吸血鬼ドラキュラ
ブラム・ストーカー/平井呈一訳
目 次
一〜二七
付記
解説
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登場人物
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ジョナサン・ハーカー……英国の弁理士。ロンドンに地所を購入したドラキュラ伯の招きで城を訪れ、不可解な事件に遭遇する。
ミナ・ハーカー(旧姓マリー)……ジョナサンの妻。聡明快活な人柄で、事件の経緯を速記とタイプで記録する。
ルーシー・ウェステンラ……ミナの幼友達。最初に吸血鬼の犠牲になる。
ゴダルミング卿(アーサー・ホルムウッド)……ルーシーの婚約者。
キンシー・モリス……北米テキサス州の大地主でルーシーに求婚する。
ジョン(ジャック)・セワード……精神病院の院長・精神科医。蝋管録音で患者と本事件の記録を残す。
レンフィールド……セワードの病院の患者。吸血鬼に操られる。
ヴァン・ヘルシング……アムステルダム大学名誉教授、医学・哲学・文学博士。セワードの恩師。吸血鬼の謎と歴史を解明する。
ドラキュラ伯爵……ドラキュラ城の城主。吸血鬼。
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一
ジョナサン・ハーカーの日記≪速記文字による≫
五月三日。ビストリッツ――五月一日、明朝未明に着くというので、午後八時三十五分、ミュンへン発。翌朝六時四十六分着のはずが、列車遅延のため、一時間延着。汽車からチラリと見ただけだが、ブダペストというところはなかなかすばらしい所らしい。列車の延着で、なるべく定時に近くたちたかったので、駅からあまり遠走りするのは気がひけ、町は見物できなかった。このあたりから、いよいよ西ヨーロッパをあとに、東ヨーロッパにはいる――そんな印象をうけた。ダニューブ河には美しい橋がいくつかかかっているが、そのいちばん西のはずれの橋、ここは川幅、岸の高さ、ともに雄大をきわめたところだが、これを渡ると、われわれはトルコふうの風俗習慣のなかにはいっていく。
頃あいの時間にたってきたので、宵《よい》のうちにクラウゼンブルグ着。ホテル・ロエールに投宿。夕食とも夜食ともつかぬ食事をとる。トウガラシで調理したチキン料理をたべたが、すこぶる美味なり。ただし、あとでやけにのどが乾いた(備忘。婚約者ミナのために料理法を聞いておくこと)。給仕人にきくと、「パブリカ・ヘンドル」という、この地方の郷土料理だそうで、カルパチア地方へ行けば、どこでも出る料理のよし。当地へきたら、怪しげな自分のドイツ語がたいへん役に立つ。じっさい、これがなかったら手も足も出なかったろう。
ロンドンをたつ前、しばらく自分の自由になる暇がとれたので、大英博物館へ行って、トランシルヴァニアに関する参考書と地図をあさった。あちらの国の貴族とつきあうためには、まずその国の予備知識を仕込んでいくにかぎると思ったからだ。先方から言ってよこした場所は、むこうの国でいうと、いちばん東に寄ったはずれ、――つまり、カルパチア山脈のなかの、トランシルヴァニア、モルダヴィア、ブコヴィナ、この三つの州のちょうど境目にあたる所だということがわかった。ヨーロッパのうちでも、文明にもっとも遠い、世間に知られていない地方である。同国の地図で、あいにくわが国の陸地測量部の地図に匹敵するような精密なものは一枚もなかったので、自分の見た参考書と地図からは、ドラキュラ城の位置、および付近の地形を知る手がかりは、ほとんどなにも得られなかったが、ただ、ドラキュラ伯爵が郵便局のある宿場町だといってよこした、ビストリッツという町は、かなり知名な町だということだけはわかった。そのおり控えておいた覚え書を、若干ここへ挿入しておく。後日、ミナと旅行の話をする際に、記憶をよみがえらすよすがにもなると思うから。
トランシルヴァニアの住民には、四つの民族がある。南部がサクソン人、これにはダキニア人の子孫のワラキア人の血が混じっている。西部がマジャール人。東部と北部がセクリー人。このセクリー人のなかへこれから乗りこんでいくわけだが、彼らはみずからアッチラ王とフン族の後裔《こうえい》だと号している。十一世紀に、マジャール人がこの地方を征服した際、フン族がこの地に定着していたという事跡があるから、あるいはそういうこともあるのかもしれぬ。ある書物によると世界中のこれはという目ぼしい迷信は、すべてこのカルパチア山脈の馬蹄形のなかに結集されており、その状《さま》、あたかもこの地方が人類の妄想の渦の中心をなしている観あり、といってあるが、だとすると、今回の自分の滞在はすこぶる興味|津々《しんしん》たるものになるだろう(備忘。それらの迷信については、伯爵にぜひ聞いてみること)。
ホテルのベッドは寝ごこち満点だったのに、ゆうべはひと晩じゅう、なんだか雑多な妙な夢ばかり見て、おちおち眠れなかった。夜どおし、窓の下で犬がほえていたから、そのせいか、あるいは例のトウガラシ料理のパプリカのせいだったのかもしれない。おかげで、水差しの水をあらかたカラにしてしまったが、それでもまだのどがひっつくようだった。朝がたになって、ようやくすこしトロトロする。続けざまに扉をたたかれた音で目がさめたところをみると、どうやらその時は熟睡していたようだ。朝食は例によってまたパプリカ。それと、このへんで「ママリガ」といっているトウモロコシの粥《かゆ》に、挽肉を詰めたナスビの煮こみ。「インプレタタ」というのだそうだが、これがたいへんうまかった(備忘。これも調理法を聞いておくべし)。けさは八時ちょっと前に汽車が出るとか出るはずだとかいうことだったので、それで朝食を早めにしてもらったのだが、ところがさて、七時半に駅へかけつけてみると、発車までに、なんと、一時間以上も車内で待ちぼうけをくわされた。どうも東へ行くにしたがって、汽車の時間がだんだん当てにならなくなってくるようだ。この分でいくと、中国へでも行ったら、一体どんなことになるやら?
きょうは一日、風光絶佳ずくめの地帯をゴットン、ゴットン、しごくのんびりと行くらしい。古い祈祷本に出てくるような切り立った山のてっぺんに、こぢんまりした村落や城が見えたり、両岸に広びろとした石河原のある、毎年洪水には慣れっこになっているらしい大小の川の縁《ふち》などを、汽車はのんきに走っていく。どこの駅でも、乗客はほんのチラリホラリだ。なかには多少、人の混みあっているところもあったが、乗客の風俗はみなまちまちで、イギリスの農夫にそっくりなのがあるかとおもうと、旅の道中、フランスやドイツの田舎で見た百姓そのままの、短いジャケツに丸帽子、それにお手製の粗末なズボンをはいたのもあれば、そうかと思うと、絵にかいたような、目もさめるばかりきれいななりをしたのもある。総じて女のひとは、遠見にはなかなかの美人系だが、惜しいことに、腰のあたりがいかにも不格好だ。生地《きじ》はなんだか知らないが、みんな白のダブダブした袖に、バレエの衣裳みたいな、細いピラピラの下がった幅のひろい帯を一様にしめ、むろん下にはペチコートをはいている。なかでも、いちばん見た目に珍しかったのはスロヴァキア人で、これはほかの連中にくらべると、だいぶ未開で、牧童のかぶるような鍔広《つばひろ》の大きな帽子をかぶり、よごれくさったダブダブの白のズボンに白麻のシャツ、その上に、真鍮《しんちゅう》のピカピカ光った鋲《びょう》をベタに打った、幅がかれこれ一フィートもあろうという、おっそろしく厚ぼったい帯をしめている。そして膝の上まである長靴をはき、そのなかへズボンをたくしこんで、ザンバラの黒い髪を長くのばし、まっ黒な頬ひげをモジャモジャはやしているところは、じつにどうも、絵にでもかいたような風俗だが、ただし、あまりゾッとした風体《ふうてい》ではない。さしずめ舞台ならば、むかしの東国の山賊団になって、そのまますぐに出られようというしろものだ。もっとも、話にきくと、彼らは性すこぶる温順、というよりも生まれつき、図々しい押しの強さに欠けている、ごくおとなしい連中だそうだが。
ビストリッツに着いたのは、暮色もようやく濃くなった頃あいだったが、なるほどここは聞きしにまさる、なかなか古風なおもしろいところだ。事実上は国境の町で、――ボルゴ街道がここからブコヴィナに通じている――昔からなにかと事の多かった町だ。そのなごりは今も残っている。今を去る五十年ほど前、ここは大火が頻発して、町は五回も焦土と化した。十七世紀のはじめには三週間も包囲をくい、そのときは戦禍につぐ飢餓と疫病のため、約一万五千の住民を失ったという。
ここのゴルテン・クローネ・ホテルというのに泊まれと、ドラキュラ伯爵から前もって指示があったので、その宿へ行ってみると、これはまたうれしいことに、この地方の風俗習慣ならなんでもかんでも見ておきたい自分にとっては、まさに打ってつけの、よろず古風ずくめの旅籠《はたご》宿であった。宿では自分のことを心待ちにしていたとみえ、玄関にかかると、このへんの百姓とおなじ身なりをした――白い下着の腕と背中に、じみな色変わりの布をつけ、幅のひろい長|前垂《まえだれ》をかけ、見るからに元気のいい婆さんが出迎えに出てきた。自分がそばへ寄っていくと、婆さんはていねいに頭をさげて、「あの、イギリスのお方さまで?」ときくから、「そう、ジョナサン・ハーカーです」というと、婆さんはニコニコ顔で、最前からうしろに顔を出していた白い長袖のシャツを着た爺さんに、なにやら小声でいいつけた。爺さんはいったん奥へひっこむと、すぐに一通の手紙をもって出てきた。
前略、カルパチアへようこそ御光来。老生はあなたのことを一日千秋の思いで待ち暮らしています。明日午後三時に、ブコヴィナ行きの乗合馬車がそちらを出るが、それにあなたの席がとってあります。当方はボルゴ峠までお迎えの馬車をさしだし、それにて御案内をします。ロンドンよりの長途の御旅行、さぞかし楽しかったことと拝察。風光|明媚《めいび》の当地での御逗留も、かならずお気に召されることと信じます。
ドラキュラ拝
五月四日――伯爵からは、宿の主人宛にも同じく手紙で、乗合馬車の上等席を自分のためにとっておくよう、あらかじめ申し越してあった由。それについて詳しいことを自分が尋ねると、宿の主人はなぜか多くを語りたくないようすで、こちらのドイツ語がよく通じないような、しらばくれた顔をしていた。しかしこれは嘘で、自分のおぼつかないドイツ語は、そのときまでは完全に相手に通じていたし、すくなくとも通じていたように、主人は受け答えをしていたのである。主人とおかみ――自分を出迎えてくれた例の婆さん――は、妙にそのときオドオドしたような顔を見合わせ、伯爵さまはお手紙のなかにお金を入れてお送りくださいましてな、手前ども存じているのはそれだけでして、はい……と主人はやっとそれだけのことを、さも言いにくそうに口ごもりながら言った。ドラキュラ伯爵をあなたがたはご存知なのか、ご存知なら、伯爵のおられる城のようすなど伺っておきたいのだが、と自分がいうと、主人夫婦はあわてて十字を切って、わしらなにも存じませんの一点張りで、それ以上なんとしても口を割らない。なんだか奥歯に物のはさまったような、へんてこな気味合いで、いかさま気色の悪いかぎりだったが、なにぶん出発の時刻が迫っていたので、ほかの人に尋ねる暇もなかった。
いよいよ出かけようというまぎわに、おかみが部屋へやってきて、なにやらただならぬようすで自分にいった。
「旦那さま、あなたどうしてもお出かけになりやすか? どうあってもお出かけになりやすかの?」
おかみは、ドイツ語でしゃべるのもそっちのけの取り乱しかたで、全然こっちにわからないお国ことば丸出しで、詰めよるように言った。自分はなんども聞きかえして、やっとその意味をとることができたが、むろんなにがあろうと、こちらはだいじな用件があるのだから、すぐに行かなければならないというと、おかみはかさねて尋ねた。
「旦那さま、あんた、きょうは何の日だかご存知ですかの!」
五月四日だと答えると、おかみは首をふって、
「いんえ、そりゃわかっとるども、どういう日だかご存知ですかの?」という。なんのことやらさっぱりわからぬというと、おかみは言いだした。
「旦那さん、きょうはの、聖ジョージの前夜でござんすに。今夜、十二時の鐘が鳴りますとな、世界じゅうの悪魔どもが、みんな羽根をのばしやす。ご存知ないだかね? だいいち、旦那さんはどちらへおいでなさる?――いんえさ、どういう所へ行きんさるか、ご存知だかね?」といって、えらく気に病んでいるようすなので、自分はまあまあとなだめにかかったが、相手はそんな手に乗るけしきもない。しまいにおかみは、そこへ膝をつくと、どうか行くのをやめてくれ、行くにしても、一日二日出かけるのを見合わせてくれといって、拝《おが》まんばかりにくどきだした。
なんともはや馬鹿げたことだったが、しかしそうまで言われてみると、こちらもなんだかいい心持がしなかった。といって、用件は是《ぜ》が非でも片づけなければならない。はたから余計な口出しをされて、のんべんと言うなりにはなっていられない。自分は宿のおかみに、ともかくも腰を上げてもらい、できるだけ鹿爪らしい顔をしながら、お志のほどはまことにありがたいが、自分の務《つと》めは否応《いやおう》いってはいられないので、なにがなんでも行かなければならない旨《むね》を、噛んで含めるようにいって聞かせると、おかみはしぶしぶ立ち上がって、涙をふきふき、なにを思ったか、やにわに首にかけていた十字架をはずすと、それを自分の前にさし出した。これには自分もちょっと面くらって、処置に窮した。自分とてイギリスの一国教徒として、こういうことは一応偶像崇拝として教えこまれてきた人間である。しかし、さりとて相手は心からの好意でしてくれているのだから、そういう心意気でいるこの婆さんを、まさかに木で鼻くくるように、頭からむげに断わるというのも、なにやら恩知らずのように思われる。先方も、おそらくこちらの迷惑顔を読んだとみえ、「そんだれば、あんたさまの母御《ははご》さまのために――」と言って、首からはずした数珠《じゅず》を手早くこちらの首にかけると、急いで部屋を出て行ってしまった。――自分はいま、この日記のここのところを、乗合馬車を待っている間に書いているのだが、馬車はむろん延着だ。宿屋のおかみのくれた十字架は、いま、自分の首にかけてある。はたしてこれが、あの婆さんひとりの取りこし苦労なのか、それともこの土地の妙な神がかりじみた言い伝えなのか、自分にもよくわからないが、とにかく自分は今、ふだんの自分のような気らくな気分ではなくなっている。万が一、この日記が、自分の帰国よりひと足さきに、ミナの手もとに渡るようなことにでもなったら、この日記を自分の別れの言葉にしてもらおう。――やっとのことで乗合馬車がきた!
五月五日。城にて――朝霧が晴れて、太陽が遠い地平線の上に高くのぼっている。森なのか山なのか、ここからは判然としないが、遠い地平線は鋸《のこぎり》の歯のようだ。物の大小がごっちゃになって見えるほど、地平線は遠い。――自分はいま眠くはないが、目がさめるまで呼ばれないことになっているので、眠けがさすまで、これを今、床のなかで書いている。書いておきたいことは山ほどある。でも、それを書くまえに、この日記を読む人が、自分がビストリッツをたつ前、立ち振舞になにか御馳走にでもありついたと思うといけないから、念のため、食事のことを一筆記しておく。この地方で「ロバー・ステーク(どろぼう焼き)」といっているものを自分は食べた。これはべーコン、玉ネギ、牛肉をトウガラシで味つけしてそいつを串にさし、ロンドンの焼鳥ふうに火の上で焙《あぶ》ったものだ。これがさかなで、酒はゴルテン・メディアシュ。辛口の酒だが、存外いける。これを二杯飲んだ。ほかに御馳走は一品もなし。
乗合馬車に乗りこんだ時、馭者《ぎょしゃ》はまだ席におらず、宿屋のおかみと外でなにか立ち話をしていた。話しながら、ときどき二人してこちらをジロジロ見ていたところをみると、どうせ自分のことを話していたのにちがいない。宿屋の前のベンチにいた「金棒引き」の連中も、そのときゾロゾロやってきて、二人の話をそばで聞いていたが、そのうちにだれかれとなく、みんなが寄ってたかって、やれやれ気の毒な人といわんばかりの顔をして、さかんにこっちをジロジロ見だした。馬車の上から聞くともなく聞いていると、連中がしきりと口にくりかえしている言葉があって、それが耳についた。どうせいろんな人種が混じっている連中のことだからむりもないが、とにかく耳なれない言葉だったので、自分は鞄のなかから『外語辞典』をそっとひっぱりだして、調べてみた。正直いうと、どれもあまりゾッとしない言葉ばかりだった。Ordog(悪魔)、Pokol(地獄)、Stregoica(魔女)、Vrolok, Vlkoslak――これは二つとも意味はおなじで、一つはスロヴァキア語、一つはセルビア語で、「人狼」、もしくは「吸血鬼」という意味。――そんな言葉がそのなかにあった(備忘。これらの迷信については、伯爵にとくと聞いてみるべし)。
ところで、馬車がいよいよ出るという時に、宿屋の前にあつまっていた連中――そのときは、もうかなりの黒山になっていた――が、なにを思ったか、いっせいに自分のほうに向いて十字を切り、二本指をサッと出した。へんなことをするなと思ったから、自分は乗客の一人をつかまえて、あれはなんのマネかといって聞くと、その男は、最初は返事を渋っていたが、こちらがイギリス人だとわかると安心したとみえ、あれは魔除けのまじないだとおしえてくれた。こっちはこれから、見ず知らずの土地へ、見ず知らずの人に会いに行こうというのに、魔除けのまじないとは縁起でもないと思ったが、見渡したところ、車中の客はいずれも人のよさそうな、思いやりの深そうな人たちばかりなので、自分も、なんとなく胸の暖まるものがあった。宿屋の前で最後に見たあの光景――絵にかいたようななりをした人たちが広い拱門《こうもん》の前に並んで、空地のまんなかに緑の肩をよせて茂っている來竹桃やオレンジの木を背景に、いっせいに十字を切ったあの光景を、自分はおそらく終生忘れないだろう。やがて客席(土地のことばで Gotza という)の前のほうをいっぱいに塞《ふさ》ぐほどの、ダブダブの股引をはいた馭者が、四頭の小馬に大きな鞭をひとふりピシリとあてると、馬はくつわを並べてパカパカ走りだした。いよいよ道中に踏み出したわけである。
車内の人たちがガヤガヤ話している言葉は、なんのことやら、さっぱりこっちには通じない。しかし、まもなく応接にいとまもない沿道のけしきの美しさに、自分はいましがた覚えた怪しい不安の念も、気になる出発の光景も、きれいさっぱり忘れ去った。そんなに手軽に忘れることができたのは、むしろ意外なくらいだった。行く手には森や林に蔽われた緑の斜面が、屏風《びょうぶ》のように切り立った山をそこここに控えながら、どこまでも果てしなくひろがっていた。おちこちのその山の上には、森あり、林あり、百姓家あり――百姓家はいずれもみな、白い破風壁を沿道ぞいに押し並べている。どこを見ても、見渡すかぎり、いまが果樹の花ざかりで、白く盛り上がったような花がそこにもここにも咲きみちている。リンゴ、ナシ、スモモ、桜桃――馬車の上から見ていくと、道の辺《べ》の畑の木々の下の青草が、散りしく花びらで白く光っているのが見える。このへんの山地帯を、この地方では「中央高地《ミッテル・ラント》」といっているが、その中央高地の緑したたる山峡を、道は入いったり出たりしながら、牧草地を迂回していくときは青草に埋れ、またあるときは松林の奥の迷路に遮られなどしつつ、山ぞい深く、炎の舌が這うように走り下って行くのである。ひどいデコボコ道だが、馬車はそこを遮二無二《しゃにむに》、まるですっ飛ぶような早さで走っていく。どういうつもりでそんなに先を急ぐのか知らないが、とにかく馭者は、ボルゴ峠へ着くまでは一刻もむだな暇を食うまいという意気ごみで、むやみとすっ飛ばした。話にきくと、この街道は夏場がいちばん見事なんだそうで、今はまだ冬のあいだの積雪の後始末をすましていないのだそうな。この点がカルパチア地方の山道とは事情がちがい、このへんでは、昔から、あまり街道をきれいに片づけないのが習わしなのだそうだ。往時、ホスパダール人は、トルコから、外国の軍隊を迎え入れる用意をしていると思われるのを恐れて、あまり街道の修理はしたがらなかったといわれる。じじつ、道普請をしたために、いつも集荷地点で勃発する戦争を、かえって早めたこともあったという。
この中央高地に起伏する緑の山々のかなたには、膨大な森林の斜面が、遠くカルパチア山脈の雄大な峻峰の横っ腹まで、ずっと登りづめにつづいている。それがわれわれの馬車の左右に、見上げるばかりにそそり立って、その上に午後の日ざしがいちめんに降りそそぎ、じつに美しい七色の光彩を放っている。峻峰の影の部分は紺と紫、青草と岩石の入りまじったところは緑と茶色。そして、ギザギザの鋸岩と、尖った断岩との果てしない眺望が、遠く靉靆《あいたい》と打ち霞むところに、雪をいただく巨大な銀嶺が悠然とそびえ立っているのである。山容には、ところどころに大きな裂け目があるとみえ、日が傾きだすと、そうした裂け目に、ときおり白い滝のかかっているのが見られたりした。とある山裾を馬車がグルリと回ったとおもうと、それまで長蛇のような道をうねりくねり走ってきた途中、馬車の右手にみえていた雲表を突くような巨大な銀嶺が、いきなりわれわれの正面にヌッと現われてきた。乗客の一人が、そのとき自分の腕をつついて、「ごらんなせえ、あれが『神の御座《みくら》』でがすよ」といって、さもありがたそうに十字を切った。
行けども行けども、いつ果てるともない山道を、馬車はあいかわらず右にうねり、左にくねりしながら走って行く。そのうちに、日はやがて後ろにだんだん低くなり、暮色がようやくあたりに忍びよってきた。雪嶺の頂きが、いつまでも落日の残照の色をとどめ、冷え冷えとした、ほのかな茜色《あかねいろ》に照りはえているのが、いっそうあたりの暮色をきわだたせた。ときおり、絵のように美しい風俗をしたチェッコ人やスロヴァキア人とすれちがう。気をつけて見ていくと、それらの行人は、みな咽喉《のど》の甲状腺が痛々しく肥大していた。道の端には、ほうぼうに十字架が立っており、馬車がそこを通りすぎるたびに、車内の人たちは、いちいちみな十字を切った。どうかすると、路傍の小さな祠《ほこら》の前に額《ぬか》ずいている百姓の男女を見かけることがあった。彼らは乗合馬車がすぐそばを通っても、いっこうにふり向こうともしない。信心に夢中で、外界の物には目も耳もなくなってしまっているのだろう。
このあたりまで来ると、目新しいものがたくさんあった。たとえば、木立のなかの乾草の山。それから、白い幹を万緑のかげに銀《しろがね》のごとく光らしながら、枝を垂れている白樺の美しい林。ときどき、道を行く荷馬車をこちらが追いこすことがあった。荷馬車といっても、どこの田舎にもざらにある農家の荷馬車だが、それをこのへんの百姓たちは、石高な山坂道に合うようにくふうして、長い蛇みたいな形をした棒を一本、車のまんなかに通し、家路に帰る農夫たちが、その棒の上にそうとう大ぜい乗って行かれるようにできている。チェッコ人は白衣、スロヴァキア人は色とりどりの服に、羊の皮ごろもを着て、いずれも長柄の鎌を槍《やり》でもかつぐように、肩にかついでいる。あたりが暮れてきたら、きゅうにめっきり寒くなってきた。峠にかかる登り道のときには、山と山の間に深く切れこんでいる谷間の、うっそうたるモミの森林が、遅くなって降った春雪を背景にして、そこにもここにもクッキリと見えていたのに、いまは刻々に暮れなずむ夕明かりが、暗いカシやカバや松の森を、立ちこめる夕靄《ゆうもや》の闇のなかへと吸いこんでいくかのよう。道はときおり、松林のなかを抜けていく。夕闇のなかに、おいかぶさるばかりの団々たる灰色の大きなかたまりになって、頭上に垂れさがっている松の木群《こむら》は、あたりに神さびた妖気をただよわせながら、暮れせまる≪逢魔《おうま》が時≫の無気味な妄想を手招きしているかのようだ。
うす気味わるいそんな森のなかを、やっとのことで抜け出たとおもうと、はるかの山の頂きの夕空には、おりから今まさに沈もうとする落日が、カルパチア山脈の四方の谷々から湧きあがる、なにやら物の怪《け》めいた夕雲の群れを、奇々怪々な浮き彫りに刻みこんでいるところだ。そうかとおもうと、道がけわしい岨道《そばみち》にさしかかることがある。そんなところでは馭者がいくらあせっても、馬はのろりくさりと行く。自分は国のほうでよくするように、みんな馬車から降りて、歩いて登ろうじゃないかといったが、馭者はてんで耳をかさない。
「だめだ、だめだ。こんなとこ、歩いちゃおえねえ。山犬がすげえでな」
そういって、馭者は意地のわるい茶化したような調子で、「ヘン、旦那が寝なさるまえに、うっかりすると一件が出るかもしんねえよ」と、ほかの乗客に相槌《あいづち》を求めるように、ニヤリと車内の顔を見まわした。一件とは何のことなのか、自分にはいっこうに意味がわからなかったが、とにかく、馭者が自分から馬を止めたのは、馬車に灯《ひ》を入れるために、しばらく道のまんなかで休んだ時だけであった。
あたりがとっぷりと暗くなってくると、乗客たちがなんとなく皆、一様《いちよう》にソワソワしだしてきたようだった。みんな馬車の速力をもっと早くしろとけしかけるように、かわるがわる馭者に声援した。馭者はそのたびに、馬の尻を長い鞭で容赦なくひっぱたいては、どうま声をはりあげ、しきりと馬の歩みに励みをつける。その時自分は、ふと頭上の闇のなかに、山の裂け目かと思われるような、灰色の光のきれはしみたいなものを見た。それを見ると、乗客たちの騒ぎはいっそう大きくなった。おんぼろ馬車はここを先途《せんど》と、太い皮のスプリングの上で猛烈に揺り上げ揺り下ろす。まるで大|時化《しけ》の海でもまれる小舟みたいな、たいへんなキリキリ舞いである。自分はしっかりつかまっていなければならなかった。そのくせ、道はかえって前よりも平坦になり、どうやら馬車はその平坦な道を、疾風の勢いで飛ばしていくらしい。
やがてのことに、左右の山肌が馬車の両側にグッと迫ってきて、頭の上にのしかかるようなぐあいになってきた。いよいよボルゴ峠にさしかかったのである。すると、どういうわけか知らないが、車中にいる四、五人の乗客が一人ずつ、たがいに申し合わせでもしたように、自分に物をくれはじめた。辞退など耳にも入れぬという意気ごみで、むりに押しつけるのだ。くれた品物はいろいろだったが、どれもこれも奇体《けったい》な品ばかりで、それを素朴な信心ごころから、一品一品、親切と祝福の言葉を添えてくれたものだ。しかもそのうえ、それにはいちいち、自分がけさビストリッツの宿屋の前で見せつけられた、あの奇妙な魔除けのまじない――十字を切って、二本指でサッと払う、あのしぐさがついていた。
と、その時であった。馬車が全速力でガラガラ走っていくそのなかで、なにを思ったか馭者台にいる馭者が、鞭をふりながら急に前のほうへ身をのりだしたとおもうと、車内の乗客たちも、同じくいっせいにみな馬車の後部から身をのりだすようにして、闇のなかをのぞきはじめた。そのようすが、どう見ても、なにかただならぬことが起こったか、でなければ、それを待ち設けているといったふうだから、自分は車内の連中の一人一人に尋ねてみたが、だれもわけを教えてくれない。騒ぎはややしばらく続いていた。そのうちに、東側にひらけている峠が、ようやく見えだしてきた。峠の空はまっ暗で、そのまっ暗な夜空にまっ黒な入道雲がいくすじも立ち、あたりの山気《さんき》には雷でもきそうな、重苦しい気配がこもっている。なんだか大きな山脈が、二つの空模様に隔ててしまったようだ。われわれの馬車は、さきほどからその雷雲のほうへ突進していたわけだ。
自分はその時、伯爵のいる城まで自分を運んでくれる約束の迎えの馬車を、それとなく捜していた。まっ暗な闇のなかに、迎えの馬車の灯が今に見えるか、今に見えるかと思って、刻々に待っていたのだが、目に入るものはただ、ぬば玉の闇ばかり。灯火といっては、乗合馬車のチラチラする灯だけで、その灯影《ほかげ》のなかに、懸命に疾駆していく四頭の馬から立ちのぼる汗の湯気が、ボーッと白く立っているのが見えた。行く手には、一条の白い砂道が白じろとのびているが、馬車のかげらしいものはどこにも見えない。乗客たちはホッとしたように、のり出していたからだをひっこめたが、なんとなくそのようすに、こちらの失望を揶揄《やゆ》しているようなものがみえた。そろそろ自分も諦めかけていると、馭者が懐中時計を出して、車内の客たちに、なんだかよく聞きとれないことを言った。いやにおちつき払った、低い言葉つきだったが、「どうやら定刻より一時間早い」といったように聞きとれた。馭者はこちらをふり向くと、自分のよりもまだ下手《へた》くそなドイツ語でいった。
「馬車は来ていませんぜ。結局、旦那はお迎えがなかっただよ。どうだね、このまんまブコヴィナまでつっ走ってよ、明日《あす》か明後日《あさって》、また引っ返してきなすったら。明日より明後日のほうがようがすぜ」
馭者がそういっているうちに、とつぜん四頭の馬がいっせいにヒヒンと嘶《いなな》いたとおもうと、なんと思ったか、いきなり、やみくもにつっ走りだした。馭者が手綱をしめる暇もなかった。乗客たちはいっせいにワッと声をあげ、われがちに十字を切った。とその時、いつどこから現われたのか、四頭立ての四輪馬車が一台、われわれの馬車のはるかうしろから、ものすごい早さでガラガラと追いかけてきた。そして見る見るうちに、その馬車は、こちらの馬車のうしろに追いつくが早いか、乗合のすぐわきへと、スレスレに車を並べて乗り入れてきた。乗合馬車の灯影で見ると、先方の馬は四頭とも、炭のような黒毛のりっぱな馬で、乗っている馭者は茶色の長いひげをはやし、鍔広《つばひろ》の帽子をかぶった背の高い男である。その大きな帽子で、馭者は顔をかくしているふうだった。自分はわずかにむこうの馭者のギラギラ光る眼光を見ただけだったが、馭者の目がギラリとこっちを見た時、ランプの光をうけて、その目がまっかに光ったのを見た。先方の馭者が乗合の馭者に声をかけた。
「おい、今夜はまた、めっぽう早いな」
乗合の馭者は妙にヘドモドしながら、「へえ、今夜はイギリスの旦那がお急ぎだもんで……」というと、先方の馭者はそれへかぶせるように、
「きさま、その且那を、じつはこのままブコヴィナまでお連れしたかったんだろう。その手は食わんぞ。こっちはなにもかも見通しじゃ。おれの馬は早いわえ」
言いながら、むこうの馭者はニタリと笑った。への字に結んだ口元が、ランプの光で照らし出されたのを見ると、いやにまっかな色をした唇に、象牙のような白い尖《とが》った歯がのぞいていた。そのとき乗客の一人が隣りの客に、ブリューゲルの「レノーレ」のなかの文句を小声でささやいた。
「死びとは旅が早いもの」
それが先方にも聞こえたのか、むこうの馭者は光った目でギラリと笑うと、乗合馬車の中をジロリとのぞいた。「レノーレ」の文句をささやいた客は、あわてて顔をそむけると、十字を切って、二本指でサッと払った。
「客人の荷物をこっちへよこせ」
先方の馭者がそういうと、待ってましたとばかり、自分の旅行鞄はアッというまに、みんなの手でむこうへ引き渡されて、四輪馬車のなかへ納まってしまった。自分は、先方の馬車がピタリと横づけになっている乗合の横手の昇降口から、馬車を下りた。すると下りたとたんに、先方の馭者がいきなり鉄の万力《まんりき》みたいなつかみ方で、グイと自分の腕をひっつかむと、そのままむこうの馬車へヒョイと乗せてくれた。いや、その力たるや、ものすごい力だったにちがいない。馭者は無言のまま、長い鞭を黒毛の馬にひと打ちくれると、馬はクルリと向きをかえ、それなり馬車はもと来た道を、峠の闇のなかへといっさんに走りだしたのである。ふり返ってみると、乗合馬車の馬から立ちのぼる汗の湯気が、ランプの光のなかに、夜目にも白くボーッと浮かんで見え、同じその灯影のなかには、遠ざかっていくこちらの馬車に向かって、しきりと十字を切っている乗客たちの姿も、影絵のように見えていた。そのとき、乗合の馭者も馬にひと鞭くれると、これはブコヴィナさして、反対の方角へ飛ぶがごとくに走り去って行った。
乗合馬車が闇のなかに消え去ってしまうと、自分はきゅうにゾクゾクした妙な寒けをおぼえ、なんともいいようのない寂しい心持におそわれた。いそいで外套を肩にひっかけ、膝かけを膝にかけていると、馭者がじょうずなドイツ語で話しかけてきた。
「旦那、夜分はお寒うございます。御前《ごぜん》からだいじにお世話申せと、くれぐれも申しつかってまいりました。なんでしたら、お腰掛の下にスリヴォヴィッチ〔この地方で製する桃のブランデー〕の瓶が入れてございますが……」
自分はその酒には口をつけなかったが、でも酒がそこにあると聞いただけでも、寂しさがまぎれる思いがした。なんだかいつにない妙な心持で、へんに怖かった。かりにその時、なにか他に代わることでもあったら、自分はこのお先まっ暗な夜の旅をこのまま続けるかわりに、きっとそっちを選んだにちがいない。馬はけんめいな足並で、ひた走りに走っていった。そのうちに、馬車は方向をガラリと変えて、今までとは別の、まっすぐな道をまっしぐらに走りだした。なんだか自分には、走っている馬車が、同じところをただ何べんもグルグル走り回っているような気がしてならなかった。へんだなと思って、ためしに目印の場所を心覚えにおぼえていくと、はたしてそのとおりであることがわかった。一体これはどういうことなのか? 自分はそのことを馭者に聞いてみたいと思ったが、じつをいうと、聞くのが怖いような気がしたのである。もうこうなっては、馬車を遅らせようという気持がある以上、どう抵抗してみたところで無駄だと、自分は観念した。
ところが、そうこうするうちに、時間のたちぐあいが妙なあんばいになってきた。自分はマッチをすって、時計を見た。あと四、五分で十二時だった。それを知ると、自分はわれにもなくドキリとした。おそらくそれは、けさ宿屋のおかみから聞いたことから、真夜中に関する自分の迷信が、以前よりも強くなったせいだろうと思う。なにか起こりはしないかと思って、自分は気が気ではなく、なんともいえないいやな心持で待ちかまえた。
すると、おりもおり、道からずっと下のほうの、どこか遠くの農家のあたりから、犬の遠ぼえがきこえだしてきた。まるでそれは、なにか物に怯《おび》えて鳴いているような、いかにも切《せつ》なそうな、長い絶叫の声であった。と、その声が、やがて別の犬につたわり、それがまたさらに別の犬に移り、それからそれへと順々に伝わって、おりから、この街道を今、しずかに吹き渡っている夜風にそれが乗り、まるでこのあたり一円の村々からいちどに湧いて起こったかと思われるような――いってみれば、人間の想像力が真夜中の闇のなかにとらえる、これが限界かと思われるような、すさまじい遠ぼえの一大合唱が起こりだしたのである。最初のそのひと声で、馬は四頭ともみな、後足で棒立ちになった。馭者が急いで制止の声をかけたので、馬はすぐにおとなしくなったが、それでもまだ体をブルブル震わせ、まるで狂奔《きょうほん》したあとのように、全身にビッショリ汗を噴いていた。
と、その時である。どちらを向いても山また山の、その幾重《いくえ》もの山のかなたから、犬の声よりもさらに大きく高い咆哮《ほうこう》がきこえてきた。まぎれもない狼の声だ。これには、馬も自分も、ともに一様に震え上がってしまった。自分はもしものことがあったら、馬車から飛び下りて逃げようと身構えをした。馬のほうは、これまた同じく棒立ちになり、まるで狂ったようにさかんに前足をあがいている。馭者は馬の暴走をおさえるのに必死であった。だが、ものの四、五分もたつうちに、自分の耳もどうやら狼の声に慣れ、馬も、馬車から飛び下りた馭者がそばへ近づけるまでに静まった。馭者は四頭の馬をかわるがわるになですかし、話にきく調馬師がするように、馬の耳もとでなにごとか囁くと、それが効《き》いたものか、あれこれときげんをとるうちに、さすがに震えはまだ止まらなかったが、とにかく馬は元どおり言うことをきくようになった。やがて馭者は座席にもどると、ふたたび鞭をふりふり、全速力で馬車を走らせた。そして峠のはずれまでくると、こんどはそこから右へ折れる細い道へと馬車を乗り入れた。
しばらく行くと、われわれは樹木にあたりを囲まれた。道の上に枝がおいかぶさっている下を、トンネルを抜けるように抜けていく。そこを抜け出ると、こんどは道の両側に、屏風を押し立てたような大きな岩が、見上げるばかりに切り立っているところへ出た。馬車はまるで岩穴みたいなところを走っていくのに、どこからともなく吹き上げてくる烈しい夜風が、ピューピュー耳に鳴る。風は岩と岩の間を唸りをあげて吹きぬけ、馬車が疾走していくにつれて、頭上にさしかう木の枝が、バリバリ音を立ててひしめきあう。深夜の烈風は、そのうえ刻々に寒気を増してきて、やがてきれいな粉雪がサラサラ降ってきたとおもうと、たちまちあたり一面、まっ白な毛布を敷きつめたようになった。馬車が進むにつれて、さきほどから、だいぶ微《かす》かになってはいたが、それでもまだ寒い夜風が犬の遠ぼえの声を送ってくる。一方、狼のほえる声は、かえってますます近くなってきた。まるでそれは四方八方から、だんだんこちらへ迫ってくるようだ。自分はゾーッと鳥肌が立ってきた。馬もおなじく、こちらの恐怖を分け持っていた。そのさなかで、馭者だけはいっこうに動じるけしきがない。馭者はさっきから、しきりと首を左右に向けながら行くが、自分の目には、闇のなかになにも見えるものはなかった。
と、ふいに、疾走していく馬車のはるか左手の闇のなかに、なにやらチロチロかすかに燃えている青い火が見えた。馭者も、自分と同時にその青い火を見た。馭者は青い火を見ると、すぐに馬を急停止させ、馬車からヒラリと飛び下りたとおもうと、どこへ行ったか姿が見えなくなってしまった。自分はどうしていいかわからなかった。狼の声はますます近づいてくる。が、近くなるにつれて、声はかえって小さくなった。へんだな、と思っているところへ、馭者がひょっこり姿を現わした。そして物も言わずに座席にとびのると、そのままわれわれはまた旅を続けたのである。
しかし、考えてみると、自分はその前から、たしかずっと眠っていたはずなのだ。今言ったようなことは、どうも夢のなかで見ていたのにちがいないと思う。その証拠には、同じことがいつまでも間《ま》なしに繰り返されていたようだから。いま思い返してみると、どうもあれは一種の夢魔《むま》に似ている。そういえば、なんでも一度その青い火が、道のすぐ近くに見えたことがあった。鼻をつままれてもわからないような闇の中なのに、自分はその青い火で、馭者の動作をはっきり見ることができたくらい、それほどその火は近かった。馭者はその時、火の燃えあがった場所――といっても、その火はあたり近辺を少しも明るく照らさなかったところをみると、よほどかすかな火だったにちがいない――へ走っていくと、手早く石ころを幾つか拾い、その石ころをなにかの紋章みたいな形に地面へ置き並べた。
また一度は、じつに奇怪な光学現象があらわれた。その青い火と自分との間に馭者が立ちふさがった時、馭者はその青い火をぜんぜん遮断していないのだ。つまり、自分の目には、その青い鬼火が馭者のからだを通して、そのまま見えていたのである。これには自分も魂消《たまげ》てしまった。もっとも、これはほんの一瞬の現象だったから、そのときはこちらの目が闇のなかで緊張していたので、錯覚をおこしたのかと思ったが。それからあと、青い火はそれっきり現われず、われわれの馬車は、あたかも一個の移動する輪みたいになって、追いかけてくる群狼の声にとりまかれながら、暗夜の山道をひた走りに登っていったのである。
まもなく、馭者がいちばん最後に、馬車からさらに遠いところまで下りて行った時がきた。馭者が留守の間、四頭の馬は前よりもいっそうおびえ立ち、いなないたり悲鳴をあげたり、えらい騒ぎであった。なぜ馬がそんなに怖がるのか、ちょうどその時は狼の声もパッタリとやんでいたし、その依って来たる原因が自分にはわからなかったが、おりから空には、黒雲の間にのぼった月が、松の木に鎧《よろ》われた峨々《がが》たる岩山のかげから顔を出した。その光で、自分は馬車のまわりを、白い歯をむいてまっかな舌を出した、脛《すね》たくましく、長い毛のモサモサした狼の円陣が、グルリと取り囲んでいるのを見た。狼というやつは、哮《ほ》え猛《たけ》っているときよりも、かえってこういう無気味な沈黙に鳴りをしずめているときのほうが、百倍も恐ろしいのだ。もっとも、そのときは自分ももう、一種の恐怖の麻痺状態におちていたが、とにかく、人間が恐怖というものの真の意味を悟るのは、そういう恐怖に自分が直面したと感じた、その瞬間である。
たちまちその時、雲間を洩れた月光がなにか特殊な作用でも与えたかのように、狼の群れがいっぺんに哮えだした。馬は跳ねあがる。棒立ちになる。見るもむざんな格好をして、ただもうたよりなげに、目をクルクルむいているばかりだ。殺気立った恐怖の円陣は、四方からジリッジリッと肉迫してくる。四頭の馬は、てもなくその円陣のまんなかに、おいてけぼりを食ったという形だった。自分はもう無我夢中で、オーイ、来てくれ! と大声で馭者を呼んだ。もうこうなれば、なんとかしてこの群狼の円陣を切り崩して、馭者がこちらへ近づけるように手をかしてやるよりほかにない。自分は馭者を馬車へおびきよせるには、なんでも物音を立てて狼をおっ払うにしくはないと思ったから、やにわに大声でわめき立てながら、馬車の横っ腹をドンドン叩いた。馭者がどうやってそこまで戻ってきたのか知らないが、気がつくと、物々しい声で下知《げち》する声が聞こえるから、声のするほうを見てやると、いつのまにやら馭者は道のまんなかに仁王立ちになって立っていた。そして、いきなり長い肱《ひじ》をのばすと、なにか目に見えないものでも薙《な》ぎ払うように、片手でサッと空を払った。すると狼の群れは、見る見るタジタジとなって、後へ後へと尻ごみをはじめた。そのとき、厚いむら雲が月のおもてにかかって、あたりはふたたび闇にのまれてしまった。
自分の目が見えてきたときには、馭者は馬車の踏み段に片足をかけているところだったが、狼の姿はどこへ行ったのか、一匹も見えなくなっていた。自分はあまりの不思議と無気味さに、急に恐ろしい不安に襲われて、ものを言うのも身じろぎするのも怖くなった。馬車はなにごともなかったように、あいかわらず全速力で、闇の中をひた走りに走っていく。なんだか時間が飽き飽きするほど長いものに思われた。むら雲が月を暗くしたので、あたりはほとんど真の闇である。道はどこまでも登りで、ときに急な坂道を走りくだることもあったが、だいたい登りづめである。ふと気がついてみると、馭者は、どこやら荒れ果てた大きな城の中庭へと馬を乗り入れていた。高い、まっ黒な城の窓々からは、ひとすじの灯影さえ洩れていない。崩れ、こわされた銃眼が、鋸《のこぎり》のような錯雑した輪郭を、月明の空にくっきりと見せている。
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二
ジョナサン・ハーカーの日記≪つづき≫
五月五日――自分は眠っていたのにちがいない。でなければ、こんな目に立つ場所に近づいたことに、気がつかないなんてはずがない。暗闇のなかで、城の中庭はだいぶ広いものに見えた。まっ暗な道が何本も、円形の大きな拱門《こうもん》のほうへ通じている。たぶんそのせいで、実際の広さよりも広く見えたのだろう。じつは、あれからまだ、自分はその中庭を白昼の光のなかで見ていないのだ。
馬車が止まると、馭者はひと足先にヒラリと飛びおりて、あとから下りる自分に手を貸してくれた。またしても自分は、彼の金剛力を思い知らされた。じっさい、この馭者の手ときたら、むこうがその気でかかれば、自分の手などたちどころに粉みじんに砕いてしまうことができたろう。まるで鉄の万力《まんりき》みたいな手だ。馭者は馬車から荷物をおろすと、城の大門の前に立った自分のわきに、その荷物を置いた。どっしりとした石の大門にはめこんである古いその大戸には、大きな鉄の鋲《びょう》がやたらに打ちつけてある。門の石に、なにやら大きな彫刻がしてあるのが、夜目にもそれとわかる。長い風霜で、だいぶ欠け損じているようだ。自分がそこに立っている間に、馭者はふたたび馬車にとびのると、鞭をひとふり、馬はそのまま走り出して、馬車はどこか闇の奥へ姿を消した。
自分は手持ちぶさたに、しばらく黙ってそこに立っていた。呼鈴もないし、魚板《ぎょばん》のようなものもない。だいいち、見上げるばかりのこの高い外壁とまっ暗な窓では、呼べど呼べど、とても中まで声はとどくまい。なんだか待っている時間が果てしもないように思われて、疑心と不安の思いが群らがるように湧いてくるのを覚えた。おれはまあ、なんという所へやって来たんだ! なんというやつらの中へやって来たんだ? 一外国人がロンドンに地所を購入し、その地所買い入れの次第を説明しにやってきた一弁理事務員の、これが当然受けるべき慣例的な扱いなのか? 一弁理事務員か! ミナが聞いたら、さぞ厭がるだろうな。でも、おれだって、こんどロンドンを発ってくるまぎわに、ぶじ試験に通ったといわれて来たんだから、もうりっぱに一人前の弁理士なんだぞ。――自分はほんとに目がさめているのかと思って、目をこすったり、からだを抓《つね》ってみたりした。なんだかすべてが一場の恐ろしい悪夢のようで、これでハッと目がさめたら、自分はロンドンの自宅にいて、仕事で徹夜をした朝よろしく、窓から夜あけの光がさしこんでいるんじゃないかなと、そんな気さえした。でも、つねれば痛いし、目もこのとおり見えている。ごらんのごとく、自分はこのカルパチア山地で、このとおり、ちゃんと目がさめているのだ。よし、こうなればもう辛抱《しんぼう》するだけ辛抱して、朝になるのを待つよりほかに手はない。
そう肚《はら》をきめたとき、大戸のむこうに誰やら人の近づく足音がきこえて、戸の割れ目から、こちらへやってくる灯影《ほかげ》がチラチラ見えた。やがて鎖のガチャつく音、大きな閂《かんぬき》をぬく音がして、久しく使わない鍵が錆びた大きな音をたててガチャリと鳴ると、大戸がギーッと中にあいた。
中には、一人の背の高い老人が立っていた。白いひげを長く垂らし、頭のてっぺんから足の先まで、色のついた物は何一つつけていない。全身黒衣ずくめの老人で、手に古風な銀の燭台をもって立っている。煙出しもホヤもない裸火が、開いた戸口から吹きこむ夜風にユラユラなびくたびに、長い影がユラリユラリ揺れる。老人は右手でいんぎんに自分のことを招くと、妙な抑揚のついた、しかしみごとな英語でいった。
「ようこそのおいでじゃ。さあさあ、遠慮なくおはいり」といったまま、老人は自分を迎えに歩みよるでもなく、そこへ立ち現われた姿のまま、石にでも化してしまったように、ヌッと棒立ちに立っている。自分が閾《しきい》のなかへ一歩はいると、老人はいきなり前にサッと出て、自分の手をギュッと握った。いや、その力! 自分は思わずアッと顔をしかめた。痛かったことも痛かったが、そのせいばかりでなく、老人の手が氷のように冷たいのに、自分は驚いたのである。生きている人間というより、死人のように冷たい手だった。老人はかさねて言った。
「ようこそのおいでじゃ。さあ、遠慮のう、おはいり。はいられても、仔細《しさい》はない。さあ、そのままどうぞ」
老人の握手の力は、自分が馭者から受けた力にひじょうによく似ていた。自分は馭者の顔はよくも見なかったが、ふとその時、いま自分が物を言っているのは、あれと同じ人間なんじゃないかなと、一瞬、そんな疑念がおこった。そこで念のために、
「ドラキュラ伯爵は?」
とたずねると、老人はていねいに頭を下げて、
「わしがドラキュラじゃ。ハーカーさん、ようこそ見えられた。さあさあ、おはいり。夜分は寒いでな、まあ夜食でも食べて、ゆっくりひとつ休んでもらおう」
そういって、伯爵は燭台を壁の棚の上におくと、大戸の外へ出て、入口においてあった自分の旅行鞄をとりあげ、一人でそれを下げて行こうとするから、自分はあわてて引きとめると、
「いやいや、あんたは客人じゃ。夜ふけのことじゃで、下男を起こすのも便《びん》ない。まあ、このわしに相手をさしておいてもらおう」
といって、老人は旅行鞄をぶらさげたまま、先に立って廊下を渡っていく。大きな回り階段をのぼって、そのまた先の広い廊下を歩いていく。廊下の石の床に、二人の足音がコツコツとひびいた。やがて廊下のはずれの重い扉を老人はあけた。部屋のなかには、灯火がこうこうとついていて、夜食のテーブルが出ている。自分はなにかホッとした思いだった。大きな暖炉には、薪《まき》があかあかと燃えていた。
伯爵は荷物を部屋のなかに置くと、入口の扉をピッタリと締め、それから広い部屋を横ぎって、またべつの扉をあけた。そこは八角形をした小部屋で、小さなランプがともっており、窓は一つもないらしい。伯爵はその小部屋を通りぬけて、また一つの扉をあけると、そこからこちらを手招きした。行ってみると、その奥の部屋は大きな寝室で、ここにも灯火がこうこうとともっており、炉には焚《た》きさした薪が、太い煙出しのなかヘゴーゴーと音をたてて燃えていた。伯爵は、わざわざ自身でむこうの部屋から客の荷物を運んでくると、
「まあ、顔でも洗うて、旅の埃《ほこり》を落としなさるがよかろう。これでひととおり揃うておるはずじゃが、支度ができたら、むこうの部屋に夜食の用意ができとるでの」
明るい灯火、暖かい暖炉、伯爵の心からなる歓待ぶり。自分はさっきからの疑心も不安も、すっかり拭《ぬぐ》いとられた思いがした。正常な心の状態にもどると、自分はいまさらのように腹の虫が鳴るほどの空腹に気づいた。で、いそいで顔を洗うと、むこうの部屋へ行った。
夜食はすでに膳立がしてあった。あるじの伯爵は暖炉のはしに立って、上品な手つきでテーブルをさし、
「さあ、なにもないが、気らくに一つやってもらおう。わしが相伴《しょうばん》せんで申しわけないが、わしは夕食をすませたし、夜食はやらんのでな」
自分は伯爵に、恩師ホーキンズ氏から預かってきた封書を渡した。伯爵はさっそく封を切って、まじめな顔をして読んでいたが、やがてニコニコしながら、自分にも読めといって、その手紙を自分の手に渡してくれた。手紙のなかの、すくなくとも一くぎりの文言は、身ぶるいが出るほど自分にはうれしかった。
このところ持病の痛風で寝たきりゆえ、旅行はいっさい禁じられておりますので、御錦地《ごきんち》へまいれないのをはなはだ残念に思いますが、さいわい部下に信頼するに足《た》る者が一人おりますので、その者を小生の代人として差し向けます。まだ若い男ですが、才腕ともにそなわった誠実な青年で、分別もあり、口も堅く、終始小生の手もとで一人前になった男です。そちらに滞在中は、万事この男と御協議の上、事務を処理させて頂きます。
伯爵はテーブルのそばへきて、手ずから食器のふたをとってくれた。けっこうなローストチキン、それにチーズとサラダ。酒はトケイの古酒で、自分はそれを二杯すごした。食事のあいだ、老伯は旅の話をなにやかやと聞かれるので、自分は旅中の見聞をひととおりざっと語った。
食事がすむと、伯爵は火のそばへ招じるので、暖炉のそばへ椅子を移して、伯爵のすすめる葉巻をごちそうになった。伯爵はたばこを嗜《たしな》まれない。そのとき自分は、はじめて伯爵の顔をしみじみと見る機会をえた。そして、これは大した骨相をもった人だということを知った。
伯爵の顔は精悍《せいかん》な荒鷲のような顔であった。肉の薄い鼻が反り橋のようにこんもり高くつき出て、左右の小鼻が異様にいかり、額《ひたい》はグッと張りだし、髪の毛は横|鬢《びん》のあたりがわずかに薄いだけで、あとはふさふさしている。太い眉《まゆ》がくっつきそうに鼻の上に追り、モジャモジャした口ひげの下の「へ」の字に結んだ、すこし意地の悪そうな口元には、異様に尖《とが》った白い犬歯がむきだし、唇は年齢にしては精気がありすぎるくらい、毒々しいほど赤い色をしている。そのくせ耳には血のけが薄く、その先がいやにキュッと尖っている。顎はいかつく角ばり、頬は肉こそ落ちているが、見るからにガッチリとして、顔色は総体にばかに青白い。
さきほどから、自分は伯爵が膝の上にのせている手を暖炉の火《ほ》あかりのなかで見て、色白なきれいな手だなと思ったのだが、いま近々とそばで見ると、存外不格好な、指の寸のつまった、四角ばった手であることがわかった。ふしぎなことに、その手の甲のまんなかに、ひとかたまり、毛がモジャモジャはえている。爪は長い、みごとな爪で、先を鋭く尖らして切ってある。どういう拍子だったか忘れたが、伯爵が暖炉の前で、身をこごめて両手で自分の肩を軽くおさえたときに、なぜか自分はゾッと身うちが震えた。伯爵の息が、なんともいえない生臭《なまぐさ》い、いやな匂いがして、正直のところ、吐きけをもよおすほど胸が悪くなった。ゾッとしたのは、たぶんそのせいだったのだろう。自分は不快の色を顔に出しては悪いと思ったが、とても我慢できなかった。先方もすぐにそれを気《け》どったとみえ、すばやく身を引いたけれども、そのときニヤリと笑った口元に、鬼のような鋭い乱杭歯《らんぐいば》がむきだしたのを、自分は見た。伯爵はそのまま暖炉のそばの自分の席に戻ったが、二人とも、それからややしばらく無言でいた。そのとき、なにげなく窓のほうを見ると、いつのまにか空がそろそろ白みだしていた。なんだか不思議な静けさが、あたり全体を領しているようだった。その静けさのなかに、じっと耳をすましていると、どこかはるか下の谷底のほうから、狼の哮《ほ》える声がかすかに聞こえてくるような気がした。伯爵の目がらんらんと輝きだした。
「そら、お聞き。――夜の子供たちが鳴いておる。なんの歌をうたいおるか!」おそらく、自分か怪訝《けげん》な顔をしたのを伯爵は見たのだろう。「いや、あなたがた都会に住んでおるものには、狩の気持はわからぬて」そういって立ち上がると、「さぞかしお疲れのことじゃろう。寝所《しんじょ》の支度はできておるから、明日《あす》はまあ、ゆっくりと寝なさるがよい。わしなどは、いつも昼過ぎまで寝ておる始末じゃ。まあ、よく休んで、よい夢を見なさるがよい」といって、いんぎんに一礼すると、手ずから八角部屋の扉をあけてくれたので、自分はあてがわれた寝室にはいった。……
自分は今、不思議の海のなかに浸っている。自分は怪しむ。自分は恐れる。自分はおのれの心にさえ打ちあけられないような、奇怪なことどもを考えている。神よ、われを愛するもののために、守らせたまえ!
五月七日――きょうもまたもや早朝だ。とにかく、自分は過ぐる二十四時間をぶっ続けに、充分寝足りた。夕方近くまで眠って、ひとりでに目がさめ、さて着がえをしてから、夜前《やぜん》夜食をたべた部屋へ出ていってみると、そこにはとうに冷たくなった朝食の膳が出ていて、炉の上にはコーヒー沸かしが冷《さ》めないようにかけてあった。テーブルの上に一枚の紙きれがのっていて、それにこう書いてあった。
「ちょっと留守《るす》にする。わたしのことを待っていなくてもよろしい。――D」
自分はたっぷりの朝食をおいしく食べ、さて食事のすんだことを召使に知らせようと思って、呼鈴《ベル》をさがしたが、呼鈴がどこにも見当たらない。どうもこの屋敷は、どこを見ても金は腐るほどあるらしい構えのくせに、妙に不便で、間《ま》の抜けたところがある。テーブルの上の食器はみな純金製で、みごとな彫りがしてあるから、さだめし高価な品にちがいない。カーテン、椅子、ソファ、寝台のとばり、どれもみな高価な錦や金襴《きんらん》ずくめで、調製されたときには、さぞや目のとび出るほどの値打ち物だったのだろう。おそらく何百年も昔の古代|裂《ぎ》れだろうが、それにしては、じつに保存がいい。自分もロンドンのハンプトン・コートで、この手のものはいくつか見たことがあるが、みんな手ずれや虫食いで、ボロボロの品ばかりだった。
それはいいとして、この城には、鏡というものがどこの部屋にもない。部屋のテーブルの上に化粧鏡すらないので、やむをえず自分は、顔を剃ったり髪をなでつけたりするのに、旅行鞄から小さなひげ剃り鏡を出して、それで用をすませているような始末だ。鏡の不便はまあ我慢するとしても、この城へきて以来、まだどこにも召使の姿を見たことがない。昼も夜も、城のなかはコトリとの音もせず、たまさか城の近くで聞こえるものといえば、狼の哮える声だけだ。食事をすましてから――食べたのが午後の五時過ぎだから、朝食といっていいか、夕食といっていいかわからないが、――自分はなにか読むものはないかと思った。まだ伯爵の許しをえていないから、かってに城のなかを歩きまわるわけにもいかない。そこらを捜してみたけれども、部屋のなかには新聞・書物はおろか、物を書くペンや紙の備えすらない。部屋の一方に別の扉口があったから、なにげなくあけてみたら、奥は小さな書斎になっている。ついでに反対側にあるもう一つの扉口もあけようとしたが、そこは錠がおりていた。
書斎にはいってみると、うれしいことに、書棚にギッシリ並んでいる蔵書は、ことごとく英文の書物で、中央にすえてある小机の上にも、英文の古新聞や古雑誌がうずたかく積みあげてある。書棚の本は、これはまたじつに多方面で、歴史、地理、政治、経済、植物、動物、法律――およそ英国と英国人の生活・習俗に関する名著という名著は、ほとんどそこに網羅《もうら》されていた。ロンドン案内、華族名鑑、人名録、ホイッテーカーの年鑑、陸海軍要覧、そんなものまでが備えてある。そのなかに『判例類聚』が混じっているのを見て、自分は鬼の首でもとったように嬉しくなった。
しばらく、手当たりしだいにあれこれと蔵書をひっぱり出して見ているところへ、やがて扉があいて、伯爵がはいってきた。伯爵はきげんよく挨拶をして、どうじゃな、ゆうべはよく寝られたかな、とたずねたのち、
「こんなところで書見をしておるとは、うれしいのう。どうじゃ、おもしろい本がたくさんあるじゃろう。この蔵書はな」と伯爵はそこにある何冊かの書物の上に手をおいて、「みなこれは、ひところ前のわしの愛読書じゃよ。わしがロンドンへ行こうと思い立ってから取り寄せた書物じゃが、いや、おかげでずいぶんと楽しい時をすごしたものじゃった。ここにある書物を通して、わしはイギリスを知り、そしてイギリスという国が好きになってな。なんとかしてあのロンドンの雑踏する町のなかで――あの殺到する人の渦のなかで、生を味わい、世の中の移り変わりを見、死をともにしとうなっての。しかし、いかんせん、言葉が書物じこみなので、これがどうもならん。どうじゃね、きみなどから見て、このわしに英語がよう話せるじゃろうか?」
「いえ、伯爵は英語がご堪能《たんのう》でおいでですよ」と自分は真顔で一礼した。
「いやいや、そう過分に褒められては痛み入る。とてもとても、わしの語学力では、きみのお国を旅などできやせんさ。文法や単語は多少知っとっても、話がようできんものな」
「いやあ、お話もとてもお上手《じょうず》でおいでですよ」
「そんなことはないさ。わしがロンドンへ行って、なにか喋ってみい。たちまち、こやつ渡り者じゃと、いっぺんに化けの皮を剥がされてしもうさ。わしはそれがいやでな。こちらにおれば、わしはこの国の貴族じゃ。平民どもはみな、わしのことを親分親分というて奉《たてまつ》ってくれる。それがおまえ、知らぬ他国へ行ってみい。それこそどこの馬の骨じゃ。知っとる者は一人もおらん。知らんとあっては、だれも鼻汁《はな》もひっかけてくれやせんぞ。まあ、人並の風采をしとるからいいようなものの、相手はわしなどに目もくれんだろうし、こちらが一言《ひとこと》なにか言えば、とたんに先は話をやめて、『ハハハ、こいつ渡り者じゃ』と来る。わしも長年人の上に立ってきた男じゃから、やっぱり頭目《とうもく》でいたいわな。人の尻に敷かれとうはないからの。きみはわしの友人のピーター・ホーキンズの手代として、わしがこんど新しく買い入れたロンドンの地所のことで、はるばるここへ来てくれたお人じゃが、そのことだけでなく、まあしばらくここにいてもらって、おたがいに話しあううちには、わしもなんとか本場の英語の抑揚が会得《えとく》できようかと、こう思うてな。じゃから、わしの喋りかたに間違うたところがあれば、どんな小さな誤りでも、ドシドシきみから直してもらおう。まあひとつ、よろしく頼むよ。……ときに、きょうはよんどころない用事があって、半日わしが留守にしたので、勝手がわからんで不自由したろうが、まあ勘弁してもらおう」
自分は恐縮の意を表したのち、今後は自分の好きなときに、この書斎へお邪魔をしてもいいかときくと、伯爵は、「ああ、よいとも」といって、
「城のなかで、きみの行きたいところは、どこへ行ってもかまわんよ。ただし、錠のおりとるところはいかん。むろん、そこはきみも如才《じょさい》はなかろうが、すべて物事には、それはそれなりの理由というものがあるものでの。きみもわしの目で物を見、わしの知恵で物を知ると、いろいろとまたそこに会得《えとく》するものがあろうよ」
自分が仰せのとおりだというと、伯爵はさらに言葉をつづけた。――
「ここはトランシルヴァニアじゃ。トランシルヴァニアはイギリスではない。この国のしきたりは、きみのお国のしきたりとは大いに違う。だから、きみなどから見たら、ずいぶん奇妙なことが多々あるじゃろう。早いはなしが、夜前《やぜん》聞いたきみの経験談な、あれなどを見ても、この国にはいろんな奇妙なことがあるということが、多少はおわかりじゃろう」
そんなことから、話にだいぶ花が咲いた。伯爵がいやに話をしたがっているふうだったから、話のつなぎになればと思って、今までに起こったことや気づいたことについて、いろいろ尋ねてみた。伯爵は、ときには話をはぐらかしたり、こちらのいうことがよくわからないような顔をして、話題を転じたりしたが、大体において、自分の問いに正直に答えてくれた。そのうちに、こちらもどうやら遠慮がなくなってきて、ここへ来た晩に見たあの不思議なことども――たとえば、闇のなかに青い火が見えた時、なぜ馭者が火の燃えた場所へおりて行ったのか、そんなことまで尋ねたが、伯爵の説明によると、一年に一度、あらゆる悪霊が解放される特定の晩があって、あの晩がちょうどそれに当たり、その晩には宝の隠されている場所で青い火が燃えると、一般に信じられているのだそうだ。
「先夜、きみが通ってきたあのへん一帯は、その財宝が隠匿《いんとく》されておるところでな、これはまず疑う余地がない。というのは、あのあたりは何百年もの間、ワラキア人、サクソン人、トルコ人などが戦った、古戦場の跡でな。いや、あのへん一帯は、それこそ寸尺の地たりとも、人間の血汐――愛国者、もしくは侵略者の血汐の流れておらんところはないと申してもよい。往年、オーストリアやハンガリーの軍勢が、なだれのごとく押し寄せてきた際などは、じつにえらい騒ぎでな。愛国者はもとよりのこと、老若男女、子供にいたるまでがみな狩り出されての、要所要所の山道の岩の上で、敵を待ち伏せて迎え撃ったが、敵軍は新兵器を用いて、これを粉砕しよった。ところが、侵入軍は勝ちほこって進駐してきてみると、土地の者はひと足先に、隠匿できる物資は根こそぎ地下に隠してしもうたもんじゃから、敵はなに一つ徴発でけんという始末よ」
「でも、その隠匿物が、どうして長年掘り出されずにあったのですか? 隠匿した連中は、どこへ何を埋めたという、証拠の控えを残しておいたでしょうにね」
伯爵はニヤリと笑って答えた。笑うと、鬼のような乱杭歯《らんぐいば》が気味わるくむき出す。――「それはの、百姓どもが臆病で、馬鹿じゃからよ。あの鬼火は一年のうち、たったひと晩しか燃えん。ところが、この土地の者は、その晩はよくよくのことでもないかぎり、だれも外へ出るやつがない。かりに出てみたところで、百姓どもにはどうしようもあるまいが。鬼火の出た場所へ目印をつけておいても、昼になれば、とんとどこやらわかりゃせんものな。嘘だとおもうなら、行ってごらん、きみにだってわかりゃせんから」
「そりゃそうでしょうね。それがわかるのは、死んだ亡者だけでしょうからね」
そこで話題をかえた。
「ときに、ロンドンの地所の話を聞かしてもらおうかのう」
伯爵の言葉に、自分は迂闊《うかつ》を詫びて、鞄のなかの書類をとりに自分の部屋へ行った。書類をそろえていると、隣室でカチャカチャと食器の音がきこえた。やがて書類をかかえて隣室を通ると、テーブルの上はきれいに片づけられて、いつのまにか灯火がともっていた。外はもう暗くなっていた。書斎のなかにも灯がともされ、伯爵はソファに横になって、ブラッドショーの世界年鑑を読んでいた。自分がはいっていくと、伯爵はテーブルの上の書物や古新聞を手ずから片づけてくれたので、自分はすぐと地所の図面や一件書類をそこへひろげて、さっそく用談にはいった。伯爵は話に身がはいって、当該の地所やその環境について、根ほり葉ほりいろいろ質問をした。それによると、自分よりもかえって伯爵のほうが詳しいことを知っていた。どうやら付近の情況などは、あらかじめ自分で調べておいたらしい。自分がそのことをいうと、伯爵は笑って、
「それはきみ、当然じゃないか。向こうへ行けば、わしはひとりぼっちじゃ、ハーカー・ジョナサン君。――や、これは失敬。わしの国では姓を先にいう習慣だもんだから、ついまちがえた。――ジョナサン・ハーカー君、きみだってそうなれば、そう始終わしのそばにいて、面倒は見てくれんじゃろう。屋敷から何マイルもはなれたエクセターで、きみはピーター・ホーキンズと法律の仕事をせにゃならんのだから」
われわれはパーフリートの地所購入に関する要談にはいった。自分は諸種の事情をのべて、必要書類に伯爵の署名をもらい、書類に添えてホーキンズ氏宛に出す手紙を一通したためた。伯爵は、注文にぴったりの格好なその地所を、自分が捜し当てた時のもようをいろいろと尋ねた。自分は、当時控えておいた覚え書を読んで聞かせた。ここにその覚え書を写しておく。――
「パーフリートの本通りからちょっと脇へはいったところで、雨ざらしの〈売邸〉の札の出ている、どうやら注文通りの屋敷にめぐり会った。むかし築いたまま、その後何年も手入れをしない高い石塀にかこまれた屋敷で、古いオーク材の門扉など、金具がまっかに錆をふいていた。
その地所がカーファックスと呼ばれているのは、屋敷が東西南北に正しく面した四面の建物なので、古語の Quatre Face(四面)が訛《なま》って、カーファックスとなったのに違いない。前記の石塀にかこまれた屋敷の広さは約二十エーカー、邸内は樹木がうっそうとして昼なお暗く、中に湖ほどもある深い暗鬱な池があり、湧き水とみえて、池からあふれる清冽な水が泉水になって庭を流れている。母屋《おもや》は宏壮で古色をおび、ある部分は石造り。高い窓に太い鉄の閂《かんぬき》などがはまっているところから見るに、造営の時期は、おそらく中世あたりまで溯《さかのぼ》るのではなかろうか。石造りの部分は倉庫らしく、そのわきに古い礼拝堂がある。母屋からそこへはいる鍵がなかったので、中にははいって見なかったが、そのかわり、いろいろの地点から写真をとってきた。母屋には離室《はなれ》めいた部屋がいくつもついているから、外観から想像しただけでも、建物全体の建坪は、よほど宏大なものにちがいない。付近には人家はほとんど一軒もなく、最近大きな建物が新しく一棟建ったが、これは私設の精神病院だそうで、屋敷からは全然見えない」
以上、自分が覚え書を読みおわると、伯爵は言った。
「屋敷が古くて大きいのは、なによりじゃな。わしなどは古い家柄に生まれたもんじゃから、近ごろの新式の家はどうも窮屈で、性《しょう》に合わん。それに昔の礼拝堂がついておるのも、しごく妙じゃて。わしらの国の貴族は、総じて平民の墓地へ骨を埋められることを好まんから、邸内に礼拝堂があるのは、いや、望んでもないことだわい。わしなども、もうこのとおりの老いぼれじゃから、派手《はで》ばでしい陽気なところは、金をつけてくれても欲しゅうない。老人は日のあたらん陰がよい。長年、死んだ者を弔《とむろ》うてばかりきたから、どうも騒がしいことは折り合えん。この城なんかも、見らるるとおり、もうだいぶん痛んできて、暗いところも多いし、破れた窓から風も吹きこむままじゃが、わしはしかし、暗いところや日のささんところが好きじゃ。できることなら、そういうところで、ひとり静かに物を考えていたいの」
伯爵のこの言葉は、およそその容貌とはそぐわぬもののように思われた。ニヤリと笑う伯爵の笑顔《えがお》が、へんに気味わるく悪魔めいて見えるのは、その顔だちのせいなのだろう。
まもなく伯爵は、ちょっと失礼する、きみ、あとで書類をひとまとめにしてくれ、といって書斎を出ていった。ややしばらく戻ってこないので、自分は退屈しのぎに、そこらにある書物をひっぱり出して見た。なかに世界地図があったので、開いてみると、伯爵がしじゅうそこのところを見つけていたとみえて、イギリスの国のところが自然にパッと開いたから、なんの気なしにそこのところを見ると、地図のところどころに、なにやら小さな輪印が書きこんである。よく見ると、その輪印の一つが、ロンドンの東に印してあるのは、いわずと知れた、今度買い入れた地所の所在地を示したもので、あとの二つの輪印は、ヨークシャーの海岸のエクセターと、ホイットビーに印してあった。
伯爵が戻ってきたのは、それから小一時間もたってからであった。
「ほほう、まだ書見かな。きみ、そう詰めてやってはいかんぞ。さあ、食事の支度ができたそうじゃから、あちらへ行こう」伯爵は自分の腕をとると、隣りの食堂へ案内した。テーブルの上には、すでにごちそうが並んでいた。
「わしは今、外ですましてきたから、遠慮なくひとりでやってもらおう」
伯爵はまたしてもそんな言い訳を言って、自分が食事をすます間、前夜のようにそばにすわって喋っていた。食後、暖炉のまえで葉巻をふかしながら、二人して夜の更《ふ》けるのも知らずに閑談に打ち興じたのも、前夜のとおりであった。夜はもうだいぶ更けているようであったが、自分はなにも言わずに、主人の望むままにお義理でつきあっていた。自分はすこしも眠くなかった。きのう、さんざっぱら寝たせいだろう。明方近くになると、さすがに寒さがしんしんと身にしみてくる。よく人間が死ぬときは、明けがた汐《しお》の引く時刻だというけれども、こうして疲れていながらお勤めに起きていると、なるほどそんなものかとうなずける。やがてどこかで鶏が、朝の澄んだ空気をつんざくような声で鳴きだした。ドラキュラ伯爵は、あわてて椅子から立ち上がりながら、「はて、もう夜が明けたか。また今夜もきみに夜明かしをつきあわしてしもうたのう。あんまりきみがイギリスのおもしろい話を聞かせるもんじゃから、それでこういうことになる。今晩からは、ちと控えることにせにゃあな。では、おやすみ」伯爵はいんぎんに礼をすると、そのまま部屋を出て行った。
自分は寝室にはいって、窓のカーテンを細めにあけたが、なにも目をひくものはなかった。寝室の窓は中庭にむかって開いており、刻々に明けていく朝焼けの空が見えるだけであった。自分はカーテンを引いて、今この日記をつけ終わったところである。
五月八日――この日記を書きながら、すこし記事がくどすぎやしないかと気になりだしていたのだが、今にして見ると、最初からなにもかも明細に書いてきてよかったと思う。というのは、どうもこの城には、ことごとに、なにか自分を不安にさせずにはおかないような奇怪不思議なことがあるからだ。無事にここから出たいと思うにつけ、いっそこんなところへ来なければよかったと思う。だいいち、この城には夜しかないという、この不思議がそもそもおかしい。それだけなら、まだいい。ほかに話相手でもあれば我慢もしようが、それが一人もない。話相手といえば、伯爵一人きりだ。しかもその伯爵は! ――どうやらこの城のなかで、生きている人間は自分だけではないのか。ともあれ、事実をありのままに書いていこう。それがなんとか自分を支える力になるだろう。いたずらに想像のみ逞《たくま》しゅうしてはならない。そんなことをしたら、こっちの負けだ。とにかく、自分の見たこと――あるいは、見たと思ったことを書いていこう。
けさがた、自分は床にはいって、二、三時間眠ったと思ったら目がさめ、それっきり眠れなくなったので、思いきって起きてしまった。顔を剃ろうとおもって、ひげ剃り鏡を窓ぎわにかけて、ひげを剃りだしていると、ふいに肩に手がさわって、「おはよう」という伯爵の声がした。自分は思わずギョッとして目をみはった。自分が仰天したのは、ひげ剃り鏡のなかに、自分のうしろの部屋の中の全景は映っているのに、伯爵の姿がそのなかに映っていないからであった。おやっと思った拍子に、自分は剃刀《かみそり》でちっとばかり顔を切ったらしいが、その時は気がつかなかった。伯爵の挨拶にこたえたのち、自分はなにを見間違えたのかと思って、もう一度あらためて鏡のなかをのぞいて見た。しかし今度も見間違えではなかった。伯爵は自分の肩のすぐそば、首をまわせば見えるところに立っている。それなのに、その姿は鏡のなかに映っていないのだ! 部屋のありさまははっきりとそこに映っているのに、人間の映像は自分のほかに、影らしいものさえ映っていないのだ。これには愕然《がくぜん》とした。まさにこれは、今までいくつかあった怪しいことの頂点ともいうべきことで、伯爵が自分のそばにいる時にいつも感じる、あのもやもやした不安な思いは、この一事によっていよいよ深くなった。自分は剃刀で切った跡から血がすこしにじみ出ているのを見た。血は顎《あご》にかけて、タラタラと条《すじ》になって流れていた。自分は剃刀をそこに置いて、旅行鞄から、絆創膏《ばんそうこう》を出そうと思って、なかばうしろへ身をねじむけた拍子に、血のにじんでいる自分の顔を見た伯爵が、まるで悪魔が狂いだしたように目をらんらんと光らして、いきなりこちらの咽喉笛《のどぶえ》めがけて飛びかかってきた。アッと思って自分が身を引いた拍子に、伯爵の手が自分の首にかけている十字架にさわった。とたんに伯爵は、一瞬前の狂暴はどこへやら、まるで何事もなかったようなケロリとした顔つきになって、
「早く手当てをしなさい。切痕《きりきず》をこしらえるのは、この国では、きみが考える以上に危険なんじゃよ」そういって、伯爵は窓ぎわにかけてあったひげ剃り鏡を、いきなりムズと鷲《わし》づかみにつかむと、「まちがいを起こさせたのは、こいつじゃ。この鏡が曲者《くせもの》じゃ。鏡なんてものは、人間の虚栄のおもちゃみたいなもんじゃ。こんなものは捨てちまえ!」というなり、伯爵はあの恐ろしい万力《まんりき》の手で、重い窓の戸をメリメリとこじあけると、手につかんだひげ剃り鏡をエイとばかり、叩きつけるように窓の外へ投げ捨てた。鏡ははるか下の中庭の石の上に落ちて、粉みじんに砕け散った。そして、伯爵はそのまま物も言わずに、ムッとして部屋を出ていってしまった。おかげでこっちは迷惑至極、ひげを剃ったあとがどんなぐあいだか、まだ見てやしない。懐中時計の蓋にでも映して見るか、ひげ剃りのコップがさいわい金属製だから、それにでも映して見るよりほかにないだろう。
食堂へ出て行ってみると、朝食の支度はできていたが、伯爵の姿はどこにも見えなかった。自分はひとりで食事をすませた。ふしぎなことに、この城へきてから、自分はいまだに伯爵が飲み食いするところを見たことがない。よほど変わった人にちがいない!
朝食のあと、自分はすこし城のなかを歩いて調べてみた。階段をのぼると、南の方を見渡せる部屋があった。そこから見た山の眺めはじつに雄大だった。その時はじめてわかったのであるが、この城はものすごい断崖絶壁の上に立っているのである。おそらく、ここの窓から石を落としたら、その石は何千フィートの間を一物にも触れずに、九天《きゅうてん》直下に落ちていくにちがいなかろう。見渡すかぎりの緑の樹海。そのところどころに深い切れこみが見えるのは、たぶん山の裂けめであろう。森の間の深い渓谷を、ここかしこ、銀糸のような水の流れが、うねりくねりしながら流れているのが見える。
だが、自分は今、そんな景色のことなど、のんきに書いていられる心境ではない。この城のなかの扉という扉、その扉にはどこもかしこも錠がおりて、閂《かんぬき》がさしてある。城の壁にあいている窓よりほかに、この城には出口はどこにもないのだ。
この城は、まぎれもない牢獄だ! 自分はそこの囚人なのだ!
[#改ページ]
三
ジョナサン・ハーカーの日記≪つづき〉
自分が監禁されているのだとわかると、一種のもの狂おしいような感情が自分をおそった。自分はそこらじゅうの階段を駆けおり、扉という扉を叩きまわり、窓という窓から外をのぞいて見た。結局、救いの道はどこにもないことがわかった。自分は精も根《こん》もつきはて、がっかりしてしまった。あとになって考えてみると、その時の自分の振舞いは、ちょうど鼠捕《ねずみと》りにかかった鼠の≪死にあがき≫と同じで、まったく気ちがいの沙汰だったとおもう。とにかく、手も足も出ない。助け手もない。そのことがはっきりとのみこめてくると、自分は静かにおちついて――こんなにおちついたことは、生まれて初めてだ――すわりこんで、さてこれからどうしたらいいかを考えてみた。今もそれを考えている。でも、まだこれはという明確な結論が出てきていない。ただ一つわかっていることは、伯爵にこのことを言ったところで無駄だということだ。伯爵は、客人が監禁されていることは百も承知のはずだ。なぜなら、監禁したのは当の伯爵なんだから。したがって、伯爵には、自分を監禁した動機が、むろんあるはずだ。だからすでにこうなった上は、こちらが伯爵のいうことを、なんでもハイハイと真に受けて聞いてさえいれば、相手はこっちをうまく騙《だま》しおおせたつもりでいるわけだ。となると、こちらの計略は、自分の承知していること、恐れていること、それはそっと胸に畳んでおいて、なに食《く》わぬ顔をしながら油断なく目をくばっていることだ。そうだ、こっちは赤んぼ同様に、ただ怖い怖いで騙されていればいい。さもないと、絶体絶命の窮地に追いこまれる。そうなったらそうなった時で、なんとかまた知恵をしぼらずばなるまい。
こういう結論に達したちょうどその時に、城の大戸の締まる音がきこえ、伯爵が帰ってきたなとわかった。だが、すぐに書斎へ上がってくるけはいがないので、自分はこっそり足音を忍ばせて寝室をそっとのぞいて見ると、どうだろう、伯爵が自分でベッドの支度をしているではないか。ははあ、してみると、自分が前から考えていたとおり、この城には召使が一人もいないんだな。そう思って、なおも扉の蝶番《ちょうつがい》のすきまから、うかがっていると、そのあと伯爵は食堂へ出ていって、こんどはそちらで食事の膳ごしらえをしている。なるほど、こうやって家事いっさいを自分でしているところを見ると、いよいよ召使はいないにきまった。と、そう思ったとたんに、自分はハッとなった。そうすると、あの晩自分をこの城まで案内してきた馭者、あれも伯爵自身なのだ。これは恐ろしい考えだった。そうなると、あの時、ただ黙って手をふり上げただけで、あの猛《たけ》り狂う群狼をあんなふうに鎮めてしまったのは、あれは一体どういうことなのか。ビストリッツの人たちや乗合馬車の乗客たちが、自分に対してあのように心配をしてくれたのは、一体どういうわけなのか? あの親切な乗客たちが、ニンニクだの、野イバラだの、ナナカマドなどを自分にくれたのは、一体どういう意味なのか? それにしても、自分の首にこの十字架をかけてくれた、あの宿屋のおかみに自分は心から感謝する。この十字架をなでるたびに、自分は深い慰藉《いしゃ》と力を感ずる。考えてみると、おかしなものだ。やれ偶像だ、悪趣味だといって、口を酸っぱくして教えこまれてきたものが、人間ひとりぼっちで困っている時の助けになるとは。ああいうものには、なにか物自体に霊気みたいなものがあるのだろうか? それとも、同情や慰藉《いしゃ》の心のかよった形見《かたみ》の品には、なにか霊媒みたいな有形《ゆうけい》の力が出るものなのだろうか? もしそうなら、この問題はそのうちよく調べてみて、それについてのこちらの肚《はら》をきめることにしよう。それが理解の助けになれば、まもなくドラキュラ伯爵の正体も判明するにちがいない。今夜あたり、うまく話の水を向けて、ひとつ身の上話を聞き出してやろう。しかし、こいつはよくよく用心して、相手に疑念をおこさせないようにしなければならない。
真夜中――伯爵と今まで長話をしていたところだ。トランシルヴァニアの歴史について、自分は二、三尋ねてみたのだが、伯爵はじつに驚くばかり、この国の史実に通暁している。歴史上の事実、住民の状態、とりわけ戦争の話になると、いつどこの戦争にも、まるで自分がそれに参加していたように詳しい。あとで説明していたが、彼のような貴族ともなると、家門の誇りは、とりもなおさずわが身の誇り、一門の栄誉と運命は、すべておのれの栄誉であり、運命であるというのだ。そして、その一門のことを語るときは、あたかも帝王のごとく、かならず、「われら」と複数でいう。ドラキュラ家の歴史はじつにおもしろく、そのまま口述筆記でもしておきたかったくらいで、この名門の歴史のなかには、さながらこの国の全史が包含されている観がある。話しているうちに、伯爵はしだいに熱をおびてきて、白いひげをしごきながら、部屋のなかをノッシノッシと歩きまわり、手に触れる物あらば、無双の大力で木っぱみじんにつかみ砕《くだ》かんばかりの力《りき》みかたであった。
ドラキュラ家の家系について、次のような話をしてくれたから、聞いたままをここに記しておく。――
「われらセクリー人には、主君のためには身を打ち捨てて、獅子奮迅《ししふんじん》に戦いぬくという、雄々しい血が流れておる。これがセクリー人の誇りじゃ。古代ヨーロッパ民族のうち、フィン族は雷神トルより戦《いくさ》の精神をさずかってアイスランドより起こり、猛威果敢《もういかかん》なるその戦士たちは、ヨーロッパは申すに及ばず、アジア、アフリカの沿岸にその威をふるい、ために世人は、彼らをば豺狼《さいろう》の化身なりとして、大いに怖れたものじゃ。この狼どもが、のちにこの国にもはいりこんできよって、フン族にのりうつってな、やがて好戦的なフン族が生ける火の玉となって地上をなめつくし、ついには彼らの手にかかって死んで行く者はみな、フン族の血管にはその昔、スキチアより追われて荒野において悪魔の仲間入りをした魔女どもの血が流れておる、などとほざいたもんじゃ。たわけめらが! ひと口に魔女・悪魔というがの、いかなる悪鬼|羅刹《らせつ》といえども、わがアッチラほどの偉傑は、まず世にはあるまいぞ。そのアッチラの血が、わしのこの腕に(と伯爵は高だかと腕を上げて)流れておるのじゃ。さればさ、われらは征服民族、それを誇りとしておるのに、なんの不思議があろうぞ。マジャール人、ロンバルド人、アヴァール人、バルガー人、さてはトルコ人、これら諸民族が数万の将兵を率《ひき》いてわが国境を侵《おか》したるみぎり、われらがこれを一撃のもとに追い散らしたも、なんの不思議もないことじゃ。降《くだ》っては、アルバドとその軍がハンガリア祖土の地を併呑したる際、アルバドは国境に来たってわれらがここにあることを見、ホンフォグララス人が完全であったのも不思議ではない。さらに降っては、ハンガリーの大軍が東方を席捲《せっけん》したおり、われらセクリー人は、勝利の征軍マジャール人の同胞として宣揚《せんよう》され、それより数世紀の間、われらはトルコ国境の守備隊として、大いに信望されたものじゃ。国境守備というものは、トルコ人が奇《く》しくも言うたように、『水は眠れど、敵は眠らず』でな、まことにこれは不断の任務じゃ。われら四つの民族がこぞって『血の剣』を授けられて、国王の旗印のもとに、雲霞《うんか》のごとき軍勢が疾風のごとく群がり集まったときのあの喜び、あれに増す喜びを味わった者が、どこにあるか? それほど天下に威名をとどろかしたわれらが民《たみ》の一大恥辱、ワラキア人とマジャール人の旗印が三日月の旗の下におろされたのは、いつであったか? 猛虎将軍の雷名をひっさげ、ダニューブ河を渡りこえ、われらに仇《あだ》なすトルコ軍をわが地において粉砕したのは、そも何人《なんびと》であったか? これぞ世に知る人ぞ知る、猛虎将軍ドラキュラその人であった。恨むらくは、彼が倒れしのち、やくざな弟めが国をトルコに売りはらい、きのうの敵の奴隷となりさがる恥を忍ばねばならんようなことになりおったが、時|降《くだ》ってわれら一門の分かれが、ふたたび河を渡ってトルコに押し入った際、陰に陽にそれを励まし助けた者こそは、たれあろう、かく申す不肖ドラキュラではなかったか? われドラキュラは、たとえひとたび破れて退くとも、いかでか挫《くじ》けて潰《つい》えばこそ、再三再四盛り返し巻き返したれど、いかんせん、時ついにわれに利あらず、全軍|屍《かばね》を野にさらせし血の戦場より、ひとり悄然と戻ったれど、かならず後日の勝利はかたくおのれに期するところがあったのじゃ。人呼んで彼がことを、わが身だいじの保身将軍じゃなどと嘲《あざけ》りおったが、小童《こわっぱ》どもが何をほざく! 頭にいただく指導者もないどん百姓づれが、何になる? 明晰なる頭脳と重厚なる度量、この二つを持てる人なくして、戦争はどこに終結する? その指導者のなかには、わがドラキュラ一門の縁者血縁の者があまたおった。げにわがドラキュラ家こそは、その知恵、その度量、その剣において、ハプスブルグ家やロマノフ家のごとき、にわか大名の及びもつかぬ、炳乎《へいこ》たる記録を誇る貴き家柄なのじゃ。なれども、戦乱の日はもはや過ぎた。こんにちのごとき、まことに不面目なる平和の時代には、『血統』こそが何にもまして貴いのじゃ。威名世にかくれもないわが一門の歴史は、まずざっとこんなものじゃよ」
こんな話を聞いているうちに、いつのまにか朝になったので、われわれはベッドにはいった。(どうもこの日記は、いつもハムレットの父の亡霊みたいに、鶏の声で終わるので、「アラビアン・ナイト」の書き出しみたいに気味が悪い)
五月十二日――きょうもまず事実から始めよう。――ありのままの、ごく些細なものでも、書物や数字で実証された事実は、そこにいささかの疑念もありえないはずだ。そういう事実を、自分の個人的な観察や記憶による経験でごまかしてはいけない。昨夜、伯爵は自室から出てきて、法律上の手続きや、ある種の事務上のことについて、いろいろ自分に尋ねた。昼間退屈まぎれに読書三昧にすごした自分は、夜分はロンドンの法務局で試験を受けた、そのおさらいをさせられたわけだ。伯爵の質問には、なにか筋道があるらしく、いずれこれは順々に追究していくつもりだが、これがわかると、なにかの時の役に立ちそうである。
まず伯爵は、イギリスでは二人以上の弁理士に依頼することがあるかと聞くから、それはある、希望によっては十人以上の弁理士に依頼することだってある。ただし、一件に二人以上の弁理士に依頼することは賢明ではない。一名でたくさんで、弁理士が何人も変わると、かえってつごうの悪いことが起こる、というと、伯爵は了解したらしく、では、依頼した弁理士のいる国から遠く離れた土地で、一名には銀行関係のことを頼み、もう一名のほうには船荷関係のことを頼みたいというようなときに、そういうことは支障なくスラスラと運ぶか、と聞く。自分は、迂闊《うかつ》なお答えをして間違うといけないから、もうすこし具体的におっしゃって頂きたいというと、伯爵は言った。――
「よろしい。では説明をしよう。知ってのとおり、わしはこんど、ロンドンから遠い、エクセターに住んどるホーキンズさんのおかげで、きみにもいろいろ厄介かけて、ロンドンに地所を買うてもらった。ところで、屋敷の所在地とはかけはなれた遠隔の地に住んどる人に依頼などして、へんだと思われるといかんから、なにもかもぶちまけて言うが、大体こちらとしては希望さえかなえば、場所の便宜などはどうでもよいと思って頼んだことでな、ロンドンの屋敷のほうはホーキンズ君なり、あの人の知合いなりが引き受けてくれるものと思うて、こちらはただ、わしのために骨身を惜しまずやってくれる代理人を捜しておったまでのことでな。わしもこれで向こうへ行くとなれば、いろいろ用もあるし、たとえばニューキャッスル、ダラム、ハリッチ、ドーヴァーなどへ船荷も送らんならんし、そういう港々の事務を一手にやってくれる者があると、大きに助かるんじゃが、どんなもんじゃろうな?」
自分は、そんなことはいと易いことだと答えた。――うちの事務所には各地にそれぞれ代理店というものがあるから、出先の事務はそこの代理店が処理してくれる。だから、依頼人は一人の弁理士に委託すれば、なんの苦労もなく、自分の思いどおりに事を運ぶことができる。――
「じゃが、それを直接こちらで指図するのは、自由じゃろうな?」
「もちろんです。商人はみんなそれをやっています。自分の取引を他人に知られたくない場合には」
「そうか、それならよい」と伯爵は言って、さらにその場合の委託の方法、手続き、またそこに起こると予想されるいろんな面倒な問題を未然《みぜん》に防ぐ方法などについて、根ほり葉ほり尋ねた。自分はここが腕の見せ場とばかり、くわしくその説明をしてやったが、伯爵の話は、しろうとのくせにじつに周到で、その考えといい、先の見えることといい、これなら自分でなろうと思えば、伯爵自身がりっはな弁理士になれる、――そんな印象を自分は受けた。イギリスに行ったこともないし、むろんそういう方面のことに大して経験もなさそうなのに、その知識と洞察力とはすばらしいものであった。で、こちらもできるだけ手もとの書物を参照して、まちがいのないところを正してやったので、伯爵も話の要点がよくのみこめ、満足そうに立ち上がると、
「そういえば、きみは先日ホーキンズさんに手紙を出して以来、まだどこへも便りを出しておらんかったな?」
自分は胸の痛む思いで、まだどこにも出していない、手紙を出すおりがないものだからというと、
「そうか。では、今これから書きなさい」と伯爵は自分の肩をたたいて、「ホーキンズさんと、それから、お友だちやほかの人たちに。きみにはまだあと一カ月ぐらい、ここにおってもらわにゃならんからの」
「えっ、そんなに長くご厄介になるんですか?」自分は考えただけでも、心臓が冷たくなる思いがした。
「そう願おう。いやとは言わせんよ。きみのご主人と契約をした時に、代わりにだれか人をよこしてくれといってやったのは、こちらに相談相手になる人間が入用だったからじゃよ。礼金は充分にしてあることだしの」
頭を下げて受諾する以外に、なにが自分にできたろう? わがことではない、なにごとも恩師ホーキンズのためだと思って、自分は目をつぶるよりほかはなかった。そればかりではなかった。それを自分にむかって言った時の伯爵の目つきと態度には、きさまは囚《とら》われの身なんだぞ、勝手なまねはさせんぞ、ということを厭《いや》でも思い知らせるものがあった。伯爵は、自分がしょうことなしに頭を下げたのを、ざまア見ろといわんばかりに見やり、板ばさみになった自分の顔を尻目にかけながら、持ち前のしんねりした猫なで声で、すかさず高飛車に言いだした。
「ところでな、手紙には事務的なこと以外に、よけいなことは書かんほうがよいぞ。きみが無事でおること、帰心矢のごとしでおること、それだけ書いてやれば、それでよいじゃろ」
そう言って、伯爵は三枚の書簡紙と封筒を自分にわたした。外国郵便用のごく薄っぺらな用紙である。自分はその薄っぺらな紙と伯爵の顔を見くらべた。ニヤニヤ薄笑いをうかべている伯爵のまっかな下唇には、尖った犬歯が二本、気味わるくのぞいていた。これはうっかりしたことを書くと、みんな伯爵に読まれてしまう。――自分は言わず語らずのうちにそれがわかったから、手紙はごく形式的な文句だけにとどめることにし、ただホーキンズ氏には内々でこちらの様子をつたえ、ミナには速記文字で書いて出すことにした。速記文字なら、伯爵が見たって、なんのことやらわかるまい。自分は二通の手紙を書きおわると、あとは静かに本を読んでいた。そのあいだ、伯爵もテーブルの上の書物をあれこれ参照しながら、何通かの手紙を書いていたが、やがてそれを自分の書いた手紙といっしょにインク壷のわきに置くと、部屋を出ていった。自分は椅子から身をのりだして、テーブルの上の封書をそっとのぞいてみた。封書は裏返しに置いてあった。こっちは自分の身を守るのに一心だったから、べつに人の手紙をのぞいて見ても、良心の咎《とが》めは感じなかった。
伯爵の手紙は、一通はホイットビー、クレセント街七番地のサムエル・F・ビリングトン宛、あとのはヴァルナのリュートネル氏宛のもの、ロンドンのカウツ銀行宛のもの、ブダペストのクロプストック銀行宛のもので、第二と第四のものは封がしていなかった。中味を見ようとしたところへ、扉のハンドルが動いたから、あわてて手紙を元のままに置いて、椅子に身を沈めて読みさしの本を手にとり上げると、伯爵がもう一通、べつの手紙をもってはいってきた。伯爵はテーブルの上の手紙に念入りに切手をはると、やがてこちらをふり向いて、
「すまんが、今夜はちょっとわしは用事があるから、きみはしたいことをしておってくれ」と言って、部屋を出がけに、もう一度扉口のところで足をとめ、「それから、念のためにいうとくが、やたらにほかのところへ行っても寝るところはないよ。この城は古くて、いろいろ昔のなごりがしみついておるから、無用心な心ない眠りかたをすると、悪い夢を見る。よいかな、ほかの部屋でよんど眠けがさしてくるようなことがあったら、急いであちらの寝室か、この部屋へ戻ってきなさい。そうすれば、安心して休める。軽はずみなことをすると、その時はな――」と伯爵は、なにやら凄《すご》みをふくんで口に出しかけた言葉を、途中で払いのけるような手つきをした。自分には伯爵の言いかけた言葉がわかっていた。ただおかしいと思うのは、いまこの自分の身のまわりを十重二十重《とえはたえ》に張りめぐらしている気味のわるい怪異の網《あみ》、これにます恐ろしい悪夢なんて、はたしてあるかということだった。
夜ふけ――自分は、さきほど書いた自分の言葉を確認する。こんどこそは疑いない。伯爵が城にいなければ、自分はどこで眠ったって怖いことはない。いまも枕元には例の十字架が置いてある。これさえあれば、悪夢に眠りを妨げられるようなことはあるまい。十字架はここにこうして置いておこう。
伯爵が出ていってから、自分は寝室へひきとった。しばらくたつと、もうなんの物音もきこえなくなったので、自分は寝室を出て、南のほうが見える部屋へ階段をのぼって行った。そこの窓から見える広々とした夜の景色は、自分の部屋から見えるまっ暗で狭い中庭にくらべると、とても今の自分には手のとどかぬ高|嶺《ね》の花ながら、なにかほっと胸のひらけるような解放感があった。そこから広闊《こうかつ》とした外を眺めると、いかにも自分は牢獄の中にいるという実感がわき、夜ではあるが、新鮮な空気を胸いっぱい吸いたい心持がする。夜の息吹《いぶき》が自分にささやきかけてくるのが感じられてくる。なんだか気でも狂いだしそうだ。自分の影を見てもハッとおびえ、ありとあらゆる恐ろしい想像が、からだ中にひしめいている。この恐怖! この不安! その根源がこの呪わしい城のなかにあることは、神のみがご存知なのだ!
昼間のように明るい、しずかな月光をあびた美しい夜景を、自分はしばらく飽かず眺めていた。遠い山なみが月かげのなかにボーッと溶け、黒いビロードのような谷々の影は濃く、その美しさは自分の胸に喜びをかきたててくれるようだ。息を吸うたび、つくたびに、安らぎと慰めがそのなかにあった。とそのとき、ふと自分の目が、なにか階下のあたりでチラチラ動いているものを捕えた。並んでいる部屋の見当からいうと、ちょうど左手の下、どうやら伯爵の部屋の窓のあたりである。自分が今立っている部屋の窓は石造りで、高くて深い。雨ざらしにはなっているが、壊れてはいない。むろん、以前は窓ガラスがはまっていたのだろう。自分はその石窓のかげにかくれながら、息をひそめて外をのぞいてみた。
自分が見たものは、むこうの窓からのぞき出ている伯爵の頭であった。顔は見えないが、頭や背中のかっこう、腕の動かしかたで伯爵だとわかった。あの手はなんどもよく見ているから、どこで見たってまちがいっこない。へーえ、こいつはおもしろいぞ。――最初、自分はそんな心持だった。囚人なんてものは、つまらないものにも興味をおこすものだ。
ところが見ているうちに、自分の気持は、たちまち顔をそむけたいような嫌悪と戦慄に変わった。窓からスルリと抜けでた伯爵が、屏風のように切り立った、下は千仭《せんじん》の谷を見下ろす城の外壁を、逆さになってスルスル這い下りだしたのである。着ているマントがパッとひろがって、まるで大きな羽根のように見える。自分は最初、自分の目が信じられなかった。月の光で、なにかの影がそう見えたんだろうと思った。しかし、なおもよく見ていると、見間違いではない。指の先と足の爪先とで、風霜のために漆喰《しっくい》の欠けた外壁の石の角にしがみつきながら、かなりの早さで、逆さになってスルスル下りていく伯爵のかっこうは、まるで壁を這《は》うトカゲのようであった。
これは人間|業《わざ》か、それとも、人間の皮をかぶった化け物のする業か? 自分はこんな身の毛のよだつような所にがんじがらめになっている恐ろしさを感じた。怖い。ほんとに怖い。――とてもこれでは、この城から逃げ出すことなどできっこない。自分のまわりには、考えようたって考えられないような恐ろしいことが、ギッシリと取り巻いているのだ。
五月十五日――自分は今、またもや伯爵が、トカゲみたいな格好をして外へ抜け出して行くのを見たところだ。伯爵は、五、六百フィートもある城の外壁を、はるか左のほうへ斜めに這い下りていくと、そのまま、どこかの窓か穴のなかへ消えてしまった。伯爵の頭が見えなくなったので、自分はからだをのり出してよく見ようとしたが、自分のいるところからは遠すぎて、視角がうまく合わないので駄目だった。自分は伯爵が城から出て行ったことがわかったので、よし、この機会にまだ行ってみたことのない城のなかを探検してやろうと考えた。
そこで部屋へ戻って、ランプを持ってくると、城内の扉口という扉口を虱《しらみ》つぶしに調べて歩いた。案のじょう、どこの扉にも厳重に錠がかけてあり、しかもその錠前はわりあい新しいものだった。自分は石の階段を下りて、はじめてここへ来た時に通った階下のホールへ行ってみた。玄関の大戸の閂《かんぬき》や鎖はわけなくはずれたけれども、大きな錠前がガッチリとかけてあって、それをあける鍵が見当たらない。鍵は伯爵の部屋にあるにちがいない。鍵が手にはいれば、ここから逃げ出せるのだから、なんとかして伯爵の部屋にうまく鍵のかかっていない時を狙《ねら》わなくてはならない。
そこで自分は大小の階段、廊下という廊下を全部調べ、廊下に面した扉口を片っぱしから叩いてまわったが、どこもみんな鍵がかかっている。ただ、ホールのそばの一、二の小部屋の扉だけがあいていたが、そこは、いずれも中に埃だらけの、虫の食ったガラクタ家具が押しこんであるだけだった。最後に、階段の一ばんてっぺんまで登ってみると、そこにも扉口が一つあった。ここも鍵がかかっているようだったが、押してみると、扉がすこし動く。しめた! と思って、グイグイ押してみると、じつは鍵はかかってなくて、蝶番《ちょうつがい》がはずれて重い扉が床に落ちたままになっているために開かないことがわかった。こんな機会は二度とあるまいと思ったので、自分は渾身《こんしん》の力を出して、体あたりにグイグイその扉を押してみた。するとやっとのことで、重い扉が中のほうへすこしずれて、どうにか体がはいれるくらいの隙間ができた。で、中へはいってみると、そこは城のずっと右手のはずれにあたる翼室で、自分の知っている部屋よりも一階下の部屋であることがわかった。窓からのぞくと、城の南側の部屋がズラリと並んで、西と南を望む例の部屋の窓も見える。南側は、あの部屋と同じように、切り立りた絶壁だ。この城は、大きな岩山の尖った頂上に建っているのだから、三方はじつに要害堅固にできており、大きな窓々は、弓、鉄砲、石投げも届けばこそ。しかも、そういう安全な場所としては、めずらしく採光がいいから、明るくて気持がいい。西の方《かた》には大渓谷があり、そのさきは遠く山また山が鋸《のこぎり》の歯のような大きな屏風を打ちかさね、切り立った岩山の肌には、岩の裂け目や岩角に根をしがむイバラやナナカマドが、ところどころにはえている。
室内にある、いかにも優雅な家具調度類から見ると、おそらくこの部屋は、むかしは高貴の婦人たちが寝起きしていた曹司《へや》だったのだろう。窓にはカーテンがなく、ダイヤ型に仕切った窓枠から、月の光がこうこうとさしこんでいるので、物の彩色《あいろ》が夜目にもそれとわかる。部屋じゅう、どこもかしこもうずたかい埃で、荒れほうだいになっている。昼をあざむく月光に、ランプの灯影など役に立たないくらいだが、でも持ってきてよかった。へんに体の芯《しん》が寒く、全身がガタガタするくらい、いやに寂しい部屋だが、それでも伯爵の前にいるのが厭になりだした向こうの部屋に一人でいるよりは、よっぽどいい。
しばらく気をおちつけているうちに、どうやら心持も静まってきた。自分は今、古い樫《かし》の小机の前にすわっている。そのむかし、美しい姫君かなにかが、うら恥ずかしい思いのたけをこめて、当て字だらけの恋文でも書いたであろうその机の上で、この日記の続きを速記文字で書いている。世は十九世紀のまっただ中、しかし昔のものには昔のものの、今の世のいわゆる「新しさ」など歯の立たぬ独特の力が、今もなおあるように思われるのは、あながち気の迷いのせいばかりではあるまい。
五月十六日朝――こうして今、この日記を書いているところを見ると、神はまだ自分に、正気だけは残しておいてくださるらしい。安全とか、安全の確証とか、そんなものはもう過去のものだ。この城に生きている間、自分のただ一つの希望は、さいわいまだ気がふれていなければ、どうか発狂だけはしたくない、ただそのことだけだ。でも、かりに自分が正気だとして、この憎むべき城のなかの忌《いま》わしいことだらけのなかで、自分にとって伯爵がいちばん怖くない、安全を求められるのは伯爵だけだ、などと考えたなら、そのことがまさに頭がどうかしかけているにちがいない。もっともこれは、自分が伯爵の用を足している間だけのことだが。――ああ神よ! 恵み深き神よ! おねがいです、どうか自分に平静を授けてください! 平静をなくしたら、自分は発狂してしまいます。いままで自分を迷わしていたことに、やっと少し新しい光明がさしかけてきたところだ。シェイクスピアがハムレットに言わせた次の言葉の意味など、今の今まで、まるで自分にはわからなかったのだ。
「書く物をくれ、早くくれ!
書くことが対戦なのじゃ」
自分はいま、頭のなかがもう壊れてしまったか、あるいは、それが消えたら一巻の終わりの、最後のショックにでも見舞われたかという、そんな心持で、気を鎮《しず》めるためにこの日記を書いている。正確に書いていくという自分の癖が、いくらかでも気を鎮める助けになるにちがいない。
伯爵の言った奇怪な警告に、自分はあの時ギョッとしたけれども、あの警告を考えている今のほうが、心のおののきははるかに深い。どうせ、いつかは伯爵に怖い目を見せられるのだ。伯爵の言うことが、これからも果たして自分に疑えるだろうか!
昨夜、自分はあの部屋で日記を書いて、帳面とペンをポケットにしまったら、眠けがさしてきた。その時伯爵の警告が頭に浮かんだが、それを無視することに痛快をおぼえた。眠たいあまり、頑《かたく》なな気持がともなったという点もあったろう。静かな月光に心が安まり、窓外の広闊とした眺めが、身も心も洗われるような解放感をあたえてくれた。よし、今夜はもう、あんな陰気くさい怪しい部屋なんかへ戻らずに、ここで寝ることにしようときめた。ここは昔、淑女たちが、遠い悔いなき戦場におもむいた戦士たちのために、やさしい胸を痛めながら歌をうたったりして、みやびな日々を送ったところだ。そんなことを考えながら、自分は部屋のすみから大きな長椅子をひきずり出してきて、その上にごろりと横になった。こうしていると、寝ながらにして、東南にひらけている窓外の美しい夜景が眺められる。あたりにうず高くつもっている埃《ほこり》のことなど気にもとめず、考えもせずに、自分はさっさと寝支度をした。そのうちに寝こんだのにちがいない。そう自分では思いたいのだが、そのあと、どうしても夢とは思えぬ、驚くばかりに生《な》ま生ましい――今ここにこうして明るい朝の日を浴びて自分がすわっている、それと変わりがないくらい、生ま生ましいことが起こったのを見ると、どうも眠っていたとは思えない節《ふし》があるのだ。
自分はその部屋に一人でいるのではなかった。部屋は同じ部屋で、自分がそこへはいった時とどこも変わっていない。こうこうとさしこむ月かげの中に、床《ゆか》につもった埃を踏みちらした自分の足あとが、はっきりと見えている。その月光のなかに、自分のすぐ向こう前に、なりかたちから見ると淑女とおぼしい三人の若い女がいるのだ。その時、ははあ、これは夢だなと自分で思ったのは、月の光はその三人の女のうしろからさしているのに、三人が三人とも、床の上に影を落としていないからだった。三人の女は、寝ている自分のそばへ寄ってきて、しばらくジロジロ眺めながら、なにかヒソヒソ言っていた。なかの二人は肌が浅黒く、伯爵によく似た鷲《わし》鼻で、人を射るような黒目が、青白い月光のなかで、なんだかまっかに見えた。あとの一人は、これはすごい美人で、金髪ゆたかに、目がサファイアのように青い。顔はどこかで見たような、それもこういう夢のような怖さと関連して見たようだが、どこでどんなふうに見たのかは思い出せない。三人とも歯が真珠のように白くて、それがルビー色のむっちりした肉感的な唇に、ひときわ鮮かに光っている。吸いついてやりたいような、そのくせなにか怖いような、へんにおちつかない心持を起こさせる唇である。正直いうと、内々自分は、あの紅い唇で女のほうから口づけしてくれたらなあと、そんなさもしい欲情が燃えるのを覚えた。あとでミナの目に触れると気に病むから、こんなことは書かないほうがいいのだが、でもそれがその時の嘘かくしのない気持だった。
とそのとき、ヒソヒソ小声で話していた女たちが、三人いっしょに声をあげて笑った。その笑い声が、人間の口から出る声音《こわね》とは思えない、銀をまろばすような――だれか上手《じょうず》な手が杯《さかずき》をチリカラ鳴らしでもするような、なんとも言えない美しい声だった。美人の女が甘えるような≪しな≫をつくって首をふると、あとの二人がけしかけた。
「おやりよ。おまえさんが先だよ。わたしたちはあとさ。おまえさんが皮切りだよ」
もう一人の女が言った。「若くて丈夫そうな男だよ。三人で接吻したって大丈夫さ」
こっちは嬉しくなって、ゾクゾクしながら、薄目をあいてじっと横になっていた。やがて美人の女が進みでたと思うと、息づかいがわかるくらい、自分の上に体をグッとこごめてきた。女の息には蜜のような甘い香りがあった。それが先刻の声と同じように、なにかムズムズするような感じを自分に与えたが、その甘い息の香のなかには、胸のむかつくような血なまぐさい匂いがまじっていた。
自分は目をあけるのが怖かった。しかし、目をあけなくても、瞼《まぶた》の裏に、なにもかもありありと見えた。女は床に膝をついたまま、のしかかるように自分の顔をのぞきこんでいる。しなやかな首をさしのべて、猫か犬のようにピチャピチャ舌なめずりしているのが、へんに肉情的で、わくわくするような、そのくせ近寄ってはならないような、なにかじれったい感じであった。白い尖った歯を舐《な》めずる女のまっかな唇とまっかな舌が、月の光に濡れ輝いているのが、すぐ目の上にはっきりと見える。
そのうちに、女の顔がだんだん下へ下がってきて、唇がこちらの口から顎のほうへと這いより、今にも咽喉のあたりへ吸いつくかとみえたが、女はあわやというところで一と息入れた。口なめずりをする舌の音がはっきりと聞こえ、首すじに熱い息がかかった。咽喉のあたりの皮膚が、だれか人の手が近づくとムズムズするあの感じで、いやにくすぐったかった。自分は過敏になった咽喉の皮膚に、柔らかな震える唇の感触をおぼえ、三本の堅い鋭い歯がそこに止まったのを感じた。自分は恍惚として目を閉じ、胸を波打たせながら待った。
ところがその時、ふいにべつの感覚が、稲妻のように自分の心にひらめいた。伯爵がこの部屋のなかにいる。しかも、怒りの嵐のなかに憤然として立っている。――それを自分は意識した。ハッと思って目を開いたとたんに、自分は伯爵のあの逞しい手が、自分の上にかがみこんでいる女の襟《えり》がみをムンズとつかんだとおもうと、例の金剛力でエイとうしろに引きずり倒したのを見た。美人の女の青い目は、たちまち怒りのために三角にそばだち、白い歯が憤怒でキリキリ鳴り、美しい両頬がカッと燃え立った。伯爵はと見ると、自分はあんな恐ろしい怒りの形相を今まで想像もしたことがない。両眼はらんらんと輝き、まるで地獄の業火《ごうか》が目の奥で燃えているように、まっかな光を放っている。死人のように青ざめた顔の線は、針金のようにひっつり、鼻梁《びりょう》の上にせまる眉が、灼《や》けただれた鉄の棒みたいに、まるで白熱の光を噴《ふ》いているかのよう。伯爵は、すがりつく美人の女を、片手で烈しく薙《な》ぎはらうと、ほかの二人の女に向かっては、烈しくうしろへ突き倒すような身ぶりをした。ちょうどそれは、例の狼にしたのと同じの、ものものしい大|見得《みえ》であった。そして低い声だが、闇のなかを部屋中に鳴りわたるような大声で、
「おぬしら、ようもぬけぬけと、この男に手を出しおったな? あれほどおれが禁じておいたのに、ようもこの男を見たな? この男はおれのものだ! よけいなちょっかい出すと、おぬしらも、こやつと同じ目にあわしてくれるぞ!」
すると美人の女がふり返って、色けをふくんだ怪しい声をたてて笑った。
「おほほほ、恋の味も知らぬくせに、おほほほ!」
それに合わせて、二人の女も、生気《せいき》のない、魂のぬけたような声をたてて、ケケケと笑った。部屋中にひびき返るその声に、自分はあやうく気が遠くなりかけた。伯爵はこちらをふり向くと、自分の顔をしげしげと見入ってから、低い声で言った。――
「おれとて、恋はできる。昔のおれを見い。おぬしら、知っておろうが。よいわ、この男はおれのほうで用がすんだら、おぬしらの好きなまま口づけさしてやるわ。さあ、もう行け! おれはこの男を起こしてやらにゃならぬ。まだだいじな用があるのじゃ」
「それでは、今夜は手ぶらで帰るのかえ?」
と女の一人が低い笑い声をたてて、さきほど伯爵が床の上に投げ出した袋を指さしながら言った。袋は、中になにか生きものがはいっているように、モソモソ動いている。伯爵は答えのかわりに首を縦にうなずくと、女の一人がいきなり袋に飛びついて、いそいで袋の口をあけた。自分はその袋の中から、まだ頑是《がんぜ》ないみどり児の泣きじゃくる声を、はっきりとこの耳に聞いた。恐ろしさにアッと仰天したそのすきに、三人の女はたちまち袋のまわりにたかったと思うと、恐ろしい袋をひっつかむなり、どこかへ姿が消えてしまった。扉口がそばにあったわけでもなく、自分のそばをすり抜けて行った気配もないのに、まるで月光のなかへ吸いこまれるように、三人の女は窓から外へ出ていったらしい。それが証拠には、三人ともかき消えるまえに、しばらく窓の外にもうろうとした姿が見えていた。
自分は恐怖に打ちのめされたまま、なにもかもわからなくなった。
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四
ジョナサン・ハーカーの日記≪つづき≫
目がさめてみると、自分はベッドの中にいた。あれが夢でなかったとすると、伯爵がここまで運んできたのにちがいない。このことはいろいろ考えてみたのだが、これはという答えが出てこない。小さな証拠は、なるほど幾つかある。たとえば、自分の服がいつもの畳《たた》みかたとは違う畳みかたで、別の場所に置いてあったり、いつも寝る前に巻くことにしている懐中時計のネジが巻いてなかったり、そういう細《こま》かいことはいろいろある。でも、そういうことは、こちらの気持がふだんとは違っていた――つまり、なにかの理由で気が転倒していたことを語っているわけだから、証拠にはならない。ただ、ひとつ良かったことは、かりに伯爵が自分をここまで運んできて、服をぬがしてくれたとしても、ポケットの中が手つかずになっていることだ。伯爵もよほど急いでいたのだろう。ひょっとして、この日記でも見つかっていたら、むろん怪しい品として容赦なく取り上げられたうえ、破くか焼くかされていただろう。こうして今、見わたすこの部屋も、ずいぶん怖いことだらけの部屋だったけれど、自分の血を吸うあんな恐ろしい女どもが外に待ちかまえていることを思えば、どうやら今はここが自分にとっての唯一の避難所のようなものだ。
五月十八日――昼間、明るいところで、もう一度あの部屋の正体を見とどけてやろうと思って、今行って見てきたところだ。階段のてっぺんにある部屋の前まで行ってみると、入口の扉がぴったり閉まっていた。あの時むりにこじあけた傷の跡が、柱に残っている。扉には外から錠も閂《かんぬき》もかかかっておらず、中からなにかしっかりと支《か》ってある。これで見ると、あれはやはり夢ではなかったらしい。この推定の上に立って、自分は行動しなければならぬ。
五月十九日――自分はたしかに罠《わな》にかかっている。昨夜、伯爵は例のもの柔らかな調子で、自分にまたさらに三通の手紙を書かせた。一通は、もうここの仕事もあらかた済んだから、四、五日したらこちらを発《た》つという便り。一通は、明日何時にこちらを発つという知らせの手紙。もう一通は、すでにここを発って、ビストリッツに着いたという手紙である。いっそ書くのはいやだと言ってやろうかとも思ったが、でも考えてみると、今の自分は完全に伯爵の手中にあるのだから、ここで面とむかって喧嘩なんかしたら、まずそれは狂気にもひとしいことで、断わったりすれば、相手の不審をあおって、怒りを買うことはわかりきっている。逆らえば、まず生きてはいられまい。それをこっちが知っているのを、相手は承知の上なのだ。しょせん、こうなったら気長に折りを待つよりほかに、手はない。そのうちに、あわよくば、なんとか逃げ出すチャンスを与えてくれるようなことが起こるだろう。そう思って、伯爵の目を見ると、その目には、あの美人の女を薙《な》ぎ払ったときに現われた、猛然たる憤怒《ふんぬ》の色が光っていた。
伯爵は言った。――こんな辺地では、手紙も定期便がないので、まことに心もとない。たよりをやれば、きみの友人もきっと安心するだろう。ただし、あとの二通はこちらに保留しておく。滞在が長びくようなことがあるといけないから、適当な時までビストリッツの局に留めておく。きみがそれを承知せんと、かえってない腹を探られるようなことになるぞ、と威《おど》かすような調子で念を押した。自分はしかたなく、御説ごもっともなふりをして、手紙に書き入れる日付をたずねると、伯爵はしばらく考えていたが、
「一通目のが六月十二日、二通目が六月十九日、三通目が六月二十九日じゃ」
ああ、自分の命も、もはや風前のともしびだ。神よ、助けたまえ!
五月二十八日――脱出のチャンス到来。逃げ出せないまでも、とにかく、本国へたよりを出すことだけはできそうだ。ツガニー人の一隊が城へやってきて、中庭に天幕《テント》をはって泊まりだしたのである。このツガニー人たちはジプシー(浮浪の民)で、自分は手帳にもそのことは書きとめておいたが、彼らは世界各国にいる普通のジプシーと横の連絡はあるけれども、もともとこの地方独特の連中で、ハンガリーからトランシルヴァニアにかけて何千人といる。もちろん治外法権者で、原則としては大きな貴族に隷属し、主人であるその貴族の名を名のっている。世の中に怖いものなしという連中で、迷信以外には宗教をもたず、言語は多種多様な彼ら独自のロマニー語をつかっている。
このツガニー人の手で、本国宛に書いた手紙を投函してもらうのだ。ここのところ、毎日寝室の窓から言葉をかけて、顔なじみになっている。こちらを見ると、みんな帽子をぬいで、挨拶をしたり手まねをしたりする。しかし、言葉はなにを言ってるのか、さっぱりわからない。……
自分は手紙を書きあげた。ミナ宛のは速記文字で書き、ホーキンズ氏宛のは、かんたんに、ミナと連絡をとってもらうように頼んだ。ミナには自分の現況を説明しておいたが、こちらが揣摩臆測《しまおくそく》している恐怖のことには、ひとことも触れずにおいた。こちらの気持を洗いざらいぶちまけてやったら、それこそびっくりして、ショック死してしまうだろう。伯爵に見つからずに、ぶじにこの手紙が出せればいいが。……
今、やっと手紙を渡したところだ。窓の心ばり棒のすきまから、金貨といっしょに手紙を下に投げ、これを投函してくれと合図をすると、拾った男は、手紙を押しいただいてお辞儀をし、帽子のなかにそれをしまいこんだ。まず、これでよし。自分は書斎にそっと戻ると、なに食わぬ顔で本を読みだした。――伯爵が来ないので、ここまで書いた。……
伯爵がきた。伯爵は自分のそばに腰をおろすと、見おぼえのある二通の手紙をおもむろに開封しながら、例のしんねりした調子で言いだした。――「今、ツガニー人がわしにこの手紙を渡したが、これはだれが出したのかな? 油断がならんな。……ほほう、これはしたり、一通のほうはきみからホーキンズさんに出したものじゃな。それから、こちらの一通は」と言って封をひらきながら、速記文字を見たとたんに、きゅうに顔が曇り、目が意地悪く光って、「これはけしからん手紙じゃ。友人を馬鹿にするもはなはだしい。署名がしてないぞ。フン、してみると、これはわれわれに関係のない手紙じゃのう」そう言って、伯爵はミナ宛の手紙を燭台の灯の上にかざすと、見ている前で焼き捨ててしまった。
「ホーキンズさんに宛てたほうは、きみが書いたものだから、これは出すことにしよう。きみの手紙はだいじじゃからの。つい知らんで封を切ってしもうて、悪かった。すまんが、もう一度|上書《うわが》きを書いてもらおうか」といって、伯爵はホーキンズ氏宛に書いた自分の手紙と新しい封筒を一枚、いんぎんに会釈《えしゃく》をして渡すから、自分は上書きを書いて、黙ってそれを伯爵に渡すよりほかになかった。伯爵はその手紙をもって、すぐに部屋を出ていった。出て行きしなに、扉に錠のおりる音がカチャリときこえた。しばらく待ったのち、ためしに扉をあけようとしてみたら、案のじょう、扉には錠がおりていた。
一、二時間して、伯爵が部屋にはいってきたとき、自分はソファの上でまどろんでいた。気配に目をさますと、伯爵はいやにきげんがよく、自分が横になっているのを見て、
「きみ、疲れたのか? 疲れたら、そんなところでうたた寝などせんと、ちゃんとベッドにはいって寝なさい。そのほうが休まるよ。わしも今夜は用事があるので、おしゃべりのおつきあいができん。まあ、こういう時にはゆっくりと休みなさい」
いわれるままに、自分はひと足先に失礼して、寝室へはいってベッドにもぐりこんだ。ふしぎと今夜は夢も見ずに、ぐっすりと寝られた。絶体絶命も、ちょっと中休みというところか。
五月三十一日――けさ起きたとき、自分はいつでも隙を盗んで、書ける時に手紙を書く用意に、鞄から紙と封筒を出して始終ポケットに入れておこうと思ったら、またもや驚いた。鞄のなかには、いつのまにか封筒も、紙も、手帳も、帳面も、汽車の時間の控えも、身分証明証も、きれいになくなっていた。城から一歩外へ出れば、どれもこれもなくてはならない、みな必要な品ばかりだ。自分はややしばらくすわりこんで思案しているうちに、もしやと思って、衣裳戸棚にかけておいた服と旅行鞄を見てみると、ここへ来たとき着ていた服も、外套も、どこへ行ったか影も形もない。敵はどうやら、なにか新手の悪企《わるだく》みを考えだしたようだ。……
六月十七日――けさ、ベッドのはしに腰かけて頭をもんでいると、城の中庭の岩だらけな道を登ってくる馬の蹄《ひづめ》の音と、鞭の鳴る音がきこえた。やれうれしやと、急いで窓ぎわへ飛んで行ってみると、二台の大型の荷馬車が、ちょうど中庭へのりこんでくるところだった。八頭びきの荷馬車で、二台ともそれぞれ先頭の馬には、大きな帽子をかぶり、鋲《びょう》を打った皮帯をしめ、よごれくさった羊の毛皮を着た、長靴ばきのスロヴァキア人が一人ずつ、手に長い棒をもって乗っている。とにかく自分は階下へおりて、大ホールからみんなのいるところへ出て行ってみようと思って、寝室の扉をあけようとしたら、またまたアッと驚いた。扉は外からしっかりとあかないようかに、なにか支《か》ってあるのだ。
それから自分は窓に駆けよって、大声で下の連中を呼んだ。二人の馭者がキョトンとした顔つきで、こちらを見上げたが、そこへツガニー人の「頭《かしら》」が出てきて、馭者がこちらの窓を指さすのを見て、なにか言ったとみえ、二人の馭者は大口あいてゲラゲラ笑った。それっきり呼べと叫べど、なんの手答えもない。だれ一人こちらを見上げようともしない。
そのうちに馭者たちは、荷馬車に積んできた、縄をからげた大きな木箱を、一つずつ馬車から下ろしだした。木箱は形こそ大きいが、手軽に下ろしているところを見ると、中味はからなのだろう。やがて全部下ろしおわって、中庭の隅に空箱の大きな山ができると、馭者はツガニー人の頭《かしら》から、めいめいなにがしかの金をもらい、もらったその金に、縁起をかつぐのかベッと唾を吐きかけ、それから乗ってきた馬のところへ行った。まもなく、鞭《むち》の音がだんだん遠ざかっていくのが聞こえた。
六月二十四日|払暁《ふつぎょう》――ゆうべは、伯爵はわりと早く自分と別れてから、自室に錠をかけてひきこもってしまった。自分はさっそく回りばしごを駆け上がって、例の南に面した部屋の窓から外をのぞいた。伯爵がきっとなにかおっ始めるにちがいないから、見張ってやろうと思ったのである。ツガニー人たちは城のどこかへ分散して、これもなにごとかしているらしい。その証拠には、ときどき城の下のどこか遠くのほうで、ツルハシと鋤《すき》の音がきこえる。それが何であれ、いずれ血も涙もない悪事の端《たん》となるにちがいない。
かれこれ三十分近く窓からのぞいていると、やがて伯爵の部屋の窓から何か出てきた。物かげに身をよせて、じっと見まもっていると、果たせるかな、出てきたのは伯爵だった。見ると愕《おどろ》いたことに、今夜の伯爵は、まえに見えなくなった自分の旅行服を着こんで、さきの夜、例の三人の女がもって行った、あの恐ろしい袋を肩にかついでいる。なにか魂胆があることは疑いない。しかも、おれの服を着て! これは伯爵の新しい悪事の企みだ。伯爵はおれに化けて、そのおれを他人に見せ、それで、おれが手紙を出しに行くところを町か村で見かけたという証拠をのこし、彼が起こす悪事を土地の人たちにおれがやったと思いこませようと、両|天秤《てんびん》をかけているのだ。
こういうことは起こりうると考えると、自分は怒りで頭がカーツとなってきた。しかも、こっちはいくらジタバタしたところで、城のなかに監禁されているまったくの囚人の身だ。罪に問われた者の権利であり慰籍である法の庇護がまったくない身だ。
よし、伯爵の帰ってくるところを見届けてやるぞ。そう思って、自分はだいぶ長いこと窓のかげに陣どっていた。今夜も月がいい。すると、こうこうとしたその月光のなかに、なにかかすかな黒い点のようなものがいくつもフワフワ舞っているのに気づいた。はじめは塵のようなごく小さな粒だったのが、見ているうちに、クルクル、クルクル回りながら、霧のように凝集してきた。奇妙なことに、そのクルクル回っているものをじっと見ていると、なんとなく胸の中がいやされるような、おちついた気分が忍びよってきた。銃眼のくぼみにもたれながら、らくな姿勢でいい心持になって見ているうちに、だんだん自分は、夜空ではねまわっている不思議なその現象に、心を吸いこまれていった。
と、ふいに自分をハッとさせたものがあった。城の下の、ここからは見えないどこか遠くの谷のあたりから、低い、哀れっぽい犬の遠吠えが聞こえてきたのである。その声が耳のなかで、だんだん大きくなってくるようであった。すると、さきほどから月光のなかでフワフワ塵《ちり》のように舞っていたものが、その遠吠えの声につれて、しだいになにかの形になってきた。同時に自分は、なにか自分の本能の声に目をさまそうともがいている――というよりも、自分の中にある半分忘れかけた意識が、その声になんとか答えようとしている、そんな心持がした。まるで催眠術にでもかかっているようであった。塵みたいなものは、ますます早くクルクル舞い、そのために、月光がこちらの闇の中へさしこむ時に、ユラユラ揺れているように見えた。
そのうちに、塵はだんだん密集してきて、なにやらもうろうとした黒い怪しげな形になってきた、自分はハッと目がさめ、はっきりと我《われ》に返ったとたんに、アッと声をあげて窓から逃げだした。月光のなかにしだいに形を整えてきたその黒い影は、さきの夜、自分の血を吸いにきた例の三人の女たちだったのである。自分は夢中で逃げて、自分の部屋へ駆けこみ、そこにランプの灯があかあかとともっているのを見て、ホッと胸をなでおろした。
それから二時間近くたった頃であろうか。伯爵の部屋でなにやら気配がして、締めつけられるようなギャッという悲鳴の声を聞いた。それなり、あとは万籟《ばんらい》一時に絶えたように、しんと静まりかえった。自分は背筋が寒くなった。高鳴る胸をおさえながら、そっと扉をあけようとしたら、扉にはいつのまにか錠がおりていた。自分は閉じこめられたまま、手の出しようもなく、そこへガックリとくずおれると、ひとりでに泣けてきた。
とその時、城の中庭で、だれか女の泣いている声がきこえた。恨むがごとく、嘆くがごとき鳴咽《おえつ》の声だ。自分は窓に駆けよって、桟《さん》の間から下をのぞいて見た。見ると、なるほど髪をふり乱した一人の女が、走って息が苦しくなった時みたいに、両手を胸にかきあわせながら、城の大扉のすみにもたれて立っている。女は窓からのぞいた自分の顔を見ると、ヨロヨロと前に走り出て、呪いにひしがれたような声で、
「この化けもの! 人でなし! おらの子を返せ!」
と叫ぶと、いきなり地べたに膝をついて、両手を高く上げ、胸をえぐるような声で同じ言葉をくりかえし、髪をかきむしり、胸を打ち、身も世もない破れかぶれの狂乱の体《てい》で、わっとばかりにそこへ身を投げ伏した。そのために、こちらからは女の姿が見えなくなったが、平手で門の大戸をドンドン叩く音が、いつまでも聞こえていた。
すると、その時であった。城の天守かどこか高いところから、伯爵の太い荒びた声が呼ばわるのがきこえた。と、その声に答えて、遠くのほうから狼の吠える声がきこえだしてきた。狼の声はたちまちのうちにグングン近くなり、何分もたたぬうちに、城の中庭への広い入口へと、先を争って唸り声をあげながら、水門をあけた堰《せき》の水のようにドッとなだれこんできた。
女の泣き声は、それきり聞こえなくなった。やがて群狼の声もとぎれとぎれになり、ピチャピチャ舌なめずりしながら、汐がひくように遠ざかっていった。
自分はその女が可哀そうだと思うよりも、彼女の子がどんな目にあったかを知っていたから、いっそ彼女も死んだほうがましだったろうと思った。
いや、そんな他人《ひと》のことよりも、自分はいったいどうなるのか? 自分になにができるか? この恐ろしい、身の毛のよだつ毎夜の恐怖から、自分はどうしたら脱出できるのか?
六月二十五日朝――こういう夜の恐怖というものを知らない人には、朝というものがどんなになつかしいものか、この気持はわかるまい。けさなど、朝日が高くのぼって、部屋の窓の正面にある城の大門にさしたのを見たときは、まるで、ノアの箱舟から飛びだした鳩が、そこへ下りて止まったほどの喜びを感じた。朝の光を見ると、霞《かすみ》の衣《ころも》が日の暖かみで溶けるように、恐怖は自分から落ちるのだ。だから、事を決行するとすれば、昼間の元気が自分を支配している間に、行動をとらなければならない。例の偽《にせ》手紙のうちの一通は、昨夜のうちに投函されたろう。あの三通の手紙は、自分の生存の足跡《そくせき》を、この地上から次々に抹殺していく手紙だ。昨夜のは、その第一弾だ。
あんな手紙のことは考えまい。それより、行動だ!
ふしぎなことに、自分が苦しめられたり、脅かされたりするのは、いつも夜に限られている。危ない目にあうのも、怖い思いをするのも、きまって夜だ。そういえば、自分はここへ来てから、昼間伯爵の姿を見たことがない。人が起きている時に伯爵は寝ていて、人が寝ている時間に伯爵は起きているのだろうか? なんとかして伯爵の居間へ忍びこんでやりたいものだが、それはしかし、とてもできない相談だ。伯爵の居間にはいつも錠がおりている。とても忍びこむ手だてはない。
いや、手だてはないことはない、思い切ってやれば。伯爵にできて、ほかのものにできないということはあるまい。自分は伯爵が窓からトカゲのように這い出したのを見た。あのまねをして、伯爵の部屋の窓まで、行かれないだろうか? もとより必死の仕事だが、せっば詰まったこっちのほうがよっぽど必死だ。一か八《ばち》か、やってみることだ。しくじったら、死ぬまでだ。なに、万物の霊長たる人間が、そう虫ケラみたいにたやすく死ぬものか。ここにこのままこうしていれば、もっと恐ろしいことが降《ふ》りかかってくるのだ。神よ、御加護を垂れたまえ! しくじったら、ミナにもおさらばだ。わが第二の父ホーキンズ氏よ、さようなら。ミナよ、今生《こんじょう》の別れだ。さらば!
同日、午後――やったぞ。とうとうやったぞ。神はお助けくださった。自分はぶじに今、この部屋へ戻ってきたところだ。とにかく順を追って、くわしく書くことにしよう。――自分は元気の失《う》せないうちにと思って、まず南側の窓までまっすぐに行き、すぐと城をとりまく外壁の上の、狭い石の端に出た。城の外壁の石は、大きく粗《あら》く切ってあって、大石と大石の間につめてある漆喰《しっくい》は、風霜のためにところどころ欠け落ちて、穴があいている。自分は靴をぬいで、命がけの軽業《かるわざ》に一歩踏みだした。念のために、ちょっと下をのぞいたら、とたんに千仞《せんじん》の高さにたちまち目がくらんだから、以後は下を見ないことにした。伯爵の居間の方角と距離は、充分に心得ているから、とにかくこの際、一気に決行する覚悟だった。気が立っているせいか、思ったほど目もくらまず、案外早く伯爵の居間の窓の敷居まで行きつき、そこの窓枠の上に立って、ガラス戸をあけにかかった。さすがに気がせく。でも、ようやくのことで窓をあけて、足から先に部屋のなかへ滑りこんだ。
ところが、意外なことに、またうれしいことに、部屋の中を見まわしてみたが、伯爵は見つからなかった。部屋は藻抜《もぬ》けのからだった。室内は、見たこともないような妙な物で、いろいろ飾りたててある。家具調度はさきの夜、あの南面の部屋で見たのと同じ様式のもので、どこもかしこも埃に埋まっている。まず、鍵を捜したが、鍵は錠前にもさしてなく、どこにも見当たらなかった。見つかったものは、部屋の片すみにうず高く積んである金貨の山であった。ローマ、イギリス、オーストリア、ハンガリー、ギリシャ、トルコ――あらゆる国の金貨が、まるで長く土中に埋まっているように、埃をかぶってザクと積んである。いずれも三百年以上昔の金貨らしい。なかに、宝石や装身具のようなものもいくらかあったが、どれもみな古い品ばかりで、青く錆《さび》をふいている。
部屋の一方のすみに、厚い扉があった。捜す目当ての鍵が見つからないから、どうせ、ここもあかないものと思って見くびったものの、ものは試しと押してみたら、ぞうさもなくあいた。見ると、奥にうす暗い廊下があって、そのさきに急な回りばしごが下へと通じている。自分はうす暗いその回りばしごをさぐり足で、用心しいしい降りて行った。途中ところどころに、小さなあかりとりの窓があいていて、そこから外光がさしこんでいる。やがて一ばん下までたどりついた。その先に、また、まっ暗なトンネルみたいな通路があって、そこから、なにか古い土を新しく掘り返したような、死臭みたいな、なんともいえない嫌な匂いがプーンとただよってくる。
自分はそこへはいって行ってみた。土臭い匂いはだんだん濃くなり、しばらく行くと、扉につきあたったから、めくらめっぽうにそこを押しあけると、古い崩れ落ちたような礼拝堂へひとりでに出た。昔は墓所に使われていたところだろう。屋根は破れ、納骨所へ下りる石段が二カ所にある。でも、そこの地面はつい近頃掘り返されたらしく、掘り返した土はいくつかの大きな木箱に詰めてある。例のスロヴァキア人が運んできた木箱だ。人の気配はどこにもない。どこかほかに出口はないかと思って捜してみたが、出口はどこにもない。土間《どま》を隈《くま》なく歩いてから、なんだか薄気味わるいとは思ったが、せっかく来たんだからと思って、まっ暗けな下の納骨所へも降りていってみた。二カ所の納骨所にはいってみると、どちらも古い棺箱のこわれたのと、うず高い埃があるきりだったが、さらにその奥の三つ目の納骨所で、自分はえらいものを見つけたのである。
そこは、新しく掘った土の上の山の上に、大きな木箱が全部で五十個ほど積み並べてあり、その中の一つに、伯爵が長ながと寝ていたのである! いや、寝ていたのか、死んでいたのか、どっちともいえない。目はあいたまま、じっとひとところを見ている。が、死人のようなガラスみたいな目ではないのだ。顔は青ざめて血の気《け》がないが、頬には青白いなかに生命の温《ぬく》もりがあり、唇はふだんのとおりまっかだ。しかし、からだのどこにも動いているところは一つもない。脈もないし、呼吸もないし、心臓も打っていない。自分は恐る恐る身をかがめて、どこかに生命のしるしはないかと思って、よく調べてみたが、それは徒労におわった。いくら伯爵でも、まさかこんなところに長時間寝ていられやしない。この土の匂いは、とても二時間や三時間で消えるものではないもの。
木箱のそばには、ボロボロになった穴だらけの棺|蔽《おお》いの布《きれ》が落ちていた。ひょっとするとここに鍵を持ってきていやしないかと思って、それを捜そうとしてひょいと伯爵の目を見たら、その目が死んでいながら、べつにこちらがそこにいることを意識したわけでもないのに、いかにも恨めしそうに、ジロリとこちらを見た。それを見たとたんに、自分はもう声も出ず、無我夢中で、すっ飛ぶように納骨所を逃げだすと、回りばしごをむちゃくちゃに駆けのぼり、伯爵の居間の窓からもう一度城の外壁をつたって、命からがら自分の部屋へ戻ってきた。そして夢中でベッドにもぐりこんで、なんとか考えようとした。……
六月二十九日――きょうは自分の運命の手紙の最後の日付の日だ。手紙はほんとに出すぞという証拠を見せるためか、伯爵はまたしても自分の旅行服を着て、いましがた城の窓から出て行ったところだ。トカゲのように城の外壁をスルスル降りていく伯爵の姿を見ながら、自分は手もとに銃か凶器があれば、ひとおもいに殺してやりたいと思った。でも、人間の使う武器なんかでは、相手はおそらくビクともしやしまい。帰ってくるところを見とどけてやろうと思ったが、例の三人の女がまた出て来たりすると怖いから、それはやめて、そのまま書斎へはいって本を読んでいるうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。
自分は伯爵に起こされた。伯爵は、およそ世にも冷酷残忍な顔をして、自分に言った。――
「あすはいよいよきみともお別れじゃ。きみは美しいイギリスに帰る。わしもある仕事にとりかかるが、仕事の成行《なりゆき》上、もう二度とお目にはかからんじゃろう。きみの手紙は出してきたよ。わしもあすはもうここにはおらんが、きみの旅支度だけはしておいてやろう。明朝はツガニー人が仕事に来るし、スロヴァキア人も来る。あの連中が帰ったあと、わしの馬車をまわしてやるから、きみはそれに乗って、ボルゴ峠で、ブコヴィナから来るビストリッツ行きの乗合馬車に乗りかえるがいい。おなごり惜しいが、またいつの日か、このドラキュラ城で、ゆっくりお目にかかれる時もあろう。わしはそれを願っておる」
自分は、なにを言ってやがると思ったが、どこまで誠意があるのか、ひとつ試してやろうと思った。誠意なんて言葉は、こんな化け物には口にするさえ汚らわしいが、自分は単刀直入に聞いてやった。
「どうせお暇をいただくなら、どうして今夜発ってはいけないのです?」
「それがな、今夜は馭者と馬車が用事で出ておるんじゃよ」
「ぼくは馬車より、歩いたほうが結構です。これからすぐに出かけたいと思います」
伯爵はいやに柔和な、猫をかぶった、悪魔のような笑みをニタリと浮かべた。その微笑の裏に、なにか魂胆があることは知れている。
「それで、きみの荷物は?」
「荷物なんか、どうだっていいです。いずれ後から送れますから」
伯爵は、なにごとか思い定めたように、椅子からヌックと立ち上がると、こっちが目をこすりたくなるほど真に迫った猫なで声で言った。
「きみたちイギリス人は、『来る者は拒まず、去る者は追わず』とよくいうが、この金言はまた、われわれの国の貴族の不文律でもある。ではきみ、わしといっしょに来なさい。わしとしてはまことになごり惜しいが、しかしきみがそう足もとから鳥が立つように、きゅうに里心《さとごころ》がついたとあっては、これもまた、やむをえん。きみの意志に逆らってまで、引き止めるわけにもいかんじゃろう。さあ、来なさい!」
伯爵はきゅうに澄まし返った真顔《まがお》になって、ランプを手に持つと、さきに立って階段を下り、玄関の大ホールへ出ていく。自分もあとからついていくと、伯爵はホールのまんなかで足をとめ、
「ソレッ!」とどなった。
すると、たちまち城のすぐ近くで、ウォーッという群狼の咆《ほ》えたける声がおこった。まるでそれは、指揮者のふりあげる指揮棒ひとつで、何十人というオーケストラの音楽が鳴りだすのに似て、伯爵がサッと上げたその手の先から咆え出したかのようであった。伯爵はしばらくそこに棒立ちに立っていたが、やがてノシリノシリと入口の大扉の前へ歩いていくと、閂をはずし、重い鎖を解いて、厚い扉をギーとあけにかかった。意外なことに、大扉の錠前はおろしてない。あたりを見たが、鍵らしいものはどこにも見当たらない。
大扉が開きだすと、城外の群狼の声はいっそう猛《たけ》りだした。まっかに裂けた口、むきだした鋭い歯、さかんに跳ね狂っている逞しい脚などが、開きかけた大扉のすきから見える。それを見て自分は、これは今伯爵にへんにたてついてみたところで、しょせん無駄だと観念した。伯爵のひきいるこういう凶猛なやつを向こうにまわしては、こっちは手も足も出やしない。大扉はギー、ギーと少しずつ開いている。その開いていくすきまのところに、伯爵は巌《いわお》のごとくに立ちはだかっている。
自分はもうこれまでだ、これが運命の最後の時だと思った。われからけしかけた酬《むく》いで、自分はこの猛り狂う狼どもの餌食になるのだ。伯爵の魂胆は、いかになんでも、これではまるで悪鬼のそれだ。自分はあわやというその時、声をふりしぼって叫んだ。
「大扉を締めてくれ! 朝まで待つ!」
自分は思わず両手で顔をおおった。無念の涙をかくしたかったからである。伯爵はあの金剛力の腕をサッと払うと、大扉は地響をたててバタンと締まり、ひとりでに閂がガタンとおり、鎖のかかる音がガチャンとホールの中にひびき返った。
自分は無言のまま、すごすごと伯爵のあとについて、またもとの書斎に戻ったが、さすがに長くそこにいるに耐えず、すぐと寝室へ逃げこんでしまった。最後に自分が見たものは、こちらへ接吻を投げた伯爵の目のなかの、いかにも勝ちほこったような赤いギラギラした眼光と、地獄に堕ちたユダのような鼻高々なあざ笑いであった。
部屋のベッドにゴロリとひっくり返ろうとした時、扉のそとで、だれかヒソヒソ話している声がきこえた。そっと足音を忍ばせて、扉に耳をあてると、伯爵の言っている声がきこえた。
「さあ帰れ、帰れ。おぬしらの巣へ、とっとと帰れ。今はまだおぬしらの時ではないわえ。待っておれ、辛抱せい。こよいはわしの晩じゃ。あすの晩はおぬしらの晩じゃ」
すると、エヘヘヘという低い笑い声がさざ波のようにおこった。自分はカッとなって、いきなり扉を勢いよくあけると、扉のそとに、例の三人の女が舌なめずりをしながら立っているのを見た。自分の姿を見ると、三人の女はいっせいにケケケケと気味の悪い声をあげながら、逃げて行った。
自分はベッドのそばに戻るなり、そこへガックリと膝をおとした。ああ、おれの最期ももう間《ま》もない。明日だ! いよいよ明日だ! 神よ、助けたまえ。わが敬愛する人々に加護あれ!
六月三十日朝――これから書くことは、おそらく、この日記に書く自分の最後の言葉となるだろう。――けさは、明け方近くまでトロトロ眠った。目がさめると、いつなんどき死がやってきても、覚悟はすでにできているところを見せてやるために、自分はベッドの上に寂然《じゃくねん》と正座した。
やがて空が少しずつ白《しら》んできて、朝のやってきたことがわかった。どこかで鶏鳴《けいめい》がきこえだした。まずまず自分はぶじだったと思うと、急にうれしくなり、部屋の扉をあけると、いっさんに階下のホールへ駆けおりて行った。見ると、城の大扉は昨夜のまま閂と鎖がかけてあるが、錠がかかっていない。やれうれしや、脱出はもう目の前にあるぞと思って、急いで震える手で閂をぬき、鎖をほどいて、さて開けようとすると、大扉はビクとも動かない。引こうが押そうが、ガタリともしない。昨夜、あのあとで、伯爵が鍵をかけたのにちがいない。
よし、こうなればもう危険を冒しても、なんとか鍵を手に入れてやろう。そう思って、自分はもう無我夢中で、もう一度この間のように城の外壁をつたって、伯爵の部屋へ忍びこんでやろうと肚《はら》をきめた。へたすると、伯爵はこのおれをとり殺すかもしれない。殺されたら殺されたで、そのほうが悪魔どもになぶられるより、かえってしあわせだ。そう思って、自分は待てしばしなく、すぐさま東側の窓のところへ駆け上がって、前と同じように、そこから伯爵の部屋のなかへ忍び入った。伯爵の部屋は、案のじょう、からっぽだった。鍵はどこにも見当たらない。金貨の山もそのままになっている。自分は部屋のすみの扉をあけて、そこから回りばしごを下り、例の礼拝堂へ行くまっ暗な通路を、手さぐりで進んでいった。こっちの捜す化け物の居どころは、自分にはちゃんとわかっていたのだ。
例の大きな木箱は、壁のすみの、前と同じ場所に並べてあった。ただし、今朝はどれも蓋《ふた》がしてあって、蓋には釘が一本々々、すぐに打てるばかりにさしてある。伯爵の身辺から鍵を捜し出さなければならないから、木箱の蓋をとって、そっと壁へ立てかけ、中をひょいとのぞきこんだとたんに、胆《きも》のちぢまるほどアッと驚いた。木箱のなかに長々と寝ている伯爵が、ふしぎなことに、けさはばかに若々しくなっていたからである。まっ白だった髪の毛やひげがごま塩になり、頬にも肉がつき、白い肌が桃色に血の気《け》をみせている。口がいつもより赤いのは、唇に血がベットリついているからで、その血が、口のすみから顎《あご》と咽喉にかけて、タラタラとすじを引いている。くぼんでギラギラしていた目も、けさはふっくらとふくらんだ瞼の下に、せりだしたように見える。まるで、体じゅうが血でだぶついているようだ。たらふく血を吸って、身動きができなくなった吸血鬼みたいな格好で、長々と寝ている。
その伯爵の体にさわろうとして身をかがめたとたんに、なぜか自分はゾーッと身震いがした。全身の神経が体の中で、こぞって触れることに抵抗した。でも、鍵を見つけなければ、自分は死んでしまうのだ。おそらく今夜は、あの三人の恐ろしい女どもに、自分の肉体は血祭りにあげられるだろう。そう思って、自分は伯爵の体を頭の先から足の先まで、くまなく探ってみたが、鍵は影すら見つからなかった。
そこで、鍵捜しはひとまず止めて、自分は伯爵の顔をつくづく打ち眺めた。ブクブクに肉のついたその顔に、なにか人を小馬鹿にしたような薄笑いがさしているのを見ると、自分はむしょうに腹が立って、頭がカーッとしてきた。自分は、ほかならぬこの怪物がロンドンへ引っ越すのに、きょうまでこいつに手を貸してきたわけだ。こいつがロンドンへ行けば、それこそ何百万という人間のなかで、あの恐ろしい血の渇きを満たすにちがいない。そして罪もない人間をたたきのめすために、悪魔の新手をつぎつぎに拡げていくにきまっている。考えただけでも恐ろしいことだ。よし、こんな化け物は、ひと思いに世の中から抹殺してやろう。自分はもう是非の思案もなく、あいにく手もとに凶器がなかったので、人夫たちが木箱に泥をしゃくいこんだシャベルがそばにあったのを手におっとるなり、そいつを頭より高くふりかぶり、もう無我夢中で、憎さも憎い伯爵の顔面めがけて、シャベルの柄も折れよとばかり、力のかぎりエイと一撃を加えた。すると一撃を加えたひょうしに、伯爵がしずかにこちらを向き、大蛇《おろち》のような怨めしいまなざしをして、ジロリとこちらを睨んだ。自分はそれを見て、クラクラとめまいがしたようになり、思わずシャベルを手に握り返し、ザクロのようにパックリ割れ裂けた額から血がドクドク吹き出ている伯爵の顔から目をそらした。そして夢中でシャベルをそこへおっぽり出すと、木箱に蓋をして、もの凄《すご》いしろものを目からかくしてしまった。最後にチラと見たものは、血にまみれながら、ニタリと笑った、地獄の底でなければ見られない凄惨《せいさん》な笑顔であった。
さて、これからどうしたものか? いくら考えても、考えても、頭がカッカと燃えてるようで、考えがまとまらない。しだいに破れかぶれの気持がのしかかってくる。そんな気持でしばらくそこで待っていた。待っているうちに、どこか遠くのほうで、ジプシーの明るい歌声がだんだんこっちへ近づいてくるのがきこえてきた。合唱の声にまじって、馬の蹄の音や、重い車の音や、鞭の音などもきこえる。そうだ、伯爵のいっていたツガニー人とスロヴァキア人がやってきたのだ。自分は最後の見納めに、汚らわしい物のはいっている木箱と、あたりを見まわしてから、夢中で納骨所をとびだし、もとのとおり伯爵の部屋へ駆け上がって、今にどこかの扉があくだろう、あいたらそこから逃げ出そうと思って、一心に耳をすましていると、しばらくたってから、はたしてどこか階下の大きな扉の錠があく音がして、厚い扉がギーとあいた音がきこえた。してみると、どこか別のところに出入口があったのか、あるいはだれかが錠をあける鍵を持って行っていたのにちがいない。
まもなく、ドヤドヤと人の足音がして、それがどこかの廊下へ消えていくのがこだまになってきこえた。自分はどこかに新しい入口があるはずだと思って、それを捜しにもう一度納骨所へと駆け下りて行くと、どうしたはずみか、一陣の風がドッと吹きこんできた拍子に、回りばしごの上がり口の扉が、いきなり大きな音をたててバタンと締まってしまった。埃がもうもうと立つなかを、急いで戸口に駆け下りて扉をあけようとすると、たった今、風のあおりで締まったその扉が、どうしたわけか、引いても押してもビクともあかない。自分は重ねてまた、押し込めの身になってしまった。しかもこんどは、身のまわりに張られた運命の網が、前よりもグッと狭《せば》められてしまったのだ。
これを書いているうちに、足の下の通路では、なにか重い物を動かす音がきこえる。きっと泥を詰めた例の木箱を運び出しているのにちがいない。金槌の音もきこえる。木箱に釘を打っているのだ。そのうちに、重い足音がホールのほうへ出て行き、そのあとからゾロゾロ大ぜいの人たちのついていく音がきこえた。
やがて、城の大扉がしまり、鎖がガチャガチャ鳴り、大きな錠をピーンとおろす音、鍵をかける音、つづいてあちこちの扉があいたり締まったりする音がして、錠や鍵のきしる音が次々にきこえた。
まもなく、中庭から岩道をガラガラ出ていく車の重い音がして、鞭の音やツガニー人の合唱の声が、しだいに遠ざかっていくのがきこえた。
自分は今やこの城のなかに、あの恐ろしい女どもと置き去りにされたのだ。ああ、あの恐ろしい女ども! ミナも女だが、おなじ女でも、共通したものは何ひとつない。あいつらは地獄の鬼女どもだ!
あんな女どもと置き去りにされてはたまらない。そうだ、城の外壁をもっと遠くのほうまで測ってみてやろう。それから、まさかの時のために、あの金貨をすこし頂いておいてやろう。うまくいけば、この窮地から脱出する方法が見つかるかもしれない。
それが見つかったら、本国へ逃げ戻るのだ。いちばん早い、いちばん近い鉄道で、この呪われた場所から――悪魔とその餓鬼どもが、まだこの世の足でうろついているこの呪われた土地から、逃げ出すのだ!
神の慈悲は、あの化け物の恵みよりはましなはずだ。絶壁は高く、嶮《けわ》しい。その下に一人の男、ただひとり眠る。ミナよ、さらば!
[#改ページ]
五
ミス・ミナ・マリーから、ミス・ルーシー・ウェステンラに宛てた手紙
親愛なるルーシー 五月九日
ごぶさたしてごめんなさいね。仕事がとても忙しかったの。女の助教員も時にはずいぶん辛いものよ。今は一日も早く、海岸のあなたのそばへ行って、いっしょに勝手なおしゃべりをして、おたがいに空中楼閣の夢を築きたい。このところ、ジョナサンの勉強ぶりに負けないつもりで、モリモリ勉強しています。速記術も習ってるのよ。結婚したら、ジョナサンの片腕ぐらいにはなれるでしょう。速記術をしっかり身につければ、ジョナサンの言うことを私が速記して、それをタイプに打ってやれますもの。だから、タイプも今、いっしょう懸命に練習中。
ジョナサンとはときどき速記文字で手紙のやりとりをしてるし、彼、こんどの旅行日記も速記文で書いているの。私もそちらへ伺ったら、速記文字で日記をつけるつもりです。日記といっても、一週間に二ページ、日曜日はお天気だけだなんて、そんなお座なりの日記じゃないことよ。書きたいと思った時に書く、一種の随想録ね。むろん他人が見ても、たいしておもしろいものじゃないと思うけど、もともと人のために書く日記じゃありませんものね。見どころがあるかどうか、いずれジョナサンに御検閲《ごけんえつ》を願うつもりだけど、まだほんのお稽古帳よ。よく婦人記者がインタビューの時なんかに、相手の話の要点を控えて、あとで話を思い出すタネにしてるでしょ、あれを私もやってみようというわけ。すこし練習すれば、一日の出来事や見聞きしたことを思い出すの、わけないそうよ。
とにかく、お目にかかった上で、つまらないことだけど、いろいろあなたにお話ししたいことがあるのよ。今しがた、トランシルヴァニアのジョナサンからたよりがありました。彼も無事で、一週間ほどしたら帰国する由です。旅行の話を聞くのがたのしみだわ。知らない国を見るのは、きっと楽しいことね。私たち――ジョナサンと私のことよ――いまにそんな国を二人して見物に行かれるかしら。あら、いま十時を打ちました。では、さよなら。
あなたの愛する ミナ
二伸――御近況お知らせくださいね。お噂《うわさ》はいろいろ伺っててよ。とくに、背の高い、髪をカールした、ハンサムなお方? とのことをね。
ルーシーからミナヘ
チャタム街十七番地 水曜日
あんなひどいお手紙くだすって、ずいぶん不公平だわ。お別れしてから、私、四度もおたより差し上げているのに、そちらからはあれがやっと二度目のおたよりよ。目下申し上げること何もありません。あなたが興味をおこすようなこと、ほんとに何もないの。今のところ、町はとても楽しく、毎日絵画館へ行ったり、公園を散歩したりしています。背の高い、髪をカールした方というのは、きっとこのあいだ音楽会でごいっしょした方のことでしょう。人の噂ってこわいわね。ホルムウッドさんといって、時々うちへもお見えになる方です。母ととても話のウマが合うらしいのよ。
じつはね、あなたがジョナサンとの御婚約がなければ、それこそあなたに打ってつけの方に、この間お目にかかったのよ。ご風采はおりっぱだし、裕福だし、お家もいい方でね。ホルムウッドさんのご紹介なんだけど、うちにもちょくちょくお見えになるのよ。あんなしっかりしたお方、私見たことない。それでいて、とても温厚な方なの。あんな方に診《み》てもらう患者さんは、どんなだろうと思うわ。その方、妙な癖があって、人をごらんになる時、相手の思ってることを見抜くように、人の顔を穴のあくほどじっとごらんになるのよ。私にもそれをなさるから、憚《はばか》りながら私には歯がお立ちにならないわよ、っていう顔してやるの。
あなたね、ご自分の顔を読んでみる時あって? 私ときどき鏡でやってみるんだけど、おもしろいことよ。その方、私のことを心理学の材料として興味があるんですってさ。私、自分でもそうかもしれないと思う。ご存知のとおり、私って女はドレスのことなんか全然興味ない女でしょ。やれ、このドレスは最新の流行型だ、これは流行遅れだなんて、およそ音痴《おんち》よ。あら、音痴だなんて、エゲツない新語を使って、ごめんなさい。アーサーが毎日使うもんだから。あら、とうとう本音吐いちゃったな。いいわ、あなたとは子供の時からいっしょに寝たり、泣いたり笑ったり、おたがいに秘密を打ち明けあった仲なんだから、なにもかも話したけれど、きょうはさらにその先をお話しするわ。
ミナ、なんだかわかる? 私、彼を愛しているの。こんなこと書いて、ちっとばかりポーッとくるな。でもね、彼も私のこと愛していると、私は思ってます。おお、ミナ、私、彼が好き、好き、好き! ごめんなさい。でも、言ってしまって、よかったわ。ねえ、早くいらっしゃいよ。暖炉のそばで、昔のようにお寝間着であなたといっしょに寛《くつろ》ぎたいわ。その時、ゆっくり自分の感じてることをお話しします。私、あなたにさえ手紙じゃどうお伝えしていいか、わからないのよ。出そうか出すまいか、破いちまおうかなんてひどく悩むんだけど、やっぱりあなたにはなにもかも打ち明けたいから、手紙は止《よ》せないわ。すぐにお返事聞きたいから、思ったことを聞かしてちょうだい。では筆をおきます。おやすみ。祝福あるようにお祈りしてね。ミナ、私のしあわせを祈ってね。
ルーシー
二伸――断わるまでもないけど、今の話、内証よ。では、おやすみ。
ルーシーからミナへ
五月二十四日
親愛なるミナ――
お手紙、多謝多謝。あなたに打ち明けたおかげで、ご同情をいただいて、ほんとによかったわ。
「降ればかならずドシャ降り」という諺《ことわざ》があるけど、あれはほんとだわね。私はこの九月で二十歳になるんだけど、きょうまでまだ一度もプロポーズされたこと――目の前で、面と向かってプロポーズされたこと――なかったの。ところが、きょうは三ついちどきに受けちゃったのよ。どう、一日に三つよ! 凄いじゃない! 私、あとの二人の方に、ほんとに心からお気の毒だと思ってます。でもねミナ、私、自分でもどうしていいかわからないくらい幸福よ。三つのプロポーズ! でも私、これはほかの女の子には言わないつもり。言えばみんな、親がかりの娘は少なくとも六人の男からプロポーズされなければ駄目だなんて、つまらない余計なことを考えかねないから。女の子って、それほど虚栄心が強いものなのよ。
ねえミナ、あなたと私は、これでじきに既婚婦人のなかにちゃんとおちつくんだから、虚栄心なんか軽蔑できるわね。ところで、三つのプロポーズのお話をしなければ。むろんこれは誰にも内証よ。ジョナサン以外には喋らないで。ジョナサンには特別例外をもって、許してつかわす。私があなたの立場にいたら、やっぱりアーサーには話しますものね。女というものは、自分の夫にはなんでも話さなければいけないことよ。そう思うでしょ? 夫婦はすべからく公明正大なるべし。男のかたは自分の愛妻にはけっこう公明正大だけど、女は男ほどつねに公明正大かしら? まあいいわ、そんなことは。
とにかく、第一号さんは昼食の前に現われました。ドクター・ジョン・セワードという、精神病院のお医者さま。顎《あご》の角ばった、額《ひたい》の秀《ひい》でたお方。外見はとても冷ややかに見えるけど、そのじつとても神経質。どんな些細なこともご自分の教訓にして、いつまでもそれを忘れない方《かた》よ。でも、きょうはその方、ご自分のシルクハットの上に腰かけかねないばかりのご様子だったわ。こういうことは冷静にすましている時には、ふつう男の方はしないことよ。そのうえ、固くなっていないところを見せたいのか、手術針をしじゅう指でいじくっていらっしゃるから、こっちはもうハラハラしちゃったわ。それで、おっしゃることは単刀直入、そのものズバリで、――自分はまだおなじみ薄いけれども、あなたを敬愛している。自分の生涯は、自分を助けて愉《たの》しくしてくれるあなたとともにありたい。あなたにふられたら、自分はどんなに不幸だろうと言いだすから、私、泣き出してしまったら、これはとんだ心ないことを申し上げましたと言って、てんでこちらの苦しい思いには触れようともなさらないの。
やがて思いきったふうに、自分を愛してくれませんかとお尋ねになるから、私、首を横にふると、手をブルブル震わして、ではほかに意中の人があるのですかと、モジモジしながら聞くのよ。そしてうまいことをおっしゃったわ。自分はあなたの信頼を傷つけたくない、ただご婦人の胸のなかに、これというきまった相手がなければ、男性として希望してもよいことだから、それで知りたかったまでです。――そこまで言われれば、私、じつはある人がおりますと打ち明けてあげるのが義務だと思ったから、そのとおり申し上げたの。そしたら、セワードさんはいきなり立ち上がって、ちょっと険しい目つきをなさって、私の両手をおとりになると、ルーシーさん、自分はあなたのおしあわせを祈ります。もしあなたが友人をお求めになる時があったら、その時はどうか自分をあなたの友人のはしくれに入れてくださいと、おっしゃるのよ。
どうミナ、泣きたくもなるじゃないの。ごめんなさいね。手紙にこんなに涙をボタボタ垂らしてしまって。結婚を申しこまれることは、ほんとに結構なことだけど、自分のことを心から愛してくださっているのに、失恋して去っていかれるお気の毒な男の方《かた》を見なければならないとなると、めでたいプロポーズもちっとも楽しくなくなってしまってよ。その時男の方がどう言ったところで、けっきょくその方の一生から、その女の人は消えてしまうんですものね。ミナ、ちょっとここで筆をおきます。私、今とても幸福なのに、どうにも気がめいってたまらないから。
夕方
今、アーサーが帰って行ったところ。アーサーが帰ったら、私さっきより気分がよくなったから、手紙の続きを書きます。
第二号さんは昼食後にご入来。キンシー・P・モリスといって、テキサス生まれのアメリカ人で好男子。いろんな土地でいろんな冒険をしておいでになった方とは思えないくらい、お若くて元気はつらつとしたお方。私、黒人からさえ、危険な水を耳にそそぎこませたオセロの妻デスデモナに同情するわ。女というものは元来臆病なんだから、この人こそ自分を恐怖と不安から救ってくれると思う男と結婚するんでしょ。かりに私が男で、若い女性の愛をかちえたいと思ったら、私どうするでしょう? そんなことわかりきっていると思ってたら、それがわからなくなっちゃったのよ。だってね、モリスさんはいろいろ身の上話をなさるのに、アーサーときたら、いっこうそんな話しないのよ。それなのに――私、すこし話を急いでるわね。キンシーさんは私がひとりでいるところへ見かたえました。男の方って、たいてい、女の子がひとりでいる時を目がけるらしいわね。ところがキンシーさん、それがそういかなくてね。アーサーが二度も顔を出そうとするもんだから。
今だから私、えばって言えるけど、じつはそれは私がアーサーに手を貸したのよ。前もって言っておくけど、キンシーさんは教育も充分あり、お行儀のいいかただから、ふだんは人前でお国言葉などぜったいに使わないかたなの。ところが、私がアメリカの方言をおもしろがって聞くもんだから、キンシーさんは私の前だけは天下御免で、それはおかしなことをおっしゃるの。ご自分でくふうしておっしゃるらしいんだけど、それがどんなことでも、おっしゃることにほんとにピッタリしてるのよ。方言って、そういうものなのね。私、自分が方言を喋るかどうか、自分じゃわからないし、アーサーが好むかどうかもわからないけど、アーサーが方言を使ったのを今まで聞いたことないな。
キンシーさんは私のそばにすわって、ほんとに愉しそうなご様子だったけど、でも私の拝見したところでは、そうとう気を使っていらっしゃるふうでした。私の手をとって、いつにないやさしい調子で、
「ルーシーさん、ぼくはね、どうせあなたのちっぽけな靴には合いっこない男だが、しかし、あなたが、自分で気に入った男を捜しあてるまで待ってたら、いざという時には七人の女性を敵にまわさなければならなくなりますよ。どうです、ぼくの馬車に、ぼくと轡《くつわ》を並べて、ひとつ二頭立てで人生街道をドライヴと酒落《しゃれ》ませんか」
なんてうまい冗談をおっしゃるもんだから、私ほんというと、ドクター・セワードをお断わりした時の半分くらい、お断わりし辛《づら》かったわ。そこで私、できるだけ気軽に、自分は馬のつけ方はぜんぜん心得がありませんけど、馬具はまだ痛んでおりませんわとお答えしたら、キンシーさんは、「こりゃどうも、まじめな問題について軽率な申し方をして、すみません、勘弁してください」と、まじめな顔をしておっしゃるので、私も少々まじめな気持になって――というと、お転婆《てんば》娘と思われるかしらないけど、やっぱり私、すこし得意になってたのね。同じ日に二人の方からプロポーズされたんですもの。私がなにかお答えしようと思ってるうちに、キンシーさんはいきなり私の足もとに身を投げだすと、まるで堰《せき》を切ったように愛の言葉を浴びせだしてね。お顔がとても真剣だったわ。私、だから考えたの。ふだんのんきなことばかり言ってる人でも、いつでもふざけているとは限らない、まじめに真情を吐露《とろ》する時もあるんだと。私の顔になにか見たのか、キンシーさんはふいに言葉を切って、
「ルーシーさん、あなたは正直な娘さんだ。ぼくはそう見ている。ぼくはあなたの心の底の底まで、はっきり自分にわからなければ、ここで何も言うべきではないんだ。だからね、ほかにあなたを愛している男性がおられるかどうか、率直に言ってください。あるならあるで、ぼくは髪の毛一本、あなたに迷惑はかけませんよ。それならそれで、ぼくはあなたの忠実な友になりたいと思います」
ねえミナ。女なんて取るに足《た》らないものなのに、どうして男のかたはあんなに気高い心持になるんでしょう? 私なにも、あの心のおおらかな真の紳士をからかっているわけじゃなくてよ。私その時、ほんとに泣き出しちゃったの。――なんだかこの手紙、だんだん湿っぽくなるわね。――私泣き出しちゃって、ほんとにバツの悪い思いをしました。女一人に男三人じゃ、どう結婚のしようもなし、いくら望まれたって、この厄介は解消しないじゃない? でも、これは邪論よね。こんなこと言っちゃいけないわね。私泣いてたけど、その時キンシーさんの目をじっと見て、キッパリ言えたから、うれしかった。
「ええ、私には愛している人がいます。まだプロポーズはされていませんけど、その人も私のことを愛しています」と率直に言ったの。すると、キンシーさんの顔がきゅうに輝いて、いきなり私の手をとると、――私のほうから手を出したのかもしれない――しみじみした調子で、
「よく言ってくだすった。あなたは勇気のあるかただ。世の中のどんな女の子に間に合うよりも、あなたをかちとるチャンスに遅れてよかったでした。ねえ、泣かんでください。ぼくのために泣かれるんだったら、ぼくはなかなか割れん木の実ですよ。これでぼくは立ち上がります。あなたのいわれるその相手の人が、まだ彼のしあわせを知らないなら、早く知らせてあげたほうがいいな。ぼくもぜひその人と交際しなければ。ルーシーさん、あなたの正直と勇気が、ぼくをあなたの友人にしてくれました。真の友は、恋人よりも世に稀なものです。すくなくとも、我意を超越したものです。ルーシーさん、ぼくは一生ひとりで人生の道を歩いていきますよ。どうかぼくにたった一度だけ、接吻してくれませんか。それがぼくの暗い道を、ときどき明るく照らしてくれるでしょう。あなた、その相手の人に早く知らせて上げなさい。――いい方なんでしょう。ねえ、りっぱな方なんでしょう。それでなきゃ、あなたが愛するわけないものな。早く話して上げなさい」
これには私、負けました。男らしくて、そして気がやさしくて、恋のライヴァルには心|気高《けだか》く、そのくせ心は泣き濡れている。――私は身をかがめて、キンシーさんの額に接吻しました。キンシーさんは、私の両手を握ったまま立ち上がると、私のはにかんだ顔を見おろしながら、
「ルーシーさん、ぼくはこうしてあなたの手を握り、あなたに接吻していただいた。これで真の友人にならなかったら、何になりますか。あなたのやさしいまごころに、ぼくは感謝します。じゃ、さよなら」
キンシーさんは私の手をふると、さっさと帽子をとって、そのまま後も振り返らず、涙も、震えも、足を止めることもなく、棒みたいになってまっすぐに部屋を出て行かれました。私は赤んぼみたいに声をあげて泣いてしまいました。ああ、世の中には、男の人の踏んだ土を後生だいじに拝む女があり余るほどあるくせに、恋の憂き目をみる男の方がなぜ大ぜいいるのでしょう? 私もアーサーがいなければ、きっとそんな女なのね。そう思うと愕然《がくぜん》として、今これをあなたに打ち明けたあとは、すぐに幸福な気持なんかとても書けないような気がします。第三号さんのことは、すっかり気が落ちつくまで、私お知らせしたくありません。
あなたの愛する ルーシー
二伸――第三号の人のこと、お知らせする必要ないわね。だいいち、すっかり面食らっているの。彼、いきなり部屋へはいってくるなり、私を抱いてキスしてくれたのが、あっという間《ま》みたい。私、とてもとても幸福なの。どうしていいんだかわからないくらい幸福よ。神が御慈悲をもって、このような恋人を、夫を、友人を与えてくださった感謝の気持を、これから先、私はなんとかして表わしていかなければならないわ。
では、さよなら。
ドクター・セワードの日記≪蝋管録音による≫
五月二十五日――きょうは食欲減退。食は進まず、心は休まらず、かわりに日記を録音しておく。昨日、プロポーズを断わられてより、なにか胸に大きな穴があいたようで、この世にだいじな仕事がなくなってしまったような心持だ。こういう時には、逆に仕事をするのが唯一の療法だと思って、患者を回診した。なかに一人、おもしろい患者を見つけた。よほど変わった患者だから、今後できるだけよく理解することにきめた。きょうはそれでも、今までより患者の謎の核心に一歩近づいたように思える。
患者の幻覚の実態を把握しようと思って、これまで以上にいろいろなことを患者に質問した。今おもうと、ぼくの質問態度は少々残酷な点があったようだ。どうもぼくは、彼をいつまでも発狂状態に――患者に対して、ぼくがつねに避けている地獄の入口に――とどめておきたい気持が働いていたらしい。
(注意。どんな事情下なら、地獄を避けなくてもよいのか?)地獄には地獄の価値あり。物を掘り下げて追究していく。この本能のかげに何かがあるとすれば、あとで厳密にそれを追究していくのが有益だろう。それを始めておけばよかった。――
R・M・レンフィールド、年齢五十九歳。性質快活。身体頑健。病的に激昂しやすし。ふさぎこんでいる時は、なにかわからぬが一つのことを一途《いちず》に思いつめている。おもうに、快活な性質それ自体と、それを妨げる外因が、一つの精神的しこりになるのではないかと思われる。多分に危険性のある男、おそらく自我を喪失した時に最も危険になるだろう。自我をもっている人間なら、警戒するということは、自己に対し、また敵に対して、鎧《よろい》をまとうことである。この点に関するぼくの考えは、自我が定点である場合は、求心力と遠心力のバランスがとれている。ところが、定点が義務というような外因にあるような場合は、遠心力が圧倒的に強くなって、たんに偶発的な出来事、もしくはそれの連続がバランスをとっていくことになる。
キンシー・P・モリスからアーサー・ホルムウッドに宛てた手紙
五月二十五日
親愛なるアーサー
われわれは今、大草原でキャンプ・ファイアーを囲みながら、罪のないほら話を駄弁《だべ》って、マルケイザ島に上陸を試みたあとの、おたがいの傷口に包帯を巻きあい、チチカカの湖畔で乾杯をあげたところだ。
ほら話はまだいくらでもある。ほかにも介抱してやりたい傷の持主がいるし、もう一人乾杯をあげさせてやりたいやつがいる。どうだ、あすの晩、おれのキャンプ・ファイアーで、ひとつ大いにやろうじゃないか。あすの晩は、さるご婦人が、さるパーティーにお招《よ》ばれで、きみのからだのあいてることを、こっちは先刻承知だから、それで遠慮なく伺うんだがね。あすの晩、もう一人仲間にくるのは、われらの朝鮮時代の旧友、ジョン《ジャック》・セワードだ。あいつが来て、われら両人、たがいの涙を酒杯にまぜて飲みあい、神がつくりたまいし最も高貴なる心をかちえたる、最も幸福な男のために、心からなる乾杯をあげようという趣向だ。ぜひ来たまえ。もしきみが、どこかのお方の目にあまるほどへベレケに酔ったら、われら両人して、かならず自宅まで送りとどけてやる。だから来い!
キンシー・P・モリス
アーサーからキンシー宛の電文
「カナラズ ユクキミタチニミミノイタイコトヅ ケアリ アーサー」(必ず行く。君たちに耳の痛い言づけあり。アーサー)
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六
ミナ・マリーの日記
七月二十四日。ホイットビー――
ルーシーが駅まで迎えにきてくれた。しばらく見ないうちに、いちだんと美しく愛らしくなった。ルーシーの宿のあるクレセント街まで車で行く。ここは景色のいいところだ。エスク川という小さな川が深い渓谷の間を流れ、港が近くになるにしたがって川幅が広くなっている。その川に橋桁《はしげた》の高い橋がかかっており、橋の上から眺めると、実際よりもずいぶん高く見える。渓谷はいま新緑が美しい。両岸が絶壁になっているから、岸の高いところに立つと、見下ろすような崖の縁でなければ、川の向こうまでひと目に見渡せる。横手にあたる古い町の家並は赤い屋根つづきで、屋根の上にまた屋根と、層々塁々と重なっているところは、まるで絵に見るニュールンベルグのようだ。町の高台に、ホイットビー寺院の廃墟がある。昔オランダ人に略奪された寺で、この寺の人柱に立った少女を扱った『マーミヨン』〔ウォルター・スコットの長詩〕の舞台に出てくるお寺だ。大きな構えのりっぱなお寺で、いろいろ美しい、ロマンティックな話に富んでおり、この廃寺の窓から白衣の女の幽霊が出るという伝説もある。
この高台と町との間に、もう一軒、べつの教会堂があり、これは教区制のもので、墓のたくさんある広い墓地がぐるりにある。ホイットビーでは、ここがいちばん見晴らしのいいところのように私には思われる。町はひと目に見おろせるし、港の全景も、海につき出たケットルネスという岬も、一望のうちに集められる。港の上に高くそそり立っている所なので、土手が崩れ落ちて、墓石が壊れたりしているが、一カ所、墓石がはるか下の浜の砂道まで、ずーっと同じように段々に並んでいるところがある。境内には遊歩道もあり、ベンチなども置いてあって、そこへ腰かけて、一日海を眺めながら汐風を楽しんでいる人が大ぜいいる。私もときどきここへきて仕事をすることにしよう。じつは、今もここへきて、膝の上に帳面をのせて、そばにいる三人の老人の話を聞きながら、これを書いているのだが、この老人たちは、いちんちここへすわってお喋りするほかに、なにもすることはないらしい。
港はすぐ目の下で、先が弓なりになって海につき出た長い石垣の突端に、かわいらしい灯台が立っている。石垣のそとには厚い護岸壁があり、それが手前のところで肱《ひじ》のように深く曲がり、その先にも灯台がある。この二つの堤防の間に、せまい港の口があり、港はそこからきゅうに広くなっている。
いまは満潮だけど、汐がひくと遠浅の干潟《ひがた》になる。そのときは、砂土手の間を流れるエスク川が、そこここの岩の間を流れるばかり。港のそとには、南の灯台のうしろから、半マイルほど大きな嶮しい岩礁が一直線にもりあがり、その突端に、鐘のついた浮標《ブイ》が一つ浮いている。時化《しけ》になると、その鐘が悲しい音を風にのせて送ってくる。なんでも難破船があるときは、鐘の音が海からもきこえてくるという、土地の言い伝えがあるそうだ。このことは老人に聞いてみよう。噂をすれば影で、老人がやってきた。……
この老人はおどけたお爺さんで、もうよほどの高齢にちがいない。顔なんか木の肌みたいに、瘤《こぶ》と皺《しわ》だらけだ。自分じゃ、かれこれ百歳だと言っているが、ウォーターローの海戦には、グリーンランドの水軍に加わった一人だそうだ。このお爺さん、だいぶ疑いっぽい人らしく、私が海の鐘の音のことや、大寺の白衣の女のことを聞くと、いやにぶあいそに、こんなことを言った。
「そんつら、わしゃ知んねえさ。なんせ昔のことだでのう。まんざらねえとは言わんども、きょう日《び》は、はあ、ねえこっつあ。よくこけえ来さる連中は、そんげなことを尋ねるども、姐《ねえ》ちゃんみてえな若え女子《おなご》の聞くこっちゃねえわな。ヨークやリーズからござる旅の衆なんか、塩漬のニシン食って、茶あ飲んで、安物の黒石なんか捜して買ってくけんどよ。だれがやつらに嘘っぽ話こくだか、おらホン、ふしぎでなんねえ。新聞だって、きょう日は嘘っぽ話のでたらめばっかじゃ」
私はおもしろい話を聞き出すには絶好の老人だと思ったから、ねえお爺さん、気がむいたら昔の鯨捕りの話でも聞かしてくれませんか、と言って水を向けてみた。大時計が六時を打ったので、お爺さんは帰り支度をしかけていたが、どっこいしょと腰をあげると、言った。
「姐ちゃんよ、わしゃ家へ帰るでな。孫娘が茶の支度すると、待つの嫌《きれ》えでな。わしがここの丘へ登って、みなの衆と油売ってると怒るだよ。おらだって、飯どきになれば腹へるだからよ」
お爺さんは、そう言ってヨボヨボ去って行った。老いの足をできるだけ急いで、石段を下りていくのが見える。町から教会へと登るここの石段はずいぶん大きなもので、数えてはみないが、カーヴを描いてうねりくねり、何百段という数だ。斜面はごくゆるやかで、馬でもらくに登り下りできるくらいだが、この石段も、昔はきっと大寺のためにあったものなのだろう。さあ、私もそれでは帰ることにしよう。ルーシーはさっきお母さんとどこかへ訪問に出かけたが、ただの義理の訪問だというから、私は行かなかった。もう帰ってきているだろう。
七月二十五日――ルーシーと教会の丘へ行って、例の老人と、いつもいっしょに来ている他の二人の老人と、いろいろおもしろい話をした。老人は明らかに連中のなかの物知り大将で、昔は相当ひとりで幅をきかした人にちがいない。なんでも諾《うん》といわないし、人の顔をつぶすことなど平気だから。口で言い負かされないと、威《おど》しつけても、自分の意見で人の口をふさいでしまう。ルーシーは、きょうは白のローン・フロックを着て、とてもかわいらしい。ここへ来てから顔色が美しくなった。私たちが腰をおろすと、老人たちがやってきて、いつもルーシーのそばに陣どる。年寄りだって、美しいものがいいんだろう。お爺さんたち、みんなルーシーに惚れこんでいるんだろう。負けん気の例の老人も、ルーシーには負けて、彼女の言うことにはけっして逆らわない。そのかわり、そのお尻が倍になってこっちへ回ってくる。私が伝説の話を持ちだすと、老人はさっそくなにかお説教じみたことを言って、話をそらしてしまった。そのもようをなるべく思い出して、書いておこう。
「みんな、なんもかんも嘘っ話ださ。呪いだの、ヒラヒラするだの、幽霊だ、化け物だと、ありゃみんな、うろたえた女の目の迷いよ。絵そらごとだて。やれ気味悪いこっちゃの、なにかの前兆だの、警告だのと、みんな病人や汽車できた遊山客が考えだしたことで、人が考えねえようなことをして、類を呼ぼうという魂胆だわさ。そういうやつらを考えると、わしゃ虫唾《むしず》が走るわい。新聞の嘘では飽きたりねえで、説教場のそとで説教をして、墓の上で叩っ斬《き》られたがっとるのが、そういう手あいじゃ。あんたもな、ここのぐるりを見てみなせえ。ここにあるのはな、みんな手めえを自慢してえばかりに頭をおっ立てている石ばっかじゃ。みんな嘘八百を彫りつけたその重みで、たわいもなくひっくり返っているわな。――『ここに誰某《だれそれ》眠る』『故人の記念のために』なんて、勝手なことを書いとるども、あの半分は碌《ろく》なやつじゃねえさ。あんつらの思い出なんざ、ひとつまみの嗅ぎ煙草よりまだ悪いや。みんな嘘っぽじゃ。嘘っぽにもピンからキリまであっての。経帷子《きょうかたびら》を着てぶっ倒れる審判の日には、奇天烈《きてれつ》なお叱りを受けるだろうよ。みんな束《たば》になって、生前は善人でごぜえましたという印の墓石をひきずってからに。中には、そういう仲間にはいれねえ海でおっ死《ち》んだ者から、手早くもぎりとったやつもいるわ」
聞いていると、お爺さん、いかにもいい心持そうに、どうだといわんばかり、仲間の老人たちの承認を求めるふうに顔を見まわすから、私はすこし水をさしてやるつもりで、
「お爺さん、お茶《ちゃ》らかさないでよ。ここにあるお墓がみんないけないんじゃないでしょ?」
「そりゃそうよ。いいことずくめを書いたのは抜いて、中には悪くないのもちっとはあるさ。乳香鉢《にゅうこうばち》を大海とこころえている連中もあるからの。だども、あらかたは嘘っぽじゃ。ところで姐《ねえ》ちゃん、おまえさんはここではよそ者じゃ。それでここの墓地を見物する……」
お爺さんの話はよくわからなかったが、なにかここの教会に関する話らしかったので、うんと言ったほうがよさそうだと思ったから、うんとうなずくと、お爺さんは話をつづけた。
「おまえさんなんか、ここにある墓は、みんな土地の者の墓じゃと思うとるじゃろう?」
私はうなずいた。
「それがそもそも嘘のはじまりよ。ここに眠っとる者のなかにはの、金曜日の晩のダン老人の煙草の箱みてえなのがいるだよ」そう言って仲間の一人を小突《こづ》くと、みんなしてアッハアッハ笑った。「そうでもせんけりゃ、どうなったかさ。まあ見さっせえ、そこの土手のとっぱずれにある墓、なんて書《け》えてあるか、読んで見さっせえ」
私はその墓の前まで行って、碑文を読んだ。
「エドワード・スペンスラー。船長。一八五四年四月三十日、アンドレス沖にて海賊に殺さる」
もとの所へ戻ってくると、老人が話をつづけた。
「誰がここへ持ってきて、葬ったっけのう。アンドレスの沖で殺されて、死体はここへ葬られたと思うかもしんねえが、あのグリーンランドの海の底に沈んだ骨は、いくらあるかわかんねえだよ」と老人は北の方角を指さして、「汐の流れで、プカーリプカリ浮いてたんだろうて。このぐるりに墓は仰山あるども、姐ちゃんの若え目なら、嘘っぽ書いたこまけえ字が読めるっぺ。そこんとこに、ブレイスウェート・ローリーの墓があるが、わしゃ、やつのおやじの代から知っとるが、おやじは一八二〇年に、グリーンランドの沖で行方知れずさ。それからアンドリュー・ウッドハウス、こいつも同じ海で、一七七七年に溺れ死んだ。ジョン・ハックストンはその一年あと、フェアウェル岬で、これも溺死。それからジョン・ローリングズ、こいつの曾爺《ひいじい》さんとわしは一つ船に乗っとったが、曾孫《ひいまご》は五〇年の年にフィンランドの岬で溺死。こういう連中は、海が時化《しけ》ると、みんなこのホイットビーへ避難しにきての。わしのとこに記録に書いといたものがあるが、いやもう、港は先を争ってはいってくる船で、藷《いも》をもむようでな。わしら昔は氷の上で、朝、日の出るから、夜、暗くなるまで交替でな、帆綱をしばりながら奮闘したもんじゃが、まんずそんな騒ぎじゃった」
老人が大きな声で笑うと、仲間の二人も塩辛声で高笑いしている。それがいかにもこういう地方の冗談らしい。
「でも」と私は言った。「お爺さんは、貧しい方たちや、そういう方たちの霊が、審判の日にはお墓石に照らし合わされるといわれたところをみると、まだ訂正はしてないんですのね。ほんとにそれが必要だとお思いですか?」
「墓石のほかに、何をだね? 姐ちゃん、答えてみな」
「身うちの方たちを喜ばすため、だと思うけど」
「身うちの者を喜ばすためじゃと」と老人は強く咎めるように言った。「墓石に嘘っぱちが書《け》えてあるのを、身うちのもんに知らして――嘘だってことをここのやつらに知らして、なんでやつらが嬉しがる?」
そう言って、老人はすぐ足もとの崖の縁に、腰掛の席がついている平石を指さして、「姐ちゃん、その石に書《け》えてある嘘を読んで見んさい」と言った。
私のいる所からは字が逆さだったが、ルーシーのところからは、ややまともだったので、彼女がからだをかがめて読んだ。
「一八七三年七月二十九日、栄ある復活を望み、ケットルネスの岩頭より落ちたる、ジョージ牧師の心を祀《まつ》る。愛息の死を悼むその母、これを建つ」
「ひとりっ子で、お母さんは未亡人だったのね。お爺ちゃん、べつにこれ、おかしいことなんかないじゃありませんか」とルーシーは真顔になって、ややきびしく尋ねた。
「そりゃ、おまえさんにはおかしく見えねえわさ。あは、は、は! この嘆いてござる阿母《おふくろ》どんは、むすこどんが佝僂《せむし》だったで、えらく憎んどった悪婆《あくばば》あでな。片輪のむすこはその阿母を憎んで、阿母がかけてくれた保険がとれんように、自殺したんじゃて。カラス除けに撃っとった旧式の小銃で、頭《どたま》ぶち抜いたんじゃから、ひとたまりもねえさ。それで岩から落ちたんじゃが、栄ある復活を望んだちゅうことだが、わしゃ当人の息子どんからちょいちょい聞いとったが、息子どんはな、自分は地獄へ行きたいと、よう言うとったで。母《かあ》さまは信心深いから天国へ行く、おりゃ母さまとはいっしょにいたくねえから、地獄へ行くんじゃと言うとった。そうなるとさえが、とにもかくにも、この墓石は嘘のかたまりじゃろが」と老人は杖の先で墓石をコツコツ叩きながら、「こんどジョーディが墓石を直しにきたら、証拠のため、ガブリエルに墓石を蹴っくり返さしてみっか?」
私はなんといったらいいかわからなかったが、ルーシーが立ち上がって、うまく話題をかえてくれた。
「いやだわ、どうしてそんなお話になったの? ここは私の気に入りの場所だったのに、これからは自殺した人のお墓のそばに腰かけなけりゃならないの? いやだわ!」
「べつにさしつかえはねえさ、嬢ちゃん。ジョージだって、若い娘御が前にすわってくれりゃ、うれしかろうがね。なんのさしつけえがあるもんだ。わしゃ二十年このかた、ここへ来てすわるが、なんのこともねえよ。足の下に眠っとる者のことなんか、気にしねえこった。そんでなきゃ、死んだってどこへ眠ることもならねえス。なあに、そのうちここらも墓石なんか一つなしになって、笹っ原みてえに坊主になる時がくるだあよ。心配しなさんなテ。――ホイ、大時計が打っとるぞ、そろそろ帰らずばなんねえ。じゃあまたな、姐ちゃんがた」そう言って、老人はヨボヨボ立ち去って行った。
ルーシーと私は、しばらくそこにすわっていた。手をとりあっている二人の前では、なにもかもが美しかった。ルーシーはアーサーのこと、近づく結婚のことを、蒸し返し話した。それを聞きながら、まる一カ月以上もジョナサンからたよりがない私は、すこしばかり胸が痛くなった。
同日――気が沈んでしかたがないので、ひとりでまたここへ登ってきた。きょうも来信なし。ジョナサンになにか起こっていなければいいが。
大時計が九時を打った。町の上にちらばっている灯を見ると、通りのところはいくつもの列になり、あるところは一つポツンとついている。灯火はエスク川を溯《さかのぼ》って、渓谷の曲がるところで消えている。左手には、大寺の隣りの古い家の屋根の黒い線が、視界を遮っている。うしろの広い野には、羊や山羊の群れがメエメエ鳴いており、下の舗石道を行く驢馬《ろば》の蹄の音がコツコツ聞こえる。波止場の楽隊がちょうどワルツを吹奏している。港のずっと先の裏通りでは、救世軍の集まりがある。どちらもおたがいには聞こえないが、この高い丘の上にいると、両方が聞こえるし、見えもする。ジョナサンはどこにいるのだろう。私のことを考えているかしら。彼がここにいてくれたらなあ。
ドクター・セワードの日記
六月五日――レンフィールドの病状は、彼を知るようになればなるほど、いよいよ私の興味をそそる。この男にに顕著な性分がいくつかある。我の強い性分。人にかくれてこっそりやる性分。何か目的があって事をする性分。彼は何か自分で計画を立ててやっているらしいのだが、なんの目的なんだか、どうもよくわからない。とにかく、生き物が好きであることはけっこうだが、ときどきそれが妙に残虐性を発揮することがあるのが困りものだ。彼は妙なものを愛玩《あいがん》している。
昨今は蝿捕《はえと》りを仕事にしているが、驚くことは、腹をたてて蝿を捕っているのではなく、真剣になってやっていることだ。彼は私にいっていた。「三日あれば、きれいにここの蝿を捕ってみせますがねえ」
私は、そりゃ捕れるさといってやった。なおよく観察することにしよう。
六月十八日――彼はこんどは蜘蛛《くも》に宗旨を変えた。大きな蜘蛛を五、六匹も箱に入れて持っている。蝿を餌《えさ》にして飼っているのだが、そのせいか蝿はだいぶん減った。戸外の蝿をおびきよせるのに、自分の食料を半分ぐらい餌に使っている。
七月一日――彼の蜘蛛は、蝿と同じようにだいぶ迷惑なものになってきたから、私はきょう、「そいつは殺してしまわなければならないよ」といって聞かせた。彼はそれを聞いてガッカリしていたが、私はなんでもかんでも殺してしまえといった。しぶしぶ同意したらしいので、私も大目に見ていた。そこにいるあいだに、私は見ていて、ひどく不快な思いをした。というのは、腐った肉を餌《えさ》に青蝿をおびきよせ、ブンブン部屋の中へ飛びこんでくるやつを、手でつかまえる。その捕えたやつを、指の股にはさんでしばらく楽しんでいるから、何をするかと思って見ていると、いきなりその蝿をパクリと口のなかへほうりこんで、食べてしまった。私が叱りつけると、彼は理屈をいいだした。これは生命だから、これを食べると、自分の身体に精力がつくのだという。
私はふっとそのことからある着想を、あるいは一つの基礎原理を思いついた。こんどは蜘蛛を彼がどう処分するか、よく観察しなければならない。ときどき小さな手帳に何か書きこんでいる。そんなところをみると、彼の心のなかには何か深い問題があるのにちがいない。手帳には数字がたくさん書いてある。幾組かの数字を加えて、その総計をまた幾組か加え、まるで会計検査員がやるように、何かの計算をしているらしい。
七月八日――彼の狂気には一つの方式がある。このあいだ私の頭にふと浮かんだ考えが、だんだんものになってきた。そのうちに、まとまった考えになるだろう。それは無意識の思考というやつだ。私はその後の変化を見るために、ここ数日、彼を見舞わずにいたのである。だいたいにおいて前と同じであったが、ただ、彼の愛玩物が、こんどはまた蜘蛛から雀に変わっていた。雀を捕えて、すでに飼い馴《な》らしていた。馴らし方はかんたんで、つまり蜘蛛を餌に与えるのだ。残っている蜘蛛は、いまだに蝿をとって育てているから、まるまる太りかえっている。
七月十九日――だいぶん進行。病室はとうとう雀のお宿になった。蝿も蜘蛛もほとんど姿を消した。私が行くと、いきなり彼が走り出てきて、「先生、小猫を飼わしてください。小猫を馴らして、飼うんですよ。なあにできますとも」とたいへんなご機嫌《きげん》で、まるで犬が人のきげんをとるような話しかただ。前の蝿と蜘蛛みたいに、こんどは雀で猫を飼うのかと思ったから、それはいいが、小猫より親猫のほうがいいじゃないか、どうして親猫にしないのだと聞くと、「ええ、そりゃ親猫のほうがよござんす。でもね、先生に叱られると思って、小猫にしたんだが、小猫ならだれも文句ないでしょう?」という。私は首をふって、今はいけない、よく考えておこうといった。彼は顔をうつむけた。私はその顔に危険信号を見た。急にこわい顔になって、じっと横目をすえるのは、これは殺意を意味する。この男は発育不全の殺人狂なのである。私は彼の現在の渇望《かつぼう》をテストして、そのなりゆきを見ることにしよう。
午後十時――夜、回診すると、彼は病檻のすみにすわっていた。私を見ると、いきなり床に膝をついて、猫を一匹くださいといって、せがんだ。私は聞き入れず、今は駄目だよというと、黙ってそのまま、またすみのほうへ行ってすわって、指を噛んでいる。あしたの朝、また来てみよう。
七月二十日――朝早く、まだ付添士が見回らないうちに、レンフィールドを見舞う。もう起きて、のんきに鼻唄《はなうた》を歌っていた。たくわえた砂糖を窓にひろげて、また蝿捕りをやっている。いかにも楽しそうだ。雀はと見てみると、一匹もいない。雀はどこへ行ったと聞くと、ふり向きもしないで、あれは逃がしたという。見ると、病室の中に羽根が散らかっており、枕に血がひとかたまりこびりついている。私はそのまま何も言わずに、付添士に、きょうのうちに何か彼におかしなことがあったら、すぐに知らせてくれと言いおいて、出てきた。
午前十一時――付添士が、今レンフィールドが苦しがって、鳥の羽根をひとかたまり吐《は》いたと言いにきた。付添士は「どうも先生、やっこさん雀を食べたんですよ。捕えると、すぐに生で食べたんですな」といった。
午後十一時――今夜、レンフィールドが充分睡眠がとれるだけの強力な催眠剤を投与して、こちらで調べるために手帳を没収した。このあいだからの私の考えが、このほどようやくまとまり、理論づけができた。この殺人狂は異例であって、私はこれを新しく分類して、「肉食動物狂」(生命をくらう偏執狂)と命名した。彼の欲望は、できるだけ多くの生命を吸いとることで、それを少しずつなしくずしに仕遂《しと》げるという手口で、今までやってきたのである。彼は、一匹の蜘蛛に何匹もの蝿をあたえ、一羽の雀に何匹もの蜘蛛を与え、そして何羽もの雀を与えるのに一匹の猫《ねこ》をほしがった。これからあと、いったい彼はどういう道程を踏んでいくだろう? この実験を完成することは大いに価値あることだ。この実験は、たった一つ充分な理由があれば、できる実験だ。世間の人は、生体解剖をとかく冷視するけれども、今日におけるその成果を見るがいい。科学はなぜ、もっとも至難な生命の様態、つまり、脳髄の知識という点において、前進しないのか? もし私が一人のこのような人間の秘密をつかみ、一人の狂人の想念に鍵を握ったとしたら、私は自分の奉ずる学問の分野を、バードン・サンダーソンの生物学やフェリアの脳髄学の知識に匹敵するほどの、一つの大きな飛躍に持ちこむことができるはずだ。ただ一つの充分な理由があれば、それはできるのだ。だが、このことはあまり考えてはいけない。誘惑されるといけないから。
いっぱし理屈はいうけれども、狂人というものは、自分の視界の範囲内で理屈をいうものだ。いったいレンフィールドは、幾人の生命をもって、一人の人間に当てようというのだろう? 彼は精密に計算を終えた。そしてきょうから新しい記録が始まった。新しい記録といえば、われわれ人間のうちの幾人が、毎日の生活を新しい記録として始めているだろう? 私の生活が私の新しい希望とともに終わって、そこから私が新しい記録を始めたのは、ついきのうのことのように思われる。かくて偉大な記録者「死」が総勘定をして、損益のバランスのとれた元帳を閉じるまで、まあこんなことで行くのだろう。
ルーシーよ、私はあなたに腹を立ててはいない。また、あなたの幸福となった私の友にも、腹を立ててはいない。ただ私は望みなき望みを心に持ちつつ、仕事をしていかなければならない。仕事だ! 仕事だ!
ミナ・マリーの日記
七月二十六日――私は心配でならない。と自分でここにそう書くことで、私の心は慰められる。まるで口の中でものをつぶやいて、それを自分で聞いているようなものだ。それに速記文字には、ふつうの文字で書くのとはちがう、なにか表徴みたいなものがある。ルーシーとジョナサンとのことで、私は心が重い。ジョナサンからは、あれきりウンともスンとも便りがないので、とても気になっていたところ、きのうホーキンズ氏が、ジョナサンからきた手紙を回送してよこしてくれた。ホーキンズ氏に、何かあの人から、便りはないかと問い合わしたら、彼の手紙を同封してよこしたのである。手紙はごく短いもので、ドラキュラ城から出してあり、今、帰国の途にたつとだけ書いてある。こんな書きぶりはジョナサンらしくないのだが、どういう事情なのかさっぱりわからず、それで私は心配している。
またルーシーのほうは、これもまた心配なのは、身体は丈夫なのだが、この頃またむかしの夢遊病の癖がはじまりだしている。ルーシーのおかあさんからそのことを聞いたので、私は毎晩、私たち二人の寝室に鍵をかけて寝ることにきめた。おかあさんの言われるには、夢遊病者は好んで家の屋根だの崖っぷちを歩き、急にハッと目がさめるので、驚いてあたり四方に聞こえるような悲鳴をあげて、下に落ちるのだという。ルーシーのおとうさんにこの病気があり、よく夜半に起きて自分で服を着かえ、人が止めないと、そのまま外へ出て行ったそうだ。
ルーシーはこの秋結婚することになっており、衣装の支度や家の設計など、着々と進んでいる。私が彼女に同情するのは、私もやはり同じ婚約期にあるからで、もっとも私とジョナサンはごく簡単にスタートするつもりでいるが。
二、三日うちに、ルーシーの未来の夫ホルムウッドさんがここに見えることになっている。ホルムウッドさんはゴダルミング卿の一人息子で、父君が目下ご病気なので、その容態を見たうえで、なるべく早く行きたいといってきている。ルーシーは指折り数えて待っている。彼が来たら、教会の崖へつれて行って、ホイットビーの美しい眺めを見せたがっている。その待ちこがれているのが、身体にさわるのだと思う。彼が来ればケロリとなおるだろう。
七月二十七日――ジョナサンより依然便りなし。どういうわけなのか、いっこうにわからない。ただただ心配のほかなし。一行でもいいから、便りをよこしてくれればいいと、今はそればかり望んでいる。ルーシーの病状はしだいに募《つの》るばかりで、私は彼女が寝室のなかを歩きまわるので、毎晩のように目をさまさせられる。さいわい陽気の暑いときだから、風邪はひかないけれど、でも心配なのと始終起こされるのとで、こっちも気がいらだち、ほとんど夜じゅう寝られない。ホルムウッドさんは、ご親父《しんぷ》ご危篤で、リングのほうへ呼ばれたから、こちらへみえる日取りが延びた。でも、ルーシーはそのことはさして影響もないようで、ここのところ少々太り、血色もよくなった。前のような貧血症らしい顔色がなくなった。このまんま、これがつづいてくれればいいが。
八月三日――あれからまた一週間がたつが、依然ジョナサンから便りなし。ホーキンズ氏のほうへも便りはない由。病気でもしているのでなければいいが。前の手紙を見た時、なんだか彼の手紙らしくなく思えたが、しかし筆跡は、正真正銘、彼の筆跡であることに間違いない。ルーシーは先週はたいして夜中に歩かなかったが、そのかわり私にもなんだかわからない、妙に一つことを思い詰めているような気配が見える。寝ていても、私のことをじっと見ているらしい。扉をあけようとして鍵がかかっていることがわかると、部屋じゅう、鍵を捜してウロウロ歩きまわる。
八月六日――あれから三日たつが、いまだに、音信なし。もうこんな気のもめることは、ほとほとごめんだ。ルーシーよりも、私のほうが病人になりそうだ。手紙の宛先か、行く先がわかっていれば、まだしも安心なのだが、あの手紙以来、まるっきりどこへも便りがないのだから、手がかりというものがまるでない。こうなれば、ひとえに神にすがるより辛抱の道はない。
ルーシーは前よりも興奮することが多い。それのない時は、病状は順調だ。――昨夜はいやな空もようの晩だった。漁師たちは、ひと荒れ来るといっている。天候に気をつけて、その兆《きざし》を知ることにしよう。きょうは曇天。教会の境内でこれを書いている今、太陽は、ケットルネス岬の上にかかっている厚い雲にかくれている。なにもかも灰色で、そのなかにエメラルド色に見えるのは夏草ばかり。灰色の泥岩、灰色の雲、その雲が遠く灰色の水平線にかかるあたり、雲のへりは日に照り、砂浜の先が灰色の指みたいに水に溶けこんでいる。海には高波が立ち、それが浅瀬と砂浜にザブン、ザブンと打ち返し、波音は汐けぶりに煙《けむ》る陸に陰々とひびいている。水平線は灰色の霧に消えて、一望|渺々《びょうびょう》として遮るものなく、雲は大きな岩のように層々と重なり、海上いちめんに、なにか不吉な運命の前兆のような「唸り声」をたてている。浜のあちこちに黒い人影があるが、それもときどき半分霧に包まれて、歩いている立ち木みたいに見える。港に帰り競《きそ》う漁船が何隻《なんばい》もいる。みんな港の入口で、大きなうねりに船体をかしげながら、浮きつ沈みつしてはいってくる。
例のスウェールズお爺さんがやってきた。こちらへまっすぐにやってくる。帽子をあげて挨拶するところを見ると、話がしたいのだろう。……
老人のようすが、きょうはなんとなくいつもと違っている。私のそばへ腰をおろすと、いやに静かな調子で話しだした。――
「この間は縁起でもねえ死んだ者の話ばっかりして、おまえさん、びっくりしなすったろう。死んだやつのことよりも、わしが死んだら思い出してもれえてえと思ってね。そんなこと考えたかねえけんど、わしらみんなもう、棺桶へ片足つっこんでる連中だからな。でも、それにへこたれたくねえから、気をらくに持ってるおかげで、こうしてちったあ元気でいられるだよ。わしゃ死ぬことはちっとも怖くねえが、いざ死ぬとなりゃ、やっぱり死にたかねえさ。でも、わしも近いうちにお召し上げださ。人間百年も生きりゃ、もうたくさんだ。年貢の納め時ださ。どうせ棺箱にへえって、ガラガラ運ばれる、世間のしきたりははずされねえさ。いずれ死の天使が、わしがためにラッパ吹いてくれるわな。……や、姐ちゃん、おまえは泣くことねえ、嘆くんじゃねえ」と老人は私が泣きだしたものだから、そういって、「おら、今夜あたり呼びにこられても、ちっとも構わねえ。世の中というもんは、結局、こっちがすること以外のものを待っているものなんじゃ。考えてみりゃ、いちばん頼りになるもんは、死ぬこっつあ。だから、さっさと早く来てもらいたいよ。こうやって眺めながら、おや、へんだなと思ってるうちに来るかもしんねえし、時化《しけ》がきて船がぶっ壊れて、災難や嘆きが海の上を風にのってくる時にくるかもしんねえ。――やあ! あれ!」老人はとつぜん大きな声でいった。「やあ、風ンなかに、あの海鳴りのなかに、なんじゃろ、へんだぞ、死のにおいがするぞ。こっちへやってくるぞ! おらがお迎《むけ》えかな。それだったら万歳じゃ! ワーイ!」
お爺さんは両手を恭々《うやうや》しくあげて、帽子を高くあげた。そしてなにか唱《とな》えごとをしているように、口を動かしていた。しばらく黙ってそうしていたが、やがて立ち上がると、私と握手をして、「ではしあわせでな、さよなら」と別れの挨拶をして、ヨボヨボと立ち去って行った。私は思わず胸が迫って、ひどく圧倒されてしまった。
ちょうど折りよくそこへ、望遠鏡をぶらさげた沿岸警備の巡査がやってきた。顔なじみなので、立ち止まって私に声をかけたが、その間も巡査は、沖にいる見なれない船を眺めつづけていた。
「どうもわからんな。船体から見ると、ロシアの船らしいが、なんだかへんな進み方をしてますな。自分で自分の料簡がわからんような……嵐の来ることはわかってるらしいが、北へまっすぐ進もうか港へはいろうか、迷ってるらしい。おやっ、あの船、へんな舵《かじ》のとりかただな。風の向きであっち向いたり、こっち向いたり、舵なんかお構いなしだな。まあ、どっちみち、あしたの今頃には情報がはいるでしょうが、へんな船だなあ!」
[#改ページ]
七
八月八日版「デイリー・グラフ」紙の切り抜き
〈ミナ・マリーの日記に貼付されたもの〉
「地方だより」――ホイットビー
本日、当地に記録上最大の突発的な強風がおそったが、その結果たるや、じつに奇怪無比なるものであった。このところ天候は蒸し暑い日がつづき、土曜日の晩はまれに見る快晴だったので、昨日はマルグレーヴの森、ロビン・フッド湾、リッグ・ミル、ランスウィックなど、ホイットビーの近郊は日帰りの行楽客で大|賑《にぎ》わい、ホイットビー発の遊覧船エンマ、スカボローの両船も、往復ともに近来にない満員の盛況であった。
天気は昼すぎまで快晴であったが、たまたま午後、東の崖上の教会境内にいた人たちの噂によると、北東の海面一帯に突然すさまじい大うねりがおこり、北西の空に突如として「馬尾雲」が現われたのが注意をよんだ由で、そのとき南西の風はごく穏やかで、気象用語でいう「第二号、軽微風」程度のものだったという。勤務中の沿岸警備隊はただちにその旨を報告したが、そのおり、五十年以上もこの東の崖上から天候を観測してきた一古老は、これはきゅうに嵐がくる前兆だと声を大にして予言した。
日没近く、壮大なる積乱雲は五彩目もまばゆいばかりで、行楽客は古い教会の崖下の道を散策しつつ、その美観を口々に賞した。落日が西の空にそびえるケットルネス岬の黒い山塊に沈む前、その下には、赤、紫、ピンク、緑、スミレ色の夕焼雲が金色に包まれ、空のおちこちには千態万様の黒雲が巨大なシルエットを描きだし、その壮観はおそらく画家の彩管を奮《ふる》わせたに相違なく、来春の展覧会場には「嵐の前奏曲」と題するスケッチがかならず何点か出品されることは疑いない。
土地の船頭連は「平底舟」とか「ポンポン船」とか、それぞれ船の形・性能で名づけている自分の持ち舟を、嵐が通過するまで港内に繋留《けいりゅう》しておくことにきめた。風は夜にはいってパッタリと凪《な》ぎ、真夜中には死んだようにソヨリともせず、蒸すような暑さは遠雷の音とともにいよいよ耐えがたく、過敏な人はみな参ったくらい。海上には灯影は一つもなく、ふだんは岸のすぐ近くにかかる近海船も沖に碇泊し、漁船の影はまったく見えず、ただ満帆した外国船が一隻、沖に見えただけ。この船は西へ航行するらしかった。船影が見えている間、乗組員の頑愚《がんぐ》と無知がいろいろ議題にのぼったが、とにかく危険を直前にして、帆をおろせとの合図を再三出した。夜の幕がまさに下りようとするころ、満帆をのんきにはためかしながら、山のような大波にしずかに揺れている船影が、≪絵にかいた海を、絵にかいた船のごとくにのんびりと≫見えていた。
十時すこし前にはまったくの無風状態となり、町の犬の声、里の羊の声までが耳につくほどの静けさで、波止場の楽隊の賑やかなフランスふうの吹奏も、大自然の静けさの諧調《ハーモニー》には不協和音のようであった。
十二時すこしまわったころ、突然、海鳴りともつかぬ妙な音が海のほうからおこり、風が妙な陰にこもったような音を高い空から吹き送ってきた。
すると、いきなり警告もなしに、嵐が吹きだしてきた。その時はまったく信じられないような、そしてあとになっては実感も浮かんでこないような素早さで、天地は須臾《しゅゆ》にして震盪《しんとう》しだした。波は騒ぎ立って追う波より高く、わずか二、三分のうちに、これまでガラスのように平らだった海面が、咆えたける怪物のように暴れだし、怒濤は狂うがごとく砂浜や断崖を白い歯でかみ、波止場を洗い、その波しぶきは港の二つの防波堤の先に立っている灯台にかぶった。風は霹靂《へきれき》のとどろくごとき唸《うな》りをあげ、屈強なおとなも鉄の柱にしばられたように、ほとんど立って歩けないくらい、強く吹きつけた。波止場は、全域にわたって見物人を一掃する必要があった。それをしなかったら、夜間の災害はもっと増えたことだろう。
この危険と困難に加うるに、濛々《もうもう》たる夜霧が陸に上がってきた。幽霊のように流れてくる白い、湿っぽい冷たい霧は、海で死んだ人々の霊が、生きている同胞たちに死の爪でさわりにきたように思われて、多くの人が霧の流れに戦々兢々《せんせんきょうきょう》とした。ときおり霧が晴れると、沖は一閃むらさき色の稲妻に染められ、それがいまやだんだん濃く繁くなり、そのあとは耳をつんざくもの凄い雷鳴が、すさまじい嵐の足音のごとく、頭上の空をメリメリ震わせるようであった。
壮絶無量、興味|津々《しんしん》たるこれらの光景――怒濤は山よりも高く、白い泡のかたまりを天に昇らせ、それを嵐がとらえて虚空にまきちらす。漁船はあちこちに帆を襤褸《らんる》のごとく引き裂かれ、突風の前を避難所さして狂えるごとくにつっ走る。そのなかを、ときおり嵐にあおられた海鳥の白い翼がひるがえる。東の断崖のてっぺんには、まだ一回も試験をしない新しい探照灯が、実験の準備をしていた。操作員がいよいよ操作活動をはじめ、突進する霧のあいまを見て、海上を照らしだした。一、二回、漁船がふなべりを水に浸《つ》けて、避難灯を目あてに港へ突入してきたとき、波止場へぶつける危険を避けるために、この探照灯は大いに効を奏した。漁船がぶじに船着場にたどりつくたびに、岸に待機する黒山の人からワッとあがる歓声は、いっとき、荒れ狂う風の音を消すかとおもわれた。
まもなく探照灯は、かなり沖合にあたって、あきらかに宵の口に見たのと同じとおぼしい、一隻の満帆した機帆船を発見した。このとき風はすでに東にかわり、崖の上から、沖を見まもっていた警備の人たちは、怒濤のなかの船影を見て、これは危ないぞと震えあがった。機帆船と港との間には、これまでにもしばしば大きな船が遭難した大きな岩礁があり、風が現在の方角から吹いているかぎり、港の入口まで船がたどりつくのは、まず不可能である。時刻からいえば、今が汐のいちばん高い時なのだが、なにせよ波が大きいので、高波があがると岸の浅瀬が見えるくらいだから、いかに満帆の機帆船が全速力で突進しても、老練な船頭の言葉をかりていうと、「どっちへ間切《まぎ》ったって、地獄へ逆落とし」であった。
そのとき前よりもさらに大きな霧のかたまりが襲ってきた。まるで灰色の棺蔽いさながら、物にべったり貼りつくような湿った霧で、その霧のためにさすがの嵐の唸りも、雷鳴のとどろきも、先刻よりもさらに大きくなった怒濤のひびきも、よほど耳のいい人でないと聞こえないくらいであった。探照灯は、船が激突する場所とおぼしい東波止場の先の港の口に焦点をおいて照らし、人々は固唾《かたず》をのんで見守っていたが、そのうちに急に風が北東にかわり、霧は突風にひと吹きに散ると見るや、防波堤で帆にうまく風をはらんだ機帆船は、波から波へと飛びうつるようにしながら、猛スピードでぶじに港内にはいった。探照灯が時を移さず船体を追いかけたその刹那《せつな》、船を見まもっていた人たちは思わずアッと声をあげて愕《おどろ》いたのは、探照灯のぎらつく光芒《こうぼう》の中に、問題の船の舵輪《だりん》部に、首をダラリと下げた一人の死人がひっかかっていて、船体の揺れるのといっしょに、ブランブラン動いているのを見たからであった。そのほかに甲板には人の影はひとりもいない。見物の人たちはみな、その船がまるで奇跡のように、死人の手に舵《かじ》をあやつられて港へはいってきたことを知って、ぞっと身の毛がよだった。筆で書くと長いが、じっさいはほんの瞬《またた》く間《ま》におこったことで、船はそのまま止まらずに矢のごとく一直線に港内を横ぎると、東岬の下の波止場の東南端の、このへんではテート・ヒル船着場といっている砂浜へ、もろに船体をぶち上げた。ものすごい勢いで砂浜にドンとつっこんだその震動で、帆柱・円材はメリメリと折れ、綱、支索、帆などはズタズタになったが、ふしぎなことに、船が浜につきあたったその瞬間に、大きな犬が一ぴき、まるで震動で飛び出したかのように甲板へ跳ねあがり、下の砂浜へパッと飛びおりたとおもうと、風のような早さで、たちまち教会の下の屏風《びょうぶ》のように切り立った断崖を駆けのぼり、探照灯の光のそとの濃い闇のなかに消えてしまった。
そのときテート・ヒル船着場には、ひとりも人はおらず、すぐ近所の家の人たちはみなベッドにもぐりこんでいるか、崖の上に出ていた。港の東側で任務についていた沿岸警備員は、いち早く船着場に駆け下りて、一番乗りに船に上がった。探照灯を操作していた連中は、港の入口を捜したが、そこにはもう何も見えないので、ただちに難破船に光をあてて、そこへ光の方向を定着させた。沿岸警備員は船に駆けのぼると、まず舵輪のそばへ行き、よく見ようと身をかがめたとたんに、なにか突発的な感情に襲われたようにアッと身をひいた。
このようすが見物人の好奇心を集めたらしく、数名の人たちがそれっというのでそっちへ駆けだした。西の断崖から、はね橋を通ってテート・ヒルの船着場まではかなりの道のりがあるが、そこは名うての走者である記者のことだ、群集を追いぬき、船着場へ行ってみると、すでに警備員だの警察官が大ぜいいて、記者を船に登らしてくれない。でも親切な船頭がいて、新聞記者だというと、甲板へ登るのを許可してくれたので、記者は、舵輪に縛りつけられている死んだ船員を見ている五、六人のなかの一人に加わった。
警備員が驚いた、というより恐ろしくなったのは無理もない。こんな光景はめったに見られるものではない。死体は十文字に重ねてくくられた両手を、舵輪の輻《や》に縛りつけられていた。下側の手と輻の間に十字架があり、両方の手首と舵輪とを数珠《じゅず》でギリギリしばり、その上をさらに細引《ほそびき》でガッチリしばってある。はじめは腰掛けに腰かけていたものらしいが、舵輪に帆がはためいたりからみついたりして、前後にふりまわされたらしく、そのために細引は肉をすり切って骨まで食いこんでいた。
さっそく厳密な状況調書が作成され、記者のあとから甲板へあがってきた検死医のJ・M・カッフィン氏が検死の結果、死体は死後二日をへたものと推定された。死体のポケットから厳重に栓をしたガラス瓶が発見され、そのなかに一見航海日誌とわかる紙片が巻いて封入されてあった。警備員のいうところによると、死んだ男は自分で両手をしばって、自分の歯で細引をしっかり結んだらしいという。船荷調査の権限をもたぬ警備員がいちばん最初に船に乗りこんだということは、後日、海事裁判所で紛糾《ふんきゅう》をひきおこすだろうが、問題の積荷については、すでにいろいろ法的な議論が云為《うんい》されており、ある若い法科の学生は、委任所有の代表物である舵柄が死んだ男の手に握られている以上、船主の権利は死手の法規に違反するから、すでに完全に犠牲になっていると、声を大きくして断言している。
それはそれとして、死ぬまで貴い職責の監視と保護を遂行した、若きカサビアンカのごとき確固不抜の精神をもったこの舵者が、検死認証を待つために、敬虔の念をもってその場所から死体収容所へ移されたことは、申すまでもなかろう。
かくて突発的に起こった嵐はすでに去り、その勢いも今は衰えつつある。群集も三々五々家路に散じ、ヨークシャー州の高原に朝は茜《あかね》色に明けてきた。次回の報道には、問題の漂流船が嵐のなかを奇跡的に航行してきた詳細を報じよう。
ホイットビーだより
八月九日――昨夜の嵐でかの漂流船が漂着したあと、それよりもさらに奇怪なことが起こった。機帆船はヴァルナから来た〈デメテル号〉というロシアの船であることが判明した。〈デメテル号〉はいまも浜辺の砂のなかにほとんど船体の全部を埋めているが、船荷の量はごく少なく、泥を詰めた大きな箱が十数個あるだけで、船荷受取人の当市クレセント街七番地在住の弁理士S・F・ビリングトン氏は、本朝同船にきて船荷引取りのいっさいの手続きをすませ、ロシア領事も船舶雇員契約を基《もと》に問題の機帆船の所有の所在を確認し、いっさいの税関事務を終了したから、事件は形式的には一応これで片がついたわけで、今のところ、あとに起こった怪異な出来事だけが噂とりどりである。
税関員たちは現行規定によって承認を行なうと確言しているが、「九日間の不思議」ということについては、告訴する理由なしとしている。いま町で多大の興味をひいているのは、問題の船が浜に打ち上げたとたんに、まっさきに上陸した謎の怪犬のことで、当市で強力な組織をもっている「動物愛護会」の会員たちがその犬と仲よくなろうとしている以上に、市民の関心をあつめている。しかし残念ながら、犬はいまだに見つからない。町からまったく姿を消してしまったようである。おそらく脅かされて、沼地のほうまで逃げて、怖いのでそこに隠れているのだろう。猛犬らしいから、今後危険がおこらないようにと、万一を恐れている連中もある。その矢先、けさ未明に、テート・ヒル船着場付近の石炭商の飼犬で、マスティフ種の大きな犬が、家のむかいの路上で死んでいるのが発見され、よほど凶暴な猛犬と激しい喧嘩でもしたとみえて咽喉を食いきられ、むざんにも凶猛な爪でえぐられでもしたように横腹にパックリ口があいていた。
後報――本記者は当地商業会議所員の好意によって、〈デメテル号〉の航海日誌の内見を三日間許された。行動不明中の乗組員に関する事実を除けば、とくに興味あることは書かれていない。それにしても、最大の興味は、この日誌が瓶の中から発見されたことに関する記述で、瓶は本日検証に提出された。日誌には、この二つのことよりもさらに奇怪な記述があるが、それを見つけたのは記者の運ではない。記者は日誌の使用を許されたのだから、べつに隠蔽《いんぺい》する動機はないことゆえ、船員や積荷の専門的な記述は省略さしてもらったうえで、その複写をお送りする。日誌によると、どうも船長は入水する前まで、なにか「躁病《マニア》」のようなものにとり憑《つ》かれていて、それが航海中絶えず亢進したらしい。原文はロシア語で書かれており、それをロシア領事館の一事務員が本紙のために一夜漬けで翻訳してくれたものなので、以下の記事はその点、多少割引きして読んでいただきたい。
〈デメテル号〉航海日誌≪ヴァルナよりホイットビーに至る≫
七月十八日記す。あまりに不思議なことが続出するので、上陸まで精密な記録をとっていくことにする。
七月六日 銀砂と泥の箱の積荷完了。正午出帆。東の風やや強し。船員五名、機関手二名、コック一名、船長(余)。
七月十一日 未明ボスフォラスに入港。トルコ税関吏上船、検閲。心づけをやる。無事許可。午後四時出帆。
七月十二日 ダーダネルス海峡通過。税関吏および警備隊の検閲あり。心づけをやる。全船検閲終了。ただちに出帆。夜間、アーキペラゴに入港。
七月十三日 マタパン岬通過。船員のなかに何か不平があるらしい。ひどく驚愕のようすなれど、みな口を緘《かん》して語らず。
七月十四日 船員らについて若干憂慮すべきことあり。船員はいずれも前に余と航海をともにした屈強な連中ばかりである。機関長にも、異状のあることがつかめない。船員らはただ、何かがいるといって、しきりと十字を切っている。機関長はこの日ついに癇癪《かんしゃく》をおこして、船員の一人を殴りつけた。はげしい喧嘩になるかと思ったが、全員静穏。
七月十六日 機関長から、本朝船員の一人であるペトロフスキーの姿が見えぬと報告あり。失踪の原因不明。同人は昨夜八時に左舷の当直をアブラモフと交替したが、逃亡したようすなし。船員ら、意気とみに沮喪《そそう》せり。みな何かが出るといっているが、何かが船内にいるとよりほかに、だれもそれ以上は言おうとしない。機関長、しきりと焦慮している。いずれなにか面倒なことが起こりそうだ。
七月十七日 咋日、船員の一人オルガーレンという者が船長室にきて、ただならぬ顔色で、船長、この船に知らない人間が一名乗っていますと、まことしやかにいった。この男のいうところによると、昨夜当直のおりに、驟雨《しゅうう》が降ってきたので、甲板室のかげに雨やどりをしていると、仲間のだれにも似ていない一人の背の高い痩せた男が、なれなれしく近づいてきて、前方甲板のほうへ歩いて行き、そのまま姿が消えて見えなくなった。そこでぬき足さし足そのあとをつけて行き、とうとう船首のところまで行ったが、人らしい影はどこにも見つからなかったという。この船員は幽霊の恐怖にとりつかれているのだから、自分はこの恐怖が全員にひろがっては困ると思い、きょうは騒ぎをとりしずめるため、船尾から船首まで、くまなく、しらみつぶしに探索することにした。
夜おそく全員を集め、船内に怪しい者がいるという話だから、これから船内捜査をはじめると申し渡した。機関長が腹を立てて、そんな馬鹿なことがあるものか、そんなことを言い出したら、船員たちの意気を沮喪させるようなものだ。私はどんなことがあっても舵を握って行きますという。そこで余は機関長には舵をまかせ、一方全員には手に手に提灯《ちょうちん》をもたせて、みな離れぬようにひとかたまりになって捜査をはじめさせ、船内残るくまなく検閲した。船荷は大きな木箱ばかりだから、人間が隠れられるような怪しい物陰はどこにもない。全船捜し終わった時、鉛員たちはみなホッとして、めいめい元気に作業にもどった。機関長だけは苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、何もいわず。
七月二十二日 三日につづいて荒天。全員操帆作業に忙しいので、ものにおびえたりする暇なし。船員たちは怪異のことをすっかり忘れたらしい。機関長ももとのように快活になり、今のところ船内は無事にいっている。荒天に働く船員たちをほめてやった。ジブラルタルを通過し、ようやく海峡の外に出る。異状なし。
七月二十四日 どうも本船に何か怪しいものが出るようである。すでに荒天を乗り越え、帆をおろしてビスケー湾にはいろうという間際に、昨夜また一人、船員がいなくなった。最初のと同じように、夜間当直を終わると、そのまま見えなくなったのである。船員たちは恐怖に沸き立ち、われわれは一団になって事に当たることにするから、夜間の当直を二人にしてくれ、一人ではとてもこわくてやりきれないといいだした。機関長はまた腹を立てた。こうなると、機関長か船員のうち、どちらかが乱暴を働きかねないので、面倒なことが起こりそうで心配である。
七月二十八日 まる四日間、船が渦の中へまきこまれ、その上暴風におそわれて、まるで地獄にいるようだった。全員一睡もせず、夜間当直を出したくても、出る者がなく、方法つかず、二等機関手が舵手と当直を自分から買ってでて、船員たちを二、三時間眠らせた。風は荒れ狂い、海は依然としてものすごいが、船がしっかりしているので、大して影響なし。
七月二十九日 またもや悲劇――全員疲労はなはだしく、とても二人の夜間当直は出せないので、今夜は一人にした。朝の当直が甲板へ出て行くと、舵手のほかにだれもいない。叫び声がしたので、全員甲板へ飛び出した。検分したが、どこにも怪しい者は見当たらない。二等機関手がいなくなったので、船員たちは大騒ぎである。機関長と余は、今後武装して正体の現われるのを待つことにした。
七月三十日 昨夜はいよいよイギリスに近づいたので、船内一同喜んだ。天気晴朗。満帆。疲れて船長室に入り、熟睡。機関長に起こされ、当直と舵手がいなくなった由を聞く。これで船の作業に残ったものは、船長の余と機関長と二人の船員だけになった。
八月一日 二日間濃霧で船影を見ず。早くイギリス海峡にはいって、救助を頼むか、どこかへ入港する警報を打ちたい。操帆の力がないから、風のまにまに航行しなければならない。帆を揚げ直すこともできないし、これより低くも張れない。本船は今、何か恐ろしい運命に向かって漂流しているようだ。船員両名よりも、今は機関長のほうが意気沮喪している。強情な性質が妙に内攻しているふうにみえる。二人の船員は、どうせもっとひどいことになるという覚悟で、こわいのを通り越し、馬鹿みたいにぼーっとして働いている。この二人の船員はロシア人で、機関長はルーマニア人である。
八月二日 真夜中。二、三分とろとろと眠ったと思うと、本船の左舷らしきところで叫び声が聞こえたので目がさめた。濃霧で何も見えない。急いで甲板に飛びだすと、機関長がこちらへ走ってきて、いま叫び声が聞こえたから、ここへ走ってきたのだが、当直の姿が見えないという。また一人いなくなったのである。神よ、われらを助けたまえ! 機関長は、船はドーヴァー海峡を通過したにちがいないという。さきほど霧がしばらく上がった時に、ノース・フォーランドが見えた。ちょうどその時、船員の叫んだ声を聞いたのだという。とすると、船はいま北海の沖へかかっているのだ。もはやかくなる上は、神のみが濃霧の中で船を導いてくださるだけだ。神はわれわれといっしょについてきているらしい。なんだか神がこの船を、だんだん無人船にしてきたような気がする。
八月三日 真夜中に、舵手を休ませてやろうと思って、甲板へ出て行ってみると、だれもいない。風は絶えず同じ方向に吹いており、船はその風に乗って走っていたから、針路をそれることはなかった。余はだれもいない舵を握ったまま、大きな声で機関長を呼ばった。機関長は寝衣のまま、すぐに甲板へ飛び出してきた。見ると、ただならぬ目つきをして、顔がげっそり憔悴《しょうすい》しているから、これは気がふれたかなと心配になった。機関長は余にそっと寄りそい、耳もとに口をよせて、あたりに聞こえぬように低い芦で、「船長、あいつがいます。今やっとわかりました。昨夜当直をしていたとき見たんです。背の高い、痩せた、顔のまっ青なやつでね。そいつが舳《へさき》のほうにいてのぞいていやがるから、こっちはそっとうしろへ忍びよって、いきなりナイフで突いたんです。そしたら、ナイフは空を突いてなんにもそこにねえんでさ」
機関長は話しながら、ナイフを出して、何もないあたりの空をむちゃくちゃに斬りまくった。「ところが、ちゃんとあいつはいるんですよ。今に見つけてやります。あいつはね、船艙《せんそう》のね、あの箱の中にいやがるんですよ。あの箱を一つずつネジを抜いて、きっと見とどけてやります。ですからね、あなたは舵をお願いしますよ」
そういって、あたりに目をくばり、唇に指をあてて、船艙へ下りていった。そのとき、急に風が出てきたので、余は舵を離れることができなかった。やがて機関長が工具箱と角灯をもってふたたび甲板に上がってきて、舳《みよし》の船艙へ下りて行く姿が見えた。いよいよ気が狂ったのにちがいない。あの荷箱は、送り状には「泥」としてあるので、べつにこわれるものはないから、余はうっちゃっておいて、舵を見ながら、今この日誌を書いているところだ。余はただ神を信じ、霧の晴れるのを待つばかりだ。この風でどこかの港へ入港できなかったら、帆を切って落とし、救援のしるしにしよう。
こうなってはもうほとんど万事休すだ。これで機関長の気も静まるだろうと、ふとそんな希望を余が持ちだしたのは、船艙からなにか物を叩いていく音が聞こえたので、いいあんばいに彼、やってるなと思ったからであった。と突然、船艙からキャッという悲鳴の声がした。その声に、余の血は凍りついた。機関長がフラフラ甲板へ上がってきた。まるで銃にでも撃たれたような格好で、目がうわずり、顔は恐怖にひきつり、まさしく狂人の形相《ぎょうそう》である。「助けてくれ! 助けてくれ!」と絶叫しながら。濃霧のなかをキョロキョロ見まわしていたが、戦慄が絶望にかわったのか、いやにおちついた声になって、「船長、あなたもいっしょに来たほうがいいですぞ。まだ遅かありません。あいつはあすこにいます。やっと正体がわかりました。あいつから逃げだすには、もう海よりほかにありません。船長、あなたもいっしょにいらっしゃい!」
声をかけるひまも、つかまえるひまもなく、いきなり機関長は舷側《げんそく》から身をおどらすと、あっというまに海へ飛びこんでしまった。余も今、やっと正体がわかったように思う。連日来、船員を一人ずつ葬ってきたのは、この狂人のしわざだったのだ。それが今、自分で葬った者のあとを追ったのだ。神よ、助けたまえ! 港へついたら、余はこの連日の恐怖を、どういって話したらいいのか? 港についたら! ――ああ、それはいつのことか?
八月四日 本朝も濃霧。日の出見えず。余は海の人間だからこそ、日の出があることを知っているのだ。海の人間でなければ、日の出なんか知りゃしない。昨夜はとうとう船艙へは下りずに、終夜舵を握っていた。そして見た。――あいつを見た。夜の暗いなかで、あいつを見た。こんなことをいったら、神さまに申しわけないが、機関長が甲板から海へ飛びこんだのは、ムリもない。男らしく死んだほうがよかったのだ。船員が船員らしく青い海で死ぬことに、誰が文句をいえよう。だが、余はかりにも船長だ。船長は船を去ってはならん。化け物でも怪物でも、来るなら来い! そうだ、力尽きたら、この手を舵にしばりつけておけばいい。そして、あいつがどうしても手を触《さわ》れない物をいっしょにくくりつけておいてやろう。順風でも時化《しけ》でも、来るなら来い! おれは自分の魂を救い、船長としての名誉は助けるぞ。自分も弱ってきている。夜は近づいてくる。もしあいつが二度と再びおれの顔をのぞきこんだら、おれは行動するひまはあるまい。……もし船が難破しても、このガラス瓶が発見されれば、みんなにわかってもらえるだろう。わかってもらえなければ……いや、かならず、このおれがおれの信念に忠実だったことは、みんなにわかってもらえる。神と聖母と諸聖は、おのれの務めを果たそうと努めるこの一人の哀れにも無知なる魂に、きっと力をかしてくださる。……
むろん、評決は公開のものであった。しかし、これという挙げるべき証拠はなく、機関長がはたして殺人を犯したものかどうかは、誰にもいえなかった。ただ船長が英雄であることは誰もが認め、公葬にすることになった。遺体は何艘かの小舟が舳艫《じくろ》相銜《あいふく》んでエスク川を溯《さかのぼ》り、それから、テート・ヒルの船着場に引き返して、大寺の石段をのぼるということに次第がきまり、崖上の墓地に埋葬されることになっている。すでに何百人という漁船の持主が参会者として、墓まで送葬すると申し出ている。
例の大きな犬の行方は全然|踪跡《そうせき》がわからない。今のところ、市内に潜伏しているらしいというのが一般説になっているが、大いに憂《うれ》うべきことである。明日の葬儀には記者も参列するが、「海の謎」は一応これでケリがつくことになろう。
ミナ・マリーの日記
八月八日――昨夜はルーシーが一晩中おちつかず、おかげで私まで眠れなかった。夜じゅう嵐がひどく、屋根の煙突の先にヒューヒューと音がするときは、まるで遠くで鉄砲を撃っているようだった。ふしぎとルーシーは、風の音には目をさまさなかったが、二度起きて着がえをした。さいわい、二度ともうまく私が目をさましていたので、彼女の目をさまさせないように、着かえた服をまた脱がして、ベッドへ入れてやったが、この夢遊歩行はずいぶん変で、彼女の意志がからだの上で妨げられると、彼女の意向はサッと消えて、そのまま日常の生活どおりのさまに自分から戻るのである。
けさは早目に二人して起きて、昨夜の嵐のあとを見に、港のほうへ下りて行ってみた。港には人影はほとんどなく、日がのぼって爽やかなお天気なのに、海はまだ白く泡だっているので大きな波がどす黒く見え、狭い港の口へと、まるで人ごみのなかを雲つくような大男がかきわけていくように、大波がひしめいていた。ジョナサンが昨夜のようなあんな海上にはいずに、陸上にいると思ったら、なにかホッとした。でも、陸にいるのかしら? 海上にいるのかしら? 一体、どこにどうしているのだろう? 私は心配でならない。こうすればいいということがわかれば、なんでもするのだが。
八月十日――きょうは気の毒な船長のお葬式があったが、ほんとに見るも涙の種であった。港の船は一艘のこらず出たらしく、柩《ひつぎ》は船頭たちの手でテート・ヒルから崖の上の墓地に運ばれた。ルーシーも私といっしょに来て、二人していつもの腰掛けに早ばやと陣どっていると、行列の船はヴァイアダクトまで川をのぼり、そこからまた引き返してきた。ここは眺めがきくので、私たちは葬列のほとんど全行程を見物できた。
亡くなった船長は、この席のすぐ近くに葬られるので、埋葬のときに私たちは立って、その次第をくまなく見物した。ルーシーは、きょうはだいぶ心が乱れているらしく、葬儀の間じゅう、ソワソワしておちつかないようすであった。昨夜の夢がなにか彼女に語っているのだろうと思わざるをえない。どこか一つおかしなところがあるが、当人はべつにソワソワおちつかない原因なんかないというだろうし、原因があっても、自分ではわからないというだろう。じつはそれに加える原因として、例のスウェールズという老人が、けさここの腰掛けで死んでいたのが見つかったということもあったのである。老人は首の骨が折れていた。医者がいうには、なにかに驚いて腰掛けにあおむけにひっくり返ったのだろうという。その証拠には、見た人がギョッとしたほど、顔に恐怖と戦慄があらわれていたそうだ。気の毒な老人! おそらくお爺さんは、死んでいく目に「死神」を見たのだろう。ルーシーはやさしい感じやすい娘だから、他人が感じる以上に、そういうことには影響されるほうである。私も動物は大好きなほうだが、彼女は私なんかが気にかけないような、ごく些細なつまらないことにも、仰天してしまう。
よくここへ船のくるのを待ちに、犬をつれてくる人があった。その人はいつも犬をつれているが、両方ともおとなしく、私はこの人が怒ったのを見たことがないし、犬の吠えたのも聞いたことがない。主人が私たちの腰掛けに腰をおろしていると、犬はいつもすこし離れたところにすわっているのだが、それがきょうは珍しく吠えたり、唸ったりした。はじめ、主人はやさしく声をかけていたが、だんだんきつい声になり、しまいには怒りだしたが、犬はいっこうに騒ぐのをやめないどころか、まるで気違いみたいになって、目の色をかえ、怒った猫みたいに尻尾を逆立てている。
とうとう飼主のその人も腹を立てて、いきなり行って犬を蹴りつけると、首ねっこをつかんでズルズル引きずってきて、腰掛けのすぐそばのお墓へ叩きつけるように投げた。すると犬は、墓石に触れたとたんに、きゅうにおとなしくなって、体じゅうブルブル震えだした。逃げるでもなく、そこへベタリと平《へい》つくばって、震えながらクンクン鳴いている。ひどくおびえた哀れなようすだったから、つい、なに気なく、私は慰めてやった。ルーシーも可哀そうがったが、しかし犬には手を触れようとせず、なにか苦痛な表情でじっと眺めていた。それを見て私は、このひと、こんなに度を過ぎて感じやすくては、苦労なしには世の中を生きていかれないなと、大いに心配になった。きっと今夜は、犬の夢を見るにちがいない。いや、いろんなことがひと固まりになって、――死びとが舵をとって港へはいった船、舵輪に十字架と数珠をくくりつけた船長の行状、感動的な葬儀、それから今のおびえ狂った犬、――みんなこれがルーシーの夢の材料になるだろう。
体の疲れている彼女は、早く床へ寝かすに越したことはないと思ったので、私は崖ぞいにロビン・フッド湾まで彼女とぶらぶら歩いて帰ってきた。夢遊歩行の癖も、もうここらで止めてもらわなければ。
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八
ミナ・マリーの日記
八月十一日、午後十一時――ああ、疲れた! この日記、義務としてつけていなかったら、今夜あたりはとても開く気にはなれまい。ついさっき、楽しい散歩をしてきたところだ。ルーシーもごきげんだった。それは灯台の近くの原っぱで、牛の群れがこちらへ向かってやってきたためで、二人ともほんとにびっくりした。
その時は自分の身の怖さ以外のことは、なにもかも忘れたが、そのおかげで石盤をきれいに拭いて、新しく出直せたのであった。ロビン・フッド湾の古風なはたご屋で、苦いお茶を飲んで帰ってきたのだが、きっと宿屋ではわれわれの嗜好《しこう》を見て、「新しい女」だとびっくりしたにちがいない。ゆっくり休み休み帰ってきたが、放牛の怖さがいつまでも心臓に残って離れなかった。ルーシーがヘトヘトに疲れていたので、帰ったらそっとベッドにもぐりこむつもりでいたところ、ルーシーのお母さんのところへ若い牧師補がお客に見えていて、お母さんはお夕飯を、といって牧師さんをひきとめているところだった。そのことで、ルーシーと私は、疲れているからといって、二人してひと悶着《もんちゃく》つけてやったが、もちろん私のほうは苦戦だった。でも、だいぶ言いまくってやった。そのうち牧師さんに集まってもらって、牧師のたまごの育ちぐあいを見てもらい、若い女の子が疲れている時には、どんなにむり言われても夕飯には招《よ》ばれないようにしてもらわなければ。ルーシーは今、しずかに寝息をたてて眠っている。顔の色もいつもよりもよくて、かわいい顔をしている。ホルムウッドさんが客間の彼女だけを見て惚れこんだのだったら、眠っている彼女を見たら、なんと言うかしら。いまに「新しい女」のなかには、男子も女子も結婚を申し込みそれを受諾する前に、おたがいに相手の寝顔を見るべきだという説をなす者がきっと出てくるだろう。いや、ひょっとすると「新しい女」は将来、男性から申し込みなんか受けないで、こっちから、男性に申し込むだろうな。それができたら、愉快だなあ! もちろん、それには慰めも多少あるが。
今夜はルーシーのぐあいがだいぶいいようなので、私も嬉しいのだ。ルーシーは今、曲がり角にきているのだと思う。彼女の煩《わずら》いは夢にかかっているのだと思う。さて、そういう私は、ジョナサンの消息がわかれば、煩《わずら》いがなくなるのだが。……神よ、彼を守りたまえ。
〔訳註。次の記録の八月十一日は当然十二日午前三時のはずだが、これを訂正すると以下全部一日ずつずれるので一応原書のまま訳出した〕
八月十一日、午前三時――眠れぬままに、また日記を書く。胸騒ぎがして眠れないのだ。じつは今、冒険をしたところである。苦しい経験だった。さっきは日記を閉じたら、すぐに眠りに落ちた。……すると突然ハッと目がさめて、なにか自分の上に襲いかかる恐怖感で、床の上にすわった。自分のまわりがへんにガランとした感じだが、部屋がまっ暗なので、ルーシーのベッドが見えない。手をのばしてさわってみると、藻《も》抜けの殻だ。マッチをすってみると、部屋のなかにもいない。扉はしまっているが、鍵は私がかけなかったままになっている。私はお母さんの目をさまさないように(お母さんもここのところ、体の調子が悪いので)すぐ着がえをして、ルーシーを捜しに行く支度をした。出がけに、ふと彼女の着て出た服を調べてみたら、見た夢の手がかりになるかもしれないと思った。部屋着なら家の中にいるし、ドレスなら外へ出たのだ。ところが両方とも、いつもの場所にあった。
「しめた! 寝間着のまま出たのなら、そんなに遠くへは行くまい」と私はひとりごちながら、階下へおりて行って居間をのぞいたが、そこにもいない。私はだんだん募《つの》ってくる不安にドキドキしながら、鍵のかかっていない部屋は残らず見た。とうとう玄関のホールへ来てみると、そこの扉があいていた。あけっぱなしではなかったが、錠がかかっていない。毎晩ここはかならず鍵をかけて寝るのに、ルーシーはやはりここから出たのにちがいなかった。どうしたのだろうなどと考えているひまはなかった。ただ心を領している漠然とした不安が、細かいことなどみんなボヤかしていた。私は厚い大きなショールをひっかけると、表へ走り出た。
往来へ出ると、大時計が一時を打った。通りには人っ子ひとり見えない。北の高台を急ぎ足で行ったが、こっちが目当てにする白っぽい姿などしるしにも見えない。波止場の上の東の崖の上から、ひょっとしたらいつもの腰掛けにルーシーの姿が見えるのじゃないかと、われながら希望とも心配ともつかぬ気持で、港ごしに西の崖を眺めてみた。今夜はこうこうとした満月の夜で、空には厚い棚雲が黒くたなびき、それが月のおもてを掠《かす》めるたびに、見わたす全景を光と影の動く幻視画《ジオラマ》に投げこむ。ちょうど雲の影が聖母教会とそのまわりを暗くしたので、しばらくの間なにも見えなかったが、やがて雲が通りすぎるにつれて、大寺の荒れた姿が視界にはいってきた。そして剣の刃のように鋭い光の狭い帯のへりが動くにつれて、教会と境内の墓地もしだいに見えてきた。
私の期待が何であったにもせよ、それが失望でなかったというのは、銀いろの月の光が、例の腰掛けの上に、半身《はんみ》にもたれている雪のように白い人影を射出したからであった。雲の動きが早すぎて、すぐに光が影になってしまうので、よくは見えなかったが、その白い人影が光っている腰掛けのうしろに、なにか黒いものがかがみこんでいるように私には見えた。それが何なのか、人間なのかけだものなのかわからなかったが、もう一度よく見てみるひまも待ちきれずに、私は急な石段を飛ぶように波止場へ駆けおりると、魚市場の横を通って、東の崖へ行く一本道の橋をわたった。町には人っ子ひとり見えず、まるで死んだようにしんかんとしていたが、私はルーシーの哀れなさまを人に見られたくなかったので、そのほうがかえってしあわせだった。
時間と距離が果てしもないものに思われ、大寺へのぼる石段をウンウンいって登るときには、膝がガクガクして息ぎれがした。早く行かなければならないのに、足が鉛のように重く、まるでからだの節々が錆《さ》びつきでもしたかのようだった。やっと石段のてっぺんまでくると、腰掛けと白い姿が夜目にもボーッと見えてきたが、半身にもたれている白い姿の上に、かぶさるようにかがみこんでいる長い黒いものが、たしかにいる。私は怖くなって、「ルーシー! ルーシ!」と叫んだ。すると、かがみこんでいたものがグーッと首を上げ、私のいるところから白いその顔と、赤くギラキラ光っている目が見えた。ルーシーが返事をしないので、私は墓地の入口へ走りつづけた。腰掛けと私との間には教会の建物があるので、そこを回る間、ルーシーの姿がちょっとの間見えなくなったが、見える所へ出たとき、ちょうど雲が切れて月の光がさしたので、腰掛けの背に首をもたれて半分のけぞっているルーシーの姿を見ることができた。彼女はひとりぼっちで、あたりには生きている物の影はなにもなかった。
駆けよってかがんで見ると、彼女はすやすや眠っていた。口をすこし開いて、寝息をたてているが、いつものように静かな寝息ではなく、まるで肺臓がひと息ひと息、深呼吸をしているような、長い深い喘《あえ》ぎである。私はそばに寄って、眠っている手をそっとどけて、咽喉のまわりに寝間着の襟を立ててやった。それをしているうちに、寒いのか体をブルッと一つ小さく震わせた。私は自分のしてきたショールをとって彼女にかけてやり、夜気が冷たいので風邪をひくのを恐れて、ショールのはしを首のまわりにしっかり巻いてやった。すぐに起こしては悪いと思って、私はいつでも手を貸してやれるように両手はあけておき、咽喉のまわりのショールを大きな安全ピンで留めてやったが、そのとき息づかいが早くなって、咽喉のへんに自分で手をやって呻《うめ》くものだから、ピンを刺してはいけないと、そっちの方が心配でボヤボヤしていたのにちがいない。すっかり体をくるんでやったところで、私の靴をはかせて、それから静かに起こしてやった。はじめは応《こた》えがなかったが、だんだん眠りがおちつかなくなり、呻いたり溜息をついたりしているから、私もこんなことをして、ぐずぐずしてはいられない、早く家へつれて行こうと思って、すこし強く揺すぶり起こすと、彼女は私のことを見て、べつに驚くようすもない。むろん自分がどこにいるのか、とっさにはわからないのだから、これはむりもなかった。ふだんからルーシーは寝起きのいいほうで、体は冷えきっているはずだし、夜なかに寝間着で教会の墓地のなかで目がさめたという狼狽もあろうというのに、すこしも取り乱さなかった。震えながら、私にすがりつくから、さあ、すぐにお家へ帰りましょうというと、なにも言わずに子供のようにすなおに立ち上がった。帰る道みち、私ははだしなので、小砂利で足の裏を切った。ルーシーは私が足をかばって時々飛びあがるのを見て、靴をはいてくれといってせがんだが、私はきかなかった。でも、墓地のそとの道路へ出たら、嵐のなごりの大きな水たまりがあったので、そこへ足を代わるがわる浸《つ》けて泥を洗いおとした。途中、だれにも会わなかったので、跣足《はだし》は人に見られずにすんだ。
運よく、家へ帰るまで、人っ子ひとり会わなかった。いちど酔っぱらいらしい人が前を行くのを見かけたが、スコットランドで「路次《ワインド》」と呼んでいる、坂道のあちこちにある小さな横町へ姿を消すまで、私たちは物かげにかくれていた。歩きながら、私は胸がドキドキ鳴って、気が遠くなるかとさえ思った。夜なか吹きさらしの表に出ていた彼女の健康もさることながら、そればかりでなく、ひょっとして今夜のことがひろまりでもした時の彼女に対する世間の評判、その心配で私は胸がいっぱいだったのである。
家に着くと、二人とも足をよく洗ってから、いっしょに感謝のお祈りを上げ、それから、彼女を床へ入れた。眠りにつくまえに彼女は、今夜のことは誰にも、――母にも告げないでくれといって、私に頼んだ、というよりもせがんだ。私もはじめはその約束に躊躇《ちゅうちょ》したが、お母さんの健康状態を考えて、こんなことを知らせたらお母さんはどんなに胸を痛めるだろう、それにこういう話はそれが洩れた場合には、かならず歪《ゆが》んで伝わるものだからと思って、人には言わないほうが賢明だと考えた。私が約束したのが誤りでなければいいが。
私は扉に錠をおろして、鍵は自分の手首にこうしてちゃんとかけているから、もう二度と人騒がせを起こすようなことはあるまい。今、ルーシーはいびきをかいて寝ている。夜明けの光が海の上にだんだん高くなってきた。……
同日、正午――万事うまく行っている。ルーシーはけさ、私に起こされるまで熟睡していたが、べつに変わったところも見えない。ゆうべの冒険は無害だったらしい。それどころか、けさいつもより血色がいいところを見ると、ゆうべのことはかえっていい結果を与えたのかもしれない。ただ悪いことをしたと思うのは、私の迂闊《うかつ》から安全ピンでルーシーに怪我をさせてしまった。ほんとに、もう少しでえらいことになるところだった。咽喉の皮をつっ通してしまったのだもの。安全ピンをとめるときに、きっと咽喉のたるんだ皮膚に刺したのにちがいない。二ヵ所に針を刺したような小さな赤い点ができており、寝間着の帯にも血がついている。私があやまって、そのことを話したら、ルーシーは笑って「なんともないわよ」といっていた。いいあんばいに、ごく小さな傷だから、跡が残るようなことはあるまい。
同日、夜――きょうはいちにち、楽しい日をすごした。天気もよく、風も涼しかったので、ルーシー母子《おやこ》と三人して、マルグレーヴの森へ昼食を食べに行った。お母さんは車で行き、ルーシーと私は崖道を歩いて、公園の門の前で落ち合った。こんなときジョナサンがいてくれたらと思うと、私は心が暗くなったが、ほんとに彼、どうしたのだろう! 辛抱辛抱。――夜はまた三人して、カジノ・テラスヘ音楽を聞きに行った。今夜は早寝。ルーシーもいつもよりおちついているようで、床にはいるとすぐに眠った。今夜はべつに何事もなさそうだが、用心にしくはないので、私は扉に錠をかけて、鍵はあいかわらず手首にかけて寝た。
八月十二日――私の予想ははずれた。昨夜は二回もルーシーが外へ出ようとして、目をさまされた。ルーシーは寝ぼけたまま、扉に錠がおりているのに焦《じ》れて、不服そうにベッドに戻った。私は夜明けといっしょに目がさめると、窓の外で小鳥のさえずる声がきこえた。ルーシーも目をさましたが、きのうの朝よりもさらに元気な顔を見て、私はホッとした。もとの陽気さがやっと戻ってきたようで、私のベッドへもぐりこんできて、アーサーの話をいろいろ私に聞かしてくれた。私もジョナサンのことを心配しているのだというと、彼女はいろいろ慰めてくれた。べつに同情してくれたからといって、事態が変わるわけでもないけれども、慰められればそれがいくらかでも心の支えになるわけだから、ルーシーの慰撫は少しは薬になったわけだ。
八月十三日――きょうもいちにち、平穏無事。就寝のとき、前日同様、鍵を手首にかけて床にはいる。夜なかに目がさめたら、ルーシーが眠ったままベッドの上に起き上がって、窓のほうを指さしている。急いで飛び起きて、窓のブラインドを引いて外をのぞいて見た。外はいい月夜で、月かげが海と空に柔らかな効果をあげ、一つの大きな静寂の神秘のなかに溶けこんで、その美しさはいいようもない。その月光と私との間を、一匹の大きな蝙蝠《こうもり》がヒラヒラと大きな輪を描きながら、行ったり来たりしていた。一、二度、グーッとこちらへ近づいてきたが、私を見てびっくりしたらしく、そのまま大寺のほうへ、港の上を横切りながらハタハタ飛んでいってしまった。窓から戻ってくると、いつのまにかルーシーは床の上に長ながと横になって、スヤスヤ寝入っていた。それきり昨夜は一晩じゅう、彼女は寝返りも打たなかった。
八月十四日――東の崖上で、終日読書と物を書いて過ごした。ルーシーは私と同じように、この場所がまるで恋人にでもなったようで、この頃は昼食、お茶、夕食で帰宅する時間になっても、そこから連れ去るのが大仕事であった。
午後、彼女はおかしなことを言った。夕食に家へ帰るところで、西波止場から登る石段の降り口まできたとき、誰でもするように、景色を見晴らすために、ちょっとそこで足をとめた。空の裾に低く下りた夕日が、ちょうどケットルネス岬のかげに落ちるところで、東の崖や古い大寺の上に茜《あかね》色の光がさし、あらゆるものを美しいバラ色の光のなかに浸しているようだった。二人ともしばらくは無言でいたが、とつぜんルーシーがひとりごとのように呟いた。
「あら、またあのまっかな目が! おんなじ目だわ!」
まるでありもしないものがそこにあるような、へんな言い方だったので、私はギョッとした。まともからでなく横からそっと様子を見ようと思って、からだをすこしねじって窺《うかが》うと、なにか半分夢でも見ているようなふうで、見当もつかない妙な顔つきをしているから、私はなにも言わずに彼女の視線を追った。どうやら彼女は例の腰掛けの席を見ているらしく、その腰掛には一人の黒い人影がポツンとすわっている。おやッと私が思ったのは、一瞬、その見も知らぬ人が燃えている炎のようなまっかな目を持っているように見えたからだったが、すぐにそれは錯覚だとわかった。腰掛けのうしろの聖母教会の窓々には、赤い夕日がキラキラ輝いていて、日が沈むにつれてまるで炎が動くように、刻々に反射の色がチラチラ千変万化している最中であった。
「ごらんなさいよ」といって、私がこの特異の効果にルーシーの注意を向けてやると、彼女はハッとわれに返ったが、とたんにきゅうに悲しい顔つきになったのは、あの恐ろしかった晩のことを考えていたのだったかもしれない。二人ともそのことには触れずに、私も黙ったままで、夕食に帰ってきたが、ルーシーは頭痛がするといって、今夜は早目に床についた。
私は彼女が眠ったのを見て、ひとりですこし散歩をしようと思って表に出た。断崖ぞいに東のほうへぶらぶら歩きながら、ジョナサンのことを考えて、甘い悲しみに胸がいっぱいだった。帰りがけにはいい月夜になって、クレセント街の家の先のほうは影になっていたが、ほかはなにもかも昼間のようによく見え、家のそばまできてふと二階の窓を見ると、ルーシーが窓から首を出しているのが見えた。きっと私の帰るのを見ているのだろうと思って、私はハンケチをひろげて振った。しかし彼女は気づきもせず、身動きもしない。月光は建物の角からさしているから、窓にまともに射している。ルーシーが窓の敷居に頭をのせて、目をつぶっているのがはっきりと見える。眠っているのだ。眠っている彼女の、わきの窓台に、なにか大きな鳥のようなものが、すわっている。私は風邪を引かせちゃいけないと思って、二階へ駆けあがって部屋へはいってみると、いつのまにか彼女はベッドにはいって、風邪をよけるためか、片手を咽喉に当てて、グーグー寝ていた。
私は彼女の目をさまさせないように、暖かにくるんでやってから、扉に鍵をかけ、窓もしっかり締めた。
眠っていると、ほんとうにかわいらしい顔をしている。でもいつもより顔色が心もち青ざめており、目の下に私の嫌いな隈《くま》が出ている。なにか悩んでいることでもあるのかしら。これは究明してみたい。
八月十五日――いつもより遅く起床。ルーシーはぐったりと疲れ、私たちが呼んだあと眠りつづけていた。朝食のとき、意外なうれしいたよりあり。アーサーの父が病気快方、ルーシーとの結婚を取り急ぎたいとのこと。ルーシーの喜びはいうまでもない。お母さんは悲喜こもごも。あとでそのわけを私に打ちあけてくれた。彼女は自分のものであるルーシーを失うのが悲しいのだが、ルーシーを護ってくれる人がまもなくできると思うとうれしいという。お気の毒な、やさしいお母さんだ! 自分はもう長いことはないと、しみじみ私に打ち明けられた。ルーシーにはまだ話してないから、内証にしておいてくれ、お医者は心臓が弱っているから、せいぜいあと二、三カ月で死ぬと宣告している、そういうお話だった。とにかく、今にも突然の衝撃があれば、彼女を死に追いやることはまず確実なようだ。ああ、そうなると、なんとかしてルーシーに、あの恐ろしい夜なかの夢遊歩行をさせないようにしなければ。
八月十七日――まる二日、日記をつけなかった。物を書くような気持になれなかったのだ。なにか暗い不吉な影のようなものが、私の幸福の上におそいかかってきているような気がしてならない。ジョナサンからは便りはなし、ルーシーは日ましにやつれていくようだし、お母さんの死期は刻々に近づく。どうもルーシーのやつれようが私には腑《ふ》に落ちない。食はいいし、よく眠るし、新鮮な空気も吸っているのに、顔の色が日ましに悪くなり、日ましに弱々しくなって、やつれが目だってきている。夜など、空気を求めて喘《あえ》いでいるのが聞こえる。あいかわらず、私は夜は扉の鍵を自分の手首にかけて寝ているが、彼女は夜なかに床から起きると、部屋のなかを歩きまわって、明けはなした窓ぎわにすわりこむ。
昨夜も私が目をさますと、彼女は窓から身をのりだしていた。目をさまさしてみたが駄目で、まるで気絶したようになっていた。正気に戻そうといろいろやってみたが、彼女は水のようにたわいがなく、苦しそうな息づかいの間に、声にならない声をあげていた。どうやって窓ぎわなんかにきたのかと聞くと、首を横にふって向こうを向いてしまった。まさか例の安全ピンの傷で気を悪くしているようなこともないと思う。横になって眠ったときに、咽喉のところを見ると、小さな傷はまだ肉が上がっていないようだ。ただ口があいていて、前よりすこし大きくなったようで、両方とも縁のところが白っぽくなっている。まんなかが赤くて、まわりに白いボツボツができている。ここ一日二日うちに治らなければ、主治医によく診《み》てもらうことにしよう。
ホイットビーの弁理士、S・F・ビリングトンより、
ロンドン、カーター・ペイターソン会社に宛てた手紙
前略、北部鉄道会社より送られてきた同封の送り状のうち、カーファックス行きの荷物は至急キング・クロス駅にてお受け取りください。宛先の家は現在空家になっていますが、同封の鍵のうち指定どおりのものを使用してください。委託の荷箱五十個は、同封の略図に「A」と記してある場所に届けておいてください。建物は邸内の古い礼拝堂ですから、すぐにわかります。荷物は今夜九時三十分に鉄道便で出しますから、あす午後四時三十分にキング・クロス駅着のはず。そのつもりでお手配のほどを願います。運賃その他雑費として、小切手で十ポンド同封しておきましたから、費用がこれを越した場合は至急ご一報ください。使用ずみの鍵は先方の家の玄関ホールへ入れておいてくだされば、家主が行った時便利です。右お願いまで。
敬具
八月十七日 S・F・ビリングトン事務所
ロンドン、カーター・ペイターソン会社より、
ホイットビー、ビリングトン事務所宛ての手紙
拝復、ご送付の小切手十ポンドのうち、過納分一ポンド十七シリング九ペンスを同封小切手でご返済いたします。送り荷はまさにお申し越しのお宅様へお届けいたし、鍵はご指定のとおり、玄関ホールに紙包みにして置いてまいりました。右ご返事まで。
八月二十一日 カーター・ペイターソン会社
ミナ・マリーの日記
八月十八日――きょうは楽しかった。教会の境内の例の腰掛けで、これを書いている。ルーシーもだいぶよくなった。昨夜は夜どおしよく眠り、おかげで私も一度も目をさまされなかった。まだ青白いやつれた顔をしているが、でも顔にはバラ色がすでに戻っている。彼女がもともと貧血症なら話がわかるけれど、彼女にそんな持病はない。ふだんから明るい気性で、生命と元気に満ちあふれている人だ。一時のあの病的な無口もすっかりとれて、あの晩のこと、つまり、ここのこの腰掛けの上で眠っているところを見つけたあの晩のことから、私のことも思い出してくれている。彼女は長靴の踵《かかと》でお墓の石をふざけてコツコツ踏みながら、こんな話をした。――
「あの時はこの足が、こんな音をたてなかったわ。ほら、いつだったかあのお爺ちゃんが言ったでしょ、ジョージの目をさまさせたくないって」彼女が久しぶりにこんな諧謔気分でいうから、あの晩ほんとに夢を見ていたのかと私は尋ねてみた。すると彼女は答えるまえに、ちょっと眉根をよせた。これはよく彼女がするかわいらしい癖で、アーサー――私も癖になって、この人のことを呼び捨てにしている――もこの癖が好きだそうだ。むりないと思う。やがて彼女は半分夢を見ているような目つきで、その時のことを思い出すふうに話をつづけた。――
「私、夢を見ていたんじゃないのよ。だって、なにもかもありのままなんだもの。ただ、ここへ無性《むしょう》に来たくて、なぜだか知らないけど、なにかが怖かったのね。そのくせ眠ったまんまで、町を歩いたり橋を渡ったりしたらしいのよ。橋を渡ったとき、お魚が一匹跳ねたから、欄干《らんかん》から覗いたの憶えてる。犬がすごく吠えてね、まるで町じゅう犬だらけみたいに、いっぺんにワンワシ吠えてさ。それからこの石段を登って、登りながら、ほら、この間夕日のなかで見た、目のまっかな、背の高い、黒い人のことをぼんやり思い出していると、自分のまわりがなにかすごく甘い、切ないものに包まれてきて、なんだか青い水のなかへ体がずんずん沈んでいくみたいなの。水に溺《おぼ》れる人にはきこえると話にきいていたように、歌の声もきこえたわ。そしてね、魂が体から抜け出して、フワフワ空を飛んでるようなのよ。今憶いだすと、たしか真下に西灯台があったわ。そのうちに、まるで地震の時みたいにすごく体が揺れて、怖いな、怖いなと思って、ハッと我に返ったら、あなたが私を揺すってるのよ。自分で感じる前から、私、あなたのしていることが見えてた」
そういって彼女は笑いだした。なんとも気味の悪い話なので、私は息もつかずにきいていたが、とにかくいやな話だから、こんな話にいつまでもこだわらせておかないほうがいいと思って、ほかの話に話題をかえた。ルーシーはまた昔ながらのルーシーになった。家に帰ると、半日外の風にあたっていたので、彼女もめっきり顔の色がよくなった。お母さんも彼女を見てよろこび、夜は三人で楽しく過ごした。
八月十九日――吉報! 吉報! ぜんぶが吉報ではないが、とにかく吉報だ! 彼、病気だったのだ。それで手紙が出せなかったのだ。それがわかったから、もうくよくよ心配することはない。ホーキンズさんから自筆のお手紙を頂いたのである。私はきょうの午後にここを発《た》って、ジョナサンのもとに行き、必要があれば看護の手伝いもし、それから、二人で帰国するつもりだ。ホーキンズさんは、向こうで結婚するのも悪くなかろうとおっしゃっている。看護婦長のお手紙を読んで、私は泣いてしまった。涙で濡れた手紙は、いまふところに入れてある。ジョナサンに付き添っていた看護婦さんで、彼は私の胸のなかにいるが、この看護婦さんはその隣りにいる方にちがいない。命の恩人だとおもう。旅行の道筋は地図ですっかり調べたし、荷物の支度もできている。あと、着換えだけすればいい。トランクはルーシーがロンドンまで届けてくれるといっているが、どうなるかわからないから、こちらから手紙を出すまで、預かっておいてもらおう。……ジョナサンに手紙を書く時間もない。手紙は会うまで取っておくことにしよう。会うまでのお楽しみだ。
ブダペスト、聖ヨゼフ・聖母マリア病院看護婦長より
ミナ・マリーに宛てた手紙
拝啓、われらの神と聖ヨゼフ・聖母マリアに感謝しつつ、ジョナサン・ハーカー氏のご希望により、この手紙をしたためます。ハーカー氏はおいおい快方に向かいつつありますが、まだ手紙を書くまでに回復しておりません。氏は急激な脳の病に冒されて、約六週間ほど前から当院に入院中ですが、久しくご無沙汰のお詫びと、仕事は万端終了した旨を、ぜひロンドンのピーター・ホーキンズ氏に報じるよう、私に代筆してくれとのことでした。まだ数週間は当院の山地療養所に静養を要しますが、それがすめば、帰国なさるでしょう。ついてはお手持ちのお金が心細いので、当院の入院費を支払ってもらいたいとのことです。以上代筆にてお知らせまで。
八月十二日
看護婦長アガーサ
二伸――ただいま患者さんが眠っているので、その間に一筆申し添えます。患者さんからあなたのことや、あなたが近く患者さんの奥様になることなど、いろいろうかがいました。お二人に幸《さち》あれかしと心からお祈りいたします。患者さんは、院長の診察によりますと、何か恐ろしいショックを受けられたらしく、それで一時精神が錯乱し、狼だの、毒薬だの、血だの、幽霊だの、その他口にするのも恐ろしいような譫言《うわごと》を口走っておられました。当分の間は患者さんを興奮させるようなことは言わぬよう、ご注意ください。こういうたちの病気は、なかなか病痕《びょうこん》があとまで消えないものですから。もっと早くにお便りを差し上げるべきでしたが、お友だちの居所がわからず、どういうお方なのか、まるで手がかりがなかったのです。なんでもハーカー氏は、クラウゼンベルグから汽車で来られ、駅長の話によると、いきなり駅へ駆けこんできて、国へ帰る切符をくれといわれたとやらで、言葉からイギリスのお方だということがわかったので、駅では同線の終着駅の切符を渡したのだそうです。
目下、看護は充分行きとどいておりますから、ご安心ください。日ましにどんどんよくなっていかれるようで、このぶんでいけば、あと二、三週間もしたら、もとのからだになれること疑いありません。しかし、用心には用心をしていただきたいと思います。あなた方お二人のご多幸を神に祈ります。
ドクター・セワードの日記
八月十九日――昨夜、レンフィールドに、突然奇妙な変化が起こった。八時頃から急に興奮しだし、猟犬が獲物をねらうときのように、そこらじゅうをクンクン嗅《か》ぎまわりはじめた。付添士はこれを見て驚き、ぼくが患者に興味をもっていることを知っているので、患者になにか話させようとしむけた。患者は平素から付添士には一目《いちもく》おいていたし、ときにはおべっかを使うくらいなのに、今夜はいつもとまるでちがい、話しかけても、てんで受けつけないという。
「おれは話なんかしたくねえや。おまえなどに何がわかるものか。主《しゅ》は近きにあり」
こんなことをしきりと口走るので、付添士は、患者が突然宗教的|熱狂者《マニア》におちいったものと考えているが、そうだとすると、これは警戒しないといけない。殺人と宗教的|熱狂者《マニア》を同時に持った腕っ節《ぷし》の強い男は、危険になる可能性があるからだ。
九時に私も病院へ行ってみた。患者の態度は、私に対しても、付添士と同じで、患者の崇高な感情は、私と付添士の違いなんてことは、物の数ではないようだった。一見それは宗教的|熱狂者《マニア》に似ており、いまに自分は神であると考えだすだろう。このような人間と人間のあいだの微妙な相違は、神の目からみたら、まったくとるにもたらぬものだ。真の神は一羽の雀も落ちないように配慮したもう。しかし人間のむなしい見栄《みえ》から生まれた神は、鷲と雀のちがいもわからない。ああ、人間がそれを知っていたら!
三十分ほどたつうちに、レンフィールドの興奮はいよいよはげしくなってきた。私は見るような見ないようなふりをして、厳重に観察をしていた。すると、彼の目のなかに、突然、狂人が何かを思いついたときにかならず浮かぶ、狡猾《こうかつ》な表情が浮かんだ。そして、しきりと頭を前後にゆすりだした。それがおさまると、諦めたようにベッドの端にどっかり腰をおろして、光沢《つや》のない目でじっと空間を見つめていた。こいつ芝居をしているなと思って、私は真偽を確かめるために、患者があれほど熱を入れていた愛玩物のことを尋ねてみた。はじめのうちは黙っていたが、とうとうしまいに、
「あんなもの、うるさくって! もうまっぴらだ!」
「蜘蛛《くも》はまっぴらだというのか?」(今のところ、蜘蛛が愛玩物で、帳面は蜘蛛の絵でいっぱいだ)
「男の来るを待っているうちは、娘っ子の目はうれしそうだがね、男が度重ねて引っぱりゃ、大してもう喜ばねえさ」
患者は謎のようなことを答えて、なかなか本音を吐かず、いつまでも強情にベッドの端に腰かけていた。
こっちは疲れて、気抜けがしてきた。妙なことだが、その時なぜかルーシーのことがしきりと考えられた。別条がなければいいが。眠れなかったら、新しい睡眠薬をのもうとおもったが、薬は癖になるといけないと思い直して、今夜は止めた。ルーシーのことを考えていたが、二人をごっちゃに考えるような非礼なことは、自分はしないつもりだ。よほど寝られなければ、今夜は寝ずにいよう。
――寝ないと決めてよかった。それを押し通してよかった。床のなかで輾転反側《てんてんはんそく》しながら、二時の打つのを聞いたとき、当直の警備員が迎えにきて、レンフィールドが脱走したと伝えた。すぐに着がえをして、私は飛んで行った。あの危険な患者にウロウロされたら、大変である。見ず知らずの人に出会ったら、なにをしでかすかわかったものではない。付添士は私の行くのを待っていて、十分ほど前に、扉の覗き穴からのぞいたときには、患者はベッドでよく眠っているようだったという。まもなく窓がガタピシ音を立てたのを聞いて、いそいで病室へ駆けつけると、ちょうど患者の足が窓から消えるところで、スワッというので私を迎えにやったのだという。患者は寝間着一枚だから、そんなに遠くへは行けない。付添士は玄関から表へ出る間に、患者の姿を見失ったのだから、患者のあとを追うよりも、患者がどこへ行くかを見張ったほうがいいと考えた。付添士はズングリムックリした男だから、窓からは出られなかった。その点、私は痩せているから、足から先に出られた。窓は地べたから二、三フィートだから、乗び下りたって怪我はしない。付添士が患者は左のほうへまっすぐに行ったというから、私はそっちへ大急ぎで走っていった。木立をぬけると、隣りの空屋敷との境の高い塀がボーッと白く前方を仕切っている。
私はすぐに引き返して、警備の者に三、四人、人数を狩り出して、隣りのカーファックスの地所へ私のあとから来るようにと告げた。はしごは自分で見つけたから、それを石塀にかけて、私は隣りの地所へまたぎ下りた。見ると、レンフィールドの姿が家の角を曲がるところを見たので、私はそのあとを追いかけた。家のずっとはずれのところで、礼拝堂の入口の鉄の帯を打った扉にぴったりと貼りついているレンフィールドを見つけた。どうやら彼は何者かと話をしているようだった。何を話しているのか聞きたいと思ったが、私が来たのにびっくりして逃げられては困るので、そんなに近くまでは寄れない。狂人を追うのも、相手に逃げるという発作があっては、迷った蜜蜂の群れを追いつめるようなわけにはいかない。しばらく見ていたが、患者はあたりに全然気を配っている様子もないらしいので、私は思いきって少しずつ近づいて行った。あとから来る追手の連中も今、塀をのりこえたところで、だんだんこちらへやって来る。患者がこんなことを言っているのが聞こえた。――
「親方、あっしはあなたの言いつけで、ここへめえりました。あっしゃ、あなたの子分でござんす。親方のためなら、なんでもいたしやすから、いかようにもなすっておくんなせえまし。今まで親方はずいぶん遠くにおいでなすったが、こんどはご近所へおいでなすって、ほんとに願ってもねえことでさ。あっしゃご命令を待っておりやすよ。ですから、親方、なにかうめえことがあるときに、あっしを素通りなすっちゃいけませんぜ。よござんすかい親方、お頼ン申しますよ」
とんだわがままな乞食爺だ。この男、正気のときにもパンと魚のことばかり考えている。彼の偏執《マニア》はびっくりするような組み合わせをつくる。
われわれがすっかり取り巻いたら、彼は猛然と虎のように暴れだした。人間よりも野獣に近いのだから、その力の強いことといったらない。私も長年狂人を扱っているが、こんな激しい怒りの発作を見せた者は、見たことがない。こんなことは二度ともう御免こうむりたい。この力とこの危険性をいい時に知ったのが、せめてもの儲けものだった。病院へ入れられるまでは、こういう力と覚悟でさんざん乱暴放題をしてきたのだろう。わがジャック・シェパード君〔十八世紀はじめのイギリスの大盗。脱獄数回に及ぶ。ディフォーの書いた大盗伝が有名である〕も着せられた緊衣は脱げず、ついに監房の壁に鎖でつながれた。ときどき、すごい声でどなっているが、そのあとは死んだような静寂がつづく。ということは、折あらば手当たりしだいに殺人をもくろんでいるのである。
今しがた、はじめて彼は筋の通った言葉をしゃベった。――
「親方、辛抱しますよ。――ああ、来る――来る!」
私はヒントを得たので、自室へ戻ってきた。気が立っているので、とても眠れなかったが、この日記を録音に吹きこんでいるうちに、気が落ちついてきたから、今夜はちっと寝られそうな気がする。
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九
ミナ・ハーカーからルーシー・ウェステンラに宛てた手紙
八月二十四日。ブダペストにて
拝啓、ホイットビーの駅でお別れしてから、その後いかがお暮らしですか。私はあれから無事ハルに着き、ハルからハンブルグまで汽船、それから汽車で当地に来ました。ジョナサンに早く会いたい、早くいって看護をしてあげたいの一心で、旅中は充分に睡眠をとることばかり心がけてきたので、途中のことは今ほとんど思い出せません。
病院に着いてみると、ジョナサンは見る影もなく痩せ衰えて、青い顔をしていました。あの目から男らしい決断の色が消えてなくなり、顔からは落ちついた、犯しがたい威厳がどこかへ消えてしまい、まるで抜けがらみたいになって、記憶というものを全然喪失していました。すぐには何も尋ねてもらいたくない様子でしたし、何かたいへん恐ろしいショックを受けたものらしく、それを思い出させると、脳にいけないと思って、私は尋ねてもみませんでしたが、看護婦長の話によると、頭が狂っていたあいだは、ものすごいあばれ方だったそうです。婦長さんはほんとに信心深いいい方で、私が彼の譫言《うわごと》のことを聞くと、きのうは十字を切って、そのことは教えてくれませんでしたが、きょうは私が心配しているのを見かねて、
「けっして悪いことや、あなたに関係のあることを口走ったのではないから、その点はご安心なさい。患者さんはあなたのことを忘れてはいませんでしたよ。患者さんの恐怖というのは、そんなものではなく、人間の考えられないような、もっと恐ろしいことが原因なんです」といって、婦長さんは私をなだめてくれました。きっとあの人は、自分がほかの若い娘と恋に落ちないように、私に焼餅《やきもち》を焼けと思ったのだろうと思います。ジョナサンに私が焼餅を焼くなんて、考えただけでもおかしくって! でもね、これは内証だけど、どんな女がきたって悶着のタネにはならないことが自分でわかった時には、ゾクゾクするくらい嬉しかったわ。今夜はすやすや眠っています。私は彼の枕《まくら》もとに、やつれた寝顔を見守りながらすわっています。今、彼が目をさましました。……
彼は目をさますと、私に上着をとってくれ、ポケットにはいっているものがあるからというので、私は上着の置いてある場所を婦長さんに尋ねると、婦長さんが彼の所持品を全部もってきてくれました。私の見覚えのある日記帳があるので、私が「これ見てもいいの」と聞こうとしたら、彼のほうでも私の気持を私の目のなかに察したと見えて、「きみ、しばらくあっちの窓のところへ行っててくれないか、ぼくちょっと今、一人で考えたいことがあるから」というので、いわれるままに窓ぎわへ行っていると、やがて彼は私を枕もとへ呼びもどして、まじめな顔をしていいました。
「ウィルヘルミナ、きみは夫婦の仲の信頼ということについてのぼくの考えは、承知しているはずだね。つまり、夫婦のあいだには、何一つ秘密があってはならない、何一つ匿《かく》しごとがあってはならない、これがぼくの考えだ。じつはね、ぼくはたいへんなショックを受けたんだよ。今でも、そのショックがなんであったかを考えようとすると、頭がキリキリするような感じを受ける。果たしてあれが現実にあったものか、あるいは、気違いの夢であったか、今でもそのけじめが、はっきりわからないんだ。きみはぼくが脳を病んで、今でも、いつ気が狂いだすかわからない状態にいることを知ってるね。秘密というのは、ここなんだ。ぼくはそいつを知りたくないんだ。ぼくはここできみと結婚してだね、そうしてなんとか命を拾っていきたいと思っている。どうだね、ウィルヘルミナ。ぼくに知らせないでおくということに、きみ、喜んで協力していくかい? ……日記はこれだ。これをきみに渡しておくから、きみがあずかっていて、読みたいと思ったら読んでもいいんだよ。しかし、書いてあることは、ぜったいにぼくに知らせないでいてほしいんだ。いいかね、ミナ」
ジョナサンは話し終わると、ぐったりと疲れて、横になりました。私は日記帳を彼の枕の下に入れて、彼に接吻しました。……さっき看護婦長さんに、きょうの午後、私たちの結婚式を挙げてもらうように院長さんにうかがってくれと頼んでおいたので、今その返事を待っているところです。……
いま婦長さんが、イギリス人の牧師さんを差し向けてくれる旨を伝えてくれました。私たちはあと一時間たって、ジョナサンの目がさめしだいに、結婚します。
ルーシー、時が来て、そして去っていきました。とても厳粛な気持です。でも、とてもとても幸福な気持。あれからしばらくしてジョナサンが目をさましました。支度はすっかりできていて、彼は枕を支えにして床の上にすわりました。彼は誓いの言葉をしっかりと強く答えたのに、私は万感胸に迫って、言葉が咽喉《のど》につかえてほとんどものが言えなかった。看護婦さんたちは、みなさん親切にしてくれました。神さま、私は生涯、この方たちのことと、自分に課せられた重大な、そして美しい責任とを、けっして忘れません。
結婚式のもようはまた改めてお知らせするとして、牧師さんと看護婦さんたちが行ってしまうと、私は夫――ルーシー、私が天下晴れて「夫」という字を書くのは、これがはじめてよ――と二人きりになりました。私は彼の枕の下から日記帳をとりだして、それを白い紙で包み、自分の首に巻いていた水色のリボンでからげたうえ、封蝋で封をして、私の結婚指環で封印をしるしました。そしてそれに接吻をして夫に見せ、このとおりにして保存しておくから、今後おたがいに信頼しあっていく生涯の間、これは外から見える信頼のしるしになるはず、あなたのためか、あるいは何か厳しい任務のため以外には、ぜったいにこれは開封しませんというと、ジョナサンは私の手をとって、――ルーシー、彼が妻の手をとったのは、これがはじめてよ――それはこの広い世界じゅうで最も高価なものなのだ、もしその必要が生じたら、ぼくはそれを手に入れるためには過去いっさいのことをもう一度経験してもいい、と言いました。彼のいった意味は、過去の一部分というつもりなんだけど、でも、当人はまだ時間のことがよくわからないのよ。てんから日も年もごっちゃになっているのかどうか、もう少しすればわかると思うけど。
ねえルーシー、私になにが言えたと思う? 私はただ、自分はいま世界じゅうでいちばんしあわせな女で、この体と命と誠実、これしか夫に与えるものを持っていない女で、それをもって生涯、自分の愛と責務を果たしていく女です、とだけ言ったの。そしたら、彼、私に口づけをして、痩せ細った手で私のことを抱きしめてくれました。それが私たち二人の厳粛な誓約のようでした。……
ルーシー、私がどうしてこんなことをあなたに言うのか、知ってて? それはね、自分にとって甘美なことであるだけでなく、あなたがこれまで、今もよ、世の中でいちばん私の親愛している人だからなのよ。学校を出て、世の中へ出ていく準備をするようになったあなたのお友だちになって、導いていくのが、私の使命だからなのよ。だから今こそ、あなた、よく見てほしいの。幸福な妻の目をもった私を、義務がどこへ導いていくかを。それを見ていてくれれば、あなた自身の結婚生活のなかで、あなたも私と同じようにしあわせになれるのよ。どうか全能の神よ、わたしの一生をお約束したとおりのものにしてください。日はひねもすさんさんと輝き、烈しい風もないような日、つとめを忘れることなく、不信もない、そういう日を生涯私にお与えください。苦悩の一つもない日、そんなものを望んではいけない。そんな日はあるわけないんだから。ただ願うのは、今の私と同じように、あなたもつねに幸福でいるように、ということだけ。ではさようなら。この手紙すぐに出すから、あなたもすぐにお返事ちょうだいね。ジョナサンが目をさましたから、これで筆をおきます。わが夫《つま》に侍《かし》ずかないとね!
ミナ・ハーカー
ルーシーからミナヘの手紙
八月三十日、ホイットビーにて
拝復、おめでとうございます。一日も早くお二人でご帰国あらんことを心から願います。ここの海岸の空気は、きっとジョナサンの予後に効《き》くでしょう。私にもたいへん効きました。このところ、食欲がすごいのよ。元気もいいし、よく眠れます。あなたが聞いたら、きっと喜ぶと思うけど、ここのところずっと夜なかに歩く病気が出ないでいます。ここ一週間ぐらい、夜、いちどはいったベッドから惚《とぼ》け出もしません。少し太ったとアーサーも言ってるくらいです。そうそう、まだお知らせしなかったけれど、アーサー、ずっとこっちに来ています。二人でドライヴしたり、馬やボートや、テニス、魚釣りなどを楽しくやっています。彼、私のことを前よりもよけい愛してるというんだけど、それはどうかしら。だって、ここへ帰ってきたいちばん最初に、あの時以上に愛することはできないなんて言うんですもの。でも、これは冗談。今彼が呼んでるから、きょうはこれだけにします。
ルーシー
二伸――母からもよろしく。母もこのところ、だいぶよくなりました。
追伸――私、この九月に結婚する予定です。
ドクター・セワードの日記
八月二十日――レンフィールドの症状は、だんだんおもしろくなってくる。今のところ、なにか激情におまじないのストップをかけたかと思われるくらい、いやに静かにおちついている。脱走後一週間ばかりは、ひっきりなしに暴れていたが、ある晩、ちょうど月ののぼる頃に、急におとなしくなって、「さあ支度はできたぞ! 支度はできたぞ!」とひとりごとを言いだした。付添士がそれを知らせにきたので、急いで行ってみると、彼は手の出ない緊衣を着せられて監禁室にいたが、一時のような脂《あぶら》ぎった顔つきがなくなり、目にも以前のような懇願の表情――私は「へつらい」といっているが、一種の柔らかさが出てきた。これならまあよかろうと私は安心して、緊衣を解いてやるように命じたが、付添士はまだためらいの色を見せていたものの、しまいには反対もなく私の望みどおりに処置をした。ふしぎなことに、患者ははたの連中の不信を見て、気分を害したらしく、私のそばへやってきて、あたりにこっそり目を配りながら、小さな声で言った。
「ねえ先生、あの連中ね、おれが先生に危害を加えると思ってやがるんですよ! まさかおれが先生に危害を加えるなんてねえ! 馬鹿だよ、あいつら!」
私は、この哀れな狂人の心のなかにも、ほかの連中のなかから私には一目《いちもく》おいているものがあることを知って、なにか心慰まるものがあったが、しかし患者の思考についていけないことは、依然として変わらなかった。自分はこの患者と共通したものを持っている――つまり、いっしょの所に立っていると、考えていいのか、それとも、彼が私から何かとてつもない良いものを得なければならないために、この私が必要なのか? これはぜひ今後究明しなければならない。今夜は彼は喋らないだろう。小猫や大猫をあてがってやっても、今はその手に乗らないだろう。きっとこう言うだろう。「おら、猫を蓄《た》めこもうってんじゃねえよ。今、それどころじゃねえんだ。とにかく、いつでもいいように、支度をして待ってるんだ!」と。
しばらくして、私は患者のそばを離れてきたが、付添士の話によると、患者がおとなしくしているのは明け方までで、日が出るとソワソワしだし、朝から昼にかけてだんだん狂暴になり、しまいにひどい発作がきて、そのためにグッタリ疲れて、一種の昏睡《こんすい》状態におちいるのだという。
……三晩つづけて、同じことが起こった。――昼のうちは手のつけられない狂暴性を発揮し、月の出から日の出まではおとなしくしている。私は何かその原因の手がかりを得たいと思った。どうも波のように寄せては返っていく外因があるらしい。ふと、うまい考えが浮かんだ! ひとつ今夜は狂人に正気の知恵をかしてみてやろう。この前のときは、患者は自分の力で脱出したが、今夜は一つ、こっちが手を貸して逃がしてみてやろう。こちらで患者に隙《すき》を与えておいて、まさかの時には跡を追えるように手配しておくのだ。……
八月二十三日――「意外なことはつねに起こる」とは、さすがにディズレーリは人生の知恵者である。われわれの籠《かご》の鳥も、籠があけてあるとわかったら、逃げ出そうとしなかった。おかげでせっかくの準備も水の泡となった。とにかくこれで、おとなしくなるまじないは、ある一定の時間のあいだつづくということだけはわかった。だから今後は、毎日何時間かずつ、綱をゆるめてやってもいいわけだ。そこで私は夜間付添士に、今夜からおとなしい時には、日ののぼる前まで病檻に閉じこめておくだけにしてみろと命じておいた。ところが、またもや意外! 患者はまた脱走した。――
夜更《よふ》け――また深夜の捕物だ。患者は付添士が見回りにはいってくるまで巧妙に待っていて、はいってくるが早いか、付添士のうしろをサッとすり抜けて、廊下へ飛び出したのである。私は追跡を命じた。患者はまたカーファックスの荒れ屋敷の中へ逃げこみ、またこの前と同じ礼拝堂の入口の前で見つかった。彼は私を見るといきなり狂暴になった。病院の男たちがうまく捕えたからいいようなものの、さもなかったら、患者は私のことを殺しにかかったかもしれない。
ところが、われわれが患者を捕えた時に、奇妙なことが起こった。患者はいきなり立ったと思ったら、おとなしくなってしまった。私は本能的にあたりを見回してみたが、何も見えなかった。それから私は患者の目を見て、その視線をたどって月夜の空を見上げてみたが、大きな蝙蝠《こうもり》が一匹、西のほうへサッと飛んで行ったほかは、何も見えなかった。蝙蝠というやつは、たいがい輪を描いてひらひら飛ぶものだが、その時見たやつは、形も大きかったが、まるで行く先を心得ているか、あるいは何か自分の意志でも持っているかのように、一直線にサッと飛んで行ったように見えた。患者は刻々におとなしくなって、「先生、しばらなくても大丈夫ですよ。おとなしく行きますから」といって、病院まで一同なんの苦もなく引き揚げてきた。どうも患者のあのおとなしくなるなり方には、何か怪しいものがあるように私は感じた。……
ルーシーの日記
八月二十四日。ヒリンガムにて――私もミナのまねをして、いろいろのことを書きとめておかなければ。そうしておけば、こんど二人が会った時、くわしい話ができる。でも、それはいつのことやら。なんだか私、とても心細いような気がしてしようがないから、なんとかしてミナといっしょに暮らしたいものだ。
昨夜はまたホイットビーにいた時みたいに、一晩じゅう夢を見ているようであった。おそらく土地が変わったせいか、でなければ、わが家へ帰ってきたせいだろう。どこを見てもまっ暗で、恐ろしいことだらけ。それはつまり、私に何一つおぼえている力がないからだけれど、何一つおぼえていないくせに、えたいの知れない不安に包まれ通しで、ひどく気力がなく、くたびれ果てたといった心持でいる。アーサーがお昼にみえた時、私のことを見て、いかにもつらそうな顔をしていた。元気でいようという心の張りが、今の私にはまったくなくなってしまっている。今夜は母の部屋で、うまく眠れればいいが。母にはじゃまですまないけれど、とにかくやってみよう。
八月二十五日――昨夜もいやな晩だった。母は私の申し出には気がすすまないようすであった。母は自分のからだがまだほんとうでないものだから、私に迷惑をかけやしないかと、それを気にしているのにちがいない。私は夜通し起きていようと思って、やってみたのだが、しばらくはうまく起きていられたけれど、時計が十二時を打った時には、いつのまにかうとうと眠っていたとみえて、ハッと目がさめた。窓のところで何かガリガリ、バタバタ音がしていたが、べつに気にもならず、それなりあとはおぼえがないところをみると、ぐっすり眠ったものにちがいない。それから幾つもいやな夢を見たが、どんな夢だったか、まるでおぼえがない。けさはひどくげっそりしてしまった。顔の色がこわいほど青ざめて、咽喉のところがシクシク痛む。呼吸がいつものように深く吸いこめないところをみると、肺でも多少悪いのではないかしら。アーサーが来たら、せいぜい元気な顔をしていましょう。きのうみたいな私を見ると、また彼がみじめな思いをするのがわかっているから。
アーサー・ホルムウッドからドクター・セワードに宛てた手紙
拝啓。折り入ってお願いしたいことがある。じつはルーシーがこのところ加減悪く、べつにとりたててこれという病もないのだが、どうも顔色が冴《さ》えず、日ましに衰弱していく。何か原因があるのかと、このあいだから本人には聞いているのだが、母親にそれを聞けば、あの気の毒な老夫人のことだから、それこそ気が動転して、もしものことにでもなるとたいへんなので、ぼくとしても母親には思いきって切り出せずにいる。母親はいつぞやぼくに、娘の病気は命取りの心臓病だといわれたと打ち明けたことがあったが、当人のルーシーはまだそのことは知らずにいるのだ。そんな彼女のことを考えると、ぼくは胸をかきむしられるような思いがして、とてもまともに顔を見ていられない。それで、じつはきみに一度会ってもらうよう、ぼくから頼んだといったところ、最初はいやだといっていたが――そのわけはぼくも知っているがね。――とどのつまりは、うんと承知をした。どうもきみには迷惑千万な役目で、それは重々わかっているけれども、まあ彼女のためと思って、きみにここは一役買ってもらいたく、右懇願するしだいだ。
それであす二時に、ヒリンガムへ昼食にご足労願って、老夫人に気《け》どられないように、昼食のあとで、ルーシーときみと二人きりになる機会を作ろうという趣向なのだ。ぼくはお茶の時間に先方へ行くことにするから、それからいっしょにどこかへ出よう。とにかくぼくは心配でいっぱいなのだから、きみが彼女を診察したら、そのあときみと二人きりでいろいろ相談したいと思う。頼んだぜ。――
八月三十一日 アルベマール・ホテルにて アーサー
アーサー・ホルムウッドからドクター・セワードに宛てた電報
九月一日
「チチワルシカエルイサイフミコンヤノビ ンデ リング ニフミヨロシクタノム」(父悪し、帰る。委細文。今夜の便でリングに文、よろしく頼む)
ドクター・セワードからアーサー・ホルムウッドに宛てた手紙
九月二日
拝復。ルーシー嬢の容態につき、取り急ぎお知らせする。小生の診断としてはべつになんら機能上の障害も疾病《しっぺい》もないように思う。しかし嬢のようすに小生はけっして安心したわけではなく、この前会った時の彼女とは、気の毒なくらい、まるで変わっている。むろん、小生の望むとおりの充分な診察の機会をきょうは得られなかったことを、許してもらわなければならない。おたがいの友情も、今となっては、医学とか医者としての慣例さえが切り抜けることのできない、小さな葛藤《かっとう》を生じている。ぼくとしては、むしろ事のしだいを明細にきみに報告し、結論はそこからきみに自由に引きだしてもらったほうがいいと思うから、以下、きょうのぼくのとった行動をありのままに申し上げることにする。
ウェステンラ嬢は見たところなかなか元気に見えた。母君が出てこられて、しばらく話しているうちに、ぼくには、嬢の見せかけの元気は、すべて母君に心配をかけぬための擬態であることが、すぐにわかった。やがて三人で昼食をたべたが、三人ともせいぜい快活にと心がけているうちに、嘘から出たまことで、どうやら嬢はほんとうの快活な気分になられたようであった。食事のあと、しばらくして母堂は横になりに座をたったので、ぼくはルーシー嬢と二人で彼女の部屋へ行ったが、女中がうるさく出たりはいったりするので、彼女は奉公人の手前、まだお面をとらず元気をよそおっていたが、やがて扉がしまって二人きりになるやいなや、仮面が彼女の顔から落ち、長椅子にぐったりと身を沈めると、深い溜息をついて、片手を目の上にかざした。急に今までの元気がなくなったのを見て、ぼくは彼女の反動を利用して、さっそく診察にかかった。彼女はたいへんやさしくぼくにいった。
「私、自分のからだのことなど申し上げたくないんですの」
ぼくは医師の信頼は神聖なものだし、アーサー君が気の毒なくらい心配しているからといって、彼女の心をひるがえさせた。彼女はすぐにこちらのいう意味がわかってくれて、話はひとことで片づいた。
「アーサーには、あなたからよろしいようにおっしゃってください。アーサーのためということがなければ、私、自分のことなどかまわないんですのよ」
そんなわけで、ぼくも遠慮なく診察ができた。一見して血の気が少ないとは見たけれども、しかし普通一般の貧血症状とは、どうもぼくには見えなかった。偶然だったが、ぼくはその時彼女の血液量をテストする機会を恵まれたというと変だが、彼女が窓をあけようとした時、綱が堅すぎて無理をしたのか、ガラスの欠けた角でちょっと手を切ったのだ。その時の血液をぼくは分析してみたのだが、血質は正常、血液そのものは正常健康体なのだよ。身体上の他の点検をしても、べつに憂慮しなくてはならんような個所はどこにもない。
それで一応は安心が持てたのだが、結局ぼくは、彼女の憔悴《しょうすい》は何かほかに精神的な方面に原因があるのじゃないかという結論に達した。ときどき呼吸が苦しくなるとか、夜眠れなくて困るとか、さめたあと、まるでおぼえていないようないやな夢を見るとか、いろいろこぼしておられた。子供の時分、よく夜中に寝ぼけた癖が最近また起こるようになって、ホイットビーでは夜中に外へフラフラ飛びだしたりして、マリー嬢に厄介をかけたなどといっておられたが、このところ、それはないそうだ。
どうもぼくには不審の点があるので、じつは今、ぼくの旧師のアムステルダムのヴァン・ヘルシング教授に手紙を出したところなのだ。教授はご存知かしらんが、精神病学では世界的大家だし、現代のもっとも進歩的科学者であると同時に、深遠な哲学者でもあり、しかも人物はまことに気のおけない、闊達《かったつ》な人だから、ぼくの手紙を見れば、よんどころない支障のないかぎり、すぐに来てもらえると思っている。教授がぼくのもっとも信頼する現代の硯学《せきがく》の一人だということをきみに知っておいてもらって、ぼくが無断でよけいなおせっかいをした罪を許してもらえれば幸甚《こうじん》だ。あすまたルーシー嬢には会う約束をしておいた。ストアズで会うはずになっている。ご母堂は、ぼくのお礼の招待があんまり早いので、びっくりしておられるかもしれない。
ジョン・セワード
医学・哲学・文学博士エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授よりドクター・セワードに宛てた手紙
九月二日
貴翰《きかん》落掌。ちょうどこちらもきみのところへ行こうと思っていたところだった。さいわい、老生を信頼してくれている連中に迷惑をかけずに、すぐに発《た》つことができる。とくにほかならぬきみの手助けに行くとなれば、連中には悪くても、これまた幸運ならずや。
きみの友人に言ってやれ。老生の傷から壊疸《えそ》の毒を迅速に吸いとる際、ほかの臆病なやつらはメスを落としたりしたが、きみはそれをみごとやってのけた。きみの友人の懇請で、きみが老生を呼んだとなれば、これはもう鬼に金棒だとな。老生もきみの友人のために一臂《いっぴ》をかすのだから、二重三重のよろこびだ。おれが行くのはきみの所なんだ。いつものようにイースタン・ホテルに部屋をとっておいてもらおう。そちらへ行ったようすで、よほど必要なら、三日ほど間をおいてまた出かけてもいいし、ぐあいによっては、そちらへ少々長逗留してもよろしい。とにかく会ったうえで。草々。
ヴァン・ヘルシング
アーサー・ホルムウッドに宛てたドクター・セワードの手紙
九月三日
ヴァン・ヘルシング先生が来られて、帰った。小生同道でヒリンガムに行き、ルーシー嬢のはからいでご母堂が昼食に外出したあと、教授が綿密な診察をした。結果は教授がぼくに報告し、ぼくからきみに忠告することになろう。ぼくは始終そばについていたわけではないから。教授はだいぶ心配のようすだったが、よく考えてみなければと言われた。小生がきみとの友誼《ゆうぎ》を話して、こんどのことはぼくが全部任されているからというと、教授は、
「きみはきみの所感を友人にいったらよい。わしの考えは、きみにもし推察がついたら、遠慮なく伝えてやりなさい。いや、わしは冗談をいっとるのじゃない。冗談どころか、これは生死問題、おそらくそれ以上の問題だろう」といっておられた。
あんまり深刻な顔をしておられるから、ぼくはどういう意味なのかといって尋ねてみた。これは町へ戻って、教授がアムステルダムに帰られる前、お茶を一杯のまれたときの話だが、教授はそれ以上ぜんぜんぼくに手がかりを与えてくれないのだ。アーサー、怒ってくれるなよ。教授の緘黙《かんもく》は、彼の全脳力がルーシーの容態に没入しているからのことで、時が来れば、かならず、すべてをあからさまに言ってくれるはずだよ。だからぼくも、では「ディリー・テリグラフ」の特ダネ記事の筆法で、訪問記だけあっさり書いて送っておきましょうといっておいた。先生は素知らぬ顔で、昔わしが学生でいた時分からみると、ロンドンの煤煙もだいぶよくなったな、などと言っておられた。うまくいけば、明日あたり報告書がくるはずだが、報告書ができなければ、どっちみち手紙はもらえることになっている。
ところで、往診したときのことだが、ルーシーはぼくが初対面のときよりもずっと元気で、たしかに顔色もよかった。きみをびっくりさせたような憔悴《しょうすい》の色は、ある程度なくなって、呼吸も正常だった。彼女はいつもの調子で教授にもやさしくして、気らくにしてもらおうとつとめていた。そばで見ていて、ずいぶん過度に気を使っているようで気の毒だったが、教授のことだから、ちゃんとそれは太い眉の下の慧敏《けいびん》な目で見ていたようだ。
やがて教授は医師としての専門的な話や病気の話を抜きにして、無限の親切味をもって雑談をしだしたので、ルーシーの見せかけの励みもだんだん本物になってきてね。そこで教授は、なにげない顔をして、往診出張にわざわざやってきたことに話を移して、おだやかにいいだした。――
「お嬢さん、わしはあなたが人にたいへん可愛がられる方でおいでなので、まことに嬉しい。じつはお目にかかるまでは、あまり気のりがしなかったのだ。みんなの話だと元気が衰えて、顔色がひどく冴えんということだから、わしゃ『馬鹿者《ばかもん》!』と叱りつけてやったんだ」と教授はぼくに指をパチリと鳴らして、さらに続けた。「そういうやつらが間違っておることを、あんたとわしとで見せてやりましょうて。若いご婦人のことなど、この男に何ができますものか?」と教授は博士仲間にぼくのことを紹介する時と同じしぐさで、こちらを指さして、「こいつもいっしょに遊ぶようなマダム連は何人もおって、そういう連中をしあわせに――つまり愛している人たちのところへ帰すことはしておるが、これもなかなかの仕事だが、しかしそういうしあわせを与えることには、ちゃんと報酬がある。ところがお嬢さん、この男はかみさんも娘もない。とかく若い者は若い者に自分のことを話したがらない。逆に、わしみたいな、酸《す》いも甘いも知りつくしとる老人にはよう話す。そこでじゃ、嬢ちゃん、こいつを一服させに庭へ追い出しておいて、その間にあんたとわしと二人きりで、すこし話をするとしましょうや」
で、ぼくは気をきかせて庭へ出て、しばらくぶらついていたら、やがて教授が窓からぼくに中へはいれと呼んだ。教授はまじめな顔をしてぼくにいうのに、
「くわしく診察したが、機能にはどこも障害はない。血液が多量に失われているというきみの所見には賛成だ。前にはあった血液が、今はないのだ。どうも、単純な貧血症ではないね。女中を呼んでもらうように頼んでおいたから、あとで一、二聞きただしてみるが、とにかくできるだけミスをせんようにしよう。女中の言うことは大体見当がついとるがね。それにしても原因はある。何事にも原因はあるからな。わしも帰ってから考えてみるから、経過は毎日電報で知らしてくれたまえ。場合によったら、すぐまた出てくるからな。しかしこの病人――ふつうにいう病人ではないがね、とにかくこの可愛い嬢さんには興味がもてる。わしは惚れたよ。病気やきみのためでなくても、わしは来るね」
以上のとおりで、教授はぼくと二人きりになったときにも、それ以上のことはひとこともいわなかった。ぼくの知っていることは全部これで話したわけだが、小生は厳重にルーシー嬢の番をするから、安心してくれたまえ。
きみの厳君《げんくん》の御快方を祈る。どうも最愛の人二人の板ばさみになっているきみの苦衷《くちゅう》はお察しする。孝心あついきみのことだから、充分にそちらで孝養をつくしてくれたまえ。ルーシーの容態に変わりがあれば、すぐに来るように知らせるから、便りがなければ別条ないと思って、よけいな心配をしないように。
セワード拝
ドクター・セワードの日記
九月四日――肉食動物狂患者は依然としてわれわれの興味をつないでいる。きのうはいつもの時刻でないときに、発作があった。正午の時報のちょっと前にそわそわ落ち着かなくなりだし、付添士は患者の兆侯をこころえているから、すぐに私のところへ知らせにきた。使いの者が走ってきたので、うまく間に合えたが、とにかくひどい暴れ方で、取り押さえるのに大汗をかいた。もっとも、捕えてから五分ばかりしたら、しだいにおさまってきた。だんだん意気消沈してきたまんま、いまだにその状態でいる。付添士は、発作中の患者のわめき声はほんとに凄いものだといっているが、私もその声におびえ上がった患者を見にいったのだが、はいって行った時には、自分の手には負えなかった。離れたところにいた私でさえ、あの声には脅《おびや》かされたくらいだから、ほかの患者への影響はさぞかしだったろう。
同夜――患者にまた変化が起こった。五時に私が監禁室をのぞいてみると、患者はひところ前のような、元気な、満足そうなようすをして、また蝿をとっては食べていた。そして、つかまえた蝿の数を、扉のはしに爪で印をつけていた。私の姿を見ると、彼はのこのこそばへよってきて、「乱暴をしてすみませんでした、もうしませんから、どうか自分の部屋へ帰してください、そして帳面を返してください」といって、泣かんばかりにしてあやまった。だいぶこれは調子がいいなと思って、私は窓を開放した病檻へ、彼をもどしてやった。彼はさっそく窓に砂糖をまいて、また蝿捕りをくり返しだした。そして、こんどは食べるかわりに、以前のように小さな箱にそれを入れていると思ったら、次にはもう部屋のすみで、蜘蛛を捜している。私はこの四、五日のことについて、患者から話を聞こうと思って、口をかけてみると、はじめは迷惑そうな顔をしていたが、やがて、私に向かってというよりも、むしろ自分に向かって言い聞かせているような、妙にそらぞらしい声で、
「万事おわりだ! もうだめだ! おれはおいてけぼりをくったんだ。こうなりゃ、自分でするよりほかに当てがねえや」といって、いきなり私のほうへ向き直ると、いやにきっぱりした調子で、
「先生、ご親切がありましたら、もう少々砂糖をいただけませんかね?」
「蝿にやるのか?」
「ええ。蝿は砂糖が大お好き。私は蝿が大お好き。だから私も砂糖好き。あははは」
狂人というものは議論をしないものだ。それを知っている人は少ない。私は配給の砂糖を倍にしてあたえた。これで先生、世界じゅうでいちばん楽しい人間になれたろうと思って、私は患者のそばを離れてきたが、なんとかして私は、患者の心の底をつきとめたい。
真夜中――また患者に変化が起こった。さっき私はルーシーの見舞いに行ってきたが、きょうはたいへんぐあいがいい。そこから帰ってきて、ちょうど日没の病院の門の前までくると、彼のどなっている声が聞こえた。彼の病檻は、病院の建物の入口寄りのところにあるので、けさよりいっそうよく聞こえる。
おりから夕映えの色がロンドンの濁った空に赤あかと映って、無気味な雲のたたずまいが、金や紫の光を含んで光っているのが、きたない川に映り、病院の冷たい石の建物の憂鬱な固さをまざまざとむき出しにし、悲哀に息づく富と対決しながら寂しい心を耐えていかなければならない自分に、ハッと驚く思いがした。私がちょっと自分の部屋に帰って、あらためて患者のところへ出向いて行った時は、ちょうど日が今沈むというところで、まっ赤な落日の円盤《ディクス》が、病檻の窓の真正面に輝いていた。すると、ふしぎなことに、狂人がどういう回復力をもっているのか、それまでさかんにわめきちらしていた患者は、夕焼け空の色が沈みだすにつれて、急におとなしくなり、床の上にギューギュー押さえつけていた付添士の手から、スルリと抜けて出た。私は付添士に、押さえるなと目顔で知らせておいて、患者がどうするかなと思って、見守っていた。すると彼は何を思ったか、窓ぎわへ行って、そこにひろげてある砂糖を手でパッと払うと、こんどは蝿の箱を持ってきて、中身をパッと外へ捨て、箱もポイと捨てて、それから窓をしめてベッドへ腰をおろした。妙なことをするなと思って、私は患者に尋ねた。
「蝿はもう飼わないのか?」
「ええ、あんなくだらねえ物は、もうこりごりでさ」
この患者はたしかにおもしろい。このように嗜好《しこう》がパッと変わるのは、いったいどういうわけなのか。なぜきょうは発作が正午に起こり、日没にふたたび起こったのか? 月と同じょうに、太陽にも、ある性質に影響する変な力があるものだろうか? 手がかりはこの辺にあるのだろう。観察をつづけよう。
セワードからヴァン・ヘルシングに宛てた電報
九月四日――「カンジ ヤキヨウモヨロシ」(患者、今日も良ろし)
九月五日――「カンジ ヤオオイニグ アイヨロシショクスイミントモニリヨウゲ ンキケツシヨクモド ル」(患者おおいに具合良ろし。食、睡眠ともに良。元気、血色戻る)
九月六日――「カンジ ヤキュウヘンスグ コイホルムウツド ニデ ンウツタ」(患者急変。すぐ来い。ホルムウッドに電打った)
[#改ページ]
十
ホン・アーサー・ホルムウッドに宛てたドクター・セワードの手紙
九月六日――拝啓、きょうは大して吉報ではない。ルーシーはけさ病勢がちょっと後退した。しかし、そのために好都合なことが一つあった。というのはルーシーの病状をことのほか案じているご母堂は、今まで小生のことを主治医並みに扱って、なにごとも相談相手にして来られているから、きょうはちょうどいい機会だと思って、ぼくはヴァン・ヘルシング教授のことをご母堂に話して、今後ルーシー嬢の手当ては、このえらい専門家に一任したい旨を述べておいた。
したがって、きょうからは、ぼくらはご母堂を驚かせることなしに――ご母堂の心臓は、このところ、ほんのちょっとしたショックにも耐えられないくらい、弱っておられる――随時往診することができるようになった。ヘルシング教授は目下当地へ来られて、小生のところにおられる。また必要があったら便りします。取り急ぎ右まで。
ジョン・セワード拝
ドクター・セワードの日記
九月七日――リヴァプール街まで出迎えにいった時、教授は私の顔を見るやいなや、真っ先にいった。「きみの友人に何かいってやったかね?」
「いいえ、電報で申し上げたように、先生にお目にかかるまで待っていました。ただ、ルーシーの容態が思わしくないから、先生がお見えになるとだけは、手紙でいっておきましたが」
「ああ、そう。あの人はまだ知らんほうが、――いや、知らせんほうがいい。……よくよくのときには、知らさにゃならんが。きみは狂人を扱っとるが、人間というやつは、みなどのみち狂人なのさ。きみはきみの狂人患者を慎重に扱うが、神の支配するこの世界の狂人人間も、やはり慎重に扱わにゃならん。きみは患者に自分の治療法をいちいち言やせんし、きみの考えも言やせん。知識を安定する場所に置いて――つまり、周囲に同類の知識を集めて、そこで熟成させていく。きみもわしもここで知るものをじっとしまっておく、ここへな」といって教授は私の胸とご自分の胸を押えて、「わしは今、ちょっと考えてることがあるんだが、まあ、それはあとで話そう」
「どうして今ではいけないのですか? ここでうかがえば、何かまた結論が出るのではないでしょうか?」
教授は立ちどまって、私の顔を見つめて、言った。
「きみ、穀物が生長する時には、まだよく熟さんうちでも、母なる大地の乳は、ちゃんともうそのなかにある。百姓はなぜ、太陽がまだこがね色に実を色づけしないうちに、その穂を一つとって、ガサガサの手でもんでみて、青い籾《もみ》をフッと吹いて『おう、こりゃいい実の入りだ。ことしは豊作まちがいなしだ』というのだね」
「しかし、それとこれとはわけがちがいましょう」と私がいうと、教授は答えるかわりに、昔よく講義の時にやられたように、私の耳をグッとひっぱって、
「百姓はね、その時は自分でわかるからそういうのだが、それまではわからんのさ。自分の植えた苗が育つかどうか見るのに、苗をひっこぬいてみる百姓は一人もおらんだろう? そんなことをするのは、百姓ごっこをして遊ぶ子供のやることさ。いやしくも、自分の一生の仕事としてやっておる人間のすることではないよ。わかったかね、ジョン。わしはすでに種を蒔《ま》いた。自然はすでに芽を出させる仕事にとりかかっておる。芽が出れば、もうしめたものだ。あとは籾《もみ》のふくらんでくるのを待っておればよい。まあ、そんなものだな」
教授は私が了解したのを見て、その話はそれで打ち切って、さらにまじめな顔をして話を続けた。「きみは昔はじつに慎重な学生だった。きみの臨床簿《りんしょうぼ》は他の連中のより記載が綿密だった。今はきみもひとかどの先生だ。学生時代のよい習慣は、今でもちゃんと忘れずに身につけていることと思う。いいかねジョン、知識は記憶より力強いものなのだよ。知識が記憶より力の弱いものだなどと考えたら、それこそとんでもない間違いだ。よしんばきみがよい習慣を続けていないとしても、こんどのこの娘さんの症例は、おそらく――おそらくだよ、われわれはほかの者に、どうでも負けちゃおられんというくらい、興味あるものらしいぞ。そこでだ、ジョン、きみの患者のノートだけはしっかりと取っておきなさい。たとえ疑わしいことでも、あるいは当て推量でも、これを記録に書いて小さすぎるというものは一つもないのだよ。われわれは失敗からは学ぶが、成功からは学ばないのだ」
私はルーシーの病状を話した。教授は真剣な顔をして聞いておられたが、意見はなにもいわれなかった。教授は医療具と薬品を入れた、大きな鞄を携帯していた。むかし講義のおりに、「こいつは仁術用の合財《がっさい》袋さ」とよくいわれていた、名医の携帯手まわり用具である。
やがてヒリンガムの家へ行き、ルーシーの母堂の出迎えをうけた。母堂はびっくりしていたが、しかしこちらが思ったほどではなかった。ああいう善女になると、死までがその恐怖に一種の解毒《げどく》の役をもつように、「自然」は規制しているのだろう。目下のところ、なにかの衝撃があればそれが致命傷になりかねない現状のなかで、なにかの原因から、自分以外のこと――たとえば最愛の娘の病変というようなことさえ、母堂には痛切に感じないような状態になっているらしい。どうやらこれは「自然の妙《みょう》」が、なにか不感性の糸で織った袋をからだにかぶせ、それがなければ接触によって害をこうむる凶事を、それで守っているという仕組みのようだ。これがもし自然から命ぜられた自衛であるならば、われわれはその人を利己主義と責めるまえに止むべきであろう。なぜなら、おそらくそこには、われわれ人間が感知する以上の、なにか深い原因があるはずだからである。
こうした一種の心霊病理学の知恵をもちいて、このさい母堂はルーシーの前に出ないほうがいい、母親として当然考えるべき娘の病気のことは、しばらく考えないほうがいい、という規制を私はたてた。母堂も即座にそれを快諾した。ここでも私は、人命のために戦う「自然」の手練というものを見せつけられた。
教授と私はルーシーの病室へ案内された。きのう見たときは自分はアッと驚いたが、きょうはギョッとした。顔の色がむざんにもチョークのように白く、赤い色は唇からも歯茎《はぐき》からも消え失せ、頬骨が高くつき出て、息づかいが見るも痛々しいくらい苦しそうだった。教授の顔は大理石のように固くなり、眉毛が鼻梁《びりょう》の上でくっつくほどひきよせられた。ルーシーは仰臥したまま、動こうともしない。物をいう力もないようすである。しばらく私たちは言葉がなかった。やがて教授が私に目まぜをするので、ともにそっと病室の外へ出ると、教授はあとの扉を静かにしめ、廊下を足早に隣室の前まできて、半分扉のあいていたそこの部屋へ私をひっぱりこんで、あとの扉をぴったりしめた。
「おい、たいへんなことになっている。一刻の猶予もできない。あのままで置いたら、二時間と持たん。すぐに輸血だ。きみかおれか、どっちにする?」
「先生よりぼくのほうが若いんですから、ぼくのほうにしてください」
「よし。ではすぐに用意。いま鞄を持ってくる。そのつもりで支度してきたのだ」
私と教授が、急いで階段をおりて行くと、そのとき、玄関にノックの音がした。私たちがホールを通りすがった時、女中が玄関の扉をあけ、外からアーサーがそそくさとはいってきた。アーサーは私を見ると、「やあ」と飛んできて、「ジャック、ぼくはとても心配した。きみの手紙を見てから、もう何も手につかないんだ。いいあんばいに親父の容態がちっと持ち直したんで、急いでやってきたんだが、……きみ、こちらがヴァン・ヘルシング博士でいらっしゃるの? ……先生、ご遠方のところ、ほんとにありがとうございました」
教授はとんだところへ邪魔がはいったという面持で、ムッツリとして、怒ったようにアーサーの顔をじっと直視していたが、やがてぶっきらぼうに手をさしだして、
「きみ、間に合ってよかった。お嬢さんの愛人でおいでだね。お嬢さんは重態です。非常に重態です」
アーサーはたちまち顔がまっ青になり、危うく気が遠くなりかけて、くずおれるようにホールの長椅子にヘタヘタと腰をおろした。
「おいおい、きみがそんなふうでは困るな。お嬢さんはきみが助けてあげなければいかんよ。だれよりもきみが力になってあげなければいかん。きみがしっかりしているのが、何よりの力なのだよ」
「ぼく、何をしたらいいのですか?」アーサーは咽喉がひっついたような声で、「おっしゃってください。なんでもします。ぼくの命は彼女のものです。最後の血の一滴まで、ぼくは彼女にやります」
教授はあれでなかなか諧謔的な面も多分に持っておられる。アーサーにした返答のうちに、私は学生時代の古い記憶をおもい起こした。
「いやまあ、そんなにたんとは頼まんさ。最後の一滴まではいらんよ」
「じゃ、どうしますか?」アーサーの目は輝き、小鼻がなにかしたい一心でピクピクしていた。教授はアーサーの肩をたたいて、「よし、きみは男子だ。今われわれが必要なのは、男子なのだよ。きみならわしよりはずっとましだし、ジョンよりもましかもしれん」
アーサーが豆鉄砲をくった鳩《はと》のような、面くらった顔をしていると、教授はおだやかな調子で説明をつづけた。
「お嬢さんはだいぶ重態なのでね、それで血液が必要なのだよ。血をやらんと死んでしまうのだ。それで今ジョンと相談して、輸血することにしたのだが、このジョンが血液を提供しようということになってね。この男はわしより若いし、強壮だからね」――アーサーは私の手を無言のまま堅く握った――「ところへ、きみがみえた。きみはわしたち二人よりもさらに若い。思想の世界では、老若ともに大いに活躍するけれども、血液だけは、これは若いほうが断然いいのだね」
「ぼくは彼女のためなら喜んで死に――」声がのどの奥で詰まって、言えなかった。
「いや、きみが死んでしまっては、お嬢さんが困る。まあその前に、お嬢さんに接吻をしておあげ。それでわしが合図をしたら、きょうはきみは帰りなさい。母君には何も言ってはならんよ。言ったら、どういうことになるか、わかるね。ショックは禁物なのだ。わかったら、さあ、いっしょに二階へ来たまえ」
三人は病室へ上がって行った。アーサーは教授の指図で、病室の外でしばらく待たされた。私たちが部屋へはいると、ルーシーは静かにこちらへ首をむけ、私と教授の顔をじっと見た。力のないその目がものをいった。それが全部であった。教授は鞄から何かとり出すと、それを見えないように、かたわらの小さなテーブルの上においた。それから麻酔薬をふりまぜ、ベッドのそば近くよると、にこやかな明るい調子でいった。
「お嬢さん、いい子だから、お薬を飲もうねえ。私が今、飲みいいように、そーっと起こしてあげるからね。よろしいかな、はい、そーっと……」
ほんのそれだけの少量の薬が、容易にのみ下せないのに、私は驚いた。それが彼女の衰弱の限界を示す実証であった。ようやくのことで嚥下《えんげ》してから、眠りが瞼《まぶた》に下りてくるまでに、かなり長い時間がたった。そのうちに麻薬が効《き》いてきて、彼女は昏々《こんこん》と深い眠りに落ちていった。教授はこれでよしと、病室の外に待たされていたアーサーを中へ呼び入れ、外套を脱がしてやりながら、
「さあきみ、われわれが輸血の準備をするあいだに、きみはお嬢さんに短い接吻を一つしておあげ。――ジョン、きみはこっちへ手を貸して!」
アーサーがベッドに身をかがめているあいだ、われわれは目をそらしていた。教授はテーブルの上でこまごま用意をしながら、「彼は若いし丈夫そうだし、血液が純潔だから、繊維素《フィブリン》は除去する必要ないな」
準備は迅速に、遺漏なくととのった。教授は手なれた手つきで、輸血の施術にとりかかった。アーサーの血液が病みおとろえたルーシーの血管のなかへ徐々に注入されていった。みるみるうちに、白蝋のようなルーシーの顔に生気がもどってくるにつれて、しだいに青白くなってきたアーサーの顔に喜びの色が輝きだした。私はそれを見ていて、いかに頑強な男にしろ、アーサーの顔に血液の喪失がはっきりとあらわれてきたのを見て、少々心配になった。ルーシーの衰弱した組織は、みすみす弱っていくアーサーの血で、ある程度回復するのだと考えると、なにか恐ろしいような気がした。でも、教授はキッとした顔をして懐中時計を手ににぎり、ルーシーとアーサーの顔を、緊張した全神経をもってかわるがわるに凝視している。自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。やがて教授はしずかな声でいった。
「さあ、よろしい。しばらくじっと動かんように。もういいよ。患者はわしがみるから、きみはこの人の手当てをして」
採血がすむと、さすがのアーサーもぐったりと弱っていた。私は採血後の手当てをしたのち、彼の腕をとって病室の外へつれだそうとすると、教授は、まるで頭のうしろに目がある人のように、こちらをふり向きもしないで、
「えらかったぞ、きみ。あとでもう一ぺんキスさしてやるよ」
教授は輸血をおわって、患者の頭に枕を直していた。その時ルーシーがいつも咽喉に巻きつけて、恋人からもらった古いダイヤの止め金でとめている黒いビロードの細い布が、すこし上のほうへずれて、咽喉にポツンとした赤い小さな傷あとが現われた。アーサーは気づかなかったようだが、私はその時、教授が感情を殺すときによくやる、深く息を引くシュッという音を聞いた。ちょっとの間、教授はなにも言わなかったが、やがて私のほうをふり向いて、
「きみ、その人を向こうへ連れて行って、ブドウ酒でもやって、しばらく寝かしてから帰してやりたまえ。家へ帰ったらよく眠って、恋人にやったものを取り返すために、うまいものをたらふく食うんだな。ここにいてはまずいよ。ちょっと待った! 結果が心配だというんだろう。安心しなさい、輸血は成功したよ。きみは彼女の命を救ったんだ。だから家へ帰って、気をらくにして、ゆっくり休みたまえ。彼女がよくなったら、すっかり話してやる。きみがしたことを聞けば、彼女はいっそうきみを慕うさ。では失敬」
アーサーを送り出して、病室へ戻ってくると、ルーシーはおとなしく眠っていたが、呼吸は前よりもだいぶしっかりしていた。胸がふくらむたびに、掛け布団がしずかに盛り上がった。教授はベッドのわきに腰をおろして、じっと病人のようすを見まもっていた。咽喉の黒いビロードの布は、もう元のように傷の上にかぶさっていた。私は小声で教授にたずねてみた。
「先生、その咽喉にある傷をなんだとお思いですか?」
「きみはなんだと思う?」
「まだよく診《み》ていないんですが……」と私はそう答えて、ビロードの布をほどきにかかった。頸動脈《けいどうみゃく》の真上のところに、点みたいな穴が二つ、ポツンとあいている。大きなものではないが、気になるようすをしている。膿《う》んでも腫《は》れてもいないが、ただ縁《ふち》のところが噛んだように少し白くウジャジャけている。ひょっとすると、この傷だか腫物《できもの》だかが、血のなくなった原因なんじゃないかなと、ふっとそんな考えが私の頭をかすめた。しかし、そんなことはあるはずがないと、考えもまとまらないうちに自分で打ち消した。もしこの傷から血液が漏出したのだとすると、ベッドは血だらけになったはずだし、だいいち病人は、輸血を施される前のような貧血状態のまんま、とうに死んでしまっていたはずだ。
「どうだね?」
「ええ、どうもよくわかりません」
教授はつと立ち上がって、「わしは今夜アムステルダムへ帰ってくる。むこうに必要な物と、それから書物があるから。きみは今夜ここに泊まって、患者から目を離さずにいてくれ」
「看護婦にきてもらいましょうか」
「なに、きみとわしなら最上の看護婦さ。とにかく、今夜は寝ずの番をして、患者の経過をみているように頼むよ。眠っちゃ駄目だぞ。あとでゆっくり寝かしてあげるから。わしはなるべく早く出てくる。その上でとりかかるかもしれん」
「とりかかるかもしれんというと、どういう意味ですか?」
「いやまあ、いずれわかるさ」言い捨てて、教授はそそくさ病室から出て行ったが、すぐとまた扉口から顔だけ出して、警告の意味の人さし指を立てて、
「いいかね、患者はきみに任せたよ。患者のそばを離れて、へんなことが持ち上がると、きみもあとで安眠できなくなるぞ」
九月八日――昨夜は夜通しルーシーのそばについていた。きょう、夕方近くになって、ようやく麻薬が切れ、ルーシーはしぜんと目をさました。輸血する前にくらべると、様子がまるでちがっていた。元気も出てきたし、どことなく冴え冴えして、何か気の張りさえ見えるようである。しかし、前のような衰弱の証拠はおおいかくせないものがあると、私は見た。教授が目を離さずに付き添っていろと命じたことを母堂に話すと、母堂は病人の元気なのを見て、「そんな馬鹿なことが」といって一笑に付していたが、私はそんなことでグラつくようなことはないから、今のうちに少し寝ておこうと思い、宵のうちしばらく階下で横にならしてもらった。時間はずれのおそい夜食をすませてから、私が二階の病室へ上がっていくと、ルーシーはいましがた女中の掛け直していった掛け布団の下で、しきりとモゾモゾ身体を動かしていた。なんどもそれを繰り返していたが、これは明らかに眠りたくないのだと見たから、すかさず私は尋ねてみた。
「どうしました、眠れませんか?」
「ええ、眠ると怖いんです」
「怖いって、どういうんです? 睡眠は万人が求める恵みじゃありませんか」
「ああ、そこが先生と違うんですの。眠りは私には恐怖の前兆みたいで……」
「恐怖の前兆? どういう意味ですか、それは?」
「私、自分でもよくわからないんです。わからないんですけど、でも、とても怖いんです。私がこんなに衰弱したのも、みんな眠っているうちに起こったんです。それを考えると、私、怖くって!」
「でも、今夜は寝られますよ。私がここにこうしてついているんだから。なにも怖いことなんか起こりっこありませんよ」
「ええ、きっとそうだと思います」
私はすかさず言った。「もしね、あなたが悪い夢を見ているような形跡が見えれば、すぐに起こしてあげますよ」
「起こしてくださいます? ほんとですの! まあ、ご親切に。それなら私、眠りますわ」
そう言うのとほとんど同時に、ホッと安堵《あんど》の吐息を深くついて、ベッドにもぐりこんだと思うと、もう彼女は眠っていた。
私は夜通し彼女の番をしていた。夜のふけるにつれて、彼女は身動きもせず、深い、静かな、元気づいたような、健《すこ》やかな眠りをつづけた。唇をすこし開き、胸は振子のような正確さで波を打っていた。その寝顔に、やさしい微笑さえ浮かんでいたところを見ると、べつだん怖い夢に心の平静を乱されるようなことはなかったのにちがいない。
翌朝早く女中が病室へ上がってきた。私はいろいろたまっている用もあったから、患者を女中に頼み、ひとまず自宅に帰った。家に帰って、私は教授とアーサーに、輸血後の経過良好なことを、電報で知らせた。それから勤め先の病院に顔を出し、例の動物嗜食症患者の容態を診たりして、何やかやまごまごしているうちに夜になったので、急いでまたヒリンガムに引き返し、夕食をご馳走になっているところへ、教授から電報の返事がとどいた。今夜夜行で発つから、明朝早くそちらに着くという知らせである。
九月九日――ヒリンガムへ通《かよ》うようになってから、だいぶ疲れてヘトヘトである。二晩ぶっつづけで一睡もしない。過労のしるしで、頭の芯《しん》がポーッとしだしている。ルーシーはもう起き上がれるようになって、元気である。私と握手をしたとき、彼女は私の顔をキッと見て言った。
「もう私、寝ずの番をしていただかなくても、けっこうですわ。ほんとにお疲れになったでしょう。おかげさまで、もうすっかりよくなりました。こんどは私が寝ずの番をして差し上げますわ。いろいろ、ほんとにありがとうございました」
私はそれについてとやかくは言わずに、階下で夕飯のご馳走になった。ルーシーもいっしょに降りてきた。美しい彼女がそばにいてくれるので、私も心に張りが出て、夕食をおいしく食べ、ブドウ酒を二杯すごした。食後、ルーシーは私を二階へつれて行って、病室の隣りの彼女の部屋を見せてくれた。部屋には暖炉がここちよく燃えていた。彼女がいうのに、
「さあ先生、今夜はここへお泊まりになるのよ。ここの扉も病室の扉もあけておきますからね。病人が見えるところにいれば、なにもお医者さまがベッドのそばに付ききりでいることもないでしょうから、先生はここのソファでごゆっくりおやすみくださいね。ご用があればお呼びします。ここならすぐに来て頂けますもの」
私は彼女の言うままに従うよりほかなかった。とにかく、こっちは疲れているので、とても寝ずの番はできそうもないから、用があったら起こしてもらうことにして、今夜は彼女の言うままに、このソファで寝かしてもらい、なにもかも忘れることにしょう。
ルーシーの日記
九月九日――今夜はとても気分がいい。長いこと西風の吹く、いやな日がつづいたあと、思いがけない穏やかな日和《ひより》を迎えたような、ほっとした心持だ。輸血をしてもらってから、なんだかアーサーが急に身近になったような気がする。健康と強壮は「愛」をさずけてくれるが、病気だの衰弱だのというものは、じつにわがままなもので、自分の心の奥へ奥へと閉じこもりがちになり、自分にばかり同情するようになる。とにかく眠れるようになったことは、ほんとにありがたい。セワードさんがそばにいてくれるようになってから、私は眠るのが少しも怖くなくなった。私によくしてくれる皆さんに、心から感謝する。
ドクター・セワードの日記
九月十日――自分の頭に教授の手がさわったのを感じて、私はハッと目がさめた。
「どうだね、患者のぐあいは?」
「ええ、さっき私が病室を出てくるまでは、順調でした」
「とにかく、行ってみよう」と教授が言うので、われわれは病室へはいった。
ブラインドが下ろしてあるので、私がそれをそっと上げている間に、教授は例の猫のような忍び足で、つかつかと病床のそばへ行った。
ブラインドを上げると、朝日が部屋のなかへさしこんだ。そのとき私は、教授がめったにしない感動の息づかいを聞きつけて、ギクリと不安の思いに胸を刺された。急いでそばへ行くと、教授は身を引いて、ただならぬ声で「こりゃ、いかん!」と叫んだ。苦渋なその顔から見て、それ以上なにも言う必要はなかった。片手をあげて病床をさした教授の顔は引きゆがみ、死灰のように蒼白《そうはく》になっていた。私は膝がガクガクしてきた。
見ると、ベッドの上のルーシーは、いつもよりもまた一段と白く、グッタリと血の気《け》のない顔をしている。唇の色は白ちゃけ、肉の落ちた歯茎《はぐき》をむきだしてまくれ返り、まるで長病みの病人の死骸さながらであった。教授は怒りに地団太《じだんだ》を踏もうとしたが、名医の直感と長年の習慣で辛《から》くも自制して、上げた足をそっと下ろすと、「きみ、早く! ブランデーを!」と言った。私は急いで階下の食堂へ駆け下り、ブランデーの瓶を持ってとって返すと、教授は手早くルーシーの唇に酒を湿《しめ》した。それから二人して、ルーシーの手のひらと心臓部とを懸命に摩擦した。教授は聴診をして、しばらく眉をひそめていたが、やがて言った。
「まだ遅くはない。かすかだが心臓は打っている。治療はまた振り出しへ戻りだ。アーサー君のような若い男がおらんから、きょうはきみが代わるんだぞ」
言いながら、教授は鞄のなかから採血の道具をとりだしにかかったから、私は上着をぬいで、シャツの袖を高くまくりあげた。この状態では患者に麻酔薬を投与する必要はないし、一刻の猶予もないまま、すぐに輸血の施術にとりかかった。血を採るということは、短い時間だが短い時間には思われず、どれほど上手《じょうず》にやっても気色の悪いものだ。教授は人さし指をつきつけて、「いいか、動くんじゃないぞ」と私に注意してから、「待てよ、輸血しているうちに、患者が目をさまして、踏んばりでもすると危険だな。よし、モヒの皮下注射を一本打っておこう」
的確な手なれた手つきで、教授はすばやく自分の考えたことを遂行した。注射がうまく効《き》いて、ルーシーはまもなく深い麻酔の眠りにおちた。見ているうちに、病人の唇と頬にすこしずつ血の色がもどってきたときには、私はなにか個人的な誇りのような感情がわいてくるのをおぼえた。愛する女性の血管のなかへ自分の生き血が注入されていくことが、どんな感じのものか、この気持は経験したものでないと、わかるまい。
教授は私の顔をジロジロ見ておられたが、
「よし、効《き》いてきたぞ」
「もうですか。先生の施術は神技《しんぎ》に近いものですな」
教授は私の言葉をきいて、沈んだ微笑をもらして、
「アーサーはこのひとの恋人で、許婚者《フィアンセ》だ。いまきみはこのひとのため、またほかの連中のために代行したわけだ。今のところは、これで充分だろう」
施術をひとまずやめて、教授がルーシーを看《み》とっている間に、私は採血した針のあとを指で押し、教授の手があくあいだ、すこしめまいがしたのでしばらく横になった。教授はやがて私の腕に包帯を巻いてくれて、階下へ行ってブドウ酒でも一杯飲めといった。私が病室を出ようとすると、教授はあとを追ってきて、なかば囁《ささや》くようにいった。
「いいか、輸血のことは何も言うなよ。アーサーが聞くと、前のようにへんな顔をするからな。びっくりもするし、嫉妬もおこるだろうしな。そいつは禁物だ。いいな」
私が階下から戻ってくると、教授は私の顔をしさいに眺めて、
「大丈夫、大丈夫、たいしたことはない。隣りの部屋のソファでしばらく休みなさい。それから朝食をたっぷりとって、それからまたここへ来なさい」
教授のいうことが正しく賢明なことを知っているから、私は言われるとおりにした。とにかく自分の大役はすませたのだから、次は自力を回復することだ。さすがにだいぶ弱ったようで、今しがた起こったことの驚愕さえ、どこかへ消えてしまったような弱りかただった。ソファの上にひっくり返って、ルーシーの容態の後退と、べつに傷口もないのに大量の血液がどうやって漏洩《ろうえい》したのか、へんだな、へんだなと思いながら、いつのまにかぐっすり寝こんでしまった。どうやらこの不審は夢のなかでも続いていたらしく、夢うつつのなかで、私の考えはなんどもなんども、あの彼女の咽喉くびの、白くウジャジャけた小さな傷口へともどって行った。小さいけれども、あのギザギザした傷口の縁が気になってならなかった。
ルーシーは昼すぎまでよく眠り、目がさめた時には前の日ほどではなかったにしても、けっこう元気に、丈夫《じょうぶ》丈夫していた。教授は容態を見たのち、片時もそばを離れてはいかんよ、ときびしく言いおいて散歩に出かけ、あとは私が代わって付き添った。階下から、いちばん近い電報局はどこかと尋ねている教授の声がきこえていた。
ルーシーは心おきなく私といろんなことを喋って、まるでけさのことなど念頭にないふうであった。私はなるべく彼女をおもしろがらせ、楽しい気分にさせておくようにつとめた。娘のようすを見にきた母堂も、べつに容態の変わったことには気づかぬようで、私にむかって懇《ねんご》ろに言った。
「ドクター・セワード、ほんとになにもかもあなたのおかげで、お大抵ではありませんでした。どうかね、過労にならないように気をつけてくださいましよ。なんだかすこしお顔の色がお悪いようよ。早く奥さんをおもらいになって、すこし気をつけておもらいなさいましな。そうなさいましよ」
ルーシーはそれを聞くと、ほんのちょっとの間だが、顔を赤く染めた。貧血しているので、長いこと頭に血がのぼることにはまだ耐えられないのだ。その反動で、なにか言いたげな視線を私に投げながら、彼女の顔からみるみる血色が退《ひ》いていった。私はにっこり彼女にうなずき返し、なにも言わないでという印《しるし》に、自分の口に指をあてると、彼女は溜息をついて、おとなしく枕に頭を沈めた。
二時間ばかりして、ヘルシング教授は散歩から戻ってくると、私に言った。
「きみは病院へ帰っていい。たらふく飲んだり食ったりして、体をしっかりさせたまえ。今夜はわしがここへ泊まる。わしが寝ずの番をしてやる。病人はきみとわしで看病するんだ。ほかの者に知らせちゃならん。それには重大なわけがあるのだ。いや、それは今は訊くな。自分で考えておれ。まさかそんなことが、というようなことでも、斟酌《しんしゃく》せんで考えなさいよ。では、帰っていいよ」
階下のホールで、二人の女中が送りに出てきて、お嬢さんの夜伽《よとぎ》をしなくてもいいのかといって尋ねた。二人とも、ぜひ御看病がしたいというから、じつはヘルシング先生の希望で、付添いは先生か私が勤めるというと、でもなんとか「外人の先生」にとりなして頂けないかと涙をためてすがるので、私もその親切な心根に打たれた。私も今のところ弱っているせいか、あるいは事ルーシーに関するせいか、女中たちの献身的な気持がばかに身にしみたのである。どうも女の親切ごころには私は弱いようだ。――おそい夕食にやっと間に合う時刻には病院へ帰ってきて、一応患者を回診したが、異状なし。いま眠るまえに、この録音をとっているところ。そろそろ眠くなってきた。
九月十一日――午後、ヒリンガムに行く。教授、元気。患者も良好。私が行くとまもなく、教授宛に大きな小包が海外から届いた。あけて見ると、なんの花だか、白い花の大きな束が出てきた。
「ルーシー、これはあんたに上げる花だよ」
「私に? まあ先生!」
「うん。しかし、これはおもちゃじゃないんだよ、薬なんだよ」薬と聞いて、ルーシーは顔をしかめた。「いや、薬といっても、煎《せん》じたり練ったりしなくてもいいんだ。美人というものは顔をしかめたところもまた美しいものだが、アーサー君にわざわざ我慢してそんな思いをさせやしないから、安心しなさい。さあ、いいからその美しい鼻の皺をのばして。薬は薬でも、製法なんか知らなくていいんだ。あんたがよく眠れるように、こいつをその窓のところに置いたり、これで花輪をこしらえて首へかけたりするだけさ。そうそう、ギリシャ神話に出てくるハスの花みたいに、こいつが苦労をすっかり忘れさしてくれる。匂いは三途《さんず》の川の水みたいな、いや、スペインの征服者がフロリダでさがしたが間に合わなかった不老不死の霊泉みたいな匂いだがね」
ルーシーは話のうちに、白い花をつまみとって匂いを嗅いだが、へんな苦《にが》笑いをしながら花をポイと捨てて、
「いやですわ先生、ご冗談ばかりなさって。これ、ただのニンニクの花じゃございませんの?」
すると意外なことに、教授はいきなり立ち上がると、今までとは打って変わった、ひどくまじめな引き締まった顔になり、声までよそゆきになって、
「気まぐれでも冗談でもない。わしのすることには、なにごとによらず厳《げん》とした目的があるのだ。いいかね、わしのすることに、かりにもケチをつけたりしてはならんよ。あなたのためばかりじゃない、他人のためにもなることなんだから、よく注意しなさい」
ルーシーが叱られたと思って、すっかり怯《ひる》んでしまったのを見たから、教授はさらにおだやかな調子でつづけた。「嬢ちゃん、わしを怖がることはない。わしゃひたすらあんたがよくなればと思うて、やっとるんじゃ。つまらんありきたりの花じゃが、これがあんたには大きな霊験があるのだ。そら、こうしてわしが自分でこれをこう部屋へ置く。花輪もわしが編んであげる。そのかわり、だれかがこんな物、何にするんだと聞いても、黙っとるんだよ。沈黙も言うことをきくうちの一つじゃからね。黙って、わしのいうことを聞いておれば、じきに丈夫になって、そして待ちこがれている愛人の腕に抱かれるようになるのだ。ちょっとそうしてじっとすわっていなさい。……ジョン、ちょっと来て、手を貸してくれ。このニンニクで部屋を飾るんだ。これはね、わしの友人のヴァンデルプールが年中温室で栽培しとるんで、わざわざハーレムからわしが持ってきたのだ。電報打ったぐらいじゃ、きょうの間に合わんからな」
二人して花を持って病室へはいると、教授は薬局方には聞いたこともないような、妙なことをはじめだした。まず窓という窓を締めて掛け金をしっかりおろし、次にひとつかみの花を手でもみほぐして、それを窓枠にゴシゴシ擦《す》りこみ、すきま風でニンニクの匂いが部屋じゅうにこもるようにし、次は扉の上下、鴨居《かもい》と閾《しきい》をニンニクの束でこすり、暖炉のまわりも同じようにした。なんだか妙てけれんなことをすると思ったから、私は言った。
「先生、先生のなさることには確たる理由があることは、ぼくも知ってますが、これはしかし、どういうんですか? さっぱり見当がつきませんな。疑うわけじゃありませんが、まるでこりゃ魔除《まよ》けのまじないでもなさっているようですな」
「うん、たぶんな」と教授はおちつき払ったもので、ルーシーの首にかける花輪をせっせと編んでいる。
そんなことをしているうちに、夜もだいぶふけてきた。寝しなにトイレに行ったルーシーがべッドに戻ってきたとき、教授は編みあがったニンニクの花輪を、ルーシーの首にかけてやった。そして寝しなの注意の言葉として、こういった。
「これをね、夜なかに自分ではずしたりしないように、気をつけるのだよ。それからね、締め切った部屋が寝苦しくても、今夜は窓や扉をあけてはいけないよ」
「はい、きっと守ります。みなさんのご親切には、ほんとになんとお礼を申し上げていいか!」
教授と私は、待たせてあった私の馬車にのって、ウェステンラ家を辞去した。車中、教授はいった。
「今夜はゆっくりこれで寝られる。なにしろ二晩旅で寝られなかった上に、むこうでは昼間のうち書物調べだし、こっちへ来てからは病人の容態が心配なところへ、夜じゅう寝ずの番とくるんだから、こりゃきみ、えらいよ。あしたの朝はまた、早く迎えにきてもらおう。わしのまじないがどういうことになったか、いっしょに見に行くから」
教授はいかにも自信ありげだったが、私は前夜二晩つづけて確信があったのに、ああいう致命的な結果になったことを思いだして、なんとなく恐怖と戦慄をおぼえたが、それを口に出して先生に言えなかったのは、私が弱っていたからに違いなく、それだけに思いきって泣けない涙のように、もどかしくも腑甲斐《ふがい》ない思いがした。
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一一
ルーシーの日記
九月十二日――ほんとに皆さんは親切な方々だ。ヴァン・ヘルシング博士は私の大好きなお方。でも、どうしてあんなニンニクの花なんかをだいじになさるのか、わからない。あの花のことで私は博士からお小言《こごと》をいただいたが、なるほどあの匂いで気分がさわやかになったところをみると、博士のいわれたことに間違いはなかった。とにかく、昨夜はひとりでいても、ちっとも怖くなかった。怖いことなしに眠ることができた。眠れない苦しさ、眠ることが怖いというあの苦しさ、よく今まであんな怖い思いをつづけて来たものだ。眠れる人、怖いことのない人、楽しい夢の見られる人は、どんなにかしあわせだろう。舞台のオフェリアみたいに、「処女《おとめ》が墓の供え花、おぼこ娘が撒《ま》く花」にとりまかれて、今夜はゆっくり眠りたいものだ。ニンニクの花の香には、何か心をしずめるものがある。そろそろ眠くなってきた。みなさん、おやすみなさい。
ドクター・セワードの日記
九月十三日――バークレーへ行き、教授に会う。例によって時間スレスレなり。ホテルが呼んだ馬車が待っていた。教授は、このところいつも携行の鞄持参。
なんでも正確に記録していこう。八時にヒリンガム着。好天。初秋の気|爽《さわ》やかなり。木々の紅葉|絢爛《けんらん》たり。まだ散りだしていない。先方へ着くと、早起きの母堂が出迎えてくれた。丁重な挨拶で、
「おかげさまで、ルーシーもたいそうよろしいようで。さきほど私、起こしては悪いと思いまして、そっとのぞいてみましたら、まだあなた、よく寝《やす》んでおりますんでございますよ」
教授は莞爾《かんじ》として、満面に得意の色をうかべながら、揉《も》み手をして、
「アハハ、いや、それを見越して、ああいう手当てをしたのでしてな。いいあんばいに、あれが効いたのですな」
「あら先生、あなたそうお自惚《うぬぼ》れ遊ばしては痛み入ります。けさほどはあなた、私が気をきかせたんでございますよ」
「とおっしゃると?」
「いいえね、昨晩わたくし、娘の容態が気になったものですから、病室へのぞきにまいりましたら、娘はよく寝《やす》んでおりました。私がはいって行っても、目をさましませんの。ところがあなた、お部屋がまあたいへんな匂いで、なんの花でございますか、くさい匂いのお花がそこらじゅうにいっぱいございましてね、首にまで輪にしてかけておりますの。私、これじゃ病人の娘に毒だと思いまして、すっかりお花をとり片づけて、息ぬきに窓を細目にあけてやりましたんですの。あれできっと楽になったんでございますよ」
そういって、母堂はいつも朝食をとる婦人室《ブードワル》へひきあげていった。母堂の話のあいだ、私は教授の顔いろをうかがっていたが、教授の顔はみるみるまっ青になった。しかし母堂は自分のちょっかいがどんなに由々《ゆゆ》しいものかは知らないのだから、教授は母堂のまえではできるだけ自制して、部屋を出ていく母堂に微笑をもって扉をあけてやったほどであったが、母堂が姿を消すがいなや、いきなり教授は私の手をひっぱって、食堂へむりにひっぱりこみ、あとの扉をぴったり締めた。
私も教授とは長いおつきあいだが、これほどガックリきた教授を見たのは、はじめてだった。絶望の極、言葉も出ず、両手を頭の上に高くあげたと思うと、もうどうにもならんというふうに手を一つ打ち、やがて腰掛けにドッカリ腰をおろすと、両手で顔をおおい、まるで胸の芯《しん》から絞りでるような声をあげて、男泣きに号泣しだした。そしてふたたび両手をあげ、まるで全宇宙に訴えるかのように、
「神よ! 神よ! 神よ! われわれは今、痛いところを襲われて悩んでいるのだ。われわれが何をしたというのだ! この哀れな人間が何をしたというのだ! 人間のなかには、まだ古い昔の邪教の世界が授けた宿命というものが存在するのか? あんなものが、あんな形で存在しなければならんのか? ここの家の気の毒な母親は何も知らん。自分の考えたことは最善だと考えている。それが娘の肉体と魂を失うようなことをする。しかも今われわれは、彼女に打ち明けることも、警告することもできないのだ。そんなことをしたら、母親《おやこ》は死んでしまう。母娘もろとも死んでしまう。ああ、どうやったら防げるのか? どうやったら悪魔の総力に対抗できるのか?」
教授はいきなり立ち上がると、私にいった。
「おい、とにかく見て、行動しよう。悪魔だろうと何だろうと、そんなものが束になってかかってこようと、そんなことはかまわん。どっちみち、われわれは戦うのだ」
教授は鞄をとりに玄関ホールへ出て行き、それから二人してルーシーの部屋へ上がって行った。
教授が病床へ駆けよる間に、私はまたブラインドを巻き上げた。教授はきのうの朝と同じような、ルーシーの青ざめた、白い蝋のような顔を眺めていたが、きのうのようには驚かなかった。その顔には、無念の思いと深い憐れみがたたえられていた。
「やっぱり思ったとおりだった」無量の意味のこもった霊感の舌打ちをしながら、教授は呟《つぶや》いた。なにも言わずに部屋の入口へ行って、扉に鍵をかけると、さっそく小さな卓の上に、輸血の道具を並べだした。長年のしつけで必要なものはわかるから、私が手早く上着をぬぎかけると、教授はその手をとめて、
「いや、きょうはわしが献血する。きみはここんとこ体が弱っておるから、施術のほうへ回りたまえ」といいながら、上着をぬいで、シャツの片袖をまくりあげた。
再度の輸血。麻酔薬の注射。やがて死灰色の頬に血色がやや戻り、すこやかな眠りの規則正しい呼吸が回復する。きょうはヘルシング教授が採血後の手当てをして、しばらく安静にし、私が代わって病人の看護をした。
まもなく教授はウェステンラ夫人と話をする折りをえたので、自分に相談なく、ルーシーの部屋から勝手に物を持ち出してはいけないこと、あの花には薬品の価値があって、あの匂いをかぐのも治療法のうちなのだということを、こんこんと説いて聞かせた。やがて患者の看護を自身手をくだしてやりながら、今夜と明晩は自分が付き添おう、万一のことがあればそっちへ知らせるから、といった。
一時間ほどして、ルーシーは目がさめたが、だいぶ元気になり、どうやら苦しい試練にもさしてめげないふうであった。
一体これはどういうことなのか? 長年狂人のなかで暮らしている私の経験では、どうにも説明のつきかねるものがあるような気がしてならない。
ルーシーの日記
九月十七日――四日四晩、私は安らかに眠ることができた。自分でも信じられないくらいにまで、私は回復した。恐ろしい不眠の夜を待つ、あのなんともいえない不安な気持、何か幽霊みたいなものに呪文《じゅもん》でもかけられているような、自分ではどうにもならないあの恐ろしい感じ、そしてその恐ろしさの中から、強い水圧の中を潜《もぐ》って、ふたたび明るみへ浮かび出てくる、あの不思議な心持、――そういうものに長い間さいなまれてきた自分の記憶も、ヘルシング博士がみえるようになってからは、なかばもう忘れ去ったような気がする。あの恐ろしい悪夢の連続、毎夜窓の外にきては、バタバタ音を立てるあの恐ろしい物、どこから聞こえてくるのか、どうしてもそれの言うなりにならずにはいられなくなる、あの遠い恐ろしい声――そういうものはみんななくなった。おかげで私は、もう眠るのがこわいという不安な心を抱かずに床へはいることができるようになった。したがって、眠るのがこわさに夜通し目をさましているということも、なくなった。――今夜は博士はお留守。一日、ちょっとアムステルダムへお帰りになるとやら。でも、博士がお留守でも、私ひとりでもう大丈夫だ。ほんとにありがたい。私はひとりで眠ることができるようになったのだ。母のため、アーサーのため、また皆さんのために、私は神に感謝する。……窓の外で、夜風だか、蝙蝠《こうもり》だかがまるで怒ったようにバタバタ音を立てているけれど、今夜はちっともこわくない。
九月十八日「ペル・メル・ガゼット」所載記事
脱走した狼
危険に直面した記者の冒険
動物園飼育係との会見記
「ペル・メル新聞」ということばを看板に、何回も問い合わせたり断わられたりしたあげく、記者はやっとのことで動物園の狼の飼育係を見つけあてた。タマス・ビルダ君は象小屋のうしろの囲いの中の小さな家に住んでいる。記者が行った時はちょうど三時のお茶を飲んでいたところで、タマス君も細君も客好きな人らしく、二人ともかなりの年配なのに子供がなく、暮らしぶりはのんきそうに見えた。飼育係は夕食がすむまでは身体のあいている商売なので、われわれはしごくのんびりと話ができた。茶道具を片づけたのち、パイプで一服やりながら、タマス君は語る。――
「さあ、なんでも聞きたいことを聞いてもらおうかね。物を聞くといやあ、私はここの狼や山犬にものを聞く時には、茶をやることにしてるがね」
「なんです、狼や山犬に物を聞くっていうのは?」
「物を聞くっていうのはね、まあ、棒で頭をなでてやるなんてのも、それだね。それから耳を掻《か》いてやるのね。餌をやる前に頭をなでてやるんだよ。コーヒーなんかやる時には、その前に耳を掻いてやるのさ。けだものなんて、人間と同じだよ。あんただって、私のとこへものを聞きに来る時には、私の機嫌が悪けりゃ、せいぜい機嫌をとるだろう。そいつと同じさ。あんた、狼の逃げた話を聞きに来なすったんだろう?」
「まさに図星ですな。じつはそれについてあなたのご意見を伺いにきたのですが、いったいあれはどういったふうに起こったことなのですか? あなたなんかが考えて、原因というようなものも当然あると思うんですが、結局あれはどういうことに解決がつくのか、そのへんのところを一つ?」
「つまり、こうなんだね。逃げ出したやつはバーシッカーというんだがね。ノルウェーからきた三頭の狼のうちの一匹で、こりゃおとなしくて行儀のいい狼でした。世話の焼けねえやつでね、だいいち感心するのは、ほかのやつみてえに檻から出たがらねえ。きのうは餌をやってから二時間もたった頃だったか、私はちょうど若い猿が一匹加減が悪かったもんだから、猿の檻ん中で寝|藁《わら》をこしらえていると、ウォーウォーと吠える声がするから、すっ飛んで行ってみると、バーシッカーがまるで気が狂ったようになって、檻から出たいといってさかんに吠え立てているんだ。きのうは客の少なかった日でね、狼の檻の前には背の高い、痩せた、鷲ッ鼻の、ごま塩のひげをピンとはやした、目の赤い男が立っていた。なんだか虫の好かねえ男だったよ。白皮の手袋をはめていてね、その男が私に檻の狼を指さして、『おいきみ、この狼は何かに驚いているね』というんだね」
「わたしゃ、男のようすが気にくわなかったから、『そうさね、おまえさんを見て驚いたのかもしれねえな』っていったら、その男はべつに怒りもしねえで、ニヤリと胸クソ悪く笑いやがって、『いや、おれを嫌って吠えているのじゃない』というから、私はいってやったのさ。『いや、そうでねえよ。おやつの前にはいつも歯を磨かせるんで、骨を一本か二本やるんだが、あんたの歯も似てらあね』
不思議なことに、そんな話をしているうちに、狼がみんなおとなしくすわりこんじゃってね、バーシッカーもおとなしくなって私に耳を掻かせていたのはいいが、その男がおまえさん、檻の中へ手をつっこんで、狼の耳を掻いてやってるじゃねえか。『気をつけなよ。バーシッカーはすばしっこいから』と言うと、『なに、馴れているから大丈夫だ』とぬかすから、「あんた、このほうが商売ですかい』と聞くと『いやべつに商売じゃないが、五、六匹飼っている』といって、挨拶をして向こうへブラブラ行ってしまった。へんな野郎だと思ったが、バーシッカーのやつはその男のうしろ姿をいつまでも見送っていたっけが、それっきり檻のすみっこへひっこんで、出てこようとしねえ。
ところが夜になってから、ちょうど月の上がる時刻だったかな、また狼が吠えだした。夜だから何も吠えかかるものはねえくせに、えらく吠えるんだね。おかしいなと思って、一、二度出て見回ったけれども、別条はねえ。そのうちに吠えるのはやんだ。それから夜中の二時ちょいと前だったね、毎晩その時刻に一回りするんで、回ってみると驚いたね、バーシッカーの檻の鉄棒がまっ二つに折れていて、中はからっぽなんだ。まあ、そういったようなわけだったね」
「ほかにだれか目撃した人はないんですか?」
「園丁が一人、やっぱりその時刻に家へ帰るのがあるんで、それが公園のはずれのところで、大きな白っぽい犬にでっくわしたといってたが、そいつは家へ帰ってもそんなことはかみさんにも話さなかったというから、なんでも狼の逃げたことがわかったすぐ後のことなんだろうね。それからみんなして一晩じゅう狼狩りさ」
「で、狼の逃げたことについて、何か心当たりは?」
「そうね、心当たりといったって、やっこさんは、逃げだしたかったから逃げたんだよ。あははは」
細君も記者も、これには大笑いをした。
「私の考えじゃ、やっこさん、どこかに隠れているね。園丁が見た時には、馬みてえにとっ走って行ったっていうが、狼はそんなに早く走れるものじゃねえ。駆けたって、犬ぐらいの早さだからね。度胸の点も、りこうな点も、まず犬の半分しきゃないね。食物がなくなりゃ危ねえが」
そんな話をしている時、小屋の窓の外で何かチラリと動いた影があった。タマス君が目ざとく見つけ、驚いたように立ち上がって、
「お、バーシッカーのやつ、ひとりで帰ってきやがった」といいながら、小屋の外へ出て行った。野放しの狼とは、記者もいささか胆《きも》を冷やした。しかし、タマスも細君も長年の慣れで、狼なんか犬ほどにも思っていない。じじつ、狼君もタマス君のいったとおり、たいへんおとなしく行儀がよかった。われわれの考えている狼狩りなどとはおよそ似ても似つかない、あっけない幕切れで、バーシッカーの生捕《いけど》りは終わりを告げた。タマス君は飼犬を犬小屋へ入れるように、バーシッカーを檻に入れると、檻の錠をガチャンとおろし、大きな肉片を投げ与えた。
「かわいそうに、見ねえな、ここを飛び出してから、やっこさんそうとう苦労をしたんだぜ。ほら、頭が傷だらけだ。見ねえ、ガラスのかけらがささってるぜ。塀か何か乗りこえたんだな、きっと。塀の上へ瓶のかけらをおっ立てておくやつらの気がしれねえよ。ああいうことをしておくから、こんなことになるんだ。なあ、バーシッカー、もうこんりんざい出るんじゃねえぞ」
愛狼にそういい聞かせて、タマス君は狼帰還の報告をしに出て行った。そこで記者も動物園における奇怪な脱走に関する本日の記事をまとめに社に帰ってきた。
ドクター・セワードの日記
九月十七日――夕食のあと、書斎で、このところ他の仕事や、ルーシーのところへの出張診察やらで溜まっていたノートの整理をしていると、だしぬけに部屋の扉を荒々しくあけて、レンフィールドが凶暴な面がまえをしておどりこんできた。病檻から監督者の書斎へ患者がおどりこんでくるなど、前代未聞である。患者は部屋へおどりこんでくるなり、いきなり私に飛びかかってきた。食事用のナイフを逆手《さかて》に握っているから、私は危ないと見て、机をなかにはさんで身がまえた。敏捷《びんしょう》で力のある点では、私などとうてい彼の比ではない。立ち上がる拍子に、私は左の手首をナイフでかなり深くやられた。返すナイフでさらに一突きかかってくるところを、私の右のパンチがうまく相手にはいったので、患者はあおむけにズデンと床にひっくり返った。私の傷口から血がポタポタたれ、敷物の上に小さな血の海ができた。患者がひっくり返ったなり反抗しないのを見て、私は床にのびている相手に目をくばりながら、手首に応急の手当てをした。そこへ付添士がドヤドヤとはいってきた。ほっとして、その時はじめて注意してみると、床にころがった患者は、おとなしいと思ったら、寝そべったまま、いつのまにか敷物の上の私の血を犬みたいにペロペロなめているのであった。すぐと付添士が彼をひっ立てて、みんなして病檻へ連れて行ったが、ひっ立てられながらも患者は、「血は生命《いのち》だ! 血は生命だ!」とどなりつづけていた。
ルーシーの病気のために、私は自分の血を取られた。ルーシーの病気がこのうえ長びけば、私はいったいどうなるのか? まことに血は生命である。いまの騒ぎでひどく疲労した。私は休息がほしい。さいわい、教授から呼び出しがないから、今夜はぐっすり寝ることにしよう。
アントワープのヴァン・ヘルシングから、
カーファックスのセワードに宛てた電報
「コンヤヒリンガ ムニカナラズ ユケビ ヨウシツノハナヲトキド キミヨアスユク」(今夜ヒリンガムに必ず行け。病室の花を時どき見よ。明日行く)
ドクター・セワードの日記
九月十八日――ロンドン行きの列車で発つ。教授の電報を見て、暗然たり。また一晩棒にふるのである。別条がないこととは思うけれども、しかし夜中に何が起こるかわからない。この気持はじつにいやなものだ。こちらがいかほど尽力しても、そのつど思いもかけない故障が起こって、せっかくしたことがすべて水の泡になる。―――どうもそんな運命がわれわれの上に降りかかっているような気がしてならない。今夜はこの蝋盤《ろうばん》を持って行って、これを仕掛けてルーシーの言うことを録音しておこう。
ルーシーの手記
九月十七日夜――私はこれを書き残しておきます。何かのおりに、だれか私と同じような目にあう人があるといけないから。以下は今夜起こった出来事の正確な記録です。
私はもう衰弱しきって、いつ死ぬかわかりません。物を書く力ももうほとんどないのだけれども、書きながら死んでもかまわないから、ぜひこれは書いておかなければなりません。
私はいつもの時刻に床につきました。病室の花は、博士のお指図どおり、手をつけないでそっとそのままにしてあります。私はじきに眠りに落ちました。
私は窓の外のバタバタいう音で、目をさまされました。この音は、私がホイットビーの崖《がけ》っぷちを夜なかに眠りながら歩いて、ミナに助けられたあの時以来のものなので、近頃ではもう耳にタコができてしまっていますから、べつだんこわいことはなかったけれど、私はセワードさんに隣りの部屋へきてもらいたいと思いました。そういう時にはいつでも呼びなさいと博士にいわれていますから、呼べば呼べたのです。私は眠ろうとつとめたけれど、眠れませんでした。そのうちに、また前のように、眠ることが不安な気持が起こってきたので、私は眠らずに目をさましていることにしました。ところが、眠りたくないと思うと、逆に眠くなってきました。ひとりでいるのがなんだかこわくなってきて、私は病室の扉をあけて、「だれかそこにいる?」と呼んだけれど、返事がありません。母の目をさますといけないと思ったから、私はそっと扉をしめました。
その時、庭の茂みの中で、犬の吠えるような、犬よりももっと凶猛な、何か動物の吠える声が聞こえたので、なんだろうと思って、窓のところへ行って外をのぞいて見ましたが、窓ガラスにバタバタ羽根をぶつけて飛んでいる大きな蝙蝠が一匹、はっきり見えたほかには、何も見えませんでした。私はベッドにもどりましたが、こんどこそは眠るまいときめました。すると、扉がスーッとあいて、母が顔を出しました。私がモゾモゾ動いているので、眠っていないことがわかったとみえ、母は病室にはいってきて、私のそばに腰を下ろし、いつにないやさしい調子で、「私、おまえのことが気になって、どんなぐあいかと思って、見にきたんだよ」といいます。私は母が風邪を引くといけないから、ここへ来ていっしょに寝たらといいますと、母はすなおに私の床の中へはいってきて、私と並んで横になりました。母はしばらくここにいて、あとでまた階下へ行くからといって、上にはおっていたガウンも脱がずにそのまま横になりました。母と抱き合って、しばらくそうして横になっていると、また窓にぶつかるバタバタという音がしました。母はびっくりして、「なんだい、あの音は?」とこわごわいうので、私は「なんでもなくてよ、風でしょう」と嘘をいうと、母はそれを真に受けて、そのまま静かにまた寝ていました。気の毒に、母の弱い心臓が早鐘《はやがね》のようにドキドキ打つのが、手にとるように私の耳に聞こえます。
しばらくすると、庭の茂みで、また何か吠える声が聞こえ、それからまもなく、窓に何か当たってガチャンと割れた音がしたと同時に、ガラスの破片がいっぱい床の上に落ち散りました。サッと吹きこむ夜風にブラインドがフワッとまくれた拍子に、破れた窓ガラスから大きな狼の首がこっちをのぞきこんでいるのが見えました。母はキャッと叫んで、夢中でベッドの上にすわると、何か身をよける物はないかと、手当たりしだいにそこらを引っかき捜していましたが、私の首にかけてあった花輪も、その時母の手でひきむしられてしまったのです。
母はしばらくそうしてベッドの上にすわって、狼を指さしているうちに、きゅうに咽喉にゴロゴロと妙な音がしたとたんに、まるで雷に打たれたように、バタリとうしろに倒れました。倒れたひょうしに、母の頭がいやというほど私の額にぶつかって、私はいっとき目がくらみ、部屋の中がぐるぐるまわっている中で、私が目をこらして窓を見すえていますと、狼の首はひっこんで、そのあとからなんだか小さな黒い点のようなものが、無数に窓の割れ目から部屋の中へサーッと舞いこんできて、それがキリキリまわりながら輪を描いて動いているのが、よく旅行家がいう砂漠の竜巻《たつまき》みたいでした。私は身体を動かそうとしても、まるで金縛《かなしば》りにでもあったようで、もう心臓が止まって冷たくなってしまっているらしい母の重たいからだが私にのしかかっていて、その重みで身動きもならず、それからしばらくの間は、なんにもおぼえがありません。
われに返るまでに、それほど長い時間がたったとも思われませんが、とにかくそれは恐ろしい、非常に恐ろしい時間でした。どこか近いあたりで、時の鐘が鳴りました。すると、ここら界隈《かいわい》の犬がこぞって遠吠えをはじめました。すぐそこの庭の茂みのなかでは、夜鴬が鳴いていて、私は苦しさと恐怖で、ほとほともうガックリとなって、気が遠くなったようにボンヤリしていましたが、その夜鴬の声が、死んだ母が私を慰めにきてくれている声のようにも聞かれました。さっきの物音で、女中たちも目をさましたのでしょう、病室の扉の外でベタベタはだしで歩く音が聞こえますから、私が呼ぶと、女中たちははいってきて、その場のありさまを見るや、アレッと悲鳴をあげたとたんに、一陣の夜風が破れた窓からサッと吹きこんで、部屋の扉がバタンといってしまりました。女中たちは母の死骸を抱き上げて、私が起きて降りたベッドの上に静かに横にして、上から白いシーツをかぶせてくれましたが、四人ともみな気が転倒して、歯の根も合わず、ガタガタふるえているので、私は、食堂へ行ってブドウ酒を一杯ずつ飲んでおいでといってやりました。
その時、ひとりでに扉がバタンとあいて、またバタンと締まったので、女中たちはキャーッと叫ぶと、一かたまりになって下の食堂へ駆け下りて行きました。私は自分の首にかけていた花輪のちぎれたのを、母の胸の上にのせてやりました。どんなことがあってもはずしてはならないと、博士からかねがね言われていたのですけれど、自分ではずそうと思ってはずしたのではないし、それに女中たちが上がってくれば、だれかしらここに付いていてくれるだろうから、なんの心配もあるまい。とそんなふうに考えていると、なかなか女中たちは上がってきません。呼んでみたけれども、返事がないので、私はようすを見に、そろりそろり食堂へ下りて行ってみました。食堂のありさまを見て、私はアッといったまま、そこに立ちすくんでしまいました。四人の女中は四人とも、床の上にぶっ倒れたまま、息も絶え絶えになっていたのです。テーブルの上に、シェリー酒の瓶が、中身が半分ほどになってのっていますが、なんだかそこらじゅうに、妙に鼻にツンツンする匂いがしています。へんだなと思って、瓶をかいでみると、阿片チンキの匂いなので、急いで戸棚の中を見てみると、たいへん! 母の主治医がいつも母のために用いる薬瓶がからっぽになっています。
どうしていいのかわからないので、私は二階にもどって、母のそばについていました。母のそばを離れるわけにはいきません。私は今、この家の中にひとりぼっちでいるのです。何者かに薬を盛られて、食堂で昏々と眠っている女中たちを除けば、私は死んだ人のそばに一人きりでいるのです。破れた窓からは、しきりと狼の吠える声が聞こえています。とても外へは出られません。部屋のなかは窓から吹きこんでくる黒い小さな点が、グルグルフワフワ舞っていて、灯火が青白い鬼火みたいにボーッと燃えています。私はどうしたらいいのか? 神は今夜は私をまもってはくださらないのか。私はこの紙片を胸のあいだにしまっておきます。こうしておけば、私を寝かしにきただれかの目にとまるでしょう。母は亡くなりました。こんどは私の死ぬ番です。今夜もし私が生き返らなかったら、アーサーよ、さようなら。
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一二
ドクター・セワードの日記
九月十八日――私はただちにヒリンガムに馬車を馳せ、朝早くむこうに着いた。門前に馬車をとめ、ひとりで並木の道を歩いて行った。ルーシーや母堂の目をさまさせるといけないから、女中だけを玄関へ呼びだそうと思って、私はできるだけそっと玄関の扉をたたき、ベルをしずかに鳴らした。しばらく待ったが返事がないので、また叩いてベルを鳴らしたが、依然として答えがない。こんな時刻――もう十時だというのに、まだ寝こんでいるとは不届きな女中どもだと、腹を立てながらも辛抱していたが、いつまでたっても返事はない。女中のことばかり責めているうちに、少々心配になってきた。家のなかがこんなに人の気配もなくシーンとしているのは、われわれのまわりに張りめぐらされている運命の輪が、またどうかしたのではないか? やってきたら、すでに死の家で、一足おそくて手遅れになったのではなかろうか? 一刻遅れれば、それはルーシーの身にとっては危険を意味する。またあの恐ろしい再発でもおこったら、それこそ取り返しがつきやしない。どこかに入口はないかと、家のまわりをひとまわりしてみた。
中へはいる手がかりはどこにも見当たらぬ。窓も扉もみんな締まって、鍵がかかっている。思案にあぐねて、ふたたび玄関へひきかえすと、おりからこちらへ早駆けで近づいてくる馬車の音がきこえた。それが門の前で止まり、しばらくすると、並木道を走ってくるヘルシング教授が見えた。
「おう、きみも今来たのか? どうだね、彼女は? あるいはもう手遅れかな? きみ、わしの電報見たか?」
私は、電報はけさ早く拝見して、すぐに飛んできたところ、呼んでも中から返事がないので弱っているところだと、手短かに事情をのべると、教授は帽子を上げて、きびしい顔をしていった。
「してみると、やっぱり手遅れだったかな。……」といったが、すぐに気をとりなおして、「よし、はいる口がなければ、こっちで入口をこしらえるまでだ。一刻も猶予してはおれん場合だぞ」
私たちは家の裏手へ回って、台所の窓の下へ行った。教授は鞄の中から外科用の小さな鋸《のこぎり》をとりだして、「かまわんから、これでやってみろ」といって私にわたした。
私はその鋸で台所の窓ガラスを二、三枚たたき割り、割れた窓枠の桟《さん》を何本かゴシゴシ切って、ようやく窓枠を一枚、むりに中へ押しあけた。そして、まず教授の尻を押しあげてなかへ入れ、つづいて私も後から飛びこんだ。なかへはいってみると、台所にも、台所の隣りの女中部屋にも、人の影はなかった。それから、あっちこっちの部屋をのぞきのぞきして、最後に食堂まできて、そこをのぞいてみて、あっと驚いた。鎧戸《よろいど》のすきまから朝の光線がぼんやりさしこんでいる薄暗い食堂の床の上に、四人の女中がのけぞって倒れている。私も教授もギョッとしたが、よく見ると、四人とも死んでいるのではなかった。阿片チンキの鼻をさすような匂いが、あたりにプンプンこもっているところを見ると、これに酔ったものにちがいない。
「女中の手当ては後でも大丈夫。それよりも二階だ」教授は私をせきたてて、二階の病室へ急いだ。入口のところで、ちょっと聞き耳をたてて中の様子をうかがったが、なんの音も聞こえない。さすがに扉をあける手がわれながらふるえ、教授の顔も青くなっていた。
病室の中に、われわれが見たものはなんであったか? 白いベッドの上に二人並んで横たわっていたのは、ルーシーと母堂であった。奥のほうに横たわっている母堂の上には、白いシーツがかけてあり、窓から吹き入る朝風がシーツのはしをあおって、そこから母堂の堅くなった白い顔がのぞいていた。その顔は恐怖のために引きゆがんでいた。その脇に寝ているルーシーの顔も、白くこわばっていた。ルーシーが首にかけていた花輪が、母堂の胸の上にのせてある。そのためにルーシーの咽喉はむき出しになっており、いつぞや注意して見た例の傷口が、けさは二カ所になって、白くウジャジャけたように崩れている。教授はものもいわず、いきなりベッドに身をかがめると、ルーシーの胸部に耳をつけてしばらく聞いていたが、
「きみ、まだ手遅れではないぞ! 早く、早く、ブランデーを持って来て!」
私は飛ぶように食堂へ駆け下りて、テーブルの上にあったブランデーの瓶の中身を念のために嗅《か》いでみてから、それを持って二階へ駆けもどった。もどりしなに、女中たちのようすをちょっと見たら、さっきより少し息づかいが楽になっているようだった。薬の酔いがそろそろさめてきたのだろう。
教授は、この前の時と同じように、手早くブランデーをルーシーの唇、歯茎、両手の裏表になすりこみながら、「ここはわしがやるから、きみは階下の女中たちの手当てをしてやれ。濡れタオルで軽く顔をたたいて、それから火を起こして、湯を熱くわかして、温浴をさせてやれ。そうだ、ルーシーも冷たくなっているから、湯が沸いたら温浴をさせて、それから手当てにとりかかろう」
私はすぐに食堂へ行って、教授の指図どおり、濡れタオルで四人の女中の顔を軽くたたいてやると、三人はじきに正気に返ったが、一人年の若いのが、よほど薬が強く効いたとみえて、どうしても気がつかない。しかたがないから、これは長椅子の上にそっと抱き上げ、そのまま寝かせておいた。正気に返った三人は、狐が落ちたように、しばらくあたりをキョロキョロ見まわしていたが、そのうち記憶がもどってくると、三人ともオイオイ声を上げて泣きだした。私は三人の女中に、母堂はお気の毒だが、しょせんもう助からない。お嬢さんもきみたちがグズグズしていると、助かるものも助からないから、さっそく火を起こして湯をわかすように、と言いつけた。女中たちは細帯すがたで、それぞれ言いつけた仕事をうろうろはじめだした。
さいわい台所とボイラーには、まだ燠《おき》が消えずに残っていたから、湯はグラグラ煮え立っていた。その湯を金|盥《だらい》にとり、温浴の支度ができたところで、二階からルーシーを運んできて、温浴をさせた。その忙しいさいちゅうに、玄関の扉をドンドンたたく者があった。女中の一人が、急いで服に着かえて取次ぎに出、ホルムウッド様からのお使いの方がお見えになりましたといって告げたから、いま手が離せないから応接間に待たせておけと命じておいて、私たちはかまわずルーシーの温浴手当てをつづけた。女中はそのまま服命したらしいが、こちらは仕事に大童《おおわらわ》で、客のことなどケロリと忘れてしまった。
教授がこれほど必死の熱意をこめて働いたのを、私は自分の経験のなかで見たことがない。教授も承知の上だが、これは死と正々堂々と対決した戦いであった。ちょっと手を休めたときに、私がそれをいうと、教授は妙な、理解に苦しむような調子で、しかし顔にはきびしい表情をうかべながら、
「いや、それだけならば、われわれはこのままここで手をやめて、どうせ彼女の地平線には生命の光は見えないんだから、しずかに安楽に死なせてやればいいんだがね」そんなことをいって、ますます元気を新たに、いっそうがむしゃらな力を出して仕事をつづけられた。
やがて、冷えきったルーシーの体温が暖まり、聴診器に心臓の鼓動がさっきよりも確かに聞き取れるようになり、肺呼吸も感知できるようになった。教授の顔がようやく明るくなった。そこでルーシーを盥《たらい》から出し、乾いたタオルにくるんで身体を拭《ふ》いてやった。
「まず、一の手はうまく行ったぞ! これで王手だ!」
われわれは用意しておいた二階の病室へルーシーを運び上げて、ベッドに寝かし、数滴のブランデーをむりやり咽喉に流しこんだ。教授が彼女の襟首に、やわらかな絹のハンケチを結んでやったのを、私は見た。彼女の意識はなかなか戻らず、悪化しているのではないにしても、今まで起こった何度かの危険状態と同じ状態のままであった。
教授は女中の一人を呼んで、われわれが戻ってくるまでルーシーから目をはなさぬように、とよく言いつけて番をさせておき、私を病室の外へ呼び出した。
「さて、これからどうするか、二人で相談せんならん」と教授は階段をおりながら言った。階下のホールから食堂の扉をあけて中へはいって、あとの扉をしっかり閉めた。食堂の窓の鎧戸《よろいど》は、とうに開け放してあったが、召使のような低い階級の女たちは、こういうことは堅く守るが、死人が出た家のしきたりで、ブラインドはみなおろしてあったから、なかは薄暗かった。しかし、じっくり話しあうには、ちょうどいい光線のぐあいだった。ヘルシング教授のきびしい顔は、当惑の色でやや和《やわ》らいでいた。明らかに教授の心は、なにかのことで悩んでいるらしいので、私はしばらく待っていると、やがて切りだした。
「さて、これでどうしたものかな。救いの手をどこに向けたものかな。もう一度輸血をしなければならんが、それもじきにやらんと、なにしろあの患者の命は一時間と当てにはならんからね。きみもわしも、もうだいぶ疲れとるからな。あの女中たちに勇気があればだが、こいつはしかしおぼつかないからな。弱ったなあ、だれか彼女に血管を開いてくれる篤志家はいないかなあ?」
「ぼくではどうですか?」
だしぬけに、隣室のソファから声があった。声はまぎれもない、キンシー・モリスの声だった。私はホッとして、喜びがわいてきた。ヘルシング教授は最初の声にムッとして立ちかかったが、私が「やあ、キンシー・モリスか!」と叫んで、手をさしのべながら、隣室へ飛んで行ったものだから、教授の顔も和らいで、目に喜色がのぼった。
私はキンシーの手を握って、「きみ、どうしてここへ来たんだ! ははあ、アーサーに頼まれたんだな」
キンシーは私の手に一通の電報をわたした。
「セワード ヨリ三カタヨリナシシンパ イデ タマラヌチチ一シン一タイニテユカレヌルーシーヨウダ イシキユウシラセタノム ホルムウツド」(セワードより三日便りなし。心配でたまらぬ。父一進一退にて行かれぬ。ルーシー容態至急知らせ頼む。ホルムウッド)
「ちょうどいい時にぼくは来たらしいな。ぼくにすることがあったら、なんでも遠慮なく申しつけてくれたまえ」
そこへ部屋ごしに話のいきさつを聞いた教授が、断わりなしにのこのこ入ってきた。私が紹介すると、教授はキンシーの手をとり、欣然《きんぜん》と相手の目に見入りながら、「婦人が困っている時、義侠《ぎきょう》の士の血にまさるものなしというが、あなたはさだめしそういう方にちがいない。そうだ、悪魔がいくらわしらのじゃまをしても、神はちゃんとほしい時にほしい人をつかわしてくれるのだね」
われわれはもう一度、あのいまわしい輸血をほどこした。いまさら詳細をここに書く気もしないが、ルーシーはなにぶん恐ろしいショックを受けたあとのこととて、前回のような良好な反応はすぐに現われなかった。教授は補助剤として、モヒを一本注射した。それが効を奏して、彼女はうつらうつら眠りに入った。私は採血をしたキンシーの手当てをしたのち、ブドウ酒を飲ませて彼を別室に休ませてから、ふたたび病室へとって返すと、教授はすでに器具の始末をすませ、ルーシーの枕元に腰かけて、何やら手にした紙片に読み入っているところであった。額に手をあてて考えこんでいるふうだったが、その顔には、疑念が解けた人のような、満足の色らしいものがあった。教授は私にその紙片を差し出して、
「さっき温浴につれて行った時、ルーシーのふところからこれが落ちた。読んでみたまえ」
私は力ないルーシーのおぼつかない鉛筆の跡を、たどりたどり読んだ。読み終わった私は、すぐには言葉が出なかった。
「なんですか、これは? 彼女は頭がへんになったのですか? それとも……」
教授は私の手から紙片を受けとって、「まあ、そいつは今は考えないことにしよう。そのうち、わかる時がくればわかるさ。しかし、まだまだそれは、よっぽど先のことだ。ところで、きみはなにを言いにきたんだ?」
言われて私は、自分をとりもどして言った。
「死亡証明書のことなんですがね。これは適正に賢明にやらんと、検死が来るようなことになりますし、そうなると、その紙片も提出しなければならないでしょう。ぼくは検死の必要は万々《ばんばん》ないと思うし、そう希望します。そんなことになったら、ルーシーを殺してしまいますよ。ご母堂はだれが診《み》たって、あれは心臓麻痺ですものね。これからすぐに証明書を書いて、それを教会に届けでて、その足で葬儀屋へ行ってきます」
「けっこうだ、ジョン。よく考えてくれた。しかしルーシーは、彼女を襲う敵のなかにいるのは可哀そうだが、こうして愛してくれる友だちに囲まれているのだから、しあわせだよ。わしみたいな老いぼれは別として、一人、二人、三人まで、彼女のために献血してくれる者がいるのだものな。いや、わかっとる、わかっとる。わしゃこう見えても、盲目《めくら》じゃないぞ。そういうおまえだからこそ、わしゃおまえを愛しとるんだ。では、行ってきてくれ」
私は玄関ホールでキンシー・モリスに会い、アーサーに打つ電文を見せた。ウェステンラ夫人の死亡通知と、ルーシーは今のところ小康、教授と自分が付き添っている、という電文である。私がこれから出かける行先を告げると、早く行ってこいと急《せ》きたてながら、
「帰ってきたら、二人きりで少し相談したいことがあるんだ」といった。
私はうなずいて、出かけた。教会の登録はスラスラ通り、葬儀屋は夕方寸法をとりに来るということに話をきめてきた。
帰ると、キンシーが待っていた。私はちょっとルーシーの様子を見てくるからといって、すぐに二階へ行った。ルーシーはまだ昏々《こんこん》と眠っていた。教授はあれからずっと付ききりでいたらしい。私を見ると、教授は口に指をあてて「静かに」という合図をしたから、これは患者の目がまもなくさめるのだなと思って、そのままそっと私は階下におりて、キンシーを朝食室へつれこんだ。そこもブラインドが下りているので、ただでさえ陰気な部屋がよけいに暗くなっていた。二人きりになると、キンシーが切り出した。
「いやねジャック、ぼくは自分の分を越えてまで出しゃばる気持は毛頭ないが、しかしこの場合は事情がちがうからね。きみも知ってのとおり、ぼくはルーシーが好きで、一度は彼女と結婚したいとまでのぼせた人間だ。しかし、それはもう過ぎ去ったことだ。けど、彼女の身を案じる心持は今も変わりない。この気持はきみならわかってくれるはずだ。きみだって、医者として彼女を治療したり看護したりしているのは、やっぱりぼくと同じ気持だろうと思うよ。いったい彼女、どこが悪いのだい? あのオランダ人の博士もりっぱな方らしいし、きみも付いていることだし、ぼくなど何もいう筋合いではないけど、さっきの話だと、きみたちご両人は輸血で疲労しているということだったね。専門医の私的な密談を立ち聞きしたのはぼくも悪かったと思うが、事は何にせよだ、ぼくはこれで自分の役目だけは果たしたんだろう?」
「そうとも」
「ぼくの推測だと、アーサーもむろん血を提供した一人なんだろう? いや、それについて思い当たることがあるんだがね。四日前にぼくは彼のところへ行ったんだが、彼、どうもようすがおかしいんだよ。というのはね、ぼくはパンパスにいたころ馬を持っていてね、よく夜半に草原に放して草を食わしておくんだ。するとね、あのへんで『吸血鬼《ヴァンパイア》』といっている大き蝙蝠がいてね、こいつが馬の生き血を吸うんだな。たまらんよ、きみ。しまいには馬はもう立ってることもできなくなって、ぶっ倒れてしまう。そいつをぼくは知ってたからね、アーサーのようすを見て、すぐにピンと来たんだ。ルーシーに血液をやったのは、アーサーが第一号だったんだろう?」
話しながら、キンシーの顔つきはひどく心配そうであった。彼は自分の慕《した》った女について、いまちゅうぶらりんの苦悩のなかにおり、彼女のまわりにあるらしい恐ろしい謎のことは全然知らないので、それだけに苦しみも大きいわけだった。ほんとうはこの男の胸は血みどろなのであって、それがこの男の男らしいところであり、彼を挫《くじ》けさせないみごとな天賦でもあるのだ。私は返事をする前にちょっと言葉をひかえたが、それは教授が秘密にしておきたいといったことを裏切ってはならぬ、と感じたからであった。しかし、キンシーはもうだいぶ知っていたし、見当もついていたらしいから、答えないという理由はあるはずもないので、私は前と同じ言葉をくりかえした。――「そうとも」
「それで、いったいこんな状態がどのくらいつづいているんだね?」
「約十日だな」
「十日もか! そうすると、われわれが愛する彼女には、四人の男の血がはいったというわけだね。男はピンピンしているのに、彼女の体はそれで保《も》たないとなると」とキンシーは私に身をよせて、声をひそめて、「なんでまた、そんなに血がなくなるんだね?」
私は首をふって、「それがね、どうもよくわからんのだよ。ヘルシング教授はそいつを突きとめるのに躍起《やっき》になっておられるが、ぼくにはまるで見当がつかないのだ。ここのところ、ずっと気をつけて見ていると、われわれの計算からはずれたいろいろ細かい症状が、それからそれへとつづいて起こっているんだよ。しかし、もうそういうことは起こさせないよ。すっかりよくなるか、あるいは悪化するか、――とにかく当分われわれはここにいるよ」
キンシーは手をさし出して、「じゃあ、ぼくもその仲間に入れてくれ。きみと博士のいうことなら、なんでもするから」
ルーシーの目がさめたのは午後も遅くなってからであった。目がさめると、彼女は何よりも先に自分のふところにさわってみて、例の紙片をとりだした。教授が気をくばって、彼女が狼狽《ろうばい》しないように、もとのところへ入れておいたのである。彼女は教授と私の顔を見て、目で喜びをかよわせた。それから部屋のなかを見まわして、いきなり顔をおおって泣きだした。母の死をはっきり知ったのである。私たちは彼女を慰めることにつとめた。その慰めの言葉で少し落ち着いたようであったが、それでも思いだしては涙を流していた。
夕方近くなって、彼女はうとうと眠りに落ちた。その時妙なことが起こった。彼女は眠りながらふところの紙片をとりだして、それをビリビリと二つに引き裂いた。教授がそばによって、裂いた紙きれを拾ったが、彼女はまだ手のなかに紙片があるように、しきりと紙を裂くしぐさを繰り返しつづけた。そしてしまいに、寸断したという心持で、パッと手をひろげて紙片を飛ばすしぐさをした。教授はあっけにとられたように、眉根をよせ、彼女のしぐさを終始じっと見守っていたが、何も言われなかった。
九月十九日――昨夜は一晩中、うとうと眠りかけてはさめして、彼女は半睡半醒の状態で過ごした。私と教授はかわるがわる夜伽《よとぎ》をして、片時も彼女のそばを離れなかった。キンシーは自分ではいわなかったが、夜通し家のまわりの警戒に歩いていたようである。
夜が明けると、彼女はげっそりやつれが見えた。もう首を向きかえるのも大儀らしく、むりにとらせる少量の食餌《しょくじ》も、しだいにおさまらなくなってきた。ときどきうつらうつら眠ってはさめている。私と教授は、その醒睡《せいすい》の状態を注意ぶかく観察したが、どうも眠っている時のほうが、疲労はしていながらも呼吸が静かで、どことなくしっかりしているのが不思議であった。歯茎の肉が落ち、急にあらわにむき出してきた白い歯が、妙に長く尖りだし、見るも無気味な感じであった。起きている時のやさしい目の色も少しずつ変わってきた。死にかけているが、目はまだしっかりしている。午後になって、彼女はアーサーを呼んでほしいといった。われわれはすぐに彼に電報を打った。キンシーが駅まで迎えに行った。
アーサーがやってきたのは、かれこれ六時頃であったろうか。夕日はまだ暑く、窓からさしこむ夕焼の色が、病人の青白い頬を赤く染めていた。彼はルーシーをひと目見るなり、ただもう咽喉がつまるのみで、われわれは言葉のかけようもなかった。病人はしだいに昏睡《こんすい》状態におちいって、話をまじえる時間もだんだん短くなってきていたが、アーサーがきてからは一時元気をとりもどしたらしく、アーサーがそばについていると、話なども案外ハキハキした話し方をしていた。アーサーもできるだけ涙を見せないように、元気に相手になってやっていた。
今、もう夜半の一時だ。教授とアーサーがそばにつきそっている。あと十五分で私と交替の時間になる。そうすると、朝の六時まで教授とアーサーを寝かすことになるから、その間、私はこの蝋盤《ろうばん》を仕掛けて、病人のいうことを録音にとっておこう。なんといっても、昨夜のショックは大きすぎた。あすまで持てばいいが。神よ、助けたまえ。
ミナからルーシーに宛てた手紙≪開封されなかったもの≫
九月十七日――
なつかしいルーシー
あなたからお便りがなくなってから――いえ、私が最後にお便りしてから、なんだかもう一時代もたったような気がします。ほんとにご無沙汰ごめんなさいね。おかげさまで、私は夫を取りもどしました。エクセターに着いたら馬車が迎えにきていて、その馬車に、ホーキンズさんが病気を押して乗っておられたのには、びっくりするやら、うれしいやら。私たちはホーキンズさんのお宅へ案内されて、あちらの美しいお住居で夕食をいただきました。
夕食後、ホーキンズさんから今後のことにつき、いろいろご親切な話がありました。
「わしはきみたち二人のことは、小さい時分から知っている。気心もわかっているし、とうから自分の息子と娘のような気がしている。わしは子供がないのだから、わしの事務所のほうも、ここの住居も、わしが死んだあとはそっくりきみたちに渡すつもりでいるのだ。わしもからだが不自由でなければ、まだまだもう一働きするのだが、まあここらで若い人たちにバトンを渡したほうが、おたがいに花だと思ってな。厄介者だが、まあここでわしといっしょに暮らしてもらおう」
ジョナサンと老人とは、堅く手を握り合いました。私はもううれしくて、ありがたくて、ボロボロ泣いてしまいました。
そんなわけで、今はこの宏壮《こうそう》なお屋敷に、ジョナサンと二人して厄介になっています。ここは静かな、景色のいいところです。寝室の窓から、すぐそばの大きなお寺の森が見えます。ホイットビーを思い出すわ。
ホーキンズさんはジョナサンにご商売のほうのことをお仕込みになるので、毎日大忙し。申しおくれましたが、お母さまはその後いかが? 私、できれば一日二日、ちょいと一走りしてあなたに会いに行きたい。でも、とても今はそれができないの。ジョナサンからまだ目が離せないのよ。でも、このごろはだいぶ肉がついてきましたけど、長病みのあとでどこかやっぱり弱っているところがあるのね。今でもまだ時々夜半に飛び起きて、ふるえだすことがあります。でもおかげさまで、それもだんだん回数が少なくなってきましたから、いずれ忘れたように直るだろうと思っています。
あなたのご結婚はいつ? どこでお挙げになるの? お支度でたいへんでしょうね。私たちみたいにトランク一個なんていうのとはわけがちがうから。いろいろお聞かせください。
ジョナサンが何かお祝い物を差し上げなければというのですが、私は何もそんなにあらたまらなくても、あなたは私を愛し、私はあなたを愛し、その私を愛する彼なんだから、お祝い物なんかいらない、ただ「愛」だけを贈れば、それでいいのよと私は言ってるの。
では、きょうはこれでさようなら。お便りお待ちします。
ミナ・ハーカー
ドクター・パトリック・ヘネシーよりドクター・セワードに宛てた手紙
九月二十日――ご希望により、小生が委任されたその後の患者の状況を報告します。
患者レンフィールドに関していろいろ申し上げることがあります。彼は本日、またまた不祥事件を引き起こしました。もっとも、さいわい大事にいたらずにおさまりましたが。
本日午後、運送馬車が一台、当院に隣接する例の空屋敷、――あなたもご存知の、レンフィールドが二度も逃げこんだ――へ荷物の運搬にきたところ、道がわからないので、当院の門前へ馬車屋二名がきて、門番に道を尋ねました。小生はちょうど医務室で一服やりながら窓から見ていたのですが、一名の馬車屋がレンフィールドの病檻の窓の下を通りかかると、いつもはそんなことはないのに、患者が突然、馬車屋に悪態をつきはじめました。馬車屋も下等な男らしく、何か言ったらしいのですが、患者は、この土方野郎、殺してしまうぞ! 貴様の荷物を剥《は》いでしまうぞ! そこらをうろうろしていると、じゃまをしてやるからそう思え! などといって野獣のようにわめき立てるので、小生は医務室の窓をあけて、馬車屋にそいつは狂人なんだから知らん顔をしていてくれと注意しました。
馬車屋も精神病院だということがわかると、「こりゃどうもお騒がせしました」といって、腰を低くして門番から道を聞いて帰っていきました。患者はそのうしろ姿に向かってまだ性懲《しょうこ》りもなく悪態をついていましたから、小生は何が彼をそんなに怒らせたのか聞き出してみようと思って、病檻へいってみました。すると、患者は今の悪態はどこ吹く風というようにケロリとしておとなしくなっていましたから、小生も安心してそのままもどったのですが、これが彼の狡猾《こうかつ》な手だったのです。それから三十分ばかりの後、患者は窓を破って植込みに逃げこみました。小生は付添士を引きつれて、彼を追跡しました。
何かいたずらをしなければいいがと思っている矢先《やさき》、案の定やらかしました。先刻の荷馬車が大きな箱を満載してやってきたところへ、彼は出会ったのです。患者はいきなり猛然と運送馬車に飛びかかって、一名の馬車屋を馭者台から引きずりおろすと、えらい力で頭をポカポカなぐりつけ、そのまま地面に押したおしてグイグイ絞めつける。危ないと見て、われわれはすぐに飛び出して行くと、もう一名の馬車屋が、横合いから出て、棍棒《こんぼう》で患者の頭をガンとやる。コキンと音がしましたが、患者は痛いという顔もしないで、起き上がってそいつに組みつく、三つ巴《どもえ》になってのくんずほぐれつで、どうにも手がつけられません。しばらくドタンパタンやっていましたが、そのうちに隙をみて付添士が左右から押さえに飛びこみ、しばらく格闘をしたのち、やっとのことで取り押さえ、すぐに緊衣を着せましたから、どうやらことはおさまりました。手足の自由をとられながらも、患者はそれでもまだ、「畜生! 荷物を剥《は》いでやるから、おぼえていろ! 殺してコマギレにしてやるから、そう思え! おれは親方のために戦うぞ!」などと、わけのわからないことをわめいていました。すったもんだやって、やっと病院につれもどり、患者を監禁室に入れましたが、付添士の一人ハーディは、格闘の際、指を怪我しました。
ところで、両名の馬車屋は、ひどい目にあわされたことに対して文句を並べだし、この損害賠償は、出るところへ出てきっと取ってやると息まき、さんざん難癖をつけてごねていました。しかし彼らの威《おど》しには、大の男が二人もそろって、かよわい狂人に負けたことに対する、遠まわしの弁解がまじっていて、重い荷物を運んだり持ち上げたりで力を使っていなかったら、狂人の一人や二人、あっさり片づけられたんだ、など言っていました。それに仕事が大体|埃《ほこり》っぽい物を扱うのと、働く場所が都心から遠いところが多いので咽喉が乾くが、一杯ひっかけて咽喉をうるおすようなところがない、これが敗因の一つだともいっていました。しかたがないから、小生も行きがかり上、二人に焼酎《グロッグ》を一杯ずつおごり、金貨を一枚ずつつかませて、あやまっておきました。万一必要がおこった場合のためにと思って、両人の住所氏名はひかえておきました。一名の馬車屋は、ジャック・スモレット、他の一名はタマス・スネリングといい、両人ともソホの海運会社ハリス運送店の雇用人であります。以上御報告まで。
パトリック・ヘネシー
ミナからルーシーに宛てた手紙≪開封されなかったもの≫
九月十八日――
親愛なるルーシー
突然のことながら、ホーキンズ氏が急逝されました。私たちは父を失ったように深い悲嘆に暮れています。私は父も母もいないので、この敬愛する老人の死はほんとに打撃でした。ジョナサンもたいへんがっかりしています。彼のは悲しいなどというものではなく、自分のことを生涯|慈《いつくし》んでくれた人ですし、とくに晩年は、自分の息子のように彼をかわいがって、われわれのようなつましく育った者にとっては一財産といえるほどの物を残してくれたのです。それは貪欲の夢をこえた富です。でも、ジョナサンには、また別の考えがあって、これによって責任重大となり、おちおちしていられないと申しています。彼は自分というものを疑いだしているのです。私はせいぜい元気を出すようにしむけていますが、彼のなかにある私への信頼、これが彼自身への信頼――つまり自信につながるものになるのだと思います。
でも、一方、彼の経験した例の大きな衝撃が彼に最大のものだとおしえています。彼のようにやさしくて、一本気で、高潔で、強い性格の人――親愛なよい御主人の助けで、数年間に一社員から事業主にまで昇格した人が、自分の力の根源が涸れてしまうほどの災厄を受けるとは、ひどすぎますわ。ルーシー、いま幸福のまっただなかにいるあなたに、こんな愚痴みたいなことをいって、気にさわったら許して頂戴ね。だけどね、ジョナサンに対して、なんとかして気丈で元気なようすを見せているこの緊張をつづけていると、だれかに自分の気持を打ち明けたくなるのよ。あいにくここには、気の許せるような人は一人もいないんですもの。
明後日は、どうしても行かなければならないので、恐ろしいロンドンへ私たちは行きます。ホーキンズ氏の御遺書で、御先考のお墓へ埋葬してくれとのことなので。ホーキンズ氏には親戚縁者のかたが一人もないので、結局ジョナサンが喪主になるでしょう。時間が二、三分でもあれば、そちらへ飛んで行きたいのだけれど。つまらないことを言って、すみませんでした。御自愛を祈ります。
ミナ・ハーカー
ドクター・セワードの日記
九月二十日――今夜も、ただ覚悟と習慣が自分を夜に入らしてくれるのみだ。あまりにもみじめで、元気|沮喪《そそう》、もう世の中がいやになった。生活そのものを含めて、世事万端がおぞましくなり、今は死の天使の羽ばたきが聞こえたって、そんなことは知るもんかという気持だ。しかも死はこのところ、なにか目的があって、しきりとあの恐ろしい羽ばたきを立てている。ルーシーの母の死、アーサーの父の死、そして今また……。仕事仕事、仕事につこう。
時間がきたので、教授と代わってルーシーの看護につく。アーサーを少し休息させてやりたいのだが、彼は大丈夫だといってきかない。そこで、「きみには昼間のあいだ助けてもらいたいのだ、みんなが休養不足で倒れてしまったら、どうにもならないのだから」と言って聞かせたら、やっと承知した。教授は彼にはひどく親切で、「きみ、きみ、わしといっしょに来たまえ。このところ悲しいこと続きで、精神的苦悩が多かったところへ、血税をとったりして、きみも弱っているのだからね。ひとりでいちゃいかん。ひとりでいると、心配と恐れで胸がいっぱいになる。さあ、客間へ行こう。あすこには大きな暖炉もあるし、ソファも二つある。それへわしと横になろう。べつに物を言わんでも、眠っておっても、おたがいの思いやりというやつで気が安まるものだ」
そういわれて、アーサーは、枕に沈んでいるルーシーの芝生より白い顔に、思いのたけの目を投げながら、教授と部屋を出て行った。ルーシーは依然として昏々《こんこん》と眠りつづけている。私は室内の設備のもようを見まわした。教授はこの部屋にもニンニクの花を用いる方法を持ちこんで、窓台にも匂いをすりこみ、ルーシーの首にも、教授が巻いてやった絹のハンケチの上から、粗く編んだおなじ匂いの花輪がちゃんとかけてある。ルーシーはさっきからゼイゼイいやな息づかいをしているが、顔はもう完全な死相で、口をガクンと大きくあけ、白ちゃけた歯茎《はぐき》がむきでている。うす暗い病室のあかりのなかで、白い歯がなんだか午前中よりも長く尖《とが》ったように見える。とくに、光線のぐあいか、犬歯がほかの歯よりも長く尖っているように見える。
私が枕元にすわっていると、やがて彼女は体をぎごちなくモゾモゾ動かしだした。すると、それとほとんど同時に、病室の窓の外で何かバタバタぶつかる音がした。私は立って行って、ブラインドの端をかかげて窓外をのぞいてみた。外はいい月夜で、明るいその月の光の中を、一匹の大きな蝙蝠が、何やらボーッとした青白い光をひきながら、窓のそばをぐるぐる舞っている。音がしたのは、その蝙蝠の羽根が窓にぶつかった音であった。席にもどると、ルーシーの咽喉に巻いた花輪がちぎれて、ほどけていた。私が窓へ立ったあいだに、自分ではずしたのだろう。私はもとのとおりに結んで首にかけてやり、それからまた枕元にすわって看取《みと》りをつづけた。
まもなく、しずかに目を開いたので、教授が調合した食餌《しょくじ》をあたえたが、それもほんの少ししか摂《と》れず、あとは口からダラダラ流れでた。もう生命にしがみつく力もなくなったらしく、彼女の病気の特徴だった今までのような元気もなくなったようだった。ただ、ときどき意識がもどるのか、ニンニクの花をしきりと首のまわりに押しつけているのは、なんとも不思議であった。息をゼイゼイいわせて、うとうと眠っているときは、それをはずそうとし、目がさめるとしっかり身につけようとするのは、いかにも奇妙に思われた。しかも、これは判で押したように誤りがなく、その夜はずっと長い時間のあいだ、幾度となく眠ってはさめ、さめては眠る夢うつつのうちに、この二つのしぐさを何度も繰り返したのである。
六時に、教授が交替にやってこられた。アーサーは困憊《こんぱい》しきって、いびきを立てて寝入っていたので、そっとしておいたという。教授はルーシーの顔を見ると、例のごとく舌をシューシュー鳴らしながら、私につよく囁いた。
「ブラインドをあげて、明るくしてくれ!」
言われるとおりにすると、教授はルーシーの顔に自分の顔がさわるほどかがみこんで、しさいに調べた。そして首のまわりから、ニンニクの花をどけ、ハンケチを咽喉からそっとまくると、きゅうにうしろへ身を引いて、咽喉から絞りだすような大声で、「しまった!」と叫んだ。その声を聞いて、うしろから私も身をかがめたとたんに、おもわず私は総身を冷たいものが走るのをおぼえた。
咽喉の傷が跡方もなく、きれいに消えていたのである。
たっぷり五分ほど、教授はきびしい顔をして、彼女を打ちまもっていた。やがて私のほうを向いて、しずかに言われた。
「このひとは今死にかけている。もう長いことはない。もういちど意識が戻って死ぬか、眠ったままで死ぬか、どっちみちたいした違いはないだろう。アーサーを起こしてやりたまえ。臨終に会わせてやらなければ。あの男はわれわれを信じておるんだし、われわれも彼に約束したんだからね」
私は食堂へ行って、アーサーをゆり起こした。アーサーは寝ぼけ眼《まなこ》をこすっていたが、鎧戸《よろいど》のはしからさしこむ朝日の光を見ると、おや、寝すごしたかなと思って、心配の色をみせた。ルーシーは眠ったままだが、教授も私も、もう臨終は近いものと見ていると告げると、アーサーは一瞬両手で顔をおおったと思うと、そのままソファから滑り下りてひざまずき、おおった顔をソファに埋めて、悲しみに肩をふるわせながら祈りをあげた。
「さあ、行くんだ。しっかりしたまえ。きみがしっかりしていることが、いちばん彼女を楽にしてやることなんだから」
アーサーと私が病室へはいっていくと、用意のいい教授は、すでに病床のまわりをきちんと片づけて、なにもかにも見よいようにしてあった。ルーシーの髪にもきれいに櫛が入れてあり、枕に流れた髪には、いつものように朝日がチラチラ波を光らしていた。われわれがはいっていくと、ルーシーは目をパッチリと開いてアーサーの顔をまじまじと見まもり、糸のような細い声でささやいた。
「アーサー。あなた、よく来てくださったわね。私、とてもうれしい」
アーサーが接吻しようとして身をかがめかけるのを、教授は肩に手をかけて制した。「接吻はまだいかん。手を握ってやりなさい。そのほうが喜ぶよ」
アーサーは彼女の右の手を両手に握って、へたへたとベッドのわきにひざまずいた。その時のルーシーの目もとは、まことにこの世ならぬ、神々《こうごう》しいやさしさに満ちたものであった。
やがてその目がしぜんに閉じると、彼女は昏々と深い眠りに沈んでいった。胸がすこし盛りあがり、しずかな息づかいをして、疲れた小児のようになった。
するとその時であった。私が夜半に見たあの不思議な変化がまたもや彼女に起こった。彼女の息づかいがにわかに咽喉の奥でゴウゴウ鳴り出したと思うと、洞窟《どうくつ》のように大きくあいた口に、昨夜よりまたいっそう長く尖り出した白い歯をむきだし、眠っているともさめているともしれぬ、なかばうつつに見ひらいた目をあらぬ方に見すえたまま、まじろぎもせず、およそ彼女の地声とは似てもっかぬ、みだらな、しなだれかかるような声で、彼女は譫言《うわごと》のようにいいだした。
「アーサー、ねえあなた、よく来てくれたわねえ。私とてもうれしいわ。ねえ、キスしてちょうだいよ!」
私と同じく、ルーシーの声にギョッとしたアーサーが、ふらふらと彼女の上に身をこごめようとした時、だしぬけに教授が破鐘《われがね》のような声で何かどなりつけ、アーサーの襟《えり》がみをムズとつかむや否や、この人にこんな力があるかと思うような、えらい力でうしろへ引きずり飛ばした。
「駄目だ! 命がないぞ! 生きているきみの命と彼女のためにならん」教授は追いつめられたライオンのように居丈高《いたけだか》にどなりつけた。
アーサーも私も、教授の見幕《けんまく》にただあっけにとられ、二人とも何がなんだかわけがわからず、茫然《ぼうぜん》と声をのんで突っ立っていたが、その時私たちは、ルーシーの顔全体に、なんともいいしれぬ恐ろしい怒りの痙攣《けいれん》が起こり、さもくやしいというふうに尖った歯をギリギリ食いしばったのを見た。やがて彼女は目を閉じ、深い息をついた。
それからまもなく、彼女はもういちど静かに目をひらいた。その目は、もとのやさしい目にもどっていた。彼女は痩せ細った青白い手をさし出した。その手を教授が握ってやると、彼女は握ってくれた教授の手をひきよせて、接吻をした。そして糸のような細い声で、「先生、いろいろありがとうございました。あの人を守ってあげてください。それから私を早く楽にしてください」
「ああ、よろしいよ」教授は誓いのしるしに、彼女の細い手を差し上げてやった。それからアーサーをそばに呼んで、「さあきみ、手を握っておやり、そして額に接吻しておやり」
唇と唇が合うかわりに、死んでゆくルーシーの目とアーサーの目がぴたりと合った。それが二人のこの世の別れであった。
ルーシーは静かに目を閉じた。教授はアーサーの腕をとってベッドからそっとわきにいざらせ、そして厳粛な面持《おももち》でルーシーの呼吸に見入った。
まもなく息づかいがまたゼイゼイしてきた。そしてそれがハタと止まった。
「臨終です」ヴァン・ヘルシングがいった。「ルーシーは亡《な》くなりました」
私はアーサーの腕をとって、彼を客間へ連れて行った。彼はそこのソファにくずれるように腰をおろすと、両手を顔にあてて激しく泣き入った。私はその姿を見るに忍びなかった。
病室にとって返すと、教授がルーシーの死顔につくづくと見入っていた。教授の顔は、いつもより一段ときびしかった。彼女の死体に、ある変化がおこってきていた。死は彼女の美しさの一部分を取りもどしたのであろうか。頬や眉にしなやかな線がよみがえり、唇からも白ぼけた死の色が消え失せていた。まるでそれは、血液がもはや心臓を動かす用がなくなったので、死のあさましさをなるべくやわらげるために働いたのかとさえ思われるようであった。
「眠るあいだは死ぬかと思い、
死ねば眠ると思うもの」
私は教授とベッドのそばに並んで、彼女の死顔をしみじみ眺めながらいった。「かわいそうなことをしましたな。でも、彼女にもやっと安楽がきましたね。これで一段落ついたわけですな」
教授は私を振り向いて、厳然としていった。「ちがう。そうではない。これから始まるのだ。これが序の口なのだ」
それはどういう意味なのかと私が聞き返すと、教授はわずかに頭を振って、
「われわれは今まで何もすることができなかった。まあ、しばらく待ってみるのだな」と言った。
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一三
ドクター・セワードの日記≪つづき≫
ルーシーと母堂を合葬することになったので、葬儀は明日執行することにきまった。繁雑な形式的なことは、いっさい私がその衝に当たった。葬儀屋は商売柄、御愁傷の百万遍を言っていたし、死者に最後の始末をしてくれた婦人も、臨終の部屋から出てくると、同じ宗徒らしい心置きない調子で、
「ほんとにお美しい死顔をなさっておいでですこと。ああいう方のお世話をするのは、ほんとにありがたいことで。お嬢さまも私どもの会におはいりになって、面目を施したと思っていただけますわ」と私にいっていた。
教授はわれわれといっしょに、しばらくここに残ってくれるらしい。このごった返しのなかでは、願ってもない話で、手近に親戚縁者はいないし、アーサーは厳君の葬儀に列席するためにあす帰るし、まったくのところ、猫の手も借りたいくらいのところだ。こういう状態だから、教授と私でいろんな書類そのほかにも目を通さなければならない。教授は、ルーシーの書類は自分で目を通すという。教授は外国人だから、英国の法律的条件も充分心得ていないだろうし、知らないことから起こる要《い》らざる面倒なこともありはしないかと慮《おもんばか》って、私はなぜご自分で目を通されるのですかと尋ねると、教授は答えた。
「わかっとる、わかっとる。きみはわしが医者兼法律家であることを忘れとるな。しかし、これは法律には無関係なことだ。それはきみが検死を忌避したときに、きみにもわかっとることだ。わしとしては、検死なんかよりも、もっと避けることがあるんだ。こんなものよりも、もっと重要な文書があるかもしれんのだ」
そういって、教授は手帳の間から、ルーシーがふところに入れて、眠っているうちに破いてしまった例の手記をとりだしてみせた。
「ウェステンラ夫人の依頼弁護士の作成した文書があったら封をして、今夜のうちに弁護士宛に郵送しておきたまえ。わしは今夜はこの部屋と、ルーシーの元の病室の番をする。なにか捜せるかもしれん。彼女の思考を見ず知らずのやつどもの手に渡したりしては、まずいからな」
私は自分の持ち分の仕事にとりかかり、三十分ほどのうちに、ウェステンラ夫人の依頼弁護士の住所氏名がわかったので、手紙を書いた。母堂の証書・書類は全部一括してそろえた。埋葬の場所を指示した書付《かきつけ》もでてきた。弁護士宛の手紙の封をしているところへ、思いがけなく教授がまたはいってきて、
「どうだ、手伝うことあるかな? こっちは今、手があいとるから、なんでもしてやるぞ」
「なにか新しい発見がおありでしたか?」
「べつに取り立ててこれというものもなかったよ。見つかったのは、手紙と、手記らしいものと、それから新しくつけかけた日記ぐらいのものさ。ここに持ってるが、今はまだ、それについては何も言わんことにする。明晩、アーサー君に会ったら、彼の承認をえたうえで、多少それを使わしてもらう」
手近の仕事が一段落すると、教授はいった。
「ところでジョン、そろそろベッドにはいってもよさそうだよ。二人とも睡眠不足なんだし、回復するのに休息しとかんと。今夜はわれわれ用がないが、明日はすることがいっぱいあるぞ。やれやれ!」
寝るまえに、教授と二人でルーシーの亡骸《なきがら》を見に行った。葬儀屋がきれいに飾りつけた部屋のなかは、まるで小さな礼拝堂に一変していた。美しい白い花が咲き乱れたようにいっぱい飾ってあり、死のいやな気分はまったく漂っていない。白い屍布のはしが死顔の上にかけてあった。教授が身をかがめて、しずかにそれをまくった時、二人とも、こうこうとともっている蝋燭の灯に、目の前に照らしだされた死顔の美しさに、おもわずアッと驚いた。死顔には、生前のルーシーの美しさが、ふたたび生けるがごとくそこに戻っていたのである。息をひきとってから、もうかなりの時間がたっているのに、腐敗の指のあとはどこにもなく、自分はこれで死体を見ているのかと目を疑うほど、生き生きとした美しさがそのままそこに残っていた。
教授はきびしい顔をしていた。教授は私みたいに彼女を愛した人ではないから、目に涙を浮かべる必要はなかったのだろう。「わしが戻ってくるまで、このままにしておけ」といって、部屋をそそくさ出て行かれたが、まもなく、ホールにあったニンニクの花を両手にいっぱい持って戻ってくると、ベッドのまわりやその他に飾ってある生花の間々に、それを挿してまわった。それから襟のカラーの下から首にかけていた十字架をはずすと、それを亡骸の口の上に置き、それからまくった屍布をもとのように顔の上にかけて、われわれは部屋を出てきた。
私が自分にあてがわれた部屋で着がえをしていると、扉をノックして教授がはいってきて、
「きみ、すまんが、あした昼間のうちに、解剖刀を一揃い持ってきてくれんか」
「解剖なさるんですか?」
「するとも言えん、しないとも言えん。しかし、わしは解剖したいのだ。もっとも、きみたちが考えるような解剖ではない。ここだけの話だから、だれにも言うなよ。わしは彼女の首を切って、心臓をしらべてみたいのだ。いや、きみは外科医だから、こんなことをいったら、びっくりするだろうが、まあそう魂消《たまげ》なさんな。わしの見てきたところ、どんな手術にも、手と心臓が震えずに執刀できるのは、きみだけだ。ほかのやつらがガタガタするような、生きるか死ぬかの手術も、きみならできる。しかし、きみが彼女を愛していたことを、わしゃ忘れちゃおらんぞ、ジョン。愛した女に刀を執《と》れというのは無理だ。だから、執刀はわしがする。きみは助手になれ。じつは、やるなら今夜やりたいのだが、アーサー君がおらんから、それはできぬ。あす父君の葬儀がすめば、体があくだろう。彼も死顔が見たいだろうからな。どうだ、こうするか。納棺したらみんな寝しずまったところで、きみと二人で棺のふたをあけて、解剖するか。あとは縫合して元どおり棺に納めておけば、きみとわし以外には、だれにもわからんぞ」
「でも先生、どうして解剖なんかなさるんですか? 彼女は死んだのです。その死体を、必要もないのになぜ切ったりはったりなさるのですか? 死体のために必要もなく、それによって何も得るものがなければ、彼女にとって、われわれにとって――学問のため、人知のために、なんの役にも立たんのに、なぜ解剖などなさるのです? 学問のためでなければ、ひどい冒涜《ぼうとく》ですよ、それは」
答えるかわりに、教授は私の肩に手をかけて、無限のやさしみをこめて言った。
「ジョン、わしはきみのその血も涙もある心根を憐れむ。しかし、きみにその心があるからこそ、わしはきみを愛するのだ。できれば、きみが負うその荷物を、わしが担《かつ》いでやりたいくらいだ。しかしね、じつはきみの知らんことがあるのだよ。いずれそれはきみにもわかることだし、いやなことだが、ぜひわかってもらいたいことだ。
ジョン、きみは長年わしの友人なんだから、わしが理由のないことはせんことは承知のはずだろう? そりゃわしとて人間だから、まちがうこともあろうさ。しかしわしは自分のすることには確信をもっておる。こんどのことも、大難事がきたので、きみがわしを呼んだのが因《もと》だったんじゃなかったのか? いいかきみ、今夜ルーシーの臨終のときに、アーサーが接吻をしょうとしたのを、わしがさせないで、力いっぱいに引き離した。あの時きみは驚かなかったか? 恐ろしいことだと思わなんだか? しかもあのとき、ルーシーはわしに、あの死にぎわの美しい目で、あの糸のような細い声で、わしに心から感謝をして、老いぼれのわしのこの手に口づけをして祝福したのを、きみは見たろう? わしがあの時彼女に約束したのを聞いたろう? だから彼女は、感謝のうちに瞑目《めいもく》したんだぜ。
どうだ、わしがやろうと思うことには、ちゃんと理由があるのだ。きみは年来、このわしを信頼してきておる。この幾日か、わしがここへ来て以来、きみが不審に思うような怪しいことがたびたびあったが、その間、きみはいつもこのわしを信用しておった。ひとつその意気で、もうしばらくのあいだ、このわしを信じておってくれ。信じてもらえなければ、わしの考えておることを打ち明けねばならんが、そいつはどうもまずい。友人とたのむ者がわしを信頼してくれんとあっては、わしも仕事をするのに気が重い。助けと励ましがほしい時に、ひとりぼっちでは寂しくてならん」
教授はしばらく黙っていたが、さらに厳粛な顔をしてつづけた。「ジョン、われわれの前には、まだまだ不思議な、恐ろしいことが待っておるのだぞ。二つに分かれんで、一つになって協力しようて。そうすればよい結果がえられるのだ。どうだ、ジョン、わしを信じてくれんか?」
私は教授の手をとって、誓った。教授が部屋を出ていくとき、私は扉をあけて見送った。教授は自室にはいって、あとの扉をしめた。しばらく私が扉口に立っていると、女中の一人が黙って廊下を通っていくのが見えた。こちらへ背を向けていたから、むこうは私を見なかったが、女中はそのままルーシーの亡骸の安置してある部屋へはいった。それを見て、私は胸が熱くなった。頼まれもしないのに、そういう主人思いの気持をあらわすとは感心の至りで、稀《まれ》に見る献身ぶりである。この夜ふけに、生前愛した若い主人の遺骸のそばに、亡き霊が永遠のやすらぎにつくまで、ひとりで寂しくないように通夜《つや》をする。当然そこには死の恐怖があるのに、それを物ともしない若い女の子がいるとは。……
私は熟睡して、寝すごしたにちがいない。翌朝、教授が起こしにみえたときには、外は日がカンカン照っていた。教授は私の枕もとへきて、
「ゆうべ頼んだ解剖刀ね、もう手数かけなくてもよくなったよ。解剖はよすことにしたから」
「どうしてなさらないんですか?」私は昨夜の教授の真剣さが身にしみていたから、不審に思って問いかえした。
「もう手遅れだ。あるいは、早すぎるかもしれん。これをごらん」といって、教授はポケットから、昨夜ルーシーの亡骸の口の上にのせた金の十字架を出して見せて、「これが昨夜盗まれたのだ」
「盗まれた? だって、ちゃんとそこに持っておいでじゃないですか?」
「盗んだ女から取り返したのさ。きっと罰があたるだろうが、私の手からは罰はくださん。女は自分のしたことを全然知らんのだ。知らんで盗んだのだ。まあ、しばらくようすを見ていなければ」
教授は、そんな言葉をのこして出ていった。私はまた一つ新しい謎《なぞ》を課せられた思いがした。
午前中は退屈な時がすぎたが、正午に弁護士のマーカンド氏がやって来た。温厚な、ものわかりのいい人で、細かいことまで万事引き受けて処理してくれた。昼食のときに話してくれたところによると、ウェステンラ夫人は、とうから持病の心臓疾患で、自分は急死するものとあらかじめ覚悟をしていたので、ルーシーの父親の限定遺産を除き、不動産は遠縁の者にやるように取りきめてあったが、ルーシーが物故してみると嫡子がなくなったので、遺産は全部アーサー・ホルムウッドに行くという話であった。そのとき、弁護士はいろんなことを話してくれた。――
「正直いいますとね、われわれとしても、こういう遺言契約をさせないように、全力を尽くしましてね、娘さんが無一文になって、縁談に手も足も出なくなるような不慮の場合もあることを指摘したんです。ところが、こっちがすこし勇《いさ》み足になったせいか、衝突を起こしましてな、あんたがたはこちらの希望が聞けないのか、こちらの希望を通す用意がないのかといって、怒られました。そうなっては、われわれとしても、むろん受諾するよりほかありませんわな。そりゃこっちは主義としては正しいし、理屈からいっても、こっちの判断の正しいことは、九十九パーセントまで立証できます。しかし正直のところ、ほかのどんな契約形式を持ってきたところで、とてもじゃないが、お母さまのご希望を叶えることはできないことはわかりきってるんでね。そりゃご当人が娘さんより先に死亡されれば、娘さんが財産をもらえるけれども、お母さんのほうが五分でもあとに生き残ったばあい、遺言に全然ないことなんだから――つまり、はじめからそういう場合に完全実行不能な遺言なんですから、かんじんのお母さんが死亡された時に、遺言がないことになってしまいます。ゴダルミング卿のばあいは、あの方には請求権はおありにならない。遠縁の相続人は、まるで赤の他人に財産がころがりこむことを考えれば、人情として、正当な権利を放棄したくはないでしょうしね。いや、正直いって、皆さんの前ですが、私はこの結果を楽しみにしているんです。じつに楽しみですよ」
弁護士はいい人ではあったが、結局、職業的関心から、大きな悲劇のなかの小さな部分を楽しんでいるのは、同情的理解の限界における、一つのよい見せしめであった。長居はせずに、あとでまたアーサー・ゴダルミング卿にお目にかかりにお邪魔するからといって、弁護士は帰っていったが、それにしても、われわれとしては自分たちのとった行動について、反対の批判は言わせないという確信はあったものの、弁護士が来てくれたことで、なにかホッとしたことは事実であった。
アーサーは五時には来るはずになっていたので、われわれはその少し前に納棺室を検分した。じつは、納棺室には、いま母娘《おやこ》の亡骸が安置されていたからである。葬儀屋が腕によりをかけて、いろんな道具でじょうずに飾りつけをしてくれたので、部屋のなかには、いかにも死の部屋らしい、人の心をしんみりさせるような、しめやかな気分がただよっていた。ヘルシング教授は、ゴダルミング卿がまもなく来るから、前のようにフィアンセがひとりでいるところを見たほうが、改まった気持が薄らぐだろうといって、前の配置を固執するように命じた。葬儀屋は自分の迂闊《うかつ》に恐縮して、さっそくまた前夜の通りに、大童《おおわらわ》で配置がえをした。そんなわけで、アーサーがきたときの気持の上のショックは、われわれの思いどおり、避けることができた。
気の毒に、アーサーは身も世もないほど悲しく傷心しているようであった。あのガッチりした男らしさが、悲しみにふりまわされた感情の張りつめで、すっかり萎縮してしまったように見えた。あのとおり、父君には深い献身的な敬愛をそそいでいた彼のことだから、その父上を失ったことは、ましてやこの際、痛い打撃だったにちがいない。そんななかでも、彼は日ごろのように私には温かい気持でいてくれたし、ヘルシング教授にも礼を失するようなことはなかったが、しかし私には思いなしか、なにかそこに気がねというか、窮屈なものがあるように見えてならなかった。教授もそれに目ざとく気づかれたとみえて、彼を早く二階へつれていくように、私に目まぜをした。私は彼を二階へつれて行き、ルーシーと二人きりになりたいだろうと思ったので、遠慮して入口のところで戻ろうとすると、彼は私の腕をとって中へ入れ、しゃがれた声でいった。
「おい、きみも彼女を愛していたんじゃないか。彼女がなにもかも話してくれたよ。彼女の胸にいちばん近いところにいた友人は、きみよりほかにないんだぜ。きみが彼女にしてくれたことについてぼくはどう礼をいっていいかわからないんだ。でもぼくは……」
きゅうに言葉をとぎらすと、彼は私の肩に両手をかけると、私の胸に顔を埋めて、わっと泣き出した。
「ジャック! ジャック! ぼくはどうしたらいいんだ! 世の中のすべてがぼくから消えていくようなんだ! この広い世間に、ぼくの生きていく目的はなくなってしまったんだよ!」
私はできるだけ彼を慰めた。こういう場合、人間には多くの言葉はいらない。手を堅く握り、肩をしっかりおさえ、ともに哭《な》くこと、これが相手の心にひびく同情の表現である。私は彼の泣くのがおさまるまで、黙ってじっと立っていたが、やがておだやかに言った。
「おい、彼女を見てやれよ」
二人はベッドのそばに寄り、私は彼女の顔から白布をあげた。いや、これはまたなんという美しい顔をしていたことか! どうやら刻々に美しさを増しているようで、なにかそれは私の目をみはらせ、愕然とさせるものがあった。アーサーは最初は崩折《くずお》れたようになってわなわな震えていたが、しまいには悪寒《おかん》に襲われたように、疑念とともに震えていた。やがてしばらくたってから、かすかな囁き声で私にいった。
「ジャック、ほんとうに彼女、死んだのかな?」
私は愁然として、彼女は死んだのだと言いきかせ、――じつは自分もこんなに長く生命が尾をひいているのに、気味のわるい不審の念をいだいていたので、――死後顔がやさしくなったり、若い美しさに溶けこむことはよくあることで、ことにきびしい苦しみが長引いて、死が早くきたような時には、そういう現象がおこるものなのだと説明してやった。一応それで疑念は消えたようすであったが、寝台のそばにしばらくひざまずいて、しみじみと彼女を打ち眺めていたのち、アーサーが脇を向いたので、さあ、そろそろもうお別れをしよう、お棺の用意ができたはずだからと私がいうと、彼はもう一度亡骸のほうに向いて、死んだ手をとって口づけをし、さらに腰をかがめて額にも接吻をした。そして心残りのように、なんどもうしろをふり返りながら、部屋を出てきた。
私はアーサーを客間において、教授にアーサーが彼女に別れの挨拶をしたことを告げると、教授は台所へ出て行って、葬儀屋の連中に、こちらはよいから、棺を上げる支度をするようにと告げた。教授が戻ってきたとき、私はアーサーが、ルーシーはほんとに死んだのかと尋ねたことを話すと、教授は答えた。
「わしはべつに驚かんよ。今もわしは自分で首をかしげていたところなんだから」
夕飯は三人でいっしょにしたが、アーサーが一所懸命元気なところを見せようとしているのが、見ていて気の毒でならなかった。教授は食事中は黙っていたが、われわれが葉巻に火をつけると、口を開いた。
「ゴダルミング卿――」
といいかけると、アーサーがそれを遮って、
「いやいや、先生、それはよしてください。まだなんですから。許してください、先生。ぼくは何も怒って申し上げているんじゃないんで、ただ自分の損失からまだ日がたっていないもんですから」
教授はたいへんやさしい調子で、
「わしもね、どうかなと思ったから、称号を言ったまでのことでね。しかし、きみのことは好きになってきとるから、〈君《くん》〉だの〈さん〉だのと他人行儀には呼べんのでね。まあ、アーサーとしておこうかな」
アーサーは手をさしだして、老人の手を温かく握り、
「なんとでもお好きなように呼んでください。ところで申し遅れましたが、このたびはご弔意をいただき、いろいろご尽力いただいて、お礼の申し上げようもありません。先生のご好意は、私よりルーシーのほうがよく知っております。私は未熟な人間だもんで、ご記憶でしょうが、かんじんの時に先生からお小言を頂くようなことをしたりして、ま、一つ勘弁してください」
教授は真顔になって、やさしさをこめて答えた。
「いや、あの時は、まだきみもわしのことを充分信頼しておらなんだのだから、理解を深めるためには、ああいう乱暴な手も必要だと思ってやったことでな。きみはしかし、今でもあの時のことは信用しておらんだろう。いや、事がわかっておらんのだから、信用できんさ。しかし、まもなくわしを完全に、とことんまで信用する時がくるさ。太陽の光がおのずから物に浸透するように、わかってくれる時がくるよ。その時は、きみは自分のためばかりじゃない、人のため、わしが護《まも》ると誓った人のために、わしにことごとく、終始感謝することになるよ」
教授は、なにか言おうとして、二度ほど咳払いをしてから、いった。
「ところで、なにかきみ、聞きたいことがあるだろう?」
「ええ」
「そうそう、ウェステンラ夫人がね、きみに遺産を全部のこしておいたことは知っとるかね?」
「いいえ。お気の毒に。そんなこと、考えたこともありませんでした」
「遺産は全部きみのものだから、どう使ってもいいんだよ。ところでね、きみにお願いがあるんだが、ルーシーの書いたものと手紙類、これを全部読ましてもらいたいんだがね。これはべつにちゃらんぽらんな好奇心から言っておるんじゃないのだ。その動機は、彼女もきっと認めてくれると思う。じつは、ここにそれが全部あるんだが、これが全部きみのものだとわかる前にぼくが除《の》けておいたんだから、他人の手には触れておらん。できれば、わしはこれを保存しておきたい。きみがまだ読まないものもあろうが、わしはこれを安全に保存しておく。一字一句、消したり削ったりしたところはない。時節がくれば、もちろんきみの手もとにお返しする。これはまことに頼みづらいことなんだが、どうだろう、ルーシーのために、承知してもらえまいか?」
アーサーは、むかしの彼のように心置きなく言った。「ヘルシング先生のお好きなようになすってください。ぼくはルーシーがそうなさいといってることを、お答えしている気持です。時節が来るまで、ご迷惑になるようなことは申しませんよ」
老教授は、きゅうにまじめな顔をして立ち上がりながら、
「それでよろしい。これからわれわれは、いよいよ苦しいことになる。このたびの苦しみが最後ではない。われわれもきみも――ことにきみは、彼岸《ひがん》に達するまでは苦い水のなかを通らなければならんだろう。だが、われわれはすべからく勇猛心をもち、自分勝手に走らず、義務をはたし、そしてみんながよくなっていこう!」
その夜、私はアーサーの部屋のソファに寝た。教授は床にはいろうとしなかった。まるでここの家をパトロールでもするように、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、ルーシーの棺のある部屋から目をはなさなかった。あいかわらずルーシーの棺のある部屋には、ニンニクの花がいっぱい撒《ま》きちらしてあり、その匂いがユリやバラの花の匂いにまじって、夜気のなかに重苦しい強い匂いを放っていた。
ミナ・ハーカーの日記≪速記記号で書いたもの≫
九月二十二日――エクセターまでの車中にて。ジョナサンは眠っている。
最後の登記がすんだのは、ついきのうのような気がする。それにしてもホイットビーにいた時分、ジョナサンは遠くへ行っているし、音信はなし、あのつらかった頃にくらべると、今はなんという変わり方だろう。ジョナサンとは結婚するし、彼ももう一人前の弁理士になり、ホーキンズ氏が逝去《せいきょ》された今では、裕福な事務所の主人になった。でも、ホーキンズ氏が亡くなられたショックから、いつなんどき、また新しい発作が起こるかもしれない。後になって聞かれると困るから、とにかくなんでも書いておこう。
思いがけない裕福な身分になったおかげで、私はつい速記の手が下がってしまったから、せいぜい稽古のつもりで、また新規|蒔《ま》き直しに始めることにしよう。
所長の就任式といったところで、形式だけのごく簡単なものだった。ジョナサンの友だちの代理店の人が一人二人に、弁理士会長の代理の方と、それに私たち夫婦を入れて四、五人の頭数。ジョナサンと私は手をつないで立ったが、なんだか二人の古い友だちがみんな離れてしまったような心持がする。
帰りはハイド・パークまでバスに乗る。私を喜ばせようという心づかいから、ジョナサンは公園の馬場へ案内してくれたが、あいにくきょうは人がチラホラしか出ていず、ベンチはがらあきで寂しい。でも、ベンチががらあきなので、かえって気らくであった。ジョナサンは、むかし私が学校へ上がる以前によくそうしてくれたように、私のことを腕で抱きかかえてくれた。女教師などになって、何年か先生ぶって女の子たちに行儀作法など教えつづけると、自分の身をつつかれるようで、なんだかみっともないような気がしたけれど、でも相手は夫なのだから、だれかに見られたかもしれないが、見られたってかまやしないと思って、そのまま歩きつづけた。
ギリアノの店の前に止まっていた馬車のなかに、たいそう美しい娘さんが乗っていたので、私が見とれていると、いきなりジョナサンが私の腕を痣《あざ》のできるほどギュッとつかんで、アッと声をあげた。病気の再発をおそれて、私はつとめて彼の神経にさわらないようにと、しじゅう気をくばっているので、その時もなんで驚いたのかと思って「どうなすったの?」と顔をのぞくと、彼はまっ青な顔をして、なかば恐怖、なかば驚愕に目を逆立てて、ついそこに立っている一人の背の高い、痩せた、鷲《わし》鼻の、黒い顎ひげをピンとはやした男をにらんでいる。その男も、馬車のなかの美しい娘さんに見とれているので、私たちには気づかないようだったが、こちらからはよく観察できた。人相のよくない男で、片意地な、冷酷そうな、欲情的な面《つら》がまえに、唇がいやに毒々しく赤く、そのせいかよけい際《きわ》立って白く見える歯が一本、なにかのけだものみたいに鋭くむきだしている。ジョナサンは、相手に気づかれはしないかと心配になったくらい、目をすえてじっと睨みつづけていた。
「なんでそんなにびっくりなすっているのよ?」と聞くと、ジョナサンは私も同じく知っていると思っていたように、「あれ、誰だかわかるか?」と答えた。
「いいえ、知らないわ。誰なの?」というと、彼がそのとき答えた答えは、私を思わずハッとさせた。なぜなら、まるで私というものがそばにいるのを忘れたような、まったくうわの空の返答ぶりだったからである。
「あいつだ! やつだ!」
かわいそうに、夫はまた何かにおびえだしている。私に寄りかかって、私があの時支えていなかったら、彼はその場に崩折《くずお》れてしまったにちがいない。ちょうどそこへギリアノの店の中から、小さな紙包みを持った店員が出てきて、馬車の中の婦人に渡すと、婦人はそれを受け取って、そのまま馬車を走らせて行ってしまった。人相のよくない男は、その馬車の跡をしばらく見送っていたが、おりからそこへ来かかった空馬車を呼ぶと、急いでそれに飛び乗り、跡を追いかけるようにして、同じ方角へ走っていった。
「たしかにあいつだ、伯爵だ。それにしては、いやに若くなりやがったな。……畜生、あいつなら……あいつだとわかったら……」
男の乗った馬車の跡を見送りながら、ジョナサンはひとりごとのようにつぶやいている。こんな時に私が立ち入って聞けば、よけい彼の神経にさわると思ったから、私はそっと彼の腕をとって、なにげなくそこから歩きだした。そして少し先のグリーン・パークまで行って、しばらくそこで休んだ。秋にしては珍しく暑い日で、ちょうど木陰にあいているベンチがあったから、そこへ二人で腰をおろしたが、ジョナサンはまだ石のように黙ったまま、目を空《くう》に据えていた。そのうちに私の肩へ頭をもたせると、うとうと彼は眠りだした。私はそうさせておけば気が静まるから、いちばんいいと思った。かれこれ二十分ほども、そうして眠っていたろうか。目がさめるとあたりを見まわし、急に打って変わった元気な声で、
「やあ、ぼくは眠っていたんだね。ご免ご免。……どうだね、そこらでお茶でも飲むか」彼は私の手をとって、公園のベンチから立ち上がった。
さっきの男のことは、もうケロリと忘れてしまっているようであった。病中も同じくこの伝で、あったことを何もかも忘れてしまったわけだが、どうもこの忘却におちこむということが、私は気にくわない。そのために、いつまでも脳に害をおよぼすのではないかと思う。忘れたことは聞いてくれるな、頭に悪いから、といわれてみれば、何も聞くわけにはいかないが、私はどうしても彼の海外旅行中の事実が知りたい。そうなると、いよいよあの日記を読まなければならない時が来たようだ。開くのがこわいから、あのまま、まだ紙に包んでしまってあるけれども、そろそろあれを開いて読む時がきたようだ。おお、ジョナサン、私が間違ったことをしても、あなたのためにするんだから、許してくれるわね。
同夜――あれほどよくしてくださった恩人のいない家へ帰ってくるのは、どう見ても、悲しい帰宅だ。ジョナサンは持病の軽い発作で、まだ青い顔をして眩暈《めまい》がしている。今、どういう人か知らないが、ヴァン・ヘルシングという人から電報がとどいた。
「五ヒマエミセス・ウェステンラシキョルーシーオトトイシキョホンジ ツマイソウスンダ」(五日前ミセス・ウェステンラ死去。ルーシー一昨日死去。本日埋葬済んだ)
ああ、なんという悲しい知らせ! あのルーシー母子が! 二人とも死んで、もうわれわれのところへ二度と帰ってこない! あれほど愛していたものをこの世から失った、気の毒なアーサー! 神よ、この苦難をわれらに耐えさしめたまえ。
ドクター・セワードの日記
九月二十二日――万事とどこおりなくすんだ。アーサーはキンシー・モリスをつれて、リングへ帰って行った。キンシーという男はじつにいいやつだ! 彼はルーシーの死について、われわれの誰よりも多く心慮したと、私は衷心《ちゅうしん》から信じている。一貫してまるで道義的海賊のように、彼はそのなかを押し通した。アメリカという国がああいう人間を育てあげているとすると、アメリカは将来世界における一つの力となるだろう。
ヴァン・ヘルシング教授は、帰国の旅をひかえて、いま横になって休んでいる。教授は今夜アムステルダムへ帰るが、明晩またこっちへ来るといっている。なにか教授でなければできない取りきめがしたいのだそうだ。そのときは、できれば私といっしょに滞在するはずで、教授のいうには、こんどはロンドンで仕事をするので、すこし時日がかかるそうだ。
教授も因果《いんが》なお人だ! この一週間ばかりの緊張で、あの金鉄の力がまいらなければいいが。埋葬の間ずっと私は見ていたが、教授はおっそろしく自制をされておられたようだ。埋葬が終わったとき、われわれは気の毒なアーサーの脇に立って、ルーシーの血管に自分の血を注入した輸血のことをしきりと語る彼の話を聞いていたが、この間教授の額が青くなったり赤くなったりしたのを私は見た。アーサーは、あの輸血をした時から、自分たちはほんとに結婚をしたのだ、ルーシーは神の照覧のなかで自分の妻となったのだと感じた、といっていた。われわれは他の面々の輸血のことは一言も口に出さなかったし、今後もそれは口外しないだろう。
アーサーとキンシーはいっしょに駅へ行き、教授と私はここへ来たのだが、教授と二人きりで馬車に乗った時から、教授はヒステリーの正規の発作をおこしだした。あれ以来、教授はおれのはヒステリーではない、あれは大事なときに、持って生まれた諧謔《かいぎゃく》感がしぜんと発露するにすぎないと言い張っておられるが、とにかく、オイオイ声をあげて泣くまで笑うので、人に見られて狂人扱いされては困ると思ったので、私は馬車のブラインドをおろしたくらいだった。笑ってるかと思うと、オイオイ泣きだす。女のヒステリーとそっくりであった。女の場合にするように、私は強面《こわおもて》になって嗜《たしな》めてみたが、効目《ききめ》はなかった。男と女では、神経表出、つまり神経の弱さにだいぶひらきがある。やがて発作がおさまって、ふだんのまじめなきびしい顔つきに戻ったので、私はこんな悲しい時に、なぜあんな陽気な気分がおこるのかといって尋ねると、教授の答えはいかにも理路整然とした、しかも強引な、神秘的なものであった。……
「さあ、きみにはわからんかな。わしは笑うが、そのときわしが悲しんでおらんと考えちゃいかん。見たろう、笑いが咽喉をつまらした時にも、わしゃ泣いとった。わしが泣くときは悲しがっているんだなんて、もう考えなさんな。笑うときも同じだ。扉をノックして、『おはいりなさい』といわれたやつが笑う、あんなのは真の笑いじゃないということを銘記しておくんだな。笑いは王者だよ。いつ何時《なんどき》でも、好きなようにやってくる。笑いは人を問わない。時と場合も選ばない。笑いの王者は、『おれはここにおる』と常にいう。
いいかねジョン、たとえばだ、わしはあの美しいルーシー嬢のために心から嘆いて、この老いぼれのくぜに、彼女に血を与える。時間も、腕も、眠りも与える。自分ばかりじゃない、彼女に何もかもやりたいと思って、ほかの者にもそうさせる。ところが、そのわしが彼女の墓穴の前に立って笑えるのだ。墓掘り男の鍬《くわ》から、土が彼女の棺の上へ『ドサリ! ドサリ!』と胸にこたえるように落ちる時に、わしは笑えるのだ。あの気の毒なアーサーという青年、生きていればわしの子供と年格好も、髪の毛も、目も同じなあの男のために、わしの心は血を噴くくらい、悲しみ嘆く。あの男を愛するわしの気持が、きみにもわかったろう。ところが、あの男がわしの亭主|情《なさ》けの急所をつくようなことをいう時、またわしの親情《おやなさ》けをホロリとさせるような時、ほかの人間はいざ知らず、――経験からいえば、われわれは父と子以上の差があるんだから、きみなんかもその仲間だが――そういう時にも『笑いの王』がやってきて、わしの耳もとで、『おい、ここにいるぞ! ここにいるぞ!』と大声でどなるんだ。そうすると、血が踊りかえって、『笑いの王』が持ってきた日の光をわしの頬にのぼらせるんだ。
いやジョン、浮世というところは妙なところだ。悲しい世界、嘆きにみちた世界、不幸災難にみちた世界だ。しかもひとたび『笑いの王』がやってくると、みんな彼の吹き鳴らす笛の音につれて踊りだす。血を噴くような悲しい心も、墓場の≪されこうべ≫も、落ちると火傷《やけど》するような熱い涙も、みんなニコリともしない『笑いの王』の口が吹き鳴らす音楽にのって踊りだすのだ。いいかジョン、『笑いの王』というやつは、来ると親切で、やさしいぞ。人間、男も女も、みんな各自別々のやり方でひっぱる綱でギリギリ縛《しば》られて、ひっぱり回されているようなものさ。そこへ涙が降ってくる。綱の上へ雨のように降ってくる涙が、われわれを抱き上げてくれる。そのおかげで綱がピンと張って、しまいにはプツンと切れてしまう。ところが、『笑いの王』は太陽の光のようにやってきて、ピンと張った綱をゆるめてくれるから、それで人間はあくせくしながら、どのようにも耐えていかれるのさ」
教授の考え方にそっぽを向けて、彼を傷つけたくはなかったが、でも教授の笑いの原因というのが、私にはどうもよくわからなかったので、尋ねると、彼は答えてくれたが、答えているうちに、顔がきびしくなってきて、声の調子までガラリと変わってきた。
「いや、それがね、どうもことごとく気味のわるい皮肉なんだな。――ああして花輪で飾られた美しい人が、まるで生きているように美しくなってさ、しまいには、ほんとに死んだのかなと、一人ずつ首をかしげたくらいだったろう。同族の人たちがおおぜい葬られている、あの寂しい教会の境内にある大理石のりっぱな建物のなかに、愛し愛されたお母さんといっしょに安置されて、教会の鐘が『ゴーン! ゴーン!』と悲しくゆるやかに鳴って、天使のような白い衣を着た坊さんたちが、はじめから終わりまで経文は見もしないで、経文を読むようなふりをしてさ、われわれはみんな神妙に頭を下げていたんだろ。みんなこれは何のためなんだ! 彼女は死んだ。そうだろう。そうじゃないのか?」
「そりゃもちろん、そうですよ、先生。ですから、そのなかに笑うようなことは、私にはなにも見えないのです。どうも先生のおっしゃることは、以前にくらべると、なにかこう、鬼面《きめん》人を威《おど》すような謎が濃くなって。埋葬式が滑稽だとしても、それがアーサーと彼の苦難に何の関係があるんですか? 彼の心中はひたすら参っているんですよ」
「そのとおりさ。アーサーは言ってたじゃないか、自分の血を彼女の血管に注入したことで、彼女はしんじつ自分の花嫁になったんだと」
「ええ、彼にとって、あれが心慰まる考えだったんです」
「そうだよ。しかしジョン、ひとつ難題があるぞ。かりにそうだとすると、他の連中はどうなるんだね? へえ、そうするとあのかわいい娘さんは一妻多夫主義者なのか。わしなんかとうに家内に死なれて、もっとも教会法だと今も生きとるが、とにかく知恵のない言い方だが、いっさいがっさい、みな煙で、――今もって無妻で押し通している女房孝行の夫のわけだが、そのわしも重婚者になるのか。驚いたな、こりゃ!」
「そういうご冗談がどういうところからここへ出てくるのか、ぼくにはわかりませんな」
私はそういうことをいう教授に、とりたてて愉快な感じは持たなかった。教授は私の腕に手をおいて、
「ジョン、気を悪くしたら、許してくれ。わしは人を傷つけるような感情はむきだしにせんほうなのだが、きみにだけは別だ。きみはわしが信頼しとる友人だからだよ。わしが笑いたくなる時に、きみがわしの心のなかをのぞきこめておったら、笑いがこみあげてきた時に、それができておったら、そして今もきみにそれができておったら、それこそ『笑いの王様』は王冠をしまって、自分のものをひっ背負《ちよ》って、わしからスタコラ、エッサッサ、それこそ長の旅に出ちまったろうよ。――そうなったらきみは、おそらく誰よりもわしのことを憐れんでくれたろうなあ」
私は教授のやさしい声音に胸を打たれて、どうしてですかと尋ねると、教授は答えた。
「そりゃ、わかっとるもの」
さて、われわれ一同は散り散りになった。これからまた長い日を重ねて、孤独が巣づくりの翼をおさめて、われらが屋根の上にすわりこむのであろう。ルーシーは、雑沓のロンドンから遠く離れた寂しい墓地の、堂々たる死の家のなかで、一族の墓ぐらに横たわるであろう。そこは空気もさわやかに、日はハムステッド丘陵の上にのぼり、秋草が野に丘に、おのがじし咲きみだれるところである。
この日記も、ひとまずここらで終わることにしよう。いつまた始めるかは、神のみぞ知る、である。かりにその時がきて、ふたたびこれを開くときには、また違った人たちと違ったテーマで書き綴ることになろう。私の生涯のロマンスが語られた今、この幕切れにのぞみ、私の生涯の仕事の道にもどるに先立って、私は悲しく、希望もなく、ここに「おわり」と書きつける。
ウエストミンスター・ガゼット紙
九月二十五日版所載記事
ハムステッド怪談
目下ハムステッドの界隈《かいわい》は、「ケンシントン怪談」「血を吸う女」「黒衣の夫人」など、怪談作家の題名よろしくの一連の怪事件で騒然とわきたっている。ここ二、三日間、ヒースで遊んでいたまま家に帰らない子供の迷子事件が数カ所で起こり、被害者はいずれも、西も東もまだわからない頑是《がんぜ》ない幼児ばかりで、たいてい宵の口にいずこへか見えなくなり、次の日の朝になって帰ってくる。界隈の人の話だと、子供がよく遊ぶ「人さらい」ごっこで、人さらいの女に、いっしょにそこまでおいでといわれたまま誘拐《ゆうかい》されて帰って来ないのだという風評だが。
ただ、この事件で重視すべきことは、迷子になった子供がどれも申し合わせたように、咽喉《のど》に鼠《ねずみ》か犬にくいつかれたような小さな傷をこしらえて帰ってきていることで、たいした傷ではないが、何かの動物が特別の手口で傷害を与えるものと考えられるので、警察当局はこれを重視し、ハムステッド・ヒース付近一帯の幼児の迷子を警備する一方、野良犬の警戒に目下出動中。
ウエストミンスター・ガゼット紙
九月二十五日号外
またまた幼児傷害さる
ハムステッドの怪事件
人さらいの女
昨夜またまた、一名の幼児が行方不明となり、けさ遅くハムステッド・ヒースのシュッター丘付近の藪中で発見されたが、同じく咽喉になにものの加えしとも知れぬ小さな傷あり、被害者の幼児は憔悴《しょうすい》はなはだしく、やはり人さらいの女に誘われていったと片言《かたこと》まじりに申し立てている。
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一四
ミナ・ハーカーの日記≪自筆≫
九月二十三日――ジョナサンは昨夜少し調子が悪かったが、きょうはだいぶいい。とにかく、仕事が山積していれば、恐ろしいことから気が紛れていられるから、それだけでもいい。ホーキンズ氏の死後、そのあとを引き受けた重い責任を、彼はべつに重荷とも思わず、かたっぱしから仕事を処理している。その颯爽《さっそう》たる姿はほんとに見ていて胸がすく。今日はいちにち事務所。昼食にも帰らないといって出て行った。私は今、家事もひとわたり片づいたところ。これから、彼の外国での日記を読もうと思っている。部屋に鍵をかけて読むことにしよう。
九月二十四日――きのうはジョナサンの恐ろしい記録に気が動転《どうてん》して、日記をつける気も起こらなかった。気の毒に、夢か事実か、それはともあれ、どんなにか悩んだことだったにちがいない。あれがほんとに真実のことなのか、それとも熱に病んだ頭のしわざで、あんな恐ろしいことを書いたのか。それには何かそれだけの原因があったのか、それを私は彼に聞きだすことができないのだから、真偽のほどはまるで私には見当がつかないのだが……それにしてもきのう見た男、あの男を彼はたしかにその男だと思いこんでいる。
気の毒に、ホーキンズさんのお葬式が彼をガクンとさせ、なにか思考のすじを逆戻りさせたらしい。私は彼を全面的に信じている。結婚の日に彼が、「この苦しい病中の、眠っているのかさめているのか、気違いなのか正気なのか、そのけじめのわからない状態にまたもどるようなことがなければいい」と言っていたのを、私はおぼえている。それがいまだに尾を引いているらしい。……あの恐ろしい伯爵が、百万の富をもって、ほんとうにロンドンに来ているとしたら!……これは、ゆゆしいことだ。私たちは黙って引っこんではいられない。私はそれに備える用意をしよう。そうだ、きょうにもタイプライターを一台手に入れて、さっそくあの日記の複本をこしらえよう。そして見せてもらいたいという人があったら、いつでも読んでもらえるようにしておこう。そういう篤志家があったら、ジョナサンに心配や迷惑をかけないように、私がそっとうまく取りはからうことにしよう。あの神経過敏さえ直れば、彼だってあのことは私にも話したいのだろうし、また話してくれれば、私だっていろいろもっとくわしく聞いて、事をはっきりさせた上で、彼を慰めてやれるのだけれど。……
ヴァン・ヘルシングからミナに宛てた手紙
九月二十四日 親展
拝啓。過日ルーシーの訃報《ふほう》をお知らせしたというだけのご縁故を手づるに、ぶしつけなお手紙を差しだす失礼をお許しください。
じつは小生は目下、ある重大な事柄に深く関心をよせているもので、そのためにゴダルミング卿(アーサー君)の好意でルーシー嬢の手紙や手記その他を閲読する機会を得、たまたまその中にあったあなたの手紙を拝見して、あなたとルーシー嬢が無二のご親友だったことを知りました。そのご縁故で、じつは私はあなたにご助力を仰ぎたいのです。これは人のためにもなることなのですが。いちどご面会の機を得させていただけませんか。小生をご信用ください。小生はアーサー君やジョン・セワード医師の友人です。ただし、小生があなたにお目にかかることは、当分友人たちに極秘にしておいてください。それでご都合よろしければ、エクセターへお伺いしたいのですが、日時・場所を折り返しご指示願えれば幸甚です。ルーシー宛の貴翰《きかん》で、ご夫君がご病中の由も承知していますが、小生の手紙がご夫君のお気に触らぬよう、よろしくお伝えください。右お願いまで要用のみ。失礼の段は幾重にもお許しください。
ヴァン・ヘルシング拝
ミナからヴァン・ヘルシングに宛てた電報
九月二十五日
「ホンジ ツ一〇ジ 一五フンノキシヤデ オイデ マツウイルヘルミナ・ハーカー」(本日十時十五分の汽車でおいで待つ。ウィルヘルミナ・ハーカー)
ミナ・ハーカーの日記
九月二十五日――そろそろヴァン・ヘルシング博士がみえる時刻なので、なんとなくおちつかない。博士がみえれば、ジョナサンの悲しい経験になにか光明がさすような期待があるのと、先生はルーシーの臨終のときまでずっと診ていらしたのだから、いろんなお話が伺えると思うからだ。でも、先生がうちへおみえになるのは、ルーシーの夢遊病のことが眼目なので、ジョナサンのことではない。そうなると、ほんとうの真相は当分まだわからないだろう。私もずいぶん馬鹿な女だ。あの恐ろしいジョナサンの日記が私の想像をがっちり捉《とら》え、なんでもかんでも、あの日記の色で物を見ている。
ルーシーはあの癖がいつからか再発して、あの崖の上の恐ろしい夜が、彼女を病気にしたのにちがいない。私もあの時は自分のことでそれどころではなく、あのあとの病状がどんなふうだったか、ほとんど忘れてしまったが、ルーシーは博士に夢遊歩行のことを聞かれて、そのことなら私が知っていると話したのにちがいない。それで博士は、事情を理解するために、私から話を聞きたいのだろう。
あのとき私は、お母さまには話さないほうがいいと思って話さなかったのだが、今考えると、たとえ無効なものだとしても、ルーシーに害をあたえなければ、話したほうがよかったと、自責の念にたえない。ヘルシング博士からお叱りを受けねばいいが、このところ私も苦労や心配が多いので、なんだか今はすなおに我慢ができないような気がする。
人間は泣くと、あとがさっぱりすることがある。ちょうど雨が降ると、空気がきれいになるように。私が動転《どうてん》したのは、きのうジョナサンの日記を読んだせいで、きょうはジョナサンはまる一日と一晩、社用で外泊するつもりで出かけたが、こんなことは結婚後はじめてのことだ。どうか体に気をつけて、彼をびっくりさせるようなことが起こらないように……。
今二時だ。まもなく博士がおみえになるだろう。あちらからお尋ねがなければ、ジョナサンの日記のことは黙っていよう。私の日記はタイプに打っておいて、ほんとによかった。もしルーシーのことをお尋ねならば、それをお渡しできる。そうすれば、問答の手間が大いにはぶける。
――いま、博士はお帰りになった。なんという奇妙な会見だったろう! 私は頭がクラクラしてしまった。なんだか自分が夢のなかにいるような心持だ。ほんとにあんなことがあるのだろうか! もしジョナサンの日記をさきに読んでいなかったら、とてもそんなことがあるとは信じられなかったにちがいない。ああ、かわいそうなジョナサン! どんなにか苦しかったことだろう。神よ、どうか二度とふたたび、彼を動転させないでください。私も一所懸命、彼をそれから救ってみます。でも、怖いことだし、その結果は恐ろしいけれど、とにかく、彼の目、耳、頭脳が彼を欺《あざむ》いていないということ――すべてが真実だということを、はっきりと彼に知らせることが、彼にとって慰めであり助けであるだろう。夫にまつわりついているものは疑念かもしれない。その疑念がふたたび動きだすとき、目がさめている時でも、夢のなかでも、どうでもかまわないが、それが真実を実証する時、夫ははじめて満足し、ショックに耐えられるまでに回復するだろう。
ヴァン・ヘルシング博士という方は、アーサーやセワードさんのお友だちで、オランダからわざわざルーシーの診察に来られたというのだから、頭のいい、親切な方にちがいない。お目にかかってみると、やさしくてご親切な、りっぱなご気性の方のように感じられる。明日またおみえになるそうだから、ジョナサンのことをとっくりと伺ってみよう。この悲しみと心配が、どうかよい結果になりますように。新聞社に勤めているジョナサンの友人が、インタビューという仕事には、なによりも記憶が第一だから、あとで手を加えて直すにしろ、とにかく喋る一語一語を正確に写しとることが要訣だといっていたが、私もそういう会見記が書きたいものだと、つねづね考えていた。きょうの会見はめったにないものだから、一言一句洩らさず記録することにしよう。
二時半に玄関にノックの音。女中のメアリが取次ぎに出て、博士がみえられたと告げる。
応接間へ出てみると、博士は中肉中背のがっしりした方だった。胸幅広く、首筋の太い、見るからに頼もしげな体格。鉄のような頭のかっこうは、思想と力が充実している感じ。お顔はきれいに剃刀《かみそり》があたっており、角ばった顎《あご》に、引き締まった大きな口。鼻筋が通って、小鼻がちょっといかり、太い眉、広い額に、赤いすなおな髪をうしろに撫《な》でつけ、ぱっちりとした青い目が、おっとりしていながらよく動き、男らしくキリリとしている。
「ハーカーさんの奥さんですな?」
「はい。以前ミナ・マリーと申した者でございます」
「あのかわいそうなルーシー・ウェステンラ嬢のお友だちのミナ・マリーさんですな。私、じつはそのルーシー嬢のことでうかがいました」
「いろいろまたルーシーのことでお骨折りにあずかりまして」
私の出した手を博士は握って、
「私、失礼でしたが、あなたがルーシーにお出しになった手紙を拝見しましてな、それでホイットビーでごいっしょだったことを知りました。ルーシーもときどき日記をつけて――いや、あなたがお発ちになったあと、あなたのまねをしてつけたらしいのですが、その日記の中に、夢遊病で夜中に表を歩いたところを、あなたに助けられたことが書いてありました。そのことで本日うかがったようなわけですが、当時のご記憶のことをいろいろ聞かせていただきたいと思って……」
「私、自分で存じておりますことは、なんなりと申し上げます」
「すると、いろいろ細かいことまでご記憶でおいでですか?」
「はあ。あの当時日記に書いておきましたから。もしなんでしたら、先生にそれをお目にかけます」
「それはなんともはや、ありがたい」博士はおおいかくせない喜色を満面に浮かべながら、私のさしだした日記を一礼して手にとって、「ここで拝見してもよろしいですか?」
「どうぞ」
穏やかな微笑とともに、博士は私の日記のページを開くと、急にハタと当惑したような顔つきになられた。
「奥さん、あなたなかなかおやりですな。ご主人はよほどあなたに感謝しなければなりませんぞ。しかし、せっかくのご労作を、まことにお恥ずかしい次第だが、私、速記術の心得がないのでね、お手数だが、これは奥さんに読んでいただかんと……」
「あら先生、ごめんくださいまし。私、まあ粗相を申し上げて。それは原本で、私、先生のお手がはぶけるようにと思ってタイプで複本をとってございますの。これがそうでございます」
博士は複本を受け取って、目を輝かし、「ほ、これはまたご念の入った。いや、これなら読めます。拝見しているうちに、奥さんにうかがうことが出てくるかもしれませんが」
「はあ、なんなりとどうぞ。私、先生がお読みになっていらっしゃる間に、ちょっと失礼してお昼の支度をしてまいりますから、何もございませんが、召し上がりながら、ゆっくりお尋ねいただきますわ」
「どうもお手数をかけて痛み入りますな。では、遠慮なくそうさせていただきますかな」
博士は一礼して椅子に背をもたれると、さっそく私の日記を読みはじめた。私は失礼して座を立った。
しばらくたって、私がふたたび客間へ出ていくと、博士は何か興奮したように頬を紅潮させて、しきりと部屋のなかを歩いておられた。私の姿を見ると、博士はいきなり私の両手をとって、
「奥さん、ありがとう。奥さんの日記はまるで太陽の光です。目がくらんでしまいました。この日記は私に一つの門を開いてくれました。まだしかし、雲がすっかり晴れたとまではいかないが、それは奥さんとは関係ないことです。とにかく、これはありがたかった。心から感謝します。奥さん」と博士はまじめな顔になって、「これをご縁に、どうか私の友人になっていただきたい。人生には暗黒もあり、光明もある。あなたはその光明の一つだ。あなたのご主人は、じつにおしあわせです」
「先生、私そんな過分なおほめにあずかって……私というものをまだご存知ないからでございますわ」
「奥さん、私はごらんのとおりの老人です。年の功というやつで、人間はいろいろ見てきたし、研究もしてきました。今私はあなたの日記を拝見し、またあなたがご自分の結婚をルーシーに知らした手紙を読んで、どの行にもまごころがあふれていることを知りました。ミナ夫人、よき女性はみな、毎日、時々刻々に、自分の生き方を語り、このとおり天使が読めるようなことを語るものなのだ。こういう日記を書く婦人は、かならず天使です。われわれ男性は、そういう婦人の天使の目を、自分のなかにも持っていることを知りたい、これが男の欲望です。あなたのご主人は気高い性質を持っておられる。だから、あなたも気高くておいでなのだ。どうです、近頃ご主人は? ご病気は直りましたか?」
私はいい機会だと思って、ありていに答えた。「はあ、ほとんどもうよくなりましたのですが、ホーキンズさんがお亡くなりになったことで、ひどく驚きましたようで」――
「いや、存じていますよ。あなたの最後の手紙で拝見しました」
「それに、ついせんだって水曜日に、町へ出ました時に、何かまたショックを受けたらしいのでございますの」
「ショックを? 脳熱のあと、間もないのに、それはいかん。どういうショックでしたか?」
「何か前に宅の頭を狂わした恐ろしいことを思い出させるような人を、主人は見たと思ったらしいのでございますの」言いながら、私はジョナサンの日記にある恐ろしいこと、彼が経験したさまざまの怪事実が、いちどにその時胸の中に群らがり浮かんできて、もう身を掻《か》きむしられるほど切なく苦しくなってきた。私は思わず「先生! うちの人を直してやってくださいまし!」と口走ると、そのまま前後も知らず、いきなり博士の前にくずおれるように泣き入ってしまった。
教授は私の手をとると、私を起きあがらせてソファに腰かけさせ、ご自分もそばにすわって私の手をとりながら、無限のやさしさをこめて言われた。
「わしの一生は、子持たずでひとりぼっちの寂しい暮らしをしているが、仕事がいっぱいで、なかなか友だちをこしらえる暇《ひま》がなくてね。しかし、ジョン・セワードに呼ばれてこちらへ来てからは、おおぜいのよい人たちを知り、年とともにしだいに孤独になっていく暮らしのなかで、はじめて会うような身分の高い人にもお目にかかった。
そんなわけで、きょうも私はあなたをおおいに尊敬して、ここへやって来たのだ。そしてあなたは私に希望を――私の求めていたものとはちがう希望を与えてくれた。それはね、人生を幸福にしてくれる婦人はまだ世の中にいるぞ、という希望だよ。よい婦人の生活とまごころは、孫子の代までよい教えになる、という希望だよ。きょうこちらへ伺って、あなたのために多少でも私が役に立てば、私としてはほんとに嬉しいよ。それというのも、かりにあなたの夫君が被害をうけているとすれば、それは私の研究と経験の枠内で悩んでいるのだから、私は旦那さんのために、喜んで全力をつくしてあげられることを約束する。――旦那さんを丈夫に男らしくして、あなたがたの人生を幸福なものにきっとしてさし上げる。それには、あなたは物を食わなければ。あんただいぶ疲れておるよ。おそらく、クヨクヨ心配しすぎるんだろう。旦那さまだって、あんたの青ちょびれた顔は見たかないもの。愛する者に気に食わんものがあれば、旦那さんの体だってよくはならんよ。だから、旦那さんのために、あんたはよく食って、よい笑顔《えがお》を見せてあげなければ。ルーシーのことはくわしくわかったから、おたがいに気が滅入《めい》らんように、その話はもうよしましょう。私は今晩はエクセターに泊まって、あなたから聞いた話をじっくり考えてみます。その上でまたお聞きしたいことがあったら、お聞きするから、あんたのほうも、ジョナサンのことで厄介なことは、できるだけ私に聞かしてくださいよ。とにかく、あんた食事をなさい。食べてからまた話を伺うことにして」
昼食後、私たちは客間へ戻ると、博士はおっしゃった。
「さあ、旦那さんの話を伺おうかね」
この偉い学者にいよいよ話をする段になると、私はジョナサンの日記があまりに奇怪なことばかりなので、博士からこの薄馬鹿女、亭主は気ちがいだと思われやしないかと思って、ついモジモジして、話がスラスラ出なかった。でも、博士はやさしくて親切だし、助け舟を出してあげるよと約束もしてくださったことだし、それをたよりに、私はポツポツ語りだした。
「先生、私がジョナサンの話を申し上げても、お笑いにならないでくださいまし。ほんとに不思議な怪しいことばかりなのです。私、きのう、主人の書いた日記を読みましてから、頭のなかが何がなんだかわからなくなりました。でも、私ただいまでは、その不思議なことをなかば信じるようになっております。先生、お笑いにならないでくださいまし」
「いや、不思議といえば、私がこちらに今こうしておることだって、考えてみれば、こんな不思議ってないではありませんか。しかし、あなたはべつにその不思議を笑っておられやしない。つまり、それは不思議でもなんでもない証拠じゃありませんか。私はね、こんにちまで、すべてなにごとに対しても虚心坦懐《きょしんたんかい》、なんでもあけっぱなしでやってきました。人間の心を閉じさせておくもの、こいつこそ普通のことではなくて、異常なことだ。つまり、自分が気違いだか正気だか、どっちかわからなくなってくるのは、みんなこの心が閉じているからのことだ」
「先生の今のお話で、私すこし心が軽くなってまいりました。私、宅の日記を読んで、先生にぜひ聞いていただきたいのですけど、でもとても長いものなので、じつはこれも私、自分でタイプに打っておきましたのです。これがそうでございますけど、これをお読みくだされば、宅や私の悩みがおわかりになっていただけると思います。それ以上、私いま何も申し上げたくございません。どうか先生、お暇のおりにお目をお通しくださって、ご判断をいただきたいと存じます」そういって、私はジョナサンの日記の複本を博士の手に渡した。
「よろしい。お引き受けしました。それではね、なるべく早く、明朝またおじゃまをして、できればその時、ご主人にもお目にかかりましょう」
「宅は十一時半には家におります。ですから、よろしかったら、お昼をごいっしょに召し上がりながら、先生、ぜひ宅に会ってやってくださいまし。お願いいたします。……先生、おせき立てするようですけど、ただいま三時三十四分の汽車ですと、パディントンへ八時に着きますけど……」
博士は汽車の時間に驚いて、ジョナサンの日記を鞄に入れると、早々にあすを約して帰られた。
ヴァン・ヘルシングからミナに宛てた手紙≪自筆≫
九月二十五日六時
拝啓。ただいまご主人の世にも珍しい日記を読了しました。あなたがお眠《やす》みになれなかったのも無理はない。じつに奇々怪々な恐ろしい話ですが、これはみな真実です。私は命をかけてそのことを誓います。ご主人の頭も心も、なんら異常はありません。このことは、ご主人にお目にかからなくても、はっきり申し上げられます。きょうあなたにお目にかかれたことは、老生にとってほんとにしあわせでした。いっぺんに何もかも知ったので、私はいま目がくらんでいます。よく考えてみることにしましょう。
アブラハム・ヴァン・ヘルシング
ミナからヴァン・ヘルシングに宛てた手紙
九月二十五日六時半
ご親切なるお手紙かたじけなく万謝いたします。おかげさまで気持がたいへん軽くなりました。でも、あれが本当のことでしたら、世のなかにはなんという恐ろしいことがあるものでしょう。あの怪物がロンドンにいるとしたら、なんという恐ろしいことでしょう。考えると、ただもう恐ろしくなります。このお手紙をしたためておりますと、主人から電話で、今夜六時二十五分にローンセストンをたち、十時十八分に当地へ着くとの知らせがございましたから、今夜はこわいことはございません。
そんなわけで、あすはご都合でお昼でなく、八時のお朝食においでくださいませんか? それならお帰りお急ぎの節は、十時三十分の汽車がございますから、それだと二時三十五分パディントンに着きます。もしそうおきめなら、ご返事はいりません。ご返事がなければ、朝食にお越しくださるものと思いますから、そのおつもりで。
ミナ・ハーカー
ジョナサン・ハーカーの日記
九月二十六日――二度とこの日記をつけることはないと思っていたが、またつける時がきた。昨夜、夕食の時に、私は家内からヴァン・ヘルシング博士来訪のことを聞き、家内は私のことが心配のあまり、二つの月記の複本を博士に提供したという話を聞いた。私の書いたことは皆真実だといってよこした博士の手紙を家内から見せられて、私は急に新しい人間に生まれ変わったような気がした。私は今まで自分が打ちのめされた事柄の実在を疑っていた。そのために無気力になり、しじゅう暗黒のなかに息をつめて暮らしているようで、いっさいのものごとが信じられなくなっていたのである。
しかし、自分は今、何物も恐れない。伯爵さえもこわくはない。自分でそれがわかる。伯爵は結局あの時はロンドンへ来ることに成功した。げんに私は彼を見たのだから。彼はおそろしく若くなったが、どうしてあのように若くなったのか? ミナのいうとおりなら、ヘルシング博士は伯爵の仮面を剥《は》ぐために、彼を捜している人だ。私たちは昨夜遅くまで、そのことについていろいろ話しあった。ミナはいま着換えをしている。私はこれからホテルへ行って、博士を迎えてくることになっている。……
博士は私に会って驚いたらしい。私が彼のいる部屋に通されて、自分を紹介した時、彼は私の肩をつかんで、私の顔を明るいほうに向かせて、意外の声をはずませ、
「奥さんは、あなたがショックを受けて、健康を害しているといわれていたが……」
私はこの親切な、しっかりした顔つきの老人から、「奥さん」と自分の家内のことを呼ばれたのが、ひどくおかしかった。私は微笑しながらいった。「いや、じじつ、健康を害していましたし、ショックも受けたのです。しかし、あなたがその私をすっかり直してくださったのです」
「わしが? どうして?」
「昨夜、あなたがミナによこされた手紙を拝見したからです。私は今まで疑念のなかに生きてきました。何もかもが非現実の色に見えていたのです。私は何を信じていいのかわからなかったし、自分が何をしたらいいのか、それもわからなかったのです。ただ、やみくもに自分の職分の仕事に精《せい》出して働いていただけでした。ところがその仕事にも没頭できないようになりましてね、つまり、自分で自分を信じなくなってきたのですね。失礼ですが、先生なぞは、世のなかのことすべてを疑うとはどんなことか、ご存知ないでしょうな。いやご存知ありませんとも。先生みたいな眉をした方は、疑うなんてことはできやしません」
「ほう! こりゃまた、たいした人相学者だ。こちらへくると、いろんなことを教わるな。きょうはまた朝食によばれて、たいへんうれしい。わざわざ迎えに来て頂いて恐縮です。ひとつ、この爺にあなたの奥さんのことを褒《ほ》めさしてもらいたいな。あんたは細君|冥加《みょうが》な人ですぞ」
私はミナのことを褒めてくれるなら、一日拝聴していてもいいと思って、軽くうなずいて、黙って立っていると、博士はまくしたてた。
「彼女はね、あれは神の女の一人ですぞ。神が手ずからお作りになって、われわれ諸人《もろびと》に、ここに天国に入るところあり、地上の光はここにありと示された婦人だよ、あれは。まごころがあって、美しくて、けだかさがあって、我儘なところはこれっぽっちもない、――つまりだな、この懐疑的な、自我主義ののさばる世には、まことにめずらしい神の女だよ。わしはきみのことは、奥さんがルーシーに送った手紙を全部読んだので、ほかの連中を知ってから幾日もたたんうちに、大体知っておったが、ほんとにきみという人物を知ったのは、昨夜からなんだ。まあ一つ、握手しよう。おたがいに生涯の友人となりましょうて」
私たちは堅く握手をした。博士がきわめて率直な、しかも心のあたたかい人なので、私は胸のなかが熱くなった。
「それでね、きみの手をお借りしたいのだがね。わしはぜひしなければならん大きな仕事を持っているのだが、それにはまず第一に知ることだ。その点できみはわしの力になってくれる人なのだ。それでね。トランシルヴァニアへ行くまでのいきさつをうかがいたいのだがね。あとはまたあとにして、最初にそれをうかがいたいな」
「いきさつというと、伯爵とのですか?」
「そう」
「なんでも申し上げます。でも先生、十時三十分の汽車ですと、あれをお読みになっている時間はもうありませんですよ」
朝食の後、私は駅まで博士を送って行った。別れる時に博士は、
「私の手紙が行ったら、奥さんといっしょに町へ出てきてもらおう」
「はあ、いつでもまいります」
私は朝刊と昨夜の夕刊を何枚か買って、汽車のなかで読むように博士に渡すと、博士は発車までさっそくあれこれひろげて見ていたが、ウェストミンスター・ガゼットをひろげると、急に顔色を変えて、何かの記事をむさぼるように読みながら、「しまった! こんなに早く! うーん、こんなに早く!」何を思ったか、そんなひとり言をしきりとつぶやいていた。――おりから汽笛が鳴り、汽車は動きだした。博士は窓から首を出して、手をふりながら、「奥さんによろしく。なるべく早く手紙を差し上げるよ」
ドクター・セワードの日記
九月二十六日――世のなかにはまったく終結というものがない。前の日記に「おわり」と書きつけてから、一週間とたたないのに、また新規に、というより前と同様の記録をつけ始めることになった。
ついきょうの昼過ぎまで、私は何もことのなりゆきを考えるきっかけはなかったのである。レンフィールドはここのところ、すっかり落ち着いて、正気に返り、きょうあたりは蝿《はえ》とりを卒業して、目下、蜘蛛《くも》採集にとりかかりちゅうなので、ちっとも手がかからない。アーサーからは日曜日の日付で手紙がきた。だいぶん調子がよさそうである。キンシーもまだいっしょにおり、彼も一筆添えてよこしたが、それによると、アーサーは、いいあんばいに、またむかしの陽気な気分が出てきたらしい。
私はその後病院の仕事に没頭。ルーシーの死から受けた心の痛手もすこしずつ忘れられるようになった。教授はきのうエクセターへ行って、むこうで一晩泊まり、きょう五時頃帰ってきたが、帰ってくるとすぐに私のところへみえ、いきなりウェストミンスター・ガゼットをつきつけて、
「きみ、この記事、どう思う?」
とあいかわらずの藪《やぶ》から棒の質問である。私が面食らっていると、教授は新聞をひったくって、ハムステッドの迷子事件の記事を示すから、読んでみると、被害者の咽喉《のど》に小さな傷があるというくだりで、おやっと思った。
「どうだ?」
「こりゃ、ルーシーとそっくりですね」
「で、どう思う?」
「何か共通の原因があるのですかなあ。ルーシーを傷つけた者が、迷子の幼児を傷つけたというような……」
「ところが、そいつが間接的でね、直接そいつが手を下したんじゃないんだよ」
「というと、どういうんですか?」
私は教授の真剣さをやや軽く受けていたような傾きがあった。結局これは、四日間の休養と、あのさし迫った緊張と心配から解放されたことが、元気の回復を助けているわけだが、私は教授の顔を見て、ハッと正気に返った。われわれがルーシーのことで絶望したさなかでも、教授がこんなきびしい顔をしたことはなかった。
「教えてください、先生。まるでぼくには意見の立てようもないです。なにを考えていいかもわからないし、推定の根拠になるデータもありません」
「ジョン、きみはルーシーの死因について、まるきり疑念をもっておらんというのか? あれだけいろいろ暗示を与えられたくせに。いや、出来事からばかりじゃない、わしも与えてやったろうが?」
「死因といえば、血液の消耗喪失から生じた神経障害……」
「だから、その血液は、どんなふうに消耗喪失したんだ?」
私が首をかしげていると、教授はいきなり突っかかるように私のそばへ腰をおろして、
「ジョン、きみは頭もいいし、理性もしっかりしとるし、思いきった機転もある男だ。しかし、まだまだ偏見にとらわれておるところがあるぞ。きみはほんとにきみのその目とその耳を、きみの周囲の日常生活に対してしっかり開いておらんぞ。
世の中には、きみの知らんことが山ほどあるということ、自分の見ないようなことを見ている人があるということを、きみは考えておるか? 人の説で知ったり、人の説で考えたりするために、肝心のその人間の目で見ないでいることが、世のなかにはたくさんあるんだぜ。あらゆるものを説き明かしたいと思う――なるほどこれは現代科学の欠陥だ。説き明かされなければ、科学は説き明かすものがないという。ところが、わしら自分の周囲を見まわしてみると、新しい信念は日々に生まれてきておる。その信念はじつは古いものなんだが、自分からせいぜいお若く身をやつして、ひとりで新しがっているのが多い。まるでオペラの桟敷《さじき》の女みたいなものさ。おそらくきみなんざ、今頃『転生』なんていうことは信じやしまい? 幽霊が現われるとか、霊体なんてことは信じやしまい? 千里眼、読心術、催眠術なんてものもな?」
「ええ、そんなことは、シャルコ〔一八二五〜九三。フランスの精神病学の大家。メスメルの提唱した催眠術を継承して、当時の心霊学界で活躍した〕がすでに充分に証明しましたからね」
教授はニヤニヤしながら、「そらみろ。そのとおり、きみは他人の説で満足しているじゃないか。そうだろう? むろん、きみはその働きを理解し、偉大なるシャルコの精神を――いや、シャルコの影響を受けた亜流学者の精神に追随することはできよう。そうだろう? しからばジョン、わしはだな、きみなるものを、そのように事実を単純に片づけ、前提から結論に至るまでをまるでからっぽにして、それでとくとくと満足している人間と考えてよろしいのかね? え、そんなことはないだろう? それならばだ、きみが催眠術というものをどのように考えているか、書物で読んだ考え方にきみがどのように抵抗しておるか、それをわしに言うてみろ。
なるほど、こんにちでは電気科学が極度に発達した。むかしだったら、電気を発見した人は、あれは神を冒涜《ぼうとく》するやつだ、今にあんなやつは妖術使いみたいに、自分の身を焼き殺してしまうだろう、なんていわれるところだ。人生には、いたるところつねに神秘がある。なぜメトセラ〔旧約聖書にあるノアの祖父〕は九百年も生き、オールド・パルは百六十九年も生きたのに、ルーシーは四人の人間の血まで入れたのに、なぜ一日だけでも生きることができなかったのだ? もう一日彼女が生き延びたら、われわれは彼女を助けることができたろう。きみは生と死の神秘を知っとるのか? 比較解剖学の総合を知っとるきみは、ある人間には獣性があり、ある人間にはそれがないというようなことは、何から言えるのだ? 蜘蛛なんかでも、ごく小さくて死んでしまうやつがあるかと思うと、スペインの寺にいた土蜘蛛なんぞは、塔のなかに何百年も劫《こう》をへて、だんだんそいつが大きくなって、しまいには塔から下りてきて、灯明《とうみょう》の油を飲んだというじゃないか。アメリカの大平原では、夜な夜な大蝙蝠が牛や馬の血を吸って殺すという話だし、大西洋諸島では、そういう大蝙蝠が昼間は木にぶら下がっていて、夜になると、船の船員たちが熱いので甲板に寝ているところへ下りてきて、朝になってみると、みんなルーシーみたいに白くなって死んでるという話だぜ」
「先生、それではルーシーも、そういう蝙蝠に血を吸われて死んだとおっしゃるのですか? いくらなんだって、この十九世紀のロンドンに、そんな……」
「まあ待て。きみは亀がなぜ人間より何百年も長生きをするか、象がなぜ何代も長生きをするか、鸚鵡《おうむ》が猫や犬に咬まれたぐらいではなぜ死なないか、知っておるか? また、いろいろな時代や国々を通じて、事情が許されればいつまでも生きている人間がいる、死ねない男や女がいるということを、なぜ人間は信じているのか。ヒキガエルが何千年も岩のなかに閉じこもっていたことは、科学が証明したから、われわれもそれを知った。インドのバラモン僧は死ぬと土の下に埋められるが、墓穴の蓋《ふた》をした上に、穀物を蒔《ま》き、刈っては蒔き、蒔いては刈っているうちに、何百年かたって、その下の墓を開いてみると、死んだバラモン僧が生きたまま横になっておって、そいつが起き上がって歩きだすという話じゃないか」
「先生、もうけっこうです。やめてください。なんだか頭がへんになってきます」
私はかぶとを脱いだ。じっさい私は、あんまり先生が自然界の怪異や、ありそうな不思議を並べ立てるので、頭がのぼせあがってきた。先生は昔から、私に何か訓戒を与える時には、広汎《こうはん》深遠な豊富な知識をいっぺんにぶちまけて、私に目眩《めくら》ましをくらわせておいて、そうして、ものごとを教えてくれたもので、私はいつもそのなかから思想の対象をとらえてきたのだが、ところが今はそうした助け舟を出してくれない。私はやはり先生にすがるよりほかになかった。そこで言った。
「先生、ぼくをまた昔のような先生の愛弟子《まなでし》にしてください。そして、先生の主旨を教えていただかせてください。そうすれば、私にもなんとか先生の知識が汲みとれると思います。これではぼくはまるで五里霧中に迷っている、出家したての小僧みたいで、行く先の認めもつかずに、ただ盲滅法な努力をして、うろうろしているだけです」
「よし、ではわしの主旨を教えよう。それは、きみに信じてもらいたいということだけだ」
「何を信ずるのですか?」
「きみが信じられないことを信ずるのだ。あるアメリカ人が、信念というものを『人間が真実でないと知っているものをわれわれに信じさせる力』だといった。名言だね。由来、わしはこの説を信奉しておる。この人のいった意味は、われわれはすべからく、とらわれない心を持って、そしてどんな小さな事実でも、それを培《つちか》い育てて、大きな真理の芽に伸ばして行け。小さな石ころも汽車を止める。――こういう意味だ。われわれは小さな真実をまずつかむ。そして、アメリカ人の名言を守っていくうちに、そのアメリカ人の価値がわかってくる。ただし、われわれは彼に自身が宇宙の大真理であると思わせてはならん」
「そうすると、つまり先生は、ある未知不可思議なことに対しては、既成の考え方で頭の感受性を傷つけてほしくないとおっしゃるのですね」
「きみはやっぱりわしの愛弟子だな。そうすると、きみは迷子の咽喉の小さな傷は、ルーシーに穴をあけたものと同じものがあけたと思うか?」
「どうもそのようですね」
教授はいきなり立ち上がると、厳粛な顔をして言っだ。
「そこがちがうんだ。同じものなら、何も苦労はしやせん。そうでないのだ。もっともっと困ったことなのだ」
「では、どういうのですか、先生?」
教授は絶望的に椅子にどっかり身を投げると、テーブルに両|肱《ひじ》をつき、両手で顔をおおって言った。
「迷子の咽喉の傷は、じつはルーシーがあけたのだよ!」
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一五
ドクター・セワードの日記≪つづき≫
私はむしょうに怒りがこみあげてきた。まるで教授がルーシーの横面をはりとばしでもしたように腹が立った。私はテーブルをガンとたたいて、立ち上がった。
「先生、気でも狂ったんですか?」
教授は頭を上げて私を見た。穏やかなその顔を見て、私はハッと胸を静めた。
「いっそ気でも狂いたいくらいさ。狂気なんてものは、それにくらべたら屁《へ》の河童《かっぱ》だよ。わしが今、なぜ一つことをまわりくどく色々と話したか、そのわけがきみにはわかっておるのか? わしがきみをきらって、ああいう話をしたと思うのか? きみに苦痛を与えるために、わしがあんな話をしたときみは思うのか? そうじゃなかろう?」
「すみません」私はあやまるよりほかなかった。
「わしはね、きみがあの娘を愛していたことを知っとるから、それできみになんでも話しておるのだ。それでもきみはなかなか信じてくれん。抽象的な事実を即座に認めるということは、なかなかこれはできにくいことでな。そのためにわれわれは、そんなことは絶対にないと信じながら、でも、もしひょっとしたら、という気をよく起こすのさ。ことに相手があの可憐《かれん》なルーシーときては、とてもそんな惨憺《さんたん》たる事実など、いよいよもって認めにくいさ。まあいい、わしは今夜、正体を見とどけに行く。きみもいっしょに来るだろうな?」
私はたじろいだ。人間というものは、そうした真実を確かめたがらないものだ。バイロンは嫉妬を範疇《はんちゅう》から除外している。
「かくて男はおのれがもっとも執着する真実を確かめる」
教授は私がためらっているのを見て言った。
「理屈はかんたんだよ。もしそれが事実でないなら、事実でないことを見とどければ、それでいいわけじゃないか。どう引っくり返ったって、べつになんということはないさ。もしそれが事実なら、そこに怪異がある。この怪異がわしの論拠の助けになるのだがね。
さて、その前にまず病院へ迷子の子供を見に行くんだが。――新聞に出ていた迷子がノース・ホスピタルに収容されている。あすこのヴィンセントという医者が、大学のわしの教え子なのだ。期せずして、教え子の両雄が相会するというわけだな。もっとも、その医者には何もいわずに、ただ見せてもらいに行くだけだから、安心したまえ。それをすましてから――」と教授はポケットから一個の鍵《かぎ》を出して、テーブルの上におき、「それからきみとわしと二人で、ルーシーの埋めてある墓地へ行く。この鍵が墓の鍵だよ。このあいだアーサーに渡すからといって、隠亡《おんぼう》からあずかっておいたのだ」
私は、これはとんだことになってきたと思って、すっかり気がめいってしまった。といって、どうする術《すべ》もない。私は観念の臍《ほぞ》をきめ、では日の暮れないうちに、早いところ出かけましょうといって、教授をうながした。
ノース・ホスピタルへ行くと、迷子の子供は、ちょうど目をさましていた。手当てが行きとどいていると見え、経過も良好そうであった。ヴィンセント医師が、咽喉の包帯をとって、傷口を見せてくれた。見ると、ルーシーの傷口とまったく同じで、ただすこし小さくて、まわりがウジャジャけていないだけである。なんの傷だろうと聞くと、医師は、「鼠か何か、小さな動物に咬《か》まれた傷でしょう」といって、「私はどうも蝙蝠《こうもり》じゃないかと思うのですがね。ロンドンの高台には、だいぶいるんです。たいがい無害のやつですが、なかにどうかすると、南洋にいる有害のやつがいることがありましてね。船員がいけどって持って帰ってきたやつが逃げるとか、あるいは動物園なんかからも逃げる時があるらしいですな。十日ばかり前にも狼《おおかみ》が逃げだしたくらいですからね。あの時は子供たちが『赤ずきん』ごっこをして遊んだと思ったら、こんどは『人さらい』ごっこで、この子なんぞも、看護婦に聞かせてみたら、やっぱり『人さらい』ごっこの犠牲なんですよ。どうも弱ったことが流行《はや》りだして、困っています」
「そうだね」教授はいった。「まあ、よく両親に注意してやって、厳重に監視させることだな。小さな子供の夜歩きはあぶないよ、きみ。いつごろ退院できますか」
「はっきりしたことはわかりませんが、まだ一週間はむりでしょうな。傷が直らなければ、また延びますけれども」
病院で案外時間をとられたので、そこを出た時には、すでに日が落ちていた。教授はあたりが暗くなったのを見て、
「べつに急ぐことはないさ。どこかで飯でも食って、それから行こうや」
私たちは病院の近くの食堂へはいって、食事をした。自転車で通勤する勤め帰りの客たちで、食堂はひとしきり混雑の時であった。そこを出たのが、かれこれ十時頃。戸外はもうとっぷり暗くなって、ちらほら見える家々の灯影が、いっそう夜道を暗くしていた。教授はこのへんの道には明るいとみえて、ゆっくり歩いていく。私はさっぱり方角がわからなかった。そのうちに、夜警の騎馬巡査に道で行き会ったが、それからは道行く人もほとんどまれになり、やがて私たちは墓地の塀《へい》のところへ出た。まっ暗闇《くらやみ》のなかで、その塀をのりこえると、暗さは暗し、勝手がわからなかったが、じきにウェステンラ家の墓所がわかった。教授は墓の門を鍵であけると、さあどうぞと、私に先に入れといわんばかりに、いんぎんに道を開いた。へんに皮肉なしぐさだったが、いわれるままに私が先にはいると、教授は門の扉になかから閂《かんぬき》をおろし、持ってきた鞄のなかからマッチ箱と蝋燭《ろうそく》をとり出して、灯をともした。
葬儀の日からもうだいぶ日がたっているので、白かった供え花がきたならしい色に変わって、葉っぱも黄いろくなっている。さっそくもう蜘蛛やゴミ虫が格好な栖《すみか》にしている。夜の墓場など、自体、あまり気味のいいものではない。冷たい石の色、錆《さ》びた鉄具、こわれた漆喰《しっくい》、それへ蝋燭《ろうそく》の灯がゆらゆら揺れて映り、いかにも陰々滅々《いんいんめつめつ》とした感じだった。生命――動物的生命というものは、ただ消えていってしまうものではないという考えが、ひしひしと伝わってくる。
教授はちゃんと段どりをきめて、仕事をはこんで行った。ボタボタそこらに蝋涙《ろうるい》をたらしながら、教授はようやくルーシーの棺の札を捜しあてると、鞄のなかからネジ回しを取りだした。
「何をするんですか?」
「棺をあけるのさ。そしてきみにはっきり見せてやるのさ」
言ううちにも、教授はさっさとネジ回しを使って、やがて棺の蓋《ふた》をあけると、下から鉛の箱が出てきた。私はもう気が気でなかった。なんだか死んでいる者の着ている物を剥《は》ぎとって丸裸にするような、容易ならぬ心持がした。教授は「もうじきだ、待っていろ」といいながら、こんどは鞄のなかから小さな糸鋸《いとのこ》を取りだした。そして、ネジ回しで鉛板をグイグイこじって、糸鋸が通るほどの小さな穴をあけた。私は死後一週間あまりもたった死体から発散するガスを予想した。このガスは危険だと、われわれ医者はかねがね知っているから、私は急いで入口のほうへ身をよけた。しかし教授はそんなことにはおかまいなしに作業をつづけ、とうとう鉛板の片側を二尺ほど切り、そこからまた下のほうへ鋸《のこぎり》の目を入れ、切れた横腹の鉛板のはしを持ち上げて、いちどにグッと下へ開いた。そして、開いた棺の中を照らすように、蝋燭を高くかかげて、私にのぞいてみろと目顔で知らせた。
私はそばへ寄って、のぞいた。棺のなかはからっぽであった。
私はあっとびっくりした。いや、仰天したといったほうがいい。しかし、教授はびくともせず、
「どうだジョン、これで気がすんだろう?」
持って生まれた私の理屈っぽさがそのとき頭をもたげた。「ルーシーの死体が棺のなかにないということはわかりましたが、それはただ一つのことを証明したにすぎませんね」
「ただ一つのことって、なんだね?」
「そこにないということです」
「なるほど、ひと理屈だね。では、それはまあそれでいいとして、そこにないということを、きみはどう考えるね」
「たぶん死体泥棒か、葬儀屋の連中でも盗んだんでしょうね」われながらくだらんことを言ったものだと私は思ったが、しかしそれよりほかに考えようがなかったのである。
「そうか」教授は、深いため息をついて、「よろしい、それならもう一つ見せてあげよう。いっしょにおいで」
教授はもとどおりに棺の蓋をして、鞄のなかへ道具をしまいこむと、蝋燭の灯を吹き消して、これも鞄のなかへしまった。それから門の閂《かんぬき》をはずして、私たちは墓の外へ出た。教授は墓の扉に錠をおろすと、鍵を私に渡して、「きみ、持っていろ。自分で持っていたほうが安心だろう」
私は苦笑した。「いや、鍵なんてなんにもなりませんよ。合鍵もあるし、だいいち、あんな錠前をもぎとるのはわけないですもの」
教授は黙って、墓の鍵を自分のポケットにしまいながら、「きみね、この墓地のこっちのほうを見張っていたまえ。わしは向こうのほうを見張っているから」
私はそこにあった一本の水松《いちい》の木の陰に陣どると、教授の黒い影は墓の間の道をさっさと向こうのほうへ歩いて行って、闇のなかに消えてしまった。
ひとりぼっちの寂しい夜番だった。私が木の陰にかくれた時、遠くの時計が十二時を打ち、それから一時を打ち、さらに二時を打った。私は気抜けがしてきて、寒くなってきた。馬鹿くさい、こんな張番《はりばん》にひっぱってきた教授にも私は腹が立ったし、のこのこそれにくっついてきた自分にも腹が立った。寒くはなるし、眠くはなる。番をさせられているからには、まさか居眠りもできない。とにかく、目もあてられない、うんざりした時間だった。
ふとその時、身体の向きをかえたひょうしに、墓所から離れた寺の庭の方角の二本の水松《いちい》の木のあいだに、なにか白いものが動いているのを私は見た。と、それと同時に、教授の行った方角から、何やら黒い影が動きだして、その黒い影が白い影のほうへ急いでよって行った。なんだろうと思って、私もそのほうへそっと歩いて行った。こちらは墓石や柵《さく》をまわっていかなければならない。私は墓石にけつまずいてころんだ。空はまっ暗で、どこかで一番|鶏《どり》が鳴いていた。少し行ったところに、水松の木がバラバラに並んで植えてあり、そこが寺の本堂へ行く道なのだが、白い、ぼんやりした影は、そこから墓のあたりへサッとはいったと思うと、消えてしまった。墓は木立で隠れていたから、白い影がどこで消えたのか、よく見えなかった。すると最初に白い影を見たあたりから、靴の音がこちらへ近づいてきた。闇にすかして見ると、教授であった。教授は小さな子供を一人抱いていた。子供は教授の胸の中ですやすや眠っている。その眠っている子供を教授は私につきつけて、
「どうだきみ、これで気がすんだろう?」
「いいえ」私は依怙地《いこじ》になっていった。
「この子供がきみは見えないのか?」
「そりゃ子供はわかってますけど、だれにこんなところへ連れてこられたんでしょう? 怪我《けが》していますか」
「見てみよう」
私たちはすこし離れた木立の下へ行って、すやすや眠っているその子供を、マッチの光で調べてみた。子供の咽喉には、ひっかき傷一つなかった。
「そら、ごらんなさい。ぼくのほうが当たったでしょう!」私はとくとくとしていった。
「間に合ってよかった。ほんとによかった」教授は心からうれしそうにいった。
さて、この子供をどうしたらいいか。私たちはその処置に当惑した。このまま警察へつきだせば、私たちの行動が怪しまれる。これこれこうして子供を見つけましたといって陳述しなければならない。そこでいろいろ相談した結果、ハムステッドでは目下夜警の警官が夜通し出ているだろうから、あの付近へつれて行って、警官の足音がしたら、この子を往来へ置いて逃げてこようということになった。
細工は流々《りゅうりゅう》、万事うまくいった。ハムステッド・ヒースの入口で、私たちは騎馬警官の蹄《ひづめ》の音をきいたから、さっそく往来へ子供を横にして、木陰でしばらくのぞいていると、やがて警官が角灯の光で子供を見つけてびっくりしているようすだったから、私たちはホッと安心して、そのまま黙って逃げてきてしまった。ちょうど「スパニアード」の近くで空馬車を拾い、それに乗って町へ帰ってきた。
眠れないままに、私は今、この日記をつけている。教授がお昼ごろまた見えるといっていたから、少し寝ておかないといけない。きょうはまたべつの探検に出かけるのだそうである。
九月二十七日――われわれの仕事にやっとぐあいのいい時刻になったのは、午後二時だった。寺では正午に葬式があり、それがすんで、会葬者がぞろぞろ帰っていくのを、私と教授は榛《はん》の木の木立の陰から見ていた。墓番の男が墓地の門に大きな錠をガチャリとおろすと、あとはもう明朝まで、無事に好きほうだいの仕事ができる。もっとも、教授は、一時間とはかからないよといっていたが。
白昼、墓をあばく! ――私は教授のすることが明らかに違法行為であるということも知っていたし、からっぽとわかった棺をまたあけて見たってなんになるのだ、無駄なことをするものだと、内々思ってもいた。
墓の門の鍵をあけて、昨夜のように二人は墓穴のなかへはいったが、昼間見ると、墓のなかは夜見たような無気味な感じはしない。教授はすぐにルーシーの棺のところへ行って、蓋を持ち上げ、昨夜切った鉛の板をふたたびグイとめくりあけた。とたんに、私はあっと声をのんで、そこへ棒立ちになってしまった。
ルーシーが棺のなかにいる! 葬儀の前夜、ベッドに横たわっていたとおりのかっこうをして! ――不思議なことに、ルーシーはあの時よりも、かえってつやつやして、死んだものとは思われないくらい美しくなっている。唇は赤く、いや生前の時よりももっと赤味がまし、顔もほんのりと桜色をしている。
「手品でも使ったんですかね?」と私は教授にいった。
「どうだ、これで納得がいったろう」
教授はそういって、いきなりへんな手のあて方をして、死骸の唇を上へまくると、白い歯をむき出させた。
「ごらん。この歯がだんだん尖《とが》ってきたろう。これなら小さな子供ぐらいは咬《か》める。……どうだ、ジョン、これできみは信じられたか?」
またもや私のなかに、黙ってひっこんでいられない対抗意識がムラムラと起こってきた。教授の考えているようなだいそれた考えには、とても私は承服できなかった。ほんとうなら恥じ入るところだが、一丁やってやれという気でいった。
「そうすると、昨夜あれから、ここへまたもどされたわけですね」
「そうなんだな。だれがもどしたのだろう?」
「わかりませんね。だれかやったんですな」
「ジョン、よく見たまえ。彼女はもう死んでから一週間になるのだよ。ふつうの死人なら、こんな顔はしておるまい」
私はなんとも答えようがなかったので、返事をせずに黙っていた。教授は私の返事のないのにはおかまいなく、しきりと死骸の瞼《まぶた》をひっくり返して目のなかを見たり、唇をまくって、またあらためてしさいに歯を調べてみたりしていたが、やがて私のほうに向くと、
「ただここに一つ、今までの記録にあることとちがう点があるのだ。この女は夢のなかで――夢遊病で歩いているうちに、吸血鬼に咬《か》まれた。――まあ、そう驚かんでもいい。きみはそのことを知らんが、いまにわかる時がくる。吸血鬼というやつは、夢のなかだと、いちばん血が吸いよいのだ。彼女は夢のなかで死に、夢のなかで『不死者』にもなったのだね。そこがほかの場合とちがうところなのだがね。ふつう『不死者』は墓のなかで眠っているものなんだ。その顔は悪相をしているものだが、この女のは生きていた時よりも美しくなっている。これだと、こんど『不死者』でなくなったばあいに、ふつうの死人にもどれないのだ。ごらん、ちっとも悪相をしていないだろう。だからね、これはどうしても、この女が眠っているうちに、一度殺してしまわなければならんのだ」
私は全身の血が冷たくなる思いがした。そしてだんだん教授の主旨がうなずけるような心持がしてきた。しかし、彼女がほんとうに死んでいるのだったら、死んでいる彼女を殺すなんて恐ろしいことが、あるものなのだろうか? 教授は私の顔にあらわれた変化を見て、いかにもうれしそうに、
「ああ、やっとわかってくれたな?」
「まあ、先生、そういっぺんにぎゅうぎゅうな目にあわせないでください。先生のご意見はよくわかりました。それでいったい、どうやって殺すのですか?」
「首を切断して、口の中へニンニクを詰めて、からだに杭《くい》を一本打ちこむのだ」
自分の愛していた女のからだに、そんなむごいことをされると思ったら、私は歯の根も合わぬほど、ガタガタ身体がふるえてきた。しかし私のこの感情は、思ったより強くなかった。つまり、私はその時、教授のいわゆる「不死者」を前にしてふるえだしたのであった。愛情というものが、果たして純主観的なもの、ないしは純客観的なものになりきれるということがありうるかしら?
教授はしばらくそこに立ったまま、なにごとか沈思しているようすだった。私もそのそばで、しばらく待っていた。やがて教授は、なにごとかを決したように、鞄の止め金をパチンと締めると言った。
「いろいろ考えてみたが、結局、いちばんいいことをすることにした。今ここでやってしまってもいいが、そうすると、あとにまだ、たくさん知らないことがある、そいつに困難を来たすからね。やるのは簡単さ。今それをやれば、永久にこの女から危険を取ってしまうことができるが、しかしアーサーというものがいるからね。彼にこのことをなんといってやるかねえ。きみは彼女の咽喉の傷が病院の子供と同じであることも見たし、昨夜は棺がからっぽで、きょうは中身がこのとおりあって、しかも死後一週間もたつのに、彼女が生前より美しくなっていることを目のあたりに見たのだから、信じられるとしても、ぜんぜん知らないアーサーに、これが信じられるだろうかねえ?
だいたい彼は、臨終のときに接吻しようとしたのを、わしがあんなふうに乱暴に止めたので、内心わしのことを恨んでおるからね。ルーシーを殺したのはわれわれだくらいに、思っていかねない男だからな。まだ彼、確認しちゃおらんよ。これがいちばん困ったことなんだ。これからも、自分の愛しておった女が、生きておるのに葬られたと思うこともあろうし、彼女が苦しんだにちがいないという恐怖の夢にさいなまれることもあろう。そしてふたたび、やっぱりあの人たちは正しかった、おれが愛していた女は、結局『不死者』だったと考えるだろう。わしもあの時そのことをいったが、あれからいろんなことがわかったからね。真相がわかった以上、彼も苦い水を一ぺん飲んで、それからほんとうの甘い味を味わうべきだ。彼もいちど天を怨《うら》む時を持たにゃならんよ。そうなれば、こっちもすべて順調に動けて、彼を安心させてやれるんだからな。
よし、わしは腹をきめた。それでは、きょうはこれで帰ることにしよう。きみも今夜は病院へ行って、ようすを見てきたほうがいいよ。わしは今夜はまたこの墓地へきて見張りだ。あす十時にホテルへ来てくれたまえ。その時はアーサーも来るように、それから例のアメリカさんがいたな、あれにもいっしょに来るように、わしから連絡しておく。その上で仕事にとりかかることにしよう。……どうだ、ピカデリーで飯でも食っていこうじゃないか。わしは日の暮れないうちに、またここへもどって来なければならんから」
私たちは墓の門に錠をおろし、墓地の塀をのりこえて、ピカデリーのほうへ行く馬車を拾った。
バークリー・ホテルで鞄のなかに残された、
ヴァン・ヘルシングよりセワード宛の手紙≪発送されなかったもの≫
九月二十七日――まさかの時のためにこの手紙を書いておく。これからひとりで墓地の見張りに行くが、あすの晩よけい出たがるように、今夜はなんとかして「不死の人」ルーシー嬢を墓から出させないでおきたい。そのために今夜は彼女のきらいなもの――ニンニクと十字架を置いて、墓の扉にしっかりと封印をしておくことにする。彼女は「不死者」としてはまだ劫《こう》をへていないから、きっと出ることを思いとどまるだろう。ニンニクと十字架は彼女の出て行くことを防ぐだけで、なかへはいるように説き伏せる効能はないかもしれない。その時は「不死者」の絶体絶命の時で、そうなれば、どんなところでも抵抗のいちばん少ないところをきっと見つけるにちがいない。とにかく今夜は、日没から明朝、日がのぼるまで、夜通しそばについていて、よく研究しておこう。私はルーシー嬢はちっともこわくないし、ルーシー嬢も私のことは恐れてはいないが、彼女を「不死者」にしたやつがべつにいて、こいつが彼女の墓を捜しだして、ここを隠れ家にする力をもっている。こいつは、ジョナサンから聞いたことや、ルーシーの生殺をもてあそんだ手口から見て、一通りの食えたやつではない。一人で二十人力も力のあるやつだ。そのうえ、そいつは狼を呼び出すことができる。そいつがもし今夜やってくれば、私は見つかってしまう。見つかったら最後だ。しかしまずここへはやって来ないだろう。こんな爺《じじい》が一人で番をしている墓場なんぞより、もっと獲物のどっさりある場所がいくらでもあるのだから。
そんなわけで、まさかの時のために、この手紙を書いておく。この手紙といっしょに入れてある新聞とハーカーの日記その他を持って行って読めば、この「不死者」の張本人のやつのことがすっかりわかるだろう。こいつの頭を刎《は》ねて、心臓を串刺《くしざ》しにして焼いてしまわなければ、世の中は安泰にならない。
万一の時には、この手紙がさらばだ。
ヴァン・ヘルシング
ドクター・セワードの日記
九月二十八日――一夜の安眠、効果てきめんなり。きのう、危なく私はヴァン・ヘルシング教授の怪思想に承服されかかったが、今になって考えると、あの考えは常識を冒涜《ぼうとく》する奇怪な考えのように思われる。教授があの考えをことごとく信じていることは、疑いない。なんであんなふうに常軌を逸した考えを持つようになられたのだろう。あの怪異の解釈には、たしかに理屈にあっているところがあるが、教授が自身であの解釈をひねりだしたのだろうか。あのとおり異常に頭のいい人なのだから、こうと定めた考えがあると、頭が自分の意志より先に立って、勝手にどんどん歩いてしまうのだろうか。私としてはそう考えたくないけれども、他人があの考えを聞いたら、まさに教授は気が狂ったというにきまっている。とにかく、教授のすることを当分注意して見ていくことにしよう。あの怪事件になんらかの光明を得られるかもしれないから。
九月二十九日朝――昨夜十時ちょっと前に、アーサーとキンシーが教授の宿泊先へやってきた。教授は開口一番、こんどのことはみなさんおそろいで私とご同行が願いたい。じつは重大な義務があるのだと前置きをして、アーサーに「わしの手紙を見て驚きなすったろう?」といった。
「驚きました。むしろ動転しました。でも、あなたのおっしゃることに好奇心が動きましたから、キンシーといろいろ話し合ったのですが、話せば話すほど、頭がこんがらがってくるばかりでしてね。でもやっとぼくは、よし、馬には乗ってみろ、という気に今はなっています」
「私も」キンシーはどこまでも簡単明瞭である。
「ほほう、これはお二人は、ここにいるジョンよりも出足がお早いわ。この男ときたら、出だすまでのその気の長いことといったらない」教授は笑いながら私にあてこすりをいったが、さて居ずまいを直して二人に向かい、
「それでね、まずあなた方に、今夜、私がしようと思うことを実行することをお許し願いたいのだ。お尋ねしておきたいことはいろいろあるが、あなた方としては私がしようと思うことを申し上げれば、すべておわかりになる。ちょっとお腹立ちになるかもしれんが、率直に申し上げる。べつに私は、あなた方に責任を負わせようというのではない」
「なるほど、けっこうです」キンシーが横合いから、「ぼくは教授にお答えします。ぼくはあなたのご意見はしらんが、とにかく、あなたは誠実なお方です。これだけでぼくには充分です」
「いや、かたじけない。わしはあなたを信頼する友人の一人に加えさせていただこう」
教授がさし出した手を、キンシーは堅く握った。アーサーがいいだした。
「博士、ぼくはですね、商品を見ないで盲買《めくらが》いすることはきらいなんです。自分の紳士としての名誉、またクリスチャンとしての信念、この二つに反するようなことだったら、ぼくはお約束できませんよ」
「きみの限界はよくわかりました。わしのすることは、けっしてそういうことではない。むしろその二つを満足させるものだ」
「それなら賛成です! ところで、準備会談はすんだとして、いったい何をしようというのですか?」
「わしといっしょに、キングステッドの墓地へこっそり行っていただきたい」
アーサーはギョッとして、「ルーシーを葬ったところですか? なにしにです?」
「墓のなかへはいりに」
「教授、あなた、まじめなんですか、冗談なんですか。お見受けするところ、まじめのようですな」アーサーはそういって腰をおろすと、居ずまいをつくろい、教授を睨《にら》みすえるような身がまえをした。
「それで、墓のなかで何をなさるのです?」
「棺をあける」
「と、とんでもない!」アーサーはムッとして立ち上がり、「ぼくは道理のあることなら、なんでもがまんします。しかし、そんな――墓をあばくなんて、そんな冒涜《ぼうとく》もはなはだしい――しかもその墓はぼくの――」とアーサーはこみ上げてくる怒気に、思わず言葉がつまった。教授はいきり立つアーサーの顔を、あわれみ深くじっと見つめながら、
「あなたの苦衷《くちゅう》はわしにもよくわかる。よくわかるが、しかし今夜のところは、われわれの足は、どうしてもいばらの道を踏まなければならん。それを踏んでしまえば、きみの足は、この先いつまでも長く恋の道を踏んでいける」
「用心用心!」アーサーは白い顔を上げていった。
「きみね、まあわしのいうことを、よく聞いたらいいじゃないか。わしのいうことを聞けば、わしの目的がわかるはずだ。どうだね、話そうかね?」
「そりゃ話してくださったほうがいい」キンシーが横合いからいった。
教授はしばらく黙っていたのち、思いきって口を切りだした。「ルーシー嬢は亡くなられたんだね? そうだね? そうすると、彼女にはべつに間違ったことはないはずなんだね。ところがもし彼女が死んでいないとすると――」
「えっ!」とアーサーは椅子から飛びあがって、「なんですって? ルーシーが生きているって? 生きたまま葬られたんですか? ねえ、どういうんです?」
「いや、彼女が生きているとは、わしはいっとらんよ。そんなこと、わしは考えなかった。わしはただ、彼女が『不死者』になったかもしれんと言おうとしたのだよ」
「『不死者』! 生きていない! いったいこりゃ、どういうことなんです? 譫言《たわごと》みたいな、なんですか、いったい?」
「世のなかにはねえ、きみ、人間の憶測できんことがいろいろあるのだよ。年を重ねるにつれて、いくらかずつ、そいつが解けてくる。今われわれは、その不可解な謎の一つの端に立っているのだよ。わしはまだやらなんだが、どうだろう、ルーシー嬢の首をわしに切らせてくれんかね?」
「なに! 何をいうんです! そんな馬鹿な!」アーサーはまさに怒りの嵐の中に揉《も》みこまれていた。「彼女の死骸を切る! とんでもないこった! 承知できるもんか。先生、冗談にもほどがあります。私にそんな話を聞かせて、気を狂わせようというんですか? そんな神を涜《けが》すようなこと、ぼくはもうこれ以上考えるのはいやです。そんなひどい冒涜から、彼女の墓を守るのがぼくの義務だ。守ります。守ってやります。ぼくはきっと守る!」
それまで悠々《ゆうゆう》と椅子に腰をおちつけていた教授は、その時やおら立ち上がると、厳粛な面持でいいだした。
「ゴダルミング卿、きみに義務があれば、わしにも義務がある。きみの義務はきみひとりのものだろうが、わしの義務は大ぜいの人に対する義務だ。きみに対する義務でもあるし、死者に対する義務でもあり、人類に対する義務でもある。わしは自分のその義務は、自分できっと果たす。ところで聞いておきたいのは、きみがわしといっしょに来るかということだ。わしといっしょに来て、その目で見、その耳で聞くかというのだ? もう少したって、わしが同じこの問いをかける時、きみが事の成就に対してわしよりも熱意がなかったら、その時は、わしはどんなことがあっても、わしの義務を遂行するからね。そのつもりでいてもらおう。そのかわり、きみがわしにいつ、どこでこのことを任せるというまでは、わしはきみの望むとおりに、手を控えて待っていることにする」
そういって、しばらく教授は言葉をとぎらしたが、やがて憐憫《れんびん》にみちた声でつづけた。
「しかしね、お願いしておくが、やるにしても、きみは腹を立ててわしといっしょに事をするのでは困るよ。長い人生は、愉快なことばかりはないさ。時には、胸をキリキリ絞《しぼ》られるようなこともあるものだ。わしも今まで、こんどのような大任ある仕事にぶつかったことは一度もない。さいわいにして、きみがもしわしに心を向けることができたら、きっときみがひと目見れば、この陰気な時を吹き飛ばしてしまうと思うがねえ。わしはかならず、きみを悲しみから救い出せるだけのことをする自信があるのだから。
考えてみたまえ。なんのためにわしが自分から買って出て、こんなに苦労をしたり、つらい思いをしているのか。わしは自分の国からわざわざこんなロンドンくんだりまで、なんとか人のためになることをしたいと思って来ているのだよ。縁あって、わしはルーシー嬢の看護をした。彼女の死の前後、わしは夜を徹して彼女に尽くした。その彼女が死んで『不死者』になってみれば、わしは自分の死をもってしても、なんとかして彼女を救いたい。彼女を『不死者』から救えば、彼女は安らかに死ねるのだよ。どうだね、アーサー君、わしを信じてくれんかね?」
諄々《じゅんじゅん》として説く、誠意と温情のこもった教授の言葉に、アーサーもついに心を動かされたようであった。彼はやにわに老教授の手をとると、きれぎれな言葉でいった。
「先生、ぼくは、さっきのようなことはとても考えられないし、おっしゃることもよくわかりませんが、とにかく、あなたとごいっしょに行ってみます」
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一六
ドクター・セワードの日記≪つづき≫
われわれが教会の低い塀をのりこえて、墓地のなかへはいったのは、十二時ちょうど十五分前だった。空いちめんに動く黒い密雲のあいだがら、月がときどき顔をだす、暗い晩であった。教授を一、二歩先に立てて、われわれ四人は、おたがいにくっつきあって歩いて行った。墓の前まできた時、私はアーサーが葬式の日の悲しい思い出でさぞ胸を痛めることだろうと、内心気づかったが、当人はさしたる色もないようすであった。おそらく、これから行なわれる行動の謎が、彼の悲嘆をいくらか中和させているのだと私は思った。当然われわれの間に、それぞれの理由から尻ごみする者があるのを見こして、教授は例のごとく墓の扉の錠をあけて、自分がまず先にはいることによって、第一の難関を突破した。そのあとにつづいて三人がはいると、教授はあとの扉をぴたりとしめ、持ってきた薄暗い角灯に灯をつけて、棺を照らした。アーサーがためらいながら前にすすみ出ると、教授は私にむかって、
「きみはきのう、わしとここへいっしょにきたが、ルーシー嬢の死骸《しがい》はあったっけね?」と、念を押すようにいった。
「ありました」と私が答えると、教授はアーサーとキンシーにむかって、
「お聞きのとおりだ。しかし、一人でもわしの言うことを信じない人がおると困るからね」そういって、鞄のなかからネジ回しをとり出して、例のごとく棺の蓋《ふた》をあけにかかった。アーサーはもう顔色をまっさおにして、教授の手もとを黙ってじっと見まもっていた。やがて棺の蓋があくと、彼は急いで前へのりだした。下に鉛の箱のあることを、アーサーは知らないので、ちょっと意外な面持をしているうちに、教授が鉛板を勢いよくはねあげた。なかをのぞいて、三人は思わずアッとうしろへ飛びすさった。
棺のなかは藻抜《もぬ》けのからであった!
四、五分、だれもものをいわなかった。キンシーがその沈黙を破った。
「先生、あなたにこんなことをおうかがいするのは、いかにも疑うようで失礼ですが、これはあなたがなさったことなのですか?」
「いや、わしは死骸を動かしもしなければ、手も触れやせん。じつはこうなのだ。さきおとといの晩、セワードとわしと二人でここへきたのだ。断わっておくが、悪いたくらみがあってきたのではないよ。その時はまだ棺が封されたままになっておった。それからわしはネジ回しであけてみると、今のように、なかがからっぽなのだ。それから二人してしばらく待っておると、何か白いものが、あすこの木立のあいだに見えるんだね。それから次の日、こんどは昼間きてみた。すると死骸が棺のなかにあった。そうだな、ジョン?」
「ええ」
「それから、その晩またきてみたところが、墓地で迷子を一人見つけてね。ゆうべはわしひとりできて、けさまで夜明かしをしたのだが、怪しいものは何も見なかった。というのは、この扉のすきまへ『不死者』のきらいなニンニクをわしがつめておいたから、彼女は棺のなかから出なかったのだ。そのニンニクを、わしはきょう、日の暮れる前に、すっかり除《と》っておいた。それで今夜はまた棺がからっぽなんだよ。まあ、待ちたまえ、不思議なことはまだある。これからみんなして外へ出て待っていると、見たことも聞いたこともないような不思議なことがいろいろ現われる。さあ、それでは」といって、教授は角灯の遮光板をしめて、「そろそろ外へ出ようかね」
われわれは墓の外へ出た。教授が墓の扉《とびら》をもとどおりに締めた。墓の外へ出て、私たちはほっと息をついた。暗い夜空を雲がゆっくりと大きく動いている。月が明るくなったり暗くなったりするのが、まるで人生の喜びと悲しみの姿のようであった。すがすがしい夜の大気の中には、死の匂いなど、どこを捜してもなかった。丘のむこうの夜空がボーッと赤く染まっているのを見、はるか遠くに大都会の生命の息吹《いぶき》の音である車馬の騒音を聞くと、きゅうに人間くさくなったようであった。みんなそれぞれ、思い思いに厳粛な、圧倒されたような気持だったが、ことにアーサーは、ひとり黙々としていた。おそらく彼は怪異の真意を無言のうちに模索していたのにちがいない。
キンシーはというと、これはなんでも片っぱしから勇敢に受け入れる人に似つかわしく、平然としていた。煙草をのんではいけないといわれたものだから、葉巻をちぎって、さっきから口の中でグチャグチャ噛んでいる。教授はかねて手はずの仕事を、ひとりでせっせと進めていた。まず棺のなかから取りだしたのは、白い紙にていねいに包んだ、薄べったいウエファーみたいな物であった。その次に取りだしたのは、捏粉《ねりこ》かパテに似た白い物が二っころ。まずウエファーみたいなものを、両手で粉々に砕き、それをパテのようなものに捏《こ》ねまぜ、捏ねまぜたやつを手で細く紐《ひも》のようにのばして、これを墓の門扉《もんぴ》のすきまや蝶番《ちょうつがい》のところへ、目塗りをするようにペタペタ押しこみはじめた。妙なことを始めだしたと思って、私がそばへ聞きに行くと、アーサーもキンシーも珍しそうに寄ってきた。教授は答えた。
「こうしてね、『不死者』が入れんように、目塗りをしておくのだ」
「そのためにわざわざ持っていらっしたんですか?」とキンシーがきいた。「スコットの小説に出てきそうですな。これがやっぱり一つの手なんですか?」
「そうだよ」
「そのペタペタ塗りこんでおられるのは、なんですか?」とアーサーが尋ねると、教授は答えた。
「これは聖餅《せいべい》だよ。アムステルダムから持ってきたのだがね。わしは免罪のお札を持っておるからね」
教授のこの返事は、私たち三人の者にはまことに奇異に感じられた。明晰な科学者である教授ともあろう人が、こういう場合に聖餅などを用いるということが、なんだかおかしなことのように思われたのである。三人は思い思いにそんなことを考えながら、しばらく黙ったまま、墓のまわりに寄りかたまっていたが、私はなんだかアーサーがひどくかわいそうになってきた。私は二度も三度も教授のおともをして、怪異を見にここへきた人間だから別としても、その私でさえ、こんなことをして一時間もつっ立っているのに、そろそろうんざりしてきた。アーサーはどんな心持だろうと思うと、人ごとではない気がした。墓場の夜は沈々《ちんちん》として、草木をゆるがすほどの風もない。万物ことごとく深閑《しんかん》として、犬の声一つ聞こえない。
「シーッ!」
ふいに教授の口から、静寂を破る声が洩れた。われわれは教授の指さすほうをいっせいに見た。寺の本堂に近い水松《いちい》の並木の下に、なんだか白い人の影が見える。もうろうとした白い影だが、それが胸のあたりに何か黒い物を抱いている。影はこちらへ向かって動いてくる。とそのとき、雲間を洩れた月の光が煌々《こうこう》とさしたなかに、白い経帷子《きょうかたびら》を着た一人の女が、黒髪をふりみだして立っているのが見えた。女は抱いている小さな子供に首をうつ向けているので、顔は見えなかった。しばらく間があって、ギャッという子供の泣き声がした。
その声を聞いて、われわれ三人がいきなり飛びだそうとすると、教授があわてて手で制した。しかたがないので、木の下に息をひそめてじっと見ていると、白い影はだんだんこちらへとやってくる。もうかなりはっきり見えるところまで近づいてきた時、月の光がふたたび明るくなった。とたんに私は心臓が凍りついたようになった。アーサーがアッと声をあげたのが聞こえた。月光のなかにわれわれが見たのは、ルーシー・ウェステンラだったのである。だが、なんという変わり果てたさまであろう。あの可憐《かれん》で美しかった顔が、目のつり上がった、ふた目と見られない、残忍非道な、まるで悪鬼|羅刹《らせつ》もさながらの、恐ろしい形相に変わっていた。
そのとき教授がそっと進み出たので、われわれも同じように、そのあとについて出た。四人は墓の門扉の前に一列に並んだ。教授が角灯を高くさし上げて、遮光板をサッとあけた。ルーシーの顔の上に光がパッと集中した。その光で、われわれはそこに、生々しいまっかな血に濡《ぬ》れた唇と、その血潮が顎《あご》から経帷子の白い裾へかけて、タラタラ垂れて染まっているのを見た。
三人は、あまりの恐ろしさに歯の根も合わず、ガタガタふるえていた。角灯の灯がブルブルふるえているのを見て、私は鉄のような教授の神経でさえ、その恐ろしい光景には勝てなかったのを見た。アーサーは、私の隣りにいたが、私が腕をもって助けてやらなかったら、彼はその場に昏倒《こんとう》してしまったにちがいなかった。
ルーシーは――今われわれの目の前にいるものは、姿がルーシーであるゆえ、そう呼ぶのだが――私たちを見ると、サッとうしろに身をひき、咽喉《のど》の奥でちょうど猫が眠りながらゴロゴロ咽喉を鳴らすような、怒りの唸り声を発したと思うと、ものすごい目つきで私たちをハッタとにらみつけた。その目は、形と色とはルーシーの目だったが、今はかつてのやさしい澄んだ色はなく、ドロリと濁って、地獄の妖火《ようか》に燃えていた。それを見た瞬間、私の胸のなかにくすぶり残っていた恋の残火は、たちまち憎悪と嫌悪に変じてしまった。殺せるものなら、私は喜んでそのとき彼女を殺したかもしれない。こちらをじっと見すえているその目が、魔性の光でらんらんと輝き、顔には薄気味わるい笑《え》みをニタリと浮かべているそのものすごさは、なんともかんとも見ていられなかった。
そのとき何を思ったか、彼女はたちまち残忍非道な魔性の本性をあらわし、今まで胸にしっかり抱きしめていた子供を、いきなり地べたに力いっぱいたたきつけたと思うと、その上からのぞきこむようにして、ウーッ、とひと声、獲物にとびかかる犬みたいなうなり声を浴びせかけた。子供はギャッとひと声泣き声をあげたきり、そのまま地べたに悶絶《もんぜつ》した。この冷血無情な振舞《ふるまい》に、アーサーが思わずウーンとうなると、女は彼のほうへ両手をさしのべて、ケタケタ笑いながら、そろりそろりと詰めよってきた。アーサーはワッと身を伏せると、両手で顔をおおってしまった。
女はだんだん詰めよってくると、急にこんどは声音が変わり、しなだれるようなしなをつくって、
「ねえ、いらっしゃいよ、アーサー。こんな人たちのところにいないで、私のところへいらっしゃいよ。ごらんなさい、私の腕が、こうして待ち焦《こ》がれてるのよ。いらっしゃいったらさあ。私といっしょに寝ましょうよ。ねえこの人、いらっしゃいったら、ねえ」
その声には怪しい、うっとりするようなひびきがあった。まるで、杯がチリカラ打ち鳴るようなひびきで、そばで聞いているわれわれの頭のなかにも、それが甘く鳴りひびいた。
アーサーはというと、彼はもう呪文《じゅもん》にしばられたようになって、おそるおそる顔から手をはなすと、両手を思うさま大きくひろげた。ひろげた腕のなかへ、あわや彼女が飛び入ろうとした刹那《せつな》、いきなり教授がそこへ飛びだして、二人のあいだに小さな金の十字架をつきだした。彼女はたじたじと後ろにさがった。そして、たちまち満面憤怒の形相にひきつったと思うと、教授の後ろをサッとすりぬけて、墓のなかへはいろうとした。
墓の入口の一、二尺手前のところで、彼女はどうしたのか、まるで金剛力にしばられでもしたように、棒立ちに立ち往生をした。その時くるりとこちらへ向けた顔は、おりからさわやかにさしでた月の光と、こんどはヘルシング教授の金鉄の豪気に微動もしない角灯のあかりをうけて、さながら悪鬼のごとく、私はあんなものすごい形相を今まで見たことがない。これから先も二度とあんな顔は見られないだろう。目はらんらんとして地獄の妖火の赤光《しゃっこう》を放ち、ひきつった眉はメデュサの蛇がとぐろを巻いたごとく、血にべっとり染まった口をカッとひらいたその恐ろしい形相は、さながらギリシャか日本の鬼か蛇《じゃ》の面のようであった。
教授がたかだかとさしだした十字架と、聖餅で目塗りをした墓の入口との間で、彼女は出るも引くもならず、しばらく棒立ちになっていたが、時間にすれば三十秒ほどのそのいっときが、まるで永遠の時のような気がした。
「どうだ諸君、わしの仕事をすすめていいか?」
教授が沈黙を破って、そういって尋ねると、アーサーはいきなりそこへバッタとひざまずくなり、両手で顔をおおって、
「どうぞ、どうぞ、先生のいいように。とてももう、ぼくはもうこれ以上、とても堪えられません」心からうめくような声でいった。
キンシーと私はよりそって、両方からアーサーの腕をとった。そのとき教授が、さし上げていた角灯をおろして、遮光板をカチャリと下げた音が聞こえた。見ると、教授は墓の前にかがんで、さっき目塗りをした隙間《すきま》の一部分から、一所懸命に聖餅のパテを剥《は》がしている。すると驚いたことに、今までわれわれと同じ人間の姿をして立っていた彼女が、教授が入口をのいたとたんに、われわれの見ている目の前で、やっとナイフの刃先がはいるほどの細いそこの隙間から、墓のなかへと音もなくスーッとはいってしまった。教授が門扉のはしのところの目塗りを、あらためてしずかに塗りなおしはじめたのを見て、私たちはようやくホッと胸をなでおろした。
目塗りが終わると、教授は地べたの子供を抱き上げて、言った。
「さあ、みんな引き揚げよう。これでもう、あすまで何もすることがない。あすは正午に葬式が一つあるから、葬式のすむ前に、またここへ来ることにしよう。二時には会葬者が帰るからね。こっちは墓地の大門が締まったあと、そのまま居残っていればいい。あすはまた、今夜とちがった仕事がある。ところで、この子供だが、いいあんばいに、たいした怪我《けが》もしていないようだから、またこの前のように、警官の目につくように往来へおいて、それから帰ることにしよう」
教授はアーサーのそばによって、言った。
「アーサー君、どうもえらい試練を受けたねえ。しかしね、きみ、あとになってよく考えてみたまえ。結局、ああしなければならなかったということがわかるよ。もっとも、明日まだもう一日あるからね。まあ、明日がすむまでは、わしもきみに許しを乞うことは保留しておこう」
アーサーとキンシーは、私といっしょに家へくる途中、乾杯を上げた。子供は無事にまた道ばたに置いて、われわれは引き揚げてきた。そんなわけで、今夜は三人とも、多かれ少なかれ睡眠らしい睡眠がとれた。
九月二十九日夜――われわれ三人、アーサーとキンシーと私とで教授を連れ出してきたのは、正午ちょっと前だった。ふしぎなことに、三人とも服が黒だった。喪中のことゆえ、アーサーの黒服はいうまでもないことだが、あとの三人がそろいもそろって黒とは、何か虫が知らせたのであろうか。
一時半に墓地へ着く。なにげなくそこらをぶらついているうちに、墓掘り人夫が仕事をおえ、門番が会葬者の一人もいなくなった大門に錠《じょう》をおろしたのを見すまして、われわれはかねての場所へ忍びこんだ。教授は、きょうはいつもの鞄のほかに、クリケットの袋《バッグ》みたいな、かなり重そうな細長い皮の袋を持参していた。
われわれのほかに人っ子一人いなくなり、往来の足音もひとしきりとだえた頃を見はからい、教授が墓の扉を例のごとく開いて、われわれ四人は中へはいった。角灯のほかに、きょうは二本の蝋燭《ろうそく》をともし、その尻をとかして棺の上に立てたから、だいぶなかが明るくなって、仕事がしやすい。教授が例のごとく棺の蓋をとり、なかの鉛のケースをめくると、死骸は、死そのものの凄惨《せいさん》な姿をして横たわっていた。私はその死骸を見て、もはやなんの愛情らしい気持もわかなかった。むしろ魂のぬけたルーシーの形骸《けいがい》として、醜悪|厭《いと》うべき感じがしただけだった。アーサーも、死骸を見て、いやな顔をしたようであった。彼は教授に尋ねた。
「先生、これはルーシーの死骸ですか、それとも悪魔がルーシーの形をかりているのですか?」
「ルーシーの死骸であって、しかもルーシーの死骸でない。まあ、もうしばらく待ちたまえ、もとのルーシーも、今のルーシーも、ちゃんと見せてあげるから」
尖《とが》った歯、血のこびりついた口――見る人をゾッとさせずにはおかない、見るからに凄惨淫靡《せいさんいんび》なその顔は、悪魔が彼女の純潔を偽作したものかとさえ思われた。
教授はいつものような沈着さで、鞄のなかから用意の品々をとりだして、そこへ並べだした。最初にまず、ハンダ鏝《ごて》と棒ハンダをとりだした。次に小さな石油ランプをとりだして、それに灯をともして、墓穴のすみに置いた。ランプは青い炎をボーボーたてて燃えた。それから解剖刀を三本とりだし、最後に、太さ二インチ半か三インチ、長さ三フィートばかりの丸い棒杭《ぼうぐい》と、大きなハンマーをとりだした。棒杭は先を黒く焼いて、切先《きっさき》が尖らしてある。ハンマーは石炭の塊をぶっかくのに、どこの家庭の物置にもあるやつである。これだけの道具で、教授が何を始めるか、私にはこれが刺激と緊張の材料になったが、アーサーとキンシーとは、道具からおよその見当をつけて、ギョッとしたらしい。二人とも手に汗を握って、じっと黙りこんでしまった。
支度ができたところで、教授が言った。
「始める前にちょっと断わっておくが、これはね、従来『不死者』の魔力を研究した連中や、昔の経験や言い伝えによったものでね。いったん『不死者』になると、死ぬ者を呪うようになってくるのだね。彼らは死ぬことができないかわりに、何代も何代もかかって、新しい犠牲者をふやしては、世の中に悪をふやしていく。つまり、『不死者』の餌食《えじき》になって死んだ人間は、その死んだ人間がまた『不死者』になって、同じように同類の人間を餌食にしていくというわけだ。ちょうど水のなかへ石を投げた波紋みたいに、こいつが循環的にどこまでもひろがっていくのだから、目もあてられんよ。
アーサー君、きみがルーシーの死ぬ前に、あのとき、もし接吻をしたとするね。あるいは昨夜みたいに、きみがルーシーに手をひろげて、相手をあのとき抱いたとするね。そうするときみは、死んでから、東ヨーロッパでよくいう『不死者《ノスフェラン》』になって、われわれを恐怖におびえさせるというわけなのだ。
この不幸な婦人は、まだ今のところは、なりたてのほやほや、開店早々というところだから、あんな子供の血を吸っているあいだはまだ大したことはないけれども、ああしてだんだん血を吸っていくうちに、血がなくなってくると、彼女の力がそれに働いて、子供たちをおびきよせて、その血を吸うようになる。彼女がほんとうに死ねば、それは止まって、子供たちも咽喉の傷口が消えて、今までのことは何も知らないで、またもとのように遊ぶようになる。そういうわけだから、彼女をここでほんとうに死なせてやらなければならないのだ。そうすれば、彼女は『不死者』の金縛《かなしば》りからのがれて、いわゆる真の成仏《じょうぶつ》ができるというわけだ。つまり、天使の位置につけるというわけだ。これをするのは、彼女をもっとも愛した人の手によるよりほかにない。彼女自身が選んだ人の手によらなければならない。その人の手によってはじめて、彼女はほんとうに天使に昇天することができるのだ。ところでここにいる四人のなかで、いったいだれだね、その人は?」
われわれは申し合わせたように、いっせいにアーサーの顔を見た。むろんアーサーも、ルーシーを天使にするのは自分よりほかにないと信じていたから、われわれの目に無言で答えると、凍りついた雪のような白い顔をして一歩前へ出て、敢然と言った。
「先生、私は心の底から感謝します。どうか私のすることを何でもおっしゃってください。けっして後へは引きませんから」
教授はアーサーの肩に手をかけて、「見上げたものだな。なに、ほんのしばらくのあいだの勇気だよ。すぐにすむ。この杭を彼女に打ちこむのだがね。ここにいるのは、みんなきみの親友ばかりだ。みんな心から祈っておるよ。だから、始めだしたら、後へ引いてはいかんよ」
「何をするのか、早くおっしゃってください」アーサーはつぶれたような声を出して言った。
「この杭を左手に持ってね、杭の先を死骸の胸のところにあて、右手にこのハンマーを持ちたまえ。わしたちが経文《きょうもん》を読みはじめたら、――わしが読むから、きみたち二人はわしにつづいて読むのだぞ。そしたら、きみは神の名をとなえながら、この杭を死骸の胸に打ちこむのだ。それで『不死者』の悪魔は退散して、われわれの愛する死者は昇天する」
アーサーは杭とハンマーを手に握った。いったんこうと覚悟をきめたら、さすがに彼の手は、もうふるえもおののきもしなかった。教授は祈祷書をひらいて誦《ず》しはじめた。私とキンシーは教授にならって、一心不乱にそのあとにつづいて読んだ。アーサーは杭の先を死骸の胸の上にあてた。白い胸の肉にすこし食いこんだのを私は見た。やがて、アーサーは満身の力をこめて、えいっとハンマーを打ちおろした。
とたんに、棺のなかのものは声もなく、悶《もだ》えるように身をよじりもがいた。と、開いた赤い唇から、まっかな血がガッとかたまって噴《ふ》きだした。死骸はビクビクッと身をふるわせ、荒々しく身をよじり曲げた。尖った白い歯をギリギリと食いしばり、そのために唇が切れて、血の泡が口のまわりをベットリと染めた。けれども、アーサーはひるまなかった。雷神トルもかくやとばかり、びくともしない彼の腕が上下するそのたびに、情けの杭は、しだいに深く深く打ちこまれていった。そのたびに、打ちぬかれた心臓から押しだされる血汐は、泉のようにドクドク噴きだして、見る見るうちにあたりを血の海にした。
アーサーの顔は、まばたき一つせず、筋肉一つ動かず、まるで高邁《こうまい》な義務がそのなかを一すじ貫き輝いているように、世にも崇高な、気高いものに見えた。そのありさまを見て、われわれもまた勇気百倍して、なおも声高く経文を誦《よ》み上げた。読経の声は、狭い墓穴のなかをどよもすばかりにひびいた。
そのうちに、死骸のふるえも、もがきも、だんだんおさまってきた。歯ぎしりも、顔の痙攣《けいれん》もしだいに少なくなってきた。そして、まもなくばったりと静かになった。恐ろしい業《わざ》はようやく終わったのである。
ハンマーがアーサーの手からバタリと落ちた。彼は力果て根《こん》尽きて、そこへヘタヘタと倒れてしまった。われわれが手をかすひまもなかった。額からは大粒の汗が吹きだし、息もほとんど絶え絶《だ》えのあえぎようであった。じっさいそれは、人間わざとは思われない恐ろしい緊張の何刻かだったのにちがいない。
私たちはしばらくのあいだ、倒れたアーサーのほうに気をとられていたので、棺のほうを見るのを忘れていた。ところが肝心の棺のなかを見た時、われわれは思わず口々にアッといって驚いた。その声がアーサーにも聞こえたのであろう、腰が抜けたようにペタンとそこにすわりこんでいた彼も、のこのこ一人で起き上がって、われわれといっしょになって、棺のなかをのぞきこんだ。その時アーサーの顔にサッと喜びの色が走った。同時に、今まであった暗い恐怖の影が、彼の顔からみるみるうちに消え去った。
棺のなかには、もはやわれわれが恐れたような醜怪|酸鼻《さんぴ》なものは横たわっていなかった。そこに横たわっているのは、われわれが生前に見たと同じ、不安と苦痛と消耗の跡をまざまざととどめた、われわれの親しく知っているルーシーの死骸であった。アーサーもわれわれも、その痩せおとろえた死顔の上に、ちょうど太陽の光がさすように、神々しい安らかなものが静かにさし恵んでいるのを感じとった。
ヴァン・ヘルシングはアーサーのそばへつかつかと寄ると、彼の肩に手をおいて言った。
「アーサー君、どうだ、わしを許してくれるかね?」
今までの恐ろしい緊張の反動で、アーサーはいきなりその時は、ふりおちる涙にむせびながら教授の手をとると、その手を唇に押しあてて、
「許します! あなたのおかげで、ぼくの愛人の魂がもどって、このとおり安らかになったのです」
彼は教授の肩に手ですがり、その胸に顔を埋めると、しばらくは声もたてずに泣き入った。私もキンシーも、感無量のまま茫然《ぼうぜん》とそこに立ちつくした。
「アーサー君」と教授はアーサーの頭を上げさせて、「さあきみ、こんどこそ接吻をしておやり。唇でもどこでも、きみの好きなところへ、しておやり。もう悪魔はいないから、大丈夫だ。これでもう永久に彼女は恐ろしいものにはならない。やっと彼女は神に仕えることができた。彼女の魂は、いま、神とともにあるよ」
アーサーの接吻がすんでから、彼とキンシーに墓の外に出てもらって、教授と私は、死骸のなかへ打ち込んだ部分だけ残して、出ている杭を鋸でゴシゴシ切った。それから死骸の首を切り落として、口の中へニンニクを詰めた。それから鉛の箱をハンダでつけ、棺の蓋にしっかりネジ釘をはめ、それからとり集めた道具類を鞄のなかへしまって、ようやくのことで墓の外へ出てきた。教授は墓の門扉にピンと錠をおろしてしまうと、その鍵を、こんどはアーサーの手にしっかりと渡した。
外はまだ日が高く、空は晴れわたって、小鳥がさえずっており、まるで天地がわれわれの喜びに合わせて、べつの調子に変わったようであった。
墓地からわれわれが歩みだす前に、教授は言った。
「そこでね、皆さん、これでわれわれは仕事を一段片づけたわけだが、ところがまだ一つ、これより大きな仕事が残っているのだよ。そいつはわれわれの今度の悲しい事件を生みだした張本人を捜し出すことなんだがね。こいつを一つ粉砕してしまわなければならないのだ。これにはすでに絶好の協力者がある。しかし、とにかくこいつは長期戦でね。危険もあるし、容易ならない難事業だ。どうだね、皆さんにひとつ、手を貸していただけないかね? これで信頼は一人残らずみな持てたわけだ。ねえ、そうだろう? われわれの義務というものも、これでわかったはずだ。どうだね、みんなして茨《いばら》の道へ踏みだすことを約束してくれないかね?」
一同、かわるがわるに堅く握手をした。誓いはここに堅く立てられたのである。寺の墓地から歩きだしながら、教授は言った。
「あさっての晩、またみんなして会って、七時にジョンもいっしょに飯を食おう。そのとき、ほかにもう二人、きみたちのまだご存知ない人を呼ぶがね。その時までに、わしはすっかりプランを練っておく。ジョンはわしとこれからいっしょに来てくれ。いろいろ手伝ってもらうことがあるから。わしは今夜アムステルダムへ発って、明晩また帰ってくる。それからいよいよ大捜索だ。初めにいろいろ言ってしまうと、きみら、恐れをなしちまうだろうから、あとはまあ、明後日のお楽しみということにしておこう」
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一七
ドクター・セワードの日記≪つづき≫
バークリー・ホテルへ行くと、教授のところへ電報がとどいていた。
「タダイマジ ヨウキヨウジ ヨナサンホイツトビ ーニアリキユウホウアリシヤチユウニテ ミナ・ハーカー」(ただ今上京。ジョナサン、ホイットビーにあり。急報あり、車中にて。ミナ・ハーカー)
教授は満悦だった。「ミナ夫人が見えるか。あの人は婦人のなかの真珠だ。しかし、せっかく上京しても、わしは今夜はいないからな。夫人はきみの家へ案内しなさい。駅へ迎えに行ってやらんといかんよ。そうだ、汽車へ電報を打っておこう」
電報を打ってから、教授は茶をのみながら、ジョナサン夫妻の日記の複本を私にわたして、
「これをよく読んでおきたまえ。わしが帰るまでに、よくこのなかの事実を頭に入れて、いつでもわしと問答できるようにしておくのだぞ。だいじに扱うのだよ。怪談の宝庫みたいな日記だからね。念のためにいっておくが、先入観や既成観念を持たずに、ぜったいに虚心坦懐で読まんといかんよ」
まもなく教授は支度をして、リヴァプール街へ馬車で発っていった。私は、パディントンをさして出かけ、列車の着く十五分ほど前に駅へ着いて、待っていた。
やがて列車が到着し、乗客がぞろぞろ降りてきた。プラットホームの混雑もすみ、人の群れが散り去って行くと、私は不安になってきた。着く人も、迎えにきた人間も、おたがいに顔を知らないのだから、わかるかどうか少々気がかりでいると、美しい一人の若い婦人が私の前へまっすぐやってきて、
「セワードさんじゃございません?」
「あなた、ハーカー夫人!」
相手の出した手を私は握り返しながら「よくおわかりでしたな」
「私、ルーシーの手紙で、あなたのこと存じ上げておりました。でも――」といいかけて、夫人は急に顔を赤くした。私も同時に顔が赤くなったのを感じた。双方ちょっとバツが悪かったが、それが私の夫人に対する巧まぬ返事になった。
私は夫人の荷物を持って、駅から、うちの家政婦に電話をかけ、客が泊まるから、居間と寝室と二室を用意しておくように頼み、それから地下道をぬけて表に出た。病院に着くと、夫人はむろん、そこが精神病院であるとすぐにわかったが、門をはいる時、いやな顔は気《け》ぶりにも見せなかった。
夫人はいろいろ話したいことがあるから、あとで書斎のほうへおじゃましたいというので、私はいま夫人を待っているうちに、ここまで録音日記を入れたところである。だが、私は教授の置いていった日記を、目の前に開いたまま、まだ読む暇がなかった。読む暇をつくるには、ミナ夫人を楽しませるようなものを与えておかなければならない。彼女は今が大事な時で、われわれにどういう仕事が控えているかということは、まだ知っていない。びっくりさせないように注意しなければ。あ、来た、来た!
ミナ・ハーカーの日記
九月二十九日――旅の着くずれをちょっと直してから、セワード氏の書斎へ下りて行くと、どなたかとお話し中のようすなので、部屋の前でしばらく待ったが、すぐに来るようにということだったので、思いきってノックすると、なかから「どうぞ」という返事。
書斎へはいると、驚いたことに、彼のほかにだれもいない。テーブルの上においてある機械は、説明書などで知っている蝋管《ろうかん》蓄音機だと、ひと目見てわかった。はじめて見る機械なので、私が珍しがって見ていると、
「いま、これで日記を入れていたところです」と彼がいう。
「日記を?」
「ええ、私はいつも蝋管で日記をとっておくのです」
「まあ、それじゃ今、私お部屋へはいろうとしたら、どなたかとお話し中のごようすでしたから、廊下で少し待っていたんですのよ。いやですわ、これへ吹きこんでいらしたんですの?」
「ははは、そりゃ失礼しましたな。患者の臨床は、みんなこれでとっておくことにしているんです」
「まあ、私は速記術で日記を書いているんですけれど、私、負けましたわ」
「いやあ、つまりぼくのほうが、ものぐさなんですよ。ははは」
そういって、セワード氏がなにやら継穂《つぎほ》もなくモジモジしているから、私は助け舟のつもりで、
「そういえば、あなた、ルーシーの臨終にお立会いだったそうでございますわね。あの娘《こ》の臨終のようすを聞かしてくださいましな。ルーシーはとても私になついていた娘ですから、あの娘のことをなんでもうかがえれば、私、とてもうれしいのですけど」
すると驚いたことに、彼は恐怖に打たれたようにギョッとして、
「ルーシーの臨終! とんでもないことを!」
「あら、なぜでございますの?」私は彼の語調から、何やらふっと恐ろしい感じを受けたので、そういって問い返すと、彼はしばらく黙って、いいわけを捜しているようすだったが、しまいにしぶしぶ答えた。
「どうもね、蝋管の日記ですと、どこをとくに聞かせろという時に、それを捜し出すのに、いつも困るのですよ」
「まあ。それでは、私がタイプでコピーを取って差し上げましょうか」
「いやいや、とんでもない。あんな恐ろしい話、あなたにお聞かせできませんよ」
やっぱり恐ろしい話だったのだ。私の勘ははずれなかったのだ。ふと部屋のなかを見まわすと、べつのテーブルの上に、私がタイプで打った、私たちの日記の複本がのせてあるのが目についた。
「あら、あの日記は?」
彼は私の視線を見て、テーブルのほうを振りかえって、
「ああ、あれですか。ヘルシング教授から拝借したのです。まだ拝見していないのですが、先生が帰られるまでに読んでおけということで……」
「それを読んでくだされば、私たち夫婦のことがおわかりになっていただけると思います。あのなかには、宅も私も、嘘はぜったいに書いていないつもりです。初めてお目にかかったのですし、あの日記をまだお読みになっていらっしゃらないのですから、私のこと、おわかりにならないの、無理ございませんわ。それなのに私、あなたの録音をコピーして差し上げようなんて、差し出たことを申し上げて、さぞ出すぎた女だと……」
たしかにこの人は気性の高い人だ。ルーシーがこの人について言っていたことは、的《まと》をはずれていなかった。彼は立ち上がって引出しをあけると、引出しのなかには、たくさんのまるい蝋管の筒がきちんと並べてはいっているのが見えた。
「いや、あなたに悪いところはありませんよ。私がまだあなたを知らなかったので、信用しなかったのです。しかし、今はわかりました。どうか、これに懲《こ》りずに、長く交際させていただきたいと思います。ルーシーが私のことをあなたに言ったことも知っていますし、あなたのこともルーシーからうかがっています。それじゃ一つ罪滅ぼしに、蝋管をここへ持ってきますから、よかったら聞いていただきましょうか。初めの六本は、私個人のことしかはいっていませんから、べつにあなたをこわがらせるようなことはありません。まあ、これで一つ、私のこともわかっていただくことにしましよう。蝋管をかけているうちに、夕食の支度もできるでしょうから、そのあいだに、私はあなたのほうの日記を拝見させていただきますよ」
そういって、彼は自分の居間から蝋管を運んできた。何か楽しいことが聞かれそうな気がする。私が半面しか知らない恋愛談の真相が、これでわかるかもしれない。
ドクター・セワードの日記
九月二十九日――時間のたつのも忘れるほど、私はジョナサン夫妻の日記に読みふけった。女中が食事を知らせにきたとき、夫人は書斎にいなかった。「きっとお疲れなんだろう。もう一時間ばかり、食事は待ってごらん」私は女中にそう言いつけておいて、日記を読みつづけた。夫人の日記をちょうど全部読み終えたところへ、彼女がはいってきた。彼女は化粧をしなおしてきたらしいが、目のふちを泣きはらしていた。私はそれを見て、自分もなにやら瞼《まぶた》が熱くなった。このごろ、どうも涙っぽくなって困る。
「あなたを泣かせたりして、悪いことをしましたなあ」
「いいえ、私、あなたのご愁嘆《しゅうたん》をうかがって、感動しましたの。録音ってすばらしいものですわね。私、あなたのお声の調子でご愁嘆のほどがまざまざとわかりましたわ。でも、ほんとに便利なものですわね。私、タイプで少しコピーしましたけど、とてもあの生《なま》な感じは出ませんわ」
「私の愁嘆なんか、なにも他人に知らせる必要はありませんがね。むしろ、知らせちゃいけないことでしょう」
「いいえ、知らせる必要が大ありですわ」
「どうしてです?」
「だって、あの録音日記だって、恐ろしい話のなかの――ルーシーが死ぬまでの話の一部分ですもの。あの恐ろしい怪物を世のなかから除いてしまうには、私たち、それに関係あることはなんでも知って、その力を借りなければなりません。まだ九月七日のところまでしかうかがっていませんけど、あれをうかがっていて、私、あの怪異にずいぶん光明を得たと思います。あなたも私たちに力を貸してくださいまし。ヘルシング教授にお目にかかってから、私たち毎日毎晩、ずっと仕事をつづけてきました。いま、宅はホイットビーへ聞込みをとりにまいっておりますが、明日こちらへまいるはずです。私たちおたがいに何も隠し立てする必要はないと思います。私、絶対の信頼をもって一つ仕事をやっていきたい。そうすれば、たとえ暗闇のなかにいても、ずっと力強いんですもの」彼女は訴えるように、私の顔をまじまじと見た。同時に彼女の顔には、こちらが彼女の望みに喜んで添わずにはいられないような勇気と決意があらわれていた。
「そのとおりです。まだまだ、あれから先に、恐ろしいことがたくさんあるんです。ルーシーはあなたの旅行中に亡くなったんだから、きっとあなたはまだ暗中にいるようで、すっきりしないでしょうが、日記の最後のところを読まれれば、きっと静かな微光をお感じになると思いますよ。いかがです、飯にしませんか。食後ゆっくりしながら、なんでもお尋ねになってください。私もなんでもお答えしますから」
ミナ・ハーカーの日記
九月二十九日――夕食後、セワード氏と書斎で語る。彼は私の部屋から蓄音機を、私はタイプライターを持っていく。彼は居ごこちのいい椅子を私に出してくれて、立たずにいじれるように蓄音機を置いてくれ、止めたくなったらここをこうするのだと、止め方も教えてくれた。そして私が気楽にいられるように、自分はこちらに背を向けて、日記を読みはじめた。ルーシーの死の恐ろしい話や、その後日談を聞いているうちに、私はきゅうに力がぬけたようにぐったりとなって、椅子に伸びてしまった。セワード氏が驚いて、さっそくブランデーを持ってきて飲ましてくれたので、ようやく気分がなおったが、まだ頭がくらくらしている。ルーシーの死にからむあの恐ろしい怪異は、私がジョナサンのトランシルヴァニアにおける経験を承知していなかったら、とても信じられない話だ。気分の直ったところで、私はタイプライターのカバーをとって、セワード氏に言った。
「これ全部、私に写さしてくださいましね。ヘルシング教授がお見えになったら、お目にかけたいと思いますから。私、さっきジョナサンに、ロンドンへ着いたら、すぐにこちらへ来るように電報を打っておきましたの。この事件はとくに日付が肝心ですから、資料がそろったら、それをすっかり日付の順に整理したいと思って。さっきのお話ですと、あしたはゴダルミング卿とキンシーさんもお見えになるのですから、私、お話しできるように準備しておきますわ」
「それはたいへんだな。タイプにとってくだされば、こっちは大助かりだけど、あなた、そう詰めてやって大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。もう気分も直りましたから」
「そうですか。では、機械をもう少し遅く回しましょう」
セワード氏が蓄音機の回転速度を遅くしてくれたので、私は七本目の蝋管の初めからタイプで打ちはじめた。その間、セワード氏は患者さんの回診に行く。まもなく帰ってこられて、私が寂しくないように、いまタイプのそばで私の日記のつづきを読んでおられる。ほんとに思いやりの深い、いいお方だ。世の中はみんないい人だらけのような気がする。いい人ばかりのそういう世の中に、ああいう怪物がいるのだ。……私は自分の部屋へもどる前に、ヘルシング教授がエクセターの駅で、新聞を読んで驚いておられたというジョナサンの話をふと思いだして、セワード氏から「ウェストミンスター・ガゼット」と「ペル・メル・ガゼット」の綴《と》じこみを拝借した。「デイリー・グラフ」と「ホイットビー・ガゼット」は私も前に切り抜いて、日記にはっておいたが、あの新聞のおかげで、ドラキュラ伯爵がホイットビーに上陸した時の怪事件の真相を知る手がかりができたのであった。あれ以来、私は何かしらの新事実を得るために、夕刊は欠かさず目を通している。今夜は眠くない。仕事をしているほうが気が落ちついていい。
ドクター・セワードの日記
九月三十日――ハーカー氏、九時着。むこうを発つちょっと前に、奥さんの電報を受けとった由。容貌風采から察して、なかなか才気|煥発《かんぱつ》の精力家らしい。
昼食後、夫妻は二階の部屋に引きこもって、タイプを打つのに忙しい。夫人は、証拠書類を全部日付の順に整理中の由。ハーカー氏は、ホイットビーにおける箱の荷受人と、荷を発送したロンドンの運送店との間にかわされた手紙を入手した由である。いま、彼は夫人がタイプに打った私の日記を読んでいる。夫妻はそこから何を考えるだろう?
伯爵の隠れ家とおぼしい家が、この病院の隣りの屋敷だとはじつに奇縁である。隣りの屋敷なら、こちらはレンフィールドの脱走事件で、先刻承知である。あの邸宅の購入に関する文書が、全部タイプで打ってある。ああ、もう一足早くこのことがわかっていたら、あるいはルーシーも助けることができたかもしれなかったのに。――夕食の時、ハーカー氏は、すでに話は全部、そろえてお目にかけることができるといっていた。レンフィールドの症状の一進一退は伯爵の進退表であるということが、いまに私にもわかると彼は考えているが、日付がぴたりと符合《ふごう》すれば、私にもそれはわかるだろうと思う。その点、夫人が蝋管をタイプに写しておいてくれたのは、ほんとうにいいことだった。ああしなければ、まだ日付はゴタゴタのままになっていたろう。
きょうはレンフィールドは、いたっておとなしい。両手を膝においてニコニコしながら、おとなしく部屋にすわっている。まるで健康人と同じようである。久しぶりでいろいろ彼と話をしたが、話もツボがはずれていない。ハーカー氏との話や、手紙や、彼の発狂の日付を読んだりしていなければ、私は患者の鎮静を信用したかもしれなかったと思う。彼の発作が伯爵が近づいてくるのと何か関連があるとすると、その意味は、いったいどういうことなのだろう? あの患者が、吸血鬼の最後の勝利を喜ぶなんて、そんなことはまさかあるまいと思うが、しかし、待てよ。患者は肉食動物患者だし、隣りの屋敷の礼拝堂の前へしきりと行きたがって、「親分親分」と口走っている。どうもここらが考えの「きめ手」になるような気がする。私はしばらくいて退室してきたが、きょうあたりの患者の、あの正気ぶりは、どうも問題を深く探るには少々|剣呑《けんのん》のようだ。患者はなにかまた考えはじめているらしい。患者のあのおちつき払ったようすは、私には信用できないので、付添士にはよく監視するよう、万一に備えて緊衣の用意もしておくように命じておいた。
ジョナサン・ハーカーの日記
九月二十九日。ロンドン行きの車中にて――ピリングトン氏から、できるかぎりのことはなんでも申し上げるからという丁重な手紙がきたので、私はとにかくホイットビーへ行って、現地でこちらの聞きたいことを聞いたほうがよいと思った。私の目的は、伯爵の怪しい荷物がロンドンの送り先まで届いた、その足どりをたどることにあった。ピリングトン氏の息子さんが私を駅まで出迎えにきてくれて、お父さんの家まで案内してくれた。先方は私を今夜ここに泊めることにきめている。客好きなヨークシャー人らしい。つまり、客には何でも与え、客の好きなようにしておいてくれるという、もてなしぶりである。
先方は私が多忙で、長くいられないことを知っていてくれて、前もって箱の荷受けに関する一件書類を全部まとめておいてくれた。それをひっくり返して見ていくうちに、私は城にいる時、伯爵のテーブルの上で見た、例の手紙をそのなかに発見した。伯爵は、何もかも入念に考えつくした上で、それを計画的に、着実に実行していたのである。彼はこうと思ってとりかかった仕事の途中で、偶発するかもしれないあらゆる障害に対して、じつに入念に用意している。いわゆる「石橋をたたいて渡る」の式で、あの計画を厳正に達成しえたのは、一に彼の配慮が一分の隙もない理詰めでいったからである。私は送り状の写しも取ってきたが、送り状には「泥の箱五十個。実験用」としてある。また、カーター・ペイターソンに宛てた手紙とその返書も見せてもらって、その写しもとっておいた。
以上がピリングトンから得た資料で、それから私は港へ行って、警備官、税関吏、波止場頭に会った。≪デメテル号≫という船の不思議な入港について、みんなそれぞれ多少の発言があったが、五十箱の泥の箱については、それ以上の収穫はなかった。私は駅長にも会ったところ、駅長は、当時じっさいにあの荷を扱った駅夫たちに、私を紹介してくれた。駅夫のそのときの賃金も、帳簿に明細に記入してあったが、とにかく「でかくて、すごく重くて、動かすのに顎《あご》を出した」という駅夫の申立て以外に、とくにとりたてて新発見はなかった。駅夫の一人は、旦那のような話のわかった方ならいいが、あんな汗みずくになった骨折り仕事はなかった、よっぽどあとまで、咽喉が乾いてしようがなかったと言っていたから、私はその連中に一杯ふるまってきた。
九月三十日――ホイットビーの駅長は親切な人で、自分の古い同僚であるキング・クロスの駅長にも、私のことを電話で通じておいてくれたので、私はけさキング・クロスに着いたときに、箱の着荷について問い合わせることができた。ここで駅夫たちに引き合わされて、いろいろ調べてもらったところ、賃金はもとの送り状と間違っていなかった。ここでも私は駅夫たちに一杯おごった。
そこからカーター・ペイターソンの本店に行き、帳簿や来書を調べてもらった。親切な事務員が、すぐにキング・クロスの駅へ電話で連絡してくれると、うまいぐあいに、駅の集荷場で着荷を待っていた人夫たちがいたので、その連中に、カーファックスの配達状その他関係書類をもって、すぐこちらへ帰ってくるように伝達してくれた。ここでも計算書は合っていた。やがて駅から帰ってきた配達人夫の一人がいうことには、
「あすこの屋敷は旦那、とてもへんな屋敷でしたぜ。ありゃあ百年このかた人のへえったことのねえ家かね。なにしろ、その埃《ほこり》っちゃねえんだ。山のような埃が、ガサと積もっててね。何年もほったらかしてあるから、まるで古寺みてえな匂いがしやがってさ。私は相棒と、こんな家は早く出るこったと思ってね、荷を置いて急いで帰ってきましたよ。薄っ暗くなったら、とてもあんな家は、一分と中にいられねえね」
私は踏査の時に、一度なかへはいったことがあるから、この配達夫の申立てが嘘でないことが、よくわかる。
以上の調査で、私が確かめえたことは、≪デメテル号≫でヴァーナからホイットビーに着いた箱は、全部カーファックスの屋敷の礼拝堂の中へ無事に納められたということである。だから、あれからどこへも持ち出されていなければ、五十個の箱は全部そこにあるはずだ。
この次は、カーファックスから箱を運搬した馬車屋――レンフィールドが食ってかかった男たち――に会ってみなければならない。
――きょうはミナと二人で一日かかって、全部の文献を日付の順に整理した。
ミナ・ハーカーの日記
九月三十日――今、私は自分でどうにもこらえきれないほど、うれしい。おそらくこれは、久しいことつきまとわれていた恐怖――ジョナサンに有害な作用をした古傷が、またパックリと口をあけるような恐ろしい出来事があった、その反動だろうと思う。ホイットビーへ出かけて行った彼の顔つきは、勇気|凛々《りんりん》に見えたが、私の取り越し苦労は病みつきになってしまった。でも、それがあったからこそ、彼の健康をとりもどせたのだと、自分では思っている。まえには、今のような決断力もなかったし、丈夫でもなかったし、爆発的な元気にも乏しかった彼が、ヘルシング教授がおっしゃるように、今は真の肝っ玉のある人になり、弱気を殺す気質に立ちなおっている。元気いっぱい、希望と決意にみちた人に立ち戻ったのだ。今夜の準備は、二人ですっかりととのえた。われながらだいぶ興奮に気が浮き立っているような心持だ。おそらく世間の人は、伯爵狩りなんて、当然、やれやれまあと思うだろう。まさにそのとおりで、あいつはけだものではないにしても、人間ではないのだ。セワードさんの書いたルーシーの死後の記録を読めぱ、人間の心にある憐憫の泉を涸《か》らしてしまうに充分だ。
――ゴダルミング卿とキンシー・モリスさんは、思ったより早いお着きだった。セワードさんはジョナサンといっしょに、お仕事で外出中なので、お二人には私がお目にかからなければならなかった。私にすれば、何カ月か前のルーシーの希望を思いかえすことになるので、ほんとに辛い会見であった。もちろんお二人とも、ルーシーから私のことはお聞きになってるはずだし、ヘルシング先生もだいぶ私のことについてはラッパをお吹きになっていらしたらしい。
お気の毒に、お二人とも、ルーシーに結婚を申し込まれたもようを、私がなにもかも存じ上げているとは、ご存じない。こちらがどの程度に知っているのかご存じないのだから、お二人とも取りつく島がないようで、なんともつかない話をなさるよりほかになかった。でも、こちらは考えつくしていることなので、結局、もう少しほとぼりのさめるまで、お話はお預けにしておいたほうがいいという結論に達した。お二人がルーシーの臨終――彼女の事実上の死――に立ち会われたことは、セワードさんの日記で知っていたし、べつに事前に秘事を洩らす恐れもないことなので、私はできるだけ率直に、日記や文書はすべて拝見して、夫と私とでそれを全部タイプに打って、日付の順にやっと整理し終わったところだと語って、書斎で目を通していただくように、お二人にコピーを一部ずつさし上げた。ゴダルミング卿はコピーを受けとると、かなりの厚さのものをパラパラとめくって、
「これ全部、奥さんが書かれたのですか」といった。
私がうなずくと、ゴダルミング卿は話の先をつづけた。
「趣意はまだ拝見していませんけど、しかし、皆さん、いい方たちばかりで、しかも、仕事熱心でグングンおやりになるので、私なんか、あなたがたのお考えを鵜呑《うの》みにして、まあ、一所懸命お手伝いするのが、せいぜいですね。先日私は、人間というものは一生を終わる最後の時まで、質朴謙虚な人間でいなくてはいかんという事実を承認するような、ある教訓をえました。それに、あなたはルーシーを愛していらした方だし……」そういって、彼はわきを向いて両手で顔をおおった。話す声のなかに、私は彼の涙を聞いた。
するとモリスさんが、いち早く生得《しょうとく》の細かい心づかいから、ゴダルミング卿の肩に手をおき、しずかに部屋から出て行かれた。こういう場合、女には、自分の目のまえで男の人に思う存分泣くだけ泣かせてあげ、男の人の沽券《こけん》を下げずに、男のかたの持っているやさしい搦々《じょうじょう》たる面の思いのたけを吐かしてあげる、そんなものを女は生まれつき持っているように思う。それが証拠に、ゴダルミング卿も私と二人きりになったとき、ソファに腰をおろして、すっかり打ちとけた気分になられた。私もそのそばに腰をおろして、彼の手をとってあげた。自分のほうから先にそんなことをするとは、彼は考えなかったろうと思う。あとになって考えても、もちろん彼はそんな考えは持つまい。彼は真の紳士なのだ。私は彼の傷心のほどを見たので、言った。
「私は今でもルーシーを愛しております。彼女があなたにとって何であったか、――いえ、あなたがたお二人にとって彼女が何であったか、私は存じております。私と彼女とは姉妹みたいでした。その彼女がいなくなった今、あなたも私のことを姉と思って、ご自分の苦しみを私に打ちあけて頂けないでしょうか? あなたのご愁嘆、その深さは私には量《はか》れませんけれど、私にはよくわかっております。同情とか憐れみとか、そんなものがいくらかでもあなたの苦しさにお役に立つのでしたら、ルーシーのために、私、少しでもお役に立たせて頂きたいのですが、いかがなものでしょう?」
一瞬、ゴダルミング卿は悲しみに打ちひしがれたようであった。どうやらそれは、今まで黙って口に出さずに苦しんでいたものが、きゅうに捌《は》け口を見つけた、そんなふうに私には見えた。彼はだいぶヒステリックになり、ひろげた両手を高く上げると、悲しみのもの狂わしさに、両手の手のひらを強く打ち合わせた。そして立ち上がったが、すぐにまた腰をおろした。涙が頬を流れおちた。私は無限の哀れをおぼえ、考えるともなく両手をひろげると、彼はすすり泣きながら、私の肩に頭をのせ、感情でブルブル身を震わせながら、まるでやんちゃ坊主みたいに声をあげて泣き入った。
そんなとき、女には母親としての何かがあって、その母親精神がムクムク頭をもたげると、それがつまらぬこと以上に、自分を高々と持ち上げてくれるものだ。私は自分の肩にのせているこの大きな男の頭を、いつの日にか私のふところに抱かれて眠る自分の赤んぼのように感じ、わが子の頭をなでてやるように、アーサーの髪の毛をなでていた。それがその時は、自分ですこしもおかしなこととは思わなかった。
しばらくすると、すすり泣きはやみ、「いや、どうも」と言って、アーサーは頭をおこした。でも、彼は自分の感情をごまかしたり、隠したりするようなことは言わなかった。「このところずっと、昼間は疲れ、夜は不眠つづきのうえに、人間てやつは、悲しいときには話し相手が必要なのに、だれとも話もできなかったものですから」と言った。悲しみが自分を取りまいているようなひどい事情のもとで、自由に話ができるような男に、同情する女なんかありゃしない。「自分がどんな苦しみを忍んだか、今になってみるとわかりますよ」と彼は涙を拭きながら、「いや、まだわからんな。他人にはなおさらわからんでしょう、あなたの同情が今の私にとって、どんなに大きかったかは。そのうち、だんだん私にもわかってくるでしょう。今もご恩は感じていないわけじゃないけれども、この恩義、感謝というかな、これは理解が深まるとともに大きくなるものだと思います。あなたはこの私のことを、ルーシーのために、弟と思ってくださるんでしょう?」
「ルーシーのためにね」私は彼と堅く手を握りあいながら言った。
「そしてあなたのためにです」と彼は言いそえた。「人間の尊重と恩義、これがいつも勝利につながるものなら、あなたはきょう、私のそれを勝ちとったのだ。将来――将来ですよ、もしもあなたが男の助けを必要とする時がきたら、かならずそのときは酬《むく》いがあります。これは信じてください。もしそういう時がきたら、何をおいても私にまず教えてくれることを約束してください」彼は熱意をこめて言った。彼の悲しみは生々《なまなま》しかった。そこで私は慰めるつもりで、
「ええ、お約束します」といった。
私が廊下を歩いていくと、モリスさんが窓から外を眺めているのが見えた。私の足音に、モリスさんはこちらをふり向いて、
「アーサー、どうしました?」とたずねた。そして私の目が赤いのに気づいて、「ああ、なるほど、あなた、慰めておられたんですな。あいつもかわいそうなやつで、彼はそれが必要なんです。男が心の悩みに悩んでるときに、そいつを助けてくれるのは、ご婦人よりほかにないですからな。それが彼にはなかったんだ」
自分の苦衷をりっぱに耐えたこの人に、私は血の出るような思いがした。見ると、手にタイプの綴じたものを持っているので、あれを読んでくれれば、私がどの程度知っているかわかって頂けると思ったから、
「悩みのある方は、一人のこらず慰めてあげたいと思いますわ。あなたもお友だちになってくださるんでしょ? そしたら、慰めの必要なときには、遠慮なく来てくださいますわね? なぜ私がこんなことを申し上げるのか、あとでおわかりになりましてよ」
私が心からそう言うのを見て、モリスさんは、いきなり身をかがめて私の手をとると、その手を口のところまで持ち上げて、接吻をなさった。男らしい、思いやりのある方にとっては、お粗末な慰めとは思ったが、私もそれにつられて、身をかがめて接吻をお返しした。モリスさんの目に涙がにじみ、ちょっと声をつまらせながら、しずかにいわれた。
「おねえさん、あなたは生涯、このまごころの親切を後悔されることはないですぞ!」そういって、モリスさんはお友だちのいる書斎へはいっていかれた。
「おねえさん」とは、ルーシーにむかって呼びなれていた言葉なのだろう。その言葉で、おのずからお友だちであることを証《あか》されたようなものだ!
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一八
ドクター・セワードの日記
九月三十日――五時に帰宅。ゴダルミング卿もキンシー・モリスもすでに来ていて、二人とも、ハーカー夫妻が整理した日記と手紙を、いま読み終わったというところ。ジョナサンは運送屋の馬方をたずねて行って、まだ帰ってこない。ミナ夫人が三人にお茶を出してくれた。正直いうと、ここに住みついてから、この古家が「わが家」のように見えたのは、この時がはじめてだった。
「ねえ、セワードさん、私お願いがあるんですけど。あなたの患者のレンフィールドという人ね、あの人に私を会わせてくださらない? ねえ、会わせてください。私、あなたの日記を拝見して、あの人にとても興味を持ってしまったの。ねえ、ぜひお願いしますわ」
夫人のたっての懇願だったし、べつに断わる理由もなかったから、私はお茶を飲んだのち、アーサーとキンシーに待っていてもらって、夫人を病院へ案内した。病檻にはいって、レンフィールドに「おまえに会いたいという婦人がある」というと、彼は「どうして会いたいのです?」と聞くから、
「その方は今病院へ見えて、患者を一人一人回って見ておられるんだ」
「ああ、そう。それじゃあ、どうぞおはいりくだすって。でも、ちょいと待ってくださいよ。ここを少し片づけますから」
その片づけ方というのがふるっていた。彼は私が止める暇もなく、いきなり箱のなかにあった蝿と蜘蛛を、全部いっぺんに口のなかへ頬ばってしまった。明らかに、客から何か文句をいわれることを恐れたのにちがいない。頬ばったものを急いでのみこんでしまうと、彼はケロリとした顔をして、「さあさあ、どうぞおはいりください」といって、ベッドの端に腰をかけ、部屋のなかへはいってきた夫人をじっと上目づかいに見た。瞬間、私は危ないと思ったから、もし夫人に飛びかかったら、すぐに相手を取り押さえられる場所に、用心して身をかまえた。こういう目つきをする時は、殺意を感じた時なのである。いつか猫のことで私に飛びかかった時も、これと同じ目つきをした。
「今晩は、レンフィールドさん。私、セワード先生からうかがって、あなたのこと知っていますのよ」
ミナ夫人がそういって挨拶すると、彼はしばらく返事をせずに、しきりと目をすがめて、夫人のことを頭のてっぺんから足の先まで、ジロジロ見上げ、見おろしていた。その顔つきが、怪訝《けげん》から疑念に変わったなと思うと、いきなり彼は、度胆を抜くようなことを言いだした。
「あんた、うちの先生が結婚しようと思っていた人じゃないやね? そんなはずないものな。あの人は死んだからね」
ハーカー夫人はニコニコ笑いながら、答えた。「ええ、ちがいますとも。私には夫がありますのよ。私はね、こちらの先生にお目にかかる前に、結婚した女です。ミセス・ハーカーといいます」
「では、あんた、今ここで何しているんだね?」
「私はね、うちの人とこちらの先生をおたずねしにきて、ここへ泊まっているのです」
「へーえ、そりゃよしたほうがいいね」
「あら、どうしてですの?」
話がへんなぐあいになってきたので、私は横合いから口を出した。「おいおい、おまえ、おれが結婚したい人があったことなど、どうして知っているのだ?」
「ヘン、つまらねえことを聞くじゃねえか?」患者は急にハーカー夫人から私に目を移すと、そう言ってうそぶいた。
「あら、つまらないことじゃありませんことよ」ハーカー夫人は大きな声で笑いながら、私の肩をもっていった。すると、患者はいかにも私のことを話せないやつだといわんばかりに尻目にかけ、ハーカー夫人にむかって、あんたのことは尊敬しています、という心持をあらわに示しながら、
「奥さん、あんたはわかってくれるだろうが、人間もね、こちらの先生のように人から愛され尊敬されていますと、こういった病院のような狭いなかでは、その人の一挙一動にみんな気をひかれるもんでしてね。セワード先生なんか、お家の方や友人はもちろんのこと、患者たちからも愛されておりますよ。ここの患者のなかには、精神の平衡を失《な》くしているものがおりましてね、そういう連中は、とかくどうも原因と結果をゆがめて考えがちでしてな。私なんぞもここの病院へきてから、どうも患者のなかに Non Causa(理由なし)と ignoratio elenchi(不当推理)の誤りに依存しているものが見受けられます」
これには恐れ入った。精神病患者が諄々《じゅんじゅん》と哲学入門を語りだしたのだから、私は唖然《あぜん》としてしまった。いったい、これはどうしたことなのだろう? 美しいハーカー夫人に会ったために、何か患者の記憶の琴線《きんせん》に触れたものでもあったのだろうか。この新しい局面が自然に、あるいは夫人の無意識の影響のうちに起こったのだとすると、夫人はなにか稀有《けう》な天分か力を持っているにちがいない。彼はいよいよもっともらしい顔をして、さらに次のようなことを言いだした。
「私はね、奥さん、これで妙な信念をもっているのですよ。この先生や付添いの人たちがびっくりして、私を押さえつけておこうとするのは、なるほどもっともなのです。私はいつも考えるのですが、生命というものは、これは一つの実在的な不変の実体であって、どんな卑しい生きものでも、できるだけ生きている物を食って、せいぜい長生きをしたいという本能を持っています。私など、この信念が人一倍強いために、ときどき人間の生命を取ろうとすることがよくあります。
げんにこの先生にも、私は一度飛びかかったことがあります。聖書にある『血は生命なり』という言葉、あれにのっとって、この先生の血を吸って、自分の生命力を強くしようという目的でした。もっとも、そいつは、きまり文句の侮辱というやつで、麻薬をのまされて骨抜きにされましたがね。そうでしたな、先生?」
私はしかたなしに、「そうだ」とうなずいたが、じつは何を考えたらいいのか、何をいったらいいのか、自分でもわからないくらい驚いていたのである。とにかく、これが五分前に蝿だの蜘蛛を頬ばった人間とは思えない、えらい怪気焔《かいきえん》であった。
時計をみると、そろそろ教授を迎えにいく時刻なので、私は夫人をうながした。
「ではレンフィールドさん、さよなら。いろいろおもしろいお話をうかがって、ありがとうございました。これからちょいちょいまたおじゃまにあがりますよ。おだいじにね」
「さよなら。もう二度とその美しい顔は見せないでもらいましょう。ご用心なさいよ」
どうも今夜の彼は、いちいち人を驚かせることばかりである。
私はひとりで駅へ迎えに行った。せっかちな教授は汽車から降りてくるやいなや、
「どうしたジョン、うまく行っているか――そうか。わしも大忙しだった。しかし、万事これでもうそろった。いろいろ話があるぞ。ミナ夫人はおるかね? 旦那さまは? アーサーもキンシーも来たって? そうか、よしよし」
私は馬車の中で、ミナ夫人が私の蝋管をタイプに取ってくれたことを話した。
「いや、あの夫人はじつに頭がいい。男にほしいような明晰堅実な頭脳だ。神がああいう人をわれわれの仲間に加えてくれたのだな。大事にせんといかん。ジョン、今までは行きがかりで、われわれは彼女にいろいろ手伝ってもらった。しかし、今夜からいよいよわれわれにとっては怖ろしい幕がはじまる。これへ彼女を関係させてはならん。あの夫人をそんな危険なところへさらしてはいかん。われわれ男の連中は決心ができておる。怪物退治を誓ったのだ。だが化けもの退治に女の役はないぞ。たとえ怪我はしなくても、怖さに心臓が止まってしまうよ。そしてそれがあとまで尾をひいて、夜昼となく苦しめられる。それにまだ年も若いし、結婚してからいくらにもなっていない。
まあ、そんなことはあとでまた考えよう。さっきの話だと、全部写してくれたそうだが、そうすると、われわれと相談があるにちがいない。そのかわり、あしたは彼女、この仕事におさらばだぞ。われわれだけで進むのだ」
私は心から先生の言葉に賛成し、それから先生の留守中に判明したこと――病院の隣りの屋敷が、偶然にもドラキュラの買い入れた屋敷であることを話した。さすがに教授も目をまるくして驚いた。
「えっ、ほんとうか。それは惜しいことをしたなあ、もう少し前にこのことがわかったらなあ! ルーシーも助けられたかもしれん。まあしかし、もうあとの祭りだ。過去をして過去ならしめよ。われわれは目的をめざしてただ前進するのみだ」
そういったなり、わが家の門をくぐるまで、教授はずっと黙りつづけていた。夕食の用意ができるまえに、教授はハーカー夫人にいった。
「奥さん、さっきジョンから聞いたが、今までのことは全部、ご夫婦で整理しておいてくだすったそうだね」
「今までじゃなくて、けさまでのことですわ、先生」と、ミナはいやにつっかかるような調子でいった。
「ほう、今までじゃいけないわけがあるのかね? われわれは今まで小さなことまで仔細《しさい》に見てきた。秘密も打ちあけてきた。いけないといった者はまだ一人もいなかったがね」
バーカー夫人は顔を赤らめて、ポケットから一枚の紙をとり出しながら、
「先生、これをお読みになった上で、参加していいとかいけないとかおっしゃって頂きます。これは本日の私の記録です。さしあたって、ごく小さなことでも、書いておく必要があることは、私も今までの経験でわかりました。でも、これには個人的なことしか書いてございません。いかがでしょうか?」
教授はまじめな顔をして読みおわると、その紙きれを返しながら、
「あんたがいやなら、はいる必要はないさ。わしは、はいってもらえればと願うがね。ご主人だって、あんたが参加すればよけい愛してくれるし、われわれもそれだけ尊敬と愛と名誉をあんたに加えるわけだ」
彼女はもう一度頬を染めながら、紙きれを受けとると、明るい笑みに顔を輝かした。
そんなわけで、これで現在の時点までの記録が全部そろって、完全に整頓されたわけである。夕食後、教授はコピーを一部もって、正九時と定められた会合の前に、書斎へ行かれた。あとの連中は、みんなコピーを読みおわっていたから、書斎に集まった席で、どの記事、どの事実といわれれば、すぐにピンときて、恐ろしい謎の敵との作戦プランの打ち合わせができるわけである。
ミナ・ハーカーの日記
九月三十日――六時の夕食から二時間後に、われわれはセワード氏の書斎で全員会合。教授を主席にして、私が秘書の格でその隣りにすわり、私の隣りはジョナサン。前側にゴダルミング卿、セワード氏、キンシー氏がずらりといならぶ。まるで御前会議のよう。教授がまず口を切る――
「だいたいもう皆さんは、この文書にある事実は、ご存知になったはずと思う。そこで、これからわれわれが相手にする敵について、前もって少々述べておきたい。
まず敵の経歴について知っておかねばならんが、これはわしがあらゆる文献を渉漁《しょうりょう》して調査研究した結果、間違いないと確信をつかんだもので、それをお話ししてから、われわれのとるべき方法、計画を、充分にここで討議したいと思う。
世に吸血鬼というものがいるということは、すでに皆さんのなかにも、はっきりその証拠をつかんだ方がおられるはずだが、われわれの経験したあの不幸な経験がなくても、昔からの教え、あるいは記録が、充分にこれを証していることである。私もじつは、初めのうちは大いに懐疑をいだいておったのだが、虚心坦懐をもっていろいろ研究していくうちに、どうしてもその存在を信ぜざるをえなくなってきた。いわゆる『不死者《ノスフェラン》』というやつ、これはちょうど、蜂が一度針をもって刺すと死ななくなるように、死なないでいよいよ強くなり、だんだん悪を働く力を持ってくるものである。
げんに今、われわれのところへ出てきているかの吸血鬼も、そういうわけで、人間の二十人力の力を持っている。その奸知《かんち》にたけていることは、人間以上である。これはそのはずで、何代もかけて、きたえてきた奸知なのだから、推《お》して知るべきである。妖術はおこなうし、死者を呼びだして占いもする。彼が近づけば、あらゆる死者は、彼の命令一下で意のままになってしまう。狂暴残忍、人情などは薬にしたくもないというやつだ。時と場所を選ばず、自分の思うところへ自由に現われることができるし、どんな姿にでもなれる。嵐が呼べる。雷が呼べる。また自分より低いもの、鼠とか梟《ふくろう》、蝙蝠《こうもり》、蛾《が》、狐、狼などを下知《げじ》することができるし、自分の身体を小さくすることもできるし、時にはパッと消えて、どこへ行ったんだかわからなくなってしまうこともある。
こういう怪力無双、変幻自在、神出鬼没の相手を、われわれは、いかにして打ち滅ぼしたらよろしいか? だいいち、どこにいるのか、いる場所のまるでわからないやつを、どうやって捜しだして滅ぼすか? ねえ諸君、じつにこれは大仕事だよ。恐ろしい仕事だよ。まかり間違えば、えらいことになる。われわれがこの闘争に失敗すれば、むろん相手が勝つわけだが、負けたわれわれは、一体どうなるか? 命なんか、むろんいらんさ。命なんぞ惜しいとは思わん。ところがだ。万一負けたとなったら、これは生死の問題ではないのだ。つまり、われわれもそいつと同じものになるのだよ。
いいかね、ここが肝心なところだ。負ければ、われわれもそいつと同じように、夜の魔物になる。良心も人情もなく、われわれの最愛の人間を餌食《えじき》に食いあさる、あさましい妖鬼になりさがるのだ。永久に天の門には入ることはできない。これはなんという恐ろしいことか。だが、恐ろしいといって、手をこまねいて引っこんではおられん。われわれは義務に直面しておるのだ。わしなどは、もうこのとおりの老人だからかまわんが、きみたちはまだ若い。まだまだ神の恵み多き、絢爛《けんらん》たる生涯が残されている。その多幸な生涯を、醜怪な悪魔の毒牙の下にむざむざと犠牲にして、それでよいか? どうだね、諸君? わしはここで、諸君の一大決意をうかがいたいのだ」
教授の話のあいだに、ジョナサンが私の手をとった。彼の手がのびてきたのを見て、私は、また彼が恐怖におそわれるんじゃないかと心配になったが、その手にさわってみて、そのしっかりした感じ、いかにも自信ありげな、断固とした手ざわりに、私は活力をおぼえた。けなげな男の手は、おのずからおのれを語る。その調べを聞くには、女の愛すら必要としない。
教授が話しているときに、夫は私の目を見入った。私も彼の目を見入った。二人の間には言葉はいらなかった。
「ミナと私は堅く誓います」と彼はいった。
キンシー・モリスは、あいかわらず簡明直截だった。「先生、ぼくもお仲間に」
「ぼくもご一緒します」とゴダルミング卿がいった。「ほかの理由はとにかく、ルーシーのためです」
ドクター・セワードは、ただ大きくうなずいただけだった。
教授はやおら立ち上がると、テーブルの上にキラキラ光る金の十字架を置いて、両手を左右に大きくひろげて差し出した。私がその右手を握ると、ゴダルミング卿が起立して、教授の左手を握った。ジョナサンが私の左手を握って立ち、前側の人たちもそれぞれ起立して、たがいに手と手をつないで握りあい、かくて六人の手が一つの輪につながって、堅く堅く握りしめられた。無言の誓約が一同の手を通して、六人の胸の中に堅く誓われたのである。六人の目と目が、たがいに見かわされ、十二の目がひとしく感激に輝いた。その感激に言葉もなく、一同が静かに腰をおろすと、教授が、すでに幕は切って落とされたという思い入れで、快活な、むしろ事務的な、坦々たる調子で、ふたたび言葉をつづけた。
「今までの話で、われわれはどんな相手に立ち向かわなければならんかということがわかったね。だが、われわれはけっして無力ではない。この結合、――六人が力を合わせたこの協力は、敵をたおすに足る、尊い力だ。その上、われわれには科学というものが味方についておる。われわれはみな、自分というものを高い犠牲に捧げている。自己を滅却したところに、高い目的を持っておる。その高い目的を、遂行する――これはきみ、えらいことだ。
さて、そこでね、個人の力なんかではとてもおよびもつかぬという証拠をお見せするために、吸血鬼の限界というものを、ひととおり考察してみよう。それには、吸血鬼に関する伝説、迷信というものを、ひととおり見てみなければならない。いろいろ調べた結果、吸血鬼というやつは、古来、人間のいた所にはどこにもいたものなのだね。古くはギリシャ、ローマ、ドイツ全土、フランス、イタリア、中国、いたるところにいたようだ。あの狂暴なアイスランド人の船の跡にもついて行っておるし、悪魔の子なるフン族のなかにもおるし、スラヴ人、サクソン人、マジャール人の中にもおる。こいつはいつまでも生きつづけて、時の経過ぐらいでは死なないのだ。彼らは人間の生き血を吸って生きつづける。生きつづけるどころか、われわれの敵なんぞは、若返っているくらいだ。生活力が旺盛《おうせい》になって、滋養物を充分にとると、若くなるらしいのだな。そのくせ、人間のように、三度の食事というものはいっさいとらん。これはジョナサン君がしばらくいっしょにいても、やつが物を食うところを見なかったという事実を見てもわかる。それから吸血鬼には影がない。鏡に姿が映らない。これもジョナサン君が見たとおりだ。それから何十人力という大力を持っておる。ジヨナサンの日記で見ると、つまり、ドラキュラが群狼《ぐんろう》にむかって城の大戸をバタンと締めた時や、馬車の乗り降りに腕をつかんだ、あの時の大力がこれだ。それから、狼に姿をかえる。これは≪デメテル号≫がホイットビーに難船して着いた時のことでわかる。あの時は飼犬も食い殺されているね。それから蝙蝠に変化《へんげ》する。これはミナ夫人はじめ、みなさんがルーシーの死ぬ前後に窓の外で見ておられるね。それから霧になる。これは≪デメテル号≫の船長の航海日誌でご存知のはずだ。
まだまだたくさんあったね。月光のなかを塵《ちり》になって飛んできたね。これもジョナサンがドラキュラ城で三人の女を見た時に見たとおりだ。それからまた、ごく小さくなる。ルーシーが成仏する前に、墓穴の扉の、髪の毛ほどのすきまから、スルリとすべりこんだようにね。闇のなかで物が見えたり、変通自在に何にでもなったり、どんな障壁があっても自由に出たりはいったりするし、なんでも火でハンダのように溶かしてくっつけてしまう。光を遮断した世界で物が見えるなんで、こりゃきみ、なまやさしい力じゃないよ。まあ、わしのいうことをしまいまで聞きたまえ。
こんなふうに、いろいろまあ変化の妖術をこころえているんだが、しかしやつは、絶対自由というわけではないのだ。奴隷船に押しこめられた奴隷よりも、もっと窮屈で、自由がきかんのだ。自分の領する所なら、どこへでも行けるというわけではないのだ。あれだけ自然の法則にはずれたやつが、どこかでやはり、自然の法則には従わなければならんのだな。なぜだかわからんがね。たとえば、初めてどこかの家へはいる時には、その家の誰かがはいれといわなければ、ぜったいにはいれない。そのあとは、いつでも好きな時にはいれる。それから、他の悪魔と同じように、太陽がのぼると、魔力がきかなくなる。だから、昼のうちは墓の中とか、穴倉の中とかを住み家にして、隠れておるのだ。それから、ゆるい水の流れや潮の流れの中もスイスイ通れるともいわれておる。
ところでね、ここに彼のもっとも嫌いなものが二つあるのだ。それは十字架とニンニクだ。これにあうと、いついかなる時でも魔力がきかなくなってしまうのだね。十字架とはかぎらず、護符でも聖餅《せいべい》でも、神の息のかかったものの前には、いかな魔力もかなわんのだな。だから見たまえ、ルーシーの死骸に神の息のかかった杭を打ちこんだら、ようやく魔力は退散したろう。
そういうわけだから、この魔人の隠れ家を見つけて、そこで神の息のかかった剣なり、銃なりで、相手をひと思いに仕止めてしまうよりほかに、あいつを滅ぼす手はないのだよ。ところが、やつは利口だからね。わしはブダペスト大学の友人のアルミニュース教授に、いろいろあいつの文献を調べてもらったが、あいつはちゃんと文献に出ておる。ジョナサン君の日記にもあるとおり、やつはたしかにトルコ軍に英名をとどろかせたドラキュラ将軍だったのだね。そうしてみると、やつはどうして、ただものではない。あの当時、いや、あれから何世紀かたった今日《こんにち》でも、大いなる奸知と鉄のごとき悪念をもって、暗黒界と人界の間をさかんに跳梁《ちょうりょう》しておるのだ。アルミニュース君にいわせると、ドラキュラ家は、その子孫に、往々当時の人から悪魔としてかつがれた者が幾人か出たけれども、とにかくれっきとした大貴族だそうだ。文献によると、なんでもヘルマンスタット湖の山の上のショロマンスに道場があって、代々そこで魔法を授けたものだそうだが、今のドラキュラはその十代目の師匠なんだそうだよ。記録の中には stregoica(魔女)ordog, pokol(悪魔、地獄)などという言葉が出ておるし、今のドラキュラが吸血鬼だということも、文献にちゃんとのっておる。もっとも、このドラキュラの子孫からは善男善女も多数出ておるわけで、そういう連中の墓は、化けものの住むところを神聖に守っているわけだ。なにしろこの魔物は、善良なものの中に深く根をおろしているので、それが怖い。神聖な霊の乏しい土地は、安閑としておられんのだ」
教授が話している間に、キンシーが先刻からしきりと窓のほうを気にして見ていたが、やがて静かに立って、外へ出て行った。小用でもたしに行ったのだろうと思って、みんなは気にもとめずに、教授の話のつづきに耳をかたむけた。
「ところで、われわれのすることを決めなくてはならんが、このとおり資料はここにたくさんあるから、充分、一つ戦法を練ることにしよう。ジョナサンの調書で、泥の箱が城からホイットビーに着いて、それが全部カーファックスに送りとどけられたことはわかったし、そのうちの幾箱かがどこかへ移されたこともわかった。そこでね、まず屋敷のなかに、箱がまだ何個残っていて、何個なくなっているか、これを第一に確かめてみたいとわしは思うのだがね。なくなった箱はどこへ――」
教授が言いかけたその時、突然、肝をつぶすようなことが起こった。家の外でピストルの音がパン、パンと鳴った。とたんに、窓ガラスが粉みじんに砕《くだ》け、ピストルの弾《たま》が部屋の壁を貫いた。私は悲鳴をあげた。なんだか自分一人が臆病者のようできまりが悪かったが、とにかく一瞬の出来事でみんな総立ちになった。ゴダルミング卿がいち早く駆けよって、窓をあけた。それとほとんど同時に、戸外でキンシーの声がした。
「すまん、すまん! びっくりさせて、悪かった。今そこへ行って話す」
まもなく彼はニコニコ笑いながら、部屋のなかへはいってきた。
「どうも馬鹿なことをやっちゃって、奥さん、ほんとに申しわけなかったですな。さぞびっくりなすったでしょう。いやね、教授が話しておられるうちに、ここの窓のところへ、大きな蝙蝠がきて止まったんですよ。いつもぼくがお先っ走りなんで、アーサーによく笑われるんだけど、前のことがあるから、ぼくはギョッとして、それからピストルで撃ちに表へ回ったんですがね」
「それでどうした? 打ち止めたのか?」と教授は尋ねた。
「それが、どうもよくわからんのです。どうも隣りの森へ逃げたらしいですな」
キンシーはそれきり口をつぐんで、もとの席についた。教授はそのまま話をつづけた。
「とにかく、泥の箱の行方を調べなければならんことと、怪物をあの屋敷の中で捕えるなり、殺すなりしなければならんことと、それからあの泥を浄《きよ》めなければならん。あいつを見つけだすには、正午から日没までのあいだにかぎるのだ。その時間だと、あいつのいちばん力の弱い時にかかれるわけだ。
ところでミナ夫人、あなたはね、われわれの冒険に加わらんほうがいい、今夜は男だけでやります。今は問答無用、あとでゆっくり話します。あなたはわれわれの中の紅一点の立て役者で、ホープなんだから、危険なところへは立ちよらずに、ここで留守番をしていただこう」
それを聞いて、男の方たちはみな、ジョナサンすらほっとした面持《おももち》であった。私はなんだか気がすまないような心持がしてならなかった。しかし、私の加わることが、かえって男の方々のよけいな配慮の種になり、足手まといになることをおそれて、みなさんが私の身を案じるゆえの義侠的配慮を、この際ありがたくお受けすることにした。
その時、キンシーが動議を出した。「話がそうきまったら、一刻も早いほうがいいですな。一刻遅れれば、それだけ敵に時をかせがせることになります。そうすればまた新しい犠牲者が出ることになる。抜き打ちに、早いとこ出かけましょうや」
いよいよ行動の時が迫ってみると、きゅうに私はガックリして、気が遠くなるような気がした。でも私は、みなさんがうしろ髪をひかれて、仕事の邪魔になるといけないと思ったから、男の方たちのご相談から自分をはずしておくために、なにも言わずにいた。いま、みなさんは屋敷へ踏みこむつもりで、カーファックスへ出て行かれた。
男の方たちは、まるで女というものはそんな一大事のなかでも眠られるものだというように、奥さん、あなたは床へはいって、ゆっくり寝ていらっしゃいと言われた。ジョナサンが帰ってきてよけいな心配をするといけないから、あとで横になって寝たふりでもしていよう。
ドクター・セワードの日記
十月一日午前四時――ちょうど、みんなして家を出かけようとしているところへ、レンフィールドから、至急話したいことがあるから来てくれ、と使いがきた。使いの者に、いま手が放せないから、朝まで待つようにと返事をすると、
「でも先生、なんだかひどく大事な話らしいですよ。あんなにせっついているの、見たことありませんね。会っておやりにならないと、きっとまたあばれだしますよ」
使いの者が嘘をいうわけはない。私は「よろしい。では、今すぐ行く」と返事をしておいて、一同に、ちょっと患者を見に行ってくるから、しばらく待っていてもらいたいというと、教授が、
「わしもいっしょに行こう。その患者は、きみの日記で見ると、われわれの問題にも関係があるようだから、前々から一度、調子の狂った時に会ってみたいと思っていたのだ」という。
「ぼくも行っていいだろう!」「ぼくも行く」とゴダルミング卿とキンシーの二人が口をそろえていうと、その尻にのって、ジョナサンまでが「私も行こう」といいだした。私は「では」といって、一同を廊下づたいに病院へ案内した。
病檻へ行ってみると、なるほど患者はそうとう興奮していた。しかし、言語動作はしごく穏当であった。だが、いつになく自意識がはっきりして、ものわかりがよく、ふつうの狂人には見られない異常なものがあった。患者は、自分の理性は正気の人間よりも確かだと考えていた。患者の要求は、今すぐにここを退院して、家へ帰らしてくれというものだった。このとおり、もう完全に治ったし、正気になったのだから、帰してくれと、患者はしちくどく口説《くど》いた末、「ここにおられるみなさんにも、一つ立ち会っていただきたいから、紹介をしていただこう」と言いだした。
精神病院で狂人を紹介するとは、まさに噴飯ものだったが、相手はどこまでも大まじめなので、しかたなし私は紹介の労をとった。
「では、紹介する。こちらはゴダルミング卿、ヴァン・ヘルシング教授、テキサス州のキンシー・モリス氏、ジョナサン・ハーカー氏。私の患者のレンフィールド君です」
驚いたことに、患者は一人一人にいんぎんに握手をしてから、言いだした。――
「ゴダルミング卿、私はウィンダムであなたのお父さんを支持しました。こんどあなたが跡を継がれたと伺って、まことにご愁傷千万です。お父さんはずいぶん人から愛され、尊敬された方だったが、惜しいことをしましたなあ。なんでもお若い頃、お父さんはラム酒のポンチなんか作られて、ダービーの夜なんかにさかんに愛用されたものだったそうですな。……キンシーさん、新大陸はなかなかやりますなあ。まあ、効果はなかなかすぐには現われないだろうが、州の合併を先にやれば、極地と熱帯地方は当然星条旗に加盟してくるでしょう。……ヴァン・ヘルシングにお目にかかれたことは、私としてはじつにうれしい。先生、世俗的な敬称はいっさい略さしていただきますよ。連続的な新発見によって医療界に画期的革命を起こされた方に対して、世俗的なことはお歯に合いませんからな。とにかく皆さんは、それぞれ国民性、遺産、天然の恩恵を持っておられて、この活動的世界に独自の地歩を占めるにふさわしい方々だ。どうか皆さん、私が自由を持つ人間の一人として、正気な人間であるという証人になってください。セワード先生、あなたは科学者であると同時に、博愛主義者で法医学者なんだから、道徳的義務からいっても、かならず私を例外者として考えてくださるだろうと思います」
一同|唖然《あぜん》としたようであった。人間の性格や経歴の知識を無視している私は、彼の理性がだいぶ回復してきたことを信じて、満足の意を表したい心持が切であったが、前々のこともあるので、うっかりしたことはいえないと思い、だいぶぐあいがよくなったようだから、明朝ゆっくり話し合ったうえで、きみの希望に添うようにしようと、当たりさわりのないことをいって、その場を濁すと、彼はそれに不満で、いきなり早口にまくし立てはじめた。
「いや、先生、あんたそれはね、私の希望がわかっていないのだよ。私はね、今すぐに、今だよ、今ここで、すぐにここから出してもらいたいんだ。時間が迫っているんだ。あの草刈りの爺さんと約束がしてあるんでね。セワード先生ともあろう方が、こんな簡単な願いに、何もぐずぐず考えることはありゃしない。否応なく、すぐに聞きとどけてくれるはずだと思うがねえ」そういって、レンフィールドは私の顔を穴のあくほどじっと見入ったが、私が返事をしないのを見ると、他の連中の顔をジロリと見回した。それでもいっこうに手答えがないので、「私の想像はちがいましたかな?」
「いや、ちがやしない」私は正直にいったが、すこしやけくそな気持もあったので、そのまましばらく黙っていると、さっきから患者のようすを熱心に見まもっていた教授が、横合いから患者に向かって尋ねた。
「きみね、今夜ここから出たいという、ほんとうのわけを正直にいってごらん。わしはきみには今夜初めて会ったのだが、平生わしは虚心坦懐、偏見なしということをモットーにしている男だ。わしでよかったら、なんでもいってごらん。セワード君は責任をもって、きみの便宜《べんぎ》をはかってくれるよ」
すると患者は頭をふって、後悔の色を顔にあらわした。教授はさらにつづけた。
「きみはさっきから、正気になったという印象をわれわれに与えようとして、いろいろ理屈をこねておるが、きみの正気には怪しい点があるから、セワード君も『うん』と言えんのだよ。今夜出たいという理由をはっきり、正直にいってごらん。きみがそれをいえば、われわれとしても手を貸してあげられるだろうから」
患者はそれでも頭をふって、「いや、私は何もいうことはありません。先生のおっしゃることは、一分の隙もありません。私が自分で勝手にものがいえるのなら、すぐにも申し上げますけど、私は自分で自分のいいたいことがいえないのです。ただ私は、私を信じていただきたいと、それをお願いするだけです。それが駄目といわれれば、責任は私にありません」
話がへんにまじめくさってきたので、私はそろそろ切り上げ時だと思って、「どうですか、みなさん、もう出かけようじゃないですか。レンフィールド君、われわれはまだ、これから仕事があるからね。じゃあ、おやすみ」
そういって、私が部屋の入口まで行きかけると、いきなり患者が両手をあげて、私に迫ってきた。とっさに私は身がまえた。しかし、それはただの威嚇《いかく》であることがわかった。教授に目くばせすると、教授が目でうなずいてくれたので、私はすこし強面《こわもて》になって、いくらいったって駄目なことは駄目だといってやった。まえに猫をほしがった時にもそうであったが、患者は何か要求が起こると、こんなふうに興奮するのである。そしてそのあとは、かならず手の裏を返したように、げっそりと意気消沈してしまう。果たして今夜もそうであった。私に食ってかかろうとした患者は、いきなりそこへドタンと膝をつくと、両手を拝むように合わせて、急にポロポロ涙をこぼしながら、深刻な顔をして嘆願しだした。
「ねえ先生、私をここからすぐに出してくださいよ。先生の好きなところへ私をやってくださいよ。監督さんにそういって、鎖をつけて、鞭でたたいて、緊衣も着るし、足枷《あしかせ》もはめますからさ。ねえ、後生だから、ここから出してくださいよ。あんた、だれが悪いんだか知らないんだ。それは私にはいえません。いったら、ひどい目に合う。いえません。あんた方、みんな十字架を持っている。だから私をここから助けてください。私の魂を罪から救ってください。ねえ、聞いてますか。わかりますか。私はいま正気ですよ、まじめなんですよ。ねえ、わかりませんか、私はもう気違いじゃない、魂のために戦っている正気な人間です。だから出してください。ここから出してくださいよう」
だいたいこれで発作はおさまると思ったから、私は患者の手をとって、立ち上がらせながら、
「さあ、もうよし。泣かんでいいさ。そら、支度がもうできているから、床へはいって、おとなしく寝るんだ」
彼はいきなり顔を上げて、二、三分私の顔をじっと見つめていたが、やがてしおしおと立ちあがると、ベッドのそばへ行き、ぐったりとそこへ腰をおろした。予期したとおり、前回と同じく消沈がきたのである。それを見とどけて、私たちは引き揚げてきた。
みんなのいちばん後から病室を出たとき、教授がおちついた、上品な声で私にいわれた。「セワード君、今夜のきみを見て、これからもきみは、心に正義を担《にな》っていく人であることがわかって、わしは、はなはだ意を強くしたよ」
[#改ページ]
一九
ジョナサン・ハーカーの日記
十月一日午前五時――ミナが、ついぞ見ないくらい健康そうにみえたので、自分は安心して捜索隊といっしょに出かけた。ミナが留守番にのこって、われわれ男たちを仕事に出してくれることを承知してくれて、ほんとによかったと自分も嬉しい。とにかく、この恐ろしい仕事に彼女が加わることは、なんといっても私には一つの恐怖であった。しかし今は彼女の仕事は一段落ついたのだし、こんなふうに全部の話の筋が、どの点からもわかるように一つにまとめられたのは、彼女の力と頭脳と先見のおかげなんだから、彼女はこれでもう自分の役目を果たしたと考えていいのだし、あとはわれわれに任せておいてくれればいいのだ。
ところで、レンフィールドのようすを見て、みんな少なからず驚いたらしい。病院から書斎まで、みんなものもいわずに黙ってぞろぞろ引き揚げてきたが、書斎へはいるや否や、キンシーがセワード君にいった。
「ねえジャック、あの患者、どうもへんだね。あんな正気じみた気違いって、見たこともないぜ。ぼくにはよくわからんが、何かあの男、差しせまった目的があるんだな。だとすると、気は許せないぞ」
すると教授がいった。「キンシー君のいうとおりだ。狂人のことは、わしよりジョンのほうがくわしいわけだが、あれはやっぱり退院はさせられない男だな。あとで、しまったことをしたと後悔せんようにすることだね。われわれのこれからやる仕事に、あとの祭りは禁物だ」
セワードがなにか夢でも見ているようなふうに、二人に答えた。「私にもよくわからないのですが、しかし先生のご意見には私も同感です。あれがあたりまえの狂人なら、私も彼のいうことを信用してもいいのですが、どうも伯爵に指図されているようなところが、ちらちら見えるので、じつは用心しているのです。まえに猫を飼いたがった時、私の咽喉にくらいつこうとしたことは、いまでも忘れられませんよ。それに伯爵のことを『親分親分』と呼んでいるし、何かあやしい手口で、伯爵の手助けに出ていきたいのかもしれませんな。敵は鼠や狼を使うというんだから、狂人だって手先に使いかねませんからな。どうも出がけにへんなことが持ちあがって、みなさんの出足をくじいたようなことになって、申しわけありません」
教授はセワードの肩に手をかけて、厳然とした中にやさしさをふくめた調子で、「なに、そんな気がねはいらんさ。われわれは最善と思うことをするだけだ。神の慈悲以外にわれわれは何の恃《たの》むものもないさ」
教授がそういっている間に、ゴダルミング卿が見えなくなったと思ったら、小さな銀の呼子《よびこ》を持ってもどってきた。「先方の古家には鼠がたくさんいるだろうから、まさかの時にはこれを吹いて、犬を呼ぼうと思ってね」
まもなく一同は塀を乗りこえて、隣りの屋敷へ忍び入った。月の光が芝生の上に木の影を落としている暗いところを拾い拾い、まず玄関にかかった。教授が鞄のなかから、なんだかいろんな物を取りだして、それを四組に分け、
「いいかね諸君、これからいよいよ虎穴《こけつ》に入るのだよ。われわれの敵は、ただの幽霊ではない。相手は二十人力の豪力無双のやつだぜ。とても人間の力では太刀打ちできんやつだ。つかまれでもしたら、こっちは木っ端《ぱ》みじんだよ。だから、とにかく敵に触られないように身を守らんといかん。これをきみの胸にかけたまえ」といって教授は、いちばん手近にいた私に小さな銀の十字架をわたし、「それからこの花を首にかけて」といって、しおれたニンニクの花輪をくれた。「それから幽霊でない敵には、この拳銃《けんじゅう》とナイフ。懐中電灯は胸にさげて。それから最後に、これはもったいなく扱っちゃいかんよ」といって、聖餅をぽっちりちぎって、袋のなかへ入れてくれた。教授は他の連中にも、私と同じ品をめいめいに一組ずつわたして、「ところでジョン、合鍵はどこへやった?」
セワード君がいくつかの合鍵をガチャガチャためしてみているうちに、やがて合うのがあったとみえて、ガチャンと玄関の扉の錠があいた。閂《かんぬき》をはずして、みんなして扉を押すと、錆びついた蝶番《ちょうつがい》がキイキイ鳴り、扉はわけなくあいた。教授がまず先に立って、「神よ、ご守護を」と念じ、額と胸に十字を切って、それから閾《しきい》のうちへ足を踏み入れた。われわれ四人は懐中電灯をつけて、そのあとにつづいた。
四人の小さな懐中電灯の光がたがいに交錯して、家の中のものの影が、へんな形に照らし出され、壁の上にわれわれの影がボーッと大きく映った。そのとき私は、ふとなんだかわれわれのあいだに、われわれでないだれか別の者がいるような気配を感じた。初めそれは、薄気味わるい家の中のさまから、トランシルヴァニアの恐ろしい経験を思いだしての、私一人の気のせいかと思ったが、よく見ると、他の連中も、やはり私と同じように、ミシリと音がしたり、ゆらりと影が動いたりするたびに、ハッとうしろを振り返って見ている。私はまず、警戒心で身の引き締まるのを感じた。
家のなかは、どこもかしこも埃《ほこり》が厚く積もっていた。床の上などは、何インチとうずたかい埃で、その上にところどころ靴の足跡がついているのは、運送屋がつけて行った足跡にちがいない。埃まみれの壁のすみずみには、大きな蜘蛛の巣がいっぱいかかっており、それにも埃がボロ綿《わた》みたいにつながって下がっている。なかには、埃で重たくなって、破れたままになっている巣もある。玄関ホールのテーブルの上には、鍵の束がのっており、二、三度使ったと見えて、テーブルの上の埃に、それらしい手の跡がついている。教授はその鍵を手にとり上げながら、私にむかっていった。
「ジョナサン、きみはここの家は、弁理士として踏査にきたときに知っているんだな。図面の写しもとったんだから、すくなくともわれわれよりは知ってるはずだ。礼拝堂へはどう行くんだね?」
前にここへきた時、私は礼拝堂へは入ってみなかったが、方角はわかっている。そこで私が案内役に立った。二、三度曲がり角をまちがえたが、やがて低いアーチ形の、鉄縁のついた樫《かし》の扉の前に出た。
「ははあ、ここだな」この屋敷を買い入れたときに私が書いた手紙から写しをとった絵図面に、教授は懐中電灯の光をあてながら言い、合鍵のなかから合うのを捜し出し、そこの扉をあけた。とたんに中から、思いもかけぬ、なんとも鼻もちのならない匂いが、風にのってプーンとにおってきたので、みんな気分を悪くした。ほかの連中は、伯爵に狭いところで会ったことがないが、私は城にいたとき、伯爵が籠《こも》りっきりでいた部屋のなかでも会ったし、あの吹きさらしの荒廃した建物のなかで、生き血をのんでご機嫌でいる時にも会っている。しかし、ここは城にくらべると小さくて狭いし、それに長く空家になっていたのだから、空気もよどんで湿っぽい。土臭い、乾いた沼気《しょうき》のような臭気がこもっているなかに、へんな匂いがまじっている。なんといったらいいか、なま臭いような、血なま臭いような、けもの臭いような、病人の悪臭のような、ものの腐っていくような、すっぱ臭いような――フー、考えただけでも胸のむかつくような匂い! とにかく、この怪物の吐く鼻もちならない息の匂いは、この屋敷にしみついているようで、荒廃した建物のおぞましさをいっそう深めているようだった。
ふつうの場合なら、こんな悪臭に見舞われたのでは、せっかくの計画もよしにするところだが、これはふつうの場合ではない。われわれの目的は高いのだから、そんな匂いがどうのというような肉体的な考慮でへこたれやしない。最初にプーンときたときに、一瞬みんなひるんだあとは、糞溜《ふんだめ》もバラの園とばかり、全員一隊となって、猛然と仕事にとりかかった。
われわれが礼拝堂の内部を調べにかかろうとした時、教授がいった。「最初にまず箱がいくつ残っているか、それを見ることだね。それから、穴だの隙間だの隈《くま》なく調べて、なくなった箱がどうなったか、その手がかりをつかむことだ」
箱の数は、ひと目でわかった。大きな箱だから、勘定を間違えるようなことはない。五十個のうち、残っているのは二十九個だった。そのとき、突然ゴダルミング卿が、むこうのまっ暗な廊下に続く納骨所の入口のほうをキッとなってのぞいた。私ものぞいた。とたんに、ギョッとなった。廊下のかげの中に、私は伯爵のすごい顔を、あの高い鷲っ鼻を、あの赤い目を、あのまっ赤な唇を見たような気がしたからである。それはしかし、ほんのとっさのことであった。
「なんだ、顔が見えたと思ったら、影か」ゴダルミング卿がひとりごとのようにそういうので、私は懐中電灯をそちらへ向けて、そこの廊下へ一歩踏みこんだ。人らしいものはどこにもいない。だいいち、そこは戸口もなく、曲がり角もない。両側にただ壁ばかりがつづいている廊下で、隠れるような場所はどこにもない。私は自分がこわいこわいで、そんなありもしない顔を見たような気がしたのだろうと思って、何もいわずにおいた。
すると二、三分たつと、こんどはキンシーが、何か捜していたすみのほうから、だしぬけにアッとうしろへ飛びさがった。みんなもうだいぶおっかなくなってきた時であったから、そっとそっちのほうをうかがうように見てみると、なんだか星みたいにキラキラ光る、燐光《りんこう》のかたまりみたいなものが見える。ワッといって、みんなうしろへ飛びさがった。とたんに、そこらじゅう一面が生きた鼠だらけになった。
一同声をのんだまま、茫然として立ちすくんでいると、かねてこういうこともあろうかと、心がまえをしていたゴダルミング卿が、一方の戸口へパッと駆けよると、手早く扉にかけてある錠前の鍵をあけ、太い閂をガラガラと抜いて、勢いよく扉をあけるが早いか、ポケットから銀の呼子を出して、ピーッと吹き鳴らした。すると、セワード君の住居の裏手から、ワンワンと犬の吠える声が答えて、またたくうちに二、三匹のテリア犬が、家の中へガサガサ駆けこんできた。われわれは思わず、みな戸口のほうへとよりかたまった。足もとからは埃がもうもうと立ちのぼった。泥の箱は、この戸口から運び出されたものにちがいない。
そうしているうちにも鼠の数はあとからあとからなおもふえるばかりで、見る見るうちに、床の上は鼠の海になってしまった。三匹の犬は、戸口の閾《しきい》ぎわに立ちすくんだままこわくて中へはいれずに、ただウーッ、ウーッといって唸っている。とにかくおびただしい数の鼠で、われわれはとても中にいたたまれず、そこの戸口から表へ出た。
表へ出てから、ゴダルミング卿が入口にすくんでいる犬の中の一匹を抱き上げて、部屋のなかへほうりこんでやった。ほうりこまれた犬は、夢中になって鼠を追っかけまわした。しかし、鼠はたいへんな数だし、そのうえ足が早くて、クルクル、クルクル目まぐるしく動き回るので、さすがの犬も、手も足も出ない。見かねてあとの二匹も同じくほうりこんでやると、とたんに、ものすごい数の鼠が、いっぺんにパッと消えてなくなった。
鼠が消えると、犬はまるで何かの≪ものの怪《け》≫が急に目の前からいなくなったように、にわかに元気になり、逃げ遅れた鼠を追っかけてつかまえ、口にくわえて床にたたきつけたり足で放りあげたりして、さかんに狂いだした。そのさまを見て、われわれもようやくほっとして、元気をとり戻した。扉をあけて礼拝堂にこもっていた怪しい空気を追い出したためにほっとしたのか、それとも、外の空気のなかへしばらく出たのでほっとしたのか、どっちだかよくわからないが、とにかくその時、何か恐ろしい物の影が、ちょうど着物でもぬぐように、スルリとわれわれからとれたことだけは事実であった。
われわれは、あけた出口の扉をしめて、もとどおりしっかりと鍵をおろし、三匹の犬を後ろにしたがえながら、さらに家じゅうの部屋部屋を、残る隈《くま》なく探索しはじめた。広い家のなかには、うず高い埃のほかに、一物もなかった。初めてこの家を見にきたときの私の靴の跡までが、ちゃんとそのままに残っていた。三匹の犬も、もうさっきのような怪しい不安なようすは、それきり見せなかった。もう一度礼拝堂へひきかえしたときには、犬どもはまるで夏の森でウサギ狩りでもするように、はしゃぎまわっていた。
家のなかをすっかり見回って、われわれが玄関口へ出たときには、東の空が白みだしていた。教授がホールの鍵の束のなかから玄関の鍵を見わけ、その鍵で入口の扉に鍵をおろし、おろした鍵をポケットにしまった。
「これで、今夜はまあ大成功だったな。案じていたような怪我もなかったし、なくなった箱の数もはっきりわかったし、われわれの第一歩は、まずこれで無事にすんだわけだ。それにつけても、この第一歩――危険な難関に、ミナさんをつれてこなくてよかったよ。あのいやな匂い、恐怖の光景や物音、あれを見たら忘れられなくて、また寝ても醒《さ》めてもあの思いに悩まされるからね。今夜の収穫でとくにとりたてていうと、一つ教えられたことは、伯爵の使うけだものも、彼の魔力に一から十まで従順なわけではないということだったな。あの鼠どもは、伯爵の命令で出てきたことは出てきたが、アーサー君の小犬に会って、尻尾《しっぽ》をまいて逃げだしてしまったからな。ちょうどきみがドラキュラ城を出ようとした時、伯爵が城のてっぺんから呼んだ狼どもが、子供をとられた母親の泣き叫ぶ声に追い散らされたのと同じさ。
しかし、今後まだわれわれの前には、多くの危険と恐怖がある。さいわい、敵は今夜は猛獣を使わなかった。だから、どこかへ隠れてしまったのだね。上出来だったよ。とにかく、この勝負で、『王手』と大きな声でいえる機会をつかめたのだからね。しかし油断は禁物《きんもつ》だ。いっそう用心して、大いに前進するのだな」
われわれが引き揚げた時、屋敷は物音一つせず、しんと静まり返っていた。ただ遠く病院のほうから、だれやら喚《わめ》き叫ぶ声が聞こえていた。レンフィールドの声にちがいない。かわいそうに、彼はきっと暴れ狂ったのち、よけいな苦しい思いをして、ひとりで苦悶しているのだろう。
自分の部屋に帰ったら、ミナはいいあんばいに、すやすや眠っていた。顔色が少し青いようだ。私は今夜のことで彼女を驚かせたくない。正直のところ、彼女がわれわれのこれからの仕事に加わらないのを、ほんとにありがたいと思っている。この仕事は、女にはとても耐えられないほど緊張が大きい。私もはじめはそうも思わなかったが、今になってよくわかった。だから、ああ決めてよかったと思っている。話を聞いただけでも怯えあがってしまうだろうから。隠しておきたいが、隠したりすれば、彼女のことだから、かえって悪い結果になるかもしれない。そうなると、今後、すっかり片がついて、この地上が地獄の怪物から解放される時まで、われわれの仕事は、彼女には封印をしておかなければならなくなる。われわれみたいな信頼しあっている夫婦間で、黙っているなどということはまず至難のわざだ。しかし、どうやらここが決心のしどころらしい。あすになったら、きょうのことはぼやかして、何も話さないことにしよう。今夜は目をさまさせないように、ソファの上で寝ることにする。
同日午後――みんな、申しあわせたように寝坊をしたのは、むりもないと思う。昼間はいちにち忙しかったし、夜はぜんぜん休息してないのだから。ミナも疲れたものとみえる。それが証拠には、私は日が高くなるまで寝すごしたが、それでもミナの起きる前に目がさめ、二、三度起こしてみたのに、彼女は目をさまさなかった。えらく熟睡したとみえて、目がさめてもしばらくはこちらの顔がわからずに、悪夢からきゅうにさめた人のように、うつろな恐怖のまなざしで私の顔を見入っていた。「疲れたわ」とこぼしていたから、いいから寝ていなさいといって、昼過ぎまで寝かしておいた。ゆうべ、泥の箱が二十一個どこかへ移されたことがわかったので、きょうはそのゆくえを追求しなければならない。何個かずつ運ばれたとすると、みんなで手分けをしてやればいい。そのほうが手間もはぶける。とにかく早ければ早いだけいい。さしあたり、きょうは私は馬車屋のタマス・スネリングを捜し出してみよう。
ドクター・セワードの日記
十月一日――教授が部屋へはいってこられたので目がさめたら、もう正午近くであった。教授はふだんよりばかにご機嫌で、陽気であった。昨夜の仕事で、ひとまず肩の荷をいくらか下ろしたせいにちがいない。ゆうべの冒険談をひととおり蒸しかえしたあと、教授はだしぬけに言いだした。
「きみの患者、あれはおもしろいな。けさ、ちょっと見舞ってみたいんだが、いいかな? きみが手がはなせないなら、わし一人で行ってもいいぜ。とにかく、哲学を語るほど理性のしっかりした狂人を発見したのは、わしには新しい経験だからな」
私はよんどころない急ぎの仕事があったので、待っていて頂いては恐縮だから、先生が一人で行ってくだされば私のほうはありがたいのだといって、さっそく付添士を呼んで、必要な指示をあたえた。教授が出ていかれる前に、「先生、ぼくの患者にへんな印象を与えないでくださいよ」と念をおすと、教授は「いや、わしは生きものを捕って食う当人の妄想が聞きたいんだよ。きのうの日記を読むと、患者はミナ夫人に『以前、自分はこういう信仰を持ったことがあった』と言ったと書いてあるね。――なにをきみはニヤニヤ笑ってるんだ?」
「すみません、どうも。その答えはここにあります」といって、私はタイプに打った物を手にもって、「学殖あるわれらの狂人は、ミナ夫人が病室へはいってくる直前に、蜘蛛や蝿を食べた滓《かす》を口のまわりにくっつけて、生きものを食べるようになった≪いわく因縁≫を述べていたんですよ」
教授は返事のかわりに、ニッコリ笑って、「よろしい。きみの記憶にまちがいはない。わしも思い出すべきだった。こういう記憶と思考の行き違いが、精神病患者の研究をへんに愛敬のあるものにするんだな。とにかく、あの狂人の道楽からは、わしは先賢の学者の研究からえた知識よりも、かえって多くのものが得られそうだよ。あてにはならんがね」
私は仕事をつづけ、まもなくかたづいた。ごく短い時間だったようだが、教授は書斎へ戻ってこられて、入口から、「お邪魔かな?」とていねいに声をかけられた。
「いえ、ちっとも。どうぞおはいりになって。仕事をすましたので、からだがあきました。よかったら、ごいっしょに行ってみますか?」
「その必要はなくなったよ。今ちょっと見てきた」
「おや、そうでしたか?」
「やっこさん、わしのことはたいして買っておらんらしいよ。会見はじきにすんだ。行ったときは、病室のまんなかの床几に腰かけて、膝に肱《ひじ》を立ててすわっとったが、いやに陰気くさい、不足らしい顔をしとった。で、こっちはできるだけ陽気に、せいぜい相手を立てるように話しかけてみたが、ウンともスンとも返事をしない。『わしをご存じないかね?』ときくと、なにをいってやがるといった調子で、『知ってらあ。ヴァン・ヘルシングのばか爺《じじい》さ。さっさと帰んな。その腑ぬけあたまの考えを、どっかへ捨ててきやがれ! ヘン、頭でっかちのオランダ人!』
それっきり、あとはひとことも言おうとしないで、まるでわしが目の前にいないような素知らぬふりをして、苦虫を噛みつぶしたような顔をしてすわりこんどるんだ。そんなわけで、せっかく利口な狂人から学ぶチャンスを失したから、元気づけにミナ夫人と話でもしようと思って戻ってきたようなわけさ。しかし何だな、きみの前だが、彼女ももうあれでよけいな苦しみを嘗《な》めずにすむし、恐ろしいことで悩むこともなくなって、ほんとにわしも喜んどるんだ。おかげで、われわれは手伝ってもらえなくなったが、そのほうがいいんだ」
「それはぼくも同感ですね」と、私は患者のことで教授の気を腐らせまいと思ったから、声に力を入れていった。「ハーカー夫人が参加しなかったことは、よかったですよ。そりゃわれわれだって、二進《にっち》も三進《さっち》もいかなくなったときには、男ばかりでは具合《ぐあい》悪いこともありますが、でも女の人のはいる場所がないですからね。彼女だって、もしあのままずっと事件と接触をつづけていったら、早晩かならずガタガタになってしまいますよ」
教授はハーカー夫妻と話しに行かれた。キンシーとアーサーは、きょうは泥の箱の手がかりを追いに行って留守。私はこれから、回診に行き、それがすむと、今夜はみんなでまた会合することになる。
ミナ・ハーカーの日記
十月一日――きょうみたいに、いちにち気の重い日はめずらしい。ここ何年か、ジョナサンにすっかり任《まか》されて、それこそ彼の生死にかかわる事態を極力避けてきたあとなのに、ふしぎでならない。けさはきのうの疲れで、つい寝坊をしてしまった。ジョナサンも寝坊をしたが、それでも私より早く起きた。出がけに、今までになく、いやにやさしい言葉をかけてくれたくせに、昨夜伯爵の屋敷へ行ってどんなことがあったのか、ひとことも話してくれない。言えば私がまた心配すると知っていたからだろう。気の毒に、さだめしこちらが心配する以上の難儀な目に会ったのにちがいない。私がこんどの仕事に加わらないのは、しごく結構なことだといって、みなさんが賛成なさるので、私も不本意ながら、言うとおりに従ったわけだが、だが、いったい私から何を守ると思っているのか! それもひとえに夫の愛情と、みなさんの善意と希望から出たことだとわかったから、こうして今、ばかみたいになって、声をあげて泣いているしまつだ。
泣いたら、すこし気がさっぱりした。まあ、そのうちにジョナサンが一部始終を話してくれるだろう。隠しごとといえば、おまえだって日記を隠しているじゃないかと言われそうだが、ただその時、彼に読んでもらうために、自分の心底《しんそこ》の思いをいちいちくわしく書いても、もしも彼に、こちらの示す信頼をまともに信じることを恐れるようなことがあったら……なんだかきょうは妙に気がめいって、元気がない。たぶん、ゆうべえらく怖い思いをした、その反動だろう。
昨夜は、みなさんが出がけに、しきりと寝ろ寝ろとおっしゃるので、いわれるままに床へはいったのだが、ちっとも眠くなくて、ただ心配で胸がいっぱいであった。ジョナサンが私に会いにロンドンへ来て以来のいろんなことを一つ一つ考えているうちに、なんだかすべてが一場の恐ろしい悲劇で、しかも運命が刻々にそれを悲運の終局へとむりやり押し流していく……そんな気がしてきた。人間がそんなふうに思うことは、そのとおりにはならないまでも、大体あとで悔《く》やむようなことがおこるようだ。
たとえば、私があの時ホイットビーへ行かなかったら、ルーシーは、今も私たちといっしょにいたのではないだろうか。私が行くまで、彼女はあの古いお寺の境内へは行ったことがなかったのだし、昼間二人であすこへ行かなければ、夜、夢遊夜行であんなところへは行かなかったろうし、あすこへ行かなければ、あの魔人にあんなふうに身を滅ぼされなくてもすんだはずだ。ああ、なぜホイットビーなんかへ私は行ったんだろう? またぞろ、私は泣いている。まあ、きょうの私は一体どうしたというのだろう。自分のことでは今までついぞ泣いたことのない私が――あの人が私を泣かせるようなことをしたことなんか一度もない――朝のうちに二度も声を出して泣くなんて、これはジョナサンには黙っていなければ。あの人が聞いたら、それこそ魂消《たまげ》てしまう。そしらぬ顔をしていよう。泣きそうになっても、そんなそぶりは絶対に見せまい。これはわれわれ女が心得ておくべき教えの一つだとおもう。
ゆうべはどのくらい熟睡したか、自分でもよくおぼえていない。なんでも犬が吠え出して、下のレンフィールドの病檻のあたりから、なんだかえらく激昂してお祈りでもするような妙な声がしたのをおぼえている。私は床から起きて、窓から外をのぞいてみたが、外はいい月夜で、月の光が投げる黒い影がそよともせず、犬の声と妙な音のしたあとは、まるで死か運命がそこらじゅうの物にへばりついているような無気味さで、万物音をひそめて、夜の静寂のうちにひたっていた。ほの白い夜霧がうっすらと草の上に降りていて、それが目に見えないような動きで、こちらのほうへ動いているのが、なんだか霧のなかに知覚と生きている力があって動いているみたいに見えた。つまらないことは考えないほうがいいと思って、私はベッドにもどると、こんどは眠気がさしてきた。しばらく横になっていたが、やっぱり眠れない。私はまた起きだして、窓から外をのぞいてみた。さっきの霧がいつのまにかすっかりひろがって、家の近くまで立ちこめていた。そのとき、レンフィールドのどなっている声が下のほうから聞こえたが、なにをいっているのかよくわからなかった。何かドタンバタン取っ組みあっているような物音がしていたのは、きっと付添いの人ともみあっていたのだろう。
私はなんだかこわくなってきたから、急いで床のなかへもぐりこんで、掻巻《かいまき》を頭までひきかぶり、耳の穴に指を入れて、じっと目をつぶっていた。でも、ちっとも眠くない。と、自分ではその時そう思ったのだが、しかし眠らないはずはなかったと思う。たしかに夢は見ていたようで、夢以外には、朝になってジョナサンに起こされるまで、なにも憶えていない。自分がどこにいるのか一所懸命になって確かめようとしていたし、ジョナサンが私の上に身をかがめていたようにも思う。
だいたい、私の夢というのは変わっていて、起きていた時に考えていた考えが、そのまま夢の中へ溶けこんで、つながってしまうことが多いのだ。私は眠っていて、心配しながら、ジョナサンの帰ってくるのを待っていたように思う。なんだか、からだから力が抜けてしまったようで、手も足も頭も重ったるく、ふだんのペースで事がはこばない。何か不安な気持で、考えごとをしながら眠っていたらしい。そのうちに、妙に息苦しくなり、あたりの空気がしっとりと冷たくなってきたので、急いでかぶっていた掻巻《かいまき》をはねのけてみると、びっくりした。あたりがボーッとしている。寝しなに、ジョナサンが帰ってくるのにと思って、つけたままにしておいたガス灯の灯が、消えそうに細くなって、それが部屋じゅういっぱいに立ちこめている霧のなかで、ぼんやり小さな赤い灯になって瞬《またた》いている。窓はちゃんとしめて床へはいったのに、どうしてこんなに霧がはいってきたのだろうと思ったが、とにかくむしょうに眠くて、立とうにもどうしようにも、手足がいうことをきかない。私はじっと横になって我慢していることにして、目をつぶったが、瞼《まぶた》の裏になんでも見えている。部屋のなかの霧はだんだん濃くなってきた。窓からではなくて、扉の合わせ目から、煙みたいに、あるいは湯気みたいに、霧は部屋のなかへはいってくるのだ。そのうちに部屋のなかが雲みたいに濛々《もうもう》としてきた。その濛々としたなかに、ガス灯の灯が、赤い目玉みたいに光っているのだけが見える。と思っているうちに、濛々とした雲のようなものが、部屋のなかで渦を巻いて、グルグル回りだした。まるで聖書のなかの言葉、「昼は雲の柱、夜は火の柱」のようで、私は頭のなかがグラグラしてきた。ほんとにあの雲は、そういう霊のみちびきで、私の眠りのなかにはいってきたのだろうか? 赤いガス灯の灯がいつのまにか二つに分かれて、まるで赤い二つの目玉のようにギラギラ瞬いている。
私はふと、ルーシーが例の夢遊病のさいちゅう、セント・メアリ寺院の窓の夕日を見ていった言葉を思いだして、急にハッと恐怖におそわれた。そういえば、ジョナサンがある三人の恐ろしい女に襲われたのも、月夜に渦巻く霧のなかではなかったか。そう思ったとたんに、私は夢のなかで気が遠くなり、あたりがまっ暗になった。……
想像がつくった最後の意識的努力で見えたのは、霧のなかから私の上にかがみこんでいる、青ざめた男の顔であった。こういう夢は、あまり度《たび》かさなると人間の理性を奪うから、よくよく気をつけないといけない。教授とセワードさんにお願いして、眠り薬を調剤していただこう。ただそのために、みなさんをびっくりさせては困るが、今夜はなんとかして薬などのまずに、自然に眠るように努力してみよう。そうでないと、あすの晩は、クロラールをもらわなければなるまい。あの麻酔薬は、一回ではべつに害はなく、熟睡できる。ゆうべは眠れない晩よりも、よけい疲れた。
十二月二日午後十時――昨夜は夢一つ見ず、よく眠れた。ジョナサンが床へはいってきても、目がさめなかったところを見ると、よほどよく眠っていたのにちがいない。でも、よく眠れたくせに、気持がさっぱりせず、きょうもいちにち元気がなくぶらぶらしてしまった。
午後、レンフィールドが私に会いたいというので、病檻へ行ってみると、彼は非常におちついていて、私が帰る時、私の手に接吻をして、神に祈ってくれた。ほんとに気の毒な男だ。私は彼のことを考えて、今泣いている。私の泣いたことがジョナサンに知れると、また彼に気をもませることになるから、私のこの気の弱さはよくよく気をつけることにしよう。夕食時間まで、みなさんは留守だったが、やがて疲れて戻ってこられた。せいぜい元気をつけてあげたが、おかげでこっちも疲れているのを忘れた。夕食後、みなさんは私を先に寝かして、煙草をふかしに出て行ったが、それぞれきょう一日のお話がなさりたいのだろう。ジョナサンのそぶりにも、なにか大事な話があるらしいようすが見えた。
私はたいして眠くはなかったが、またゆうべみたいになっては困ると思ったので、みなさんが部屋を出ていかれる前に、セワードさんになにか眠り薬をくださいとねだった。セワードさんはご親切に、すぐに調剤して、これは強くないから、障《さわ》りはないですよといって、お薬をくださった。……それをのんで、眠くなるのを待っているところ。まだ効《き》いてこない。そろそろ眠けがさしてくると、どうぞ過ちをしないようにと、新しい不安がおこる。薬なんかのんで、醒める力がなくなったら、それこそおおごとだ。ばかなことをしちゃったかな。そろそろ眠くなってきた。おやすみ。
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二十
ジョナサン・ハーカーの日記
十月一日夕――私は馬車屋のタマス・スネリングに、ベスナル・グリーンの自宅で会った。あいにく、彼は私が行くというので、それを見越して先に一杯きこしめしていた。一杯きげんでいい心持になり、とても物など思い出せる仕儀ではなかった。私は、わずかに人のよさそうな細君から、彼がスモレットの助手だということを聞きえただけであった。それから私は、すぐその足で、馬車を駆ってワルワースへ行くと、ジョセフ・スモレットはちょうど家にいて、シャツ一枚になって茶を飲んでいるところだった。いかにも好人物らしい、しかも目はしのききそうな、頼もしい労働者の典型といった人物で、例の箱については、仔細《しさい》におぼえていてくれた。彼は尻の下の手文庫みたいな引出しの中から、太い鉛筆をはさんだ、よれよれの手帳をとりだして、私に箱の届け先をいちいち教えてくれた。
それによると、カーファックスから荷馬車で運びだした荷のうち、六個はマイル・エンド新町チックサンド街一九七番地へとどけ、あとの六個はバーモンジーのジャマイカ横町へとどけたのだという。伯爵が自分の避難所をロンドンのどこかへ分散する意向があったとすると、最初にまずこの二カ所を選び、あとはまたあとで、どこかへ分散したものにちがいない。いかにも計画的なやり口で、どうせ彼のことだから、この二カ所だけにかぎるはずはない。これでみると、いまや彼は、北海岸と南海岸の東の端と、南部にいるわけである。都心と、繁華な南西部は別として、北と西を計画の外にのけておくわけはなかろう。そんなことを考えながら、スモレットにいくらかつかませたうえ、ほかにカーファックスから箱を運び出したかどうかを尋ねた。
「こりゃどうも旦那、こんなにいただいちゃ、すみませんね。――じつはね、四日ばかり前の晩に、ピンチャー横町の『うさぎや』で、ブロクサムてえ男が、仲間と話してたんですが、あすこの古屋敷で仕事をしたという話を、あっしゃ小耳にはさんだんですがね。あいつに聞きゃ、きっとわかるだろうと思いますよ」
私は、そのブロクサムという男を見つけしだい、住所を私のところまで知らせてくれるように頼んで、もう一枚金貨をはずんでやると、スモレットは飲み残しの茶をガブリと飲んで立ち上がり、これから一っ走り捜して来やしょうといって、
「こんなむさ苦しいところに、旦那に待っていちゃあもらえねえが、じき捜してきやすよ。あいつは飲みだしたら、手のつけられねえトラでね。旦那すみませんが封筒へ切手を貼って、一枚おくんなせえな。やつの所がわかったら、すぐに今夜そいつをほうりこみますから。先方へお出かけんなるときは、朝早くがよござんすぜ。朝早くなら、やつは家にいまさあ。野郎、前の晩にいいかげんズッコケたって、朝っぱら早くから出かけやがるから。……おい、だれか切手と封筒買って来な」
事はトントンと運び、女の子がこまかい銭を持って、表へ買いに行った。女の子が帰ってきたところで、私はその封筒に私の宛名を書いて切手をはり、旦那、きっと捜しだしますよ、と念をおして約束するスモレットにそれをわたし、よく頼んで帰ってきた。とにかく、これでまず仕事は軌道にのった。
今夜は疲れたので、眠い。ミナはよく寝ているが、顔色がちょっとよくない。目を泣きはらしているようだ。きっと暗闇においてけぼりをされているので気がもめて、二重にわれわれのことが心配になるのだろう。怖い怖いでまいるよりも、こんなふうに落胆して、くよくよ心配してくれるほうが、よっぽどましだ。医師たちはぜったいに恐ろしい仕事から締め出しておけといっている。そのとおりだ。こうやってなにごとも黙っているのもなかなか辛い。よほど意志をしっかりしていなければ。どんな事情があっても、妻とこの問題の話はしないことにする。そうすれば、結局彼女もあれ以来、この問題のことは口に出さなくなり、伯爵のこともいわずにいるから、無言の行《ぎょう》もさしてむずかしくはなさそうだ。
十月二日夕――きょうはいちにち、やけに駆けずりまわった。けさ、朝の第一便で、スモレットから手紙がとどいた。さっそく開いてみると、汚れた紙に鉛筆で、金釘流《かなくぎりゅう》にのたくってある。
「サム・ブロクサム。ワルワース、バーテル街、ポーター・コート四番地、コーコラン方《かた》。でえり人をおたずねあるべし」
私はこの手紙を床の中で受け取った。私はミナを起こさないように、床から起き出た。ミナはまだ眠そうで、ぐったりしていた。どうも顔の色がよくない。きょう捜査から帰ったら、よく相談をして、彼女だけ先にエクセターへ帰すことにしよう。やっぱり自分の家にいて、日常の家事をまめまめしくしていたほうが、身体のためにいいのだ。私は彼女をそっと寝かしておいたまま、セワード氏にちょっと会い、行先をいいおいて出かけた。
ワルワースまで馬車で行ったが、スモレットの書き誤りで、ポッター・コートというのを、ポーター・コートで捜したから、なかなかわからなかった。それがわかったら、コーコランという下宿屋はわけなく知れた。玄関へ出てきた人に、こちらに「でえり人」をしている方がいるかといって聞くと、その人は首をかしげて、
「さあ、知らないね。ここにゃ、そんな人はいませんぜ。でえり人なんて、生まれて初めて聞くね」というから、スモレットの手紙を出して見せると、
「ああ、なんだ。でえり人じゃなくて、代理人だよ。私が代理人だがね。お尋ねのブロクサムは、ゆうべ寝ちまって飲みはぐったビールを飲みに、けさ『ポプラ』へ出て行きましたぜ。仕事先はわからないがね。なんでも新しく建った工場だとかいってたな」
私は礼をいって、『ポプラ』と新しく建つ工場というのを手がかりに、出かけた。十二時少し前に、私は『ポプラ』というカフェを捜しあて、昼飯を食べている労働者の人から、それらしい建物の見当を聞くことができた。そのうちの一人が、クロス・エンゼル街で新しい冷凍倉庫が普請中だから、そこじゃないかというので、私はそこへ馬車を飛ばした。つっけんどんな門番と職工長に聞いて、やっと私はブロクサムの職場にたどりつくことができた。
ブロクサムは、言葉つき、態度は荒っぽい男だったが、なかなかもののわかった≪いなせな≫男で、カーファックスとピカデリーのある家との間を二往復したこと、ものすごい重い大きな箱を九個、自分が荷馬車を扱って、そこの家へ運搬したことを話してくれた。そのピカデリーの家の番地を教えてもらえないかというと、
「さあ、番地は忘れたね。でも、すぐわかりますよ。なんでも建ってからあんまり古くねえ教会か何か、白っぽい建物があって、そこの五、六軒先の家でさ。荷物を出した家も、とほうもねえ古汚《こぎた》ねえ屋敷だったが、その家もそれに劣らねえ古家だったね」
「二軒とも空家《あきや》でしたか? どうやってはいったんです?」
「バーフリートのほうの屋敷には、爺さんが一人いたっけ。その爺さんが箱を積むのに手を貸してくれたが、いやどうも、すげえ力のある爺さんでね。驚いたよ。白い髭《ひげ》をはやした、なんだかゾッとするような痩せた爺さんだった」
私はその言葉を聞いただけで、ゾッとした。
「そいつがおまえさん、その大きな箱をね、まるで茶の一斤箱でも持ち上げるように、軽々とヒョイヒョイ積むんだよ。こっちゃあ、おまえさん、積み終わった時にゃ、フーフーさ」
「ピカデリーの家へは、どうやって中へはいりました?」
「そっちの家へも、その爺さんがきていたよ。むこうの屋敷を出て、あっしらより先に来て待っていたんだろうね。呼鈴を鳴らしたら、その爺さんが出てきて、箱を玄関のホールへ入れるのを手伝ってくれた」
「みんなで九個ですか?」
「そう。最初が五個、二度目が四個だったな。なにしろ、あんなうんざりした仕事はなかったよ」
「箱は玄関のホールへ入れたんですね?」
「そう。大きなホールでね。ほかには何もなかったようだったな」
「鍵は持っていったのですか?」
「鍵なんて使わなかった。戸のあけたてはその爺さんがやったもの」
「その家の番地を、なんとかして思いだせませんかねえ?」
「思いだせねえなあ。でも、造作なくわかりますぜ。玄関まで高い石段のある家でね。そうだ、その高い石段をさ、荷を運び上げるのに、ちょうど通りかかった立ちん坊を三人頼んだっけよ。爺さんが立ちん坊に銭をやってたが、たんまりやったらしいのを、立ちん坊が、これじゃ少ねえって因縁つけやがってね。そうしたらおまえさん、爺さんが野郎の肩をつかんで、いきなり石段の上からぶんなげたよ。野郎ども、泡を食らって、ほうほうの体《てい》で逃げて行きやがったっけ」
私は礼をいって、なにがしかの酒手をおき、すぐにそこからピカデリーへと急いだ。――ブロクサムの話でわかったことは、伯爵があの泥の箱を、自分の手で勝手に動かすことができるということである。それだと、こちらはうかうかしていられない。今までにすでに何個か分散したところをみると、残りの箱も、自分で好きな時を選んで、人の目につかないようにどこかへ移すだろう。……
ピカデリー・サーカスで私は馬車を下りて、西のほうへ少し歩き、青年憲政会のむこうへわたると、ブロクサムの話の、ドラキュラが借りたという家はすぐにわかった。だいぶ長く空家《あきや》になっていた家らしく、窓は埃で曇り、ペンキは剥《は》げちょろけで、金物がむきだしているという古びかた。露台などもこわれほうだいで、かろうじて支えの桁《けた》が残っているばかり。その露台の正面には、近頃まで空家の札が出してあったらしい。それがあれば、前の家主がわかるのだが、いまはその手がかりがない。
見渡したところ、表通りには聞いてみるような家もないから、私は裏通りへ曲がって、そこらにいた馬丁《ばてい》や家僕に聞いてみた。そのうちの一人が、あの家は最近買いとられたと教えてくれたが、前の家主は知らなかった。が、つい近頃まで出ていた「売家」の札に、たしか土地家屋会社のミッチェル信託の名前が書いてあったようだから、そこへ行ったらわかるだろうと教えてくれた。私はミッチェル信託の所番地を聞き、その男に礼をいって、そこからブラブラ歩きだした頃には、暮れやすい秋の日が、そろそろもう暗くなりかけてきた。バークリーの住所人名簿で所在をつきとめ、夜にならないうちにと思って、すぐその足でサックヴィル街の事務所へ行った。
事務所で会ってくれた紳士は、ばかに物腰のていねいな、とっつきにくい人だった。ひととおりの挨拶をしたのち、私がピカデリーの家はだれが買ったのかと聞くと、その人は目を大きく開いて、しばらく考えたのち、
「あれは売れました」それだけいって、あとはブスンと黙りこんでいる。
私は言葉を低くして、「まことに恐縮なのですが、じつはよんどころないわけがありまして、おさしさわりがなければ、あの家を買い入れた方の名前を教えていただきたいのですが……」
相手はしばらく黙っていたが、「あれは売れました」と、前と同じにべもない返事で、「さしさわりはありますな。家屋売買の件は、当ミッチェル信託の手で完全に解決しておりますことでな」
これではいくら押し問答をしてみても埒《らち》はあかない。よし、それなら立場を同じにして話すのがいちばんいいと思って、「お宅のお顧客《とくい》さんは、そうまで秘密を守ってもらえるとは、じつにおしあわせですな。私もじつは同業なんですよ」といって名刺を出し、「べつに物好きで調べているわけではないのです。じつはゴダルミング卿から依頼されましてね、最近売物に出ている不動産を少し調べてもらいたいということなので……」
この言葉で、にわかに話に道がついた。
「や、これはハーカー様とは存ぜずに、とんだ失礼を申し上げました。アーサー・ホルムウッド様には、前にも何度かお部屋のことで、手前どもにご用命《ようめい》がございました。いや、さっそくあの家のことは調査しまして、あちら様のほうへ直接ご返事を差し上げることにいたしましょう」
これで味方が一人ふえた。しいて敵をこしらえることはない。私は礼をいって、セワード氏の住所を教え、そこを辞した時には、外はもうすっかり夜になっていた。くたびれたし、腹もへったので、炭酸パンの店でお茶を一杯のんで、次の下り列車でバーフリートへ戻ってきた。
帰ってみると、ほかの連中もみな戻っていた。ミナは疲れたような青い顔をしながらも、せいぜい明るい元気なところを見せて、お相手をしていた。私はそれを見て、やはりここへ置いてはいけないな、それがもとでおちつけないのだなと、つくづく思った。われわれの協議を傍観させて、こちらの信頼を見せないことでムシャクシャした気持をおこさせるのも、今夜限りにしよう。そう私は思ったが、われわれの恐ろしい仕事から彼女を締め出しておこうという、この賢明な決意をもつには、たいへんな勇気がいった。はじめからみると、だいぶ彼女もあきらめたようだが、あるいは、ときどきふっと身震いの出るような想像がおこるので、われわれの仕事に厭気《いやき》がさしてきたのかもしれない。それならそれで結構なので、そういう気持なら、事がどんどん進んでよけい彼女を苦しめないうちに、ああいう決意をしてよかったと、私は思った。
男たちだけになるまで、私はきょうの発見を言い出すことができなかった。夕食後、みんなのためにも体裁をつくろうために、しばらく音楽など聞かせたりしてから、私はミナを部屋へつれて行って、ベッドに寝かしてきた。どうしたのか、いつになく彼女は甘えて、私を引きとめるようにして離さなかったが、こっちは話すことがたくさんあるので、それとなく逃げてきた。べつに打ち明け話をしなくなっても、夫婦の仲に別条はない。
書斎にもどると、一同は暖炉のまわりにまるく集まっていた。私は帰りの汽車のなかで日記をつけておいたので、報告に先だってみんなにあらましを掴ませておくために、それをざっと読んできかせた。読みおわると教授がいった。
「それは大仕事だったね、ジョナサン。まずこれで、なくなった箱の足どりはつかめた。今いうその家に箱がぜんぶあれば、われわれの仕事も一段落に近いが、もしまだない箱があれば、見つかるまで捜さにゃならん。とにかく最後のとどめをさして、やつを真の死まで追いつめるのだ」
みんなしばらく黙っていると、いきなりモリスがいいだした。
「ねえ、問題のその家へは、どうやってはいるんだ?」
「われわれは隣りの屋敷へはいったんだぜ」とゴダルミング卿が口早に答えた。
「しかしアーサー、それとこれとは違うぞ。隣りの屋敷は壊して入ったが、あれは夜だし、高塀でかこんだ広い庭の中だったんだ。それときみ、ピカデリーのどまんなかで、まっ昼間にしろ、夜にしろ、あすこで強盗にはいるのたぁ大違いだぜ。先方へはいるには、差配から鍵を借りなきゃならないぜ。どうやってはいるのかおれには見当がつかんな。あしたの朝、信託会社からきみンとこへ手紙がくれば、わかるだろうが」
ゴダルミング卿は眉根をよせ、立ち上がって部屋のなかを歩きだしたが、まもなく足を止めると、一座の顔を見わたしながらいった。
「キンシーの頭は、さすがに冷静だ。この強盗事業は深刻になってきましたな。いままではスラスラ運んだけれども、ここへきて、しつけない仕事にぶつかっちゃった。――伯爵の持ってる鍵袋を見つけなければねえ」
一同、朝まではこれといって手を打つ名案もなかった。とにかく、ミッチェル信託からアーサーのところへ手紙がくるまで待つほうがいいということになり、一同、朝食前まで活動に踏みださないということに決まった。一服やりながら、いろんな角度から甲論乙駁《こうろんおつばく》にしばらく時を移したが、その間に自分はこの日記をここまで書いた。ひどく眠いから、ちょっと横になってくる。……
追記。ミナは熟睡中で、呼吸も正しい。睡眠中も考えごとをしているように、額に八の字をよせている。顔色はあいかわらず青いが、でも、今朝ほどのやつれは見えない。あしたの朝になれば、それもよくなるだろう。エクセターへ帰って、自分の家で気ままにやれば、もとのからだになると思う。とにかく、こっちは眠くて、眠くて!
ドクター・セワードの日記
十月一日――私は改めてまたレンフィールドに面くらっている。あんまり急速に気分が変動するので、捕捉するのにまったく骨が折れる。しかしそれが、つねに彼以上の何物かを意味するものなのだから、研究の対象としては、おもしろいなどという段ではないのだ。けさ行ってみると、彼はまるで運命を支配する人間みたいに、傲然《ごうぜん》たる態度をしていた。まるで雲の上から、われわれ人間の卑小を見おろしているといったようすである。私はこんな時こそ、何か得るものがあると思って、尋ねてみた。
「このごろ蝿はどうしたね?」
彼は、何様《なにさま》かとでもいうように莞爾《かんじ》として、
「いやあ、蝿かね。蝿というやつはおもしろいやつじゃ。あの羽根は霊魂の飛翔力《ひしょうりょく》の典型とも言いうるべきものじゃな。むかしの人は蝶を魂に形どったが、あれはうまいことを考えたものだ」
私は彼の類推を論理的に問い詰めてやろうと思って、畳みかけるようにいった。
「ほほう、そうすると、きみがいま研究しているのは、霊魂かね!」
患者の狂気が理性をはぐらかし、ちょっと戸惑《とまど》ったような色を顔にうかべていたが、いままであまり見かけなかった、いやにきっぱりした態度で頭《かぶり》をふって、
「いやいや、違う違う! 霊魂なんて、わしゃいらんよ。わしのほしいのは生命だけさ」彼は昂然と顔を輝かせて、「今のところ、霊魂なんてものはまるで関係ない。生命も、ほしいだけは持っとるから、もうよろしい。先生、あんた肉食動物患者を研究するんだったら、新患一名を入れんといかんぞ!」
どういう意味なのかよくわからなかったから、私はなおも食い下がった。
「そうすると、きみは生命を君臨するのだね。つまり、きみは神なんだな!」
彼はあたかも神のごとく莞爾《かんじ》として、「いやいや、神ではない。わしはな、神の属性を詐称するような、そんな大それたまねはせんさ。だいいち、神の霊的行為などにわしは関心ないからな。まあ、わしの知的立場をいうなればだね、この人間世界において、エノク〔旧約聖書に出てくるカインの長男。信心ぶかい族長の模範者〕が占める霊的な立場というようなところかな」
これは難題だった。エノクに当てはまる立場といわれたって、とっさには思い浮かばなかったから、気ちがい風情《ふぜい》に低く見くだされるのは癪《しゃく》だったが、正直にたずねてみた。
「エノクとどういうところが似てるんだね?」
「エノクは神とともに歩いておるからのう」
この説明がピンとこなかったから、なにをいってやがるんだと思って、すぐに応酬してやった。
「フム、そうすると、きみは生命もいらん、魂もいらんというんだな。どうしていらんのだ?」
相手をまごつかせる目的で口早に、すこしきびしく尋ねてみると、これが効を奏して、患者はたちまち以前のようなへり下《くだ》った態度に無意識にもどると、ペコペコ頭をさげ、答えながらまるで尻尾をふるような態度を見せてきた。
「魂なんかいりませんよ、ほんと、ほんとですよ! あんなもの持ったって、使うことができねえもの。なんの役にも立ちませんや、あんなもの。食うこともできねえし、飲む――」といいかけて、あわてて禁句にでもつかえたように首をすくめ、こずるい目つきで、水のおもてを風が撫《な》でるように、あたりをソッと見まわし、「先生よ、生命ってやつは、ありゃ結局何だね? 人間ってやつは、ほしい物がみんな手にはいりゃ、もうそれ以上ほしがらねえもんだよ。ねえ、そうでしょ? おれには友だちがいる。それも親友がいるんだ、先生みてえなね」とこずるくニヤリと笑って、「だからさ、当分、ここにいりゃあ、食うことには事欠かねえもんな」
そういって、それきりあとはいつもの最後の手の強情《ごうじょう》な沈黙に逃げこんでしまったから、ははあ、やっこさん、気ちがいの頭で、このおれになにか敵意のあることを見てとったんだなと私は思った。こう黙りこんでしまっては、これ以上なにを言っても無駄だと私は見た。ムッとしてむくれているから、そのまま私はそばを離れてきた。
午後になって、彼は私を呼びによこした。ふだんはよほど特別の理由がなければ行ってやらないことにしているが、きょうはちと興味があるので、喜んで腰を上げてやることにした。それにハーカーは手がかりを追及に行って留守だし、アーサーとキンシーも同じ用件で留守なので、時間つぶしにもなると思って喜んだのである。ヘルシング教授は書斎で、ハーカーの提出した記録を読みかえすのに余念がない。全体のこまかい点に関する正確な知識が、なにかの手がかりに光明を投げると考えておられるらしい。教授は仕事中に理由もなく邪魔されることはお嫌いだ。きのうは患者にケンもホロロに振られたけれども、べつにそんなことを気にかける先生でもないからと思って、じつはごいっしょにお連れしたかったのだが、遠慮した。それに、第三者の前では、患者は、私と二人きりの時のように心置きなく話すまいと思ったからでもある。
行ってみると、レンフィールドは病室のまんなかの床に腰かけて、ふつうに見るとなにか沈思黙考しているような格好をしていた。私がはいっていくと、まるで唇にその問いが待ちかまえていたみたいに、さっそく言った。
「魂がどうしたと?」
さきほどの私の推測は、やはり誤っていなかったのである。狂人だって、無意識の脳作用は働く。私はこの問題を究明してみることにした。
「きみ自身は魂をどう思ってるんだね?」と私はたずねた。
彼はしばらく答えずに、あたりを見まわして、その返事になにか霊感のくるのを待つかのように、立ったりすわったりしていたが、やがて言いわけでもするような細い声で、
「おれ、魂なんかいらねえや」といった。
どうやら魂のことがひどく気にかかっているらしい様子なので、私は時には「薄情も親切」とばかり、少しギュウギュウ痛めつけてやることにして、言った。
「きみは生命が好きなんだろ? 生命がほしいんだろ?」
「そうなんだ。でも、もういいんだ。先生も、もうそんなこと、うるさく考えることねえよ」
「しかしさ、魂はいらない、それでどうやって生命がえられるんだね?」
この質問はよくわからなかったらしい。そこで私はさらに攻め立てた。
「いずれはきみもここから出られる時がくるだろうが、そのときは、きみは何千何万という蝿の魂、蜘蛛の魂、小鳥の魂、猫の魂を、ブンブン、ピイチク、ニャーニャー、からだのまわりにくっつけて出るんだぜ。きみはそいつらの生命をとった。そして、魂もいっしょに召し上げたんだからな!」
なにか想像に訴えるものがあったらしく、患者は耳の穴に指をつっこんで、目をつぶり、子供が顔に石鹸を塗られたときのような、しかめ面《つら》をした。そのようすには、なにか私に哀れを感じさせるものがあった。同時にまた、私はそこから、いま自分の目の前にいるのは子供なんだ――顔は皺だらけに老いさらばえ、顎のひげもまっ白だが、この男はほんの子供なんだという教えをうけとった。患者はなにか精神的な動揺を受けていて、しかもこれまで自分の気持で、自分に異質なものをどうやって判断するか、それを心得ていることは明白であった。私はいっしょについて行けるところまで、患者の心のなかにはいって行ってやろうと思った。そこでまず相手の信頼をとりつけることが第一歩だから、指で栓《せん》をした彼の耳に聞こえるように、大きな声でいってみた。
「またね、蝿をとるのに、砂糖がいるんだろう?」
彼はつかつかと私のそばへくると、頭《かぶり》をふって、笑いながらいった。
「たんとはいらんよ。蝿なんて、哀れなやつだよ。結局」といって、ちょっと言葉を切ってから、「だけど、蝿の魂にしょっちゅうブンブンいわれていちゃ、たまらねえな」
「蜘蛛はどうだ?」
「蜘蛛なんか叩きつぶしちゃえ! あんなもん、なんの役に立つんだ? 蜘蛛には食うところもねえし、飲む――」といいかけて、またぞろ禁句を思いだしたように、言葉がとぎれた。
「ははあ」と私はひそかに考えた。「『飲む』という言葉で詰まったのは、これで二回目だな。これはどういうことなのだ」
レンフィールド自身は、言いよどんだのを自分でちゃんと知っているらしい。なぜなら、そのあと、注意をそらすために、あわてて話をつづけていたから。
「もう飼いおきも、溜めおきもしてねえしな。シェイクスピアみてえに、『肉倉のひよこの餌《えさ》に鼠や小鹿』なんてこともあるが、おれはもうそんな馬鹿げたことは、とうの昔のことさ。いまおれの目の前に、ちっぽけな肉食動物が出てきたら、あんたならおれの気をひくために、モグラモチを二本|箸《ばし》で食べるやつはいるかって、聞くだろうな」
「ははあ、きみは歯ごたえのある大きなものがほしいんだな? どうだ、象で朝食が食いたいか?」
「馬鹿なこというもんじゃねえよ」患者はだいぶ正気づいてきたようなので、私はなおも問い詰めてやろうと思って、
「象の魂って、どんなのかなあ?」と反射的にいった。
この≪かま≫はまんまと図に当たって、さっそく彼は偉ぶるのをやめて、また子供にかえった。
「象の魂なんかいらねえさ。魂なんか、なんにもいらねえや」そういって、しばらく考えこんだようにすわりこんでいたが、なにを思ったか、いきなりサッと立ち上がると、目玉をギラギラ光らし、頭にカッときたようすになって、
「やい、魂、魂というやつは、鬼にでも食われちまえ! なんだって魂々と、しちくどくおれに聞きゃあがるんだ! 魂を考えないというんで、さっきから、さんざっぱらおれのことを苦しめやがって、もううんざりだ! 頭がへんになるじゃねえか!」
いまにも飛びかからんばかりの険悪な形相になってきたから、こりゃまた殺人の発作がはじまるなと思って、私は呼子《よびこ》を吹いた。ところが、とたんに彼は手の裏返すようにガラリと打って変わっておとなしくなって、なにやらいいわけめいたことをくどくど並べだした。
「先生、すみません。勘忍してください。べつに人を呼ばなくてもよござんす。もうこのとおり、おとなしくなりましたから。……先生、私が今どんな目にあって、そのためにどんなに苦しんでいるか、それがわかってくだすったら、きっとかわいそうなやつだと思って、先生は許してくれます。どうぞ緊衣なんか着せないでください。私は考えたいんです。あれを着せられると、自由に考えられないんです。ねえ先生、後生ですから、着せないでください!」
どうやら患者は自制心が持てたらしいようすだったから、私は呼子の音で駆けつけてきた付添士たちにも、もう大丈夫だからそっとしておくように、といって帰らせた。レンフィールドは一同の行くのを見守っていたが、入口の扉がしまると、いやに四角ばった丁寧な言葉でいった。
「セワード先生、先生はほんとに私に対して思いやりがあります。なんといってお礼を申し上げていいか、ほんとにありがたいと思っております」
ここまで落ちつけばもういいと思ったから、私は病室を出てきたが、この男の症状には、たしかに熟考すべきことがある。そのうちの二、三の点は、これをうまく整理すると、アメリカの訪問記者がいう「記事」になるようである。たとえば、――
「飲む」ということを禁句にしていること。
どんなものの魂でも、それを負わされるという考えを恐れていること。
「生命」がしだいに枯れていくことを、すこしも恐れていないこと。
魂にとりつかれることは恐れているくせに、生命のより卑しい形を軽蔑していること。
論理的にいうと、これらのことは一つの方向をさし示している。彼は何か今までよりも高級な生命を手に入れるという保証を得たようだ。しかし、高級な生命を手に入れるのはいいが、それを手に入れた結果を、彼は恐れている。――つまり、魂の重荷を負わされることは恐れている。これを総合すると、彼の目ざしているものは、人間の生命だということになる。
では、その保証はどこから得たのか? ――伯爵が彼に保証したのだ! ――ああ、また恐怖の新しいもくろみが、すぐそこへ来ている!
同日夜――回診後ヘルシング教授のところへ行って、自分の感じたことを語ると、教授は非常に沈痛な顔になられた。しばらく事態を考えこんでおられたのち、自分をレンフィールドのところへ連れていってくれといわれるので、私はそのとおりにした。病室の入口までくると、中から、レンフィールドが陽気に歌をうたっているのがきこえた。以前はよくこういうことがあったのだが、今ではだいぶそれも遠い昔のことになったように思われる。中へはいると、おやっと驚いたことには、また前のように部屋じゅうに砂糖をぶちまいていた。秋ももうなかばなので、夏からみると蝿は弱っていたが、それでも部屋のなかへブンブンはいりだしていた。われわれはさっきの話題のことを彼に話させようと持ちかけてみたが、ぜんぜん乗ってこなかった。まるでわれわれがそこにいないように、平気で歌をうたいつづけていた。なにか紙きれを一枚手に持っていて、それを畳んで帳面のあいだにはさんでいた。われわれはとりつく島もなく、はいって行った時と同じように、相手にされずに出てくるよりほかになかった。
なんとも不思議な症状である。とにかく、今夜は監視していなければならない。
ミッチェル信託会社からゴダルミング卿に宛てた手紙
十月一日
謹啓。益々ご清祥賀し上げます。さて本日ハーカー氏より申し越されたピカデリー三四七番地の邸宅売買の件につき、左のとおり書面を以てご報告申し上げます。買主はド・ヴィユ伯爵という、さる外国の貴族の方で、現金で即払いをされました。買主については、これ以上のことは当方何も承知しておりません。右ご返事まで。
ミッチェル信託会社
ドクター・セワードの日記
十月二日――昨夜は、廊下に見張り番を一人おいて、レンフィールドの部屋で何か物音がしたら、すぐに知らせるようにいいつけておいた。夕食後、例によって書斎に会合。ミナ夫人は就寝のため、欠席。ジョナサンの話に一同勇躍した。――寝るまえに、患者の部屋をのぞいたら、いいあんばいに高鼾《たかいびき》で眠っていた。
けさ、見張り番の報告によると、昨夜十二時すぎ、患者はしばしば起きて、何やら大きな声で祈っていた由。患者に聞くと、そのとおりの答えであった。患者のようすに不審の点があったから、よく眠れたかどうか確かめると、ぜんぜん眠れなかったという。なお追及すると、すこし「とろとろ」したといっていた。
ハーカーは、本日は昨日の手がかりを追究、アーサーとキンシーは馬の世話。ゴダルミングは、一同報告を入手すれば一刻の猶予もないから、馬は常時用意しておくのが得策だと考えている。われわれは移動された泥を日の出と日没のあいだに消毒しなければならないし、同じく伯爵も彼の力のもっとも弱いときに、高飛びをしないうちにつかまえなければならない。
ヘルシング教授は、古代薬学の権威者に会いに大英博物館へ出かけて行かれた。古代の医家が考えたような医療は、現代医は受容しないが、教授は昔の魔女や悪魔の医薬療法が、いまにわれわれに役に立つときがありそうだからというので、それを捜しているのである。
夜、ふたたび会合。われわれはついに軌道に乗ったようである。あすの仕事で、いよいよ最後の火蓋《ひぶた》が切られることになるだろう。私はレンフィールドの平静になったのが、何かこのことに関係があるように思われてならない。彼の気分は伯爵の動静に左右されているのだから、あすの怪物退治は、おそらく、彼にも何か微妙な形でその結果が現われることと思っている。
おや、彼だな? ――狂暴なわめき声が、彼の部屋から起こっているようだ。付添士が飛んできて、レンフィールドが怪我《けが》をしたと急報してきた。わめき声が聞こえたから、急いで行ってみると、彼は床に俯伏《うつぶ》せに倒れて、朱に染まっていたという。とにかく、行って見てくる。
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二一
ドクター・セワードの日記
十月三日――前の日記の終わりのところから起こった事件を、思いだせるかぎり、何もかも明細に記録していくことにしよう。思いだせる細部《デテイル》は、なに一つ忘れないように、冷静に記録しておかなければならない。
私がレンフィールドの部屋へ行った時、彼は床の上に左の脇腹《わきばら》を下にして、血の海のなかに倒れていた。身体を動かそうとしたとたんに、これはえらい大怪我をしているとわかった。顔を床にしたたかぶつけたとみえ、半面紫色に腫《は》れ上がっている。あたり一面の血の海は、この顔の傷から出た血だった。患者の身体を上に向かせたとき、そばに膝をついていた付添士がいった。
「先生、背骨が折れているらしいですよ。こら、右の手と足と、それから顔全体が麻癖《まひ》しています」
なんでこんなことが起こったのか、付添士にはまるで見当がつかなかったらしい。彼は狐につままれたようなぼんやりした顔に、深く眉をよせながら、
「どうもわからないなあ。自分で床に頭をぶつけて、こんな顔にしたのでしょうなあ。エヴァスフィールドの精神病院にいた時に、やっぱり一人、手のつけられない若い女の患者で、これをやったのがありました。この首の骨はベッドから落ちて折ったのでしょうが、どうしてこの二つのことが同時に起こったのか、てんで見当がつきません。背骨が折れてれば、こんなに顔は打てないし、ベッドから落ちたくらいで、こんな顔になることはないし……」
「とにかく、ヘルシング博士をすぐに呼んできてくれ。大至急!」
私の言葉に、付添士は飛んで行った。まもなく、寝間着姿の教授があわただしく現われた。教授は患者の姿をひと目見て、それから私のほうへふり返った。私の目のなかに、教授は私の考えを悟ったとみえ、すぐに付添士に聞こえるように、おちついていわれた。
「これはひどいな! よほど注意して診《み》なくちゃならんぞ。困ったな、服を着かえてくるあいだ、ちょっと待ってくれ。すぐ来る」教授は急いで引き返して行った。
患者はもう虫の息だった。とにかく、えらい怪我をしたものだ。教授は外科用の箱をもって、大急ぎでもどってこられた。引き返してこられるうちに、すでに考えをきめてこられたものとみえ、はいってこられるとすぐ、
「きみ、付添いの人に出てもらって。手術後、意識のもどるまで、絶対立入り禁止だ」
「シモンズ、そうしよう。われわれとしてはできるだけのことをしたんだから、きみは部署へ戻ったほうがいい。あとは教授が手術をしてくださるから。ほかにどこかで変わったことがあったら、すぐに知らせてくれよ」と私はいった。
付添士は心得て、静かに部屋を出て行った。教授と私はすぐに患者の傷を調べにかかった。顔の傷は深いものではなく、ほんとうの打ち傷は、運動神経のかよっている部分の頭蓋《ずがい》の陥没骨折であった。
「とにかく、このくぼんだところを正常な状態にもどさんことには。こう滲充《しんじゅう》の早いところをみると、よほどひどいことをやられたのだね。脳の滲充はどんどん増すから、すぐに穿顱《せんろ》をせんといかん。早くせんと手遅れになる」
いっているところへ、ドアをたたく者があった。出ていってみると、廊下にアーサーとキンシーが寝間着姿で立っていた。
「病院の人が怪我だといって教授を呼びにきたんで、キンシーに起こされて飛んできたんだが、あんなに早くぼくが寝こんでしまうなんてことは、いつにもないことなんだがね。おかしいんだよ。――はいってもいいかね?」
私がうなずくと、二人は恐る恐るはいってきた。床の上に血の海を見たキンシーが、声をひそめて、
「これはひどいなあ。どうしたの? かわいそうになあ!」
今、手術をするから、そうすればじきに意識を回復すると思うからと、私は手短かにそれだけいって、教授のそばへもどった。二人は黙って、ベッドの端に並んで腰をかけた。
「すこし待って、凝固した血を先に始末しよう。それでないと、穿顱《せんろ》の個所をみつけるのに時間がかかるから。このとおり、どんどん出血しておるよ」
待っている間、時間がいやに不安なのろさで過ぎた。なんだかひどく私は気が引き立たなかった。私は教授の顔から、つづいて起ころうとしていることについて、なにかを読みとろうとした。そういっているうちにも、レンフィールドがなにかいいだすかもしれない。私はそれが怖かった。とにかく、考えることが恐ろしかったが、死の警告を聞いた人たちのことは、すでに読んで知っていたから、自分の上に何が起こるかは自覚していた。哀れな患者は、しだいに不確かな息づかいをしている。刻々に、いまにも目を開いて、なにかいいだしそうにみえるが、すぐにまた長いいびきが続き、前よりもさらに深い人事不省におちこんでいく。見ている自分がベッドで死にかけているようで、ハラハラする気持がいよいよ追ってきた。自分の心臓の音が自分でドキン、ドキンときこえ、血がこめかみのところを、ハンマーで打つような音をたてて流れるのがきこえた。
室内の沈黙が苦しくなってきた。友だちをかわるがわるに見やると、やはり同じ苦しさをこらえているとみえて、顔が充血し、沈んだ眉をしている。みんな気が気でない気持で、まるで頭の上にばかでかい釣鐘《つりがね》でも吊るしてあって、それが思いもよらない時にガーンと鳴りだしそうな、――そんなハラハラした気持であった。
やがて、患者が急にガクンと弱ってきた。私が教授の顔を見上げると、教授は私の目をキッと見て、「もう一刻を争う。なんとかしてものをいわしてやりたいのだが、よし、耳の上を切ってみよう」
教授はすぐに手術にかかった。しばらくのあいだ、ハッハッと虫の息がつづいていたが、やがて胸が切り裂かれでもしたように、患者の呼吸がしだいに長くなってきた。と思っているうちに、患者の目がきゅうに開いた。そして、たよりない目つきでしばらくあらぬかたをじっと見つめていたが、やがて意外な喜びに目の色が和《なご》んだとおもうと、身体をピクリピクリ痙攣《けいれん》させながら、虫のような声で何かいいだした。
「先生、おとなしくします。……緊衣を脱がしてください。恐ろしい夢を見てました。それでこんなに動けなくなって……私の顔、どうなっていますか? なんだか腫《は》れふさがっているようで、とても痛い」
彼はしきりと首を動かそうとした。が、その力でまた目が上がりかけてきたので、私は静かに首の向きをもとに戻してやった。すると教授がおちついた声でいった。
「レンフィールド君、その怖い夢というのを話してくれんか」
その声を聞くと、患者の顔が、いっときサッと輝いた。
「あ、ヘルシング先生ですね。よく来てくださいました。……口が乾くんです。水をすこし飲ませてください。それから夢のお話をします」
私はキンシーに、「ブランデーを、早く。――ぼくの書斎にある。――早く」というと、彼はさっそく飛んで行って、ブランデーの瓶と水差しを持ってきた。カラカラに乾いた唇を、ブランデーでしめしてやると、患者は少し楽になったようであった。見ていると、傷ついた頭がときどきはっきりするらしい。苦しい混乱のなかから、私のことを抉《えぐ》るようにじっと見つめたあの目を、私は忘れないだろう。
「私はだまされやしない。夢じゃありません。怖いが、ほんとのことです」彼は部屋のなかをキョロキョロ見まわし、ベッドのはしにじっと我慢して腰かけている二人の姿を見ると、言葉をつづけた。「自分がもうはっきりしないなら、あの人たちに聞きたい」そういって、しばらく目をつぶった。それは苦しみからでも眠けからでもなく、まるで自分の耐力をけんめいに集中しているようであった。やがてその目を開くと、さらに力を奮《ふる》いおこして、早口にいいだした。
「先生、早く、私は死にます。でもまだ何刻《なんどき》かあるから、それから死に――いや、もっといやなところへ行きます。もう一度ブランデーで口を濡らしてくだせえ。死ぬ前に、このぶち砕《くだ》かれた脳が死んじまわないうちに、どうしても言っておかなけりゃならねえことがあるんです。あ、ありがとうござんす!……この間の晩、先生にここから出してもらった晩、先生に申し上げようと思ったんですが、あのときは舌がつったようになって、いえなくてね。それを除けば、あの時も今と同じように私は正気だったんです。先生がお帰りになったあと、私は進退きわまって、長いこと悩みました。そのうちに、きゅうに気持がおちついてきて、頭がスーッとしてきて、ああ、おれはこんなところにいるんだなと、自分でわかってきたんです。そしたら、病院の裏のほうで、犬が吠えだしました。あいつがきたんです!」
教授は目《ま》ばたきもせずに話を聞いていたが、このとき片手を出して私の手をギュッと握られた。教授はそしらぬ顔をして、軽くうなずきながら、低い声で患者の話をうながした。
「うん。それで?」
「あいつはいつものように、霧のなかをそこの窓のところへやってきました。ところが、それがいつもの幽霊じゃなくて、ほんものでした。ほんもののあいつが、人間が怒ったときみたいな凄《すご》い目をして、まっかな口で笑いながら、……白い尖《とが》った歯を月の光にキラキラ光らして、木の上からのぞいているんです。犬が吠えるんで、そっちを睨みつけていました。最初私は、あいつの腹はわかっていたけど、はいってこいなんていってやらなかった。すると、いつもの手管《てくだ》で、あいつが言いやがるんです」
「いつもの手管というと?」教授が言葉をはさんだ。
「その時しだいでね。たとえば、天気のいい日だと、蝿を中へ入れてよこします。――羽根に鉄色とサファイア色のついた、大きな太った蝿をよこしたり、背中に髑髏《どくろ》と骨のぶっちがえの印がついた蛾《が》を入れてよこしたり……」
「ドクロ蛾というやつだよ」と教授は私にささやいた。
「……そして小さな声でいいやがるんです。『鼠、鼠、鼠、何百、何千、何万の鼠だぞ。鼠にゃ血がある。赤い命だ。それをくらえば、いつまでも生きるぞ!』私は笑って、とりあわなかった。そしたら、窓のところから呼ぶから、行ってみると、いきなりあいつがサッと手をあげました。すると、声を出して呼びもしないのに何万という鼠が、まるで雲のようにうじゃうじゃ出てきました。その鼠がみんな、目が赤く光っているんです。『この命をみんなおまえにやる。何十年、何百年、何千年。まだまだいくらでも命はあるぞ』そういって、またサッと手を上げると、鼠はいっぺんに消えてしまいました。私はこれだけもらえれば、ありがたいと思って、『親分、おはいんなさい』といって窓を一寸ばかり開けてやると、その細い隙間《すきま》から、あいつがスーッとはいってきました……」
患者の声が弱ってきたから、私はまたブランデーで唇をしめしてやった。患者はその間に、話のつづきの記憶が切れたとみえ、しばらく黙っていた。私が思い出させようとして、声をかけると、教授がとめた。「いま何かいわんほうがいい。思い出せなければ思い出せないでいい。そっとしておけ」
患者は、ふたたび言いだした。「その日いちんち、私は、何かあいつから便りがあるだろうと思って、待っていました。ところが、なんにもくれやしない。蝿一匹くれやしない。……月がのぼった頃、私は腹が立ってきました。すると閉めてある窓から、あいつが挨拶もなしにずかずかはいってきて、霧のなかから赤い目を光らして、ここはおれの所だぞといわんばかりの顔をして、私のことなんか目もくれないんです。しゃくにさわったけれども、いつものような匂《にお》いがしないから、私にゃ、あいつをつかまえることができなかった。なんでもその時、ハーカーさんの奥さんがこの部屋にいたように思いました」
アーサーとキンシーが、腰かけていたベッドから立って、患者のそばへよってきて、きき耳を立てた。教授はギョッとして震えた。しかし顔はますます暗く、きびしくなった。レンフィールドはそれには気づかずに、
「……ハーカーさんの奥さんは、きょう昼間おみえになりましたけど、なんだか前とようすがすっかり変わって、まるで出がらしのお茶みたいでした。……」
われわれはギクリとした。しかし、だれもものをいうものはない。患者はつづけた。
「私は顔色の悪い人には用はないんです。血の気がたっぷりある人でなきゃ。奥さんはまるで血の気がなくなっていました。その時は、私もそうは思わなかったんですが、奥さんが行ってしまってから、私は、あ、そうだ、あいつが奥さんの命をとっているんだなと、あとで気がついたんです。それから私は、むちゃくちゃに腹が立ってね。……ちょうど今夜、あいつがここへこっそりはいってきたところを、いきなり私は武者ぶりついてやりました、気違い力とよくいうし、私も気違いなんだから、そいつを一つ用いてやろうと思って、かぶりついたんです。ところが、敵も今夜は、私と格闘をしにやってきたんですね。私はあいつのことをギュウと押さえつけたから、こいつは勝ったぞ、もう奥さんの命はやらねえぞと思って、ひょいとあいつの目を見たら、もう駄目なんです。燃えつくような、すごい目をしてにらまれたとたんに、こっちは力が抜けてしまいました。あいつは私の腕をサッとすりぬけると、いきなり私のことを目よりも高く差し上げて、いやというほどたたきつけました。目の前が一面の赤い雲になって、雷みたいなえらい音がしたと思ったら、入口からスーツと霧が逃げて行って……」
患者の声がかすかになり、呼吸がますます荒くなってきた。と、突然その時、教授がハッとしたように立ち上がった。
「おい、たいへんだぞ。あいつがここにいるぞ。やつの目的はわかっている。ぐずぐずしてはおれん。みんな、このあいだの晩の≪あれ≫を身につけよう。一刻も猶予《ゆうよ》はできん」
一同の驚愕《きょうがく》はいうまでもなかった。われわれは急いで部屋へとって返し、先夜、隣りの屋敷へ忍びこんだ時の護身用の道具を持って、飛んで出ようとすると、廊下で、すでに用意をととのえた教授に出会った。
「いいかね、これを身体から離しちゃ駄目だぞ。みんな、手ぬかりのないようにな。ああ、困ったなあ! ミナ夫人がきっとやられている!」
私は教授といっしょに、急いで二階の部屋の前までいくと、キンシーとアーサーも、つづいて後から上がってきて、
「どうします? はいりますか?」
「鍵がかかっていたら、破ってはいろう」
「先生、いいですか。婦人の部屋へ――」私が注意すると、教授は私をキッと制して、
「生きるか死ぬかの瀬戸際だ。かまわん。わしがハンドルを回して、開かなかったら、みんなして、扉を押し破れ」
教授がハンドルを回したが、扉は開かなかった。われわれ五人は満身の力をこめて、扉に体当たりをした。メリメリッという音がして鍵が破れ、われわれは開いた扉といっしょに部屋のなかへころげこんだ。
月の光が黄いろいブラインドからさしこんでいて、部屋のなかは、ぼんやりものが見えるくらいに明るかった。見ると、窓ぎわのベッドの上に、ジョナサンが息も絶え絶えになってのびており、その端の床の上に、ミナの白い姿がうずくまっている。ミナのそばに、まっ黒な姿をした、背の高い痩せた男が立っていて、それが飛びこんでいったわれわれのほうへ、いきなり顔を向けた。ひと目見て、伯爵だとわかった。彼は左の手でミナの両手をひっぱり、右手で襟髪《えりがみ》をつかんで、むりやりミナを抱きよせようとしていた。ミナの白い寝衣に血が滴《したた》り、男のはだけた胸にも血がひとすじ走っている。われわれを睨《にら》みつけた伯爵のそのもの凄い形相は、かねがね日記や話で聞いていた段ではなかった。目は妖気《ようき》にらんらんと赤く輝き、高い鷲鼻の小鼻をキッと怒《いか》らして、牙《きば》のような白い歯のむき出た、鮮血したたる口を、猛獣のようにウーッとうならしている。彼は、手籠《てごめ》にしようとしていたミナをいきなりうしろへつきとばすと、われわれのほうへ向かってきた。
その時、教授が聖餅《せいべい》を入れた袋を一手早く彼の目の前につきつけた。伯爵はたじたじとなって、うしろへさがった。そこをすかさず、われわれは手に手に十字架を高くつきつけると、彼はいよいよジリジリとうしろへさがった。その時、月のおもてに雲がかかったとみえ、部屋のなかが暗くなった。急いでキンシーが手探りでマッチをすって、ガス灯をともした。と、明るくなった部屋のなかには、もう伯爵の姿はどこにもなく、ただ白い霧のようなものが、破れた扉口からスーッと出ていくのが見えただけであった。とたんに、こわれた扉が、目に見えない手でえらい音をたててバタンと締まった。
われわれは怪物がいなくなったので、ひとまずホッとして、すぐに気を失って倒れているミナのそばに駆けよった。抱き起こしたミナの口や頬や顎《あご》のあたりには、血がベットリついており、そのために、恐怖にひきつった顔の色がよけい青く見えた。見ると、咽喉から血がひとすじタラタラ流れている。あっ、やられたな! とわれわれはとっさにそのことが頭にひらめき、一同、色を失った。顔にのせているミナの両手の先が、伯爵に握られたので、グチャグチャになって、血に塗《まみ》れていた。その手のかげから、尽きぬ悲嘆の生《なま》のあらわれと思われる、低い哀哭《あいこく》の声がおこった。教授はつと進みでて、彼女のからだにそっと掛け布団をかけてやった。アーサーはミナの顔を絶望的にしばらく見まもっていた、が、やがて室外へそそくさと出て行った。教授が、私にささやいた。
「ジョナサンは吸血鬼の術にあって、気絶している。ミナのほうは、しばらく気がつくまでそっとしておいて、ジョナサンをまず起こさなけりゃいかん。冷水タオルで顔を冷やそう」
さっそく私は、ベッドのわきにあったタオルを水にひたしてわたすと、教授はそれをジョナサンの顔にあてて全身をもみはじめた。そのあいだミナ夫人は、聞くだに胸のつぶれるような声で、さめざめと泣きつづけていた。私は窓のブラインドをみんな上げた。外はいい月夜である。ふと見ると、いつ外へ出て行ったのか、下の芝生の木の影の中を縫うようにして、キンシーが走って行く。おや、伯爵を追いかけているのかな、と思って、私は窓からキンシーの走って行く方角を見わたしたが、その時、ジョナサンがウーンとうめくような声をあげたので、私はベッドのほうへふり向いた。彼は夢からさめたようなキョトンとした顔をして、しばらくあたりを見まわしていたが、私や教授の顔を見て、ハッと気がついたらしく、急いで床の上に飛び起きた。すると失神して倒れていたミナも、ひとりでわれに返ったとみえ、その時フラフラと起きあがり、ジョナサンを見ると、いきなり両手をひろげ、ころげるようにベッドに駆けよろうとしたが、何を思ったか、急に両手で顔をおおうと、そのまま床の上にヘタヘタとくずおれてしまった。
「ど、どうしたんですか、これは?」ジョナサンが床の上にすわったまま、叫んだ。「セワード君、ヘルシング博士、どうしたんですか、これは? 何があったんですか? この血は? ――あっ、あいつ、ここへ来たんだな!」彼は床の上に半身ガバと立ち上がった。「ああ、ミナ! ミナを助けて!」と叫ぶと同時に、ベッドから血相変えて飛び下りた。――彼の中にある男らしさが、とっさの必要に目ざめたのである。「先生、ミナを助けてください! ぼくは行ってくる。まだ遠くは行くまい。あいつを捜してくるあいだ、先生、ミナを守っていてやってください!」
目の色を変えて寝間着のまま飛び出そうとするジョナサンを、ミナは自分の悲嘆も一瞬忘れて、「あなた!」と一声、追いすがるようにしっかりと抱きとめて、「駄目! あなたは私のそばにいてください。私は今夜、あいつにやられました。あなたは危害を受けなかったの。だから、私といっしょにここにいて。みなさんとここにいてちょうだい」
ミナは狂乱のていで、振りきってなおも行こうとするジョナサンの胸に、しっかりとすがりついた。教授と私は二人を引き分けて、とりしずめた。教授は手に持っていた金の十字架をジョナサンに見せて、おちついた声でいった。
「大丈夫、大丈夫、ジョナサン。心配するな。これさえあれば、魔物は近づけんから。しかし、きみが無事で何よりだった。これから奥さんの手当てをして、ゆっくり相談しよう」
ミナは夫の胸にうずめていた顔をあげ、ものもいえずにガタガタ震えていた。彼女の唇がふれたジョナサンの白い寝間着の胸に、ベットリ血の跡がついていた。ミナはハッとして、自分のつけたその血の跡に、一瞬じっと見入ったと思うと、急に両手で顔をおおい、ワッとその場に泣き伏してしまった。彼女は涙のなかから叫んだ。
「私は汚《けが》れています! 私はあいつに汚されました! 私はもう、この人には触っても、キスしてもいけないんです。今こそ、私はあいつが仇敵《かたき》です! もうこうなったら、恐れはしません!」
「ミナ、おまえ、何をいうのだ」ジョナサンは、泣きくずれる妻をやさしく抱き起こしてやりながら、いった。
「おまえ、ぼくに聞かせるために、そんなことをいうのか? 馬鹿だねえ。今夜は何も知らずにいたぼくのほうが、よっぽど罪が深いよ。ぼくのほうが神に罰を受けるところだ」
ジョナサンは泣き入る妻を胸にしっかりと抱きしめた。彼の目が濡れてまばたき、くいしばった唇の上で小鼻がかすかにふるえた。やがて彼は、じっと押さえた平静な口調で、私にいった。そのおちつきに、私は彼自身のギリギリなものを感じた。
「ところで、セワード君、ひとつ話してくれないか。あらましの事実は、ぼくにもわかっているが、今夜起こったことを全部聞かしてくれたまえ」
私は椿事のしだいを逐一話した。ジョナサンは、うわべは顔いろひとつ変えずに話を聞いていたが、伯爵がものすごい格好をしてミナを抱きかかえ、彼の胸の口をあいた傷口に、ミナの口を押しつけようとしていたと話すと、さすがに鼻を怒《いか》らして、目がギラギラとかがやいた。情熱の凝り固まった白い顔が、うつむいたミナの頭の上でピクピク痙攣《けいれん》したが、そのあいだも彼の手は、乱れたミナの髪をやさしく愛情をこめてなでていた。
ちょうど私が話をおわったところへ、キンシーとゴダルミングが扉をノックした。どうぞというと、二人ははいってきた。教授がなにか言いたそうに私の顔を見た。私は教授が、二人がはいってきたのをしおに、不幸な夫婦の双方のいやな思いをそらしてやろうと思っている気持を察知したので、軽くうなずいて、二人が表で見たこと、したことを尋ねた。ゴダルミング卿がそれに答えた。
「どこにも、もう見えない。廊下も見たし、部屋ものこらず見たし。書斎をのぞいたら、そこにもいなかったが、はいった形跡はあった。やつはしかし……」といいかけてベッドの上のくず折れた姿を見て、口をつぐんだ。教授は厳粛な顔をしていった。
「アーサー君、話をつづけて。われわれはここでは隠しごとはいっさいいらん。われわれの望むことは、すべてを知ることだ。さあ、遠慮なく話して」
そこでアーサーはつづけた。
「やつは書斎にはいったのです。ほんの四、五分いたんだろうが、思うさま荒らして行きましたよ。記録を全部焼きやがった。ぼくが行ったときには、白い灰のなかで青い火がチロチロくすぶっていた。きみの蓄音機も火のなかへ投げこんであったよ。蝋管でよけい燃えがよかったんだな」
「別にコピーをとったのが金庫のなかにあるから、大丈夫ですよ」私が横合いからいうと、アーサーの目がちょっと輝いたが、すぐにまた伏目になって、
「それから階下を捜したんだが、影すらないんだ。レンフィールドの病室ものぞいてみたが、あすこにもいなかった。ただ……」といい渋っていると、ジョナサンが「ただ、どうしたんだ?」としゃがれた声で促した。アーサーは頭を下げて、唇を舌で濡らしながら、
「かわいそうに、レンフィールドは冷たくなっていました」
それを聞くと、ミナ夫人がきゅうに顔をあげて、みんなの顔を見まわしながら、
「まあ、レンフィールドが! とうとう、お召し上げになったのねえ!」
私はアーサーがなにか手がかりをつかんで帰ってきていると感じざるをえなかったが、わざと言わないでいるのだと思って、黙っていた。教授がモリスにいった。
「キンシー君、きみはなにか話すことあるかな?」
「ちょっぴりね」と彼は答えた。「こういうことはあるかもしれないが、今のところ、なんともぼくにはいえないな。伯爵がここの家を出てからどこへ行ったか、こりゃぼく、わかると思った。伯爵の姿は見なかったけど、レンフィールドの病室の窓から、蝙蝠《こうもり》が一匹飛びたって、西のほうへヒラヒラ飛んでいったのを見たんです。きっとやつは、なにかに姿を変えて、カーファックスへ帰っていくなと見当つけていたんだが、どうもこれで見ると、やつは別のねぐらを捜しているんですよ。今夜はもう戻ってきませんぜ。もう東の空が赤くなって、じきに夜が明けますからね。仕事はあしただな!」
そう最後の言葉をひとりごとのようにいうと、一同はそのあと、しばらく黙りこんでいた。私は自分の脈搏がきこえるような気がしたが、やがて教授がミナ夫人の頭にやさしく手をおいて、いった。
「そこでね奥さん、お気の毒だが、今夜のことを逐一話してくれませんか。あなたを苦しめる気は毛頭ないけれども、われわれは何もかも知る必要があるのでね。今まで以上に、われわれは機敏に、尖鋭《せんえい》に、死物狂いの熱意をもってやらなければならんのだ。その意気ごみでやれば、すべてが終わる日は、すぐもうそこへ来ておるんだ。今こそ、われわれが生きて学べるチャンスなのだよ」
哀れな夫人は震えていた。夫を自分のそばへしっかりと引きよせ、その胸にしだいに低く首を下げていくしぐさに、私は彼女のはりつめた神経を見た。やがて彼女は、低く下げた首を誇らしげにあげると、教授に片手をさしのべた。教授はその手をとると、身をかがめて恭々《うやうや》しく接吻をして、しっかりと握りしめた。もう一方の手は、夫の手にしっかりと握られており、ジョナサンはあいているほうの腕を彼女の背中にまわして、守ってやるように抱きしめていた。おそらく考えを整理するためであろう、彼女はややしばらく黙りこんでいたが、やがて語りだした。――
「私、今夜は先生のくださった眠り薬をいただいて寝たんですけど、なかなか寝つかれなくて、かえって目が冴えてくるうちに、いろんな怖いことがいっぺんに頭のなかにわいてきましたの。――それがみんな死だの、吸血鬼に関係していることで、血と苦しみと災難のことばかりですのよ」とミナ夫人が夫のほうに向いていうと、ジョナサンは思わず唸った。「あなたが気をもむことないのよ。あなたはどこまでも強く勇気をもって、恐ろしいこのお仕事のあいだ、私を助けてくださればいいのよ。いまこの恐ろしいことをお話しするのが、私にとってどれほど辛いことか、それさえわかっていただければ、私に手を貸してくださることが必要なわけがわかっていただけるはずよ。私も、だから、それが自分のためにいいことなら、なんとかお薬の力をかりても、眠ることにしようときめたんです。たしかに、まもなく眠ることは眠ったらしいんですの。そこのところがまるで憶えていないんですけど、ジョナサンが帰ってきて、私を起こさなかったのか、気がついたら、この人、私の隣りでよく眠っていました。
そのとき、部屋のなかに、うすい白い霧が立ちこめていました。これは前にも私、気づいたことがあって、あなた、お忘れになったかどうか知らないけど、私ちゃんと日記につけておいたから、あとでお目にかけますわ。前のときも、なんだか漠然と怖い感じに襲われて、だれか部屋のなかにいるような感じがしたんですが、今夜も同じでした。で、ジョナサンを起こそうと思って、寝返りを打ったのですけど、この人、グーグーよく寝ているんですの。なんどか揺すってみたんですけど、それでも起きてくれませんから、こわごわ、あたりをそっと見まわしてみますと、いきなりアッと心臓が止まったようになりました。私の寝ているベッドのすぐそばに、霧の中から出てきたのか、それとも、霧がそんな人の形になったのか、一人の背の高い、痩せた、黒い服を着た人がヌーッと立っているのです。私、夫の日記や何かで知っていますから、その男が何者であるか、ひと目でわかりました。蝋みたいな顔に、鼻が高い鷲っ鼻で、それに灯火がさして輪郭が白く光り、唇がまっかで、尖《とが》った白い歯がのぞいています。そしてホイットビーのマリア教会の窓に映る夕焼けに見たような、まっかな目をして、額にジョナサンがシャベルで打ちのめした時のすごい傷あとがあります。しばらくの間、心臓が止まったようになって、悲鳴をあげようにも、全身がしびれたようになって、声がでません。すると、あいつがジョナサンのことを指さして、低い声ですけど、身体じゅうにしみわたるような、なんともいえない恐ろしい声で――『静かにしろ。声を出すと、おまえの見ている前で、この男の頭を打ちくだいてしまうぞ』といいます。
私はもう、術にでもかかったようになって、何もわからなくなってしまいました。あいつはあざけるようにニタリと笑って、私の肩を片手でギュッと押さえ、片手で私の襟元《えりもと》をかきひろげながら、『せっかく骨折った余禄に、何よりもまず、ちょいと一杯、咽喉《のど》しめしをちょうだいするぞ。じっとしていろよ。おまえの血で咽喉をうるおしたのは、これが初めてでも、二度目でもないのだからな』というのです。私はもう、術をかけられたようになって、なんだか押しきっていやだとはいえなくなりました。あいつに見込まれると、だれでもあんなふうになるのが、あいつの手なんでしょうか。ああ、神さま、私を憐《あわ》れんでください! あいつはとうとう私の咽喉に、あの臭い唇をつけました!」
ジョナサンはそれを聞くと、うめいた。ミナはあわれむような目つきで、彼のことをじっと見て、その手を堅く握りしめた。そして話をつづけた。
「私は全身の力が抜けたようになって、半分気が遠くなりました。この恐ろしいことが、それからどのくらいつづいたか、よくわかりませんが、あの恐ろしい、汚《きた》ならしい、ニチャニチャした口が離れるまでには、そうとう長い時間がたったようでした」
思いだせばだすほど、なんともいえない心持だったのだろう。ミナはしばらくぐったりとなって、ジョナサンの胸に身を沈ませていたが、やがて思いきって気をとり直すと、話の先をつづけた。
「すると、あいつがあざけるような調子でいいました。『フン、おまえも他のやつと同じように、おれと知恵くらべをするつもりなのだろう。おれのありかを嗅《か》ぎ出して、おれの計画のじゃまするやつらの手助けをするつもりなのだろう。おれのじゃまをしたら、どんなことになるか、やつらもそろそろわかってきただろうが、そのうち、みっちり思い知らしてくれるぞ。おれはあいつらがまだ生まれぬ何百年も前に、一国の人間を下知《げじ》した男だ。一国の人間に知恵を貸し、一国の人間のために戦争をしたおれだ。そのおれと知恵くらべするとは、片腹痛いわ。おれは敵の裏をかくのは朝飯前だぞ。見ろ、あいつらが掌中の珠《たま》にしているおまえが、いまじゃこのとおり肉と肉、血と血のつながったおれの御一門だ。
まあ、ちょっとのあいだ、せいぜいおとなしくして、おれに絞《しぼ》らせていろ。そうすりゃ、いまにおれの一の子分、いい助人《すけっと》にしてやるわ。そのかわり、おれに寝返りでも打ってみろ。ただじゃあおかないぞ。今に、おれのこの頭が、おまえにひと言≪来い!≫といえば、おまえは野を越え、海を越え、どこからでもおれの迎えにヒョコヒョコやって来るのだ。そうなるには、こうするのよ』
そういって、いきなりあいつは自分の下着の胸をひろげたと思うと、あの長い爪で自分の胸の血の管を開きました。血がサッとほとばしると、いきなりあいつは私の両手を一つ手に握って、片手で私の襟髪をおさえ、むりやり、私の口をその胸の傷口に押しつけました。私は息が苦しくなって、思わずあいつの血をこの口に――ああ、神様、私は何をしたのでしょう? 生まれてからきょうまで、つとめて正しい道を歩いてきた私の――神様、これが、私の宿世《すくせ》の運命《さだめ》なのでしょうか? 神様、私を不憫《ふびん》とおぼしめしてください! 死ぬよりひどい不運に落ちた、このあわれな魂に、お恵みをかけてくださいまし!」そういって彼女は、まるで汚染を拭《ぬぐ》いおとすかのように、しきりと唇をこすりだした。
この恐ろしい話のうちに、東の空が白みかけてきて、部屋のなかのものの形がしだいにはっきりしてきた。ジョナサンは身動きもせずに、じっとしていたが、その顔には、恐ろしい話がすすむにつれて、灰色が朝の光にしだいに濃くなったが、やがて黎明《れいめい》のあかね色の光がさしこむと、白いもののまじった髪の毛に、肉のいろがきわだって暗く浮きあがった。
われわれは、今夜、今後の行動をきめるための協議会をひらくまで、不幸なジョナサン夫婦の声のとどくところに、一人は留守居をすることに話をきめた。
私は確信する。きょうの太陽は、もはや悲惨ではないこの家のうえに、一日の大運行を展開すべく昇るのだと。
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二二
ジョナサン・ハーカーの日記
十月三日――何かしていないと、頭がへんになりそうだから、日記を書く。
今、六時。あと三十分すると、みんなして書斎で食事だ。何も食べたくないのだが、教授とセワード君が、食べなければ最善を尽くせないという。もっともなことである。いよいよきょうがわれわれの最善の日だ。なんでも書きとめておかなければならない。大きなことでも、小さなことでも、おそらく、最後にいけば、小さなことのほうがよけい教えるところが多いだろう。大きいにせよ、小さいにせよ、きょうのミナと自分ぐらい、最悪のところへ乗り上げたものはあるまい。しかし、今こそ、われわれは信頼と希望をもたなければならない。ミナはいましがた、頬に涙を流しながら、「こんどのことこそ、私たちの信念がためされる苦難と試練の時ですわ。きっと神様が最後まで私たちの味方をしてくださいますわ」といっていた。最後まで! ああ神よ、いったいどんな最後なのか! ……とにかく、働くこと、働くこと!
教授とセワード君が、気の毒なレンフィールドを見舞って、帰ってきた。われわれはその処置を真剣に相談した。まずセワード君がいうのに、教授と階下の病室へ行ってみると、レンフィールドは床に倒れていて、顔はひどい打僕傷で腫れあがり、首の骨が折れていたという。
セワード君が、昨夜勤務していた付添士に聞いたところによると、患者は昨夜遅く病室にすわって、なんだかわけのわからないことを告白していたそうだ。そのうちに何か大きな声が聞こえ、レンフィールドが二、三度「神様! 神様!」と叫んだと思ったら、何かものが落ちたような音がしたので、急いでとんで行ってみると、床に顔をうつ伏せにして、レンフィールドが倒れていたのだそうである。教授が、大きな声がしたのは、一人の声か二人の声かと聞いたら、付添士は「わからない、最初二人のように聞こえたが、病室には患者のほかにだれもいるはずはないから、一人にちがいない」といっていたという。
セワード君は、われわれ六人だけになった時に、もう病院ではこの問題に触れないことにしようと思う、事実をいったところで、だれも信じる者はないのだから、といっていた。よしんば検死の場合だって、ただ形式的な尋問だけで、何をいったって、真《ま》に受けるものはなかろう。
さて、われわれはこの次に何をなすべきか。この討論がわれわれのあいだにはじまった時、まず第一にとりきめたことは、ミナには当分いっさいを知らせないことにしようということであった。ミナもこの発案に同意した。あのような絶望の底に打ち沈みながら、しかもけなげに、一抹《いちまつ》の憂いを胸に秘めている彼女のようすは、いかにもあわれであった。
「でも、もうかくすようなことはきっとありませんわ。いままでに、あらかたもう出尽くしてしまいましたもの。いまの私のこの苦しみにくらべたら、いままで堪えてきた苦痛のほうが、どのくらい大きかったかわかりませんわ。ですから、これから先どんなことが起ころうと、それは私に、新しい希望と勇気を持たせるにちがいありません」
「ミナ夫人、あなた、ああいうことが起こったあとで、こわくないかね? いや、あなたに対してではない、あなたに起こったことから、他の者に起こることに対してさ」教授がいつにないあらたまった調子で尋ねている。
「いいえ、こわいことなんかありません。私、もう決心しましたもの」
「どういう決心?」と教授はおだやかにたずねた。彼女のいう意味は、われわれにも漠然とはわかかっていたが、それでもみんな固唾《かたず》をのんだ。
ミナの答えは、まるで一つの事実をさらさら述べるように、平静であった。「私、自分のうちに、私の愛する人に害を与えるものを見いだしたら、その時は死んでしまいます」
「あんた、自殺するんじゃないだろうね?」教授はぶしつけに聞いた。
「いいえ、自殺します。私、自分を愛してくれる友が一人もなくなったら、苦しみを救ってくれる友が一人もなくなったら、何をしても始まりませんもの」
ミナはそういって、教授の顔を意味深げに見まもった。教授は静かに腰をおろすと、ミナの手をとって、厳粛な面持でいった。
「奥さん、ここにいる者は、みんなあなたのためを思っている者ばかりだよ。私はね、奥さん、あなたのためには神のみ心に従って、安楽死《ユータナシア》さえ行なってあげられるんだよ。それが最善のことなら、今すぐにもやってあげてもいいんだよ。しかしね、奥さん――」
一瞬、教授は声がつまったようであった。大きな嗚咽《おえつ》が咽喉にこみあげてきたのを、グッとのみくだして、つづけた。「あなたと死との間に立つ人が、このなかにいるのだよ。死んではいかん。だれの手を借りるにしても、死んではいかん。奥さんの美しい生命を汚したやつが、ほんとうに死ぬまで、奥さんは死んではいかん。あいつが『不死者』でいる間は、あなたの死は、あなたをあいつと同じものにするのだよ。だから生きなければいかんよ。たとえ、死ぬことがありがたい授かりもののように自分には思われても、あなたは生きるために戦いぬき、生きるために努力しなければならん。つまり、死そのものと戦うのだ。日となく、夜となく、無事な時も、危険に瀕《ひん》した時も。いいかね、わしはあの凶悪非道な悪魔がこの世から消えてしまうまでは決して死なない、死を考えないという条件を、あなたの生きている良心に負わせるね」
ミナは、まるで死そのもののような蒼白《そうはく》な顔をして、わなわなふるえていた。まるで潮がさしてくるときに、岸べの砂が震えうごくように見えた。われわれはみな手をつかねて黙っていた。言うことも、することもなかったからである。やがて、ミナの心がいくらか落ち着いてきたらしい。彼女は教授にむかって手をさし出すと、憂いのうちに深い決意の色を見せながら、しみじみ言った。
「お約束します。私、生きます。神様がもしお許しくださるなら、私、かならず生きることに努力いたします。どうか神のみ心によって、いままでの恐ろしい気持が私から消えますように」
私をはじめ一同も、このミナのけなげな言葉を聞いて、ホッとすると同時に、何か力づけられた思いがした。そして、強く生きていこうとする彼女のために、なにごとも耐え忍んで、われわれの仕事を遂行しようという決意をいっそう深くしたのであった。私は彼女に、日記その他は全部金庫のなかにある、あの日記や蝋管を今後も使っていく。だからきみも従前どおり日記をつけていくようにというと、彼女は自分にもすることがあるという期待にひどく喜んでいた。――この喜びが、恐ろしいことと関係のあることに役に立てば……。
教授は例によって、先の先を考えて、われわれの仕事を正確な秩序に整えておいてくれた。
「ところで、先日隣りの邸へ忍び入ったあとの会合の時に、あすこにあった泥の箱は、手をつけんでおこうときめたことは、あれはやっぱりよかったね。あれに手をつけたら、きっと伯爵はこちらの計画を見抜いて、われわれがあすこ以外の場所に向ける苦心を、事前に挫折させる計略をめぐらしたにちがいないと思うよ。敵はまだこちらの意向は知らんからね。いわんや、あいつの隠れ家を浄《きよ》める力がこちらにあるなんて、まず十中八、九まで、やつは知りゃせんさ。そこで、ピカデリーの家を調べて、最後の足どりがわかれば、今後の処置についてのわれわれの知識は、いちだんと前進するわけだ。だから、きょうは天下分け目というところだよ。敵があの姿でいるのも、今夕までだ。あいつはあの何尺四方かの泥の世界だけに閉じこもっているのだからね。あの泥の世界がなくなってしまえば、あいつはもう、大気に溶けこむこともできんし、隙間や穴から姿を消してしまうこともできなくなるのさ。扉の口をはいる時も、人間並みに扉をあけてはいらなければ、はいれなくなる。
そこでね、きょうはひとつ、あいつの隠れ家である泥の箱を、しらみつぶしに捜しだして、そいつを片っぱしから浄《きよ》めてしまおう。もしわれわれの手であいつをとらえて、最後のとどめを刺すことができなければ、しぜんに捕えられて、とどめを刺されるようなところまで、あいつを追い詰めるのさ」
教授の計略に、私はもちろん賛成した。賛成するどころか、いつもながらの水も洩らさぬその綿密さと、周到なその意欲に、私は内心、舌を巻いた。しかし、一方私は、こんなことをしているうちにも、ミナの生命と幸福を左右する時間が、どんどんたっていくことを考えると、気が気でなく、早くその計画を行動に移そうとあせった。私がそれを教授に開陳におよぶと、教授は破顔一笑して、
「まあまあ、きみ、そう急ぎなさんな。急がば回れということもある。いざという時には、われわれの行動はドン、ピシャリさ。しかしね、よく考えてごらん、ピカデリーの家の鍵は、いったいどこにあるのだね? 十中八、九、まずあの家のなかにあるだろう。伯爵が買い入れた家は、ほかにまだ何軒もあるかもしれんのだぜ。その家は、購入から、鍵から、その他何から何まで、みんな、あいつが一人でしたのだよ。また、今後も、いっさい自分でやるだろう。手紙を出す紙もあるだろうし、銀行の通帳や小切手もあるだろう。そういうものが、どこかに隠してあるはずだよ。そういうものを洗いざらいみんな捜し出すのだ。あの都心の、しかもひっそりした場所でさ、あの目まぐるしいような交通の頻繁《ひんぱん》な時刻にだよ。いったいどうやって人目につかずに出たり入ったりできるかね? よほど慎重にやらなきゃならんじゃないか。とにかくだね、そこへ行って家を捜しあてて、家のなかに何があるか、だいたいのところをつかんで、それからいわゆる『穴狩り』というやつでさ、あの古狐をまんまと落とそうという――まず、こんなところじゃないかね?」
「そうときまったら、さっそく出かけましょう。どうもみんな貴重な時を空費していますよ」私が躍起《やっき》になっていうと、教授はますます落ち着きはらって、
「だからさ、ピカデリーのその家へ、どうやってはいるんだよ?」
「そりゃ、どんなことをしたって、はいれますよ。場合によっちゃ、壊《こわ》してはいってもいいでしょう」
「そんなことをして、警察はどうするかね? 警官はどこにでもおるよ。警官はなんというかね?」
私は絶句した。しかし、教授が悠々閑々《ゆうゆうかんかん》としているのは、何かそれ相当の理由があることだとわかったから、私はなるべく穏やかに、
「ま、必要以上にのんべんと待たせないでいただきましょう。正直、私はもう胸がかきむしられるようなんですから」
「そりゃあわかっておる。きみの胸中は察するにあまりある。しかしね、潮が来なくちゃ、船は出んのだよ。わしは考えに考えぬいて、結局、いちばんわかりきった方法が最上だと、そんな気がしているのだ。われわれはあの家へはいりたい。ところが、鍵がない。そうだろう?」
「そうです」
「それならばだ、ひとつ実際にきみがそうなったつもりで、考えてごらん。きみの持ち家に、鍵がなくてきみがはいれん時は、どうするね? 壊し屋という商売があるなんてことは、このさい考えないでだぜ。どうする、きみ?」
「そりゃまあ、信用のできる錠前屋を呼んで、鍵をあけてもらうでしょうね」
「その時、警官はそれに対して文句をいうかね?」
「いやあ、文句なんかいいませんよ。相手が商売人ですもの」
「そうすると」と教授は私のことをキッと睨《にら》みつけながら、「怪しまれるのは、錠前屋を雇った人間の良心であって、雇い主が良心的か悪心的かについては、警官の信用いかんにあるわけだね。警官はそういうことには苦労しているから、相手を見抜くにはなかなか熱心だし、巧妙だからな。
ジョナサン君、きみはこのロンドンにある、――いや世界じゅうのどこの都会でもいい、百軒の空家から鍵をはずしてくるんだね。それがうまくいけば――そういうことがうまくやれる時刻ならば、だれも干渉するやつはいないだろう。いつだったか、こんなことをわしは読んだことがある。その人はロンドンにりっぱな家をもっていてね、夏になると、何カ月か家に鍵をかけて、スイスへ避暑にいく。その留守に、強盗が裏の窓を破って、中へはいった。そして帰りには正面のシャッターをあけて、警官のすぐ目のまえで、堂々と入口から外へ出て行った。やがて強盗は、その家で競売をするという広告を出したから、大人気をあつめた。当日は有名な競売屋を呼んで、本当の所有主がべつにいる品物の売立をした。売立がすむと、強盗は建築屋にその家を売って、いずれ家は壊して片づけることに同意した。警察や当局はこれにできるだけの便宜をはかった。やがてほんとうの家主がスイスから帰ってみると、自分の家はきれいに跡方もなくなっていたという話だ。
これがきみ、すべて正式に、規則どおりに行なわれたんだぜ。だからさ、われわれの仕事も、同じように、すべて正式に、規則どおりにやろうじゃないか、合法的にさ。――あんまり朝早く行くと、警官がうさんくさく思うから、人の出はじめる十時すぎがいいね。その時刻なら、われわれが何をしたって、家主がしているんだろうと思うからね」
私は、なるほどと思わざるをえなかった。おかげで、絶望的なミナの顔もホッとゆるんだのを私は見た。この計画には望みがあった。教授はさらにつづけた。
「いちど先方の家へはいれば、いろんな手がかりが見つかるよ。とにかく、何名か向こうへ行って、あとの連中は泥の箱を見つけに、バーモンジーとマイル・エンドへ急行すること」
ゴダルミング卿が立ち上がって、「そう話がきまったら、僕は家へ電話して、みんなが乗っていく馬車を回させましょう」
キンシーが横合いからいった。「おいおい、ちょっと待った。遠乗りでもするんなら、それもけっこうな考えだが、あの御紋章つきの豪勢な馬車で、ワルワースやマイル・エンドの間道をガラガラ行ったら、ちっと人目につきすぎるんじゃないのか? それよりか道で辻馬車をひろって、目的地のどこか近くで乗り捨てたほうがよさそうだがなあ」
「こりゃキンシー君のいうほうが、合理的だ」と教授がいった。「われわれがしに行くことは、難事なんだからね。できることなら、人に見られたくないからな」
ミナはいよいよ事がおもしろくなってきたようであった。私もこの快挙で、彼女が昨夜の恐ろしかった経験を一時でも忘れてくれれば、うれしいと思った。彼女はいやに青い顔をして、めっきりやつれ、唇から歯が出っぱってのぞくほど、きゅうに痩せが目立ったようである。このことは、いらざる苦痛を当人にあたえると思ったので、私は書かなかったのだが、しかし伯爵に血を吸われたときに、ルーシーの身にどんなことが起こったかを考えると、自分の血が凍りつく思いがする。まだしかし、歯の尖ってくるきざしは見えないが、なにぶんまだ短時間のことなので、時のたつのが不安でならぬ。
われわれの努力の結果と力の配分を協議したとき、そこには新しい疑念の点がいくつかあった。結局、ピカデリーへ出発する前に、隣りの伯爵のねぐらをつぶしてしまおうということに、意見が一致した。万一、やつに嗅ぎつかれた場合にも、破壊工作にはこちらが一歩先んじていなければいけない。そしてやつが完全に人間の姿になっている時、しかもいちばん弱い状態のときに、なにか新しい手がかりがつかめるだろう。
われわれの配置については、教授から提言があった。――カーファックスの屋敷へのりこんだあと、われわれは全員でピカデリーの家にはいる。ゴダルミング卿とキンシーがワルワースとマイル・エンドの隠れ家を見つけて破壊してくる間、二人の医師と私はここに残る。伯爵は昼間のうちはピカデリーに現われることはあるまいが、現われれば、その時そこでやつと対決することになろうと、教授は主張された。とにかく、われわれは全員でやつを追いつめることができそうだというのである。
自分はこの計画に強く反対した。自分としては、どこまでもここに残って、ミナを守るつもりだといった。このことについては、自分は堅く意を決していたつもりだったが、ミナが私の反対をどうしても聞き入れなかった。ミナのいうには、そこへ同行すれば私が役に立つ法律上の問題があるだろうというのである。伯爵の持っている書類のなかに、なにかの手がかりになるものがあることは、私もトランシルヴァニアにいた時の経験でわかる。ミナにいわせると、あの時のことがあるから、伯爵の並々ならぬ力に対抗するには、こちらも総力を結集しなければならぬというのだ。ミナの決意は動かぬので、私も譲歩せざるをえなかった。こんどの挙は、ぜひとも全員が協力してやるべきだ、これが自分の最後の希望なのだと、ミナはいうのである。
「わたしはさ、怖いことなんかちっともないことよ。もうここまで悪いことが重なったんですもの。これから先はなにが起ころうと、そこには希望と慰めの要素があるはずよ。だから、行ってらっしゃい! 大丈夫よ、神さまがついてるんだから。一人でいたって、神さまがちゃんと守ってくださるから」
そこで私も立ち上がって、大きな声でいった。
「よし。では、すぐに行くことにしよう。だいぶ時間をむだにしたから。伯爵はこっちが考えてるより早くピカデリーにくるかもしれんからね」
「そんなことはないさ」と教授が手を上げていった。
「どうしてですか?」
「忘れたかい? ゆうべやつはたらふくご馳走を食ったんだぜ。きょうはゆっくり寝ているさ」
忘れていた! いや、面目ない! あのすごい光景をだれが忘れられようか! ミナはつとめて平静な顔をよそおうのに懸命であったが、内心の苦痛には勝てず、両手で顔をおおうと、肩をふるわせて唸りもだえていた。教授も、彼女に恐ろしかった経験を思いださせるつもりは、毛頭なかったのである。ただ、彼女がそこにいるのが目にはいらずに、自分の知的な努力における事件のなかの彼女の役割をちょっと見失っただけであった。
教授は自分のいったことにハッと気づいて、思慮のなさにふるえ上がり、彼女を慰めにかかった。「いや、奥さん、あんたを尊敬しているわしが、こりゃえらい失言をした。この馬鹿あたまと、おっちょこちょいのこの口が、われながら、怨めしいよ。しかし奥さん、あんた忘れるかね、忘れんかね?」と教授は身を低くして彼女のそばによると、ミナは教授の手をとって、涙のなかから教授の顔を見つめながら、しゃがれた声でいった。
「私、もの憶えはいいほうですから、忘れるものですか。それといっしょにたくさんいい思い出がありますから、みんないっしょにしまっておきます。それより、もうお出かけにならなくちゃいけませんでしょ? 朝食の支度ができてますから、たくさん召し上がって、元気をつけてくださいまし」
朝食に一同が顔をそろえることは、珍しいことだった。われわれはせいぜい陽気に励ましあった。ミナもけさは、いつにない明るい顔をして、元気にふるまった。食事がすむと、教授が起立していった。
「ところで諸君、われわれはいよいよこれから恐ろしい企てに前進する。どうだね、敵のねぐらにはじめて踏みこんだ、いつぞやの晩のように、みなさんもう武装をしたかね? 肉体的防備と霊的防備を?」
一同がうなずくと、「よし、それならよろしい。ところで、ミナ夫人、奥さんは日が落ちるまでは、ここにいて安全ですよ。われわれも日の暮れぬうちに帰ってきます。――ひょっとして――いや、帰ってきます! でも出発するまえに、あなたの武装のもようを念のために見せてください。部屋の備えは、さっきあなたが階下へ行ったときに、わしがすっかり整えておいたから、あすこへはやつははいれません。そこで、あなたの身の守りをこれからさせてもらいます。ここに聖餅のかけらがある。これを天なる父の名において、あなたの額に――」
突如そのとき、並みいる一同の心臓を凍らせるような、ものすごい悲鳴がおこった。教授がミナの額に聖餅をのせたとき、聖餅がミナの額に、まるで白熱した金属の板みたいに、ジューッと肉に食いこんだのである。ミナは痛みをうけるやいなや、すぐにこのことの意味をすばやく悟ったが、痛みとその意味にまいって、このところ緊張しすぎた彼女の本性が、恐ろしい悲鳴の声をあげたのであった。でも、言葉はすぐに考えにはねかえり、悲鳴の反響がまだ消えぬうちにこの反動がくるや、恥じ入る思いにガバと床に身をうずくめてしまった。まるで天刑病者がボロボロのマントをかぶったように、美しい髪が顔にかかった中から、ワッとばかりに号泣の声をあげた。――
「ああ、私は汚《けが》れたものです! 私は汚れたものです! 神様でさえ、私の汚れた身をおいといになるんです! 私はこの恥のしるしを、審判の日までこの額につけていかなければならない! ああ、私は神にも見はなされてしまいました!」
一同は声も出なかった。私は彼女のそばに身を投げると、この救うすべもない嘆きの苦悶に胸裂かれる思いで、彼女を両手でしっかりと抱きしめた。しばらくのあいだ、私とミナは、ふり落ちる涙をともにした。二人をかこんでいる人も、ひとしく私たちから顔をそむけて、人知れず涙をのんでいた。
そのとき、教授が厳粛な声でいった。あまりに厳粛な声だったので、きっと教授はなにか感動したことがあったのだと、私は感ぜざるをえなかった。はたして教授は、専門外のことを話しだした。
「奥さん、あなたは額のその刻印を、神がよろしと見られる時まで、みずから負うていかなければなりますまい。審判の日には、神はかならず地上のあらゆる悪を衣更《ころもが》えさせ、地上にいる神の子たちを救ってくれます。奥さん、よいかね、あなたを愛しておるわれわれは、神が既往のことをご存じであるという印《しるし》のその赤い痣《あざ》は、かならず消える時がきて、あなたの額がもとどおりまっ白になるのを、われわれの目で見ることを祈りますぞ。それまでは、われわれも神のみ心のままに、神の子として、われわれの十字架を背負っていきます。あるいは、われわれは神のお喜びになるような、選ばれたる器《うつわ》になれるかもしれん。神の笞《むち》の跡と恥をかさねて、あるいは神のお召しに上がれるかもしれん。血と涙をとおり、疑念と不安をかさね、神と人との違いになるあらゆることを経た上でね。いいね、奥さん、わかってくれたね」
教授の言葉には希望があり、慰藉《いしゃ》があった。それは諦悟のためにいわれた言葉であった。ミナも私もそう感じ、おもわず老教授の手を片方ずつとって、それに口づけをした。やがて一同、ものもいわずに揃ってそこに膝をつくと、たがいの手を握りあって、たがいのまごころを誓い合った。そしてわれわれ男性同士は、これから各人各様のやりかたで、みんなが愛するミナのために、彼女の悲しみのヴェールを上げてやることを誓い合い、われわれの行くてに横たわる恐ろしい仕事に、どうかよき導きと助けを示してくれるようにと願った。
そんなこんなのうちに、出発の時刻がきた。一同はミナに別れを告げ、いまはあとに心を残すこともなく、きょうの勝利を心に期しながら、まず隣りの邸へと打ちそろって出かけた。
ただ一つ、自分はそのとき心に決したことがあった。それは、もしその結果、ミナがどうしても吸血鬼だということがわかれば、私は彼女を、未知の恐ろしい国へぜったいにひとりではやらないということだ。おそらく、むかし、一人の吸血鬼がたくさんの吸血鬼になったというのも、あの恐ろしい死骸はこの世に仮の宿りができるのだから、神聖な愛があの恐ろしい連中の補充兵となったことがあって、そうなったのだろうと思う。
われわれはカーファックスの屋敷へは難なくはいれた。そして、なにもかも初めての時と変わりのないことがわかった。こんな埃《ほこり》だらけの、腐れかけた空家の変哲もない環境のなかに、われわれが知っているあんな恐怖が根をはっていたなどとは信じられないくらいであった。われわれの堅い覚悟や、以前に降りかかった恐ろしい記憶がなかったら、おそらくばかばかしくて、仕事を進める気などにはなれなかっただろう。べつに書類も見つからなかったし、あれから家のなかを使ったような形跡も、なにひとつなかった。古い礼拝堂には、前に見たときと同じ数だけの泥の箱があった。その前にみんなが立ったときに、教授はまじめな顔をしていいわたした。
「さあ、われわれのなすべき仕事は、この泥を浄めることだがね。この泥は、伯爵があの城の中の礼拝堂から、はるばるここまで持ってきたものだ。してみると、この泥はもとは神聖な土だったのだ。それをあいつは穢《けが》れたものに使っている。神には神をもってむくいるべし。われわれの持つ、より高い神の力で、彼の神を打ち負かすのだ。わかったかね。それでは、浄《きよ》めにとりかかる」
そういって、教授は、鞄《かばん》のなかからネジ回しとヤットコを取りだすと、大きな木箱の蓋《ふた》をあけにかかった。まもなく蓋があくと、へんな生臭い泥の匂いが、あたりにプーンとにおった。しかし、われわれはそんな匂いは物ともせず、黙って教授の手もとをみまもった。教授は鞄のなかから、こんどは小さな箱をとりだし、そのなかから、聖餅を少しちぎって、何か経文《きょうもん》のようなものをとなえながら、それを木箱の中の泥の上にうやうやしくのせた。それから蓋をして、ネジ釘をはめて、箱を元のとおりにした。これで浄めは終わったのである。
こうして一つずつ、箱の蓋をあけては、そのなかに聖餅を入れ、そこに積んである二十何個の木箱の泥を、順々にぜんぶ浄めていった。浄めがすっかり終わると、教授はいった。
「さあ、ここはこれですんだ。これであとほうぼうにある泥が、日の暮れまでにすっかり浄められれぱ、ミナ夫人のさっきの額の火傷はあとかたもなく消えて、もとの象牙のような白い額になる」
われわれが打ちそろって、意気揚々と礼拝堂から出てくると、病院の前から汽車のくるのが見えた。一同は駆け足で駅へ急いだ。ミナが二階の窓から手をふっているのが見えた。駆けながら、私たちも同じように手をふった。
駅へ駆けつけると、ちょうど汽車がホームへはいってきたところであった。(ここまで汽車のなかで書いた)
十二時三十分、ピカデリーにて。――一行がフェンチャーチへ着く少し前に、ゴダルミング卿が私にいった。
「錠前屋は、ぼくとキンシーで見つけてきましょう。あんたはいっしょに来ないほうがいいでしょう。空家へ押し入るったって、事情が事情でやることだから、べつに悪いこととは思えないけど、万一厄介なことがおこるとね。しかしあなたは弁理士だから、後学のためにいろんなことを知っておいたほうがいいかな。なんなら、われわれといっしょに行きますか?」
私が、そのご斟酌《しんしゃく》にはおよばないから、両君にご足労を願いましょうというと、彼はつけくわえていった。
「それに、人数の多くないほうが、人目にもつかないし、こんなときには、肩書がものをいうんでね。私なら鍵前屋も巡査も、べつに怪しまないから、あなた方三人はグリーン・パークへでも行って、あの家の見えるあたりでしばらく待っててください。玄関の扉がうまくあいて、鍵前屋が引き揚げて行ったら、その時きてもらいましょう。こっちはなかからのぞいていて、うまくあなた方をなかへ入れますから」
「そいつは名案だ。よろしくお願いするよ」
教授がいうと、二人は、おりからそこへ通りかかった流しの辻馬車を呼びとめ、それに乗って、別の方角へ走っていった。あとに残った三人は、そこからぶらぶらグリーン・パークへはいっていった。あれほどわれわれが希望を集中していた家が、しゃれた界隈の家並のなかに、いかにも空家然と、陰気くさく、しーんとそそり立っているのを見て、私は胸がドキドキした。やがて目当ての家の見晴らせる、木陰のベンチに三人は腰をおろし、できるだけあたりに目立たぬような、何気ないようすをして、煙草をふかしだした。待つ身にとっては、時のあゆみが鉛《なまり》の足のように思われた。
やがて、一台の四輪馬車がガラガラやってきて、例の家の前に止まったのが見えた。なかから、ゴダルミング卿とキンシーが、いかにものんきそうなようすをして降りた。つづいてうしろの席から、道具袋をかついだ一人の職人風の男が降りた。キンシーが車賃を払うと馭者《ぎょしゃ》は高帽子にちょっと手をやって、そのまま馬車を返して行ってしまった。二人は並んで玄関の石段を上がる。ゴダルミング卿が何か手まねをして、職人にさしずをしている。職人は悠々閑々と上着をぬいで、それを入口のわきの鉄柵にひっかけ、ちょうどそこへ通りかかった巡査に何かいっている。巡査はしきりとうなずいている。職人はどっかりそこにしゃがみこんで、そばにおいた道具袋のなかをひっかきまわしていたが、やがて中からとりだした何本かの道具を、自分のわきにきちんと並べ、それから立ち上がって、鍵穴をのぞき、口でフッと息を吹きこみ、何か二人でいっている。ゴダルミング卿がニコリと笑うと、職人はかなり大きな鍵の束を持ち上げて、そのなかから一本抜いたやつを、鍵穴へさしこんで、しきりにガチャガチャやっている。しばらくガチャガチャやっていたが、穴に合わないとみえて、二本目を試み、さらに三本目をためした。三本目の鍵でようやく錠があき、軽く押した扉がなかへ開いた。三人は玄関のなかへはいって行った。
われわれ三人は、それでもまだ、ベンチにじっと腰をかけていた。だいぶん待ってから、職人が出てきたと思うと、こんどは道具袋をもってなかへはいった。そして、半分ほどあけた扉を膝のあいだに挾《はさ》んでしっかりと押え、しきりとガリガリやって鍵を錠に合わせている。やがてできあがった鍵を、職人がゴダルミング卿にわたすと、ゴダルミング卿は財布を出して、なにがしかの金を払ってやった。職人は帽子にちょっと手をかけ、それからゆっくりと上着に手を通し、重そうな道具袋をよいしょと肩にかつぐと、そのまま帰っていった。――この間、通行人のなかで、だれひとり特別の注意を払ったものはなかった。
職人の姿が見えなくなったところで、われわれ三人は通りをわたって、玄関をたたいた。すぐにキンシーが扉をあけると、そのそばに、ゴダルミング卿が葉巻を吹かしながら立っていた。
「ここの家も、なんだかへんな匂いがするんだよ」
われわれ三人がなかへはいると、ゴダルミング卿が顔をしかめながらいった。なるほど、カーファックスの礼拝堂のなかみたいな、生臭い、へんな匂いがする。われわれはさきの経験で、伯爵がこの家を、そうとうちょいちょい使っていることを確認した。それからみんなして、家捜しにとりかかった。われわれは敵の襲撃にそなえるため、五人いっしょにかたまって、家のなかを歩きまわった。玄関わきの食堂に、泥の箱が八個あった。九個のうち八個は捜しあてたわけである。しかしまだあと、なくなった一個を捜し出さなければならない。窓の鎧戸《よろいど》をあけてみると、窓の下の敷石を敷いた狭い庭のむこうに、小さな厩《うまや》がある。この部屋には、ほかに窓はないから、なかで何をしていようと、外からのぞかれる心配はない。われわれはゆうゆうと八個の箱の蓋をあけて、礼拝堂でしたのと同じ浄めの行事をおこなった。この家のなかに伯爵は今いないこともわかったから、ほかにも彼の所有物が何かありはしないかと、われわれはほうぼうの部屋を捜索した。
地下室から屋根裏まで、一部屋一部屋、克明《こくめい》に見てまわったが、結局、伯爵の所有物がおいてあるのは食堂だけ、という結論をえたので、食堂をしらみつぶしに家捜《やさが》ししてみることにした。大きな食卓の上に、なんだか雑然といろんなものがのっている。そのなかに、ここの家を買い入れた時の証文が、一くくりになってあった。それからマイル・エンドとバーモンジーの家の証文もあった。あとは書簡紙に、封筒に、ペンに、インキ。こういったものが、テーブルの上にひとまとめになって、埃《ほこり》のかからないように、上に紙がかぶせてあった。それから衣装ブラシ、頭髪用のブラシに櫛《くし》、それと水差しと洗面器。洗面器のなかには、血のまじったような赤味をおびたきたない水がはいっていた。あとは大小さまざまの鍵の束。おそらく、この家のものではない鍵もまじっているのだろう。
そんなものをわれわれが調べているうちに、ゴダルミング卿とキンシーとは、東部と南部の家の番地をくわしく書いた紙きれと、いま発見した鍵の束とをもって、そっちの泥の箱をぶち壊しに出かけていった。残ったわれわれ三人は、今ここで、二人の帰ってくるのを、――あるいは伯爵のやってくるのを、気ながに待っているところである。
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二三
ドクター・セワードの日記
十月三日――ゴダルミング卿やキンシーの帰りを待っているあいだ、時間のたつのがいやに長く思われた。教授は、われわれ二人の気がゆるまないように、しじゅう気を配っておられた。彼はさっきから、ジョナサンの顔を気にしては、ちらりちらりとうかがって見ている。気の毒に、ジョナサンは見るもむざんな不幸にあって、すっかり打ちのめされたようになっていた。昨夜はあんなに元気で、丈夫で、若々しかった彼が、一夜のうちに見る影もなく憔悴《しょうすい》し、よぼよぼの老人みたいになっていた。目はくぼみ、髪はにわかに白くなり、顔の皺《しわ》も目立つほどふえたようであった。しかし、きのうまであった元気がなくなったわけではなく、妙にそれが内攻して、まるで火の玉を内にかかえたみたいになっていた。内攻でもなんでも、この元気が残っているあいだは、まだ脈がある。うまくいけば、この絶望の難関を切り抜けることができるかもしれない。
教授はしかし、そんなことは百も承知のようで、だから、しきりと彼に元気をつけるような話ばかりしていた。教授のいわれたことは、今の場合、まことに興味|津々《しんしん》たる話であった。憶えている限りをここに記録しておく。――
「わしはあの怪物のことは、手に入るかぎりの文献に全部当たってみて、考えに考え、研究に研究を重ねた結果、結局、あいつを締め出してしまうのがいちばんいいと思ったのだ。すべてを通じて、あの男の進歩向上のあとは著しいものがある。力ばかりではない。知識の上でもね。ブダペストの友人のアルミニュースの研究によると、あいつは生きておった時は、なかなかすばらしい男だったのだね。軍人、政治家、錬金術師、――錬金術といえば、むかしは最高の科学知識だったのだからね。ずぬけた頭で、比類のない学があり、そのうえに、恐れと悔いを知らぬ豪胆な男。学院にも席をおいて、じつに八面六臂《はちめんろっぴ》、当時の知識の部門で彼がやってみなかった部門は一つもない、というくらいの学才だったらしいな。つまり、彼の場合は、この異常な頭脳力が、肉体の死をよみがえらせたというわけだ。
しかし、一面また、彼の精神力には、まるで子供みたいなところもあったのだね。だんだん成長するうちに、はじめ子供みたいだったものが、今ではやっと大人《おとな》になった。その大人になったところで、あいつはいま、実験中なのだよ。なかなかよくやりおる。われわれがこんなふうにじゃましなかったら、――こっちが失敗すれば、あいつはそのままつづけるだろうが――彼は死の手引きをする諸学の父、あるいはそれ以上の者になっておったろうな」
「畜生! あいつはそれをみんなミナにかぶせてきたんだ!」ジョナサンはいかにもくやしそうに言った。「いったい、どんなふうに実験中なんですか? それがわかれば、あいつを倒す助けになるでしょう」
「あいつはずっとそれを、――自分の力だめしをやって来ておるよ。ゆっくりと、確実にな。ところがわれわれにつごうのいいことに、彼はやっぱり子供の頭しかない。その証拠には、何かことを企《くわだ》てても、われわれの力をしのぐことはできないじゃないか。そのくせ、自分では大丈夫成功するつもりでやっておる。彼より何世紀も前の人間が、気ながにゆっくりやったことをね。ぶらりぶらりとまいろうか――これがあいつのモットーらしいよ」
「なんだか先生のおっしゃることがよくわからないんですが、もっと簡単明瞭に、はっきりおっしゃっていただけませんか」ジョナサンはうんざりしたようにいった。
教授はジヨナサンの肩にやさしく手をおいていった。
「よろしい、はっきり言おう。きみはあいつがここのところ、実験的に何かを知ろうとしていることが、わからんかね? あいつは、このセワードの家へ忍びこむために、例の肉食動物患者を使った。あとになっては勝手にはいってきたけれども、最初はあの患者が来てくれといわなければ、はいって来られなかった。また、例の大きな泥の箱、あれも最初は人間の手で移動されたね。あいつはあれをああしなければならないということしか、知らなかったのだ。ところが、そのうちに、あいつの子供の頭脳が少し成長してきて、あの箱を自分で移動できないかどうか、やっこさん、考えはじめたわけだ。そこでやってみようということになって、やってみると、うまくいきそうなんで、あの箱をひとりでみんな移すことにした。それで、ああやって、ほうぼうへ自分の墓ぐらを分散したわけだ。あいつは、隠した場所を知っているのは自分だけだと思っていた。あの箱を地下深く埋めて、夜だけ使うか、自分が変身できる時だけに使えば、ほかの者にはわからないと思っていた。
しかし、きみ、絶望することはないよ。ここへきて南無三《なむさん》、しまった! とじたばたしてみたところで、もう手おくれさ。一つだけはまだ行方がわからないが、あとはみんなわかって、きょうの日の入りまでにぜんぶ浄《きよ》められてしまうのだからね。やっこさん、もうどこへ引っ越す場所も、隠れる場所もない。そうなると、あいつよりも、こんどはこっちがよほど気をつけていないといかんよ。わしの時計で、もう一時間になるが、うまくいったとすれば、もうアーサーとキンシーは帰り道だろう。とにかく、きょうは天下分け目の日だから、よほどしっかりと、石橋をたたいてわたらんといかんぞ」
といっているところへ、ふいに玄関の扉をドンドンとたたく音がした。われわれはギョッとした。ドンドンと二つつづけてたたく音は、どうやら電報配達のたたく音らしい。ジョナサンが玄関へ飛びだそうとすると、教授が待てと制して、自分で入口の扉を静かにあけた。電報配達夫が教授の手に、一通の電報をわたした。扉をしめる手もおそしと、教授は急いで開封した。
「ドラキユラニヨウジ ンセヨイマ一二ジ 四五フンニワカニヤシキヨリミナミニイソギ デ カケタソチラニユクハズ ミナ」(ドラキュラに用心せよ。今一二時四五分、にわかに屋敷より南に、急ぎ出かけた。そちらに行くはず。ミナ)
私は電文を聞いて、色を失った。三人しばらく無言でいると、ジョナサンが叫んだ。
「ありがたいっ! あいつに会えるぞ!」
すると教授がキッとたしなめるように、「ジョナサン君、なにごとも神のおぼしめしだよ。空喜びをしてはいかん。とかく、物事はむこうからはずれるからな」
「私はもう何も考えません。あいつの面《つら》の皮をひんむいてやるだけです。そのためには魂を売ってもいい」
「これ、なにをいうのだ。神はそんなあさはかな料簡《りょうけん》で売った魂など、お買い上げになりゃせんぞ。悪魔は買うかもしれんがね。神は慈悲があって、つねに正しい。きみの苦しみも、きみがミナを愛していることも、神はみなご存知だ。きみがうかつなことをすれば、ミナの苦しみは二倍になるのだよ。われわれは、何よりも神のみ心を深く信じて、事に当たらなければならん。きょうはわれわれの努力の最後を見る日だ。いよいよ一働きする時が近づいたのだよ。とにかく、きょうはあの吸血鬼が人間の力に対して限界を見せる日だ。日が沈むまでは、やつは姿を変えられん。ほら、今一時二十分過ぎだから、やつがやってくるまでには、まだ時間がある。それにしても、アーサーとキンシーの両君が早く帰ってくればいいが」
電報を受け取ってから、約三十分ばかりたった時、また玄関の扉をたたく音がした。こんどはふつうの紳士がたたく、ふつうのノックだった。三人は顔を見合わせ、足音を忍んで、ホールへ出て行った。三人とも、すでに護身のものを身につけていた。十字架を左の手に持って、教授が静かにかけがねを上げ、われわれに目くばせをして、身がまえ堅固に、扉をそっと半分ほど開くと、ゴダルミング卿とキンシーが外に並んで立っていた。私はほっとした。二人は喜び勇んで中へはいってくると、うしろの扉をぴったりと締め、かけがねをおろしてから、まずゴダルミング卿がいった。
「万事うまくいきました。箱の在所《ありか》がわかりましたよ。両方に六個ずつ、そいつをみんな無効にしてきました」
「無効にしたかね?」教授は念を押した。
「ええ、みんな浄《きよ》めてきました」キンシーが意気揚々として、「もうここで待つばかりです。五時までに来なかったら、引き揚げましょう。ミナ夫人が気がかりだから」
「ところが、あいつがじきに今、ここへ来るそうだよ」教授はポケットから電報を出して、「ミナから、こういう電報がきた。カーファックスから南といえばこの方角だ。あいつ、潮のぐあいを見て、川をわたってくるにちがいない。もう一時間も前から、潮は引き始めているからね。しかし、あいつはまだ、われわれがここにいることに気がつかんのだね。ここにはまだ手が伸びておらんと思って、ノコノコやってくるんだぜ。きっときみたちは、あいつの行く寸前に、バーモンジーへ行ったんだな。バーモンジーからあいつはマイル・エンドへ回ったにきまっている。後手後手となったのだな。それでこっちへ来るのに時間がかかっているんだよ。それに、なにしろ川をわたるんだからね。しかし、もうまもなく来るだろう。いいかね、攻撃の手はずは、かねてのとおりだ。最後までチャンスを投げちゃいかんよ。シッ! みんな護装をして! 用意!」
教授が警告の手をあげた時、玄関の扉にカチャリと鍵をさしこんだ音が聞こえた。
自分はこういうとっさのおりにも、日ごろ支配的な気概をもっている人は、じつにしっかりしたものだと賞賛せざるをえない。世界各国の人からなるわれわれ狩猟団で、キンシー・モリスはつねに行動計画を立てる役で、アーサーと自分はいつも彼の命令のままに従ってきている。いま、その古い習慣が本能的に蘇《よみがえ》ったらしい。モリスはすばやく室内を見まわすと、ただちに攻撃プランを指令した。それも言葉ではなく身ぶりで示した。五人はそれぞれの部署に身をかまえた。教授とジョナサンと私は部屋の扉のすぐ陰に。正面にキンシー。そのうしろにゴダルミング卿。――長い沈黙。悪夢のようなハラハラする時が、ゆっくりと刻む。のしり、のしりと、用心ぶかい足音が、玄関をはいってきた。伯爵は明らかに用心しているらしい。すくなくとも、おそれているらしい。
と、いきなり稲妻のような素早いひと飛びで、部屋のなかへパッとおどりこんできた。押し止める暇も何もあったものではない。人間|業《わざ》ならぬ、まるで豹《ひょう》のような素早さだった。第一番に、正面入口の前から飛びだしたのは、ジヨナサンだった。伯爵はわれわれを見ると、長い尖った歯をむきだして、ウーッと一声、すごいうなり声を立てた。が、たちまち、獅子が鼠を見るように、一同を冷眼ににらみすえて、ニタリと笑った。五人がそろって前へジリッジリッとすすみ出ると、彼の表情がサッと変わった。
残念ながら、われわれは攻撃の手順をしっかりきめておかなかったうらみがあった。その場に臨んでも、私は何をしていいのか、とまどった。われわれの持っている凶器が果たして役に立つかどうかも、私にはわからなかったが、ジョナサンは容赦《ようしゃ》なく、持ったる短剣を逆手《さかて》にふりかざすと、突然激しく切ってかかった。太刀《たち》風すごく、あわやと見るより、伯爵は鬼神のごとくサッとうしろへ身を引く。その隙をすかさず打ちこむ二番太刀は、相手の心臓をグサリと突き刺したかと思われたが、惜しや手元が狂ったか、切り込んだ刃先は、魔人の衣装を胸先かけて、ビリビリと切り裂いたばかり。とたんに、紙幣の束と金貨がザラザラと床にこぼれ落ちた。
この時、伯爵の形相《ぎょうそう》は、鬼神もかくやとものすごく、一瞬、私はジョナサンの身を危うしと見るまに、またも突き入る第三の太刀。私はその時、もう無我夢中で、左手に高く十字架と聖餅をかざして、つつと前へすすみでた。私は自分の腕に大きな力がほとばしるのを覚えたが、この時早く、かの時遅く、同じように手に手に十字架と聖餅をかかげ、じりじりとつめよる五人の男を前にして、さしもの伯爵も、そのとき思わずタジタジとなって、うしろへ下がった。その時の伯爵の顔にあらわれた地獄の憤怒とうらめしさ、悪鬼のごとき遺恨無念の形相は、とうてい筆には描けない。蝋のような顔色が、燃えるような赤い目の色に、青黄いろく見え、額のまんなかにあるザクロのような傷跡が青ざめた肌に血を噴いているようであった。このとき魔人は、ジョナサンの腕の下をサッとすり抜けたと思うと、打ちおろす短剣の刃先よりなお早く、床の上の金貨をすばやく一握りつかむやいなや、颶風《ぐふう》のごとく部屋をつっきり、そのまま窓にダンと体当たりしたと思うと、ガラスは木っ端《ぱ》みじん、ガラガラとあたり一面に砕《くだ》け散るなかを、魔人は下なる中庭の敷石の上へと、ころげ落ちるように飛び下りた。
それっというので、五人はあとを追いかけて窓からのぞくと、魔人はかすり傷一つなく、中庭を脱兎《だっと》のごとく駆けぬけて、かなたの厩《うまや》の戸をグイと押しあけ、そこからこちらをふりむいて、
「ウヌ貴様ら、このおれにじゃま立てする気か? 屠所《としょ》の羊にさも似たる、その青ちょびれた面《つら》を並べ、どいつもこいつも、後悔するな。おれの隠れ家はもはや一つもないと、貴様ら思いおろうが、まだまだ、たあんとあるわ。この仕返しは今からだ。先の世の、そのまた先の世までも、尽未来《じんみらい》、おれは貴様らにたたろうでな。時はおれの味方。貴様らがかわいがる女子《おなご》らも、とうの昔におれのものだわ。あの女子らを手なずけてな、いずれそのうち貴様らも、おれが餌食《えじき》にしてやるわ。おれが手の者はな、おれのいうことはなんでも聞くのだ。おれが餌食のほしい時には、あいつらはおれの山犬になるのだ。ざまあ見ろ! ムハハハハハハ!」
あざけるような笑いをあとに、敵はすばやく厩のなかにはいった。入口の扉がぴたりとしまり、錆びついた閂《かんぬき》がキーと鳴ったのが聞こえた。
最初に口を切ったのは教授だった。「なかなかこれは、いい勉強になったな。あんな豪勢な啖呵《たんか》を切ったものの、あれでやっぱりこっちがこわいのだな。時間がこわい。それと、自分にないものがこわいのだ。こわくなければ、あんなに急ぐことはなかろう。あの啖呵は虚勢をはっているのだよ。しかし、なぜ金を拾って行ったのかな?……どうだ、きみたち、早く追いかけなさい。きみたちは狩猟家だから、わかるだろう。わしはもう、ああしてもどってこないところをみると、あいつはここにはもう用がないものと見た」
教授はそういいながら、落ち着き払って、床に落ち散った金貨をポケットに拾い集め、それから家屋の証文をしまい、あとに残ったものをきれいに炉に押しこんで、マッチをつけて燃しはじめた。
ゴダルミング卿とキンシーは中庭へ走りでて行った。ジョナサンも伯爵のあとを追いかけて、窓から飛び下りて、中庭に立っていた。三人は厩の扉をこじあけたが、伯爵はもうそこにはいなかった。教授と私は、念のために家の裏を調べてみたが、猫の声が聞こえただけで、だれもいなかった。
もう日の沈むのに間もなかった。われわれは一応これで勝負はすんだことにして、ここを引き揚げることにした。
教授がいった。「さあ、それではミナ夫人のところへ引き揚げよう。ここはこれですんだ。あとまだ一つ、泥の箱が残っているから、それを捜しださなければならんが、それを捜しだしてしまえば、もう安心だ」
私は教授がジョナサンを慰めようと、元気にものをいっているのがわかった。ジョナサンはすっかり消《しょ》げかえっていた。ときどき押さえきれないで、低く呻吟していた。ミナのことを考えていたのである。
沈んだ気持でわれわれが家へ帰ってくると、家にはミナ夫人が、元気なようすで待っていてくれた。彼女は、無事に帰ってきたわれわれの顔を見た時、なぜか急にまっ青な顔になった。そして一、二分じっと目をつぶって、何か心のうちで祈っているようであったが、それから元気な声で迎えてくれた。
「まあ、ほんとにみなさんにはお礼の申し上げようもありません。ジョナサンもほんとにご苦労様でした」そういって、夫の頭と手に接吻をして、「あなた、すこし頭をお休めなさいね。万事うまくいくわよ。神さまがそういうおぼし召しなら守ってくださってよ」ジョナサンは呻吟した、彼の壮烈な悲嘆には、言葉の余地がなかった。
われわれはにぎやかに夕食をしたためた。五人が心を合わせて恐ろしい冒険をしとげたあとだったし、それに朝食を食べたきり、きょうは一日、何も食べていなかったので、私たちは深い友情の交歓《こうかん》のうちに、大いに飲み、かつ食らった。とにかく、けさの心細さにくらべたら、一同のみじめな気持は、いちだんと薄らいでいたといえる。われわれはかわるがわる、きょう一日のことをミナに語った。話がジョナサンの武勇談に移って、彼が伯爵と渡りあったくだりにおよんだ時、ミナは夫の腕に強くすがりついて、何もいわずに、ただまっ青な顔をしてふるえていた。私は彼女のその時のようすをわきから見ていて、なんともいえず胸が熱くなった。額に赤く残っている火傷のあと、それが何を意味するか、彼女もわれわれもそれを知っている。世にも例のないその深い不幸を身に負いながら、しかもわれわれの暗い不安や疑念をかたい信念でほぐしてくれる、誠実純真な彼女、その彼女が神から追放された人であるとは?
「ジョナサン」と彼女はいった。その言葉は彼女の唇にのると音楽のようにひびき、愛とやさしさにみちていた。「ねえジョナサン、それから私の真の友であるみなさん。私ね、この恐ろしい時に、みなさんの心に抱《いだ》いていっていただきたいことがございますの。そりゃみなさんは戦わなければなりません。滅ぼさなければならないことも、わかっています。でも、偽《にせ》のルーシーを滅ぼしたもんだから、ほんもののルーシーはまだあれから生きていそうね。でも、それは怨みのしわざではありません。あれほど悲しい不幸をもたらした魂は、もっとも悲惨な例ですわ。それでね、あの方の場合も、あの方のよい面が霊的な不朽をもつために、悪い面が滅ぼされた場合、あの方の喜びは何なのだろうということを考えていただきたいの。そりゃみなさんは、どうせあの人を滅ぼすことから手はひかないでしょうけど、やっぱり憐れみはかけてやるべきですわ」
彼女が話すあいだ、私はジョナサンの顔がだんだん暗くなり、ひきつっていくのを見た。まるで彼のなかにある情熱が芯《しん》までひからびていくかのようであった。思わず彼は妻の手をひきよせて、指のつけ根が白くなるほど固く握りしめた。ミナの手は痛いにちがいなかったが、彼女はそれをふりほどこうともしないで、夫の顔を今までにない訴えるような目つきでじっと見上げた。ミナが話をやめると、彼は自分の手を妻の手からもぎりとるように立ち上がって、いった。
「神よ、われわれが狙っているやつの命を滅ぼすまで、私の手のなかにやつを置いておいてください。そのさき、やつを永久に地獄の業火《ごうか》に送ることができれば、私はかならずそれをやります!」
「おお、止めて! 止めて! ジョナサン、そんなことおっしゃらないで! そんなふうにいわれると、私、怖くて恐ろしくて、身が潰れてしまいますわ。ねえあなた、私ね、きょうは一日、ずっとそのことを考えていたんです。――おそらく、いつの日にかは、そういう憐れみの気持が必要になる日があるんだろうと思って。……そして、ほかの方たちも、あなたと同じように、――同じ理由でお怒りになって、私にそれを拒絶なさるだろうと思ってね!
ねえ、あなた、私だってほかの方法があれば、あなたのそういう考えは許したいんだけど、今のあなたの乱暴な言葉は、愛してはいるけども頑固一徹な人の破れかぶれの泣きごととして以外には、神さまにお受け願うようにお頼みできませんわ。おお神さま、この人はこれまで苦労をしたために、こんなに髪の毛が白くなりました。けっして今まで曲がったことなどしたことのない人です。どうぞこの人の上に、多くの悲しみをお授けにならないように」
男たちはみんな涙をためていた。べつに妨《さまた》げるものもないので、みんな手ばなしで泣いた。ミナも、彼女の甘えた忠告が効を奏したのを見て泣いた。ジョナサンは彼女のそばで中腰になると、彼女を抱きかかえて、彼女の服のひだに顔をかくした。教授がわれわれのことを手招きしたので、みんなは二人をそこに残したまま、コソコソ部屋を出てきた。
教授は吸血鬼の襲来にそなえて、部屋の飾り立てをすまし、これで今夜は安眠できるよと、ミナ夫人に請け合っていた。彼女はそうした迷信に自身をなんとかついて行かせようと、夫のために満足したように見せようとしていた。これは健気《けなげ》な努力であった。きっとその酬いはあるにちがいないと思うし、そう信じたい。ヘルシング教授は小さな鈴を手もとにおいて、まさかのときには二人のうちどちらかがこれを鳴らすようにといった。二人が部屋へひきあげて行ってから、キンシーとアーサーと私は、それぞれ分担をきめて、夜通し気の毒な夫人の番をすることにした。最初の番はキンシーに当たったので、アーサーと私はなるべく早く就寝することにした。アーサーはセコンド・ウオッチを持っているので、すでに番をかわった。さて、私も仕事がすんだから、そろそろ寝るとしよう。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月三日〜四日――深夜近く――私はきのうという日は永久に終わることがないと思っている。私は眠りたい。眠って目がさめれば、何かしら変わっているだろう。ただそんな気が盲目的にしている。さっきみんなと別れる前に、次になすべきことをいろいろ論じあったが、結局、結論は出なかった。泥の箱が一つ残っていることはわかっている。その在所《ありか》は、伯爵一人が知っているのだ。どこへそれを隠そうが、それは伯爵の好き勝手だとすると、われわれはこの先いつまでたっても、彼からおびやかされていなければならない。げんにこれを書いている今だって、そうだ! それを考えると恐ろしい。もうそのことは考えまい。ただ一つ、私の知っていることは、自分の最愛の妻がけがれた女だということだ。昨夜ほど、妻が不憫《ふびん》に思われたことはない。その不憫な気持が、あの怪物に対する私の憎念を何か卑劣なものに見せる。しかし、ああいう憎むべきやつを失ったために、よけいみじめな者になるような世のなかを、よもや神は許してはおくまい。今はこのことだけが、私の希望だ。今となっては、われわれはみんな浮きつ漂う筏舟《いかだ》みたいなもので、信念だけが唯一の碇《いかり》だ。
ミナは眠っている。夢も見ないで、よく眠っている。ミナが夢を見たら、どんな夢を見るのだろう。あの恐ろしい記憶にひきこむ、恐ろしい夢を見るのではないかしら。なんだかそんな気がして、私は恐ろしい。……私はちっとも眠くない。そのくせ身体は疲れきっている。綿のように疲れきっている。とにかく眠ることにしよう。あすはまた一思案しなければならないから。どうせ私には休息はないのだ……
真夜中――ミナに起こされたところをみると、私はぐっすり眠っていたのにちがいない。ミナは床の上に起きてすわっていた。ギョッとしたような顔をしている。灯火《あかり》がつけっぱなしになっているから、よく見える。ミナは私の口を手でふさいで、耳もとでささやいた。
「ねえ、だれか廊下にいてよ」
私はそっと起きて、ベッドを降り、扉を静かにあけてみた。
扉の外のところにマットを敷いて、キンシーが横になって起きていた。彼は黙って手をあげて、小声でいった。「いいから寝たまえ。今夜は交替で、ここに寝ずの番をしているから。大丈夫だよ。ぬかりはないから」
そういって、彼は目顔で問答無用の意味をかよわせるので、私も目顔で礼をいって、扉をしめてベッドにもどり、ミナにそのことを告げた。彼女は「まあ!」と深いため息をつき、私に腕を巻きつけながら、青い顔にはっきり微笑をうかべた。
「気丈なお方ねえ。すまないわ、ほんとに」そういって、彼女はうとうとと眠りに落ちていった。
私は眠ろうとしたが眠れないので、これを書いている。
十月四日朝――夜中に、もう一度ミナに起こされた。
「ねえあなた、すみませんけど、教授を呼んできてくださいな。私、今すぐにお目にかかりたいの」
「なんで?」
「私、思いついたことがあるのよ。夜なら、あいつ来ているにちがいないから、私、先生に催眠術かけていただこうと思って。ねえ、早く行ってきて。もう時間がないから」
私が起きて戸口まで出ていくと、こんどはセワード君が廊下で不寝番をしていた。彼は私を見ると、いきなり飛び起きて、
「どうかしましたか?」とびっくりして聞いた。
「いや、ミナが教授に今すぐ会いたいというんでね」
「ぼく、行って来ましょう」セワード君は教授の部屋へ飛んでいった。
二、三分たつと、教授はガウンをひっかけてやってきた。ゴダルミング卿とキンシーもやってきもて、入口で何か尋ねている。教授はミナを見ると、ニコニコ揉《も》み手をしながら、
「ほう、これはだいぶ変わったね。ジョナサン君、見たまえ。奥さんは、もとの奥さんになられたよ」といって、ミナに向き直り、元気な調子で「こんな時間に、私に用があるというのは、なんだね?」
「先生、私に催眠術をかけてください。夜の明けないうちに、やっていただきたいんです。それだと、なんでも気儘《きまま》にいえそうな気がしますから、早くやってください。時間がもうありませんから」
教授は黙って、ミナを床の上にすわらせた。
ミナの顔をじっと見つめながら、教授は両手をかわるがわる、ミナの頭から膝のあたりまで、すれすれに上下に動かした。ミナはしばらく教授の顔をじっと見つめている。私は心臓がドキドキ鳴った。何か危機が迫ってきたような気がしたからである。
やがてじっとすわったまま、ミナの目がしだいに閉じられた。胸がしずかに波打っている。それだけが生きている証拠みたいであった。教授はなおも三、四回手を動かすことをくり返していたが、やがてそれを止めた。教授の額に大粒の汗が吹きでている。ミナが目をひらいた。その顔はまるで別人のようだった。何か遠くを見ているような目つきで、声も聞いたことのない、夢のなかの声のようであった。教授が私に手まねで、みんなにはいるようにと伝えた。廊下の三人は、爪足《つまあし》で静かに部屋のなかへはいってくると、あとの扉をしめ、ベッドの足のほうに並んで立った。ミナにはこの三人が見えないようである。低い、おちついた教授の声が、静寂を破った。――
「あなたはどこにいますか?」
「わかりません」男とも女ともつかないような返事だった。
ややしばらく沈黙。ミナはかたくなってすわっている。教授は立ったまま、じっと彼女の顔を凝視している。部屋のなかがいくらか明るくなってきた。教授が手まねをして、ブラインドを上げろというので、私は窓のブラインドをみんな上げた。バラ色の朝焼けの光が、しめやかに部屋のなかに流れこんできた。
「あなたは今、どこにいますか?」教授がかさねて尋ねた。
「わかりません。なんだか、見たこともないようなところです」
夢でも見ているような返事だったが、意志は伴っているようであった。何か説明したいようすである。速記で書いた彼女のものを読んでいる時、よく彼女がこんな調子を使うのを聞く。
「何が見えますか?」
「何も見えません。どこもかしこもまっ暗です」
「何か聞こえますか?」教授の押さえたような声が、急に緊張を帯《お》びてきたのが聞きとれた。
「水がジャブン、ジャブンいって。小さな波がドブン、ドブンと打って。――それが外のほうに聞こえます」
「すると、あなたは船に乗っているのですか?」
私たちは顔を見合わせた。返事がすぐにあった。
「ええ、そうです」
「ほかに何か聞こえますか?」
「頭の上のほうを大ぜいの人が走りまわって、ガヤガヤ騒々しい音がしています。鎖の鳴る音も聞こえます。巻き轆轤《ろくろ》が回りだしたので、ガランガラン大きな音がしています」
「あなた、今、何をしていますか?」
「じっとしています。死んだようにじっとしています」
その声がしだいに小さくなって、やがてそのまま、すやすや眠っている人のような深い息のなかに消えていった。そして目がふたたび閉じられた。
もうこの時には日がのぼっていたので、部屋のなかはすっかり明るくなっていた。教授はミナの肩に手をかけて、静かに机の上に頭を横にしてやった。しばらく彼女は、眠っている子供みたいになっていたが、やがて息を一つ深く吸いこんだと思うと、ぱっちり目をさまして、あたりを不思議そうに見まわした。
「何か眠っているうちに申しまして?」
ミナは自分のいったことをしきりと聞きたがった。が、聞かなくても、自分のいったことは知っているらしいようすであった。
「こうなったら、私たちもう、ぐずぐずしていられませんわ。手遅れにならないように」
ミナの言葉を聞いて、アーサーとキンシーがそそくさ部屋から出ていこうとすると、教授が呼びとめた。
「きみたち、ちょっと待った。とにかくね、どこだかわからんが、いまミナが話しているうちに、その船は碇《いかり》をあげたのだ。今ごろ、ロンドンの港で碇をあげている船は、何艘もあるからな。どれだろうな? またこれで一つ、手がかりができた。ありがたいぞ。どこへ連れていかれるかまだわからんが、どうもはっきりしないな。あいつの啖呵《たんか》は、ゴタゴタいろんなことを並べていたね。ジョナサンに短刀で突かれて、あわや危うしというあの隙に、金を拾った。あの時伯爵の心のうちに何があったか。今になってみるとわかるね。あいつ、逃げだすつもりだったのだ。
わかった! おいきみ、脱走だぞ! 泥の箱は、残るところたった一つになるし、しかも狐を追う犬みたいな大ぜいの男に追い詰められて、あいつ、ロンドンはいるところじゃないということがわかったんだ。それで残った最後の箱を船に積みこんで、引き揚げるという寸法なのだ。脱走を考えたのさ。どっこい、こっちは追っかけるまでだ。どうだね、アーサー君、きみが十八番の巻狩《まきが》りがいよいよ始まるぜ。しかし、あの古狐は陰険だからな。こっちも陰険に追っかけなきゃならんぞ。わしも一つ陰険になって、しばらく、あいつの胸中を考えてみよう。なあに、こっちには、あいつの渡れない海というものがあるんだからね。潮のぐあいで、船が陸にぴったり着くようにならなくちゃ、いくらじたばたしたって、あいつは手も足も出やしない。安心立命も、もうしばらくのご辛抱だよ。見たまえ、日もちょうどのぼった。仕事はこれから日の入りまでだ。どうだね、ひと風呂浴びて、服でも着かえて、ゆっくり朝食をやりながら、策を練ることにしようじゃないか」
ミナがその時、教授の顔を訴えるように見上げながら、尋ねた。
「先生、ああやってもうわれわれから逃げて行ってしまったものを、どうしてこれ以上まだ追いかける必要があるんですの?」
教授はミナの手をとって、軽くたたきながら、
「まあ、今はまだ何も聞かないでもらおう。食事をしたあとで、何もかもお答えするよ」
教授はそれ以上何もいわなかった。われわれは、服を着かえに、それぞれひきとった。
朝食後、ミナはまた前の問いをくり返して尋ねた。教授はしばらく彼女の顔をじっと見入っていたが、やがて憂《うれ》わしげに答えた。
「それはね奥さん、たとえわれわれは、地獄の門のすぐそばまで行っても、どうしてもあいつを捜しださなければならんのだよ」
ミナは急に寒気《さむけ》がしたような顔をして、虫の鳴くような声で尋ねた。「どうしてですの?」
「それはね」教授は厳粛な顔をして「あいつは何百年、何千年も生きながらえることができるやつ、あなたはただの人間だからだ。あいつがあなたの咽喉に印をつけてからというもの、時間というものが恐ろしいものになってきた」
ミナが気を失って倒れかかるのを、私はあわてて抱きとめた。
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二四
セワードの録音日記――ヴァン・ヘルシング談
ジョナサン・ハーカーに告ぐ。
きみはミナ夫人と留守居をしていなさい。われわれは捜索――とまあ言っておいてもいいけれど、じつは捜索ではない、知ること。われわれはただ確認を求めている。――その捜索に、われわれはこれから出かけるから、きみは細君の面倒をみていてやってくれ。これがきみの最善の、またもっとも神聖なる義務だ。きょうは当地では彼を見つけることはできない。われわれ四人がすでに知りえたことを、きみにもいっておく。
われわれの敵はすでに逃げ去った。敵がトランシルヴァニアの彼の城へ帰って行ったことは、明らかだ。彼は国へ帰るために、今までいろいろな準備をして、最後の泥の箱を、今まさにどこかへ船で運ぼうとしているところだ。あの金は、そのために取っておいたわけだ。幕切れをあんなに急いだのも、そのためだったのだ。勝負の終わったことを知って、国へ帰ることに腹をきめたところなど、敵もなかなか頭がいいよ。彼は行きと同じ航路の船を見つけて、それに乗って行く。その船を、われわれはこれから捜しに行くのだが、わかったら、帰ってからぜんぶ話をする。そのとき、新しい希望できみとミナ君を喜ばせてあげる。
われわれが追及している相手は、ロンドンを去ること遠いところへ行って、また何百年も歳を加えるだろうが、われわれがその処置を知りさえすれば、一日で追っ払える。彼は世を害する力はあのとおり持っているが、その力はけっして無限不滅のものではない。われわれだってめいめいが一つ目的に協力すれば強力だ。いまは前よりもいっそう強力になっている。きみも気分を一新してくれたまえ。闘《たたか》いは始まったばかりだ。最後にはわれわれが勝つことは、神がみそなわしている。われわれが帰るまで、せいぜい元気でいなさい。
ヴァン・ヘルシング
ジョナサン・ハーカーの日記
十月四日――ミナにヘルシング教授の録音の伝言を聞かせてやると、大いに顔を輝かして喜んだ。伯爵が国内にいないということが確実になったので、彼女は安堵《あんど》したわけだが、この安堵が彼女には大きな力となる。私にすれば、あいつの恐ろしい危険が私たちの目の前になくなったなんて、まるで信じられないようなものだ。こうして今ここで、秋晴れの澄んだ日影を静かに浴びていると、ドラキュラ城での私の恐ろしい体験すら、なんだか長く忘れた夢みたいに思われてくる。
しかし、悲しいかな、どうして私に信じられないなんてことができよう! そう思いながら、私の目は、しぜん愛妻の白い額の赤い火傷《やけど》の跡に落ちた。これが消えないうちは、とても信じられないなんてことはありっこない。そして、この傷があったという記憶が、はじめて信念を水晶のように結晶させてくれるのだ。
ミナと私は、部屋のなかでただ何もせずにぼんやりしているのが不安なので、二人してまた日記をひっくり返して読んでみた。どこを開いても、何かしら手引きになるものがある。これが慰めになった。ミナは、「私たち二人は、結局、最後は人のためになる善いことの道具に使われるわけね」という。そうかもしれない。私もつとめてミナの考えるように考えることにしよう。二人とも、今後のことはひとことも話さなかった。ともあれ、教授やほかの連中が調査から帰ってくるまで、待っていたほうがいい。
なんだか一日のたつのがばかに早い。もう三時だ。
ミナ・ハーカーの日記
十月五日、午後五時――報告会議。出席者、ヴァン・ヘルシング教授、ゴダルミング卿、ドクター・セワード、キンシー・モリス氏、ジョナサン・ハーカー、ミナ・ハーカーの六名。
ヘルシング教授から、その日、ドラキュラ伯爵脱出の船と、その航路判明の経路について説明があった。
「わしは彼がトランシルヴァニアへ帰りたがっていることはわかっていたから、これは必ず行きに通ってきたダニューブ河の川口へ行くか、それとも黒海のどこかへ行くか、そのどちらかにちがいないと思った。なにしろ、かいもくお先まっ暗で、どうかなとは思ったが、とにかくまず、昨夜黒海へ向けて出帆した船を、みんなして捜しに行った。ミナ夫人が帆を揚げたことをいっていたから、機帆船とにらんで行ったのだが、タイムズの航路表を調べに行くまでのこともなかったから、アーサー君の指図《さしず》で、ロイド会社へ行って、船の出帆の控えを見せてもらった。
そうすると、そのなかにたった一隻、黒海航路の船があった。≪皇后キャザリン号≫という船で、これがズーリットルの波止場から、ヴァルナに向けて出帆する。そこでズーリットルの波止場へ行って、そこの事務所の人に会って、キャザリン号の出航のもようをいろいろ聞いてみた。事務所の人は、赤ら顔の、声の大きな、人のいい男で、乱暴な船員言葉が、私などによくわからない節《ふし》もあったけれども、とにかくその男から、こっちの聞きたいと思うことはあらまし聞くことができた。
その男の話によると、きのう五時頃に、一人の背の高い、やせた、鼻の高い、歯の白い、目の赤い男が、あたふた駆けこんでやってきたというのだね。服装は黒ずくめで、時節はずれの麦わら帽子をかぶっていたそうだ。金を先につかまして、黒海へ行く船はないかと聞くから、事務所へつれて行って、それから船へ同道しようとすると、ここで待っているから、船から船長に来てもらいたいという。船長がやってきて、いろいろ談じ、賃金や何かの話をきめていると、そこへ人がきて荷馬車はどこへ着けるのかといって、その客に聞いたそうだ。客は出て行ったと思うと、まもなく大きな箱をのせた荷馬車をつれてもどってきて、五、六人かからなければ持ち上げられないような、大きな箱を、一人でやすやす荷馬車からおろして、その箱の荷物をおく場所のことで、船長とすったもんだやっていたが、そんならおまえさん、船へきて場所を見たらいいだろうと船長が中っ腹でいうと、いや、それにはおよばない、まだ用がたくさんあるからと客はいう。だけど、船はもうすぐ出るから早くしてくれなきゃ困る、と船長がいうと、客はニヤニヤ笑って、いや、こっちだってつごうがある、おれの適当と思う時でないと困る、とこういうから、また船長が腹を立てて、ガミガミどなると、客はいくらか船長に金をつかませて、ちょっと用をたしてくるからといって、どこかへ行ったそうだ。
ところが、それからまもなくすると、キャザリン号は、予定どおりに出航できないことがわかってきた。急に川に深い霧が下りてきて、だんだんそれが濃くなって、船のまわりをすっぽり包んでしまったのだね。そればかりか、川波が高くなって、船長は、これはことによると潮時をはずすかと心配したが、どう手の下しようもない。すると、ちょうど潮の引きざかりの時に、例の客が帰ってきて、箱の荷を積みこんだ場所を見せろという。船長は気が立っているから、おまえも荷物もくたばっちまえとどなりつけると、客はこんどは怒りもせず、下役といっしょに船艙《せんそう》へ下りて行って、荷の場所を見てから、甲板《かんぱん》へ上がってきて、霧のなかにじっと立っていたそうだ。
と、そのうちに霧がだんだん晴れてきて、いい天気になった。さあ、出帆だというんで、船内は上を下への大騒ぎさ。ちょうど潮時だから、出船入船の数も多く、船の者が波止場のほかの船にいまの霧のことをいうと、だれもそんな霧は知らないという返事なんだね。妙なこともあるものだと思って、とにかく、干潮にのって船は出帆し、明朝は川口まで下って、まちがいなくうまく海へ出る、というのが事務所の人の話だったがね。
まあ、そういうわけで、敵が海へのりだしたとなると、ここしばらく、われわれはひと休みというわけだ。帆前船だから、船足はそう早くはない。陸を行けばずっと早く行けるから、われわれは先回りをして、ダニューブの川口で船と出会う、とまあ、こういった寸法さ。まだ日があるからね、ゆっくり策を練ることができる。敵の行く先もわかったし、船主もわかったし、船主は積荷の書類も見せてくれた。それによると泥の箱はヴァルナで陸揚げをして、その代理店に委託される。代理店へは、われわれの知合いの商人から紹介状をもらっていくことにしたから、そのほうの連絡はつく。その商人は何か怪しいことがあるのなら、ヴァルナの警察へ電報を打っておこうかというから、いや、それにはおよばないと、かたがた断わっておいたがね。警察の手なんかにかけられては困るからね。どんなことがあっても、これはわれわれの手だけでやらなけりゃならんことだからね」
教授の話が終わったとき、私は、「伯爵はたしかにその船に乗っているのですか」と尋ねてみた。すると教授は、
「それはもう確かな証拠がある。あなたが今朝、催眠術にかかった時、はっきりそういったではないか」といわれるから、私は重ねて、伯爵を追跡することはほんとに必要なことなのか、じつは、みなさんが行けばジヨナサンも行くというにきまっているが、私はジヨナサンに行かれるのがこわいのだといった。
教授は最初のうちはおだやかに返事をしておられたが、そのうちにだんだん激昂《げっこう》してこられて、しまいには、なるほどこの方が長いこと人の師として仰がれているのは、これがあるからだと思わせるような大上段に立っていわれた。
「ああ、必要だ。必要だよ。必要だとも。第一には、あなたのため、それから人類のために。すでにあの怪物は多くの害をあたえている。まだごく狭い範囲だが、闇のなかを手さぐりして這《は》いまわっている。このことは、わしがこれまで口をすっぱくして申したとおりだ。いずれあなたは、セワードの蓄音器やジョナサンの日記でお知りになるだろうが、やつが不毛になった自分の国と住民を捨てて、新天地へ――人間のわんさといる都会へ出てきたのは、何世紀もかかった仕事だということは、前にも話したね。別の『不死者』ができれば、そいつがやつを援助する。こいつのために、昔から玄妙不思議な、いわゆる秘義秘術《オカルト》の力が、奇々怪々な方法で協力してきたものにちがいない。だから、やつの国では、何百年もの間、『不死者』というものには地質学的・化学的世界の不思議さがいっぱいあるのだ。その先はどこへ行くんだか誰も知らないような、深い洞窟や割れ目が、いっぱいそこにはあるわけだ。火を噴く山もあれば、こんこんと水を噴き出す穴もあるし、人間を殺したり生かしたりするガスも噴き出ている。きっと磁気や電気みたいなものもあって、それが摩訶《まか》不思議にからみ合って、奇妙きてれつな形で人命に作用する力になっているんだろうが、やつには初めから、なにかそうした偉大な素質があったのだね。だから戦国時代には、人にぬきんでた金鉄の胆力と、才知謀略と、豪勇果敢で、一世に鳴らしたわけだ。やつの場合は、その活力がふしぎな形で最高に発揮されるんだな。肉体は堅固旺盛に発育するし、頭脳もそれに平行して発達する。これだけすぐれた資質があれば、当然りっぱなことができたはずなのに、それを悪魔的に使ったのが玉に疵《きず》さ。
いま、やつがわれわれに立ち向かっているのがそれなのさ。やつはあなたを汚《けが》した。――いや奥さん、許してくださいよ。しかし事実は事実だ。ほんとうのことをいわなければならん。――やつはあなたのことを汚した。やつがもうこれ以上何もしなければ、あなたはもとのように美しく生きていかれる。で、時がたって、あなたは死ぬ。これは人間の定めだからいたし方がない。ところがだ、あなたは死ぬと、やつと同じものになるのだ。これは恐ろしいことだ。そんなことがあってはならん。絶対にあってはならんと、われわれはともに誓った。かくてわれらは、神の御願望の代行者となった。世のため、人のために死する神の子は、神を汚すような化け物を見すごしておくことはできない。神はすでに一つの魂を済度することを、われわれに許したもうたのだから、われわれは奮《ふる》って往時の十字軍の武士のごとく、日の出にむかって、もっと多くの魂の済度に出かけるのだ。それで死ねば本望だよ」
教授が息をついたので、私はいった。
「でも、伯爵は賢いから、うまく肩すかしをくわせやしないでしょうか? イギリスからだって逃げて行ったんですから、みなさんがいらしても、うまく逃げて隠れてしまわないでしょうか。ちょうど、虎が狩り出された村から逃げて隠れてしまうように」
「アハハハ! つまり、その虎と同じだよ。インドでは、虎のことを『人食い』といっているが、虎というやつはね、いちど人間の血の味をおぼえると、ほかの餌食《えじき》はもう食わんそうだ。いくら虎狩りをされても、夜になるとコッソリ出てくる。けっしてすみかを変えたり、遠くへ行ってしまうようなことはないそうだ。それと同じことで、伯爵も昔、トルコの軍勢にしたたかにたたきくじかれたが、そのままひっこまずに、何度でも逆襲している。その強情さと辛抱強さは、ちょっと類がないよ。大都会へ行きたいと考えてから、あの子供みたいな頭で、長年計画を練りに練ったうえで、とうとう、こんどその望みを達したわけだ。新しい外国語を勉強したり、新しい社会生活を学んだり、その他、政治、経済、法律、科学、あらゆるものをあの辛抱強さで身につけて、最後の欲望を必ず達せずにはおくまい。あいつはわれわれ人間とちがって、死などは恐れやしない。何万人という人間を殺す疫病のまんなかにいたって、のうのうと生きている。
しかし、結局、あいつは神にそむいたやつだ。神はあいつに味方はなさらない。われわれの勝利は、われわれが神の子なるがゆえだ。神の子であるわれわれは、神の栄光のために、人類の幸福のために、神にそむく者を根絶しなければならない。神はわれらに力を授けてくださる。かりに人間が、やつを滅ぼすために必死の力をあわせれば、神はかならずその人間に力を与えてくださる。われわれはそれを信じている。だから、あいつを撲滅《ぼくめつ》しに行くのだ。そして、かならず英知と信念の前には、邪悪なものは翼を折られて、屈服してしまうよ」
あとは一般的な討論をしたが、はっきりした結論は見られず、あすの朝食のあとまで持ち越すことになった。明朝、結論が出たら、行動をきめなければならない。
今夜は、私はいつになく不安もなく、和《なご》やかな、おちついた気分でいる。なんだか今まで自分に憑《つ》いていたものが落ちたような……
いや、そんな推測はまだできない。鏡のなかには、まだ私の額に赤い痣《あざ》が残っている。私はまだ汚れている。
ドクター・セワードの日記
十月五日――けさはみんなが早起きをした。みんなぐっすり寝足りたらしい。朝食に集まったときには、一同、いつにない元気な顔を合わせた。
人間の回復力というものは、じっさい、すばらしいものだ。どんな障害があっても、その障害が目の前からなくなれば、われわれはふたたび最初の希望と勇躍にかえれるものだ。食卓に並んだ顔を見わたしてみると、きのうまでのことがなんだか夢みたいに思われる。ただミナ夫人の額の赤い痣《あざ》を見ると、われわれは残酷な現実にひきもどされた。だが、そのミナ夫人でさえ、きょうはなんとなく呪《のろ》わしい心の苦しみから、いくらか解放されたような顔つきをしていた。
食後三十分ほど、今後の行動を決するために、いろいろ話しあった。議論百出したが、私はただ一つ、そのなかに難関のあるのを見てとった。これは私の理性というより、勘《かん》で見てとったことだが、こういう時には、何よりも各人が腹蔵《ふくぞう》なく、隔意なく話しあわなければならないのに、ミナ夫人だけが終始口を緘《かん》して、ひとこともものをいわない。私はこれが不思議でならなかった。何か自分だけで決するところがあって、そのために貝が蓋を閉じたように、堅く沈黙を守っているのだろうか。
このことは、あとで教授と二人きりで話しあうことになっているが、どうも私は、彼女の血管のなかに入った恐ろしい毒素が、そろそろ働きだしてきたのではないかという気がしてならない。伯爵は彼女に、教授のいう、いわゆる「吸血鬼の血の洗礼」を与えたときに、すでにある魂胆を持っていたはずで、その毒素がプトマインみたいに、健全な物から発生するのではあるまいか。ミナ夫人の沈黙には、私の勘から率直にいうと、何かわれわれの仕事のなかに、目に見えない危険が、――恐るべき困難があるような気がしてならない。まあ、これ以上は、夫人の名誉のために、考えることは差し控えよう。
後刻――教授が見えたので、二人して話しあった。私がミナ夫人のことをいうと、教授もそれをいいたかったようなようすを見せながら、しばらく躊躇《ちゅうちょ》して、頭をたたいておられたが、やがて意を決したようにいきなり言いだした。――
「ジョン、これはきみとわしの二人きりの話だがね。じつはミナ夫人は、ここのところ変わってきておる」
私は、氷のような戦慄《せんりつ》が、身うちを走り下るのをおぼえた。
「ルーシー嬢の悲しい経験からいって、このことは、手遅れにならんうちに、よくよく警戒せにゃならん。じっさい、われわれの仕事は、いま重大な難関に直面した。この新しい厄介ごとは一難一刻が重大なのだ。夫人の顔には、すでに吸血鬼の特徴がきざしてきておるよ。わしにはそれがよく見える。今はまだごく軽微だがね、色眼鏡をかけないで見ると、それがよく見える。歯が少し尖《とが》ってきた。それから、目にときどき鬼気が浮かぶ。そればかりではない。ときどき黙りこんでしまう時がある。ルーシーの時もやはりそうだった。それでね、わしが心配するのは、こうなのだ。かりにだな、彼女が、こちらのかけた睡眠術でだよ、伯爵が見たり聞いたりすることを、そのままいうとすればだ、こちらより先に、最初に彼女に催眠術をかけて彼女の血を吸い、また彼女におのれの血を吸わせた伯爵がだな、彼女の知っておることを自分のほうへ内通させるように、彼女をしむけるということは、これはきみ、いっそうありうべきことだろうが?」
私はそのとおりだと、うなずいた。
「そうするとだね、われわれのしなければならんことは、これをさせないように防止することだ。つまり、彼女にわれわれの意向を知らせないでおくことだ。知らないことは、いくらなんでも内通できんさ。これはしかし、じつに苦しい仕事だ! 考えるだけでも、胸がはり裂ける思いがするが、しかし、やらなければならん。それでね、今夜みんなで集まった時に、わしは言おうと思う。今後彼女は、われわれの手で護衛するだけで、いっさい相談にはあずからせんと」
教授はいい終わって、額の汗の玉を拭《ふ》いた。ああ、これを聞いたら、あれだけすでに苦しんだ彼女の心は、どんなにかまた悩むことだろう。――その心事を思う苦しさからの油汗であった。私もそう思うといえば、教授の心が慰まることを知っていたので、私はそのとおりいうと、案の定、教授はホッと安堵したようであった。
会合の時に間もなかったので、私たちはそれきりで、また後刻を約して別れたが、教授の苦衷《くちゅう》のほどは察するにあまりある。
後刻――会合の席上、冒頭まず、ミナ夫人からのことづけが、ジョナサンの口から取りつがれた。それによると、彼女はきょうの会には出席しない、自分のいないほうが、みなさんが遠慮なく自由に討論できるだろうから、というのであった。私は教授と顔を見合わせて、何かしらホッとした気持だったが、彼女がもし、自分で危険を悟ったのだとしたら、それは、危険が防がれた場合と同じ大きな苦痛であったろうと、私は思った。教授はただちにわれわれの包囲作戦に話を進めた。まず最初に、現状のあらましを述べた。――
「キャザリン号は、きのうの朝、テムズ河を出帆した。船が全速力を出しても、ヴァルナ到着までには、少なくとも三週間はかかる。こちらは陸路を行けば、同じところへ三日で行かれる。それでね、伯爵が乗っているんだから、天候はどうにもなるものと見て、二日は短縮できるだろう。だから、最低に見積もって、われわれはまだ二週間の余裕がある。そこですっかり準備をして、遅くとも十七日にはこちらを発《た》たなければならん。船の着く一日前にヴァルナに着くことにして、まあ準備はゆっくりできるわけだ。むろん、悪魔|除《よ》けのいろんなものは身につけて行く」
するとキンシーが発言した。「伯爵は狼の国からきたんだそうだから、きっとわれわれの行く前に、狼を手に入れていましょう。それでは、ぼくはまさかの時の用意に、ウィンチェスター銃をわれわれの武装に加えることを提言します。ねえ、アーサー、いつだったか、トボルスクで狼の群れに跡をつけられたじゃないか。あの時は一発で木っ端みじんだったっけな!」
教授がいった。「けっこう。ウィンチェスター銃は携行《けいこう》しよう。キンシー君の頭は、こういう時、じつに平衡がとれている。それでね、しばらくのあいだ、われわれはここで何もすることがないから、すこし早目にむこうへ行ってはどうかと思うんだがね。きょうとあすで支度はできるから、できしだい、四人で出かけてもいいじゃないか?」
「四人?」とジョナサンがいぶかしげに、一座の顔を見わたした。
「もちろん」教授が間髪《かんぱつ》を入れず、「きみは愛妻の看護《かんご》のために残ってもらわなければならん」
ジョナサンはちょっと黙っていたが、やがてうつろな声で、
「いや、そのことはあすの朝、またよく話し合いましょう。ミナにも相談してみます」
いつもなら教授が慰めに何かいうところだが、教授はひとこともいわなかった。私がそっと顔をうかがってみると、教授は口に指をあてて、わきを向いてしまわれた。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月五日午後――けさの会合の後、私はしばらくの間、何も考えることができなかった。新しく持ち上がった事態が、すぐにものを考える余裕を私に与えなかったのだ。討議に加わらないというミナの決意は、私を考えこませてしまった。彼女とは、まだそのことについて何も話していないから、私の想像にとどまるが、どうもはっきりまだつかめない。ほかの連中の、あの提言の受け方も、なんとなく妙であった。ミナはいま眠っている。子供のようにすやすや眠っている。口をすこしあけて、なんの屈託もない、無心な顔をして。
夜――ふしぎなこともあるものだ。昼間、ミナの寝顔を見ていると、自分までが屈託がなくなるのに、夜になると、部屋のなかの静けさが、だんだん私に重苦しくなってくる。と思ったら、ミナがぱっちり目をあいて、私の顔をやさしくじっと見て言った。
「ジョナサン、私、お願いがあるの。あなたね、私に約束してくださらない? それはね、神さまのお耳に入れるあらたかな約束なの。私が泣いて頼んでも、ぜったいに破らない堅い約束よ。だから、さあ早く約束してちょうだい」
「ミナ、待ちなさい。そんな約束、おいそれとできやしないよ。だいいち、そんな約束をする権利は、ぼくにはないよ」
「それはね、してほしいのは私だけど、私のためではないのよ。私が間違っているかどうかは、教授にうかがってみてちょうだいね。先生がいけないとおっしゃったら、あなたの好きになさっていいのよ」
「約束するよ。どういうことだね? いってごらん」自分はうれしそうな妻の顔を見入ったが、そのうれしさも、額の赤い痣《あざ》を見ると、にわかにしぼむ思いだった。
「あのね、あなた私に、伯爵を包囲する計略のことはなんにもいわないって約束してちょうだい。ひとこともよ。私のこの痣が、ここについているうちは」
彼女は額の痣をさして、真剣な顔でいった。私は刃向《はむ》かうことができなかった。
「約束する!」
私はそれをいった時、いったその瞬間から、なにか二人のあいだに戸が立てられてしまったのを感じた。
真夜中――今夜は早寝にした。ミナは宵のうち、いつになく元気だった。今、すやすやと子供のように眠っている。この恐ろしい苦悩のなかで、こんなに安らかに眠られる力が彼女に残されているとは、まったく不思議なことだ。不思議でもなんでも、眠っていれば、痛い胸の傷が忘れていられるのだろうから、せいぜい夢のない眠りを安らかに眠ってくれ。
朝六時――またびっくりさせられた。ミナが早朝、きのうと同じ時刻に私を起こして、ヘルシング教授を呼んできてくれという。また催眠術かと思って、私は教授を呼びに行った。教授はもう起きて着がえをすましていたので、すぐに来てくれた。教授がほかの連中も呼ぼうかと聞くと、ミナは頭をふって、
「いいえ、みなさんを呼ぶ必要はありません。ことづけていただけばけっこうです。私ね、先生、みなさんと旅へおともしますわ」
教授も私も驚いた。
「どうして?」
「やっぱり私を連れていらっしゃらなければ駄目ですわ。私もみなさんとごいっしょなら安心ですし、みなさんのことも、私、安全にしてさしあげられますもの」
「どうしてだね、奥さん? あなたの安全は、われわれの重大な義務だよ。それはよく承知している。われわれはね、これから危険の中へはいって行くのだよ。そこへあなたが行くということは、おそらく、われわれよりもいっそう危険だよ。今までのことからいって――」
「それは承知しています」彼女は額の痣を指さして、私が行かなければならないわけは、これなんです。先生、日がのぼるまでに、私、何もかも申し上げてしまいます。いま言ってしまわないと、もう二度といえないかもしれませんから。――私、伯爵が私に命じる時には、自分が行かなければならないことを知っています。伯爵が私に内証で来いといえば、私、人をだましても行かなければならないことも知っています。その時はジョナサンさえだましますわ」
そういって彼女は、私の顔を見た。天使の顔というものがあるとすれば、その時の彼女の顔は、まさにそれだった。私は彼女の手をしっかり握っただけで、何もいえなかった。
「男の方々は、みなさん勇気がおありで、お強くていらっしゃいますわ。ことに、先生はお強くておいでです。だって、私のようにひとりで身を守らなければならなかった者の、人間としての忍従を破ろうとするものに挑《いど》むことができるお方なんですもの。そのうえ、先生は私を催眠術にかけて、私の知らないことがわかるお方なんですから、私、お役に立つかしれませんもの」
教授はまじめな顔をしていった。「奥さん、あなたはじつに賢明だ。よろしい、われわれといっしょにいらっしゃい。そして、いっしょにわれわれが仕遂《しと》げようという仕事をしましょう」
ミナは教授の言葉を聞くと、安心したのか、頭を静かに枕につけて、眠りだした。私が窓のブラインドを上げて、朝の光を部屋のなかへ入れても、彼女は目をさまさなかった。教授が「来たまえ」というので、私は教授の部屋へ行った。まもなく、アーサー、セワード、キンシーの三人も集まってきた。教授は三人に、ミナの同行することを告げて、
「そういうわけだから、あすヴァルナへ出発することにしよう。ミナが新しく加わったから、同勢六人だ。彼女は本心だよ。自分がしたことをわれわれに打ち明けるのは、たいへんな悩みだろうが、よく打ち明けてくれたよ。しかし、ときどきまだ注意してやらんといかん。用心には用心をしてね。ところで、ヴァルナへ着いたら、船が着いたときにとるべき準備をしなければならんが……」
「きまっていることは、何と何ですか?」あいかわらず、キンシーは簡単明瞭である。
「さよう。まず船に乗りこんでいって、泥の箱を確かめたら、その上に野バラの花を一枝のせる。これをのせると、中のものが出てこられないという言い伝えがあるのだ。これは迷信だがね。迷信とはしかし、人間の原始時代の信仰だからね。その根底には信ずべき点があるのだよ。それから、だれも見ていない時を見はからって箱の蓋をあける。それでかたはつくわけだ」
「そんなまだるっこいことじゃ駄目ですよ」とキンシーは実行家だから、「箱があったら、すぐにそいつをあけて、怪物を退治するまででさ。人が見ていようとなんだろうと、かまやしませんよ」
「いや、あっぱれな考えだ。きみは男のなかの男だよ。――ところでね、きょうはいろいろ手筈をきめたり、準備をしたりで、一日つぶれるからね。私は旅行のほうの支度をととのえる。切符その他の宰領《さいりょう》は、私がするからいい」
私たちはもはや何をいうこともなかった。で、それぞれに別れて、旅の準備にとりかかった。
夕方――支度終了。手落ちなし。私は覚悟がきまった。私にもしものことがあって、ミナが生き残れば、彼女が私の後継者だ。
今、そろそろ日が沈もうとしている。ミナの不安が気になる。どうも日が沈む時刻になると、何か心のなかにはじまるらしい。日の出・日の入りのたびに、何か妙なことが起こるので、この時刻はわれわれの悩みの時になりつつある。どうか神の意志によって、よい結果が結ばれますように。
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二五
ドクター・セワードの日記
十月十一日夕――ジョナサン・ハーカーから、自分ではとても書くに堪《た》えないゆえ、私にこれを書いてくれと頼まれた。彼はできるだけ正確な記録をとっておきたいといっている。
きょう、日没のちょっと前に、ミナ夫人がわれわれに会いたいと言いだしたとき、だれも意外に思ったものはなかったろうと私は思う。日の出・日没時が、彼女の解放される特別の時だということは、近頃ではもうだれもが知っている。この状態は、日の出・日没の約三十分前に始まり、日が高くのぼるまでつづく。初めは緊縛《きんばく》が少しゆるんだといったような、消極的な状態だが、やがてそれが完全な解放に進む。解放がやむと、また逆もどりが急速にはじまるが、その前にしばらく、予告の沈黙がくる。
今夜会った時には、彼女は何かに圧迫されているようなようすで、内部の葛藤《かっとう》のさまをまざまざと顔に現わしていた。しかし、じきに自分でそれを押さえ、自分のもたれている長椅子へジョナサンをすわらせ、われわれをぐるりとそのそばに腰をかけさせて、それから語りだした。
「こうやって、みなさんとごいっしょに自由にお話しするのも、これが最後だと思います。みなさんは最後まで私といっしょにいてくださいますわね。明朝、私たちは出かけます。お出かけになったみなさんがどういうことになるか、それは神様だけがご存知のことですわ。みなさんはご親切にも、私をいっしょに連れていってくださるそうで、私のような魂のない女、良心を失った女に、勇気のある、まじめなみなさんが尽くしてくださるお心持は、ほんとに私、ありがたいと思っています。
でも、みなさんはお忘れになってはいけません。私はみなさんと同じ人間ではないのです。私の血のなかには、私の魂のなかには、毒がはいっているのです。そのために、私は身を滅ぼすでしょう。いいえ、何か救いが来なければ、きっと私は身を滅ぼします。ああ、みなさん、私の良心は今、危機に瀕《ひん》しております。それにはたった一つの方法が残されているのですけど、それは、みなさんも私も、取ってはならない方法です」そういって彼女は訴えるようにわれわれの顔を見まわした。
「なんだね、その方法とは?」教授がズバリと聞いた。「われわれもあなたも取ってはならん方法というのは?」
「それは、私が今死んでしまうことです。悪魔の手にかからないうちに、自分の手で、あるいは人手にかかって、私が死んでしまうことです。私が死ねば、みなさんはルーシーになさったように、私の死なない魂を解放してくださることができます。でも私、死がこわくて申すのではありませんが、私たちの目の前に希望があり、仕とげる苦しい仕事が横たわっている現在《いま》この時、死ぬことが神の意志だとは、私にはどうしても信じられません。ですから私、自分だけどこかまっ暗な闇のなかへでも、行ってしまおうと思うのです」
聞いている者はだれも黙っていた。まだこれは前置きだと知っていたからである。みんな眉一つ動かさぬうちに、わけてもジョナサンは死灰のように沈んでいた。このあとに何が起こるか、だれよりも彼が一番予知できたからであろう。ミナはつづけた。
「それで私、今のうちに、財産のわけっこをしたいのです。みなさんは何をくださいまして! 命? それはもう、みなさんは勇気のあるお方たちですから、命をくださるのはたやすいことですわね。でも、みなさんの命は、これは神様のものです。私のような汚れた者にくださらずに、それは神様にお返ししなければなりません。命でないとしたら、いったい何を私にくださるでしょう?」
彼女はまたわれわれの顔を見まわした。が、だれも返事をする者はなかった。彼女はこのときは夫の顔を避けた。キンシーがわかったというふうにコクリとうなずくと、ミナは顔を輝かせて、
「それでは私、自分のほしいものを、ざっくばらんに申し上げてしまいますわ。いよいよの時がきたら、みなさんで私を殺してくださいまし」
「いつですね、その時は?」キンシーが聞いた。さすがに低い、緊張した声であった。
「それはね、私が今までの私と変わって、生きているより死んだほうがいいと、みなさんが見切りをおつけになった時です。そしてね、私が死んだら、一刻も早く私に杭《くい》を打ちこんで、首を切って、私を安らかにしてくださいまし。私を助けるとおぼしめしたら、どうかみなさんで、それを今ここで誓っていただきたいと思います」
すこし間《ま》をおいて、キンシーがまず立ちあがった。彼はミナのまえにひざまずくと、彼女の手をとって、まじめな顔でいった。「ぼくはご覧のとおりのがさつな人間で、とてもこういう晴れの役をになえるような男じゃないけれども、しかし、いざという時には、自分なりに神聖な高い気持はもってるから、あなたがわれわれに課した任務に尻ごみはしません。そういう時がくるかどうか、それはまだ疑問だけど、任務を果たすことは、はっきりここで約束します」
「まあ、キンシーさん!」とミナは身をかがめてキンシーの手に接吻しながら、はふり落ちる涙のなかからいえた言葉は、そのひとことが全部であった。
「ミナ夫人、わしもご同様に誓うよ!」とヘルシング教授がいった。
「私も!」とゴダルミング卿がいい、それぞれ代わる代わるに彼女の前にひざまずいて、誓いを立てた。私もそのあとに従った。そのときジョナサンが、くぼんだ目を妻に向けて、髪が白くなったために緑がかった顔いろをして尋ねた。
「おい、おれも同じ約束をしなければいけないのかい?」
「ええ、あなたもよ」ミナは声と目に無限のあわれみをこめて、「勇気を出してください。あなたはこの世の中で、いちばん私に近い人じゃありませんか。二人の魂は一つに結ばれているのよ。むかしの人は、自分の妻を敵の手に渡したくないために、わが手で妻や恋人を殺したというじゃありませんか。愛する者のためには、どんなつらい試練をもなめるのが、男の方の務めなのよ。ですから、私が死ぬときには、私をいちばん愛してくれている、あなたの手で殺してくださいね。
それからヘルシング先生、私、ルーシーの時の先生のあのおやさしい気持は、今でも忘れません。またあれと同じ時がきましたら、どうか先生、恐ろしい奴隷《どれい》から私を解放して、私の夫の生涯の記憶を、幸福にしてやってくださいましね」
「ああ、よろしいとも。かならず引き受けたよ」教授の大きくひびく声に、ミナはにっこり笑い、ほっとしたようにうしろにぐったりと身をもたれた。
「ところで、ご注意申し上げておくことが一つありますの。これはぜひお忘れにならないように。もしその時が意外に早くきましたら、時機を失せずに、すぐに決行なさらないといけません。その時がまいりますと、私はおそらく――いいえ、もしその時がきますと、私は、みなさんがねらっていらっしゃる敵に内通いたしましてよ。……それからもう一つお願いがございます。もしお志《こころざし》がありましたら、ここでこれから、私にお葬式のお経を誦《よ》んでいただきたいのです」
ジョナサンが「えっ!」といって驚くと、ミナは彼の手をとって胸に押しあて、「あなたはね、いつかは私のために、それを誦《よ》まなければならない方なのよ。どんなに恐ろしいことが起ころうと、あのお経を誦むと胸がすっとして、和やかな心持になりますわ。ねえあなた、誦んでください。あなたの声なら、私の永久の思い出になるのですから……」
「だっておまえ、まだ死が差し迫ったわけじゃなし。――」
「いいえ、私はいま、お墓の土よりもっと重い死に沈んでいるところですわ」
「どうしてもぼくが誦まなければならんのかね?」
「あなたが誦んでくだされば、私、それで安心なの。ねえ、お願いですから、誦んでください」彼女は祈祷書《きとうしょ》を開いて、ジョナサンの手に渡した。ジョナサンは誦みだした。
このふしぎな場面、厳粛さ、陰気さ、悲しさ、ぞっとするような気持、同時に甘美な気持、これが自分に語れようか。誰だって語れやしまい。神聖な気分の中に苦い真実の戯画《ぎが》しか見ない懐疑主義者だって、たがいに愛しあって、身も心もささげあっている友だち同士の小さな集まりが、悲しみに打ちのめされている婦人を囲んでひざまずいているところを見、夫が感きわまって、ときどき声をとぎらせながら、埋葬の経文の単純な美しい章句を誦《ず》している、しみじみとした声をきいたら、おそらく心に溶けこむものがあったろう。これぎりで、もう自分は――自分にはもう言葉も――声も出ない。
彼女の勘は正しかった。不思議といえば、じつに不思議であった。経文が人に影響する力を、われわれもその時はっきり感じたけれども、そのわれわれですら、後になって考えると、奇怪な気がするのだが、とにかく、ジョナサンの誦んだ経文に、われわれは大いに癒《いや》されたのであった。ミナ夫人は、それからしばらくのあいだ黙りこんでしまったが、夫人のその沈黙は、魂の復帰を語るもので、今までわれわれが危惧《きぐ》していたような、多くの絶望を含んだものではなさそうであった。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月十五日、ヴァルナにて――十二日朝、われわれはイギリス海峡をわたって、同日夜、パリ着。そこから東行きの急行の座席がうまくとれた。夜に日をついで旅をつづけ、本日五時頃、ここに着いた。ゴダルミング卿は、ただちに電報の有無《うむ》を問い合わせに領事館へおもむき、われわれはホテル≪オデッサ≫に投宿。この旅は、おそらく多難な旅になるだろう。キャザリン号が入港するまでは、関心をひく世事一つもなし。ありがたいことに、ミナはたいへんぐあいがよく、見るからに丈夫そうになって、顔色ももとに返ってきつつある。とにかく、よく寝る。旅行中、ほとんど寝どおしであった。もっとも、昼のうちは起きていたが、そのあいだに教授が催眠術をかけるのが日課のようになった。最初はかかるまでにかなりの時間がかかったけれども、このごろではもう習慣になったように、手など上げたり下げたりしなくても、すぐにかかるらしい。例によって聞くことは、何が見えるか、何が聞こえるかの一点張りである。
「なんにも見えません。まっ暗です」
「船にぶつかる波の音がしています。帆布がバタバタはためいて、帆柱がギイギイ鳴っています。風は高いところを吹いています」
きょうもそんな答えだったから、キャザリン号はヴァルナをさして、いまもなお航行中であることは明らかだ。――ゴダルミング卿が帰ってきた。彼は四通の電報を持ってきた。出発以来、毎日一本ずつ打った電報だが、電文は似たりよったりで、同船からロイド会社へは、まだ一通の公報もはいらないという。
夕食の後、早目に床へはいる。あすは副領事に会って、船が入港したら、すぐに乗船できるよう、手配をしておかなければならない。教授のいうには、乗船は日の出から日没の間がいいという。伯爵は、たとえ蝙蝠《こうもり》になっても、自分の意志では流れている水の上を渡ることができないから、船から上がることはできない。おそらく、人間に姿を変えることはなかろうと思うから、箱の中にいるにちがいない。だから、もしこちらが日の出後に乗船できれば、敵の運の尽きで、われわれは箱の蓋をあけて、彼のいることを確かめたうえ、目をさまさないうちに、ルーシーと同じようにすることができる。
ここは、なんでも袖の下で事のすむ土地だから、役人や船員たちには、大して面倒なことはないと思う。予告も何もなく、日の出・日没時に船が入港できなかった場合は、――あらかじめそれがわからないといちばん困るのだが――、それも金しだいで、どうにでもなるだろう。
十月十六日――ミナの報告、依然として同じなり。――波のしぶきの音、まっ暗なこと。風は順風だということ。船は今日あたり、ダーダネルス海峡を通過しなければならないはずだから、なんとか公報がはいるにちがいないと思っている。
十月十七日――旅から帰る伯爵を迎えるのに、諸事万端、まことに好都合に運んだように思う。ゴダルミングは船会社の人に、船で運ばれてくる箱のなかには、彼の友人の盗まれた品がはいっていると話して、箱はこちらの手で開いてみるという許諾《きょだく》を得てきたそうである。船主は、船長宛に、この人がきたら、なんでも好きな処置をとらせるように、という一札を彼に渡しているし、またヴァルナの代理人にも、同じ一札を書いてくれている。その代理人にはわれわれも会ったが、この男はゴダルミング卿の義侠心にひどく感服し、こちらの希望を全面的にいれてくれたので、われわれは大いに満足した。
箱を開くさいにどうするかということも、すでにとりきめた。もし箱のなかに伯爵がいたら、教授とセワード君が首を切って、心臓に杭を打ちこむ。もし他から干渉があったら、ゴダルミング卿、キンシー、私の三人で、銃をさしむけても、これを拒否する。だいたい、こんな役割だが、教授のいうには、伯爵の遺体を扱うなら、日が暮れてすぐがいい。その時刻なら、殺人の嫌疑がかかっても、証人がいないから、というのだが、なに、そんな嫌疑などはどうでもいい、われわれは堂々とわれわれの行動を天下に公表して、裁きを待つがいい。われわれの文書が他日証拠になって、われわれの間に絞首刑に処せられる者がでるかもしれないが、私にもし白羽の矢が立てば、好機至れりとばかり、喜んで出頭してやる。
キャザリン号が見えた時の役人との打ち合わせもすました。特別の伝達で知らせてくれることになっている。
十月二十四日――まる一週間待った。ゴダルミング卿宛に、毎日電報ははいるが、いつも「いまだ公報はいらず」の同じ電文ばかりである。ミナの朝夕の催眠術の答えも、変わりなし。――波しぶき、帆柱の鳴る音。
ロンドン、ロイド会社、ルフス・スミスより、ヴァルナ、イギリス副領事気付、ゴダルミング卿に宛てた電報
電報十月二十四日
「キヤザ リンゴ ウケサダ ーダ ネルスヨリコウホウアリ」(キャザリン号、今朝ダダネルスより公報あり)
ドクター・セワードの日記
十月二十五日――蝋管《ろうかん》蓄音機を焼かれて、とんだことをした。日記をペンで書くのは、面倒くさくてしかたがないのだが、教授がなんでも書けという。きのうロイド会社から,ゴダルミング卿宛に電報がはいった時は、一同だいぶ上機嫌だった。戦線で、行動開始を聞かされた時の人間の気持が、よくわかる。ミナ夫人だけはひとり仲間はずれで、膿《う》んだでもつぶれたでもなかった。これはべつに不思議なことでもなんでもない。みんなして、なにごとも知らせないように特別に気をくばって、あの人の前では、けぶりにも興奮を見せないようにしているのだから。
以前なら、いつのまにかとうに勘づいている彼女なのに、こんな点でも、この三週間ばかり、彼女もずいぶん変わったものである。昏睡《こんすい》状態がよくつづき、丈夫丈夫して、血色ももとにもどったけれども、教授と私はどうもそれが気にくわず、おりおり話しているのだが、ほかの連中にはまだひとこともいってない。ジョナサンは神経質だから、何かこちらがそのことで懸念《けねん》を持っていることでもわかれば、また気に病むにきまっているから。
夫人の歯が、まだ危険を起こすほどには尖りだしていないと、教授がいっているところをみると、催眠術の時などに、それとなく入念に見ておられるのにちがいない。変化がくれば、思い切って決行する必要がある。何を思い切ってやるのか、おたがいに考えていることは口に出さずにいるが、二人ともちゃんと承知している。考えると恐ろしいが、二人とも尻込《しりご》みするようなことはない。それにつけても、『安楽死《ユータナシア》』という言葉は、安心感のある、まったくいい言葉だ。あの言葉を考えだした人に、礼をいいたいくらいだ。
ロンドンからのキャザリン号の船足だと、ダーダネルスからここまで、ほんの二十四時間ほどの航程である。朝のうちに着くはずが、とても入港しそうもないから、みんな今夜は早寝にした。支度もあるし、夜半の一時には起きなければならないから。
十月二十五日正午――まだ到着の知らせがない。ミナ夫人の催眠術は、けさもあいかわらずいつもと同じだから、そのうちになんとか知らせがくるだろう。おちついているジョナサンを除いて、男の連中は、みな大はしゃぎなり。ジョナサンは氷のように冷たい手をして、さっき一時間ほど前に見たら、しじゅう肌身《はだみ》離さず持っている大きなグールカの蕃刀《ばんとう》を、一所懸命に研《と》いでいた。あれでやられたら、伯爵は、ひとたまりもないだろう。
きょうはミナ夫人のことで、教授と私はちょっと驚かされた。言えば、みんなが心配するから黙っていたが、彼女は正午頃におもしろくない昏睡《こんすい》に落ちた。午前中はおちつかなかったそうだから、眠れたと聞いて、最初はわれわれも喜んだのだが、いくら起こしてもグーグー寝ているからといって、ジョナサンが呼びにきたので、教授と私だけで部屋へ見に行ってみた。呼吸も自然だし、血色もいいし、しごく安静だから、やはり睡眠は彼女にとって何よりいいのだな、ということに意見が一致した。かわいそうに、お化《ば》けの心配があるものだから、睡眠がからだにいいことを忘れてしまっている。気の毒な彼女である。
夜――やはりわれわれの意見は当たった。ぐっすり眠れたあと、彼女は、近頃にない冴《さ》えた顔色に見えた。日没の時、いつものとおり催眠術をやった。伯爵は今、黒海のどこかを、一路、最後の運命にむかって急ぎつつある。
十月二十六日――また一日たったが、キャザリン号の公報なし。当然きょうは着いているはずなのだが。ミナ夫人の催眠術は、日の出のときは前夜と同じだった。濃霧のために、時として船がよそへ寄港することは、ありがちなことである。昨夜入港した汽船のなかにも、港の南と北に濃霧があったと報告しているものがあった。とにかく、船からいつ信号が出てもいいように、われわれは見張りをつづけなければならない。
十月二十七日正午――じつに、不思議だ。待ちこがれている船のニュース、さらになし。昨夜と今朝のミナ夫人は、あいかわらずの「波の音、波しぶきの音」に加えて、「波の音はごくかすかです」といっていた。ロンドンからの電報もずっと同じで、「公報なし」。教授はひどく心配して、たった今、伯爵は逃亡したのではないかといっていた。そして、意味ありげにそれに付け加えて、「どうもミナ夫人の昏睡がおもしろくないね。催眠術をかけているうちに、妙なことをやってるのだよ」妙なことってなんです、と聞こうとしたところへ、ジョナサンがはいってきたので、教授は危険信号の手をあげた。今夕、日没時に、もういちど催眠術にかけて、充分に話させてみなければならない。
十月二十八日――ロンドン、ルフス・スミスより、ヴァルナ、イギリス副領事気付、ゴダルミング卿に宛てた電報
「キヤザ リンゴ ウホンジ ツ一ジ ガ ラツニユウコウノホウアリ」(キヤザリン号、本日一時ガラツ入港の報あり)
ドクター・セワードの日記
十月二十八日――電報がガラツ入港を報じて来た時、私は、こんな思いがけない衝撃があるとは思いもしなかった。じっさい私は、どこからどんなふうに、いつ、こんな青天の霹靂《へきれき》が降って湧こうとは、まったく夢にも知らなかった。が、何かへんなことが起こるな、とは、みんな予期していた。ヴァルナ到着の延びたことは、個人的には、物事は予想どおりにはいかないということで、一応けりがつき、この上はただ、どこでこの変更が起こったか、それを知るのを待つばかりということにはなったが、ともあれしかし、驚きであった。思うに、自然というものは、人間がこうなるものと知っているとおりでなく、こうなるべきだからこうなると、われわれの逆を行く、しっかりした基礎の上で仕事をするものだ。先験主義は天使には蜂火《のろし》だが、人間にとっては、狐火なのだ。
まったく中途半端な経験をしたもので、われわれはそれを各人各様に受けとった。教授は神に抗議でも持ちこむように、しばらく頭をかかえこんでいたが、一言もいわず、何分かたつと深い息をついていたし、私は半分馬鹿になったようにポカンとして、みんなの顔を順々に見ていた。キンシーはせっかちに皮帯をしめ直していた。これは、いざこれから何かしようという時の、われわれの若い時代の古い習慣である。ミナ夫人は気味の悪いほど白い顔をしていた。そのために額の痣《あざ》が燃えるように赤く見えた。そのくせ両手を組んで、祈祷《きとう》をする時のように、じっと空を見つめていた。ジョナサンはニヤニヤして――じっさいニヤニヤしていた。しかし、その微笑は、希望を失った者の暗い苦い微笑だった。それと同時に、行動が言葉を裏切ったものか、本能的にグールカの蕃刀をまさぐっていた手が、ひとりでに柄《つか》をおさえていた。
「この次のガラツ行きの汽車は何時だろうな?」教授は、だれにいうともなくいった。
「あしたの朝六時三十分です!」これがミナ夫人からの返事だったから、みんな目を丸くして驚いた。
「あんた、どうしてそれを知っているんです?」アーサーがいった。
「あら、お忘れに――いえ、あなたはたぶんご存知ありませんわね。私、これで汽車マニアなんですのよ。エクセターにいた時分は、うちの人に便利にと思って、いつも時間表を作っていました。でも、あんなもの作っていると、ときどき役に立つこともありますのね。ここからいつ何時《なんどき》ドラキュラ城へ行くかわかりませんから、ガラツから行くにしても、ブカレスト経由で行くにしても、時間は明細に覚えておきましたの。あいにく覚えるほど何本もないんですのよ。いま申し上げた朝の汽車ぐらいのもので」
「どうも、えらい人だね、この人は」教授は感心してつぶやいた。
「特急はないのかなあ?」ゴダルミング卿がいった。教授が頭をふって、「ないだろうな。ここらはきみ、きみたちやわしの国とはちがうからね。特急で行ったって、おそらく着くのは、普通列車と同じだぜ。それより、いろいろ準備もあるから、みんなして考えなければ。まず手分けをしてやることにして、アーサー君、きみは駅へ行って切符を買って、明朝たつ手筈をととのえてきてくれたまえ。それからジョナサン君、きみは一つ代理店へ行って、ガラツの代理店へ添書をもらってきてくれないか。キンシー君は副領事に会って、ガラツの部下の者に話が通るように、万事よろしく一つ斡旋《あっせん》を頼んできてくれたまえ。ジョンとミナ夫人とわしは、ここに残って、いろいろ相談しておくからな。時間はあるから、ゆっくりでいいよ。日没にはわしがいて、奥さんに報告を聞いておくから、大丈夫」
「先生、私、なんでもやりましてよ。ついさっきから急に私、憑《つ》きものが落ちたようになって、気分がカラリとしましたから。書くなり考えるなり、なんでも先生のお手伝いをいたします」
教授と私は顔を見合わせて心配な目つきをかわしたが、その時は二人とも口にださずにおいた。
三人が出ていってから教授はミナに、ジョナサンの日記の複本を持ってきて、城の部分のところを見てくれと頼んだ。それを取りに、彼女が部屋を出ていってから、教授は私にいった。
「二人とも考えは同じだったね。いってごらん」
「どうも何か変化がありますな。ひょっとすると、われわれをだますのかもしれませんな」
「そうなんだ。わしが日記を取りにやった意味、わかるかね?」
「いいえ。二人きりになるためですか?」
「それもある。しかし、それだけじゃない。……いや、じつは一か八か、やってみようと思ってね。でも、わしはそれが正しいと信じておる。あの人、さっきわれわれをとまどわせるようなことをいったろう。あの時ひょっと考えたんだがね。伯爵は三日前の彼女の昏睡状態の中へ霊を送って、彼女の心を読んだのだな。あるいは、日の出か日没の時に、波の音といっしょに彼女を船へつれて行って、泥の箱の中の自分を見せたらしいな。その時彼は、われわれがここにきていることを教わったのだよ。だから、彼はわれわれから逃げることに全力を注いだのだ。
したがって、現在、伯爵はミナをもう必要としていない。彼はあの怪知識で、自分が呼べば、ミナが来ることを確信しておった。ところが彼はミナを断ち切ってしまった。彼自身の力の外へ追い出してしまった。だから、ミナはもう彼のところへは行かれん。とまあ、こういうわけだな。ところで、伯爵は彼女に特殊な力を与えたが、ミナを断ち切っても、その力はやりっぱなしにして取り上げん。そのままだ。顧《かえり》みもせん。ジョン、ここだよ。われわれはおそろしい難関にいるぞ。われわれはただ神を信ずるのみだ。しっ! ミナが来た!……」
私は教授が、ちょうどルーシーが亡くなった時のように、心乱れてヒステリックになり、それを目分で一所懸命に抑えることで、気もそぞろでいるのだと思った。そこへミナ夫人がまるで彼女の不幸は忘れてしまったような元気な顔をして、部屋へはいってきた。そして、一束になったタイプの日記をわたすと、教授はまじめな顔をしてそれをひっくり返して、ところどころ目を通していたが、
「ジョン、きみはすでに経験豊冨だし、奥さんも若いが苦労人でおられるが、ここに一つの教訓があるんだ。考えることを恐れるな、という教訓だ。わしなども、よく中途半端な考えが、頭のなかを、うるさくブンブン舞うことがあるが、わしはそういう時には、考えの翼を締めてやる。そして、そういう中途半端な考えが、どこから起こるかと考えると、そんなものはいっこうにないのだな。年が若くて、翼がまだ弱くても、徹底的に考え通さなければならんのだ。アンデルセンの『みにくいアヒル』のような考えはいかん。すべからく、大きな翼をけだかく広げる、大きな白鳥の考えでありたい。ちょっと、ここのところを読むから聞いていなさい。――
『その後年経るにおよび、彼の一族の他の者は、くり返しくり返し、大河を越えてトルコに勢力をのばした。彼はいくたびか敗けて退き、彼の軍隊が血で塗った戦場を、今はひとりで往来しなければならなかったが、自分だけは最後に勝てると知っていたから、なおも懲《こ》りずに、くり返しくり返しやってきた』
――ここの所だがね、これはいったい、何をわれわれに教えているのかな? 大したことはないと? とんでもない! これはね、伯爵の小児的考えはなにものも見ておらんという証拠になる、大事なところだよ。小児的考えだから、こんなふうに無遠慮に、不羈奔放《ふきほんぽう》に語っておるのだよ。ほんの今さっきまで、きみの大人の考えも、わしの大人の考えも、なにものも見ておらなかった。ところが、ここへある女の人からある言葉が降ってきた。その女の人は、その言葉の意味は知らん。知らんからして、考えなしに話しておる。これがちょうど四大元素のようなものでな、四大元素は自然の運行のなかで、それぞれ独自に動いておるが、こいつがたがいに相触れ合うと、ドカン! と来る。一閃《いっせん》、空じゅういっぱいの光になって、ある物を盲目にしたり、殺したり、破壊したりするかわりに、下界の物をパッと明るくして見せてくれる。その婦人の言葉は、ちょうどそんなものだった。
そこで説明をするが、きみたちは犯罪哲学を勉強したことがあるかな? ジョンはあるか? ある。そうだ、あれは狂人の研究だからな。奥さんはない。奥さんは犯罪に関係ないからな。いや、一度やったか。まだしかし、奥さんの心は、じっさいに働いておるんだよ。だから特殊でなく、一般論で行こう。犯罪にはこの特殊性というやつがあるのだね。犯罪というやつは、これはもう、≪浜の真砂《まさご》は尽きるとも≫で、どこの国、いつの時代にも跡の絶えぬもので、だから警官は、哲学なんかなんにも知りゃせんが、経験でそれがわかるのだね。
ここなのだ。犯罪というやつは、経済的なものなのだ。犯罪者というやつは、かならず、いつも一つの犯罪ばかり働く。まるで一つの犯罪に運命づけられたみたいに、ほかの犯罪にはぜったいに見向きもしない。そういう犯罪者、こいつがほんとうの犯罪者なのだ。こういう犯罪者は、成熟した大人の頭脳を持っておらん。そういう連中は、皆なかなか利口で、目はしがきいて、狡猾《こうかつ》で、機転のきく人間だが、頭脳が大人の形になっていない。たいがい、子供の頭脳だ。
ところでわれわれの犯人、ドラキュラ伯爵はというと、こいつも生まれながらの犯罪者だ。こいつもまた、子供の頭脳しか持っていない。自分が一度したことをするというのは、これは子供の頭脳だよ。小鳥でも魚でも小さな動物でも、みな原理によって物を学んで知るのではなく、経験によって知るのだからね。それから先をやるには、また初めっから出直しだ。アルキメデスがいったね。『われに支柱を与えよ。さらば世界を動かさん』一度何かするということ、これが支柱となって、小児の頭脳は成人の頭脳になって行く。子供はもっとそれ以上しようという目的を持つまでは、いつでも前にしたとおりに、同じことをくり返しつづけている。どうだ奥さん、目が開いたね。奥さんにはそれが稲光となって、あたり四方、一ぺんにパッと見えたろう」
教授がそういったのは、ミナ夫人が手を拍《う》って、急に目を輝かしたからであった。
「さあ、奥さん、話してごらん。あなたのその輝いた目で見たものを、この二人の朴念人《ぼくねんじん》学者に話してもらおう」
そういって、教授はミナ夫人の手をとると、話を聞きながら、彼女の脈をとりだした。夫人は語りだした。
「伯爵は犯罪者であり、犯罪的典型なんですわね。ノルドーやロンブロゾオなら、きっと彼を分類したでしょうね。犯罪者としての彼は、不完全に形づくられた人です。ですからむずかしいことにぶつかると、習慣の中に策を求めなければなりません。彼の過去は一つの神秘の手がかりであって、私たちの知っているのは、その一ページです。これは彼自身の口から聞いたものです。その一ページは、キンシーさんなら窮地《タイト・プレイス》とおっしゃるようなところへ彼が追いつめられて、前から侵入しようと試みていた国から、自分の国へ帰って来た時のことです。そしてその時から、彼は目的を失わずに、新しい努力の準備をしたのでした。彼は自分の仕事のために、うまくふたたび逃げてきて、そうして勝ちました。
そこで彼は、こんどは新しい土地へ侵入しにロンドンへやってきました。そのロンドンで彼は敗北して、成功の望みを失い、自分の存在が危なくなったので、海を渡って故郷へ逃げ帰りました。ちょうど、トルコからダニューブ河を渡って逃げて帰ったのと同じように」
「そうだ! うまい、うまい! 奥さんはなかなか頭がいい」教授はそういって私に向かい、
「これだけ興奮していて、脈はわずか七十二だ。有望だぞ」といって、また夫人に向かい、
「さあ、どんどん話した。心配しないで、話しなさい」
「ええ、話しますけど、私、自惚《うぬぼ》れていると見えたら、許してくださいませよ」
「自惚れ、けっこう。せいぜい自惚れなさい。こっちの考えているのは、そういうあなたのことなんだから」
「そこで彼は犯罪者ですから、勝手者です。彼の知性は小さく、彼の行動はわがままに基づいていますから、彼は一つの目的に自分を閉じこめて、そこより外へ出ません。その目的はじつに残忍非道です。彼は自分の力を寸断されて、ダニューブを渡って逃げ帰った時のように、今彼は安全でありたいことだけを考えて、ほかのことはまるで顧慮していません。そういうわけで、彼自身のわがまま勝手が、私の霊をあの恐ろしい力から解放したのです。
そうですわ! 私、今はっきりそう感じますわ! はっきりそう感じますわ! ああ、私、助かったのですわ! 私の霊は、あの恐ろしい時以来の私より、今、ずっと解放されました。私、わかりましたわ。私にとり憑《つ》いていたものは、私の昏睡状態や夢のなかで、彼が私の知識を、彼の目的のために使わないようにと、それを恐れていたことだったのですわね」
教授は立ち上がった。「わかったね、奥さん。あいつは、そうやってあなたの心を使っていたのだよ。それによって彼は、われわれをこのヴァルナに置いてけぼりを食わしたのさ。そのあいだに船は彼を乗せて、濃霧のなかをガラツへ一目散《いちもくさん》に走った。ガラツで、おそらく彼は、われわれから逃げる支度をするだろう。しかし、彼の小児的頭脳は、ただ遠くのほうを見るだけだ。どうも悪いことをするやつは、自分勝手な、つごうのいいことばかりを考える。そして、これが悪いことをするやつの致命的な傷になるものらしいね。≪猟師は鹿を見ず≫というが、まったくそのとおりだな……。
ところで、彼は今、われわれの追跡からすっかりのがれたと考えている。それからまた、彼はあなたの心を知ることから、自分を断ち切ったと考えている。もうあなたに自分は知られることはないと思っている。ここがそれ、あいつのあさはかなところなのさ。なるほど、彼があなたに与えた、あの恐ろしい血の洗礼は、日の出・日没の時に、あなたが霊になって、自由に彼のところへ行くようにしたさ。しかし、あながち、彼が呼んだからというだけで、あなたは行ったのじゃないものね。自分の自由でいる時だって、行こうと思えば行けたからね。催眠術であなたが彼のところへ行ったのは、あれは彼の力で行ったのではなくて、わしの力で行ったのだからね。それを彼が知らないということ、自分を守ることで、われわれがどこにいるのかを知ることからさえ、自分を断ち切ってしまっているということ、ここが肝心なところなのだ。ジョン、これはきみ、だいじな時間だったな。今のことはすっかり書いておけよ。そしてみんなが帰ってきたら、読ませてやれ」
以上、私はみんなの帰りを待っているあいだに書いた。それをミナ夫人が、例によってタイプで打ってくれたのである。
[#改ページ]
二六
ドクター・セワードの日記
十月二十九日――今、ヴァルナからガラツへ行く汽車のなかで、これを書いている。昨夜、日の落ちるちょっと前に、われわれは集まった。旅中の備え、ガラツヘ行ってからの仕事の準備など、めいめいの支度がととのった。いつもの時刻に、一同は催眠術の用意をしたミナ夫人のまわりを囲んだ。この日は施術にひどく暇がかかり、教授はいろいろ苦労しておられたが、ようやくのことで、昏睡状態にはいった。いつもなら、こちらから暗示を与えて、それによって彼女が語りだすのであるが、きょうは教授はいろいろ彼女に聞くことがあるとみえ、われわれの知らないようなことをテキパキ尋ねていった。
やがて彼女の答えがあった。――
「なんにも見えません。静かです。波も打っていません。ただ錨《いかり》の鎖のまわりに水が渦を巻いています。男の人たちが何か叫んでいる声が、遠く近くに聞こえますね。そして櫂《かい》の音がギイチコ、ギイチコ聞こえます。あっ、鉄砲がドンと一発鳴りました。その反響が消えていきます。頭の上をガタガタ人の足音がして、綱だの鎖だのを引きずっています。なんでしょう、これ? 灯火《あかり》が一つあります。風がこっちへ吹いてくるのが感じられます」
ここで黙ってしまった。話のなかばに、彼女は長椅子からいきなりパッと立ち上がると、両手を高く上げ、手のひらを上に向けて、何か重いものを上へ持ち上げるような動作をした。教授と私は、それを見てうなずきあった。キンシーはびっくりしたような目をして、熱心に彼女のことを見ていた。ジョナサンは短刀の柄に手をかけていた。だいぶ長いあいだ沈黙がつづいたが、そのうちに彼女は、いきなり長椅子に腰をおろしたと思うと、パッと目を開いて、
「みなさん、お茶でも召し上がりません? お疲れになったでしょう」というと、さっさとお茶を取りに部屋から出ていった。
「どうだ」教授はいった。「伯爵は陸地に近いところにいるな。泥の箱から、もう出たね。しかし、まだ陸へ上がらなければならんからな。夜になれば、どこかへ隠れて寝るだろうが、陸へ運ばれなければ、あるいは、船が陸へぴったりつかなければ、あいつは陸へ上がれんからな。そうなれば、夜なら、ホイットビーの時みたいに姿を変えて飛びだすか、舞いだすかするな。しかし、陸へ上がらんうちに、夜が明けてしまうと、人に運び出してもらわなけりゃ、逃げ出すことはできん。へたに運び出されれば、税関に箱の中身を見られてしまう。だからね、結局、今夜のうちに、夜の明ける前にだな、陸へ逃げ出せなければ、あいつはどうしたって、一日棒にふることになるよ。とにかく、われわれは間に合うから大丈夫。夜逃げ出さなければ、夜が明けてから行って、箱のまんま、煮《に》るとも焼くとも、こっちの勝手さ。正体を現わさなかったら、現わさしてやる」
それ以上いうことはなかったから、われわれは明け方まで我慢して待った。明け方になれば、またミナ夫人から情報が得られるだろうから。
そこでけさ早く、ミナ夫人に催眠術にかかってもらい、われわれは息をのんで聞き入った。しかし、けさは今まででいちばん昏睡に時間がかかり、日がのぼるまでにあます時間がいくらもなくなったので、教授は全魂を傾けてやっているようであったが、とうとうしまいに、彼の意志に従って彼女の答えがあった。
「まっ暗です。ピタピタという水の音が、私のいるところと同じ高さのところで聞こえます。何か、木が軋《きし》るような、ギイギイという音が聞こえます」
それきり彼女は黙ってしまった。その時、朝日がまっかにのぼりだした。われわれはとうとうまた夜まで待たなければならない。
ガラツに向かう車中は、一同、じつに気ばかり先に急がれる旅であった。予定だと、朝の二時と三時の間に着くわけだが、ブカレストですでに三時間も汽車が遅れているから、朝日ののぼるまでには、どうも間に合いそうもない。そうなると、まだあと二度、夫人から情報が得られる。そのうちのどちらかで、なんとか見通しがつくだろう。
夜――日没がきて、去った。いいあんばいに、ゴタゴタしていない時でよかった。あれが駅で日没にあったら、とてもわれわれだけで落ち着いて聞いてなどいられなかったろう。夫人は昏睡にはいるのに、けさよりもまた長い時間がかかった。もう彼女には、こちらの思うつぼの時に、伯爵の心を読む力がなくなってしまったのではないかと思う。だんだん、彼女の想像が動きだしてきているような気がする。彼女は昏睡にはいると、ごくつまらない、わかりきった事実にばかりこだわっている。このままで行ったら、結局、われわれをだますことになりはしないか。彼女の上に働く伯爵の力が、彼女の知覚力といっしょに消えてしまったのだ。考えれば、それはけっこうな考え方だけれど、どうもそうではないような気がする。彼女のいうことは謎みたいであった。
「なんだか出ていきます。それが私のそばを、寒い風みたいに通っていくのが感じられます。遠くのほうでガヤガヤという声が聞こえますね。外国語で話している男の人の声、それにドードー落ちる滝の音、それから狼の鳴き声が聞こえます」そこで言葉がプツリと切れると、全身にガタガタふるえがきて、それが四、五分間だんだん激しくなり、そしてやんだ。あとはもう、教授が何を尋ねても、命令するようにいっても、ひとことも彼女は語らなかった。催眠術からさめると、彼女は身体が冷えきり、ぐったりと疲れたようになっていたが、心気は元気であった。彼女は何もおぼえておらず、自分が何をいったかと尋ねたが、これこれのことをいったと聞くと、しばらく考え深そうに黙りこんでいた。
十月三十日午前七時――いよいよガラツが近づいた。あとで書く時間がないかもしれないから、いま書いておく。けさの日の出を、一同は不安のうちに迎えた。夫人の催眠術がだんだんかかりにくくなったのを知って、教授はいつもより早目にかけはじめた。だいぶ聞き出すのにひまがかかった。彼女の返事は、あいかわらず口早だった。
「まっ暗です。水の音が耳の高さで聞こえます。水の上に木の軋《きし》る音がしています。牛が遠くのほうで低く鳴いています。ほかにも何か音が―― 妙な音が――」
それで切れてしまった。そして顔の色が青くなり、見る見るだんだんまっ青になって行った。
「さ、もっとつづけて話しなさい。話すのだよ。話すのだといったら、話しなさい」むかっ腹を立てたような教授の声だった。同時に、教授の目のなかに絶望の色が見えた。夫人の青白い頬を朝日の光がほの赤く染めだしたからである。彼女は目をあくと、まるで関係がないような、甘えた調子でいいだしたので、一同は驚いた。
「まあ先生、わたくしにできないことはご存じなのに、どうしてそれをしろとおっしゃるんですの? わたくし、なんにも憶えていませんわ」といって、われわれの顔を見てびっくりして、困ったような顔をしながら一人一人の顔を見わたしていたが、
「わたくし、なにをいいまして? なにをしまして? なんにもわかりませんわ。ただここへ横になって、半分眠ったように、先生が話せ、話せと命じているのを聞いてたんですけど、なんだかまるでわたくしがいたずら坊主みたいに、こうしろああしろと先生から命令されるの。おかしいくらい!」
「いや奥さん、それがね、わしがあんたを敬愛しとる証拠なんだよ。わしはあんたがいうとおりに従うのを誇りに思っとるから、それであんたのためになるように、おかしいくらいしつこく聞いたのさ」
そのとき、汽笛の音が聞こえた。いよいよガラツが近づいたのである。われわれは不安と執心で、頭がほてってきた。
ミナ・ハーカーの日記
十月三十日――キンシー氏が、前もって電報で申し込んでおいたホテルへ私を連れていってくれる。外国語が話せないので、キンシーさんは目下、身体があいているのである。ゴダルミング卿は副領事のところへ行く。ジョナサンと二人のドクターはキャザリン号入港の詳細を知るために、船会社の代理店へ行った。
ゴダルミング卿が帰ってきた。領事は不在、副領事は病気で、手続きは事務員がとってくれた由。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月三十日――九時に、教授とセワード氏と私とで、マッケンジー・アンド・スタインコフ代理店を訪問。代理店には、ゴダルミング卿が電報で頼んだロンドンの本店からの連絡がきていたので、先方はていねいにわれわれを扱ってくれ、ただちに波止場に碇泊しているキャザリン号に案内してくれた。われわれは船長のドネルソンに面会して、航海中のことを聞いた。船長は、冒頭まず、こんどのような恵まれたいい航海は、生涯したことがないといって、それから語りだした。
「あんまりどうも恵まれた航海なんで、ひょっとすると揺り返しが来やしないかなんて、心配したくらいでしたよ。ロンドンから黒海まで、追風《おいて》に帆とは、なんだかまるで神様が風でも吹かしてるみたいでね。ジブラルタルも信号なし、あれからダーダネルスで通航許可をもらうまで、ずっとどこでも呼びとめられずさ。ダーダネルスで霧が上がるまで、帆をゆるめて、ちっとうろついていようかと思ったんだが、なあに、神様は黒海へ早く入れてくださるおぼしめしなんだろうと思ってね。べつに船足の捗《はか》がいくのは、船主に損かけるわけじゃなしさ、船荷を傷《いた》めるわけじゃなしね。
するとね、ボスフォラスを過ぎるてえと、船員がグズリだした。船員のなかにはルーマニア人がいましたが、そいつがやってきて、ロンドンをたつ間ぎわに乗った、妙な顔の爺さんが積みこんだ大きな箱を、甲板へ上げていいかって聞くんでさ。船員たちはその爺さんを見ると、二本指を出して、悪魔|除《よ》けのまじないをするんですよ。よその国のやつって、妙な迷信を持ってるもんでね。それから私は、早くその荷を上げろっていってやったところが、急にあんた、凄《すご》い霧がかぶってきてね。それからまる五日間、まるっきり霧が晴れずさ。そうなると、風まかせでさ。なあに、神様がどっかへ着けてくださるだろうと思ってね、深いところ深いところと船道をとっていくと、二日前でしたね、霧ん中へ朝日が出たから、見るてえと、船はガラツの手前の川にいるじゃありませんか。
すると、ルーマニア人の船員たちがまた沸きだして、是が非でもあの大きな箱を川ん中におっぽりこんでしまえといってきかねえ。それで私はどなりつけてやった。見ると、その荷は、ヴァルナ経由ガラツ行きとしてあるから、とにかく港へはいるまでは荷に手をつけちゃならねえ、それからおろせといいつけたんです。
その日はいちにち霧が深くって、碇泊は夜になりました。朝になったら風が吹きだして、そこへ一人の男が注文書を持って船へやってきて、イギリスからの手紙で、ドラキュラ伯爵という人に宛てた箱を受け取りにきたからわたしてくれと、こういうんです。注文書を見ると、なるほど、そうなっている。こっちはいい厄介払いだと思って、さっそくその男に荷をわたしてやったんです」
「それを持っていった男の名前はなんというのかね?」教授は緊張した面持で尋ねた。
「ちょっと待ってくださいよ。すぐにわかりますから」船長は船室へ下りて行って、受領証を持ってきた。
「イマニエル・ヒルデスハイム」住所はプルゲン街一六としてある。船長の知っているのは、これだけだった。われわれは礼をいって、船を辞去した。
ヒルデスハイムは事務所にいた。羊のような鼻をして、トルコ帽をかぶった、アデルフィア劇場型のヘブライ人である。言葉をいちいち区切っていい、――こっちもそうだが――ちょっと意外な顔をしながら、知っていることをわれわれに話してくれた。この男は、ロンドンのド・ヴィーユ氏から、キャザリン号でガラツに到着する箱があるから、これをなるべく税関の目に触れないように、日の出る前に受け取ってくれ、という書状を受け取った。で、彼はこれを、川上からこの港へ商いにくるスロヴァキア人のペトロフ・スキンスキーという男に委託した。ド・ヴィーユ氏は英国紙幣で支払ってきたから、これをダニューブ国際銀行で現金にひきかえた。スキンスキーがやってきた時、自分は運賃が助かるので、船まで連れていって、箱の荷を彼に引きわたした。――彼の知っているのはこれだけであった。
それからわれわれは、このスキンスキーという男を捜したけれども、尋ね当てた家にはいなかった。あまり好感を持っていないらしい近所の者がいうのに、スキンスキーは二日ばかり前から見えないが、どこへ行ったか、だれも知らないという。これは、家主もそのことを裏書きしていた。家主は、使いのものから、イギリスの金で家賃といっしょに鍵をあずかったのだという。これが昨夜十時と十一時の間のことで、われわれはここでふたたび立ち往生をしてしまった。話しているうちに、そこへ息せき切って駆けてきたものがあって、「たいへんだよ、スキンスキーの死骸がセント・ピーター寺院の墓地の塀の中で見つかったよ、何か、けだものにやられたらしい、咽喉のところを食い切られているよ」と告げた。
われわれと話をしていた人たちが、急いでその惨劇《さんげき》を見に行ったが、女の連中は、「こりゃあスロヴァキア人のしわざだよ」と口々にわめいていた。われわれは巻き添えを食うといけないと思ったから、見にいくのはやめて、急いでそこを引き揚げてきた。
帰る途々《みちみち》、われわれははっきりした結論も出なかった。箱がどこかへ船で持ち去られたことだけはわかったが、これからその在所《ありか》を捜し出さなければならない。一同、心重く、ホテルへ帰ってきた。
みんなの顔がそろった時、われわれはまず第一に、ミナをふたたびわれわれの信頼のなかに入れることを計らった。事態はいよいよ絶体絶命となりつつある。危険の瀬戸際《せとぎわ》ではあるが、しかしまた、一つのチャンスでもある。その予備段階として、私は彼女にした約束から解かれた。
ミナ・ハーカーの日記
十月三十日夕――みなさんがひどく疲れきって、元気がないので、しばらく休息をとるまで、私は何もすることがなかった。で、三十分ばかり横になっていただいて、その間に書き物を片づけておくことにした。旅行用のタイプライターを発明した人に、私はほんとにお礼がいいたい。これを一台手に入れてくれたキンシーさんにも、私は同様に感謝している。ペンで書いていたら、とてもこんな仕事は面倒くさくてできなかっただろう。
さあ、できあがった。ジョナサンはまた何を悩んでいるのだろう。ソファに横になって、つく息さえ苦しそうだが、何をそう悩まなければならないことがあるのだろう。眉をしかめて、顔が苦痛でひきつっている。きっと何か考えごとをしているのにちがいない。ああいう顔をしているときは、考えを集中している時なのだ。私にはわかっている。ああ、私に手が貸せたら、なんでもするのだが……。
教授にお願いしたら、私のまだ見ていない日記を全部出してくださった。みんなが休んでいるうちに、丹念《たんねん》に読んでおこう。そして、教授がいつもおっしゃるように、自分の前にある事実を、偏見なく考えることにしよう。
私は、神の助けで一つの発見をしたと信ずる。地図を出して、よく見てみよう。
自分の正しいことが、今までよりもいっそう自分で確かめられた。私の新しい結論は、すっかりととのったから、みなさんに集まってもらって、読んで聞いてもらおう。みなさんはそれを判断なさればいい。とにかく慎重周到にするのがいい。こうなれば、一刻一刻が貴重なのだから。
ミナの覚書≪日記の中に記入してあったもの≫
調査の拠点。ドラキュラ伯爵の問題は、彼自身の立場にもどって考えるべきである。
(a)彼は何者かの手で連れもどされるにちがいない。これは明白である。なぜならば、彼が望むままに自分で動く力があるなら、人間になろうと、狼になろうと、蝙蝠になろうと、その他どんな方法でも、行くことができるだろうが、それができないのだから。彼は当然の孤立無援の状態で、人に見つけられ、人に干渉されることを恐れ、明け方から日没の間は木箱のなかに隠れたまま、どこかに閉じこもっているにちがいない。
(b)どんな方法で連れて行かれるか? ――陸路か、鉄道か、水路か。これを順々に振り落としていってみよう。
1 陸路――これは、ことに都会から出て行くばあいには、無限の困難がある。
x まず人間がいる。人間は物見高くて、詮索好きである。箱の中身についてのちょっとした暗示、推測、不審で、彼はたちどころに破滅してしまうだろう。
y 税関があり、入市税徴集吏がいる。
z 彼の追跡者が跡を追う。これが何よりも彼の恐れるところである。自分が裏切られることを防ぐために、彼は撥《は》ねつける。追い返す――彼の犠牲者をさえ――私みたいな。
2 鉄道――だいいち、あの箱を受け付ける者がない。一か八かでやったにしても、いたずらに遅れるだけだ。遅れるということは、敵に追いかけられている場合、これは致命的なことである。なるほど、彼は夜陰に乗じて逃げ出すかもしれない。しかし、彼が飛びこんで身を隠すような避難所のない、しかも知らない場所でおっぽりだされたら、彼はいったいどうなるか? そういうことは、彼の望むところではない。そんなあぶない思いを冒《おか》してまで、やる気はあるまい。
3 水路――これは、一面もっとも安全な道だが、また他面、もっとも危険な道である。水上では、彼は夜以外には全く無力だ。むろん、霧、嵐、雪、狼などを呼ぶことはできるが、もしそんなものを呼んで、船が転覆《てんぷく》したら、彼は水にのまれてしまう。助ける者はない。そして、じっさい、行方不明になってしまうだろう。その時、彼は船を陸へ引きよせることはできるだろうが、着いた場所がなじみのない土地だったら、上がったところで、自分の自由には動けない。彼の立場は、にっちもさっちもいかない。
記録によると、水の上にいたこともあったというが、それなら、その水がどんな水だったかということを、確かめる必要がある。
何よりもまず、彼が今までしたことを如実《にょじつ》に考えてみることだ。そうすれば、今後の彼のすることに、光明を得ることができるだろう。
第一――われわれは、彼がロンドンで、これだけのことをやろうという全計画の中からしたことを、強《し》いられてやむなくした時と、考えに考えぬいてした時とに、区別してみなければならない。
第二――われわれは、彼がここでしたことを、われわれの知っている事実から推定し、同時によく見てみなければならない。
第一については、彼は明らかに最初からガラツに来るつもりでいたのであって、ヴァルナへ送り状を出したのは、彼がイギリスから逃げ出す手段を、われわれにはっきりつかめないように、われわれの目をくらますためであった。つまり、あの時の彼の直接の目的は、「脱出」することだったのである。その証拠は、イマニエル・ヒルデスハイムに日の出前に箱を持ち出してしまうよう、命令の書状を送っていることと、ペトロフ・スキンスキーにも同じような命令の手紙を出していることである。このことをわれわれは見落としてはならない。しかし、スキンスキーがヒルデスハイムのところへ来てから、現在までに、どこかへ手紙か伝言が必ず来ているにちがいない。
以上の点で見ると、彼の計画は成功したことがわかる。キャザリン号はあのとおり、人間|業《わざ》とは思われぬほど、船長ドネルソンが不審に思ったほど、迅速に航行した。しかし船長の迷信は、伯爵の勝負をうまくこっちへせしめたような狡猾《こうかつ》さと結びつき、濃霧のなかを順風に乗って走り、ついにガラツへ盲滅法《めくらめっぽう》にたどりついたのである。伯爵の計画手順が巧妙に作られていたことは、これを見てもわかる。ヒルデスハイムは箱をなんらやましい品でないとして、それを船から持ち去って、スキンスキーに渡した。スキンスキーはそれを持って――ここのところで、足どりが消えてしまっているのである。われわれはただ、現在、箱がどこかの水上にあって移動しつつあることを知っているだけである。税関や入市徴税吏がもしいるとすれば、そこはよけていくだろう。
さて、われわれはいよいよ伯爵が、到着後、陸上で、つまりガラツで、何をしたにちがいないかという点にきた。
箱は日の出前にスキンスキーに渡されたのである。ところで、日の出前には、伯爵は自分の姿で現われることができるのである。ここでわれわれは、なぜスキンスキーがこの仕事に選ばれたかということを考えてみたい。私の夫の日記によると、スキンスキーは川を下って港へ商売に行くスロヴァキア人だと記されている。また、彼を殺害したのはスロヴァキア人のしわざだといった人の言葉は、彼のような階級に対する一般人の感情を示している。伯爵は隔離を欲しているのである。
私の推定はこうだ。――ロンドンで、伯爵は、もっとも安全で秘密な方法として、自分の城へ水路で帰ることにきめたということである。来る時は、城からツガニー人の手で運び出され、ツガニー人は、おそらく例の五十個の積荷をスロヴァキア人に渡し、スロヴァキア人がヴァルナまで箱を運び、そこから船でロンドンに積み出したのであろう。そんなわけで、伯爵は、自分の仕事を手順よく始末してくれる者を、すでに知っているわけである。
さて、箱が日の出前か、あるいは日没後に陸揚げされた時、彼は箱から出てきてスキンスキーに会い、どこかの川から箱を運び上げるには、どうするかということを、彼に命じた。事が運んだ時、万事うまく行き、しめしめというわけで、彼は手先に使った者を殺して、自分の足跡を消したのである。
地図を出して調べてみると、スロヴァキア人がのぼるにもっとも適した川は、プルト川かセレト川のいずれかであることがわかる。タイプで打った日記を読むと、私が昏睡中に、牛の鳴き声と、耳の高さで水の渦巻く音と、木のギイギイ鳴る音を聞いた、と記してある。してみると、あのとき、箱のなかの伯爵は、無蓋《むがい》の小舟で、――おそらく艪《ろ》か櫂《かい》で漕ぐ小舟で、川の上にいたのである。岸に近いところを、さかのぼって行ったのだ。流れにのって下る時には、そんな音はしないはずだ。
もちろん、セレト川でもプルト川でもないかもしれないが、なおよく調べてみよう。ただ、この二つの川でいうと、プルト川のほうは容易に否定されるが、セレト川のほうは、フンズでビストリッツァ川と合流しており、ビストリッツァ川はボルゴ峠の下を流れている川だから、したがって、この環状線は、ドラキュラ城へ行く水路としては、いちばん近道ということになる。
ミナ・ハーカーの日記
私が覚書を読み終わると、ジョナサンは私を抱いて接吻し、ほかの人たちも私と握手をしてくれた。教授がいった。
「ミナ夫人はもういちどわれわれの教師になったね。われわれの目がふさがっているところで、奥さんの目は開いているのだな。ところで、われわれは改めて追跡の途上にあるのだが、こんどこそは成功しそうだ。敵はまったく無援の状態にいる。われわれは水路をまっしぐらに彼を追いつめれば、それで事は終わるのだ。敵はすでに出発したが、彼を運ぶ人間どもに、箱を不審がらせぬようにと、気はあせるけれども、いかんせん、彼には力がない。箱の正体に感づかれれば、彼は否応なく、川の中へおっぽりこまれる。そうなりゃ、いっぺんに土左衛門《どざえもん》だ。これを知っているから、そうはしない。そこで、わが軍司令部の諸君、ここはひとつ、めいめい、および全員が何をするべきか、その作戦をゆっくり練らなきゃならんところだよ」
「ぼくははしけ舟を手に入れて、追跡しますな」ゴダルミング卿がいった。
「そうすりゃぼくは、あいつが陸へ上がらんように、川の岸を馬で追いかけるね」とキンシー。
「ご両人とも、しごく名案だね。しかし、一人で行っちゃならんよ。いつ何時《なんどき》おそいかかられるか、わからんからね。スロヴァキア人は強くて乱暴だ。やつら、武器を持っとる」
「だから、ぼくはウィンチェスター銃を何挺か持ってきたんですよ」キンシーがいった。「やつらにゃ、これがちょうど手頃ですよ。それに狼もいることだし。敵は何か予防の手を使うそうだけど、奥さんの耳にはいらないようなことを、あいつ、命令するかもしれんからね。とにかく、あらゆる点で、万全の用意をせんといけませんや」
セワードがいった。「ぼくはキンシーといっしょに行きましょう。ぼくらはしじゅう狩猟には組んで行きつけているから、何が出てきたって、すぐに気を合わせてやれますから。それからアーサー、きみは一人で行っちゃ駄目だよ。スロヴァキア人と渡り合う時があるかもしれんからね。むこうが銃を持っているとは思わないが、とにかく、こっちの作戦を切りくずしてくるにちがいないから、油断はならんぜ。こっちは、伯爵の首と胴体を切り離して、これでもう化けて出られないと確かに見極めがつくまでは、楽観できないからな」
話しながら、セワードがジョナサンの顔を見ると、ジョナサンは私の顔をジロリと見た。ジョナサンは、むろん、私といっしょに行きたいのである。しかし船の任務は、おそらく、吸……吸……吸血鬼(どうしてこの字を書くのに私はためらうのだろう)を打ちとることだろう。とつおいつ、彼がしばらく思案に黙していると、教授がいった。
「ジョナサン君、きみには二つの理由があるのだがね。第一の理由は、きみは若くて、豪胆で、戦闘力がある。きみの力は最後の時に必要になるだろう。くり返していえば、あいつを倒すのはきみの権利だからね。あいつのために、きみは今までひとかたならない苦労をしてきたのだ。奥さんのことは心配しなさるな。奥さんはわしが見ていく。わしはこのとおり老人だ。わしの足は、もうむかしのようにとても早くは走れん。馬にもそう長くは乗れんし、武器をもって戦うことも、おぼつかない。そのかわり、ほかの務めならできる。べつの方法でなら、わしにだって戦える。わしはやむをえなければ、年少のきみたちと同じように、死は辞せんつもりだ。
そこでわしにいわせてもらえば、ゴダルミング卿ときみは、船で川を行く。ジョンとキンシー君は、馬で沿岸を守備していく。わしはミナ夫人をつれて、敵の城郭《じょうかく》へまっすぐに乗りこむ。つまり、古狐が蓋をあければ、スロヴァキア人に恐れられて、身を滅ぼすことになるから、蓋があけられないまま、陸へ逃げられずに箱のなかに罐詰になったまま、プカプカ川を流れていく間に、わしと奥さんは、きみが前に行ったところを――ビストリッツからボルゴ峠を越えて、ドラキュラ城へと道をとりながら、追跡して行く。と、まあこういうわけだが、どうだね」
するとジヨナサンが横合いから、ムッとしたような調子で、「先生、そうすると、あなたはこのミナを、悪魔に痛めつけられて弱っているこのミナを、敵の虎穴《こけつ》へ連れこもうとおっしゃるのですか? とんでもないことです! そんなあなた……」彼はしばらく言葉につまっていたが、
「あなたね、そんなことおっしゃるけど、あすこがどんな所だか、ご存知なんですか? まるで地獄の穴底みたいなあすこを、ごらんになったことがあるんですか? あの恐ろしい、いろんな形で生きている月の光、風で渦巻く塵《ちり》の影! あなたはご自分の咽喉に吸血鬼の唇を感じたことがおありですか? ああ、考えても恐ろしい!」
ジョナサンはそういって、私の額の痣《あざ》をチラリと見ると、まるで失神したように、長椅子の上にぶっ倒れてしまった。やがて教授の澄徹《ちょうてつ》した静かな声が、部屋のなかに震動するように聞こえ、一座の人たちの心を静めてくれた。
「わしはね、ジョナサン君、わしが行くその恐ろしい場所へ行かせたくないからこそ、奥さんを連れて行くのだよ。神は、わしが奥さんをあすこへ連れていくことを禁じている。そこが仕事なのだ。彼女の目に見せないために、無暴な仕事をやるのだ。ここにいるわれわれ男の連中は、きみを除いて、みな自分の目で、あの場所がまだ浄《きよ》められない前に、何がなされるかということを、すでに見たところだ。われわれは今、恐ろしい困難にいるのだということを、忘れないでくれたまえ。こんど伯爵がわれわれから逃げだせば、あいつはずるいやつだから、きっと一世紀は自分で眠りつづけるよ。その間、この奥さんは、あいつと交わりをつづけるのだぜ。奥さんばかりじゃない。ジョナサン君、きみが会ったほかの連中も、同じことになるのだぜ。きみはわれわれに、あいつらのピチャピチャいう唇のことを語った。伯爵が子供のはいった袋を投げた時、あいつらがケタケタ笑った笑い声を、きみは聞いた。きみはふるえているね。さもあろう。きみを苦しませて悪いけれども、まあ勘弁してくれたまえ。これだけはぜひ言っておかなければならんことなのだから。ねえきみ、わしのやろうとすることは、命をさえかけた、やむにやまれぬことではないのかい? あの城に行って逗留《とうりゅう》しようというやつで、まずあそこへ行って、あいつらと交際してやろうというのは、わしぐらいなものだぞ」
「どうなりと、よろしきように願います。われわれは神の手にあるのですから」ジョナサンは鳴咽《おえつ》に身をふるわせながらいった。
夜――みなさんのような豪胆な男の方たちが働いているのを見ると、ほんとに気持がいい。そういう男性が熱心に、真心から、健気《けなげ》に働いている時、女はいったい、どんなことをしてお手伝いができるだろう! 結局はお金の力であった。お金さえ充分にあればなんでもできないことはない。私はゴダルミング卿とキンシーさんの二人が、お金をたくさん持っていて、自由にそれを使える身分でおいでなのが、ほんとにありがたい。このお二人がいなかったら、われわれの小さな探検は、とてもこう早く物がととのって、またたくうちに発足はできなかったろう。
すっかり準備がととのうまでに、三時間とはかからなかった。ゴダルミング卿とジョナサンは、買い入れたかわいらしい蒸気船に乗りこみ、もうすぐにも出発できる用意ができた。キンシーさんとセワードさんは、六頭の馬を手に入れ、これも馬具をつけて、いつでも出かけられるようになっている。地図その他の準備もできた。教授と私は、今夜十一時四十分の汽車でヴェストリへ発つ手はず。ヴェストリから馬車でボルゴ峠にかかる。その馬車もすでに買い入れた。他人は信用できないから、われわれの手で手綱をとって行くのである。教授はいろんな外国語を知っておられるから、道中はなんの心配もないだろう。武器もそろった。私も武器を持たないと、ジョナサンがおちおち安心できないというので、私には大型の拳銃が当てられた。ああ、悲しいことに、たった一つ、私の身につけられない武器がある。私の額の痣《あざ》がそれを禁じているのだ。教授は、なあに狼が出たって、拳銃に弾があれば安心だよといって、慰めてくださった。こうしているうちにも、気温が一時間ごとにグングン寒くなりつつある。寒くなる前ぶれの雪が、さっきからチラチラ降ったりやんだりしている。
夜ふけ――勇気をふるって、私はジョナサンにさよならを告げた。もう再び会えないかもしれない。ミナ、がんばれ! 教授があなたのことをキッと見ておられた。その目は一つの警告であった。いまは涙なんぞ出してはいけない。神が喜びのうちにそれを落とさしてくださるまでは。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月三十日夜――今これを蒸気船の罐《かま》の火明かりで書いている。ゴダルミング卿が罐焚《かまた》きの役だ。彼はテムズ河で何年も自分の船に乗っていたから、なかなか慣れた手つきでやっている。ところで、われわれの作戦についていうと、結局ミナがいったように、伯爵がドラキュラ城へ帰るのに水路を選んだとすると、セレト川からビストリッツァ川の合流点をさして行ったにちがいないということになった。そこでわれわれはその道をとった。ちょうど北緯四十七度の付近で、この川とカルパチア山脈の間をつっきって行く道である。夜間はいくら船の速力を出しても心配はない。河水は満々としているし、川幅は闇のなかでも容易に航行できるくらいに広い。ゴダルミング卿が、夜番は今のところ一人でたくさんだから、きみ少し眠れといってくれたが、ミナの上に恐ろしい危険がふりかかることを思うと、のうのうと眠ってもいられない。われわれは神のみ手のなかにいる。このことが唯一の私の慰籍《いしゃ》だ。
キンシーとセワードは、われわれが出発するまえに、ひと足先に出かけて行った。二人は川の右岸を、遠く川を見おろしてつらなる高い台地のほうへと、ときどきカーブの地点で見え隠れしながら、進んで行くのである。はじめのうちは、人目を引かないように、人を二人雇って、四頭の空馬《からうま》の宰領《さいりょう》をさせて行ったが、そのうちに雇った男を帰してしまえば、自分たちで馬の世話を見ながら行くのだろう。もし船のわれわれが、むこうと合流するような必要が起これば、全員馬へ乗って行くことができる。そのうち一頭には、ミナのために、鞍《くら》に動く角がつけてある。
十月三十一日――朝になった。ゴダルミング卿はいま眠っている。私が罐番《かまばん》をかわっている。厚い毛布の外套を着ていても、朝はなかなか寒さがきびしいので、罐の火熱がありがたい。まだほんの五、六隻の荷船とすれちがっただけだが、こちらが捜しているような、大きな箱を積んでいる船は、一隻もなかった。こちらが懐中電灯で照らすと、船の者はみんなびっくりして、胴の間にペタリとすわって、手を合わせておがんでいた。
十一月一日夕――終日、ニュースなし。捜しているものの影だに見ない。いま、ビストリッツァ川へはいったところだが、これでわれわれの推定がはずれたとすると、チャンスはもうない。われわれは大小さまざまの船を追い越した。けさ早く、われわれは二人の船員に、水上署の船へ連行されて取調べを受けた。このへんも袖の下がきくところで、ビストリッツァ川がセレト川に注ぎ入るフンズでもわれわれはこれをやって、いま船の上にひるがえっているルーマニアの国旗を、ひとふり手に入れた。この旗のおかげで、どんな船を追い越しても、また何を尋ねても何をしても、どこからも苦情が出ない。あるスロヴァキア人が、二人の船夫《かこ》をのせて、急いで漕いで行った大きな船があったといっていたが、これは彼らがフンズへ来る前のことで、その船がビストリッツァ川へはいったか、セレト川をそのままのぼって行ったか、どっちだかわからないといっていた。フンズでも、われわれはそういう船の行ったことを聞かなかったから、きっとその船は、夜中にそこを通過したものにちがいない。私は今、ばかに眠い。寒さがこたえてきたのだろう。しばらく休息したほうがよさそうだ。ゴダルミング卿は、おれが罐番をするからいいといっている。私とミナをかばってくれる親切な彼に、神よ、恵みを垂れたまえ。
十一月二日――もうすっかり日が高い。ゴダルミング卿が私のことを寝かしておいてくれたのだ。一晩じゅう罐番をさせたり、見張りをさせたりして、ほんとにすまないことをした。それで午前中は私がかわって、彼を寝かすことにした。今、彼は眠っている。機関の手入れから、舵から、見張りから、みんな一人でやってのけるわけだが、どうやら私にも以前のような力と元気がもどってきたようである。ミナと教授は、今どこにいるかしら。水曜日の正午にはヴェレスティに着いているはずだが、まだ馬車へ乗り換えるには、しばらく間があるだろう。もし強行したとすると、今ごろ、ボルゴ峠へかかっているかもしれない。どうか二人とも無事で行かれますように。しかし、どうも何か起こりそうな気がしてならない。それには、こっちが早く行きさえすればいいのだが、それができないのだ。エンジンはゴットン、ゴットン、全力をあげているのだが。……セワードとキンシーは、どうしているだろう。四方の山々からこの川へ落ちる川は、無数にあるらしい。もっとも、みんな小さい川ばかりだが、雪解けのときとちがって、今は厳冬だから、騎馬で行っても、そう大して困難には出会わないだろう。ストラスバに着く前に、うまく彼らと会えればいいが。その時までに伯爵に追いつかないと、われわれは次の行動について、ともに相談をしなおさなければならない。
ドクター・セワードの日記
十一月二日――陸路三日。なんのニュースもない。あっても、時間がもったいなくて、書いているひまがない。ただ、馬に必要な時だけ休むだけだが、二人とも、不思議とよく身体がもっている。むかしの血気盛りのころの向こう見ずな時代が、いま役に立っているのだ。とにかく、前進だ。蒸気船がふたたび見えるまでは、安心ができない。
十一月三日――蒸気船がビストリッツァ川を遡行《そこう》したことは、フンズで聞いた。寒くなければよかったと思う。雪もよいの空模様だが、降りだしたら、こっちは立ち往生だ。そのときはロシア流に橇《そり》で行かなければならない。
十一月四日――きょう、蒸気船が急流を押しあがろうとして故障を起こした、という噂を聞いた。スロヴァキア人の船は、どれも綱と舵だけで、けっこう間違いを起こさずに川をのぼっている。ゴダルミング卿は素人《しろうと》だから、何かしくじりをやったのは、てっきり彼にちがいない。結局、土地の人の助けを借りて、うまく急流をのりきって、今また追跡をつづけているらしいが、どうも故障がよく直らないのじゃないかと思う。土地の百姓が、船は流れのゆるいところへ出たことは出たが、見ていると、ときどき止まっている、といっていたから。どうやらわれわれの助けがいりそうなぐあいだから、ここで強引に前進しなければならない。
ミナ・ハーカーの日記
十月三十一日――正午、ヴェレスティ着。けさ、教授が明け方に、私に催眠術をやっとのことでかけてくださったが、「暗くて静かだ」と言ったきりだった由。教授はいま、馬車と馬を買い入れに出かけて、お留守である。馬車を引く馬のほか、乗馬も買って、途中乗りかえられるようにして行こうといっておられる。前途約七十マイル。このへんはじつに美しいところで、べつの時にきて、ジョナサンと二人でドライブでもしたら、どんなにか楽しいことだろうと思う。土地の人々を見ると、彼らの美しい生活がよくわかる。
夜――教授が帰って来られた。馬と馬車を手に入れて来られたから、夕食を食べて、あと一時間もしたら、出発することになった。宿のおかみさんが、大きなバスケットへ食料をいっぱい詰めてくれた。兵隊一分隊ぐらいの嵩《かさ》がありそうだ。教授はしきりとおかみさんをおだて上げ、私には「あと一週間は、いい食料が得られないからね」とささやいておられた。教授は町へも買出しに行かれて、毛皮の外套その他の防寒具までとどけさせた。これなら、どんなことがあっても寒いことはない。
………
もうまもなくここを出発する。これから何が起こるか、それを思うと、心もとない。われわれは、まったく神の御手《みて》のなかにある。ご存じなのは神様ばかりだ。愛する夫を見守っていてくださるように、私は、このあわれな素朴な心いっぱいで、神に祈る。たとえなにごとが起ころうと、私が自分でいうよりも深く夫を愛し、尊敬していることを、ジョナサンがわかってくれますように。
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二七
ミナ・ハーカーの日記
十一月一日――終日、快速力で旅をつづけている。馬も親切に扱われているのを知ってか、喜んで精いっぱいの速力で走っている。馬の取り換えは、今までに何度かしたが、まだ同じことがつづきそうだ。早くそんなわずらわしさのない、気楽な旅になりたいと思う心しきりなり。教授はあいわらずテキパキしている。百姓たちに、ビストリッツへ急ぐ者だといって、お金をたんまり払って馬を換えさせる。私たちは熱いスープ、コーヒー、お茶などをふるまってもらい、それからまた出発する。風光の美しい地方で、住民は凛々《りり》しく、強壮で、しかも正直で、性質がいい。彼らはひじょうに迷信深い。私たちが馬車をとめた最初の家では、とりなしに出てきた女の人が、私の額の痣を見ると、いきなり十字を切って、魔除けの二本指をつき出した。きっと私たちに御馳走してくれた料理の中には、ニンニクをわざわざよけいに入れたにちがいない。私はまた、ニンニクはとても我慢ができないときている。このことがあってから、なるべく注意して、私は帽子やヴェールをとらないことにした。そうしていれば、土地の人の迷信からのがれていられた。もとより急ぐ旅の上に、土地の話を聞かしてくれるような馭者も雇わぬことゆえ、村の評判や取り沙汰は聞かれなかったかわり、私たちは道中ずっと、悪意のある目に追われどおしだったといっていい。
教授は疲れたけしきもなかった。私のことはよく眠らしてくださるけれど、先生は一日、休もうともなさらない。そして日没時には、きまって催眠術をかけてくださる。例によって「まっ暗で、水の音と、木のギイギイという音がする」というだけの由。してみると、敵はまだ川の上にいるらしい。ジョナサンがどうしているか、それが気がかりだが、しかし今は、もう私は彼のことも、自分のことも、すこしも心配していない。私は今これをある百姓家で、馬の支度のできるのを待っているあいだに書いている。教授は眠っておられるが、お気の毒に、だいぶお疲れのようすで、なんだかめっきり年をとられ、白髪《しらが》もふえたようにお見うけするけれど、さすがに眠っていても気は許さず、堅く結んでおられるその口は、まるで征服者のそれのようだ。こんど出発したら、私は手綱《たづな》をとって、教授を少し休ませてあげよう。まだまだ前途に日数もかかることだから、せっかく力が必要という時に、くじけてしまってはなんにもならない。……支度ができた。まもなく出発だ。
十一月二日朝――昨夜は一晩じゅう、私が馭者に交替して夜通し走りつづけた。いまはもう朝だ。寒いけれど、天気は晴れている。しかし、何か大気のなかに、いままでにない妙な重苦しいものがある。重苦しいというよりほかに、適当な言葉がないのだが、何か二人とも押えつけられているような感じ。――そんな意味の重苦しさである。寒さはとてもきびしい。毛皮の外套のおかげで、なんとか温《ぬく》もっていられる。明け方、教授は私に催眠術をかけてくださったが、このたびは「まっ暗で、木の軋《きし》る音と、水の音がゴウゴウする」といった由。してみると、彼らは上流に進んだので、川のもようが変わってきたのだろう。ジョナサンが無理をして、あぶない羽目に落ちなければいいが。
十一月二日夜――きょうも一日、馬車の旅。行くに従って、だんだん土地が荒涼|索漠《さくばく》としてきた。ヴェレスティではあんなに遠く、地平線低く見えていたカルパチアの骨稜《こつりょう》たる大山塊が、いま私たちのまわりにぐるりと集まり、行く手のかたに雲表を突いてそそり立っている。教授も私もとても元気なのは、おたがいに気を励まし合っているせいだと思う。このぶんだと、朝のうちにボルゴ峠へかかるだろう、と教授はおっしゃる。人家の影もいまはほとんどなく、教授の話では、私たちの最後にとり換えた馬が、このまま私たちと最後の行をともにするだろうとのことだ。とりかえた二頭のほかに、二頭また買い足したから、つごう四頭の馬になったわけだが、四頭ともなかなか辛抱強い、よい馬なので、少しも手がかからない。だから、私などでも手綱をとっていかれる。明るいうちに峠へ着くはずだが、べつにそれより早く着く必要もないので、ときどきかわり合って、長いこと休んでは、のんきに走らせて行く。ああ、あすはどんなところへ行くやら!
ヴァン・ヘルシングの手記
十一月四日――万一、ふたたび会えぬおりのために、この手記をロンドン、パーフリートの旧友、医学博士ジョン・セワードに、釈明のため書き残しておく。
いまは朝だ。昨夜、夜通しミナも手伝って燃しつづけていた焚火《たきび》のそばで、私はこれを書いている。寒い。じつに寒い。灰色の重い空は、いっぱいの雪だ。ひと冬降りつづくこの雪で、地面がカチカチに堅くなってしまうという雪である。雪のせいか、ミナ夫人は終日頭が重く、いつもの元気なし。ただ眠ってばかりいる。いつもこまめな人が、きょうは一日、文字どおり何もしない。食欲すらない。一日も休まずにつけている日記も、きょうはつけていない。これはいけないぞ、と何ものかが私にささやく。しかし、夜になったら、やや元気が出た。一日眠っていたので、気持がさっぱりして、元気をとりもどしたのだろう。日没の時、私は催眠術をかけてみたが、残念ながら、効果なし。このところ、感応力が日ましに減退している。今夜は、私もヘトヘトに疲れた。まあ、どうなろうと、どこへ導かれようと、神慮にお任せしておこう。
ミナが速記術で書かないものだから、毎日の出来事記録に穴があかぬよう、私が昔流の面倒くさいやり方で書いておかなければならない。
ボルゴ峠へ着いたのは、きのうの朝、日ののぼったすぐあとのこと。空が白みかけてきたから、私は催眠術の用意をした。馬車を止めて降り、あたりにじゃまものはないかとひとわたり見てから、毛皮で横になる所をこしらえ、その上に夫人を寝かした。いつものように、彼女はすなおに私のいうままになっていたが、なかなか眠りにはいらない。やがて「まっ暗で、水が渦巻いています」という答えあり。彼女が目のさめたところで、ふたたび出発。まもなく峠に着いた。峠に着くと、きゅうに彼女は、モリモリ元気になりだした。何か新しい指導力がわいてきたようで、馬車の外を指さして、いきなり、
「この道です」という。
「どうしてそれがわかる?」と私は尋ねた。
「むろん、わかりますわ」彼女はそういって、ちょっと黙ったが、「だって、ジョナサンが通ったところで、日記にも書いてあるじゃございませんか」
はじめ私は、なんだか臭いぞと思ったが、なるほど見ると、それらしい一本の枝道がある。あまり使用されない道とみえ、通行の頻繁《ひんぱん》な、ブコヴィナからビストリッツへ乗合馬車の通っている、広くて堅い道路とは、雲泥の差である。
そこで、とにかくその横道へはいって行くと、そこからまた道がいくつにも分かれている。いずれも道路とはいえないような道で、人も通らず、薄雪が積もっており、馬だけが知っているような道である。手綱は私がとっているが、馬はじつに辛抱強く進んでゆく。そのうちに、だんだん、ジョナサンがあの不思議な日記のなかに書いていたものが見えだしてきた。何時間も何時間もだいぶ長い時間、進んで行った。私はミナ夫人に眠るようにいった。やがて彼女は眠りこんだ。ずいぶん長く眠って、少しおかしいと思ったから、起こしてみたけれども、それでもまだ眠りつづけていた。いろいろ苦労した彼女にとって、睡眠は何よりいいことだから、私もしまいには起こさずにおいた。
そのうちに、いつのまにか私もうとうとまどろんでいたように思い、ハッとして、何か悪いことをしたような気がしたが、しかし自分はあいかわらずシャンとして手綱を握っているし、馬はあいわらずパカパカ歩いている。馭者台から見おろしたら、ミナ夫人はまだ眠っていた。日が沈むにはまだ間があり、黄いろい夕日が雪の上に斜めにさして、屏風《びょうぶ》のように切り立った山腹に、馬車の影が長く落ちている。道はしだいに登りになり、まるで地球の果てみたいな、岩のごつごつした凄涼《せいりょう》とした山道になってきた。
そこで私はミナ夫人を起こした。この時は、彼女は難なくすぐに目をさました。それから私は催眠術をかけた。ところが、いくらかけても、かけない時みたいに、いっこうに眠らない。それでも私は懲《こ》りずにかけつづけていると、急に私も彼女もまっ暗になった。見ると、日が沈みきったのである。すると、ミナ夫人がゲラゲラ笑いだしたから、なんだと思って見てみると、彼女ははっきり目がさめて、なんだかカーファックスで伯爵の屋敷へ忍びこんだあの晩以来、絶えて見たことがないような、ひどく冴え冴えした顔をしている。私はギョッとして何か落ち着かなかったが、当人はいかにも明るく元気でやさしく、私にもいろいろ心配りをしてくれるから、私も安心して、首をかしげた懸念《けねん》を忘れた。馬車には燃料も積みこんできていたので、私は焚火を焚き、馬をはずして木陰につなぎ、飼料《かいば》をやっているうちに、彼女は夜食の支度をはじめた。私が馬のほうを片づけて、焚火のそばへもどって手伝おうとすると、彼女はにっこり笑って、お先にいただきましたという。空腹で待っていられなかったのだろうが、私はいやな気がした。これは怪しいなと思った。しかし、彼女が驚くといけないと思ったから、私はなんにもいわずにおいた。やがて彼女が手伝ってくれて、私はひとりで食事をした。それから、めいめい毛皮にくるまって、焚火のそばに横になった。私は彼女に、自分が番をしているから、その間におやすみなさいといった。
ところが、そのうちに私のほうが、番をしていることをすっかり忘れ、ハッと思いだしてみると、私はちゃんと番をしているし、そのそばに、彼女がしずかに横になっている。彼女はまだ目がさめていて、キラキラ光った目で、私のことをじっと見ている。同じことが一度ならず、二度も三度もあった。そんなぐあいで、私は夜の明けるまで、だいぶ眠った。そして、夜明けに目がさめたところで、また催眠術をかけてみたが、残念なことに、彼女はすなおに目をつぶっているのに、どうしても眠りにはいらない。そのうちに朝日がどんどんのぼってしまった。遅かりし、彼女にそれからやっと眠りがきた。ところが、こんどは眠りが深くてなかなか起きない。しかたがないので、私は彼女を抱き上げて馬車のなかに寝かし、それから馬車に馬をつけて、出発の用意をした。彼女はいまもまだ眠りつづけている。そうやって眠っていると、前よりもすこやかで、顔にも血の気がさしている。これが私には気に食わないのだ。どうも気になってならない。気になりだすと、何もかも気になることだらけだが、とにかく前進しなければならない。われわれは生死を賭《か》けてとっくんでいるのだ。いや、生死以上のものを賭けている。尻込みしてはいけない。
十一月五日朝――何もかも正確に書こう。きみと私は今までいろんな不思議なことをいっしょに見てきたが、きみはここで初めて、ヴァン・ヘルシングはとうとう頭が狂ったと思うかもしれん。かずかずの恐ろしいこと、長い間の神経の緊張、そのために、やつもとうとう脳がへんになったな、と思うかもしれん。
きのうは一日、旅をつづけた。山のほうへだんだん近くなり、ますます荒涼|蕭条《しょうじょう》とした土地のなかへはいって行く。顔をしかめたような大きな絶壁、たくさんの滝、まるで「大自然」がカーニバルの仮装行列でも催しているようだ。ミナ夫人は、あいかわらず眠ってばかりいる。こっちは腹がへって何か食べたいのだが、三度の食事にすら、彼女を起こすことができなかった。吸血鬼の洗礼を受けた彼女に、どうやら一件の場所の妖気《ようき》が、そろそろ働きはじめてきたのではないかと思う。だが、もしそのために彼女が一日眠りどおしなら、このおれだって、夜、眠れなくなりそうなものだ。ひどいでこぼこな旧道を、ゴトゴト行きながら、私もときどき首を垂れて居眠りをした。ハッと目がさめて、こりゃいかん、だいぶ寝たかなと思って、ミナ夫人を見ると、彼女はやっぱり眠っている。そうして日が沈んで行った。が、あたりの景色はガラリと変わって、渋面《じゅうめん》をつくったような山々が、ずっと遠くへ後退し、馬車は坂道のけわしい小山を、しだいに頂上さして登って行く。その山の頂上に、ジョナサンが日記に書いている城があるのである。私は胸がおどると同時に、なんとなくこわくなった。好運か悪運か、いよいよ最後の幕が近づいたからである。
私はミナ夫人を起こして、もいちど催眠術にかけてみた。しかし残念ながら、また日没までに間に合わなかった。やがて大きな闇がわれわれの上におそいかかってきた。その前に私は、日が沈んでから空の残光が雪の上に照り、しばらく薄明りが残っているうちに、馬を解いて、木陰で飼料《かいば》をやった。それから焚火をして、焚火のそばに膝掛《ひざかけ》を敷き、その時はもう目がさめて、いつになくはなやいでいたミナ夫人を、その上にらくにすわらせた。そして私は食事の支度をした。彼女はこの時もあっさり、お腹がすいていませんといって、食べようとしない。いっても無駄だと思ったから、私もしいて勧めなかった。腹がへっては戦《いくさ》はできぬから、私は一人で食べた。それから、万一の時がこわかったから、彼女を安心させるために、私は彼女のすわっているまわりに、大きな輪を描いてやり、その輪の上を聖餅でなで、充分守護が行きわたるようにした。その間、彼女は、死んだ人のようにじっとすわったままでいたが、そのうちに、だんだん顔の色が白くなり、しまいには雪よりも白くなって、黙りこんでしまった。が、私がそばへよると、私にすがりついて、ガタガタふるえだした。こちらがどうかなるくらい激しいふるえ方だった。そのうちにふるえがすこしおさまったところで、私はいった。
「もっと火のそばへよらないかね」私は彼女が何をするか、ためしてみたかったのである。彼女はすなおに立ったが、一足踏みだしたとたんに、何かに打たれたように、そこへ棒立ちになってしまった。
「どうした? どうしてこっちへよらない?」私が尋ねると、彼女は頭をふって、もとの場所へもどってすわった。そして、いま眠りからさめた人のように、大きく開いた目で、私の顔をじっと見つめ、「できません」とひとこと言って、あとは黙っている。私はそれでホッとした。彼女がしようと思ってもできないことがわかったからである。われわれの恐れているものが、何も手を出せないことがわかったからである。彼女の身体には、あるいは物騒なことが起こったかもしれないが、しかし心は無事だったのである!
そのうちに、馬がえらい声でいなないて、つないでおいた綱を引き切った。私は飛んで行って、馬をなだめた。馬は私がなでてやると、喜んで鼻を低く鳴らし、私の手をなめて、おとなしくなった。私は≪草木も眠る≫という真夜中の、寒さのしんしんと身にしみる頃まで夜通し何度となく、馬のところへ立って行った。私が行きさえずれば、馬はおとなしくなるのである。夜がしんしんと寒くなってくると、焚火もチョロチョロ消えかけてきたので、私は薪を燃しそえるために、焚火のほうへ歩みよろうとした。雪は冷たい霧みたいになって、さかんに渦まいている。雪明かりというやつで、まっ暗な中にも、どこかあたりがポーッと明るく、降りしきる雪片と煙のような霧が、なんだか裾《すそ》を長くひいた女の姿のように見えた。万物死せるがごとく物の音一つしない無気味な深夜の静寂の中に、凶《まが》なす恐怖におびえるような馬のいななく声と、たてがみをふるう音だけが聞こえるばかりである。
私は急になんだか恐ろしくなってきた。ゾッと身の毛がよだってきた。しかし、この浄《きよ》めの輪のなかにいさえすれば、無事息災だと思い直し、なに、夜だからそんなありもしないことを想像するのだろう、きっとここのところずっと心持が落ち着かなかったし、恐ろしい心痛が心にあるせいだろうと思っていた。まるでジョナサンのあの恐ろしい経験の記憶が、私をたぶらかしているみたいであった。しまいには、大きな渦を巻いてドッと吹きつけてくる煙のような吹雪が、ジョナサンに接吻をした例の女どもの幻影みたいに見えてきた。そのうちに、馬のいななく声がだんだん低くなって、まるで人間の苦悶の声のような、恐ろしいうめき声になってきた。しかし、頭がへんになりそうなこの怖さは、そんなものに対してではなかった。そんなものはなんでもなかったが、ただ私は化け物どもが、しだいにグルグル輪をかきながら近づいてきた時に、なによりもミナ夫人のことを恐れたのである。見ると、彼女は落ち着いてそこにすわりこんだまま、私のことを見てニヤニヤ笑っていた。私が焚火に薪をくべようとして、輪の外へ歩み出ようとすると、彼女は私のことをギュッとつかまえて、あとへ引きもどし、夢のなかで聞くような低い声でささやいた。
「いけません! いけません! 外へ出てはいけません。このなかにいれば安全です」
私は彼女の目のなかをのぞきこんだ。「そんなこといって、あなたはどうなのだ? 私が心配しているのはあなただよ」
すると彼女は、おほほほと笑った。――低い、夢のような笑い声だった。
「私が心配ですって! なぜ私が心配ですの! あいつらのことなら、私は世のなかでだれよりもいちばん安全でしてよ」
私がその言葉に首をかしげていると、一陣の風がドッと吹いてきて、焚火の火がメラメラと燃え上がった。そのあかりで、私は彼女の額の赤い痣《あざ》をまざまざと見た。その時、私は知った。いや、その時知ったのではない、まもなくあとでわかったのだが。
というのは、闇のなかにグルグル輪を描いている雪女は、しだいにこちらへ近づいてきたが、いつまでたっても呪《まじな》いの浄《きよ》めの輪の外にいる。そのうちに、そのグルグル回るものがものの形になりだした。――まさか神が私の理性をうばってしまったのではあるまい。私はこの目ではっきり見たのである。――ジョナサンが咽喉に接吻されたときに見たのと同じあの三人の女が、ちゃんと肉体をもって、目の前に現われたのだ。ゆらりゆらりするその姿、キラキラ光った鋭い目、まっ白な歯、まっかな色の淫《みだ》らな唇、三人の女はミナ夫人を見て、ニタニタ笑った。そして、深夜の静寂《しじま》にケタケタ声をたてて笑いながら、ひなひなした、もつれあう手で彼女を指さし、ジョナサンが聞いたという、水草のようなナヨナヨした、鈴を振るような声で――
「おいで、ねえさん。こっちへおいで。おいで! おいで!」
私は恐る恐るミナ夫人をふりかえって見た。すると私の心は、喜びに火のついたようにおどり上がった。なぜというに、夫人の美しい目のなかにある恐怖、嫌忌、情念は、私の心に、これなら見込みがあるぞということを物語っていたからである。ありがたいことに、彼女はまだ化け物の仲間ではなかったのだ。
私はそばにあったニンニクをつかむと、片手に聖餅をかかげ、三人の妖怪《ようかい》に迫った。三人の妖怪は私の前からスッーと身をひいて、低い恐ろしい声をたてて笑った。私は手にした薪を焚火の中へ投げこんだ。この守護のなかにいれば安全だということがわかったから、私はもうこわくなかった。聖餅を持っていれば、妖魔《ようま》は私に近寄ることができない。ミナ夫人もこの輪のなかにいれば、妖魔は入ることができず、夫人もまた出ることができない。馬どももさっきから唸るのをやめて、地べたにじっとすわりこんでいた。その上へサラサラと雪が降り積もり、馬はまっ白になった。こんな非力な動物ですら、もうこわいことがなくなったのだとわかった。
雪明かりの中に黎明《れいめい》の紅の色がさしてくるまで、私たちはそこにそうしていた。その時の心細さ、不安と恐怖の心持といったらなかった。が、やがて美しい朝日が地平線にのぼりだしたとき、私はやっと生きた心地にかえった。暁の曙光《しょこう》がさし出ると同時に、妖魔は渦巻く吹雪の中に溶けて、キラキラした煙のようになって、城の方へ動いていったと思うと、そのまま消えてしまった。
東雲《しののめ》が白みかけたとき、私は本能的に夫人のところへもどって、催眠術をかけようとすると、夫人はいつのまにか深い眠りに落ちていて、どうしても起きない。しかたがないので、眠っている上から催眠術をかけたが、ひとことも答えがなかった。そのうちにあたりが明るくなってきた。それでも私はこわくて、まだ動けなかった。焚火に薪をくべて、馬を見てみると、馬は四頭ともみな死んでいた。――きょうは、ここでいろいろすることがある。私は、日が高くのぼるまで、しばらくそこで待つことにした。日が高くなれば、吹雪で見えない行く先が見えて、無事に行かれるだろうから。
その間に朝食でも食べて、力をつけてから、仕事にかかることにしよう。ミナ夫人はまだ眠っている。いいあんばいに、いかにも穏やかに眠っている。
ジョナサン・ハーカーの日記
十一月四日夕――蒸気船の故障で、困ったことになった。こんなことになるくらいなら、いっそ船で追いかけたほうがよかった。今ごろミナは無事に道中をつづけているだろう。彼女があの恐ろしい場所に近い森のはずれにいるかと思うと、気が気でない。われわれはいま馬を手に入れたから、これからそれで追跡をつづける。いまゴダルミング卿が支度をしている間に、これを書いている。われわれは銃も持っていく。ツガニー人に戦う用意があれば、用心しなければならない。ああ、キンシーとセワードがいっしょにいさえすればなあ! いまはただそれを望むばかりだ! 一言書き加えれば、ミナよ、さよなら! 神がきみを守ってくれるように。
ドクター・セワードの日記
十一月五日――明け方、ツガニー人の一隊が川から上がって、荷馬車をひいていくのを、前方に見た。彼らは一団となって荷馬車を囲み、まるで追い立てられているように道を急いで行った。雪がチラチラ降っており、あたりにただならぬ緊迫の気がみなぎっていた。これはわれわれだけの感じかもしれないが、そのくせ、いやに元気のないのが不思議だった。遠くのほうで狼の吠える声が聞こえる。雪のために山から下へ降りてくるのだろう。危険はわれわれの四方八方を取り囲んでいるわけだ。馬の支度もほとんどできたから、まもなく出発である。われわれが馬で出かければ、だれかが死ぬのだ。それがだれであるか、どこで、何を、いつ、どんなふうに……それは神のみが知りたもう。
ヴァン・ヘルシングの手記
十一月五日午後――私は、少なくともまだ正気だ。恐ろしいことは恐ろしかったが、あらゆる出来事に神の恵みのあったことは、ほんとにありがたかった。浄めの輪のなかで眠っているミナ夫人を残して、私はひとり、城のほうへ出かけて行った。ヴェストリから馬車の中に持ってきた鉄槌《てっつい》がだいぶここで役に立った。城の扉はみな鍵があいていたが、私は錆びている蝶番《ちょうつがい》を、その鉄槌で一つ一つ打ちこわしていった。何者かの悪意にしろ、あるいは運悪い偶然にしろ、扉が締まって、はいったまま出られなくなるといけないと思ったからである。ジョナサンのにがい経験が、ここでも役に立った。私は彼の日記を思い出しながら、古い礼拝堂へ行く道を見つけた。肝心の仕事はそこにあると知っていたからである。空気が息苦しかった。なんだか硫黄《いおう》臭いような匂いがして、そのためにときどき頭がクラクラした。耳がガンガン鳴り、遠くのほうでは狼の吠える声も聞こえる。狼の声で、私はミナ夫人のことを思いだして、恐怖に襲われた。左にせんか右にせんか。私は二途に迷った。
しかし、たとえどんなことがあっても、彼女はここへは連れて来られない。吸血魔の魔手から守護するためには、あの浄めの輪のなかに置いておくよりほかにない。だが、あすこへ狼が出たら! よし! ここはあとでもいい。狼のほうを片づけよう。とにかく、死ぬか生きるかだ。自由はその先にある。そう思って、私は彼女のほうを選んだ。しかし、待てよ、そんなに無造作にきめていいか。吸血魔の墓よりも、狼のウォーウォー吠えるほうがまだしも安心なのではないか。そう思って、私はやっぱり礼拝堂の仕事を先にすることにした。
この礼拝堂には、たしか三つの墓があるはずである。私は捜しぬいて、やっとその一つを見つけ出した。その墓のなかには、妖女の一人が吸血鬼の眠りのなかに横たわっていた。まるでまざまざと生きているように、肉感的に美しい。私は生きている人間を手にかけるような戦慄《せんりつ》を感じた。むかしの人も、おそらくこんなときには心臓がふるえ、神経がまいったにちがいない。そのためについ手元が遅れ、そんなことをしてぐずぐずしているうちに、だんだん恐ろしい「不死者」の美しさに魅せられて、逆に自分が催眠術にかけられ、相手はそのままながらえて、日が沈むと吸血鬼の眠りからさめ――きっとそんなことをくり返してきたのにちがいない。
みめよい、愛らしい顔、パッチリした美しい目、接吻してくれといわんばかりの淫《みだ》らな唇。――人間なんて弱いものだ。こうしてまた一人、吸血鬼の群れに、犠牲者がふえていくのだ。ものすごい「不死者」の列に、また一人新しく吸いこまれていくのだ!
なるほど、たしかにほれぼれとする。伯爵の隠れ家にあったような、いやな匂いはありながらも、歳月に摩滅し、何代もの塵《ちり》に埋もれた墓穴のなかに横たわっている吸血女、その一人を目の前に見たときには、私といえども、さすがに心動くものがあった。憎さも憎きこいつめと、大事な目的をいだくこの私、ヴァン・ヘルシングですらが、思わず力|鈍《にぶ》り、心奪われたるごとく、手元が遅れるほどの劣情に動かされたのである。眠りの足りないせいもあったのだろうか。あたりの空気が、にわかに五体に押しかぶさるように息苦しくなりだした。いつかしらず私はうとうとまどろんだものにちがいない。何か知らぬが、甘い魅惑《みわく》の虜《とりこ》となった者の、目を開いたままのまどろみ、あるいはそんなものであったかもしれない。
そのまどろみのうちに、雪で凍りついた空気のなかを、哀哭《あいこく》と乞憐《こくれん》のこもった、長い、低い、恨むがごとき声が、鐘楽《しょうがく》のように聞こえてきたのに、私はハッとして目がさめた。聞こえてきたのは、ミナ夫人の声であった。それから私は、ふたたび恐ろしい仕事に一心不乱に取りかかった。墓穴の上のほうへよじのぼって、いま一人の女の遺体を見つけた。また目がくらむといけないと思ったから、こんどはよくも見ずに、さらにもう一人の女の墓を捜しだした。ジョナサンの見た、例のいちばん若い、美人の遺体である。なるほど輝くばかり美しく、いかにも肉感的で、私のなかにある男の本能が、この女だけは自分のものにして守ってやりたいものだと、私の性を呼びさまし、新しい情感に頭をぐらつかせた。しかし、いいあんばいに、ミナ夫人の呼ぶ声がまだ耳のなかに消えずに残っていたし、妖怪の呪文《じゅもん》はそれ以上私の上に働かなかったから、私はむごたらしい仕事が平気でできた。私は礼拝堂の中にある墓ぐらをことごとく捜しだした。そのなかに、まるで主《ぬし》のように、ほかのものより断然大きな、位の高い墓があった。表に、
≪ドラキュラ≫
とだけ記してある。これこそ、かの吸血魔王の「不死」の住家《すみか》であった。今それが藻抜《もぬ》けのからになっているのは、私の知っていることを確認する雄弁な証拠であった。私は、三人の女の遺体に、あの恐ろしい仕事を加えるまえに、まずドラキュラの墓のなかに聖餅を少しばかり入れて、永久に「不死者」をそのなかから追放した。
それから私は恐ろしい仕事をはじめた。私はそれが恐ろしかった。一つならばまだしも容易だが、三つもある! 一つやって、あとまだ二つ片づけなければならない。あのやさしいルーシー嬢の時のことがもし恐かったとしたら、この妖怪どもは、生かしておけば何百年何千年も生きながらえ、しかも年ふるにつれて、ますます強くなるというやつだ。やすやすやれるものではない。この四人の生命に対して、今までだれか戦ったものがあるか。……
しかしジョン、これは屠殺者《とさつしゃ》の仕事だ。もしほかの死者のことを思わず、頭上にあのような恐怖の棺桶がぶらさがっている人のことを考えなければ、とてもこんな仕事はできたものではない。それでも私は、どうにか気を張って全部やり終えるまでは、さすがにふるえにふるえぬいた。これで枕を高くして寝られる。――このことをまず第一に見さだめ、最後の解体を終わる直前に、これで霊魂の勝利が実現できるのだぞという、このひそかな喜びがなかったとしたら、とてもあとの屠殺行為はつづけられなかったにちがいない。急所に杭《くい》を打ちこんだ時の、あのギリギリという恐ろしい音、よじりもがく身体へガンと打ちこむと、ガッと口から血の泡を吹く、あのものすごさ。われながら、よく我慢ができたものだ。恐ろしさに、よほど中途でおっぽりだして、逃げ出そうかと思ったくらいだった。
しかし、やりとおした! 私はいま、このあわれな魂たちが、枯れ朽《く》ち果てる前のひとときを、それぞれ、死の眠りのうちに平穏に眠っていることを考えると、なんだかしみじみ彼女らがあわれになり、涙を流すことができる。なぜなら、ジョンよ、私が短刀で首を切るか切らぬうちに、彼女らの死骸は早くも溶けだして、もとの塵《ちり》になってボロボロに崩れてしまったからだ。まるで何百年か前に来るべきだった死が、やっと自分の居場所を見つけて、見つけるが早いか「おーい、ここだぞ!」と大きな声でいっているかのように。
城を立ち去るまえに、私は伯爵が二度とそこへ「不死者」となってはいれぬように、墓の入口をしっかりふさいできた。
私がミナ夫人の眠っている輪の中へ足を踏み入れたとき、夫人は眠りからさめ、私を見て、苦しげに叫んだ。
「先生、こんな恐ろしいところ、早く逃げましょうよ! うちの人、こちらへやってきますわ。早く会いに連れてってください!」
彼女はゲッソリ痩《や》せて、青ざめ、元気のない顔に見えた。そのくせ、目だけは清らかに澄んで、熱情に輝いていた。私は彼女の青い顔と、どこか加減の悪そうなそのようすを見て、なぜかホッとした。それは私の心が、あの血色のいい吸血鬼の眠りの、生々しい凄味《すごみ》でいっぱいになっていたからであろう。
そこでわれわれは、まだ多くの不安はあるとはいえ、希望と信頼を胸にいだきつつ、友人たちを迎えに、東をさして出発した。――ミナ夫人がこちらへやってくるといった人を出迎えに。
ミナ・ハーカーの日記
十一月六日――私がジョナサンの来る方角と知っていた東のほうへ教授と出立したのは、午後もだいぶ遅くなってからであった。道は下りの急な坂道だったけれど、重い毛布や毛皮にくるまっているので、そう早くは歩けなかった。この寒さとこの大雪。とても防寒具なしでは、いかなことでも立ち向かえやしない。降りしきる雪のなかを透かしてみると、見わたすかぎり、人家の影もなさそうである。まるきり人里離れてしまうとなれば、食べるものも持って行かなければならない。一マイルほど来たころには、私は難儀な歩行にぐったり疲れて、腰をおろして休息した。ふり返って見ると、ドラキュラ城のくっきりとした線が、雪空をかぎっている。ちょうど私たちは山の麓にいた。城はその山の頂上の、はるか脚下にカルパチア山脈を見はるかす突端に立っているのである。屏風を立てたような千仭《せんじん》の絶壁、そのてっぺんに立っている壮大な城の姿が、ここからよく見える。四方に連なる峨々《がが》たる峻峰《しゅんぽう》と城とのあいだは、大きな谷になっているらしい。そのあたりには、なんとなく荒涼とした凄愴《せいそう》の気がただよっている。遠くのほうで狼の吠える声が聞こえた。声ははるか遠くのほうだけれど、しんしんと降る雪のなかに、陰々とこもるように聞こえるその声は、聞くたびにゾッと身の毛がよだつ。教授がしきりとあたりを物色しているのは、万一の襲撃に、少しでも身を隠すような場所はないかと捜しているのであった。険しい道はまだここからずっと下のほうへとくだっているのが、降りしきる雪のなかにそれと見えている。
しばらくすると、教授が合図をするので、私は腰を上げて、そばへ行ってみた。行ってみると、教授の見つけた所は、岩穴のような屈強《くっきょう》な場所で、大きな石と石とのあいだに、玄関みたいな入口がある。教授は手をとって私をそのなかへ連れこんで、
「ごらん、ここへ隠れていればいい。ここなら狼がきても、一匹ずつ相手にできる」
そういって、毛皮など運びこんで、私のためにぬくぬくした場所を作ってくださって、何か食料など出して、私にすすめてくださった。でも、私は食べられなかった。むりして食べようとしても、すぐにつっかえてくる。食べて喜ばしてあげたいと思いながら、どうしても咽喉に通らなかった。教授は困ったような顔をしておられたが、小言はおっしゃらなかった。そして、ケースから双眼鏡をとりだして、岩のてっぺんに立ち、しばらく地平線を眺めておられたが、そのうちいきなり大きな声で、
「ごらん! ミナ夫人、来てごらん! 来てごらん」
私は飛び出して行って、岩の上の教授のそばに立つと、教授は双眼鏡を私に渡して、遠くのほうを指さされた。雪はいよいよ盛んに、おりから吹きだした風に渦を巻きながら、猛烈に降りしきっている。それでも、おりおり息をつくように、ハタリと吹きやむ吹雪の合間合間に、長いうねった道が下のほうに見えた。私たちのいる高みから見ると、その道はだいぶ遠いようであった。そのずっと先の、一面の雪の原のはるかむこうのほうに、一筋の川が、黒いリボンかなんぞのようにうねっているのが見える。それよりずっと手前の正面に、――あまり近いところなので、かえって前には気づかなかったのだろう――一団の人々がこちらへ急いで登ってくるのが見えた。まんなかに長い荷馬車のようなものが見える。犬の尻尾《しっぽ》みたいに曲がった、道幅に似合わない柄《え》が、車の両側につきでている。白い雪のなかに、くっきりと輪郭《りんかく》の浮き出ている服装のぐあいから見ると、彼らは百姓かジプシーの類《たぐい》とみえた。
荷馬車の上には、大きな四角な箱が一つのっている。それを見た時、私の胸はおどりあがった。いよいよ最後の幕が近づいたと感じたからである。あたりには、そろそろ夕暮れが迫ってきていた。いまその箱のなかに閉じこめられている「物」は、日が落ちれば、また自由の身になって、いくら追いかけても捕まらない、さまざまの形に変化することのできるやつだ。私は気が気でなく、教授のほうをふり返ってみると、驚いたことに、教授はそこにいなかった。見ると、教授は下のほうにいた。教授は岩のまわりに、昨夜したような浄《きよ》めの輪を描いておられた。輪を描き終わると、教授は私のそばへやってこられて、
「ここにいれば、少なくともあいつからはもう大丈夫だぞ」そういって、私の手から双眼鏡をとり、次の吹雪の合間に下の全景が見えた時に、「そら、急いでやってくるぞ。馬に鞭《むち》うって、精いっぱいに走って来よるわ! 日没と競走しているのだな。こりゃあ、こっちが遅れるかもしれんな。こうなりゃ、どっちみち、神の御意まかせじゃ!」
おりしも、ドッと吹きおろす一寸先も見えぬ吹雪に、みるみる視界はかき消されてしまった。やがてそれが過ぎると、もいちど、双眼鏡は雪の原に焦点を合わされた。
「おっ、見ろ! 見ろ! ほら、馬に乗った二人が、南のほうから追っかけてきたぞ! あれはキンシーとジョンにちがいない。そら、双眼鏡。吹雪の来ないうちに早く見てごらん!」
私は双眼鏡をうけとって、のぞいてみた。なるほど、二人の男は、キンシーさんとセワードさんかもしれない。とにかくジョナサンでないことだけはわかる。同時に私は、ジョナサンももう遠くじゃないな、ということがわかった。あたりを見回すと、北のほうからべつの二人の男が、猛烈な勢いで馬を飛ばしてくるのが見えた。そのうちの一人がジョナサンであることがすぐにわかった。あとの一人は、もちろんゴダルミング卿と見てとった。この二人もやはり、荷馬車の一隊を追いかけてきたのである。私がそのことをいうと、教授はまるで学校の子供みたいに喜んで、ワーッと大きな声をあげた。そして吹雪で視界がきかなくなるまで熱心に見ておられたが、やがて教授は用意のウィンチェスター銃を岩屋の入口の石に立てかけて、「みんなひと所に集まるぞ。うっかりすると、ジプシーに四方を囲まれるぞ」といった。
私も拳銃をとりだして、身がまえた。狼の吠える声がしだいに大きく近づいてきたからである。吹雪がひとやみした時、ふたたび私たちは眺めた。ふしぎなことに、私たちのすぐまわりは、こんなにひどく吹雪《ふぶ》いているのに、遠山のいただきには、沈みかけている夕日がいよいよキラキラ輝いている。双眼鏡であたりを見回してみて、私はアッと驚いた。そこに一匹、かしこに二匹、そのむこうに三匹というふうに、ここかしこに黒い点になって動いて見えるのは、餌食《えじき》を求めて集まってくる狼の群れであった。
そうやって待っている間、まるでひととき、ひとときが、ひと時代のように思われた。風は今や激しい突風となり、雪は渦巻く潮のようにピューピュー吹きつけてくる。ときどき、咫尺《しせき》も弁ぜぬようになる。しかし、時にはまた、ゴーッと唸りを上げてくる雪風が、あたりをサッと吹き払うと、岩のまわりがカラリと晴れて、遠くのほうまで見はるかすことができた。教授も私もここのところ、日の出・日没の時は注意して見なれているので、その時刻は寸分|違《たが》わずわかるようになっていたが、きょうはまだ日の没するまでには、かなりの時間がある。われわれの観測だと、三方の隊がこの下に集まってくるまでに、こちらが岩陰で待っている時間は、まず一時間とはかからぬ見込みであった。
風は真北からいよいよ激しく、痛いほどビュービュー吹きつけてくる。どうやら雪雲は吹き払われたらしく、たまにドッと吹きおろしてくると、チラチラ雪片が舞い落ちてくる程度になった。そんなわけで、いまは追っ手も追われる者も、両方とも、一人一人はっきりと見分けがっくようになった。おかしなことに、追われる者たちは、まだ追われていることに気がついていないらしい。少なくとも、それにかまってはいないようである。でも、夕日がだんだん山の端《は》に低く下がっていくにつれて、倍の速力で急いでいるとみえた。
だんだん、だんだん、こちらへ近づいてきた。教授と私は岩の陰からはいおりて、銃を身がまえた。教授は、敵にここを通させまいという腹らしい。敵はわれわれがここにいることに、だれもまだ気がついていない。
「待てっ!」
ほとんど同時に、二つの声が叫んだ。一つははやる心に癇《かん》立ったジョナサンの声であった。一つは断固と落ち着き払ったキンシーの命令するような声だった。ジプシーは言葉はわからなかったろうが、何をいわれたかは語調でわかったらしく、ハッとして、本能的に手綱を控えたとたんに、片方からジョナサンにゴダルミング卿、片方からはキンシーとセワードが、時を同じゅうしてドッと駆けよった。
人馬《サテュロス》のごとく馬にうちまたがったジプシーの隊長は、りっぱな顔をした男で、つめよる四人を押しもどすと、仲間の者に激しい声で「進めっ!」と下知《げじ》した。その声に、馬をけって一気につき進もうとするところを、四人の者はウィンチェスター銃をおっとりかまえ、そこ動くなっ! と叱咤《しった》した。そのとき、教授と私は岩陰に立ち上がり、敵にねらいをつけて銃をかまえた。敵は囲みに落ちたと見るや、手に握った手網をギュッと引きしめた。敵の隊長が部下に向かって、何やら一声叫ぶと、ジプシーの一隊は、おのおの手に手に短刀だか、短銃だか、得物《えもの》をおっとり、スワ攻撃と身がまえる。戦いは一瞬にして開始された。
敵の隊長は手綱引く手もすばやく、馬を陣頭に進めると、山の端に沈みかけている夕日をまず指さし、それから城を指さして、何やらわからぬことを叫んだ。それに答えて、味方の四人は、すばやく馬を乗り捨てるが早いか、荷馬車を目がけておどりかかった。
あっ、ジョナサンがあぶないな、と見てとると、当然気が気でないはずの私が、敵味方同じくここを先度《せんど》の接戦に、少しの恐れもおぼえず、むしろ、自分も何かしたいという、激しい気のあせりを感じた。味方のすばやい動きを見ると、敵の隊長は何やら号令をあたえた。部下の者どもはただちに荷馬車をぐるりと取り囲んだ。そういう時の訓練がついていないから、敵はたがいに肩を押し合い、われ勝ちにただ命令どおりにしようともみあっている。そのさいちゅうに、敵の円陣の一方からジョナサン、一方からキンシーが、遮二無二《しゃにむに》車へつっこもうとおどり出たのを、私は見た。もちろん、二人は、日の没しないうちに仕事を片づけてしまおうと意気込んでいるのである。止める者もじゃまする者もいないようすであった。敵は飛び道具も持っていなければ、ギラギラ光る刃物も見えず、背後には狼の声もないので、二人は気の散るものがないらしい。目ざすものはこれなりと、猛然とおどりかかるジョナサンの不敵な勢いに、敵は恐れをなしてか、思わず小脇へ身をすくませて、道を開いた。そこをすかさず、彼は単身、荷馬車の上へヒラリとおどり上がると、よくもあんな力があったと思われるほどの力で、かの大きな箱をウーンと持ち上げると、それを車の輪越しに地面へ投げ落とした。そのあいだにキンシーは、ツガニー人の円陣を切り抜けんと、これまた奮迅《ふんじん》の勢いで斬《き》りこむ。私は始終ジョナサンのほうを息もつかずに見守っていたので、キンシーが必死の勢いでおどり出て、あわや敵陣を突き破ろうとした時に、ジプシーどもの匕首《あいくち》がギラリと光ったのを、わずかに目の端のほうで見たにすぎなかった。キンシーも短刀を抜いていたから、まず大丈夫、ぶじに切り抜けるものと思っていたところが、いま荷馬車の上から雪の上に飛び下りたジョナサンのそばにころがりでたキンシーを見ると、左の手で脇腹をしっかり押さえているその指先から、血がドクドク吹きでている。痛手にひるまず、それでも彼は遅れをとらじと、ジョナサンが必死の力を出して箱の一方に取りつき、大きな蕃刀《ばんとう》をもってなんとか蓋をこじあけようとするのに、自分も力を合わせ、箱のこちらを匕首《あいくち》で、気ちがいのようになっていっしょにこじあけている。
この二人の男の努力で、とうとう箱の蓋はあきかかってきた。キーと釘の抜ける音がするうちに、やがて箱の上蓋がパックリ口をあけた。
すでにこの時には、ジプシーどもはゴダルミング卿とセワードのウィンチェスター銃が、双方からねらい定めているのを見て、もはやかなわぬとあきらめたとみえ、それ以上抵抗をしなかった。夕日はもうほとんど山の端に沈みかけ、群がる人々の影を、雪の上に長くひいている。私は箱のなかの泥の上に、伯爵が横たわっているのを見た。伯爵は荷馬車から乱暴に突き落とされた時に、中で散った泥をかぶって横たわっていた。顔は死人のように青ざめ、まるで蝋人形のよう。まっかな目が、私も見覚えのある、ゾッとするような執念深い形相をして、ギラギラ光っている。
私は、その目が沈みゆく夕日を見て、うらめしそうな目つきから、たちまち勝ち誇った目つきに、ひとりでに変わったのを見た。
と、その時であった。ジョナサンの大きな蕃刀がギラリと光った。それが伯爵の咽喉元をグサリとつらぬいたのを見て、私はアッと叫んだ。と同時に、キンシーの匕首《あいくち》が、伯爵の胸元深く突き刺さった。すると、まるでそれは奇跡のようであった。われわれの目の前で、あっと息をつく間もないうちに、伯爵の身体は粉々の塵となって、サラサラとくずれたと思うと、影も形も見えなくなってしまった。
この最後の崩壊のその瞬間にさえ、伯爵の顔の上に、よもやそんなものがあるとは想像もされなかったような平和の色が浮かんでいたということは、私の終生の喜びになるだろうと思う。
ドラキュラ城は、いま、赤い夕焼け空に高だかとそびえ立っている。そのこわれた銃眼の石の一つ一つは、落日の光に対して、何やらものいいたげな風情《ふぜい》である。
ジプシーたちは、伯爵の不思議な滅形の原因を、われわれが何か意図したものと思ったらしく、こんどはおれたちの命があぶないぞ、とでもいうように、ものもいわずにコソコソ馬に乗って、引き揚げて行ってしまった。馬のない連中は荷馬車の上にとびのって、「おーい、おれたちを置き去りにするな」と、馬に乗っている連中にどなっていた。狼どももそれにつづいて、今は遠くへ去り、残るは私たちだけになった。キンシー氏は雪の上にぐったりと倒れたまま、片ひじをつき、片方の手で脇腹をしっかり押さえている。指の股からはまだ血が吹き出ている。私は、もうまじないの輪のなかから出ても大事ないので、彼のところへ飛んで行った。二人の医師も駆けよってきた。ジョナサンは雪の上に膝をついて手負いの人をうしろから抱きかかえ、自分の肩に相手の首をもたれさせた。つく息も苦しげに、キンシー氏はやっとの思いで、私の手を血のついていないほうの自分の手で握った。
「ぼくは、何かのお役に立った。――ただもうそれだけで満足ですよ」そういって、キンシーさんはにっこり笑って、私の顔をじっと見たが、いきなり何を思ったか、「あっ!」と叫ぶと、苦しい中を雪の上にぴたりとすわった。そして私の顔を指さして、
「ああ、もうこれで私は死んでもいい。ごらんなさい! ほら、ごらんなさい!」
ちょうどその時、夕日が山の端にかかり、その赤い光が私の顔にまともにさしたので、私の顔はバラ色に染まった。キンシー氏の指さすほうを目で追いながら、男の人たちはいっせいにそこへ膝をつくと、深い熱のこもった声で「アーメン」といった。死になんなんとしている人がいった。――
「何もかもむだでなかった。これはひとえに神のおかげです。ごらんなさい! あなたの額、雪よりもしみがない! 呪殃《わざわい》は消えましたぞ!」
そういってにっこり笑うと、それきり黙って、この雄々しい紳士は、私たちの悲嘆《ひたん》をあとに、しずかに息をひきとったのであった。
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付記
七年前、われわれはみな火の中をくぐった。あれ以来、われわれの中の幾人かが得た幸福は、あのとき苦しみをよく耐えぬいたおかげであった。そのうえミナと私に加えられた喜びは、キンシーの死んだ命日が、自分たちの倅《せがれ》の誕生日と同じ日であったことである。この子の母親は、雄々しい友人の魂がわが子にのりうつったのだと、ひそかに信じていることを、私は知っている。この子には、いろいろ友人の名前がたくさんつけてあるけれども、私たちは彼を呼ぶ時には、キンシーと呼んでいる。
今年の夏、私たちは打ちそろってトランシルヴァニアに旅行をし、われわれにとっては今もむかしも生々しい恐怖の記憶が残っている、あのなつかしい土地を一回りしてきた。むかしわれわれが目で見、耳で聞いたことが、いまもなお事実となって生き残っているとは、ほとんど今は信じられなかった。むかしあった跡は、何もかもきれいに消えてしまっていた。ただ、あの城だけは、ありし日のままに、荒涼とした山の上に、巍然《ぎぜん》としてそびえ立っていた。
帰国後、みなしていろいろ昔語りをしたが、今では往事を回顧して、だれ一人なんの悔いるところもない。なぜなら、ゴダルミング卿もセワードも、二人ともしあわせな結婚をしているから。私は長いこと金庫にしまっておいた当時の文書を、そのとき久しぶりで取り出して見た。読み返してみて驚いたことは、記録が構成されているこれだけの山のような材料の中に、これこそがただ一つの真正な記録だというものがないことであった。あとのほうのミナとセワードと私のノート・ブックと、ヴァン・ヘルシングの覚え書を除いて、あとはタイプで打ったものばかりである。われわれは何もこれを一編の荒唐無稽《こうとうむけい》な物語の証拠文書として受けとってくれと、だれにも頼みもしないし、また望みもしない。ヴァン・ヘルシングが私の倅を膝にのせながら、締めくくりをつけるように、こんなことをいった。
「われわれは証拠なんざ、何もいらんさ。われわれを信じてくれなんて、だれにも頼みはせんよ。ただこの坊主が、いまに大きくなって、自分のお母さんが男まさりで、りっぱな人だったということを知れば、それでいいのだ。お母さんのやさしいことと、かわいがってくれることは、この坊主《ぼうず》、すでに知っとるがね。もう少したつと、お母さんがどうして男の人たちのなかで愛されたか、どうして男の人たちが、お母さんのためにあんなに尽くしたか、それでわかってくるよ」
ジョナサン・ハーカー
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解説
近代ヨーロッパにおける吸血鬼をテーマにした最初の小説は、ジョン・ポリドリの Vampyre(一八一九年)だというのが、今日では定説になっています。一八一七年の夏、スイスのジュネーヴ湖畔のバイロンの別荘にいた、バイロン、シェリー両詩人のもとへ、ゴチック小説「マンク」の作者、マシュウ・グレゴリ・ルイスが訪ねてきて、「どうだ、きみたちもドイツの怪奇ロマンの向こうを張って、ひとつ怖い小説を書いてみないか」と勧めたのが動機で、バイロン、シェリー、シェリー夫人が競作をした結果、シェリーはついに小説は書けず、バイロンは書きかけて筆を投げ、ひとりシェリー夫人だけが、名作「フランケンシュタイン」を書き上げたという話は、今日では誰でも知っている有名な話ですが、そのときのバイロンの構想をそのまま借りて、曲がりなりにも一編をものしたのが、ポリドリの「吸血鬼」であります。
この作品は雑誌に発表されたとき、偶然か故意か、編集者がバイロン作として掲載したためにたいへんな評判になり、怪奇小説の本家であるドイツはもとより、フランスでもさっそく翻訳が出て、シャルル・ノディエがこれを劇にしくんで上演したところ、これがまた大当たりで、テオフィル・ゴーティエなどもそのブームに刺戟されて、新しく吸血鬼小説を書いたというほど、舞台に、小説に、あるいは酒場の唄にまで、ほとんどヨーロッパ全土の都市に猛烈な吸血鬼あらしを巻きおこしたのでした。
これについては各国の学究者や批評家が、それぞれいろいろの角度からすでに論じつくしているかたちですが、おもしろいことに、十八世紀にあれほど隆昌したゴチック小説には、吸血鬼をテーマにしたものが一つもありません。ルイスやマチュリンのような作家が、どうして吸血鬼小説を書かなかったのだろうと、モンタグ・サマズは「ゴチック・ケスト」という本のなかで嘆いていますが、おもうにこれはゴチック小説の立地条件が、お手本のドイツ・ロマン派の恐怖小説のわくの中で、もっぱら古城や僧院という、いわば一種の貴族的密室内の恐怖と陰謀事件を追うことに終始したこと、かつまた作者も読者も、おおむね当時の有閑階級の婦人室《ブードア》にかぎられていたことなどから、吸血鬼のような血なまぐさい、残忍非情な怪物の恐怖は、おそらくはいる余地がなかったと見るのが正しいのでしょう。ここではそのへんのことを詳述する余裕がありませんが、とにかくゴチック小説の出現からほぼ半世紀たって、恐怖小説は吸血鬼小説によって、ようやく貴族のサークルから庶民の手にうつるきっかけをつかんだのだと、わたくしは考えます。このことは恐怖文学の歴史の上で、吸血鬼小説が果たした一つの大きな功績ではなかったかとおもわれます。
ところで、いったい吸血鬼信仰というものは、これはずいぶん古いもののようで、キリスト教が確立される以前のギリシア時代から、この記録がありますし、ごくプリミチーヴなかたちでは、ホメロスのオデュッセイアなどにも出てきます。むかしは神に背《そむ》いて宗門から破門された者や自殺者などが、死後不吉な吸血鬼になると信じられていました。病理学的に見れば、吸血鬼はあきらかに嗜屍症《しししょう》だといえますが、死者が人間の生血を吸って、死者として永劫《えいごう》に生きていくというのは、やはり人間本来の欲望である永生思想につながる信仰といえましょう。言いかえると、人間本来の欲求である永生思想は、これが中世の科学と結びつくと、錬金術師たちの不老不死の探究となり、これが、神ならぬ悪魔と結びつくと、魔女の呪術などを通じて、死―回生―永生―血―力……という観念から、そこに吸血鬼という信仰が派生的に生まれたものと考えられます。民間信仰というものは、もともとごく素朴なものですから、そこへいろんな陰湿な思想が夾雑物《きょうざつぶつ》となって混入して、インキュバスやサッキュバスのような淫魔思想もはいってくるし、あるいは魔女のつかう夜行性動物――オオカミ、ネズミ、コウモリなどといった陰獣も一と役買って出てくるというわけであります。要するに、悪魔と結託して神から疎外された死者が、血によってせめてもの永生をはかり、血を吸うことによって不死者の同族をふやし、悪の種族の繁栄をはかるというのは、最も汚れた思想というべきで、その意味では、吸血鬼小説は神と悪魔の闘いを中軸にして、恐怖とともに神を尊崇する人間の正しい良心が支えになっている、ともいえるようであります。
さて、話を前にもどして、ポリドリの「吸血鬼」は、バイロン作という誤伝で過当の評判を博して、おもいがけない影響と刺戟を演劇や小説の上にあたえましたが、しかし作品それ自体は、ポリドリが文学者ではなく、すぐれた怪奇作家でないことを立証して終わったようであります。しかし、それはそれとして、この新奇なテーマを時の煽情作家が見のがすはずはありませんでした。トマス・プレスケット・プレスト(一八一〇〜一八七九)の「吸血鬼ヴァーニー」(一八四七)はそれに応《こた》えた作品ですが、このプレストという人は、ジャーナリスト出の赤本作者で、他人の作を焼きなおしたり、時事的なトップ記事を当てこんだような際物《きわもの》小説を多量に書いた男です。時の流れとともに今ではすっかり忘れ去られてしまい、数十冊にのぼるその著作は、今日ではわずかに一部の好事家のあいだに、稀覯《きこう》書として珍重されている程度で、とてもわれわれごときに手も出ない高価な、まぼろしの書物になっています。モンタグ・サマズが「吸血鬼考」に引用しているその第一章なるものから窺《うかが》うと、その文章の卑俗さはまるで香具師《やし》の絵看板でも見るような泥くさい感じで、ほとんど読むにたえません。なにしろ六〇〇ページという大冊にお目にかかってもいないというのでは、なにを言う資格もないしだいですが、さてこのキワものの読物を尻目にかけるようにして現われたのが、レ・ファニュの「カーミラ」(一八七二年。拙訳「吸血鬼カーミラ」参照)であります。ポリドリが吸血鬼男を扱ったの対して、このほうはご承知のごとく女吸血鬼なので、当然、ポリドリのルスヴン卿にはホモ・セックスの匂いが感じられるように、こちらにはレスビアンの匂いが濃厚で、全編にレ・ファニュとしては珍しくエロチックな描写が随所に見られます。小説家の手によって、吸血鬼の誘惑から絶滅までを、吸血鬼伝説にもとづいて定石通りに書いた本格的な吸血鬼文学としては、イギリスではこれが最初の作品といえましょう。その完成度も、レ・ファニュの数多い怪奇小説のなかで、五指のうちにかぞえられる出来ばえであります。しかし遺憾ながら、まだゴチック文学の伝統である貴族的密室趣味からは、一歩も出ていませんでした。そしてこの「カーミラ」から四半世紀たった一八九七年に、はじめてここに吸血鬼文学の集大成的傑作、すなわち本編、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」が登場したのであります。
エイブラヘム(ブラムは略称)・ストーカーは、一八四七年十一月、アイルランドのダブリン市で生まれました。父は市庁の高級官吏、母も同じく市庁の調査課の吏員でした。ブラムは今日でいう未熟児だったのでしょう。生まれおちた時には仮死状態で、医師も首をかしげたほどの虚弱児でした。八歳ごろまでベッドに寝たきりで育てられ、温泉・海水浴などの転地療養に両親は並々ならぬ細心の心づかいを払い、初等教育ももっぱら両親と、父の友人で私立学校を経営している牧師によって授けられたのであります。そんなわけで、幼少のころのブラムはごく内気なはにかみやで、いつも病床で絵をかいたり、詩や作文をいたずら書きしているような、至って因循《いんじゅん》な子でした。ところが、十一、二歳のころになって、これではいけないと急に自分で発奮して、歩行のできない脚の鍛錬をしだしたのがきっかけになって、それからは周囲の者が驚くほどめきめき丈夫になると同時に、まるで今までの遅れを取りかえすかのように、性質も一変して、生まれ変わったように元気で明るい積極的な子になり、やがて十六歳のとき、ダブリン大学のトリニテ・カレッジにめでたく入学したときには、運動部のメンバーに加入するほどの頑健なからだになったというのですから、当人はもとより、両親はじめ家族の喜びはひとかたではありませんでした。
トリニテ・カレッジは由緒ある古い学校で、アイルランドの学者・文人はほとんどみなここに籍をおいています。先輩にはレ・ファニュの顔も見えますし、後輩にはオスカー・ワイルドなどもおり、ブラムの在学当時は、碩学ダウデン教授が英文学史を講じていました。朝夕、校庭に立っている文人ゴールドスミスの銅像を仰ぎながら登退するカレッジ生活の明け暮れは、若い希望にみちたブラムにとって、ほんとに愉しく充実したものでした。在学中、かれが最初に提出した論文が、「小説における煽情と社会」という題だったというのも、いかにも、のちのスリラー作家らしい題目で、おもしろいではありませんか。
このカレッジ時代から、ブラムは観劇に熱中しだしました。芝居好きは父譲りで、父は市中の劇場はどこも木戸御免というほどの芝居|通《つう》でした。ブラムも興行シーズンには、市内の芝居小屋を余すところなく見て歩き、いい芝居は二度も三度ものぞくという熱心さでしたが、その時分はキーン、サリヴァン、アーヴィングなどという極めつきの名優たちが、たがいに名演技を競っていた黄金時代で、シェークスピア劇のオフェリアやコーデリアをやらしたら、このひとの右に出る者はないといわれた名女優エレン・テリーなども、アーヴィング一座に共演していたのですから、好劇家にとってはまたとない、ほんとに恵まれた時代だったのです。大学に進学してからも、ブラムは病みつきになった好きなこの道をずっとつづけ、しまいには新聞に劇評を投稿する常連の一人になって、新人バーナード・ショウと烈しく論争を闘わしたりしました。そんなことで認められて、かれは大学在学中に、ダブリンで一ばん大きな新聞「メイルズ」の演劇記者に採用されて、さかんに劇評を書きまくったのが縁になって、尊敬するアーヴィングとも近づきになり、アーヴィングはこの若い熱心な好劇青年に好感をもち、大学卒業後、若いブラムを自分の一座の奥役にかかえました。それいらい、ブラムはこの不世出の名優アーヴィング卿が、一九〇五年、国民に惜しまれながらついに世を去るまでの二十数年間を、ただ一人の信頼ある忠実明敏な秘書役として、劇団の経営から文芸部の仕事、渉外事務、その他いっさいを仕切ったのであります。とかく離合つねなき軽佻浮薄《けいちょうふはく》なこの社会にあって、さすがに座長アーヴィングの襟度《きんど》とブラムの人となりなればこそ、はじめて達成されたみごとな結びつきだといって、梨園《りえん》における稀に見る美談として語りつがれたのも道理であります。ブラムに、「ヘンリー・アーヴィングのおもいで」と題する上下二巻の追懐録がありますが、この本は今日でも、ヴィクトリア朝演劇史の生きた裏話を知る貴重な文献として、識者のあいだに珍重されています。
ところで、このようにブラムがアーヴィング劇団と長年寝食をともにし、ときには脇役で舞台に出たりしたこともある、この劇団生活からえた貴重な経験が、かれの小説術のうえにいろいろの点で生かされ、作品制作のうえに大きなプラスとなったことは、想像するにかたくないことと考えます。たとえば、「ドラキュラ」一編を例にとってみても、その構想、プロット、シチューションのとりかた、人物の性格分け、章ごとの見せ場、大詰のもりあげとまとめ等々、一分の隙もないその的確な技巧は、すべて観客の心理と嗜好を忘れてはならない舞台の経験から習得したものだといっても、けっして過言ではないでしょう。「ドラキュラ」が世紀の傑作として百万の読者を堪能させ、今日なお長い生命を保っているその秘密は、おそらくここにあるのではないかと思われます。
ところで、ブラムが「ドラキュラ」を書いた動機、それについては忘れてならないことが二つあります。その一つは、ほかならぬレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」であります。
この同郷の大先輩である人気作家の作品は、これも当時のスリラー人気作家ウィルキー・コリンズの作品とともに、ブラムは以前から長編・短編とともに雑誌で欠かさず愛読していましたが、一八七一〜七二年にたまたま The Dark Blue という小さな雑誌に分載された「カーミラ」を読んだときに、まるで背中を思いきりどやされたような衝撃に似たものをおぼえ、自分のイマジネーションに火をつけられたような興奮を感じました。――「これだ! よし、これで行こう。吸血鬼! 不死者! だが女吸血鬼では弱い。やはり吸血男でいこう」かれはそう思いきめると、それからは折にふれて、吸血鬼伝説に関する文献や資料を心して集めだし、忙しい興行のひまひまに、小説の構想をあれやこれやと暖めていました。しかし、なんとしても大物の主人公がなかなか思いつかず、だいぶ思い悩んだあげく、やむなく吸血鬼小説は一時お預けにして、そのかわり手ならしに怪奇短編を気が向くと書いて、おりおり雑誌に発表していました。のちに、Dracula's Guest という短編集に収められた作品がそれで、そのなかには The Judge's House(「判事の家」)や、The Squaw(「蕃婦」)のような佳編があります。
さて、もう一つの動機というのは、「カーミラ」が発表されてから約二十年たった一八九一年に、ブラムはたまたまアーヴィング邸で、思いがけない、しかも願ってもない、これこそかれが年来探し求めていた人物に紹介されたのです。その人はブダペスト大学の東洋語の教授で、アミニウス・ヴァンベリという人でした。マルコ・ポーロの足跡を尋ねて長らく中央アジアに研究調査の旅をつづけていた人で、十六か国の言葉を話し、二十か国の言葉に通じているという学者でした。アーヴィングは世界的なシェークスピア劇俳優ですから、シェークスピア劇に出てくる幽霊や魔女伝説には日ごろから深い関心をもっており、演技の工夫の上からも、そうした史実や民話に興味をもっていたので、かねがねブラムが吸血鬼ものを書きたがっているのを当人の口から聞いて、それはおもしろいからぜひ書けといって勧めていたところから、この博士を招いて一夕の宴をはり、ブラムに引き合わせてくれたのでした。その夜、アーヴィングとブラムは、教授の口からトランシルヴァニア地方に残っている不思議な吸血鬼信仰の話をいろいろと聞き、おかげでブラム懸案の吸血鬼小説は、ここで一つの大きな確乎たるヒントを得たのでした。
ヴァンベリ教授はブラムの意向をきいて、まもなく浩瀚《こうかん》なその資料のなかから、ドラキュラ家の史実を選んで、くわしく報告してくれました。こうして世紀の傑作「ドラキュラ」の主人公の映像は、ようやくここに決定されて、ブラムは構想を改めて練りなおし、ドラキュラ伯爵の風貌の肉づけ、その他全体の細部の煮つめになお慎重な数年の日子《にっし》をかけて、完璧の上に完璧を期してゆっくりと磨きをかけて行ったのです。そしてブラムは、レ・ファニュのヘッセリウス博士のひそみにならって、ヴァンベリ教授をそのままヴァン・ヘルシング教授として登場させることにし、また小説全体の形式は、日ごろ敬愛するウィルキー・コリンズのあの「白衣の女」The Woman in Whiteや「月長石」の記録体形式《ドキュメンタリ》を踏襲することにきめ、ごらんのごとき日記風手記の集合となったわけです。演劇人の出であるせいか、ブラムは趣向の斬新奇抜ということにかけては人一倍敏感だったようで、ライト兄弟が飛行機に成功し、ブレリオ機がイギリス海峡横断飛行に成功すれば、さっそく作品 The Lady of the Shroud(「屍衣の婦人」一九〇九年)のなかに飛行機を採り入れるというほどの新しがりやでしたから、「ドラキュラ」のなかにも、速記文字だの蝋管録音などをとり入れて、せいぜい新機軸を見せています。
以上が、ざっと「ドラキュラ」を完成させるまでのいきさつでありますが、一八九七年にこの本が売り出されたときには、たちまちイギリスの読書界に一大センセーションをまきおこし、本は旬日にして版をかさね、ロンドン市民を夢魔の恐怖のうちに震憾させたということです。そして各国語につぎつぎに翻訳され、演劇に、映画に脚色製作され、今日では世界の津々浦々にいたるまで、この作品を読むか見るかしない人はほとんどないというまでに流布したことは、周知のとおりであります。「ドラキュラ」のあとに吸血鬼小説なしというありさまで、文字どおり世紀の傑作の名に恥じないことは、なによりも作品自体が雄弁に証明しているようであります。
あまり有名になりすぎたために、近頃はドラキュラもブラウン管のお子さま番組のなかに、フランケンシュタインともども、見るもむざんな尾羽《おは》打ち枯らした姿で登場していますが、まじめなはなし、わたくしはこの二つは人類永劫の恐怖の二つの象徴だと考えております。一つは人間の知恵がうみだした人工、機械。一つは権力に対する人間の執拗な欲望と悪念の権化。――そう考えると、ドラキュラはドラキュラ城で壊滅したにしろ、その眷属《けんぞく》は現代でもさかんに跳梁《ちょうりょう》しているようですし、フランケンも文明という仮面をかぶってますます暴威をふるっているようであります。ゴチック伝統の流れに棹《さお》さして、この次に出現する「ドラキュラ文学」は、こうした「現代と未来の展望」の上に立ったものになるのではないかという気がします。
さてアーヴィングの没後、ブラムは劇界を隠退して、莫大な劇場の負債の後始末に疲労|困憊《こんぱい》したからだをしばらく休めてから、著作生活にはいりました。まずアーヴィングの回想録を書き上げ、それから書店の需《もと》めに応じて、怪奇スリラー小説を二冊出版しました。The Lady of the Shroud(「屍衣の婦人」一九〇九年)、The Lair of the White Worm(「白蛇の巣」一九一一年)ですが、ドラキュラが大当たりをしたので、その直後にもThe Mystery of the Sea(「海の秘密」一九〇二年)、The Jewel of Seven Stars(「七つ星の宝石」一九〇五年)という二編の怪奇スリラーを出しています。ここではくわしく筋を述べる時間がありませんが、どれも読者へのサーヴィス精神は、そつなく配ってありますから、読んで損はしないおもしろさは充分に随所に盛りこまれていますが、なにをいうにも「ドラキュラ」があまりにすばらしすぎるので、そのかげに隠れて、あまりパッとしないのは仕方がないでしょう。そして晩年はあまりパッとしないままに、一九一二年四月、六十四歳で老衰のため世を去りました。
今回、完訳を出す運びになりましたが、老来怱卒《ろうらいそうそつ》の間にしたことなので、あるいは遺漏があるやもしれません。大方の御教示を待つしだいです。