ドロシー・セイヤーズ/井上一夫訳
目 次
解説
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登場人物
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ピーター・ウィムジー卿……貴族探偵
バンター……ピーターの執事
デンヴァー公爵未亡人……ピーターの母
フレディ・アーバスノット……新聞記者、ピーターの友人
チャールズ・パーカー……ロンドン警視庁の警視正、ピーター卿の友人
ハリエット・ヴェーン……女流探偵小説家
フィリップ・ボイス……新鋭作家
ノーマン・アークハート……ボイスの従兄、弁護士
レイランド・ヴォーガン……ボイスの友人
シルヴィア・マリオット……ヴェーンの友人
エイランド・プライス……ヴェーンの友人
インペイ・ビッグズ卿……ヴェーンの弁護士
クロフツ氏……ヴェーンの弁護士
ハンナ・ウェストロック……アークハート家の女中
ペティカン夫人……アークハート家のコック
キャサリン・クリンプスン……タイプ印書会社を経営している老嬢
ミス・マーチスン……クリンプスンのタイプ会社の社員
ミセス・レイバーン……「クレモナ・ガーデン」という芸名を持つ老衰した大金持ち
キャロライン・ブース……レイバーンの看護婦
≪目かくしビル≫……錠破りの神技をもつ元泥棒
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第一章
判事の机の上には深紅のバラがあった。それは血のしみのように見えた。
判事は老人で、それも、歳月とか変化とか死を超越しているような年よりだった。そのオウムのような顔やオウムのような声は、じじむさく血管の浮き出た手と同様に、全く干からびている。彼の緋《ひ》の法服は、深紅のバラとひどくちぐはぐな感じを与えるのだった。ここ三日間、この蒸し暑い法廷に出ていたのだが、彼は少しも疲れた様子を見せなかった。
書類をきちんとした束にまとめると、彼はもう被告の方には目もやらず、陪審員の方に向った。被告はそれでも、判事を見つめていた。その目は、太くまっ直ぐな眉毛の下に、暗くにじんだしみのようで、不安も希望も現れていなかった。一同は判事の総括弁論を待った。
「陪審員諸君……」
老判事は根気のよい目つきで、彼らをじろじろと見わたし、陪審員全体としての知識程度を値踏みした。三人の立派な商人。一人は背の高い議論好きの男であり、体格のいいだらりとした口ひげをつけている、迷惑そうな様子の男と、ひどく風邪をひいて弱っている男がいた。大会社の専務だという男は、貴重な時間を無駄にされはしないかと心配そうな顔をしている。酒場のおやじだという男だけ一人この場の空気にそぐわないくらい楽しそうな様子をしていた。二人の比較的若い労働者階級の男、かつては名のある人間だったらしい教養のありそうな何者とも知れぬ年をとった男、小さなあごを赤いひげでかくしている画家などもいた。三人の女は、年とったオールド・ミスと、菓子屋をやっている押出しのいいやり手らしい女、それに世帯やつれした人妻で子供もいるらしく、空けてきた家のことばかり考えているような女だった。
「陪審員諸君。この甚だ難しい事件において諸賢は多大なる忍耐と関心をもって証言を聞いてこられました。ここで本官は、諸賢の評決に役立てるため、学識ある検事総長と、同じく学識ある弁護団がこれまで諸賢の前に提出された、諸事実並びに論告を吟味し、できるだけ明白に秩序立てる義務を感ずるものであります。
しかしながら、それに先立って本官は評決自体に関して一言申さなければなりますまい。ご存じのことと思いますが英国の国法の根本方針と致しまして、すべて被告は、有罪であることを証明されるか、あるいは証明されるまでは、無罪の人間として扱われることになっております。被告である彼、あるいは彼女にとって、無罪であることを証明する必要はないのであります。被告が有罪であることを立証するのは検事の義務であり、陪審員諸賢は、検事が合理的疑いの余地なく立証した事実に満足されない限り、被告に『無罪』の裁決を下さねばならないのであります。つまり、『無罪』とは、被告自らが証明するものではなく、検事が、被告が有罪であるという確信を諸賢の心に与えられなかったということを意味するわけであります」
サルコム・ハーディはうるんだ菫《すみれ》色の目をちらっと報告書から上げて、紙切れにちょっと走り書きをして、ワフルス・ニュートンの方に押しやった――≪判事は敵意をもってる≫。ワフルスはうなずいた。二人は前からこの血なまぐさい事件を追っている新聞記者だった。
判事は金切り声で言葉をつづけていた。
「諸賢はこの『合理的疑い』という言葉の正確な意味をお聞きになりたいだろうと思います。この言葉は、日常生活において、普通の出来事に際し諸賢が抱かれる『疑い』と全く同じ意味しかもっておりません。本件が殺人事件であり、従って諸賢が、かかる場合のこの言葉の意味はもっと多くのものをもっていると考えられるのは当然であります。しかし、そうではありません。この一見平明にして単純な事件に対し、諸賢が突飛な解決を考案しなければならないということではありません。よく眠れない夜の暁方などに私たちを悩ます悪夢の疑惑のようなものではありません。それはただ、証言を、売り買いのときのような単純なことがら――普通の取引きのように吟味しなければならないということです。もちろん、諸賢は被告に同情しすぎてもいけませんが、極めて慎重な吟味をすることなしに、有罪であるとの証言を受け入れることも避けねばなりません。
諸賢が国家に対する義務として負わされました、この重責に対し、あまり重圧を感じすぎないよう、これだけのことを申し上げましたら、本官はここで、これまでに聞いた弁論をできうる限り分りよく整理してみようと思います。
本件は検事側によると、被告ハリエット・ヴェーンがフィリップ・ボイスを砒素《ひそ》により毒殺したというのであります。ジェームズ・ルボック卿やその他の医師の死因に関する証言を繰り返して時間をつぶす必要はないと思います。検事側は被害者は砒素の中毒で死んだと言い、弁護側もそれには反対は致しておりません。従って、被害者の死が砒素によることは明白であり、諸賢はこれを事実として受け入れねばなりません。そこで、諸賢に残された唯一の問題は、被告が殺人の目的で故意に砒素を被害者に飲ませたか、どうかということであります。
故フィリップ・ボイスはお聞きの通り作家でありました。三十六歳で、五冊の小説と沢山の評論、随筆を発表しております。これらの作品はすべて、時には進歩的な形式と呼ばれる種類のものであります。それは、汎神論とか無政府主義とか、自由恋愛として知られているような、われわれのあるものには不道徳または煽動的と思われるような考え方を強調しているものです。彼も私生活で、少なくともある時期には、こういう主張に従って行動していたと見られます。
とにかく一九二七年のいつか、彼はハリエット・ヴェーンと知りあいになりました。二人は、こういう進歩的な話題が論ぜられる美術的文学的サークルの一つで顔を合わせ、しばらくすると非常に親密な仲になりました。被告もまた作家を業としており、それからこれは忘れてはならないことですが、彼女は殺人とかその他の犯罪を巧妙に行ういろいろな方法を題材とする、いわゆる推理小説、探偵小説の作家なのであります。
諸賢は証言台での彼女自身の話を聞かれ、また進んで彼女の性格に関し証言をされたいろいろな人々の言葉を聞かれております。多大な才能をもつこの若い女性は、厳しい宗教的なしつけによって育てられましたが、二十三歳のときに、別に彼女自身の罪によるのではないのですが、一人ぼっちにこの世に投げ出され、暮らしを立てなければならなくなったということもお聞きになりました。それ以来、彼女は現在二十九歳でありますが、自分の生活のために勤勉に働きました。これは彼女の声価を大へん高めることですが、被告は全く自分だけの力で、正しい道を選んで誰にも世話にならず、誰の助力も受けずに独立していたのであります。
彼女はまた大変率直に、いかにしてフィリップ・ボイスに彼女が深い愛着を抱くようになったかを語り、そして、かなり長い間、尋常の結婚ではない同棲生活をしようという彼の申し出を拒んで来たことを話しました。堂々と結婚できないという理由は彼の方には全くありません。しかし、確かに彼は形式的な結婚というようなものには、心底から反抗しているようでした。彼のやり方のこういう傾向が、被告をひどく悲しませていたというシルヴィア・マリオットとエイランド・プライスの証言があります。また、彼が大変美男子であり、大ていの女なら彼に背くことができないというような魅力のある人間だったということも聞いておられます。
とにかく、一九二八年三月に、被告の言によれば、飽くことを知らぬ彼の執拗さに根負けして、結婚というきずなの外の、いわゆる同棲生活に入ることを承諾したのであります。
ところで、全く当り前のことですが、こういうことが大変悪いことだという感じは諸賢も抱かれることでありましょう。この若い女性の無防備といえるような当時の立場から考えてみても、やはり道徳的にしっかりしていない人間であるということは感ぜざるをえません。ある種の小説家たちが自由恋愛について書き散らしているあの誤った幻想によって、陪審員諸賢がこういうことは、ありふれた、ちょっとした不行跡にすぎないと軽く考えてしまわれるようなことはあるまいと存じます。インペイ・ビッグズ卿は、しごく当然なことではありますが、弁護依頼人のためにその素晴らしい話術を縦横に用いて、ハリエット・ヴェーンの行為を大変ロマンチックな彩りで描き出しました。卿は自己犠牲ということについて語り、あわせて諸賢に、このような場合には男より女の方が損をするのが多いことを指摘したのであります。しかしながら、諸賢はこの説はあまり気になさってないと思います。こういうことの善し悪しは、諸賢はよくご存じでありましょうし、もしハリエット・ヴェーンがそのまわりの影響でこれほど墮落していなかったら、彼女はフィリップ・ボイスとの交際を断つことによって、もっと正しい勇気を示したと考えられるでありましょう。
しかしながら反面にまた、こういう過失に対してあまり誤った重要さを付与しすぎないように注意しなければなりません。人が不道徳な生き方をするということと、人殺しをするということとは全く異なったことであります。悪への道に一歩踏みこんだら、次の一歩はもっとたやすく進むと考えられるかもしれませんが、こういう考えにあまり重きを置きすぎてはならないのです。こういうことは当然考えに入れておかれてもよいのですが、あまり偏見を持ってはなりません」
判事はちょっと言葉を切った。フレディ・アーバスノットは憂鬱そうな顔をしているピーター・ウィムジー卿の横腹をひじで突いた。
「そんなバカな話ってあるかい。ちょっとした遊びごとが、みんな人殺しにまで発展するなんていったら、われわれの中の半分は後の半分の人間のやったことのために首吊りにされなければならないじゃないか」
「それで、君はどっちなんだい」ピーター卿は一瞬冷たい目で彼を見つめて訊ねたが、また被告席に視線を返した。
「被害者さ」フレディ氏が言った。「被害者、書斎で死体になってる方さ、僕は」
「フィリップ・ボイスと被告は一年近くもかような同棲生活をつづけました」判事は話をはじめた。「いろいろな友人たちが、彼ら二人が大変仲好く暮らしていたらしいことを証言しております。ハリエット・ヴェーンがその不幸な境遇、すなわち、親しい友だちから切り離され、彼女が現れると迷惑がられるような社会に入って行けないというようなことを、彼女自身はひどく気にはしていたが――それでも愛人に対しては誠をつくして、友だちにはひけ目を見せずに幸せだと言っていたことは、ミス・プライスも証言しております。
しかしながら、一九二九年二月、二人は喧嘩をして別れました。喧嘩があったことは否めません。フィリップ・ボイスの部屋の真上に住んでいたダイヤー夫妻が証言しておりますが、怒ったような声高の話し声で男が罵《ののし》り、女が泣いているのが聞こえ、翌日ハリエット・ヴェーンが自分のものを荷作りして、その家を出ていってしまったそうであります。この事件の中でも特に奇妙な様相をもった、しかも諸賢にもよく考えていただかなければならないことは、この喧嘩が起こった原因であります。これについては、被告自身の証言しかありません。ハリエット・ヴェーンが飛び出してから頼って行ったミス・マリオットの証言によると、被告はそのことについては話をすることを拒み、ただボイスにひどく欺されたと言っただけで、二度とその名を耳にするのも嫌がったそうであります。
そこで、以上のことから、ボイスが不誠実とか、不親切、あるいは単に二人の状態を世間態から見て尋常なものにするのを拒みつづけたというような理由から、被告に恨みを抱かせたということは推察できるのであります。しかし、被告はそれについては全く否定しております。被告の供述によりますと、ボイスはついに正式の結婚を申し込んだのでありまして、これが喧嘩の原因になったというのです。このことはフィリップ・ボイスが父に出した手紙によっても確認されているのであります。大変おかしな話だと思われましょうが、これは宣誓した被告の証言なのです。
この正式の結婚申込みにより、被告がボイスに対して恨みを抱く理由は、全くなくなってしまったと考えられるでありましょう。誰にしたところで、そのような状況の下で彼女にその若者を殺そうと思う理由があるとは申せますまい。ところが、反対なのです。やはり喧嘩という事実はありますし、被告自身もこの遅くはなったが立派な申込みを喜び迎えなかったと陳述しております。彼女自身は申しませんでしたが、当然、彼女の言いそうなことでしかも彼女の弁護人が力説強調しましたのは、この正式の求婚によって彼女のフィリップ・ボイスに対する憎しみは全く消えてしまったということでありました。インペイ・ビッグズ卿もそう申されましたが、しかしこれは被告自身の陳述ではありません。彼女の立場になり、できたら彼女の考え方を理解して戴かねばなりませんが、彼女がボイスに肚《はら》を立てた訳は、彼が前には自分の生活原理を適用するために彼女を無理に従わせ、後になってそういうやり方をあっさり捨ててしまったので、彼女の言葉に従えば、『バカにされた』と言って怒ったのです。
さて、ここで考えていただかねばならないことは、現実に行われたこの申し入れが、殺人の動機になりうると考えられるかどうかということです。特にここで強調しておかねばならないことは、他の証拠としては動機というものが影もないということであります」
ここで、陪審員の年長の方の独身女が何か書きとめたようである。紙の上を走る鉛筆の様子から見ると、荒っぽい文字で書いたように見えた。ピーター・ウィムジー卿は二、三回ゆっくり頭をふり、溜息まじりに何かつぶやいた。
「その後三カ月ほどは、この二人には特に変ったことも起こらぬようでした」判事が言った。「ただ、ハリエット・ヴェーンがマリオットさんの家を出て、ドーティ街に小さな部屋を借りたこと、一方フィリップ・ボイスは淋しい生活にすっかり腐りきって、従兄のノーマン・アークハート氏の招きに応じて、ウォーバーン街のその家に身をよせたということぐらいであります。こうしてロンドンの同じ区に住みながら、別れたボイスと被告とはあまり会う機会はなかったようでした。一、二度、友人の家で偶然に会ったことはあります。公式のパーティではなかったので、その日づけは正確には分りませんが、三月末に一度、それから四月の第二週と、三度目は五月の何日かであると思われる証拠があります。これらのめぐり会いは、正確な日づけがない以上は、全く意味のない、あまり重視することはできない事実でありましょう。
ところが、ここに非常に重大な事実の日づけが出ておるのであります。四月の十日に、ハリエット・ヴェーンと思われる若い女性がサウスハンプトン街のブラウン氏の薬局に入って、鼠獲りに必要だと称して二オンスの工業用砒素を購入しているのであります。その婦人は毒薬購入簿にマリー・スレーターと署名致しましたが、その筆蹟は被告のものと鑑定されました。被告自身もある必要があって、それを購入したことを認めております。なぜ必要であったかということは、諸賢がこれを全然看過されてしまわない限り、ここでは大して重要なことではありませんが、ハリエット・ヴェーンの住んでいた家の管理人が出廷して、その家には鼠は全然いなかったし、彼女が住んでいた期間中、鼠は出たためしがなかったと証言しております。
五月五日にも、また砒素購入の事実があります。被告の言うところによると、今度はキドウェリー毒殺事件に出てきたのと同じ商標の砒素除草薬を一カン購入したのであります。そのときはエディス・ウェイタースの名を使いました。彼女の住んでいた部屋には庭はついておりませんし、その家の中にも除草薬を使えそうなところは全くないのであります。
三月半ばから五月上旬にかけて、この他にも被告は他の毒薬、たとえば写真に使うと称して青酸カリを購入したり、ストリキニーネを買ったりしております。成功しませんでしたが、同じようにしてアコニチン〔トリカブトからとった毒薬〕を手に入れようとも致しました。それぞれ違う薬局へ行って違う名前を使っていたのであります。本件に直接関係のある毒薬は砒素だけでありますが、他の毒薬を購入した事実も被告の当時の行動を明らかにするのに何らかの意味を有するものであります。
諸賢は当然正当な評価しか与えられないでありましょうが、被告は毒薬購入について説明を致しております。当時被告は毒殺に関係のある小説を書いていたので、恐ろしい毒薬が一般人にもいかに簡単に手に入るか実際に試して証明するために毒薬を買ったのだと申しております。このことを証明するために出版者のトルフート氏はその本の原稿を提出致しております。すでに陪審諸賢のお手許にありますから、もし宜しかったらこの総括弁論の後で控え室でもう一度ご覧下さい。その本の題材が砒素による殺人であり、若い女性が薬局に行ってかなりの量のこの恐ろしい毒物を買う描写があるくだりもすでに本法廷で読み上げられております。ここで、本官が一言申し上げておかねばならないのは、ブラウン氏から購入した砒素が、砂糖や他の無害なものと誤られないように、法で定めるところに従い、墨かインジゴで色づけされた、工業用の砒素であったということであります」
サルコム・ハーディがうなった。「工業用砒素についてのこのたわ言を、いつまで聞かせるつもりだ。そんなことは、人殺しならおふくろに抱かれてるころから知ってらあ」
「とくにここでお願いしたいのは、この日づけを覚えておいていただきたいことです。もう一度申します。四月十日と五月五日です」
陪審員たちはそれを書きとめた。ピーター・ウィムジー卿はつぶやいた。「彼らは皆、『彼女自身、そんなつもりが少しでもあると思ってない』と書きとめてるさ」フレディが「何だって?」と訊ねた。判事はノートの頁をくって次の弁論につづいた。
「その頃、フィリップ・ボイスは、終生しばしば悩まされた胃病の再発に苦しむようになったのであります。彼の大学時代にそんなことから彼の医療をしたグリーン博士の証言が読まれております。この証言はかなり前のものでありますが、一九二五年にもウエアー博士が同様な発作に対して処方を与えております。重症というわけではありませんが、苦痛と衰弱に吐き気などをともない、四肢まで痛むのであります。しばしばこの発作で悩む人はかなりおります。ところで、ここに意味深長な日づけの偶然の一致があるのです。彼の発作は、ウエアー博士のカルテに記載されたところによると、三月三十一日に一度、四月十五日に一度、そして五月十二日に一度となっております。諸賢もお気づきになられたであろう通り、三つの偶然の一致があります。ハリエット・ヴェーンとフィリップ・ボイスが三月の末に会って、彼が三月三十一日に胃痛の発作を起こしたこと、四月十日にハリエット・ヴェーンが砒素二オンスを購入し、四月の第二週に二人は会い、四月十五日に彼はまた発作に襲われたということ、五月五日に除草薬を買い、五月の何日かに二人が出会って、五月十二日に彼が三度目の発作に襲われたこと。これは大変奇妙な偶然の一致だとお考えになれましょうが、しかしながら諸賢は、検事局では三月に彼に会う前に被告が砒素を購入したという証明ができないということを忘れてはなりません。以上を考えるに当っては、この点は心にとめておいていただかなければなりません。
五月に起こった三度目の発作の後で、医師はボイスに転地をすすめ、彼はウェールズの北西地方を選びました。彼はハーレッチへ行き、そこで快適に時を送って、かなり元気になったのであります。しかし、彼と同行した友人で、諸賢もこの法廷でご覧になったレイランド・ヴォーガン氏は、『フィリップはつまらなそうだった』と言っております。事実、ヴォーガン氏は、彼がまだハリエット・ヴェーンのことで悩んでいたらしいという意見を述べられました。体はよくなりましたが、気分的には沈みこんでいったようであります。こうして、彼が六月十六日にヴェーン嬢にあてて書いた手紙があるわけなのであります。さて、この手紙は重大な意味のあるものですので、今一度、ここで読み上げて見ましょう。
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親愛なるハリエット様
生活は滅茶々々だ。もうこんなところに辛抱していられない。ここをとび出して西の方に旅をすることにした。でも、行く前にもう一度君に会って、元のとおりにすべてをうまくなおすことができないかどうか見てみたい。もちろん、君は思う通りにやっていいが、でも、僕にはまだ、君がどんなつもりなのか分らないんだ。もし、今度も君に本当のところを理解してもらえなかったら、今度こそいさぎよく永久にあきらめよう。二十日にはロンドンに帰る。いつ行ったらいいか知らせて下さい。敬具
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さて、お聞きの通り、大変曖昧な手紙であります。インペイ・ビッグズ卿が力説されたところによりますと、この『とび出して西の方に旅をする』とか『こんなところに辛抱していられない』とか、また『永久にあきらめる』などの言葉から、発信者が被告との和解がうまく行かなかった場合、自ら姿を消そうと思うことを暗示しているというのであります。卿は『西方に旅をする』という言葉はよく死ぬという意味に使われる比喩であると指摘しておられますが、これはもちろん諸賢も納得されることでありましょう。しかしながら、アークハート氏は検事総長のこのことに関しての調査で、この手紙に言ってあることは、彼自身が故人にほのめかした、気分を変えるために大西洋をこえてバルバトス諸島まで旅をしたらどうかという計画のことであろうと言っております。さらに学識経験ある検事総長は、この手紙のもう一つの点、『こんなところにこれ以上辛抱していられない』というところで、筆者はこんなところをイギリスとか、あるいは単にハーレッチのことと考えて、もしこの句が自殺のことを言っているのならば、ただ『もう辛抱できない』としか書かないだろうと解釈しております。
この点につきましては、諸賢もすでにご自身の見解を持たれたことと存じます。故人が二十日に会いたい旨を申し送っていることも重要なことであります。この手紙に対する返事はここにあります。こう書いてあります。
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親愛なるフィリップさま
よろしかったら、二十日の九時半にお越し下さい。でも、私の気持を変えることはできないでしょう。
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これにはただHとしか署名してありません。大変冷たい手紙で、ほとんど敵意に近い調子が読みとれましょう。それでも、九時半という約束は成立しました。
さて、諸賢に注意を払っていただかねばならぬのもそう長いことではありませんが、ここで特に注意していただくようにお願い致します。これまでも、諸賢はこの上ない忍耐と熱意をもって話を聞いてこられましたが、ここで弁論は実際に死者が生じたその日のことになるからであります」
老判事はノートの束の上で、片手を上にして手を組み、体を少し前にかがめた。つい三日前までは、彼は何も知らなかったのに、今では事件はすべて彼の手の中にあるのだった。彼はまだ赤ん坊じみた老年のもうろくには至ってなかった。しっかりと現実を把握していた。爪の灰白色になったしわだらけの手で書類を机上で伸ばしながら彼はつづけた。
「フィリップ・ボイスとヴォーガン氏は十九日の夜、一緒にロンドンに帰りました。そのときのボイスの健康が最上の状態であったことは疑いないようであります。ボイスはその夜はヴォーガン氏と一緒にすごし、ベーコン・エッグとトースト、マーマレード、コーヒーという普通の朝食を一緒にとりました。十一時に、彼は広告によると体によいそうだと言いながら、ギネスの黒ビールを飲んでおります。一時にはクラブの量の多いランチを平らげて、午後にはヴォーガン氏や他の友人たちと何セットかのテニスをやりました。テニスの間に、仲間の一人が、ハーレッチはボイスの体によかったのだろうと言うと、彼は何カ月ぶりかの快適な調子だと答えております。
七時半に、彼は従兄のノーマン・アークハート氏と夕食をとりに行きました。アークハート氏にも、食卓に侍っていた女中にも、変った素ぶりや様子は全く気がつかなかったそうであります。夕食は八時ちょうどにはじまりました。この時間はまだ書きとめてなかったら、お書きになっておいた方がよいと思います。それに食べたり飲んだりしたもののリストも同様です。
従兄弟どうしは二人きりで食事をしました。まずめいめいがシェリーのグラスをとったのであります。酒はオレローゾの一八四七年という逸物で、女中が新しいビンからデカンタに分けて来たものを、二人が席についてからグラスに注いだのであります。アークハート氏は食事の間中、女中をはべらせておくという大げさな旧式な方法をとっておりましたので、この夜の食事の間は二人の証人を得られたという利点に恵まれたわけであります。女中のハンナ・ウェストロックは証人席で諸賢もご覧になっておりますが、彼女が気の利いたよく目のとどく証人であるという印象は諸賢も受けられたと存じます。
さて、シェリーがでて、次はサイドボードの蓋物からハンナ・ウェストロックが冷たいヴィヨンを給仕致しました。大変濃くて上等のスープを澄んだジェリーにしたものであります。二人はいくらか口をつけ、食事の後でそのヴィヨンはコックとウェストロックが台所で食べてしまいました。
スープの後はソースをかけた|かれい《ヽヽヽ》の切身が出ました。サイドボードの上で一部分だけ切りとられ、ソース壺がめいめいに順次手渡されて、終ると、その皿も台所で片づけられるようにと下げられてしまいました。
次にはプーレ・タン・キャセロール、すなわち、鶏のぶつ切りを野菜と一緒に、天火でゆっくり煮たものが出ました。二人はやはりそれに手をつけ、残りは女中たちが片づけたのであります。
最後の料理は甘いオムレツで、テーブルの上の卓上こんろでフィリップ・ボイスが自ら作ったものであります。アークハート氏も彼の従弟も、オムレツの焼き加減はとてもやかましいのでありまして、これは大変結構な習慣であります。オムレツはこういう風に作って、焼きすぎて硬くならぬようにした方がよいでしょう。殻のままの玉子が四個テーブルの上に持って来てありましたが、アークハート氏はそれを一つずつ割ってボールに入れ、砂糖を篩《ふる》いながら加えました。そして彼は、ボールをボイス氏に渡しながら言いました。『君は本当のオムレツ作りの名人だから、君にやってもらおう』そこで、フィリップ・ボイスは玉子と砂糖をかきまぜ、卓上こんろで焼き、ハンナ・ウェストロックの持って来た熱いジャムをはさみ、二つに切り分けて、一つをアークハート氏に、残りを自分でとったのであります。
以上のことを気をつけて見てまいりますと、これらの食物のすべてについてご注意願いたいことがあります。すなわち、夕食に出されたものはすべて、少なくとも二人、多いものでは四人の人によって食べられているのであります。台所へ下げられて行かなかった唯一の料理であるオムレツも、フィリップ・ボイスが自ら作り、しかも従兄と分け合って食べているのであります。アークハート氏もウェストロック嬢も、コックのペティカン夫人も、その食物を食べることによって何らの異変も感じておりません。
その夜の食事に出たもので、フィリップ・ボイス一人しか口にしていないものをここに上げておかねばなりません。それはブルゴーニュ・ワインであります。すばらしいコートンの古酒で元のビンのままテーブルに持って来てありました。アークハート氏自らコルクを抜き、医師に食事のとき酒を飲むなといわれているから自分は飲まないと言って、そのままフィリップ・ボイスに渡したのであります。ボイスはグラスに二杯飲んで、ビンの残りは幸いなことにそのまま残されておりました。すでにお聞きのとおり、その酒は後に分析したところによると全く無害だったのであります。
こうしているうちに九時になりました。食後コーヒーが出たのでありますが、ボイスはトルコ風のコーヒーはあまり好きでないし、それにハリエット・ヴェーンのところでコーヒーを出されるだろうと言ってことわったのであります。九時十五分にボイスはウォーバーン区のアークハート氏の家を出て、そこから半マイルばかりの、ドーティ街百番地にあるヴェーン嬢の住んでいる家までタクシーに乗って行ったのであります。九時二十五分すぎに彼が被告の家の戸口に立って、ベルを鳴らしたということは、ハリエット・ヴェーン自身と、彼女の家の一階に住んでいるブライト夫人、ちょうどその時その街を通っていた巡査(バッジD一二三四番)の証言から確かめられております。彼女は彼をみとめて、すぐに中に招き入れました。
ところで、この会見の内容は当然のことながら二人の間の私的なものなので、そこまでさぐることは、被告に聞くより他に方法はないのであります。被告の話によると、彼が入って来てすぐ『ガスこんろの上で支度できていたコーヒー』を出したそうであります。ところで、学識ある検事総長はこの言葉を聞くとすぐに、コーヒーは何に沸いていたかと訊ねました。被告は明らかに質問の意味がよくつかめなかったらしく、『こんろの端で温めてありました』と答えております。この質問がもう一度はっきり繰り返されると、彼女は、コーヒーがソースパンで、こんろの上にかけてあったと説明したのであります。そこで、検事総長は警察で彼女がその前に供述した『彼が来たときには一杯のコーヒーを入れて用意してあった』という言葉を引いて、被告の注意をうながしたのであります。このことの重大さはすぐにお分りになると存じます。故人が到着する前にコーヒーがすでに別々に茶わんに注ぎ分けてあったとすれば、その中の一つの茶わんにあらかじめ毒を入れる機会はいくらでもある訳ですし、用意したそのコーヒーをフィリップ・ボイスに進めることもできます。しかし、もし故人の面前でソースパンからコーヒーを注いだのでしたら、たとえボイスがちょっと他に気をとられている間に、たやすく毒を入れることができたと致しましても、その機会はむしろ少なくなりましょう。被告は彼女の供述の『一杯のコーヒー』ということは、『一人前の量のコーヒー』を意味するにすぎないと説明しております。陪審員諸賢にはこのいいまわしが正常であるか否か、判断がつくことと存じます。故人は彼女の言うところによるとミルクも砂糖も入れずにコーヒーを飲んだそうであります。アークハート氏とヴォーガン氏の証言により、彼はいつも食後のコーヒーはブラックで甘くせずに飲む習慣だったということはお聞きのとおりであります。
被告の証言によりますと、この会見は満足すべきものではなかったのであります。お互いに非難しあって、十時かそこらに故人は帰ると言いだしたのであります。彼はそわそわとしていたし、彼女の態度でひどく辛い思いをしたせいも加わって、あまり元気のない様子をしていたと被告は申しております。
十時十分すぎに、この時刻は気をつけて記録しておいていただきたいのですが、ギルフォード街に客待ちしていたバークというタクシーの運転手が、フィリップ・ボイスが来てウォーバーン区までやってくれと命じられたといっております。ボイスはあわてたぶっきら棒な調子でそう言ったそうで、心か体かに苦しみを持っている人間のようだったと彼は申しております。アークハート氏の家についてもボイスは車から下りないので、バークはどうしたのかとドアを開けて見たそうであります。故人は隅にかがみこんで、片手で胃のあたりを押さえ、青い顔には汗を一ぱいかいていたそうであります。運転手が病気ですかと聞くと、故人は『ああ、畜生』と答えました。バークは彼を助け降し、戸口で片手で彼を支えながらベルを鳴らしました。ハンナ・ウェストロックが扉を開けました。フィリップ・ボイスは歩けそうもなく、体を二つに折って、うなりながら玄関の椅子に坐りこみ、ブランデーを持って来てくれと頼んだのであります。彼女が食堂から強いブランデー・ソーダを持って来て、彼はそれを飲むと、どうやらポケットからタクシーの金を出して払えるくらい元気をとりもどしたのであります。
しかし、彼はそれでもかなり工合が悪いようなので、ハンナ・ウェストロックは書斎からアークハート氏を呼んで来ました。彼はボイスに、『おう、どうしたんだい?』と訊ねると、『全く分らん。ひどい苦しみだ。まさかチキンのせいじゃないだろうが』アークハート氏が別に悪いところもなかったようだから、そんなことはないだろうと言うと、ボイスはそうだろう、これはいつもの発作らしいんだが、それにしても、こんなひどいのははじめてだからと答えたのであります。二階のベッドに運ばれ、手近で来てもらえる医師のグレインジャー博士を電話で呼びました。
医師が来る前に、彼は激しく嘔吐をし、それからいつまでも吐きつづけました。グレインジャー博士は急性胃炎と診断しました。高熱があり、脈が早く、下腹部は抑えると激しく痛むようでありましたが、盲腸炎や腹膜炎の徴候は見出せませんでした。博士はそこで、医院に帰って、吐き気を押さえる薬、重炭酸カリ、オレンジチンキ、クロロフォルムをまぜた薬を作りました。他の薬は与えてはおりません。
翌日になっても嘔吐はつづいていたので、グレインジャー博士の相談相手に患者の体質をよく知っているウエアー博士を呼んだのであります」
ここで判事は一息ついてちらっと時計をながめた。
「もう時間ですし、薬学的な証拠はまだ沢山出てまいりますので、本法廷は昼食のため休憩したいと存じます」
「ちょうどみんなの食欲がなくなるような、血なまぐさい話のときにね」フレディが言った。「さあ、ウィムジー。行ってメシをつめこんでこよう。え、おい」
ウィムジーはフレディには目もくれず、彼を押しのけて、インペイ・ビッグズ卿が若い弁護士たちと相談している法廷の中心へ進んで行った。
「ちょっと気をもませるが」フレディ・アーバスノット氏は考えこんでつぶやいた。「自分の意見でも聞かせにいったんだろう。何だっておれはこんなバカげた見世物を見に来たのか分らない。退屈で、おまけに被告もそんなに美人でもないし。メシの後で、おれがまた来ると思うなよ」
彼は人ごみをかきわけて外へ出たが、デンヴァ公爵未亡人にばったり出会った。
「一緒に食事をなさいませんか」フレディが望みを抱いて言った。彼は公爵未亡人が好きなのであった。
「ええ、ありがとう。でも、私ピーターを待ってますのよ。本当に面白い事件だし、面白い人たちだとお思いになりません? でも、陪審員たちはみんな豚のお尻みたいな顔をしていましたけど、どんな判決を下すもんでしょうねえ。ただ、派手なネクタイとあごひげさえなかったらキリストそっくりな芸術家が一人いましたわね。もちろん本当のキリストじゃなくて、イタリアでよく見かける。ピンクの上衣に青いものをかぶった。それから、ピーターのクリンプスンさんも陪審員の中にいたわね。あの方はお昼は一体どうするのかしら?」
「彼がどこかこの辺の家へつれていくでしょう」フレディが言った。「タイプ印書事務所を経営して店の上がりで食べているくせに、こんなおかしな場所にまで出てきて彼のために道徳奉仕するんですよ。おかしな人でしょう。九十年代の雑誌から出て来たような女ですが、彼の仕事には打ってつけのようですね」
「本当に、結構なことだわ。あの子も、怪しげな広告に手紙を出しては、いろんな人と会って。全く勇ましいことよ。中には怖ろしいごまかしのうまい人間や、自動拳銃とか兇器なんかをポケットに隠してるような人殺し連中もいるんですものね。まるでランドルー事件〔フランスの大量殺人事件〕の骨のいっぱい入ったオーヴンみたいだわ。ランドルーって頭がきれたのね。あの事件の女たちは、みんな殺されそうな顔つきだったって誰かが言っていたけど、本当にそんな感じね。もちろん、本当はそうではなくて、写真が気の毒にもちゃんと写らなかったせいかも知れませんけどね」
伯爵夫人の話し方はいつもよりもとりとめがない、とフレディは考えた。話しながら、彼女の目はいつもの彼女には似げなく不安そうに息子をさがしている。
「ウィムジー君が早く帰ってくればいいですね」単なる親切心から彼はこう言った。「彼がどんなにこういう事には熱心になるか、驚くべきもんですよ。陽気な老軍馬がTNT爆薬の匂いをかいでいななくみたいに、夢中になってとびまわって家へ帰る時間を忘れてしまうんだから。目をつけたら、もう離しませんからね」
「それで、これはパーカー警視正の担当事件でしょ? あの子はパーカーさんとは仲よしでねえ。ご存じのとおり、ダビデとバテシバ、あら、ダニエルだったかしら……とにかく、そういう仲なんですよ」
話がこんがらがってきた。ちょうどそのときに、ウィムジーがやって来て、母の腕をやさしくとった。
「お母さん、お待たせしてご免なさい。ちょっとビッギーに話があったものですから。やつもひどい目に合ってますよ。とにかく、老ジェフレー判事はシジュウカラみたいにしゃべりまくりましたからね、僕は家に帰って本を焼かなくては。毒薬のことをあんまり知りすぎてると危ないですよ。そうでしょう? 雪のごとく浄く、氷のごとく清かれ、さもなくば汝はオールド・ベイリー〔ロンドン中央刑事裁判所〕より逃るるを得ざればなり」
「あの女は本当に毒薬をのませようとしたんではないかね?」フレディが言った。
「君も陪審員になるべきだったな」ウィムジーが珍しくとげを含んだ口調で答えた。「僕は今やつらが言ってることが分るつもりだ。陪審団長が禁酒主義者とだって断言できるよ。僕は陪審室にジンジャー・ビール〔アルコール分なし〕が運びこまれたのを見たんだからね。いっそのこと、ビールがあいつの体の中で爆発して、脳天が吹っとんでしまえばいいんだ」
「分った、分った」アーバスノット氏がなだめるように答えた。「今、君は飲みたいだけだよ」
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第二章
座席の奪いあいが収まり、陪審員も席についた。ビックリ箱の首のように、被告が唐突に被告席に現れる。判事が再び席についた。バラの花びらがいくつか散っていた。老判事の声が、先刻の話のつづきをつづけた。
「陪審員諸君、ここでフィリップ・ボイスの病状をつぶさに繰り返す必要はないと存じます。六月二十一日に看護婦がつけられ、その日のうちに医師が三回往診しております。患者の容態は刻々悪化しました。執拗な吐き気と下痢があり、食物も薬も全くうけつけなかったのであります。翌二十二日には、容態はさらに悪化し、激しい苦痛を伴い、脈搏は弱まり、口のまわりの皮膚がかさかさになってむけてきました。何ともすることができなかったのであります。父親が呼び寄せられましたが、父のついたとき、彼は意識はあっても、起き上がることもできません。しかし、口を利くことはできました。父とウィリアムズ看護婦の前で『もうだめだ、お父さん、でも平気で死ねるよ。ハリエットは僕がいなくなって清々するだろう。こんなに僕のことを嫌っているとは思わなかった』と言ったのであります。さて、これは大変重大な言葉でありまして、われわれはこの言葉に二様の全く異なる解釈を当てはめることができます。彼がどちらのつもりであったかは、諸賢のお考えによるものであります。『彼女は僕を追い払うのに成功した。しかし、彼女が僕に毒を盛るほど嫌っていたとは知らなかった』という意味か、『彼女があんなに僕のことを憎んでいるのが分ったので、もうこれ以上生きていたいとは思わなくなった』という意味かの、おそらくどちらかが彼の意味するところであったでしょう。人間が重態になると、幻想的な考えにとらわれたり、時には気が変になることすらありますから、この言葉をあまり重視してしまうことは適当でないと考えるかもしれません。しかし、この言葉も証拠の一つであり、諸賢は一応考えの中に入れておかねばならないことなのであります。
その夜のうちに彼は徐々に弱り、意識を失い、そのまま、暁方の三時に死亡致しました。これが六月の二十三日であります。
ところで、この時まで全く疑惑は起こっていなかった。グレインジャー博士もウエアー博士も死因は急性胃炎と診断しましたが、この診断に対し二人を責める必要はありますまい。症状は全くそれに一致しておりましたし、彼のそれまでの病歴から見ても止むをえないことでありましょう。死亡証明書は普通に出され、二十八日に葬儀が行われたのであります。
そこで、こういう場合によく起こるようなことが起こったのであります。それは誰かが何か言いだすのであります。この場合話しだしたのはウィリアムズ看護婦でありました。看護婦がこういうことを言いだすのは、大変軽率なことでありますが、こうなってみると、彼女がおしゃべりしたことは大変役に立ったわけであります。もちろん、彼女はその場で疑惑をウエアー博士かグレインジャー博士に話すべきではありましたが、医師の意見では、彼女がそのとき言い出して、医師たちが病因を砒素によるものと気がついたとしても、この不幸な男の生命を助けるためには何もできなかったろうというので、われわれもほっとした次第であります。それはとにかく、ウィリアムズ看護婦は六月の最後の週にウエアー博士の他の患者の看護に派遣されました。その患者が、たまたまフィリップ・ボイスやハリエット・ヴェーンたちと同じブルームズベリの文壇に属していたのであります。彼女はそこでフィリップ・ボイスのことを話し、病状が毒を飲まされたようだったと語り、砒素らしいとまで言ったのであります。さて、こういうことがどういう風に拡がるかは諸賢もご存じのことであります。次から次へと噂は伝わり、お茶の集まりや、カクテル・パーティなどでも話題にされ、たちまちのうちに話は拡がって、人々は中傷したり肩を持ったりするようになるものであります。マリオットさんもプライスさんもその話を聞き、噂はヴォーガン氏の耳にも達しました。さて、ヴォーガン氏にしてみれば、フィリップ・ボイスとはウェールズで一緒に暮らして、その健康も大分回復していたのを知っているだけに、彼の死をひどく悲しみ、また驚きもしていたのでありますが、同時にハリエット・ヴェーンが恋愛問題に関して彼にひどい仕打ちをしたことも、強く感じていたのであります。ヴォーガン氏はこういうことに対して、何か手を打たなければいけないと思い、アークハート氏のところへ行って話しました。ところでアークハート氏は弁護士であり、従って噂や臆説というようなものに対しては慎重にかまえる傾向がありますので、彼はヴォーガン氏に、誹謗で告訴されるおそれもあるから、めったなことは言わないほうがよい、と警告したのであります。同時に彼は、自分の一族の者にそんな噂を立てられたら、当然落ちついていられない気がしたのであります。彼は大変賢明な方法、すなわち、ウエアー博士と相談して、もし博士が死因を胃炎であって他の何物でもないという完全な確信があるなら、ウィリアムズ看護婦を叱ってもらって、噂の元を封じるべきだと考えました。ウエアー博士は当然のことでありますが、この話を聞いてひどく驚き、あわてたのであります。しかし、彼の申し出での後の方に対しては、徴候だけしか見てないので、噂を否定することはできなかったのであります。毒殺というような可能性はほとんどなかったし、しかも、薬学的な証言で諸賢もお聞きの通り、砒素中毒と急性胃炎と症状は全く区別できないものなのであります。
こういう話を聞いて、ヴォーガン氏は疑惑を抱いて、フィリップ・ボイスの父に調査しようかと書き送りました。老ボイス氏はこの手紙を見て驚いて、すぐに事件をとり上げるようにと言って来たのであります。彼はハリエット・ヴェーンとの関係を知っており、彼女がフィリップ・ボイスの見舞いにも来なければ葬儀にも出なかったのを知り、冷酷な女だと腹を立てていたのでありました。ついに警察に連絡され、死体発掘命令が出されたのであります。
ジェームズ・ルボック卿とスティーヴン・フォーダイス氏による解剖の結果はすでにお聞きの通りであります。分析の方法とか砒素が体内でどう作用するかその仕方などに関し、多大の報告がなされましたが、細部に関してあまり気を使う必要はないと存じます。証拠の中で重要な点と私に思われますのは、以下のことですが、必要とお認めならノートして下さい。
検屍官たちは体の中の特定の器管を取上げました。胃、腸、腎臓、肝臓などであり、それぞれの一部を分析して、すべてが砒素を含んでいることを発見致しました。こうした各部で見出された砒素の量を計ることができましたので、検屍官たちはそれを基に、体全体にあった砒素の量を推測しました。ここで、嘔吐や下痢、それに腎臓によって排泄された砒素がかなりあったことも考えなければなりません。腎臓はこういう特殊な毒物の排泄を受け持つものだからであります。以上のようなことも考慮に入れ、故人が死ぬ三日ばかり前に、多量で致死確実な量の砒素――おそらく四ないし五グレイン――を摂取しているという結論が出たのであります。
諸賢がこれに関する技術的な弁論に完全についてゆけたか否かは存じませんが、本官の解するかぎりの、このうちの主要な点を申して見ようと存じます。砒素の性質として、体内を非常に早く通る、ことに食餌と一緒に摂られた場合あるいは食後直ちに摂られた場合にそうなるということがあります。何となれば砒素は内臓の内面をただらせて、排泄作用を早めるからであります。この作用は砒素が液体として摂られた場合は、粉末としての場合よりも一段と早められるでありましょう。砒素の混入していたもの、あるいは砒素を上に塗った食物でも、中毒症状が現れて二十四時間以内にはすべて排泄されてしまうのであります。これでお分りのことと存じますが、体内に残されていた実際の量はごく僅かだと思われますが、三日間の執拗な嘔吐と下痢その他の後のことですから、多量の毒が摂取されたということになるのであります。
さて、この中毒の徴候がはじまった時間については、いろいろな議論がでました。弁護側からはフィリップ・ボイスはハリエット・ヴェーンのアパートを辞去してギルフォード街でタクシーを呼ぶまでの間に砒素を自分で飲んだのではないかという意見も出ております。また、中毒症状は多くの場合、砒素を飲んでからすぐにはじまるということを示す書物も数冊提出されており、砒素を液状で摂った場合、早いときには十五分で現れるという例があったと思います。ところで、被告の証言によりますと、この場合他の証言はないのですが、フィリップ・ボイスは十時に彼女と別れ、十時十分にはギルフォード街におりました。そのときはもう彼は異変を示していたのであります。夜のその時間では、ウォーバーン区まで大して時間のかかるはずはありません。ところが、彼はそこにつくと、すでに激しい苦痛で立つこともできない有様だったのであります。さて、ギルフォード街からドーティ街までは非常に近く、歩いても三分くらいの距離ですから、お考えになって下さい、もし被告の言葉が正しいとすれば、彼はこの十分間、何をしていたのでしょう。彼はどこか静かなところをさがして、砒素を一服飲んだのでしょうか? そうだとすれば、彼は被告との話し合いがうまくゆかないのを予測して、砒素を用意していたに違いありません。ところで、ここで一言注意しておきたいのは、弁護側ではフィリップ・ボイスが砒素を買ったことがあるとか、砒素を手に入れる機会があったというような証拠を一つも上げておりません。これは、故人が砒素を手に入れることができなかったと言っている訳ではありません。ハリエット・ヴェーンが実験して見せているように、毒薬の販売を管理する法律は、毒薬を欲しがる人間に対してはあまり効果がないことは証明されております。しかし、弁護側が故人が砒素を持っていたことがあるという事実を証明することはできないのであります。一方、この問題につきましては、もうひとつ不思議なことを申しそえておかねばなりません。死体解剖によりますと、検屍官たちは市販の砒素には必ず混入されている炭素、あるいはインジゴの痕跡を認めておらないのであります。被告が購入したにしろ、故人が買ったものにしろ着色剤の痕跡は当然出てくるはずのものなのであります。しかし、こういう痕跡も嘔吐や下痢によって体から流し去られたとお考えになることもできましょう。
自殺という意見に対しては、諸賢はこの、問題の十分間というものを考えなければなりません。ボイスはこの間に砒素を飲んだのでしょうか、それとも、こうも考えられます。彼は工合が悪いと感じたので、どこかに坐って癒るのを待ったのか、あるいはまた、むしゃくしゃして憂うつになったときによくやるように、ただぼんやりと歩きまわっていたとも考えられましょう。あるいはまた、被告が彼の帰った時間を間違えて申し立てているのか、本当のことを言わないのか、とも考えられるのであります。
ボイスが被告のところから帰るときに、気分が悪いと言ったという被告の証言もお聞きになった通りであります。もし、これが砒素の作用の何かであったと考えられるなら、彼がアパートを出てから毒を飲んだという疑いは当然消えてしまうのであります。
さて、ここまで見て来ると、中毒徴候のはじまったときは、全くあいまいのままなのに気がつかれるでありましょう。いろいろな医師たちが出廷して経験について語り、医学的諸権威の著書が引用されましたが、諸賢は恐らく中毒徴候がいつ現れたと考えてよいか確実な根拠がないのに気がつかれたはずであります。十五分か三十分ではじまるときもあれば、二時間、時には五、六時間ということもあり、ある場合などは実に毒を飲んでから七時間の後にはじまったという例もあったと思います」
ここで検事総長が礼儀正しく立ち上がって、言った。「その場合は、本官の記憶によりますれば、空の胃に毒物が摂られたのだと存じます」
「ご意見ありがとうございました。それは空の胃に毒を飲んだ場合でありました。本官はただこういう例を上げて、われわれが非常に不確定な現象を取扱っているということを示したかったのであります。しかもそれは、特にこの場合、フィリップ・ボイスがその日、六月の二十日には食事を摂っていたということを思い起こしていただきたいためであります。何とならば、これは常に考えに入れておかねばならないことだからであります」
「畜生め、全く畜生だ」ピーター・ウィムジー卿がつぶやいた。
「本官は解剖の結果出て来たもう一つの事がらを、只今まで故意に看過しておりました。すなわち、死者の毛髪にも砒素があったということであります。故人は捲き毛で、かなり髪を長く伸ばしており、前の方は伸ばした場合六、七インチの長さがあったのであります。ところで、この髪の、頭の地に近い端に砒素が見出されたのであります。これは長い髪の尖端までではなく、根元近くだけに見出されたもので、ジェームズ・ルボック卿も通常の髪に含まれている量よりはるかに多いと証言しております。普通の人でも毛髪や皮膚その他にわずかな砒素を含んでいる例が見出されますが、これほどの量は例がないのであります。これがジェームズ卿の意見であります。
ところで諸賢も聞かれた通り、そして医学上の証人も一致して同意致しましたごとく、人が砒素を飲んだ場合、その一部は皮膚や爪、毛髪にたまるものであります。毛根にもそれはたまっておりますでしょうし、毛が伸びれば、砒素も毛髪の生長に従って先へと運ばれるでありましょう。従って、毛髪中における砒素の位置によって、砒素の作用がどの位つづいていたか、ごく大ざっぱに考えることができるわけであります。これに関しては多くの議論が行われましたが、公平に見て一般的に一致する見解として、もし砒素を飲んだ場合約十週間後まで、その痕跡が頭皮に接した毛髪の中に認められるということであります。毛髪は年に六インチ程の比率で伸びます。砒素もそれに伴って先へ行って切り落されるわけであります。同じようなことがパーマネント・ウェーヴというものの場合にも言えますので、陪審員の中のご女性にはこれはよく理解されることと存じます。ウェーヴを毛髪のある位置につけますと、時がたつにつれてそれは先へ行って、頭皮に近い部分の毛は真っすぐになり、またウェーヴをかけなければならなくなるのであります。ウェーヴの位置によって、ウェーヴをかけた時がどのくらい前だったか言えるのであります。同様にして、爪を傷めた場合、変色した部分は徐々に伸びて先へ行き、やがては爪先で鋏《はさみ》で切り落せるところに至るのであります。
さて、フィリップ・ボイスの毛根の中やそのあたりに砒素があったということは、彼が死ぬ少なくとも三カ月前に砒素を飲んでいると言えるわけであります。このことの重要性は、被告が四月と五月に砒素を購入し、故人が三月、四月、五月と病の発作に襲われたことを考え合わせるとお分りになると存じます。被告との仲たがいは二月にはじまり、三月に病気になり六月に亡くなったのであります。喧嘩と死の間に五カ月あり、最初の病気と死の間に四カ月あったのであります。諸賢はおそらくこの日づけの、ある一致に気がつかれることと存じます。
ここで、警察による調査に移りましょう。嫌疑がかかって、刑事がハリエット・ヴェーンの動静をさぐり、その結果、彼女のアパートへ行って調書をとりました。ボイスが砒素中毒で死んだことが分ったと聞くと、彼女はひどく驚いた風で、『砒素? 何て妙なものを』と言ったのであります。ついで彼女は笑って、『だって、私はいま砒素による毒殺ばかりの本を書いてるんですもの』と言っております。刑事たちが砒素やその他彼女が使った毒薬の購入について訊ねますと、彼女は全くすらすらとそれを認め、即座に法廷で答えたのと同じ説明を加えたのであります。その毒薬をどうしたかと訊ねますと、彼女は持っていると危ないものだから燃やしたと答えました。アパートを捜査致しましたが、毒薬は全くなく、出てきたのはアスピリンとかそんなような普通の薬がいくらかあっただけでありました。彼女はあくまで砒素やその他の毒物をフィリップ・ボイスに飲ませたことは否定致しました。ひょっとした偶然から砒素がコーヒーの中に入ったことは考えられないかという訊問にも、彼女は毒物は全部五月末までに焼いてしまったから、そんなことは不可能だと答えたのであります」
ここでインペイ・ビッグズ卿が口を挾んだ。彼は謙遜した様子で、判事殿が陪審員にシャローナ氏の証言を思い出すようにつけ加えて戴きたいと願った。
「もちろんです、インペイ卿。ありがとうございました。シャローナ氏がハリエット・ヴェーンの著作権代理人であることはご承知のことであります。彼は本法廷に出廷して、かなり前、去年の十二月ごろ、次の本の主題について被告と話し合い、そのとき彼女が次の本は毒薬、とくに砒素によるものにすると言ったという証言をしております。ここで諸賢は、被告のために、彼女がフィリップ・ボイスと仲違いをするより以前に、すでに砒素の購入法や作用を研究しようと考えていたという事実を認めることもできるわけであります。確かに彼女はこの主題にはかなりの勉強をしておりまして、たとえば彼女の本棚には、法医学や毒物学に関する本がかなりあり、また、有名な毒殺事件の裁判記録、マデライン・スミス事件や、セドン事件、アームストロング事件などを含む記録、これらはいずれも砒素による毒殺事件なのでありますが、こういう記録も集めてあったのであります。
さて、諸賢の前に提出されましたのは以上のような事件であります。この女性は元の愛人を砒素によって殺したかどで起訴されております。彼は疑いもなく砒素を飲んでおり、もし諸賢が彼女が彼を傷つけまたは殺害する目的で砒素を彼に投じたとすれば、そしてそのために彼が死んだという事実を認められるならば、彼女を殺人の罪に問うのは諸賢の義務であります。
インペイ・ビッグズ卿はすぐれたさわやかな弁論で、彼女には彼を殺す動機があまりないということを諸賢に説かれましたが、もし殺人という罪にふさわしいほどの何らかの動機というものがあるものだといたしましても、本官は殺人というものがしばしば、最もふさわしくないような動機によって行われているということを申しておかなければなりません。ましてや、夫婦の間柄であり、あるいは夫婦のごとく同棲した二人の間におきましては、道徳的に尋常でないような、心の平衡の失われているような人々にとって、激しい犯罪にまでなるような情熱的な感情もありうるでありましょう。
被告はその手段として、砒素を持ち、それに関する優れた知識を持ち、それを投ずる機会も持っていたのであります。弁護側は、これだけでは十分ではないと申されております。検事はさらに被害者が他の理由により、たとえば事故によってとか、自殺の意図によってとかいう条件がありえないことを証明すべきだと弁護側は申し立てておられます。この判断を下されるのは諸賢であります。もし諸賢が、被告が謀ってフィリップ・ボイスに毒を与えたということに対して正当な疑義がありましたら、彼女を殺人事件としては無罪にして下さい。もし、彼女が毒を飲ませたのでないとしたら、どういう風にして毒を飲んだかということに関しては諸賢は何の責任もありません。全体としての情況をよく考えて、どんな結論になったかを言って下さい」
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第三章
「大して長くはかからないよ、きっと」ワフルス・ニュートンが言った。「分りきってるじゃないか。なあ、おい、おれはめしを食いに行くよ。何かあったら知らせてくれ」
「いいとも」サルコム・ハーディが言った。「いつものところへしけこむんだったらな。それから、電話でのむものを持って来させてくれ。おれの口はオウムの籠の底みたいにかさかさだよ」彼は時計を見た。「よっぽど急いでくれないと、六時半の版には間に合うまいな。あの老人は慎重だが、ぐずだからなあ」
「陪審員たちだって、もったいぶって、相談しているようなふりもしていられないよ」ニュートンが言った。「まあ二十分だな。彼らだって煙草を喫いたいだろう。おれも喫いたいからなあ。だから十分前には帰って来るよ」
彼は人を押し分けて出て行った。朝刊のための記事を書いていたカスバート・ローガンはもっと閑があるので、腰を落ちつけて法廷の叙景をものしている。彼は粘り強い生真面目な人間で、法廷にいても他所にいるときと同じように楽しげに書いていた。彼は事件の現場に行くのが好きで、見たところや、声の調子、色の効果などいろいろと書きとめるのがすきなのである。彼の書いたものはいつも面白かったし、時には抜群の素晴らしさをもつこともあった。
フレディ・アーバスノットは結局昼食後も家に帰らなかったが、今度は帰る汐時だと思った。彼がそわそわしだすと、ウィムジーは嫌な顔をして見せた。公爵未亡人はベンチに沿って歩みよって来て、ピーター卿の隣に割りこんだ。インペイ・ビッグズ卿は訴訟依頼人の利益を最後まで守ろうと、検事総長と打ちとけたおしゃべりをするために、弁護士の卵たちを引きつれて姿を消した。被告席には人気はなかった。判事の机の上には赤いバラが淋しく残っていたが、花びらはまだ散りつづけていた。
パーカー警視正が友人たちの群から離れて、人ごみの中をゆっくりとやって来て、公爵未亡人にあいさつをした。
「どう思うね、ピーター」彼はウィムジーに向きなおって言った。「整然と整ってる方だろう?」
「チャールズ、君はまだ僕なしでは一人歩きはできないよ。間違ってるぞ」ウィムジーが言った。
「間違ってるって?」
「彼女はやってない」
「おい、おい……」
「彼女はやってない。論告はとても説得力のある、水ももらさぬものだったが、全然違っているよ」
「本気でそう思ってるのかい?」
「そうだよ」
パーカーは困ったような顔をした。彼はウィムジーの判断を信用していたし、心の中では確信はあったのだが、ぞっとさせられた。
「どこに欠陥がある?」
「一つもない。恐ろしく器用な論告だ。彼女が無実であるということ以外には全然欠陥はない」
「おいおい、君は心理学者か占いにでもなったのかい」パーカーは不安そうに笑って言った。「ねえ奥さん?」
「見かけは立派でも下らない人間はよくいますから、本当に素敵な人が必ずしも興味をもてるという訳ではありませんが、今度の方は興味のもてる本当に非凡な顔立ちのお嬢さんなのだそうで、私もお近づきになっておけたらよかったと存じますわ」公爵未亡人はいつものように、まわりくどい言い方で答えた。「その方の本を一冊読んでおりましたのよ。本当によくできた、文章もうまい作品で、二百ページに行くまで犯人が分りませんでしたね。いつもは大てい十五ページくらいで分ってしまうのに、頭のいい人ですわ。不思議な話ですわねえ、犯罪の本を書いていて、今度は自分が人殺しで訴えられるなんて、人によっては神様の思し召しだと言うかもしれませんわね。彼女は罪を犯さなかったのか、それとも自分で殺人をやったのか、私には分りませんわ。でも彼女自身が探偵をするなんてことは考えられませんわ。ただ、いつでもどこへでも現れて見通しているエドガー・ウォーレスや、あのコナン・ドイル、それから何とか言った黒人は例外ですわ。とにかく、もうすぐに本当のことはともかくとして、少なくとも陪審員たちがどうしたかは分りますわね」
「そうです。それにしても、思ったより長いですな。ところで、ねえ、ウィムジー、話してくれよ……」
「もう遅い、遅いよ。君はもう僕の考えには入ってこられない。僕の考えは銀の箱に入れて、金のピンでふたをしてしまった。誰が何と考えようと、もう問題ではなくなってしまったんだ。ただ陪審員だけだ。クリンプスンさんが思う通りに、みんなに話してくれればいいんだが。彼女が口を利きはじめたら、一時間や二時間ではとまらないんだ」
「ところで、もう三十分になるぜ」パーカーが言った。
「まだ待ってるのか?」ワフルス・ニュートンが記者席にもどりながら言った。
「うん、これが君の言う二十分か。もう四十五分になるぞ」
「もう出て行ってから一時間半になるわ」ウィムジーのすぐ後ろの席で女の子が婚約者に言っていた。「何を議論してるのかしら」
「やっぱり、彼女がやったとは思えないんじゃないかな」
「そんなバカな。彼女がやったにきまってるわ。顔を見ても分るじゃないの。私に言わせれば、冷酷な顔よ、泣いたりしたことは一度もないという顔だわ」
「分らないね」若い男が言った。
「ねえフランク、あの女の人を賞めるつもりじゃないでしょうね」
「さあ、分らないね。でも、あの女は人殺しには見えなかったなあ」
「じゃあ、人殺しってどんな顔しているか知ってるの? 人殺しに会ったことがあって?」
「マダム・タッソー館で見たよ」
「あれは蝋細工じゃないの。誰だって蝋細工にされれば、人殺ししそうな顔に見えるわよ」
「うん、そうかも知れない。チョコレート、食べない?」
「二時間十五分だ」ワフルス・ニュートンがいらいらして言った。
「眠っちまってるんじゃないかな。号外じゃなけりゃ間に合わない。一晩中ああやってたらどうなるんだ?」
「おれたちも一晩中坐ってるだけさ」
「ようし、今度はおれが飲みに行く番だ。教えてくれよ、な?」
「合点だ」
「守衛の一人と話していたんだがね」消息通の男がもったいらしく仲間に語った。「判事がひっきりなしに、陪審員たちに何か手伝うことがないかと訊ねる使いを出してるそうだよ」
「そうか、で、陪審員たちは何と言ってるんだ」
「知らないよ」
「もう出て行ってから三時間半だわよ」ウィムジーの後ろの少女が低声《こごえ》で言っていた。「私おなかがペコペコだわ」
「そうか、じゃ、行こうか?」
「いえ、評決が聞きたいわ。今までこんなに待ったんですもの。いきがかりで待つことにするわ」
「うん、じゃあ、僕が出て行って、サンドイッチでも買って来よう」
「それは素敵だわ。でも、あんまり長くなってはいやよ。判決文を聞くと、私きっとヒステリーを起こすから」
「いつものように、早く帰って来るよ。でも君は陪審員になってなくて仕合せだぜ。彼らはどうすることもできないんだから」
「へえ、何も食べることも飲むこともできないの?」
「できないよ。おそらく灯りも暖炉の火もないだろうと思うね」
「気の毒に。でも、この建物はセントラル・ヒーティングでしょう?」
「とにかく熱いね。いい空気を吸えるのが嬉しいよ」
五時間。
「表通りは恐ろしい人ごみだぜ」消息通の男が偵察から帰って来て言った。「被告の悪口をどなりはじめた奴がいたんだ。そうしたら、ほかの男たちがそいつらにかかっていってな、一人の男なんか救急車で運ばれていったんだぜ」
「本当か、そいつは見物《みもの》だ。おや、アークハートだ、彼が帰って来た。気の毒になあ、そう思わないか? 自分の家で人に死なれるなんて、いやなこったぜ」
「検事総長と話してるじゃないか。きっと、ちゃんとした夕食をすまして来たんだぜ」
「検事総長はインペイ・ビッグズ卿ほど好い男じゃないね。彼がカナリアをかってるって本当かい?」
「検事総長がか?」
「いや、インペイ卿だ」
「それは本当だよ。カナリアで賞をとっているよ」
「うまい考えだな」
「しっかりしろよ、フレディ」ピーター・ウィムジー卿が言った。「僕には様子が分る。来るぞ。僕の、あのやさしい、足音だ。こんな軽やかな足音は他にはない」
法廷の一同は立ち上った。判事が席についた。電灯の光でひどく白く見える顔が、被告席にまた姿を現した。陪審員室に通じる扉が開かれた。
「陪審員たちの顔を見てごらんなさい」若い女が言った。
「有罪になるんだと被告の顔を見ないそうよ。あっ、アーチー、私の手をつかまえていて」
法廷書記が陪審員に向って、責めるような調子を押さえながら、形式張った声音《こわね》で言った。
「陪審員諸賢は、評決に全員一致致しましたか?」
陪審長が向っ腹を立てたように、いらいらした様子で立ち上った。
「残念ながら意見の一致に至りません」
長い喘《あえ》ぎ声とつぶやきが法廷中に起こった。判事が礼儀正しく、少しも疲労の色を見せずに身をのり出した。
「もう少しの時間によって、意見の一致を見ることは可能だと考えられますか?」
「だめだろうと存じます」陪審長は荒々しく陪審席の一隅をにらんだ。そこには年長のほうの未婚女性が、首をうなだれ、手をしっかり握りしめて坐っていた。「われわれの意見が一致する見込みはないと存じます」
「何かお手伝いすることがありますかな」
「結構です。証言はすべて理解されております。ただ、それが一致しないのです」
「それは困ったことです。しかし、もう一度相談された方がよいと存じます。その上で、もし決定できないようでしたら、そう言って下さい。その際、もし本官の法律上の知識がお役に立つことがあれば、もちろんいつでもお申し出に応じます」
陪審員は陰気くさく引っこんだ。判事は赤い法服を判事席の背にかけた。ささやき声がわき上がって、大きな騒音になった。
「驚いた」フレディ・アーバスノットが言った。「このバカらしいショーを動かしてるのはどうやら君のクリンプスンさんだね。陪審長が彼女をどんな風ににらんだか見たかね?」
「えらい娘だ」ウィムジーが言った。「全くすばらしいやつだ。彼女は恐るべき強固な良心を持っている。まだ頑張ってるだろう」
「ウィムジー、君は陪審員を買収しているんだろう。彼女に何か合図でもしたのかね?」
「しないよ」ウィムジーが言った。「君が信じようが信じまいが、僕は何も卑劣なことはしていないよ」
≪それなら大変名誉なことだが≫フレディはつぶやいた。「晩飯を食べたい人々にとっては、えらく辛いこった」
六時間。六時間半。
「やっと来た」
陪審員が再び席についたところを見ると、彼らは疲れて泣きそうであった。心配そうにしていた女はもう泣いていて、ハンカチーフで口を押さえていた。悪性の風邪をひいていたらしい男は、死にそうな顔色をしていた。画家らしい男の髪の毛はくしゃくしゃになっていた。会社の専務と陪審長は誰かをしめ殺しかねないような様子をしていたし、年長のほうの独身女性は目を閉じて、祈ってでもいるように唇を動かしていた。
「陪審員諸賢、評決は一致いたしましたか?」
「いえ、一致することは不可能だと思います」
「確かにそうですか?」判事が言った。「諸賢をせかせようとは思いません。いつまででもお待ち致します」
会社専務の唸り声が傍聴席にまで聞こえた。陪審長は自制して、怒りと疲れでくたくたになった声で答えた。
「一致することはありません。世界の終りの日までここにいても、だめでしょう」
「それは困ったことです」判事が言った。「しかし、そういう場合は諸賢を解散して新たに陪審員を集めることになります。諸賢が最善を尽され、かつその識見と良心のすべてを尽して多大の忍耐と熱意ある関心によりこの仕事に耐えて下さったことと確信致しております。本陪審の諸賢は解職されました。諸賢は爾後《じご》十二年間、陪審員としての奉仕を免除されます」
きまり文句のこのつづきがやっと終って、判事の法服がまだ暗い戸口に見えるうちに、ウィムジーは法廷の弁護士席へ分け入った。彼は弁護人のガウンをとらえた。
「ビッギー、うまくいった。次の機会がつかめたぞ。こんどこそ、一緒に、勝って見せるぞ」
「そう思うかね、ウィムジー? 正直なところ、思ったよりうまく行ったというぐらいだがね」
「今度はもっとうまくやろう。ところで、書記としてでも何でもいいから、彼女と会わせてくれ」
「誰と? 依頼人とかね?」
「ああ、この事件には虫の知らせがある。彼女を助けるんだ。僕にはそうできることは分ってるよ」
「まあ、明日来てくれ。これから行って話さなければならない。十時に僕の部屋で待ってるよ。おやすみ」
ウィムジーはそこを離れると、陪審員たちの出てくる側の扉にとんで行った。最後に帽子を斜めにかぶって、レインコートの衿をうんと上に立てて出て来たのは、年長のほうの独身女性だった。ウィムジーは彼女のほうにとんで行ってその手をにぎった。
「クリンプスンさん」
「あ、ピーターさま。まあまあ、何と恐ろしい日だったこと。ご存じでしょう、一番世話をやかせたのは私でしたのよ。二人ばかり大胆に私の後だてになってくれましたけど。それで、私は悪いことをしたわけではないのでしょうね。でも、できませんでしたわ。彼女が本当にやってないということを信じていなかったら良心にかけて、彼女があんなことをしたとは言えませんでしたわ。そうでしょう?」
「全く正しいことをしたんですよ。彼女はやっていないんだ。それに君が立ち上ったおかげで、彼女はもう一度機会をつかむことができたんだ。僕は彼女がやらなかったと証明してみせるつもりだ。ところで、あなたを食事に連れ出そうと思っていたんだが、それに、ねえ、クリンプスンさん」
「は?」
「僕は今朝からひげを剃ってないけど、気にしないで下さいよ。僕はこの次の静かな曲り角であなたにキスしようと思ってるんだ」
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第四章
翌日は日曜日だったが、インペイ・ビッグズ卿はゴルフの約束を取り消した。もっとも、土砂降りだったのであまり気がとがめもしなかったが。そこで彼は異例の作戦会議を開いた。
「そこで、ウィムジー」弁護士は言った。「君はどう思うんだね? クロフツ・アンド・クーパー事務所の弁護士クロフツ君を紹介しよう」
「僕はヴェーン女史はやってないと思うんだ」ウィムジーは言った。「君もそう思ってるだろうが、僕のそう思う根拠は、もっと激しく想像力を働かせなければ分ってもらえないね」
クロフツ氏はこれがおかしいのか、バカらしいのか、はっきりは分らないながらも、謹み深く笑った。
「全くそうだ」インペイ卿が言った。「だが、陪審員のうちどれだけが、そういう見方をしたか知りたかったところだね」
「それは言えるよ。少なくとも一人だけは知っているからね。一人の女性と、半人分だけ女性なのが一名、それと四分の三だけ男なのが一名だね」
「それは正確な意味でかね?」
「まあね。僕の知っている女の人が、ヴェーン嬢はそんな人ではないと頑張ったんだ。みんなはかなり彼女をいじめた。もちろん、証言の連鎖の中には指一本ささせる弱点はないのだからね。しかし、彼女は被告の態度も証拠のうちだといって、それも考えに入れなければいけないと主張したのだ。幸いなことに、彼女は頑強でかぼそい、ふけた感じの女性で、健全な理解力と戦闘的なしかも強力なより所となる教会的良心の持ち主で、その威力はすばらしかった。彼女は全員を封じてしまったくせに、まだそれが信じられず、自分がそうさせたのではないと言おうとしているんだ」
「えらく役に立つね」インペイ卿が言った。「キリスト教の信条のすべてを信じこめるような人間は、ささいな反証なんかにはびくともしないもんだ。しかし、陪審席に宗教的な頑固な連中がいつでも一ぱいいるとは期待できないね。もう一人の女とその男というのはどうなんだい?」
「うん、その女はむしろ思いがけなかったくらいだ。菓子屋をやってる、羽振りもよさそうな人だがね。この事件は実証されてないというんだ。ボイスが自分で毒を飲むことだって完全にできたのだし、従兄が毒を与えたことも考えられるというのだ。それに、おかしな話だが、彼女はこれまでに一、二の砒素の裁判に出てね、何かその事件の判決に、たしかセドン事件だったと思うが、不満だったのを根にもっているんだ。男というものについて不審を抱いているうえに(彼女は三人目の亭主の葬式をすませたばかりなんだが)、本職の連中の筋道たった証拠というものは信用しないんだ。秘かに言ってたそうだが、ミス・ヴェーンがやったのかも知れないけど、医学的な証拠だけでは、犬だって首吊りにするのはいやだというのだ。もっとも最初のうちは多数に従って投票するつもりだったらしいが、陪審長が男性の権威で彼女を屈服させようとするのが嫌になって、その結果僕の友人のクリンプスンさんを支持することになったというわけさ」
インペイ卿は笑った。
「えらく面白い。陪審の内幕をいつもこういう風に知りたいものだ。われわれが汗だくになって証拠を集めると、一人の人間がそんなものは本当の証拠ではないと考え、他の人もその証拠は信じられないものとしてその意見を支持する。で、男のほうは?」
「画家か何かだ。こういう連中の生活がどんなものであるかを本当に知っている唯一の人間だった。彼は君の弁護依頼人の喧嘩についての説明を信じて、もし女が男について本当にそんな風に感じるようになったら、男を殺すことなどありえないと言っていた。また、彼女の場合はむしろ一歩退って、男がコミック・ソングの虫歯の男みたいに苦しむのを見守っていたんだろうとも言っていた。毒薬を買ったことに関する説明なども、他の連中には全く理解されないだろうが、彼にはよく分るし、信じることができたんだ。彼はまた、ボイスが鼻もちならないキザな男で、彼を片づけた人間は社会奉仕をしたようなものだと言う話を聞いたといっていた。彼は不幸にしてボイスの本を読まされたが、著者を有害無益な人間だと思ったという。事実、彼はボイスは自殺をするのにふさわしいから、もし誰かがそういう見方をするなら、すぐそれにつづこうと思っていた。彼はまた、宵っぱりや、こんなバカげた時間つぶしには馴れているし、一晩中坐っていても少しもさしつかえないと言って、陪審員一同を驚かせた。クリンプスンさんも正しいことのためなら、少しぐらいの個人的な苦痛は何でもないし、信仰のおかげで強い意志がきたえられている、とつけ加えたものだ。ここで、もう一人の女性がヒステリーを起こし、大事な取引きを翌日に延ばした男がかんしゃくを起こしたんだ。そこで、腕力沙汰になるのを防ぐために、陪審長が意見が一致しないという意見にまとめた方がよいと思ったわけだ。大体こんな様子さ」
「まあ、そこでもう一度の機会ができたわけですな」クロフツ氏が言った。「万事うまく事がはこんだわけですね。これで次の開廷まで一カ月ばかりありますし、今度はきっとバンクロフト判事でしょう。クロスリー判事みたいにきびしくありません。ところで問題は、弁護側が事件の見通しをよくすることができるかどうかです」
「大奮闘しよう」ウィムジーが言った。「どこかに証拠があるはずだよ。君たちはビーバーみたいによく働きまわってくれたけれど、僕はその上をいくつもりで働くよ」
「智力でかね?」インペイ卿がにやにやして言った。
「いや、そういう言い方はきらいだよ。だが、ミス・ヴェーンの無罪を僕は信じているからね」
「バカな。ねえウィムジー、僕の弁説のせいで君は僕が心からそう信じてると思うようになったのかね?」
「もちろんそうさ。もう少しで涙が出そうだったよ。これでビッギー氏も、もし判決が思う通りでなかったら、もうイギリスの裁判の公正さが信じられなくなって、法廷を退いて首かっ切って失せるだろうと思ったね。君が投げてしまっても、陪審の意見不一致で救われたのはやはり君の勝利だよ。思いがけなかったと、君も言ってたね。ところで、ぶしつけな質問だけど、弁護料は誰が出してるんだね?」
「クロフツ・アンド・クーパー事務所だ」インペイ卿は狡《ずる》そうに言った。
「自分たちの健全さをアピールするために、この事件にとびこんでるとでも言うのかね?」
「いいえ、ピーター卿。実はこの事件の費用はミス・ヴェーンの出版社と、それから、ある新聞社で彼女の新しい本を連載物として載せているところが払ってくれています。事件が大きくなれば、儲けることができますから。しかし、正直な話、あの連中が次の裁判のための費用について何と言うか、よく分らないのです。今朝にでも行って聞いてこようと思ってますが」
「欲張りだな」ウィムジーが言った。「よろしい、つづけた方がいい。僕が補填《ほてん》しよう。だが、名前を出してはいかんよ」
「それはありがたいことで……」
「いや。こんな面白い事件は、世界をかけても捨てられないよ。こういう事件には夢中になるんだ。しかし、その代りやってもらいたいことがある。ミス・ヴェーンに会いたいんだ。僕を君たちの一行に入れて連れて行って、できるだけ二人きりで彼女自身の説明を聞けるようにしてもらいたい。いいね?」
「それはできるだろう」インペイ卿が言った。「その他に、言うことはないのかね?」
「とりあえずは、これだけ。もう警察の盲点は探りはじめてるんだ。パーカー警視正は自分の墓にかざる柳の花輪を編みに家に帰っているよ」
「気をつけてやってくれよ」インペイ卿が言った。「われわれの見つけたものは、検察側があらかじめそれを知らなければ、それだけ効果があるんだから」
「玉子の殻の上を歩いているように、慎重にやるよ。しかし、もし僕が本当の殺人犯人を――もしいればということだが――見つけた場合、そいつを検挙させるのに文句は言わないだろうね?」
「とんでもない、そんなことに文句は言わないよ。警察でやることだ。ところで、今のところこれ以上話がなかったら、これで散会としましょう。クロフツさん、ピーター卿の言われる通りにご配慮願えますな?」
クロフツ氏が熱心に努力したおかげで、翌朝にはピーター卿は信任状を持って、ホロウェイ監獄の門を訪れた。
「はいはい、あなたは囚人の弁護士と同じ立場の方として扱われます。はあ、警察のほうからも連絡を受けておりますが、もちろん差し支えないということです。ただいま看守がお連れして、規則をご説明致します」
ウィムジーはむき出し廊下をいくつも通って、ガラス戸のついた小さな部屋に案内された。長い樅《もみ》の木のテーブルがあって、テーブルの両端に一つずつ防水布ばりの椅子がおいてあった。
「こちらです。あなたが一方の端に坐り、囚人は反対側に坐ります。椅子から動かないように、テーブルごしに何か品物を渡したりしないように、気をつけて下さい。私は外にいてガラスごしに見ておりますが、私には何も聞こえません。席におつきになったら、囚人を連れてきます」
ウィムジーは奇妙な興奮のとりこになって、じっと坐って待った。すぐに、足音が聞こえて、女看守につきそわれて囚人が連れて来られた。彼女がウィムジーと向いあった席につくと、女看守は出て行ってドアを閉めた。立ち上ったウィムジーは咳ばらいをした。
「こんにちは、ヴェーンさん」彼はさりげなく言った。
囚人は彼を見た。
「おかけになって下さい」法廷でも彼を惹きつけた妙に深味のある声で彼女が言った。「きっと、ピーター・ウィムジー卿でいらっしゃいますわね。クロフツ氏のところからいらしたのでしょう?」
「そうです」ウィムジーが言った。彼女のじっと見つめる眼ざしに、彼はどぎまぎした。
「さよう、僕は……僕はこの事件や、いろいろなことを全部聞いて、つまり、その、何か僕にもできそうなことがあるような気がしたんです」
「それはご親切にありがとうございます」囚人が言った。
「いえ、いえ、お恥ずかしい。つまり、分っていただけるかどうか、僕は探偵するのがすきなんです」
「存じておりますわ。探偵小説作家として、当然あなたの経歴は興味をもって調べました」
彼女は急に笑顔を向けたので、彼の気持も落ちついた。
「まあ、とにかくよかった。それなら、僕が今の僕の様子みたいにまったくの間抜けではないということが分っていただけるでしょうからね」
これには彼女も笑った。
「間抜けになんか見えませんわ。少なくとも、こういう場合にお目にかかった紳士の中では、かなりよい方ですね。あなたの経歴も今のご様子にはふさわしくありませんが、でもお目にかかって大変元気づけられます。この事件はいずれにしても私には望みがないのではないかと思われますが、それでも本当にありがとうございますわ」
「そんなことを言ってはいけません。本当にあなたがやったんでないかぎり、望みがないなんてことはありえない。あなたがやったんでないことは、僕にはよく分っています」
「ええ、私はやりませんでしたわ、本当に。でも、私が書いた小説の一つによく似てるような気がします。それは、水ももらさぬ完全犯罪を考えついて、書いたのですが、探偵が証明するキメ手が一つも考えつかなくなってしまったので、仕方がないから殺人犯人の告白というやり方で本にしましたの」
「どうしても止むをえなければ、そういう風にしましょう。ひょっとしたら、誰が真犯人かご存じではないんですか?」
「犯人がいるとは考えられません。本当にフィリップが自分でそれを飲んだと信じてるんです。あの人はどちらかというと、すぐあきらめてしまうたちですから。そうでしょう?」
「彼はあなたと別れて、ひどく苦しんだのでしょうね?」
「そうですわね、ある意味ではそう言えましょう。でも、あの人は自分の値打ちが十分世の中で認められないことを苦にしていたことの方が強かったと思いますわ。よく、世の中の人々がみんなして自分のチャンスをつぶしている、などと考えていたようでした」
「そうだったのですか?」
「いえ、そうは思いませんわ。でも、あの人はずいぶん多くの人を怒らせたと思います。何でも物ごとを自分の権利として要求するので、他の人には迷惑でしたわ」
「なるほど、分りました。ところで従兄とはうまく行っていたんですか?」
「ええ、でもあの人はいつも、自分の世話をするのはアークハート氏にとっては当然の義務にすぎないと言ってましたけど。アークハート氏はかなり羽振りよくやってましたけど、これはあの方が大きな仕事の上のおとくいを持ってらしたからで、一家の財産やなにかと違ってフィリップには何も権利はないのです。彼の考えは、大芸術家は凡人どもの出費で食事し、宿をとる権利があるというのでした」
ウィムジーもこういう芸術家気質の変ったものについては、かなりよく知っていた。しかし、この返事の口調の中に、辛らつな、いくらか軽蔑をこめたと思われるような調子がこめられていたのには彼も驚いた。しばらくためらった後に、彼は次の質問を出した。
「失礼な質問でお許し願いたいのですが、あなたはフィリップ・ボイスが好きだったのでしょう?」
「好きでしたわ、ああいう事情でしたもの、そうだったに違いないでしょう?」
「必ずしも彼を気の毒だと思ったり、彼に惑わされたり、あるいは死ぬほど彼につきまとわれたからという訳ではないのですね」ウィムジーは思い切って言った。
「そんなようなことばかりですわ」
ウィムジーはしばらく考えた。
「あなた方は友だちのような関係だったのですか?」
「いいえ」この言葉は彼が驚くくらい、荒々しさを押えつけた声で、急に口にされた。「フィリップは女の友だちを作るような男ではありませんでした。仕えさせたかったんです。私は仕えてやりました。ご存じのとおりに、私はあの人に仕えたんです。でも、私はバカにされてるのを我慢していられませんでしたわ。給仕やなんかではあるまいし、あの人に目をかけてもらう値打ちがあるかどうか分るまで、ずっと試用期間みたいに扱われているなんて、私には我慢できませんでしたわ。あの人が、結婚なんてものを信じないと言ったとき、私はあの人が正直にそう思っていると本気に考えていたんです。でも、そのうちにそれが、私の仕え方があの人に気に入るだけ卑屈になれるかどうかを見るための試験だということが分ってきたんです。私は、背徳行為のごほうびに結婚してもらえるなどというのはいやでしたわ」
「僕はあなたを責めようなどとはしていない」ウィムジーが言った。
「そうですか?」
「そうとも。その男は、下劣だとまでは言わないとしても、大分キザな男のように聞こえますね。風景画家と偽っていた、嫌なサギ師の話に似てますな。後になって、不幸な若い女性をありもしない家名の重荷を背負わせて苦しめたやつの話ですよ。きっとその男は、古い樫の家具だとか、家族の肖像画、ばかていねいなおじぎをする召使いたちなどの話について、ひどくやかましかったでしょうね」
ハリエット・ヴェーンはまた笑った。
「そうなんです。バカらしいけど、屈辱でしたわ。全くそうでした。私はフィリップが私だけでなく自分自身をも茶化しているんだと思いましたわ。そして本当のことが分ったとき、ええ、あっさり一巻の終りでした」
彼女はおしまいという身ぶりをしてみせた。
「よく分りました」ウィムジーがいった。「進歩的な思想の人間に、そんなヴィクトリア朝時代のような傾向がねえ。男は神だけに仕え、女は男の内なる神に仕える、とかいうわけですな。ところで、あなたがそういう風に考えるのは大変結構なことです」
「そうですか? 今の危機には何の役にも立たないでしょう」
「ええ、僕はその先のことを考えているんです。僕の言いたいのは、すべてが終ったら、あなたと結婚したいと言うことです。もしあなたさえ承知してくれればね」
彼に笑顔を向けていたハリエット・ヴェーンは顔をしかめて、その目には嫌悪の色がそれとなく現れてきた。
「あら、あなたも、そういうタイプの人なんですの? もう四十七人目ですわ」
「四十七人の何です?」ウィムジーはひどく驚いてたずねた。
「申し込みですわ。郵便のくるたびにありますわ。評判になった女なら誰でもいいから結婚しようと思うおバカさんは、沢山あるものですわね」
「へえ、これは驚いた」ウィムジーが言った。「実は僕は評判になったということは必要ではないんです。新聞には出ようと思えば自力で出ることができます。しかし、二度と私はこんなことは言わない方がよいですな」
彼の声は悲し気に響いた。女は申し訳なさそうに彼を見た。
「ごめんなさい。でも、私のような立場になると何にでもやつ当りしたくなりますのよ。ずい分ひどい人がいましたわ」
「分ってます」ピーター卿が言った。「これは僕がバカでした……」
「いえ、私がバカだったんです。でもなぜ私なんかと……」
「なぜですって? そうですねえ、あなたは結婚相手として、とても魅力的だろうと思ったんです。それだけです。いわば、好きになったんですよ。理由といっても、言えませんね。そういうことに、何の法則もないことはご存じでしょう」
「分りました。やさしい方ですわね」
「滑稽だとでも思ってるような言い方はしないで下さい。僕は間抜けな顔をしてますが、これはどうにも仕様がないんです。実際の話、僕は人生を興味あるものにしてくれるような、真面目な話をできる人が欲しいんです。それに、僕はあなたに、もし役に立つものなら沢山小説の種を上げられますよ」
「でも、小説を書くような妻はお望みにならないでしょう?」
「いや、そんなことはない。その方が楽しいですよ。普通の、服や人の噂にばかり熱心な女よりずっと面白い。もちろん、服や人づきあいもある程度までは結構ですがね。つまり、服に熱心なのに反対する訳ではありませんが」
「では、先祖代々の樫の木や家族の肖像画といったようなものはどうなんですの?」
「ああ、そんなものに気をつかう必要はありません。兄がみんなやってくれます。初版本と古書の蒐集をやってますが、これが少し僕の退屈なところかも知れませんね。でももし嫌だったら、無理にそれに付き合う必要はありません」
「そうではないんです。あなたのご家族が何とお考えになるでしょう?」
「ああ、考えなければならないのは母だけですが、あなたを見たらすぐ好きになりましたよ」
「もう、私を見たっていうんですか?」
「ええ、もちろん。公判の最初の日、僕はあなたを見て息をのみ、すぐに母のところへかけつけたんです。母は完全に僕のことを理解していてくれました。僕は言いました。『本当にこの人しかいないという、たった一人の女性がいるんです。その人が恐ろしい目に会おうとしてるんです。どうか一緒に来て僕の手をつかんでいて下さい』その興奮がどんな激しいものだったか、あなたはまるっきりご存じないんだ」
「そう言われると、よけいいやらしく聞こえますわ。私の言い方が意地悪いのは許して下さい。でも、とにかくあなたは私に愛人があったのを知ってて、平気でいられますの?」
「ええ。そういうことなら、僕にだってありますからね。実は何回かあります。誰にでもあることです。立派な証明書だって作れますよ。僕は恋人を作るのはうまい方だと言われてますよ。ただ、今のところは大分苦戦のようですがね。戸口に監視のいる部屋で、テーブルの反対側にいる人をうまく口説くのはあまりやさしくはないでしょう」
「お言葉通りにうけとっておきます。でも、『素晴らしい幻の庭園を自由にさまようのが楽しいとしても、私たちは同じくらい大切なもう一つのお話からそれてやしません?』。きっと……」
「『カイ・ルン』〔E・ブラマの小説〕からの引用ですね。僕たちはきっと仲良くやっていけますよ」
「そんなふうになれるほど、私は生きていられないようですわ」
「そんなに気を落してはいけません」ウィムジーは言った。「さっきも説明したように、今度は僕が事件を調べはじめたんですよ。あなたが僕を信頼してくれないとは、思いもよらなかった」
「今まで間違って処刑された人はいくらでもいますわ」
「それはそうです。僕がいなかったですからね」
「でもそんな先のこと、考えたこともありませんでしたわ」
「では今考えるんです。きっと楽しくなり、元気がでます。もし、あなたが僕の顔やなにかを忘れてしまっても、それだけで他の四十六人と区別してくれますね。ああ、それはそうと、僕は何かあなたに嫌な思いをさせましたか? もし、そうだったら僕の名前をあなたを待ってる人たちのリストから、すぐ取り除きましょう」
「いえ」ハリエット・ヴェーンはやさしく、少し悲し気に言った。「いやな思いなどいたしませんでしたわ」
「僕のために白いなめくじでも連想されたり、鳥肌でも立ちました?」
「そんなことはありません」
「よかった。その他に細かいことで、例えば髪の分け方とか、歯ブラシみたいなひげを生やすとか、眼鏡のふちとか、そんなことでお気に召すようになら、喜んで何とでもしますよ」
「いいえ」ヴェーンが言った。「何も変えないで下さい」
「本当ですか」ウィムジーは少し赤くなった。「そうすると、何も変えない方が無事にパスする望みがあるという訳になるんでしょうかねえ。来るたびに違う服を着てきて、いろいろな面からよく見ていただくつもりだったんですが。従僕のバンターはご存じでしょう。彼が面倒を見てくれるんです。ネクタイや靴下のようなものには、いい趣味をもってましてね。ところで、もう帰らなければなりませんな。あなたも、もうお話はないとお思いですか。もし時間があるんでしたら、別に急ぐ用はないんですが。ただ、もしどうしてもいやだというのでしたら遠慮なく言って下さい。強迫して結婚しようという訳ではないんですから。僕はただ、面白ずくで探偵をしてるんですから」
「ご親切はありがとうございます」
「いえ、いえ、何でもありません。僕の道楽なんです。結婚を申しこむことがではありませんよ。探偵することがですよ。では、元気にやりましょう。よろしかったら、またうかがいます」
「召使いたちに、あなたが見えたらお通しするよう、言いつけておきましょう」囚人は荘重な口調で言った。「私はいつでも家におります」
うすよごれた街をウィムジーはまるでバカになったような気持で歩いていた。
「法廷では勝つにきまってる――やはり彼女は苦しんでるな――間違いない、あんな薄ぎたない畜生どもに――でも、彼女に不快な思いをさせはしなかったろう――嫌われてはどうにもならないが――彼女の肌は蜜みたいだ――濃い赤の服が似合うな――それに古代ざくろ石だ――指輪も沢山はめて、クラシックな形のがいいな――もちろん、家もいる――可哀想に、彼女に家を建ててやるためにはうんと働かなければならないぞ――彼女もユーモアを解するセンスがあるな――あたまだよ――バカになってはいかん――目を明けてさえいれば、一日中楽しいことはあるんだ――そうして家に帰って寝るんだ――それもまた楽しいぞ――彼女が小説を書いてる間、僕は外に出てタネをさがしまわる、そうすれば二人ともバカにはならない――バンターの選んだこの服は、これでいいのかな――いつも、ちょっと暗いと思うんだが、でも形はくずれてない――」
彼はとある店のウィンドウの前に立ち止って、この回想の中にかくれているものに気がついた。大きな色刷りのはり紙が目にとまった。
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大特売
一カ月限り
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「そうだ」彼ははっと正気に帰り、しずかに言った。「一カ月――四週間――三十日。あまり時間はないぞ。ところで、どこから手をつけたらいいか分らん」
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第五章
「ところで」ウィムジーが言った。「なぜ人間が人間を殺すんだろう?」
彼はキャサリン・クリンプスンの専用事務室に坐っていた。この会社は表向きはタイプ印書会社で、たしかに作家や科学者たちのために、次から次へテキパキと仕事を片づけてゆくタイピストも三人ばかりいた。係員が手が一杯だといって仕事を断ることがよくあるくらいだから、見かけだけは事業は盛大そうだった。
しかし、階上には他の仕事があるのだった。使用人はみんな女で、若くてきれいなのも少しはいるが、年とったのが多く、スティールの金庫の中の秘密書類をのぞいてみれば、この女たちが情けなくも「余計者」という名で呼ばれる種類の女たちだということが分っただろう。小さな固定収入があるだけの、あるいはそういうものの全くないオールド・ミス、よるべのない未亡人、それから浮気な亭主に離別して、限られた扶助料で暮らしを立てているような、ミス・クリンプスンに雇われるまではブリッジや井戸端会議の噂話より他にすることのなかったような女たちだった。退職した失意の教師たちもいたし、仕事にありつけない女優、帽子屋やカフェを開いて失敗したような勇ましい人もいた。若い娘もいくらかいたが、その連中も、もうカクテル・パーティやナイト・クラブにはあきが来ているような連中だった。こういう女たちは、一日中、広告に応募して日を送っているようだった。未婚紳士、結婚相手にふさわしい女性を求むとか、元気な六十歳の老人、田舎に引退の際の家政婦を求む、あるいは、起業計画を持つ有能の紳士、資本を求むとか、文学に熱心な紳士、女性協同者を求む、また、地方の物産に従事したい立派な紳士たちや余暇に金を作る方法を教える紳士たちの広告である。こういう紳士たちは、ミス・クリンプスンの使用人たちの申込みを受けることがよくあった。そして、たまたまそういう紳士たちがすぐに詐欺・恐喝、あるいは売春斡旋未遂の嫌疑で治安判事の前に現れなければならないような不幸な目に会うこともよくあったが、それはミス・クリンプスンの事務所がスコットランド・ヤード〔警視庁〕と直通電話を持っていたからにすぎない。そのために、ここの女性たちも、めったにそんな危ない目に会わないでいられたのである。それに、この事務所の家賃や維持費などを払う金も、よくよく調べて見ると、もとはピーター・ウィムジー卿の銀行口座までさかのぼるらしいのである。卿はこの危なっかしい仕事のことは口を閉ざしていることが多かったのだが、パーカー警視正とか、その他の内輪の友人と密談するときには、よく「僕の猫屋敷」と呼んだものである。
ミス・クリンプスンは返事をする前にお茶を一杯のんだ。彼女はレースでおおわれたやせた腕に、いくつかの小さい腕輪をはめていたので、動くたびにがちゃがちゃと派手な音を立てた。
「分りませんわ」彼女は明らかに問題を心理的なものと受けとって答えた。「人殺しなんて恐ろしく悪いことですし、それに危ない仕事ではありませんか? それをやるなんて、どんな厚かましい人なんでしょうねえ。あんまり得をしないこともよくあるんでしょう?」
「そうなんだ」ウィムジーが言った。「何のためにやるんだろう? もちろん、何と言ったか名は忘れたけど、人の死ぬ所を見るのが好きなあのドイツ女みたいに、殺すのが面白くてやる人間もいるらしいけどね」
「変な趣味ですわ」ミス・クリンプスンが言った。「お砂糖は入れないんでしたね? 私も悲しいことでしたが、仕方なしにずいぶん人の死に立会いましたわ。父なんかのね。大ていはキリスト教徒らしく、美しいものでしたけど、でも面白いとは言えませんわ。人によっては、面白いといってもいろいろでしょうけど――私自身、チャリー・チャップリンには笑わせられますけど、ジョージ・ロービィは面白くも何ともないですからね。でも、どう考えても、人の死を見るのが趣味だなんて、いくら墮落した人かもしりませんけど、私には納得できませんわ」
「僕もそう思うね」ウィムジーが言った。「しかし、生死の問題を自分の手に握る感じは、ある意味では面白いに違いないだろうね」
「それは造物主の大権への侵害ですわ」ミス・クリンプスンが言った。
「しかし、言わば神のような権力を持ったと思えば愉快なんじゃないかね。地上高く、大空の太陽のように。実は僕には魅力だね。しかし、実際問題として、それは悪魔の理くつだ。いや、これは失礼。つまり、そんなやつが犯人だというんじゃ、僕には気にいらない。もし殺人鬼を捜すのが目的なら、僕はすぐに自分の首を切りますよ」
「冗談にしても、そんなことはおっしゃらないで下さい」ミス・クリンプスンが抗議した。「あなたがここで、立派にちゃんとした仕事をなさってることは、悪い人間がそのためにがっかりさせられるというだけでも十分意味があるんですわ。それに、そんな冗談はびっくりするほど、嫌な形で本当になるものです。ずっと昔のことですがね、若い人でいつもひどい冗談ばかり言ってる人がいたんですよ。あなたが、まだ保育室にいたころですわ。その頃も若い人は今の人と同じに乱暴でしたわね。今時の人も一八八〇年代の旧弊だ、なぞと言ってますが、同じようなもんですよ。その人がね、私の母に『奥さん、今日獲物がなかったら、自分を撃って見せてやるよ』と言ったんですよ。スポーツのすきな人でしてね。ところが、鉄砲の引き金が生垣にひっかかり、暴発して、頭を撃ちくだいてしまったんです。私はまだほんの小娘でしたが、ひどく悲しんだものですわ。みんなの賞賛の的になっていた頬鬚を生やした、素敵な若者だったからですよ。今でこそ頬鬚は笑われますがね。そのひげも暴発で焼けてしまい、頭の横に穴があいてたそうですわ。もちろん、私には見せてくれませんでしたし、人の話に聞いたんですけどね」
「かわいそうに」卿が言った。「ところで、殺人鬼のことはしばらく忘れましょう。で、何のために、人が人を殺すのか?」
「ありますわ。激情」ちょっとこの言葉を口にするのをためらうように、ミス・クリンプスンが言った。「自制できなくなってしまったようなものは、愛とは呼びたくないですからね」
「それは検事側の提出した説明です」ウィムジーが言った。「それではだめだ」
「そうかもしれません。でも、可能性はありますわ。他にもこのボイス氏にご執心の不幸な若い女性があって、彼に復讐しようと思ったというような場合が考えられません?」
「そうだ。それとも嫉妬深い男でも。しかし、時間の点で難しいな。人に砒素をのませる、もっともらしい口実を見つけなければならないよ。彼が戸口に立ってるところをつかまえて、いきなり『さあ、これを飲んでごらんなさい』と言うかね」
「でも、勘定に入ってない十分間というものがありますね」ミス・クリンプスンが抜け目なく言った。「その間にどこかの居酒屋へ一休みしに入って、そこで敵に会ったかも知れませんわ」
「うーん、それはありうることだ」ウィムジーはノートに書きつけたが、まだいかがわしいというように首をふった。
「しかし、それではあまりにも偶然すぎる。もし、前もってそこで会うという約束がなかったとするとね。とにかく、調べて見る値打ちはあるね。いずれにしても、アークハート氏の家とヴェーン女史のアパートだけが、ボイスがその晩七時から十時十分までの間に、飲み食いした所のすべてだとは言いきれないと。うまいぞ。『激情』という項目の下で、われわれは、(1)ヴェーン女史(前仮説につき除外)、(2)嫉妬深い恋人、(3)同上恋仇の三人を見つけた。場所は酒場(?)。そこで次の動機に行こう。金だね。金を持ってる人間を殺すというのは、相当な動機なんだが、ボイス事件の場合はつまらないね。しかし、とにかく金だとすると。三つの項目がそこから出てくる。(1)持ち金を盗む場合(不自然だ)、(2)保険金、(3)遺産」
「何て明快なお考えでしょう」ミス・クリンプスンが言った。
「僕が死んだら、きっと心臓に≪能率≫と書いてあるはず。ところで、ボイスがどんなに金を持っていたか知らないが、いずれにしても大した額だとは思われない。アークハートやヴォーガンが知ってるだろう。砒素なんてものは、追いはぎに使うにはあまり適当な薬とは言えないから、持ち金のことは大して重要ではない。効き目が出るまでにかなり時間がかかって、しかも狙われた相手は助かる見込みがないというのだからね。タクシーの運転手が毒薬を飲ませて盗んだのだとでも考えないかぎり、そんなバカげた犯罪をやってもうけようとする人間は考えられない」
ミス・クリンプスンはうなずいて、二つめのお茶菓子にバターを塗った。
「では保険だ。ここで、無数の可能性が出て来る。ボイスは保険に加入していたろうか? これにはまだ誰も気がついていないようだ。たぶん彼はかけてないだろう。小説家なんてものは先のことは考えないものだし、保険の掛け金などというつまらんことには気を使わないようだからね。でも、調べるべきだな。誰が保険金をもらうか? 父親か、従兄か(ありそうなことだ)、他の親戚か(もしあったとすれば)、子供か(もしいたら)、それに、彼が女史と一緒に暮らすつもりだったとすると、ヴェーン女史かもしれない。それから、その保険金をかたに金を貸してる人間がいるかも知れない。沢山の可能性があるなあ。ああ、クリンプスンさん、僕はもう元気が出て来ましたよ。どこからみても、もう大丈夫です。捜査の方にも、あなたのお茶に対してもね。それは丈夫そうないいポットですね。まだ入ってますか?」
「ええ、どうぞ」ミス・クリンプスンは熱心に勧めた。「父がよく私にティー・ポットの使い方がうまいと言いましたが、秘訣は好きなだけ入れて、いつも空にしておかないということなんですのよ」
「遺産は」ピーター卿が言った。「彼はいくらか残したのだろうか? 大したことはないだろうな。一まわり廻って出版社を調べてみよう。それとも、最近何かを相続したかな? 父親か従兄なら知ってるだろう。父親は牧師だな――ディーン・ファーラーの本にある、ガキ大将が新入りの子供に言う、あのホコリというやつだ。よれよれの服を着ていたようだった。あの家族にそう金があるとは思えない。しかしまだ分らないな。誰かがボイスに、目がきれいだからとか、彼の本に感心したからと言って財産を残してくれなかったとも限らない。もしそうとすれば、ボイスは誰にそれを残すだろう? 疑問だ。遺書は作っただろうか? しかし、当然弁護側はこういうことは考えてるはずだ。僕は何だかまた元気がなくなって来たよ」
「サンドイッチをお上りなさい」ミス・クリンプスンが言った。
「ありがとう」ウィムジーが言った。「乾草でも食べてしまいますよ。ホワイト・キングが言ったように、気が遠くなってきたら食べるに限ります〔「鏡の国のアリス」から〕。ところで、こうして金の動機を並べてみると、残っているのは脅迫だ」
ミス・クリンプスンはこの「猫屋敷」の仕事の関係で脅迫については何でも学んでいるので、溜息まじりで同意した。
「このボイスとはいかなる男であったろう」ウィムジーが修辞学のおさらいみたいな口調で言った。「彼については、僕は何も知らない。彼は芯《しん》からの悪党だったかも知れない。友人たちについて口に出せないようなことを知っていたかも知れない。そうでないという理由はないでしょう? それとも、彼は誰かの暴露を小説に書こうとしたので、その男が何としてでもそれを妨げたのかも知れない。そうだ! 彼の従兄は弁護士だった。従兄が信託された証書かなにかを盗用していたので、ボイスが密告すると脅かしたかも知れない。彼はアークハートの家に住んでいたのだから、そんなことをかぎつける機会はあるわけだ。そこで、アークハートが彼のスープの中に砒素をたらっと……だめだ。やはり行きづまりだ。彼がスープに砒素を入れて、自分で飲む。これでも工合が悪い。ハンナ・ウェストロックの証言がこの考えもぶちこわしてしまうだろう。どうもこうなってくると、居酒屋の怪人でも引っぱり出さなければ話が通らなくなりそうだ」
彼はしばらく考えていたが、やがて言った。
「それから、自殺ということも当然考えられる。僕としては自殺と信じたいのだが、砒素というのは、自殺に使うにはおよそバカげた薬だね。しかし、自殺に使われたこともありますよ。プレスリンの領主〔フランスの妻殺し事件〕が、もし自殺だったとしたら、その例だ。ただ、そうするとビンはどこにあるだろう。
「ビンと申しますと?」
「だって、彼は砒素を何か入れ物に入れてもっていたろう。もし粉末のままでもっていたとしたら、紙に包んでいただろうけど、粉で持っていたとは考えられないね。ところで、そのビンや紙をだれか捜してみたかね」
「捜すといって、どこを捜すんです?」ミス・クリンプスンが訊ねた。
「難しいね。もし身につけて持ってなかったとすると、ドーティ街のあたり一帯を、六カ月前に捨てた紙か空ビンを捜すという大仕事になるね。自殺は嫌いだ、証明するのがとても難しい。とにかく、ぼんやりしていたんでは紙屑一枚見つかりはしない。ところで、ねえ、クリンプスンさん。この事件を解決するのに一カ月あるんです。ミカエルマス開廷期〔イギリスの法廷は四期に分けて開廷される〕が終るのは今月の二十一日で、今日は十五日でしょう。その前にこの事件をまた法廷に持ち出すようなことは、彼らとしてもできないでしょう。ヒラリー開廷期が一月十二日からです。われわれの方で延期する理由を提示しないかぎり、次の開廷期早々、裁判はあるでしょう。新しい証拠を見つけるのに四週間です。あなたと、あなたのところの連中に全力を尽してもらえるでしょうね? まだ、何をしてもらいたいということも分らないが、でも、何かやってもらいたいことが出て来る」
「もちろんやらせていただきますわ。もしこの事務所全部があなたのものでないとしても、あなたのおっしゃることなら何でも喜んで致しますわ。それに、この事務所はあなたのものなんですもの。夜でも昼でも、いつでもすぐ知らせて下さい。全力を尽してお役に立ちます」
ウィムジーは彼女に礼をいうと、事務所の仕事について二、三質問をして立ち去った。彼はタクシーを呼ぶと、真直ぐ警視庁に飛ばさせた。
捜査課長のパーカー警視正は、いつものようにピーター卿の来訪を喜んだが、彼にあいさつをするその明るいが実直そうな顔には、困ったような表情が出ていた。
「何だね、ピーター。またヴェーン事件か?」
「うん。こんどは本当に君もしくじったな」
「さあ、分らんよ。全く単純な事件なんだがなあ」
「おい、チャールズ。単純そうな事件とか、真っすぐに目を見つめる人間とか、馬の鼻面に真っすぐに指を出すなんてことは、気をつけなきゃいけないんだぜ。手のつけられない悪党だって、おそろしく真っすぐな人間のようなふりをすることはできるんだ。光線だって曲っているって言うじゃないか。今度の裁判までに、できるだけ事件を正しくまとめるようにしろよ。さもないと、僕はもう知らないぞ。まさか君は間違った相手を首吊りにしたいわけじゃないんだろう? ましてそれが女とくる……」
「いやな仕事だ」パーカーが言った。「君は眼つきがおかしいぞ。どうしたんだ。もし、われわれが間違えた容疑者をつかまえたとしたら、われわれが悪いんだが、でも、それを見つけだして攻撃するのは弁護側の仕事だぜ。それに、弁護側もあまりしっかりしたやり方を見せたとは言えないね」
「やつらを責める訳にもいかないんだ。ビッギーはできるだけのことをやったんだが、阿呆で業《ごう》つくばりのクロフツは彼に資料を全然送っていないんだ。あいつは彼女が犯人だと思っているんだ。あんな野郎は地獄へとんでいって、熱い皿の上で唐辛子でもぶっかけられて食われりゃいいんだ」
「何てことを言うんだ」パーカーが言った。「君はあの女にいかれてるんだと思われるぜ」
「全く好意的な見方だな」ウィムジーは苦々しく言った。「君が僕の妹に夢中になっていたとき、僕はたしかに同情はしなかったよ。だがねえ、誓って言うが、僕は君のやさしい感情を笑いものにしたり、君の男らしい愛の奉仕を『女にいかれている』なんて言い方はしなかったぜ。そんな言葉をどこで拾ってきたか知らないが、坊主の女房がオウムに教えこむような言葉だ。『いかれる』か! こんな下品な言葉を聞いたのは初めてだ」
「まあ、そうムキにならなくても……」パーカーが言った。
「ムキになるつもりじゃなかったけど」ウィムジーは激しくやりかえした。「まるで道化者さ。ジャック・ポイント〔喜歌劇の道化役〕がどんな気持か、今さら分るような気がした。どん百姓の恋だなんて考えたことはあるが、今ではこの身のことだ。道化踊りでも踊って見せようか?」
「そんな風に聞こえたら、勘弁してくれ」パーカーが言葉を引きとって、言葉より態度であやまった。「全く悪かった。ところで、用は何だい」
「いま話してたことさ。いいかい、一番ありそうなことは、この箸にも棒にもかからない馬鹿者のボイスは自殺したということだ。満足な口も利けないような弁護側では、彼が持っていた砒素の行方をさぐることができなかった。たしかに、やつらの顕微鏡では、真昼の雪原にいる黒牛の群だってさぐることはできなかったろう。君のところの部下にそれをやってもらいたいんだ」
「ボイス――? 砒素」パーカーは便箋に書きとめながら言った。「他には?」
「うん。ボイスが一月二十日の夜の九時五十分から十時十分の間にドーティ街のあたりのどこかの酒場に寄ったかどうか調べてくれ。誰かに会ってるかどうか、それから彼が何を飲んだか」
「それはできる。ボイス――? 酒場」パーカーはまた書きとめた。「それから?」
「三番目は、その辺で、砒素を入れたビンか紙が拾われてないか」
「本当かい? じゃあ、去年のクリスマスにブラウン夫人がセルフリッジ家の外で落したバスの切符もさがせなんて言うんじゃないか、簡単には行かないぜ」
「紙よりもビンらしい」ウィムジーは知らん顔して、つづけた。「砒素は効き目が早いように液体の形で持っていただろうからね」
パーカーはそれ以上、抗議はしないで、書きつけた。「ボイス――ドーティ街――? ビン」そうして、一息ついて待ちうけるように言った。「それから」
「今のところ、それだけだ。とにかく、メクレンバーグ広場の植え込みだってさがすよ。あの草むらの下なら、長い間そのままになっているかもしれない」
「よろしい。できるだけのことをしよう。そして、もし君が、われわれのやってるのが間違いだという確証をつかんだら、すぐ教えてくれるね。われわれだって不面目な大失態はやりたくないからな」
「うーん、僕はたった今、そういうことはしないと弁護士に約束して来たところなんだ。だがね、もし真犯人の見当をつけたら、君に捕えさせるよ」
「そういうことか、でもまあ結構だ、幸運を祈るよ。君と反対側の仕事をやるのも面白いな」
「うん」ウィムジーが言った。「気の毒だがねえ。でも、君の方が悪いんだから仕方がない」
「君は外国に行かなければよかったんだよ。とにかく……」
「どうしてだ?」
「きっとボイスはその行方の分らない十分間、テオバルズ街あたりに立って、なかなか来ない流しのタクシーを待ってたことが分るよ」
「もういいよ」ウィムジーは腹立たしげに言って、出ていった。
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第六章
翌日は朝から明るく晴れ上がったよい天気で、ツイードリング・パーヴァを下りながら、ウィムジーは何となく朗らかになっていた。ブーブーと音を立てることが嫌いな、高名な淑女「マードル夫人」と似ているので、「マードル夫人」というあだ名をつけた彼の車も、楽しげにその十二気筒を振動させていたし、大気は霜のように清涼な感じをただよわせていた。こういうことは、人間を元気づけるのに役立つものである。
ウィムジーは目的地に十時ごろついて、真っすぐに牧師館に行った。大きくて、不規則に要りもしない建物をくっつけた代物《しろもの》で、牧師の一生の収入を注ぎこんでも足りず、彼が死んだらすぐ、莫大な補修費の負担を後継者にかけるような建物だった。
アーサー・ボイス牧師は在宅で、喜んでウィムジー卿を迎えた。
背の高い、かなり老いこんだ人で、顔には心労のしわが深く刻まれ、柔和な青い目は、浮世の物事がどうにもならないとでもいいたげに、ちょっと困惑したような色を見せていた。古くてだらんとした上衣が、猫背の狭い肩から下がっていた。彼はウィムジーにやせた手を出すと、椅子をすすめた。
ピーター卿は自分の用件を説明するのにいささか気が引けた。彼の名は、この温和で世間知らずの牧師には何の連想も起こさせないことは明らかだった。自分の探偵道楽のことは言わずに、被告の友人という資格で現れたことにしようと、彼は心にきめた。それにしても辛いことかもしれないが、少なくともその方が分りやすい。そこで、少しためらいながら、彼は話しはじめた。
「大へんぶしつけなことで、とくにあなたのお嘆きのたねになるような話ばかりで申し訳ないのですが、実はご子息の亡くなったことや裁判などのことについてお話にあがりました。僕が、おせっかいに出しゃばったと思われると困りますが、とてもこの事件には惹かれるものですから。個人的に気になるのです。実は、ミス・ヴェーンを知っておりますので、正直な話、僕はあの人が好きなので、この事件には何かの間違いがあるのではないかと、つまり、できるだけ筋道を正しくたどってみたいと思うのです」
「ははあ、分りました」ボイス氏が言った。彼は眼鏡をていねいに拭いて、鼻の上にかけたが、それは曲がっていた。ウィムジーを見ると、あまり嫌な感じもしなかったらしく、すぐ話しだした。
「かわいそうに、道を誤った女ですね。私は決してあの人に恨みを抱いたりしておりません。つまり、あの人がこの恐ろしい事件に無関係だというなら、一番喜ぶのは私でしょうな。ピーターさん、あの人がもし有罪だったとしても、実際のところ、あの人が罰をうけるのを見るのは、私には苦痛です。どんなことをしたって、死んだ息子が還るわけではなし、復讐なんてものは、みんなそれを司る神様の手におまかせするものです。たしかに、罪もない人の生命を奪うことほど恐ろしいことはありません。もし私が少しでもそんなことを考えたとしたら、最後の審判の日まで私はそのことで悩まされなければならないでしょう。それに、正直なところ、私は法廷でミス・ヴェーンを見て、警察が彼女を責めているのは正しいのだろうかと、えらく気になりました」
「ありがとう」ウィムジーが言った。「そういっていただけると助かります。とても仕事がやりよくなります。失礼ですが、いま『法廷で彼女を見て』とおっしゃいましたが、それまでにお会いになったことはないんですか?」
「ありません。もちろん私は、あの不運な息子が若い娘さんと不義の関係を結んでいたのは知っておりましたが、私の方から出かけて行って会うこともできませんでしたし、それに、当然感じられることですが、彼女の方でもフィリップが連れてきて身内の者に会わせるといっても断るだろうと思っておりました。ねえピーターさん。あなたは私より若いし、伜《せがれ》と同じような世代の方ですから、分っていただけるだろうと思います。伜は悪人でもなければ、墮落した人間でもないと思っとりますが、私との間には父と子の間の、完全な信頼といったようなものはありませんでした。たしかに、これは私の方が責められるべきでしょう。あの子の母親さえ生きていましたら……」
「まあ、まあ」ウィムジーが口ごもった。「よく分りました。よくあることですよ。全く、今でもそういう例はよくあります。戦後の世代やなんかですね。多くの人がちょっと無軌道になり、しかも実害は全く現れないんです。ただ、年とった人々と心を開いて話せないだけなんです。そのうちに、そういうこともだんだんになくなるでしょう。誰が悪いといって責めることもできますまい。若気のいたりとか言うやつですな」
「私としては、宗教や道徳に反するようなことは認められませんでした」ボイス氏は悲し気に言った。「きっと、そんな気持を私は息子にあまりあけすけに見せてしまったのでしょう。もう少し、同情してやればよかったのでしょうが……」
「それは無理だったでしょう」ウィムジーが言った。「人は自分で苦労して悟らなければなりません。それに、ここまで分っていただけるかどうか知りませんが、小説を書いたりして、そういう仲間と一緒になってるうちに、かえってそういう声をいっそう声高に表明するようになるものです」
「そうかもしれません。しかし、私はやはり自分を責めますな。ところで、こんなことはあなたのお役には全く立たないことです。失礼しました。もし何か間違いがあって、陪審員たちが証拠に満足しないのでしたら、できるだけの努力をして正しい方向にもって参りましょう。どんなことが、お役に立ちますかな?」
「そうですねえ、まず第一に」ウィムジーが言った。「大変嫌な質問で申し訳ないんですが、ご子息は生活に倦きたとか何か、そのような意味にとれることを言葉や手紙であなたに言われませんでしたか? 大変失礼な質問ですが」
「いえ、かまいませんとも。警察の人にも弁護人にも同じことを訊ねられました。正直に言って、そんなことは思いもよりませんでした。そんな様子は全くなかったのです」
「ミス・ヴェーンと別れたときにも?」
「あのときにも、そんな様子はありませんでしたな。実際あのときは、がっかりするというよりも腹を立ててるような様子に見えました。いろいろ相談のあげく、あの人が伜と結婚したくないと言ったと聞いて、私も本当は驚きました。いまだによく分りません。あの人に断られたのは、伜にはえらい衝撃だったに違いありません。その前には、とても楽しそうに結婚のことを書いてよこしてましたが、その手紙は覚えていらっしゃるでしょう?」彼は乱雑な引出しの中をかきまわした。「ここにあった。よかったらご覧下さい」
「そこのところを読んでいただけませんか?」
ウィムジーが言った。
「そうですな。えーと、ここだ。『父上様。善良な人々の言うところに従い、小生の同棲生活を正式なものにすることに致しました。これはきっとあなたの道義心をも喜ばせてくれることと存じます』あの子はよく、自分の善い性質を誤解されてしまうような、不注意な言葉遣いで話したり、手紙を書いたりしたものです。いや、これは話がそれましたな。『彼女はとても善良なかわいい人間で、私は万事を正式なやり方でやろうと思います。彼女はそうされるにふさわしい人ですし、それに、万事きちんとしめくくりがついたら、あなたにも会っていただいて、嫁として認めていただきたいと思います。結婚式の司祭をつとめて下さいというのではありません。ご存じのとおり、戸籍役場のほうが私には性に合っていますし、彼女も私のように抹香《まっこう》臭いところで育ったのですが、彼女が天国からの声による結婚に固執しようとも考えられません。時日は追ってお知らせ致しますが、もし宜しかったらこちらにお出かけになって、牧師としてではなく、父親として祝福を与えて下さい』ねえピーターさん。伜は全く当り前のことをしようとしていたのですし、伜が私に出席してもらいたいというので、私も感動しました」
「そうでしょうな」ピーター卿はこう言って考えた。「もしその伜とやらが生きていたら、この親父さんの代りに、尻を蹴上げてやりたいくらいだ」
「それから、もう一つ、結婚は駄目になったという手紙があります。この手紙です。『父上様。残念ながら、あなたのお祝いの言葉はありがたいのですが、そのままお返ししなければならないようです。結婚は駄目で、花嫁は逃げてしまいました。それ以上の立ち入ったお話はする必要はないでしょう。ハリエットは彼女自身と私を笑い者にしました。もう何も言うことはありません』それ以来、伜はずっと工合が悪かったそうで、しかしそういう話はもうあなたも先刻ご承知でしょう」
「息子さんは病気について何か言って来てますか?」
「いいえ、それは昔からの胃痛の再発だと思ってましたが……あの子はあまり丈夫な質《たち》ではなかったのです。ハーレックからはとても明るい手紙をよこしました。大分よくなって、バルバドスへ旅行するような計画も書いてありました」
「そうですか」
「ええ、それが体のためにはいいと思いましたし、気を紛らせてもくれるだろうと思いました。細かいことは何もきめてないらしく、ごく大ざっぱな計画しか言ってよこしませんでした」
「ミス・ヴェーンについては、他に何か言って来ませんでした?」
「死の床につくまでは、一言もその名前については言って来ませんでした」
「なるほど。で、臨終のとき、彼女の名を呼んだのを聞いて、どうお考えになりました?」
「どう考えていいか分りませんでしたね。もちろん、毒を盛られたなんてことは思いもよりませんから、それは二人が別れる原因になった喧嘩のことだろうと考えました」
「分りました。ところでボイスさん。もし自殺でないとすると……」
「実は、自殺などとは考えられないんです」
「そこで、ご子息が亡くなって、得をする人が誰かいますか?」
「いるはずはありませんが」
「いや、たとえば他の女性だとか?」
「聞いておりません。あったら聞いたはずですが。そういうことでは、伜はあまり秘密主義ではありませんでした。驚くほどあけっぴろげな率直な人間でした」
「そうだ。そんなことを吹聴して歩いたんだろうな。罰当りめ」ウィムジーはこう肚《はら》の中で言ったが、声に出してはただ、「他の可能性もあるんです。遺書のようなものは作ってありますか?」
「あります。伜は遺すような遺産は大してありませんでした。伜の本は大変立派に書けたもので、伜は素晴らしい知性を持っておりましたが、お金の方ではあまり収入は多くなかったようです。私が少しばかり仕送りをしてやり、それと雑誌などに書く原稿料で何とかやっていたようです」
「それで、本の版権を誰かに遺したと思いますが?」
「ええ。私に遺してくれるつもりだったようですが、私はその遺産は受けとれないと断ってやらなければなりませんでした。ご承知でしょうが、伜の考えは私には賛成できませんし、その本で私がお金をもらうというのはできないことです。そこで友人のヴォーガン氏に版権を遺贈しました」
「ほほう。ちょっとうかがいますが、遺書のできたのはいつです?」
「伜がウェールズに行っていたころの日付でした。きっとその前は、伜は全てをミス・ヴェーンに遺贈することにしていたでしょう」
「そうでしょうな」ウィムジーが言った。「たぶん彼女もそれは知っていたでしょう」彼の心には、沢山のそれぞれ矛盾した可能性が現れた。彼はつけ加えた。「しかし、いずれにしても大した額にはならんでしょう?」
「そうです。本の印税が年に五十シリングにでもなれば精々でしょう。もっとも、事件の後では、彼の新刊書はもっと売れるだろうと言う話ですがね」老牧師は悲し気な笑顔でこうつけ加えた。
「そうかも知れませんな」ウィムジーが言った。「新聞を見れば分りますが、面白がってる読者大衆というものは、そういうことは何とも思いませんからね。ところで、それはそれとして、ご子息は遺産として別に内証のお金を持っていませんでしたか?」
「何もありません。私どもの家にはそういう金はあったためしがないし、私の家内もそうでした。私たちは諺《ことわざ》どおりの教会の鼠でした」彼はこの牧師らしい冗談にかすかに笑った。「クレモナ・ガーデンからの遺産でもなければ……」
「誰です?」
「家内の叔母で、六十年代のあの有名なクレモナ・ガーデンです」
「ああ、あの女優の?」
「そうです。しかし、彼女のことは話に出たこともありませんでした。彼女がどんな方法で金を残したか、誰も詮索した人はありませんよ。別に大して悪いことではないんですが……とにかく、近ごろはちょっとしたことにもショックをうけるようになってしまったそうですから。もうまる五十年も、彼女とは会いもしなければ文通もしてません。きっともう老いこんで子供みたいに無邪気になってしまってるでしょう」
「だけど、まだ生きているとは信じられませんねえ」
「生きてますよ。九十すぎになってますが、きっと生きてると思いますね。しかし、フィリップもたぶん彼女から金をもらったことはないでしょう」
「では、金の話はこれで終りにして、ご子息はひょっとして、生命保険をかけていませんでした?」
「聞いたことはありませんな。伜の書類の中には証書はありませんでしたし、私の聞いた範囲では、誰も保険金を請求していないようです」
「借金は残しませんでしたか?」
「細かいものだけで、店屋の請求書ぐらいなものです。全部で五十ポンドばかりでしたろうか」
「どうもありがとうございました」ウィムジーは立ち上りながら言った。「おかげで、大分事情がはっきりしました」
「あまりお役に立ちませんで」
「いや、そんなことはありません。おかげでだいぶ無駄な時間が省けます。大変お邪魔してすみませんでした」
「いやいや。何なりとお訊ね下さい。気の毒な若い女性の身の証しを立てるためなら喜んでお手伝いいたします」
ウィムジーはもう一度礼を言って別れた。一マイルばかり道路を走らせて、彼は後悔しだした。そこで彼はくるりと愛用車マードル夫人をまわすと、教会にすれすれに走らせて、一つかみの紙幣をやっとの思いで「教会維持費」というラベルの貼ってある箱の口に押しこみ、町への道へとって帰した。
シティを車で通りぬけながら、ある考えが浮かんだので、彼は自分の住居のあるピカデリーへ向けていた車を、フィリップ・ボイスの著書を出しているグリムズビー・アンド・コール社の社屋のあるストランド南街に向けなおした。ちょっと待たされて、彼はコール氏の事務室に現れた。
コール氏は肥った陽気な人物で、有名なピーター・ウィムジー卿が、これも有名なボイス氏の事件に関心を持っているのを聞いてひどく面白がった。ウィムジーは、初版本蒐集家として、フィリップ・ボイスの全著作の初版本を手に入れたいと申し出た。コール氏はそのことでは役に立てないと言ってひどく恐縮していたし、さらに高価な葉巻をすすめられたためか、全く打ちとけて話しだした。
「冷酷な言い方をするつもりはありませんが、ねえ、ピーター卿」彼は椅子の背にそりかえるようにして、肥った三重あごを六重にも七重にもして言った。「ここだけの話ですが、ボイス氏は自分自身の力よりも、ああやって殺されたことによってずっと大きな働きをしてますよ。死体発掘が決まって知れわたってから一週間以内に全部売り切れて、裁判のはじまる前に、最後の大きな本で定価七シリング六ペンスのが二点、すっかり姿が見えなくなってしまいました。図書館が初期の作品まで要るとやかましく言って来たので、かなりな部数を再版しました。残念ながら紙型《しけい》をとっておかなかったので、印刷工たちは昼夜ぶっ通しで仕事をしなければならなかったんです。でも、やりましたよ。急がせているので、三シリング六ペンス版はいま製本屋の段階で、一シリング版も準備します。いくら欲しくても、お金を積んでも、こういう訳ですから、ロンドンで初版本を手に入れるのは絶対無理でしょうな。ここにも初版本は保存用のしかないのですが、今一ギニー〔三十一シリング〕の手すき紙刷り、限定版で番号入りの著者の肖像も入っている特別記念版を準備してます。もちろん、初版本とは違いますが、ただ……」
ウィムジーは自分の名前で一ギニーの版を一部申し込んでつけ加えた。
「かわいそうだとは思いませんか? 著者は本が売れても少しも自分の利益にならないなんて」
「全く気の毒なことです」コール氏は鼻の下の長いひだを頬の方にぐっとひろげて、言った。「それに、もっと、気の毒なのは、もう新しい本を書くことができないことです。才能のある青年でした。グリムズビー氏も私も、こういう商売として酬いられそうな気配も見えないころから、彼の素質を認めていた、ということに、淋しい誇りを感じていたものです。今度の悲劇が起こるまでは、運を待つだけのようなもんでした。しかし、作品そのものがよかったんですから、金もうけになったとしても、別に私たちはあわてもしませんね」
「なるほど」ウィムジーが言った。「時には身を切るような犠牲を払われたわけですな。実に信心深いやり方ですね。『多くの善根は多く酬いられる』という言葉がありましたな」
「そうですとも」コール氏はなぜか熱のない様子で答えた。祈祷書のことは全く知らなかったからかもしれないし、あるいはウィムジーの言葉の裏に皮肉を感じとったからかも知れない。「ところで、大変おしゃべりをしましたが、申し訳ありませんがそういう次第で、初版本のことではお役に立てません」
ウィムジーは礼を言うと、親しげに別れを告げて急いで階段を走り下りた。
次に訪れたのはハリエット・ヴェーンの代理人シャローナ氏の事務所だった。シャローナはくしゃくしゃの髪をして、度の強い眼鏡をかけた、小柄でぶっきらぼうな、色の黒い精悍な男だった。
「人気だって?」ウィムジーが自己紹介をして、ミス・ヴェーンに対する関心について話すと、彼は答えた。「そりゃもちろん、すごい人気が出て本は売れてる。全くのところ空景気だが、どうにもならない。とにかく、私たちはどんなことになろうとも、依頼人の利益になるよう最善を尽すだけですよ。ミス・ヴェーンの本は以前から割によく売れていて、国内で三千から四千というところだった。ところが、こんな事件で様子は全く変った。最近の本はもう三版になり、次の新しいのが発行前に七千部も予約で売り切れている」
「経済的には全くいいわけですな」
「もちろん、しかし正直な話、こういう人為的な人気で売れ行きが増えることは、永い目で見て著者の声価に果していいかどうか分らないね。ロケットのように上昇し、棒きれのように墜ちるという諺を知ってるでしょう。そのうちに、ミス・ヴェーンが釈放されたら……」
「あんたが、そう思ってるのは嬉しいですな」
「ほかの可能性は私は考えませんね。しかし、彼女が出てきたら、大衆の彼女に対する人気はきっと急にがたりと落ちてしまう。そうなっても、次の三冊や四冊の作品ではもちろん、私はできるだけ有利な契約ができるよう彼女の力にはなりますが、しかし、私の力が及ぶのはせいぜい前渡し金だけですからね。本当の収入は売上部数による印税なのだから、そこらで彼女がスランプになりはしないかと思うんだ。いずれにしても、すぐに酬いられるつづき物の版権だけはうまくやってやりますよ」
「あなたの商売からみて、今度の事件が起こったことを喜んではいないんでしょう?」
「永い目から見ると、喜ばしいことではないですな。個人的には、悲しんでいますし、あの事件が間違いだという確信ももっています」
「私もそうです」ウィムジーが言った。
「あなたについて私の知っているところから見ても、あなたがミス・ヴェーンに関心をもって力を貸されたことは、彼女にとっては最大の幸運だったでしょうな」
「これは恐れいります。ところで、砒素を素材にした小説を、ちょっと拝見させていただけませんか?」
「どうぞ、どうぞ」彼はベルを押した。「ミス・ワーバートン、『壺の中の死』の校正刷りを持ってきて下さい。トルーフット社ではできるだけ早く出したいと言ってます。しかし、この小説は拘留中には終りそうもありませんね。ミス・ヴェーンは恐ろしい精力と勇気で、この原稿の仕上げにかかり、校正も自分でやってます。もちろん、全部拘置所の司直の手を通じてですがね。だから、何一つかくし立てができないわけですよ。気の毒に、彼女は砒素に関しては何から何まで知ってますからねえ。ああ、これで全部揃ってるんですね。ミス・ワーバートン? さあ、これです。他に何か?」
「もう一つうかがいたいことがあるんですが。グリムズビー・アンド・コール社についてはどうお考えです?」
「別に考えたこともありません」シャローナ氏が言った。「関係しようとは思いませんしね。あなたもそうでしょう」
「いや、何も知らないもので」
「もし、あそこと関係するのでしたら、契約書はよく気をつけて読んだ方がいいですよ。私のところへいらっしゃいとも申せませんが」
「もしグリムズビー・アンド・コールで出版するようでしたら、あなたを通してお願いするようにしましょう」ピーター卿が言った。
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第七章
翌朝、ピーター・ウィムジー卿は、跳びこむようにしてホロウェイ監獄を訪れた。ハリエット・ヴェーンは悲し気な微笑で彼にあいさつした。
「まあ、あなたはまたお見えになりましたのね?」
「来ますとも。あなただって、きっと僕が来ると思っていたはずですよ。そんな印象を私は残していったつもりですがね。ところで、探偵小説のいい筋書を考えつきましたよ」
「どんなのです?」
「とびきり素晴らしいやつですよ。『坐って書く暇さえあれば、自分で書きたいと思うんですが』などと言って、よくそんな話を持ちこんで来る連中がいるでしょう。大作を作るのに必要なのは坐ってることだけだと思ってるんですな。ところで、それはさておき、まず僕の仕事から片づけてゆきましょう。いいですか?」彼はノートを見るようなふりをしてみせた。「ふん。そうだ。フィリップ・ボイスが遺書を作成したかどうか、ご存じありませんかな?」
「私と一緒に暮らしていたときは、作っただろうと思います」
「誰のために?」
「私のためですわ。大した財産はありませんでしたけどね。貧しい人でしたわ。主に作品の版権相続者にするつもりだったのでしょう」
「実際問題として、あなたは現在、彼の遺産執行人になってるんですか?」
「とんでもない。考えたこともありませんわ。二人が別れたときに、書き変えたとばかり思ってました。きっとそうしたと思いますわ。さもなければ、彼が死んだら私のところへ何とか言ってくるはずでしょう?」
彼女はじろりと彼をながめたので、ウィムジーはいささかそわそわしてきた。
「では、彼が遺書を変更したのを、あなたは知らなかったのですね? つまり、彼の死ぬ前にはね?」
「全くこれっぽっちも考えたこともありませんわ。もし考えて見たところで、もちろん、想像はついたでしょう。なぜですの?」
「何でもないんです」ウィムジーが言った。「ただ、遺書が誰かさん宛になってなくてよかったと思うだけです」
「裁判のときにですか? 遺書のことでそんなに気をつかうことはありませんわ。もし私が遺産相続人になっていると思ったら、そのお金のためにあの人を殺したかもしれないというのでしょう? でも、豆の一山を買うぐらいもないのはご存じでしょう。私だってあの人の四倍くらいのお金を持ってますわ」
「そうです、わかっています。僕の心に浮かんだ、たんなるバカらしい筋書きにすぎません」
「どんな筋書きです?」
「つまり――」ウィムジーはちょっと口ごもったが、無理に気軽そうな様子をして、一気に考えたことをしゃべりはじめた。「つまり、小説家、実はある探偵小説家がここにいます。彼女(ということにしますが)には作家の男友だちがいた。二人ともベスト・セラー作家ではなかった」
「ありそうな設定ですわね」
「そして、その友だちのほうが彼女に本の印税なども含めたお金を遺すという遺書を作る」
「それで」
「そして、女のほうが、大体は彼女のほうが男を養っていたようなものなのだけれど、二人の本をベスト・セラーにする素晴らしい手を考えつく」
「どんな?」
「つまり、彼女の最新の犯罪小説と同じ方法で彼を片づけてしまうんですよ」
「陰惨なやり方ね」ミス・ヴェーンは、感心したように言った。
「そう。そうすればもちろん、彼の本もすぐベスト・セラーになるし、金は彼女のものだ」
「本当にすばらしいわ。何年間も私の捜しあぐねていた、殺人の全く新しい動機ですわ。でも、少し危険だとお思いになりません? 彼女だって殺人の嫌疑をかけられますわ」
「そうすれば、彼女の本もベスト・セラーになる」
「本当だわ。でも、彼女は手に入れたお金を生きて使うことはできなくなるでしょう」
「そこが難しいんですがね」ウィムジーが言った。
「彼女が嫌疑をうけて捕えられ、取り調べられなかったら、この大ばくちも効果は半減ですしねえ」
「そうですよ」ウィムジーが言った。「でも、手馴れた探偵小説の玄人だから、何とかうまく抜けられる方法が考えつきませんかねえ?」
「そうね。彼女は例えば動かしがたいアリバイのようなものを作るわ。それとも、もし彼女がひどい悪人だったら、罪を誰かになすりつけるようにするでしょうね。それとも、彼女のその友だちが自殺したように見せかけるかもしれませんわ」
「漠然としすぎてますよ」ウィムジーが言った。「どういう風に彼女はそういう手をつかいます?」
「そんなに即座に言えませんわ。よく考えて、お知らせします。いえ、いい考えが浮かんだわ」
「どんな?」
「彼女が偏執的な人間だったら――いいえ、殺人狂ではないのよ。それでは読者に対して公正でなくなるし、バカらしいわ。でも、彼女が誰かのために利益を与えたかった。例えば、お父さんとかお母さんとか、妹とか、恋人とか、誰でもいいわ、そういう人がひどくお金がいるとしたら。彼女は自分がその罪で絞首刑になっても、愛する人にお金が行くように遺書を書くようにするのよ。これではどうです?」
「すばらしい」ウィムジーが夢中になって叫んだ。「ただ、ちょっと待って下さいよ。彼女にはその友だちの金が入りますかな? 犯罪によって利益を受けることは許されないはずですよ」
「まあ、そうですわ。では、彼女自身のお金だけになってしまうわ。でも、彼女はそれを贈与証書にして贈ることができますわ。そうだわ。殺人直後に、自分の物を全部贈るという贈与証書を作れば、友だちの遺書によって入って来るものも含められるわけだわ。そうすれば、全部彼女の愛している人のところへ行くことになり、法律でもそれを止めることはできないと思いますわ」
彼女はチラチラと視線を動かしながら彼に面と向かった。
「だけど」ウィムジーが言った。「あなたは危ない。あまりに利巧すぎる。しかし、とにかくこの筋は面白いでしょう?」
「当るわよ。一緒に書きましょうか?」
「書きましょう!」
「ただ、ご存じの通り、書けるような機会が来るかどうか心配ですわ」
「そんなこと言うものではありません。もちろん書けますよ。それはそうと、僕はここに一体何しに来たのだろう? たとえ、あなたを助けるのがだめになっても、僕がこのベスト・セラーを書く機会は失うことはできない」
「でも、あなたがなさったのは、もっともらしい殺人の動機を考えただけですわよ。それが私たちにそんなに役に立つというのは、分りませんわ」
「僕は、少なくとも、これは動機にはならないことを証明をしようとしたのです」ウィムジーが言った。
「なぜですの?」
「これが本当の動機なら、あなたは話してはくれなかったでしょう。巧みに話題をそらせてしまってね。それに――」
「何ですの?」
「実は、コール氏に会ったので、フィリップ・ボイスの印税の大部分がどこに行くかを知ってるんです。それに、ちょっと彼がその愛されている人間ではないかと考えたものですからね」
「そうでないとしたら、なぜですの?」ミス・ヴェーンが言った。「私が彼の三重あごの一つ一つに夢中なのがお分りにならないの?」
「もし、あなたが、ああいうだぶだぶしたあごが好きなら、僕もあごを肥らせましょう。大変辛い仕事ですがね。そう。とにかく、そうやって笑っていて下さい。その方があなたに似合う」
「まあ、これで万事よしと」後で門が閉まると、彼は考えた。「明るい冗談で依頼人は喜んでいたが、すこしも事態は前進してないけどなあ。あのアークハートという奴はどうなんだろう? 法廷では平然としていたが、分らないぞ。ひょっこり行って、会って見たほうがよさそうだ」
彼はすぐにウォーバーン区に姿を現したが、アークハート氏は親戚の病人に呼ばれて留守なのでがっかりした。戸口のところで彼に応えたのはハンナ・ウェストロックではなく、体格のいい中老の女で、ウィムジーは彼女がコックなのだろうと思った。彼はこのコックにも聞きたいことがあったのだが、アークハート氏の留守中にその召使いから話を聞き出したりしたら、今度は彼が喜んで会ってくれなくなるのではないかと思ったので、アークハート氏はどのくらいお出かけになってるだろうと聞くだけで我慢した。
「正確なところは申せませんが、ご病人の様子によると思います。病気の女性が好くなられたら、すぐにお帰りになるでしょう。今のところ、とてもお忙しいようですから。もし、お亡くなりにでもなれば遺産の分配などで、しばらくご用をなさって来られると思います」
「なるほど」ウィムジーが言った。「それはちょっと困ったな。火急に会って話したいのでね。ご主人の出先の住所を教えてもらえませんかね?」
「はあ、アークハート様が宜しいとお思いになるかどうかわかりませんので。しかし、お仕事の話でしたら、ベッドフォード街の事務所の人たちがお教えするでしょう」
「どうもありがとう」ウィムジーは番地を書きとめながら言った。「そっちへ行きましょう。たぶん、事務所の人たちだけで、ご主人をわずらわさないでも用はすむでしょう」
「そうでございましょう。しかし、どなた様でございます?」
ウィムジーは上に「ヴェーン事件に関して」と書いた名刺を渡してつけ加えた。
「だが、早く帰って見えるかもしれないのだね?」
「はい。この前などは、お気の毒なボイス様があんな恐ろしい亡くなられ方をなさったのに――あれも神様の思し召しでしょうが――二日と家をお明けなさいませんでした」
「なるほどねえ」ウィムジーは自然に話の糸口が出て来たのを喜んだ。「あんた方もひどく驚いたろうね」
「そうですとも」コックは言った。「今だに、考えてもぞっとしますわ。殿方があんな風にしてこのお宅で亡くなるなんて、それも毒を飲まされて。おまけに、その夕食を作ったコックの身になってごらん下さい」
「でも、夕食には間違いなかったんじゃないか」ウィムジーが愛想よく言った。
「そうでございますとも。とても気をつけてお料理していたのは判ってもらえましたわ。台所では間違いは全くなかったといわれて、ほっとしました。でも、人の口というものは、何かといってはいろいろうるさいものです。いずれにしても、旦那様もハンナも私も口をつけないお料理は一つもなかったんですからね。食べてよかったと感謝してますわ。こんなこと、あなたにはお話することはありませんのに……」
「いや、話してくれて結構だよ」ウィムジーがさらにかまをかけようと考えていると、勝手口のベルが荒々しく鳴ってこれを妨げた。
「あら、肉屋ですわ」コックが言った。「ご免下さいまし。女中がインフルエンザで寝てますんで、今朝は私一人なのです。アークハート様にはあなた様がお見えになったとお伝えしておきます」
彼女がドアを閉めたので、ウィムジーはベッドフォード街の方へ行った。彼を迎えたのはかなり年とった事務員で、アークハート氏の出先の住所を何でもなく教えてくれた。
「ここです。ウェストモアランド、ウィンドル町アップルフォードで、ミセス・レイバーン方です。しかし、そう長く留守にはしないと思います。それまでに何かご用がございましたら、どうぞ」
「いや、結構です。どっちかというと個人的な用件でお会いしたいので、おかまいなく。実は、彼の従弟のフィリップ・ボイス氏の気の毒な事件についてなのです」
「さようでございますか。アークハート氏もなにしろお宅で起こった事件ですし、大変なことなので、すっかり面くらっておられました。ボイス氏は大変立派な青年でしたのに。あの方とアークハート氏は大変仲が好くて、それだけに気を落されているようです。裁判にはお出になりましたか?」
「ええ。評決はどう思いました?」
事務員は口をすぼめた。
「驚いたという外ありませんな。わかりきった事件ですよ。陪審というのは頼りないものですな。特に近ごろは、女の人でも入ると……。この商売でも近ごろは女流法律家というのが出て来ましたが」ここで事務員はかすかに笑って、「法律的な考え方ができるというのは、その中にはほとんどいませんな」
「そうかも知れない」ウィムジーが言った。「もし、そうでなかったら、訴訟沙汰というのがずっと減ってしまうでしょうからね。商売のためにはその方がいいでしょう」
「は、は、これはいい。なるほど、ものごとは考えようですな。私などは旧式の人間なので、女性というものはきれいにめかしこんでとりすましていて、物事にあまり積極的に動かない方が魅力があるような気がしますね。この事務所にも女事務員がいましたが、事務員として悪い方ではなかったんですが、ちょっとした気まぐれから、ふいと結婚することになって、アークハート氏が留守のこの忙しいときにやめてしまうんですからね。大体、若い男の場合は、結婚はその人物をしっかりさせ、仕事への執着を強くするものですが、若い女はそうはいきませんや。娘が結婚するのは当然のことですが、われわれには迷惑ですよ。第一、法律事務所などにすぐに使える助手を、おいそれと見つけるわけには行きませんからね。もちろん、仕事の中には秘密なものもありますし、それに、どんな場合にも仕事というものは腰をすえてやるという気分が必要ですからね」
ウィムジーは主任の愚痴に同情して、愛想のよい別れを告げた。ベッドフォード街に公衆電話のボックスがある。彼はそこに飛び込むと、すぐにミス・クリンプスンを呼んだ。
「こちらはピーター・ウィムジー。やあ、クリンプスンさんか。どうだね。万事うまく行ってる? それは結構。ところで、ベッドフォード街のノーマン・アークハート氏の法律事務所で女秘書の口が空いてるんだ。誰かいるかね? うん。よし、誰かをそこに入れておきたいんだ。いや、何も特別な仕事はない。ただ、ヴェーン事件のゴシップを拾えばいいんだ。うん、真面目そうな人をね、あまり白粉をつけすぎないで、それから、スカートは裾がひざから下四インチぐらいのをはくようにしてね。主任が責任者だ。前にいた秘書が結婚して止めたんだし、主任は性的魅力は嫌いらしい。すぐにだぜ。そこに誰か入れれば、その娘には僕から指示は与える。じゃ、あんたのシルエットがこれ以上肥らないように祈ってあげるよ」
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第八章
「バンター」
「ご用で? 旦那様」
ウィムジーは今うけとったばかりの手紙を指先で叩きながら言った。
「お前は、今が一番美男子で魅力的なときだと、自分で思わないか? 冬だというのに、お前の後ろには虹が出ているようだ。なにかそういう気負ったような感じがしないか? 言わばドン・ファンになったような……」
バンターは朝食の盆を指先で調子をとって運びながら、とんでもないと言うように咳ばらいをした。
「すばらしくすらっとした印象的な様子をしてるんだよ」ウィムジーが説明した。「丸いくるっとした目や、打てばひびくような弁説は、なあ、バンター、休暇のときにはずいぶん役に立つんだぞ。料理女や女中などを騒がせるにはそれ以上何が要る?」
「私は今のままで十分満足でございます」バンターが答えた。「旦那様にお仕えするのに精一ぱい働けばそれでよいので……」
「それは分ってる」ピーターはうなずいた。「いつも僕は自分に言って聞かせてるんだが、いつまでもこのままでいられるわけはないよ。近ごろでは、お前のような立派な男は、召使いなどという労役は投げ打って、居酒屋か何かの亭主になるのが多いんだ。ところが、家では何も変ったことが起こらない。今だに、毎朝ちゃんとコーヒーが沸いているし、風呂は用意してある、剃刀もきちんと並べてあるし、ネクタイや靴下も調えてある、ベーコン・エッグも立派な皿にのって僕のところへ運ばれてくるというわけだ。それはとにかく……。今度はもっとひどい仕事を押しつけようと言うんだ。バンター、ひどいというのは僕にとってもひどいことなんだがね。もし、お前が否応なしに結婚させられてしまって、そのままいなくなってしまったら、誰が僕にコーヒーを運んでくれ、風呂の用意をし、剃刀を整えたり、そのほかのいろんな仕事をやってくれるんだろう? それに……」
「相手は一体誰なんで?」
「二人いるんだ。ビンノリーで、一つの部屋に住んでいる二人の女だ。女中の方はお前も見ている。名はハンナ・ウェストロック。三十女で、そんなに不器量でもない。もう一人は、料理女で名前は知らないが、きっとガートルード、とかセシリー、マグダレン、マーガレット、ロザリーヌというような甘い響きの名前を持ってるに違いないよ。成熟したという点ではいい女で、別に悪いところもない」
「それはそうでございましょう。年増女で堂々としているのは、お転婆で考えのない若い美人よりも微妙な魅力でひきつけることが多いようです」
「本当だ。ところでバンター。お前がそのウォーバーン区のノーマン・アークハート氏宅へ密書を持って行くというのはどうだろう。できるだけ早く、蛇のようにするするとその家の奥深く入りこめるだろうか?」
「お望みならば、旦那様のためにもぐりこんでみます」
「いい男だ。法にふれて裁判になるとか、なにか――そんなようなことが起こった場合は、もちろん、尻ぬぐいはするよ」
「おまかせ致します。で、いつ始めるんです?」
「これからアークハート氏宛の手紙を書くから、すぐにだ。ベルを鳴らす」
「承知致しました」
ウィムジーは文机の方へ行った。しばらくすると、彼はちょっと剣のある目つきで顔を上げた。
「バンター、何をうろうろしてるんだ。嫌だね。お前がそんな風なのは珍しいことだし、気になるね。頼むからうろうろしないでくれ。僕の命じたことが気にくわないのか? それとも新しい帽子でも欲しいのかね? 何が気にかかるんだ」
「申し訳ありません。じつは、いろんな意味からちょっとお伺いしたいと思うようなことができましたもんで……」
「おいバンター、そんな遠まわしな言い方はやめてくれ。我慢できんよ。人を刺し殺せと言う訳じゃあるまいし、考えてみろよ。どうだね?」
「伺いたかったのは、旦那様がお家の中をお変えになろうと思っていられるのかどうかでございます」
ウィムジーはペンを置いてバンターを見つめた。
「家の中を変える? たった今、コーヒーや風呂や剃刀や靴下、ベーコン・エッグを運んでくれる昔なじみの親しい顔について、僕が執着していると言ったばかりではないか。私をおどかそうと言うのか?」
「とんでもございません。僕にとっては旦那様にお仕えできなくなるなんて、大変辛いことでございます。でも、考えてみますと、旦那様もそのうちに新しく……結ばれるのではないかと……」
「ああ、今結んでるこのネクタイなら、小間物屋みたいだということは僕にも分っていたよ。とにかく、お前がそう思うんなら、何か似合うネクタイでもあるかね?」
「旦那様は考えちがいされてます。私が申し上げてるのは家族的な結びつきのことでございます。奥様をお迎えになられたら、きっと奥様が旦那様の身のまわりのことはなさるでしょう。そうなると……」
「バンター」ウィムジーはかなり驚いたように言った。「どこからそんな考えがでてくるんだ」
「想像しただけですが……」
「探偵になれるよ。僕はスルース・ハウンド〔探偵犬〕を家にかっていた訳か? ところで、その女性の名前をご存じかね?」
「はい」
しばらく沈黙がつづいた。
「ふうん」ウィムジーがどちらかというと勝ち誇ったような調子で言った。「では、どうだね、その人は?」
「こう申しては何ですが、大変立派な方です」
「そう思うかね? もちろん、ひどく異常な状況だよ」
「左様でございます。でも、ロマンチックだなぞと失礼なことは申し上げますまい」
「忌々《いまいま》しいと言ってもいいんだぜ」
「左様でございますなあ」バンターは同情するように言った。
「逃げ出すつもりか?」
「どう致しまして」
「では、二度と僕をおどかすようなことは言うな。僕の神経は近ごろは前とは違っているんだから。これが手紙だ。持っていって、できるだけのことをやってくれ」
「承知致しました」
「ああ、それからな、バンター」
「はい」
「僕はいつも感情を表に出しすぎるらしい。そうしたいとは思ってないんだがね。もしお前に、僕が感情を表に出してるのに気がついたら、ちょっと教えるようにしてくれ」
「承知致しました」
バンターは静かに出て行った。ウィムジーはいらいらと鏡の前に歩みよった。
「何も見えないがなあ」彼は独り言を言った。「愛の涙と苦悩の汗の露置ける白百合のような頬にもなってない。とにかくバンターをだまそうなんてことはできないな。まあいい。仕事が第一だ。これで、一、二、三、四と四つの相手を捜った。次は? ヴォーガンというやつはどうだろう」
このボヘミアンのことで調べたいことがいくらかあったので、いつもの通りウィムジーはミス・マージョリー・フェルプスの助力を求めた。陶製の小像を作って暮らしを立てていたので、彼女の仕事場か、さもなければ誰かのそういう仕事場で会うことができる。十時に電話をすれば、大てい自宅のガス・ストーブでかき玉子を作っている彼女をつかまえることができた。彼女とウィムジーとの間には、ベローナ・クラブ事件のときには特別な関係があって、今度のハリエット・ヴェーンの事件に彼女を巻きこむのは、彼女にとってもちょっと気の毒なわけだが、手段を選んでいる暇もないので、ウィムジーは上品なためらいというようなものを捨て去った。彼は電話をかけて、「もしもし」と答える声にほっとした。
「もしもし、マージョリーかい? ピーター・ウィムジーだ。どうだね?」
「まあ。元気ですわ。あなたの明るい声がまた聞かれて嬉しいわ。何か私にご用ですの? 高級探偵貴族様」
「フィリップ・ボイス殺人事件に首をつっこんでいるヴォーガンという男を知らないか?」
「まあ、ピーター。あの事件に手を出してるの? おかしいわね、どちら側ですの?」
「弁護側だ」
「万歳!」
「何が万歳なんだね?」
「だって、その方がずっと面白くて難しいでしょう?」
「そうらしい。ところで、ミス・ヴェーンは知ってるかね?」
「知ってるとも言えるし、知らないとも言えるわ。ボイスやヴォーガンなんかの一党と一緒のところを、一度見たことがあります」
「気に入ったかね、彼女は」
「まあね」
「彼の方はどうだい? ボイスだよ、僕が言ってるのは」
「何とも思わなかったわ」
「いや、好感が持てたかという意味さ」
「持てなかったわ。ああいう男には惚れこむか、好きにならないかどっちかよ。近代的な明るい好もしい青年じゃなかったわ。そうでしょう?」
「ほう。で、ヴォーガンは?」
「取り巻きよ」
「え?」
「飼い犬みたいなものよ。友人の才能の発展に全く邪魔にならないという、それだけの男よ」
「ほう」
「やめて下さいな、ほう、とばかり言ってるの。ヴォーガンという男に会いたいの?」
「あまり面倒でなければね」
「いいわ。今夜、車で来て。一緒にさがしてみましょう。きっとどこかでぶつかるわ。それに、よければあなたの競争相手の、ハリエット・ヴェーンの支持者たちにも会えるわ」
「そういう人たちは証言はしたのかね?」
「ええ。エイランド・プライスなんか、きっとあなたの気に入るわ。彼女はズボンをはいてるものは何でも軽蔑するけど、苦しいときにはいい友だちですわ」
「行こう。僕と一緒に食事をするね」
「したいけど、多分だめ。今日はとても忙しいの」
「よろしい。では、九時ごろ行くよ」
そういう訳で、九時にはウィムジーはマージョリー・フェルプスと二人タクシーでスタディオ廻りをしていた。
「今まで、ものすごく電話をかけていたのよ」マージョリーが言った。「それで、彼がクロポトキーの店で見つかりそうだということが分ったわ。ボイスびいきの連中や共産党や音楽家などが集まるところで、飲み物は悪いけど、ロシア風のお茶なら無難だわ。タクシーは待たせとけます?」
「うん。何だか、ひょっとしたら逃げ出さなければならないみたいだからね」
「ええ。お金持はいいわね。その横町を右に曲がって、ペトロヴィッチ厩舎の先よ。私が先に探って見たほうがいいわね」
狭い、邪魔物だらけの階段をつまずきながら上ると、上ではピアノと絃楽と台所用品のガチャガチャいうのがまざった甲高い音が聞こえて、何かお楽しみが始まっていることを示していた。
マージョリーが乱暴に扉を叩き、答えも待たずにバタンと開いた。後につづいて入りかけたウィムジーは、むっとするような、騒々しくて、煙草の煙と揚げ物の匂いのこもった重くるしい空気の波に、平手で顔を叩かれたような気がした。
ひどく小さな部屋で、うす暗い彩色ガラスのランプに包まれた只一つの電灯が、ぼんやりと中を照らしていた。ところが、人間は窒息しそうなくらいぎっしりつまっていて、絹の靴下をはいた脚や、むき出しの腕、青白い顔などが、暗闇でうごめく土蛍《つちぼたる》のように見えた。渦巻く煙草の煙がここかしこに宙にただよっていた。片隅には無煙炭ストーブが毒気を吐きながら真赤に燃えていて、もう一方の隅のゴーゴー唸っているガス・オーヴンと競争で、蒸れかえるような雰囲気を作っている。ストーブの上には大きなやかんがたぎっているし、サイドテーブルには、やはり大きな湯気の立っているサモワールが置いてあった。ガスの上では、ぼんやりした人影が鍋の中のソーセージをフォークでひっくりかえしているし、助手らしいのがオーヴンの中の何かをのぞきこんでいる。鼻のきくウィムジーはこの混沌とした空気の中からいろいろな匂いを嗅ぎ分けたが、それがくん製の匂いだとぴたりと当てることができた。
ドアのすぐ内側にあるピアノには、赤毛をもじゃもじゃにした若い男が、何かチェコ・スロヴァキア風の曲を弾いていて、ヴァイオリンは男だか女だか分らないような、ジャンパーを着たひどくぐにゃぐにゃした人間が弾いていた。
二人が入っても誰もふり向きもしなかった。マージョリーは脚があっちこっちに突き出ているテーブルの間をかき分けるようにして、やせた赤毛の女を見つけ出し、耳端で何かどなった。若い女はうなずいて、ウィムジーの方を見て会釈した。彼はその場にたどりついて、そのやせた女にごく簡単に紹介してもらった。
「こちらピーター、この人はニナ・クロポトキーよ」
マダム・クロポトキーはあたりの騒音にも通るような大声で「ようこそ」と叫んだ。「こちらにおかけなさい。ヴァーニヤが何か飲みものを持って来ますわ。いい曲でしょう? あれはスタニスラスですわ。天才ですわ、ピカデリーの地下鉄で作曲したんですよ。素晴らしいでしょう。そうじゃございません? 五日間も、音階をきめるために、ずっとあの駅のエスカレーターに乗り通しだったんですって」
「立派なもんですな」
「そうお思いですか? まあ、ありがたいことだわ。本当にあれがオーケストラの曲に向くことが分っていただけるんですのね。ピアノで弾いただけでは何も分りません。吹奏楽器もいるし、打楽器やティンパニなんかがいりますわ、ブルルルル……。そうですわ。でもあれでも、様式と大略は分りますわね。あら、もう終ったわ。素晴らしかったわよ」
やかましい騒音が終った。ピアニストは顔の汗をぬぐって、疲れたようにあたりを見まわした。ヴァイオリンを弾いていた方は、楽器を置いて立ち上ったが、足元のほうの服装からそれが女だということがはじめて分った。部屋の中には急に話し声が湧き起こってきた。マダム・クロポトキーは、傍に坐らされた客の、肩をとびこえるようにして、汗だくになったスタニスラスを抱くようにし、両頬をよせてやった。脂のじゅうじゅうはねているフライパンがストーブから下されると、「ヴァーニヤ」と呼ぶ金切り声が起こり、すぐに青白い顔がウィムジーのところへ現れ、のどにかかったような声でわめきかけた。「何を飲みます?」ところが、これとほとんど同時に彼の肩ごしにくん製の皿が危なっかしく差し出された。
「いや、いま飯をすましたばかりなんだ」彼はやり切れないというように叫んだ。「もう腹一ぱいなんだよ」
マージョリーが金切り声で助け舟を出し、もっとはっきりと断った。
「そのいやらしい皿を持って行きな、ヴァーニヤ。気持が悪くなるよ。お茶だけでいいんだ、お茶よ、お茶」
「お茶?」青白い男が言いかえした。「お茶だとさ。一体スタニスラスの詩曲をどう聞いたんです? あの強烈で近代的な曲を? 群衆の中の反逆の精神、破裂する、機械文明の中心の革命を。市民の心に何か考えるようなものを与えるはずだがねえ」
青白い男が向うを向くと、ウィムジーの耳もとで声がした。「ちぇっ、つまらん、ブルジョア音楽だよ。演奏会向きの音楽さ。こぎれいにまとまったね。ウリロヴィッチの『Z字上の陶酔』を聞いてごらんよ。古くさい様式なんか全くない純粋な震動だけだ。スタニスラスはたしかに考えてはいるけど、昔ながらの山川と同じに古いよ。彼の不協和音なんて、みんなその背景まで分析できるだろう。ただ、調和がカモフラージュされてるだけさ。何もないよ。赤毛で骨ばった体格なので人気をつかんでいるんだ」
この男の言ってることは、そのいみでは正しいらしかった。その男は球突きの球のように丸々と肥っていたからである。ウィムジーはなだめるように返事をした。
「ところで、あのオーケストラというやつのガラクタな古くさい楽器はどうもならんものかね? 全音階なんてくだらんものを。ブルジョア的半音とか、十三音階なんてくだらない。現代感覚のいろいろな組合せを完全に表現するには一オクターブに三十二の音階が必要だ」
「ところで、なぜオクターブに執着するんだ」肥った男が言った。「オクターブだとか、センチなその組合せをふり捨てない限り、古い型式の足かせから脱れることはできないぜ」
「全くだ」ウィムジーが言った。「既定の音階なんてものは一切捨て去ろう。猫だってそんなものなしで、訴えるように強い真夜中の恋の歌を歌っているじゃないか。種馬が恋に悶えて歌うのも、オクターブや休止符なんて考えずに、情熱の叫びを叫んでいる。バカらしい旧習にとらわれているのは人間だけだ……やあ、マージョリー、どうした?」
「こっちへ来て、レイランド・ヴォーガンにお会いなさい」マージョリーが言った。「あなたのことはフィリップ・ボイスの本の熱心な愛読者だと言っておいたわ。お読みになってるでしょうね?」
「いくつかはね。何だか、バカみたいになってきたよ」
「一時間もすれば、もっとひどくなるわ。だから、早くいらっしゃい」彼女はガス・オーヴンの傍のちょっと空いてる一隅へ案内した。そこには、ひどくのっぽな男が、床のクッションの上にとぐろを巻くようにして、壺からピックル・フォークでキャビアを食べていた。彼は一種陰気くさいいんぎんさで、ウィムジーにあいさつをした。
「いやな店だ」彼は言った。「くだらんことばかりで、ストーブは熱すぎるし。何か飲みますかね? 僕に何か用だそうだけど。僕は、フィリップがいつもここへ来たというだけの理由でここへ来るんですよ。習慣かな。分るでしょう。習慣なんて、僕は嫌いなんだけど他に行くところもないからね」
「ボイス氏のことはよくご存じなんでしょうねえ」ウィムジーは屑籠に腰かけながら言った。海水着でも着てくればよかったと考えながら。
「彼の只一人の本当の友だちですよ」レイランド・ヴォーガンが悲しそうに言った。「他の連中は彼の頭を食いものにしようとしただけですよ。猿め、オウムめ、みんな血なまぐさい欲張りばかりだ」
「僕は彼の作品を読みましたが、立派なものだと思いましたね」ウィムジーがちょっと神妙そうに言った。「しかし、気の毒な人だったようですな」
「誰も彼を理解してないんです」ヴォーガンが言った。「彼のものは難しいと言ったりするが、あれだけの人生との闘争がそんなにやさしく読めますか? 彼の血を吸い取り、彼の出版社なんていう泥棒野郎は、びた一文残さずに金を取りこんでしまったんですよ。その上、あのあばずれ女が毒を盛るなんて。ああ、何て悲惨な一生だったんだろう」
「全くですな。しかし、何だって毒なんか盛ったんでしょうね? もし、その女がやったんだとすると」
「彼女がやったんですよ。全くの獣じみた怨みと嫉妬だけでね。自分では駄作しか書けないというだけの理由でさ。ハリエット・ヴェーンも、そこらのくだらない女たちと同じような気持を持っていたという訳でさあ。よくあるでしょうが、そんなことが。男を憎み、男の仕事を憎む。ああいう女はフィリップのような天才を助け育てたと考えるかも知れませんがねえ。とんでもない。ところがフィリップときたら、あの女に助言を求めていたっていうんだから!」
「実際にそんなことがあったのかね」
「金輪際、そんなことはなかったね。あの女は他人の作品に対しては意見を述べたことはないんです。他人の作品にはね。あきれた話ですよ。もちろん、あの女はわれわれには考えもつかない気持の人間ですが、しかし、なぜ彼女は自分の心と夫の心との違いに気がつかなかったんでしょうね。もちろん、そもそもそんな女とつき合うようになったはじめから、フィリップにとってはどうにもならないことだったんですがね。そのころ、僕は彼に警告したんだけど、彼ものぼせていたからね。とどのつまり、彼女と結婚しようと言いだしたんですよ」
「どうしてでしょうな?」ウィムジーが訊ねた。
「牧師館育ちのしつけが残ってたんでしょうよ、たぶんね。全く気の毒なもんだ。おまけに、あのアークハートという従兄の奴が、いろいろとおせっかいないたずらをしたらしいんでね。知ってますか、口先のうまい弁護士だけど」
「いや」
「そいつが彼をつかまえ、家を持たせて落ちつかせようとしたんではないかな。そういう影響を彼が受けていたのは、あの事件が起こるかなり前から僕は気がついていた。死んでよかったかも知れない。彼が世の中の慣習に従って家を持つようなことになったら、見られたもんじゃないからね」
「その従兄というのは、いつごろから顔を出してきたんですかね?」
「そうさねえ、二年ばかり前からかな。それよりちょっと前だったろう。彼を食事にさそったとか、何とかそんなようなことでしたよ。彼がフィリップの肉体と精神を亡ぼすだろうと、その時に、もう僕には分っていた。彼が欲していたのは――フィリップのことですよ――自由と避難所だけだったけど、女や従兄や親父が背後に控えていたんだからねえ。今になって愚痴を言ってもしようがない。作品は残っているのだし、それが彼の生命のいいところの一部なんだから。彼は結局、僕に後のことを托していった。ハリエット・ヴェーンには指一本ふれることができないんですよ」
「あんたの手に托されていれば、全く安全でしょうな」ウィムジーが言った。
「しかし、あの男にまだどれだけの仕事ができただろうかと考えたら」ヴォーガンは血走った目をあわれむようにウィムジーに向けて言った。「この、のどをかき切りたくなるくらいですよ」
ウィムジーは同感だという表情をしてみせた。
「いずれにしても、あんたは彼の最後の日に、従兄の家に行くまでは一緒にいたんですね」彼は言った。「途中で彼が毒薬か何かを持っていたとは考えられませんか? 冷酷な見方をしようとは思わないが、彼は不仕合せだったし、バカらしい考え方かもしれないが、もしかすると――」
「いや」ヴォーガンが言った。「いやいや、そんなはずはない。もしそうだとしても、僕に話しただろうし、あの最後の数日だって僕のことは信じこんでいた。いつも彼の考えていることは聞かされていたんですよ。あの下らぬ女にひどく心を傷つけられたとしても僕に別れを告げずに死んでしまうはずはない。それに、彼はそういうやり方は選ばないでしょうな。なぜ、自殺しなければならないんです? 僕は彼に……」
彼は言葉を切って、ウィムジーを見たが、その表情には同情以外の何ものもないのを見ると、言葉をつづけた。
「彼と薬のことについて話し合ったのを覚えてますがね。ヒヨスチンとかヴェロナールとかいう薬のことです。彼は言ってました、『もし俺がおさらばするときは、死に方を教えろよ』とね。僕も教えたでしょう、もし彼が本当に死にたいんでしたら。それを、砒素で死ぬなんて。あれほど美を愛するフィリップが、こともあろうに砒素などを選ぶなんて考えられますか? どん百姓の選ぶ毒薬でしょう? 全く、考えもつかないことですよ」
「でも、それも考えられないことではないでしょう、たぶん」ウィムジーが言った。
「しかし、ねえ」ヴォーガンはしゃがれた声で感きわまったように言った。彼はずっとキャビアと一緒にブランデーをあおっていたが、ここでちょっとそれを止めた。
「ねえ、これを見て下さいよ」彼は小さなビンを胸のポケットから出した。「フィルの本の編集が終わるまで、これがちゃんと待っているんですよ。これを持っていて、じっと見るだけで良い気持になります。平和なね。象牙の門を通って――こう言うとだいぶ旧式に聞こえますが、とにかく僕は旧式な教育を受けて来てるんですから。ここにいる連中は僕がそんなものにとりつかれてるのを笑うかも知れないけど、今さらそんなことをしゃべる必要もありませんよ、かわいそうなフィル」
ここでヴォーガン氏は涙にくれて、小さなビンを指先で叩いた。
ウィムジーは、まるで機関室にでもいるように頭と耳ががんがんしていたので、静かに立ち上って立ち去った。誰かがハンガリーの歌をはじめ、ストーブはますます白熱してきた。隅のほうの男ばかりのグループに交じっていたマージョリーに、彼はやりきれないというような合図をして見せた。面白そうなその連中の歓声に合わせて、一人の男が彼女の耳許に口をよせて自作の詩でも読んでいるらしく、また一人の男は封筒の裏に何かスケッチしていた。その騒ぎは歌手の歌うのを妨げたので、歌手は歌を途中で止めて怒って叫んだ。
「ああ、うるさいわね。邪魔をしないでよ。もう我慢できないわ。止めて。はじめから歌いなおすんだから」
マージョリーが詫びながら立ち上った。
「悪かったわね。ニーナ、私あんたのとこの動物園なんかどうなろうと知らないわ。でも私たちは全く邪魔者だったらしいわね。ごめんなさいねマーヤ、私むしゃくしゃしてたの。ピーターを連れて逃げ出すわ。いつか、私の機嫌が良くて、もっと気分のだせるようなゆとりのあるときに歌って聞かせてね。さよならニーナ、とても面白かったわ、それからボリス、よく聞けなかったけど、今日の詩はあんたの書いたもののなかで一番よかったわ。ピーター、みんなに私がひどく憂うつだった言い訳をして、私を家に送って頂戴」
「そうだね」ウィムジーが言った。「いらいらしてると、いろんなことにまずいことが出てくるもんだし、失礼なことも起こる」
「失礼だって」あごひげを生やした紳士が突然大声で言った。「礼儀なんてブルジョアのものだ」
「全くね」ウィムジーが言った。「実に下らぬ形式で、あれはいかん、これはいかんとやかましいことばかりだ。さあ、マージョリー行こう。さもないと、われわれまで行儀がよくなってしまいそうだ」
「はじめから歌います」歌手が言った。
「やれやれ」ウィムジーが階段の上で言った。
「分るわ。私だって全くひどい目にあったもんですわ。とにかく、ヴォーガンにお会いになれましたね。粘っこい人間のいい見本でしょう?」
「そう。でも、彼がフィリップ・ボイスを殺したとは思わないね。君は? 僕はただそれをたしかめたかっただけさ。こんどはどこへ行こう?」
「ジェイ・トリンブルスの所へ行ってみましょう。今のところと反対の見ものが見られる、一種の根拠地みたいなものよ」
ジェイ・トリンブルスは厩舎の向う側に部屋を持っていた。ここでも、同じような混雑、同じような煙草の煙、そしてより多くのくん製や酒、もっと熱くてもっと盛んなおしゃべりが見られた。その上、そこは電灯の輝きと蓄音器、それに五匹の犬と強烈なペンキの匂いもあった。シルヴィア・マリオットがいるはずだった。いつの間にかウィムジーは自由恋愛とか、D・H・ロレンスとか、上品ぶった愛欲、ロングスカートの非道徳的意義などの話にまきこまれていた。
そのうちに、無気味な笑いをたたえ、誰でも未来を占ってやると言ってカードの一組を持ってやって来た中年の筋肉質の女のおかげで、彼は話のうずから逃れることができた。一同はその女のまわりに集まった。これと同時に一人の少女が入って来て、シルヴィアがかかとをくじいて来られないと言った。みんなは「かわいそうに、痛いだろうね」などとやさしいことを言っていたが、すぐにそれは忘れてしまった。
「ずらかりましょう」マージョリーが言った。「あいさつなんかいいわ。誰もあなたのことなど気にしていません。シルヴィアのけがは幸いだったわ。だって、こうなれば彼女は家にいなければならないから、私たちから逃げることはできませんもの。みんな、かかとをくじいてしまえばいいと思うことがよくあるわ。でもねえ、この連中も大ていはいい仕事をしてるんですのよ。クロポトキーの連中だってそうですわ。私だって、こういう生活を楽しんだことがありますものね」
「お互いに年をとったね、君も僕も」ウィムジーが言った。「いや、失礼なことを言ってご免。でも、僕ももう四十だからねえ」
「でも、まだお若いわ。だけど、今夜はちょっとやつれて見えるわね。どうなさったの?」
「何でもないよ、年のせいさ」
「うっかりしてると、そのまま落ちついてしまうわよ」
「ここ数年、もう落ちついてるよ」
「バンターと本ね。時々あなたがうらやましくなるわ」
ウィムジーは何も言わなかった。マージョリーは驚いたように彼を見つめていたが、その脇の下に腕を組むようにさしこんだ。
「ピーター、しあわせになってね。あなたという人は、何も妨げられることのない気持のいい方だったわ。変ってはいやよ、ね」
ウィムジーが変らないでくれと言われたのはこれで二度目だった。最初のときは彼は、そう言われて得意になった。しかし、今度は彼は恐ろしいと思った。雨もよいの海岸通りを傾きながら疾走するタクシーの中で、無常というものの勝ち誇ったような歩みの最初の警告を、間の抜けたような腹立たしい無力感で受けとっていた。「道化者の悲劇」の毒を飲まされたアスルフのように、「ああ、おれは変って行く、変ってゆく、恐ろしく変ってゆく」と叫びたくなった。今の仕事が失敗するにしても、成功するにしても万事は前と同じということはありえない。それは、彼の心が恋の傷手に破れるということではなかった。彼は青春の血の華やかな苦悩に生きのびて来たが、この現在の幻滅からの自由にも、何物かを失ったということは認められるのだった。今後も陽気なときはあるかも知れん。しかし、それは特権としてあるものでなく、かち取るものだろう。ロビンソン・クルーソーみたいに、沈みかかった船から運び出す、斧一つ、壺一つ、鳥わな一つというように。
彼はまた、はじめて自分がやり通す仕事に対しての能力を疑った。以前にも、自分の気分を探偵活動の中に含めてきたが、今までその感情が心を曇らせるようなことはなかった。彼は手捜りしていた、ここかしこと、すぐにもその手をくぐりぬけて、愚弄するような可能性をつかもうとして。目的もはっきりとしないで思いつくままに訊ねてみた。一時は彼を励ました、時間がないという事実も、今では彼を恐れさせ、混乱させるばかりであった。
「ご免よ、マージョリー」彼は身を起こしながら言った。「僕は自分がどうにもならないバカ者じゃないかと考えていたんだ。きっと空気が悪かったんだろう。ちょっと窓を開けていいかね? これでよくなった。好い食べ物と新鮮な空気が少々あれば、僕は山羊みたいに、老いぼれになるまで踊って見せるがね。頭は禿げて、顔は黄色っぽくなり、ぴったりしたコルセット類で体を支えられるようにして、曾孫の時代のナイトクラブに僕がもぐり込むとね、みんなは僕を見つけ出して言うだろう。『ごらんよ。九十六年間まともなことは一言も言わなかったというので有名な、おいぼれのピーター卿だよ。一九六〇年の革命にギロチンにかけられなかった唯一人の貴族だ。子供たちの道化に生かしといたのさ』とね。そこで僕は、頭を振って、新しい義歯を出して見せ、そして言うのさ。『はは、わしらの若いころのような楽しみがないんだね。かわいそうな、まっとうな人間たちよ』とね」
「みんながそんなに行儀よくしつけられてるような時代なら、あなたがもぐりこむようなナイトクラブもありはしませんわ」
「うん、そうだ。自然は執念深い。そうなったら人々は政府主催の公共ゲームからこっそり逃がれて、墓穴かなんかにかくれて殺菌してないスキムミルクの一鉢を前に、ひそかにソリテア〔トランプ遊び〕でも楽しむようになるだろう。ここかね?」
「そうよ。シルヴィアが足がだめだとすると、だれか地下室へ案内してくれる人がいるといいんですけどねえ。ああ、足音が聞こえたわ。なんだ、あなただったの、エイランド。シルヴィアの工合はどう?」
「ちょっとはれただけよ、踵がね。それだけなの。入る?」
「会えるの?」
「ええ、ちゃんと起きてるわ」
「よかった。ピーター・ウィムジー卿をつれて来たのよ」
「あら」少女は言った。「ようこそ。探偵みたいなことをなさってるんでしょう? 死体か何かさがしに見えたんですの?」
「ピーター卿はハリエット・ヴェーン事件で彼女の側で捜査してるのよ」
「そうですの? それはそれは。誰かが何かをしてくれているというだけでもありがたいわ」鼻っ柱の強そうな、目の光ってる、小柄でがっちりした体つきの少女だった。「で、どうでしたの? 私はあの人は自殺だと言ってるのよ。おセンチなたちの人ですものねえ。ねえ、シルヴィア、マージョリーよ。ハリエットを牢屋から出してくれるという親方をつれて来たわ」
「すぐにご案内して」内から返事があった。小さな居間兼用の寝室のドアが開いた。ひどくあっさりした部屋で、モリス式の安楽椅子に坐った、眼鏡をかけた青白い女がいて、ほう帯を巻いた足をトランクの上に伸ばしていた。
「起きられないのよ。ジェニー・レン〔ディケンズの「相互の友」の登場人物〕が言ったように、背中が悪くて、足がおかしいんですもの。マージョリー、その騎士はどなた?」
ウィムジーが紹介されるとすぐ、エイランド・プライスが意地悪いくらいに質問した。
「この方コーヒー飲めるのかしら、マージョリー? それとも、アルコールじゃなくちゃだめ?」
「本当に神様みたいな正義漢だし、しらふなのよ。飲めと言えばココアや泡立つレモネード以外なら何でも飲むわ」
「あら、私、ただあんたの取り巻きはいつも、刺激がないとだめな人たちばかりだから、聞いて見ただけなのよ。それに、もう何も作れないし、酒場もいま終わったばかりの頃だからさ」
彼女が食器棚のところへ行ったとき、シルヴィアが口をひらいた。
「エイランドの言ったことは気にしないで下さいね。あの人は人を荒っぽくあしらうのがすきなのよ。ピーターさん、何か証拠でもつかめたんですか?」
「まだわからないんです、いくらか当てはあるんですがね。思いがけない方面から何か出てこやしないかと思って」
「従兄というのにお会いになりました? アークハートとかいう奴です」
「明日会う約束です。なぜ?」
「シルヴィアの理屈では、その男がやったことになるのよ」エイランドが言った。
「それは面白い。どうして?」
「女の直観よ」エイランドがぶっきらぼうに言った。「髪の形が気に入らないんだって」
「私はただ、あの男が老獪《ろうかい》だからと言っただけよ」シルヴィアが抗議した。「それに、そんなことできはしないじゃないの? ただ、私はレイランド・ヴォーガンがやったのでないことだけは確信してるわ。キザなバカ者だけど、今度の事件ですっかり参ってるもの」
エイランドはバカにするように鼻をならして、廊下の水道にやかんの水を入れに出て行った。
「それに、エイランドが何と考えようと、私にはフィル・ボイスが自殺したとは信じられないわ」
「なぜです?」ウィムジーが訊ねた。
「よく言ってましたけど」シルヴィアが言った。「あの人は全く自惚れ屋でした。だから、世の中の人から自分の本を読む特権を自分で奪うようなことはしなかったでしょうよ」
「でも」エイランドが言った。「でも苦しさがつのれば、やったかも知れないわ。いいえ、結構」ウィムジーがやかんを運ぶのに手を出そうとすると言った。「私だって六パイントくらいの水は楽に運べるわよ」
「お説のとおり!」ウィムジーが言った。
「エイランドは男女の差による形式的なエティケットには反対なんですよ」マージョリーが言った。
「なるほど」ウィムジーは愛想よく答えた。「では余計なお世辞は控え目にしましょう。ところでマリオットさん、その老獪な弁護士がなぜ従弟を殺そうとしたのか、何か理由が考えられますか?」
「全然ありません。ただあのシャーロック・ホームズのやり方で進めれば、ありえないことを除いて、残ったものが信じにくいものでも真相なのですわ」
「ホームズより前にデュパン〔ポーの創造した探偵〕もそう言ってました。その結論は僕も認めますが、この事件の場合、僕はその前提をうかがいたいんです。いえ、砂糖は結構です。どうも、ありがとう」
「男の方って、コーヒーをみんなシロップみたいに甘くするんだと思ってたわ」
「いやあ、もしそうだとすれば、僕はとても変り者ですね。そうお思いになりますか」
「まだよくあなたを観察してませんが、でもコーヒーの件ではあなたに好い点をあげますわ」
「これは恐れいります。ところで、事件のあとのミス・ヴェーンの反応をうかがえますか?」
「そうですわねえ」シルヴィアは少し考えていたが「死んだと聞いて、彼女はもちろん取り乱していたようですわ」
「驚いてたわよ」ミス・プライスが言った。「でも、彼が死んだのを感謝していただろうと思うわ。それは確かよ。エゴイストよ、あの男は。さんざ彼女を利用して、一年ぐらいも彼女をいじめ殺すようなことをして、そのうえ最後にあんな恥辱を与えるなんて。何とも言えないような業つくばりよ。彼女は喜んでたわ、ねえシルヴィア、否定したってしようがないことでしょう?」
「そうね。あの人が死んだと聞いてほっとしたというところでしょう。でも、あのときは彼女は、あの人が殺されたのだとは知らなかったわ」
「でも、殺されたんだとしたら、ちょっと工合が悪いでしょう。私は殺されたのだとは思わないけどね。フィリップ・ボイスはいつも自分が犠牲者になろうと思っていたのよ。それに、そんなにうまくいったら、きっと癪だったでしょう。だから、そのためにこんなことをしたのよ」
「そんなことをやるだろうか」ウィムジーが考えこんで言った。「でも、証明は難しい。陪審員というものは、もっと複雑な理由、たとえば金のような理由を信じたがる傾向がありましてね」
エイランドは笑った。
「お金なんて、ハリエットの作ったお金以外にはありはしないわ。愚劣な大衆はフィリップ・ボイスの作品なんかに喝采しはしないわ。そのためにも、彼はハリエットを許せなかったのよ。分るでしょう」
「でも、その金が役に立ったんでしょう?」
「もちろんよ。でも、同時に肚を立ててたんですわ。彼女は自分の駄作で二人のためのお金をかせぐより、彼の作品のために手助けすればよかったというのよ。男ってみんなそんなものね」
「われわれ男性に対して、もっとご意見がおありのようですな」
「剽窃ばかりしてる男を、嫌というほど知ってるわ」エイランド・プライスが言った。「それに、自分で書くことをしないでいる男もね。同じことよ。女も悪いんだわ。我慢してなければいいんですもの。おかげさまで、私は借りたことも貸したこともないわ。女の人には別よ、女はちゃんと返してくれるわ」
「努力して働いてる人は大てい返すでしょう」ウィムジーが言った。「ただ天才というやつはね……」
「天才だって、女ならそんなに甘やかされないわ」ミス・プライスが憂うつそうに言った。「だから人を当てにしないのよ」
「おやおや、だいぶ話が傍道にそれましたわね」マージョリーが言った。
「いや」ウィムジーが答えた。「問題の焦点が大分わかって来ました。つまり、新聞で主役と呼ばれる人のね」彼の口はちょっとゆがめられた。「断頭台の上に降りそそぐ激しいイルミネーションみたいなものですよ」
「そんなこと言わないで」シルヴィアが弁護した。
部屋の外のどこかで電話が鳴った。エイランド・プライスが出て行った。
「エイランドは男嫌いなんですよ」シルヴィアが言った。「でも、とても信用できる人よ」
ウィムジーはうなずいた。
「しかし、フィルとは仲が悪かったんです。やっぱり、あの男には我慢できないらしいんですね。あの人の考え方はね……」
「ピーターさん電話ですよ」エイランドが戻ってきて言った。「すぐ行って――分るから。スコットランド・ヤードからよ」
ウィムジーは急いで出た。
「ピーターか? ロンドン中さがし廻ったんだぜ。酒場を見つけたよ」
「まさか」
「本当だ。それで、白い粉の包みの後をさぐってるんだ」
「すばらしいぞ」
「明日の朝一番に来られるかね? それまでに見つけておいて、君に見せてやれるだろう」
「牡羊みたいに跳び上がって、丘だろうが何だろうが跳びこえて行くよ。これで僕の方が一手勝ったね、気の毒なパーカー捜査課長殿」
「そんならいいがね」パーカーは下手に出て、そう言って電話を切った。
ウィムジーは意気揚々と部屋に戻った。
「ミス・プライスの方に勝ち目がありますね」彼は言った。
「自殺ですよ。五十対一ですね。これから犬みたいに鼻を利かして町を走りまわるんですよ」
「お伴できなくてご免なさい」シルヴィア・マリオットが言った。「でも、私が間違っているなら、その方がいいわ」
「私の思った通りでよかった」エイランド・プライスがぼんやりと言った。
「そして、あんたの言う通りで、僕の言う通りなら万事解決なんだが」ウィムジーが言った。
マージョリー・フェルプスは彼を見たが何も言わなかった。彼女は急に何かが心の中から絞り出されるような気がした。
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第九章
手紙を届けに行ったバンター君が、どんな手を使ってお茶の招待を受けるようになったか、一番よく知ってるのは彼自身だったろう。ピーター卿が有頂天になっていたその日の四時半ごろ、彼はアークハート氏の家の台所に坐ってクランペットを焼いていた。クランペットを作ることにかけては、彼はすごい腕前になっていたし、バターを使いすぎるといってもアークハート氏の懐が痛むだけだった。
話が殺人事件のことに及んでいくのも自然ななりゆきだった。外のじめじめした天気のことや、家の中で起こった興味をそそられるあの恐ろしい話ほど、温かい火を前にしてバターを塗ったクランペットを食べながら話すのにふさわしい話はない。雨が激しく降りしきり、恐ろしい話が細部にまでわたって詳しくなればなるほど、趣きは増すのだった。今のところ、茶のみ話の条件としては絶好だった。
「気持のわるいほど真っ青だったわよ」コックのミセス・ペティカンが言った。「湯たんぽを持ってこいと言われて、その時に見たのさ。三つ持っていってね、一つは足に、一つは背中に、そして一番大きいゴムのやつはおなかに当てたのよ。真っ青になってふるえていてねえ、ひどかったんだね。想像もつかないくらいだわ。それに、苦しそうに唸《うな》ってたのよ」
「緑色だったわよ」ハンナ・ウェストロックが言った。「それとも、青みがかった黄色とでも言ったらいいかしら。黄疽《おうだん》になりかけてるのかと思ったわ。ほら、春に発作があったときみたいにさ」
「とにかく、あのときはひどい顔色をしていたわ」ミセス・ペティカンが合づちをうった。「でもねえ、まさかあれが最後になろうとは思わなかったわ。それに、あの苦しみようや足のけいれんなどはひどかったね。その足が、看護婦のウィリアムズさんにひどくぶつかってね。若くていい看護婦だったわ、誰かさんみたいにお高くとまってないでね。『ペティカンさん』と私のことを呼ぶんだよ。『コック』なんて呼ぶ人が多いけど、まるで名前以外の呼び方をする権利のために、その人がお給金でも払ってるような顔をしてね。私はちゃんと名前を呼ぶ方がいいと思うね。あの人は言うんだよ。『ペティカンさん、私はこんなひどいけいれんは、この病気で断末魔の人を一人見ただけで、他に見たことありませんよ』とね。それから、『見ててごらんなさい。こんなにけいれんして暴れても何にもならないんですから』と言うのよ。全く、私はそのときはどういう意味だか分らなかったけどねえ」
「そいつは砒素中毒の普通の徴候だろう、何か家の旦那がそんなことを言ってたよ」バンターが答えた。「ひどく苦しいものらしい。前にもそんなことがあったのかね?」
「けいれんなんてなかったわ」ハンナが言った。「春の病気のときも、手足をよじって苦しんではいたけどね。あの人の話によると、何だか針の束を刺されるようだそうね。書かなければならない原稿の一つを大急ぎで仕上げにかかっていたときだったので、辛かったらしいわ。それに、そんなことから眼が悪くなって、字を書くのがひどい苦労だったようよ。気の毒な人ね」
「検事はジェームズ・ルボック卿の話をもってきて言ってたね」バンターが言った。「それによると、針をさすような痛みとか、眼が悪くなるとか、そんなようなことは、砒素をいつも飲まされていたからだというじゃないか」
「何とまあ恐ろしい女だねえ」ミセス・ペティカンが言った。「さあバンターさん、もう一ついかが。じりじりといじめ殺されたんだね。頭をどかんとやるとか、短刀でぐさりとやるんなら分らないこともないけど、じりじりと毒を飲ませて殺すなんて恐ろしいことは、私は人間にできることじゃない、悪魔の仕業だと思うね」
「本当に悪魔とでも言うより他ないね」バンターが同意するように言った。
「それに、そんな風に人を苦しませて殺すなんて、殺すということは別に、本当にたちの悪いやり方だわ」ハンナが言った。「私たちが嫌疑をかけられないですんだのも、全く神様のおかげよ」
「本当だわ」ミセス・ペティカンが言った。「だって、ボイスさんの死体を掘り出して調べたら、体中砒素だらけだったと旦那様に言われたときは、私はくるくる廻って走る馬にでも乗ってるように、部屋中が廻ってるような気がしたわ。『この家の中で!』私、思わず言ったのよ。旦那様は『そうでなければいいんだがね』と言ったわ」
ミセス・ペティカンはこの話にマクベスのような雰囲気を加えることによって、満足したらしく、さらにつけ加えた。
「そうよ。この家の中で、と私言ったわ。それからこっち三晩というものは、警察のことを考えたり、恐ろしさや何やかやで、一睡もできなかったわ」
「でも、この家で毒を飲まされたんでないことは、すぐ証明できたんだろう?」バンターが言った。「ミス・ウェストロックは裁判のときにあざやかに証言したし、きっと裁判官や陪審員たちにもよく分るように明かしは立ってるさ。判事もはっきりとは言わなかったけど、あんたの証言をよろこんでいただろう?」
「そうね。私という人間は後ろ暗いところはこれっぽっちもないんだし」ハンナが打明けるように言った。「それに、あのときは旦那様や警察がさんざん調べた後だから、私にだってどんなことを聞かれるか分っていたし、どう答えたらいいか用意してることができたからねえ」
「あんなに古いことを、あれほどこと細かに正確に話せたのには驚いたねえ」バンターがおだてるように言った。
「だってねえ、バンターさん。ボイス様の工合の悪くなった次の朝、旦那様が私たちのところへ下りて来て、ちょうどその椅子に、とても打ちとけた様子で坐ってね、『ボイスがひどく工合が悪いんだ。何か悪いものを食ったと思ってるらしく、昨夜のチキンじゃないかと言うんだ』こう言われるのよ。そしてね、『だから、お前とコックも一緒に、昨夜の料理を、そんなことがありうるかどうか調べてもらいたいんだ』と言うの。私、言ったわ。『でも、ボイス様が悪いものをあがったとは考えられません。旦那様は別としても、コックも私も同じものをいただきましたし、それもとてもおいしく、よくできていました』とね」
「私もそういったよ」コックが言った。「全く普通の簡単な夕食だもの。カキやムール貝やそんなようなものが出たわけじゃなし。貝類なら胃の悪い人には毒なことがあるのはだれでも知ってるけどね。だけどさ、上等のスープを一杯に、おいしい魚の一切れ、かぶと人参の入ったグレーヴィで鍋焼きにしたチキン、それにオムレツじゃないの。こんなに軽くて上等な料理がありますか? それは、どんな料理にしても玉子は食べられないというような人はありますよ。私のおっ母さんもそうで、玉子が一つでも使ってあるお菓子を食べただけで、じんましんみたいに体にぶつぶつが出たくらいだったわ。でも、ボイスさんは玉子に関しては普通だし、オムレツは大好物だったのよ」
「その晩もオムレツは自分で料理したんだったね?」
「ええ」ハンナが言った。「それに、私がよくおぼえてるのは、アークハート様が玉子が生みたての新しいものかどうか特にお聞きになったからよ。私は、その玉子がその日の午後に旦那様が自分でラムズ・コンディット街の角店から買って来たものだと申し上げたわ。あそこは、いつも農家からじかに来る新しい品物を売ってるからね。それに、あのときは、玉子が一つちょっと割れていたことも言ったわ。旦那様が『その玉子は今夜オムレツに使おう』と言ったので、私はきれいな鉢を台所から持ってきて、すぐに玉子をそれに入れたのよ。割れたのと、あと三つをね。それからは鉢には食卓に出すまで手もふれなかったわ。『他に何か?』私は言ったわ『玉子は一ダースのうちまだ八つあります。いい玉子ですわ』と、ねえコックさん」
「そうよ。それにチキンもちょっと見事なものだわ。若鶏で身が柔らかいのよ。あのときあんたに言ったね。ロースト・チキンにすればすばらしいのに、キャセロールなんかにするのはもったいないって。でも、アークハート様はキャセロールがとても好きなのよ。キャセロールにした方が香ばしいんだってさ。私はそうは思わないけどねえ」
「上等の牛のスープ・ストックを使ってね」バンターが分別ありげに公平に言った。「あまり脂身ばかりでないベーコンを土台にして巧く野菜をつめ、それがまた塩胡椒とパプリカでうまく味つけしてあれば、こういうキャセロール・チキンよりうまい料理はあまりないもんだ。私の好みから言わせれば、にんにくを少し使いたいところだけど、これは誰の好みにも合うという訳にはいかないね」
「あれは私は、匂いをかぐのはもちろん、見るのも嫌だわ」ミセス・ペティカンが正直に言った。「でも、他のことには賛成だわ。臓物も出し汁に入れてしまうし、しゅんのときだったら、私はマッシュルームが入ってるのもすきだわ。でも、カン詰やビン詰のはだめ。姿ばかりきれいでも靴ボタンみたいに沢山入れたところでちっとも味が出やしないわ。お料理のこつは、ねえバンターさんもご存じでしょうが、ぴったりと蓋をして香りを逃がさないことと、ゆっくりと時間をかけて、煮出し汁の味がお互いによく混ざり合ってしみこむようにすることだわね。こないだのみたいな料理だって、それは鶏はローストにした方が好きだけど、ハンナも私もかなりおいしいもんだとは思ってますよ。ただ、ぱさぱさにならないように上等のつめ物をうまくつめてあったらね。だけど、アークハート様は鶏をローストするのに、こんなことを言っても耳をかして下さらないし、第一お金を払うのは旦那様なんですからねえ。あの方の命令する通りにするのが当り前ですよ」
「ふうん」バンターが言った。「では、もしキャセロールが悪かったとすると、あんたもミス・ウェストロックも助からなかった訳だねえ」
「そうですとも」ハンナが言った。「私、べつにかくそうとも思わないけど、おかげ様でとても食欲が旺盛なのよ。猫に小さい一切れをやっただけで、あとはすっかり私たちで片づけてしまったわ。アークハート様は翌日、残りはどうなったとお聞きになって、ぜんぜん片づいてしまってお皿が洗ってあるのを見て怒ってましたわ。まるで、この台所でいつも皿洗いが翌日まですんでないとでも思われてるみたいだったわ」
「汚れた皿洗いで、一日の仕事をはじめるなんてことは、私にゃできないからね」ミセス・ペティカンが言った。「ただ、スープがほんのちょっぴり残っていたけど、アークハート様はそれをお医者さんに見せたのさ。先生はそれをなめて見て、とてもよいスープだと言ったのよ。ウィリアムズ看護婦は自分ではためさなかったけど、やはりそう言っていたわ」
「それからブルゴーニュ・ワインは」ハンナ・ウェストロックが言った。「ボイスさんが一人で飲んだのはこれだけだったので、きっちり蓋をしてしまっとけとアークハート様に言われたのよ。もちろん言われた通りにしといたわ。警察で出せといわれるときの用意にね」
「アークハートという人は、ずいぶん目先のきく人だなあ」バンターが言った。「その頃には故人は病死だと思いこんでいたのに、そんな手を打っておくなんて」
「ウィリアムズ看護婦さんもそう言っていました」ハンナが答えた。「けれど、弁護士さんだもの、頓死が起こったときはどうするかぐらい知ってたんだろうと思うわ。特にしっかりしていたのは、ビンの口を簡単には開かないように私に、ばんそう膏ではりつけさせて、私の頭文字をそこに書いたのよ。ウィリアムズ看護婦は、旦那様は裁判に呼び出される覚悟だといつも言ってたけど、ウエア博士はボイスさんが前からそういう激しい発作によく襲われたのを聞かされていたので、死亡証明書を書くのにもちろん何の疑問も起こさなかったのよ」
「それはそうだろうな」バンターが言った。「しかし、アークハートさんがしなければならないことをよく知っていたのは何よりだったね。旦那は無実の人がそういう簡単な細かいことに手を打つことを知らないで、もう少しで絞首台に送られそうになった例をいろいろ知ってたに違いない」
「それに、アークハート様があのとき、お出かけになったときには、そんなことが気になって胸さわぎがしたものですわ」ミセス・ペティカンが言った。「退屈なお婆さんで、いつも死にそうなくせになかなか死なない人に呼ばれていったんです。今も行ってるんですが、ウィンドルのミセス・レイバーンという人ですよ。どこから見ても、ばからしいくらいの大金持でね、しかも、子供みたいになってしまって、何の役にも立たないんだそうよ。若いころはひどいことをしてたらしく、身寄りと言っても何のつきあいもなく、旦那様だけがつきあってるそうよ。それも、弁護士としての仕事だからでしょうねえ」
「仕事ってのは、いつもいいところにばかり行けるものじゃないからね」バンターが言った。「ミセス・ペティカン、私たちだってそうだものねえ」
「金持と言うものは、人にいやな仕事でもさせられるものだわよ」ハンナ・ウェストロックが言った。「こう言っては何だけど、ミセス・レイバーンが貧乏だったら、そうはしてもらえないかもしれないわよ。アークハート様ご自身の大叔母さまだか何だかしらないけど」
「なるほど」バンターが言った。
「何とも言えないけどね」ミス・ウェストロックが言った。「でも、私たちは世の中ってそんなものだと知ってるわよ、ねえバンターさん」
「アークハートさんはそのお婆さんが亡くなったら、何かもらえる立場なんだろう」バンターが言った。
「そんなことでしょうね。旦那様は口の少ない方だからよく分らないけど」ハンナが言った。「でも、いつも自分の貴重な時間を投げうってただばたらきにウェストモアランドへ出かけて行くのも、そんなところかも知れないわ。私自身は曲がったことをしてできたお金に手をかけるのを別にどうこう思っていはしないけど、あまり好いことはないでしょうね」
「そういう誘惑のない立場にいるから、たやすくそんな口がきけるんだけど」ミセス・ペティカンが言った。「そういう親戚同志のいざこざというのは、いくらでもあるんだよ」
「全くですね」バンターが言った。「家の中の暗いところで行われたことを世間に吹聴したら、今つけているダイヤの首かざりや毛皮のコートが、罪の報いのしるしになるような例がよくあるさ。昔から言われることだけど、王様やなんかのちょっとした気紛れの私生児が生れなかったら、威張りかえっている家族の中には今ごろ存在していなかったはずのものもあるからね」
「ミセス・レイバーンについては、こんな話があるわ」ハンナが言った。「ヴィクトリア女王は、彼女がどんなことをするかよく知っていたので、御前興行は許さなかったんですって」
「女優だったのか?」
「ええ、とてもきれいな女優だったそうよ。芸名はなんと言ったか、詳しいことは知らないけど」ミセス・ペティカンが言った。「ハイド・パークとか何とかそんなような名の女優だったのね。レイバーンと言う男と彼女は結婚したけど、これは別にどうという人物でもなく、彼女のスキャンダルをごま化すためのものにすぎなかったらしいのよ。二人の子供を生んでね。でも話によると二人ともコレラで死んだそうで、やっぱり天の裁きね」
「ボイスさんがそう言ってたのよ」ハンナが弁解するように言った。「自業自得ですってさ」
「あの人はうっかりそんなことを口にしたのね」ミセス・ペティカンが言った。「きっと、お友だちの影響よ。でも自分のこととなったら、目もさめたでしょう。あの人、機嫌のいいときは面白いことばかり言ってたわ。ねえ、とりとめもなく面白おかしく話したわよ」
「あんたは男の人に甘すぎるわ」ハンナが言った。「つき合う人で体の弱い人は、みんなかわいそうな小羊に見えるんでしょう」
「では、ボイスさんもミセス・レイバーンのことは知っていたのかな?」
「ええ、身内のことですし、アークハート様もボイス様には、私たちによりももっと詳しく話したでしょうからね。ハンナ、アークハート様はどの汽車で帰って来るといってたの?」
「七時半に夕食にしろって。だから六時半の汽車でしょう」
ミセス・ペティカンは時計とバンターの顔を見て、合図をし、立ち上って別れのあいさつをした。
「またいらっしゃいね、バンターさん」コックのミセス・ペティカンは上品に言った。「旦那様はお茶に立派な殿方を招ぶのをいかんとは言いませんわ。水曜日は私、半日勤務の日よ」
「私は金曜」ハンナが言った。「それと一週おきの日曜日よ。もしあなたが福音主義だったら、ジャッド街のクロウフォード教会は立派だわよ。でも、クリスマスには郊外に行くんでしょうね」
バンターはクリスマスにはたぶんデュークス・デンヴァー〔ピーター卿の実家の領地〕に行くと言って、借り着の華やかな姿で元気なあいさつをして立ち去った。
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第十章
「いようピーター」パーカー捜査課長が言った。「そうだ、君が会いたがっていた女性だ。ミセス・ブルフィンチ、ピーター・ウィムジー卿をご紹介しましょう」
「どうぞ」ミセス・ブルフィンチが言った。彼女はくすりと笑って、金髪の下の大きな顔に白粉をはたいた。
「ミセス・ブルフィンチはご主人のブルフィンチ氏と結婚する前は、グレイズ・イン街道の≪ナイン・リングズ≫界隈では、そこらの酒場のぬしのようなもんだったんだ」パーカーが言った。「その魅力と機智で鳴らしていたんだぜ」
「それから」ミセス・ブルフィンチが言った。「あんたもそういう連中の一人だったんじゃないの。あなたは、この人の言うことなぞ、真にうけたりなさらないでしょうね。警察の連中がどんな人間だかご存じですものね」
ウィムジーは頭をふって言った。「困ったやつですよ。でも、僕はこういう連中の証明書なんか必要としませんからね。僕は自分の目と耳を信用できますから。ミセス・ブルフィンチ、もし、僕がもっと早くあなたにお近づきになれていたら、きっと一生懸命にブルフィンチ氏を出しぬこうとしたことでしょう」
「あなたも全くお人が悪いわ」ミセス・ブルフィンチはひどくご満悦で言った。「亭主に話したら何と言うことですやら。ところで、警官が来て私に警視庁まで出頭するように言ったとき、うちの人はひどくあわててましたよ。『いやだねえ』とあの人は言ってましたわ。『うちではいつだって堅い商売をやっていたし、出鱈目なこともしなければ、時間外に酒を売ったこともないんだ。それを、やつらの所へつれて行かれたら、何を訊問されるか分らないからなあ』とも。だから、私は言ってやったのよ。『びくびくしなさんな。警察の連中はみんな私のことは知ってるし、私のことを憎んでやしない。荷物を忘れてった人のことくらい、いつだって話すことができるよ。もし、行くのをことわってごらん。きっと臭いと思われるに違いないから』するとうちの人は『じゃあ、一緒に行こう』と言うんですよ。私は言ってやったわ。『そう、では今朝から雇うことにした新しいバーテンはどうするの。馴れないのが、樽やビンのありかも分らないで商売するのかい。それでいいんなら好きにしておくれ』とね。そんな訳で、一人で来たんですよ。あの人はそこがいいとこでね。私は何も亭主に文句はないんですが、でも警察だろうと何であろうと、自分でどうすればよいかぐらいは、自分で判断できるつもりですからね」
「そうだとも」パーカーが辛抱強く言った。「ブルフィンチ氏は何も驚くことはなかったんだ。われわれの聞きたいのは、あんたの言った若い客のことをよく思い出してもらって、その白い紙包みを捜し出す手助けをしてもらいたいだけだ。無実の罪に落されそうな人をあんたが救えるかもしれないんだし、そういうことならご亭主も反対はしないと思うがね」
「気の毒にねえ」ミセス・ブルフィンチが言った。「あの裁判記録を新聞で読んだとき、私はうちの人に言ってやったのよ……」
「ちょっと待って、ミセス・ブルフィンチ。よかったらピーター卿にもよく分るように、最初から話してもらおう」
「いいですとも。結婚する前は、捜査課長さんの言った通り、私は≪ナイン・リングズ≫の給仕をしてたんです。そのころはミス・モンターギュと言う名前でしたわ。たしかに、ブルフィンチよりいい名前だったわ。あの名前と別れるときの辛かったこと。でも、女というものは、結婚するときはいずれにしても相当の犠牲を払うものですし、それがどうだというものでもありませんしね。私はその店でも、サロンの方だけでしか働かなかったんですよ。スタンドの方には手を出したくなかったし、そっちの方はあまり環境もよくなかったからね。でも、サロンの方には夕方には、ちゃんとした立派な紳士がよく見えましたわ。そこで、今言ったように、八月の公休日に結婚するまで働いていたんですけど……ある晩、一人の紳士がいらしたのを覚えてます……」
「何日だか思い出せますか?」
「でたらめな証言をしてもしようがないでしょう。一日二日のことなら覚えてると言えるけれどねえ。でも、その紳士について何か記憶があるくらいだから、そう古いことでもなさそうですね」
「そうさ」パーカーが言った。「六月の二十日か二十一日あたりだ」
「そのころでしたよ。その晩の時刻についてなら、あんた方がどんなに正確な時計の針の位置を知りたがってるか分っているけど、それにはちゃんとした返事ができるんですよ」ミセス・ブルフィンチはまたにやりと笑って、賞讃を期待するように鼻をうごめかして見まわした。「立派な男のお客さんでね、私も知らない人だし、あの界隈では見かけない人でした。何時に店を閉めると聞かれましたので、十一時ですと答えると、『助かった。十時半には追い出されるかと思ったよ』と言うんです。私は時計を見て『あら大丈夫ですよ。この時計はいつも十五分進めてあるんです』と言ってあげました。時計は十時二十分でしたから、本当は十時五分過ぎなのが分ってました。そこで私たちは深夜営業の禁止とか、当局が営業時間をさらに十時半までにしようとしているけど、議会にもこちらに味方の議員がいるので助かっていることなどを少し話してました。こんな話をしているとき、よく覚えてますけど、ドアがバタンと開いて、若い方がよろめきこんで来たんです。『ブランデー・ソーダをダブルで下さい。早く』と言いました。でも、私はすぐ出したくなかったんです。顔色も青く酔っぱらってるようで、もう八、九杯は飲んでると思われたし、主人はそういうことにはとてもやかましかったものでね。でも、言葉つきははっきりしていたし、それきり、くどく言わないんです。それに、目つきも、ちょっとおかしいけど、よっぱらいのように目が据わってるというような風はないんです。私たちのような商売では、そういうお客の様子はよく分るもんです。その人はカウンターにつかまり、しがみつくようにしてくず折れてしまったんです。そして言いました。『強いやつにしてくれよな。僕はひどく工合が悪くなってきそうだ』それまで私と話していた方が言いました。『しっかりしろよ。どうしたんだ?』すると、その人は『持病が出そうなんだ』と言って、チョッキの胸のあたりにこう手を当てたんです」
ミセス・ブルフィンチはお腹を押えて、大きな青い目を芝居気たっぷりにくるっと動かして見せた。
「さあ、そこで私にもその人が酔っぱらってないのが分ったので、マーテルをダブルにしてちょっとソーダ水を加えて、かきまわしてやりました。その人はぐっと飲みほすと、これでだいぶ楽になると言いました。もう一人の人は、腕をまわして、その人が座るのをささえてやったんです。バーには他にも多勢お客さんがいましたが、競馬のニュースに夢中になって、あまりこちらには気がつかなかったようでした。しばらくすると、その人は今度は水をくれと言ったので、すぐに出してやると、『驚かせて悪かったね。ちょっとひどいショックをうけたら、それが身体にさわったらしいんだ。胃の持病があるもんでね』と言って、『心配事やショックがあるとみんな胃にさわるんだ。とにかく、これで終わるだろう』こう言うと、粉の入った白い紙包みを出して、グラスの水に落し、万年筆でかきまわすとそれを飲み乾したんです」
「水が泡立つとか何とかしなかったかね?」ウィムジーがたずねた。
「いいえ。ふつうの粉で、かきまわすのにちょっと時間がかかりましたわ。それを飲み終わると、『これでいい』とか、『これでよくなる』とか、何かそんなようなことを言いましたわ。それから『どうもお世話さま。だいぶよくなったが、また起こるといけないから家へ帰った方がよさそうだ』と言って、本当にちゃんとした紳士でしたわ、ちょっと帽子をつまむようなあいさつをして、出て行きました」
「どのくらいの粉を入れたと思います?」
「さあ、かなりの量でしたわ。その人は量を量ったりなど全然しませんでした。ただ包み紙からぱっとあけたんです。茶匙《ちゃさじ》に一杯ぐらいもあったでしょうか」
「それで、包み紙はどうなった?」パーカーが口をはさんだ。
「そうですねえ」ミセス・ブルフィンチはウィムジーの顔をちらりと見て、自分の話の効果を知って面白がっているようだった。
「最後のお客が帰って、十一時五分ごろだったでしょう、ジョージがドアに鍵をかけているとき、私は椅子の上に何か白いものがあるのを見つけました。誰かのハンカチだと思って拾ってみたら、薬の紙包みでした。だから私はジョージに言ったんです。『ねえ、あの人は薬を置いてっちまったよ』ジョージはどのお客だと聞きかえしたので、私が話してやると、『一体何の薬だ』というので、見たのですがラベルはとれていました。薬屋で作ってもらう、よくあるやつで、端の方を折ってラベルで貼りつけてあるのです。ところが、ラベルを切った残りは少しもついていませんでした」
「黒い文字で刷ってあったか、赤い文字で刷ってあったかも分りませんでしたか?」
「そうですねえ」ミセス・ブルフィンチは考えこんだ。「さあ、やっぱりどっちとも言えませんわ。今そう言われてみると、包みには何か赤い印刷があったような気もしますが、でもはっきりそうとは言えません。断言できませんわ。ただ、何だろうと思って見たものですから、名前とかそんなような印刷は全くなかったことだけは確かです」
「なめてみなかったんですね?」
「いやですわ。毒薬か何か分らないんですもの。本当におかしな様子のお客だったんですよ」パーカーとウィムジーはここで視線をかわした。
「そのとき、そう思ったんですね?」ウィムジーがたずねた。「それとも、後になって、事件の記事を読んでからそう思っただけなんですか?」
「もちろん、そのときすぐにですわ」ミセス・ブルフィンチがピシャリと答えた。「だから、薬をなめてみなかったと言ったんじゃありませんか? あのとき、私はジョージにも言いました。毒じゃないとしても、麻薬か何かかもしれないってね。『さわらないほうがいいよ』私はこうジョージに言ってやったんですよ。『火にくべてしまえ』ジョージはこう言うんです。でも、私はそうしませんでした。そのお客がまた取りに来るかもしれないので、カウンターの傍の酒を入れる棚に上げておいたんです。それっきり、その日から、きのうあんたの所の警官がそのことでやって来るまで、すっかり忘れてましたわ」
「ずいぶん捜したが」パーカーが言った。「見つからなかったんだ」
「だって、そんなこと知りませんからね。私はその包みはあそこに置いたし、そのまま八月には店をやめたんだから、どうなったか分らないわ。たぶん掃除のときにでも捨てたんでしょう。でも、ちょっと待ってよ。考えて見れば、その包みのことを全然思い出さなかったとも言えないわ。ワールド新聞の裁判の記事を見たとき、ちょっと気になってジョージに『いつか店に来た、あの病気みたいなお客かも知れないわね』と言ったことがあるわ。何かそんなようなことを私が言ったのよ。そうするとジョージが『冗談じゃないよ、警察の係りあいになりたいのかい』と言ったのよ。ジョージは鼻っ柱が強いからね」
「その話をしに来なかったのは残念だったな」パーカーが吐きすてるように言った。
「だけど、そんな大変なことだとどうして私に分ります? すこし後には運転手があの人を見ているんだし、そのときにも工合が悪かったんだから、あの薬ではどうにもならなかったんでしょうよ。もしあのお客がその人だとしても、私には何とも言えませんね。それに、裁判も何も片づいてしまってからのことですからね」
「ところが、新しい裁判が始まるんだ」パーカーが言った。「それに、あんたも証人に出てもらわなければならん」
「私のいるところはご存じでしょう。逃げもかくれもしませんからね」ミセス・ブルフィンチは元気よく言った。
「今日は出てきていただいて大変役に立ちました」ウィムジーが明るくつけ加えた。
「どういたしまして」ミセス・ブルフィンチは言った。「ご用はそれだけですか、捜査課長さん」
「今のところはね。包み紙がみつかったら、鑑別してもらうように頼むだろうね。それからこの件に関して、あまり友だちなんかと話し合わないようにしてもらった方がいいね。とかく女の人というものは口が多いし、それからそれへと話が伝わるうちに、終わりにはありもしない事件をあったことのように思いこんでしまうようなことがあるからね。分りますな?」
「私はそんなにおしゃべりじゃありませんよ」ミセス・ブルフィンチが抗議するように言った。「それに、私が思うんじゃあ、二足す二が五になるような場合は、女はその話に入っちゃあいませんね」
「弁護側の弁護士にこの話をしてもいいだろうね」証人が帰るとウィムジーが言った。
「もちろんかまわないさ」パーカーが言った。「だからこそ聞きに来いと言ってやったのさ。役に立つならね。それはそうと、包み紙捜しをやらねばならん」
「そうだ」ウィムジーが慎重に言った。「もちろん君がやらなくては……」
この話を聞かされたクロフツ氏は、必ずしも極上の喜びようをしたとは思われなかった。
「ご注意申し上げますが、ピーター卿」彼は言った。「われわれの手の内を警察に知らせたら、一体どうなるんです。彼らがある一つの出来事を捉えるとしますよ、つぎにはもうそれを自分たちの都合のいいように自由に使えるわけです。なぜこちらだけで内証にしておいて、捜査をしなかったんです?」
「ばか言いたまえ」ウィムジーが肚立たしげに言った。「三月も前から君の手にまかせてあったのに、君は全く何もやってなかったではないか。警察はわずか三日で掘り出して来たぜ。今度の事件では君も知っての通り、時間が大切なんだ」
「そうですとも。そこで、警察ではその古い薬の包みが見つかるまで一休みしてるとお思いですか?」
「というと?」
「つまり、それが砒素でなかったら? もしあなたがそれをわれわれの方だけで握っているようにしておいたら、最後の瞬間に、もう警察側が捜査をつづけるひまもないときに、法廷で出して、検事側を足下からすくってやれたんですのに。陪審員にミセス・ブルフィンチの話をありのままに聞かせてごらんなさい。きっと、故人が自分で毒を仰いだという証明が認められたでしょうに。それを、今ごろはきっと警察の連中が捜すかでっち上げるかして、その粉末は完全に無害なものだったと証明しているでしょう」
「それで、もし包みを見つけて、それが砒素だったら?」
「そんならもちろん、無罪放免です」クロフツ氏が言った。「しかし、あなたはそんな可能性を信じますか?」
「君は全く信じないというわけだね」ウィムジーが烈しく言った。「君は依頼人が本当に有罪だと思っているんだ。とにかく、僕は有罪とは信じない」
クロフツ氏は肩をすくめた。
「依頼人の利益のためには、われわれは検事側が論点としそうなところまで予測して、あらゆる証拠を不利な面まで見なければならないのです。何度でも申し上げますが、あなたは軽はずみなやり方をされたのです」
「しかし、いいかね」ウィムジーは言った。「僕は証拠不十分の評決を得ようとは思ってない。ミス・ヴェーンの名誉と幸福を考えたら、嫌疑だけで有罪にされても同じことだろう。彼女が完全な青天白日の身になり、罪は行くべき所へ行くのが僕の望みなんだ。疑惑の影は残しておきたくない」
「立派なお望みです」弁護士も認めた。「しかし、申し上げておきますが、事件は名誉と幸福だけの問題ではなく、ミス・ヴェーンの首を断頭台から救うことも大切なのです」
「僕に言わせれば」ウィムジーが言った。「彼女にとっては無実の罪で首吊りになるほうが、人殺しのくせに運よく助かったと人に思われながら生きてゆくよりいいと思うね」
「本当ですか?」クロフツ氏が言った。「それは弁護側として抱いてはならない考え方の一つなのでしょうが。失礼ですが、ミス・ヴェーンが自分でそう言うのですか?」
「そうだとしても驚かないね」ウィムジーが言った。「もちろん、彼女は無罪だし、君にもそのうちによく信じこませてあげるよ」
「結構ですな」クロフツ氏がおとなしく言った。「それを一番喜ぶのは私でしょう。ところで、繰り返して申し上げますが、僭越ながら、今後はパーカー捜査課長を信用しすぎるようなことはなさらないように」
この弁護士との衝突のおかげで、ウィムジーはベッドフォード街のアークハート氏の事務所に入ったときも、まだ内心むしゃくしゃしていた。主任は彼を覚えていて、待ちうけていた立派な客を迎えるような丁寧な挨拶をした。ちょっと掛けてお待ち下さいと言って、奥の部屋へ姿を消した。
頑丈そうな、醜い、どちらかというと筋肉質の顔つきの女性タイピストが、ドアが閉るとタイプごしに顔をおこし、ピーター卿にちょっとうなずいて見せた。ウィムジーは彼女が「猫屋敷」の一員であることに気がつき、ミス・クリンプスンの迅速で有効な機関に対し心中ひそかに賞讃の言葉を送った。しかし、一言も口に出さないうちに、すぐに主任がもどってきて、ピーター卿を奥の部屋へ案内した。
ノーマン・アークハートは机の前の席から立ち上がり、親しげに手を差し出した。ウィムジーは裁判のときに彼を見て、さっぱりした服装やふさふさとした柔らかい黒い髪、てきぱきとした事務屋特有の丁寧な物腰などには気がついていた。しかし、今ここで間近に見ると、遠くで見たよりも老けていることに気がついた。四十代も半ばぐらいだと見当をつけた。肌は青白く奇妙なくらいきれいな肌で、その年で、野外生活の様子も全くない男には珍しく、陽焼けのような小さなそばかすがあった。暗い機敏な目は少し疲れているようで、心配事でもあるように目蓋《まぶた》がはれていた。
弁護士は高い明るい声でこの客にあいさつし、用件をたずねた。
ウィムジーはヴェーン毒殺事件に興味を持ったこと、クロフツ・アンド・クーパー事務所の資格で、アークハート氏にうかがいたいことがあると説明した。もちろん、いつもの通り、大変ご迷惑でしょうが、とつけ加えるのを忘れてはいなかった。
「どう致しまして、ピーター卿、かまいませんよ。お役に立てばよいのですが、私にお話できることは、もうご存じでしょうなあ。たしかに、検屍の結果を聞いたときは驚きましたよ。しかし、正直な話、あんな情況の中で私に嫌疑がかかっていないのを知ってほっとしました」
「大変だったでしょうね」ウィムジーも同意した。「しかし、あのときは全くすばらしく用心深く手を打ってあったようですね」
「さよう。われわれ弁護士は習慣的にああいう用心深い手を打ってしまうんでしょうな。毒で死んだなどとは夢にも思いませんでしたが、言ってもせんないことですが、すぐに検屍してもらうようにすべきでした。私が考えついたのは一種の食中毒で、ソーセージ中毒にしては徴候がひどすぎるので、料理道具の汚れか食物自身の黴菌《かびきん》によるものだと思ったのです。そういう理由でないことが分ったので、私としても不幸中の幸いでした。全くこんな急激な思いもかけない病状のときは、排泄物の検査は当りまえのこととしてやるべきではないでしょうかねえ。とにかく、ウエア博士にも全然不審はなさそうでしたので、私はすっかりその診断を信じこんでいました」
「たしかに普通の人には、その病人が殺されたんだろうという考えにまで飛躍することはできなかったでしょうからね」ウィムジーが言った。「もっとも、思ったよりそういう例は多いのだろうと言えますがね」
「そうでしょうな。それに、もし私が刑事事件を扱っていたら、私にも嫌疑はかかったかもしれませんね。しかし、私の仕事はほとんどが譲渡証書の作製といったような仕事ばかりで、せいぜい遺言書とか離婚訴訟とか、そんなようなものばかりです」
「遺言書と言えば」ウィムジーが何気なく言った。「ボイス氏には、何か入ってくる遺産のようなものはあったのですか?」
「ありませんね、私の知ってる範囲では。父親も景気がよいとは言えませんからな。平凡な田舎牧師で、僅かな俸給とだだっ広い牧師館、ぐらぐらする教会ぐらいしかありません。全く親戚じゅう全部が不幸な中産階級ですよ。高い税金を払って、経済的な余力は全く作れないというところですな。フィリップ・ボイスがそういう連中の最後まで生き残っていたとしても、二、三百ポンドの遺産も彼のところに入ってくる見込みはなかったでしょうね」
「金持の叔母さんがどこかにいるというようなことは……」
「いや、いませんな。クレモナ・ガーデンのことを考えていらっしゃるんでしょう。母親側の大叔母に当るんです。しかし、彼女もここのとこかなり長い間、この一家には何もしてくれていません」
ちょうどこのとき、ピーター卿の心の中で、二つの今まで関係のなかった事実がふれ合って、突然火花を発した。パーカーからの白い包み紙に関する知らせを受けて気負い立っていたので、バンターがハンナ・ウェストロックとミセス・ペティカンとのティーパーティの話を報告したときは、あまり注意して聞いていなかったのだが、ここで彼はその中のハイド・パークとか何とかいう名前の女優の話を思い出した。心の中の動揺を調整するのは、スムーズに機械的にやれたので、彼は次の質問を間も置かずに発することができた。
「それはウェストモアランドのミセス・レイバーンですか?」
「そうです」アークハート氏が言った。「実は会ってきたばかりなんです。そうだ、あなたが手紙を下さったのもあそこ宛でしたね。気の毒な人ですよ。この五年ばかりの間に、すっかり子供にもどってしまってね。因果な人生ですよ、だらだらと生きのびるだけで、本人にも、はたの人にも惨めなものです。こういう気の毒な老人をどうにもしてやれないというのは、残酷なことのように思えますね。かわいがっていた動物を始末してやれるようにできればよいのですが、法律はわれわれにそれほど慈悲深くさせてくれないもんですな」
「全くですな。飼い猫が業病にとりつかれたら、かわいそうだからNSPCAの畜類引取り人を呼んでやればいいんですがね」ウィムジーが言った。「かわいそうなクレモナ・ガーデン。まだ生きていたんですか。でも、もうそんなに長くはないでしょうね」
「実は、私たちも、もうすぐ亡くなると思っているんです。心臓も弱ってますし、とにかく九十を越してるんですからね。気の毒な人ですよ。時々悪くなるんですが、この老婦人のどこかに、思いがけない生命力があるんですな」
「すると今では、その人の血縁はあなた一人というわけですか」
「オーストラリアにいる伯父以外には私だけでしょうね」アークハート氏はウィムジーがなぜこんなことを知りたがるのかを問い返しもせずに血縁関係の事実を認めた。「私が彼女の弁護士でもあるわけなので、何かあると行ってなければならないんです」
「ごもっともです。で、弁護士となると、その人の残す遺産がどのくらいかはもちろんご存じでしょうな」
「ええ、もちろん知ってます。ところでよく分らないのですが、それが只今の問題とどんな関係があるんでしょう」
「お分りになりませんか?」ウィムジーが言った。「今思いついたのですが、もしフィリップ・ボイスが何か遺産をもらうのを当てにして、だれでもやることですが、まあ空手形みたいなものを出してしまう。ところが、待てど暮らせど気の毒なお婆さんは死なないし、切羽つまってきた。そこで、お婆さんの死ぬのを待つか、金をかき集めて作るか、それとも……ということになったというのですが、どんな意味かお分りですか」
「なるほど。自殺事件にしようというわけですな。ふうん、ミス・ヴェーン弁護の立場からは一番有望な考え方だとは認めますし、その限りにおいて、私も支持致します。しかし、ミセス・レイバーンはフィリップには遺産は全然残しませんよ。それに、私の知ってる限りでは、彼の方にも遺産をもらえるような理由はこれっぽっちもなかったようでした」
「たしかですか?」
「そうです。実は……」アークハート氏は少しためらった。
「言ってしまいましょう。一度彼にそのことで聞かれたことがあるんです。私としては、彼女からの遺産は全く当てにできないと言わざるをえませんでした」
「ほう、彼が聞いたんですか?」
「ええ聞きました」
「それは問題だ。で、どのくらい前です?」
「そうですな。一年半前くらいだったと思います。正確ではありませんがね」
「最近ではミセス・レイバーンが子供みたいになったそうですが、遺言書を書きかえてくれはしないかと、彼が当てにすることは考えられませんか?」
「全然」
「そうですか。まあ、とにかくいくらか分ってきました。がっかりしたでしょうな。大分もらえるつもりでいたのでしょうに。どのくらいだと思っていたのでしょう」
「かなりですよ。七、八万ぐらいのつもりでしたろう」
「辛いでしょうな。それだけのものをみすみすもらいそこなうと思ったら。ところで、あなたの分は? あなたはもらえないんですか? 大変立ち入ったことばかり聞いて失礼ですが、つまり、何年も彼女の面倒を見て、言わば唯一人の親戚だということを考えると、相当なものはもらえるでしょう」
弁護士は嫌な顔をして見せたので、ウィムジーは謝った。
「ごもっともです。大変厚かましい質問をして申し訳ありませんでした。そんなことは老婦人が亡くなったときに新聞に出るから分ることで、何もあなたに無理にうかがう必要はないことでした。まあ、忘れて下さい。失礼しました」
「あなたに知られて悪いという理由は別にないのですが」アークハート氏がゆっくりと言った。「私どもの仕事では依頼人の秘密を守るというのが大切なことなのです。実は、私が相続人になっているんです」
「ほう」ウィムジーはがっかりしたような声で言った。「では、そうなるとこの話はますます根拠が弱くなってきますね。つまり、あなたの従弟はそうなったら、きっとあなたをとても頼りにしていたでしょうね、あなたがどういうおつもりだったかは存じませんが……」
アークハート氏は首をふった。
「あなたが考えておられることはよく分ります。たしかに自然な考え方です。しかし、そういうやり方は遺言書に表現された意志に正反対なものです。もし、法律的に私にはそうすることができたとしても、道義的にできないことです。私はフィリップにそれをはっきりさせてやらなければなりませんでした。もちろん、私は折にふれては金をやって彼を援助してきましたし、実のところそうまでしてやる必要はなかったのです。私に言わせれば、フィリップが救われる唯一の望みは、彼が自分で働いて道を切開くことだけでした。故人の悪口を言いたくはないんですが、彼は少し人に頼りすぎる傾向があったようです」
「なるほど。ミセス・レイバーンもそう考えていたわけですか?」
「そうとは言えません。いやもっと根が深く、彼女は一族の人々にひどく扱われたと思っているんです。つまり……いや、とんでもないところまで話がそれましたな。あなたに彼女の言葉通りにお伝えする必要もありますまい」
彼は卓上のベルを鳴らした。
「遺書はここにはありませんが、草案があります。ああミス・マーチスン、レイバーンというラベルをはった書類箱を持ってきて下さい。ポンド君が教えてくれるだろうから。重いものではないよ」
「猫屋敷」から来ているその女は、静かに箱をさがしに出て行った。
「これは変則なことですよ、ピーター卿」アークハート氏がつづけた。「融通がきかなすぎても、融通をきかしすぎたのと同じようにいけないことが起こることもよくあります。あなたに、私が従弟になぜ冷たい態度をとらざるをえなかったか、よく見てもらいたいと思います。ああ、ありがとう、ミス・マーチスン」
彼はズボンのポケットから出した鍵たばの鍵の一つで書類箱を開き、沢山の書類をひっくり返して見た。ウィムジーはおあずけをくらったテリアみたいに間の抜けた顔をしてそれを見守っていた。
「おやおや」不意に弁護士が言った。「どうも無いらしい。ああ、そうだ。忘れっぽいな。すみませんね、家の金庫のほうにあったんでした。この六月にミセス・レイバーンが工合が悪くなっておどかされたとき、念のために出して、それきり従弟の死んださわぎがつづいたのでとりまぎれて返すのを忘れたんですよ。とにかく、要点だけは……」
「いや結構ですよ」ウィムジーが言った。「別に急ぐ必要もありません。では、明日にでもお宅にうかがえば見せていただけますね」
「どうぞ、どうぞ。必要とお考えなら。うっかりして失礼しました。ところで、他に何かお話することがありますか?」
ウィムジーはバンターがさぐりを入れた残りの部分を補うつもりで、二、三の質問をして別れをつげた。外の事務室ではまだミス・マーチスンが仕事をしていた。彼が通りすぎるとき彼女は顔も上げなかった。
「おかしいな」ベッドフォード街をぶらぶら歩きながらウィムジーはつぶやいた。「誰も彼も、みんなこの事件にははっきり手助けしてくれる。聞く権利のないような質問に、喜んで答えてくれるし、余計なことまで説明してくれようとする。誰も何もかくしてないように見える。これはおどろいたことだ。ひょっとすると、あいつは本当に自殺したのかも知れん。そんならいいんだが。やつに聞いてやれたらなあ。とっちめて、どなりつけてやるんだけど。あの男についてはもう十五通りの性格分析をやってある。みんな違うやつだ。自殺だと書き残さずに自殺するなんて、大体紳士らしくないやり方だよ。残った人に面倒をかける。頭がさっぱりしたら……」
彼は立ち止った。
「望んではいけなかったんだ」彼は言った。「望もうとしてもいけなかったんだ。母上の嫌いな仕事だ、血なまぐさくて。しかも、人を首吊りにするこの仕事には僕も嫌気がさしてきた。友だちにとっても好いものではない。首吊りのことは考えたくない。どうも気が昂ぶっている……」
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第十一章
ウィムジーがアークハート氏の家へ翌朝九時に訪れると、彼はちょうど朝食をとっているところだった。
「事務所へお出かけになるまえにお目にかかろうと思いましてね」ウィムジーは言い訳した。「いえ、お構いなく。僕はもう朝食はすまして来ましたから。本当に結構です。十一時前には飲まないことにしてるんです。体によくないものですから」
「ところで、あなたにお見せする遺書の草案は見つけときましたよ」アークハート氏が朗らかに言った。「失礼してよろしければ、私がコーヒーを飲んでる間にご覧になっていただけるでしょう。一族の間の内証事がすこし暴露されるわけですが、それにしても、もう古い話ですからね」
彼はサイド・テーブルから一枚のタイプで打った紙を持ってきてウィムジーに渡した。彼は一目見て、その原稿が、Pの小文字のちょっと欠けていて、大文字のAがちょっと曲がっているウッドストック・タイプライターで打ったものであるのに気がついた。
「遺書の内容をもっとよく分っていただくために」アークハート氏は朝食のテーブルに帰りながら話をつづけた。「ボイス家とアークハート家とのつながりをもっとはっきりお話しした方がよさそうですな。両家の共通の先祖はジョン・ハッバードという、前世紀の初めにはかなり尊敬されていた銀行家です。ノッティンガムに住んでいて、当時の銀行のことですから、個人的な私企業だったのでしょうな。この人に三人の娘がありました。ジェーン、メリー、ロザンナです。娘たちは立派な教育をうけ、順調にその後継者となるはずでした。ところが、この親父さんがあまりうまくない投機をやったんです。よくあることですがね。銀行は破産し、娘たちは一文なしです。姉のジェーンはヘンリー・ブラウンという男と結婚しました。学校の教師で、貧乏な堅人でした。この間に生まれた娘のジュリアが例の牧師のアーサー・ボイスと結婚した、フィリップ・ボイスの母親なのです。二番目の娘のメリーは社会的地位から言えば姉よりは低いのですが、金の面ではもっとましなところへ嫁に行きました。レースの商いをやっているジョゼフ・アークハートと結ばれたのでした。これは古い家族にとっては衝撃でしたが、とにかくジョゼフの家も元はかなりの家柄だったし、人物も立派だったので、折り合いはつきました。メリーには男の子ができて、その子がこの商売から脱け出したチャールズ・アークハートです。彼は弁護士の事務所に入り、よくつとめて、終わりには共同経営者になれたのです。これが私の父で、私はその法律の仕事を引きついでいるわけです。
末の娘のロザンナは性質が違ってました。とても美人ですばらしく歌もうまく、ダンスも優雅に踊るという風で、そのうえ若い者の心をそそり夢中にさせるような魅力をもっていたんですな。家出して舞台に出ると聞いたときは、両親はひどく驚きました。家族の聖書からその名を抹殺したくらいです。娘のほうでは両親たちの心配を実現させてやろうと思ったのでしょう。ロンドンの社交界の売れっ子になり、クレモナ・ガーデンという名で、次から次へとあまり芳しくない浮き名を流したのです。ところで、彼女にはなかなかしっかりしたところがあったんですよ。ただのお人形とは違うんです。握ったら離さないというようなたちですね。金だろうが宝石だろうが、アパート、馬、馬車……その他何でも手に入れ、それをみんな債券に代えていたんです。彼女は自分の男以外には決してぜい沢はしませんでした。男に対しては少しぐらいぜい沢はしてやっても、十分に返ってくると考えたからです。私は年とってからの彼女しか見たことはありませんが、あの頭と体をやられた発作の起こる前には、彼女はまだかなり美しい色香を残していました。なかなか抜け目のないがっちりした老婆でした。肉づきがよく、すんなりとしてはいるが、小さくてがっちりした感じの手、何も手放さず、ただ受けとるだけというような手をしてるんです。お分りでしょう。
ところで、姉のジェーン――学校の教師と結婚した娘ですが、彼女は結局この家出娘に何もしてやらなかったのです。この夫婦は自分たちの道徳堅固な暮らしぶりに夢中になって、クレモナ・ガーデンというような品の悪い名前はオリンピック劇場に貼り出されても、決して見向きもしませんでした。彼女の手紙は封も切らずに送り返し、訪れても家に入れないという仕打ちです。一番ひどかったのは、ヘンリー・ブラウンがその妻の葬式に彼女を教会から追い出したときです。
私の祖父母はそれほど厳格ではありませんでした。彼女を訪ねもしなければ招きもしませんでしたが、たまには興行のときのボックスを買ったり、息子の結婚のときには挨拶状を送るぐらいの、控え目ながらもつきあいはつづけていました。だから、彼女の方でも父の職業を知っていて、仕事をくれることになったのです。父はどんな仕事でも、仕事は仕事で、弁護士が不浄な金を扱うのを嫌うようではお客の半分は追い返さなければならないだろうという考え方でした。
老婦人は何でも覚えていて許そうとしなかったのです。ブラウンとボイスのことについては口角に泡をとばしてののしったそうです。だから、今あなたがご覧になったような条《くだ》りが、遺書を作るときに入れられたのでしょう。私は彼女をいじめたことについては、フィリップ・ボイスは全然あずかり知らないはずだし、またアーサー・ボイスも関係のないことだと言ったのですが、苦い思い出に胸が一杯なのか、彼に対する弁護は一言も聞いてくれませんでした。そこで、私は彼女の言う通りに遺書を作ったのです。もし私が作らなかったら、結局誰かが作ることになったでしょうからね」
ウィムジーはうなずいて遺書に注意を向けた。日付は八年前になっていた。そこでは二、三の召使いへの形見や劇場への寄付の後は、ノーマン・アークハートが唯一の執行人になっていて、次のように書いてあった。
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残余の遺産は、それがいかなる所でいかにして存在せるものも、すべてベッドフォード街の弁護士たる、私の甥の長子ノーマン・アークハートに与える。彼が生存中は彼に、彼の死後はその嫡出子《ちゃくしゅつし》に、万一ノーマン・アークハートに嫡出子なきときはこれを下記の人々に送る。(ここに前出の形見分けのときの名がつづいていた)。この遺産贈与は前記ノーマン・アークハートとその父、故チャールズ・アークハートが生前私に示せる配慮への感謝と共に贈られるもので、フィリップ・ボイスあるいはその子孫にこの遺産の一部といえども与うべからざることを確認した上でのものである。かつこの目的のため及び私に対せるフィリップ・ボイスの家族のとれる非人間的な仕打ちに対し、私は前記ノーマン・アークハートに私の遺志として、前記フィリップ・ボイスに上記遺産による収入のいかなる部分をも与えあるいは貸与し、あるいは譲渡することを禁ずる。かつまた、いかなる形式によってもフィリップ・ボイスを援助するためにそれを使うことを禁ずる。
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「ふうむ」ウィムジーが言った。「はっきりしてますな。恐ろしく執念深いもんですね」
「そうですよ。しかし、理屈を言っても分らない老婆ではどうしようもありませんな。十分に激しい言葉を使っているかどうか、彼女はサインする前にずいぶんよく見ましたよ」
「これではフィリップ・ボイスはがっかりしたでしょう」ウィムジーが言った。「ありがとうございました。拝見できたおかげで、自殺説はかなり強くなってきます」
理屈の上からはそうかもしれないが、まだ何かすっきりしないし、フィリップ・ボイスの性格についてもまだ知りたかった。個人的には、最後にハリエットと会ったときからの、自殺の原因となった決定的なきめ手というものを信じたかった。しかし、これも満足のゆくものではない。彼にはフィリップがハリエット・ヴェーンに対して特殊な感情を抱いていたというのが信じきれなかった。これはきっと、彼が男のことをよく考えたくなかったからにすぎないであろう。自分の感情が判断を少し曇らせているのではないかと彼は心配になった。
家に帰るとハリエットの小説の校正刷りを読んだ。たしかに彼女はうまく書いているが、同時にまた砒素のことについては詳しすぎるくらいよく知っている。おまけにこの本ではブルームズベリに住んでいる二人の若い芸術家の理想的な暮らし、つまり愛と笑いと貧乏の暮らしが扱われている。誰かが冷酷にも若い男に毒を盛り、悲しく後に残った女が復讐のために事件を解決するというのである。ウィムジーは歯ぎしりをした。彼はすぐにハロウェイ監獄に行ったが、そこでもう少しで嫉妬に狂った醜態を演じるところだった。幸い彼にはユーモアのセンスがあったので、へとへとになって涙を流す一歩手前で、格子ごしに彼女と顔を見合わせたときには、もう救われていた。
「悪いけど、ボイスというやつに対して嫉妬が起こって仕方がないんだ。これではいけないと思うんだけど」
「そうですわね」ハリエットが言った。「それに、今後も恐らくそうでしょう」
「もしそうだったら、そんな相手とはうまくやっていけない、そういうことですか?」
「きっと、とても不幸ですわ。何よりも困ったことですわ」
「でも、もし結婚してくれたら、嫉妬はしないよ。そうなれば君が本当に僕を好いてくれてることやなんかが分るからね」
「そうお思いになるつもりでしょうけど、そうはお考えになれないわ」
「そうかね? いやそんなことはない。一体、どうしてそんなことが言える? 未亡人と結婚したと思えば同じことだ。二度目の夫というのがみんな焼きもちやきだろうか?」
「それは知りませんわ。でも、同じことではありません。あなたは決して心から私を信じては下さらない。私たちはきっと失敗します」
「そんなばかな。もし、君が一言でも僕のことを心にかけていてくれるといってくれたら、万事うまくいくんだがね。僕はそれを信じるだろう。僕がいろんな憶測をたくましくするのは、君がその一言を言ってくれないからだ」
「そうはおっしゃっても、やはりあなたはいろいろなことをお考えになるわ。私のことを正当に評価しては下さらないでしょう。だれもそうしてくれなかったわ」
「だれも?」
「ほとんどね」
「それはあんまりだ」ウィムジーは真面目に言った。「もちろん僕がそんなたわけ者だったら、全く望みはないけどね。あなたの言うことは分ります。僕も嫉妬の虫を飼ってるような男を一人知っていました。その男は、女房がいつでも自分の首っ玉にかじりついていないと、自分が女房に愛されなくなった証拠だと言うんです。そして、女房が愛していると言っても、猫をかぶってるんだろうと言うのでした。これではうまくゆくはずがないので、彼女はやがて自分ではろくに気にもかけてなかったような、どこかの男と駈け落ちしてしまったんです。すると亭主は自分の思った通りだと言ってまわってました。でも、誰だって彼がばかだったのだと言ってましたよ。全く複雑怪奇ですよ。最初に焼きもちを焼いた人が一番得をするみたいですね。たぶんあなただって、僕に嫉妬を感じてくれるでしょう。そうしてもらいたいんですよ。そうしてくれるのは、僕に少しは関心を持ってくれる証拠ですからね。僕のこれまでの打ちあけ話をしましょうか?」
「結構ですわ」
「どうして?」
「他の人のことなどうかがいたくありません」
「本当ですか? これはかえって望みがありそうですね。つまり、もしあなたが僕の母親みたいなつもりでしたら、きっと熱心に僕を助け理解しようとしてくれるでしょう。僕は助けられたり、理解されたりするのは嫌いです。それに、そんな人は一人もいないんです、ただ、バーバラは別ですがね」
「バーバラってどなたですの?」ハリエットがすぐに訊ねた。
「ああ、ガールフレンドの一人でね、とても世話になってるんですよ。本当に」ウィムジーが思い入れよろしく言った。
「彼女が他の男と結婚したときに、その傷手を癒すために探偵みたいなことをはじめたんです。本当に面白い仕事だし、それだけで夢中になれますからね。本当にねえ、そのころは夢中になってやりましたよ。彼女のために、論理学の特殊演習の講座までとりましたからね」
「それは感心ですわね」
「形式論理の定言命法の変化をラテン語の歌にもじったのがありましたね。ほら、バルバラ、セラレント、ダリー、フォリオ……と言うやつですよ。バルバラという言葉ではじまってるあの歌に、僕は不思議なロマンチックな調子を感じたんです。なにか情熱のはけ口のようなものをね。月夜の晩には、セント・ジョンズ・カレッジの寄宿舎の庭に来る夜鶯《ナイティンゲール》を相手に僕はその歌を暗誦したものです。僕はベイリアルの学生だったんですが、寄宿舎は隣り合っていたんです」
「もしだれかが今までにあなたと結婚していたとしたら、その人はきっとあなたのそういう冗談を面白がって一緒になったんでしょうね」ハリエットが辛らつな言い方をした。
「あまり体裁のいい理由ではないけど、理由がないよりはましですね」
「私も冗談を叩くのはうまい方でしたけど」ハリエットが目に涙をためて言った。「でも、今では全然だめですわ。私という人間は、これでも本当は陽気なたちなんです。今でこそ、陰気くさく疑惑の影に包まれてますけど、これは本当の私ではありませんわ。でも、とにかく私は自分の感覚を失ってますわね」
「本当に気の毒だ。でも、こんな苦境も、あなたなら乗りこえられますよ。さあ、ただ笑っていればいいんだ。さあ、ピーターおじちゃんに笑って見せてごらん」
ウィムジーが家に帰ってみると、手紙がきていた。
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ピーター・ウィムジー様
ご覧の通り私は仕事を見つけました。ミス・クリンプスンはいろんな経歴と身の上話をもっている私たち六人を送りつけたのですが、主任のポンド氏がアークハート氏の意見に従って私を採用してくれました。まだ勤めて一日二日にしかなりませんので、新しい雇い主のことについてはあまり申し上げることはありません。ただ、彼が甘党で、机の引出しにチョコレートとトルコ菓子をかくしておいて、何か言いつける度にひそかにむしゃむしゃやっていることぐらいしか分りません。とても朗らかそうです。
ただ、一つ、こういうことがあります。彼の財政面を調べるのは役に立つだろうと思いますし、私も株のことにはいろいろ通じてますので気をつけていたところ、昨日たまたま聞くともなしに耳にはさんだのです。普通の人は何も気がつかないかもしれませんが、私はその相手の人を知っていたんです。そこで、アークハート氏はつぶれる前のメガシアリウム信託で何かやってた人ではないかと思いました。何かあったら、さらにお知らせします。
敬具
ジョーン・マーチスン
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「メガシアリウム信託? 立派な弁護士が株を? フレディに聞いてみよう。ほかのことだと抜けていることが多いが、株のことなら、あいつはめっぽう詳しい」
彼は手紙を読み返して、その手紙が、Pの小文字がちょっと欠けた、大文字Aの曲がったウッドストックのタイプライターで打ったものだということはすぐに感じた。
ところが、はっとして彼はもう一度手紙を読みかえした。そして、欠けたPと曲がったAを改めて心に刻んだ。
やがて彼は坐りこむと紙に一行の手紙を書き、たたみこみ、ミス・マーチスンの宛名を書き、バンターに出しにやった。
この悩ましい事件ではじめて波立ちさわぐような生き生きした思考が、心の奥底からぼんやりとではあるがゆっくりとわき上がってくるのを感じた。
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第十二章
老年になってからのウィムジーは、話に興が乗ってくるといつでも、その年のデュークス・デンヴァーでのクリスマスのことを思いだすたびに、二十年ものあいだきまってうなされるような気分がしたと言うのだった。それはいくぶん誇りをもって思い出せるような思い出でもあったのだが、とにかく彼の感情を激しくゆすぶるものであったことは間違いない。それは、お茶の席で「気まぐれ夫人」のミセス・ディムワージーが、あたりかまわぬ高い声で、「ピーター様、あなたが恐ろしい毒婦の弁護をなさっているって本当でございますの?」と言った不吉な声からはじまった。この質問はまるでシャンパンのコルクを抜くような作用をしたのである。この一言で、一座の人々のヴェーン事件に関する押さえつけていた好奇心が、一挙に泡立つようにふき出してきたのである。
「彼女がやったとは思いますが、私は彼女を全くの下劣なばか者だと責めようとも思いませんな」トミー・ベイツ大尉が言った。「あの男の本のカバーにある写真を見ても、全くキザなやつのようですからね。不思議なことにああいう高級な女性はつまらん男に魅せられるものですな。あんな男は、鼠みたいに毒を盛られるのにふさわしい値打ちしかないんですよ。ああいう連中がわが国に及ぼした弊害を見てごらんなさい」
「でも、彼は立派な作家でしたわ」ミセス・フェザーストーンが抗議した。がっしりした彼女の体躯は、いつもその名の前の方の羽《フェザー》のように目方をへらそうとして、石《ストーン》になるまいと努力していることを物語っているような三十女だった。
「全く大胆さと節度とを織り合わせた作品ですわ。大胆なところも少なくはありませんけど、でもあの簡潔なスタイルは一種の天才的な……」
「まあ、あなたがあんな下劣な作品がお好きだとしても……」大尉がひやかすようにさえぎった。
「そうは思いませんわ」ミセス・フェザーストーンが言った。「もちろんあまり、はっきりと何でも書きすぎましたわ。だからこの国の人々には許すことのできないことなのでしょう。この国の国民の偽善的な性格の現れですわ。でも、文学の美しさはそういうことを一段と高い所まで上げるものですわ」
「とにかく、私はあんな駄作は、私の家の中に入れようとも思いませんな」大尉がきっぱりと言った。「ヒルダが読んでるところを見たので、すぐに図書館に返してしまえと言ってやりましたよ。私はめったに干渉はしないのですが、しかしとにかく、ものには限度がありますからね」
「どんなものか、どうしてご存じなんです?」ウィムジーが何気なくたずねた。
「だって、エクスプレスにジェームズ・ダグラスの記事があったでしょう。あれでよく分りましたよ」ベイツ大尉が言った。「そこに引用してあった言葉は、全くいやらしい言葉でしたよ。恐ろしくいやらしいものでした」
「なるほど、そういう記事をみんなが読んでいるということはいいことですな」ウィムジーが言った。「備えあれば憂いなしですかな」
「新聞は本当にありがたいですわね」公爵未亡人が言った。「本なんかのいいところをみんな抜き出してくれて、わざわざ苦労して本を読まなくてもすむようにしてくれるんですものね。七シリング六ペンスの本代を払うのが辛いような貧しい人や、図書館の借出し料も払えないような人もいるわけでございましょう。きっと本を早く読んでしまえるような人にとってと同じくらいの役割りを普通の人には果してくれますわ。でも、そういう人たちにそういうものがどううけとられるかというより、頭のいい敏感な人に対する影響の方が大きいものですわ。とにかく、自由教育のおかげですよ。今度の事件にしても、私には公平な意見も出せないし、またよく気をつけてもいなかったんですけど、もし私が評決に加わるとしたら……」
「とにかく、そんな理由で人殺しをしたのではないと思うわ」嫁のヘレンが言った。「どこから見ても彼女のほうが悪いのよ」
「だけどねえ義姉《ねえ》さん、考えてごらんなさい」ウィムジーが言った。「彼女はいつも探偵小説を書いていたし、探偵小説で悪人が栄えたためしはないんですよ。探偵小説こそ本当に純粋な文学だ」
「悪人だって都合のいいときにはいつでも聖書の文句を引用しようとしてるそうよ」ヘレンは言った。「それに、話によるとあんな悪い人の本がどんどん売れるようになったそうですわ」
「私が思うには、これは宣伝のための離れ技が失敗したんでしょうな」ハリンゲイ氏が言った。大柄の陽気な大金持で、シティにもつながりをもっている。「こういう宣伝屋がどんなことまでやるものか、ご存じないでしょう」
「そして、元も子も無くしてしまったというわけですな」ベイツ大尉が大声で笑いながら言った。「ウィムジーが奥の手を出してやろうとしなければね」
「ぜひやってほしいわ」ミス・ティッタートンが言った。「私、探偵小説が好きですわ。私だったら、六カ月毎に新しい小説を書くという条件で懲役刑を軽くしてやりますわ。麻くず拾いや麻袋を縫うような懲役の仕事をやらせるより、そのほうがずっと有益ですもの」
「それはちょっと早まった考え方じゃありませんか」ウィムジーが穏かに言った。「まだ有罪とはきまっていませんよ」
「でも、今度はもうだめですわ。事実を相手に戦うことはできませんわ」
「もちろんですよ」ベイツ大尉が言った。「警察側にはちゃんと分ってるんです。彼らだって相当の容疑がなければ人を被告席に送りはしませんからね」
これは恐るべき一言だった。というのは、デンヴァー公爵が誤った殺人容疑で裁判に引っぱり出されたのは、そう古いことではなかったからである。白けきった沈黙を公爵夫人が冷やかな声で破った。「そうでしょうか? ベイツ大尉さん」
「え? いや、もちろん時には間違いということもあります。つまり、その私が言いたいのは全く違うことなんです。この全然道徳観念のない女性のことで……」
「一杯飲みませんか」ピーター卿が親切に言った。「君は、今日はいつもの調子が出てないようだ」
「そうでもありませんわねえ。でも、ピーター卿、その女の人はどんな人なのだか話して下さいな」ミセス・ディムワージーが大きな声で言った。「会ってお話しになったんでしょう? パンケーキみたいに味もそっけもないような人だと思いますけど、でもいい声をしてますわね」
「いい声ですって? とんでもない」ミセス・フェザーストーンが言った。「どっちかと言うと、凄味のある感じでしたわ。私本当にぞっとして、体中ふるえたくらいでした。本当に寒む気がしたんですのよ。それに、あの奇妙な、曇ったような眼は、うまい衣裳を着せればとても似合うものになると思いましたわ。たとえば、ほら『妖婦』のような衣裳ね。あなたに催眠術をかけようとしませんでした? ピーターさん」
「新聞で見ると何百人と結婚申し込みが来たそうですわね」
ミス・ティッタートンが言った。
「次から次へとわなにかかってくるんですな」ハリンゲイが騒々しい声で笑いながら言った。
「人殺しと結婚しようなんて気が知れませんわ」ミス・ティッタートンが言った。「それも探偵小説で訓練されているような人とねえ。毎日、コーヒーの味がおかしくないだろうかなどと気にしてなければならないではありませんか」
「みんなどうかしてる人ばかりですよ」ミセス・ディムスワージーが言った。「みんな病的に噂の種になりたがってるような人たちですわ。やりもしないことを告白して、そういう犯罪をすることを諦めるという、一種の気違いですよ」
「人殺しでも、いい奥さんになれるかも知れませんよ」ハリンゲイが言った。「ほら、マデライン・スミスの例があるでしょう。彼女も砒素を使ってましたな。誰かと結婚して、かなりの年まで仕合せに暮らしていたでしょう?」
「でも、彼女の夫はそんなに長生きはできませんでしたわね?」ミス・ティッタートンが言った。「そこが問題ではありません?」
「毒殺者は常に毒殺者だと思いますね」ミセス・フェザーストーンが言った。「それはお酒や薬みたいに、人を支配してしまうようになる一種の熱病みたいなものですわ」
「陶酔するような、権力を持ってるという感じでしょうね」ミセス・ディムスワージーが言った。「ところで、ピーターさん、お話しして下さいな……」
「ピーター」母親が言った。「ジェラルドがどうしているか見て来て頂戴、お茶がさめますと言ってね。きっと厩でフレディと馬の蹄のことか何かの話をしてるんでしょうよ。あんな面白くもないことが、いつでもあの人たちには大問題なんですからね。あなたのしつけが悪いからですよヘレン、ジェラルドが全く子供みたいに時間の観念がないのは。ピーターも昔はダメな人でしたけど、年のせいか近ごろはどうやら大人らしくなってきましたわ。あの人をこれだけちゃんとした人間にしたのは、あの人につけてある素晴らしい召使いのおかげなんですのよ。バンターは本当にあの人に心から仕えてくれますからね。ピーターも私なんかの言うことより、バンターの言うことのほうをよく聞くんですよ」
ウィムジーは逃げ出して厩へ行く途中だった。すると、ジェラルドがフレディ・アーバスノットを引きつれて来るのに出会った。ジェラルドは公爵未亡人の言伝てをにやにやしながら聞いていた。
「いやんなっちまうな」彼は言った。「お茶なんてことを発明するやつがいなければよかったんだ。神経を破壊し、夕食への食欲を損うものだよ」
「じめじめしたつまらんことだ」フレディが言った。「ピーター、君を呼び出そうと思ってたんだぜ」
「こっちも、おしゃべりにはあきあきしてたんだ」ウィムジーが即座に言った。「ビリヤード室へでも寄って、小言の一斉射撃に対抗する方策でも立てておこう」
「それは名案」フレディは言った。彼は上機嫌でウィムジーの肩を叩きながらビリヤード室に入り、大きな椅子にずしんと坐った。「退屈なクリスマスだ、まったく。嫌いなやつがみんな、ご機嫌うかがいとか何とか言って集まるんだ」
「ウィスキーを二つもってきてくれ」ウィムジーが召使いに命じた。「それからジェームズ、もし誰かがアーバスノットさんか僕のことを聞いたら、お出かけになったらしいと言っておいてくれ。さあ、フレディ、これでいい。ところで、何か掘り出せたかね?」
「十分、鼻をくんくんやって追っかけてみたよ。全く、今度は君と同じ仕事をはじめてみようかと思ってるくらいだぜ。バシー爺さんのやってるうちの新聞の経済欄みたいな感じでね。とにかくアークハート氏は用心深い。表には、信用できる顧問弁護士としかでてこない。しかし、きのうね、アークハートも少し深みにはまりこみすぎたと言っていた男がいるという話を聞いたやつに会ったよ」
「本当か、フレディ」
「まあ、あまり確かだとも言えないが、その男には次の裁判のはじまる前までにおおもとのそいつを捜せと言っといたんだ。そいつの考えでは、その話を知ってる男、彼に話したやつではない方だよ、その男がつかまるかどうか分らないというのだが、でも何とかしてその男を見つけ出すことができるかもしれないと言ってたね」
「たしかに値打ちのある情報らしいな」
「まあとにかく、そのもう一人の男をみつけることが肝心だ。別のルートから仕入れた情報では、そいつはかなり苦境にあるらしい。だから、ゴールドバーグに渡りをつけてやれば、そいつも喜んでアークハートの情報を教えてくれるだろう。ゴールドバーグは殺された老レヴィの従兄だし、やつらユダヤ人の団結は固いからね」
「ところで、老レヴィが何の関係があるんだ?」ウィムジーが忘れかけていた古い殺人事件〔『ピーター卿乗り出す』参照〕を思い起こしながらたずねた。
「まあ、実はおれも少し君のいうトリックを使ったんだ」フレディはちょっといらいらしながら言った。「つまり、レイチェル・レヴィがその、ミセス・フレディになるというようなことね」
「それは、それは」ウィムジーがベルを鳴らしながら言った。「えらいお目出たいことじゃないか。だけど、今はじまった話じゃないんだろう」
「まあ、そうだ」フレディが言った。「前からの長い話だ。ただ問題は僕がクリスチャンであるということなんだ。クリスチャンとしてあまり立派なものとは言えないけど、とにかく教会に家族席を持ち、クリスマスには出かけて行くくらいには教徒だよ。先方でも僕が異教徒であるということだけなら大して問題にしてはいないんだ。もし問題になるとすれば、子供ができたときのことだ。だけど僕は言ってやったよ。子供はどちらでもいいとね。とくに男の子の場合には、レヴィやゴールドバーグの身内というほうが何かと好都合じゃないか。それから、僕はレヴィ夫人にレイチェルには七年も奉仕してきたと言ってまるめこんだんだ〔創世記二九・二〇のラケル(レイチェル)の話〕。うまいやり方だろう?」
「ジェームズ、ウィスキーをもう二つ」ピーター卿が言った。「すばらしいよフレディ。どこからそんなことを思いついたんだ」
「ダイアナ・リグビーの結婚式のとき、教会でね」フレディが言った。「花嫁が五十分も遅れてきたので、その間なにかしなければならなかったんだ。誰かが家族席にバイブルを忘れていったのがあった。そこで創世記のその個所を読んで、『今度行ったときは、これを使ってうまくやってやろう』と思ったね。そこで、その通りやったら、思いのほか婆さんは感激したね」
「結局うまくいったというわけだな」ウィムジーが言った。「ふうん、万歳だ。ところで、式はユダヤ教会だな?」
「うん、そうなるだろうね」フレディが言った。「君は介添えになってくれるだろうね。介添えだから帽子を被ったままだぜ。忘れないでくれよ」
「憶えておこう」ウィムジーが言った。「細かいことはバンターが説明してくれるさ。きっと知ってるよ。何でも知ってるからね。しかしなあフレディ、調べてもらうことも忘れないでくれよ」
「忘れやしないよ。本当に。何か耳にしたらすぐ知らせる。まあ、何か出てくると当てにしてていいよ」
ウィムジーはいくらか頼もしく思った。少なくとも、このデュークス・デンヴァーでの監禁同然の宴会暮らしから救われて、生気をとりもどしたような気がした。しかしヘレンなどは公爵に、ピーターももう道化たことをやってる年ではないから、もう少し真剣に考えて身を固めた方がよいと苦言を呈したくらいであった。
「さあね」公爵は言った。「ピーターはおかしなやつだし、彼がどんなことを考えてるか分らんだろう。私の苦境を彼が救ってくれたことがあるが、それ以来、私は何も彼に干渉しないことにしているので、ほっといてやりなさい」
クリスマス・イヴも遅くなって到着したメリー・ウィムジーは、また違った見方をしていた。彼女はクリスマスの翌日の晩方の二時という時間に、この兄の寝室に入って来た。夕食からダンス、クイズ遊びとへとへとになるような遊びの後である。ウィムジーはガウンを着て火の前にぼんやり坐っていた。
「ねえピーター」メリーが言った。「少し熱っぽいみたいよ。どうかしたの?」
「杏のプディングの食べすぎと、社交過剰だよ。家庭の祭日を祝うために、ブランデーで焼かれる殉教者というところかな」
「まったく物すごいわね。でも、変りはないの? ずいぶん久しく会わなかったわね。永い間留守にしていたでしょ」
「うん。おまえも室内装飾の仕事が忙しそうじゃないか」
「何かしなくては。何もしないでいると病気になるような気がするわ」
「うん。ところで、パーカーとはどうしてる?」
メリーはじっと火を見つめた。
「ロンドンにいたときには一、二度食事を一緒にしたことがあったわ」
「そうか。礼儀正しいやつだ。しっかりしていて、まるで手織りの布みたいなやつだ。あまり面白い男ではないけどね」
「ちょっと固いわね」
「そう、ちょっと固い」ウィムジーは煙草に火をつけた。「だけど、パーカーを悲しませたくはないんだ。ひどく辛いと思うだろうからね」
メリーは笑った。
「気にしてるの?」
「いや、ただ、彼にはフェア・プレーでいってくれよ」
「だけどねえピーター、私にはあの人から聞かれるまでは、イエスともノーとも言えないわ。そんなことしたら、あの人の礼讃の観念をひっくりかえすようなものでしょう」
「そうかもしれない。でも、君に聞いたとしても、結果は同じかも知れない。彼はただ召使い頭に『捜査課長様とメリー・パーカー夫人』と呼ばれると思うだけでも胸が躍るらしい」
「どうにもならないわね」
「一緒に食事するのはやめられるだろう?」
「やめようと思えば、もちろんやめられるわ」
「やめなかったというだけのことだな。なるほど。じゃあ、こっちからヴィクトリア朝風に、彼の真意をさぐってやろうか?」
「なんだって急に私を家族から追い出したがるの? 誰もあなたに不愉快な思いをさせてないでしょう」
「いや、僕はいま、やさしい叔父さんみたいな気持でいるだけさ。年を食ってきて、自分たちの若さの過ぎ去った後、ほかのみんなの役に立つことをしようと……」
「私みたいに家の中を飾ったり……それはそうと、このパジャマは私が作ったのよ。面白いでしょう。でも、パーカー捜査課長はスプーナー博士〔オックスフォード学長〕やなんかみたいに旧式のナイト・ガウンの方がいいんでしょうね」
「それは気の毒な」ウィムジーが言った。
「いいのよ。私は誠実だわ。今すぐにでもこんなパジャマぐらい捨ててみせるわよ」
「まあまあ。ここで脱がなくてもいいよ」ウィムジーが言った。「僕の感情も尊重してもらいたい。よろしい。チャールズ・パーカーに言ってやろう。もし彼が生得の遠慮をすてて結婚の申し込みをすれば、君はパジャマを捨ててイエスと言うだろうとね」
「そうしたら、ヘレン姉さんはびっくりするわよ」
「ヘレンか。その驚きはきっと彼女の最悪の驚きになるぞ」
「ピーター、あんたは何か悪魔じみた筋書きを考えてるのね。いいわよ。もし私に最初に知らせてくれて、段々に彼女のショックを少なくさせてやるなら、私もそのつもりでやるわ」
「よし」ウィムジーが言った。
メリーは片腕を彼の首にまわして、めったにしたことのない接吻を与えた。
「お上品なおばかさん、もうおやすみなさい」彼女は言った。
「地獄へ行っちまえ」ピーターはやさしく言った。
[#改ページ]
第十三章
ミス・マーチスンの落ちついた心臓も、ピーター卿のすまいのベルを鳴らすときには、いささか興奮を感じていた。彼の称号や財産やあるいは独身であるというのが理由ではない。これまでビジネス・ウーマンだった彼女にとって、別に他意もなくいろいろな種類の独身の男を訪ねるということはよくあることだった。しかし、彼の手紙は彼女を興奮させるのに十分だった。
ミス・マーチスンは三十八歳の平凡な女だった。彼女は一つの商社で十二年も働いてきた経験がある。大体においてよい時代だった。ただ、最後の二年間ぐらいになると、彼女にも華やかないろいろの事業をやっているやり手の事業家は、ますます困難になってくる情況の中で曲芸をやってるようなものだと気がついた。勢いのおもむくままに、彼は一つ一つと曲芸の手玉にとる玉子を増してゆく。ところが人間の力にはやはり限界がある。ある日、一つが失敗してつぶれ、次いで次々と、やがてすべてが破れ去った。曲芸師は舞台から下りて海外に逃げ去り、副社長は頭を射抜いた。お客は怒り、一巻の終わりとなり、ミス・マーチスンは三十七歳で失業した。
彼女は新聞に広告を出し、いろいろな返事をもらったが、大ていの人は若くて安く使える秘書を求めていることが分った。これには彼女もがっかりした。
ところが、彼女の広告にタイプ会社をやっているミス・クリンプスンという人からの返事があった。
彼女の望んでいたものではなかったが、とにかく行ってみた。そして、それがただのタイプ会社ではなくて、もっと面白い仕事をやっているのを知ったのである。
ピーター・ウィムジー卿は全く蔭にかくれていたし、ミス・マーチスンが「猫屋敷」に入ったときは外国に行っていたので、彼女が彼に顔を会わせたのはほんの一、二週間前がはじめてだった。そのときはじめて彼に口を利いたのである。おかしな様子の人だけど、頭のいい方だという評判だわ。
バンターがドアを開いて、待っていたらしくすぐに本棚の並んでいる居間に案内した。壁にはいくつかの立派な複写の絵がかけてあり、オービュソンのカーペットがしいてあり、グランドピアノと茶色皮ではった大きな長椅子、ゆったりとした坐りごこちのよさそうな椅子数脚が備えてあった。カーテンは上げてあり、だんろに火が燃えていて、その前のテーブルには銀の茶器が美しい姿で目を楽しませてくれた。
彼女が入ってゆくと、彼女の雇い主は深々と坐っていたアーム・チェアから身を起こし、今まで調べていた本を置いて立ち上がり、アークハート氏の事務所で聞いたことのある、澄んでかすれたような、どちらかというと元気のない声であいさつした。
「よく来てくれましたね。いやな日ですな。お茶をあがりますね。クランペットはいかが? それとも、もっとハイカラなものにしますかな」
「恐れいります」ミス・マーチスンは、バンターが何となくすぐ後ろにうろうろしてるのを意識しながら言った。「クランペットは大好きですわ」
「それはそれは。じゃあ、バンター。お茶は自分たちで入れるよ。ミス・マーチスンにクッションをもう一つ上げなさい。仕事があるんだろう。ところでアークハート氏はどうです?」
「元気ですわ」ミス・マーチスンはおしゃべりではなかった。「ただ、一つ申し上げたいことが……」
「時間はあるでしょう。まあお茶がさめないうちに……」ウィムジーが言った。彼は気をつかって礼儀正しく待ったが、これも彼女を喜ばせた。彼女は部屋のあちらこちらにおいてあるブロンズの菊の花を賞めた。
「お気に入って何よりです。友だちは、こんなものは部屋を女の部屋みたいにさせるというんですが、実はバンターがやっているんです。彩りをつけるだけですがね」
「男らしいのは本だけで十分ですわ」
「なるほど、僕の道楽なんですよ。本と犯罪研究がね。しかし、犯罪研究のほうはあまり飾りにはなりませんね。それに、首吊り縄だとか人殺しのオーヴァーを集めようという趣味もありませんしね。あなただったらどうします。お茶はどうでした。あなたに入れていただけばよかったかもしれないけど、お客さんを呼んで何から何までさせるのは悪いと思ったもんですから。仕事がないときは何をしてるんです? 何か内証の趣味でもありますか?」
「音楽会に行きます」ミス・マーチスンが言った。「音楽会のないときはレコードをかけますわ」
「楽器はやりますか?」
「いえ、正式に習ったことはないんです。習えばよかったと思いますわ。でも、秘書をやってるほうがお金になったものですから」
「そうでしょうね」
「本当に一流の音楽家にでもなれば別ですけど、そんな望みはありませんでしたし、三流楽師になるんでしたら無意味ですわ」
「全くそれではつまりませんよ」ウィムジーが言った。「映画に出てくるけど、嫌ですね。つまらないやつが、おそろしく拙劣にちょっとメンデルスゾーンをやったと思うと、今度は未完成交響楽の一切れを、サンドイッチみたいにして演奏してますがね。ところで、サンドイッチをどうぞ。バッハは好きですか? それとも現代音楽だけですか?」
彼はピアノの椅子のほうに歩いて行った。
「どちらでも」ミス・マーチスンは驚いたように言った。
「今夜はイタリアの曲がいいな。本当はピアノよりハープシコードの方がいいんだけど、ここにないからね。バッハは頭にいい音楽ですよ。落ちつかせてくれますからね」
彼は一曲弾き終わると、しばらく休んでから今度は流行の曲の一つを弾きはじめた。かなり巧く弾いたし、また力を制した、かぼそい幻想的な弾き方で、全く思いがけないような、むしろ少し不安になるくらいの弾き方だった。弾き終わると、彼はピアノの前に坐ったまま言った。
「タイプライターは調べてもらえましたね」
「ええ、三年前に新品を買ったものです」
「よろしい。あなたはアークハート氏がメガシアリウム証券と関係のあることをうまくつかんでくれました。大変役に立ちました。お手柄です」
「恐れいります」
「他に新しいことは?」
「別に……ただ、あなたがアークハート氏の事務所にいらした晩、彼は私たちが帰ったあと遅くまで一人で残って、何かタイプしていました」
ウィムジーは右手で和音を軽く叩きながら言った。
「先に帰ったのに、どうして彼がそんなに遅くまで残っていたか、また何をしていたか、分ったんです?」
「少しでも変ったことがあったら知らせろとおっしゃってましたので、彼が一人で残っているということだと思い、七時半までプリンストン街を行ったり来たりしたり、レッド・ライオン広場を廻ったりして過ごしたんです。そして、彼が電気を消して家に帰ったのを見とどけました。次の朝、タイプライターのカバーのすぐ裏に私がはさんでおいた紙が散らばっているのに気がついたのです。そこで、彼がタイプを打っていたと考えました」
「掃除女が散らかしたのかもしれませんね」
「いいえ、違います。彼女は蓋だけで中は掃除しません」
ウィムジーはうなずいた。
「一流の調査をやってくれましたね。大変結構です。ところで、それならわれわれの仕事をやってもらえそうですな。いいですか、僕は違法なことをお願いしようと思うんですがね。分りますか?」
「分りますわ」
「平気ですか?」
「いいえ。でも、私がつかまっても、きっと必要なことはあなたがなさって下さるでしょうと思いますわ」
「それはもちろんですよ」
「もし刑務所に入れられたら?」
「そうまでなるとは思いませんがね。ちょっと冒険なことは認めますが、つまり、僕の考えることが間違いだったとすると、下手をするとあなたが窃盗とか、金庫破りの道具を持っていたというかどで、つかまることがあるかもしれないんです。しかし、それも最悪の場合ですがね」
「面白そうですわ」
「本当にそう思いますか」
「ええ」
「すばらしい。ところで、僕が行ってたときに、あなたがアークハート氏の部屋に持ってきた書類箱を知ってますね」
「ええ、レイバーンと書いてあった箱です」
「どこにしまってあるんです? 外側の事務室のどこから持ってきたんです?」
「ああ、沢山の他の箱と一緒に、棚の上にありますわ」
「よろしい。ところで、あなたがそのうちに、いつか一人で、まあ三十分くらいでも事務所に残るというようなことができますか?」
「そうですね。わたしは、昼休みは十二時半に出て一時半に戻ります。ポンドさんは入れ替わりにそのとき出て行きますが、アークハートさんは不規則で、ひょっこり帰って来ないとは言えませんわ。それに、四時半すぎまで私が残っていようとするのもおかしいでしょうし。でも、私が書類を間違えたふりをして、遅くまで残って直そうとするんなら、それならできますわ。朝、掃除女のいるころに特に早く出て来ることもできますけど、でも掃除女に見られてはどうでしょう?」
「大したことはないと思いますがね」ウィムジーが考えながら言った。「きっとあなたが書類箱を正当な仕事として扱っているんだと思うでしょう。時間の点はあなたに任せます」
「でも、何をするんです。箱を盗むのですか?」
「それまでする必要はありません。鍵のあけ方を知ってますか?」
「私には分らないんではないでしょうか」
「学校へは一体、何を習いに行ったんだろうと思うことがありますね。本当に役に立つことは何一つ習ってないんですからね。僕も、大ていの鍵ならあけられますが、時間もないし、あなたには集中的な訓練が必要そうですから、あなたを玄人のところへ連れて行きましょう。コートを着て、僕と一緒に友だちのところへ来てくれませんか」
「結構です。喜んでお供します」
「ホワイト・チャペル街に住んでるんです。その男の宗教観さえ見逃してやれば、とても面白い男ですよ。僕はあの連中に会うと、とても元気が出るんです。バンター、タクシーを呼んでくれないか」
イーストエンド〔貧しい地区〕へ行く途中、不安に沈みそうになるミス・マーチスンに、ウィムジーは無理に音楽の話をしかけるのだった。彼女は二人の行く先についての話を彼が故意に避けてるように思えて、いささか不吉な思いを抱きはじめた。
「それはそうと、私たちが訊ねて行く人はなんていう名の方ですの?」ウィムジーが遁走曲《フーガ》の様式について話しているのを、さえぎるようにして彼女は聞いた。
「あなたの言う通り、その男も名前は持ってると思うんですが、自分で名乗ったことがないんですよ。ラムって言ってますがね」
「まさか、その人が錠前を開く授業をしてくれるんではないでしょうね」
「その男の名がラムなんです」
「まあ、それで?」
「それだけですよ。ラムというのがその男の名前なんだから」
「あら、ご免なさい」
「でも、そう呼ばれるのは好きではないらしい。今では全く禁酒してますからね」
「では何と呼べばよろしいんですの?」
「僕はビルと呼んでます」狭い小路に車は入って行った。
「仕事をしている頃は、親方としてみんなが『目かくしのビル』と呼んでましたよ。一時は鳴らした男なんです」
運転手に金を払うと、ウィムジーはつれを狭い小路に連れて行った。運転手ははじめのうちは二人を救済事業の人間とでも思ったらしいが、もらったチップの額を見て、何をする人間か見当もつかないらしかった。小路の奥に小さな家があって、灯りをつけた窓から大きな声のコーラスの一節が流れ出ていた。コーラスはアコーディオンとそんなような楽器の伴奏がついていた。
「おや、会にぶつかったらしい」ウィムジーが言った。「仕方がない。まあ行ってみよう」
「ハレルヤ、ハレルヤ」という熱烈な祈りのような歌の一節のくりかえしが終わるまで待って、彼は力一ぱいドアを叩いた。すぐに小さな女の子が顔を出してピーター卿をみ、喜びの金切り声を上げた。
「やあ、エズメラルダ・ヒヤシンス。お父さんはいるかい?」ウィムジーが言った。
「いるわ。さあ。きっと喜ぶわ。どうぞ入って頂戴」
「いいのかね」
「ええ。ナザレを一緒に歌わない?」
「いや、ナザレは歌えないよ。驚いたね」
「パパはナザレは俗歌ではないし、あなたはうまく歌えると言ってたわ」エズメラルダは口ごもるようにして言った。
ウィムジーは両手で顔をおおった。
「これでばからしいことを演じたのがばれてしまった」彼は言った。「恥は消えないものだ。約束はしないよ、エズメラルダ、だけど入ろう。ただ、今日は会が終わったらお父さんに話があるんだ」
子供がうなずくと同時に、時々ハレルヤと叫ぶ声のまざった祈りの声が終わった。エズメラルダがこの一瞬をとらえてドアを開き、大声で「ピーターさんと女の人が来たわ」と叫んだ。
部屋は小さく、人が一ぱいでむんむんしていた。一隅に楽器があり、そのまわりに楽師たちが集まっていた。中央には赤い布をかけた丸テーブルの前に、頑丈なブルドッグのような顔をした男が立っていた。本を手にしていて、今にも讃美歌を歌い出そうとしていたのだが、ウィムジーとミス・マーチスンの顔を見ると、進み出てきて大きな実直そうな手を出した。
「よう見えました」彼は言った。「同胞よ、ここに来られた同胞はウェストエンドの富と頽廃の生活から、われわれとともに天国の歌を歌いに見えたのです。さあ歌って神の名を讃えましょう。ハレルヤ。東から西から集まって多くの人がこの神の祭壇の前に坐るが、一方、多くの人々が自分たちは救われていると考えて、外の闇の中に残されていることも忘れてはなりません。光り輝く眼鏡をかけているからといって、その人が選ばれた神の国を望める人だとは言えません。ダイヤモンドの首かざりをつけ、ロールス・ロイスを乗りまわしている女性でも、だからといって、神の国で白いローブに黄金の冠を頂けるというわけではない。またリヴィエラへ特急で旅行したからといって、生命の河岸で金の冠を頂けるものではないのです。ハイド・パークで日曜日に時々説教があるが、あれはだめです。ばからしい上に人間を闘いと羨望とに導いて慈悲へは導いてくれないのです。われわれはみな迷える羊なのです。この私にしても、真黒な罪を犯した人間で、この紳士が、金庫を破ろうとした私を、破滅へ至る道から神への道へと導いてくれたのです。さあ兄弟よ、私にとって何とよい日でしょう。神の恵みの雨です。さあ感謝の心をこめて、百二番の讃美歌を歌いましょう」エズメラルダが二人に讃美歌の本を渡した。
「悪かったね。辛抱できますか?」ウィムジーがミス・マーチスンに言った。「これが最後の歌だと思いますが」
オルガン、ハープ、ラッパ、サルタリ、ダルシマーなどの古くさい楽器まで、耳を打つような音を立てて奏でられ、声もそれにつれて高まっていった。ミス・マーチスンは自分でも不思議に思いながら、いつのまにか一緒に歌っていた。最初は控え目に、やがて心をわき立たせる聖歌に熱心に声をはり上げて……
「イェルサレムの門をこえて」
ウィムジーは全く当惑もしないで、はじめから面白そうに見ていたし、楽しそうに歌っていた。こういうことに馴れているからなのだろうか、それとも、彼はどんな環境にでも場違いと思わないで、平気で溶け込んで行けるたちの人間なのか、ミス・マーチスンにはどちらとも判断がつかなかった。
この讃美歌で宗教的な試練が終わると知って彼女はほっとした。人々があちらこちらで握手をかわして別れていった。楽師たちは、楽器にたまった唾を慎み深く炉に落した。オルガンを弾いていた女は鍵盤に蓋をして客にあいさつをしていた。彼女はただ簡単にベラとしか紹介されなかったが、ミス・マーチスンは、彼女がビル・ラム氏の夫人であり、エズメラルダの母親であろうと見当をつけた。
「さて」ビルが言った。「説教と歌だからのどが乾くのも無理はない。お茶かコーヒーをどうです?」
ウィムジーは、自分たちはいまお茶を飲んできたところだからと断ったが、一家の人々にはかまわず食事をしてくれと言った。
「まだ食事には早いですわ」ミセス・ラムが言った。「先に用事をすましてしまって、そのあとに一口ぐらいいかがですか。羊の脚肉ですよ」
「ご親切はありがたいんですけど」ミス・マーチスンが遠慮がちに言った。
「脚肉料理はありがたい。僕たちの用事もすこし時間がかかるから、そのあとでご馳走になるよ、あんたがたの分を減らしても差し支えないならね」
「遠慮しないでくださいな」ラム夫人が喜んで言った。「すばらしいのが八本あるんですよ。それにチーズを少しつけますからね。さあ、エズメラルダ、パパはご用だよ」
「ピーターさん、歌ってくれるわね」子供はウィムジーにせがむような目付きで言った。
「さあ、お客様を困らせるんじゃないよ」ミセス・ラムは叱った。「本当に困った子だわ」
「ご飯のあとで歌ってあげるよ、エズメラルダ」ウィムジーが言った。「いい子だからすぐ向うにいらっしゃい。さもないと、メッてやるよ。ところでビル、新しい生徒をつれて来たんだ」
「旦那の仕事なら、どんなことでも喜んでやります」
「ありがとう」ウィムジーが丁寧に言った。「簡単なことなんだが、このお嬢さんは鍵について何も知らないんだ。そこで、君にコーチしてもらおうと思って連れてきたんだ。さあ、ミス・マーチスン、ビルに教わりなさい」
「どうぞよろしく」ビルが言った。
「この男は三国一の腕のいい泥棒であり、金庫破りなんですよ。僕がそう言っても、今では足を洗って、堅気の腕のいい錠前師になってるんだから、別に気にもしてないんです」
「勝利を与えし神に栄光あれ」
「でも、時々正しいことのために必要があると、ビルは僕にその経験のたまものを貸してくれるんです」
「本当に、昔は悪いことに使っていた腕を、今度は神様のために使えるのはありがたいことですよ。悪の中より善を輝かしめたもう神に栄えあれ」
「そうだとも」ウィムジーがうなずきながら言った。「ところでビル、今度目をつけているのは、ある弁護士の書類箱なんだ。それには、無実の罪に苦しんでる人を助けられるようなものが入っているかも知れないんだ。このお嬢さんはその箱に手を触れることができるんで、できたら、それを開く方法を教えてほしいんだ」
「できたら! ですって」ビルが肚を立てたみたいにうなった。「教えられるにきまってますよ。書類箱なんて何でもない。そんなものは赤ん坊の手をねじるようなもんです。子供だましの小さな鍵のついた、子供用の貯金箱を盗むようなもんでさ。この町の書類箱なら私は目かくしして、ボクシングのグローブをはめて、ゆでたマカロニを使ってでも開けられないものは一つもありませんよ」
「分ってるよビル。でも、開けるのは君じゃないんだ。このお嬢さんに教えられるかどうかなんだ」
「大丈夫です。どんな錠なんです、お嬢さん?」
「分らないわ」ミス・マーチスンが言った。「普通の錠だと思うわ。つまり、普通の鍵を使って開くのよ。ブラマ錠やなんかではないものよ。アーク……いえ、その弁護士が一組は持っていて、もう一組の鍵はポンドさんが持ってるのよ。刻み目のついたところと胴体のある本当にありふれた鍵よ」
「しめた」ビルが言った。「それなら、三十分もあれば必要なことは全部教えてあげられますよ」彼は茶だんすの前に行って五、六枚の錠板と鍵のように輪にはめた奇妙な細い針金の鈎《かぎ》の束をもってきた。
「それが錠前破りの道具ですの?」ミス・マーチスンが不思議そうにたずねた。
「そうですよ、お嬢さん。悪魔の発明品です」彼は光っている鋼鉄のそれをいとおしそうになでながら首をふった。「多くの人がこんな鍵を使って地獄に落ちていったもんです」
「今度は」ウィムジーが言った。「それは哀れな無実の人を牢から出して陽の目を見せてやるために役に立つんだ」
「神様の思し召しでさ。ところで、お嬢さん、まずまっ先に覚えることは、錠前がどんな風にできてるかということです。さあ、これを見てごらんなさい」
彼は錠の一つをとり上げて、バネを押さえると、どういう風にかけ金が引っこむかをやって見せた。
「面倒くさい説明はいらないね、お嬢さん。バネ箱とバネだけしかないんだ。やってごらんなさい」
ミス・マーチスンは言われた通りにやってみた。いくつかの錠をやってみて、あまり簡単に開くので驚いたらしい。
「ところで、ねえお嬢さん。難しいのは錠がはめこんであると、今みたいに中を見ながらやるわけに行かない。耳で聞く音と、指先の感じに頼るよりほか仕方がない。そこで、今度は目をつぶって、やってみて、バネがかけ金を引きもどすのに十分なだけひっかかったかどうか、指先の感じでためしてごらんなさい」
「私はとても不器用だから」五回目か六回目をやりながらミス・マーチスンが言った。
「固くなってはだめですよ。楽な気持でやってると、ふとちょうどよいところにぶつかるもんです。すいっとうまく行くつもりで、手を楽に動かしてね。旦那も、ここで待ってらっしゃる間に組合せ錠をちょっとやってみませんか? すばらしいのを手に入れたんです。サムがくれたんですがね、ご存じでしょう。何度もやつには足を洗うように進めたんですが、『いやビル、おれにはお宗旨は何の役にも立たねえよ』とやつは言うんです。かわいそうな男でさ。『だけど、ビル、お前とは喧嘩はしたくないよ。つまらないもんだが形見にやらあ』と、こう言っておいてったんですよ」
「おいビル」ウィムジーが責めるように指をふって言った。「それは出所のあやしいものじゃないのか」
「まあ、旦那。持ち主が分っていたら、喜んで返しに行きましたよ。そうするのがいいことですからね。サムは蝶番のほうにジェリグナイトを注いで蓋を吹きとばしちまったんです。錠前も一緒にね。小さいけど、本当にきれいな、私も見たこともない型のやつですよ。だけど、一時間か二時間で、私はこれもこなしてしまいましたがね」ビルは無邪気に自慢して言った。
「いい刺激になったろうな、この錠は」ウィムジーは錠を前に置いて、ノッブを扱いながら言った。彼の指はマイクロメーターのように微妙に動き、錠のテコの落ちる音を聞きもらすまいと耳をよせていた。
「旦那はまあ、何という泥棒の素質までおあんなさる」ビルが言った。「もしそのつもりになればなあ……もっとも、神様がお許しにはならないが」
「この世には、しなければならない仕事がありすぎるよ」ウィムジーが言った。「ところで、黙ってろよ、失敗しちまった」
彼はまたノッブを返すと、はじめからやりはじめた。
脚肉料理が出てきたころには、ミス・マーチスンは普通の型の錠前ならけっこう楽に開けられるくらいの技術を身につけていた。
「あわててはいけませんよ」ビルが最後に注意を与えた。「さもないと、錠の上にかき傷を残したりするからね。痕《あと》を残さないように。かなりできるようになりましたな、どうです、ピーター様?」
「僕は追いこされるかな」ウィムジーが笑いながら言った。
「馴れですよ」ビルが言った。「それだけでさ。あなたももっと早くからはじめていたら、すばらしい腕ききになったでしょうがね」彼は溜息をついた。「近ごろでは本当に職人的な腕のいいのは、あまりおりませんわ。さっきのみたいにジェリグナイトで粉々に吹きとばされたいい錠前を見ると、えらく悲しい気がします。何です一体ジェリグナイトなんて。大きな音を立ててやるんなら、馬鹿でもできますよ」
「さあ、古いことをいつまでもくよくよしてないで」ミセス・ラムが叱るように言った。「こっちで食事にしましょう。金庫破りなんて悪いことをするのに、芸術的もへちまもあるもんですか」
「女の言いそうなことだ。お嬢さんには失礼だが……」
「本当に失礼ですよ」ミセス・ラムが言った。
「この脚肉は大変芸術的に料理できてるようですな」ウィムジーが言った。「僕にはそれだけで十分ですよ」
脚肉を食べ終わり、ナザレの歌がラム一家の賞讃の中に歌われ、その夜の楽しみが讃美歌の中に終わりを告げて、ミス・マーチスンはホワイト・チャペル街を歩きながら我に帰った。ポケットには合鍵の束を持ち、驚くべき知識を胸に抱いていることを意識しながら。
「面白い方とのおつきあいがおありですのね」
「それはひやかしですか? でも≪目かくしビル≫は腕前はピカ一ですよ。ある晩、僕の家の中で彼を見つけ、それ以来一種の仲よしになったんですよ。授業をうけたりしてね。最初は少し狡そうだったんですが、僕のもう一人の友だちの感化をうけてね、長い話になりますが、つまり、今の錠前鍛冶の仕事を見つけて、かなりうまくいってるようです。錠前に対しては自信がつきましたか?」
「そんな気もします。箱を開けたら何をさがすんです」
「問題はそこなんですよ、アークハート氏は五年前にミセス・レイバーンが作ったという遺書の草案なるものを見せてくれたんです。その要点はあなたにあげるように、紙きれに書いてあります。これです。そこで謎は、その草案があなたの言う通り三年前に新品として買ったタイプライターで打ってあったということなんです」
「すると、あの晩あの方が一人で事務所に遅くまで残ってタイプで打っていたのがそれだとおっしゃるんですわね」
「そうらしい。そうだとすると、なぜだろう? もしもとの草案があるなら、なぜそちらを僕に見せなかったのだろう。実際、そんなものは僕に見せる必要はないんですよ。もし僕の考えをどこかに外らせようと思っているんでなかったとしたらね。彼は草案は事務所に置いてあるといって、ミセス・レイバーンの箱をさがすふりをしましたね。これはまた、どういう訳でしょう。荘園の存在を印象付けるためとしか考えられません。だから、僕の結論は、遺書があるとすれば、僕に見せたようなものではないということです」
「そうらしいですわね」
「僕が捜してもらいたいのは本当の遺書です。原本かコピーかどっちかがあるはずです。持ってこなくてもいいから、重要な点だけ覚えてきてもらいたいんです。特に主な遺産相続人の名前とか、残った財産をもらう人の名前です。いいですか、残余の財産をもらう人というのは、特に他の人にと指定してなければ、相続人が遺言人より先に死んだ場合その分もすべてもらえるんですよ。僕が特に知りたいのは、フィリップ・ボイスに何か遺書でふれているか、それともボイス一家について何か遺書でふれているかです。遺書がないとしても、何か重要な書類があるはずです。たとえば、秘密の信任状とか、執行人に対する金の特別な使い方に対する指令書というようなものがね。つまり、書類の中で重要そうなものの内容が知りたいんですよ。書きとるのにあまり時間をかけてもいけませんよ。条項を、できたら頭に入れて、事務所から出て一人になってから書きとめて下さい。それから、その合い鍵を人目につくようなところに出しておかないでね」
ミス・マーチスンは命令を守ることを約束した。このときタクシーが来たのでウィムジーは彼女を乗せ、彼女の家まで急がせた。
[#改ページ]
第十四章
ノーマン・アークハート氏は四時十五分を指している時計を見て、開いているドアごしに声をかけた。
「口述書はもうできるかね、マーチスンさん」
「いま最後の頁をやっております」
「終わったらすぐもって来て下さいよ。今夜ハンソンの所へ廻さなければならないんだから」
「はい」
ミス・マーチスンは騒々しくタイプのキーをかきならし、必要以上の荒々しさでシフト・レバーを叩いて、ポンド氏にまた女事務員を入れたことを後悔させるのだった。最後の頁を終わり、線と点で打ち終わりのしるしを飾り、レリーズをはずして、ローラーをまわし、おそろしい早さで用紙を引き出し、カーボンをくずかごに投げこみ、紙を順番にそろえ、乱暴に四すみをとんとんと揃えて、奥の部屋へそれを持ってとびこんだ。
「読み返してるひまがありませんが」彼女が言った。
「結構」アークハート氏が言った。
ミス・マーチスンは後ろ手にドアを閉めて退ってきた。自分の持ち物を集め、手鏡を出して、しゃあしゃあとどちらかというと大きな鼻に白粉をはたき、一山のがらくたをふくらんだハンドバッグにつめこみ、翌日の用意にタイプカバーの下にいくらかの紙をはさみ、釘から帽子をとると頭にのせ、上から手で押えて、髪の毛の束を乱暴ないらいらした指先でその下につっこんでいた。
アークハート氏のベルが鳴った。一度。
「あーあ」ミス・マーチスンが衿を立てながら言った。
彼女は帽子を脱ぐと、呼び声に答えた。
「マーチスンさん」アークハート氏は大分困ったというような表情で言った。「この第一頁に、まるまる一段脱けてるところがあるのに気がつかなかったかね?」
ミス・マーチスンは真っ赤になった。
「まあ、すみません」
アークハート氏は大仰に書類を手にして、この世に口供書以外の真実はないとでも言うように言った。
「大変困った。三項目のうち、一番長い大切なところなんだ。明日の朝一番先に必要なんですよ」
「どうしてそんな間違いをしたか分りません」ミス・マーチスンがつぶやいた。「今夜は残ってもう一度打ちなおします」
「そうしてもらわなければならないかな。僕がもう一度目を通せないのはちょっと困ったことだが、仕方がないでしょう。今度は気をつけて下さいよ。明朝十時前にハンソン商会に見せて下さい」
「はい。特に気をつけます。申し訳ありませんでした。きっと正確に作るように今度は気をつけます」
「よろしい、そうして下さい」アークハート氏が言った。「二度とくり返さないようにね」
ミス・マーチスンは書類を持ってそそくさと出てきた。彼女はタイプライターの蓋をがたがたと外し、机の引出しを引出し止めががたんとぶつかるまで引っぱり出して、上紙とカーボンとコピー用の薄紙をテリアが鼠をおもちゃにするように派手に合わせて、荒っぽくタイプライターにはさんだ。
机に錠を下ろしたポンド氏は絹のスカーフを首に巻きながら、いくらか驚いたように彼女を見ていた。
「まだこれから、タイプを打つんですか?」
「全文をはじめからやり直しなんです」ミス・マーチスンが答えた。「第一頁の一章を打ち落したもんで、第一章のですよ。ボスは明日の十時までにハンソン商会に見せておかなければならないっていうんですもの」
ポンド氏は軽くうなって首を振った。
「こういう機械があると、つい不注意になるんですな」彼はいましめるように言った。「昔は、書記はばからしい間違いをしないように、今の倍以上気をつかっていたもんですよ。全文をまた手で書かなければならなかったんですからね」
「その頃に生まれてなくてよかったですわ」ミス・マーチスンがぽつんと言った。「それではまるで奴隷みたいだわ」
「それに、四時半だからと言って、すぐ帰りはしなかったね」ポンド氏が言った。「昔はよく働いたものだ」
「時間は長くても、効率はわるかったんじゃないですか」
「いや、仕事はじつに正確だったね」ミス・マーチスンがいらいらしながら、あわてて打って、もつれた二つのキーをなおしているのを見ながら、ポンド氏が力をこめて言った。
アークハート氏のドアが開いたので、タイピストは口ごもった。彼がおやすみと言って出て行くと、ポンド氏も後を追った。
「掃除婦の帰るまでには終わるでしょうけど」彼は言った。「もし終わらなかったら、灯りを消すのを忘れんようにね。鍵は地下室のホッジス夫人に渡して下さいよ」
「はい、お寝みなさい」
「さよなら」
入口を通った彼の足音が、窓の下の所でまた大きく響いて聞こえ、ブラウンロー街の方に消えて行った。ミス・マーチスンは彼が無事にチャンセリー小路の地下鉄に行く頃を計りながらタイプをつづけていた。やがて、彼女はちらっとあたりに目を配ると、立ち上って高い棚のほうへ近よった。そこには黒い書類箱にそれぞれ依頼人の名を大きな白い字で書いたのが一ぱいつまっている。
レイバーンというのはたしかにそこにあるはずだった。ところが、不思議なことに場所が変っている。これは全く思いがけないことだった。彼女ははっきりとしまった場所をおぼえていたのだが。クリスマスのちょっと前、モーティマー、スクロッギンズ、コート卿、ドルビー兄弟、ウイングフィールドの箱の上に確かに置いた。しかし、クリスマスの翌日のきょう、目指す箱は、ボッジャーズの箱や、サー・J・ペンクリッジ、フラッツビー・アンド・コートン、トラボディ社、ユニヴァーサル・ボーン信託の箱の下になっていた。休み中にたしかに誰かが大掃除をしたらしい。ミス・マーチスンは、それはミセス・ホッジスではないだろうと思った。
大変な仕事だった。どの棚も一ぱいだったし、全部の箱を下ろさなければレイバーンの箱はとれない。それに、ミセス・ホッジスがすぐ来るだろう。彼女のことは大して心配しなくてもいいだろうけど、でも変に思うかも知れない……。
棚はかなり高かったので、ミス・マーチスンは机の前から椅子を引っぱってきて、その上にのぼり、ユニヴァーサル・ボーン信託の箱を下ろした。かなり重かったし、椅子がまた回転椅子で、それも当世風のものと違って、心棒が一本で、背中のかたい、背骨の下の方をごりごりやって坐った人を仕事に追いたてるようなやつだったので、取りのけた箱をせまい戸棚の上にそーっと体の調子をとりながら置くまでの間も、危なっかしくぐらぐらしているのだった。彼女はまた手を伸ばしてトラボディ社の箱を取り下ろし、ボーン・トラストの上においた。三度目に手を伸ばしてフラッツビー・アンド・コートンの箱を取ったが、それを下ろそうとしたとき、戸口のところで足音が聞こえ、驚いたような声が後ろに聞こえた。
「何を捜してるんです、マーチスンさん」
ミス・マーチスンはひどくびっくりして、危なっかしい椅子がぐるりと四分の一ほど廻り、危うくポンド氏の腕の中にころげ落ちそうになった。彼女はばつの悪そうな顔をして椅子から下りたが、まだ黒い書類箱は持ったままだった。
「驚きましたわ、ポンドさん。もうお帰りになったとばかり思ってましたのに」
「そうですよ」ポンド氏が言った。「ところが地下鉄まで行って、小さな包みを忘れていたのに気がついてね。面倒くさいが、とりに来たんですよ。どこかで見かけなかったかね。小さい壺で茶色の紙に包んであるんだけど」
ミス・マーチスンはフラッツビー・アンド・コートンの箱を椅子の上に置いて、まわりを見まわした。
「私の机の中にはないらしいし」ポンド氏が言った。「やれやれ、遅刻しそうだぞ。そうかと言って、あれを持たずに帰る訳にはいかんし、夕食に使うんだからなあ。小さいキャビアの壺なんだけどね。今夜お客があるんですよ。さあて、どこに置いたかなあ」
「もしかすると、手を洗ったときに置いて来たんではありません?」ミス・マーチスンが有益な助言をした。
「そうだ、そうかもしれない」ポンド氏はばたばたと出て行った。廊下の小さな手洗所のドアがばたんと開く音がした。このとき、急に彼女は机の上にハンドバッグを開きっぱなしで置いてあったのに気がついた。たぶん合い鍵が見えただろう。ポンド氏が意気揚々と帰って来るのと殆ど同時に、彼女はバッグのところへとんで行った。
「君が言ってくれたんで助かったよ。ちゃんとあすこにあった。家内があわてているだろう。じゃ、お寝み」彼はドアの方へ向っていったが、「それはそうと、何をさがしているんですかね」
「鼠を追ってたんです」ミス・マーチスンが神経質な笑い方をして言った。「坐って仕事をしていると、戸棚の上を鼠が走るのが見えたんです。それからこの箱の裏の壁のところに……」
「汚いけものですな」ポンド氏が言った。「ここは全く自由に走りまわられてますね。猫を飼おうと何度も言ってたんだけど。とにかく、今つかまえるのは無理でしょう。そんなに怖くはないでしょう?」
「ええ」ミス・マーチスンは一所懸命になってポンド氏の顔を見つめながら言った。もし合い鍵が机の上に無雑作にその骸骨のような姿をさらしているとしたら……彼女はきっとそうだと思っていたが、そっちへ目を向けるのは気狂いじみた冒険だ。「ええ、あなたの若かったころの女の人は、みんな鼠を怖がったでしょうがね」
「そうでしたよ」ポンド氏が言った。「その箱を片づけるのを手伝いましょう」
「電車に遅れますよ」ミス・マーチスンが言った。
「もう遅いんですよ」ちょっと時計を見て、ポンド氏が言った。「五時半のに乗らなくては」彼は丁重にフラッツビー・アンド・コートンの箱をとり上げると、ぐらぐらする回転椅子の上に危なっかしく上がった。
「どうもすみませんねえ」箱をしまっているポンド氏を見守りながら、ミス・マーチスンは言った。
「いや、何でもないですよ。そっちの箱も手渡して下さい」
ミス・マーチスンはトラボディ社のと、ユニヴァーサル・ボーン信託のを手渡した。
「さあ、これでよしと」ポンド氏は箱を積み終えると手の埃をはたきながら言った。「これで鼠が出てこなければいいが、ホッジス夫人に適当な小猫を飼うように話しておきましょう」
「それはいい考えですわ」ミス・マーチスンが言った。「お寝みなさい、ポンドさん」
「おやすみ」
彼の足音が廊下から下りて行き、窓の下の所でまた大きくなり、再びブラウンロー街に消えて行った。
「やれやれ」ミス・マーチスンはほっとした。彼女は机のところへ飛んで行ってみた。心配することはなかった。バッグはしまっていて、鍵は見えなかった。バケツと掃除道具のがしゃがしゃいう音がミセス・ホッジスの来たことを知らせたので、彼女は椅子をもとのところへ引っぱってきて坐った。
「あれ」ミセス・ホッジスは女事務員が熱心にタイプを打っている様子を見て、戸口のところで立ち止った。「ごめんなさいよ。誰かいるとは知らなかったもんだから」
「悪いわね小母さん。だけど、もう少しで終わるから。はじめてもいいわよ。かまわないのよ」
「そんなら」ミセス・ホッジスが言った。「パートリッジさんの事務所を先にやるからいいわ」
「そう。よかったらそうして頂戴」ミス・マーチスンが言った。「一、二枚タイプを打って、それから要項を抜粋するのよ。つまりノートするだけよ」
ミセス・ホッジスはうなずいて姿を消した。すぐにばたばた言う音が頭の上から響いてきて、パートリッジ氏の事務所に彼女がいることを教えてくれた。
ミス・マーチスンはもう待っていられなかった。また椅子を棚のところに引きずっていって、次々と素早く箱を下した。ボーン・トラスト、トラボディ社、フラッツビー・アンド・コートン、サー・J・ペンクリッジ、ボッジャーズ。最後にレイバーンの箱を取り上げて、自分の机の上に持って来たときには、彼女の胸は高鳴っていた。
バッグを開けると、中身をさらけ出した。合い鍵の束はハンカチーフやコンパクト、櫛などと一緒に、がちゃりと机の上に出た。細くて光っている鋼鉄の鍵は指が焼けるような気がした。
束をとり上げて、一番合いそうな合い鍵を探しているとき、窓をとんとんと叩く大きな音が聞こえた。
彼女はぎょっとして後ろに向き直った。窓にはだれもいない。合い鍵を上衣のポケットにすべりこませて、爪先立って窓により外をのぞいた。街灯の明りで、三人の少年が建物の庭を仕切った鉄柵に上っているのが見えた。先頭の少年が彼女を見つけて、下の方を指さして身ぶりで示した。ミス・マーチスンは手をふって、「よしなさい」と叫んだ。
少年は何か分らないことを叫んで再び指さして示した。ミス・マーチスンは窓に当った音と、少年の身ぶりや叫び声を考えて見て、庭に大切なボールがとびこんだのだということが分った。彼女は激しく頭をふると、また仕事にかかった。
しかし、この事件で、窓にはブラインドがなく、従って電灯の灯りで彼女の一挙一動が路上の人にはステージの上の人物のようによく見えるのだということに彼女は気がついた。アークハート氏やポンド氏があたりにいるとは考えられないが、心配になってきた。それに、もし巡査が通りかかったら、百ヤード先で使っている合い鍵に気がつかないだろうか? 彼女はまた外をうかがった。気のせいだろうか、ダーク・ブルーの服をきたがっしりとしたその人影が、通り過ぎなかっただろうか。
ミス・マーチスンははっとして身を引き、書類箱をつかむと抱くようにしてアークハート氏の私室へとびこんだ。
ここなら少なくとものぞかれはしない。誰か入ってきたら、たとえミセス・ホッジスでも、彼女がここにいたらびっくりするだろう。しかし、誰かが来るとしても足音が聞こえるから警戒はできる。
手は冷たくてふるえていたし、≪目かくしビル≫のこの道具を使う最上のコンディションとは言えなかった。彼女は二、三度深く息を吸った。あわててはいけないと言われていた。よろしい、あわてないで……。
慎重に鍵を選んで錠に差しこんだ。錠の曲がった尖端がバネに当ったのを感ずるまで、彼女には何年間も当てもなく鍵で錠前をひっかいているような気がした。片手でしっかりと押えながら、彼女は次の鍵を出した。テコの動くのが感じられ、次の瞬間、鈍いかちっという音がして錠が開いた。
箱の中には大して書類は入っていなかった。最初の書類は「ロイド銀行に保管の証書類」と書いてある、長い証書の類のリストだった。次には原本を同様に銀行に保管してある土地証書の写しが出てきた。次に出て来たのは手紙を一ぱいはさんだ紙ばさみだった。ミセス・レイバーン自身の手紙も入っていて、最後の手紙は五年前の日付になっていた。この他、借地人や銀行家や株屋などからの手紙がノーマン・アークハート事務所の名とサインで出した返事の写しと一緒に入っていた。
ミス・マーチスンはこれらにあわてて目を通した。遺書も遺書の写しも見当らない。弁護士がウィムジーに見せたという草案すらない。箱の底にはあと書類は二通しか残っていなかった。ミス・マーチスンはまず一枚をとり上げてみた。それは一九二五年一月の日付になっている、ミセス・レイバーンの一切の事物の処理をノーマン・アークハートに委任するという委任状だった。もう一つはもっと厚くて、赤いテープでしっかり結んであった。ミス・マーチスンは抜き出して、書類を拡げてみた。
それは信託証書で、ミセス・レイバーンの財産から必要な清算をすまし、一定の額の生活費を除いたすべての財産をノーマン・アークハートに委ねるというものだった。証書には一九二〇年七月の日付があり、手紙が一通添えてあった。ミス・マーチスンは急いで手紙に目を通した。
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拝啓 誕生祝いの手紙と美しいスカーフをどうもありがとう。このお婆さんのことを忘れないでいてくれたのを大変うれしく思っています。
ついては、私も八十を越したのでそろそろいろいろな事務的なことをあなたに全部おまかせしようと思うようになりました。あなたとあなたのお父さんは今までずいぶん親切に面倒を見てくれましたし、あなたもまた私の新しい投資の相談には真剣に応えてくれました。しかし、私もこんなに年をとってしまっては、もう近頃の世の中に手を出すことはできませんし、それに私の考えがいくらかでも値打ちのあるものだというふりをしてもいられなくなりました。私も人生に疲れた老婆にすぎません。あなたはいつもよく分るように何でも説明してくれましたが、よる年波の私には文字を書くのも苦痛な重荷になってきたようです。
そこで、私は私の生存中、私の財産をあなたに信託し、あなたが自分の考えで一々私に相談することなしにそれを活用できるようにしようと決心しました。おかげ様で私は今のところは頑健ですし、頭もはっきりしていますが、こういう幸運はいつどうなるか分りません。頭がぼんやりとして無力になってしまうかも知れませんし、昔から愚かなお婆さんたちがやってきたようにお金をばかげたことに使うと言いだすかもしれません。
ですから、そんな証書の原案を作って持ってきてくれませんか。それにサインします。そのとき一緒に遺書についても書いてもらいたいことをお話しします。
まずはお礼まで
アップルフォード・ウィンドル
ロザンナ・レイバーン
一九二〇年五月一五日
ノーマン殿
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「万歳」ミス・マーチスンが言った。「では遺書はあったんだわ。それにこの委任状もきっと重要だわ」
彼女はもう一度手紙を読み、ノーマン・アークハートが唯一人の受託者であることに特に注意して委任状のところを読み、最後に財産目録中の主要なもののいくつかを、心に刻みこんだ。次に彼女は書類をもとの通りにもどし、箱に鍵をかけ、運び出し、もとの所に置き、他の箱を上に積み上げ、タイプライターのところへ帰ってきた。ちょうどこのとき、ミセス・ホッジスが部屋に入って来た。
「小母さん、いま終わったわ」彼女が陽気に声をかけた。
「タイプの音が聞こえなかったから、そうではないかと思ったわ」
「手でノートをとってたのよ」ミス・マーチスンが言った。彼女は失敗した口述書の第一頁をむしりとって、後から打ちはじめた紙と一緒にくず篭にまるめこんだ。机の引出しから、あらかじめそのために用意しておいた、ちゃんと打ってあった第一頁を出して、それを書類の束の一番上につけ、トップ・コピーと必要な薄紙の方のコピーをそろえて封筒に入れ、封をし、ハンソン・アンド・ハンソン社御中と書き、帽子とコートを着て、戸口のところで朗らかにミセス・ホッジスに別れをつげると外に出た。
ちょっと歩いただけでハンソンの事務所についた。そこで郵便受けに口述書を投げこんだ。鼻唄まじりで元気に歩いて、シオバルド通りとグレイズ・イン通りの交叉点に出た。
「ソーホーで晩ご飯ぐらいたべてもいいでしょうね」ミス・マーチスンはひとり言を言った。
ケンブリッジ広場から五番街に歩きながら彼女はまた鼻唄を歌いだした。「このいやな曲は何だっけ?」突然彼女は自分に聞きかえしてみた。ちょっと考えて、彼女はそれが「イェルサレムの門をこえて」だったことを思い出した。
「あらまあ」ミス・マーチスンはつぶやいた。「どうかしてるわ、私」
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第十五章
ピーター卿はミス・マーチスンを賞めて、ルールズ〔ロンドンの有名レストラン〕のスペシャル・ランチをごちそうした。その店は掘り出し物の古いコニャックを、そういうものを喜ぶお客には出してくれる店だった。ミス・マーチスンはアークハート氏の事務所へ帰るのに昼休みの時間より少し遅れてしまったし、おまけに、あわてていたので合い鍵を返すのも忘れてしまった。しかし、酒はよし、話は楽しいというようなときに、何もかも忘れずに覚えているというのは難しいことだ。
ウィムジーがハロウェイ監獄へとはやる心を押さえて、考えをまとめるために自分の家へ帰って来たのも大変な努力だった。囚人の気を引き立てることは必要だという理由をつけて、毎日監獄を訪れていたのだが、かと言って、彼女の無罪を証明することのほうがもっと親切な、もっと役に立つことであろうということは、心中、偽ることはできなかった。その点に関しては、まだまだ前途遼遠だった。
ノーマン・アークハートが遺書の草案を見せてくれたときには、自殺説はかなり有望に見えた。しかし今になっては、その草案に対する信用は全くなくなった。まだ「ナイン・リングズ」から白い粉の包みが出てくるかもしれないというかすかな望みはあるのだが、月日の冷酷な歩みの前には、その希望もほとんど消えかかってしまった。それに何の手も出せないということが、彼をいらいらさせた。グレイズ・イン街にとんで行って、「ナイン・リングズ」の内外で、あらゆる人間に問いただし、おどしたりすかしたり、ひんむいたりしてみたい。しかし、こんなことは彼がやるより警察の方がうまくやれることは、彼にもよく分っていた。
なぜノーマン・アークハートは遺書の件で彼をだまそうとしたのだろう。もっと簡単に、話すことを一切断ってしまうこともできたのに。どこかに秘密があるに違いない。しかし、実際アークハートが相続人でなかったとしたら、彼は危ない橋を渡っているわけだ。老婦人が死ねば、遺書は確認されるし、本当のことがすべて公開されるのだ。それに老婦人はいずれは死ぬのだ。
後ろめたさを感じながらも、彼は老婦人の死を少しぐらい早めるのはわけないことだと考えていた。もう九十三歳だし、弱っている。ちょっとした薬の飲みすぎや、ちょっとゆすぶっただけで、あるいはちょっとしたショックで……そこまでは考えなかったが、彼はぼんやりと、一体だれがこの老婦人と一緒に住んで面倒を見ているのだろうと考えていた。
十二月の三十日だったが、彼にはまだ何一つ成算はなかった。ぎっしり並んだ書棚の書物からは、聖徒や歴史家、詩人、哲学者などが次々と彼の無能に嘲笑をあびせる。それらは賢明さと美そのものではあったが、一人の女性を首吊りという下賤な死から救おうとする彼の熱望に対して、どうしたらよいか教えてくれるものは一つもない。彼も自分はそういう仕事にかけてはかなり才の利く方だと思っていた。無数の錯雑した周囲の愚劣さが、彼をわなのようにとりかこんでいた。彼は歯がみして、上品で金のかかった、しかも何の役にも立ってくれない自分の部屋に、やけになって当りちらした。暖炉の上の大きな姿見が、彼の頭と肩を写してみせた。麦わら色の髪を後ろになぜつけた、明るい間抜け面が見えた。おかしく禿げ上がった額の下に片眼鏡が道化たかっこうでへばりついている。よく剃りこんであるあごは、男だか女だか分らないくらいすべすべだ。かなり高いカラーは一点非のうち所もなくぴんと張っているし、ネクタイは上品に結んであり、高価なサヴィルロウ仕立ての上衣の胸ポケットからは配色よく選んだハンカチがかすかにのぞいている。彼はマントルピースの上から大きなブロンズの置き物をつかみ上げた。つかみ上げられても、その置き物は美しさを失わず、彼の指はその古色を愛撫していた。何かに引かれて、彼は鏡を破り、鏡の中の自分の顔を打ち破りたかったのである。獣のような大声を上げて、獣のような身ぶりで……。
ばかげたことだ。そんなことはできはしない。文明開化の二十世紀の人間は、先祖伝来のおきてに守られて、手足を苦笑のきずなに縛られている。それに、鏡を割ってどうなるというのだ。どうもなりはしない。ただ、バンターが入って来て、感動もしなければ驚きもせず、破片をはきよせてちり取りに入れ、風呂がわいていてマッサージの仕度もできてますと言うぐらいだ。翌日には新しい鏡が注文されるだろう。とにかく人が来て訊ねるだろうし、古いやつがこわれたのは残念でしたねとおあいそを言うだろうし、そんなことをしたところで、ハリエット・ヴェーンは首吊りにされることには変りはない。
ウィムジーは我に帰って、帽子とコートを持って来させ、タクシーに乗ってミス・クリンプスンに会いに出かけた。
「仕事があるんだ」彼は自分で思ったよりもぶっきらぼうな調子で彼女に言った。「あなた自身でやってもらいたい。他の人では信用できないんです」
「そんなに信用して下さるなんて、ありがたいことですわ」ミス・クリンプスンが言った。
「難しいのは、どういう風にやればいいか、皆目見当がつかないからなんです。向うに着いて、あなたが見た様子次第なんですよ。ウェストモアランドのウィンドルに行ってもらいたいんです。そこで、アップルフォードと呼ばれる住居に住んでいる、ミセス・レイバーンというもうろくした婆さんをつかまえてもらいたい。誰が彼女の世話をしているのか、どうしたらその家に入れるかも僕には分らない。しかし、あなたはそれをやって、彼女の遺書のありかをさがし、できたらそれを見てもらいたいんです」
「まあ」ミス・クリンプスンが言った。
「おまけに、悪いことには、それをやるのに一週間ぐらいしか時間がないんです」ウィムジーが言った。
「ずいぶん短いんですね」ミス・クリンプスンは言った。
「だってね」ウィムジーが言った。「何か正当な理由を見つけない限り、ヴェーン事件は次の法廷の最初の裁判になるんですよ。もし弁護士側に彼女を救うための新しい証拠さえあれば、延期を申請することもできるんです。しかし、今のところ証拠と呼べるようなものは何もない。ただ、漠然とした、何かありそうだという予感だけなんです」
「分りました」ミス・クリンプスンが言った。「できるだけのことしかできませんわ。でも、人事を尽して天命を待つんですわね。努力さえすれば山でも動くそうですから」
「では、そういう力をせいぜい仕込んで下さいよ」ウィムジーが陰気くさく言った。「僕の見たところでは、今度の仕事は凍りついたコーカサスを支点にしてヒマラヤとアルプスを持ち上げ、ロッキー山脈にとどくまで投げとばすようなもんですよ」
「私もできるだけのことはする、ということを考えておいて下さい」ミス・クリンプスンが答えた。「それに、親しい牧師さんのところへ行って、難しい仕事をしている方のために特別なお祈りを上げていただくように頼んでおきますわ。で、いつ出発すればよろしいんですの?」
「すぐに」ウィムジーが言った。「いつものままですぐに行って、ホテルに、いや部屋を借りた方がいいな。その方が噂話を耳に入れる機会が多い。ウィンドルについては僕もよく知らない。ただ、大きな靴工場があって、景色が割にいいというだけで。しかし、大して大きい町でもないし、ミセス・レイバーンのことは大ていの人が知ってるだろうと思いますね。大金持だし、おまけに噂の高かった人のことですからね。あなたが近づかなければならない人は、女で、少なくとも女と思っていい人物で、ミセス・レイバーンの看護をし、仕え、言わば朝から晩までかしずいている人です。その人の弱点を握ったら鋭く喰いこむんです。まあ、とにかくそこに遺書が全くないことも考えられるんです。ベッドフォード街のノーマン・アークハートという弁護士が持っているとすればね。もしそうだったら、一そう馬力をかけて何か、何でもいい、彼の不利になりそうなことをさがすんですね。彼はミセス・レイバーンの従兄の子で、時々見舞いに行ってるんです」
ミス・クリンプスンはこの指令を書きとめた。
「さあ、これでおしゃべりは終わりで、あとはあなたにまかせよう」ウィムジーが言った。「いるだけの金を社から出して行って下さい。そして、もし特に金がいるようだったら、電報をくれるんですよ」
ミス・クリンプスンのところを出ながら、ピーター・ウィムジー卿はまた物悲しい自己憐憫にとらわれた。しかし、今度のそれは穏やかに拡がっていく憂うつの形でやってきた。自分の無力を認めながらも、彼は僧院や南極の凍てついた荒地に逃がれて世を捨てる前に、自分の力でできることならどんな小さいことでもやろうと決心した。彼はあてもなくタクシーを警視庁《スコットランド・ヤード》に向け、パーカー捜査課長を訪れた。
パーカーは部屋にいて、届いたばかりの報告書を読んでいた。彼はピーターの訪問を喜ぶというより、むしろ当惑したような表情で迎えた。
「薬の包みのことを聞きに来たのかね?」
「今日はそうじゃない」ウィムジーが言った。「あれ以来、何か出てきたとは思わないからね。違うんだ、今日は。もっと、つまりデリケートな用件で来たんだ。妹のことでね」
パーカーは飛び上がって、報告書を傍に押しやった。
「メリーさんのことでか?」
「まあ、そうだ。彼女が君と出歩いて、まあ食事などしたりしてるのは分ってるが。そうだろ?」
「メリーさんには、一、二度つきあってもらったことがあるけど」パーカーが言った。「だけど分らない。いったい、どういうことなんだ?」
「分らないって? そこなんだよ」ウィムジーが厳かに言った。「いいかい、僕が言うのも何だが、メリーはとても気立てのいい娘だろ」
「分ってるよ」パーカーが言った。「君に聞くまでもないさ。僕が彼女の好意を誤解してると思ってるんだろう。立派な女の人にとって、友だちと付添いなしに一緒に食事するぐらいのことは今日では当り前だぜ。メリーさんは……」
「付添いのことを言ってるんじゃない」ウィムジーが言った。「メリーは付添いなんかつれて歩きはしないし、僕もそんなものは全くばかげたもんだと思ってる。ただ、兄弟として、もちろん本当はジェラルドの仕事なんだが、メリーと彼とはそりが合わないし、特に彼に言ったことは何でもヘレンに筒抜けになるんでメリーは彼の耳に内緒事など入れるつもりは全くないんだ。何を言ってたんだっけ? ああ、そうだ。メリーの兄弟として、いろいろと世話を焼いたり、役に立つような口をきいてやるのは、いわば僕の義務なんだ」
パーカーは考えこみながら、吸取り紙をつついていた。
「そんなことをするとペン先が傷む」ウィムジーが言った。「鉛筆でやれよ」
「おそらく」パーカーが言った。「僕が僭越にも君の……」
「何が僭越だい」ウィムジーが雀みたいに首をそらせて言った。
「誰にも文句を言われる筋合いはないはずなんだが」パーカーが熱っぽく言った。「どう思うんだ君は? メリー・ウィムジー嬢が普通のレストランで警官風情と飯を食うのは、君の見方からすればふさわしくないと言うのか。それとも、失礼なことでも僕が口にしたとでも思うのかね」
「君は世にも純粋でやさしい女を傷つけ、君の友だちを侮辱したんだ」ピーターは相手の言葉をさえぎって、早口にぺらぺらと結論をまくしたてた。「全く完全なヴィクトリア朝時代の旧弊人だよ、君は。ガラス箱に入れときたいくらいだ。一言も僕に言わなかったじゃないか。僕が知りたいのは、なぜ黙ってたのかということさ」
パーカーはじっと彼を見つめた。
「この五年間ほど」ウィムジーは言った。「君は気狂い羊みたいに妹に夢中になってるようだった。彼女の名が出ると、君は兎みたいにとび上がった。あれはどういう意味なんだ。お世辞でもないし、だてでもないだろう。君はかわいそうな女の神経をかきみだしたんだ。こんな言い方をして気にさわらなかったら、肚《はら》の中を話してくれないか。男というものは姉や妹の心を乱す男に会いたくないもんだ。少なくとも、これ以上乱してもらいたくない。秘かにかくれて……全くいらいらさせられる。なぜ男らしく胸を叩いて言わないんだ。『ピーター、おれは君の一族になることにしたよ。君の兄弟に』とね。なぜ、それができなかったんだ。ジェラルドのせいか? もちろん、あれはばかだが、でもそんなに悪い奴ではないよ。ヘレンか? あれはうるさ型だが、でもそんなに会う必要もない。僕のせいか? もしそうなら、僕は世捨て人になってもいいと思う。ピーターという隠者が昔いたろう。そうなれば、君の邪魔にはならない。どこが難しいのか言ってしまえよ。そうすればそれを取り除こうじゃないか。どうだ」
「僕に聞くのか?」
「君のつもりを聞いてるんだ」ウィムジーが言った。「もし、旧弊な頭で黙っていただけでないんなら、一体どういう訳か僕には分らない。メリーにキャスカートとかゴイルスなどというやつとの間の不幸な事件から立ち直る時間を与えるというつもりなら僕にも分るが、あまり気をつかいすぎるのもいかん。女が打撃から立ち直り、それを忘れ去ることができるとは思えないのか? それとも閏年《うるうどし》でも待ってるのか」
「だけどピーター、ばかなこと言うなよ。どうして僕に君の妹さんに結婚してくれと言える?」
「どう言うかは君の仕事だ。『式はどこにしようね?』と言ったっていいさ。近代的ではっきりしてるし、間違いはないよ。それとも、片ひざついてこう言えるかね。『あなたの手と心を私に与えて下さい』と。これは旧式だが、近ごろでは独創性があって面白いよ。それとも、手紙でも電報でも電話でもいいさ。それは君の個人的な好みにまかせるよ」
「ふざけてることじゃないぜ」
「ああ。これからこの物分りの悪い男に、一生、同じことを何度も繰り返し聞かせて暮らさなければならないのか。君はメリーをひどく不幸におとしいれているんだぜ。だから僕は君が彼女と結婚してしまえと言ってるんだ」
「彼女を不幸に?」パーカーがほとんどどなるような声で言った。「僕が、彼女を、不幸に?」
ウィムジーは額をいみありげに叩いた。
「丸太ん棒、木石野郎。だが、最後の一撃は通じたらしい。そうだよ。君が、彼女を、不幸にしてるんだ。いま分ったか」
「ピーター、もし本当なら――」
「さあ、もう終わりまで言わなくてもいい」ウィムジーが言った。「僕にとっては時間の浪費だ。あとはメリーに言ってくれ。これで兄弟の義務を果したから、もういい。落ちつけよ。報告書でも読めよ」
「そうだ。そうそう」パーカーが言った。「また話がよそにそれないうちに言っとこう。君の知りたがってた報告書が来たんだ」
「本当か? なぜ最初に言ってくれないんだ」
「言わせなかったじゃないか」
「で、どうだった?」
「包みが見つかった」
「なんだって?」
「包みが見つかったんだ」
「本当に見つかったのか?」
「ああ。バーテンの一人が……」
「バーテンのことなどどうでもいい。そのときの包みだというのはたしかなんだね?」
「うん、鑑別ずみだ」
「で、分析はしたのか?」
「ああ、分析した」
「ふん、何だった?」
パーカーは悪いニュースを知らせるらしく、またたきをして、渋々言った。
「重炭酸ソーダだ」
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第十六章
クロフツ氏は仕方がないと言うように「だから申し上げたでしょう」と言ったし、インペイ・ビッグズ卿はそっけなく「運が悪かった」と言った。
ピーター・ウィムジー卿の次の週の行状は、とうてい温かくも書けなければ、あまり模範的なものでもなかった。どんないい人間でも、どうにもしようがなくて何もできないとしたら、怒りっぽくなるのも当り前だろう。パーカー捜査課長とメリー・ウィムジーとの間の抜けたような仕合せさも、彼に対する単調な感謝のこもった愛情を誇示されてばかりいると、少しも気持をなだめてはくれなかった。マックス・ビーアボームの話に出て来る男のように、ウィムジーは「さわられるのが嫌いな男」になっていた。彼はただノーマン・アークハート氏がかなりな程度にメガシアリウム信託の災難にはまりこんでいるという、フレディ・アーバスノットの知らせを聞いて、少し気をよくしたぐらいであった。
一方、ミス・キティ・クリンプスンも彼女自身の言う大車輪の活躍をつづけていた。彼女がウィンドルについて二日目に書いた手紙が、いろいろなことを告げていた。
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拝啓 どうなっているか一刻も早くお聞きになりたくてうずうずしていらっしゃることと存じます。でも、まだ私はここに来て一日しかたっておりませんが、いろいろな点から考えて、そうへまなやり方はしていないと思います。
陰気くさいプレストンの駅で散々待ってから、おそろしく退屈な旅のあとで、汽車はだいぶ遅れて月曜日の夜つきました。でも、ご親切に一等車に乗れと言っていただいたので、そんなに疲れもしませんでした。私ぐらいの年になって、若い貧しい頃みじめな辛い旅をしなければならなかった人間でなければ、こういう特別席がどんなに違うものであるかは分らないでしょう。私はなんだか悪いことでもしてるような気がしたくらいです。車は暖房がきいていて――ききすぎているくらいだったかもしれませんが、窓を開けたくなったくらいです。ところが、太った商人風の男の人で、上衣と毛のチョッキを目まで引き上げているような人が、外の空気を入れるのにひどく反対するんです。近ごろでは男の人は温室育ちになってるようですね。私の父などは十一月一日にならなければ家の中に火を入れさせなかったし、三月三十一日には寒暖計が零度になっても火を許さなかったものですが。
着いたのは遅くなりましたが、私は訳なくステーション・ホテルで気持のいい部屋をとることができました。昔は女が一人で真夜中にスーツケース一つもって駅についたら、あまりまともな人とは思われなかったものですが、時代の移り変りですね。旧弊な人たちはクイーン・ヴィクトリア時代の婦人の華やかさや慎み深さなどについて言いますが、その頃の古い様子を知ってる人間は、女がどんなにやりにくかったか、恥をうける機会が多かったかを知ってますから、今様《いまよう》のこういう変り様をみられるまで生きていられたことは本当にありがたいことです。
昨日の朝の第一の仕事は、もちろんあなたの指示された通り、手頃な貸し間を見つけることでした。二度目に当ったこの家にうまく入れたのは幸いでした。かなり手入れの行き届いたしゃれた家で、三人の年取った女の人がずっと部屋を借りています。この三人は町の噂には何にでもかなり通じているので、私たちの目的にとってはこれほど便利なことはありません。
部屋をきめると、早速私は探りを入れるためにちょっと出かけました。表通りでとても役に立ちそうな警官を見つけたので、ミセス・レイバーンの家を聞いてみました。警官はよく知っていて、バスに乗って一区間のところに「漁夫の腕」という停留所があり、そこから歩いて五分だと教えてくれました。私は言われた通りに行くと、バスは真っすぐ郊外に出て、角に「漁夫の腕」という表示のある十字路に出ました。車掌はとても丁寧で親切な人だったので、道を教えてくれましたから、私は訳なくその家を見つけることができたのです。
古びた美しい家で、がっちりとした構えでした。十八世紀に建てたらしい大きな母屋には、イタリア風のポーチと美しい緑の芝生、それにヒマラヤ杉とお定まりの花壇があり、夏にはきっとエデンの園そのままだろうと思われました。私は路上からしばらくその家を見ていましたが、もし誰かが私を見ていたとしても、別におかしなことをしているとは思わなかったでしょう。とにかく、こんなすばらしい古い庭には誰だって興味を引かれたでしょうから。この家の大部分は使っていないらしく、よろい戸を下ろしてありましたし、庭師も誰も人影は見えませんでした。多分、このシーズンにはあまり庭いじりの仕事もないからなのでしょう。しかし、煙突の一つは煙を出していたので、ここにも生きた人間がいるというしるしはあったわけです。
私は少し歩いてから、まわれ右をして、またその家の前を通りましたが、今度は召使いがその家の角のところを曲がって行った姿を見かけました。でも、あまり遠かったので声をかけることはもちろんできませんでした。やむなく私はまたバスに乗って、同宿の人々とお近づきになるために、ヒルサイド・ヴューに昼食をとりに帰りました。
あまり唐突にむきになって聞くと思われたくなかったので、最初のうちは私はミセス・レイバーンの家のことは一言も言いませんでした。ただウィンドルについて何となくおしゃべりしただけです。善良なここの婦人たちの、何だって今ごろこのウィンドルに来たのかという質問をそらすのにちょっと困りましたが、私はあんまり具体的な嘘も言わずに、私が遺産を少し手に入れ、この湖畔地方に来年の夏、落ちついてすごす場所をさがし歩いているんだという印象を与えたつもりです。私はまたスケッチのことも話しました。私たちは少女時代に一応水彩画をいたずらさせられてきてますから、彼女たちを満足させるくらいの技術的な知識は十分並べたてることができます。
おかげでその家のことを訊ねるうまいチャンスができました。あんな美しい所に、誰が住んでるんでしょうと私は言ってみました。もちろんこれも私は突然口に出したりせず、皆がこのあたりで画描きの興味を引きそうな面白い所を沢山話してくれるのを待ってからです。ミセス・ペグラーという頑丈そうな毛深い、そしておしゃべりな人が、全部話してくれました。ピーター様、ミセス・レイバーンの若かったころの沢山の醜聞のうち私がまだ知らないことは、知る価値がないことだけです。ただ、もっと大事なことは、彼女はミセス・レイバーンの看護婦兼お相手の人の名を教えてくれました。ミス・ブースという六十才になる看護婦あがりの人で、その家には召使いと家政婦以外は、ミセス・レイバーンと彼女だけしか住んでいないのです。ミセス・レイバーンがそんなに年よりでおまけにもうろくしていると言われたので、私はミス・ブース一人が付添いなのでは危険ではないかと言いますと、ミセス・ペグラーは、家政婦というのがしっかりした人で、何年もミセス・レイバーンに仕えてきているのだから、ミス・ブースが外出した留守には彼女が世話できるのだと言っていました。つまり、ミス・ブースはときには外出するということが分ったわけです。この家の間借り人は誰も彼女の人柄は知らないようですが、彼女が看護服で町に出るのをよく見かけるそうです。私はかなり詳しく彼女の風采を聞き出すことができましたから、もし町で会ったら、きっと見分けがつくはずです。
一日で掘り出したことはこれだけです。あなたがあまりがっかりされなければよいと思いますが、私はこれでも何だかんだとこの田舎町の歴史をいやというほど聞かされているのです。もちろん、無理に話題をミセス・レイバーンの方へ持っていったら変に思われると思ったので、そうできなかったからです。
ちょっとしたことでも新しい情報が入ったらすぐお知らせします。 かしこ
ヒルサイド・ヴュー、ウィンドル
キャサリン・クリンプスン
一九三〇年一月一日
ピーター・ウィムジー様
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ミス・クリンプスンは寝室で秘かに手紙を書きおえて、慎重に彼女の大きなハンドバッグに入れてから下におりていった。長い下宿生活のおかげで、ピーター卿ほどではないもっと低い身分の貴族に宛てた手紙でも、そういう上書きを大っぴらに見せることは、全く不必要な好奇心をかき立てることになるのを知っていた。たしかに、それは彼女自身に箔をつけることにはなるだろうが、現在のところ、彼女は注視の的になりたくはなかった。玄関のドアを静かにすべり出ると、彼女は町の中心に向って歩き出した。
前の日に、彼女はこの町第一のカフェ一軒と、これと競っているカフェ二軒、いくらか衰えかけたカフェチェーン店の「ライオンズ」一軒、それに四軒の、菓子屋が片手間にやっているようなカフェを見つけておいた。十時半ごろだった。あと一時間半ばかりの間に、彼女は大した苦労もしないで、ウィンドルの町でモーニング・コーヒーを飲みに出るような人たちを一通り見まわすことができるわけである。
手紙を投函すると、彼女はどの店からはじめようか考えた。「ライオンズ」はまたの日に残しておきたいような気がした。楽団もソーダ・ファウンテンも備えてない地味な店で、そこのお客はたいてい一家の主婦や勤め人たちだろうと思ったからだ。他の店で一番手頃なのは「セントラル」であろう。かなり大きく、明るく、陽気な音楽が流れ出ている。看護婦なんてものは、大体大きくて明るい、音楽のある店を好むものだ。ところが、ここにもう一つ難点がある。ミセス・レイバーンの家の方角から来ると、この店に来るには他の店の前を素通りして来なければならないということである。これは、監視の場所としては不適当である。こういう点から見れば、便利と言えば「イエ・コスティ・コーナー」がバスの停留所を前に控えているからいい。そこで、彼女はそこから仕事にかかることにした。窓ぎわの席をとり、コーヒーと軽いビスケットを注文し、監視をはじめた。
三十分たった。看護婦の服をきた女は一人も現れない。彼女はコーヒーをもう一杯とお菓子を注文した。沢山の人が入って来たし、大部分は女だったが、ミス・ブースと思えるような人物はいなかった。十一時半になったとき、ミス・クリンプスンは、これ以上ねばっていると変に思われるし、店にも迷惑だろうと、気になってきたので、勘定を払ってそこを出た。
「セントラル」はもっと混んでいた。いぶしたようなオークの家具ではなくて、ここでは籐編みの坐りごこちのよい椅子があり、麻服をまとったくたびれた中年女の代わりに、てきぱきしたウェイトレスがいるなど、「イエ・コスティ・コーナー」よりはいろいろな点ですぐれていた。ミス・クリンプスンはまたコーヒーとバタつきのロールパンを注文した。窓ぎわのテーブルには空席がなかったが、部屋中が見渡せる楽団の傍の席を見つけることができた。入口のあたりに濃紺のヴェールがちらっと見えたので、彼女ははっと胸を躍らせたが、それは乳母車に乗せた二人の子供をつれているまだ若い元気な看護婦なので、彼女の希望はまた裏切られた。十二時になったので、ミス・クリンプスンは「セントラル」も空しく引き上げなければならないと思った。
最後に行ったのは「オリエンタル」だった。奇妙な、監視には都合の悪い店である。不規則な形の三つの小さな部屋が集まってできていて、日本風のシェードをつけた薄暗い四十ワットの電球が灯っており、おまけに玉のれんや壁かけが、部屋一ぱいにかけてあった。ミス・クリンプスンは彼女一流の詮索好きなやり方で、あらゆるくぼみや隅をのぞきこんで、何組かの楽しい語らいの邪魔をしたあげく、入口の近くのテーブルに席をとって、今日の四杯目のコーヒーを片づけはじめた。十二時半になったが、ミス・ブースはあらわれない。「もう来ないわ」ミス・クリンプスンは考えた。「帰って病人に食事の支度をしなければならないはずだから」
彼女は食欲はないのだが羊のローストを食べるため、ヒルサイド・ヴューに帰った。
三時半になると、彼女はまたお茶の暴飲にふけるために、町に出て行った。今度は「ライオンズ」ともう一軒の店も入れて、町のはずれの方からはじめて、バスの停留所の方へ帰って来ることにした。「イエ・コスティ・コーナー」の窓ぎわの席で五度目のおやつを平らげようと奮闘しているとき、舗道の上を急ぐ人影が彼女の目にうつった。冬の夕は暮れやすく、街灯もあまり明るくなかったが、彼女はこちら側の歩道を黒いヴェールをかぶりグレイのクロークを羽織った、しっかりした中年の看護婦が通りすぎるのをはっきりと認めた。首をのばして見送りながら、彼女は看護婦があわててかけつけてバスにとびのり、「漁夫の腕」の方へ消えて行ったのを見ることができた。
「本当に業腹だわ」バスが見えなくなると、ミス・クリンプスンはつぶやいた。「どこかで会ったのに見落してたんだわ。さもなければどこかのお宅でお茶を飲んでたのね。やれやれ、今日は無駄骨らしいわ。おまけに、お腹はお茶でガボガボだし……」
ミス・クリンプスンが神様から丈夫な消化力を与えられていたのは仕合せなことだった。翌朝も彼女はまた前日の行事をくりかえすのだったから。もちろん、ミス・ブースが週に二、三回しか町に出ないとか、あるいは午後だけしか出ないということも考えられたが、ミス・クリンプスンにはそんなことを知る機会はなかった。少なくとも、バスの停留所を監視しなければならないということだけは分っていた。今度は「イエ・コスティ・コーナー」にがんばって、十一時から十二時まで待った。何も変ったことはなく、彼女は家に帰った。
午後は三時にまたそこへ行った。この頃には、もうウェイトレスの方でも彼女を見覚えていて、出入りには一種の明るいなごやかな関心を示してくれるようになった。ミス・クリンプスンは人の行き来するのを見ているのが好きなのだと説明し、コーヒーやサーヴィスを賞めるような言葉を少しつけ加えてやった。彼女はまた道路の向い側の古風な古いホテルを賞めて、スケッチしたいと思うと言った。
「そうですわ」少女が言った。「画描きさんが、よくそういってお見えになりますわ」
これはミス・クリンプスンにいい考えを思いつかせた。翌日の朝、彼女は鉛筆とスケッチ・ブックを持ってきた。
ところが、物ごとは皮肉にできてるもので、彼女がコーヒーを注文し、スケッチ・ブックを開いてホテルの屋根の外廓を描きはじめると、バスがやってきて、黒とグレイの制服を着た問題の頑丈そうな看護婦が下りてきたのである。彼女は「イエ・コスティ・コーナー」には入らずに、小刻みな足どりでヴェールを旗のようになびかせながら反対側に渡って行った。
「いやだわ!」ミス・クリンプスンは言った。「消しゴムを忘れてきたわ。ちょっと行って買ってこなくては」
スケッチ・ブックをテーブルの上におくと彼女はドアの方に行った。
「コーヒーにふたをしておきますわ」少女が親切気に言った。「ベアーのそばのブルティールの店が一番いい文房具屋ですわ」
「そう、どうもありがとう」ミス・クリンプスンはそう言って店をとび出した。
黒いヴェールはまだ遠くの方にひらひらと見えていた。ミス・クリンプスンは同じ側の歩道を息もつかずに追跡した。ヴェールは薬局にはいった。ミス・クリンプスンは少し手前で反対側に渡り、赤ん坊の下着の沢山飾ってある店のウィンドウをのぞきこんでいた。ヴェールがまた歩道に姿をあらわし、迷うようにひらひらしていたが、くるりとまわると、ミス・クリンプスンの前を通りこして靴屋の店に入っていった。
「靴紐を買うんだったら、きっとすぐ出て来るわ」ミス・クリンプスンは思った。「でも、靴を穿いてみているんだったら、朝のうち一ぱいはかかる」彼女はゆっくりと店の入口の前を通りすぎた。運のいいことに、お客が一人出てくるところだったので、その肩ごしに黒いヴェールが奥の部屋へかくれるところをちらっと見ることができた。彼女は大胆にドアを押し開いた。店の表側は小物の売り台になっていて、看護婦の入って行った奥に通じるドアには「婦人靴コーナー」という貼り紙がしてあった。
茶色の絹の靴紐を買いながら、ミス・クリンプスンは思案していた。このまま追いかけて行って機会をつかむべきか? 靴を穿いてみて合わせるというのはけっこう時間のかかることだ。お客は椅子の上に置きざりにされて、店の者は梯子の上に登ってボール箱の山を集めまわる。靴をためしている人間に話しかけるのは割にやさしいことだ。しかし、まだ問題がある。もっともらしい顔をして、そこへ入って行ったら、自分も靴を穿いてみなければならない。そうしたらどうなるだろう? 店の者はまず最初に、右の靴を脱がせて、姿を消してしまう。そして、もしその間に、狙っている人物の方が終わってしまって、立ち去ったら? 気狂いみたいに、片足でぴょんぴょんはねながら後を追うか? あわてて靴をはいて靴屋に疑惑をおこさせ、おまけに靴紐を結ばずにとび出して行って、注文するのも忘れていったと靴屋に訳が分らないつぶやきをつぶやかせるか? さらに悪いときは、片方は自分の靴、片方は靴屋の靴をはいてるときだ。急に自分のでない靴をはいたままかけ出したら、一体どう思われるだろう? 追う方の立場がすぐに追われる立場になってしまうのではないか?
こんなことを心の中で考えながら、ミス・クリンプスンは靴紐の代金を払って引き下った。すでにカフェでも金を払わずに出て来てしまっている。朝のうちに犯したこの一つの罪だけでも、彼女には逃げられないくらい重荷に感じられるのだった。
男の探偵だったら、労働者とか使い走りの小僧、電報配達などの服をきて、簡単にひそんでいることができる。男なら人目を惹かずにぶらぶらして待伏せすることができるのだ。女の探偵はそうはいかない。その代わり、店のウィンドウをいつまでものぞいていることはできる。ミス・クリンプスンは帽子屋を選んだ。彼女は二つのウィンドウの中の帽子全部を熱心に見てまわった。目の所にヴェールのついた、兎の耳のような無用の長物のついてる、おそろしく上品な帽子のところへ帰って、意味ありげに見つめていた。はたから見ていたら、ちょうど彼女がやっと心をきめて中に入って値段を聞くだろうと思ったころに、看護婦が靴屋から出てきた。ミス・クリンプスンは兎の耳の帽子を名残り惜しそうに見て首をふり、もう一つのウィンドウの方に行き、のぞきこんで、うろうろしたりためらったりしてから、そこをはなれた。
看護婦はそのときには三十ヤードばかり先を、厩を見た馬のように勢いよく、とことこと歩いていた。やがてまた道を横ぎって、彩り美しい毛糸の山のウィンドウをのぞきこみ、考えなおしたらしく、そこを通りすぎてから、「オリエンタル」カフェのドアを開いた。
ミス・クリンプスンの獲物は袋の鼠になったようなものだった。ここで、獲物の方はまだ無事だし、追う方も一息つける。問題はいかにして獲物を傷めずに取り出すかということだ。
後をついて行って、彼女の坐ったテーブルに席が空いていれば、そこに坐ることはもちろん難しいことではない。ただ、そんな場合はあまり相手に喜ばれないだろう。もし他に空いてるテーブルがあったら、彼女は無理に同席した人間を厚かましいと思うだろう。ハンカチを落して拾ってもらうとか、ハンドバッグの口を開きっぱなしにしておいて相手の注意を引くような、何かきっかけを作った方がよい。もし相手がそういうきっかけを作ってくれなかったら、次善の策はこちらから作るのだ。
文房具屋は二、三軒先にあった。ミス・クリンプスンは入っていって、消しゴムと三枚の絵葉書、二Bの鉛筆とカレンダーを買い、包んでもらうまで待っていた。やがて彼女はゆっくりと道を渡り、「オリエンタル」に入って行った。
第一の部屋では二人の女と小さな少年が休んでいたし、他のテーブルには老紳士がミルクを飲んでいた。第三のテーブルでは二人の少女がコーヒーとケーキを平らげていた。
「失礼ですけど」ミス・クリンプスンが二人の女の人に言った。「この包みはあなた方のではありません? この家の入口のところで拾ったんですが」
買い物をしてきたばかりらしい年上の方の女の人が、あわてて沢山の自分の包みを見わたし、一所懸命になって中身を思い出そうと苦労していた。
「私のではないようですけど、よく分りませんわ。ええと、玉子とベーコンに、これは何でしたっけ、ガーティ? 鼠とりかしら? いえ、ちょっと待ってよ、咳止めだわ。ほら、エディス叔母さんの靴の敷皮に、これはナゲット〔靴クリーム〕よ、いやくん製だわ、ナゲットはこれだわ。あら、鼠とりを落したらしいわ。でも、それは違うようですわね」
「ちがうわお母さん」若い方の女が言った。「忘れたの? お風呂と一緒に鼠とりも届けてもらうことにしたじゃないの」
「そうそう。そうだったわね。そうすると、鼠とりとフライパン二つはお風呂と一緒に届けてもらうとすると、石鹸だけね、あなたが持ってるのは。じゃあ、ご親切はありがとうございますが、それは私たちのではございませんわ。誰か他の人が落しなすったんでしょう」
老紳士はきっぱりと、しかし丁寧に否定したが、二人の少女はただくすくす笑っているだけだった。ミス・クリンプスンは次にうつった。次の部屋では二人の若い女がそれぞれお伴の男性をつれていたが、ばつが悪そうに、ありがたいけどその包みは自分たちのではないと言った。
ミス・クリンプスンは三つ目の部屋へ行った。一匹のテリアをつれたにぎやかな一団が一隅にいたが、その後ろの方の、店の中でも一番暗い引っこんだ一隅に看護婦が坐って本を読んでいた。
にぎやかな一団は包みに対しては何も言わなかったので、ミス・クリンプスンは胸を躍らせながら看護婦に向っていった。
「失礼ですが」彼女は愛想のよい笑顔で言った。「この小さい包みはあなたのでしょう。入口のところで拾ってこのカフェの中の皆さんにうかがったのですが……」
看護婦は顔を上げた。銀髪のかなりふけた人で、妙に大きな目がじっと見つめることによって狼狽を物がたり、何か心の落ちつかないことを示していた。彼女はミス・クリンプスンに笑いかけて、朗らかに言った。
「いえいえ、私のではありませんわ。折角ですけど、私の買い物はみんなちゃんとあります」
彼女はそのくぼんだところにある三つのクッションを置いた椅子をさしたので、ミス・クリンプスンはその身ぶりをそこにさそわれたとでも受けとったような顔をして即座に坐った。
「おかしいですわね」ミス・クリンプスンが言った。「誰かここに来た人が、落したとばかり思ってましたわ。どうしたらいいかしら」彼女はそっと包みを押さえてみた。「大したものではないと思いますけど、でも分りませんわ。警察に持って行かなければならないでしょうか」
「この店のレジに渡したら」看護婦が言った。「持ち主がとりに来るかもしれませんわ」
「たしかにそうですわね。頭がよろしくていらっしゃるわね。もちろんそれが一番いいんですわ。でも、私は気がつきませんでした。どうも、私はそういう方がうらやましくてね。あなたのようなお仕事は、私にはできませんでしょうね。何か急なことでもできたら、私全くあわててしまうわ」
看護婦はまた笑った。
「馴れですわ」彼女が言った。「もちろん、そのつもりになれば自分でそうなれますよ。そういう小さい心の弱点は、心を神の手にまかせることによって、なおすことができるんです。あなたはそういうことを信じますか?」
彼女の目はミス・クリンプスンの目を催眠術でもかけるように見いっていた。
「本当なのでしょうね」
「精神の領域のことを大きく考えすぎるのも、また小さく考えすぎるのも誤りなんです」看護婦が言った。「私たちが信じさえすれば、私たちの思想も行為もみんな高次の精神力の中心というものに指示されて動くんです」
ウェイトレスが一人、ミス・クリンプスンの注文を聞きにきた。
「あら、私、あなたのところに割りこんでしまったようですわね……」
「どうぞ、そのままで」看護婦が言った。
「本当ですの? お邪魔して悪いですわね」
「いえいえ。私はとても淋しく暮らしてるもんですから、お話し相手がほしいんですよ」
「では、お言葉に甘えます。私には、バタつきのスコーンとお茶を下さいね。いいカフェですねえ。静かで落ちついていて。あの人たちが犬なんかでやかましく騒がなければいいんですのに。私、あんな大きな犬は好きではありませんわ。本当に怖いと思いますわ、そうじゃありません?」
ミス・クリンプスンのこの言葉は途中で消えてしまった。というのは、ふとテーブルの上の本の題名を見たからである。その本は心霊主義出版社で出している「死者は語りうるか?」という本だった。
一瞬の間に、ミス・クリンプスンは完全無欠な計画を細かいところまで立ててしまった。それには、ちょっと気がとがめる詐欺的なところがあったが、それは確実な方法だった。彼女は心中の悪魔と戦った。正しいことのためになら、悪いことをやってもよいだろうか?
彼女は祈るような気持で、どうしたらよいかを考えたが、彼女の耳には低声《こごえ》でこういう答えが聞こえた。「面白い、好い仕事じゃないか、ミス・クリンプスン」その声はピーター・ウィムジーの声だった。
「失礼ですけど」ミス・クリンプスンが言った。「あなたは心霊主義者でいらっしゃるのね。面白いわ」
ミス・クリンプスンが知っていることで、いっぱしの知識を披露できることといえば、心霊主義はその一つだった。それは下宿屋の雰囲気の中で、華やかにはびこっているものであった。ミス・クリンプスンはしばしばいろいろな降神術の道具立てややり方、死者との対話や連絡、霊体や霊気や霊的存在が彼女の理性に反して行うことを見てきていた。彼女が知ってることは、教会では禁じられていることであったが、お婆さん連との長いつきあいから、何度も彼女はこの魔法じみた世界に入ったことがあるのだった。
おまけに心霊学協会の風変りな小男を知っていたということもある。ボーンマスの彼女の下宿に二週間ばかり滞在したこの男は、お化け屋敷の探険と、迷っている幽霊をさがすのが得意だった。彼はどちらかというとミス・クリンプスンに好意をもっていたので、霊媒のトリックについて彼女に話して、夕方の時間を何日かつぶした。その男に教わって、彼女はテーブルを引っくり返したり、驚くようなかたかたいう音を立てたりする方法を教わった。彼女は黒い針金の上を通って行った白墨が心霊の進路を示すという矢印をどういう風にして黒板の上に書けるかを知っていた。またうまくできたゴムの手がパラフィンの桶《おけ》の中で霊の手のように見え、それがまた小さくなれば子供の手よりも細い固くなったワックスの穴からでも器用に抜き出せるのも見たことがあった。試してはみなかったが、理屈の上では、手を後ろで結んで、最初の結び方をごまかしの結び方にすればそれ以上いくら結んでも何にもならないというような、その最初の結び方も知っていたし、両手に粉をにぎって、暗い暗室にとじこめられながら、薄明りの部屋でタンバリンを鳴りわたらせることも知っていた。ミス・クリンプスンは人間というものが何とばかで、しかも狡智にたけているかをそのときに知って驚いたものである。
看護婦はしゃべりつづけ、ミス・クリンプスンは機械的にうけ答えをしていた。
「まだほんの新米だわ」ミス・クリンプスンは心の中でつぶやいた。「入門書を読んだだけ。おまけに無批判。それに、この人に話してる人は、きっと相当年季をいれた人だわ。この人は、決して一人でこんなことははじめやしないし、おだてられているだけ。この人のいうミセス・クレイグという人は、きっと相当なしたたか者。ミセス・クレイグは避けなくては……。もしこの人がうのみにしてるんだったら、きっと何でもいいなりね」
「それは本当に面白いでしょうね」ミス・クリンプスンが大きな声で言った。「でも、少しは危険なこともあるんでしょう? 私もそういうことには敏感なたちですけど、ためしたことはありませんわ。超自然的なものに心を開いてみせるなんて、あまり賢明なことではないでしょう?」
「正しい方法を知ってれば、危ないことはありませんわ」看護婦が言った。「心に他の悪い影響が入ってこないように、純粋な思考の殻を作り上げなければならないんですのよ。亡くなった親しい人といろいろ面白い話をしたことがありますわ……」
ミス・クリンプスンはティー・ポットを充たしてウェイトレスに砂糖菓子を一皿持ってこさせた。
「それに、残念ながら私は霊媒には向かないんですって、まだね。ですから、私一人ではどうにもしようがないんですのよ。ミセス・クレイグは練習と精神の集中で、できるようになるというんですけど。この間も、一人でこっくりさんをやったんですけど、うずまきを描くだけで何もでませんでしたわ」
「あなたの意識が強すぎるんでしょうね」ミス・クリンプスンが言った。
「そうですわ。ミセス・クレイグは私はとても同情心が強いというんですよ。二人でやるととてもすばらしい結果がでるんですけど。あいにく彼女はいま旅行してるんです」
ミス・クリンプスンの胸はどきんと高鳴って、もう少しでお茶をこぼすところだった。
「あなたは、では霊媒なんですの?」看護婦が言った。
「そういわれましたわ」ミス・クリンプスンは警戒するように言った。
「では、私とではどうでしょうかしら」看護婦が言った。彼女は物ほしげな目つきでミス・クリンプスンを見た。
「でも、いやですわ……」
「お願い。あなたは感受性の強い方だわ。きっとうまくゆきますわ。それに、霊というものは、とても現世の人に話したがってるんですのよ。私だって自信がなければ申しませんわ。いんちきな霊媒もずい分ありますからね」(そんなによくご存じなんですかね?)とミス・クリンプスンは心の中で言った。「でも、あなたのような方となら、間違いはありませんわ。あなたにとっても、新しい世界の発見になりますわよ。私も、この世の辛いみじめなことにくさくさしていたんですけど、あまりそんなことばかり多すぎますものね。でも生命というものの本当の姿と、私たちの日常の細々したことが、高い霊の世界からこの人生のために与えられたものにすぎないということがよく分るようになりましたわ」
「でも」ミス・クリンプスンが言った。「やってみてもいいとは思いますけど、でも私は、本当にそういう世界を信じてるとは言えませんわ」
「信じられますわよ」
「もちろん私も、一、二度不思議なことを見たことはありますわ。トリックではできないようなことを、私には説明できないようなことで……」
「今夜私のところへ来てくださいません? ね、いいでしょう?」看護婦は熱心にさそった。「静かに坐っているだけで、あなたが霊媒だかどうだか分りますわ。きっとそうだと思いますけどね」
「いいですわ」ミス・クリンプスンが言った。「それはそうと、あなたのお名前は?」
「キャロライン・ブース――ミスです。ケンドール街の大きな家で、年とってもうろくしてしまったお婆さんの看護婦をしてます」
「それは何より結構なことで」ミス・クリンプスンは考えたが、今度は声に出して言った。「私の名はクリンプスンです。どこかに名刺があったけど……忘れてきたようですわ。でも、私はヒルサイド・ヴューにいます。あなたの所へはどう行ったらいいんですの?」
ミス・ブースは住所とバスの時間を教えて、夕食を一緒に食べるようにさそった。ミス・クリンプスンはこれを受け入れた。ミス・クリンプスンは家に帰ると、走り書きで書きのこした。
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ピーターさま
私が何をしているのか気にしていらしたと思います。でも、とうとうお知らせするニュースができました。これから敵の牙城を襲います。今夜その家に行きますから、大いに期待していて下さい。 早々
キャサリン・クリンプスン
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昼食後、ミス・クリンプスンはまた町に出た。正直な人なので、まず第一に「イエ・コスティ・コーナー」に行って、今朝は町で友だちに会ったのだと言い訳をしてスケッチ・ブックをうけとりお茶代を払った。それからいくつかの店を歩いたが、とうとう望み通りの小さな金属製の石鹸箱を見つけた。ふたをしてから軽く押すと、びっくりするような音を立てて、また開く。これを、ちょっとした工夫とばんそう膏で、強い弾力のある靴下どめにとめた。骨ばったミス・クリンプスンのひざにとめつけられて、もう一つのひざでぎゅっと押さえられると、そうとう疑い深い人でも信じるような、不思議な音がつづいて起こるのだった。ミス・クリンプスンはまた鏡の前に坐って、午後のお茶の前一時間ばかり、少しの身ぶりも気づかれないで音を出せるように練習した。
もう一つの仕事は帽子のへりでも作るようなしっかりした黒い針金を、体にとりつけることだった。二重にして、縦横に腕にしっかりとめつけ、軽いテーブルくらいはその針金をひっかけて楽にゆすぶれるようにした。重いテーブルではそれでは駄目だったが、今さら鍛冶屋に頼むような訳にも行かないので、とにかくそれでやってみることにした。黒のビロードの袖が長くて巾の広いふだん着を引っぱり出して、それをきれば、針金が十分かくれるのを見てほっとした。
六時に、道具を身につけて、すなわち、石鹸箱を足につけ、思いがけないときに音がしてバスの乗客を驚かせないよう箱を外側にむけ、インバネス風な仕立てのレインコートを上に着、帽子をかぶり傘をもち、彼女はミセス・レイバーンの遺書を盗み出すために出発した。
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第十七章
夕食が終わった。アダム式の天井と暖炉のあるきれいな古い板ばりの部屋で食事が出た。料理も上等だった。ミス・クリンプスンは緊張して肚をきめた。
「私の部屋へ参りませんか」ミス・ブースが言った。「気持のよい部屋はあそこだけですわ。他の部屋はこの家はほとんど閉めきってしまってるんですよ。それから、悪いけど私、ちょっと上に行ってミセス・レイバーンに夕食を上げて世話をしてあげなければならないんですけど。気の毒な方よ。それが終わってからはじめましょう。三十分かそこらしかかかりませんわ」
「心細いでしょうね」
「そうよ」
「口は利けるんですの?」
「口を利くなんてものではありませんわ。時々何か言うんですけど、何だか分らないんですよ。気の毒だわ、おまけにこんなに金持でねえ。なくなった方が仕合せでしょうね」
「気の毒にねえ」ミス・クリンプスンも言った。
ミス・ブースは彼女を小さな楽し気にしつらえてある居間に案内して、更紗《さらさ》でおおった家具調度に取りまかれた彼女を残して立ち去っていった。ミス・クリンプスンは素早く目を書棚に走らせた。心霊主義の入門的な何冊かの本を除いて、大部分は小説だった。ついで、マントルピースの上に注意を向けた。看護婦の部屋のマントルピースの上はどこでもそうだが、写真が一ぱい並べてあった。看護婦仲間の集まった写真や、「お世話になった患者より」と書きこんだ肖像写真の間に、ひときわ大きなキャビネ判の写真があった。遠景に岩山を望んだ石畳のバルコニーの上で、自転車を傍にして、九十年代の流行の口ひげを蓄えた正装した紳士の写真である。枠は銀製のどっしりした飾りのあるものだった。
「父親にしては若すぎるし」ミス・クリンプスンは裏をかえして、枠のとめ金を外しながら言った。「恋人か仲のよい兄弟でしょう。ふん。『いとしいキャロラインへ、変らぬ愛を捧げるハリーより』兄弟じゃないわ。写真屋の住所はコヴェントリーか。自転車屋かもしれないわ。ところで、このハリーという人はどうしたのかしら? 結婚してはいないわね。死んだか、それとも裏切られたのかしら。一番立派な枠に入れて真ん中にかざってあるし、温室咲きの水仙を花瓶にさして飾ってあるところなんかを見ると、死んでしまったんでしょうね。お次は? 家族の写真かしら。そうだわ。うまいことに、下に名が書いてあるわ。愛するキャロラインへ、パパとママとトムとガートルードですって。トムとガートルードは年上だわ、でもまだ生きてるかもしれない。パパは牧師だわ。がらんとした家ね。田舎の牧師館なのでしょう。写真屋のアドレスはメイドストーンになってるわ。ちょっと待ってよ。こっちに、男の子多勢と一緒にとった父親の写真があるわ。学校の教師か、それとも塾でも開いていたのかな。子供がこんな蛇腹リボンの麦わら帽子をかぶっているところを見ると、やっぱり学校の教師だわ。銀のカップは何かしら? ここにブースと他の三人の名前があって、ペンブローク・カレッジ・フォアチーム〔ボートのフォア〕、一八八三年と書いてあるわ。あまりお金のかかる学校ではないわ。父親はハリーが自転車屋なので親戚になるのに反対したのかしら。こちらの本は学校の賞品らしいわ。これこれ。メイドストーン女学院、英文学優等賞ですって。そう。あら、帰って来たのかしら? いや、空耳だわ。カーキ色の服を着た若い男は――『愛する叔母様へG・ブース』ああ、トムの息子だわ。分ったわ。でも、生きてるのかしら。ああ、帰って来たわ。今度は本当だ」
ドアが開いたときには、ミス・クリンプスンは火の前に坐って『レイモンド』〔霊界をテーマにした本〕に読みふけっていた。
「待たせてご免なさい」ミス・ブースが言った。「かわいそうなお婆ちゃん、今夜はなかなか寝つけないらしいのよ。まだ二時間ばかりはだめですわ。でも、後で行ってあげればいいの。すぐはじめます? 私もう、うずうずしてるのよ」
ミス・クリンプスンはすぐ同意した。
「いつもこのテーブルを使うのよ」ミス・ブースは小さな竹の丸テーブルで、下に棚のついてるのを持ちだしてきた。ミス・クリンプスンはいんちきの心霊現象を呼びよせるのにこれほど都合のいい家具は見たこともなかったので、ミセス・クレイグがこの家具を使うことにしていたのに心から感心した。
「明るいところでやるんですの?」彼女はたずねた。
「つけっぱなしではありませんわ」ミス・ブースが言った。
「日光や電灯の光の中の青い光は心霊には強すぎるってミセス・クレイグは言ってましたわ。霊の振動を止めてしまうんですよ。だから、私たちはいつも電気を消して、暖炉の光でやりましたわ。それでもノートぐらいはとれますからね。あなたがノートしてくれます? それとも私、やりましょうか?」
「あなたの方が馴れてるから、お願いします」
「そうね」ミス・ブースは鉛筆と紙を一束持ってきて明かりを消した。
「では坐って、拇指と他の指の指さきをテーブルの端の方にまっすぐにおきます。もちろん、みんなで輪になるように置けばいいんですけど、二人きりではそうはできませんからね。それから、最初のうちは口を利かない方がいいんですよ。霊交がはじまるまでね。あなたはどっち側に坐ります?」
「こっちで結構ですわ」ミス・クリンプスンが言った。
「火を背中に負うことになるけど、かまいません?」
もちろん、かまわなかった。
「そうね、それがいいですわ。そうすれば、あなたの体でテーブルが火の明かりからさえぎられるわけですものね」
「私もそう思いますわ」ミス・クリンプスンが正直に言った。
二人はテーブルの上に指をおいて待っていた。
十分たった。
「何か動きが感じられない?」ミス・ブースがささやいた。
「いいえ」
「時間がかかることもありますわ」
沈黙。
「あら、何か感じるような気がするわ」
「指先がちくちくするような気がするわ」
「私も。すぐに出てくれるわよ」
言葉が途切れた。
「ちょっと休みません?」
「腕が痛くなったわ」
「馴れるまでそうですわ。霊の力が通るからですわ」
ミス・クリンプスンは手を上げて、静かにひじをなぜた。細い黒い針金のかぎは静かに黒いベルベットの袖口にまで下ってきた。
「あたりに霊の力がみなぎってるような気がするわ。背すじがぞくぞくするようですわ」
「つづけましょう」ミス・クリンプスンが言った。「大分楽になりましたわ」
静寂。
「何だか、首すじをつかまれたような気がするわ」ミス・クリンプスンがささやいた。
「動かないで」
「それにひじから先、死んでしまったみたい」
「まあ、私もよ」
ミス・クリンプスンは、肩の三角筋が痛いことを、もしその筋肉の名前を知っていたらつけ加えるところだった。ひじをつかないで坐ってテーブルの上に指を置いていたら、こうなるのは当り前なことである。
「頭から足まで、びりびりするわ」ミス・ブースが言った。
この瞬間、テーブルが激しく傾いた。ミス・クリンプスンは竹のテーブルを動かすのに必要な力を推量しそこなったのである。
「まあ」
テーブルがもとの位置にもどってちょっとすると、また動きはじめたが、今度はずっと静かに動き、やがて規則正しいゆれ方になっていった。ミス・クリンプスンはそのうちに、足の一方をゆっくり持ち上げることにより、手首の針金のかぎにかかるテーブルの目方をへらすことができるのに気がついた。このかぎがそれだけの重さを吊り上げるのに耐えられるかどうか心配だったので、これに気がついたのは幸運だった。
「話しかけて見ていいかしら」ミス・クリンプスンが言った。
「ちょっと待って」ミス・ブースが言った。「横っちょの方へ移りたいらしいわ」
相当な想像力がなければ出てこないようなこの言葉に、ミス・クリンプスンはびっくりしたが、仕方がないので彼女はテーブルにかすかに旋回運動を与えるようにした。
「立ちましょうか」ミス・ブースが言った。
これは大変なことになった。かがみこみながら片足で立ってテーブルを微動させつづけるなんて、容易なことではない。ミス・クリンプスンは失神状態になることにした。頭を胸の上にたれ、軽いうめき声を立てた。同時に、彼女は両手を引いて手首のかぎを外し、テーブルはぶるぶると指先の下でまわりつづけるようにしていた。
暖炉の石炭が一かけ、ぱっと明るい焔を立ててかさっと音を立ててくずれ落ちた。ミス・クリンプスンははっとして気がついた。テーブルは廻るのを止め、がたんと小さな音を立てて落ちついた。
「あら」ミス・ブースが叫んだ。「光が震動を消してしまったわ。あなた、大丈夫?」
「ええ」ミス・クリンプスンはぼんやり言った。「どうかしたんですの?」
「とても強い霊の力でしたわ」ミス・ブースが言った。「こんな強いのははじめてよ」
「私きっと眠ってしまったんですわ」ミス・クリンプスンが言った。
「霊に乗りうつられていたんですよ」ミス・ブースが言った。「くたびれたでしょう。それとも、まだつづけられる?」
「大丈夫ですわ」ミス・クリンプスンが言った。「ただちょっと眠いだけ」
「あなたは本当に強い霊媒ね」ミス・ブースが言った。
ミス・クリンプスンはひそかにくるぶしを曲げながら、その通りですよと言いたかった。
「今度は火の前に衝立《ついたて》をしましょう」ミス・ブースが言った。「その方がいいわ。さあ」
テーブルの上に手をおくとすぐに震動がはじまった。
「もう無駄に時間をつぶせないわ」ミス・ブースが言った。彼女は軽く咳払いをすると、テーブルに向って言った。
「霊が降りていますか?」
かたん。
テーブルは動くのをやめた。
「イエスのときは一つ叩いて、ノーのときは二つ叩いて下さい」
かたん。
この会話法の利点は、質問者の方で聞くことを先に言わなければならないことだ。
「あなたは死んだ人の霊ですか?」
「イエス」
「フェドラですか?」
「ノー」
「前に私のところへ来たことのある霊ですか?」
「ノー」
「私たちに好意をもってますか?」
「イエス」
「喜んで来てくれたのですか?」
「イエス、イエス」
「うれしいですか?」
「イエス」
「あなたのために何かしてもらいたくて頼みに来たんですか?」
「ノー」
「私たちに個人的に何かしてくれようと思うんですか?」
「ノー」
「他の霊のために何か言いたいんですか?」
「イエス」
「その霊は私の友だちに話したいんですか?」
「ノー」
「では、私に?」
「イエス、イエス」テーブルは激しく動いた。
「その霊は女性ですか?」
「ノー」
「男性ですか?」
「イエス」
彼女はちょっと息をのんだ。
「私が前から呼び出そうとしていた霊ですか?」
「イエス」
沈黙、そしてテーブルがかしいだ。
「アルファベットで話して下さい。Aには一つかたんと言って、Bには二つという風に」
「今ごろ気がつくなんて」ミス・クリンプスンは思った。
「かたん」
「あなたの名は」
七つ音が出て、長く息を吸いこむ音、
一つ音が出た。
「H――A――」
長い音の連続。
「Rかしら。早すぎるわ」
「かたん」
「H――A――Rだわね」
「イエス」
「ハリー?」
「イエス、イエス」
「まあ、ハリー。やっと出て来てくれたのね。ごきげんよう。仕合せですか?」
「イエス――ノー、サミシイ」
「私のせいではないわ、ハリー」
「イエス」
「私には考えなければならない責任があったわ。憶えてらっしゃる? 私たちの間をさまたげた人」
「イエス、オヤジ……」
「ちがうわ。お母さ……」
「オヤバカチャンリン」いい気味だというように後の言葉をつづけた。
「どうしてそんなひどいことおっしゃるの?」
「スキダカラ」
「今なら分るわ。でも私はほんの子供だったのよ。今でもまだ怒ってらっしゃる?」
「ユルシタ。ママモユルス」
「ありがたいわ。どこで何してるのハリー」
「マッテル。ツミホロボシヲ」
「何か私に特に言うことはないの?」
「ジゴクヘイッチマエ」ここでテーブルがゆれた。
この言葉は、聞いてる人間をすっかり驚かせたらしい。
「まあ、本当にハリーなのね。あなたはまだ昔の通りの冗談屋さんね。ねえ」
テーブルはこのときひどい興奮のさまを示し、わけの分らない文字をつづけざまに鳴らした。
「どうしてほしいの?」
「G、G、G」
「誰かが邪魔をしてるんだわ」ミス・ブースが言った。「誰なんです?」
「ジョージ」これは非常に早かった。
「ジョージ? トムの子のジョージしか私はジョージなんて人知らないわ。どうかしたの?」
「ハハハ。ジョージ・ブースデハナイ。ジョージ・ワシントンダ」
「ジョージ・ワシントン?」
「ハハ」テーブルはひきつけるようにがたがたし、霊媒にも押えていられないようだった。会話を書きとっていたミス・ブースは、両手をテーブルにおいた。テーブルは踊るのをやめて、ゆれはじめた。
「今度は誰です?」
「ポンゴ」
「ポンゴって誰?」
「あなたの霊」
「今話していたのは誰?」
「悪い霊。もう行った」
「ハリーはまだいます?」
「いない」
「誰かまだ話したいのですか?」
「ヘレン」
「ヘレン?」
「忘れたか? メイドストーン」
「メイドストーン? ああ、エレン・ペイトのことでしょ?」
「イエス、ペイト」
「嬉しいわ。今晩はエレン。あなたに会えるなんて?」
「喧嘩覚えてる?」
「寄宿舎での大喧嘩ね」
「ケイト悪い娘」
「ケイトって覚えないわ。ケイト・ハーレイしか。あの人のこと?」
「おてんばケイト。逃げた」
「ああ、何のことか分ったわ。消灯後のお菓子のことね」
「そう」
「あなた、相変らず綴字がでたらめね」
「ミシ――ミシ」
「ミシシッピ? まだ覚えないの?」
「おかしい」
「同級生多勢いる? どこにいるの?」
「アリス・マーベルがよろしく」
「うれしいわ、よろしく言ってね」
「ええ、みんなよろしく。花と太陽と……」
「何言ってるの?」
「P」突然テーブルが言った。
「またポンゴなの?」
「イエス。疲れた」
「やめさせたいの?」
「イエス。またこんど」
「ええ、ではおやすみ」
「おやすみ」
霊媒は疲れ切ったように、ぐったりと椅子にもたれた。当りまえである。かたかた音をたててアルファベットの文字をつづるのは大変に疲れる仕事である。彼女はまた石鹸箱がすべり落ちはしないかと気が気でなかった。
ミス・ブースが電灯をつけた。
「すばらしかったわ」ミス・ブースが言った。
「思った通りの返事がもらえて?」
「ええ、かなりね。聞かなかった?」
「私にはついてゆけなかったわ」ミス・クリンプスンが言った。
「馴れるまでは、数を数えるのはちょっと難しいわね。とても疲れたでしょう。もうおしまいにして、お茶をいれましょう。今度からはこっくりさんを使いましょうね。あれなら、こんなに手間がかからないわ」
ミス・クリンプスンもそれは考えた。たしかに、その方が疲れないかもしれない。しかし、うまくつかえるかどうか自信がなかった。
ミス・ブースはやかんを火にかけて、時計を見た。
「あら、もう十一時になるわ。時間のたつのが早いわね。ちょっと二階へいって、お婆ちゃんを見てやらなくては。この質問と答えを読んでてくれません? そんなに時間はかからないと思うわ」
これで十分だとミス・クリンプスンは思った。信用は立派についた。二、三日内に、彼女は自分のプランを実行に移せるだろう。しかし、ジョージのことではもう少しで失敗するところだったし、ヘレンなどという名を出したのも、ばかげていた。ネリーならよかったのに。四、五年前なら、どの学校にもネリーという名の子は一人はいたものだ。でも、こっちで言ったことは大して問題にならない。相手がこっちの言うことを筋が通るように手つだってくれているから。手と足がひどく、痛かった。疲れはてていたし、最後のバスに乗り遅れたのではないかと、彼女は気をもんでいた。
ミス・ブースが帰って来たので、聞いてみると、彼女は言った。
「乗り遅れたかも知れないわ。でも、タクシーを呼びましょう。もちろん、私に出させていただくわ。わざわざ来て下さって、楽しませて下さったんですもの。霊界との話といっても、そんなに奇妙なものではありませんよ。ハリーはこれまで一度も出てくれなかったわ。気の毒なハリー。私はあの人にはとても冷たい仕打ちをしてきたんです。あの人は結婚したけど、私のことを忘れなかったわ。コヴェントリーに住んでいてね。冗談ばかり言ってる人でした。アリスとマーベルはどっちかよく分らなかったわ。アリス・ギボンズとアリス・ローチの二人いてね、両方ともいい娘でしたわ。マーベルはきっとマーベル・ヘリッジだと思うわ。何年も前に結婚してインドへ行ったんですよ。結婚して何て姓を名乗ってるのか知らなかったし、それ以来便りもなかったけど、やっぱり亡くなったんでしょうね。ポンゴははじめての霊だわ。誰の霊だかつぎは聞いて見なくては。ミセス・クレイグの支配霊はフェドラで、ポッパエア〔古代ローマ皇帝ネロの妃〕宮廷の女奴隷だったんですよ」
「まあ」
「ある晩、身の上話をしてくれたわ。ロマンチックな話でね。クリスチャンだったし、ネロの言うことを聞かなかったので、ライオンの餌食にされたんですって」
「面白いお話ね」
「そうでしょう? でも、英語があまりうまくなくて、時々分らなくなることがありますわ。それに、時々退屈な霊をつれてくることがあるのよ。ポンゴはジョージ・ワシントンをとても早く追い出したわね。また来て下さるでしょう? 明日の晩」
「よろしかったら」
「どうぞいらしてね。今度はあなたのために質問してみなくては」
「そうしますわ」ミス・クリンプスンが言った。「私にとっては全く今夜のことは大発見でしたわ。本当にすばらしい。私にこんなことができるとは夢にも思いませんでしたわ」
たしかに、それは本当であろう。
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第十八章
ミス・クリンプスンが昨夜どこに行って何をしていたか、下宿の連中に隠す必要はもちろんなかった。真夜中にタクシーで帰って来たというだけで、すでに強い好奇心を起こさせているのだから、もっと質《たち》の悪い放蕩でもしてきたのだと言って非難されないためにも本当のことを話した方がよかった。
「ねえクリンプスンさん」ミセス・ペグラーが言った。「余計なお折介だとは思わないでしょうけど、ミセス・クレイグやその友だちとはおつきあいしないようにご注意しますわ。ミス・ブースはたしかに立派な人だとは思いますが、お仲間が感心しません。それに、心霊主義というのも感心しませんわ。私たちにはうかがい知れない事柄をのぞきこもうとするんですから、ろくなことにはなりませんよ。あなたが結婚したことのある方なら、もっとよく説明してあげられるんですけど、そんなことをしていると、いろいろな点で、あなたの性格に大変な影響が出てくるということを考えて下さいね」
「あら、ペグラーさん」ミス・エザレッジが言った。「そうまで言う必要はないと思いますわ。私の知ってる素敵な人で、本当に私のお友だちと言って誇れるような人に、心霊主義の人がいますわ。その方の生活や他の人とのおつき合いをみてると、まるで聖徒みたいですよ」
「そうかもしれません」ミセス・ペグラーが頑丈な姿を堂々とそびえ立たせるように坐りなおして答えた。「でも、問題はそこではないんですよ。心霊主義者がよくない暮らし方をしてるだろうというんではなくて、その大部分があまり感心しない、誠実とは縁遠い人が多いと言いたいんですよ」
「私もこれまで霊媒といわれる人にずいぶん会ったことがありますけど」ミス・トウェルが意地悪そうに言った。「みんながみんなと言っていいくらい、一度会ったらもう信用できないような人ばかりでしたわ」
「大ていの人はそうなんでしょう」ミス・クリンプスンが言った。「それに、今度の場合は私が一ばんよく判断できる立場ですわ。でも、誤った考えをもってるということがその人自身の罪でないとしたら、少なくともそういう人の中にも、真面目な人がいると思いたいものですわ。リフェイさんはどう思います?」彼女はこの家のお内儀に向きなおって言った。
「そうねえ」主婦という立場から、どちらにもできるだけ妥協しなければならないので、彼女は言った。「本で読んだところによると――そういっても閑《ひま》がないので、あまり読んではいないんですけど、でも為《ため》になることはありますわ。そういう場合に、しっかりと自分を守れる状態だったら、心霊主義者の言い分にもいくらか本当らしいこともありうると思いますわ。私も自分で何か興味をもってるという訳ではないし、ペグラーさんの言った通り、大体そういうことに手をだすような人とはあまりつき合わないようにしてますわ。もちろん、例外はありますがね。そういうことは、ちゃんとした資格のある研究家にまかせておけばいいんですわ」
「私の言うのもそこなんですよ」ミセス・ペグラーが言った。「私たちののぞいてはいけない神秘の世界へミセス・クレイグみたいな女が闖入《ちんにゅう》するなんて、口にするのも不愉快なことですわ。考えてもごらんなさい、クリンプスンさん。その女が、私は知りもしなかったしまた知ろうとも思いませんが、あつかましくも私に手紙をよこしましてね。降霊会とかいうところで、私の夫からことづかってきたメッセージを受けとったというんですよ。どんな気持がしたか口では言えませんわ。将軍の称号までもってた人が、公衆の前でそんな下らないことに引き出されるなんて。もちろん、でたらめの作りごとですわ。将軍は下らないことは絶対にやらなかった人ですから。そんなことはいつも『下らんたわごとだ』とぶっきら棒な軍隊口調でいってた人なんです。それを、その未亡人である私のところへ言ってきたのには、彼がミセス・クレイグの家へ現れて、アコーディオンを演奏してみせ、地獄から救ってもらえるように特別なお祈りをしてくれと言ったというのです。これは計算ずくで仕組まれた侮辱だとしか思えませんでしたわ。将軍は生前ちゃんと教会へも通っていましたし、死者のために祈るとか、そんなようなばかげたことは一切大反対だったんです。それに地獄に行ったなんていいますが、彼はちょっとぶっきらぼうなところはあったけど、無類の善人だったんですよ。アコーディオンのことだって、あの人ならどんなところにいたって、もう少しましなことを見つけてやっているでしょう」
「ひどい話ですわね」ミス・トウェルが言った。
「ミセス・クレイグというのはどんな人なんですの?」ミス・クリンプスンが訊ねた。
「誰も知らないわ」ミセス・ペグラーが陰気くさく言った。
「お医者さんの後家さんだって言うわね」ミセス・リフェイが言った。
「私の感じでは」ミス・トウェルが言った。「思った通りの感心しない人物だったわ」
「あの年で、髪を染めて、一インチもある派手なイヤリングを下げてるんだから……」ミセス・ペグラーが言った。
「それに、あの妙な服を着て」ミス・トウェルが言った。
「それから、変な人間と暮らしてたわ」ミセス・ペグラーが言った。「ミセス・リフェイはご存じでしょう。あの緑のターバンをまいて、警官に止められるまで自宅の庭でお祈りしていた黒ん坊を」
「一体どこからお金をもってくるんでしょうねえ」ミス・トウェルが言った。
「私にいわせれば、あの女は金もうけ第一よ。何のために心霊主義を説きまわってるんだか分るもんですか」
「どうしてウィンドルに来たんでしょう」ミス・クリンプスンがたずねた。「ロンドンか他の大きな町の方が、あなたのいうような人物なら、ずっと都合がいいでしょうに」
「おたずね者で、逃げて来たんだと言われても、私は別に不思議とも思いませんわ」ミス・トウェルが陰気に言った。「いたたまれなくなるような場合も、あるでしょうからね」
「みなさんのお話をうかがっていると」ミス・クリンプスンが言った。「心霊の研究は悪い人がやる場合は特に危険なものだと思わなければなりませんわね。それに、ミス・ブースの話によると、ミセス・クレイグはどうも経験のないブースさんの指導者としてはあまり適当だとは思えませんわ。私は何だかミス・ブースに気をつけるようにさせてあげなければいけないような気がしてきました。私は一生懸命にそうしますわ。でも、ご存じのとおり、こういうことはうまくやらないと、かえって相手の人に油をそそぐような結果になりますね。まず第一歩は相手の信頼を得ることね。そうすれば、それから少しずつ健全な考えに導くことができるでしょうからね」
「それは本当ですわ」ミス・エザレッジが青い目を元気づけるように輝かせて言った。「私も恐ろしい悪人にだまされそうになっていたことがありますが、友だちが正しい道を教えてくれて助かりましたわ」
「そうかもしれませんね」ミセス・ペグラーが言った。「でも、私に言わせれば、さわらぬ神にたたりなしですね」
こういう優れた忠告を受けたにもかかわらず、ミス・クリンプスンは約束どおり出かけていった。テーブルを揺すぶる神がかりの見世物をやって見せてから、ポンゴは渋々こっくりさんで霊界との通話をすることを承諾した。ポンゴは生前も、文字というものは書いたことがなかったからであった。彼はいったい何者なのかという問いには、ルネサンス期イタリアの軽業師で、正確な名はポンゴチェリだと説明した。でたらめな生活をしていたが、フィレンツェを黒死病が襲ったとき、病気の子供を棄てるのを勇ましくも拒絶することによって汚名をすすいだ。彼もその疫病にかかって死んで、今は罪の償いの試練期間として、他の精霊の案内と通訳をやっているというのである。立派な物語で、ミス・クリンプスンは得意だった。
ジョージ・ワシントンは邪魔ばかりする精霊で、他の降霊がいろいろ不思議な妨害をうけたが、ポンゴはこれを嫉妬深い霊の力だと説明した。しかし、ハリーはまた現れてやさしい言葉を告げたし、マーベル・ヘリッジもインド生活のいきいきした描写をしていろいろ話した。概して難しくはあったが、その後はうまく行った。
日曜日はこの霊媒の良心から、降霊は行われなかった。ミス・クリンプスンは全く本心から、自分は日曜日にはやれないと思った。代わりに彼女は教会へ行って千々に乱れた心をクリスマス明けのあいさつを聞いて静めた。
しかし、月曜日には降霊を待つ二人は、竹のテーブルの前に坐って、ミス・ブースのノートしたところによれば、次のような降霊を行った。
午後七時三〇分
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今夜はいきなりこっくりさんではじめた。二、三分で大きな音がつづいて起こり、霊が降りたのを示した。
問 今晩は。あなたはどなた?
答 ポンゴです。今晩は。ご機嫌よう。
問 ご機嫌ようポンゴ、ようこそ。
答 どうも。また来ましたよ。
問 あなた、ハリー?
答 うん。愛してるとだけ言いに来た。人が多いね。
問 多勢いるほどいいわ。
答 気をつけて、霊に従え。
問 できるだけのことはします。何ですか?
答 お前の頭をゆでろ!
問 いやだわ、ジョージね。あんたは行っちまいなさい。来てもらいたくないわ。
答 ばか者はどけたよ。
問 ポンゴ、彼は追っぱらった?
ここで鉛筆はみにくい顔のスケッチを描いた。
問 あなたの肖像?
答 それはおれだ。ジョージ・ワシントンだ。ははは。
鉛筆は激しくジグザグを描き、盤をテーブルの端まで押しやった。それをもとにもどすと、手はまたポンゴの霊と交わっているように文字を描きだした。
答 追い払った。今夜はさわがしい。Fが嫉妬してじゃまを送る。だが心配ない。ポンゴの方が強い。
問 誰が嫉妬してるんです?
答 何でもない。悪いやつだ。呪われている。
問 ハリーはまだいますか?
答 ノー、他の用事だ。助けてもらいたがっている霊がいる。
問 誰です?
答 難しい。待って。
鉛筆は大きな輪をいくつもつづけて描いた。
問 これは何の字?
答 ばか、あわてるな。むずかしい。もう一度やってみる。
鉛筆はしばらくぐるぐるなぐり書きをしていたが、やがて大きなCを書いた。
問 Cという字は分ったわ。そうね?
答 CCC
問 Cは分った。
答 CRE
ここで他の荒々しい邪魔が入ったが、またポンゴの字で、
答 ……障害が多い。助けてやろうと思え。
問 讃美歌を歌うの?
ポンゴはひどく肚を立てたらしく
答 ばか。だまれ。MO
問 同じ字のつづき?
答 RNA
問 クレモナのこと?
答 クレモナ。そうだ、できた、できた。
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ここで、ミス・ブースはミス・クリンプスンに向って、おろおろした声で言った。
「おかしいわ。クレモナはミセス・レイバーンの芸名よ。まさか急に亡くなったんではないでしょうね。さっきはとても気持よさそうだったんだけど。見に行った方がいいかしら」
「ほかのクレモナではなくて?」ミス・クリンプスンが言った。
「でも、滅多にない名前だし」
「誰だか聞いて見たら?」
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問 クレモナ、あなたの姓は?
鉛筆は早く書いた。
答 ローズガーデン――今度はやさしい。
問 分らないわ。
答 ローズ、ローズだよ、ばか。
問 あら。まあ、二つの名前をあの人は混同してるわ。クレモナ・ガーデンでしょう?
答 イエス。
問 亡くなったの?
答 まだ。さまよってる。
問 まだ体の中にいますの?
答 体の中でも外でもない。待ってる。
ここでポンゴが間に入った。――あんたが心と呼んでるものは離れているんだ。霊は大変化を前に、さまよってる。どうしてこんなことが分らないんだ? 早く早く。難しい問題があるんだ。
問 ごめんなさい。何が問題なんです?
答 大へん困ってる。
問 ブラウン博士の治療ではないでしょうね? それとも私の――
答 ポンゴの言葉で――ばかなこと言うな。クレモナの言葉――私の遺言書よ。
問 遺言書を変えたいんですか?
答 ノー
ミス・クリンプスン よかったわ。だってこれだけでは合法的に変えられないわ。レイバーンさん、どうしてほしいんです?
答 ノーマンに送って。
問 ノーマン・アークハート氏にですか?
答 イエス。彼が知ってる。
問 どうすればよいか知ってますか?
答 必要だと言ってる。
問 分りました。どこにあるか言って下さい。
答 忘れた。さがして。
問 この家の中ですか?
答 忘れたといってるじゃないか。困った。金庫の中ではない。忘れた、忘れた。
ここで文字が弱々しく不規則になってきた。
問 思い出して下さい。
答 B――の中に。鉛筆がもつれるようになってよろめいた。だめだ。突然手つきが変って、荒っぽくなった。どけ、どけ。
問 誰です?
答 ポンゴの字で――行ってしまった。悪い霊の力がきた。どけ。これで終わりだ。
鉛筆が霊媒の手から脱けて、これ以上返事をしないというように、テーブルの上におちた。
[#ここで字下げ終わり]
「恐ろしく心配だわ」ミス・ブースが言った。
「どこに遺言書があるか見当もつかないんでしょう?」
「全然。B――の中って言ったわね。何でしょう」
「銀行でしょう」ミス・クリンプスンが言った。
「そうかも知れないわ。でも、もしそうならアークハートさんしか出せないわ」
「そんなら、その人の手に入らないはずはないわね。その人が必要なんだって言ってたわね」
「そうよ。だから、どこかこの家の中だわ。Bのつくものって何でしょう」
「箱《ボックス》、バッグ、机《ビューロー》?」
「ベッドは? 何かの中にあるわ」
「最後まで言えなかったのね、気の毒に。もう一度やってみましょうか? それとも、ありそうなところを探そうかしら」
「探してみましょうよ。それで見つからなかったら、もう一度霊を呼んで見たらいいわ」
「それがいいわ。箱やなにかの鍵がいくつか、机の引出しの一つに入っていたわ」
「では、探してみない?」ミス・クリンプスンが大胆に言った。
「探しましょう。手伝ってくれるわね」
「私でも役に立つならね。でも、私はよその人間よ」
「霊の言葉は、私と一緒にあなたにも伝わってきたわけよ。一緒に来ていただきたいわ。どこにあるか考えて下さらない」
ミス・クリンプスンはそれ以上遠慮しなかった。二人は二階に上がった。おかしな仕事だ。まだ会ったこともない人間のために、弱い老婆からいわば盗みとるようなことをするのである。変な話だ。だが、動機は正しいことに違いない、ピーター卿のすることなのだから。
広いゆったりした美しい階段を上がると、巾の広い長い廊下だった。壁には天井から床まで肖像写真やスケッチ、台紙にはった手紙やプログラムなど、舞台裏の記念になるような古いものが全部、壁も狭しとばかりにはってあった。
「あの人の一生が、こことその二つの部屋に全部おさまってるのよ」看護婦が言った。「この蒐集を売ったら、かなりになるでしょうね。いつかは、そうなるんでしょうけど」
「お金は誰のところへ行くのか、知ってます?」
「たぶんノーマン・アークハート氏だと思うわ。ほとんど唯一の血縁ですしね。でも、それについては何も聞いたことはないのよ」
彼女はクラシックな鴨居の鏡板に彫りのついた、優雅な丈の高いドアを押し開いた。
かなり大きな部屋で、三つの背の高い窓があり、天井は花輪模様の型押しで美しく仕上げてあり、燭台がいくつかあった。しかし、その部屋の清潔な雰囲気は、派手なバラ色格子の壁紙と、ヴィクトリア朝時代の寄席の引き幕のような、金の縁飾りと紐のついている真っ赤な厚いカーテンのためにぶちこわしになっていた。部屋の中は一フィートのすき間もないほど家具がつまっていた。マホガニー製の、小箪笥としてはふさわしくないほどべったりと象眼細工をした棚。重いドイツ大理石や青銅の飾りものを台ごと、かかえこんだ飾りテーブル。ニス塗りの衝立。十八世紀風のシェラトン式の用箪笥。シナの花瓶、雪花石膏《アラバスター》のランプ、椅子、いろいろな色と形のいろいろな時代の足台。まるでジャングルの中で、びっしり生えた植物が生存のためのレスリングをやってるような有様である。趣味も節度もない婦人の、何物をも拒まず何物をも、何者にも与えない、所有という事実だけがこの世の唯一の確乎たる現実だという女性の部屋であった。
「ここにあるか、さもなければ寝室よ」ミス・ブースが言った。「鍵をとって来るわ」
彼女は右手のドアを開いた。ミス・クリンプスンはどこまでも物ずきに、爪先立ちで後につづいた。
寝室は居間にくらべていっそうすごかった。ベッドの傍の小さな電気スタンドは、大きい金メッキのキューピットに支えられている天蓋から、ずっしりと垂れ下っているバラ色の金襴《きんらん》の布をぼんやり照らしていた。狭いその光の輪の外に、大きな衣裳戸棚や箪笥や背の高い用箪笥などが集まっていた。縁飾りや裾飾りで飾った化粧テーブルは、大きな三面鏡を支えていたし、部屋の中央には大きな姿見が、家具のより集まってごたごたした薄暗い室内の様子を写していた。
ミス・ブースは一番大きな衣裳戸棚の真ん中のドアを開いた。かたんといって大きく開くと、フランジパンニ香水の匂いが流れ出た。この部屋の持ち主が口が利けない中風患者になってから、何一つ変えられていなかったのは明らかである。
ミス・クリンプスンは静かにベッドに近よってみた。ベッドに寝ている人間をびっくりさせるおそれが全くないのは明らかなのだが、本能的に彼女は猫のように気をつけて動いた。
ひどく老いこんだ小さな顔が、大きなシーツや枕の上で、人形のように、まばたきもしなければ見えもしない目で彼女の顔を見ていた。その顔は石鹸でふやけたときの手みたいに、小じわで一ぱいになっていたが、人生の経験で刻まれるような深いしわは、力のなくなった筋肉の弛緩のせいか、すっかり伸びていた。ふくらんでいるくせにしわだらけでもあった。これはミス・クリンプスンに、桃色の風船の空気の抜けかかったのを思い出させた。吐き出す息がたるんだ口から小さなすうすういう音を立てて出るので、余計そういう感じがする。縁飾りをつけたナイト・キャップの下から、わずかばかりのしょぼしょぼした白髪がもつれて出ている。
「不思議な話ね」ミス・ブースが言った。「こんな風に横になって生きてるのに、この人の霊が私たちに話しかけるなんて」
ミス・クリンプスンは神聖冒涜の感じに襲われた。本当のことを白状せずにすますのに、だいぶ苦労したのである。念のために彼女は石鹸箱がひざより上に上がるように靴下どめを引き上げたが、これは同時にゴムが彼女の足の肉に痛々しくくいこむので、彼女はこれを自分の罪ほろぼしの苦業として我慢したのである。
ところが、ミス・ブースはもう向うへ行って、箪笥の一つの引出しにかかっていた。
二時間たった。二人はまだ探しつづけていた。実際Bという文字のつく所は、探すためにはとても範囲が広い。ミス・クリンプスンはそのつもりで選んだのだが、彼女の先見の明は報いられていた。ちょっとした器用さで、この便利な文字は家の中のかくし場所にはどこにでもねじ曲げてあてはまるのである。机《ビューロー》、ベッド、バッグ、箱《ボックス》、バスケット、骨董品《ビブロ》がだめなら、|大きい《ビッグ》、|黒い《ブラック》、|茶色の《ブラウン》、象眼《ブール》してある、などといって大ていの家具は入れられるし、危ないときは、ベッド・ルームとか婦人室《ボウドアール》の家具とかいってBのついてるものにできる。ところが、棚という棚、引出しなど、あらゆるもののしまい場所が新聞の切抜きや手紙、分類した記念品などでつまっているので探すほうは疲れて頭と足と背中が痛みだした。
「こんなに沢山あてはまるところがあるとは思わなかったわ」ミス・ブースが言った。
ミス・クリンプスンは髪はほどけて、下がった黒いペチコートが石鹸箱が見えそうなくらいにたくし上がったという姿で床に坐りこんで、へとへとになっていたが、これに同意した。
「おそろしくくたびれたわ」ミス・ブースが言った。「やめましょうか? 明日一人で捜してもいいわ。こんなにくたびれさせては悪いわ」
ミス・クリンプスンはこの言葉を考えてみた。もし彼女がいないときに遺言書が見つかったら、そしてノーマン・アークハートのところへ送られたら、隠されたり破棄されたりする前にミス・マーチスンが手に入れることができるだろうか? 彼女は思い迷った。
隠しはしても、破棄はしない。少なくとも遺言書がミス・ブースから彼に送られたという事実は、それが証拠になって弁護士に言い逃がれはさせないだろう。しかし、彼はそれをかなりな期間うまく隠しおおせることはできるだろう。ところが、この件の一番大切なところは時間の問題なのだ。
「あら、私は少しも疲れてやしないわ」彼女は元気にこう言うと、立ち上がって髪をいつもより器用にまとめた。日本風の箪笥の引出しから、彼女は黒いノートをとり出し、機械的に頁をくっていた。数字の列が目にとまった。一二、一八、四、〇、九、三、一五。これはどういう意味だろうと、彼女はぼんやりと考えていた。
「ここは全部見たわ」ミス・ブースが言った。「何か残ってるとは思えないわよ。もちろん、どこかに秘密の引出しがあれば別ですけどね」
「本の中にあるとは思えない?」
「本! ありそうだわ。それに考えつかないなんて、うっかりしてたわ。探偵小説では、遺言書はいつも本の間に隠してあるわね」
(小説では、よく使われるんだろうけど)ミス・クリンプスンは考えた。しかし、彼女は立ち上がると埃を払って明るく言った。
「そうよ。この家に本は沢山ある?」
「何千冊ってあるわ」ミス・ブースが言った。「階下《した》の書斎よ」
「ミセス・レイバーンが読書家だとは思えなかったけど」
「あら、私もそうは思わないわ。この家と一緒に買った本よ。アークハートさんが言ってたわ。ほとんどが古い本でね。ほら大きいのは皮装のやつよ。つまらない本よ。読みたいと思ったのは一冊もなかったわ。でも、遺言書をかくすような本ですわ」
二人は廊下に出た。
「それはそうと」ミス・クリンプスンが言った。「召使いたちが変に思わないかしら、こんな遅く家の中を歩きまわって」
「みんな向う側の棟で寝てるのよ。それに、私に時々お客様があるのも知ってるわ。ミセス・クレイグは面白いことがあるとよく今ごろまでいたわ。お客用の寝室があって、必要なときはそこへ泊ってもらうのよ」
ミス・クリンプスンはもう反対しなかった。二人は階下に下りてホールを通って書斎に入った。壁や凹みに本がぎっしり並んでいる、大きな書斎で、それは彼女にとって胸もつぶれるような光景に見えた。
「もちろん、こっくりさんのお告げがBではじまる何かと言うんじゃなかったら……」ミス・ブースが言った。
「そうしたら?」
「そうねえ。この部屋のかくし金庫の中に書類があるかもしれないと思うんだけど」
ミス・クリンプスンは心の中でうなった。ありそうなところだ。自分の発想が変に独創的すぎたかもしれない。
「見てみたらどうかしら?」彼女は言った。「Bという字は、違うものかもしれないわ。それとも、ジョージ・ワシントンに邪魔されたせいかも知れないでしょう? それに、Bは金庫の数字のまず最初《ビギニング》はと言おうとしたのかもしれないわ。そう思わない?」
「でも、もし金庫の中なら、アークハートさんは知っているでしょう」
ミス・クリンプスンはもっと楽な気持で考えていいという気がした。
「たしかめたって、いいんじゃない?」彼女は言った。
「でも、錠のダイヤルの組合せ数字を知らないのよ」ミス・ブースが言った。「アークハートさんならきっと知ってるわ。手紙を出して聞いて見ましょう」
ミス・クリンプスンに霊感がひらめいた。
「私には分るつもりよ」彼女は言った。「黒いノートに七つ数字が並べて書いてあったわ。今見たばかりだから。私は何かの覚えだと思ったのよ」
「|黒い《ブラック》ノート」ミス・ブースが叫んだ。「そうだわ。私本当に間抜けね。もちろん、ミセス・レイバーンは数字の組合せがどこにあるか教えようとしたんだわ」
ミス・クリンプスンはBという字の何にでも役に立つのを、また祝福した。「上にいって取って来るわ」彼女は叫んだ。
もどってくると、ミス・ブースは本棚の仕切りの前に立っていた。その棚は壁から棚ごと開いて、作りつけの緑色の金庫が出てきた。ふるえる手で、ミス・クリンプスンはぎざぎざのついてるノッブをつまんでまわした。
最初にやってみたのは失敗だった。ノートの数字では最初どちらにノッブを廻せばいいのか分らなかったからである。しかし、二度目にやったときは、七番目の数字の上に矢印が行くと、カチッとほっとさせるような音を立てた。
ミス・ブースがハンドルをにぎり、重いドアが動いて口が開いた。
中には書類の束があった。一番上に表を出して封をした長い封筒があった。ミス・クリンプスンがとり上げて見ると……
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ロザンナ・レイバーン遺言書
一九二〇年六月五日
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「まあ、不思議だわねえ?」ブースが叫んだ。ミス・クリンプスンも全く同感だった。
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第十九章
ミス・クリンプスンはその夜、来客用の寝室に泊った。
「降霊のことを説明して、遺言書は送るのが安全で一番いいと思ったと、ちょっと手紙に書いてアークハートさんに送るのがいいわね」ミス・クリンプスンは言った。
「とても驚くでしょうね」とミス・ブース。「何て言うかしら。弁護士なんてものは、大体霊界との交流なんてことは信じないものでしょう? それに、私たちがどうやって金庫を開いたか不思議がるでしょうね」
「そう。でも、霊がダイヤルの組合せをそのまま教えてくれたんですもの。そう書いてやらなくてはいけないでしょうね。遺言書をそのまま送ってやれば、あなたが誠実な人だという証拠になるわ。それに、彼に来てもらって金庫のほかの中身を調べてもらい、ダイヤルの組合せ数字を変えてもらってもいいわ」
「遺言書を私が持っていて、彼に来てもらったら?」
「でも、火急に必要なんじゃないでしょうか?」
「それなら、なぜ取りに来ないんでしょう?」
霊界との交渉ではなくなったので、ミス・ブースは独立した判断力を示しはじめた。これにはミス・クリンプスンもあせりだした。
「恐らく、まだそれが必要になるということを知らないのよ。きっと霊界の方では、それが明日になって急に必要になるということを予見しているんだわ」
「そうね、そうかもしれないわ。もし与えられた神秘的な導きを人々がもっと十分に活用したら、いろんなことが予見されて、それに対して用意しておくことができるのにねえ。そうね、あなたのいう通りだと思うわ。大きな封筒を見つけて、ちょっとした手紙を書き添えて、明日の朝一番の集配人に渡るように投函するわ」
「書留にしたほうがいいわ」ミス・クリンプスンが言った。「そして、私でよかったら、明日の朝一番に私が郵便局へ持っていってあげるわ」
「そうして下さる? それで重荷が下りたわ。やれやれ。あなたも疲れたでしょう。私、やかんでゆたんぽのお湯をわかしますから、入れて寝ましょう。それまで、私の部屋で休んでて下さらない。あなたのベッドにシーツをかけて来る間だけだから。え? いいえ、いいのよ、すぐできるわ。ベッド作りは馴れてますもの」
「では、私はお湯をわかすわ」ミス・クリンプスンが言った。「少しは何かしなくては」
「それではお願いするわ。大して時間はかからないのよ。台所のボイラーで大分温まってるお湯があるから」
今にも沸き立ちそうなやかんと一緒に台所に一人とり残されたミス・クリンプスンは、一刻も無駄にはしなかった。爪先立って素早く台所を出ると、耳をそばだてて階段の下に立ち、看護婦の足音が遠ざかって行くのを聞いていた。やがて彼女は小さな居間に忍びこむと、封をした封筒に入っている遺言書と、前から役に立つ道具だと見当をつけておいた長い薄刃のペーパー・ナイフを取り上げ、急いで台所にもどった。
やかんの口から湯気が吹き出すのを、首を長くして待っている人間にとっては、今にも沸きそうな湯が沸きたぎるまでに驚くほど長い時間がかかるのだった。ぱっと湯気が出たかと思うと、また止まってしまう……思わせぶりなやかんの音は見ている人間をいらいらさせた。その晩は、この湯が沸くのにベッドを二十くらい用意できるほどの時間がかかったような気がした。このやかんは全然温まらないんじゃないかという気さえしてきた。一時間もかかったような気がしたが、実際は七分かそこらだったろう。ミス・クリンプスンは罪深くも、ひそかに封筒の封を吹き出した湯気の上にさし出した。
「急がなくては。ああ、聖人さま、神さま。早くしなくては……。それとも引きはがしてしまおうか」
彼女はペーパー・ナイフをそっと封筒の封の所にさしこんだ。封ははがれ、きれいに開いたが、同時にミス・ブースの足音が廊下の方にまた聞こえてきた。
ミス・クリンプスンは素早くペーパー・ナイフをストーブのかげに投げこみ、封筒の封に糊がきいてまたくっついてしまわないように折りまげておいて、壁の上の皿おおいのかげにつっこんだ。
「お湯は沸いたわ」彼女は快活に言った。「ゆたんぽはどこ?」
しっかりした手つきでゆたんぽに湯を充たした彼女の神経は賞讃に値するものだ。ミス・ブースは礼を言うと、両手にゆたんぽを一つずつ下げて二階へ上がって行った。
ミス・クリンプスンは遺言書をかくし場所から出すと、封筒から出して素早く目を通した。
長い書類ではなかった。それに法律用語で書かれていたが、要旨はすぐ分った。三分もかからずに、彼女はそれをまた封筒におさめ、封の糊のついたところをしめしてくっつけた。彼女は例の便利な旧式の服を着ていたので、それを下着のポケットに入れた。そして、食堂に入っていった。ミス・ブースがもどってきたときには、彼女は静かにお茶をいれているところだった。
「働いた後では、お茶を飲むと元気がでるわ」彼女が言った。
「たしかにそうね。私もそう言おうと思ってたとこなの」
ミス・クリンプスンは、ミス・ブースにコップやミルク、砂糖などをトレイに乗せて後から来るように頼んで、自分はポットをもってさっさと居間へ行った。暖炉の棚にポットをおき、遺言書は何事もなかったようにまたテーブルの上に置いた。彼女はにっこりして溜息をついた。使命は果し終わった。
ミス・クリンプスンからピーター・ウィムジー卿への手紙
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拝啓 今朝の電報でお知らせしたように、うまくゆきました。私がとった方法については、気がとがめて仕様がないのですが、教会でも職業によってはある程度の嘘を使うことは必要だということを認めてくれると思います。たとえば、私服警官とか戦争中のスパイなどはそうでしょう。私の使った嘘もそういう種類のものとして許されるでしょう。とにかく、あなたは私の信心についてお聞きになりたい訳ではないのですから、取り急ぎ、私が発見したことのほうをお知らせいたします。
この前の手紙で、私の考えていた計略はご説明しましたから、遺言書がどうなったかはご存じのことと存じます。今朝、ノーマン・アークハート氏宛に書留便で間違いなく発送されました。あれを受け取ったら、さぞびっくりすることでしょう。ミス・ブースがすばらしい手紙をつけてやりましたが、出す前に私が見たところによると、当夜の事情は説明してありますが、名前は出してありません。私はミス・マーチスンに手紙が行くから気をつけるように電報を打ち、行ったらそれを開けるときには何とかして立会うようにして、遺書があったという事実の別の証人になってもらいたいと言ってやりました。いずれにしても、彼が遺言書を改変することは考えられません。たぶんミス・マーチスンが、私には時間がなくてできませんでしたが、内容の詳細をさぐることができましょう。万事危ない冒険ばかりだったんです。いずれ帰ってからすべてお話しします。もし彼女に内容がさぐれなかったときのために、私から大ざっぱな大略だけでもお伝えしましょう。
財産は不動産(土地と家屋)と動産からなっています。法律用語はよく分らないので、はっきりしたことはつかめませんでした。ただ、要点は次のようなものでした。
不動産はすべてフィリップ・ボイスに遺される。五万ポンドが現金でやはりフィリップ・ボイスに遺される。
残余(余産と言うのですか?)は唯一の指定遺言執行者とされているノーマン・アークハートに遺される。
その他、特に覚えようともしなかったのですが、僅かの形見がいくつかの劇場に寄付されています。
財産の大部分がフィリップ・ボイスに遺されることについて、説明している項がありますが、そこでは遺言人はボイスの一族が彼女にひどい仕打ちをしたことは、彼には責任のないことだから許していると書いています。
遺言書の日付けは一九二〇年六月五日で、立会い人は家政婦のエヴァ・ガビンズと庭師のジョン・ブリッグズとなっています。
このお知らせで十分お役に立てればよいのですが。私は、ミス・ブースが遺書をひとまわり大きな封筒に入れて封をしてからも、ゆっくり開いて読んでみようと思っていたのですが、あいにくなことに、彼女はミセス・レイバーンの特別なシールでしっかり封をしてしまいました。熱いナイフでやればできることは分っていたのですが、私はそれをはがして、またもとの通りに貼るというようなことができるほど器用ではありません。
私がまだ、ウィンドルを離れられないのはお分りになっていただけることと存じます。すぐに立ち去るのも怪しまれます。それに、もう少しミス・ブースとおつき会いして、ミセス・クレイグやその霊のフェドラについて忠告してあげたいと思っています。きっとその連中も、私と同じ「いかさま師」だと思うからです。私の排他心からではありません。ですから、私がこれからもう一週間ロンドンに帰らなくても驚かないで下さい。このための支出については頭を悩ましています。もしそのほうが無難だから残っていたほうがいいとお思いにならないようでしたら、お知らせ下さい。私はそれによって予定を変えます。うまく行くことをお祈りします。かしこ
キャサリン・クリンプスン
一九三〇年一月七日
ピーター・ウィムジー様
追伸 仕事をできるだけ約束の週のうちに終わらせるようにしました。昨日で万事が終わらなかったのは残念ですが、でもせいては事を仕損ずると思ったからです。
[#ここで字下げ終わり]
「バンター」ピーター卿が手紙から顔を上げて言った。「その遺言書にはくさいところがあるぞ」
「さようで」
「遺言書というものは、人間の性質の一番悪いところを引き出すようなことがある。ふだんは正直で愛想のいい人間でも、『余は誰某に次の財産を遺贈し』という言葉を聞くと、コルク抜きみたいにねじけた心になり、口角に泡をとばして喧嘩するんだからな。それはそうと、お祝いに銀の大コップでシャンパンを一杯やるのも悪くないな。ポメリーを一本出して、それからパーカー捜査課長にちょっとお話ししたいと伝えてくれ。それから、そのアーバスノット君のノートをとってくれ。それから……そうだバンター」
「はい」
「クロフツ氏に電話をかけて、ひとこと言ってやってくれ。僕が犯人と犯行の動機とを見つけたし、証拠もすぐに見つけると言っていたとな。そうなれば、事件は一週間かそこらで終わりだとね」
「結構なことで」
「ところがバンター、本当はどうやったのか全く分っていないんだ」
「その内にきっと分りますよ、旦那様」
「そうさ」ウィムジーが元気に言った。「もちろんそうさ。そんな小さいことは気にしないよ」
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第二十章
「ちぇっ」ポンド氏は舌打ちをした。
ミス・マーチスンはタイプライターから顔を上げた。
「どうかしたんですか?」
「いや何でもない」主任はつっけんどんに言った。「あなたの同性の間抜けな人から、ばかな手紙が来たんですよ」
「別に変ったことではないですわね」
ポンド氏は下役のこの声の調子をひどく生意気なものに感じて、顔をしかめた。彼は手紙と同封の添書をとり上げると、奥の部屋へ持って行った。
ミス・マーチスンはすっと彼の机の傍によって、机の上に開いて置いてある書留の封筒を見た。スタンプはウィンドルのだった。
「よかったわ」ミス・マーチスンは考えた。「ポンド氏なら私よりもいい証人になるわ。彼が封を開いてよかった」
彼女はまた元の席にもどった。しばらくすると、ポンド氏はちょっと笑いながら出てきた。
五分ばかりたって、速記のノートを見て考えこんでいたミス・マーチスンは、立ち上がって彼のところへやって来た。
「ポンドさんは速記が読めます?」
「いや」主任が言った。「私の若いころは、そんなものはあまり必要がなかったからね」
「この線が分らないんですよ」ミス・マーチスンが言った。「≪同意する≫らしいんですけど、≪考慮する≫かもしれないんです。意味は違いますねえ」
「たしかに違う」ポンド氏が冷たく言った。
「間違えるといけないから」ミス・マーチスンが言った。「今朝出さなければならないものだし、聞いたほうがいいわ」
ポンド氏は、これがはじめてではないが、女タイピストの不注意を嘲笑った。
ミス・マーチスンはさっと部屋を横ぎって、奥の部屋のドアをノックもせずに開いた。無作法なやり方なので、ポンド氏は後でまた唸った。
アークハート氏はドアに背を向けて、マントルピースのところで何かやっていたが、困ったような表情をしてさっとふりかえった。
「マーチスンさん。入る前にノックするようにと言っておいたはずだが……」
「すみません、うっかりしてました」
「今後気をつけたまえ。何だね」
彼は机の方へは向きなおらず、そのままマントルピースの棚によりかかっていた。彼のつややかな頭は明るいペンキで塗った羽目板に、少しそらせるようにしてよりかかっている。まるで、誰かから何かを守るとか、反抗しようとかしているみたいだわと、ミス・マーチスンは考えた。
「トウェーク・アンド・ピーボディ宛のお手紙の速記によく分らないところができましたので」ミス・マーチスンが言った。「それで、うかがった方がいいと思ったんです」
アークハート氏は鋭い視線でじっと彼女の目を見つめながら言った。「そういうときは、ノートはきれいにとってもらいたいな。私の言うのが早すぎるなら、そう言えばいいんだ。結局、間違いがなくなることだからね。そうでしょう?」
ミス・マーチスンは「猫屋敷」で指導をうけたとき、ピーター・ウィムジー卿が半ば冗談のように、半ば真面目に言ったいくつかの法則を思いだした。法則の七はこうだった。「じっと目を見つめる人間を信用してはいけない。彼は相手の視線を何かからそらしておきたいのだ。その何かをさがせ」
彼女はボスの視線をうけながら、目をそらしてみた。
「すみません。今後気をつけます」彼女はこうつぶやいた。弁護士の背中の羽目板の端に妙な暗い線がある。まるで羽目板がぴったりかまちに合っていないみたいである。それまでそんなものに気がついたことはない。
「よろしい。ところで、どこだね」
ミス・マーチスンは疑問をたずね、答えてもらって引き下がった。出がけに、彼女はちらっと机の上を見たが、遺言書はそこにはなかった。
彼女は席にもどると、手紙を終えた。サインしてもらうために手紙を持って行って、もう一度羽目板を見る機会を得たが、今度は暗い線は見えなかった。
ミス・マーチスンは四時半になるとすぐ事務所を出た。事務所のあたりでぐずぐずしているのは、あまりうまいやり方ではないような気がした。彼女は軽裁判所の前を通りすぎて、ホルボーンにそって右に曲がり、また右に曲がってフェザーストーン・ビルを抜け、レッド・ライオン街を迂回してレッド・ライオン広場に出た。五分ばかりで広場の古なじみの散歩道をまわり、プリンストン街に出た。ここで、彼女は安全な距離から、ポンド氏のやせたごつごつした姿がひょこひょことベッドフォード街を下って、チャンセリー横町の駅へ向うのを見た。間もなく、アークハート氏も出てきた。彼は戸口に立ってちょっと左右を見まわしていたが、やがて真直ぐに彼女のいるほうへ渡って来た。一瞬、彼女は見つかったかと思って、あわてて歩道の端に止まっていた荷車のかげにかくれた。そこには肉屋があったので、彼女はウィンドウ一杯に飾ってあるニュージーランドの羊肉や冷えた牛肉をのぞきこんだ。アークハート氏が近くにやって来た。足音が大きくなり、やがて止まった。ミス・マーチスンは「四ポンド半七五セント」と書いてある丸い肉にじっと見いっていた。声が聞こえた。「やあマーチスンさん。晩ご飯のおかずですか?」
「あら、アークハートさん。ええ、私いま、神さまが独身者《ひとりもの》にちょうどいいような大きさの肉を作ってくれたらいいのにと思ってたところなんです」
「なるほど。牛や羊にはあきましたな」
「豚は消化によくないようですし」
「そうですか。ところで、それではあなたは、独身者《ひとりもの》をやめるんですな」
ミス・マーチスンはくすくす笑った。
「でも、そんなに急に……」
アークハート氏は妙なそばかすのある肌をぽっと赤くした。
「さよなら」彼はぶっきら棒にひどく冷たい調子で言った。
ミス・マーチスンは彼が立ち去るのを見て、一人で笑っていた。
「自分が身を固めることを考えればいいのよ。使用人と仲よくなろうなんて、大きな間違いだわ。つけこまれるだけよ」
彼女は、彼が広場の向う側に見えなくなるまで見送っていたが、やがてプリンストン街にそって引き返し、ベッドフォード街を通って事務所のビルにまた入った。掃除婦が上から降りて来たところだった。
「あら、ホッジスさん、また私よ。入ってもいい? 絹の生地見本を忘れちゃったの。机の引出しに入れたか、床に落したに違いないんだけど。見かけなかった?」
「いいや、あんたんとこの事務所はまだなのよ」
「じゃあ、ちょっと探してみるわ。ボーンのお店に六時半までに持っていきたいの。全くいやになってしまうわ」
「それに、バスやなんかの混みようときたら……さあ、お入んなさい」
彼女はドアを開いた。ミス・マーチスンはとびこんだ。
「探すの手伝ってあげようかね?」
「結構よ、小母さん。大丈夫」
ミセス・ホッジスは桶を下げて裏庭の水道に水を汲みに行った。彼女の重い足音がまた二階へ上って行くと、ミス・マーチスンはすぐに奥の部屋へ入った。
「どうしても、羽目板の裏にあるものを見てやるわ」
ベッドフォード街の家並みは、ホガース〔英国の一八世紀の風俗画家〕の絵に出てくるような、背の高い均整のとれた様式の家で、古い魅力を持っていた。アークハート氏の部屋の壁は何度もペンキを塗りかえていたが、しゃれたデザインがしてあって、マントルピースの上にはその頃のものとしてはどちらかというと派手な花や木の実の浮彫りがしてあり、中央にはリボンと籠《かご》が彫ってあった。もし羽目を動かすバネ仕掛けがかくされているとしたら、この飾りの中にあるのだろう。椅子を暖炉のところへ運んで、彼女は誰か入って来ないかと耳をすませながら、両手の指で素早く壁の彫刻の上を押さえてまわった。
馴れた人間にとってはこんなものを探すのは訳のないことなのだが、ミス・マーチスンの秘密なかくし場所に関する知識はスリラー小説から仕入れたものにすぎなかったので、からくりを見つけ出すことはできなかった。十五分近くもたつと、そろそろあきらめかけてきた。
トン――トン――トン。ミセス・ホッジスが降りて来た。
ミス・マーチスンはあわてて羽目から手をはなしたので、椅子がすべって、よろめいて、身体をささえるために壁に強くぶつかった。彼女は椅子からとび下り、椅子をもとの所にもどし、見上げると――羽目板がぱっくり口を開いているのが見えた。
最初は奇蹟ではないかと思ったが、すぐにすべったときに羽目の枠を横に押したのに気がついた。小さな四角い木彫りの部分が横にずれていて、中央に鍵穴のある、内側の鏡板が見えていた。
事務所の表側の部屋にミセス・ホッジスが入っているのが分ったが、夢中になっていたので、ミセス・ホッジスが何と思おうと気にもかけなかった。重い椅子をドアのところへ押して行って、音を立てずには容易に部屋に入れないようにした。あっという間に、彼女の手には≪目かくしビル≫の合い鍵が握られていた。返さなくてよかった。それに、これも運のいいことには、アークハート氏は羽目板の秘密に頼りきっていて、この穴にパテント錠をとりつけるほどのこともないと考えていたのである。
素早く鍵を操作しているうちに、すぐに錠は開いた。彼女は小さなドアを引きあけた。
中にあるのは書類の束だった。ミス・マーチスンは最初は素早くそれに目を通したが、やがて怪訝《けげん》な顔をした。証書の預り証、株券、メガシアリウムの証書――見覚えのある気のする投資先の名前が並んでいたが――いったいどこで?
突然ミス・マーチスンは、めまいを覚えたように、書類の束を手にしたまま坐りこんでしまった。
今こそ、彼女にはミセス・レイバーンの金がノーマン・アークハートの所持する委任状のおかげで、どんなことになっているか、また、遺言書がなぜそれほど大きな意味をもっているかがはっきりとわかった。頭の中がぐるぐる廻るようだった。彼女は机から一枚の紙を取り出すと、大急ぎの速記でこの書類が証拠となっている、いろいろな取引の要点を写しはじめた。
誰かがドアを叩いた。
「そっちにいるのかね?」
「ちょっとまってよ、小母さん。この部屋で落したらしいの」
彼女は大きな椅子をさっと押して、ドアを押さえつけておけるようにした。
早くしなければ。とにかく、彼女はピーター卿にアークハート氏の取引を調べる必要があることを納得させるだけの内容を書き取った。大急ぎで書類を戸棚の中へ、自分で取り出したそのままの位置に正確にかえした。遺言書もその傍にあるのに気がついた。彼女はさらに奥をのぞきこんで見た。何かつっこんである。手をさしこんで、その不思議なものを引き出してみた。外国の薬剤師の名のラベルがはってある白い紙包みだった。口は切ってあったが、折り曲げてあった。口を開いて見て、中身が二オンスばかりの細かい白い粉であるのを見た。
不可解な書類と並んでしまってある、訳の分らない白い粉の包み――これほど謎に富んだものはない。ミス・マーチスンは机からもう一枚の白い紙をとり、一つまみの粉を包んで、包みを棚の奥のもとの位置にかえし、合い鍵でまた扉に錠を下ろした。ふるえる指で羽目板をもとにかえし、黒いすき間が全然見えないように気をつけてちゃんと閉じた。
彼女は椅子をドアのところからずらして、嬉しそうに叫んだ。
「見つかったわ、小母さん」
「そっちにあったのかね」ミセス・ホッジスが戸口から顔を出して言った。
「わかったわ」ミス・マーチスンが言った。「私アークハートさんに呼ばれたとき、布見本を見ていたのよ。そしてこれは私の上着にくっついてきて、ここの床に落ちたんだわ」
彼女は意気揚々と小さな絹の布を出して見せた。これは今日の午後、バッグの裏地を千切っておいたものだった。いいバッグだったのだから、必要とあらば、これは彼女の仕事熱心のいい証拠となろう。
「それはまあ、見つかってよかったね」ミセス・ホッジスが言った。
「危ないとこだったわ。この暗いすみですもの。さあ、お店の閉る前にとんで行かなくては。さよなら」
しかし、何も知らないボーン・ホリングワース商会が店をしめるずっと前に、ミス・マーチスンはピカデリーの一一番地の三階のベルを鳴らしていた。
そこでは協議がつづいていた。フレディ・アーバスノットは愛想がよかったし、パーカー捜査課長は困ったような顔をしていた。ピーター卿は眠そうだし、バンターは彼女を紹介すると一座の外れの方に引き下がって、几帳面に一同の様子をうかがっていた。
「何かニュースがあるんですか、マーチスンさん? もしそうなら、鷲がみんな集まっている、ちょうどいい所へ来合わせたわけです。アーバスノット君、パーカー捜査課長、こちらはマーチスンさんです。さあどうぞ坐って下さい。集まっていてよかった。お茶を飲みます? それとも一杯飲みますか?」
ミス・マーチスンは酒は辞退した。
「ふん」ウィムジーがいった。「患者は食べ物を断った。目は大きく開いて光っている。表情は真剣だし、唇は開かれている。指はバッグをしっかりとわしづかみにしている。容態は激しい報告熱らしい。さあ、マーチスンさん、何でもいいから話して下さい」
ミス・マーチスンは催促される必要もなかった。彼女の冒険を話し、聞き手が最初から最後まで熱心に耳を傾けているのを見てうれしかった。最後に白い粉を入れた紙をひねったものを出すと、一同は思わず賞讃の声を発した。バンターも慎み深くそれに加わった。
「分ったか、チャールズ」ウィムジーがたずねた。
「たしかにびっくりさせられた」パーカーが言った。「もちろん、その粉は分析しなければ……」
「やろう。仰せの通りだ」ウィムジーが言った。「バンター、仕度をしろよ。バンターはマーシュの分析法〔砒素検出法〕を心得てるんだ。うまくやれるよ。君もそれについてはよく知ってるだろうチャールズ」
「大ざっぱなテストならね」
「では始めよう。その間に、われわれは要点をまとめよう」
バンターが出て行き、ノートをつけていたパーカーが咳ばらいをした。
「さて」彼は言った。「僕に分ったのは、こんなようなことだ。君はミス・ヴェーンが無罪であると言って、それを証明するためにノーマン・アークハートに対するはっきりした告発を持ち出そうとしている。君の彼に対する証拠は今のところ、全く動機だけに関するものであり、捜査を誤らせる方向へ証拠を積み上げているという裏づけだ。君の捜査はアークハートに関する問題を警察も取り上げられる、むしろ取り上げなければならないようなところへもってきたと、君は言っている。僕もそれには同感だ。ただ、注意しておくけど、君はさらに犯罪の方法や機会についての証拠をつかまなければならない」
「分ってる。それで……」
「分ってるなら、よろしい。ところで、フィリップ・ボイスとノーマン・アークハートはミセス・レイバーンあるいはクレモナ・ガーデンという金持で遺産を沢山残しそうな老婦人の現存する二人きりの血縁だ。何年も前に、ミセス・レイバーンは自分の一切を親戚中で唯一の好意的な人物であるアークハートの父に委ねた。そして、父が死ぬと、ノーマン・アークハートはその仕事をうけつぎ、一九二〇年にミセス・レイバーンが自分の一切の財産を処理する権限を彼に与える委任状を作った。同時に彼女は遺言書を作って、財産を二人の親戚に平等でなく分けることにした。フィリップ・ボイスが不動産全部と五万ポンドもらうのに、ノーマン・アークハートは残りをもらって同時に唯一人の遺言執行人ということになっていた。ノーマン・アークハートはこの遺言書について訊ねられたとき、進んで嘘をついて、偽の遺言書草案を作ってまでして財産の大部分は自分に残されると言った。この草案と称するものの日づけはミス・クリンプスンが発見した遺言書の日づけの後になっていたが、これがアークハートの手によって、ここ三年、あるいは数日のうちに書かれたものであることは確かである。さらに、本物の遺言書がアークハートの手のとどくところにありながら、破棄されなかったということは、それがその後に変更されていないことを示唆している。とにかくね、ウィムジー。彼はどうしてあっさり遺言書を破棄してしまわなかったのだろう? 唯一の生存している後継者として、文句なく財産は継げるのに」
「そうはいかないだろう。他の親戚がいるかもしれない。オーストラリアの伯父さんというのはどうだろう」
「あるいはな。いずれにしても破棄しなかったんだ。一九二五年にはミセス・レイバーンは全くもうろくしてしまったのだから、自分の財産の様子を訊ねることも、他の遺言書を作ることもできなかったはずだ。
アーバスノット君の話によると、近ごろになってアークハートは投機の危なっかしいことをはじめている。失敗して金を失くし、それをとりもどそうとしてさらに深みにはまりこみ、メガシアリウム信託がつぶれた騒ぎのときには、かなりの額をまきこまれていたんだ。恐らく自分で何とかなる金だけではなくて、ミス・マーチスンの発見で今はっきり分ったことは――これは公式の記録には出したくないことだが――彼がミセス・レイバーンの委任をうけているという立場を利用して、ずっとその金を自分の投機に流用してきていた。彼はミセス・レイバーンの資産を大きな借金の抵当に使い、メガシアリウムのような危なっかしい投機に注ぎこんだ。
ミセス・レイバーンが生きている間は、彼はまあ安全だ。とにかく、彼はその家屋敷の維持に要る金だけ出してやればよいのだから。実際、代理人としては、事務屋の彼は家計やその他の面倒を見て、使用人の給料も彼が払っていた。そして、彼がちゃんとそうやっている限りは、彼がその財産をどう使おうと誰も文句を言う筋合はない。ところが、ミセス・レイバーンが死んだら、彼は他の相続人フィリップ・ボイスに対して、自分が食いつぶした財産を清算しなければならない。
ところで、一九二九年、ちょうどフィリップ・ボイスがミス・ヴェーンと喧嘩していた頃、ミセス・レイバーンは容態が悪化して死にそうになった。危機は去ったが、いつまた起こるか分らない。ほとんどその直後に、彼はフィリップ・ボイスと仲がよくなり、自宅に招いて滞在させたりしている。アークハートと一緒に住んでいる間に、ボイスは三度病気になった。かかりつけの医者は胃病だと言ったが、やはり砒素中毒であった。一九二九年六月、フィリップ・ボイスはウェールズに行き、健康になった。
フィリップ・ボイスの留守中、ミセス・レイバーンはまた危ない容態になり、アークハートは急いでウィンドルに行った。最悪の場合は遺言書を破棄するつもりだったであろう。無事にすんだので、ウェールズから帰るボイスを迎えるのに間に会うように、彼はロンドンに帰った。その夜、ボイスは前の春のときと同じような症状でもっと激しいのに襲われ、三日後に死んだ。
これでアークハートは安全だ。余産遺贈者として、彼はミセス・レイバーンが死ねば、フィリップ・ボイスに行くことになっていた金も全部もらえる。実際にはもうもらえはしないんだが、つまり、すでに使ってしまっているのだが、しかし、もうその金を作らなければならなくなることもないし、詐欺行為が明るみに出ることもない。
動機の証拠としては大変もっともで、ミス・ヴェーンのものとは比較にならないくらい納得のゆくものだ。
ところが、ここに難点があるよ、ウィムジー。いつどんな風にして毒を飲ませたか? ミス・ヴェーンが砒素を持っていて、目撃者なしに訳なく彼にそれを飲ませることができたのは分っている。ところが、アークハートの唯一の機会はボイスと一緒に摂った夕食のときだけだ。しかも、この事件で一番確実なことは、毒はあの晩飯では飲まされていないということだ。ボイスが食べたり飲んだりしたものは、みんなアークハートや召使いたちが同様に食べたり飲んだりしていて、唯一の例外であるブルゴーニュ・ワインも、ちゃんとそのまま保存されていたし、分析された結果も無害だということが分っている」
「分ってるよ」ウィムジーが言った。「だが、そこがかえって臭いんだ。これほど警戒厳重な食事というのを聞いたことがあるかね? 不自然だよ、チャールズ。もとの瓶から女中が注いだシェリー酒、スープ、魚、鶏のキャセロール――一部だけに毒を入れるなんてことはできないものばかりだ――食卓で犠牲者の手で作られたオムレツ――封印をした酒――余りものはみんな台所で平らげてしまっている――疑惑を受けつけないような食事を考えて作ったとも思えるだろう。酒の処理のことなんか特に信用できなくなるようなやり方だ。最初のうち、みんながただの病気だと思っていた頃、やさしい従兄なら病人のことを心配して参っているようなときに、罪のない人間だったら、毒殺なんていう非難が少しでも心に浮かんでくるだろうか?
自分に罪がないとしたら、何かを疑っていたのだろう。もし疑っていたなら、なぜ医師にいって病人の分泌物を分析させなかったのだ? 何も嫌疑は受けていないときに、なぜ彼は自分をそれから守るような方法に考え及んでいるのだ。嫌疑が起こるのが当然だと思ってでもいるのでなかったらね。それに看護婦の話もある」
「たしかだ。看護婦は疑惑を抱いた」
「もしそんなことがあるのを知っていたら、彼はちゃんとしたやり方でそういう噂を論破すべきだった。しかし、彼が知っていたとは思わない。君が今日言ったことを考えていたんだ。警察側がまた看護婦のミス・ウィリアムズに会ったとき、彼女はノーマン・アークハートが患者と二人きりになるのをとてもいやがったし、彼に食物や薬を手ずからやったこともなければ、彼女がついていてもやらなかったと言っている。これは気がとがめているのを物語ってはいないか?」
「そんなことを信じるような裁判官も陪審員もいないよ、ピーター」
「そうだ。だけどね、おかしいとは思わないか? マーチスンさん、聞いてください。ある日、看護婦は病室の中で何かやっていたんだろうが、薬はマントルピースの上に置いてあった。薬を飲みますか、とか何とか言ったんだと思う。するとボイスが『いいよ看護婦さん、薬はノーマンがのませてくれるから』と言ったんだ。これがわれわれなら、『いいとも、さあ』といってかかるとこだが、彼は『いや、看護婦さんに頼もう、うまくやれないといけないから』と言ったんだそうだ。とてもおかしいじゃないか? どうだね」
「病人の世話をするのには、大ていの人は神経質になりますわ」ミス・マーチスンが言った。
「それはそうですが、大ていの人は瓶からグラスに薬を注ぐぐらいはできます。ボイスはそれほど死にそうでもなかったし、まだ意識のしっかりした口がきけたりなんかしてたんですからね。つまり、嫌疑をうけないように慎重に身を守っていたんじゃないだろうか」
「そうかもしれない」パーカーが言った。「だけど、結局それではいつ毒を飲ませたんだ?」
「夕食のときではないでしょうね」ミス・マーチスンが言った。「おっしゃる通りに、嫌疑をうけないように充分に予防策を講じているのは明らかです。みんなの注意をあの夕食に向けさせておいて、他の可能性を忘れさせようとしているのです。家についたときにウィスキーは飲まなかったかしら。それとも出がけか何かに」
「残念ながら飲んでないんです。バンターが、結婚詐欺だと言われるくらいにうまくハンナ・ウェストロックを手なずけているんですが、彼女の話によると、ボイスは来るとそのまま二階の自分の部屋に入ってしまったし、アークハートはそのときは家にいなくて夕食の十五分前頃にやっと帰って来たそうです。二人がその夜はじめて会ったのは書斎で、シェリーの銘酒のグラスを前にしてだったと言うんです。書斎と食堂の間の両開きのドアは開けてあったし、その間じゅうハンナは食卓の上のお膳立てをしていたので、ボイスがシェリーを飲み、それ以外のものは何も飲まないのは確かなのだそうです」
「消化剤のようなものも何も飲みません?」
「何も飲みません」
「夕食の後はどうなんです」
「オムレツがすんだとき、アークハートはコーヒーとか何とか言ったんです。ボイスは時計を見て『時間がないや、ドーティ街まで出かけなければならないんで』と言ったので、アークハートはタクシーを呼んでやろうと言って出て行ったのです。ボイスはナプキンをたたんで立ち上がって、玄関へ出た。ハンナはついて行って、コートを着せかけた。タクシーが来て、ボイスがそれに乗って、もうアークハートに会おうともしないで出かけたというんです」
「それでは、ハンナはアークハート弁護のためのおあつらえ向きの重要な証人になりますわね」ミス・マーチスンが言った。「言いにくいことですし、私はそうとは思いませんが、バンターが感情に溺れて判断を曇らせられるというようなことは考えられませんかしら」
「ハンナは本当に真面目な信心深い女だと言ってますよ」ピーター卿が答えた。「バンターは教会に一緒にいって、一つの讃美歌集を彼女と一緒に見る仲です」
「でも、それもただ猫をかぶってるだけかも知れませんわ」ミス・マーチスンはかなり徹底した合理主義者なので、やさしくではあるがこう言った。「表面だけの信心深い人というのは、私は信用できませんわ。彼自身だまされているんでは……」
「バンターがハンナは正直だといったら、彼女はきっと正直なんです」
「では、お酒と夕食のことは一応打ち切るとして」ミス・マーチスンはまだ納得がいかないらしかったが、偏見を捨てようとつとめて言った。「寝室の水さしはどうなんです」
「畜生」ウィムジーは思わず大声を出した。「マーチスンさん、あんたはそれに思いついたんですか。僕たちは考えもつかなかった。水さしか――全く面白い考えだ。おぼえているだろうチャールズ、ブラヴォ事件のとき、不満をもった召使いが水さしの中に酒石吐剤を入れたと思われるふしがあったが。ああ、バンター、いたのか。今度ハンナに会ったとき、彼女の手をにぎって、ミスター・ボイスが夕食前に寝室の水さしから水を飲んだかどうか聞いてくれないか」
「失礼ですが、そんなこともありはしないかと思っておりましたので……」
「考えついていたのか?」
「はい」
「手抜かりはなかったな?」
「満足のいくまで、さぐりました」
「とにかくジーブズ〔英国作家ウッドハウスの作品に登場する完璧な従僕〕みたいなもったいぶった口のきき方をするな。いらいらするよ。それで、水さしはどうなんだ?」
「このご婦人がお見えになったとき、水さしについての妙な事情についてお話し申し上げようとしていたところでした」
「期待がもてそうだな」パーカーがノートの新しい頁をくりながら言った。
「そこまでいきますかどうか。ハンナはボイス様が着いて寝室へ入ったのを見たので、自分の仕事場に引っこもうとしたと言ってました。ところが、階段の上に着くか着かないうちに、ボイス様がドアから首を出して呼びもどしたのです。水さしに水を入れてくれと言われたのです。これには彼女も驚いたそうです。部屋を掃除したときに水さしに水を充たしたのを覚えていたからです」
「彼が自分でからにしたとは考えられないかな?」パーカーが熱心にたずねた。
「飲んだのではないはずです。それだけの時間はありません。また、コップも使ってなかったそうです。おまけに、水さしはただ空になっていただけでなく、中が乾いていたというのです。ハンナはうっかりしていたことを詫びて、すぐに水さしを洗い、口まで一ぱいにして持って行きました」
「おかしいね」パーカーが言った。「しかし、彼女がそもそも水さしに水を入れ忘れたとも考えられるね」
「失礼ですが、ハンナはこれにとてもびっくりして、コックのミセス・ペティカンに話したのですが、彼女もすぐに、その朝ハンナが水さしに水を充たしているのを見たと言ったそうです」
「ふうん」パーカーが言った。「すると、アークハートか誰かが、水さしを空にしてふいておいたわけだな。ところで、なぜだろう? 自分の水さしが空だったら、普通の人間はどうするだろうね?」
「ベルを鳴らすね」ウィムジーが即座に言った。
「それとも人を呼ぶか」パーカーがつけ加えた。
「さもなければ」ミス・マーチスンが言った。「待たされることがいやな人間なら、寝室の洗面用の水を使いますわ」
「ああ、ボイスは多少ともボヘミアンな生活をしていたんだから……」
「とにかく、ばからしいまわり道だな」ウィムジーが言った。「水さしに毒を入れる方がずっと簡単なのに。そんな面倒なことをして、なぜ水さしなどに注意を引こうとするんだろう。それに、被害者が洗面用の水を使ったとは考えられないんだ。実際使わなかったんだ」
「それなのに毒を飲まされてるんです」ミス・マーチスンが言った。「だから、毒は水さしにも寝室の水にも入ってなかったんです」
「どうも、水さしからは何も出てこないような気がする。掘れ、掘れ、あらゆる喜びを掘り出せ……というのはテニスンの詩だったな」
「とにかく、このことで僕も確信がもてた」パーカーが言った。「とにかく、完全すぎる。ウィムジーの言う通りだ。これだけ完全に弁解の道を講じてあるのは尋常ではないね」
「しめた。チャールズ・パーカーを信じさせたんだから」ウィムジーが言った。「これ以上なにも必要はない。陪審員の誰よりも頑固だったんだから」
「そうだ」パーカーがおとなしく言った。「だが、僕はそれ以上に論理的に考えたつもりだ。ただ、もっとはっきりした証拠があればいいと思うんだ」
「でてくるよ。本物の砒素がほしいんだろうが、バンター、仕度はどうだ」
「器具は一切そろってます」
「よろしい。ではやってみよう。パーカー氏の望んでいるものがでるかどうか。案内しろよ」
バンターの写真暗室用に使っている小部屋には流しとベンチとブンゼン燈、それに砒素の反応試験に必要な道具がそろっていた。蒸溜水がフラスコの中で静かに煮え立っていた。バンターは小さな試験管をガスの焔の上にあてた。
「道具が汚れてないことはお分りでしょう」バンターが言った。
「何も見えないが」フレディが言った。
「シャーロック・ホームズが言ってるだろう、何もないところで何か見ようとしてるからだよ〔「悪魔の足」より〕」ウィムジーが親切に言ってやった。「チャールズ、水とフラスコと試験管とその他の道具には、どれにも砒素がついてないことは分るね」
「分る」
「病《や》めるときも健《すこ》やかなるときも、汝愛し、いつくしみ、彼女を抱《いだ》け……か。急ごう。粉はどこだ? マーチスンさん、この封をした封筒は、あなたがアークハート氏の秘密の棚から持って来た、不思議な白い粉に違いありませんね」
「ええ」
「バイブルに接吻して下さい。ありがとう。ではと……」
「ちょっとまってくれ」パーカーが言った。「封筒は別に調べないと」
「そうだ。どこかに手落ちがあるもんだな。マーチスンさん、あなたは事務所用の封筒をもう一枚持ってませんか?」
ミス・マーチスンは赤くなってハンドバッグの中をかきまわした。
「ええと、ここに今日の午後書いた、友だち宛の手紙がありますけど……」
「仕事時間中に、事務所の紙で……」ウィムジーが言った。「ディオゲネスではないが、正直なタイピストというものはさがしても見つからないもの。いや、気にしなさんな。みせて下さい。目的のためには手段は選んでいられない」
ミス・マーチスンは封筒を出して中身を抜いた。バンターは現像用の皿に丁寧に受けとり、細かく千切ってフラスコの中に入れた。湯は活発に泡立ったが、上につけた小さなガラス管は少しも曇らなかった。
「そのうちに何かはじまるのかね」アーバスノットが聞いた。「この見世物は、ちょっと面白みがなさすぎるが、どうだね?」
「黙って坐ってないと外に出てもらうよ」ウィムジーがやりかえした。「つづけろ、バンター。この封筒は分った」
バンターはすぐに次の封筒を開き、白い粉を慎重にフラスコの大きな口に入れた。五人の頭が熱心に道具の上にかがみこんだ。すぐに薄い銀色のしみが焔の上に当っているガラス管の上に、ありありと奇術のように現れはじめた。刻一刻とそれは大きくなり色濃くなって、ぴかぴか光る金属みたいな部分を中心にまわりに焦茶色の輪ができてきた。
「ほう、これはうまいぞ」パーカーが商売柄、喜びをこめて言った。
「ブンゼン燈の曇りか何かだろう」フレディが言った。
「砒素でしょう?」ミス・マーチスンが静かに息をのんで言った。
「そうだろうと思うが」ウィムジーが静かに管をはずして明かりにあててみた。「砒素かアンチモニーかどっちかなんです」
「塩化カルシウムの溶液を少し加えますと、どっちだか確実にきめられます」バンターはそう言って、一同が固唾《かたず》をのんで待つうちに、次のテストを行った。しみは白い液にとけて消えていった。
「砒素だ」パーカーが言った。
「そうさ」ウィムジーが無造作に言った。「もちろん砒素さ。言った通りだろう?」その声は押えつけた得意の気持で、かすかにふるえていた。
「これでおしまいかね」フレディが、がっかりしたように聞いた。
「これで十分でしょう?」ミス・マーチスンが言った。
「まだ十分ではないんですが」パーカーが言った。「そこまでやるのは大変です。これで、アークハートが砒素を持っていたこと、そしてフランスへ正式に調査を依頼すれば、それが六月以前に彼の手に入っていたかどうかが分るというわけです。とにかく、これは炭素やインジゴのまざっていない、屍体鑑別で出てきたものと同じの、普通の白い砒素ということが分りました。これはこれで十分だが、アークハートがこれを使う機会があったということを証明できればもっとよいのだが。ところが、今までの話では、彼がボイスに夕食の前にも後にも、また夕食中にも、つまり中毒症状の現れるべき時間の間に毒を飲ませることができなかったということがはっきりしただけです。僕もたしかに、こんなに証拠をつみ上げて嫌疑をかけることが全然できないということ自体が、臭いと思われるんですが、陪審員を信じさせるには、もっとはっきりした証拠の方がいいと思う」
「表も裏も、たねも仕掛けもございませんというわけか」ウィムジーが肚立たしげに言った。「結局何か見落しているんだ。たぶん、わかりきったことだろうが。お定《き》まりのガウンと刻みたばこをくれ、シャーロック・ホームズばりに少し落ちついて考えて、きっと盲点を見つけだしてみせよう。それから、この証拠はみんな、常識を破ったやり方で集めたものなのだから、面倒が起こったときは君はそういう人がつかまえられたりしないように、職務の上でも努力して味方をしてくれよ」
「もちろん」パーカーが言った。「個人的な関係は別としても、被告席に来るのは女の人よりあの頭をてかてかにした奴のほうがいいと思うし、もし当局が誤りを犯していたのだったら、何はともあれ真直ぐになおさなくてはいけないよ」
その夜、ウィムジーは大きな本が並んでいる黒とバラ色の書斎で遅くまで起きていた。それらの本はこの世の歴史の上に蓄積された、円熟された叡智と詩的な美を代表しているものだった。もちろん、それらが何千ポンドという金に値することは言わないとしても。ところが、こういう人生の相談相手は、黙って書棚に坐っているだけである。テーブルや椅子の上には明るい赤い表紙の有名なイギリスでの裁判記録、パーマー、プリッチャード、メイブリック、セダン、アームストロング、マデライン・スミス――これらは砒素を使った大事件の記録だが――そういう巻が、法医学や毒物学の主な本と一緒に散らばっていた。
芝居の客がタクシーなどでさっと引き上げると、外灯が人気ない広いピカデリーを照らし、時たま重い貨物トラックが黒々とした影を引いて舗道をゆっくりとゆすぶって通る。長い夜が更けて行き、やがて明けにくい冬の朝が、青白くロンドンの尖った屋根の上に現れてくる。バンターは黙って心配そうに台所に坐り、ストーブの上でコーヒーを沸かしながら、何度も何度も「イギリス写真年鑑」の同じ頁をくりかえしてながめていた。
八時半に書斎のベルが鳴った。
「ご用で?」
「風呂だ」
「承知致しました」
「それからコーヒーをな」
「すぐにもって参ります」
「それからこの本を、これだけ残して棚に返してくれ」
「はい」
「どうしてやったか分ったよ」
「そうですか。お目でとうございます」
「まだ、それを証明をしなければならないぞ」
「もう大したことはございませんでしょう」
ウィムジーはあくびをした。一、二分たってバンターがコーヒーをもって来たときには、彼はもう眠っていた。
バンターは静かに本を片づけ、机の上に選んで残された何冊かの本を不思議そうにながめた。それは「フロレンス・メイブリック裁判記録」と、ディクスン・マンの「法医学と毒物学」、バンターには読めないドイツ語の標題の本が一冊と、A・E・ハウスマンの「シュロップシャー小僧」という本だった。
バンターはしばらくこの本を見ていたが、やがて静かに溜息をついた。
「そうだ」彼は息の下でつぶやいた。「なんてわれわれは間ぬけだったんだろう」彼は軽く主人の肩に手を当てると、
「コーヒーです」と言った。
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第二十一章
「では僕とは結婚してくれないの?」ピーター卿が言った。
囚人は首をふった。
「ええ。あなたに悪いですわ。それに……」
「それに?」
「結婚がこわいんです。それから逃れることはできませんわ。もしよろしかったら、一緒に暮らしてもいいですわ、でも結婚したくないんです」
彼女の口調が何とも言えないくらい淋しげなものだったので、ウィムジーはこの気の利いた申し出にもあまり喜ぶことができなかった。
「しかし、いつまでもそんな訳にはいかない」彼は小言を言うように言った。「とにかくそれはおそろしく不便ですよ。それに、結婚したのと同じくらい、うるさいこともありますよ」
「それは分ってます。でも、都合のいいときに追い出せます」
「そんなことはありえないです」
「いえ、そうしたくなりますわ。ご家族や伝統があるでしょう。シーザーの妻にふさわしからずというようなもんですわ」
「シーザーの妻なんかくたばってしまえだ。一家の伝統といったって、よいことなら僕の思う通りになります。ウィムジーのすることは正しく、天は自ら助くるものを助くです。古い格言もありますよ『|気まぐれ《ウィムジー》に従え』という。本当です。もちろん、鏡を見ると先祖のジェラルド・ド・ウィムジーのアクレ攻囲のときの肖像のように馬車に乗ってふんぞりかえってすましてる姿を連想しないことはありませんよ。でも、結婚に関しては自分の思った通りにやるつもりです。誰がいけないんです。僕を食うことはできませんよ。傷つけようたってだめです」
ハリエットは笑った。
「何もあなたを傷つけようとは思ってませんわ。あなただってヴィクトリア朝時代の小説みたいに、許されない妻と二人国外に亡命して、妙な大陸の温泉場かなにかで暮らすわけではないでしょう」
「もちろん」
「そうすると、私に恋人がいたことを、みんなは忘れてくれますかしら」
「みんなは毎日新しいことを忘れていってる。忘れることにかけては名人ですよ」
「それに、その恋人を殺した容疑をうけてるんですよ」
「しかし、肚は立ったでしょうが、殺人の嫌疑は十分晴れたでしょう」
「ええ、でも結婚はできないわ。そんなことを忘れてくれるような人なら、私と結婚しなかったことも忘れられるでしょう」
「他の人なら忘れられたかもしれない。しかし、僕は忘れられない。この話は何も急に進んだものでもないでしょう。一緒に暮らすというのがそんなにいやですか?」
「でも、私にはあまりに突飛にみえるんです」彼女は抗議した。「放免されて、生きていたら、どうしたらいいか、それから考えられるでしょうけど」
「どうしてです? 僕はどんなちぐはぐな情況のときでも自分がどうすべきかは考えられると思いますね。しかも、この現実の困難はもう死んだも同然です」
「私にはできませんわ」ハリエットは泣きそうになって言った。「もう聞かないで下さい。分らないんです。考えることもできない。数週間先のことも分らないんですもの。私はただ、ここから出て一人になりたいんです」
「よろしい」ウィムジーが言った。「あんたを苦しめたくはない。自分の特権を使うのは不公平だ。こんな情況ではあんたは『豚め』と言って、僕を追い出すこともできないわけだ。だから反対はしない。自分で出て行きましょう。ちょっと約束があるから、マニキュア師とね」
パーカー捜査課長とその部下の力で探し出したマニキュア師は、色っぽい狡《ずる》そうな目つきの、猫のような顔をした娘だった。彼女は客が一緒に食事をしようとさそったら、平然とそれを受け、なれなれしくちょっと話があるんだといっても、少しも驚かなかった。彼女は肥ったひじをテーブルの上について、うぶらしいかっこうに首を曲げ、申し出を待っていた。
だが、話の内容が分ってくると、彼女の態度はがらりと一変した。無邪気そうに見開かれたその目は普通になり、髪の毛まで張りがなくなったようである。本当に驚いたように彼女は眉をひそめた。
「それは、できないことはないけど」ついに彼女は言った。「どうしてそんなものがほしいの? 何だか変だわ」
「ほんの冗談だと思ってもいいよ」ウィムジーが言った。
「そうじゃないわ」彼女はきっと口をつぐんだ。「何かいやだわ。私の言うことが分らなければ、全く訳が分らないでしょうけど。つまり、変な冗談に使われるような気がするの、そういうのは女の子にとって災いのたねになるのよ。つまり、何ていったらいいのかしら、そうそう、先週の『スージーの内緒話』の欄に出てたけど――呪文とか、魔法とか、神秘主義とか、そんなものに使うんじゃないでしょうね。誰かに迷惑がかかるのはいやよ」
「蝋人形を作ろうなんていってやしないよ。いいかね、君は秘密を守れるかね?」
「ええ、しゃべらないわ。私、他の女の子と違って口が固いのよ」
「そうだろうと思った。だから君に来てもらったんだ。じゃあ、話すから、聞いてくれ」
彼は前にのり出して話した。彼女は小さい白粉を塗った顔を上に向けて、じっと彼の顔を見つめ、興奮して聞き入っていた。おかげで、少し離れたテーブルにいた仲間らしいのが、うらやましそうにしじゅうこちらをうかがっていたが、マーベルがパリに部屋とダイムラーの車と千ポンドのネックレスを提供されるという話と受け取ったらしく、自分の連れと喧嘩になってしまった。
「分ったろう。僕には重大なことなんだ」ウィムジーが言った。
マーベルは夢中で溜息をついた。
「それ全部本当? 作り話じゃないでしょうね? 物語より面白いわ」
「そう、でもひとことも言ってはいけないよ。僕が話したただ一人の人間なんだからね。裏切って、あの男に教えたりしないだろうね」
「あんな男に? けちなやつよ。誰があんなやつに。大丈夫。あんたの味方になったげるわよ。ちょっと難しいけどね。だって、ふだん使ってない鋏《はさみ》を使わなければならないからよ。でも何とかやってみるわ。信用していいわよ。大きくなくてもいいんでしょう。でも、とれるだけとってあげるわ。それに、フレッドにもやらせるわ。彼はいつもフレッドがやるのよ。頼めばフレッドもとってくれるわ。とって集めたらどうするの?」
ウィムジーはポケットから封筒を出した。
「この中に入れるんだ」彼はよく分るように説明した。「小さな丸薬入れが二つ入っている。中身を入れるまで蓋《ふた》を開けてはいけないよ。中は完全に掃除してあって慎重に用意したものなんだから。分るね。用意ができたら、封筒を開いて、この箱を出し、爪は一方に、髪はもう一つの方に入れ、すぐに蓋をして封筒に入れ、この住所にあてて送る。分ったね?」
「分ったわ」彼女は手を出した。
「いい子だ。秘密だよ」
「ひとこともしゃべらないわ」彼女は大げさに、気をつけるという身ぶりをしてみせた。
「君の誕生日は?」
「あら、きまった誕生日はもってないわ。年をとらないことにしてるから」
「よろしい。じゃ、今年中に不誕生日の贈り物〔「不思議の国のアリス」から〕を送ってあげる。ミンクのコートが似合うだろう」
「ミンクですって」彼女は彼をばかにするように言った。「あなたって詩人だわ」
「君がそうさせたのさ」ウィムジーは愛想よく言った。
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第二十二章
「お手紙拝見してうかがったんですが」アークハート氏が言った。「何かあの不運な従弟の死について、新しいことがうかがえると思って楽しみです。もちろん、できることなら喜んであなたのお役に立つつもりです」
「ありがとうございます。どうぞおかけ下さい」ウィムジーが言った。「食事はおすみですか? でも、コーヒーぐらいならいいでしょう。トルコ風のがいいでしょう。家のやつはかなりうまく入れますよ」
アークハート氏はこの申し出を受け入れて、このおそろしくどろりとしたコーヒーの正しい淹《い》れ方を心得ているバンターを賞め上げた。
バンターは大仰《おおぎょう》に礼を言い、トルコ風菓子と呼ばれる、これまた胸くそ悪くなるようなものを一箱差し出した。上あごに一ぱいになり歯にこびりつくだけでなく、白砂糖が一ぱいつまっているので、食べる人間が窒息するような代物である。アークハート氏は大きなかたまりで口をすぐにもぐもぐさせながらも、これこそ東洋風の菓子だと訳の分らないような声でつぶやいていた。ウィムジーは苦笑しながら、強いコーヒーに砂糖もミルクも入れずに二口三口飲んでから、古いブランデーをグラスに一ぱい注いだ。バンターが下がり、ピーター卿はひざの上にノートを開いてちらりと時計を見上げ、話をはじめた。
彼はまずフィリップ・ボイスの生前と彼の死の情況をかなりの長さで繰り返して話した。アークハート氏は秘かにあくびをしたり、食べたり飲んだりしながら聞いていた。
ウィムジーはやがて、まだ目をじっと時計に向けたまま、ミセス・レイバーンの遺言書の話をはじめた。
アークハート氏はかなり驚いて、コーヒーを傍に置き、ねばつく指をハンカチでふいて彼の顔を見つめた。
すぐに彼は言った。
「そういう珍しい情報は、どこから手にお入れになりましたな?」
ウィムジーは手をふった。
「警察です」彼は言った。「素晴らしいじゃありませんか、警察の組織は。いつそんなことを考えついたのか、何を見つけだすか、全く不思議でしょう。あなたも、これは否定しないでしょうな」
「とりあえず、うかがっておきましょう」アークハートが陰気くさく言った。「この驚くべきお話がすべて終わってから、否定すべきは否定するつもりです」
「なるほど」ウィムジーが言った。「では、そうしていただきましょうか。もちろん、僕は法律家ではありませんが、できるだけ明瞭にお話しましょう」
彼は冷酷に話をつづけた。その間にも時計の針は着々と回っている。
「僕に分った範囲では」動機に関する疑問を一通り並べあげると、彼は言った。「フィリップ・ボイス氏を亡きものにするのは、あなたにとってとても有利なことですな。たしかに、その男はにきび面の青二歳で、僕にしろあなたの立場だったらそう思うでしょう」
「それで、これがあなたの、私に対する夢みたいな告発のすべてですかな」弁護士がたずねた。
「どう致しまして、これから問題に入ってゆこうというところです。急がばまわれというのがあなたの信奉している格言でしょう。これであなたの貴重な時間を七十分もとらせましたが、安心して下さい、この時間は無駄に使ってはおりませんから」
「私には断乎として否定するより他ない、この当て推量の話がもし本当だったとしても」アークハート氏が言った。「どんな風にして私が砒素を彼に飲ませたと思っているのか、それが知りたいですな。何かうまい手が考えつきましたかね? それとも、コックと女中を買収してぐるになってるとでも思われますかな? それだとしたら、無分別な、それにゆすりの機会を与えてやるようなものだとは思いませんか?」
「あなたのような先見の明のある人にしては、そんなことは問題外の無分別でしょう」ウィムジーが言った。「たとえばブルゴーニュ・ワインの瓶に封印したのも、あらゆる可能性を異常なくらい綿密に考慮してのことです。実をいえば、その話が最初に僕の注意を惹いたんです」
「そうですかねえ」
「いつ、どうして毒を飲ませたかお聞きになりたいんでしたね。夕食前ではないと思いますな。よく計画を立ててあるというのは、寝室の水さしを空にしておいたことにも現れているし、それから、これを忘れてはいけないが、従弟と会うのにわざと証人のいる所でしか会わず、二人きりになろうとしなかったこともそうだ。こんなことから、夕食の前は除いていいでしょう」
「そうかも知れませんな」
「シェリー酒は」ウィムジーが考え考え言った。「新しい瓶の口を開いたのだけど、残りが失くなったことは説明がつく。シェリー酒は考えから外していいでしょう」
アークハート氏は皮肉に一礼した。
「スープ。これはコックと女中も口にしていたし、彼女たちも生きている。僕はスープは除きたいし、同じ理由で魚も除きたい。魚の一部に毒をいれることはわけないが、それではハンナ・ウェストロックを仲間に入れなければならないから、僕の理論と矛盾する。理論は僕にとっては神聖なものなんですよ。何と言ったらいいか、教義のようなもので」
「危険な傾向ですな、心にとって」弁護士が言った。「しかし、こういう情況でそれと論争はしますまい」
「それに、もし毒がスープや魚に入れてあったとしたら、フィリップが――そう呼んでよろしいでしょうね――家を出る前に薬が利いてきてしまいます。そこで、キャセロールです。ところが、ミセス・ペティカンとハンナ・ウェストロックがキャセロールについては完全な無害証明をしていますね。とにかく、話によると大変おいしいものだったようですな。僕もなかなか食道楽にかけては年期を入れているんですよ」
「それは知っています」アークハート氏が礼儀正しく言った。
「さてそこで、残ったのはオムレツです。作り方と食べ方がうまければ、これ以上すばらしいものはない。一番大切なのはすぐに食べるということです。卵と砂糖を食卓にもって来て、そこで作って食べるというのは大変魅力的なアイデアですな。とにかく、オムレツは残って台所に下げられなかったと思います。いやいや、そんなうまいものを半分食べて台所に下げたりしません。また都合のいいことに、腕のいいコックならそんなものより、台所で新しいうまいやつを改めて作りますよ。自分や仲間のためなら。だから、きっとオムレツだけはあなたとフィリップだけしか食べていないでしょう」
「それはそうだ」アークハート氏が言った。「それをわざわざ否定するのも面倒だし必要ないことです。しかし、忘れてはいけませんよ。私も一緒に食べて何ともなかったのだから。おまけに、それは従弟が自分で作ったんですよ」
「そうでしたな。僕の記憶が正しければ、四つの卵と普通のあり合わせのジャムでね。いや、砂糖やジャムには何も悪いところはなかったでしょう。それから、たしか卵の一つがテーブルに出されたときには少しひびがはいってたと言ってましたね」
「たぶんね。よく憶えてませんが」
「憶えてませんか? まあ、宣誓して言ってるんではないから。しかし、ハンナ・ウェストロックは、あなたが卵を買って来て――ご自分で買ってらしたんでしたな――ひびの入ってるのがあるから、オムレツに使えと指図されたことを憶えてましたよ。実際、あなたはそれを自分でそのためにボールの中に入れたんです」
「それがどうしたんです?」アークハート氏は前より少し怒ったように訊ねた。
「粉末の砒素をひびのいった卵に入れるのはそんなに難しくありませんよ」ウィムジーが言った。「小さなガラス管でためしてみました。小さい漏斗があればもっとやさしいでしょう。砒素というのはかなり重いもので、ティースプーンに七、八グレインは入りますな。卵の一方の端に集まってしまいますし、殻はきれいに拭いて後が残らなくなります。もちろん液状の砒素ならもっと容易ですが、訳があって粉の普通の砒素でためしてみたんです。かなり融けますね」
アークハート氏はケースから葉巻を出し、何気なく火をつけようとした。
「かきまわした四つの卵のうち、一つだけが奇蹟的に他のと分れ、それに入ってる砒素がオムレツの片端にでもまとまると思ってるんですかな?」彼が訊きかえした。「それとも従弟が自分で毒のあるほうをとり、残りを私にくれたとでも?」
「いやいや」ウィムジーが言った。「僕はただ砒素がオムレツの中にあり、それは卵から来たものだと言っただけです」
アークハート氏はマッチを暖炉の中に投げすてた。
「あなたの理論にはどこか欠陥があるようですね、このひびのはいった卵みたいに」
「まだ全部は話していませんよ。次にくるのは、とても細かい徴候から成り立ってるものです。まあ並べ上げさせてもらいましょう。あなたが食事のときに酒を飲まなかったこと、あなたの体質、爪の切りくず、それからあなたの手入れのよい髪の切り落した部分、これらを合わせて考えて、さらにあなたの事務所の秘密の棚から持って来た白い砒素の包み、これらをすべて綯《な》いあわせれば、麻の縄が作れるんですよ。アークハートさん、麻の縄がね」
彼は軽く宙に、縛り首の縄の形を描いて見せた。
「分りませんな」しわがれ声で弁護士が言った。
「知ってるでしょう」ウィムジーが言った。「麻ですよ。縄を作るあの麻ですよ。まあ、とにかく砒素ですがね。ご存じの通り普通のやり方では人間には毒なんですが、シチリアの貧農の話は聞いているでしょう。喜んで砒素を飲むというんです。呼吸が楽になり、肌をきれいにし、髪をなめらかにするというのです。同じ理由で彼らは馬にもやるんです。馬の場合は、もっぱら毛並みの話ですがね。それから、メイブリックという怖ろしい男がいましたね。いつもその手を使っていたそうです。とにかく、ある種の人間はそれを摂取しても、あらかじめならしておけば、人を殺すに足る量でも何とか排泄してしまうことができるのは知られていることです。でも、こんなことはあなたも知ってるでしょう」
「そんなことは、はじめて聞いた」
「どんな話になると思ったんです? まあいいでしょう。あなたには初耳だということにしておきましょう。ところで、何といったか名前は忘れたけど、ディクスン・マンの本に出ていたんですがね。その男は、砒素の作用を調べようと犬に飲ませてみて、ずいぶん犬を殺したんですな。けれど最後には、液体の砒素では具合がわるいけれども、固体のものなら毎日毎日少しずつ与えていけるのを発見したんです。その男の知り合いのノーフォーク出の婆さんが『身体《からだ》の管《くだ》』といった組織が馴れて、毒を体外に排泄してしまうようになったそうです。それは実は、白血球のせいだそうです。この小さい白い細胞が体中を廻って、害を起こさないようにしてしまうんだそうです。それはとにかく、問題はあなたが固体の砒素を長い間、たとえば一年かそこら飲んできていたら、免疫体質になっていて、六グレインや七グレインは何ともないだろうということです」
「これは面白い」アークハート氏が言った。
「たしかに野蛮なシチリアの貧農もそんな風にしていたし、薬を飲んでから二、三時間は酒を飲まないように気をつけています。飲むと薬を洗い流して腎臓にやってしまい、そこで毒作用がでるといけないからでしょう。あまり専門的ではないかも知れませんが、これが要点です。さて、このようにしてあなたが免疫の体を作ったとすれば、あとはわけなくあの砒素入りのオムレツを従弟と分けて食べることも考えられたでしょう。彼は死んで、あんたは何ともない」
「なるほど」
弁護士は唇をしめした。
「さて、あなたは立派な身体をもっている。ただ、よくあることだが肌のあちこちに砒素がそばかすのように出ているし、髪がつやつやして柔いのに気がつきました。また、食事のときに酒を飲まないのにも気がついたんです。僕は自分に『これはどういう訳だ』とたずねた。そこで、白い砒素の包みが戸棚で見つかったとき――まあ、どんなふうにしてかは問わないとして――『ほほう、これはどのくらい前からつづいていたんだろう』と思ったものです。あんたの便利な外国の薬局は警察に二年前からだと言いましたが、たしかにそうですか? メガシアリウムのつぶれたときだったかな? まあ、言いたくなければ言わなくてもいいです。それから、あんたの髪と爪の切れ端を手に入れたんですが、これはいかに、砒素でいっぱいだった。そこで『どうしよう』ということになり、僕のところに来てもらってお話することになったんです。何かご意見を出してもらいたいと思いましてね」
アークハートは恐ろしい顔をしたが、職業柄のきちんとした態度で、
「そのばからしい理論を他の人間に話す前に、よく気をつけて考えたほうがいいとしか言えない。君と警察が、私の屋敷内に入りこんでどんな細工をしたかは知らない。ただ、私が薬を飲む悪癖があることを明るみに出すことは、それだけで名誉毀損であり、罪になるんだ。私がちょっと砒素の入った薬を一時飲んでいたことはたしかだが、それはグレインジャー博士の処方に従ったまでだ。そのために、肌や髪やその他の部分にすこし残っていたのかもしれない。だがそれは、こんなばかげた告発の理由にはなりはしない」
「ならない?」
「ならない」
「では、どうだろう」ウィムジーは冷やかに、しかもいくらかおどかすような厳しく押さえた声で言った。「普通の人間なら二人や三人の人間は殺せるくらいの砒素を飲んでるのに、何の症状も出ないというのはどういう訳だろう? 今まで頬ばっていたあの胸臭悪くなるような甘い菓子ね、あんたがその年や地位にふさわしくない食べ方で頬ばってたやつさ、あれは白い砒素をまぶしてあったんだ。それを食べたんだからね、やれやれ、一時間半前にね。もし砒素があんたにも毒なら、この一時間ばかり断末魔の苦しみでころげ廻ってるところだ」
「畜生っ!」
「何か症状らしいものを演じてみるかね?」ウィムジーが皮肉たっぷりに言った。「バケツでも持ってこようか? それとも医者を呼ぶかな? のどが焼けるようじゃないか? 苦痛のけいれんが起こらないかな? ちょっと遅いけど、今、何かそれらしい芝居をやって見せてくれる親切はあってもよかろうに」
「嘘をついてるんだ。そんなばかなまねができるものか。人殺しじゃないか」
「この場合はそうじゃないと思うね。でも、喜んで様子を見ていよう」
アークハートはじっと彼を見つめた。ウィムジーはさっと素早い動作で椅子から立って彼の前に立ちふさがった。
「僕だったら暴力は振わんがね。毒殺者は毒の瓶を離さないものだ。おまけに、僕は武器を用意している。芝居は勘弁してもらおう。工合は悪いのか、悪くないのか?」
「貴様は気狂いだ」
「そんなことを言いなさんな。さあ、しっかりしろ。ひとっ走り行って吐いてくるか、風呂場を案内しようか?」
「工合が悪い」
「そうだろう。しかし、その声では頼りないようだな。ドアを出て廊下にそって左側三番目だ」
弁護士はよろめき出た。ウィムジーは書斎にもどりベルを鳴らした。
「バンター、パーカー氏は風呂場で助手を欲しがってるだろうよ」
「承知致しました」
バンターが出て行き、ウィムジーは待っていた。やがて、遠くの方でとっくみ合いの音が聞こえた。ドアの所に一団の人が現れた。アークハートが真っ青な顔をして、髪と服を乱し、パーカーとバンターに腕をしっかり取られて、挾まれて入ってきた。
「彼は工合が悪くはなかったのかね?」ウィムジーが面白そうにたずねた。
「いや」パーカーが陰気くさく、獲物に手錠をかけながら言った。「ぺらぺらと五分ばかりも君の悪態をついていたが、窓から出ようとしたんだ。だが、三階の高さから飛び下りなければならないと分ると、今度は化粧室のドアから飛びこんで来て、僕のところへまっすぐにぶつかった訳だ。さあもう暴れるなよ、自分が痛い思いをするだけだぞ」
「それで、彼はまだ自分が毒を飲まされたかどうか分らないのか?」
「飲まされたとは思ってないようだ。彼は何もしなかったぜ。ただ、逃げだすことしか考えてなかったらしい」
「薬が弱かったな」ウィムジーが言った。「もし今後人に毒を飲ませたと思わせたかったら、もっとうまく芝居をしなければいけないな」
「だまれ」捕まった男が言った。「貴様は下劣な忌々《いまいま》しいトリックにおれをかけたんだ。それで充分だろう。余計なことは言うな」
「お前はわれわれにつかまったんだろう? だからお前は黙っていろ。それはそうとピーター、本当に毒を飲ませたとは思えないが、どうなんだ。別に工合が悪くもなさそうだが、とにかく医師の診断書に関係してくるからね」
「飲ませやしないさ、実際は」ウィムジーが言った。「そういったら彼がどう出るか知りたかっただけだ。さあ、万歳だ。さあ、この男は君にまかせるよ」
「この男は引き受けたが、バンターに車を呼んでもらってくれ」パーカーが言った。
捕まった男と護衛が出て行くとウィムジーは鏡を手に、考えにふけりながらバンターに向って言った。
「ミトリダテス〔毒を常用していた人物〕は長生きだった、と言った詩人があるが、どうかねえ。今度の事件では考えてしまったよ」
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第二十三章
裁判官席には黄金色の菊があった。花は燃えさかる旗幟《きし》のようであった。
被告も書記が起訴状を読み上げると、満員の法廷に挑むような目つきをした。判事は十八世紀風のしかつめらしい顔をした、肥った年配の人物で、検事総長の発言を待ちうけるように見た。
「裁判長、検事局は本被告に対し何らの証拠も提出することができないのであります」
風になびく木立のように、はっと息を呑むようなざわめきが法廷中に拡がった。
「被告に対する告訴は取りさげられるものと了解してよろしいのですな?」
「そういう指示をうけております」
「それなら」判事は平然と陪審員に向って言った。「諸賢には『無罪』の評決をしていただく以外に何も用はないわけです。守衛、傍聴席の人々を静かにさせなさい」
「ちょっとお待ち下さい」インペイ・ビッグズ卿が堂々と大きな体を起こした。「弁護依頼人のために、ミス・ヴェーンのために一言言わせて戴きたいと思います。彼女に対し起訴が提起され、しかも殺人罪という恐ろしい容疑の起訴だったのであります。本弁護人はここで彼女の人格に一切の汚点を残さぬようにして彼女が法廷を去れるように、事情を明白にして戴きたい。話によりますと、本件の起訴取り下げは証拠不十分によるものではないのであります。警察側では新たな情報を入手し、依頼人は完全に潔白であることが証明されたのです。さらに、本事件における次の逮捕がなされ、やがて審問がはじまることも了解しております。この女性は本法廷のみならず、公衆の世論という法廷においても無罪と認められねばなりません。不明瞭な言葉では困ります。学識経験ある検事総長は本弁護人の説を支持して下さるはずであります」
「とにかく」検事総長が言った。「本被告の告訴取り下げは、検事局が、彼女の完全に無罪なことを認めて行ったものであります」
「ありがとうございました」判事が言った。「本廷の被告、検事局はあなたに対する恐ろしい告訴を完全に取り下げ、あなたの無罪を最も明瞭な方法で公表しました。今後何者も、あなたが僅かな汚名でも負っていると考えることはありえないはずであります。長いきびしい試練でしたが、無事に終わったことを本官は心からお祝いします。ところで、静かに! 喜んで騒ぐ人の気持は分りますが、ここは劇場でもサッカー場でもないのだから、静かにしないと退席させますぞ。陪審員諸君、被告は有罪ですか無罪ですか?」
「無罪です」
「よろしい。被告はその人格に汚点を残されることなく釈放されます。閉廷」
こんな風にして、大騒ぎの中に裁判は終わった。おそらく今世紀で一番センセーションをまき起こした殺人事件だったろう。
自由な人間として放免されたハリエット・ヴェーンは階段を下りながらエイランド・プライスとシルヴィア・マリオットが待っているのを見つけた。
「ハリエット!」シルヴィアが言った。
「万歳」とエイランド。
ハリエットは二人に、ちょっとぼんやりしたあいさつをして、たずねた。
「ピーター・ウィムジー卿は? お礼を言わなくては」
「だめよ」エイランドがぶっきら棒にいった。「評決が終わったとたんに、車で出て行ったのを見たわ」
「まあ」
「会いに来てくれるわよ」シルヴィアが言った。
「来やしないわよ」とエイランド。
「そうらしいわね」とハリエット。
「あの人、わたし気に入ったわ」エイランドが言った。「笑わなくてもいいでしょ。気に入ったのよ。コフェチュア王〔しつこく食い下がって、恋した乞食娘を妃にした〕みたいな、できもしないでたらめの離れ技をしようなんて言わない人よ。兜をぬいだわ。もしあんたが会いたかったら、迎えに行ってあげるわよ」
「いいわよ」ハリエットが言った。
「そうでしょうね」シルヴィアが言った。「殺人犯人もあたしの言った通りだし、今度も私の思う通りになりそうだわ」
その日の夕刻、ピーター・ウィムジー卿はデュークス・デンヴァーに行った。そこでは、一族の連中が公爵未亡人を除いて、大騒ぎの最中だった。彼女はその騒ぎの真ん中で、一人落ちついて、膝掛けを編んでいた。
「なあピーター」公爵が言った。「メリーに小言を言って利くのは君だけだ。何とかしろよ。君の友だちの警官と結婚しようと言ってるんだ」
「知ってますよ」ウィムジーが言った。「なぜいけないんです?」
「ばかげてるよ」公爵が言った。
「そんなことはないでしょう。チャールズは立派な男ですよ」
「そうかもしれない、だが、メリーを警官と結婚させるわけにはいかんね」
「しかし、ねえ」ウィムジーは妹の腕をとって言った。「この子を一人でおいとくつもりですか。チャールズは今度の事件では、最初のうちこそちょっと間違っていたけど、大したことはなかったし、いずれは称号をもらえる大物になりますよ。僕はそう思ってますよ。それに、万事にとても気の利いた男です。もし文句があるなら僕が承《うけたまわ》りましょう」
「やれやれ」公爵が言った。「おまえもそれでは、女の警官とでも結婚しかねないな」
「そうでもないけど」ウィムジーが言った。「囚人と結婚しようと思ってるんです」
「何だって? 本当に、どういう訳だ、それは」
「ただ、向うで来てくれればですがね」ピーター・ウィムジー卿は言った。(完)
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解説
探偵小説を本格探偵小説、ハードボイルド派等々に分ける中に、純文学的探偵小説という分け方がある。旧来の純探偵小説をさらに純文学に高めようという一派の立てたジャンルで、ハードボイルド派のチャンドラーや文学者のエドマンド・ウイルスンなどが唱えている。ところで、セイヤーズの作品はしばしばこの純文学的探偵小説の中に算えられているし、彼女自身もそういう創作態度をとっているようである。「ナイン・テイラーズ」の書評でもクリストファー・モーレイは「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」のニュースに「単に優れた探偵小説と言うだけでなく、美しい文体で描かれた斬新な色彩と感覚の文学であり、古代イギリスの鐘の鳴らし方をテーマにしたその物語からは、神秘的なメロディが流れてくるようだ」と評している。
彼女が純文学を書くつもりで、探偵小説というものを一つの形式、あるいはプロットとして利用していることは Busman's Honeymoon に「探偵のためにちょっと途切れたラヴ・ストーリー」と傍題をつけていることからもうかがえるが、同時に彼女の世界を見る目が作家の目であり、本当の文学を作るための観察眼が備わっているということは、彼女の作品が単に謎を頭の中で作り出しただけのものでなく、その環境と作品との結びつきが密なことによっても示されている。
一八九三年、オックスフォードのカシードラル・コール校の校長の娘として生まれた彼女には、東アングリアの沼地は幼い頃からなつかしい所だったのであろう。この沼地が「ナイン・テイラーズ」の舞台となり、生々とした描写と神秘的な鐘の技術のプロットへの適用となって、ヘイクラフトをして「時代を超えた傑作探偵小説の一つ」と絶賛させたのである。
一九一三年、彼女はオックスフォードのサマーヴィル・カレッジを優秀な成績で卒業した。中世文学で優等賞をもらい、オックスフォードで女性で始めて学位をとったひとりになった。同時にここでも彼女の文学的観察は、自分の学生生活の環境から「大学祭の夜」でのハリエット・ヴェーンの生活の素材を把んでいたのである。
卒業後しばらく彼女はロンドンの一流の広告会社でコピーライターをやったが、ここでは Murder Must Advertise の背景を勉強していた。彼女がその作品での主要人物――金持ちで貴族のピーター・ウィムジー卿を生み出したのもその頃であった。薄給だったために、自分に欠けている羨むべき主人公を作り上げたのであろうと、ヘイクラフトも言っている。ピーター卿が始めて現われたのは Whose Body? (「ピーター卿乗り出す」)で、召使いのバンターは以後ずっと現われている。
この「毒」で現われて、ピーター卿に命を救われたハリエット・ヴェーンは、次の Have His Carcase でウィムジーと一緒に働き、「大学祭の夜」でウィムジーに正式にプロポーズされて Busman's Honeymoon で結婚する。その後の短篇 The Haunted Policemanは、二人の間に赤ん坊が生まれた夜の話である。
晩年のセイヤーズは、ダンテの研究、英訳に身心を捧げきっており、モダン・ライブラリーなどにも、彼女の英訳した「神曲」が入っているのだが、そのため、探偵小説の筆を折ったかたちになったのは、残念なことである。(訳者)