ピーター卿乗り出す
ドロシー・セイヤーズ/小山内徹訳
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主要登場人物
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ピーター・ウィムジー卿……貴族探偵(*)
バンター……ピーターの執事
デンヴァー公爵未亡人……ピーターの母
フレディ・アーバスノット……ピーター卿の友人
アルフレッド・ティップス……若い建築家
グラディス・ホロックス……ティップス家の女中
サグ……警視庁の警部
パーカー……警視庁の刑事
サー・ルーベン・レヴィ……自力で一家をなした実業家
レディ・レヴィ(クリスティーン)……その妻
グレーブス……サー・ルーベンの従僕
サー・ジュリアン・フリーク……聖ルカ病院の外科部長
カミングズ……フリークの下僕
ジョン・P・ミリガン……アメリカ人の利権屋
スコット……その秘書
トーマス・クリンプルシャム……ソールズベリの弁護士
ウィックス……クリンプルシャムの共同経営者
(*)一八九〇年、第十五代デンヴァー公爵とハンプシャーの荘園主の娘ホノーリア・ルカスタの間に次男として出生。パブリック・スクールのイートン校をへてオックスフォード大学ベイリオル・カレッジ卒(一九一二年)。現代史専攻。一四〜一八年陸軍勤務。[趣味]犯罪学、古書蒐集、音楽、クリケット。[著作]『古書蒐集覚え書』『殺人者の手引き』他。[住居]ロンドンW区ピカデリー百十番地A、およびノーフォークのデュークス・デンヴァー、ブリードン館。紋章には「わが気まぐれ(ウィムジー)の赴くままに」の銘あり。
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第一章
「あっ、しまった」
ピカデリー広場のところで、ピーター・ウィムジー卿は大声をあげた。
「君、運転手君」
呼びかけられた運転手は、ちょうど車が櫛《くし》の歯をすくような錯雑した曲り角を横切り、下《しも》リージェント街に向っているときだったので、いやいや耳を傾けた。
「目録を忘れてきてしまった」
おだやかな声でピーター卿は話しかけ、
「我ながら実に不注意千万、君、すまんが、乗ってきたところへ車を戻してくれたまえ」
「サヴィル・クラブへ行くんでしょう、旦那?」
「いやいや、ピカデリーの百十番地だ、乗ってきたところは。すまんな」
「あっしゃね、お急ぎかと思ってたんですぜ」
運転手は、馬鹿をみたという調子で答えた。
「引きかえしてもらうには厄介なところだが……」
いかにも案じ気にピーター卿はいった。彼にしてみれば、まるで車が牛の歩みのように思えたからであった。
巡査の眼の下をかいくぐるように、タクシーは歯ぎしりのようなひびきを立て、方向を転じた。
新装の、しかも高級なアパートの三階にピーター卿は住んでいた。彼の部屋には永年来の蒐集品が山と積まれていた。
一歩足をふみ入れようとしたピーター卿は、図書室からの下僕の声を耳にした。それは手馴れた男が押し殺すようなはなしぶりで電話している声であった。
「旦那様は、もうお戻りのはずでございます、大奥様、少々電話をそのままお切りいただかずにおきますならば……」
「何だい、バンター?」
「デンヴァーから大奥様のお電話でございます、旦那様。競売におでかけになりましたと申しあげようといたしておりますと、外から戸をおあけになる旦那様の鍵の音を耳にいたしましたもので……」
「いや、ありがとう」ピーター卿はこういってから「すまんが、僕の目録を探してくれないか? たぶん寝室か、でなければ机の上におき忘れたようだ」
彼は、さもたのしい無駄ばなしに仲間入りするように、電話を手にした。それでいて礼儀正しく、ゆっくり、
「母上――ですね」
「ああ、お前なのね」デンヴァー公爵未亡人の声が答えた。「一足ちがいになったのかと思いましたよ」
「いや、実のところはそうだったのです。僕はブロックスベリの売立てで一、二冊本を掘りだしに出かけたところでした。ところが目録を忘れたのでとりに戻ったところなのです。何かあったのですか?」
「こんなおかしなことってあるかしら?」公爵夫人はいって「それで私はお前にはなそうと思ったのよ。お前、若いティップスさんを知っているだろう?」
「ティップス?」ピーター卿はそういうと「ティップスですね、あ、ええ、教会の屋根の仕事をしている若い建築屋ですね。ええ、彼がどうしたんです?」
「スログモートン夫人が今みえて、とても心配しておられるの……」
「失礼、母上、よく聞こえませんでしたが、何夫人ですって?」
「スログモートン――スログモートン、牧師様の奥様よ」
「ああ、スログモートンですか、わかりました」
「ティップスさんが、今朝電話をかけてきたの。今日は仕事にくる日だったのよ、知ってるでしょう」
「それで?」
「電話をかけてきて、こられないといったんです。可哀そうに、とてもあわててて。彼は浴室で死体をみつけたんですよ」
「失礼、母上、よく聞こえませんでした。何をみつけたんですって、どこで?」
「死体ですよ、お前、浴室で――」
「何ですって? ちがうちがう、まだ電話中だよ、電話を切らないでくれたまえ、もしもし、母上ですか? もしもし? 母上ですね? ええ、いや失礼しました、交換手が電話を切ろうとしたもので。それで、その死体というのは?」
「死んでる男の人のだよ。お前それが、鼻眼鏡の外には何一つ身につけていないんだって。スログモートン夫人は、私に話しながら赤面していたけれど、教区牧師館のがちがちたちが、どううけとるか、それが私の心配さ」
「なるほど少々常軌を逸してますね。それが誰だか彼は知らないんですか?」
「そのようよ、お前。もちろん、彼は夫人にくわしいことをはなさなかったのだよ。ティップスさんは、てんやわんやだと夫人はいってるの。彼はね、まっとうな若者だし、それにおまわりさんが来ていたりして、本当に心配らしいのさ」
「気の毒なことですね。全く処置に困ったでしょうな。ええと、彼はバターシーに住んでいたんじゃありませんでしたか?」
「そうだよ、お前、クイン・カロリーヌ館の五十九号だよ。公園の反対側のね。病院の角を曲がった、あの大きな一画さ。たぶんお前はすぐに行って彼に逢ってやり、何か私たちにできることがあったらと、きいてくれると思うのだけど。私はいつだって彼のことを好い若者と思っているものね」
「おっしゃる通りです」ピーター卿はうなずいて答えた。
いつも公爵夫人は彼の趣味である犯罪研究のすばらしい助手だったが、決してそれをひけらかすようなことはなかった。そして常に完全犯罪はありえないと主張していた。
「母上、それは何時ごろおきたことなのです?」
「彼が死体を発見したのは今朝早くだと思うのだけど、むろん、すぐにスログモートンさんのところへ知らせたとは思われないよ。だって、夫人が私のところへやってきたのが、お昼のちょっと前でしょう、いやーね、私は待たせてあるの。運のいいことに、私一人だったのよ。私は自分が退屈するのは構わないけど、お客さんを退屈させる気はないのよ」
「ご親切にどうも、母上、わざわざおしらせ下さって感謝します。じゃあ僕は競売のほうはバンターにまかせて、大急ぎでバターシーに行って、その哀れな若者をなぐさめてやることにします、さようなら」
「ご機嫌よう、お前」
「バンター」
「はい、旦那様」
「母上のはなしだと、バターシーの実直な建築屋が、自分の浴室で死人をみつけたとおっしゃる」
「さようでございますか、旦那様? それではさぞやお喜びでございましょう」
「バンター、うまいぞ、お前は時宜にふさわしい言葉を使うな。立派な教育をうけた奴でも、そううまくいいあらわせるものではない。ところで、目録はみつかったろうな?」
「ここにございます、旦那様」
「よろしい、僕はすぐにバターシーに出発する。お前は僕の代りに競売へ行ってくれ。ぐずぐずしないでだ――僕はダンテの二折本〔原註 これはニコロ・デイ・ロレンツォによる一四八一年のフィレンツェ初版本である。ピーター卿のあつめたダンテ本は高く評価されている。それにはさらに一五〇二年の有名なオルデイン八巻や、一四七七年のナポリ二折本も含まれている〕とか、ドヴォラジンを手に入れたいんだ、わかったな? 黄金伝説の一四九三年の「ウィンキン・ド・オルド」これは手に入るかな? それからカックストン版の「エイモンの四人の息子たち」を手に入れるため、特に骨を折ってもらいたい。それは一四八九年版で一冊しかないものだ。これをみてくれ、僕は色々手に入れたいものに印をつけておいた。印のついていないのでも一々注意してくれたまえ。全力を捧げてね、僕は夕飯までには戻ってくる」
「かしこまりました、旦那様」
「僕のタクシーで行くといい、運転手に急げといってな。お前のいうことならきくだろう。あの男は、どうも僕を好かんようだ。僕は」そういいながらピーター卿はマントルピースの上にかかっている、十八世紀ものの鏡にうつる自分の姿をみていたが、「僕は大さわぎの渦の真ん中で、どぎまぎしてるティップスにあうのに、何といったらいいか、うまくいえないが、シルクハットのフロックコートで行くべきかどうかだ。いやいかん、十中八九、彼は僕のズボンをじろじろみて、葬儀屋とみまちがえるだろう。グレイの背広がよかろう、小ざっぱりして派手でなく、帽子もそれにふさわしいものを冠《かぶ》ってな。初版本の愛好者は退場だ。バスーンの独奏につれて新しい動きへの導入、しずしずと歩み来たる紳士、シャーロック・ホームズの登場だ、そら行けバンター。得がたき者よ、彼が何を申そうとも、汝は思い患わさるることなかれ――だ。彼は『エイモンの四人の息子たち』を手に入れんとぞ思いけり、だ。お前にはわからんだろうが――かりにローマの教会が破壊されたり、イタリア軍にスイスが侵略されようとも郊外の浴室にあった見しらぬ死体がもう一度、生きかえることはありえない。少なくとも、僕はそうは思わんが、いずれにしてもよくあることさ、ただ鼻眼鏡をかけていた、なんていうのはたぶん、指で数えるほどしかなかったよ。おやおや、これではまるで二兎を追うものはの例えになってしまったな」
彼は斜めに横切ると寝室へ入って行った。そして彼らしからぬスピードで着替えをはじめた。靴下の色とよくあう暗緑色のネクタイをえらび出すと、いささかも唇をかんだりせず、さっさときちんとネクタイを結んだ。はいていた黒靴を茶色のものにはきかえ、胸のポケットへ片眼鏡《モノクル》をすべりこませ、重い銀のにぎりのついている、美しいマラッカ風のステッキをとりあげた。
「これで、全部だ――と思うが」彼は呟《つぶや》いたが「ちょっと待った。こいつを忘れてはいかん。これはきっと役に立つ、誰にも気付かれずにな」
平たい銀製のマッチ箱をとりあげて、ちらりと時計をみた。はや三時十五分前とみてとると、彼は急いで下へかけおり、タクシーをよびとめた。タクシーは彼をバターシーへ運んで行った。
アルフレッド・ティップス氏は小柄で亜麻色の髪の毛はちりちりと縮れていて、神経質らしい男だった。
彼の目立った特徴は左の眉の上の大きな傷痕で、その人にふさわしくないものと人はいった。だから彼もそれを意識していて、人にあったとき、まずその傷について弁明していた。口の中でぶつぶつと、暗闇の中で、食堂のドアにぶつかってこさえたといっていた。彼はわざわざここまでやってきてくれたピーター卿の深い思いやりと親切に対して、涙をながさんばかりに喜んだ。
「ご親切に、ありがとうございます」
何度も何度もくりかえして、こういった彼の弱々しい小さな瞼《まぶた》は、ちかちかと瞬いていた。
「本当に、私は心の底から、深くお礼申し上げます。母もそうだと思いますが、母はとても耳が遠いので、私はそれで何かとご面倒をおかけするのではないかと心配です。とにかく一日中ひどい目にあいました」彼は言葉をつづけ「家の中には警官がいて、このさわぎです。私も母も、普段からあまりよその方とおつきあいをしませんでしたし、こんな風に生活も滅茶苦茶にされて、旦那様、実際のところ、母にわからないことを私は喜んでおります。もし母が、本当のことを知ったら、ひどく案じると思うからです。はじめに母は狼狽《ろうばい》しました。でも今では何か自分の考えをもっているようです。私には母の考えが最善のものだと信じています」
暖炉のそばに坐って編物をしている老婦人は、真剣な顔で息子をみると、そうだそうだというようにうなずいた。
「アルフレッドや、私はいつもお前に、あの浴室の苦情のことを言うようにいっているだろう」
急に甲高い、汽笛がぴーっとなるような声で老婦人は、耳の遠い人にきかせる調子で、口を切った。「大家に、なんとかしてもらいたいしね。私はお前が、お巡りさんを家に入れたというつもりじゃあないが、でもね、お前は箸《はし》が転んだくらいのことで、いつもさわぎすぎますよ」
「ごらんの通りでして」ティップス氏は弁解するように「おわかりになりましたでしょう。私たちが浴室に鍵をかけたというわけではないのに、私たちが中へ入らせないようにしていると思いこんでいるんです。ひどいショックをうけたんで、あなた、いえ旦那様。神経がばらばらになってしまったみたいです。こんなことは一度だって、あったことはありませんでした、生まれてこの方。今朝はとても心配で、全く動顛《どうてん》してしまいました。私の心臓は強い方じゃありません。私は辛うじてあの恐ろしい部屋からぬけ出し、警察へ電話しなければいけないことに気がつきました。全くそのおかげで、あなた、そのおかげですよ、本当に、私は朝飯に箸一つつけられなかったんです、昼だってそうです。午前中、電話をかけたり、お客に断わりをいったり、人にあったりして、自分でどうしたらいいかわからなくなってしまいました」
「それは大変なことだったでしょうな」同情するようにピーター卿はいうと「とにかく朝飯前だったことはよろしくない。朝飯前のごたごたは何であってもやり切れないですからな」
「そこなんです、それなんです」夢中になってティップス氏はいうと「私は浴室に、あのおそるべきものを発見して、しかも、眼鏡をかけている以外は丸裸なんですよ。私は断言します、旦那様、そいつは私の胃袋を引っくりかえしてしまったんです、こんな風に申しあげることをおゆるし下さい。私は丈夫ではありません。私は今朝物思いに沈んでしまいました。あれこれと思いわずらって。そこで私は、女中に強いブランディをとりにやって、でないと、どうなるかわからなくなってしまうからです。いつもは、少し酒をのんでも私はひどく気持がわるくなるのです。今までに一度だって、家でブランディをのんだりしたことはなかったのです。こんな出来事さえなければ、おわかりでしょう?」
「なかなか君は賢いよ」明るい声でピーター卿はいうと「ティップスさん、あなたは先見の明をもっている。さしせまったとき、ちょっと一杯ひっかけるのは悪くないな。もっと具合のいいときにやるよりうまくはないがね。君のうちの女中さんは、ものわかりのいい若い娘さんだと思うが、どうかね? 近所に聞こえるほど、キャーッとか、キイキイ大声で物をいうような女は全く迷惑者さ」
「ああ、グラディスは好い娘《こ》です」ティップス氏はいって「本当に理智的です。むろん、彼女もショックをうけました、当然のことです。私もショックをうけました。こんな状況におかれた若い娘がショックをうけるのは当り前です。でも彼女は危機に遭っても、役に立つ勇ましい娘なんです。おわかりいただけると思います。今日日《きょうび》こんなにいい立派な娘にいてもらえるということは、私や母にとって願ってもない幸福と、よく私は自分で考えました。たとえ、ちょっとしたことに対して、少し軽率で忘れっぽかったとしても、それはほんの生まれつきなんです。彼女は非常に残念なことですが、浴室の窓をしめわすれていました。はじめにそれがどんな結果をひきおこすかを考えて私は叱りました。とりたてていう何事もなかったので、あなたでもただ叱っただけだと思います。ご存じのように、娘たちはよく物忘れをします、旦那様、私があんまりひどくいわなかったので、かえって彼女は苦しんだようでした。私はこんな風にいいました。(泥棒の仕業かもしれないよ)といってから(おぼえておくがいい。もしまた一晩中窓をしめ忘れたりすると、今度は死んだ男だったけど、この次は強盗におし入られて、みんな寝床の中で殺されるかもしれないからね)。しかし警部の――警視庁《ヤード》からきたあの人をみんなはサグ警部と呼んでいましたが、彼はあの娘《こ》に手きびしく当りました、可哀そうに。本当に彼女をふるえ上がらせたのです。あの娘が何か自分が疑われているのではないかと思ったほどにです。あんな死体が彼女に役に立つわけがないじゃありませんか。私には思いもつきません。だから私がそう警部にいうと、とても失礼な奴です、旦那様。どの道、私にいわせれば、彼の態度はよくありません。(警部さん、何か私とグラディスを当然のように非難されるんでしたら)と、私は彼にいってやりました。(考えていることをはっきりいったらどうなんです。ですが私ははっきりおぼえておきますよ。あなたは一人の紳士に向って、しかもその紳士の家で、どのくらい失礼な仕打ちをしたかということをね)」ティップス氏は興奮の面持でこういってから「彼は私を腹立たせました。本当に腹が立って立って、旦那様、私はいつもはおだやかな人間なのです」
「それがサグという男ですよ」ピーター卿はいうと、「僕はあの男を知っています。自分で、どんな無作法なことをいっているか気がつかないんです。あなたと娘さんが死体を蒐集しているなんてことは考えられませんな。誰だってそんなものをしょいこむ気はないでしょう? ですが死体などというものは、そう簡単に片付けられるもんじゃなし、で、あなたは死体を片付けましたか?」
「まだ、浴室にあります」ティップス氏はいった。「サグ警部は、自分の部下がきて死体を動かすまで、何にも手をふれてはいけないといいました。いつこられてもいいように、私は待っているのです。きっと、旦那様は死体をごらんになりたいと思いますが」
「それはありがたいな」ピーター卿はいうと「あなたが許してくれれば、私はそうさせてもらいたいんだが……」
「かまいませんとも」
ティップス氏はいった。ピーター卿は先に立って廊下を行く彼の態度から、二つの事柄に気付いた。まず第一に、彼がみせようとするものはティップス一家にふりかかった重大事なのに、さも楽しげであるということ、第二に、死体をサグ警部が誰にもみせてはいけないと禁じたということであった。ことにサグ警部が死体をみせてはならぬと命じたことは、ティップス氏の行動ではっきりとわかった。というのは、ティップス氏が、自分の寝室へ行って鍵をもってきて、どの扉にも鍵が二つずつあって、もう一つの鍵は警官にわたしてあるといったからである。
浴室はとりたてて変ったものではなかった。細長くて狭い浴室で、窓はちょうど浴槽の頭部に位置していた。窓ガラスは艶消しで、ひと一人の身体が通りぬけられる窓枠がはまっていた。
ピーター卿は足早に窓に近づくと、窓をあけて外をみわたした。
この部屋は建物の最上階の部屋の一つで、おおよそ、その一画の中央部にあった。浴室の窓からは、色々小さい離れ屋や、石炭箱や、車庫やそんなふうなものなどのある裏庭がみおろせた。その向うには二列に建ち並んだ家々の裏庭があった。その右手には、バターシーの聖ルカ病院の広大な建物がたっていた。舗装道路の地続きには、この大きな新しい病院の外科の方面で采配をふるっている著名な外科医、サー・ジュリアン・フリークの家があった。フリークは、ハーレー街でも独特の識見をもつ、有能な神経病医としても知られていた。
これらのことは一々ティップス氏の口から説明をうけたことなのだが、ティップス氏はフリークがクイン・カロリーヌ館一帯でも付近の人々に尊敬されているとつけ加えた。
「今朝も私たちは彼の姿を近所でみかけたんです」ティップス氏はこういってから「あのぞっとするような仕事のときです。あなたもそうおっしゃるかもしれませんが、サグ警部は、病院の若い医学生が、いたずらに死体をもってきたんじゃないかと思ったようです。いつも解剖室に死体をおいてあるからです。そこで今朝、サグ警部はサー・ジュリアンに逢いに行き、解剖室で死体が紛失していないかとたずねました。サー・ジュリアンは本当に親切だったそうです。帳簿と照合して死体を数えた上、喜んで見にきてくれたのです」といって彼は浴槽を指さし、「手助けができなくて申しわけないといいました。病院から死体は一つも紛失していなかったのです。この死体に該当するものは病院になかったのです」
「患者の誰かと人相が似てはいなかったのだろうか」
ピーターはひょいと思いついたように、いった。
この恐ろしいヒントに、ティップス氏の顔色がさっと変った。
「サグ警部の訊問を私はきいたわけじゃないんです」彼は不安気にそういって「もしそうだとしたら、何という恐ろしいことでしょう。神よ、お恵みを垂れたまえ、私はそんな風に思いたくありません」
「もし彼らが患者の一人をみうしなっていたとしたら、たぶんここで発見していたかもしれないのさ」ピーター卿はこういうと「ちょっと拝見することにしよう」
ピーター卿は片眼鏡をかけると、いい足すように、
「わかっていますとも、あなたには迷惑なはなしですからね。ひどい迷惑――そうでしょう? 私とてご同様。私の本の邪魔をされましたよ。さてと、もしおさしつかえなかったら、ちょっと――」
彼はためらいがちのティップス氏の手をかりて、浴槽にかけてある覆いをはねのけた。
浴槽に横たわっている死体は背が高く、がっしりとした五十くらいの男だった。その濃くて黒く、自然に縮れている頭髪は、手なれた人間の手で刈り込まれ、分けられていた。
淡いスミレ香水の匂いが、とじこめられた浴室の空気の中にただよっていた。体格はがっしりと固太りで、丈夫そうにみえ、黒い眼は突き出て、かぎ鼻ががっしりした顎《あご》へ垂れ下っているようにみえた。両唇は大きくあいていて、何か官能的で、おちこんでいる顎からのぞいている歯は煙草のヤニでよごれていた。死人の顔の上にのっている粋な鼻眼鏡は、妖しい優雅さで、死をあざけり笑っているようだった。眼鏡の美しい金鎖がその胸にのっていた。両足は硬直したままならんで突き出ていて、両腕は身体にぎゅっと押しつけられていた。指は自然のままに曲げられていた。
ピーター卿は片腕をもちあげて、ちょっと眉をひそめるようにして、その手をながめた。
「お宅のお客さまは、ちょっとした洒落者ですね、え?」そうつぶやいて「スミレ香水をつけて、マニキュアまでしてござる」彼はまたかがみこむと、死体の首の下へ手をすべりこませた。
おかしな鼻眼鏡はすべって外れ、かたりと音を立てて浴槽の中へおちた。この音は高ぶっていたティップス氏の神経にふれたようだった。
「ご容赦下さるならば」彼は口の中でいうと「何だか気持がわるくなりましたので」
ピーター卿が死体に手をかけるや否や、こういうとティップス氏はすばやく、注意しながら浴室の外へすべり出て行った。
ピーター卿は、死体を腕の中で転がすようにして片側から調べてみた。片眼鏡をひねくるさまは、つい最近のジョゼフ・チェンバレン〔イギリスの政治家〕がすばらしい蘭を賞《め》でてでもいるようにみえた。
やがて彼は死人の顔を腕にのせ、ポケットから銀のマッチ箱をとり出すと、あんぐりあいている死人の口の中へつっこんでみた。
それから、「ちょっちょっ」という音を立てて舌打ちすると、死体を元のように横たえ、奇妙な鼻眼鏡をひろいあげてしらべてから、ちょっと自分でかけてみて、また舌打ちをすると、鼻眼鏡を元のように死体の鼻の上においた。
サグ警部から文句をつけられないように、きちんとすべてを元の通りに直すと、窓のところへ行って、外をのぞいてみた。
ステッキを窓から上へ横へのばしてみたが、この調査では、何も得られるところがなかった。彼は頭をひくと、窓をしめ、廊下でティップス氏と一緒になった。
ティップス氏は、公爵の若い息子と共通の話題をもっているので、失礼ですがお茶を一杯とさそい、二人は居間へ戻って行った。
ピーター卿が窓のそばを行きつ戻りつしながら、物思いにふけってバターシー・パークの風景に目をむけていると、プリンス・オブ・ウェールズ通りの向うから、一台の病院車が視野に入ってきた。それをみてピーター卿は大事な約束を思い出し、早口に「そうだった」といって、ティップス氏に別れを告げた。
「母からもくれぐれもよろしくといっていました」
固い握手を交わしながら、彼はいった。「近日中、また、あなたがデンヴァーへお出かけになれるように祈ります。さよなら、ティップスの奥さん」こう年とった夫人の耳に大声でいってから、「いやですね、もうこれ以上の迷惑ごとはごめん蒙りたいものです」
ちょうどよかった。彼が家の外へ出て駅の方へ向ったとき、反対の方向から病院車が家の前に着いた。サグ警部が二人の警官を連れて車から下りてきた。警部は部下に館での命令を下してから、遠ざかって行くピーター卿の背に、疑いぶかいまなざしを投げた。
「そうかい、サグ君」
ピーター卿はつぶやいていた。
「さぞかしお腹立ちのことだろう、君みたいな人にとっては、この僕がね……」
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第二章
「大できだ、バンター」
贅沢な肱掛椅子に身を沈めながら、ほっと溜息をもらしてピーター卿がいった。
「僕が自分で行っても、それほどうまくはいかなかったろう。ダンテは僕の垂涎《すいぜん》の的《まと》だったし、『エイモンの四人の息子たち』だってそうさ。おまけにお前は、僕に六十ポンドも得《とく》させてくれたんだ。大したもんだ。ところでバンター、その金をどんなふうに使おうかな? 考えてくれよ。みんな好きなように我々で使おうじゃないか。ハロルド・スキンポールのように、公平にいうのさ。六十ポンド安く買ったということは、六十ポンドをかちとったことなんだ。みんな使ってしまうべき金だと僕は思うのだ。バンター、お前の貯金さ、正しくいえば、お前の六十ポンドというわけさ。何にしようかな? お前の関係部門で何かないかな? この部屋の中のもので、何か変えたいものでもないかね?」
「はい旦那様、大変結構なお考えで――」
バンターは、丁度リキュール・グラスに年代もののブランディを注《つ》ごうとしていたが考えるようにいった。
「バンター、いつものようなことをいうんじゃない。この猫っかぶりの偽善者め。お前は、晩餐の支度ができましてございます、というようなつもりでいう気らしいが、そんないい方はやめるんだ。お前は、ブランディを注《つ》いでいるんじゃないか。考えていることと、していることとちくはぐだ。お前のたのしい暗室に何かほしいものはないのかな?」
「補助レンズが一組ついている二倍無収査レンズがございます」熱のこもった調子でバンターはいうと、「文書偽造の場合とか、足跡をしらべますときに、これがございますと、感光板の上ですぐに拡大できます。もしくは、広角レンズでも役に立つと存じます。カメラが頭部の後方に円窓をもっておりますように――旦那様、これなのでございます」
バンターはポケットからカタログをとりだすと、手をふるわせながら主人の目の前へさし出した。
ピーター卿は、ゆっくりゆっくり、大きな口をへの字にまげて、微笑しながら通読した。
「僕には、わけがわからんな」彼はそういうと「それに、五十ポンドが二三枚の硝子の値段とは怪《け》しからんはなしだ。僕はこう思うんだが、バンター、お前は古ぼけて汚い、たった一冊の本、それも今では役に立たない廃語で書かれた本が七百五十ポンドもしたんだから、といいたいんじゃないのかい?」
「旦那様、そのようなことを私は申せる分際ではございません」
「そうじゃないぞ、バンター。僕はお前の才能に対して、年に二百ポンド払っているんだぞ。さあさあいうんだ、バンター。当今は民主主義時代だ、お前はそれでも不公平だと思っているのかね?」
「さようなことは、旦那様」
「不公平ではない。よろしい、では何故《なぜ》お前が不公平だと思っていないかということを、はっきりいってみないか?」
「率直に申し上げます、旦那様。あなたさまは身分の高いお方として、立派にレディ・ウォーシントン様を晩餐にご案内あそばし、まことに当意即妙な才をおふるいになります」
ピーター卿はちょっと考えたようだったが、
「それがお前の考えだというんだな、バンター。身分の高いものは、そんな風に義務づけられるだけのはなしだ。お前のいうことはおそらくまちがってはいまい。お前の方が、僕より裕福さ。というのはだ、たとえ僕が一ペニーしかもっていなくても、レディ・ウォーシントンの前では、お行儀よくしていなければならないということなのだ。バンター、もし僕が、たった今ここでお前を解雇したら、お前がどう思うか言ってみちゃあくれまいか?」
「とんでもございません、旦那様」
「バンター、お前には当然の権利があるんだ。もしお前の首を切ったとしたら、お前がつくってくれたコーヒーをのみかけている最中ででも、僕についてお前が何といおうとも、お前はいいたいことをいって差し支えないのだ。お前ほどコーヒー淹《い》れの名人はいないからな、バンター。どんな風にしてコーヒーを淹れるのか知りたいとは僕は思わんよ。たぶん、魔法をつかって淹れているんじゃないかと思っているからさ。それに、僕は、今後も自分でコーヒーを淹れようとは思わん。お前の薮睨《やぶにら》みレンズを買うがいい……」
「ありがとう存じます、旦那様」
「食堂のほうの支度はすんだかな?」
「充分とは申せません」
「よろしい、時間がきたらすればよい。まだお前に、話したいことが色々あるんだ。おやっ、誰だろう?」
入口のベルが、高く鳴った。
「用のない人間だったら、留守だぞ」
「かしこまりました」
ピーター卿の図書室は、ロンドンで一番よろこばれる独身者たちの集会室になっていた。
部屋は黒とサクラソウ色で整えられ、その壁にはぎっしりと稀覯《きこう》書がならび、椅子やチェスターフィールド・ソファに腰を下すと、まるで天女に抱かれている気持さながらを想わせた。
片隅には小型のグランド・ピアノがおいてあり、大きい旧式な炉の中で、薪の火がぴちぴち音を立ててもえていた。セーヴルの花瓶が装飾炉棚におかれ、瓶にはいっぱい、生き生きとした黄菊の束が投げこまれていた。
しっとりした十一月の霧の中からこの部屋へ通されてきた若い男の眼に、黄菊はただ物珍しく何か家族的な親しみをあたえてくれたばかりでなく、まるで中世風の油絵にかかれた、極彩色でぴかぴか光っている天国のようにも見えた。
「パーカー様でございます」
ピーター卿はおどり上がるようにして迎えた。
「よく来てくれたな、嬉しいよ、君。全く、何てひどい霧の晩だろう。バンター、もう少しこの結構なコーヒーと、グラスを一つ。それから葉巻だ。パーカー君、君は今夜、事件で心が一杯だろう――我々の役にたつ、放火とか殺人とかのことで。(かくのごとき夜に、かくのごとき)などと、今バンターと僕は腰をおろして酒盛りをやっていたのさ。サー・ラルフ・ブロックスベリーの売立てで、僕はダンテを手に入れたんだ。本当にたった一つしかない、カックストン二つ折版のをだぜ。バンターが売り立てに行ってくれたんだが、バンターは、もっとすてきなものがあったのに、脇目もふらずに行って来てくれて、それから――
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風呂場で屍体をみつけてな
風呂場で屍体をみつけてな
いろんな誘《さそ》いがあったけど
お安いお手《て》はいただかん
死体は湯槽《ゆぶね》におかれたさ
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パーカー君、我々には役に立たんかもしれない。現在は僕のものだが、お裾分けしていいよ。固定資産か。どうだい仲間に入らんかな? それには、何か投資してもらわんとね。たぶん、君も死体をおもちだろう、もってるね、どんな死体も歓迎。
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よっこらしょっと
死体をひきあげる
鉤《かぎ》っ鼻をば ちょっとひいて
殺《や》られた仏《ほとけ》を よっこらしょ
サグはちがった索《つな》ひいた
死人が口をきけばよい?
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それはちょっともかまわんさ。彼は冷たい眼できらりと君をみて、おわかかりのことと存じます――敬具《けいぐ》かね」
「やっぱり」パーカーはこういうと「私はあなたがクイン・カロリーヌ館に行かれたことを知っておりました。私も行って、サグにあい、彼があなたをおみかけしたと申しました。彼はとても不機嫌でした。不都合な妨害をうけたと申しておりました」
「そんなことと思っていたよ」ピーター卿はいってから「僕は我が親愛なるサグに一杯食わせるのが大好きなんだ。あいつはいつでも無躾《ぶしつけ》な奴だ。運星上からみて、サグはグラディス何とかという娘を拘留して勝ちほこっている。哀れはかなき、たそがれのサグよ! しかし、どうして君はあそこへ行ったんだ?」
「本当のことを申し上げますと」パーカーはこういって「ティップス氏の浴室にいたセム人そっくり〔素裸の男をいう〕の見知らぬ男が、突飛なことですが、もしかしたら、サー・ルーベン・レヴィではないかと思い、それで出かけた次第なのです。ですが、レヴィではありませんでした」
「サー・ルーベン・レヴィだと? ちょっと待った、何かそのようなことをみたぞ。そうだ、見出しで読んだ『著名な資産家の不可思議な失踪』だ。一体どういうことなのだ。僕は注意して読んでいない――」
「それがいささか妙なのです。こんな風にしかいえないのですが、老人は、おそらく自分だけしか知らない理由で姿を消したらしいのです。ほんの今朝おきたことでした。おまけに誰も失踪に気がつかなかったのです。ちょうど彼が非常に重要な融資の集まりに出席して、とりまとめなければならない日に突発したわけなのです。私は細部について詳しいことは知りませんが、彼が出席しないということは、数百万ポンドの打撃をあたえたことになるのだそうです。そのとりまとめが成立しなければいいと思う敵を彼がもっていることを私は知っていましたので、浴槽の中の男のことを聞くと、大急ぎでみに出かけたというわけでした。むろん、そうとは思っていませんでしたが、我々の仕事には、よく有りうべからざることがおきます。おかしなことに、あのサグは、死体がそれだという考えにとりつかれ、乱暴にもレディ・レヴィに電報をうって、こちらへ来て判別してもらいたいとやってのけました。ところで事実、浴槽の中の男は、サー・ルーベン・レヴィではない上に、あの哀れなアドルフ・ベックでもむろんなく、ただの名なしの権兵衛でした。奇妙なことに、全く髯《ひげ》さえあればサー・ルーベンにそっくりといってよかったんです。家族のものと外国へ行っているレディ・レヴィでさえ、誰かにそうだといわれたほどだったので、サグは自信をえてしまい、考えを変えようとはしませんでした」
「サグは、愛すべき愚か者で」ピーター卿はいうと「まるで小説の中の探偵そっくりじゃないか。ところで僕はレヴィについて何も知らないが、死体はみている。その限りでは、とんでもない思いつきだね。ブランディはどうだい?」
「ウィムジーさん、ありがたいですな。ですが、私はあなたの話をうかがいたいと思います」
「バンターにも聞かせてやってかまわんかね? カメラにこっているが、バンターは有能な奴なんだ。その上、いつでも僕が何か用をいいつけようとすると、何を僕がしてほしいかということをちゃんと知っているのだ。いつ、そういう術を会得したか、僕は知らん。きっと眠っている間に、いろいろなことを会得するんだと僕は思うくらいだ、バンター」
「はい、旦那様」
「ここではな、つまらんことを抜きにして、お前ものんびり楽しくやるんだな」
「全くその通りでございます、旦那様」
「パーカーさんは、新しい手品をお持ちだ。消え行く資産家とござい。種もしかけもございません。あーら不思議やな、この通り消え失せてござりまする! さてどこへ消えて失せましたるや? どなたか舞台にお上りの上、この箪笥をおしらべ下さいませんでしょうか? どうも恐れ入りました、ほんの小手先の業さ」
「私のはなしは、大した話ではないと思いますが」パーカーはこういうと「手がかりにはならないでしょうが、こんなことがありました。サー・ルーベン・レヴィは、昨夜三人の友人とリッツで晩餐を共にしました。食事のあとで、友人たちは劇場へ行ったのです。彼は約束があるからといって、同行をことわりました。その約束について、私はまだ手がかりを得てはいませんが、しかし、少なくとも彼は十二時に、パーク・レーン九十四番地の自宅へ帰ったのです」
「誰かが彼をみたんだな?」
「寝床へ入りかけていた料理番がみたのです。入口の階段のところにいて、自分で戸をあけて入って行った音をきいていたのです。彼は二階へ上がると、外套を帽子かけにかけ、傘を傘立てにおいて――昨夜は雨がふっていたのをおぼえていらっしゃるでしょう。彼は服をぬいで床につきました。次の朝、彼はそこにはいなかったのです。これが全部です」パーカーは、ぶっきら棒に、さようならというような手付をしていった。
「おしまいじゃないよ、おしまいでたまるもんか、お父っちゃんは行っちまった、これじゃあ、まだはなし半分にもなりゃしない」ピーター卿は抗議した。
「ですが、これが全部なんです。召使いがよびおこしに来て、主人がいないのに気付いたのです。ベッドには寝た痕跡がありました。寝間着も、身のまわりのすべてが、おいてありましたが、おかしなことに、いつもなら、ベッドの裾の長椅子の上に、服を投げちらかしておくのが、サー・ルーベンの癖だったのが、別の椅子の上に、きちんと袖だたみにしてありました。服一着、靴一足なくなってはいなかったのです。彼のはいていた長靴は、いつものように更衣室においてありました。彼は顔をあらい、歯をみがき、いつもの通りのことをしていたのです。女中がホールの掃除に下りてきたのが六時半で、それ以後、誰も出入りしたものはなかったと、彼女は確言しました。強いて考えを推しすすめるならば、中年のユダヤ人の資産家は、十二時から午前六時までの間に、頭が変になり、十一月の夜だというのに、素っ裸で家をとびだして行ったのか、それとも、インゴールズビー伝説の中の夫人のように、身ぐるみ神隠しにあい、あとにのこされたのは、一塊の衣服だったということになります」
「正面の扉に、閂《かんぬき》はかかっていたのかな?」
「たぶん、あなたがそんなことをおたずねになるのではないかと思っていました。私もそれについて大分考えさせられたのです。そうではありませんでした。慣習とはちがって、ただエール錠だけで、しかも鍵はかかっていなかったのです。というのは、女中に劇場へ行く許可を与えていたので、しめ出しをくわしたりしてはとサー・ルーベンが考えたせいもあったらしく、事実、そんなことが前にあったのです」
「本当に、それで全部かな?」
「本当に全部です。ほんの片々《へんぺん》たる些事《さじ》をのぞいては――」
「僕は、その片々たる些事てのが大好きなんだ」まるで子供のように喜んでピーター卿はいった。「随分大勢の人間が、その片々たる些事で絞首刑をうけているんだからな。その些事というのは?」
「サー・ルーベンとレディ・レヴィはいつも同じ部屋でやすみました。レディ・レヴィは、前に申し上げましたが、保養でマントンに滞在しています。夫人の不在中でも、サー・ルーベンはいつものように、ダブルベッドでやすみます。相も変らず、いつも自分の寝る側――ベッドの外側ですが――に眠っていました。昨夜、彼は二つの枕をくっつけて、その二つの枕の間でねたか、それでなければ、はじの枕と壁の間で寝たらしいのです。ベッドを直しに行った女中がこのことに気づいたのですが、この女中は仲々頭のいい娘で、その上、立派な探偵的な勘をもっていましたから、自分でベッドにふれなかったばかりでなく、警官が到着するまで、誰にも指一本ふれさせなかったのです」
「というと、サー・ルーベンと召使いの他には、誰も邸にはいなかったんだね?」
「ええ、レディ・レヴィは娘と小間使いをつれて保養に出かけていました。侍僕や料理番とか、小間使いやら、下女、台所の女中はおりました。むろん、一二時間、べちゃくちゃ無駄ばなしを、さぞしていたことでしょう。私がそこへ行ったのは十時だったんです」
「そこで君は、どうしたんだい?」
「サー・ルーベンが昨夜した約束の足どりを追ってみました。料理番の外に、失踪前の彼をみたのは、約束した当の相手だと思ったからです。サー・ルーベンは単純なことで姿を消したのかもしれないが、いったん家に帰って床についたあと、またふらふらと何も身につけないで夜の夜中に出て行ったんです――」
「おそらく変装していただろう」
「私もそう思ってみましたし、それが唯一の可能性のある説明に思えました。しかし、ウィムジーさん、そんな馬鹿げたことがあるでしょうか。重要な地位にある市民がですよ、重要なとり決めをする前夜に、誰にも一言の注意もあたえず、真夜中に忍び出て――すっかり何かで変装してまではいいとして――時計や紙入れ、小切手帳などをおいて行っているんです。その上、何といっても一番不可解で重大な点は、彼が眼鏡までおいて行ったことなのです。この眼鏡なしでは一歩先も碌《ろく》にみえないひどい近眼の彼が――」
「それこそ重大なことじゃないか」ウィムジーは口をはさんで「君は彼が代りの眼鏡をもって行ったかどうか、しらべてみただろうね?」
「召使がたしかめてみました。彼は代りのものとただ二組の眼鏡しかもっていなかったんです。一つは鏡台の上に発見され、もう一つのものは、いつも蔵《しま》っておく引出しの中にありました」
ピーター卿はヒューッと口笛を吹いた。
「パーカー、よく分ったよ。きっと自殺するときにだって彼は眼鏡だけはもっていったろう」
「あなたもそうお思いでしょう。それに、眼鏡をかけていなかったら、まずはじめに道路を横切ったとき、交通事故が突発したかもしれません。私はどんな可能性をもみおとさぬつもりです。私は今日一日中、街でおきた事故の報告もうけていますし、誓ってその中にサー・ルーベンがいなかったと申せます。更に彼は帰ってくることを意味するように、外から扉を開ける鍵をもって行っていることです」
「君は、彼が夕食を共にした連中と逢ってみたかな?」
「クラブで、その中の二人に逢いました。彼らは、レヴィが身心ともに健全のようにみえたし、たぶんクリスマス時分には、レディ・レヴィと一緒になれることを喜んではなしていたといいました。ワインダームのアンダーソン――というのはその二人のうちの一人ですが、レヴィが、この朝に予定されていた仕事に大きな満足をしているようにみえたといいました。アンダーソン自身も仕事に関係していたのです」
「少なくとも、九時までは、姿を消すつもりもなければ、そんな事態になるとも思っていなかったわけだ……」
「姿をけすべき理由がみあたらないんです。でなければ彼は非常に完璧な俳優です。夕食後の不可解な約束で彼が気を変えて何かおきたか、それとも真夜中から午前五時半までのベッドの中にいる間に、何かが突発したかということです」
「ところで、バンター」ピーター卿はこういうと「お前の考えはどうだ」
「私のあずかり知らぬところではございます、旦那様。紳士がひどく狼狽されましたときや、ご気分の勝れないときだというのに、いつものように服をきちんと片付けられ、歯をみがくことを思いだされたり、長靴を外へおおきになったということは、少々おかしく思われるだけでございます。こういうことは、しばしばなおざりにされがちなことでございまして、旦那様」
「バンター、お前がもし人身攻撃をするつもりなら」ピーター卿はこういって「僕はお前の発言を取り上げないぞ。パーカー、なあに、ちょっとしたご親切なはなしなんで、僕のね。ところで、僕は差し出口は好まんのだが、僕はこよなくその|翌朝の寝室《ヽヽヽヽヽ》を拝見したいんだ。何も君を信用しないというんじゃないが、ねえ君、非常に僕はみたいんだ。いやだなんていわんだろう、まアもう一杯のみたまえ、え、いやじゃないって、いやだなんていいたもうな」
「むろん、どうぞごらん下さって結構です。私はよくしらべたつもりですが、あなただったら、たぶんもっと何かを発見なさるかもしれません」
パーカーはおっとりと、もてなしをうけながらこう答えた。
「パーカー、それでこそ我が友人さ。君は警視庁《ヤード》の誇りだ。僕は君を嘱目《しょくもく》するよ。サグは、時外《ときはず》れに、少々気の変な詩人の頭の中に生じた悪戯《いたずら》小僧みたいなものさ。だが、サグだって全力をつくせば、有能の士たりうるがね。ところでサグは死体についてどういっていたね?」
「サグは――」
はっきりパーカーは答えた。「あの死体は、首のつけ根を殴打されて死んだものだと申しました。医者もそう彼にいったそうです。サグは死後一日か二日たったものだといいましたし、医者もそれと同じことをサグに申したそうです。死体はくらしむきのよい、五十歳位のユダヤ人だともいっていました。誰でもその位のことはいえます。それが誰も気のつかないうちに窓から入ってきたなどと考えるなんて馬鹿げたことだといっているのです。サグは、それが入口から入って来て、一家の誰かに殺されたとみるべきだといっております。彼は背が低くみかけはひ弱そうな娘と、それとは全く反対で、背が高く、ポーカーの神様にみはなされたような死せるユダヤ人を手に入れたのです。彼はティップスも逮捕しようとしました。ただティップスはマンチェスターへ行っていて、昨日一日中、そして一昨日も留守にして、昨日の夜おそくまで帰らなかったんです。それでもサグは、死体が一日か二日前のものであれば、昨夜の十時半にはティップスが手を下せなかったということを、私が彼に気付かせるまで、逮捕を主張しました。しかし、彼は明日ティップスを共犯者として逮捕する様子です。それから疑うまでもなく、あの編物をしている年老った婦人まで捕まえるかもしれません」
「僕は、あの若者がちゃんとしたアリバイをもっていると聞いて安心したよ」ピーター卿はこういった。「だが、君が良心に従って行動したにしろ、医学的にみて確たる証拠を握っているにしろ、不意打ちを食わせられないように注意した方がいいと思うんだ。おぼえているだろうな、チェルシー・カフェ事件のときのインピー・ビグズの弁護ぶりをさ? グレイスターとディクソン・マン〔どちらも法医学書の著者〕を弁護して陪審員たち度肝をぬいたあの巧言。『シンガムタイト博士、あなたは誓ってそうおっしゃるんですね。死後硬直がはじまった時刻と、死亡時間が同時刻だということに、あやまちを認められないといわれるのですね』『今まで多くの事件を手がけた経験と、医者としての立場から申し上げれば、まちがいはありません』(ここでビグズは「ああ」といってさ)『しかし博士、ここは法廷であって、議場ではありません。我々は少数の人々の報告を、とりあげることはできません。シンガムタイト博士、法律は少数の人々の正義を尊重します。生きていたのですか、それとも、もう死んでいたのですか?』(くすくす笑いがまきおこるとビグズは胸をはっておごそかにいった)『紳士諸君、笑いごとではありませんぞ。私の弁護依頼人は――正義にして且つ尊敬すべき紳士諸君――彼らの生死の問題なのです。生き死にの問題ですぞ、紳士諸君――只今被告は有罪とみなされ起訴されています――あたかも彼らが為したがごとく――少しの疑いももたれずして――であります。さてシンガムタイト博士、重ねて質問いたします。あなたは確信をもって断言されるのですか、ためらうことなく――。というのは、かの不幸なる婦人が死に直面したのは、木曜の夕方より、以前だったのでしょうか、それとも以後だったのでしょうか? おおよその意見によればですと? 紳士諸君、我々は詭弁家の集合ではありません。我々は公正な英国人であるべきです。一般的な意見によって、一人たりとも有罪たらしむべきではありません』(ここで同感の溜息がまきおこるのさ)」
「ビグズの弁護した奴は、みんな有罪だったんです」
「むろんそうさ。それなのに、彼は無罪にしてやった。だからといって、君は改めて告訴するかね」
ウィムジーは本棚のところへ行くと法医学書の一冊をとりだした。「『死後硬直は――種々の原因によって結果は決定されるが、非常に一般的な場合、かくのごとくに始まる』いやに慎重だな――『通常、硬直は徐々におこり、死後五六時間にして、頚部および顎部に――』ふーむ――『三十六時間後に至って硬直は全身の末端に到達する。特殊な環境においては、時として異常な早期に発見されることもあれば、異常に遅延して発生することもありうる』――パーカー君、実に役に立つ本じゃないかね? 『ブラウン・セカールの報告によると……死後三分半にして硬直が……ある事件においては、死後十六時間を経たるも硬直は起らず……死後二十一日を経過したにもかかわらず……』おいおい、どうなんだ『これらの原因は、年齢――筋肉組織――もしくは熱病の有無――または死体のおかれたる場所の温度いかんによって』等々々さ。まさに百花繚乱たるもんだな。しかし、気にするほどのことじゃないよ。君はこの問題で、サグと一戦交えることだってできるんだ。もっとも彼は、これをとり上げようとしないかもしれない」ピーター卿は本を投げ出すと「さて現実に立ち戻ろう。君は、死体をどういう風に観察したんだい?」
「それがです」刑事はこういうと「大したことじゃありません。はっきり申して、私は迷っております。私がいえるのは、その男は、金持ちだったが、腕一本で成功した男だということと、それもつい最近好運をつかんだらしいということです」
「やっぱり、君は死人の両手の≪たこ≫をみつけたんだね。君がみおとすはずはないと思っていたが」
「両足に、ひどい靴ずれができていました。きっちりした靴を穿いていたせいでしょう」
「そんな靴を穿いて長道中をやってのけてな」ピーター卿はそういってから「だから、あんな靴ずれができたのさ。明らかに、長いこと穿きずめでいると、そうなることに君は気がついたかな?」
「気がつきませんでした。靴ずれは、二日か三日前にできたものです。たぶん、彼はある晩、郊外のどこかで終電車におくれたか、タクシーがみつからないので――歩いて家へ帰ったときに靴ずれを作ったのだと思います」
「たぶんね」
「死体の背中一面に、それから片一方の足にいくつかの小さな紅い痕《あと》がありましたが、この説明は、私にはいたしかねます」
「僕も、みたよ」
「何の痕か、お分りになりましたか?」
「それは、あとでいうとして、はなしをつづけたまえ」
「彼は、強度の遠視でした。人間は、妙なことに、壮年期には一度は遠視になるものです。つけていた眼鏡は、まるで老人用のもののようにみえました。ついでに申しそえるなら、眼鏡についている、綺麗で目につく鎖の平たい輪に、模様が彫ってありました。おまけに、その模様を削りとろうとした痕がのこっていたことが、私の注意をひいたのです」
「僕は、それについてタイムズ紙に広告を出したのさ」ピーター卿はこういってから「先をつづけたまえ」
「彼は眼鏡を――二度修繕に出しました」
「うまいぞ、パーカー、うまいぞ。君はそのことが重要であることに気付いたかな?」
「いや、とくに。ですが、どうしてですか?」
「いや、かまわん、先をどうぞ――」
「彼はおそらく、むっつりしていて、気むずかし屋だったと思います。しょっちゅう、爪や指を咬んでいたことがみてとれました。ホールダーを使わずに、随分煙草を吸ったらしい形跡もあります。とにかく、特徴のある人間だったにちがいありません」
「君は、浴室をしらべてしまったろうな? 僕にはチャンスがなかったが……」
「足跡については、私には多くの発見はえられませんでした。サグと部下がそこら一帯をしらべまわって、ティップスと女中の足跡が一つもないといっていましたが、私は浴槽の頭にあたるあたりのかげに、はなはだ不明瞭ですが一つの斑点をみつけました。まるで、何者かが、そこに立ったときつけたような痕《あと》でした。痕跡《こんせき》といっていいかどうかわからぬ程度のしるしでした」
「もちろん、昨夜は、一晩中雨がひどく降ったからな」
「そうです。あなたは、窓閾《まどじきい》の上に、かすかに煤《すす》が残っていたのにお気がつきましたか?」
「気がついたとも」ウィムジーはそういって「苦労して、もっと何か他のものが閾の上に残ってはいまいかと思って、このちっぽけな物でしらべてみたさ」
ピーター卿は片眼鏡をとりだすと、パーカーに手渡した。
「おどろきました、とても強いレンズじゃありませんか」
「そうさ」ウィムジーはそういって「君だってそいつを使って、調べものをみてみたまえ、うれしくなるよ。だが、かけてる形はあんまりよろしくないようだ。いつもかける代物じゃない。かけてない顔をみて、他人はこういうのさ。(おやまア、眼鏡をお外しになったお目の具合のわるそうなこと)なんてね。それはおくとしても、重宝な物だ」
「サグと私は、建物のうしろの地面もしらべてみました」パーカーは言葉をつづけて「ですが、何一つ痕跡はみつかりませんでした」
「面白い、君は屋根の上をしらべたかい?」
「いいえ」
「じゃあ明日、二人でのぼってみよう。樋《とい》は窓からほんの二三フィート上だ。僕は、自分の杖《つえ》ではかってみた――僕が、探偵必携品といっとるステッキでな――一インチ毎に目盛りが刻んであるんだ。すこぶる携帯に便利なもんだ。頭に磁石がついていて、中は抜き身と来ている。特別|誂《あつら》えだ。それから他には?」
「残念ですが、ございません。ウィムジーさん、ご高見を拝聴したいのですが?」
「よろしい、君は仲々重大な点もついている。ただ、一二矛盾しているところがあるんだ。例えば、贅沢な金縁の鼻眼鏡をかけた男が、二度もそれを修繕に出しているということさ。歯がひどく汚れていないのにひどいムシ歯で、まるで今までに一度も歯をみがいたことがないようにみえるという点もだ。片一方の四本の臼歯と、もう一方の三本の歯が欠けていて、前の右の方の歯が斜めに折れている。頭髪や手から考えると、ひどくみかけを気にかけていた男だよ。君は、これについて何というんだ?」
「それはです、こんな下町育ちの成金だったら、歯にまで気をつかわないでしょうし、それに、歯医者をこわがります」
「そうだろう。しかし、欠けた臼歯の一本がひどく尖っていて、それが舌に当ると痛かったと思うんだが。君ならどうするね、歯を削ってもらって、さっぱりしようと思ったりしないかどうかさ?」
「ですが、人によりけりでしょう。私は歯医者へ行くよりも、痛いのを我慢している方がましだといっている召使を知っています。ウィムジーさん、どんな風にしてごらんになったんです?」
「電気|炬火《たいまつ》で、口の中をのぞいたのさ」ピーター卿はこういって「マッチ箱みたいな、ちょっとした小道具でさ。ところで、おそらく僕のいうことが正しいかどうか、ちょっと君の気を引いたまでのことさ。第二の点ではだ、すみれ香水をつけたりしている紳士が、耳の中を一度も掃除したことのないみたいに、耳垢が一杯、何たる不潔」
「ウィムジーさん、おどろきました、私はちょっとも気がつきませんでした。悪い癖は死んでもぬけずですか――」
「その通り、わるい癖は直すべきさ。第三の点は、マニキュアをして、香水をつけた紳士が蚤《のみ》に食われていることだ」
「おどろきました、そうだったんですか、蚤の食った痕。そうとは全く気がつかず――」
「疑うまでもなく、蚤の食った痕さ、君。ぼんやりとしていて、かなり前のものだが、見まちがいではないよ」
「あいつには今でもやられます。先週、リンカーンの一番いいホテルで、馬鹿でかいのを潰《つぶ》しそこねましてね。たぶん、私のあとに泊った客が食われたのではないかと」
「まア、今までのことは、誰にでもありそうなことだが、それも個々別々にさ。ところで第四の点だ。すみれ香水を髪につけ、その他いろいろ身だしなみに気を使っている紳士が、石炭酸の強い石鹸で、身体を洗ったということだ。その強さときたら、二十四時間たっても、まだぷんぷん匂っているくらいさ」
「石炭酸は、蚤に効きます」
「パーカー君、君は何にでも答えてくれるね。第五の点は、マニキュアをして、指の爪をかむ紳士を、注意深く抱きおこしてみると、まるで何年も足の指の爪を切ったことがないように、指の爪が真っ黒に汚れていた」
「それも、前に申した、癖の一つかも知れません」
「そういうだろうと思っていたよ。しかし、大変な癖があるもんだな! では、第六の、最後の点だ。この紳士らしからざる癖をもった紳士は、雨の烈しく降る夜更けにやってくると、たしかに窓から入ってきた。入ってきたときには、すでに死んでから二十四時間たっていて、季節外れの恰好で鼻眼鏡をかけたまま、こっそりティップス氏の浴槽の中に横たわった。頭髪はいささかも乱れていず、刈りこまれて間もない短い髪の毛が、首筋と浴槽の縁にぴったりくっついていて、顔も剃られて間もないらしく、頬に石鹸の痕が一筋――」
「ウィムジーさん――」
「ちょっと待った。その上、乾いた石鹸の痕が口の中にまであった」
バンターは立ち上がると、立派な召使らしく、すっと刑事の身近に立ち、
「ブランディをさしあげましょうか?」
と、低い声でささやいた。
「ウィムジーさん」とパーカー「私は寒気がしてきましたよ」
こういいながらグラスに酒をついでいたが、いつの間にかグラスに酒が一杯になったのにおどろき、グラスをおくと、立ち上って本棚のところまで歩いて行き、くるりと本棚へ背をむけて立つと、口を開いた。
「ところで、ウィムジーさん、あなたは探偵小説をお読みになっていたんじゃないんですか。それでなければ、冗談ばなしをなすっていたんでしょう」
「いいや、そうじゃない」ピーター卿は、うっとりとしたような声で「都合のいいことは、探偵小説に委せておこうじゃないか、え? バンターどうだ、二人で一冊ものにするが。お前の撮った写真を彩りにして――」
「石鹸が彼の――馬鹿な」パーカーはそういってから「それは何か、何かの汚染か」
「ちがう」ピーター卿はいって「毛が生えていたのさ、ちくちくする毛が。彼は、髯をはやしていたんだ」
ピーター卿はポケットから時計をとりだすと、内蓋と外蓋の間から二三本のやや長めの毛をつまみだした。
パーカーは一二度それを指でひねってみてから、燈に近づけてレンズで調べたりしていたが、平然としているバンターに手渡してから言った。
「ウィムジーさん、つまり、こうおっしゃるつもりなんでしょう。生きているうちに」――ここで彼は大声で笑って「誰かが口をあけて髯を剃ってもらい、剃りおわったところで口の中を毛だらけにして殺された――とでもおっしゃるんですか? どうかしてますよ」
「僕は、そんな風にはいわんよ」ウィムジーはそういって「君たち警察関係の連中は、みんなそうだ――馬鹿の一つおぼえさ。僕は、今、君が指摘した点を立派に立証してみせよう。彼は、死んでから髯を剃られたんだ。床屋にしてみれば、じつに楽な仕事じゃないかな? ええ、まア君、坐りたまえ。檻の中の熊みたいに、そううろちょろしたまうな。戦況我に非なりかい。それほどのことでもないさ。パーカー、君にいいたいのは、我々は犯人と対決しているんだ。その犯人なんだが、まことに芸術家で、想像力に富んでいる。実際、秀でた素質の持ち主である、技術屋さんだ。パーカー、僕は楽しんで、事《こと》に当るよ」
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第三章
ピーター卿は、スカルラッティの奏鳴曲《ソナタ》を弾きおえると、かけたまま自分の手を凝《じ》っとみつめた。長くがっしりと大きく、平べったく、指の先は四角い、ピアノを弾くにはふさわしからぬ手だった。
ピアノを弾いているときの彼の灰色の眼はやさしかったが、大きな口元は、キリリと結ばれていた。
別のときでも、彼はとりすまして、自分をよくみせようとはしなかった。それに、彼の細長く迫った顎や、ブラシでなでつけた毛が、禿げ上がった前額を目立たせていた。労働党の新聞は、先へ行って細まる彼の顎を戯画化して典型的な貴族であると評していた。
「結構なピアノですね」パーカーがいった。
「わるくはないね」ピーター卿はいうと「だが、スカルラッティには、ハープシコードの方が向くよ。感情の表現や陪音には――ピアノではモダンすぎる。我々の仕事には不向きだな、パーカー君。何か君は結論を得たかね?」
「浴槽の中の男は」紋切り型な口調で、パーカーが「身なりに注意を払うような、裕福な人間ではありませんでした。彼は労働者で、それもつい最近職をはなれた男だったのです。職を求めて歩きまわっているうちに、最期の瞬間にぶつかったのです。誰かが彼を殺し、身体を洗い、香水をふりかけ、判別を面倒にするため髯《ひげ》をそり、そして、何一つ痕跡を残さぬようにして、ティップスの浴槽におき去りにしたのです。これは推定ですが、殺人者は、力の強い男だったと思います。頚部《けいぶ》を一撃しただけで男を殺したほどの力の持ち主だったでしょう。冷静な頭のもちぬしで、才気走った奴です。このぞっとするような仕事に痕跡一つのこさず、裕福で洗練された男にみせかけるために、床屋の道具までもっていたにちがいないからです。奇怪な男である上に、常軌を逸した奴だといえるのは、死体を浴槽の上に横たえたばかりでなく、死体の上に鼻眼鏡をおいて行ったという、恐るべき二つの点からです」
「奴は犯罪詩人だったんだ」ウィムジーはいった。「ことのついでだが、君には鼻眼鏡の出どころを洗うことがむずかしいにちがいない。すでに、鼻眼鏡は死人のものではないことが分っているはずだが」
「今度はそれが新しい難問になりました。誰にも殺人者が鼻眼鏡をなぜ残して行ったか分らなくなりました。まさか自分自身を判別させるために、ご親切に残して行くとも考えられませんし」
「強いて考えるならばさ、そいつは手落ちで残されたのではなく、誰かの気持を意味しているんじゃないかと思うんだ」
「むしろ、死の跳梁《ちょうりょう》を意味します」
「左様。こんな場合に、こんなことをやってのけられる男は、恐るべき奴だ。僕は彼が殺人をやってのけてから、ティップス家へ死体をおくるまでの間、何をしていたか知りたい。それ以上に、色々の疑問が山積している。どんな風にして浴室へ死体を運び込んだか? そしてなぜそうしたか? サグが考えるように我々も考えてみるならば、死体は扉口から運びこまれたのであろうか? それとも、我々の観点に立ってみて、ではどうして、証拠らしい物一つ窓閾《まどじきい》にのこさず窓から運び込めたか? 共犯者がいたのだろうか? 若いティップスか娘が、中へ入れるのに手をかしたかどうか? といったところで、サグはとるにたりぬ意見として問題にしないかもしれんが、阿呆でも、時には真実を告げるものなんだ。ティップスがやったことでないにしろ、なぜティップスの家が、この忌《い》むべき|わるさ《ヽヽヽ》の場所に選ばれたのだろう? 誰かがティップスに怨みをもってやったのだろうか? ティップスは真夜中だというのに、寝ている人たちの頭の上でピアノを弾きならしたり、いかがわしい女と帰ってきて、階段の辺りで、わアわアさわぎながら上がって行ったりしたんじゃあるまいか? それとも、この恵まれざる建築家が、血に飢えてやってのけた仕業なのだろうか? いかんいかん、パーカー君、どこかに動機があるはずだ。動機のない犯罪などというものはありえないからな、君」
「狂人なら――」パーカーは、おそるおそる暗示するように口をはさんだ。
「狂っておれば、手当り次第にやってのけたはずです。狂人は手落ちなど残しません――ただの一つでもです。というのは、口の中に毛があったにしても、この場合、手落ちとはいえません。いずれにしても、死体はレヴィではありませんでした――そこまではあなたのおっしゃる通りでした。ところで、私は申し上げたいのですが、あなたの部下にしろ、私の部下にしろ、随分沢山の手がかりを死体の上に発見したのに、動機一つ発見できなかったというのは、どうしてでしょう。昨夜のわれわれの仕事はただ二組の衣服の発見だけです。サー・ルーベンは、無花果《いちじく》の葉一枚身につけず、かけていても礼儀にはそぐわない鼻眼鏡をかけた不思議な男を残して逃げて行ってしまいました。ただ、この死体の件に従事している私が、役向き上の二、三の意見を述べさせていただけるならば――」
電話のベルが鳴った。他の二人がその存在を全く忘れ去っていたバンターが、受話器をとりあげた。
「おとしよりの方からでございます、旦那様」そういってから「たぶんお耳が遠いご様子で。申しますことが、お聞きとれませんようで、ですが、ご在宅かとおたずねでございます」
ピーター卿は受話器をつかむと、エボナイトが、かちゃかちゃ音を立てるくらい甲高い声で「もしもし」と叫んだ。彼はちょっとの間、信じられぬような笑みをうかべて耳をすましていたが、次第に喜びが顔にあふれ、最後に「よろしい、わかりました」と二、三度怒鳴って電話を切った。
「実に」彼は晴れ晴れとした調子で、みんなにいった。「大したひとだな。ティップス老夫人からさ。つんぼ飛脚さ。今まで一度だって電話をかけたことがないのに、やってのけたんだ。ナポレオンそっくりだ。若いティップスをサグが逮捕したんだ。全く比較にもならないさ、サグは。老夫人は部屋におき去りにされた。ティップスは連行される最後の瞬間に『ピーター・ウィムジー卿に知らせて下さい』とどなった。老夫人は勇ましくも、電話帳と取っくんだ。交換台の人間を叩きおこした。自分のいってることはいいとして、相手のいうことは分りっこない。始めっから終いまで、こういっていた――『何でもできることがあったら、私にやらせて下さいまし』あの人は、私に助けてもらえると信じてるんだ。おい、パーカー、パーカー君! 僕はやさしく口づけしてやりたい。ティップスがいったように、本当になぐさめてやりたいんだ。すぐに手紙を出そう――いや、いかん、パーカー君、われわれは行ってやらなきゃいけないんだ。バンター、おまえのへなちょこ機械と、マグネシウムを用意しろ。いいだろうな、われわれは手を握ろうじゃないか、二つの事件を一つの枠に入れてさ。僕は乗ったら、すぐ寝るぜ、パーカー君、話は明日の朝にしよう。愉快だ。あばれ廻れるぞ。ああ、サグがいた、サグがいた。サグに何かを教えてやるかな。バンター、靴だ。パーカー君、君はラバソールじゃないのかね、ちがうって? おやおや、それじゃア出かけられないぞ。靴を貸そう。手袋は? ああ、ここか。杖だ、懐中電灯だ、ランプの煤《すす》だ、毛抜きに、ナイフに煙草入れ、そろっているな?」
「そろってございます、旦那様」
「おい、バンター、そんなに厭な顔をするなよ。ごまかしゃせんよ。君も紳士だ、僕はお前を信用してるさ。いくら僕が得したかっていうんだろう? あれはむろん、買うさ。パーカー君、準備はいいね。じゃア行こう!」
二人が階段をおりて行くと、そのあとからバンターが注意ぶかく灯を消した。
薄暗い場所から、ぱっと華やかなピカデリーに出たとき、何かを思いついたように、ウィムジーがちょっと立ち止った。
「ちょっと待ってくれたまえ」と彼はいうと「あることに気がついたんだ。相手がサグなら、用心が必要かもしれんからな」
彼が駈け戻っている間に、残された二人はタクシーを捕まえようとしていた。
サグ警部と部下のサーバラスは、クイン・カロリーヌ館で警戒に当っていた。そして、非公式な調査人の立ち入る余地はないという態度を示した。パーカーを、すぐ追い払うわけには行かなかった。しかしピーター卿は、ビーコンスフィールド卿が、名人芸の遅鈍と書いている、意地悪い手で、これに立ちむかった。ピーター卿は、ティップス老夫人が、息子の弁護のために自分をやとったので来たといったが、無駄だった。
「息子の弁護に雇われたんだって?」サグ警部は大声で笑うと「用心しないと、あの婆さんだって、自分の弁護人を頼まなけりゃならなくなるのさ。婆さんは、どうして自分のために雇わないのか気がしれないよ。何一つろくにできない聾《つんぼ》のくせにさ」
「そこさ、警部君」ピーター卿はいうと「だからこそ、今必要なのに、きみはひどく邪魔するじゃないか。中へ入れさせてくれると、ありがたいんだが――というより、結果において、僕は中へ入ってしまうことを、君は知ってるはずだと思うんだ。心配することはないさ。君の子供の口からパンを奪うようなことはしないよ。とんびが油揚げをさらうような真似はしないから……」
「公務上、出入を拒否するのは私の義務です」不機嫌な声でサグ警部はいうと「事件が継続中である以上、阻止します」
「僕は、決して君のいう、公務上の阻止について云々《うんぬん》してるわけじゃないんだ」ピーター卿は、それを徹底的に説明しようと、親しげに階段へ腰を下ろし「当事者自身としては、慎重ならざるを得んだろうね。サグ君、だが、それも程度問題なんだ。
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汝《なれ》こそ我が園《その》の美わしき薔薇
我が薔薇 ただ一つの薔薇そは汝《なれ》」
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「あなたとおはなししている暇はないです」悩まされたサグはこういってから「もうよろしいです、おや、忌々《いまいま》しい、電話だ! おい、コーソーン、君行って、何だかみて来てくれ。もし、あの意地悪婆さんにだったら部屋へつれてって、黙らしてしまうんだ」警部はこういうと「あー、きーきーがなり立てられたのでは、仕事は手につかんし邪魔で、気が散ってしまう」
警官が戻ってきた。
「本庁《ヤード》からでした、警部殿」警官は申し訳のような咳払いをすると「総監が、どのような便宜でも、ピーター・ウィムジー卿にあたえてさし上げるように申されました、警部殿、うふん」そういって、警官はサグからあまり近くないところでつっ立っていた。
「僕の勝ちだな」うれしそうにピーター卿はいうと「僕の母と総監は、知りあいなのさ。まあ待ちたまえ、サグ君。ちょっとばかり君の方が手がわるかったんだ。僕が引いた札の方が、ちょっとばかりよかっただけさ」
ピーター卿は先に立って歩きはじめた。
死体は、すでに二、三時間前に取り片付けられていたが、助手として適格者である、バンターは、自分の眼とカメラで、浴室と部屋全部をしらべてしまった。ティップス老夫人が、一家の荷厄介であることも明白になった。彼女の息子と女中はすでに連行された後で、ティップスはこの町に、友人らしい人間がなく、二三の仕事関係の知人はいたが、老夫人はそんな人たちの本当の住所を知っていなかった。
建物の他の部屋々々は、目下避寒旅行中の七人家族とか、豪放磊落な中年のインドの陸軍大佐が、インド人の召使と二人で住み、四階には、相当な地位の家族が住んでいた。その人たちは、結局、頭の上で、どたばた騒ぎをやられた被害者だったわけである。そこの主人は、ピーター卿の前に姿をあらわしたとき、実際みかけは弱々しそうにみえたが、突然に暖かそうな部屋着で出てきた夫人のほうは、まるで葛藤の渦にまきこまれている夫を救い出すかのように、
「ごめんなさい」といってから「どの道、私たちはお手伝いできないのじゃないかと思いますのよ。とてもこんないやなことに、あの何ておっしゃいましたかしら――私、お名前を聞き洩らしてしまって、でも私たちは、いつも警察といざこざがおきないように心掛けているんですの。むろん、ティップスさんたちが罪にならなくても、ええ、私はきっとそうだと祈っておりますわ。本当に、なんてお気の毒な方たちでしょう。でも、状況からみれば、一番疑われても仕方がありませんものね。夫もそう申しましたの。それに私たちまで、人殺しの手伝いをしたように言われるのは困ります。むろん、あなたはお元気で、ミスター」
「こちらは、ピーター・ウィムジー卿でいらっしゃるのだよ、お前」やさしく夫がいった。
彼女は、別に気にかけなかった。
「ああそうでしたの」そういうと「あなたは私のいとこだったカーリスブルックの僧正をご存じだと思うわ。可哀そうな人でした。死ぬまでイカサマ師にだまされ通しで。ねえ、ピーター卿、私はあなたがあの人にとても似ているようにお見受けするんですけど」
「僕は、そうは思いませんよ」ピーター卿はいうと「僕の知る限りでは、彼は自分の父親を知っている賢い子供で、僕とは単なる縁者関係だったのです。ご家族の知らざる半面も伺わして頂いてお礼申し上げます。夜分おそく、余計なことを伺いに上がって失礼いたしました。この恐ろしい事件に、あなたを巻添えにしないことをお約束しましょう。ところでアプルドアさん、ご心配には及びません、僕はあの老夫人を助けてあげられる最善事を考えていますし、あなた方にご迷惑をかけまいと思っています。折角の一家のご団欒を乱して申しわけありませんでした。おやすみなさい、ご主人。おやすみなさい、奥様、このような唐突な訪問をおわびいたします」
「では――」夫人は、いって、彼のうしろでドアをしめた。ピーター卿は――
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「ご親切なこってすて
家柄|善《よ》いで怒《おこ》れんて」
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といってから「今後のためには、好い勉強になったさ、意地悪女め!」
午前二時に、ピーター卿は友人の車で、耳の遠い老婦人をつれ、古風な鞄をもってデンヴァー城の母の家に到着した。
「よくやってきておくれだね」公爵未亡人はやさしくいった。小柄で丸々と肥え、見事な髪の毛で美しい手の持主だった。みかけでは彼女のこの二番目の息子とちがってみえたが、性質は二人ともそっくりだった。黒い眼は明るくまたたき、ものごとをてきぱき運ぶ才能にすぐれていた。彼女は美しい肩掛けをまとい、腰を下してコールド・ビーフとチーズを食べているピーター卿をみつめていた。
「あのお年よりをやすませて下さいましたか?」ピーター卿がきいた。
「むろんですとも、お前。あのお年寄りは随分びっくりしたでしょうね? でも、とても勇気のある人ね。あの方、今までに一度も自動車に乗ったことはなかったっていってたわ。あの人、お前のことを、とても好い人だってさ。お前が気をつけてくれたので、自分の息子のことを思いだしたって。ティップスさんもお気の毒なこと――お前のお友達の警部さんは、あの人が誰かを殺したとでも思っているのかい?」
「私の友人の警部は――いえ、いえ、お母様、もう充分頂きました――彼は、ティップスの浴室へ押し込んできた人物が、サー・ルーベン・レヴィかどうかを調べてみたんです。レヴィは昨夜、自宅から不可解な失踪を遂げたんです。彼の推理はこうでした。パーク・レーンで何一つ身につけていない紳士が姿を消した。バターシーで、中年の、何一つ身につけていない紳士が発見された。そのゆえに二者は同一人物と断定され、それでティップスは牢へ叩き込まれたんです」
「お前は、とても話を端折りすぎるね」公爵夫人はやさしくいって、「じゃあなんだい、その人たちが同一人物であるということだけで、ティップスさんが捕らえられたのかい?」
「サグは、誰かを捕えなきゃならなかったんです」ピーター卿はいって「サグの説を裏付けるには、ほんのちょっとしたおかしな証拠しかないんです。僕が自分の眼でみたわけじゃないんですが、こんなことなのです。昨夜の九時十五分頃、バターシー・パークの路を、ある若い女が、彼女だけ知っている目的で、ぶらぶら歩いているとき、その女が、毛皮の外套を着て、シルクハットを冠った紳士が傘をさして、街の名を探しながらやってくるのに気がついたんです。ちょっと場所柄ではない男とみて女が、お分りでしょう、近づいて行って『今晩は』といったのです。すると、不思議な見知らぬ男は『すみませんが、教えてくれませんか』といって『この道は、プリンス・オブ・ウェールズ路に通じていますか?』ときいたので、女が通じていると答えてから、とんちんかんな訊ね方で男n、これからどうなさるんですかなどと、色々きいたのです。しかし、腹蔵なくこの話の詳細を、いくら彼女でも全部サグには物語れなかったはずです。お分りになりますね。それで年とった男は礼をいうと、そうしてはいられない、約束があるといって、『私は行って人に逢うのだよ、君』と、どんなにいおうと相手にせず、おしのけるようにしてアレグザンドラ通りを上ってプリンス・オブ・ウェールズ路へ歩いて行ってしまいました。彼女があきれたように、そのうしろ姿をみおくっていると、友達に声をかけられました。その友達の女は『骨折り損しちゃったわね、あの人はレヴィよ、ウェストエンドに住んでたからあの人を知ってんのよ。みんなあの人のことを石部金吉っていってるわ』といったとかで、でも、女はその友人の名はいわなかったそうです。かかりあいにさせたくなかったんでしょう。しかし自分のいったことについては保証してくれるといいました。それっきり、あくる朝、牛乳屋がクイン・カロリーヌ館でおこった事件をおしゃべりするまで忘れていたのです。それからあんまり気がすすまなかったのですが、ちょっと警察へ寄って、死んでいた紳士は髯をはやして眼鏡をかけていたかどうかをたずねました。受付の先生が、眼鏡はかけていたが髯はなかったというと、軽率にも『あら、じゃ、あの人じゃなかったのね』といったもので、受付の男が『誰じゃなかったと?』といって、彼女をとっつかまえてしまったのです。これが、その女のはなしです。サグは非常に喜んで、このはなしでティップスを牢へ入れてしまいました」
「おやまァ」と公爵夫人はいって「私は、その女の人が、いざこざにまきこまれなきゃいいと思いますよ」
「そうは思えませんよ」ピーター卿はいった。「ティップスは重く罰せられるかもしれないのです。その上、彼は馬鹿なことをやりました。これもサグから聞いたのですが、サグはティップスが有罪だと信じています。ティップスは、マンチェスターから帰りにのった列車について、あやふやな申し立てをしました。はじめに、家へ戻ったのは十時半だといい、それで連中が、グラディス・ホロックスにかまをかけると十一時四十五分より後まで帰ってこなかったとグラディスがいいました。だからティップスはこの食いちがいを問い糺《ただ》されると、しどろもどろに、まず、列車に乗りおくれたのだといい直しました。サグは、セント・パンクラスのことをきき、十時に彼がそこの携帯品預り所に鞄を預けていたのがみつかったことをいうと、ティップスはまたまたまずい答えをしてしまったのです。――二、三時間歩き廻り――一人の友達にあって――それが誰だかいえない――じゃ、友達には逢わなかった――どんな風に時間をすごしたかいえない――何故、鞄をとりに戻らなかったかはいえない――何時にそこへ行ったかもいえない――何故、前額に傷をうけたかもいえない――といった調子で、徹頭徹尾いえないづくしなのです。そこで、グラディス・ホロックスがまた訊問されました。今度は、ティップスが十時半に戻ってきたといったのです。ですが、ティップスが中へ入った音を耳にしなかったと白状し、どうして聞こえなかったかということは、いえないというのです。何故、でははじめに彼が入ってきた音をきいたようにいったかといわれると、それはいえないといって急に泣きだし、これもしどろもどろなんです。誰でも、おかしく思うでしょう。で、二人とも捕まってしまいました」
「お前だって気がつくだろう」と公爵夫人はいって「ひどく取りとめがないようだけど、ティップスさんは何かで気が動顛《どうてん》しているのだよ、そうとしか考えられません」
「僕は、何が彼をそうさせたかということを不思議に思います」ピーター卿は物思いに沈んでいたが「実際には、彼が殺人を行ったのではないと僕は考えます。おまけに、医者の証言をまつまでもなく、死体は一日か二日前のものだと信じているからです。これは、ちょっとした問題なんですが」
「随分、変っているのねえ。でも、サー・ルーベンもお気の毒じゃなくて。私、レディ・レヴィにお手紙を書かなくては。私よく存じ上げているのよ。お前もおぼえてるでしょう。ハンプシャーで、あの人はまだ娘でした。まだ、クリスティーン・フォードといっていた頃よ。そうそうあの人がユダヤ人と結婚することで、とてもごたごたがあったことを私は思いだしました。むろん、彼がアメリカで、石油事業で当ててお金を儲ける前のことよ。家の人は彼女をジュリアン・フリークと結婚させたかったんです。フリークも出世して、家族とつきあっていましたが、彼女はレヴィさんと恋におち、二人で駈落ちしてしまったの。レヴィはとてもハンサムで、お前も知ってると思うけど、異国情緒たっぷりな人だったけど、お金はなかったの、そのときは。それに、フォード家の人たちは、レヴィの信仰を好まなかったんです。今では、ユダヤ人だからどうのって、人種的なことをうんぬんする人はあまりいませんが、そのころは、そうだったんです。それに、私は、ユダヤ人の中にだって、好い人はいると思っています。個人的にいったら、何といっていいかしら、とても不便なことが多いけれどね。土曜日は働いちゃいけないとか、小っちゃな赤ん坊に割礼《かつれい》したり、何でも陰暦にしたがったり、何かおかしな耳ざわりのする名のついている肉を使ったり、朝食にベーコンは絶対にいけないなんて。若いフリークは献身的に彼女のためにつくしていたのだから、もし本当に彼が好きなのだったら、フリークと結婚した方が、もっとよかったのじゃないかと私は思っているほどよ。それに、二人は今でも、とてもよい友人同志なの。そのとき、正式の婚約は交わさず、彼女の父親の了解くらいだったのに、フリークは決して誰とも結婚せずに、しってるでしょう、病院のとなりの大きな家に住んでいて、今はとてもお金持の上に、有名人だもので、色々な人がフリークに近づきたがるの。レディ・メインワーリングは、自分の一番上の娘をフリークと、めあわせたがっていました。自分たちの地位ならと思っていたらしいけど、無駄だったようなの。でも、あの人たちは機会あるごとに何とかしようとしていたわ、分るでしょう」
「レディ・レヴィは、とても人を自分のところへ惹きつける腕の持主だそうじゃありませんか」とピーターはいい「ですが、石部金吉のレヴィはどうなんです」
「そうよ、本当にその通り。あの人はとても陽気な人ね。それから、あの人の娘さんのことを、みんなはお母さん似だって言ってます。私はあの人が結婚してからは逢っていないけど、お前も知っているでしょう、お前のお父さんは実業家を好きではなかったから。でも、みんなあのご夫婦のことを理想の夫妻と言っていたのよ。本当にサー・ルーベンは外へ出歩くことは好きじゃなくて、こよなく家にいることを愛していたの。外といっても、外国のことをいうのじゃなくてよ――よく言うでしょう、外面《そとづら》がよくて、内面《うちづら》が悪いなんて。でも、二人の場合はその逆で、『天路歴程』とでも言うのかしら……」
「そうでしょう」ピーターは言ってから「ところでレヴィは、おそらく一人や二人は、敵をもっていたでしょうね」
「随分いたのよ、お前。何ていやなところなんでしょう、ここは。みんなが、国のない人と一緒にいるのはいやだなんて――サー・ルーベンはそんな風にいわれていい気持しないはずよ。ユダヤ人であるなしに拘らず、いやな顔するわよね。私はいつもこんな頑《かたく》なな連中のことを考えると、頭がいたくなります」
ピーター卿は笑うと、のびをした。
「僕は、一、二時間、やすませて頂きます」といってから「八時には、街へ戻らなければいけないんです。パーカーが朝飯にやって参ります」
「六時半に朝御飯をもっていってあげよう。私は、きっとお前がすべてのことを明らかにしてくれると思っています。リネンの敷布が冷たいから湯タンポを入れさせておいたけど、いやだったら、出しておしまい……」
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第四章
「さて、そこでパーカー君」コーヒー茶碗をわきへどけ、食後に一服のパイプをくわえたピーター卿が「どうかね、僕がいった浴室の問題を追求してみて何か発見できると思うかね。僕が帰ってからあとで、君は何かやってのけたかい?」
「いいえ、でも、今朝、私は屋根に上ってみました」
「いや、これはおどろいた、何て図々しい男だ。パーカー君、僕は君にいったな、二人で考えてこそいい結果が生れてくるんだって。君は僕の手から仕事をとりあげておいて、僕に指をくわえて見ていろとでもいうのかね。よろしい、君がその気なら、僕にも考えがある、いいな、ところで君は何を発見したんだ」
「大したもんじゃありませんが、先ず私はいうまでもなく足跡をさがしました。しかし、あんな雨だったんですから、当然何も残ってはいませんでした。これが探偵小説か何かだったら、うまい具合に犯罪のおきる一時間くらい前に雨が上がり、明け方の二時か三時の間に印されたような、くっきりした跡が残されていたかもしれませんが、事実は小説とちがいますし、ロンドンの十一月のことです。あなただって、ナイアガラで足跡を探したりなさりはしないでしょう。私は引きつづいて屋根の上を調べて廻りました。結局、この家並につづいている部屋の住人なら、誰でもやってのけられるという妙な結論がでてしまいました。というのは、どの階段からでもみんな屋根へ出られるし、鉛板屋根は全然平らなのです。あなただって、やすやすと歩いてシャフツベリー通りへ行かれます。その上私は、あの死体は屋根から来たという証拠を握ったんです」
「どんな証拠かね」
パーカーは手帳をとりだすと、その中から繊維の糸屑をとり出し、友人の前においた。
「一つは、ティップスの浴室の窓の上の樋でひろい、もう一つはその樋の上にある石の手摺の割れ目にありました。あとの残りは集合煙突のかげにある、鉄の支柱にからまっていました。あなたは、これをどうお考えになります?」
ピーター卿は、レンズをとり出すと、慎重にそれをしらべていたが「面白い」と言った。「非常に興味あるもんだ。バンター、あの乾板の現像はおわったかね」
落着き払った助手が入ってくるのを見ると、卿は付け加えた。
「はい、終わりました、旦那様」
「何か、発見できたかな」
「何と申したらよいか、私には分りかねます、旦那様」バンターは思いあぐねたようにいうと「すぐに持ってまいります」
「そうしたまえ」ウィムジーはこういってから「おい君、タイムズにあの金鎖のことについて出した広告がのっているよ、ちょっとしたものさ。『書面、電話、もしくはピカデリー百十番へご来訪あれ』私書箱気付などという手よりも安全だし、そこで僕はいつも考えるのだが、君たちはもっと民衆と打ちとけなくっちゃいけないな。何か君たちは思い違いをしているんじゃないのかな、現代の社会では、手をひろげて心から人とうちとけるべきじゃないのかね、君」
「しかしですよ、あなたはまさか、自分で死体の上に鎖をのこして行ってしまった奴が、ここへやってきて、質問に答えるなんて考えてはおられないでしょうね?」
「僕は馬鹿じゃないさ」いかにも貴族的であるが気さくな態度で、ピーター卿が「つまり僕は、あの鎖を売った宝石商が、広告をみてくれればと思っているんだ。分ったかね」そういって広告の記事を指さし「鎖はそう古いもんじゃない。ほとんど使われていないようだから……や、バンター、ありがとう。パーカー君、みたまえ、これは昨日君がみつけた窓枠と浴槽の縁にのこっていた指紋だ。僕はみんな目をとおしたよ。発見したものは、みんな君のものさ。僕は君にとり入るよ、君の前に平伏するさ、僕の名はワトソンだ。僕がこうまでいってるんだから、君も今後の方針について、まさか喋るのはいやだとはいわんだろうな。さて、そこで我々は、おや、おや、おや」
三人の男は写真をみつめた。
「犯人は」ピーター卿は苦々しげにいって「屋根がぬれているうちに匍《は》いのぼった、無理をして匍い上ったので、指に煤《すす》をつけてしまった。奴は死体を浴槽へ入れると、手がかりになるようなあとをみんな消し去ったが、たった二つだけ、我々の仕事に役立つものを残して行った。彼はインドゴムの長靴の痕を床にのこし、浴槽のヘリにゴム手袋をはめた五本の指のあとを残して行った、といった男さ、犯人は。その馬鹿げたものを向うへもってってくれ、バンター」彼は写真をわきにどけると、繊維の切れ端を手にとって、再び調べ始めた。突然、低くヒューッと口笛をふくと「パーカー君、君はこれが何の部分か分ったかね」
「何か、ありふれた木綿製品からもつれた糸みたいに思えます、敷布か、そうでなければ、間に合わせにつくった縄からとけた糸のようですが――」
「そうだ」ピーター卿はこう言って「たぶんそうだが、違うようだ、恐らく我々の考え違いだろう。僕は迷うな。ねえ、君、こんなもので、しっかりと人間を吊れるかどうか考えてみたまえ」彼は黙ってパイプをくゆらしながら、その断片に目を近付けた。
「今朝は、どういうことになるんでしょう。教えて下さいませんか」パーカーがいった。
「ああ」ピーター卿はいい、「どうやら君と一緒に仕事にかかる時間のようだ。パーク・レーンに行って、昨夜、サー・ルーベン・レヴィがベッドの中で起き上り、どんな面白いことをやってのけたかしらべてみよう」
「今度はペニング夫人、おさしつかえなかったら毛布を一枚拝借させてくれませんか」台所へおりてきたバンター氏がいった。「それからこの窓のふちからシーツを拡げてたらし、衝立をここへ引っぱってきて下さい。反射をさえぎるんです。よろしいですね、我々は仕事をはじめるのです」
サー・ルーベン・レヴィの料理番は、バンター氏の紳士らしい、きちんとした身なりに目をひかれていたが、急いで言われた通りのものを整えた。この訪問者は、テーブルの上に、水の入っている壜《びん》や、銀のヘヤブラシだとか、一足の長靴や、リノリウムの小さな一|巻《まき》と、ぴかぴかしたモロッコ皮で表装されている『成功した商人が息子へやった手紙』という本が入っているバスケットを置き、それからわきの下から一本の傘を引っぱり出して、その上においた。彼はそこで、前もって用意しておいた、重くて不恰好な写真機を台所の鉄かまどの近くに据えると、新聞紙をバスケットの上にひろげ、テーブルの上をふいていたが、やがて袖をまくり上げ、器用な手付きで外科医が使う手袋を手にはめた。そのとき、サー・ルーベン・レヴィの侍僕が入ってきた。そして、この有様を眺めると、かぶりつきで夢中になって乗り出してみているような料理女を、脇へ押しのけ、その写真機を綿密に検査しはじめた。バンター氏は明るい顔でうなずいていたが、灰色の粉の入っている小さな瓶《びん》の栓《せん》コルクを抜いた。
「君のお客様は随分変った方らしいな」侍僕は料理女に向って無雑作にいった。
「正に変ってますよ」バンター氏はいうと、「さて、あなた」彼は愛想よく今度は小間使に「すみませんが、私がこれをもっていますから、瓶の口から灰色の粉をふりかけて下さい。この長靴にもどうぞ。そうそうてっぺんからね。どうもありがとう、ミス、何といいましたっけ? プライス嬢? ええと、プライスじゃなくて、別の名でしたな、メーベル嬢でしたっけ? 私はとてもその名前が好きなんです。何となくとても親しみがもててね、しっかり持ってて下さいよ、ミス・メーベル、みえるでしょう、ほら、指紋だ。そこに三つ、ここに二つ、同じようなところに汚点があるでしょう。あっ、触っちゃいけないよ、君。こすったりしたら台無しだ。わたしたちはここへ品物を並べて写真をとる準備をしているわけなんだ。さて、お次はヘヤブラシだが、ペニング夫人、あなたは、ブラシの毛のところをもって注意して持ち上げて下さいよ」
「バンターさん、毛のところを持つのですって?」
「どうぞ、そうねがいます、ペニング夫人、そこへ置いて下さい。ところでミス・メーベル、今度はあなたのお手を拝借して、ちょっとしたことをやってみたいんですが、よろしいですな。いやいや今度はランプの煤《すす》をつかってやってみよう。うまい。私がやるよりもうまくやってくれましたよ。ああ、これがお道具です。今度のには汚点がない。きっとご主人は興味深くごらんになるだろう。さて、この小さな本だが、いやいや、それは私がやりましょう。手袋をはめたこの手でね、お分りですか、はじをこう持って、私は用心ぶかい犯人なんです。ペニング夫人、私はどんな痕跡をも残したくないんで。ミス・メーベル、この上にふりかけて下さい。今度はこっちへね。私がやるようにして、指紋は随分あるが、汚点はなしと、すべて予定通りだな。おお、すみませんが、グレーブスさん、どうぞ触らないで下さい。もっとも、触ってもらって助かるのは私たちでなくて犯人ですがね」
「あなたは実に色々な仕事をなさるんですね?」グレーブス氏はみくだすような態度でたずねた。
「まあ、そういうことですね」バンター氏は、グレーブス氏の胸の中を忖度《そんたく》して、自信のほどをみせた。「ペニング夫人、おそれ入りますが、ちょっとこのリノリウムのはじを持ってて下さいませんか。メーベルさんが仕事をしてくれる間、私がこっちのはじを持っていますから。そうですよ、グレーブスさん、大変な仕事です。昼は侍僕としてかしづき、夜は夜で現像――朝のお茶にはじまって六時半から夜の十一時までひっきりなし、その上、犯罪調査はその限りに非ずなんです。お金持の方々には考えもつかないような、すばらしい仕事なのです」
「私は、君がそんなことをしておられようとは想像もつきません」グレーブス氏はいって「それに、ここにはそんなことが、一つだってありません。バンターさん、静かで家庭的な生活に、そのようなことがありようわけはありません。食事は尋常な時間にはじまります。慎みぶかい、尊敬すべきご家族が食事につかれます。一人として、みてくれのご婦人は居《お》られません。夜になれば私たちは仕事から解放されますし、その上、あなたがなさっているような仕事などここには何一つとしてありません。バンターさん、普通のヘブライ人〔ユダヤ人〕の家ではそうではないかもしれません。それからむろん私は、あなたが爵位の一家にあって得るところがおありと思います。しかし、今日ではそんなことは大したことではありません。宅のご主人は自力で成功された方です。一般にみなさまはサー・レヴィと呼ばれていますが、つまりは奥様が、ハンプシャーのフォード家のお出《で》なので、当然レディでいらっしゃるから、ご主人もそうお呼びしております。お二人とも、とてもおもいやりのある方なのです」
「グレーブスさん、全く同感です。お宅のご主人と私は現在決して無関係ではありません。どうしてかというと、君、それはむろん、足跡ですよ。これは洗面台のところのリノリウムです。わたしはいつも言っているのですが、善良なユダヤ人は善良な市民であるはずです。かっきりした時間と、思いやりのある慣習はたいへん人に好感を抱かれるものです。サー・ルーベンは非常に質素な方じゃなかったですか、え、こんなに裕福のわりには……」
「ええ、質素な方でしたわ、本当に」料理女がいった。「ご主人と奥様と、それからミス・ラーシェルだけのお食事のときは、晩餐とは申せません、もっともお客様のあるときは立派なご馳走がでますけど。ですから、私は腕をふるうわけには参りませんでしたが。私、ここで教えられました、お分りでしょう、バンターさん」
バンター氏は、傘の柄をコレクションの中へ加えると、小間使の手をかりて、窓にたらしてあるシーツに、ピンを刺し始めた。「おみごとです」彼はいって「ところで、私がこの毛布をテーブルの上においたら、何かタオルかけのようなものを――どうもご親切にペニング夫人。私はご主人が夜くらいは解放して下さればと願っているのです。いつだってそうです。三時や四時までは起きていなければならないし、その上、ホームズ気取りで遠出なさるときは朝早くから叩き起されます。その上、やれ服だとか、やれ靴だとか、うるさいことったら」
「バンターさん、そんなつまらないことをなさるのは恥ずべきことだと思います」熱のこもった口調でペニング夫人がいった。「そんなことは、身分の高い人がなさることではないと、私は申しあげます。紳士の方が、そんな探偵のまねをなさるなんて、ご主人は放っておおきなさいまし」
「その上、一々が七面倒くさいのです」バンター氏は相手の気持に追随するように、「靴が部屋の隅に投げすてられてあると思えば、服は床の上にぬぎすててあります。ですから――」
「いい家に生れた方は、しばしばそうなさるものです」グレーブス氏はそういうと「その点、サー・ルーベンは、旧式ですが、よい習慣をおもちでした。服は上手に始末されましたし、靴は更衣室の外においてあり、私どもはお蔭で大変助かりました」
「ところが、昨夜はどうして、別の椅子におかれたのでしょう」
「お召しものは、そうでしたが、靴は違います。サー・ルーベンはいつも他人の事をよくお考え下さる方でした。ああ、私はご主人の身に何事もなければよいがと思います」
「本当にお気の毒な方ですわ」料理女は同意するようにいうと「それに、あの人たちは、ご主人がなにかをなさらなければならないので、こっそりお出かけになったなんていっていますが、私には信じられませんよ、バンターさん。あの人たちが間違っているということを私は誓ってもいいですわよ」
「ああ」バンター氏はアーク灯を一番手近の電燈へ接続させ「それよりも、私どもにとって一番ののぞみは、もっと沢山お給料を頂くことですな」
「五フィート十インチ」ピーター卿はいった、「それよりも一インチも高くはない」寝具の凹みをいぶかし気に見つめて、次には紳士探偵必携のステッキで計ってみた。パーカーはこれをノートに書き記した。そして、
「たぶん、六フィート二インチの男が、五フィート十インチの凹みを残したというわけですな、身体《からだ》を曲げて丸くなって寝たので……」
「パーカー君、君にはスコットランド人の血が流れているのかい?」と、ピーター卿は苦々しげに言った。
「そんなわけはありませんよ」パーカーは答えて「どうしてです?」
「つまり、スコットランド人は用心ぶかくて、しみったれてて、落着いていて、冷血漢だからさ」ピーター卿は、またいった。「君も、一番用心ぶかくて、しみったれてて、落着いていて、冷血漢だ。そうじゃないか、私はまことにセンセーショナルな事件を解明しようと、愚かにしてかつ不評判である、ちっぽけな君の警察の調査に、脳味噌をしぼっているのに、君はいささかも手助けをしてはくれんじゃないか」
「予断はよろしくありません」
「予断だと? 君は予断はおろか、はるかまだ遠いところでまごついているくせに。君はクリームの壜《びん》に首をつっこんでいる猫をとっつかまえてみて、その猫が壜の口へ首をいれた時は、壜の中が空だったかどうか想像できるかね」
「ええ、たぶんできるでしょう。できないとでもおっしゃるんですか?」
「馬鹿いっちゃいけない」ピーター卿はいった。彼は鼻眼鏡をひねって、枕の上へかがみ込むと、鼻をおっつけるようにして、ぷーっと一息吹いた。「ちょっと、ピンセットをかしてくれたまえ」うれしそうにそういって「おやおや、人間なら、こんな吹き方はしないだろう。拙者は鯨かな」彼は殆ど目に見えないものを、敷布の上からつまみあげた。
「何です、それは」パーカーが聞いた。
「髪の毛さ」こう言ったウィムジーの顔は真剣で、目には険しさを増していた。「行こう、一緒にレヴィの帽子を調べてみようじゃないか。そうすれば、君は死人の名にお目にかかれるかも知れない、そう思わんかな」
グレーブス氏が呼ばれてやって来てみると、ピーター・ウィムジー卿は、更衣室の床にしゃがみ込み、自分の前に一列に並べた帽子をあっちこっちと引っくり返していた。
「ああよかった」高貴な人は明るい声でいうと「おい、グレーブス、考えごっこだぞ。一種の三つの帽子のトリックさ、仮にこうかきまぜてと。ここに、三つのシルクハットを加えて九つの帽子がある。君はこの帽子が、みんなサー・ルーベン・レヴィのものだかどうかみわけられるかね? 間違いないって? ところで僕は三つのことから、どの帽子をあの夜彼が冠ったか当ててみよう。もし私の推量が正しければ僕の勝ち、そうでなければ君の勝ちだ。いいかい、じゃあやってみるか。僕はその答は君が知ってると思っているよ――」
「分りましてございます。あなた様は、月曜日の夜、どの帽子をサー・ルーベンが冠ってお出かけになったかを、お知りになりたいのでございますね」
「ちがうちがう、お前は勘違いしている」ピーター卿は言って「僕は、もしお前がしっていたらと、いうのだ――僕に言わんで、考えさせてくれ」
「存じております、旦那様」グレーブス氏はおこるような声でいった。
「さて」ピーター卿はいって「彼はリッツで食事をしたのだから、シルクハットを冠っていった。ここにシルクハットが三つある。この三つの中から、これだという一つを選び出してみよう。できないとでも思うかね。大して難しくはないさ。これがそれだ」彼は窓際の帽子を指した。「グレーブス、当ったかな、僕は賞品をもらえるかい?」
「それが問題の帽子でございます。旦那様」
グレーブス氏は変らぬ調子で答えた。
「ありがとう」ピーター卿はいい、「それを知りたかったんだ。すまんが、バンターにここへ上がってくるように言ってくれたまえ」
バンター氏は気難しい様子で上がってきた。いつも手入れの行き届いている彼の頭髪は暗幕をかぶったせいで、もさもさに乱れていた。
「おお、バンター、これをみてくれ」
「参るには参りましたが、旦那様」バンターは非難するように、「私に一言いわせていただけますならば、私が仕事を致しております階下には、若い婦人たちがおりまして――きっと証拠の品をいじくり廻しているのではないかと存じます。旦那様」
「感涙にたえぬよ。しかし、僕もこの救い難いパーカー氏と口論し、尊敬すべきグレーブスにまごつかされていたんだ。それに僕はどんな指紋が発見されたか知りたかったんだ。指紋がとれないうちは安心できないんだ。まあ、バンター、そうつんけん言いたまうな」
「はい、旦那様、分りましてございます。しかし、まだ私は全部を写真にとっておりませんが、仕事は決してつまらんものとは、私とても思ってはおりませんので。寝室の小卓からおっこっていた小さな本には、片手の指全部の指紋がありました。一目でそれとみてとれる小さな傷痕のある右の拇指の指紋もございます。ヘヤブラシにも、同じような右手の指紋が残っておりました。傘と、歯みがきのコップと、長靴には二組のものがついておりました。傷のある拇指の手はサー・ルーベンのものだと思われます。それから、今の指紋の上におされるように残っている汚点はサー・ルーベンのものであるかどうかは別として、ゴム手袋をはめた手で印されたものでございます。写真をとり終れば、もっと詳細に識別した上、ご説明申し上げられる事と存じます。洗面台の前のリノリウムは、私をひどく喜ばせてくれました。その上旦那様が、サー・ルーベンの長靴だと申されました、その靴痕もございましたし、靴下の足痕も残っておりました。――非常に小さいものでございます。――もしおたずねになりますのならば、私はその足痕は十インチ靴下のものよりも大きなものでないとお答え申し上げます」
ピーター卿の顔に明るい光がかすかにさしはじめた。「手落ちだ」と、息をついて「ほんのちょっとした、手落ちだ。しかし、あいつはかまっていられなかったんだ。バンター、そのリノリウムは最近いつ掃除されたのかな」
「月曜の朝でございます。女中がいたしまして、おぼえておりました。彼女のやったただ一つの要領を得たことでございます。他の家事について――」
ピーター卿の顔に、軽蔑の色が浮かんだ。「パーカー君、僕は君に何ていったかね? 五フィート十インチ、それよりも一インチも高くはないとね。おまけに彼はヘヤブラシを使わなかった。うまいじゃないか。それなのにシルクハットでは危険にさらされてしまっている。雨の夜更けに紳士が帽子を冠らず歩いて家へは帰れない、そうだろう、パーカー君、いいかい、君はこの点をどう考えるね? 二組の指紋が、色々のものの上に残っている。だが、本とブラシにはない。リノリウムの上には二組の足跡がある。そして帽子の中には、二つの違った髪の毛が残されていた」彼はシルクハットをあかりに近づけると、ピンセットで証拠の毛をつまみあげた。「パーカー君、考えてくれ。ヘヤブラシのことは気にしていながら、帽子のことは忘れている――指紋のことを初めから気にしていながら、物言うリノリウムの上に不注意な足跡を残しているんだ。ほら、これが、黒い髪の毛と、赤褐色の髪の毛。黒い髪の毛は山高帽とパナマにくっついていた。赤褐色の毛は前夜のシルクハットに残っていた。そこで、どうやら、僕たちは正常の軌道にのっかったようだ。枕の上に残されていた、この小さな赤褐色の髪の毛だが……。それよりもパーカー君、どうやらこの枕は、いつもの位置におかれてなかったらしいようだ。僕はなぜか泣けてくるよ」
「あなたは、どう言おうとおっしゃるので?」ゆっくりとパーカーはいった。
「僕のいおうとするのはな」ピーターはこういってから「あの晩、入口の階段のところで料理女がみたというのが、それはサー・ルーベンじゃなかったんだ。たぶん少し背の低い別の男で、レヴィの服をきてやってきて、外から門をあける鍵で家へ入ってきたのさ。そいつが、大胆で狡猾な悪魔さ、パーカー君。そいつはレヴィの長靴を穿き、そっくりレヴィの服を身に付けていたのだ。ゴム手袋を手にはめていて、一度もはずさなかった。そいつは、あの晩レヴィがここで寝たと、われわれに思わせるよういろいろのことをやってのけたのさ。奴はチャンスをつかんで成功した。二階へのぼってゆき、服をぬぐと、顔を洗って、おまけに歯まで磨いた。だが、ヘヤブラシだけは使わなかったんだ。自分の毛がブラシにくっついて残るといけないと思ってさ。奴はレヴィが服や靴をどんな風にいつも始末するか考えてきていた。一つの考えは当ったが、もう一つの考えが外れて、ああなったのさ。寝台は仕度がととのえられてあった。そこで、彼は犠牲者のパジャマを身につけて、寝台に横になった。恐ろしい二、三時間を、そのままに横になってすごすと、鞄に入れて持ってきた自分の服を身につけ、下の気配をうかがった。もし誰かが起きていたら、彼の破滅だったが、大胆な男だったし、チャンスに恵まれていた。普通の人は、こんな時間に起きてはいないし、そして下の者は眠っていた。そっと外へ、すべり出ると、鍵を差し込んだままのドアを静かに開いてしめて、ゴム底靴の足音を忍んで、急いで逃げ去った。奴は、ゴム底靴をはかなきゃ仕事をやってのけないような犯罪者の一人なのだ。二、三分の後、ハイド・パークの角まで行き、それから――」
彼はちょっと間をおいてから付け加えた。「奴はこんな風にしたのさ。彼は少しの危険も感ぜず、その上、見事に遂行したんだ。実際にサー・ルーベン・レヴィが、とんでもない悪戯でこっそり連れ去られたか、でなければ、赤褐色の髪の毛の男が殺人罪を宣告されることをまで考えてやったかどうかだ」
「おやおや」パーカーが突然大声を出した。「貴方は、すべてを芝居がかった物語になさいましたね」
ピーター卿は頭をひとなですると、「我がよき友よ」と感情こめて低く、「君は、僕が小さい時に覚えた童謡を思い出させてくれたよ。
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ホワイトヘヴンの爺さんが
鴉《からす》とカドリル踊ってた
そこでみんなが言うことにゃ
鴉とおどるは馬鹿げてる
みんなで 爺さん 放り出す
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パーカー、これでいいのさ、この可哀そうな爺さんは、こっそり連れ出されちまった。何て洒落だい? でもね、怪我してりゃ、自分で飛べやあしない。おかしいものな、飛んじゃね。わかるかね、パーカー君。この事件はそんなに僕の気にならないのさ」
「この事件とおっしゃるのはどっちのことなのです」
「両方ともさ、パーカー君。どうだい二人でそうっと家へ帰って昼飯を食い、コロシウム劇場へ行かないかね?」
「おのぞみでしたらご自由に」パーカーは答えて「しかし、あなたは私が自分の生計のために活動していることをお忘れになっていますよ」
「いやいや僕は忘れていないさ。つまり次の行動についてだろう。君は僕のいったことをどう解釈するかい」
「私は|ほこり《ヽヽヽ》をたたき出します」パーカーは言って「サグがやったように、どんなことも疑ってみます。クイン・カロリーヌ館の部屋にすむ借家人の過去のありようのすべてを手に入れます。借家人全部の部屋と屋根への揚げ蓋を全部しらべてみます。それから、皆を話題の渦へ誘い込んで、急に会話の中へ『死体』とか『鼻眼鏡』とかいう言葉を投げ込んでみます。この言葉への反応を調べてみるつもりです」
「君ならできるだろう、で、君はそうするのかい?」ピーターは、うなずくと「攻守交替というところだね。ところで君、君は、こつこつと調べに行く、僕は、では、ワインダーム・クラブで、愉快に過ごすことにしよう」
パーカーは顔をしかめた。「左様でしょうな、あなたは私のようになさらないと思っていました。その方がいいでしょう。あなたはプロにならない限り、そうはなさるまいと思います。ウィムジーさん、でお昼は?」
「僕は招ばれているんだ」ピーター卿は胸をはって「急いで行ってクラブで着替えなけりゃいけない。フレディ・アーバスノット閣下と食事をするのにこの恰好ではね、バンター」
「はい、旦那様」
「荷物の支度はいいな。急いでくれ、クラブで磨きをかける手伝いをしてもらうんだ」
「旦那様、もう二時間ばかりここで仕事をいたしたいのでございます。現像いたしますのには、三十分では少のうございます。水の出が弱いので」
「パーカー君、どうだね、僕は自分の部下に、こんな風にやられるのさ。よしよし自分で持って行くさ、もってけるだろう。タラララ……」彼は口笛をふいて下へおりて行った。
良心的なパーカー氏は、サー・ルーベンの書類を組織的に調べようと腰をおちつけた。一皿のハム・サンドイッチとビールの手助けをかりながら!
ピーター卿とフレディ・アーバスノット閣下は、まるでズボン地の広告をしているように、一緒にワインダーム・クラブの食堂へ入って行った。
「一年もお目にかからなかったね」フレディが言った。「その間どうしていらっしゃった?」
「愚にもつかぬことばかりです」元気のない声で、ピーター卿が答えた。
「コンソメか、それともポタージュになさいますか」ボーイがフレディに聞いた。
「ウィムジー、あなたはどちらがよろしいか?」主人公役の紳士は客にいった。「どちらも、よろしくはないが――」
「澄んでいる方が、スプーンから、なめるには楽ですな」ピーター卿が言った。
「澄んでいる方だ」フレディが言った。
「ポロネーズ・コンソメでございますな」給仕はうなずき「かしこまりました」
会話はフレディが平目の切身の中に骨をみつけ、それを給仕頭にみせるように持たせてやるまで続いた。ピーター卿はこれに勢いを得て口を切った。
「あなたに、少しおたずねいたしたいのですが……」
「何だね、老いぼれで少し足りないわしにかい」フレディは言って、「みんなはもう長いことはないじゃろうというてな、おや、モンラシェの八年。ここで飲むのにふさわしいかどうかは知らんが」沈んだ声でフレディは言った。
ピーター卿が、「取引所の方はいかがですか」というと、
「なっとらん」とフレディはいって酒を苦々しげにふくんだ。
「何かお役にたつことでも」ピーターがいうと、
「いやいや、ありがとう、好意には感謝するが、うまく行けば、儲かるかもしれない――」
「この酒はわるくありませんな」ピーターは言った。
「どうも食べすぎたようだ」彼の友人が口をはさんだ。
「あのアルゼンチンの株はいかがでした」ピーターはきいてから「おい給仕、僕のグラスにコルクのかけらが入っているぞ」
「コルクだと」フレディは急に活気をおびてきて「給仕、君はこんなはなしを知らんだろう。何しろちょっとした事さ。やとわれようと思った男が、瓶の中のコルクがとれなくて失敗したという話をだ。何て君はいったんだ? アルゼンチンの株だって? 全部|壊滅《かいめつ》だ。あのレヴィなら救い上げてくれたかもしれん」
「それはどうでしょうか」ピーターは言って「で貴方はレヴィの身にどんなことが起きたとお思いになるんです」
「どうであるにしろ――」フレディは言って「仕事の重荷に耐えかねたとわしは思うよ」
「たぶん、自分で逃げだしたんでしょうね」暗示するようにピーターは「二重生活という言葉をご存じでしょう。金融業者の何人かにだって、老いらくの恋はありえますからな」
「いやいやそうでない」フレディは弱々しく「ウィムジー、馬鹿なことを言いたまうな、彼は上品で、外出嫌いの上に、可愛らしい娘までいる身だ。その上、彼はきちんとした男だ。君ならすぐに下落させてしまうだろうが、彼は決して君に持株を下落させて損させたりしない。老アンダーソンはまずいことに、手を切ってしまったものさ」
「アンダーソンという人は?」
「ここの会員だがね、火曜日にレヴィに逢って、所有権を引上げちまったのさ。あの鉄道屋に儲けられやしまいかと恐れたんだ」
「誰です、ここで画策している鉄道屋というのは」ピーターがきいた。
「ジョン・P・ミリガンという、うるさいヤンキーだ。彼は撰択権をもっとる。もっとも、持ってると言ってるだけかもしれないが。あんな奴らを信用できるものか」
「アンダーソンは、もち続けることができなかったんですか?」
「アンダーソンは、レヴィとは違う。金を持っていない。その上もっているのはたった一つさ。レヴィはくさるほどもっているから、気に入らなければ、ミリガンの鉄道なんか、ボイコットできるんだ。彼がそれをどこで手に入れたか、君は知ってるだろう」
「僕はミリガンとどこかで逢ったような気がします」考えぶかくピーターは言い「ミリガンは黒い髪をして髯をはやした、不恰好な奴じゃなかったですか」
「君は人違いをしているよ」フレディはいうと「ミリガンはわしよりも、背は高くないし、君が言うような五フィート十インチなんてないさ。おまけに禿頭じゃ」
ピーターは目をゴルゴンゾラ・チーズの上にうつしながら言った。「レヴィにそんな可愛いい娘がいるとは知りませんでした」
「そうとも」フレディは話に引きずられ「去年の船旅で、彼女と母親にあったんだ。レヴィとは知り合いだったからな。彼はいい男だった。このアルゼンチンの事業の情報をもらしてくれたよ、分るだろう?」
「ええ」ピーターはいって「あなたはしくじりはなさらんでしょう。レディ・レヴィはもう全くよくなったんでしょうな、私の母は彼女の家族のことを知っているもんですから」
「むろん、もういいんだ」フレディは言って「レヴィは当今、何ら恥ずべきことはやっとらん。影のない人間だ。毎朝、バスでこつこつ仕事に出かける。タクシーに乗ろうともしない。君、彼はこういうんだ。(私は若いころ、半ペニーの金をじっとみつめたことがあった。今でもだから金をおろそかにできない)それで、めったに家族を連れて、外出するなんてことはしなかった。だから、娘のラーシェルが、いつも父親を|けち《ヽヽ》というのさ」
「引きこもってばかりいるのでレディ・レヴィが病気になったんですね?」ピーターがいった。
「だろうとわしは思うよ」相手はうなずくと「むしろ出あるいて、お喋りとか何かをした方がよくはなかったのかな? そんなに悪い様には見えていなかったし、しかし、それもいけないと言うのなら、おやおや、わしは何をいってたんじゃ」
「おっしゃることを別に気にとめてませんでしたよ」ピーターは手を差しのべるように「これからどうなさるかを伺ってよろしければ」
「ありがとう」フレディは言うと「私はやるさ、まだまだ若いからな、見ていたまえ、何時でもお相手つかまつる。昼でも夜でもいつでもいいからやって来たまえ。しっかりやるさ、君、そうだろう……」
「よいお考えです」ピーターは言った。
大ミリガン鉄道・海運会社ロンドン代理人のジョン・P・ミリガン氏はロンバード街の事務所で暗号電報を秘書に口述していた。そこへ来客のしらせがあった。名刺にはただ、
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ロード・ピーター・ウィムジー
マールボロー・クラブ
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アメリカ人の多くがそうだが、まるで弱点でも握られているように、とにかく相手はイギリスの貴族であるからと、敬意を表して、ミリガン氏は迷惑そうな顔で口述を中止した。彼は二、三分の間に地図の上で、適当ではないが、見込のある農場を消すと、仕事を止め、訪問者の目にとどくところへ、地図をかけた。
「こんにちは」愛想よく入ってきた貴族はいった。「突然うかがったのにも拘らず、このように時間を割いて下さる、貴方のご好意に感謝します。ほんのちょっとだけのお邪魔でお手間はとらせません。伺うまえにだいぶ躊躇《ちゅうちょ》しました。私の兄ならきっと私を非難することでしょう。この様な訪問をしたことを私は心苦しく感じております」
「ウィムジー卿、お目にかかれて嬉しうございます」ミリガン氏はこう言ってから「お掛けになりませんか?」
「や、どうも」ピーター卿はいって、「ですが、私は貴族ではありません。ご存じかもしれませんが、貴族は私の兄のデンヴァーの方なのです。私の名はピーターです。いつもそう思っているのですが、下らない名です。古めかしくて、何か有徳の人のように思わせますが、名をつけてくれたのは洗礼のときに、立ち合った教父なんです。たぶんそのとき、お役目でありながら私の名をつけるのに、とまどったらしいのです。もっといい名があるのにね、しかし、我々はよく、ピーターという名にお目にかかります。薔薇戦争の時、どこかで五人の王たちを裏切った三代目の公爵の名がピーターでした。ですから余り自慢になりません。その上、まだピーターという名の中で、ぬきん出た男はいないのです」
ミリガン氏は不利な情況に追い込まれながらも、いささかの平静も失わず、「コロナ・コロナ」葉巻を話の合の手にすすめて、話の腰を折った。
「大変ありがとうございますが」ピーター卿はそういってから「しかし、そんな風になさって、まさか、午後一杯私とここで馬鹿ばなしをなさるつもりでもありますまい。ミリガンさん、あなたはきっと誰にでも、こんなふかふか椅子にかけさせ、このような葉巻をすすめたりはなさらんでしょう。そうだったら、みんなが、ここに押しかけて、貴方はさぞお困りになるはずです」彼は試すように言葉をついで「私は別にあなたに靴をぬいで頂かなくてもいいことを嬉しく思います。あなたの足のサイズは拝見しなくても分りますしな。それから頭がジャガイモに似ているなんて――一目みただけで分るはなしですから」
「ピーター卿、ところで」ミリガン氏は「何かお役に立つことでもあれば――」
「ありがとうございます」ピーター卿はいった。「助かります。こんなことを申し上げるのは、失礼な話ですが、実際、これは私の母のためなのです。素敵な女性ですが、何やかやと忙しく、まるであなたみたいな人なのですがね、ミリガンさん」
「お気遣いは無用です」ミリガン氏はいって、「公爵夫人のお役に立てるなら、何でも喜んでさせていただきましょう」彼はすぐに公爵の母親が公爵夫人であるかどうか不安に思ったが、ピーター卿が話を続けるので、安堵の息をついた。
「ありがとう、あなたは本当にご親切です。さて、それはこうなんです。私の母は、とても元気がよく、人のためにつくす人なのです。ご存じないでしょうが、この冬、デンヴァーで慈善バザーを企てようと考えました――というのは教会の屋根を直したかったのです、お分りですか、ミリガンさん、実に悲しむべきことです。由緒があり美しい教会で――初期の英国風の窓とか、装飾された角屋根とか、その他のものがみんなぐらぐらになったり、雨に流されたりしているのです。牧師はリューマチにかかっている上に、改善するには資金がいります――というような始末で、すぐバターシーに年とった母親とすんでいるティップスという若僧を雇って仕事を始めさせました。若い男ですが身のかるい奴で、角屋根にのぼって、色々と今私が申したようなものを直し始めたのです」ここまで話してきて、ピーター卿は、相手をじっとみつめた。しかし、相手が少しも反応を示さないので、くだらぬ長話をつづけるよりも、もっと時宜に適した興味ある話題にきり変えるべきだと気付き、調査の線はそこで断念して話しをつづけた。
「どうも、本当に失礼しました、恐ろしくだらだら喋ってしまって。僕の母はこの慈善バザーをひらいて、とくに面白い余興として二、三の講演を――つまりちょっとしたお喋りなんですが――各国の著名な実業家にやってもらおうと考えたんです。『我が成功談』式なものですね、≪灯油王と石油の一滴≫≪現金、良心、そしてココア≫などというような題でです。そこには、沢山の人がやってくるはずです。お分りですか、私の母の友人たちはみんなやってくるでしょうが、我々は≪金≫をもっていません。あなたがいうレベルの≪金≫は。我々の所得などというものは、あなたの電話一つで消しとんでしまう程度なのです。そうでしょう? しかし、我々はあなたのような金作りの名人の話をききたいのです。あなたは、我々の精神生活を向上させようとは考えませんか。いずれにせよ、私の母は、とても喜んで歓迎するはずです。ミリガンさん、おいで下さって、典型的なアメリカ人として二、三の言葉を述べて下さいませんか。十分かそこらで結構だと思います。ご存じのように地方の人々は、長い話は理解できませんし、母のお客たちも十分以上一つのはなしに耳を傾けていることができません。貴方がきて下さって、一日か二日ご滞在になり、我々に耳ざわりのいい全能のドルの力についてのお話をして下されば嬉しいのですが」
「むろん、結構ですとも」ミリガン氏はいった。「私とて望む所です、ピーター卿。そんな古く美しい由緒あるものが、そのようになることは悲しいことです。喜んでお伺いいたしましょう。それから、たぶん貴方は私が少々の復興資金を寄付させて頂くことをお受け下さると思いますが」
ピーター卿は予期せざることの発展にとまどってしまった。うまくでっちあげた嘘で、開放的な紳士を|かま《ヽヽ》にかけ、お前こそ風変りで、あくどい殺人の容疑者だとねじ伏せようとしたのに、時の勢いで慈善にといって大枚の小切手を受けとらされてしまった。何か後味がわるかったので、ピーター卿は一時のがれをやってのけた。
「あなたは本当に思いやりのある方だ」彼はいって、「きっとみんな大変喜ぶことでしょう。しかし、小切手を私は受け取りかねます。お分りかどうかと思いますが、私は使うか、紛失してしまいそうです。私はまことに信頼に足る男でないのが残念です。牧師は正直な人です。牧師のコンスタンティン・スログモートンは、デューク州デンヴァー市ラテン・ゲート前、セント・ジョーンに住んでいます。もし、よろしかったら、そこへお送り下さいませんか」
「では、そうしましょう」ミリガン氏はいうと「スコット君、これに一千ポンドと書いて控えておいてくれたまえ、あとで私が忘れるといけないから」
赤黄色の髪の、長い顎の持ち主で、眉毛のない若い男の秘書は、しずかにもう一度宛名をきいた。ピーター卿はミリガン氏の禿頭から、この赤毛の秘書に目をうつすと、もう一押ししてみた。
「本当に、ミリガンさん、何といっていいか、お礼の申し上げようもありません。この話を聞いたら母も喜ぶでしょう。バザーの日取りをおしらせしなければいけませんでしたな。ですが、まだ日取りははっきり定まっていません。それから申し上げていませんでしたが、まだ他の実業家に会わなければいけないのです。私はそのうちの誰かから、大新聞に載っている英国式の広告技術について意見をきいてみたいと思っています。私の友人の一人はドイツの融資について教えてやると約束してくれました。――とても興味あるものです。それから、誰かがユダヤ人的見地から、話をしてくれると面白いので、私はレヴィを候補に考えていたのですが、ご存じのように、わけのわからないかたちで消息不明になってしまいました」
「そうです」ミリガン氏はいうと「ひどく奇妙なことです、私も気にしないではいられません。ピーター卿、私にも具合が悪いのです。彼は私の鉄道の合併のために、あるものをしっかり握っていてくれていたのです。しかも、個人的には何一つ対立はなかったのです。そして少々打撃をうけた後でも、私は、もし彼が戻ってきたら喜びの握手を交わすくらいの気持はもっています」
ピーター卿の心には、財政の危機を脱するまで、どこかで預けられたものを保持しているサー・ルーベンの影が通りすぎて行った。それは非常にありうることであり、彼がはじめに予想したことに、もっとも一致していた。
「だが、おかしな出発ですな」ピーター卿はいって「何か、恐らく彼にはわけがあったんでしょう。人に言えない色々のわけがね、でしょう? この事件に関係している私の警察の友人は、あの年とった洒落ものが出かける前に、髪を染めたというんです」ピーター卿は横目で、各欄の数字を計算しながら、その答えを書き入れている赤毛の秘書をちらりとみた。
「髪を染めたって、本当ですか?」ミリガン氏はきいた。
「赤く染めたんです」ピーター卿はいった。
秘書が顔を上げた。
「しかもですよ」ウィムジーはつづけて、「肝心の染料を入れたビンが見つからないんです。これは何とも信じられないことでしょうが?」
秘書の興味は消え失せたようにみえた。彼は新しい紙を原簿にはさみこむと、指で数字の上を追っていた。
「まあ、たいした理由はなかったのかもしれませんがね」帰りかけてピーター卿はいった。「ところで、こんなにお構い頂いて、ミリガンさん、感謝いたします。母も喜ぶでしょう。日取りは追って母からおしらせすると思います」
「お待ちしてますよ」ミリガン氏はいって「お目にかかれて、私もうれしかったと思います」
スコット氏は静かにドアをあけた。今までデスクのかげにかくれていて、分らなかったが、スコットのやせた足は、おどろくほど長かった。ピーター卿は六フィート四インチはあるなと目でよんだ。外へ出て行きながら、ピーター卿は
「残念だが、ミリガンの肩の上に、スコットの首をのせるわけには行かない。それから、この始末を、母上は何とおっしゃることだろう……」とつぶやいていた。
[#改ページ]
第五章
パーカー氏は独身だった。週に一ポンド払って、ジョージ五世時代の部屋ではあるが、余り便のよくないグレート・オルモンド街の十二番地Aに住んでいた。生活費は、女王から贈られたダイヤの指輪だとか、恩義を感じた首相がくれた鷹揚な小切手などで賄われているのではなく、慎ましやかだが、要るだけは使える月給によって賄われていた。それは英国の納税者たちのポケットから引き出されたものだった。
骨が折れた上に決着のつかなかった仕事のすんだ翌朝、オートミールの焦げる匂いで、彼は目を覚した。いつも身体のためを思って上下をあけておく寝室の窓からはつめたい霧がゆっくりと流れ込んできていた。前夜、椅子の上にかけておいた冬の股引が、ぶざまな人の形であざわらうように、騒がしくパタパタと音を立て、それは、まるで文句を言っているように思えた。電話のベルが鳴った。彼は渋々ベッドから匍い出すと、居間へ入っていった。昼間だけ彼の身の廻りをみてくれるマンズ夫人が、くしゃみをしながら朝食の仕度をしていた。電話はバンター氏からで、
「旦那様が、お差し支えなかったら、朝食にお出かけ下されば大変嬉しいと申されておりますが」と伝えた。もし、電話線にレバーとベーコンのいい香りがのってパーカーの鼻をついたらば、パーカー氏はもっと生々と嬉しそうに答えたに違いない。
「ご主人には、三十分ほどして伺うと申し上げて下さい」礼を述べると、彼は水を浴びに浴室に入って行った。そこは台所兼用になっていて、マンズ夫人が、お茶の仕度をしていたので、これをみたパーカーは、朝食に招かれたので出かけると夫人にいった。
「そのオートミールは家の人にもって行ってあげなさい」といってから、部屋着をぬぎすてる。マンズ夫人はいつものように鼻をならして、非をなじるように急いで飛び出して行った。
十九番バスは期待で胸をふくらまして飛び出してきた彼をのせて、のろのろと十五分もかかってピカデリーについた。バンター氏は素敵な食事と、この上もなくうまいコーヒーで、もてなしてくれ、あかあかとした煖炉の上には「デーリー・メール」が置かれてあった。少なくとも、かつては清潔と敬虔とが顔を逢わしていたこの家の主人が、遠くでバッハのロ短調のミサ曲をうたっている声がした。やがてゆっくりゆっくり、ピーター卿が、しっとりしたバービナ香水の匂いをただよわせて入ってきた。にこにこ顔のピーター卿は色々な孔雀模様のあるバスローブを身にまとっていた。
「お早う、我が友よ」紳士はこういって「ひどい天気だね、しかし僕は、君にみてもらいたい手紙を一通もっているんだ。君のところへ行く元気がなかったのさ、何しろバンターと僕はこいつのために徹夜してしまってね」
「どんな手紙なんです」パーカーがきくと、「食べながら、仕事のはなしは止めたまえ」叱るようにピーター卿はいった。「オックスフォードのマーマレードを、も少しどうだい。それから僕のダンテをお目にかけようじゃないか、昨夜とどけてよこしたのさ。バンター、僕は今朝、何を読んだらいいかな?」
「エリス卿の蒐集が売りに出るようでございます、旦那様。モーニング・ポストに出ております。タイムズの文学付録にのっている、サー・ジュリアン・フリークの新著『良心に関しての生理学的基盤』についての批評にも、旦那様はお目を通されることと存じます。クロニクル紙には夜盗に関しての記事が一つと、ヘラルド紙には肩書のある人たちを攻撃する記事が目につきました――意味のないユーモアをふくんだ、余り感心すべき内容ではありませんが」
「よし、その評論と夜盗の記事を僕にくれ」主人がいった。
「他の新聞もしらべておきました――」バンター氏はうず高い新聞の山を指していうと、「旦那様がご食後お読みになりやすいように印をつけてございます」
「おいバンター、そんな風に言って――僕の食欲を減退させるつもりかい」
沈黙のうちにトーストをカリカリと噛る音と、ぱらぱらと新聞をめくる音がつづいた。
「彼らは審問を延期しました」やがて、パーカーが言った。
「そうするより仕方がないさ」ピーターは言って「レディ・レヴィは昨日帰ってきた。サグにたのまれて今朝死体の鑑別に出かけたが結果は失敗だった」
「時間の点もです」ぷつりとパーカーが言った。再び沈黙が続いた。
「バンター、お前の言う夜盗の件は問題にならんな」ピーター卿はいって「むろん、時宜に適しているが、この犯罪には想像力がかけている。モーニング・ポストはどこにあるんだ?」
しばらく沈黙がつづき、ピーター卿が口をひらいた。
「バンター、目録を持って来てくれ。ロードスのアポロニオスは吟味する価値があると思う。いやいや、いいんだ、僕はこの評論を読むから、お前は図書室で仕事をつづけるんだ。犯罪に関する彼の本は大変面白いが、人間はまさに一風変っている」
「お話しちゅう失礼」パーカーは言って「私は関係していませんが、アルゼンチンの株が少し動いています」
「ミリガンだ」ピーターが言った。
「石油はよくないのです。レヴィは鞘《さや》をそこで稼ぎました。彼がみえなくなる前はそれでペルー石油株にちょっとした俄《にわ》か景気が湧いたんですが、彼が姿を消すと同時にまた薄らいだのです。私はこれに彼が、関係しているのではないかと思います」
「調べてみよう」ピーター卿は言うと「それでどうなったね」
「何年間もボロ株だったのが、先週突然値をつけたんです。なぜ私がそれに気付いたかというと、ずっと前、私の母が二百株ほど買っておいてくれたからでした。今までに一度だって配当したことはありませんでした。もっとも、今では元の木阿弥《もくあみ》に戻りましたが」
ウィムジーは皿をわきにどけて、パイプに火をつけた。「よく食べたので、何かするのが億劫《おっくう》になったな」彼は言うと「何かきのう収穫はあったかね?」
「何にも」パーカーは答えて「私はあのアパートの部屋の上や下を一度は変装せず、後では二度身をやつして探偵して廻りました。ガスのメーター調べに化けたり、集金人に扮して、家を尋ねたり、小犬をみつけているといいましてね。ただ、バターシー・ブリッジ通り寄りの一番上の部屋の召使が、ある晩、屋根の上でバタンという音をきいたということが、ただ一つの収穫のようでした。いつのことかときくと、はっきり答えられないのです。月曜の夜ではなかったかといいますと、そうだったようにもいいます。私の家の煙突の通風筒を吹き飛ばした、あの風の強かった土曜日の夜じゃないかと聞きますと答えられず、もしかしたらそうだったのかも知れないといいます。確かに屋根の上で音がしたので、部屋の中でした音ではないと言っておきながら、次の朝、自分たちが額の倒れていたのを発見したから部屋の中だったかもしれないと言いだすのです。とても暗示にかかり易い女です。私はあなたのお友達のアプルドア夫妻にもお目にかかりました。会って下さいましたが、ティップスについては余りはっきりしたことはうかがえず、一度もよばれたことはないし、それにティップスが≪実験動物解剖反対論者≫らしいということ位しか分りませんでした。二階のインドの大佐は騒々しい人ですが、意外にも好意的な人でした。あの人は夕飯をと言って、インドのカレーをご馳走してくれた上、非常にうまいウィスキーまで、ご馳走してくれたのです。いわば世話役みたいな人ですね。そして彼はアプルドア夫人の言葉は信用がおけないと話してくれました」
「君は、レヴィ家では何かみつけたかい」
「レヴィのプライベートな日記だけでした。それを私は持って帰り、ここにもっています。碌なことは書いてありません。例えば、こんな風にかいてあります。≪トムとアニーに晩餐に呼ばれる≫それから≪我が愛する妻の誕生日なので、古いオパールの指輪をおくった≫≪アーバスノット氏に、思いがけなくお茶によばれた。彼はレイチェルを嫁に欲しがった。しかし、私はもっと真面目な人間にでないと娘はやれない≫。彼はたしかに日記を夜書いていたようです。月曜日には何の記入もありませんから」
「きっとこれは、役に立つと思うよ」ページを繰りながらピーターが言った。「気の毒な奴だ。だが僕は、日記を書いてから出かけたと思うんだが……」彼はパーカーに昨日の仕事の詳細を述べた。
「アーバスノットですって?」パーカーはいって「日記に出てくるアーバスノットのことですか?」
「たぶんそうだろう。僕は彼を探したんだ。と言うのは、彼が株式取引所でぶらぶらしているのが好きなのを知っていたからだ。ミリガンはどうかというと、まともそうに見えるが、仕事の上では人にいえないような冷酷なことをやっていることと僕は思う。それから赤毛の秘書だが――これは水棲動物のような顔をした、計算の妙手だ。まだ何ともいえない。よそ者の血が交じっているのかもしれんと僕はおもう。いずれにしても、レヴィを二、三日顔をださせないようにしておく結構な動機をミリガンはもっている。そこで新顔氏なんだが」
「新顔ですって」
「君の注意をちょっとひいた、あの手紙さ。えーと、どこへ置いたかな。あったよ。いい紙じゃないか、ソールズベリの弁護士事務所の住所まで印刷してあるし、消印と一致している。きれいな字ではっきりかいてあるところを見ると、かなり年輩で、旧式な風習を身につけた男が書いたものに違いない」
パーカーは手紙をとりあげてよんだ。
クリンプルシャム・アンド・ウィックス
ソールズベリ ミルフォード・ヒル
一九二×年十一月十七日
謹啓
本日貴下がタイムズ紙案内欄に広告された記事中の、眼鏡及び鎖についてのご照会の物件は、小生が、さる月曜日、ロンドン訪問の折、L・B・C&S・C電鉄において紛失したるものではないかと思考いたします。小生は五時四十五分、ヴィクトリア駅において下車致しバールハムに至るまで、紛失に気がつきませんでした。かかる事態及び同封の眼鏡製作者による明細書をご覧いただければ、直ちにこれが小生の真実の保証人足りうるものとご推断せらるるものと信じております。仮に該眼鏡が小生のものなることを、貴下がご確認いただいた場合には、恐縮ながら、表記宛ご送付いただければ、この上なき喜びでございます。鎖は小生の娘よりの贈り物にて、小生のこよなく愛玩いたしおるものであります。小生はご好意に感泣し、貴下にご迷惑をかけたることを遺憾千万に存じおるしだいです。
敬具
トーマス・クリンプルシャム
ピカデリー百十番地
ピーター・ウィムジー卿殿
(証明書同封)
「おやおや」パーカーはいった。「これが、あなたが言っていた、意外なものなんですか」
「とんでもない誤解か」ピーターがいった。「さもなければ、クリンプルシャム氏は大胆にして奸智にたけた悪党さ。むろん、もうひとつ考えられるのは、違った眼鏡であることだ。我々は直ちに、この点を調べなきゃいかん。眼鏡は警視庁にあるんだね。ちょっと電話して、本庁の連中に、眼鏡屋の証明をすぐしらべてもらってくれないか。ついでに、普通こういうやり方を眼鏡屋がするかどうかということをね」
「かしこまりました」パーカーは電話をとりあげた。パーカーが話をしている中途で、「ところで、済んだら、ちょっと図書室の方へきてくれたまえ」
図書室のテーブルの上に、ピーター卿は一連の写真をひろげていた。あるものは乾いていたし、積み重ねてあるものの中の何枚かは、まだ濡れていた。
「この小さいのは、我々が撮った写真の密着なんだ」ピーターは言うと「こっちの大きいものは、それを正確に同じ比例で、引き伸ばしたものだ。この一枚のやつはリノリウムの上の足跡を撮ったものだが、目下それについては触れずにおこう。さて、この指紋の方は、五種類にわけられるだろう。僕はナンバーをプリントにつけといたよ。
Aは、レヴィ自身の指紋だ。小さな本と、ヘヤブラシに、ついていたもので、これとこれ。親指の傷を見落さないでくれよ。
Bは、月曜の夜、手袋をはめて、レヴィの部屋で横になった男が残した、指の跡の汚点だ。この汚点は水差しと長靴の上に、しかもレヴィの指紋の上に重なってはっきりついている。不思議なのは、手袋をはめていながら、長靴の上についたのは非常にはっきりしていることで、僕は手袋が、ゴム製のもので、最近水に漬かったものだということを推定するね。ここに別の興味深い点があるんだ。レヴィは、我々が知っているように、月曜の夜、雨の中を歩いた。そしてここの、黒い汚点《しみ》は撥ね上げた泥のものだ。どの場合でも、泥はレヴィの指紋の上についているのが、見えるはずだ。さて見たまえ。この左足の長靴の上に、我々が見つけた正体不明の男の親指の痕は、踵の上のあたりの泥の上についている。親指のあとが、長靴のこんなところにあるのは妙だと思わないかい。もしレヴィが、自分で靴を脱いだとしても、おかしいと思うのさ。しかし、誰かが力一杯、その靴をひっぱって脱がしてやったときには、そんなところに、跡がつくだろうね。更に、正体不明の男の指跡のほとんどは泥の跡の上についている。しかし、ここにある一つの泥の撥ねたのは、指跡の上についているんだ。これは、正体不明の男が、レヴィの長靴をはき、タクシーか、馬車か、それとも電車で、パーク・レーンに戻ってきたことを意味するのだ。しかし、歩いたのは、ほんの少しの距離だったに違いない。というのは、水溜りを、ちょっとふんで長靴にはねをとばした、というわけさ。君の意見はどうかね、君?」
「大変結構です」パーカーはいって、「少しややこしいですが」
「よろしい、では次に進もう。
Cの、このプリントは非常に役にたつんだ。君がいじくり廻したティップスの浴槽の端に、頭のいい悪党が残したものだ。こんなにいじくり廻されていなかったら、もっと僕の仕事は楽だった。左手のだ。ごらんの通り、掌《てのひら》の下部と、指の痕だが、先の方の痕ではない。まるで、浴槽のへりをつかんで、前にのめらないようにしながら、前かがみに、底のものに何かを、合わせようとした時、つけた痕のように見える――たぶん、鼻眼鏡だろう。手袋をはめててさ。みたまえ、このあとには皺も、接ぎ目の痕も見えないから、僕はゴム製のだといったし、君もゴム製だといった。いいね。
さて次だ――。
DとEは、僕の名刺から、とったものだ。もとの名刺には僕から、名刺を受取った若者の親指の痕が、粘ついてのこっていたが、それは除外してよい。DとEは、ミリガン氏と赤毛の秘書の親指の痕だが、まだ僕には、どっちがどっちだか明白でない。しかし、僕は若者が、チューインガムを噛みながら、名刺を秘書に渡したのをみている。また、僕が奥の部屋へ入った時、ジョン・P・ミリガンは、僕の名刺を手にして立っていた。差し当り今は、どっちがどっちということは、我々の目的に、そう重要なことではない。帰りがけに、名刺は僕がテーブルの上から、盗んできたんだ。ところで、パーカー君、これをバンターと僕とで、ちょっとした時間をついやして、やってのけたんだ。僕は慎重に、あらゆる方向を、行きつ、戻りつして、『僕の頭はだめだ』と思うまで考えた。目が痛くなるくらいみつめつづけたが、結論を出せなかった。質問1――CはBと同一であるか? 質問2――DまたはEがBと同一であるか? 推理をおしすすめるために役立つのはただ、寸法と形だけだ。むろん、痕はぼんやりしている。君はどう思うかね?」
パーカーは分らないというように、首をふった。
「私は、Eは除外していいんではないかと思います」彼はいった。「親指が極端に長い上に、幅が狭いからです。しかし、水差しの上に残っていたBのあとと、浴槽のCのあとには、相似がみられます。それから、どういう理由だか分りませんが、DがBと同じかもしれないと思います。はっきりはしませんが」
「君の素人判断と、僕の測定とは、同じ結論に到達したわけだな、もしこれを結論というならばだよ」ピーター卿は苦々しげにいった。
「もう一つ疑問がある」パーカーが言った。「なぜ、我々はBとCを結びつけようとするんでしょう? 事実、あなたと私は友達になろうとしてなったわけではなく、必然的に手を握りました。我々も、この二つのものが有機的に結合して、同一のものではないかということに興味をもったのも事実です。どうして、そんな風に考えるんでしょう? サグは、この二つが、同一人物によって印されたと、思っていますし、それに気をひかれています。しかし、違うはずです。というのは、我々は浴槽の中の男が、間違いなく、レヴィでないことを知っています。同一人物が、二つの全く異なった犯罪を同じ夜、やってのけるなどということは、思うだに馬鹿げています。一つはバターシーで、そして他の一つは、パーク・レーンで」
「わかっているよ」ウィムジーはいって「むろん、我々は、その時間にレヴィがバターシーにいたことを、忘れてはいけない。その上、十二時に帰宅したと思われていたが、彼が帰らなかったことが判明したんだ。ということは、レヴィが疑いもなく、バターシーに残っていたということになる」
「そうです、しかし、ティップスの浴室でない、どこかバターシーの別のところです。おまけに彼はティップスの浴室に、足を踏み入れていません。事実、こうして考えてみると、あそこは唯一、レヴィがいなかったことがわかっている場所だ。そして、そもそもティップスの浴槽の中にいたのは、いったい誰だったのでしょう?」
「そりゃ、誰も知らない」ピーター卿はいって、「だが今日は、何かましな進展があるかもしれんよ」彼は椅子に背をもたせ、パイプをふかし、考え込みながら、時々、バンターが印をつけてくれた新聞紙をのぞき込んだ。
「彼らは、君を衆目の的にひきずりだしたのさ」彼はいった。「サグは、僕が評判をとることを大変きらっているから、僕の名前はめったにでない。ありがたいことさ。それはそうと、これは何てはっきりしない案内広告欄なんだ!≪いとしのピプジー、至急戻っておいで、気の狂いそうなお前のポプジー≫とは。こちらでは、普通の若い男が、会計の手伝いを求めている。それから、ありふれたお説教か、≪若き日に悔いなからんために神に祈りを捧げよ≫――おやっ、ベルの音だ。きっと警視庁からの返事に違いない」
警視庁からの文書の中には、クリンプルシャム氏から送ってきた眼鏡屋の明細書と同一のものが入っていて、この眼鏡は、非常に特殊なものであり、特別に強いレンズで作られた上、両眼の度が、異なっていることまで、詳細に書き加えられていた。
「これでよろしいでしょう」パーカーがいった。
「うん」ウィムジーはそういうと「では第三の可能性は廃棄するとしよう。さて残された第一の可能性――偶発事または誤解であるということ。そして第二の可能性は、恐ろしいほど大胆な上に、計算されて、企てられた悪事であるということ――我々の前にある二つの難問の犯人の特徴とも、これは考えられる。これから、この第二の可能性によって導かれる仮説を、個々に検討してみよう。この可能性は更に、二つまたは、それ以上の仮説に分けられる。第一の仮説は(僕の有名な同僚スナプシュド教授によって、強く支持されているが)犯人Xはクリンプルシャムと同一人物ではないが、クリンプルシャムの名を楯《たて》か、隠れ蓑《みの》につかっていると考える。この仮説は、更に、A、Bの二つに分けられる。
A――クリンプルシャムは、愚かで無知な協力者で、Xの雇い主であるということ。Xがクリンプルシャムの事務所で、クリンプルシャムの名で手紙を書き、問題の品である眼鏡を手に入れるために、クリンプルシャムのところへ送らせようとした。彼は小包が、クリンプルシャムの手に届く前に、それを横取りできる立場にいる。つまり、Xはクリンプルシャムの日傭い女か、事務所の給仕、書記、秘書、ないしは荷運びの男ということになる。これは捜査の範囲を拡げるばかりだ。調査の要点は、クリンプルシャムに面会して、彼が手紙を送ったかどうか知ること、送っていないなら郵便物を扱える者は誰だったかを究明することになる。
B――クリンプルシャムはXの影響または支配のもとに、つまり(a)収賄、贈賄(b)うその口実、あるいは(c)脅迫されて、手紙をかいたものと、考えられる。Xは、この場合、説得力のある被保護者か、友人か、もしくは債権者、脅迫者か、殺し屋である。クリンプルシャムは、一方の見方では、金ずくで動くやつか、馬鹿だ。この事件における訊問の方法だが、試みに私が暗示してみせると、もう一度、クリンプルシャムに逢って、事件の事実を、彼に説明するんだ。そして威嚇的な方法で、彼は殺人の共犯として、長期徒刑を免れないだろうということを確信させるのだ――えっへん、紳士諸君、信頼あれ。ここで我々は第二の仮説に到達できる。つまり、Xがクリンプルシャムと、同一であるという、より有望そうな第二の仮説にだ。
この場合、クリンプルシャムが古風にいえば、機略縦横の男ならば、我々の広告に犯人自身が、回答してくることを、我々が期待しているくらいのことは、正確に判断するにちがいない。従って、彼は大胆なごまかしを演ずるだろう。眼鏡については、紛失したとか、盗まれたと主張するだろう。もし事実を突きつけられても、発見された場所に誰よりも驚いているのは自分だというだろう。彼は自分の証人に、彼が五時四十五分にヴィクトリア駅で下車したことを証言させるだろうし、予定の時間に列車でバールハムに現れて、月曜の夜、一晩中、バールハムで、よく知られている尊敬すべき紳士と腰を下して、チェスを闘わしていたことも、証明するだろう。こうなるとバールハムの、尊敬すべき紳士が、訊問されるにちがいない。そしてこの紳士は、独身の世帯主であり、アリバイを追及することが、容易でないことに気がつくだろう。列車の改札係や車掌が、バールハムとロンドン間を、一週間の間に乗降した乗客のことを正確に記憶しているなんて、及びもつかない話さ。
結局、諸君、僕は、これらすべての仮説の弱点を、明白に指摘してみせよう。即ちどの仮説も、そんな明白な有罪の証拠となるような品を、死体の上にのこしておいた理由を説明できないことだ」
この学者ぶった説明を辛抱強くきいていた、パーカー氏がいった。「Xはクリンプルシャムの敵だったのではないでしょうか。つまり、彼に疑いがかかるように計画したということです」
「ありうる。だが、それを突き止めるのは難しくない。Xは明らかに、クリンプルシャムと彼の眼鏡の近くに住んでいたことになるからだ」
「誤解か、偶発事かという第一の可能性についてはどうでしょう」
「議論の対象にはならんね。データが一つとしてないんだから」
「とにかく」とパーカー、「ソールズベリへ行けば、なにか指針が出てくるでしょう」
「その必要はあると思うな」ピーター卿はいった。
「結構です」刑事はいって「ところで、出かけるのは、貴方ですか、私ですか、それともご一緒に?」
「私がやってみよう」ピーター卿はいって「というのは、二つの理由からだ。まず第一の理由は(可能性の第二と仮説1のAによって)もしクリンプルシャムが、ただの他人の道具に使われた無知な奴なら、遺失物を返すのは広告を新聞に出した人間であるべきだろう。それと第二の理由は、仮定の2、をとりあげたとして、我々は、不吉な可能性を見逃してはいけないのだ。Xなるクリンプルシャムは、バターシー・パークの怪事件が、日々の新聞紙上で、興味ぶかく書かれているとき、こんな軽率な広告を出して、用心ぶかく、彼を罠にかけようとしている男の手から、逃れようとするに違いないと、思うからだ」
「ご一緒に行きながら、論証して行けば、私にも納得できると思いますが」刑事は反対した。
「とんでもない」ピーター卿はいって、「彼とバターシーの死体の関係を疑うたった二人の人間である我々が、雁首そろえて出かけるなんて、やつの罠にかかりに行くようなものじゃないか」
「しかし、警視庁に行く先を伝えておいて、もしも我々二人がやられたとなれば、クリンプルシャムが有罪であるという強力な証拠になるよ。浴槽の中の死体の一件によって有罪にならなくても、我々二人をやったかどで縛り首になる」
「それなら」ピーター卿はいって、「もしも僕だけが殺されても、君は彼を絞首刑にできるじゃないか――何て馬鹿々々しいことを、いっているんだ。君はまるで、何にもわからない若者みたいじゃないか? そもそも、老いたるレヴィのほうはどうするんだね? 君以外に、彼を探せる者がいるかい?」
「しかし、我々は、警視庁からといって、クリンプルシャムを縮み上がらせることができます」
「まあ、もしだよ、君と一緒に、彼を嚇かして、びっくりさせることができたとしても、それでどうなる? どの道これは、雲をつかむような仕事に思われるのさ。僕と一緒に行っても、時間の浪費に過ぎない。もっと他にやるべきことがあるはずだよ」
「ですが」パーカーは、しぶしぶ黙っていたが、「どうして、この場合に、私が一人で行ってはいけないんです?」
「馬鹿をいえ」ピーター卿はいって「僕は、この事件の処理のために、雇われているんだ、ティップス夫人にね。彼女のために、私は全力を尽してやらなければならないんだ。それに、君と事件について、色々やったのは、僕の親切気からだったのだよ」
パーカー氏は唸った。「でも、バンターはお連れになるんでしょう」
「君の気持ちに敬意を表して」ピーター卿は答えた。「僕はバンターをつれて行く。写真をとらせたり、僕の衣裳戸棚を、ひっくり返させたりしているほうが役に立つんだが。ソールズベリへ行くのに、具合のいい列車は何時かな、バンター」
「十時五十分の列車が結構かと存じます、旦那様」
「それに間に合うよう、手配をたのむ」ピーター卿はそういうと、部屋着をぬぎすて、それをひきずりながら、寝室へ入って行った。「それからパーカー君、もし、君の手がすいていたら、レヴィの秘書をつかまえて、ペルー石油の株のことを、ちょっと調査して見給え」
ピーター卿は、汽車の中で、携えてきたサー・ルーベン・レヴィの日記を読んでいた。日記は最近の事実に照らし合わせると、むしろ哀れを催すものだった。狂暴な牡牛〔強含みの相場〕を意のままにすることができ、金融の支配者たちを権力の座から一掃できる力を持った株式取引所の有数の闘士も、私的生活では、親切で、家庭的で、無邪気に家族に向ってつまらんことを自慢する大まかな愚か者でしかなかった。そこには、彼自身のちっぽけな倹約も、彼の妻と娘の途方もない浪費と並んで、正確に記録されていた。日常茶飯事の微々たることも、こんな風にかかれていた。≪温室の屋根を直しに、男がやってきた≫とか≪ゴールドバーグが推薦してくれた新しい下男頭、シンプスンが到着した。彼なら申し分あるまいと、わしは思った≫。すべての訪問客と、その歓待ぶりについても、きちんと、記入されていた。外務大臣デューズベリ卿との豪奢な昼食を始め、アメリカ全権大使ジャベーズ・K・ウォルト博士を通じて、一連の外交的晩餐を催したこと、さらにはごく親しい家族的な会合に集まった人々のことが、洗礼名や仇名を使って記してあった。五月の頃には、レディ・レヴィの神経症について述べられてあり、その後の数カ月は、そのことが記述の主題になっていた。九月の頃には、こう書かれていた≪フリークが、愛する妻のところへやってきて、充分な休養をとるために、転地をすすめてくれた。彼女は、レイチェルと外国へ行くことを考えた≫。この有名な専門医の名が、月に一度は、昼食とか、晩餐に呼ばれた客として、あらわれていた。ピーター卿は、だからフリークという男が、レヴィ自身のことを聞くには適切かもしれないと感じた。「あの人たちは、時々、医者に打明け話もしているだろうな」ピーター卿は一人でつぶやいた。「それから、そうだ! もしレヴィが、あの月曜の夜フリークを訪ねて行っただけだとしたら、バターシーの事件はけりがついちゃうじゃないか」彼はフリークの名を心に留めながら、先を探して読んでいった。九月十八日に、レディ・レヴィは娘をつれて、南仏へ出発した。そして、突然、十月五日付のところに、ピーター卿が、探し求めていたものを、発見した――≪ゴールドバーグとスクリナーとミリガンを晩餐に招いた≫
これは、ミリガンが、あの家へ来たという証拠になる。それは、戦いに臨む二人の決闘者が、握手を交えるような、儀礼的な歓待であったのだろうか? スクリナーは、よく知られている画商だった。ピーター卿は、そのときの情景を、こんな風に頭に描いた。晩餐後の腹ごなしに二階へ上がり、居間にある二枚のコローの画をみたり、十五の年《とし》に死んだ、レヴィの上の娘のポートレートをみたりする。これはオーガスタス・ジョンが描いたもので、寝室にかけてある。赤毛の秘書の名前はもちろん、秘書の秘《ひ》の字すら、どこにも見当たらなかった。また、別の記載が、彼の注意をひいた。九月の始めから十月の終りまで、ワインダーム・クラブのアンダーソンが、頻繁な訪客となっていた。
ピーター卿は日記の上で頭をふると、バターシー・パークの怪事件に思いをめぐらせた。レヴィの事件では、犯罪の動機は推測が可能であり、それをなし遂げた方法と犠牲者の行方を発見することが重要であるが、もう一つの怪事件の場合では、おもな障害は、どんな動機も考えにくいことである。事件の報道は町から町へ新聞によってもたらされ、死体に関する詳細は、どの町の警察へも送られていたのにもかかわらず、奇妙なことに、まだ一人としてティップス氏の浴槽への侵入者を鑑別しにやってきた者がない。記事には、きれいに剃《そ》られた顎《あご》と、刈りこまれた髪と、鼻眼鏡についても述べられていて――これは、たしかに、多少誤解を受けやすいが――しかし一方においては、警察では、いくつかの欠けている臼歯のことを強調し、背丈や外見などの詳細を完全に述べていたのである。そして、死亡したであろう日付についても、述べていたのに反響がなく、まるで一人の人間が、この社会から、少しの裂け目も残さず、いささかの小波もたてず、消えさってしまったようにも見えた。何の関係も、何の経歴もわからず、そのうえ衣服さえつけていない男の、殺人の動機を決定することは――想像力に対しては賞讃すべき課題ではあるが――まるで四次元を具象化するに等しいものだ。たとえ、この日の面会で、クリンプルシャム氏の、過去および現在の隠された一面が暴露されたにしろ、明らかに、過去の分らぬ人間であり、現在は浴槽と警察の死体安置所という狭い範囲に局限されたもう一人の男とを、どんな風に関係づければいいのであろう?
「バンター」ピーター卿はいって「お前に頼んでおくが、僕が二兎を追いはじめたらすぐに制止してくれ。こんな事件は、僕の健康のためによくないだろう。一匹の兎は、ここからどこへも走っては行かない、もう一匹の兎は、どこかへ走って行ってしまった。この事件が済んだら、僕は書斎の人間に戻るよ。犯罪とか、事件とかいうものから、誓って手をひく。そして、もっと口あたりのやわらかいチャールズ・ガーヴィス〔二〇世紀初頭の英国の作家〕の最近の労作の研究にでもとりくむさ」
そのホテルが、ミルフォード・ヒルに比較的近かったので、ピーター卿はホワイト・ハートや、他のもっと風光明媚な場所より、ミンスター・ホテルで昼食をしたためることにした。
彼を適当に元気づけてくれたのは、そこの昼食でもなく、大聖堂のある町であるソールズベリの、複雑なゆかしいほどの家並のたたずまいでもなかった。ここの食物は、まるでわずかに祈祷書で味つけされたように味気ないものだった。
憂鬱げに彼は腰を下して、チーズを食べていた。そのチーズたるや、英国では単に「チーズ」として知られている代物で――スティルトンでも、カマンベールでも、グリュイエールでも、ウエンズレーデルでも、ゴルゴンゾラでもなく――まるでチーズとはいえないような青白い物質のように思えた。
彼はたま仕に、クリンプルシャムの事務所はどこかと訊ねてみた。
給仕は道の向う側の、はるか通りの彼方にある家を指さしてから、言葉を添えた。
「誰に聞いてもお分りになります。この辺では有名な方でございますから」
「なかなかいい弁護士だそうだね?」
「さようでございます」給仕はそういうと「クリンプルシャム様のように信用のおける方はあまりございません。ここら辺りの方は、あの方のことを旧式だなどと申しますが、私がお頼みするのでしたら、若いおっちょこちょいの連中に頼みますより、クリンプルシャム様におねがいいたします。でも、クリンプルシャム様はもうじき隠退なさいますでしょう、はい。まちがいはございません。何しろ、もう間もなく八十におなりでございます。しかしそうなりましても、お仕事の方はお若いウィックスさんがお引きつぎになりますでしょう。お若いが、いい方で、しっかりした紳士でいらっしゃいます」
「クリンプルシャムさんは、本当に、そんなお年寄りなのかね」ピーター卿はこういってから「おやおや、あの人は年にもめげず元気なんだな。僕の友人の一人が、先週この町で、あの人と仕事をしたのさ」
「おどろくほどのお元気で、はい」給仕はうなずくと「その上、足が悪いのに。でもそのため、旦那様、私はよく考えるのでございますが、男というものは、一旦ある年齢を越えてしまいますと、年とともに、益々丈夫になるように思えます。ご婦人の方もそうでございますし、むしろご婦人の方が男の方よりも丈夫なように思われます」
「全くそうだな」ピーター卿はそういいながら、こんなことを考えていた。八十才の老紳士がちんばの足を引きずり引きずり、深夜のバターシーの部屋の屋根の上で、死体を運ぶ図を頭に描いてみたが、すぐそれを自分で打ち消し「彼は元気だ、丈夫だ、全くジョーイ・バグストック〔ディケンズの『ドンビーと息子』の登場人物〕のように、とても元気がいい……」と、考え深そうにいい足した。
「は? さようで――」給仕は答えて「本当にさようでございます」
「いや、失敬した」ピーター卿はそういって「僕は詩を引用していたんだ。全く我ながらおはずかしいはなしさ。わるいくせで、つい母親に抱かれていたときのことをふっと思い出したりして――」
「とんでもございません」大まかなチップをふところに入れながら給仕がいった。「どうもたくさんいただいてありがとう存じました。すぐにお宅はお分りになると思います。曲り角を二つ越されまして、ペニー・ファージング街のちょっと先のところの左側でございます」
「X・イコール・クリンプルシャム説はむりだな」ピーター卿はいって「僕が想像していた人物より、どうやら見当ちがいの恰好をした人間だった。しかし、問題は腕力よりもむしろ知力だ。年をへた蜘蛛《くも》は、こっそりみえないような巣の真ん中で獲物をねらっているからな、バンター、そうだろう――」
「さようでございます」バンターが答えた。
二人はならんで町を上って行った。
「事務所はあそこだ」ピーター卿はこういってから「バンター、お前はこの小さな店へ入って、スポーツ新聞を買っているのだ。そして、もし、四十五分たって、僕が悪漢の巣窟から出てこなかったら、あとはこうしろといわなくても、お前には分るはずだな」
バンター氏はいわれたように店の中へ入って行き、ピーター卿は道を横切ると、腹をきめて弁護士の扉のベルを鳴らした。
「真実、すべての真実、そして真実のみを語ること〔英国の法廷での証人宣誓〕、これがよさそうだ」彼がそうつぶやいているときに書記がドアをあけたので、彼は堂々と名刺を手渡した。
彼はすぐに、秘密ありげにみえる事務所に案内された。明らかにヴィクトリア女王時代の早期のものと思われる家具で飾られ、それっきり変改されていないと思われた。
やせて、か弱そうにみえる老紳士が、彼が入って行くと、さっと椅子から立ち上り、びっこをひきひき近づいてきた。
「これは、これは」弁護士はそういうと「わざわざご自身でお出かけ下さいまして、ご親切なことです。本当にご迷惑をかけて申し訳ございません。わしの眼鏡で、たいへんなご厄介をかけましたようで。ピーター卿、おかけになって下さるよう」彼は例の眼鏡とよく似た鼻眼鏡ごしに、ピーター卿を、感謝をこめてじっとみつめた。
ピーター卿は腰を下した。弁護士も腰を下した。
ピーター卿はテーブルの上のガラスの文鎮をつまみあげ、何か考えるように手の中で、その重さをはかってみた。そして何となく、自分の指紋をその上にのこしたことを気にとめながら、また元のように、手紙の山のまんなかへ正確においた。
「いや、大したことではありません」ピーター卿はそういってから「ここに用事があったのです。あなたのお役に立って僕も嬉しく思います。誰でも眼鏡を紛失しては困りますからね、クリンプルシャムさん」
「さようさ」弁護士はいった。「眼鏡はきっと私のものだと思うのじゃ。今かけておるこれは、どうも鼻のところでぴったりせんのでな。おまけに、あの鎖にはとても愛着がこもっておりますじゃ。バールハムへついて、眼鏡がなくなっておるのに気がつき、わしはいたく心を痛めました。鉄道にたずねてみたが、わからんじゃった。盗まれたのかと落胆してな。何しろヴィクトリア駅はあのような人じゃて、おまけにバールハムへ行く列車はぎゅうぎゅう満員。あなたはあの列車の中でみつけてくれたのですか?」
「ええ、いや」ピーター卿はいった。「実は意外なところでみつけたんです。あなたは、列車の中で、誰か知りあいの人にお会いになりませんでしたか?」
弁護士は彼をじっとみた。
「いや」彼はそう答えて「どうしてそんなことをいわれるのじゃね?」
「つまりですな」ピーター卿はいって「もしかしたらと僕は思うんですが――私がみつけた眼鏡は、だれかが冗談にとったものじゃないかと思ったもので――」
弁護士は、分らんという顔をしてみせた。
「そいつが、わしと知り合いだとでも言ったのかね? ロンドンには知人はほとんどおりませんわい。一人だけ、わしがバールハムで泊めてもらった友人のフィルポッツ博士はいますがな。この人にわしは大変ご厄介になっておりますよ。じゃから彼は、わしが眼鏡をなくしたことをよく知ってます。わしはメドリコット銀行の株主総会の仕事をやっとりまして、そこで色々な人と顔を合わせるが、個人的に親しいものはおりゃせん。その連中の誰かが、わしにそんなぶしつけなことをやったなんて、とても考えられませんな。どの道――」彼はつけ足すように「わしは眼鏡がもどりさえすれば、どうしてもどってきたかには興味がないんですわ。まあ、とにかくご面倒かけたことには厚くお礼を申し上げるつもりですが」
ピーター卿は、ためらった。
「せんさく好きな奴とお怒りなさるかもしれませんが、お許し下さい」こういうと「しかし、もう一つだけ質問させてください。まことに俗っぽい芝居のようにお思いになるかもしれませんが、まアお聞き下さい。あなたの、そのう――あなたが死なれたり、失脚されたことによって、利益をうけるというような、どなたか敵をおもちではないでしょうか?」
クリンプルシャム氏は、不可解な驚愕をうかべて、凍りついたように身を固くした。
「いったい、どういうわけで、そんなとんでもないことをおたずねなさるのだ?」声音が、こわばったように思えた。
「つまり」ピーター卿は「状況が、少々おかしいからなんです。あなたは、私の広告が、鎖を売った宝石商に対してであることを、思い出して下さればいいのです」
「ますますもって驚くより他はない」クリンプルシャム氏はこういったが「だが、あなたのいうことは、あまりにも断片的すぎるでな」
「実際のところを申し上げますと、僕の広告をみて、眼鏡の持主から返事をもらおうとは思っていなかったのです。クリンプルシャムさん、あなたも、きっと新聞で、バターシー・パークの怪事件のことを読んでおられたはずです。あなたの眼鏡は死体の上におかれていましたし、その眼鏡は現在、警視庁に保管されているのです。これをごらんになればお分りと思いますが」
彼は眼鏡についての報告書と公文書を、クリンプルシャム氏の前にさし出した。
「なんてこった」弁護士は大声で叫んだ。ちらりと書類に目をやると、ピーター卿に鼻をよせるようにして、
「君は、警察に関係しとるんかね」と、きいた。
「公式にいえば、ちがいますが」ピーター卿はそういって「僕は関係者の一人として、興味をもって私的に事件を調査しているものです」
「大したもんじゃて」彼はそういうと「そういうことをわしはしたくないが、恐喝告訴にあたいするもんじゃ。わしは君に忠告する、早々にこの事務所から退散されたがよかろう……」彼はベルをならした。
「そういう風に解釈なさろうとは思いもよりませんでした」ピーター卿はそういって「どうやらこれは、僕の友人のパーカー刑事の仕事の分野らしいようです」といって、彼はテーブルの上の報告書のかたわらに、パーカーの名刺をおいてから、またいった。「クリンプルシャムさん、もし僕にまたおあい下さるようでしたら、明日の朝までなら、ミンスター・ホテルにおります」
クリンプルシャム氏は、ふふんといったように答え、入ってきた事務員に「この方が、お帰りじゃ」といった。
入口で、ピーター卿は、丁度そこへ入ってきた若い男とすれちがった。その若者はピーター卿をみると、おどろいたといった顔付きで彼をみつめた。だが、どうしてもピーター卿はその若者の顔を思い出せず少々どぎまぎしたが、新聞を買っているバンターを外へ呼び出すと、ホテルへ戻って、パーカーを長距離電話で呼びだすために急ぎ足で立ち去った。
同じようなとき、事務所ではクリンプルシャム氏がぷりぷり怒っているところへ、若い共同経営者が入ってきた。
「ちょっと何ですが」その若者はいうと「誰かが何かわるいことをやったんですか? あの名高い犯罪愛好家の姿を入口のところでみかけましたが……」
「すんでのことに、このわしに恐喝をかけようとしおったんじゃよ」と弁護士はいって「ピーター・ウィムジー卿などとぬかしおってな」
「しかし、あの人は本当にピーター・ウィムジー卿なんですよ」ウィックス氏はいった。
「見まちがいではありません。アッテンベリーのエメラルド事件のとき、証言しているあの人を僕はみたことがあります。警視庁の先に立って犯罪を手がけている、その道の大家なんです」
「おや、おや」と、クリンプルシャム氏がいった。
その日の午後、気をかえたクリンプルシャム氏は、ウィックス氏に伴われて、ミンスター・ホテルを訪れた。守衛はピーター卿が散歩に出かけているといい、たぶん、晩の祈祷をききに出かけられたのでしょう、と言った。
「ですが、おつきの方ならいらっしゃいます」とつけ加えて「もし伝言をなさるのでしたら――」
ウィックス氏は、状況から判断して、伝言をしておいた方がよいと気付いた。
バンター氏は、折しも長距離電話の呼びだしを問い合せて、電話のそばに腰を下しているところだった。
ウィックス氏がバンターにはなしかけたとき、電話のベルが鳴った。それで、バンター氏は丁寧にわびて、受話器をとりあげた。
「もしもし」彼はそういってから「パーカー様でございますか? いや、どうもありがとう。交換手さん! 交換手さん! すまないですが、警視庁につないでもらいたいんです。どうも申し訳ございませんお客様方、もう少々お待ち下さいまし。交換手さん! あ、よかった、警視庁ですね――もしもし、そちら、警視庁さんですか? パーカー刑事はそこにおいででしょうか? おいででしたらちょっと電話口へおねがいいたします。すぐすみますでございます、お客様方。もしもし、パーカー様でいらっしゃいますか? ピーター卿からでございますが、もしおねがいできますならば、ソールズベリまでご足労頂ければとのことでございます。いいえ、そうではございません。旦那様は大変お元気で、只今、晩の祈祷をおききにお出かけになっていらっしゃるのでございます。は、いいえ、明朝で結構だと存じます、はい恐れ入りました、どうも……」
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第六章
パーカー氏にとっては、ロンドンを離れるということは、全く具合が悪かった。彼は、その日の昼近くに、レヴィ夫人に会いに行かなければならなかったし、その上、ティップス氏のところで発見された、未知の訪問者の検視審問が、その日の午後にあることになったので、すっかり彼のその日の予定は狂ってしまい、釘付けにされた形になってしまった。この、延期されていた審問が行なわれるというのは、最早、サグ警部の調査では、何も明確なものが判明しそうになかったからであった。そういうわけで、陪審と、証人たちが三時に召集されていた。パーカー氏は、その朝、警視庁でサグに出会い、彼の口を割らしてその情報を引き出さなかったならば、その審問を見逃してしまうところだった。
サグ警部は、パーカー氏を、煙たく思っていた。それに、パーカーはピーター・ウィムジー卿と|ぐる《ヽヽ》になっていたし、ピーター卿の干渉は度を越していた。それでいて、サグも正面切って問い詰められると、その午後に審問があるということを否定することもできず、パーカー氏が、それに出席するというのをさまたげることもできなかった。つまり、これは英国市民からは、奪うことのできない権利であったからである。
それで三時少し前には、パーカー氏はやって来て席に着き、部屋が一杯になってから来た人々が、いい場所をせしめようと袖の下を使ったり、人をおしのけたりしながら、入り込もうとしているさまを、楽しそうに眺めていた。死因検視官は、几帳面な癖のある、想像力に欠ける容貌の医務官だったが、時間きっかりに着席すると、気難しそうに集まった群衆を見渡し、窓を全部あけるように命じた。運悪く窓の下に陣どっていた人々は、頭の上から、しっとりとした霧をあびることになったので、ざわめきと、窓を閉めてほしいという声がおきたが、検視官にきびしく反対されてしまった。検視官は、インフルエンザが流行っているから、風通しのよくない部屋にいるのは、すこぶる不衛生だといい、その上、窓をあけるのに反対の人は、誰でも、さっさと法廷を出ればよいし、何らかの騒ぎがおきたりすれば、退廷を命ずるといった。それから彼は、フォーマミントの錠剤をのみ、いつものように、準備を整えてから、十四人の陪審員を呼び出し、鼻眼鏡をかけた紳士の死亡事件について、証言によって真実の評決をするように誓わせ、「神よ、彼らを助けたまえ」とつけ加えた。一人の婦人陪審員が――眼鏡をかけて年とった婦人で、お菓子屋をやっている女だったが、家に帰って店の番でもしたい様子をみせ――何かいおうとしたが、死因検視官によって却下されてしまうと、陪審員たちは死体を見に退廷していった。
パーカー氏は、またまわりを見まわして、不幸なティップス氏や、女中のグラディスが、警官に護られて、隣の部屋に入って行くのをみていた。二人に続いて間もなく、ボンネットをかぶり、マントをきた、やせた年よりの婦人が、後からついて行った。その年寄りの女と一緒に、素晴らしい毛皮のコートをきて、魅惑的なボンネットを冠った、公爵未亡人がやって来た。彼女のちらちらと動く黒い眼が、群集の中を、あちこちと見まわした。次の瞬間、その視線はパーカー氏の上で、とまった。というのは、彼が何回か、夫人の家を訪ねたことがあったからだった。すると、彼女はパーカーにちょっとうなずいて合図をし、自分のそばの警官に、何か話しかけた。間もなく群衆の間に不思議にも道がひらいて、パーカー氏はずっと前方の椅子へ案内された。席は丁度、公爵未亡人の後で、公爵未亡人がやさしく彼を迎えて口をひらいた。
「気の毒ね、ピーターはどうしたの?」パーカーは説明を始めた。すると、検視官は二人の方を向いて何かいいたげにしていたが、誰かが近づいて行って、何か耳に囁くと、検視官は咳をしてから、フォーマミントをまた一錠のんだ。
「私たち、車でやって来たんですけど」と公爵夫人はいった。「全くやり切れなかったわ。デンヴァーとガンベリーの間の道のひどいことといったら――おまけにみんなが昼食にやって来るでしょう――その連中と顔を合わさないようにしなければならないし。――あのお年寄りを一人では来させられませんしね。ところでね、教会の復興資金について妙なことがおきたんですよ――あの牧師さんが――あら、またあの人たちが帰って来ましてよ。このことは、後ほどお話ししましょう――あの仰天したような女をごらんなさい。それにまた、あのツイードの服を着た娘ったら、まるで毎日裸の紳士をみていますというような顔をしようとしているじゃありませんこと――もっとも私、死んでる裸の紳士っていってるのじゃありませんのよ――あの検視官は何て小さい男なんでしょうね。私を凄い眼でにらみつけているわ。――私に退廷を命じるかしら。それとも、何とかの廉《かど》で私を拘留するかしら?」
証言の最初の部分は、あまりパーカー氏の気を引かなかった。拘束中に風邪をひいてしまったティップス氏は、恨むような声音で、朝の八時に風呂に入ろうと思ってゆくと、死体を発見したと供述した。彼は大変な衝撃をうけたので、坐りこんでしまい、女中にブランディをもってこさせなければならなかった。以前に、その死人をみたことはなかったし、どうして、それがそこにやって来たか考えも及ばなかったといった。
そうです、その前日は、マンチェスターに行っていました。セント・パンクラス駅に着いたのは十時です。そこで鞄を一時預けにしました。ここまでくると、ティップス氏は非常に顔を赤くし、言葉もしどろもどろになり、気ぜわしそうに法廷を見まわした。
「さあ、ティップスさん」と検視官は元気よくいった。「私たちはあなたの足どりをはっきり知らねばなりません。あなたは事の重大性をみとめねばなりません。あなたは証言をするということを承諾しました。そうしなくてもよかったのです。しかし、証言をするといった以上は、はっきりと、事実を述べた方がよろしい」
「はい」とティップス氏は弱々しい声でいった。
「この証人に注意をしておいたのかね。警部」と、検視官はサグ警部に尋ねた。
サグ警部は、ティップス氏に、証言をすることは、裁判のとき彼に不利をもたらすかもしれないと告げておいたと答えた。ティップス氏は、顔面蒼白になり、涙声で≪何も悪いことをするつもりはなかった≫といった。
この言葉で法廷が少しざわめいた。すると、検視官は以前よりいっそう気難しくなった。
「どなたがティップス氏を代弁されますか」と彼はいらいらしたようにたずねた。
「いませんと? 君は、彼に説明しなかったのか――弁護士に代弁してもらえるし、してもらわなければならぬということを――君は説明しなかったんだな? 本当ですか、警部! ティップスさん、あなたは法的に代弁してもらう権利があることを知らなかったんですか」
ティップス氏は腰かけの後ろに身体をささえ、「はい」と、やっときこえるような声でいった。
「いわゆる教育をうけた人間が、自分自身の国の法的手続きに、こんなに無知であるということは信じられない。これは実に困ったことになった。警部、この被告――ティップス氏――にいったい証言させてよいものか、本官には分らん。非常に微妙な立場にあるわけだからだ」
ティップス氏の額に汗がにじんだ。
「もし、あの咳をしたり、錠剤をのんだりしている人が、あの十四人の人たちに、はっきりとあの可哀想な小男を殺人犯人にするように教えたら、事はもっと簡単じゃないのかしら」と公爵夫人は、パーカーに囁いた。
「彼は自分で被告に服罪させるわけにはゆかないんですよ」とパーカーは答えた。
「そうだわ――彼が何もしていないのに、罪人になんかできるものじゃないわ。役人というものは肩書をひけらかす以外のことは、何も考えないのかしら」
一方、ティップス氏は、ハンカチで汗をふきながら、勇気をふるいおこした。彼は追いつめられた兔のように、弱々しいが、威厳をもって立っていた。
「私は申し上げましょう。私のような立場にいるものにとっては、全く具合のわるいことですが……。しかし、こんな恐ろしい罪を犯そうとは夢にも思ったことはありません。本当です。皆さん。私にはそんなことはできません。いいえ、人殺しといわれるくらいなら、本当のことをいいます。これを申し上げると、私の立場が――いや、申し上げましょう」
「君は、自分で陳述をしていることの意味の重大さをよく承知していますか。ティップスさん」と検視官はいった。
「充分に承知しています」とティップスはいった。「これでいいのです――水を一杯頂きたいのですが」
「自由にしたまえ」と検視官はいった。しかし、同時に、じれったそうに腕時計を眺めていた。
「ありがとうございました」とティップス氏はいうと、「はい、それでは――私が十時にセント・パンクラスに着いたのは本当でございます。しかし列車には一人の男が一緒にのっておりました。彼はレスターで乗り込んできました。最初、私は、彼が誰であるか分りませんでした。ですが、彼は私の昔の学校友達だったのです」
「その紳士の名前は何というのですか?」と検視官は、鉛筆をかまえて質問した。
ティップス氏はみるみるうちに、尻ごみしてしまった。
「名前をいうわけには参りません」と彼はいった。「お分りのように――いや、すぐお分りになりますが――名前をいえば――彼が困ります。そんなことは、私にはできません――いいえ、命をとられても、いうことはできません」
「なるほど、なるほど」と検視官はいった。
公爵夫人は、再びパーカーに口をよせて「私は、あの若者を尊敬しはじめてよ」といった。
ティップス氏は、また、供述をはじめた。
「私が、セント・パンクラスについた時、私は家に帰るつもりでしたが、私の友達が、だめだといいました。久しぶりで逢ったのだから、飲み明かそうじゃないか、と彼が申しました。残念なことに私は気がよわく、とうとう彼にそそのかされて、彼のゆきつけの一軒へ連れこまれました。私が前もって、はっきりその行く先を知っていたなら、私はそんな所に決して足をふみ入れなかったと思います。私はカバンを一時預り所にあずけました。というのは、彼が、荷物があっては駄目だといったからでした。そして、私たちはタクシーにのりこみ、トットナム・コート通りと、オックスフォード・ストリートの角にのりつけました。それから、私たちは少々歩き、横丁に入ったのです。(どこの横丁だったか憶えておりません)そこに戸が一つ開いていて、灯が外に洩れていました。カウンターに一人の男がいて、私の友たちは券を何枚か買いました。カウンターの男が、私の友達に、私のことをなんとかいっていました。すると私の友達が、『ああそうだよ、奴は以前にここへ何回も来たことがあるんだ。そうだったねえ。アルフ?』(これは私の学校時代の呼び名です)――」ここでティップス氏は非常にせきこんで、
「私は、二度とそんなところにゆくつもりはありません。
さて、私たちは地下の部屋におりてゆきました。そこには、飲み物があって、私の友達は、四、五杯もらいました。そして、私にも一、二杯もらわせたのです――いつも私は、摂生しているのですが。友人はそこにいた他の男や、娘たちと話しをしていました――非常に下品な連中だと私は思いました。ですが、若い何人かの娘たちは、たしかに美しいようにみえました。娘たちのうちの一人が、私の友達の膝にのって、彼をおっとりした方ねといい、そして、いらっしゃいよと、彼をさそいました。そこで私たちはとなりの部屋に行ったのですが、そこでは大勢の人が、いま流行《はやり》のダンスをおどっていました。私の友達が、そこでおどり出したので、私はソファに腰を下していますと、若い娘の一人が私のところにやって来て、『おどりません?』といいました。私が『おどりたくない』と答えると、彼女は『私たちにお酒をおごって頂戴よ、あんた』といいました。そこで、私は『もう看板じゃないのか』ときくと、彼女は、『そんなことかまわないのよ』といったので、私は酒を注文しました――酒はジンのビター割りでした。――というのは女の子にねだられて断わるのは、紳士らしくないと考えたからです。ですが、私の良心はとがめました。――こんなに若い娘にねだられるなんて――すると、彼女は腕を私の首にまわして、飲みものの代を払いでもするように、私にキスしたのです。――そして、全くそれは私の胸にぐんと、応えました」とティップス氏は少し曖昧に、それでいて異常な語気をこめていった。
ここで、誰か後ろの席から「うまくやったなッ!」とどなり、舌打ちをする音が、あちこちにおこった。
「あの怪《け》しからん物音をたてた人間をつまみ出せ」と、検視官は大いに憤慨していってから、「先を続けて下さい。ティップスさん」
「それで」とティップス氏は先を続けて、「十二時半をすぎた頃と私は思いますが、あたりは活気づきはじめ、私は、さよならをいおうと友達を探し求めました。これ以上長くいたくないと思ったからでした。お分り下さるでしょう。ところが、彼は若い女性の一人とうまくやっているところでした。私の友達は、彼女の肩からリボンをとったり、女性は女性で笑ったりしていたのです。そこで、私はだまって抜け出ようとしておりますと、急に、組み打ちのひびきと、叫び声を耳にしました――そして、何が何だか分らないうちに、六、七人の警官がなだれこんで来て灯が消え、誰も彼も足をふみならしたり、どなりつづけていました。全く恐ろしいの何のって、私はそのさわぎにまきこまれて引き倒され、腰掛けで、いやというほど頭をぶっつけました――そのとき受けたのが、このおたずねの傷なのでございます――そして、私はもう逃げられないだろう。すべてが、分ってしまうだろう、たぶん私の写真が新聞にも出るだろう。などとすっかり小さくなっていると、誰かが私をつかまえました――きっと、あの私がジンのビター割りをおごってやった娘だと思いますが――彼女が『こっちよ』といって私を通路におしやってくれ、どこか裏口の方から出してくれました。それで、私は一目散に通りを走って、どのくらい走ったでしょう、気がつくとグッジ・ストリートに出ていました。そこで、タクシーを拾って家に帰ってきたのですが、後で、私はその検挙の模様を新聞で読み、私の友達も逃げてしまっていたことを知ったのです。ですが、これはあからさまにしたくないことですし、友達に迷惑をかけてはいけないと思って、私は、まあ、何もいわずにおりました。以上、真実を申し述べた次第です」
「そうですか、ティップスさん」と検視官はいった。「今のお話の大部分は、実証せられることと思います。で、お友達の名前は?――」
「いえません」と、ティップス氏はきっぱりといった。「たとえ、どのようなことがあっても」
「よろしい」と検視官はいった。「では、何時に家に帰られたか伺いたい?」
「一時半頃だったと思います。もっとも、私は大変興奮していましたので――」
「なるほど、すぐに、やすまれたのですか」
「そうです。私は先ず、サンドイッチを食べ、ミルクを一杯のみました。腹がおさまると思ったからです」と、彼は申しわけのようにつけ加えた。「そんなに夜おそく、しかも空きっ腹にアルコールをやったことがなかったもので」
「なるほど、だれも起きて待っていませんでしたか」
「いいえ、誰も」
「床につくのに、前後を通じてどれくらい費《つい》やしましたか」
ティップス氏の考えでは、半時間もかかったろうかということだった。
「寝る前に、浴室へ行きましたか」
「行きません」
「そして、その夜、何の音もききませんでしたか」
「聞きません。私は、ぐっすり眠ってしまいました。少し私は興奮していたので、ねむれるように薬をのんで寝ました。それで、疲れていたのと、ミルクと薬のおかげで、すぐにねついてしまい、グラディスが起こしてくれるまで目が覚めませんでした」
その後の質問では、ほとんど、何もティップス氏からききだすことはできなかった。
そうです。翌朝、浴室に入っていった時には、浴室の窓はあいていました。そして、私はその事について、ひどく女中を叱りました――。彼はどのような質問にも直ちに答え、この恐ろしい事件が、だんだん底をみせてきたことを喜んでいた。
グラディス・ホロックスの証言は次のようだった。ティップスさんの家に雇われてもう三月《みつき》になります。あたしという人間については、以前の雇い主に聞いてください。ティップス老夫人が、十時に床につくのをみた後で、部屋をみまわるのは、あたしの仕事でした。月曜の夜には、そのようにしました。もちろん、どの部屋もみてまわりました。(その夜、浴室の窓をしめた記憶はありますか?)いや、それははっきり覚えていません。しかし、翌朝、ティップスさんに呼ばれたときは、浴室の窓は確かに開いていました。ティップスさんが入る前には、あたしは浴室へ足をふみ入れてはいません。以前に、窓を閉め忘れたことはありました。誰かが夕方風呂に入って、ブラインドを降ろしたままにしていた時などに。老夫人は月曜の夕方、風呂に入りました。月曜は、いつも風呂に入る日なんです。あのとき、もしかしたら、窓をしめなかったのではないかと思います……。
ここで、彼女は、わっと泣き出したので水を少し飲ませてもらい、一方、検視官は三度目の錠剤を口にした。
気分が直って証人は、たしかにねる前に、すべての部屋をみてまわったといった。あたしに気付かれずに、死体を家のどこかにかくしておくということは不可能です。あたしは夕方一杯台所にいましたが、あそこは死体はおろか、ご馳走をおいておく場所もないくらい狭い場所です。老夫人は居間にいました。一度、彼女は食堂に入っていきました。ティップスさん用のミルクとサンドイッチをテーブルに出しておくためです。あの家の中には、何もありませんでした――これは、誓ってそう言えます。あたしの寝室にも、廊下にも、何もありませんでした。(寝室の戸棚や、納戸の中も見ましたか?)そんなことはしていません、他人の家で、毎晩、骸骨を探すような趣味はありませんので。(それでは、何者かが納戸か戸棚に身をかくしていたかもしれないわけですね)そりゃ、ないとは言えません。
次に女性の陪審員からの質問に答えて――ええ、つきあっている若い男はいます。ウィリアムズというのが、彼の名前です。ビル・ウィリアムズ――正確に言うならウィリアム・ウィリアムズという男です。ガラス屋です。ええ、時々そのアパートにやって来たことがあります。だから、アパートの中についても、ある程度知っていたでしょう。(では証人はかつて――)いや、そんなことはありません。いったい、なにをお聞きになりたいんです? あたしとウィリアムズさんの人柄については、聖マリア教会の牧師様が申し述べてくれるはずです。最後にウィリアムズさんがそのアパートに来たのは、二週間前でした。
いや、ちがいます、正確にいうと、あたしがウィリアムズさんに最後に会ったのは月曜日――そうです、月曜日の夜でした。真実を語らねばならないのですから申し上げます。絞首刑になるよりは、失業した方がまだましですから。もっとも、娘がちょっと面白い目をみようと思えば、死体が窓から投げ込まれて、まきぞえを食うのでは、少し残酷でやり切れない話ですが。あたしは、ティップス老夫人をねかしつけると、こっそり家をぬけ出て、水道工夫やガラス屋連のダンスパーティに出かけていったんです。ウィリアムズさんが迎えに来てくれ、帰りも送ってきてくれました。あたしがどこに行っていたかは証言してくれるでしょうし、何も悪いことはしていなかったということも。あたしはパーティの途中で引き上げました。帰って来たのは、二時ごろでしょう。鍵は、老夫人がみていない時に、夫人の引出しからそっと借りました。外出したいと申し出たのですが、その夜は、ティップスさんが不在だったので、許されなかったのです。そんな行動をとったことは後悔していますし、もう罰も受けています。家に入った時には、何もあやしい物音はききませんでした。家中をみてまわらずに、すぐ床につきました。こんなことになるなら、もう死んだ方がましなくらいです。
いいえ、ティップスさん親子には、お客はほとんどありませんでした。世間からはなれて暮らしていました。翌朝、表の戸には、いつものように閂《かんぬき》がかかっているのをみました。ティップスさんに何かあったなどとは信じられません。
ご苦労でした、ホロックス嬢。ジョージアナ・ティップスを呼びなさい。そして、暗くなったようだからガス燈をつけましょう。
ティップス夫人の尋問は、事情が明確になるというよりも、見物人をたのしませることに終始した。それは、まるで漫才のやりとりのようなものだった。十五分間も検視官は辛抱していたが、遂に夫人の最後の言葉に手をあげてしまった。
「お前さん。私をおどかそうたってだめだよ。お若いの」と、この八十才の老婆は勇ましくいった。「そこにすわって、棗菓子《なつめがし》ばかりほうばっていると、胃をわるくするよ、お前さん」
この時、一人の若い男が立ち上って、証言したいと申し出た。彼は、自分がウィリアム・ウィリアムズであり、ガラス屋であると説明した後、宣誓し、グラディス・ホロックスが月曜の夜、埋立地にいたという供述を確証した。アパートには二時前に帰ったが、一時半よりおそかったのは確かだと述べた。彼はホロックス嬢に、彼女が外出してならないのに連れ出したことを詫びた。彼はプリンス・オブ・ウェールズ通りでは、往きもかえりも、あやしいものを見かけなかったといった。
サグ警部が証言に立った。警察が呼ばれたのは、月曜の朝八時半頃でした。女中の態度があやしいと考えたので、彼女を逮捕した。後からの情報によって、死人が前の夜、殺された疑いがあると思ったので、ティップス氏を逮捕しました。外から家に押入った形跡はみとめられず、浴室の窓枠の下に、痕跡があったので、誰かがここから入ったものと考えました。庭には、梯子の跡も、足跡もなかった。庭はアスファルトで舗装されていた。屋根もしらべてみましたが、何も発見できなかった。自分の意見では、死体は前もって家に運びこまれ、夕方までかくされており、そのかくした男は、それから、夜の内に浴室の窓から出て行ってしまったと思われる。そして、女中は、それをみてみぬふりをしていたのではないか。(もしそうなら、女中は何故その人物を戸口から出してやらなかったのか?)なるほど出してやったのかもしれない。(死体か、人間か、あるいは両方が家にかくされていたという痕跡をなにか発見したのか?)かくされていなかったという形跡もありません。(その死が、その夜おこったと考えられる証拠はあるか)
ここまで来ると、サグ警部は、不安気に見え、彼の職業的威厳を取り戻そうと努力した。しかし重ねて要求されると、問題の証拠は結局何にもなかったことを認めた。
陪審員の一人――この事件では、犯人の指紋がのこされていましたか?
浴室に少し指跡はみとめられたが、犯人は手袋をはめていた。
検視官――君はその事実から、犯人の手口について、何かの結論を引出せますか?
サグ警部――犯人は熟練した者のように思われます。
陪審員――今いわれたことは、アルフレッド・ティップスに対する告訴と、非常に矛盾しませんか、警部?
警部は、一言もなかった。
検視官――今まで君がきいた証言に照らして、君はまだ、アルフレッド・ティップス及びグラディス・ホロックスに対する告訴を主張し続ける気ですか?
サグ警部――私は、二人のいっていることが、みな、非常に臭いと思います。ティップスの話は、確認されておりません。それに、女中のホロックスについては、ウィリアムズが|ぐる《ヽヽ》でなかったと考える理由がありません。
ウィリアム・ウィリアムズ――おい、やめてくれよ、何百人でも証人を連れて来るぞ……。
検視官――静粛に願います。警部、君がそんなほのめかしをするとは、驚いたね。極めて不適当な方法だ。ところで、月曜の夜、セント・ジャイルズ広場の近くのナイトクラブへ、警察の手入れが実際に行われたか、どうですか?
サグ警部(不機嫌に)――何かそういった事が行われたと信じます。
検視官――もちろん、そのことを調査してくれたまえ。私も、何かそれについての記事が新聞について出ていたように考える。ありがとう、警部、これで結構です。
四、五人の証人たちが現われて、ティップス氏や、グラディス・ホロックスの人物について証言をし、検視官は医学上の証言へ進みたいと述べた。
「サー・ジュリアン・フリーク」
その偉大な専門家が証言をするために進み出ると、法廷にかなりのざわめきがまき起こった。彼はただ著名人であったばかりでなく、肩幅広く、身のこなしは端正で、獅子のような頭をしており、素晴らしい容貌の持主であった。|きまり《ヽヽヽ》によってさし出された聖書にキスした時の彼の態度は、聖パウロが、馬鹿げた迷信を信ずるコリント人たちに歩調を合わせたさまによく似ていた。
「本当に立派ね。私はいつもそう思うんですけど」と公爵夫人はパーカーに囁いた。「まるでウィリアム・モリス〔十九世紀末の英国のデザイナー〕みたい。あの髪や、ひげ、それにあのきらきら光る瞳――なんて素晴らしい。こういう立派な人たちは、いつも何かに一身を捧げていると思います――社会主義は間違いですけどね。私も、神経を患えば、きっとあの人をみるだけにでも、サー・ジュリアンのところへ行くわ――あんな目をしている人には惹《ひ》かれるものだし、それに、大抵の人がそうしてみたいと望んでいるものなんですよ。でも、私は一度だって神経を病んだことがないの!」
「貴方は、サー・ジュリアン・フリークですか」と検視官は聞いた。
「そしてバターシーのプリンス・オブ・ウェールズ通りの聖ルカの付属住宅に住み、そこで聖ルカ病院の外科部の監督をしておられますね?」
サー・ジュリアンは、この彼についての質問を簡単に短く肯定した。
「君が最初に故人をみた医師ですか」
「そうです」
「そして、あなたは警視庁のグリンボルド医師と協力して検視を行ったのですか」
「そうです」
「死因については、あなた方の意見が一致しましたか?」
「だいたいはそうです」
「陪審に、あなたの印象を語ってもらえますか」
「月曜の朝、九時ごろ聖ルカ病院の解剖室で、研究に従事していますと、サグ警部が私に会いたいとの報告を受けました。彼は、男の死体が、クイン・カロリーヌ館の五十九号で、不思議な状況の下に発見されたとしらせてくれました。彼は、この病院の医学生が、何か冗談をやったのだとは考えられないか、と私にききました。私は病院の帳簿を調べてみて、解剖室からは人体は一つもなくなっていないということを彼に確信させることができました」
「誰が解剖室の責任者ですか」
「解剖室係のウィリアム・ワッツです」
「ウィリアム・ワッツは出頭しているか」と検視官は役人に質問した。
ウィリアム・ワッツは出頭していた。そして、検視官が、必要と認めればいつでも呼び出されるようにとり計られていた。
「死体が病院に運ばれたときには、必ずあなたにもそれが分るはずですね、サー・ジュリアン?」
「もちろんです」
「ありがとう。陳述を続けて下さい」
「サグ警部は、それからその死体を見に誰か医師をよこしてくれないかといったので、私が自分で行きましょうと申したのです」
「なぜ、あなたはそうされたのですか?」
「検視官殿、白状いたしますと、私も人なみの好奇心を持っているものであります」
部屋のうしろの方にいた医学生たちの席から笑い声が起こった。
「その家についてみますと、故人は浴槽の中にあおむけに横たわっていました。私は彼を調べてみました。そして、得られた結論は、死は首の後方に加えられた殴打に原因し、第四、及び第五脊椎骨が脱臼し、脊髄が損傷して内出血を起こし、脳の一部分が麻痺していました。私は故人が少なくとも十二時間前、あるいはもっとそれ以前に死亡したものと判断しました。死体にはそれ以外に何らの損傷の跡もみられませんでした。死んでいた男は、丈夫で栄養のよい、五十才から五十五才くらいの男でした」
「あなたの意見では、その殴打を自分で加えられたものであるとは考えられませんか?」
「考えられません。というのは、背後から相当の力で、何か重い鈍器用のもので打たれたと判断されたからであります。自分でそのように自分を傷つけるということは不可能であります」
「何か事故によるものと考えられますか」
「もちろん、それはありうることです」
「たとえば、死者が窓から首を出して外を眺めている時に、窓が烈しく上から落ちてきてしまったというような?」
「ちがいます、そのような場合には、咽喉部にも同様の狭窄《きょうさく》と裂傷のあとが残されるはずであります」
「しかしこの死者は、何か事故で、非常に重いものが上からおちて来て、それによって殺されたという事も考えられますか」
「考えられます」
「あなたの意見ですと、死は直ちに起こったわけですか?」
「それを申しあげることは困難です。そのような殴打は、直ちに死をもたらすこともありますし、あるいはまた、患者が、半ば麻痺した状態で、暫らく生きていることもありえます。今度の場合は、この死者は、何時間かのあいだ息があったのではないかと考えられます。この私の判断は検屍解剖の際みられた脳の状態にもとづくものであります。しかしながら、私とグリンボルド医師とは、この点に関して完全に意見が一致したわけではありません」
「この死者の身元について、ある示唆がなされたとききましたが、あなたは身元を確認することはできなかったのですね?」
「むろんのことです。私は彼を以前にみたことはありません。あなたのいわれたその示唆は、非常に非常識なものであり、なさるべきものでないと思います。そのような示唆がなされたとは、今朝まで私は知りませんでした。私に早く分っていれば、それをどう処理するか、私に考えがあったのです。それに私は、私が存じ上げている一人のご婦人に、不必要なショックと悲しみを与えることに、強い反対の意を表明いたします」
検視官――「本官が命じたことではありません。サー・ジュリアン、本官はそれに無関係であるし、それについて君に相談がなされなかったことは不幸だという点では、本官も同意見であります」
書記たちは忙しくペンを走らせ、係官はたびたび言葉の意味を問われ、陪審員たちはよく知っているような顔をしようとしてみせた。
「サー・ジュリアン、死体の上に発見された眼鏡の件ですが、これは医学的見地からみて、どのようなものでしょうか」
「眼鏡のレンズは普通のものと違っています。眼科医なら、もっとはっきりしたことをいうと思いますが、私自身の意見では、この眼鏡は故人よりも、もっと年とった人のものではなかったかと考えます」
「人間の体を観察する機会をしばしばもたれた医者として、あなたは、この故人の容貌から、何か彼の個人的な習慣といったようなものを発見されましたか?」
「彼はつい最近金持になり、楽な暮らしをしていたのではないかと思われます。彼の歯は非常にいたんでおり、彼の手には最近まで手仕事をしていた跡があります」
「たとえば、金をためたオーストラリアの開拓民といったような?」
「何かそういった類《たぐい》のものでしょう。むろん、私は明確に申すことはできません」
「それはそうでしょう。ありがとう、サー・ジュリアン」
グリンボルド医師が呼ばれ、彼のすぐれた同僚の証言をあらゆる点で確認した。ただ彼の意見では、死は殴打された後、四、五日たってからだったという。あえて彼がサー・ジュリアン・フリークと意見を異にするについては、非常にためらいがちに、彼のほうが間違っているかもしれないということ、いずれにしても、はっきりしたことはいうのが困難であること、しかし、彼の意見では、彼がその死体をみた時には、もう、死んでから少なくとも二十四時間はたっていたと言った。
サグ警部が再び呼ばれた。
「故人の身元確認のために、どのような処置がとられたか、陪審に報告してもらえませんか?」
人相書が、すべての警察署に配布され、あらゆる新聞に掲載されました。(サー・ジュリアン・フリークの提案によって、すべての港湾にも掲示されたのか?)その通り、掲示されました。(それで?)まったく何の結果もえられなかったのです。(その死人を知っていると申し出たものは誰もいなかったのか?)多くの人が確認を申し出て来ました。しかし、誰もそれが誰であるか確認できませんでした。(手がかりの眼鏡のほうの捜査は、どのようにおこなわれたのか?)サグ警部は、その点については答えをさし控えたいといった。(陪審員たちに眼鏡をみせてもよろしいか?)眼鏡は陪審員たちに手渡された。
ウィリアム・ワッツが呼ばれ、解剖室の人体についての、サー・ジュリアン・フリークの証言を確認した。人体が運びこまれる制度についての説明があった。一般に人体は貧民院や、施療院から供給されます。すべてがわしの責任の下にあります。学生は鍵を手にすることはできません。(サー・ジュリアン・フリークや、他の外科医は鍵を持っていますか?)いや、サー・ジュリアン・フリークでさえ、鍵はもっていません。(月曜の夜、鍵はあなたの手元にあったか)そうです。(いずれにしても、人体が病院から一つとしてなくなっていない以上、この質問は無駄だというのですな)そのとおり。(今まで死体を紛失したことがありましたか?)そんなことがあったら大変です。
検視官は、それから陪審員に向って不愛想に、彼らがそこに来ているのは、故人が誰であろうか、あるいは、誰でなかろうかというゴシップをとばすためではなく、その死因について、彼らの意見をのべるためであると伝えた。彼らは医学上の証言にもとづいて、この死が事故であるか、それとも自分の手でもたらした結果であるか、あるいは、企まれた殺人であるか、を考えねばならぬと注意した。もし陪審員が、この点に関する証言が不充分であると認めれば、彼らは犯人未定のままで犯行確認を答申することができるということ、いずれにしても、彼らの評決は、一人たりとも偏見に基づいたものであってはならないこと、もし彼らが「これは殺人である」と答申すれば、すべての証言を、再び判事の前で繰り返さねばならぬ、ということなどを検視官は陪審員に注意して、心の中では早いとこやってくれよと祈りながら、別室へ陪審員たちを立ち去らせた。
サー・ジュリアン・フリークは証言をした後で、公爵夫人が来ているのをみてとると、そこへやって来て、彼女に挨拶した。
「ずいぶんおひさしぶりです。その後おかわりなく?」と夫人はいった。
「仕事に追われております」と専門家はいった。「丁度、本を新しく出したところです。こんなところへ来るのは全く時間の浪費です。もう、レヴィ夫人にはお会いになりましたか?」
「まだです、あの人も可哀そうに」と公爵夫人はいった。「私はこれに間に合うように今朝来たばかりです。ティップス老夫人は私のところにおりますの。ピーターの悪い癖がまた始まったのね、可哀想なクリスティーン! 私が行ってあの人をみてあげなくては。ああそう、こちらはパーカーさん、あの事件を調べていらっしゃるの」彼女はいい足した。
「そうですか」とサー・ジュリアンはいって暫く間《ま》をおいて「私も――」と彼は低い声でパーカーに「お目にかかれて嬉しく思います。レヴィ夫人にはお逢いになりましたか?」
「今朝、お目にかかりました」
「あなたに、捜査を続けるように頼んだのですか、レヴィ夫人が?」
「そうです」パーカーはいって「あの方の考えでは、サー・ルーベンは誰か商売|敵《がたき》の手で軟禁されているか、それとも誰か悪党が身代金をゆすろうとして、捕えているのではないかというのです」
「というのは|あなた《ヽヽヽ》のご意見でもありますか?」と、サー・ジュリアンは聞いた。
「非常にありうることだと思っています」と、パーカーは率直にいった。
サー・ジュリアンは再びためらっているようだったが「これが終ったら、ご一緒に歩いて帰りませんか?」といった。
「喜んでお伴いたします」
この時、陪審員たちが戻ってきて席についた。法廷は少々ざわめいた。検視官は陪審長に向って、彼らが評決について意見が一致したかどうかたずねた。
「検視官殿、私たちの一致した意見では、この死者は、脊髄に強打をうけた結果死んだものでありますが、しかし、いかにして、この傷害がなされたかについては、それを答申するに足る証言がないと考えます」
パーカー氏とサー・ジュリアン・フリークは、一緒に道を歩いて行った。
「今朝、レヴィ夫人に会うまでは」と医者が口をきり「この事件とサー・ルーベンのいなくなったのに、何らかの関連があろうなどとは夢にも考えませんでした。こんな馬鹿げた考えは、警官の頭でなければ、思いつかぬものと感じました。こんな考えをもっていると知ったら、そんな人たちの迷いをはらしてやるんでしたが」
「私もそういう風に努力したのですが」とパーカーはいった。「私がレヴィ事件に手をつけると直ぐに――」
「誰が、あなたを介入させたのです。もしお差し支えなかったら?」とサー・ジュリアンがきいた。
「そうでしたね。先ず家族の者です。それから、サー・ジュリアンの叔父のポートマン・スクエアのレヴィ氏が調査をしてくれと手紙をよこしました」
「そして、今では、レヴィ夫人がその指示をみとめたのですか?」
「たしかにそうです」と、パーカーが驚いていった。
サー・ジュリアンは、暫く黙っていた。
「どうも、サグの頭に、そんな考えを植えつけたのは、私のせいのようでした」と、パーカーは申し訳なさそうにいって「サー・ルーベンが見えなくなった時、私の第一歩は、その日におこった交通事故や、自殺者をたずねて歩くことでした。そして、バターシー・パークのこの死体を見に行ったのです。もちろん、私はそこにつくと、すぐ馬鹿なことに気がつきました。しかし、サグにはこの考えがこびりついてしまったのです。そして、事実この死者と、私が見たサー・ルーベンの肖像とは、非常に似ていたのです」
「全く外貌は似ています」と、サー・ジュリアンはいった。「顔の上半分は、よく見かけるタイプに属していますから。それに、サー・ルーベンは、濃い髯を立てていたので、口や顎を比べてみるわけにはゆきませんし。なので、そんな考えが、誰にでも浮かぶことはうなずけます。しかし、すぐにそんな考えは、すてるべきでしょう。レヴィ夫人にとっては、大変気の毒だと思います。ご存じかもしれませんがパーカーさん、私は、親しいとまではいえないかもしれませんが、レヴィ一家と、古いつきあいをしています」
「何か、そんなことを伺いました」
「そうです。若い時分に私は――要するに、パーカーさん、かつて私は、レヴィ夫人と結婚したいと思ったことがあるのです(パーカー氏はおきまりの、誰でもする同情のため息をもらした)。以来、妻をもらいませんでした。いつも、彼女が苦しまないように、私はできる限りのことをしてきました」
「サー・ジュリアン、あなたにも、レヴィ夫人にも、大きな同情を禁じえません。私も、サグ警部にこんな考えをすてさせようと、できるだけのことをしたのです。が、悪いことに、たまたまサー・ルーベンが、バターシー・パーク通りで、人にみられていたもので……」
「ああそうでした」と、サー・ジュリアンはいうと「おやおや、家まで来てしまった。ちょっとお寄りになりませんか、お茶か、ウィスキー・ソーダか何か、いかがです?」
パーカーは、相手が何か話したそうにしているのに気付き、直ぐに招きに応じた。
二人は煖炉のある広間に入って行った。戸の向うに階段がみえた。右手に食堂の戸があいたままになっていた。サー・ジュリアンがベルをならすと、男の召使が広間のずっと向うの端に姿をみせた。
「何をあがります?」と、医者がたずねた。
「ひどく寒いところにいたので、あついお茶を頂きたいものですね」と、パーカーがいった。
「支那茶にしましょう、私も賛成です」と、サー・ジュリアンはいって「書斎にすぐお茶をたのむ」と召使に命じた。そして、パーカーを二階に案内して行った。
「食堂の他は、あまり階下の部屋を使っていないのです」と、彼は二階の、小さいが明るい書斎にパーカーを案内しながら説明した。
「この部屋は、私の寝室につづいていて便利なのです。ここも時々しか使いませんが、病院で研究するときには便利です。病院ではほとんど研究ばかりしています。理論家にとっては、実地の研究がおろそかになるのは致命的なものですし、解剖はすぐれた理論や、正確な判断の基盤になります。手や目は常に訓練していなければいけません。私にとってここは、ハリー・ストリートよりも、ずっと大切なところなのです。そして私は、いつか実際の治療をやめてしまって、ここに落ちつき、人体を解剖したり、本を書いたりして、平和に暮らしたいと思います。この世では、時間の浪費が多すぎますよ、パーカーさん」
パーカーはうなずいた。
「しばしば」サー・ジュリアンはこういって「私の研究に許されている時間は――一番おちついて注意を集中しなければならないので――長い一日の仕事がすんだ後の、夜だけになってしまいます。そして、解剖室では、太陽光線を使わず、おそろしいほどの電気を使っているので、日光のなかにいるより、眼を痛めます。いうまでもなく、あなたの仕事でも、もっとひどい条件の下で、行われることもおありでしょうが……」
「そうです、時にはね」と、パーカーはいった。「しかし、ご存じのように、いわば条件もまた、仕事の一部と申せます」
「全くその通り」サー・ジュリアンがいった。「あなたのおっしゃることは、例えば夜盗は、昼|日中《ひなか》自分の手口をみせびらかしたりしないし、あなたが推理できるように、湿った土の上に、完全な足跡を残したりしないということでしょう」
「まず、そんなことは」と刑事はいい「しかし、確かにあなたの研究なさっている病気にも、夜盗のように、人の知らない間に跋扈《ばっこ》するやつが数多くあるんですね」
「そうです、そうです」サー・ジュリアンは笑いながらいった。「そして、それを社会の公益のために追究することが、私や貴方の誇りというわけです。神経症はご存じのように、特別に賢い犯罪者です。症状は、さまざまの変貌をし、まるで――」
「まるで、無言劇の主役のレオン・ケストレルみたいにですか」と、パーカーが助け舟を出した。
「確かに連中は、その意図をかくしています。しかし、本当に調査するという段になると、死体を切り開いたり、あるいは生きている体を参考にメスを入れたりすると、いつもその足跡がみつかります。狂気や、病患や、飲酒などの、同じような病気によって破滅させられたり混乱された跡が残っています。しかし、困難なことには、それらの症状をただ上べだけの症状で――ヒステリーとか、罪悪感とか、宗教心、恐怖や羞恥の念とか、良心といったようなものだけで真症を探り当てねばならぬことです。丁度あなたが、盗みや殺人があったとき、犯人の足跡を探しだすように、私はヒステリーの発作や敬虔な感情の爆発などを観察し、特定の結果を生じた機構的な刺激を探しだすのです」
「あなたは、犯罪なども、すべて生理的なものによって起因されるとお考えになるのですか?」
「もちろんですとも。私は別の学説を奉じる一派があることも知っていますが、そういう説の提唱者たちは、たいてい山師か、自己欺瞞の徒にちがいありません。『彼らは、あまりにもその点で、自己を神秘化した』ので、霊媒のスラッジのように、自分たちの非常識を信じはじめているのです。私は、彼らの脳味噌をしらべたいと思うほどです。きっと脳細胞に、何か欠陥か、陥没があると思います。これは神経作用の不発状態か、漏電のようなもので、結果としてそんな考えや書物があらわれてくるのです。少なくとも」と、彼は客をみつめて言葉を続けた。「少なくとも、もしあなたに今晩おみせできなくても、明日か――いや一年後に――あるいは私が死ぬまでには、そうした証拠をおみせできると思います」
彼は、暫くの間、火をみつめたまま坐っていた。その間、赤い火が彼の焦茶《こげちゃ》の髯に照りはえ、その押しのつよい眼は、その火の閃《ひらめ》きをはじき返しているようにみえた。
パーカーは、彼をみつめながら、黙ってお茶をのんでいた。彼は神経症の原因などに、ほとんど興味を感じていなかった。そして、彼の心は、ソールズベリで、あの恐るべきクリンプルシャムとやり合っているであろう、ピーター卿のほうへ関心が向かっていた。ピーター卿は、彼に来てもらいたいといってよこした。それなのに、バンターは明日でも間に合うといったのである。どの道、バターシー事件は、パーカーの担当事件ではなかった。すでに彼は結論のでなかった検視審問に立ち会って、貴重な時間を浪費してしまった。自らの正規の仕事に戻らなければならない。レヴィの秘書にまだ会わなければならないし、ペルー石油株のことも調べておかなければいけなかった。彼は時計をみた。
「おさしつかえなかったら、私はこれで――」と、彼は低い声でいった。
サー・ジュリアンはその声に、はっと現実に引き戻された。
「お仕事にですか?」彼は笑っていった。「そうですね、私にも分ります。お引きとめはしません。しかし、私はあなたが現在調査していらっしゃることに関係して、何か申し上げたいと思ったのですが――ただ私は――こんなことをいって、もし――」
パーカーは再び腰を下した。そして顔や態度から、急いでいるという気配をすべて拭《ぬぐ》い去ってしまった。
「何か、もし、ご助言下さるのでしたら、大変ありがたいことですが――」と彼はいった。
「かえって、邪魔になるのではないかと思いますが」といって、サー・ジュリアンは少し笑った。「これは、あなたにとっては手がかりをなくすことであるし、私にとっては、職業上の信頼を裏切ることになるのですが……」
パーカーはひざまずいて牧師に懺悔をしようとしている人間が、牧師に「さあ、いってごらん」と切り出させるような調子で先をせがんだ。
「サー・ルーベン・レヴィが、月曜の夜にたずねたのは、私だったのです」と、サー・ジュリアンはいった。
「そうでしたか?」とパーカー氏は、いささかも表情をかえずにいった。
「その訳は、彼の健康について、大変に疑わしい点があったからです」と、サー・ジュリアンはゆっくり、どのくらい見知らぬ他人に打明けたらいいかと考えてでもいるように、口をひらいた。「彼は、事情を自分の妻に秘密にしておいた方がいいと考え、自分のかかりつけの医者のところへは行かず、私のところにやってきたのです。あなたにお話したように、彼は私をよく知っていましたし、レヴィ夫人は、夏、神経衰弱で私に診察を受けたことがありました」
「で、前もって、あなたと約束していたのですか?」と、パーカーが聞いた。
「え? 何とおっしゃったんです?」とサー・ジュリアンの声は、うつろにひびいた。
「彼は、前もって約束をしてあったのですか?」
「約束? ああ、いやいや、その夜、夕食後、急にやってきたのです。来るのは予期していませんでした。ここへ連れて上がり、彼をみてやりました。彼は私のところから、十時ごろ帰って行ったのです」
「あなたが診察された結果が、どうだったか、おききしても差し支えありませんか?」
「どうしてそれを、知りたいのです?」
「その後の彼の行動を考えるのに役に立つからなのです」と、パーカーは用心深くいった。この話は、外の問題とはほとんど関連がないように思えた。そして、彼はサー・ルーベン・レヴィが、この医者を訪ねた同じ夜に、いなくなったことはただの暗合にすぎなかったのかどうか思い迷っていた。
「なるほど」とサー・ジュリアンはいい「そうですね、ここだけの話として、病気であるというきわめて疑わしい根拠がありました。まだ、絶対といえるほどの害があるとはみえませんでしたが――」
「ありがとうございました、サー・レヴィは、あなたのところから十時に帰って行ったのですね?」
「その頃だったと思います。私がはじめにこのことをいわなかったのは、サー・ルーベンがやってきたことを秘密にしていてくれと望んでいたからですし、交通事故やそういった心配もなく、彼は夜中に安全に帰宅したからです」
「なるほど」と、パーカーはいった。
「人にしゃべることは、彼の信頼を裏切ることになります」と、サー・ジュリアンはいった。「いま、あなただけにこれを話すのは、たまたまサー・ルーベンが人目についていて、私はまたあなたがここにやって来て、いろいろ探知したり、私の召使にきいたりされるより、個人的にあなたに話した方がいいと思うからです。遠慮のないいい方をしましたが」
「どういたしまして」と、パーカーはいって、「私たちの職業は人にはあまり歓迎されません。おはなし頂いて厚くお礼を申します。もしそうでなかったら、詰らぬことを調べつづけて、貴重な時間を浪費するところでした」
「いうまでもなく、今の秘密は他言せぬようにお願いします」と医者はいい「これが公《おおやけ》にされると、サー・ルーベンや彼の妻を苦しめるだけでなく、私も医者としての信用を失うおそれがあるからです」
「このことは、私の胸に納めておくとお約束いたします。むろん、私は私の仲間には知らさなければなりませんが……」と、パーカーがいった。
「この事件でのお仲間がおありなんですか?」
「あります」
「どんな種類の方です?」
「充分に尊敬されうる人物です」
「警察官ですか?」
「あなたが今おっしゃったことは、警視庁の記録にはのりません」
「あなたは、なかなか思慮深い方ですね、パーカーさん」
「私たちにも職業上の作法があります、サー・ジュリアン」
グレート・オーモンド・ストリートの自宅に帰ってみると、パーカー氏に電報が届いていた。
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クル ヒツヨウナシ ウマクイッタ アスカエル ウィムジー
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第七章
次の日の昼前、バールハムとヴィクトリア駅付近で、実地検証を二、三すまして、ピーター卿が住いに帰って来ると、ウォータールー駅から、真直ぐ家へ帰ってきていたバンター氏が、電話の伝言メモを手にして、子守女のようなきつい眼付きをして戸口に出迎えた。
「スワッハム夫人からお電話がございまして、貴方様がご一緒に昼食なさるのをお忘れになられたのでなければよろしいが、と申されておられました」
「忘れていたよ、バンター。それに、こいつは、忘れさせてもらいたいな。急に嗜眠性《しみんせい》脳炎にやられてしまったとでも、夫人に伝えてくれ、しかし見舞いの花はご無用に願います――とな」
「スワッハム夫人は貴方様をお待ちのように申しておられました。夫人は昨日デンヴァーで公爵夫人にお会いになりまして――」
「義姉上《あねうえ》がそこにおられるようなら、僕は、絶対に行かないぞ。間違いないんだろうな」と、ピーター卿はいった。
「失礼いたしました。お逢いになりましたのは、大奥様でございました」
「母上は、ロンドンで何をしてるんだろう?」
「審問におでかけになったのだと存じますが」
「ああ、そうだ、うっかりしていたよ、バンター」
「さようでございます。大奥様はスワッハム夫人と、ご一緒にご昼食でございました」
「バンター、僕は行きたくない、本当に行きたくないのさ。そうだな、百日咳でねていることにしよう。だから、昼食が終ったころ、母上に来て頂くように申しあげてくれ」
「かしこまりました。トミー・フレイル夫人も、スワッハム夫人のお宅においでと存じます。それからミリガン様も――」
「え? 誰だって」
「ジョン・P・ミリガン様でございます。それから――」
「バンター、怪《け》しからんぞ、なぜそれを早くいわなかったんだ。よし、出掛けるぞ。ミリガンがそこへ行きつくまでに僕が間に合うかどうかが問題だ。うまい具合にタクシーがいてくれればいいが」
「旦那様、そのおズボンでは困ります」と、バンター氏は、おごそかに出口への通路を擁しながらいった。
「おい、バンター、頼むよ、今度だけだ。大事な用件だってことが、お前には分らんのか」
「絶対にお許しできません。その身なりでは手前共と同様でございます」
「ズボンは、これでいいじゃないか」
「スワッハム夫人のお宅でございますから、なおのことでございます。それに、貴方様はソールズベリで牛乳缶を持った男とぶつかったではありませんか」といってバンター氏は、服地についているちょっとした、油の|しみ《ヽヽ》をまるで責めるように指さした。
「お前を、執事なんかにしなきゃよかったと思うよ、バンター」ピーター卿は、苦々しげにステッキを傘立てに投げ込みながらいった。
「お前はちっとも気がつかんだろうが、母上が大変な間違いをやって、おられるかもしれないんだ」
バンター氏は、ニヤリと薄気味悪く笑って、ピーター卿を狩り立てて行った。一|分《ぶ》の隙もない恰好のピーター卿が、スワッハム夫人の応接間に通された時には、昼食は済んでいたが、デンヴァー公爵未亡人は、ソファにかけて、シカゴのジョン・P・ミリガン氏と、すっかりうちとけて、話の花を咲かしていたのである。
「お目にかかれて大変うれしうございます。公爵夫人」と、まず、実業家の開口一番。「また極めて丁重なご招待を賜《たま》って、ありがとうございました。身に余る光栄です」
公爵夫人は、彼を見つめながら、目を輝かせ、全身の注意を一点に集中して素早く、受け答えをしていった。
「どうぞ、こちらにおかけあそばして。何か私にお話しをうかがわせて頂けませんこと。貴方のような大実業家とお話しをするのが、私、大好きなんです。ええと――あれは鉄道王のことでしたかしら、それとも、何か場取り遊戯のことでしたかしら。――もしかしたら、そうではなかったかもしれませんけれど、でも、カードでやるゲームでしたわ、麦や、燕麦《えんばく》があって、牛や、熊も出てきて――あら、あれは馬だったのじゃないかしら。ちがいましたわ、熊です。どうしてかと申しますと、私、覚えておりますの。いつもそれを捨てようとしなければいけなかったことばかり考えていて、つまらないことですのね、いつも人の手から手へ渡されて、すっかり皺くちゃになり、ぼろぼろに裂けて、それをみますと、また新しいのを一揃い買わなくちゃならないなんて考えたりして――本当に馬鹿げたことだとお思いになるでしょう、貴方は、本当のことをご存じでいらっしゃるんですものね。何てさわがしいことかしら。でも、お互いに知らない者同志が打解け合うのには、もってこいのところですわね」
ミリガン氏は、腰を下した。
「私はこう思いますよ、公爵夫人、私共みたいな実業家が、英国の貴族の方々にお目にかかるなんてのは、英国人が、アメリカの鉄道王に会見を求めるくらい面白いもんです。それにまた、私が貴女《あなた》様方のような話振りを、もししたらですよ、まるで貴女様方がシカゴで、小麦の買占めをなさるみたいに、とんでもないことになるでしょう。考えてもごらんなさい、先日、私が貴女のご子息のウィムジー卿を訪ねましたら、卿は、私が彼をお兄様と間違えたとお思いになったようだったんで、すっかり私は情けなくなってしまいました」
これは公爵夫人にとっては意外な言葉だった。公爵夫人は、手さぐりをするように話を進めた。
「あの、ミリガンさん、あの子に会って下さって、私はうれしく思います。息子は二人ともいい子ですものね。もっとも、ジェラルドの方が、少し月並みなんですの。まあ上院議員には向く人間と申せましょう。その上、立派な農場の主なのです。ピーターとは、デンヴァー領で、ほとんど会ったことがございませんの。いつもロンドンでは立派にやっておりますしね。それに、とても快活な子なんですの」
「ピーター卿のご意見をお借りできて大助かりしました」とミリガン氏は話をつづけて「もっとも、あれは、貴女様のお智恵かと思いますが、とにかく、貴女のご都合のよろしい日に、私は何日《いつ》でも喜んで参上致します。ご厚情に甘えすぎるようですが」
「そうでしたわね」公爵夫人はそういって、「ミリガンさん、貴方がどう判断なさったのか、私には分りませんけれど私、自分の仕事なら何でものみこんでおりますわ。このごろはどうも頭が旧式になって参りましてね。人にお会いすれば、その方がいいお方かどうかは分りますけれど、それ以外のことは、一切息子に任せておりますの」
このとりとめもない話の調子が、ミリガン氏をすっかりうれしがらせてしまい、たいそう悦《えつ》に入った、彼は、
「実際のところ、公爵夫人、ですから近頃の若い、口ばかりの連中とは違って、本当に美しい伝統を身につけたご婦人は、素晴らしいと思うんです。そんなお方には、どんな男だってよくつとめますさ。もっとも底はみえすいていますから、男の心はお見通しでございましょうがね」
「話を元へ戻すようですが」と公爵夫人は考えながらいった。「デンヴァーの牧師様に代って貴方にお礼を申し上げなくては、教会の復興資金に昨日はたいそうな小切手を送って下さったのですもの。牧師様もとてもお喜びになったり、驚いたりしておいででしてよ」
「や、あんなこと何でもありません。お国とちがって、海の向うの私の国なんかには古い立派な建物なんてのはありませんから、この古い国で、年経て家がこわれていると聞いたんで、虫のくった穴に少しばかり油をささして頂ければ光栄というわけだったんです。それで、あなたのお子さんが、公爵のデンヴァー領のことをお話し下さったので、私はバザーを待たずに献金をしてしまったんです」
「あなたは本当にご親切なお方。それで、バザーにはいらっしゃって下さいますのね」と夫人は彼の顔をのぞいてみながらいった。
「むろんです」とミリガン氏は間髪を入れずに答えた。「あなたが日取りの点をはっきり知らせて下さるはずだと、ピーター卿がおっしゃいました。しかし、我々は、よい仕事をするためにはいずれにしろいつだって時間の都合はつけられるものです。むろん、二三日滞在するようにとのあなたの親切な招待を、私自身はお受けしようと思っておりますが、もし、どうにもならない時は、なんとか顔だけでも出して、一席話をぶってから、すぐに帰ります」
「どうぞ、そうなさって下さいまし。日取りのことを、なんとかしなければいけませんわね。――でも、お約束はできませんけれど」
「いやいや、こういうことをとり決めるのは大変だということを、私も知っています。それに、私だけじゃないんですから――お子さんの話だと、ヨーロッパのお歴々も沢山おみえになるそうですし」
公爵夫人は、こういうお歴々が、誰か応接間にやって来ることを考えると青くなってしまった。しかし、すぐに気をとり直し、自らの本領を発揮し始めた。
「私たちがどんなにありがたがるか、お礼の言葉もありませんわ。あなたがいらっしゃって下さるのが、何よりのもてなしですもの。一体どんなお話をなさって下さるおつもりなんですの?」
「そうですな――」とミリガン氏は口をひらいた。
急に、みんなが立上ったと思うと、しおらしくしゃべっている声が聞えた。
「本当に、全くもって相済みません。お許し下さるでしょうな、スワッハム夫人。あなたのご招待を忘れるはずがあってたまるものですか。本当を申しますと、ソールズベリに出かけていって人に逢う必要があったのです――本当ですとも、それがなかなか放してくれませんのでして、ただもう、|み前《ヽヽ》に平伏するのみです、スワッハム夫人。片隅で昼食を頂くといたしますか」
スワッハム夫人は、やさしく、この罪人を許してやった。
「あなたのお母様が、ここへお見えになっていらっしてよ」と彼女はいった。
「母上、ご機嫌いかがです?」とピーター卿は不安そうにいった。
「お前こそどうなの?」と公爵夫人が答えた。「お前は本当に悪い時にやって来たものだね。ミリガンさんが、バザーでどんな素晴らしいお話をして下さるおつもりか、今それを伺おうとしていたところなのに、そこへお前がやってきて邪魔をしてしまったりして」
昼食での会話は、自然に、バターシー審問に移っていった。公爵夫人が、死因検視官に尋問されているティップス老夫人の姿を生き生きと描き出してみせた。
「≪その夜、何か変った物音を聞きませんでしたか?≫とその小男の検視官がいうんですのよ。前にのり出して、ティップスさんの母親に、がなりたてるようにいって、おまけに顔を朱に染めて、耳が途方もなくとび出してみえましてね――ほら、テニソンの詩に出て来る智天使《ケルビム》か、でなければ熾天使《セラフィム》みたいな、眼ばかりで、頭に小さい羽根のある、あれそっくり。ところが、ティップス老夫人が答えたのは、≪そうですとも、この八十年間というものは、いつでもです≫って――。ですから、法廷中が大変な騒ぎになったの。後でわけが分ったんですけど、このひとはね、検視官が≪あなたは灯を消して寝るのですか?≫といったと思ったからでしたの。みんな大笑いしましたわ。ですから、その検視官が大きな声で≪ちょッ、この女《あま》っちょ≫とどなったものです。ところが、どうしたわけか、これを聞きつけたらしく≪お若いの、こんな神聖な場所で、人に悪態をつきなさるもんじゃない。本当に、近頃の若い者はどうなるのやら分ったものじゃない≫っていったのよ。――ところが、その検視官は六十にもなっているんですものね」と公爵夫人がいった。
トミー・フレイル夫人が、はなしのはずみで、三人の花嫁を浴槽の中で殺して、絞首刑になった男のことをはなし始めた。
「私はいつも、本当に天才的なやり方だったと、思っているんですのよ」と、ピーター卿をみつめながらいった。「ところが、こんなことがあったんです。宅のトミーが私を生命保険に入れましたの。それで、びっくりして、私、朝湯をやめて、午後にお風呂に入ることにしましたのよ。その頃ならば、夫は下院におりますから――。つまり、あの人は家におりませんから」
「奥様」ピーター卿は詰《な》じるような調子で、「私が、はっきり記憶しているところですと、殺された花嫁たちは全然愛嬌のない人ばかりでしたがね。しかし、あの犯罪は全く桁《けた》外れに天才的な計画でした。ただし、同じことを繰返したのでわかってしまいましたが」
「このごろは、人殺しにまで独創性がなくちゃ、いけないものかね」とスワッハム夫人はいった。「まるで劇作家みたいじゃないか――シェイクスピアの時代なら、もっと雑作《ぞうさ》がなかっただろうにね。始終、同じ娘が男の服装をして、出て来るじゃないか。しかも、それでさえ、ボッカチオとか、ダンテとか、何かそういった人からの借り物なんだから。私が、もしシェイクスピア劇の主人公になっていたら、なよなよした脚の若いお小姓をみたとたんに、私はいってやるよ、≪また、あの女だよ!≫って」
「本当に、その通りのことがおこったんですからね、実際に」とピーター卿はいった。「よろしいですか。スワッハム夫人、もしかりに、あなたが殺人を行いたいと思われたら、先ず、あなたがやらなくてはいけないのは、人々の連想をさまたげることです。多くの人はものを関連させて考えたりしません――彼らの考えは、まるで盆におかれた豆のようで、ころころ、転がったり、騒々しく音をたてるばかりで、どこにも行き着きはしないのです。ですが、一度《ひとたび》この豆を数珠《じゅず》つなぎにしてネックレスを造らせでもしたが最後、これは、すぐさま強力なものになり、あなたの首を絞めあげることでしょう」
「おやおや、私の友達には誰一人、思いつきなどというものを、持ち合せている人がいないので本当に幸せだわ」とトミー・フレイル夫人が小さな悲鳴をあげた。
「お分りになりましたか」ピーター卿は鴨肉の一|切《き》れをフォークの上で、調子をとりながら、しかめっつらで、「人々が物事を論理的に、筋をたどって考えるのは、シャーロック・ホームズか何か、そういった物語の中だけです。一般には、もし誰かがあなたに何か変った事を話しても、あなたはただ≪まあ、まあ≫とか、≪なんて悲しいことでしょう!≫とかいうだけで、すぐにお忘れになり、またあとで、何かはっとするようなことが起こらなければ、そのままになってしまうものです。例えばですが、スワッハム夫人、私がここへ入って参りました時に、ソールズベリにいっていたと申しましたな。これは本当なのですが、あなたは大して気にもお留めになったようではありませんでした。ですから、あなたはもし、明日の朝の新聞で、弁護士が一人、ソールズベリで殺されていたのが発見されたという記事をお読みになっても、あなたは別に気には留められないでしょう。しかし、私が来週もまたソールズベリへ行き、その翌日、ソールズベリの医者が一人死んでいるのが発見されたら、そろそろあなたもソールズベリの人たちにとって、私が不吉な鳥であるのではないかと、考え始められるでしょう。そして仮に、私が一週間後にまたそこへ出かけて行き、その翌日、あなたはソールズベリ司教の席が急に空いたとお聞きになったら、あなたも、私がなんの用事でソールズベリに行くのか、不思議にお思いになり、なぜ、私がそこに友達をもっていることを前には話さなかったかと、いぶかしく思われることでしょう。お分りになりますか。そして、あなたは自分自身で、ソールズベリへ行ってみようとお考えになったり、そこの色々な人たちに、もしかしたら、司教の家のまわりを、杏子《あんず》色の靴下をはいた若い男がうろつきまわっているのを見たりしなかったかと尋ねてみようとお思いになるでしょう」
「たしかに尋ねますとも」とスワッハム夫人はいった。
「その通りです。そして、もし、その弁護士と医者が、その昔、ポグルトン沼地《ぬまち》で、開業していたことがあり、その時、司教はそこの牧師であったということが分れば、あなたも、私がずっと以前に一度、ポグルトン沼地をたずねたことを思い出され、それから、そこの教区の戸籍簿をしらべ、私がかつて偽名《ぎめい》をつかって、その牧師の立会いの下で金持の農家の未亡人と結婚したことがあり、その女が腹膜炎で突然に死に、その医者の手で診断書が出されていて、あの弁護士の作った遺言状には、彼女の財産が全部私に遺《のこ》されることになっていたなどということが分ってくれば、今度こそあなたは、私がその弁護士や医者や司教のように、明らかに私をゆすりそうな連中を殺しても、不思議はないと考え始められることでしょう。つまり、これは私が、すべてこれらのことを同じソールズベリという場所の出来事にしたからなので、そうでなかったら、あなたはポグルトン沼地へ行こうなどとはお考えにもならないでしょうし、私がそこへ行ったことがあったことすら思い出されないはずです」
「あなたは、そこへいらっしゃったことがおありなんですの、ピーター卿」と、トミー夫人が心配顔でたずねた。
「まさかね」とピーター卿はいって、「その町の名は、私の頭の中に何の連想も生じません。しかし、いつか思い出すかもしれませんがね」
「でも、もし、犯罪を調査していらっしゃるんでしたら、ありきたりのことからお始めにならなくてはならないのでしょう? たとえば、その人が何をしていたかとか、だれを訪問したかとか、動機は何であったとか、そういったことを調査なさって――そうじゃございませんか」とスワッハム夫人はいった。
「ええ、そうですとも。しかし、多くの人間は罪のない人々を殺したい動機を沢山もっているものです。私は殺してやりたいと思う人がうんといます。あなたはいかがですか」とピーター卿はいった。
「山ほどいましてよ、先ずあのいやな――いえ、申し上げない方がよろしいでしょう。あなたが、後でこのことを思い出されると困りますから」とスワッハム夫人がいった。
「さよう、私だって申し上げませんな。分らないものですよ。その人が急に明日死んだら誠に妙なものですからな」とピーター卿はいった。
「このバターシー事件の難しいところは、私の考えですと」ミリガン氏が口を出して、「あの浴槽の中の紳士が、誰とも、かかり合いがなさそうだということなのです」
「可哀そうに、サグ警部も弱っていますのよ」と公爵夫人はいって「私もすっかりあの人に同情しましたわ。あすこに突っ立って、何にもいうことがないのに、矢つぎ早やの質問に答えなくちゃならないんですものね」
少しおくれて来たので、ピーター卿は鴨を食べるのに専念していた。暫くすると、彼は、誰かが公爵夫人にレディ・レヴィにお会いになったかどうかと、きいているのを耳にした。
「あの方はとても悲しんでいらっしゃるご様子よ」その話をしていた女がいった。フリーマントル夫人とかいう女だった。「レヴィさんは、ご主人がひょっこり帰ってみえたりしないかという希望をもっていらっしゃるけど。あなたは、あの方をご存じでしたわね、ミリガンさん。――あの方が、どこかでまだ生きていらっしゃるといいがと、私は思いたいのですけれど」
フリーマントル夫人は、著名な鉄道会社の重役の細君で、経済観念のない点では有名だった。彼女の不品行は、町のサラリーマンの細君たちのティーパーティのいつもいい話題だった。
「そうですね。彼と飯を食ったことがありましたよ」とミリガン氏はごく自然にそういった。「彼も、私も、お互いに出鱈目《でたらめ》をやったものです。フリーマントルさん、これが、アメリカでしたら、私がサー・ルーベンをあの世にやってしまったと、自分でもうたがったかもしれません。ですが、私たちは、このあなた方のお国ではそんな風な商売はできませんからね」
「アメリカで事業をやるのは、素晴らしいにちがいない」ピーター卿がいった。
「そうですとも。私の兄弟は、今頃、向うでうまくやっていることと思います。私もこちらで、あれたちのために少し仕事を片付けたら、遠からず兄弟たちの仲間入りをしますよ」とミリガン氏はいった。
「でも、私のバザーが終るまでは、お行きにならないで下さいましね」と公爵夫人はいった。
ピーター卿は、その午後中かかってパーカー氏を探したが、無駄足だった。夕食後、グレート・オーモンド街まで、彼を訪ねていった。
パーカーは安楽椅子に腰を下ろし、両脚をマントルピースにのせて『ガラテヤ人《びと》への手紙』の注釈書をよみながら、頭を休めていた。彼はピーター卿を心から喜んで迎えると、ウィスキー・ソーダを作ってくれた。ピーターは、友人のおいた本をとり上げると、頁をパラパラとくってみた。
「この人たちは、みんな心の中に偏見をもちながら、あっちこっちと、探しているものをみつけようとして歩きまわっているんだ」
「たしかにそうです」と刑事は同意した。「しかし、誰でも、自分では偏見については割引きして考えたがります。大学にいた頃は、コニベアや、ロバートソンや、ドルースといったような連中に賛成で――彼らは誰もみかけたこともない強盗を探すのに夢中になって、そのくせ自分の家族の足跡を見付けることはできないのです。こういうことを私が気付くまでは、私も全く同じ意見をもっていました。それから二年もかかって、用心深くするに越したことはないと学んだのです」
「ふん」とピーター卿はいうと「神学というものは頭の訓練によいようだな。というのは、君は、僕の知っている限り、最も用心深い奴だからだ。が、まあ、よみつづけたまえ。こんな休みの時に、やってきて君を探し出したりした僕が悪いんだ」
「そんなことは一向気にかけません」とパーカーがいった。二人は、暫くだまって坐っていた。やがてピーター卿が口をひらいて、
「君は自分の仕事が好きかね」
刑事はその質問の意味を考えた末、答えた。
「ええ、好きです。私には、それが人のためになることだとわかっていますし、私はそれに適していると思います。私は仕事を立派にやってのけています――。インスピレーションなどにたよらず、それでいて、この仕事に誇りを持てるほどのことはやっています。この仕事は変化に富んでいますし、仕事は人を目標から離れさせないようにし、気をゆるめさせないようにもしてくれます。その上、この仕事には将来性もあります。この仕事は気に入っています。どうしてそんなことをお聞きになるんですか?」
「いや、なんでもないんだ」とピーター卿はいって、「僕にとってはこれは趣味だからね。この仕事は素晴らしく刺激的だし、悪いことに、僕はこいつを楽しみにしているんだ。もしこれが、みんな理論上のことだったら、僕はこの仕事がすっかり楽しめるんだがな。僕は仕事の出だしが好きなんだ――。関係者は誰も知らないし、正に刺激的で楽しめるからさ。しかし、ある現存の人を実際に追いつめたり、絞首刑にしたり、あるいはまた、ただ牢屋に入れることだけは、どうも僕なんかが、首をつっこまない方がいいのじゃないかという気がしてならない。それというのは、そんなことをしなくても食うに困らないからさ。そこで、この仕事を面白いなどと考えてはいけないのだと思ったりする。しかし、とにかく面白いから、やっているのさ」
パーカーはこの言葉にじっと耳を傾けた。「おっしゃることは分りました」と彼はいった。
「例えばミリガンのことだがね」とピーター卿はいうと「紙の上なら、あのミリガンの罪をあばくくらい、滑稽なことはないんだ。どっちかといえば、話をしても好いおやじだし、母の気にも入っている。彼は、僕とも気があっている。彼のところに行って、教会の費用を賄《まかな》うバザーのはなしを、あれこれとしゃべるのは、とても楽しいんだ。だが、彼がそんなことを喜んでいるのを見ると気がめいってしまうのさ。もし、ミリガン先生がレヴィの咽喉笛をかき切って、テムズ河へ投げこんだとでも考えてみたまえ。こいつは僕の出る幕じゃない」
「そんなことをいえば、誰にとってだってそうです」とパーカーはいった。「金のためにこの仕事をやるほうが、ただで仕事をするよりましってことはないですよ」
「いや、金のためにやる方がいいんだ」とピーターは頑強に言い張った。「生きるためにという理由でもなければ、やれるような仕事じゃないよ」
「しかし」とパーカーはいって「もし、ミリガンが、もっと金持になりたいという理由の外に何もなくて、レヴィの首を切ったのなら、デンヴァー公爵領の教会の屋根の修復に一千ポンドも金を寄付したからって、罪をまぬがれることはできないはず。彼がただ子供っぽい見栄をはっているとか、権威にからっきし弱いということで、許されるわけもないね」
「いやな言い方だな」と、ピーター卿はいった。
「もう一つ言えば、彼がただあなたと気が合ったからというだけのことで――」
「それはそうだ――」
「ところで、ウィムジーさん――あなたは彼がレヴィを殺《や》ったとお思いになりますか?」
「可能性はある」
「あなたは、レヴィが本当に殺られたとお思いになるんですか?」
「そうは思いたくないんだ」
「ミリガンがあなたに愛着を感じているからですか」
「あまり痛いところを突かんでくれたまえ――」
「無理もない偏見だと私は思います。あなただって無神経な殺人犯人と、ウマが合おうなどとはお思いになりたくないでしょう」
「そうともさ」
「至極当然なことと思いますね。あなたは彼を観察し、その観察から、無意識に推理をした結果、彼が殺したとはお思いにならないのです。それでいいじゃありませんか。あなたの推理に従っていいわけではないですか」
「しかし、もし僕が間違っていて、彼が殺っていたとしたら」
「それなら、なぜあなたは、人の人格を評価できるなどという自惚《うぬぼ》れに邪魔をされて、無実な愛すべき人を殺した冷血漢を追及することをおやりにならないのです」
「分っているとも。――だが、僕はどうも、勝負をうつ気がしないのだ」
「いいですかピーターさん、そのようなイートンのグラウンドだけで通用しそうなフェア・プレイ精神なんか金輪際すててしまわれてはどうなのです。サー・ルーベン・レヴィに何か不吉なことが起こったのは疑うまでもないことです。もし、サー・ルーベンが殺されているとしたら、これは勝ち負けではありません、第一、こんなことを勝ち負けなどと考えるのは正しいこととお思いになるのですか」
「本当にその点は僕も、面映《おもは》ゆく思っているよ」とピーター卿はいって「始めは、僕にとっては勝負のようなものなんだ。それで陽気にやっていると、急に誰かが傷つけられることになる。そうすると僕はそこから抜け出せなくなるんだ」
「私にも、よく分ります」と刑事はいって「しかし、それはあなたがご自身の態度をあまり気になさっているからです。あなたは節操がある人間と思われたいくせに、人にはよく思われたいと思うし、人形芝居のような喜劇的な場面では大法螺を吹いて威勢よく歩きたいかと思えば、涙にかきくれているような悲劇的な場面では、堂々とした態度で悔みに臨みたいというような矛盾がです。しかしそのようなお考えは、児戯《じぎ》に等しいものです。もし、あなたが社会に対して、殺人犯についての真実を発見しなければならないという義務をもっていらっしゃれば、あなたはその義務を最も有効な態度で遂行なさるべきです。とりすまして、超然としていらっしゃりたいおつもりですか? それもいいでしょう。あなたがそんな風になさっていて、真相が発見できるならばです。しかし、そのような態度そのものは、一片の価値もありません。あなたは、威厳を持ち、節操がある人と思われたいのです――そんなことが犯人を探し出すことと何の関係があるのですか。あなたはスポーツでもやられているように、犯人をかり出しておいて、それから彼と握手なさっておっしゃることでしょう、≪いい勝負だったな――君は運が悪かった――明日は君が仇をうつんだね≫。ところが、こんな風にあなたはやるわけにはゆかないのです。人生は、サッカー試合ではありません。あなたはスポーツマンたらんとしておられますが、あなたはスポーツマンになられてはいけません。あなたは責任のある人間なのですから」
「君はあまり沢山の神学書を読むべきじゃないな」と、ピーター卿はいうと、「それは人を獣性に近づけるからな」彼は立ち上ると、ぼんやりと本棚の方を眺めながら、部屋を歩きまわった。それから再び腰をかけると、パイプにタバコをつめて火をつけ、それからいった。
「ところで、一筋縄ではいかぬクリンプルシャムのことを、君に話しておこう」
彼はソールズベリへ出かけた仔細を物語った。ひとたび彼の善意が分ってしまうと、クリンプルシャム氏は、ロンドンへ行った次第を、委しくピーター卿に物語ってくれたのであった。
「その上、僕はそれを全部、実地にたしかめてみたのだ」とピーター卿は溜息を一つついてから「もし、彼がバールハムの連中の半分くらいを買収したのでなければ、彼があの月曜の夜、バールハムで過ごしたことは間違いない。しかも、その日の午後は事実、あの銀行の連中と過ごしているのだ。そしてソールズベリの住民の半分以上の人が、月曜の昼飯前に彼が発《た》ったのをみていたようだ。彼の家族か、若い共同経営者のウィックスを除けば、誰も彼の死によって利益を得るものがいようとは思えない。その上、若いウィックスが、もし彼をなきものにしようと思っていたとしても、クリンプルシャムの眼鏡を死体の鼻にかけさせるために、彼が出かけて行ってティップスの家で、見知らぬ他人を殺すなどということは、考えられることではない」
「若いウィックスは、月曜日はどこにいたのです?」と、パーカーが尋ねた。
「聖堂の合唱隊長が催したダンスパーティに行っていたよ」とピーター卿はいい、「デヴィッド〔聖書ではダビデにあたる〕というのが、ウィックスの名前なんだが、彼は主の契約の箱の前で踊っていたわけさ」
話がとぎれた。
「審問のことを聞かせてくれたまえ」とウィムジーがいった。
パーカーは審問の結果を要約して話すと、
「結局、死体があの家にかくされていたとは考えられませんか?」と彼は尋ねた。「私たちはあの家をよく探してみましたが、何か見落したものがあるのではないかという気がするのです」
「そうかもしれん。だが、サグも探してみたんだぜ」
「サグになんか!」
「君、サグはそれほど間抜けではないさ」とピーター卿はいった。「もし、何かティップスが共犯であるという証拠があれば、サグが見付けているはずだ」
「なぜですか?」
「なぜかって? 彼はずっとその証拠を探していたからだ。サグは、君の持っている『ガラテヤ人《びと》』の注釈者のように偏見をもっている。彼はティップスか、グラディス・ホロックスか、グラディス・ホロックスの恋人の若い男が、殺したと思っているんだ。だから彼は、グラディス・ホロックスの恋人が入って来たか、そうでなければ、何かをグラディス・ホロックスに手渡したかもしれないと思う場所の窓枠に、痕跡をみつけたのだ。彼は、屋根では何の痕跡もみつけなかった。無理もないさ、彼はそんなものを探しているわけじゃないからな」
「しかし、彼は私より先に、屋根をみてまわったんです」
「そうさ、しかし、ただ、そこには何の痕跡もないということを、確かめてみるため行ったのだ。彼の推理は、こんな具合だ――グラディス・ホロックスの恋人はガラス屋である。ガラス屋は梯子《はしご》を使う。梯子を手近に持っている。だから、窓枠の下部には痕跡があり、屋根にはないのである。彼は、下の地面に痕跡をみつけなかった。しかし、もし、庭がたまたまアスファルトで舗装されていなかったなら、見付け出しただろうと思っている。同様に、彼はティップス氏が、その死体を屋根部屋か、どこかにかくしていたかもしれぬと考えている。だから、彼は屋根部屋や他の場所などを全部、その目的で使われはしなかったかと探したのだ。もし何か、そんな痕跡があったなら、彼は探し出しているはずだ。もし探せなかったとすれば、痕跡はそこに無かったということさ」
「わかりました」とパーカーはいった。「あなたのおっしゃる通りです」
パーカーは、医学的な証言を詳細に述べていった。
「ところでだがね」とピーター卿はいった。「ちょっと、話が逸れるが、もしかしたら、レヴィは、月曜の晩、フリークに会いに出かけていったとは考えられないかな」
「出かけたのです」とパーカーは思いがけなくもいった。そして、彼と神経専門医の会見について語り始めた。
「ふうん。パーカー、こいつは、ひどく妙な事件だな。捜査の線はどれもこれも消えてなくなってしまうようだ。ある点までは、恐ろしく興奮させるが、それからは何も出て来ない。まるで砂の中に消え失せる川のようだ」
「そうです」とパーカーはいって「その上、今朝、また一つ、消えました」
「何が消えたんだ?」
「レヴィの秘書を、仕事のことで訊問しました。例のアルゼンチン株やなんかのことが詳しくわかった外には、大して重要なことは得られませんでした。それで、シティをまわって、例のペルー石油株のことをききだそうとしたのですが、私が調べてみたところでは、レヴィはその株については、聞いてもいなかったということでした。私は仲買人たちをしらべてみました。すると隠れていた不思議なことを発見したのです。誰かが、市場《しじょう》を操作していたのです。そして、遂にその背後の名前を探し当てましたが、それはレヴィではなかったのです」
「ちがったのか。で、誰だったんだ?」
「おかしいじゃありませんか、フリークだったんです。どうもわかりません。彼は先週、株を沢山買っていて、その中の少しだけを自分の名義にしていました。それを、火曜日にそっと売りに出したのです。ほんの少しの鞘《さや》でもかせぐようにです。二、三百ポンド位ですから、誰が考えても、何もそんな面倒をするだけのもうけではないはずです」
「そんな方面で、彼がひとばくち打つ男とは考えられないな」
「いつもやったことのない男だけに、おかしく思えるのです」
「とにかく、分らんもんだな」とピーター卿はいった。「人間というものは自分でやってみようと思ってやれば、どんなことでもひともうけできるものなんだということを、人にみせるためにやることだってあるものさ。僕なんかも、少しばかりやったことがあったよ」彼はパイプの灰をはたきだし、帰ろうとして立ち上った。
「ところで、君」と急に彼は、パーカーが送り出そうとしているときにいった。「フリークのいった話はアンダースンがいったようにレヴィが、月曜の夜の晩餐の時に、大変陽気だったということと、ひどく食いちがっていると君は考えないかね。君だったら、そんな風をするかな」
「いいえ、私でしたらやりませんが」と、パーカーは、いつものように用心深く、「しかし、歯医者の椅子に腰かけていても、冗談をいっている人間もいるものです。あなたなんかもその一人のようですが」
「いや全くその通りさ」とピーター卿はいうと階段をおりて行った。
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第八章
ピーター卿は、常になく興奮して真夜中ちかく家に帰った。頭の中で何かが踊りまわっていた。頭の中はまるで棒でつつかれた蜂の巣のようだった。一度前に答えを教えられたのに、それを忘れてしまい、思い出しそうでいて、口まで出かかっているような、ややこしい謎々を考えているような気持だった。
「どこかでこの二つの事件の鍵を握ったような気がするんだが。確かに握ったんだ。ただ、それが何だかが思い出せない。誰かが鍵についてしゃべったんだ。ひょっとしたら、自分でいったのかもしれない。どこでいったか思い出せないが、確かに僕は鍵はにぎったような気がする」こうピーター卿はひとり言をいってから「バンター、もう寝ていい、僕はもう少し起きているからな。ちょっとの間、ガウンでも羽織ろう」
彼はパイプをくわえ、火の前にガウンの裾《すそ》をよせてすわった。彼は、捜査のあの線やこの線を辿《たど》っていった――だが、どれもこれも砂漠の川のように中途で消えてゆく。レヴィの姿が最後にみかけられたのは、十時にプリンス・オブ・ウェールズ通りだった、ということからさかのぼって、ティップスの浴槽の中の、グロテスクな死んだ男になる――。この流れが、その屋根をこえて行ったあとは、どこかへ消えて行ってしまう――まるで砂漠に消える川のように――。遥かに深い地下を流れる川のようでもある。
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聖なる川、アルフが
人もしらぬ洞窟をよぎり
陽も射さぬ海へ流れ去るところ
〔コールリッジの詩〕
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頭をうつむけるとピーター卿には、その水の流れが聞えるような気がした。どこか、闇にかすかな、せせらぎが聞えるようだった。しかし、一体どこなのだろう。誰かが確かに一度は口に出したような気がする。ただ彼が忘れてしまっているのだ。
彼は身をおこし、薪を一本火に投げこむと、バンターが日々のつとめの余暇をぬすんで、捜査の参考書にとタイムズ書籍クラブから借り出してきていた、一冊の本をとり上げてみた。たまたま、それはサー・ジュリアン・フリークの『良心に関しての生理学的基盤』だった。彼は二三日前、この本の批評が出たのを読んでいた。
「こいつを読めば、ねむくなれるだろう」と、ピーター卿はいった。「もし、この問題が頭から離れていってくれないと、僕は明日、ぼろ裂《き》れみたいにくたくたになってしまう」
彼は、本をゆっくりと開き、何気なく序文に眼を通して行った。
「レヴィが、病気にかかっていたというのは本当かな」と彼は本をおきながら考えた。「どうもそうは思えないんだが、それにしても――ええい、いまいましい。もう考えまい」彼は、元気を出すと、しばらく読みすすんだ。
「僕は、母上がレヴィとうまくいっていたとは思わん」と、また執拗な思考の糸がからみついて来た。「父上は、いつも独力、独行の人をきらっていたし、デンヴァーには、そういう人間を近づかせなかった。兄のジェラルドも、この習慣を守っている。母上はあの頃、フリークと親しかったのだろうか。ミリガンはお気に入りのようだ。僕は母上の判断は高く評価している。バザーの一件では立役者だったが、母上には用心するようにいっておかないといけない。母上は何だか一度いわれたようだったが――」彼は逃げかけている記憶を二、三分追いかけてみたが、結局それは、彼をあざけるように消え去ってしまった。彼は再び読書にもどった。暫くすると、また、一つの考えが頭に浮かんで来た。
「もし、フリークや、あのワッツの証言が、これほど明白でなかったなら、僕は煙突にくっついていたリント布の裂れのことを考え直さねばいけないところだ」彼はこのことをゆっくり考えてみたが、首をふると、再び元気を出して読み始めた。
――精神と物質が、同一のものであるということは生理学者の研究題目になっている。物質が、いうなれば、観念となって、ほとばしり出るのである。情熱といえども、脳の中において刻みとることができる。想像というものも、病気のように薬で払いのけることができる。≪善悪の意識は、観察せられたる現象に外ならず、脳細胞の状態いかんにかかっており、これは除去しうるものである≫といった調子で、更に、
≪人間の良心は、事実、蜜蜂の針にも比すべく、その所有者にとって有益はおろか、よし、それを一度使用したが最後、それは所有者に死をもたらすものである。もし人類が、社会発展の今日の過程より、より高次の個人主義の段階へ発展するものとすれば、この興味ある精神現象は徐々に消失するものと思われる。それはあたかも、かつて我々の耳や、頭皮の運動を司《つかさど》っていた神経や筋肉が、若干の未開人を除き、ほとんどその機能が退化し、ただ生理学者の興味のみの対象となってしまっているのと同様である≫
「とんでもない」ピーター卿は考えて、「こいつは犯罪者にとって、もってこいの学説じゃないか。こんなことを信じている男が――」
突然、半ば無意識に期待していたことがおこった。それは唐突ではあったが、確実に、間違いなく、太陽がのぼって行くようなものだった。あの事とか、この事とか、論理的に物事を追及して行って思い出したのではなかった。完全に、すべてが全体として同時に思い浮かんできたのである。まるで彼が、この地球の外に立っていて、その地球が無限の空間にかかっているのを見ているような感じがした。もはや彼は、そのことを推理する必要もなく、考える必要もなかった。彼はわかったのである。
色々の文字が並べてあって、それの中から言葉を作り出す遊戯がある。たとえば、
COSSSRI
この問題を、ゆっくり解いて行くには、不可能な組合せを捨てながら、順々に、すべての順列や組合せを試みてゆくことである。例えば
SSSIRC
あるいは
SCSRSO
といった具合に不要なものを捨てて行くのだ。
もう一つの方法は、その調整のとれていない要素を、意識的に論理上の過程をたどって考えずに、何か偶然の外部の刺激によって、それをじっとみつめることでもある。すると次の様な組合せが
SCISSORS〔はさみ〕
確実に頭に浮かんで来る。そうなればもう文字を配列したりする必要はない。事は終っているのである。
丁度、それと同じに、ちりぢりになっていた二つの怪奇的な謎の要素が、それまでピーター卿の頭で、てんでんばらばらにおどっていたが、今は疑問の余地もないほどに集約されてしまった。家の端っこでの屋根の物音――バターシー・パーク通りで、売春婦に、どしゃぶりの中で話しかけていたレヴィ――ただ一本の赤っぽい髪の毛――リント布の繃帯――サグ警部が病院の解剖室から偉い外科医を呼んできたこと――レヴィ夫人の神経病――石炭酸の匂い――公爵夫人の言葉≪本当の婚約というわけではなくて、彼女の父とただ口約束くらいの了解があっただけよ≫――ペルー石油の株――浴槽の中の男の暗い皮膚と、彫りのある横顔――グリンボルド医師の証言は≪私の意見を申し上げますと、死は、打撃をうけてから四、五日間は起こっておりません≫――ゴムの手袋――それにかすかではあるが、アプルドアの声さえも聞こえる≪彼は私を訪ねてきました。実験動物解剖反対のパンフレットを手にして≫――すべて、これらのことや、多くの他のことが渾然となって一つの和音を構成し、尖塔の鐘のように、雑多な音の中で、見事なテノールを奏でていた。
「善悪の知識は脳髄の一現象であって――除去しうる、除去しうる、除去しうる。善悪の知識は除去しうる――」
いつもピーター・ウィムジー卿は、物事を七面倒くさく考える人ではなかったが、今度だけは正直のところ仰天してしまった。「あり得べからざる事実だ」と彼の理性は弱々しくこういったが、「あり得べからざるが故に余は信ず」と彼の内部の確信は厳然といい放った。「よかろう」と、直ちに良心は盲目的に追随していった。「それでは、今度はどうしようというのかね」
ピーター卿は立ち上ると、部屋を歩きまわった。「そうだそうだ」と彼はこういうと、電話の上の小さな棚から紳士録『フーズ・フー』をひっぱり下し、その中に気休めをみつけようとした。
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サー・ジュリアン・フリーク
一九一六年、ティストウル勲爵士。一九年、ヴィクトリア勲位。一七年、ヴィクトリア上級勲爵士。一八年、バス上級勲士。医学博士、ロイヤル・カレッジ会員、パリにて医博。ケンブリッジ理博。聖ヨハネ騎士団員拝命。[出生]グリンガム、一八七二年。グリンガムのエドワード・カーゾン・フリークの独り息子。[学歴]ハロー校、ケンブリッジ大学トリニティカレッジ卒。陸軍軍医大佐。陸軍医務諮問会員。[著書]『天才の病理学的所見』(一八九二)『英国及びウェールズにおける小児麻痺研究に対する統計的文献』(一八九四)『神経組織の機能障害』(一八九九)『脳脊髄膜炎の変質について』(一九〇四)『英帝国における貧窮民の精神錯乱治療法の調査』(一九〇六)『心理療法に対する一批判』(一九一〇)『犯罪性精神異常』(一九一四)『戦場衝撃性患者に対する心理療法の応用』(一九一七)『フロイド教授への回答・アミアン基地病院においての実験報告』(一九一九)『組織変更に付随する最重要な神経病』(一九二〇)[所属クラブ]ホワイト・クラブ。オックスフォード及びケンブリッジ・クラブ。アルプス・クラブ等々。[趣味]チェス。登山。釣り。[住所]ハーレー街二八二、及びSW十一区バターシー・パーク、プリンス・オブ・ウェールズ通り、聖ルカ病院。
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彼は、その本を放りだした。「確証だと? そんなものがどうして必要なんだ!」と、彼は唸るようにいって、再びすわりこむと顔を手にうずめた。何の前触れもなく、彼は何年も前にデンヴァー城の朝食のテーブルの前に突っ立っている自分の姿を思い出した――青いニッカーをはいて、小さくやつれた少年、気味わるいほど胸に動悸を打たせていた。家族たちはまだ下へ降りて来ていなかった。大きな銀の栓付きの瓶《びん》があって、その下にアルコールランプがおいてあった。立派なコーヒーポットからは湯気がたっている。彼はテーブルクロスの端を引っぱった――つづいて前よりはげしく引っぱった。すると壷が前へ動き、スプーンが皆ガチャガチャ音をたてた。今度はテーブルクロスをしっかりつかんで、力まかせに引っぱった――すると、壷や、コーヒー沸かしや、テーブルの上のセーブル焼きの瀬戸物が、皆一遍に崩れ落ちた。何ともいえぬ恐ろしいスリルだった。――彼は給仕人たちの青ざめた顔や、婦人客の一人が立てた金切り声までも思い出した……。
薪が一本燃え尽きて、ふわりと灰になって崩れた。夜更けのトラックが窓のところをうなりを立てて通った。
バンター氏は忠実な召使いらしく眠っていたが、真夜中に低くよばれる声で目をさました。
「おい、バンター」
「はい、旦那様」とバンターは身をおこすと、スイッチをひねりながらいった。
「灯をつけるんじゃない。しーっ」と声がした。「聞こえるか――あすこら辺だ。――よく聞くんだ――あれが聞こえないか?」
「何も聞こえませんでございます、旦那様」バンター氏は急いで床から抜け出ると、主人を抱きかかえるようにしていった。「何でもございません。早くおやすみ下さい。私が鎮静剤を一服もって参ります。おやッ、身体中ふるえていらっしゃるじゃありませんか――余り夜ふかしをなさいますから――」
「しーっ! いやいや――ありゃ水だ」とピーター卿は、歯をかちかち鳴らしながらいった。「もう、あいつらの腰の辺まで来ているぞ。可哀想に。おい、きいたか。お前に、あの声がきこえないのか。サッサッサッ――こっちへ掘って、やってくる気だ。――だが、どこなんだろう。――聞こえない。聞こえなくなった。おい、聞こえたか、また、やって来たぞ。――うん探し出さなくちゃいけない、阻止するんだ……聞こえるか? みろ。ああ、また聞こえなくなった。聞こえない。銃声ばかりだ。あの銃声をとめてくれ……」
「やれやれ」とバンター氏は呟くと、「何でもございませんとも。ご心配には及びません」
「いや、聞こえるぞ」とピーターは抗議するようにいった。
「はいはい、私にも聞こえて参りました。いい音ではございませんか。あれは、我が軍の工兵が、塹壕を掘っているのでございます。ですから文句をおっしゃってはいけません」
ピーター卿は打ちふるえる手で、手首をおさえた。「我が軍の工兵だな。間違いないな」と彼はいった。
「間違いございません」とバンター氏は陽気にいった。
「脱獄しようとして穴を掘ってるんじゃないだろうな」とピーター卿はいった。
「勝手にさせておおきになればよろしゅうございます。あなた様はこちらへいらっしゃって、少々お休み下さい」とバンター氏はいった。
「あのままにしておいても、本当に大丈夫だな」とピーター卿はいった。
「脱《のが》れられようわけはございません」とバンター氏は、主人の腕をとると、寝室へつれこみながらいった。
ピーター卿は、いわれるままに薬をのみ、さからわずに床についた。バンター氏は、縞のパジャマをきて、頭のまわりにぱさぱさした黒い髪の毛を乱し、冷やかに、この若い主人のはり出た頬骨や、眼のふちの隈《くま》を見つめていた。
「あの発作が、もう二度とおこりはすまいものと思っていたのに。働きすぎなさるからだ」と、彼はいってから「お休みになりましたか」と、心配気にのぞきこみ、そして、今度は温かい言葉つきで、「困ったことだ!」と小さくつぶやいた。
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第九章
パーカー氏が、翌朝、ピカデリー百十番地に呼ばれていってみると、公爵未亡人がそこに来ていた。彼女はにこにこ顔で彼を迎え、
「私はこのお馬鹿さんを、この週末にデンヴァーへつれてゆきますのよ」とピーターを指さしながらいった。ピーター卿は書きものをしていたが、彼の友人へうなずいて合図をした。「この子は働きすぎているんですのよ。ソールズベリなんかに出かけて行ったかと思えば、一晩中寝ないでいたり。パーカーさん、余りこの子をけしかけないで下さいまし。本当に悪いお方ね、あなたは。――真夜中にドイツ軍におびやかされたりして、可哀想な子。バンターをおこしたりしましたって。戦争なんか、もう何年も前に終わっているのにね。それにあんな発作は、何年もおこらなかったんですの。それがまた起きたんです。神経って本当に妙なものです。ピーターは、小さい時から、いつも悪夢にうなされていました。でも、薬をのめば、なんともなくなったことが多かったものよ――でも、一九一八年の年には、ひどくいけませんでした。それに、大戦のことを、一年や二年で忘れろというのはちょっと無理ね。でも本当に、私の子供が二人とも無事だったのはありがたいことですわ。ですから、デンヴァーに行って、静かに暮らしていれば、この子の身体のためになると思いますよ」
「お体が悪いようではいけませんね」と同情顔で、パーカーがいった。「お顔の色がすぐれませんね」
「チャールズ」と、ピーター卿は気のない声でいって「ロンドンでは、君の役に立ちそうにないから、二、三日いってくるよ。ここ当分は、しなくちゃならないことは、僕よりも君がやってくれた方がよさそうだ。これをもっていって(と、彼は書き物をたたんで封筒に入れて)すぐ警視庁へいって、ロンドン中の貧民院や、施療病院や、警察署とか、YMCAなどに通達させてくれたまえ。これはティップスのところの死体が、髭をそられていなかった前の人相書だ。僕が知りたいのはこの人相書に一致する男が、ここ二週間の間に、生きたままか、もしくは死んでからでも、どこかに運びこまれたかどうかということだ。君はサー・アンドルー・マッケンジーに個人的に逢って、彼の命令で通達を直ぐに出してもらえるようにたのんでくれ。それから、彼にレヴィ殺しと、バターシー怪事件の問題は、解けたといってくれたまえ」パーカー氏は、おどろいたような声をあげたが、ピーター卿はそれに関心を示さなかった。「そして、君は彼にたのんで、いつでも、非常に危険な重大犯人を逮捕できる許可を用意してもらうんだ。この通達の反応が来はじめたら、何か、聖ルカ病院に関係するものがないか、また、聖ルカ病院と関係ある人についての何かがないかを調べて、あったら、すぐに僕に知らせてくれたまえ。
同時にどんな方法ででもいいから、聖ルカ病院の医学生の一人と近づきになってくれ。くれぐれも頼むよ、殺人だの、逮捕状だのということを一切口にはしないでな。そんなことをしたら、君は苦境におち入ることになるからな。君から通知があり次第、僕はロンドンへ出てくるよ。その時、ここで、一人の賢い外科医さんにお目にかかることになるだろう」彼はかすかに笑った。
「あなたは、この事件の底がみえたとおっしゃるんですか?」パーカーが聞いた。
「そうだ。僕は間違っているかもしれん。僕も、間違いだといいがと思うが、これは、間違っちゃいない」
「僕にはまだ、おっしゃりたくないんですか?」
「そうじゃないが、正直のところ、いわんほうがいいと思うのさ。間違っているかもしれないし、どうも、まるでカンタベリー大主教を訴えているような気もするんだ」
「そうですか。ところで、内緒になさっておきたいのは一つですか。それとも二つですか?」
「一つだけだ」
「あなたは、レヴィ殺しとおっしゃいましたね。レヴィは死んでいるんですか?」
「当り前さ!」とピーターは、ぶるぶる身体をふるわせていった。公爵夫人は「タトラー」誌を読んでいた顔を上げて、
「ピーターや、また、悪寒《おかん》がおこってきたのかい。何を二人でべちゃくちゃおしゃべりしているのかしりませんが、頭を刺激するようなはなしなら、直ぐにおやめなさい。それに、もう出かける時間だよ」
「わかりました。母上」とピーターはいうと、入口の所で、外套とトランクを持って突っ立っているバンターの方をふり向いた。「お前がしなくてはならないことは分っているだろうな、バンター」といった。
「委細承知いたしております。旦那様。車が参りましてございます、大奥様」
「ティップス夫人が、乗っておいでだよ」と公爵夫人はいった。「あの方はお前にまた逢えるのを喜んでいます。ピーター、お前はティップスさんによく似ているからね。じゃいって来ますよ、バンター」
「いっていらっしゃいませ、大奥様」
パーカーは、二人の後に従って階下に降りていった。みんなが行ってしまうと、パーカーは、ぼんやり手にした書類をみつめた。それから、その日が土曜日であったことを思い出し、急がねばならないことに気がつくと、外へ飛び出て大声でタクシーを呼びとめた。
「警視庁《ヤード》へやってくれ!」
火曜日の朝、ピーター卿はビロードのジャケットをきた男を一人つれ、早い霜が黄色く縞模様に染めた七エーカーほどの、蕪《かぶら》の畑を楽しそうに通りすぎていた。その少しばかり前方を、目にはみえないが、蕪の葉をかきわけてくぐって行っているのは、デンヴァー公爵のセッター犬だった。やがて、一匹の山鶉《やまうずら》が、まるで警官のガラガラ声のような音をたてて、飛び上った。すると、ピーター卿は二、三日前の夜、ドイツ軍の工兵の妄想に苦しめられた人とは思えないほどの見事な手並みで鶉を射止めた。セッター犬は、蕪の間をとんで行って、おちた鳥をくわえて戻って来た。
「よしよし」とピーター卿はいった。これに気をよくした犬は、耳を突ったてながら、馬鹿みたいにとびはねて、吠えたてた。
「静かにしろ」とビロード服の男が、はげしくいった。犬は、おとなしくなって、にじりよっていった。
「馬鹿な犬公《わんこう》だ。じっとしているんだ」とビロード服の男がいった。「神経質すぎるんです、旦那、あのブラックラースの産んだ仔犬なんですが」
「ほう、あの犬は、まだ生きているのか?」とピーターがきいた。
「いんや、旦那。この春、死にました」
ピーターはうなずいた。彼は、いつも田舎が嫌いだといっていたし、わが家の農場と、自分が何の関係もないことを、ありがたいといっていたが、この朝だけは、すがすがしい空気や、みがいてある靴を黒く染めた、朝露にぬれた蕪の葉などに親しみを感じていた。デンヴァーでは、物事は自然に運んでいた。誰も突然死んだりせず、年とったセッター犬でもない限り、凶暴な死に見舞われることはなかった。むろんその山鶉だけは例外だったが。
彼は秋の香りを快く吸い込んでいた。ポケットには朝の便で届いた、一通の手紙が納まっていた。だが、彼はまだ今はそれをよむ気にはならなかった。パーカーからは電報もこないし、ここでは急を要するようなことは何もなかったからである。
この手紙を彼は、昼食後、喫煙室でよんでいた。彼の兄がそこにいて、タイムズをよんだまま、うたた寝をしていた。――善良で清潔な英国人であり、たくましく保守的なところは、どこかヘンリー八世の若い時に似ている、それは第十六代目のデンヴァー公爵ジェラルドであった。公爵は、弟が、どうも堕落しているのではないかと考えていた。弟が、警察や裁判の記事に興味をもつのを兄は嫌っていたのである。
その手紙は、バンター氏からのものだった。
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ご前様
私は(バンター氏は、しっかりと教育されていたので、手紙の始まりを一人称にするのをさけようとすることほど、俗っぽいことはないということをよく知っていたのである)ご命令に従い私の調査の結果をご報告申し上げるために、この手紙を、したためております。サー・ジュリアン・フリークの下僕と近づきになるのは、さほど骨のおれる仕事ではございませんでした。彼は私の友人であり、フレデリック・アーバスノット閣下に仕えた男と同じクラブに属しておりました。その男が、喜んで彼を私に紹介してくれました、彼が私を昨日(日曜)の夕方、そのクラブへつれていってくれ、私どもはその男と一緒に食事をいたしました。その男の名はジョン・カミングズと申しますが、後で、私は、彼をお屋敷に招きまして、酒と煙草をふるまってやりました。このようなことを、私はいつもやっているわけではございませんので、ご前様は私のこの行為をおみのがし下さることと存じます。私の経験では、人の信用をうる最善の方法は、こちらが主人を利用しているということを相手に信じさせることでございます。(『バンターめは人間性の研究家だと僕はいつも思っていたぞ』とピーター卿はつぶやいた)
私は、彼に最良の葡萄酒を与えてやりました(『けしからんことをしおる』とピーター卿はいった)この葡萄酒のことは、あなた様やアーバスノット様が話しておられたのを伺って存じておりました。(『ふーん!』とピーター卿はいった)
その結果は、私が予想していた通りでございましたが、ただ残念なことに、この男はさし出されたものの価値をほとんどわきまえず、葡萄酒と一緒に葉巻をふかしたのでございます。ご前様のヴィラ・ヴィラーズの一本をでございます。私はなにも文句をいいませんでしたが、私の気持ちはお察しください。この機会にご前様の召し上がりものとか、お飲みものや、ご衣服に対するすぐれたご趣味に対して敬意を表させて頂きます。
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ピーター卿は、ゆっくりと納得の首をふった。
「ピーター、一体全体どうしたのだ。お前は何やらわけのわからぬ|こっくり《ヽヽヽヽ》をしたり、にやにや笑ったりして」と、今、転寝《うたたね》からさめた公爵がたずねた。「誰かが、うれしい便りでもよこしたのかね。何だ」
「艶っぽいのをね」とピーター卿はいった。
公爵は、彼を不安気に見やって、
「コーラスガールなんかと、一緒になってもらいたくないもんだな」と兄はつぶやくと、またタイムズをとりあげた。
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――夕食後、私はカミングズがどんな趣味の持主であるかを知りだそうといたしました。そして、彼が寄席にしばしば出かけることを知ったのでございます。一杯目のグラスへ酒をつぎながら、私は話題をこの方面へ向け、と申しますのは、ご前様がいつもご親切に、私めがロンドンのあらゆる演芸場に首をつっこむことをお許し下さっておりましたので、非常に調子を合わせてしゃべることができたのでございます。女や舞台に関する彼の意見は、私が予期しましたように、ご前様の葡萄酒を飲みながら煙草をふかすような男にふさわしいものでございました。酒が二杯目になりますと、ご前様のお命じになられました調査の件を持ち出しました。時間を節約いたしますために、私たちの会話を、できるだけ、実際におこった通りに、対話の形式で書きとめることにいたします。
カミングズ「お前さんは、人生を大いに楽しんでいるようじゃないか。バンター君」
バンター「方法さえ知っておれば誰だって機会は作れるものです」
カミングズ「お前さんとは心やすくしゃべれるよ、バンター君。おまけにあんたは、一人もんだからねえ」
バンター「結婚するほど馬鹿ではないさ、カミングズ君」
カミングズ「それは分っているんだがね、おやおやもうすっかりおそくなったな」(彼はほっと溜息をつきました、そこで私は彼のグラスに酒をついでやったのでございます)
バンター「君の細君も君と一緒にバターシーにすんでいるのかね?」
カミングズ「そうさ。二人で働いているんだ。つまらないよ。昼は、雑役婦がこないでもないんだが、そんな奴が何になるもんか。あの郊外のバターシーに二人きりでいるなんて味気ない話さ」
バンター「確かに芝居にでかけるには便利がわるいね」
カミングズ「そうなんだ。君はいいよ。ここはピカデリーだ。もってこいのところじゃないか。それに君の主人《おやじ》は一晩中家にいないことが多いんだろう。え?」
バンター「ちょいちょいだがね。カミングズ君」
カミングズ「きっとお前さんは、そんなときにちょくちょく抜け出すんだろう。え?」
バンター「そう思うかね、カミングズ君」
カミングズ「そこだて。だがね、がみがみいう馬鹿女房や、医者なんかを主人にもっていた日には、どうにも仕様がないもんさ。家の主人《おやじ》ときたら、一晩中おきていて死体をきり刻んだり、蛙で実験したりするんだからねえ」
バンター「たまには、出かけられることもあるのだろう」
カミングズ「それこそたまにさ。しかも、十二時までにはいつも帰って来るんだ。そしてベルを鳴らして、その辺に誰かいないものなら大変なんだぜ。まったくの話が、バンター君」
バンター「雷か?」
カミングズ「ち、ち、ちがわい、そうじゃないんだが、気味の悪い目でみるのさ。手術台にのせられて、今にも切り刻まれるような気がしちまうんだ。どうってうまくはいえないんだが、全くいやな目つきなんだ。旦那が悪いなんていうわけじゃないんだ。旦那だって、まちがえた時は、向こうであやまるくらいだよ。だけど、そんなことがどうだっていうんだい。向うは出かけていって行っちまう、こっちはそれなのに休めないんだ――」
バンター「そんなとき、どういう風にするんだね。おそくまで君はおきているのかい?」
カミングズ「そんなことはしないさ。玄関に鍵をかけて、十時半には家のものを寝かすんだ。これが家の|きまり《ヽヽヽ》なのだ。その|きまり《ヽヽヽ》をとやかくいうんじゃないが。ただ退屈でやり切れない。ねたい時にねられればいいようにしてほしいのさ」
バンター「それで、ご主人は何をするんだね。家の中でも歩きまわっているのかい?」
カミングズ「歩かないのなんのって、一晩中――出たり入ったり、勝手口から病院へ出かけるんだ」
バンター「カミングズ君、君は、まさか、サー・ジュリアン・フリークのような、えらい専門家が、病院で夜業《よなべ》をするなんていうんじゃあるまいね」
カミングズ「いやいや、自分の仕事だし、研究というのかね。そいつをやっているのだ。人間を切り刻むのさ。非常に頭がいいって評判なんだ。君でも僕でも、時計みたいにバラバラにして、また元のように組立てられるってそうだ。バンター君」
バンター「旦那の足音がそんなによくきこえるというのなら、君は地階にねているのかい?」
カミングズ「いや、俺たちの寝室は一番上さ、でもだよ、そんなとこにねてたって何にもなりゃしない。戸をバタンバタンやるから、家中どこにいたってきこえるものさ」
バンター「うーん。そのことでは、僕も何度もピーター卿にご注意申しあげたかしれない。それに、一晩中おしゃべりをした揚句はお風呂だ」
カミングズ「風呂? おお、よくぞ申しけりや、バンター君だ。その風呂のことなんだ。僕と女房は浴室のとなりにねているのでね。ところが死人でも目をさますような物音をたてるんだ。時間をかまわずに。この前の月曜の夜なんか、何時に風呂を使ったと思う? バンター君?」
バンター「朝の二時に、風呂に入る人もあるときいたことはあるが」
カミングズ「そうかね。ところが、こっちは三時なんだぜ。朝の三時に、眼をさまされちゃってねえ。全くの話が」
バンター「ひどいな、本当にカミングズ君」
カミングズ「旦那は病人を切開するだろう。だからバクテリアを洗いおとさなければ寝たくないんだそうだ。無理もないとは思うがね。でもさ、僕のいいたいのはさ、何も真夜中にまで旦那が病気のことまでさ、神経をつかうことはないじゃないかね」
バンター「お偉い方というものは、それぞれ変ったことをなさるものさ」
カミングズ「そういうものかねえ、だけど、私にはできないねえ」(ご前様、私のみましたところでもカミングズは偉人の面影など全くもち合わせておりませんでした。おまけに彼のズボンときたら、同業のものとして、恥しいほどのものでございました)
バンター「いつも君のご主人は、そんなにおそくまでおきているのかね。カミングズ君」
カミングズ「いや、いつもはそうじゃないさ。それに、次の朝、わびてたよ。浴槽をしらべてもらいたいもんだなんていってたがね。――こいつはやってみる必要があるのさ。なぜっていえば、パイプに空気が入って唸ったり、軋《きし》ったりして、すげえ音をたてるんだ。まるでナイアガラ瀑布さ。全くの話が」
バンター「さもありなんだな。カミングズ君、過ちをみとめて詫びるような、はなしのわかる旦那様なら、少しは我慢もしなくちゃね。それにむろん、わざとやったわけじゃないんだろう。たとえば、思いがけない客がきておそくまで引きとめていて、そういうことになったんじゃないのかね」
カミングズ「そうだそうだ、そういえば思い出したが、確かに一人、旦那衆が月曜の晩にみえたよ。きたのはそう遅くじゃなかったけど、一時間くらいもいたかな、サー・ジュリアンの仕事の邪魔をしていたのかもしれない」
バンター「ありそうなことだね。もう少し葡萄酒はどうだい、カミングズ君、それともピーター卿のブランディを少しやるかい」
カミングズ「ブランディを少し願いたいもんだねえ。え? ちょくちょく酒倉へ勝手に出入りしているんじゃあるまいな」(と申して、カミングズは私に目くばせをいたしました)
「それは君の推測にまかせるとして」と私は申しまして、ナポレオンを持って参りました。一言《ひとこと》申しあげますが、このような男にこのブランディを注いでやることは、私の胸にぐっとこたえたのでございます。しかしながら、事がかくのごとくに運んでいる以上、無益にはなるまいと存じたのでございます。
「しかし、夜みえる客も殿方ばかりならいいんだが」と私は申しました。(ご前様、私をおゆるし下さい。例の|カマ《ヽヽ》をかけたのでございます)
(『やれやれバンターの奴め、ほどほどにすればよいが』と、ピーター卿はつぶやいた)
カミングズ「おやおや、ここの旦那はそういう風なのかね。(彼はくくっと笑って、私をつつきました。彼の会話のつづきは少々ここでカットさせて頂きます。話のつづきは私にもそうでございましたが、きっとご前様のお気にさわらずにはおかぬものと存じたからでございます。彼は言葉をつづけまして)いや、サー・ジュリアンはそういった風じゃないんだ。夜のお客はほとんどないし、あっても。いつも旦那方さ。それに、いつもは、さっきいった様な|きまり《ヽヽヽ》で早いんだ」
バンター「どのみち同じだよ。お客をおくり出すだけにおきているくらい、やり切れぬものはないからねえ、カミングズ君」
カミングズ「えーと、だけど、その人を私が送り出したんじゃないんだ。サー・ジュリアンが、十時かそこいらに、自分で送り出したんだ。その旦那が『お休み』といって出てゆくのを、僕はきいてたよ」
バンター「サー・ジュリアンは、いつもそんな風になさるのかね」
カミングズ「そうだな。人によりけりさ。階下で逢う人なら、自分で迎えて自分でおくり出すし、二階の書斎で逢う人なら、ベルで私を呼ぶんだ」
バンター「それじゃ、その人は階下で逢う方の人だったんだね」
カミングズ「うん、そうだ。サー・ジュリアンが、その人に戸をあけてやったからね。たまたま広間で何かしていらっしゃったんだ。もっとも、今、思い出したんだが、後で二人とも二階へ上っていったっけ。これは変だな。たしかに上っていったんだぞ。というのは、広間に石炭をもって行ったら、二人の声が二階から聞こえたからね。それに二、三分たってサー・ジュリアンが、書斎からベルで私を呼んだからね。それにしても、とにかく俺たちは十時に客が出てゆく音をきいたし、いや、もう少し前だったかな。四、五十分間くらいしかいなかった。どっちみち、さっきからいっているように、サー・ジュリアンは一晩中、勝手口から出たり入ったり、おまけに朝三時からご入浴さ。そして八時にお目覚めの朝飯なんだ。閉口するよ。私にあれほど金があれば、真夜中に死人なんかいじくりまわしたりしないのにな。もっと他に、楽しいことはいくらでもあらあな。なア、バンター君――」
私は、彼の会話をこれ以上かきとめる必要はないものと存じます。それから後は、不機嫌になってしまい、要領をえないこの男の気を、どうかして、月曜の夜の出来事に、向けさせようといたしましたのですが、だめでございました。三時にやっと彼を追っぱらいましたのですが、彼は私の首に抱きついて涙をながしながら、私を可愛い奴だとか、ご前様は私にとってもって来いの|だんな《ヽヽヽ》だとか申しました。サー・ジュリアンが、こんなにおそく帰ったら気を悪くするだろうが、日曜の晩は公休なんだから、もし、そんな事をとやかくいったら、長々お世話になりましたって、いってやるつもりだなどと申しました。私が考えますのに、そんなことを、彼がしない方がかしこいと心得ます。と申すのも、もし、私がサー・ジュリアン・フリークでございましたら、私の良心が彼の推薦状をかかせないということでございます。私の気づきましたところでは、彼の靴の踵は、少しすりへっておりました。
なお、私がつけ加えたいと思いますことは、ご前様の酒倉の素晴らしさに対する讃辞でございます。私はコックバーンの六八年や、一八〇〇年のナポレオンを不本意ながらいささか頂戴いたしましたが、今朝は頭痛、もしくはその他、何らの不快なる副作用を感じなかったからでございます。
田園の空気がご前様に幸いいたし、私の入手いたしました拙い報告がお役に立つことを信じつつ、恐惶謹言
マーヴィン・バンター
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「バンターの奴め、どうも時々、人をからかう癖がある」とピーター卿は考え深げにいった。「なんだ、ソームズ」
「電報でございます、ご前様」
「パーカーからだな」とピーター卿は、それをあけながらいった。電文は
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ニンソウガキ チェルシー・ヒンミンイン ニテ カクニン。センセンシュウノ スイヨウ シメイフショウノフロウシャ ロジョウデ ジコニアイ センシュウノ ゲツヨウ シス。ソノヨ フリークノ サシズニテ セイロカニオクラル クモヲツカムゴトシ パーカー
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「しめたッ!」とピーター卿は急に生々とした声でいった。「パーカーが、雲をつかむようだとは愉快千万。自信がわいてきたぞ。シャーロック・ホームズのような気分になるな、『実に簡単じゃないか、ワトソンくん』といった具合さ。いまいましいが、ひどい事件だ。それにしても、パーカーが面くらったとはな」
「どうしたんだ」と公爵は起き上って、欠伸をしながら聞いた。
「ロンドンへの進軍命令です」とピーターはいった。「いろいろと、おもてなしにあずかってお礼申します。身体の調子もよくなりました。モリアーティ教授でも、レオン・ケストラーでも誰でも相手にしてやります」
「警察の仕事からは遠ざかっていてもらいたいものだ。弟が、とかくに人の目をひくのは色々と具合がわるいし」と公爵はブツブツいった。
「申し訳ございません、兄上。どうも僕は、家門のけがれですかな」とピーターがいった。
「お前はどうして結婚して、落ちついて、何かためになることをしたりして、静かに暮らしていられないのだね」と公爵は不満そうにいった。
「僕はそういう点では落第です。兄上もよくご存じのはずです」とピーターはいい、「そのうえ僕は、とても人のためにつくしております。あなたにも僕が必要になる時が来ないとも限りません。誰かが、あなたをゆすったり、あなたが最初にお見捨てになったご婦人が、突然、西インド諸島からやって来られたりすれば、あなたでも、身内に私立探偵のいることを心強くお思いになるでしょう、『秘密事項厳守 調査確実 離婚訴訟専門 絶対安全!』さあ、いらはい、いらはい」
「馬鹿めッ!」とデンヴァー公爵は、荒々しく新聞を椅子に叩きつけながらいった。
「何時《なんじ》に車がいるのだ?」
「今すぐにもお願いしたいのです。母上もご一緒にお連れいたします」
「なぜ、母上までまき添えにしなくてはならないのだ」
「お手伝い頂きたいからです」
「さしひかえた方がいいのではないかな」と公爵はいった。
しかしながら、公爵未亡人は何の反対も示さなかった。
「私は、あの娘がクリスティーン・フォードといったころから、よく知っています。どうかしたのかい」
「つまり、彼女の夫のことで、とんでもないしらせをしなくてはならないからです」
「あの人は、死んでいたのかい。お前」
「そうです。それで、彼女にきてもらい、たしかめてもらわなくてはならないのです」
「可哀想なクリスティーン」
「全く、ぞっとするような殺され方ですよ、母上」
「私も、お前と一緒に行きますよ」
「ありがとうございます母上。あなたは大したお方です。今すぐご用意ねがってご一緒頂けますか? それについては車の中でお話し申し上げます」
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第十章
パーカー氏は、ピーター卿との約束を守り、まるで肥りすぎた仔犬そっくりで、罪のなさそうな眼をし、そばかすだらけの大柄な医学生と近付きになっていた。青年はピーター卿の書斎で煖炉の前のソファに腰を下し、自分の役目や、まわりの様子や、口にしている酒などにも驚嘆の眼をみはっていた。彼の口は、さほど訓練されていなかったが、生まれつき趣味がよかったらしく、今、口にしているこの飲物を「酒」などと呼ぶことは、冒涜ではないかと考えていた。それというのは、酒という言葉は、普通、彼がのんでいる安っぽいウィスキーや、戦後のビールや、ソーホー街のレストランのあやしげなクラレットと呼ぶ飲み物を口にする時に彼が使っていたからだった。これは何か尋常には立ち入れぬ未知の世界であり、酒はまるで壜につめられた魔物のように感じられた。
(あのパーカーとは昨夜プリンス・オブ・ウェールズ通りの角の居酒屋でばったり会ったばかりだが、いい奴らしい。パーカーはピカデリーに素敵な邸をもっている自分の友達にぜひ会わせたいと僕を引っぱってきた。パーカーという奴は、物わかりがよかった。奴は、政府の役人か、でなければ金融界の大物らしい。だが奴の友達はどうしても苦手だ。先ず第一は、彼が「ご前様」だし、着ている服からが、まるで俗人のきているものをとがめてでもいるような代物《しろもの》だ。とんでもない間の抜けた冗談をいうが、どうもそのいいかたが、僕をまごつかせる。その冗談に、いつまでもこだわって、とことんまで楽しむというのではない。何か冗談をいい出しておいて、こっちがその返事をしようと思っていると、もう何か話を外のことへそらしてしまう。それに使っている給仕は実に物凄い男で――よく本に出てくるような奴だ。――骨まで凍らせるような眼をして、黙って人をじろじろみつめやがる。パーカーは、鷹揚にかまえている。だから相当な奴にみえる。パーカーは見てくれよりは、おえら方の環境に馴れているらしい。パーカーが無心で葉巻の灰を落としている絨氈は、一体どれくらいするのだろう、気になる。僕の親父は家具商で――リバプールのピゴット&ピゴット商会のピゴット氏だ――だから僕にはこの絨氈が、とても及びもつかないくらい高価なものだと見分けられるくらいの知識はある。ソファの片隅にある、ふくらんだ絹のクッションに横になって首でも動かせば、とたんに誰だって、もう少し念入りに髯をそっておけばよかったと思うだろう。このソファは全く怪物だ。といってもこれで人をつつんでしまうほどは大きくない。このピーター卿は、あまり背が高い方ではない。どちらかといえば小男だ。それでいて、背足らずにはみえない。まあ、一人前だろう。彼をみていると、六フィート三インチもあるような男は、何だか田舎者にみえてくる。どうも、あたりに気圧《けお》されて、まるで借りて来られた、猫のような気がする。しかし、誰も彼も、僕には礼儀正しくしてくれるし、僕の分らないようなことを、何も誰もいいださないし、僕をみくだしたりしない。まわりの棚には、何かとっつきにくいような本が並んでいる。それで、僕はテーブルの上にあったダンテの二折本をのぞいてみたが、この家の主人たちは、僕がよく読むような恋愛小説や、探偵小説について、至極まともに話している。そんな本なら、しこたま読んだことがあるし、意見の一つもいえるしさ。だが、先生たちはこっちのいうことに耳を傾けるが、ピーター卿は本のことについても、とても変った話しかたをする。まるで、著者が前もって彼に種を明かして、話の筋はどれを先に書き、それからどんな風に組立てるかを話してでももらったようにしゃべる。こんなはなし方をきいていると、フリークが、人間の体をバラバラにする仕事を思い出してしまう……)
「探偵小説に、僕は文句をつけたいんです……」とピゴット氏がいった。「だって、出て来る連中が、最近、半年の間におこった、ありとあらゆることを覚えているからですよ。奴さんたちは、それがいつであったか、雨がふっていたか、ふっていなかったか、これこれの日に何をしていたか、まるで、いつでも話せる用意をもっていたようにみえます。詩の本の頁をめくるみたいに、ペラペラしゃべります。しかし、実際の生活では、そんな風にはいきません。そうでしょう、ピーター卿」
ピーター卿は微笑した。そこで、若いピゴットは、すぐにまごついてしまい、ほんのちょっと前に知り合った友人に助けを求めた。
「僕のいうことは分りますね、パーカーさん。毎日毎日の生活には、特に変ったことはないんだし、僕なんかには覚えておられません。――そうです。昨日のことぐらいなら覚えているかもしれない。でも、先週何をやっていたかということになると、たとえ、殺すといわれても、確かなことはいえないな」
「それはそうさ」とパーカーはいった。「警察でのべられる証言も、供述をあらためて聞かされたら、本当かなと思う。しかし、彼らは、実際にそのとおりに思い出しているわけじゃない。つまりは、誰もがこんな風には言わないものだ。『先週の金曜日、私は、午前十時に、羊肉のぶつ切りを買いに出かけました。モーティマー街へまがろうとすると、二十二歳くらいの黒い髪をして、茶色の眼の娘が、緑色のジャンパーをきて、チェックのスカートをはき、パナマの帽子で黒い靴といういでたちで、ロイヤル・サンビーム自転車に乗り、時速十マイルの速度で、聖シモンと聖ユダ教会から、市場の方へ、左側通行という規則にさからって曲がってゆくのに気がつきました――』もちろん、このくらいの供述にはなるんだが、それまでには、一連の質問で、この答えを探し出すわけさ」
「それに、短篇小説では」ピーター卿はいった。「そいつを供述書の形式で書かなきゃ駄目だ。というのは、ありのままの会話は長ったらしくて、退屈で、誰でも読みつづける根気を失ってしまう。作家たちは、読者のことを考えなきゃいけないんだ。お分りかね?」
「そうですとも」とピゴット氏はいった。「しかし、大抵の人は、たとえ尋ねられても思い出すのに、とても困るんじゃないんですか。僕なんか、少々頭も悪いですが、あえて僕ばかりじゃあないと思います。お分りになって下さるでしょう。証人たちは探偵じゃないんです。彼らは、ただありきたりの、私や、あなたみたいな間抜けばかりなんです」
「全く、その通りだ」ピーター卿は、その最後の一語を相手が、自分で反芻《はんすう》しているのを微笑していった。「君がいうのは、例えば、僕が一般的な方法で、君が何をしていたか、例えば一週間前の今日のことを聞いてみても、それについて、すぐには答えられないという訳なんだね」
「ええ、恐らくだめでしょう」彼は考えて、「いや、たぶん、僕はいつものように病院にいました。えーと、火曜日だったから、何かの講義か何かがあって――畜生、よく思い出せないが、何かがあったんです。夕方、トミー・プリングルと出掛けて――いや、それは、月曜だったはずだ。――それとも、あれは水曜だったかな? どうしてもよく思い出せません」
「ご謙遜、ご謙遜」とピーター卿はおごそかにいった。「確かに、その日、君が解剖室で何をしていたか、きっと思い出せるよ」
「とんでもない。はっきりしたことはいえませんが、そりゃ、長い間考えれば、何か思い出すかもしれません。でも、法廷で、それを宣誓するわけにはいきませんよ」
「五分以内に、君が思い出すということに、僕は半クラウンかけよう。君が負けたら六ペンス頂くことにして」とピーター卿がいった。
「きっと、僕の勝ちですよ」
「では、やってみようじゃないか。君は解剖をする時に、ノートをとるかな。図をかくとか、それとも何か?」
「ええ、とります」
「それを思い出してくれたまえ。一番|最後《しまい》に、そのノートに書いたものは何だった?」
「おやすいことです。今朝かいたばかりですから。書いたのは足の筋肉でした」
「よろしい、その剖体は誰のだったかね?」
「普通の年とった女でした。肺炎で死んだ――」
「よろしい、では、君のノートを瞼のうちで、逆に前の方へめくってくれたまえ。その前の頁は何だったかな?」
「ええと、何か動物のですが――やはり足でした。今、運動筋肉を研究していますから、ああ、そうです。あれは、カニンガムの比較解剖学に関する実験教授でした。僕は、ウサギの足と、蛙の足と、それから蛇に残っている肢の痕跡で、相当の成績を上げたんです」
「よろしい、では、カニンガム氏はいつ講義するんですか?」
「金曜日です」
「金曜日ですね。では、逆にもう一つ前をめくって、何が書いてあります?」
ピゴット氏は首をふった。
「あなたの書いた足の絵は、右頁から始まるんですか、それとも左頁からですか、最初にかいた絵を思い出せないかな?」
「思い出しました、思い出しました。かいた日の日付を頁の上に書いたのを思い出しました。それは蛙の後ろ足の項で、右頁です」
「よろしい、では、瞼の中で、拡げたノートを思い出して、その反対側の頁に書いてあるのは何だった?」
この質問は、ある精神の集中をピゴットに要求した。
「何か丸い――色のついた――ああそうだ手です」
「それでは、君は、手や、腕の筋肉から、脚や、足の筋肉へ進んだわけだね?」
「そうです、その通りです。私は腕の絵を一揃い書いたことがあります」
「よろしい、そういうことを木曜日に君はするのかな?」
「いいえ、木曜日には、一度だって私は解剖室にいたことはありません」
「じゃあたぶん、水曜日だろう?」
「そうでした。僕はその絵を、水曜日に書いたに違いありません。そうです、たしかに書きました。僕が解剖室に入っていったのは、破傷風の患者を、午前中にみた後でした。それを書いたのは、水曜の午後でした。私は、それを仕上げたかったので、帰っていったことを覚えています。私にしては一所懸命、やったので、だから覚えています」
「よろしい、君は、それを仕上げるために帰っていった。では、それを始めたのはいつだったんです?」
「その前の日です」
「その前の日ですね。すると火曜日だな、そうだろう?」
「どう数えるのか、忘れてしまったけど、そうでしょう。水曜の前の日――そうです、火曜です」
「それじゃあ、その腕は男のだったか、それとも女の腕だったか?」
「男の腕、でした」
「わかった、去る火曜日、即ち一週間前の今日、君は解剖室で、男の腕を解剖していた。ほら、六ペンス、頂きたいな」
「と、と、とんでもない!」
「まアまアちょっとまちたまえ。君は、そのことに関して、もっともっと知ってるはずだ。どれだけ知っているか、君にも見当のつかないほどだと思う。その男が、どういった男だったかを、君は知っているだろう」
「ええと、でも、ご承知のように、僕はその男を完全にみたんではないんですから。そうそう、その日は少しおくれていったのを思い出しました。特別に僕は、腕をたのんでおきました。僕は、腕が苦手《にがて》だったからです。それに、係のワッツが、腕を一本とっておいてやると約束してくれていました」
「よろしい、君はおくれて行った。すると、腕が君をまっていた。腕を君は解剖している――鋏《はさみ》をとり上げて、皮膚を切りやぶり、また、元のように縫いもどしたりしている。腕の皮膚は非常に若くて、白かったかね?」
「いいえ、ちがいます。普通の皮膚でした。ええと、黒い毛が生えていて、そうです。そうでした」
「よろしい、痩せて筋ばった腕で、たぶん、余分な脂肪など、どこにもなかっただろう?」
「いやいや、その脂肪で困ったくらいです。僕は立派な筋肉質の腕が欲しかったんですが、その腕は、発達が悪くて、脂肪がとても邪魔でした」
「わかった。手仕事を余りしない座職の人のだったのだな」
「その通りです」
「で、君は実習のために、その腕を解剖した。そして、その図をかいた。何かタコのようなものを君はみとめなかったかな?」
「そういった類《たぐい》のものは、何もありませんでした」
「なかった――。ところで、君は、その腕が若い人のものだといえるかな? しっかりした若い肉付で、しなやかな関節だったとか?」
「ちがいます。そうじゃありませんでした」
「年をとった、痩《や》せっぽちのものだったのかね?」
「いいえ、中年で、リュウマチ持ちでした。というのは、関節に白亜質の沈澱があったからです。それから、指が少し腫《は》れていました」
「分った、五十歳くらいの男だったのだな」
「そのくらいだったでしょう」
「よろしい、その同じ死体で、外の学生たちも研究していたのだろう?」
「ええ、そうです」
「それでは、みんなで、いろいろいつものような冗談もいっただろうな」
「そのはずですが――ああ、そうだ!」
「どんな冗談をいったか思い出せないかな。例えば、君のまわりの笑わせ役みたいな人は誰なんだね?」
「トミー・プリングルです」
「トミー・プリングルは何をしていたかね?」
「思い出せません」
「トミー・プリングルは、どの辺で、実習していたのだろう?」
「器具戸棚のそばの――C流しのそばです」
「わかった、トミー・プリングルの様子を、君は心眼にうつしてみてくれたまえ」
ピゴットは、笑いはじめた。
「今、思い出しました。トミー・プリングルは、ユダヤ人だぜ――といいました」
「どうして、トミーはその死体をユダヤ人だといったんだ?」
「なぜかはわかりません。ですが、確かにそういったんです」
「きっと、ユダヤ人にみえたからだろう。死体の頭部を君はみたかね?」
「いいえ」
「誰が、頭部をもっていたんだ?」
「知りません。――あ、そうだ、わかりました。大将のフリークが自分でその頭部を失敬していたんです。だもんで、バンシブル・ビンズがとても腹をたてていました。というのは、ビンズは頭部を、スクールガールと一緒にやる約束をしていたのです」
「なるほど、サー・ジュリアンはその頭部をどうしていたんかね?」
「彼は、僕たちを呼び集めて、脊髄出血と神経障害について、僕たちにお談義をしたんです」
「よろしい、それではトミー・プリングルのことに戻ろう」
(トミー・プリングルの冗談が、ここで、くり返された。これをいうのは、若干の気おくれがないでもなかった)
「そうか、それで全部なんだね?」
「ちがいます、トミーと一緒にやっていた奴が、こんな仏様は食いすぎから来てるんだといいました」
「僕の考えるところでは、トミー・プリングルの話し相手は、消化器官に興味をもっていたわけだね?」
「そうです。そして、トミーがいいましたが、こんなに食い物がいいのなら、自分も貧民院に行きたいなどといったんです」
「それじゃあ、その男は、貧民院から来た浮浪者だったんだな?」
「ええ、たぶん、そうだと思います」
「貧民院の浮浪者は、いつも太っていて栄養がいいのかな?」
「ちがいます。――考えてみると、いつものはそうじゃありませんでした」
「実際のところ、それが貧民院の死人にしては少しおかしいということに、トミー・プリングルも、彼の友達も、おどろいていたというわけだろう?」
「そうです」
「それから、もし消化器官に、その二人が、そんなに興味をもっているとすると、その死体は、満腹後間もなく死んで、運ばれてきたんじゃないのだろうか?」
「ええ、そうです。そうにちがいありませんね。そうだとお思いになりませんか?」
「さあね。僕にはよく分らないが」とピーター卿はいった。「そのほうは、君の専門だからな。彼らのいったことを、もとにして得られた、それが君の結論だね?」
「ええ、疑いもなくそうです」
「よろしい。例えば、もし、その患者が、長い間病気で床についていて、|おかゆ《ヽヽヽ》か何か食べていたのだったら、彼らはそんな観察をくださなかっただろうな?」
「むろん、くだしません」
「どうだい、わかっただろう。君は本当に、それについて、沢山のことを知っていたじゃないか。先週の火曜日に、君が自分で解剖していた腕の持主が、中年のユダヤ人で、リュウマチ病みで、座業を習いとし、たらふく食べてから間もなく死んだものであり、死体は脊髄出血と神経障害をともなっており、その他、それから、この男は貧民院から来たものだと思われたという風にだよ」
「そうです」
「そして、もし必要があれば、この事実について宣誓することもできるわけだね」
「そうですね。そのようにおっしゃるのならば、誓えると思えます」
「もちろん、君は誓えるのさ」
ピゴット氏は、暫くの間、物思いにふけっていた。
「つまり」と彼はついにいった。「僕はそれをみな知っていたというわけですね、そうでしょう?」
「ああ、そうだとも、君は、よくそれを知っていたんだ。――ちょうど、ソクラテスの奴隷のようにね」
「え? 誰のことですか?」
「子供の頃、よくよんだ本の中の人物のことさ」
「ああ――『ポンペイ最後の日』に出て来る男ですか?」
「いいや、別の本だ。君は、おそらく読んではいないだろう。余り面白くない本だからね」
「僕は、ヘンティやフェニモア・クーパーなどというのを学校でよんだくらいで、あんまり本はよみません。しかし――それじゃあ、僕はちょっとした記憶のいい男だということになりますね」
「君は、自分で考えているよりは記憶のいい質《たち》なのだ」
「それなら、どうして僕は、医学上のことをみな覚えられないんでしょう。そんなことはみんな頭から、|ふるい《ヽヽヽ》にかけるように抜けおちてしまうんです」
「それはなぜかだと思うかね」とピーター卿は、炉の前の絨氈に突っ立って、彼の客にほほえみかけていった。
「とにかく、あの試験をやる連中は」と青年はいった。「あなたが今なさったようには質問をしないんです」
「なるほど」
「そうなんです――奴らは僕たちが、自分でみんな思い出すまで放っておくのです。ひどく難しいわけですよ。何もひっかかりがないんですからね。しかし、あなたは、どうしてトミー・プリングルが面白い奴だとわかったんですか、それに――」
「僕は知らなかったのだよ。君がしゃべってくれるまではね」
「ああ、そうでした。しかし、おたずねになるまでにどうして、彼がそこにいるということがおわかりになったんです。その――私のいう意味は――」とピゴット氏は、まんざら、消化器官と関連がないでもない影響をうけて陽気になりながらいった。「あなたがかしこいからですか、それとも、僕が間抜けだったからですか?」
「いやいや」ピーター卿はいった。「間抜けは僕のほうさ。僕は、いつもそんな馬鹿気た質問をするのさ。だから、何か僕が企んででもいると皆さんに考えられがちなんだがね」
いわれたことは、ピゴット氏にとって、余りに複雑すぎたらしい。
「なんでもないんだ」とパーカーは慰めるようにいった。「この方はいつもこうなんだから気にする必要はない。自分でどうにもならないのだ。あれは早老の萌しとでもいうのかな。何代も続いた法律家の家柄によくみられる質《たち》なのだ。ウィムジーさん、あちらへいらっしゃって『三文オペラ』か何かを弾いて聞かしてくださいませんか」
ピーター卿は、幸福そうなピゴット氏が愉快な一夕を過ごして帰った後で「大した収穫じゃないか、君?」といった。
「そうですか。しかし、ほとんど信じられないことばかりです」と、パーカーはいった。
「人間の天性に、信じられないようなものは何もない。少なくとも教育された人間の天性にはね」と、ピーター卿はいった。「死体発掘命令を手に入れてくれたかね?」
「明日もらうことになっています。明日の午後、貧民院の連中と手筈をととのえる予定になっています。先ず、出かけて行って連中と打ちあわせをしなければなりません」
「そうしたまえ。僕も母上にしらせよう」
「ウィムジーさん――私もあなたと同じような気持ちになってきはじめましたよ。どうも、この仕事は気が進みません」
「ところが、僕は前よりずっと好きになってきているのだ」
「私たちが間違っていないという点は、本当に大丈夫なのですね?」
ピーター卿は、窓のところまで歩いて行っていた。カーテンは、完全にひかれていなかった。彼は、その隙間から、灯のともっているピカデリーをみつめていたが、このパーカーの言葉に彼は振り向いて、
「確かかどうかは明日わかる。それに、やってみても害のない仕事だ。しかし、君は家へ帰る道で、今のはなしのある程度の確証をえるだろう。君、パーカー君、僕が君なら、今夜はここに泊っていくな。寝室は別にあるし、お泊めするのはおやすいご用だ」
パーカーは、彼をみつめた。
「あなたは、まさか――僕が襲われるとでもおっしゃるのですか?」
「非常にありうることと思われるからだ」
「だれか、通りにいるのですか?」
「今はいないが、半時間ほど前には、いたのだ」
「ピゴットが、帰る時にですか?」
「そうだ」
「じゃあ、あの青年は大丈夫でしょうか?」
「その心配があったので、今、見に行っていたんだ。大丈夫だろう。実際のところ誰も、僕たちがピゴットに事情を打ち明けたとは思うまい。しかし、僕と君は危ないぞ。泊って行くかい?」
「とんでもない。ウィムジーさん、どうして僕が逃げ出さなくてはいけないんです?」
「しょうがないな」ピーター卿はいった。「僕を信じてくれたら、うまく避けられるのに。信じられないのか、君は。僕の考えが間違っていると思うのだね。よし、気をつけてゆきたまえ。警告はしたのだから、忘れちゃいかんぞ」
「忘れません。息を引きとる時には、ご警告かたじけなしと伝言を頼みましょう」
「しかし、歩いて行かずに、タクシーでゆきたまえ」
「わかりました。そうします」
「それから、誰も他の者を車にのせてはならんぞ」
「わかりました」
うすら寒い、いやな晩だった。隣の家の角で、劇場帰りの人々をタクシーが降ろしていたので、パーカーは、その車をつかまえた。彼が、ちょうど運転手にゆく先をいいかけていると、一人の男が脇の道から急いで走って来た。夜会服と外套を着た男だった。狂ったように合図しながら突っ走ってきた。
「君、君、あ、なんだ、パーカーさんか! 何て、運のいいことだろう! クラブからよばれたんでね――友達が病気で――車は見つからないし――誰もみんな、劇場から帰ってくるところだし――一緒にのせてもらえませんか――ブルームズベリーへ帰られるのでしょう? 僕はラッセル広場でいいんです――人が生きるか死ぬかの問題なものですからね」
ずいぶん遠くから、ひどく走ってきたかのようにハアハア息を切らせながらいった。パーカーは、素早く車からとび出した。
「お役にたてば結構です。サー・ジュリアン」彼はこういうと「この車でどうぞ。私はクレーブン街にゆくところでした。急ぎません。どうぞ、この車をお使い下さい」
「いや、誠にどうもご親切に。悪かったですが――」とその外科医はいった。
「いや構いません」と、パーカーは陽気な声でいった。「私は、待てばいいんです」彼はフリークを車の中にいれた。「番地は? 運転手、ラッセル広場の二四番地だそうだ。急いでやってくれ」
車は走り去った。パーカーは、また、引きかえして階段を上って行くとピーター卿の邸のベルを鳴らした。
「お礼を申し上げます。結局、泊めていただくことになりました」と彼はいった。
「入りたまえ」とウィムジーがいった。
「あれをごらんになりましたか?」とパーカーはきいた。
「何かみえたようだったがね。実際のところ、どうしたんだ」
パーカーは、今のいきさつを話した。
「率直に申しますと、あなたの頭が少し変じゃないのかと思いました。しかし、今度こそ、私にもはっきりわかりました」
ピーター卿は、笑った。
「見ざるうちに信ずるものは幸いなりさ。バンター、パーカー様がお泊りだよ」
「ところで、ウィムジーさん、もう一度、この問題を検討してみたいのですが、あの手紙をどこへおやりになりました?」
ピーター卿は、対話の形式にかかれていた、バンターのエッセイをとり出した。パーカーは、だまって暫くそれと取り組んでいた。
「しかし、ウィムジーさん、この考え方に、僕は多くの反対意見があるのですが」
「僕もそうなんだ。だからチェルシーの『宿なし先生』を掘り返してみたいのさ。だが、君の反対意見をいってみたまえ」
「それは――」
「いいかい。僕は、全部が全部、自分で説明できるとは思わない。しかし、一晩のうちに、二つの奇妙な事件がおきているんだ。一人の特定の人物が、この両方に関係しているんだ。ひどくありえなさそうだが、考えられぬことでもない」
「ええ、そりゃ、わかっています。しかし、一、二カ所、納得のゆかないところがあります」
「わかっているとも、だが、そこさ。第一に、レヴィは、九時半にプリンス・オブ・ウェールズ通りで姿を見られてから姿を消してしまった。翌朝の八時に、大体のみかけは、彼に似ないでもない死んだ男が、クイン・カロリーヌ館の浴槽の中で発見された。レヴィは、フリーク自身もみとめているように、フリークに会いに行った。チェルシー貧民院からの報告だと、あのバターシーの屍体の元の顔は、こうではなかったかと推定された人相書に似た死体が、その同じ日にフリークへ渡されている。我々には、レヴィのその時までのことがわかっているが、それから先のことがわかっていない。一人の名も知れぬ浮浪者の行方はそれから先がわかっていて(共同墓地の中へだ)それまでのことがわからない。しかもフリークが、この二人の|それまで《ヽヽヽヽ》と|それから《ヽヽヽヽ》の中間に立ちはだかっているのだ」
「その見方はいいと思いますが――」
「そうさ。で、次だ。フリークはレヴィをなきものにしたいという動機を持っている――昔の嫉妬心だ」
「非常に昔のですよ――ですから、大した動機とはいえません」
「人によってはそういうこともあるのさ。人間が嫉妬心を二十年間も――いや、それ以上抱いていてはいけないと、君はいうのかね。恐らく、そんなことはあり得ないかもしれない。ただ、原始人的で、動物的な嫉妬心であれば、そんな場合には、口より手の方が先になる。問題は、傷つけられた自尊心にあるのだ。これだけはとりのぞけないからね。屈辱感というやつだ。我々は、誰でも人にさわられたくない痛いところを持っている。僕ももっているし、君も持っているはずだ。女にあざけられるくらい口惜しいことはないといった奴がいる。性の欲求は、人間を狂気に走らせる――おい、何もそわそわしなくってもいいよ。本当のことなんだから――彼にしても、失望落胆はおさえられても、屈辱感だけは別ものだ。僕は、婚約していた娘に、袖《そで》にされた男を知っている。その男は、相手の女のことを何気なく話していた。僕が、その女はどうなったかを聞くと、彼は、≪ああ、他の奴と結婚したよ≫といってから、急に泣きだした――自分でも、どうにもならなかったようだ。≪そう、なんです、畜生め、考えてみりゃ――スコットランド人にしてやられるなんて≫僕は、なぜ、彼が、スコットランド人が嫌いなのかを知らなかった。しかし、それが彼の痛いところにふれたのだ。フリークを見たまえ。僕は、彼の著書を読んだことがある。自説の反対論者に対する攻撃は、野蛮きわまる、しかも、彼は科学者なのだ。一廉《ひとかど》の人間なら、誰でも虚心坦懐であるべき著作でさえ、彼は反対論者を許さないのだ。彼が、枝葉末節の点ででも、敗北を認める男だと思うのか。それも、人間が一番気にかける問題でだ。こういうことには、誰でも自尊心を持っているものだ。ある本に対して、僕の下した判断に疑問を持つ奴がいれば、僕だって憤懣を感じるさ。レヴィは――二十年前は、それも何でもないただの人だったのに――フリークの婚約者を、目の前でかっぱらって行った男だからだ。フリークが気にかけているのは、その女のことではないのだ――訳が分らないユダヤ人に、自慢の鼻をへしおられたのが、許せなかったのだ。
もう一つある。彼は犯罪そのものに興味を感じている。彼は犯罪学に関する著書の中で、冷酷な殺人犯人を小気味よがっている。僕は読んだ。そして、薄気味わるいほど、完全犯罪について彼が触れているところでは、その行間に、彼の賛嘆の声を聞く思いがした。彼は、被害者も含めて、悔い改めた人間や、証拠をうっかり残して捕えられたような人間を軽蔑している。彼が英雄視するのは、自分の妻をおとし入れ、その妻に自殺させるようにしむけたエドマン・ド・ラ・ポメレーであり、前夜は、妻にはげしい愛情を感じながら、その翌朝には、その妻を殺害する計画を実行にうつしえた、あの有名な浴場の花嫁事件のジョージ・ジョゼフ・スミスたちなのだ。いずれにしても、彼は良心というものは、一種の虫様突起であると考えている。それを切除して、捨て去れば、すっかり具合はよくなる……。フリークは、普通の人間のように、良心の呵責などというものを意に介さない。彼の著した本を読めばよくわかる。
さて主題に戻って、レヴィの家へ入っていったレヴィになりすましたその男は、その家の模様をよく知っていた。フリークはその家の模様をよく知っている。その男は赤毛で、レヴィより背が低いが、そう低いというほどではない。というのは、彼はレヴィの服を着ていても、さほどおかしくはみえなかったからだ。君は、フリークに逢ったろう――背の高さがどの位かわかるはずだ――五フィート一インチぐらいだと思う。それに髪の毛は赤い色をしている。その男は、おそらく外科手術用の手袋を手にはめていた。フリークは外科医だ。その男は緻密な頭を持ち大胆だった。外科医は大胆で緻密な頭をもっていなければいけない。もう一方の面で考えてみよう。バターシーの死体を手に入れた男は、死体を自由にできる者でなくてはならなかった。フリークは明らかに死体に近づくことができる。その男は、死体を取扱うのに冷静に、手早く、しかも、非情でなければならない。外科医はみな、そのような人間である。その男は、屋根をこして人間の身体を運び、ティップスの窓からほうりこんだにちがいないのだから、膂力《りょりょく》のすぐれた男であったに相違ない。フリークは腕力が強く、アルプス・クラブのメンバーだ。その男は、おそらく外科用の手袋をはめていて、その死体を屋根からおろすのに、外科用繃帯を使ったのだろう。この点も外科医の習慣に一致する。疑うまでもなく、その男はその近所に住んでいた。フリークはその隣りに住んでいる。君が話をきいた女中は、家の端の屋根の上でバタンという物音をきいていた。その屋根はフリークの隣りの家の屋根だ。フリークのことを考えるたびに、必ず何かに関連してしまう。それなのに、我々が嫌疑をかけたミリガンや、ティップスや、クリンプルシャムや、その他の人々は、そんなことに何一つ関連をもってはいない」
「そうですが、しかし、問題は、あなたが考えられているほど簡単なものではありません。では、レヴィは、月曜の夜、フリークのところでこっそり何をしていたんです?」
「そのことについては、君はフリークから説明をきいているじゃないか――」
「馬鹿をいってはいけません、ウィムジーさん。あなたは、自分でその説明の辻褄が合わないといってらしたじゃありませんか」
「そうさ、辻褄があっていない。だから、フリークが嘘をついていたことになるんだ。事実を隠蔽する目的ででもない限り、どうしてそんなことくらいで、彼が嘘をつかなければならないのだ」
「そりゃそうですが、しかし、いったいなぜ彼は、自分でそんなことをいいだしたのでしょう?」
「つまりさ、レヴィが、彼の予期に反して、道の角のところで人に姿を見られてしまったからだ。フリークにとっては、これは、何ともいえぬ、いまいましい出来事だったにちがいない。彼はそこで、手まわしよく、何とか説明しておいた方がよいと考えた。もちろん、彼は、レヴィとバターシー・パークとの関連を考える者があらわれるとは思いもしなかったのだ」
「そうですね。ところで、また、最初の質問にかえりますが、なぜ、レヴィはフリークの家へ行ったのでしょう?」
「僕にはわからない。しかし、とにかく、彼はフリークの家へ行った。ところで、フリークは、なぜあんな風にペルー石油株を買ったんだ?」
「僕にはわかりません」と、今度はパーカーがいった。
「どっちにしろ」とウィムジーは言葉を続けた。「フリークは、彼を待っていた。そして、カミングズが、客の姿をみかけないように、フリークが自分で客を家に入れるようにした」
「しかし、その客は十時に帰ったのでしょう?」
「おい、チャールズ君! 君がそんなことをいおうとは思わなかったよ。それじゃまるで、サグと少しも違いやしない! 誰が、彼の帰って行くのをみたというのだ? 誰かが『お休みなさい』といって通りを歩いて行ったのだ。それを君は、フリークが、あれはレヴィでございませんでしたと、いわないからといって、その男がレヴィであると信じるのか」
「あなたは、フリークが、レヴィを後にのこして――死んでたか、生きてたか知りませんが――カミングズが覗くかもしれないということを考えずに、家を出ると元気に、パーク・レインの方に歩いて行ったとでもおっしゃるのですか?」
「カミングズはそんなことはしなかった。足音が家から遠ざかって二、三分くらいすると、フリークは書斎のベルを鳴らして、カミングズに夜の戸締りをするように命じた」
「そうです、だったら――」
「それに、家の横手に入口がある。君も知っているだろう。カミングズもそういった。この戸口は病院へ通じている」
「ええ、ところでレヴィはどこにいたのです?」
「レヴィは二階の書斎へ上っていって、二度とおりてはこなかった。君は、フリークの書斎へ行ったことがあるね。君なら彼をどこに隠しておく?」
「となりの寝室でしょう」
「それなら、そこに、彼はレヴィを置いたのだ」
「しかし、下僕が入ってきてベッドの用意をしたらどうなります?」
「ベッドの用意は、十時より前に、家政婦がすませていた」
「そうでした……しかし、カミングズは、フリークが、一晩中、家の中を歩きまわっていたのを聞いたといいました」
「カミングズは、フリークが、二度か三度、出たり入ったりする音をきいていたのだ。フリークは、カミングズが聞いているだろうということを予期していた」
「あなたは、フリークが、あれだけの仕事を朝の三時前に終えてしまったとおっしゃるのですか?」
「どうして、そうではいけないというのだ」
「すばやすぎるからです」
「すばやくってもいいじゃないか。それに、何も三時まででなくても構やせん。カミングズは、それから朝の八時によばれるまで、一度もフリークと顔を合わせてはいないのだ」
「でも、三時に、彼は風呂に入りました」
「僕は、パーク・レインへ出て行ってから、彼が三時前に家へ戻って来なかったとはいっていない。しかし、僕は、カミングズが、わざわざ浴室の鍵穴から、フリークが風呂に入っているかどうかを覗いたとは思えない」
パーカーは再び、考え込んでしまった。
「クリンプルシャムの鼻眼鏡はどうなるのです?」と彼がたずねた。
「あれは、少々不可思議だ」とピーター卿はいった。
「どうして、眼鏡はティップスの浴室に運ばれたのでしょう?」
「そのわけはだ、実際、単なる偶然か、もしくは悪魔のなせる業《わざ》かだ」
「あなたは、こんな緻密な計画が、たった一晩でなしとげられたとお思いになるのですか、ウィムジーさん」
「とんでもない。これは、あのレヴィに似た男が、施療病院にやって来ると、すぐに考えられたことだと思う。彼は二、三日の余裕をみていたにちがいない」
「なるほど」
「フリークは審問の時に、尻尾《しっぽ》を出してしまった。彼とグリンボルド医師は、その男の生死の時間で、意見が一致しなかった。仮にも、グリンボルドのような身分のない男が(比較的にいってだよ)フリークのような男の前で、あえて異なる意見を述べるというには、そこに何かちゃんとした根拠があったからにちがいない」
「とすると、もしあなたの推理が正しいとすると――フリークは、失策をしたわけですね」
「そうさ、非常に小さなものだがね。彼は必要以上に注意して、人の頭に連想のおこるのをふせごうとした。たとえば、施療病院の医者などにだ。その時まで彼は、一度説明されたものに関しては(死体のことだよ)人間はもう一度考え直すようなことはないという事実を頼りにしていたんだ」
「どうして、自信を失ってしまったのでしょう?」
「一連の予期せざる偶発事件のためにさ。レヴィが人にみかけられてしまった――僕が馬鹿なことに、タイムズに自分で鼻眼鏡のことを広告してしまった――パーカー刑事が(パーカーの写真は、最近の新聞紙上でよくおみうけするがね)審問の時に、公爵未亡人の近くに坐っているのを見られている。彼の窮極の目的は、事件の二つの端を結びつかせないことだった。それなのに、結び目は並んで二つあったんだ。多くの犯人たちは、警戒しすぎて失敗するものだ」
パーカーは、沈黙してしまった。
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第十一章
「おやおや、またスープのような霧か」と、ピーター卿はいった。パーカーは口の中で何か文句をいいながら、いまいましそうに外套に袖を通していた。
「我々のように二人組んで、仕事をしていても、碌《ろく》でもない、厭な仕事は君がしてくれるので、僕がおかげで助かるというものさ」と、卿は言葉をつづけた。パーカーは、またブツブツいった。
「逮捕状を取るのは、むずかしそうかね?」とピーター卿が尋ねた。パーカーは、またしてもブツブツいった。
「このことは、みんなに内密にしておいてくれただろうね?」
「むろんです」
「警察にもかね?」
「ええ」
「それというのもだよ、君、用心しないと捕える人間が、いなくなってしまうといけないからだ」
「ウィムジーさん。私を間抜けだとでも、思っていらっしゃるのですか?」
「そんな心配はしていないさ」
パーカーは、最後にまた、ブツブツいって別れて行った。
ピーター卿は、ダンテを読もうと、すわり直した。だが、何の気休めにもならなかった。ピーター卿は、私立探偵としての仕事を、よくパブリック・スクールで受けた教育で邪魔されていた。パーカーが、いくら説教しても、直らない。彼の心は、若い成長期に読んだ義賊ラッフルズとか、シャーロック・ホームズとか、または彼らにとってかわる感情で歪められてしまっていたからである。彼は決して狐一匹、殺したことのない家柄の出だった。
「僕は、素人さ」とピーター卿はいった。といいながらも、彼はダンテに没入していった。
午後、彼は、ハーレー街に出かけて行った。サー・ジュリアン・フリークが、初診患者を診るのは火曜と金曜の二時から四時までに決まっていた。ピーター卿は呼鈴を押した。
「お約束がおありでございますか?」と戸を開けた男が聞いた。
「いや」と、ピーター卿はいってから「サー・ジュリアンに、僕の名刺をおみせして下さい。きっと約束はなくとも会って下さると思う」
彼は美事な部屋に腰をおろしていた。そこには患者が一杯待っていた。流行の衣裳を身につけた女が二、三人、買い物のことや召使などについておしゃべりしたり、連れている仔犬をいじったりしていた。心配げな顔の大男が、片隅にぽつんといて、一分足らずの内に、二十回も腕時計をちらちらのぞいていた。ピーター卿は、その大男を見て、すぐ誰だかわかった。富豪のウィントリントンで二、三カ月前、自殺しかけた男だった。彼は五カ国の金融を支配することができたが、自分自身の神経を支配することはできなかったのである。その五カ国の金融は、今は正にサー・ジュリアン・フリークの手中にあるのも同然だった。煖炉の傍には、一人の兵士風の男が腰を下していた、年はピーター卿と同年輩にみえた。その顔は年の割に老けすぎていて、棒をのんだように、上体を真直ぐに坐っているが、おちつかぬ視線は、絶えずどんな小さな物音にもむけられていた。ソファには、年配の婦人が一人、若い娘をつれて坐っていたが、その娘は物憂《ものう》げで、ひどくやつれていた。婦人の眼差しは、深い愛情と、何かを頼りたい光にみちていた。
ピーター卿のすぐ傍に、もう一人、若い婦人が、小さな娘をつれていた。ピーター卿は、この二人がスラヴ独特な広い頬骨の持主で、美しい灰色の目をしているのに気が付いた。その女の児は、絶えず動きまわって、ピーター卿の黒いエナメルの靴先を踏んづけた。母親はその児をフランス語でたしなめながらピーター卿に向って詫びた。
「いや、どうぞ奥さん、そんなことは」と、ピーター卿はいってから「何でもないことです」
「あの子は神経質なんです」と若い婦人がいった。
「お嬢さんを診せにいらしたんですか?」
「ええ。先生は、とても偉い方ですわ、ムッシュー。あの娘《こ》は、可哀想に、今まで経験したことが忘れられないんです」彼女は娘に聞かれないように身を寄せてきて「私たち、逃げてまいりましたの――飢餓にあえいでいるロシアから――六カ月前にです。いやいや申しあげるのはよしにいたします、あの子はとても耳ざといんですの、聞きつけますと、泣くやら震えるやら、ひきつけるやら、そんなことをまた始めますわ、着いたばかりのときはまるで私たち、骨と皮でした。――ああ――でももう少しはましになりましたの。ご覧下さい、あの娘《こ》は痩せておりますが、もう飢《ひも》じがったりはいたしません。神経を気にやんで食べませんので、それがなおれば、もっと肥ると思います。私たちの年輩のものなら忘れることはできますけど――でも、こんな子供には無理ですもの、誰でも若い時には、ムッシュー、あらゆるものが強い印象をあたえますから」
ピーター卿は整った英語という束縛から解放されて、同情を示すのに何らはばかる必要のないフランス語でしゃべりはじめた。
「でも、もうずっとよくなりました」と嬉しそうに母親はいい「えらい先生ですわ、不思議なお方ですわ」
「貴重な人です」とピーター卿がいった。
「いいえ、貴方《ムッシュー》、奇蹟を行う聖者ですわ、私たちはあの方のことを祈っております。ナターシャも私も、毎日毎日。そうですね、貴方。それにお考えにもなって下さい、あの方が、あのお偉い方が、あの有名な先生が、それをみんな無報酬でして下さるのですもの! 私たちがこっちへまいりました時には、身にまとう服さえ持っておりませんでした。――おちぶれて、飢えておりました。それも、私共のような家柄のよいものがでございますわ――それなのに、ああ! 貴方、ロシアでは、ご存じのように、もう家柄なんか災いにしかなりません。――あの不埒《ふらち》な連中ときたら! あのお偉いジュリアン様が私共をごらんになって、おっしゃるには、≪奥さん、貴方の娘さんに私は大変興味を感じます。何もおっしゃいますな。治療費の心配はご無用です。あの娘さんの美しい目のためだけに≫と笑いながらおっしゃいました。ああ、あの方は聖者です、本当の聖者です。それで、ナターシャはそれから、ずっと、ずっと具合がよろしいのです」
「それは、結構でしたね、奥さん」
「貴方も診察ですの? お若くて丈夫そうなのに――やはりお悪いんですか? それも戦争のせいでございましょうね、たぶん」
「弾音衝撃が治りきれませんで」とピーター卿はいった。
「本当にね。あんなに沢山、勇ましい若者たちが――」
「サー・ジュリアンが、二、三分ご都合下さるそうでございます。すぐ中へおはいり下さい」と医員が告げた。
ピーター卿は婦人に挨拶して、待合室を横切っていった。彼の背後で診察室の扉がしめられると、彼はかつての日、変装して、ドイツ将校の参謀会議室へはいって行ったときのことを思い出した。その時のような感じがしていた――罠にかけられるのではないかという感じがしたし、虚勢と不面目の念とが混じり合っていた。
サー・ジュリアン・フリークを彼は遠くから何度か見たことはあったが、間近くみたのは始めてだった。そこで彼は慎重に、最近襲われた神経の発作の状況を、極めて率直に述べながら、目前の男を観察していた。相手は彼よりも背が高く、肩幅がばかに広く、美しい手の持主だった。美しく情熱のこもった顔つきは、冷たい感じがした。何か狂わしいようでもあり、威圧を感じさせる明るく青い眼が、赤茶けた髪と顎ひげの中央に光っていた。その眼はかかりつけの医者がみせるような、静かなやさしいものではなく、野心満々たる科学者が、じっと物思いに沈んだ目でもあり、人の心を見通すような目でもあった。
(だが、あからさまにいう必要はあるまい)と、ピーター卿は考えていた。
「なるほど」サー・ジュリアンはいった。「そうですな、働きすぎておいでなんでしょうな。頭を使いすぎたんじゃありませんかな。いやたぶん、頭を苦しめておいでだったと、申したらよろしいでしょうかな?」
「極めて緊急な事件に直面したもので」
「そうですか、おそらく予期していなかった――」
「誠に、予期せざることにです」
「そうでしょう、ある期間の精神的、肉体的緊張が存続した後にですね」
「たぶん、そう思います」
「その予期せざる偶発事は……個人的に、あなたに関係があるのですか?」
「それが僕自身の行動に、緊急の決心を要求しているのです、そうです、その意味では、たしかに個人的なものでしょう」
「なるほど。つまり、何かあなたが、責任をおとりにならなくちゃならないことですか」
「極めて重大な責任をです」
「貴方以外の人たちにも、影響をあたえるというわけですか?」
「僕以外のある一人には、致命的な影響であり、非常に多くの人にも、間接的に影響を及ぼします」
「そうですか。夜のことだったんですね。暗闇にすわっていたのですか?」
「初めはそうではなかったのです。しばらくして灯を消したのだと思います」
「そうでしょう――その行為が、自然に貴方に暗示をあたえたのですな、身体を暖かくしていましたか?」
「炉は消えてしまっていたようでした。私の歯の根が合っていなかったと、奉公人がいったほどでしたから」
「そうですか。ピカデリーにお住いで?」
「そうです」
「夜になると、あのあたりは交通が激しいでしょうね?」
「実に烈《はげ》しくて」
「そうでしょうな。さて、先刻、いわれた決定のことですが――もう決定なさいましたか?」
「しました」
「貴方の決心がついたのですね?」
「ええ、そうです」
「行動をおこすことに、すでに心が決まっていたのですか? 何のことかわかりませんが」
「その通りです」
「そう。しばらく、休息はあったのですな、たぶん?」
「そうです――比較的な休息というものがね」
「不安な状態が、と申してよろしいですか?」
「そうです――不安な状態がたしかにです」
「おそらく、何か危険が伴うといった?」
「初めには、そんなことに気付いていたかどうかは、はっきりしません」
「そうですか。ご自身のことなどを、考えてはおられない事件なのですか?」
「そんな風にいえないこともありません」
「わかりました。で、一九一八年に、たびたびこんな発作が起こりましたか?」
「ええ、二、三カ月はひどかったのです」
「そう。それからは、あまり起こらなかったのですね?」
「ずっと、少なくなりました」
「よろしい――一番最近の発作はいつでした?」
「九カ月くらい前の頃です」
「どんな状況の下にです?」
「家族のことで、頭を痛めていました。ある投資の問題で、決心がいるので。それに僕は大いに責任があるものですから」
「わかりました。昨年は、何か警察事件に関心をお持ちになっていたようでしたが?」
「ええ。アテンベリー卿のエメラルドのネックレスを取り戻すために」
「相当はげしく頭をつかわれましたか?」
「そうだったと思います。しかし、私は大変愉快でした」
「よろしい――。その問題の解決が、何か肉体的に悪い結果を招きませんでしたか?」
「いや、なんにも」
「そうですか、関心はもったが、危険は伴わなかったのですね」
「正にその通りです」
「わかりました。何かそういった調査に最近まで従事しておいででしたか?」
「ええ。ほんの少しばかりですが」
「何か健康上、悪い影響でも」
「いや、少しもありませんでした。その反対に、そういうことを、みんな気晴らしにやっていたのです。戦争の直後に、つらいことがあって、どうも塞《ふさ》いでいましたもんで」
「ははあ、とすると、結婚はされていませんな?」
「していません」
「そうですか。ちょっと試験をさせて下さい。ちょっともうすこし灯のほうに近づいて下さい。目を拝見しましょう。今までどなたに診ておもらいになりましたか?」
「サー・ジェームズ・ホッジスです」
「ああ、やっぱり、そうですか。あの方は医学界にとって悲しむべき損失でした。真に偉大な人でした――真の科学者でした。どうも、ありがとう。今度はこのちょっとした発明品でテストしたいと思います」
「何をなさろうとおっしゃるんですか?」
「これが貴方の神経反応を現わすのです。ここに腰を下して下さいませんか?」
この後の試験は、純粋に医学的なものだった。で、終ると、サー・ジュリアンがいった。
「ところで、ピーター卿、貴方のご容態を、全く専門語をぬきにして申しあげます――」
「どうもご親切に、ありがとう」とピーター卿がいった。「いかめしい言葉はまるっきり苦手なのでね」
「そうでしょう、貴方は素人芝居がお好きですか、ピーター卿?」
「いや、別に」とピーター卿は驚いてしまい「大抵はうんざりさせられますからね。なぜでしょう?」
「いや、お好きかと思ったからです」と、この専門医は冷やかにいい「ところで、よくご存じのように、戦争中、神経に無理強いした緊張が、その痕跡を残しています。古傷ともいうべきものが、貴方の脳に残されております。神経の末端で受けた感動が脳に伝わり、そこで微妙な生理的変化を生じたのです。――我々が最も敏感な器具をもってして、ようやく探しだした変化なのです。――これらの変化が、今度は感動を呼び起こします。あるいは、もっと正確に申しますと、感動というのは、細胞にこれらの変化がおこっているのをたしかめて、我々が名付けたものといってよろしい。それらを我々は恐怖とか、不安とか、責任感などと呼びます」
「そうでしょう。わかります」
「よろしい。もし、この脳が損傷を受けたところを再び、刺激すると、古傷がまた口を開けるおそれがあります。というのは、もし貴方が、何か、我々が今いった恐怖とか、不安とか、責任感とか呼ぶ反応を伴うような神経知覚を受けると、これが古い傷口を通って障害をおこし、今度は、これと一緒に呼びなれている肉体的変化を生じます――ドイツ軍の地雷の恐怖、貴方の仲間の生命に対する責任感、砲声|殷々《いんいん》たる中に、小さな物音を聞き分けられるという異常な精神集中」
「なるほど」
「この体験は、他と同様に、肉体的感覚を生ずるような状況によって――例えば、夜とか、寒さでとか、激しい交通のひびきに影響されて増大するものです」
「そうでしょうか」
「そうです。その古傷はほとんど癒《い》えています。が、完全にではありません。普通に頭を使っている分には悪くなることはないでしょうが、その傷のある部分を刺激するといけません」
「そうですか、よくわかりました」
「そのような機会をつとめて避けなければいけません。無責任になるようになさい、ピーター卿」
「友人たちは、すでに僕が無責任すぎるといっているのですが?」
「ありそうなことです。頭の働きが鋭敏な、神経過敏な持主は、よくそんな風にみられます」
「ほほう!」
「そうですとも、今、貴方がいわれた、目下の責任は、まだ貴方の肩にかかっているのですか?」
「まだ、そうです」
「貴方が、決心された一連の行動は、まだ完全に終結してはいないのですな?」
「まだ終わっていません」
「それをやり遂げなければならないとお考えになっていますか?」
「むろん、そうです――もう後へはひけません」
「すると、まだまだ緊張がつづくわけですね?」
「ある程度は――」
「長くつづきそうですか?」
「もう、あと、ほんの少しの間です」
「ああ、貴方の神経では無理ですよ」
「無理ですって?」
「無理ですとも、その間は、充分用心なさらないといけません。そして、後で、充分な休養をとらなければいけません。どこか、地中海か、南海諸島あたりへ船旅でもされては、どうでしょう?」
「ありがとう、考えてみましょう」
「それはそうとして、差し迫った事件をのりきるのに、何か神経を強化するものを差し上げましょう。永くは続きませんが、悪い時期は越せると思います。処方箋をさし上げましょう」
「どうもありがとう」
サー・ジュリアンは立ち上ると、診察室につづいている手術室に入って行った。ピーター卿は、彼が動きまわるのを見守っていた。――サー・ジュリアンは何か煮沸させたり、何か書いていた。間もなく、彼は一枚の紙と皮下注射器を手にして、こちらへ戻ってきた。
「これが処方箋です。さあ、今度はちょっと袖をたくし上げて下さいませんか。焦眉の急の処置だけしておきましょう」
ピーター卿は、素直に袖をまくり上げた。サー・ジュリアン・フリークは前膊部の一部を選んでヨードチンキをぬった。
「僕に注射しようとしているのは何です? 病原菌ですか?」
外科医は笑った。「そんなものではありません」と彼はいった。人差し指と親指で肉の一部をつまみ上げて「こういうことは、前にもおやりになったことと思いますが」
「それは、そうですが」とピーター卿はいった。彼は魅入られたように冷たい指と、徐々に近づいてくる注射針を見つめていた。「そうです、前にもやったことがあったが――ちょっと――どうも注射はひどく好かなかったんです」彼は、持ち上げていた右手で外科医の手首を万力のようにおさえた。
一瞬の沈黙は衝撃に似ていた。フリークの青い目は、まじろぎもせず、燃えるように見下していた。下からは灰色の目が徐々に見上げられ、青い目と見合った――冷たく、ゆるがず――そして、しっかり見合わされた。二人の息づかいの外には、この世に物音が絶えたように思われた。二人の男は、顔と顔を見合わせて息をついていた。
「むろん、お好きになさってよろしい、ピーター卿」と、サー・ジュリアンは丁寧な口ぶりでいった。
「どうも愚にもつかぬ話ですが、僕は」とピーター卿がいい「一度しくじって、ひどい目にあってから、神経質になってしまって。どうにも我慢ができないものだから」
「そんな時は、たしかに注射などしない方がよろしい。それこそ、例の病気がかえって目をさまします。それでは、処方箋をお持ち下さい。そして、差し迫って悪いときには、それでできるだけの処置をしてみて下さい」
「わかりました、ぼつぼつやってみます。ありがとう」とピーター卿はいった。彼は袖をきちんと戻し、「色々お世話になりました。また悪いときには伺います」
「どうぞどうぞ――」とサー・ジュリアンは陽気な声でいった。「ただ、この次は、前もって打ち合せてからに願いましょう。この頃はどうも忙しいもので。母上もご健在でしょうね。この前バターシーの審問のときお目にかかりましたが、貴方もおいでになっていればよかったと思いました。きっと貴方も興味をもってごらんになったことと思います」
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第十二章
いやな冷たい霧が、咽喉《のど》を引っかくようで、目にしみる。足元も定かでない。墓のあちこちでつまずきそうだ。パーカーの古いトレンチ・コートの手ざわりだけがしっかりしているようだった。足元がわるいときに、よけいにそう感じた。見失っては大変だから、しっかりしがみつくようにしてついて行く。目の前をおぼろに動いている人々は、ブロッケン山の大入道のようにみえる。
「みんな、気をつけてくれ」ぼんやりとした闇の中から抑揚のない声がいった。「ここいらに口を開けた墓が一つあるからね」
右手に歩を移す、と、新しく掘り返した土の固まりに足をとられそうになる。
「足をとめて、しっかりつかまっていて下さい」とパーカーがいった。
「レディ・レヴィはどこだ?」
「死体安置所です。公爵未亡人がご一緒です。あなたのお母様は素晴らしい方ですね、ピーターさん」
「そう思うだろう?」とピーター卿がいった。
先頭で、誰かが持っていた、ぼんやりした青い灯がゆれて止まった。
「さあ、ここです」という声がした。
ダンテの中に出てくるような人影が二つ、熊手を手にして浮かび上がって見えてきた。
「終わったのか」と誰かが聞いた。
「ほとんど、やっつけてしまいました」悪鬼のようにみえた二人は、また、熊手を――いや、鍬を取って仕事にかえった。
誰かが、くしゃみをした。パーカーがくしゃみの当人を探り当て、ピーター卿に引きあわせた。
「内務大臣の代理で、レヴェット氏です。こちらはピーター・ウィムジー卿でいらっしゃいます。どうも大変な日にひっぱり出して申し訳ありません、レヴェットさん」
「これも勤めのうちさ」とレヴェット氏は嗄《しゃが》れ声でいった。襟巻きで目のところまで覆っていた。鍬の音がしばらく続いた。道具がほうり出される鉄のひびき。悪鬼たちがかがみ込んで力をふりしぼむ。
肘のあたりに黒い人影があらわれる。駆り出された、貧民院の院長だった。
「嫌な仕事ですね。ピーター卿。失礼な申し上げようですが、私は、貴方やパーカーさんの間違いであってくれと願っていますよ」
「僕もそうあってくれれば、どんなによいかと思っているのですが」
何か、重そうなものが、地の中から引き上げられはじめた。
「気をつけてくれ! こっちのほうへだ。他の墓に気をつけろ――ここいらには墓が多いからな。用意はいいか?」
「大丈夫です。灯を持って先に立って下さい。後からつづいて参ります」
重い足音。またパーカーのトレンチ・コートをつかまえようとして、「君か、おい?――やっ失礼、レヴェットさんでしたか――僕はパーカー君かと思ったもんで」
「ちょっと、ウィムジーさん、ここですよ」
墓、墓、墓。芝の根株につまずいたり、躍りあがったり、足下で砂利がきしんだ音を立てる。
「みなさんこちらです。足元に気をつけて下さい」
死体安置所。赤煉瓦と、ジュージュー音を立てるガス燈。黒い服を着た女が二人、それにグリンボルド医師。重い音とともに棺が、テーブルに置かれた。
「ビル、ドライバー持ってきたかよ、すまんな。鑿《のみ》に気をつけてくれ。板が厚くねえからよ」
板のきいきいきしる音。すすり泣く声、公爵夫人のやさしいが、ぴしりとひびくような声。
「しいっ! 泣いちゃいけないわよ。クリスティーン」
つぶやき。ダンテに出てくるような鬼が、よろめいて去ってゆく――。善良で慎みぶかい、コール天のズボンをはいた鬼たち。
グリンボルド医師の声だ――診察室にいる時のように、冷静でしっかりとした声である。
「さて、灯《あか》りをお持ちですか、ウィンゲイトさん? ありがとう。そう、ここのテーブルの上に、どうぞ。肘をコードにひっかけないようにして下さい、レヴェットさん。こちら側においでになった方がよろしいでしょう。そうですそうです、どうも恐れ入りました。それで結構」
テーブルの上に急にまぶしい電燈の灯り。グリンボルド医師の髯と眼鏡。レヴェット氏が音を立てて鼻をかむ。パーカーが身をのり出す。貧民院の院長が、その後ろから覗き込む。部屋の他の部分は、ガス灯と霧で、いっそう朦朧《もうろう》とぼけている。
低いささやき。誰も彼もが身をのりだして仕事をみつめている。
再び、グリンボルド医師の声が――電灯の輪の向うで、
「必要以上にお苦しめいたしたくありませんから、レディ・レヴィ。目じるしになるものを、おっしゃって下さるだけで結構ですが――そうです、たしかに――それから――はい――金で填《う》めてあったんですね?――はい――下顎の右の端から二本目? はい――抜けている歯はありませんでしたか――ない――なかったんですね? え? どんな痣《あざ》ですか? え――左胸部のちょっと上に? ああ、失礼しました、ちょっと下の方ですね――はい――虫様突起炎? はい――長いやつですね――はい――真ん中に? はい、よく解ります――腕に、傷の痕が? はい、さあ、それがみつかりますか――はい――何か、生来虚弱なところでも? ああ、そうですか――関節炎ですね――はい――ありがとうございました、レディ・レヴィ――大変、はっきりいたしました。私がおよびするまで、いらっしゃってはいけません。さて、ウィンゲイト!」
沈黙。つぶやき。
「抜いた? 死んでからと思うのか君は――僕もそう思うんだ。コールグローヴ先生はどちらです? あなたは、貧民院でこの男を診断なさったんですね? そうだ。あれをおぼえていますか? ない? そのことに、間違いはないですね? そう――間違っちゃ困るんです。そう、だが、サー・ジュリアンは、来られぬ訳があるんです。僕はあなたにきいているんだ、コールグローヴ先生。そうかね、確かなんだね――それだけわかればいいんだ。ウィンゲイト君、そう少し灯りを近づけてくれませんか。棺の中はしめりが速いのでね。やっ! これはまたどうしたんだろう? そうだ――そうだ――うん、どうも間違いはないようだ。君、誰が頭をやったんだ? ああ、フリークだって――そうだろうな。聖ルカでは仕事をうまくやる。みごとじゃないか、え、コールグローヴ先生? 全くおどろくべき外科医だ――彼がガイズ病院にいた時、手なみを拝見したんだが――いやいや、ずっと前にやめましたがね。腕をにぶらせないようにするのは大変なことですよ。ええ――そうです、疑いもなく、それが、そうです。タオルが用意してあるな? ありがとう。頭の上にかけて、どうぞ。ここへ、もう一枚下さい。さてレヴィ夫人、傷痕を見ていただきます。しっかりとみて下さい。気を強くもって、私共の手助けをねがいます。ゆっくりで結構です――どうしても見なくてはならないもの以外は見ないようにして」
「ルーシー、そばについていて下さいまし」
「ああ、大丈夫ですよ」
テーブルをかこんでいた人々が、身をよける。灯りが公爵夫人の白い髪の毛の上にかかげられた。
「ああ、そうです――ああ、そうです! いいえ、いいえ――見まちがうはずはございません。あそこに、奇妙な肉の|つれ《ヽヽ》がありますもの。何百回見ましたことか。ああルーシー――ルーベンだわ!」
「もうちょっとです、レディ・レヴィ。例の痣《あざ》は――」
「そ、そう思います、ええ、はい、ちょうどそこです」
「わかりました。それから。傷痕ですが――三角のようで、肘のちょっと上でしたね?」
「え、ええ、そうです」
「これが、そうですか?」
「そうです――そうですとも」
「レディ・レヴィ、明確にお尋ねしなければなりませんが、――あなたは、これら三つの目じるしによって、この死体があなたのご主人のものであることを確認なさいますか?」
「ああ! どうして認めずにおられましょう。他のだれがそんなものを、ちょうど同じ場所に持っているでしょう。これは私の夫です。ルーベンです、ああ――」
「ありがとうございました、レディ・レヴィ。気を強くもっていて下さって助かりました」
「でも――私にはまだわかりませんわ。どうして、夫はここへ運ばれたんです? 誰がこんな恐ろしいことをしてくれたのです?」
「でもね」と公爵夫人がいった。「その男は罰せられるんですから」
「ああ、でも――何て残酷な! 可哀想にルーベン! 誰がこの人をこんなにしたんでしょう? 顔を見てもよろしいでしょうか?」
「いけませんよ、あなた」公爵夫人がいった。
「そんなことはできませんの。お医者様方や、皆様を困らしちゃいけません。こちらへいらっしゃい」
「いやです――いやです――皆さんは、あんなに親切にして下さったんですもの。ねえ、ルーシー!」
「帰りましょう、ね、私たち。もうよろしいわね、グリンボルド先生?」
「はい、ありがとうございました。公爵夫人。あなたや、レディ・レヴィにおいでいただいて、感謝に堪えません」
言葉が途切れて、二人の婦人が去って行く。パーカーが、二人を待たせておいた車に送って行った。それから、グリンボルド医師が再び
「ピーター・ウィムジー卿に、ご覧頂かなければなりません――卿の推理の正確さをたしかめて頂くために――ピーター卿――骨がおれる仕事ですが――ご覧下さいますか――はい、審問の時に私は不安でした。はい――レディ・レヴィの証言は――まことに明確でした――はい――実に恐ろしい事件です――ああ、パーカーさんですね――貴方とピーター・ウィムジー卿の行為は完全に正当化されました。
本当に? 全く信じられません――あんな著名の士が――偉大な頭脳の持ち主が罪をつくるときに、とでもいいますか――ええ、これをご覧下さい! おどろくべき手なみです――正におどろくべき――もっとも今度ので少し損われましたが――みごとな執刀です――ここです、ほら、大脳の左半球と――それにここに――打撃をうけた傷のあとが――全くおどろくべきものです――ちゃんと計算して――殴るとき、その効果をちゃんと計っておいて――ああ、パーカーさん、私はあの人の脳の中をこそ見たいもんです――そればかりでなく、まあピーター卿、貴方は学者連中に思いも及ばぬ一撃をお加えになりました――全文明世界に! おやおや、私に公表をお頼みになるんですって? 私はもちろん口止めされていますとも――私たちはみんな口をつぐんでおります」
墓地を通っての帰途。またしても霧、そして、ぬれた砂利の軋み。
「連中の用意はいいんだね、チャールズ?」
「もう出掛けました。レディ・レヴィを車に見送ったとき、連中を差し向けたのです」
「誰がついていった?」
「サグです」
「サグか?」
「そうです――可哀想に、事件をしくじって本部に呼び出されて罰は食うし。ナイト・クラブについてのティップスのあの証言が、みんな実証されたもので。ティップスがジンを飲ませてやった娘が捕まって、彼を確認したんです。それで、連中は関係ないということになって、ティップスも、ホロックスという女中も、釈放されました。ですから上役がサグに、任務の限界を越えていた、もう少し慎重でなくてはいかんと注意したそうです。それは、もっともですが、馬鹿を相手じゃ、仕方がありません。サグは気の毒です。最後にだけでも間にあえば奴さんも何とか面目をほどこすだろうと思って、それでつけてやりました。結局、我々は勝利を得たのですね」
「うん、まあいいさ。誰が行っても間に合うまい。サグにしろ、誰にしろ同じことだ」
しかしサグは――彼の生涯で珍しい経験だったが――間に合ったのである。
パーカーとピーター卿は、ピカデリー百十番に戻っていた。ピーター卿がバッハを奏でておりパーカーは何か本を読んでいた。そこへ、サグが来たという知らせがあった。
「例の男をつかまえました」サグがいった。
「なに! 本当か」ピーター卿が「生きてたか?」
「ちょうど間に合ったのです。ベルを鳴らして戸があいたとたん、召使いをおしのけて、上の書斎へ突進いたしました。彼は坐って何か書いていましたが、私たちが入って行くと、皮下注射器をつかみました。しかし、我々の方が素早かったのです。ここまできて、とり逃がしてたまるものじゃありません。身体をしらべた上で連行いたしました」
「それじゃ、確実に収監されたのだね」
「ええ、むろんです。――充分、安全に――自殺しないように看守が二人見張っております」
「おどかされたよ、警部。一杯どうだな?」
「や、恐れ入りました、どうも。色々ありがとうございました。この事件で、味噌をつけるところでした。失礼をいたした点はひとえに――」
「いいんだよ、警部」とピーター卿は早口でいった。「君にどうしてわかったか、僕には予想外だった。僕は運よく、別の筋では色々得ることができたのだが」
「フリークもそう申しておりました」
もう、あの偉大な外科医も、警部の目にはありふれた犯人にしか写っていなかった。「捕えたときに、告白書を書いておりました。もちろん警察で頂かねばなりませんが貴方宛に書いてありますので、先ず貴方様にごらんに入れたいと思い、持参しました。これでございます」
彼は、ピーター卿に部厚い記録を手渡した。
「ありがとう、チャールズ、聞くかい?」
「ええ、まあ」
そこで、ピーター卿は声に出して読み始めた。
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第十三章
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親愛なるピーター卿
余は若い時分、年とった父の友人と、よくチェスを闘わしたものである。
その男は、ひどく下手な上に、指し手がおそく、どう指してみても詰みだということがわかっているのに、それが読みとれず、あくまで指しつづけ、どうにも動きがとれなくなるまで、駒を投げぬ男であった。
余は、一度たりとも、そのような指し方をしたことはなかった。
ところで、今度の勝負は貴下の勝ちであることを余は率直に認める。
家にあって絞首刑に甘んじるか、海外に逃がれ去って無為にして不安定な余生にすがるか、道は二つしかない。
余は、喜んでここに敗北を認める。
貴下がもし、拙著『犯罪性精神異常』を読んでおられるならば、その中に記した余の言葉を思い出されることと思考する。
≪多くの場合、犯罪者は、脳細胞の、この病理学的反応に随伴せられた、何らかの変化に影響され、自らの墓穴を掘ってしまうのである。彼の精神の不安定な状態は、種子の形になって出現する。例えば、自己を過信しすぎた虚栄心は、自らの行為を無反省に誇示させ、犯罪の重要性についての不均衡な感覚は、宗教的幻覚の誘因となり、彼を自白へかりたてる。病的な自負心は、罪についての恐怖や悔悟の念を抱かせるに至り、その足跡を韜晦《とうかい》することを忘れさせ、無計画の逃亡へとかりたてる。無謀なる信頼感は、ヘンリー・ウェンライトの事件にてらしても明らかなごとく、ウェンライトは殺害せる女の死体の番を子供に委ね、車を呼びに行ったという――このような、不注意なる結果を産むものである。他方には過去における自意識に対しての、心理的不信というものがあり、これは、犯人をして再び犯行の場に赴かしめ、|彼自らの判断《ヽヽヽヽヽヽ》が結果においては正しかったことと、安全に消し去られていた犯跡を再確認せしむることもある。余は、宗教もしくは他のいかなる幻覚にも怯《おび》えぬほどの合理的な人間であるがゆえに、完全に発覚せざるよう、常に処しうると確信をもって述べることを、いささかも躊躇しない。もっともかくのごとき場合においては犯罪は充分に事前において計画が検討され、時の制約を受けることなく、かつまた、突発せる偶発事によって計算に齟齬を生ぜざることを条件とする≫
以上の主張を、いかに実地において余が立証したかは、余同様、貴下におかれても充分承知せられたものと信ずる。
発覚の端緒となった例の二つの偶発事は、いかにしても予測不可能なことであった。
第一のものは、たまたまレヴィが、バターシー・パーク通りで、あの女に姿をみられたことであり、これが、例の二つの問題を関連づける糸口となってしまったのである。
第二のものは、火曜日にティップスが、デンヴァーへ出かける算段をしており、このために貴下の母上が事件の逐一を貴下に報告し、かの死体が警官の手によって運び去られる以前に貴下の調査を可能にし、母上は余の過去の物語から殺人の動機を嗅ぎつけられたことである。
もし余が、この偶発せる二事件を抹殺し得れば、貴下は余にいささかの疑念も抱かれず、いうまでもなく、余を有罪たらしめるがごとき充分なる証拠を得られなかったであろうと推察するのである。
およそ人間の感情のうち、飢餓と恐怖の念を除けば、性的欲望が、その最も兇暴にして、ある状況下においては、最も執拗な反応を起こすものであることは言《げん》をまたない。
しかしながら、余がこの書を著わした時代には、サー・ルーベン・レヴィを殺害するという、本来なる余の性的欲望は、すでに余の思考という習性によって、著しく修正されていたのである。
殺人という動物的な欲望と、原始人的な復讐という観念には、余自身を含めて世の人々の満足のために、余の理論を実践するという、理性的な意図が加味されていたのであった。
もし、すべてが余の計画通りに遂行せられたならば、余は自らの経験を記述し、厳封の上、これをイングランド銀行に付託し、余の死後、これが出版せられるよう遺言執行者に命じていたであろう。
しかるに、偶発事件によって余の理論の完璧を破壊せられてしまった以上、余はこの記述を、最もこれに興味を有せられる貴下に委託するところであるが、願わくば余の専門家としての名声に敬意を表せられて、これは科学者たちのみに示されたい。
いかなる企業においても、最も成功に欠くべからざるものは、金と機会である。
一般に金銭を自由に駆使しうるものは、同時に、機会をも自由に駆使しうるものでもある。
余が名をあらわした時代において、余もかなり裕福な生活を送ってはいたが、自らの境遇を自由に支配できるほどではなかったといえる。
従って、余は自らの職業に専念し、ルーベン・レヴィや彼の家族と友好的な関係を維持することのみで、満足を得ていたのである。
かくして余は、これによって彼の資産や興味に接触しつづけることができ、いざ事を起こすときに、どのような武器を選べばよいかということを知り得たわけである。
一方において、余は、深く小説の類いはおろか、犯罪学の実際についても研究し、この副産物として得られたものが、小著『犯罪性精神異常』なのであった。
この結果、いずれの殺人の場合においても、最大難点は、死体の処理であることを余は学び得たのである。医師である以上、殺人の手段は自家薬籠中のものであり、手段においての失策は考えられなかった。
更に、自らが悪事を行っているという幻覚によって、自己の企てを暴露する恐れもなかったのであるが、ただ一つの困難な点は、余という人間と、死体になった人間との関連を、全く消滅せしめることであった。
スティーヴンスンの著した興味ある小説の中で、マイケル・フィンズベリーが、次のように述べているのを、貴下はおぼえておられるであろうか?
≪人を絞首刑台上にたたしむるものは、不幸なる犯罪環境である≫と。
余は、これからも一つの啓示を受けた。
ただ、|必要ならざる死体《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が残されているだけでは、誰をも有罪と決定できえないということであった。もっとも何人《なんぴと》かが、その特別な死体に関連して有罪であれば、自ら問題は別である。
かくして、一つの死体を、他の別の死体とおきかえるという考えは早くからすでに胸中にあったのであるが、余が死体の選択や処理について完全に自由たりえたのは、余が、聖ルカ病院において、実際に管理を委ねられるようになってからのことである。
このころから、余は解剖のために運び込まれてくるすべての材料を、注意して観察するようになった。
機会は、サー・ルーベンが消失する一週間前に、ようやくにして訪れた。
その日、チェルシー貧民院の医務官が、一人の浮浪者が足場より落ち、ために障害をうけて神経及び脳に、興味深い症状を示していると申し出て来た。
余は出かけて行き、その患者を診察したのであったが、患者のがっしりした外見が、サー・ルーベンに非常に似ているのを見て、いたく驚愕したのである。
その男は、頚部《けいぶ》の後方をひどく打ち、第四及び第五頚部脊椎骨を脱臼し、脊髄はひどく破砕されていた。
回復の見込みは、精神的にいっても、肉体的にいっても全くありえそうにも思われず、いずれにしても、このような無益な人間を、いつまでも生かし続ける必要もないと考えられた。
この男は、比較的に栄養状態がよく、これでみると、最近までは自活していたことはわかったが、足や、身にまとっている服から推定すると、この男が失業していることは明かで、今日の社会状態においては、おそらく今後も失業状態を続けるに相違ないと考えられた。
これこそ我が目的にうってつけのものと余は心を定め、直ちにかねてから計画しておいた、シティにおける、ある種の売買のことを思いうかべたのである。
一方、貧民院の医務官が語った患者の症状にも興味をもったので、患者の反応を注意ぶかく研究し、そしてまた、用意万端の整ったときにその死体を病院へ運ばせる手筈を決めたのである。
その週の木曜と金曜に、余はひそかに種々の仲介人に手を打ち、紙屑同様に下落していた、ペルー石油の株を買いつけるように申し付けた。この計画には大して費用もかからず、市場にある程度の好奇心と、かすかながらの興奮も掻き立てるように仕向けたのである。
このときまでは、もちろん用心を重ね、自分の名前を表面に出すことを許さなかった。
土曜から月曜にかけて、例の患者が、こちらの用意のできぬうちに死亡しはせぬかという懸念があったので、塩水注射を用いてこの男の生命をもちつづけさせることに努力した。そのために、日曜の夜おそく、患者が部分的ながらも回復のきざしという、余にとっては、おだやかならざる症状をすら表わしはじめたほどであった。
月曜の朝は、朝からペルー石油の市況が活撥に動き、何者かが何かの情報によって買いつづけているという噂すら流れはじめていたので、この日の市場では、余一人だけがペルー株の買い手ではなくなっていた。余は自身名義で二、三百株買い、それを成行きにまかせておいたのである。
昼食時分に余はちょっとした工夫をし、レヴィと市長官舎の角のところで、偶然に出あうという一場面を演じた。
予期していたとおりレヴィは、ロンドンのこの方面で余と逢ったことをいたく驚き、余はことさら困った顔をして、レヴィを昼食に誘ったのである。
いつも行きつけの場所を避け、別のところへ彼を同行し、そこで上等な酒を注文すると、彼が余を、充分に信頼できると考えるほど、酒をくみ交わした。
取引所の景気はどうかとたずねてみると、彼は「そう。まァまァだな」と答えていたが、急に不安気な顔をし、なにか投資にでも手を出しているのかと質問してきた。
余は、自分とても、たまには一山はることもあるし、しかも、実際に今度は格別な投資を紹介されているといい、それから案じ顔であたりをみまわすと、椅子を彼の近くへ引きよせたのである。
「ペルー石油のことを、君は知らないだろうな?」と彼がたずねたので、余は、はっとした顔をみせて、またあたりをみまわし、テーブル越しに身をのり出すと声をひそめ、
「ところが君、知っているんだ。実際のところね。しかし人に知られては困る。一儲けできそうなチャンスだから――」というと、
「だが、あれは、根も葉もない噂だと私は考えているよ」と彼はいい「もう、何年も配当を払っていないじゃないか」と、いった。
そこで、
「なるほど、今までは確かに払っていなかった。しかし今度は払うようになる。私は内部の情報を手に入れている」といったのだが、彼はちょっと信用しかねるという顔付きをみせたので、コップの酒をぐっとのみほし、彼の耳に口をよせ、
「おい、君、いいかい。私はこれを誰にもいっていやしない、君や、クリスティーンが喜んでくれればと思って、教えているんだ。君も知っているように、私は彼女のことを、いつまでも胸の中で思いつづけている。ずっと以前からだ。あのときは君に一歩譲ったが、今度は私が、仇に報ゆるに恩をもってするという意味がわからないかな」と、吹きこんだものである。
このときの余は、いささか興奮していたが、彼は酒に酔ったものと考えた様子だった。
「どうも親切にありがたい。しかし、私は用心深い男だからね。少し何か裏付けになるものがほしいのさ」
といって、彼は肩をすぼめたが、その恰好は、まるで質屋の主人そっくりにみえた。
「よろしい、証拠をみせよう。だが、ここでは危ない。私のところへ今晩夕食がすんだらやって来たまえ。そうすれば、その報告をお目にかけよう」
余がこういうと、
「どんな風にして、それを手にいれたのだね?」
と、彼がたずねた。
「それも今晩教えよう。夕食をすましてやって来たまえ。そうだな、九時すぎだったら、何時でもかまわない」
「ハーレー街へかい?」
と、こう彼がきいてきたので、余は彼がやってくるつもりだなと感じた。
「いや違う、プリンス・オブ・ウェールズ通りのバターシーの家へ来てもらいたい。私は病院でしなければならない仕事がある。それから念のためにいっておくが、誰にも、君がくることを話しては困るよ。僕は今日、二百株ほど自分の名義で買っているから、きっと連中もそれで嗅ぎつけると思うからだ。それに、我々が二人で一緒にいるところをみられたら、誰かが、何かを気付くかもしれない。とにかく、ここでそのことをはなすのは危険だ」
「よろしい、わかった。誰にもいうまい。九時ごろお邪魔しよう。間違いないだろうね?」
「しくじるわけはないさ」
こういって彼を安心させたが、しくじるわけのないのは、余の本心でもあった。
我々はそれから別れて、余は貧民院へ出かけて行った。
例の男は、十一時ごろ死亡していた。その日の朝、朝食のあとで彼を診ていたから、死亡したのをみても別に驚きはしなかった。
貧民院の当事者たちと種々の手続きをすませ、七時ごろ病院へ死体を運んでもらう手筈をしておいた。
その日の午後は、ハーレー街で患者を診る日ではなかったので、ハイドパークの近くに住んでいる、古い友人を訪ねた。この友人がちょうど何かの用事で、ブライトンに出かけるところだったので、彼と茶をのんでから、ヴィクトリア駅を五時三十五分の列車で出発する、その友人を見送って行った。
駅から出て、夕刊を求めようと、何の気なしに新聞の売場へ足をむけると、いつものように郊外へ向う列車で帰ろうとする群衆で、そこはごった返していた。
もまれて歩いているうちに、地下鉄や、方々からくり出してきて五時四十五分の列車でバターシー・パークや、ワンズワース・コモンへ向う人々の群にまたまきこまれているのに気がついた。
何回となく人とぶつかりあった揚げ句、やっとの思いでその渦《うず》から抜け出て、タクシーで家へ帰り、ゆったりと腰を下したとたん、誰かの鼻眼鏡が、着ていたアストラカン外套の襟に引っかかっているのを発見した。
六時十五分から七時までの間に、サー・ルーベンにみせる、|いんちき《ヽヽヽヽ》報告を作成した。
七時に余は病院へ行ったのだが、折しも貧民院の車が例の男を横の門へ下しているのをみたので、直ちに死体を階段教室へ運ばせ、係のウィリアム・ワッツに、その夜はそこで仕事をするつもりだと告げておいた。
死体の処理は自分でやるからといい、ワッツを彼の用に出し、家へ帰ると、夕食をしたためた。
下僕には、今晩は病院で仕事があるから、いつもの通り十時半にやすんでよい、遅くなるかどうかわからないからと、いい含めておいた。
バターシーの家には、召使が二人しかいなかった。男の下僕と、その妻で食事を支度する女と二人だけで、召使たちは、余の風変りな生活に馴れていたし、彼らの寝室は、プリンス・オブ・ウェールズ通りをみおろす、家の最上階にあったのである。
夕食がすむとすぐ、余は新聞を手にして広間で待ちかまえていた。
召使が八時十五分すぎまでに夕食の後片付けをすましたので、サイフォンと酒瓶をもってこさせてから、台所へ追いやってしまった。
レヴィは、九時二十分すぎにやってきて、ベルを鳴らした。余は自分で行って戸をあけてレヴィを中へ入れてやり、召使が広間の向うに顔をみせたが、いいからといって退がらせてしまった。
レヴィは、夜会服に外套を着、手に傘をもっていた。
「やア、ひどく濡れたじゃないか、どうやって来たんだ」
「バスでさ」と彼は答えてから「車掌のとんちきが、私を下ろすのを忘れてしまい、のりすごしてしまった。外はどしゃぶりの真暗闇。どこを歩いているか、さっぱりわからなくって」
彼がタクシーでこなかったことは、余を喜ばせた。もっとも、タクシーなどに乗ってこないであろうことは、余の計算に入れてあったのである。
「少しくらいのことを、けちけちすると、そのうちに命をおとすことになるよ」
結果においては、事実こうなるのだが、さすがの余も、このことが同様に、余に死をもたらそうとは思い及びもつかなかった。あえてくりかえすが、このことも余には予測できえなかったのである。
彼を火のそばへかけさせ、ウィスキーをすすめると、彼は、その次の日、彼がうまくとり運ぼうとしている、アルゼンチンの取引のことか何かで元気がよく、我々は十五分ばかり金《かね》の話をした。
やがてレヴィが、
「ところで、君のそのペルー株とやらの≪玉手箱≫はどうなんだ?」
ときいたので、
「玉手箱などという、そんな馬鹿気たものではない、来てみてくれればわかる」と、彼を二階の書斎へ案内した。
部屋の真ん中の灯りと、書きもの机の上のスタンドをともし、彼に書きもの机の椅子をあたえ、その背中が、煖炉の火に向くようにかけさせた。そして金庫の中から、でっちあげておいた書類をとり出して渡した。
レヴィはそれを受けとると、まるで嘗《な》めるように目をくっつけてよみ出した。その間に、余は煖炉の火の具合を直している風を装い、彼の頭が、具合よい位置に来るや否や、第四脊椎の上を、手にしていた火掻き棒で、力一杯殴りつけた。皮膚を破らず、一撃のもとにうち殺すに必要な力を計算することは、まことに能力を必要とする仕事であった。
だが、余の職業上の経験が見事に物をいい、彼は大きく一つ息を吸いこむと、音もなく机の上にうつ伏せに倒れた。
火掻き棒を元へ戻すと、彼の身体をしらべてみた。首の根をうたれて、全く彼は死んでいたのである。
彼を書斎のとなりの寝室へ運んで行き、着ていた服を脱がせた。
これを終えたのが、九時十五分頃。彼をベッドの中へおしこんでおいてから、書斎へ戻って書類をとり片付けた。
今度は階下へおりて行き、レヴィの傘を手にすると、我が身を広間の戸の外へ出し、台所にいる模様の召使たちが聞いたら充分きこえるように、
「おやすみなさい」
と叫び、さっさと通りへ出て歩き、横の入口から病院へ入ると、それから家へは、音を立てずに勝手口をぬけて戻ってきた。
誰かがみていたら、まことに奇妙な眺めだったに相違ない。
階段のところで伸び上がってみて、下僕の妻やその夫の召使がまだ台所で、話をしているのを耳にした。
そこで先ず広間に戻って来て傘を傘立てにもどし、新聞をとりまとめると、書斎に上って行き、ベルを鳴らした。
召使が上ってくると、病院へ通じる勝手口通路だけは残しておき、あとの戸締りをみなするように命じた。
書斎で、待っていると、十時三十分頃、召使夫婦が寝につくのに上へあがって行く足音をきいた。
それから十五分間、用心深く待ってから、勝手口を通って解剖室へ出かけ、患者用の担架車を押して戸のところまで行くと、それからレヴィを運びに上って行った。
死体を階下へ運ぶのは一仕事だったが、その仕事は、それから後でやらねばならぬ仕事に比べれば、大したことではなかった。
レヴィを担架車にのせて病院へ運びこむと、解剖室で、例の≪宿なし≫と死体をとりかえた。この≪宿なし≫の脳の中をしらべることを断念するのは、まことに残念だったが、何よりも怪しまれることを避けた。
時間に少々余裕があったので、四、五分をついやして、レヴィを解剖できるように用意しておいた。
これをすますと、≪宿なし≫を担架車にのせて家へ運んだのだが、すでに時は十一時を五分もまわっていた。だから、もう召使たちは寝たものと考え、≪宿なし≫の死体を上の寝台にまでかつぎ上げた。
どちらかといえば、この死体はレヴィよりもむしろ軽かったし、アルプス・クラブでの経験が、人体を扱う方法を余に教えてくれていたので、さほどの苦労に感じなかった。力がいる上に|こつ《ヽヽ》のいる仕事であったが、みかけよりも力のある余は、とにかくやってのけたのである。
その死体を、余はベッドの上に寝かせた。というのは、余の留守中に何者かが寝室をのぞきこみはしまいかという懸念よりも、そこには明らかに余が眠っているに違いないと信じこませようとしたためであった。
余は、この宿なしの頭のところまで蒲団をかぶせ、自分の服を脱ぐと、レヴィの服を身につけた。幸いにも、服は余の身体にほぼぴったりと合い、彼の眼鏡や、時計や、その他のもちものを一つのこらず身につけた。
十一時半少し前には、余は歩道に立って車を探していた。人々が折しも劇場から帰り始めていたので、車はプリンス・オブ・ウェールズ通りの角で、やすやすと捕えることができたのである。
「ハイド・パークへやってくれ」
そこで車を降りると、余は運転手に多めのチップをはずんでから、あと一時間ほどしたら、ここで自分を拾ってほしいと頼んでおいた。
運転手は、わかりましたという風に、ニヤリと笑ったものである。
余はパーク・レーンに向って歩いて行った。自分自身の服はトランクに入れて手にしていたし、自分自身の外套とレヴィの傘を持っていた。
九番地のAに到着すると、上の方の窓にはまだ明りがともっていた。察するに、レヴィは奉公人共を芝居見物に出かけさせた模様とみえ、少々早く来てしまったと、そこで二、三分待つうち、大時計が十二時十五分を打つと、間もなく窓の明りは消えた。
そこで余はレヴィの鍵を使って家の中へ入ったのである。
余の最初の計画では、レヴィを書斎か食堂から消えさせ、炉の前の敷物の上に服を投げすてておくつもりだった。
しかし、たまたまレディ・レヴィがロンドンにいないことを確かめえたので、最初の計画ほど奇抜ではないが、いっそう人を混乱におとしいれられるような方法をとることにしたのである。
余は広間の灯りをつけ、レヴィの濡れた外套をかけ、彼の傘を傘立においた。余はことさらに足音を立て、しかも荘重な足どりで寝室へ登って行き、広間の灯りを、踊り場にあるスイッチで消した。
むろん、余はこの家の模様を熟知していたからである。
レヴィは単純な男で、物事をやるのに人手をかりず、彼の召使たちは、それでほとんど夜は用事を命じられることはなかったので、この家の下僕たちと、顔をあわせる心配は何一つなかった。
寝室に入ると、余はそれまではめていたレヴィの手袋をぬぎ、用意してきた外科手術用のゴム手袋にはめかえた。
証拠になるおそれのある指紋を残さぬように注意を払い、レヴィが帰宅して、いつものように床に入ったという印象を与えるべきだと考えていたから、余自身レヴィの床に入って横になった。
あることがなされたように信じさせるに、もっとも確実にして簡単な方法は、それをなすことである。
例えば、人の手で故意によせたベッドの皺は、決して、そこに人が寝たベッドのごとくみえるものではない。
余は、しかし、レヴィのヘアブラシを使用しなかった。というのは、余の頭髪の色と彼のものと、ちがっていたからである。その他のことはむろん、一切やりとげた。
レヴィのような年寄りは、靴を召使たちのために揃えておくものと考え、服もまた、自らたたんでおくものと推量した。これは、余の誤算であった。だが、問題に足るものではない。
ベントレー氏が巧みに構成した探偵小説〔『トレント最後の事件』〕の一部を考え、レヴィに入れ歯があったかどうか調べておいた。しかし、彼には入れ歯がなかった。とはいえ余は、彼の歯ブラシを濡らしておくことを忘れはしなかった。
一時になると、余は起き上がり、持ってきた自分の服を身につけた。窓にブラインドがおりていなかったので、寝室に灯りをともすようなことはせず、自分の靴を履き、部屋の外へ出るとき、はき古した、これも用意のオーバーシューズを靴にかぶせた。
階段と広間には、地の厚いトルコ絨氈が敷きつめてあったので、足跡を残す心配はなかった。
余は、正面の戸をバタンと閉めて出て行くかどうかと瞬間思案したが(そうすれば自然に施錠される)、鍵を使ったほうが安全と心を決した(この鍵はテムズ河へ、その翌日バターシー橋から投げこんでおいた)。
階段を下りて来てから二、三分、郵便受けのところへ耳をあて、外の様子をうかがった。巡回の警官の足音を耳にした。その足音が遠くへ消え去るのを待ち構え、余は外へふみ出して、表の戸を用心深くしめたのである。この戸は、ほとんど、かさとも音を立てなかった。
かくして余は歩いて行き、余を待ちうけていた先刻の車を拾った。余はほとんどレヴィと同じ型の外套を身につけていたし、用心深くトランクの中へ、オペラハットを入れておいた。
運転手がこのとき、余が傘をもっていないことに気付かねばよいがと思ったが、幸いなことに、雨はそのとき小やみになり、傘をもたずにいても、さほど妙に思われず、運転手は、何か気付いていたかもしれぬが、何も口には出さなかった。
車をオーヴァ・ストランド館の五〇番地でとめさせ、金を払って車を降りた余は、車がみえなくなるまで、そこの玄関に立っていた。
車が見えなくなると、大急ぎで我が家の横手の入口にまわり、そこから中へ入ったのは、一時四十五分ごろであったろう。
だが、さらにいっそう困難な仕事は、まだ余の前途に横たわっていたのである。
まず、やらねばならぬことは、余の「目的とした物」の容貌を変え、それがレヴィであるか、もしくはまた、貧民院の例の≪宿なし≫であるか、直ちに判別できぬようすることであった。
もっとも、外見を多少変化させることだけで充分という確信はあった。あの≪宿なし≫にとりすがって、泣きわめいたりする身よりはなかったし、彼のことは、すでに「説明」がついていたからである。
レヴィにしても、たとえその足痕を余の家まで仮に辿られたにせよ、発見されるであろう死体はレヴィのものではないのであるから、実際問題として、当事者は困惑するだけと確信した。
≪宿なし≫の髯《ひげ》をきれいに剃り、髪に油をつけ、爪をみがいてみると、この物言わぬ余の共犯者は、充分相当な人物にみえたのである。
この男の手は、病院で充分に洗われてあったので、硬くはあったが、汚れていなかった。時が刻々と経過して行くので、思うさまに化粧を施す余裕がなかった。
その上、これを処分するのに、なおどれほどの時を要するか予測しがたく、またいっそう余が恐れていたのは、仕事を困難にする、死体の死後硬直であった。
ある程度の満足で調髪をおえると、丈夫な布と幅の広い繃帯を使い、注意深く死体を縛りあげ、繃帯でこすれたり、すりむけそうなところには、詰めものに綿を使用した。
さて、いよいよ実際に至難な段階に立ち至ったわけである。
前もって余は、これを家から運び出す道は、屋根を通る以外はないと心していた。この雨にぬれている軟らかい裏庭の道を通れば、そこに破滅的な証拠を残してしまうからである。
深夜、死人をかついで郊外の通りを通行できるものでもない。
それにひきかえ、屋根の上なら、余にわざわいする雨も、味方してくれる。
だが、余が荷物をたずさえて、屋根に達するには、召使たちが寝ている部屋のそばを通り、屋根部屋にある引き窓から、その荷物をかつぎださねばならなかった。
余一人がそこへ上って行くのであれば、召使たちの目を覚ますおそれはないのだが、重い死体をかついで行くのでは、考えざるをえなかった。
召使たちが熟睡しておれば、それとても可能であるかもしれない。しかし、そうでない場合、せまい階段をがたびし音を立てたり、音を立てて引き窓をあければ、その音を聞きとられてしまうおそれは充分あった。
余は爪先立ちで階段のところまで行き、彼らの寝室の戸に耳をよせて、内の様子をうかがった。いまいましいことに、下僕はベッドの上で身体を動かし、何かぶつぶつといっているようだった。
余は時計をみた。余の準備は、前後を通じて一時間近くかかっていた。その上、屋根にのぼるには、時がたちすぎては、それこそ一大事である。余は大胆にもアリバイをつくる処置を講じた。
物音がするのも意にかけず、余は浴室へ行くと、湯と水の栓を一杯にひらき、浴槽の栓もぬいてしまった。
余の家の者は、余が真夜中に湯を使うくせがあるので、しばしば文句をいっていたが、水槽へほとばしる水が、プリンス・オブ・ウェールズ通りに面した家々の人の眠りを妨げるばかりでなく、水槽の具合もわるかったので、ゴボゴボゴボと奇妙な大きな音をたて、パイプは絶えまなく唸り、全くこんなときにも、まるで列車が終着駅に到着したかのような雑音を立てつづけた。
五分ほどその音をたてつづけた余は、もう床について眠っている人たちが、余を呪うことをやめ、音をきくまいと、頭を毛布の中へつっこんだころと見定め、水のほとばしりを細めて小さな流れにかえ、浴室をしのびでた。
もちろん、用心のため浴室に灯りをともし、戸には鍵をかけておいた。それから、≪宿なし≫をかかえると、できるだけ音を立てぬよう、階段をのぼって行った。
屋根部屋は小さい部屋で、召使の寝室や水槽のある踊り場の向こうにあった。
そこには引き窓があり、短い木の梯子で、上へのぼれるようになっている。梯子を立てかけ、宿なしを押し上げるようにして、後から余は上って行った。
水は引きつづいて水槽へ流れつづけ、まるで鉄の鎖でもひきずっているような音をたて、水を細めにした浴室では、パイプがふうふうと唸りを立てていた。誰かが、それ以外の物音をきいているような気づかいはなかった。のぼっていって、その梯子を屋根へひきあげた。
我が家と、クイン・カロリーヌ館の外れの家との間は、二、三フィートの空間しかなかった。事実、このアパートが建ったとき、それで採光についてのごたごたがおきたが、とにかく、そのときは双方が妥協したことをおぼえている。
いずれにしても、余が引きあげた七フィートの梯子は、充分に向こう側に届いた。
余はその梯子にしっかりと死体をくくりつけ、死体をのせたまま梯子を、向うの手摺りに届くよう押してやった。それから余は、水槽部屋と、屋根部屋の屋根を伝わって、やすやすと向こう側にのり移った。幸いに、手摺りは低く、せまかった。
あとは簡単であった。
余は、≪宿なし≫を屋根伝いに運び、よく物語に出てくるせむし男のように、誰かの家の階段の上か、煙突のところへ、それをおいてくるつもりであった。
少し屋根を行ってから、急に思いついたことがあった。
「なんだ、ここは、ティップスの家の屋根ではないのだろうか」
と同時に、余は、彼の間抜けた顔と、実験動物解剖反対とかについて、馬鹿なことをしゃべっているティップスのことを思いだした。
そうだ、この荷物をこの男のところへあずけておくと、彼がこれをどうするか、それをみるのは、何とたのしい眺めではないかということを思いついた。
腹這いになって、手摺りから下をのぞきこんでみた。
あたりは真暗だし、このときにまた、雨が烈しく降ってきた。それで危険とは思ったが、もっていた懐中電燈を使った。余のおこなった不注意なことといえば、このくらいのことである。
向こう側の家からみられる公算はなかったが、ほんの一秒ほど照らしただけで、余にとっては、思いもかけない情景が目に映った。
すぐ下の窓が、一つあいていたのである。
余は、このアパートの模様も、知りすぎるほど知っていたので、そこが、浴室か、それとも台所かが、すぐにわかった。
余は持っていた三つ目の繃帯で、輪を一つ作り、死体の両腕を結んだ。そして、その繃帯をよってロープをつくり、そのはじを、大煙突の鉄の支柱に結びつけた。
そしてこの友をぶら下げると、そのあとから、下水樋をつたって降り、間もなくティップスの浴室の窓から、死体を中へ手繰りこんだのである。
この時分には余にも少々自信がつき、自負心も手伝ってくれたので、入棺の儀よろしく、彼をきれいにしてやった。
繃帯の結び目をとくのに、ナイフを探す指先が、ヴィクトリア駅でたまたま手に入った鼻眼鏡にふれ、余は急に啓示をえて、この鼻眼鏡を、仏様にかけさせてやったらと考えたのである。
眼鏡をかけさせてみると、容貌は非常に引き立ったばかりでなく、顔ちがいする公算も大になるように思え、余は、余の来《きた》った痕跡をできうる限り消し去り、入ってきたときのように、下水樋とロープを伝わって、やすやすと屋根にのぼって引きかえした。
足音を忍ばせ、屋根と屋根の間を越え、梯子と布とロープを持って帰ったのである。
用意周到な共犯者ともいえる水槽は、大丈夫ですよといわんばかりに、ボコボコガタガタ音を立てていた。
階段を物音一つたてずに降りて行った。
かれこれ、もう四十五分も風呂に入っていた勘定になるので、余はいざというとき、余の役に立ってくれるであろう召使たちを安眠させるために、水をとめてやった。それに、余自身も、少しばかり眠らねばならなかった。
しかしながら、すぐに病院へ行き、そこを全部安全にしておかなければならない。
余はそこで、レヴィの首を切りとると、顔の切開をはじめた。二十分もすると、彼の妻君でさえ判別できぬほどになった。
そこで余は家に帰ると、濡れたオーバーシューズと雨外套を、庭の戸のところにおいた。
ズボンは寝室のガスストーブで乾かし、泥や煉瓦の粉のついたものは、みなブラシで払っておいた。≪宿なし≫の髯は、書斎の灯りでもやしてしまった。
五時から七時まで二時間、ぐっすりと眠ると、いつものように、下僕が余を呼びおこした。
そこで余は、あのように遅く、それに、あのように長い間、水を出していたことを詫び、水槽の具合をしらべておいてもらいたいと、つけ加えた。
余が、朝食の際、並々ならぬ食欲を示したことは、前夜の労働がある程度、細胞に消耗を強いた結果と考え、ここに興味深く記述する次第である。
ほどなく余は病院へ出かけ、解剖を続行した。
午前のうちに、特別に頭のにぶい警部がやってきて、病院から、死体が一つ紛失していないかと尋ねた。
その男を、余は解剖の場へいざない、光栄にも、余がサー・ルーベンの首に施している作業を参観せしめたのである。
それをおえた後、余は彼とともにティップスの家に出かけて行ったが、我が≪宿なし≫氏は、なかなかよくみえたので、大いに満足することをえた。
株式市場の立ち会いが始まるや否や、余は仲買人たちに電話をし、少々用心しながら、余のペルー株の大部分を、上向き相場で売り払ってしまった。
しかし、日の暮れ方、レヴィの行方不明により買い方が動揺しはじめ、結局、余はこの売買で二、三百ポンドしか利益を得ることはできなかった。
以上、貴下が不明と思われる、すべての点を説明いたしたと信じ、また、貴下の幸運と、余を敗北に導いた貴下の明敏なる洞察とに、敬意を表しつつ、終わりに、貴下のご尊母の多幸を祈りつつ。
敬白
ジュリアン・フリーク
追記
遺言状は作成ずみにて、余の財産は、聖ルカ病院へ、余の体は、同施設に解剖研究のために遺贈するものとす。
余の脳髄は、科学界にとって興味あるものと確信す。
余は自らの手によって死するのであり、従って以下のことに困難が生ずるおそれがあるため、なにとぞ貴下によって検死の者たちを選択せられ、遺体の脳が、死後技術未熟なる医者によって損傷されることなく遺体が余の希望のごとく処分されるよう、努力せられんことを懇望するものなり。
いわでものことながら、貴下の興味のために申し加える一事は、本日の午後、貴下が訪問されし真意を、余は衷心《ちゅうしん》より感謝しおるものなり。それに警告の意が含まれしことを余も感得し、それに従って行動せるものと推察せられたし。
余にとってそれは、破滅的結果は生ずれども、余がここに満足を感ずるは、貴下が余の神経と智力とを過少評価せられず、かの注射を拒否されたることである。
貴下にしてもし、小生の申し出に屈せられたれば、貴下はむろん、再び生きて帰宅せられることは、不可能となったに相違なく、その注射の痕跡は、貴体のどこにも残らずして、これは、ストリキニーネと、未知のある毒薬との混合液であり、これについては、現在のところ、検出する方法はなく、その溶解――
[#ここで字下げ終わり]
手記は、ここで途絶えていた。
「なるほど、これで、すっかり明白になりました」
と、パーカーがいった。
「おかしいと思わないかね」
ピーター卿はこういってから、
「あれほど冷静で、あれほどの頭脳の持ち主でありながら、自分がどのように賢明であるかということを示そうとして、告白を認《したた》めるという、誘惑にうちかつことができず、また、自分の首を絞める輪から、逃れることができなかったということが、僕にはわからない」
「ですが、私たちには幸いでした」
と、サグ警部はこういってから、
「可哀相ですが、こういう犯人は、みんな同じ末期をとげるのです」
警部が帰ってしまうと、パーカーが、
「フリークの碑文にふさわしい言葉ですね。さて、ピーター卿、お次は何なのです?」
「今度はだ、ジョン・ミリガンや、彼の秘書とか、クリンプルシャムや、ウィックスのために、晩餐会を催してやろうじゃないか、彼らは、レヴィを殺してはいなかったのだから、当然、うけてくれると思うがね」
と、ピーター卿がいった。
「ティップス母子のことを、お忘れになってはいけませんよ」
パーカーがこういうと、
「忘れてなるものか。ティップス老夫人と話せるたのしみを、なくしてなるものか。バンター」
「はい、旦那様」
「ブランディだ、おい、例の、ナポレオンを持ってこい……」(完)