた。
総会の行われる部屋は、二階の大部屋を二つぶち抜いて作った広間で、いかにもこのあたりの郊外邸宅らしい当世風の飾りつけが施され、照明でまばゆかった。片隅の蓄音器からは賑やかにジャズのメロディーが流れ、それに合わせて十組ばかりの覆面をした男女が踊っていた。夜会服を着ているのもあれば、ツイードやジャンパーという普段着のもいる。
部屋の片隅には、アメリカ風のバーもできていた。ロジャーズはそこへ行き、覆面をつけた係りの男にウイスキーのダブルを注文し、カウンターに倚りかかって、ゆっくりと味わった。広間は一杯になった。やがて誰かが蓄音器の方へ歩みより、レコードをとめた。ロジャーズは振り返ってみた。第一号が戸口に姿を現わしていた。黒衣の背の高い女がそのそばに寄り添っている。第二号と白い縫い取りのはいった覆面が、髪と顔をすっかり隠している。ただその堂々たる態度や、白い腕や胸、あるいは覆面からのぞいているキラキラ光る黒い目などから察して、男まさりの、しかも美貌をそなえた女らしかった。
「紳士淑女諸君!」第一号が部屋の端に立って呼びかけた。第二号はその横に坐っている。目を伏せているので感情の動きは知る由もないが、両手は椅子の肘をしっかりと握りしめ、身体全体が緊張して見えた。
「紳士淑女諸君。今夜、われわれの番号は二つ欠けております」覆面があちこちで動き、目が見交わされ、数を数えあった。「コート・ウィンドルシャムのヘリコプター設計図奪取計画が、悲劇的な失敗に終ったことは、今さら申し上げるまでもないでありましょう。わが勇敢にして忠実なる同志、第十五号、ならびに第四十八号は、裏切られ、警察の手に落ちました」
不安な囁きが、一同の中から洩れた。
「あるいはすでに諸君の中にも、いかに意志強固なるあの二人の同志といえども、当局の訊問の前には口を割るのではないかと、憂えておられる向きもおありでありましょう。しかしその心配は無用であります。すでにしかるべき命令が出され、今夕二人の舌が、効果的に封じられた旨の報告を受け取りました。これら勇敢なる二人の同志が、協会の名をはずかしめんとする誘惑をのがれ、公開の法廷に立つをまぬがれ、長い服役の苦しみから救われたことを、諸君とともに喜びたいと思います」
はっと息を呑む気配が、麦畑の上を渡る風のように、ざわざわと一同の上を走った。
「二人の遺族にはいつもの方法で、十分なる償いがなされるでありましょう。その任には第十二号と第三十四号の二名にあたってもらうことにします。詳細の打ち合せのため、閉会後、わたしのオフィスまでおいでねがいましょう。では、いま指名のあった同志諸君、喜んでこの任にあたれるという意志表示をしていただきましょうか」
二つの手があがった。首領は時計を見つめながら言葉をつづけた――
「紳士淑女諸君、どうぞ次のダンスをお始め下さい」
蓄音器がまた騒々しく鳴り出した。ロジャーズは、すぐそばにいた真紅のドレスを着た女の方を振り向いた。女はうなずき、二人はフォックス・トロットのリズムに乗って踊り出した。一同は厳粛に、押し黙ったまま広間を旋回した。右に左に踊りまわる人々の影が、ブラインドにちらちら映ってみえた。
「どうしたんでしょう?」女はほとんど唇を動かさずに、囁き声で訊いた。「何だか怖ろしいわ。あなたは? 何か怖ろしいことが起こりそうな予感がして」
「たしかにはっとさせられますよ、首領のやり口には。でもその方が、かえって安全なんでしょう」とロジャーズは相槌《あいづち》を打った。
「でも、あの人たちもかわいそうに――」
彼らに寄りそうようにして踊っていた男が、ロジャーズの肩を叩いた。
「お話はやめていただきましょう」その目が厳しく光っていた。男はパートナーを抱いてターンしながら、踊りの中へ消えてしまった。女は身ぶるいした。
蓄音機がやんだ。一斉に拍手が起こった。踊っていた人々は、また首領の席の前に集まった。
「紳士淑女諸君。あるいは諸君も、今夜この臨時総会の開かれたわけを、いぶかっておられるかも知れません。実は重大な理由があってのことなのです。最近のわれわれの行動の失敗は、決して偶発的なものではない。警察が当夜現場に居合わせたのは、偶然ではないのであります。われわれの中に裏切者がいるのです」
それまで寄りそっていたパートナー同士が、とたんに疑うように相手から離れた。人につつかれ、あわてて殻の中にひっこむ蝸牛《かたつむり》のように、お互いがちぢこまってしまった。
「ディングルウッド事件の悲しむべき結果については、諸君も覚えておられるでありましょう」首領の嗄れ声はつづいた。「そのほか、不始末に終ったいくつかの小事件も、記憶に新たなるところであります。これらの失策も、ようやく原因をつきとめることができました。もはや懸念の去ったことをここにご報告できますことを、欣快に存ずるものであります。裏切者はすでに発見され、いずれ除名されるはずであります。今後はかかる失策も起こらずにすむでありましょう。なおまた、この裏切者をわが協会に紹介した心得違いの同志は、今後かかる浅慮が災いをもたらさぬ地位におかれるでありましょう」
裏切者とその不幸な紹介者を探そうとして、一同の目が互いにあたりを見まわした。おそらくどこかに、黒い覆面の下で青ざめた顔があるにちがいなかった。顔をすっぽりおおったビロードの覆面の下で、ダンスの火照りではなく、冷汗をにじませている額があるにちがいなかった。しかし覆面がすべてを隠していた。
「紳士淑女諸君、どうぞ次のダンスをお始め下さい」
蓄音器は、古い半ば忘れ去られた曲を奏で始めた――『誰もあたしを愛してくれない』。真紅のドレスの女は、夜会服の丈の高い男にダンスを申しこまれた。、ロジャーズの腕に手がかかり、彼ははっとした。小柄な、緑色のジャンパー・スカートを着た小肥りの女が、冷たい手を滑りこませてきた。ダンスは続けられた。
やがて曲が終ると、一同は例によって拍手の中に立ち上り、パートナーから離れ、固唾を呑んで、身をこわばらせた。ふたたび首領の声がひびいた。
「紳士淑女諸君、どうぞ自然に振舞って下さい。これはダンス・パーティで、公開の会合ではないのですから」
ロジャーズはパートナーを椅子にかけさせ、アイスクリームを持ってきてやった。かがみこんだ時、女の胸があわただしく起伏しているのに気づいた。
「紳士淑女諸君」この上なく長く思えた間が終った。
「おそらく諸君も、この気がかりから早く解放されたいと願っておられるでありましょう。では、その名を申しましょう。第三十七号!」
一人の男が、怖ろしい、首をしめられたような叫びをあげて、飛びあがった。
「静かに!」
哀れな男は、息をつまらせ、あえいだ。
「わたしは決して――誓ってそんな――わたしは潔白です」
「静かに。きみは思慮に欠けていた。処分はまぬがれない。もし弁明があるなら、後ほど聞こう。坐れ」
第三十七号は、崩れるように椅子に坐りこみ、覆面の下からハンカチを押しこんで顔を拭いた。二人の背の高い男が、そのそばに歩み寄った。一同は、いわば死病にとりつかれた人間から、いのちが風前の灯となって消え去ってゆくのを感じながら、たじろいでいた。
蓄音機が曲を奏で始めた。
「紳士淑女諸君、では裏切者を名指します。第二十一号、前へ出たまえ」
ロジャーズは前へ進み出た。不安と憎悪にこりかたまった、四十八人の燃えるような目が、一斉に彼の上にそそがれた。哀れなジュークスはまた泣き声をあげた。
「ちきしょう、こんなことってあるもんか! こんなばかな!」
「静かに! 第二十一号、覆面を取りたまえ」
裏切者は覆面をぬいだ。一同の憎悪の眼差しが、穴のあくほど彼を見つめた。
「第三十七号、この男はきみの紹介で入会した。名はジョゼフ・ロジャーズ、かつてデンヴァー公の次席従僕をつとめ、盗みのかどにより解雇されたという。きみはその事実を調べてみたのかね?」
「も――もちろんです! 神に誓って、間違いありませんでした。同僚だった召使二人に首実験もさせました。いろいろ裏づけ調査もやってみました。間違いありませんでした――誓って間違いありません」
首領は目の前の書類に目を通し、また時計を見やった。
「紳士淑女諸君。どうぞ次のダンスを……」
両手を後ろに縛られ、手錠をかけられた第二十一号は、一同が死の舞踊を舞いつづける間、じっと身動きもせず立っていた。やがて曲が終り、一斉に起こった拍手は、ギロチンの下に生きた心地もなく坐っている男女の拍手のようにひびいた。
「第二十一号、きみの名はジョゼフ・ロジャーズ、従僕、盗みにより解雇となっている。これは本名かね?」
「いいや」
「では何という名だ?」
「ピーター・デス・ブレドン・ウィムゼー」
「その男なら死んだはずではないか」
「その通り。そう思わせようとしただけだ」
「では本物のジョゼフ・ロジャーズはどうなったんだ?」
「外国で死んだよ。わたしはその身代りになったんだ。わたしの正体を見ぬけなかったからといって、きみの部下を責めるのは、酷というものだろう。わたしはロジャーズになり替っただけじゃない。ロジャーズになりきってたんだ。ひとりきりでいる時でも、ロジャーズのように歩き、ロジャーズのように坐り、ロジャーズの本を読み、ロジャーズの服を着た。おしまいには、ロジャーズと同じ物の考え方までするようになった。うまく人になりかわる唯一の手は、決して気をぬかんことだ」
「なるほど。では、きみ自身の邸の盗難事件も、仕組まれた作戦だったんだな?」
「もちろん」
「きみの母親の公爵未亡人の王冠事件も、知りながら見逃したのか?」
「そうだ。あれは不細工な王冠で――趣味のいい人間なら、なくしたって惜しくもない代物だった。ところで煙草を吸わせてもらえないかね?」
「だめだ、諸君…‥」
ダンスはあやつり人形を動かすように、ぎごちなくつづけられた。手足はぎくしゃく動き、足元もよろめきがちだった。とらわれた男は、それを平然と涼しい日で見守っていた。
「第十五号、第二十二号、第四十九号。きみたちは、この裏切者を監視していたはずだ。この男に、外部と連絡しようとした形跡があったかね?」
「ありません」第二十二号が三人を代表して答えた。
「手紙や小包は全部あけましたし、電話も盗聴し、行動には一切尾行をつけました。水道管も、モールス信号に使われるおそれがあるので監視していました」
「それは確かだね?」
「絶対です」
「では訊くが、裏切者、きみはただ一人で裏切りを画策していたのか? 本当のところを言うがいい。さもないと、一層不愉快な目に会わされるだろう」
「ひとりだ。よけいな危険は冒したくなかったからね」
「ふむ。しかし、警視庁《スコットランド・ヤード》の例の男――たしかパーカーとか言ったな――あの男の口を封じる手段はとっておいた方がよさそうだ。それから、この男の従僕のマーヴィン・バンターと、できればこいつの母親と妹もだ。弟というのは、頭の鈍い男だから、秘密を打ち明けられてはおるまい。せいぜい見張りをつけておく程度でよかろう」
捕われていた男は、この言葉にはじめてぎくりとしたようだった。
「首領、母と妹は、協会に危険を招くようなことは何も知ってはいないんだ」
「今さら身内のことが気になっても、手遅れというものだ。諸君、どうぞダンスを――」
「いや――首領!」一同には、この道化芝居がこれ以上辛抱できなかったのだ。「ダンスどころじゃない! 処分してしまうんだ。早いとこ片づけちまって散会だ。危《やば》いですぜ。警察《さつ》が――」
「静かに!」
首領は一同を見まわした。険悪な空気がただよっていた。彼は譲歩した。
「よろしい。この裏切者をつれて行って、片づけてしまうがいい。処分法は四号でゆけ。ただし、取りかかる前に、とっくり手順を説明してやれ」
「ああ!」
一同の日が残忍な満足を示した。力強い手が、ウィムゼーの腕をがっしりと掴んだ。
「ちょっと待て――殺すならすっぱり殺してくれないか」
「今さら泣き言を並べても手遅れだ。つれて行け。諸君、ご安心ねがいたい――すぐさま死なせはしません」
「待て! ちょっと待て!」とウィムゼーは懸命に叫んだ。「ひとこと言わせてくれ。命乞いはせん――ひと思いに殺してくれと言ってるだけだ。実は――売りたいものがあるんだ」
「売りたい?」
「そうだ」
「われわれは裏切者と取引きはせん」
「わかってる――とにかく聞いてくれ! こちらだって、こんなことくらい予想してたとは思わんかね? わたしもそれほどの間ぬけじゃない。ちゃんと手紙を残してきてある」
「ははん! 古い手だ。手紙か。誰にだ?」
「警察にだ。もしわたしが、明日までに帰らんと――」
「帰らんと?」
「手紙は開封されるだろう」
「首領!」第十五号が口を入れた。「それはでたらめです。この男は一通も手紙を出してません。もう何ヶ月も厳重に見張ってたんですから」
「そうかね!まあ聞きたまえ。その手紙はまだランべスヘくる前においてきたんだ」
「それでは問題にならん」
「ところがそうじゃない」
「何がはいってるんだ?」
「金庫の組合せ文字だ」
「ふむ。この男の金庫は調べてあるな?」
「は、首領」
「何がはいってたね?」
「大したものははいってませんでした、首領。われわれの結社の概要とか――この家の名といったもので――いずれも明日の朝までには変えて隠してしまえるものばかりです」
ウィムゼーは微笑した。
「金庫の内扉の中も調べてみたかね?」
ちょっと間《ま》があった。
「この男の言葉を聞いたはずだ」と首領は鋭い語調で言った。「内扉の中には気がついたのか?」
「そんなものはありませんでした、首領。でたらめにきまってます」
「お言葉にそむくのは申しわけないが、どうやら内扉の中は見逃されたようですな」とウィムゼーは努めて朗らかな調子を装って言った。
「そうか。では、その内扉なるものがあったとして、その中には何がはいっているというんだ?」と首領。
「この協会に属する人間ぜんぷの名前と、住所、写真、そして指紋がね」
「なんだと?」
彼を取りまく目は、恐怖の色を見せていた。ウィムゼーはじっと首領に顔を向けたままだった。
「それだけの情報をどうやって手に入れたというんだね?」
「実は、わたしは自分でも探偵の真似ごとめいたことをやっているのでね」
「しかし、ずっと監視されていたはずだ」
「その通り。そのコレクションの第一ページは監視人の指紋で飾られているよ」
「証拠はあるのか?」
「もちろん。証明もできる。例えば、第五十号の本名は――」
「やめろ!」
鋭い声があがった。首領は身ぶりでウィムゼーの言葉を抑えた。
「もしここで名をあげるようなことがあれば、情状酌量の余地はまったくなくなるだろう。同志の名を明かす裏切者には、特に第五の処罰法が待っている。この捕虜をわたしのオフィスまでつれてきてくれ。ダンスはそのままつづけて」
首領は腰のポケットから自動拳銃を出すと、デスク越しに、がんじがらめに縛られた捕虜と相対した。
「さあ話せ!」
「わたしがきみなら、そんなものはしまっておくがね」ウィムゼーはさも軽蔑したように言った。「そいつでやられる方が、第五処罰法とやらより楽に死ねるだろうからね、そいつでやってもらいたい気になるかもしれんじゃないか」
「利口な奴め! しかし、ちょっと利口すぎるところが玉に瑕《きず》だ。さ、早く言え――どんなことを知っているんだ」
「話したら命を助けてくれるとでもいうのかね?」
「約束はせん。早く言え」
ウィムゼーは縛り上げられて痛む肩をすくめた。
「それでは話そう。もういいというところまで聞いたら、止めてくれ」
彼は身体を乗り出し、小声で話し始めた。頭の上の広間からは、蓄音器の騒音と、ステップを踏む足音が聞こえてくる。ダンスはつづけられているらしい。たまたまヒース街を通りかかる通行人も、またこの一軒家で宴会さわぎがあるな、くらいにしか思わないに違いない。
*
「どうです、も少しつづけますか?」とウィムゼー。
覆面の下から響いた首領の声は、凄味のある薄笑いでも浮かべているらしかった――
「驚いたね。きみの話をきいていると、きみが事実上、わが協会のメンバーでないのが惜しまれてならない。機知と、勇気と、努力は、われわれのような結社には欠かせないものだ。説得しても無駄だろうね? いや――だめなことはよくわかっている」
首領はデスクの上のベルを押し、
「会員全部に食堂へ集まってもらってくれ」と、はいってきた覆面の男に命じた。
「食堂」は一階にあり、鎧戸とカーテンが下ろされていた。真中には長いむき出しのテーブルがあり、まわりに椅子が並んでいる。
「なるほど、ご馳走なしの宴会というわけですか」ウィムゼーは朗らかに言った。この部屋を見るのは初めてだった。部屋の奥の床には、落し戸が不気味に口をあけている。
首領はテーブルの上座についた。
「紳士淑女諸君」と彼は例によって口を切った――この馬鹿げた呼びかけが、この時ほど不気味にひびいたことはなかった――「はっきり申して、事態は容易ならぬものがあります。捕えたこの男の口から、本人とわたし以外には知るはずのないと思われていた、二十名以上の会員の名前と住所を聞きました。大いなる手ぬかりがあったに違いありません」――首領の声は鋭くひびいた――「この点は調査の要ありと認めます。会員の指紋もとられており――その幾つかの写真を見せられました。われわれの監視役が、どうして金庫の内扉を見逃したか、その点はぜひとも調査せねばなりますまい」
「いや、ご連中を責めるのは酷ですよ。見つからんのが当り前で、そのように作ったんですからね」とウィムゼー。
首領は、ウィムゼーの差出口には気づかぬ様子で、言葉をつづけた――
「この男の言い分によると、会員の名前と住所を記した帳簿は、会員宅から盗み出した手紙や書類をはじめ、はっきりとした指紋のついている数多くの品とともに、その内扉の中に収められているということであります。おそらく事実でありましょう。しかして彼は、すみやかなる死と引換えに、金庫の組合せ文字を教えようと提案しております。この申し出は受け入れるべきであろうと考えますが、紳士淑女諸君、諸君の意見はいかがですか?」
「組合せ文字なら、とうにわかってます」と第二十二号が言った。
「たわけめ!この男を誰だと思っている! ピーター・ウィムゼー卿だぞ。組合せ文字を変え忘れるとでも思ってるのか? それに内扉の秘密もある。もし彼が今夜姿を消し、警察が彼の家へはいれば――」
「条件を呑むことにして、この男の言う通りになさった方がよいと思います――一刻も早く。時間は切迫しています」と、よくひびく女の声があがった。
賛成だというような囁きが、テーブルを一巡した。
「お聞きの通りだ」と首領はウィムゼーに向かって言った。「協会は金庫の組合せ文字と、内扉の秘密と引換えに、即死刑の特権を与えよう」
「誓ってかね?」
「もちろんだ」
「ありがとう、ではわたしの母と妹は?」
「今度はきみの方から、その二人がわれわれにとって危険なことを何も知らないと誓ってくれるなら――きみは信義を重んずる人間だろうから――命だけは助けよう」
「ありがとう。わたしの名誉にかけて、あの二人は何も知らないことを誓ってもいい。そういう危険な秘密を、ご婦人に負わすようなことはしたくないからね――特に相手が大事な身内の場合には」
「よろしい。では約束しよう――諸君いかがです?」
前よりはいくぶんためらいがちな、賛意を表するつぶやきが聞こえた。
「では、お望みの事柄をお教えしよう。金庫の組合せ文字は、『アンリライアビリティ』〔不確かさ〕だ」
「内側の扉の方は?」
「警察の来てくれるのを予想して、内扉は――かなりむずかしい仕組みなので――あけてある」
「よろしい! ただし、もしわれわれの使者の邪魔をするようなことがあれば――」
「わたしのためにならん、とね」
「冒険だが」と首領は思案げに言った。「しかし、やってみなければならん。捕虜を地下室へはこべ。第五処刑法のからくりでも、とっくり眺めていてもらおう。その間に、第十二号ならびに第四十六号は――」
「だめだ、それはいかん!」
不満そうな反対の声があがり、みるみる威嚇するようにふくれあがった。
「いかん」糖蜜のような声をした背の高い男が言った。
「そいつはいかん! そういう大事な品を、特定の会員の手にゆだねていいものかね? 現に今夜、われわれの中から裏切者一人と、ばか者が一人以上出たばかりじゃないですか。第十二号と第四十六号が、裏切ったりばかな真似をしないという保証が、どこにありますね?」
名を挙げられた二人の男が、|きっ《ヽヽ》と話し手の方に向き直ったとき、甲高い興奮した女の声が、議論の中へ割ってはいった。
「賛成! その通りよ。あたしたちはどうなるっての? こっちは見ず知らずの相手に、あたしたちの名前を知られるなんて真っ平よ。あたしはこりごりなんだ、そんなこと。あたしたちを根こそぎ警察《さつ》へ売るかも知れないしさ」
「その通りだ」とまた別の男から声があがった。「誰も信頼しちゃいかん、誰もな」
首領は肩をすくめた。
「では、紳士淑女諸君、どうしろといわれるのですか?」
しばらく間があった。やがて先ほどと同じ女の甲高い声で――
「首領が自分で行ったらいいじゃないのさ。会員ぜんぶの名前を知ってんのは首領ひとりだしさ。首領なら掴まる心配もなし。あたしたちばかしが危い目をみて、首領は家に坐ってさ、金勘定なんて、それじゃ話がうますぎるよ。首領をやったらどうなんだい、ええ?」
もっともだというようなざわめきが、テーブルを一巡した。
「その動議賛成!」時計入れポケットに金の印形をいくつもぶら下げた、肥った男が言った。ウィムゼーはそれを見て微笑した。このささやかな見栄のおかげで、この肥った男の名と住所はたちどころにわかったのだ。そう思うと、そのちゃらちゃらした飾りにそこはかとない親しみすら覚えてきた。
首領は一座を見まわした。
「では、わたしに行けというのが、会員一同の望みなのだね?」彼は不気味な声で言った。
五十五の手が賛意を表して挙げられた。ただ第二号の女だけが、身動きもせず、黙ったまま坐っていた。その力強そうな白い両手が、しっかりと椅子の肘を握りしめている。
首領は威嚇するように取り囲んだ一座を、ゆっくりと一わたり眺めまわし、最後に第二号を見やった。
「満場一致で決が下されたものと考えてよいかね?」
女は顔を起こした。
「行ってはいけません」あえぐような微かな声だった。
「諸君、お聞きの通りだ」と首領はかすかに嘲笑するような声で言った。「このご婦人は行くなと言っておられる」
「考慮の余地なし」と糖蜜のような声の男が言った。
「われわれの奥さんだって、マダムのような恵まれた地位にいりゃ、われわれをやりたくはないだろうぜ」さげすんだような声の調子だった。
「そうだ、そうだ!」と別の男も叫んだ。「この協会は民主的な集まりのはずじゃないか。特権階級はいらんぜ」
「よろしい」と首領。「聞いただろう、第二号。会員の感情はきみに反対のようだ。きみの意見の根拠となるような理由があるのかね?」
「いくらでも。首領はわが協会のかしらであり魂です。もし首領の身に万一のことでもあれば――わたしたちはどうなります? あなたがたは」と彼女はぐるりと一座を呑んだように見まわした――「あなたがたは、へまばかりじゃありませんの。こんなことになったのも、あなたがたの不注意のおかげです。もし首領がいて、あなた方のばかな真似の後始末をして下さらなければ、ものの五分間も、安閑としてはいられないじゃありませんか」
「それもそうだ」と今まで口を開かなかった男が言った。
「よけいな口出しかもしれんが」とウィムゼーが嫌味たっぷりな言い方をした。「どうやらこちらのご婦人は、首領の信頼を受けるにきわめてふさわしい立場におられるようだから、わたしのささやかな帳簿に記されている内容も、おそらくはすでにご存知に違いない。いっそ第二号がご自分で行かれたら、どんなものですかね?」
「それはこのわたしが禁ずる」女の口元まで出かかった答えを制して、首領はきっぱりと言いきった。「全員の意思とあれば、わたしが行く。家の鍵をよこしたまえ」
護衛の一人が、ウィムゼーの服のポケットから鍵を取り出し、首領に渡した。
「家には警察が張りこんでいるかね?」
「いや」
「間違いないだろうな?」
「間違いない」
首領はドアのところで振り返った。
「もし二時間たって戻らなければ、適宜、身の安全を講じていただこう。捕虜の処分は勝手にしてよろしい。留守中は第二号が命令を出す」
首領は出て行った。第二号は命令するような身ぶりで椅子から立ちあがった。
「皆さん、晩餐はこれで終りといたします。ではまたダンスを始めて下さい」
*
第五処刑装置と向かい合わせられた地下では、時のたつのが遅かった。哀れなジュークスは泣くのわめくのをつづけたあげく、疲れきって黙りこんでしまった。監視役の四人の男は、ときどきひそひそ囁き合っていた。
「首領が出かけてからもう一時間半だぜ」と一人が言った。
ウィムゼーは顔を上げ、部屋の観察に戻った。奇妙な機械類がたくさん置いてあり、彼はそれを記憶しておこうと努めた。
やがて、落し戸がパッとあき、「捕虜をつれてこい!」と声がかかった。ウィムゼーはすぐさま立ちあがった。思いなしか、顔色が青ざめている。
全員がまたテーブルをかこんで席についていた。第二号が首領の席につき、激怒に燃えた表情でウィムゼーを見つめていた。しかし声だけは落ち着いているのはさすがだった。
「首領が行かれてもう二時間になります。いったいどうしたというんです? 二度も裏切って――首領をどうしたんです?」
「さあ知りませんね」とウィムゼー。「おそらく、わが身がかわいくなって、まだ逃げられるうちにとずらかったんでしょうな」
女は憤りの叫びをあげて、がばと立ちあがり、ウィムゼーの方へつめ寄った。
「口をつつしみなさい! 嘘つき!」彼女はウィムゼーの口のあたりに平手打ちを喰らわせた。「首領はそんなことをする人ではありません、同志の信義を裏切るような人では。いったいあの人をどうしたんです? おっしゃい――言わなければ、言わせてみせます。さあ、そこの二人――焼きごてを持ってきなさい。言わせてみせるから!」
「マダム、わたしには想像しかお話しできませんし、サーカスの道化のように、焼きごてで責められたところで、いい考えが浮かんでくるわけでもありません。まあ落ち着いていただきましょう、わたしの想像をお話ししますから。どうもわたしの考えでは! いかんながら首領は、わたしの金庫内の面白い展示品を調べるのに急で、きっとうっかり、内側の扉をしめてしまったんでしょうな。だとすると――」
彼は眉を上げ〔肩は痛くて上げられなかったのだ〕、はっきりと残念そうな表情を見せて言った。
「だとすると?」
ウィムゼーは一座をぐるりと見まわした。
「それでは、まずわたしの金庫のからくりから説明した方がよさそうだ。なかなかよくできた金庫でね」と彼はしんみりした調子でつけ加えた。「わたしの考案なんだが――もちろん、からくりそのものを考えたわけじゃない。それは科学者の分野ですからね――アイディアだけの話だが。
さっき話した組合せ文字には、嘘いつわりはない。バン・アンド・フィシェット商会製の三アルファベット、十三文字組合せ式で――なかなか精巧にできています。その組合せ文字で外側の扉があく。中は普通の金庫部屋で、現金や貴金属類をしまってある。しかしそこから、それぞれ違ったあき方をする二つの扉の奥に、もう一つ小部屋が隠れているんです。外側に近い方の扉は、薄い鋼鉄製で、金庫の壁と同じ色に塗ってあるし、ぴったり合わさるようになっているから、ちょっと見ただけではわからんはずです。部屋の壁と同じ平面になってますからね。たとえ金庫の内外を調べてみたところで、それらしいものは何も見あたらんでしょう。普通の鍵で外側にあくんだが、首領にもはっきり言っておいたように、その扉は、家を出がけにあけたままにしておきました」
「首領がそんな見えすいた罠にかかるとお思い? きっとその内扉くらいこじあけているでしょうよ」と女は嘲《あざ》笑うように言った。
「ごもっともです、マダム。しかし、外側に近いその内扉の目的は、いわば扉一つしかないと思わせるトリックでね。その蝶番《ちょうつがい》のうしろには、引き戸が一枚、壁にぴったりはめこまれているんです。知っていないかぎり、とてもわかるもんじゃない。この扉も同様あけておきました。わが尊敬すべき第一号は、ただまっすぐ、金庫の奥の部屋へとはいって行けばいいだけです。ついでながら、金庫は地下室にある古い台所の煙突の中を利用して作ったものです。これでおわかりですかね?」
「わかりました――さ、その先を。手短かに」
ウィムゼーは一礼し、前よりも一層慎重な話しぶりで、言葉をつづけた――
「さて、わたしの編纂にかかる協会の活動を記した興味あるリストは、非常に大きな――ここの首領がお使いのより大きな――帳簿に記入されております。〔ところでマダム、あの帳簿を安全な場所へしまっておく必要を心に銘記しておられるでしょうな。おせっかいな警官に調ぺられるという危険の方はともかく、新入りの会員の手にはいるということは、望ましくないでしょうからね。会員諸君一同の気持としても、反対がありそうに思いますよ〕」
「安全に保存してあります」と女はあわてて答えた。「さあ早く! あなたの話というのをしなさい」
「ありがとう――それを聞いてほっとしました。結構です。その大きな帳簿は、内側の金庫の奥にある鋼鉄製《スチール》の棚にのせてあります。いや、ちょっと待って下さい。まだこの内側の金庫の説明がしてありませんでしたな。高さ六フィート、間口、奥行きともに三フィートの小部屋でしてね。よほど背が高くないかぎり、十分立っていられる大きさです。わたしにはちょうどなんです――おわかりのように、わたしは五フィート八インチ半程度しかありませんからね。その点、首領はわたしより背が高いだけに、少々窮屈かも知れませんが、立っているのが疲れれば坐るだけの余裕は取ってあります。ところで、お気づきかどうか、こうがんじがらめに縛り上げられては、話すこともできませんな」
「骨がめりめりいうまで縛り上げてやりたかったくらいよ。さ、鞭打ちをくれてやりなさい! この男は時を稼ごうとしてるんだから」
「打ったりしてみなさい、先は話さんから。マダム、落ち着くことですな。王手と詰まっているときに、早計は禁物ですよ」
「さあ、早く先を!」女はじだんだを踏みながら、また叫んだ。
「どこまで話しましたかね? そうそう、内側の金庫でした。ともかく、ちょっとした居心地のよい部屋でしてね――空気もまったくはいってこないほど、居心地よくできてるんです。帳簿がスチールの棚にのっていることは話しましたかね?」
「聞きました」
「結構です。ところでそのスチールの棚は、非常に精巧な、隠れたバネで釣り合わせてあります。帳簿が――すでにお話しした通り、かなり重いものですからね――取り上げられると、棚はほとんど目にとまらぬくらい、持ち上ります。そして電流が通じるという仕組みです。情景を想像してみて下さい、マダム。われらが首領は偽装用のドアをあけ――金庫内へはいって行き――帳簿を見つけ――すぐさまそれを取り上げます。求めている帳簿に間違いのないことを確かめるため、首領は中をあけ――ページをくってみます。そして、わたしの言った指紋などを記したその他の証拠物件を探しにかかります。するとそのとき、音もなく、しかしすばやく――いかがです、想像ができますか?――棚が持ちあがったために電流の通じた秘密の扉が、首領の背後で、豹のようにさっとすばやく閉じてしまいます。陳腐な比喩ですが、きわめて適切ではありませんかね?」
「何てことを! まあ何てことを!」女は息のつまる覆面をはぎ取ろうとするかのように、手を顔に持って行った。「ちきしょう――このあくま――あくま! その内側の扉をあける組合せ文字は? 早く言いなさい! むりやりにでも言わせてやるから――さあ早く!」
「むずかしい組合せではありませんよ、マダム――みんな忘れているような文字ですが。覚えておいででしょうか、子供の時分、『アリババと四十人の盗賊』という話を聞かされたのを? 実はあのドアを作らせたとき、柄にもなくいささかセンチメンタルな気持になって、ふと子供の時分の楽しかった頃を思い出しました。あのドアをあける言葉は――『開け、ごま』です」
「そう! それで、いったいその悪魔の罠の中で、どのくらい生きていられるものなの?」
「そうですな」とウィムゼーは朗らかに言った。「二、三時間は保つと思いますがね、もし冷静にかまえ、叫んだり叩いたりして、中の酸素を使いつくしてしまわなければね。今すぐ行けば十分間に合うでしょう」
「あたしが自分で行きます。この男をつれて行って――うんとひどい日にあわせておやり。ただ、あたしの帰るまでは生かしといてちょうだい。死にぎわを見てやりたいんだから」
「ちょっと待ちなさい」とウィムゼーは、女の凄味を利かした言葉にも平然として言った。「わたしも一緒につれて行った方がいいと思いますよ」
「なぜ――なぜです?」
「つまり、あの扉をあけられるのは、このわたしだけだからね」
「でも、組合せ文字を教えたじゃありませんか。あれは嘘だったというの?」
「いや――あれはあの通りなんだが、最新式電気仕掛けのドアなんでね。実際のところ、ドアの仕掛けでは一番新しい、わたしの自慢の装置なんだ。『開け、ごま』であくのは確かだが――わたしの声でなければあかないんですよ」
「あなたの声? あなたの声なんか、両手で首をしめて出ないようにしてやる。どういう意味なの――あなたの声だけというのは?」
「その通りの意味です。そんな風に首をしめないでいただきましょう、さもないとわたしの声が変わってしまって、ドアには識別できないかも知れませんよ。そう、それで結構。なにしろなかなか声にうるさい機械でしてね。一度、わたしが風邪をひいて、しゃがれ声で何べん懇願しても、まる一週間、がんとしてあかなかったこともあるくらいで。ふだんの時でも、ちょうどぴったりの抑揚が出なくて、何回かくり返すことがありますよ」
女は振り向き、かたわらに立っていた背の低い、ずんぐりした男に訊いた――
「ほんとうなの? そんなことができるの?」
「できうることでございます」と男はうやうやしく答えた。その声から察して、何か腕に技術のある――おそらくは技師と見受けられた。
「電気仕掛けだというんだけれど、あなたにわかりますか?」
「わかります。おそらくどこかにマイクロフォンが仕掛けてあり、それで音声を電気振動に変えて、針に伝えるのです。針が正しい振動図形を辿れば、電気回路が完成し、ドアが開くという仕掛けです。光の振動を利用しても、同様簡単にできます」
「道具を使ってあけることはできないものなの?」
「できます、時間さえかければ。仕掛けをすっかりこわすわけですが、おそらく容易なことではこわれないでしょうからね」
「その通りだよ」とウィムゼーが自信たっぷりに口を挟んだ。
女は両手で頭をかかえこんだ。
「どうも、してやられたようでございます」と技師らしい男は、巧妙な仕掛けに対する一種の敬意をこめて言った。
「いえ――ちょっと待って! 誰か知っている人間がいそうなものよ――その仕掛けを作った職人は?」
「ドイツにいますよ」とウィムゼーはそっけなく答えた。
「でなければ――そう、いい考えがある――レコードはどう。こ――この男にその言葉を言わせて吹きこんだら。急いで考えて――どうしたらできるか」
「それは無理です。日曜日の朝、それも夜明けの三時半に、録音器がどこで手にはいりますか? 器械が手にはいる頃には、首領はもうとうに――」
座はしんと静まり返ってしまった。鎧戸を下ろした窓を通して、明け染め始めた街のざわめきが聞こえてきた。遠くで自動車の警笛も聞こえる。
「仕方ありません。この男をやります。縄をほどいてやりなさい。きっと首領を助けてくれるでしょうね?」女はすがるような目つきでウィムゼーの方へ向き直った。
「まさか、見殺しにするほど人非人じゃないでしょうね? さあ、すぐに行って、首領を助け出してきてちょうだい!」
「とんでもねえや!」と一人の男が叫んだ。「この男は、その足で警察へ密告しに行くにきまってるぜ。首領はどうせやられちまったんだ、おれたちゃ、早いとこずらかった方が身のためだ。さあ、みんな、これまでだ。この野郎は地下室へ叩きこんで閉じこめておけ、騒いで隣近所を起こしたりしねえようにな。おれは名簿を処分してしまう。おれが信用できんのなら、すっかり処分するまで見とどけるがいいや。それから第三十号、きさまは爆破スイッチのあり場所を知ってたな。今からすぐずらかることにして、十五分後にこの邸を吹っとばしてくれ」
「いけません! そんな――そんな見殺しになど――あなた方の首領を――指導者を――あたしの――とんでもないことです。この男を離してやりなさい。さ、誰か、あたしに手をかして、縄を――」
「今はそんな場合じゃねえや」と先ほどの男が言って、女の両手首を掴まえた。女はもがき、わめき、噛みつき、何とかして逃れようとあがいた。
「さあ、よく考えるんだ」と糖蜜のような声の男が言った。「夜が明けてきている。もう一、二時間で明るくなるだろう。いつ何時、警察が乗りこんでくるかも知れないんだ」
「警察!」女は必死に気を静めようとしていた。「そう、そうね、その通りです。一人の男のために、全員を危険におとしいれてはいけません。首領も、それは望まないでしょう。その通りです。この男を地下室へ放りこんで、全員、まだ時間のあるうちに逃れて下さい」
「もう一人の捕虜は?」
「ああ、あの馬鹿は――害にもならないだろうし、何も知ってないんだから、逃しておやり」女はさも軽蔑したように答えた。
たちまちウィムゼーは、なさけ容赦もなくがんじがらめに縛られ、地下室へ放りこまれた。彼にはちょっと解《げ》せなかった。第一号の生命を犠牲にしても、彼を釈放したくない気持はわかった。あえて危険を知りつつ、虎穴に跳びこんできた男だからだ。しかし、こうして彼らに不利な証人である彼を残しておくというのはどういうわけだろう。
彼を地下室へつれこんだ男たちは、彼の踝《くるぶし》を縛り、明かりを消して出て行きかけた。
「おおい、きみ! こんなところに坐らせられたんじゃ、淋しくてかなわん。明かりをつけてってくれよ」とウィムゼーは言った。
「心配するこたあないぜ。しばらくの辛抱だ。時限信管を仕掛けたからな」
他の男たちも愉快そうに笑い、ぞろぞろ出て行ってしまった。そういう魂胆だったのか。この邸もろとも、吹き飛ばされてしまうのだ。首領を生捕りにする望みは絶えてしまうことになる。ウィムゼーにとってはそれが残念だった。あの大悪党を、裁きの場に引き出してやりたかった。ともかく警視庁《スコットランド・ヤード》が、六年がかりで追っている大物なのだ。
ウィムゼーは耳をすました。頭の上で足音が聞こえたような気がしたのだ。もう一味は、すでに逃れてしまったはずだが……
たしかにぎいと音がした。落し戸があいた。誰かが地下室へ忍びこんでくるのを、耳でよりも気配で感じた。「しいっ!」と耳元で声が囁いた。柔らかい手が彼の顔をまさぐり、身体をなで、手首に冷たい鋼鉄のふれるのを感じたかと思うと、縄がゆるみ、すっかり解かれた。手錠の鍵がはずされた。踝の革紐もほどかれた。
「さ、さ、早く! 時計爆弾が仕掛けてあります。できるだけ速く、あとをつけてきて下さい。あたしだけこっそり戻ってきたんです――身のまわりの宝石を忘れたと言って。ほんとうなんです。わざと忘れておいたんです。あの人を救わなくてはなりません――あなただけにそれができるんです。さ、急いで!」
今まで縛られ痺れていた腕に、どっと血が戻ってゆく刺すような痛みによろめきながら、ウィムゼーは女のあとについて、地下室を這い出た。女は鎧戸を押しあけ、窓を開いた。
「さ、行って下さい! 彼を助けて! 約束してくれますね?」
「約束します。しかし、マダム、この邸は包囲されてますよ。金庫のドアがしまった瞬間、信号が出され、わたしの召使が警視庁へ飛んでるはずです。あなたの同志も全部――」
「そう! でもいいの、行ってちょうだい――わたしのことはかまわないで――早く! 時間がもうありません」
「さあ、この邸から遠ざかるんだ!」
彼は女の腕をつかみ、二人は小さな庭をこけつまろびつしながら走り抜けた。茂みの中から、いきなり懐中電燈の光がパッと照らされた。
「きみかね、パーカー? 部下を遠ざけてくれ。急いで! 家が吹っ飛ぶぞ」とウィムゼーは叫んだ。
庭はとつぜん、叫び声や駆けまわる人の影で一杯になった。暗闇を手さぐりでよろけていたウィムゼーは、どしんと塀へ突き飛ばされた。彼は塀の上に手をかけ、よじ上り、手さぐりで女も引っぱり上げた。二人は塀から跳び下りた。誰も彼もが塀から跳んでいた。女は足をつまずかせ、あっと悲鳴をあげて倒れた。ウィムゼーも石につまずき、べったり地面にはいつくばってしまった。その時であった。閃光と轟音とともに、夜の闇が真赤に染まった。
ウィムゼーはすっかり崩れた塀の下から、痛む身体を起こした。そのすぐそばに、かすかな呻き声が聞こえ、女も無事だったことがわかった。カンテラの光がとつぜん二人の方に向けられた。
「ここでしたか! お怪我は? いやいや大変なお顔ですよ」と朗らかな声だった。
「大丈夫」とウィムゼー。「ちょっとかすり傷だけだ。女は無事だろうか? ふむ――どうやら腕を折っているらしい――ほかには別状なさそうだ。奴らはどうなった?」
「六人ばかり吹っ飛びましたが、あとは全部引っくくりました」
ウィムゼーは、さむざむとした夜明けの薄闇の中に、黒い人影が自分のまわりを取り巻いているのに気づいた。
「まったく驚きましたね! 返り咲きもいいとこ、あの世から出てこられたようなものだ。卿もお人がわるい――われわれはこの二年間、すっかり亡くなられたものとばかり思ってましたよ! わたしも腕に巻く喪章など買ったりしましてね。まったくですよ。バンター以外に、誰かこのことを知ってた人間はいるんですか?」
「おふくろと妹だけだ。秘密信託の形で伝えておいた――遺言執行人やなんかに文書を送る方法だが、あれなら他へ洩れんからね。わたしがわたしだということを証明するのに、これから弁護士を相手に、大分やり合わなきゃならんだろうな。やあ、サッグ君じゃないか?」
「は、さようです」サッグ警部は、興奮に泣き出さんばかりの喜びようだった。「ご無事なお姿を拝見できまして、こんなにうれしいことはございません。よくやって下さいました。署の連中全部が、握手をしていただきたいと申しております」
「そうかい! そりゃひとつ、顔でも洗って、ひげを剃っておきたいところだな。また諸君の顔が見られて嬉しいよ、ランベスでの二年間はつらかったからね。それにしても、ちょっとしたお芝居だったろう、ええ?」
「あの人は無事でしょうか?」
女の苦しそうな声に、ウィムゼーははっとした。
「しまった! 金庫の中の男を忘れていた。おい、自動車をすぐ出してくれ。金庫に閉じこめた大親分が、窒息しかかってるんだ。さ――跳び乗ってくれ、それからその女もだ。首領を助けると約束したんだ――もっとも〔と、あとはパーカーの耳に囁いて〕殺人の容疑もあるから、裁判にかかったところで極刑はまぬがれんだろうがね。車を急がせてくれ。あの金庫に閉じこめられては、もうそう長くは保たんはずだ。奴こそお尋ね者の大親分なんだ。モスリン事件やホープ・ウィルミントン事件をはじめ、そのほか数えきれないほど沢山の事件をあやつっていた男だ」
車がランベスの家の前に着く頃には、すでにひえびえとする朝が、街の通りを灰色に変えていた。ウィムゼーは女の腕を取り、車から助け下ろした。覆面がとれ、女の素顔をあらわした。恐怖と苦痛に青ざめ、絶望の色の濃いやつれた顔だった。
「ロシア人でしょうかね?」とパーカーはウィムゼーの耳元で囁いた。
「そんなところだろうね。ちきしょう! 玄関がしまっている。鍵は奴が持ったまま、金庫の中へはいっちまったらしい。窓から跳びこんでくれないかね?」
パーカーはさっそく窓から中へはいり、すぐに玄関を中からあけた。家の中はしんと静まりかえっていた。ウィムゼーは先に立って、金庫部屋のある奥の方へ行った。外側の扉と、第二の扉が、椅子でささえてあけたままになっていた。一番内側の扉は、一見どこが扉なのか、緑色の壁と区別がつかなかった。
「むやみに叩いて、機械の調子を狂わせてなければいいんだが」とウィムゼーはつぶやいた。彼の腕にすがった女の気がかりそうな手が、しっかりとしがみついてきた。彼は元気をふるい起こし、ふだんのままの陽気な調子を出そうとつとめながら、話しかけるような口調で、ドアに向かって言った――
「さあ、たのむぜ。調子のいいところを見せてくれ。開け、ごまってんだ。開け、ごま!」
緑色の扉が、いきなり壁の中へ吸いこまれた。女は駆け寄り、金庫の中からころがり出てきた意識を失った男を、両腕にかかえた。服はびりびりに裂け、傷だらけの両手からは血がしたたっている。
「大丈夫だ、心配はいらん! 大丈夫――裁判は受けられるだろう」とウィムゼーは言った。
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解説
ドロシー・L・セイヤーズは近代推理作家中、屈指の存在として知られていた。アメリカの評論家・詩人・作家であり、編集者でもあったエドマンド・ウィルソンは、一九四四年に推理小説の罵倒論を発表した。これがたいへんな反響をおこして、抗議文が殺到した。その際この作品を読んでから意見を述べてもらいたいといって、挙げられた作品のうち、もっとも推奨者の多かったのが女史の「ナイン・テイラーズ」である。翌年ウィルソンは反対者の推奨した作品を読んで反駁したのが「誰がアクロイドを殺そうが」で、「ナイン・テイラーズ」にも、もちろん触れている。彼はこの作品が冗漫であることを最大の難点としながら、推理小説としては文学的にすぐれていることを、しぶしぶ認めている。
こういう極端な推理小説否定論者はともかくとして、これが屈指の名作として長く名声を維持しているのは、情景とミステリーの渾然たる融合の力であった。鳴鐘というイギリス的風景の中におのずと醸し出された謎で、長篇を支えるにはトリックの規模が小さいという弱点はあるかもしれないが、無味乾燥の謎解きが多いとき、溌剌とした人間の生活に根ざした作品を読むと、いかにも豊醇な美酒に接する思いがする。
セイヤーズは一八九三年、東イングランドの牧師の娘として生まれた。父親はまた寺院の合唱隊養成学校の校長でもあった。「ナイン・テイラーズ」の舞台となった東部イングランドの沼沢地で育って、オクスフォード大学のサマーヴィル・カレッジに進み、一九一五年には中世文学について優等賞を得た。卒業後の数年間はロンドンの広告会社につとめ、文案を書いた。
一九一六年には一巻の詩集、三年後には Catholic Tales を出版したが、一九二三年には推理小説の処女作 Whose Body?〔邦訳名「ピーター卿乗り出す」〕を刊行し、探偵役のピーター・ウィムゼー卿はじめ、彼の従僕バンターやパーカー警部を生んだ。ウィムゼーはデンヴァー公を兄とする貴族で、富裕で学識すぐれた独身者に描かれているが、これは女史が広告会社勤務で僅かな給料をもらっていたため、作中人物に託して希望を叶えたものと見る向きもある。
一九二六年に第一次大戦当時、通信員として名声を博していたアサートン・フレミング大尉と結婚した。しかし、結婚後も筆名を変えなかった。女史には一九四〇年に推理小説を離れてしまうまで、十二篇の長篇と三巻の短篇集があるが、うち一篇の合作長篇を除いてはウィムゼー卿が登場する。
卿は一九三〇年の「毒」Strong Poison で、殺人犯の被告として法廷に立たされた女流推理作家ハリエット・ヴェーンに遭遇する。卿の活動で彼女の嫌疑が晴れるとともに、卿は求婚し、一九三二年の「死体を探せ」Have His Carcase では、両人が事件解決に協力する。更に一九三五年の「大学祭の夜」Gaudy Night になると、彼女の出身大学でおこった事件に乗り出すのだが、その舞台は女史の卒業したサマーヴィル・カレッジの生活が土台になっており、卿とヴェーンも見事に結ばれることになる。一九三七年の Busman's Honeymoon では両人が新婚旅行に出かけるといったふうに、ウィムゼー卿という主人公を長く守り続けただけでなく、恋愛から結婚の過程を織りこむ冒険を敢えて試みているのである。
ことに最後の長篇に至っては、「探偵によって中断された恋愛小説」という副題がついている。結ばれた両人について語るに際し、従来のありふれた物語を避けて、殺人事件を持ちこんで複雑にしたもので、その前作の「大学祭の夜」にしたところで、心理的で殺人は飾りにすぎないミステリーを意図しているのだった。
はじめから女史の推理小説は文学的情趣に富んでいた。推理小説のもっともすぐれた作品としてコリンズの「月長石」を挙げていることでも、女史の好みがうかがえるのだが、それが次第に文学偏重の傾向を帯びていったことは当然の成行きであったろう。その代り最後の二作は推理小説としては成功しているとは思えない。
ウィムゼー卿とヴェーンのめでたい結末は、短篇で子供の誕生にまで触れたのであるが、推理小説の著述もそれと符節を合わせるかのように、一九四〇年で打ち切られた。その後は宗教劇の脚本を書いたり、ダンテの「神曲」の英訳を出版したり、神学に関するエッセイを発表したりした。女史の幼時からの環境がしからしめたのであろう。
女史は新聞に寄稿した文中で、ウィムゼー卿はすでに死亡し、決して復活しないだろうと宣言していたが、一九五七年十二月、エセックスの自邸で心臓疾患のため急逝した。「神曲」の訳述は「地獄篇」「煉獄篇」を完成していたが、亡くなったとき、机上には数カ月前からとりかかっていた「天国篇」の草稿が未完のまま置いてあったと報じられた。
女史は作家としての業績のほかに、Great Short Stories of Detection, Mystery & Horror というアンソロジー三冊と、エヴリマンズ・ライブラリー中のTales of Detection を編纂している。傑作集に添えられた序文といい、短篇の選択眼といい、推理小説に対する造詣の深さと識見の高さがうかがわれるもので、この種の代表的なものとされている。ここには女史の短篇二篇を収めたが、すぐれた短篇鑑賞眼を実作でも裏書きしているのである。(中島河太郎)