アンクル・トムズ・ケビン(下)
H・B・ストウ/山屋三郎・大久保博訳
目 次
第十八章 ミス・オフィーリアの経験と意見
第十九章 続、ミス・オフィーリアの経験と意見
第二十章 トプシィ
第二十一章 ケンタック
第二十二章 「草はかれ――花はしぼむ」
第二十三章 ヘンリック
第二十四章 前兆
第二十五章 小さな伝道者
第二十六章 死
第二十七章 「これぞこの世の終わりなり
第二十八章 再会
第二十九章 寄《よ》る辺《べ》なき人々
第三十章 奴隷倉庫
第三十一章 中間航路
第三十二章 暗き場所
第三十三章 キャシィ
第三十四章 混血女の話
第三十五章 形見
第三十六章 エミリーンとキャシィ
第三十七章 自由
第三十八章 勝利
第三十九章 計略
第四十章 殉教者
第四十一章 若主人
第四十二章 本当の幽霊話
第四十三章 結果
第四十四章 解放者
第四十五章 結語
解説
訳者あとがき
[#改ページ]
第十八章 ミス・オフィーリアの経験と意見
われわれの友人トムは、自分の投げ込まれた奴隷としての境遇の点で、現在の比較的幸福な運命を、エジプトにおけるヨセフ(ヨセフは兄弟の悪だくみによってエジプトに奴隷として売られるが、後エジプト国王の信任を得て総理大臣となり、おりからの飢饉に苦しむ兄弟や父親を救う。――創世紀、第三十章および第三十七章以下参照)の境遇によく似ていると、彼なりの素朴《そぼく》な頭で考えることがよくあった。事実、時が経つにつれ、また主人から目をかけられてますます成長するにつれ、両者の類似点はますますはっきりしてきた。
セント・クレアは、不精で金銭には無頓着な人間であった。それで、これまで食糧の仕入れや買い物は主としてアドルフの手で行なわれていたが、これがまた、まったく主人と同様に無頓着で金遣いの荒い男であった。つまり二人は一緒になってせっせと無駄遣いを続けていたのである。トムは長年にわたって、主人の財産は自分が管理すべきものという考えに馴れていたので、抑えがたい不安な気持でこの家の無駄な出費をながめていた。そして時には、彼のような階級の者が往々身につけているあの物静かな、遠まわしな言い方で、自分の意見をそれとなく述べるのであった。
セント・クレアは、初めのうちは時々しかトムに用事を言いつけなかったが、トムのしっかりした考えや優れた事務的な手腕に驚いて、だんだんと彼を信用するようになり、しだいにこの家の買い物や食糧の仕入れをすっかりトムに任せるようになった。
「いや、いや、アドルフ」とセント・クレアはある日のこと、アドルフが、自分の手から権力を取り上げないでくれと訴えるのを聞くと言った。「トムに任せておけ。おまえは自分の欲しいもののことしかわからんのだ。トムは費用のことも、またそれを買えばどうなるかということも心得ている。われわれはそういうことをだれかにやってもらわないと、そのうち金に困り果ててしまうからな」
紙幣《さつ》をろくすっぽ見もしないでよこし、その釣銭も数えずにポケットに入れてしまう、そんな無頓着な主人が底抜けに信用するのであるから、トムは不正をしようと思えばいつでも簡単にできたし、またその誘惑もあった。そしてその誘惑を斥けることのできるものがあるとすれば、それはただ、キリスト教の信仰によって強められた何ものにもゆるがぬ実直な気質だけであった。しかしトムのような気質の者にとっては、そういう無限の信頼こそかえって、この上なく几帳面《きちょうめん》で正確な仕事を保証するものなのであった。
アドルフのほうはどうかといえば、事情はまったく違っていた。彼は無分別で、わがままで、おまけに、主人からはこんな男は取締まるよりもかえって放っておいたほうが楽だからと、なんの束縛も受けなかったので、自分と主人とに関しては|自分の物《メウム》と|人の物《トウウム》(プラトゥスの喜劇「トリヌムマス」の第二幕第二場の台詞)との見さかいがまったくつかなくなっていた。これにはさすがのセント・クレアも時おり頭を痛めた。セント・クレアの良識に従えば、自分の召使いたちをそんなふうに仕込むことは間違ったことであり、また危険なことでもあった。だから彼には後悔に似た気持がいつもつきまとっていたが、かといってそれが彼のやり方に決定的な変化を与えるほどに強いものではなかった。そしてこの後悔そのものが反動となって結局召使いたちを甘やかせることになるのであった。彼はきわめて重大な過失をも軽く見のがしたが、それというのも、もし自分がなすべき役割りを果たしてさえいたなら、召使いたちもそうした過失は犯さずにすんだであろうと、自分自身に言いきかせていたからであった。
トムは彼の陽気で、快活で、りっぱな若主人を、忠誠と尊敬と父親にも似た気づかいとの入り混った奇妙な気持でながめていた。主人はけっして聖書を読まず、教会にも行かず、自分の機知の及ぶ限りなんでも手あたりしだいに茶化してまわり、日曜日の晩にはオペラか芝居に行ってしまい、酒席やクラブや会食にも必要以上によく出かけて行く、――こうしたことがすべてトムにははっきりとだれよりもよくわかったので、そうしたことから彼は、「旦那さまはクリスチャンではない」という確信を抱くようになった。――しかしこんな確信を彼は軽々しく他人に打ち明けるようなことはせず、小さな共同寝室の中で自分一人になった時、この確信に基づいてトムらしい素朴な祈り方で何度も祈りを捧げるのであった。もちろんそれは、トムがトムなりに、彼のような階級の者によく見られる何か如才ない態度で自分の心の中を時おり打ち明ける方法を知らなかったということではなかった。たとえば、前に話した例の日曜日の翌日がそうである。その日セント・クレアは飛切り上等の酒を用意したある宴会に招待されて出かけて行き、夜も一時をまわったころ、人に助けられ帰宅した。もうその時には理性がすっかり肉体に兜《かぶと》を脱いだという状態であった。トムとアドルフはその夜主人を落着かせようといろいろ手当てをしていたが、アドルフのほうは上機嫌で、見るからにこの事件を粋な冗談ごとのように考えているらしく、トムの驚きを野暮《やぼ》の骨頂だと言って腹の底から笑っていた。しかしトムはしんけんで、その夜はほとんどまんじりともせず、この若い主人のために祈りつづけていた。
「どうしたんだ、トム、何をぐずぐずしているんだ?」と翌朝、部屋着姿にスリッパといった恰好《かっこう》で書斎に腰を下ろしていたセント・クレアが声をかけた。彼はトムに金を渡していろいろな用事を言いつけたところであった。「それでいいんじゃないのかい、トム?」彼はトムがまだそこに立って待っているので、そうつけ加えた。
「よくごぜえません、旦那さま」とトムはむずかしい顔つきで言った。
セント・クレアは持っていた新聞をおき、コーヒー・カップを下においてトムを見た。
「ええ、トム、いったいどうしたっていうんだ? 棺桶《かんおけ》みたいにしかつめらしい顔なんかして」
「不満なのでごぜえます、旦那さま。わし、日ごろから旦那さまはだれに対してもよい方だと思ってまいりました」
「ほう、トム、じゃあ私は、そうじゃなかったのかい? さあ、何が欲しいんだ? 何か欲しいものがありそうだな。で、これがその前口上というわけなんだろう」
「旦那さまはいつでもわしにはよくして下せえます。その点では何も不平などごぜえません。ですが、旦那さまはあるお方に対してはよくごぜえません」
「おや、トム、おまえ、何を考えてるんだ? はっきり言ってごらん。何が言いたいんだい?」
「昨夜《ゆうべ》、一時から二時の間に、わし、そう思いました。その時わしはあの事をよく考えてみました。旦那さまはご自身に対してはよくごぜえません」
トムがこう言った時、彼は自分の背を主人に向け、手は扉の把手《とって》にかけていた。セント・クレアは自分の顔にさっと血がのぼるのを感じた。しかし、彼は声をたてて笑った。
「なんだ、そんなことか、ええ?」と彼は陽気に言った。
「そんなこと、ですと!」とトムはそう言うなり突然くるりと向き直って床に両膝をついた。「ああ、わしの大切な若旦那さま! お酒のためにすっかり――すっかり――肉体《からだ》も霊魂《たましい》も失くしておしまいになるのが心配なのでごぜえます。聖書《みおしえ》にもごぜえます、『それは蛇のごとく噛み、まむしのごとく刺すものなり!』(箴言、第二十三章第三十二節)と。おお旦那さま!」
トムの声はつまり、涙が頬を伝って流れ落ちた。
「かわいそうに、ばかなやつだ、おまえは!」とセント・クレアは言ったが、その目には涙が浮かんでいた。「立て、トム。私には人に泣かれるほどの値打ちはないのだ」
しかしトムは立ち上がろうとはせず、哀願するような顔つきをしていた。
「よしよし、私はもう二度とあんなくだらぬ所へは行かんよ、トム」とセント・クレアは言った。「私の名誉にかけて、誓おう。なぜもっと前にやめられなかったのだろう。私はいつもああいうことを軽蔑《けいべつ》していたし、それにそんなことをするこの私自身をも軽蔑してきたのに、――さあ、トム、目を拭いて、使いに行ってきてくれ。これ、これ」と彼は言葉をついで言った。「祝福などしてくれては困る。私はまだそれほどすばらしい、いい人間になったわけではないのだからな」と言いながら彼は扉の方へ静かにトムを押しやりながら言った。「さあ、私の名誉にかけておまえに約束しよう、トム。二度とあんな真似《まね》はしないからな」と彼は言った。そこでトムは目を拭きながらすっかり満足して出て行った。
「おれも、あの男との約束は守ろう」とセント・クレアは扉をしめながら言った。
事実、セント・クレアはそのとおりにした、――野卑な快楽主義は、それがどのような形をとろうと、彼の心を特に誘惑するものではなかったからである。
ところでわれわれの友人ミス・オフィーリアは、この間どうしていたであろうか? われわれはここで、南部の主婦としての仕事を始めた彼女の苦難のかずかずを詳しく物語ることにしよう。
南部の家庭で働く召使いたちの世界にはさまざまな相違があって、それは彼らを躾《しつ》ける主婦のもつ性格や才能によって違ってくる。
南部にも、北部と同じように、召使いの指図に特別な才能をもち、またその教育にすぐれた手腕をもつ女性がいる。そういう女性は、きわめて容易に、べつに自分から厳しい態度をとらなくとも、その小さな所有地のさまざまな人々を意志どおりに従わせ、調和のある組織的な秩序に導き入れることが、――つまりそれぞれの持ち前を上手《じょうず》に加減して、ある者に欠けているところは、他の者の余分なところで補ったり、埋め合わせたりなどして調和のとれた秩序正しい規律を作り出すことができるのである。
われわれがすでに述べたシェルビィ夫人は、こういった主婦の一人であったが、読者の皆さんもこういう女性を実際に見かけられた記憶がおありであろう。もしそれが南部ではあまり見かけられないというのならば、この世にはそういう女性はいないということになってしまう。南部にも、他の場所と同じように、しばしばこういう女性は見うけられるはずなのである。そして実際に存在するからこそ、彼女らは南部のこの特殊な社会状態の中でも、その家政上の才能を示すすばらしい機会を見いだしているのである。
しかしマリー・セント・クレアは、そして彼女の母親もまた、こうした主婦ではなかった。本人が怠惰《たいだ》でしかも幼稚で、順序だったところがなくて、さきざきのことも考えないような女であったから、その監督下にあって躾けられた召使いたちに、それを真似るなというほうが無理な話であった。そこでマリーがミス・オフィーリアに家庭内の混乱ぶりを話してきかせたのはむしろ当然のことであったが、そのくせ彼女はそれが自分のせいだとはけっして言わなかった。
主婦の座についた第一日目の朝、ミス・オフィーリアはもう四時には起きていた。そして、ここに来て以来ずっとしているように、自分の部屋の片付けは自分ですっかりすませてから、それは小間使いにとってはたいへんな驚きであったのだが、自分が鍵《かぎ》を預かっている屋敷じゅうの戸棚《とだな》やたんすに対する総攻撃の準備にとりかかった。
物置部屋、リンネルだんす、陶器棚、台所それに地下室、これらすべてが、この日、厳粛な検閲を受けた。隠されていた秘密の事柄が明るみにさらけ出されて、台所や小部屋の権力者や勢力者はみな狼狽《ろうばい》した。そして女中部屋からは「ああいう北部の婦人連中《ごれんちゅう》」などという驚きやら囁《ささや》きの声やらがあれこれと聞こえてきた。
料理人|頭《がしら》で、台所に関するいっさいの統治権と威信とをもっている老ダイナは、これを自分の特権に対する侵害と考えてすっかり腹を立ててしまった。大憲章《マグナ・カルタ》時代の封建諸侯でさえ、自分の王位が侵されたといってもこれほどまでには憤慨しなかったであろう。
ダイナは彼女なりにひとかどの人物であった。だから彼女についての予備知識を多少なりとも読者に与えておかないとあとで誤解を招く恐れがある。彼女は例のアント・クロウィと同様、生粋《きっすい》の、根っからの料理人であった、――料理というものがアフリカ人にとって特有の技倆だからでもあろう。しかしクロウィの場合は訓練された、規律正しい料理人であって、彼女は規則正しい日常の仕事の中で立ち働いていたのであるが、ダイナの場合は自己流の天才で、世間の天才と同様、まったく独断的で、強情で、突調子もなかった。
現代哲学のある派の人々のように、ダイナはいかなる形の論理と理性も完全に軽蔑して常に直観的確実性に訴えた。そしてこの点に関しては、彼女はまったく度し難い人物であった。技倆、権威、説明をいくらもってしても、彼女のとっている方法よりももっとよい方法がほかにあるのだということを、あるいは、どんな些細《ささい》な事柄にも人が辿《たど》る道には多少は変更の余地があるものだということを、彼女に信じ込ませることは不可能であった。この点は前の女主人、つまりマリーの母親も以前から認めていたところであったが、「ミス・マリー」も、ダイナは現在の女主人を結婚してから後も相変わらずそう呼んでいたが、言い争うより言うがままにさせておいたほうが楽だと思っていた。そういうわけでダイナは最高の支配権を握っていたのである。そしてこれは、彼女がきわめて卑屈な態度ときわめて頑強《がんきょう》な手段とを上手に結びつける例の外交官的手腕にかけてのまったくの達人であったところから、なおさらに容易なことであった。
ダイナは言い訳の点でも、あらゆる面にわたって、その技巧と秘法とをすっかり身につけた達人であった。じっさい、料理番は間違いをするはずがないというのが彼女にとっての金言であって、そのうえ、南部の家庭の台所で働く料理人には、自分が絶対に正しいと主張するための、どんな落度や欠点をも転嫁しうる他人の頭や肩をいくらでも見つけ出すことができたのである。仮にご馳走のうちのどれかが失敗したとしても、それには議論する余地のないりっぱな理由が五十もあった。つまりそれはきまって自分以外の五十人の仕業《しわざ》ということになって、ダイナはその連中を容赦なく叱りつけたのである。
しかし、仕事の結果においてはダイナのすることに失敗というようなものはほとんどなかった。何をするにも彼女のやり方は妙にとりとめがなく、まわりくどくて、時も所もまったくかわまず、――その台所たるや、まるでそこを台風が吹きぬけたのではないかと思えるようなありさまで、一年の日数《ひかず》と同じくらいのさまざまな場所に料理用具を取り散らかしてあった、――がしかし、彼女がいいと言うまでじっと辛抱して待っていれば、そのうち彼女の作ったご馳走がじつにみごとに、美食家でさえその欠点を見いだしえないほどの調理の仕方で出てくるのであった。
ところで今は、そろそろ食事の支度にとりかかるころあいであった。熟考と落書きが十分に必要で、何を支度するにもつとめて悠長にかまえる性質《たち》のダイナは、台所の床にどっかと腰を据え、短かいずんぐりしたパイプで煙草《たばこ》をふかしていた。彼女はパイプ煙草が大好物で、支度に何か名案が必要な時にはいつでも、香炉に火をつけるように、きまってこれに火をつけた。それはダイナが家事の守護神《ミュージズ》を招き寄せる時のいつものやり方なのである。
彼女の周囲には、南部の家庭に溢れるほどにいるあの新興民族のさまざまな連中が腰をおろして、豆の莢《さや》をとったり、馬鈴薯の皮をむいたり、雛鶏のうぶ毛をむしったり、その他いろいろと準備にとりかかっていた。――ダイナは時々|瞑想《めいそう》を中断しては、側においてあるこね棒で若い者たちの頭を突ついたり、叩いたりした。事実、ダイナは鉄の杖をもって若者たちのもじゃもじゃ頭を支配し、この連中がこの世に生まれてきた目的は、彼女の言葉を借りれば、「わしの足の代わりをする」ためなのだとでも考えている様子であった。これが、彼女の育ってきた制度の精神であって、この精神を彼女は十二分に貫徹していたのであった。
ミス・オフィーリアは、屋敷内の隅々《すみずみ》にまで及ぶ彼女の改革的巡察を終えて、この時、台所に入って来た。ダイナは、いろいろな筋から事件の模様を聞いていたので、あくまでも防禦的・保守的立場に立とうと決心し、――腹の中でも、実際の目につくような争いはしないまでも、新しいやり方にはことごとく反対し、無視してやろうと覚悟をきめていた。
台所は広い煉瓦《れんが》敷きの部屋で、片側には大きな昔風の炉がでんと構えていた。――セント・クレアはそれをもっと便利な近代的なストーブに取換えるよう、しきりにダイナにすすめたことがあったがそれは無駄であった。彼女は絶対にだめなのである。ピュ―ジィー主義者(オックスフォード運動の主唱者の一人E・B・ピュージィー[一八〇〇―八二]の説に共鳴する人々のこと)であろうと、いかなる派の保守主義者であろうと、ダイナほど、古くさい不便なものに頑強にしがみつくものはだれもいなかったのである。
セント・クレアが初めて北部に行った時、彼は伯父《おじ》の家の台所の整頓がじつに組織的に整然とできているのを見てすっかり感心して帰って来た。そしてダイナが整理をするにもずいぶん役立つだろうと、自分でもそれを楽しみにしながら、食器棚や引出しなどさまざまな道具を気前よくずらりと台所に備えてやって、彼女に組織的な整頓をさせようとした。だがそんなことをするくらいなら栗鼠《りす》や鵲《かささぎ》にでもしてやったほうがましであった。引出しや戸棚がふえればふえるほど彼女はそれだけよけいに、使い古しのぼろ布や櫛《くし》や古靴《ふるぐつ》やリボンや、一度棄てた造花や、その他とにかくダイナの心を楽しませるような骨董品をしまいこむための便利な隠し場所を作り出したからであった。
ミス・オフィーリアがこの台所に入って来た時、ダイナは腰も上げず、おそろしく落着いた様子で煙草をのみながら、相手の動きをじろりと横目で観察したが、上べは自分の周りにいる下働きの監督に余念がないといったふうを装っていた。
ミス・オフィーリアはかたっぱしから引出しを開けはじめた。
「この引出しは何に使うのです、ダイナ?」と彼女は言った。
「大概のものには調法いたします、奥さま」とダイナは言った。なるほどそうらしい。そこに突っ込んである雑多なものの中から、ミス・オフィーリアはまず、上等のダマスコ織りのテーブル・クロスを取り出した。が、それは血で汚れていて確かに生肉を包むのに使われていたはずであった。
「これはなんです、ダイナ? まさかおまえ、奥さまの一番上等のテーブル・クロスで肉を包むんではないでしょうね?」
「まあ奥さま、とんでもねえこって。タオルが一枚も見あたらなかったんで、――それでちょっとやったんでございますよ。洗おうと思っておいといたんで――それでそこに入ってますんです」
「まあ、だらしのない!」ミス・オフィーリアはそうつぶやきながら、引出しをひっくり返した。すると中から、ナツメグおろしが一つ、ナツメグの種が二、三個、メソディスト教会の讃美歌集が一冊、汚れたマドラス木綿《もめん》のハンカチが二枚、編みかけの毛糸が少々、煙草一袋にパイプ一本、クラッカーが二、三枚、ポマードを入れた金色の陶器の受け皿が一、二枚、ちびた古靴が一つ二つ、小さな白玉葱《しろたまねぎ》をいくつかくるんでしっかりとピンでとめたネルの包みが一個、ダマスコ織りのナプキンが数枚、地の粗《あら》い麻のタオルが数枚、より糸やかがり針が少々、それに破れた紙包みが二、三、その破れ目からはいろいろな香草《やくみ》が引出しの中にこぼれていた。
「ナツメグはいつもどこにしまっておくのです、ダイナ?」とミス・オフィーリアは一生懸命我慢している様子で言った。
「あちこちにでございますよ、奥さま。あそこのひびの入った茶碗《ちゃわん》の中にも入ってますし、向こうの食器棚の中にもいくらか入っております」
「この擦子《おろし》の中にもあると言うわけね」とミス・オフィーリアはそれをつまみあげながら言った。
「ええ、そうでございますよ、けさそこに入れたんでございますからね。――わたくしはなんでも手近なとこにおいておくのが好きなんでございます」とダイナは言った。「これ、ジェイク! 何をぐずぐずしているだ! ひどい目にあわしてやるぞ! ほれ、まだそんな所にいくさって!」彼女は、こつんとその男を杖で叩きながらつけ加えた。
「これはなんです?」ミス・オフィーリアはポマードを入れた受け皿をつまみあげながら言った。
「おや、それはわたくしの髪につける脂《ヽ》でございます。――すぐ出せるようにそこに入れといたんでございます」
「おまえはそんなものに奥さまの一番上等の受け皿を使うのですか?」
「おや! それはわたくしが仕事に追われて、たいへんいそがしかったからなんでございますよ。――きょうにも入れかえるつもりでおりましたんです」
「ダマスコ織りのナプキンが二枚もありますよ」
「そのナプキンはいつかきれいに洗おうと、そこに入れておいたのでございます」
「ここには、洗い物は洗い物で置いておく場所はないのですか?」
「いえ、セント・クレアさまがこれに入れておけと言ってあの箱を買って下さいました。でもあれはビスケットをこねたり、物をのせたりする時につごうがええもんですから、そうすると、今度はふたを上げるのがめんどうになるんでございますよ」
「なぜあの煉り台の上でビスケットをこねないのです?」
「おや、奥さま、あそこはお皿があれやこれやといっぱいになっちまって、空《あ》きなどなくなっちまうんでございますよ、少しもね――」
「でも、そのお皿は洗って、すぐに片づければいいでしょ」
「皿を洗えですと!」と怒りのためにふだんの言葉づかいを忘れかけたダイナは高調子の声で言った。「奥さまがたに仕事のことでいったい何がわかりますだ? わしがしょっちゅう皿を洗ったり、後かたづけをしていたら、いったい、旦那さまはいつお食事ができるんでございます? マリー奥さまはそんなお言いつけは一度もなさりませんでしたですよ、一度もね」
「そう、じゃあ、この玉葱は」
「ええ、そうですとも!」とダイナは言った。「わしが入れたからそこにそうやって入っているんでございます。ついうっかりしてしまったが、それはこのシチューに使おうととっておいた特別の玉葱なんでございます。ネルの中に入れておいたのを忘れてましたんです」
ミス・オフィーリアは香草《やくみ》がこぼれる紙包みを取り出した。
「わしは奥さまに手を触れてもらいたくねえです。自分の物は、それがどこにあるだかすぐわかる所にしまっておきてえですでな」とダイナはややきっぱりとした調子で言った。
「でも、こんなに穴があいていてはまずいでしょう」
「そのほうがふるい出すのにつごうがええです」
「だけど、ほら、引出しの中にいっぱいこぼれているではありませんか」
「ええ、そうですとも! 奥さまがそうやってなんでもかんでもひっくりかえしていれば、こぼれますですよ。おかげでもうずいぶんこぼれちまったですだ」と言いながらダイナは心配そうに引出しのところに近寄って行った。「わしの取かたづけの時が来るまで奥さまが上に行ってて下さりさえすりゃあ、何もかもきちんとしておきますですよ。だが奥さまがたが周りにいてじゃまばかりしていると、わしには何もできねえです。これ、サム、赤ん坊に砂糖鉢を渡すじゃねえよ! 気をつけねえと、おらがこつんとやるからな!」
「私は台所を隅まで調べて、一度全部きちんとしてみます、ダイナ。で、あとはおまえにそのとおりにしておいてもらいますからね」
「とんでもない! ミス・フィーリア。そんなことは奥さまがたのすることじゃごぜえません。わしはこれまで奥さまがたがそんなことをするのを見たことがねえ。大奥さまも、マリー奥さまもしたことはごぜえません。そんな必要などちっともごぜえませんですよ」そう言ってダイナは憤慨した様子でその辺を歩きまわった。一方ミス・オフィーリアは、皿を積み重ねたり撰り分けたり、あちこちに散らばっている何十という鉢から砂糖を一つの容器にまとめたり、ナプキンやテーブル・クロスや、タオルを洗濯《せんたく》のために撰り分けたりした。洗うことも、拭くことも、並べることもみんな自分でやって、しかもそれが速くててきぱきとしているのを見て、ダイナはすっかり驚いてしまった。
「こりゃあ、まあ! あれが北部の奥さんがたのやり方だとしたら、あの人たちは奥さまじゃあねえ、ほんとうによ」とダイナはオフィーリアの耳の届かないところで、下働きの者たちに言った。「おらだって取かたづけの時が来れば、だれにも負けねえくらいなんでもきちんとやっているだ。だが奥さまがたが周りにいてじゃまをしたり、おらのものをおらがわからねえような所に持っていかれたりするのはごめんだ」
公平な見方をすれば、ダイナにも不規則な周期ではあったが発作的に改良と整頓を思い立つ時があった。彼女はそれを「取片付けの時期」と呼んでいたが、この時が来ると、彼女はしごく熱心に活動を始め、引出しや戸棚の中のものを床やテーブルの上にみんなひっくりかえして、それでなくともごたごたしているふだんの混乱を七倍にもごたつかせるのであった。それから彼女は、パイプに火をつけ、おもむろに整理の下検分を行ない、取り出したものを一つ一つ吟味したり、その品について講釈をしたりするのである。そして下働きの連中を一人残らず錫《すず》磨きの仕事にあたらせ、しばらくの間、おそろしく活気に満ちた混乱状態にさせておくのである。そしてこの光景をいぶかる者があると、彼女はきまって今「取片付け」(原文の Clarin' up には「きれいに磨き上げる」の意味がある)の最中だといって納得《なっとく》させるのであった。そして「おらあ物事をこんなふうにだらしなくしておくことは嫌《きれ》えだ。だからこの若い者たちにもっときちんとさせるようにしているだ」などと言っていたが、それはどうも、ダイナ自身、自分は秩序の権化《ごんげ》なのだがこの点で完全の域に達しないのはみんな若いやつらやこの屋敷の他の連中のせいなのだと、一人合点しているためのようであった。だから錫の食器がすっかり磨かれ、テーブルが雪のように白く擦られ、目ざわりなものがみんな穴や片隅の人目につかぬ所へ押し込められてしまうと、ダイナは小ざっぱりとした服を着こんで、洗いたてのエプロンを掛け、丈の高いみごとなマドラス木綿のターバンを巻いて現われ、この侵略的「若いやつら」に向かって、ここのものは何もかもきちんとしておくんだからみんな台所から出て行ってくれなどと言うのであった。じっさいこの周期的な発作は屋敷じゅうの者にとってしばしば不都合なことであった。というのは、ダイナはその磨き上げられた錫の食器になみなみならぬ愛着をおぼえて、たとえどんな目的にもせよ、――少なくとも「取かたづけの時期」の情熱がさめるまでは、けっして使ってはならぬと言ってきかなかったからである。
ミス・オフィーリアは、数日のうちに、屋敷じゅうのあらゆる部門をすっかり改革して組織的なものにした。しかし、召使いたちの協力に依存する部門での彼女の努力は、シーシュポス(ギリシア神話に出てくるコリントスの王。死後地獄に堕《おと》され、刑罰として岩を山頂まで押し上げる仕事を科せられたが、岩はいま一息のところで転げ落ち、未来永劫同じ仕事に従事しているといわれる)やダナオスたち(ギリシア神話に出てくるダナオスの五十人の娘。そのうちの四十九人は死後地獄に堕され、刑罰として底のない器で水を汲むことを命ぜられ、未来永劫同じ仕事に従事しているといわれる)の努力にも等しかった。失望した彼女は、ある日セント・クレアに訴えた。
「この家では秩序らしいものをもつなんてとうていできないことね!」
「まったく、できませんね」とセント・クレアは言った。
「こんなだらしのない管理の仕方、こんな不経済なやり方、こんな乱雑ぶりなんて、私、見たことがありません!」
「おそらくないでしょうね」
「あなたが主婦でしたら、そんなに落着いてなんかいられませんよ」
「従姉《ねえ》さん、あなたも一度はこのことを知っておいて下さってよいと思うのですがね、つまり、われわれ主人というものは二つに組分けされるんですよ、圧制者と被圧制者とにね。人がよくって、厳格なことの嫌いなわれわれはずいぶんと不便を覚悟しなければならないのです。もしわれわれが、われわれの便利のために、このひょろひょろ歩きのだらしのない無教育な連中をわれわれの社会の中に入れておきたいと思うなら、当然、その結果を甘受しなければならないのです。ある特殊な才能で、厳格にしないでも秩序や規律を作りあげてゆけるような人々を時たま見かけますが、私はそういった人間ではないのです。――それで私は、ずっと以前から、何事もなるがままに任せようと決心しました。私は、あのかわいそうなやつらを鞭で打ったり切りさいなんだりするような酷い目にはあわせたくないのです。そしてやつらはそのことを知っているんです。――そして、もちろんやつらは実権が自分たちの手の中にあることを承知しているんです」
「でも時間もない、場所もない、秩序もない、――何もかもがこんなだらしのないやり方で運ばれてゆくなんて!」
「ヴァーモントの従姉《ねえ》さん、あなたがたのように北極近くで生まれた人たちは、とほうもなく時間を尊重するんですよ! しかし、現在の半分の時間でももてあましているような者にとって、いったい時間がなんの役に立つんです? 秩序とか規律とかと言いますが、ソファに横たわって、本でも読む以外に仕事がないようなところでは、朝食や夕食が一時間早くなろうと遅くなろうと大した問題ではないじゃありませんか。で、ダイナにしたところで、彼女《あれ》はすばらしい料理を作ってくれますよ。――スープにしろ、ラグー(シチューの一種)にしろ、雛鶏の丸焼きにしろ、デザートにしろ、さまざまなアイスクリームにしろ、何もかもね、――しかも彼女《あれ》はそれをみんなあの台所の中の混沌と大古の闇《やみ》の中から創《つく》り出すんですからね。私はじつにみごとだと思うのです。彼女《あれ》のやり方はね。ところが、どうです! もしわれわれがあそこへ行って、煙草を吸ったりそこいら辺にしゃがみこんだりしている姿や、準備中のあの騒ぎなどを見たら、もう食べる気はしなくなりますからね! 従姉《ねえ》さん、こういうことからは手をお引きなさい! それはカトリック教徒の苦行よりもたいへんなことで、そのうえ、なんのご利益《りやく》もないんですから。ご自身、機嫌を損ねて、ダイナをすっかりまごつかせるだけですよ。彼女《あれ》の好きなようにやらせておあげなさい」
「でも、オーガスティン、あなたにはどんなぐあいだかわからないのです」
「私にはわからないですって? めん棒が彼女《あれ》の寝台の下にあったり、ナツメグ擦子《おろし》が煙草と一緒に彼女《あれ》のポケットに入っていたりすることや、――六十五もさまざまな砂糖鉢があって、屋敷じゅうの穴という穴にそれが一つずつ隠してあることや、――今日は正餐用《せいさんよう》のナプキンで皿を洗ったかと思うと、明日は古い下着の切れはしで洗うということを、私が知らないとでも言うんですか? しかし要するにですよ、彼女《あれ》はすばらしいご馳走を作り、すてきなコーヒーを入れてくれるのです。ですから、彼女《あれ》を評価するにも、軍人や政治家を評価する時と同じように、その成果によらねばいけませんよ」
「でもあの無駄遣い、――あの経費《かかり》ときたら!」
「ああ、そうですか! それじゃあ錠前のかかるものには全部錠をかけて、その鍵をしまっておおきなさい。そして少しずつ出してやって、つまらぬことはけっしてきかないことです――きくのはよくありませんからね」
「それでは困ります、オーガスティン。私、ここの召使いがあまり正直でないような気がしてならないのです。ほんとうにあの人たちは信頼できますかしら?」
オーガスティンは、ミス・オフィーリアがこの問題を提出した時のその深刻で心配そうな顔つきを見て、無遠慮に笑った。
「いやあ、従姉《ねえ》さん、こいつは傑作だ。――正直だなんて! なんだかそんなものが期待できそうな口振りじゃありませんか! 正直!――そりゃあ、もちろん、連中は正直なんかじゃありませんよ。なぜ正直でなくてはいけないんです? いったい何があの連中を正直にさせるんです?」
「教育したらいいでしょう?」
「教育ですって! いやあ、とんでもない! 私にどんな教育をしろとおっしゃるんです? とんでもありませんよ! マリーなら、私が任せさえすれば、きっと、全農園を絶滅させるほどの意気ごみでやるでしょうがね。それでも連中の狡《ずる》さは矯正《きょうせい》することができないでしょうね」
「それじゃあ正直な人は一人もいないのですか?」
「そうですね、時たま一人ぐらいはいますね。造化の神が初めから、おそろしく単純で誠実で忠実なものに造ってしまうので、どんな悪い影響をもっていってもびくともしないようなのがね。しかし、ご承知のように、黒人の子供は母親の胸に抱かれているころから、自分に開かれている道は不正なものしかないということを、からだで感じたり実際に目で見たりしているのです。両親《ふたおや》に対しても、奥さまに対しても、遊び相手のお坊っちゃまやお嬢さまに対しても、そうする以外の道はないのです。狡猾《こうかつ》や欺瞞《ぎまん》が、必要な避け難い習癖となるのです。ですからそういう者に不平以外のことを期待するのは間違いですよ。そんなことで罰すべきではないのです。正直とかいっても、奴隷は一人立のできない、なかば子供のような状態にあるのですから、所有権というものを悟らせたり、あるいは主人の物は、たとえそれを自分で手に入れることができても、自分の物ではないのだということを意識させることは不可能なのです。私としては、連中が正直になりうるのが不思議なくらいです。うちのトムのような男は、――ですから道徳的奇蹟なんですよ!」
「それではあの人たちの霊魂《たましい》はどうなるのです?」とミス・オフィーリアは言った。
「それは私の知ったことじゃありませんね」とセント・クレアは言った。「私は現世の事実について言っているだけなんですから。なにしろ、あの世ではどうなろうと、この世では、われわれの利益のために、あんな種族はみんな悪魔に渡してしまったほうがいいと考えている人々がじっさいかなり多くいるんですからね!」
「まあなんて恐ろしいことなんでしょう!」とミス・オフィーリアは言った。「あなたがたはよく恥ずかしくありませんね!」
「さあどうでしょうかね。そうは言ってもわれわれはたいへんりっぱな人々の仲間入りをしているんですよ」とセント・クレアは言った。「ちょうど大通りを歩いている皆さんたちと同じようにね。世界じゅうの上流階級と下層階級とを見てごらんなさい。まったく同じ話ですよ。――下層階級は、肉体も霊魂も精神も上流階級のために使い尽くしてきたのです。イギリスにおいてもそうです。どこの国だってそうなのです。それなのに、われわれのやり方が彼らのやり方といくぶん違っているという理由で、全キリスト教国はわれわれをけしからんといって呆れかえっているのです」
「でもヴァーモントでは違いますよ」
「ええ、そりゃあ、ニュー・イングランドや自由州では、あなたがたのほうがわれわれよりすぐれていることを私も認めますよ。しかし、ベルが鳴ってますから、従姉《ねえ》さん、しばらくわれわれの地方的な偏見はお預けにして、昼食に参りましょう」
ミス・オフィーリアがその日の午後おそく台所にいると、黒人の子供たちが大声で呼んだ。「見ろ! プルーが来るぞ、いつものようにぶつぶつ言ってる」
背の高いやせた黒人の女が、ラスクやロールパンを入れた籠を頭にのせて、その時台所に入って来た。
「おや、プルー! 来ただか」とダイナは言った。
プルーは妙なしかめ面をして、陰鬱《いんうつ》な呻《うな》るような声をしていた。彼女は籠をおろすと、その場にしゃがみこんで、両肘《りょうひじ》を膝にのせて言った。
「おお神さま! おらあ死んでしまいてえ!」
「なぜ死にたいだなんて言うのです?」とミス・オフィーリアが言った。
「おらあ、この苦しみから逃げ出してえだ」と女は目を床からあげようともせず、不愛想に言った。
「じゃあ、どうして酔っぱらったり、騒ぎを起こしたりするんだい、プルー?」とめかしこんだ|四分の一混血《クォドルーン》の小間使いが珊瑚《さんご》の耳飾りを揺さぶりながら言った。
女は気むずかしい、不快そうな目つきでちらりとその小間使いを見た。
「たぶんおまえだってこうなるだ、いずれそのうちにはな。その時のおまえが見てえもんだ、ほんとによ。そうなりゃ、おまえだっておらと同じように一杯飲んでその苦しみを忘れてえと思うだろうさ」
「まあ、プルー」とダイナは言った。「おまえさんのラスクを見せてごらん。この奥さまが払って下さるだからな」
ミス・オフィーリアはラスクを二ダースほど取り出した。
「一番上の、あの古いひびの入った甕《かめ》の中に切符があるだから」とダイナが言った。「ジェイク、おまえのぼって、あれをおろしておくれ」
「切符って、――なんのためにそんなものがいるのです?」とミス・オフィーリアが言った。
「うちではこの女《ひと》の旦那さまから切符を買っておくんでございます。すると、それと引換えにこの女《ひと》がパンを置いていくんでございますよ」
「おらが家に帰ると、あいつらはお金と切符を数えて、おらが釣銭をもっているかどうか調べるだ。そして持っていねえと、おらを半殺しの目にあわせるだ」
「あたりまえだよ」と例の生意気な小間使いのジェインが言った。「旦那さまのお金を飲みしろにしちまうんだものね。この女《ひと》はいつもそうなんでございますよ、奥さま」
「おらあ、これからだってそうするさ。――そうでもしなけりゃ、生きてゆかれねえもの、――酒でもくらって、この苦しみを忘れなくっちゃあ」
「それはほんとうにいけない、ばかなことですよ」とミス・オフィーリアは言った。「ご主人のお金を盗んで、自分を人でなしにするなんていうことはね」
「そりゃあ、そうだろうが、奥さま。でもおらあそうするだ、――ああ、するだとも。おお神さま! おらあ死んでしまいてえ、ほんとに、――死んじまって、この苦しみから逃げ出してえだ!」そう言いながら老婆は、そろそろとぎごちなく腰をあげて、ふたたび籠を頭にのせた。しかし出てゆく前に、彼女は、耳飾りをいじりながらまだそこに立っていた例の|四分の一混血娘《クォドルーン》に目をむけた。
「おまえはそんなものをぶら下げて大そうな美人だと思っているんじゃろ、浮かれまわったり、お高くとまったり、みんなを見くだしたりしての。まあ、それもええ、――おまえもそのうち、おらのように哀れな老いぼれた惨めな女になるかもしれんでのう。そうなるように神さまに祈ってやる、きっとな。そしておまえが酒を飲んで、――飲んで、――飲んで、地獄に堕ちんかどうか見ていてやるでな。そうなってもあたりめえだもんな、――ふん!」と憎々し気に喚きながら、女は部屋から出ていった。
「いまいましい老いぼれめ!」と主人の鬚《ひげ》そり用の水をとりに来ていたアドルフが言った。「おれがあいつの主人だったら、もっとこっぴどくやっつけてやるんだがな」
「おまえさんにゃできっこねえよ、とても」とダイナが言った。「あの女《ひと》の背中は、もう二目と見られねえような傷でな――痛くてろくに着物も着られねえほどになっているだ」
「あんな卑しいやつらは上流家庭に出入りさせるべきじゃないと思うわ、私」とジェインは言った。「あんたどう思う、セント・クレアさん?」と媚《こ》びるようにアドルフのほうに振り向きながら言った。
ここで注意すべきことは、アドルフは主人の物をかってにあれこれと使っているうちに、ついに主人の名前や住所までも使うようになっていて、ニュー・オーリアンズの黒人仲間では、彼はセント・クレア氏という肩書で通っていたのである。
「まったく同感だね、ブノワールさん」とアドルフは言った。
ブノワールというのはマリー・セント・クレアの実家の姓であって、ジェインはそこの召使いの一人であった。
「ところで、ブノワールさん、失礼だけれどその耳飾りは明日の晩の舞踊会につけていくのですかね? じつに魅惑的ですな!」
「まあセント・クレアさん、あなたがた殿方はなんて厚かましいんでしょう!」と言いながらジェインがつんとすました顔をすると、例の耳飾りがまたきらりと光った。「これ以上お尋ねになると、私、一晩じゅうあなたとは踊りませんことよ」
「おや、そんなつれないことを言うもんじゃありませんよ! ぼくは君がピンクの舞踏服《ターラタン》を着て来るかどうか知りたくてむずむずしているんですからね」とアドルフは言った。
「どうしたの?」とこの時、階段を跳ねるようにしておりて来たロゥザという快活でおつな感じの小柄な|四分の一混血女《クォドルーン》が言った。
「だって、セント・クレアさんたらほんとうに厚かましいのよ!」
「ぼくの面目にかけて」とアドルフは言った。「ぼくが厚かましいか、厚かましくないか、ロゥザさんに任せよう」
「その人はいつだって、ずうずうしいのよ」とロゥザは片方の足でからだを支え、意地悪そうにアドルフを見ながら言った。「いつだって私を怒らせるようなことをするんですもの」
「おお! ご婦人がた、ご婦人がた、あなたがたは二人していつかぼくのこの胸をきっと引き裂いてしまうでしょう」とアドルフは言った。「いつかぼくの死体が、朝、ベッドの中で見つかるでしょう。その原因はあなたがたにあるのですよ」
「まあなんて憎たらしい口のききようなんでしょ!」と二人の婦人は無遠慮に笑いながら言った。
「さあ、さあ、――出ていっておくれ、おまえたち! 台所をごたつかされちゃあたまらんでな」とダイナが言った。「じゃまだじゃまだ、こんな所でぶらぶらしくさって」
「アント・ダイナは舞踏会に行けないものだから、それで機嫌が悪いのよ」とロゥザが言った。
「おらあ色の白っぽいやつらの舞踏会なんぞ、少しも行きたかあねえ」とダイナは言った。「自分たちまで白人だと思い込んで、これ見よがしに飛びまわるような舞踏会なんぞにはな。だれがなんと言ったって、おまえたちは黒ん坊さ、おらと同じようにな」
「アント・ダイナは自分の縮れ毛に毎日油を塗りつけて、まっすぐにしようとしているのよ」とジェインが言った。
「でも、縮れ毛はやはり縮れ毛ね、だれがなんと言ったって」と言いながらロゥザは自分の長い絹のような巻毛を意地悪そうに揺さぶってみせた。
「だが、神さまの目には、縮れ毛だって普通の毛だっていつも同じように見えねえだか?」とダイナは言った。「おらの奥さまに、どっちが値打ちがあるか言ってもらいてえ、――おまえたち二人とこのわし一人とでよ。さあ出て行くだ、このろくでなし。――こんな所にうろうろしているでねえっ!」
ここでこの会話は二重に遮られた。アドルフに向かっておまえは鬚そりの水をとって来るのに一晩じゅうかかるのか、というセント・クレアの声が階段の上から聞こえてきたことと、ミス・オフィーリアが、食堂から出てきて、こう言ったからである。
「ジェインにロゥザ、あなたたちはこんな所で何をぐずぐずしているのです? さあ行って、モスリンの手入れでもしなさい」
われわれの友人トムは、さいぜんから台所にいてラスク売りの老婆との話を聞いてたのであったが、老婆が出て行くとそのあとを追って通りへ出て行った。老婆は時々抑えきれぬような呻き声をあげながら、歩いていった。やがてある家の戸口まで来るとそこに籠をおろして、肩にかけていた古い色あせたショールを直しはじめた。
「しばらく籠を持ってあげよう」とトムは憐れむように言った。
「なぜだね?」と女は言った。「おらあ、助けなぞほしくねえよ」
「あんたは病気のようだ、それとも心配ごとか何かある様子だが」とトムは言った。
「おらあ病気なんかじゃあねえ」と女はぶっきら棒に言った。
「わしはな」とトムはしんけんな眼差《まなざ》しで彼女を見つめながら言った。――「わしはなんとかしてあんたに酒をやめさせてえと思っているだ。酒なんか飲んでいると、いまに肉体《からだ》も霊魂《たましい》もすっかりだめにしてしまうということがわからねえだか?」
「おらあどうせ地獄に堕ちるだ」と女は不機嫌に言った。「そんなこたあおまえさんに言われなくてもわかっているだ。おらあ厄介者《やっかいもの》で、――性悪《しょうわる》の女で――まっすぐ地獄に堕ちるだ。おお、神さま! おらあ地獄に行きてえ!」
トムは、不機嫌なしかし感動的なしんけんさで語られたこの恐ろしい言葉を聞いて、身を震わせた。
「おお、神さま、この女《ひと》にお恵みをお授け下せえ! かわいそうにな。あんた、イエス・キリストのことを聞いたことはないのか?」
「イエス・キリスト――だれだねそれは?」
「そりゃあ、神さまのことさ」とトムは言った。
「神さまのことは、おらも聞いたことがあるような気がする。それに審判だとか、地獄だとかもよ。そのこたあ、おらも聞いたことがある」
「だが、わしら哀れな罪びとを愛して下さり、わしらのために死んで下さったイエスさまのことをだれか話してはくれなかったのかね?」
「そんなこたあ何も知らねえ」と女は言った。「爺《じい》さんが死んでからというものは、だれもおらを愛してくれる者なんかいやぁしねえもの」
「あんたはどこで育ったんだね?」とトムは言った。
「ケンタック(ケンタッキー州のこと)さ。おらの旦那というのはおらに、市場へ売るための子供を産ませて、その子が大きくなるとすぐに売りとばしていただ。そして最後におらを仲買人に売って、それで今の旦那がその男からおらを買いとっただ」
「なぜ酒なんぞという悪い癖をおぼえたのかね?」
「苦しみを忘れてえからよ。おらあここへ来てから子供を一人産んだだ。そして今の旦那は仲買じゃねえから、おらあこの子は自分で育てさせてもらえると思っただ。そりゃあもう元気いっぱいの可愛い子でのう! 奥さまも初めのうちはこの子を大事にしてくれるようだった。少しも泣かねえし、――末頼もしい、よく肥えた子だったでのう。だがある時、奥さまが病気になって、おらが看病することになっただ。するとその熱病がおらにうつって、乳がすっかり出なくなってしまった。それで、子供は骨と皮ばかりになっちまったが、奥さまはどうしてもミルクを買っては下さらねえ。おらの乳が出なくなったといっても、耳をかそうともしねえ。そして他の者が食べるような物で赤ん坊は育てられるはずだと言うだ。だもんだから子供はどんどん痩せてしまって、昼も夜も泣いて、泣いて、泣いて、とうとうほんとうに骨と皮ばかりになっちまった。奥さまは怒って、泣くのは子供が気むずかり屋だからだと言うだ。いっそ死んじまえばいい、そう言うただ。そして夜になっても、おらに子供を抱かせちゃくれねえ。おらが夜通し起きていて、昼間、使いものにならなくなるちゅうてよ。で、おらを奥さまの部屋で寝かせるもんで、おらあ子供を小さな屋根裏部屋のようなところに置いておかにゃあならなかっただ。それで子供は、ある晩、そこで泣き死にしちまっただよ。ほんとうに死んじまっただ、それからおらあ酒を飲むようになった、おらの耳にあの子の泣き声が入ってこねえようにな!おらあ飲んだだ、――そしてこれからだって飲むだ! そのために地獄へ堕ちたって、おらあ飲んでやるだ! 旦那は、おらがいまに地獄へ堕ちると言った。だから、おらあ、もう堕ちちまっているだ、と言ってやった!」
「おお、かわいそうに!」とトムは言った。「イエスさまがどんなにあんたを愛し、あんたのために死んで下さったか、だれも話してはくれなかったのかね? あんたもいつかはあのおかたに救われて、やがて天国に行って、休むことができるということを、だれも話してはくれなかったのかね?」
「なんだかおらが天国に行きそうな話だが」と女は言った。「そこは白人の行く所じゃねえだか? そこでまた白人に使われたらどうするだ? それよりか地獄に堕ちて、旦那や奥さまから逃れたほうがましだ。おらあ、そのほうがええ」そう言うと、彼女は例の呻き声をあげながら、頭の上に籠をのせ、不機嫌そうに歩み去っていった。
トムは向きなおり、悲しげな足どりで家に戻って来た。中庭まで来ると、彼はそこで小さなエヴァに出会った。――頭にはオランダ水仙の花環《はなわ》をのせ、目は喜びに輝いていた。
「まあ、トム! こんな所にいたの。会えてよかったわ。パパがね、トムに小馬を出してもらって、あたしの新しい小さな馬車につないで乗せてもらってもいいっておっしゃったのよ」と彼女はトムの手をとりながら言った。「でも、どうしたの、トム?――そんなしんけんな顔をして」
「気分が悪いのでごぜえます、お嬢さま」とトムは悲しそうに言った。「でも馬を出してまいりましょう」
「でも、どうしたのよ、トム、話してちょうだい。あたし、おまえがあの気むずかし屋のプルー婆やと話しているのを見てたのよ」
トムは飾り気のない、しんけんな言葉で、エヴァに女の身の上を話して聞かせた。エヴァは他の子供たちのように、大声を出したり、驚いたり、泣いたりはしなかった。彼女の頬は青ざめ、ただならぬ、深い蔭がその目をよぎった。彼女は両手を胸にあてて、深いため息を洩らした。
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第十九章 続、ミス・オフィーリアの経験と意見
「トム、馬はもう出してくれなくてもいいわ。あたし行きたくないから」と彼女は言った。
「なぜでございます、お嬢さま?」
「今の話が心にしみこんだのよ、トム」とエヴァは言った。――「あたしの心にしみこんだのよ」と彼女はしんけんな様子でくりかえした。「だからあたし、行きたくないの」そう言うと、彼女はくるりとトムに背を向けて、家の中へ入っていった。
数日すると、プルー婆やの代わりに、別の女がラスクを持ってやって来た。ミス・オフィーリアは台所にいた。
「おや!」とダイナが言った。「プルーはどうしただ?」
「プルーはもう来ねえよ」とその女はいわくありげな口ぶりで言った。
「どうしてだ?」とダイナは言った。「死んだわけでもあるめえに?」
「わしら、よくわかんねえけんど、あの女《ひと》、地下室にいるだよ」と女は、ちらりとミス・オフィーリアの方を見ながら言った。
ミス・オフィーリアがラスクを取り終わると、ダイナはその女について戸口の所まで出て行った。
「いったいプルーはどうしただ?」と彼女は言った。
女は話したいような、また話したくないような様子であったが、やがて低い秘密らしい口調で答えた。
「じゃ、だれにもしゃべるでねえよ。プルーはな、また酔っぱらっただよ、――それで地下室に入れられちまっただ、――そして一日じゅうそこに放り込まれていただ、そんで、なんでもあの女に蠅がたかっていたちゅう話しだよ、――死んじまっただね!」
ダイナは両手を上げた。そして振り返った時、自分のすぐ近くに精霊のような姿をして立っているエヴァンジェリーンを見た。その大きい神秘的な目は恐怖のためにひろがり、唇《くちびる》と頬からはすっかり血の気が失せていた。
「まあたいへん! お嬢さまが気絶なさる! なんちゅうこった、お嬢さまにこんな話を聞かせちまうなんて? お父さまがえらく腹をお立てなさるぞ」
「あたし、気絶などしないわ、ダイナ」と子供はしっかりした声で言った。「どうしてその話をあたしが聞いてはいけないの? そんな目にあったプルーのことを思えば、あたしがそれを聞くぐらいのことはなんでもないわ」
「まあ! これはお嬢さまのような優しい、感じやすいお心のお嬢さんがたが耳にすることではごぜえません、――こういう話ちゅうものはの。そんなものを聞いたら死んでおしまいになりますだよ!」
エヴァは再びため息をついて、そろそろと、物思いに沈んだ足取りで二階へ上がって行った。
ミス・オフィーリアは心配そうにその女の話を尋ねた。ダイナは今聞いた話に尾鰭《おひれ》をつけて話した。そしてトムは、あの日、本人から聞き出した詳しい身の上話をそれに付け加えた。
「憎むべき仕業だわ、――なんという恐ろしいことでしょう!」と叫びながら彼女は、セント・クレアが寝そべって新聞を読んでいる部屋へと入って行った。
「おや、今度はどんな不正が起こったんです?」と彼は言った。
「今度はどんな不正がですって? ねえ、あそこの家ではプルーを鞭で殴り殺してしまったのですよ!」とミス・オフィーリアは言って、熱心に事件の詳細を話し出したが、最も恐ろしい部分は特に詳しく語った。
「いつかはこうなるだろうと思っていましたよ」とセント・クレアは言って、相変わらず新聞を読んでいた。
「こうなるだろうと思っていたですって!――あなたには、これに対して何かしようというおつもりはないのですか?」とミス・オフィーリアは言った。「こんな問題に干渉したり、監督したりするような都市行政委員とかなんとかいう人はいないのですか?」
「こういう事件の際には、自分の財産に対する権利が自分をちゃんと守ってくれるのだというふうに、世間一般には考えられているのです。ですから、人が自分で自分の所有物を破壊しようと決めたならば、われわれにはどうすることもできないのです。それに、あの哀れな女は盗人で飲んだくれのようでしょう。ですから、同情を喚《よ》ぼうにもあまり期待はできないでしょうね」
「まあ、言語道断ですわ、――恐ろしいことですわ、オーガスティン! 今にきっと罰が当たりますよ」
「従姉《ねえ》さん。やったのは私じゃありませんよ、それに私にはどうしようもないのです。できるものなら、私もするんですがね。心の卑しい、残忍な連中が、彼ら自身のような卑しい残忍なやり方をする以上、私にいったい何ができるというのです? 彼らは絶対の支配力をもっているんです。だれからも責任を問われない暴君なのです。干渉したって無駄なんですよ。こういった事件に実際に役立つような法律は何もないのですからね。われわれにできる最上のことは、自分の目と耳をふさいで、うっちゃっておくことです。それがわれわれに残された唯一の方策なのです」
「どうしてあなたに目や耳が閉じておけます?どうしてそんな事がうっちゃっておけます?」
「おやおや、それじゃ、どうしろとおっしゃるんです? ここには一つの階級全体が、――下劣で、無教育で、怠け者で、じつにじれったい連中が、――世界の過半数を牛耳《ぎゅうじ》っているような人々の手に、なんらの規定も条件もなしにまったく委ねられているのですよ。思慮もなければ自制心もない、自分たち自身の利害に対してさえも文明人らしい配慮をもたぬ人々の手にね。――これが人類の過半数を占める人々なんですよ。ですから、こんな組織の社会の中で、たとえ高貴な、慈悲深い心をもっていたとしても、その人に何ができるというのです、ただじっと目をつぶって、心を無感覚にする以外にしようがないじゃありませんか? 私だって、目につく哀れな人たちを片っぱしから買いとってやるわけにはいきませんからね。義侠家になって、この町の中のあらゆる不正を矯正するわけにはいきませんよ。私にできることといえば、せいぜいそうしたことに近づかないようにすることだけですね」
セント・クレアの晴れやかな顔が一瞬の間くもった。何か困惑しているようであったが、すぐにまた快活な微笑を取り戻すと、彼は言った。
「さあ、従姉《ねえ》さん、そんな所につったっていないで、まるで運命の女神みたいな顔つきじゃありませんか。あなたはまだ、カーテンの隙間からちょっとのぞいて見ただけなんですよ、――いろいろな形で、世界じゅうどこででも行なわれている実例の一つをね。もしわれわれが人生の暗黒面を隅々まで詮索したり探ったりしていたら、何もかもうんざりしてしまいますよ。ちょうどダイナの台所を隅々まで念入りに調べるのと同じようにね」セント・クレアは再びソファにもたれて、一心に新聞を読みはじめた。
ミス・オフィーリアは腰をおろすと、編物を取り出し、憤然とした様子で腰を据えた。そしてせっせと編みはじめたが、じっと考えているうちに怒りの炎は烈しく燃え上がった。そして彼女はついに口をきった。――
「ねえ、オーガスティン、たとえあなたにできても、私にはそんなふうにしてすますことはできません。あなたがそういう制度を弁護なさるなんてまったく憎むべきことです。――これが私の正直な意見です!」
「今度はなんの話です?」とセント・クレアは顔を上げて言った。「ああ、またそのことですか?」
「あなたがこういう制度を弁護するなんてまったく憎むべきことだと言っているのです!」とミス・オフィーリアは更に興奮して言った。
「私が弁護しているですって、従姉《ねえ》さん? 私が弁護しているなんて、いったいだれが言いました?」とセント・クレアは言った。
「もちろん、あなたは弁護してます、――あなたがたはみんな、――南部の人たちはみんなそうです。もしそうでないなら、あなたがたはなんのために奴隷など所有しているのです?」
「あなたは、この世の中の人はみな自分で正しくないと思ったことは絶対にしない、なぞと考えるほどのお人よしなんですか? あなたは、自分で正しくないと思ったことは絶対にしませんか、したことはありませんでしたか?」
「もししていたら、私、悔い改めたいと思います」とミス・オフィーリアはけんめいに針を動かしながら言った。
「私だってそうですよ」とセント・クレアはオレンジの皮をむきながら言った。「私はいつも悔い改めているのです」
「ではどうしていつまでも悔い改めてばかりいるのです?」
「ではあなたは、一度悔い改めたらあとは絶対に同じ過ちをくりかえしませんでしたか、従姉《ねえ》さん?」
「そりゃあ、誘惑があまり強い時はしかたありません」とミス・オフィーリアは言った。
「そう、私の誘惑も非常に強いのです」とセント・クレアは言った。「それが私の悩みなんですよ」
「でも私は、もう誘惑されまいといつも決心します。そうしてきっぱりやめようと努めます」
「そりゃあ、私だってこの十年間、途中、断続はしましたが、決心してきましたよ」とセント・クレアは言った。「でも、どういうものか、脱け切れないのです。あなたはご自分の罪から脱け切れましたか、従姉《ねえ》さん?」
「ねえ、オーガスティン」とミス・オフィーリアはしんけんな顔つきで、編物を下に置くと言った。「私はいろいろと欠点のある人間です。ですからそれをあなたに責められてもしかたがないと思います。あなたの言うことはみんなほんとうだわ。そのことは私自身、人一倍つよく感じています。でも、結局、私とあなたとの間には何か相違があるように思えるのです。私には、私が自分で間違っていると考えたことを毎日毎日続けていくくらいなら、むしろこの右手を切り落としてしまったほうがましだと思えるのです。そのくせ、私の行ないは自分の言葉とたいへん矛盾しているのですから、あなたが責めるのも不思議はありません」
「まあ、従姉《ねえ》さん」とオーガスティンは言って床の上にすわると、彼女の膝に仰むけに頭をもたせかけた。「そんなに深刻な顔をなさらないで下さい! 私がいつもどんなにろくでなしの、生意気な子供だったか、あなたはご存知のはずです。私はあなたをからかうのが好きなんですよ、――ただそれだけのことなんです、――あなたがむきになるのが見たいんでね。私は、あなたというかたは他人《ひと》が絶望するほどに、他人《ひと》が苦しみ悩むほどにすごく善良な人だと思っています。それを考えると私は死ぬほどうんざりするんですよ」
「でも、あなた、これはまじめな問題なのですよ、オーガスト」とミス・オフィーリアは彼の額に手をのせて言った。
「陰鬱なほどまじめなことです」と彼は言った。「だから私は――いや、私は暑い日などにまじめな話なぞしたくありませんね。蚊やら何やらに悩まされながらでは、人はきわめて崇高な道徳的高揚にまで達することは不可能ですからね。で、私が思うには」と言いながらセント・クレアは不意に身をおこした。「そうだ、これは一理ある! これで私もやっとわかりましたよ、どうして北部の人たちのほうがいつも南部のわれわれよりもはるかに道徳的であるかがね。――これですっかり掴《つか》めましたよ」
「まあ、オーガストったら、そんなつまらない冗談なんか言って!」
「そうですか? まあ、そうかもしれませんね。しかし今度こそまじめになりましょう。ですが、そのオレンジの籠をとって下さい――ね、そうでしょう、私がこういう努力をするからには、あなたは『乾葡萄《ほしぶどう》をもてわが力をおぎなえ林檎《りんご》をもて我に力をつけ』(雅歌、第二章第五節)ねばならんでしょうからね。さて」とオーガスティンは籠を手もとに引きよせながら言った。「それでは始めますよ。人間世界の自然の成行きで、ある人間が自分と同じ仲間のうじ虫どもを二、三ダースも虜《とりこ》にしておくことが必要になる場合には、社会のさまざまな意見に対するかなりの配慮が要求――」
「それではまだあなたがまじめになったとは思えませんね」とミス・オフィーリアは言った。
「まあ、待って下さい、――すぐなりますからね、――いいですか。問題は要するにこうなんです、従姉《ねえ》さん」と言う彼の美しい顔は突然ただならぬしんけんな表情に変わった。「奴隷制度に対するこうした抽象的な問題には、意見はただ一つしかありえない、と私は考えるのです。つまり、この奴隷制度によって金を儲ける農園主たち、――その農園主たちを喜ばせようとする牧師たち、――この制度によって政権を握ろうと目論んでいる政治家たち、――こういう人たちは、世界がびっくりするほど巧妙に、言葉を曲げ倫理をゆがめ、自然や聖書や、その他だれも考えの及ばないものまでも圧し曲げて、自分たちの役に立たせることができるのです。しかし、やはり彼らも全世界も、この奴隷制度を正しいものとは少しも信じてはいないのです。それは悪魔の仕業だからなのです、要するにこれなんですよ。で、私に言わせれば、これは悪魔の仕事の中でもじつにたいした代物《しろもの》だと思うのです」
ミス・オフィーリアは編物の手を止めて、びっくりしたらしい様子であった。しかしセント・クレアのほうは彼女の驚きを何か楽しんでいるらしい様子で、なおも話を進めた。
「何か訝《いぶか》っておいでのようですね。しかし私にこの問題を徹底的に話せとおっしゃるんなら、何もかも包みかくさずにお話しましょう。この呪われた所業、神からも人からも呪われた制度、これがいったいどういうことなのか? その制度からいっさいの装飾をはぎとり、それを深く掘り下げて奴隷制度全体の根源と核心にまで触れた時、この制度はいったいどういうことを意味するのか? その答はこうです。私の同胞たる|黒ん坊《クオシイ》は無知で弱いが、私は教育があり強いから、――それに私は方法を知っていて、それを実行することができるから――だから、黒ん坊が持っているものはなんでも盗みとって、自分のものにし、黒ん坊には私がいいと思うだけしか与えないのです。自分にはどんなに辛すぎることでも、汚なすぎることでも、不快すぎることでも黒ん坊にはそれをさせるのです。私は働くことが嫌いだから、黒ん坊に働かせるのです。太陽が私を焼きつけるから、黒ん坊を炎天に立たせるのです。黒ん坊に稼がせて、私がその金を使うのです。黒ん坊をぬかるみに寝かせて、それで私は靴《くつ》を濡らさずに渡るのです。黒ん坊は、この世に生きている限り、自分の意志ではなく私の意志に従って働き、そのうち私のほうでさしつかえないと思った時にだけ天国へ行く機会をもたせてやるのです。これが奴隷制度とは事実いかなることかという問に対する私の答です。世界じゅうのだれでもいい、われわれの法律書の中に現存する奴隷法を読んで、これ以外の解釈ができるならばやっていただきたい。奴隷制度の弊害について語るなんて! じつにばかげたことです! 奴隷制度そのものがあらゆる弊害の根源なのですからね! こんな制度の下にありながらこの土地がソドムやゴモラ(共に罪悪の町。天上からの火によって滅ぼされた。――創世記、第十八章および第十九章参照)のように滅びない唯一の理由は、この制度が実際よりもはるかによい方法で運用されているからなのです。われわれだって女の腹から生まれた人間であって、残忍な野獣ではないのですから、憐れと思い恥ずかしいと思って、われわれの多くはそれをしないのです、あえてしようとはしないのです。――われわれは、こうした残忍な法律がわれわれの手に委ねた全権力の行使を軽蔑するのです。そして、最も残忍な、最も非道なことを行なう者でさえも、法律の認めている権力を適度に行使しているにすぎないのです」
セント・クレアはいつの間にか立ち上がって、興奮した時いつもするように、床の上をあちこちと急ぎ足で歩いていた。ギリシア彫像のように古典的な彼の美しい顔は、感情の烈しさから実際に燃えているかのようであった。その大きな青い目はきらめき、時おり混《まじ》える身振りにも思わず力がこもっていた。ミス・オフィーリアは、こうした感情の中の彼をこれまで一度も見たことがなかったので、まったく沈黙したまますわっていた。
「あなたに断言しますがね」と彼は、不意に従姉の前で立ち止まりながら言った。「(この問題について話したり、心を動かしたりしたってなんの役にも立ちませんが)、私は断言します。もしこの国全体が滅びてしまって、この奴隷制度の不正や悲惨がすべて陽《ひ》の光から隠されてしまうのなら、私も喜んでこの制度とともに滅びようと思ったことが何度もあったのです。船で川を上下したり、集金旅行であちこちをまわった時などに出っくわした、残忍な、ヘどの出そうな、卑劣な、さもしい連中が、金を欺し取ったり、盗み奪ったり、賭けごとで儲けたりして、しこたま金を手に入れさえすれば、何人でも男や女や子供たちを買ってその絶対の独裁君主になることがわれわれの法律によって許されているのだと考える時、――また、こういった連中が寄る辺のない子供たちや若い娘や女を実際に所有しているところを目にした時、――私はもう自分の国を呪わずにはいられませんでした。人類を呪わずにはいられなかったのです!」
「オーガスティン! オーガスティン!」とミス・オフィーリアは言った。「もうたくさん。私は今までにこれほどまでのお話を聞いたことがありません、北部にいてさえも」
「北部でですって!」とセント・クレアは急に表情を変えて、いつもの無頓着な調子を幾分取り戻しながら言った。「ヘん! そりゃあ、あなたがた北部の人たちの血が冷たいからですよ。あなたがたは何事につけても冷静ですからね!われわれはいざとなったら徹底的に呪ってやるけれども、あなたがたはそれがまるっきりできないんです」
「そうでしょうか、でも問題は」とミス・オフィーリアは言った。
「ああ、なるほど、そうでしたね、問題はです、――そしてそれはじつにたいへんな問題なんですよ! おまえはどうしてこの罪と悲惨との状態に陥ったのか、ということなんでしょう? ええ、では、昔あなたが日曜によく私に教えて下さったあの時と同じような平易な言葉でお答えしましょう。私は、ごくあたりまえの因果でこうなったのです。私の召使いはもともと父のものでした。そしてまた、母のものでもあったのです。ですから今はこうして私のものになっているのです。あの連中も、またその子孫までもね。数えてみたらかなりの数にのぼるでしょう。私の父は、ご存知のように、最初ニュー・イングランドから移って来ました。父はあなたのお父さんそっくりの人で、――さながら古代のローマ人を偲ばせるような人でした、――高潔で、精力的で、心の大きい、しかも鉄のような意志をもった人でした。あなたのお父さんはニュー・イングランドに住みついて、岩と石とを支配し、大自然から生活を得ましたが、私の父はこのルイジアナに移って来て男や女を支配し、彼らから生活を得たのです。私の母は」とセント・クレアは言いながら立ち上がり、部屋の片隅にかかっている一枚の肖像画《しょうぞうが》の所に歩みよると、尊敬の念に燃える眼差しをあげてそれをじっと見つめた。「母は神のような人でした! 私をそんな目で見ないで下さい!――私の言う意味はおわかりでしょう! 母もおそらく人間から生まれたものではあったでしょうが、しかし私の見た限りでは、母には人間的な弱さとか誤りとかは一つも見あたりませんでした。現に今日まで生きていて母のことを憶えている人たちはだれでも、奴隷、白人の別なく、召使いでも、知合いでも、親類の者でも、だれでもが私と同じことを言います。それはなんと言っても、従姉《ねえ》さん、この母だけが何年もの間、私と私のまったくの不信仰との間に立っていてくれたものなのですからね。母は新約聖書の真の化身、真の権化でした。――それは真実では説明できるけれども、真実による以外の方法では説明することのできない生きた事実なのです。おお、お母さん! お母さん!」とセント・クレアはそう言いながら、夢中になって両手を握り合わせた。それから突然我に帰るとまたもとの所に戻って来て、長椅子に腰をおろし、話しをつづけた。
「兄と私とは双子でした。世間ではよく、双子は互いに似ているものだと言いますが、私たちはあらゆる点で対照的でした。兄は黒い、燃えるような目と、まっ黒な髪と、たくましいりっぱなローマ人のような横顔と、濃い褐色の皮膚をした顔とをもっていました。しかし私は青い目と、金色の髪と、ギリシアふうな顔の輪郭、そして顔の色は白かったのです。兄は活動的で観察力が鋭く、私は夢想的で非活動的でした。兄は友人や同じ身分の者には寛大でしたが、目下の者には、尊大で、支配的で、横暴で、その上自分に逆らうものに対してはまったく残酷でした。私たちは二人とも誠実でしたが、兄のほうは自尊心と勇気からくる誠実で、私のほうはぼんやりとした一種の理想的なものからくる誠実でした。私たちは世間の子供たちと同じようにお互いに愛し合っていました。――時にはそうでないこともありましたが、大体はそうでした。――兄は父のお気に入りで、私は母のお気に入りでした。
私は、あらゆるものに対して病的なまでに感じやすい鋭敏な感情をもっていましたが、兄や私の父はそれを全然理解してくれませんでしたし、また少しも同情してくれませんでした。しかし母は、してくれたのです。ですから私がアルフレッド(兄の名)と喧嘩《けんか》をして、父に睨《にら》みつけられたりすると、私はいつも母の部屋に逃げて行って、母のかたわらにすわったものでした。その時の母の姿を今でもよく憶えています。青白い頬、深い、柔らかでまじめな目、白いドレス――母はいつも白い服を着ていました。私は黙示録の中で、純白の美しい麻の衣を纏《まと》っている聖徒たちのことを読むと、きまって母のことを考えたものです。母は生まれつきいろいろと才能に恵まれていました。ことに音楽には秀でていました。よくオルガンに向かって、カトリック教会のあの美しい荘厳な音楽をひいたり、この世の女性というよりはむしろ天使と言ったほうがいいような美しい声で歌ったりしていました。そんな時、私はよく母の膝に頭をもたせて、泣き、夢み、感じたのです、いろいろなことを――おお、計り知れぬほどに!――言葉では言い表わすことのできないようないろいろなことを!
そのころは、この奴隷制度の問題も今日のように詮議されてはいませんでした。だれ一人この制度の弊害を夢にも見るものはいなかったのです。
私の父は生まれながらの貴族でした。きっと前世ではもっと身分の高い階級に属していたにちがいありません。そしてその当時の宮廷人のような誇りをすべて身につけて生まれてきたにちがいないのです。そうでなければ、もともと貧しい、どう見ても貴族とは言えない家庭に生まれた父なのに、その骨の髄にまでも貴族|気質《かたぎ》が沁み込んでいるはずはありませんからね。そして兄も生まれながらに父そっくりでした。
ところで貴族というものは、ご承知のように、世界じゅうどこの国でも、社会のある一線を越えた人に対しては人間らしい同情心なぞ少しももち合わしてはいないのです。イギリスではこの線をある社会に引き、ビルマ(参考までに、この作品が書かれたのは第二次ビルマ戦争の直前である)では別な社会に、そしてアメリカでは更に別な社会に引いていますが、どの国の貴族もけっしてその線を越えようとはしないのです。自分と同じ階級社会の中では非道であり、苦痛であり、不正であると思われるものが、別な階級社会では当然のこととして冷淡に扱われるのです。私の父の引くこの境界線は、皮膚の色でした。自分と同じ色の人たちの間では、父ほど公正で寛大な人はいませんでした。しかし黒人に対しては、すべてその色の濃淡に従って、彼らを人間と動物との間の中間的連鎖物と考え、この仮説に立って彼の公正とか寛大とかの考えに差別をつけたのです。しかしおそらく、もしだれかが父に向かって単刀直入に、黒人たちにも人間の不滅の霊魂があるかどうかと尋ねたら、父は口ごもりながらも、ある、と言ったにちがいないと思います。しかし父は精神的なことにあまり煩わされるような人ではありませんでした。明らかに上流階級の元首として存在する神に対してそれを尊敬する以外には、宗教心というものは少しももち合わせてはおりませんでしたから。
ところで、私の父は五百人ばかりの黒人を使っていました。父は頑固《がんこ》で、人使いの荒い、厳格な事業家でした。何事も組織的に――絶対に誤りのない正確さと精密さとで動いていなければ承知できない人だったのです。ですから、こうしたことをすべて、怠け者で、無駄口ばかりきいている、だらしのない労働者たち、つまりヴァーモントで言う『ずるをきめこむ』以外には何一つ学ぼうとする気もなしに子供の時から育って来た連中に、させなければならないのだということをお考えになったら、当然、父の農園には私のように感じやすい子供には見るも怖ろしい悲惨なことが山のようにあったということがおわかりでしょう。
そればかりか、父は奴隷監視人を一人使っていました。――大きな、背の高い、ひょろっとした感じの腕っぷしの強い男で、(従姉《ねえ》さんには失礼ですが)ヴァーモント生まれのやくざでした。――この男は無情と残忍の点では正規の見習修業をすませて免許をとり、いよいよ開業を許されたといったほどの者でした。私の母はこの男にどうしても我慢ができませんでした。私もです。しかし彼は私の父を完全に支配するようになり、この土地での絶対専制君主になりました。
当時私はまだほんの子供でしたが、人間に関するあらゆる種類の事物に対して現在私が抱いていると同じような愛情を抱いていました、――形はどうあろうと、それは人間性の探究に対する一種の情熱とでもいったようなものでした。で、私はよく丸木小屋に姿を見せたり、農園で働く者たちの間にまじったりしました。そしてむろん、みんなから大そう可愛がられました。ですからあらゆる種類の不平や苦情も私の耳にはささやかれたのです。私はそれを母に聞かせ、私たちは二人して、苦情を救済するための委員会のようなものを作りました。私たちは数多くの残酷な行為を防ぎ、抑制して、いろいろ善いことのできるのを喜んでいました。しかし、そのうち、よくあることですが、私は熱心のあまりやりすぎてしまったのです。スタッブズ(奴隷監視人の名)は父に向かって、こんなことではやつらを取締まることができないから辞めさせてくれと訴えました。父は母に対しては甘い、優しい夫でしたが、自分でこれと決めたことに対してはけっして逡巡《しゅんじゅん》するような人ではありませんでした。ですから父は、私たちと農園で働く者たちとの間に割って入ると、がんとして岩のように踏みとどまったのです。父は母に向かって、じつに丁重かつ恭謙な、しかもきわめて明確な言葉で、家庭内の召使いたちに対しては母は純然たる主人であるが、農園で働く者たちに関しては絶対に干渉は許さないと言いました。父はこの世の中のだれよりも母を畏敬し尊敬しておりました。しかし、たとえ相手が聖母マリアであっても、父のやり方に干渉することがあれば、やはりこれと同じことを言ったでしょう。
私は母がいろいろと父を説得しているのを、――父の同情を呼び起こそうと努めているのを、時々耳にしたことがあります。そうした時の父はまったく、くそ丁寧な落着きはらった態度で、母のその悲痛な訴えを聞いているのです。『とすると、つまりこういうことになるね』と父は言うのです。『私がスタッブズを首にするか、それとも置いておくか? ということにね。しかしスタッブズは几帳面で、誠実で、しかも役に立つ男だ。――仕事にかけても申し分のないやり手だし、人情も世間並にはもっている。だれだって完全無欠というわけにはいかない。だからあの男に委してある以上、時には少しぐらいの不都合があっても、私としてはあの男のやり方を全体から見て支持しなければならんのだよ。統制にはすべて多少の必要悪はつきものだからね。一般の通則は特殊な事件に対しては苛酷なものなのだ』父は、残忍についての議論がどんなに沸騰しても、この最後の金言をもってすれば必ず決着するものと考えているようでした。で、父はそれを言ってしまうといつも、まるで一仕事かたづけたとでもいうように、両足をソファの上に投げ出して、昼寝を始めたり、時には新聞を読みはじめたりするのです。
じっさい、父は政治家にはうってつけの才能をもっていました。父にならポーランドの分割なぞはオレンジを割るくらいにたやすかったでしょうし、またアイルランドの暴動などは今日のだれにも負けぬほど平穏に組織的に平定したでしょう。そこでとうとう母も絶望して、すっかりあきらめてしまったのです。母のような気高い、感じやすい心をもった人たちの感じたことが、自分たちには底知れぬ不正と残忍の淵とも思えるものにまったく手の施しようもなく、投げこまれてしまって、しかもその周囲にいる人々にはだれにもそのようには思われないなんて、と、そうしたことは最後の審判の日が来るまで理解されないのです。ですから母のような心の人たちにとっては、今日のような地獄の世界に生きることは長い悲しみの一生なのです。そこで、母にとって残されたものは、自分の子供たちに母と同じ見解をもち意見をもつよう教育する以外に何があったでしょう? しかし教育といっても結局、子供は本質的には生来あるがままに育っていくもので、ただそれだけにすぎません。揺り籃に入っていたころからアルフレッドは貴族でした。成長するにつれて、本能的に、兄の感情も議論もすべてその方向に向かっていったものですから、母がいくら説き勧めても無駄でした。私のほうは、その母の言葉が深く心にしみ込みました。母は、父の言うことには何一つ、形の上で、逆らうことはありませんでしたし、またまっこうから父と意見を異にするようには見えませんでした。しかし母はその深い、真摯《しんし》な性質のもつあらゆる力を傾けて、たとえどんなに賤しい人間の霊魂《たましい》でもそれは尊い、価値のあるものなのだ、という考えを私のこの心に印象づけ、焼きつけてくれました。母は夕べの星を指さして、私によくこんなことを言いましたが、その時の母の顔を、私は畏敬の念に打たれながら見つめたものです。『あれをごらん、オーガスト! あのお星さまがみんな永遠に消えてなくなってしまっても、私たちの家にいる一番貧しくて賤しい奴隷の霊魂《たましい》でさえそれは生きつづけてゆくのですよ、――神さまがいらっしゃる限り生きてゆくのです!』と。
母は美しい昔の絵を何枚か持っていました。特に、その中にはイエスが盲人を癒《いや》している(ヨハネ伝、第九章参照)絵が一枚ありました。どれもたいへんに美しい絵でしたので、私の心にいつも強い印象を与えていました。『あれをごらん、オーガスト』母はよくこう言いました。『あの盲《めくら》の人は乞食だったのです。貧乏でそのうえ忌わしい病気をもっていたのよ。だからこそイエスさまは遠くから離れて癒そうとはなさらなかったのです! ご自分のところにお呼びになって両の手をあてておやりになったのです! このことをよく憶えておくのですよ、坊や』もし私が母のもとでずっと成長していったならば、母はどんなに強烈な宗教的熱狂へと私を駆り立てていったかわかりません。おそらく私は聖人、改革者、殉教者にでもなったでしょう。――しかし、ああ! 悲しいかな! 私はわずか十三の年に母のもとを離れて、二度と母に会うことはできなかったのです!」
セント・クレアは両手で頭をかかえて、しばらくの間、口をきかなかった。やがて、顔をあげると、再び話を続けた。
「人間の考えだす道徳なぞというものは、なんて下らない、けちなものなんだろう! それはたいていの場合、たんに緯度と経度、それに地理的な上下の位置が人間のもって生まれた気質と結びついて作用する事柄にすぎないのですからね。大部分はただ偶然の出来事にすぎませんよ! たとえば、あなたのお父さんはヴァーモントに定住していますが、そこの町では実際にだれでもが自由で平等です。教会の正会員になり役員になり、やがては奴隷制度即時廃止協会に加わり、われわれ南部の者たちをすべて異教徒同様に考える。だが、それでいて、あなたのお父さんは、どう見たって、性質や習慣の点では私の父と瓜二つです。私はおりにふれてうかがうことができるのです、――あの強固で、横暴で、支配的な精神の漏出をね。あなただって自分の村の人たちに、シンクレア氏(上巻第十五章参照)が彼らに対して優越感を抱いてはいないと説得することは、どんなに不可能なことかよくご存知でしょう。実は、あなたのお父さんは民主的な時代に生まれあわせ、民主的理論を奉じてはいるが、やはり、あなたのお父さんだって、五百人六百人という奴隷を支配していた私の父同様に、骨の髄まで貴族だからです」
ミス・オフィーリアもこの説明に対してはいささか異議を申し立てようと、編物を下において口を開きかけたが、セント・クレアはそれを遮《さえぎ》った。
「いえ、私には、あなたが何をおっしゃりたいかよくわかっています。私は何も二人が実際に似ていると言っているのではありません。一人は、何もかもがその生来の性向に逆らって作用するような条件の中におかれ、いま一人は、すべてのものがその性向にむくような条件におかれたのです。ですから一人は非常に強情で、頑固で、横暴な老民主主義者になり、一人は強情で、頑固な老専制主義者になったのです。もしこの二人が互いにルイジアナに農園を拓《ひら》いていたら、二人は同じ鋳型《いがた》が鋳った二つの弾丸のように相似た老人になっていたでしょう」
「まああなたはなんという不敬なことを!」とミス・オフィーリアは言った。
「私は何も二人を尊敬しないというのではありません」とセント・クレアは言った。「尊敬は私の得手《えて》でないことはあなたもご存知でしょうがね。しかし私の身の上話に戻りましょう。
父は死ぬ時、その全財産を双子の私たちに遺し、それを私たちの間で納得のいくように分配しろと命じました。しかしこの世の中に、自分と対等の地位にある者に関する限り、アルフレッドほど気高い心をもった、寛大な人間はおりません。そこで私たちは兄弟らしからぬ言葉や感情なぞ、ただの一つも交えずに、りっぱにこの財産問題をかたづけました。そして農園は共同で経営することにしました。アルフレッドは、肉体的な生活と能力の点では私に倍する力をもっていましたので、熱心な農園主となり、すばらしい成功を収めました。
しかし二年ほどやってみて、私にはとてもその仕事の共同経営者にはなれないということがわかりました。なにしろ七百人からの大集団を抱えているのですから、その一人一人を個人的に知ることもできず、また個人的に関心を寄せることもできないのです。市場で買って、それを追いたててきて、小屋と食物をあてがって、牛と同様に働かせ、軍隊式にきたえるのです。――人生のごく一般的な楽しみの中で、最底どのくらいの楽しみが彼らにあれば奴隷をいつも労働に堪えうる状態にしておくことができるかという問題が、振り払っても振り払ってもたえず私の心に浮かんできました。――監督や監視人に絶対必要なもの、――一にも二にも、そしてそれだけが唯一の口をきくものである常備の鞭、――こうしたものがすべて私にとっては耐え難い胸のむかつくような、忌《いま》わしいものに感じられたのです。そして、母が一人の貧しい人間の霊魂さえもどんなに大切にしていたかを思うと、なおさら空恐ろしくなりました!
奴隷たちはこうした境遇を楽しんでいるのだろう、などと私に言う者がありますが、それはまったくの戯言《たわごと》です! 一部の贔屓《ひいき》ぶった北部の者たちが、まるでわれわれの罪を熱心に弁解するつもりで作りあげたこういう呆れ返った戯言には、私は今でも我慢がなりません。われわれのほうがよく知っているのです。はたして、この世に生きている者の中で、その一生を夜明けから日暮れまで、たえず主人に監視されながら働き続けたいと望む者がいるでしょうか、自分の気ままな意志は一つとしてそれを働かせる力も与えられず、いつも同じ退屈な、単調な、変化のない労役を課せられ、それで一年にズボン二着と靴一足だけしか与えられず、食事も住いもやっと自分がその労働に堪えていかれる程度のものだけで! 人間なんていうものは、たいがい、そんなことで人並に楽しい暮らしができるものだと考える者があったら、試しに自分でやってみたらいい。そんな犬奴《やつ》は私が買いとって、思いきり働かせてやりますよ、天地に恥じぬ私の良心でね!」
「私はこれまでいつも」とミス・オフィーリアが言った。「あなたがたは、あなたがた南部の人たちはだれでもが、こういうことを是認し、それを正しいことなのだと、――聖書に則《のっと》って正しいことなのだと考えているのかと思っていました」
「ばかな! いくら私たちだってまだそこまでは堕落しちゃいませんよ。アルフレッドほどの頑固な専制君主もこれまで世の中におりませんでしたが、そのアルフレッドでさえそんな弁護はしませんからね。――そうですとも、兄は、傲然《ごうぜん》たる態度で、あの昔ながらの、りっぱな論拠、つまり、最も強い者の権利の上に立ってこう主張しますよ、そして私もその主張はしごくもっともだと思うのですが、アメリカの農園主は『イギリスの貴族や資本家が下層階級を使って行なっていることを、別な形でやっているにすぎない』つまり、彼らを、その骨肉霊魂に至るまで自分たちの用途と便宜のために専用しているのだと、主張するわけです。兄はその両方を弁護します、――ですから少なくともその点、兄の主張には矛盾はないと思います。兄は、名義上にしろ、実際上にしろ、労働者階級の奴隷化なしには高度の文明はありえないと言います。兄によれば、肉体労働に身を捧げ、獣のような生活に甘んじる下層階級は絶対に必要で、それによってその上の階級にあるものが暇と富とを獲得して、更に広い知識を得、更に一段と進歩して下層階級の指導者となっていくのだというのです。このように兄は論じるのですが、それは私が前にもお話したように、兄が生まれながらの貴族主義者だからです。――そして私がそれを正しいと思わないのは、私が生まれながらの民主主義者だったからなのです」
「でもいったいどうしてその二つのものが比較できるでしょうか?」とミス・オフィーリアは言った。「イギリスの労働者は売られたり、交換されたり、家族から引離されたり、鞭でうたれたりはしませんよ」
「しかし彼らだってその雇い主に売られたと同じようにその意のままになっているじゃありませんか。奴隷所有者は言うことをきかない奴隷を鞭で殴り殺すことができます。――資本家はそれを飢え死にさせることができるのです。家族の安全という点でも、どちらがより悪いかは言えません。――一方は子供が売られてゆき、もう一方は子供が家の中で飢死するのを見るのですからね」
「でも、他の悪いことと較べて奴隷制度がそれ以上に悪いことではないと言ったって、それで奴隷制度に対する弁解には少しもなりませんよ」
「私は何も弁解のつもりで言ったのではありません。――いやそれどころか、私は、われわれの奴隷制度のほうがはるかに大胆な明白な人権侵害だと主張するのです。実際に、馬でも買うようにして――歯をしらべたり、関節をたたいたり、歩かせてみたりして、それから金を払って、人間を買いあげるというようなこと――人間の肉体と霊魂を扱う山師や飼育者や商人や仲買人がいるというようなこと、――こうしたことは事実をいっそう明白な形で文明世界の眼前に置くことになるのです。たとえその事実が結局のところ本質的には同じものであっても、つまり、一団の人間を、その人たちの利益や進歩をまったく無視して他の集団の利益と進歩のために専有するということであってもね」
「私はその問題をこのように考えたことは一度もありませんでした」とミス・オフィーリアは言った。
「そうですか、私はイギリスを少しばかり旅行したことがありますし、またイギリスの下層階級の実情についてかなり多くの記録文書を調べたことがあるのです。そして私はじっさい、アルフレッドが、自分の養っている奴隷たちのほうがイギリスの下層階級の者たちよりもずっと良い暮らしをしていると言う時、その兄の言葉を否定することはできないと思うのです。言うまでもありませんが、私がこれまで話したことから、アルフレッドを世間で言うところのあの残忍な主人だなぞとお考えになっては困ります。実際はそうではないんですからね。兄は服従しない者に対してはそれは横暴で冷酷な主人です。自分に反抗する者なぞがあれば容赦なく、まるで牡鹿を射つのと同じような気持で射ち殺してしまうでしょう。しかし、一般的には、兄は自分の奴隷たちに食物や住いなど、何不自由なく与えて、それを一種の誇りにしているような主人なのですからね。
兄と一緒にやっていたころ、私は兄に向かって、奴隷たちを教育するために何かしてやるべきだと主張したことがあります。すると兄は私の主張を容れて、牧師を一人雇ってくれました。そしてその牧師と奴隷たちとの間で日曜ごとに教義問答をするよう取計らってくれたのです。とはいっても、兄はきっと心の中では、どうせ犬や馬のために牧師を雇うようなものだぐらいにしか考えていなかったろうと思うのですがね。じっさい、生まれ落ちた時からずっと悪い影響ばかりにさらされて麻痺してしまい、動物のようになってしまった心が、日曜以外の毎日を思慮反省もない労働に費やしているのですから、日曜日に数時間、話をきいたところでそれがどうなるはずのものでもありません。イギリスの工場労働者やわが国の農園労働者の中にある日曜学校の先生がたは、おそらく、海の向こうとこちらで同じ結果を証言するでしょう。もっともわれわれの中には驚くべき例外があるのですがね。その因《よ》ってきたるところは、黒人というものは白人よりも生まれつき宗教的な感情に感動しやすいという事実です」
「それで」とミス・オフィーリアは言った。「どうしてあなたは農園での生活をやめるようになったのです?」
「それはですね、私たちもしばらくの間一緒になんとかやっていったんですが、そのうちアルフレッドには私がとても農園経営者にはなれないということがはっきりとわかったのです。兄は私の意見を容れてあらゆる点を改革し、変更し、そして改良しましたが、それでもまだ私が満足しないでいるものですから自分でもばからしくなったのです。私が満足できなかったのは私が憎んでいたあのことなんです、――こうした男や女の奴隷を使うこと、この無知なる行為、残虐なる行為、不徳なる行為を果てしなく続けていくこと、――それもただ私の金儲けのためにですよ!
そのうえ、私はいつも細かなことにまで口を出していました。私自身たいへんな怠け者でしたから、怠け者に対しては同情しすぎるくらいに同情をよせていたのです。哀れな、甲斐性《かいしょう》のない連中が棉籠の底に石を入れて棉の目方を重くしようとしたり、棉袋の中に泥をつめて、上の方だけ棉をかぶせておいたりした時も、私には自分がやつらだったらやはり同じようなことをしたろうという気がして、そのためにやつらを鞭で打たせるようなことは私にはとてもできませんでした、またそういう気にもなれなかったのです。しかし、もちろん農園の規律にも際限があります。そこでアルフと私とは、以前私と私の尊敬する父との間に達したのとほぼ同じ点に到達したのです。つまり兄は私のことを女性的な感傷家で実業家暮らしには絶対に向かないと言うのです。そして私に、銀行の株とニュー・オーリアンズの屋敷とをとって、そこで作詩でも始めたらどうか、農園の経営のほうは自分に委してもらいたいがと言いました。そういうわけで私たちは互いに別れて、私はこの土地に来たのです」
「でもどうしてあなたは自分の奴隷を解放しなかったのです?」
「つまり、私にはできなかったのですよ。金儲けの道具として彼らを所有することは、私にはとてもできませんでした。――しかし金を使うほうの手伝いをさせるために彼らを所有するのなら、ね、そうでしょう、私にはそれほどそれが醜悪なこととは思われなかったのです。彼らの中には父のころからの召使いもいて、そういう連中には私も非常に愛着を感じていましたし、それに若い者たちはみんなそういう年寄りの子供でしたからね。ですからみんなは、解放されなくてもそのままの境遇で十分に満足していたんです」彼は言葉をきり、何か考えながら部屋の中をあちこちと歩きはじめた。
「私だってこれまでに」とセント・クレアは再び口を開いた。「この世で何かりっぱなことをしようといろいろ計画もたて希望も抱いたことがありました、今のようにただ波に浮かんで漂っているようなことではなしにね。奴隷解放者のようなものになって、――私の母国をこの汚点と汚名から解放しようというような、とりとめもない、ぼんやりとした望みを抱いたのです。おそらく、世の中の青年はだれでも一度はそういう熱病の発作にとりつかれるものなんでしょうがね、――しかしそれから――」
「なぜそれをやらなかったのです?」とミス・オフィーリアは言った。――「手を鋤《すき》にかけたら後《うしろ》を顧みてはいけません(ルカ伝、第九章、第六十二節参照)」
「ああ、それは、物事が私の期待どおりに運ばず、私もソロモンと同じように人生に絶望を感じるようになったからですよ(列王紀上、第十一章参照)。これはソロモンにしろ私にしろ共にもっている知恵に必要な出来事だったろうと思います。しかしどういうわけか、私は、社会の実動者とか改革者にならずに、一片の流木となって、それ以来ずっと漂い流れ渦巻《うずま》いているのです。アルフレッドは会うたびに私を叱ります。そして兄のそうした態度を私はもっともだと思うのです、――兄はほんとうに何かを実行しているのですからね。兄の生活は、兄の意見の論理的結論ですが、私の生活は卑劣なノン・セクイタ(論理的飛躍による結論上の誤り)ですから」
「ねえあなた、あなたは自分に課せられたこの試練をそんなふうに過ごしてそれで満足していられますか?」
「満足していられるかですって! 私はそれを軽蔑しているんだとお話していたではありませんか? しかし、それでは、その点に話を戻しましょう、――私たちは奴隷解放問題を話していたわけですから。私は、奴隷制度についての自分の感情はけっして特異なものだとは思いません。心の中で私と同じように考えている人たちは少なくないのです。この国は奴隷制度の下で呻き苦しんでいます。奴隷制度は奴隷にとっても不幸なものですが、それは、むしろ、主人にとってもなおのこと不幸なものなのです。不道徳な、思慮のない、堕落しきった人間の一大階級がわれわれの間に存在すること自体、その人間にとっても、またわれわれにとっても罪悪なのだということは、眼鏡をかけなくてもはっきりとわかることなのですから。イギリスの資本家や貴族は、それをわれわれが罪悪と感じるようには感じることができません。それは、彼らが、われわれとは違って、自分たちの卑めている階級とは居を共にしていないからです。われわれの家の中にはそういった連中がいるのです。彼らはわれわれの子供たちの遊び仲間で、われわれ以上にすばやい感化力で子供たちの心を変えてしまうのです。黒人というものは子供たちがいつも愛着を感じ、それに同化する人種だからです。もしエヴァが、今、普通以上の天使のような子でなかったなら、あの子は台無しにされてしまうでしょう。奴隷たちには教育を与えず、悪風に染まるままにしておきながら、われわれの子供たちはその影響を受けないだろうと考えるのは、奴隷たちの間に天然痘《てんねんとう》をはやらせておいて、われわれの子供たちはそれに感染しないだろうと考えるのと同じです。それなのにわが国の法律は有効な一般教育制度を絶対的に、徹底的に禁止しているのです。そしてまたそれはじつに賢明なやり方なのです。なぜなら、一世代の奴隷を完全に教育しだしてごらんなさい、それこそ奴隷制度は根こそぎ空高く吹き飛ばされてしまうでしょうからね。そうなればたとえわれわれが彼らに自由を与えなくても、彼らがそれを獲得するでしょう」
「それで、この終末はどうなると思いますか?」とミス・オフィーリアは言った。
「わかりません。ただ一つだけ確かなことは、――世界じゅうの労働者階級が互いに手を結びあう日があるということです。そして遅かれ早かれ、|最後の審判の日《デイエス・イレー》がやってくるのです。こうした労働者階級の動きは、ヨーロッパ大陸でも、イギリスでも、この国でも始まっているのです。母はよく私に、キリストが再臨してこの世を治め、すべての人が自由で幸福になるという至福千年の太平の世(黙示録、第二十章、第一節―第七節参照)のことを聞かせてくれました。そして母は私の子供のころ、『御国《みくに》の来《きた》らんことを』(マタイ伝、第六章第十節およびルカ伝第十章第二節参照)と祈るよう私に教えました。私は時々、枯骨《ここつ》の間からもれる今日のため息や呻きや動揺(エゼキエル書、第三十七章第一節―第十四節参照)はすべて、やがて訪れてくると母がよく私に聞かせてくれたものを予言しているのだと思うのです。しかしキリストの降臨の日にはだれが堪ええましょう?(マラキ書、第三章第二節参照)」
「オーガスティン、私には時々、あなたという人は御国から遠いところにいるのではないと思われるのです」とミス・オフィーリアは言って、編物をおくと、心配そうに従弟を見つめた。
「お褒めにあずかって恐縮です。しかし私という人間は上下に矛盾しているんです。理論では天国の入口にいるけれども実践では地の塵《ちり》の中にいるのですからね。だがお茶のベルが鳴っています、さあ行きましょう、――もうこれで、あなたも、私が一生の間一度もほんとうのまじめな話をしたことがないなんて言えませんよ」
茶の席で、マリーはプルーの事件について話し出した。「従姉《ねえ》さん、あなたはきっと」と彼女は言った。「私たちはみんな野蛮人だと思っていらっしゃるでしょうね」
「あれは野蛮なことだと思います」とミス・オフィーリアは言った。「けれど、あなたがたがみんな野蛮人だとは思いません」
「ええ、それにしても」とマリーが言った。「どうせこうした連中の中には一緒にうまくやってゆけない者がいるんですからね。そういう手合いはほんとうに悪いやつなんですもの生きていたってしようがありませんわ。ですから私、こういう事件には少しも同情しませんの。自分たちがおとなしくさえしていれば、こんなことにはならないのですものね」
「でもママ」とエヴァが言った。「あのかわいそうな女の人はとても不仕合わせだったのよ。それでお酒なんか飲むようになったんだわ」
「まあ、ばかばかしい! そんなことは言い訳にはなりませんよ! 私だって不仕合わせなんですからね、いつだって。私なんか」と彼女は沈んだ声で言った。「あの女よりももっと大きな試練を受けて来ていると思うわ。あれはただ、ああいう連中がほんとうに悪いからなんですよ。なかにはどんなに厳しくしてやってもどうしても馴らすことのできない手合いがいるんですからね。今でも憶えてますけど、父の使っていた奴隷の中に、大へんな怠け者がいましてね、ただ仕事がしたくないばっかりによく逃げ出しては沼地の中に身をひそめて、盗みを働いたり、それはもう、ありとあらゆる怖ろしいことをしていました。何度も捕まって、鞭で打たれるんですけど、少しも改心しないんです。そしてしまいには、死ぬのがわかっているくせに這いながら逃げ出して行って、とうとう沼地で死んでしまいましたわ。逃げなければならない理由なんてなんにもないんですのよ、父の使用人たちはいつだって親切に扱われていたんですからね」
「私はむかし」とセント・クレアが言った。「ある男をりっぱに馴らしたことがあるよ。どこの監視人も主人もやってみたがだめだったというやつをね」
「あなたが!」とマリーが言った。「まああなたがいつそんなことをなさったのか、ぜひ聞かせていただきたいわ」
「うん、その男はね、力の強い大男だった、――生え抜きのアフリカ人でね。だからその男にはどうも人一倍、荒々しい自由の本能があったんだな。まさにアフリカのライオンといったところだ。で、みんなはこの男をスキピオと呼んでいた(おそらくスキピオ・大アフリカヌスからとった名であろう)。だれ一人手におえる者がいなかったので、監視人から監視人へとつぎつぎに売り渡されて、とうとう最後にアルフレッドが買いとることになったのさ。兄もこんな男ぐらいはなんとかできると考えたからだろうね。ところがある日、その男は監視人を殴り倒して沼地の中に姿をくらましてしまったのさ。ちょうどその時、私はアルフの農園を訪れていた時でね、なにしろ私たちが共同経営をやめてからのことだったから。で、アルフレッドは無性に腹を立てていたが、私は、それは兄のほうが悪いからで、私ならきっとその男を馴らしてみせる、いくら賭けたっていい、と言ってやったんだ。そしてとうとう、私がその男を捕えたら、試しに私にやらせてくれるということに話がまとまった。そこで六、七人の一隊を組織して、銃を持ち、犬を連れて狩り出しにでかけた。人間というものは、人を狩ろうという時にも鹿を狩る時と同じようにわくわくするものなんだな、それが慣れっこにでもなっているとね。じっさい、私自身もいくらか興奮してしまった、私はただその男が捕まった時に仲裁人のような役をしようとして参加したにすぎなかったんだがね。
そのうち犬が遠く近くで吠え立てる、われわれは馬を駆ってあちこちを駈けまわり、とうとうその男を狩り出す。やつは牡鹿のように突っ走ったりまた跳ね上がったりして逃げまわり、しばらくの間はわれわれを寄せつけない。だがそのうちに、とうとう籐《とう》の藪《やぶ》の中に追い込まれてしまう。その藪は突き抜けることができないんだ。するとやつはくるりと向き直って歯向かってくる。そりゃあもう、じつに勇敢に犬と闘ったな。右へ左へと犬を投げとばし、じっさい三頭の犬を素手で殴り殺してしまった。だがその時、やつは銃弾《たま》を一発喰らってよろよろとなり、深手を負って血を流しながら、ほとんど私の足許に倒れた。哀れなその男は顔をあげて私を見たが、その両眼には勇気と絶望の色がただよっていた。私は押しかけてくる犬や追手を食いとめて、この男はわしが生かして連れて帰るのだと頑強に主張した。私には、成功にすっかり興奮してしまっているこの連中にやつを射ち殺させないようにすることだけがやっとだったが、それでも私は兄との例の約束を主張して譲らなかったので、とうとうアルフレッドもその男を私に売り渡してくれた。そこで私はやつを引きとって、その二週間後にはもうじつに従順で御しやすい男にまで私は馴らしてしまった」
「いったいあなたはその男にどんなことをなさったの?」とマリーが言った。
「それはまあ、ごく簡単なことさ。やつを私の部屋へ連れていって、やつのためにちゃんと寝床をとらせ、私自身で傷の手当をして、つきそっていてやったんだ、やつがすっかりよくなってまた自分の足で立てるようになるまでね。そしてある時、私は解放証書《フリー・ペイパーズ》を作らせて、それをあの男に与え、どこへでも好きな所へ行くがいいと言ってやった」
「で、出て行きましたか?」とミス・オフィーリアが言った。
「いえ。そのばかな男は証書をまっ二つに引き裂いて、絶対に出ては行かんと言うんですよ。あれほどの勇気のあるりっぱなやつはいませんでしたね。――刀剣のように信用のできる、忠実な男でした。やつはそれ以後キリスト教を信仰し、幼な子のようにおとなしくなりました。やつには湖の畔《ほとり》にある私の別荘の監督をやらせていましたが、それもじつにりっぱにやりましたよ。ところが、最初のコレラが流行《はや》った時(一八三二年。第二回目は一八四九年)に私はその男を失くしました。実は、やつが私の身代わりになったのです。というのは私はコレラにかかって死にかけていました。みんなは、怖ろしさのあまり、一人残らず逃げて行ってしまいましたが、スキピオだけは巨人のように勇ましく私のために働いて、ほんとうに私を甦らせてくれました。しかし、かわいそうに! そのすぐあとで今度はやつがかかってしまって、とうとう救ける術《すべ》もなかったのです。私は、あの男を失った時ほど胸にこたえたことはありませんでした」
エヴァはこの父親の話を聞いているうちにだんだんと父の方に近寄って来た。――小さな口を開き、目を大きくしんけんに見張ったその様子はいかにも父親の話に心を奪われているようであった。
話が終わると、彼女は突然、父親の首っ玉にしがみついて、わっとばかりに泣き出した。そして激しくしゃくり上げた。
「エヴァ、さあいい子だから! いったいどうしたんだね?」とセント・クレアは、子供の小さなからだが激しい感情にふるえおののくのを見て、言った。「この子には」と彼は言葉をついだ。「こんな話を聞かすんじゃなかった。――この子は神経質だからね」
「いいえ、パパ、あたし神経質じゃありません」とエヴァは、突然、こんな年ごろの子供にしては珍しいほどの力のこもったきっぱりとした態度で涙をこらえながら言った。「あたし神経質じゃありません、でもそういうお話はあたしの心にしみ込むのです」
「どうしてなのだね、エヴァ?」
「わからないわ、パパ。いろいろと考えてみるんですけど。たぶんあたし、いつかはお話できると思うの」
「そう、じゃあ、これからもよく考えてごらん。――でも泣いたりしてパパを心配させてはいけないよ」とセント・クレアは言った。「ほら、これをごらん。とてもおいしそうな桃だろ! おまえにあげようと思ってとっておいたんだよ」
エヴァはそれを受け取ってにっこりとほほえんだが、まだ口もとは心持ち堅かった。
「さあ、金魚を見に行こう」とセント・クレアは言って、彼女の手をとるとヴェランダに出た。まもなく、楽しい笑い声が絹のカーテンを通して聞こえてきた。エヴァとセント・クレアがばらの花をお互いに投げあいながら中庭の小径《こみち》で追いかけっこをしているのであった。
こういう人たちの話をしているうちに、われわれのつつましい友人トムのことが忘れ去られてはたいへんである。しかし読者の皆さんがわれわれと一緒に厩《うまや》の上の小さな屋根裏部屋までついて来て下さるならば、おそらく少しは彼のことがわかるはずである。屋根裏といってもそこは小ざっぱりとした部屋で、寝台、椅子、それに小さな粗末なものではあるが台《スタンド》があって、その上にはトムの聖書と讃美歌集が置いてあった。そしてトムは今、この部屋の中で石盤《スレート》を前に、何か一生懸命やっているのであるが、どうやらその仕事にはかなりの思案が必要のようである。
実は、トムは近ごろ、わが家を慕う気持があまりにも強くなってきたので、エヴァから便箋を一枚もらい、以前ジョージ坊ちゃんの指導で習い憶えたわずかばかりの文字の知識を残らずかき集めて、手紙を書いてみようなぞという大胆な考えを思いついたのであった。そして彼は今、一生懸命石盤の上にその下書きをしているところなのである。トムはひどく困っていた。文字の中でその幾つかの形はすっかり忘れてしまっていたし、憶えているものの中でもどの字をどう使えばよいのかはっきりとはわからなかったからである。こうして彼が息遣いもはげしく、しんけんになってやっていると、そこへいつの間にかエヴァがやって来て、小鳥のようにトムの後からその椅子の脚《あし》の横木に跳びのって、彼の肩越しにのぞきこんだ。
「あら、アンクル・トム! ずいぶんおかしなことしているのね、ほら!」
「うちのかわいそうな婆さんに手紙を書いてやろうと思うとりますんですよ、お嬢さま、それに子供たちにもな」とトムは手の甲で目をこすりながら言った。「だが、どうも、書けそうにもねえんでごぜえます」
「あたし手伝ってあげられたらいいんだけどね、トム! 字は少し習ったことがあるのよ。去年は全部書けたんだけれど、あたし、もう忘れてしまったかもしれないわ」
そう言ってエヴァは小さな金髪の頭をトムの頭に近づけた。そして二人はまじめな、おぼつかない議論を始めたが、どちらも同じようにしんけんで、そしてほぼ同じくらいに字を知らなかった。そこで、それこそ一語一語についてあれこれと相談したり助言したりしているうちに、この作文も、二人がだいぶ楽観的になってきたように、事実だんだんと手紙らしいものになってきた。
「そうよ。アンクル・トム、ほんとうにりっぱに見えてきたわ」とエヴァはその手紙を嬉しそうにながめながら言った。「小母《おば》さん、きっと喜ぶわよ、それに気の毒な子供たちもね! おお、ほんとうにひどいことね、いつまでもお家の人たちと別れていなくてはいけないなんて!あたし、いつか、おまえが帰れるようにパパにお願いしてあげるわ」
「前の奥さまもお金ができしだい、それを送ってわしを買いもどして下さるとおっしゃってくだせえました」とトムは言った。「きっとそうして下さると思うとります。若旦那のジョージ坊ちゃまも言うて下さりました、きっと自分で連れもどしに来て下さるとな。そしてその印にこのお金をわしに下さりましただ」そう言ってトムは服の奥から大切な一ドル銀貨を引き出して見せた。
「まあ、じゃ、きっと来るわね!」とエヴァは言った。「よかった!」
「それで、わしは手紙を出したかったのでごぜえますよ、お二人にわしの居所をお知らせして、それにかわいそうなクロウィには、わしがこんなに元気でやっていると言ってやろうと思いましてな、――かわいそうに、婆さん、ずいぶんと心配していましただからな!」
「おい、トム!」この時突然ドアのところでセント・クレアの声が聞こえた。
トムもエヴァもびっくりした。
「なんだいこれは?」とセント・クレアは近づいて来て石盤を見ると言った。
「あら、それ、トムの手紙よ。あたしも手伝って書いているのよ」とエヴァは言った。「上手に書けてるでしょう?」
「せっかく二人がやっているのをじゃまするつもりはないんだがね」とセント・クレアは言った。「トム、手紙なら私に書かせたほうがよさそうだ。馬を一走りさせて帰って来たら私が書いてやるからな」
「とても大切なことですからトムはぜひ出さなくてはいけないのよ」とエヴァは言った。
「だって前の奥さまがトムを買い戻すためにお金を送ってくれるんですもの、ね、パパ。トムが、そう言われたって言ったわ」
セント・クレアは心の中で、これはおそらく人のいい所有者が、売られていく召使いたちの恐怖心をただ宥《なだ》めたいばっかりに、よく彼らに言ってきかせるあの言葉の一つにすぎぬものなのだろう、こんなに期待をもたせておきながら実のところはそれを実行する意志など少しももってはいないのだ、と思った。しかし彼はそれを口に出しては言わなかった、――ただ馬を出すようにとトムに命じただけであった。
トムの手紙はその日の夕方りっぱに書き改められて、無事、郵使局にとどけられた。
ミス・オフィーリアは相変わらずの根気強さで主婦としての努力をつづけていた。ダイナから一番年下の子供に至るまで、家じゅうのだれもの一致する意見は、ミス・オフィーリアは確かに「変わっている」ということであった。――この言葉を南部で召使いが使う時には、その目上の人物が自分たちにはまったく気に入らないという意味なのである。
家の中でも上流の部に属する者たち――つまり、アドルフやジェインやロゥザたち――の一致する意見は、ミス・オフィーリアは少しも貴婦人らしくない、貴婦人というものはあんなふうにしじゅう働きまわっているものではない。――ミス・オフィーリアにはまったく貴婦人らしい様子がない、ということであった。そして彼らは、ミス・オフィーリアがセント・クレア家と縁つづきであるということにむしろ驚いていた。マリーですら、オフィーリア従姉《ねえ》さんがいつも気忙《きぜわ》しそうに働いていると、見ているほうで疲れてしまってやりきれないと言っていた。そして、事実、ミス・オフィーリアの働き振りは、こうした不平の種をまきちらすほど、息つくひまもなかった。彼女は明け方から暮れ方まで、何か急な用事にでもせきたてられているかのように猛烈な勢いで、縫物をしたり繕い物をしたりした。そして陽の光がうすれてきて、その仕事が取かたづけられたかと思うと、すぐに今度はいつも手元に置いてある例の編物が出てきて、彼女はまた前と同じようにせっせと手を動かしているのである。まったく彼女の仕事振りは、見ているほうで骨の折れるくらいであった。
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第二十章 トプシィ
ある朝、ミス・オフィーリアが何か忙しそうに家の中の仕事をしていると、階段の下で彼女を呼ぶセント・クレアの声が聞こえた。
「従姉《ねえ》さん、ちょっと下りて来て下さい。あなたにお見せしたいものがありますから」
「なんですか?」とミス・オフィーリアは言いながら、縫物を手にしたまま下りてきた。
「あなたのために買物をして来ましたよ。――ほらご覧なさい」とセント・クレアは言った。そして、そう言いながら、彼は年のころ八つか九つぐらいの黒人の少女を前へおし出した。
その子は黒人種の中でも一番色の黒いほうであった。そしてガラス玉のようにきらきらと輝く彼女のまるい目は、きょろきょろとたえず動いては、あちこちと部屋の中のものを見まわしていた。口はぽかんとあいて、この新しい主人の家のりっぱな客間にびっくりしている様子であったが、その口からは白い美しい歯がのぞいていた。頭のちぢれ毛は幾つかの小さな束に編まれていて、それがみな思い思いの方向に突っ立っていた。顔の表情は妙に複雑で、抜け目なさそうな狡《ずる》そうな様子なのではあるが、それをまるでヴェールででも覆ったかのように、そこには非常に陰気くさいまじめな、しかつめらしい表情が漂っていた。彼女は袋地で作った、一枚ぎりの汚いぼろぼろの服を着て、まじめくさった様子で両手を前で組み合わせて立っていた。全体から見て、彼女の様子には何か奇妙な、鬼の子めいたところがあった。――あとになってミス・オフィーリアの言った言葉を借りれば、この善良な婦人をすっかり落胆させるほどの「異教徒くさい」ものがあった。そこでミス・オフィーリアはセント・クレアの方を向いて言った。
「オーガスティン、あなたはいったいなんのためにこんな子を連れて来たのです?」
「もちろん、あなたに教育していただくためですよ。そしてこの子が正しく生きてゆけるように躾《しつ》けていただきたいのです(箴言、第二十二章第六節)。この子は|黒ん坊《ジム・クロウ》一族の中でも少しかわり種のほうだと思ったもんですからね。さあ、トプシィ」そう言って彼は、人が犬の注意をひく時にするような調子で、口笛を吹いた。「さあ、何か歌ってみろ、そしておまえの踊りも見せるんだ」
黒い、ガラスのような目が、何かいたずらっぽいおどけたような光を見せて輝いたかと思うと、子供はすぐに透き通った甲《かん》高い声で奇妙な黒人の唄を歌い出した。そして唄に合わせて手や足で拍子をとりながら、くるくると回ったり、手を叩いたり、両膝をぶつけあわせたりして、野性的なとっぴな拍子で踊り、喉《のど》の奥からは黒人の音楽に特有のあの奇妙な喉声をありったけ出して歌いまくった。そしてしまいには、一、二度とんぼ返りまでして汽笛のような奇妙な薄気味の悪い声を長々と引っぱって歌い終わると、突然主人の側近く走り寄って、両手を組み合わせ、おとなしそうな、しかつめらしい、いたって殊勝げな表情を顔に浮かべて立っていた。ただ時々横目をつかってはそっと主人の顔色をうかがうので、せっかくの表情も台なしになった。
ミス・オフィーリアは唖然《あぜん》として立っていた。
セント・クレアは、さすがにいたずら好きらしく、彼女のこのびっくりしている様子を見て内心|愉《たの》しんでいるように見えた。そして再び子供に向かって言った。
「トプシィ、このかたがおまえの新しい奥さまだ。私はおまえをこのかたにお委せするんだからな。いいか、行儀よくするんだぞ」
「はい、旦那さま」とトプシィは神妙な、まじめくさった顔つきで答えたが、その間にも例のいたずらっぽい目はきらきらと輝いていた。
「おとなしくするんだぞ、トプシィ、いいな」とセント・クレアは言った。
「はい、するです、旦那さま」とトプシィはもう一度目を輝かせ、両手をうやうやしく組み合わせたままで言った。
「ねえ、オーガスティン、これはいったいどういうことなのです?」とミス・オフィーリアは言った。「この家には、今でも、こういった厄介者のちびたちがいっぱいいて足の踏み場もないくらいではありませんか。朝起きてみると、一人は扉のうしろに寝ている、一人はテーブルの下から黒い頭を突き出す、また一人は|靴拭い《ドアマット》の上に寝ころんでいる、――そして中には互いに罵《ののし》り合いながら顔をしかめたり歯をむいたり、台所の床の上でとっ組みあいの喧嘩をしたりするのもいるのですよ! いったいなんのためにあなたはこんな子を連れて来る気になったのです?」
「あなたに教育していただくためですよ、――そう申したではありませんか? あなたは日ごろから教育の効用を説いていらっしゃる。で、今日は獲りたての生きのいいやつを差し上げて、一つやっていただき、この子が正しく生きてゆけるように育てていただこうと思ったのです」
「私はこんな子など欲しくありません、ほんとうです。――今でさえ多すぎて自分の思うことがしてやれないのですからね」
「それがあなたがたキリスト教徒のやり方なんですな、世界じゅうどこへ行ってもね!――何か協会を組織して、貧乏な宣教師を雇い、生涯《しょうがい》こういった異教徒たちの間で過ごさせる、そういうことはあなたがたもするんです。しかし自分の家に異教徒を連れて来て、自分自身で彼らを改宗させようと努力する者がいるでしょうか、一人でもあなたがたの中にいたら会わせていただきたいものです! いやあしませんよ。そういう話になると、やれ不潔だの不愉快だの、そんなことは世話がやけるだのと言って逃げるんですからね」
「オーガスティン、あなたにはわかるでしょうけど、私はそんなふうに考えたからではないのです」とミス・オフィーリアは、どうやら彼に譲ったらしい様子で言った。「そうね、これがほんとうの伝道事業なのかもしれませんね」と言って、彼女はいくぶん好意的に子供をながめた。
セント・クレアはまさにその絃《いと》を弾いたのであった。それというのもミス・オフィーリアの良心の弦が常にぴんと張っていたからである。「でも」と彼女はつけ加えた。「私ほんとうに、どうしてこの子を買う必要があるのかわからなかったのです。――今でさえこの家には大勢いて、私にはいくら時間や熟練があっても足りないくらいなのですからね」
「そうですか、それならお話しますがね、従姉《ねえ》さん」と言ってセント・クレアは彼女を脇に連れて行った。「あんなろくでもない話なんかして、あなたにお詫びしなければいけません。なんと言ったってあなたは善良なかたなのですから、あんな話など初めからすべきではなかったのです。なにね、実はこうなんですよ。あの子は、見すぼらしい飲食店をやっている飲んだくれ夫婦のものだったんです。私は毎日その店の前を通らなければならないもんでね、あの子が金切り声をあげたり、その夫婦者があの子を叩いたり罵ったりするのを聞くのがいやになったんです。本人を見ると利口そうで、またおどけた顔をしているでしょう、何かの役に立つかもしれないと思ったんです。――それで私が買いとって、そしてあなたに差し上げようというしだいなんですよ。ですからりっぱな本式のニュー・イングランド流の教育を授けて、あの子がどのように成長するかやってみて下さい。ご承知のように私にはそういった面での才能はまったくありませんのでね。でもあなたにはぜひやっていただきたいのです」
「そう、それならできるだけやってみましょう」とミス・オフィーリアは言った。そして彼女は、仮に黒い蜘蛛《くも》に好意をよせる人がいたとしてもその人はきっとこんなふうにその蜘蛛に近づいて行ったであろうと思われるような恰好で、彼女の新しい召使いに近づいて行った。
「おそろしく不潔なのね、それに半分裸ですよ」と彼女は言った。
「まあ、下へ連れていって、だれかにその子を洗わせて、着物を着せるように言ってやって下さい」
ミス・オフィーリアは子供を台所の方へ連れていった。
「なんでまた旦那さまはこのうえ黒ん坊を欲しがるだ!」とダイナは素気ない様子でこの新入りをながめながら言った。「おらの足もとには絶対におかんでな、絶対に!」
「まあひどい子供!」とロゥザとジェインはすっかり愛想をつかした様子で言った。「そんな子はそばへ寄せないでおくれ! いったいどうして旦那さまはこんな下等な黒ん坊をまた一人お買いになったんだろう、あきれてしまうわ!」
「なに言うだ! おらが黒ん坊ならおまえだって黒ん坊でねえか、ミス・ロゥザ」とダイナが言った。彼女はミス・ロゥザの最後の言葉を自分への当てつけだと思ったのである。「おまえはまるで自分を白人だと思っているが、黒でもなけりゃ白でもねえ、どっちつかずの女でねえか。おらあ、どっちか片一方のほうがいいだ」
ミス・オフィーリアは、ここには一人としてこの新入りの者のためにめんどうをみて、からだを洗ってやり着物を着せてやろうという者がいないことを知った。そこでとうとう、いやがるジェインを無理やり手伝わせながら、しかたなくこの仕事を自分でやることにした。
粗末な扱いをうけ、こき使われてきた子供が初めて垢《あか》を落とす時のくわしい模様なぞ、上品な読者の耳に入れるべき事柄ではない。しかし実際には、同じ人間であるわれわれにとって、耳にすることさえあまりにも大きいショックとなるような不潔きわまる状態で生きている人々や死んでゆく人々が、この世の中にはきっと大勢いるはずなのである。ミス・オフィーリアは相当な覚悟を決めた。そして英雄的とでもいうべき徹底した態度でこの胸のむかつくような仕事を次々とかたづけていった。とはいえ、正直のところ、それはあまり愛想のよい態度ではなかった。――というのも、彼女としては自分の主義の手前、もうできるだけ辛抱するよりしかたがなかったからである。しかし子供の背や両肩に幾つもの大きな鞭の傷や胼胝《たこ》になった部分を目にした時、それが今日までこの子を育ててきた奴隷制度の拭い消すことのできない印であることを知って、さすがにミス・オフィーリアの心にも深い憐れみの情が湧いてきた。
「あら、これっ!」とジェインがその傷あとを指さしながら言った。「こんなにぶたれるなんて、この子、相当ないたずら者じゃないかしら? いまにきっと私たちもこの子からひどい目に会いますよ。私、こういう黒ん坊のちびは大嫌いだわ! ほんとうに胸がむかむかして! なんだって旦那さまはこんな子をお買いになったんでしょうね!」
その「ちび」と呼ばれた子供は、こうした悪口を、この子にはもう習慣になっているらしい静かな悲しげな様子でじっと聞いていたが、ただ時々あのきらきらと光る目で鋭く、盗み見るように、ジェインのはめている例の耳飾りを見つめていた。やがて小ざっぱりとした一揃いの服が着せられ、髪が短かく刈り込まれると、ミス・オフィーリアは幾分満足した様子で、この子も前よりはずっとキリスト教徒らしくなったなぞと言って、心の中でこの子に対する教育の計画をあれこれと立てはじめた。
そこで彼女は子供の前に腰をおろして質問を始めた。
「おまえ、いくつになるの、トプシィ?」
「知らねえです、奥さま」とその子は歯をすっかり見せてにやりと笑いながら言った。
「いくつだか知らないって? これまでにだれも教えてくれなかったのですか? おまえのお母さんはだれだったの?」
「そんなもの、いねえです!」と子供はまたにやりと笑いながら言った。
「お母さんがいないって? それはどういうことなのです? それじゃあおまえはどこで生まれたの?」
「生まれたんじゃねえです!」とトプシィは言い張って、またにやりと笑ってみせた。その様子はまったく鬼の子のようだったので、もしミス・オフィーリアが神経質な女だったら、自分は悪魔の国から来たまっ黒な小鬼か何かを手に入れてしまったのではなかろうかと考えたかもしれない。しかしミス・オフィーリアは神経質ではなく普通の実務家型の女であったので、やや厳しい態度で言った。
「私に向かってそんな答え方はいけませんよ、おまえ。私はおまえと遊んでいるのではありませんからね。さあどこで生まれたのか、そしてお父さんとお母さんの名前はなんと言うのか、はっきりと言いなさい」
「生まれたんじゃねえです」とその子は前よりも強い口調でくりかえした。「お父さんもお母さんも、なんにもねえです。あたい、他の子供たちと一緒に相場師に育てられたんです。スウ婆さんがあたいたちのめんどうをみてくれたんです」
子供は確かにまじめであった。するとジェインが突然ふふっと笑いながら言った。
「まあ、奥さま、こういう子供はいくらでもいるんでございますよ。相場師はこんなのを小さい時に安く引きとって、それを大きくして売るんでございますからね」
「前の家にはどのくらい奉公していたの?」
「知らねえです、奥さま」
「一年ぐらいなの、もっと長く、それとももっと短く?」
「知らねえです、奥さま」
「まあ、奥さま、こういう下等な黒ん坊たちですもの、――わかりっこありませんわ。時間のことなぞなんにも知らないのですもの」とジェインは言った。「一年がどのくらいだかわかりはしないし、自分の年だって知ってはいないのでございますよ」
「これまでに神さまのことを聞いたことがありますか、トプシィ?」
子供は当惑した顔つきであったが、相変わらずにやりと歯を見せて笑った。
「どなたがおまえをお造りになったか、知っていますか?」
「だれでもねえでしょう」と言って子供はふふふと笑った。
この考えはどうやらこの子をよほどおもしろがらせたようであった。なぜなら、その子は目をきらきらと輝かせて、こうつけ加えたからである。
「あたいはきっと、自分で生えてたんだと思うです。だれもあたいを作ったんではねえと思うです」
「おまえ、針仕事はできますか?」とミス・オフィーリアは、質問をもっと具体的なものへ向けたほうがよさそうだと思って、言った。
「できねえです、奥さま」
「では何ができますか?――前の家ではどんな奉公をしていたのです?」
「水を汲んだり、お皿を洗ったり、ナイフを磨いたり、お客さんの給仕をしたりしていたです」
「ご主人や奥さんはやさしくしてくれましたか?」
「くれたと思うです」と子供はずるそうにミス・オフィーリアの顔色をうかがいながら言った。
ミス・オフィーリアはこの頼もしい会談を打ち切って立ち上がった。と、いつの間にかセント・クレアが、彼女の椅子の背にもたれかかるようにして立っていた。
「どうです、処女地でしょう、従姉《ねえ》さん。さっそくここへあなた自身の考えを植えつけてみることですね。――引っこ抜かなければならないようなものは大してないでしょうからね」
ミス・オフィーリアの教育に関する考えは、彼女の他の考えと同じように、きわめて頑固な、そして明確なものであった。それは、一世紀ほど前のニュー・イングランドに流行したような種類のもので、今日でも、鉄道の敷かれていない非常に辺ぴな、人里離れた地方に行けば見られるようなものであった。ごく簡単に言えば、それは次の数語に要約することができるのである。すなわち、人から話しかけられた時には心を留めて聴くように教えること、教義問答、裁縫、および読書を教えること、嘘をついた時には鞭で罰すること、である。こうしたことはもちろん、今日の教育に注がれている光の洪水の中にあてて観れば、はるか時代の彼方に取り残された方法ではあるが、しかもなお、われわれの祖母たちは、こうした教育方法で多くの男女をりっぱに育てあげてきたということは疑う余地のない事実であって、われわれの多くがそうした事実を想起したりまた立証したりすることができるのである。いずれにしても、ミス・オフィーリアは他に方法を知らなかった。そこで彼女はこの方法をできるだけ勤勉にこの異教徒に対して適用することにしたのである。
子供はミス・オフィーリアの召使いとして披露《ひろう》され、家の者たちもそのように心得た。そして台所では少しも愛想のよい目で見られることがなかったので、ミス・オフィーリアはこの子の仕事と教育の範囲を、主として自分の部屋に限ることにした。読者の皆さんの中にはわかっていただけるかたもあると思うが、これはミス・オフィーリアのまったくの犠牲的精神で決意したことなのである。なにしろ彼女は、自分の気のすむようにきちんとベッドを整え、部屋を掃き、埃《ほこり》を払っていたのであったが――そしてこれまでに何度も、そんなことはこの屋敷の小間使いにやらせたらどうか、と言われながらも、それを頭から断わって自分でやってきたのであったが、――今度は教育のためにトプシィにこの仕事をさせねばならぬ運命を我とわが身に課したからであった。――ああ、なんという悪日であろう! 皆さんの中にこうした経験をおもちのかたがいらしたら、彼女の自己犠牲がいかばかりであったか、おわかりいただけることであろう。
ミス・オフィーリアは最初の朝、まず手始めにトプシィを自分の部屋に連れてきて、厳かに、ベッドを整える時の技術とこつとを教えはじめた。
この時のトプシィの恰好たるや、からだの垢《あか》もきれいに洗い落とされ、自分では気に入っていた例の束ね髪もすっかり刈りとられて、洗いたてのきれいな服を着せられ、糊のよくきいたエプロンをかけさせられて、葬式にでもふさわしいようなまじめくさった顔つきで、ミス・オフィーリアの前にうやうやしく立っていた。
「さあ、トプシィ、私のベッドはどうやって整えたらいいか今やって見せてあげるからね。私はベッドのことになるととても気むずかしいのです。ですからきちんとやり方を覚えるのですよ」
「はい、奥さま」と言ってトプシィは深いため息をつき、情なさそうなしんけんな顔つきをした。
「さあ、トプシィ、いいかい。――これがシーツのへりです。――こっちがシーツの表で、こっちが裏ですからね、――いいね?」
「はい、奥さま」と言ってトプシィはまたため息をついた。
「では、今度は、下のシーツ。これを|長まくら《ボウルスター》の上に掛けるのです。――ほら、こうして、――それからこれをきちんと、皺《しわ》を作らないようにして敷布団の下へ折り込むのです、こうやってね、――わかりましたか?」
「はい、奥さま」とトプシィは、深く念を入れて言った。
「でも上の方のシーツはね」とミス・オフィーリアは言った。「こういうぐあいにして、足のところでしっかりと、皺を作らないようにして折り込むのです。――こういうふうにね、――シーツはへりの狭いほうを足の方にもって来るのですよ」
「はい、奥さま」とトプシィは前と同じように答えた。――しかしわれわれはここでミス・オフィーリアには気がつかなかった事件を書き添えておこう。つまりこの善良な婦人が自分の手さばきに熱中して相手に背を向けている隙に、若い弟子のほうはそばにあった手袋とリボンをひょいとつまみ上げて、それを巧みに自分の袖《そで》の中に滑り込ませ、前と変わらぬうやうやしい態度で、両手を組み合わせて立っていたのである。
「では、トプシィ、今度はおまえがやってごらん」とミス・オフィーリアは言いながら、シーツをはいで、自分は椅子に腰をおろした。
トプシィは非常にまじめに、また非常に器用な手つきで、ミス・オフィーリアが満足するほど完全にこの練習をやってのけた。シーツはきれいにのばし、皺も一つ一つ叩いて消したりして、初めから終わりまでじつにまじめでしんけんな様子を見せていたので、教えるほうもすっかり感動してしまった。しかし運悪く、もう少しで終ろうという時になって、片方の袖からリボンの端がひらりと垂れ下って、ミス・オフィーリアの注意を引いてしまった。ミス・オフィーリアはすぐにそれに飛びついていった。「なんですこれは? この悪《わる》のいたずら者、――おまえ、これを盗んでいたんだね!」
トプシィの袖口からずるずるとリボンが引き出されたが、それでも彼女は狼狽《ろうばい》する様子なぞ少しも見せず、ただひどく意外なことで自分には身に覚えのないことだといったような何食わぬ顔でそれをながめていた。
「あれ! まあ、それ、ミス・フィーリイのリボンでねえか? どうしてあたいの袖なんかに入っていただ?」
「トプシィ、このいたずら者、嘘をつくんじゃありません。――おまえがこのリボンを盗んだんです!」
「奥さま、ほんとうに、あたい、盗《と》ったんではねえです。――そんなもの今の今まで、見たこともねえです」
「トプシィ」とミス・オフィーリアは言った。「おまえ、嘘をつくのは悪いことだということを知らないのですか?」
「あたい、嘘なぞ絶対につかねえです、ミス・フィーリイ」とトプシィは天地にも恥じぬようなまじめくさった顔で言った。「あたいの言っていることはほんとうです、嘘なんかではねえです」
「トプシィ、おまえがそうやって嘘ばかりついていると、私はおまえを鞭で折檻《せっかん》しなければならなくなりますよ」
「あれ、奥さま、あたい、一日じゅうぶたれてもほかに言いようはねえです」とトプシィはべそをかきながら言った。「あたい、そんなもの、見たことねえです、――きっとひとりでに、あたいの袖に入ってしまったんです。きっと、ミス・フィーリイがベッドの上においといたもんだから、シーツの中に入って、それであたいの袖に入り込んだにちげえねえです」
ミス・オフィーリアはこの臆面《おくめん》もない嘘にすっかり憤慨して、子供のからだに手をかけるとそれを揺さぶった。
「二度とそんな嘘をつくもんじゃありません!」
揺さぶられたはずみに、もう一方の袖口から手袋が床に落ちた。
「それ、ごらん!」とミス・オフィーリアは言った。「これでもおまえはリボンを盗んだのではないと言うのですか?」
トプシィはそこで、手袋を盗んだことは白状したが、リボンのほうは、あくまでも知らぬと言い張った。
「いいかい、トプシィ」とミス・オフィーリアは言った。「もしおまえがこのことをすっかり白状するなら、今度だけは鞭は勘弁してあげます」こう誓って言われると、さすがのトプシィも悲しそうにいろいろと後悔の言葉を並べながらリボンと手袋の件を白状した。
「よろしい。で、どうなの。おまえ、この家に来てから他にも何か盗んでいるでしょう、きのうは一日じゅうおまえを自由に遊ばせておいたんですからね。さあ、盗んだものがあったら言っておしまい、鞭でぶつようなことはしませんからね」
「なら、奥さま! あたいお嬢さまが首にかけていた赤いものを盗《と》ったです」
「ふん、このいたずら者!――で、それから後は?」
「ロゥザの耳飾りを盗ったです、――あの赤いのを」
「すぐそれを持って来なさい、両方ともです」
「あれ、奥さま! それはできねえです、燃やしてしめえましたですから!」
「燃やしてしまった!――嘘おっしゃい! さあ持って来るんです。さもないと鞭でぶちますよ」
トプシィは大声でわめいたり、泣いたり、呻いたりして、どうしてもできないと言い張った。「みんな燃やしちまったです、――ほんとです」
「ではなんのために燃やしたのです?」とミス・オフィーリアは言った。
「あたいが悪《わる》だからです、――だからです。どうせ、あたいはとても悪《わる》なんです。そうなるよりしかたがねえんです」
ちょうどこの時、エヴァが何も知らずに部屋に入って来た。見るとその首には例の珊瑚《さんご》の首飾りがかかっていた。
「まあ、エヴァ、その首飾りはどこで見つけたの?」とミス・オフィーリアは言った。
「見つけたって? あら、あたしけさからずっとかけてますわ」とエヴァは言った。
「では、きのうもそれをかけてましたか?」
「ええ、それにおかしなことですけど、伯母さま、あたし夜中これをかけてましたのよ。だって寝る時、はずすのを忘れてしまったんですもの」
ミス・オフィーリアはまったく狐にでもつままれたような顔つきであった。そして更に驚いたことには、ちょうどその時、アイロンをかけたばかりのリンネルを籠に入れ、それを頭にのせて部屋に入って来たロゥザの耳には例の耳飾りがちゃんとぶら下っているではないか!「まったくこの子にはあきれるばかりだわ!」とミス・オフィーリアはすっかりもてあました様子で言った。「いったいどうしてこんなものまで盗《と》ったなんて言うのです、トプシィ?」
「だって、奥さまが白状しろって言うたからです。それにあたい、他に白状するものが思いつかなかったからです」とトプシィは目をこすりながら言った。
「しかし、もちろん私は、盗《ぬす》みもしないものまで白状しろとは言いませんでしたよ」とミス・オフィーリアは言った。「それはやはり嘘というものですからね、盗んだものを盗まないと言うのと同じようにね」
「あれ、まあ、そうですか?」とトプシィはきょとんとした様子で言った。
「ほーら、こんないたずら者には嘘もほんとうもわかりゃしないんですわ」とロゥザは憤然とトプシィを睨みつけながら言った。「もしわたしがセント・クレアさまだったら、血が流れ出すまで鞭でぶってやるのに。きっとそうやって、――思い知らしてやるわ!」
「いいえ、いけません、ロゥザ」とエヴァが、時おりこの少女が見せるあの威厳のある態度で言った。「そんなふうな口をきいてはいけないわ、ロゥザ。あたしにはとても聞いていられません」
「まあ! お嬢さま、あなたはほんとうにお優しいかたですから、黒ん坊の扱い方をご存知ないのですわ。こういう連中はうんとこらしめてやる以外に方法はありませんのですよ、ほんとうでございますよ」
「ロゥザ!」とエヴァは言った。「おだまりなさい! 二度とそんなことを言うもんじゃありません!」子供の目は輝き、その頬は紅潮した。
ロゥザはとたんに首をすくめた。
「お嬢さまはご先祖からの血を引いていらっしゃるんだわ、きっと。あのしゃべり方ったら、どう見たっておじいさまそっくりだものね」と言いながら彼女は部屋から出ていった。
エヴァはじっと、トプシィを見つめて立っていた。
そこには社会の両極端を代表する二人の子供が立っていた。金色の髪の毛、深い眼差《まなざ》し、秀でた気品のある額、そして威厳のある態度を身につけた美しい、上品な子供。そしてそのかたわらに立つまっ黒な、鋭い、陰険な、卑屈なしかも抜け目のない子供。二人はまたそれぞれの民族をも代表して立っていた。長年の教化、支配、教育、肉体的・道徳的優秀性から生まれたサクソン民族と、長年の圧迫、服従、無知、労働そして悪徳から生まれたアフリカ民族!
おそらく、エヴァの心の中にはこういう考えが這いまわっていたかもしれない。しかし子供の考えというものは、とかく漠然とした説明しがたい本能的なものであって、エヴァの気高い胸の中で、こうした種類の多くの考えが心を痛め働きかけていたとしても、彼女にはそれを言い表わすだけの力はなかった。ミス・オフィーリアがトプシィのいたずらを詳しく説明している間、エヴァは困惑したような悲しそうな様子をしていたが、やがてこう優しく言った。
「かわいそうなトプシィ、どうして人のものを盗《と》ったりする必要があるの? おまえは、これからはちゃんとめんどうをみてもらえるのよ。おまえに盗みを働かせるくらいなら、あたし自分のものをなんでもおまえにあげるわ、ほんとうよ」
それは、トプシィが生まれて初めて聞く優しい言葉であった。その優しい調子と様子は不思議な力でこの荒々しい粗野な心を打った。そして涙のような何かきらりと光るものが、鋭い、丸い、ぎらぎらする目の中で閃いた。しかしそれもすぐに消えて、彼女はふふふと笑うと例のごとくにやりと歯をみせた。そうだ! 罵詈雑言《ばりぞうごん》しか聞いたことのない耳には、不思議にも、優しさというような天国的なものを容易に信じることができないのである。だからトプシィはエヴァの言葉を何か奇妙な不可解なものと思っただけで、――彼女はそれを信じなかったのである。
しかしトプシィをどうしたらいいのであろう? ミス・オフィーリアにとってこれはまったくの難問であった。彼女の教育法は適用できそうにもなかった。彼女はしばらく時間をかけて考えてみようと思った。そこで時を稼ぐために、そしてまた、暗い押入れの中に元来備わっていると考えられているあの何か漠然とした道徳的な効力を期待しつつ、ミス・オフィーリアは、この問題に関する自分の考えがまとまるまで、トプシィを押入れの中に閉じこめておくことにした。
「私にはわかりません」とミス・オフィーリアはセント・クレアに言った。「鞭を使う以外にいったいどうやってあの子を扱ったらいいのでしょう」
「そうですか、それなら鞭をお使いになったらいいでしょう、気のすむまでね。あなたにすべてお委せしますから、お好きなようにやって下さい」
「子供というものはいつでも鞭で教育することが必要です」とミス・オフィーリアは言った。「鞭のない教育なんて聞いたことがありませんからね」
「そりゃあ、まあ、そうでしょうね」とセント・クレアは言った。「とにかく一番よいと思った方法でやって下さい。ただ一つだけ申し上げておきますがね、私は、あの子が火掻き棒で打たれたり、シャベルとか火ばさみとか、なんでも手近にあったもので殴り倒されたりするのを見たことがあるんです。そしてあの子がこういう折檻には慣れていることを考えると、あなたの鞭うつ手がかなり強くないとあまりききめはないと思いますね」
「では、どうしたらいいのです?」とミス・オフィーリアは言った。
「そうです、それが重大な問題なのです」とセント・クレアは言った。「私はそれをあなたに答えていただきたいと思うのです。いったいどうしたらいいのでしょう、この鞭でしか支配することのできない人間は。――しかもその鞭では必ず失敗に終わるのです。――それがこの南部ではごくあたりまえの状態なのですからね!」
「ほんとうに私にはわからないのです。あんな子は今まで見たこともなかったのですから」
「ああいった子供は、こちらではごく普通ですよ、それにああいう男も女もね。こういう連中はどうやって支配したらいいんでしょうかね?」とセント・クレアは言った。
「私にはとても答えられません」とミス・オフィーリアは言った。
「私だってそうです」とセント・クレアは言った。「時々新聞にのるあの恐ろしい虐待や暴行は、――たとえば今度のプルーのような事件は、――どうして起こるのでしょうか? 多くの場合、それは双方の感覚がだんだんと麻痺してくるからなのです。――所有者のほうが残酷になればなるほど召使いのほうはますます無感覚になるのです。折檻とか罵倒《ばとう》とかというものは阿片と同じです。感覚が鈍るにつれて薬の量を増してゆかなければならないのですからね。この事実を私は、奴隷所有者になった時すぐに知りました。そして私は、絶対にこうしたことには手を出すまいと決心しました。――一度始めたら最後、どこでやめたらいいか私にはわからなかったからです。――そして私は、少なくとも私自身の道徳性だけは守ろうと決心しました。その結果、私の召使いたちはまるで甘やかされた子供のようにふるまうことになったのです。しかし私はこのほうが、われわれ双方ともが獣みたいになってしまうよりはましだと思っています。従姉《ねえ》さん、あなたはわれわれには奴隷を教育しなければならぬ責任があると大いに説いていらっしゃいましたね。そこで私は、ぜひあなたに一人試していただきたかったのです。あの子はわれわれの中にいる何千という奴隷の見本なのですからね」
「こういう子供たちができるのも、元はといえばあなたがたの奴隷制度というものがあるからではありませんか」とミス・オフィーリアは言った。
「それはわかっています。しかし、そういった子供が現にできているのです。――実際に存在しているのです。――それでこういう子供たちはいったいどうしたらいいのかということなんです?」
「そうね、こんな実験はあまりありがたいとは言えませんね。でも、なんだか義務のような気もしますから、辛抱してやってみましょう、そしてできる限りのことはやってみます」とミス・オフィーリアは言った。そして彼女はそれ以来、賞賛に値するほどの熱意と精力とをもってこの新しい問題と取りくんだ。彼女はトプシィのために規則正しい時間と仕事とをもうけて、読み方と針仕事とを教えはじめた。
読み方のほうでは、この子の上達はきわめて早かった。まるで魔法でも使うかのようにすらすらと字を覚えて、たちまちやさしい読物が読めるようになった。しかし針仕事のほうは、ひどくむずかしかった。子供は猫のようにしなやかで、猿のように活発であったから、針仕事のような窮屈なものは大嫌いであった。そこで針を折ったり、こっそり窓から投げ捨てたり、壁の隙間に突っこんだりするかと思うと、糸をもつれさせたり、切ったり、汚したり、あるいはまた素知らぬ顔で糸巻きごと投げ捨ててしまったりした。そういう時の彼女の動作は、それこそ熟練した魔術師のように敏捷《びんしょう》で、そのうえ、顔の表情を自分の意のままに変える術にかけても同じように大した腕前であった。そのためミス・オフィーリアは、こうもいろいろな事件が引き続いて起こるはずはないと内心思わずにはいられなかったが、まさか仕事もせずにしじゅう見張っているわけにもいかなかったので、現場をおさえることができなかった。
トプシィは間もなくこの屋敷の中では名だたる人物になった。道化、百面相、物真似などなんでも、――踊りであろうが宙返りであろうが、木登り、歌、口笛、それに自分が気に入った音ならどんな音でも真似てみせるといったぐあいに、――その才能はまったく尽きるところがないように思われた。遊び時間になると、彼女はきまって屋敷内の子供たちを一人残らず引連れて歩いていたが、その子供たちはだれもが彼女の演技に感心したり驚いたりして口をぽかんとあけていた。――エヴァでさえ例外ではなく、よく鳩がぎらぎら目を光らせた蛇に魅せられるように、トプシィの野性的な魔力に心を奪われているようであった。ミス・オフィーリアは、エヴァがあまりトプシィと遊ぶことが好きになってはと不安になって、セント・クレアにそれを禁じるように懇願した。
「なあに、あの子は放っておいても大丈夫です」とセント・クレアは言った。「トプシィもエヴァにとってはためになるでしょうからね」
「だってあんな堕落した子供ですよ、――あなたはあの子がエヴァに何か悪いことを教え込みはしないかと思わないのですか?」
「エヴァに向かって悪いことを教えられるはずはありません。他の子供たちには教えられるかもしれませんが、しかしエヴァの心にはいくら邪悪が乗りうつろうとしてもすぐに転げ落ちてしまうのです。ちょうど露がキャベツの葉から転げ落ちるようにね、――一滴だって滲み込むようなことはないのです」
「あまり自信をもちすぎてはいけませんよ」とミス・オフィーリアは言った。「私だったら自分の子供は絶対にトプシィとは遊ばせませんね」
「そりゃあ、あなたのお子さんたちだったらその必要はないでしょう」とセント・クレアは言った。「しかし私の子は遊ばせておいてもかまわないのです。もしエヴァが悪くなるとしたら、もう何年も前にそうなっていたでしょうからね」
トプシィは、初め上部の召使いたちからは軽蔑されたり侮辱されたりしていた。しかしその召使いたちもほどなく自分たちの意見を変えなければならないことに気がついた。トプシィを侮辱したものはだれでも、そのすぐあとで必ず何か不都合な事件に遭遇するということが、まもなくわかってきたからであった。――耳飾りとか日ごろ大切にしている装飾品とかが見えなくなったり、ドレスが突然ぼろぼろになって出てきたり、ふとしたはずみに熱湯の桶に足を突っ込んだり、晴着の頭に理由《わけ》もなく汚水の御神酒《おみき》が降ってきたりするのである。――そのたびごとに調査が行なわれるのであるが、こうしたいたずらの犯人はいっこうに見つからなかった。トプシィは何度も召喚されて、家内法廷に立たされたが、いつも、その場に居並ぶ者を感動させるような、あどけないまじめな顔つきでその尋問に答えていた。だれ一人、彼女がやったことに疑いをもつ者はいなかったが、その仮説を立証するにたる直接の証拠は何一つ見つからなかった。そしてミス・オフィーリアは非常に公正であったから、証拠もないのにかってに罰を加えるようなことは彼女にはとてもできなかった。
それにまた、いたずらはいつもじつにうまい機会をねらって行なわれるので、犯人はますます捉《とら》えにくかった。したがって、小間使いのロゥザやジェインに対する仕返しの時期にしても、必ずこの二人が奥さまの不興を買って(それはよくあることであったが)、彼女らがどんなに不平を並べても絶対に奥さまからの同情は得られないような時が選ばれた。要するに、トプシィはまもなく屋敷じゅうの者に、自分にはかまわぬほうが無難だということを理解させたのである。そしてそのとおり、彼女にかまうものはいなくなった。
トプシィは、腕を動かしてする仕事にかけては、何をやらせても器用で熱心であったので、一度教えられたことはなんでも驚くほど早く覚えた。ミス・オフィーリアの部屋の作法にしても、二、三度練習しただけで、このやかまし屋の婦人でさえ一つとして欠点を指摘することができないほど完全に覚え込んでしまった。したがって気が向きさえすればトプシィほどきれいにベッド・カヴァーを掛け、きちんと枕を並べ、りっぱに拭き掃除《そうじ》をし、整頓をすることのできる者はこの世の中にはいないのである。――もっとも彼女がそんな気を起こすのはごくまれのことではあったのだが。もしミス・オフィーリアが三、四日そっと辛抱づよく監督したあとで、すっかり満足して、トプシィもやっとこれで自分の思うとおりになった、これからは目を光らせていなくても大丈夫だろうなどと考えてその場を離れ、何か他の仕事にかまけていようものなら、さっそくトプシィは一、二時間の間は手もつけられないような大騒ぎをまきおこすのである。ベッドを整えるどころか、枕カヴァーははぎとる、枕の間にはもじゃもじゃ頭を突っ込む、時には中の羽毛が頭じゅうにくっついて奇怪な姿となるまでそれをおもしろがってやる。そうかと思うとベッドの柱に登って、てっぺんから逆さまにぶら下がる。シーツもベッド・カヴァーも部屋じゅうにまき散らす。長枕にミス・オフィーリアの寝巻きを着せて、いろいろな芝居をやらせる。――唄は歌い、口笛は吹く、鏡の前では自分に向かってしかめ面をしてみせる。要するに、ミス・オフィーリアの言葉を借りて言えば、まずまず「カイン(創世記、第四章参照)を育てている」ようなものであった。
ある時ミス・オフィーリアが行って見ると、自分が一番大切にしている緋《ひ》のカントン・クレープの肩掛けをターバンのように頭に巻きつけたトプシィが、得意になって鏡の前で稽古をしていた。――ミス・オフィーリアは、彼女としてはまったく前例のない不注意から、つい引出しに鍵を置き忘れていたのである。
「トプシィ!」彼女はもう我慢ができないと言わんばかりの様子で言った。「なんだっておまえはそんな真似をするのです?」
「さあなぜですかね、奥さま。――たぶんあたいがとても悪《わる》だからでしょう!」
「もう私にはおまえをどうしたらいいか、さっぱりわからなくなりました、トプシィ」
「あら、奥さま、あたいを鞭でぶてばええんです。前の奥さんはいつもぶってましたです。あたい、鞭でぶたれねえとどうも働けねえようになっているです」
「いいえ、トプシィ、私は折檻なぞしたくありません。おまえはその気にさえなれば、なんでもちゃんとできる子供です。なのにおまえは、どうしてその気にならないのです?」
「そりゃあ奥さま、あたいが鞭に慣れついちまっているからですよ。あたい、鞭は薬だと思うです」
そこでミス・オフィーリアはしばらくの間この処方を試してみた。するとトプシィはきまって大げさに騒ぎ出して、大声で悲鳴をあげたり、呻き声をたてたり、すがりついて来たりした。そのくせ、三十分もすると、ヴェランダの出っぱりにちょこんと腰をかけて、自分をとりまく賞賛顔の「ちびっこたち」を相手に、英雄気どりでこの事件の一部始終を話してきかせるのであった。
「へん、ミス・フィーリイの鞭なんか!――蚊いっぴき殺せやしねえだ、いくら叩いたってよ。前の旦那にやられた時は肉がふっとんじまっただぞ。旦那は鞭の使い方をよく知ってたでな!」
トプシィは、どうやら自分の罪業や悪業を自分だけがもっている何か非凡なものとでも考えているらしく、いつもこれらを大いに利用していた。
「へん、黒ん坊たち」と彼女は、傍聴人に向かって話しかけるような調子で言った。「おまえたちはみんな罪人だということを知ってるだか? ああ、おまえもそうだ、――だれもかもみんなそうなんだぞ。白人たちだって罪人だ。ミス・フィーリイがちゃんとそう言うてるだからな。だけんど、あたいは、黒ん坊が一番すてきな罪人だと思うだ。だが、ええか! おまえたちの中にはあたいほどの罪人は一人もいねえだぞ。あたいはものすごい悪《わる》だから、あたいにかなう者は一人もいるはずはねえだ。あたいはよく、前の奥さんに半時もあたいに向かって悪態を言わせておいたことがあったでな。だからあたいは、この世の中であたいが一番悪い人間だと思っているだ」そう言いながらトプシィはとんぼ返りをうつと更に高い所に、勢よく、顔を輝やかせながら、飛び移った。その様子はどうやら自分の非凡さをさも自慢しているようであった。
ミス・オフィーリアは日曜日ごとにトプシィを呼んでじつに熱心に教義問答を教えた。トプシィは言葉に関してはすばらしい記憶力をもっていて、すらすらと頭に入れていくので、教えるほうでも大いに張合いがあった。
「そんなことをしてあの子になんのたしになると思うんです?」とセント・クレアが言った。
「あら、教義問答はいつだって子供たちのためになりますよ。これは子供たちが必ず学ばなければならないものですからね」とミス・オフィーリアは言った。
「わかろうが、わかるまいが、でしょ」とセント・クレアは言った。
「そりゃあ、子供ですもの、まだこのころにはわかりません。でも大きくなったら、わかってきます」
「私はいまだにわかりませんね」とセント・クレアは言った。「確か私は、子供の時、あなたからそれこそ徹底的に叩き込まれたはずでしたがね」
「そう、あなたもしじゅう熱心に学んでくれましたね、オーガスティン。それで、あなたには大きな希望をよせていたのです」とミス・オフィーリアは言った。
「というと、今ではもうよせてはいないのですか?」とセント・クレアは言った。
「私は、あなたが今でも子供のころのあのりっぱな心をもっている人であって欲しいのです、オーガスティン」
「私も同感ですね、ほんとうですよ、従姉《ねえ》さん」とセント・クレアは言った。「ではまあ、トプシィの教義問答は続けてみるんですね。おそらくそのうちに、まだ何かお気づきになることがあるでしょうから」
こうした二人の議論の間、黒い彫像のように立っていたトプシィは、その時もまたきちんと両手を組んで立っていたが、ミス・オフィーリアの合図で、先を続けた。
「自分たち自身の意志の自由に任されたわれわれの最初の両親(アダムとイヴのこと)は、二人が創造《つく》られた御国《ステイト》から転落した」(初等学校の教科書「ニューイングランド・プリマー」の中の教義問答にある)
トプシィの目が輝いて、彼女は何か聞きたそうな様子をした。
「どうしたのです、トプシィ?」とミス・オフィーリアは言った。
「あの、奥さま、その国《ステイト》というのはキンタック(ケンタッキー州のこと)のことですか?」
「どこの国がですって、トプシィ?」
「二人がそこから落ちちまったという国《ステイト》です。前の旦那はよく人に、あたいたちがキンタックからおりて来た時のことを話していたが、あたいそれを聞いてたことがあるです」
セント・クレアは声をたてて笑った。
「この子には言葉の意味を教えてやらなくてはいけませんね、さもないと自分でかってにこしらえてしまいますよ」と彼は言った。「どうもこの子の頭には移民論のようなものが浮かんでいるらしいですよ」
「さあ! オーガスティン、静かにして下さい」とミス・オフィーリアは言った。「あなたがそういつまでも笑っていたんでは、私、何もできないじゃありませんか」
「では、誓って、これからは二度と勉強のじゃまはしないようにしましょう」そう言ってセント・クレアは新聞をもって客間へ行き、トプシィの暗誦が終わるまでそこにすわっていた。暗誦は最後までじつにみごとにできた。ただ時々、トプシィはある重要な言葉の順序を奇妙に言い違えて、それを何度注意されても、いっこうに改めることができなかった。セント・クレアは、おとなしくしていると約束はしたものの、元来こうした間違いにはいたずらっぽい喜びを感じるほうだったので、気が向くとすぐにトプシィを自分のところに呼び寄せて、ミス・オフィーリアが抗議するのも聞かず、その間違った文句をもう一度くりかえさせるのであった。
「あなたがいつまでもそんなことをなさっていたんでは、いったい私はこの子に何ができると思うのです、オーガスティン?」とそのたびに彼女は言った。
「おや、これはすみません、――もう二度としませんよ。ただこの剽軽者《ひょうきんもの》のちびさんがああいう大きな言葉につまずくのを聞くのがじつに愉快なものですからね!」
「でもそれではますます間違いが直らなくなるではありませんか」
「かまいませんよ。この子には、どちらの言葉だって同じなんですからね」
「あなたは私にこの子を正しく教育してほしいとおっしゃったんですよ。それにこの子が理性のある人間だということを忘れてはいけません。そしてこの子に及ぼすあなたの影響ということにも気をつけて下さらなくてはいけません」
「こりゃあたいへん! 私も同感ですね。しかし、トプシィの言葉を借りれば、『あたい、とても悪《わる》だでな!』ですからね」
このようにしてトプシィの教育は一、二年続いた。――ミス・オフィーリアはこの子には、まるで慢性の厄病のように、毎日手をやいていたが、そのうちに、人々がよく神経痛や頭痛に慣れてしまうように、その苦痛をなんとも思わなくなった。
セント・クレアは、他人《ひと》がおうむや犬《ポインター》の芸をおもしろがるように、この子をおもしろがった。トプシィは屋敷のどこかで悪いことをして叱られそうになると、いつでも彼の椅子の蔭に避難した。するとセント・クレアは何かとこの子のためにとりなしてやるのであった。トプシィはセント・クレアから小銭をもらうことがよくあったが、その金でくるみやキャンデーを買ってきてはじつに気前よく、屋敷じゅうの子供たちに分けてやった。というのも、トプシィという子供は、公平に評価すれば、根は気だてのよい大まかな子なので、ただ自衛上、意地っぱりになるだけであったからである。さて、わが舞踊団《コール・ド・バレー》に対するトプシィの紹介は、まずはかくのごとくであるが、彼女はこれからも時々、出番をまって、他の踊り手たちと一緒に登場するはずである。
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第二十一章 ケンタック
読者の皆さんは、ここでわれわれがしばらくの間、ケンタッキーの農場にあるアンクル・トムの丸木小屋を振り返って、あとに残してきた人々の間にどのようなことが起こったか見たいと思ってもそれをいやとはおっしゃらないでしょう。
それは夏の日の午後ももう暮れようとしているころであった。大きな客間の扉や窓は、一つ残らずあけ放たれて、涼《りょう》をもたらす微風を少しでもここへ誘い入れようとしていた。シェルビィ氏はその客間に通じる大きな廊下に出ていた。この廊下は、家の中を走って両端のヴェランダにまで達していたので、風の通りがよかったからである。ゆったりと椅子にもたれ、もう一つの椅子に両足をのせて、彼はうまそうに食後の葉巻をくゆらせていた。シェルビィ夫人は、戸口に椅子を持ち出して、せっせと細かな針仕事をしていたが、何か気にかかることがあるらしく、言い出す機会を見つけようとしている様子であった。
「ねえ、あなた」と彼女は言った。「クロウィがトムから手紙を受けとったことご存知?」
「ほう! そうかね? トムも向こうで友だちができたらしいな。で、どんな様子だね、あの男は?」
「たいそうりっぱな家に買われていったようですのよ」とシェルビィ夫人は言った。――「親切な扱いを受けて、仕事も大してないようですわ」
「ほう! そうかね、そりゃあ結構だ。――ほんとうによかった」とシェルビィ氏は心からそう言った。「それじゃあトムも南部での生活に満足するようになるだろう。――もう二度とこちらには帰って来たがらないだろうね」
「いいえそれどころか、とても気にして書いてよこしたんですのよ」とシェルビィ夫人は言った。「自分を買い戻してくれるお金はいつごろできるだろうかって」
「さあ、それは私にもわからないねえ」とシェルビィ氏は言った。「事業というものは、一度しくじるとあとからあとからと失敗が続いて、それこそ際限がないようなんでね。まるで一つの泥沼から抜け出たと思うと、すぐにまた別の泥沼にはまり込んで、どうしても沼地から出られないといったありさまなのだよ。一方で借りて他方へ返す、そしてその借りたほうに返すためにまた他から借りる。――それにあのいまいましい手形というやつは、人が葉巻をふかして振り返る前にもう期限が切れてしまう。――すると催促の手紙が来る、うるさい使いがやって来る。――もうあっちへ走りこっちへ飛び、金の工面に四苦八苦さ」
「でもあなた、なんとかすれば精算はつきそうにわたくしには思えるんですけど。たとえばうちの馬を全部売り払って、それに農場の一部を売って、それですっかり支払いをすませるようにしたらいかがでしょう?」
「いや、ばかなことを言うもんじゃない、エミリィ! おまえはケンタッキー一のりっぱな女だが、それでもおまえには、自分には事業のことはわからないということに気がつくだけの分別はないんだね。――女にはわからないんだよ、けっしてわかるもんじゃないんだ」
「でも、せめて」とシェルビィ夫人は言った。「あなたのお仕事を理解する手掛かりだけでも、少しは教えて下さってもいいじゃありませんか、少なくとも、あなたが借りていらっしゃるお金の額や、人に貸しつけてある金額の表ぐらいは。そしてわたくしが少しでもあなたのお力になって経費を節約できないものかどうか、やらせていただきたいのです」
「いや、うるさいね! 横から口を出さんでほしいね、エミリィ!――そういちいち覚えてなんかいられるものか。どの程度になっているか大体のことはわかっているがね。私の仕事は、クロウィがパイの皮をきれいにするようなぐあいに、簡単に整理したり清算したりはできないのだよ。おまえには事業のことは何もわからんのだ、絶対に」
と、シェルビィ氏は、他に自分の意見を押し通す方法を知らなかったので、声を張りあげて言った。――しかしこの方法は、世の中の紳士が事業のことで妻と議論する際には、きわめて便利で的確な方法なのである。
シェルビィ夫人は、そっとため息をついて口をつぐんだ。実を言えば、夫は彼女のことを女だからと言ったけれども、彼女は明晰《めいせき》な、活動的な実際的な知力と、あらゆる点で夫よりもすぐれた気力とを備えていた。だから、彼女にも借金返済の工面ができると考えたところで、それはシェルビィ氏が想像するほどばかげたことではなかったのである。彼女の心はトムとアント・クロウィとにした自分の約束を果たすことに集中していた。そしてそれを阻むさまざまな事情が彼女の周囲に深まってきたので彼女はため息をついたのであった。
「私たち、なんとかすればそのお金ぐらい工面できるとはお思いになりません? かわいそうにアント・クロウィ! 彼女《あれ》はそのことばかり考えているんです!」
「だとすると気の毒なことだ。しかし私は早まって約束をしてしまったようだよ。今のところまだはっきりとは言えないが、クロウィにほんとうのことを話してやって、もうこの事は諦めさせてやるのが一番いい方法だと思うね。トムだって一、二年もすれば、またほかに細君をもらうだろうし、彼女《あれ》も他の男と一緒になったほうがいいだろう」
「シェルビィ、わたくしはこれまでうちの者たちに向かって、おまえたちの結婚はわたしたちの結婚と同じように神聖なものだと言いきかせてまいりました。それなのに、そんな忠告をクロウィにするなんて、わたくしには考えることさえできません」
「そりゃあ、おまえがあの連中に、やつらの境遇や将来の見込み以上の道徳を背負わせたからいけないのだよ。私はいつもそう思っていたんだ」
「でもこれは聖書の教える道徳にすぎませんのよ、シェルビィ」
「そ、そりゃあ、エミリィ、私は何もおまえの宗教的な考えにまで干渉しようとは思わないよ。ただ、そういう考えは、ああいった境遇の者たちにはきわめて不適当だと思えるだけさ」
「そうですわ、確かに」とシェルビィ夫人は言った。「だからこそ、わたくしは心の底から奴隷制度というものを憎んでいるのです。ねえ、あなた、わたくしは、こういう寄る辺ない人たちにした約束から手を引くことはできません。もしほかにお金を手に入れる方法がないのなら、わたくし、音楽のお弟子《でし》をとりますわ。――きっとたくさん集めて、自分でそのお金を作ります」
「そんなにまで自分の身を卑めなくてもいいだろう、エミリィ? 私は絶対賛成できないね」
「身を卑めるですって! それは、寄る辺ない人たちの信頼を裏切ることと同じほどわたくしを卑めることでございましょうかしら? いいえ、断じて違います!」
「そりゃあまあ、おまえはいつも英雄的で超絶的《トランセンデンタル》だからね」とシェルビィ氏は言った。「しかし、おまえもそういうドン・キホーテ式なことをやる前によく考えたほうがいいと思うね」
この時、ヴェランダの端にアント・クロウィの姿が見えたので会話は中断された。
「あのう、ちょっと奥さま」と彼女は言った。
「まあ、クロウィ、何か用なの?」そう言って女主人は立ち上がると、ヴェランダの端に行った。
「この詩《ポウイトリ》を奥さまにちょっと見ていただきてえと思いましたもんで」
クロウィは家禽《ポウルトリ》をことさら詩《ポウイトリ》と発音するのが好きであった。――そして家の若い者たちがいくら訂正してもまた忠告しても、けっしてこの言い方を変えようとはしなかった。
「あれ、まあ!」と彼女はよくこんなふうに言った。「おらには合点がいかねえ。どっちでもええでねえか、――とにかく詩《ポウイトリ》だって口にするにゃええもんだからな」そう言ってクロウィは詩《ポウイトリ》で押し通していたのである。
シェルビィ夫人は、たくさんの雛鶏や家鴨《あひる》がいかにもまじめくさった思案顔のクロウィの足もとに平伏している様子を見てほほえんだ。
「これでチキン・パイをこしらえてもええものかどうかと思いましてな」
「まあ、アント・クロウィ、私はどちらでもかまわないわよ、――おまえの好きなようにしてちょうだい」
クロウィは何かぼんやりとした様子で雛鶏や家鴨をいじっていた。彼女の考えているのはそうした鳥のことではないことは明らかであった。やがて彼女は、はたして聞いてもらえるかどうかおぼつかない頼み事をする時に黒人がよくやるように、ちょっと笑ってからこう言った。
「あのう、奥さま! 旦那さまや奥さまはお金のことで心配なさっていらっしゃるに、どうしてご自分の手の中にあるものを利用なさろうとはしねえのでごぜえます?」と言ってクロウィはまた笑った。
「それ、なんのことなの、クロウィ」とシェルビィ夫人は言ったが、クロウィの態度から察して、これは明らかに自分と夫との間に交わした今の話を一語残らず聞かれてしまったのに相違ないと思った。
「いえ、あのう、奥さま!」クロウィはそう言ってまた笑った。「よそさんでは黒ん坊を賃貸しして、お金をもうけているんでごぜえますよ! お屋敷のようにただ穀つぶしに置いておくようなことはいたしません」
「それなら、クロウィ、うちではだれを稼ぎに出せと言うの?」
「いえ! わし、出せなぞと言うてはおりません。ただサムの話だと、なんでもルイヴィルに、世間で言う|仕上げ屋《パーフェクショナー》というのがあって、そこでケーキや菓子を作る腕のいい職人を欲しがっているそうでごぜえます。そして週に四ドルもくれるちゅう話でごぜえます」
「それで、クロウィ」
「それで、まあ、わしの考えますには奥さま、もうそろそろサリィにも何かをやらせていいころだと思うんでごぜえます。何しろサリィももうだいぶ長いことわしの下で働いておりますだから、まあまあわしに負けねえくらい腕もあがりました。で、もし奥さまがわしをやって下さりさえすりゃあ、お金もうけの手伝いぐらいはできると思いますだ。わし、ケーキにしたってパイにしたって、どこの|仕上げ屋《パーフェクショナー》にも負けねえつもりですでな」
「|お菓子屋《コンフェクショナー》でしょう、クロウィ」
「まあ、奥さま! どちらでも同じでごぜえますよ。――どっちも変てこな言葉で、わしにはうまく言えねえですでな!」
「でも、クロウィ、おまえ、子供たちを置いて行くつもりなの?」
「そりゃあ、奥さま! 子供たちももういっぱし仕事ができるぐらいの年ごろですだ。みんなけっこうよくやりますでな。それに赤ん坊のほうはサリィが見てくれます、――あれもずいぶん丈夫な子だで、せわをやかすことはねえと思いますだ」
「ルイヴィルはずいぶんと遠い所ですよ」
「いいえ! そんなことはなんでもごぜえません。――たぶん川下の方で、うちの亭主《とっつぁま》とこに近いんでごぜえましょ?」とクロウィは最後の言葉を問いかけるような口調で言いながら、シェルビィ夫人の顔を見た。
「いいえ、クロウィ、何百マイルも離れているのよ」とシェルビィ夫人は言った。
クロウィは顔をふせた。
「でも気を落とすことはないのよ。おまえがそこへ行けば、それだけ近くなるわけだからね、クロウィ。ええ、行ってもいいわ。そしておまえのお給金は、一文残らず、おまえの連れ合いを買いもどすお金として積みたてておいてあげますからね」
明るい太陽の光が黒雲を銀色に変えるように、クロウィの暗い顔はたちまち輝き出した。――それはほんとうに光り輝いたのである。
「まあ! 奥さま、ありがとうごぜえます! わしも、そうしていただけたらと考えておりましたんでごぜえます。わし、着物も靴も何も必要ねえですから、――給金はみな貯めることができますだ。一年は何週あるんでごぜえますか、奥さま?」
「五十二週よ」とシェルビィ夫人は言った。
「まあ! そうでごぜえますか? で、一週間に四ドルずつ。するとみんなでどのくらいになるんでごぜえます?」
「二百八ドルよ」とシェルビィ夫人は言った。
「へーえ!」とクロウィは驚きと喜びの入りまじった調子で言った。「で、買いもどすお金を全部稼ぎだすには、どのくらいかかりますんでごぜえますか、奥さま?」
「まあ四、五年だろうね、クロウィ。でもおまえがそれを一人でする必要はありません。――私のほうでそれにいくらか足してあげますからね」
「奥さまがお弟子をおとりになったり、何かなさるのはいけません。旦那さまのおっしゃるとおりでごぜえます。――そんなことは絶対にいけません。わしにこの二つの手がある間は、お家のかたにはけっしてそんなことはおさせしませんですよ」
「心配しなくてもいいのよ、クロウィ。私も家の名誉には気をつけますからね」とシェルビィ夫人はほほえんで言った。「でも、おまえ、いつから行くつもりなの?」
「さあ、べつに考えてはいないのでごぜえますが、ただサムが子馬を少し連れて川まで行くことになっていて、わしに一緒に連れていってやってもええと言ってくれましたんでごぜえます。で、わしもまあ、荷物だけはまとめておきましただ。もし奥さまがよろしいとおっしゃれば、明日の朝サムと一緒に行きてえと思うとりますが。奥さまが通行許可証と推薦状を書いて下せえますなら」
「それなら、クロウィ、旦那さまさえご異存がなければ、そのようにしてあげましょう。いちおうお話してみなければなりませんからね」
シェルビィ夫人は二階に上がっていった。そして、アント・クロウィは喜んで支度のために自分の丸木小屋に帰っていった。
「なあ、ジョージ坊っちゃま! 婆やはあしたルイヴィルへ行きますんですよ!」と彼女は、せわしげに赤ん坊の着物を選り分けているところへ入って来たジョージを見て言った。「で、赤ん坊の着るものを調べて、ちゃんとしておいてやりてえと思いましてな。婆やは行くんでごぜえますよ、ジョージ坊っちゃま、――週に四ドルも稼ぐんでごぜえます。奥さまはそれをみんな貯めておいて下さって、うちのとっつぁまをまた買いもどして下さるんですよ!」
「へえ!」とジョージは言った。「そいつはすごいね、ほんとうに! で、どうやって行くの?」
「あした、サムと一緒に行きますだ。でな、ジョージ坊っちゃま、ちょっくらここにおすわりになって、うちのとっつぁまに手紙を書いて、このことを知らせてやって下さりませんかのう、――な、坊っちゃま?」
「ああいいとも」とジョージは言った。「アンクル・トムもぼくたちの便りを聞いたらほんとうに喜ぶだろうな。ぼく、すぐに邸へ行って紙とインクを取ってくるからね。そうしてね、アント・クロウィ、ぼく、新しい子馬だのいろんなことを書いてやるよ」
「ええ書いて下せえ、書いて下せえ、ジョージ坊っちゃま。さあ行ってらっしゃいまし、婆やがその間に雛鶏かなにか作っておきますでな。婆やのところでご飯をたべるのも、もうたんとはありませんでしょうからのう」
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第二十二章 「草はかれ――花はしぼむ」
(イザヤ書、第四十章第七〜八節およびペテロの第一の手紙、第一章第二十四節)
人生は、だれの上にもいちように日一日と過ぎ去ってゆく。それはわれわれのトムの上にも同じで、あれから二年の歳月が流れていった。彼は自分の愛するすべてのものから引き離され、また、将来のことにしばしば思いを走らせることがあったが、それでも彼の生活は、はたから見ても、また自分の意識するところからも、けっして不幸なものではなかった。というのも、人の心の竪琴《たてごと》はじつに巧みに張られているので、全部の弦《いと》を断ち切るほどの破壊がない限り、その諧調はけっして損われることがないからである。そしてこの二年間を振り返ってみて、そこに失われたもの、苦しい試練となったものが思い出されたとしても、日が経ち時が経つにつれて、慰めや救いがもたらされたのであるから、完全に幸福ではなかったとしても、完全に不幸だったわけでもないのである。
トムは彼専用の書斎で、「如何《いか》なる状《さま》に居るとも、足ることを学びし」(ピリピ書、第四章第十一節)人について読んだ。それは彼にとってはじつに道理にかなった教えのように思われた。そしてそれは同じその書物から彼が得たあのしっかりと根を下ろした考え深い習慣とぴったり一致していたのである。
前の章で述べたように、トムは家に手紙を出したが、やがてその返事がジョージからとどいた。それは上手な力のこもった学生らしい筆蹟で、トムの口を借りれば、「部屋の向こうの隅からでも」読むことができるほどはっきりとした字体で書かれてあった。その手紙には家のことについていろいろと嬉しい便りが認《したた》められてあったが、それはもう読者の皆さんには十分おわかりのはずである。アント・クロウィがルイヴィルの菓子屋へ雇われてゆくこと、彼女は菓子作りの名人だからうんと給金がもらえること、しかもその給金はみんなトムを買いもどすために積み立てておかれること、をトムは知った。それからモウズとピートも大きくなったこと、赤ん坊もサリィや家の者がみんなでせわをやいて、今では家中をちょこちょこ歩きまわっていることなどが書かれてあった。
トムの丸木小屋はさしあたりしめておくことになったが、トムが帰って来たらいろいろと飾ったり手を入れたりするのだとジョージは楽しそうに事こまかに書いてよこした。
その他この手紙には、ジョージの学校の時間表が、一つ一つの科目の名を華《はな》やかな頭文字で始めながら書いてあったり、またトムが行ってからこの屋敷で生まれたのだと言って四頭の新しい子馬の名を書き連ねたり、それと関連して、父も母も元気でいるからと書き記してあった。手紙に見られる文体はやや簡潔すぎるきらいはあったが、トムはこれを現代の作文の中で一番すばらしいものだと考えた。ただじっとながめているだけでもけっして飽きることはなかった。そこでエヴァと相談して、手紙を額に入れ、自分の部屋に掛けることにした。ただ一つ、紙の裏側にあたるページも同時に見えるようにするにはどうしたらよいかということが問題になったが、それ以外のことは簡単に解決がついた。
トムとエヴァとの友情は、エヴァが成長するにつれてますます深まっていった。この忠実な召使いの優しい、感じやすい心の中に、エヴァがどのような位置を占めていたかをここに述べることは容易でない。トムはエヴァを、かよわいこの世のものとして愛していたが、また同時に天上の、神聖なものとして崇拝していたと言ってもいいくらいであった。さながらイタリアの水夫が幼いイエスの肖像《しょうぞう》を見つめる時のように、――崇敬と愛情との入り混った気持で彼女をながめていたのである。そして彼女の優美な空想を満足させてやり、幼年期を七色の虹のようにとりまいているあの数限りない無邪気な希望を満たしてやることが、トムにとっての最大の喜びであった。朝、市場に行くと、彼の視線は必ず花売りの台に向けられて、エヴァのために何か珍しい花束はないかと探した。また桃やオレンジも特に上等なものを選びとって、帰ってから彼女に与えようと、そっとポケットへ忍び込ませるのである。そしてトムにとって一番嬉しい光景は、遠くから近づく彼を待って門口からのぞいている彼女の光り輝く顔と、あのあどけない質問であった。――「ねえ、アンクル・トム、今日はあたしに何を買ってきてくれたの?」
その代わり、エヴァのほうでも親切にかけてはトムに劣らぬほど熱心であった。彼女はほんの子供ではあったが、本をじつに美しく読んだ。――すばらしい音楽的な耳、鋭い詩的な空想力、偉大なもの崇高なものに対する本能的な共感が、彼女をして、トムがかつて聞いたことのないほどすばらしい聖書の読み手にしたのである。彼女は最初のうち、ただこのつつましい友を喜ばせようとして読みはじめたのであったが、まもなく彼女自身のまじめな性情がその蔓《つる》をのばして、この荘厳な書物に巻きつき、ついにエヴァはこの書物を愛するようになった。というのもこの書物は、感動しやすい、想像力に富んだ子供たちが感じることの好きなあの不思議な憧憬《どうけい》と、強い漠然とした感動とを彼女の心の中に呼びおこしたからであった。
彼女の一番好きな箇所は、黙示録と預言書であった。――漠然とした不思議な心像と、燃えるような言葉とをもったこの箇所は、彼女がいくらその意味を尋ねてもはっきりとはしなかったが、それゆえにかえっていっそう感動的であった。――そして彼女とその素朴な友人とは、年を取った子供と幼い子供とは、それについてまったく同じことを心に感じた。二人にわかったことはただ、自分たち二人が、やがて啓示されるはずの栄光について――これから訪れる何か不思議なものについて、語り合ったということ、そしてそれを語り合っているうちに二人の魂が喜びを感じたということ、しかしその魂はそれがなぜだかはわからなかったということだけであった。しかしたとえ自然科学においては通用しないことであっても、道徳科学においては、理解されえないからといってそのものが必ずしも無益なものとは限らないのである。なぜなら元来魂というものは、二つの漠然とした永遠――つまり永遠の過去と永遠の未来との間に目覚める、震えおののく旅人だからである。光はこの旅人の周囲のわずかな空間しか照らしてはくれない。それゆえ旅人は未知なるものに向かって憧れざるをえないのである。そして霊感という雲の柱(出エジプト記、第十三章第二十一節参照)から訪れてくる声と影のような動きとが、旅人自身のもつ憧れの心にその反響と解答とを与えてくれるのであるが、その神秘的な反響や解答はさながら未知の象形文字《しょうけいもんじ》を刻んだ護り札や宝石のようなもので、旅人はそれを自分の胸の中に奥深くしまっておき、死後の世界に入った時に初めてそれが解読できると思っているからなのである。
さてそのころ、セント・クレア家は一家をあげて、しばらくの間、ポンチャトレイン湖畔の別荘へ移っていた。夏の暑さは、むし暑い不健康な都会を離れることのできる人たちをすべてそこから追い出して、湖の岸辺を求め涼しい潮風を求めさせていたのである。
セント・クレアの別荘は東インドふうの建物で、周囲は竹で作った優美なヴェランダに囲まれ、四方のどこからでも庭や遊園に出られるようになっていた。家族の居間の前には大きな庭があって、そこにはこの熱帯地の、絵にかいたような美しい植物や花がいちめんに匂っていた。その間を曲がりくねった何本かの小径《こみち》が湖の水際まで通じていて、そこには銀を敷きつめたようないちめんの水が、陽の光を浴びながらゆっくりと波打っていた。――その光景は一刻として同じものではなかったが、しかも刻一刻とその美しさを増してゆくのである。
今はちょうど、目映《まば》ゆいばかりの金色の日没が全水平線を栄光の炎のように燃え上がらせて、湖水をいま一つの空かと思わせる瞬間であった。湖はばら色や金色の縞《しま》模様に染まって横たわっていた。ただその中を白い翼のような帆をつけた船が、ここかしこに、さながら精霊のごとく静かに滑っていた。そして小さな金色の星が夕映えの中にまたたきながら、湖水の上にゆれている自分の姿を見下ろしていた。
トムとエヴァは庭のはずれの東屋《あずまや》の苔《こけ》むした小さな腰かけにすわっていた。日曜日の夕方のことで、エヴァの膝《ひざ》には聖書が開かれたままのっていた。彼女は声を出して読んだ。――「我また火の混りたる玻璃《はり》の海を見たり」(ヨハネ黙示録、第十五章第二節)
「トム」とエヴァは不意に読むのをやめて、湖を指さしながら言った。「ほら、あそこよ」
「何がでごぜえます、お嬢さま?」
「わからないの、――あれよ?」と子供は玻璃のような水面を指さして言った。水は、ゆっくりとゆれながら、空の金色の輝きを映していた。「あれが『火の混りたる玻璃の海』よ」
「なるほど、そうでごぜえますね、お嬢さま」とトムは言った。そしてトムは歌った――
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おお、われに曙《あけぼの》の翼あらば、
カナンの岸に飛びゆかん。
輝く天使のわれを導《まね》くは、
わが故郷《ふるさと》、|新しき《ニュー》エルサレム
(黒人霊歌「曙の翼」の一節)
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「|新しい《ニュー》エルサレムはどこにあると思って、アンクル・トム?」とエヴァは言った。
「おお、それは、雲の上でごぜえますよ、お嬢さま」
「じゃ、あたし、今それを見ているんだと思うわ」とエヴァは言った。「あの雲をごらん!――まるで大きな真珠の門みたいでしょ。あの門の向こうに見えるのよ――ずっとずっと向こう――そこはみんな金でできているわ(ヨハネ黙示録、第二十一章、第二十一節参照)。トム、『輝く精霊』の歌をうたってちょうだい」
トムは有名なメソディストの讃美歌の一節を歌った。
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われは見る、御国に入りて栄光を
享《う》けて輝く聖霊の群を。
真白き衣を身にまとい、
かざすは勝利の棕梠《しゅろ》の枝
(ヨハネ黙示録、第七章第九節参照)
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「アンクル・トム、あたしその精霊たちを見たことがあるわ」とエヴァは言った。
トムはその言葉を露ほども疑わなかった。その言葉は彼を少しも驚かしはしなかった。たとえエヴァが天国に行ったことがあるといっても、彼はそれをほんとうにありうることだと思ったであろう。
「ときどき、あたしの寝ている時にやってくるのよ、その精霊たちは」そう言うと、エヴァの目は夢みるようにうっとりとした。そして彼女は低い声で歌いだした。
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真白き衣を身にまとい、
かざすは勝利の棕梠の枝」
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「アンクル・トム」とエヴァは言った。「あたし、あそこへ行くのよ」
「どこへでごぜえます、お嬢さま?」
子供は立ち上がると、小さな手で空をさした。夕映えが彼女の金髪と上気した頬をこの世のものとも思えぬ輝きで照らした。そして彼女の目はじっと天に向けられていた。
「あたし、あすこへ行くのよ」と彼女は言った。「あの輝く精霊のところへね、トム。あたし行くのよ、もうすぐ」
忠実なトムの心は不意に鋭く突きさされたような気がした。そういえば、トムもたびたび気がついていたことではあったが、この半年の間に、エヴァの小さな手はだんだんとやせ細って、皮膚はいっそうすきとおるようになり、息も切れやすくなっていた。そしてまた、庭で走りまわったり遊んだりする時も、以前は何時間もそうしていられたのに、近ごろのエヴァはすぐに疲れてぐったりとしてしまうのである。トムはまたミス・オフィーリアが、エヴァの咳を気にしていろいろと薬を飲ませてみるのだが、少しもよくならないと何度も話しているのを耳にしたこともあった。そして今も、エヴァの上気した頬や小さな手が、消耗熱のために燃えていたのであったが、エヴァの言葉から考えられるようなことはこの瞬間までトムの胸についぞ浮かんだことはなかったのである。
これまでエヴァのような子供がこの世に存在したであろうか? もちろん、存在した。しかしそういう子供たちの名はいつも墓石に刻みこまれていて、子供たちの可愛い微笑やその神々しい目つきやその非凡な言葉や癖は、子供たちを慕う人々の胸中深く秘められた宝物となってしまっているのである。多くの家庭でよく聞かれる話であるが、現在生きている子供たちがどんなに多くの美点をもち、長所をもっていても、いまは亡き子供のもっていた固有の魅力にくらべれば、それは無にも等しいのである。このことは、まるで天国には特別な役目をもった一団の天使がいて、彼らはしばらくの間この地上にとどまり、気ままな人間の心をひきつけて、彼らが再び天国へ帰る時、それを一緒にもち去ってしまうのではないかと思えるのである。われわれが子供の目の中にあの深い、霊的な光を認める時――幼い魂が、子供たちの尋常な言葉以上に優しい賢明な言葉で自己を表現する時――その子をひきとめようと望んではならないのだ。なぜなら、その子にはもう天国の印がおされており、その目からは不滅の光がのぞいているからである。
まさにそうなのだ、いとしきエヴァよ! 汝の棲所《すみか》なる美《うる》わしき星よ! 汝もやがて去りゆくのだ。されど汝をこよなく愛する人々は、それを知ってはいないのだ。
トムとエヴァとの会話はミス・オフィーリアのあわただしい呼び声によって中断された。
「エヴァ――エヴァ! まあ、この子ったら、夜露がおりるじゃありませんか。そんな所にいてはいけません!」
エヴァとトムは急いで家に入った。
ミス・オフィーリアは年もとっていたし、病人の看護にかけては相当の腕をもっていた。それにニュー・イングランドに生まれたせいもあって、あのそっと忍び足でやってくる恐ろしい病気の最初の陰険な足音をよく知っていた。その病気はこの上なく美しく、愛らしい多くの人々を奪い去って、生命の糸が一筋切れたと思う以前から、もうしっかりと、取り消すことのできないほどに死の刻印をおしてしまうのである。
彼女は前からエヴァの軽い空咳や、日ごとに赤味をましていく頬の色に気がついていた。目の輝きも、熱からくるうわついた快活さも、彼女を欺くことはできなかった。
彼女は自分の心配をセント・クレアに伝えようとした。しかし彼は、いつもの無頓着な機嫌のよさとはうって変わった落着かぬ不機嫌な態度で彼女の話を突っぱねてしまった。
「縁起でもないことを言わんで下さい、従姉《ねえ》さん。――私は大嫌いなんですから!」と彼は言うのであった。「あの子は今、ただ育ちざかりなんですよ。子供というものはあまり早く育つと、きまって元気が失くなるものなんです」
「でもあんな咳をしているのですよ!」
「ああ、あんな咳なんかなんでもありませんよ!――大したことはありません。少し風邪《かぜ》でもひいているんでしょう、たぶん」
「でも、イライザ・ジェインが死ぬ時も、ちょうどあんなぐあいでしたよ。それにサンダーズさんのところのエレンもマリアもそうでしたからね」
「おお! そんな化物のするような看護話はやめて下さい! あなたがた年をとった人たちは、あまりいろんなことを知りすぎるものだから、子供がちょっとばかり咳をしたりくしゃみをしたりしてもすぐにもう、これはだめだおしまいだなんて言うんですよ。まあ子供に気を配って、夜風に当たらないようにしてやって下さい。そしてあまり遊びすぎないようにしてやって下さい。そうすれば、すぐに元気になりますからね」
そうセント・クレアは言った。しかし、彼はだんだんと神経質になり、落着きを失っていった。彼は熱病にでもかかったような目つきで毎日エヴァを見まもっていた。そしてうわごとのように、「あの子はとても元気だ」――あんな咳なぞ大したことはない、――子供たちのよくかかる軽いお腹《なか》のわるさにすぎないんだ、などとくりかえしていた。しかし彼は前よりもいっそう子供のそばにつきそって、馬で出かける時にもよく一緒に連れてゆき、二、三日おきに、処方箋や強壮剤をもって帰るようになった。――そして「これは別に」と彼は言うのである。「あの子には必要ではないのだが、与えたからといって害になるようなこともなかろうからね」
実のところ、何にも増して彼の心に深い苦痛をあたえたものは、子供の理性と感情が日ごとにおとなびてゆくことであった。子供らしい、夢に満ちた優しさは今もなお少しもなくなってはいなかったが、エヴァが時々、あまりにも深い考えの言葉を、そしてあまりにも不思議な、この世のものらしくない知恵に満ちた言葉を、無意識に洩らしたりするので、それは神の御声ではないかと思えるのである。そんなとき、セント・クレアは突然身を震わせて、彼女をしっかと抱きしめるのであった、まるでその強い抱擁が彼女を救うことができるかのように。そうして彼の心は、いつまでもこの子をこうして傍《かたわら》においておこう、けっして離すまいと、狂わんばかりの決意にふるい立つのであった。
子供は身も魂もすべてを、愛と親切のために捧げつくしているように思われた。それもこれまでは、いつも一時的感情に駆られたような捧げ方をしていたのであるが、今では人を感動させずにはおかぬ、おとなのような思慮深さが備わって、だれの目にもはっきりとそれがわかるようになった。彼女は今でもトプシィや多くの黒人の子供たちと遊ぶのが好きであった。しかし、このごろではみんなと一緒になって遊ぶというよりはむしろ傍に立って見物しているといったほうで、トプシィの奇妙な芸当を笑いながら三十分も見物していることがよくあったのである。――そしてそうしているうちにも、ふと一つの影が彼女の顔の上を横切ると、目は霧につつまれ、思いははるかかなたへ行ってしまうのであった。
「ママ」とある日のこと、彼女は突然母親に言った。「なぜうちでは召使いたちに字を教えませんの?」
「まあなんてことを聞くんでしょ、この子ったら! どこの家だってそんなことしませんよ」
「どうしてしませんの?」とエヴァは言った。
「あの連中に字が読めたってなんの役にも立たないからですよ。仕事のたしになるわけじゃなし、それにあの連中はただ働くために生まれてきたんだからね」
「でもあの人たちだって聖書は読まなければいけないわ、ママ、神さまの御心を知るために」
「ああ! それなら自分たちに必要なところだけ読んでもらえばいいんですよ」
「あたしね、ママ、聖書というものはだれでもが自分で読まなければいけないものだと思うの。読んであげる人がいない時でも、何度も何度も必要になるんですもの」
「エヴァ、おまえはほんとうに妙な子だね」と母親は言った。
「オフィーリア伯母さまはトプシィに字を教えてあげたわ」とエヴァは続けて言った。
「ええ、だからどのくらい役に立ったか、おまえにもわかるでしょう。トプシィのような悪《わる》は私、初めてですからね!」
「あのかわいそうなマミィもいてよ!」とエヴァは言った。「マミィはほんとうに聖書が好きで、自分で読めたらといつも言っていますわ!あたしが読んであげられなくなったら、マミィはどうするのかしら?」
マリーはこぜわしげに引出しの中をかきまわしながら答えた。
「そりゃもちろん、そのうちに、エヴァ、おまえだっていろいろと他のことを考えるようになるわよ、召使いたちに聖書を読んでやる以外にね。そんなことはふさわしいことではないけれども、私だって、からだがよかった時には、してやったこともあるんだよ。でも夜会服を着て社交界に出るような年ごろになれば、そんな暇なぞなくなってしまいますからね。ほらこれをごらん!」と彼女はつけ加えて言った。「この宝石はね、おまえが社交界にデヴューする時にあげようと思っているのよ。母さんは初めての舞踏会にこれをつけて行ったの。その時の母さんったら、エヴァ、それはすごい評判だったわ」
エヴァは宝石|匣《ばこ》を手にとると、中からダイアモンドの首飾りを取り上げた。彼女の大つぶな、深く物思う目はじっとその上に注がれていたが、その考えが別のところにあることは明らかであった。
「なんてまじめくさった顔をしているんだろう、この子は!」とマリーは言った。
「これ、ずいぶん高いんですの、ママ?」
「ええ、そうですとも。お祖父《じい》さまがフランスから取りよせて下さったのよ。これだけでもちょっとした財産だわ」
「今あたしにこれがあったら」とエヴァは言った。「あたしのしたいことができるんだわ!」
「おまえ、それで何をしようというの?」
「これを売って、自由州に土地を買ったらそこへうちの奴隷をみんな連れてゆくの。そして先生をやとって、みんなに読み書きを教えるんです」
エヴァの言葉は母親の笑い声で断ち切られた。
「寄宿学校を建ててね! で、おまえもそこでピアノを教えたり、ビロード画の描き方を教えたりするんじゃないのかい?」
「あたしはあの人たちに自分で聖書を読み、自分で手紙を書き、自分のところへ送られて来た手紙を自分で読めるようにしてやりたいの」とエヴァはしっかりとした口調で言った。
「だって、ママ、あの人たちはほんとうにそれはつらい思いでいるのよ、こういうことができないということを。トムもそう思っているわ、――マミィもそうよ、――もっともっとたくさんの人がそう思っているわ。あたし、それではいけないと思うの」
「まあ、まあ、エヴァ。おまえはまだ子供だからですよ! こういうことは、おまえにはまだわからないのよ」とマリーは言った。「それに、おまえのおしゃべりを聞いていると母さんは頭が痛くなってくるわ」
マリーはいつも頭痛をもち合わせていて、自分の気にいらない話になるとすぐにそれをもちだすのである。
エヴァはそっと部屋を出ていった。しかしその後、彼女は根気よくマミィに読み方の勉強を教えてやるのであった。
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第二十三章 ヘンリック
このころ、セント・クレアの兄のアルフレッドが、十二歳になる長男を連れて湖畔の一家を訪れ、一日二日泊まっていった。この双子の兄弟が描きだす光景ほど世にも不思議な、美しいものはなかった。自然はこの二人の間に互いに似通ったものをもうけるかわりに、かえってあらゆる点で二人を対照的にさせていた。それなのに何かある神秘的な絆《きずな》がこの二人を結びつけているのか、彼らは普通の双子以上に親密な愛情をよせあっていたのである。
彼らはよく腕を組み合って庭の小径《こみち》や散歩道を歩いていた。オーガスティンは青い目に金色の髪で、軽い柔軟なからだつきと快活な顔だちをしていた。そしてアルフレッドは、目が黒く、昂然たるローマ人のような横顔と、引き締まった四肢と決然たる態度をもっていた。二人はいつも相手の意見や行為を非難し合っていたが、それでいて互いの交際を疎《うと》んじるようなことはけっしてなかった。事実、この互いに相反する性質こそ、この二人を磁石の両極間の引力のように、互いに引きあわせ、結びあわせているように思われたのである。
アルフレッドの長男のヘンリックは気品のある、黒い目をした、王子のような少年で、溢れるばかりの活力と気力とをもっていた。そして初めて紹介された瞬間から、彼は従妹のエヴァンジェリーンのしとやかな態度にすっかり魅せられてしまったようであった。
エヴァには日ごろかわいがっている雪のように白い小馬があった。揺り籃《かご》のように乗心地《のりごこち》がよく、その可愛い女主人と同じようにおとなしかった。そして今この小馬がトムの手で裏のヴェランダに引かれて来た。一方、十三歳ぐらいの混血《ミュラトゥ》の少年が小さな黒いアラビア馬を引いてやって来たが、この馬はヘンリックのために相当な費用をかけて最近輸入したばかりのものであった。
ヘンリックはこの新しい馬に少年らしい誇りをもっていた。そこで彼はつかつかと進み出て小さな馬丁の手から手綱《たづな》を受けとると、注意深く馬をながめていたが、たちまちその顔を曇らせた。
「これはなんだ、ドゥドゥ、この怠け者め! けさ、ぼくの馬にブラシをかけなかったな」
「いいえ、若旦那さま」とドゥドゥはうやうやしく言った。「馬が自分で埃をつけてしまったんです」
「こいつ、黙れ!」と言いながらヘンリックは乱暴に乗馬用の鞭をふりあげた。「きさま、よくもそんな口がきけたな?」
その少年はりっぱな顔だちの、利口そうな目をした混血児《ミュラトゥ》で、背丈はちょうどヘンリックぐらい。高く秀でた顔には巻毛がたれていた。彼の血管に白人の血が混っていたことは、彼がしきりに何か言おうとした時、さっとその頬が赤らみ、目が輝くのを見ても明らかであった。
「ヘンリックさま!――」と彼は言いかけた。
ヘンリックはその顔にさっと鞭を振り下ろした。それから少年の片腕をひっつかんで、無理やりひざまづかせると、息が切れるまで殴り続けた。
「そらみろ、この生意気な犬め! これでぼくに口答えをしてはいけないということがわかったろう? 馬を連れていって、ちゃんと磨きなおして来い。きさまに身のほどを思い知らしてやるんだ!」
「若旦那さま」とトムが言った。「この子が言おうとしたのは、馬を小屋から連れ出そうとした時、馬が自分で転んでしまったということだろうと思うんでごぜえますよ。何しろ元気のいい馬でごぜえますでな、――それで埃をつけてしまったんでごぜえます。この子が馬を磨いているところはこのわしがちゃんと見ておりましたで」
「おまえは人にきかれるまでよけいな口出しをするな!」とヘンリックは言うと、くるりと背を向けて、乗馬服を着て立っているエヴァに話しかけようと階段を上がっていった。
「やあ、あのばかのおかげで君を待たせてしまってごめんよ」と彼は言った。「あいつらが来るまでこの腰掛けにすわっていよう。どうしたの、君?――そんなまじめくさった顔をして」
「あなたというかたは、あのかわいそうなドゥドゥによくあんなむごたらしい酷《ひど》いことができますのね?」とエヴァは言った。
「むごたらしい、――酷いこと!」と少年はすっかり驚いて言った。「それ、どういうことなの、エヴァ?」
「あたし、そんなになれなれしく名前を呼んでいただきたくないわ、あなたがあんなことをなさるのなら」
「ねえ、君はドゥドゥを知らないからだよ。ああでもしなけりゃ、やつは言うことをきかないんだもの、いつも嘘や言い訳ばかりしているんだからね。すぐに黙らせてやるよりしようがないんだ、――口を開かしちゃだめなんだ。パパだってそうやっているんだからね」
「でもアンクル・トムは、あれは馬が自分で転んだんだって言ったわ。トムはけっして嘘をつきませんのよ」
「じゃ、よほど珍しい黒ん坊だね!」とヘンリックは言った。「ドゥドゥなんか口を開けば嘘をつくんだから」
「ドゥドゥはあなたが怖いから嘘をつくのよ、あんな酷いことをするんですもの」
「おや、エヴァ、君はずいぶんドゥドゥの肩をもつんだね、ぼく、やけてくるよ」
「だって、あなたがドゥドゥをぶつんですもの、――ぶたれることなぞなんにもしていないのに」
「ああ、そりゃあ、ぶたれるようなことをした時にぶたれないですむこともあるんだから、同じさ。ちょっとぐらい殴ったって、ドゥドゥのやつはなんでもないんだ、――ほんとうに、すごく元気のいいやつなんだからね。だけど君が迷惑だというんなら、もう二度と君の目の前では殴らないよ」
エヴァは満足できなかったが、このりっぱな顔だちの従兄に自分の気持をわからせようとしても無駄なことがわかった。
ドゥドゥがまもなく馬を引いて現われた。
「よしよし、ドゥドゥ、こんどは大分きれいになったぞ」と若い主人はいくぶん優しい態度で言った。「さあ、こっちへ来て、お嬢さまの馬をおさえていろ、その間にぼくがお嬢さまを鞍《くら》にお乗せするからな」
ドゥドゥが来てエヴァの小馬のそばに立った。彼の顔は暗かった。目は今まで泣いていたような様子であった。
ヘンリックは、婦人に対する作法にかけてはあらゆる点でいかにも紳士らしい如才なさを自慢していたが、この時もすぐにこの美しい従妹を鞍に乗せ、手綱をたぐるとそれを彼女の手に渡してやった。
しかしエヴァはドゥドゥの立っている反対側に身を屈めて、ドゥドゥが手綱を放した時にこう言った。――「いい子ね、ドゥドゥ、――ありがとう!」
ドゥドゥはびっくりして目をあげると、この優しい少女の顔をじっと見つめた。突然彼の頬には血がのぼり、目には涙が浮かんだ。
「おい、ドゥドゥ」と彼の主人が横柄《おうへい》に言った。
ドゥドゥは飛んで行って馬をおさえ、主人が乗るのを助けた。
「小銭をやるから、これで菓子でも買いな、ドゥドゥ」とヘンリックは言った。「さあ行ってこい」
そう言うとヘンリックは散歩道を、エヴァのあとを追って馬を走らせた。ドゥドゥはその場に立ったまま二人のあとを見送った。一人は彼に金をくれた。そしていま一人は、それよりもはるかに望んでいたもの、――優しい親切な言葉を、くれたのであった。ドゥドゥは母親から引き離されてまだほんの数か月にしかならなかった。彼の主人は奴隷倉庫で彼を買ったのであるが、それは彼がりっぱな顔だちをしているので、りっぱな小馬にも映りがよかろうということからであった。そしていま、彼は若主人の手で馬と一緒に仕込まれているところなのである。
ドゥドゥが鞭で打たれている場面は、庭の向こう側からセント・クレア兄弟がじっと目撃していた。
オーガスティンの頬にはさっと血がのぼった。しかし彼は例の皮肉な無頓着な態度で、こう述べただけであった。「どうやら、あれがいわゆる共和主義的教育というやつらしいね、アルフレッド?」
「ヘンリックはかっとなると何をしでかすかわからんのでな」とアルフレッドは無造作に言った。
「こういうこともあの子にはいい経験だと考えているんだろう」とオーガスティンが冷やかに言った。
「自分ではそう考えんでも、そう考えざるをえんのだ。なにしろヘンリックときたら嵐のような気性の子だからな。――あれの母親もおれも、遠《とお》の昔にあきらめてしまっているんだよ。だがあのドゥドゥのやつも大した小僧だ。――どんなに鞭で殴られたって平気なんだからな」
「で、あんなことをさせておいて、ヘンリックに共和主義の教義問答第一条の『人間はすべて生れながらにして自由かつ平等なり』(「マサチュセッツ憲法」第一編、第一条。ならびに「独立宣言」参照)を教えるつもりなのか!」
「ふん!」とアルフレッドは言った。「トム・ジェファスン(トマス・ジェファスンのこと。「独立宣言」の起草に重要な役割を果たした)のフランスかぶれの感傷的たわごとか。そんなものがいまだにわれわれの間で騒がれているなんて、まったくばかげたことだ」
「ぼくもそのとおりだと思うね」とセント・クレアは意味深長に言った。
「なぜなら」とアルフレッドは言った。「これは見ればすぐわかることだが、人間はすべてが生まれながらにして自由だというわけではないし、また平等でもない。生まれながらにして違っているんだからな。おれに言わせれば、この共和主義の議論の半分はまったくのたわごとだ。平等の権利を主張できるのは、教育を受けたもの、知性のすぐれたもの、財産のあるもの、洗練されたものであって、賤民ではないからだ」
「賤民にいつまでもそう思わせておくことができればね」とオーガスティンは言った。「彼らにだって一度は、自分たちの番がまわって来たことがあったんだよ、フランスでね」
「だからこそやつらは徹底的に、しっかりと押さえつけておかなくてはいかんのだ、おれがやるようにな」と言ってアルフレッドは何者かを踏みつけるようにぐんと足をふんばった。
「彼らが立ち上がったらえらいことになるよ」とオーガスティンが言った。「たとえば、セント・ドミンゴ(サント・ドミンゴ、現在のドミニカ共和国)でのようにね」
「ふん!」とアルフレッドは言った。「ああいうことをわれわれは気をつけるのさ、この国ではな。われわれは、最近あちこちに広まってきた、黒人を教育して向上させようという議論には断固反対しなければならん。下層階級に教育を施すなどもってのほかだ」
「そんなこと、いまさら祈ったってだめさ」とオーガスティンは言った。「彼らはどうしても教育されるようになるんだから。問題はただそれをどのように教育するかだ。奴隷制度は彼らに野蛮と残忍とを教えている。われわれはあらゆる人間的な絆《きずな》を断ちきって、彼らを野獣にしているのだ。だからもし彼らが支配権を握るようになったら、われわれは野獣に仕えることになるんだ」
「やつらなどに支配権なぞ握らせるものか!」とアルフレッドは言った。
「そうか」とセント・クレアは言った。「それなら蒸気|罐《がま》にどんどん火をたいて、安全弁をしっかりしめ、その上にすわって、自分がどこへ吹き飛ばされるか見ているがいい」
「ああ、いいとも」とアルフレッドは言った。「見ているさ。おれは罐がしっかりしていて、機械がうまく動いている限り、安全弁の上にすわっていても怖くはないんだからな」
「ルイ十六世(フランス革命で処刑された)のころの貴族たちも、ちょうどそんなふうに考えていた。それに現在はオーストリアも法王ピオ九世もそう考えている。そしていまに、あるうららかな朝、あんたたちはみんな吹き飛ばされて、空中でご対面ということになるんだ、その罐《かま》が爆発してね」
「|かの日これを明らかにせん《ディエス・デクルビット》」(コリント前書、第三章第十三節)とアルフレッドは笑いながら言った。
「いいかね」とオーガスティンは言った。「もし今日《こんにち》、神の法則の力で啓示されるものがあるとすれば、それは民衆が立ち上がって、下層階級が上流階級になるということだ」
「それはおまえたち過激な共和主義者のたわごとさ、オーガスティン! おまえは選挙演説にでも出りゃよかったな。――きっと有名な演説家になれるだろうからな! まあ、おれはおまえのいうその下卑た民衆の黄金時代が来るまえに死にたいもんだよ」
「下卑ていようと、いまいと、彼らの時代が来れば彼らはあんたたちを支配するんだ」とオーガスティンは言った。「そして彼らは今あんたたちが仕込んでいるとおりの支配者になるだろう。フランスの貴族たちはついに『|半ズボンなし《サンキュロット》』(革命当時、貴族的な半ズボンを排して長ズボンを用いたパリの共和主義の下層民)の人民をもつ運命を選んだので、いやというほど『半ズボンなし』の支配者たちをもつことになったのだ。ハイチの民衆は――」
「おい、よしてくれオーガスティン! あの忌わしい、卑劣なハイチの話(ハイチおよびサント・ドミンゴの占めるイスパニョーラ島は、フランス革命の最中およびその後、しばしば流血の場となった。一七九一年八月、ハイチに起こった暴動では多くの黒人奴隷がその主人たちを虐殺し、事件はやがてサント・ドミンゴにまでも拡大した。島の白人たちはアメリカ南部に難をのがれ、当時の奴隷反乱の恐ろしさを後代にまで語り伝えた)はもうたくさんだ! ハイチの白人はアングロ・サクソン民族じゃなかったからだ。もしそうだったら、あんなことにはならなかったろう。アングロ・サクソンは全世界の支配的民族だ。そしてこれからもそうなのだ」
「ところがだね、現在ではわれわれの奴隷の中にも、かなりアングロ・サクソンの血が流れ込んでいるよ」とオーガスティンは言った。「そういう連中の中には、われわれの打算的な手堅さや将来の見通しに、熱帯的な激しい情熱をつけ加えるに足るアフリカ民族の血を十分にもちあわせている者がたくさんいるわけだ。もしサン・ドミンゴ(サント・ドミンゴのこと。前出「ハイチ」の注参照)のような時代が来れば、その時はアングロ・サクソンの血がまっさきにやるのだ。白人を父にもつ子供たちが、その血管の中にわれわれと同じ昂然たる感情を沸《たぎ》らせているのだから、いつまでも買われたり売られたり交換されたりはしていない。いつか彼らは立ち上がるだろう。そして同時に彼らの母親の種族をも立ち上がらせるだろう」
「くだらん!――ばかばかしい!」
「そうかね」とオーガスティンは言った。「しかしこういう意味の言葉が昔からあるがね、『ノアの時のごとく、然《しか》あるべし。――人々飲み食い、植えつけ、家造《やづく》りなど為《し》たりしが、洪水の来りて悉《ことご》とく滅すまでは知らざりき』(マタイ伝、第二十四章第三十七―三十八節およびルカ伝、第十七章第二十八節)」
「こうして聞いていると、オーガスティン、おまえの才能はどうやら巡回牧師むきだな」とアルフレッドは笑いながら言った。「われわれのことは絶対に心配ない。現実占有は九分の利と、諺《ことわざ》にも言うからな。われわれには権力があるんだ。この従属的種族は」と言いながら彼はぐっと足を踏ん張った。「下にいるんだ、いつまでも下にいさせるのだ! われわれは、自分の火薬を取扱うだけの力は十分もっている」
「あのヘンリックのように躾《しつ》けられた子供たちは、その火薬庫のりっぱな番人になることだろう」とオーガスティンは言った。――「じつに冷静にして沈着だからな! 諺にもあるよ、『自己を支配し得ざる者は他を支配し得ず』ってね」
「それで困るのさ」とアルフレッドは思案顔で言った。「奴隷制度が子供たちの教育にとって厄介なものだということは確かだ。こういう制度は、子供たちの感情に無制限な自由を与えてしまう。そうでなくてさえ、こういう南部の気候のために感情は燃えやすくなっているんだからな。おれもヘンリックには困っているのだ。根は鷹揚《おうよう》な暖かい心の持主なのだが、興奮するとまるで癇癪玉《かんしゃくだま》だ。北部へでもやって少し教育させようかと思っているんだ。北部なら服従というものがここよりは重んじられているし、同等の身分の者とつきあうことも多くなって、目下の者との交わりは少なくなるだろうからな」
「子供の教育が人類の重要な仕事である以上」とオーガスティンは言った。「奴隷制度がその点でうまくゆかないということは大いに考えねばならぬ問題だと思うがね」
「ある点ではうまくゆかないが」とアルフレッドは言った。「また別な点ではうまくゆくのだ。この制度は少年たちを男らしくさせ勇敢にさせる。そしてまた卑しい人種の悪徳そのものが子供たちの心に、かえって美徳を涵養《かんよう》することになる。ヘンリックだって、奴隷たちのだれもがもっているあのバッジ、つまり嘘やごまかしを見ているからこそ真理の美しさについては人一倍の鋭い感覚をもっているとおれは思うのだ」
「クリスチャンらしいものの見方だね、まったく!」とオーガスティンは言った。
「クリスチャンらしかろうが、なかろうが、それが事実なんだ。だから世の中のたいていのことと同じくらいクリスチャンらしいことなんだろうさ」とアルフレッドは言った。
「そうかもしれないね」とセント・クレアは言った。
「だがこんな話をしていたってなんにもならんよ、オーガスティン。おれたちはもう五百回も、昔から言い古されてきたこの同じ道をぐるぐる回っているんだからな。どうだ、|すごろく《バックギャモン》でもやらないか」
二人の兄弟はヴェランダの階段を駈け上がると、まもなくすごろく盤をはさんで軽い竹のベンチに腰をおろした。二人が駒を並べていると、アルフレッドが言った。
「なあ、オーガスティン、もしおれがおまえのような考えをもっていたら、何か手を打つだろうがな」
「そりゃあ打つだろうね、――あんたは実行家だからな。――だが、どんな手をだね?」
「まあ、自分で使っている召使いたちを向上させるんだな、まず見本として」とアルフレッドは、なかば嘲《あざけ》るような微笑を浮かべて言った。
「上流社会の連中に上からどっしりと抑えつけられている召使いたちを、ぼくに向上させろと言ったって、それは彼らの上にエトナ山をのっけておいて、さあ立ってみろと言うのと同じことじゃないか。一個人の力では何をしたって、とうてい社会全体の動きには対抗できないさ。黒人の教育だって、やる以上は、国がやる教育でなければだめだ。さもなければ、多くの人々の十分な同意を待って、そうした機運をもりあげてゆくのでなければだめだよ」
「おまえから先に振ったらどうだ」とアルフレッドは言った。そして兄弟はまもなくゲームに熱中して、二人の耳には何も入らなくなったが、やがてヴェランダの下に馬蹄《ばてい》の響が聞こえてきた。
「子供たちが帰ってきたな」そう言いながらオーガスティンは立ち上がった。「どうだい、アルフ! あんな美しい光景を見たことがあるかね!」事実、それはじつに美しい光景であった。秀でた額に黒いつややかな巻毛をなびかせ、頬をほてらせたヘンリックが美しい従妹の方に身をよせて、楽しそうに笑いながらこちらへやって来るのである。エヴァは青い乗馬服に、同じ色の帽子をかぶっていた。運動のために彼女の頬は輝くばかりの色合に染まって、そのいちじるしく透きとおるような肌と、金髪とをいっそうひきたたせていた。
「おお! じつにまぶしいほどの美人だ!」とアルフレッドは言った。「なあ、オーガスティン、今にあの娘《こ》も人の心を悩ますようになるんじゃないか?」
「そうなんだ、確かにね、――神さまだけがぼくの心配をご存知だよ!」セント・クレアは突然悲しそうな調子でそう言うと、彼女を馬からおろしてやるために急いでヴェランダをおりて行った。
「大事なエヴァ! おまえひどく疲れてはいないだろうね?」と彼は言って、両腕で彼女をしっかり抱きしめた。
「いいえ、パパ」とその子は言った。しかし彼女の短かい苦しげな息は父親をびっくりさせた。
「どうしてそんなに速く駈けさせたんだね、おまえ?――からだにさわることはおまえにもわかるだろう」
「あたし、とても気分がよかったんですもの、パパ、それになんだかとても走らせてみたかったので、つい忘れてしまいましたの」
セント・クレアは彼女を抱きかかえて客間へ連れてゆくとソファの上にねかせた。
「ヘンリック、おまえ、エヴァに気をつけてくれないと困るよ」と彼は言った。「この子と一緒の時には速く駈けさせてはいけない」
「これからはよく気をつけます」と言うとヘンリックはソファのそばにすわってエヴァの手をとった。
しばらくすると、エヴァはだいぶ元気をとりもどした。そこで彼女の父親と伯父は再びさきほどのゲームを始めたので、その場は子供たち二人きりになった。
「ねえ、エヴァ、パパはここに二日しか泊まっていかないって言うんだもの、ぼくつまらないよ。そうしたらまたずっと君に会えなくなってしまうものね! 君と一緒にいられたら、ぼく、おとなしくして、ドゥドゥに腹をたてたりなんかしないようにするんだがな。ぼくはもともとドゥドゥをいじめるつもりなんかないんだ。ただ、ほら、ぼくはすぐにかっとしちゃう性質《たち》でね。だけどぼく、ほんとうはやつに悪くはないんだよ。時々小銭だってやるし、それにほら、やつはいい服を着ているだろう。だから、全体から言ったらドゥドゥはかなり幸福だと思うんだ」
「もしこの世の中で、あなたの側にあなたを愛してくれるような人がただの一人もいなかったとしたら、あなた、自分を幸福だと思えて?」
「ぼくが?――そりゃあ、もちろん思えないね」
「なのにあなたはドゥドゥをあの子のすべてのお友だちから引き離してしまったのよ。そして今でもあの子を愛してくれる人は一人もいないんだわ。――それじゃあだれだってよくなるはずがありません」
「でも、ぼくには、どうしようもないと思うね。やつのお袋さんを買って来るわけにはいかないし、ぼくがあいつを愛してやるなんてこともできないし、ほかの人だってそうだろうからね」
「どうしてあなたにできないの?」とエヴァは言った。
「ドゥドゥを愛してやれだって! ええ、エヴァ、いくら君だってぼくにそんなことをさせるのは無理だよ! そりゃあね、好きにはなれるかもしれないよ。でも君だって君の召使いを愛してはいないだろう」
「愛しているわ、ほんとうに」
「へえ、妙だなあ!」
「聖書に、私たちはすべての人を愛さなければいけないと書いてはなくって?」(例えばレビ記一九・一八、マタイ伝五・四三、一九・一九、二二・三九、マルコ伝一二・三一、ルカ伝一〇・二七、ローマ人への手紙一三・九など)
「ああ、聖書か! たしかに、聖書にはそんなことがいくつも書いてあるよ。でもだれもそんなことを実行しようなんて考えてはいないからね。――ほんとうだよ、エヴァ、だれもね」
エヴァは口をきかなかった。彼女の目はしばらくの間じっと何かを見つめて、考えているようであった。
「とにかく」と彼女は言った。「どうかあのかわいそうなドゥドゥを愛してやって下さい。そして親切にしてやって下さい、あたしのためと思って!」
「君のためならなんだって愛せるよ。だってぼくほんとうに、君みたいに可愛い人は今まで見たことがないんだもの!」とヘンリックはりっぱな顔を紅《あか》く染めながらしんけんになって言った。エヴァはその言葉をまったく無邪気な態度で、顔色ひとつ変えずに聞いていた。そしてただこう言うだけであった。「そう思って下さってあたし嬉しいわ、ヘンリック! いつまでも忘れないでね」
食事のベルが鳴ったので、二人の会話はそこで終わった。
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第二十四章 前兆
それから二日後に、アルフレッド・セント・クレアとオーガスティンとは別れた。そしてエヴァは、従兄との交際で無理をしたため、急速に弱ってきた。そこでセント・クレアもとうとう自分から進んで医者の診察を仰ぐ気になった。――これまでそれを避けつづけてきたのも実のところ、医者の診断を仰ぐことは結局ありがたくない事実を認めることになるからなのであった。
しかしこの一両日、エヴァの病状はかなり悪く、家に引籠っていなければならぬほどであった。そこでついに医者が呼ばれたのである。
マリー・セント・クレアは、子供の健康と体力とがだんだん衰えてゆくのに少しも気がついてはいなかった。というのも彼女は、自分の新しい病気を二つ三つ考え出すことにすっかり夢中になっていて、自分一人が病気の犠牲者だと信じ込んでいたからである。この世には自分ほどの惨めな受難者はいない、いるはずがない、というのがマリーの信条の第一原理であった。だから周囲のだれかが彼女に自分は病気ではなかろうかなぞと言い出そうものなら、彼女はいつも憤然としてそれをはねつけるのであった。そんな時、彼女はきまって、それはただ怠けているにすぎないのだとか、やる気がないからだとか言い、また、もし私のような苦しみを味わっていたならそんなものが病気でないぐらいすぐにわかるはずだなどと断言するのであった。
ミス・オフィーリアは、マリーがもっと母親らしい気持でエヴァを気づかってやるよう、何度となくその心を呼び覚まそうと試みたが、無駄であった。
「あの子は別にどこといって悪いところなんかありませんよ」と彼女は言うのであった。「あんなに走りまわったり、遊んだりしていますもの」
「でも咳をするのですよ」
「咳! 咳ぐらいで何もいちいち私におっしゃる必要はありませんわ。私なんかしょっちゅう咳が出ますもの、もうずっと以前からね。私がエヴァぐらいの年ごろには、みんなが私のことを肺病だと思ってましたのよ。それで毎晩、マミィが側についていて看護してくれましたわ。おお! エヴァの咳なんかなんでもありませんわ」
「でもからだが衰弱してきて、息切れがするのですよ」
「あら! 私だってそうですわ、もう何年もの間ね。それはただ神経の病気にすぎませんのよ」
「でもひどく汗をかきますよ、夜など!」
「そりゃあ、私だってこの十年ほどそうですわ。もうしょっちゅう、毎晩のように汗をかいて、寝巻きなんか絞るほどですのよ。乾いた糸なぞないくらい。シーツもそんなぐあいでしょう、ですからマミィが毎朝干さなければならないくらいなんですのよ! エヴァはそれほどの汗はかきませんわ!」
そこでミス・オフィーリアはしばらくの間口をきかなかった。ところが、エヴァがはっきりと、目に見えて衰弱し、医者が呼ばれるようになると、マリーはにわかにその態度を変えた。
「私は知っていました」と彼女は言った。「私はいつもそんな気がしていたんです、世の中の母親の中で一番みじめな母親になる運命を私は背負わされているんだということを。自分はこんなに病身だし、そのうえ、たった一人の可愛い子供が私の目の前で死のうとしているんです」――そしてマリーはこの新しい不幸を種にして、夜なかにマミィを叩き起こしたり、昼は昼で一日じゅう以前よりもいっそう口やかましく騒ぎたてたり叱りつけたりするのであった。
「ねえ、マリー、おまえそんな口のきき方をするもんじゃないよ!」とセント・クレアは言った。「そうすぐに諦めてしまってはいけない」
「あなたには母親の気持がわからないんですわ、セント・クレア! 私のことなど少しもわかっては下さらなかったでしょ!――今だってそうですわ」
「しかしあんな口のきき方をするもんじゃないよ、それではまるでもう取り返しのつかないことみたいじゃないか!」
「私、あなたのように無関心ではいられませんのよ、セント・クレア。あなたは自分のたった一人の子供がこんな危険な状態にあっても、何も感じないかもしれませんが、私はそうはまいりません。これまでいろいろつらい目に逢って来ましたけれど、こんな打撃には私、耐えられません」
「そりゃあ確かに」とセント・クレアは言った。「エヴァは非常に虚弱な子だ。それは私も昔から知っている。それにあの子があまり早く成長するので体力を消耗し過ぎていたこと、またあの子の病状が相当に危険なものだということも確かだ。しかしあの子がこんなに衰弱してしまったのも、それはこの夏の暑さにやられたり、従兄が訪ねて来たものだからつい興奮して少し無理をしたりしたからにすぎないのだ。医者だってよくなる見込みがあるって言っているじゃないか」
「そりゃ、もちろん、あなたが明るい面だけをご覧になれるのなら、それも結構ですわ。人間に敏感な感受性というものがなかったなら、この世もずいぶんしあわせですものね。私なんかほんとうに、今のようなこんな気持にならないですむならどんなにいいかと思いますわ。もうまったく惨めになるだけですもの! あなたがたみんなと同じようにのんびりしていられたらと思いますわ!」
しかしその「みんな」のほうにも彼女と同じような願いを口にするりっぱな理由があった。なぜならマリーはこの新しい不幸を自分のあらゆる苦痛の理由と弁解とに使って、周囲のすべての者たちに当たりちらしたからである。だれが何を言おうと、どこで何をしようとしまいと、それらはすべて彼女にとっては、自分の周りの連中がみな薄情な無神経な人間ばかりで、自分のこの悲しみを慰めてくれる者は一人もいないのだと改めて確信する材料になるにすぎなかった。かわいそうなエヴァの耳にもこういう言葉が二、三聞こえてきた。彼女は、そうしたママを気の毒に思い、また自分がそんなにまで母親を嘆き悲しませていることを深く悲しんで、その可愛い目を泣きつぶさんばかりにして泣いた。
一、二週間すると、病状は大分好転した。――しかしそれは、こうした不治の病が死の淵においてさえしばしば不安な心を欺くあの偽りの小康の一つであった。エヴァの足音が再び庭に、――そしてバルコニーに、聞かれるようになった。彼女は再び遊んだり笑ったりした。――そこで父親は、有頂天になってみんなに、娘はそのうちだれにも負けないほどの丈夫な子になるだろうと言った。ミス・オフィーリアと医者だけは、この人目を欺く中休みからはなんらの勇気づけも感じなかった。そしてもう一つ、彼らと同じ考えを抱く別な心があった。それはエヴァの小さな心であった。いったい人の心の中で、時々、このように静かに、またこのようにはっきりと、この世の時が終わりに迫ったことを告げるものはなんなのであろうか? それは朽ちゆく自然の秘かな本能であろうか、それとも不滅なる魂が近づく時のその魂の衝動的な鼓動なのであろうか? たとえなんであるにせよ、それはエヴァの心に、天国が真近にあるという静かな快い予言的な確信を抱かせた。夕陽《ゆうひ》の光のように静かな、秋の明るい静寂のように快い、その確信の上に彼女の小さな心は休んでいた。ただ一つその心を悩ますのは、自分をこのように深く愛してくれる人々に対する悲しみのみであった。
なぜならこの子は、ことのほか大切に看護されてもいたし、また愛と富とが与えうるあらゆる輝きをもって人生が彼女の前に展開してもいたが、自分が死んでゆくことにはなんの未練もなかったからである。
彼女は、素朴な友人トムとよく一緒になって読んだあの書物の中で、小さな子供を愛するおかた(キリストのこと)の姿を見、それを自分の幼い心に刻みこんでいた。そして彼女がそれをじっと見つめて考えていると、そのかたは遠い昔の姿でも像でもなくなって、生命をもった、すべてのものを包む現実として現われてくるのであった。そのおかたの愛は、人間以上の優しさをもって彼女の子供らしい心を包んだ。あのおかたのところだわ、と彼女は言った。あたしが行くところは。あのおかたのお家へ行くんだわ。
しかし彼女の心は、あとに残してゆく人々を悲しみに満ちた優しい思いで慕い焦がれた。とりわけ父親を慕う気持ちは強かった。――というのも、エヴァは自分では一度もはっきりとそんなふうに考えたことはなかったけれども、自分が他のだれよりも父親から深く愛されているということを本能的に知っていたからである。彼女は母親をも愛していた。それは、エヴァがじつに愛情溢れる子供だったからで、母親に見られるどんなわがままもただ彼女を悲しませ、当惑させるだけにすぎなかった。というのも彼女は自分の母親はどんなことがあってもけっして間違ったことをするはずがないという、子供らしい盲目的な信頼を抱いていたからである。母親には、エヴァにとってどうしてもわからないところがあった。しかしエヴァは、結局それはママなのだからと考えていつもかばってきた。そしてほんとうに、心から深く母を愛していたのである。
彼女はまた、自分を日の光とも太陽の輝きとも考えて慕い寄る多くの優しい忠実な召使いたちのことを思った。子供というものは普通、ものを帰納的に考えることはしないものであるが、エヴァはまれにみる早熟な子だったので、召使いたちが毎日のように経験しているあの奴隷制度の弊害について目撃したことは、一つ一つ彼女の考え深い心の底にしみこんでいた。彼女は、召使いたちのために何かしてやりたい――召使いたちだけでなく、彼らと同じ境遇にあるすべての人たちに祝福を与え、救ってやりたいという漠然とした希望をいだいていた。――それは、彼女の小さな肉体のかよわさとは悲しい対照をなすほどの大きな希望であった。
「アンクル・トム」と彼女はある日、この友だちに本を読んでやっているときに言った。「あたし、なぜイエスさまがあたしたちのために死のうとお望みになったかわかるわ」
「なぜでごぜえますか、お嬢さま?」
「だって、あたしもそう思ったんですもの」
「どういうことでごぜえます、お嬢さま?――わしにはわかりませんですが」
「どう言ったらいいのかあたしにもわからないのだけれど、あの船に乗っていたかわいそうな人たちを見た時、ほら、おまえが売られて連れてこられた時のことよ、そしてあたしもあの船にいたでしょう、――あの人たちの中にはお母さんと別れた人もあったし、夫《おつれあい》と別れ別れになった人もいたし、赤ちゃんをとられて泣いていたお母さんたちもいたわ、――それにあのかわいそうなプルーの話を聞いた時――おお、ほんとうにあれは怖ろしいことね!――その他いろいろな時に、あたしは、もしあたしが死ぬことでこういったいっさいの不幸をなくすことができるのなら、喜んで死にたいと思ったのよ。あたし、あの人たちのために喜んで死にます、トム、もしあたしにできることなら」とその子は小さなやせ細った手を彼の手の上にのせて、しんけんに言った。
トムは畏敬の念に打たれてその子を見た。そして彼女が父親の声を聞いてそっと立ち去った時、トムは彼女の後姿を見送りながら何度もその目をぬぐった。
「お嬢さまをこの世にお引きとめしようとしても詮ないことだ」と彼は、すぐそのあとで会ったマミィに言った。「あのかたの額にはもう神さまのしるしがついていなさるだからな」
「ああ、まったくそのとおりだ」とマミィは両手をあげながら言った。「わしはいつもそう言うていただ。お嬢さまはこの世に生きる子供とはまるっきり違っていらっしゃるだ。――お嬢さまの目には、いつも何か深えものがあるでな。わしは奥さまにこれまで何度もそう言うてきただ。それがいよいよほんとうのことになってきただな、――わしらみんなの目にはそれがわかるだ、――ああ、可愛い、聖なる子羊さま!」
エヴァは軽い足どりでヴェランダの階段を父親の方へと上がって来た。午後もおそくなってからのことだったので、太陽の光線が彼女の背後で後光のように輝いていた。彼女は白い服を着て金髪のふりかかる頬を輝かせながらやって来たが、その目は彼女の血管に燃えている微熱のために不自然な輝きを見せていた。
セント・クレアは、彼女のために買ってきた小さな彫像を見せようと思って彼女を呼んだのであったが、今近づいてくる彼女の姿を見ると、突然、ぎくりと胸の痛むのを感じた。美しさの中には、あまりにも強烈で、それでいながらあまりにも脆弱《ぜいじゃく》であるためにわれわれが正視できないような種類の美しさがあるからである。彼女の父は不意に彼女を抱きしめ、自分が言おうとしていた彫像のことなどもうほとんど忘れてしまった。
「エヴァ、おまえ、近ごろは大分いいんだろう――ね?」
「パパ」とエヴァは急に、しっかりとした口調で言った。「あたし、ずっと以前からパパにお話したいと思っていたことがありますの。それを今、あたしがこれ以上弱らないうちにお話しておきたいの」
セント・クレアは、エヴァが彼の膝の上に腰をおろした時、身を震わせた。彼女は父親の胸に頭をもたせて、こう言った。
「もうこのことは、パパ、あたし一人の胸にしまっておいてもしかたがないんですもの。あたし、近いうちにパパとお別れしなくてはならないんです。お別れして、もう帰ってはこないのよ!」そう言ってエヴァはむせび泣いた。
「おお、何を言うのだ、エヴァ!」とセント・クレアは身を震わせながらも、つとめて快活な声で言った。「おまえは神経質になって元気がないからだよ。そんなふさぎこんだ考えに浸っていてはいけない。ほらこれをご覧、パパがおまえに小さな彫像を買ってきてあげたよ!」
「いいえ、パパ」とエヴァは静かにそれを押しのけながら言った。「ご自分を欺いてはいけないわ!――あたし、少しもよくなってはいませんもの、自分でもそれはよくわかります、――あたしは、もうすぐ、行ってしまうのです。あたし、神経質なんかではありません、――元気がないわけでもありません。パパやお友だちのことさえなかったら、あたしほんとうに幸福なのよ。あたし、行きたいわ、――とても行きたいの!」
「でも、おまえ、どうしておまえのそのかわいそうな小さな胸がそんな悲しいことを考えるのかね? おまえはなんでも好きなことをさせてもらえて、仕合わせだったじゃないか」
「でもやはり、あたし、天国へ行きたいの。そりゃあ、お友だちのことを思うと、この世に生きていたいとは思いますけど。でもこの世には、あたしを悲しませたり、あたしにはとても怖ろしく思えるようなものがあまりにもたくさんあります。ですからあたし、天国に行きたいのです。でも、パパとはお別れしたくないのよ――それを思うと胸がはりさけそうになるわ!」
「何が悲しいのかね、何が怖ろしいのかね、エヴァ?」
「おおそれは、この世で行なわれているいろいろなことよ。毎日行なわれていることよ。あたし、あのかわいそうな人たちのことを思うと悲しくなるの。みんな、あたしをとても愛してくれて、それは優しく、親切にしてくれるのよ。ですから、あたしね、パパ、あの人たちがみんな自由になったらどんなにいいかと思うの」
「でもエヴァ、あの連中は今でもずいぶん仕合わせにやっているとは思わないかね?」
「ええでも、パパ、もしパパに万一のことがあったら、あの人たちはどうなるの? パパのようないい方はなかなかいないのよ。アルフレッド伯父さまだってパパとは違うし、それにママだってそうだわ。それから、あのかわいそうなプルーの主人だった人たちをご覧なさい! 人間って、なんという怖ろしいことをするんでしょう、できるんでしょう!」そう言ってエヴァは身を震わせた。
「ねえおまえ、おまえは敏感すぎるのだよ。あんな話をおまえに聞かせてしまって、パパが悪ったね」
「おお、それがあたしにはつらいのよ、パパ。パパが望んでいらっしゃるのは、あたしがとても仕合わせに暮らして、苦しい目にも逢わず――辛い思いもせず、――悲しい話を耳にすることさえもないということなのでしょう、他のかわいそうな人たちが一生苦しみと悩みとに明け暮れた毎日を送っているというのに。――それではあまり身勝手だと思います。あたし、そういうことをよく理解して、思いやりの気持をもたなくてはいけないと思うの! そういうことがいつもあたしの心を悲しませるのよ。心の奥底までも悲しくするのよ。ですからあたし、何度も何度もあの人たちのことを考えてきたわ。パパ、奴隷たちを一人残らず自由にしてあげる方法はないのですか?」
「それはむずかしい問題だね、おまえ。確かに、今のやり方はいけない。大勢の人がそう考えている。パパだってそうだ。パパはね、この世の中に奴隷が一人もいなくなればいいと心から思っているんだよ。ところが、じゃあそのためにどうしたらいいのかということになると、パパにもわからないのだよ!」
「パパ、パパはとてもいいかたで、とても気高くて親切で、それにいつも気持のよい話し方をなさるから、みんなに呼びかけてこのことをよくするように説いてお回りになったらどう? あたしが死んだら、パパ、あたしのことを想い出して、あたしのためと思ってそうして下さいね。あたしにできるものでしたら、自分でもしたいのですけど」
「おまえが死んだらって、エヴァ」とセント・クレアは激しく言った。「ああ、おまえ、そんな悲しいことは言わないでおくれ! おまえだけが私の生きがいなのだからね」
「かわいそうなプルーの赤ちゃんもプルーにとってはただ一つの生きがいだったわ、――それなのに赤ちゃんが泣くのを聞きながら、何もしてやれなかったのよ! パパ、こういうかわいそうな人たちだって、パパと同じように自分の子が可愛いのよ。おお! あの人たちのために何かしてあげて下さい! あのかわいそうなマミィだって子供たちを愛しています。彼女《あれ》が泣きながら子供たちの話をするのを、あたし見たことがあります。それにトムだって子供たちを愛しています。ほんとうに怖ろしいことです、パパ、こんなことが毎日のように起こるなんて!」
「よし、よし、わかったよおまえ」とセント・クレアはなだめるように言った。「いいからもう自分を苦しめてはいけない、それに死ぬなんて言うんじゃないよ。そしたらパパはなんでもおまえの言うとおりにしてあげるからね」
「それからお父さま、あたしに約束して下さいな、トムを自由にしてあげるって。あたしが――」と言いかけて彼女は言葉をきった。そして口ごもるような調子で言った。――「死んだらすぐにね!」
「ああいいとも、おまえ、どんなことでもしてあげよう、――おまえの言うことならね」
「ねえパパ」と子供は燃えるような頬を彼の頬にすり寄せて言った。「あたしほんとうにパパと一緒に行きたいわ!」
「どこへだね、おまえ?」とセント・クレアは言った。
「あたしたちの救い主のお家へよ。そこはとても楽しい、平和なところよ。――ほんとうにすばらしいところなのよ!」エヴァは思わず、まるで何度も行ったことのある場所のような口ぶりで話した。「パパは行きたいとは思わなくって?」と彼女は言った。
セント・クレアは彼女を更にきつく抱きしめたが、何も言わなかった。
「パパはあたしのところへ来て下さるわね」と子供は、よく無意識に使うあの穏かな確信に満ちた声で言った。
「うんおまえのあとから行くよ。パパはおまえのことは忘れないからね」
厳かな夕べの影が二人のまわりに刻一刻と深まってきた。セント・クレアはなおも無言のまま、その小さなかよわいからだを胸に抱きしめてすわっていた。彼にはもはやあの深い目は見えなかったが、あの声が精霊の声のように彼に伝わってきた。そしてさながら審判の日の幻のように、彼の全生涯が一瞬、目の前に浮かんできた。母の祈りや讃美歌、彼の若き日の善に対する憧憬《どうけい》や熱望。当時と現在との間の何年にもわたる卑俗と懐疑と、それに世間で言うりっぱな生活。われわれは一瞬の間に多くのことが、じつに多くのことが、考えられるものである。セント・クレアも多くのものを見、そして考えた。しかし一言も口には出さなかった。そしてあたりがいっそう暗くなってきたので、彼は子供を寝室に連れていった。そして寝巻に着かえさせると、小間使いたちを退らせ、彼は子供を両腕に抱いて揺りながら、寝つくまで歌を歌ってやった。
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第二十五章 小さな伝道者
日曜の午後のことであった。セント・クレアはヴェランダの竹の長椅子《ながいす》に寝そべって、葉巻をくゆらせていた。マリーは、ヴェランダに面した窓とは反対側の、透明な紗《しゃ》の垂れ布で蚊の侵入を防いだソファに身をもたせかけて、りっぱな装釘《そうてい》の祈祷書《きとうしょ》を物憂げに手にしていた。彼女は日曜だというのでそれを手にして、自分ではそれを読んでいるつもりであった。――しかし、実際は、それをあけたまま、先刻からうつらうつらしているだけなのであった。
ミス・オフィーリアは、あちこちと探しまわった結果、馬車で行けるような距離のところに小さなメソディスト派の教会があるのを探しあてていたので、トムを馭者《ぎょしゃ》にしてそこへ出かけていった。そしてそれにはエヴァも一緒について行った。
「ねえ、オーガスティン」とマリーはしばらくうとうととしたあとで言った。「私、だれか町へやって、ポウジィ先生に来ていただかなくちゃなりませんわ。きっと心臓がよくないんだと思いますから」
「そうかい。しかしどうしてあの先生を呼びにやる必要があるのかね? エヴァが診てもらっている今の先生だってりっぱな腕をもっているようじゃないか」
「あの人ではいざという場合に当てになりませんもの」とマリーは言った。「そして私の病気はどうもそうなってきたらしいんですのよ! この二、三晩というもの、私、そのことばかり考えていますの。そりゃあもうとても苦しくって、変な気分になるんですから」
「おお、マリー、おまえは気がふさいでいるんだよ。私は、心臓のせいなんかじゃないと思うね」
「どうせあなたはそうでしょうよ」とマリーは言った。「そうおっしゃると思ってましたわ。あなたという人はエヴァが咳をしたりあの子にちょっとでも何かあったりすると大騒ぎをなさるくせに、私のこととなるとちっとも考えては下さらないんですからね」
「心臓病がそれほどお気に召すなら、かかっていることにしておいてあげてもいいさ」とセント・クレアは言った。「そうとは知らなかったんでね」
「まあ、今に取り返しがつかなくなっても、後悔なさいませんようにね!」とマリーは言った。「でも、お信じになろうとなるまいと、私は、エヴァのことで心配したり、今まであの子のことでいろいろと無理をしてきたのがもとで、前々から気にしていたこの心臓がいっそうわるくなったんですのよ」
マリーの言う無理とはいったい何をさすのか、本人にも説明はつかんだろう。セント・クレアは静かにこう心の中で言いながら、みるからに薄情者といった様子で、冷然と葉巻をふかしていた。するとやがて、馬車がヴェランダの前に止まって、エヴァとミス・オフィーリアがおりた。
ミス・オフィーリアは、そのまま帽子とショールを置きに自分の部屋へ行った。それが彼女の習慣で、それがすむまではどんな話があってもけっして口をきかなかった。一方、エヴァは、セント・クレアの呼ぶ声をきくと、すぐにやって来て彼の膝の上にすわり、今聞いてきたばかりのお説教の話をしてきかせた。
まもなく、この部屋と同じようにヴェランダに面したミス・オフィーリアの部屋から、大きな叫び声が聞こえてきた。だれかを激しく叱責するような声であった。
「トプスのやつ、今度はどんな妖術をやらかしたのかな?」とセント・クレアが言った。「あの騒ぎはきっとやつのせいだろうからね!」
と言っていると、すぐにミス・オフィーリアが、ぷんぷん怒りながら犯人を引きずってやって来た。
「さあ、ここへおいで!」と彼女は言った。「旦那さまに言いつけてあげますからね!」
「どうしたというんです?」とオーガスティンがきいた。
「どうしたもこうしたも、私、もうこんな子はまっぴらです! とても我慢しきれません。生身の人間には耐えられないことですわ! そうでしょう、私、この子を部屋に閉じ込めて、讃美歌の勉強をするように言いつけておいたのです。ところがどうでしょう、この子ったら、私が鍵をしまっておいた場所を見つけて、私の箪笥《たんす》をあけると、中から帽子の縁飾りを取り出し、小さく切って人形の上着にしているじゃありませんか! 私、こんなことって見たことがありません、生まれて初めてですわ!」
「ですから私が言ったじゃありませんか、従姉《ねえ》さん」とマリーが言った。「こういう連中の躾けは、相当手きびしくやらないとだめだということが従姉《ねえ》さんもいつかおわかりになるでしょうってね。もし今、私の思うままにやれるとしたら」と彼女は言いながら、とがめるような目つきでセント・クレアを見た。「この子を仕置場へでも送って、思いきり折檻するように言ってやりますわ。足腰が立たなくなるくらい、打ちすえてやるようにってね!」
「私はそれを疑わないね」とセント・クレアが言った。「いったい、女に優しい支配なぞというものがあったら教えてもらいたいものだ! 私は、馬でも召使いでも半殺しにしないような女は見たことがないからね、女が自分の思うままにしたらみんなそんなものさ!――男は別だがね」
「あなたのようなこんなぐずなやり方では、なんの役にも立たないじゃありませんか、セント・クレア!」とマリーは言った。「従姉《ねえ》さんはもののわかったかたですから、今度こそ私と同じようにはっきりと得心なさったはずですわ」
ミス・オフィーリアは、厳しい躾けを受けた主婦によく見られる、あの何ごとによらず不正に対しては心の底から憤りを感じるといった性格の持ち主であった。そしてこの性格ゆえに、彼女は子供のこうしたいたずらと物の粗末な扱い方とに激しい憤りを感じたのであった。事実、この物語を読んで下さっている皆さんの中でもきっと多くのご婦人のかたが、ミス・オフィーリアと同じ状況の下にあったら、やはり同じような気持になることをお認めになるでしょう。しかし、マリーの言葉はあまりにも度が過ぎていたので、ミス・オフィーリアのほうでかえって熱が冷めてしまった。
「私はこの子にそんな酷い仕打ちはしたくありません、たとえどんなことがあっても」と彼女は言った。「でも、ほんとうに、オーガスティン、私はどうしていいものかわからないのです。何度もくりかえして教えました。口が酸っぱくなるほど言ってきかせました。鞭でたたいたこともあります。それこそ、もう思いつく限りの仕方でこらしめてみました。それでも、この子は最初とちっとも変わらないのです」
「ここへ来い、トプス、このいたずら猿め!」とセント・クレアは子供を自分の方へ呼びよせた。
トプシィは近づいて来た。そのまるい、きつい目は、心配といつものおどけた様子とが入り混った表情で、光ったり瞬いたりしていた。
「どうしておまえはそんなことをするのだ?」とセント・クレアは言ったが、彼は子供の表情がおもしろくてたまらぬとでもいった様子であった。
「あたいの心がひねくれているからでしょう」とトプシィはしかつめらしく答えた。「ミス・フィーリィがそう言うですから」
「ミス・オフィーリアがおまえのためにどれだけ骨を折っているか、おまえにはわからないのか? 考えられる限りいろいろ手を尽くしたとおっしゃっているじゃないか」
「そりゃ、言いましたです、旦那さま! 前にいた所の奥さまもよくそう言うてました。あの奥さまはあたいをもっとひどく鞭でぶったり、よく髪の毛を引っぱったり、あたいの頭をドアにぶつけたりしたです。でも、あたい、いくらそんなことをされてもなんの効《き》き目《め》もなかったです! 頭の毛を全部引抜かれたって、効き目はねえだろうと思うです。――あたい、ほんとうに悪だからね! ああ! あたい、どんなにしたって黒ん坊でしかねえもん!」
「ほらこの調子ですもの、私、もうこの子をお返しします」とミス・オフィーリアは言った。「もう、あんないたずらはたくさんですから」
「なるほど、じゃあ一つだけあなたに質問させていただきたいのですがね」とセント・クレアは言った。
「なんですの?」
「それはですね、もしあなたの福音《ふくいん》が、この家にいてしかもあなたにすっかり委されている一人の異教徒の子供さえ救うのに十分な力がないとするなら、何千というこういった連中のただ中に一人や二人の貧しい宣教師をやって福音を説いたところで、それがいったいなんの役に立つかということなんです? この子はその何千という異教徒のよい見本だと思うんですがね」
ミス・オフィーリアはすぐには答えられなかった。その時、それまでじっと黙ってこの光景をながめていたエヴァが、トプシィに向かって、自分についてくるようにと静かに合図した。ヴェランダの片隅に、セント・クレアが読書室に使っている小さなガラス張りの部屋があって、エヴァとトプシィとはその中に姿を消した。
「おや、エヴァは何をしようというのだろう?」とセント・クレアは言った。「ひとつ見にいってやろうか」
そう言って、こっそりと忍び足で近づくと、彼はガラス戸に垂れているカーテンをあげて中を覗き込んだ。そしてすぐに唇に指をあてながら、ミス・オフィーリアにも見に来るようにと合図した。見ると二人の子供は横顔をこちらに向けて、床《ゆか》の上にすわっていた。トプシィは、例によって無頓着なおどけた、何くわぬ様子であったが、向かい合ってすわっているエヴァは、激しい感情に頬をほてらせ、その大きな目には涙さえ浮かべていた。
「おまえ、どうしてそんな悪いことをするの、トプシィ? どうしていい子になろうとはしないの? おまえ、だれか愛してはいないの、トプシィ?」
「愛なんてこと、何も知らねえです。あたい|お菓子《キャンデー》みたいなものは愛すけんど、それだけです」とトプシィは言った。
「でも、おまえのお父さんやお母さんを愛しているでしょう?」
「そんなものはいねえですよ。いつか言ったでしょう、お嬢さん」
「ああ、そうだったわね」とエヴァは悲しそうに言った。「でもお兄さんとか、お姉さんとか、叔母《おば》さんとか――」
「いねえです。なんにもねえです。――初めっからなんにもねえし、だれもいねえです」
「でもね、トプシィ、もしおまえがいい子になろうとさえすれば、おまえは――」
「黒ん坊であるほかにはなんにもなれねえですよ、どんなにいい子になったって」とトプシィは言った。「あたい、皮をむいてもらって白くなれたら、いい子になるよ」
「でも、たとえおまえが黒くても、人はおまえを愛すことができるのよ、トプシィ。ミス・オフィーリアだっておまえがいい子になりさえしたら、きっと愛して下さってよ」
トプシィはふふっと無愛想に笑った。それは相手の言葉を容易に信用しない時の彼女のいつもするしぐさであった。
「おまえ、そうは思わないの?」とエヴァは言った。
「思わねえです。あのかたはあたいに我慢ができねえんです、あたいが黒ん坊だもんだから!――あたいに触わられるくれえなら、ひきがえるに触わられたほうがましだと思ってるんです! 黒ん坊なんか愛してくれる人はいるはずがねえです。だから黒ん坊は何もできねえんですよ! それでもあたいはかまやしねえ」と言ってトプシィは口笛を吹きだした。
「おおトプシィ、かわいそうに、あたしはおまえを愛しているわ!」とエヴァはぐっと込み上げてくる感情に思わず叫んだ。そしてその小さな細い白い手をトプシィの肩においた。「あたし、おまえを愛してあげるわ、だっておまえにはお父さんも、お母さんも、お友だちもいないんですものね。――おまえはかわいそうに、みんなから虐待されてきた子供ですものね! あたし、おまえを愛してあげます、だからおまえもいい子になってちょうだい。あたし、からだがとても悪いのよ、トプシィ、もうあまり長くは生きていられないように思うの。おまえがそんなにいたずらな子だと、あたしほんとうに悲しくなるの。あたしのためと思って、どうかいい子になるようにしてちょうだい。――おまえと一緒にいられるのも、もうほんの少しの間だけですからね」
その黒い子供の、まるい鋭い目は涙でくもった。――大粒の輝く涙が一滴また一滴と溢れ出て、小さな白い手の上に落ちた。まさにその瞬間、真の信仰の光、天上の愛の光が彼女の異教徒の心の暗闇《くらやみ》に差し込んだのである! 彼女は膝の間に頭をたれておいおいと泣きだした。――そして彼女の上に身をかがめている美しいエヴァの姿は、さながら罪人《つみびと》を導く輝く天使の姿に似ていた。
「かわいそうなトプシィ!」とエヴァは言った。「おまえ、イエスさまはだれでも分け隔てなく愛して下さるということを知らないの? あのかたはあたしを愛して下さると同じように、喜んでおまえを愛して下さるのよ。あたしがおまえを愛するように、――いいえ、もっともっとおまえを愛して下さるのよ。あのかたはあたしよりずっといいかたですもの。おまえがいい子になるようお力添えをして下さるわ。そして最後には、おまえも天国へ行って、永久に天使になれるのよ、それは白人と少しも変わりないわ。そのことをよく考えてちょうだい、トプシィ!――おまえだって、アンクル・トムがよく歌うあの輝く精霊の一つになれるのよ」
「ああ、お嬢さま、優しいお嬢さま!」とその子は言った。「やってみる、あたい、やってみるです。あたい、これまでそんなことは少しもかまやしなかった」
セント・クレアはここでカーテンを下ろした。「あれを聞いて母のことを想い出しましたよ」と彼はミス・オフィーリアに言った。「母の言ったことはほんとうです。もし盲人に目を与えたいならば、われわれはすすんで、キリストがしたようにしてあげねばいけない。――つまり、そういった人たちを呼びよせて、その人に手を置いてやらなければいけないのです」
「私はこれまで、いつも黒人に対して偏見をもっていました」とミス・オフィーリアが言った。「ですから正直なところ、あの子に触られるのがとても耐えられませんでした。けれど、あの子がそれを知っていたとはとても思えませんけれどね」
「子供というものは、すぐそういうことがわかるもんですよ」とセント・クレアは言った。「子供にはけっして隠してはおけません。しかし私が思うには、子供のためにどんな善いことをしてやっても、物質的な恩恵をいくら施しても、その子供に対する嫌悪の気持が心の中に残っている間は、その子に感謝の念をおこさせることはけっしてできませんよ。――これは奇妙なことですが、――しかしほんとうのことなのです」
「でも、それをどう抑えたらいいのか私にはわからないのです」とミス・オフィーリアは言った。「あの連中は私にはほんとうに不愉快なんですからね。――とりわけ、あの子がそうです。――どうしたらこういう気持にならないですむのでしょうね?」
「エヴァはならないようですよ」
「そりゃあ、あの子はだれでも愛せる性質《たち》ですからね! 結局、あの子はキリストのようだということにすぎないのでしょうけど」とミス・オフィーリアは言った。「私も、あの子のようになれたらいいと思います。あの子なら私に教えを授けることもできますものね」
「もしそうだとしたら、小さな子供がおとなの弟子を教えるために役立ったのはこれが初めてではなかったでしょうね」とセント・クレアは言った。
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第二十六章 死
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人生の幼き朝に、死の幕《とばり》、我らが眼より隠したる
人を思いて泣くなかれ
(トマス ムア[一七七九〜一八五二、アイルランドの詩人]の詩「人を思いて泣くなかれ」の一節。ただし原詩では、「人生の幼き朝」は「人生の幸福な朝」となっている。なお、ムアは「夏の名残りのバラ」の作詩者としてわが国に知られている)
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エヴァの寝室はこの家の他の部屋と同様、広いヴェランダに面した大きな部屋であった。寝室は一方では両親の部屋に通じており、もう一方はミス・オフィーリアのために当てられた部屋に通じていた。セント・クレアは、自分のもつ鑑賞眼と趣味とが満足するまでこの寝室の飾りつけには気を配ったが、その様式は不思議なほど彼女の性格と調和していた。窓にはばら色と純白のモスリンのカーテンが掛かり、床にはセント・クレアが自分で考案した図柄に合うよう、パリに注文して作らせた敷物が敷いてあって、その敷物の周りにはばらの蕾《つぼみ》と葉とが縁どられ、中央には満開のばらの花があしらってあった。寝台、椅子、長椅子はみな竹製で、特に優雅なそして奇想をこらした形に作られていた。枕元には雪花石膏製《アラバスター》の張り出し棚があって、その上には、翼を垂れ天人花《てんにんか》の冠を差し出した美しい天使の彫像が立っていた。ここからベッドの上へと、銀色の縞模様の入った、ばら色の薄い紗《しゃ》のカーテンが下がって、蚊を防ぐようになっていたが、それは、この気候の地にあっては寝具の一つとしてどうしても欠くことのできないものであった。幾つかの優雅な竹の長椅子には、ばら色のダマスコ織りのクッションが置かれて、その上方の彫像の手からは、ベッドのカーテンと同じような紗のカーテンが吊ってあった。部屋の中央には軽い、奇想をこらした竹製のテーブルがあって、そこには蕾をつけた白百合の形をしたパロス焼の花瓶が置かれていて、いつも花がいっぱい活けてあった。このテーブルの上にはまた、エヴァの本や細々した装身具ものっていたが、それらと一緒に優雅な作りの雪花石膏製《アラバスター》の習字台《ライテング・スタンド》が置かれてあった。それは、いつか彼女が熱心に習字の練習をしているのを見て、父親が彼女のために買ってやったものであった。部屋には煖炉があって、大理石のマントルピースには幼い子供たちを迎えている美しいイエスの小さな彫像がのっていた。そしてその両側には、トムがそれに毎朝花を活けるのを彼の誇りともまた喜びともしている大理石の花瓶が置いてあった。そしてさまざまな姿の子供たちを描いたみごとな絵が二つ三つ壁を飾っていた。要するにどちらに目を向けても、この部屋は子供と美と平和の姿が見られるようになっていたのである。そしてエヴァの可愛い目が朝の光を受けて開く時、必ずそこには安らかな美しい思いを心に起こさせるものが映るのであった。
エヴァのからだをしばらくのあいだ支えていたあの偽りの力は急速に消えていった。彼女の軽い足どりがヴェランダに聞かれるのももうごくまれのこととなって、あけ放した窓辺の小さな長椅子に身を横たえ、大きな深い瞳を湖の波の起伏にじっと向けている姿を見かけることのほうがだんだんと多くなっていった。
ある日の、午後ももうなかば近くのころ、彼女がこうして横たわっていると、――聖書は半分ひらいたままで、その上には彼女の透き通るような指がものうげにのっていたが、――突然、ヴェランダに母親の鋭い声が聞こえた。
「またやったね、このおてんば娘!――今度はまたこんないたずらをして! おまえ、花を取っていたんだろ、どうだい?」そしてエヴァは、ぴしゃりという音を聞いた。
「あれっ、奥さま!――これはお嬢さまにあげるです」という声が聞こえたが、彼女には、それがトプシィだとわかった。
「お嬢さまだって! うまい言い訳だね!――あの子がおまえの花を欲しがるとでも思っているのかい、このろくでなしの黒ん坊! さあ、とっととあっちへお行き!」
と、すぐにエヴァは長椅子を離れて、ヴェランダに立った。
「おお、いけないわ、お母さま! あたし、その花が欲しいわ。ここへ下さいな。あたし欲しいのよ!」
「だって、エヴァ、おまえの部屋はもう花でいっぱいじゃありませんか」
「いくらあっても多過ぎるということはありませんもの」とエヴァは言った。「トプシィ、さあ、ここへ持ってきておくれ」
トプシィはそれまで脹れた顔で、うつむいたまま立っていたが、それを聞くとすぐにやって来て、エヴァに花を差し出した。その時の彼女の態度には、いつものあの気味の悪いずぶとさと明るさとは似ても似つかぬためらいと恥じらいの様子が伺われた。
「まあ、きれいな花束ね!」とエヴァはそれをながめながら言った。
それは一風変わった花束で、――鮮かな真紅《しんく》のゼラニュームに、つややかな葉の、白い椿《つばき》を一輪そえたものであった。いかにも色の対照に気を配って作ったものらしく、一枚一枚の葉のあしらい方にも苦心のあとが見られた。
トプシィは嬉しそうにエヴァの言葉を聞いていた。――「トプシィ、おまえほんとうに花の見立て方が上手ね」と彼女は言ってくれた。「こっちの花瓶には花が何もないでしょう。だからこの花瓶に毎日何か活けておくれ」
「まあ、妙なこと!」とマリーは言った。「いったい、なんのためにそんなものが欲しいの?」
「いいのよ、ママ。ママだってトプシィがこういうことをしてはいけないとはおっしゃらないでしょう、――ね?」
「ええ、そりゃあもちろん、おまえが喜ぶことならね! トプシィ、おまえ、お嬢さまのいうことをよくお聞き。――よく覚えておくんだよ」
トプシィはちょっと膝をまげてお辞儀をすると、そのまま下を向いていた。そして彼女が立ち去ろうとした時、エヴァはその黒い頬に涙が一|滴《しずく》こぼれるのを見た。
「ねえ、ママ、あのかわいそうなトプシィはあたしのために何かしたいと思ったのよ」とエヴァは母親に言った。
「まあ、ばかばかしい! 彼女《あれ》はいたずらがしたいだけですよ。花を取っちゃいけないことを自分ではちゃんと知ってるんですよ。――それでわざとやるんですよ。理由はただそれだけさ。でも、おまえが彼女《あれ》に花を摘ませたいというのなら、それでもいいんだよ」
「ママ、あたしトプシィは以前とは違ってきたように思うわ。いい子になろうと一生懸命よ」
「彼女《あれ》がいい子になるには当分の間一生懸命でなくてはだめね」とマリーはべつに気にもとめぬ様子で、笑いながら言った。
「でも、ね、ママ、トプシィはかわいそうよ!何もかもが、いつもあの子に逆らってきたんですもの」
「私たちの所へ来てからは違いますよ、絶対に。あの子にはいろいろと話してもきかせ、諭《さと》しもし、この世でのことはもうできる限りしてあげているんだからね。――それでもまだ始末におえない子なんだよ、いつになったってあのとおりさ。まったく手のつけようがない子だよ!」
「でも、ママ、あたしの育てられ方とは違いますもの。あたしには、あたしをいい子にしてくれたり、仕合わせにしてくれたりするたくさんのお友だちやたくさんのものがあったけれど、あの子はここへ来るまでずっとひどい育てられ方をしていたのでしょう!」
「そりゃあまあ、そうだろうね」とマリーは言って欠伸《あくび》をした。――「まあ、今日はなんて暑いんだろう!」
「ママ、トプシィがもしクリスチャンだったら、あたしたちと同じように天使になれるとお思いになるでしょう?」
「トプシィが! ま、なんてばかげたことを言うんでしょ! そんなことを考えるのはおまえぐらいのものだよ。でも、まあ、なれるんだろうね」
「でも、ママ、神さまはあの子の父なのではありませんの、あたしたちの父であるのと同じように? イエスさまはあの子の救い主なのではありませんの?」
「まあ、そうだろうね。神さまがみんなをお造りになったんだろうからね」とマリーは言った。「私の嗅ぎ瓶《びん》はどこかしら?」
「とてもかわいそうだわ――ほんとうに! とてもかわいそうだわ!」とエヴァは遠くの湖水を見つめながら、なかば独り言のように言った。
「何がかわいそうなの?」とマリーは言った。
「だって、輝く天使になって他の天使たちと一緒に暮らせる人間が、下へ、下へ、下へと堕ちてゆくのにだれも救《たす》けてあげないのですものね!――ああ、ほんとうに!」
「でも、それはしかたのないことさ。心配したってどうにもなりゃしないんだよ、エヴァ! 私だってどうしたらいいのかわからないんだからね。だから私たちはこの恵まれた身分を感謝しなくてはいけないんだよ」
「あたし感謝なぞできませんわ」とエヴァは言った。「何一つ恵まれたものもないあのかわいそうな人たちのことを考えると、あたし、気の毒でたまらないんですもの」
「まったく妙なことね」とマリーは言った。――「私の信仰している教えでは、こうした恵まれた身分に感謝するようにと教えられてきたつもりだけどね」
「ママ」とエヴァは言った。「あたし、髪の毛を切ってほしいの、――たくさん」
「あら、どうして?」とマリーは言った。
「ママ、あたしね、それをお友だちに分けてあげたいの、自分でそれができるうちに。伯母さまを呼んで、切っていただくようにお願いして下さいません?」
マリーは声をあげて、隣りの部屋からミス・オフィーリアを呼んだ。
子供は、ミス・オフィーリアが入ってくると、枕からなかば身をおこして、長い金褐色の巻毛をゆり下げながら幾分戯れるように言った。「さあ、伯母さま、羊の毛を刈って下さいな!」
「どうしたんだい?」とちょうどその時、エヴァのために果物《くだもの》を買いに出かけていたセント・クレアが部屋に入って来て言った。
「パパ、あたしね、伯母さまに髪の毛を切っていただくところなの。――多すぎて、頭が暑苦しいでしょう。それに、みんなに分けてあげたいんですもの」
ミス・オフィーリアは鋏《はさみ》をもってきた。
「気をつけて下さいよ。――恰好《かっこう》が悪くならないようにね!」と父親は言った。「下の方の目だたないとこを切って下さい。エヴァの巻毛は私の自慢なんですからね」
「おお、パパ!」とエヴァは悲しそうに言った。
「ほんとうさ、パパはそれをきれいにしておいて欲しいのだよ、さもないと、おまえを連れてヘンリックに会いに伯父さまの農園へ行く時、困るだろ」とセント・クレアは陽気な口調で言った。
「あたし、もうそこへは行けないわ、パパ。――もっといいところへ行くんですもの。おお、ほんとうにあたしの言うことを信じて下さい!パパ、あたしが一日一日と弱ってゆくのがおわかりにならないの?」
「どうしてそんなつらいことをパパに信じろなんて言い張るんだね、エヴァ?」と父親は言った。
「でもほんとうのことなんですもの、パパ。そしてもしパパが今それを信じて下さるなら、たぶんあたしと同じ気持になって下さるはずよ」
セント・クレアは口をつぐみ、沈んだ面もちでじっと立ったまま、長い美しい巻毛が子供の頭から切りとられて、一つずつその膝の上に置かれていくのを見つめていた。エヴァは、それを取り上げ、じっとそれに目をそそぎ、自分のやせ細った指に巻きつけた。そして時々心配そうに父親を見あげた。
「やはり私が前から言っていたとおりじゃありませんか!」とマリーが言った。「やはりこの心配が私の健康を日一日と蝕《むしば》んでいたんですわ、そして私は墓へ引きずり込まれていくのだわ。それなのにだれも気がつく人がいないんですもの。私にはもう前からわかっていたんです。セント・クレア、あなたももう少ししたら私の正しかったことがおわかりになるはずよ」
「そうしたら、お前もさぞ満足だろうね!」とセント・クレアは冷やかな苦々しい口調で言った。
マリーは長椅子に横になって、麻のハンカチで顔を蔽った。
エヴァの澄みきった青い目はじっと二人を見つめていた。それはこの世の絆《きずな》からなかば解放された魂の静かな悟りきった凝視であった。彼女が二人の相違を見、感じ、そして正しく評価していたことは明らかであった。
彼女は父親に手招きした。彼は近寄って、彼女の傍らにすわった。
「パパ、あたしの力は一日一日と衰えてゆきます。そしてあたし、もうどうしても行かなければならないことを知っています。あたしには言いたいことやしたいこと――いいえ、しなければいけないことが幾つかあります。パパは、あたしがこのことに少しでも触れるのがとてもおいやでしょう。でも、どうしてもそうなるのですから、先へ延ばすわけにはゆきません。どうぞお願いですからあたしのお話を聞いて下さい!」
「うん、聞いてあげよう!」とセント・クレアは一方の手で両眼を蔽い、もう一方の手でエヴァの手を握りしめながら言った。
「ではあたし、家の人たちにみんなここへ来てほしいの。みんなにぜひ話しておかなければならないことがありますから」とエヴァは言った。
「いいよ」とセント・クレアは涙をこらえているような口調で言った。
ミス・オフィーリアが使いを走らせたので、すぐに家じゅうの召使いがこの部屋に集まって来た。
エヴァは枕に背をもたせかけていた。髪はほつれて顔にかかり、深紅《しんく》の頬は、まっ白な皮膚の色や、やせ細った手足や顔の輪郭と痛ましい対照を見せていた。そして大きな、魂そのままのような目は、じっとみんなの上に注がれていた。
召使いたちは、はっと胸をうたれた。神々しい顔、切りとられて彼女の傍らに置かれている長い巻毛、父親の横へそむけた顔、そしてマリーのすすり泣く姿、そういったものが敏感で感動しやすい黒人たちの心を一度に打ったのである。一同は部屋に入りながら、互いに顔を見合わせ、ため息をついたり、頭を振ったりした。それから深い沈黙が、まるで葬式の時のように、続いた。
エヴァは身を起こして、おもむろに一人一人の顔をじっと見つめた。だれもみな、悲しげな気づかわしげな顔をしていた。女たちの多くはエプロンで顔を蔽っていた。
「あたしがあなたたちに来てもらったのはね、皆さん」とエヴァは言った。「あたしがあなたたちを愛しているからです。あたしは、あなたたちみんなを愛しています。それで、あなたたちにお話しておきたいことがあるのです。それをいつまでも忘れないでいてほしいのです……。あたし、もうすぐあなたたちとお別れしなければならないのです。二、三週間もすれば、もうあなたたちはあたしを見ることができなくなるでしょう――」
ここまで来た時、その場にいる人々から突然わき起こった呻き声やすすり泣く声や嘆き声のために遮られて、彼女の弱々しい声はすっかりかき消されてしまった。彼女はしばらく待った。それから一同の泣き声を抑えるような口調で話しだした。
「もしあなたたちがあたしを愛してくれるなら、そのようにしてあたしの話を遮らないでちょうだい。あたしの言うことをよく聞いてちょうだい。あたしがあなたたちに話したいというのはね、あなたたちの魂のことなのです……。あなたたちの中には、こういうことをべつに気にもとめない人がずいぶんいると思います。それは、この世のことばかり考えているからなのです。あたしはあなたたちに、イエスさまのいらっしゃる美しい世界があるということを覚えていてほしいのです。あたしは、そこへ行くのです、そしてあなたたちもそこへ行くことができるのです。そこはあたしばかりでなく、あなたたちのためのものでもあるのです。でも、あなたたちがそこへ行きたいと思うなら、ただぼんやりと、呑気な、考えなしの毎日を送っていてはいけません。みんなクリスチャンにならなくてはいけないのです。あなたたちはだれでも天使になれるし、永遠に天使でいられるのだということを忘れてはいけません……。もしあなたたちがクリスチャンになりたいと思ったら、イエスさまがそれを助けて下さいます。イエスさまにお祈りしなさい。ぜひ聖書を読み――」
エヴァは言葉を切って、気の毒そうに彼らを見た。そして悲しそうに言った。
「ああ、そうだわ! あなたたちは字が読めないのね、――かわいそうに!」そう言うと彼女は枕に顔を埋めて、すすり泣きをはじめた。しかし床《ゆか》にひざまずいて彼女の話を聞いていた人々の抑えきれぬすすり泣きを聞くと、彼女の心は奮い立った。
「でもそんなこと、気にしなくてもいいのよ」と、彼女は顔をあげて、涙の陰から明るい微笑をのぞかせながら言った。「あなたたちのためにお祈りをしてあげましたから、イエスさまは、あなたたちが聖書を読めなくても助けて下さいます。みんなできるだけの努力をしてちょうだい。毎日お祈りをなさい。イエスさまにお助け下さるようお願いして、機会あるごとに聖書を読んでもらうようになさい。そうすれば、あたし、きっと天国でみんなに会えると思います」
「アーメン」と低く答える声が、トムとマミィと、メソディスト教会に属している年とった召使いたちの唇からもれた。若い無分別な召使いたちも、しばらくの間すっかり心を打たれて、頭を膝に垂れたまま、すすり泣いていた。
「わかってるわ」とエヴァは言った。「みんな、あたしを愛してくれているわね」
「はい、そうでごぜえます! そのとおりでごぜえます! お嬢さま!」と一同は無意識のうちに答えていた。
「ええ、そうね! あたしに親切にしてくれなかった人は一人もいませんものね。で、あたし、あなたたちに、それを見ていつもあたしのことを思い出してくれるようなものをあげたいと思うの。あたし、あなたたちみんなにあたしの巻毛をあげます。そしてそれを見たら、あたしがみんなを愛していたことを、あたしが天国に行ったことを、そしてそこでみんなを待っていることを思い出して下さい」
その場の光景を描写することは不可能なことではあるが、彼らは涙を流し、すすり泣きながら、この小さな子供の周りに集まって、彼女の手からその愛の最後のしるしと思われるものを受けとった。彼らはその場にひざまずいた。涙にむせび、そして祈り、そして彼女の着物の裾《すそ》にキスをした。年上の召使いたちは、感受性の強いこの種族特有の仕方で、祈りと祝福とをまじえて、愛の言葉を注ぎかけた。
一人一人が贈り物を受けとると、さいぜんから、幼い病人に対するこの場の興奮の影響を気づかっていたミス・オフィーリアが、一人一人に部屋から出てゆくようにと合図した。
やがて、一同は出ていって、トムとマミィだけがあとに残った。
「さあ、アンクル・トム」とエヴァは言った。「おまえにもこのきれいなのをあげるわ。おお、アンクル・トム、おまえに天国で会えると思うと、あたし、ほんとうに嬉しいわ。――あたし、きっと会えると思いますもの。それからマミィ――あたしの大切なやさしい親切なマミィ!」と彼女は、やさしくこの昔の乳母《うば》を抱きしめながら言った。――「おまえもきっと天国に来てくれるわね」
「おお、お嬢さま、わし、お嬢さまがいらっしゃらなかったらどうして生きていけるかわからねえでごぜえますよ、ほんとうによう!」とその忠実な女は言った。「まるでこの世から何もかも一遍にもっていかれてしまうような気がしますだ!」そう言ってマミィはとうとう激しく泣きだした。
ミス・オフィーリアは彼女とトムを静かに部屋から押し出して、これで皆いなくなったと思ったが、振りかえると、まだトプシィがそこに立っていた。
「おまえどこから出てきたの?」と彼女は、びくっとして言った。
「さっきからここに居たです」とトプシィは涙をふきながら言った。「おお、お嬢さま、あたいはいつも悪い子供です。でも、あたいにもそれをくんねえですか?」
「ええ、かわいそうなトプシィ! もちろんあげるわ。さあ――それを見るたびに、あたしがおまえを愛していることを、そしておまえにいい子になってほしいと望んでいたことを思い出しておくれ!」
「おお、お嬢さま、あたい一生懸命なろうとしているです!」とトプシィはしんけんな面もちで言った。「でも、ほんとうに、いい子になるのはずいぶんむずかしいです! たぶんあたいがそういうことに慣れてねえからかもしんねえけんど!」
「イエスさまにはわかって下さるわ、トプシィ。あのかたはきっとおまえを憐れんで下さいます。おまえを助けて下さいます」
トプシィは、目をエプロンで蔽いながら、静かに部屋からミス・オフィーリアに連れ出された。しかし、出てゆきながら大切な巻毛は懐の中に深くしまいこんだ。
みんな出ていってしまうと、ミス・オフィーリアはドアをしめた。この尊敬すべき婦人も、この光景の間、何度も涙を拭っていた。しかし、彼女にとってはこの幼い病人に対するそういう興奮の結果こそ、最も心配するところであった。
セント・クレアはこの間《かん》ずっと、一方の手で両眼を蔽ったまま、前と同じ姿勢ですわっていた。そして皆が出ていってからも、そのままじっとすわっていた。
「パパ!」とエヴァは優しく言って自分の手を父親の手にのせた。
彼ははっとして身を震わせたが、何も答えなかった。
「大好きなパパ!」とエヴァは言った。
「私にはできない」とセント・クレアは立ち上がりながら言った。「私にはもう耐えることができない! 全能者痛く我を苦しめたまいたり(ルツ記、第一章第二十節)だ!」とセント・クレアはこの言葉をじつに激しい口調で言った。
「オーガスティン! 神さまにはご自分の子供をご自分の思うとおりになさる権利がおありなのではないのでしょうか?」とミス・オフィーリアが言った。
「たぶんそうでしょう。しかしだからといって耐えやすくなるわけのものではありませんよ」と彼は背を向けながら、無愛想な冷たい、涙も見せぬような態度で言った。
「パパ、パパがそんなことをおっしゃると、あたし、胸が張り裂けるわ!」と言うとエヴァは起き上がって、彼の腕の中に身を投げかけた。「どうかそんな悲しいお気持にならないで!」そして子供は激しく涙にむせびながら泣きだした。一同はびっくりして、父親もたちまち自分の悲しみなぞ忘れてしまった。
「よしよし、エヴァ、――いい子だからね! さあ! もう泣きやみなさい! パパが悪かったよ。パパがいけなかった。パパはどんなふうにでも気持を改めるからね、どんなことでもするからね――だからそんなに気にしないでおくれ。そんなに泣かないでおくれ。パパは諦めるよ。あんなことを言ったりして悪かったね」
エヴァはまもなく父親の腕の中で疲れた鳩のように静かになった。そこで彼は身を屈めて、思いつく限りの優しい言葉で彼女を慰めてやった。
マリーは立ち上がると、その部屋を飛び出して自分の部屋へ行ってしまった。彼女はひどいヒステリーを起こしていた。
「おまえはパパに巻毛をくれなかったね、エヴァ」と父親は寂しげにほほえみながら言った。
「これはみんなパパのものよ」と彼女はほほえみながら言った。――「パパとママのものよ。そして伯母さまにも好きなだけあげて下さいね。あたしがあの気の毒な人たちに自分であげたのはね、パパ、あの人たち、あたしが死んでからでは忘れられてしまうかもしれないでしょう。それにあたし、あの巻毛を見てみんながあたしのことを思い出してくれればと思ったからなの……。パパ、パパはクリスチャンなのではありませんの?」とエヴァは疑わしげに聞いた。
「どうしてそんなことを聞くのかね?」
「どうしてって。パパはとても優しいかたでしょう、ですからそうでないなぞとは考えられませんもの」
「クリスチャンならどうなのかね、エヴァ?」
「何よりもまずイエスさまを愛するのよ」とエヴァは言った。
「おまえは、エヴァ?」
「ええ、愛しています」
「おまえ、そのかたに会ったことはないんだろう」とセント・クレアは言った。
「そんなことはかまいませんわ」とエヴァは言った。「あたし、あのかたを信じているんですもの、そしてもうすぐお目にかかれるのよ」そういう幼な子の顔はほてって喜びに輝いていた。
セント・クレアはもう何も言わなかった。この時のエヴァの気持は彼が以前彼の母の中に見た気持と同じものであった。しかし、彼の心の琴線《きんせん》は、今は少しもそれに共鳴しなかった。
このことがあってから、エヴァは急速に衰えていった。死期の訪れたことはもはや明らかであった。どんなに贔屓目《ひいきめ》に見てもその目をごまかすことはできなかった。彼女の美しい部屋はもうだれの目にも病室であった。そしてミス・オフィーリアは昼も夜もまるで看護婦のようになってあれこれと努めた。――その看護ぶりには彼女の親しい者たちも今更のように感心してしまった。手の動かし方といい、目の配り方といい、じつによく訓練されていて、まったく申し分ないほどの手際のよさと馴れた手つきとで部屋の中を小ざっぱりと気持よく整頓して、病気のときによく見かけるあの不愉快なものなぞ少しも人目につかぬようにしていた。――その完璧《かんぺき》な時間の観念、その明晰《めいせき》な冷静な頭脳、医師の処方や指示に対するそのじつに正確な記憶力、――彼女は医師にとっても、またとない存在であった。南部ののんびりとした自由な風習とはまったくかけ離れている彼女のちょっとした癖や頑固な性格にこれまで肩をすくめてきた人たちも、いまや彼女こそ必要欠くべからざる人物だと認めるようになった。
アンクル・トムはほとんどエヴァの部屋につきっきりであった。子供は神経のいらだちにひどく悩んでいたが、抱いてもらうと気持が安まった。そこでトムはこの小さなかよわいからだを枕ごと抱いて、時には部屋の中をあちこちと歩きまわったり、時にはヴェランダに出たりしたが、それはトムにとっては最大の喜びであった。新鮮な汐風《しおかぜ》が湖から吹いて来る時には、――そして子供は朝が一番気分がよかったのであるが、――彼はよく彼女を抱いて庭のオレンジの木陰を散歩したり、以前によく二人ですわった腰掛けに腰をおろして、二人の好きな讃美歌を歌って聞かせたりするのであった。
彼女の父親もよく同じことをした。しかし彼の体格はトムより華奢《きゃしゃ》であったので、彼が疲れてくるとエヴァはよくこう言った。「おお、パパ、トムに抱かせて下さいな。かわいそうに! トムは嬉しいのよ、もうトムにできることはそれだけですものね、トムは何かしたいのよ!」
「パパだってそうだよ、エヴァ!」と父親は言った。
「でも、パパ、パパはなんでもできてよ、それにパパはあたしのすべてですもの。本も読んで下さったり、――夜だっておそくまで起きていて下さったり、――でもトムはこのことと歌を歌ってくれることしかできないのよ。それにきっとパパよりは楽よ。とても力の強い腕で抱いてくれるんですもの!」
何かをしたいという気持は一人トムに限ったことではなかった。家じゅうの召使いが同じ気持を示して、皆それなりにできるだけのことをした。
哀れなマミィの心も彼女の大切なお嬢さまに向けられていた。しかし彼女には夜も昼も全然その機会が見いだせなかった。マリーが、気分がこんなで少しも休むことができないと言い出したからで、そしてもちろん、マリーの主義として他の者を休ませるなぞということは絶対になかったからであった。マミィは一晩に二十回も起こされて、マリーの足をさすったり、頭を冷したり、ハンカチを探したり、エヴァの部屋で音がしたからと言われて見に行ったり、明るすぎるからと言われてカーテンを下ろしたり、暗すぎるからと言われて上げたりしなければならなかった。そして昼間は昼間で、彼女がエヴァの看護を少しは手伝いたいと思っていても、マリーは不思議なくらいあれやこれやと用事を考え出しては、マミィを家のことや自分の身のまわりのことで忙しく立ち働かせるのであった。そういうわけで、暇を盗んでエヴァに会いにゆくか、ほんの一瞬ちらりと姿を見ることぐらいしか彼女にはできなかったのである。
「もうこうなったら私は自分のからだに特別気をつけることが私の義務だと思いますわ」とマリーはよくそう言った。「もともと私は弱いからだなんですからね、それにあの子の世話や看病はみんな私一人にかかっているんですもの」
「なるほど」とセント・クレアは言った。「子供のことは従姉《ねえ》さんがやってくれていると思ってたがね」
「男の人っていつもそうなのね、セント・クレア、――こんな時に子供の世話をしないでいられる母親がいるとでもおっしゃるの。でも、まあ、みんな同じようなもんだわ、――だれも私の気持なぞわかってくれる人はいないんですもの! 私は、あなたのように、物事を投げやりにはできませんのよ」
セント・クレアは微笑した。読者の皆さんはそれを許してやっていただきたい、彼は微笑せずにはいられなかったのです、――彼にはまだ笑うことができたのです。なぜなら、小さい霊魂の別れの航海は、あまりにも明るく平穏で、――その小さな帆舟は、じつに甘美な芳《かぐ》わしいそよ風を受けて天なる岸辺へと運ばれていくので――それがさし迫った死なのだと悟ることがなかなかできなかったからなのです。子供はなんの苦痛も感じなかった、――ただ、静かな和《なご》やかな衰弱だけが一日一日と、しかもほとんど気のつかぬほどに加わってゆくだけであった。そして彼女はじつに美しく、じつに愛らしく、もう安心しきって、じつに幸福そうに見えたので、彼女の周囲に息づいているかと思えるあの無邪気な平和な空気のもつ慰めの力にだれ一人|抗《あらが》うことのできる者はいなかった。セント・クレアもある不思議な静けさが自分に訪れてきたことを知った。それは希望というものではなかった。――そんなことはありうるものではなかった。それはまた諦めでもなかった。それはただ、現在に静かに頼ろうとする気持であって、現在があまりにも美しく思われるので未来のことなぞ何も考えたくないと彼が願ったからにすぎなかった。それは明るい穏やかな秋の森の中で、木の葉が梢に赤みを増し、小川の畔《ほとり》に咲き残る名残《なご》りの花が開く時、われわれが感じる、あの魂の静けさにも似ていた。そしてわれわれは、それがすぐにみんな消え去ってしまうものであることを知っているがゆえに、なおのことそれに喜びを感じるのである。
エヴァ自身が何を考え、何を予見しているか、それを最もよく知っていた者は、いつも彼女を抱いている忠実なトムであった。トムに対しては、エヴァは父に話して心配させたくないようなことまでも打ち明けていた。トムにだけは、霊魂の綱が解けて、永久に肉体を離れていこうという時の霊魂の感じるあの神秘な告知を聞かせてやっていたからである。
トムは、とうとう、自分の部屋では眠らずに、夜中、外のヴェランダに横になって、いつ呼ばれてもすぐに起きられるようにしていた。
「アンクル・トム、いったいどうしておまえ、近ごろ犬のようにどこでもかまわず寝ているのです?」とミス・オフィーリアが言った。「おまえはクリスチャンらしくベッドで寝るような几帳面な男だとばかり思っていたのに」
「さようでごぜえます、フィーリーさま」とトムはいかにも訳がありそうな様子で言った。「さようでごぜえますが、近ごろは――」
「えっ、近ごろはどうしたというのです?」
「大きな声をなさってはいけません。旦那さまがお聞きになるとたいへんでごぜえますから。しかし、フィーリーさま、だれか新郎《はなむこ》を迎える者がいなくてはいけないのでごぜえましょう」
「それはどういうことです、トム?」
「聖書にこう書いてごぜえますでしょう、『夜半《よなか》に、やよ新郎《はなむこ》(キリストの意)なるぞ、出で迎えよと呼《よば》わる声す』(マタイ伝、第二十五章第六節)と。それでわし、近ごろは毎晩こうして待っているのでごぜえます、フィーリーさま、――それが聞こえないところには、わし、どうしても寝られないのでごぜえます」
「まあ、アンクル・トム、いったい何がおまえをそんなふうに考えさせるのです?」
「お嬢さまでごぜえます、あのかたがわしにおっしゃいますのです。神さまが魂の中へ御使いをおつかわしになるのだそうでごぜえます。わしはぜひそこに居合わせたいのでごぜえます、フィーリーさま。なぜというて、神さまの祝福を受けたあのお嬢さまが御国にお入りになる時には、天国の門はそれはそれは大きく開かれるでごぜえましょうから、わしどもも皆その栄光《みさかえ》を一目拝ませてもらえるだろうと思うからでごぜえます、フィーリーさま」
「アンクル・トム、お嬢さまは今夜、いつもより気分がよくないとでも言いましたか?」
「いいえ。ただ、けさがたわしに、いよいよ近づいてきたとおっしゃいました、――それをだれかお嬢さまに知らせるかたがあるのでごぜえますよ、フィーリーさま。天の御使いでごぜえます、――『そは夜明けを前に鳴り渡るトランペットの響なり』でごぜえます」とトムは彼の好きな讃美歌から引用して言った。
こうした会話がミス・オフィーリアとトムとの間に交されたのは、ある夜の十時から十一時の間で、ミス・オフィーリアがすっかり寝る支度を整えて外側の戸に閂《かんぬき》を掛けようとして、外のヴェランダにトムがごろりと横になっているのを見つけた時であった。
彼女は気が弱いわけでも物に感じやすいわけでもなかった。しかし、トムの厳粛な、誠意に満ちた態度には胸を打たれた。その日の午後、エヴァはいつになく明るくほがらかで、ベッドに起きあがって、自分の持っている細々した装身具や大切な品物を一つ残らず調べ、それらを贈る人たちを一人ずつきめていた。彼女の様子は、ここ数週間見られなかったほど生気に満ち、その声にも張りがあった。父親は、その夕方、付き添いに来ていたが、エヴァが病気になってからこれほどもとの元気な姿を見せたのは今日が初めてだなぞと言った。そしてエヴァにおやすみのキスをしてから、彼はミス・オフィーリアに言ったのである。――「従姉《ねえ》さん、やはりあの子は私たちのところに引きとめておくことができそうですよ。とても元気ですからね」そして彼は何週間ぶりかの軽い気持で自分の部屋に引きとっていったのであった。
ところが真夜なか――あの不思議な、神秘な時刻!――あのはかない現在と永遠の未来との間の帷《とばり》が薄れてゆく時、――ついに御使いがやってきた!
部屋の中に物音がして、最初だれかが足早に歩く気配であった。それはミス・オフィーリアだった。彼女は幼い病人に付き添ってその夜は一晩じゅう起きているつもりであったが、真夜なかごろ、経験をつんだ看護婦たちが意味深長に「変化」と呼ぶ、あの兆候を認めたのであった。外側のドアが手早にあけられた瞬間、外で番をしていたトムは、さてはと気を引きしめた。
「先生を呼んできておくれ、トム! 一刻も早く」とミス・オフィーリアは言った。そして彼女はその部屋を横切って、セント・クレアの部屋の戸を叩いた。
「オーガスティン」と彼女は言った。「来て下さい」
その言葉は、ちょうど柩《ひつぎ》の上にふりかかる土塊《つちくれ》のように彼の心を襲った。なぜであろうか? 彼はすぐに飛び起きて病室に入ってくるなりエヴァの顔を覗き込んだ。彼女はまだ眠っていた。
彼の心臓は止まらんばかりであったが、それは何を見たからであろうか? 二人の間には一言も言葉が交わされなかったのはなぜであろう? あなたには答えられるはずです、もしあなたがこれまでに、あなたの最も愛する人の顔に同じ表情を――おまえの愛する者はもうおまえのものではないのだと告げるあの名状し難い、絶望的な、疑う余地のない表情を――見たことのあるかたであったならば。
しかし、子供の顔には怖ろしい影は少しもなかった、――あるのはただ気高い、荘厳なとも言える表情のみであった。――聖霊の影がみなぎり、その幼い魂に不滅なる生命の朝が訪れようとしていたのである。
二人はその場にじっと立ったまま、エヴァを見つめていた。時計のちくたくと時を刻む音さえ高すぎるように思われた。まもなく、トムが医者を連れて戻って来た。医者は入って来て一目見るなり他の二人と同じように黙って立った。
「何時ごろからこの変化がきました?」とやがて彼は、低いささやくような声で、ミス・オフィーリアに言った。
「十二時をまわるころでございました」と彼女は答えた。
マリーは、医者の入って来た物音に目を覚まして、隣の部屋からあたふたと出てきた。
「オーガスティン! 従姉《ねえ》さん!――おお!――どうしたんです!」彼女はあわただしくしゃべりはじめた。
「静かに!」とセント・クレアはしゃがれた声で言った。「臨終だよ!」
マミィはその言葉を聞くと召使いたちを起こしに飛んでいった。たちまち家じゅうの者が起こされた、――明かりが見え、足音が聞こえ、心配そうな顔がヴェランダに群がって、涙を流しながらガラス戸の向こうから内を覗きこんだ。しかしセント・クレアは何も聞こえなかった、何も言わなかった、――彼はただ、眠っている幼な子の顔に現われたあの表情を見つめるだけであった。
「ああ、目をあけて、もう一度口をきいてくれたら!」と、やがて彼は言った。そして彼女の上に身を屈めて、その耳にささやいた、――「エヴァ、可愛いエヴァ!」
大きな青い目が静かに開いた、――微笑がその顔に浮かんだ。――彼女は頭をあげようとした、そして口をきこうとした。
「私だよ、わかるかい、エヴァ?」
「パパ」そう言いながらエヴァは、最後の力をふりしぼって、両手を父親の首に投げかけた。しかしその手はまたすぐに落ちてしまった。そして、セント・クレアが頭を上げた時、彼女の顔に末期《まつご》の苦悶《くもん》の痙攣《けいれん》が走るのを見た、――彼女は苦しそうに喘《あえ》いで、小さな両手を差し上げた。
「おお、神よ、これはあんまりです!」と言いながら彼は苦しさのあまり顔をそむけて、思わずトムの手を握りしめた。「おお、トム、私は死にそうだ!」
トムは両手で主人の手を握りしめていた。そしてその黒い頬に涙を流しながら、救いを求めるように、彼がいつも振り仰ぐ天を見つめていた。
「これが早くすむように祈ってくれ!」とセント・クレアは言った。――「心臓がしめつけられるようだ」
「おお、ありがたい! すみました、――すみました、旦那さま!」とトムは言った。「ご覧なさいまし、お嬢さまを」
子供は、力も何も尽き果てたように、枕の上で喘いでいた、――大きな澄みきった目は上を向いたまま動かなかった。ああ、あれほど天国を物語っていたこの目はいま何を語るのであろう? この世は過ぎ去った、そして、この世の苦しみもまた。しかしその顔にみなぎる勝利の輝きは、あまりにも荘厳であり、あまりにも神秘的であったので、悲しみのむせび泣きさえそれは抑えるほどであった。一同は息をひそめて、静かに、彼女のまわりに集まってきた。
「エヴァ」とセント・クレアは、優しく言った。
エヴァにはもう聞こえなかった。
「おお、エヴァ、何が見えるか私たちに教えておくれ! それはなんだね?」と父親は言った。
光り輝く、天上を思わせるような微笑が彼女の顔に浮かび、エヴァはきれぎれに言った、――「おお! 愛と、――喜びと、――平和よ!」と言って一息はくと、そのまま死から生の国へと入っていった!
「さらば、いとしき子よ! 輝ける、永遠の扉《と》は汝の背後《あと》に閉されぬ。汝の美《あま》き顔《かんばせ》に最早まみえんことあらじ。ああ、悲哀《かなし》きかな、汝の御国に入る様を見守りし人々、目覚めて後に知るものは、日々の暮らしの灰色のただ寒空ばかりにて、汝は既《すで》に永遠《とこしえ》にこの世を去りて今はなし!」
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第二十七章 「これぞこの世の終わりなり
(「これぞこの世の終わりなり! わが心、悔ゆることなし」アメリカ第六代大統領J・Q・アダムズ[一七六七〜一八四八]の臨終の言葉)
エヴァの部屋のあの小さな彫像や絵には白い布が掛けられ、部屋には静かな息づかいとひそやかな足音のみが聞かれるだけで、陽《ひ》の光も、ブラインドを閉じて薄暗くした窓の向こうから、そっと厳かに差し込んでいた。
ベッドは白い布で掩《おお》われていた。そして、そこに、あの翼を垂れた天使の像の下に、幼い眠っている肉体が横たわっていた、――二度と目覚めることもなく眠りつづけて!
そこに、彼女は、生前よく着ていた飾り気のない純白の服を着せられて、横たわっていた。ばら色の光が、カーテンを通して氷のように冷たい死の上に暖かい光を投げかけていた。重たげな睫毛《まつげ》は清らかな頬の上にそっと垂れていた。顔は、寝ている時のようにやや片方に向いていたが、その顔のどの線にもあの気高い天使のような表情が、あの歓喜と安息との入りまじった表情が、みなぎっていた。その表情は、これが、地上の眠りでもまた一時的な眠りでもなく、「神がその愛《いつく》しみたもうものに与えたもう」(詩篇、第一二七篇第二節参照)永遠の聖なる憩《いこ》いであることを示していた。
汝《なんじ》のようなものには死はないのだ、愛《いと》しきエヴァよ! 死の暗闇《くらやみ》も影もないのだ。あるのはただ、明けの明星が金色《こんじき》の黎明《れいめい》の中に薄れゆく時の、あの輝かしい消滅があるだけなのだ。汝の死は戦わずして得た勝利なのだ、――争わずして得た栄冠なのだ。
そうセント・クレアは、腕組みをして、その場にじっと立ってエヴァを見つめながら、考えていた。ああ! しかし彼の考えをだれが言葉にして伝ええよう? 人々が口々に、この臨終の部屋で、「お亡くなりになってしまった」と言ったあの時から、すべてが陰気な霧となり、重苦しい「くるしみの闇」(イザヤ書、第八章第二十二節)になってしまったのだ。彼は周囲にさまざまな声を聞いた。いろいろな質問を受け、それに答えた。葬式の日取り、埋葬の場所についても尋ねられた。そして彼はいらだたしげに、そんなことはどうでもいいと答えるのであった。
アドルフとロゥザとがその部屋の整備にあたった。いつもは気まぐれで移り気で幼稚な二人ではあったが、この時ばかりは心も優しく神妙な様子を見せていた。そしてミス・オフィーリアが指揮をとって整理整頓など全般にわたる細かな指示を与えている間、二人はその整備に例のなごやかな詩的な感じを与えて、ともすればニュー・イングランドふうの葬式を思わせるような、あの無気味な身の毛もよだつような空気を死者の部屋から取りのぞいていた。
棚の上には今もなお花が飾られてあった、――いずれも皆、白い、優しい、香りもゆかしい花で、葉はしとやかにうなだれていた。エヴァの小さなテーブルも、白布が掛けられて、その上に置かれた彼女の気に入りの花瓶には、白い|ばら《モス・ロウズ》の蕾が一輪いけてあった。垂れ布のひだのぐあいやカーテンの垂れぐあいも、アドルフとロゥザが、その種族特有の精確な目で、くりかえしくりかえし直した。今も、セント・クレアが物思いにふけりながらその場に佇んでいると、ロゥザが白い花を入れた籠を持ってそっと部屋に入って来た。彼女は、セント・クレアを見ると後へさがって、うやうやしく立ちどまった。しかし、主人が自分を見ているのではないことに気がつくと、そっと進み出て、死者のまわりにその花を飾った。セント・クレアは、彼女がエヴァの小さな手に美しい|くちなし《ケイプ・ジェサミン》の花を持たせ、それから、残りの花を寝台の周りに、じつにみごとな趣きをそえて並べるのを、まるで夢でも見ているように、ぼんやりとながめていた。
ドアがまた開いて、今度は、目を泣きはらしたトプシィが、エプロンの下に何か隠して入ってきた。ロゥザは素早くトプシィに、入って来てはいけないというしぐさをしたが、彼女は部屋に一歩、足をふみいれた。
「出ておゆき」とロゥザは鋭い、きめつけるような低い声で言った。「ここはおまえなんかには用はないんだから!」
「おお、入れて下せえ! あたい、花をもってきただからよ、――こんなにきれいな花を!」と言ってトプシィは開きかけた|ばら《ティー・ロウズ》の蕾を差し出した。「これ一つだけそこに置かせて下せえ」
「お行きったら!」とロゥザは更にきっぱりとした口調で言った。
「入れてやれ!」とセント・クレアが突然足を踏みならして言った。「入れてやるんだ」
ロゥザはたちまちあとじさりした。そこでトプシィは進み出て、手にした花を遺骸《いがい》の足元に供えた。それから突然、わっとばかりにベッドの脇の床に身を投げ出すと、大声で泣きそして呻いた。
ミス・オフィーリアは急いで部屋に入って来て、トプシィを抱き起こし黙らせようとしたが、無駄であった。
「おお、お嬢さま! おお、お嬢さま! あたいも死にてえ、――死にてえよう!」
その泣き声には、人の胸を刺し貫く激しさがあった。セント・クレアの白い、大理石のような顔にさっと血がのぼると、エヴァの死いらい初めての涙がその目に浮かんできた。
「さあ、お立ち」とミス・オフィーリアは優しい声で言った。「そんなに泣くもんではありません。お嬢さまは天国に行かれたのですからね。天使になられたのですからね」
「でもお嬢さまには会えねえもの!」とトプシィは言った。「もう二度と会えねえもの!」そう言いながら彼女はまた泣きじゃくった。
一同は一瞬、黙って立っていた。
「お嬢さまはあたいを愛していると言っただ」トプシィは言った、――「ほんとうに愛してくれただ! ああ! ああ! もうこれからはだれもいねえ、――あたいを愛してくれる人はだれもいねえ!」
「まったくおまえの言うとおりだ」とセント・クレアは言った。「しかし、どうか」と彼はミス・オフィーリアに向かって言った。「このかわいそうな子を慰めてやって下さい」
「あたいは生まれてこなければよかっただ」とトプシィは言った。「生まれてえなんて気持は少しもなかっただ。生まれたってなんにもなりゃしねえだもの」
ミス・オフィーリアは彼女を優しく、だが、しっかりと抱き起こして、部屋から連れ出していった。しかし、そうするうちにも、オフィーリアの目から涙がこぼれ落ちた。
「トプシィ、かわいそうにね」と彼女はトプシィを自分の部屋に連れてゆきながら言った。「でも、諦めてはいけません! 私がおまえを愛してあげますからね、そりゃあ、あの愛《いと》しいエヴァのようにはいかないかもしれないけれど。私は、あの子からキリストの愛について何か学んだような気がします。ですから私にもおまえを愛すことができます。私はおまえを愛してあげます、そしておまえがりっぱなクリスチャンになるよう、おまえを助けてあげます」
ミス・オフィーリアの声には、言葉以上のものがあった。そしてその声以上のものは、頬を伝って流れ落ちる誠意の涙であった。この瞬間から、彼女は、この見捨てられた子供の心を捉えて、二度と失うことはなかったのである。
「おお、私のエヴァ、おまえはこの世でのその短かい生涯の間に、ずいぶん多くの善い行ないをしてくれたね」とセント・クレアは胸の中で言った。「それにひきかえ、私は自分のこの長い生涯に何をしたと言うのだろう?」
部屋の中では、しばらくの間、低いささやきや足音が続いた。つぎつぎと、静かに、亡きエヴァに別れを告げる者たちが、入って来たのである。そして、やがて、小さな柩が運び込まれた。それから葬儀となって、馬車が何台も戸口に止まり、見なれぬ人たちが入って来て、席に着いた。白いスカーフにリボン、クレープの喪章、そして黒いクレープの喪服に身を包んだ会葬者たち。聖書が朗読され、祈祷が捧げられた。そして、セント・クレアは、涙の涸れ果てた人のように、生き、そして歩き、そして動いた。――彼には、最後まで、ただ一つのもの、あの、柩の中の金髪の頭だけしか目に入らなかった。しかし、やがてそれにも布が掛けられて、柩の蓋が閉じられてしまった。彼はそろそろと、他の人たちについて、庭園のはずれの小さな空地へと歩いていった。そこには、エヴァとトムの二人がよく語り、そして歌い、そして読んだあの苔むした場所の傍らに、小さな墓穴があった。セント・クレアは、墓の傍らに立ち、――ぼんやりと中を見つめた。彼は、小さな柩が下ろされるのを見た。彼の耳には、かすかに、あの厳かな言葉が聞こえた。「我は復活《よみがえり》なり、生命《いのち》なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん」(ヨハネ伝、第十一章第二十五節)そして、土が投げ入れられ、小さな墓が埋めつくされても、彼には、いま自分の目から隠されているものがエヴァなのだとは、どうしても信じることができなかった。
たしかにそうではないのだ!――それはエヴァではなく、あの輝かしい不滅の命を内蔵する、はかない種子にすぎないのだ、そしてエヴァはその命とともに、主イエスが臨みたもう日に、再び生まれいずるのだ!
やがて、すべては終わって、会葬者たちは、もうエヴァのいない所へと帰っていった。マリーは、部屋の明かりを暗くさせて、ベッドに突っ伏したまま、むせび泣いたり呻き声をあげたり、まったく手のつけようもない悲しみ方であった。そして、絶えず自分の召使いたち全員の注意を自分に引きつけていた。したがって召使いたちには泣く暇さえもなかった、――どうしてそんな暇があろう? 悲しみは彼女一人の悲しみなのだ。そして彼女は、この世にはだれ一人として自分と同じように悲しむ者は、悲しむことのできる者は、悲しむ心のある者は、いるはずがないと固く信じていたのである。
「セント・クレアは涙一つこぼさなかったわ」と彼女は言った。「あの人はエヴァをかわいそうだとは思わないのよ。ほんとうにまあ、よくもあんなに冷たく平気でいられるわね、エヴァがどんなに苦しんだか自分でも知っているくせに」
人間はとかく目や耳の奴隷になりやすいもので、ことに、マリーがヒステリーの発作をおこしはじめ、医者を呼びにやらせたり、あげくの果てに死にそうだなどと口走るようになると、召使いたちの多くは、奥さまこそ今度の事件での一番の犠牲者なのだと、ほんとうに信じ込んでしまった。そして、そのためにあちこちと走りまわったり、湯たんぽを持ってきたり、肌着を暖めたり、からだを摩擦したりしてやきもきしているうちに、自分たちの悲しみなぞすっかり忘れてしまったのである。
しかし、トムは心に何か感じるところがあって、主人の側を離れようとはしなかった。彼は、物思いに沈み悲しげな足どりで歩いて行く主人の後を、どこまでもついていった。そして、主人がエヴァの部屋に入ってゆき、青ざめた頬をみせながら静かに腰をおろして、エヴァの読みかけの小さな聖書を、そこに書かれてある文字も語句も何一つ読んではいないのだが、じっと手にとって見つめている姿を目にした時、トムは主人のそのじっと見すえた、涙も見せぬ目の中に、マリーのあらゆる呻吟《しんぎん》、悲哀以上の悲しみを感じたのであった。
二、三日すると、セント・クレア一家は再び町へ帰って来た。オーガスティンは、たえまない悲しみに打ちひしがれていたが、あるいは場所を変えることによって幾らかは気もまぎれるだろうと考えたのである。そこで一家は、小さな墓のあるその家と庭とをあとにして、ニュー・オーリアンズの町へ帰って来たのであった。そしてセント・クレアは、せっせと街に出ては、あわただしく駈けまわり、あちらこちらと場所を変えることで心の亀裂《きれつ》を埋めようと努めた。そして街なかで彼を見かけたり、酒場《キャフェ》で会った人たちは、彼の帽子についている喪章を見なければ彼の不幸には気がつかぬくらいであった。というのも、こうした場所では、彼はよく笑顔を見せて話しもし、新聞も読み、政治も論じ、仕事にも従事していたからである。だから、この微笑の仮面が、暗い沈黙の墓場となった彼の心を覆う、うつろな殻にすぎないのだということを、いったいだれが知りえたであろう?
「セント・クレアという人は、ほんとうに変わってますのよ」とマリーは、ミス・オフィーリアに向かって、さも不服そうな口調で言った。「もしこの世の中にあの人の愛しているものがあるとすれば、それは私たちのあの可愛いエヴァだと、私は思ってましたの。でもあの人、エヴァのことなぞ簡単に忘れてしまいそうですわ。一緒にあの子の話をしようと思っても、少しも口に出そうとしないんですものね。私、ほんとうに、あの人はもっと悲しむだろうと思っていましたわ!」
「音なし川の水は深い、と世間ではよく言いますよ」とミス・オフィーリアは神託を述べるような口調で言った。
「いいえ、私はそんな諺《ことわざ》は信じませんわ。それは話にすぎません。感受性の強い人だったら、自然とそれが現われてくるはずです、――抑えてなんかいられませんもの。それにしても、感受性の強いということはたいへんな不幸ね。私も生まれつきセント・クレアのように呑気だったらいいと思いますわ。感受性が強いばっかりに、こんなに苦しむんですもの!」
「いいえ、奥さま、旦那さまは近ごろ、影のように痩せてきましただ。食べる物も何一つ口になさらねえということでごぜえます」とマミィが言った。「旦那さまはお嬢さまをお忘れになったんじゃごぜえません。だれだって忘れることはできません、――あんないとしい、可愛いお嬢さまを!」と彼女は涙をぬぐいながら、つけ加えた。
「そりゃあね、でもとにかく、あの人は私には少しも思いやりがないんですからね」とマリーは言った。「優しい言葉一つ、かけてくれたことはないんですのよ、母親というものが人一倍感じやすいということぐらい、あの人だって知っているはずですのに」
「心の苦しみは心みずから知る」(箴言、第十四章第十節)とミス・オフィーリアは厳かに言った。
「そう、まさに私の考えと同じですわ。私の気持は私が一番よくわかります、――他の人はだれ一人わかってはくれないようですけどね。それでもエヴァだけはわかってくれましたわ、でもあの子はもういないのです!」と言いながらマリーは長椅子の上にのけぞるように身を投げ出すと、だれも慰めることができぬほどの激しい勢いでむせび泣きはじめた。
マリーという女は、たとえどんなものでも、それがひとたび失くなったとなると、以前所有していた時とはうって変わって、無性にそれが欲しくなるといった、あの不幸な性格の持ち主であった。彼女は、なんでも自分の所有にかかるものは、ただその欠点をほじくり出さんがために吟味しているようであった。しかしひとたびそれが自分の手から消えてしまうと、それに対する哀惜の念はじつに際限がなかったのである。
客間でこういう会話が交わされていた間、セント・クレアの書斎では、また別な会話が交わされていた。
主人の後をいつも心配そうについてまわっていたトムは、先刻、主人が書斎に入って行くのを見た。そこでトムは、主人の出て来るのを待っていたが、いつまでたってもその気配がないので、とうとう思い切って中に入ることにした。彼はそっと入っていった。セント・クレアは部屋の奥にある長椅子の上に横たわっていた。顔を伏せていたが、その少し離れたところには、エヴァの聖書が開いたまま置いてあった。トムは近づいて、長椅子の傍らに立った。彼は躊躇《ちゅうちょ》した。そして、彼が躊躇していると、不意にセント・クレアがからだを起こした。目にしたトムの誠実な顔は、あまりにも悲しみに満ち、あの訴えんばかりの愛と同情の色をたたえていたので、彼は胸を打たれた。彼は自分の手をトムの手に重ねると、その上に額を垂れた。
「おお、トム、この世はまるで卵の殻のようにうつろだ」
「そうでごぜえましょう、旦那さま――そうでごぜえましょう」とトムは言った。「でも、おお、旦那さま、目を上げてあそこをご覧下せえ、――あの可愛いお嬢さまのいらっしゃるところを――あの優しいイエスさまのいらっしゃるところを!」
「ああ、トム! 私は見てはいるのだ。しかし悲しいことに、私には、いくらそうしても、何も見えないのだよ。見えさえしたらと思うのだが」
トムは深くため息をついた。
「子供たちとか、おまえのように哀れな正直な者たちには、私たちが見ることのできないものを見る力が与えられているらしいが」とセント・クレアは言った。「それはどうしてなのだろう?」
「智《かしこ》きもの慧《さと》き者に隠して、嬰児《みどりご》に顕《あらわ》したまえり」とトムは低い声で言った。「父よ、然《しか》り、此《かく》のごときは御意《みこころ》に適《かな》えるなり」(マタイ伝、第十一章第二十五〜二十六節およびルカ伝、第十章第二十一節)
「トム、私は信じない、――信じることができない、――私には、ものを疑う習慣が身についてしまっているのだ」とセント・クレアは言った。「私は、この聖書を信じたいと思う、――なのに私にはそれができないのだ」
「旦那さま、主なる神にお祈りなせえませ、――『主よ、われ信ず。信仰なき我を助け給え』と(マルコ伝、第九章第二十四節)」
「あらゆるものを知り尽くしている者がはたしているのだろうか?」とセント・クレアは、夢でもみているような空《うつ》ろな目つきで、独り言をいった。「あの美しい愛も信仰もみんな、人間の感情のたえず移り変わっていく様相の一つにすぎなかったのだろうか、何一つその上に休らう真実もなく、小さな息とともに消え去っていくものだったのだろうか? そしてもうエヴァはいないのだろうか、――天国も――キリストも――何もないのだろうか?」
「おお、旦那さま、あるのでごぜえます! わしにはわかりますだ。確かにあるのでごぜえます」とトムは両膝をついて言った。「どうか、どうか、旦那さま、お信じなせえまし!」
「どうしておまえには、キリストがほんとうにいるとわかるのだ、トム? 主を見たことはないのだろう」
「魂で感じたのでごぜえます、旦那さま、――今もあのかたを感じておりますだ! おお、旦那さま、わしもうちの婆さんや子供たちから引き離されて売られた時には、もう少しで破滅するところでごぜえました。もう何も残されてはいねえような気がしましただ。その時、イエスさまが、あのかたが、わしの側にお立ちになって、こうおっしゃいましただ、『懼《おそ》るるな、トム』と。イエスさまは哀れな者の魂に光と喜びをお授け下せえます、――あらゆるものを平和にして下せえますだ。それで、わしはこんなに仕合わせで、だれでもを愛し、喜んで主の僕《しもべ》になり、御意《みこころ》の行なわれるよう、そして主のお遣しになるところに行かれるよう願っているのでごぜえます。こんなことは、とうていわしの力でできることではごぜえません、わしは哀れな、愚痴の多い人間でごぜえますから。これはイエスさまのお力でごぜえます。ですから、イエスさまは、きっと旦那さまのためにも喜んでお力をおかし下せえます」
トムは、ぼろぼろと涙を流し声をつまらせて言った。セント・クレアはトムの肩に頭をもたせかけ、その固い誠実な黒い手をきつく握りしめた。
「トム、おまえ、私を愛してくれるね」と彼は言った。
「旦那さまがクリスチャンになって下さるのなら、わし、今日にも喜んで命を投げ出すつもりでごぜえます」
「ばかなことを言っちゃいけない!」とセント・クレアはなかば身を起こしながら言った。「私は、おまえのような、善良で正直な心をもった者の愛を受ける資格なぞない男だ」
「おお、旦那さま、わし以上に旦那さまを愛していらっしゃるかたがごぜえます、――恵み深い主イエスさまが愛して下さっておりますだ」
「どうしてそんなことがわかるんだね、トム?」とセント・クレアは言った。
「魂で感じるのでごぜえます。おお、旦那さま!『キリストのその測り知るべからざる愛』(エペソ書、第三章第十九節)でごぜえます」
「不思議だ!」とセント・クレアは脇を向いて言った、「千八百年も前に生き、そして死んだ人間の話が、こうして今もなお人々に影響を与えるなんて。だが、あれは人間ではなかったのだ」と彼は、不意につけ加えて言った。「これほど永い強い力をもった人間は一人だっていはしない! おお、今の私に、あの亡き母の教えを信じることができたなら、そして子供のころのように祈ることができたなら!」
「いかがでごぜえましょう、旦那さま」とトムは言った。「お嬢さまはよくこれを、たいへん美しく読んで下せえました。で、わし、旦那さまに今それを読んでいただけたらと思うのでごぜえますが。お嬢さまがお亡くなりになってからは、もうだれにも読んでもらえねえのでごぜえます」
それは、ヨハネ伝第十一章、――ラザロの復活についての感動的な物語であった。セント・クレアは、はっきりとした声でそれを読んだ、そして途中何度か声をつまらせてこの物語の至情にかきたてられる感情と戦った。トムは彼の前に両手を組んでひざまずいていた、そしてその静かな顔には、愛と信頼と敬慕の念に燃える真摯《しんし》な表情が浮かんでいた。
「トム」と主人が言った。「これは、おまえにとってはすべて真実なんだね!」
「わしには、それがはっきりと見えるのでごぜえます、旦那さま」とトムは言った。
「私にもおまえのような目があったらと思うよ、トム」
「わしも、神さまに、旦那さまがそうであったらと願っているのでごぜえます!」
「しかし、トム、私はおまえよりはずっと知識も豊富だね。で、もしこの私が、この聖書を信じないと言ったらどうだろう?」
「おお、旦那さま!」とトムは両手を高く上げ、そうでないようにと祈るように言った。
「そう言ってもおまえの信仰は少しもぐらつかないかね、トム?」
「はい、少しも」とトムは言った。
「しかし、トム、おまえは、私が一番ものごとに通じているということを知っているじゃないか」
「おお、旦那さま、旦那さまは、たった今、神が智《かしこ》きもの慧《さと》き者に隠して、嬰児《みどりご》に顕《あらわ》したもう様子をお読みになったのではごぜえませんか?でもきっと、旦那さまは、今、本気でそんなことをおっしゃったのではないのでごぜえましょう?」とトムは、不安そうに言った。
「そうだ、トム、本気ではない。私は疑ってはいないのだ、たしかに信ずべき理由はあると思うのだ。それでいて私には信じられないのだ。それが私の悲しむべき悪癖なのだよ、トム」
「旦那さまがお祈りさえなせえましたら!」
「私が祈らんとどうしてわかるのだ、トム?」
「なせえますか旦那さま?」
「そりゃあ、トム、私の祈りを聞いてくれるものがあるのなら、私は祈ろう。もっとも私が祈っても、それはまるで虚無に向かって話しかけるようなものだがね。しかし、トム、今はおまえが祈って、その様子を私に見せてくれ」
トムの胸は溢れんばかりであった。彼はそれを、長い間せきとめられていた流れのように、祈りの中に注ぎ込んだ。その姿には疑うことのできぬ一つのはっきりとしたものがあった。それは、彼の祈りを聞きとどけてくれるものが実際に存在しようとしまいと、トムはその者の存在を固く信じて祈っている正にその姿であった。事実、セント・クレアは、トムの信仰と感動の流れにのせられて、今、自分でもはっきりと認めることができるように思われたあの天国の門近くまで運ばれてゆくような気がした。彼はしだいにエヴァの近くに運ばれていくように思えたのである。
「ありがとう」とセント・クレアは、トムが立ち上がった時、言った。「トム、私はおまえの話がもっと聞きたい。だが今は退って、私を一人にしておいてくれ。いつかまた、話をしよう」
トムは静かに部屋を出ていった。
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第二十八章 再会
セント・クレアの屋敷にも一週また一週と時が流れて、人生の波は、あの小さな舟が沈んだ後、再び、もとの流れにかえっていった。無情で冷酷でなんの興味もない日々の現実の流れは、人間の感情なぞ少しもかまわず、何と傲慢《ごうまん》になんと冷やかに流れてゆくものであろうか! それでもなおわれわれは、食い、飲み、眠り、そしてまた目を覚まし、――商談をし、取引きをし、種々の問題を質《ただ》し、またそれに答え、――要するに、それらのものに対する興味をすっかり失った後までも、なおその無数の影を追わなくてはならないのだ。冷たい機械的な日常生活の習性は、生活に対する大切な興味がすっかりなくなったあとでも、なお残るものなのである。
セント・クレアの生活のあらゆる興味と希望は、無意識のうちに、エヴァを中心として動いていた。財産を管理するのもそれはエヴァのためであり、毎日をどう過ごすかと考えるのも、エヴァのためであった。エヴァのためにあれこれと、――購入も、改良も、変更も、配置もあるいは売却も、――すべて彼女のためにすることが、長い間彼の習慣になっていたので、彼女がいなくなってしまうと、もう何一つ考えることも、することもなくなってしまったように思われた。
もちろん、他にも生活はあった、――ひとたびそれを信じれば、それまでまるで無意味な空虚な存在であった生活の面前に、厳粛な重要なものとして立ち現われ、その生活を不思議な測り知れぬ価値をもつ、秩序ある毎日に変えてしまうような信仰の生活があったのである。セント・クレアはそれをよく知っていた。そしてしばしば、その味気ない暮らしの中で、あの細い、子供らしい声が自分を天へと呼んでいるのを聞き、あの小さな手が生くべき道をさし示しているのを見たのであるが、彼の上には重い悲しみの倦怠がのしかかっていて、――立ち上がることができなかったのである。彼は、多くの実際的な実践的なクリスチャンよりも、より正しく、よりはっきりと、自分の知覚や本能によって宗教的なものを理解することのできる力に恵まれていた。道徳的なもののもつ微妙な差異や関係を、より正しく評価したり感知したりするその才能や感覚というものは、一生をそうした道徳的世界の外におく人々に授けられる特性なのかもしれない。それゆえ、ムアやバイロンやゲーテはしばしば、生涯宗教的感情に支配された人よりも、いっそう的確な言葉で真の宗教的感情を言い表わしているのである。こうしたことを思えば、故意に宗教を無視することは、それだけにいっそう恐ろしい叛逆となり、――よりいっそう救われ難い罪となるのである。
セント・クレアは、宗教的な義務によって自らを律するというようなふうを、これまで一度も装ったことがなかった。それに彼は、その鋭敏な性格から、キリスト教が要求する義務の広さを本能的に悟っていたので、ひとたびその義務を負おうと決心したら、自分の良心にはとても背負いきれぬほどの重荷になるだろうと予想して、それを避けていた。人間の性格は、特にそれが理想に対した場合には、しばしば矛盾するものであるから、やりはじめて途中でやめるくらいならば、初めからやらないほうがいいように思えるからなのであった。
そうは言ってもセント・クレアは、いろいろな点で、前とは違った人間になった。彼はエヴァの聖書をまじめな誠実な心で読んだ。召使いたちとの関係についても、もっとしんけんに実際的に考えてみた、――そして自分の過去のやり方にも、また現在のやり方にも、非常な不満を感じるようになった。そこで彼はニュー・オーリアンズに帰るとまもなく、ある実行にとりかかった。それはトムの解放に必要な法的手続きを始めることで、その必要な手続きが済みしだい、トムは自由の身になれるはずになっていた。そうした間にも、セント・クレアは日一日とトムに惹《ひ》かれていった。この広い世界にトムほど亡きエヴァのことを想い出させてくれるように思える者はなかった。そこで彼はたえずトムを自分の側にひきとめておこうとした、そしてその奥深い心の中にかなり気むずかしい近より難いものをもつセント・クレアも、このトムに対してはほとんど自分の気持を打ち明けていたのであった。事実、この若い主人にしじゅう従っているトムの愛と忠誠とに満ちた表情を見たならば、だれ一人それを不思議とは思わなかったであろう。
「ところで、トム」とセント・クレアは、トムの解放に必要な法的手続きをとりはじめた次の日に、言った。「私はおまえを自由な人間にしてやろうと思っているのだ。――だから、トランクに身の回りのものをつめて、いつでもケンタックへ発《た》てるよう支度をしておくがいい」
トムの顔にさっと輝く喜びの光、天に向かって差しのべた両の手、「ありがたい!」と思わず叫んだその言葉、それらがセント・クレアをやや不安な気持にさせた。トムがこれほどまでに自分のもとを去って行きたいのかと思うと、苦々しい気持にさえなった。
「ここでの暮らしはそれほど悪くはなかったはずだから、そんなに嬉しがることもないと思うがね、トム」と彼は冷やかに言った。
「いえ、いえ、旦那さま! とんでもごぜえません、――自由な人間になれるからなんでごぜえます! それでわし、嬉しいのでごぜえます」
「だが、トム、おまえの場合、自由な人間でいるより、ずっといい暮らしをしてきたとは思わないかい?」
「いいえ、けっしてそうは思いません、旦那さま」とトムは、突然わき起こる力をその言葉にこめて、言った。「けっしてそうは思いません!」
「しかしだね、トム、おまえがどんなに働いて金を稼いだところで、私がこれまでおまえにしてやったような物は着られないし、暮らしもできないのだよ」
「それはよくわかっております、旦那さま。旦那さまはいつもとてもよくして下せえました。でも、旦那さま、わし、飛切り上等なものでも他人《ひと》さまの物をもつよりは、粗末な服でも粗末な家でもその他どんな粗末なものでもいいから、やはり自分のものを持ちてえと思うんでごぜえます。――そう思ったからでごぜえます、旦那さま。わし、それが人情だと思いますだ、旦那さま」
「そうだろうな、トム、それで、あと一月もすればおまえは私のもとを去って行くわけだな」と彼はやや不満そうに、つけ加えて言った。「もっとも、そうしちゃいかんと言っているわけではないがね」と彼は幾分快活な調子に返って言った、そして立ち上がるとその場を歩きはじめた。
「旦那さまがお悩みになっている間はめえりません」とトムは言った。「旦那さまのご用のある限り、わしはおそばにいるつもりでごぜえます、――何かお役に立つこともごぜえましょうから」
「私が悩んでいる間は行かないって、トム?」とセント・クレアは悲しげに窓の外をながめながら言った。……「私の悩みはいったいいつになったら消えるというのだ?」
「旦那さまがクリスチャンにおなりになった時でごぜえます」とトムは言った。
「で、おまえはその日が来るまでほんとうに私のそばにいるつもりなのだね?」と、セント・クレアはなかばほほえみながら、窓から振り返り、トムの肩に手をのせて、言った。
「ああ、トム、おまえはほんとうに心の優しい、ばかなやつだな! 私はその日までおまえを引きとめておくつもりはないよ。おまえはかみさんや子供のところへ帰っておゆき、そしてみんなによろしく伝えておくれ」
「わし、その日が来ると固く信じているのでごぜえます」とトムはしんけんな面もちで、目に涙を浮かべながら言った。「神さまは旦那さまに仕事を用意されておられます」
「仕事だって、へえ?」とセント・クレアは言った。「それじゃあ、トム、その仕事ってどんな仕事なのか話してごらん、――聞こうじゃないか」
「それは、わしみたいな貧しい者でさえ神さまから仕事を頂いております。まして旦那さまは学問も財産もお友だちもおありなさいます、――いくらだって神さまのためにおつくしになれるはずでごぜえます!」
「トム、おまえの考えによると、神さまというものはずいぶんといろいろなことをしてもらいたがっているようだね」とセント・クレアはほほえみながら言った。
「わたしどもが、神さまのお造りになった人間のためにつくす時、それが神さまに対してつくすことになるのでごぜえます」とトムは言った。
「りっぱな神学だね、トム。B博士の説教なんかよりずっといい、ほんとうだ」とセント・クレアは言った。
二人の会話は、この時、来客の知らせで打ち切られてしまった。
マリー・セント・クレアは何にもましてエヴァの死を深く悲しんでいた。そして彼女は、自分が不幸な時には他の者までもみんな不幸にしてしまうという優れた才能の持ち主であったので、彼女の小間使いたちには、その幼い主人の死を嘆き悲しむ、よりいっそうの大きな理由があった。なぜなら、エヴァは生前、よくその優しい態度や穏やかなとりなしで、母親のあの暴君のような、わがままな無理じいから彼女らを楯《たて》のように守ってやっていたからであった。特に、かわいそうなマミィは、自分の夫や子供たちなどあらゆる自然の家庭的な絆から切り離されたその心を、この美しい一人の少女によって慰めていただけに、その胸は張り裂けんばかりであった。彼女は昼も夜も泣いてばかりいた、そしてあまりの悲しさから、いつものように奥さまの用事を手際よくてきぱきとかたづけることができないでいると、今ではだれもかばってくれる者もいなくなったその頭上に、たえまなく毒舌の矢が降りそそぐのであった。
ミス・オフィーリアもエヴァの死を悲しんだ。しかし、その善良な正直な心の中にエヴァの死は永遠の生命に至る実を結んでいた。彼女は以前よりいっそう優しく、いっそうおだやかになった。そして相変わらずせっせと毎日の仕事に励んでいたが、その態度はまるで深く沈思黙考する人のようであった。彼女は前よりもいっそう精を出してトプシィを教育した、――主として聖書をもとにして教えたのだが、――もはやトプシィに触られても身を引くようなこともなく、思わず不快の念を表わすようなこともなくなった、そんなことはもう彼女にはなんとも感じなくなっていたからである。こうして今彼女は、エヴァの手が初めて自分の目の前に開いて見せてくれたあの愛に充ちた聖書を通してながめてみると、トプシィは不滅の魂をもった人間としてのみ映じ、神が自分にこの子を栄光と美徳へ導くようおつかわしになったのだと思えるようになった。そのトプシィは、すぐには聖人になりはしなかった。しかしエヴァの生と死はトプシィにいちじるしい変化を及ぼした。例の依怙地《いこじ》な態度は見られなくなった。今は、感受性と、希望と、願望と、善に向かう努力とがあった、――その努力は不規則で、途切れがちで、しばしば中断もしたが、それでもまた再び始められるのであった。
ある日、トプシィはミス・オフィーリアに呼ばれて、あわてて何かを懐にしまい込みながら、やってきた。
「おまえそこで何をしているんだい、このいたずら娘? 何か盗んでたんだね、きっと」と彼女を呼びにやらされた例の横柄《おうへい》で小柄なロゥザが、そう言いながら、同時に彼女の腕を荒々しくつかんだ。
「はなしておくれよ、ロゥザさん!」とトプシィは腕をふりほどきながら言った。「あんたの知ったことじゃないんだから!」
「生意気言うんじゃないよ!」とロゥザは言った。「あたしは、おまえが何か隠しているところを見たんだからね、――そんな手にゃのるもんか」と言いながらロゥザは彼女の腕をつかんで無理やり懐の中に手を突っこもうとした、一方、すっかり腹を立てたトプシィはロゥザを蹴りながら、当然自分のものと考えているものを取られまいと、勇敢に戦った。争いの騒ぎと混乱は、すぐにミス・オフィーリアとセント・クレアに知れて、二人はさっそくその場に姿を見せた。
「この子が何か盗んでいたんです!」とロゥザが言った。
「盗んだんじゃねえ!」とトプシィは、べそをかきながら、叫んだ。
「とにかく、見せてごらんなさい!」とミス・オフィーリアはきっぱりとした口調で言った。
トプシィはためらった。しかしくりかえして言われると、懐の中から小さな包みを引っぱり出した。それは古靴下の先に何か入れてくるんだものであった。
ミス・オフィーリアはそれをあけてみた。すると中から小さな本が出てきた、それはエヴァがトプシィに与えたもので、聖書の中の言葉を毎日一節ずつ読めるように配列したものであった。それから、紙包みが一つ出てきたが、その中には、エヴァが最後の別れを告げたあの悲しい思い出の日に彼女に与えたあの巻毛が入っていた。
セント・クレアはそれを見て強く胸をうたれた。その小さな本は葬式の時の喪服を引き裂いた細長い黒のクレープで幾重にも巻いてあった。
「どうしてこんなものでこの本を巻いたのだね?」とセント・クレアはクレープを手に取って言った。
「でも、――それは、――それはお嬢さまだったからです。おお、お願いです、あたいから取り上げねえで下せえ!」と彼女は言った、そして床の上にぺたりとすわると、エプロンを頭からかぶって烈しくむせび泣きはじめた。
それは悲愴《ひそう》なものと滑稽《こっけい》なものとの混ざりあう奇妙な光景であった、――小さな古靴下、――黒いクレープ、――聖典、――金髪の、やわらかな巻毛、――そしてトプシィの烈しい悲嘆。
セント・クレアはほほえんだ。しかし目には涙を浮かべながら、言った、
「さあ、もういい、――泣くんじゃない。みんなおまえに返してやるから!」そう言いながら彼は、それらをまとめて、トプシィの膝の上に投げてやると、ミス・オフィーリアを連れて客間に入っていった。
「あの子はなんとか物になりそうですね」と彼は、親指で肩越しに後ろを指さしながら言った。「真に悲しむことのできる心は善をなすことができますからね。ぜひあの子をなんとかしてやって下さい」
「あの子は大へんよくなりました」とミス・オフィーリアは言った。「私もずいぶんと期待しています。でも、オーガスティン」と彼女はセント・クレアの腕に手をかけて言った、「一つだけ伺っておきたいことがあるのです。いったいこの子は、だれの子になるのですか?――あなたのですか、それとも私のですか?」
「そりゃあ、あの子はあなたに差し上げたものですよ」とオーガスティンは言った。
「でも法律の上ではそうなってはいません。――私は法律の上でもあの子を自分のものにしたいのです」とミス・オフィーリアは言った。
「へえーっ! 従姉《ねえ》さん」とオーガスティンは言った。「奴隷制度即時廃止協会はいったいなんと思うでしょうね? もし従姉《ねえ》さんが奴隷所有者になったら、あなたのこの堕落に対して協会は断食の日を設けるでしょうよ!」
「まあ、ばかばかしい! 私があの子を自分のものにしたいのは、あの子を自由州に連れていって、自由を与えてやることのできる権利がほしいからですよ、私のしようとすることがみんな徒労に終わらないためですよ」
「おお、従姉《ねえ》さん、『善を来《きた》らせん為に悪をなす』(ロマ書、第三章第八節)なんて恐ろしいことですよ! 私は、そんなことはお勧めできませんね」
「冗談はよして、まじめに話して下さい」とミス・オフィーリアは言った。「私があの子を、いつどんな不幸が訪れるかわからない奴隷の身分から救っておいてやらなければ、いくらあの子をクリスチャンにしようとしてもなんにもなりませんからね。で、ほんとうにあの子を私に下さるのでしたら、譲渡証書か、何か正式な証書を頂きたいのです」
「ええ、いいでしょう」とセント・クレアは言った。「差し上げますよ」そう言って彼は腰を下ろすと、新聞をひろげて読みはじめた。
「でも私、いま頂きたいのです」とミス・オフィーリアは言った。
「なんでそんなにお急ぎなんです?」
「何事も今するのが一番と、昔から言いますからね」とミス・オフィーリアは言った。「さあ、紙に、ペンに、インク。これですぐに一筆書いて下さい」
セント・クレアは、彼のような性格の持ち主がたいていそうであるように、何事もすぐその場で実行に移すということが心《しん》から嫌いな性分であった。それゆえ、ミス・オフィーリアのこの性急なやり方には少なからず当惑した。
「いったい、どうしたと言うんです?」と彼は言った。「私の言葉が信用できないのですか?そんなにやいやい言っていると、人は、あなたがユダヤ人のところへ弟子入りしたとでも思いますよ!」
「私ははっきりさせておきたいのです」とミス・オフィーリアは言った。「あなただって、いつなんどき死ぬかもしれないし、破産するかもしれないでしょう、そうなれば私がいくら力を尽くしたって、トプシィは競売に出されてしまうでしょうからね」
「なるほど、あなたはまったく用心深いかたですね。わかりました、私もどうやら北部人《ヤンキー》の手中にあるようですから、譲歩するよりほかしかたありませんな」そう言うと、セント・クレアは手早く譲渡証書をしたためたが、彼は法律上の書式にはかなり詳しかったので、なんなく書き上げることができた。そして自分の名を、それぞれの頭文字も堂々と、それに最後の文字はじつに美しい飾り書きで結んで、署名した。
「さあ、これならりっぱな証文でしょう、え、ヴァーモントのお嬢さん?」と彼は、それを彼女に手渡しながら、言った。
「どうも」とミス・オフィーリアはほほえみながら言った。「でもこういうことには証人の署名が必要なのではないのですか?」
「やれやれ、うるさい!――そうでしたね。ねえ」と彼は、マリーの部屋の戸をあけながら言った。「マリー、従姉《ねえ》さんが、おまえの署名がほしいと言ってるんだがね。ちょっとこれへサインしておくれ」
「なんですのこれ?」とマリーは書類に目を通しながら言った。「まあ、あきれた! 従姉《ねえ》さんはたいそうな信心家でいらっしゃるから、奴隷を所有するなんていうことはなさらないと思っていましたのに」そして彼女は無造作にサインしながらつけ加えて言った。「でも、そんなにあの子が欲しいとおっしゃるんなら、私は喜んでサインしますわ」
「さあ。これで、あの子はあなたのものになりましたよ、からだも魂もね」とセント・クレアは証書を手渡しながら言った。
「あの子は以前と同様、今でも私のものではありません」とミス・オフィーリアは言った。「神さまのほかにはだれもあの子を私に与える権利はないのですから。でもこれでやっと、私もあの子を護ってやることができます」
「そうですか、じゃあ、あの子は法律という擬制によってあなたのものになったことにしておきましょう」そう言いながらセント・クレアは客間へ戻って、椅子に腰をおろすとまた新聞を読みはじめた。
ミス・オフィーリアは、あまりマリーと同席することがなかったので、証書を大切にしまうと、セント・クレアについて客間へ入っていった。
「オーガスティン」と彼女は、しばらくの間すわって編物をしていたが、不意に言葉をかけた。「あなた、召使いたちのために何か用意してあるのですか、あなたが死んだ時のことを考えて?」
「いいえ」とセント・クレアは新聞から目も離さずに言った。
「それではあの人たちに対するあなたの日ごろの寛大な態度が、そのうち、たいへん残酷なことになるかもしれませんよ」
このことについては、セント・クレアもこれまで何度か自分でも考えていた。しかし彼は無頓着にこう答えた。
「ええ、そのうち、私も何か考えてやるつもりです」
「いつです?」とミス・オフィーリアは言った。
「まあ、近いうちにね」
「万一あなたが先に死ぬようなことになったら、どうします?」
「従姉《ねえ》さん、いったいどうしたというんです?」とセント・クレアは新聞を置いて彼女を見ながら言った。「私に黄熱病かコレラの徴候が見えるとでもおっしゃるんですか、さっきからたいそう熱心に死後の準備をさせようとなさってますが?」
「『生命《いのち》の半ばにも我ら死に臨む』(祈祷書)です」とミス・オフィーリアは言った。
セント・クレアは立ち上がって、それから無造作に、新聞を置くと、この愉快でない会話を打ち切ろうとして、ヴェランダに向かってあけ放たれている扉の方へと歩いていった。機械的に、彼はもう一度その中の言葉をくりかえしてみた、――「死《ヽ》!」――そして、手すりにもたれながら、噴水から噴きあげては落ちる水の閃《ひらめ》きを見つめた。そして、ぼんやりとした、目のくらむような水しぶきを通して中庭の花や木や花瓶をながめながら、もう一度あの神秘的な言葉を、だれでもがよく口にするがそれでいてじつに恐ろしい力をもつ――「死!」という言葉を、くりかえした。「不思議だ、こんな言葉があるなんて」と彼は言った。そしてこんな事実があるなんて、しかもわれわれはふだんそれを忘れているのだ。きょうは温かく美しく、期待や希望や願望に胸をふくらませて生きていながら、あすは死んでゆく、死んでしまって、永遠に帰ってはこないなんて!」
暖かな、金色に輝く夕暮れであった。そこで、彼がヴェランダのはずれへ歩みをよせてゆくと、聖書に余念のないトムの姿が目に入った。トムは一字一字を指でさしながら、低い声で熱心に読みふけっていた。
「私が読んでやろうか、トム?」とセント・クレアは、無造作にトムの傍らに腰を下ろしながら言った。
「お願えいたします」とトムは嬉しそうに言った。「旦那さまに読んでいただくとずっとよくわかりますで」
セント・クレアは聖書を受けとると、トムの読んでいた箇所にざっと目を通した。そしてトムが大きな印で囲んでいる箇所の一つを読みはじめた。そこにはこう書いてあった。――
「人の子その栄光をもて、もろもろの御使《みつかい》を率《ひき》いきたる時、その栄光の座位《くらい》に坐せん。かくてその前にもろもろの国人《くにびと》あつめられん、之《これ》を別つこと牧羊者《ひつじかい》が羊と山羊《やぎ》とを別つ如くして」(マタイ伝、第二十五章第三十一節および第三十二節)とセント・クレアは生気に満ちた声で読みつづけ、ついに最後の節にまできた。
「かくて王、左におる者どもに言わん『詛《のろ》われたる者よ、我を離れて永遠《とこしえ》の火に入《い》れ。なんじら我が飢えしときに食《くら》わせず、渇《かわ》きしときに飲ませず、旅人なりしときに宿らせず、裸なりしときに衣《き》せず、病《や》みまた獄《ひとや》に在りしときに訪《とぶら》わざればなり』ここに彼ら答えて『主よ、いつ汝の飢え、或は渇き、或は旅人、あるいは裸、あるいは病み、或は獄に在りしを見て事《つか》えざりし』ここに王こたえて言わん『此等のいと小《ちいさ》きものの一人に為《な》さざりしは、即《すなわ》ち我になさざりしなり』と」(同上、第四十一――四十五節)
セント・クレアはこの最後の節に胸をうたれた様子であった。なぜなら彼はそこをもう一度くりかえして、――今度はゆっくりと、まるでその言葉を心の中で噛みしめてでもいるかのようにして読んだからである。
「トム」と彼は言った。「こうした厳しい審判《さばき》を受ける人たちは、これまで私がしてきたのとまったく同じようなことをしてきた人たちのように思えるよ。――結構な、安楽な、相当な生活を送ってきた、それなのにどんなに多くの同胞が飢え、あるいは渇き、あるいは病み、あるいは獄《ひとや》にいるかを尋ねてみようとはしなかったのだ」
トムは何も答えなかった。
セント・クレアは立ち上がって、物思いに沈みながらヴェランダを行ったり来たりした、彼はこの考えのため他のことは何もかも忘れてしまっている様子であった。すっかり心を奪われていたので、お茶の時間を知らせるベルが鳴ったことにも気がつかず、ためにトムは二度も彼に注意を促さねばならなかった。
セント・クレアはお茶の間もずっと、ぼんやり物思いにふけっていた。お茶がすむと、彼もマリーもミス・オフィーリアも客間に席を移したが、ほとんど口はきかなかった。
マリーは絹の蚊帳《かや》のかかっている長椅子《ながいす》に身を横たえたが、ほどなく寝入ってしまった。ミス・オフィーリアは黙ってせっせと編物をしていた。セント・クレアはピアノに向かってすわると、イオリアふうの静かな悲しげな曲を弾きはじめた。彼は深い沈想にひたっている様子で、音楽によって自分自身に独白《かたり》かけているように思えた。しばらくすると、彼は引出しをあけて、中から古びて黄色くなった楽譜を取り出し、そのページをめくりはじめた。
「ほら」と彼はミス・オフィーリアに言った。「これは母の楽譜だったのです、――ここに母の筆蹟がありますよ、――こちらへ来て見てごらんなさい。母はこれをモーツァルトの鎮魂曲からとって編曲したのです」言われて、ミス・オフィーリアは彼のところへ来た。
「これはよく母が歌っていたものです」とセント・クレアは言った。「今でもその声が聞こえてくるようです」
彼は厳かな和音の調べを前奏に、あの荘厳な古いラテン語の讃美歌、「|怒りの日《デイエス・イレー》」を歌いはじめた。
トムは、外のヴェランダで聞いていたが、その歌に引きつけられて戸口のところまで来ると、そこにじっと佇んでいた。もちろん、彼にはその歌の言葉はわからなかった。しかし、その音楽と歌い方とによって彼の心は、とりわけセント・クレアがいっそう悲愴《ひそう》な数節を歌った時には、強く動かされた様子であった。もしトムにその美しい歌詞の意味がわかっていたら、更に強く心を打たれたことであろう。
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Recordare Jesu pie
Quod sum causa tuae viae
Ne me perdas, illa die
Quae rens me sedisti lassus
Redemisti crucem passus
Tantus labor non sit cassus.
(原注――この一節は、正確な逐語訳ではないが、次のように訳されている)
想いおこし給え、おおイエスよ、何故《なにゆえ》に
御身《おんみ》は地上の怨《うら》みと叛逆に堪え給いしかを、
あの怖ろしき日に僕《しもべ》をも滅びに入れじとて。
我を求めて、御身の倦《う》みし足は急ぎ、
十字架の上にて御身の魂は死を味わいぬ、
もろもろのかかる労苦を徒《いたずら》に空しくし給うことなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
セント・クレアはこれらの言葉に深い悲愴な音調を注ぎ込んだ。なぜなら、彼には年月《としつき》の暗いヴェールが引きあげられて、自分の声を導いてくれる母の声がそこから聞こえてくるように思えたからである。彼の声もピアノも共に生命《いのち》あるもののように思われた。そして彼は、天界のモーツァルトが初め自分自身の臨終の鎮魂曲として作曲したあの調べを、それとまったく心を一つにして、歌いかつ奏でたのであった。
セント・クレアは歌い終わると、しばらくのあいだ額を手にもたせかけてすわっていた、そしてやがて床の上をあちこちと歩きはじめた。
「なんと崇高な構想なのだ、この最後の審判という考えは!」と彼は言った、――「天地|開闢《かいびゃく》以来のあらゆる不正の裁判!――答えを許さぬ叡智《えいち》による、あらゆる道徳的問題の解決! これは、じつに、驚くべき想像だ」
「私たちにとっては恐ろしいものです」ミス・オフィーリアは言った。
「おそらく、私にとってはそうなくてはならぬはずです」とセント・クレアは、足をとめて、考えこみながら言った。「私は、きょうの午後トムに、このことを記してあるマタイ伝のあの章を読んでやっていましたが、すっかり心を打たれました。われわれは、天国に入れないような人々は何か恐ろしい大罪を犯したからだと、当然考えます。しかしそうだからではないんですね、――積極的に善をなさなかったという理由で人々は地獄におとされるのですね。まるで、善をなさなかったということが、あらゆる罪悪を犯したことと同じであるかのように」
「おそらく」とミス・オフィーリアは言った。「善いことをしない人が悪いことをしないでいられるなんて、そんなことはありえないでしょうからね」
「それならばいったい」とセント・クレアは茫然《ぼうぜん》として、しかし深い感情をこめて、言った。「いったい、こういう人についてはどう言ったらいいのでしょう、つまりその人自身の心も、その人の教育も、社会の情勢も、その人に対して気高い目的に向かって進めと要求しているのに、本人にはそれができないような、そういった人については。そして自分は当然、行動的人間でなければならないのに、人類の闘争、苦悩、不正をただぼんやりと拱手《きょうしゅ》傍観して、世の中に漂うようになってしまった、そういった人については?」
「そういった人は」とミス・オフィーリアは言った。「今すぐ悔い改めて、着手すべきだと思います」
「相変わらず従姉《ねえ》さんは、実際的で、ずばりとおっしゃいますね!」とセント・クレアは、急に顔をほころばせて、言った。「あなたはけっして、私にあれやこれやと考える余裕を与えて下さいませんね、従姉《ねえ》さん。いつも私の鼻先に現下の問題をつきつけるんだな。あなたという人は、いつも永遠の≪今≫というようなものをもっているんだ」
「≪今≫だけが私に関係のあるすべての時間ですからね」とミス・オフィーリアは言った。
「愛《いと》しいエヴァ、――かわいそうに!」とセント・クレアは言った。「あの子は私に善いことをさせようと、あの小さな純真な魂をあんなにまでいためていたのだ」
彼はエヴァが死んで以来、はじめて、彼女についてこれほど多くの言葉を口にした、そしてこの時、彼が非常に強い感情をじっと抑えつけながら語ったことは、明らかであった。
「私は、キリスト教についてはこう考えています」と彼はつけ加えて言った。「人が終始一貫してキリスト教の信仰を告白できるためには、われわれの社会全体の根底に横たわっているこの奴隷制度という、不正の巨大な制度に対して、自己の全身全霊をぶつけて戦わなければなりません。そして必要とあらば、その戦いの中に自己を犠牲にしなければならないのです。つまり、私が言いたいのは、私がクリスチャンになるためにはそれ以外の道はありえないということなのです。そりゃあもちろん、私の交際している人の中には、そんなことは何一つしないような教養あるクリスチャンが何人もいますけどね。しかし正直のところ、奴隷制問題に対するキリスト教徒の無関心、私を恐怖で満たすような非行に対する彼らの認識不足、そういったものがほかのいかなるものにもまして私の胸の中に懐疑心を生みつけたのです」
「そうしたことが何もかもわかっていたのなら」とミス・オフィーリアは言った。「どうしてそれを実行しなかったのです?」
「ああ、そりゃあ私のもっている慈善心なんていうものは、自分ではソファに寝そべっていて、そのくせ教会や牧師に対してはおまえたちは殉教者じゃない、証聖者じゃないと言って非難する程度のものだからですよ。人は、他人の不都合だけはすぐ目について、おまえたちは殉教者になってしかるべきだ、なぞと言い出すものですからね」
「で、あなたはこれからは心を入れかえてやるつもりなのですか?」とミス・オフィーリアは言った。
「未来のことは神さまだけしかわかりません」とセント・クレアは言った。「でも私は以前よりは勇気があります、すべてを失いましたからね。これ以上失うものをもたぬ人間はどんな危険にも立ち向かうことができますよ」
「で、何をしようと言うのです?」
「哀れな賤しい者たちに対する私の義務、それが何かわかりしだい、私はすぐに果たしてやりたいと思います」とセント・クレアは言った。「私は、これまで何もしてやれなかった私の召使いたちからまず始めましょう。そうすれば、おそらく、いつかはこの階級全体に対して何かがしてやれるだろうと思うからです。私の国を、全世界の文明諸国の前に今こうして立っている、この誤った地位の不名誉から救うためにも何かが」
「あなたは、国が進んで奴隷を解放するということが、ありうると思っているのですか?」とミス・オフィーリアは言った。
「わかりません」とセント・クレアは言った。「今は偉大な行為の時代です。地球上、あちこちに、英雄的行為、公平無私な行為の機運が湧き起こってきています。ハンガリーの貴族たちは莫大な経済的犠牲を払って、何百万という農奴を解放しました。ですから、おそらく、われわれの中にも金銭ぬきで名誉や正義を重んじる寛大な精神の持ち主が出てくることでしょう」
「私にはそうは思えませんね」とミス・オフィーリアは言った。
「しかし、かりにわれわれがあす立ち上がって、奴隷たちを解放したとしたら、いったい、だれがこの何百万という連中に教育を施し、彼らに自由の使い方を教えるのです? 連中が立ち上がったとしても、われわれの間では大したことはできませんよ。じっさい、われわれ自身がひどい怠け者で実用的ではないのですから、連中を一人前の人間に仕立てあげるのに必要な、あの勤勉とか活動とかの観念を彼らに叩き込むなんていうことはできませんからね。で、連中は北部に行かねばならなくなるでしょう、あすこなら労働は流行に、――つまり一般の風潮に、なっていますからね。ところでどうでしょうか、あなたのいらした北部の州には、連中がしだいに教養を身につけ、そして向上していくのを黙って見ていられるだけのキリスト教的博愛主義がおありでしょうか? あなたがたは外国にいる宣教師たちには何千ドルもの大金をお送りになる。しかしそこの異教徒たちをあなたがたの町や村に呼びよせ、自分たち自身の時間や考えや金銭を使って、彼らをキリスト教徒の水準にまで引き上げることが、はたしてできるでしょうか? 私はそこのところが知りたいのです。もしわれわれが奴隷を解放したら、あなたがたは喜んで教育にあたってくれますか? はたしてあなたがたの町の、何家族が黒人の男なり女なりを受け入れて、彼らを教育し、彼らを我慢し、そして、彼らをクリスチャンにするよう努力してくれるでしょうか? 私がアドルフを店員にしてやりたいと思っても、やつを雇ってくれる商人が何人いるでしょうか、手に職をつけてやりたいと思っても、仕込んでくれる職人が何人いるでしょう? もしジェインやロゥザを学校にやりたいと思っても、彼女《あれ》らを入れてくれる学校が北部に何校ありますか? 彼女らに部屋を提供してくれる家族がどれだけありますか? しかも彼女らは北部や南部の多くの女性と同じように皮膚の色は白いのですよ。ですから、従姉《ねえ》さん、私はわれわれを公平に扱ってもらいたいのです。われわれ南部人の立場は不利です。北部の人と較べれば、われわれのほうが黒人に対しては、いっそうはっきりとした圧迫者として見られますからね。しかし北部の、あのキリスト教徒にもあるまじき偏見は、南部と同じくらい苛酷な圧迫者だと言うことができるのです」
「なるほど、そのとおりです」とミス・オフィーリアは言った、――「そうした偏見に打ち勝つことが私の義務だと悟るまでは、私についても確かにそのとおりでした。でも私の場合、それに打ち勝つことができたと信じています。そして北部にも善良な人々は数多くいます。その人たちは、こうした問題に関して、どうすることが自分たちの義務なのかを教えてあげさえすれば、ただちに実行します。確かに、異教徒たちを私たちの間に呼び寄せることは、そこへ宣教師を送ることよりもずっと大きな献身的努力が必要でしょう。でも私たちは進んでそれを実行するだろうと、私は思います」
「そりゃあ、あなたはなさるでしょう」とセント・クレアは言った。「自分の義務だと思ったもので、あなたがなさらないものがあったらお目にかかりたいくらいですからね!」
「でも、私はずぬけて善良な人間だというわけではありませんから」とミス・オフィーリアは言った。「他の人たちも、私と同じようなものの見方をすれば、実行してくれるでしょう。それで、私、北部へ帰る時には、トプシィを連れてゆくつもりです。おそらく村の人たちは、初めは、驚くでしょう。でもそのうちに私と同じものの見方をするようになると思います。それに、北部にもあなたとまったく同じ意見の人が何人もいますからね」
「ええ、でもそういう人たちは全体から見れば少数派ですよ。それに、もしわれわれが少しでも奴隷解放を始めたら、たちまちあなたがたからお叱りを受けますからね」
ミス・オフィーリアは何も答えなかった。しばらくのあいだ、沈黙が続いた。そしてセント・クレアの顔は、悲しげな、夢みるような表情でおおわれた。
「今夜はどうしてこんなに母のことが思い出されるのだろう」と彼は言った。「母がすぐ近くにいるような、何か不思議な気持がするんです。さっきから、母が生前よく言っていたことが、あれこれと胸に浮かんでくるんです。不思議だ、どうしてこんな昔のことが、時々、われわれの胸の中にこんなにもはっきりと甦ってくるのだろう!」
セント・クレアはしばらくのあいだ部屋の中をあちこちと歩いていたが、やがて言った、
「どれ今夜は、ちょっと街へ行って、世間話でも聞いてこよう」
彼は帽子をとって、出ていった。
トムは、中庭から、彼について出口まで来ると、自分もお供して参りましょうかと尋ねた。
「いや、いいよ」とセント・クレアは言った。「一時間もしたら戻るからな」
トムはヴェランダに腰をおろした。月の光の美しい晩だったので、彼は噴き上げては落ちる噴水のしぶきをじっと見つめ、そのささやきに耳を傾けながらすわっていた。トムは、わが家を思った。そして自分はまもなく自由な人間になれて、いつでも自分の望む時にそこへ帰って行くことができるのだと思った。彼は、妻や子供たちを買いとるために、どうやって働こうかと考えた。逞しい両腕の筋肉を嬉しそうに撫でながら、これももうすぐ自分自身のものになるのだ、家族の者たちの自由を買いとるために一生懸命働くことができるのだと考えた。それから彼は、あの気高い若主人のことを思った。するとそれに次いで、いつも若主人に捧げているあの祈りの言葉が彼の口をついて出た。それから彼の思いは美しいエヴァへと移っていった。お嬢さまはもう天使の群れの中にいらっしゃるのだ、と彼は考えた。そしてそう考えているうちに、あの光り輝く顔と金色の髪の毛とが噴水のしぶきの中から自分をじっと見つめているように思われてきた。そして、そんな考えに浸っているうちに、彼はいつの間にか眠って、エヴァの夢を見ていた。彼女は、いつもしていたように、髪にジャスミンの花冠をつけ、晴れやかな頬をして、喜びに目をかがやかせながら、彼の方へと近づいて来た。しかし彼がじっと見つめていると、彼女は地上から空へと昇って行くように思われた。その頬は青白い影を宿し、――目は深い神々しい光を帯び、頭には金の後光がとりまいているように思えた。――そして彼女の姿は消えていった。するとトムは激しく門を叩く音と、大勢の人声とに、はっとして目を覚した。
彼は急いで駈けより、門をあけた。すると、押しころしたような声と重い足音とともに数人の男が、外套《がいとう》に包まれて戸板の上に横たわっている人間を担ぎ込んで来た。門燈の光がその顔をはっきりと照らし出した。と、トムは気が狂ったように驚愕《きょうがく》と絶望の鋭い叫び声を発した。その声は回廊の隅々《すみずみ》にまで響きわたった。その間にも男たちは、荷物を担いで、客間の、あけ放たれた戸の方へと進んでいった、客間ではまだミス・オフィーリアが起きていて編物をしていた。
セント・クレアは、夕刊でも見ようかと、ある酒場《キャフェ》に立ち寄ったのであった。彼が新聞を読んでいると、その場に居合わせた二人の紳士の間に喧嘩が起こった。彼らは両方ともしたたかに酔っていた。セント・クレアと他に一、二の客がその二人を引き離そうとした。そしてセント・クレアが一方の紳士の手から短刀《ボーイーナイフ》をもぎ取ろうとしているうち、それが自分の脇腹に突き刺さって致命傷を負ってしまったのであった。
屋敷の中は号泣と悲嘆、悲鳴と絶叫とでいっぱいになった。召使いたちは気違いのように髪をかきむしったり、床の上に身を投げ出したり、嘆き悲しみながら、心を取り乱して走りまわったりした。トムとミス・オフィーリアだけは幾分、落着きをもっているようであった。マリーはもう激しいヒステリーの発作を起こしていた。ミス・オフィーリアの指図で、客間の長椅子の一つがすぐに用意されると、血だらけのからだがその上に横たえられた。セント・クレアは、苦痛と出血のために気を失っていた。しかし、ミス・オフィーリアが気つけ薬を与えると、彼は意識をとりもどし、目をあけて、そこにいる人々をじっと見つめた。それから熱心に部屋の中を見まわした。彼の目は何かを求めるように一つ一つ見ていったが、やがてそれは、彼の母親の肖像の上でとまった。
この時医者が到着して、診察した。医者の表情からは、もう助かる見込みのないことが明らかであった。しかし彼は傷の手当を始めた。そして彼とミス・オフィーリアとトムとは、ヴェランダの戸口や窓辺に集まった恐怖におののく召使いたちの悲嘆や嗚咽《おえつ》や絶叫の中で、取り乱した様子もなく手当を続けた。
「さあ」と医者が言った。「この連中を追い出さなくては。このかたの安静が第一ですから」
セント・クレアは目をあけて、悲嘆にくれている召使いたちをじっと見つめた。彼らはミス・オフィーリアと医者とに部屋から追いたてられていた。「かわいそうに!」と彼は言った。そして烈しい自責の表情がその顔をかすめた。アドルフはなんとしても出ていこうとはしなかった。恐怖のためにすっかり落着きを失っていたのである。床《ゆか》の上にぺったりと身を投げだした彼は、いくら言われても起き上がろうとはしなかった。他の者たちは、旦那さまの安否もおまえたちが静かにして言いつけられたとおりにするか否かにかかっているのだから、と急《せ》き立てるミス・オフィーリアの言葉に従って立ち去った。
セント・クレアはもうほとんど口がきけなかった。彼は目を閉じたままじっと横たわっていたが、何か烈しい考えと闘っていることは明らかであった。しばらくして、彼は手を、自分の傍らにひざまずいているトムの手の上にのせて、言った、「トム! かわいそうなやつ!」
「なんでごぜえますか、旦那さま?」とトムは、しんけんな面もちで言った。
「私はもう死んでゆく!」とセント・クレアはトムの手を握りしめながら言った。「祈ってくれ!」
「牧師をお呼びになりたければ――」と医者が言った。
セント・クレアは急いで首をふり、そしてもう一度トムに向かって、いっそうしんけんな口調で言った、「祈ってくれ!」
そこでトムは、心と力のすべてを捧げて、この世を去ろうとしている魂のために祈った、――あの大きな、物思いに沈んだ青い目から、あんなにもじっと、悲しげにのぞいているように思えた魂のために。その祈りこそ、まさに、激しい叫びと涙で捧げられた真の祈りであった。
トムが祈りを終えると、セント・クレアは手をのばして彼の手をつかんだ。そしてじっと彼を見つめていたが、何も言わなかった。彼は目を閉じた。しかし手は依然として握ったままであった。なぜなら、永遠の門の中では、黒い手も白い手も互いに平等に握り合うからである。彼は、とぎれとぎれに、静かな声でつぶやいた。
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Recodrare Jesu pie――
* * *
Ne me perdas――ille die
Quae rens me――sedisti lassus.
[#ここで字下げ終わり]
その日の夕べ彼が歌っていた言葉が、今彼の心の中を通り抜けていることは明らかであった、――無限の憐れみにすがるあの哀願の言葉が。彼の唇は時おり、讃美歌の一節がとぎれた時にも、動いていた。
「心が彷徨《さまよ》っておられる」と医者が言った。
「いや! 私の心は、とうとう、家《ホーム》へ帰るのだ!」とセント・クレアは、力強く言った。「とうとう! とうとう!」
口をきこうとした努力が彼の力を使い果たしてしまった。迫りくる死の影が彼の上に落ちてきた。しかしそれと同時に、慈悲深い天使の翼からこぼれ落ちてきたかのように、美しい平和な表情がふり注がれて、その様子はまるで疲れた子供がすやすやと眠っているかと思えるほどであった。
こうして彼はしばらくの間横たわっていた。人々は、偉大な神の手が彼の上におかれるのを見た。魂がこの世を去らんとするその直前、彼は不意に、輝く目をあけた。それは歓喜と認識の輝きのようでもあった。そして、「お母さん!」と呼ぶと、彼はそのままこの世を去っていった!
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第二十九章 寄《よ》る辺《べ》なき人々
われわれは、優しい主人を失った時の、黒人の召使いたちの悲嘆について、しばしば耳にする。しかし、それももっともなことで、こうした境遇に置かれた奴隷たちほど真に寄る辺なき侘《わび》しい人々は全世界にいないのである。
父親を失った子供には、まだ親しい人々の、そして法律の、保護がある。その子は何かであり、そして何かをすることができる、――というのも、その子には世間一般から認められている権利と地位とがあるからである。しかし奴隷たちには何もない。法律は、彼らを、あらゆる点で、一梱《ひとこり》の商品と同じようになんの権利もないものとみなしている。肉体をもった、不滅の魂をもった人間にとって当然の欲望や願望が、そのいくらかでも彼らに認められるとすれば、それは自分の主人の絶対的な、だれからも責任を問われることのない意志を通してのみ許されることなのである。したがってその主人が死んでしまえば、あとには何も残らないのである。
こうした絶対の権力を、慈悲深い寛大な心で行使する方法を知っている主人はごくわずかしかいない。そのことはだれでもが知っていることなのであるが、それを一番よく知っているのは、やはり奴隷たち自身である。彼らは、苛酷な暴君のような主人をもつ見込みが十とすれば、思いやりのある親切な主人をもつ見込みは一しかないと考えている。それゆえ、親切な主人の死を嘆き悲しむ声が大きくかつ長くても、それは当然のことなのである。
セント・クレアが最後の息をひきとった時、恐怖と狼狽《ろうばい》が家じゅうの者に襲いかかった。彼はそれほど突然に、人生のまっ盛りに、死んでいった! 家はどの部屋も、どの回廊も、むせび泣きと絶望の悲鳴が響き渡った。
マリーは、日ごろの放縦な生活によってその神経組織を衰弱させてしまっていたので、こうした大事件の恐ろしさに耐える力が全然なく、そのため、夫が最後の息をひきとる時は、気絶からまた気絶へとたえず発作《ほっさ》を起こしていた。それで、セント・クレアは、不思議な結婚の絆《きずな》によって結ばれたこの妻に、別れの言葉さえ告げることもできず、永遠に去っていったのである。
ミス・オフィーリアは、もちまえの気力と自制心とで、最後までこの縁者の側についていた、――一心に見つめ、一心に耳を傾け、全身の神経を集中させて。そして、できることはどんな些細なことでもすべて力を尽くしてやってみた。そして、哀れな奴隷トムが死に臨んだ主人の魂のために捧げるあの心からの熱烈な祈りに、心のすべてを捧げて和したのであった。
二人がセント・クレアの骸《なきがら》を、彼の最後の休息のために整えていると、その胸の上に、バネ仕掛けで蓋《ふた》の開くようになった小さな、無地の肖像画入れを発見した。中には気高い美しい婦人の肖像画が入っていた。そして蓋のほうには、クリスタル・ガラスの下に、一房の黒い髪の毛が入っていた。二人はそれを息の絶えた胸の上にもどした。――塵《ちり》から塵へ、――それは、かつて、この冷たい胸をあれほど激しく鼓動させた若き日の夢の悲しい形見だったのである!
トムの心は、永遠についての考えですっかり満たされていた。そして息の絶えた肉体のまわりでいろいろと力を尽くしている間も、彼は自分が主人の急死によって再び希望のない奴隷の境遇にとりのこされてしまったことなぞ、一度も考えてはみなかった。主人を思う彼の心は平和であった。なぜなら、父なる神の御胸に一心に祈りを注ぎ込んだあの時、彼は自分自身の胸の中に安らぎと確信の答えが湧き上がってくるのを感じたからであった。彼自身のもつ愛情の深い心の奥底で、彼は神の愛の豊かなることについて何か知ることができたような気がしたのである。なぜなら神の御告げに斯《か》くあるからである、――「愛に居る者は神に居り、神も亦《また》かれに居給う」(ヨハネ第一書、第四章第十六節)と。トムは希望をもちそして信頼した。だから、彼の心は平和であった。
しかしセント・クレアの葬儀が、喪服と祈祷と厳かな顔の、盛大な葬列の中に終わると、冷たい濁った日常生活の波がうねり返してきて、あの永久に続く冷酷な問いが押しよせて来た、「これから先、いったいどうしたらいいのか?」と。
その問は、ゆるやかな部屋着をきて、自分の周りに心配顔の召使いたちを侍らせながら、大きな安楽椅子の中からあれこれと、喪中に着るクレープやボンバジーンの見本を撰んでいるマリーの心にも浮かんだ。またそれは、北部のわが家へと考えを向けはじめたミス・オフィーリアの心にも浮かんだ。そしてまた、それは、自分たちの運命を握ることになった主人マリーの無情な非道な性質をよく知っている召使いたちの心にも、無言の恐怖となって、浮かんできたのであった。じっさい、召使いたちは皆、これまでの気ままな毎日が、けっして奥さまによって与えられたものではなく、旦那さまによって与えられたものであることを、そして、その旦那さまが亡くなってしまった今では、自分たちと、あの不幸のために気むずかしくなった奥さまの気質が考え出すあらゆる非道な仕打ちとの間には、その両者をへだてるなんの衝立《ついた》てもないことをよく知っていたのである。
葬儀が終わって二週間ほどたったころのこと、ある日ミス・オフィーリアが自分の部屋で忙しそうに仕事をしていると、部屋の戸をそっと叩く音がした。戸をあけてみると、そこには、われわれがすでに何度も紹介した例の美しい若い混血女《クォドルーン》のロゥザが、髪を振り乱し、目を泣きはらして立っていた。
「おお、フィーリーさま」と彼女はひざまずいて、オフィーリアの裾をつかみながら、言った。「どうぞ、どうぞ、私のために奥さまの所へ行って下さいまし! どうぞ私のためにおとりなし下さいまし! 奥さまは私を仕置きに出すとおっしゃっているのでございます、――これをご覧下さい!」そう言いながら彼女はミス・オフィーリアに一枚の書付けを手渡した。
それは、マリー自身が優雅な草書体で書いた、仕置場の頭《かしら》にあてた指図書で、これを持参せし者に鞭十五打を科するようにと書いてあった。
「いったい何をしたというのです?」とミス・オフィーリアは言った。
「ご存知のように、フィーリーさま、私はたいそういけない気性の女でございます。ですから重々《じゅうじゅう》私が悪いのでございます。じつは私、奥さまのお召物を着てみようとしておりました。それで奥さまは私の頬をお打ちになりました。で私、つい、考えよりも先に口が出てしまって、生意気なことを言ってしまったのでございます。すると奥さまは私の鼻っぱしらをへし折って、これからは今までのような生意気な真似のできないように、一度思い知らせてやるとおっしゃいました。そしてそれをお書きになって、私に持ってゆけとおっしゃるのでございます。あんなところへ行くくらいならいっそひと思いに奥さまに殺されたほうがましです」
ミス・オフィーリアはその書付けを手に、じっと考えながら立っていた。
「おわかりでございましょうけど、フィーリーさま」とロゥザは言った。「奥さまやフィーリーさまがお仕置きをなさるのでしたら、私、いくら打たれても我慢いたします。でも、あの男《ヽ》! あんな怖ろしい男のところへやられるなんて、――とても我慢できません、フィーリーさま!」
ミス・オフィーリアは、世間で女や若い娘たちを折檻する場合、彼女らを仕置場へ送って、最も卑しい人間の、――こういう仕事を自分の職業とするような下等な人間の、手に委ね、――そこで思いきり残酷な折檻を受けさせ、恥ずかしい懲らしめ(実際、大勢の見ている前で、女を全裸にして鞭打するといわれている)を受けさせるのが一般の習わしであることをよく知っていた。彼女は以前からそれを知っていた。しかし今日まで、ロゥザの細いからだが苦悩のあまり震えおののいているのを目のあたりに見るまで、その実状を少しも知らなかった。女性の体内にみなぎるあらゆる誠実な血潮が、自由を尊ぶ熱烈なニュー・イングランドの血潮が、彼女の頬にさっとのぼり、怒りをこめた胸の中で激しく動悸《どうき》を打った。しかし、彼女は、いつもの慎重さと自制心とで、逸《はや》る心を押し鎮めた。そして、書付けをしっかりと手に握りしめながら、ロゥザに、ただ一言こう言った、
「奥さまの所へ行って来る間、おまえはここで待っておいで」
「なんという恥ずべき行為! なんという恐ろしいこと! なんという乱暴な話!」と彼女は客間を横切りながら独り言を言った。
マリーは安楽椅子に腰かけていた。傍らにはマミィを立たせて髪をとかさせており、前の床にはジェインをすわらせて、一生懸命足をさすらせていた。
「きょうは、ご気分いかが?」とミス・オフィーリアは言った。
深いため息と目を閉じた顔がその時の唯一の答であった。が、やがてマリーはこう言った。「さあ、どうなんでしょう、従姉《ねえ》さん。私、これからもずっとこんな調子だと思いますわ!」そしてマリーは、一インチ幅に黒く縁どりをした麻のハンカチで目を拭いた。
「実は」とミス・オフィーリアは、しにくい話を切り出す時によく人がするあの空咳《からせき》を一つして言った。――「実は私、かわいそうなロゥザのことであなたとお話するために来たのです」
これを聞くとマリーの目は大きく開いて、血色の悪い頬にさっと赤味がさした。そして鋭い口調で答えた。
「まあ、彼女《あれ》のことで何をですの?」
「あの娘《こ》は自分の過ちをたいへん悔んでいます」
「おや、そうですか? 今にもっと悔むでしょうよ! 彼女《あれ》の生意気には私ももうずいぶんと我慢してきたんですからね。今度こそ鼻っぱしらをへし折ってやりますわ、――地べたにこすりつけさせてやりますわ!」
「でも何か他の方法で罰するわけにはいかないのですか、――これほど恥ずかしい仕打ちではない方法で?」
「私は彼女《あれ》を恥ずかしめてやるつもりなんです。それが私のねらいなんですからね。彼女《あれ》は、自分がしとやかで、きりょうがよくて、貴婦人のような物腰をしているのをいつも鼻にかけているものだから、とうとう自分が何者だか忘れてしまったのですわ。――ですから私、懲らしめてやるんです、きっと鼻っぱしらをへし折ってやれるでしょうからね!」
「でも、あなた、いいですか、もし若い娘のしとやかさや廉恥心を破壊してしまったら、その娘はたちまち堕落してしまいますよ」
「しとやかさですって!」とマリーは嘲笑して言った、――「あんな女にはもったいない言葉ですわ! いくらしとやかにしていたって、彼女《あれ》は街を歩く一番見すぼらしい黒人女と少しも変わりがないんだということを教えてやりますわ! そうすれば私に向かってあんな真似はもうしなくなるでしょうからね!」
「そんな残酷な仕打ちをなさったら、あなたは神さまのお咎めを受けねばなりませんよ!」とミス・オフィーリアは力をこめて言った。
「残酷、――こんなことが残酷と言えるものでしょうかしら! 私、指図書にはたった十五打と書いただけですのよ、それも手加減してやるようにってね。少しも残酷なことはないと思いますわ!」
「残酷なことはないですって!」とミス・オフィーリアは言った。「どんな娘でも、きっとひと思いに殺されたほうがましだと思いますよ!」
「そりゃあ従姉《ねえ》さんのような神経の持ち主なら、だれだってそんなふうに思えるかもしれませんけど、こういう連中はみんな慣れっこになっていますからね。きちんと取締っておくにはこれ以外の方法はありません。しとやかさだとかなんだとかと言って一度でも連中をいい気にさせてごらんなさい、すぐにつけあがって、ちょうど私の召使いたちがいつもしているように、従姉《ねえ》さんを踏みつけにするでしょうからね。で私は、この辺でこの連中の頭を抑えておこうと決心したんです。ですから身のほどをわきまえない者は、もうつぎつぎに仕置場に送ってやるんだということをみんなにわからせておいてやるんですわ!」とマリーは、断固とした様子で周囲を見まわしながら言った。
ジェインはこれを聞くとうなだれて身をすくめた。今の言葉がことさら自分をさして言われたのではなかろうかと思ったからである。ミス・オフィーリアはしばらくの間、爆薬を飲み込んで今にも破裂しそうだといわんばかりの様子で、すわっていた。やがて、こんな人間といくら話し合っても無駄だと思い返して、きっと唇を結ぶと、からだをこわばらせて、部屋から出ていった。
自分の部屋にもどって、ロゥザに、おまえのためには何もしてやれなかったと告げるのはつらいことであった。そして、まもなく、下男の一人がやって来て、奥さまからロゥザを仕置場へ連れてゆくよう言いつけられたからといって、涙ながらに嘆願するロゥザを急きたてていった。
このことがあってから二、三日後、トムがヴェランダの傍らで物思いにふけりながら立っていると、そこへアドルフがやって来た。彼は、主人が亡くなってからというもの、まったく意気銷沈して慰めようもない様子であった。彼は自分がいつもマリーから嫌われていたことを知っていたが、主人が生きていた間は、そんなことはほとんど気にもかけていなかった。ところが主人がいなくなった今、彼は、これから先自分の身にどんなことが降りかかってくるのかと、毎日を不安と慄《おのの》きのうちに暮らしていた。事実マリーはこれまで数回にわたって弁護士と相談していた。そしてセント・クレアの兄とも手紙で相談した結果、彼女は自分の財産と自分が一緒に連れていく召使いを除いて屋敷も、召使いも、すべて売り払って自分の父親の農園《プランテイション》へ帰ることに決めていたのであった。
「知っているか、トム、おれたちはみんな売られてしまうんだぜ?」とアドルフは言った。
「どうしてあんたはそれを知っているのかね?」とトムは言った。
「奥さんが弁護士と相談している時、カーテンの陰にかくれていたのさ。二、三日したらおれたちはみんな競売に出されるんだぜ、トム」
「主よ御意《みこころ》の如くなし給わんことを!」とトムは、両腕を組み深くため息をつきながら言った。
「もうあんな優しい旦那さまを二度ともつことはできないだろうな」とアドルフは思案顔で言った。「しかしおれはここの奥さんの下で幸運を待つよりはいっそ売られたほうがましだ」
トムは顔をそむけた。彼の胸はいっぱいだった。自由の望み、遠く離れた妻子への思いが、彼の忍耐強い心の前に浮かんだ。それはちょうど、港に入りかけたところで難破してしまった船の乗組員の心に、故郷の教会の尖塔やなつかしいわが家の屋根が、一瞬最後の別れを告げるかのごとく、黒い波頭の向こうに浮かぶ幻影にも似ていた。彼は、組んでいた腕をきつく胸に押しつけ、苦い涙を抑えて、神に祈ろうとした。哀れな彼の心は自由に対してじつに不思議な、説明し難いほどの憧れを抱いていたので、それは彼にとっては激しい苦しみであった。そして、「御意《みこころ》の如くなし給わんことを」と祈れば祈るほど、ますます苦しみは激しくなるのであった。
彼はミス・オフィーリアを求めた、エヴァが亡くなって以来、自分をことのほか親切に、そして丁重に扱ってくれていたからである。
「フィーリーさま」と彼は言った。「お亡くなりになった旦那さまは、わしを自由の身にしてやるとお約束くだせえました。旦那さまのお話では、もうその手続きを始めたということでごぜえましただ。で、もしフィーリーさまから奥さまにそのことをおっしゃっていただけましたら、奥さまも後の手続きをすすめて下さると思いますだが、これは旦那さまの御意でごぜえましたから」
「話してあげましょう、トム、そしてできるだけのことをしてあげます」とミス・オフィーリアは言った。「でも、奥さまの心しだいということだと、あまり期待はできませんよ。――でもとにかく、やってみましょう」
この話は、ロゥザの事があってからまだ二、三日しか経っていない時のことで、ちょうどミス・オフィーリアが北部に帰る支度をしていた時のことであった。
彼女はしんけんにあの時のことを思い返して、前にマリーと話した時には、ついかっとなって激しい言葉を使ってしまったからいけなかったのだろう、と考えた。そして、今度は自分の感情を抑えて、できるだけ和解的にやってみようと決心した。そこでこの善良な婦人は、まずぐっとからだを引きしめ、それから編物を手にして、できるだけ愛想よく、マリーの部屋に入ってゆき、自分が心得ているありったけの外交的手腕を使ってトムの問題を交渉しようと心に決めた。
マリーは枕に片肘《かたひじ》をついて上体を支えながら、長椅子の上にながながと身を横たえていた。一方、買物から帰って来たジェインが、マリーの前にあれこれと薄い黒の服地をひろげて見せていた。
「それがいいわ」とマリーが一つ撰んで言った。「ただ喪服に合うかどうか、私にはわからないけれど」
「まあ、奥さま」とジェインがよく舌のまわる口で言った。「ダーベノン将軍の奥さまも、将軍がお亡くなりになってからは、ちょうどこれと同じものをお召しになっていらっしゃいましたですよ、去年の夏は。それ、とてもすてきに仕立てあがりますですよ」
「従姉《ねえ》さんはどうお思いになって?」とマリーはミス・オフィーリアに言った。
「それは習慣の問題だと思います」とミス・オフィーリアは言った。「ですから私より、あなたがお決めになったほうがいいと思いますよ」
「実はね」とマリーは言った。「私、着られるようなドレスが一枚もないんですの。それに、来週は、この屋敷を売り払って、立ちのこうと思っているもんですから、どれかに決めておかなくてはなりませんの」
「そんなに早くいらっしゃるのですか?」
「ええ。セント・クレアの兄が手紙をくれましてね、兄も、兄の弁護士も、召使いや家具は競売に出して、屋敷のほうはうちの弁護士に任かせたほうがいいと言っているもんですから」
「実はあなたとお話したかったことがあるのです」とミス・オフィーリアは言った。「オーガスティンはトムに、彼《あれ》の自由を約束して、その解放に必要な法的手続きを始めていました。あなたのお力でそれをすませてやっていただきたいのです」
「まあ、そんなことはできませんわ!」とマリーは、鋭い口調で言った。「トムはこの屋敷でも一番高く売れる召使いの一人ですもの、――とても、そんなことはできませんわ。それに、あの男はなんだって自由なんか欲しがるんでしょう? 奴隷のままでいたほうがずっと安楽でいいのに」
「でも彼《あれ》は、とても熱心に、望んでいるのです、しかも彼《あれ》の主人がそれを約束したのですから」とミス・オフィーリアは言った。
「そりゃあ望んでいるでしょうとも」とマリーは言った。「あの連中はみんなそれを望んでいるんです。何かにつけて不平ばかり言っている連中なんですからね、――いつだって、自分たちに無いものを欲しがるんです。で、私は、どんな事情にしろ、奴隷の解放には反対することを主義としています。黒人は主人の監督の下においておけば相当な働きもし、かなりの暮らしもできます。でもあの連中を自由にしたら、たちまち怠けだして、働かなくなり、酒ばかり飲んで、卑しいやくざ者になり下がってしまうんです。そうした例を私は何百回となく見ているんですからね。連中を自由にするなんて少しも親切なことじゃありませんわ」
「でもトムはじつにしっかりとしていて、勤勉で、信心深いのですから」
「ええ、それはわかってます! ああいう男はこれまでにも何人となく見ていますからね。そりゃあじつによくやりますよ、監督されている間はね、――それだけですわ」
「でも、それならば考えて下さい」とミス・オフィーリアは言った。「彼《あれ》を競売に出したら、それこそ悪い主人に買われる危険がずいぶんとありますでしょ」
「まあ、ばからしい!」とマリーは言った。「いい奴隷が悪い主人に買われるなんて、そんなこと、百度に一度だってないことですわ。よくそんなことを言う人がありますけど、たいていの主人は善い人なんですのよ。私はこの南部で生まれ、育ってきましたけれど、自分の召使いをよく扱わないような主人なんて、まだ聞いたこともありませんわ、――相応のことはちゃんとしてやっているんです。ですから私、その点については少しも心配していません」
「でしょうけれども」とミス・オフィーリアは語気を強めて言った。「トムに自由を与えてやるということは、あなたの夫の最後の望みの一つでしたからね。それにまた、あの人が、可愛いエヴァの臨終の床で、あの子に約束したことの一つでもあるわけですからね。あなたがそれをかってに無視していいはずのものではないと思いますが」
マリーはこの訴えを聞くと、ハンカチで顔を覆って、すすり泣いたり、むやみと気つけびんを嗅いだりしはじめた。
「みんなが私に反対するんですのね!」と彼女は言った。「だれもかもほんとうに思いやりがない! 私、>従姉さんまでがこんなつらい思い出をもち出して、私を悲しませるとは思いませんでしたわ、――ほんとうに思いやりがありませんのね! でもわかってくれる人なんか一人もいないんです、――私の試練がどんなに苦しいものかということを! ほんとうにつらいことですわ、たった一人の娘だというのにその子に先立たれてしまうなんて!――そしてあんなにふさわしい夫をもっていながら、――私もふさわしい妻になろうとどんなに努めたことだろう!――その夫にも先立たれてしまうなんて! なのに従姉《ねえ》さんは同情さえして下さらずに、平気な顔でそんな話をもち出してくるんですのね、――私がどんなにつらい思いをしているかご存知のくせに! そりゃあ従姉《ねえ》さんだって悪気があってなさっているわけではないのでしょうけど、でもずいぶん思いやりがありませんわ、――ほんとうよ!」そう言いながらマリーはすすり泣いたり、喘いだり、マミィを呼んで窓をあけさせたり、樟脳《カンフル》びんを持ってこさせたり、頭を冷やさせたり、服のホックをはずさせたりするのであった。それで、続いて起こった大騒ぎの最中、ミス・オフィーリアは自分の部屋へと逃げ出してしまった。
彼女は、すぐに、マリーにはもう何を言っても益のないことがわかった。マリーという女はヒステリーの発作にかけては無限の能力をもっていたからで、このあとでも、ミス・オフィーリアは何度かマリーに彼女の夫やエヴァの、召使いたちについての望みをそれとなくもち出そうとしてみたのであるが、そのたびにマリーはいつも都合よく発作を起こすのであった。そこで、ミス・オフィーリアはしかたなく、トムのために彼女がしてやることのできる次の最善の方法をとった、――つまり、彼女はトムに代わってシェルビィ夫人に手紙を書き、彼の窮状を訴え、救いの手を差しのべてくれるように懇請したのであった。
その翌日、トムとアドルフと、その他六人ほどの召使いが奴隷倉庫に引かれてゆき、そこで競売のために頭数をそろえる奴隷商人の都合を待つことになった。
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第三十章 奴隷倉庫
奴隷倉庫! おそらく読者の皆さんの中には、こういう場所については怖ろしい光景を思い浮かべるかたがあるでしょう。何か不潔な、薄暗い巣窟、何か怖ろしい「醜い、奇怪な、光を奪い去られた」(ヴェルギリウスの「アイネーイス」三の六五八)奈落《タルタルス》のような所を。しかし、皆さん、実はそうではないのです。近ごろは人々も巧妙に、そして上品に罪を犯す術《すべ》を心得ていて、このりっぱな社会の目や感覚をあまり刺激しないようにしているからなのです。人間という物品は市場では高く売れます。したがって食べ物も十分に与えられ、からだもきれいに磨かれ、手入れされ、世話をされて、市場に出る時には血色のいい、丈夫そうな、光り輝く商品になるようにされているのです。ニュー・オーリアンズの奴隷倉庫も表面上は他の多くの奴隷倉庫とたいして変わるところなく、小ぎれいにされています。そしてここでは毎日、外側の差掛け小屋のような軒下に、男や女の奴隷がずらりと立って、中で売られる商品の看板の役をさせられているのを皆さんは目にすることができるのです。
それから皆さんは、中へ入ってぜひ吟味してくれと丁寧に呼びかけられるでしょう、そして入ってみると、そこには、「買手の都合しだいで別々にでも、また組み合わせにでもして売られる」ようになっている多くの夫や、妻や、兄弟や、姉妹や、父親や、母親や、幼い子供たちを見いだすことでしょう。そして不滅の魂が、かつては神の子によって血と苦悶とをもって贖《あがな》われ、その時には地|震《ふる》い、磐《いわ》さけ、墓ひらけた(マタイ伝、第二十七章第五十一節および第五十二節参照)その不滅の魂が、取引きの状態や買手の気まぐれしだいで、売られたり、賃貸しされたり、抵当に入れられたり、食料品や反物と交換されたりすることができるのだということを知るでしょう。
マリーとミス・オフィーリアとの間に例の話が交わされた一日二日後に、セント・クレアの遺産のうちトムとアドルフと他に六人ほどの召使いが、――通りにある奴隷倉庫の管理人、スケッグズ氏の慈悲心に委ねられて、次の日の競売を待つことになった。
トムは、他の仲間と同じように、衣類をつめたかなり大きなトランクを持っていた。一行は、その夜、ある細長い部屋に案内されたが、そこにはあらゆる年齢、大きさ、そして色合いの奴隷が大勢集まっていて、そこからは笑いのどよめきやなんの屈託もない陽気な騒ぎ声が起こっていた。
「あ、はあ! そうだ。その調子だ、みんな、――陽気にやれよ!」と管理人のスケッグズ氏が言った。「わしんとこの者はみんないつもこんなに陽気なんだ! ようサムボゥ、いいぞ!」と彼は、下品な道化を演じていたからだの大きな黒人に向かって声援を送った。トムが聞いた騒ぎ声はここから起こっていたのであった。
皆さんにも想像できるように、トムはこうした騒ぎに加わるような気にはなれなかった。それで、騒々しい群れからできるだけ遠く離れた場所にトランクを置いて、その上に腰をおろすと、壁に額をもたせかけていた。
人間を商品として扱うこの商人たちは、自分たちの商品が物思いにふけったり、現在の境遇に敏感にならないように、その手段の一つとして、いろいろと綿密な組織的な努力をはらって、この商品の間に賑やかな騒ぎを起こさせるようにしている。北部の市場で売られた瞬間から南部へ到着するまで、黒人が受ける訓練の唯一の目的は、その黒人を無感覚な、何も考えない、畜生のようなものにするよう組織的に教え込むことである。奴隷商人はヴァージニアやケンタッキーで奴隷を買い集める、それからその奴隷たちをどこか近くの健康地へ、――たいていは湯治場のような所へ、――連れていって肥らせる。ここで奴隷たちは毎日腹いっぱい食べ物を与えられる。そして、中には思いに沈む者もあるので、いつもヴァイオリンをかき鳴らしては、毎日無理やり踊らされる。そして陽気に騒ごうとしない者は――心に妻や、子や、家を強く思うあまり陽気にはなれない者は、――不愛想な危険な奴隷として区別され、専制的な冷酷な奴隷商人の悪意が負わせうる限りの、あらゆる残酷な仕打ちを覚悟しなければならないのである。活発な、敏捷《びんしょう》な、快活な様子が、特に人の見ている前で、たえず彼らに強要されるのであるが、それは、そうした様子をすることによってよい主人を得たいという彼ら自身の望みからと、もし自分に買い手がつかなかったら、親方からどんな仕打ちをされるかわからぬという恐れからくるものなのであった。
「おい、そこの黒ん坊はそんな所で何をしてるだ?」とサムボゥは、スケッグズ氏が部屋を出て行ってしまうと、トムの所へやって来ながら言った。サムボゥはからだの大きな、非常に元気のいい、よくしゃべる、色のまっ黒な黒人で、いろいろと芸達者な男であった。
「おまえここで何してるだ?」とサムボゥは、そばに来るとトムの脇腹をおどけた様子でつつきながら言った。「物思いってえやつか、え?」
「わしはあした、競売で売られるんだ!」とトムは静かに言った。
「競売で売られる、――ほう! ほう! おい、みんな、こりゃあおもしろいこってねえか? おらもそんなふうにして売られてみてえよ!――なあ、この連中を笑わしてやらあ。だがどうしただ、――ここにいる連中はみんなあした売られていくだか?」とサムボゥはアドルフの肩になれなれしく手をかけながら言った。
「ほっといてくれたまえ!」とアドルフは極度の嫌悪感から、きっとからだを硬直させて、鋭い口調で言った。
「おや、おい、みんな! こりゃあ色の白い黒ん坊だぜ、――クリーム色みてえで、ほら、香水なんかつけてるだぞ!」と彼はアドルフの傍らに寄って鼻をひくひくさせながら言った。「うん、そうだ! こいつは煙草屋に向いている。こいつを店に置いておきゃあ、嗅ぎ煙草にいい匂いがつくでな! いや、店じゅうをぷんぷんさせるべえな、きっと!」
「ほっといてくれといったら、君にはそれがわからないのか?」とアドルフは腹を立てながら言った。
「いいか、ぼくたちの神経はひどく過敏なんだ、――ぼくたち、色の白い黒ん坊はな! さあ、ぼくたちを見てみたまえ!」と言いながらサムボゥはアドルフの様子をおどけ半分に真似てみせた。「どうだねこの上品で優雅な様子は。ぼくたちはりっぱなお屋敷にいたんだからな、というわけだべ」
「そうだ」とアドルフは言った。「ぼくは、君たちを一人残らずがらくた同様に買えるような主人をもっていたんだ!」
「いいか、考えてもみたまえ」とサムボゥは真似た。「ぼくたちはそれほどの紳士なんだ!」
「ぼくはセント・クレア家にいたんだぞ」とアドルフは傲然《ごうぜん》として言った。
「へえ、そうかね! じゃあその屋敷もおまえさんを手離してほんとうに運がよかったというわけだ。ひびの入った急須《きゅうす》や何かと一緒にして売り飛ばそうというんだろうからな!」とサムボゥは、相手の癇《かん》にさわるようなにやにや笑いを浮かべながら言った。
この嘲弄《ちょうろう》に激昂《げっこう》したアドルフは、猛然として相手に飛びかかり、ののしりながら、その男のからだをここと言わずかしこと言わず殴りつけた。他の者たちは大声で笑ったり、どなったりしたが、そのうちこの騒ぎを聞きつけて、管理人が戸口にやって来た。
「やい、どうしたんだ、みんな? 静かにしろ、――静かに!」と彼は、入って来るなり大きな鞭を振りまわして言った。
みんなは四方へ散ったが、サムボゥだけは、直言御免の道化として管理人から与えられている恩寵に甘えて、その場にふみとどまっていた。そして主人が自分の方に向かってやって来ても、いつものようにおどけ半分のにや笑いをしながら、首をすくめただけであった。
「いえ、旦那、わしどもではねえんです、――わしどもは、いつものとおりおとなしくやってましただ、――新入りのあいつらがいけねえんです。あの連中はまったくいまいましいやつらなんで、――さっきから、わしらのあら探しみてえなことばかりしているんでがす!」
これを聞くと管理人はトムとアドルフの方を向いた。そしてろくに事情を問い質《ただ》しもせず、蹴とばしたり張りとばしたりしてから、全員に、おとなしくして寝るんだぞと言いのこして、部屋を出て行った。
こうした光景が男たちの寝部屋で起こっている一方、女たちに当てられた同じような部屋ではどうであるか、読者の皆さんもちょっとのぞいてみたいと思われるであろう。床《ゆか》の上いちめんにさまざまな恰好で、まっ黒からまっ白にいたるあらゆる色合いの、そして子供から老人にいたるあらゆる年齢の無数の姿が、いま眠っているのである。こちら側には、十歳ばかりの可愛いらしい利口そうな女の子がいるが、この子の母親はきのう売られたばかりで、今夜はだれも見てくれる者がいないままに、泣き寝入りに眠ってしまった。またこちらには、疲れ果てた老婆が眠っている。そのやせ細った腕と、たこのできた指ははげしい労働を物語るものであったが、あすはまた、見切り品として、わずかばかりの金で売られて行くのである。その他四、五十人の女たちが、毛布や衣類をさまざまにかぶってこの二人のまわりに横たわっている。しかし隅の方に、みんなから離れてすわっている女が二人いて、普通以上に人の注意をひく様子をしている。一人はかなりな服装をした混血女《ミュラトゥ》で、年のころは四十から五十のあいだであろうか、やわらかな眼差《まなざ》しと、優しい、人好きのする顔だちをしている。頭には丈の高いターバンを巻いていたが、それははでな赤いマドラス織りのハンカチで作った一流のものである。それに、着ているドレスは仕立てもよく、服地も上等で、これだけ見てもこの女がりっぱな屋敷に奉公していたことがわかる。彼女の傍らには、そして彼女にぴったりと寄り添うようにして、十五歳になる少女がいる、――娘である。この子が|四分の一混血児《クォドルーン》であることは、母親よりも白い顔の色合いからもわかるが、母親によく似ていることは傍目《はため》にもはっきりと知れる。同じようなやわらかな黒い目、長いまつ毛、そして巻毛は華麗な鳶色《とびいろ》をしている。この子もじつにきちんとした服装をしており、その白い華奢《きゃしゃ》な手は、卑しい手仕事など少しも知らぬことを示している。この二人は、あす、セント・クレアの召使いたちと同じ組に入れられて売られることになっていた。そしてこの二人の所有主であり、二人の代金が送付されることになっている紳士というのは、ニュー・ヨークに住むあるキリスト教会の会員なのである。彼はやがてこの金を受け取り、それから後、己れの主でもありまたこの二人の主でもある神の聖餐式《せいさんしき》にのぞむであろうが、その時にはもう、そんなことは少しも考えてみもしないであろう。
この二人の女――われわれはそれをスーズンとエミリーンと呼ぶことにするが――は、もとニュー・オーリアンズのある心の優しい信心深い貴婦人の侍女であった。そして、二人はこの婦人から注意深く、信心家らしく教育され、躾けられてきた。読み書きも教えられ、信仰のまことについても熱心に教育されて、二人の運命は奴隷の境遇としてはこの上なく幸福なものであった。しかし二人の保護者であるこの夫人には一人息子がいて、それが夫人の財産を管理していた。そして、無頓着と贅沢《ぜいたく》とから彼はその財産に大きな穴をあけ、そしてとうとう破産してしまったのである。その最も大きな債権者の一人にニューヨークのB商会という、世間にもかなり信用のある会社があった。B商会はニュー・オーリアンズにある社の弁護士に手紙を送った。そこで弁護士は不動産(この二人の女と大勢の農園労働者とはその中でも最も金目のものであった)(ルイジアナ、ケンタッキーなどの州では、奴隷は「不動産」とされていた)を差押え、その旨をニューヨークへ報告した。B氏は、前述のように、クリスチャンでもあり、また自由州の住民でもあったので、この問題についてはいくぶん不安を感じた。彼は奴隷や人間の魂を売り買いするなぞということは好まなかった。――彼の会社がじっさいそんな商売をしていなかったことはもちろんである。しかし、それにしても、この件には三万ドルという大金がかかっていて、それは、一つの主義のために失うにはあまりにも莫大な額であった。そこで、いろいろと考え、日ごろ自分の意に適うような意見を言ってくれる何人かの知人にも相談した結果、B氏は弁護士に手紙を送り、最も適当と思われる方法でこの件を処理して、その代金を送達するようにと依頼した。
その手紙がニュー・オーリアンズに着いた次の日、スーズンとエミリーンは拘引されて、奴隷倉庫に送られ、翌朝の一般競売を待つ身となったのである。かくして二人は今、格子窓《こうしまど》から差し込む月明かりの中にぼんやり姿を見せているので、われわれはこの窓越しに二人の会話を聞くことができるのである。二人とも悲嘆にくれている。しかし二人は互いに、相手に悟られまいと泣き声を忍ばせている。
「お母さん、私の膝の上に頭をのせてごらんなさいな、そしたら少しは眠れるわ」と少女が、努めて平静を装いながら言う。
「母さんはとても眠る気にはなれないのよ、エム。どうしても。おまえとこうして一緒にいられるのも、今夜が最後ですものね!」
「おお、お母さん、そんなこと言わないで! 私たち、一緒に売られるかもしれないのに、――そうでしょう?」
「これが他の人の場合だったら、母さんもそう言うだろうけれどね、エム」と女は言った。「でも母さんはおまえと別れるのがとても心配で、そんな恐ろしいことばかりしか考えられないのよ」
「でも、お母さん、あの男は、私たちは二人ともよさそうだ、だからいい値で売れるだろうって言ってたわ」
スーズンはその男の顔つきや言葉を思い出した。耐え難い苦しみを胸に覚えながら彼女は、その男がエミリーンの手を見たり、巻毛をかきあげたり、こいつは上物だなぞと言っている様子を思い出した。スーズンはクリスチャンとして躾けられ、毎日聖書を読まされて育ってきたので、自分の子供が卑しい生活に売られはしまいかと恐れを抱いたのである、それは世間のクリスチャンの母親が抱くのと同じ恐れであった。しかし彼女にはなんの希望もなかった、――なんの保護もなかった。
「お母さん、もしどこかのお屋敷に買われて、お母さんがそこの料理人に、そして私がそこの小間使いかお針になれたら、私たちすばらしいと思うわ。きっとそうなれてよ。二人ともできるだけ明るく陽気な顔をして、なんでもできますって言いましょうよ、そうすれば、私たちうまくいくかもしれないから」とエミリーンは言った。
「母さんはね、おまえのその髪をあしたはブラシでみんな後ろになで上げておいてほしいの」とスーズンは言った。
「どうして、お母さん? そんなふうにしたら私、あまり似合わないわ」
「ええ、でもそのほうがよく売れるんです」
「私にはわからないわ!」と子供は言った。
「りっぱな家庭の人というものは、おまえが質素で端正な様子をしていて、きりょうのことなど少しもかまわなかったように見えるほうが、むしろおまえをいいと言って買ってくれるんです。そういう人たちのことはおまえよりも母さんのほうがよく知っていますからね」とスーズンは言った。
「そうなの、お母さん、なら私、そうするわ」
「それからね、エミリーン、もし私たちがあしたきりでもう二度と会えないとしても、――もし母さんが川上の農園に売られて行って、おまえはどこか他の所へ売られて行っても、――おまえは、自分がどんなふうに育てられてきたかをけっして忘れるんじゃありませんよ、そして奥さまから教えていただいたこともね。聖書を持っておゆき、それから讃美歌の本も。そしておまえが神さまに忠実であれば、神さまもおまえを忘れはしませんからね」
そう言いきかせるこの哀れな魂は、痛ましい失意の中に沈んでいる。なぜなら彼女には、あしたはどんな男でも、どんなに卑しい残忍な男でも、どんなに不信心な無慈悲な男でも、娘を買いとるだけの金さえ持っていれば、その肉体と霊魂の所有者になれるのだということを知っているからなのである。そしてそうなった時、どうしてこの子が神に忠実でいられるであろうか? 彼女は、娘を抱きしめながら、こうしたことをあれこれと考え、そして娘のきりょうがこれほどよくなかったなら、魅力的でなかったならと思うのである。娘はこれまでどんなに純潔に敬虔に、そして、普通の身分以上にどんなに上品に育てられてきたことか、それを思うと彼女の心は更に重く沈んでいく。しかし彼女には祈ること以外には何一つ頼るものがないのだ。そしてこうした祈りは、これまでにも何度となく神に向かって、ここと同じように小ぎれいな、手入れの行きとどいた多くのりっぱな奴隷倉庫から、捧げられているのである。――この祈りこそ、来たるべき審判《さばき》の日が示すように、神はけっして忘れたもうてはいないのだ。なぜなら、聖書にこう書かれているからである。「我を信ずる此の小き者の一人を躓《つまず》かする者は、寧《むし》ろ大《おおい》なる碾臼《ひきうす》を頸《くび》に懸けられ、海の深処《ふかみ》に沈められんかた益《えき》なり」(マタイ伝、第十八章第六節)
やわらかな、誠実な、静かな月の光がじっと覗き込んで、ぐったりと眠っている人々の上に格子の影を落としている。例の母親と娘とは素朴な悲しげな歌を一緒に歌っている。それは奴隷たちの間で葬送歌としてよく歌われる哀歌であった。
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おお、泣き虫メアリィは何処《どこ》にいるの?
おお、泣き虫メアリィは何処にいるの?
すてきな国に着いたのよ。
あの娘《こ》は死んで天国へ、
あの娘《こ》は死んで天国へ、
すてきな国に着いたのよ
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独特な、物悲しげな美しさをもった二人の声が、天の希望に憧れる地上の絶望のため息にも似た調子で歌うこれらの言葉は、一行また一行と悲痛な旋律をただよわしながら、暗い奴隷倉庫の部屋を流れて行った。
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おお、ポールとサイラスは何処にいるの?
おお、ポールとサイラスは何処にいるの?
すてきな国へ行ったのよ。
二人は死んで天国へ、
二人は死んで天国へ、
すてきな国に着いたのよ
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歌い続けよ、哀れな魂よ! 夜は短かい、そして朝は汝らを永遠に分かつのだ!
しかしもうその朝が来た。そしてだれもが起き上がった。尊敬すべきスケッグズ氏はせわしなく、元気に立ちまわっている。というのも、彼には競売のために支度させなければならない奴隷が多くいるからである。身支度は一人一人こまかく注意される。できるだけ明るい顔をして元気のいいところを見せろと命令が伝えられてくる。そして今、全員が輪をかくように並ばされて最後の点検をうけるところなのである。これが終わると彼らはいよいよ取引所《ブアス》に連れていかれるのである。
スケッグズ氏は、パルメットウ帽をかぶり、葉巻をくわえながら、彼の商品に最後の仕上げを施そうと歩きまわっている。
「これはどうしたんだ?」と彼はスーズンとエミリーンの前に来ると言った。「おまえの巻毛はどうしちまったんだ、おい?」
少女はおずおずと母親の方に目をやった。母親は、この階級のものによく見られる例の如才のない調子で、こう答える、
「私がゆうべこの娘《こ》に髪をきちんと梳《と》かして、後ろに上げておくようにと申したのでございます、巻毛になどして垂らしておかないようにと。そのほうがずっと上品に見えますものですから」
「うるせえ!」と男は威圧的に言うと、少女の方を向いた。「おい、すぐに行って、その頭をきれいな巻毛にしてこい!」彼は手に持っていた籐《とう》の杖をならして更に言った。「そしてまたすぐに戻ってくるんだぞ!」
「おまえも行って手伝ってやれ」と彼は母親に向かってつけ加えて言った。「あの巻毛だけで、やつを売る時にゃ百ドルは違うんだからな」
りっぱな円天井の下にあらゆる国の人々が集まって、大理石の床の上をあちこちと動きまわっていた。円く仕切られたそれぞれの競《せ》り場には、説明人と競売人とが使う小さな壇や台が用意してあった。向こうの二つの競り場にはすでに腕ききの、有能な紳士がのぼって、自分たちのさまざまな商品に目利きの買手たちがつけるつけ値を、英語とフランス語とを混ぜ合わせた言葉で、盛んにせり上げていた。こちら側の、三番目の競り場には、まだ競売人が上がってはいなかったが、その周りを取りかこむように、競売の始まるのを待つ一群の人々がいた。そしてここにわれわれはセント・クレア家の召使いたちを、――トムやアドルフや他の者たちを認めることができるのである。そしてまたそこには、心配そうな打ちしおれた顔つきで自分たちの番の来るのを待っているスーズンとエミリーンの姿も見えた。さまざまな見物人が、買うつもりでいる者も、また例の冷やかしだけの者も、その一群を取巻いて、無造作に、からだだの顔だのに触ったり、じろじろ調べたり、批評したりしていたが、その態度は博労《ばくろう》たちが馬の品定めをする時と少しも変わるところがなかった。
「おや、アルフ! どうしてこんな所に来たんだね?」と一人の年若い洒落《しゃれ》た男が、片眼鏡《かためがね》でアドルフを調べているめかし込んだ若い男の肩を叩きながら言った。
「実は、従者が一人欲しいと思っていたんだが、セント・クレアの所のものが出るって聞いたもんだからね。ちょっと見てみようかと思っ――」
「ぼくはセント・クレアの所のものなんか絶対に買わないね! あすこのは、どいつもこいつも甘やかされた黒ん坊ばかりだからな! おそろしくずうずうしいんだ!」と相手の紳士は言った。
「そんなことは心配無用さ!」と初めの男は言った。「こいつらを買いとったら、そんな態度はすぐに叩きなおしてやるからね。今度の旦那さまはムシュー・セント・クレアとは勝手の違うことがすぐにわかるだろうさ。ぼくは誓ってこの男を買ってみせるよ。恰好が気に入ったからね」
「こんなやつを屋敷においといたら、君の財産はすぐになくなってしまうぜ。おそろしく贅沢なやつなんだから!」
「うん、しかしこのだんなもぼくに使われたんじゃ贅沢はできないことがわかるさ。二、三回留置場へぶち込んで、さんざんに打ちこらしてやるからね! そうすりゃあ、きっと身のほどを弁《わきま》えるようになるさ! ああ、ぼくはこいつの根性を徹底的に入れかえてやる、――今にわかるよ。ぼくは断然こいつを買ってみせる!」
トムは、自分の周りに群がる幾つもの顔の中から、旦那さまと呼べるような顔はないかと探し求めながら立っていた。そして、もし仮に、この物語りの読者であるあなたが、二百人もの人の中からあなたの絶対の所有者となり処分者となるべき人を選ばねばならぬ立場に立ったとしたら、おそらく、この時のトムと同様、安心しきって売られて行けるような買手がどんなに少ないかがわかるでしょう。トムは大勢の人を見た、――からだの大きな、頑丈そうな、荒々しい人たち。小柄な、かん高い声の、冷やかな感じの人たち。顔の長い、背のひょろ長い、気むずかしそうな人たち。それに自分と同じ人間でありながら、人をまるで木の切れ端でも拾うように拾い上げ、自分の都合しだいで同じように無造作に火にくべたり、籠にほうり込んだりするような荒くれた感じの、どこにでもいそうな人たちなど。しかしセント・クレアのような人は、一人もいなかった。
競売の始まる少し前に、胸のはだけた格子縞のシャツを着て、垢《あか》だらけの、すりきれたズボンをはいた、背の低い、肩幅の広い、筋骨の逞しい男が、これから仕事にとりかかるんだといわんばかりの勢いで、人をかきわけて入って来た。そして奴隷たちのいる所へ来ると彼らをつぎつぎに調べはじめた。トムはその男が近づいて来るのを見た瞬間から、直観的な、胸のむかつくような怖ろしさを感じたが、その男が自分の側に来るにつれて、その感じはいっそう烈しくなった。男は、背こそ低かったが、見るからに巨人のような力の持ち主であった。丸い、弾丸型の頭。大きな淡灰色の目。もじゃもじゃの、砂色の眉《まゆ》。堅い、針金のような、日に焦けた髪の毛などは、じっさい、人好きのするものではなかった。大きな、下品な口には噛み煙草がいっぱいつまっていて、彼はその汁を、時々、決然たる態度と猛烈な勢いとで吐き出していた。手は驚くほど大きく、毛むくじゃらで、日に焦げて、しみができていて、ひどく垢でよごれていて、そのうえ長い爪を生やして、いかにも不潔な感じであった。こんな男が無遠慮にみんなを丹念に調べていくのである。彼はトムの顎《あご》をつかむと、口を引きあけて歯を調べた。それから袖をまくらせて筋肉を見たり、向こうをむかせてとんだり跳ねたりさせて足のぐあいを見たりした。
「おめえはどこの生まれだ?」とぶっきらぼうに彼は、こうした検査におまけをつけて言った。
「キンタックでごぜえます、旦那さま」とトムは、救いを求めるかのように、あたりを見まわしながら言った。
「何をしてたんだ?」
「旦那さまの農場を監《み》ておりました」とトムは言った。
「もっともらしいことをぬかしやがる!」と、相手は次へ進みながら、素気ない調子で言った。彼はアドルフの前に立つとしばらく足をとめた。そしてぴかぴかに磨いたその靴の上に煙草の汁を吐きかけ、さもばかにしたように、ふんと鼻で笑うと、そのまま先へ進んだ。彼はスーズンとエミリーンの前で再び足をとめた。彼はごつごつした、きたない手を延ばして少女を自分の方へ引きよせた。そして彼女の首筋や胸をなでまわしたり、腕に触わってみたり、歯を調べたりしていたが、やがてこの子を母親の方へ突き返した。その母親の顔には、このいまわしい男が手を動かすたびに甞《な》めた苦しみの色が隠しきれずに表われていた。
少女は、おびえて、泣き出してしまった。
「泣くんじゃねえ、こん畜生め!」と競売人が言った。「こんなとこでめそめそしやがって、――これから競売が始まるんだぞ」そしてその言葉どおり、競売が始まった。
アドルフは、先刻彼を買うんだと言っていた若い紳士の手に、かなりの値で落ちた。そしてセント・クレアの召使いたちは、さまざまの競《せ》り手に買われていった。
「次はお前の番だ、上がれ! 聞こえたのか?」と競売人はトムに向かって言った。
トムは台の上にあがり、心配そうに二、三度あたりを見まわした。あらゆるものがごっちゃになって、一つの、不明瞭《ふめいりょう》な騒音になったかと思われた。――彼の効能をフランス語と英語でしゃべりたてる競売人の声、速射砲のように飛び出すフランス語と英語のつけ値。そしてほとんど一瞬のうちに最後の槌《つち》がたたかれ、彼の値段を告げる競売人の最後の「……ドル」という言葉がひときわ高く響いて、トムは落とされた。――彼に主人ができたのである!
彼は台から小突きおろされた。――背の低い、弾丸頭の例の男がトムの肩を乱暴につかんで、脇に押しやり、ぞっとするような声で言った。「そこに立ってるんだぞ、てめえは!」
トムには何がどうなのかさっぱりわからなかった。しかし競売はなおも続けられていた。――がらがらと鳴る鎖の音、早口に叫ぶ声、フランス語、英語、再び槌が鳴る。――スーズンが売れたのだ! 彼女が台をおりてゆく、足をとめる、わが子を求めて振り返える、――娘は母親の方へ手をのばす。母親は自分を買った男の顔を苦悶の眼差しで見つめる、――優しい顔つきの、りっぱな中年の紳士であった。
「おお、旦那さま、お願いでございます、どうぞ娘も買ってやって下さいまし!」
「そうしてあげたいのだがね、私には競《せ》りきれないかもしれないよ!」と紳士は、娘が台の上にあがって、おびえた、おどおどした眼差しで周囲を見まわしている姿を、痛々しそうに見つめながら言った。
いつもは血の気の少ない彼女の頬に、今は痛ましいほど血が燃えて、目は烈しい焔のような輝きを見せていた。母親は娘の常にもまして美しいその姿を見て呻いた。競売人は、しめたとばかりに娘の美しさを、フランス語と英語の混り合った言葉でまくしたてた。つけ値はどんどんと上がっていった。
「とにかくできるところまでやってみよう」と優しい顔つきの紳士は言って、中に入ってゆくと、競りに加わった。数分のうちにつけ値は彼の財布を越してしまった。彼は黙ってしまう。競売人はなおも煽《あお》りたてる。しかし値をつける者はだんだんと減ってゆく。そして今ではもう、貴族風の老紳士と例の弾丸頭の二人だけになる。紳士は蔑《さげす》むような目つきで相手を見ながら、二、三度値をつける。しかし弾丸頭は頑固な点からも財布の息の長さの点からも紳士にまさっていて、競り合いはすぐに終わる。槌がおりる、――ついに彼が少女の肉体と霊魂とを手に入れた。神よ彼女を救いたまえ!
彼女の主人となった男はレグリィ氏と言って、レッド・リヴァ(ミシシッピー川の支流)の川沿いに棉花農園をもっているのである。彼女は小突かれながら、トムと他に二人の男のいる組に入れられて、この場を泣きながら去ってゆく。
例の優しい紳士は、気の毒がっている。だが、こうしたことは毎日起こることなのだよ! こういう競売には、泣き叫ぶ娘と母親はつきものなのだ、いつだってね! どうにもしかたのないことなのだよ、等々と言って。そして彼は、自分の競り落とした品物を連れて、他の方向へと歩み去ってゆくのである。
それから二日後、ニューヨークのB・クリスチャン商会の弁護士は、この金を会社に送った。こうして入手したその為替《かわせ》手形には彼らの手であの偉大な会計係りの次の御言葉を裏書きさせよう、そのお方に対して彼らはいずれ清算しなければならない義務があるのだから。すなわち、「血を問糺《といただ》したもうものは苦しむものの号呼《さけび》をわすれたまわず」(詩篇、第九篇第十二節)と。
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第三十一章 中間航路
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「汝は目清《めきよ》くして肯《あえ》て悪を観たまわざる者、肯て不義を視たまわざる者なるに、何ゆえ邪曲《よこしま》の者を観すて置たもうや、悪《あし》き者の己《おのれ》にまさりて義《ただ》しき者を呑噬《のみくら》うに何ゆえ汝黙し居たもうや?」
――ハバクク書、第一章第十三節
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レッド・リヴァを溯ってゆく小さなみすぼらしい船の下甲板に、トムはすわっていた。――その手首にも鎖が、足にも鎖が、そして鎖よりももっと重いものが、彼の胸をしめつけていた。彼の心の空からはすべてのものが消えてしまった、――月も星も。あらゆるものが過ぎ去ってしまったちょうど今、目の前を木や堤が過ぎ去っていくように、それはもう二度ともどっては来ないのだ。妻子や、優しい主人たちのいるケンタッキーの家。優美な、壮麗なセント・クレアの邸。聖者のような目をしたエヴァの金髪。誇り高い、快活な、りっぱな、そして無頓着のようでしかもいつも親切だったセント・クレア。気楽で、気ままな余暇のある毎日、――すべてが去ってしまった! そしてその代わりに、いま何が残っているのだろう?
奴隷たる運命の中で最もつらいことの一つは、感じやすく同化しやすい黒人が、上流の家庭にいて、その家の環境をつくりあげている趣味や感情に慣れ親しんだあとで、最も下等なそして最も野蛮な家の奴隷となる、といったようなことがしばしばありうるということである。――それらはちょうど、りっぱな大広間を飾っていた椅子やテーブルが、やがてどこか下品な旅籠《はたご》屋の酒場や、卑しい人々の背徳の場所に、傷つけられ汚されて、置かれるのにも似ている。大きな違いは、テーブルや椅子には感情がなく、この人間にはそれがあるという点である。たとえ法律がそれを「法律上、純粋動産と考え、解し、宣告する」(サウスカロライナ奴隷法)と規定していても、思い出や希望や愛情や恐怖や欲望など、彼らなりに小さな世界をもっているその魂を抹殺《まっさつ》することはできないからである。
トムの主人となったサイモン・レグリィ氏は、ニュー・オーリアンズのあちこちで奴隷を買い集めていたが、その数が八人ほどになると、それを二人ずつ一組にして手錠をはめ、蒸気船|海賊《パイレート》号の方へと駆りたてていった。堤防にはその船が、レッド・リヴァを溯る旅の支度を終えて待っていた。
レグリィは奴隷たちをすっかり乗り込ませて、船が堤防を離れだすと、あのもちまえのがさがさとした様子で、彼らを見まわりにやって来た。彼はトムの前に立ちどまって、競売のために一番上等の平羅紗《ブロード・クロス》のスーツを着せられ、糊のよくきいたシャツやぴかぴか光る靴まで身につけているトムの姿を見ながら、ぶっきらぼうにこう言った。
「立て」
トムは立ち上がった。
「その|襟飾り《ストック》をはずせ!」そこでトムが、繋《つな》がれている鎖に妨げられながら、それをはずしにかかると、レグリィは手を貸して彼の首から荒々しくそれをひったくり、自分のポケットに突っ込んだ。
それからレグリィはトムのトランクに向かうが早いか、中をひっかきまわして、トムが厩《うまや》の仕事をする時によく着ていた古いズボンとよれよれの上衣とを取りだし、彼の手から鎖をはずして積荷の箱の間を指さしながら言った、
「あすこへ行って、これと着替えてこい」
トムは言われるとおりにして、すぐに戻って来た。
「靴をぬげ」とレグリィ氏は言った。
トムはぬいだ。
「そら」と前者は、奴隷がよくはくような粗末な頑丈な靴を投げ与えながら言った。「これをはけ」
トムはこうしたあわただしい着替えの中にも、自分の大切な聖書だけはポケットに移しておくことを忘れなかった。彼がそうしておいたことは幸いだった。なぜなら、レグリィ氏は、再びトムの手に鎖をはめると、トムのぬいだ服のポケットを念入りに探りはじめたからである。彼は絹のハンカチを取り出すと、それを自分のポケットに入れた。それからいくつかの細々とした品物、それらは生前エヴァがたいへん気に入っていたので、トムが大切にしまっておいたものであったが、レグリィはそれを見つけると嘲るように鼻をならして、肩越しに川の中へ投げ込んでしまった。
それからトムのメソディスト派の讃美歌の本を、それはあまり急いだのでトムがつい移し忘れてしまったものであったが、レグリィはそれを取り上げると中をめくった。
「ふん! 信心てえわけか。で、おめえの名はなんというんだ、――教会にでも入っているのか、え?」
「はい、旦那さま」とトムはしっかりした口調で言った。
「ようし、そんなものはすぐにおれがおめえの中から叩き出してやらあ。おれの所じゃわめいたり、祈ったり、歌ったりするような黒ん坊は一人だって置いちゃおかねえんだからな。いいか覚えておけ。それから、いいな」と彼は足をどんと踏みならし、灰色の険しい目でトムをにらみつけながら言った。「これからはこのおれがおめえの教会だ! わかったな、――おれの言うとおりにするんだぞ」
無言の黒人の心の中で何ものかが否《ノウ》! と言った。するとまるで目に見えぬ天上の声によってくりかえされたかのごとく、古い預言書の中の言葉が、亡きエヴァが生前何度も読みきかせてくれたとおりに、聞こえてきた、――「おそるるなかれ! 我なんじを贖《あがな》えり。我なんじを我が名にてよべり。汝はわが有《もの》なり!」(イザヤ書、第四十三章第一節参照)
しかしサイモン・レグリィには何も聞こえなかった。こうした声は、これから先も彼にはけっして聞くことのない声なのである。彼はただトムのうつむいた顔をしばらくにらみつけていただけで、やがて立ち去っていった。行きがけに彼は、きちんとしたたくさんの衣類が入っているトムのトランクを水夫部屋にもって行ったが、ここに来るとそのトランクはさっそく大勢の船員たちによって取りまかれた。多くの笑いと、紳士を気取ろうとする黒ん坊たちの買い漁るなかで、トムの衣類はたちまちいろいろな買手に売り払われていった。そして最後には空のトランクまでが競売にかけられた。自分の着物の売られてゆく先を、あちこちときょろきょろ見送っているトムの姿を見て、みんなは、すてきな笑いぐさだと考えた。それにトランクの競売は何にも増して滑稽で、多くの冗談が飛んだ。
こうした小さな事件が終わると、サイモンは再び彼の所有物の所へぶらりぶらりとやって来た。
「おい、トム、おめえの余分な荷物はおれがいまかたづけてやったからな。その着ているやつをうんと大事にしろよ。代わりのやつを頂戴するのはずっと先のことだろうからな。おれは黒ん坊たちに物を大事にさせる主義なんだ。おれんところじゃあ、一着の着物は一年、もたせるんだからな」
サイモンはつぎに、エミリーンが他の女と鎖で繋がれてすわっている所へやって来た。
「どうだ、この娘は」と彼は、彼女の顎をなでながら言った。「元気にしているんだぞ」
見上げる少女の顔に思わず浮かぶ恐怖と、驚愕と嫌悪の色を彼の目は見のがしはしなかった。彼は烈しく顔をしかめた。
「素頓狂《すっとんきょう》な面《つら》あしやがって、こいつ! おれが話しかけた時にゃ、愛想のいい顔をするんだ、――いいか? それからおい、おめえもだぞ、末成《うらな》りのかぼちゃ婆め!」と彼は、エミリーンが繋がれている混血女《ミュラトゥ》を小突きながら言った。「そんな面あすんじゃねえ! 景気のいい面をしてろい、いいな!」
「いいか、みんな」と彼は一、二歩後へ退がりながら言った。「おれを見ろ、――おれを見ろ、おれの目をまともに見ろ、――まっすぐにだぞ、いいな!」と彼は、一句切りごとに足を踏みならしながら言った。
魔法にでもかけられたかのように、みんなの目はサイモンのぎらぎらと光る緑灰色の目に向けられた。
「いいか」と彼は、大きな重そうな握り拳を固め、何か鍜冶屋《かじや》のハンマーにも似たようなものを作ってみせながら言った。「おめえらにこの拳骨が見えるか? これを持ち上げてみろ!」と彼は、それをトムの手の上にのせながら言った。「この骨を見ろ! どうだ、いいか、この拳骨はな黒ん坊どもを殴り倒しているうちに鉄みてえに固くなっちまったんだ。おれがこれ一発で倒せなかった黒ん坊はまだ一人もいやあしねえんだからな」と言いながら、彼がその拳骨をトムの鼻先に振りおろしたのでトムは一瞬目をつぶって身を引いた。「おれは監視人なんていうろくでもねえものは一人も置いちゃあいねえ。監視はこのおれがやるからな。それにいいか、おれは何にだってちゃんと目を光らしているんだ。おめえらはみんな言われたとおりにちゃんとやるんだぞ。いいか、すばやく、――きちんと、――おれに言いつけられたらすぐにだぞ。そうすりゃあおれと仲良くやっていけるんだ。おれにはやわらかなところなんか一つもねえんだ、どこにもな。だから、いいな、よく気をつけるんだぞ、おれはお慈悲を垂れるような男じゃねえんだ!」
女たちは思わず息をのんだ、そして奴隷たちはみんな顔を伏せ、力を落として坐っていた。一方、サイモンはくるりと背を向けると、船の酒場へと一杯やりに行った。
「ああいうふうに始めるのが、黒ん坊どもに対するおれのやり方なんだ」と彼は、自分の演説のあいだ側に立っていた一見紳士らしい男に声をかけた。「初めっからがんとやるのがおれの主義でね、――連中に覚悟させておくのさ」
「なるほど!」と相手の男は、何か非常に珍しい標本でも観察している博物学者のような好奇心で、彼を見つめた。
「ああ、そうとも。おれは生白《なまっちろ》い手をしたおまえさんたち殿様農園主たあわけが違って、監視人の野郎なんかの口車にのるような男じゃねえ! ほら、おれの拳骨に触ってみな。この拳骨を見てくんな。ええ、てえしたもんだろう、手の肉が、黒ん坊どもを殴っているうちに、まるで石みてえになっちまったんだ、――まあ触ってみなってことよ」
相手の男はその拳骨に手を当て、言葉少なにこう言った、
「なるほど固いね、それに、きっと」彼はつけ加えて言った。「心のほうも、殴っているうちにこれと同じようになったんだろう」
「うん、そうだ、そう言やあそのとおりだな」とサイモンは大声で笑いながら言った。「自分でも思うんだが、おれという人間は、世間のだれにも負けねえくらい、やわらかなとこのねえ男なんでね。じっさい、だれにだっておれにかなう者なんかいやあしねえ! 黒ん坊がいくら悲鳴をあげようが、おべんちゃらを言おうが、そんなことでごまかされるようなおれじゃねえんだ、――ほんとうの話が」
「だいぶいい奴隷を仕入れて来たね」
「そうとも」とサイモンは言った。「あそこにトムってえ野郎がいるがね、あの男はちょいとばかり変わったやつなんだそうだ。で、おれはやつを奴隷頭か取締まりにでもしようかと思って、ちょいとばかりたけえ金を払って買って来たんだ。ただ、黒ん坊なんぞにはとんでもねえようなありがてえ扱い方をされていやがったんで、そこでおぼえてきやがった妙な考えを、あいつの中から、叩き出しさえすりゃあ、野郎はものになるからね! あの黄色い女、あいつにはこのおれもひっかかったな。どうも病気らしいんだ。だが払った金の分だけはこき使ってやるさ。一年や二年はもつだろうからな。おれは黒ん坊どもを大事にとっておくなんてえことはしねえ。使い切って、また新しいのを買う、これがおれのやり方だ、――そうしたほうが手がかからねえし、きっと、このほうが結局は安くつくと思うんだ」と言ってサイモンはグラスの酒をすすった。
「で、連中は普通どれくらいもつものかね?」と相手の男は言った。
「さあ、そいつはわからねえな、やつらの調子によって違うからね。頑丈なやつなら六、七年はもつんだが、がらくたときたひにゃあ二年か三年でまいっちまうんだ。おれも、初めのころは、一生懸命気を使って、少しでも長もちするようにしていたよ。――病気の時なんか診てやったり、着物や毛布やなにかもやったりして、なんだかんだと大事にして心地よくしてやっていたのさ。ところが、そんなことをしたってなんの役にも立ちゃあしねえ。金ばっかりかかって、えらい迷惑さ。それで、な、おれは、病気だろうがなかろうが、どしどし使うことにしたんだ。黒ん坊が一人死にゃあ、また一人買ってくる。そうやっているうちに、この方がどっからみても安あがりで、手もかからねえってことがわかったんだ」
相手の男はその場を離れて、さいぜんからこの話をじっと不快そうに聞いていた一人の紳士の傍らに席を移した。
「どうかあんな輩《やから》が南部の農園主の見本などとお思いにならんで下さい」と彼は言った。
「私もそうは思いたくありません」とその若い紳士が力をこめて言った。
「あれは卑しい、下等な、野蛮な男なのです!」と初めの紳士は言った。
「しかもあなたがたの法律は、あの男に対して、その絶対の意志に、保護の影さえもなしに、従わねばならぬ人間を何人でも所有することを許しているのです。そしてあれは下等なやつですが、ああいう手合いが数多くいないとはあなたにも言いきれないでしょう」
「ですが」と相手の紳士は言った。「農園主の中には思いやりのある情け深い人々も大勢います」
「確かに」と若い紳士は言った。「しかし、私の考えでは、こうした卑しむべき者たちによって行なわれる残虐非道な行為のすべての責任は、あなたがた、思いやりのある情け深い人たちにあると思うのです。なぜなら、あなたがたの是認と影響力とがなければ、この奴隷制度は、一時間とその足場を保っていることはできないからです。農園主がみんなああいう手合いだったら」と彼は、こちらに背を向けて立っているレグリィを指さしながら言った。「この制度は石臼のように転げ落ちてゆくでしょう。あの男の残虐行為を許可し保護しているのは、実はあなたのその世間的信用と人間性なのですからね」
「あなたは確かに私の善良な性質を高く評価下さっておられるが」と農園主は、ほほえみながら言った。「しかしそんなに大きな声でお話しなさらぬようご注意申し上げよう、この船には、私のようには相手の意見をおとなしく聞いていられない者が大勢おりますからな。私の農園につくまで待たれたほうがいい、そこへついたら、あなたはゆっくりと、われわれを罵るがよろしい」
若い紳士は顔を赤らめて微笑した、そして二人はまもなくすごろくに熱中しだした。一方、船の下甲板ではもう一つの会話が、エミリーンと、彼女が繋がれている混血女《ミュラトゥ》との間に行なわれていた。自然、二人は互いに自分たちの身の上についてある程度くわしい話を交わしていた。
「おばさんはだれに使われていたの?」とエミリーンが言った。
「わしの旦那というのはね、エリスさまという人でしただ、――『|土手通り《レヴィ・ストリート》』に住んでましただがね。たぶんあんたもその屋敷は知っていなさるだろう」
「その人はおばさんに親切だったの?」とエミリーンは言った。
「まあ旦那が病気になるまではね。病気になって、半年以上も寝たり起きたりしているうちに、旦那はひどく落着きがなくなってしまっただ。昼でも夜でも、だれ一人休ませたがらねえ様子でね、あんまり奇妙になってしまったんで、だれも旦那の気に入る者がいなくなっちまっただよ。見ていると、旦那のほうは一日一日と気むずかしくなっていくばかりで、毎晩このわしをへとへとになるまで起こしておくものだから、わしはもう目をあけていられなくなっちまっただ。で、ある晩、とうとうわしが寝こんじまったら、旦那はとても怖ろしい悪態をついて、一番厳しい主人が見つかりしだいその男にわしを売りとばしてやるからと言うだ。以前は、自分が死んだらこのわしを自由にしてくれると約束までしてくれたによ」
「おばさんにはだれか親しい人はいたの?」とエミリーンは言った。
「ええ、連れ合いがね、――鍜冶屋をやってますだ。旦那はしょっちゅう、うちの人を賃貸しに出していただ。それでわしは急に売られたものだから、うちの人には会う暇もなかっただ。それにわしには子供が四人もおるだによ。おお、まあ!」と女は両手で顔をおおいながら言った。
悲しい話をきけば、だれでも、慰めに何か言ってやりたいと思うのが自然の情である。エミリーンも何か言ってやりたいと思った。しかし彼女には言うべき言葉がみつからなかった。いったいどんな言葉があったろう? 二人ともまるで申し合わしたように、新しく自分たちの主人となった怖ろしい男についての話を、心配と恐怖とからいっさい避けていた。
まこと、失意の極にこそ信仰はあるのだ。この混血女《ミュラトゥ》はメソディスト教会の会員で、まだ悟りこそひらいてはいなかったが、きわめて真摯《しんし》な信仰心の持ち主であった。エミリーンはそれよりも更にいっそう理知的に教育されていた、――誠実な信心深い女主人の保護を受けて、読み書きを習い、熱心に聖書を教え込まれていた。しかも、こうして神に見放されたかのごとく無慈悲な暴力の手の中にある自分を見た時、いかに堅い信仰をもったクリスチャンでも、その心は揺らぎはしないであろうか? まして知識に乏しく年も浅いキリストの哀れな子供たちにとって、それはどれほど信仰心を揺さぶるものであったろうか!
船は、――悲しみの重荷をのせて、――レッド・リヴァの嶮しい、曲がりくねった航路を通って、赤い、どろどろの濁流をなおも溯っていった。そして幾つもの悲しい目は、嶮しい赤土の堤防が、わびしい単調さで通り過ぎてゆく様を、じっと物憂げに見つめていた。やがて船はある小さな町で停った。するとレグリィは、一行をつれて上陸した。
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第三十二章 暗き場所
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「地のくらきところは強暴《あらび》の宅《すまい》にて充つ」
(詩篇、第七四篇第二十節)
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粗末な馬車の後から、その馬車よりももっと粗末な道を、疲れ果てた足をひきずりながら、トムとその仲間の者たちは進んでいった。
馬車にはサイモン・レグリィが乗っていた。そして例の二人の女は、相変わらず鎖で繋がれたまま、馬車の後部に荷物と一緒に積み込まれていた。こうして一行は、レグリィの農園をさして行くところであったが、それはかなり遠い道のりであった。
道は荒れ果てて、人影もなく、ある時は、風が悲しげに吹きわたる物淋しい瘠せた松林の間を曲がりくねっていくかと思うと、またある時は、長い落羽松《サイプレス》の湿地帯を通る、なわてのような道となっていた。泥だらけの、ぐじぐじと水の泌み出るような地面から生えたその悲しげな木々は葬式の花輪のように、長い黒い苔を枝から垂らしていた。そして時々|毒へび《モカシン・スネイク》の気味の悪い姿が、あちこちと水の中で腐りかけて横たわっている倒れた木の根株や折れた枝の間から、這い出してくるのが見られた。
懐をたんまりとふくらませて、装備も十分にととのえた馬に乗って行く者にとってさえ、この淋しい道を仕事の都合でたどっていく時は、じつにやるせない思いがする。まして疲れた足を一歩ふみだすごとに、愛しそして祈り求めるすべてのものからますます遠く離れてゆく奴隷の身にとっては、なおのことわびしい、やるせない思いである。
奴隷たちの暗い顔に浮かぶその沈んだふさぎきった表情を実際に見た人ならば、そう考えたにちがいない。彼らは、恋い求める、辛抱づよい疲れ果てた心をその悲しい目に浮かべながら、悲しい旅路の中を通り過ぎてゆくあたりの光景を一つ一つじっと見つめていた。
しかしサイモンは、見るからに上機嫌な様子で、馬を駆りながら、時おりポケットから酒びんを取りだしてはぐいぐいとやっていた。
「おい、みんな!」と彼は、後を振り向いて、後から引かれて来る一行のうちしおれた顔を見ると言った。「歌でも始めろ、野郎ども、――さあ歌え!」
奴隷たちは互いに顔を見合わした、すると「さあ歌え」の命令が、手に持った鞭の烈しい音と一緒にもう一度くりかえされた。そこでトムはメソディストの讃美歌を歌いはじめた。
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エルサレム、わが楽しき故郷《ふるさと》、
常にいとしきその名!
わが悲しみの終わる時、
汝が喜びは――」
(これは十六世紀の末ごろ讃美歌として歌われだしたもので、歌詞は聖アウグスチヌスの「黙想録」からとったものと言われる)
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「やめろ、この黒野郎!」とレグリィは大声でどなった。「そんないまいましいメソディストの歌なんぞおれが聞きてえと思ってんのか? おい、もっと景気のいいやつをやれ、――早くやれい!」
他の一人が、奴隷たちの間でよく歌う、あのたわいもない唄の一つを歌いだした。
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旦那の目の前で熊公《クーン》を捕えた、
そいつはでかした跳べ跳べ、みんな!
腹をかかえて笑ろたは旦那、――月に出遇うたかおまえたち、
ほう! ほう! ほう! と、さあみんな!
ほう! よう! はい――い! おう!
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歌っている男は、言葉の意味なぞあまりかまわず、おおかたは唄の調子にあわせて、口から出まかせに歌っているようであった。それで他の者たちは時々その折返しのところを合唱した、
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ほう! ほう! ほう! とさあみんな!
はい――い――おう! はい――い――おう!
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それはかなり騒々しく、無理やり陽気を装って歌われたのであったが、いかなる絶望の慟哭《どうこく》も、いかなる熱烈な祈りの言葉も、この合唱の野性的な調べほどに深い悲しみをたたえているものはありえなかった。それはまるで脅かされた、――獄《ひとや》に繋がれていた、――哀れなもの言えぬ心が、音楽というあの隠れた聖域に逃げ込んで、そこで神に向かって訴える祈りの言葉を見つけだしたかのごとくであった! 事実その歌には、サイモンには聞くことのできない祈りがあった。彼にはただ奴隷たちが賑かに歌っているのが聞こえただけであった、そして彼は上機嫌だった。彼は連中を「元気にさせて」いると思っていたからである。
「おい、ねえちゃん」と彼は、エミリーンの方を振り向いて彼女の肩に手をおきながら言った。「おれたちはもうすぐ家につくんだよ!」
レグリィがどなりつけたり叱りとばしたりする時には、エミリーンは震えあがった。しかし自分のからだに手をかけて、こんなふうに話しかけられると、かえって彼女は彼に殴られたほうがましだというような気がした。彼の目つきは彼女の魂を凍らせ、全身をぞっとさせた。彼女は思わず、傍らの混血女《ミュラトゥ》に、まるでそれが母親ででもあるかのように、しがみついた。
「おめえは耳飾りをつけたことがねえんだな」と彼は、荒くれた指で彼女の小さな耳をいじりながら言った。
「はい、旦那さま!」とエミリーンは、震えながら、うつむいて言った。
「じゃあ、家へ帰ったらおれが一つやろう、もしおめえがいい娘《こ》ならな。何もそう怖がることはねえさ。おめえにゃああまり荒仕事はさせねえつもりだからな。おめえはおれと楽しくやって、貴婦人のように暮らしていけるんだ、――ただ、いいか、おとなしくおれの言うことをきくんだぞ」
レグリィは一杯機嫌でやけに優しくするのであった。そのうちに農園の囲いが見えてきた。その土地は以前は裕福な趣味の豊かな紳士が所有していて、じつによく手入れされて美しい装いをみせていた。その持ち主が破産して死んでしまったので、レグリィがそれを安く手に入れたわけであったが、彼はこの土地を、他のすべての物と同じように、ただ金儲けの道具として使っていた。そのため、今では粗末な、見すぼらしい外観を呈していて、前の持ち主のせっかくの丹誠など少しもかまわず、荒れるにまかせている様子が至る所に見られた。
以前は屋敷の前の芝生も、美しく刈り込まれて、あちこちに灌木《かんぼく》などを植えて飾られていたのだが、今ではいちめんにいやな臭いのする雑草が生いしげり、あちこちに繋馬柱《うまつなぎ》が立てられて、そこは踏み荒らされるままになって、あたりには壊れた手桶だの、とうもろこしの軸だの、その他ごたごたと雑多な物が散らかっていた。あちこちに、べと病にかかったジェサミンや忍冬《すいかずら》が、みすぼらしい恰好で飾り柱からぶら下がっていたが、それも一方に押しやられて、柱は繋馬柱に使われていた。以前は広い庭園も、今ではすっかり雑草におおわれて、その間から、あちこちに、ぽつんぽつんと外国種の草花がわびしげな頭をのぞかせていた。温室も今では窓わくがなくなっていて、崩れかかった棚の上には、かさかさに乾いたわびしげな植木鉢が、中味を入れたままで立っていた。そのひからびた葉が、昔これが植物だったことを教えていた。
馬車は雑草の生い茂る砂利道を進んでいった。そこには蔽いかぶさるようにりっぱな|むくろじ《チャイナ・ツリー》の並木が続いていたが、その優雅な姿といつも青々と芽をふく若葉とだけが、この邸内で、怠慢が威圧することも変えることもできない唯一のものであるもののように思われた。――それはちょうど、失意や衰弱のさなかにあっても、より逞しく生い繁り成長していくほど深く善の土壌に根をおろした気高い精神にも似ていた。
家は、以前は広くてりっぱだった。それは南部でよく見かける様式の建物であった。二階建ての幅広いヴェランダは家をぐるりと取りまいて、どの部屋の戸もそれに通じており、一階のヴェランダは煉瓦の柱で支えられていた。
しかし今ではこの家も荒れ果てて、住心地の悪そうな様子であった。いくつかの窓は板が打ちつけてあり、あるものはガラスが粉々に割れて、よろい戸も蝶番《ちょうつがい》一つでぶらさがっていた。――すべてが、怠慢と不快を物語っていたことはもちろんである。
板片、わらくず、腐った古樽《ふるだる》や箱、こういったものが地面の至る所に散乱していた。それから三、四頭の獰猛《どうもう》な顔の犬がいたが、それらは馬車の車輪の音をききつけると起き上がるなり飛び出してきて、トムやその仲間の者たちに襲いかかろうとした。犬の後を追ってきた、ぼろを身にまとった召使いたちがやっとのことでそれを抑えつけた。
「どうだよく見ておけ!」とレグリィは、気味の悪い満足そうな様子で犬をなでながら、トムやその仲間の者たちの方を向いて言った。「おめえたち逃げようとすりゃあ、このとおりだ。この犬は黒ん坊をおっかけるように育ててあるんだからな。夕飯でも食うみてえに、あっという間に食い殺されちまうぜ。だから気をつけろよ! おいどうだ、サムボゥ!」と彼は小うるさいほどに彼の世話をあれこれとやいている、ぼろをまとい、つばのとれた帽子をかぶった男に向かって言った。「仕事のほうはどんなぐあいだ?」
「うまくいってまさあ、旦那」
「クィムボゥ」とレグリィは、これもまた主人の注意をひこうと一生懸命に世話をやいている、もう一人の男に向かって言った。「おれの言いつけておいたことを忘れずにやったか?」
「へえ、やりました、確かに」
この二人はこの農園で働く親方格の黒人であった。レグリィはこの二人を、彼のブルドッグを仕込む時と同じように組織的に、獰猛《どうもう》かつ残酷な人間に仕立てあげようと訓練していた。そして長年にわたる無情と残虐の実習によって、二人の性質をほとんど犬と同じ程度にまでしていたのであった。一般によく言われることであるが、そしてそれは黒人の性格にきわめて不利益な意見と考えられていることであるが、黒人が監視人となった場合のほうが白人が監視人となった場合よりも常にいっそう専制的であり残酷であるという意見がある。これは要するに、黒人の心が白人の心よりもよりいっそう打ちひしがれ下劣なものにされてきたということを物語っているにすぎない。このことは黒人種族ばかりでなく、世界じゅうの虐げられている民族についても言えることである。奴隷はその機会さえあれば常に専制君主となるのである。
レグリィは、歴史に出てくる君主たちと同じように、彼の農園を勢力の分散といったような方法で統括していた。サムボゥとクィムボゥは心から互いを憎み合う。農園で働く者たちは、一人残らず、この二人を心から憎む。こうして、彼は互いに反目させておくことによって、これら三者のうちどれかから、農園に起こっていることがらを、何事によらず、確実に知ることができたのである。
何人《なんぴと》も、まったく人と交際せずに暮らしてゆくことはできないものである。そこでレグリィはこの二人の黒い子分に、彼に対して一種の粗雑な親密さをもたせるようにした。――しかし、その親密さは、いつ何時でも二人のどちらかを災いにまきこめるような種類のものであった。なぜなら、ほんのちょっとしたことでも、二人の一方はいつでも、合図一つで、相手に復讐してやろうと身構えていたからである。
今こうしてレグリィの側に立っている二人を見ると、彼らは、残酷な人間というものは獣にさえ劣るということを適切に例証しているように思えるのであった。その下卑た陰険な重苦しい顔。互いに相手を猜《そね》んでぎょろつかせる大きな目。野卑な、喉《のど》にからんだ、なかば野獣のようなしゃべり方。風にひるがえる破れた着物。――これらすべてのものが、この屋敷のあらゆるものの卑しい不健全な性質とじつによく調和していた。
「おい、サムボゥ」とレグリィは言った。「こいつらを奴隷長屋《クォーターズ》へ連れていけ。それから、ほら、おまえに女を買って来てやったぞ」と言って彼は、エミリーンから例の混血女《ミュラトゥ》を引きはなして、サムボゥの方へ押しやった。――「おまえには一人連れてきてやると約束しといたからな」
女はとたんにはっとした、そして、あとじさりしながら、急に大声で言った。
「おお、旦那さま! わしにはニュー・オーリアンズに連れ合いがおりますだ」
「それがなんだってんだ、この――――。ここじゃあ欲しかねえってえのか? つべこべ言うんじゃねえ、――さっさと行け!」と言ってレグリィは鞭を振り上げた。
「さあ、ねえちゃん」と彼はエミリーンに向かって言った。「おめえはおれと一緒にこっちへ来な」
暗い、物狂おしげな顔が、家の窓からこちらを覗いているのがちらりと見えた。そしてレグリィが戸をあけた時、女の声が、早口に、命令するような調子で、何か言った。トムは中に入っていくエミリーンの後ろ姿を心配そうに見送っていたので、これに気がついた。そしてレグリィの腹立たしげに答える声を聞いた。「おめえは黙ってろい! おめえがなんと言ったって、おれはおれの好きなようにするんだ!」
トムはそれ以上は聞けなかった。すぐにサムボゥについて奴隷長屋の方へ連れていかれたからである。その長屋は、家からかなり離れて、農園の一隅に、一列に並らんで立っている、みすぼらしい掘立小屋でできた小さな村のようなものであった。どの小屋も見棄てられた、粗野な、わびしい様子を見せていた。それを見て、トムの心は沈んだ。彼は心の中で、たとえ粗末な小屋を与えられても、自分で少し手を入れて、小ざっぱりとした静かな住家にして、聖書の置ける棚も作り、仕事の終わったあとで一人になれるようなものにできるだろうと考え、自らを慰めていたからであった。彼はいくつかの小屋をのぞいてみた。しかしみんな骨組しかないような粗末な小屋ばかりで、家具など何一つなく、ただ、泥でよごれたわらの山が床《ゆか》の上にまきちらされているだけで、その床も大勢の人が足で踏みかためたむき出しの地面にすぎなかった。
「どの小屋がわしのになるのでごぜえますか?」と彼は、おとなしくサムボゥに言った。
「知るもんけ。ここへでも入ってたらいいだろう」とサムボゥは言った。「そっちの小屋にはもう一人だれか入れるはずだ。今じゃどの小屋にも黒ん坊がごってりいるもんだから、このうえ増えたひにゃあ、どうしていいか、おれにはまったくわからねえんだ」
掘立小屋の疲れ切った住民たちが群れをなしてもどって来たのは、夜もかなりふけてからのことであった。――男も女も、汚れたぼろぼろの服を身にまとい、むっつりと不愉快そうな様子をしていて、とても新入りの者たちに愛想のいい顔を見せられるような気分にはなっていなかった。やがてこの小さな村は、聞くも耐えぬ騒ぎで活気づいた。しゃがれた、喉にかかった声が手臼のまわりで言い争っているのである。この臼で彼らは、わずかばかりの堅いとうもろこしを粉に挽いて、パンを作り、それを唯一の夕食にしなければならなかったからである。彼らは夜の明けぬうちから畑に駆り出されて、奴隷頭の急《せ》き立てる鞭の下で労働を強いられてきた。ちょうど今は棉の最盛期でその取入れに忙しかったので、あらゆる手段を講じて奴隷たちを一人残らず、からだの続く限り働かせていた。「棉摘みなどというものは」と何もしないで長椅子に横たわっているような人は言うだろう。「じっさい、骨の折れる仕事じゃあない」と。はたしてそうであろうか? なるほどわれわれの頭に水が一滴ぐらい落ちてきても、それはたいして不都合なことではない。しかし異教徒|糺問《きゅうもん》の最も厳しい拷問《ごうもん》は、その水滴を一滴ずつ、頭の一点に、単調な間隔で、ぽとり、ぽとりと落とすことなのである。したがってそれ自身は苦痛でない仕事でも、何時間も、変化のない、執拗《しつよう》な単調さで、その退屈感を減じる自由意志の意識さえなしに、強制されるならば、それは苦痛な仕事になってくるのである。トムは、彼らがなだれ込んで来た時、その中に友人になれそうな顔はないかと探してみた、しかしそれは無駄であった。彼の目に映ったものは、ただ不機嫌な、苦い顔をした、野獣化した男と、弱々しい元気のない女か、あるいはもう女ではなくなってしまったような女ばかりであった。――そして力の強い者が弱い者をつきのけて入って来るのである、――それは野卑な、なんの拘束もない動物的な我欲をむき出しにした人間の姿であった。こうした者たちからは何一つ善良なものを期待し望むことはできなかった。彼らはあらゆる面で野獣のように扱われてきたので、人間として可能な限り野獣に近い性質にまで落ち込んでいたのであった。粉を挽く音は夜のふけるころまで続いた。臼の数が挽き手の数に較べて少なく、疲れた弱い者は強い者に押しのけられてあとまわしにされたからである。
「おい、おまえ!」とサムボゥが、例の混血女《ミュラトゥ》の所へ来て、彼女の前にとうもろこしの袋を投げ出しながら言った。「おまえ、なんてえ名だ?」
「ルーシィ」と女は言った。
「そうか、ルーシィ、おまえは今日からおれの女房だ。このとうもろこしを挽いておれの晩飯を焼くんだぞ、いいか?」
「おらあ、あんたなんかの女房じゃねえ、絶対になるもんか!」と女は、絶望の、鋭い、突発的な勇気をふるって言った。「むこうへ行っておくれ!」
「蹴とばすぞ、そんなことをぬかしやがると!」とサムボゥは、脅かすように足をあげながら言った。
「殺したきゃあ、殺すがいいだ、――早いほどええ! おらあ死んだほうがええでな!」と彼女は言った。
「おい、サムボゥ、働き手を台なしにしてみろ、おれは旦那に言いつけてやるからな」とクィムボゥが言った。彼は、とうもろこしを挽こうと待っていた二、三人の疲れた女を手荒く押しのけて、いそがしそうに粉を挽いていた。
「そんならおれは、おまえが女どもを手臼に寄せつけねえと旦那に言ってやるからな、この黒ん坊野郎め!」とサムボゥは言った。「おまえはおまえのことをやっていりゃあいいんだ」
トムは一日じゅう歩いてきたので腹がへって、気が遠くなりそうなほど食物に飢えていた。
「おい、おまえ!」と言ってクィムボゥが、一ペック(八・八一〇リットル)ほどとうもろこしの入っている粗末な袋を投げだした。「ほら、黒ん坊、受けとれ、それは大事にするんだぞ、――もうこれ以上は貰えねえんだからな、今《ヽ》週はな」
トムは遅くまで、臼のあくのを待っていた。そしてとうもろこしを挽こうとしている二人の女の疲れ切った様子を見て心を動かされ、彼女らのために粉を挽いてやり、大勢の者がパンを焼いたあとの消えかかった火の燃えさしを集めてやって、それから自分の夕食の仕度にとりかかった。それはここでは珍しい行ないで、――些細なことではあったが、慈善的な行為であった。しかしそれは彼女らの心の中に、それに相応する同情心を喚び起こした、――女らしい優しさに満ちた表情が彼女らの険しい顔にも浮かんだ。二人はトムのためにパンをこね、それを焼いてくれた。そこでトムは火の明かりの側に腰を下ろして、聖書をとり出した、――慰めが欲しかったからである。
「そりゃあなんだね?」と女の一人が言った。
「聖書だよ」とトムは言った。
「そうかね! わし、ケンタックを出てから一度も見たことがなかった」
「あんたケンタックの生まれかね?」とトムは興味をひかれて言った。
「ああ、それに暮らしもよかった。こんな所に来るなんて考えたこともなかっただ!」と女はため息をつきながら言った。
「とにかく、その本はなんなんだね?」ともう一人の女が言った。
「えっ、聖書だよ」
「へえ! 聖書ってなんだね?」とその女は言った。
「おやっ! あんた聖書ちゅうものを聞いたことがねえだか?」と初めの女が言った。「わしなどケンタックにいた時分、奥さまが時々読んでいたのをよく聞いたもんだが。だけど、ほんとうに! ここでは鞭の音と、どなりちらされる声しか聞けんでのう」
「とにかく、少し読んでみて下せえ!」ともう一人の女は、トムが熱心に読みふけっているのを見て、好奇心に駆られて言った。
トムは声を出して読んだ、――「凡《すべ》て労《ろう》する者・重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」(マタイ伝、第十一章第二十八節)
「そりゃあ、ええ言葉だ、まったく」とその女は言った。「だれが言うとるのかね?」
「主なる神さまだよ」とトムは言った。
「どこへ行ったらその人に会えるか、わかったらええと思うだが」とその女は言った。「そしたらわしは会いに行くだ。わしはもう二度とからだをやすめることができねえようだものな。わしのからだはずきずきと痛む、毎日、からだじゅうに震えがくる、それなのにサムボゥは、しじゅうわしに文句を言って、もっと早く棉を摘めとぬかす。夜は真夜中近くならねえと夕飯が食えねえ。横になって、目を閉じたと思うと、もう角笛が鳴って叩き起こされて、朝がまた来てしまうだ。その主なる神さまとやらがどこにいるかわかれば、わしその人に言ってやりてえもんだ」
「そのかたはここにいらっしゃるよ、そのかたはどこにでもいらっしゃるのだよ」とトムは言った。
「へん、そんなこたあ、わしには信じられねえ! ここに神さまがいねえことは、わしが知っているもの」とその女は言った。「だが、こんな話はしていたって無駄だ。どれ、小屋へ行って、寝られるうちに寝ておくことにしよう」
女たちは自分たちの小屋へと立ち去った、そしてトムは、まだいぶりながら燃えている火の側に、ただ一人すわっていた。火は時々ちらちらと燃え上がっては彼の顔を赤く照らしていた。
銀色の、美しい眉をした月が紫色の空にのぼった。そして神がこのみじめな虐げられた光景を見つめるように、月はじっと静かに見下ろしていた、――腕を組み、膝に聖書をひろげてすわっている孤独な黒い人間をじっと見つめていた。
「神さまはここにいらっしゃるのだろうか?」ああ、この無知なる心が、この恐ろしい支配、この明白にして、何人《なんぴと》も制止することのできない不正に直面して、しかもなお変わらぬ信仰をもちつづけるということがいかにして可能であろうか? トムの無学な心の中は激しく戦っていた。波のように砕け散る悪に対する観念、これから先の悲惨な生涯を思わせる黒雲、これまでのすべての希望の破壊、それらがまるで溺れかけた水夫の目の前に、暗い波間から浮かび上がってうねり寄せてくる妻や子や友だちの死体のように、魂の目の前に悲しげに揺れ動くのであった! ああ、かかるところであの偉大なるキリスト教の合い言葉を信じ、そして守り抜くことがはたして容易なことであったろうか、「神は存在し、且つ孜々《しし》として神を求むる者の報酬者なり」(ヘブル書、第十一章第六節参照)と?
トムは悲しい思いで立ち上がった。そして自分にあてがわれた小屋の中へよろけながら入っていった。床《ゆか》の上にはもういちめんに疲れ果てた奴隷たちが横たわって眠っていた。そして中の濁った空気は彼を一瞬たじろがせたほどであった。しかし深い夜露は冷たく、彼の手足は疲れ果てていたので、唯一の夜具であるぼろぼろの毛布をからだにまきつけて、わらの中に身を横たえ、彼はそのまま眠りに落ちていった。
夢の中で、優しい声が彼の耳もとに聞こえてきた。彼はポンチャトレイン湖畔の庭園の苔むした腰かけにすわっていた。そしてエヴァが、そのまじめな目を伏せて、彼に聖書を読んでくれていた。彼は彼女がこう読むのを聞いた、
「なんじ水中《みずのなか》をすぐるときは我ともにあらん、河のなかを過《すぐ》るときは水なんじの上にあふれじ、なんじ火中《ひのなか》をゆくとき焚《やか》るることなく火焔《ほのお》もまた燃《もえ》つかじ。我はエホバなんじの神イスラエルの聖者なんじの救主なるが故なり」(イザヤ書、第四十三章第二節および第三節)
やがてその言葉は、天使の奏でる音楽のように、溶けて消えてゆくように思われた。子供はその深い目をあげて、じっとなつかしそうに彼を見つめた。その目から温みと慰めの光が彼の胸に射し込んでくるように思われた。それから、彼女はあたかもその音楽にのって浮かび上がったかのごとく、光り輝く翼にのって舞い上がってゆくように思われた。その翼からは黄金の火の粉が星のように舞い落ちた。そして彼女の姿は消えてしまった。
トムは目をさました。それは夢だったのだろうか? 夢ならば夢でもいい。しかし、苦しみ悩む人たちを、慰め励ましてやりたいと、生前あんなにも望んでいたあの美しい幼い魂が、死んでから後もこの務めを果たそうとするのを、神がお許しにならなかったなぞとはだれに言いきれよう?
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そは美しき信仰なり、
たえず我らの頭上を
天使の翼もて飛びかう、
死者の霊魂《みたま》のあると思うは。
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第三十三章 キャシィ
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「嗚呼虐《ああしいた》げらるる者の涙ながる、之を慰むる者あらざるなり、また虐ぐる者の手には権力《ちから》あり、されど彼等にはこれを慰むる者あらざるなり」――伝道之書、第四章第一節。
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まもなくトムは、自分のこれからの生活の中で何を期待し何を恐れなければならないかをすっかり知るようになった。彼は何をやらせても器用な役に立つ働き手で、そのうえ、これまでの習慣と主義とからして、機敏で忠実であった。生来もの静かで穏やかな気質の彼は、たえず仕事に打ち込むことによってせめて幾らかでも自分の不幸な境遇を忘れていたいと望んだ。目を上げればあたりには、彼を倦《う》み疲れさせんばかりの虐待や苦痛にみちみちていたが、彼は敬虔な忍耐強さで、正しく審《さば》きたもう者に己を委《ゆだ》ね(ペテロ前書、第二章第二十三節)、いつかは救いの道が開かれるかもしれぬという望みを捨てずに働き続けようと決心した。
レグリィは、トムが役に立つことに黙って目をつけていた。彼はトムを一番の働き手だと思っていたが、それでもなんとなく虫が好かなかった。――それは善に対する悪の本能的な反感であった。彼の暴力や残虐行為が寄る辺ない人々の上に降りかかる時、それはしばしばのことであったが、トムがそれに注意していることを彼ははっきりと知っていた。なぜなら、批判の雰囲気というものはじつに微妙なもので、それは口に出して言わなくとも、おのずから相手に感じさせるからであって、その批判がたとえ奴隷のものであるにしても主人をいらだたせるからなのであった。トムは不運な仲間の者たちに対して、自分の優しい気持や同情をさまざまな方法で示していたが、それは彼らにとっては経験したこともない新しい出来事であった。しかしレグリィは油断のない目でそれを睨んでいた。彼はトムを買いとった時、行く行くは彼を奴隷頭にでも仕立て、時々、自分が少し留守にするような時には、この男に仕事を任かせておけるようにするつもりであった。したがって、彼の考えでは、そうした地位を与えられる者にとって一にも二にも三にも必要なものは、冷酷なのであった。それで、レグリィはトムが仲間に対して冷酷でないところから、ただちにこの男を冷酷な人間に仕立ててやろうと決心した。そしてトムがここへ来てから数週間たったころ、彼はいよいよこの仕事にとりかかろうと心を決めたのである。
ある朝、畑仕事のためにみんなが集められた時、トムはその中に新顔が一人まじっているのを見て、おやっと思った。その様子が妙に彼の注意を惹いたからである。それは背の高い、すらりとしたからだつきの、手足も見るからに華奢《きゃしゃ》な女で、着ているものも小ざっぱりとしてかなり上等なものであった。顔の様子では、年のころは三十五から四十くらいであろうか、そしてその顔は一度見たらけっして忘れることのできないような顔であった。――一目見ただけで、荒々しく痛ましい波瀾に富んだ過去を思い起こさせる顔なのである。額は高く、眉もくっきりとして美しかった。それにまっすぐな形のよい鼻、品のよい口もと、頭から首にかけての優美な線を見ると、昔はさぞ美人であったろうと思われた。だがその顔には苦しみと、それに打ち克とうとする誇らしい、厳しい忍耐との皺《しわ》が深く刻み込まれていた。血色も悪く不健康で、頬はこけ、顔立ちは鋭く、からだ全体がやつれて見えた。しかしその目は何にもまして人の注意を惹いた。――じつに大きな、じつに黒いその目は、同じように黒い長いまつ毛の影を映して、じつに激しい、悲痛な絶望の色をたたえていた。顔の線、柔軟な唇の曲がり、からだの動きの中には、その一つ一つに烈しい誇りと反抗が見られたが、目の中には、深い静まり返った苦悩の夜があった。――それは、彼女のからだ全体が示す軽蔑と誇りとに較べてあまりにも対照的な絶望しきった変化のない表情であった。
彼女はどこから来たのか、またどういう女なのか、トムは知らなかった。ただ知っていることは、夜明けの薄明かりの中を、頭をもたげ誇らしげな態度で、自分と一緒に並んで歩いているということだけであった。しかし他の者は彼女をよく知っている様子であった。なぜなら彼女のまわりを歩いている哀れな、みすぼらしい、食うや食わずの人々は時々彼女の方を向いては隠しきれぬ喜びを感じているようであったからである。
「とうとうこんな目を見るようになっただな、――ええ気味だ!」とある者が言った。
「ひっ! ひっ! ひっ!」ともう一人が言った。「畑仕事がどんなに楽しいもんだか今にわかるだよ、奥さん!」
「奥さんの働きぶりをみんなで見てやるべえ!」
「みんなと同じように、夜になったら鞭で叩かれるだかな!」
「叩かれてぶっ倒れるところが見てえもんだ、まったくよ!」とまた一人が言った。
女はこうした嘲《あざけ》りには耳もかさず、何も聞こえないかのように、相変わらず怒りに満ちた軽蔑の表情を浮かべたまま歩いていた。トムはこれまでいつも、上品で教養のある人々の中で生活してきたので、彼女の態度や様子を見ただけでこれが上流階級に属する女性であることがすぐにわかった。しかしどのようにして、またどのような理由から彼女がこんな卑しい境遇に堕ちてしまったのか、彼にはわからなかった。女は畑までの道をずっと彼と並んで歩いていったが、彼の方を見もしなければ彼に話しかけもしなかった。
トムはまもなくせっせと働きだした。しかしその女がじき近くにいるので時々その方へ目をやってはその働きぶりを見た。生まれつき器用で手早い質《たち》とみえて、こうした畑仕事も彼女にとっては他の者よりも楽なようであった。じつに早く、じつにきれいに棉を摘んでいったが、同時に、そこに見られる軽蔑の態度は、まるでこうした仕事も、自分の置かれた境遇の恥辱や屈辱も頭から軽蔑しきっているかのようであった。
その日ずっとトムは、自分と一緒に買われてきた例の混血女《ミュラトゥ》の近くで働いていた。彼女はみるからに苦しそうな様子であった。そしてトムは、彼女がよろけたり、震えたり、今にも倒れそうになりながら神に祈っているのを何度も耳にした。トムは彼女の側に来た時、黙って幾握りかの棉を自分の袋から彼女の袋へ入れてやった。
「おお、いけねえ、いけねえだよ!」と女はびっくりした様子で言った。「そんなことをしたら、あんたに迷惑がかかるだ」
ちょうどその時サムボゥがやって来た。彼はこの女に対して特別恨みをいだいている様子であった。そして彼は鞭を振り回しながら、野獣のような、喉にかかった声で言った。「なんだ、ルース、――ごまかしてやがるな?」そう言ったかと思うと、いきなり重い牛革の靴で女を蹴とばし、鞭でトムの顔を殴りつけた。
トムは、黙ってまた仕事を続けた。しかし女は、すでに疲労の極に達していたので、そのまま気を失ってしまった。
「おれが正気に返らせてやる!」とその奴隷頭は残酷な笑いを見せながら言った。「|気つけ薬《カンフル》よりももっといいものをくれてやらあ!」そして、上衣の袖からピンを抜き出すと、それを彼女のからだに元まで通れとばかりに突き刺した。女はうめき声をあげて、なかば身を起こした。「起きろ、この畜生め、そして働くんだ、さもねえともっと痛い目にあわしてやるぞ!」
こうした刺激を受けてしばらくの間は超自然的な力が湧いたのか、彼女は死物狂いで働きだした。
「いつもその調子でやるんだぞ」と男は言った。「さもねえと今夜死んでしめえてえと思うほどひどい目にあわしてやるからな!」
「今だって死にてえだ!」と彼女が言うのをトムは聞いた。そして再び彼は彼女の祈る声を耳にした。「おお、神さま、いつまで続くのでごぜえますか! おお、神さま、どうしてわしらをお救い下さらねえのでごぜえますか?」
トムは自分がどんな目にあわされるかも忘れて、再び彼女の側に近よって来ると、袋の棉を残らず彼女の袋に入れてやった。
「おお、よして下せえ! あんたはやつらにどんなことされるか、知らねえだ!」と女は言った。
「わしなら辛抱できる!」とトムは言った。「あんたよりはずっとな」そして彼はまた元の場所へかえった。それは一瞬の間のできごとであった。
われわれが前に述べた例の不思議な女は、この時、仕事をしながらトムのじき近くまで来ていたが、彼の最後の言葉を耳にすると、突然その黒い目を上げて彼をじっと見つめた。それから、かなりの量の棉を自分の籠からとり出して、それをトムの袋に入れた。
「おまえさんはここのことを何も知らないんだね」と彼女は言った。「さもなければあんな真似はしなかったろうよ。一月もここにいたら、おまえさんだって人の手助けなんかしなくなるよ。自分のからだを大事にするだけでもなかなかむずかしいことがわかるだろうからね!」
「まさか、奥さま! どうか神さまがそんなことをお許しになりませんように」とトムは思わず、この畑仕事の仲間に、自分がかつて仕えていた上流階級の人たちに対するような敬語を使って、言った。
「神さまはこんな所へはけっして訪れはしないよ」とその女は、さっさと仕事の手をすすめながら、苦々しい口調で言った。そしてまたしてもあの軽蔑的な微笑が彼女の口もとをゆがめた。
しかし、この女の行動は、畑の向こうにいた奴隷頭に見られてしまった。彼は鞭を振り回しながら彼女の方へやって来た。
「なんだ! なんだ!」と彼は勝ち誇ったような態度で女に言った。「おめえもごまかしていたんだな? つまらねえ真似はよせ! おめえは今じゃあおれの下になったんだぞ――気をつけろ、さもねえと痛い目にあうからな!」
女の黒い目から突然、幕電のような光が閃いた。彼女は唇をふるわせ、鼻孔をふくらませながら向きなおると、ぐっと背筋をのばした。そして怒りと軽蔑に燃える眼差《まなざ》しで奴隷頭をにらみつけた。
「犬!」と彼女は言った。「この私にさわれるものならさわってごらん! 私にはまだおまえを犬に引き裂かせることだって、火あぶりにさせることだって、一寸刻みに切りきざませることだってできる力があるんだからね! 私が口をききさえすりゃあ、おまえはそうなるんだよ!」
「じゃあ、いったいなんだってこんな所で働いているだ?」と相手は見るからに怖気《おじけ》づいた様子で、しぶしぶ一、二歩うしろへ退がりながら言った。「おれあ、何も悪気があって言ったわけじゃねえんですよ、キャシィさん!」
「なら、離れておいで!」と女は言った。すると、ほんとうに、その男は畑の向こうに何か仕事があるとでもいった様子で、急いでその場を立ち去って行った。
女は不意にまた自分の仕事にかえると、トムがびっくりするほどの手早さで、仕事を進めていった。その働きぶりはまるで魔法を使っているかのようであった。日の暮れぬ前に、彼女の籠はいっぱいになり、ぎゅうぎゅう詰め込んで、山盛りになった。しかも彼女は何度もトムの袋へたくさんの棉を入れてやっていたのである。日がとっぷりと暮れると、疲れ果てた奴隷たちは、頭に籠をのせて、棉を積み込み重さを量るために当てられている建物の方へと列をなして歩いて来た。そこにはレグリィが例の二人の奴隷頭と忙しそうに何か話していた。
「あのトムってえやつは今にとんでもねえめんどうを起こしますぜ。ルーシィの籠の中へしょっちゅう棉を入れてやってましただから。――そのうちに他の黒ん坊どもがみんな、自分たちだけ虐待されていると思い込むようになりますぜ、もし旦那が奴に目をつけていねえとね!」とサムボゥが言った。
「ようし! あの黒野郎め!」とレグリィは言った。「野郎、仕込んでやる必要がありそうだな、えっ、おめえたち?」
このいわくありげな言葉を聞くと、二人の黒人はにやりと気味の悪い笑い方をした。
「へえ、まったく! 旦那、ひとつよろしくやって下せえ! こういうことにかけちゃあ、悪魔だって旦那にゃあかないっこねえだから!」とクィムボゥが言った。
「なあに、おめえたち、一番いい手はな、やつに黒ん坊を折檻させることだ、そうすりゃあやつも妙な了簡を捨てるようになるさ。野郎、仕込まれるぜ!」
「しかし、そいつを捨てさせるにゃあ旦那もずいぶんと骨が折れますぜ!」
「だが、そのうちきっと捨てるようにならあな!」とレグリィは、口の中で噛《か》み煙草《たばこ》をころがしながら言った。
「それから、あのルーシィのことなんですが、――あの阿魔はこの屋敷で一番しゃくにさわる、一番厄介なやつですぜ!」とサムボゥが続けた。
「気をつけるんだぞ、サム。さもねえとおめえがなぜルーシィを憎むのか、そのうちおれが考えるようになるからな」
「そりゃあ、旦那だって知ってなさるように、あの阿魔ときたら旦那の言うことだって聞きゃしねんです。旦那にあれほど言われたって、どうしてもわしの女房になろうとしねんですから」
「鞭で殴りつけてでも言うことをきかしてやりてえところだが」とレグリィは煙草の汁を吐きながら言った。「なにしろ、べらぼうに忙しい時だから、今あいつをひっくりかえすほどのこともあるめえだろうからな。あいつは痩せていやがるが、ああいう痩せた女ってえのが、半殺しにされたって強情をはりやがるんだ!」
「なにしろ、ルーシィってえやつはまったくしゃくにさわる女で、怠け者で、しじゅう仏頂面をしてやがるんです。何一つやろうとしねんです、――それに、トムの野郎はあいつの肩をもっていやがるんです」
「なに、野郎が! よし、そんなら、トムにあの女を折檻させてやろう。やつにはいい練習になるだろうし、おまえたちみてえな悪魔とは違って無茶あすめえからな」
「ほう、ほう! ほー! ほー! ほー!」とまっ黒なこの憫れむべき二人の男は一緒になって笑った。その悪魔のような響きは真実、レグリィによって与えられたあの鬼のような性格をそのまま表現したのかとさえ思われるほどであった。
「しかし、旦那、トムの野郎とキャシィさんは、互いにルーシィの籠に棉を入れてやってましたぜ。だからあの籠はちゃんと目方があると思いますぜ、旦那!」
「それならおれが目方をかけてやる!」とレグリィは語気を強めて言った。
奴隷頭はまた一緒になってあの悪魔のような笑い声をあげた。
「そうか!」とレグリィは更に言った。「キャシィのやつめ畑に出て働きやがったか」
「あの摘み方といったら、まるで悪魔とその弟子どもがやってるみてえにおそろしく早いんで!」
「きっと、あの女の中にはそんなものがいっぱい巣食っていやがるんだ!」とレグリィは言った。そして下卑た悪態をぶつぶつつぶやきながら計量部屋の方へ歩いて行った。
疲れ果て、気落ちした奴隷たちは、のろのろと、うねりくねって、部屋に入って来た。そして、おそるおそる籠をさしだして目方を量ってもらった。
レグリィは石盤の上のみんなの名前が貼りつけてある横に一つ一つその目方を書き入れていった。
トムの籠が量られ、無事に通過した。そこでトムは、自分が手伝ってやった女もうまくいくようにと、心配そうに目をやった。
弱りきってよろよろしながら、彼女は前に出て、籠をさしだした。目方は、レグリィの目にもはっきりわかるように、十分にあった。しかし、彼は腹立ち顔で、言った。
「なんだ、この怠け者め! また目方が足りねえぞ! わきにどいて待ってろ、今、ひでえ目にあわしてやるから!」
女はまったくの絶望からくる呻き声をあげると、床板の上にすわり込んでしまった。
次にはキャシィと呼ばれていた例の女が進み出て、高慢な、無頓着な態度で自分の籠を突き出した。彼女がそれを突き出した時、レグリィはあざ笑うような、しかも何か物問いたげな目つきでじっと彼女の目を見つめた。
彼女はその黒い目でじっと彼を見すえた。唇がかすかに動くと、彼女はフランス語で何か言った。なんと言ったのかはだれにもわからなかった。しかし、彼女が口をひらいた時、レグリィの顔はまったく悪魔にとりつかれたような表情となった。彼は片手をなかば振りあげて、今にも殴りかからんばかりの様子であった、――しかしそれを彼女は烈しい軽蔑の眼差しで見ながら、くるりと背を向けると、そのまま歩み去っていった。
「おい」とレグリィは言った。「おい、ここへ来い、トム。いいか、おれは前にも言ったように、普通の仕事をさせるためにおめえを買ってきたんじゃねえ。おめえを引き上げて、奴隷頭にでもしてやろうというのがおれの腹なんだ。だから今夜から手始めにやってみるがいい。さあ、この女をつれてって鞭で殴ってみろ。やり方はこれまでにもずいぶんと見て知っているはずだ」
「旦那さまには申し訳ごぜえませんが」とトムは言った。「わしにそんなことはさせねえでいただきてえもんでごぜえます。何しろ慣れねえことですし、――いえ一度もやったことがごぜえませんし、――このわしにはなんとしてもできねえことでごぜえますから」
「その知らねえことを、しこたま教えてやろうってえのさ、おめえがご用済みになる前にな!」とレグリィは言って、牛革の鞭を取り上げると、トムの頬に激しい一撃を加え、つづいて鞭の雨を浴せかけた。
「どうだ!」と彼は手を休めて言った。「これでもできねえって言うのか?」
「はい、旦那さま」とトムは手を上げて顔に滴る血を拭いながら言った。「わしは夜でも昼でも働きます、わしに命と息のある間は喜んで働きますだ。しかしこれだけは、わしにはしていいこととは思えねえのでごぜえます。――ですから、旦那さま、わしはけっしてそのようなことはいたしません、――けっして!」
トムは非常に穏かな、静かな声の持ち主で、その態度も常に腰の低い男だったので、レグリィは、彼が臆病者で簡単に服従するものとばかり思っていた。そのトムがこうした最後の言葉を言った時、一同は驚きのあまり身を震わした。例の哀れな女は両手を握りしめて、「おお、神さま!」と言った。そしてその場に居合わす者は今にも襲って来る嵐を待ちかまえるかのように、互いに顔を見合わせて息を呑んだ。
レグリィはびっくりして、当惑した様子であった。しかしそのうちに、とうとう嵐となった、――
「なんだと! このくたばり損いの黒ん坊の畜生め! おれが言いつけた事をするのがいい事とは思わねえだと! てめえたちみてえな畜生どもに、いいだとか悪いだとかなんの関係があるってんだ? そんな了簡はおれが叩き出してやる! いったい、てめえは自分をなんだと思ってやがるんだ? 主人に向かって、いいの悪いのとぬかしやがって、自分を殿さまだぐれえに思ってやがるんだな、トム! それでこの女をひっぱたくのはよくねえとぬかしやがるんだな!」
「よくないと思います、旦那さま」とトムは言った。「気の毒にこの人は病気で、ひどく弱っております。ひっぱたくなんてまったく残酷なことでごぜえます、そんなことは、わし、けっしてする気にはなれません、始めてえとも思いません。旦那さま、それでわしを殺そうとおっしゃるなら、殺して下せえ。だが、ここにいる人たちに向かってその一人にでも手をあげることは、わしにはできねえ、――そんなことをするくらいなら、いっそ死んでしまうほうがいい!」
トムは穏かな声で話したが、その断固とした態度はだれの目にもはっきりと読みとれた。レグリィは怒りに身を震わせた。彼の縁色を帯びた目はぎらぎらと燃え、頬髭《ほおひげ》までが激怒のためにちぢれ上がるかと思われた。しかし彼は、猛獣が自分の獲物《えもの》をさんざんもてあそんでから食い殺すのと同じように、すぐにも暴力に訴えたい強い衝動を抑えて、相手を嘲弄しはじめた。
「ふん、とうとうおれたち罪人《つみびと》の中に信心深けえ犬野郎が降ってきたぜ!――おれたち罪人に説教しようてんだから、お上人《しょうにん》さまか殿さまにちげえねえや! めっぽうありがてえおかたなんだぜ、きっと! おい、大将、おめえばかに信心づらをしやがるが、――おめえの聖書ん中に『僕《しもべ》たる者よ、汝らの主人にしたがえ』(コロサイ書、第三章第二十二節参照)って書いてあるのを聞いたこたあねえのか? おれはおめえの主人じゃねえのか? おれが千二百ドルの現金《げんなま》で、そのろくでもねえまっ黒な殻から中身まですっかり買わなかったってえのか? おめえのからだも魂も今ではおれのものじゃあねえっていうのか?」と言いながら彼は重い長靴でトムを烈しく蹴った。「どうだ言ってみろ!」
残虐な迫害によって痛めつけられた肉体の苦しみのさなかにも、この質問はトムの魂に喜びと勝利の光を輝かせた。彼は突然、身を起こした。そして涙と血とが混り合って流れおちる顔で、じっと天を仰ぎ見ながら叫んだ。
「いや! いや! いや! わしの魂はあなたのものではごぜえません、旦那さま! あなたは魂までも買ったわけではごぜえません、――買えるはずはごぜえません! わしの魂は、それをご自分のものとしておくことのできるあのお方によって買われ、もう支払いもすんでいるのでごぜえます。――たとえ、たとえどんなことがあっても、旦那さまがわしを害することはできねえのでごぜえます!」
「おれにできねえだと!」とレグリィは鼻で笑いながら言った。「まあ見ていろ、――いまにわかるからな! おい、サムボゥ、クィムボゥ、この犬野郎をたっぷり仕込んで、今月いっぱいは元へもどらねえようにしてやれ!」
二人の巨大な黒人が、悪魔のような喜びを顔に浮かべてトムを捕まえた時の様子は、まさに暗黒の神々が人の姿をかりたのではないかと思えるほどであった。例の哀れな女は心配のあまり悲鳴をあげた。みんなは思わずいっせいに立ち上がった。そのなかを二人の奴隷頭は、なんの抵抗もしないトムをその場から引ったてて行った。
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第三十四章 混血女の話
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ああ虐《しいた》げらるる者の涙ながる。また虐ぐる者の手には権力《ちから》あり。これをもて我はなお生ける生者《せいしゃ》よりもすでに死《しに》たる死者をもて幸なりとす。――伝道之書、第四章第一節
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夜は更《ふ》けわたっていた。トムは、棉繰場《わたくりば》の古い見捨てられた一室で、こわれた機械や、使いものにならなくなった綿やその他のがらくたものの山にかこまれて、ただ一人うめきながら血だらけになって横たわっていた。
湿気の多いむし暑い夜で、部屋の中のこもった空気には無数の蚊が群れをなして、トムの傷の絶え間ない苦痛を更に烈しいものにしていた。しかも焼けつくようなのどの渇《かわ》きが、――他のあらゆる苦痛も及ばぬその苦しみが、――肉体の苦悶《くもん》の枡目《ますめ》をいっぱいにみたしていた。
「おお、神さま! どうぞ私をごらん下さい、――私に勝利をお授け下さい!――あらゆるものに打ち克《か》つ勝利をお授け下さい!」と哀れなトムは、苦悶のあまりに祈った。
一つの足音が、彼の背後から、部屋の中に入って来て、提燈《ランタン》の明かりが彼の目に光った。
「だれだね? おお、後生だから、どうか水を下せえ!」
キャシィは――足音の主は彼女だったのである――手にした提燈《ランタン》を下に置いて、瓶《びん》から水を注ぐと、トムの頭を持ちあげてそれを彼に飲ませてやった。コップの水は、もう一杯、またもう一杯と激しい勢いで飲みほされていった。
「飲みたいだけお飲み」と彼女は言った。「どんなに水がほしいか私にはわかっているよ。夜なかに抜け出して来て、こうしておまえさんのような人に水をやるのは、これが初めてのことじゃないからね」
「ありがとうごぜえます、奥さま」とトムは、水を飲み終えてしまうと言った。
「私を奥さまなんて呼ばないでおくれ! 私だっておまえさんと同じ惨《みじ》めな奴隷なんだからね、――いや、おまえさんよりもずっとずっと卑しい奴隷なんだよ!」と彼女は苦々しげに言った。「でもそんなことより」と彼女は言って、戸口のところへ行き、あらかじめ敷布を水で濡らして掛けておいた小さな藁《わら》ぶとんを引きずって来た。「さあ、おまえさん、この上にからだをのせてごらん」
引き裂かれた傷や打撲の傷でこわばるからだを、言われたとおりに動かすにはずいぶんと時間がかかった。しかし、それができた時、傷口にふれる冷たい敷布の感触にトムは痛みのやわらぐのを覚えた。
女は、こうした残虐行為の犠牲者たちを長いあいだ手掛けてきたので、治療の方法もいろいろと心得ていて、トムの傷をつぎつぎと手当していった。そのおかげで、間もなく傷の痛みはだいぶ楽になった。
「さあ」と女は、トムの頭を持ちあげて、枕代わりにまるめた屑綿《くずわた》を支《か》いおわると言った、「私がおまえさんにしてあげられるのはせいぜいこんなことぐらいだよ」
トムは彼女に礼を言った。女は床《ゆか》の上に腰をおろすと、両膝をひきよせて、それを抱えこむようにしながら、悲痛な面持《おもも》ちでじっと自分の前方を見つめていた。彼女の帽子《ボネット》は後ろへずり落ち、長い波打つ黒髪は、彼女の不思議な打ち沈んだ顔のまわりに垂れ下がっていた。
「無駄なことですよ、おまえさん!」とやがて彼女は、不意に言いだした、「無駄なことですよ、いくらおまえさんがしようとしていたってね。そりゃあおまえさんは勇気があった、――おまえさんの言うことのほうが正しかった。だけれどもおまえさんがいくら戦ったって、無駄なことなんだよ、問題にはならないんだよ。悪魔の手に握られているんだからね。――あの男はだれよりも強いんだ、だからおまえさんも諦めるほかはないんだよ!」
諦めてしまえ! 人間の弱さと肉体の苦しみが、以前にも何度かそうささやきはしなかったろうか? トムははっとした。すさんだ目をし、打ち沈んだ声のこの痛ましい女が、彼にとっては、これまで自分が戦ってきたあの誘惑の権化《ごんげ》のように思われたからであった。
「おお神さま! おお神さま!」と彼はうめいた、「どうして諦めることができましょう?」
「神さまに祈ったって無駄なことですよ、――けっして聞いてはくれないんだからね」と女は確固たる口調で言った。「神さまなんていやあしないんだよ、きっと。いたとしても、私たちの味方じゃあない。あらゆるものが私たちに逆らっているんだからね、天だって地だって。ありとあらゆるものが私たちを地獄に突き落とそうとしているんだ。私たちが堕《お》ちてゆくのはあたりまえじゃないか?」
トムは目を閉じた、そしてこの暗い、無神論者的な言葉に戦慄《せんりつ》した。
「だってね」と女は言った、「おまえさんはまだ何も知らないんだよ。――だが私は知っている。私はこんな所にもう五年もいて、からだも魂もすっかりあの男に踏みにじられてしまったんだからね。だから私はあの男を悪魔のように憎んでいるんだよ! おまえさんが今いる所は、人里離れた農園で、十マイル四方には他に一つだって農園もない、沼沢地《しょうたくち》の中なんだよ。おまえさんが火あぶりにされたって、――熱湯をかけられたって、一寸きざみにされたって、犬をけしかけられて裂き殺されたって、木の枝に吊るされて鞭《むち》で殴り殺されたって、それを証言してくれる白人なんてここには一人もいないんだからね(法廷では白人以外の証言は認められなかった)。ここには神の法律も人間の法律も、おまえさんや私たちを少しでも護ってくれるような法律は何もないんだよ。それに、あの男!あの男にできない悪事なんてこの世には何一つないんだからね。私がここで何を見、何を知るようになったか、それを話したら、それだけでみんなの身の毛をよだたせて、歯をがたがた言わせることができるくらいなんだよ。――だから抵抗したって無駄なんだよ! いったい、私がそんな男と一緒に暮らしたいなぞと思っただろうか? これでも私は上品に育てられた女じゃなかっただろうか、だのにあの男ときたら――おお天にまします神よ! あの男はどんな人間だったろう、どんな悪人なのだろう? それでも私はこの五年のあいだあの男と一緒に暮らしてやった、そして自分の生活をたえず呪いつづけてきた、――昼といわず、夜といわず! そして今になってあの男は、新しい女をひっぱって来た、――年若い、十五になったばかりの娘で、聞けば、信者らしい育てられ方をしたんだそうな。奥さまがその娘《こ》に聖書を読むことを教えて下さったんだという話さ。それでその娘《こ》はここへ聖書を持って来たんだよ――それもいまに娘と一緒に地獄へ堕ちていくんだ!」――そう言いながら女はすさんだ悲しげな笑い声をたてた。その笑いは異様な超自然的な響きをたてて古い荒れ果てた小屋に鳴りひびいた。
トムは両手を組み合わせた。あらゆるものが闇《やみ》と恐怖であった。
「おお、イエスさま! 主なるイエスさま! あなたは私たち哀れな者をすっかりお忘れになったのでございますか?」ついにこうした言葉が彼の口をついて出た。――「お助け下さい、主よ、私は滅んでしまいます!」
女は厳しい口調で続けた。
「そしておまえさんと一緒に働いているあの惨めな下等な犬どもはいったいなんというやつらだろう、あんなやつらのためにおまえさんは苦しまなきゃならないのかい? あいつらはみんな、その機会さえあればすぐにおまえさんを裏切るような連中なんだよ。仲間どうしが互いに可能な限りの卑劣な残酷なことをしあっているんだよ。あんなやつらがだめになるのを、いくらおまえさんが難儀して助けようとしたところで無駄じゃないか」
「かわいそうに!」とトムは言った、――「何がああいう人たちを残酷にしたのだろう?――そして、もしわしまでが諦めてしまったら、そのうちにわしもそれに慣れてしまって、だんだん彼らと同じようになって行くだろう! いや、いや、奥さま! わしは何もかも失くしてしめえました、――妻も、子供たちも、家も、親切な旦那さまも、――そしてあの旦那さまのお命がもう一週間ありさえしたら、あの方はわしを自由の身にして下せえましただ。わしはこの世ではすべてを失くしてしめえました、そしてそれはもう二度ともどっては来ねえのです、――それだからこのうえ天国までも失うことはわしにはできねえのでごぜえます。いいや、わしは悪い人間になることはできません、絶対に!」
「しかし私たちが悪い人間になったからといって、神さまはその罪を私たちのせいにすることはできないはずよ」と女は言った。「私たちは無理やりそうさせられているんだから、神さまだってそれを私たちのせいにしやあしませんよ。神さまは、私たちを罪へ追いやった者たちのせいにするでしょうよ」
「なさいますでしょう」とトムは言った。「だからと言って、それでわしどもが悪い人間にならないはずのものではごぜえません。わしがあのサムボゥのように情け知らずで悪い人間になったとしたら、どうしてそんな人間になったかは大した問題ではごぜえません。問題は、そうした人間になったということでごぜえます。――それがわしには恐ろしいのでごぜえます」
女は何か胸に思い当たるものがあったのか、物狂おしげな、ぎくりとした様子でじっとトムを見つめた。そしてやがて重苦しく呻《うめ》きながら言った。
「おおほんとうだわ! おまえさんの言うとおりだわ! おお――おお――おお!」――そして、呻き声をあげながら彼女は床の上に突っ伏した、それは極度の精神的苦痛に打ちひしがれ、身もだえする人のようであった。
しばらくの間、沈黙が続いた、二人の呼吸が聞きとれるほどであった。やがてトムが弱々しく言った、「おお、どうか、奥さま!」
女は急に身を起こした。その顔はふだんのあの厳しい打ち沈んだ表情に返っていた。
「どうか、奥さま、わしの上着がその辺の隅に投げ捨てられてあるはずでごぜえます、そのポケットにわしの聖書が入っておりますで、――お願いできましたらそれを取っていただけませんか」
キャシィは行ってそれを取って来た。トムはすぐにページをめくって、いっぱい印のつけてある、ひどくすり切れた章を開いた。そこには、その方の受けた鞭の傷痕《きずあと》によってわれわれの傷が癒《い》やされるあるお方の生涯《しょうがい》の最後の場面が書かれてあった。
「もし奥さまにここんところを読んでいただけたらと思うのでごぜえますが、――水よりもありがてえもんでごぜえますから」
キャシィは素気ない高慢な態度でその本を受けとると、その章にざっと目を通した。やがて彼女は柔らかな声に独特の美しい抑揚をつけて、この苦悩と栄光の感動的な物語を朗読しはじめた。読んでいくうちに、しばしばその声はふるえ、時にはまったく聞こえなくなった。すると彼女はよそよそしい落着きをみせて、読むのをやめ、しばらくのあいだ感情のおさまるのを待っていた。彼女があの感動的な言葉、「父よ、彼らを赦《ゆる》し給え、そのなすところを知らざればなり」(ルカ伝、第二十三節三十四節)というところに来た時、彼女はその本を投げ出し、そして、ふさふさとした髪の毛に顔を埋めて、激しく身を震わせながら声をあげてむせび泣きはじめた。
トムも泣いていた、そしてときどき、抑えきれぬように声を立てていた。
「ああ、わしたちもそのお言葉に従うことができさえしたら!」とトムは言った。――「あのお方にはそれがごく自然にできたようだが、わしたちには一生懸命たたかわなければできねえことだ! おお主よ、わしどもをお助け下さい! おお、主なるイエスさま、なにとぞお助け下さい!」
「奥さま」とトムは、しばらくしてから言った。「わしにはどういうわけか、奥さまがあらゆる点でわしよりもずっとずっとすぐれていらっしゃることがわかります。ところが、一つだけこの哀れなトムからでさえ奥さまが学べるかもしれねえことがごぜえます。あなたは、神さまはわしらがこき使われ打ちのめされてもそれを黙って見ているから、わしらの味方ではないのだとおっしゃいました。しかし奥さまも、神さまご自身の御子が、――栄光の聖なる主イエスさまが――どんな目におあいなされたかご存知でごぜえましょう、そのお方はいつも貧しくてはいらっしゃらなかったでごぜえましょうか? わしらは、わしらのだれか一人でも、そのお方のように卑められた者があるでごぜえましょうか? 主はわしどもをお忘れになってはおりません、わしはそう確信しているのでごぜえます。われらもし彼とともに耐え忍ばばわれらもまた王となるべし、と聖書に書いてごぜえます(テモテ後書、第二章十二節参照)。されどもし彼を否まば、彼もわれらを否み給わん、と。あの方たちはみな耐え忍ばなかったでごぜえましょうか?――主もその使徒の方々も? 石にて撃《う》たれ、鉄鋸《のこぎり》にて挽《ひ》かれ、羊・山羊《やぎ》の皮を纏《まと》いて徊《さまよ》い歩き、乏しくなり悩まされ、苦しめられた様が聖書には書いてごぜえます(ヘブル書、第十一章三十七節参照)。ですからわしどもが苦しんでいるからというて、それで神さまがわしらに背を向けていると考える理由にはならねえのでごぜえます。どうしてどうして、その反対なのでごぜえますよ、もしわしどもがあのお方のお言葉に従いさえすれば、そして自分を諦めて罪を犯すようなことさえなければ」
「でもどうしてその方は私たちを、罪を犯さないではいられないような所にお置きになるのだろう?」と女は言った。
「わしたち、罪を犯さないでいられると、わしは思いますだ」とトムは言った。
「いまにわかりますよ」とキャシィは言った。「おまえさんは何をするつもりか知らないが、明日になったらあの二人はまたおまえさんを責めるんだからね。私は、あの二人のことはよく知っているし、その悪業もみんなこの目で見てきているんだよ。おまえさんにどんなことをするか、考えただけでも私はぞっとするよ。――そして結局はおまえさんを自分たちの言いなりにさせてしまうんだよ!」
「主なるイエスさま!」とトムは言った、「あなたは私の魂をお護り下さいますね? おお主よ、どうかお護り下さい!――こんなことで私の心が挫《くじ》けませんように!」
「おお!」とキャシィは言った。「私はこれまでに何度もそういう叫びや祈りを聞いたことがあるわ。だけど、みんな押しつぶされ、抑えつけられてしまったわ。あのエミリーンだって、いま一生懸命がんばっているし、おまえさんだって一生懸命にやっている、――だけどそれが何になるというの? 諦めてしまうんだね、さもなけりゃ、じりじりとなぶり殺しにされるんだから」
「いえ、それならば、わしは死にますだ!」とトムは言った。「なぶりたけりゃいつまでも好きなだけなぶるがええ、そうしたって、わしの死ぬのはどうにもならねえですから! そして、わしが死んでしまえば、いくら彼らだってその先はどうすることもできねえのですから。わしの心ははっきりしていますだ、固く決心していますだ! わしは、神さまがわしをお助け下さり、最後までお導き下さることを知っておりますだ」
女は何も答えなかった。彼女は黒い目でじっと床を見つめながらすわっていた。
「たぶんそれがほんとうの道かもしれない」と彼女は低い声で独り言をいった。「けれど、もうすでに諦めてしまった者たち、その者たちには何の望みもないんだわ!――何も! 私たちは汚《けが》れの中に住んでいて、だんだんとその忌《いま》わしさが身に浸み込んで、しまいには自分で自分を忌み嫌うようになる!――そして、死んでしまいたいと思う、それなのに私たちには自殺するだけの勇気がない!――ああもうだめだわ!だめ! だめ!――あの娘も、――ちょうどあのころの私と同じ年ごろなのに!
「私はね」と彼女は非常な早口でトムに話しかけた。「こんな女なのよ! そりゃあ、私だって昔は贅沢《ぜいたく》に育てられたわ。最初に覚えていることは、子供のころ、すてきな客間をいくつも走りまわって遊んでいたことよ。――人形のように美しい着物をきせられて、お友だちやお客さまはいつも賞めてくれたわ。家には大広間の窓からいちめんに見渡せる庭園があった。そこで私はよく、かくれんぼをしたわ、オレンジの木の下で弟や妹たちと一緒にね。それから私は修道院へ入れられて、そこで音楽やフランス語や刺繍《ししゅう》などを勉強していた。そして私が十四の時、父の葬式のためにそこから帰されたの。父の死はあまり突然だったので、財産を整理することになった時、はじめてそれが借財を返債するのに十分でないことがわかったの。それで債権者たちが財産目録をつくる時、私をその中に入れてしまったのよ。私の母は奴隷だった、それで父は前々から私を自由の身にしてくれるつもりでいたの。けれどもその手続きをすませてはいなかったのよ、それで私は目録の中に入れられてしまったの。私は以前から自分がどういう身分の者か知っていた、しかしあんなことは夢にも考えたことはなかったわ。頑丈《がんじょう》で健康な人がすぐに死ぬなんて、だれだって考えはしないものね。私の父も死ぬほんの四時間前まではほんとうに元気だったわ。ニュー・オーリアンズに最初にコレラが流行した時(一八三二)のその犠牲者の一人だったのよ。葬式がすんだ次の日、父の妻は(キャシィの母親ではない)弟たちを連れて自分の実家の農園へ帰っていったわ。私だけ残して行くなんて変なことをするもんだと思ったけれど、その時はなぜだかわからなかったの。財産の整理には若い弁護士がその仕事をまかされたわ。そして彼は毎日やって来て、家の仕事にたずさわり、私にもとても丁寧に話しかけたわ。あの日、彼は若い男の人を連れて来たの、それは今までに見たこともないようなりっぱな人だったわ。あの晩のことは一生忘れやしない。私、その人と一緒に庭を散歩したわ。私は寂しくって、悲しみで胸がいっぱいだったけれど、あの人はとても親切で優しくしてくれたわ。そしてあの人は、私が修道院に入る前から私を知っている、そしてずっと私を愛していた、だからこの際ぜひあなたの友だちとなり保護者になってあげようと言ってくれたわ。――つまり、あの人は口にこそ出さなかったけれど、もうその時私のために二千ドルも出して私を買いとってくれていたのよ、それで私はあの人のものになったの、――私は喜んであの人のものになったわ、私もあの人を愛していたんですものね。ほんとうに愛していたわ!」と言って女はしばらくして口をつぐんだ。「おお、私はどんなにあの人を愛したことだろう! 今でも愛しているわ!――そしてこれから先も、私に命のある限り! あの人はじつに美しい、じつに気高い、じつに高潔な方だったわ! 私をりっぱな家に入れてくれて、召使いも、馬も、それから馬車も、それに家具や衣裳《いしょう》もあてがってくれたわ。それこそ金で買えるものは何でも私に買ってくれたわ。でも私にはそんなものはどうでもよかった、――私はあの人だけを愛していたのだもの。私はあの人を神さまよりも、私自身の魂よりも愛していたわ。だから私には、あの人が私に望んでいる以外のことは、しようとしてもできなかったわ。
私が望んだものはただ一つだけだった――私は、あの人が私と結婚してくれることを心から願ったの。もしあの人が、口で言うとおりに私を愛してくれているのなら、そしてもし私が、あの人が理想に描いているような女性だとしたら、あの人は喜んで私と結婚してくれるだろう、そして私を奴隷の身分から解放してくれるだろうと思ったの。でもあの人は私たちの結婚が不可能なことを打ちあけたわ。そして私にこう言ってくれたのよ、もし私たちがお互いに信じあってさえいれば、神さまの前では結婚していることになるのだよと。もしその言葉がほんとうなら、私、あの人の妻ではなかったろうか? 私はあの人の愛を信じてはいなかったろうか?七年のあいだ私はあの人の様子や動作を一つ一つ勉強して、ひたすらあの人の気に入ろうと生きてきたのではなかったろうか? あの人が黄熱病にかかった時も、二十日間というもの昼も夜もつきっきりであの人を看病したわ。私一人きりでね、――そしてあらゆる薬を与え、尽くす限りのことをしたわ。それでそれからは、私のことを優しい天使と呼んでくれたし、私があの人の命を救ったのだと言ってくれたわ。そのうち私たちのあいだに二人の美しい子供ができたの。初めの子は男で、父親と同じヘンリィという名をつけたわ。その子はあの人にそっくりだった――あの美しい目、あの秀でた額、そして髪の毛はみんな巻毛になってその額に垂れていたわ。そして父親の精神と、それに才能までもそっくり受け継いでいたの。妹のエリーズのほうは、私に似ているとあの人は言ったわ。あの人はよく、私のことをルイジアナで一番美しい女性だと言っては、私や子供たちを自慢していたのよ。あの人はよく私に子供たちを着飾らせて、子供たちと私を無蓋馬車《オープンキャリッジ》で連れ出し、その私たちを見て人々がもらす賞賛の言葉を聞くのが好きだったわ。そして私や子供たちに向けられたみんなのその美しい言葉をたえず私の耳元でささやいてくれたのよ。おお、あのころはなんと幸せだったことだろう! 私はだれよりも幸せだと思ったわ。ところがそれから不吉な日がやってきたの。あの人が自分の従弟とかいう人をニュー・オーリアンズに呼んだんだわ、とくべつの仲のよいお友だちだとかで、――それはもう大切にしていたわ。――でも私は、初めて会った時から、どういうわけか、その人を恐れたわ。私たちに何か不幸をもたらすような気がしてならなかったからよ。その人はヘンリィを連れ出しては、夜中の二時三時ごろまで帰ってこないことがよくあったわ。私はあえて一言もいわなかった。せっかくヘンリィが上機嫌でいるのに、そんなことを言ったりしては悪いと思ったからよ。その人はヘンリィを賭博場へ連れて行ったわ。ヘンリィは、一度そういう場所に足を入れたら引戻すことのできない性質《たち》の人よ。そのうち、その人はヘンリィにどこかの女を紹介したわ、するとあの人の心が私から離れてゆくのがすぐにわかったわ。あの人、そんなことはけっして私に言わなかったけれど、私にはわかったの、――日一日とはっきりしてきたわ、――私は胸が張りさける思いだった、でも何も言えなかった! この時、その悪党があの人に、私と子供たちを買いとろう、そして賭博で負けた借金を精算したらどうかともちかけたのよ、その借金のためにあの人は好きな女との結婚ができなかったからだわ。――そしてあの人は私たちを売ったのよ。ある日、あの人は田舎《いなか》に用事ができたから二、三週間行ってくると言ったわ。いつもより優しい口調で、そしてすぐに帰って来るからねと言ったわ、でも私はだまされなかった。とうとうその時が来たのだと悟ったわ。まるで石になってしまったようだったわ。口をきくことも、涙ひとつ流すこともできなかった。あの人は私にキスをし、子供たちにもキスをしたわ、何度も何度もね、そして出て行ったわ。私はあの人が馬に乗るのを見たわ、そしてあの人の姿がすっかり見えなくなってしまうまで見つめていたわ。それから私は倒れて、気を失ってしまったの。
それからあの男が来たわ、あの憎い悪党が!私たちを自分のものにするために来たのよ。おまえとおまえの子供を買ったのだと言ったわ。そしてその証書を私に見せたわ。私は神の前でその男を呪ってやり、一緒に暮らすくらいなら死んだ方がましだと言ってやったわ。
『かってに死ぬがよかろう』とその男は言ったわ。『だが、おまえがおとなしくしなければ、子供は二人とも二度と会えないような所へ売り飛ばしてやるからな』そしてあの男は、初めて私を見た時からたえず私を自分のものにしようとねらっていたのだと言ったわ。おれはヘンリィを誘惑して、やつに借金をつくらせ、ことさらおまえを売らせるようにしむけたのだ。やつを他の女に惚れさせたのもこのおれだ。だから、これではっきりしたろうが、おまえがちっとやそっとすねようが泣こうが、そんなことくらいでおまえを諦めるようなおれじゃあない、とね。
私は観念したわ、両手を縛られていたんですものね。子供たちがあの男の手に渡っていたでしょう。――だから、たとえどんなことでも、あの男の意志にさからうようなことをしたらいつでも、あの男は子供を売りとばすぞと言って私を脅《おど》かしたわ、そしてとうとう私を自分の思うとおりに従わせたのよ。おお、なんという生活だったろう! 張りさける胸をいだいて生きてゆく毎日、――ただただ惨めと知りながらあの人を慕いつづけるその日その日。それなのに、憎む男に縛られたこの身、この心。私、あの人にはよく本を読んであげたり、ピアノを弾いてあげたり、一緒にワルツを踊ったり、歌をきかせてあげたりしたわ。でもこの男のためにすることは、何もかもがまったく重荷だったわ、――それでも私は恐れて何一つさからうことができなかった。あの男はとても横柄《おうへい》で、子供たちにもつらく当たったわ。エリーズは内気な子だったけれど、ヘンリィは父親に似て大胆で気の強い子だったでしょう、一度だって人の足元に屈するようなことはなかったわ。それで、あの子はたえずあの男の誤ちを見つけては彼と言い争っていたの。そのため私はもう毎日、はらはらしながら暮らしていたわ。なんとか子供をおとなしくさせようと努めたわ。――子供たちをあの男に近よらせないようにもしてみたわ、私、子供たちとは死んでも離れられない気持だったからよ。でもそれもだめだったわ。あの男は子供たちを二人とも売ってしまったんだもの。ある日、あの男は私を遠乗りに連れ出したわ、そして家に帰ってみると子供たちはもうどこにも見あたらないじゃありませんか! あの男は、子供なら売ってしまったぞと言ったわ、そして私にそのお金を見せたわ、子供たちの血の代価をね。その時私はあらゆる幸福が私を見捨ててしまったように思えたわ。私は絶叫し、呪ったわ、――神を、そして人を、呪ったわ。すると、しばらくの間あの男もほんとうに私をこわがっているようだった。でもそんなことで諦めるような男ではなかったわ。おまえの子供たちは売ってしまったが、もう一度子供の顔を見ることができるできないはおれの胸一つだ。おまえがおとなしくしていなければあの二人がつらい目を見るだけなんだからな、と言ったわ。女というものはね、子供さえ取りあげてしまえば、どうにだってできるものなのよ。あの男は私を服従させたわ。私を無理におとなしくさせたわ。ことによったら子供たちを買いもどしてやってもいいなぞと言って私の機嫌をとりもしたわ。そしてそんなことで一、二週間が経《た》ったわ。ところがある日、私は外出して、留置場の側を通ったの。門の所に人だかりがして、中から子供の声が聞こえてきたわ、――そしていきなり私のヘンリィが、あの子をつかまえている二、三人の男の手を振りはらって、泣き叫びながら飛んできて私の服にしがみつくじゃありませんか。男たちはひどくののしりながらやって来たわ。そしてその中の一人が、私その顔はけっして忘れやしない、子供に向かって、逃げようたって逃がしゃしねえ、おれと一緒に留置場へ来い、そこで二度と忘れねえようにこらしめてやるから、と言ったわ。私は一生懸命許しを乞い、嘆願したわ、――でもその男たちはただ笑っただけよ。かわいそうにあの子は泣き叫び、私の顔を見つめながら私にしっかりとしがみついていた。そしてとうとうその男たちが子供を無理やり引き離そうとしたので私のスカートが半分ちぎれてしまった。それから男たちはあの子を連れていってしまったわ、『おかあさん! おかあさん! おかあさん!』と叫んでいる子を引ったてて。その時の私を気の毒そうに見ていた人がいたわ。で、私はその人に持っていたお金を全部さしだして、何とか力になって下さいと頼んだわ。でもその人は首を横に振って、あの子は買われた時から生意気で人の言うことをきかなかったのだ、それで主人が一度こらしめのために仕込もうとしているのだと言ったわ。私はすぐに家にとって返した。途中、一足ごとにあの子の泣き叫ぶ声が聞こえるような気がしたわ。家に飛び込み、もう息もつけないほどになって客間にたどりつき、そこであのバトラァを見つけたの。私は訳を話して、どうか助けに行ってやってくれと頼んだ。でもあの男は笑うだけで、あの子は当然の報いを受けるのだと言ったわ。どうせこらしめに仕込まれなくてはならんのだ、――早ければ早いほどいい。『おれの予期していたとおりじゃないか』とあの男は言ったわ。
それを聞いた瞬間、私の頭の中で何かがぽきんと折れたような気がしたわ。目がくらくらっとしたかと思うと、もう胸の中は猛り狂っていた。あの時、テーブルの上に大きな鋭い短刀《ボーイー・ナイフ》があったのを今でも覚えているわ。私はきっとそれをつかんであの男に飛びかかって行ったんだわ。そしてそれから何もかもがまっ暗になって、後のことはもう何もわからなくなってしまった――幾日も幾日も。
やっと自分に返った時には、私はりっぱな部屋にいたわ、――でもそれは私の部屋ではなかった。どこかの年とった黒人の女が私の世話をしてくれていた。そして医者が診察に来たりして、私はずいぶん大事にされたわ。そのうち私は、バトラァがいなくなってしまい、私一人がこの家に残されたのは実は私を売るためだったのだということに気がついたの。だからみんながあんなにも一生懸命私を介抱していたのよ。
私はよくなってやるものか、いつまでも病気でいてやりたいと思ったわ。それなのに熱は引いてしまい、だんだん元気になって、とうとう起きられるようになってしまったの。すると私は毎日むりやり盛装させられたわ。紳士たちがやって来て、立ったまま葉巻をふかしながら、私を見てはあれこれきいたり、私の売り値のことで話し合ったりしていたわ。私はひどく暗い顔をして黙りこくっていたので、だれも私を買いたいとは言わなかった。それで私は、もっと陽気な顔をしてうんと愛想よくしろ、さもないと鞭《むち》が飛ぶぞと言って脅かされたわ。そのうち、ある日のこと、スチュアートという名の紳士が来たの。その人は何か私に同情してくれているような様子だったわ。私の心に苦しい重荷のあることを悟ってか、何度も何度も私を見に来ては、とうとう私を説得して訳を打ち明けさせたわ。そしてついに私を買い、できる限りのことをして私のために子供たちを見つけ出し、買いもどしてあげようと約束してくれたわ。その人はヘンリィのいたホテルへ行ってくれた。でもあの子はパール・リヴァ(ミシシッピー州の中東部から流れてメキシコ湾に注ぐ川。下流ではルイジアナ州との境界線になっている)をさかのぼったある農園主の所へ売られてしまっていたそうよ。それっきりあの子の消息はなくなってしまったわ。それであの人は娘のほうの居所をつきとめてくれたわ。ある老婦人がエリーズを預っていたのよ。あの人は娘を引きとるために莫大な金を出すからと申し込んでくれたのだそうだけれど、向こうはどうしても手放すとは言わないの。バトラァのやつ、あの人がエリーズを欲しがるのは私のためなのだということを知っていたのね。それで、娘は絶対に渡さんからなと言ってよこしたわ。キャプテン・スチュアート(アメリカ南部では「ミスター」の代わりにしばしば「キャプテン」とか「ジェネラル」とかが使われる)は私にとても親切にしてくれたわ。すばらしい農園を持っていて、そこへ私を連れていってくれたわ。一年ほどすると、男の子が生まれたの。おお、あの子!――私はどんなにあの子を愛したことだろう! あのヘンリィにそっくりのかわいい子だったわ! けれど私は決心していたの、――そうよ、決心していたのよ。子供はけっして大きくさせまいと!それであの子が生まれて二週間ほどたった時、私はあの子を抱きあげて、キスをしてやり、あの子のために泣いたわ。そしてそれから、アヘンチンキを飲ませて、じっと私の胸に抱きしめていてやったの、子供は眠りながら死んでいったわ。私はどんなに嘆き悲しんだことだろう!そして、私が過失でなく故意にアヘンチンキを飲ませたことなどだれがいったい疑ったろう?でも、これも今となってはやはりああしておいてよかったと思うことの一つなのだわ。私は今でもそれを後悔してはいないわ。少なくともあの子だけは苦しい思いをせずにいられるのだもの。私はあのかわいそうな子に、死なせてやる以外にどんないいことができたろう! その後まもなくコレラがまた流行《はや》って、キャプテン・スチュアートは死んだわ。生きていてほしい人はこうしてみんな死んでしまった。――そして私は、――私も、――死の入口まで行ったのに、――生きてしまったのよ! それから私は売られ、人手から人手へと渡って、とうとう色つやもあせ、しわもふえ、おまけに熱病にまでもかかってしまったの。そして最後にあの悪党が私を買って、ここへ連れてきたのよ、――そして、これが私というものなんだわ!」
女は口をつぐんだ。こうして彼女が口ばやに物語ってきたその身の上話には烈しい、燃え上がるような響きがあった。ある時はトムに向かって話しかけているようでもあり、またある時は独《ひと》り言を言っているようでもあった。その話し振りには、あまりにも激しい、聞く者を圧倒せずにはおかぬほどの力がこめられていたので、しばらくの間、トムは自分の傷の痛みさえも忘れていた。そして、片肱《かたひじ》でからだを支えながら彼は彼女の姿を、たえずあちこちと歩きまわるその姿を、歩くにつれて長い黒髪が重く揺れ動く様を、じっと見守っていた。
「さっきおまえさんは」としばらくしてから彼女は言った、「神さまはあるって言ったわね、――こうしたことを何もかも天から見下ろしている神さまがあるって。おそらくそうかもしれない。修道院の尼さんたちもよく最後の審判のことを話してくれたわ、すべてが明るみに持ち出される日のことを。――その時こそ復讐《ふくしゅう》があるのね!
やつらは私たちの苦しみなんかなんとも思ってやしない――私たちの子供の苦しみだってなんとも思ってやしないわ! そんなものはやつらにとってはみんな取るにたらぬものなんだから。でも私は、街を歩いている時にも、私の心の中にもつ不幸の重みでこの町が沈んでいきはしないかと思ったわ。家々が私の上に倒れかかればいい、足元の敷石が落ち込めばいいと思ったわ。そうよ! だからその審判の日には、私、神さまの前に立って、やつらの罪を証言してやるわ、私や子供たちの身も魂も破滅させたやつらの罪をね!
私、娘のころは、自分でも信心深い女だと思っていたわ。いつも神さまを愛し、お祈りすることが好きだったわ。でも今の私は、あの悪魔たちに追われて地獄に落ちてゆく亡霊なのよ、やつらは昼となく夜となく私を苦しめるのよ。いつまでもいつまでも追い続けてくるわ――だから私もいつか同じことをやつらにしてやるわ!」と彼女は片手をきつく握りしめながら言った、彼女の黒い目には狂気の光がきらめいていた。「私は、あの男を、あいつが当然行くべきところへ送ってやるわ、――それもてっとり早いやり方でね――きっといつかの夜やってみせるわ、そのために火あぶりにされたってかまやしない!」狂暴な笑い声が人気のない部屋の中にいつまでも鳴り響いていたが、やがてそれはヒステリックなすすり泣きに変わっていった。彼女は床に身を投げ出すと、からだをふるわせながら嘆きもだえた。
しばらくすると、この狂暴な発作もおさまったように見えた。彼女はゆっくりと立ち上がった、そして心を落着けている様子であった。
「何かほかにしてあげられることがあるかい、おまえさん?」と彼女はトムの横たわっているところへ来ながら言った。「もっと水をあげようか?」
そう言う彼女の声や態度には優しい、同情に充ちた甘い薫《かお》りがただよっていて、さっきのあの狂暴な様子とはじつに不思議な対照をなしていた。
トムは水を飲んだ、そしてじっと憐れむように彼女の顔を見つめた。
「おお、奥さま、わし、奥さまがあの方の所へいらっしゃればいいと願っていますだ、あの方ならきっと奥さまに活《い》ける水(ヨハネ伝、第四章第七節―十五節参照)をお与え下さいます!」
「あの方の所へ行けって! その人はどこにいるの? いったいだれなの?」とキャシィは言った。
「奥さまがさっきわしに読んで下せえましたあの方でごぜえます、――イエスさまでごぜえます」
「あの方なら私もそのお姿をよく祭壇の上に見たわ、子供のころにね」とキャシィは言った、じっと一点を見つめる彼女の黒い目は悲しい幻想にひたっている様子であった。「でも、その方はここにはいない! ここにあるものは罪悪と、長い、長い、長い絶望だけなのよ! おお!」彼女は片手を胸にあて、深く息を吸い込んだ、それは何か重いものを持ちあげようとしているかのようであった。
トムは再び何か言いたそうに見えた。しかし彼女は断固とした身振りでそれを止めた。
「もう話はおやめ。そして眠るようにおし、眠ることができるならね」そう言って、トムの手の届くとこへ水を置き、少しでも彼のからだが楽になるよういろいろと気を配ってから、キャシィは小屋を出て行った。
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第三十五章 形見
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「そしてまた、ほんの些細なものでもわれわれの心の中に、
われわれが永久に忘れたいと願っている悲しみを
よみがえらせることがある。一つの音、
一つの花、風、海、こんなものがわれわれの心を傷つけるのだ、――
われわれが不思議な力で縛りつけられている電気の鎖を伝ってそれは襲ってくるのだ」
(チャイルド・ハロルドの巡礼、第四篇)
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レグリィの家の居間は大きな横に長い部屋で、幅の広い大きな煖炉が築いてあった。以前はこの部屋にも、はなやかな高価な壁紙が貼ってあったのだが、今では破れたり色あせたりして、じめじめした壁からくずれ落ちんばかりになってぶら下がっていた。部屋の中は、しめきった古い家によく見られる、湿気と埃《ほこり》と腐敗とからくるあの一種独特のむかつくような不健康な臭いがしていた。壁紙は所々ビールやぶどう酒のしみで汚れており、かと思うとチョークの覚え書きやら長い計算やらがあちこちに書き込んであって、まるでだれかがここで数学の練習でもしていたかのようであった。煖炉には火鉢が一つ置いてあって、中で炭火が勢いよく燃えていた。天候はさほど寒くはなかったが、夕方になるといつもこの大きな部屋の中が湿っぽくなり、ひえびえするように思われたからであった。それにまた、レグリィは葉巻に火をつけたり、ポンチ用の湯を沸かしたりする場所がほしかったからでもあった。炭火の赤い光は、雑然とした、手のほどこしようもないこの部屋の様子をそのまま照らし出していた、――鞍《くら》、馬勒《ばろく》、幾種類かの引き具、乗馬用の鞭、外套《がいとう》、その他いろいろな衣類が部屋のあちこちに雑然とちらかっていた。そして例の犬どもが、それらのものに混って、めいめい好きかってなところに陣どっていた。
レグリィはちょうど今、自分でポンチを作っているところであったが、ひびの入った、口のかけた土瓶《どびん》から熱湯を注ぎながら、何やら一人ぶつぶつつぶやいていた。
「あのサムボゥの野郎め、おれと新入りのやつらとのあいだにこんな騒ぎを起こしやがって!これじゃあ、あのトムの野郎も一週間は働けねえだろう、――この忙しい時期だというのに!」
「そうさ、おまえさんがおまえさんだからね」と彼の椅子《いす》の後でもう一つの声がした。それは例のキャシィという女で、彼の今の独り言をひそかに聞いていたのであった。
「はあっ! この鬼女《あま》! 帰ってきやがったな?」
「ああ、帰ってきたよ」と彼女は冷やかに言った。「それに私は、自分の好きなようにしようと帰ってきたんだからね!」
「何を言いやがる、このあばずれ女め! おれはあくまでもおれの言ったとおりにしてやるからな。おとなしくするか、それとも奴隷長屋《クォーターズ》へ行ってやつらと一緒に暮らしながら働くかだ」
「私は一万べんでも」と女は言った、「あの奴隷長屋の一番きたない穴の中で暮らしてやるよ、おまえさんに踏みにじられているよりはずっとましだもの!」
「だが何とぬかそうとおめえはおれの足の下にいるんだ」と彼は、彼女のほうを向きながら、残忍な笑いを浮かべて言った。「それが一つの慰めさ。だから、おれのこの膝にのりな、いい子だからな、そしておれの言うことをよく聞きわけるんだ」と言いながら彼は彼女の手首をつかんだ。
「サイモン・レグリィ、気をおつけ!」と女は目を鋭くぎらつかせながら言った、その眼差《まなざ》しはじつに烈しいじつに狂暴な光を帯びて、見る者を思わずぞっとさせるほどであった。「おまえさん、私を怖《こわ》がっているね、サイモン」と彼女は落着きはらって言った。「おまえさんには私を怖がる理由があるからだ! だが用心おし、私のからだの中には悪魔がいるんだからね!」
この最後の言葉を彼女は強くささやくような調子で、彼の耳もとに口をよせながら言った。
「やめろ! 確かにおめえの中にゃ悪魔がいやがる!」と彼は彼女を向こうへ押しやって、気味わるそうに女を見ながら言った。「それにしても、キャシィ」と彼は言った、「どうしておめえはおれと仲良くやっていけねえんだ、前にゃうまくいってたじゃねえか?」
「うまくいってたって!」と彼女はにがにがしげに言った。そして急に言葉がつまった、――かずかずの、のどをしめつけるような感情が胸にこみあげてきて、彼女を黙らせてしまったからである。
キャシィはいつもレグリィに対して、強い熱情的な女が残忍きわまる男に対してもちうるような一種の支配力をもっていた。しかし、最近では、その彼女も自分を縛りつけているこの恐ろしい軛《くびき》の下で、ますます癇癪《かんしゃく》をおこしやすくなり落着きをなくしてきた、そしてその癇癪も、ときどき、爆発しては狂人のように暴れだすのであった。こうした傾向が彼女をレグリィに対して一種の怖ろしい存在にしていたのであるが、それは彼が、下等で教育のない人間に共通のあの狂人に対する迷信的な恐怖心をもっていたからであった。レグリィがエミリーンを家に連れてきた時、キャシィのすさみきった心の中に残り火のようにくすぶっていた女らしい感情が突然燃えあがって、彼女はその娘の味方をした。そしてその結果、激しい言い合いが彼女とレグリィのあいだに起こった。レグリィは烈火のように怒って、おとなしくしなければ畑仕事にやらせるぞと言ってののしった。キャシィは傲然《ごうぜん》とした態度で蔑《さげす》むように、そんなら畑へ行ってやると言い返した。こうして彼女はそんな威《おどか》しなぞいかにもしゃらくさいとばかりに、前述のように、一日畑へ出て仕事をしたのであった。
レグリィはその日一日じゅう、心ひそかに落着かなかった。というのも、彼はキャシィが彼に対してもっているあの支配力から逃れることができなかったからである。彼女が自分で摘んだ棉の籠を計量のために差し出した時も、彼は幾分なりと彼女が折れて出てくれることを期待して、彼のほうでもなかば譲歩するような、なかば蔑むような調子で話しかけたのであった。ところが彼女は軽蔑しきった態度でそれに応《こた》えたのであった。
哀れなトムに対するあの残虐きわまる仕打ちは彼女を更に刺激《しげき》した。そこで彼女は、べつにどうしてやろうという考えもなく、ただレグリィの残忍性を非難するために、彼の後をつけて家に入ってきたのである。
「おれはな、キャシィ」とレグリィは言った、「おめえにもう少しおとなしくしてもれえてんだ」
「おとなしくしろが聞いてあきれるよ! じゃあおまえさんはどうなんだい?――この忙しい時期だっていうのに、ばかなまねをして一番の働き手を台なしにしてしまったじゃないか、それもみんなおまえさんのその悪魔みたいな癇癪《かんしゃく》のおかげじゃないか!」
「ありゃあ確かにおれがばかだった、あんな騒ぎを起こさせちまってなあ」とレグリィは言った。「だが、やつが意地をはるもんだからしかたなしに仕込んでやったんだ」
「あの男を仕込むなんておまえさんにはとてもできっこないよ!」
「おれにできねえだと?」とレグリィは憤然として立ちあがりながら言った。「できねえたあどういうわけだ? やつはこのおれに向かって最後まで楯《たて》をつきとおせる最初の黒ん坊になれるとでも思ってやがるのか! からだじゅうの骨をぶち砕いてでも降参させてみせるからな!」
ちょうどその時ドアがあいて、サムボゥが入って来た。彼は腰をかがめながら近づいてくると、なにか紙に包んだものを差しだした。
「なんだそりゃあ、この犬野郎め?」とレグリィは言った。
「まじないでさ、旦那!」
「なんだと?」
「黒ん坊が魔女からもらうもんでさ。鞭で殴られるとき、痛くねえようにってね。野郎、これを黒糸で首にくくりつけてやがったです」
レグリィは、たいていの無信仰な残酷な人間と同じように、迷信ぶかい男であった。彼はその紙包みを受け取ると、気味わるそうにあけてみた。
中からは一枚の銀貨が飛びだして床の上に落ちた、そしてもう一つ、長い輝くばかりの金髪の巻毛が、――それは何か生き物のように、レグリィの指にからみついた。
「畜生!」彼は突然はげしくそう叫ぶと、じだんだを踏みながらしゃにむにその巻毛をひきむしった、それはまるで彼の指を焼いているかのようであった。「どっから出てきやがったんだ? 取ってくれ!――焼いちまえ!――焼きすてちまえ!」と叫びながら彼はそれをむしりとると炭火の中へ投げ込んだ。「なんだってこんなものをおれのところへ持って来やがったんだ?」
サムボゥは分厚い口をぽかんとあけたまま、主人のこの様子に度胆《どぎも》をぬかれて立っていた。そしてキャシィも、このとき部屋を出ていこうとしていたのであったが、思わず足をとめて、その場の様子をあきれかえった顔つきで見つめていた。
「野郎、こんなくだらねえものは二度と持って来るんじゃねえぞ!」と言いながら彼はサムボゥに向かって拳骨を振りあげたので、サムボゥは慌てて戸口のほうへ逃げだした。そこでレグリィは銀貨を拾い上げて投げつけたが、それは窓ガラスを突き破って外の暗闇《くらやみ》の中へ消えていった。
サムボゥはうまく逃げ出せたことを喜んだ。彼が行ってしまうと、レグリィも自分のこの狼狽《ろうばい》ぶりがいささか恥ずかしくなった様子であった。彼はむっつりとした顔で椅子に腰をおろすと、物も言わずにポンチをすすり始めた。
キャシィはその間にそっと出ていってやろうと思った。そして足を忍ばせて抜け出すと、前章で述べたように、哀れなトムを介抱しに行ったのである。
それにしてもレグリィはいったいどうしたというのであろうか? 残忍なことにかけては何でもじつによく心得ている獣のような男が、どうしてまた、金髪の巻毛ぐらいに、度《ど》を失ったのであろうか? これに答えるためには、われわれは読者の皆さんと一緒に彼の過去をのぞいてみなければならない。この無信仰な男は今でこそ冷酷な済度《さいど》し難い人間のように見えたけれども、かっては母親の胸に抱《いだ》かれた時が、――祈りや敬虔《けいけん》な讃美歌を聞きながら揺りかごに寝かされた時が、――今の灼《や》けただれた(テモテ前書、第四章第二節参照)額に清らかな洗礼の水の露と宿った時が、あったのである。幼ないころには、金髪の婦人につれられて、日曜の教会の鐘を聞きながら、神を崇め神に祈りを捧げに行った。それは遠いニュー・イングランドでのことで、母親はこの一人息子を長い、倦《う》むことのない愛と、忍耐強い祈りとで教育したのであった。こうした優しい女性がよせる限りなく深い愛情に少しも報いようとしない冷酷な夫を父親にもったレグリィは、父親の気質をそのままに受け継いでいた。荒々しく、乱暴で、専制的な彼は、母親の忠告を頭からばかにして、彼女の誡《いまし》めなどには少しも耳をかそうとしなかった。そしてまだ年もゆかぬうちから、母親のもとを飛び出して、幸運を海に求めた(海賊の一味に加わった意)。その後彼は、一度は家に帰って来た。そしてその時、彼の母は、何かを愛さずにはおれず、かつまた彼以外に愛すものもないその切々たる思いのあまりに、彼にすがりついて、熱烈な祈りと懇願とで、罪深い生活から彼を救い出し魂の永遠の幸福に導き入れようとしたのであった。
それはレグリィにとっては神の恩寵の日であった。そのとき天使が彼に呼びかけたのである。そのとき彼は九分九厘まで得心して、神の慈悲が彼の手をにぎりしめたのである。彼の心はひそかに解けはじめ、――悪がもがいた、――しかしついに悪が勝利を得てしまった、そして彼はその冷酷な本性のもつすべての兵力を結集して自己の良心の撲滅《ぼくめつ》にあたったのであった。彼は酒を飲み、神を嘲笑《わら》い、――以前にもまして狂暴になり残酷になった。そして、ある夜、母親が、絶望の最後の苦しみにもだえながら、彼の足もとにひざまずいた時、彼はそれを蹴りたおして、――床の上に気絶した母親をそのままに、口ぎたなくののしりながら自分の船へと逃げて行った。その後レグリィが母親について知ったのは、ある夜、彼が酔っぱらい仲間と一緒に飲み騒いでいた時に、彼の手に渡された一通の手紙からであった。彼がその封を切ると、中からひとたばの長い巻毛が出てきて、彼の指にからみついた。手紙には母親の死んだことと、息をひきとる時に彼を祝福し、彼を許すと言ったこととが書いてあった。
この世には、どんなに美しく、どんなに尊いものでもそれを恐怖と恐愕《きょうがく》の幻影に変えてしまいそうな恐ろしい涜《けが》れた悪の魔術がある。あの青ざめた顔の慈愛にみちた母親も、――そのいまわのきわの祈りも、おまえを許すと言ったあの愛の言葉も、――この鬼のような罪悪の心には、神の審判《さばき》と烈しい憤りとを求める呪いの宣言としか映らなかった。レグリィはその髪の毛を焼き、手紙を焼いた。そしてそれらのものが炎の中で、じゅうじゅうと音をたて、めらめらと燃え上がるのを見た時、彼は永遠の火を思い浮かべて心ひそかに戦慄《せんりつ》した。彼は酒をあおり、むちゃくちゃに騒ぎ、ののしりわめいてその記憶を払いのけようとした。しかし、あの厳粛な静けさが罪深い魂にむりやり母親を思い出させては詰問する真夜中ともなると、彼はよく、あの青ざめた母親が、自分の枕もとに立っている姿を見、あの髪の毛が自分の指にそっとからみつくのを感じて、ついには冷汗が顔を流れだして、恐ろしさのあまり寝床からはね起きることがあった。同じ御教《みおしえ》の中で、神は愛なり(ヨハネ第一書、第四章第八節)と言い、そしてまた神は燬尽《やきつ》くす火なり(申命記、第四章第二十四節)とあるのを聞いて不思議に思われたことのある読者の皆さん、今こそ皆さんは、悪に染まった魂にとって、まったくの愛はこの上なく恐ろしい拷問《ごうもん》であり、この上なく悲惨な絶望の判決であり宣告であることがおわかりでしょう。
「畜生!」レグリィは、ちびちびとポンチを飲みながら独り言を言った。「あの野郎、いったいどこであんなものを手に入れてきやがったんだろう? あんなにもよく似ていなかったら――ふぅーっ! おれはもうすっかり忘れていたつもりだったんだが。畜生、どうも、この世には忘れちまうことのできねえようなものがあるらしいぞ、――えいくそっ! 一人でいるからこんなことを考えるんだ! エム(エミリーンのこと)を呼んでやろう。あの女はおれをやけに嫌っていやがるが――あの猿公《えてこう》め! かまうもんか、――なんとしたって来させてみせるぞ!」
レグリィは部屋から広いロビーへと出た、そこには二階へ通じる回り階段があって、以前はじつに美しい様子を見せていたが、今ではその通路も埃がたまって、陰気くさく、箱やら目ざわりながらくた物やらがごちゃごちゃと転がっていた。階段には敷物もなく、ただ暗がりの中を、回りながらのぼっていくのであったが、それがいったいどこへ通じているのかだれにもわからぬほどであった! 青白い月の光が扉の上の壊れた欄間から差し込んでいた。空気はいやな臭いがして冷たく、穴蔵の中の空気のようであった。
レグリィが階段の上り口で足をとめると、何か歌を歌っている声が聞こえてきた。それはこの荒れはてた老屋の中で、奇怪な、幽霊のような声かとも思われたが、すでに震えおののかんばかりの状態にあった彼の神経がそのように思わせたのかもしれない。皆さんもお聴き下さい! あれは何でしょうか?
狂おしい、哀愁に満ちた声が、奴隷たちのあいだでよく歌われる讃美歌を歌っているのです。
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おお悲しみぞあらん、悲しみぞ、悲しみぞ、
おお悲しみぞあらん、キリストの裁きの廷《にわ》に!
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「畜生あの女《あま》め!」とレグリィは言った。「息の根を止めてくれるぞ、――エム! エム!」彼は荒々しく呼んだ。しかしその声は壁にあたって再び彼の耳もとへ嘲《あざけ》るようにはね返ってくるだけであった。美しい声はなおも歌い続けた。
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親と子はその廷《にわ》にて別れん!
親と子はその廷にて別れん!
別れ行き、永遠《とわ》に会うことかのうまじ!
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そしてがらんとした廊下を、あの折返しの句がはっきりと大きく響きわたった、
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おお悲しみぞあらん、悲しみぞ、悲しみぞ、
おお悲しみぞあらん、キリストの裁きの廷《にわ》に!
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レグリィは呼ぶのをやめた。彼としてみればこうしたことを人に語るのは恥ずかしいと思ったであろうが、彼の額には大つぶの汗がにじみ出て、心臓は恐ろしさのあまりひどく、激しく動悸《どうき》をうった。彼は目の前の暗闇の中に何か白いものが立ちあがって、ぼんやり光っているのを見たような気がした、そしてもし亡くなった母親の姿が突然、自分の目の前に現われたら、と思って戦慄した。
「そうだ、そうしよう」と彼は自分の居間へ転げるようにして戻ってくると、腰をおろしながら、独り言を言った。「もうこれからは、あの野郎にはかまわねえことにしよう! だいたいおれは野郎のあんないまいましい紙包みに何の用があったんだ? おれは悪魔にとりつかれているんだ、きっとそうだ! あれからずっとからだが震えて冷汗のかきどうしだ! 野郎、どこであんな髪の毛を手に入れやがったんだろう? あれのはずはねえ! あれはおれが焼いちまった、確かに焼いた! 一度灰になった髪の毛が生き返ったりしたら、それこそお笑いぐさだ!」
ああ、レグリィよ! あの金髪の巻毛にはほんとうに魔法がかかっていたのだ。その一本一本は、おまえの心に恐怖と悔恨の念をうえつけんがための魔力を宿して、おまえよりももっと力の強いあるお方の御手によっておまえのその残酷な手を縛りあげ、その極悪非道な所業から助けなき者を救わんとて使われたのだ!
「おい」とレグリィは言いながら床を踏みならし、犬に向かって口笛をふいた。「どいつか起きろ、起きておれの相手をしろ!」しかしどの犬も眠そうに片目をあけて彼のほうを見ただけで、すぐにまた目を閉じてしまった。
「サムボゥとクィムボゥをここへ呼んで、唄を歌わせ地獄踊りでもさせて、この恐ろしい考えをよせつけねえようにしよう」とレグリィは言った。そして、帽子をかぶると、そのままヴェランダのほうへ歩いて行き、そこで角笛を吹いた、彼はいつもこれを使ってあの二人のまっ黒な奴隷頭を呼ぶことにしていた。
レグリィは、なにか機嫌のいい時には、よくこの二人の名士を自分の居間に招《よ》び入れていた、そしてウイスキーで二人に景気をつけてから、唄を歌わせたり、踊りをおどらせたり、気が向けば殴りあいまでさせたりして、喜んでいたのである。
夜もすでに一時から二時の間であったが、キャシィが哀れなトムの介抱を終えて戻ってくると、レグリィの居間からは叫ぶ、喚《わめ》く、どなる、歌うの騒音が、犬のほえる声やそのほか大騒ぎにはつきもののさまざまな音と一緒に聞こえてきた。
彼女はヴェランダの階段を上がって中をのぞき込んだ。レグリィと二人の奴隷頭とは、猛烈に酔っぱらって、歌ったり、喚いたり、椅子をひっくりかえしたり、互いに顔をしかめてはおかしな顔や恐ろしい顔を見せあっていた。
彼女は小さな、やせた手を窓のブラインドの上に置いて、じっと彼らの様子を見つめていた。――その彼女の黒い目には限りない苦悩と侮蔑と烈しい憎しみとがあふれていた。「あんな人でなしでもこの世から除くことは罪になるのだろうか?」と彼女は独り言を言った。
彼女は急いでそこを離れると、裏手の戸口へと回って、そっと階段を上がり、エミリーンの部屋の戸を叩いた。
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第三十六章 エミリーンとキャシィ
キャシィが部屋に入っていくと、エミリーンは怖ろしさのあまりまっ青《さお》な顔をして向こうの一番隅にすわっていた。キャシィが入った瞬間、少女はぎくりとして飛び上がった。しかしそれがキャシィだとわかると駈けよってきて、その腕にすがりついて、言った、「おお、キャシィ、あなたでしたの? よく来て下さったわ! あたしあの男かと思って――。おお、あたしほんとうに怖いわ、下では夜通しああやって騒いでいるんですもの!」
「あんたの気持はわかるわ」とキャシィは冷然として言った。「私だってこれまでにもう何度となく聞いてきたんだからね」
「おお、キャシィ! ねえ、――あたしたち、どうにかしてここから逃げ出せないかしら? どこへでもかまわないわ、――沼地の中の、蛇の中だって、――どこだっていいわ! ここを逃げ出してどこかへ行くことはできないものかしら?」
「どこもないわ、私たちの墓場以外にはね」とキャシィは言った。
「おねえさんやってみたことがあるの?」
「やろうとした人たちを何度も見たわ、そしてそれがどういうことになるかもね」とキャシィは言った。
「あたし沼地に住んで、木の皮を噛んだっていいわ。蛇なんか怖くないわ! あの男のそばにいるくらいならいっそ蛇のそばにいたほうがましですもの」とエミリーンは熱心に言った。
「ここにはあんたと同じような考えの人がこれまでにもずいぶんいたわ」とキャシィは言った。「でも沼地になんかとてもいられやしないのよ、――犬に嗅ぎ出されて、連れもどされてしまうわ、そしてそれから――それから」
「あの男が何をするというの?」と少女は息をこらして、じっと相手の顔をのぞき込みながら言った。
「何をしないかときいたほうがいいくらいよ」とキャシィは言った。「あの男は西インド諸島の海賊にまじってこの商売を覚え込んだんだからね。私がこれまでに見てきたことや、――あの男が、ときどき、冗談のつもりで話すことをあんたに話してきかせたら、あんたはおちおち眠れやしないだろうよ。私はここで何度も悲鳴をきいたが、それが頭にこびりついて何週間たっても忘れることができなかったわ。このずっと向こうの、奴隷長屋のそばに空地があるけれど、そこには黒い、焼け残った木が一本立っているわ、そしてその辺の地面は黒い灰でおおわれているのよ。そこでどんなことがあったか、だれかにきいてごらん、そしてそれを話せる勇気のある者がいるかどうかみてごらん」
「おお! それはどんなことなの?」
「私は言わないわ。考えるのもいやですからね。だから、もしあの気の毒な男《トム》がいつまでも強情をはっていると、明日はどんなことが起こるかわからないのよ」
「まあ恐ろしい!」とエミリーンは言った、その頬には血の気が失せていた。「おお、キャシィ、あたしどうしたらいいんでしょう!」
「私がこれまでやってきたようにするのね。できるだけのことをしなさい、――しなければならないことをしてやりなさい、――そしてそれを憎しみと呪いの中でしてやりなさい」
「でもあの男はあたしにむりやりあのいやなブランデーを飲まそうとしたのよ」とエミリーンは言った。「あたし、あんないやなもの――」
「飲んだほうがいいのよ」とキャシィは言った。「私も初めのうちはいやだったわ。でも今は、あれなしには生きていけないわ。人は何かがなければだめなのよ。――あれを飲めば怖いものもそう怖くはなくなるからよ」
「おかあさんはけっしてそんなものに手を触れるなと、よく言ってたわ」とエミリーンは言った。
「おかあさんが言った!」とキャシィは、身の毛もよだつような激しい力をそのおかあさんと言う語において言った。「母親の忠告が何になるというの? 私たちはみんな金で買われる身なのよ、私たちの魂は、たとえだれであろうと私たちを買った人のものなのよ。それがこの世の習いなんだわ。だから、ブランデーをお飲み。飲めるだけお飲み、そうすれば少しは気が楽になるからね」
「おお、キャシィ! どうかあたしを憐れと思って下さい!」
「あんたを憐れと思え!――私が思ってないとでも言うの? 私だって娘がいるのよ、――あの娘《こ》が今どこにいるか、そしてだれの手に渡っているか、神さまだけしか知らないけれど、――おそらくあの娘《こ》も私と同じ道をたどっているんだわ、そしてあの娘《こ》の子供もいまにきっとそうなるんだわ! こうした呪いには終わりがないのよ――永久に!」
「あたし、生まれてこなければよかった!」とエミリーンは両手を紋《しぼ》るようにして言った。
「私も以前からそう思っているのだけれど」とキャシィは言った。「それにももう慣れっこになってしまったわ。勇気さえあれば、死んでしまいたいのだけど」と彼女は外の暗闇をじっと見つめながら言った、その顔には心の落着いている時によく見られるあの静かな沈みきった絶望の色が浮かんでいた。
「自殺するなんて、それは悪いことだわ」とエミリーンは言った。
「なぜ悪いの、――自殺が悪いことなら、毎日毎日こんなことをして生きているのも悪いことじゃないの。でも私は、修道院にいた時分、尼さんたちからいろいろと教えを受けて、そしてその教えのために私は死ぬのが怖いのだわ。死んで何もかもおしまいになるのだったら、いっそひと思いに――」
エミリーンは顔をそむけて、その顔を両手でおおった。
こうした会話が部屋の中で交されている一方、下の部屋ではレグリィが、すっかり酒に酔いつぶれて、いつの間にかぐっすりと眠り込んでいた。レグリィは常習的な酔っぱらいではなかった。彼のがさつで頑丈なからだは絶え間なく酒の刺激を求め、またそうした刺激にも耐えることができた。こんなことを他の者がやろうものならそれこそ一ぺんにからだをこわし、気を狂わしてしまうほどであった。しかし彼の心の奥底には、いつも警戒心が目をさましていて、それが、しばしば自制心を失うほどにまで飲みたがる彼の欲望を抑えつけていた。
しかし今夜は、彼の心によみがえったあの苦悩と悔恨の恐ろしい思いを夢中で払いのけようとするあまり、彼はいつもの量以上に酒をあおった。そのため、まっ黒な二人の子分を退らせてしまうと、彼は部屋の長椅子にどさりと倒れて、そのままぐっすりと眠り込んでしまったのであった。
おお! しかしその罪深い魂に、あのまっ暗な眠りの世界へ入ってゆくだけの勇気がどうしてありえようか?――ほの暗いその境界線が、最後の審判の行なわれる神秘的な場面にじつに恐ろしいほど近く横たわっているあの眠りの世界へ入ってゆくだけの勇気が! レグリィは夢を見た。ぐっすりと、むさぼるように眠る彼の眠りの中で、ヴェールをかぶった人影が彼のかたわらに立って、冷たい柔らかな手を彼の上に置いた。彼はそれがだれであるか知っているような気がした。そして、顔はヴェールで見えなかったにもかかわらず、彼はぞっとする恐ろしさに思わず身を震わした。それからあの髪の毛が自分の指にからみつくような感じがした。そして次には、それが自分の首にするすると巻きついてきて、だんだんと固く締まって息をすることができなくなった。するといくつかの声がささやきかけてきた、――ぞっと身を凍らせるようなささやきであった。それから彼には、いま自分が恐ろしい深淵《しんえん》の縁にいて、死の恐怖に襲われながらけんめいにしがみつきもがいているような気がした、そして下から黒い手がのびてきて、自分をひきずり込もうとするのである。するとキャシィが笑いながらやって来て、彼の背中をどんと突いた。その瞬間あの厳かな、ヴェールをかぶった人影が現われて、ヴェールをさっと払った。それは彼の母親であった。彼女は彼から顔をそむけた、すると彼は、鋭い叫び声や苦悶の声や悪魔の勝ち誇った笑声がわきおこる中を、下へ、下へ、下へと落ちていった、――と、レグリィは目をさました。
静かに、ばら色の夜あけの光が部屋の中にしのび込んできた。曙《あけ》の明星《みょうじょう》は、その厳かな神々しい瞳《ひとみ》で、白みゆく空の彼方《かなた》から、この罪深い人間を見下ろしていた。おお、なんというすがすがしさで、なんという壮厳さと美しさとで、新しい日々は生まれ出《い》ずることであろうか。それはあたかも無情な人間に向かってこう言っているかのようである、「見よ! なんじにはいま一度《ひとたび》の望みあり! 不滅の栄光を求めて戦え!」と。いやしくも口がきけ、文字を読むことができる者ならばだれにでも、この声は聞こえるはずである。しかしこの大胆不敵な悪人にはそれが聞こえなかった。彼は呪いの言葉を吐き、神をののしりながら目をさました。その彼の目にあの黄金をちりばめた紫の光は、日々の夜明けの奇蹟は、なんと映ったであろうか! 神の子がご自身の表象となしたもうた(ヨハネ黙示録、第二十二章第十六節)あの星の神聖《とうと》さを彼はなんと思ったであろうか? 獣にも等しい彼はそれを見ても何も感じなかった。そしてよろよろと長椅子を離れると、ブランデーをコップに注いで半分ばかり一息にあおった。
「まったくひでえ夜だったぜ!」と彼は、ちょうどその時向かいのドアから入ってきたキャシィに向かって言った。
「そのうちには、おまえさんは毎晩そんな夜を送るんだよ」と彼女は冷然として言った。
「そりゃあいってえどういう意味だ、ええ、この阿魔?」
「いまにわかるさ」とキャシィは同じ調子で答えた。「ところで、サイモン、私はおまえさんに一つ忠告したいことがあるんだがね」
「なに、忠告だと!」
「ああ、私の忠告っていうのはね」とキャシィは部屋の中のちらかっているものを少しかたづけはじめながら、しっかりとした声で言った、「トムにはかまわない方がいいっていうことさ」
「そんなこたあ、てめえの知ったことじゃねえや」
「そうさ。確かに私の知ったことじゃないよ。おまえさんが千二百ドルも出して買って来たものをこの忙しい時期に使えなくして、それでおまえさんの腹の虫がおさまるっていうんだから、そりゃあ私の知ったことじゃあないさね。私はあの男にできるだけのことはしてやったんだからね」
「してやっただと? てめえは何だっておれの仕事にそう鼻をつっこみやがるんだ」
「何だってもないもんだ。私がこうやってあの連中をそのつど介抱してやってるからこそ、おまえさんは何千ドルもの損をせずにすんでいるんじゃないか、――そのお礼がこれなんだからね。おまえさん、棉を市場へ持っていって、他の農園のものより少なかったら、今度の賭けに負けるんじゃなかったのかい? トムキンズに大きな顔をされるんじゃなかったのかい、――それでおまえさんは貴婦人のようにおとなしく、その場で賭金を払おうっていうんだね? その時の顔が目に見えるようだよ!」
レグリィは、他の多くの農場主と同じように、一種の野心を抱いていた、――つまり今シーズン最高の収穫高をあげてみせようというのである。――そして彼は隣りの町でやっていた今シーズンの賭博に幾口かのったのであった。そこでキャシィは、女らしい気転から、彼の心を動かさずにはおかぬ唯一の糸を弾《はじ》いたのである。
「よしそれじゃあ野郎も今度はこれくらいにしておいてやろう」とレグリィは言った。「だがおれにあやまって、これからは神妙にいたしますと約束しなけりゃあ許さねえぞ」
「そんなことはしやあしないよ」とキャシィは言った。
「しねえだと、――え?」
「ああ、しないね」とキャシィは言った。
「そりゃあまたなぜだかおきかせ願えませんかねえ、奥さん」とレグリィはさも嘲るような口調で言った。
「だってあの男は正しいことをしたんだよ、そしてそれを自分でも知っているんだからね、自分が悪うございましたなんて、絶対に言やあしないね」
「野郎が何を知っていようが、そんなこたあくそもかまやしねえ。おれはあの黒ん坊におれの言わせてえことを言わしてやるんだ、言わねえ時は――」
「言わない時は、おまえさんが棉の賭に敗けるのさ、この忙しい最中《さなか》にあの男を虐《いじ》めて畑仕事ができないようにしてね」
「だが野郎はきっと降参する、――あたりめえさ、きっとな。黒ん坊がどんなものかおれが知らねえってのか? 今朝、野郎は犬のように這いつくばっておれにあやまるさ」
「あやまりゃしないよ、サイモン。おまえさんはこの男を知らないんだ。じりじりとなぶり殺しにしたって、――おまえさんはあの男の口からすいませんのすの字も吐かせることはできやしないよ」
「すぐにわかるさ。――野郎、今どこにいるんだ?」と、レグリィは部屋を出て行きながら言った。
「棉繰場の物置だよ」とキャシィは言った。
レグリィは、キャシィに向かってかなり勇ましいことを言ったものの、家から威勢よく繰り出した彼の心には、いつもの彼に似合わず、一抹《いちまつ》の不安がこびりついていた。ゆうべ見た夢が、キャシィのあのいわくあり気な今の言葉と結びついて、少なからず彼の心をゆさぶったからである。彼は、トムのところへ行っても、その場を他の者には見られないようにしようと決めた。そしていくらやつを脅しても言うことをきかないようだったら、この復讐は延期して、もっと都合のいい時期に晴らしてやろうと決心した。
黎明《れいめい》のあの荘厳な光が――曙《あけ》の明星の送りくる天使《みつかい》の栄光《ひかり》が、――トムの横たわっている物置小屋の粗末な窓からじっと中を見守っていた。そして、あたかもその星の光にのって降りてきたかのごとく、あの荘厳な言葉が聞こえてきた。「われはダビデの萌蘖《ひこばえ》またその裔《すえ》なり、輝ける曙《あけ》の明星なり(ヨハネ黙示録、第二十二章第十六節)」と。キャシィのあの不思議な忠告もあの警告も、彼の魂を挫《くじ》くどころか、ついには天の声がそれに呼びかけたかのごとく、彼の魂をふるい立たせていた。彼は、自分のこの世を去る日が天国において明け始めていることを知った。そして彼の心は、突然わきおこるこの歓喜と希望の厳かな激情にはげしく動悸《どうき》をうった。それは彼がこれまでにいくたびとなく思いをめぐらしてきたあの驚くべきすべてのものが――永遠の輝く虹に飾られたあの大いなる白き御座《みくら》が、多くの水のごときもろもろの声をいただくま白き衣の天使たちが、冠《かんむり》、棕櫚《しゅろ》、竪琴《たてごと》(ヨハネ黙示録、第四章参照)が――太陽の再び沈みゆく前に突然彼の視覚に現われてくるであろうと思ったからである。そして、それゆえに、震えおののくこともなく彼は、近づいてくる迫害者の声を従容《しょうよう》として聞くことができたのである。
「おい、どうだ」と言いざまレグリィは蔑《さげす》むようにトムのからだを蹴った。「少しは骨身にこたえたろう? だからおれは言ったんだ、おれだって一つや二つおめえに教えてやれるんだってな。よく効《き》いたろうが、え? あの拳骨や鞭の味はどうだ、おめえの性に合ったか、トム?しけた面《つら》あしてやがるが、ゆうべの元気はどっかへ行っちめえやがったな。これじゃ哀れな罪人さまにちょいとお説教てなぐあいにゃいかねえだろう、――ええおい?」
トムは何も答えなかった。
「起きろ、こん畜生!」とレグリィは再び彼を蹴りながら言った。
トムのように傷だらけの、弱りはてた人間にとって起きあがるということは容易なことではなかった。そこで、彼がいろいろと骨を折って起きあがろうとしているのを見て、レグリィは残酷に笑った。
「どうした、今朝《けさ》はやけに元気があるじゃねえか、え、トム? ゆうべ風邪《かぜ》でもひいたらしいな」
トムはこの時までにはどうにか立ちあがることができた、そしてしっかりとした、びくともしない態度で主人と向かいあった。
「野郎、立ちやがったぜ!」とレグリィは彼のからだをじろじろ見ながら言った。「してみるとまだ薬が足らなかったらしいな。さあ、トム、今度はそこへきちんと両膝をついてこのおれにあやまるんだ、ゆうべのあのふざけた真似をな」
トムは動かなかった。
「膝をつけ、この犬野郎め!」と言いながらレグリィは手にした乗馬用の鞭でトムを殴った。
「旦那さま」とトムは言った、「それはわしにはできません。わしは正しいと思うことをしただけでごぜえます。これからもああいう折《おり》があったら、わし、また同じことをしますだ。わしには残酷な真似は絶対にできねえ、たとえどんな目にあわされようとも」
「そうかい、だがなおいトムの旦那、おめえはまだそのどんな目ってえやつを知らねんだ。おめえはゆうべのやつを相当なもんだと思ってやがるだろうが、あんなもなあ大したもんじゃねんだぜ、――てんで問題じゃあねえんだ。どうだひとつ、木に縛りつけて、まわりからじわじわ焙《あぶ》ってやろうか。――あったかくっていい気持だぜ、ええ、トム?」
「旦那さま」とトムは言った、「そりゃああなたにはいくらでも怖ろしいことができます。しかし」――彼はぐっと背筋をのばし両手をしっかと握りしめた、――「しかし、あなたがわしのこのからだを殺してしまったら、その後にはもうあなたにできるものは何もねえのです。そして、おお、その後には、すべて永遠の世界が来るのです!」
永遠の世界、――この言葉を口にした瞬間、それはこの黒人の魂を光と力で震わした。同時にその言葉はこの罪人《つみびと》の魂をも、さそりの一撃のごとく、震わした。レグリィは彼に向かって歯ぎしりした(詩篇、第一一二篇参照)、があまりの激怒に口をきくことができなかった。そしてトムは、奴隷の身から解放された人間のように、はっきりとした明るい声で言った、
「旦那さま、わしは旦那さまに買われてきたのでごぜえますから、旦那さまの忠実な誠実な僕《しもべ》になります。この手でできることならどんな仕事でもいたします、わしのすべての時間を、すべての力を捧げて働きますだ。だがわしの魂ばかりはこの世の人間に渡すわけにはいきません。わしは神さまの教えを守って、何をおいてもまず神さまのご命令に従います、――死ぬも、また生きるも。これだけは確かなことでごぜえます。旦那さま、わしは死ぬことなぞ少しも恐れてはおりません。むしろ早く死にたいくらいでごぜえます。わしを鞭で打とうと、干乾しにしようと、火あぶりにしようと、いっこうにかまいません、――それだけ早く、行きてえと思っているところへわしをやってくれるだけのことでごぜえますから」
「だが、おれはその息の根を止める前に、きっとてめえを降参させてみせるからな!」とレグリィは怒りに燃えながら言った。
「わしには助けて下さるお方がごぜえます」とトムは言った。「ですから絶対にそんなことはできません」
「いったいどこの馬の骨が、てめえを助けてくれるってんだ?」と、レグリィは嘲るように言った。
「全能の神さまでごぜえます」とトムは言った。
「こん畜生!」と言いざまレグリィは拳骨の一撃でトムを地面に殴りたおした。
冷たい柔らかな手が、この時、レグリィの手を抑えた。彼は振りかえった、――それはキャシィの手であった。しかしその冷たい柔らかな感触は、昨夜の夢を思い出させ、そして、夜じゅう彼を苦しめたあの恐ろしい幻が皆いっせいにあの時の恐怖の思いをたずさえて彼の脳裏にひらめいた。
「おまえさんまたばかをするつもりかい?」とキャシィはフランス語で言った。「およしよ!この場は私にまかせておくれ、もう一度畑に出られるようにしておくからね。これじゃあ、今さっき私が言ったとおりのことじゃないか?」
鰐《わに》、犀《さい》などという動物は、みずから防弾チョッキを身につけて武装してはいるけれども、それぞれどこかに弱点《ポイント》があると言われている。そして獰猛《どうもう》で、無謀で、神を信じぬ、済度《さいど》し難い人間は、一般にこうした弱点《ポイント》を迷信的な恐怖心というかたちでもっているのである。
レグリィはこの問題《ポイント》にはしばらく触れぬほうがよかろうと心にきめて、顔をそむけた。
「じゃあ、おめえのかってにしろ」と彼は、渋い顔をして、キャシィに言った。
「野郎、よく聞け!」と彼はトムに向かって言った。「おれは今はてめえにかまっちゃいられねえんだ、仕事は忙しいし、畑にゃてめえたちを一人残らず欲しいところだからな。だがおれはけっして忘れたりはしねえぞ。てめえの元帳につけておいて、そのうちにゃきっとその黒い皮をひんむいてでもおれの取り分は取ってみせるからな、――いいか憶えてやがれ!」
レグリィはくるりと背を向けると、そのままそこを出て行った。
「ふん、とっとと行くがいいや」とキャシィは彼の後姿を陰気な顔で見送りながら言った、「そのうちには、自分のつけ(最後の審判のこと)が回って来るんだからね!――ところでおまえさん、気分はどう?」
「今度は、主なる神さまが天の使をおつかわしになって、獅子《しし》の口をふさいで下せえました(ペテロ前書、第五章第七節―十一節参照)」
「ほんとうに、今度だけはね」とキャシィは言った。「でも、こうしておまえさんはあの男の怨《うら》みをかったんだから、昼となく夜となくあいつにつけまわされて、犬のようにのどもとに食らいつかれるんだよ、――そして一滴また一滴と血を吸われて、おまえさんの命はなくなっていくんだよ。私はあの男をよく知っているんだからね」
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第三十七章 自由
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「たとえ人がどのような儀式をもってその身を奴隷制度の祭壇に捧げられていようとも、ひとたび聖なる英国の地に足を踏み入れるならば、たちまちその祭壇もその神も、もろともに崩れ落ち、人は抗し難い世界的な解放《イマンシペイション》の風潮によって、救われ、新しい生命を与えられ、囚われの身から解放されるのである」――カラン
(ジョン・フィルポット・カラン[一七五〇〜一八一七]。旧教徒解放のためにつくしたアイルランドの雄弁家・判事)
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ここでしばらくの間、われわれは余儀なくトムをあの迫害者たちの手に残してゆかねばならない。ここでは筆を更《か》えて、あの道ばたの農家の、親切な人々の手に残してきたジョージとその妻の運命を追うことにするからである。
われわれが残してきたトム・ロウカァは、汚点《しみ》一つないじつに清潔なクエーカー教徒のベッドの中で呻いたりのたうったりしていた。それをアント・ドーカスが母親のように優しく看護していたが、彼女の目には、彼も病気の野牛と同じくらい扱いやすい患者であった。
一人の背の高い、気品のある、天使のような婦人を想像していただきたい。頭にのせた清浄なモスリンの帽子、その帽子になかば覆われた銀髪の波、その髪が左右からかかる広い明るい額、その額の下に輝く考え深い灰色の瞳。雪のように白い絽《リース》のクレープのハンカチはきちんと折りたたんで胸もとにかけられ、光沢のあるとび色の絹のドレスは彼女が部屋の中をあちこちと滑るように歩くたびに、さらさらとなごやかな音をたてるのである。
「畜生!」とトム・ロウカァは掛布団を力いっぱいはねのけながら言う。
「いけませんよ、トマス、そんな言葉を使ったりしては」とアント・ドーカスは静かにベッドをなおしながら言う。
「そりゃあ、おれだって使やあしねえよ、おばあちゃん、使わずにいられるんならね」とトムは言う。「だがだれだって毒づきたくなるぜ、――こうも、べらぼうに暑いとな!」
ドーカスはベッドから掛布団を一枚とりのけてやり、もう一度夜具のしわをのばすと、その端を、トムが蛹《さなぎ》のような恰好《かっこう》に見えるまで、ベッドの下に折り込んだ。そして手を動かしながら彼女はこう言った、
「私はね、あなたが悪態をついたり罰《ばち》あたりなことを言ったりするのをやめて、自分の生きるべき道についてしんけんに考えてほしいと思うのですよ」
「ふんいったい何だっておれは」とトムは言った、「そんなものを考えなくちゃならねんだ?おれはまっぴらだね――えいくそ!」そう言いながらトムは、見る目にも恐ろしいほどの勢いで、そこいらじゅうのものをたぐりよせ、蹴ちらかしながらあがいた。
「あの男と女はまだここにいるんだろう」と彼は、しばらくしてから、ぶすっとした口調で言った。
「おりますよ」とドーカスは言った。
「湖のところまで逃げたほうがいいぜ」とトムは言った。「早けりゃ早いほどいい」
「たぶんそうするでしょう」とアント・ドーカスは静かに編物の手を動かしながら言った。
「それにいいか」とトムは言った。「サンダスキィ(オハイオ州北部、エリィ湖に臨む港町)にゃおれたちの通信員がいて、船を見張っているんだ。えい、もうこうなったら、何もかもぶちまけてやれ。みんな逃げちまうほうがいい、おれはマークスの野郎に恨みを晴らしてやるんだ、――あの犬っころの畜生め!――糞でもくらいやがれ!」
「トマス」とドーカスは言った。
「なあ、おばあちゃん、人にあんまり窮屈なことを言うと、おれは破裂しちまうぜ」とトムは言った。「しかし、あの女だが、――みんなに言って、こう何とか様子の変わるような服装《なり》をさせたほうがいいぜ。人相書がサンダスキィまでまわっているからな」
「しかるべく取計らいましょう」とドーカスは、持ち前の落着きはらった態度で言った。
われわれはここでトム・ロウカァと別れをつげるのであるが、皆さんにこうお話しておいたほうがいいでしょう、つまり、トムは、このクエーカー教徒の家に三週間ほど寝かされて、傷の痛みも、併発した関節リュウマチもすっかり癒えると、どことなく以前よりは悲しみを知る賢い人間となってベッドから起きあがった。そして、この奴隷狩りの商売をやめて、新しい開拓地の一つで新しい生活を始め、ここで彼の才能は、熊《くま》や狼《おおかみ》やその他の森の住民どもを捕《つか》まえることにいっそうの発展を見せ、これによって彼はその土地の名士になった。トムはいつもこのクエーカー教徒たちのことを尊敬の念をもって語った。「いい人たちだぜ」と彼はよくそう言った。「おれをなんとか発心《ほっしん》させたがっていたが、とうとうできなかった、十二分にはな。だがね、|おまえさん《ストレンジャー》、病人の看護にかけちゃそれこそぴか一だぜ、――確かによ。スープだってなんだってとてつもなくうめえのを作ってくれるしな」
トムの情報によって一行はサンダスキィで待伏せされるかもしれぬということになったので、別かれ別かれに行くほうが賢明だと考えられた。ジムは、彼の老母と一緒に、一足先に送り出された。そして一夜二夜おくれて、ジョージとイライザが、子供と一緒に、ひそかにサンダスキィへ送り込まれて、ある親切な家庭に匿《かくま》われ、湖を渡る彼らの最後の旅の準備にとりかかった。
彼らの暗い夜もはや過ぎ去らんとしていた、自由を告げる曙《あけ》の明星が彼らの前に美しく姿を見せはじめた。自由!――この電撃的な言葉!それは何であったろうか? その言葉の中には言葉以上の何かがあるのであろうか――修辞学的な美辞麗句というようなものがあるのであろうか? アメリカのおとうさん、そしておかあさん、この言葉をきいてあなたがたの胸の血が湧きたつのはいったいなぜでしょうか、あなたがたのおとうさまたちが、そのために血を流し、そしてそのおとうさまたちよりももっと勇敢なおかあさまたちが自分にとって一番気高い、一番りっぱな夫をそのために喜んで死なせたこの自由、という言葉をきいてあなたがたの胸の血が湧きたつのは、いったいなぜなのでしょうか?
こうした自由の中には、一国にとっては輝かしく貴いものであっても、個人にとっては同様に輝かしい貴いものとはならない何かがあるのであろうか? 国には与えられるがその国に住む個人には与えられない自由とは何であろうか? 広い胸に両腕を組み、頬にはアフリカ人の血の色を浮かべ、目には黒い焔を燃やして、そこにすわっているあの青年にとって、自由とは何であろうか、――ジョージ・ハリスにとって自由とは何なのであろうか? あなたがたのおとうさまにとって、自由とは一つの国が真に一つの国となるための権利でした。ジョージにとっても、それは一個の人間が、獣ではなく、真に一個の人間となるための権利なのです。彼の懐《ふところ》の妻を妻と呼び、彼女を無法な暴力から守るための権利なのです。彼の子供を保護し、教育を授けるための権利なのです。自分自身の家族を、自分自身の宗教を、他人の意思に隷属することのない自分自身の人格をもつための権利なのです。こうした考えが、ジョージの胸のなかでぐるぐると回転し、沸きたっていた。彼は考えにひたりながら頭を片手で支えるようにして妻の様子を見つめていた。彼女は先刻からそのすらりとした美しいからだに男物の衣裳をあれこれとあてていた。そうすることが逃亡に一番安全と思われたからである。
「さあ、これからだわ」と言いながら彼女は鏡の前に立って絹のような、ふさふさした黒い巻毛を振りおろした。「ねえ、ジョージ、なんだか惜しいわね」と彼女は、おどけた手つきで何本かの巻毛をつまみあげながら言った。――「これをみんな切ってしまうなんて?」
ジョージは悲しそうにほほえんだが、それには何も答えなかった。
イライザは鏡に向かって、そして鋏《はさみ》がきらりと光るたびに、長い巻毛が一束一束彼女の頭から切りとられていった。
「さあ、これでいいわ」と言って彼女はヘアブラシを取りあげた。「今度は少し恰好をつけなくてはね」
「そーら、ちょっとした男前でしょ?」と彼女は夫の方に向きなおって、笑いながらそして同時に顔を赤らめながら言った。
「きみはいつだってきれいだ、どんな恰好をしたってね」とジョージは言った。
「あなたどうしてそんなにまじめくさった顔をしてらっしゃるの?」とイライザは片膝をついて、手を夫の上におきながら言った。「わたしたちカナダまで二十四時間たらずで行けるそうですのよ。ほんの一昼夜、湖の上で過ごせば、そうすれば――おお、――そうすれば!」
「おお、イライザ!」とジョージは彼女を引きよせながら言った。「それなんだよ! 今ぼくの運命はすべて一つの点に集まってきているのだ。すぐそばまで来て、もう目の前に見えるくらいなんだ、そしてここで何もかもがだめになったとしたら。ぼくはそんな運命の下ではとても生きていかれないよ、イライザ」
「心配しないで」と彼の妻は希望をもって言った。「神さまはわたしたちをここまでお導き下さったのですもの、これから先もきっとお助け下さるわ。わたし、神さまがわたしたちのすぐそばにいらっしゃるような気がするのよ、ジョージ」
「きみはほんとうに幸せな女だね、イライザ!」とジョージは思わず彼女をきつく抱きしめながら言った。「しかし、――おお、教えておくれ! この大きなお恵みはほんとうにぼくたちのものなのだろうか? これまでの長い長い悲惨の年はこれで終わるのだろうか?――ぼくたちは自由の身になるのだろうか?」
「きっとなれてよ、ジョージ」とイライザは天を仰ぎ見ながら言った。希望と感激の涙が彼女の長い黒いまつ毛に光った。「わたし、心の中に感じるのよ、今日こそ神さまはわたしたちを囚われの身から解放して下さるのだと」
「その言葉をぼくも信じよう、イライザ」とジョージは突然立ちあがりながら言った。「ぼくも信じるよ、――さあ、出発だ。それにしても、実際」と言いながら彼は、彼女を抱いていた腕をいっぱいに伸ばして、感心したように彼女をうちながめながら言った、「きみはほんとうにすばらしい青年になったね。その短かく刈り込んだ巻毛がじつによく似合う。帽子をかぶってごらん。そう――もう少し斜《なな》めに。きみがこんなにも美しく見えたのは初めてだよ。しかし、もうそろそろ馬車が来るころだ。――スミス夫人はハリィをうまく変装させてくれたかしら?」
扉があいて、品のある中年の婦人が小さなハリィを連れて入ってきた、見ると子供は少女の服を着せられていた。
「まあこんなにかわいい女の子になって」とイライザはハリィのからだをぐるりと一まわりさせてながめながら言った。「この子をハリエットと呼ぶことにしましょうよ、ね。いい名前でしょう?」
子供は、見慣れぬ奇妙な服装をした母親をまじめくさった顔つきで見つめていた。一言も口をきかず黙りこくって、ときどき深いため息をつきながら、黒い巻毛の下から彼女を見つめていた。
「ママよ、ハリィ、わかる?」とイライザは両手を子供のほうへ差しのべながら言った。
子供は恥ずかしそうに母親にしがみついた。
「だめだめ、イライザ、そんなことをしてその子を甘やかしちゃあだめだよ、なるべくきみから離れるようにしておかねばいけないんだからね」
「ええ、ばかねえあたしも、こんなことをするなんて」とイライザは言った。「でも、この子に知らない振りをさせておくのが、わたし、耐えられないんですもの。でも、さあ――わたしの外套はどこかしら? あったわ、――男の人ってどんなふうにして外套を着るものなの、ジョージ?」
「まあこんなふうな手つきで着なくてはいけないね」と彼女の夫はそれを自分の肩にふわりとかけてみせながら言った。
「そう、それなら」とイライザは言って、その恰好をまねた、――「そして足に力を入れて歩かなければいけないのね、大股で、生意気そうに見えるくらいにして?」
「そんなふうに力《りき》んだりしちゃあいけないよ」とジョージは言った。「時には内気な青年だっているんだからね。そういう役を演《や》るほうがきみも楽だと思うよ」
「まあこの手袋ったら! どうでしょう!」とイライザは言った。「だって、あたしの手が迷子になっているみたいですもの」
「でもいいかい、絶対にそれをぬいじゃいけないよ」とジョージは言った。「きみのその華奢《きゃしゃ》な手がみんなの化けの皮をはがすことにならんとも限らないからね。ところで、スミスさん、あなたは私たちがお世話申しあげるわけで、うちの叔母《おば》ちゃまということなんですから、――いいですね」
「私、さっき聞いたことなんですけれど」とスミス夫人が言った、「港に変な男たちがいて、それが郵便船の船長全部に、小さな男の子をつれた男と女がいたら気をつけてくれと言っていたそうですよ」
「ほう、そうですか!」とジョージは言った。「じゃあ、私たちもそんな一行を見かけたら、船長に教えてやりましょうよ」
この時、貸馬車が一台、玄関先についた。そこで、逃亡者たちを温かく迎えてくれたこの家の人たちがみんなのまわりに集まってきて、一行の無事を願いながら挨拶をした。
一行の扮するこの変装は、トム・ロウカァの忠告に従ったものであった。スミス夫人というのは、ジョージたちがこれから逃げてゆこうとしているカナダの植民地からやって来たりっぱな女性であった。そして彼女は、ちょうどおりよく、この湖を渡ってそこへ帰ろうとしていたところで、小さなハリィの叔母ちゃまの役を快くひきうけてくれたのであった。そしてハリィを自分になつかせるために、出発前の二日間は、子供を自分の手許において一人でめんどうをみてくれたのであった。そして心底《しんそこ》からのかわいがりようと、それに加えてたくさんのシード・ケーキやキャンデーのおかげで、この幼ない紳士も彼女に対して非常に強い愛着をおぼえるようになっていた。
馬車は波止場へと走った。二人の青年は、つまりジョージとイライザは、橋板を渡って船に乗り込んだ、イライザはいんぎんにスミス夫人に腕をかし、ジョージは荷物の世話をやいていた。
ジョージが船内事務室で一行のために切符を買っていると、かたわらで何事か話し合っている二人の男の会話が耳に入った。
「乗船してくるお客さんは一人残らず見張っていましたがね」と一人が言った、「そんな連中はこの船にはいませんね」
声の主はその船の事務員であった。そう言われた相手の男は、すでにお馴染みの例のマークスである。彼は持前のあの貴い不屈の精神から、はるばるこのサンダスキィまでやって来て、彼の餌食《えじき》をまちうけていたのであった。
「女のほうは、まあ白人と見分けがつかないだろうな」とマークスは言った。「男のほうもだいぶ色が白いが混血《ミュラトゥ》なんだ。手のどっちかに烙印《らくいん》がおしてある」
ジョージの、切符と釣銭を受け取ろうとしていた手がかすかに震えた。しかし彼は平然として向きなおると、なに食わぬ様子でその男の顔をじっと見つめてから、おもむろにイライザの待っている船の向こう側へと歩いていった。
スミス夫人は、小さなハリィと一緒に、婦人専用室に姿をかくしていたが、そこでは、少女に身を変えたこの子の浅黒い美しさが他の乗客たちからたくさんのお世辞を浴びた。
ジョージは、出帆の鐘が別れの合図を告げて鳴り渡り、マークスが橋板を渡って岸へ下りて行くのを見て、満足した。そして、船が二人の間に、もはや引き返すことのできない大きな距離をおいた時、彼はほっと長い安堵《あんど》のため息をついた。
壮麗な日であった。エリィ湖の青い波は太陽の光を浴びて、さざめきつつ、きらめきつつ躍《おど》っていた。さわやかなそよ風が岸辺から吹きよせて、威風堂々たるその船は波を切って勇ましく、ま一文字に進んでいった。
おお、人間の心の中にはなんという不思議な世界があるのだろう! ジョージは自分のかたわらに、はにかむ連れを伴なって、静かにデッキの上を行ったり来たりしていたが、彼の胸の中に燃えているすべての思いをだれが想像しえたろうか? 刻一刻と近づいてくるようなこの大きな幸福は、あまりにも幸福すぎ、あまりにも美しすぎて、現実とはとても思えないほどであった。何か自分を妬《ねた》むものが現われて、この幸福を奪い去ってゆくのではなかろうかと、彼はたえず心を痛めていたのである。
しかし船は波を蹴って進んだ。時間は飛ぶように過ぎ去った、そして、ついに、くっきりと行く手いっぱいに、あの聖なるイギリスの岸(もちろんカナダのこと)が浮かびあがった。その岸辺は偉大な呪文によって不思議な力を授けられているのだ、――その岸辺はひとたびそこに足を触れれば、いかなる奴隷制度の呪文でもたちまちその魔力を失うのだ、たとえそれがどこの国の言葉で唱えられた呪文であろうとも、いかなる国の権力で確認されたものであろうとも。
ジョージと彼の妻とは、船がカナダのアマストバーグという小さな町に近づいた時、互いに腕を組みあって立っていた。彼の息づかいはだんだんと荒く早くなってきた。目は涙でかすんできた。彼は、自分の腕の上で震えている小さな手を黙ってにぎりしめた。鐘が鳴った。船が止まった。彼はもう夢見心地で荷物の世話をし、自分たちの小さな一行を集めた。みんなはそろって上陸した。彼らは船が岸を離れてゆくまで、じっとそこに立っていた。そしてやがて、涙を流し、抱き合いながら夫と妻とは、不思議そうに見ている子供を腕に抱いて、大地にひざまずくと心をこめて神に感謝の祈りを捧げた!
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それは爆発のような突然の死から生への転換であった。
地下の屍衣《ころも》から天上の聖衣《ころも》へ。
罪の支配から、そしてまた激情の葛藤《かっとう》から、
許された魂のまことの自由へ。
その天上では、死や地獄の桎梏《しっこく》はすべてうち砕かれ、
人はみな不滅の生命を授《う》けるのである、
慈悲の手が黄金《こがね》の鍵をまわし、
慈悲の声が、喜べ、汝の魂は自由を得たり、と言い給うその瞬間に
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一行はやがて、スミス夫人によって、ある親切な宣教師の心温まる住居へと案内された。この宣教師は、キリスト教的人間愛からこの地へやって来て、たえずこの岸辺に避難所を探し求めてはやって来る追放された人々やさまよい歩く人々の牧羊者となっていたからである。
自由を得た最初の日の喜びをいったいだれが口に出して言い表わせようか? 自由を味わうことのできる感覚は、あの五つの感覚のどれよりも高く、どれよりも繊細なものではないだろうか? 動き、話し、呼吸し、――監視されることもなく、また何の危険も感じることなく外に出たり、家に入ったりできるのだ! 神によって授けられた権利を保証してくれる法律の下で、自由人の枕辺に訪れるあの休息の喜びをだれがいったい口に出して語ることができようか? 数えきれぬほどのあの危険の思い出によって、なおさらに愛《いと》しく思えるわが子のやすらかな寝顔は、その母親にとってなんと美しくも貴いものであったろうか? こうした溢れんばかりの喜びに浸る身に、眠るなぞということがどうしてできたであろうか! しかも、この二人には一エーカーの土地も――自分たちのものと呼ぶことのできる屋根すらも、なかった、――彼らは所持してきたすべてを、最後の一ドルに至るまで使いはたしていた。彼らは、空飛ぶ鳥、野に咲く花と同様に、何も持ってはいなかった、――しかもなお彼らは喜しさのあまり眠ることができなかったのである。「おお、汝、人より自由を奪わんとする者よ、汝、いかなる言葉もてこれを神に答うべきか?」
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第三十八章 勝利
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「感謝すべきかな、神われらに勝利を与えたもう」(コリント前書、第十五章第五十七節参照)
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われわれの中で多くの人々が、人生の疲れはてた道すがら、生きてゆくよりも死んでしまうほうがどんなに容易であろうかと、しばし考えたことはなかったであろうか?
殉教者は、肉体の、あの苦痛と戦慄とを伴なう死に直面した時でさえも、自己の運命の恐怖そのものの中に、自分を強く奮いたたせ力を湧きたたせてくれるものを発見する。そこには、永遠の栄光と休息とが生まれる瞬間の、あの陣痛の苦しみさえも耐えさせてくれるいきいきとした興奮が、感動と熱情が、あるからなのである。
しかし生きてゆくということは、――卑しい、つらい、下等な、悩みの多い奴隷の身の毎日を、あらゆる勇気もくじかれそして殺《そ》がれ、あらゆる感覚もしだいに麻痺させられて、送ってゆくということは、――この長い、じわじわとむしばむ心の殉教は、この、一滴一滴、一時間一時間と徐々に毎日血をしぼり取られてゆく内部の生命は、――これこそ人間の心の中に存在しうるあるものに対する真《まこと》の|厳格なる試練《サーチング・テスト》なのである。
トムが、彼の迫害者と向かいあって立ち、その男の脅迫をきき、いよいよ自分の死期の差し迫ったことを心のうちに悟った時、彼の心は雄々しく奮い立った。そして彼は思った、自分は拷問にも火にも堪えることができる、どんな責め苦にもじっと堪えることができる、そのわずか一歩向こうにはイエスさまと天国とがあるのだからと。しかしその迫害者が行ってしまい、その瞬間の興奮がさめると、彼のあの痛めつけられ倦《う》み疲れた手足の苦痛が再びよみがえってきた、――すっかり落ちぶれた、望みのない、わびしい身の上の思いが戻ってきた。そしてその日はのろのろと疲れはてた足どりで暮れていったのである。
彼の傷がまだ治りもしないうちから、レグリィは彼を畑へ出して一人前の仕事をさせろと言い張った。そしてそれからは、いっそう烈しい苦痛と疲労の毎日が始まった。それは、卑劣な、意地の悪い人間の悪意が考え出すことのできるあらゆる種類の不正と侮辱とによるものであった。これと同じような情況のもとで自分の苦しみを試してみようと思ったことのある人ならばだれでも、たとえその苦しみの間に、どのような慰めが、普通われわれの場合にはあったとしても、その人は苦しみとともに味わったあのいらだたしさを覚えているにちがいない。トムももはや、仲間の者たちの日ごろの不機嫌を怪しまなくなった。いやそれどころか、彼自身の天性でもあったあの穏やかな、快活な気性が、同じ外敵の侵入を受けてだんだんと蝕《むしば》まれて、かなりひどくなっているのに気がついたのである。彼は仕事の暇には聖書を読むつもりでいた。しかしそこには暇なぞというものはまったくなかった。収穫期の盛りには、レグリィは何の容赦もなく、全奴隷をせきたてて、日曜も平日も区別なく酷使したからである。それはもちろんである――彼はこうしてより多くの棉を得、賭に勝ってきたのだ。だからそのために奴隷が何人よけいに倒れようとも、彼にはもっと丈夫な奴隷を買うことができたのである。最初のうちはトムも一日の仕事を終えて帰ってくると、ゆらめく火の光をたよりに彼の聖書を一節か二節読んでいた。しかし、彼が受けたあの残酷な仕打ちの後では毎日、力も根《こん》もつきはてて帰って来るので、読もうとしても頭はぐらぐらして、目はかすんでしまった。そしてやむなく彼は他の仲間と一緒に、もうぐったりとその場に身を投げ出してしまうのであった。
これまで彼を支えてきたあの宗教的平和と信頼とが、魂の動揺と、絶望の暗闇とに席を譲ったとしてもそれははたして不思議なことであろうか? なぜなら彼の目の前には、この不可解な人生に対するこの上なく陰惨な問題がたえず起こっていたからである、――打ちひしがれ滅ぼされた魂、悪の勝利、そして神の沈黙。何週間も、何か月もトムは、自分自身の魂の中で、暗闇と悲しみに包まれながら、苦闘した。彼はケンタッキーの彼の友人にミス・オフィーリアが送ってくれた例の手紙のことを思い出し、神が自分に救いの手を差しのべてくれるようにと一生懸命祈った。そしてそれからは毎日毎日、漠然とした望みを抱きながら彼は、だれか自分を買いもどしに来てくれる人はいないかと、その人影を待ちもうけていた。そしてだれもやって来る者がいないと、彼は自分の心にやけっぱちの考えを叩きつけるのであった、――もう神さまに仕えても無駄だ、神さまはわしをお忘れになってしまったのだと。彼はときどきキャシィに会った。そして時おり主人の家に呼ばれた時、エミリーンの打ちしおれた姿をちらっと見ることもあった、しかし、どちらともほとんど言葉を交わすことがなかった。事実、彼にはだれとも親しく口をきく余裕はなかったのである。
ある晩、彼は消えかかるわずかな燃え木のかたわらに、すっかり気落ちして、綿のように疲れはててすわっていた。火には彼の粗末な夕食がかけてあった。彼はその火に少しばかりの柴《しば》をくべて、どうにか明かりがとれるようにすると、すりきれた聖書をポケットからとりだした。その章句にはいたるところに印がついていた、これまで幾たびとなく彼の魂を感動させた箇所のすべてに、――古《いにしえ》の昔から人々に勇気を語りきかせてきたあのイスラエルの父祖や予言者、詩人や賢人の言葉に、――人生の航路にあるわれわれをいつも雲のごとく囲んでいる多くの証人(ヘブル書、第十二章第一節参照)からの声に。こうした言葉も今はその力を失ってしまったのであろうか、それともトムの衰えた視力や疲れ果てた感覚がもはやこの偉大な霊感の刺激を感じることができなかったのだろうか? 深いため息をつくと彼は聖書をポケットにしまった。下卑た笑い声が彼をはっとさせた。彼は顔をあげた、――目の前にレグリィが立っていた。
「どうやら、おめえも」とレグリィは言った。「おめえの信心は役に立たねえってことがわかったらしいな! おれの思っていたとおり、そのもじゃもじゃ頭もこれでやっと得心がいったってえわけだ!」
この残酷な嘲《あざけ》りは飢えや凍《こご》えや裸《はだか》(コリント後書、第十一章二十七節参照)以上のものであった。トムは黙っていた。
「おめえがばかだったのさ」とレグリィは言った。「おれはおめえを買った時から、おめえにゃ目をかけてやろうと思っていたんだ。おめえはサムボゥやクィムボゥのどちらよりもずっといい暮らしができて、のんびりしていられたんだ。そして毎日のように締めあげられたり殴られたりしねえで、自分かってにそこいらを殿さまみてえに歩きまわって他の黒ん坊どもを締めあげることができたんだ。そしてときどきはウイスキー・ポンチの温《あった》かいご馳走にもありつけたんだ。なあ、トム、おめえ、ちっとは道理をわきまえたほうがよくはねえのか?――そんなろくでもねえ、がらくた本は火ん中へ叩き込んで、おれの教会へ入っちまえ!」
「めっそうもない、どうぞ神さまがお許しになりませんように!」と、トムは烈しい口調で言った。
「いいか、神さまにゃおめえを助けてくれる気なんぞありゃしねんだ。あるんなら、このおれにおめえを買わせるようなことはしなかったろうからな! おめえが信心しているこの宗教なんてものは、みんな嘘っぱちのたわごとの寄せ集めなんだぜ、トム。おれにゃ何もかもわかってるんだ。おめえはおれを信心したほうがいい。おれは大した人間だ、相当なことができるんだからな!」
「いいや、旦那さま」とトムは言った。「わしは神さまにおすがりしますだ。神さまはわしをお助け下さるかもしれねえ、あるいは下さらねえかもしれねえ。だがわしは神さまにおすがりして、最後まで神さまを信じますだ!」
「いよいよもってばかな野郎だ!」とレグリィは言うと、蔑むようにトムに唾を吐きかけ、足で彼のからだを蹴った。「だがいい。――今におめえを追いつめて、抑えつけてやるからな、――見てろよ!」と言って、レグリィはその場を立ち去って行った。
厳しい重みが、人間の魂をその耐えうるぎりぎりの線まで抑えつけると、たちまち必死の力がわれわれの肉体的道徳的神経のすべてに湧き起こってその重荷を払いのけようとするものである。そして、それゆえに最も厳しい苦しみの後にはしばしば歓喜と勇気の波が上げ潮のごとく打ち寄せて来るのである。今のトムがまさにそれであった。残酷な主人の神をも恐れぬ嘲りは、トムのすでに打ちしおれている魂を引き潮の底にまで沈めてしまった。そして信仰の手はなおも永遠の岩にしがみついていたけれども、その手は痺《しび》れ、絶望していた。トムは、茫然《ぼうぜん》として火のかたわらにすわっていた。すると、突然、彼のまわりにあったものが、ことごとく消えてゆくように思われた、そして彼の目の前に一つの幻影が浮かんだ、それは茨《いばら》の冠をかぶせられ、拳《こぶし》で搏《う》たれ(マルコ伝、第十五章第十七節及び第十四章第六十五節参照)、血を流しているお方の姿であった。トムは畏《おそ》れと驚きに打たれながら、その顔に現われた壮厳な忍耐をじっと見つめた。その深い、悲壮な眼差しはトムを心の底まで感動させた。彼の魂は、感激の潮《うしお》に打ちよせられたかのごとく目覚めた。彼は両手を差しのばしてひざまずいた、――すると、しだいにその幻影は変化していった。するどい茨は栄光の輝きとなった。そして想像も及ばぬほどの光輝|赫々《かくかく》たる中で、彼はあの同じ顔が憐み深い眼差しを自分に向けているのを見た、そして一つの声がこう語った、「勝を得る者にはわれとともにわが座位《くらい》に坐することを許さん、われの勝を得し時、わが父とともにその御座《みくら》に坐したるがごとし(ヨハネ黙示録、第三章第二十一節参照)」
どれほど長いあいだそこにいたのか、トムにはわからなかった。彼がわれに返った時には、火はもう消えていて、彼の着物は冷たい夜露にぐっしょりとぬれていた。しかし、恐ろしい魂の危機は去った、そして彼の心を満たした喜びのために、彼はもはや飢えも、凍《こご》えも、侮辱も、失望も、悲惨も感じなかった。魂の奥底から、彼はその時、現在の境遇にかけている望みの綱をことごとく解き放し、断ち切って、自分の意志を絶対の犠牲《いけにえ》として永劫《えいごう》の神に捧げたのである。トムは目をあげて静かな不滅の星々を、――たえず人間を見守るあの天使の群れの表象を、ふり仰いだ。やがて寂莫《せきばく》たる夜の静けさは勝利をたたえる讃美歌の言葉で高らかに鳴り響いた。その歌は、彼がもっと幸福であった時代によく歌ったものであったが、これほどの感激をもって歌われたことは今まで一度もなかった。
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やがては大地も雪のごとくに溶かし去られ、
太陽《あまつひ》もその輝きを終熄《おえ》るべし。
されど我をこの世に召し給いし神は、
永遠《とこしえ》にわが神としてとどまらん。
そしてこの死すべき命衰えて、
骨肉も感覚もその働きを終熄《おえ》る時、
我はとばりの内側に、
歓喜《よろこび》と平和の生命《いのち》を授《う》くるべし。
かしこにて太陽《あまつひ》の輝くごとく光り輝き、
万世《よろずよ》までも住みたらんには
われら初めに歌いしごとく
永遠《とわ》に歌わん神の讚歌を
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奴隷たちの宗教的体験談に通じている人々は、こうしてわれわれが今述べてきた話が奴隷たちのあいだではごくありふれたものであることを知っている。現にわれわれも、奴隷たち自身の口からじつに痛ましい感動的な奴隷の話を幾つか聞いているのである。心理学者によると、人間の心の中にひそむ愛情や表象は、それらがあまりにも強烈になり抑え難くなると、外的な感覚器官を刺激して、心の中で思っているものに実体的な形を与えしめるのだそうである。こうしたわれわれ人間の能力を、全能の霊なる神はどのように用い給うか、また、どのようにして神は寄る辺《べ》なき人々の沈みがちな魂に勇気を与え給うか、だれにそれが測《はか》り知れよう? この哀れな忘れ去られた奴隷が、主イエスが目の前に現われて自分に話しかけたと信じる時、だれにそれが否定できよう? われ地上に遣わされしは世々限りなく、心|傷《いた》める者をいやし(イザヤ書、第六十一章第一節参照)、打ちひしがれたる者を放ちて自由を与えしめん(ルカ伝、第四章第十八節参照)ためなりと主は言い給うたのではなかったろうか?
ほの暗い灰色の夜明けが、眠っていた奴隷たちを起こして、畑へと駆りたてていった。ぼろをまとい、震えながら歩いていく哀れな人々の中に、ただ一人、歓喜の足どりで歩いて行く者があった。全能の神、永遠の愛を信じる彼の堅い心は踏みしめる大地よりもなお固かったからである。ああ、レグリィよ、さらばなんじの全力を試しみよ! いかなる苦悩も、悲哀《かなしみ》も、侮蔑、欠乏、更にまたあらゆるものの喪失も、彼にとっては、王となり、祭司《さいし》となってたどりゆく神への道を急がせる、それだけのことにすぎぬのだ!
この時から、犯すべからざる平和の世界が、虐げられたトムの卑《ひく》き心をとり巻いた、――常に在《いま》す救世主がその心を自《みずか》らの宮《みや》(コリント前書、第六章第十九節参照)として聖別《きよめ》たもうたのである。いまや痛ましきこの世の悲しみは去った。希望、恐怖、欲望の動揺は去った。長いあいだねじ曲げられ、血を流し、もがいてきた人間の意志は、いまや完全に没して神の心となった。いまや、残るこの世の旅路もじつにわずかばかりとなったように思われた、――永遠の祝福もじつに間近く、じつにはっきりと見えるように思われた、――それゆえに彼の心からは、この世の最大の悲哀も彼を傷つけることなく消えていったのである。
だれもがみな、彼の様子の変化に気がついた。快活と敏活が彼の態度の中にもどって来たように思われた、そしていかなる侮辱も危害も乱すことのできない平静さが彼を制御しているように思われた。
「トムの野郎の中にゃあいってえ何が入り込みやがったんだ?」とレグリィはサムボゥに向かって言った。「ついこのあいだまでは野郎、しょげかえっていやがったくせに、このごろはこおろぎみてえにぴんぴんしてやがるじゃねえか」
「わからねんです、旦那。ずらかるつもりかもしれませんぜ」
「そいつは見てえもんじゃねえか」とレグリィは残忍なうす笑いを浮かべて言った、「なあおい、サムボゥ?」
「まったくでさあ! ほー! ほー! ほう!」とこのまっ黒な小鬼は追従《ついしょう》笑いをしながら言った。「いやまったく、こりゃいい見ものだ! 泥ん中で立往生《たちおうじょう》といくか、――犬に追われて気違いみてえに藪《やぶ》ん中を駆けまわったり突っぱしったりするんだ! じっさい、モリィのやつを捕めえた時は、わしは腹を抱えて笑えましたぜ。なにしろあの時、わしが犬どもを引き離さなかったら、あの娘はひと皮ひんむかれちまったろうと思えましたからな。娘はいまだにあの騒動《おまつり》ん時の傷を気にしてますぜ」
「そりゃあするだろうさ、墓ん中までな」とレグリィは言った。「だがいいか、サムボゥ、おめえ、よく気をつけているんだぞ、あの黒ん坊の野郎が何か変な素振りをしやがったら、とっちめてやれよ」
「旦那、それだったらわしに任しておいて下せえ」とサムボゥは言った。「あの浣熊《あらいぐま》(原文「クーン」には「黒人」の意味がある)を木に追いあげてやりまさあ、ほう、ほう、ほうってね!」
こうした会話は、レグリィが馬に乗ろうとしていた時に交わされたものであった、そしてやがて彼は隣りの町へ出かけていった。その夜、彼は帰ってくる途中、馬をまわして奴隷長屋を巡回し、万事異常がないかどうか見てやろうと考えた。
壮麗な月の夜であった。優美な|むくろじ《チャイナ・ツリー》の並木が芝生の上にくっきりと筆で描いたように影を落としていた。そしてあたりにはすきとおるような静けさがただよっていた、それを乱すことは不敬であるとさえ思われるほどの静けさであった。レグリィが奴隷長屋の近くまで来た時、だれか歌を歌っている声が聞こえてきた。長屋では珍しいことだったので、彼は馬をとめて耳をすました。美しいテナーの声がこう歌っていた、
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天空《みそら》なる館《やかた》に入るべきわが資格
さだかに我に読めるとき、
すべての憂に告別《さらば》して
我は涙の目を拭かん。
現世《うつしよ》がわが魂を襲うとも、
鬼の矢がわが魂を狙うとも、
魔王《サタン》の怒りに微笑《えみ》をむけ
このいかめしき現世《うつしよ》に我は対決できるのだ。
苦悩《くるしみ》、洪水のごとく来たらば来たれ
悲哀《かなしみ》、嵐のごとく吹かば吹け、
我は少しの憂もなく、わが家をさしてたどりゆかん、
わが主、わが天国《くに》、わが総《すべ》ての許へ
(これは南北戦争前の南部の讃美歌集によく見かけられた詩で、アイザック・ウオッツ[一六七四〜一七四八]によって書かれたもの)
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「そうか、なるほど!」とレグリィは独り言を言った、「野郎そんなふうに考えてやがるんだな? ろくでもねえメソジストの讃美歌なんか歌いやがって、おれは大嫌いだ! おい、こら黒ん坊」と彼は突然トムの目の前に姿を現わして、乗馬用の鞭を振りあげながら言った、「なんだっててめえはそんなやかましい声をたててやがるんだ、もうとっくに寝てなきゃあならねえ時刻だぞ? そのまっ黒な割れ目(口のこと)を閉じて、とっとと寝ちまえ!」
「はい、旦那さま」とトムは素直に快活に答えて小屋の中へ入ろうと立ちあがった。
トムのこの見るからに幸福そうな様子がひどくレグリィの癇《かん》にさわった。そこで彼はトムの鼻先へ馬を進めると、頭や肩に激しく鞭をあびせた。
「どうだ、この犬野郎」と彼は言った、「これでもまだ気持がいいか考えてみろ!」
しかしその鞭も今ではただトムの肉体を打っただけで、以前のように彼の心にまで達するようなことはなかった。トムはまったく神妙な態度で立っていた。しかしレグリィは自分のこの奴隷に対する支配力がなんとなく失われてしまったことを己が心に隠しておくことはできなかった。そして、トムが小屋の中へと姿を消し、レグリィが不意に馬の向きを変えた時、そのレグリィの心の中を一条の光が通り過ぎた。それはしばしば暗い邪悪な魂の中に良心の光を送り込むあの強烈な閃光《せんこう》の一つであった。彼は自分と自分の犠牲者とのあいだに立っているものが神であることをはっきりと知った、そして彼は神を呪った。侮辱も、脅迫も、折檻《せっかん》も、残虐な所業も乱すことのできないこの神妙な静かな男を見て、レグリィの心の中に一つの声が湧き起こったのである。それはかつて彼の「主人」が、悪鬼《あっき》に憑《つ》かれた魂の中にかきたてられたあの時の声にも似ていた、「なんじ、ナザレのイエスよ、われらなんじと何《なに》の関係《かかわり》あらん、――いまだ時いたらぬに、我らを責めんとてここにきたり給うか?」(マタイ伝、第八章第二十九節参照)と。
トムの魂は、自分の周囲にいる哀れな人々に対する同情と憐憫《れんびん》とでいっぱいであった。彼には、自分のこの世の悲しみはもはや終わってしまったかのごとく思われた。そして神から授けられたあの平和と歓喜の不思議な宝庫から、この哀れな人々の不幸を救うために何かを注ぎ出してやりたいと願っているかのようであった。実際には、その機会はほとんどなかった。しかし畑へ行く途中とか、また帰る途中とか、あるいはまた働いている間などに彼は機会を見つけては疲れ果てた人々に、気力を失い勇気をなくした人々に、救いの手を差しのべたのであった。哀れな、心のすさみきった、野獣化した人々は、初めのうち、トムのこの所業がほとんど理解できなかった。しかし、そのような行為が何週間も、また何か月も続けられているうちに、それは彼らの麻痺した心の中の長いあいだ奏でることのなかったあの琴線《きんせん》をかき鳴らしはじめたのであった。だんだんと、そして知らず知らずのうちに、この不思議な、静かな、辛抱強い男は、そしてだれの重荷でも自分から進んで背負ってやり、しかも絶対に他人《ひと》からは助けを求めようとはしないこの男は、――そしてすべての者に道を譲り、一番後に来て、一番少なくとり、しかもそのわずかなものさえも、必要な者にはだれにでも喜んで分け与えようとするこの男は、――そして、寒い夜、病気で震えている女があれば、ぼろぼろの一枚きりの自分の毛布さえも掛けて慰めてやり、畑では自分の目方の足りなくなる怖ろしい危険をも冒しながら、自分よりも弱い者たちの籠をいっぱいにしてやるこの男は、――そして彼らの共通の暴君から、容赦のない残酷な仕打ちで、いくら責めたてられようとも、けっして他の者と一緒になって悪口を言ったり呪いの言葉を吐いたりすることのないこの男は、――ついに、仲間の上に不思議な力をもちはじめたのである。そして更に忙しい時期もようやく過ぎて、再び日曜日だけは自分たち自身のために使うことが許されるようになると、多くの者が集まってきて彼からイエスの話を聞こうとした。彼らはどこかに集まってみんなして話を聞き、祈り、歌を歌うことが許されるならば喜んでそうしたいと思った。しかしレグリィは、それをどうしても許そうとはしなかった、そして一度ならず罵詈《ののしり》と野卑な呪詛《のろい》とをもってそうした試みを中止させたのであった、――そのためトムのこのありがたい話は一人の口から一人の耳へと語り伝えられねばならなかった。しかし彼らのあの素朴な喜びをだれが口に出して表現できるであろうか? 人生といえば暗い未知なる国へのわびしい旅でしかないこの哀れな寄る辺なき人々のうち、その何人かの人々が憐れみ深い救い主イエスのことを、そして天上のわが家のことを、口には表わせぬ喜びをもって聞いたのであった。宣教師たちの語るところによれば、地球上のあらゆる民族のうちで、アフリカ人ほど熱心に素直に福音書《ふくいんしょ》を受け入れた民族はないそうである。福音書の根底をなしているあの信頼と絶対的信仰の根本原理が他のいかなる民族にもましてこの種族の中には、生まれながらに授けられた要素となって入っているからなのである。そして真理の迷える種子が、ある偶然のそよ風にのってこの上なく無知な人間の心の中に運び込まれ、そこで発芽して実を結び、その豊さが、彼らよりもより高度の、より秀れた栽培《カルチャー》(ここでは「教養」の意味にもかけている)の果実(人間の心)を恥じ入らせるという例が彼らのあいだにはしばしば見うけられるのである。
あの哀れな混血女《ミュラトゥ》は、なだれのごとく身にふりかかった虐待と非行とによって、その素朴な信仰も危うく押しつぶされ埋めつくされようとしていたが、彼女は自分の魂が聖なる書物の讃美歌と章句とによってよびさまされるのを感じた。それらは、この身分の卑《ひく》い伝道師によって仕事の往き帰りにときどき彼女の耳にささやかれたものであった。こうしてキャシィのあのなかば狂いかけ、錯乱していた心さえも、彼の素朴な慎みぶかい感化力によってなだめられ、鎮められていったのである。
一個の生命を押しつぶしてしまうほどの苦悩によって狂気と絶望にまで追いつめられたキャシィは、これまで幾度となく自分の心に復讐の時を決意していた。その時がきたら、この私の手で、私が目撃しまた私自身が受けた不正と残虐のすべてに対してこの迫害者に仕返しをしてやろうと。
ある夜、トムの小屋の者が皆ぐっすりと寝込んでしまったころ、トムは突然はっとして身を起こした。窓のかわりになっている丸太のすきまから、彼女の顔がのぞいていたのである。彼女は黙ったまま、トムに出てくるようにと合図した。
トムは戸の外に出た。それは夜中の一時から二時のあいだで、――明るい、静かな月の夜であった。トムは、月の光がキャシィの大きな黒い目に落ちた時、その目にいつものあの固定した絶望の色とはまったく違った何か激しい異様な光がぎらぎら燃えているのに気がついた。
「こっちへいらっしゃい、|神父さん《ファーザー・トム》」と言いながら彼女は小さな手をトムの手首にかけて彼を引きよせた。その手は鋼鉄でできているかと思えるほど力がこもっていた。「いらっしゃい、あんたに知らせたいことがあるの」
「なんでごぜえますか、奥さん?」とトムは気づかわしげに言った。
「トム、あんた自由がほしくない?」
「わし、自由になれると思いますだ、奥さん、神さまの時が参りましたらな」とトムは言った。
「おお、でも今夜、自由になれるのよ」とキャシィは突然わきおこる力を言葉にこめて言った。「いらっしゃい」
トムはちゅうちょした。
「さあ!」と彼女は黒い目でじっと彼を見つめながら、小声で言った。「さあいらっしゃい!あいつはいま眠っているわ――ぐっすりとね。私、あいつのブランデーの中に眠り薬をたっぷり入れておいたのよ。もう少しあればよかったのだけれど、――そうすればあんたの手を借りずにすんだんだわ。でも、さあ、後ろの戸には鍵はかかってないわ。そこに斧《おの》が置いてあるの、私が置いといたのよ、――あいつの部屋の戸もあいてるわ。私が案内します。自分でやりたかったんだけれど、私の腕じゃとても力が弱すぎるものだから。さあいらっしゃい!」
「いいや、わしは絶対に行きません、奥さん!」とトムはその場に足をとめて、道を急ぎ足でゆく彼女を引きとめながら、きっぱりと言った。
「でもあのかわいそうな人たちのことを考えてごらん」とキャシィは言った。「二人であの人たちを一人残らず自由にしてやれるかもしれないのよ、そして沼地の中へ行って、そこで島を見つけてみんなで暮らせるかもね。そういうことをしている人の話を聞いたことがあるわ。どんな生活だってここよりはましですもの」
「いけません!」とトムはきっぱりと言った。「いけません! 善は邪《よこしま》なことからはけっして生まれるものではごぜえません。そんなことをするくらいなら、わしはこの右手を切り落としてしまうほうがましだ!」
「なら、私がやるわ」とキャシィはくるりと背を向けながら言った。
「おお、奥さん!」とトムはすばやく彼女の前に立ちふさがりながら言った。「あなたのためにお死になされた主のために、あなたの尊い魂をそんなふうにして悪魔に売ったりしてはいけません! そんなことからは悪以外の何も生まれないのでごぜえますから。主はわしどもに怒りをお求めにはなりませんでした。わしどもはじっとこらえて、その時を待たなければならないのでごぜえます」
「待つですって!」とキャシィは言った。「私がこれまで待たなかったとでも言うの?――頭がぐらぐらして、胸がむかついてくるほど待たなかったとでも言うの? あの男のために私はどれだけのことをこらえてきたろうか? あの男のために何百というかわいそうな人たちがどれだけのことをこらえてきたろうか? あいつはあんたのからだから生き血を絞りとっているじゃあないの? 私は求められているんだわ。みんなが私にやれと言っているんだわ! その時が来たのよ、だから私はあいつの心臓の血を絞り取ってやるんだわ!」
「いけません、いけません、いけません!」とトムは彼女の小さな手をとりながら言ったが、その手はぶるぶると震えるほどの強い力でにぎりしめられていた。「いけません、かわいそうに、心迷える方よ、そんなことは絶対にいけません。あの優しい恵み深いイエスさまは、ご自分の血以外には一滴の血もお流しにはなりませんでした、そしてそのご自分の血も、わしどもがあの方の敵であった時に、わしどものためにお流しになったのでごぜえます。神さま、なにとぞわしどもが主にならい、わしどもの敵を愛すことができますようにお助け下さい!(マタイ伝、第五章第四十三〜四十四節)」
「愛すだって!」とキャシィは鋭く目をぎらつかせながら言った。「あんな敵を愛すだって!そんなことは生身の人間にはできやしないわ」
「そうです、奥さん、人間にはできません」とトムは空を見あげながら言った。「でも神さまがその力をわしどもにお授け下さいます、そして、それが勝利なのでごぜえます。わしどもがすべての人々を愛し、すべての人々のために祈ってやることができた時に、戦は終わり、勝利が訪れるのでごぜえます。――栄光、神にあれ!」そして、両眼に涙を流し、声をつまらせながらこの黒人は天を仰いだ。
そしてこれこそ、おおアフリカよ! 国々の中で最後に求められし国よ、――茨《いばら》の冠《かんむり》、鞭《むち》、血の汗、苦悩の十字架へと求められし国よ――これこそなんじの勝利を約束すべきものなのだ。これによってなんじは、地上に王国の来たらん時、キリストとともにその王国を治めるのだ。
トムの深い熱烈な感情が、彼の柔らかな声が、彼の涙が、哀れなこの女の狂暴な動揺する心の上に露のごとく落ちた。やわらぎが彼女の目の烈しい焔の上に集まってきた。彼女はうつむいた、そしてトムは彼女の手の筋肉がゆるんでくるのを感じた、彼女はこう言った、
「いつかも言ったように、私には悪霊がつきまとっているのよ。おお! |神父さん《ファーザー・トム》、私、祈れないわ、――祈れたらと思うのだけれど。私の子供が売られてからは私、一度も祈ったことがないの! あんたの言うことはほんとうだわ、きっとほんとうのことなんだわ。でも私は祈ろうとすると、憎しみと呪いの言葉しか出てこないの。私には祈れない!」
「哀れなる魂よ!」とトムはいたわるように言った。「サタンなんじを得、麦のごとく篩《ふる》わんとて請う。我なんじのために神に祈らん(ルカ伝、第二十二章第三十一、三十二節参照)。おお! 奥さん、この恵み深い主イエスさまにおすがりなさいませ。イエスさまは心の傷《いた》める者をいやし、またすべて哀《かなし》むものをなぐさめるためにおいで下さったのです(イザヤ書、第六十一章第一、二節参照)」
キャシィは黙ったまま立っていた。大きな、熱い涙が彼女の伏せた目から滴り落ちた。
「奥さん」とトムは、その姿をしばらく黙って見つめていた後で、ためらいながら言った。「もしも、あなたがここから逃げ出すことがおできになりさえしたら、――もしそうしたことが可能なら、――わしはあなたとエミリーンにそうなさるようお勧めします。つまり、もし、あなたが人を殺《あや》めるような罪を犯さずに逃げることができるのでしたらのことでごぜえます、――他の方法ではいけません」
「あんたも私たちと一緒に逃げてくれる、|神父さん《ファーザー・トム》?」
「いいえ」とトムは言った。「逃げようと思った時もごぜえました。しかし神さまはこのわしにあの哀れな人たちの中で尽くすようにと一つの仕事をお授けになったのです、それでわしはあの人たちと一緒にいて、最後までわしの十字架を背負って行くつもりでごぜえます。あなたの場合は、違います。あなたにとっては、ここは魂の罠《わな》です、――あなたにはとても耐えられるところではごぜえません――逃げられるのでしたらお逃げなさったほうがええ」
「墓場以外に行く道はないわ」とキャシィは言った。「獣にしても鳥にしても、どこかに自分の家を見つけることができる。蛇や鰐《わに》でさえ、身を横たえて落着く場所がある。でも私たちには何もないのよ。どんなにまっ暗な沼地へ逃げていっても、やつらの犬が私たちを狩り出して、見つけてしまうのよ。だれも彼も、何もかもが私たちの敵なのよ。蛇や鰐だって私たちの敵に回るんですからね、――なのに、私たちどこへ行けばいいの!」
トムは黙って立っていた。やがて彼は言った、
「獅子《しし》の穴からダニエルを救い(ダニエル書、第六章第二十三節)、――燃ゆる炉から子供たちを救い(同、第三章第十七節以下参照)給うたお方のところへ、――海の上を歩《あゆ》み、風を禁《いま》しめ鎮め給うた(マタイ伝、第十四章第二十五節及び第八章第二十六節参照)お方のところへ、――その方は今もなお生きておいでになるのです(ヨハネ黙示録、第一章第十八節参照)。ですからあのお方ならきっとあなたをお救い下さると、わし、かたく信じております。やってごらんなせえまし、わし、一生懸命あなたがたのために祈りますでのう」
つまらぬ石ころのようにこれまで長いあいだ、見過ごされ、足の下に踏みつけられていた一つの考えが、この時、まるで、発見されたダイヤモンドのように突然新しい光の中で燦然《さんぜん》と輝きだしたのであるが、それはいったい何という不思議な心の法則によるものなのであろうか?
キャシィは、これまでにたびたび、何時間にもわたって、実行できそうなあるいは成功の見込みのありそうな逃亡計画をあれこれと考えていたのだが、どれもこれも皆、望みのない、実行不可能なものとして棄ててしまっていたのであった。しかし、この瞬間、彼女の心に一つの計画がひらめいた。それはあまりにも簡単で、細部にわたってすべて実行できそうなものであったので、彼女の胸は、たちまち希望に燃えた。
「|神父さん《ファーザー・トム》、私、やってみるわ!」と彼女は突然言った。
「アーメン!」とトムは言った。「神さまがあなたがたをお救《たす》け下さいますように!」
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第三十九章 計略
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「悪者《あしきもの》の途は幽冥《くらやみ》のごとし。彼はその躓《つまず》くもののなになるを知らざるなり」
(箴言、第四章第十九節参照)
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レグリィが住んでいる家の屋根裏部屋は、他のたいていの屋根裏部屋と同じように、大きな、荒れはてた、埃《ほこり》だらけの部屋で、あちこちにくもの巣がかかり、いらなくなったがらくたものが散らかっていた。以前この家に住んでいたあの裕福な家族は、その栄華をきわめていたころ、じつにすばらしいたくさんの家具を海外からも買い入れていたのであったが、その家具も一部は家族がこの家を引き払う時に一緒に持っていかれ、残りはかび臭いいくつかの空き部屋にそのまま置き去りにされたり、この屋根裏部屋に蔵《しま》い込まれたりしていた。こうした家具を運んできた時の大きな荷箱が一つ二つこの屋根裏部屋の壁板に立てかけてあった。部屋には小さな窓が一つあって、そのすすけた、埃まみれのガラスを通して、わずかばかりの、おぼつかぬ光が、背の高い椅子や埃をかぶったテーブルの上に落ちて、そのありし日の姿をぼんやりと照らしていた。総じてこの部屋は気味の悪い、幽霊でも出そうな場所であった。しかし、ただ幽霊が出そうだと言うだけではなく、この部屋には迷信深い黒人のあいだに、いっそう恐怖をつのらせるような因縁話があったのである。四、五年前のこと、一人の黒人の女が、レグリィの不興をかって、数週間この部屋に監禁されたことがあった。ここでどんなことが起こったか、われわれにはわからない。黒人たちがよくひそひそとささやき合っていただけである。しかし、はっきりと言えることは、その不幸な女の死体が、ある日ここから運びおろされて、埋められたということである。このことがあってからは、話によると、この古い屋根裏部屋にののしりの声や呪いの言葉や、烈しい鞭の音が響きわたり、それに混って絶望の悲鳴や呻き声が聞こえてくるということであった。こうした噂《うわさ》が、一度、なにかの拍子にレグリィの耳に入った時、彼はとたんに怒りだして、二度とあの部屋の話をするやつがいやがったら、そいつを一週間あの部屋に鎖でつないでおいて、あそこに何が出るか自分の目で確かめさせてやると言って脅かした。この脅かしは、噂のひろまるのを抑えるには十分であったが、噂の事実を少しも妨げはしなかったことはもちろんである。
だれもが屋根裏部屋の話を恐れるあまり、だんだんと、この部屋へ通じる階段も、そしてその階段への通路さえもが、家じゅうの者から避けられるようになった。そしてそのうちに例の噂もしだいに忘れ去られていった。それが今、突然キャシィの胸によみがえって来て、彼女はレグリィのもつあの非常に烈しい迷信深い性質を利用して、自分の逃亡と、自分と同じように苦しんでいるエミリーンの逃亡に役立てようと思いたったのである。
キャシィの寝室はこの屋根裏部屋のちょうど真下にあった。ある日、レグリィには何の相談もせずに、彼女は突然、仰々しく、この部屋の家具や道具やらを残らず、そこからかなり離れた部屋へ移させた。この引越しのために呼ばれた下働きの者たちが走ったり駆けずりまわったり、夢中になって大騒ぎをしているところへ、レグリィが遠乗りから帰って来た。
「おい! おいキャス!」とレグリィは言った、「こりゃあいってえ何の真似だ?」
「べつに。ただほかの部屋に変わりたいだけよ」とキャシィはむっつりした顔で言った。
「なんのためにだ、ええ?」とレグリィは言った。
「そうしたいからさ」とキャシィは言った。
「くそっ、そうしてえからだと! だからなんのためになんだ?」
「少しはぐっすりと眠りたいんだよ。ときどきはね」
「眠るだと! じゃあなんで眠れねんだ?」
「聞きたけりゃ、言ってあげてもいいだろうよ」とキャシィは素気ない態度で言った。
「とっとと言ってみろ、この阿魔!」とレグリィは言った。
「おお! なんでもないよ。きっとおまえさんなら平気だよ! ただ呻き声だの、だれかのあわただしい足音だの、床《ゆか》を転げ回る音だのが、あの屋根裏部屋でするだけだからね、一夜の半分、真夜中から明け方までね!」
「だれか屋根裏に人がいるだと!」とレグリィは不安そうに、しかし無理に笑いながら言った。「だれなんだ、そりゃあ、え、キャシィ?」
キャシィは鋭い、黒い目をつりあげて、レグリィのからだを刺し貫くような表情で、じっと彼の顔を見つめながら言った、「ほんとうに、サイモン、だれなんだろうね? 私もおまえさんに教えてもらいたいんだよ。おまえさんにもわからないらしいね!」
ののしり声とともに、レグリィは乗馬用の鞭で彼女を殴りつけた。しかし彼女はするりと一方に身をかわして、戸の向こうへ逃げ込むと、そこで振り返って、言った、「もしおまえさんがあの部屋で寝てみれば、なにもかもはっきりするだろうよ。一度おまえさん、やってみたらいいよ!」そしてすぐに戸をしめて中から鍵をかけた。
レグリィは大声でどなり、ののしり、戸をたたき破るぞと言って脅かした。しかしそのうちに、どうやら思いなおしたとみえて、不安そうに自分の居間へと入って行った。キャシィは自分の放った矢が、ずぶりと相手に突き刺さったのを見た。そこで、その時から、きわめて精巧なやり方で、彼女はつぎつぎと攻撃の矢を射つづけたのである。
彼女は屋根裏部屋の節穴へ空《あき》びんの首を突っ込んでおいた。こうしておくと、風がほんの少しでもある晩には、びんの口からじつに悲しげな、哀れな泣き声を出すのである、そして風の強い時には、まったく悲鳴のような音をたてるので、騙《だま》されやすい人間や迷信深い人間の耳には、たちまち恐怖と絶望の悲鳴のように聞こえたのである。
こうした音が、ときどき、召使いたちの耳に入って、あの昔の幽霊話の記憶がみんなの胸にどっとよみがえってきた。迷信的な恐怖が、這うようにしてこの家の隅々にまでひろがったように思われた。そして、だれもそれをレグリィの耳に入れようとするものはいなかったけれども、彼は自分が、何か雰囲気といったようなものに取りかこまれるようにして、それに取りかこまれているのを感じた。
神を信じぬ者ほど心《しん》から迷信深い者はいない。キリスト教徒は、知恵ありもろもろを掌《つかさど》る父なる神を信じることによって安心立命を得ている。それは神の存在が曠空《むなし》く未知なるものを光と秩序とをもって満すからである。しかし神をその御座《みくら》から斥《しりぞ》けた者にとっては、霊魂の国は、まさに、かのヘブライの詩人の言葉にあるごとく、「暗き地、死の陰の地」であって、秩序なく、彼処《かしこ》にては光明《ひかり》も黒暗《くらやみ》のごとき所なのである(ヨブ記、第十章第二十一、二十二節参照)。こうした者にとっては、この世も、またあの世も共に、幽霊の出没する世界なので、そこには鬼の姿に身を変えた気味の悪い幻のような恐怖が充満しているのである。
レグリィは、自分の心の中に眠っていた道徳的要素を、トムとの出会いによって、いつの間にか目覚めさせられていた、――しかしそれは、決然とした悪の力によって抵抗されんがためにのみ目覚めさせられたようなものであった。とはいえ、なお彼には言葉や、祈りや、讃美歌を聞くたびに心の中に起こるあの暗い、内部の世界の戦慄や動揺があって、それが反応を起こして迷信的な恐怖となるのであった。
彼に対するキャシィの影響は、不思議な、奇妙なものであった。彼は彼女の所有者であり、彼女の暴君であり、そして虐待者であった。彼女はまた、彼が知ってのとおり、完全に、かついかなる救助、救済の可能性もなく、彼の手中にあった。しかもなお彼は、どんなにひどい残酷な男でも、強い女性的な影響力をたえず受けながら生活しているうちには、その力に大きく支配されずにはいられなくなるという一般の例にもれなかった。彼が初めて彼女を買ってきた当時、彼女は、いつか自分の口からも話したとおり、りっぱな家庭に育った女性であった。そして彼はたちまちなんの憚るところなく、彼女を己《おの》が獣性の足下に踏みにじったのであった。しかし、時の流れと、彼女を堕落に追いやるさまざまな力と、絶望とが、彼女の女性らしさを硬化させ、いっそう烈しい激情《パンションズ》(原文には「情欲」の意味もある)の焔をかき立てるにつれて、彼女はいつの間にかある程度まで彼の主人《ミストレス》(原文には「情婦」の意味もある)になっていた、そこで彼は、彼女に暴威を振るいながらもまた彼女を恐れていたのである。
レグリィに対するこうした力は、幾分の狂気が彼女の口にするあらゆる言葉や言葉の言い回しに、奇妙な、うす気味の悪い、落着かぬ調子を与えるようになって以来、彼にとってはますます煩《わずらわ》しいものとなり決定的なものとなった。
キャシィが自分の部屋を変えてから一、二晩後のこと、レグリィは彼の居間で、ちらちら燃える薪の火のかたわらに、すわっていた。火はおぼつかない光をあたりに投げていた。嵐のような、風の強い夜であった。ぐらぐらする古い家の中では、じつにさまざまの、名状し難い物音がしていた。窓はがたがたと鳴り、鎧戸《よろいど》はばたばたとあおられ、風はがなりながら、どなりながら、煙突を転げ込んできて、そのたびごとに、煙や灰を吹きあげて、まるでその後から悪魔の大軍が現われるのではないかと思わせるほどであった。レグリィは、しばらく前に帳面をつけ終えて、新聞を読んでいた。一方キャシィは、片隅にすわってむっつりと火を見つめていた。やがてレグリィは新聞を置くと、宵《よい》のうちキャシィが読んでいた何か古い本がテーブルの上に置いてあるのに気がついて、それを取りあげると、ページをめくりはじめた。それは血なまぐさい殺人や幽霊伝説や物の怪《け》のたたりなどの話を集めたもので、粗末な装丁の插画《さしえ》入りの本であったが、一度読みはじめたら最後、不思議な魔力で読者をしばりつけるようなものであった。
レグリィは、ふんとか、へんとか言ってばかにしたような様子であったが、それでも一ページ一ページとめくっては読んでいった。そしてとうとう、かなりのところまで読んでしまってから、ののしり声と一緒にその本を投げ出した。
「おめえ、まさか幽霊なんてものがあると思ってるんじゃねえだろうな、ええ、キャス?」と彼は火ばさみをつかんで薪の火をなおしながら言った。「おめえは分別もある女だから、変な物音ぐらいでおめえがびくびくするようなこたあねえと思ってたんだが」
「どう思おうと私のかってだろ」とキャシィは陰気な顔をして言った。
「海にいたころは仲間の連中がよく化物の話をしやがってこのおれを脅かそうとしたもんだが」とレグリィは言った。「とうとうできなかったぜ。そんな馬鹿話に驚くようなおれじゃねえからな、ほんとうだぜ」
キャシィは隅の暗がりからじっと彼を見つめていた。彼女の目には、いつもレグリィに不安を与えるようなあの不思議な光がきらめいていた。
「あの音は、ねずみや風の音だったんだ」とレグリィは言った。「ねずみってやつは、やけに変な音をたてやがるからな。おれはよく船底の艙《くら》ん中でやつらが騒いでいるのを聞いたもんだ。それに風ってやつは、おおそうだ! 風ってやつは何の音のようにでも聞こえてきやがるんだ」
キャシィは、レグリィが自分にじっと見つめられて落着きを失っていることを知っていた。そして、それゆえに、彼女は一言も返事をせず、じっと彼に視線を向けたまま、前と同じようにあの不思議な、不気味な表情をそそいでいた。
「おい、なんとか言え、こいつ、――おめえ、そうは思わねえのか?」とレグリィは言った。
「ねずみたちが階段をおりてきて、廊下を通って、おまえさんが鍵をかけておいたドアをあけて、それに椅子を立てかけたりするようなことができるかね?」とキャシィは言った。「そしてそっと、そっと、そーっとおまえさんの枕もとへやって来て、こんなふうに手をにゅーっと出すことができるかね?」
キャシィは、そう言って近よって来ながらも、そのぎらぎらと光る目をレグリィにじっと注いでいた。彼の視線は、魔夢にうなされている者のように、彼女にすいつけられていたが、ついに彼女が氷のように冷たい手を彼の手に置いて言葉を切った時、彼はののしり声をあげながら飛びすさった。
「こいつ! 何をぬかしやがるんでえ? だれもそんな真似はできるもんか?」――
「ああ、そうさ、――むろん、できっこないよ、――私、できたとでも言ったかい?」とキャシィは、ぞっとするような嘲りの薄笑いを浮かべて言った。
「だがおめえ、ほんとうに見たのか――見たことがあるのか?――おい、キャス、いってえ何なんだ、さあ、――言ってみろ!」
「おまえさん、自分であそこへ寝てみりゃいいんだよ」とキャシィは言った、「そんなに知りたかったらね」
「そいつはあの屋根裏部屋から出てきやがったのか、キャシィ?」
「そいつって、――何がさ?」とキャシィは言った。
「だから、今おめえが話していたその――」
「私は何も話しゃしないよ」とキャシィはいかにも不愛想なむっつりした顔で言った。
レグリィは不安そうに部屋の中をあちこちと歩きまわった。
「こいつはなんとか調べさせてやる。いやこのおれがじかに今夜調べてやる。ピストルを持って行って――」
「そうよ」とキャシィは言った。「あの部屋で寝てごらん。おまえさんがそうするところを私、見たいもんだ。ピストルを撃つんだよ、――おやりよ!」
レグリィは足を踏みならして、烈しくののしりわめいた。
「罰あたりなことを言うのはおよし」とキャシィは言った。「だれが聞いているかわからないからね。ほら! 今のはなんだろう?」
「えっ?」とレグリィは、ぎくりとしながら言った。
部屋の片隅に立っている、重そうな古いオランダ時計が鳴りだして、ゆっくりと十二時を打った。
どういう理由からか、レグリィは口もきかず、身動きもしなかった。漠然とした恐怖が彼にのしかかってきた。一方キャシィは、鋭い、嘲笑《あざわら》うような光を目に浮かべて、彼をじっと見つめながら、時計の音を数えていた。
「十二時だわ。さあ、これからよ」と彼女は、くるりと背を向けると廊下へ通じる戸をあけて、じっと耳をすますような様子で立った。
「ほら! あれはなんだろう?」と彼女は指をあげながら言った。
「ただの風さ」とレグリィは言った。「やけに吹いてやがるのがおめえには聞こえねえのか?」
「サイモン、ここへ来てごらん」とキャシィは、ささやくように言うと、彼の手をとって階段の下へ連れて行った。「あれがなんだかおまえさんにわかるかい? ほら!」
鋭い悲鳴が階段を伝って響いてきた。それは屋根裏部屋から聞こえてきたのである。レグリィの膝は互いに激しくぶつかりあった。顔は恐怖でまっさおになった。
「おまえさん、ピストルを持って行ったほうがよくはないかい?」とキャシィは、レグリィの血を凍らせてしまうような薄笑いを浮かべながら言った。「これを調べるのは今が一番だからね。私はおまえさんにすぐ上がっていってもらいたいんだよ。今やってる最中だからね」
「おれは行かねえ!」とレグリィはののしりながら言った。
「なぜだい? 幽霊なんてものはありゃしないよ、そうだろう! さあ!」と言ってキャシィは回り階段を笑いながら身軽に駈け上がると、彼のほうを振り返った。「おいでよ」
「おめえはきっと悪魔なんだ!」とレグリィは言った。「おりてこい、この鬼婆、――おりてくるんだ、キャス! 行くんじゃねえ!」
しかしキャシィは物すごい笑い声をたてて、そのまま駈け上がっていった。レグリィは、彼女が屋根裏部屋へ通じる入口の扉をあけるのを聞いた。すると激しい一陣の風が吹き下ろしてきて、彼が手にしていたろうそくの火を消した、と同時に恐ろしい、この世のものとは思われぬ悲鳴が起こった。彼にはその悲鳴が自分の耳の中で起こったように思えた。
レグリィは狂人のようになって客間へ逃げ込んだ。するとそこへ、すぐにキャシィが入って来た。青白い、落着きはらった、冷たい顔は復讐の鬼かと思えるほどで、目には相変わらずあの恐ろしい光をきらめかせていた。
「これでおまえさんも得心がいったろ」と彼女は言った。
「畜生、キャス!」とレグリィは言った。
「どうしてだい?」とキャシィは言った。「私はただ上がって行って、戸をしめただけじゃないか。あの屋根裏部屋がどうかしたって言うのかい、サイモン?」と彼女は言った。
「おめえの知ったこっちゃねえ!」とレグリィは言った。
「おや、そうかい? じゃあいいよ」とキャシィは言った。「とにかく、私はあの下で寝ないで幸いだ」
夜半に風が強くなることを宵のうちから見越していたキャシィはあらかじめ屋根裏部屋へ上がってそこの窓をあけておいたのである。だからもちろん、戸をあけた瞬間に風が吹きおろして行って、火を消したのであった。
こうした一例によっておわかりのように、キャシィはレグリィに対していろいろと手を使い、ついに彼は、あの屋根裏部屋を調べるくらいなら獅子の口の中に自分の頭を突っ込むほうがましだと思うようになった。そうしている間にもキャシィは毎晩、他の者がみんな寝静まったころをみはからって、ぽつぽつと注意深くこの部屋に食料を運び込んでは、しばらくの間そこで暮らしていけるように準備していた。彼女は自分の衣類と、エミリーンの衣類とを少しずつ、大方そこへ持っていった。万事が整って、二人は自分たちの計画を実行に移す適当な機会を待つばかりとなった。
そこでキャシィはレグリィを言葉巧みにくどき、この待機のおりを利用して、自分を隣の町へ一緒に連れて行かせるように仕組んだ。その町がレッド・リヴァに接しているからなのである。超自然的なと言えるほどにまで磨ぎすまされた鋭い記憶力をもって、彼女はその道のあらゆる曲がり角を一つ一つ注意して観察した、そしてこの道を通って逃げるのにはたしてどれくらいの時間がかかるかと胸の中で計算したのである。
準備がすべて整い、いよいよ決行《アクション》(作者は「開幕」の意味にもかけている)となると、読者の皆さんは、おそらく、幕場幕場をとびこえて早く最後の|大立回り《クーデター》をご覧になりたいとお思いであろう。
その日は、夕暮れ近いころであった。レグリィは近所の農場へ馬で出かけて留守であった。何日か前からキャシィは常になく愛想のいい気のおけぬ態度をとっていた。そこでレグリィと彼女との折合いも見たところじつにうまくいっているように思われていた。今、われわれは、彼女とエミリーンとが、エミリーンの部屋で忙しそうに二つの小さな包を選りわけ、とりまとめている姿を見ることができる。
「そら、これだけ大きければ十分だわ」とキャシィが言った。「さあ帽子《ボネット》をおかぶり、そして出かけよう。ちょうど頃合いの時間だからね」
「でも、まだ見つけられるわ」とエミリーンは言った。
「わざと見つけさせるのよ」とキャシィは冷然として言った。「どっちみち、あの連中は追ってくるにきまっているんだからね。つまりこういうふうにするんだよ、――私たちは裏口からこっそり抜け出して、奴隷長屋《クォーターズ》のわきを駈けて行く。サムボゥかクィムボゥがきっと私たちを見つけるからね。連中は追って来るだろうよ、そしたら私たちは沼地へ逃げ込む。すると、連中はそれ以上は追って来られないから、一度ひきかえして警報を告げたり、犬を放したりなんかする。そして、連中が、いつものように、その辺をまごまごしたり、互いに転がしあったりしている間に、あんたと私は家の裏を流れている小川のほうへそっと走っていって、その川の中を歩いて裏口のすぐ前まで来る。そうすれば犬は一頭だって私たちの足跡を嗅げないからね、臭いは水には残らないもの。家の者がみんな飛び出して私たちを探しているすきに、私たちは裏口からひょいと入って、屋根裏部屋へ上がってしまう、あすこには私が、あの大きな箱の中で寝られるようにすてきなベッドを作っておいたわ。あの部屋に当分のあいだかくれていなきゃならないからね。というのはね、レグリィのやつ、天地をかきわけてでも私たちを探すだろうからよ。あの男は他の農園《プランテイション》の監視人まで何人も呼び集めて、大がかりな奴隷狩りをやるだろうよ、そしてあの沼地の中を隈《くま》なく探しまわるだろうよ。あいつは、おれんところから逃げられたやつは一人もいねえんだと言って自慢しているんだからね。だからゆっくりと狩りをさせてやるのさ」
「キャシィ、すばらしい計画ね!」とエミリーンは言った。「おねえさんのほかにだれがこんな計画を思いついたでしょうね?」
キャシィの目には、満足の色も得意の色も見られなかった、――あるのはただ、絶望的な固い表情だけであった。
「さあ」と彼女は、エミリーンのほうへ手を差しのべながら言った。
二人の逃亡者は音もなくそっと家から抜け出して、夕闇《ゆうやみ》せまる中を、長屋《クォーターズ》伝いに飛ぶように走って行った。西の空には、銀の印形を捺《お》したような三日月が出て、夜の訪れをしばらくの間、遅らせていた。キャシィが予想したとおり、農園を取りまく沼地の端のすぐ近くまで来た時、二人は自分たちを呼びとめる声を耳にした。それは、しかし、サムボゥではなく、レグリィであった。彼は激烈な呪いの言葉を吐きながら、二人の後を追って来た。その声を聞くと、気の弱いエミリーンはすっかり怖気《おじけ》づいてしまった。そして、キャシィの腕をつかみながら彼女は言った、「おお、キャシィ、私、気絶しそうだわ!」
「そんなことをしたら、私が殺してやるよ!」と言ってキャシィは小さな、ぎらぎら光る短剣を引き抜いて、それを少女の目の前にひらめかせた。
この牽制《けんせい》はその目的を遂げた。エミリーンは、気絶することなくキャシィと一緒に、迷路のような沼地の一部に飛び込むことができた。沼地はあまりにも深くかつ暗かったので、レグリィも加勢なしに二人の後を追おうなぞと考えることはとても望みえないことであった。
「まあいい」と彼は残忍な顔つきで含み笑いをしながら言った。「どっちみち、やつらは自分から罠に飛び込みやがったんだ――やくざ女どもめが! もう逃げようたって逃げられやしねえ。後でこっぴどい目にあわしてやるからな!」
「おーい、みんな! サムボゥ! クィムボゥ! ほかの野郎ども!」とレグリィは奴隷長屋のほうへ帰って来ながら叫んだ、ちょうどその時、男も女も仕事から帰って来たところであった。「沼地ん中へ二人逃げ込みやがった。だれでもいい、やつらを捕めえた者には五ドルやるぞ。犬を放せ。猛虎号《タイガー》も|怒り号《フュアリー》もほかの犬もみんな放せ!」
この報《しら》せによってまき起こされた大騒ぎは間髪を容れなかった。たちまち大ぜいの男たちが、差出がましく、ご奉公に飛び出した、一つには賞金ほしさと、一つには奴隷制度の最も有害な影響の一つであるあの卑屈なへつらいの気持からとであった。ある者はこっちへ、ある者はあっちへと走った。ある者は松明《たいまつ》を取りに。ある者は犬を放しに。ほえたてる獰猛《どうもう》な犬の鳴き声は、その場の興奮をいやがうえにもあおった。
「旦那、射ち殺してもいいんですかい、もし捕まらなかったら?」と主人から施条銃《ライフル》を渡されたサムボゥが言った。
「キャシィのほうなら射ってもいい、おめえがやりてえって言うならな。やつはもう地獄へ帰って行ってもいいころだ。だが娘のほうは射つなよ」とレグリィは言った。「さあ、野郎ども、抜かるんじゃねえぞ。捕めえた者には五ドルだ。ほかの者にも酒を一杯ずつふるまってやるぞ」
一隊は、あかあかと燃える松明《たいまつ》を手に、歓声をあげ、大声でどなり、人間と獣との獰猛な叫び声をあげながら沼地へと向かった。そのすぐ後を家じゅうの召使いたちが一人残らずついて行った。したがって、キャシィとエミリーンが裏口から忍び込んだ時には、家の中にはだれ一人いなかった。追手の歓声と叫び声はまだ辺りの空気を満たしていた。そしてキャシィとエミリーンが居間の窓から見ると、松明を持った一隊が沼地の縁沿いに、てんでに散って行くのが見えた。
「ほら、ご覧なさい!」とエミリーンは指さしながらキャシィに言った。「狩り出しが始まったわ! 松明があんなにゆれて! ほら! 犬よ! 聞こえるでしょ? 私たちがあそこにぐずぐずしていたら、せっかくの機会も一文の値打ちもなくなってしまっていたわね。おお、どうか後生ですから、私たち、かくれましょうよ。さあ早く!」
「あわてることはないわ」とキャシィは冷然と言った。「みんな狩りに出てしまっているんだからね、――晩の余興のつもりでついていったんだよ! そのうち私たちも上がるからね。その間に」と言って彼女は、レグリィがあわててそこへ脱ぎすてて行った上着のポケットから、おもむろに鍵を取り出した、「その間に私たちの旅行に必要なものを少しばかり頂くとしようか」
彼女は机の錠をあけて、中から札束を取り出すと手早く数えた。
「おお、いけないわ、よしましょうよ、そんなこと!」とエミリーンは言った。
「いけないだって!」とキャシィは言った。「どうして? 私たち、沼地の中で餓死してもいいの、それとも自由州へ無事に行けるものを持って行くほうがいいの? お金があればなんでもできるのよ」そう言いながら彼女は金を懐中にしまった。
「それじゃ盗んだことになるわ」とエミリーンは心配そうに小声で言った。
「盗んだことに!」とキャシィは冷笑しながら言った。「肉体や霊魂を盗む者たちには、私たちをとがめる筋合いはないわ。このお金だってみんな盗んだものなんだからね、――かわいそうに、喰うものも喰わされず、汗水流して働かされている人たちから盗みとったお金なのよ、そしてこのかわいそうな人たちは、あげくの果ては地獄に落ちて、悪魔にこき使われなければならないんだからね。そんなやつこそほんとうの盗人《ぬすっと》じゃないの! さあ、おいで、そろそろ屋根裏部屋へ上がったほうがよさそうだよ。あそこへは、ろうそくもたくさん用意したし、本も少し持っていってあるから退屈はしないよ。大丈夫、あそこへは絶対に私たちを探しには来ないからね。もし来たら、私が幽霊の真似をして連中をおどかしてやるわ」
エミリーンが屋根裏部屋へ入った時、大きな木箱が目にとまった。以前大きな家具の運搬に使われたもので、今それは、横倒しにして、口を壁のほうに、というよりはむしろ軒のほうに、向けて置かれてあった。キャシィは小さなランプに火をともした、そして、軒の下を這うようにして回り込み、二人は箱の中へ身を落着かせた。中は小さな敷蒲団《しきぶとん》が二枚敷いてあって、枕もいくつか用意してあった。すぐそばにあるもう一つの箱には、ろうそくやら、食料やら、旅に必要な衣類やらがじゅうぶんに貯えられていて、衣類なぞはキャシィの手で驚くほど小さな包みにまとめられてあった。
「ほら」と言いながらキャシィは、手にしていたランプを小さな釘に吊した。彼女は前もって箱の内側にランプ用の釘を打ちつけておいたのである。「当分の間、ここが私たちの家になるのよ。どお気に入った?」
「ほんとうにあの人たち、この部屋を探しに来ないかしら?」
「サイモン・レグリィにそんなことができたら見てやりたいくらいだわ」とキャシィは言った。「絶対に来るもんですか、あの男は、近寄らないでいられりゃこんなありがたいことはないと思っているんだからね。召使いたちはみんな、ここへ顔を突き出すくらいならその場で射ち殺されたほうがましだと思っているわ」
その言葉に幾分安心したのか、エミリーンはほっと枕に背をもたせかけた。
「あれはどういう意味でしたのキャシィ、おねえさん、さっき私を殺すなんて言ったでしょう?」と彼女は無邪気にたずねた。
「あんたが気絶しないようにと思ってね」とキャシィは言った、「で、ああ言ったのよ。でも、いい、エミリーン、あんたはどんなことが起こっても気絶なんかしないと心に決めておかなければだめよ。気絶なんかしている場合じゃないんだからね。あの時、私がああして脅してやらなかったら、今ごろはあの人でなしに捉まっていたかもしれないんだから」
エミリーンは身を震わせた。
二人はしばらくの間、黙っていた。キャシィはフランス語の本を読みだした。エミリーンは、極度の疲労から、うとうとしはじめ、いつしかほんとうに眠ってしまった。そのうち声高な叫び声、どなり声、馬の蹄《ひずめ》の音、犬の吠える声に突然おこされた。彼女は微かな悲鳴をあげて跳びおきた。
「連中がもどって来ただけよ」とキャシィは冷然と言った。「怖がることはないわ。この節穴からのぞいてごらん。みんなあそこにいるのが見えるでしょ? サイモンも今夜はこれで諦めなくちゃならないわ。ほら、あいつの馬、あんなに泥だらけになって。沼地の中を狂い回っていたんだわ。犬もすっかりうなだれているじゃないの。ああ、ごりっぱな旦那さま、あなたさまは何度も何度もそのような狩りを遊ばさなくてはなりませんのね、――獲物はそんな所におりませんのに」
「おお、声を立てないで下さい!」とエミリーンは言った。「もしあの人たちに聞こえたらどうするの?」
「もし聞こえたら、なおさらここへは近寄らなくなるわ」とキャシィは言った。「少しも危険はないわ。どんな音でも立てたいだけ立ててやればいいのよ、よけい効果があがるだけだからね」
そのうちに夜半の静寂が家じゅうを包んだ。レグリィは自分の不運を呪い、翌朝の恐るべき復讐を誓いつつ、床についた。
[#改ページ]
第四十章 殉教者
[#ここから1字下げ]
「天なる神の正しき人々を忘れたりと思うべからず!
たとえ人生がその共通の贈り物を拒もうとも、――
たとえ、打ちひしがれ、血潮ながるる心いだき、
人からも足蹴にされつつ死に行かんとも!
なにゆえなら、神はその悲しみの日々を御心に刻み、
苦き涙の滴《しずく》を数えいたもうからだ。
そしてまた、御国での久遠《くおん》の至福が
この世にて悩める神の子供らのすべてに与えられようからだ」――ブライアント
(この詩はウイリアム・カレン・ブライアント[一七九四〜一八七八]のものであるが、第一行目はH・B・ストウが筆を加えている)
[#ここで字下げ終わり]
この世では、どんなに長い道にもその終わりがある、――どんなに暗い夜もやがては朝になる。しかし永遠の仮借なき時の歩みは、悪しき人々の昼を永遠の夜へと、そして正しき人々の夜を永遠の昼へとたえずせきたてているのである。われわれは、つつましき友《トム》とともに、奴隷の谷をはるばるとかくのごとく歩んで来た。初めは、安逸と気儘《きまま》の、花咲き乱れる野をわたり、次いで、愛《いと》しきすべてのものからの胸はりさける別離の道をたどった。そして再び、われわれは太陽の光り輝く島に来て彼とともに待っていた。そこでは、寛大な幾つかの手が花をつんでは彼の鎖をかくしてくれた。そして、最後にわれわれは、この世の望みの、最後の光が消え失せて夜となってしまった時、彼の後からついて来て、この世の闇の暗黒の中に、御国の空が新しい、深遠な光を放つ星々で光り輝く様を見たのである。
曙《あけ》の明星は、今、山々の頂きを眼下に見おろし、天上の微風が昼の門の開きはじめたことを教えている。
キャシィとエミリーンとの逃亡は、前から機嫌の悪いレグリィを極度に刺激した。そして彼の怒りは、案の定、防禦のすべのないトムの頭上に落ちた。レグリィがあわただしく逃亡の報せを奴隷たちに伝えた時、トムの目はとたんに輝き、思わず彼は両手を差し上げた。レグリィはそれを見逃さなかった。彼はトムが追手の一隊に加わらないのを見た。彼はむりやりそれに加わらせようかとも考えた。しかし、以前、残酷な仕事に加わらせようと命令した時、頑《がん》として言うことをきかなかったのを憶えていたので、彼は、急を要する時に、トムと争いを始めてもつまらぬと思いなおした。
そこでトムは、トムから神に祈ることを学んだ数人の者たちと一緒に残って、逃亡者の無事を祈った。
レグリィが追跡に失敗してがっかりしながら帰って来た時、長いあいだ彼の心に積もってきたあのトムに対する憎悪が怖ろしいすさまじい形となって現われてきた。野郎は今日までずっとこのおれに楯《たて》をついてきやがった、――頑強に、強力に、のっぴきのならねえほどに、――おれが買ってきた時からずっとこの調子じゃなかったか? 野郎のからだの中にゃ悪魔が入っていたんじゃねえのだろうか、悪魔はじっと静かにしていやがるが、野郎のからだに地獄の火のような焔をたてているんじゃねえのか?
「おれは野郎が大嫌いだ!」とレグリィは、その夜、床《とこ》の上に起きあがって言った。「おれは野郎が大嫌いなんだ! それに野郎はおれのものじゃあねえのか? 野郎をおれの思うとおりにしちゃあいけねえのか? だれにじゃまができるというんだ?」そう言いながらレグリィは、拳をかたく握りしめ、それを烈しく振り回した。そうすることによって、自分の手中にあるものを粉々に打ち砕くことができるとでも思っているような様子であった。
しかし一方、トムは忠実で有用な召使いであった。そして、それゆえになおのことレグリィはトムをいっそう憎んだのであったが、それでもトムの利用価値を考えて幾分かは腹の虫を抑えていた。
翌朝、彼は心の中で、おれはまだ何も言うまい、近所の農園から犬や銃を持った連中を集めよう、そして沼地を取りまいて、組織的に狩をしてやろう、と決心した。もし成功すればそれでよし。しなかったらトムの野郎を呼び出して、そして――彼の歯はぎりぎりと鳴り、彼の血は煮えくりかえった――それからあの野郎を叩きのめしてやるか、さもなければ――心の中に怖ろしいささやきがあって、彼の魂はそれに賛成した。
読者の皆さんは、主人の関心は奴隷の十分な保護だとおっしゃるでしょう。しかし人間の狂った意志が猛威をふるっているこの男は、自分の目的を達するために、何ごとも承知のうえで、目もつぶらずに、己れの魂を悪魔に売り渡そうとしているのです。ですからこの男が彼の隣人(トムのこと)の肉体をこのうえ大切にするなぞということがあるでしょうか?
「ほら」とキャシィは、翌朝、屋根裏部屋から、節穴を通して偵察しながら言った、「今日もまた狩りが始まるよ!」
三、四人の馬に乗った者たちが家の前の空地を跳ねまわっていた。そして五、六頭の見なれぬ犬が黒人たちの抑えている引き綱から離れようと、互いにうなり合い、ほえ合いながらもがいていた。
その場にいる者たちの中の二人は、付近の農園の監視人であった。他の何人かは近くの町の旅籠屋の酒場《バー》で知り合ったレグリィの飲み仲間で、彼らはおもしろ半分にこの|奴隷狩り《スポーツ》をやりに来たのであった。この連中ほど怖ろしい顔つきをした一団は、おそらく、想像できぬくらいであった。レグリィはこの連中に気前よくブランデーを注いでまわった、そしてまた、この狩りのために方々の農園から派遣されて来た黒人たちにも同じように酒をふるまってやった。酒さえ飲ましておけば、こうした黒人たちは、奴隷狩りでもなんでもお祭り騒ぎでやるからである。
キャシィは節穴に耳をあてた。すると、朝風が家のほうへまともに吹いていたので、その連中の話はかなりよく聞きとることができた。じっと耳をすましている彼女の暗い厳しいしんけんな顔には、ただならぬ冷笑が浮かんだ。彼らは狩り出し区域の分担をきめたり、それぞれの犬の特徴を話しあったり、発砲する時の注意や捕まえた時の二人の処置についての注意をいろいろと話しあっていたのである。
キャシィは思わず身を退いた。そして両手を握りしめながら、天を仰いで、言った、「おお、偉大な全能の神さま! 私たちはすべて罪人です。でも私たち二人は、世の中の他の人たち以上にどんな罪を犯したからといって、このような目にあわされなければならないのでしょうか?」
そう訴える彼女の顔と声には恐ろしいほどのしんけんさがあった。
「いいかい、エム、もしあんたがいなかったら」と彼女はエミリーンを見つめながら言った、「私はあいつらのところへ出て行ってやるわ。そして、やつらのだれにでもいいから礼を言って私を射ち殺してもらうわ。だって、私なんか自由の身になったって、なんにもならないんだものね。私の子供たちが返ってくるわけじゃなし、この私が昔の私に帰れるわけのものでもないんだから」
エミリーンは、子供らしいあどけなさから、キャシィのこの暗澹たる様子になかば恐怖を感じた。少女はとほうに暮れた顔をしていたが、何も答えなかった。彼女はただキャシィの手をとると、優しくそれをなでた。
「よしてちょうだい!」とキャシィは手を引っ込めようとしながら言った。「私に、あんたを愛させようとするんだね。でも私はもう二度と何も愛しはしないつもりだよ!」
「お気の毒なキャシィ!」とエミリーンは言った、「そんなふうに考えてはいけないわ! もし神さまがあたしたちに自由をお与え下さったら、神さまはお嬢さんを返して下さるかもしれないわ。とにかく、あたしはほんとうの娘のようになっておねえさんにお尽くしします。あたし、あのかわいそうなおかあさんにはもう二度と会うことはできないのを知っていますもの!あたし、おねえさんを愛します、キャシィ、おねえさんがあたしを愛して下さろうと下さるまいと!」
その優しい、子供らしい心は、勝利を得た。キャシィはエミリーンのかたわらににじり寄るとその首を抱いて、柔らかなとび色の髪をなでた。そしてエミリーンはその時、キャシィの美しい目の光に驚きを感じた、それは今、涙にぬれてやわらかに輝いていたのである。
「おお、エム!」とキャシィは言った、「私は自分の子供たちに飢え、あの子たちに渇いてきたのよ、そして私の目はあの子たちを求めるあまり衰えているの! ここは! ここは!」と彼女は胸をたたきながら言った、「すっかり荒れ果てて、うつろなの! もし神さまがあの子たちを返して下さるなら、その時は私も神さまにお祈りすることができるのだけれど」
「神さまを信じなければいけないわ、キャシィ」とエミリーンは言った。「神さまはあたしたちのおとうさまですもの!」
「私たちには神さまのお怒りがあるのよ」とキャシィは言った。「神さまはお怒りになって顔をそむけていらっしゃるのよ」
「ちがいます、キャシィ 神さまはあたしたちにもお恵みを下さいます! 神さまにおすがりしましょう」とエミリーンは言った、――「あたし、いつもおすがりしています」
狩り出しは長いあいだ、活発に、徹底的に行なわれたが、ついに成功しなかった。そして、深刻な、皮肉な顔つきで勝ち誇りながら、キャシィが見おろしている中をレグリィは疲れはて、意気消沈した様子で馬からおりていた。
「おい、クィムボゥ」とレグリィは、居間に入ってどっとからだを投げ出しながら言った。「おめえ、行ってトムの野郎をここへしょっぴいてこい、すぐにだぞ! あの野郎がこの事件の尻押しをしていやがるんだ。野郎の黒い皮を引んむいてでも白状《はか》してやる!」
サムボゥとクィムボゥは、互いに憎みあっていたけれども、腹の底からトムを憎んでいる点では二人とも心を一つにしていた。レグリィがこの二人に、初めのころ、自分の留守中はこのトムを総監視人にするつもりで買ってきたのだと話したからであった。これが二人の側に恨みを抱かせる原因となったのであるが、彼らはトムが主人の不興をかうようになったことを知ると、その恨みは、彼らの卑しい奴隷根性から、ますますつのっていたのであった。それゆえクィムボゥは主人の命令を施行するため威勢よく飛び出していった。
トムはその知らせを、覚悟して聞いた。なぜなら彼は逃亡の計画をすべて知っていたし、彼女たちが現在かくれている場所をも知っていたからであった。――そしてまた彼は自分がこれから相手にしなければならぬ男の狂暴な性質も、またその暴虐な力も知っていたからである。しかし彼はあの寄る辺ない彼女たちを欺くよりは死を選ぶべきことを神の名において強く感じていた。
トムは自分の籠を棉畑の木の列のかたわらにおろして、天を仰ぎながら言った。「わが霊魂《たましい》をなんじの手《みて》にゆだぬ! おお主なるまことの神よ、なんじはわれを贖《あがな》いたまえり!」(詩篇、第三十一篇第五節およびルカ伝、第二十三章第四十六節参照)それから彼は自分を掴むクィムボゥの乱暴な、残虐な手に従容《しょうよう》として身をまかせた。
「そうだ、そうだ!」と大男はトムを引きずりながら言った。「てめえは今度こそひでえ目にあうんだ! 旦那は今ごろきっと背中の毛を逆立てて、てめえを待っていらあ! ちょろちょろ逃げ出そうたって、もう、そうはいかねえ!いいか、てめえはがぶりっとやられるんだ、間違いっこねえ! 旦那の黒ん坊が逃げ出すのを手伝ったりしやがって、いまに、てめえがどんな吠え面をかくか見ていろ! どんなものを喰らうか見ていろ!」
こうした野蛮な言葉は一つとしてトムの耳には入らなかった!――より高い声がこう呼びかけたからである、「身を殺して後《のち》に何をもなしえぬ者どもを懼《おそ》るな」(マタイ伝、第十章第二十八節および、ルカ伝、第十二章第四節参照)。その哀れな男の神経や骨はこの言葉に震えた、それはまるで神の手に触れられたかのようであった。そして彼は一千の魂が一つになったような力を感じた。引きたてられてゆくトムの目に、棉の木や茂み、苦役の小屋、侮蔑のあらゆる光景が、疾走する車の側の景色のように彼の側を飛び去ってゆくように見えた。彼の魂は激しく震えた、――彼の家《ホーム》(天国のこと)が見えた、――そしてついに解放の時が近づいたように思えた。
「やい、トム!」と言いながらレグリィはつかつかと歩み寄って、トムの上着の襟《えり》くびを荒々しく掴んだ。そして燃え上がる激烈な怒りに歯をぎりぎりと鳴らしながら言った、「いいか、おれは腹をきめたんだ、てめえを殺してやるとな」
「そのようでございますね、旦那さま」とトムは静かに言った。
「おれはな」とレグリィはぞっとするような、恐ろしいほど落着いた態度で言った。「ちゃんと――それを――腹に――決めたんだ、トム、もしてめえがあの女どものことで、てめえの知っていることを白状しなかったらな!」
トムは黙って立っていた。
「てめえ聞こえねえのか!」とレグリィは怒り狂った獅子のように怒号して、足を踏みならしながら言った。「なんとか言え!」
「わし、何も言うことはごぜえません、旦那さま」とトムはゆっくりと、しっかりした、慎重な語調で言った。
「てめえ、おれに>知らねえとでもぬかしやがるのか、このまっ黒けのキリスト信者野郎め?」とレグリィは言った。
トムは黙っていた。
「さあ言え!」レグリィは猛然とトムを殴りつけながら怒鳴った。「てめえ、何か知っているはずだ」
「知っております、旦那さま。だが申し上げるわけにはゆきません。そんなことをするくらいなら、わしは死にます!」
レグリィは大きく息を吸い込んだ。そして、怒りを抑えてトムの腕をむんずと掴んだ。それから自分の顔をトムの鼻先きに近づけて、恐ろしい声で言った、「いいか、トム!――てめえは、以前おれが許してやったことがあるもんだから、いまおれが言っていることも本気じゃねえと思っていやがるんだろう。だが、今度という今度は、おれも腹をきめたんだ、そしててめえを殺しゃあどれだけ損をするかもはじいてみたうえでのことだ。てめえは、これまで、いつもこのおれに楯ついてきやがった。今度こそおれはてめえを降参させるか、さもなきゃ殺してやるかだ!――二つに一つだ。おれはてめえの中にある血を残らず数えて、てめえが降参するまで一滴《ひとたらし》ずつ絞り取ってやるからな!」
トムは主人を見上げて、答えた、「旦那さま、もしあなたが病気をなさっているとか、難渋なさっているとか、あるいは死にかけておいでなさるとかして、それをわしがお救いできるのでごぜえましたら、わしはこの心臓の血をあなたに差し上げましょう。そして、もしこの哀れなわしのからだの中の血を一滴残らず絞りとって、それであなたの尊い魂が救えるというのでごぜえましたら、主イエスさまがわしのために下せえましたと同じように、わしも喜んであなたに差し上げますだ。おお、旦那さま! こんな大きな罪をあなたの魂に負わせてはなりません!そんなことをなさったら、わしを傷つける以上に、あなたご自身を傷つけることになります!たとえあなたが、どのような酷いことをなさろうと、わしの苦しみはすぐに終わります。しかし、あなたが悔い改めなければ、あなたの苦しみは永久に終わることがないのでごぜえますよ!」
このほとばしり出るトムの真心は、荒れ狂う嵐の小止みに聞こえてきた不思議な天上の音楽の一節のように、一瞬あたりをしんとさせた。レグリィは呆然として、トムを見つめた。静まりかえった部屋の中は、あの古い時計の音だけが聞こえてきた。それはレグリィのあの無情な心に慈悲と試練の最後の時を静かに数えていた。
それもほんの一瞬のことにすぎなかった。わずかばかりの逡巡、――わずかばかりの、どちらとも決し難い、悔悟にも似た心の震えがあっただけなのである、――そして悪の心が、七倍もの猛威をふるって、再び戻ってきた。レグリィは怒りに泡をふきながら、かの犠牲者を床に殴りたおした。
流血と残虐の光景は、われわれの耳や心にはあまりにも大きな打撃である。こうしたことを平然と行なう神経の持主がいるからといって、だれでもがそれを平然と聞ける神経をもっているわけではない。われわれと同じ人間であり、われわれと同じクリスチャンであるものが受けなければならぬこの苦しみは、たとえ秘密の部屋の中であろうとも、語ることはできない。それは聞くものの心をあまりにも激しくかきむしるからである! それなのに、おおわが国よ!こうした不法なる行為がなんじの法律の保護の下に行なわれているのだ! おお、イエス・キリストよ! あなたの教会はこうした行為をただ黙って見ているだけなのです!
しかし、昔、あるお方の受け給うた苦しみは、拷問と侮蔑と恥辱の器《うつわ》を、栄光と栄誉と不滅の生命の象徴にと変えた。そしてそのお方の御心のあるところでは、卑しめの鞭も、流血も、侮辱も、キリスト教徒の最後の苦闘を栄光以外の何ものにもすることはできないのだ。
その長い夜、トムは孤独であったろうか、彼の勇敢な、愛に充ちた魂が、その古い小屋(トムはレグリィの居間から小屋に移されて更に拷問をうけたわけである)の中で、鉄拳や残虐の鞭に屈することなく耐え忍んでいる間、彼はたった一人であったろうか?
否! 彼のかたわらにはあるお方が、――彼にしか見えぬ、――「神の子のごとき」(ヘブル書、第七章第三節)彼にしか見えぬ、あるお方が立っていたのだ。
誘惑者《レグリィ》もまた彼のかたわらに立っていた、――しかしレグリィには、恐ろしい暴虐な意志のためにそのお方は見えなかった、――そして彼はトムに向かい、罪なき彼女らを裏切ることによって、この苦しみを避けるようにとたえず責めつづけた。しかしトムの勇敢な、誠実な心は永遠の磐《いわ》にしっかりとしがみついていた。主イエスのごとく、彼もまた、もし他の人々を救えば己れを救うことはできない(マタイ伝、第二十七章第四十二節参照)ことを知っていた。そしてまたどんなに烈しい暴虐も神への祈りと信頼の言葉以外は己れの口から絞り出すことはできないことを知っていた。
「もう少しで死んじまいますぜ、旦那」と、さすがにサムボゥもこの犠牲者の忍耐強さに心を打たれて言った。
「この野郎が降参するまで、手をゆるめるんじゃねえ! もっと殴れ!――もっと殴れ!」とレグリィは叫んだ。「白状しねえ限りこいつの血を一滴残らず絞り取ってやるんだ!」
トムは目をあけて主人を見上げた。「哀れな気の毒な人よ!」と彼は言った、「あなたにできることは、もうこれまでです! わしはあなたを心の底から赦します!」そして彼はまったく気を失ってしまった。
「畜生、こいつとうとう死んじめえやがったらしいな」とレグリィは近寄ってトムを見ながら言った。「うん、野郎、くたばりやがった! これでやっと、こいつの口も蓋《ふた》がしまったってえわけだ、――それがせめてもの慰みだ!」
そうだ、レグリィよ。しかしいったいだれになんじの魂の中のあの声を黙らせることができようか? なんじの魂は、ついに悔悛《かいしゅん》の時を失い、祈りの時を失い、希望の時を失ったのだ、そしてなんじの魂の中には未来永劫、消えることのない地獄の火がすでに燃え始めているのだ!
しかしトムはまだ死んではいなかった。彼の不思議な言葉と敬虔《けいけん》な祈りとは、最前から残虐な仕打ちの手先きとなってトムを苦しめていたあの野獣化した二人の黒人の胸をすら打った。そしてレグリィが小屋を立ち去るとすぐに、二人はトムを拷問台からおろして、無知なるままに、トムを生き返らせようと努めた、――そうすることがトムに対していくらかでも親切になることかと考えたのであろう。
「まったく、おれたちはとんでもねえ悪いことをしちまったもんだ!」とサムボゥが言った。「この報《むく》いは旦那のほうにだけ行って、おれたちのほうへは来ねえといいんだが」
二人はトムの傷口を洗った、――それからくず綿で粗末な寝床を作ってやると、トムをその上に寝かせた。そして一人はそっと屋敷へ行って、レグリィに、疲れたので自分が飲みたいのだがというような顔をしてブランデーを一杯ねだった。彼はそれをうまく持ち帰ってくると、トムののどへ流し込んでやった。
「おお、トム!」とクィムボゥが言った、「おれたちはおめえにえらくすまねえことをしていたなあ!」
「わし、心の底からあんたたちを赦してあげるよ!」とトムはかすかな声で言った。
「おお、トム! とにかく、イエスというのはどんな人なんだ、話してくれ?」とサムボゥが言った。――「一晩じゅう、おまえのそばにいたっていう、そのイエスってえ人は!――そりゃあどんな人なんだ?」
この言葉は力尽き、消えゆかんとしていたトムの魂を奮い立たせた。彼はあの奇《く》しきお方について、――その生涯《しょうがい》やその死やその永遠の存在や救いの力について簡単に、力強い言葉で語りきかせた。
彼らは泣いた、――この野蛮な二人の男がそろって泣きだしたのである。
「どうしておれは、この話を以前きいたことなかったんだろう?」とサムボゥは言った。「だがおれは信じる!――信じねえではいられねえ! 主なるイエスさま、どうかわしどもを憐れみ下せえ!」
「かわいそうに!」とトムは言った、「わしがこのすべての罪を負うことで、あんたたちをイエスさまのもとに導くことができさえしたら、わしは喜んで背負うのだが! おお、神さま!どうぞこの二つの魂を更に私にお与え下さい、お願いでございます!」
その祈りは叶えられた!
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第四十一章 若主人
それから二日後、一人の青年が、|むくろじ《チャイナ・ツリー》の並木路を、軽快な馬車を駆ってやって来た。そして、手綱をあわただしく馬の首に投げだすと馬車から跳び下りて、この屋敷の持主に面会を求めた。
それは、ジョージ・シェルビィであった。そして、彼がどうしてここへやって来たかを説明するために、われわれはしばらく物語を前にさかのぼってみなければならない。
シェルビィ夫人に宛てたミス・オフィーリアの手紙は、ある不運な事故によって一、二か月の間、どこかの辺鄙《へんぴ》な郵便局に留め置かれていて、その後ようやく目的地に届けられた。そしてもちろんその手紙が受け取られる以前に、トムはすでにはるかレッド・リヴァの沼沢地の中に姿を消していたのである。
シエルビィ夫人はその知らせを、このうえなく深い関心をもって読んだ。しかしそれについてただちにどうこうといった処置をとることは不可能であった。彼女はその時、夫の病床につきっきりで、熱病に冒された夫は譫言《うわごと》を言うほどの危篤状態だったのである。坊っちゃんのジョージ・シェルビィは、今では、少年から背の高い青年に成長して、母親の、いつも変わらぬ忠実な助手になっていた。そして彼女の唯一の頼りとして父親の仕事を管理していた。ミス・オフィーリアは万一のことを考えて、セント・クレア家の整理にあたった弁護士の氏名を書き添えてよこした。そこで、この急場に、なしえられたことといえば、せいぜいその弁護士に問合せ状を出すぐらいのことであった。しかし二、三日してシェルビィ氏が突然亡くなったため、彼女は言うまでもなく、やむをえず、他のことにしばらくの間は関心を奪われてしまった。
シェルビィ氏は妻の力量を十分信頼して、彼女一人を遺言執行者に指名し、自分の遺産を管理させた。そこでたちまち、大きな、複雑な仕事の山が、彼女の手に持ち込まれたのである。
シェルビィ夫人は持ち前の力を発揮して、もつれ合った蜘蛛《くも》の巣を解きほぐすような、この複雑な仕事の処理に専念した。そしてしばらくの間、彼女とジョージとは、勘定書を集めてそれを調べたり、財産を売って借財を精算したりすることに多忙をきわめた。というのも、それは、シェルビィ夫人が一度なにもかも一切をはっきりさせ、きちんとした形にしてみて、その結果、自分たちが何をやったらよいかを確かめてみたいと決心したからであった。そうこうしているうちに、二人は、ミス・オフィーリアが知らせてきた例の弁護士からの返事を受け取った。しかしその手紙には、先方は問合わせの件に関しては何も知らないむね認《したた》めてあった。すなわち該当する男は公売に付せられ売却されたということ、そして当方はその代金を受領したがそれ以外この問題については与《あずか》り知らぬ、ということであった。
ジョージもシェルビィ夫人も、この結果には安閑としていられなかった。そこでジョージは六か月ほど後、母の用事が川下にできたのを機会に、自分でニュー・オーリアンズまで足をのばして、調査を押しすすめ、トムの居場所をつきとめ、彼を連れ戻したいものと決心した。
何か月も、埒《らち》のあかぬ捜査が続いた後、ある日まったくの偶然から、ジョージはニュー・オーリアンズで、彼の求めていた情報を持ちあわせている男に出会った。そこで懐に金を用意して、われわれの英雄はレッド・リヴァをさかのぼる蒸汽船に乗り込み、友人トムを探し出し買い戻そうと、ここへやって来たのであった。
彼はただちに家に案内され、そこの居間でレグリィに会った。
レグリィは見知らぬこの青年を無愛想な態度で迎えた。
「実は」と青年は言った、「私はあなたがニュー・オーリアンズでトムという男を買われたと聞きました。あの男は以前私の父の所に居た者なので、私にお譲りいただけないものかと、それをうかがいに上がったのです」
レグリィの額は曇った、そして彼は烈しい口調で言った。「ああ、たしかにおれはそんな男を買った、――そしてまたそれが大した掘出し物ときてやがるんだ! あのくれえ人に楯をつく、生意気な、ふてえ犬野郎はほかにゃあいねえ! おれんとこの黒ん坊を唆《そその》かして逃しやがった。女二人、どっちも八百から千両はするってえやつを逃しやがったんだ。そいつは野郎が自分で白状しやがったんだから確かだ、それで、おれが女どもの居所を言えというと、野郎、生意気に、知ってはいるが言うことはできねえなぞとぬかしやがる。それでおれがこれまで一度も黒ん坊にしたことがねえくらいの物すげえ鞭をくらわしてやったんだが、それでも口を割らねえ。きっと野郎は死のうとしていやがるんだ。だが、うまく死ねるかどうか、わかったもんじゃねえ」
「今どこにいるのです?」とジョージは急《せ》き込んで言った。「会わせて下さい」青年の頬はまっかに燃え、目は火のようにきらめいていた。しかし彼は用心深く、まだ何も言わなかった。
「あの小屋ん中にいるだよ」と、ジョージの馬を抑えていた少年が言った。
レグリィはその少年を蹴とばして口ぎたなくののしった。しかしジョージは一言も口をきかず、小屋のほうを向くと、急いで歩きだした。
トムは、あの運命の夜から二日間、そこに横たわっていた。苦痛はなかった。苦痛を感じる神経はことごとく麻痺し破壊されていたからである。彼は、ほとんど、静かな昏睡状態を続けていた。力強いがっしりとした骨組の、肉体という法律が、その監禁している魂を容易に釈放しようとしないのである。小屋には、夜の暗闇にまぎれて、こっそりと、訪れてくる哀れな寄る辺ない人々がいた。彼らは、トムがいつも惜しみなく与えたあの愛の奉仕に幾らかでも報いようと、自分たちのわずかな休息の時間を盗んでは、やって来たのであった。実際この哀れな弟子たちには、これといってトムに与えられるものは何もなかった、――ただ一杯の冷たい水があっただけである。しかしその水は心をこめて捧げられたのであった。
涙が、トムの誠実な、すでに感覚を失った顔の上に落ちた、――それは、死を前にした彼の愛と忍耐によってついに目覚めさせられたあの哀れな、無知な、闇に迷える人々の流す遅過ぎた悔悛の涙であった。そして悲しい祈りがトムのために、彼らがただその名しか知らず、しかも知るのにあまりにも遅過ぎたあの救い主イエスに向けて捧げられた。しかし主は、こうした無知なる人々の、心からの祈りをけっして聞き流すことはないのである。
キャシィは、例の隠れ場所からこっそり抜け出して、立ち聞きしたことから、自分とエミリーンとのためになされたこのトムの犠牲的行為を知って、昨夜は、見つけられる危険もかえりみず、この小屋に姿を見せた。そして慈愛に満ちたトムの魂が、最後の力をふりしぼってささやく、死を前にした言葉に心を動かされて、その長い絶望の冬は去り、幾年月ものあいだ張りつめていた氷も溶けて、この暗い、絶望的な女は涙を流して祈ったのである。
ジョージが小屋に足を踏み入れた瞬間、彼は頭がぐらっとし、胸がぐっとむかついてくるのを覚えた。
「なんということだ、――これはいったいなんということだ!」と彼はトムのかたわらにひざまずきながら言った。「アンクル・トム、ぼくのかわいそうな、かわいそうな友よ!」
その声の中の何かが、死にのぞむトムの耳に入った。彼は静かに頭を動かし、微笑を浮かべて、言った、
「イエスは死の床を
綿毛の枕のごとく柔らかになし給う」
この哀れな友の上に身を屈めた時、青年の目からは、けっしてその雄々しい心の不名誉となることのない涙が、滴り落ちた。
「おお、アンクル・トム! 目をあけておくれ、――どうかもう一度口をきいておくれ! ほら! ジョージ坊っちゃまだよ、――おまえがかわいがってくれたあのジョージ坊っちゃまだよ。ぼくがわからないのかい?」
「ジョージ坊っちゃま!」とトムは目をあいて、微かな声で言った。「ジョージ坊っちゃま!」彼は怪訝《けげん》そうな顔つきであった。
そのうち、だんだんと、はっきりした考えが、彼の魂を満たしてゆくように思われた。うつろな目が、じっと一点を見つめるようになって、輝きはじめた。顔全体に光がさしてきた。両手がかたく握りしめられた。そして涙が、頬を伝って流れ落ちた。
「おお、ありがとうごぜえます神さま! これでもう、――これでもう、――わしは思い残すことはごぜえません! 皆さんはこのわしをお忘れではなかった。それを知ってわしの魂は温まりました。わしの心は喜びでいっぱいでごぜえます! もうこれでわしは、心おきなく死んでゆけます! ありがとうごぜえます神さま、おお、心からお礼申し上げます!」
「ぼくはおまえを死なせやしないよ! おまえは死んじゃいけないんだよ、死ぬなんて考えてはいけない! ぼくは、おまえを買いもどして家へ連れて帰ろうと思って、やって来たんだからね」とジョージは激しい口調で言った。
「おお、ジョージ坊っちゃま、もう遅過ぎます。神さまがわしをお買いになって、いま、わしを家《ホーム》に連れて行こうとなさっているのでごぜえます、――そして、わしも行きたいのでごぜます。天国はキンタックよりもよいところでごぜえますでの」
「おお、死なないでおくれ! そんなことを言われるとぼくまでが死にそうだ!――おまえがどんなに苦しんだか、それを思うとぼくの胸ははりさけそうだ、――そしておまえはこんな、こんな古ぼけた小屋に寝かされて! かわいそうな、かわいそうなやつ!」
「わしをかわいそうだなぞとおっしゃらないで下さいまし!」とトムは厳粛な顔で言った。「わしはたしかにかわいそうなやつでごぜえました。しかしそれはもう、みんな過ぎ去った昔のことでごぜえます。わしは今、栄光《みさかえ》の戸口にいて、そこへ入ろうとしているところなのでごぜえます! おお、ジョージ坊っちゃま! 御国が来たのでごぜえます! わしは勝利を得たのでごぜえます!――主なるイエスさまがそれをわしにお授け下さいましたのでごぜえます! 主の御名に栄光あれ!」
ジョージは、とぎれとぎれに語られる、これらの言葉のもつ真意、熱情、威力に畏敬の念を禁じえなかった。彼は黙然としてトムの顔を見守っていた。
トムはジョージの手を握りしめて、そして続けた、――「どうぞ、わしの帰りを待っているあのクロウィには、かわいそうに! まだ何も話さねえで下せえまし、わしがこんなふうになったなぞということはの。――婆《ばあ》さんには、あまりにも恐ろしいことでごぜえましょうから。ただ、わしが栄光《みさかえ》に入って行くのを見たとだけ、伝えて下せえまし。そして、わしはだれのためにも待っていることができなかったのだ、とな。それから、神さまはどこでもいつでもわしのそばについていて下さり、おかげで何ごとも楽しく安らかにさせて下さったと、お伝え下せえまし。それから、おお、かわいそうな子供たち、それに赤ん坊!――わしのこの胸は、あの子たちのことを思って、ときどきはりさけそうになりました! あの子たちに、みんなわしの後について来るようにと言ってやって下せえ――わしの歩んだ道を歩めとな! 旦那さまやおなつかしい奥さま、それにお邸の皆さんによろしくお伝え下せえまし! 坊っちゃまにはまだおわかりになりませんでしょう! わしが今、だれでもを愛せるようにみえることが! わしはどこのだれでも、すべての人を愛しているのでごぜえます!――何ごともただ愛でごぜえます!おお、ジョージ坊ちゃま! キリストの御教えに従うということは、なんとすばらしいことでございましょう!」
この時、レグリィが、小屋の戸口にぶらりと姿を見せて、いかにも無頓着を装った不機嫌な態度で、中をのぞき込むと、そのまま立ち去っていった。
「あの悪党め!」とジョージは憤然として言った。「あの男には、いつかきっと悪魔の報いがあるだろう、そう思うのがせめてもの慰めだ!」
「おお、いけません!――おお、そんなことをおっしゃってはいけません!」とトムはジョージの手を握りしめながら言った。「あの男もかわいそうな不幸な人間でごぜえます! そのように考えるのは怖ろしいことでごぜえます! おお、もしあの男に悔い改めることができさえしたら、神さまは今でもお赦《ゆる》し下さいますでしょう。だがおそらくあの男は絶対にしますまい!」
「あんなやつはしないほうがいい!」とジョージは言った。「あんなやつと天国で会うのはまっぴらだ!」
「しっ、ジョージ坊っちゃま!――そういうお言葉をうかがうと、わしは気になります! どうぞ、そんなふうなお気持にはならないで下せえまし! あの男は何もほんとうの害をわしに加えたわけではごぜえません、――ただわしのために天国の門をあけてくれただけのことでごぜえます。ただそれだけのことでごぜえます」
この瞬間、トムの力は急に衰えた。若主人に会えたという喜びが、今までこの瀕死《ひんし》の人間に突然のひらめきのような力を注ぎ込んでいたのであったが、それがいまや尽き果ててしまったのだ。たちまち、衰弱が彼に襲いかかってきた。彼は目を閉じた。そしてあの神秘な、崇高な変化が彼の顔を覆いはじめ、別の世界の近づいてきたことを示した。
トムの息づかいは、長く深く息を吸い込むようになってきた。そして彼の広い胸は重く起伏した。顔の表情は勝利者のそれであった。
「だれが、――だれが、――だれがわしたちをキリストの愛から引き離すことができましょう?(ローマ人への手紙、第八章三十五節)」と彼は最後の力をふりしぼるような声で言った。そして微笑を浮かべながら、永遠の眠りに、陥ちていった。
ジョージは厳粛な畏敬の念に打たれながら、その場にじっとすわっていた。彼にはこの小屋が神聖な場所のように思われた。そして彼が、もはや生命のなくなったトムの目をふさいでやって、死者のかたわらから立ち上がった時、ただ一つの考えが彼の心をとらえた、――それは素朴なこの友によって語られたあの言葉である、――「キリストの御教えに従うということは、なんとすばらしいことでございましょう!」
彼は振り返った。そこにはレグリィが、むっつりとした顔で立っていた。
臨終の光景の中の何かが、青年にはありがちの、あの情熱の烈しさを抑えていた。しかしその男の目の前にいるということが、ジョージにとっては胸のむかつくほど耐えられぬことであった。それで彼は、できるだけ口をきかぬようにして、この男から離れたい衝動に駆られた。
彼は、その鋭い黒い目をじっとレグリィに向けながら、死体を指さして、ただこう言った、「あなたはこの男から取れるだけのものは全部取ってしまわれた。このうえ、幾らお払いしたらこの死体を私に頂けるのですか? 私はこれを引き取って懇《ねんごろ》に葬ってやりたいのです」
「死んだ黒ん坊で銭《ぜに》を稼うたあ思ってないね」とレグリィはむっとした様子で言った。「いつでも好きな所へ持っていって埋めたらよかろう」
「おまえたち」とジョージは、さいぜんから死体をながめていた二、三人の黒人たちに向かって、威厳のある口調で言った、「私に手をかして、この死体を一緒に抱えて、私の馬車まで運んでくれ。それからだれか鋤《すき》を一丁持ってきてくれ」
彼らの一人が鋤を取りに走って行った。他の二人はジョージを助けて死体を馬車まで運んだ。
ジョージはレグリィに話しかけもしなければ、見むきもしなかった。レグリィはジョージの命令を取り消しはしなかったが、無理に無関心なふうを装って、口笛を吹きながらその場に立っていた。それから彼はふくれ面をしながら、戸口に置いてある馬車のほうへとついて行った。
ジョージは自分の外套を車の中にひろげ、その上にそっと死体を寝かせてやった、――座席をはずして、ゆっくりと寝られるようにもしてやった。それから彼は振り返って、レグリィをじっと見つめると、無理に気を落着かせながら言った。
「私はこの残虐きわまる事件について私が何と考えているか、それをまだあなたに話してはおりません。――今はまだ言うべき時でもないし、ここは言うべき場所でもない。しかし、いいですか、この罪なき者の流した血には必ず正義の剣《つるぎ》を持たせますぞ。私はこの殺人を公にするつもりです。このあたりの判事を見つけしだい、私はあなたを告訴してやる」
「よかろう!」とレグリィは嘲るように指をぱちりと鳴らしながら言った。「できるならやって見せてもらいてえもんだ。で、証人はどっから連れてくる?――立証はどうやってする?――ええ、どうだい!」
ジョージは、この公然たる挑戦《ちょうせん》の真意をただちに悟った。この屋敷には白人は一人もいなかった。そして、南部の法廷では、どこへ行っても、黒人や混血児の証言は何の役にも立たないのである。彼はその瞬間、正義を叫び求める心からの憤激の絶叫で、天を引き裂くことができるかとも思えた。しかしそれは、むなしかった。
「つまりは、何もそう大騒ぎをするこたあねえんだ、たかが一匹、黒ん坊が死んだだけじゃねえか!」とレグリィは言った。
その言葉は火薬庫への火花にも等しかった。思慮分別だけがこのケンタッキー男児の主徳ではなかった。ジョージは向きなおった、そして、憤怒の一撃をレグリィにくだした。その男は大地にばったりとうつ伏せに倒れた。怒りと侮蔑に燃えながらレグリィを見下ろしているジョージの姿は、さながら、あの悪竜を退治した偉大なる同名者、聖ジョージ(イギリスの守護聖。彼の竜退治の伝説は有名、なお、竜については、ヨハネ黙示録、第十二章第九節参照)の化身かとも思われた。
しかし人によっては、殴り倒されると掌《てのひら》を返したように変わる者がいる。そういった者たちは埃の中にぺったり打ちすえられると、たちまち相手に敬意を抱くらしいのである。そしてレグリィもこういう種類の人間であった。それゆえ、彼は立ち上がって服の埃を払いながら、幾分、明らかに敬意をもって、ゆっくりと遠ざかってゆく馬車を見送っていた。そして馬車が見えなくなるまで、口を開かなかった。
農園の境界を越えたところに乾いた砂地の丘があって、何本かの木が陰を落としていたのをジョージは憶えていた。彼らはそこへ墓を掘った。
「外套をとりましょうか、旦那さま?」と、墓の用意ができると黒人たちは言った。
「いや、いや、――一緒に埋めてくれ! もうおまえにあげられるものはそれだけなんだからな、かわいそうなトム、おまえ、それを着ておゆき」
彼らはトムを墓の中に横たえた。それから黙って土をかけた。彼らはその土を盛り上げて、その上に緑の芝を植えた。
「おまえたちはもう帰ってもいい」とジョージは、一人一人の手にそっと二十五セント銀貨を握らせながら言った。しかし彼らは、なかなかその場を立ち去ろうとはしなかった。
「もし若旦那さまがわしどもを買って下せえましたら――」と一人が言った。
「一生懸命に働きますだが!」ともう一人が言った。
「ここはまったくひどい所なんでごぜえます、旦那さま!」と初めの男が言った。「どうか、旦那さま、わしどもを買って下せえ、お願えします!」
「だめだ!――私には買えない!」とジョージはやっとの思いでそう言うと、彼らに早く立ち去るようにと手を振った。「それは不可能なのだ!」
哀れな者たちはがっかりした様子であった、そして黙ってその場を去って行った。
「永遠の神も照覧あれ!」とジョージは哀れな友の墓にひざまずいて言った。「おお、今この瞬間から私は、>一人の人間がなしうる限りの力を尽くして、この呪われた奴隷制度を私の国から追放するために、戦うことを誓います!」
われわれの友の最後の憩いの場所には、それを印す何の記念碑もない。彼には何もいらないのだ! 主なる神は彼の横たわる場所を知っておいでになるのだ、そして彼に不滅の生を授けてよみがえらせ、彼を栄光の中に現わせ給う時、神は共に現われ給うのだ。
トムを憐れむことなかれ! かかる生と死は憐れむべきものにあらず! 神の授け給う最高《まこと》の栄光は、全能の富の中にはあらず(エレミヤ記、第九章第二十三―二十四節)。己れを捨て、人のために苦しみ悩む愛の中にこそあれ! されば、幸福《さいわい》なるかな、主に誘《いざな》われ、主に従いて耐え忍びつつ自《みずか》らの十字架を背負いゆく人々。かかる人々については、聖書《みおしえ》にもかく記されているのだ、「幸福《さいわい》なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」(マタイ伝、第五章第四節)と。
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第四十二章 本当の幽霊話
ちょうどこのころ、ある注意すべき理由から、レグリィの家の召使いたちの間には、幽霊に関するいろいろな話がとほうもなく広まっていた。
真夜中に、人の足音があの屋根裏部屋の階段を下りて来て、家の中を歩き回るのが聞こえた、というような話がひそひそと交わされた。いくら二階へ通じる戸に鍵をかけておいてもだめだというのである。幽霊はポケットに合鍵を持っているのか、それとも昔からそなえているあの神通力を使って鍵穴から出てくるのか、とにかく驚くほど自由自在に、相変わらずそこいらを歩きまわるのである。
その幽霊がどんな恰好をしていたかについては、意見がいくつにも分かれた。というのも黒人のあいだでは、――そしてこれはおそらく白人のあいだでも同じことと思うが、――こういう場合、きまって目をつぶるとか、毛布やペチコートやその他なんでも手あたりしだいにひっつかんで頭からかぶることが、広く行なわれている習慣だったからである。もちろん、周知のように、肉体の目がこのようにしてその機能を失うと、その代わりに心の目が異常なほど敏感になってくるものである。そして、それゆえ、彼らが見たという幽霊については、その全身像にも似た話がいくつも、おびただしい誓いの言葉をもって語られ、また証言されたが、それらは、何人かの者が画きくらべた肖像画のように、各部分は互いに少しも似てはいないのだが、その家族が属する種族共通の特徴という点では、みな一致していた、――つまり幽霊は「経帷子《きょうかたびら》」を着ていたというのである。この哀れな黒人たちは古代史に通じていなかったし、それにシェイクスピアが幽霊の衣裳について語るあの実証的な言葉をも知らなかった、
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経帷子《きょうかたびら》をまといし亡者《もうじゃ》
ローマの街に喚《お》めき叫びぬ
(「ハムレット」、第一幕第一場)
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それゆえ、彼らの意見がこの経帷子の点で全員一致したということは、霊物学上、驚くべき事実であって、われわれはここに広く心霊学的諸機関の注意を喚起するものである。
それはともかくとして、われわれは内々《うちうち》の理由から、その訳を知っているのである。すなわち、なにゆえ経帷子をまとった背の高い人影が、例の丑満《うしみ》つ時に、レグリィの屋敷内を徘徊《はいかい》するのか、――ドアを抜け、家の中を滑るように歩き回り、――ときどき姿を消しては、また、現われて、音もなく階段をのぼり、あの運命の屋根裏部屋へ入って行くのか。そして、なにゆえ夜が明けてから見ると、あの部屋へ通じる戸は二つともちゃんとしまっていて、前と同じようにしっかり鍵がかかっているのかということを。
レグリィがこの噂を聞きつけぬはずはなかった。しかも、みんながその噂を彼の耳に入れまいと、ひた隠しにかくそうとするので、彼はますます神経を高ぶらせた。彼はいつもよりよけいにブランデーをあおった。そして昼の間は昂然たる態度を持《じ》して、前よりもいっそう大きな声でののしりわめいていた。しかし夜になると、彼はいやな夢に襲われ、床の上に起きあがっても、彼の頭に去来する幻影は、じつに不愉快なものばかりであった。トムの死体が運び去られた日の夜、彼は酒をあおりに、馬を駆って隣の町へ出かけてゆき、めちゃくちゃに飲んだ。夜遅く飲みくたびれて帰って来た。戸にも鍵をかけ、その鍵を抜いて床についた。
何にしたところで、人間の魂というものは、その人間が悪人である限り、彼がどんなに努力してそれを押し鎮めようとしても、しきれぬような恐ろしい、幽霊のような、不穏な持ち物なのである。その働きの限界をだれがいったい知りえよう? その恐ろしい底知れぬ力のすべてをだれがいったい計りえようか、――あの戦慄と不安、それは、彼がこの世にある限り続き、死して後も永遠に終熄《やむ》ことのないものなのだ! 戸に鍵をかけ、幽霊《スピリット》をしめ出そうなぞと試みる者は愚である、出会うことのみ怖れているその魂《スピリット》はすでに己れの胸の中にあるのだ、――そしてその声は、はるか胸の底に押しつけられ、俗悪な妄念《もうねん》の山に埋めつくされていても、なおあの審判の日を予告するトランペットの音《ね》のごとく鳴り響いてくるのだ!
しかしレグリィは、戸に鍵をかけ、それに椅子を支《か》った。彼は枕もとにナイト・ランプを置いた。そしてそれと並べてピストルを置いた。それから窓の留め金と締め金を点検して、「悪魔がその手下どもを全部ひきつれてやって来たっておれは驚きゃしねえ」などとののしりながら寝床へもぐり込んだ。
そして、彼は眠った、疲れていたのである、――ぐっすりと眠り込んだ。しかし、やがて、その眠りの上に一つの影が、恐怖が、何か恐ろしいと感じさせるようなものが、襲って来て彼の上をおおった。それは母親の経帷子のような気がした。しかしその経帷子をキャシィが着ていて、それを自分の目の前にひろげて見せているのである。彼は金切声や呻き声の混乱した音を耳にした。そして、そういうものを目にし、また耳にしながらも、これは夢なのだということを知っていた、それで彼はどうにかして己れの目を覚まさせようと努めた。そして彼はなかば目を覚ました。すると確かに何かが部屋の中に入って来るような気がした。戸の開くのがわかった、しかし彼は手も足も動かすことができなかった。やっとの思いで寝返りをうつと、彼ははっとした。戸があいていたのである、そして一つの手がランプを消すのを、彼は見たのである。
すると、ぼんやりとした、霧のかかったような月の光が差し込んできた、そして、そこに、彼は見たのである!――何か白いものが、すうっと入って来るのを見たのである! 彼は経帷子のすれ合う幽《かすか》な音を聞いた。それは彼の枕もとに、じっと立った。――冷たい手が彼の手に触れた。一つの声が、三度、低い恐ろしい、ささやくような声で、言った、「おいで! おいで! おいで!」そして、レグリィが恐怖のあまり冷汗をかいて横たわっているうちに、いつの間にか、どのようにしてか、幽霊は消えてしまった。彼は寝床から跳び下りて、戸をひっぱってみた。戸はちゃんとしまっていて、鍵もかかっていた、そこでこの男は、その場に気絶してしまった。
このことがあってから、レグリィは前よりもいっそうひどく酒をあおるようになった。彼はもう酒を飲むにも用心したり、大事をとったりするようなことはなく、分別を忘れ、むちゃくちゃにあおった。
まもなく、その地方一帯に噂が流れて、彼が病気で死にかけていることが知れわたった。暴飲があの恐ろしい病気を招いていたのである。それは来たるべき審判の日の、不気味な影を現在の生活の中に投影しているかと思わせるような、恐ろしい病気であった。レグリィが狂乱の叫びを発し、絶叫する時の、その病室の恐ろしさに耐えうる者はだれ一人いなかった、そしてまた、聞き手の血を凍らせてしまうかと思われるほどの怖ろしい光景を、口に出して語りうる者もだれ一人いなかった。そして、レグリィの臨終の床には、厳酷な、白い、仮借なき人影が立って、こう言っていたのである、「おいで!おいで! おいで!」と。
物事の不思議な符合で、この幻がレグリィの前に現われたその夜、玄関の戸があいていたことが、朝になって発見され、黒人たちの中には、二つの白い人影が、並木路を街道のほうへ、すうーっと飛んで行くのを見た者があった。
キャシィとエミリーンとが、例の町に近い、木立の中で、一休みしたのは、もう日の出もまもないころのことであった。
キャシィは|西インド生まれのスペイン《クリーオウル・スパニッシュ》の貴婦人にならった服装をしていた、――つまり黒ずくめである。頭には小さな黒い帽子《ボネット》をかぶり、刺繍《ししゅう》をほどこした厚いヴェールで顔を隠していた。前々からの相談で、二人の逃亡中は、彼女が混血《クリーオウル》の貴婦人を装い、エミリーンが彼女の侍女となることに手筈《てはず》をきめていた。
キャシィは小さい時分から、上流社会の中で育てられてきたので、その言葉づかいも、身のこなしも、風采《ふうさい》も、すべてこの計画には都合がよかった。そのうえ彼女には、昔のりっぱな衣裳や幾組かの宝石がまだかなり残っていたので、自分を貴婦人らしく引き立たせることは容易であった。
彼女は、町はずれに来た時、あらかじめ目をつけておいた店に立ち寄って、りっぱなトランクを一つ買った。これを彼女は、店の者に頼んで、一緒に届けさせた。したがって、このようにして、彼女は、トランクを手押し車で運ぶ少年につきそわれ、後からついてくるエミリーンに旅行鞄《カーペット・バッグ》や雑多な包みを持たせて町の小さなホテルに姿を見せたのであるが、その様子はまさにさるお屋敷の奥さまといった感があった。
ホテルに着いて最初に彼女の目にとまったのは、ジョージ・シェルビィであった。彼は次の船を待ってそこに滞在していたのである。
キャシィはこの青年を例の屋根裏部屋の節穴から観察していた、そして彼がトムの死体を運び去るところも見たし、彼がレグリィを殴り倒すところも、ひそかに胸のすく思いで、見守っていた。その後、彼女は、夜な夜な幽霊の姿に身を変えて歩き回るおりに、黒人たちのあいだで交わされている話を盗み聞きして、その青年が何者であるか、そしてトムとどのような関係にあるのか、ということまで知ったのであった。したがって彼女は、彼が自分と同じように、次の船を待ち合わせているのを知った時、とたんに彼に対して信頼の念をよせはじめた。
キャシィの風采や態度、人との応対ぶり、それに加えて、金に不自由しないらしいその様子から、ホテルではだれ一人彼女に疑いをかける者はいなかった。人間というものは、こちらがこの要点さえ、つまり金払いの点さえ、きれいにしておけば、とやかく詮索するようなことはけっしてしないものである、――キャシィはレグリィの金を取り出した時、ちゃんとこのことを見越していたのであった。
そろそろ日も暮れようというころ、蒸汽船の入って来る音が聞こえた、そしてジョージ・シェルビィはケンタッキー人特有の礼儀正しさで、キャシィの手をとり、彼女を船に乗せてやると、特等室がとれるよう世話をしてやった。
キャシィは、船がレッド・リヴァを航行する間ずっと、病気を口実に、自分の部屋に引籠って床を離れなかった。そして侍女から至れり尽くせりの介抱を受けたのである。
彼らがミシシッピー川に着いた時、ジョージはその不思議な婦人の行き先が、自分と同じ上流にあることを知って(ここで彼らは船を乗換えるわけである)、彼女のための特等室を自分と同じ船にとって差し上げたいがと申し出た、――それは彼女のすぐれぬ健康に同情して、及ぶかぎりの世話をしてやりたいとの彼の親切心からであった。
されば、見よ、一行が無事シンシナティ号に乗り移り、船首に砕ける波頭を眼下に、一路川を溯りゆく姿を。
キャシィの健康は、かなりよくなった。彼女は甲板《ガーズ》にすわったり、食堂に姿を見せたりして、船客からは、若い時にはさぞかし美人だったろうと噂されていた。
ジョージは初めて彼女の顔をちらりと見た瞬間から、はて、どこかで見たことがあるような、という気がしてならなかった。こうした気持は、ほとんどだれでも経験したことがあるであろうし、時には、こうした気持に悩まされたこともあろう。彼はたえず彼女のほうへ視線を向け、彼女を観察せずにはいられなかった。食堂でも、特等室の戸口にすわっている時でも、彼女の目はよく自分をじっと見つめているその青年の視線とぶつかった、そして彼女がその観察に気づいてはっとした顔つきをすると、青年の視線は慇懃《いんぎん》にそらされるのであった。
キャシィは不安になってきた。彼女は、彼が何かうすうす感じているのではなかろうかと考えはじめた。そして、ついに意をけっして、彼の義侠心にすっかり身をまかせ、自分の身の上を一部始終うちあけたのであった。
ジョージは、レグリィの農園から逃がれて来たものならばだれによらず心から同情を寄せたい気持であった、――あの農園こそ、彼は憤怒を抑えては思い出すことも、語ることもできない場所だったからである、――そこで、彼のような若さと境遇の者に特有の、あの向こう見ずな勇気から、彼は自分の力の及ぶ限り、二人を護り、目的地に送り届けることを誓った。
キャシィの隣りの特等室に、ド・トゥと名乗るフランスの貴婦人がいて、十二歳くらいのかわいい少女を連れていた。
この婦人は、ジョージの話しぶりから、彼がケンタッキーの者だと知ると、見るからに、彼との近づきを望んでいるらしい様子であった。そして、その希望は、少女のかわいらしさのおかげで叶えられた。この子を相手に遊んでいると、二週間にわたる船旅も、少しも退屈に感じられないほど、かわいい少女だったからである。
ジョージの椅子は、しばしば、このド・トゥ夫人の特等室の戸口に置かれた。そしてキャシィが甲板《ガーズ》にすわっている時には、二人の会話は彼女のところまで聞こえてきた。
ド・トゥ夫人はケンタッキーについて、いろいろとじつに詳しく質問した、そして自分は以前そこに住んでいたことがあるのだと言った。ジョージは、意外にも、夫人の昔の住居というのが、自分の屋敷の近くに違いないことを知った。そして彼女の質問の様子から、その辺の人々や出来事をじつによく知っているので、彼はすっかり驚いてしまった。
「あのう」とある日、ド・トゥ夫人は彼に言った、「お宅のご近所で、ハリスという名前の人をだれかご存知でしょうか?」
「一人そういう名前の人が、父の家からそう遠くない所に住んでおります」とジョージは言った。「しかし、私どもは以前からその人とはあまり付合いをしておりません」
「その人は奴隷をたくさんかかえている人なのでしょうね」とド・トゥ夫人は言ったが、その時の様子にはどことなく、外見とは違った興味が胸の中にかくされているように思われた。
「そのとおりですが」とジョージは、その様子に幾分、驚きながら言った。
「では、その人がかかえていたのを、ご存知ありませんでしたでしょうか、――おそらく、お聞きになったことはございましょう、その人が混血児《ミュラトゥ》をかかえていたことを、ジョージという名前の?」
「おお、知っていますとも、――ジョージ・ハリスでしょう、――彼ならよく知っています。彼は私の母の召使いと結婚したのですからね、しかし、今は、カナダへ逃げています」
「逃げて?」とド・トゥ夫人は急《せ》き込んで言った。「まあありがたい、神さま!」
ジョージは驚いて、何か尋ねたい様子であった、しかし何も言わなかった。
ド・トゥ夫人は額を手で支えて、わっとばかりに泣きだした。
「あれは、私の弟なのです」と彼女は言った。
「奥さん!」とジョージは驚きの強い語調で言った。
「そうなのです」とド・トゥ夫人は、昂然たる態度で、頭をあげると、涙をぬぐいながら言った。「シェルビィさん、ジョージ・ハリスは私の弟です!」
「まったく驚きました」とジョージは自分の椅子を一、二歩うしろへ押しやり、ド・トゥ夫人の顔を見ながら言った。
「私はあの子がまだ小さい時分に、南部へ売られてきたのです」と彼女は言った。「私は親切な心の優しい人に買われました。その人は私を西インド諸島へ連れて行って、奴隷の身分から解放してくれると、私をあの人の妻として娶《めと》ってくれたのです。夫は、つい最近亡くなりました。そこで私は、弟を見つけて買い戻せるものかどうかと、こうしてケンタッキーへ向かう途中なのです」
「私は、彼がエミリィというねえさんのことを話すのは、聞いたことがあります、南部へ売られたとか言って」とジョージは言った。
「ええ、おっしゃるとおりです! 私がそのエミリィです」とド・トゥ夫人は言った。――「で、あの子はどんな――」
「じつにりっぱな青年でした」とジョージは言った。「奴隷という呪われた重荷が、彼の上にはのしかかっていたのですが。彼は常に第一級の人格を持ち続けていました、知性の点でも、また主義の点でも。私はよく知っています、なぜと言って」と彼は続けた。「彼は私の家の者と結婚したのですからね」
「その相手の娘さんといいますのは?」とド・トゥ夫人は熱心に尋ねた。
「またとない女性です」とジョージは言った。「美しく、聡明で、気立ての優しい人でした。そしてたいへん信心深いのです。私の母が、まるで自分の娘のように大切に育てあげ、躾《しつ》けてやったのです。ですから読み書きも、刺繍や裁縫もりっぱにできました。そのうえ、歌を歌うこともたいへん上手でした」
「その娘《ひと》はお宅で生まれたのですか?」とド・トゥ夫人が言った。
「いいえ。父が以前、ニュー・オーリアンズへ商用で来ていた時分、彼女《あれ》を買って、母への贈り物として連れて帰ったのです。その当時、八つか九つくらいだったそうです。父は彼女《あれ》を幾らで買ったか母にはどうしても話しませんでした。しかし、いつでしたか、父の古い書類を調べていましたら、その時の売渡し証書が出てきたのです。父はじつに法外な金を支払っているのです。おそらく彼女《あれ》がまれに見る美人だったからでしょう」
ジョージは、キャシィのほうへは背を向けてすわっていたので、こうした話をしている間、彼女がその話にすっかり心を奪われたような表情で聞き入っているのには気がつかなかった。
ジョージの話がここまできた時、キャシィは彼の腕にさわった、そして異常なほどの関心から顔をまっさおにして言った、「あなたは、おとうさまにその娘《こ》を売った人たちの名をご存知ですか?」
「シモンズとかいう名の男が、たしか、その売買でおもだった者のようでしたよ。少なくともそれが売渡し証書に載っていた名前だったように思います」
「おお、神さま!」とキャシィは言うと、船室の床に気を失って倒れた。
ジョージはもう目をみはって驚いた、そしてド・トゥ夫人も同じであった。二人ともキャシィがなにゆえ気を失ったのか推測することもできなかったが、それでも彼らは、こういう場合につきもののあらゆる騒ぎを起こしはじめた。――ジョージは、義侠心に燃えるあまり、水差しをひっくりかえしたり、コップを二つもこわしたりした。そして船室にいた多くの貴婦人たちは、だれかが気絶したと聞くと、この特等室の戸口に群がり寄って来て、できるだけ空気の流通を悪くしようとした。そこで、大体において、読者が予想されるような事件が一つ残らず起きたのである。
哀れなキャシィ! 彼女は意識をとりもどすと、顔を壁のほうへ向けて、子供のように涙を流し、むせび泣いた、――この物語を読んで下さるおかあさん、おそらく、あなたには彼女が何を考えていたかおわかりでしょう! あるいはおわかりでないかもしれない、――しかし彼女は、その時、ついに神が慈悲を垂れ給うたのだと、そして自分は必ず娘に会えるのだと、確信していたのである、――そして事実、それから数か月後に、彼女は、――しかしこの話は、まだ少し早いようである。
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第四十三章 結果
われわれの物語も、あとはもうまもなく語り尽くされる。ジョージ・シェルビィは、世の中のどの青年にも見られるように、単に義侠的精神からばかりでなく、まるで空想小説のようなこの事件からも強く心を動かされて、さまざまの努力の末、ついにイライザの売渡し証書をキャシィの手もとへ送り届けてやった。その証書に書かれている日付けや名前は、すべてキャシィが知っている事実と符合していて、イライザが自分の子供であることに、もはや何の疑いもなかった。いまや残る問題は、キャシィがその逃亡者たちの行方を突きとめることだけであった。
かくて不思議な運命のめぐりあわせによって、互いに結びつけられたド・トゥ夫人とキャシィは、ただちにカナダへ向かって出発した、そして奴隷制度から逃亡してきた多くの人々が避難している場所《ステイション》を次から次へと尋ねはじめた。アマーストバーグで彼女らは、ジョージとイライザが初めてカナダに着いた時に彼らを保護してくれた例の伝道師を見つけた。そして彼のおかげで、ジョージ一家の足どりをモントリオールまでたどることができた。
ジョージとイライザとが自由の身となってからもう五年の歳月が流れていた。ジョージはある大きな機械商の店に勤続して、家族を十分に養えるだけの給料を得ていた。そして家族は、この間に一人ふえて、女の子が生まれていた。
小さなハリィは――あの美しい利発な少年は――今ではりっぱな学校に上げられて、どんどんと知識を身につけていた。
ジョージが最初に上陸して保護をうけた例のアマーストバーグの伝道師は、ド・トゥ夫人とキャシィとのこの話にひどく感動して、ド・トゥ夫人の懇請を容れ、彼女らと一緒にモントリオールに行き、捜索に力をかすことにした、――そしてド・トゥ夫人がこれに要する一切の費用を負担することになった。
ここで場面は、モントリオールの郊外の、あるささやかな、小ざっぱりとした借家に変わる。時は、ある日の夕暮れ。快い火が、勢いよく煖炉に燃えている。食卓には雪のように白いテーブル・クロスが掛けられて、夕食の支度もできあがっている。部屋の一隅には緑色の布のかかったテーブルがあって、そこには蓋のあいた文具箱、ペン、紙などがあり、上の本棚にはよく選択された書物が並んでいた。
これがジョージの書斎であった。昔と変わらぬあの自己改善の熱意が、あのころのあらゆる苦役と妨害の最中《さなか》にあって寸暇を盗んで読み書きの術を会得《えとく》したあの熱意が、今もなお彼の余暇のすべてを自己修養のために捧げさせているのである。
ちょうど今も、彼はそのテーブルに向かって、読んでいる蔵書の一冊からノートをとっているところであった。
「ねえ、ジョージ」とイライザが言う、「あなた一日じゅう外で働いていらしたんでしょ。その本を置いて、みんなでお話しましょうよ、今お茶を入れますから、――さあ、あなた」
そして小さなイライザ(こちらへ来てから生まれた娘のこと。母親と同じ名前)は、母親に加勢するかのように、よちよちと父親の所へ歩いてゆき、彼の手から本を取りあげると、代わりに自分がその膝の上にのろうとする。
「おお、このいたずら娘!」と言ってジョージは、こういう場合、世の中の父親が必ずするように、子供のなすがままになる。
「そうよ、それでいいわ」と、イライザはパンを切りはじめながら言う。彼女は少し老けた感じである。からだもいくぶん肥ってみえる。身のこなし方にも、以前とくらべていかにも年輩の婦人といった様子がうかがえる。しかし女としての満足感、幸福感にひたりきっている様子はだれの目にも明らかである。
「ハリィ、きょうはどうだい、あの算数の問題はうまくできたかい?」とジョージは、息子の頭に手を置きながら言う。
ハリィの頭には、もうあの長い巻毛はなくなっていた。しかしあの美しい目やまつ毛、それにあの広いひいでた額は昔と少しも変わっていない。そしてその額を彼は勝ち誇ったように輝かせながら、こう答える、「できたよ、みんなできた、ぼく一人でやったんだよ、おとうさん。だれにも手伝ってなんかもらわなかったよ!」
「そう、それでいい」と父親が言う。「自分だけの力でやるんだよ、おまえ。この哀れなおとうさんにくらべたら、おまえはずっと恵まれているんだからね」
この時、表の戸をたたく音がする。そこでイライザが行って戸をあける。喜びの――「まあ!――あなたでしたの?」――という叫び声が夫を戸口に呼ぶ。そしてアマーストバーグの伝道師は中へ請《しょう》じ入れられる。彼に続いて二人の婦人が入ってくる、イライザは来客に椅子をすすめる。
ここで、実を言うと、この正直な伝道師は、あらかじめちょっとした計画を組んでいて、それに従って事件は展開してゆくはずになっていた。そして、ここへ来る途中でも、みんなはよく気をつけ、慎重に事を運んで、しくじりのないよう、打合せどおりにしようと、互いに戒めあって来た。
それゆえ、この善良な伝道師が仰天したことは、彼が婦人たちにすわるよう合図し、ポケットからハンカチを取りだして口をぬぐい、順序よくまず、前置きの演説を始めようとした瞬間、ド・トゥ夫人がこの計画をすっかり狂わしてしまったことである。彼女は、いきなりジョージの首にしがみつき、何もかもすっかり忘れて、叫んでしまった、「おお、ジョージ! 私がわからないの? おまえの姉のエミリィよ」
キャシィは、やや落着いて席についていた、そして自分の役割をりっぱに果たすように思われた。しかし、その時突然、彼女の目の前に小さなイライザが現われた。その姿形といい、背恰好といい、輪郭も、巻毛も、自分が最後に見たあの時の娘の姿にそっくりであった。少女はじっと彼女を見あげた。そこでキャシィは少女をかかえあげると、ひしと胸に抱きしめて叫んだ、その瞬間、おそらく彼女はほんとうにそう思い込んだのであろう、「娘や、おまえのおかあさんだよ!」
実際、この状態をもとの筋書にもどして、きちんとやりなおすのはたいへんな仕事であった。しかしその善良な伝道師は、やっと、みんなを落着かせ、予定どおり一場の演説をもってこの対面式を始めることに成功した。そしてその演説は、やがて、一同に深い感銘を与えたので、聞き入る者はみな彼の周りですすり泣きをはじめた。それは古今を問わず、いかなる雄弁家をもきっと満足させたであろうような感動の仕方であった。
彼らはそろってひざまずいた、そしてその善良な伝道師は神に祈りを捧げた、――人間の感情には、あまりにも強い刺激を受け激動すると、それを全能の神の愛の御胸にそそぎ込まないでは静止しえないような感情があるからである、――そして、やがて立ちあがると、この新たなる対面の家族は、互いに抱擁しあった、あのような危険、あのような危難の中から、そしてこのような測り知れぬ御業《みわざ》によって、彼らを救い出だし、結び給いし神に対する聖なる信仰を抱きながら。
カナダへ逃亡してきた奴隷たちのあいだで伝道を続けているある牧師の手記には、小説よりも不思議な事実が記録されている。秋風が木々を襲い、その葉をちりぢりに追いちらすごとく、奴隷制度が猛威をふるい、奴隷たちの家族を襲って、彼らをちりぢりに追いちらす時、いかで然《し》かならざるをえようか? この世の避難の岸辺は、あの永遠の岸辺(天国のこと)のように、何年ものあいだ互いに今は亡きものと嘆きあっていた人々の心を再び結びつけ、再会の喜びにひたらせることがしばしばあるのだ。そしてまた、名状し難き痛ましき光景は、新しくこの岸辺にたどりついた人々が、みなあのしんけんな眼差《まなざ》しで迎えられることである、ひょっとして、この人に尋ねたならば、あの暗い奴隷制度の影の中からまだ姿を見せぬ母や、姉や、子や妻の消息がわかりはしまいかと。
そして姉や、母や、妻を救い出そうと、拷問をも恐れず、死の危険さえも冒して、逃亡者が再びあの暗い奴隷制度の国の恐怖と危険の中へ自から進んでかえって行く時、ここに小説をしのぐかずかずの英雄的行為が生まれるのである。
ある青年は、一人の伝道師の話によると、こうした英雄的行為のゆえに二度も捕まり、恥ずべき鞭打《べんだ》の苦しみを受けながら、再び逃亡したとのことである。そして、われわれが読み聞かされたその青年の手紙には、彼が自分の姉を救い出すために、ついに、三度目の潜行を決意したことが彼の友人に宛てて認《したた》められているのである。皆さん、この青年は英雄なのでしょうか、それとも罪人なのでしょうか? もしあなたがたが同じ立場におかれたら、ご自分のおねえさんのために、あなたがたはこれと同じようなことをなさらないでしょうか? そして、その青年を非難することができるでしょうか?
しかし、われわれはこの辺で話を再びわれわれの友人たちのところに戻すことにしよう。話は、彼らが涙を拭い、あまりにも大きな、思いがけぬ喜びからようやく落着きを取りもどそうとしているところで切れた。そして今、彼らは、うちとけた食卓を囲んで、見るからに和気あいあいたる様子であった。ただキャシィだけは、さいぜんから、小さなイライザを膝に乗せて、ときどきこの子をぎゅうっと抱きしめては少女をびっくりさせたり、この少女が後から後からと無理にキャシィの口へケーキを入れたがるので、口をきつく結んではそれを入れさせまいとしていた、――そして彼女は、少女がいぶかる中を、自分にはケーキよりももっといいものがあるのだから、それはいらないのだと言っては断わっていた。
そして、実際、二、三日たつうちに、キャシィには大きな変化が起こって、読者の皆さんでも見違えるほどに人間が変わった。あの絶望的な、気味の悪いほどにやつれていた顔の表情は、いつしか、優しい信頼の表情に変わっていた。彼女はこの家族の懐に、たちまち、深く溶け込み、そしてこのかわいい孫たちを自分の心の中にしっかりととらえたように見えた。それはまさに彼女の心が長いあいだ待ち望んでいたものであった。実際、彼女の愛情は娘のイライザに対するよりも、孫のイライザに対してのほうがより自然に注がれているように見えた。というのも、この少女は、彼女が失くした当時の子供の顔つきやからだつきにそっくりだったからである。この少女は母親と娘とのあいだを結ぶ花の絆《きずな》であって、この子を通して、キャシィとイライザとのあいだには親しみと愛情が育《はぐく》まれていった。イライザのゆるがぬ常に変わらぬ信仰は、たえず聖書を読むことによって更に確固たるものとなって、ために彼女は母親の打ち砕かれ、悩み疲れた魂の真のよき導き手となった。キャシィも、すぐに、そして心の底から、そのよき導きに感化されて、敬虔な、心の優しいクリスチャンになったのである。
一両日後、ド・トゥ夫人は弟に自分の身に起こった出来事をいっそう詳しく話した。夫の死が彼女にかなりの財産を遺してくれたこと、その財産を惜しみなく彼女は弟一家に分け与えようとも言った。そして彼女が、その金をどのように役立てるのが一番よいかと尋ねたとき、ジョージは答えた、「ぼくに教育を受けさせて下さい、エミリィ。それが昔からぼくの心の望みだったのです。教育さえ授けてもらえれば、後は何でも自分でできます」
いろいろと慎重に相談した結果、一家はそろって、数年の間、フランスへ行くことに決った。そして一行は、エミリーンも伴なって出帆した。
エミリーンの美貌《びぼう》はその船の一等航海士の愛をかちえた。そして、船が港に着くとまもなく、彼女は、彼の妻となった。
ジョージは四年間フランスの大学に留まり、その間たゆまぬ熱意をもって勉強を続け、りっぱな教育を身につけた。
やがてフランスに起こった政変(作者は一八五一年十二月二日のクーデターを念頭においていたのであろう)のために一家は再びこの国《カナダ》へと難を避けた。教育を受けた人間としてのジョージの感情と意見とは、彼が友人の一人にあてた次の手紙の中に最もよく表現されているように思われる。
「僕は今、自分の今後の方針についていささか迷いを感じている。もちろん、君の手紙にもあったように、僕がアメリカにとどまって白人の社会に伍してゆくことは可能かもしれない。僕の皮膚の色はさして黒くはないし、妻や子供たちの場合はほとんど白人と見分けがつかないからね。それで、おそらく、黙認の形で、僕は彼らと伍してゆくことが許されるだろう。しかし、実を言えば、僕はそういうことは毛頭《もうとう》望まないのだ。
僕の同情は、僕の父の種族に対してあるのではなく、母の種族に対してのものだ。父にとっては、僕は一頭の犬かあるいは馬にしかすぎなかった。しかし僕のあの哀れな悲嘆にくれた母にとっては、僕は子供だったのだ。そして、僕たちを引き離したあの残酷な競売の後は、母が死ぬまで僕は一度も母に会うことができなかったけれども、それでも僕は母がいつも僕を深く愛していてくれたことを知っている。僕には自分の心でそれがわかるのだ。僕は母のなめたあらゆる苦しみを、僕自身が受けた苦しみを、僕の雄々しい妻や、ニュー・オーリアンズの奴隷市場で売られた僕の姉の苦悩や苦闘を、考える時、――キリスト教徒にはあるまじき考えはもつまいと思うのだが、それでもこう述べることは許してもらえるだろうと思う、つまり、僕は、アメリカ人として世を渡ってゆきたいとか、僕自身をアメリカ人と見なしたいなぞとは、絶対に思わないのだ。
僕が自分の運命を共にするのは、虐げられ、奴隷にされているあのアフリカ民族とだ。そして、今、もし僕に何かを望めというならば、僕はもっと皮膚の白い人間になりたいということよりも、むしろ更に二倍も黒い人間になりたいということだ。
僕の魂が抱く願望と憧憬《どうけい》は、アフリカ人としての国籍をもつことだ。僕は、それ自身が明白な、他のものとは分離した存在をもつ国民になりたいのだ。そしてそれを、僕はどこに求めたらいいのだろう? それをハイチに求めることはできない。ハイチの黒人は、国家建設の希望を少しももってはいなかったからだ。水の流れは(アフリカからハイチに送られる奴隷の流れの意味にもかけている)その源より高くのぼることはできない。ハイチ人の性格を形づくった種族は、衰え果てた、軟弱な種族だった。そして、いうまでもなく、こうした隷属せる種族は、それがなんらかのものに向上してゆくうちには何世紀も過ぎ去ってしまうのだ。
それならば、はたしてどこに求めるべきか?アフリカ沿岸に僕は一つの共和国(リベリアのこと)を見る、――この共和国こそ選ばれた人々によって造られた国なのだ、彼らは、活動力と独学の力とによって、多くの場合、己れ一人の力で、自分たちを向上させ、奴隷としての境遇をのり越えた人たちなのだ。微弱な力の準備期を終えると、この共和国はついに、地球上の一つの認められた国家となった(一八四七年七月二十六日)、――それはフランス、イギリス両国によっても認められたのだ。僕が行きたいのはそこだ、そして僕自身が国民であると知りたいのはそこなのだ。
僕は今、君たちすべてを敵にまわすだろうことを知っている。しかし僕を攻撃する前にまず僕の話を聞いてくれたまえ。僕はフランスに滞在中、非常な興味をもって、アメリカにおける僕たち黒人の歴史をたどってみた。僕は奴隷制度即時廃止論者《アボリッショニスト》と移植論者《コロニゼショニスト》(上巻二八五ページの注)との間の争いに注目し、そして遠くからの傍観者として幾つかの興味ある印象を受けた、こうした印象は関係者としての以前の僕には一度も起こりえなかったものだ。
僕は、このリベリアという国も、われわれの迫害者たちが操って、それをわれわれに押しつけ、そうすることによって彼らがあらゆる種類の目的に利用してきたであろうことを認める。おそらく、この計画はわれわれの解放を遅らせる手段として、条理に合わぬ方法で、用いられてきたであろう。しかし僕にとって問題なのは、すべての人間の計画を超越する神というものが存在しないだろうか、ということなのだ。神は彼らの意企を左右して、われわれ黒人のために彼らの手によって一つの国を創《つく》らせ給うたのではなかったのだろうか、ということなのだ。
最近では、一つの国は一日で生まれる。今日の国家は、共和国としての生活や文明に関する大問題もすべてその国の手をわずらわすことなく解決されたものをもって出発する。――何一つ見つけ出す必要はなく、ただ適用しさいすればいいのだ。だから、われわれがわれわれのすべての力をよせ合って団結し、この新しい国家建設の事業に邁進《まいしん》すれば、輝かしいアフリカ全大陸がわれわれの前に、そしてわれわれの子供たちの前に、展《ひら》けてくるのだ。われわれの国は、アフリカの沿岸に文明とキリスト教の潮流を導き、至る所に力強い共和国の若木を植えるだろう、その木は熱帯植物特有の速さで生長し、永遠に生い繁ることだろう。
君は、奴隷になっている僕の同胞を僕が見捨てようとしていると言うのか? 僕はそうは思わない。もし僕が全生活の一時間たりとも、一瞬たりとも、彼らのことを忘れたとしたら、おお、神よこの僕《しもべ》を見捨て給え! しかし、この国《アメリカ》にいて僕は彼らのために何ができるだろうか? 僕に彼らの鎖を断ち切ることができるだろうか? できない、一人の力では絶対にできないのだ。しかし、僕を行かせて一つの国の要素とならせてくれるなら、その国もやがて国際会議に発言権をもつことになるだろうから、その時こそわれわれは世界に訴えることができるのだ。国家には自国民族のために論議し、抗議し、懇請し提訴する権利がある、――しかし個人にはその権利がないのだ。
もしヨーロッパが自由国家の一大会議場となるならば、――きっとそうなると僕は神の力を信じているのだが、――そしてもし、そこに、奴隷制度や、あらゆる形の不法かつ暴虐な社会的不平等が取り除かれるとしたら、そしてまた、もし彼らが、フランスやイギリスが行なったように、われわれの地位を認めるならば、――その時こそ、その国際会議の席上で、われわれは提訴し、奴隷にされ苦しみ悩んでいるわが民族のために主張するつもりだ。そうなれば、自由な、啓発されたアメリカも、もはやその家名から、かかる汚点を拭いたくないなぞということはありえぬのだ。この汚点こそ、諸国のあいだにアメリカの名を恥ずかしめ、奴隷に対すると同じようにアメリカに対しても真に呪いとなっているものなのだ。
しかし、君は言うだろう、われわれ黒人は、アイルランド人やドイツ人やスウェーデン人と同じように、このアメリカ共和国に伍してゆく同等の権利をもっているではないかと。確かに、もっている。われわれが彼らと席を同じくし、彼らに伍してゆく自由をもつのは当然なのだ、――階級や皮膚の色とは無関係に、われわれ個人の価値によって世の中に立ってゆく自由をもつのは当然なのだ。そしてこの権利をわれわれに否定する者は、自からが唱える人類平等の道にそむく者なのだ。われわれは当然、とくに、このアメリカにおいてそれを認められるべきなのだ。われわれは一般市民のもっている権利よりもより以上の権利をもっている。――われわれには、損害を受けた民族として、賠償を要求する権利があるからだ。しかし、だからといって、僕はその賠償が欲しいのではない。僕が欲しいのは、国なのだ、僕自身の国家なのだ。僕は、アフリカ民族には文明やキリスト教の中にあってもいまだに知られていないような特性があると考えている。それは、アングロ・サクソン民族の特性と同じものではないとしても、道徳的には、よりいっそう高度なものとなることをやがて証明することだろう。
世界の運命は、その闘争と葛藤《かっとう》の開拓時代にあっては、アングロ・サクソン民族に委ねられていた。この民族のもつ厳正な、剛直な、精力的な要素は、この使命を果たすのにじつによく適していた。しかし、一クリスチャンとして、僕は新しい時代が始まるのを期待している。われわれは今その境界の上に立っているのだと僕は信じている。そしていま世界の国々を激しく揺り動かしているこの苦悶は、ねがわくば、世界の平和と友愛を産むための瞬時の陣痛であってほしいのだ。
僕は、アフリカの発展は本質的にクリスチャンとしての発展であるべきだと信じている。アフリカ民族は、支配的な、統轄的《とうかつてき》な民族でないとしても、少なくとも、愛に満ちた、寛大な、そして寛容な民族である。不正と迫害の炉の中に召されていればこそ彼らは、なおさらにあの愛と寛容の崇高な教義をしっかりと胸に結びつけていなければならないのだ。そしてその教義を通してのみ、彼らは勝利を得られるのであって、その教義をアフリカ大陸全土に広めることこそ彼らの使命なのだ。
僕自身にあっては、正直に言って、こうした使命を果たすには力が弱すぎる、――僕の血管を流れている血の半分は、熱しやすく激しやすいサクソン民族の血なのだ。しかし僕は、いつも自分のかたわらに、福音を説ききかせてくれる雄弁な伝道師を、僕の美しい妻としてもっている。僕が踏み迷う時、彼女の優しい魂がいつも僕を連れ戻し、われわれの民族に対するキリスト教徒としての義務と使命とを僕の目の前にかかげてくれるだろう。キリスト教徒らしい愛国者として、キリスト教の教師として、僕は、僕の国へ、――僕の選んだ、栄光のアフリカへ行くのだ!――そしてこのアフリカに対して僕はときどき、胸の中で、あの予言書の中のすばらしい言葉を当てはめてみるのだ。『なんじ前《エルサレムのことさき》にはすてられ憎まれて、その中をすぐる者もなかりしが、今はわれなんじをとこしえの華美《はなやか》、世々の歓喜《よろこび》となさん!』(イザヤ書、第六十章第十五節参照)
君は僕を狂信者と呼ぶだろう。君は、僕が企てようとしているものを僕がまだよく考えていないのだと言うだろう。しかし、僕は考えたのだ、そしてどんな犠牲が必要であるかも計算してあるのだ。僕はリベリアへ行く。エリシアム(英雄など、神々に愛された人々が死後安楽に生活を送ったといわれる野。ギリシア神話)のような空想の地へ行くのではなく、≪働きの野≫へ行くのだ。僕はこの両の手を使って働くつもりだ、――一生懸命に働くつもりだ。あらゆる困難に、あらゆる障害に立ちむかって働くつもりだ。そして命の続く限り働くつもりだ。僕が行くのは、そのためなのだ。そしてこの企てに、僕はけっして失望することはないと確信している。
たとえ君が僕の決意をどのように考えようとも、どうか君の信頼の胸から僕を追い出さないでくれたまえ。そして、たとえ僕が何をしようと、それは、僕が心のすべてを僕の民族のために捧げてやっていることなのだと考えてくれたまえ。
ジョージ・ハリス」
それから数週間後、ジョージは、彼の妻、子供たち、姉、義母とともにアフリカに向けて出帆した。もしわれわれに誤りがなければ、全世界はやがてアフリカからの彼の便りを聞くであろう。
われわれの他の登場人物については、特に記すべきことはないが、ミス・オフィーリアとトプシィについて一言述べ、そしてお別れの一章をジョージ・シェルビィに捧げることにしよう。
ミス・オフィーリアはトプシィをヴァーモントに連れて帰り、ニュー・イングランド人が「|わが一族《アウア・フォークス》」という言葉の下で認めているあの厳肅な審議機関を大いにびっくりさせた。「わが一族」は、初めのうち、トプシィを、彼らのよく訓練された家庭にはむしろよけいな無用の増員であると考えた。しかし、ミス・オフィーリアは彼女の弟子《エレーヴ》に義理を立てるため、良心的な努力のうちにも十分な効果をあげたため、子供はすぐに家族の者や近所の人たちからかわいがられ愛されるようになった。そして年ごろになると、トプシィは、自分から進んで、洗礼を受け、その土地のキリスト教会の会員となった。そして知性、活動性、熱意、それに世の中のために尽くしたいという願望の点においてもじつに目覚ましいものがあったので、彼女はついに推薦され、承認されて、アフリカの派出所の一つに伝道師として派遣されたのであった。そして便りによると、子供のころ、彼女をあれほどの複雑な落着きのない子にしていたあの活動力と工夫力とが、今ではもっとも穏やかな健全な方法で、同胞の子供たちの教育に役立てられているとのことである。
追伸――これは、また、世のおかあさんがたに満足していただけることと思うが、ド・トゥ夫人によって始められたかずかずの捜査の結果、最近になってキャシィの男の子の消息がわかったのである。彼は元気いっぱいの青年であったので、彼の母親より数年前に脱走して、北部の同情者たちの手によって保護を受け、教育を授けられていた。彼もまもなく、母親たちのあとを追ってアフリカへ渡るはずである。
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第四十四章 解放者
ジョージ・シェルビィは母親にあててただ一行、彼の帰宅の日を知らせただけであった。友の死の模様については、書く気にはなれなかった。何度も試みてはみたのだが、そのたびに彼は息が詰まりそうになるばかりであった。そして、きまって便箋を引き裂き、涙を拭って飛び出すと、いずこともなく気を鎮めに出て行ったのである。
シェルビィ家では、その日、若旦那のジョージさまのご帰宅をお迎えしようと、家じゅう、喜びでわきたっていた。
シェルビィ夫人は気持のよい広間にいた。そこでは、赤々と煖炉に燃えるヒッコリーの火が晩秋の夕暮れの冷気を追い払っていた。皿やカット・グラスに輝く夕食のテーブルは、もうすっかり食事の支度ができていた。この準備にあたっていたのは、すでにお馴染《なじみ》のアント・クロウィである。
新しい更紗《キャラコ》の服を着て、洗いたてのまっ白いエプロンを掛け、そして丈の高い、よく糊のきいたターバンを巻いて、黒いてかてかした顔を満足げに輝かしながら、彼女はまだあれこれと、つまらぬところにまで気を使って几帳面に食卓の用意をしていたが、それはただ奥さまに少しばかり話がしたいためなのであった。
「さあ、どうでごぜえます! これなら坊っちゃまもお気に召して下さると思いますだが?」と彼女は言った。「そら――お皿はお気に入りの席へ置きました、――煖炉のそばにな。ジョージ坊っちゃまは、いつでも温かいお席がお好きでごぜえますからな。おや、まあ!――サリィときたらどうしてあの一番いい紅茶わかしを出しておかなかったんだろう、――あの小さな新しいほうを、ジョージ坊っちゃまがクリスマスに奥さまに買っておあげなされたのがあるだちゅうに? わしが行って出してこよう! それから奥さま、ジョージ坊っちゃまからはお便りがあったんでごぜえましょうね?」と彼女は、いかにも聞きたげな様子で言った。
「ええ、クロウィ。だけどたった一行なのよ、できたら今夜帰って来るって、――ただそういうことだけ」
「ではうちの亭主《とっつぁま》のことは何も書いてないんでごぜえますね?」とクロウィは、まだ紅茶|茶碗《ぢゃわん》を持って、もじもじしながら言った。
「ええ、そうよ。あの子は何も書いてよこさないのよ、クロウィ。帰ってから何もかも話すと言っているの」
「ジョージ坊っちゃまらしゅうごぜえますな、――坊っちゃまはいつでもご自分でお話しになるのがお好きでごぜえますからな。わしはいつもジョージ坊っちゃまのその楽しみを知ってましたですよ。わしに言わせりゃあ、白人がたはみんな、どうしてあんなことに辛抱できなさるのか、わかりませんね、あんなにいっぱい書かなきゃなんねえのに。物を書くなんてことはほんとうにまどろっこしくて、やっかいな仕事でごぜえますよ」
シェルビィ夫人はほほえんだ。
「うちのとっつぁまは、子供たちや赤ん坊を見てもわからねえだろうと、わし、思いますだ。まったく! あの赤ん坊ときたら今じゃもう、ほんとうに大きな娘になりましたでの、――それに頭もええし、元気でごぜえましてな、あのポリィのやつは。今、家で|とうもろこしパン《ホウケーキ》を焼いておりますだよ。わし、とっつぁまの気に入りの形にまるめて鍋《なべ》に入れてきましただ。とっつぁまが連れて行かれたあの朝、わしが焼いてやったのと同じ形にしてな。ああほんとうに! あれはつれえ朝でごぜえました!」
シェルビィ夫人は、クロウィが何気なしにもらしたこの言葉を聞くと、思わずため息が出て、心が重くなるのを感じた。彼女は息子の手紙を受け取った時から、彼が引いたこの沈黙の幕の背後に何かが隠されているのではなかろうかと不安を感じていたのである。
「奥さまはあのお金をお持ちでございましょうね?」とクロウィは心配そうに言った。
「ええ、持っていますよ、クロウィ」
「いえね、とっつぁまに、わしが|仕上げ屋《パーフェクショナー》(「コンフェクショナー」[菓子屋]の誤用)からもらって来たあの金をそっくり見せてやりてえと思いましてな。『それで』とあの旦那は言いましたですよ、『クロウィ、うちじゃもう少しおまえさんにいてもらいたいんだがなあ』『ありがとうごぜえます、旦那さま』とわし、言いましただ、『わしも、いさせてもれえてえだが、うちのとっつぁまが帰ってめえりますし、それに奥さまが、――奥さまはわしがいなくてはもうやっていかれねえでごぜえましょうから』そう、わし言いましただ。とてもいい旦那でごぜえました、あのジョウンズってえ旦那は」
クロウィは、給料として支払われたお札《さつ》を自分の才能の記念にそっくりそのまま夫に見せてやりたいからと言って、夫人にむりやり預かってもらっていたのである。そこでシェルビィ夫人もそれではといって喜んでその願いをきいてやったのであった。
「とっつぁまはポリィを見てもわからねえでござえましょうよ、――きっとわからねえですよ。なにしろ、とっつぁまが連れて行かれてから五年にもなりますでな! あのころはまだほんの赤ん坊でごぜえました、――やっと立てるようになったくれえでな、とっつぁまは、よく、くつくつと笑ってましただ、あの娘《こ》がよちよち歩きかけては転ぶもんだから。おや!」
そのとき車輪の響きが聞こえてきた。
「ジョージ坊っちゃまだ!」とアント・クロウィは言いながら窓のところへ飛んでいった。
シェルビィ夫人は玄関先へ駈けていって、息子の腕に抱きしめられた。アント・クロウィは心配そうに外の暗闇の中をじっと目をこらして見ていた。
「おお、かわいそうなアント・クロウィ!」とジョージは言って、同情にたえぬ様子で足をとめると、彼女の堅い黒い手をしっかりと両手で握りしめた。「僕は全財産を投げうってでも、トムを連れてもどるつもりでいたんだが、トムはもっといい国へ行ってしまったのだ」
シェルビィ夫人の口からは思わず激しい叫び声が起こったが、アント・クロウィは何も言わなかった。
一同は食堂に入っていった。クロウィがあんなに自慢していた金が、まだテーブルの上にのっていた。
「こんなもの」と言いながら彼女は、震える手で、その金をかき集めると、それを夫人のほうへ突き出した。「もう二度と見たくはねえ、聞きたくもねえ。こんなことになるだろうと、始めから思っていただ、――売られていって、あの農園《プランテイション》でぶち殺されてしまっただ!」
クロウィは背を向けると、傲然《ごうぜん》とした足どりで部屋を出ていった。シェルビィ夫人はそっと後からついて行って、彼女の手をとると、そこにあった椅子にすわらせ、自分もそのかたわらに腰をおろした。
「かわいそうなクロウィ!」と彼女は言った。
クロウィは夫人の肩に頭をもたせかけると、むせび泣きながら言った、「おお奥さま! お赦し下せえ、わしの胸ははりさけてしもうて、――ああもう!」
「わかっています」と言ったシェルビィ夫人の目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちた。「そして私には、それを癒すことはできないけれど、でもイエスさまにはできます。主は心のくだけたるものを医《いや》し、その傷をつつみたもう(詩篇、第一四七篇第三節参照)からです」
しばらくのあいだ沈黙が続いた、そしてみんなは共に泣いた。やがて、ジョージは、嘆き悲しむクロウィのかたわらにすわって、彼女の手をとり、飾り気のない悲哀に満ちた語調で、彼女の夫の死の、あの輝かしい勝利のありさまと、彼の最後の愛の言伝てとを話して聞かせた。
それから一か月ほど経ったある朝、シェルビィ家の召使いたちは一人残らず、邸内を貫く大広間に呼び集められた。若旦那さまから何かお話があるというのである。
一同が驚いたことは、若主人が手にしてみんなの前に現われたその一束の書類が、実は、屋敷内の者を一人残らず解放するという自由の証書であったことである。ジョージはそれをつぎつぎと読みあげ、並居る者たちのすすり泣きと、涙と、歓声の中で、それを一人一人に手渡してやった。
しかし、多くの者たちは彼のまわりに詰めかけて、どうか自分たちを屋敷から追い出さないでほしいと懇願した。そして、心配そうな顔つきで、自分たちの解放証書《フリーペイパーズ》を差し出した。
「わしらは今でも自由なんでごぜえますから、このうえ自由になりてえなぞとは思いません。これまでにも欲しいものは何でも頂いてめえりました。わしら、このお屋敷を出ていきたかあごぜえません、若旦那さまや奥さまや、他の人たちと別れるなんて!」
「僕の友人たちよ」とジョージは、やっと皆の者を静かにさせると、言った、「君たちは僕のもとを去る必要はない。屋敷では以前と同じようにたくさんの働き手が必要だ。僕たちはこの家を前と同じようにやってゆきたい。しかし君たちは、もうこれからは自由な人間なのだ、男もそして女も。僕は君たちの労働に対して、われわれの協定に従って、給料を支払うことにしよう。その益するところは、僕が借金をこしらえたり、突然死んだりした場合にも、――こういうことは起こらぬとは言えないからね、――そうした場合にも、君たちは、もう連れてゆかれて売られるような心配は少しもないということだ。僕はこの屋敷の仕事を続けると同時に、君たちを教育してあげようと思っている。おそらく、君たちが学びとるには相当の時間がかかるだろう、――僕が君たちに教える自由人としてのさまざまな権利を、君たちはいったいどのように行使したらいいか、それを学びとるためにはね。しかしどうか君たちは素直に、そして熱心に学んでほしい。僕も誓って、誠実に、そして熱心に教えるつもりだ。さあ、僕の友人たちよ、天を仰ぎ、この自由を授け給うた神に感謝したまえ」
この屋敷に長く住みなれて、頭がまっ白になり目も見えなくなった老齢の家長格の黒人が、この時、立ちあがって、震える手を上げながら言った、「皆の衆、神さまに感謝の祈りを捧げよう!」一同がいっせいにひざまずいた時、たとえオルガンの音《ね》や鐘の響きや礼砲のとどろきにのせられずとも、この至誠あふれる老人の胸からほとばしり出た |Te《ティ》 |Deum《ディウム》 ほど感動的な、心からの讃美歌が天に昇ったことはなかったのである。
一同が立ち上がると、すぐにまたメソディストの讃美歌がどこからともなく起こった。その折返しの句は次のごとくであった。
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ヨベルの年は来たれり、――
なんじら贖《あがな》われたる罪人《つみびと》よ、わが家へと帰れ
(チャールズ・ウェズリー[一七〇七〜八八]の讃美歌「トランペットを吹き鳴らせ」の一節。「ヨベルの年」については、レビ記、第二十五章第八〜十七節参照)
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「それからもう一つ」とジョージは、互いに祝い合う一同のざわめきを静めて言った。「君たちはみんなあのアンクル・トムを憶えているだろう?」
ジョージは、ここで、トムの臨終の模様と、みんなへの別れの愛の言伝てとを手短かに話して聞かせ、そしてこうつけ加えて言った、
「そして僕の友人たちよ、僕は、だれあろうこのトムの墓の前で神に誓って決心したのだ、僕の力で奴隷を解放することのできる間は、けっしてもう奴隷は持つまいと。そして僕によっては、何人《なんぴと》も自分の家や友だちから引き離され、あのトムのように、さみしい農園《プランテイション》で死ぬような目には断じてあわせまいと。だから君たちは、自分の自由を喜ぶ時、それはあの善良な魂《トム》のおかげなのだということを考え、トムの妻や子供たちに親切にしてその恩を返してやってくれたまえ。君たちはアンクル・トムの丸木小屋《ケビン》を見るたびに、君たちの自由について考えてくれたまえ。そしてこの小屋を記念碑として、みんながトムの歩んだ道を歩み、トムのように正直なそして忠実なクリスチャンになることを、みんなの心に銘記してくれたまえ」
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第四十五章 結語
作者は、この物語を執筆中、しばしば、各地の読者から投書を寄せられ、作品の中の事件がほんとうに起こったものなのであるかどうか、いろいろと質問を受けた。そこで、これらの質問に対してここにまとめてお答えすることにする。
この物語を構成しているそれぞれの事件は、そのほとんどすべてが、実際に起こったもので、そのうちの多くを作者自身が目撃するかあるいは作者のごく親しい友人たちが目撃しているのである。われわれは、作品中に紹介されているほとんどすべての登場人物についてもまた、それらとそっくりの人物を知っている。そして彼らの語る言葉の多くも、一言一句、作者自身が直接耳にしたか、あるいは作者に報告されたものなのである。
イライザとして登場したあの女性の容貌《ようぼう》は、実在する人物をそのまま描いたものである。アンクル・トムのあの清簾な忠節、信仰心、誠実さは、作者が知りえた幾つかの事実から成り立ったものである。われわれの心を最も強く打つ悲劇的・ロマン的な事件、および最も恐ろしい事件の幾つかも、また、実際にそれらと同じ事件が起こっているのである。流氷にのってオハイオ川を渡った母親の話は、周知の事実である。下巻に描かれている「プルー」の話は、作者の実弟(チャールズ・ビーチャー。一八一五〜一九○○)が当時ニュー・オーリアンズのある大きな商社で集荷係《コレクテング・クラーク》をしていたころ、彼が実際にその目で観察した事件なのである。同じ出所から、農園主レグリィの性格が描き出されている。この人物について弟は、集荷のための出張で、その農園を訪れた時のことを語りながら次のように書いている。「その男は実際、私にその拳をさわらせた。鍛冶屋《かじや》のハンマーか鉄の小節のように堅かった。そしてその男は、『黒ん坊を殴り倒しているうちに、たこができてこんなに堅くなったのだ』と言った。私はその農園を出た時、ほっとしてため息をついた。まるで食人鬼の巣窟から逃れ出た思いだった」
トムのあの悲劇的な運命についてもまた、その何倍にも及ぶ同様の事件が起こっているのであって、それを証言する生き証人はこの国の至る所にいるのである。ただ思い出していただきたいことは、南部諸州にあっては、いかなる州においても、黒人の血をひいている者は何人《なんぴと》たりとも白人に対する訴訟において証言することは許されない、というのが法の原則となっていることである。したがって、激情のあまり自分の損得を忘れてしまうような人間と、その人間の意志に抵抗するだけの勇気と信条とをもっている奴隷がいる所には、必ずトムのような事件が起こりうるのであって、このことは読者にも容易に理解されるであろう。実際、奴隷の生命を保護するものは、その主人の性格以外には何もないのである。あまりにも怖ろしくて、それについてよく考えることさえできないような事実が、時おり、公衆の耳に達することがある。そして、そうした事実についてなされる評論をわれわれはしばしば耳にするのであるが、その評論こそ、まさにその事実以上に恐るべきものなのである。評論はこう述べるのである、「そうした事件が時たま起こるということは、ありそうなことだ。しかし、だからといって、それが全体の実例であるわけではない」と。もしニュー・イングランドの法律が、そのように書き改められて、主人は法の裁きを受けることなく、時たま徒弟をなぶり殺すことができるとしたならば、その法律をわれわれは、南部におけると同じように、平然として承認するだろうか? そしてこう言うだろうか、「こういう事件は、ごくまれで、全体の実例にはならない」と? こうした不正は、奴隷制度に固着したものなのである、――それはこの制度さえなければ存在しえないものなのである。
美しい第一代混血児《ミュラトゥ》や|四分の一混血児《クォドルーン》の娘たちを競売にするあの恥知らずな行為は、真珠《パール》号の拿捕《だほ》に続いて起こった事件でも有名である。われわれは、この事件における被告側弁護団の一員であったホラス・マン氏(アメリカの教育者、一七九六〜一八五九)の語るところから次の言葉を借りよう。氏はこう語っている。「一八四八年、帆船《スクーナー》、真珠《パール》号に乗ってコロンビア区(ワシントンDCのこと)から脱出せんとして拿捕された七十六名の一団のうちには、そして私はその船の高級船員たちの弁護に加わったのだが、その一団のうちには、何人かの若い健康そうな女性がいた。からだつきといい顔かたちといい混血児特有の魅力をもっていたので、法外な値をよんだ。エリザベス・ラッセルという娘がその中にいた。彼女はたちまち奴隷商人の毒牙にかかって、ニュー・オーリアンズの市場に送られる運命となった。その時の様子を見ていた者たちは、彼女の運命の哀れさに強く胸を打たれた。そこで一同は金を出しあって、千八百ドルで彼女の身柄を引き取ろうとした。なかには財布の底をはたいてもこの娘を救ってやりたいと申し出る者が何人かいた。しかしその鬼のような奴隷商人は頑としてきかないのだ。そして娘はとうとうニュー・オーリアンズに送り出されてしまった。しかし、途中、半分ほど行った所で、神はその娘に慈悲を垂れたまい、突然、娘の命をお召しになった。脱出を企てた例の一団の中にはエドマンスンという二人の姉妹がいた。同じニュー・オーリアンズの市場《マーケット》へ送られようとした時、姉妹は奴隷市場《シャンブルズ》に行って、そこの親方に、後生だから自分たちをそこへはやらないでくれと哀願した。親方はからかい半分に、向こうへ行きゃあきれいな着物を着せられて、調度のととのった家に住めるぞと言った。『ええ』とその娘は言った、『それはこの世ではたいへん結構なことかもしれません、でも次の世ではどうなるのでしょうか?』この二人も、とうとうニュー・オーリアンズに送られてしまった。しかし二人はその後、莫大な金額で受け出されて連れもどされた」こうした事実からしても明らかなようにエミリーンとキャシィの物語は、それに類する多くの実話をもっているのである。
公平を欠いてはならぬという点からも、また作者は、あのセント・クレアのもつ心の美しさや心の寛《ひろ》さにもそれに類する事実のあることをここに述べておかなければならない。それは以下の逸話によってもおわかりいただけると思う。数年前、ある南部の青年がシンシナティにやって来た。彼は、子供の時から自分の身の回りの世話をしている気に入りの召使いを一人連れていた。この男は、この機会を利用して己が身の自由を得ようと、当時、逃亡奴隷を保護してくれることでよく知られていたあるクエーカー教徒の所へ逃げ込んだ。青年は非常に憤慨した。彼はその奴隷をこれまで常にずいぶんと寛大に扱ってきた、そして愛情の点においてもかなりの自信をもっていた、それがかえって禍となり、そこをつけ込まれてやつに逃げられたのだ、と考えた。青年は、かんかんになって、そのクエーカー教徒の家を訪れた。しかしこの青年はまれに見る公平無私な美しい心の持主だったので、いろいろ議論し討論しているうちに、まもなくその怒りは解けてきた。その話し合いによって彼は生まれて初めて奴隷制度の別の一面を知ったのである、――それまで一度も考えたことのない一面を考えてみたのである。そこで青年はただちにそのクエーカー教徒に向かい、もしここへ逃げてきた彼の奴隷が、彼の目の前ではっきりと、自由になりたいのは自分の心からの願いなのだと言ったならば、その男を奴隷の身から解放してやってもいいと言明した。そこですぐに逃亡者は呼び入れられ、ネイサン(その奴隷の名前)は彼の若主人から尋ねられた、いったいこれまで主人の扱い方に対して、いかなる点からも、何か気に入らぬ理由があったのかどうかと。
「いいえ、旦那さま」とネイサンは言った。「旦那さまはいつだってわしによくしてくだせえました」
「よろしい、それなら、なぜおまえは私のもとから逃げ出したいのだ?」
「旦那さまがもしお亡くなりになりましたら、その時はわし、だれのものになるのでごぜえますか?――やはり自由な人間になっておいたほうが、わし、いいと思いまして」
しばらくじっと考えていた後、その若い主人は言った、「ネイサン、おまえの立場にたったら、私もやはりそういう気持になるだろうと思う。よし、おまえを自由の身にしてやろう」
青年はただちにその男の解放証書《フリーペイパーズ》を書いてやった。そしてクエーカー教徒の手に、なにがしかの金を預けて、この男が世の中を渡っていくための一助となるよう、しかるべく役立ててやってほしいと頼んだ。そして本人にはじつに神経のゆきとどいた、親切な紹介状を持たせてやったのである。その書状は、しばらくの間、作者の手もとに置かれていた。
作者は、多くの場合において、南部の人々の、各個人を特色づけているあの気高さ、寛大さ、慈悲深さに対しても公平を期しえたものと希望している。そうした事例は、われわれを人類に対するまったくの絶望から救っている。しかし作者は、いかなる方にでもいい、世界を知っておられる方にお尋ねしたい、はたしてこうしたりっぱな人物が、いかなる国においても、一般的なものであるのかと?
作者は長年のあいだ、奴隷制問題についての文献やそれにふれた記事を読むことをいっさい避けていた。それはこの問題が、調査するにはあまりにも痛ましすぎると考えたからでもあり、また、進みゆく啓蒙《けいもう》の光と文明とが、時とともに必ずこの問題を解決してくれるであろうと考えたからでもあった。しかし、一八五○年のあの逃亡奴隷法が制定された時、作者はまったくの驚きと狼狽《ろうばい》とをもってこれを聞いたのであるが、そこにはなんと、キリスト教徒であり慈悲深い心の人々が、南部から逃れて来た逃亡者たちをもとの奴隷制度の中に送り返すことを、善良なる市民に課せられた義務として実際に勧告しているではないか、――そして北部の自由州においては、あらゆる方面で、優しい、情け深い、尊敬すべき人々が、この法律についていかに対処すべきがキリスト教徒の義務であるかと、あれこれ討議・討論しているではないか、――それを聞いた時、作者は、これらの人々は、そしてキリスト教徒たちは、奴隷制度のなんたるかを理解していないのだと考えざるをえなかった。もしこの人たちがそれを理解していたならば、このような問題はけっして討論の対象とはなりえなかったであろうからである。そこで、こうしたことから、作者の胸に、それではこの問題を生きた戯曲的な現実として人々の前に提出したいという考えが浮かんだ。作者はこの奴隷制度を、その最もよい状態も、またその最も悪い状態も、公平に描くように努力したつもりである。その最もよい状態については、作者は、あるいは成功したのではないかと思っている。しかし、おお! その反対側に横たわっているあの死の谷間と影の中に、今日なお語り尽くされずに残されている事実については、それをいったいだれが語りえようか?
皆さん、寛大な、気高い心の、南部諸州の男性の皆さん、そしてまた女性の皆さん、――高潔な、寛容な、清廉な人格をおもちの皆さんは、南部が直面しているこの一段と厳しい試練をのりこえる偉大な方々のはずです、――その皆さんに作者は訴えたい。皆さんはこれまで、ご自分の深い心の中で、ひそかな語り合いの中で、この奴隷制度という呪われた制度にはかずかずの悲哀と悪弊が存在するのだとお考えになったことはありませんでしょうか? この制度がそうならないでいられるのでしょうか? いったい人間とはだれからも責任を問われることのない絶対の権力を託されたものなのでしょうか?そして、この奴隷制度こそ、奴隷に対してあらゆる法的な立証権を否定することによって、奴隷所有者をすべて絶対君主にしているのではないのでしょうか? その権力を、当然の結果として起こるあの悲劇の道具に使わぬ者がありうるでしょうか? 皆さんのように、名誉、正義、慈愛を旨とされる方々の中に世論があるならば、それはもちろんあるはずですが、残忍な人々、野蛮で下等な人々のあいだにももう一つ別な世論がありはしないでしょうか? そしてこういう残忍な人々、野蛮な人々、下等な人々も、奴隷法によって、最もりっぱな、最も心の美しい人々と同じように、何人でも奴隷を所有することができるのではないのでしょうか? 名誉ある人々、廉直な人々、高潔な、情け深い人々が、世界じゅう至る所の、大多数を占める人たちなのでしょうか?
奴隷貿易(輸入のこと)は、今日、アメリカの法律では、海賊的不法行為と考えられている(一八○八年一月一日以降アフリカ奴隷の輸入は法律で禁じられている)。しかしアフリカの沿岸で今なお昔と同じように組織的に続けられている奴隷貿易(輸出のこと)は、アメリカにおける奴隷制度に必然的に付随するものであり、その結果なのである。そしてその悲嘆、その恐怖、それらは何人《なんぴと》によって語りえられるであろうか?
作者がこの物語に描いたものは、そうした苦悶と絶望の、ほんの微かな影にしか、おぼろげな姿にしかすぎないのであって、今こうして作者が筆を執っている間にも、その苦悶と絶望は、何千という人々の心を苦しめ、何千という家庭を打ち砕き、寄る辺ない、傷つきやすい民族を逆上や自暴自棄へと駆りたてているのである。こうした呪うべき奴隷貿易に駆りたてられて、ついにわが子を殺し、自らも、死以上に恐ろしいその悲しみから逃れようと、死の中に隠れ家を求めた母親たちを知っている人が現存するのである。こうした悲劇は、とうてい書きえぬ、語りえぬ、想像しえぬものであるが、これと同じような恐ろしい光景が現実として、毎日、毎時間、わが国の沿岸に起こっているのである、アメリカの法の影のもとで、そしてキリストの十字架の影のもとで。
そして皆さん、アメリカ全土の男性の皆さん、そしてまた女性の皆さん、こうした制度は軽視されてよいものでありましょうか、弁明の許されるべきものでありましょうか、黙って見過ごされるべきものでありましょうか? この本を冬の夕暮れ、あたたかい煖炉のかたわらで読んで下さっているマサチューセッツの、ニュー・ハンプシャーの、ヴァーモントの、コネチカットの、農家の皆さん、――メインにいらっしゃる勇壮な、心の寛い船乗りや船主の皆さん、――こうした制度は皆さんが賛成し奨励するものなのでしょうか? ニューヨークにお住いの雄々しい寛大な心の皆さん、豊かな陽気なオハイオの農家の皆さん、そして広大な大草原諸州(大草原をもつ西部諸州のこと)の皆さん、――どうか答えて下さい、こうした制度は皆さんが保護し賛成するものなのでしょうか? それから、あなたがた、アメリカのすべてのおかあさん、――ご自分のお子さんの揺り籃《かご》によって、全人類に対する愛と同情とを学ばれたおかあさん、――あなたのお子さんを生む時のあの聖《きよ》らかな愛にかけて、お子さんの美しい、汚《けが》れのない幼児期のあの喜びにかけて、お子さんの成長期を指導なさるあの母親らしい憐れみと優しさにかけて、お子さんの勉学についてのあの心配にかけて、お子さんの魂が永遠に清らかなれと神に願うあの祈りにかけて、――私は皆さんにお願いいたします、どうか、皆さんと同じこの愛情をもちながら、法律上の権利を何一つ与えられていないために、自分の懐《ふところ》の子を保護することも、指導することも、教育することもできないあの母親に同情を寄せてやって下さい! お子さんの病床に付き添うあの看護の時間にかけて、けっして忘れることのできないあの臨終の眼差《まなざ》しにかけて、あなたには助けてやることも救ってやることもできず、ただあなたの胸をしめつけるばかりであったあの断末魔の叫び声にかけて、空《から》になった揺り籃のあのわびしさにかけて、――私は皆さんにお願いいたします、どうか、アメリカの奴隷売買によってたえず子供を奪いとられているあの母親たちに同情を寄せてやって下さい! そして、どうかおっしゃって下さい、アメリカのすべてのおかあさん、こうした制度は、弁護され、賛成され、黙って見過ごされるべきものなのでしょうか?
自由州の人々はこの奴隷制度には関係していないのだから、何もすることはできないと、あなたはおっしゃるのですか? ほんとうに関係していなければ結構なことです! しかし事実は、そうではありません。自由州の人々もこの奴隷制度を弁護し、助長し、干与してきているのです。そしてこの制度に対しては、神の御前《みまえ》にあっては、南部よりももっと罪が深いのです。自由州の人々は教育や習慣の点では弁解の余地がないのですから。
もし自由州のおかあさんがたが、みんな、過去において、正しい考えをもっておいででしたら、自由州の息子《むすこ》たちは奴隷の所有者にはならなかったでしょうし、また、一般に、奴隷に対するこのうえない苛酷な主人にはなっていなかったでしょう。自由州の息子たちは、奴隷制度のわが国における拡大を黙認することもなかったでしょう。自由州の息子たちは、今日見られるように、人間の霊魂と肉体を彼らの商業取引きに、金銭同等物として商《あきな》いはしなかったでしょう。一時的にしろ商人によって私有され、そしてまた売り払われる奴隷が、北部諸都市にも数多くいるのです。ですから、奴隷制度の罪や誹《そし》りはすべて南部にだけ押しつけてよいものなのでしょうか?
北部の皆さんは、北部のおかあさんは、北部のキリスト教徒の皆さんは、南部の同胞を弾劾《だんがい》するよりも更に多くのなすべきことがあるのです。皆さんは自分たち自身の中にある罪悪を正さなければならないのです。
しかし、それなら各人は何をしたらいいのでしょうか? それについては、一人一人が判断できるはずです。ただここに一つ、だれにでもできることがあります、――それは、必ず自分が物事を正しく感じるようになるよう努力することです。人に対する憐れみの力というものは、大気のようにすべての人間を取りまくものです。ですから。慈悲《ヒューマニティ》というものの重要性を、強く、健全に、正しく感じる人は、男でも女でもみな、人類に対する誠実な篤志家となるのです。ですから、この奴隷制問題にもあなたの憐れみをもつよう心がけて下さい! あなたの憐れみはキリストの憐れみと調和しているでしょうか? それとも、あなたの憐れみは世俗的な政策の詭弁《きべん》によって左右され、歪められているのでしょうか?
北部のキリスト教徒の皆さん! まだあります、――皆さんにはもう一つの力があります。皆さんは神に祈ることができるのです! 皆さんは、祈りの力をお信じになりますか? それとも祈りは、もはや、はっきりしない、使徒の伝えた経外伝説にすぎなくなってしまったのでしょうか? どうか皆さん、国外の異教徒のために祈ってあげて下さい。そしてまた国内の異教徒のためにも祈ってあげて下さい。そして宗教的向上の機会も、すべて自分がどのような主人のもとへ売られていくかによって決まる、あの苦しみ悩むキリスト教徒たちのためにも祈ってあげて下さい。この人たちに向かって、キリスト教の倫理にどこまでも従えと期待するのは、多くの場合、不可能なことだからです。もしこの倫理が、彼らに対して殉教の勇気と恩寵とを、天上から与えているのならば問題はないのですが。
しかし、まだあります。われわれの自由州の沿岸には、哀れにも、打ち砕かれ、ちりぢりにさせられた家族の生き残りの人々がつぎつぎとたどりつきます、――こうした人々は男も女も、不思議な神の摂理によって、奴隷制度の大波をくぐって逃れてきたのです、――彼らは知識の点でも低く、そして、多くの場合、倫理感の点でもしっかりしていない人たちです。それはキリスト教や道徳のあらゆる信念を混乱させ混雑させる奴隷制度のためなのです。こうした人々が皆さんのあいだに保護を求めてやって来るのです。こうした人々が教育を、知識を、キリスト教を求めてやって来るのです。
おお、キリスト教徒の皆さん、あなたがたはこうした哀れな不幸な人々に何を負うているのでしょうか? アメリカの国民はアフリカ民族に対してかずかずの非行をもたらしたのですから、それを償う何らかの努力をアメリカの全キリスト教徒は彼らに負うているのではないのでしょうか? 教会や学校の門が彼らに向かって閉ざされてよいものでしょうか? 州が立ち上がって彼らを追い出してもよいものでしょうか? キリストの教会が、彼らに浴せかけられる嘲笑を黙って聞き流し、彼らが救いを求めて差しのべる手から尻ごみをしてもよいものでしょうか? そして教会の沈黙によって、彼らをわれわれ自由州から追い出すような無慈悲なことを勧めてもよいものなのでしょうか? もしそうでなければならぬとしたら、それは悲しむべき光景となるでしょう。もしそうでなければならぬとしたら、この国は、全人類の運命が、じつに憐れみ深い、情け深いお方の手の中にあるということを思い起こす時、当然ふるえおののくことでありましょう。
あなたは、こうおっしゃるのですか、「われわれは彼らに、この国にいてもらいたいわけではない。彼らがアフリカへ行きたいというのなら行かせればいいではないか」と?
神の摂理がアフリカに避所《さけどころ》を設け給うたことは、たしかに、大きな、注目すべき事実です。しかし、だからといってキリストの教会がこの寄る辺ない民族に、教会の信仰が自らに要求しているあの責任を転嫁してもよいということには少しもならないのです。
もしリベリアを奴隷制度の鎖から逃げ出したばかりの無知な、無経験な、なかば野蛮化した民族で充満させるならば、それは建国にあたってかずかずの新しい事業を始める際につきものの、あの闘争や葛藤《かっとう》の期間を、何年ものあいだ、長引かせることになるだけでしょう。それよりもまず、北部の教会はこれらの受難者たちをキリストの御心の中に迎えようではありませんか。教育の上からも有利な、われわれキリスト教徒の共和主義的な社会や学校へ彼らを迎えようではありませんか、そして彼らが倫理的にも知的にもある程度、成熟したならば、その時こそ彼らの手をとってアフリカの沿岸へと渡らせてやろうではありませんか。そこで彼らは、アメリカで学んだ学問を実践に移すことができるのです。
北部ではある一団の人々が、比較的小規模ではありますが、こうした努力を続けています。そして、その結果として、この国は、以前奴隷だった人々が、たちまち財産、名声、教育を獲得した例をすでに見ているのです。才能ものばされています(マタイ伝、第二十五章第十四―三十節参照)。そしてこうしたことは、これまでの環境を考えると、じつに驚くべきことなのです。そして、正直、親切、心の優しさなどの倫理的特性にかけては、――そしてまた、今なお奴隷として苦しみ悩んでいる仲間や友人たちの身代金《みのしろきん》をつくるための、英雄的な努力や献身的な努力にかけては、――彼らは、生まれながらにして受けたあの忌わしい影響を考える時、驚嘆に価するほどのめざましい人々なのです。
作者は、奴隷州と境を接する所に何年も住んでいたため、以前奴隷であった人々のあいだを観察する機会がずいぶんとあった。その人々は作者の家庭に召使いとして働いていたことがある。そして、この人たちを受け入れてくれる学校が他にないので、作者は、多くの場合、家庭学校《ファミリー・スクール》で、作者自身の子供たちと一緒に教育したことがある。作者はまた、カナダへ逃がれていった逃亡者たちのあいだで伝道している牧師たちから、作者自身の経験と一致する証言を得ている。したがって作者の、このアフリカ民族の素質に関する推論はきわめて有望なのである。
解放された奴隷の第一の希望は、たいてい、自分に教育を受けさせてほしいと願うことである。彼らは、どんなことをしてでも自分たちの子供にだけは学問を身につけさせてやりたいと思うからである。そして作者自らの観察や、あるいは彼らのあいだで教育にあたっている教師から得た証言の限りにおいては、彼らは驚くほど聡明で、覚えも早いのである。こういう人々のためにシンシナティの篤志家たちによって幾つかの学校が設立されたが、そこでの結果はこのことを十分に立証しているのである。
作者は、当時、オハイオ州のレイン神学校《セミナリィ》の教壇に立っていたC・E・ストウ教授(カルヴィン・エリス・ストウ[一八○二〜八六]H・B・ストウの夫)を典拠として、現在シンシナティに住んでいる解放された奴隷たちに関する次のような事実をご紹介しよう。これは、ことさら特別な援助や激励がなくても、この民族がいかに発展しうるか、その可能性を十分に示すものである。
名前は、その頭文字だけを挙げておこう。すべてシンシナティに居住している人たちである。
B――。家具製造業。当市在住二十年。財産一万ドル(ちなみに、H・B・ストウがこの「アンクル・トム」で最初に得た収入は三百ドルであった)、すべて本人自身の手による収入。バプティスト教会会員。
C――。純粋の黒人。アフリカより拉致《らっち》されしもの。ニュー・オーリアンズにて競売。解放されて十五年。六百ドルを支払い自からの自由を獲得。農業経営。インディアナ州に数か所農場を所有。長老教会会員。推定財産一万五千ないし二万ドル。すべて独力にて獲得。
K――。純粋の黒人。不動産業。財産三万ドル。四十歳前後。解放後六年。千八百ドルを支払い家族の自由を獲得。バプティスト教会会員。事業主より遺産を譲られ、十分なる管理の下に目下繁栄中。
G――。純粋の黒人。石炭業。三十歳前後。財産一万八千ドル。自由獲得の際、総額千六百ドルを詐取されしため、再度支払う。その金はすべて本人自らの労働によるもの――その多くは、奴隷時代、主人より賃借せし時間を己れの仕事にあてて作りしもの。りっぱな、紳士として恥ずかしからぬ人物。
W――。四分の三の混血。理髪およびウェイター兼業。ケンタッキー出身。解放後十九年。三千ドル余を支払い自己および家族の自由を獲得。バプティスト教会役員。
G・D――。四分の三の混血。壁塗業《ホワイト・ウォッシャー》。ケンタッキー出身。解放後九年。千五百ドルを支払い自己および家族の自由を獲得。最近死亡、享年六十歳。財産六千ドル
ストウ教授はこう述べている、「私は、これらの人々とは、G――を除いて、もう何年ものあいだ、個人的に知り合いになっているので、こうした事実を私自身の知識から語ることができる」と。
作者は、父の家庭に(H・B・ストウの父ライマン・ビーチャー[一七七五〜一八六三]は上記のレイン神学校の学長をしていた)洗濯婦《せんたくふ》として雇われていた黒人の老婆をよく憶えている。この女性の娘は奴隷と結婚した。娘は驚くほど活動的で有能な人間であったため、その勤労と節約と、そのじつに辛抱強い献身的努力とで、彼女は夫の自由を獲得するために九百ドルをこしらえ、こしらえながらその金を、夫の主人へ分納していった。あと百ドルという時に、夫は死んだ。彼女は、分納した金を一文も取り返さなかった。
以上は、数限りなく挙げうる例証の中の、ごくわずかな事実にすぎないが、これを見ても、奴隷が自由の身となった時に発揮した献身的努力、活動力、忍耐力、そして誠実さがわかるであろう。
そして憶えておいていただきたいことは、こうした人々がこのようにして、かなりの富と社会的地位とを独力で獲得したこの雄々しい成功も、すべてあらゆる不利な条件と障害とを相手としてなされたということである。黒人には、オハイオ州の法律では、選挙権が与えられていない。そしてつい数年前(一八四九)までは、法廷において白人に対して証言する権利さえも与えられていなかったのである。こうした人々の例はひとりオハイオ州だけではない。連邦(北部のこと)のあらゆる州で、われわれは、ついきのう奴隷制度の鎖を断ち切って逃れてきたばかりのような人々を見るのである。そしてその人々は、賞賛にあまりある強烈な向上心によって、社会的にも相当高い地位を占めているのである。牧師の中ではペニントン、編集者の中ではダグラスやウォードがよく知られた例である。
この迫害された民族が、あらゆる障害と不利な条件にもかかわらず、これほどまでのことができるのなら、キリスト教会がその神の御心に従って彼らに対して勤める時、彼らは更にどれほどりっぱなことができるであろうか!
現代は世界各国が揺れ動き、騒然とした状況の中にある時代である。大きな力が地球の隅々《すみずみ》にまで広がってこの世界を地震のように上下左右に揺り動かしているのである。かかる時に、アメリカははたして安泰であろうか? 己れの懐に大きな、取り除くことのできないような不正を抱いている国は、いかなる国もこの最後の動乱の因子を己が身の中にもっているのである。
なにゆえに、この大きな力がこのようにしてあらゆる国の中に起こりつつあるのであろうか、そしてまた、なにゆえにその力は、口に出して言い表わしえないあの苦悶《くもん》の声を語り、人間の自由と平等を獲得せんとするのであろうか?
おお、キリストの教会よ、時の徴《しるし》を読め!(マタイ伝、第十六章第三節参照)この力こそ、御国の来たり、御意《みこころ》の天のごとく地にも行なわれるべき(マタイ伝、第六章第十節参照)あの神の御霊《みたま》ではないのだろうか?
しかし何人《なんぴと》が神の降臨の日に堪えうるであろうか(マラキ書、第三章第二節参照)?「なにゆえなら、その日は炉のごとく燃え(同書、第四章第一節)、神は、傭人《やといびと》の賃銀をかすめ寡婦《やもめ》と孤子《みなしご》を虐げ『寄留の異邦人《ことくにびと》を押しのける』ものどもにむかいて速やかに証《あかし》をなさん(同書、第三章第五節)とて現われたまい、虐ぐるものを壊《くだ》きたまわん(詩篇、第七十二篇第四節)からである」
これは、己れの懐に大きな不正を抱く国にとって、怖ろしい言葉ではないだろうか? キリスト教徒の皆さん! あなたがたが神の御国の来たらんことをと祈るたびごとに、この予言が、恐ろしい同胞の中に、刑罰の日と救贖《あがない》の歳《とし》とを(イザヤ書、第六十三章第四節参照)結びつけていることを忘れることができるでしょうか?
恩恵《めぐみ》の日の希望《のぞみ》はまだわれわれに残されています。北部も南部も神の御前《みまえ》には、ともに罪を犯しているのです。そしてキリストの教会はこれを償う大きな責任があるのです。不正や残虐を保護しようとして結束し、罪の共有資本を作ったところで、それによってこの連邦(ここではアメリカ合衆国のこと)はけっして救うことはできません、――それは悔罪と正義と慈悲によって救われるべきなのです。なぜなら、碾臼《ひきうす》を大海に沈ませるあの永遠の法則《おきて》(マタイ伝、第十八章第六節参照)は疑うべくもありませんが、それ以上に疑うべからざるものは、あの更に厳しい法則《おきて》だからです。すなわち、不正と残虐はその法則によって国民の上に全能の神の怒りをもたらすからなのです!(完)
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解説
一
「アンクル・トムズ・ケビン」が出版されてちょうど百十年後の一九六二年に、アメリカの南部に南北戦争以来の大事件が起こった。事の起こりは、一人の黒人が、白人ばかりの大学に入学しようとしたことからである。この大学は百十四年の歴史をもついわゆる有名校であるが、これまで黒人は一人もこの大学に入学することが許されなかった。連邦政府裁判所は、黒人差別は違憲であるとして黒人の入学を許可するよう大学に命令した。ところがこの大学は州立であったため、州知事の介入するところとなり、知事が先頭に立って黒人の入学に反対した。そして連邦政府の命令は州の自治権を侵害するものであるといってこれをはねつけた。そこで連邦政府は裁判所の判決を強制的に執行しようとした。そのため大学構内に暴動が起こり、三七五名の学生や市民が重軽傷を負い、二人の男が死んだ。政府は連邦軍をこの州に派遣して暴動の鎮圧にあたった。これに対して多くの州民は「ヤンキー・ゴー・ホーム(北部の奴らなんか帰って行け)」と口々にののしりながら南部連盟旗を自家用車に立てて街頭を行進し、連邦軍に対抗した。州境には「占領下のこの州にようこそ」と書いたビラを貼って、この州を訪れる旅行者に連邦政府の横暴を訴えた。そして政府は、この事件に総額九百万ドルを費して、ようやく一人の黒人をこの大学に入学させることができた。
これは有名なミシシッピー大学事件であるが、この事件にはいろいろな問題が含まれている。連邦対州の問題、州の自治権の問題、州立大学と州知事の問題、大学の自治の問題、公民権問題、黒人問題、等々。そしてわれわれは、こうした問題のかげにアメリカの南北戦争が今なお長く尾を引いていること、そして奴隷制問題が今もなお形を変えて存在していることを痛感するのである。もちろん、アメリカの奴隷制度は一八六三年に廃止され、今日では奴隷を売買するものも、奴隷そのものもアメリカには存在しないが、黒人に対する偏見は今日もなお、南部はもちろん、北部にも中部にも西部にも根強く残っているのである。そして異民族に対する偏見は、ひとりアメリカだけでなく、アジア、アフリカを始め世界各国に存在する事実なのである。H・B・ストウは、この「アンクル・トムズ・ケビン」の中で、当時のアメリカの奴隷制度を激しく非難すると同時に、異民族に対するこうした偏見を万人が捨てて互いに愛をもって接するよう、キリスト教的立場から、世界中の人びとに呼びかけている。出版後百十余年を経た今日も、なおこの作品が世界中の人びとから読みつづけられているのは、作者のこの人道主義的主張が強く読者の心を打つからである。
二
H・B・ストウがこの作品を執筆する直接の動機となったものは、作品の第四十五章にも述べているように、一八五○年に制定された逃亡奴隷法である。この法律は「一八五○年の妥協」の名で呼ばれている一連の立法の一つで、奴隷制問題を中心として対立する、南部大地主階級と勃興する北部産業との衝突抗争を妥協調節しようとしてとられた政治的手段の一つであった。しかしその内容は、南部の奴隷州から北部の自由州へと逃亡した奴隷を逮捕し、その奴隷を脱出した州へふたたび連れ戻すために、連邦政府の捕獲員に特別の権限を与え、すべての善良な住民に対してこれに協力援助することを命じ、これを妨害したり逃亡を幇助《ほうじょ》したりする者に対しては苛酷な罰を科するといったものであった。H・B・ストウは、こうした非人道的な法律が制定されるのもそれは奴隷制度が存在するからであり、その奴隷制度のなんたるかを国民が理解していないからであると考え、奴隷制度の真の姿を戯曲的現実として人びとの前に提示し、奴隷制度の廃止を唱えようとしたのである。
こうして、この作品は初め週刊誌「国民時代《ナショナル・イアラ》」(ワシントンDCで毎週木曜日発行)に掲載された。いわゆる連載小説である。当時のアメリカでは、自分の小説を雑誌に連載するという習慣がまだなかったので、そういう書き方をする作家はわずかしかいなかった。H・B・ストウ自身も連載はこれが初めての経験である。彼女は、最初この作品を三か月分ほどの小さなものにまとめるつもりでいた。ところが、書いているうちにだんだんと長くなって、とうとう約三倍もの分量になってしまった。物語は一八五一年六月五日号から始まり、翌年四月一日号まで四十四週にわたって続いた。そしてその間、彼女の筆が停滞したのはわずか三回だけであった。八月二十一日、十月三十日、十二月十八日の各号に載るべき第十二章、第二十章、第二十八章の原稿が、印刷の締切時にまにあわなかったため、それぞれ、その翌週の各号にまわされた。その他の個所では、彼女の筆は流れるように進んだ。次々と書き上げる原稿は、推敲のために読み返したり加筆訂正したりすることもなく、そのまま雑誌社へ送られた。句読点、引用符、疑問符等はすべて雑誌社の校正係にまかせ、自分はわずかばかりのダッシとカンマしか使わなかった。彼女の文は、文章というよりはむしろ、読者に直接語りかける言葉そのものであった。頭脳に訴えるよりはむしろ、感情に訴えるものであった。
この作品の書かれた動機については既に述べたが、その目的については、作品の序文からも明らかなように(ただし、この序文は「国民時代」にはなく、作品が本の形で出版された時、新たに書き加えられたものである)、当時アメリカ合衆国の南部に存在した奴隷制度の下で、そこに生活するアフリカ民族がいかに不当な取扱いを受け、いかに嘆き悲しんでいるかを明らかにし、彼らに対する合衆国国民の同情を喚起して、この奴隷制度を国民の間で自発的に廃止するよう、人びとの心に訴えることであった。そこで作者は、南に下るアンクル・トムと、北に上るジョージ、イライザ、ハリィの行動を通して奴隷制度の実態を広い視野で描いた。と同時に作者はこの作品の中で、アンクル・トムとジョージ一行との運命を通して、キリスト教徒としての神に対する絶対の服従と、民主的な反抗とを、大きく対照させて、象徴的に描いてもいる。
対照的描写はこの作品に見られる特徴の一つで、作者はこの手法をもってこの作品の全篇を貫いている。従って物語は、冒頭から二人の紳士の対照的描写をもって始まるのである。そしてケンタッキーにおいては、善良な農園主シェルビィと残酷な農園主ハリスが、ルイジアナにおいてはオーガスティン・セント・クレアとサイモン・レグリィが、それぞれ対照的に描かれ、また、個々の力によって奴隷を解放しようと唱えるジョージ・シェルビィに対しては、国の力によって民族を解放しようと唱えるジョージ・ハリスが対照して描かれている。こうした対照的描写は、全篇を通じていろいろな形で、様々に組合わされて見られるのであるが、それは作者自身、最後の章の中で述べているように、奴隷制度を、その最もよい状態もまたその最も悪い状態も、常に公平に描こうと心掛けていたからで、そうした作者の態度が物語の細部にまでも徹底したからである。
全篇を貫くもう一つの特徴に、母と子の離別のテーマがある。イライザがハリィを抱えてオハイオ川の流氷を渡ったのは、愛児を奪われまいとする母親の必死の努力からであった。この二人の運命はその後第三十七章まで伏せられるのであるが、その間、子供を失った母親の嘆きや、母親と離ればなれになった子供の悲しみを描いた插話が次々に語られている。そして、この母子離別のテーマは単に黒人ばかりでなく、白人の登場人物の間にも見られ、愛児の遺品を見て悲しみを新たにするバード夫人や(作者自身この二年前に幼児を失っている)、亡き母を慕い、母の愛を語るセント・クレアや、家出するレグリィの足もとに必死にすがりつく彼の母親、等の中に貫かれている。
従って、作者がこの母子離別のテーマをこの作品のライトモチーフにしたことは明らかである。そして、それにユーモア、カリカチュア、ペイソスを巧みにからませ、さらに宗教論、道徳論を加え、時には感傷的に、また時には写実的にそれを物語りながら数々の注目すべき人物を登場させていった。サムやトプシィなどの喜劇的な人物をはじめ、几帳面なニュー・イングランドの老嬢ミス・オフィーリア、極悪非道なサイモン・レグリィ、神経症の南部女性マリー・セント・クレア。アメリカ文学史上、最も聖《きよ》らかな少女と言われるエヴァ、奴隷制度を最もよく理解していた南部人オーガスティン・セント・クレア、そして最も勇敢な黒人アンクル・トムなどである。
連載の物語が章を追って進むにつれて、それはますます好評を博し、読者からの強い要望もあって、この作品は本の形で出版されることになった。そして、物語が雑誌紙上で完結する十二日前の一八五二年三月二十日に、この「アンクル・トムズ・ケビン」はボストンから刊行されたのである。
本が刊行されると、それは作者を二重に驚かせた。一つは、その売れゆきである。彼女はこの印税で新しい絹のドレスが一着買えればよいと思っていたのだが、本は発売当日から非常な売れゆきをみせて、ついには八台の印刷機が昼夜わかたず運転して増刷にあたっても需要に追いつけなかったほどで、一年間にアメリカだけでも三十万五千部を売りつくしてしまった。そのころの人口と今日のそれとを比較すれば、当時のこの部数は今日の一五○万部以上に相当する。
作者を驚かせたもう一つのことは、この作品に対する猛烈な攻撃が、作者の思いもよらぬ方向から起こったことである。作者は、奴隷所有者に対する論調がなまぬるい、南部の連中を徹底的にたたくべきだ、と奴隷制度即時廃止論者たちから非難されることは覚悟していた。事実、作者は、奴隷所有者の多くを、親切で寛大で、正しい心の持ち主として描き、極悪非道なレグリィを北部出身の人間として描いたのである。
それにもかかわらず、この作品を歓迎したのは最も過激な廃止論者たちであって、この作品を真向から攻撃したのは南部諸州であった。南部の白人は、奴隷制度を支持する者も、弁解する者も、全てがこの作品に攻撃の矛先を向けた。教会の説教壇からも、また新聞社のデスクからも烽火《のろし》があがった。そして作者の手もとには南部からの匿名の手紙が次々と舞込んだ。それらの主張を要約すれば、この小説の作者は、奴隷に対する冷酷な扱い方や、奴隷家族の離別や、奴隷の宗教教育について語る時、ごく例外的な、実際にはあり得ないような事件を特に選んで取りあげ、それを称して一般的な事実だと誇張している。彼女が描いているような残虐行為は起こり得るはずがない。なぜなら、南部諸州の法律は、そのような行為を現に禁止しているからだ。登場人物にしてもまた、彼女はそれを誇張して描いている。彼女の描く黒人は、まるで白人のようだし、白人は、まるで黒人だ。聖職者に対する彼女の態度は、全く悪意に満ちたものというほかはない。――つまり、この作品は全て嘘の固まりだというのである。しかし、手紙と一緒に彼女のもとに送られてきた小さな包みをひらくと、その中からは人間の黒い耳が出てきた。生きた奴隷の体から切りとったものである。
攻撃の烽火は北部にもあがった。ニューヨークで発行している一流の宗教新聞が、この作品を非キリスト教的だと非難し、異教徒的であるときめつけた。作者が、物語に登場する白人のグループの中で、自分たちの告白する信仰の道を忠実に守っているのは、クエーカー教徒だけであるかのように描き、また、セント・クレアの口を借りて、作者が北部のキリスト教徒の偽善性を鋭く衝いたからであった。
作者は作品の中で、南部も北部もともに神の前には罪を犯しているのだと述べているが、当時のアメリカは、南部も北部も、作者のこの言葉を正しく理解するための冷静さに欠けていた。アメリカは、この作品が書かれてからちょうど十年後に、南北戦争の悲劇を見るわけであるが、その原因の一つにこの作品が挙げられるならば、それは、アメリカにとってもまたこの作品にとっても悲しむべきことである。
なぜなら、この作品は、当時のある読者が語ったように、奴隷制度をめぐって相対立する南北の「偉大な仲裁者となり、南部と北部とを互いに固く結びあわせる」べき性質のものであって、国民を戦争に駆り立てるような性質のものでは決してなかったからである。作者自身、この作品を平和の使者と考えていたのである。
海外におけるこの作品の評判については、今さら多く語る必要はなかろう。イギリスからはディケンズ、キングズリー等が讚辞を寄せ、マコーリーはこの作品を、「アメリカが英文学に寄与した最も価値ある作品」と評した。フランスではジョルジュ・サンドがストウ夫人を聖者と呼び、ドイツではハイネがヘーゲルを捨てて、聖書を片手にこの「アンクル・トム」を読んだ。ロシアでは、後年、トルストイがこの作品を「レ・ミゼラブル」や「二都物語」と同列に置いた。そして翻訳は、この作品が出版されて一年経たぬうちに、フィンランド語にまで訳された。
アメリカ文学にとって恥ずべきことは、当時の自国に見られるそうした重大な危機にあって、今日、文学史上大作家と称せられるべき人々が、誰一人としてこの奴隷問題と真正面から取り組んだ小説を書かなかったということと、読者の大多数がこの「アンクル・トムズ・ケビン」を正しく理解し得なかったということである。これは、今日の作家も、また読者も、尊い教訓として考えねばならぬ事実であろう。
この項を結ぶにあたって、筆者は「アンクル・トムズ・ケビン」の最後に書かれたH・B・ストウの一文を紹介しよう。これは、出版された本の中では省かれてしまったものであるが、作者が「国民時代」に連載したこの物語の最後に書き添えたものである。
「『アンクル・トムズ・ケビン』の作者は、ここで皆さんにお別れしなければなりません。皆さんのお顔はまだ一度も拝見したことがありませんが、遠い各地からお寄せくださった皆さんのご好意に作者は励まされ、勇気づけられてこの作品を書き上げることができました。
毎週、紙上でお目にかかる皆さんの楽しいお顔を思い浮かべるたびに、作者には新しい力が湧いてきました。ですから皆さんには、ぜひ一言お別れのご挨拶をしてからお暇《いとま》したいと思うのです。
とくに、この物語をずっと聞いていてくださったお小さい皆さんに作者は心からの愛を捧げます。お小さい皆さん、皆さんはいつか大きくなって立派なおとなになります。それで作者はお願いするのですが、どうかこの物語から学んだことをいつまでも忘れずに、かわいそうな、しいたげられた人びとを憐れんでやってください。そして皆さんが大きくなったら、こういう人びとのために、できる限りのことをして皆さんの憐れみの心を実際に見せてあげてください。皆さんは黒人の子供に向かって、皮膚の色が黒いからといって学校の門を閉ざしたり、その子を仲間はずれにしたり、さげすんだりするようなことは、どうかけっしてなさらないでください。あのかわいいエヴァが見せてくれた美しいお手本を思い出して、エヴァが抱いていたと同じ愛情をすべての人びとに対して抱いてください。そして皆さんが大きくなった時、ただ皮膚の色が違うということだけで人びとに対して持つ、この愚かしい、非キリスト教徒的な偏見が世の中から取り除かれることを私たちは望んでいます。さようなら、お小さい皆さん、またいつかお目にかかりましょう。」
この「小さい皆さん」とは、いったいどういう意味なのであろう。作者はこれまで、子供を対象にこの物語を書いてきたのであろうか?
作者はこの物語の中で、奴隷制度を即時撤廃せよとは一言も言わなかった。一八五○年におけるアメリカ南部の全奴隷の評価額は約二十五億ドルといわれ、これは南部にとっては最大の財産であった。その財産を保証する奴隷制度を南部が即時廃止して、その財産を一日のうちに手放すなぞということは考えられることではなかった。かと言って、この制度の廃止を他から強制すれば、そこには必ず軋轢《あつれき》が生じ、将来に大きな禍根を残すことを作者は知っていた(今日の黒人問題をごらんなさい)。だから作者は、人びとの良心に訴え、南部も北部もともに神の前には罪を犯していることを国民に自覚させ、自発的に、平和のうちに廃止の方向へもっていかせようとしたのである。そのためには来たるべき世代の人びとの同情が必要であった。この物語を、父親や母親の膝の上で毎週やさしくかみくだいて読んで聞かせてもらっている子供たちの理解が必要だったのである。そこで作者は、「小さい皆さん」と未来に向かって呼びかけたのであった。しかしその声は、不幸にして、今日もなお世界の子供たちに向かって呼びかけ続けねばならないのである。
三
最後に「アンクル・トムズ・ケビン」の邦訳について述べておこう。この作品がわが国に初めて紹介されたのは、おそらく、「国民新聞」紙上においてであろう。その明治二十九年(すなわちH・B・ストウの没年)十一月八日号を見ると、日曜文学欄に「トムの茅屋」という題で敬天牧童《けいてんぼくどう》氏の訳が載せられている。しかしこの訳は、その後十一月十五日、十二月十三日、翌年の一月二十四日の各号に載っただけで、原作の第一章の、およそ三分の二のあたりで中断してしまって、それきりになっている。
その後の紹介は、昭和二年に今井嘉雄氏による春秋社からの上下二冊ものの訳(世界家庭文学名著選、第十一巻)が出るまでは、他(その後の調査で、明治四十年十二月、百島冷泉訳「奴隷トム」、内外出版協会、通俗文庫第二編および大正十二年十二月、永代美知代訳「奴隷トム」、誠文堂のあることがわかった)になかったようである。しかしその翌年には和気律次郎氏の訳が改造社から出版され(世界大衆文学全集、第十三巻)、昭和八年には今井氏の訳が春秋文庫に入れられて、上中下三冊ものとなって普及した。和気氏のものはまた、昭和二十四年に新仮名遣いに改められて大阪の創元社から上下二冊ものとして出版された。以上がわが国における「アンクル・トムズ・ケビン」のこれまでの代表的な訳である。
われわれは、このたび角川書店から完訳本を刊行するにあたって、内外の資料をできる限り参考にした。特に最近の新しいアメリカニズムの研究によるところが多く、これによって、「OED」(オックスフォード新英語大辞典)など従来の辞典では不可能であったこの作品の中の、多くの語句の解釈が可能となった。またこの翻訳の進行中、アメリカで刊行された K.S.Lynn および P.V.D.Stern の編んだそれぞれのテクストをも参考にし、その他、C.H.Foster, J.R.Adams, E.Wagenknecht などの書いたH・B・ストウの研究書をも利用した。そして翻訳の底本には John P.Jewett の初版を用い、初版の誤植等は一八七八年の Houghton, Mifflin 版によって訂正した。插画は一八九二年の同版にある Edward W.Kemble のものからその一部を借用した。訳出にあたっては、創元社版和気律次郎氏の訳に負うところが多大であったことを併記しておく。
なお、最後に、この翻訳がなるについての経過を、ちょっと説明しておく。本訳は、すでに一九四八年に山屋三郎氏が着手し、初めの第九章までを訳し終えられていたものである。その後、この翻訳を完成するよう山屋氏から依頼を受けた。一九五七年のことである。それが種々の理由から遅れて今日に至ってしまったが、これはすべて筆者の責任である。しかし幸いなことにその間、筆者は法政大学からアメリカに留学を命ぜられ、この作品の舞台となる地方を訪れる機会を得た。そして感慨を新たにして翻訳の筆を進めることができた。訳文の調子を整えるため、山屋氏の原稿にも筆を入れ、ようやく完成したわけであるが、全体は山屋氏が一八七八年の Houghton, Mifflin 版を使ってもう一度検討し、朱筆を加えた。
なおこの翻訳には、実に多くの方々のご好意を得た。ジョンズ・ホプキンズ大学の C.R.Anderson 教授をはじめ、R.E.Noll 夫妻、J.Smith 夫人等、アメリカ南部北部に在住の友人、また国内の学友等。いささか私事にわたることではあるが、記して謝意の一端を表わす。
一九六五年十二月 大久保博
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訳者あとがき
「ルーツ」出版によせて
一
一九七六年、建国二百年をむかえたアメリカで「ルーツ」(Roots: The Saga of an American Family)という本が出版された。五八七ページ、一二○章からなるいわゆるノン・フィクションものであるが、その年の十月一日に出版されるや、たちまちベストセラーとなり、今日では十三か国語以上もの言語に翻訳されて、世界的なベストセラーにまで、いや、スーパーセラーにまでなろうとしている。著者はアレックス・ヘイリー。黒人のジャーナリストである。
「アンクル・トムズ・ケビン」に登場する奴隷商人ヘイリィと同じ綴りの名をもつこの著者は、いったいどんな人物なのか。それを語ることは、実は、「ルーツ」そのものを語ることになる。なぜなら、この「ルーツ」は著者が自分の先祖を、自分をふくめて七代までさかのぼったその調査の結果書きあげたものだからである。
二
ヘイリーはこの調査とその執筆とに十二年の歳月を費した。一九六四年、前作「マルカムXの自伝」の原稿を書きあげた彼は、その二週間ほど後に、ワシントン市の国立公文書館の中を歩いていた。彼の心には、ロンドンの大英博物館で見てきたばかりのロゼッタ・ストンが焼きついていた。人類の歴史の解明に大きな光を与えたあの有名な玄武岩である。その石に刻まれた三様の言葉。そのうちの一つは、何を記したものかすでに判っていた。その判っている言葉を手掛かりにして、あとの判らぬ言葉を解読していったフランスのエジプト学者シャンポリオン。いま国立公文書館の中を歩いているヘイリーは、まさにこのシャンポリオンだった。ヘイリーにはヘイリー自身のロゼッタ・ストンがあったからだ。彼の心の中の玄武岩には、幼いころテネシー州ヘニングで祖母やおばやいとこたちが刻みこんでくれた言葉が、はっきりと残っていた。「アフリカ人」「キンテイ」「コー」「カンビ・ボロンゴ」。毎夏、祖母を訪ねてきては語りあうみんなの話の中に、きまって「アフリカ人」という言葉がでてきた。そのアフリカ人は、キンテイという名前だった。ある日、ドラムを作るために森へ木を伐りに行き、奴隷商人に捕えられて、アメリカの「ナプリス」に連れてこられた。キンテイはギターのことを「コー」といい、川のことを「カンビ・ボロンゴ」と呼んだ。祖母はこのアフリカ人のことを話すとき、いつも畏敬《いけい》の念にうたれて、その声はふるえていた。まるで聖書の中の物語を語るときのようだった。「キンテイ」「コー」「カンビ」、こうしたKで始まるいくつかの言葉は、ヘイリーの心から片時も消えなかった。
ヘイリーは公文書館のマイクロフィルム室に入ってゆくと、係員にノースカロライナ州アラマンス郡で行なわれた一八七○年の国勢調査の記録を見せてもらった。この郡は彼の祖先がむかし住んでいたところなのだ。記録を調べてゆくうちに、とつぜん、彼の求めていたものが目にとまった。「トム・マレイ、黒人、鍛冶屋――」という文字だ。そしてその下には「アイリーン、黒人、主婦――」そしてその子供たち。当時いちばん年下の六歳になるエリザベスの名前もあった。祖母から聞いた話は、本当の話となった。それまで信用していなかったわけではないが、今それがアメリカ合衆国の国立公文書館にある政府の公式記録文書の中に残され、人権宣言や合衆国憲法や、そのほか重要なすべての記録といっしょに保管されていることが明らかとなったのだ。
これがきっかけとなって、ヘイリーの調査が本格的にはじまった。彼はニューヨークの国連本部へ行き、閉館時にそこから出てくるアフリカ人をロビーでつかまえては、例のKではじまる言葉をたずねた。二週間のあいだに二十四人ほども呼びとめてきいてみた。しかし、すでにテネシーなまりのまじっているその言葉の発音では、少しも用が足せなかった。
次にヘイリーは友人や知人に頼んで、アフリカの言語にくわしい学者たちを探してもらった。そして、当時ウィスコンシン大学で歴史を教えていたベルギー人のヤン・ヴァンシナ博士を見つけた。博士はヘイリーのおぼつかぬアフリカ音をきくと、同僚のアフリカ学者P・カーテン博士と検討して、その言葉はアフリカ西部のマンディンゴ地方の人たちが話すマンディンカ語からきたものだ、と結論をくだした。「コー」は恐らく「コーラ」という弦楽器のことだ。「ボロンゴ」というのは、マンディンカ語で「動いている水」のこと。だから「カンビ・ボロンゴ」は「ガンビア川」のことで、キンテイはこの川の近くで捕えられたのかもしれない。
ニューヨークのハミルトン大学にエボウ・マンガという学生がいて、その出身地がガンビアの近くであることがわかった。ヘイリーとマンガとはガンビアの主都バサースト(現在のバンジュル)にむかった。マンガの父親は、この地方の歴史にくわしい四人のグループを紹介してくれた。その人たちの話によると、「カンビ・ボロンゴ」は「ガンビア川」に相違ない。「キンテイ」というのは実際は「キンテ」という発音で、数多くの小さな村の一つに、そういう名前の村があった、ということだった。そのグループの人たちは「グリオト」のことも話してくれた。奥地の村へ行くと、いまでもグリオトと呼ばれる老人たちがいて、昔話をよく知っている。みんな特別な訓練を受けた人たちで、中にはアフリカの歴史について、その細かな話を三日間も語りつづけることのできるグリオトもいる。今度ガンビアに来るときまでに、調査に役立ちそうなグリオトをみつけておいてあげよう、と約束してくれた。
数週間後、ニューヨークのヘイリーのもとに、グリオトがひとり見つかったから、という報せがとどいた。調査に金を使い果してしまったヘイリーは、すぐには出発できず、数か月たってからようやく現地に向かった。グリオトの住んでいるジュフレという村だ。
ジュフレのグリオトはケッバ・カンガ・フォファナという七十三歳の老人だった。老人は、キンテ一族について、この一族がマリという地方に興《おこ》ったことから語りはじめた。キンテ一族は、むかしから男は鍛冶を特技とし、女はたいてい焼物と織物にすぐれていた。あるとき、その支族の一つがモーリタニアへ移住した。その一族の子にカイラバ・クンタ・キンテという男がいて、回教徒の指導者となり、ガンビアへ渡ってきた。初めパカリ・ンディングという村へ行き、しばらくそこに滞在していたが、それからジファロングという村に行き、そしてそこからジュフレの村に移ってきた。このジュフレでカイラバは最初の妻をめとった。シレングという名のマンディンカ人の乙女だ。そしてヤンネとサロウムという二人の男の子をもうけた。それからカイラバはヤイサという名の二番目の妻をめとり、オモロという名の男の子をもうけた。この三人の子はジュフレで成長し、やがて成人に達した。上の二人はこの地を離れ、新しく村を建ててキンテ=クンタ・ヤンネ=ヤと名づけた。いちばん年下のオモロはジュフレの村に残った。やがて三十歳になったとき、ビンタ・ケッバという名のマンディンカの乙女を妻とし、四人の男の子をもうけた。クンタ、ラミン、スワドゥ、マデだ。
老人はここまでの話を二時間近くもかけてくわしく語った。そしてこの四人の名をあげると、ふたたびその一人一人について、くわしく語りはじめた。「王さまの兵隊たちが来たころ、この四人のいちばん年上のクンタが木を伐りに村を出ていった……そしてそれきり二度と姿を見せなかった……」グリオトは話をつづけた。ヘイリーは石像のようにその場にすわっていた。全身の血が凍ってしまったようだった。こんなアフリカの奥地で一生を送ってきたこの老人が、それとは少しも知らずに、アメリカのテネシー州ヘニングの祖母の家のポーチでヘイリーが少年のころに聞いた話とまったく同じ話をしているのだ。
ヘイリーには自分の調査資料と、この年老いたグリオトの話とを照合する必要があった。ロンドンの資料館の一つに、オヘア大佐の軍隊が一七六七年ロンドンから派遣されてガンビア川にあるイギリスの砦の守備にあたっていることがわかった。これがあのグリオトの言う「王さまの兵隊たち」だったのだ。
ヘイリーは次にロンドンのロイド保険協会へ行って海事記録を調べてみた。すると、一七六七年の七月五日にロード・リゴニア号という船が、トマス・E・デイヴィスを船長としてガンビア川から出帆していることがわかった。しかもその船の目的地は、メリーランド州アナポリスなのだ。祖母の言っていた「ナプリス」とはこのアナポリスのことだったのだ。そこで彼は早速ワシントン市に飛び、国会図書館でアナポリス港の船舶出入記録を調べた。その結果、ロード・リゴニア号が一七六七年九月二十九日にアナポリス港に入港手続きをとっていることがわかった。では積荷は何であったか? ヘイリーはそれを調べるためにメリーランド資料館に急行し、一七六七年の十月第一週あたりの新聞を片端から当たろうとした。そして係員から渡されたメリーランド「ガゼット」紙のマイクロフィルムを調べた。するとその中の十月一日号、三ページ目に次のような記事を発見した。ジョン・ライダウトとダニエルという署名のある広告だ。「新入荷。デイヴィス船長の『ロード・リゴニア号』にてアフリカ、ガンビアより輸入。現金または手形と引替えに、アナポリスにて競売。期日、来る十月七日水曜日。積荷はきわめて健康なる奴隷……」
こうして、クンタ・キンテが一七六七年九月二十九日にアメリカのこの地に到着したことが明白となった。
一九六七年九月二十九日、ヘイリーはアナポリスの埠頭《ふとう》に立って、ひとり静かに自分の建国二○○年を祝った。大西洋のはるかかなた祖先の国をじっと見つめながら、ヘイリーは泣いていた。
三
こうした調査の結果あきらかになったアレックス・ヘイリー一族の歴史を要約すれば、おおよそ次のようになる。
クンタ・キンテは一七五○年の初春、ガンビアのジュフレに生まれた。六七年の夏、奴隷商人にさらわれて船に乗せられ、三か月後にアメリカのメリーランド州アナポリスに連れて来られる。そしてヴァージニア州スポットシルヴェイニア郡のジョン・ウォラーに八五○ドルで売り渡され、トウビーという名をつけられる。キンテはそれを嫌っていつも自分をキンテと呼ぶ。四度も逃亡をくわだてるが、その度に捕えられ、最後には、睾丸《こうがん》を切りとるか足を切断するか、そのどちらかの選択をせまられてついに専門の捕獲員によって右足を土ふまずのところから切り落とされる。その後、六八年九月五日にジョンの弟に当たる医者のウイリアム・ウォラーに買いとられ、初めのうちは野菜栽培を、後には馬車の御者をつとめる。八九年、主人の邸の奴隷で料理人をしているベル(四十二歳)と結婚。翌年九月十二日、娘をもうけキジー(「汝ここにとどまれ」つまり「売られてはいけない」の意)と名づける。キンテはこの娘にマンディンカ語や自分が祖先から受け継いできた精神を伝える。
キジーはジョン・ウォラーの娘で三つ年上のアンに可愛がられ、文字などを教えられる。しかし十五歳のとき、恋人ノアの逃亡を援《たす》けるために通行証を偽造したことが発覚して、主人の掟に従い奴隷商人に売られ、ノースカロライナ州キャズウェル郡の農園主で闘鶏のオーナー、トム・リーの手に渡る。そしてその夜、この白人に犯され、翌年の冬、男の子を生む。主人トムはこの子を、一番よく働く作男の名にちなんでジョージと名づける。キジーはこの子の出生の原因がどんなに汚れたものであろうと、たとえ皮膚の色がどんなに薄かろうと、また名前が何であろうと、やはりアフリカ人の立派な孫息子なのだと考え、この子に祖父キンテの名を教えこむ。
ジョージは成長すると、自分の父であり同時に主人であるトム・リーの奴隷で、闘鶏のトレーナーをしているアンクル・ミンゴーの指導を受け、やがて腕のいいトレーナーとなり、みんなから「チキン・ジョージ」と呼ばれてもてはやされる。一八二七年八月、同州の農園主の奴隷で敬虔《けいけん》なクリスチャンのマチルダと結婚。マチルダは二八年春に長男を生み、彼女自身の父親の名をとってヴァージルと名づける。三○年にアシュフォードを、三一年一月にジョージを、三三年九月二十日にトムを生む(この第四男だけは主人トム・リーによって命名されてしまう)。そして三六年にジェイムズ、三七年にルイスを生み、最後にようやく女児を生んで、それぞれキジー(祖母と同名)、メアリーと名づける。チキン・ジョージは闘鶏に成功してかなりの貯金ができ、自分や家族のものたちの自由を買いとろうとする。主人トム・リーもそれに同意し、解放証書を用意する。しかし、五五年、主人がイギリスの貴族ラッセル卿との闘鶏の賭《か》けに負けたため、チキン・ジョージは自分の貯金をすべて失うばかりか、主人の借金のカタとしてラッセル卿に与えられ、卿のもつ闘鶏のトレーナーとしてイギリスに送られる。そして、一家は祖母キジーのほか一人残らず奴隷商人に売り渡され、ノースカロライナ州アラマンス郡でタバコの栽培をしている農園主マレイの奴隷となる。
第四男のトムは数年前から習いおぼえた鍛冶の腕をかわれて、主人マレイのために出稼ぎをするようになる。やがて出稼ぎ先の製綿工場の主人エドウィン・ホルトの奴隷で、ハウスメイドをしている十八歳のアイリーン(チェロキー・インディアンと黒人との混血)と知りあい、五九年に結婚する。
イギリスに送られたチキン・ジョージは五年の年期を終えてトム・リーのところへ帰ってくると、彼から解放証書を手に入れて、アラマンスにいる家族のもとへ行く。しかし、解放された奴隷は、六十日以内に同州から立ちのかぬ場合、ふたたび奴隷にする、という州法を知らされる。気の毒に思う農園主マレイから、もしここにいるつもりなら親切に扱ってやるが、と言われてチキン・ジョージは妻マチルダに相談する。しかし、自分たち一族の中で自由になれたのはあなたが最初だ、その自由は守らなくてはいけない、二度と奴隷になどもどってはいけない、とマチルダに励まされて、彼はひとり北部へ旅立ってゆく。
やがて南北戦争が始まり、そして、終戦。奴隷から解放されたみんなのところへ、チキン・ジョージがもどってくる。しかし一家はどこへ行くあてもない。しばらくのあいだ、白人のマレイ家とこの黒人のマレイ家とは共に暮すことになる。そして七二年、チキン・ジョージは一族を連れてアラマンス郡を発ち、カンバーランド山道をぬけて新たなる自由の土地へ向う。その二十九台の馬車のしんがりには、トムとアイリーン、そしてそのあいだに生まれたマリア、エレン、ヴァイニー、マチルダ(祖母と同名)、エリザベス、トム(父親と同名)、そして二歳になるシンシアたちの姿も見られる。一行はテネシー州ヘニングに落ち着き、トム・マレイは鍛冶屋をはじめる。七四年、マチルダは一族に呼びかけて教会を建てる。九○年、チキン・ジョージは椅子からすべり落ち、煖炉《だんろ》の火でやけどをして八十三歳の生涯をとじる。
九三年、シンシアは黒人ウィル・パーマーと結婚。翌年ウィルはテネシー州西部で最初の黒人経営の木材会社を設立。九五年、娘ベルサをもうける。ベルサは十五歳になると家庭教師についてピアノを学び、一九○九年、同州ジャクソン市のレイン大学に入り、そこの聖歌隊で、同州サヴァナ出身のサイモン・アレグザンダー・ヘイリーと会う。二○年二人は結婚し、ニューヨーク州イサカに移る。サイモンはコーネル大学の大学院で農学を研究、ベルサはイサカ音楽大学に入学。
一九二一年八月十一日、アレックス誕生。四歳のとき、祖父パーマー死亡。未亡人となった祖母のところへ毎夏アレックスのおばやいとこたちが訪れ、祖先の話を語りあう。父サイモンは木材会社を祖母にゆずり、南部の黒人大学で農学部の教授となる。三一年、母ベルサ死亡。父親も最近、八十三歳の生涯を閉じた。
以上がアレックス・ヘイリー誕生までのその一族の歴史である。
四
さて、筆者は前に、「ルーツ」は著者が自分の先祖を七代までさかのぼったその調査の結果書きあげたものだと言った。しかし、「ルーツ」はただそれだけのものではない。著者ヘイリーはその記録を骨子として、アフリカの古老たちから聞いた口碑伝説、奴隷制時代のアフリカやアメリカに起こった様々な出来事、それらに関する種々の文献など、数多くの資料を利用しながら、それに自分の推測や想像を加えて、豊かな肉付けをしているからである。従って「ルーツ」は単なる調査記録ではなく、この作品の副題が示すように、「アメリカの一家族の年代記小説」であり、アメリカのすべての黒人についての象徴的物語ともなっている。
アメリカ放送協会は、この「ルーツ」が出版される以前から、五○○万ドルという空前の製作費をかけてテレヴィ用映画に脚色し撮影を進めていた。そして出版の翌年一九七七年一月に、二十三日(日)から三十一日まで八日間にわたってアメリカ全土に連続放映した。テレヴィをもつアメリカ全家庭の八五パーセント、一億三○○○万の人びとがブラウン管の前にくぎづけにされたといわれている。この放映によって「ルーツ」の読者は爆発的にその数をまし、ロスアンジェルス郊外のあるデパートでは、そこで行なった著者のサイン会に、三○○○人もの読者がつめかけた。しかもその人たちは一人で数冊ずつもっており、中には二冊さしだして、そのうちの一冊はお腹の子供のために、という妊婦もいた。定価十二ドル五十セントというかなり高価な本であるが、ニューヨークのハーレムでは、みすぼらしい身なりの老婆が買物袋から七冊もとりだしてサインを求めた。はいている靴もぼろぼろのその老婆を見て、ヘイリーが気の毒そうな顔をすると、その黒人はじっとヘイリーの目を見つめて、言った。「いいんだよ、あんた、あたしは本を買うんじゃない。あたしたちの歴史を買うんだからね」
こうしてアメリカ全土に爆発的な反響をよんでいるさなかの四月十日、イギリスの日曜紙「サンデー・タイムズ」が、「ルーツ」の内容は歴史的事実とはほど遠いものであるという特ダネ記事を発表した。同紙の特派員マーク・オタウェイがガンビアにのりこんで現地調査をした結果、事実関係にかなり重大な疑問があるというのである。四月十一日づけ「朝日新聞」は、この「ルーツ」の主題部分についてオタウェイ記者が指摘した論点を次のように報じている。
「一、一七六七年当時のジュフレ村は『ルーツ』に描かれたような、白人の手の届かぬ辺地の村ではなかった。白人の植民拠点に取り巻かれた通商の地だった。二、当時、ジュフレの住民は奴隷商人に協力し、ガンビア川のさらに上流の黒人をつかまえるのに一役買っていた。したがって、ジュフレ村のクンタ・キンテがこの年、突然姿を見せた奴隷商人に連れ去られた、というような話はあり得ない。三、ヘイリー氏が一七六七年という年を選んだのは、同氏の米国での調査結果とつじつまを合わせるのに、この年が一番都合がよかったからだと思われる。四、現地での記録を調べてみると、クンタ・キンテがジュフレから姿を消したのは一七六七年よりずっと後で、その兄弟の子孫でヘイリー氏と同年配のケバ・キンテさんは七代目ではなく四代目である。五、クンタ・キンテは確かに突然姿を消したが、その理由はだれにもわからない。しかし、奴隷商人の手にかかったという可能性は一番少ない、と現地ではいわれている。六、ヘイリー氏が現地でクンタ・キンテについての話を聞いた人物は、名うてのホラ吹きで通っている男。ヘイリー氏が何を求めているかを事前に知って、つくり話を聞かせたとみられる――などだ」
こうした疑点に対してヘイリーは「確かにガンビアで聞いた話は、まゆつばものだという気がしないでもない。しかし、私にもあなたにも本当のことはわからないのだ。私は、私たち黒人の歴史の象徴として、『ルーツ』を書いたと考えてほしい」と語っている(朝日新聞)。
そしてヘイリーは自分の作品の信憑《しんぴょう》性についてオタウェイ記者と対決するため、十日夜、ロンドンに向かった。対決に先き立つロンドンでの記者団とのインタヴューで、ヘイリーは、ジュフレについての描写は故意に小説化したものだ、実際はあの作品に出てくる村よりもはるかに白人との接触の多い村である。しかしそれは「黒人にも仮想のエデンの園が、白人と同じように必要だったからだ」と説明している。また、自分はペテン師などとはとうてい考えられない人たちからグリオトのことを知ったのであって、ガンビアの人たちに騙《だま》されたなどとは考えていない。オタウェイ記者の批判は的をはずれたものである。まるでアンネ・フランクが存在しなかった、ナチのあの暴虐が単なるいたずらに過ぎなかった、というのにも似ている。――と語っている。
しかし、「ルーツ」に対する批判は今回のオタウェイ記者が最初ではなかった。一九七六年十二月号の「コメンタリー」誌には、ハーヴァード大学教授D・H・ドナルド氏の書評が載っている。その中で教授が指摘している論点を二、三要約すれば次のようになる。
十八世紀にアメリカへ運ばれてきたすべての奴隷の中で、アメリカ大陸のイギリス植民地へ直接つれてこられた奴隷は、六パーセント以下である。そしてタバコ農園や稲作農園の所有者たちが欲しがったのは、「慣らされた」奴隷だった。つまり、カリブ海で少くとも一年を送って、新世界の気候や労働の習慣に慣らされた者が欲しかったのだ。だからアフリカからジャマイカに運ばれ、それから一度、バルバドス島のような所に売られて、その後でサウスカロライナに積み出されるような奴隷の出身地を探るのは、事実上、不可能なことだ。
著者はクンタ・キンテが一七六八年に八五○ドルで売られたと言っているが、所によってスペインドルが商取引に使われていたことがあるにしても、実際には何ポンド、何シリング、何ペンスとすべきであったろうし、八五○ドルは法外な値段である。当時ヴァージニア州の農園主たちが、最上の「慣らされた」作男を買う場合でもその三分の一の値段ですんだ。
クンタはヴァージニア人に買いとられると、すぐに「腰のあたりまで生えている棉《わた》の木のまわりの雑草を、くわで削りとる」仕事をさせられている。しかし、当時のイギリス領の北アメリカでは、まだ棉の栽培は行なわれていなかったはずだ。
「ルーツ」の中で最も重要な歴史的事実の誤りは、クンタの孫のチキン・ジョージに関するものである。ジョージは主人が賭けに負けたために、ラッセル卿に与えられて、五年のあいだイギリスに連れてゆかれる。しかし、一七七二年六月二十二日のサマセット事件における最高裁判所の判決によって、奴隷もひとたびイギリスの地を踏めば、奴隷の身分より解放される、という規定がある。それにもかかわらず、著者ヘイリーはジョージをそのままイギリスの貴族の奴隷にしている。そしてジョージは一八六○年にアメリカに送り返されても、まだ奴隷の身分をつづけ、おとなしく南部にもどっていって、主人に自由を求めようとしている。
したがってヘイリーは、アフリカについてはよく知っていたかもしれないが、アメリカの南部のことや、奴隷制度のことや、アメリカの農業のことについては充分な研究が足りず、ましてアメリカの歴史全般についてはもちろんのことで、彼の小説には読者をなるほどと思わせるような背景は与えられていない。――というのである。
そして、四月二十三日づけ「朝日新聞」の夕刊は、「ルーツ」が≪盗作≫だとして二十二日、ニューヨークの裁判所に訴えられたニュースを報じている。同紙によれば「……訴えたのはミシシッピ州のジャクソン州立大学黒人問題研究学部長マーガレット・アレクサンダー女史。……女史〔当時の姓はウォーカー〕が一九六六年に出版した著書『ジュビリー』の焼き直しだという。……ヘイリー氏は……≪盗作説≫をはっきり否定している。……」そうである。
「ルーツ」の爆発的な売れゆきや、作品に対するこうした批判は、ストウ夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」が出版された時のあの爆発的な売れゆきや、作品に対する批判によく似ている。当時の読者が「アンクル・トムズ・ケビン」を読んで受けた衝撃は、今日の読者がヤコペッティーの「残酷大陸」(原題は Addio Zio Tom「さらば、アンクル・トム」)という映画を観て受けたときの衝撃に似たものであったろう。また、「アンクル・トムズ・ケビン」を読んで受けた感激は、NHKのテレヴィで放映された「ジェーン・ピットマン――ある黒人の生涯」を観たときの感激、あるいは、このヘイリーの「ルーツ」を読んだときの感激にも似たものであったろうと思う。衝撃や感激があまりにも強烈だっただけに、批判もまたかなり厳しいものであった。ストウ夫人はその批判に対し、「これは戯曲的現実として人びとの前に提示」したと述べ、自作の根拠ともなった事実を「『アンクル・トムズ・ケビン』の手引き」と題した本にまとめて、翌年、出版した。この手引きの中には、裁判所の判決、新聞の切り抜き(その中には、奴隷売買の広告や、逃亡奴隷の足の親指を切断する記事まである)、教会の議事録など、ぼう大な資料が納められている。それにもかかわらず、批判や誤解はなおつづいたが、「アンクル・トムズ・ケビン」はそうしたさまざまな批判や中傷に堪えて今日、世界文学の古典の一つに数えられ、奴隷文学としての最高の地位を保っている。
ヘイリーは早くから自作「ルーツ」をファクションと呼んでいた。つまり「ファクト」(事実)と「フィクション」(創作)との混血児であるというわけであるが、これで批判者たちのサテスファクション(満足)が得られれば問題はない。ヘイリーは目下、「ルーツ」執筆にいたる今回の調査の記録を、「サーチ」(探索)という題名の本にまとめようとしている。この「サーチ」によって、どこまでが事実で、どこまでが創作であるか、事実関係を明らかにし、同時にこの「ルーツ」があらゆる批判、中傷に堪えて二十世紀の古典としてそのフルーツ(果実)を実らせるよう願ってやまない。
五
四月十一日、全米優良図書委員会は「ルーツ」に特別優良図書賞を贈ると発表した。その授賞理由は、「歴史や他の分野を乗り越えた極めて文学的な価値を持っている」ということだそうである(テレヴィドラマ「ルーツ」もテレヴィ批評家サークルの授賞式で同日、本年度最優秀作品賞を獲得した)。そして四月十八日、アレックス・ヘイリーにピュリッツアー特別賞が贈られた。
なぜこの作品は「根《ルーツ》」と呼ぶのか、その問いに答えてヘイリーは次のように言っている。
「なぜなら、この作品は単に私自身の、一つの家庭の物語を語っているのではなく、祖先をアフリカにもつ幾百万というアメリカの黒人の歴史を象徴しているからです。この作品のねらいは、黒人の自尊心を鼓舞すること――と同時に、あの普遍的な真理を思い起こすよすがとして頂くことです。つまり、われわれはすべて同じ創造主から生まれた子孫ではないか、ということを」
――――
このたび「アンクル・トムズ・ケビン」の重版に際し、たまたま「ルーツ」が世界的に大きな話題となりはじめたので、角川書店からの依頼によって、一文を寄せることになった。限られた時間内での執筆のため、舌たらずの箇所、整理のゆきとどかぬ所など多々あるが、お赦しねがいたい。執筆のための参考資料として、「リーダーズ・ダイジェスト」「タイム」「ニューズ・ウイーク」を初め、内外の新聞・雑誌など可能なかぎり利用させて頂いた。利用にあたって、東京アメリカン・センター、日本女子大学図書館、法政大学図書館の係りの方、そのほか多くの方々から特別なご好意を受けた。紙面をかりて一筆お礼を申しあげる。
なお、「ルーツ」の日本語訳は今年の九月ごろ、作家の安岡章太郎、日本リーダーズ・ダイジェスト社編集長、松田銑両氏によって社会思想社から出版されるそうである。一日も早く両氏の名訳を手にしたいものである。
一九七七年四月 大久保博
〔訳者紹介〕
山屋三郎(まやさぶろう)明治四十年(一九〇七)―。福岡県に生る。昭和六年、九州大学文学部卒業。元、法政大学文学部教授。〔主訳書〕「仔鹿物語」「兵士の給与」「地上より永遠に」「ワインズバーグ・オハイオ」ほか。
大久保博(おおくぼひろし)昭和四年(一九二九)―。東京に生る。昭和二十六年、法政大学文学部英文科卒業。現在、法政大学助教授。アメリカ文学専攻。〔主訳書〕「ギリシア・ローマ神話」「中世騎士物語」