アンクル・トムズ・ケビン(上)
H・B・ストウ/山屋三郎・大久保博訳
目 次
序文
第一章 この章で読者は情けある人に紹介される
第二章 母親
第三章 夫たり父たる者
第四章 アンクル・トムの丸木小屋の一夕
第五章 ここでは、所有主の更迭にあたって、生ける財産の抱く感情を語る
第六章 発見
第七章 母の闘い
第八章 イライザの逃亡
第九章 この章では上院議員もやはり人間であるということがわかる
第十章 財産が運び去られる
第十一章 この章では財産が不都合な精神状態になる
第十二章 法律が認める取引きの実例
第十三章 クエーカー教徒の居住地
第十四章 エヴァンジェリーン
第十五章 トムの新しい主人、および他のいろいろな事柄について
第十六章 トムの女主人と彼女の意見
第十七章 自由人の防禦
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序文
この物語の舞台は、その題名が示すとおり、これまで教養ある上流社会の人々からは顧みられなかった一民族の間に置かれている。この異民族は、熱帯の輝く太陽の下に生を受けた彼らの先祖がわが国に連れて来られたとき、厳格で支配的なアングロ・サクソン民族とはあまりにも本質的に異なる性格をもたらして、それを彼らの子孫にまで伝えたために、長年の間誤解と侮辱以外には何もかち得ることがなかった。
しかし、これまでとは違ったより良い日が訪れようとしている。われわれの時代の文芸の力や、詩歌や絵画の力がそれぞれ、「人には善意を」(ルカ伝、第二章第十四節。日本語訳聖書の訳はさまざまである)というあのキリスト教の偉大な主弦《マースター・コード》に、ますますその調べを合わせてきているからである。
今日、詩人や画家や音楽家は、人間に共通した、より美しい人間的特性を探し出しては、それらに高い精神性を与え、そして創作《フィクション》という魔力をかりて、情け深い人間をつくり、人を心服させるような力を吹き込んでいるが、これはキリスト教的同胞愛の基本原理を発展させるうえに、まことに歓迎すべきことである。
博愛の手は、いたる所に延びてゆき、悪弊を追究し、不法を正し、苦悩を軽減し、世の理解と同情とを、卑しい身分の人々や虐《しいた》げられた人々そして忘れさられた人々に向けているのである。
こうした世の動きの中で、不幸なアフリカもついに思いだされるようになった。アフリカ、それは幽《かす》かな灰色の曙《あけぼの》の時代に、すでに文明と、人間進歩の特性をもつ民族を生んだのであったが、今では数世紀にわたって、文明化しキリスト教化した人間の足もとにしばりつけられ、血を流しながら空《むな》しく哀れみを乞うているのである。
しかし、その征服者となりその苛酷な主人となった支配的民族の心も、ようやくこのアフリカに対して慈悲をもってのぞむようになった。そして、か弱い人々を虐げるよりも、彼らを保護してやることこそどんなに気高いことであるかが、各国で理解されるようになった。神に感謝すべきことには、世界がついに奴隷貿易をやめたことである!
これから描く物語《スケッチズ》の目的は、このアフリカ民族がわれわれの間に存在する姿に対して、同情と思いやりとを喚起《かんき》することである。そして彼らが、ある一つの制度の下でいかに不当な取扱いを受け、いかに嘆き悲しんでいるかを示すことである。その制度とは、彼らに好意をよせる人々が、彼らのために企てたあらゆる事柄の結果がどんなにすばらしいものであっても、この制度の下にあってはそのすべてのものをくつがえし、無にしてしまうほど必然的に残酷で不正な制度なのである。
そうした物語をすすめていくうちに、奴隷制度の法的処置という困難にして当惑すべき事件に、自分自身には何の罪もないのに、まきこまれる人があるかもしれないが、こういう人々に対して、作者は個人的な怨みなど少しももっていないことを、ここではっきり言っておこう。
作者は長年の経験から、どんなに気高い心や精神をもった人でも、そのうちの何人かが、しばしばこのようにして事件にまきこまれることを教えられている。そして、これはだれよりもその本人が一番よく知っていることなのであるが、このような物語《スケッチズ》の中から知りうる奴隷制度の弊害についての知識は、筆舌につくすことのできない実相全体の半分にも達していないということである。
北部諸州にあっては、この物語は、おそらく、戯文《カリカチュアズ》と考えられるであろう。しかし南部諸州にあっては、この物語が真実であることを知っている証人が何人もいるのである。これから述べるような事件が事実であるということについて、作者がどのような直接の知識をもっているか、それはその場その場でそのつど語られるであろう。
この世の非常に多くの悲しみや過誤が、時代から時代へと解消されてきたのと同じように、ここに述べるのと同じような物語が、すでに遠くすぎさった事件の思い出としての価値だけしかもたないような時代がやがてやってくることを望むのは楽しみである。
啓発されキリスト教化された社会が、アフリカの沿岸に、われわれの間から学んだ法律や言語や文学をもつ時、その時こそ、この物語に描かれた奴隷の家(出エジプト記、第十三章第三節)の場面が彼らにとってイスラエルの民に対するエジプトの思い出のごとくならんことを――そして彼らをあがない出《いだ》し給うた神への感謝の動機とならんことを作者は祈ってやまない。
なぜなら、政治家たちが議論を戦わし、国民が利害と感情との相容れぬ潮《うしお》によってあちこちと正路から押し流されている間にも、人間解放の大本《おおもと》はある一人のお方の御手の中におかれているからである。そのお方についてはこういわれている、すなわち、
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かれは衰えず喪胆《きおち》せずして
ついに道を地に建ておわらん
かれは乏《とぼ》しき者をその叫ぶときにすくい、貧しき者、また助けなき者をもすくう
かれのたましいを暴虐《しいたげ》と強暴《あらび》とよりあがないたまい、その血はみまえに貴《とうと》かるべし
(イザヤ書、第四十二章第四節、詩篇、第七十二篇第十二節および第十四節)
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第一章 この章で読者は情けある人に紹介される
二月のある肌《はだ》寒い日の午後おそく、ケンタッキー州、P――町の、ある屋敷のよく調度のととのった食堂で、二人の紳士が酒をのみながら二人だけですわっていた。その場には召使いもおかず、二人だけが、互いに椅子《いす》を寄せあって、何事かひどく熱心に話しあっている様子であった。
便宜上、いま、二人の紳士と言ったが、その中の一人は、よく見ると、厳密には、紳士という名で呼ぶにはふさわしくないもののようであった。背が低く、ずんぐりした男で、下卑《げび》た俗っぽい顔つきをしているうえに、人を押しのけて出世しようとする卑しい人間によく見られる、あのいやにもったいぶった横柄《おうへい》なところがあった。服装もひどく飾りすぎていて、色とりどりの、いやにぴかぴかするチョッキを着込み、黄色い水玉模様がはでに入った青いネッカチーフをして、それをこれ見よがしのネクタイであしらった様子は、いかにもこの男の人柄に似あっていた。大きながさがさした両の手は、むやみと指輪をはめて飾り、太い時計の金鎖《きんぐさり》には、驚くほど大きなそしてさまざまな色の印形《いんぎょう》の束がくっついていたが、――話に熱中してくると、彼はそれを振りまわしたり、またいかにも満足そうにじゃらじゃら鳴らしたりする癖があった。彼の口にする言葉は、マリィの文法書(リンドリィ・マリィ(一七四五〜一八二六)の「英文法」(一七九五)。当時非常な権威をもっていた)などは頭から無視していて、神を汚すような言葉を適当な所にさしはさんでは、自分の言葉を飾《かざ》るのであるが、それは作者がどんなに写実的に描写したくても、そのままここに書き表わすことはできないほどのものであった。
相手のシェルビィ氏は、いかにも紳士といった様子である。それに家の調度のととのい具合や全体としてよく手入れのゆきとどいている様子からして、安楽なというより、むしろ富裕なとさえいえる暮らしを感じさせた。前述したように、二人はいま熱心に話を交わしているところである。
「私はそういうふうに話を決めてもらいたいのだがね」とシェルビィ氏が言った。
「いやぁ、それじゃ商売になりませんて――絶対にだめだね、シェルビィさん」と言いながら、相手は酒のグラスを手にとって明りにすかして見た。
「だが、実際のところ、ヘイリィ君、トムは珍しい男だよ。どこへ出したって、それだけの値打ちは確かにあるんだ、――しっかりしていて、正直で、腕があって、私の農場を全部、まるで時計のようにきちんと管理してくれているのだからね」
「そりゃ、黒ん坊流には正直かもしれませんがね」と言って、ヘイリィはブランデーをのんだ。
「いや、ほんとうだ。トムは善良で、しっかりしていて、よく気のきく、信心深い男だ。四年前にある野外祈祷会《キャンプ・ミーティング》(野外またはテント内で行なわれる宗教的集会で、通例、数日間にわたる)で発心《ほっしん》したのだが、彼はほんとうの信者になったと私は確信している。その時以来、私は金のことも、家のことも、馬のことも、――いっさいを彼に任せきっているし、この土地のどこへ行き来するにも彼の好きなようにさせているのだが、万事につけていつも忠実で正直なことに間違いないね」
「人によっちゃ、黒ん坊の信心だなんてまるで信用しねえ者もおりやすがね、シェルビィさん」と無遠慮に手を振りながらヘイリィが言った。「だが、あたしゃ信用してるね。この前オーリアンズ(ニューオーリアンズのこと。ルイジアナ州南東部にあり、ミシシッピー河畔の港町で、当時ここには大きな奴隷市場があった)へ連れていった連中のなかにいた男がそうだ、――こいつのお祈りを聞いてると、まるで祈祷会へでも出てるようだったね。それにやつは、まるっきり素直なおとなしい野郎でね。そのうえ、あっしにとっちゃ、やつはいい金もうけになりやしたぜ。というのはどうしても売らなきゃならねえはめになった男から安く手に入れたもんでね。で、あたしゃ、その野郎で六百両もうけやしたよ。いや、じっさい黒ん坊の信心もありがてえもんでさ、それが正真正銘の代物《しろもの》で、まちげえのねえってえときはね」
「ところが、トムの信心というのは、その本物なのさ」と相手が応《こた》えた。「というのは、去年の秋、私はトムを独《ひと》りでシンシナティ(オハイオ州にある町。オハイオ川に臨む。この川を境にしてオハイオ側が自由州、ケンタッキー側が奴隷州であったため、黒人奴隷はよくこの川を渡ってカナダへ逃げた)までやって、私のかわりに取引きをさせたうえ、五百ドルの金をもって帰らせたんだ。その時、私はあの男に、『トム、私はおまえがキリスト教徒だと思うから、おまえを信用する。――人を欺くようなことはきっとしないだろうからね』と言ってやった。やはり、トムは帰ってきましたよ、私の思っていたとおりにね。人の話によると、ある卑しい男たちがトムにこう言ったそうだ――『トム、おめえどうしてカナダへずらかっちまわねんだ?』とね。ところがトムは『めっそうもない、旦那さまはこのわしを信じておいでなさる。わしにはそんなことはできねえ』――そう、言ったそうだ。トムを手放すのは、私にはほんとうにつらい。ぜひとも借金の全部をこのトム一人で帳消しにしてもらわなきゃならないが、してくれるだろうね、ヘイリィ、君に少しでも良心があるならね」
「そりゃ、あたしだって商売にさしつかえないくらいの良心ならもってまさあ。――ほんのちょっぴり、まあ、お題目ていどにはね」と奴隷商人はおどけた調子で言った。「だから、これでもあたしゃ友だちのためを思って、筋の通ることならどんなことでもいたしやしょうって言ってるんです。だがね、こればっかりはちぃーとつらいですな。ちぃーとつらすぎますって」商人は、じっと考えこむ様子でため息をついた。そしてブランデーをまた自分のグラスについだ。
「じゃ、ヘイリィ、君はいったいどういうふうに話を決めようというんだね?」シェルビィ氏はしばらく不安そうに黙っていたが、やがてそう言った。
「そうですな、トムと抱合わせにもらえるような男の子か女の子はいませんかな?」
「うむ!――手放せるようなのは一人もいないな。実のところ、私はほんとうにやむをえず売ろうというんだからね。家で使っている者を一人だって手放したくはないのだ、実際にね」
その時ドアが開いて、四、五歳になる小さな混血《クォドルーン》(黒白混血児の中で黒人の血を四分の一伝えている者を特に「クォドルーン」と呼ぶ)の少年が部屋に入ってきた。その子の様子には、どこか非常に美しい、人をひきつけるようなものがあった。真綿のように細くて黒い髪の毛は、つやつやとした巻毛となって、まるい、えくぼのある顔のまわりにたれ下がっていた。そしてまた、子供が部屋の中をもの珍らしそうにのぞきこんでいる時にも、その子は、火のような輝きとやさしさをたたえた大きな黒い瞳《ひとみ》を、濃い、長いまつ毛の下からのぞかせていた。緋《ひ》と黄の格子縞《こうしじま》のはでな着物は、念入りに仕立てられ、からだにぴったりとあって、この子の浅黒い上品な美しさをいちだんと浮き立たせていた。それに、この子の内気そうな様子の中に見られるなんとなく自信をもった滑稽《こっけい》な態度は、この子がたえずこの家の主人から大切にされ、また目をかけられていることを物語っていた。
「やあ、黒太郎《ジム・クロウ》!」とシェルビィ氏が言って、口笛を吹きながら、一握りの乾葡萄《ほしぶどう》を彼の方へ投げてやった。「さあ、それを拾ってごらん」
子供は、その褒美《ほうび》をけんめいに追い駈けた。それを見て主人は笑った。
「黒太郎《ジム・クロウ》、ここへおいで」と言って、子供が近よってくると、主人はその巻毛の頭を軽くさすったり、あごの下をなでたりした。
「さあジム、この人におまえの踊りと歌の上手《じょうず》なところを見せておあげ」子供は黒人たちがよく唄《うた》うあの野性的な奇怪な歌を、豊かな、すんだ声で歌いはじめた。そして歌いながら、その節に合わせて、おもしろおかしく手や足やからだ全体を上手に動かした。
「うまいぞ、うまいぞ!」とヘイリィは言って、子供にオレンジを四半分投げてやった。
「さあ、ジム、今度はカジョオ爺《じい》やが、リューマチにかかった時の歩き方を真似《まね》てごらん」と主人が言った。
するとすぐに子供のしなやかな手足は硬直してねじまがった様子を見せた。せむしのように背をまるめ、主人のステッキを手に、あどけない顔を陰気にしかめて、あたりかまわず唾《つば》をはきながら、部屋の中を歩きまわって、いかにも年寄りくさい恰好《かっこう》をして見せた。
紳士は二人とも腹をかかえて笑った。
「じゃ、ジム」と主人が言った。「今度はロビンズ長老《さん》が指揮をとって讃美歌をお歌いになるところをやってごらん」子供はまるい顔を恐ろしく長く引きのばして、厳《おごそ》かな落着きをよそおいながら、讃美歌の一節を鼻声で歌いはじめた。
「よう! うまいぞ、うまいぞ! こりゃ大した子供だ!」とヘイリィが言った。「あの坊主《ぼうず》はものになりますぜ、きっと。どうだね」と彼は突然シェルビィ氏の肩をたたきながら言った。「あの坊主を抱合わせにしちゃ、それで話をきめよう――ええ。さあ、こんなぴったりくる話はまたとありゃしませんぜ!」
この時、ドアが静かにあいて、見たところ二十五歳くらいの若い混血《クォドルーン》の女が部屋へ入ってきた。
子供からこの女性へ目を移しただけで、それがその子の母親であることがすぐわかった。長いまつ毛をした、あの同じように豊かな、まるい黒い瞳。さざ波のようにうねる同じ絹の黒髪。彼女の浅黒い顔色は、頬《ほお》のあたりでかすかに紅潮していたが、感にたえぬ様子を無遠慮にむき出してじっと自分を見つめている見知らぬ男の視線に気がつくと、その頬はいちだんと紅《あか》みを増した。彼女の着物は、申し分のないほどすっきりとからだに合って、その優美な姿態をいちだんときわだたせていた。なかでもその繊細な手や清楚《せいそ》な足や足首は、この商人のすばやい視線を逃《のが》れることができなかった。彼の目はきれいな奴隷女の美点を一目で数えあげることによく慣れていたからである。
「なんだね、イライザ?」と、彼女が立ちどまっておずおずと主人の方を見た時に、シェルビィ氏が言った。
「はい、あの、ハリィを探しておりましたのでございます」すると子供は上着の裾《すそ》に集めたご褒美を見せに母親の所へとんでいった。
「そうかい、じゃ、連れておゆき」とシェルビィ氏が言った。そこで彼女は、子供を腕に抱き、急いで部屋を出ていった。
「いや、どうも」と商人は感にたえぬ様子でシェルビィ氏の方へ向きながら言った。「ありゃ、たいした代物《しろもの》だ! オーリアンズへつれていきゃ、いつだってあの娘《こ》でひと財産つくれますぜ。あれほどのきりょうの娘なら、ほんとうに千両以上の大金が支払われるのをこの目で見たことがあるからね」
「私は、あの娘《こ》で財産をつくるつもりはない」とシェルビィ氏はそっけない口調《くちょう》で言った。そして、話題をかえようと、新しい酒の栓を抜いて相手にすすめ、味はどうかとたずねた。
「いけますな、――とびっきり上等だ!」と商人は言った。それから向きなおって、シェルビィの肩をなれなれしくたたくと、つけ加えて言った。――「ねえ、あの娘《こ》のこと、どう話をつけますかね?――いくらに値《ね》をつけましょう――旦那の言い値はいくらかね?」
「ヘイリィ君、あれは売らないよ」とシェルビィは言った。「家内は、あの娘《こ》の目方ほど黄金を積んだって、手放なそうとは言わないだろうさ」
「おや、おや! 女ってえものは、いつもそんなことを言うんだ。まるっきりそろばんがわかんねえもんだから。からだの目方ほど黄金がありゃ、いったいどれだけたくさんの時計や衣装《いしょう》や装身具が買えるか、まあ教えてやるといいや。そうすりゃ、また話も変わると、あたしゃ思うんだがね」
「ねえ、ヘイリィ、この話はしないでもらおう。売らないと言ったら、売らないのだから」とシェルビィは決然として言った。
「そうですかい、しかし、子供のほうはいただけるんでしょうな」と商人は言った。「あの子でこちらも大分おまけしたんでやすからね」
「いったい君は、あんな子をどうしようというのだね?」とシェルビィはたずねた。
「いやぁ、あたしの友だちでこのほうの商売を始めようってえのがいてね――きりょうのいい男の子を買いあげて、売物に育てたいっていうんでさぁ。もっぱら装飾用でね――きりょうのいい子なら高い金を出そうという金持連中に、給仕か何かにして売りつけるんだね。ほんとうにきりょうのいい子供がドアをあけたり、給仕をしたり、侍《かしず》いたりしていりゃあ――屋敷もりっぱになろうてえもんでさ。それでいい金儲《かねもう》けになるんだね。で、さっきの坊主はなかなかひょうきんで、歌もうまいから、うってつけの代物なんでさ」
「あの子はどうも売りたくないね」とシェルビィ氏は、思案顔で言った。「実は、私も情《じょう》のある人間だから、あの子を母親の手から引き離すのは忍びないのだよ」
「へえ、そうですかね?――まあ! そうでしょうて――性分てえやつでね。あたしにも、よくわかるよ。女ってえものは、ときにゃめっぽううるさいもんだ。きいきい、ぎゃあぎゃあ、やられたひにゃ、まったくいやになっちまう。とてつもなく不愉快だからね。だが、あたしも商売をしているんだから、そんなへまはやりませんや。で、どうです、あの娘を一日か、あるいは一週間かそこいら、どっかへやっておいちゃあ。そうすりゃ、事は穏やかに運べるっていうもんだ。――帰ってくるまでにゃ、すっかりすんでいるってえすんぽうでね。あとで奥さんがその埋め合わせに、耳飾りにしろ、新しいガウンにしろ、何かちょっとしたものを買ってやりゃいいんだから」
「さあ、だめだろうね」
「なあに、大丈夫でさあ! こういう連中は、白人とは違うんだから。じきにあきらめちまうね。ただやり方がうまくなくちゃいけねえ。ところで、世間じゃね」とヘイリィは無遠慮な自信たっぷりの態度を装いながら言った。「こういった商売は人の心を鬼みてえにするなんて言いますがね、あたしゃ、そうは思わないね。実際、あたしゃ、ほかの連中がやっているようなこの商売のやり方は、一度だってやりゃしなかったからね。連中ときたら、女の腕から子供を引っこ抜いて売りに出すもんだから、女は気違いみてえにきいきい泣いてばかりいる。そういうのをあたしゃ見たことがあるが、ありゃあ、てんでまずいやり方だ。売物はだめにするし、場合によっちゃ、からっきし役にたたなくしちまうからね。いつかも、ほんとうにいい女だったが、オーリアンズで、そんなへまなやり方でまったく台なしにしちまったのを、あたしゃ知ってるよ。その女を買おうってえほうは赤ん坊はいらないと言ったんだね。それで、その女はカーッとなっちまって、そのときゃまったくすごかったよ。なにしろあんた、子供を腕の中にぎゅうっと抱いちまって、何か言っていたが、それからおっそろしくわめきたててね。その時のことを思うと、なんとなくぞっとするね。それから皆が子供を引き離して、女を監禁したもんだから、女はとうとう気が狂っちまって、一週間もすると死んでしまった。ええ、あんた、一千両のまる損でさあ、やり方がまずいばっかりにね。――そりゃあたりまえの話でさあ。情《じょう》のあることをやるのが、いつだって一番いいんだからね。これがあたしの経験でさあ」こう言って商人は、椅子にそっくりかえると、徳の高い決然とした態度で腕を組んだが、その様子はどうも、自分を第二のウィルバフォース(ウィリアム・ウィルバフォース(一七五九〜一八三三)。イギリスの慈善家で奴隷解放のために長年戦った)とでも考えているようであった。
この問題は、この紳士にとってはよほど興味のあるものとみえた。というのは、シェルビィ氏が思案顔でオレンジの皮をむいていると、ヘイリィは徳の高い人物にふさわしいあの遠慮がちな、しかし、あたかも真理の力によってもう二言三言《ふたことみこと》、語ることを実際に余儀なくされているとでもいった様子で再びしゃべり出したからである。
「ところで、自分で自分を褒めるのもおかしなもんだが、ほんとうの話だから言わしてもらいますがね。あたしゃ、だれよりもりっぱな黒ん坊の群れをつれて来るってんで、評判になってると思うんだ。――少なくとも、そう言われてるんだ。一度世話すりゃあ、百倍もりっぱにできると思うからね。――どいつもこいつもからだの調子は上々で、――肥っていて、いけそうなやつらばかりさ。だから商売していても他の仲間よりゃ損が少ないってえわけだね。これもみんな、あたしのやり方がうめえからですよ、あんた。つまり人情てえものが、あたしのやり方の大黒柱なんだな」
シェルビィ氏は、どう答えていいかわからなかった。そこで彼は言った。「なるほどね!」
「ところが、あたしゃこういう考えで人から笑われてきたんですぜ、あんた。抗議をもちこまれたこともありまさあ。なにしろ受けのよくねえ考えだし、それに尋常じゃないからね。だがあたしゃがんばったね。がんばって、それでかなり儲けてきやしたよ。だから、あんた、料金先方もちの人情ってえわけでさあ」と言って商人は自分の冗談を笑った。
人情についてのこうした説明の中には、なにか非常に小気味のよい、独創的なものがあったので、シェルビィ氏もつい一緒になって笑ってしまった。読者の皆さん、おそらく皆さんもお笑いのことでしょう。しかしご存知のように、今日では人情というものが、いろいろと不可解な形であらわれてきます。そして情けある人々が、言ったりしたりすることにも変てこな事柄が数限りなくあるのです。
シェルビィ氏の笑いに調子づいた商人は更にしゃべりつづけた。
「ところが、妙なことに、あたしゃ、どうしてもこの考えを連中の頭ん中へたたっ込むことができなかったんですわ。トム・ロウカァっていう昔の仲間がナチズ(ミシシッピー州にある町。ミシシッピー川に臨む、棉の積出港)にいましてね、利口なやつだったが、このトムってえのは、黒ん坊に対しちゃ、まるで悪魔そのものってえ男でした――つまりそれは主義からなんだね。なぜってあんな気のいい男は初めてだったからな。あれがやつの流儀だったんでさあ。それであたしゃ、よくトムに言って聞かせたもんですよ。『なあ、トム。女どもが悲しんで泣いている時にゃやつらの頭を殴ったり、やつらを張り飛ばしたりしたってなんになるんだ? ばかなことだぜ』とあたしゃ言うんです。『それにそんなことをしたってなんの役にもたたねえ。なぜって、泣くこたあ悪いことじゃねえぜ』ってあたしゃ言うんでさ。『泣くのはあたりまえだ』ってね、『あたりまえってえものは前から噴き出さなけりゃ、後ろからまわって噴き出すもんだ。それに、トム』って、あたしゃ言ってやるんでさ。『そんなことをすりゃあ、女どもを台なしにするばかりじゃあねえか。病気のようになって、しおれちまうぜ。きりょうだって悪くなることがあらあ、――ことに混血女はそうだ。――どっちにしろ、ろくなことにゃあならねえぜ。だから』って、あたしゃ言ってやったんでさ、『少しはやつらをなだめて、やさしくものを言ってやったらどうだい? トム。きっと、ちっとばかり情けをかけてやりゃあ、おめえのお談義や拳骨《げんこつ》よりゃあ、ずっとうまくいくし、そのほうが得だよ、きっとな』とね。ところがトムのやつはその呼吸がのみ込めねえでしまった。そのうえ、あんまり何人も台なしにしちまったもんだから、とうとうあたしも、やつと手を切らなきゃならなくなったんでさ。じっさい、気のいい男で、いっち正直な商売仲間だったんだがね」
「それで、君のようなやり方をして、この商売がトムよりもうまくいっているのかね?」とシェルビィ氏がたずねた。
「そりゃあ、いってますとも、あんた。あたしゃ、そう言えるね。だって、とにかく子供を売ったりなんかするような不愉快な仕事には、できる時にゃいつだってちょいとばかり気を使ってますからな。――母親をよそへやったりなんかしてね、――見えねえとこなら忘れも早いってえわけでね、――で、すっかりすんじまって、どうしようもねえとわかりゃ、やつらだってしぜんとそれに慣れるってえもんでさ。白人じゃあるめえし、一生女房子供と連れそっていられるなんて、そう思って育てられたわけじゃないんだからね。まともに育てられた黒ん坊なら、そんなこたあちっとも考えちゃいねえ。だからこういうこたあ万事、わりとたやすく運ぶってえわけでさあ」
「じゃ、私のところのは、まともに育てられてはいないようだよ」とシェルビィ氏は言った。
「そうらしいね。あんた方ケンタッキーの人たちゃあ、黒ん坊を甘やかし過ぎてるね。あんたたちは、やつらのためと思ってやってるんだろうが、結局そりゃ、ほんとうの親切じゃないんだ。なぜって、黒ん坊というものは、ねえそうでしょう、こき使われて、あっちこっちと駆りたてられてそのあげくは、トムだとかディックだとか、その他名も知らねえ連中の所へ売られてゆくもんなんだからね。こんなやつにいろんな考えやあてにするようなことを教え込んだり、あんまり贅沢《ぜいたく》に育てあげたりするなあ、けっして親切心とは言えないね。あとのご難がいっそう身にこたえるってえわけだからね。それで、こう言っちゃあなんだが、あんたんところの黒ん坊なんか、あの|農園の黒ん坊《プランテイション・ニガー》たちが、夢中になって歌ったり、ほいほい浮かれたりできるような楽な場所へつれて行かれたって、完全に顎《あご》を出しちまうだろうな。人間はだれだって、ねえ、シェルビィさん、自分のやり方が一番いいもんだと思うのは、当然だがね、あたしゃ、黒ん坊は黒ん坊だけの値打ちのところで扱ってやろうと思ってるね」
「それで満足できれば結構だ」とシェルビィ氏は、かすかに肩をすぼめ、不快な感情をやや露骨に示しながら言った。
「ところで」とヘイリィが、しばらくの間二人とも黙ってくるみをつまんでいたあとで、口をきいた。「さっきの話はどうですかね?」
「よく考えて、家内とも相談してみよう」とシェルビィ氏は答えた。「だが、その間、ヘイリィ君、君の言うとおりに事を穏やかにはこぼうと思うなら、君の用向きがこの辺に知れないようにするほうが賢策だよ。さもないと家の若い者に知れるからね。そしてもし知れたら、私の家の者を一人でも連れてゆくことは、そう穏やかにはゆかなくなるだろうからね。きっとだよ」
「ああ! そりゃ心得てまさ。もちろん、むっ! と口をつぐんでね。だがいいですかい、あたしのほうもべらぼうに急いでいるんで、なるたけ早く、確かなところを聞かしてもらいたいんですがね」と言いながら、彼は腰を上げて、外套を着はじめた。
「では、今晩もう一度、六時と七時の間に来てみてくれたまえ。その時お返事しよう」とシェルビィが言うと、商人は会釈《えしゃく》をして部屋から出ていった。
「あんなやつは階段から蹴落としてやれればいいと思うくらいだ」と彼は、ドアがぴったりしまるのを見定めてから、独り言のように言った。「あの厚かましいずうずうしさときたら。だがおれはあの男に首っ玉をおさえられている。以前だったらだれかがああいうごろつき商人にトムを渡して南部へ売りとばしてしまえとでも言おうものなら、おれはきっぱりと、『汝《なんじ》の僕《しもべ》は犬なるか、なんぞかかる事をなさん?』(列王紀略下、第八章第十三節参照)と言ってやっただろう。だが今となっては、どのみち売らなけりゃならないんだ。それにイライザの子供までも! きっとこのことでは、家内とひと悶着《もんちゃく》起きるだろうが、起きる点じゃ、トムのことでも同じだろう。借金はもうごめんだ、――あーあ! あいつめ、おれの首っ玉を押さえて、どこまでもぎゅうぎゅうやるつもりなんだ」
おそらく、奴隷制度の中でもっとも穏健な形の見られるのは、ケンタッキー州であろう。ここでは、一般に穏やかでのんびりした性質の農業が広く行なわれていて、この州よりも南に位する諸地域の農業に要求される、あの定期的な収穫期の急《せ》き立てや強制が必要でないために、黒人の仕事も比較的健全で穏当なものであった。また主人のほうも、比較的ゆるやかな方法で富を蓄積することに満足していたので、あの苛酷な扱いの誘因となるものをもってはいなかった。というのは、頼るものもなく保護してくれるものもいない人々の利益といった軽やかな分銅で、一時的にそして短期間に富を得ようとする期待を天秤《てんびん》にかけた時には、そうした誘因はかならず弱い人間性を圧倒してしまうものだからである。
人がこの地の屋敷を訪れ、そこの主人や主婦たちの、奴隷に対する善意にみちた放任の様子や、また奴隷たちの愛情にみちた忠誠の様子を目撃したならば、おそらくだれでも、昔からしばしば語り伝えられてきたあの詩的な家長制といったものを夢みる気持に誘われたことであろう。しかしこうした光景の上には不吉な影が――法律の影が――覆《おお》いかぶさっているのである。法律が、彼らすべてを、鼓動《こどう》する心臓や、強い愛情を持つこれらの人間を、単に主人に属する物品としてしか認めないかぎり、――そしてどんなに親切な所有者であっても、その人が失敗したり、災難にあったり、軽はずみなことをしたり、あるいは死んだりした場合には、いつなんどき、温かい保護と気ままな放任の生活から、一足とびに、なんの希望もない苦難と苦役の生活の中へ投げ込まれることになるかもしれぬかぎり、――たとえ奴隷制度がどんなにりっぱな規制を受けて運用されていたとしても、その中では、いかなるものをも美しく望ましいものにすることはできないのである。
シェルビィ氏は、きわめて平凡な型の人間だった。人がよくて親切で、まわりの者をのんびりと気ままにさせておいたし、屋敷に住む黒人たちの肉体的な慰安に寄与するような事柄にも、なに一つ欠けるものはなかった。しかし彼は、手広くまたかなり杜撰《ずさん》なやり方で投機をやった結果、大きな負債を背負いこんでしまった。そして、多額にのぼる彼の手形が、ヘイリィの手に渡ったのである。こういうわけで前述の二人の会話が始まったのである。
ところで、たまたまイライザは、先刻ドアの所へ近づく間にふと耳にした二人の話から、商人が彼女の主人に対してだれかを売り渡すようあれこれ努めていることを知った。
イライザは、部屋から出てきた時にも、もちろんドアの所に足をとめて、中の様子を聞きたかったにちがいない。しかし、ちょうどその時、夫人が彼女を呼んだので、急いでその場を去らなければならなかった。
しかしイライザは、商人が彼女の子供を売れと言っているのを聞いたような気がしてならなかった。――それとも自分の聞き違いだったろうか? 胸がこみあげて、彼女の心臓ははげしく動悸《どうき》を打った。彼女が思わず子供をしっかりと抱きしめたので、子供はびっくりして母親の顔を見上げた。
「イライザ、おまえ、きょうはどうしたの?」と夫人が言った。というのも、イライザがさいぜんから水差しをひっくりかえしたり、縫物卓を倒したりしたあげく、衣装棚から持ってくるようにと言われた絹のドレスのかわりに、長いナイト・ガウンを持ってきて、それをぼんやり夫人の前に差し出したからである。
イライザははっとした。「はい、奥さま!」と言って、彼女は眼差《まなざ》しをあげたが、それからわっとばかりに泣き出して椅子に腰を落とすと、やがてすすり泣きを始めた。
「まあ、イライザ、おまえったら! ほんとうにどうしたというの?」と夫人が言った。
「おお! 奥さま、奥さま」とイライザは言った。「食堂で商人が旦那さまと話していたんでございます! わたくしそれを聞いたのです」
「まあ、ばかな子だね、たとえいたとしたっていいじゃないの」
「でも、奥さま、もし旦那さまがわたくしのハリィをお売りになるようなことがございましたら?」哀れな母親は、椅子に身を投げだして、はげしく嗚咽《おえつ》するのであった。
「あの子を売るって! とんでもない、おまえはばかな娘《こ》だね! おまえの旦那さまは、あんな南部の商人たちとはけっして取引きなぞなさらないし、また、召使いたちが悪いことをしもしないのに、それを一人でも売るような方ではないことぐらい、おまえも知っているじゃありませんか。まあ、おまえはばかだね。いったいだれがおまえのハリィを買いたいなんて言うものかね? 世の中のだれもかれもがおまえのようにあの子に夢中になっているとでも思っているのかい、おばかさん? さあ、元気をだして、ドレスのホックをはめておくれ。そう、それから、うしろの方の髪をこの間教えたようにきれいに編んでおくれ。そして、もうこれからは立ち聞きなんかするんじゃありませんよ」
「はあ、ですけど、奥さま、奥さまはけっしてご承諾なさらないでしょうね――あの――旦那さまが――」
「ばかを言ってはいけませんよ、おまえ! けっしてそんなことはしませんからね。どうしてそんなことを言うの? そんなことをするくらいなら、私の子を一人売ってもらったほうがましです。でもほんとうに、イライザ、おまえこの頃あの子を自慢しすぎているようだよ。人が戸口に鼻さきをつっこむと(ここでは、「おせっかいを言うようだけれども」の意味にひっかけている)、すぐにおまえは、その人があの子を買いに来たのだと思い込むんだからね」
夫人の自信に満ちた口調に安心して、イライザはてきぱきと、器用な手つきで夫人の結髪《かみゆい》の手をすすめた。そしてそのうち、彼女も自分の気づかいを笑うようになった。
シェルビィ夫人は、知的にも道徳的にも、すぐれたりっぱな女性であった。あのもって生まれた雅量と寛大な心は、ケンタッキーに住む女性の特徴であるとしばしば言われているが、そのうえに夫人は、高い道徳的、宗教的な感受性と教義とをもっていて、それを偉大な精力と能力とをもって実行にうつし、実際的な成果をあげていたのである。彼女の夫は、べつにとりたてて何宗を信じるというわけでもなかったが、しかし、彼女のもつ言行一致の態度には敬意と尊敬との念を抱き、また、おそらく、彼女の意見にはいささか畏敬の念をさえもっていた。そして彼自身は、夫人の召使いたちに対する慰安《いあん》や教育や向上のための彼女の慈善的なあらゆる努力には、べつだん、これといって何も手出しはしなかったけれども、それに無制限な機会を与えていたことは確かであった。じじつ彼は、聖人たちのあの特にすぐれた善行の功徳《くどく》に関する教義についてそれを必ずしも信じてはいなかったとしても、実際には、自分の妻が二人分の信仰心と慈善心とをもっていると考えて、――特にそんなふりをするわけでもなかったが、彼女のこのあり余る美徳のおかげで自分も天国へ行けるだろうというかすかな期待を抱いているように、なんとなく思えるのであった。
商人と話しあったあとで、シェルビィ氏の心を最も強く苦しめていたのは、自分たち二人で決めてしまった例の約束を妻に打ちあけ、――そして必ず遭《あ》うにきまっているあの嘆願や反対に直面しなければならないということであった。
シェルビィ夫人は、夫が借金のために困っていることなど少しも知らず、ただ夫の気性が、だれに対しても親切であるということしか知らなかったので、イライザの疑惑を聞いた時にも、真摯《しんし》な態度でそれを頭から否定したのであった。じじつ、夫人はこの問題を、深く考えなおそうともせず、そのまま忘れてしまった。そして、夕方の訪問の支度《したく》に追われているうちに、それは彼女の頭の中からすっかり消えてしまっていたのである。
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第二章 母親
イライザは、小さい頃から、シェルビィ夫人のお気に入りとして、かわいがられ、甘やかされて育ってきた。
南部を旅行したことのある人なら、きっと、混血女のもつあの特に優美な姿、あの柔らかな感じの声やものごしにしばしば気づいたことであろうが、それらは多くの場合、|四分の一混血児《クォドルーン》や第一代混血児《ミュラトゥ》の女性に授けられた特別な天性のように思われるのである。そして、|四分の一混血児《クォドルーン》に見られるこうした生まれながらの優美さは、しばしば、このうえなく幻惑的な美貌《びぼう》をあわせもち、またほとんどの場合、人好きのする、いや味のない容貌を兼ね備えているものである。われわれがここに描いてきたイライザも、けっして空想から生まれたものではなく、実際にわれわれが数年前、ケンタッキーで目撃した彼女の姿を記憶によって描いているのである。夫人の庇護《ひご》のもとで何事もなくイライザは、あの奴隷にとって美貌をあまりにも宿命的な遺産としてしまう誘惑の魔手にもあうことなく、年頃になった。そして一人のすぐれた、才能のある第一代混血児《ミュラトゥ》の青年と結婚した。彼は近くの屋敷に住む奴隷で、ジョージ・ハリスという名をもっていた。
この青年は、その主人によってある製袋《せいたい》工場へ働きに出されていたが、そこでは手先きの器用なことと、発明の才のあることから、工場一の職工と考えられていた。そして彼は、麻《あさ》をすくための機械を発明したのであったが、それは、この発明者の教育や環境を考えたならば、ホイットニィ(イーライ・ホイットニィ(一七六五〜一八二五)。アメリカの発明家)の棉繰機にも劣らぬほどの機械製作の素質を示すものであった(*ここに述べた機械は、じじつケンタッキー州のある若い黒人が発明したものである)。
彼は端麗《たんれい》な容姿と人好きのする態度とを身につけていたので、工場ではだれからも好意をもって迎えられた。にもかかわらず、この青年も法の目から見れば、一人の人間ではなく、一個の物品にすぎなかったので、こうした優れた資性もすべて、野卑な、心の狭い、横暴な主人の支配を受けなければならなかった。この紳士は、ジョージの発明の評判を聞くと、あの頭のいい自分の所有物がいったいどんなことをやっていたのか見てやろうと、工場へ馬を乗りつけてきた。彼は雇主から大きな感激をもって迎えられた。そして雇主はこのように値打ちのある奴隷をもっている彼に対してお祝いの言葉を述べるのであった。
彼はジョージに工場内をくまなく案内され、例の機械も見せてもらった。ジョージは、感激して、いかにも雄弁にしゃべりまくり、背筋をぴんとのばしていかにも堂々とした姿勢で、またその容姿はいかにも端麗で男らしく見えたので、彼の主人は不安な劣等感を抱きはじめた。なんの権利があってこの奴隷は、そこいらの土地を歩きまわったり、機械を発明したり、紳士の間にたって大きな面《つら》をしたりしていやがるんだ? すぐにやめさせてやろう。連れて帰って、草取りや土掘りをやらせてやろう。それでもまだ「こいつになまいきな真似ができるかどうか見てやろう」。それゆえ、彼が突然ジョージの給料を要求して、家へ連れて帰る意向を明らかにした時には、工場主をはじめその場にいあわせた職人たちはみな、びっくりしてしまった。
「しかし、ハリスさん」と工場主は抗議した。「こりゃ少し急すぎるじゃありませんか?」
「だからといってどうしたというんだ?――あの男はおれのものじゃないか?」
「給料の点でしたら、何とか、率を上げてもいいんですが」
「そんなことは、どうでもいいんだよ、おまえさん。おれにその気がなけりゃ、うちんとこの者は一人だって働きに出す必要はないんだからね」
「しかしですね、彼はこの仕事には特別向いているようなんですよ」
「そうらしいね。そのくせ、おれがやらせる仕事は、なに一つろくにできたためしがないときてやがるんだからね、まったく」
「そんでもよ、こんな機械まで彼が発明したってえことを、まあ考えてやって下っせえ」と職人の一人が口を出したが、それはかえってまずかった。
「おお、そうとも!――人手をはぶく機械をな、そうだろう? なるほど、やつならそんなものを発明しそうなことだ。黒ん坊をうっちゃっておいてみろ、いつだってそういったものを作るんだから。やつらは、どいつもこいつも、みんなてめえ自身が人手をはぶく機械なんだからな。いや、おれは断じてあの男を連れて行く!」
ジョージは、自分ではどうすることもできない一つの力によって、自分の運命がこのように突然宣告を下されるのを聞いて、釘《くぎ》づけにされた者のようにその場に立ちすくんだ。彼は腕を組み、唇を固くかみしめていたが、胸の中には激しい怒りの火山が燃えあがって、火の流れを血管に送り込んでいた。息づかいも荒く、大きな黒い目は、燃えさかる石炭のようにぎらぎらと光った。そして彼の激情が爆発して危険な噴出を起こしかけた時、親切な工場主が彼の腕に手をかけ、低い声でこう言った。
「この場は譲っておけ、ジョージ。きょうのところは彼と一緒に行きなさい。だが、私たちはなんとかしておまえを助けてあげるから」
暴君はその囁《ささや》く声に気がついて、どんなことが語られたかは聞こえなかったが、その意味を推測した。そして腹の中で、この犠牲者に対する自分の支配力をどこまでももちつづけてやろうと、その決意をさらに固めるのであった。
ジョージは家に連れもどされると、農場の中でも最も卑しい骨折り仕事に回された。彼は主人に対する反抗的な不尊な言葉づかいは胸のうちに抑《おさ》えておくことができた。しかし燃えるような目と、暗い苦悩に満ちた額《ひたい》とは、抑え難い自然の言葉の一部となって、――人間が一個の物品にはなりきれないことを、あまりにもはっきりと物語っていた。
ジョージが現在の妻を見そめ、そして結婚したのは、彼が工場に雇われていた幸福な頃であった。その頃は、雇主からたいへん信用され、かわいがられていたので、彼は好きに行き来できる気ままな自由をもっていた。そして二人の結婚にはシェルビィ夫人も大賛成であった。というのも夫人は、仲人《なこうど》をすることに小さな、女らしい満足を感じ、喜んで自分の美しいお気に入りを、あらゆる点から見て適当と思われる同じ階級の若者と娶《めあわ》せたいと思ったからである。そこで二人は夫人の家の大広間で結婚式を挙げた。夫人はみずから花嫁の美しい髪にオレンジの花を飾ってやり、またヴェールをかけてやったが、それらのものが、これ以上に美しい頭の上にのったことはおそらくこれまでになかったであろう。白い手袋、ケーキ、葡萄酒、なに一つ欠けるものはなかった。――招かれた客も、こぞって花嫁の美しさと、それに夫人の物心両面にわたる寛大さとを褒めたたえた。一、二年の間イライザはたびたび夫と会った。二人の幸福を妨げるものはなに一つなかった。ただ幼児を二人なくした時には、子供たちに熱烈な愛情をよせていた彼女だけに、その嘆きはことのほか深く、ために夫人から優しいたしなめの言葉を受けたほどであった。夫人は、母親のような心づかいで、彼女の無理もないこの激しい悲しみを、理性と信仰のわく内に落ちつかせようと努めた。
しかし、かわいいハリィが生まれてからは、彼女もしだいに平静になり、落着いてきた。母性的な愛情と鋭敏な神経も、再び小さな生命と結びついて、健康なそして健全なものになっていくように思われた。こうしてイライザは、夫が親切な雇主から乱暴に引き離されて、法律上の所有主の鉄のように冷酷な支配の下におかれるようになるまでは、幸福な女であった。
工場主は、約束どおり、ジョージが連れ去られてから一、二週間後に、もうあの時のほとぼりも冷めているであろうと望みながら、ハリス氏を訪れた。そしてあらゆる可能な手段を用いて、ジョージをもとの仕事にもどらせるよう彼を勧誘した。
「もうこれ以上話したって、無駄でしょうぜ」と彼は、頑固《がんこ》に言った。「おれのすることは、おれがちゃんと心得てるんだからね、おまえさん」
「私はなにもそれをじゃましようなんて思ってはおりませんよ、あなた。ただ、いま申し上げた条件であの男を私どもにお貸し下されば、お宅さんの利益にもなると、そうお考え下すっていいんじゃないかと思いましたんでね」
「ああ、そのことなら、わかり過ぎるくらいわかってまさあ。おれはおまえさんのあの目くばせとひそひそ話を見てたんだ、あいつを工場から連れて帰る日にな。おれを出しぬいて変な真似はやめてもらいたいね。ここは自由の国なんだぜ、おまえさん。そしてあの男はおれのものなんだ。だからおれは、おれの好きなようにやつをするのさ、――ただそれだけの話さ!」
こうして、ジョージにとっての最後の望みもたち切られてしまった。――彼の行くてには、苦役と労役の生活のほかには何も残されてはいなかった。しかもこうした苦しみの生活は、暴君の悪知恵が考え出すことのできるあらゆる形の、こまかな点にまでも及ぶ、あの突き刺すような苦悩と屈辱とによって、いっそう苦しいものにされるのであった。
ある非常に情深い法学者が、かつて、こんなことを言った。われわれが人間に課しうる最悪の扱い方は、彼を絞殺《こうさつ》することである、と。いや、しかし、人間が課しうるもっと悪い扱い方がまだほかにあるのだ!
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第三章 夫たり父たる者
シェルビィ夫人は訪問のために出かけていった。そしてイライザは、ヴェランダに立って、遠ざかってゆく馬車を元気のない様子で見送っていた。その時、だれかの手が彼女の肩の上に置かれた。彼女が振りかえると、明かるい微笑が彼女の美しい両眼を輝かせた。
「ジョージ、あなたでしたの? ほんとにびっくりしたわ! でも、よく来て下さったわね!奥さま、午後は外ですごすからとおっしゃってお出かけになったわ。ですからわたしの小部屋へいらっしゃい。わたしたちだけで、ゆっくりお話しできますもの」
こう言いながら、彼女はヴェランダに通じる小ざっぱりした小さな部屋へと夫をひっぱって行った。そこは、彼女がいつもすわって縫物をする部屋で、夫人が呼べばすぐに聞こえる所にあった。
「ほんとにわたし嬉しいわ!――でもあなた、どうして笑顔《えがお》をなさらないの?――ハリィを見てやって下さいな、――ずいぶん大きくなったでしょう」子供は恥ずかしそうに巻毛の間から父親を見つめながら、母親の着物の裾《すそ》にしっかりとしがみついていた。「この子、ほんとにかわいいでしょ?」とイライザは言って、子供の長い巻毛をかき上げてキスをした。
「この子は生まれてこなければよかったんだ!」とジョージは苦しそうに言った。「このぼくも生まれてこなければよかった!」
驚き、そしておびえたイライザは腰を落とすと、頭を夫の肩にもたせて、わっとばかりに泣き出した。
「いや、ねえ、イライザ、きみにこんな思いをさせるなんて、ぼくが悪かった、かわいそうに!」と彼は、やさしく言った。「ほんとに悪かった。ああ、それにしても、きみがぼくに会っていなければよかったのに、――そうしたら、きみは幸福になれたかもしれなかったんだ!」
「ジョージ! ジョージ! どうしてあなたはそんなことを言うの? どんな恐ろしいことが起こったの、それとも起ころうとしているの?ついこの間までは、わたしたち、ほんとうにとても幸福だったのに」
「ほんとうにそうだったね、おまえ」とジョージは言った。それから子供を膝《ひざ》の上にひきよせると、その輝く美しい黒い目をじっと見つめながら、両手を子供の長い巻毛の中にさし入れた。
「きみにそっくりだね、イライザ。きみはぼくが今まで会ったうちで一番美しい女性だ。そして会いたいと思ったうちで一番りっぱな女性だ。それでいて、ああ、ぼくはきみに会わなければ、そしてきみもぼくに会わなければよかったのにと思うのだ!」
「おお、ジョージ、どうしてそんなことを!」
「ほんとうにそうなんだ、イライザ。なにもかもが、みじめで、みじめで、みじめなんだ! ぼくの人生は、苦蓬《にがよもぎ》のように苦いんだ(箴言、第五章第三節〜第四節)。命そのものももう燃えつきようとしている、ぼくはみじめな、哀れな、見捨てられた苦役者《くえきしゃ》なんだ。ぼくはきみまでも自分と一緒にひきずり込んでゆくだけだろう。それでおしまいなんだ。ぼくたちは、何かをしようとしたり、何かを知ろうとしたり、何かになろうとしたって、いったいなんになるだろう? 生きてたってなんの役にたつんだ? 死んでしまったほうがましなんだ!」
「まあ、でも、ジョージ、それはほんとにいけない考えだわ。あなたが工場をやめさせられてどんな気持ちでいらっしゃるか、わたしにだってわかっているわ。それにあなたのご主人という人はほんとに酷《むご》い人ですものね。だけど、どうかお願いですから、辛抱して下さいな。きっとそのうちには、なんとか――」
「辛抱だって!」と彼は、イライザの言葉をさえぎって言った。「これまでぼくは、辛抱しなかっただろうか? あの時にだってぼくは一言でも何か言ったろうか? 突然あいつがやって来て、みんながぼくに親切にしてくれているあの工場から、全然理由もないのに、ぼくを連れていったじゃないか。そこで働いた金は、ほんとに一セント残らずあいつに渡していたし、――ぼくがよく働いたって、今でもみんなが言ってくれているんだ」
「ええ、ほんとにひどいわね」とイライザは言った。「でも、結局、あの人はあなたのご主人なんですもの」
「ぼくの主人だって! じゃだれがあいつをぼくの主人にしたんだ? それがぼくのいつも考えていることなんだ――いったいやつは、ぼくに対してどんな権利をもっているんだい? ぼくだってあいつと同じように人間じゃないか。ぼくのほうがあいつよりもりっぱな人間だ。取引きのことだってぼくのほうがやつよりもよく知っている。仕事だってぼくのほうがよくできるし、読むことだって、書くことだって、ぼくのほうがうまいんだ。――しかも、そうしたことはみんなぼくが自分で学んだんだ。あいつのおかげなんか、なに一つありゃしない。――それどころか、あいつにじゃまされながらやったんだ。それでいて、いったいなんの権利があってあいつはぼくを馬車馬のようにこき使おうというのだ?――ぼくのできることを、あいつよりもうまくできることを、やらせないでおいて、馬にだってできるような仕事をやらせるなんて? あいつはそれをぼくにやらせようというのだ、自分の口でそう言ったんだ。このぼくを引きずりおろして、卑しめてやるんだとね。だから、あいつはわざとぼくに、一番つらくて、一番卑しくて、一番汚らしい仕事をやらせているんだ!」
「おお、ジョージ! ジョージ! わたしこわいわ! だって、あなたがそんなこと言うなんて初めてですもの、わたし、あなたが何か恐ろしいことをしでかすような気がするわ。そりゃあなたの気持はよおくわかっているけど、でも、ねえ、気をつけて下さいね、――どうか、お願いですから――わたしのために――ハリィのために!」
「ぼくは気をつけてきたよ。それに辛抱もしてきた。だが事情はますます悪くなるばかりだ。生きている人間には、もうこれ以上は耐えられない。――あいつは、ぼくを侮辱し苦しめるためだったらどんな機会だって見逃しはしないんだ。ぼくは自分の仕事をりっぱにやり、いつもおとなしくして、そして仕事の合間には本を読んだり勉強したりすることができるものと思っていた。だがあいつは、ぼくに仕事ができるということがわかればわかるほど、ますますたくさんの仕事を押しつけてくるんだ。そしてあいつは、きさまは何も言わんが、きさまの腹ん中に悪魔がいるこたぁわかってるんだ、おれはそいつを吐き出させてやるからな、と言うんだ。だから近いうちにその悪魔が、あいつのびっくりするような仕方で飛び出してくるだろう、きっとな!」
「まあ、あなた! わたしたち、どうしたらいいんでしょう?」とイライザは悲しげに言った。
「ついきのうのことだが」とジョージがつづけた。「ぼくが一生懸命荷馬車に石を積みこんでいると、若旦那のトムがその場に立って、馬の鼻先で鞭《むち》をならすもんだから、馬がこわがってしまった。で、ぼくはできるだけ穏やかに、やめてくれるようにと頼んだのだが、――若旦那はやめようとしないんだ。そこでぼくがもう一度頼むと、今度は向かって来て、このぼくを鞭で殴りはじめた。そこでぼくが若旦那の手をおさえると、あいつ、わめいたり蹴とばしたりしたあげく、父親のところへ駈けていって、ぼくが反抗したと言いつけたんだよ。大旦那はものすごく腹をたててやって来ると、だれがきさまの主人か見せてやるといって、ぼくを立木にしばりつけ、若旦那に小枝を何本か折ってやると、それで自分が疲れるまでこのぼくを殴ってやれと言ったんだ。――そして若旦那はそのとおりにしやがった! この仇は、いつかきっととってやる!」青年の額は暗くくもり、目は爛々《らんらん》と燃えて、その表情は彼の若い妻を戦慄《せんりつ》させた。「こんな男をいったいだれがぼくの主人にしたというのだ? それがぼくには知りたいんだ!」と彼は言った。
「でも」とイライザは、悲しげに言った。「わたしはいつも、旦那さまや奥さまには従わなくてはいけないものと思ってましたわ。でなきゃ、わたし、キリスト教徒にはなれませんもの」
「そりゃ、きみの場合にはちゃんとわけがあるさ。あの方たちは、きみをほんとの子供のようにかわいがって育ててくれたんだからね。食べさせてもらい、着物を着せてもらい、甘えさせてもらい、そのうえにりっぱな教育までさせてもらった。だからあの方たちがきみに何かを要求したって、そりゃりっぱな理由があるというわけさ。しかしぼくの場合は、蹴とばされたり、殴られたり、罵《ののし》られたり、せいぜいよくて放っておかれるのが関の山なんだ、そのぼくにどんな借りがあるというんだ? ぼくにかかってる費用なら百倍にもしてとっくの昔に返しているじゃないか。もう我慢できない。いいや、断じてできるものか!」と彼は、険しい顔つきで拳《こぶし》をにぎりしめながら言った。
イライザは身をふるわせながら、黙っていた。彼女は、夫がこんなに激しい感情でいるのをこれまで見たことがなかった。そして、彼女のおだやかな倫理観も、このような激情の波の中では一本の葦《あし》のように折れまがるかと思われるのであった。
「きみがぼくにくれた、あの小犬のカーロを憶えているだろう」とジョージがつづけた。「あの小犬は、ぼくに与えられたせめてもの慰めだった。夜はぼくと一緒に寝るし、昼間はぼくのあとを追いかけまわして、なんだか、ぼくの気持がわかるような目つきでぼくを見ていた。ところがだ、この間ぼくが台所の入口で拾った残飯をカーロにやっていると、ちょうどそこへ旦那がやって来て、ぼくが犬を飼っていればあいつの出費がかさむ、黒ん坊の一人一人に犬なんぞ持たせておく余裕はないといって、あれの首に石をしばりつけて池の中へほうり込んでしまえとぼくに命令したんだ」
「まあ、ジョージ、あなた、そんなことはしなかったでしょうね!」
「しなかったろうって? ぼくにはできっこないさ!――だがあいつがやったんだ。おまけに旦那とトムのやつは一緒になって、もがいているあのかわいそうな小犬に石を投げつけやがった。かわいそうに! 犬はほんとうに悲しそうな顔つきでこのぼくを見つめていたよ。なぜぼくが助けてくれないんだろうと言っているようにね。その上ぼくはあとで、それを自分でやらなかったといって、鞭でさんざん打たれなければならなかった。だがそんなことはどうだっていい。ぼくが鞭ぐらいでおとなしくなるような男じゃないってことは、そのうち旦那にもわかるだろうさ。あいつも用心しないと、いつかはぼくの勝利の日がやってくるんだ」
「あなた、何をなさろうっていうの? ねえ、ジョージ、悪いことだけはしないで下さいね。ひたすら神さまを信じ、正しいことをしていさえすれば、神さまはきっとお救い下さいますもの」
「ぼくはきみのようにキリスト教徒じゃないからね、イライザ。ぼくの胸は憎しみでいっぱいなんだ。ぼくには神なんか信じることはできない。なぜ神さまは世の中のことをこのままにしておくのだろう?」
「でも、ジョージ、わたしたち、信仰をもたなくてはいけないわ。奥さまが言っていらしたけれど、あらゆることがうまくゆかない時にだって神さまは、わたしたちのために最善をつくして下さっていると信じなければいけないって」
「そりゃ、ソファにすわってたり馬車で出かけたりする人たちにとっちゃ簡単に言えることさ。だがその人たちをぼくの立場においてごらん、とてもとてもそんなことは言えないだろうからね。ぼくだって、善良な人間になりたいと願っているさ。だが、ぼくの胸は燃えていて、なんとしても鎮《しず》めることができないのだ。きみだって、ぼくの立場にたったらできっこないさ。――これからぼくの話すことを聞いたら、きっときみにもできやしないよ。きみはまだ詳しいことは少しも知らないんだからね」
「いったいどんなことが起こるの?」
「じつはね、近頃旦那はこんなことを言っているんだ。ぼくを屋敷外の者と結婚させたのはばかなことだったとね、そしてシェルビィ氏やその一家の者たちはみんな高慢であいつを見くだすような態度をするから大嫌いだ、ぼくの高慢な考えもきみからおぼえたんだろう、だからもうぼくをここへは二度と来させないようにしてやる、と言うんだ。そしてぼくに新しい女房をとらして自分の屋敷内に落着かせるんだと言ったよ。最初のうちは、そんなことを、ただ小言をいったりぶつぶつ言いながら、口にしていたのだが、きのうあいつは、ミーナを女房にもらえ、そしてあの女と一緒に丸木小屋《ケビン》に落着け、それがいやなら川下へ売りとばしてやると、ぼくに言いやがった」
「まあ、――でもあなたはこのわたしと結婚しているじゃありませんか、白人と同じようにちゃんと牧師さまによって!」とイライザは無邪気に言った。
「きみは、奴隷というものは結婚できないことを知らないのかい? この国には、まだそのための法律はないんだよ。もしあいつがぼくたちの仲を引裂こうと思えば、ぼくにはきみを妻として引止めておくことはできないんだ。だからこそ、ぼくはきみに会わなければよかったと言うのだ、――ぼくはこの世に生まれてこなければよかったんだ。そのほうがかえって、ぼくたち二人にとってはずっとよかっただろう。――かわいそうなこの子だって生まれてこないほうがよっぽどよかっただろう。そのうちにこの子もこんな目に遭うだろうからね!」
「まあ、でも旦那さまはとてもやさしい方ですもの!」
「そうだ、だがわかるもんか、――その人がいつ死ぬかもしれないし――そうなれば子供はだれのところへ売られていってしまうかもわからないんだ。子供のきりょうがよくたって、動作が機敏だって、頭がよくたって、それがなんの楽しみになるんだ? いいかい、イライザ、きみに言っておくけど、今にこの子のいいところ、かわいいところが一つ一つ仇《あだ》となって、鋭い剣がきみの心を突き刺すようになるだろうよ。いつまでもきみのかたわらにおいておかせるにはあまりにも値打ちがありすぎるようになるからね!」
この言葉は、イライザの胸に強い衝撃を与えた。あの商人の姿が彼女の眼前に浮かんだ。彼女は、だれかに致命的な打撃をくわされたかのように、まっさおになって息苦しくあえいだ。彼女は気づかわしげにヴェランダへ目をはしらせた。そこには、さっきから両親のむずかしい話にあきて出ていった子供が、シェルビィ氏のステッキを馬にして得意顔で乗りまわしていた。彼女は自分の不安な心をよほど夫に打明けようかと思った。だが彼女はじっとこらえた。
「いいえ、いいえ、――そうでなくてもこの人には悩みが多いんだわ、お気の毒に!」と彼女は心の中で言った。「いいえ、よしましょう。それに、あの話だってほんとうではないんだし。奥さまはけっしてわたしたちをだましたりなんかなさるお方じゃないわ」
「それじゃ、イライザ」夫は悲嘆に沈んだ口調で言った。「がんばるんだよ。さようなら、ぼくはもう出かけるから」
「出かけるって、ジョージ! いったいどこへ行くの?」
「カナダへさ」と言って、彼はすっくと立ち上がった。「そして向こうへついたら、ぼくはきみを買いとるんだ。それだけが、ぼくたちに残された唯一の望みなんだからね。きみの主人はやさしい方だから、売らんなぞとは言うまい。ぼくはきっと、きみとこの子を買いとってみせるからね、――神さまのお力で、きっとやってみせる!」
「まあ、恐ろしい! もし捕《つか》まりでもしたら?」
「ぼくは捕まりはしないよ、イライザ。捕まるくらいなら死んでやるからね! ぼくは自由になるか、それとも死ぬかなんだ!」
「自殺なんかしてはいけないわ!」
「そんな必要はないさ。やつらのほうですぐに殺してくれるだろうからね。ぼくが生きて川下に連れられて行くようなことは絶対にないんだ!」
「おお、ジョージ、お願いですから、気をつけて下さいね! 悪いことなんかしないで。自分に手をかけたり、人をあやめたりしないで下さい! そうした誘惑はあまりにも――あまりにも強すぎるでしょうけど、どうか――ああ、あなたは行かなくてはならないのね――でも気をつけて、どうぞ用心して行って下さい。そして神さまにお救いをお祈りして下さい」「それじゃ、イライザ、ぼくの計画を聞いておいておくれ。旦那はぼくに、この屋敷のすぐそばを通って、ここから一マイルほど先に住んでいるシムズさんの所へ手紙を届けさせることを思いついたんだ。そうすりゃ、ぼくがきっとここへ寄って、一部始終を話すだろうと思ったにちがいないんだ。ぼくの話を聞いて、あいつの口ぐせの『シェルビィんとこのやつら』が腹をたてれば、あいつは気持がいいだろうからね。それでぼくは、いいかい、もう何もかもだめになってしまったとでもいうふうに、あきらめきって帰って行くんだ。準備もちゃんとしてあるし、――それにぼくを助けてくれる人もいるんだ。だから、一週間かそこいらのうちには、ぼくも行方不明者の仲間に入っているだろう。ぼくのために祈っておくれ、イライザ。たぶん、神さまもきみの祈りなら聞いてくれるだろうからね」
「おお、どうかあなたもお祈りして下さい、ジョージ、そしていつも神さまを信じていて下さい。そうすれば、悪いことはなに一つなさらないでしょうから」
「じゃあ、これで、さようなら」とジョージは言って、イライザの手を握りしめ、彼女の目にじっと見入った。二人はただ黙って立っていた。それから最後の言葉が交わされ、すすり泣きと、そして激しい慟哭《どうこく》とが聞こえた。――それは再会の望みを蜘蛛《くも》の巣(ヨブ記第八章第十四節)のように断ち切られるかもしれない人々の別れであった。――こうして夫と妻とは別れ別れとなったのである。
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第四章 アンクル・トムの丸木小屋の一夕
アンクル・トムの丸木小屋《ケビン》は、丸太づくりの小さなたてもので、この|卓越した黒人《パール・エクセラーンス》が「お邸《やしき》」と呼んでいる、主人の家のすぐ隣りにあった。小屋の前には、小ぎれいな菜園があって、毎年夏になると、そこにはいちごや|黒いちご《ラズベリィ》や、その他さまざまな果実や野菜が丹誠のこもった手入れをうけて豊かに育った。小屋の前面は、大きな深紅色《しんこうしょく》のビグノーニアと八重《やえ》咲きの野ばらとですっかり覆われていたが、野ばらは互いにもつれあいからみあって、丸太の地肌をさえほとんど見えなくしていた。ここもまた、夏になると、|せんじゅぎく《マリゴゥルド》や、|つくばねあさがお《ペチューニア》や、|おしろいばな《フォーロクロック》など種々の美しい草花が、自分の好きな場所を選んでは咲いて、互いに艶《あで》やかさを競いあっていた。それはアント・クロウィの心の喜びでもあり、また誇りでもあった。
この小屋の中へわれわれは入ってみよう。お邸の夕食が終わったので、コック長として準備の采配《さいはい》を振っていたアント・クロウィも、あとかたづけや洗いものなどの仕事はすべて台所の部下たちにまかせて、さきほどから自分自身のちんまりした領地にひきあげてきて、「うちの亭主《とっつぁま》のご飯」を作っているところなのである。したがって、いま火のかたわらで、シチュー鍋《なべ》の中の何やらぶつぶついっているものに向かって心配顔に采配を振ったり、またきわめて慎重に焼き鍋のふたをとって、そこから立ちのぼる、まぎれもない「ご馳走」の匂いを確かめているのが、彼女ではないなぞと疑ってはいけない。丸くて黒い、てかてかした彼女の顔は、あまり艶《つや》がいいので、おやつのラスクを焼くついでに、自分の顔にも卵の白身を塗ったのではないかとさえ思えるほどであった。その肉づきのよい顔は、糊《のり》のよくきいた市松《いちまつ》模様の頭布《ターバン》の下から、満ち足りたそして安心しきった様子を見せていちめんに輝いていた。しかしよく見ると、その頭布の上には、この界隈《かいわい》きっての料理の名人といった誇りの色がいくぶん見えているようであったが、それはじじつ、アント・クロウィが広く世間からも料理の名人と考えられ、またそう認められていたからである。
確かに彼女は、その骨の髄《ずい》の髄まで料理人であった。だから裏庭のにわとりや七面鳥や家鴨《あひる》は、彼女が近づいてくるのを見ると、みんなぎくりとして、その後訪れるはずの運命を明らかに考えおよんでいるらしく思われるほどであった。それもそのはずで、彼女はいつも、鳥の羽や足をくくったり、詰物をしたり、丸焼きにしたりすることばかり考えていたので、とうとう思慮のある家禽《かきん》に恐怖心をいだかせてしまったらしいのである。彼女の作る|とうもろこし菓子《コーン・ケーキ》は多種多様で、|とうもろこしパン《ホウ・ケーキ》にしろ、|堅焼きパン《ドジャー》にしろ、|軽焼きパン《マフィン》にしろその他数えきれないほどいろんな菓子にしろ、そのことごとくが彼女ほどの腕のないすべての料理人にとっては崇高《すうこう》な神秘であった。それで彼女は、仲間のだれかが、自分のこの地位をねらって試みた無益な努力を人に語ってきかせる時には、いつも心からの誇りと喜びとで、あの肥ったわき腹をふりたてるのであった。
お邸に客が到着したり、「本式な」正餐《せいさん》や晩餐の支度があったりすると、彼女の体内にひそむ全精力が目をさました。だから彼女にとっては、ヴェランダに積まれた旅行トランクの山ほど歓迎すべき光景はなかった。というのも、その時、彼女は新しい力作と新しい勝利とを予想したからである。
しかし目下のところ、アント・クロウィは焼き鍋の中をのぞき込んでいるので、彼女にはしばらくの間、この性に合った仕事をさせておいて、われわれは小屋の中の様子をすっかり見てしまうことにしよう。
小屋の一隅《いちぐう》には、ベッドがあって、純白なカヴァーがきちんとかけてある。そのかたわらにはかなり大きな敷物が一枚敷いてある。これが敷いてあるということで、アント・クロウィは断然自分は上流階級に属しているのだといった態度をとるのであるが、そのため、この敷物とそのかたわらのベッドとこの一隅だけは、じっさい、特別な配慮をもって取扱われ、子供たちの略奪的な侵入や冒涜的《ぼうとくてき》行為を許さぬよう、できるかぎり神聖な場所として守られているのである。じじつ、この一隅は、この家の客間とされていた。その反対側の一隅にも、やはりベッドがおいてあるが、それはずっとお粗末な造りで、それが日常の使用に供されていることは明らかである。煖炉《だんろ》の上の壁には燦然《さんぜん》と輝く美しい聖書物語の版画が何枚か飾ってあるが、それと並んでワシントン将軍の肖像画《しょうぞうが》も一枚飾ってある。このほうはデッサンといい、配色といい、もしこの英雄がたまたまこの絵に出会ったとしたら、さぞかし仰天するであろうと思われるような描き方であった。
この一隅においてある粗末な|腰掛け《ベンチ》では、きらきら輝く黒い目と丸いぴかぴか光る頬をしたちぢれ毛の男の子が二人、赤ん坊に初めての歩き方を教えようとさきほどから一生懸命になっている。赤ん坊は、例によって、やっと両足で立ち上がったかと思うと、一瞬じっとしてはいるが、すぐにまたどたりと倒れてしまう、――その失敗のたびに、何かすばらしく器用なことでもやったかのように、はげしい喝采《かっさい》が起こるのである。
煖炉の前には、リューマチにでもかかっているようながた脚《あし》のテーブルが引きずり出されていて、それにはカヴァーがかけてある。そしてその上には、すばらしくきれいな模様のコップや皿が並んでいて、それを見ても夕食の間近なことがわかる。このテーブルに向かっていま、シェルビィ氏の第一の下僕、アンクル・トムがすわっている。彼は、これからわれわれの物語の主人公となる人物であるから、読者のためにその姿を銀板写真にでも撮《と》っておく必要があろう。彼は大柄で、胸幅のひろい、頑丈《がんじょう》なつくりの男で、皮膚の色はてかてかとしてまっ黒である。顔は、いかにもアフリカ人らしい目鼻だちで、まじめで堅実な良識と、親切で情深い心とが結び合ったその表情が特に人目をひきつける。全体の様子からみて、彼にはどこか自尊と品位のある態度がうかがわれるが、しかもそれは人を信頼しきった謙譲な純朴さと結びついて見られるのである。
彼はいま、自分の前に置かれた石盤に向かって余念がない。ある文字の書き方を会得《えとく》しようと、さきほどから丹念に、またゆっくりと努力をつづけているのである。その勉強を若旦那のジョージが監督しているのであるが、十三歳になるこの機敏で利口そうな少年は、先生としての自分の威厳ある地位を十分に意識している様子であった。
「そうじゃないよ、アンクル・トム、――そうじゃないんだ」と彼は、アンクル・トムがqの字の尻尾《しっぽ》を一生懸命に反対側へもっていこうとするのを見て、はきはきとした口調で言った。「それじゃgになってしまうだろう、ね」
「おや、まあ、そうかね?」と言いながらアンクル・トムは、この若い先生が彼の手本にgやqをいくつもすらすらと書いていくさまを、尊敬と感嘆のおももちでながめていた。それからやがて、大きい無恰好な指先に鉛筆をはさむと、また根気よくやりだした。
「白人ちゅうものは、どうしていつもこんなにたやすくなんでもできるんだかねえ!」と、フォークにさしたベーコンの一片《ひときれ》で鉄板の上に脂をひいていたアント・クロウィが、その手をやすめて、誇らし気に若旦那のジョージをながめながら言った。「あんなに上手に書けなさる!おまけに字を読むこともできなさる! そして晩になるとここへ来てわしらに習ったことを読んできかせて下さる、――とても楽しみなことだ!」
「でも、アント・クロウィ、ぼくとてもお腹《なか》がすいてきちゃったよ」とジョージが言った。「フライパンの中のそのケーキはもうできているんじゃないの?」
「もうできますだよ、ジョージ坊《ぼ》っちゃま」と言ってアント・クロウィは、ふたを持ちあげ、中をのぞき込んだ、――「きれいな色に焼けてる――ほんとにみごとな狐色《きつねいろ》に。ああ! これだけは婆《ばあ》やに任しておいてもらうだね。このあいだ奥さまは、ちょっとおぼえさせるだとかいってサリィにケーキを作らせようとなさいましたがな。『ほっときなせえまし、奥さま』と婆やは言いましただ、『せっかくの食べものがあんな具合に台なしになるのを見ると、わしはほんとに腹がたちますでの! ケーキはみんな片っぽだけがふくれあがってしまって――形もなにもあったものじゃごぜえません。まるで婆やの靴みてえでごぜえます――ほっときなせえまし!』ってね」
サリィの未熟さをけなすこの最後の言葉と同時に、アント・クロウィは焼き鍋のふたをさっと取って、みごとに焼きあがったパウンド・ケーキの姿をみんなに見せた。それは町のどんな菓子屋にも自慢できるほどのりっぱなできばえであった。明らかにこれがきょうのご馳走の呼び物であったらしく、そこでいよいよアント・クロウィは、今度は食卓の方での仕事を大騒ぎをしながらしんけんにやりはじめた。
「さあさあ、モウズにピート! じゃまだよ、この黒ん坊たちは! ポリイ、おまえもどいておくれ、――かあちゃんが今なにかやるからの。さあ、ジョージ坊っちゃま、ちょっとその本をのけて、うちのとっつぁまと一緒にすわって下せえ。今すぐにソーセージを出して、それから最初にできた焼菓子をいっぱい坊っちゃまの皿にのせますでの」
「ぼく、夕飯はうちへ帰ってするようにって言われてたんだけど」とジョージが言った。「でもぼくにはどっちのご馳走がうまいか、ちゃんとわかっているんだものね、アント・クロウィ」
「そうですとも――そうですとも、坊っちゃま」とアント・クロウィは、湯気のたっている焼菓子《バター・ケーキ》を彼の皿の上に積み重ねながら言った。「坊っちゃまは、この婆やが一番おいしいものを坊っちゃまにとっておいて上げることを、知っていますでのう。いやいや、そんなこたあ、あたりまえのことだ! ほっときなせえよ!」そう言いながら、婆やは指先で軽くジョージを突いて、ひどくひょうきんぶってみせた。そしてまたてきぱきと焼盤に向かった。
「さあ、今度はケーキを食べよう」とジョージ坊っちゃまは、焼菓子を食べていた彼の活発な手の動きがいくぶん静まったかと思うとすぐにそう言った。そして、そう言いながらいきなり例のパウンド・ケーキの上に大きなナイフをふりかざした。
「ま、とんでもねえ、ジョージ坊っちゃま!」とアント・クロウィは、彼の腕をおさえながらしんけんな顔つきで言った。「そんな大きな重たいナイフでこれが切れるものじゃごぜえません! おっつぶしてしまって――せっかくふっくらしているものが台なしになってしまいますだ。ほら、ここに薄い、いいナイフがごぜえます。そのためにちゃんと磨いてありますでの。ほうら、見なせえ! 羽根のようにふんわりと切って取れるじゃごぜえませんか! さあ、食べてみなせえ――これよりおいしいものは、どこへ行っても食べられませんでのう」
「トム・リンカンが言ってたけど」とジョージは、口にいっぱいほおばりながら言った。「あすこのジニィはおまえよりも料理が上手だってさ」
「あんなリンカンのうちの者なんぞたいしたことはごぜえませんよ、ちーともね!」とアント・クロウィはばかにしたような口ぶりで言った。「もっともこれは、うちの人たちと比べたらの話でごぜえますがね。そりゃふだんの暮らし方からいえば、まあ立派な人たちかもしれねえが、ものを本式にやろうということになると、あそこの者たちはどうしていいのかからきしわからなくなってしまうのでごぜえますよ。まあ、あそこのリンカン旦那とお父《とう》さまとを比べてごらんなせえ! たいへんなちげえだ! それにリンカンの奥さんだって、――お母《かあ》さまみてえにお上品な歩き方でお部屋に入ってこられるというものだか?――なあ坊っちゃま、あんなにすてきな恰好で! ああ、ほっときなせえ! 婆やはあんなリンカンのうちの者なんかのことは何も聞きたくごぜえません!」――そう言ってアント・クロウィは、世間のことなら一通りなんでも知りつくしておりますでなと言わんばかりに頭をぐいともたげた。
「だって、おまえ」とジョージは言った。「ジニィはとても料理が上手だっていつか言ってたじゃないか」
「ええ言いましたとも」とアント・クロウィが言った。――「そうでごぜえます。まあ、おいしい簡単な世間なみの料理ならジニィにもできるんでごぜえます。――おいしい|とうもろこしパン《ホウン・ブレット》(南部でよく作られるパンの一種。ゆでたじゃがいもをつぶして入れることもある)を作ったり、――馬鈴薯《おじゃが》だって上手にゆでますでな。――だが|とうもろこし菓子《コーン・ケーキ》のほうは特別上等というほどじゃごぜえません、ほんとに上等じゃごぜえません、ジニィのコーン・ケーキはだめでごぜえます、どっちみち、ろくでもないものでごぜえますがの。――ところで、でごぜえますよ、高級な料理を作るってだんになったら、あの女に何ができるというんでごぜえます? そりゃあ、パイも作れるでごぜえましょう――確かに作れますよ。だがその皮はどんなでごぜえます? あのほんとのさらっとした感じの皮があの女に作れますですか、口の中へ入れたらとろけて、軽焼菓子《パフ》のように口いっぱいにひろがるようなのが? いつだったか、あそこのお嬢さんのメアリィさんが結婚なさるちゅう時にわしは手伝いに行きましただが、その時ジニィが婚礼用のパイを見せてくれましただ。ジニィと婆やとは大の仲よしでごぜえますからね。それでわしはその時は何も言わなかっただが、よして下せえ、ジョージ坊っちゃま! 婆やがあんなパイを一つでも作ったら、一週間のあいだまんじりともできねえで夜を過ごすことでごぜえましょう。もうそりゃあ、てんでお話にならねえようなパイでごぜえましたからの」
「ジニィはきっとすばらしくよくできたと思ってたんだろうね」とジョージが言った。
「思ってましたとも!――もちろんでごぜえます。あんなものを見せながら、平気な顔をしていたんでごぜえますから――ね、それでごぜえますよ、ジニィは何も知らないんでごぜえます。ほんとに、あの家はだめでごぜえます! だからジニィが知らねえのも無理はごぜえません!あの女が悪いんじゃねえんでごぜえますからね。ああ、ジョージ坊っちゃま、あなたはこの家で育てられたありがたさを半分もお気づきじゃごぜえませんでしょう!」そう言いながらアント・クロウィは、大きく息をついて、感にたえぬといった様子で目をくるくる動かした。
「だけど、アント・クロウィ、ぼく、パイやプディングのありがたさは全部わかってるんだよ」とジョージが言った。「うそだと思うならトム・リンカンにきいてごらん、彼と会うたんびにぼくはいつもそのことを自慢しているんだもの」
アント・クロウィは自分の椅子にどっと腰を落として、若旦那のこの当意即妙の返答に腹の底から大声で笑った。そしてとうとうその黒い、輝く頬には涙がこぼれ落ちたほどであったが、こうして笑っている間にも、ジョージ坊っちゃまをふざけた手つきでたたいたり突いたりして自分の動作に変化を与え、また、彼に向かって、もうやめてくれだとか、ほんとうに風変わりな子だとか、彼の冗談がおかしくて死にそうだとか、それでいつかきっと自分は死んでしまうだろうなどと言ったりした。そしてこうした血なまぐさい予言の合間合間で、また急に笑いだして、それが回を重ねるたびに、ますます長く、ますます激しくなっていったので、とうとうしまいにはジョージも、自分が非常に危険な頓智家《とんちか》で、「できるだけおもしろく」話をするにもこれからは気をつけなければいけないなと、本気で考えだしたほどであった。
「で、坊っちゃまはそうトムに言うただね? まあ、ほんとうに! 子供ちゅうものは何を言いだすことやら! トムに自慢をしてやっただと? まあ、ほんとうに! ジョージ坊っちゃま、あなたは角虫《ホーン・バッグ》だって笑わせてしまいますだよ!」
「うん」とジョージが言った。「ぼく、彼に言ってやったよ、『トム、君は一度アント・クロウィのパイを見なきゃいけないよ。あれがほんとのパイっていうもんだから』ってね」
「トムには坊っちゃまに向かってそういうことが言えなくて、お気の毒でしたの」とアント・クロウィが言った。トムのしおれきった様子が、彼女の慈悲深い心に強い印象を与えたようであった。「一度そのうち、あの子をここへ食事に来るよう招《よ》んであげなさらねえといけませんですよ、ジョージ坊っちゃま」と彼女はつけ加えた。「そうすりゃ坊っちゃまもりっぱな人だと思われますでの。いいですかの、ジョージ坊っちゃま、あなたは、あの自分のありがたいお恵みがあるからといって、人さまより偉いなぞと思ってはいけませんですよ。なぜって、わしらのありがたいお恵みは、みんなわしらに授けられたものでごぜえますからの。そのことを片時《かたとき》も忘れてはいけませんですよ」とアント・クロウィは真顔になって言った。
「それじゃぼく、来週のいつかトムをここへ招ぶことにするよ」とジョージが言った。「だからうんとすばらしいのを作っておくれ、アント・クロウィ、そしてぼくたち、彼をびっくりさせてやろうよ。思いきりうんと食べさせて、二週間ぐらいは何も食べられないようにしてやろうよ、ね?」
「ええですとも、ええですとも――それがええだ」とアント・クロウィは顔をほころばせて言った。「きっとすばらしいものを作ってあげますでの。そうそう! 食事のことで思い出した! 坊っちゃまもあの婆やの作った大きなチキン・パイのことをおぼえていなさるじゃろ、ノックス将軍さまに食事をさしあげた時の? 婆やと奥さまとはあのパイの皮のことで、もうすんでのことに喧嘩《けんか》をするところでごぜえましたよ。なんで奥さまがたは時々あんな気におなりなさるか、婆やにはわからねえだが、とにかく、人がまあ、一番おもい責任ちゅうか、そんなものを負わされて、それこそしんけんになって一生懸命やっているちゅうに、そんな時をよりによって、人のまわりにくっついて、なんとかかんとか仕事のじゃまをしなさるんですからのう! あの時、奥さまは婆やに向かって、ああしてほしいの、こうしてほしいのとおっしゃるもんで、とうとうこのわしもなまいきな口をきくようになってしまって、こう言いましたでごぜえますよ、『ねえ、奥さま、まああなたのそのきれいな白い手をごらんなせえ、長い指をして、うちの白百合《しらゆり》に露がたまった時のようにぴかぴかと指輪を光らせておいでなさるじゃごぜえませんか。わしの手はどうでごぜえます、でかくてまっ黒で切株みてえでございましょう。そこで奥さま、あなたは神さまが、わしにはパイの皮を作らせ、奥さまには客間でおとなしくしているようにと、初めからおきめになったにちげえねえとはお考えになりませんか?』とな。ほんとに! あの時はこの婆やもえらくなまいきになりましただよ、ジョージ坊っちゃま」
「で、お母さんはなんて言った?」とジョージがたずねた。
「言った?――いいや、奥さまは目でちょっとお笑いになっただけでごぜえますよ――あのとてもお美しい目での。それからこうおっしゃいましただ、『そうね、アント・クロウィ、おまえの言うことが正しいようね』っての。で、奥さまは客間の方へ出て行かれましただ。ほんとなら奥さまは、こんななまいきな婆やなんぞの頭をぴしゃりとやったってよかったのでごぜえますのにな。だがあれでいいのでごぜえましょう――なにしろ台所に奥さまがたがいらしてたんでは、婆やは何もできねえのでごぜえますからね!」
「うん、あの時のご馳走はすばらしかったよ、――みんなもそう言っていたのを、ぼくおぼえているもの」とジョージが言った。
「そうですとも。あの日、婆やは食堂の戸のかげに控えていなかったでごぜえましょうか? 将軍さまがあのパイを三度もおかわりしたのを、この目で見なかったでごぜえましょうか?――で、あのお方さまは、『お邸にはきっとすばらしい腕の料理人がおいでのことでしょうな、シェルビィ夫人』とおっしゃいましただよ。ほんとに! 婆やはもう少しで吹き出すところでごぜえました」
「それにしてもあの将軍さまは、料理ちゅうものがどういうものか、よくご存知の方でごぜえますよ」とアント・クロウィは、自信ありげに胸をそらしながら言った。「ほんとにいいお方でごぜえますよ、あの将軍さまは! オゥルド・ヴァージニィ(ヴァージニア州、特にその東部をさす。「ヴァージニィ」はなまって発音されたもの)でも一番りっぱな家柄の一つにお生まれになっていらっしゃるでの! 婆やと同じくらいなんでもよく心得ていらっしゃるだ――あの将軍さまは。ほれ、どんなパイにでも急所ちゅうものがあるでごぜえましょう、ジョージ坊っちゃま。だが、それがどんなものか、どうでなければならねえものかを、だれでもが知ってるちゅうわけのものではねえのでごぜえます。ところが将軍さまは、あのお方さまは、ご存知でいらっしゃるだ。あの方のお言葉で、この婆やは、ちゃんとそれがわかりましただよ。ほんとに、あのお方さまは急所をご存知でいらっしゃる!」
この頃までには、さすがのジョージ坊っちゃまも(異常な状況の下にあって、つまり、ほんとうにもうこれ以上は一口も食べることができないという時に、)子供でさえもたどりつくことのあるあの峠《とうげ》(「満腹時の状態」を作者がしゃれて言ったもの)にさしかかっていた。そこで彼はおもむろにあたりを見まわすと向こうの隅《すみ》から餓《ひも》じそうにこちらの様子を見つめている二人の子供の、折り重なったもじゃもじゃ頭とぎらぎら光る目とに気がついた。
「ほら、モウズ、ピート」と言いながら、彼は大きな塊をちぎって、二人に投げてやった。「おまえたちもほしいんだろう? ねえ、アント・クロウィ、あの子たちにもお菓子を焼いておやりよ」
そして、ジョージとトムとは炉ばたの居心地《いごこち》のいい席へと座を移した。一方アント・クロウィは、山のようにたくさんのお菓子を焼きあげると、赤ん坊を膝の上に抱き上げて、かわるがわる赤ん坊の口と自分の口とを満たしたり、またモウズやピートにそれぞれ分けてやったりしはじめた。ところがこの二人の子供は、どうもテーブルの下へもぐり込んで床《ゆか》の上をごろごろ転がったり、互いにくすぐりあったり、時々赤ん坊の足の先を引っぱったりしながらお菓子を食べたい様子であった。
「ほれ! やめねえか、おめえたち」と言って母親は、騒ぎがあまりはげしくなると、時々テーブルの下を、いささか盲《めくら》めっぽうに、蹴とばすのであった。「白人がたがお見えになってる時ぐらい、おとなしくできねえだか? もうよさねえかよ、二人とも? 言うことをきかねえと、ジョージ坊っちゃまがお帰りになったあとで、恥ずかしい思いをさせてやるでな!」
この恐るべき脅迫《きょうはく》のかげにどんな意味がかくされているか、それを語るのは困難であるが、しかし確かなことは、このきわめて不明瞭《ふめいりょう》な威《おど》し文句が、当の幼い罪人《つみびと》たちにとって、ほとんどたいした利《き》き目もなかったように見えたことであった。
「いや、困ったもんだ!」とアンクル・トムが言った。「この子たちはいつもからだじゅうがくすぐったくて、行儀よくできねえだでな」
この時、子供たちはテーブルの下から這い出して来て、顔や手に糖蜜《とうみつ》をいっぱい塗りたくったまま、さかんに赤ん坊にキスをしだした。
「これ、やめねえか、おめえたち!」と母親は言って、彼らのもじゃもじゃ頭を押しのけた。「そんなことしてるちゅうと、いまに三人ともくっついちまって、離れなくなっちまうだぞ。さあ、泉へ行って、からだを洗ってくるだ!」そう言って彼女は、自分のこの勧告を補うように、子供たちを平手でぴしゃりとたたいたが、それがまた恐ろしく大きな音をたてたので、かえって子供たちから同じくらい大きな笑い声をたたき出しただけであまり効果はなかったようであった。というのも、子供たちは互いに折り重なって転がるように戸口から逃げて行ったが、そこで思うぞんぶん歓声をあげたからである。
「あんないまいましい子供ったらねえだ」とアント・クロウィは、むしろそれに満足しているような口ぶりで言いながら、こういう突発事件に備えて日頃から用意しておいた使いふるしのタオルを取り出すと、それにひびの入ったきゅうすの水をちょっとかけて、赤ん坊の顔や手から糖蜜を拭きとりはじめた。そしてやがて赤ん坊をぴかぴかになるまで磨きたてると、彼女はその子をトムの膝の上にのせて、自分は夕食のあとかたづけをせっせと始めた。赤ん坊のほうはトムの鼻をひっぱったり、顔をひっかいたり、もじゃもじゃの頭の中へ丸い両手をつっ込んだりしていたが、ことにこの最後のいたずらは赤ん坊に特別な満足を与えたようであった。
「いたずら娘でごぜえましょう?」とトムは言いながら、赤ん坊を膝から持ち上げるとその子の頭のてっぺんから足の先までをうちながめた。それから立ち上がって赤ん坊を肩にのせ、一緒に跳ねたり踊ったりしはじめた。その間ジョージ坊っちゃまも、この赤ん坊に向かってハンカチを振って見せていたが、このとき泉からもどって来たモウズとピートが、赤ん坊のあとを追いかけては熊《くま》のように吼《ほ》えたてるので、とうとうアント・クロウィは、彼らの騒ぎのおかげで「まったく頭がもぎ取られそうだ」と宣言するのであった。しかし、彼女自身の言うところによると、こうした外科手術的騒ぎはこの小屋では毎日起こることなので、したがって彼女のこの宣言も少しもこの騒ぎを鎮めることはなかった。それどころか、だれもかれもが唸《うな》り声をたて、転げまわり、踊りまわったりして疲れはて、ようやく平静の状態にかえるまでは止めようとはしなかったのである。
「さあ、おめえたち、もう気がすんだろう」と、車のついた、引出し型のベッドになっている粗末な箱をさっきから一生懸命に引っぱり出していたアント・クロウィが言った。「さあ、おめえたち、モウズもピートもここへ入って寝るだ。かあちゃんたちはこれから集会があるでな」
「なあ、かあちゃん、おらたち、まだ眠たかねえよ。起きていて集会が見てえよ、――集会ってとてもおもしろいもん。おらたち好きなんだ」
「ほんとうだ、アント・クロウィ、ベッドなんかもとどおり押し込んで、あの子たちにも出させておあげよ」とジョージ坊っちゃまは決断を下すように言うと、自分でその粗末な機械をぐいと押した。
アント・クロウィは、こうして体面が保てたので、大喜びの様子でベッドをもとどおりに押し込んだが、そうしながらも、こんなことを言った。「そうだね、集会が何かこの子たちのためになるかもしんねえでの」
そこで家じゅうの者がいまや、全員、世話役となって、集会のための設備やら準備やらにあれこれと心をくばりはじめた。
「それにしても椅子《チヤーズ》はどうしたものだかね。どうしたらいいだか、わしにはわからねえよ」とアント・クロウィが言った。この集会は余分の「椅子《チヤーズ》」(作者はここで、クロウィがなまって発音する「チヤーズ」に「激励」という意味をひっかけて使っている)もなしに、もうかなり長い間、毎週、トムの家で行なわれていたので、さしあたって何かいい方法が見つかるだろうという希望への激励がそこにはあるように思われた。
「アンクル・ピータァが先週歌ったんで、あの一番古い椅子の脚が二本とも抜けたんではねえだか」とモウズが言った。
「これ、おだまり! きっとおめえが引っこ抜いただな。また悪戯《いたずら》をしくさって」とアント・クロウィは言った。
「だけんど、壁にもたせておくぶんなら、あの椅子も立ってるだよ!」とモウズが言った。
「そんならあの椅子にゃあアンクル・ピータァをすわらせてはなんねえぞ、歌う時いつもからだを前に乗り出すでな。いつかの晩も部屋のまん中へんまでも乗り出しただからな」とピートが言った。
「おお! そんなら、なおさらすわらせてやるだ」とモウズが言った。「そうするとあのおじさん、歌いはじめるでな、『されば聖者も罪人も、わが言葉をぞ聞けよかし(メソジスト派の讃美歌「来たれ聖者も罪人も」の冒頭の一行)』それからおじさん、どたんといくだぞ」――とモウズはこの老人の鼻声まで正確に真似ながら、床《ゆか》の上にぶっ倒れて、来たるべき災難の模様を実演して見せるのであった。
「さあさあ、おめえたち、行儀よくできねえだか?」とアント・クロウィが言った。「恥ずかしくねえだか?」
しかし、ジョージ坊っちゃまはこの悪戯者《いたずらもの》と一緒になって笑い、おまけにモウズを「なかなかの芸人だ」などと言ってほめそやした。それでせっかくの母親の訓誡も効果をあげえなかったようであった。
「じゃあ、とっつぁま」とアント・クロウィが言った。「あの樽《たる》を運び込んで下せえ」
「かあちゃんの樽は、ジョージ坊っちゃまがご本の中で読んで下さるあの寡婦《やもめ》の樽(列王紀上、第十七章第十節〜第十六節)と同じようだ、――ぜったいこわれるちゅうことがねえからな」とモウズはピートに向かってそっと言った。
「だけど、先週一つ、確かつぶれただよ」とピートが言った。「それで歌の最中にみんなを転がしちまっただ。あれはきっと、こわれかけていただな?」
こうしてモウズとピートがそっと話をかわしている間に、二つのあき樽が小屋の中へごろごろと運び込まれてきた。そして転げないように両側から石でしっかり止められると、その上に板が渡された。同時に、たらいや手桶《ておけ》がさかさに伏せられ、がたがたの椅子がいくつか適当に配置されて、これでやっと集会の準備が完了した。
「ところで、ジョージ坊っちゃまはほんとうに読み方がお上手だで、きっと残っていてわしらのために読んで下せえますでしょうね」とアント・クロウィが言った。「そうすりゃあ、この会もずっとすばらしいものになりますで」
ジョージはすぐさま承知した。子供というものは、自分を重要人物と思わせるようなことならばどんなことでも、いつでも喜んで引受けるものである。
まもなく部屋は、八十歳になる白髪の老家長から十五歳の若い少年少女にいたるまで種々雑多な人々でいっぱいになった。そこでさっそくさまざまな話題の、罪のない世間話が始まった。たとえば、アント・サリィがどこであの新しい赤い頭巾《ヘドカチーフ》を手に入れたかとか、「奥さまは、新しい衣装ができあがったら、あの水玉模様のモスリンのガウンはリジィ(イライザの愛称)にやっておしまいになる」のだとか、あるいは、シェルビィの旦那さまは新しく栗毛《くりげ》の子馬を買いなさろうと考えていらっしゃるが、そうすればお屋敷の自慢の種がまた一つふえるわけだ、とかいったものであった。集まった礼拝者の中の何人かは、すぐ近くの屋敷に属している人々で、それぞれの主人から許しを得てここに来ているのであるが、彼らもまたいろいろと選りぬきの情報をもちよって、自分たちの屋敷や農場で語られたこと、またなされたことをみんなに話して聞かせた。それは、これと少しも変わらぬ同じ種類の噂話が、ちょうど白人社会で人の口から口へと伝えられるように、ここでも自由に語り伝えられるのであった。
しばらくすると合唱が始まったが、それは明らかに集まったもの全員を喜ばしたようであった。彼らの発声には鼻にかかる欠点はあったが、それにもかかわらず、野性的で同時に活気に満ちた曲の中で発揮されるあの生まれながらのすばらしい声の効果が、それによって妨げられるというようなことはなかった。歌詞はあちこちの教会で歌われ、みんなもよく知っている普通の讃美歌もあれば、野外祈祷会《キャンプ・ミーティング》で習いおぼえた、もっと野性的で、もっと意味のはっきりしないものもあった。
そうした歌詞の中の合唱部《コーラス》は次のようなものであるが、これは非常な力強さと宗教的熱情とでもって歌われたのである。
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戦いの野に死せば、
戦いの野に死せば、
わが魂に栄光《さかえ》あり
(サミュエル・ウェイクフィールドの讃美歌)
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もう一つ、みんなの特に好きな歌は、次のような言葉を幾度も反誦するものであった――
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おお、我|栄光《みさかえ》に往《ゆ》かんとす、――汝《なれ》きたらずや我とともに?
汝《なれ》見ずや、天使《みつかい》の我を呼び、我を招くを?
汝見ずや、黄金《こがね》の都、永久《とわ》の日を?
(黒人霊歌「きっと約束の地に」と同種のもの)
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そのほか、「ヨルダンの岸辺」(申命記、第十一章第三十一節参照)とか「カナンの野」(出エジプト記、第六章 第四節 参照)とか「|天の都《ニュー・ジェルーサレム》」(ヨハネ黙示録、第三章第十二節、および第二十一章第二節参照)などの言葉がたえずくりかえされるような歌がよく歌われた。というのも、情熱的で想像力に富んだ黒人の心というものが、いきいきとした、絵のような性質の讃美歌や歌詞に対して常に強くひきつけられるからなのであった。そこで彼らは歌いながら、ある者は笑い、ある者は泣き、またある者は手をたたき、あるいは互いに歓喜して握手しあっていたが、その様子はまるで、彼らがすでにあの川の彼岸《ひがん》(すなわち「カナン」のこと。神がイスラエルの民に約束した楽園)にたどりついたかのようであった。
それに続いて、いろいろと説教や経験談があり、その合間合間に合唱があった。働けなくなってからもう長い年月がたつが、いわば過去の年代記とでもいった人物として大いに尊敬されている一人の白髪の老婆が立ち上がって、杖にすがりながら、言った――
「さて、子供たちよ! わしはこうしてまた、みなの衆の声を聞き、みなの衆の顔を見ることのできたことをたいへんに喜んでおりますじゃ、わしはもう、いつなんどき栄光《みさかえ》に行かねばならんかもしれませんでのう。だが子供たちよ、わしにはもうすっかり支度ができておる。もう小さな荷物もくくり、帽子《ボネット》もかむって、あとは馬車がやって来てこのわしを家へ連れていってくれるのを待つばかり、というようなものですじゃ。時々、夜中に、馬車のやって来る音が聞こえるような気がして、わしはその間ずっと気をつけておりますのじゃ。で、みなの衆もまた支度をしておかなくてはなりませんぞ。なぜといって、みなの衆」と言いながら彼女は、杖で床《ゆか》をどんとたたいた。「神の栄光というものはありがたいものじゃ! 子供たちよ、それはありがたいものですのじゃ、――みなの衆は何も知らんじゃろが、――それはすばらしいものなのじゃ」そう言って老婆は、すっかり感動した様子で涙を流しながら腰をおろした、するとみんなはいっせいに歌いだした――
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おお、カナンよ、輝けるカナンよ、
我は向かう、カナンの国へ」
(ジョン・ウェズリーの讃美歌)
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ジョージ坊っちゃまは、皆の求めによって、ヨハネ黙示録《もくしろく》の最後の数章を読んだが、その声はしばしば、「これは驚いた!」とか「あれを聞いたか!」とか「まあかんげえてもみさっせ!」とか「そんなことがみんな、ほんとうに起こるだろうか?」とかいった叫び声で妨げられた。
そこでジョージは、小さな時から聡明な子でもあり、また宗教上の事柄については母親から十分に教育を受けていたので、いまや、自分がみんなの賞賛の的となっていることを知ると、殊勝なほどのしんけんさとまじめさとをもって、ところどころに自分自身の解釈を加えていった。そのために彼は若者たちからは尊敬され、また年寄りたちからは褒めたたえられた。そして「牧師さまだってこれほどわかりやすく話すことはできねえ」「ほんとうにすばらしいもんだ!」というのが、みんなの一致した意見であった。
アンクル・トムはこの付近では、宗教上の事柄にかけてのいわば家長的存在であった。生まれながらにして、道徳性《モラール》がいちじるしく優位を占めている性格の持主であるうえに、ほかの者たちの間に見られるよりもはるかに大きな心の広さと修養とをそなえていたので、彼らの間ではいわば牧師さまのような人物として大きな尊敬の念をもって仰ぎ見られていた。それに彼の行なう素朴で、誠実で、真摯《しんし》な型の説教は、彼よりもはるかに教育のある人々をさえ教化するに十分なほどであった。しかし、彼がことに卓《すぐ》れていたのは、お祈りであった。彼の祈りの、あの人心を感動させずにはおかぬ素朴さと、あの子供にも似た熱心さとをしのぐことのできるものは、おそらく何もなかったであろう。その祈りは、聖書の言葉によって高められた豊かな内容をもっていたが、その聖書の言葉もいつしか彼の生命となり、肉体の一部となって、無意識に彼の唇からもれてくるようにさえ思われるのであった。ある敬虔《けいけん》な年老いた黒人の言葉を借りて言えば、彼は「心にしみ込むように祈った」のである。そして彼のお祈りは、それを聴く人々の敬神の情を、いつでもあまりにも強くかきたてるので、その声は、彼の周りのいたる所に起こるあの大きな感激の声の中にすっかりかき消されてしまうのではないかと危ぶまれるほどであった。
――――
こうした光景がこの男の小屋の中でくりひろげられている間に、それとはまったく違った光景がその主人の家で展開していた。
例の商人とシェルビィ氏とが、前に述べた食堂で、互いにテーブルを前にしてすわっていた。テーブルには書類や筆記用具がいっぱいにのっていた。
シェルビィ氏はせわしげに幾つかの札束を数えていたが、数え終わると、それを商人の方へ押しやった。すると商人はまたそれを数えた。
「たしかに」と商人が言った。「じゃ、こいつに署名していただきやしょうか」
シェルビィ氏は急いで売渡し証書を手許にひきよせると、なにか不愉快な仕事を早々にすませてしまいたいというような様子で、それに署名して、金と一緒に相手の方へ押しやった。ヘイリィは、使いふるした手提鞄《てさげかばん》から、羊皮紙に書かれた一枚の証書を取り出すと、ちょっとそれに目を通してから、シェルビィ氏に手渡した。シェルビィ氏は逸《はや》る心をじっと押し鎮めるような様子でそれを受けとった。
「さて、これですっかり終わりましたな!」と言って商人は腰をあげた。
「これで終わった!」とシェルビィ氏は、思案にくれるような口調で言った。そして長いため息をつくと、もう一度くりかえした。「これで終わった!」
「旦那は見たところ、ちっとも嬉しそうじゃありませんな」と商人が言った。
「ヘイリィ」とシェルビィ氏は言った。「忘れないでおいてもらいたいのだが、君が名誉にかけて約束したように、どうかトムを、どんなやつの手に渡るかもしれないままで、売り払ったりなどはしないでくれたまえよ」
「しかし、あんたはたった今そうしたばかりなんですぜ、旦那」と商人は言った。
「私の場合は、おまえにもよくわかっているように、事情やむをえないからなのだ」とシェルビィは傲然《ごうぜん》として言った。
「なるほどね、じゃあ、あたしのほうも、事情やむをえなくなってくるかもしれませんぜ」と商人が言った。「まあしかし、あたしもできるだけ一生懸命、トムのためにいい口を見つけてやることにしまさあ。やつをひどく扱やぁしねえかってえことなら、これっぽっちも心配はいりませんぜ。これだけはあたしも神さまにお礼申し上げてるんだが、あたしってえ人間は残酷なことのできねえ性質《たち》なんだからね」
前にもこの商人は自分の人情主義について講釈をあれこれと語ったが、今またそうした彼の宣言を聞いていても、シェルビィ氏にはそれで特に安心できるとは感じられなかった。とはいえそれは、この場合に見出だされる最大の慰めでもあったので、彼は商人の立ち去る姿を黙って見送った。そして、独り、葉巻に火をつけるのであった。
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第五章 ここでは、所有主の更迭にあたって、生ける財産の抱く感情を語る
シェルビィ夫妻はすでに寝室に退いていた。そしてシェルビィ氏は、大きな安楽|椅子《いす》にゆったりと腰を沈めて、午後の便で来た何通かの手紙に目を通していた。夫人のほうは、鏡の前に立って、イライザが調えたあの編み髪と巻毛との、手のこんだ髪型を解いてそれに自分でブラシをかけていた。というのも、夫人はイライザの青白い頬と憔悴《しょうすい》した目の色に気がついたので、その夜は彼女に勤めを休ませ、そして早く寝るようにと命じていたからである。そういうわけで当然、こうして髪にブラシをあてていると、夫人の胸には昼間彼女と話をした時のことが浮かんできた。そこで夫人は、夫の方をふりむくと無造作に言った。
「ねえ、アーサァ、きょう食事に連れていらしたあの下品な方はだれでしたの?」
「ヘイリィという男さ」と言ってシェルビィは、椅子にすわったままやや不安そうな様子でからだをこちらに向けたが、目は手紙から離さなかった。
「ヘイリィ? どういう人ですの、そしてこんな所になんの用がございますの?」
「なにね、あの男とはちょっとばかり取引きをしたことがあるんだよ、このまえ私がナチズに行った時にね」とシェルビィ氏が言った。
「で、それをいいことにして遠慮会釈もなく人の家を訪ねたり、食事をしたりしたというわけですの?」
「いや、あれは私のほうから呼んだんだ。少し勘定することがあったんでね」とシェルビィは言った。
「あの男、奴隷商人ですか?」とシェルビィ夫人が言ったが、その時の夫の素振りには何か当惑する様子が感じられた。
「いやおまえ、なんだってそんなことを考えるんだい?」とシェルビィは言って目をあげた。
「いいえべつに、――ただイライザがあの食事のあとでここへ来たんですけど、とても心配そうにして泣いたりわめいたりするんですの。そしてあなたが商人と話をしていたとかその商人があの娘《こ》の子供を売れと言うのを聞いたとか申しますものですから――あきれたおばかさんですわ!」
「彼女《あれ》がそう言ったって?」とシェルビィ氏は言いながら、再び手紙の方へ目をやった。彼はしばらく熱心にそれを読んでいる様子であったが、手にした手紙がさかさであることには気がつかなかった。
「いずれはわかってしまうことだ」と彼は心の中でつぶやいた。「どうせ話すならいま話してしまったって同じことだ」
「わたくしイライザに言ってやりましたの」とシェルビィ夫人はなおも髪にブラシをあてながら言った。「そんな心配をするなんておまえはなんてばかな娘《こ》でしょう、旦那さまはあんな人たちとはなんの関係もないんだからってね。もちろんわたくし、あなたがうちの者を一人だって売るおつもりのないことは知っておりますもの。――ことにあんな男になんかめっそうもないことですわ」
「それがねえ、エミリィ」と彼女の夫は言った。「私は日頃そう思っていたし、また口にも出してそう言っていたのだが、実は、仕事の関係でそうもゆかなくなったんだよ。うちの者をだれか売らなきゃならないことになりそうなんだよ」
「あの男へですか? 信じられませんわ! シェルビィ、あなた、まさか本気でおっしゃっているんじゃないんでしょうね」
「残念ながら本気なんだよ」とシェルビィ氏は言った。「トムを売ることに同意したんだ」
「なんですって! うちのトムをですって?――あの善良で誠実な男をですか!――あなたが子供の頃からの誠実な召使いだったというのに! おお、シェルビィ!――それにあなたは彼《あれ》を自由にしてやるって約束していたじゃありませんか、――あなたもわたくしも、そのことを何度も彼《あれ》に話してやったじゃありませんか。じゃあ、何もかもほんとうだったんですね、――あの可愛いハリィを、かわいそうなイライザのたった一人の子を売るというのも、それではほんとうなんですね!」と言ったシェルビィ夫人の語調は、悲しみとも憤りともつかぬものであった。
「では、みんな話してしまうが、それはほんとうだ。私はトムとハリィを二人とも売ることに同意したのだ。だがどうして私は人非人かなんぞのように見られなければならないのだ。私はただ、だれもが毎日やっていることをやったまでじゃないか」
「でもほかに人もあろうというのに、なぜこの二人を選んだのです?」とシェルビィ夫人は言った。「いくら売らなくてはならないにしても、なぜ屋敷うちからこの二人だけをお売りになるんですの?」
「そりゃあ、一番高い値で売れるからさ、――だからだよ。おまえがそんなにまで言うんなら、ほかの選び方だってあったんだ。あの男はイライザに相当の値をつけたんだからね、もしそのほうがおまえにとっていくらかでもいいのなら」とシェルビィ氏が言った。
「この人でなし!」とシェルビィ夫人は烈しい語調で言った。
「しかし、私ははじめあの男の言葉には耳を貸さなかったんだよ、――おまえの気持を思うと、どうしてもそんな気にはなれなかったんだ。――だから少しは私の気持もくんでおくれ」
「あなた」とシェルビィ夫人は気をとりもどしながら言った。「ごめんなさい。短気をおこしたりして。わたくしあまりびっくりしたものですから、つい言葉が過ぎました。――でもあなた、あのかわいそうな人たちのためになんとかとりなしてやろうとするこのわたくしの気持はお許し下さいますわね。トムは、黒人とはいいながら、気高い心をもった誠実な人間ですもの。いざという場合、シェルビィ、あなたのためにきっと命をさえ投げだす男ですわ」
「それはわかっている、――おそらくそうしてくれるだろう。――しかしだからといって、どうなるんだね?――もう私自身、どうしようもないのだからねえ」
「金銭的な犠牲を払えばいいではありませんか? わたくし不自由な暮らしぐらい喜んで辛抱しますわ。おお、シェルビィ、わたくし、こういうかわいそうな、素朴な、人を頼りに生きている人たちに対して自分の義務を果たそうと、これまでずいぶんと――キリスト教徒の女性ならきっとするように、ほんとうに誠意をもって――努めてまいりました。あの人たちのめんどうをみたり、教育をしたり、見守ってやったりして、どんな小さな心配ごと、喜びごとでもみんな知るようになりました。そしてそうなってからもう何年にもなります。それを、ほんのわずかばかりの利益のために、あのかわいそうなトムのように誠実で、りっぱで、人を信頼しきっている男をわたしたちが売ったりして、これまで彼《あれ》に愛し尊ぶようにと教えてきたすべてのものを一瞬にして彼《あれ》から奪いとってしまったら、どうしてわたくし、あの人たちに顔向けができましょう? わたくしはあの人たちに家族の義務、親子夫婦の義務を教えてきました。それなのに、どんなに神聖な絆《きずな》も、義務も、関係も、金銭《かね》に比べれば価値のないものだと公然と認めるようなこんな仕打ちに、どうしてわたくし、耐えることができましょう? わたくしはいつかイライザと、あの娘《こ》の子供のことで話したことがございます。――キリスト教徒の母として、子供につくす親の義務を説き、常にあの子を見守り、あの子のために祈り、そしてあの子をキリスト教徒らしく育てあげるようにと教えてきました。それなのにわずかなお金を惜むあまり、もしあの子を無理やり引き離して、あの子のからだも魂も、不敬な不道徳な男に売り渡したとしたら、わたくしいったいどう弁解したらいいのでしょう? わたくしはイライザに、一つの魂は世界じゅうのお金を全部あわせたよりも尊いものなのだと言ってきかせました。それなのに、わたしたちがくるりと背を向けてあの娘《こ》の子供を売ってしまったら、それを見たあの娘《こ》はどうしてわたくしを信じることができましょう?――あの子供を売れば、きっと、からだも魂も滅びてしまうにきまっていますもの!」
「おまえにそんな思いをさせるなんて、すまないね、エミリィ、――ほんとうにすまないと思っているよ」とシェルビィ氏は言った。「そして私はおまえのそうした気持を尊敬もしている。もっともそれにまったく同感というわけではないがね。しかし、私はここで、はっきりと言っておくが、もうどうにもならんのだ――私自身でさえどうすることもできんのだよ。おまえには黙っていようと思っていたのだが、エミリィ、実を言うと、この二人を売るか、さもなければ何もかも売り払うかのどちらかなのだ。二人を失うか、それともすべてを失うかだ。ヘイリィの手に抵当証書が渡ってしまって、もし私がそれをすぐあの男に清算してしまわなければ、あの男は何もかも取り上げようとしているのだ。私は金をかき集めもしたし、出費を極度にきりつめもした、また人から借りることもしたし、ほとんど乞食《こじき》同様のことまでやった。――しかもなお残額を埋めるのにあの二人の分の額が必要だったので、私は彼らを手放さねばならなかったのだ。ヘイリィはあの子が気に入って、この条件で話をきめよう、他の条件ではだめだと言うのだ。私はあの男の掌中にあるので同意せざるをえなかったんだ。おまえはあの二人を売られて、そんな思いをするくらいなら、むしろ何もかも売られてしまったほうがまだましだとでも言うのかね?」
シェルビィ夫人は茫然《ぼうぜん》とその場に立ちすくんだ。そしてやがて、化粧台の方を向くと、両手に顔をうずめて、うめくような声をたてた。
「これこそ奴隷制度に対する神の呪いです!――いやな、忌《いま》わしい、最も呪われた制度です!主人にとっても呪いです、そして奴隷にとっても呪いです! こんな恐ろしい邪悪の中から何か善いものを作り出せるなどと考えていたわたくしがばかでした。この国のような法律の下で奴隷をもつことは罪悪です、――わたくしはいつもそう感じていました、――子供の頃、いつもそう思っていました、――教会に入ってから後はいっそう強くそう考えていました。でもわたくしは、それを美しく飾ることができると考えていました――わたくしは、親切や保護や教育によって、わたくし流に奴隷制度の状態を自由なんかよりももっとすばらしいものにすることができると考えていました――わたくしがばかだったのです!」
「おや、おまえはまるで奴隷制度即時廃止論者《アボリショニスト》になったようだね」
「奴隷制度即時廃止論者ですって! ああいう論者たちも、奴隷制度についてわたくしほどの知識をもってから話をすべきですわ! あの人たちの議論などわたしたちには必要ありません。だって、わたくし、奴隷制度が正しいと考えたことは一度だってありませんもの、――進んで奴隷を所有したいなどと思ったことだって一度もありませんもの」
「いや、その点でおまえは、賢明で信心深い多くの人たちと意見を異《こと》にしているね」とシェルビィ氏が言った。「おまえはあのB氏の説教をおぼえているだろう、いつだったかの日曜日の?」
「わたくし、あんな説教は聞きたくありません。二度とわたしたちの教会でBさんの説教を聞きたいとは思いません。牧師さまたちにはこの邪悪を救済することができないのです、おそらく、――わたしたちと同様に、それを矯正《きょうせい》することもできないのです、――だからといってそれを弁護するなんて!――あの説教は初めからしまいまで、わたくしの常識に反していましたわ。あなただって、あれをりっぱなものとはお思いになりませんでしたでしょう」
「いや」とシェルビィは言った。「ああした牧師たちは時には、われわれ哀れな罪人たちがまさにあえてやるより以上に、問題をこんぐらかすことがあるのは確かだよ。われわれ俗人は、いろいろなことをできるだけ大目に見て、理に合わぬ事柄にも慣れていかねばいけないのだ。しかし女性と牧師とが、お互いにま正面からわたりあって嗜《たしなみ》と徳行との点でわれわれの度を越えるというようなことがあってはおもしろくないことは確かだね。だがねえ、おまえ、これでおまえにもやむをえぬ事情がわかってもらえただろうね。そして私が事情の許すかぎり最善をつくしたことも理解してくれただろうと思うのだがね」
「ええわかりました、わかりましたわ!」とシェルビィ夫人はせき込むように言った。それから放心したように自分の金時計をいじっていた。――「わたくし、べつにたいした宝石類など持っていませんけど」と彼女は、何か考えながらつけ加えた。「この時計が何かのお役にたちませんかしら?――これでも、買った時はたいそう高価なものでした。せめてイライザの子供だけでも救うことができましたら、わたくし、持っているものはどんなものでも犠牲にいたします」
「すまん。ほんとうにすまん、エミリィ」とシェルビィ氏は言った。「おまえがそんなにまで思いつめているなんて、私はほんとうにすまないと思っているのだが、そんなことをしてももうだめなのだ。実は、エミリィ、取引きはもうすんでしまっているんだよ。売渡し証書にもう署名をして、ヘイリィに渡してしまったのだ。そしておまえ、これ以上に悪い事態にならなかったことをありがたく思わなくてはいけないのだよ。あの男はわれわれすべての者を破滅させるだけの権力をもっていたんだ、――そしてこれでやっとあの男とも縁切りになったのだからね。おまえも、私が知っているくらいにあの男のことを知ったら、われわれがじつに危いところで難を逃がれたということがわかるだろうよ」
「じゃあ、そんなに酷《むご》い男なんですか?」
「いや、残酷な男というわけではないが、皮|鞭《むち》のような男なのだ、つまり、商売と利益のほかにはなんの興味もない、――冷たくて、情容赦もなくて、執拗《しつよう》で、まるで死か墓場のような男なのだ。わりがいいとなれば自分の母親だって売ってしまうだろう――むろん、あの男が母親に対してべつに悪意を抱いているわけではないのだがね」
「そして、そんな人でなしがあの善良で誠実なトムと、イライザの子供を自分のものにするんですのね!」
「ああおまえ、実はこれが私にもずいぶんとつらいことなのだ。考えるのもいやなことだが、ヘイリィは仕事を早く運びたいから、あす連れて行くと言うのだ。それで私は朝早いうちに馬を出して、出かけてしまうつもりでいる。トムに会わせる顔がないからね、じっさいのところさ。おまえもどこかへ馬車で出かけることにして、イライザを連れ出したほうがいいだろうよ。彼女《あれ》のいないあいだに事を運ばせるからね」
「いいえ、いやです」とシェルビィ夫人は言った。「わたくし、こんな残酷な仕事の共謀者や手先になんかはけっしてなりません。わたくしは悲しみに沈んでいるかわいそうなトムに会いに行ってやります、神さまどうぞトムをお救い下さいまし! わたくし、せめてあの人たちに、このわたしがみんなのために、そしてみんなと一緒になって悲しんでいるということを知らせてやります。でもイライザについては、わたくし、とても考えるだけの勇気がありません。神さま、どうぞわたくしたちをお許し下さいまし! なんの因果《いんが》でわたくしたちはこんな残酷なことをしなければならないのでしょうか?」
こうした会話に最前から耳をそばだてている者が一人いたのであるが、シェルビィ夫妻は、それには少しも気がつかなかった。
夫妻の部屋の隣りには、それと通じる大きな押入れがあって、ドアによってそれは外の廊下へも出られるようになっていた。シェルビィ夫人が、その夜イライザに早くやすむよう暇を与えた時、イライザの興奮に燃える胸に、この押入れのことがふと浮かんだ。そこで彼女はそこに身をひそめ、ドアのすき間に耳をぴったりと押しあてて、二人の会話を一語ももらざずすっかり聞いてしまったのである。
二人の声がやんで、しーんとなると、彼女は身を起こし、こっそりと足を忍ばせてそこから出て行った。顔色も蒼《あお》ざめ、わなわなと震えながら、こわばった顔だちに唇も固く結んで、彼女は、これまでの柔和で内気な人間とはまったくうって変わったもののように見えた。彼女は廊下を用心深く歩いて行った。そして夫人の部屋の戸の前で一瞬足をとめると、天に向かって訴えるように黙って両手を高くさし上げた。それから向きなおって自分の部屋へ滑るように入って行った。それは静かな、小じんまりとした部屋で、シェルビィ夫人と同じ階にあった。部屋には気持のよい、陽《ひ》のよく当たる窓があって、彼女はよくここで歌をうたいながら縫物をした。小さな本箱もあって、なかには本と一緒にいろいろな可愛い装飾品が並んでいた。クリスマスの贈り物である。そして戸棚やたんすの中には質素ながらも自分の衣裳《いしょう》がそろっていた。――つまり、ここに彼女の家庭《ホーム》があったのである。しかし、ベッドの上には、彼女の子供がすやすやと眠っていた。長い巻毛が何も知らぬその顔に乱れかかり、ばら色の口をなかばあけ、小さな丸い手を掛布団《かけぶとん》の外になげ出して、顔全体に陽の光のような微笑をただよわせて眠っていた。
「かわいそうな坊や! 可哀そうにね!」とイライザは言った。「おまえは売られてしまったのよ! でもおまえのお母さんがきっと助けてあげますからね!」
枕の上には一滴の涙も落ちなかった。こうした窮境に追いこまれると、人の心は流す涙ももたなくなるのである、――心はただ血をしたたらせ、無言のうちに涸《か》れてゆくのである。彼女は紙と鉛筆をとると、急いで書きはじめた。
「おお、奥さま! 優しい奥さま! どうぞわたくしを恩知らずなどとお思いにならないで下さい、――どんなことがありましても、どうぞこのわたくしを悪くお取りにならないで下さい、――わたくし、奥さまと旦那さまが今夜話していらしたことを残らず聞いてしまいました。わたくし、子供を救うつもりでございます――奥さま、どうぞお許し下さい! これまでのご親切に対して、神さまの祝福とお恵みが奥さまの上にありますように!」
急いでこれを折りたたみ、その上に夫人の名を書きおえると、彼女は引出しの所へ行き、子供の衣類を小さな包みにこしらえて、それをハンカチでしっかりと自分の腰に結びつけた。だが、母親の深い愛情は、こうした恐怖の中にありながらも、子供の好きな玩具《おもちゃ》を一つ、二つ小さな包みの中へ入れることも忘れなかった。そして彼女は、いよいよ時が迫って、子供を起こさなければならなくなった時、むずかる子供をあやすためにと、彩色のきれいな鸚鵡《おうむ》を別に出しておいた。よく寝入っている子供を起こすことはなかなかたいへんであった。それでも、やっとのことで子供は起きあがり、そして玩具の鸚鵡と遊びはじめた。その間に母親は帽子をかぶり|肩かけ《ショール》をかけた。
「どこへ行くの、おかあちゃん?」と彼は、自分の小さなコートと帽子を持って母親がベッドの方へ近づいてくるのを見て言った。
母親はそばに来ると、彼の目をじっとしんけんに見つめたので、子供にも何かただならぬ事態のあることがすぐにのみこめた。
「静かにするんですよ、ハリィ」と彼女は言った。「大きな声をたててはいけません。人に聞こえますからね。いま悪いおじさんが来て、可愛いハリィちゃんをお母さんから取り上げてどこか暗い所へ連れていこうとしているのよ。でもお母さんはそんなことをさせません――可愛い坊やに帽子をかぶせ、コートを着せて、坊やと一緒に逃げるのよ。悪い人に坊やがつかまえられないようにね」
こう言いながら、帽子のひもを結び、コートのボタンをかけて子供の簡単な身支度をととのえてやると、母親は子供を抱きあげ、けっして声をたてないようにと小声で言いきかせた。そして外のヴェランダへ通じる部屋のドアをあけ、そっと滑るように外へ出た。
きらきらと光る、霜と星明かりの夜であった。母親は、漠然《ばくぜん》とした恐怖から息をころして自分の首にしがみついている子供を、肩掛けでしっかりと包んでやった。
ポーチの片隅に寝ていた大きなニューファウンドランド種の老犬ブルーノウは、彼女が近づくと低いうない声をあげながら起きあがった。だが、彼女がやさしく名を呼ぶと、以前から彼女に可愛がられ仲よしだったこの犬は、すぐに、尾をふって後からついてこようとした。しかし、こうした単純な動物の頭にも、こんな軽率な真夜中の散歩はいったいどうしたわけなのか、いかにも不思議に思えるようであった。そして推測の結果なにか無分別なことか、あるいは不都合なことがあるのだとおぼろげながら悟ったらしく、ひどくまごついた様子であった。それで犬は、イライザが滑るように歩いてゆくのに、何度も足をとめては思い悩むように、初めはイライザの方を、それから邸の方をながめた。そしてまた思いなおして安心でもしたのか、再び彼女の後をぱたぱたと追って来た。数分後に彼女らはアンクル・トムの小屋の窓辺に来た。イライザは立ちどまって窓ガラスをそっとたたいた。
アンクル・トムの小屋での集会は、讃美歌を歌っているうちに、すっかり遅くなってしまった。そのうえ、アンクル・トムは、みんなが帰ってからも長いこと独《ひと》りで唱《うた》っていたので、その結果は、ここに見られるように、もう夜中の十二時と一時との間だというのに、まだ彼と彼の尊い妻《つれあい》とは寝ないでいたのである。
「おや! あれはなんだろう?」とアント・クロウィはびっくりして立ちあがると、急いでカーテンをひきあけた。「おやまあ、リジィでねえか! とっつぁま、服を着なせえ、早く!――ブルーノウもこんな所へ来て。いったいどうしたことだ! いま戸をあけるでの」
そして、その言葉と一緒にドアがさっと開いて、トムが急いでつけた獣脂ろうそくの火に、逃亡者のやつれた顔と黒い激しい目とが照らし出された。
「まあどうしただ!――そんな顔をして、おらあびっくりするでねえか、リジィ! どこぞ加減でも悪いだか、それとも何か起こっただか?」
「わたし、これから逃げるんです――おじさん、おばさん――この子をつれて――旦那さまが坊やを売ったんです!」
「坊やを売った?」二人は鸚鵡返しに叫ぶと、仰天して両手を高くさし上げた。
「ええ、坊やを売ったんです!」イライザはきっぱりと言った。「わたし、今夜奥さまのお部屋のそばの押入れに忍び込んで、旦那さまが奥さまに、わたしのハリィと、それからアンクル・トム、あなたもなのよ、二人とも商人に売ったって話しているのを聞いたんです。で、旦那さまはけさ馬でどこかへ行ってしまい、商人がきょう二人を連れにくるんですって」
トムは、この話の間、夢でも見ているように、両手を高くあげ、目を大きく見ひらいたまま立っていた。やがてしだいにその意味がわかってくると、彼は自分の古ぼけた椅子の上にすわるというよりもむしろ崩れるように腰を落として、頭を膝の上に沈めた。
「神さま、わしらを憐れみ下せえ!」アント・クロウィは言った。「おお! これはほんとうのことではごぜえますまい! うちのとっつぁまが何をしたちゅうて、旦那さまはこの人を売りなさるだ?」
「おじさんが悪いんじゃないのよ、――そんなことじゃないの。旦那さまも売りたくはないんです。それに奥さまだって――奥さまはいつも優しい方よ。わたし、奥さまがわたしたちのために訴えたりお願いしたりして下さるのを聞きました。だけど旦那さまのおっしゃるには、もうどうしようもないんですって。旦那さまはその男に借金があって、その男の言うとおりにされているんです。で、もし旦那さまが借金をすっかり返しておしまいにならないと、しまいには家屋敷から人までみんな売り払って、ここを立ちのかなければならないんだそうです。ええ、わたし、旦那さまが、二人を売るかそれともすべてを売りつくすかのどちらかなんだ、あの男はそれほどきつい無理を言っているんだ、とおっしゃっているのを聞きました。旦那さまは、すまないって言ってらっしゃいました。でも、ほんとうに、奥さまは――あの奥さまのお言葉をあなた方にもきかせたかったわ! もし奥さまがキリスト教徒で、そのうえ天使でないとしたなら、キリスト教徒や天使なんていうものは存在しないでしょう。その奥さまのもとからこうして逃げ出すなんて、わたしは悪い女です。でも、しかたがないんです。奥さまは、ご自身、一つの魂は全世界よりも貴いものだっておっしゃいました。この子にもその魂があるんです。わたしがこの子を売られるままにしていたら、いったいその魂はどうなるんでしょう? わたしのすることは、きっと正しいことだと思います。でも、もし間違っていたとしても、神さま、どうぞわたくしをお許し下さい。こうしないではいられないのですから!」
「なあ、とっつぁま!」とアント・クロウィが言った。「あんたも逃げなせえ。ぐずぐずしていて川下へ連れていかれる気だか、あすこじゃ黒ん坊に、働くだけ働かせ、食うものも食わせねえで殺してしまうちゅうでねえか? わしは、そんな所へ行くぐれえなら、すぐに死んじまったほうがええだ! さあまだ間があるでの、――リジィと一緒に逃げなせえ、――あんたはいつでもどこへだって行き来のできる通行証を持っているだから。さあ、急ぎなせえ、わしがいま荷物をまとめてあげるでの」
トムはゆっくりと頭をもたげた。そして悲しそうに、しかし静かにあたりを見まわして言った。
「いや、いや――おれは行かねえ。イライザは行かせるがいい――そりゃあこの娘《こ》の権利だ!行ってはいかんなぞと、おらには言えねえ――この娘がここにいることは情ではねえだからな。だがおまえもこの娘の言うことを聞いていたでねえか! もしおれが売られるか、さもなければ屋敷のみんなが売られて、なにもかもめちゃめちゃになってしまうかのどちらかというのなら、そりゃあ、おらを売ってもらうだ。おらにだってだれにも負けねえくらいの辛抱はできると思うでの」そう言いながらも、すすり泣きとため息に似たものが、彼の広くたくましい胸を発作的に震わした。「旦那さまがご用の時は、おれはいつでもその場でお役にたった――今度だって同じだ。おれはこれまで一度も信用にそむいたことはねえ、それに自分の約束をやぶってあの通行証を使ったこともねえ、これからだってそんなことするつもりはねえだ。お屋敷をめちゃめちゃにして、みんなを売るよりも、おれ一人売られていくほうがええ。旦那さまが悪いのではねえよ、クロウィ。旦那さまはこれから先、おまえのめんどうやかわいそうな――」
そう言いながら、彼は小さなもじゃもじゃ頭の並んでいる粗末な引出し式のベッドの方を向いたが、ついに大声をあげて泣き出してしまった。彼は椅子の背にもたれかかって、大きな両手で顔をおおった。激しい、しわがれた、大きなむせび泣く声は、椅子をゆすった。そして大粒の涙が指の間から床の上に落ちた。それは、この物語を読んで下さるお父さん、あなたのご長男が亡骸《なきがら》となって横たわる柩《ひつぎ》の中に、あなたが落としたあの涙とまったく同じものなのです。そしてお母さん、あなたの赤ちゃんがいまわのきわに泣く声を、あなたが耳にした時に流した涙と同じものなのです。なぜなら、お父さん、トムは人間だったからです、――あなたと同じように一人の人間だったからです。そしてお母さん、あなたがどんなに絹をまとい、宝石をちりばめていても、あなたは一人の女性にすぎないからです。そして人生の大きな窮境、大きな悲哀の中で私たちが感じるものは、ただ一つの同じ悲しみだけなのだからです!
「それからね」とイライザは戸口に立ったまま言った。「わたし、きょうの午後、うちの人に会ったばかりなんですけど、その時にはまだこんなことになろうなんて、ちっとも知らなかったんです。うちの人もひどくいじめられて、もうこらえきれないところまできているんです。で、きょうわたしに、ぼくは逃げるんだって言いました。どうか、もしできたら、あの人に伝えて下さい。わたしがどのようにして、そしてなぜ逃げたかを話して下さい。それから、わたしがカナダへ行くつもりだということもね。どうぞあの人によろしく伝えて下さい。そして、どうかあの人へ、もしこれっきり二度と会えないとしたら」――と、かすれた声で言葉をついだ。「どうか、できるだけ正しい人でいてくれるよう、そして天国でわたしに会えるよう努めて下さいってね」
「ブルーノウを呼び入れて下さいな」と彼女はつけ加えた。「そして戸をしめて下さい、出られないようにね、かわいそうだけど! わたしについて来ちゃいけないのよ!」
わずかばかりの最後の言葉と涙。簡単な別れの挨拶《あいさつ》と祝福。そして驚き恐れている子供を腕にしっかと抱きしめながら、彼女はそっと滑るように姿を消していったのである。
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第六章 発見
シェルビィ夫妻は、昨夜の長い議論のせいで、床へ入ってからもなかなか寝つかれなかった。そのため、けさはいつもよりやや遅くまで寝こんでしまった。
「イライザは何をしているのかしら」とシェルビィ夫人は、何度|呼鈴《よびりん》の紐《ひも》を引いても返事がないのでそうつぶやいた。
シェルビィ氏は鏡の前に立って剃刀《かみそり》をといでいた。ちょうどその時、ドアが開いて、黒人の少年が髭《ひげ》そりの湯をもって入ってきた。
「アンディ」と夫人が言った。「イライザの部屋へ行って、わたしがもう三度も呼んだって言っておくれ。でもかわいそうに!」と彼女はため息をつきながら独り言のようにつけ加えた。
アンディは、びっくりした様子で目をまんまるくしながらすぐにもどって来た。
「たいへん、奥さま! リジィのたんすがみんな開いていて、あの人の物がそこらじゅうに散らかってますだ。きっと逃げちまったんだ!」
シェルビィ氏も夫人も同時に事情を悟った。シェルビィ氏は叫んだ。
「さては感づいたな、それで逃げたんだ!」
「まあありがたい!」とシェルビィ夫人は言った。「きっと逃げたんだわ」
「おまえ、ばかなことを言っちゃいかん! じっさい、これは私にとってとんでもない厄介《やっかい》なことになるんだ、もしほんとうに逃げたとすればね。ヘイリィは、私があの子を売りたがらず渋っていたのをちゃんと見て知っているんだ。だからやつは、私が見て見ぬふりをしていたと思うだろう、あの子を連れて逃げるところをね。それでは私の名誉にかかわるというものだ!」そう言いながらシェルビィ氏は急いで部屋を出ていった。
それからおよそ十五分間、あわただしく人が駈けまわり、大声に呼びあい、あちこちのドアがあけられたり、またしめられたり、そして違った色あいのあらゆる顔がさまざまな場所に出たり入ったりした。この事件の真相になんらかの光を与えそうな唯一の人間は、完全に沈黙を守っていた。そしてそれは料理|頭《がしら》のアント・クロウィであった。彼女は口をつぐんだまま、かつては明かるかったその顔に暗い雲をただよわせて、朝食の|小型食パン《ビスケット》をこしらえていた。それはまるで、あたりの大騒ぎが目にも耳にも入らぬといった様子であった。
まもなく、およそ十二、三人のいたずら盛りの子供たちが、からすのようにヴェランダの手すりにつかまって、あのヘイリィの旦那がやって来たら、やっこさんの不幸をわれ先に知らせてやろうと待ちかまえた。
「かんかんになって怒るぞ、きっと」とアンディが言った。
「悪たれ口をたたくだべな!」と黒いちびのジェイクが言った。
「たたくだとも、だってほんとにたたいてたもんな」ともじゃもじゃ頭のマンディが言った。「あたいきのう、お食事の時に聞いただ。その時すっかり聞いちまっただよ。なぜってあたい、奥さまが大|酒瓶《さかがめ》をしまっておくあの納戸《なんど》の中にもぐり込んでいたでな。だからみんな聞こえちまっただよ」そう言ってマンディは、今まで自分が耳にした言葉の意味など黒猫と同様、一度も考えたこともないのに、この時ばかりはいやに知ったかぶりの様子で、そこいらをもったいつけて歩きまわった。しかし彼女は、じっさいのところ、その時刻にそこで酒瓶に取囲まれてはいたけれども、その間ずっと寝込んでいたということは言い忘れていたのである。
やがてヘイリィが、長靴をはき拍車《はくしゃ》をつけた姿で現われると、彼は四方八方からこの悪い知らせで迎えられた。ヴェランダの子供たちは、あてにしていた彼の「悪たれ口」を聞いて満足した。その悪たれ口をたたくにも彼が流暢《りゅうちょう》な烈しい調子でやったので、子供たちはみんな大喜びであった。そして彼のふりまわす鞭《むち》に当たらないようにと、あちこち巧みに身をかわしながらそれを聞いていたが、そのうちにどっと歓声をあげていっせいに逃げ出すと、とめどもないくつくつ笑いの塊になって、ヴェランダの下の枯れた芝生の上に転がり込んだ。そして足を蹴上げたり大声ではやしたりしてぞんぶんに満足していた。
「あの餓鬼《がき》どもをふんづかめえたら、ただじゃおかねぇんだが!」とヘイリィは食いしばった歯の間からつぶやいた。
「だが、おまえなんかにつかまらないだぞ!」とアンディは勝ち誇ったように言った。そしてこの不幸な商人がかなり遠くへ行って、何をしゃべっても彼の耳には入らなくなった頃、彼の後から、筆には書き表わせないような悪口をいろいろと並べたてながらついていった。
「おい、シェルビィ、こんなひでえ取引きは聞いたこともねえぜ!」とヘイリィはだしぬけに客間へ入って来ながら言った。「女が逃げたっていうじゃねえか、ええ、あのちびを連れやがって」
「ヘイリィ君、家内の前ですよ」とシェルビィ氏が言った。
「おっと、こりゃ失礼、奥さん」とヘイリィは言うと、軽く会釈《えしゃく》をしたが、まだ顔をしかめていた。「だが、それにしても、いま言ったように、こりゃあとんでもねえ話だ。ほんとうかね。旦那?」
「君」とシェルビィ氏は言った。「私と話がしたいのなら、少しは紳士としての礼儀作法をわきまえていただきたい。アンディ、ヘイリィさまの帽子と鞭とをお預りしろ。まあ、おかけ下さい。いかにも、おおせのとおり。遺憾《いかん》ながら、あの若い娘はこの取引きのことを立ち聞きしたか、あるいはだれかに知らされたかして、興奮したらしく、夜中に子供を連れて逃亡しました」
「この件についちゃあ、公正な取引きができると思ってたんだがね、ほんとのところ」とヘイリィは言った。
「なんですって、君」とシェルビィ氏がきっとなって彼の方を向いた。「それはどういう意味です? 私の名誉をかれこれ言う者がいたら、だれであろうとただではすみませんぞ」
この言葉にはさすがの商人もすくんで、声の調子を幾分おとして言った。「まっ正直な取引きをした者がこんな具合にだまされるなんて、やけにひでえこった」
「ヘイリィ君」とシェルビィ氏は言った。「私はあなたが落胆するのも無理はないと思えばこそ、こうして無礼無作法なやり方でこの部屋に闖入《ちんにゅう》して来たあなたを我慢しているのですぞ。しかし、事情やむをえぬことでもあるので、この際はこれだけのことは言っておこう。つまり、まるで私がこの事件にいささかでも加担しているかのように、あてつけを言われることは今後断じて許しません。なお、あなたの財産の取りかえしには、馬、召使い等々を役だて、あらゆる便宜をおはかりする義務が私にはあると感じている、ということです。で、要するにだね、ヘイリィ君」と急に彼は、これまでのいかめしい冷淡な口調からいつもの気さくな口調にもどって言った。「もうこうなったら、機嫌をなおして朝食でもとるのが一番だ。それから善後策を考えよう」
シェルビィ夫人は立ち上がると、自分は先約があってけさは食事を一緒にできないからと言った。そして、立派な教養のある混血《ミュラトゥ》の女に、そこに控えて殿方にコーヒーをおすすめするようにと言いつけて部屋を出ていった。
「令夫人には、このはしたなき僕《しもべ》がえらくお嫌いのようだな」とヘイリィはごくうちとけた態度を不安気に強いて装いながら言った。
「私は家内がそうした不躾《ぶしつ》けな言葉で話されることに慣れておりませんのでね」とシェルビィ氏が冷やかに言った。
「こりゃあ失礼。もちろん、ほんの冗談でさあ」とヘイリィは無理に笑いながら言った。
「冗談も時には不愉快なものがありますからね」とシェルビィはやりかえした。
「おれが証文に署名しちまったら、この野郎やけになまいきな口をききやがる!」とヘイリィは心の中でつぶやいた。「きのうからというもの、いやにもったいぶりやがって!」
たとえどこの国の総理大臣が失脚したとしても、屋敷の仲間たちの間にひろがったトムの運命に関する知らせほど大きな騒ぎをまき起こしたことはなかったであろう。それはあらゆる場所で、あらゆる人々の話題となった。屋敷内でも農場でもみんな仕事が手につかず、これから先どうなることかと話しあうばかりであった。それにイライザの逃亡が――この屋敷では空前のできごとでもあったので――みんなの興奮をさらにいっそう刺戟《しげき》することになった。
この屋敷にいるどの黒人よりも三倍も色が黒いところから、|まっ黒け《ブラック》のサムと呼ばれている男が、この事件をそのあらゆる面とあらゆる角度からいろいろと深く考えていた。自分の個人的利益に対する彼の視野の広さと精密な観察とは、ワシントンの白人の愛国者(政府高官や議員のこと)のだれにも劣らぬほどであった。
「昔から、風の吹きようで運、不運って言うが――よく言ったもんだ」とサムはもったいぶった言い方をしながら、もう一度ズボンをずり上げ、とれたボタンの代りに長い針を使って巧みにズボン吊りをそれにひっかけた。彼にはこの天才的なくふうがひどく気に入った様子であった。
「まったく、風の吹きようで運、不運だて」と彼はくりかえして言った。「さて、これでトムのやつが落ちた――そうなりゃ当然ほかの黒ん坊がのし上がる空席《あき》ができたというわけだ――とすりゃあ、このおれさまがその後釜《あとがま》にならんともかぎらねえ――こりゃあいい考えだ。トムのやつはこの辺を馬かなんか乗りまわしていやがった――靴もぴかぴかだし――ポケットには通行証も持っていた――黒人奴隷としちゃあ最高だ――やつでなきゃならねえことはあるめえ? ええ、このサムでいけねえことはあるめえ?――それが知りてえもんだ」
「おーいサム兄貴――なあサム兄貴! 旦那があんたにビルとジェリィ(馬の名前)をつかまえてもらいたいって言ってらっしゃるぜ」とアンディが、サムの独り言をさえぎるように言った。
「ほう! こんどは何がおっぱじまるんだい、おめえ?」
「あれっ、じゃ、たぶん兄貴は知らねえだな、リジィが逃げて子供と一緒にどこかへ行っちまったってえことをな?」
「そんなこたあ、おめえのお婆《ばあ》に教えてやるがええ!」とサムは軽蔑《けいべつ》しきった様子で言った。「そんなことぐらい、おれはおめえよりずっと昔に知ってらあな。この黒ん坊さまはそんな青二才とはわけが違うんだ、いいか!」
「まあ、それはとにかく、旦那はビルとジェリィにすぐ鞍《くら》をつけてもらいたいとおっしゃってるぜ。そしてあんたとおいらとでヘイリィの旦那のお供をしてリジィを探しに出かけるんだとよ」
「そいつは、ありがてえ! そろそろお鉢《はち》がまわって来たぞ!」とサムが言った。「こうした時にお召しにあずかるのがこのサムさまってえわけだ。おれのほかにはだれもいねえからな。よし、おれがあの女をつかまえてやるから見ていな。旦那もこのサムの腕にはびっくりなさるだろう!」
「ああ! だがな、サム兄貴」とアンディは言った。「あんたは、もう一度よく考えてみたほうがいいぜ。なぜって奥さまはあの女がつかまらねえでくれりゃいいと思ってらっしゃるんだからな。奥さまの望みは、あんたのそのもじゃもじゃ頭の中にあるんだ」
「ほう!」とサムは目を丸くして言った。「おめえにそんなことがどうしてわかるんだ?」
「奥さまがそう言うのをちゃんとこの耳で聞いたのさ、けさおいらが旦那の髭そりの湯を持っていった時にな。奥さまは、リジィが着替えの手伝いに来ねえもんだからおいらを見にやらしたんだ。で、おいらがいないって伝えると、奥さまはさっと立ち上がって、こう言いなすった、『まあありがたい』。すると旦那は、とても腹を立てた様子で、『おまえ、ばかなことを言っちゃいかん』って言いなすった。だが驚くじゃねえか! 奥さまはそういう旦那をそのうちには自分の思いどおりにしてしまうだからな! おいらにはそれがちゃんとわかってるだ、――だからいつだって奥さまの側につくほうが得なんだ、ほんとうだぜ」
ブラック・サムはこれを聞くと自分のもじゃもじゃ頭をかいた。その頭の中にはたいして深い智慧があるわけではなかったが、それでもあらゆる民族とあらゆる国の政治家の間に強く要求されているある特別な種類の智慧、つまり俗な言葉で言えば、「パンのどちら側にバターがぬってあるかを見ぬく」くらいな智慧は大いにもっていたのである。そこで、じっくり考えようと、彼はもう一度ズボンをずり上げた。それは頭の中の混乱を整理するのにいつもきまって彼がする方法なのである。
「どうもわからねえ――まったくよ――この世の中のことちゅうものは」と彼はやがて言った。
サムは特に「この」という言葉に力を入れながら哲学者のような口ぶりで言ったが――それは、まるで自分がこれまでさまざまな世界に住んで豊富な体験をつみ、それゆえにことさらこうした結論に達したとでもいうような口調であった。
「だがきっと奥さまは、リジィのあとを追って世界じゅうを探しまわりたいと思ったことだろうて」とサムは思案顔でつけ加えた。
「そりゃあそうさ」とアンディが言った。「だが梯子《はしご》の穴からのぞいて見るくらいにはっきりしていることが、あんたにはわからないのかい、え、黒ん坊兄貴? 奥さまはヘイリィの旦那にリジィの子を連れていかせたくないんだぜ。そいつが厄介なことなんだ!」
「ほう!」とサムは、黒人の間でそれを聞いたことのある者だけが知っているあの筆では表わすことのできないような抑揚《よくよう》をつけて言った。
「で、とにかく」とアンディが言った。「兄貴はあの馬を早くつかまえに行ったほうがいいとおいらは思うね、――それも大急ぎでな、――なぜって、奥さまが兄貴のことを心配なさっていたのをおいら、聞いたでな、――それに兄貴ももうさんざんここで油を売ってたんだからなあ」
サムはこれを聞くと、いよいよ本気になって活動をはじめた。そしてしばらくすると彼はビルとジェリィを思いきり駈けさせながらお邸に向かって堂々と突進する姿を現わした。そして馬がまだ止まろうともしないうちから、ひらりと飛び下りると、その二頭を大旋風《トルネード》(ミシシッピイ川流域地方に起こる猛烈な竜巻)のような勢いで繋《つな》ぎ柱の所へ引いていった。ヘイリィの馬はものに驚きやすい若駒だったので、おびえたり跳ね上がったりして端綱《はづな》を烈しくひっぱった。
「どう、どう!」とサムは言った。「怖《こわ》いだか、おめえは?」彼の黒い顔は奇妙ないたずらっぽい光がさして明かるく輝いた。「今おれがおとなしくしてやるからな!」と彼は言った。
屋敷の庭にはあたりいちめんに蔭《かげ》を落としている大きなぶなの木が一本あった。そして地面にはその小さな先の尖った三角の実がいっぱい、重なるように落ちていた。サムはその実を一つ拾うと若駒に近よって、手で軽くたたいたりなでたりしながら、懸命に馬を落着かせているように見えた。そして鞍を締めなおすようなふりをして、すばやくその先の尖った小さな実を鞍の下へつっ込んだ。こうしておけば、ほんの少しでも鞍の上に重みがかかれば、よそ目にはかすり傷も切り傷も残さずに、この馬の癇《かん》のつよい神経をいっそういらだたせることができるわけなのである。
「ほらよし!」と言いながら、サムは満足そうににやりと笑って、目をくるくると動かした。「これでなおったぞ!」
ちょうどこの時、シェルビィ夫人がヴェランダに姿を見せて、彼に向かって手招きをした。そこでサムはうやうやしく近づいていったが、その恰好《かっこう》はまるで聖ジェイムズ宮殿(イギリス宮廷のこと)やワシントン(ホワイト・ハウスのこと)へ空席を求めてご機嫌うかがいに参内《さんだい》しようとしている者と少しも違わぬうやうやしさであった。
「何をこんなにぐずぐずしていたの、サム? 早くするようにとアンディをやったじゃありませんか」
「そんなべらぼうな、奥さま!」とサムは言った。「馬ちゅうものはそう簡単にはつかまらねえもんでございますよ。なにしろ二匹ともずっと南の牧場へ行っちまってて、どの野郎に聞いてもどこへ行っちまったかわからなかったんでごぜえますからね」
「サム、おまえには何度言ったらわかるの、『べらぼう』だの『野郎』だの、そういう言葉づかいはいけないって言ったでしょう? 卑しい言葉ですよ」
「ああそうだ、とんだべらぼうを言っちまった! つい忘れていたもんでね、奥さま! もうこれからは絶対に言いませんよ」
「まあ、サム、おまえそう言う口でまた言ったじゃないの」
「言ったって? そんなべら! いやつまり、――まだ半分しか言いませんですよ」
「よく気をつけなさい、サム」
「ちょっと一息つかせて下せえ、奥さま、いま丁寧に口をききますでね。うんと気をつけてききますですよ」
「じゃ、サム、おまえこれからヘイリィさまのお伴をして、道をご案内したりお手伝いをしたりしておくれ。馬にはよく気をつけるんですよ、サム。いいかい、ジェリィは先週すこしびっこをひいていたのだからね。あまり早く駈けさせないようにしてね」
シェルビィ夫人は最後の言葉を低い声で、しかも力を入れて言った。
「そりゃこのあっしにまかしといて下せえ!」とサムは言って、意味深長に目をくるくると動かした。「どんな野郎だって! おっと! こいつをいっちゃいけなかったんだ!」と気がついた彼が、あわてておかしなほどおおぎょうに口をつぐんだので、さすがの夫人も思わず吹き出してしまった。「はい、奥さま、馬のことはよく気をつけますです!」
「なあ、アンディ」とサムはぶなの木の下の、自分の持場へもどって来ると言った。「あの旦那がもうじきこの馬に乗りに来るが、その時、こいつが暴れ出したっておれはちっとも驚きゃしねえぜ。いいかい、アンディ、馬ってえものはもともとそういうことをするものなんだからな」と言いながらサムは、いかにも意味ありげにアンディの脇腹《わきばら》をつついた。
「ほう!」とアンディは言ったが、すぐにその意味がわかったらしい様子であった。
「そうさ、いいかい、アンディ、奥さまはなるたけ時間をかけさせたいのだ。――そりゃあだれが見たってはっきりしてらあ。だからおれは奥さまのためにちょいと手間どらしてやるんだ。それで、いいかい、おまえはうちの馬を二匹とも放しちまいな、この辺をあっちこっち跳ねまわって、向こうの森の方まで飛んで行っちまえば、あの旦那もそうすぐには発《た》てねえだろうからな」
アンディはにやりと笑った。
「いいかい」とサムは言った。「いいかいアンディ、>ひょっとしてヘイリィ旦那の馬が言うことをきかなくなったり、暴れだしたりするようなことがあったら、おまえとおれとは自分の馬をほっぽり出して旦那を助けるのだぞ、そうすりゃあ随分と旦那のおためになるからな、――ええ、きっとな!」サムとアンディは分別くさい顔をつき合わせていたが、そのうち低い声でげらげら笑いだした。そしてもうおかしくてたまらぬといった様子で、指をぱちぱちはじいたり足をけあげたりした。
ちょうどこの時、ヘイリィがヴェランダに姿を見せた。非常においしいコーヒーを何杯か出されて、だいぶ気が静まった彼は、かなり機嫌をなおしたらしい様子で、笑ったり話をしたりしながら出て来た。サムとアンディは、今でも帽子だと思っている自分たちのだいぶぼろぼろになった棕櫚《しゅろ》の葉帽子を鷲《わし》づかみにすると、繋ぎ柱の所へ飛んでいって、「旦那を助ける」用意をした。
サムの棕櫚の葉帽は、縁《ふち》の所がだめになって、編んであるというのはほんの名ばかりで、もうすっかりほつれてしまっていた。そしてその細長い葉の一本一本がばらばらになって、上向きに立ったりしているので、フィジー諸島の酋長《しゅうちょう》の頭飾りよろしく、燃え上がる自由と反抗の焔とでもいった様子(酋長タコンボウは白人の侵略に強く反抗したが結局一八七二年、島の支配権をイギリスにゆずることになる)を見せていた。アンディのほうのは縁がすっかり取れてしまっていたので、彼はその山だけを器用な手つきでぽんと頭の上にたたき込むと、「これでも帽子はちゃんとかぶってるんだぞ」と言わんばかりに、悦に入った様子で辺りを見まわしていた。
「おい、おめえたち」とヘイリィが言った。「ぐずぐずするんじゃねえぞ。一刻も猶予《ゆうよ》はならねえんだからな」
「あっしのほうなら大丈夫でさ、旦那!」とサムは言いながら手綱《たづな》をヘイリィの手に渡して、鐙《あぶみ》をおさえた。一方アンディは他の二頭の手綱を柱から解いていた。
ヘイリィが鞍に触れたとたん、癇の強い彼の馬は突然ぱっと地面からはね上がった。で主人は数フィートもはねとばされて、柔らかい乾いた芝生の上に這いつくばった。サムは大声でわめきながら手綱めがけて飛びついたが、そのついでに、例の焔のような棕櫚の葉帽で馬の目をこすったので、ますます馬の神経をいらだたせるだけだった。そこで馬は猛烈な勢いでサムをその場に倒した。そして二、三度あざけるように鼻をならすと、勢いよく後足で宙を蹴って、たちまち芝生の向こうへと砂を蹴りながら逃げて行った。そのあとについてビルもジェリィも駈けていったが、それはアンディが約束どおりうまく手綱をはなして、いろいろと恐ろしい叫び声をあげながら駆りたてたからであった。そこでいまやさまざまな混乱の場面が始まった。サムとアンディは走りながら大声で叫んだ、――犬はあちこちで吠えたてた、――そしてマイク、モウズ、マンディ、ファニィその他、屋敷じゅうの小さな黒人たちが、男の子も女の子も一人残らず出て来て、走ったり、手をたたいたり、歓声をあげたり、大声でわめいたりして、あきれかえるほどもの好きな様子で、いつまでも飽かずに騒ぎたてた。
ヘイリィの馬は白い毛並みの、脚《あし》の非常に速い駻馬《かんば》であった。それでこの馬は、いかにも嬉しそうに自分から進んでこの騒ぎに加わろうとしている様子であった。それに、自分の駈けまわることのできる範囲が長さ半マイルにも及ぶ芝生で、そのどちらを向いても奥深い森の中へとゆるやかな傾斜をなしているので、彼は無限の悦びを感じているようであった。そこで彼は、自分をつかまえようとする人間をできるだけ近くまで来させておいては、もう少しで手が届きそうになるところまでくると、さっと身をかわし、鼻をならしながら、いかにもいたずら者らしく逃げ出して、向こうの森の小径《こみち》までも突っ走って行くのであった。サムは、適当な潮時が来るまでは、どの馬もつかまえようなどとは少しも思っていなかった――それで彼の示した努力はまさにこの上なく英雄的であった。戦いのまっ先に立って激戦のさなかにいつも閃《ひらめ》いた獅子心王《クール・ド・リオン》(イギリス王リチャード一世のこと。第三次十字軍の司令官としてめざましい活躍をした)の剣のように、サムのかぶった棕櫚の葉帽は、馬のつかまりそうな危険が少しでもあるような時には必ずその場に現われた。――「そらっ今だ! つかまえろ! そいつをつかむんだ!」と大声をたてながら彼がそこを目がけてまっしぐらに走ってゆくので、人も馬もびっくりしてとたんに四方に逃げ出したのである。
ヘイリィはあちらこちらと駈けまわり、悪たいをついたり、ののしったり、そうかと思うと地だんだをふんだり、さまざまなことをやってのけた。シェルビィ氏はヴェランダからいろいろと指図をしようとするのだが、それは無駄であった。シェルビィ夫人は自分の部屋の窓から笑ったり、不思議がったりしていた、――彼女にはこうした騒ぎの底に何があるのか、うすうす感づかないでもなかったからである。
とうとう十二時近くなってから、サムがジェリィにまたがり、ヘイリィの馬を側に従えて、意気揚々と姿を現わした。馬は汗にぐっしょりぬれて湯気をたててはいたが、目を輝かせ、鼻の孔《あな》を大きくふくらませて、自由を味わった気分がまだすっかり静まらぬ様子を見せていた。
「やっとつかめえましただ!」とサムは得意顔で言った。「もしこのわしがいなかったら、馬はみんなのびちまって使いものにならなくなったかもしれませんぜ、三頭ともね。だがやっとこいつをつかめえましただ!」
「この野郎!」とヘイリィは、少しも機嫌を直さずにどなった。「てめえがいなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ」
「そりゃべらぼうだ、旦那」とサムはいかにも心配そうな口調で言った。「わしは汗が涸《か》れちまうほど駈けて追いまわしたちゅうに!」
「ふん、そうかい!」とヘイリィは言った。「てめえがばかな真似をしやがるから三時間近くもふいにしちまった。さあ出かけるんだ。もうばかはたくさんだぞ」
「え、旦那」とサムは恨めしそうな口調で言った。「旦那はきっとわしらをぶっ殺すつもりだね、馬と一緒に二人とも。わしらはもうへばっちまいそうでさ。それに馬だってみんな汗をかいて湯気を出してるんですぜ。もうこうなったら出発のことは昼飯がすんでから考えたほうがええでがすよ。旦那の馬はブラシでこすってやらにゃいけねえ。ごらんなせえ、こんなに汗でよごれちまって。それにジェリィもびっこをひいてるんでさ。奥さまはこのままわしらをお出しするはずは絶対にねえでがす。大丈夫ですって、旦那、ゆっくりしていたってじきに追いつきまさあね。リジィはちっとも足のつよい女じゃねえでがすから」
シェルビィ夫人は大いに興味をそそられて、ヴェランダからこの話を聞いていたが、今度は自分がその役を果たす番だと心に決めた。そこで彼女は進み出ると、ヘイリィに向かってけがはなかったかと丁重《ていちょう》にたずね、料理がすぐに運ばれてくるからと言って、無理やり彼を食事にとどまらせた。
こうして、結局、ヘイリィはしぶしぶながら客間へ入って行った。その間サムは彼の後姿に向かって目をくるくると動かし、口には出せぬ思いを語っていたが、やがてまじめくさった顔つきで馬を馬小屋の庭へと引いて行った。
「やつを見たか、アンディ? さっきのやつの恰好を?」とサムは、納屋《なや》のかげに自分のからだがすっかりかくれると、さっそくそう言って馬を柱につないだ。「いや、まったく、祈祷会にでも行ったようにおもしろかったな。あいつ、はね回ったり、足を蹴あげたり、おれたちに悪たれ口をたたいたりしてさ。確かにおれはやつの悪たれ口をきいたぜ。かってにほざくがええ、この野郎(と、おれは腹の中で言ってやった)。旦那、いま馬がほしいですかい、それとも自分でつかまえるまで待っていますかい?(って、言ってやっただ)。おお、アンディ、あいつの姿が目の前に見えるようだぜ」そしてサムとアンディは納屋の壁にもたれて心ゆくまで笑った。
「おれが馬をつかまえて連れていった時のあいつのすごい顔を、おれはおめえに見せてやりたかったぜ。まったく、いまにもおれをぶっ殺しそうなけんまくだった。それをおれの方じゃなにくわぬ顔をして神妙に立ってたんだからな」
「そうだ、おいらは見ていたよ」とアンディが言った。「兄貴もなかなかの老巧馬《やりて》だね、サム兄貴?」
「まあ、そうだろうな」とサムは言った。「おめえ二階の窓の所に奥さまがいらしったのを知ってたか? 笑っておいでなすったぜ」
「おいらはきっと駈けまわっていただな、何も見えなかったで」とアンディは言った。
「なあ、おめえ」とサムは、ヘイリィの若駒をまじめくさった顔つきで洗いながら言った。「おれには≪がんさつ≫(「観察」を間違えて発音している)の習慣とでもいうようなものが身についちまってるんだ、アンディ。こりゃあなかなか大切な習慣なんだぜ、アンディ。おめえもこれを養っておくといい、若いうちにな。その後ろの脚をもちあげてくれ、アンディ。それでな、アンディ、この≪がんさつ≫しだいで黒ん坊もいろいろと変わってくるんだ。けさだっておれは風の吹き具合を見ていたろう? 奥さまはお顔にも出さなかったが、どうしてほしいかそのお心のうちをおれは読みとったじゃねえか? これががんさつってえもんなんだ、アンディ。おれはこれを才能と呼んでもいいと思ってるな。才能は人によってさまざまだが、それを養っておきゃあ、大いに役だつってえわけさ」
「でもけさおいらが兄貴のがんさつを助けてやらなかったら、こんなうめえ具合に先のことは見えなかったろうによ」とアンディが言った。
「アンディ」とサムは言った。「おめえは末頼もしい子供だ。そりゃ絶対に間違いねえ。で、おれはおめえを高く買ってるんだぜ、アンディ。だからそのおめえからいろいろ教えられたっておれは少しも恥ずかしいなどとは思っちゃいねえ。おれたちは人の言うことはよく耳を貸さなくちゃいけねえんだ、アンディ、なぜって、どんな利口な人間だって時にゃつまずくこともあるんだからな。さて、アンディ、そろそろお邸へ行ってみよう。きょうはきっと奥さま、とびきり上等の食事を出して下さるだろうぜ」
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第七章 母の闘い
アンクル・トムの丸木小屋から立ち去ってゆくその時のイライザ以上に、この上なく侘《わび》しい寄るべのない人間がこの世の中にいるなどと考えることは不可能である。
夫の苦悩とかずかずの危険、わが子に迫る危険、これらすべてのものが彼女の心の中に交じりあっていた。その上、自分の知っているたった一つの家庭《ホーム》を捨て、敬愛し尊敬する一人の友(シェルビィ夫人のこと)の保護の下を去って、これから先どんな危険に遭遇《そうぐう》するかと思うと彼女の心は更に乱れ、気も遠くなる思いであった。それにまた、彼女は懐しいすべてのものと別れて行かねばならないのだ、――自分の育てられたこの屋敷、自分がその下で遊びたわむれた木々、もっと幸福だったあの頃《ころ》幾夜となく若い夫によりそって歩いた森、――すべてのものが、澄んだ霜の星明かりの中で、彼女に向かって咎めるように語りかけ、こんな楽しい家庭を捨てておまえはいったいどこへ行こうというのかと尋ねているようにさえ思われるのであった。
しかし、そのすべてのものにもまして母親の愛は強かった。それはいまや恐ろしい危険が迫ってきたために狂乱の発作《ほっさ》にまで変わっていた。子供は、もう母親と一緒に並んで歩けるほどの歳《とし》になっていたので、ふだんならばその手をひいてやりさえすればよかった。しかし今では子供を腕から離すと考えただけでもからだが震えおののくのであった。そこで彼女は激しい力でしっかりと子供を胸に抱きしめながら足早に歩をすすめていった。
霜のおりた大地が足の下できしんだ。彼女はその音にさえ身を震わした。木の葉が揺れ、影がゆらめくたびに血が心臓へと逆流して、彼女はいっそう足を早めた。彼女は、自分の中に湧いてきたように思える力を知って内心不思議に思った。子供の重さもまるで羽根のように軽く感じられ、恐怖におののくたびごとに、超自然的な力がますます湧いて出て、自分を先へ先へと運んで行くように思えたからである。そして歩を進めながらも、彼女の青ざめた唇からは天上の友への祈りが、しばしば絶叫となってほとばしり出るのであった――「神さま、お助け下さい! 神さま、わたくしをお救い下さい!」
この物語を読んで下さるお母さん、もしあの残忍な商人によって、あすの朝自分の手からもぎとられていくのがあなたのハリィやあなたのウィリィだとしたら、――もしあなたがその男の姿を見、証書が署名されてその男の手に渡ったということを聞いたら、そして十二時から朝までのわずかな時間に首尾よく逃げのびなければならないとしたら、――あなたにはどれほど早く歩くことができるでしょう? そのわずかな時間にあなたは何マイルの道を歩くことができるでしょうか、あなたの胸に愛児を抱きしめ、――あなたの肩に小さな眠い頭をおき、――あなたの首の周《まわ》りに小さな柔かい両腕を信頼しきって巻きつけているその大切な子供を連れて?
子供は眠っていたのである。最初のうちはもの珍しさと驚きとから大きな目をあけていたのだが、ちょっと息を吐いてもまた声を出しても、そのつど母親からあわてて止められ、おとなしくしていさえすればきっと助けてあげるからと言いきかされて、子供はただ黙って母親の首にかじりついていた。だが、そのうちにだんだんと眠くなってきたので子供はきいた。
「かあちゃん、ぼく起きてなくてもいいんでしょ?」
「いいわよ、坊や。眠たかったらおやすみ」
「でも、かあちゃん、ぼくが眠っても、かあちゃんはぼくをその人に連れて行かせない?」
「行かせませんとも! どうぞ神さまそのようにわたくしをお助け下さい!」と母親は言った。その頬はいっそう青ざめ、大つぶな黒い目はいっそう光を加えた。
「きっとだね、かあちゃん?」
「ええ、きっとよ!」と言う声に母親はわれながらはっとした。それは自分の肉体の内部にあって、しかも自分のものではない一つの魂から出た声のように思われたからである。それで子供は小さな疲れた頭を母親の肩にもたせて、すぐに寝入ってしまったのであった。その温かな腕の感触、首すじにかかる静かな寝息は、どんなに彼女の行動に情熱と気魄《きはく》とを与えたことであろう! 彼女にはまるで、この無心に眠っている子供の、柔かな感触や動きの一つ一つから力が電流のように流れ出て、自分に伝わってくるのではないかと思えるのであった。じつに崇高なものは、肉体に対するこの精神の支配力である。それは、しばらくの間、肉体と神経とを不屈のものとし、筋肉を鋼《はがね》のようにひきしめて、かよわい人たちをも、このように強くすることのできるものなのである。
主人の農園や林や森の境界が、歩くにつれて彼女のかたわらをめまぐるしく過ぎていった。そして見慣れたものを次から次へとあとにして、彼女は足をゆるめもせず、息をもつかずになおも歩きつづけた。こうしてついに夜が赤く明けゆく頃、彼女は、もうあらゆる見慣れたものから何マイルも離れた街道筋に出ていた。
彼女はこれまでしばしば、シェルビィ夫人のお伴をして、オハイオ川からほど遠からぬTという小さな村にある夫人の親類の人々を訪ねたことがあったので、この道はよく知っていた。そこまで行くこと、そしてオハイオ川(この川を境にして南が奴隷州、北が自由州になっていた)を渡ることが、彼女がさしあたって考えた逃亡計画のあらましなのであった。それから先は、ただ神さまのお助けに頼るほかはなかった。
馬や車が街道を往《ゆ》き来しはじめると、興奮状態に特有な、そして一種の霊感とも思えるような考えが彼女の胸にはっと浮かんだ。むやみと急いだり取り乱したりしていては、人目をひいて怪しまれるかもしれないと気がついたのである。そこで彼女は子供をおろし、自分の着ている物や帽子をなおすと、これなら人目にもつくまいと思うくらいの足どりで、できるだけ早目に歩いていった。彼女は小さな包みの中に菓子やりんごを用意してきたので、それを巧みに使って子供の足をはかどらせようとした。自分たちの数ヤードも先へりんごをころがすのである。すると子供は一生懸命にそれを追って駈け出す。このような方法を何度もくりかえして、二人はかなりの道のりを進むことができた。
やがて二人はこんもりと繁った森にさしかかった。その中をきれいな小川がささやくように流れていた。子供が空腹と喉《のど》の渇《かわ》きを訴えるので、彼女は子供と一緒に柵を越えて中に入った。そして道路から見えないように大きな岩の蔭に腰をおろすと、小さな包みの中から朝食を取り出して子供に与えた。子供は母親が食べようともしないのでいぶかり悲しそうな顔をしていたが、そのうちに、両腕を母親の首にまきつけるとその口へ自分の菓子を押しこもうとした。母親は喉にこみあげてくるもので息がとまるかと思われた。
「いいえ、いいのよ、ハリィちゃん! お母さんはね、おまえが安全になるまでは何も食べられないのよ! さあもう行かなくては――どんどんと――川につくまではね!」こうして急いでまた街道に出ると、彼女は再び逸《はや》る心をおさえ、前と同じように平静を装いながら歩きはじめた。
彼女は、自分を個人的に知っている人たちのいる界隈《かいわい》からはもう何マイルも離れた所まで来ていた。たとえだれか顔見知りの人に出会ったとしても、シェルビィ家の人たちの親切はよく知られていたことなので怪しまれるようなことはまずあるまい、まして自分が逃亡者だなどと考える者は一人もいないだろうと、彼女は思った。それにまた、よほど気をつけて見なければ、黒人の血が混っているなどとは思えないほど彼女は色が白かったし、子供も同じように色白だったので、人に怪しまれずに通ることはかなり容易なことであった。
そういう考えから、彼女は正午《ひる》頃、ある小ざっぱりとした農家に立ち寄り、ここで一休みして子供と自分の昼食に何かわけてもらおうとした。というのは、危険が距離とともに減少するにつれて、神経組織のあの超自然的な緊張もゆるんで、疲労と空腹とを一度に感じたからであった。
人のよさそうなその家のおかみさんは、親切そうでもありまた話好きでもあるらしく、話相手のできたことをむしろ喜んでいる様子であった。そして、「ちょっとこの先の友だちのところへ一週間ほど泊りに行くところですの」というイライザの言葉をべつに疑おうともせずすぐに信用した。――イライザは心の中で、これがすべてほんとうのことであってくれたらと思うのであった。
もう一時間もすれば陽が沈もうという頃、彼女はオハイオ川に沿ったT村にたどりついた。からだはくたくたに疲れ、足もずきずき痛んではいたが、気力だけはまだしっかりしていた。彼女がまず第一に目をやったのはオハイオ川であった。それは、ヨルダン川のように、自分と対岸の自由の国カナンとの間に横たわっていた。
春も初めの頃で、その川は水かさを増して激しく流れていた。大きな流氷がその激流の中をあちらこちら重そうに揺れていた。このあたりは、ケンタッキー側の川縁《かわべり》が特殊な形をしていて、地表がぐっと水中に突き出ているために、流氷がいくつもそこに堰《せ》き止められてたまっていた。流氷はその曲がり角を流れる狭い水路の部分にいっぱいつまって、それが互いに重なり合い、あとから流れてくる氷をしばらくの間堰き止めた恰好になっているのである。そのためそれは堰をつくり、巨大な波打つ筏《いかだ》のようになって川いちめんにひろがり、ほとんどケンタッキー側の岸辺にまで達するほどになっていた。
イライザは、一瞬、立ち止まってこの険悪な光景をながめていたが、すぐに、これではいつものように渡し船の出ようはずがないことがわかった。そこで二、三様子をきいてみようと、川岸に建っている小さな宿屋へ入っていった。
宿のおかみは夕食を前にひかえて、いろいろと揚《あ》げものや煮もの料理に忙しかったが、イライザのやさしい訴えるような声に気がつくとフォークを手にしたまま振り返った。
「何かご用?」と彼女は言った。
「渡し船か小舟はありませんか、いますぐB―まで運んでいただけるかしら?」とイライザ。
「そりゃあ、ありませんよ!」と女は言った。「このところ船は休んでるんでございますからね」
イライザの途方にくれ落胆する様子におかみは心を動かされた。で、彼女はけげんな顔つきできいた。
「たぶんあなた、川を渡りたいんですね?――だれか病人でも? とても心配の様子でございますね?」
「子供が危篤なんです」とイライザは言った。「昨夜、初めてそれを知りまして、それできょうかなりの道のりを歩いて来たんです、渡しに間に合うようにと」
「そりゃ、まあ、お気の毒にねえ」とおかみは、自分にも子供があるのか大いに同情しながら言った。「ほんとうに心配でござんしょうね。ソロモン!」と彼女は窓越しに裏手の小さな建物へ声をかけた。すると革の前掛けをしめ、ひどくよごれた手の男がその戸口に姿を見せた。
「ねえ、ソル」と女は言った。「あの人は今夜向こう岸へ樽を積んで行くだろうかのう?」
「できたらやってみようと言ってたぜや」と男は言った。
「いえね、このちっと下手《しもて》に人がいましてね、その人がもし思いきって行くようなら、今夜向こう岸へ荷物を運ぶはずなんですよ。今夜夕飯にここへ来ますから、それまで腰をおろして待ってらしたほうがいいですよ。おやまあ、可愛い子だこと」おかみはそうつけ加えて、子供にお菓子を与えようとした。
しかし子供はもうすっかり疲れきっていたので、泣き出してしまった。
「かわいそうに! この子は長歩きには慣れていませんの。それをわたくしがひどく急がせたものですから」とイライザは言った。
「それじゃあこちらの部屋へ連れてらっしゃいまし」と女は言って、小さな寝室のドアをあけた。そこには気持よさそうなベッドがおいてあった。イライザは疲れた子供をその上に横たえるとぐっすり寝入るまでその子の両手を握っていてやった。彼女には、休息はなかった。追手《おって》のことを考えると、からだの中が燃えあがるように、じっとしてはいられなかったのである。彼女は、自分と自由との間に横たわっているその無気味な渦《うず》巻く川の面《おも》をうらめしそうに見つめていた。
だがわれわれは、ここでしばらく彼女をこのままにして、追手たちのあとをたどることにしよう。
シェルビィ夫人は、すぐに食事の用意ができるからと約束はしたものの、昔からよくあるように約束というものは、それを実行するには他の者の協力が必要だということがすぐにわかった。つまり、ヘイリィの目の前でちゃんと命令を下し、子供の召使いを少なくとも六人はアント・クロウィのところへやったのであるが、この料理人頭はひどく不愛想に鼻をならし、頭を振り上げるだけで、いやに悠然《ゆうぜん》とした仰々《ぎょうぎょう》しい手つきで一つ一つの仕事をつづけていたのである。
どういうわけか、召使いたちの間にも、奥さまは支度が遅れたってべつにお腹立ちにはなるまいという気持がひろくゆきわたっていた。そして不思議なくらい、いろいろな事故が次から次へと起こって、支度はますます遅れるばかりであった。ある者は運悪く肉汁《グレィヴィ》をひっくりかえしてしまう。そこで肉汁は細心の注意と手順とでまた|初めから《ディ・ノゥヴォ》作りなおさなければならなかった。アント・クロウィはいやに几帳面《きちょうめん》に鍋の中をのぞき込んだり、かきまわしたりして、他の者がもう少し急いだらどうだろうなぞと言おうものなら、「生煮えの肉汁を食わして、人を追いかける手伝いなぞするこたあねえ」と、ぶっきらぼうに答えるのであった。ある者は水と一緒にひっくり返って、泉へまた汲みに行かねばならなかった。またある者はバターの容器をひっくり返して騒ぎをますますめんどうにした。その間にも時々この台所へ「ヘイリィの旦那はひどくそわそわしている。もう椅子にじっとすわっておれなくなって窓際へ出てみたり、ヴェランダを歩き回わったりしている」というような知らせがくすくす笑いと一緒に伝えられてきた。
「いい気味だ!」とアント・クロウィは憤然として言った。「今のうちに心を改めねえと、そのうちにそわそわどころか、もっとたいへんな目にあうだ。あの男のご主人さま(「神」のこと)がいまにあいつをお召しになるだろうが、その時あいつはどんな顔をするか見てやるがいい!」
「地獄へ落ちるだべな、きっと」と、ちびのジェイクが言った。
「それがあたりまえだ!」とアント・クロウィは怖ろしい顔をして言った。「あいつはこれまでにもう、何人も、何人もの人たちの胸を引き裂いてきただ、――みんな、よく聞いておくれ!」と彼女は、フォークを両手で握りしめ、それを高く差し上げながら言った。
「ジョージ坊っちゃまが黙示録の中で読んで下さったとおりじゃ、――祭壇の下で叫ぶ霊魂!かかる者への復讐《ふくしゅう》をと主《しゅ》によびかける霊魂!(ヨハネ黙示録、第六章第九節―第十一節参照)――いつかは神さまもその魂の願いをお聞きとどけ下さるだろう――きっと下さるだ!」
アント・クロウィは、台所では大いに尊敬されていたので、みんなは口をぽかんとあけておとなしく聞いていた。もうこの時には料理もすっかり客間へ運ばれて、台所にいる者たちはみんな手があいていたので、彼女を相手に無駄話をしたり、彼女の意見に耳を傾けたりしたのである。
「そんなやつらは永久に地獄の火で焼かれるにきまってらあ、そうだろう?」とアンディが言った。
「おらあそれが見てえな、ほんとうに」と、ちびのジェイクが言った。
「子供たち!」という声にみんなははっとした。アンクル・トムがいつの間にか入って来て、戸口のところに立ってその話をきいていたのである。
「子供たち!」と彼は言った。「おまえたちは自分の言っていることがわからないようだね。永久になどという言葉は恐ろしい言葉なのだよ、子供たち。そんなことを考えるだけでも怖ろしいことだ。どんな人に向かってもそんなことを言うてはいけない」
「おらたち、奴隷商人《ソウル・ドライヴァズ》のほかはだれにもこんなこたあ言やあしねえよ」とアンディが言った。「だれだってあいつらには言わずにいられねえもん、それほどひどいやつらなんだからね」
「人情ってえものがやつらを非難しねえだか?」とアント・クロウィが言った。「やつらは母親の胸から乳飲み児をもぎとって売り飛ばしはしねえだか、母親の着物にしがみついて泣き叫ぶ小さな子供を、――やつらは引きはなして売りはしねえだか? 夫婦の仲でさえ引き裂いてしまうでねえか?」と言ってアント・クロウィは泣き出した。「ええ、やっとその二人に楽な暮らしができるようになった時によう?――それなのにやつらはその間、ほんの少しでも人間らしい気持になっただか、――酒をのみ煙草《たばこ》をすいくさって、すずしい顔をしているでねえか?ああ、悪魔がやつらをぶっ殺さねえのなら、なんのために悪魔なんぞいるだ?」そう言いながらアント・クロウィは格子縞のエプロンに顔を埋め、思いきり激しく泣きはじめた。
「汝《なんじ》らを責むる者たちのために祈れ(マタイ伝、第五章第四十四節、およびルカ伝、第六章第二十八節)とご本に書いてある」とトムは言う。
「やつらのために祈れだと!」とアント・クロウィが言った。「ああ、そりゃあ無理だ! やつらのために祈ることなんかおらにはできねえ」
「できねえのが人情だよ、クロウィ、そして人情というものは強い」とトムは言った。「だが神さまの恩寵《おんちょう》はそれ以上に強いのだ。それに、そんなことをする哀れな人間の魂がどんなに恐ろしい状態にあるかを考えてみるがええ。――おまえは、自分がそんな男のようでないことを神さまに感謝しなければいけないのだよ、クロウィ。わしは、あの哀れな男が負わねばならぬすべての罪過を犯すくらいなら一万遍でも売られたほうがましだ」
「おらもそうだ、ほんとうに」とジェイクが言った。「きっとあとが怖《こわ》いでの、アンディ?」
アンディは肩をすくめ、それもそうだという様子で口笛をならした。
「わしは旦那さまがけさお出かけにならなかったことが嬉しい、お出かけのつもりでいらしたそうだが」とトムは言った。「そんなことをされたら、わしは売られるよりもじっさいつらい。おそらくお出かけになるのが旦那さまにとっては人情かもしれん。だがこのわしにとっては、それは死ぬほどつれえ苦しみだ。なにしろ赤ん坊の頃から旦那さまを知っているのだからのう。だがわしは旦那さまに会えた。それでわしはもう神さまの御心にすべてをおまかせするつもりになったのだ。旦那さまは無理もねえ。あの方のなさったことは正しいのだ。ただ心配なのは、わしが行ってしまったら、なにもかもがめちゃめちゃになりはしねえかということだ。旦那さまは、わしのように、屋敷内のすみずみまで目を光らして、なんでもきちんとしておくようなお方ではない。それにここの連中は、みんな人はいいのだがひどく無頓着ときている。それがわしには気がかりなのだ」
このとき呼鈴がなって、トムは客間へ呼ばれた。
「トム」と彼の主人はやさしい口調で言った。「私はおまえに知っておいてもらいたいのだが、もしこの方のご用がある時におまえがその場にいなかったら、私はこの方に一千ドルの金を支払うという証文を差し上げたのだ。きょうこの方は他の用事でお出かけになるから、おまえは一日自分の好きなようにするがいい。行きたい所があったらどこへでも行っておくがいいよ、おまえ」
「ありがとうございます、旦那さま」とトムは言った。
「だがいいか」と商人が言った。「黒ん坊がよくやる手なんぞ使って旦那をだますんじゃねえぞ。おめえがずらかりでもしたら、おれは千ドルそっくり旦那から巻きあげちまうんだからな。旦那もおれの言うことをききゃあいいのに、おめえたちをばかに信用しちまったもんだ――うなぎみてえにつかめえにくいおめえたちをな!」
「旦那さま」とトムは言った。――そして彼はからだをまっすぐにのばした――「大奥さまがあなたさまをこのわしの腕にお抱かせになりましたのは、わしがちょうど八つの時でごぜえました。あなたさまはまだまる一つにもなってはいらっしゃらねえ頃でごぜえます。『ほら』と大奥さまはおっしゃいました、『トムや、これがおまえの若旦那さまだよ。大事にしておくれ』とおっしゃいました。そこで旦那さま、あなたさまにおたずね申しますが、わしはこれまで一度でも旦那さまへのお約束をたがえたり、旦那さまにそむいたりしたことがあったでごぜえましょうか、特にわしがキリスト教徒になってからこのかた?」
シェルビィ氏はすっかり心を打たれた様子で、その目には涙がにじんでいた。
「いや、おまえ」と彼は言った。「おまえがいつもほんとうのことを口にする男だということは神さまもご存知だ。私だって、できることならけっしておまえを売ったりなぞはしないのだが」
「そしてわたしはキリスト教徒として約束するけれど」とシェルビィ夫人が言った。「なんとかしてお金ができしだい、きっとおまえを買いもどしてあげます。あなた」と彼女はヘイリィに向かって言った。「トムの売り先をよく択んで、そしてわたしに知らせて下さいね」
「ああ、ようがすよ、そんなことなら」と商人は言った。「一年もたちゃあ、また連れて来まさあ。あんまり品物をいためねえようにしてね。その時にゃまたご贔屓《ひいき》に願いやしょう」
「その節はまたお話をして、あなたのお得になるようにするつもりでいます」とシェルビィ夫人は言った。
「もちろん」と商人は言った。「どっちだってあっしにとっちゃ同じこって、喜んで買いもするし喜んで売りもしまさあ。だからいい商売になるんだね。こっちはおまんまが食っていけりゃそれでいいんですよ、ねえ奥さん。人間だれだって欲しいのはおまんまでしょうからね」
シェルビィ夫妻は二人とも、商人のこのなれなれしい無遠慮な言葉を不快に感じ、また蔑《さげす》まれた思いであったが、二人には自分たちの気持を抑えておくことがこの場合絶対に必要だということがわかっていた。この男が救い難いほどに卑しく冷酷であることがわかればわかるほど、イライザと子供がもしかつかまりはしないかとシェルビィ夫人の抱く心配はますます募るばかりであった。そしてもちろんのこと、あらゆる女らしい手を使ってこの男を引きとめておこうという気持がますます強まるのであった。そこで夫人は愛想よくほほえんだり、相槌《あいづち》をうったり、親しげに話をしたりして、相手の気がつかぬうちに時間が経つようにできるかぎりのことをした。
二時になるとサムとアンディが馬を繋ぎ柱のところへ引いて来た。昼前の大あばれのためか馬は見るからに爽《さわ》やかな活気に満ちた様子であった。
サムにとっても昼のご馳走は新しい潤滑油となって、彼は熱狂的な、すぐになんでもお世話いたしますといった様子をみなぎらせて立っていた。そしてヘイリィが近づいてくるのを見ると、彼はアンディに向かって、大げさな恰好で「これでおれもやっと元気が出た」から追跡はきっとうまく成功するぞと得意な様子で話していた。
「おめえらの旦那は、おそらく、犬は飼っちゃいねえだろうな」とヘイリィは馬に乗ろうとして、ちょっと考えながら言った。
「いくらだっておりまさあね」とサムはしたり顔で言った。「ブルーノウってえのがいますがね――こいつはよく吠えますぜ! それからこいつのほかに、あっしら黒ん坊はたいていみんな一匹ずつ飼ってますだ、吠えるのやら吠えねえのやらいろんな種類の小犬をね」
「ふん!」とヘイリィは言った。――そして、そうした犬について何やら口ぎたなく罵っていたが、それを聞くとサムは腹の中でつぶやいた。
「犬に悪たれ口をきいてみたってしょうがねえだろうにね」
「おめえの旦那は犬なぞ飼っちゃいねえだろう(飼ってねえにきまってるんだ)、黒ん坊を追いまわすような犬はな」
なんのためにそんなことを言うのか、サムにはさい前からよくわかっていたのだが、彼はなおもそらとぼけて、まじめくさったしんけんな誠実さを装っていた。
「わしらの犬はどれも鼻がよくききますぜ。訓練をしたこたあねえだが、そういうことにゃあもってこいの犬だと思いますがね。いい犬だから仕込みさえすりゃあ、たいていのことはやれまさあね。おい、ブルーノウ」と彼は言って、重そうな足どりで歩いていた例のニューファウンドランド種の犬に向かって口笛をふいた。するとその犬は騒々しく吠えながらからだを上下に動かして彼らの方へやって来た。
「このばかやろう!」と言ってヘイリィは馬に乗った。「さあ、ぐずぐずしねえで、さっさと乗れ」
サムは言われたとおりにさっさと乗ったが、その言葉どおりのおどけた恰好にアンディはおかしくなって、ついげらげら笑い出してしまった。それがひどくヘイリィの癇にさわったらしく、彼は持っていた鞭《むち》でアンディをなぐりつけた。
「おまえはあきれたやつだな、アンディ」とサムはおそろしくまじめくさった顔をして言った。「これはしんけんな仕事なんだぞ、アンディ。ふざけてなんぞいちゃあいけねえ、そんなことじゃ旦那のお役にはたてねえでねえか」
「まっすぐ川へ出ることにしよう」と、一行がこの屋敷の地境《じざかい》に来た時、ヘイリィはきっぱりと言った。「やつらの手はわかってるんだ、――みんな地下鉄道(逃亡奴隷を助けて北部やカナダへひそかに送る秘密の組織のこと。一八三二年頃奴隷制度に反対する人々によって作られた)へ逃げて行くんだからな」
「なるほど」とサムが言った。「そいつはいい考えだ、ヘイリィの旦那はまさに的のまん中を射ぬいたってえわけだ。ところで、川へ出るには道が二つありますがね、――旧道と新道と、――旦那はどっちの道を行くつもりですかね?」
アンディはこの新しい地理的事実を聞いてびっくりして、それとなくサムに目をやったが、すぐにサムの言葉に口裏をあわせて何度も熱心に同じ言葉をくり返した。
「というのは」とサムは言った。「どうもあっしには、リジィは旧道を通って行ったろうと思えるんですがね、なにしろこっちはめったに人通りもねえから」
ヘイリィはなかなか用心深く、おいそれと人の手にのるような男ではなかったが、こんなふうに問題を出されてみると、はたと当惑した。
「てめえたち二人は、そろいもそろって嘘をつきやがるからなあ!」と彼は、しばらく考えた末、なおも思案顔でそう言った。
ヘイリィの思案にあまる困りぬいたその口調はアンディを大いに喜ばしたようであった。アンディは少し後にさがると、馬から落ちそうになるのもかまわず、烈しくからだをゆすって忍び笑いをした。だが、サムのほうはもうこれ以上の悲しい厳粛な顔はできないといった様子でじっとすましかえっていた。
「もちろん」とサムは言った。「旦那のお好きなようにして下せえ。旦那が新道がいいとお考えなら、そっちへ行きましょうや。――あっしらにとっちゃどっちだって同じことなんだから。だがよく考えてみると、やはり新道のほうがよさそうだね、馬ちがえ(「間違い」のこと)っこなしにな」
「当然あの女《あま》は人通りのねえほうを行くだろうな」とヘイリィは独り言のように言って、サムの言葉なぞ意に介しない様子であった。
「そりゃあわかりませんぜ」とサムは言った。「女なんていうものは奇妙なもんだから。こっちの思うとおりにはけっしてやらねえもんでさ。まあ、たいていの場合、その反対でしょうな。女ってえものは生まれつき反対にできあがってるもんだからね。それでもし旦那がこっちの道と思ったら、別の道を行ったほうがいいことは確かだ。そうすりゃあきっと見つかるからね。ところで、あっしの考えを申しあげりゃあ、リジィはきっと旧道を通って行ったろうと思いますからね、だからあっしらは新道を行ったほうがええってことでしょうな」
こうした深い包括的な女性観を聞いてもヘイリィはいっこう新道の方へ行く気配を見せなかった。彼は決然として、旧道を行くと宣言した。そしてその道はどこから分かれるのかとサムにたずねた。
「もうちょっと先の方でがす」とサムは言いながら、反対側の目でアンディに目くばせをした。それからまじめな顔つきでこうつけ加えた。「だがよく考えてみると、どうもあっしらはそっちの道は行かねえほうがいいと思いますね。あっしゃ一度もそこを通って出たことがねえんです。おっそろしく寂しい所で、道に迷っちまうかもしれねえ、――どこへ行っちまうか、かいもくわからねえでがすからね」
「いやかまわん」とヘイリィは言った。「おれはその道を行く」
「あっ、そうだ。そう言えばあっしゃ、その道は途中の小川まで出ねえうちにすっかり通れなくなっちまったという話を聞いたように思うが、なあ、そうだろう、アンディ?」
アンディははっきりしなかった。彼はただ、その道については「人の話を聞いた」だけで、自分は一度も通り抜けたことがない。つまり厳密にいえばどちらともわからんというのであった。
ヘイリィは、大小さまざまの嘘をそろばんに置いてその中からわずかながらの真実をはじき出すことには慣れていたので、前述の旧道を行くほうが確かだとにらんだ。旧道という言葉は最初サムの口から無意識に出たはずだ、とヘイリィは考えた。それであわてておれに思いとどまらせようとしやがって、あれこれ考えたあげくばかな嘘をつきやがった、こいつらはイライザをつかめえたくねえんだ、とヘイリィは判断したのである。
それゆえ、サムが旧道への分かれ道をさし示すと、ヘイリィは勇みたってそこへ突進した。サムとアンディはそのあとからつづいた。
さて、この道は、実際に、古い道であって、以前はオハイオ川へ通じる街道筋になっていた。しかし新道ができてからはもう何年もの間そのまま見捨てられてしまっていた。馬で一時間ほどの間はまだ道らしい道が残っていたが、それから先はいろいろな農地や柵で行きどまりになっていた。サムはそれをちゃんと知っていた。――それに、この道がずいぶん以前から閉鎖《へいさ》されているので、アンディのような子供はその噂《うわさ》さえも聞いたことがないということまで彼は知っていたのである。それで彼はおとなしく神妙に馬を進めていた。そしてただ時々、「こりゃあ、おっそろしくひでえ、ジェリィの脚がまた悪くならあ」と唸《うな》ったり叫んだりするだけであった。
「おい、てめえによく言っておくがな」とヘイリィが言った。「てめえの腹ん中はわかってるんだぞ。おれにこの道を諦めさせようたって、そうはいかねえんだ。いくらてめえがわあわあ言ったってな。――だから黙ってついて来い!」
「旦那がどうしても行くちゅうならしかたがねえ!」とサムはうちしおれた神妙な様子で言ったが、同時にアンディに向かってしきりと目くばせをしてみせるので、彼はおかしさのあまりもう少しで吹き出すところであった。
サムはしごく元気に、――万事ぬかりなく見張りをするんだと、もっともらしい口をききながら――ある時は遠くの丘の頂きに「女の帽子」が見えたと叫んだり、またある時はアンディに向かって「あの谷間に『リジィ』がいやあしないかな」と声をかけたりしたが、そうした叫び声をあげるのがいつもひどく道の悪い所だったり、岩の多い場所なので、そこで急に馬の脚を早めるのは一行にとって特にむずかしかった。おかげでヘイリィは絶えず激昂《げっこう》の状態におかれていた。
こうしておよそ一時間も馬を進めていたが、一行が急な坂を大騒ぎをしながら下りるとどこかの大きな農家の裏庭へ出てしまった。家の者はみんな畑へ出ているのか、あたりには人影もなかった。しかしこの家の納屋が道のまん中にこれ見よがしに建っているところを見ると、一行のこの方向への進路は明らかに終点に達したことがわかった。
「だから旦那、あっしの言わねえこっちゃねえ」とサムはむっとふくれた何くわぬ顔で言った。「よその旦那が、ここで生まれてここで育ったあっしらよりもこの辺のことをよく知ってるなんて、そう思うのがどだい無理なことだよ」
「この野郎め!」とヘイリィは言った。「てめえは初めから知ってやがったんだろう」
「だから知っているって言ったでねえかね、旦那はそれを信用しなかったくせに? あっしは、この道は行きどまりで、通っては行けねえだろうって旦那に言いましただよ、アンディだって聞いてまさあね」
それはいくら言い争ってもしかたのない事実であった。そこで、この不幸な男はしぶしぶ怒りをこらえなければならなかった。そして三人はそろって回われ右をすると、またもと来た道を新道へとひきかえしていった。
こうしていろいろと手間どったため、一行が例の村へ乗り込んで来たのは、イライザがそこの宿屋で子供を寝かしつけてからおよそ小一時間も経った頃であった。イライザは窓辺に立って反対の方向を見つめていた。と、サムの目がいち早く彼女の姿をとらえた。ヘイリィとアンディとは彼より二ヤードほど遅れていた。この危険な一瞬、サムはわざと自分の帽子を風に吹きとばさせて、大きな、彼独特の叫び声をあげた。とたんにイライザははっと気がついて、すぐに身をひいた。一行はその窓の外を駈け足で通り過ぎて玄関口へとまわっていった。
この一瞬、イライザには一千人もの追手が殺到して来たように思えた。幸い彼女のいる部屋は脇戸《わきど》から川へ出られるようになっていた。彼女は子供を抱き上げると、階段を飛びおりて川へ向かった。そして彼女が土手を駈けおりて姿を消そうとした瞬間、商人はその姿を見つけた。彼は馬から飛びおり、サムとアンディを大声で呼びながら、鹿を追う猟犬のように、彼女のあとを追った。目も眩《くら》むようなその瞬間、彼女の足は宙を駈けているようであった。そしてまたたく間に水際に達した。すぐ背後に追手が迫った。彼女は、必死の人間にのみ神が与える不思議な力に励まされて、一声恐ろしい叫び声をあげると、ぱっと身をおどらせて、岸辺の濁流を跳び越え、その向こうの氷の筏に飛び移った。それは無謀な跳躍であった――気でも狂ったか自暴自棄にでもなった者ででもなければ不可能なことであった。それを見ると、ヘイリィもサムもアンディも思わずあっと叫んで両手をあげた。
彼女の跳び乗った大きな緑色の氷塊は、とたんに彼女の重みで前後にゆれ、めりめりと音をたてたが、彼女は一瞬もそこにじっとしてはいなかった。恐ろしい叫び声をあげながら、必死の力をふりしぼって一つまた一つと氷塊に跳び移った。――転び――跳び起き――滑り――またはね起きて! 靴はぬげ――靴下も破れて――血が彼女の足跡を一つ一つ染めていた。しかし彼女には何も見えなかった。何も感じなかった。そのうちにぼんやりと、夢のように、オハイオ州の岸辺が見えてきた。そして一人の男が自分を土手の上に助け上げていた。
「たいした度胸の女子《おなご》じゃ、どこのお方か知らんが!」とその男が感に打たれたように言った。
イライザは聞き覚えのあるその声にふと顔を上げると、それが、元の主人の屋敷の近くに農園を持っている人であることに気がついた。
「おお、シムズさま!――お救い下さい――どうぞわたくしをお救い下さい――お願いでございます、わたくしを匿《かくま》って下さい!」とイライザは言った。
「やっ、こりゃあどうしたことじゃ?」と男は言った。「おまえさん、シェルビィのうちの女じゃないか!」
「わたくしの子供を!――この子を!――旦那さまがお売りになったのです! その新しい主人があそこにおります」と言って彼女はケンタッキー側の岸辺を指さした。「おお、シムズさま、あなたさまにも小さな坊やが一人おありでしょう!」
「ああ、いるよ」と言いながら男は、乱暴な手つきではあったが、しかし親切げに、彼女を高い土手の上へ引きあげた。「それにしてもおまえさんはまったく勇ましい女だ。わしは何ごとによらず勇ましいことが好きでな」
土手の上まで登りきると、男は一息入れた。
「わしは喜んでおまえさんのために何とかしてやりたいのだが」と彼は言った。「なにしろおまえさんを匿ってやる場所がないのだ。せいぜいわしにできることは、おまえさんにあそこへ行ってごらんと言ってやることだけだよ」と言って彼は、村の本通りから離れて一軒だけ建っている大きな白い家を指さした。「あそこへ行ってごらん。みんな親切な人たちだ。少しも危険なことはない。おまえさんを助けてくれるだろう――こういうことをよくやっている人たちだからな」
「神さまのお恵みがあなたさまの上にありますように!」とイライザは心から礼を述べた。
「なんの、なんの、お礼など言わんでもいい」と男は言った。「わしのしたことはなんでもないことじゃ」
「それから、あの、どうかこのことはけっしてだれにもおっしゃらないで下さいまし!」
「ばかを言いなさい! 人をだれだと思っている? もちろんしゃべりなどせん」と男は言った。「さあ、いつものおまえさんらしくしっかりと、気を落着けてお行き。おまえさんは自分で自由をかちとったのだ。だからそりゃあおまえさんのものだ。わしがくちばしをはさむことではない」
女は子供を胸にだきしめ、しっかりとした足どりで急いでその場を立ち去っていった。男は立ったままその後姿を見送った。
「シェルビィのやつ、おそらくこのわしを近所づきあいの義理も知らぬ男と思うだろうが、しかしほかにどうすりゃあいいんだ? かりに、うちの女どもの中でだれかが同じはめになって、それをあいつが捕えたとしても、わしは喜んで同じ仕打ちをしてもらおう。どうもわしには人間がへとへとになって喘《あえ》いでいたり、追ってくる犬をふりはらおうとして争っている姿を黙って見ていることはできんでな。ましてこのわしが他人さまのために人を追いかけたり、つかまえたりしてやる理由なぞ少しもありゃあせんわい」
と、この一見貧しそうな異教徒くさいケンタッキー人は言ったが、彼は奴隷の憲法上の取扱いには通じてはいなかったので、それゆえにはからずもクリスチャンらしい態度で行動することができたのである。もし彼の地位が高く、もっと事情に通じていたとしたら、彼にはこうした行動をとることは許されなかったであろう。
ヘイリィはただもう唖然《あぜん》としてその場の光景をながめていた。そしてイライザの姿が対岸の土手の上から消えてしまうと、ようやく茫然としたもの問いたげな顔をサムとアンディの方へ向けた。
「いや、まったくえれえことをやりおったわい」とサムが言った。
「あの女《あま》のからだの中にゃ悪魔が巣食っていやがるんだ、きっと!」とヘイリィは言った。「まるで山猫《やまねこ》みてえに跳んでいきやがった!」
「だが旦那」とサムは頭をかきながら言った。「あんな芸当をわしらにやれったって、そいつはごめんこうむりますぜ。あっしゃそれほどに、はしっこくはねえだからね、まったくの話!」と言ってサムはしゃがれ声でくつくつと笑った。
「この野郎笑いやがったな!」と商人はどなった。
「べらぼうな、旦那、そんなこと言ったって無理でさ」とサムは、もう長い間おさえていた心の中の喜びを一時に爆発させて言った。「なにしろあの女《こ》があんまりおかしな恰好なんでね、跳んだり、はねたり――それに氷がめりめりいうし――おまけにあの女《こ》のたてる音――どすん! ぱちゃん! ざんぶり! さあっ! 神さま! なんて言いながらまったくたいしたもんだ!」と言ってサムとアンディはそろって笑い出したが、そのうちとうとう涙が頬を伝って流れた。
「そんなに笑いたけりゃ、もっと笑わしてやる!」と商人は言いながら二人の頭をめがけて前後左右に鞭をふりはじめた。
二人はひょいとそれをかわして、大声をあげながら土手を駈け登った。そしてヘイリィが上がってくる前にもう馬に乗っていた。
「じゃあ旦那、おさきに!」とサムはまじめくさった顔で言った。「奥さまがジェリィのことをきっと心配してなさるだろうと思いますんでね。ヘイリィの旦那ももうわしらに用はねえでしょう。今夜わしらの馬にリジィの渡ったこの橋を渡らせようたって、そりゃあ奥さまがお許しにならねえでしょうからね」そう言いながら彼はアンディの脇腹をふざけた手つきで一つ突くと、彼を連れて全速力で駈けて行った。そして二人の笑い声がかすかに風にのって聞こえてきた。
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第八章 イライザの逃亡
イライザが死にものぐるいで川を渡って逃げたのは、ちょうど夕闇《ゆうやみ》のせまるころであった。川面《かわも》から静かに立ちのぼる灰色の夕霧が彼女をすっぽり包むと、土手を行く彼女の姿はやがてその中に消えてしまった。そしてうねり狂う水の流れと、のたうつ氷の塊とは、彼女と追手との間に越え難い障壁をなしていた。それゆえヘイリィは、馬の歩みも遅くしぶしぶ例の小さな宿屋へとひき返して来て、そこで今後の方策を考えようとした。宿のおかみは小さな特別室《パーラー》に彼を案内した。床には粗末な絨毯《じゅうたん》が敷いてあり、いやにてかてか光る黒いテーブル・クロスのかかった食卓と、寄せ集めの品らしいひょろひょろした背の高い木の椅子《いす》が数脚置いてあった。炉棚《ろだな》には極彩色《ごくさいしき》の石膏《せっこう》の像がいくつかあって、その下の炉床にはくすぶった火がはなはだ心細い煙を立てていた。その煖炉のわきに堅木で作った長椅子が不安定に置かれていたが、ヘイリィはそこに腰をおろすと人間の希望や幸福のはかなさについてしばし沈思黙考するのであった。
「いったいおれはあの餓鬼にどんな悪いことをしたっていうんだ」と彼は独り言を言った。「こんな具合に、浣熊《あらいぐま》が木に追いつめられたみてえに、とんでもねえはめになりやがって?」そしてヘイリィは、口から出まかせの呪いの言葉を念仏でも唱えるように己《おの》が身に浴せかけて鬱憤《うっぷん》をはらしていた。しかしそれは彼にとってはしごくもっとものことではあろうが、良俗に反することなので、ここでは省略することにしよう。
彼はある男の大きな調子はずれの声を聞いて、おやっと思った。声の様子では、男は戸口で馬をおりたらしい。彼は急いで窓の所へ行った。
「しめた! これがまさに世間でいう天佑《てんゆう》ってえやつだ」とヘイリィは言った。「ありゃあトム・ロウカァにちげえねえ」
ヘイリィは急いで部屋を出た。酒場のすみの酒台《バー》のところに、丈は優に六フィートもある肩幅の広いそして筋骨のたくましい屈強そうな男が立っていた。男は野牛の皮を上衣に着こんでいたが、毛のほうを外側に出しているのでそれは彼に毛むくじゃらの獰猛《どうもう》な外観を与えて、その人相にじつによく似合っていた。頭や顔のどの器官、どの造作を見ても、もうこれ以上にきわだてることはとてもできそうにないというほどに烈しい残忍性《ざんにんせい》と兇暴性《きょうぼうせい》とを示していた。じっさい、もし読者の皆さんに、ブルドッグが人間の姿になって帽子をかぶり、服を着て歩きまわる姿が想像できたら、この男のからだつきがほぼどんな恰好《かっこう》でどんな感じを人に抱かせるかおおよその見当がつくことと思う。彼には旅の連れらしい男が一人いたが、その男は多くの点で彼とはいい対照をなしていた。つまり背が低くて痩《や》せぎすで、身のこなしは柔かくて猫のようで、そのうえ鋭い黒い目には獲物《えもの》をねらい、隙《すき》をうかがうような表情があって、容貌《ようぼう》全体がその目と同じように鋭い感じを与えていた。細くて長い鼻はぐっと突き出ていて、なんにでも鼻先を突っこんでその真相をかぎ出そうとするような恰好をしていた。艶《つや》のある薄くて黒い髪の毛も、しきりと前へ突き出ていて、この男の身のこなしや作りにはすべて冷やかな用心深い鋭さが表われていた。大男は大きなタンブラーに生《き》のウィスキーを半分ほどつぐと、一息にそれを飲みほした。小男のほうは爪先で背のびをして、頭を一方の端から他方の端へと動かしながら、並んでいるいろいろな酒の壜《びん》に鼻先をむけて慎重にひくひくやっていたが、やがて細い震えるような声で、四辺《あたり》をひどくはばかるようにして薄荷酒《ミント・ジューレップ》を注文した。それがグラスに注《つ》がれると、彼はそれを手に持って、まさにわが意を得たと言わんばかりの鋭い、悦に入った顔つきでしばらくながめていたが、やがてちびりちびりと賢明なすすり方でそれを飲みはじめた。
「ええっ、まったく、こんな幸運がおれさまに来ようたあ思ってなかったね。おい、ロウカァ、景気はどうだい?」とヘイリィは歩み寄りながら声をかけると、大男に向かって手を差し出した。
「やっ、悪魔野郎!」と丁寧なご挨拶である。「なんだっておめえ、こんな所に来てやがるんだ、ヘイリィ?」
マークスという名の例の詮索好きな小男は、すぐに酒を飲むのをやめて頭を前につき出し、この新しい仲間を抜け目なく観察した。それはちょうど猫が、風に吹かれて転がっていく落葉か、あるいは何か追いかけるのに手ごろなものをじっと見つめている時のような恰好であった。
「いやあ、トム、こりゃまったく運がよかった。実はおれは今、えらく困ってるんだ。で、ぜひおめえに手を貸してもれえてえと思ってな」
「なんだって? ふん! どうせそんなこったろうさ!」と言って愛想のいい相手は鼻を鳴らした。「おめえが尻尾《しっぽ》を振ってやってくるときゃあ、きまって何か頼む時だ。それで人の上前《うわまえ》をはねやがるんだからな。で、いってえどうしたっていうんだ?」
「こちらさんは連れのようだが?」とヘイリィは探るような目つきでマークスを見ながら言った。「相棒かな?」
「ああ、そうだそうだ。おい、マークス! ここにいるのあナチズでおれと一緒にやっていた男だ」
「どうかよろしく」とマークスは、大がらすの鉤爪《かぎづめ》のような長くて細い手を差し出しながら言った。「ヘイリィさん、でしたな?」
「さよう、どうぞよろしく」とヘイリィは言った。「ところでご両人、こうして運よく三人が会えたんだからおれの部屋でひとつご馳走しようと思うんだが。おい浣熊《おやじ》」と酒台《バー》の男に向かって言った。「お湯と砂糖と葉巻と、それからほんとうのやつをたっぷり持って来てくれ、これから大いにやるんだからな」
するとまたたく間にろうそくが点《とも》され、消えかかっていた炉の火があかあかとかきたてられて、三人の客が囲んだ食卓の上には、いま注文したあの友情を温めるのに必要な品々がすっかり並べられた。
ヘイリィは自分の窮状を哀れっぽい調子で話しはじめた。ロウカァはむっつりと黙ったままいかにも無愛想な様子でその話に耳を傾けた。マークスは心配そうな様子で、自分の口にあうようなポンチをせかせかと落着かぬ手つきで作りながら、時々顔をあげては、そのとがった鼻と顎《あご》とをヘイリィの顔に突き刺すのかと思われるほどに寄せて、初めから終わりまでひどく熱心にその話をきいていた。そしてその話の結末には特に興味をそそられたらしく、声こそ出さなかったが、肩や脇腹をゆすぶって、内心おかしくてたまらぬといった様子で薄い唇を前に突き出した。
「それで、あんたはすっかり裏をかかれたってえわけだね?」と彼は言った。「ひっ! ひっ! ひっ! それにしても、またあざやかにしてやられたもんですな」
「どうもこの餓鬼の売り買いってえやつは、めんどうが多くってやりきれねえ」とヘイリィは陰気な顔をして言った。
「それにしても、子供のことを気にかけないような新種の女が創《つく》り出せたとしたら」とマークスが言った。「それこそ、あたしの知る限りじゃあ、おそらく近代における最大の発明だろうと思うんですがね」そういいながら、マークスはこの自分の冗談を静かな忍び笑いで引き立たせた。
「まったくそのとおりだ」とヘイリィが言った。「どうもおれにゃあよく飲みこめねえんだが、餓鬼なんてえものは、やつらにとったってえらく厄介な代物《しろもの》だ。だからいねえほうがさっぱりするだろうと思うんだが、実はそうじゃあねえ。せわのやける餓鬼だとか、ろくでもねえ餓鬼ほどやつらは離したがらねえんだからね」
「そりゃあね、ヘイリィさん」とマークスは言った。「ちょっとそのお湯をこっちへ回わしてくれませんか。そのとおりですよ。まったくあんたの言うとおりで、あたしも前からそう思っていたし、今でもそう思ってるんですよ。いえね、あたしがまだこの商売をやっていた時だが、一度娘を買ったんでさ、――ちょいとした、いけそうな女でね、なかなか気のきくやつだったが、――これがひどくからだの悪い餓鬼を連れてやがるんですよ。せむしだかなんだかでね。それであたしゃ、ただなら試しに育ててみようという男があったんで、そいつにやっちまったんでさ。――ねえあんた、まさかその女が騒ぎだそうなんて思ってもいなかったからね、――ところが、まあ、その騒ぎったらなかったね。いや、じっさい、あの様子を見ているとやつは、子供がからだが悪くて気むずかしやで手がかかるからこそよけいに可愛んだといってるように思えたね。芝居やなんかじゃねえんで、――じっさい大きな声で泣いたり、その辺をうろつき回わったりするんでさ、まるで自分の知っている者がみんないなくなっちまったみてえな恰好でね。じっさい考えるのもばかばかしい話なんだが、まったく、女なんてやつほど気の知れねえものはありませんや」
「いやまったく、おれも同じような目にあったね」とヘイリィは言った。「去年の夏だったが、レッド・リヴァ(ミシシッピー川の一大支流で、ナチズの南方約四十五マイルの地点でこの川と合流する)の方で娘を一人買ったのさ。子供《こぶ》つきだったが、その坊主もなかなかのきりょうでね、目も人なみにぱっちりしてるんだ。だがよく見たら、まったくの明き盲ときてやがるじゃねえか。驚いたね――からきし何も見えねんだ。それで、おれは、こんな坊主は売っ払っちまって、あとで知らん顔をしていりゃあ、でえ丈夫だろうと思って、うめえ具合にウィスキー一樽《ひとたる》ととりかえちまったのさ。ところが、いざその坊主を女から取り上げようてえだんになったら、あの女《あま》め、まるで虎《とら》みてえになりやがった。なにしろその頃はまだ鎖を使ってなかったんで、野郎たちは一人もつないじゃおかなかったんだ。だもんだからあの女《あま》はいい気になりやがって、猫みてえに棉梱《わたごり》の上に跳び上がる、船員の持っていたナイフをひったくる、そりゃあもう、しばらくの間、あっちへ逃げたりこっちへ跳んだりしてあばれてやがったが、そのうち、いくらやっても無駄だとわかると、くるりと向きを変えて、その餓鬼と一緒にまっ逆《さか》さまに飛び込みやがった、川の中へね。――どぶん、といったっきり浮き上がってこねえのさ」
「ふん!」とおさえきれぬほど胸の悪い気持で、さっきからこの二人の話を聞いていたトム・ロウカァが言った。――「だらしのねえやつらだ、おめえたち二人は! おれんとこの女どもを見ねえ、そんな騒ぎを起こすやつは一人もいねえから、ほんとうだぜ!」
「ほんとうかい! いったいどうやって防ぐんだ?」とマークスがからだをのり出してたずねた。
「防ぐ? ばかな。おれは女を買った時、もしそいつに売りとばしちまわなきゃあならねえような餓鬼がくっついていたら、その女の前へ歩いて行って鼻っ先へこの拳骨を突き出してやるんだ。そしてこう言ってやるんだ、『おい、いいか、一言でも文句を言いやがったら、これでてめえの面《つら》あたたきつぶしてやるからな。おれはてめえらの文句なんぞ聞くような男じゃあねえんだ――文句のもの字でも言ってみやがれ』それでやつらに向かっておれはこう言ってやるのさ、『この餓鬼はおれのもんだぞ、てめえのもんじゃねえ。だからてめえの知ったこっちゃねえんだ。おれは買い手のつきしだいこいつを売っちまうんだから、わあわあ言って騒ぐんじゃあねえぞ、いいか。さもねえと、てめえが生まれてこなけりゃあよかったと思うくれえひでえ目にあわしてやるからな』ってな。で、やつらは、最初おれに買われた時からそれが冗談じゃあねえってえことを飲みこむってえわけさ。おれはこうやって、みんな魚みてえにおとなしくさせちまうんだ。もし泣き声でもあげるようなやつがいやがったら、そのときゃあ、――」と言ってロウカァ氏は拳骨でテーブルをどかんとたたいたが、それはそのあとの言葉がなんであるかを十分説明するものであった。
「それがあんたの言うおどしってえやつだね」と言いながらマークスはヘイリィの脇腹を突ついて、また低い声で笑った。「トムってえ男はたいしたもんですな? ひっ! ひっ! ひっ! ねえ、トム、黒ん坊てえものは頭の鈍いやつばかりだが、それでもあんたの言うこたあきっとわかるね。今の言葉を疑るようなこたあ絶対にねえだろうからね、トム。おまえさんは悪魔でねえにしても、悪魔とは双児の仲だもんな、トム。まったくの話が!」
トムはこの賛辞を彼に似つかわしい謙譲な態度で受けとると、ジョン・バニヤンの言う「その犬の本性」(「天路歴程」第二部二十九)にふさわしい愛想のいい(もちろん作者は、ここでは反語的な意味で語っている)顔つきをしはじめた。
さいぜんからむやみやたらと酒を飲んでいたヘイリィは、この時自分の良心が目に見えて高まりそして広がっていくような気がしだした。――もっともこうした現象は、まじめな内省的な性質の紳士たちが酒に酔った時にはたいして珍しいものではないのであるが。
「だが、なあトム」と彼は言った。「おれがいつも言っていたように、おめえってえやつはまったくむご過ぎるぞ。ええ、トム。このことについちゃあ、おめえとおれとはナチズでよく言い争ったもんだが、その時だっておれはおめえにちゃんとなっとくさせてやったじゃねえか、やつらを大事に扱ってやりゃあ、かえっておれたちはしこたま儲けることができるんだし、この世で気楽な暮らしもできるんだってえことをな。それだけじゃあねえ、そうしておきゃあ、これから先どんなに悪くなって、この世におさらばってえことになった時にでも、最後にゃあ、あの御国とかいう所へ行ける率が高くなるんだってえことだってな」
「何いってやんでえ!」とトムは言った。「何遍きかせやがるんだ?――くだらねえへらず口をたたきやがって、こっちゃあ反吐《へど》が出そうじゃねえか。――もう胃袋の辺がちょいとばかりむかむかしてきやがった」と言って、トムはグラスに半分ほど入っていた生《き》のブランデーをぐっと飲みほした。
「いいかい」とヘイリィは言うと、椅子に背をもたせかけて、いかめしい様子で言葉をつづけた。「じゃあここで言っておくが、おれはな、この商売をやる以上はまず第一にだれにも負けねえくれえにうんと儲けてやろうと、いつも一生懸命になってきたつもりだ。だが、世の中はな、商売だけがすべてじゃあねえ。金だけがすべてじゃあねえんだ。おれたちはだれだって魂ってえものをもっているんだ。もうおれはだれが聞いていようとかまやしねえ、――おれがこんな話をすりゃあ、だらしのねえ男に見えるかもしれねえが、――だから言っちまったほうがいいんだ。おれは信仰のありがてえことを知っている。で、いつか暮らしが楽になったら自分の魂や何かをとっくりと考えてみるつもりでいるんだ。だからほんとうにやむをえねえ時は別として、もうこれ以上悪いことはおれはしたかあねんだ。――そんなことをしたってちっとも得にゃあならねえだろうってえ気がするんだ」
「とっくり魂のことを考えるだと!」とトムは蔑むようにその言葉をくりかえした。「そんな魂がてめえにあるかどうか、でけえ目をあけて探してみろってんだ、――骨折損のくたびれ儲けってえところだろうぜ。悪魔がてめえを絹篩《きぬぶるい》でふるったって、そんなもなあ見つかりゃあしねえや」
「なんだ、トム、てめえいやにからむじゃねえか」とヘイリィが言った。「せっかく人がてめえのためを思って言ってやってるんだから、素直に受けとったらいいじゃねえか」
「そんなおためごかしはよしてくれ」とトムはつっけんどんに言った。「おれはたいていの話は辛抱するが、てめえのその抹香《まっこう》臭い話だけはごめんだ。――そいつを聞くとおれは我慢がならねんだ。第一、おれとてめえとの間にどんなちげえがあるってんだ? てめえのほうがちょいとばかり親切だとか、ちょいとばかり情があるってえわけでもあるめえ、――悪魔の目をごまかして自分だけは無事に助かりてえなんて、そいつは見えすいた、まったく犬みてえにけちな根性だぜ。どうだ図星だろう? それにてめえの言うその『信仰をしだす』なんてえのも、考えてみりゃあずいぶんと虫のいい話じゃねえか。――これまでさんざん悪魔に借金をしておきやがって、いざ返済期限が来たらこっそり夜逃げをしようてえ了簡だ! 何いってやんでえ!」
「まあ、まあ、ご両人、これじゃあ商売の話もできませんや」とマークスが言った。「物の見方も人によっていろいろですからな、ヘイリィさんも確かにいい方で、あんたはあんたなりの良心をもっておいでだ。またトムはトムでおまえさんのやり方もある。それにまたそれはたいへんに結構なやり方だよ、トム。だがここで喧嘩したって、ねえそうでしょう、なんのたしにもならねえ。ここいらで商売の話に入ろうじゃありやせんか。それで、ヘイリィさん、なんですかい?――その女ってえのをあっしらにつかめえてもらいたいってえわけですかい?」
「女のほうはおれにゃあ関係はねえんでさ、――やつはシェルビィのものなんでね。こっちは坊主だけでいいんですよ。あんな猿を買っちまってばかなことをしたもんだ!」
「だいたいおめえは初めからばかなのさ!」とトムはつっけんどんに言った。
「さあ、さあ、ロウカァ、もう喧嘩はよそうじゃあねえか」とマークスが唇をなめながら言った。「ええ、せっかくヘイリィさんが、おれたちにいい仕事をくれるって言ってるんだからよ。ちょいとの間、黙っていねえな、こういう話はおれのほうが得手《えて》なんだから。で、ヘイリィさん、その女ってえのは、いってえどんな様子です? どんな素性《すじょう》ですかい?」
「そりゃあ! 色が白くってきりょうがよくって――育ちもいいんでさ。シェルビィに八百や千両払ったってまだ儲かるってえ代物だね」
「色が白くてきりょうがいい――そのうえ育ちもいい!」と言ったマークスの鋭い目と鼻と口とが山気《やまけ》で活気をおびていた。「そらみねえ、ロウカァ、うめえ儲け口じゃねえか。こいつぁおれたちで仕事ができるぜ、――つかめえるほうをな。坊主は、もちろん、ヘイリィさんに渡す、――その代わり女はおれたちがオーリアンズへ連れていって市場に出す。こいつはうめえ話じゃねえか?」
この話の間、大きな重い口をなかばあけて聞いていたトムは、このとき突然、まるで大きな犬が肉の片《きれ》をぱくりとやった時のように口を閉じて、それからゆっくりとその考えを噛みしめようとしている様子であった。
「なにしろ」とマークスはパンチをかきまわしながらヘイリィに言った。「なにしろ、判事のほうなら川沿いのどこへ行ったってちゃんと渡りがついてますからな、あっしらの仕事はどんなつまらねえもんでも、うまくかたづけてくれるんでさ。トムは殴り倒したりなんかするほうにまわってね。あっしのほうはりゅうとした形《なり》をして――靴もぴかぴかに光らして――何もかも一流品で飾りたてて、証言の始まる頃に入って行くんですよ。ここでお見せしたいですな」とマークスは職業的な誇りに顔を輝かせながら言った。「あっしの化けっぷりをね。日によってあたしゃ、ニューオーリアンズのトゥイッケム氏になったり、また七百人も黒ん坊を使っているパール・リヴァー(ミシシッピー州を流れてメキシコ湾に注ぐ。河口上流一一六マイルからはルイジアナ州との州境をなしている)の農園から出て来たばかりの男になったり、また時には、ヘンリィ・クレイ(一七七七年〜一八五二年、政治家。ヴァージニヤ州に生まれ、後ケンタッキー州に移る。一八二一年の「ミズーリ協定」を成立させて以来「妥協の政治家」として知られ、「一八五〇年の妥協」(逃亡奴隷法)をも成立させた。作者ストウは、ここで暗にそれを皮肉っている)とか、ケンタック(ケンタッキー州のこと)の民主党の親分とかの遠縁にあたる者だなんてふれこんだりしてね。なにしろ人にゃあ得手不得手ってえものがあるからね。トムは、殴り合いとか取っくみ合いてえことになるとめっぽう強いんだが、嘘をつくことになるとからっきしだらしがねえんですよ、このトムってえ男はね。――なにしろ嘘が自然に出てこねんだからね。そこへいくとあっしは、もしどんなことにでも、なんにでも誓言ができて、このあっし以上に大まじめでどんな場合だろうとどんなしぐさだろうとやってのけるやつがいたら、おめにかかりてえくらいのもんでさあ。まったくの話! あっしならきっと、判事たちが今よりももっとやかましいことを言うようになったって、結構うまいことくぐり抜けてみせますな。あっしゃ時々、判事なんてものはもっとやかましいほうがいいと思っているんでさ。そうすりゃあもっと風味がきいて、――ずっとおもしろくなるからね」
トム・ロウカァは、頭もからだも働きのにぶい男のように見えたが、この時その大きな握りこぶしをテーブルの上に振りおろしてマークスの話をさえぎった。その激しさはテーブルに乗っていたものをみんながちゃがちゃいわせたほどであった。「よかろう!」と彼は言った。
「おいおい、トム、グラスをみんなこわすにゃああたらねえぜ!」とマークスが言った。「その拳骨はいざってえ時までとっておきねえな」
「だがご両人、おれもその利益の分け前はもらえるんだろうね?」とヘイリィが言った。
「坊主をつかめえてもらうだけじゃ不足だってえのか?」とトムが言った。「どうしろってんだい?」
「いやなに」とヘイリィは言った。「この仕事をおまえさんたちにやるとすりゃあ、相当の儲けになるんだから、――経費《かかり》は別として、まあ利益の一割ってえとこはもらいたいね」
「やい」とロウカァは言って、とほうもない悪態をつくと、大きな拳でテーブルをたたいた。「おれがてめえを知らねえとでも思っているのか、ダン・ヘイリィ? おれはてめえなんかにごまかされやあしねえぞ! マークスとおれとがこうして奴隷狩りの商売をはじめたのは、てめえのようなお方さんがたにサーヴィスをして無料《ただ》で働くためだとでも思ってやがるのか? てんでお門《かど》違いだぜ! その女はおれたちがそっくりもらっておくから、てめえはつべこべ言うんじゃねえ。さもねえと、いいか、坊主も一緒に巻きあげちまうからな、――どうだ文句があるか? こりゃあてめえのほうから獲物を教えたんだ。てめえが撃《う》とうがおれたちが撃とうが、そりゃあかってだろうぜ。てめえにしろ、シェルビィにしろおれたちのあとを追って来たけりゃあ、去年山うずらのいた所を捜してみな。うずらが出ようとおれたちが出ようと、そりゃあ、そちらさまのおなぐさみってところさ」
「じゃあ、まあ、そりゃあそういうふうにしよう」とヘイリィは恐れをなして言った。「この仕事にゃあ坊主だけをつかめえてもらおう。――おめえはいつもおれとはきれいな取引きをしていたからな、トム、それに約束はきちんと守っていたしな」
「そのとおりだ」とトムは言った。「おれはてめえのようにめそめそ御託をならべるような真似はしねえ。悪魔と取引きをする時だって二枚舌は使わねえんだ。一度口に出したらおれはやるんだ、必ずやってみせるんだからな。――そのこたあ、てめえも知っているはずだ、なあダン・ヘイリィ」
「そうとも、そうとも、――そのとおりだ、とおれもいま言ったじゃねえか、トム」とヘイリィは言った。「で、その坊主を一週間以内におめえのつごうのいい場所でおれに引渡してくれさえすりゃあ、それでおれのほうは文句はねえ」
「ところがこっちにゃあ、大ありさ」とトムが言った。「おめえとナチズで一緒に仕事をしていた時に、おれはてめえの手口をおぼえたんだ、ヘイリィ。おれはおめえのおかげで、うなぎをつかめえたらどうやって握るかってえことをおぼえたんだよ。さあ、前金で五十両そっくり出してもらおうじゃねえか。さもなきゃあ、この坊主は渡せねえぜ。おれはてめえってえやつをよく知ってるんだからな」
「おい、おい、千両から千六百両もまるまる儲かる仕事を手に入れときながら、おい、トム、それじゃおめえ、あんまり強欲じゃあねえか」とヘイリィは言った。
「そうさ、おれたちゃあ向こう五週間も仕事の段取りがついてるんだ、――みんなちゃんとできるようにな。それをおれたちが放ったらかして、てめえの餓鬼を捜しまわってみねえ、おまけにその女がとうとうつかまらなかったら、――女ってえやつはいつも、やけにつかめえにくいもんだ、――そのときゃあ、いったいどうしてくれるんだ? おめえ、一文でもおれたちに払ってくれるかい――ええ? 払やあしねえだろう――へん! さあ、さあ、五十両ここへそろえて出しねえ。この仕事をやってみて、もし儲かったら、そのときゃあ五十両は返してやらあ。儲からなけりゃあ、こりゃあ骨折りの駄賃だ、――これなら話はわかるだろう、なあ、マークス?」
「そうとも、そうとも」とマークスは宥《なだ》めすかすような口調で言った。「それはつまり依頼料にすぎんというところですな、――ひっ! ひっ! ひっ!――あっしらは弁護士ですからな。とにかく万事機嫌よくやりましょうや。――穏やかにね。それで、トムは、あんたのつごうのいい所へその坊主を連れて行きますぜ、なあそうだろう、トム?」
「おれは餓鬼をつかめえたら、シンシナティ(オハイオ州にある町。オハイオ川に臨む。三人はその上流にいるわけである)へ連れていって、船着場のベルチャア婆さんのところへ預けておくぜ」とロウカァが言った。
マークスはポケットから脂じみた紙入れを出していた。そして中から長い紙片を取り出すと、その上に鋭い黒い視線をじっと注ぎながら書いてあるものを小声で読みはじめた。≪バーンズ家――シェルビィ郡――男子ジム、この者と引換えに三百ドル提供、生死問わず。
エドワァズ家――ディックおよびルウシィ――夫婦もの、六百ドル。下女ポリィおよび子供二人――女、六百ドル提供。その首にてもよし≫
「いやね、今こっちの仕事を当たってみて、あんたのやつにすぐとりかかれるかどうか調べてるんでさ。ロウカァ」と彼はちょっと口をつぐんでからつづけた。「こいつらのほうはアダムズとスプリンガァに追わせなくちゃあならねえぜ。なにしろ引受けてからだいぶ日が経ってるからな」
「やつらはえらく吹っかけやがるぜ」とトムが言った。
「そのほうはおれがなんとかしよう。やつらはこの仕事にゃあまだ日が浅いんだから安く引受けてもいいはずだ」とマークスはなおも紙片を読みながら言った。「こっちの三つは簡単だぜ、みんな射ち殺しちまうか、射ち殺しましたと誓言すりゃあ、それでいいんだから。これならやつらもそう高くは吹っかけられめえ。ほかの仕事は」と彼は紙片をたたみながら言った。「少しぐらい延ばしたって大丈夫だろう。それで、一つ詳しく話を聞こうじゃありませんか。ええ、ヘイリィさん、あんたはその女が岸に上がったのを見たんですね?」
「そりゃあもう、――この目ではっきりとね」
「で、だれかが手を貸して女を土手の上にあげたってえのか?」とロウカァが言った。
「ああ、そうなんだ」
「じゃあおそらく」とマークスが言った。「どこかへ匿《かくま》われてやがるぜ。だがどこへ、そいつが問題だ。トム、おまえどう思う?」
「こいつは是が非でも今夜のうちに川を渡らねえといけねえ」とトムは言った。
「だが舟がねえぜ」とマークスが言った。「氷もやけに流れていやがるしなあ、トム。危かあねえかな?」
「そりゃわからねえさ、――だがやらなくちゃあしようがねえ」とトムはきっぱりと言った。
「こいつぁ驚いた」とマークスは落着かぬ様子で言った。「それにもうそろそろ――おやっ」と言いながら彼は窓の所へ歩いていった。「外は狼《おおかみ》の口みてえにまっ暗だぜ、おまけに、トム――」
「つまり、おめえは怖いってんだろう、マークス。だがしようがねえ、――おめえも一緒に行かなきゃあならねんだ。こんな所で一日二日ぐずぐずしていてみろ、こっちが発たねえうちに、女は地下鉄でサンダスキィ(オハイオ州北部エリィ湖に面した町)かどっかへ運ばれちまうんだぜ」
「いや、とんでもねえ。おれはちっとも怖くはねえよ」とマークスは言った。「ただ――」
「ただなんだ?」とトムは言った。
「つまりその、舟のことさ。一艘もないんだぜ」
「さっきここの女将《おかみ》が言ってたが、今晩出るのがあるそうだ。だれだかがそいつで川を渡るってえ話だ。一《いち》か八《ばち》かとにかくその男にくっついて行くんだ」とトムは言った。
「おまえさんたちゃあ、犬のいいのをもってるんだろうな」とヘイリィが言った。
「とびぬけていいやつをね」とマークスが言った。「だが今は役にはたたないね。その女の持ち物かなんか、臭いを嗅がせるものがなくっちゃあ」
「ところが、あるのさ」とヘイリィはしたり顔で言った。「ほら、あいつめあわてて逃げていきやがったんで、このショールをベッドの上に忘れていったんだ。帽子もおいていきやがった」
「そいつぁ、うめえ」とロウカァが言った。「こっちへ出しねえ」
「だが不意に跳びかかったら、犬は女を傷ものにしちまうかもしれねえな」とヘイリィが言った。
「それもそうだ」とマークスが言った。「いつかもモゥビール(アラバマ州、モゥビール湾内にある港町)である男を半裂きにしちまったことがあったからな。こっちは引き離す間もなかった」
「な、だからきりょうで売ろうっていう女にゃあ、そいつはまずいや」とヘイリィは言った。
「なるほどね」とマークスが言った。「それに、だれかに匿われたとすると、犬も役にはたたねえな。北部の州じゃやつらは車で運ばれて行っちまうから犬を使ったところでしようがねえ、足跡を嗅ぐわけにはいかねえんだからね。犬が役にたつのは南の農園《プランテイション》ぐれえのものさ、そこならいくら黒ん坊がずらかったって、自分の足で逃げなきゃあならねえし、だれも手をかしてくれるものはいねえんだからなあ」
「おい」と酒台《バー》へ何か聞きに行っていたロウカァがもどって来て言った。「例の男が舟をもって来たそうだぜ。だから、マークス――」
と言われた紳士は立去らねばならぬこの心地《ここち》よい部屋を恨めしそうにながめていたが、やがてしぶしぶ腰を上げた。それからなお二言三言《ふたことみこと》なにやら取決めをしたあとでヘイリィは、見るからに不承不承の様子で、五十ドルをトムの手に渡した。こうして三人の紳士はその夜別れたのである。
教養もありキリスト教徒でもある読者の方々の中で、もしもだれか、こうした場面で紹介される彼らの社会に反感を抱く方があるならば、そうした偏見はそろそろ捨ててしまわれたほうがいい。なぜなら、奴隷狩りという商売はいまや合法的でしかも愛国的な職業としての肩書きをさえもとうとしている世の中なのである。これでミシシッピー川から太平洋にいたるまでの広大な地域がすべて肉体と魂を商う一大市場となり、この十九世紀の激しい西部への移動の波にのって奴隷がどんどんと送りこまれるようなことになれば、奴隷商人、奴隷狩り人はそのうちにわが国の貴族階級の仲間にもはいりかねないからである。
こうした光景が川岸の宿屋で展開していた間に、例のサムとアンディとは喜び勇んで帰りの道を急いでいた。
サムはもうこれ以上の上機嫌にはなれないといった様子で、ありったけの奇妙な笑声や叫び声をはりあげ、からだ全体をいろいろとおかしな恰好に動かしたりくねらしたりして喜んでいた。時には後ろ向きにすわって顔を馬の尻の方へ向けたり、脇を向いたり、それからまた、えいっとばかりに向きを変えて、正面を向いたり、かと思うと急に真顔になって、アンディが笑ったりばかな真似をしたりするのを偉そうな口ぶりでしかってみせたりした。そしてまた、彼は自分の脇腹を両手でたたきながら急に大きな声をたててげらげらと笑い出すので、鬱蒼《うっそう》とした静かな森も二人が通ると鳴りひびくほどであった。しかしこうしてわいわい騒ぎながらも彼は手綱さばきも巧みに絶えず馬を全速力で駈けさせ、十時と十一時の間にはもう馬の蹄《ひずめ》はヴェランダのはずれの砂利道《じゃりみち》の上に響いた。シェルビィ夫人が飛ぶようにして手摺《てすり》の所へやって来た。
「サム、おまえかい? みんなは?」
「ヘイリィの旦那は宿屋で休んでますだあ。ひどく疲れたらしいもんでね、奥さま」
「で、イライザは、サム?」
「それが、ヨルダンの川を渡っちめえましたんですよ。あの娘《こ》はもう、人の言う、カナンの地におりますだ」
「まあ、サム、いったいそれはどういう意味なの?」さては死んでしまったのかと、シェルビィ夫人は、息をのみ気も遠くなる思いで尋ねた。
「つまり、奥さま、神さまちゅうものはご自分の子供たちをお守り下せえますだね。リジィは川を渡ってオハイオ州へ逃げていきましただが、そりゃあもう、まるで神さまが二頭立ての火の車にあの娘を乗せて、渡してやったんじゃあねえかと思えるくらいにみごとでごぜえました」
サムの信心は夫人の前に出るといつも異常に強くなった。それで彼は聖書の中の文句や比喩をさかんに引きだすのである。
「ここへ上がっておいで、サム」と夫人の後からヴェランダに出て来たシェルビィ氏が言った。「そして奥さまに詳しくお話してくれ。おや、おや、エミリィ」と彼は夫人のからだに腕をまわしながら言った。「おまえ、冷たくなってひどく震えているね。あまり気を使いすぎるからだよ」
「気を使いすぎるですって! わたくし女ではございませんの、――母親ではございませんの? あのかわいそうな娘《こ》のことで、わたくしたち二人とも神さまに責任がありはしないでしょうか? 神さま! どうぞこの罪によってわたくしどもをお咎め下さいませんように」
「なんの罪だね、エミリィ? だって私たちはせざるをえないことをしたまでじゃないか」
「でも、ひどく気が咎めるのです」とシェルビィ夫人は言った。「それを理屈で拭い去ろうなんて、わたくしにはできません」
「ほら、アンディ、ぐずぐずするんじゃねえぞ、この黒ん坊め!」とサムがヴェランダの下でどなった。「とっとと馬を納屋に連れてきな。おめえには旦那のお呼びになったのが聞こえねえのか?」それからまもなくサムが棕櫚《しゅろ》の葉帽を手にして客間の入口に姿をみせた。
「さあ、サム、いったいどういうことになったのか詳しく話しておくれ」とシェルビィ氏が言った。「イライザは今どこにいるのだ、もしおまえが知っているのなら?」
「へえ、旦那さま、あっしはあの娘が流氷の上を跳んでいくのをこの目ではっきりと見たんです。おっそろしくみごとな跳び方でね、あれがほんとうの奇蹟ちゅうもんでしょうね。それからだれかがあの娘をオハイオ側の土手へ助けあげるのが見えたんでがすが、そのうち四辺《あたり》がうす暗くなってとうとう見えなくなってしめえました」
「サム、それはどうも眉唾《まゆつば》もののようだな、――その奇蹟というのは。流氷の上を跳んで行くなんて、そう簡単にできることではないぞ」とシェルビィは言った。
「簡単にですと! 神さまのお助けがなかったらだれにも絶対にできることじゃごぜえません。なにしろ、それが」とサムは言った。「実はこうでごぜえますからな。ヘイリィの旦那と、あっしと、アンディと三人があの川岸の小さな宿屋のところまで来た時、あっしはみんなより少し前にいたんでがす、――(ぜひともリジィをつかまえてえと思っていたもんで、はやる気持をどうしてもおさえることができなかったんでごぜえますよ)――で、宿屋の窓んところを通ろうとすると、あの娘がいたんでがす。だれにだってすぐ目につくような所にね。おまけにあとの二人はすぐ後ろからやって来る。そこであっしは、この帽子を頭から飛ばして、死人だってとび起きるぐれえの大きな声でわめいたんでがす。もちろんリジィも気がついて、ひょいと身をかくす。とたんにヘイリィの旦那がそこを通りすぎる。それからでごぜえますよ、旦那さま、あの娘は脇戸から逃げだして、土手をおりて行きましただ。――そいつをヘイリィの旦那が見つけて大声をあげた。で、旦那とあっしとアンディは三人であとを追いかけた。あの娘は川岸についた。だが岸には川の水が十フィートばかりの幅で流れていた。そしてその先には氷が大きな島みたいになっていて、軋《きし》んだり、上下に揺れたりしていた。あっしらはすぐあとに迫ったんで、こいつはもう、てっきり旦那につかまっちまうと思いましただ、――ところがあの娘は、今までに聞いたこともねえような叫び声をあげたかと思うと、ぱっと、その流れを跳び越して向こうの氷の上に乗っかったんでがす。そして叫んだり跳んだりしながらどんどん向こうへ行っちまう、――氷はめりっ! ぐゎらっ! めりめり! ぱちゃん! と音をたてましたでがす。それをあの娘はまるで鹿みてえに跳んでいきましただ! そりゃあもう、あの跳び方はただごとじゃあねえ、べらぼうなもんでがす」
シェルビィ夫人はサムが話している間、まったく口もきけず、心配のあまりまっさおな顔をしていた。
「まあよかった、死んだのではなかったのね!」と彼女は言った。「でも、あのかわいそうな娘《こ》は今どこにいるの?」
「神さまがお護り下せえます」とサムはいかにも信心深い顔つきで目をくりくりと動かしながら言った。「今も申し上げましたように、これは奥さまが日頃わしらにお教え下せえますあの神さまの思し召しってえものにちがいごぜえません。神さまはいろんな仕方でご自分のお心をお示し下せえます。現に、きょうだってこのあっしがいなかったら、あの娘は十二遍もつかまっていたでしょうからね。第一けさ、あの馬をおっ放して昼の食事どき近くまで追いかけさせたのはこのあっしじゃあごぜえませんでしたか? それに今日午後あっしがヘイリィの旦那に五マイル近くも道草をくわせなかったら、旦那は浣熊《あらいぐま》を追いかける犬みてえに、すぐにリジィに追いついちまったでしょうからね。これもみんな神さまの思し召しでごぜえますよ」
「そういう思し召しはごく控え目にしてもらわんと困るね、サム君。この屋敷では紳士方に対してそういう真似は絶対に許さんのだから」とシェルビィ氏は、こういう事情の下で、できるかぎりの厳しさを見せて言った。
しかし黒人に向かって怒ったふりをして見せても、子供の場合と同じように、その効果は何らないものである。黒人も子供も、こちらがどんなにうまく見せかけようとも、本能的にその真相を見抜いてしまうからである。したがって叱られたサムが今、神妙にしょげかえったふうを装い、申し訳なさそうに口をへの字にまげて立ってはいたものの、心の中では落胆など少しもしてはいなかったのである。
「まったく旦那さまのおっしゃるとおりでがす、――まったく。あっしが間違っておりました、――そりゃあもうはっきりしておりますだ。それにもちろん旦那さまや奥さまがこんなことをおすすめになるはずがねえ。そのことはあっしにもよくわかっているんでがすが、あっしのような哀れな黒ん坊は、時々間違ったことが無性にやってみたくなるんでごぜえますよ。そんな時にはみんなが大騒ぎをして、あのヘイリィの旦那みてえな目にあうんでがす。それにしてもあの旦那はこれっぽっちも紳士じゃあごぜえませんですよ。あっしのような育ちの人間ならだれにだってちゃんとわかりますだ」
「それじゃあ、サム」とシェルビィ夫人が言った。「おまえも自分の過《あやま》ちには気づいているようだから、もう退ってもいいよ。そしてアント・クロウィに言ってお昼に残ったコールド・ハムでも出しておもらい。おまえもアンディもさぞお腹がすいただろうからね」
「奥さま、それはどうもありがとうさんでごぜえます」と言ってサムはぴょこりと頭を下げると、その場を立ち去っていった。
すでに述べたことからも明らかなように、このサム君はもし彼が政治家だったとしたら、きっとすばらしい地位につくことができたであろうような素質をもっていた。――つまり目の前に現われた機会は何ごとによらず、すべて特に自分自身の賞賛と栄光とに役だつように利用しうる才能をもっていたのである。それで彼は努めて敬虔《けいけん》な態度と謙譲な態度とで主人夫妻を十分に満足させる、と彼はそう信じていたのであるが、こんどは棕櫚の葉帽を与太ったかっこうで阿弥陀《あみだ》にかぶり、アント・クロウィの領地をさして歩きながら、台所で大いに吹いてやろうと考えていた。
「よし、みんなに一席ぶってやるぞ」とサムは独り言を言った。「いい機会だからな。見てろよ、べらべらっとやって、やつらをあっと言わしてやるからな!」
ここで一言断わっておかねばならぬことは、サムが特別楽しみにしているものの一つに、主人のお伴をしてあらゆる種類の政治的集会に出かけてゆくということがあった。彼は集会に行くと柵にのったり、高い木の枝に腰かけたりして、みるからに楽しそうな様子で、じっと弁士を見つめているのである。そしてそのうち、同じように主人の伴をしてやって来た他の仲間連中の立っているなかへ下りてきて、身振り手振りもよろしくおどけた様子でそれを真似て見せては彼らを啓発したり喜ばしたりした。しかもそれを彼はしごくおおまじめで、しかつめらしくやるのである。その彼を取巻く聴《き》き手はたいてい彼と同じ黒人であったが、そのまたぐるりを大勢の白人が取巻くことも珍しくはなかった。そしてそういう白人が笑ったり、ウィンクしたりしながら耳を傾けるので、サムは内心大いに得意であった。じじつ、サムは雄弁こそ自分の天職だと考え、それを宣伝する機会を見のがすようなことはけっしてなかった。
ところで、サムとクロウィとの間には、だいぶ以前から、根強い反目というか、あるいはむしろはっきりとしたよそよそしさといったようなものがあった。しかしサムは糧食部に貯えられているある物が自分の作戦(「演説」のこと)にとって必要にして欠くべからざるものであると考えていたので、きょうのところは、絶対に妥協的に出なければいけないと心に決めた。というのは「奥さまの命令」が忠実に実行されることは疑いのないことではあったが、しかもなお彼は、精神的な協力(作者はここで「酒」の意味にもひっかけている)を求めて大いに利益を得なければならぬと考えていたからである。そこでアント・クロウィの前に現われた時の彼は、痛々しいほど疲れはて、もう諦めきった様子で、迫害された仲間を救うために自分はどのくらい難儀をしたかわからぬといわぬばかりの様子であった。――そしてこの身心の疲れを癒すために、必要なものがあったら何なりと言ってアント・クロウィに出してもらうよう奥さまから言われて来た、と事実を大げさに伝えた。――そしてこのようにして彼は、この調理部およびそれに関連するすべての事柄の権利と至上権は彼女にあるのだということを率直に認めてやったのである。
事はうまく運んだ。アント・クロウィは、貧しく単純で善良な人間が選挙運動に奔走する政治家の甘言に欺されるよりももっと簡単に、サム君のこの腰の低い態度にひっかかってしまった。それゆえ、彼が仮にあの放蕩息子《ほうとうむすこ》(ルカ伝、十五章十一節―三十二節)だったとしてもこれほど母親らしい愛情にあふれた扱いをうけて面くらうようなことはなかったであろう。そしてまもなく彼は大きな錫《すず》の皿の前にうきうきとすてきな気分ですわっている自分の姿に気がついた。皿の中には二、三日前の食卓に出たものをみんな入れた|ごった煮料理《オーラ・ポドリーダ》が盛ってあった。風味のよいハムの小片、黄色に輝くコーン・ケーキの塊、あらゆる数字を飾りにあしらったパイの切片、鶏の手羽肉、砂嚢《さのう》、骨付きの脚肉などあらゆるものが色どりも鮮かに混り合っていた。サムは、見渡す限りわが天下といわぬばかりの様子で、悦に入って例の棕櫚の葉帽を横ちょにかぶり、アンディを自分の右手に侍《はべ》らせてすわっていた。
台所にはサムの仲間の者たちが一人残らず集まってきていっぱいになっていた。彼らはその日の勲功の結末やいかんと、あちこちの丸木小屋から急いで駆けつけて来ていたのである。いまやサムの栄光の時が訪れた。この日の物語は、その効果を高めるために必要と思われるあらゆる種類の修飾と粉飾とを交じえてくりかえし語られた。というのもサムは、当世流行の|素人文士たち《ディレタンティ》と同様、物語が自分の手を経たためにその鍍金《めっき》が少しはがれるなぞということはけっして許さぬ男であったからである。話の合い間には、どっという笑い声が起こった。それをきくと、床《ゆか》の上にかたまって寝そべったり部屋の隅に腰をすえたりしていた子供たちが、またいっせいに笑い出した。しかしその歓声と笑い声の中にあってもサムは不動の威厳を保っていて、ただ時々目の玉をぐりぐり動かしたり、聴衆に向かっていろいろとえもいわれぬおどけた眼差《まなざ》しをなげたりすることはあっても、そのもったいぶった演説の調子を下げるようなことはなかった。
「かくして、わが同胞諸君」とサムは勢いよく、七面鳥の脚を差し上げながら言った。「かくして、私が諸君らを、――そうです諸君のことごとくを護らんがために何を行なってきたか、いまやおわかりでありましょう。わが同胞の一人を捕えんとすることは、われわれすべての者を捕えんとすることに等しいのであります。根本原理《プリンシプルズ》が同じだからであります、――それは明瞭なことであります。そしてもしあの奴隷業者が一人でもやって来て、わが同胞のだれかを追いかけ嗅ぎまわるようなことがあるとするならば、その時こそ私は彼の前に立ちふさがるのであります。この私こそ彼が対決しなければならぬ者だからであります――親愛なる諸君、私こそ諸君のすべてが頼ることのできる者だからであります。――私は諸君の権利のために立ち上がります。――最後の息の止まる時まで私はそれを護り抜く所存であります!」
「へえ、だってサム、兄貴はついけさがたおいらに言ったでねえか、あの旦那を助けてリジィをつかめえるんだちゅうてよ。どうも兄貴の話はつじつまがあわねえように思えるだがなあ」とアンディが言った。
「いいか、アンディ」とサムはいやに偉そうな口ぶりで言った。「自分の知らんことをべらべらしゃべってはいかん。アンディ、おまえのような子供たちは悪気があって言うわけではないのだろうが、人間の行動の大原理《プリンシプルズ》をコラシテイトしろとおまえたちに期待するのがそもそも無理な話なのだ」
アンディはこのコラシテイトなぞというむずかしい言葉(実は、これはサムの造語である。選挙演説などで質問された時よく弁士が使う手をサムが真似て相手を煙にまくのである)にことのほか閉口した様子であった。そして、その場に居合わせた比較的若い連中の大部分もそれでこの問題のけりはついたと思っているようであった。しかしサムはなおもつづけた。
「そいつは良心というものなんだ、アンディ。おれはリジィを追いかけようと思った時ほんとうに旦那さまはその気でいるんだとおれは思い込んでいた。だが奥さまがそれには反対だとわかった時、そこにまた一つ良心が出て来たんだ、――なにしろ奥さまの側についていりゃあ、おれたちはいつも得をするからな――それでだ、おれはどっちにも節操を守ろうと思って、良心にもそむかず、主義《プリンシプルズ》にもそむかねえことにしたのさ。そうだ主義にもだ」とサムは鶏の頸《くび》を威勢よく放り出しながら言った――「もし人間が節操を忘れちまったら、主義なんかなんのたしにもならねえからな、ええそうだろう? ほらアンディ、その骨をおまえにやるぜ、――まだいくらか肉がついてらあ」
サムの聴衆は口をあけて彼の弁舌に酔いしれていたので、彼はつづけざるをえなかった。
「同胞の黒ん坊諸君、この節操という問題でありますが」とサムは、これから深遠な問題に入っていくのだといわんばかりの口ぶりで言った。「この節操ということはほとんどの人があまりはっきりとは考えていない問題なのであります。諸君にもおわかりのように、ある者があることに一日賛成して、その次の日には反対するならば、人は言うでありましょう(言うのがしごく当然であります)、あいつは節操のない男だと。――そのコーン・ケーキを少しとってくれ、アンディ。しかしこの問題をよく考えてみましょう。紳士淑女諸君、ここで私が卑近な例をとってお話することをお許し願いたい。さて! いま私が乾草の山の上に登ろうとする。で、私は梯子《はしご》をこちら側に立てかける。だがうまく登れない。――こうした場合、私がそこからそれ以上登ろうとしないで梯子をその反対側に立てかけたからといって、私は節操のない男でありましょうか? 私の梯子がどちら側に立っておりましても私の登りたいという気持には変わりがないのであります。これでおわかりでしょう、諸君?」
「おまえさんの気が変わらなかったのは今度ぐらいのものさ、ほんとによ!」とアント・クロウィがつぶやいた。彼女はそろそろまた御し難くなってきた。その夜の陽気な騒ぎも彼女にとってはなんとなくあの聖書の中のたとえ――「曹達《ソーダ》のうえに酢を注ぐ」(箴言、第二十五章第二十節。ただし「曹達」を「傷」と訳している聖書もある)ように感じられてきたからである。
「いや、ほんとうであります!」サムは夕食と栄光とに満足しながら立ちあがると最後の一席を弁じだした。「わが同胞の市民ならびに淑女諸君、私は主義をもっております、――それをもっていることを誇りにしております、――主義はかかる時代にとって、またいつの時代にとっても役得《パークウィズイット》(「欠くことのできない」(プリーレクウィズイット)の誤用)ものであります。私は主義をもっております、そしてその主義をあくまで守ります、――私が主義と考えるものはいかなるものにも身を捧げます、――そのために火あぶりの刑を受けても私はいといません、――喜んで火刑柱《はしら》へと歩いていきます、そしてこう言います。私は、私の主義のため、私の国のため、社会の全利益のために私の最後の血を流しにここへ来たのだと」
「そうかい」とアント・クロウィが言った。「それじゃあ、今夜のうちに寝に帰ってみんなを朝まで起こしておかないこともおまえさんの主義の一つにしてもらいたいね。さあ、若い者は、みんな引っぱたかれたくなかったら早くおやすみを言って寝ちまうがええぞ」
「黒ん坊諸君!」サムは優しく棕櫚の葉帽を振りながら言った。「私は諸君に祝福をおくる。さあ寝に行きたまえ、そしていい子になりたまえ」
かくして、一同はこの感動的な祝福をうけて、解散した。
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第九章 この章では上院議員もやはり人間であるということがわかる
赤々ともえる煖炉の光りが居心地のよい居間の敷物や絨毯《じゅうたん》を照らし、また紅茶|茶碗《ぢゃわん》やよく磨いてある紅茶わかしの腹にあたってきらきらと光り輝いていた。上院議員のバード氏は、長靴《ながぐつ》を脱いで新しいみるからにりっぱなスリッパーに履《は》きかえようとしているところであった。それは彼が議会のための出張で不在の間に彼の妻が作っておいたものである。バード夫人は、歓喜そのものといった様子で、テーブルに茶道具を並べていたが、時おりその手を休めては、大勢のはしゃぎまわる子供たちへ小言を言ったりしていた。子供たちが、ノアの洪水以来たえず世の母親たちを驚かせてきたあのあらゆる種類の言いようのないふざけ方やいたずらで沸きたっていたからである。
「トム、ドアの握りをおはなしなさい。――いい子ですからね! メアリィ! メアリィ! 猫のしっぽを引っ張っちゃだめよ、ニャー子ちゃんがかわいそうでしょ! ジム、あんたはそんなテーブルの上にあがったりして、いけませんよ、――いいえ、いけません!――ねえあなた、私たちみんなほんとうにびっくりしましたわ、あなたが急に今夜お帰りになったんですもの!」と彼女は、やっと夫に話しかける隙を見つけだすとそう言った。
「ああ、そうだろうね。私も急いで帰って、あとは家で少しゆっくりしたいと思ったもんだからね。なにしろ死ぬほど疲れてしまったよ。それにどうも頭痛がしてね!」
バード夫人は半開きになっている戸棚の中の樟脳《しょうのう》の瓶にちらりと視線を投げた。そしてそれを取りに行こうとする気配を見せたので夫はそれを遮《さえぎ》った。
「いや、いいんだよ、メアリィ、ほんとうはいらないんだ! 君の入れてくれるおいしい熱いお茶を飲んで、こうしてゆっくり寛《くつろ》いでいさえすればそれで十分だ。いや、どうも骨の折れる仕事だよ、この議会の仕事というやつはね!」
そう言って上院議員はほほえんだが、その様子から見ると、どうも自分が国家のために犠牲になっていると考えることをむしろ喜んでいるかのようであった。
「それで」と彼の妻は、お茶の支度がいくらか閑《ひま》になると言った。「上院では皆さん、今どんなことをなさっていらっしゃいますの?」
さて、この優しい小柄なバード夫人が議会《ハウス》で行なわれていることについて頭を悩ますなぞということは非常に珍しいことであった。というのも、よく考えてみれば、彼女自身、自分の家庭《ハウス》のことでいろいろと気を配らねばならぬことがいくらでもあったからである。そこでバード氏はびっくりして目を見張りながら言った。
「いやたいして重要な問題はないんだがね」
「そうですか。でもこちらの方へ逃げて来るあのかわいそうな黒人の人たちに、食べ物や飲み物をやったりしてはいけないなぞという法案を、皆さんが通過させようとしているというのはほんとうですの? なにかそのような法律について皆さんが討議なさっていらっしゃるということを、私、聞きましたけれど、キリスト教国の議会がそんな法案を通過させるなんてとても考えられませんわ!」
「おや、メアリィ、君は急に政治家になったようだね」
「まあ、何をおっしゃいます! 私、ふだんでしたら、あなた方の政治にはこれっぱしも興味はございません。でもこの法律ばかりはほんとうに残酷で、キリスト教徒にふさわしくないものだと思いますの。ねえ、あなた、そんな法案なぞ通過しはしなかったのでしょうね」
「それが通過して、ケンタッキー州から逃げて来る奴隷を救助してはならんということになったんだよ、君。例のむちゃな奴隷即時廃止論者《アボリショニスツ》がこのことであまり揉《も》むもんだから、ケンタッキーの議員連中が非常に激昂してしまったのさ。その激昂を鎮めるのにわがオハイオ州としてもぜひなんとかしなくてはならんということになった、またそうすることこそキリスト教徒にふさわしい、親切なことだと思えるようになったんでね」
「で、その法律はどんな内容なんですの? まさかあのかわいそうな人たちに一夜の宿を与えることまで禁じているわけではないでしょうね、そしてその人たちにおいしい食べ物や着古しの二、三枚もやって、そっと逃してやることも?」「いや、禁じられているのだよ、君。そんなことをしたら教唆幇助《きょうさほうじょ》の罪になるんだからね」(一八五〇年九月十八日に制定されたこの法律には「…逃亡者を救助し、または救助せんと試みる者、…あるいは直接間接、逃亡を幇助し、…あるいは逃亡者をかくまう者は、…一千ドル以下の罰金、および六か月以下の禁錮に処する」とある)
バード夫人は内気な、はにかみ屋の小柄な女性で、身の丈は四フィートばかり、優しい青い目に桃の花びらのような顔色をしていた。そしてこの世で一番優しい、一番美しい声の持主であった。――その勇気といったら、それほど大きくもない雄の七面鳥がちょっと声を立てただけでも、彼女はすぐに逃げだしてしまうということであったし、ずんぐりとした番犬が、それもたいして気の荒くないものが、歯をちょっとむいただけで、彼女は縮みあがってしまうほどであった。彼女にとっては、夫と子供たちだけが自分の支配する全世界であったが、それも命令や議論によってではなく懇願や勧誘によって支配していた。その彼女を振るい立たせることのできるものは、たった一つだけあった。しかもそうしたことの原因も、彼女のまれに見る優しい情深い性質をもととして生まれ出るものなのであった。――つまり、残忍性というものは、それがいかなる形のものであっても、常に彼女を激昂させたのである。それは日頃のあの優しい彼女の性質を考えると、なおさらに驚くべき不可解なことであった。ふだんは世のあらゆる母親の中でも最も甘い、よく言うことをきいてくれる母親であったが、それでも子供たちは、母親からかつて科せられたことのある非常に烈しい懲罰のことを思い出すと、母親を畏敬しないではいられなかった。それは近所の悪童たちと一緒になって、身を防ぐことも知らぬ小猫に石を投げつけているところを見つけられた時のことである。
「ぼくねえ」とビル少年はよくこう言った。「ぼくねえ、あの時びっくりしちゃった。だってお母さん気違いみたいにぼくに向かって来たんだもの。それからぼく、鞭《むち》でぶたれてご飯も食べさせてもらえないで、すぐに寝室に放り込まれてしまった。それでやっとぼく、なぜそんなことになったのかわかった。そしたらドアの外でお母さんが泣いているのが聞こえて、ぼく、鞭でぶたれた時よりももっと悲しくなっちゃった。それでねえ」と彼は言うのである。「ぼくたち、それからはもう一度も小猫に石なんかぶつけたことないんだよ!」
で、この時、バード夫人は頬を紅潮させて、さっと立ち上がると、ふだんの容貌《ようぼう》とはまったくうって変わった、決然とした態度で夫の前に進み出て、きっぱりとこう言った。
「ねえ、ジョン、あなたはそんな法律が正しく、キリスト教徒にふさわしいなぞとお考えですの? 私それが知りとうございますわ」
「君はまさか私を射ち殺しはしないだろうね、メアリィ、私がもしそう考えていると言っても!」
「あなたがそんな方だとは、私、今まで夢にも存じませんでしたわ、ジョン。でもあなた、まさかそれに賛成の投票はなさらなかったでしょう?」
「いや、ちゃんといたしましたよ、婦人代議士さん」(ちなみに、当時は婦人参政権運動が盛んであった)
「ご自分が恥ずかしくございませんの、ジョン! かわいそうな、家庭もない、家もない人たち! それは恥ずべき不正な忌わしい法律です。私そんな法律は犯してやります、少なくともこの私は、その機会のありしだいに。そしてその機会の来ることを願っています、ほんとうに心から! ただ単にその人たちが奴隷で、一生を虐待され圧迫されて来たからというだけで、そのかわいそうな飢えている人たちに私たち女性が温かな食事も一夜の宿も提供することができないとすれば、世の中もとんだことになったものです。かわいそうな人たち!」
「だが、メアリィ、まあ私の言うこともお聴《き》き。君の気持はまったく正しい、それにゆかしい心がけだ、だからこそ私は君を愛しているのだ。しかし、だからといってだね、君、われわれは自分たちの感情に駆られて判断力を失ってはいけないのだよ。これは単に個人的な感情の問題ではないということを考えなくてはいけない。――大きな社会上の利害がからんでいるのだからね。――社会の動揺が起こっている現状では、われわれの個人的な感情は遠慮しなくてはならないのだ」
「ですけど、ジョン、私、政治のことは何も存じませんけど、聖書は読めます。その中には、飢えた人たちに食物を与え、着る物のない人たちには衣服を与え、寄辺《よるべ》ない人たちには慰めを与えてあげなければならないことが書いてあります。私は聖書の御《み》教えに従うつもりです」
「しかし君のそうすることが大きな社会的|禍《わざわい》をもたらす場合には――」
「神さまの御教えに従うことが社会的禍を招くことになるなんて、そんなことはけっしてありません。そんなはずがないことを、私存じております。神さまが私たちにお示しになったとおりにするのが、いつ、いかなる所でも、一番間違いのないことなのです」
「だがねえ、よくお聴きよ、メアリィ、私は君にたいへん筋の通った話をしてあげることができるのだから、つまりそれは――」
「おお、愚かなことですわ、ジョン! 一晩じゅうお話を伺ったところで何もなりはしません。それよりあなたにお尋ねしますけど、ジョン、――あなたは、もし今、かわいそうな、からだを震わせお腹を空かした人が入って来ましたら、それが逃亡者だからといってこの戸口から追い払うつもりでいらっしゃいますか? さあ、いかが?」
さて、ここでほんとうのことを話せば、われわれの上院議員は、不幸にもとりわけ慈悲深く感動しやすい性質の持主であったため、困っている者を追い払うなぞということはとうてい彼の得手《えて》とするところではなかった。そのうえ、こうした議論で追いつめられたピンチに、彼にとって更につごうの悪いことには、彼の妻がそのことをちゃんと知り抜いていて、したがって当然、防禦の手薄なこの点を突いてきたことであった。そこで彼は、こういう場合のためにかねてから作られ用意されている例の時間稼ぎの常套手段《じょうとうしゅだん》に訴えた。「えへん」と言ったり、何度か咳《せき》払いをしてみたり、ついにはハンカチを取り出して眼鏡《めがね》を拭きはじめたりした。バード夫人は、敵陣のこの防禦を失った状況を見てとると、容赦なく自軍の勢力を押し進めていった。
「私、あなたがそんなことをなさるところを拝見したいものですわ、ジョン。――ほんとうに! たとえば、あなたは、女の人を戸口から吹雪《ふぶき》の中へ追い立てたり、でなければたぶん、つかまえて牢屋《ろうや》にお入れになるんですのね、そうでしょう? あなたは、さぞそういうことがお上手でしょうね!」
「もちろん、そんなことをするのは非常に苦しい義務だろうがね」とバード氏は穏かな口調で始めた。
「義務ですって、ジョン! よくそんな言葉がお使いになれますのね! そんなもの、義務でなんかないことはあなたもご存知のはずですのに、――そんな義務なんてありえませんわ! もし奴隷に逃げられたくないのなら、その人たちに優しくしてやればいいんです、――それが私の主義ですわ。もし私が奴隷をもっていたら(私がもつなぞということはけっしてないと思いますけど)、私、試してみたいと思います、その人たちがはたして私からも、それにジョン、あなたからもよ、逃げたいと思うかどうか。人間は幸福だったら逃げたりなぞしませんもの。それを逃げ出すというのは、ああかわいそうな人たち! 世間から迫害されなくても、もうその人たちは十分に寒さや飢えや恐怖に苦しめられているからなのです。ですから、法律に触れようと触れまいと、私はけっしてそんな真似はいたしませんわ、神さまに誓って!」
「メアリィ! メアリィ! ねえ君、私に事を分けて話をさせておくれ」
「私、理屈なんか大嫌いですわ、ジョン、――ことにこの問題についての理屈なんぞ。あなたがた政治家は、はっきり正しいとわかっていることでも、それをなんとかごまかしてしまおうとなさるのね。それでいて、いざ実行というだんになると、自分ですることに確信がもてないんですわ。私、あなたという方をようく存じておりますわ、ジョン。あなただって、私と同じように、それが正しいとは思っていらっしゃらないんです。そしてあなただって、私と同じように、そんな真似をなさるおつもりはないんですわ」
この重大なせとぎわに、黒人の下男、カジョウ爺が戸口に首を出して言った。「奥さま、ちょっくら台所においで下せえまし」そこでわれわれの上院議員は、やれやれといった様子で、おかしさと口惜しさの妙に混り合った気持を感じながら、小柄な妻の後姿を見送った。それから、肘掛椅子《ひじかけいす》に腰をおろして新聞を読みはじめた。
しばらくすると、妻の呼ぶ声が戸口に聞こえたが、何かせき込んだただならぬ様子であった。――「ジョン! ジョン! ちょっといらして下さい」
彼は新聞を置いて、台所へ入って行った。そしてはっとして立ちどまると、その場に展開する光景に愕然《がくぜん》としてしまった。――一人の年若いほっそりとした女が、その着物は破れて凍りつき、靴も片方なく、ストッキングもちぎれてなくなり、足から血をしたたらせた姿で、二つ並べた椅子の上に人事不省のまま仰向けに寝かされていたのである。女の顔には世間から蔑《さげす》まれている種族の特徴が見られはしたが、しかもその悲しげな哀愁にみちた美しさにはだれも心を動かされずにはいられなかった。と同時に、その石のような鋭さ、その冷たく固い死人のような表情には、思わずからだのひきしまるものを感じさせたのである。彼は息を切らせながら無言のまま立っていた。彼の妻と、この家にいるたった一人の黒人の女中ダイナ婆《ばば》とがあれこれとせわしげに気つけの手当てをしていた。カジョウ爺のほうは子供を膝の上に乗せ、靴やストッキングを脱がせて、その小さな冷たい足を一生懸命こすってやっていた。
「ほんとに、まあ、みるも気の毒な姿でごぜえますなあ!」とダイナ婆は、心から気の毒そうに言った。「気を失ったのはこの火のせいだろうと思いますだよ。入って来て、しばらくここで火に当たらしてほしいと言っていた時にはほんに元気でございましたがな。で、わしが、どこからござらしたかきこうとしているうちに、とつぜん気絶してしまいましただ。この手の様子では、たぶん、あまり荒仕事はしたことがございませんな」
「かわいそうにね!」とバード夫人も心から気の毒そうに言った。その時、女はそろそろとその大きな黒い目をあけて、ぼんやり夫人の方を見た。と、突然苦悩の影が女の顔をかすめた。女は跳ね起きて言った。「おお、わたしのハリィ! あの子はつかまったのでしょうか?」
子供は母親の声を聞くと、カジョウの膝から飛び下りて、彼女のそばへ駈けより、両腕を差し出した。「おお、ここにいるのね! ここにいるのね!」と彼女は叫んだ。
「おお、奥さま!」と彼女は狂おしくバード夫人に向かって言った。「どうぞ私たちをお護り下さい! この子をあの人たちに連れて行かせないで下さい!」
「ここでは、だれにもあなた方をひどい目にあわせるようなことはさせませんよ、あなた」とバード夫人は励ますように言った。「あなた方は大丈夫。心配しなくてもいいのよ」
「ありがとうございます!」と言って、女は顔を覆うとすすり泣きをはじめた。子供は、母親の泣いているのを見ると、しきりにその膝に入り込もうとした。
だれ一人バード夫人以上には尽くすべき方法を知らぬほどの、なにくれとなくやさしい女らしい心づかいのおかげで、この憐れな女もまもなくずっと落着きをとりもどすようになった。仮の寝床が女のために煖炉のそばの長椅子の上に用意された。そして、やがて女は子供と一緒に深い眠りに落ちていった。子供も同じように疲れているとみえて、母親の腕に抱かれてぐっすりと眠っていた。女は、子供は別に寝かせてあげるからゆっくり休むようにというこの上ない親切な勧めも万一を恐れて断わったのである。そして寝ている間にも、彼女の腕はゆるむことなく、しっかりと子供を抱きしめていて、まるでいくら眠っている時でもこの用心深い腕をだますことは絶対に不可能だといわんばかりの様子であった。
バード夫妻はすでに居間へもどっていたが、そこでは不思議と、先刻の話にはどちらからも触れようとはしなかった。バード夫人はせっせと編物をし、そしてバード氏は、新聞を読んでいるようなふりをしていた。
「あの女はなんという名で何をしているのだろう!」と、とうとうバード氏が新聞を置きながら口をきった。
「目を覚まして少し元気になっていたら、きいてみましょう」とバード夫人は言った。
「ねえ、君!」とバード氏は、しばらく新聞をながめながら黙って考え込んでいたが、やがて言った。
「なんですの、あなた!」
「あの女には君のガウンが着られないだろうかね、縫い上げを下ろすとか、なんとかして? 君よりは少し大きいようだがね」
「やってみましょう」と答えた時のバード夫人の顔には、隠しきれぬ微笑がちらりと見えた。
再び沈黙がつづき、それから再びバード氏が叫んだ。
「ねえ、君!」
「はい! 今度はなんですの?」
「うん、あの古い綾織《あやおり》のマントがあったね、昼寝の時にかけてくれるといって君がとっておいてくれたやつさ。あれもやったらどうかね、――あの娘《こ》は着る物がいるんだろうから」
この時、ダイナが顔を出して、女が目を覚まして奥さまにお会いしたいと申しているがと告げた。バード夫妻は台所へと行った。そのあとから上の二人の男の子もついて来たが、下の子供たちは、もうこの時には、おとなしく寝かしつけられていた。
女はすでに煖炉のかたわらの長椅子の上に身を起こしていた。先刻のいらただしい物狂おしさとはうって変わり、静かなやるせない表情で、じっと炎をみつめていた。
「私に何かご用だったの?」バード夫人は優しい口調で言った。「もういくらか気分がよくなったでしょうね、あなた!」
長い震える吐息がただ一つ、それが答えであった。しかし彼女が黒い目をあげて、侘《わび》しい泣きつくような表情でじっと夫人を見上げたので、この小柄な夫人の目にも涙がにじみ出た。
「なにも怖がることはないのよ。ここにいる私たちは味方ですからね、あなた! どこから来たのか、そしてどうしてほしいのか私にお話してごらんなさい」と彼女は言った。
「わたくし、ケンタッキーからまいりました」と女は言った。
「いつかね?」とバード氏が、質問を引き受けて言った。
「今夜でございます」
「どうやって来たのかね?」
「氷の上を渡ってまいりました」
「氷の上を渡って!」その場に居あわせた者はみんな叫んだ。
「はい」女は静かに言った。「そうでございます。神さまのお力にすがりながら、わたくし氷の上を渡ったのでございます。あの人たちがわたくしの後ろに――すぐ後ろに――迫っておりましたし、それにほかに逃げる道がなかったものですから!」
「驚くじゃごぜえませんか、奥さま」とカジョウが言った。「氷はみんな割れてしもうて大きな塊になっていて、川の中をゆらゆらぽかぽかやっているんでごぜえますよ!」
「わたくしも知っております――それはわかっておりました!」と彼女は狂おしげに言った。「でも渡ったのです! 自分ではとても渡れるなぞとは思っておりませんでした。――渡りきれるとは思いませんでした。でもわたくし、そんなことにかまってはいられなかったのです!渡らなければ、死ぬだけですから。神さまがお助け下さったのです。その神さまのお力がどんなに大きなものか、それはその時になるまではだれにもわからないのです」と女は目を輝かせて言った。
「あんたは奴隷だったのかね?」とバード氏が言った。
「はい、そうでございます。わたくし、ケンタッキーのあるお方のものでございました」
「その人はあんたに不親切だったのかね?」
「いいえ。よいご主人でございました」
「じゃあ奥さんが不親切だったのかね?」
「いいえ、――とんでもございません! 奥さまはいつもわたくしによくして下さいました」
「じゃあ、どうしてそんないい家庭をすてて逃げたりして、こんな危険を冒《おか》すのかね?」
女は鋭い探るような眼差しでバード夫人を見上げた。そして夫人の着ているものが本喪服であることに気がついた。
「奥さま」と彼女が突然言った。「奥さまはこれまでにお子さまをお亡くし遊ばしたことがございますか?」
この質問は思いもかけぬものであった。そしてそれは、なまなましい心の傷口をえぐるものであった。というのは、ほんの一月ほど前に、この家族の者にとって最愛の幼児が埋葬されたばかりであったからである。
バード氏はくるりと背を向けると、窓の方へ歩いて行った。バード夫人は、その場でわっとばかり泣き出したが、やがて声をとりもどすとこう言った。
「なぜそんなことをきくの? 私、小さな子を一人亡くしましたわ」
「それならばわたくしの気持もおわかり下さいましょう。わたくしは二人の子供を亡くしました、次から次と。――あの土地に埋められたあの子たちをあとにして、わたくしは逃げてまいりました。わたくしに残されたのはこの子だけでございます。この子と一緒でなくては一晩だって寝たことはございません。この子はわたくしのすべてでございます。寝ても覚めても、この子がわたくしの慰めであり誇りでございました。それなのに、奥さま、この子をわたくしから取り上げようとしていたのでございます、――この子を売るために、――この子を南部へ、奥さま、たった一人ぼっちで売るために、――生まれてから一度も母親のもとを離れたことのないこの小さな子をでございます! わたくしには耐えられなかったのでございます、奥さま。もしそんなことになったら、わたくしには何もできなくなってしまうことがわかっておりました。で、書類にサインがされ、この子が売られたと知った時、わたくしはこの子を連れて夜中に逃げ出しました。するとあの人たちはわたくしを追ってまいりました、――この子を買った男と、ご主人さまの家の者たちでございます。――そしてその人たちはわたくしのすぐ後ろに追いつきました。その人たちの声も聞こえました。そこでわたくしは氷の上へ跳びのったのでございます。どのようにして川を渡ったか、わたくしにはわかりません、――でも、気がついてみると、ある男の方がわたくしを土手へ引き上げて下さっていました」
この女性はすすり泣きもせず、涙もこぼさなかった。もう涙も涸《か》れはてるところまできていたのである。しかし彼女のまわりにいる者はみな、それぞれ独自のしぐさで、心からの同情を示した。
二人の小さな男の子は、一生懸命ポケットの中を探って、そんな所からけっして発見されるはずのないことを世の母親たちは知っているハンカチを捜していたが、やがてしかたなさそうに母親のガウンの裾《すそ》に飛び込んで、そこですすり泣きながら、思うぞんぶん、目や鼻を拭いていた。――バード夫人はハンカチにすっかり顔を埋めてしまった。そしてダイナ婆は、黒い実直な顔に涙を流しながら、野外祈祷会《キャンプ・ミーティング》の時のようにあらん限りの熱情をこめて「神さま、わたしたちにお慈悲をお垂れ下せえまし!」と叫んでいた。――するとカジョウ爺のほうは、両の眼《まなこ》を袖口《そでぐち》でごしごし擦《こす》ったり、とほうもなくいろいろに顔をゆがめたりしながら、時おり彼女と同じ調子で、非常な熱情を込めてお祈りをした。われわれの上院議員は政治家であった。したがって彼が他の人間と同じように泣くということはもちろん、考えられぬことである。そこで彼は、一同に背を向けて窓から外をながめ、咳払いをしたり眼鏡を拭いたり、時には鼻をかむのに特別いそがしいといったふうな様子をしていたが、それはもしだれかがよく観察したら、その人の猜疑心《さいぎしん》を刺戟《しげき》したであろうようなしぐさであった。
「あんたは、さっきご主人は親切な人だと言っていたが、それはまたどうしてかね?」と彼は、何か喉にこみ上げてくるものをきわめて決然とした態度でぐっと飲み下すと、くるりとその女の方を向きながら突然そう言った。
「それは、ほんとうに親切なご主人さまだったからでございます。あのお方のことは、わたくしなんとしても、そう申します。――それに奥さまも親切な方でした。でもお二人ともどうしようもなかったんです。人さまからお金を借りていらして、わたくしにはどういうことかよくわかりませんが、なんでもある男がお屋敷を押さえるようなことになって、お二人ともその男に好きなことをさせなければならなくなったのです。わたくし、そっと耳をすまして、旦那さまが奥さまにそのことをお話なさっているのを聞いてしまいました。奥さまはわたくしのためにいろいろとお願いして下さっておりました。――でも旦那さまは奥さまに、自分ではもうどうすることもできない、それに書類にもすっかり署名してしまったからとおっしゃいました。――そしてその時でございます、わたくしがこの子を連れて家を飛び出し、逃げてまいりましたのは。この子が売られてしまったら、わたくし生きていくかいのないことがわかっておりました。この子だけがわたくしのすべてのような気がいたしますもの」
「あんたは連合いはないのかね?」
「いいえございます、でも別の主人のものなのです。その主人というのは、うちの人にそれはそれはつらくあたります。そしてわたくしに会いに来ることをめったに許してくれません。この頃は、以前よりもいっそうわたくしたちにつらくあたって、あの人を南部に売ってしまうぞと脅かしているんです。――もうこれであの人には会うことができないかもしれません!」
こうした言葉を述べる、その物静かな口調は、皮相な観察者にはあるいは彼女がまったく冷淡であると思わせたかもしれない。しかし彼女の大きな黒い瞳《ひとみ》の中にある静かな、鎮まりかえった深い苦悩は、それとはまったく別な事柄を物語っていた。
「で、これから先、どこへ行くつもりなの、あなたは?」とバード夫人が言った。
「カナダへ、もしそれがどこにあるのかわかりさえしましたら。たいへん遠い所でございましょうか、カナダという所は?」彼女は、ただもう信頼しきった様子で、バード夫人の顔を仰ぎ見ながら言った。
「かわいそうに!」バード夫人は思わずつぶやいた。
「とてもとても遠い所なんですのね?」と彼女はしんけんに尋ねた。
「あなたが思っているよりももっとずっと遠くなのよ、かわいそうな子!」とバード夫人は言った。「でも私たちがなんとか方法を考えてあげましょう。ねえ、ダイナ、おまえの部屋にこの人の寝床を作っておあげ、台所のすぐ近くにね。朝になったら方法を考えましょう。それまでは、けっして心配はいらないのよ、あなた。神さまにお任せするんです。きっとあなたたちをお守り下さいますからね」
バード夫人と夫とは再び居間へ入って行った。夫人は煖炉の前の小さな揺り椅子に腰をおろすと、何か思案しながら椅子を前後にゆすった。バード氏は、部屋の中をあちこちと大股《おおまた》に歩きながらぶつぶつと一人つぶやいていた。「ちぇっ! ちぇっ! やけに厄介なことになったもんだ!」そして、とうとう妻の所へ歩み寄ると彼は言った。
「ねえ、君、あの娘《こ》はここを出てゆかにゃあならんだろうよ、ぜひとも今夜のうちにね。その男というのがあすの朝早く嗅ぎつけてやって来るだろうからね。あの娘だけなら事がすむまでじっと静かにしていられるだろうが、あのちびさんのほうは騎兵と歩兵が一個中隊かかったってじっとさせておくことは無理だ、きっとね。窓や戸口から頭をひょいと出して、それで万事が露見さ。今ここで私があの二人と一緒にいる所を見つかってごらん、それこそてんやわんやだ! いや、どうしても今夜のうちにどこかへやってしまわなくてはいかん」
「今夜のうちにですって! どうしてそんなことができましょう?――どこへですの?」
「うん、どこって、そりゃあ私にも当てはあるがね」と上院議員は長靴をはきながら、思案げな様子で言った。そして片脚が半分入ったところで手を休めると、その膝を両手で抱え込んで、深い考えに沈んでゆく様子であった。
「こいつはやけに厄介なしまつの悪い仕事だわい」と彼は、やがて、長靴の紐《ひも》をひっぱりながら言った。「まったくの話!」一方の長靴がすっかり履《は》けてしまうと、上院議員はもう一方の長靴を片手に持ってすわったまま、絨毯の模様をじっと見つめていた。「だが、こいつはやらにゃならんだろうな、どうしても、――ちぇっ!」そう言って彼は気忙《きぜわ》しげにもう一方の長靴を履いてしまうと窓の外を見つめていた。
さて、小柄なバード夫人は分別のある女性――これまでに一度でも「ほらごらんなさい!」なぞと言ったことのない女性であった。それでこの場合も、夫の瞑想《めいそう》がどういう形をとりつつあるか非常によくわかっていたのであるが、それに口をはさむことはいっさいさしひかえて、ただじっと静かに椅子にすわったまま、わが君がその意向をもらしてもいいと考える時がきたら、その時はお話を承《うけたまわ》ろうとおとなしく待ちかまえている様子であった。
「ねえ君」と彼が口をひらいた。「むかし私に訴訟事件の依頼をしてきたヴァン・トロムプという男がいたろう、ほらケンタッキーから来て、自分の奴隷をみんな解放してやったという男さ。その男はこの森の奥の、支流の上手七マイルほどの所に土地を買ったんだよ。そこは、よほどの用でもなければ行く者はいないし、それにおいそれと見つかるような場所じゃあない。あそこならあの娘《こ》もまずまず安全だろう。だが困ったことには、今夜そこへ馬車を駆って行ける者がだれもおらんということだ、この私以外にはね」
「あら、カジョウだってりっぱな馭者《ぎょしゃ》ですわ」
「うん、そうなんだがね、しかしそれはここでのことだよ。支流を二度も渡らなくてはならないし、それに二度目の所は、私のようにかってを知った者でなければ、とても危険なんだ。私はそこを百遍も馬で渡ったことがあるから、どこをどう曲がればいいかよく知っている。だから、まあ、しかたがないさ。カジョウに十二時頃、できるだけ静かに馬をつけさせ、私がついて行くことにしよう。それから、この仕事をもっともらしくするために、カジョウに私を次の宿《しゅく》までやらせ、三時か四時頃やって来るコロンバス(オハイオ州の首都で、ここに州の上院がある)行きの乗合馬車に乗ることにしよう。そうすれば、まるで私はただそのために馬車を出したように見えるし、あすの朝は早くから役所の仕事にかかれるというわけだからね。しかしこれまで自分で言ったりしたりしたことを棚にあげてこんなことをやれば、役所ではずいぶんと気まりの悪い思いをするだろうと思うんだが、えいっくそ、しかたがないや!」
「この場合、あなたのお心のほうがお頭《つむ》よりもりっぱなのですわ、ジョン」と妻は言って、その小さな白い手を夫の上に置いた。「私、あなたがご自分を知っていらっしゃる以上にあなたという方を存じております、そうでなかったら、これまでにあなたをお慕いすることができましたでしょうか?」と言って目に涙をきらめかしたこの小柄な婦人はじつに美しく見えたので、上院議員は、こんなに美しい女に自分をこんなにまで熱情的に賞賛させるなんておれは確かに心がけのよい男にちがいないぞと考えていた。そこで、このとき彼にできたことは、ただまじめくさって歩きだすと、馬車の用意を見に行くことだけであった。しかし戸口の所で彼はちょっと立ち止まって、それから引き返してくると、ややためらいながら言った。
「メアリィ、君はどう思うか知らないが、いろいろなものがいっぱいつまっている引出しがあるだろう――あの――あの――死んだ可愛いヘンリィの物が」そう言うと彼は、踵《かかと》でくるりとまわって後ろ手に戸をしめた。
彼の妻は自分の居間に続いた小さな寝室の戸をあけ、手に持ったろうそくの明かりを小だんすの上に置いた。そして、小さな壁のくぼみから鍵をとり出すと、それを思いに沈みながら引出しの鍵穴に差し込んだが、急にその手を止めた。その間、母親のすぐあとを幼児らしくつきまとって来た二人の男の子は、黙って意味ありげな眼差しで彼女を見つめて立っていた。そして、おお、この物語を読んで下さるお母さん、あなたのお宅には、それをあけることが、あなたにとってもう一度小さなお墓をあけることにも等しいような引出しや押入れがありませんでしょうか? もしなければ、ああ! あなたはほんとうに幸せなお母さんです。
バード夫人はそっと引出しをあけた。そこには、いろいろな形や模様の小さなコートやたくさんのエプロンや可愛いストッキングが入っていた。また、爪先のすりへった一足の小さな靴までが、包み紙のすきまからのぞいていた。玩具の馬車、こま、ボール、――それは、いくたびとなく涙にくれ、いくたびとなく断腸の思いにくれながら集めた形見の品々であった! 彼女は引出しのかたわらにすわり、その上においた両の手に頭をもたせかけて涙にくれた。その涙は指の間を伝って引出しの中へと落ちた。やがて、彼女は不意に顔をあげ、せかせかと、一番あっさりして一番役にたちそうな物を選び出すと、それらを一つにとりまとめはじめた。
「お母さん」と子供たちの一人が、そっと母親の腕に触れながら言った。「それみんなあげてしまうの?」
「ねえ、あなたたち」と彼女は、優しく心をこめて言った。「私たちの可愛いあのヘンリィちゃんが天国から見ていたら、喜んで私たちにこうさせてくれますよ。お母さんはね、ふつうの人には――幸福な人にはこんな大切なものをあげたりする気にはなれなかったはずよ。けどね、これはお母さんよりももっとかわいそうなお気の毒なお母さんにあげるのよ。神さまもきっとこれにはお恵みをそえて下さるでしょう!」
この世の中には、自分の悲しみをすべて他の人々の喜びにと実らせてゆく聖《きよ》らかな心の持主がいるものである。そうした人々のこの世の希望(「子供」のこと)は、たとえ多くの涙とともに土に埋められても、それは種子《たね》のようにやがて花を咲かせ芳香を放って、寄辺《よるべ》ない人々や悩める人々の心の傷を癒してくれるものなのである。そうした聖らかな心の持主の一人に、いま明かりのかたわらにすわってそっと涙を流しながら、寄辺ない放浪者に与えるために今はなき子供の形見を揃えているこの優しい婦人がいた。
やがて、バード夫人は衣装だんすをあけて、そこから地味な役だちそうな服を一、二枚とり出すと、せわしげに裁縫台に向かって、針や鋏《はさみ》や指ぬきを手に、夫の勧めた「縫いあげを下ろす」仕事に静かにとりかかった。そして、彼女がせっせとその仕事を続けているうちに、片隅の古い時計がやがて十二時を打った。すると戸口に低い車輪の音が聞こえた。
「メアリィ」と言って夫が手に外套《がいとう》を持って入って来た。「すぐあの娘《こ》を起こしなさい。われわれは出かけなくてはならんから」
バード夫人は、集めておいたいろいろな品物を小さな地味なトランクに大急ぎで入れて、錠をかけ、それを馬車に入れてくれるようにと夫に頼んでおいてから、女を呼びに行った。まもなく、この恩人の贈り物であるマントやボネットやショールで身をととのえた彼女が、子供を抱えながら戸口に姿を見せた。バード氏はそれを急《せ》きたてて馬車に案内すると、バード夫人もすぐあとから馬車のステップの所までついて来た。イライザは車から身を乗り出して手を差し出した、――それは、それに応《こた》えて差しのべられた手と同じように柔かな美しい手であった。彼女は、大きな黒い瞳に無量の思いをこめてじっとバード夫人の顔をみつめながら、何か言おうとした。彼女の唇が動いた、――一、二度くりかえした、が、声にはならなかった。――そしてけっして忘れることのできない顔つきで空をふり仰ぐと、崩れるように座席に腰を下ろして顔を覆ってしまった。戸がしめられ、馬車は動き出した。
それにしても、この一週間というもの、逃走中の逃亡者やそれを匿う者や扇動者《せんどうしゃ》に対しての今までよりもいっそう厳しい決議案を通過させるために、自州の立法府に拍車《はくしゃ》をかけていた愛国的上院議員にとって、これはまたなんという立場であったろうか!
われわれの善良な上院議員は、同志のために不滅の名声をかちえた雄弁という点においては、ワシントンにいる連邦議員のだれにも負けたことはなかったのだ! そして、これまでなんと傲然《ごうぜん》たる態度で彼は腰を落着け、州の大きな利益よりも少数のくだらぬ逃亡者の幸福を優先させようとする人々の感傷的な柔弱さをかたっぱしから嘲笑《ちょうしょう》してきたことであろうか!
この問題については、彼は獅子《しし》のごとく勇敢(箴言、第二十八章第一節)であった。そして彼自身ばかりでなく、彼の聴衆をもことごとく「激しい語調で説き伏せ」(使徒行伝、第十八章第二十八節)たのであった。――しかしそのとき彼が抱いていた逃亡者というものについての概念は、単に文字の上での概念にしかすぎなかった、――あるいは、せいぜい、「本紙購読者から逃亡」と下に書いてある新聞の中の、杖と包みとを持った男の小さな絵姿ぐらいのものであった。苦しみもだえる人々の実際の姿――哀願するような人の目、かよわい震えおののく人の手、どうすることもできぬ苦悩の絶望的な訴え、――こうしたものに彼は今まで一度も出会ったことがなかった。彼は、逃亡者というものが不仕合わせな母親であったり、いたいけな子供であったり――今、自分の亡き愛児の小さな思い出の帽子をかぶっているこの子のような子供だったりすることもありうるなぞということは一度も考えたことがなかった。そこで、われわれの気の毒な上院議員も石や鋼鉄ではなかったので、――血の通う人間であり、しかもまぎれもなく気高い心の持主でもあったので、――かくのごとく、彼の愛国心にとってはじつに悲しむべきありさまとなったのである。しかし南部諸州の兄弟《みなさん》、あなた方は彼の窮状を見て凱歌《がいか》をあげたりしてはいけません。なぜならあなた方の多くも、同じ事情の下にあったら、きっと彼と同じようなことをするだろうとわれわれは思うからです。われわれは、ミシシッピー州と同じようにケンタッキー州においても気高い寛大な心の持主がいて、そうした人々は他人の苦悩の物語をけっして聞き流しはしないであろうということを知っております。ああ、兄弟《みなさん》! もしあなた方がわれわれの立場にたった時、あなた方自身の雄々しいりっぱな心があなた方にも許さないような行為《サーヴィス》(逃亡奴隷をつかまえて南部のもとの所有者に返すこと)をわれわれにしろと期待するのはいったい正しいことなのでしょうか?
それはとにかくとして、もしかりにわれわれの善良な上院議員が国事犯であったとしても、今夜のこれから始まる苦行によって彼の罪は十分に償えそうであった。というのは、まず長い雨期が続いていた。そしてオハイオ州の柔かな豊かな土壌は、周知のとおり、ぬかるみの製造にはじつによく適していたのである。――おまけに道は古きよき時代のオハイオ鉄道《レイルロード》であったからである。
「ええっ、それじゃあそれはどんな道なのかね?」と東部の旅人は言うであろうが、それはレイルロードといえばすぐに平坦で速いものという考えをもっているからなのである。
されば、事情に暗き東部の友よ、そはかくのごとしと知りたまえ。そもそも西部未開の地にあっては、泥濘《ぬかるみ》の深さ計り知れずおそろしく、道はただ丸き荒木を押し並べ、太古の色も褪《あ》せぬ間に、土、芝、その他てあたりしだい、あらゆるものにて覆いしもの。祝い喜ぶ村人はこれを名づけて道と呼び、すなわちそこに馬を駆り通行せんと企てたり。されど時の経るにつれ、雨は前記の芝、草を、残らず洗い流し去り、丸太は此方《ここ》へ彼方《かしこ》へと、さながら絵筆《ふで》にて画くごとく、上下左右に押し流され、やがては黒き泥土の裂け目や割れ目がさまざまに入り乱れるにいたるなり。
このような道をわれわれの上院議員は、こうした情況の下で許されるかぎり絶えず道徳的な反省にひたりながら、がたごとと進んでいった。――しかしその馬車の進み具合はこうである、――どしん! どしん! どしん! ばしゃっ! ついに泥の中へ!――上院議員も女も子供も突然座席から放り出され、きちんと元の席に腰を落着ける暇もなく、傾いた側の窓にからだをぶつける。馬車は泥へ深くはまり込む。外の馭者台ではカジョウがそれぞれの馬にせいいっぱい力を出させようとしているのが聞こえる。どう手綱をさばいてもいっこうに埒《らち》があかないので、とうとう上院議員が癇癪《かんしゃく》をおこしかけると、急に馬車がはね上がって元どおりになる。――と前輪が二つともまた奈落の底に落ちて、上院議員も女も子供もみんなごろごろと前方の座席へ転がってゆく。――上院議員の帽子は遠慮会釈もなく彼の目と鼻とを塞いでしまう、そこで彼はてっきり自分はこの世から消えてなくなってしまったんだと思い込む。――子供は泣く。外ではカジョウが馬に威勢のいい掛け声をかける。馬は続けざまに鳴る鞭の下で、蹴ったり足掻《あが》いたり引っぱったりしている。馬車はまたひと跳ねはね上がる。――すると後輪がはまり込む。――上院議員と女と子供は後部の座席へすっ飛んでゆく。彼の肘が女のボネットと出会わし、彼女の両足が彼の帽子の中に突っ込む。ごとりと揺れると帽子がはずれて飛んでゆく。しばらくするとその「泥沼」(ジョン・バニヤン「天路歴程」第一部、九)が過ぎる。馬は喘《あえ》ぎ喘ぎとまる。――上院議員は帽子をみつけ、女はボネットをかぶりなおして子供を宥《なだ》める。そして一行は次にまた起こる難事に備えて緊張する。
しばらくの間は続けざまにどしん! どしん! という音が、ただそれに変化を与えるためのいろいろな横揺れや複雑な震動とまざり合っているにすぎなかったので、一行はこの分ならそうたいしたこともあるまいと心ひそかに思いはじめた。するとそのうち、馬車はもろに突っ込んで、三人を跳び上がらせ、それからまた信じられぬほどの速さで元の席につかせると、がくんと止まってしまった。――そして、カジョウが外でいろいろと奮闘したあげく、戸口に姿を見せた。
「こりゃあどうも、旦那さま、おそろしく道が悪うござりますよ、ここんところは。どうしたらすっぽり抜けるか、はあ、おらにはわからねえ。みんなで丸太を集めて来んけりゃなんめえと思いますだが」
上院議員はがっかりした様子で、馬車から出ると、固い足場をさがそうとする。そして片足を測り知れぬ深みの中に踏み込んでしまう。――それを抜こうとしてバランスを失い、泥の中に転がる。そして目もあてられぬ恰好《かっこう》で、カジョウに引き上げられる。
しかし、読者はすでに骨の髄まで徹する同情を寄せられていることであろうから、これ以上は差控えることにしよう。柵棒を引き抜いて馬車を泥の穴からこじ上げるような興味のある方法で退屈な真夜中の時間を凌《しの》いだことのある西部の旅行者たちならば、この不幸な主人公に対して鄭重《ていちょう》な哀悼《あいとう》の意をよせることであろう。われわれはかかる旅行者たちに向かい、静かに涙して読み進まれんことをここに乞い願うものである。
馬車が水をしたたらせ泥だらけになって、支流から出て、ある大きな農家の戸口に止まったのは、夜もかなり遅くなってからのことであった。
家の中の者を起こすには相当な努力が必要であった。だが、やがて尊敬すべきこの家の主人が姿を見せて、戸をあけた。彼はがっちりして背の高い、毛の逆立つオルスン(十五世紀のフランスのロマンス「ヴァレンタインとオルスン」の双子の一人。二人ともオルレアンの近くの森に生まれ、前者は伯父に、後者は熊に拾われて、育てられる。Orson すなわち ourson はフランス語で「仔熊」の意)のような男で、身の丈は靴をはかなくとも優に六フィート以上もあり、赤いフランネルの狩猟用シャツを着ていた。みるからにくしゃくしゃの、厚くからみあった砂色の髪と、四、五日にもなるような伸びた鬚《ひげ》とのために、この尊敬すべき人物もこの時は、ごく控え目に言っても、とりわけ人好きのするような様子ではなかった。彼はしばらくの間、手に持ったろうそくの明かりの下から、陰気な不審そうな表情で目をしばたきながらわれわれの旅人をながめていたが、その様子はじつに滑稽であった。この男に事情をすっかりのみ込ませるのはわれわれの上院議員にとってもかなりの努力が必要であった。そこで彼が一生懸命それに当たっている間、われわれはちょっとこの人物のことを読者の皆さんに紹介しておくことにしよう。
このジョン・ヴァン・トロムプという誠実な老人は、以前はケンタッキー州の相当な地主であり奴隷所有者でもあった。彼は「毛もくじゃらの皮膚以外には熊に似たところはなに一つ」なく(前出「オルスン」の注参照)、その巨大な体躯《からだ》にきわめてふさわしい大きな正直な正しい心を生まれながらにして授けられていたので、圧制者にとっても被圧制者にとっても同じように有害な制度のもたらすこの種々の悪弊を何年もの間、募る不安をおさえながら見つめてきた。ついに、ある日、ジョンの大きな心はあまりにも大きく脹《ふく》れあがり、もはやそれ以上奴隷をもっていることに堪えられなくなった。そこで彼はすぐに机から紙入れを取り出して、オハイオ州におもむき、すばらしく豊かな土地を一郡の四分の一ほども買い込んで、自分の使用人のことごとくに――男にも女にも子供にも――解放証書《フリー・ペイパーズ》(奴隷を解放する場合、その新しい身分を証明するため、当時発行した証書)を作ってやり、彼らを数台の馬車に乗せて、そこへ移住させた。それからジョンはこの支流をさかのぼって、気持のよい人里離れた農場に静かに腰を落着けて、自分の良心と反省とを楽しむようになったのである。
「で、あなたは哀れな母親と子供を奴隷狩りから匿《かくま》っていただけるお方ですかな?」と上院議員は率直にたずねた。
「さように自分では思うとります」と誠実なジョンはかなり強い語調で言った。
「私もそう思っていました」と上院議員が言った。
「だれがやって来ようと」とその善良な男は背の高い逞《たくま》しい体躯をぐっとのばして言った。「こちらにゃあ用意ができとります。それに六フィートもある息子《むすこ》が七人もおりますのでな、追手が何人来ようとその息子たちが相手になりましょうて。やつらによろしく言うて下され」とジョンが言った。「たとえ今すぐやって来ようと、――わしらにとっちゃたいした違いはないとな」とジョンは、彼の頭を覆っているくしゃくしゃの髪の毛の中へ指を突っ込んで、突然大声で笑い出した。
疲れはてて、ぐったりとうちしおれたイライザが、ぐっすり寝込んでいる子供を抱きながら、自分のからだをひきずるようにして戸口に近づいて来た。この無骨な男は女の顔にろうそくを向け、同情の呻《うめ》きのようなものをもらしながら、彼らの立っている広い台所に隣りあわせた小さな寝室の戸をあけて、中へ入るようにと合図した。彼はろうそくを一本とり出して、それに火をつけると、テーブルの上に置いて、それからイライザに話しかけた。
「いいかな、娘さん、少しも怖がることはないよ、ここへ来ようというやつには来させるがいい。わしはちゃんとああいう物まで用意してあるんだから」と言って、炉棚の上に掛けてある二、三梃のりっぱなライフル銃を指さした。「それにこのわしを知っている者なら、わしが承知せぬのにこの家から人を連れ出そうとすることは身のためにならんことぐらい知っとるでな。だからもうあんたは、おっかさんがあんたを優しく揺り籃《かご》でゆすってくれている時のように安心して、さあ、眠るがいい」と彼は戸をしめながら言った。
「いや、こりゃあすてきにきりょうのいい娘ですな」と彼は上院議員に向かって言った。「ああ、そうだろうて。きりょうのいい娘というものは、時として、逃げ出したくなる一番大きな動機をもっているわけだ、もしその娘が、普通の家庭の娘と同じような気持をちょっとでももっていたとすればね。わしにはよくわかっとります」
そこで上院議員は、二語三語、手短かにイライザの身の上を説明した。
「おお! おお! おお! ああ、そうでしたか?」と善良なその男はさも気の毒そうに言った。「ちぇっ! なあ畜生! そりゃあ、無理もない、かわいそうに! 鹿のように追いまくられて、――あたりまえの気持をもっていたからというて、どんな母親だってせずにはおれんことをしたからというて、追いまくられるなんて! わしという人間はな、あんたのこういう話を聞くと、なあ、無性に罰《ばち》あたりなことが言いとうなりますのじゃ」と誠実なジョンは、大きな染《し》みのある黄色い手の甲で目をこすりながら言った。「わしはなあ、あんた、もうずいぶん長いこと教会へは通うておりませんのじゃ。わしが元いたあたりの牧師たちは、聖書はこうした奴隷狩りを支持しておるなどといつも説いておりましてな。――ギリシア語やらヘブライ語のようなむずかしい言葉で説くその人たちにわしはついて行けなかったものじゃから、牧師も聖書もみんな捨ててしまいました。それからは一度も教会へは行きませなんだが、そのうちある牧師さんに会いましてな、その方はギリシア語もほかのことも前の牧師たちと肩を並べるくらい達者で、そのうえその人たちとはまったく反対の教えを説くのですじゃ。それでわしも正しい分別を身につけ、教会に通うようになりました。――で、今でもちゃんと通うとります」と言いながら、ジョンは先刻から、非常によく発酵したりんご酒のコルク栓をあけていたが、この話の継ぎ目にくるとそれを相手に勧めた。
「あんた、なあ、夜が明けるまで、まあここに泊っていかれたらよい」と彼は心から言った。「婆さんを呼んで、すぐ床をとらせますでな」
「せっかくのご好意ですが」と上院議員は言った。「私は失礼せにゃなりません。コロンバス行きの夜の馬車に乗るもんですから」
「ああ! そうでしたな。それじゃ、どうしてもとおっしゃるんなら、そこいらまで一緒に行って、あなたが来た道より楽に行ける間道を教えてしんぜよう。あの道はひどく悪いでな」
身支度をして手にランタンを持ったジョンの姿が、まもなく裏手の窪地《くぼち》に下りてゆく道へと、上院議員の馬車を案内していった。別れる時、上院議員は彼の手に十ドル紙幣を一枚握らせた。
「それをあの娘にやって下さい」と彼は簡単に言った。
「はい、はい」とジョンも同じように簡単に答えた。
二人は握手して、そして別れた。
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第十章 財産が運び去られる
二月の朝がアンクル・トムの丸木小屋の窓をとおして灰色に、霧雨《きりさめ》を降らせているように見えた。朝は、俯向《うつむ》いた二つの顔を、悲しみに沈んだ人々の映像を、見つめていたのである。炉の前に置いてある小さなテーブルにはアイロン掛けの布が一枚ひろげてあった。粗末ではあるが清潔なシャツが一、二枚、まだアイロンの温みも消えずに、炉のかたわらの椅子の背にかかっていた。アント・クロウィはもう一枚のシャツを目の前のテーブルの上にひろげていた。几帳面すぎるほどにきちんと、一つ一つの皺《しわ》、一つ一つの縁を丹念に手でこすってはアイロンをかけていたが、時々その手を顔にあてては両の頬に止めどなく流れる涙を拭いていた。
トムはそのかたわらで、膝の上に聖書をひろげ、片手に頭をもたせかけてすわっていた。――しかし二人はどちらも口をきかなかった。朝はまだ早かったので、子供たちはみな、小さい粗末な車つきベッドの中でかたまって眠っていた。
やさしい家庭的な心を溢れるほどにもったトムは、ああ! そうした心は彼とおなじ不幸な種族のもつ特性なのであるが、彼は立ち上がって静かに歩み寄ると子供たちをじっと見つめた。
「これが最後だな」と彼は言った。
アント・クロウィは何も答えず、もうこれ以上人間の手できれいにすることはできぬほどに仕上がった粗末なシャツの上を、ただ何度も何度もこすっているだけであった。そしてとうとう望みの綱も切れたかのように、いきなりアイロンをその場に放り出すと、テーブルのかたわらにすわって「声をあげて泣いた」(創世記、第二十一章第十六節、第二十七章第三十八節、第二十九章第十一節等)
「おらたち諦めにゃあならねえのかもしれねえ。だがおお神さま! おらにゃあどうしてできますだ? あんたがどこへ行くだか、どんな仕打ちをされるだか幾らかでもわかっておりゃあなあ! 奥さまは、一年か二年のうちにゃあなんとか買いもどして下さるちゅうことだが、ああ! 川下へ行った者で帰って来たためしはねえ! みんな殺されちまうだ! あの農園《プランテイション》じゃあどんなに人をこき使うか、おらあ話を聞いたことがあるだ」
「向こうにだって、クロウィ、ここと同じ神さまがいらっしゃるだろうよ」
「そりゃあ」とアント・クロウィが言った。「いらっしゃるかもしんねえ。だが神さまも、時々ひどいことをおさせなさるもんだ。おらあそんなことで気が安まるたあ思えねえ」
「わしは神さまの御手の中にあるのだ」とトムは言った。「何事も神さまの思し召し以上になるはずはねえだ。――それに神さまをありがてえと思えることが一つある。それは、売られて川下へ行くのはこのわしで、おまえや子供たちではないちゅうことだ。おまえたちはここにいて安全だ。――何が起ころうとそりゃあわしだけのことだ。それに神さまは、神さまという方はわしをお救《たす》け下さる。――わしには神さまがお救け下さることがちゃんとわかっているんだ」
ああ、健気《けなげ》なる雄々しき心よ、――汝自身の悲しみをおさえ、汝の愛する者を慰めんとは!トムは濁った声で、はげしく喉を詰らせながらしゃべった。――だが、その声は勇ましく強かった。
「わしらへのお恵みのことを考えよう!」と彼は、神の恵みについて一生懸命に考えることが必要であると確信しているかのように、身を震わせながらつけ加えた。
「お恵みだと!」と、アント・クロウィは言った。「どこにお恵みなぞあるだ! こんな法はねえ! こんなことにならんけりゃなんねえちゅう法はねえ! 旦那さまがその借金のかたにあんたを連れて行かせるちゅう法はねえだ。旦那さまがあんたを売って手に入れるぐれえの金は、あんたはもうこれまでに稼いでやっただ、その倍以上もよう。旦那さまはあんたを自由にするって約束したでねえか。それもとっくの昔に自由にせにゃあならなかっただ。たぶん旦那さまはもうどうしようもねえのだろうが、おらあ、間違ってると思うだ。何がどうあろうと、こうした考えをおらからたたき出すこたあできねえ。あんたのような、――いつも、どんなことでも旦那さまの用事を自分のものより先にかたづけ、――自分の女房子供よりもご主人さま大事と思うてきた正直な人をよう! 自分たちの災難をのがれるためというて、心の愛や心の血を売りとばすあの人たちは、いまに神さまのお裁きを受けるだ!」
「クロウィ! なあおまえ、わしを愛してくれるなら、そんなことは言わねえでくれ、おれたちが一緒にいるのもたぶんこれが最後ちゅう時にな! それになあ、クロウィ、旦那さまの悪口を一言でも聞くのは、わしにゃあつれえことだ。旦那さまは赤ん坊の時わしの腕に抱かれたのではなかっただか?――わしが旦那さまのことをうんと思うのもあたりめえのことだ。だからというて、旦那さまのほうでこのつまらねえトムのことをそれだけに思って下さると考えることはできねえ。旦那ちゅうものは何もかも他人にさせることに慣れているだから、それをそんな重大なことに思っていねえのがあたりまえだ。思うほうが無理な話だ。旦那さまを他の旦那衆と較べてみるがいい、――どこのだれがわしのような扱いを受け、わしのような暮らしをさせてもらっているだ? それに旦那さまだって今度のことが前もってわかっていりゃあ、けっしてわしをこんな目にはあわせはしなかったろう。そんな旦那さまでねえことは、わしにはちゃんとわかっているだ」
「それにしても、とにかくこれにゃあどこかに間違ってるところがあるだ」とアント・クロウィは言った。頑強《がんきょう》な正義感は彼女の卓越した特性であった。「それがどこだか、おらにゃあちょっとわかんねえが、どこかに間違っているところがあるだ、それだけは確かだ」
「天にいらっしゃる神さまを見なけりゃいけねえ。――神さまはすべてのものの上にいらっしゃるだ。――雀一羽落ちるのも神さまの御心だ」
「そんなこと言ったって、ちっともおらの慰めにゃなりそうもねえが、それがまあ、あたりめえだかね」とアント・クロウィが言った。「だがもうなに言ったってしかたがねえ。今コーンケーキを焼いておいしい朝飯を作ってあげるでのう。いつまた食べれるかわからねえからな」
南部に売られていく黒人たちの苦悩を理解するためには、この種族のもつ本能的な感情がすべて異常なほどに強いということを記憶していなければならない。土地に対する彼らの愛着は非常に根強いものである。彼らは生来、勇敢で冒険好きなのではなく、家庭好きなやさしい性質の持主なのである。こうした性質に、無知からくる未知のものに抱くあらゆる恐怖を加えてみるがよい。そしてまた、こうした性質に、南部に売られるということが、最後の厳しい刑罰として、子供の時から黒人の前に課せられているということをつけ加えてみるがよい。鞭打ちやどんな種類のひどい仕打ちにも増して恐ろしい脅迫は、川下へ売ってしまうぞと脅かされることなのである。われわれはそうした彼らの恐怖心が彼らの口から語られるのを直接耳にしたことがあるし、彼らがよく雑談のおりなどに寄り集まってあの「川下」の恐ろしい話をする時のあのありのままの恐怖の姿を目のあたりに見たこともある。彼らにとってこの川下は、
「その国境からは
一人の旅人も戻ったためしのない未知の世界」
なのである。(「ハムレット」第三幕第一場)
カナダの逃亡者たちの中にいるある牧師の話によると、逃亡者の大部分は比較的親切な主人のもとから逃げ出して来た、と彼ら自身が告白しているとのことである。またほとんどすべての場合、自分たちが南部に売られると考えた時の、――それは本人、あるいはその夫、その妻子に覆いかぶさる運命なのであるが、あの絶望的な恐怖によって彼らは逃亡の危険を冒すようになるとのことである。この恐怖こそ、生来忍耐強く臆病《おくびょう》で冒険を好まぬアフリカ人に英雄的な勇気を与え、飢えや寒さや苦痛や荒野でのさまざまな危険や、再び捕えられた時のあの更に恐ろしい刑罰をも耐えさせるのである。
やがて簡単な朝の食事がテーブルの上に湯気を立てはじめた。けさはシェルビィ夫人もアント・クロウィに邸での用事を免じていたのである。かわいそうなクロウィはこまやかな精力のありったけをこの別れのご馳走に傾けていた。――特別上等の若鶏をしめて調理したり、夫の口に合うようにと細心の注意をはらってコーンケーキを焼いたり、特別の行事の時以外にはけっして出したことのないジャムの入っている大切な壺《つぼ》を炉棚の上から取り出したりした。
「ほら、ピート」とモウズは大喜びで言った。「おらたち、すばらしい朝食を食べれるでねえか!」と言うが早いか、彼は若鶏の切れ端につかみかかった。
アント・クロウィはいきなりその横面をぴしゃりとやった。「何するだ! かわいそうなおまえのお父《とう》が家で食べる最後の朝飯だちゅうに、それを喜んで騒いだりしくさって!」
「おお、クロウィ!」とトムは優しく言った。
「だが、おらあ我慢できねえだ」と言うとアント・クロウィはエプロンに顔を埋めた。「おらあもう頭がこんぐらがって、思わず手荒くなっただ」
子供たちはじっと黙って突っ立ったまま、初めに父親を、それから母親をながめた。その間、赤ん坊は母親の着物にすがりついて火がついたように泣きはじめた。
「さあ!」とアント・クロウィは言って、涙を拭き、赤ん坊を抱き上げた。「もう気も落着いたようだ、――さあ何か食べて下っせえ。これはおらがとっときの若鶏だでな。さあ、おまえたち、おまえたちも少しおあがり、かわいそうにな! 母ちゃんが悪かったな」
子供たちに二度目の誘いはいらなかった。彼らは夢中でご馳走を食べはじめた。そして子供たちがそうしたことはかえってよかった。さもなければ、この一家によって何か一緒に行なわれるような事柄は、ほとんど何もなかったであろうから。
「さあ」と言ってアント・クロウィは、朝食がすむと忙しく働き出した。「あんたの着る物をまとめなけりゃあなんねえ。どうせあのやつがみんな取り上げちまうだろうがね。おらにはやつらのやり口がわかってるんだ、――さもしいやつらなんだから! で、なあ、リューマチが起きた時のフランネルはここの隅に入れておくでな。気をつけて下せえよ、もうあんたに作ってくれる人はおらんだろうでな。それから着古しのシャツはこっち、新しいのはこっちへ入れておくでな。このストッキングは昨夜《ゆうべ》すっかり繕っておいたけんど、糸の玉も入れておいたでな。だけんどああ! だれがいったいあんたのために繕うてくれるかのう?」そしてアント・クロウィは、再び耐えきれず、箱のわきに頭をつけてすすり泣いた。「考えるとたまらねえだ! 病んだ時にも達者な時にも、あんたのためにしてくれる人は一人もいねえ! おらが今、おとなしくしていなきゃなんねえなんて無理なことだ!」
子供たちは、朝食のテーブルの上にあるものをすっかり平げてしまうと、今度はその場の様子をいくぶん考えはじめた。そして母親が泣いていたり、父親が非常に悲しそうな顔つきをしているのを見ると、しくしくと泣きだして、両手で目を押さえはじめた。アンクル・トムは赤ん坊を膝にのせ、好きに遊ばせていた。赤ん坊は彼の顔を引っ掻いたり、髪の毛を引っぱったり、時々不意に騒騒しくきゃっきゃっと叫び声をあげていたが、それはがんぜない赤ん坊の心の反映から起こるものであることは明らかであった。
「そうだ、たんとはしゃぐがええだ、かわいそうに!」とアント・クロウィは言った。「おまえもきっと今にこうなるだからな! おまえの亭主が売られるような目にあうか、それとも自分が売られるようになるかもしれねえだから。それにこの子供たちだって、おらの考えじゃおおかた、何かの役に立つようになる頃にゃあ売られちまうだ。黒ん坊は何を持ってたってなんにもなりゃあせんだ!」
この時、子供の一人が叫んだ。「奥さまがいらっしゃったよ!」
「奥さまだって何もできゃしねえだに、何しにここへいらっしゃるだ!」とアント・クロウィは言った。
シェルビィ夫人が入って来た。アント・クロウィはみるからに荒々しいつっけんどんな態度で彼女に椅子をすすめた。夫人はそうした動作や態度には気がつかぬ様子であった。彼女は青白い心配そうな顔をして立っていた。
「トム」と彼女は言った。「私がここへ来たのはね――」と言うと急に口をつぐんで、黙りこくっているこの家の人々を見まわし、思わず椅子に腰を下ろした。そしてハンケチで顔をおおって、すすり泣きを始めた。
「これ、まあ、奥さま、お泣きなさるでねえ――お泣きなさるでねえ!」と今度はアント・クロウィが泣きだしながら言った。そしてしばらくの間、彼らはみな一緒になって泣いていた。そして身分の高い者も低い者も、みんな一緒になって流すこうした涙の中に、虐げられた者の不満や怒りはすべて融け去っていくのであった。おお、苦しみ悩む人々を見舞われる皆さん、あなた方のお金で買えるどんな品物も、冷たい背《そむ》けた顔で下さるのなら、それはまことの同情から流す偽りのない涙一滴にも値しないということをご存知ですか?
「ねえおまえ」とシェルビィ夫人が言った。「私はなに一つこれといっておまえのためになるようなことをしてあげられないのよ。お金をあげたところで、取り上げられるだけだしね。でも私、おまえに誓い、そして神さまにも誓って申します。きっとおまえの行き先をつきとめて、お金のつごうがつきしだいすぐに連れもどしますからね。――だから、それまでは、神さまを信じていておくれ!」
その時、子供たちがヘイリィの旦那が来るぞと叫んだ。そして、すぐに乱暴な足蹴りで戸が押しあけられた。見るとヘイリィがひどく不機嫌な様子で立っている。昨夜の激しい遠乗りと、自分の獲物を捕えそこねたことでまだ腹の虫がおさまらぬ様子である。
「やい」と彼は言った。「黒ん坊、支度はいいか? いやこれはどうも、奥さん!」と言って、彼はシェルビィ夫人に気がつくと、帽子をとった。
アント・クロウィは箱のふたをしめ綱をかけ、それから立ち上がって、つっけんどんにこの商人を睨《にら》みつけた。彼女の涙は一変して火花になったようであった。
トムは新しい主人について行くため、おとなしく腰を上げ、重い箱を肩にかついだ。彼の妻は赤ん坊を抱き上げ彼と一緒に馬車の方へとついて行った。子供たちは、なおも泣きながら、そのあとを追った。
シェルビィ夫人は、商人の所に歩み寄り、しばらくの間彼を引きとめ、何ごとか熱心に話していた。彼女がそうして話をしている間、一家の者は馬車の方へと歩みを進めていた。馬車はすでに引き具をつけて戸口に待っていた。その周りには屋敷じゅうの仲間たちが、年寄りも若者も、彼らの昔|馴染《なじ》みのトムに別れを告げようと集まっていた。トムは屋敷じゅうの者たちから召使頭としても、またキリスト教の先生としても仰がれていたので、心からの同情と悲しみとが彼に注がれた。特にそれは女たちの間に多かった。
「おや、クロウィ、あんたはよく我慢できるのう、わしらがこんなに泣いているのに!」だれはばからずに泣いていた女の一人が、馬車のかたわらに立っているアント・クロウィの陰気に平然としている様子を見てそう言った。
「おらの涙は涸れてしもうただ!」と彼女は、やって来た商人をきっと睨みながら言った。「あのならず者の前じゃ泣きたかねえだ、どんなことがあっても!」
「乗れ!」とヘイリィは、眉をひそめて自分を見つめている大勢の召使いの間を大股で歩きながら、トムに向かって言った。
トムが乗ると、ヘイリィは馬車の座席の下から重い足枷《あしかせ》を引き出して、両の踝《くるぶし》にしっかりとはめた。
おさえきれぬ怒りの呻き声が周囲の人々の間を走った。シェルビィ夫人はヴェランダから声をかけた、――
「ヘイリィさん、大丈夫です。そんな心配は絶対にいりませんよ」
「さあどうですかな、奥さん。あっしはこの屋敷から五百ドルってえ代物《しろもの》をなくしたんですからな、これ以上あぶなっかしい真似はごめんでさあ」
「奥さまがこんな男にこの上なにを望むことができるだ?」とアント・クロウィは憤然として言った。二人の子供はやっとこの時、父親の運命がわかったとみえて、彼女のガウンにしがみついて烈しく泣きわめいた。
「心残りなのは」とトムが言った。「ジョージ坊っちゃまがいらっしゃらねえことだ」
ジョージは近くの屋敷にいる友人の家に二、三日泊まる予定で遊びに行ったのであるが、その朝早く、トムの不幸が知れわたる前に邸《やしき》を出たので、このことを知らずに行ってしまったのであった。
「ジョージ坊っちゃまによろしくな」とトムは心をこめて言った。
ヘイリィは馬に鞭をあてた。こうして、じっと悲しそうな眼差《まなざ》しをいつまでも住みなれた屋敷にそそぎながら、トムはあわただしく連れ去られていった。
シェルビィ氏はこの時、邸にはいなかった。彼は差迫った必要にかられて自分の恐れる男の権力から逃れるためにトムを売った。――だからこの取引きの契約ができた時の彼の最初の気持は、安堵《あんど》のそれであった。しかし妻の抗議はなかば眠っていた悔恨の情を呼びさまし、トムの雄々しい、私情を越えた態度が彼の心の不快を募らせた。おれにはこうする権利があるんだ、――だれだってやっているじゃないか、――なかには必要がないのにやっている者だってある、と自分に言いきかせたがそれも無駄であった。――彼には自分の気持を納得《なっとく》させることができなかった。そこで彼は、この取引きの最後の不快な場面を見ないですまそうと、自分の帰らぬうちに万事が終わっていることを念じながら、ちょっとした用達しを口実にして旅に出てしまったのであった。
トムとヘイリィとは埃《ほこり》のたつ道をがたがたと通っていった。見慣れた場所を一つ一つ走り過ぎ、やがて屋敷の境界も過ぎ去って、彼らは広い街道に出た。そこを一マイルほど行った所で、ヘイリィは突然、鍛冶屋《かじや》の店さきに車を止めて、手錠を取り出すと、それを少し直してもらうために店の中へと入っていった。
「こいつはあの男のからだにゃあ少し小さすぎるんだがなぁ」と言ってヘイリィは、手錠を見せながら、トムの方をさした。
「おや! まあ、ありゃあシェルビィのトムでねえか。まさかあの旦那が売ったわけでもあるめえに、なあ?」と鍛冶屋が言った。
「ところが、売ったのさ」とヘイリィが言った。
「へえっ、そりゃあ! まあ、ほんとうに」と鍛冶屋は言った。「思いがけねえこんだ! だが、あの男ならそんなふうに枷をかけるにゃあ及ばねえ。なにしろ二人とねえ正直もんで、りっぱな――」
「そうだ、そうだ」とヘイリィは言った。「だがな、そのりっぱな男ってえのがよく逃げたがるやつなのさ。てめえの行く先がどこだか気にもかけねえような間抜けた野郎とか、何もかも捨てばちのだらしのねえ飲んだくれ野郎とかだったら、そりゃあおとなしくしていて、かえって売り飛ばされるのを大方よろこびやがるだろうがな。だがおまえさんの言うこういうすてきな野郎に限って、そういうこたあめっぽう嫌いやがるのさ。枷でもかけておかなきゃあほかにしようがねえんだ。足を自由にしてみろ――もっけの幸いと逃げやがるから、――間違っこねえんだ」
「なるほどね」と鍛冶屋は、道具をあれこれと探しながら言った。「あの川下の農園《プランテイション》という所は、お客さん、ケンタッキーの黒ん坊が行きたがる土地じゃないからね。あすこじゃあ黒ん坊はとてつもなく早く死ぬてえことじゃあないかね?」
「まあ、そうだな、めっぽうはええとこくたばっちまうな。天候の加減だとかなんだとかで、うめえ具合に死んでくれるんで市場はますます繁昌ってとこさ」とヘイリィは言った。
「へえっ、それじゃトムのようにりっぱで人がよくっておとなしい、しっかり者が川下へ連れて行かれてあの砂糖農園でひどくしぼられ、こき使われるなんて、ずいぶんと気の毒に思わずにゃおれんな」
「なあに、あの野郎は運がいいのさ。あいつには親切にしてやるってえ約束があるんだ。おれはどこかのりっぱな旧家へ召使いにでも売るつもりなんだ。だから、本人さえ熱病や気候に耐えりゃあ、どんな黒ん坊だってきっと欲しがるようなうめえ口にありつけらあな」
「かみさんや子供たちはこっちに置いておくんでしょうね?」
「そうさ。だが向こうへ行きゃあ別のができらあな。なあに、女なんてものはどこにだってうようよいやがるからな」とヘイリィは言った。
こうした会話が続けられている間、トムは店の外でひどく悲しそうな様子をしてすわっていた。と、突然彼の背後から馬の速く短かい蹄の響きが聞こえてきた。そして彼がまだ驚きからすっかり覚めきらぬうちにジョージが車の中に跳び込んで来て、両腕を激しく彼の首にまきつけ、すすり泣きながら語気をつよめて叫んだ。
「ほんとになんて卑劣なんだ! 人がなんと言おうとぼくはかまやしない。だれがなんて言ったって! これは胸がむかつくほど卑劣なひどい仕打ちだ! ぼくがおとなだったらこんな真似はさせやしない、――さすものか、絶対に!」とジョージが、怒鳴りちらしたいのを押えるような声で言った。
「おお、ジョージ坊っちゃま! よく来て下せえました!」とトムは言った。「坊っちゃまにお目にかからねえで行くのは耐えられねえことでごぜえました! ほんとうによく来て下せえましたな、ほんとうに!」と言いながらトムが足をちょっと動かしたのでジョージの目が足枷の上にとまった。
「なんてひどいことを!」と彼は両手をあげながら叫んだ。「あのおやじめ殴り倒してやる、――きっと!」
「いいや、いけません、ジョージ坊っちゃま。それにそんな大きな声をお出しになるじゃごぜえません。あの人を怒らしたんでは、このわしになんのためにもなりませんでの」
「そうかい、それならよすよ、おまえのためにね。だけどまあ考えてごらん、――ひどいじゃないか? だれもぼくを呼びに来ないし、一言も知らせてくれないんだもの。だからトム・リンカンが教えてくれなかったら、ぼく知らずにいるところだったんだ。それでね、ぼく、家のやつらをみんなさんざん叱ってやったよ!」
「それはよくなかったとわしは思いますだよ、ジョージ坊っちゃま」
「だって我慢できないもの! ほんとうにひどいよ! それからね、アンクル・トム」と言って彼は店の方へ背を向けて、何か訳のありそうな口調で言った。「ぼく、おまえにぼくの銀貨をもって来てあげたよ!」
「おお! わしがそんなお金を頂くなんて思いもよりましねえだよ、ジョージ坊っちゃま、とんでもねえ!」とトムはすっかり感動して言った。
「でもとっておおきよ!」とジョージは言った。「ほら、――ぼくがアント・クロウィにこのことを話したら、これに穴をあけて紐を通したらいいって教えてくれたんだ。そうすればおまえ、それを首にかけて隠しておけるものね。そうでもしないとあの意地の悪いごろつきが取り上げてしまうだろうからね。ねえ、トム、ぼく、あいつを叱り飛ばしてやりたいんだけどなあ! そしたら胸がすうっとするんだ!」
「いんや、いけません、ジョージ坊っちゃま、わしにはなんのためにもなりませんでの」
「それならぼくよすよ、おまえのためにね」ジョージはそう言いながらす早くトムの首に一ドル銀貨を結びつけた。「これでいい、さあ、この上に上着のボタンをちゃんとかけてしまっておくんだよ。そしてこれを見るたびに、いつかぼくがおまえのあとを追いかけていって連れもどしてあげるということを思い出しておくれよ(当時の一ドル銀貨の表面には自由の女神の座像が刻まれていた)。アント・クロウィとぼくはそのことを話したんだ。婆やにも心配しないようにって、ぼく、言っておいたよ。きっとやってみせるからね、もしお父さんがやってくれなきゃあ、うんとお父さんをいじめてやる」
「おお、ジョージ坊っちゃま、お父さまのことをそんなふうに言うものではごぜえません!」
「でも、アンクル・トム、ぼく、なにも悪いことをしようと言うんじゃないんだよ」
「いいですか、ジョージ坊っちゃま」とトムは言った。「あなたはいい子にならなければいけませんよ。どんなに皆さんがあなたに望みをかけていらっしゃるか忘れないようにね。いつでもお母さまのお側にいらっしゃるんですよ。よその子たちのように、大きくなってお母さまを忘れてしまうようなばかな真似はけっしてなさいませぬようにな。それにな、ジョージ坊っちゃま、神さまが二度もお授け下さるものはたくさんあるが、お母さまだけは一度しか下せえませんのですよ。お母さまのようなりっぱな方には、ジョージ坊っちゃま、あなたが百になるまで生きても、もう二度とは会えませんのですよ。ですから、な、お母さまの側にいて、大きくなって、お母さまの慰めになってあげて下せえまし、いい子ですからの、――そうして下せえましよ、の?」
「うん、するよ、アンクル・トム」とジョージはまじめに言った。
「それから、言葉づかいに気をつけて下せえましよ、ジョージ坊っちゃま。若い男の子は、坊っちゃまぐれえの年になると、時々言うことをきかなくなりますでの、――それはこの年頃の子にはあたりまえのことかもしれねえが。だけどわしが坊っちゃまに、なってほしいと思うほんとうの紳士ちゅうものは、けっしてご両親さまに失礼な言葉は吐かねえものです。お気にさわりはせんでしょうのう、ジョージ坊っちゃま?」
「いや、ちっとも、アンクル・トム。おまえはいつもよい忠告をしてくれるもの」
「わしのほうが年上ですでの」とトムは少年の美しい巻毛の頭を大きい頑丈な手でなでながら言ったが、その声は女の声のように優しかった。「これから先、坊っちゃまの行く手に何が待ちかまえているか、わしにはちゃんとわかりますだ。おお、ジョージ坊っちゃま、あなたは何もかも身につけていらっしゃる。――学問、特権、読む力、書く力、――ですから坊っちゃまは今に偉い、学問のあるりっぱな人になって、お邸の人たちやお母さまお父さまがみんな坊っちゃまを自慢するようになりますだ! お父さまのような、りっぱなご主人になって下せえよ。そしてお母さまのような、クリスチャンになって下せえまし。若いうちから、あなたをお創《つく》り下さった神さまをお忘れになってはいけませんよ、ジョージ坊っちゃま」
「ぼく、ほんとうにりっぱな人になるからね、アンクル・トム、きっとだよ」とジョージは言った。「ぼく、第一級の人になってみせる。だから爺や、力を落とさないでおくれ。今におまえを屋敷に連れもどしてあげるからね。けさもアント・クロウィに言ったんだけど、ぼくがおとなになったら、おまえにちゃんとした家を建てて、絨毯《じゅうたん》の敷いてある客間用の部屋も造ってあげるよ。おお、おまえにはまだ幸せな日が来るんだよ!」
この時ヘイリィが手錠を手にして戸口に姿を見せた。
「ねえ、ちょっと、君」とジョージは車から出ながら、かなり高飛車な態度で言った。「君がアンクル・トムをどんなふうに扱っているか、お父さんやお母さんに言いつけてやるよ!」
「なんとでもおかってに」と商人は言った。
「男の人や女の人を買って、それを家畜みたいに鎖でつないで一生を送るなんて、君、恥ずかしいだろうにね! 気がひけるだろうにね!」とジョージは言った。
「おまえさんたちのような高貴なお方衆が、男や女を買いたがっているうちは、あっしだって同じくれえりっぱなもんでさ」とヘイリィは言った。「売るのが買うのより卑しいってえ理屈はないからね!」
「ぼくがおとなになったら、そのどっちだって絶対にするものか」とジョージは言った。「ぼくはきょう、ケンタッキー人であることが恥ずかしい。今まではそれをいつも誇りにしていたんだが」ジョージは馬の背にすっくと跨がると、まるでこの州が彼の意見に感動することを期待するかのような態度であたりを見まわした。
「じゃあ、さようなら、アンクル・トム。辛抱おしよ」とジョージは言った。
「さようなら、ジョージ坊っちゃま」トムは彼を優しく、また敬うように見つめながら言った。「全能の神さまがあなたをお恵み下さいますように! ああ! ケンタッキーにあなたのような方が何人もおりましたらなあ!」率直な男の子らしい顔が見えなくなった時、彼は胸迫る思いでそう言った。ジョージが行ってしまっても、トムは馬の蹄の音が遠く聞こえなくなるまでそのあとを見送っていた。それはわが家の最後の音であり、あるいは最後の姿であった。しかし彼の胸の上には一か所、温かな場所があるように思われた。それは、あの幼い手が貴い銀貨をつけてくれた所であった。トムは手をあげて、それをしっかりと胸に押しあてた。
「おい、おまえに言っておくがな、トム」とヘイリィが車の所へやって来て、手錠を投げこみながら言った。「おれはいつも自分の黒ん坊たちにしているように、おまえともおだやかにやっていくつもりでいるんだ。だからなおい、まず、おまえのほうからおだやかにしろよ。そうすりゃあ、おれだっておまえをおだやかに扱ってやらあ。おれはけっして黒ん坊に酷いこたあしねえ。できるだけのこたあしてやろうと思ってるんだ。な、だからよ、ゆっくり腰を落着けて、つまらねえ真似なんかしねえほうがいいぜ。なにしろこっちは黒ん坊のやるこたあ、なにもかも先刻承知なんだ、無駄なことだからな。おとなしくしていて、逃げ出そうなんて量見を起こさなけりゃあ、うまくやっていけるんだ。やっていけなきゃあ、それぁ、そっちが悪いからで、おれのせいじゃあねえ」
トムはさしあたって逃げる意志など少しもないと断言した。じじつ、そうした訓戒は、両足に大きな鉄の足枷をはめられている人間にとっては余計なもののようであった。しかしヘイリィ氏には、自分の仕入れた奴隷との付合いをこうした種類のささやかな訓戒をもって始めるという癖《くせ》があって、彼はそうすることによって奴隷たちに快活さと信頼感とを吹き込み、避け難い不愉快な光景を防ぐことができるであろうと考えていたのである。
しかしここでしばらくの間、われわれもトムに別れを告げて、この物語の他の登場人物の運命を追うことにしよう。
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第十一章 この章では財産が不都合な精神状態になる
一人の旅人がケンタッキー州のNという村のある小さな田舎宿《いなかやど》の前に降り立ったのは、霧雨の降るある日の午後もおそくなってのことであった。旅人が見ると、宿の酒場には種々雑多な人の群れが寄り集まっていたが、どうやらおりからの悪天候に降り込められた連中のようで、この酒場もこうした寄り集まりにきまってつきものの光景を見せていた。大きな背の高い瘠せぎすのケンタッキー人たちが、狩猟服を着こんで、彼ら特有のゆったりとした恰好《かっこう》で椅子に背をもたせかけ、長々とその弛《ゆる》んだ四肢の関節をのばしている様子、――片隅《かたすみ》に立てかけた猟銃、そこいらの隅にまとめて転がしてある弾薬袋や獲物袋や猟犬や黒人の子供たち、――これらのものがこうした光景の中では特に人目をひく存在であった。煖炉の両側には脚の長い紳士がすわっていたが、二人とも椅子をのけぞらせて、帽子もかぶったまま、泥まみれの靴の踵を炉棚の上に悠然とのせていた。――こうした姿勢は、参考までに読者の皆さんにお話しておくと、ものを考え込む時にはしごくつごうのいい恰好で、西部の旅籠屋《はたごや》ではよく見かけるものなのである。ここへ来るとどの旅人も理解力(原文のunderstandingsには「脚」という意味もある。ここでは作者がそれにひっかけてしゃれたもの)を高めるというこの特別な姿勢がきまって好きになるのである。
酒台《バー》の向こうに立っている宿の主人は、ここにいる人々の大部分と同じように、背が高く、愛想がよく、また締まりのないからだつきの男であったが、頭はおそろしくくしゃくしゃの髪をしていて、その頂きには大きな丈の高い帽子をのせていた。
じっさい、この部屋にいるものはだれも彼もが自分の頭の上に、人間の主権を表わすこの独特な象徴をのせていた。たとえそれがフェルト帽にしろ、棕櫚《しゅろ》の葉帽にしろ、てかてかのビーヴァ帽(ビーヴァの毛皮で作った帽子)にしろ、あるいは美しい新流行の帽子《シャポー》(Chapeauという語がアメリカで最初に用いられたのはこの作品においてである)にしろ、それは真に共和主義的独立精神をもってそこにのせられていたのである。じじつ、それは各人の個性の特徴であるかのように見えた。ある者は粋《いき》に片方へ傾けてかぶったり、――こういうのはいわゆるユーモラスな人物で、愉快ななんの屈託もない輩《やから》なのであるが、またある者はよそ目にはかまわず鼻がかくれるほど深くかぶったりする、――こういうのはいわゆる頑固一徹《がんこいってつ》な人間で、帽子をかぶるにも、それをかぶりたい、ほんとうにその気持どおりにかぶりたいという徹底した人なのである。なかにはずいぶんと後ろの方にかぶるのもいるが、――これなどははっきりとした前途の見込みが知りたいというちゃっかり屋で、そうかと思うと自分の帽子がどんなふうにかぶさっているか、知りもしなければ気にもとめず、あっちこっちに揺すぶっているような無頓着なのもいる。さまざまな帽子は、つまり、まったくシェイクスピアの研究といったようなものである。
黒人が数人、ひどくだぶだぶなズボンをはき、なんの縁飾りもないシャツを着て、そこいらをあちこちと足早やに動きまわっていたが、それはべつにこれといって特別なことをするわけでもなく、ただ概して主人とその客たちとのためにこの世のことならなんでも喜んでやるという彼ら特有の気持を表わしているのである。こうした光景に、大きな幅広の煙突を楽しそうにのぼっていく陽気な、ぱちぱちと音をたてて跳ねまわる火、――一つ残らずあけひろげた外側の戸や窓、湿ったうすら寒い空気を含んだかなり強い風に、ぱたぱたと音をたてているサラサの窓かけといったものを加えてごらんなさい、――ケンタッキーの宿屋の楽しさがいくぶんなりともおわかりいただけるでしょう。
今日のケンタッキー人は、本能も特性も共に遺伝するものであるという学説を説明するにはつごうのよい実例である。彼らの先祖は逞《たくま》しい猟人であった。――森の中で暮らし、自由なひろびろした大空の下で、ろうそくの代わりに星をいただいて眠った人々であった。したがってその子孫は今日にいたるまで常に家をキャンプのようなつもりでふるまい、――四六時ちゅう帽子をかぶり、所かまわずからだを投げ出し、椅子や炉棚の上に踵をのせるさまは、ちょうど先祖が芝生の上に寝ころがって木や丸太の上に踵をのせたのとそっくりで、――窓やドアは、大きな肺に十分空気を吸い込めるように冬でも夏でもみなあけ放し、――だれをも「|もしあんた《ストレンジャー》」と無頓着な親しみのある態度で呼んだりして、それはまったくこの上なくざっくばらんな、人づきあいのよい、陽気な人間なのである。
こうしたのんびりと寛いだ集まりの中へ、先刻の旅人が入ってきた。彼は背の低いずんぐりとした男で、きちんとした服装に、丸い人のよさそうな顔つきをしていたが、その風采《ふうさい》にはどことなく凝《こ》り過ぎたなみなみならぬものがあった。彼は旅行かばんとこうもり傘とをひどく大切にして、自分で両手に下げたまま、それを受け取ろうとするさまざまな召使いの申し出をことごとく頑固にはねつけながら入って来た。彼はやや不安そうに部屋の中を見まわし、それから、この貴重品をもって一番温かそうな一隅へと引込むと、荷物を椅子の下に入れて腰を下ろし、炉棚はここだよと言わんばかりに踵をのせている例の紳士を気づかわしげにながめた。その紳士は、細い神経やお上品な習慣の紳士たちにとってはいささかびっくりするほどの勇気と勢力とでそこいらいちめんにペッ、ペッと唾をはいていた。
「やあ、|あんた《ストレンジャー》、元気ですかい?」とこの紳士は新しく入って来た客に向かって噛《か》み煙草《たばこ》の汁の礼砲を撃ち上げながら言った。
「はあ達者だと思いますが」とびっくりして、その脅迫的な礼砲をかわしながら相手は答えた。
「何か変わった話はありませんかね?」と応答者はポケットから煙草の葉と大きな猟刀をとり出しながら言った。
「さあ、ないようですな」と男は言った。
「噛みますかい?」と先に口をきいた男が、みるからに親しげな様子で煙草を少しその老紳士に差し出した。
「いや、せっかくですが、――口に合いませんのでな」と小柄な男はそう言って、ジリジリとその場を離れた。
「そうかね、え?」と相手は気軽にそう言うと、社交のためには煙草汁の供給を切らしてはいけないとでもいうふうに、それを自分の口の中にしまい込んだ。
老紳士はこの胴の長い友人が自分の方へ煙草汁の砲火を浴せるたびにはっとした。相手はそれに気がつくといかにも人がよさそうに筒先を他へ向け、一つの市を占領するのに十分なほどの軍事的手腕で、炉辺用具の一つにまた猛火を浴びせかけた。
「あれはなんですかな?」と老紳士は、大きなビラを取り巻いて一団をなしている人々に目をとめると言った。
「黒ん坊が広告に出ているんでさあ!」とその中の一人が簡単に言った。
ウィルスン氏、それがこの老紳士の名前であったが、彼は立ち上がると、トランクとこうもり傘を注意深く置きなおして、それからおもむろに眼鏡を取り出し、それを鼻の上にのせた。そしてこの動作が完了すると彼は次のようなビラの文句を読んだ。
「当方所有の混血児《ミュラトゥ》、ジョージなるもの当方より逃亡。身長六フィート、色かなり白き混血児にして頭髪は茶褐色の縮れ毛。頭脳きわめて優れ、言葉は白人のごとく、読み書きを能《よ》くす。白人と称して世人を欺くならん。背および両肩に深い傷跡。右手にはHの烙印《らくいん》あり。
同人を逮捕せし方には金四百ドルを、また殺されたりとの確たる証拠を提供下されし方にも同金額を進上つかまつるべし」
老紳士はこの広告を端から端まで、まるで空で憶《おぼ》えようとでもするかのように、低い声で読んだ。前に述べた例の炉辺用具を攻撃していた脚長《あしなが》の強者《つわもの》は、その時やっかいな長い脚を下ろし、長いからだを起こすとその広告の所へ歩みよって来て、落着きはらった態度でその上へ思い切り煙草の汁を吐きかけた。
「これがあたしの気持でさ!」一言そう言うと彼は再び腰を下ろした。
「おや、まあ、|あんた《ストレンジャー》、そりゃあまたどうしたわけでね?」と宿の主人が言った。
「あの広告を書いた当の男が、もしここにいたら、そいつにだって同じことをしてやりまさあ」とひょろ長い男は言って、平然とまた煙草の葉を切りはじめた。「あれほどの男を持っていながら、もう少しましな扱い方ができないようじゃ逃げられたってしかたがねえ。あんな広告はケンタッキーの恥ですぜ。だからほら、あたしの気持はあのとおりでさ、だれか知りたいっていうんならね!」
「なるほどね、まったくだ」と宿の主人は帳簿をつけながら言った。
「あたしんとこにも黒人の若いのが何人かおりますがね」とひょろ長い男は炉辺用具の攻撃を再び開始しながら言った。「あたしは、やつらにゃただこう言っているだけでさあ――『おまえたち』とね――『さあ逃げたっていいぜ! 飛び出したっていいぜ! ずらかっちまったていいぜ! おまえたちがそうしたいってえ時にはな! おれはけっしておまえたちを追いかけるようなこたあしねえだろうからな!』これがあたしのこれまでのやり方でさあ。いつでも逃げられるんだっていうことを知らせてやってごらんなせえ、かえって逃げたい気持はなくなってしまうもんだ。それに、あたしゃあやつらのために解放証書《フリー・ペイパー》をちゃんと作ってあるんですぜ、いつなんどきこっちがお手あげになるかわからんのでね。やつらはそれを知ってるんでさ。それにねえ、|あんた《ストレンジャー》、この辺であたしほど黒ん坊から多くのものを得ている者はいませんぜ。だって、うちのやつらが、みなで五百ドルにもなる子馬を何頭かつれてシンシナティへ売りに行ったことがあるが、いつだってちゃんとその金を持ってまっすぐに戻って来ましたからな。そうするのがあたりまえのことなんでね。やつらを犬のように扱ってみなせえ、犬のような仕事、犬のような働きしきゃあしてくれないからね。人間のように扱やあ、人間の仕事をしてくれるわけでさあね」そしてこの誠実な家畜商人は、からだをほてらせながら、煖炉に向かって熟達した礼砲《フォードジュウ》を一発放つことによってこの道徳的感情を保証した。
「まったくそのとおりだと思いますよ、あなた」とウィルスン氏は言った。「そして、ここに書かれている青年はたしかにりっぱな男です――間違いありませんよ。この男は私の製袋《せいたい》工場で六年ほど働いていましたが、じつによく働いてくれましたよ。それに器用な男でしてな、麻をクリーニングする機械を発明したんですわ――それがまたじつに有益なものでしてな。今ではいくつかの工場で使われるようになっておりますわ。ところが特許権はあの男の主人が持っているんですからな」
「まったくね」と家畜商人が言った。「特許は自分が握って、そいつで金もうけをしていながら、くるりと背を向けてその男の右手に烙印を押すような真似をするなんて。いつかうまい機会があったら、このおれがそいつに、ちっとやそっとじゃあ消えないような烙印を押してやるんだが」
「あんたの知っていなさるというそういう若いやつらが、いつもしゃくにさわる、なまいきなやつなんだよ」と下卑た顔つきの男が部屋の片隅から言った。「だからひどい目にあったりそんなふうに烙印を押されたりするんだね。奴隷なら奴隷らしくしていりゃあ、そんなこともないのによ」
「それはとりもなおさず、神さまは彼らだって人間にお造りになったんで、それを犬畜生にするのはずいぶんむずかしいことだということなのさ」と家畜商が冷然と言った。
「頭のいい黒ん坊なんてものは主人にとっちゃあちっとも役にたたねえものだ」と相手は下卑た無意識の鈍感さで、論敵の軽蔑《けいべつ》をうまく防ぎながら続けた。「才能とかなんだとかがあったって、おまえさん方がそれを利用できなきゃあ、なんのたしになりますね? ええ、やつらはおまえさん方をだますのにそれを役だてるだけだからね。あたしもそういった手合いを一人二人もっていたが、川下へ売り飛ばしてしまった。売りでもしなけりゃ遅かれ早かれ逃げられちまうこたあわかっていたからね」
「それなら神さまに注文して、一揃え、魂の少しもないやつをこしらえてもらうといいぜ」と家畜商が言った。
この時会話は、小さな一頭立ての馬車がこの宿屋に近づいて来たことによって中断された。馬車は優雅なこしらえで、なかにはりっぱな身なりの、いかにも紳士らしい男が一人乗っていて、黒人の召使いが馬車を馭していた。
居合わせた連中はそろってこの新来の客をじろじろとながめた。雨の日に退屈している連中が新来の客の入ってくるたびにいつも示すあの目つきである。男は非常に背が高く、浅黒いスペイン人のような顔色をしていて、美しい表情に富んだ黒い目と、また同じように美しく光るまっ黒い細かくちぢれた髪をしていた。その形のよい鷲鼻《わしばな》、一直線に結んだ薄い唇、美しい形をした四肢のみごとな輪郭、こうしたものがその場に居合わせたすべての人々にたちまち何かなみなみならぬ人物といった印象を与えた。彼は気安く人々の間に入って来ると顎で給仕にトランクを置く場所を示してから、一同に会釈《えしゃく》をして、帽子を片手に、ゆっくりと酒台《バー》の方へ歩みをよせ、シェルビィ郡、オークランドのヘンリィ・バトラァだが、と名前を告げた。それから何気ない様子で振り返り、例のはり紙の方へふらりと歩いてゆくと、それをくりかえして読んだ。
「ジム」と彼は自分の召使いに言った。「バーナンの店でこれに似た若者に逢ったように思うが、どうかね?」
「はい、旦那さま」とジムが言った。「ただ手のことは確かではございませんが」
「うん、もちろん、わたしも見なかったが」とその見知らぬ男は無頓着にあくびをしながら言った。それから宿の主人の方へ歩みよって、これからすぐに書き物をしたいから個室を用意してもらいたいと言った。
宿の主人はへいへいと二つ返事で承知した。七人ほどいる黒人の、年寄りも子供も男も女も、からだの小さいのも大きいも、すぐに鷓鴣《しゃこ》の群れのようにそこいらを飛びまわり、急《せ》きたてたりあわてたり、互いに相手の爪先を踏みつけ合ったり、相手の上に転げ合ったりして一生懸命にお客さまの部屋の用意にとりかかった。その間、彼は部屋の中央に置いてある椅子にゆっくりと腰を下ろして、隣にすわっている男と話を始めた。
工場主のウィルスン氏は、この見知らぬ男が入って来た時から、落着かぬ不安な好奇心に駆られたらしい様子で彼を見つめていた。どこかでこの男を見かけもし、知ってもいたように思えるのであるが、だれであったか思い出せなかった。その男が口をきいたり、からだを動かしたり、あるいはほほえんだりするたびごとに、彼ははっとしてその男をじっと見つめるのであるが、あの美しい黒い目にきわめて平然とした冷静さで見返されると、あわてて視線をそらせた。そのうちに、突然記憶が彼の脳裏にひらめいたようであった。というのは彼があまりの驚きと不安の様子でこの見知らぬ男を見つめたので、その男が彼の方へ歩みよって来たからであった。
「ウィルスンさんじゃありませんか」とその男は、聞き覚えのある口調で、手を差しのべながら言った。「お見それしていてすみません。つい思い出せなかったものですから。私をご記憶でしょう、――シェルビィ郡、オークランドのバトラァですよ」
「え――ええ――ええ」と言ったウィルスン氏は夢の中でものを言っている人のようであった。
ちょうどその時、一人の黒人の給仕が入って来て、旦那さまのお部屋の用意ができましたがと告げた。
「ジム、トランクに気をつけていてくれ」と紳士は無頓着に言うと、ウィルスン氏に向かってつけたした――「よろしかったら私の部屋であなたと少し商談をいたしたいのですが」
ウィルスン氏は夢遊病者のように彼のあとからついていった。二人は二階の大きな部屋へ入っていったが、そこにはおこしたばかりの火がぱちぱちと燃えており、数人の召使いがあちこちと飛びまわって部屋の支度に最後の仕上げをしていた。
支度がすっかりできあがり、召使いたちが出ていってしまうと、若い男は慎重にドアに錠をかけ、鍵をポケットにしまって、向きなおり、胸の上に両腕を組んでウィルスン氏をまじまじと見つめた。
「ジョージ」ウィルスン氏は言った。
「そうです、ジョージです」と若い男は言った。
「こんなことは思いも及ばぬことだった!」
「ずいぶんうまく化けたでしょう」と若い男は微笑しながら言った。「くるみの皮をちょっと使ったら私の黄色い皮膚も上品な褐色になりましてね。そこで髪も黒く染めたんです。ですからあの広告とは似ても似つかぬわけですよ」
「おお、ジョージ! しかし君が今やっていることは危険な芸当なんだよ。私としてはとうていそんなことはすすめられない」
「これは私の一存でできることなのです」ジョージは相変わらず誇らしげな微笑をたたえて言った。
われわれはここで、|ことのついでに《アン・パッサン》、ジョージは父方が白人の血統であったことを説明しておこう。彼の母親は黒人の中でも不幸な者の一人で、美しさゆえに所有者の情熱の奴隷となり、父親を知ることのけっしてない子供の母親となるべき運命を負わされていた。彼はケンタッキーで一番りっぱな家柄の一つから美しいヨーロッパ人らしい容貌《ようぼう》と、高い不屈の精神とを受けついでいた。そして母親からは、ほんのわずかの混血《ミュラトゥ》の皮膚の色を受けついだだけで、その代わりその埋合わせとして混血によく見られるあの豊かな黒い目を授けられていた。したがって皮膚の色と髪の色とをわずかに変えさえすれば彼はこの場のようにスペイン人らしい男になれるのであった。そして優雅な身のこなし方やりっぱな紳士らしい態度は彼にとってはいつも申し分なく身についていたので、こうした大胆な役を――召使いを伴に旅をする紳士という役を、演じていてもなにも困難なことはなかったのである。
ウィルスン氏は、人は好いが、しごく落着きのない、用心深い老紳士であったので、ジョン・バニヤン(一六二八年―八八年。英国の説教師)が言っているように「心とみに乱れ」(「天路歴程」第二部、二十三)た様子で部屋の中をあちこちと歩きまわり、ジョージを助けたいという気持と、法と秩序を維持しようというある複雑な考えとにはさまれて心を惑わせていた。そこで部屋の中をよろめきながら、こんな意見をはいた。
「ねえ、ジョージ、君は逃亡の途中のようだが――法律上の主人を捨ててね、ジョージ――(それも無理からぬことと思うが)――また同時に、私は残念に思うよ、ジョージ、うん、たしかに――私はそう言わねばならぬと思う、ジョージ――君にそう告げるのが私の義務というものだからね」
「なぜ残念なのですか?」ジョージは静かに言った。
「それは、いわば、君が自分の国の法律にそむいているのを私は見るわけなのだからね」
「私の国ですって!」とジョージは激しい、苦々しい口調で言った。「墓のほかに私にどんな国があるというんです。――私は早くそこに埋めてもらいたいと神さまに祈っているくらいです!」
「いや、ジョージ、いけない、――いけない、――それはよくない。そんなふうに言うのは間違っている――聖訓《みおしえ》にそむくというものだ。ジョージ、君の主人は酷《ひど》い人だ――確かに酷い、――じっさいあの男のやり方は不埒千万だ――私はそれを弁護するようなことはできない。しかし天使がハガルに向かって女主人のもとに帰り、その手に身を任すようにと命じた話(創世記、第十六章第九節)、また使徒がオネシムスを主人のもとに送り返した話(ピレモンへの手紙、第十〜十六節)は君も知っているはずだ」
「私に対してそんなふうに聖書の中の話を引用しないで下さい、ウィルスンさん」とジョージは目を光らせて言った。「どうかやらないで下さい! 私の妻はクリスチャンです。そして私もクリスチャンになるつもりです、もしなれる所に着きましたらね。しかし今の私のような境遇におかれた者に聖書の話を引用したって、そんなものはどうだっていいという気持にさせるだけです。私は全能の神に訴えます。――私は今度の事件をたずさえて神さまのもとへ行き、神さまにきいてみたいと思っています。私は自分の自由を求めるために悪いことをしているかどうかとね」
「君の気持はいちいちもっともなことだ、ジョージ」と人の好い紳士は鼻をかみながら言った。「いかにも、もっともなことだ、しかし君の胸の中にそうした気持を助長させないようにするのが私の義務だ。そうだよ、君、私はいま君を気の毒に思っている。それはつらいことだろう――ずいぶんとな。しかし使徒は『各人《おのおの》その召されし時の状《さま》にとどまるべし』(コリント人への前の書、第七章第二十節)と教えておられる。私たちはすべて神の摂理に従わなければいけないのだよ、ジョージ、――君にはそれがわからないかね?」
ジョージは頭を後ろに引き、両腕を広い胸の上にしっかりと組み合わせて立っていた。そして彼の口もとには苦々しい微笑がただよっていた。
「ウィルスンさん、もしインディアンが来てあなたを捕え、あなたを奥さんや子供さんの所から連れていって、一生の間彼らのためにとうもろこしを植えさせようとしたら、あなたはその召された時の状態に止どまるのがあなたの義務だとお考えになりますか。私はむしろ、はぐれ馬にとび乗って逃げられる機会が見つかりしだい、あなたはそれを神の摂理だとお考えになると思いますね――そうじゃありませんか?」
小柄な老紳士はこの例証に目をみはった。しかし彼は大した理論家ではなかったが、こうした特別な問題については論理学者も及ばぬような分別をもっていた。――つまり答えにつまった時は何も言わぬことだ、という分別である。そこで彼はこうもり傘をそっとなでたり、たたんですっかり皺をのばしたりしながら、漠然《ばくぜん》とした言いまわしで訓戒をつづけた。
「ねえ、ジョージ、君も知ってのように、私はいつも君の味方だった。私が何を言うのもそれはみな君のためを思ってのことだ。で、こうして、いま君のやっていることはじつに危険なことだと私には思えるのだ。とても成功は望めない。つかまりでもしたらこれまで以上に酷い目にあうだろう。そうなったらさんざんこき使われて、そのあげく半殺しにされて、川下へ売られるだけだからね」
「ウィルスンさん、それは百も承知です」とジョージが言った。「私はじっさい危険を冒しています。ですが――」彼は外套をひろげて二挺のピストルとボーイー・ナイフ(刃わたり十五インチほどの片刃のナイフ)とを見せた。「ほら!」と彼は言った。「私だって用意はしています! 南部へは絶対に行きません。断じて!いよいよとなれば、少なくとも六フィートの自由な土地を私は自分のものとすることができるのですからね。――私がケンタッキーで所有する最初で最後の土地をね!」
「いや、ジョージ、君がそんな気持でいるなんて恐ろしいことだ。それではほんとうに救われる見込みもなくなってしまうよ、ジョージ。私は心配だ。自分の国の法律を犯そうとするなんて!」
「また私の国ですか! ウィルスンさん、あなたには国があります。しかし私には、奴隷の母親から生まれた私と同じような者には、どんな国があるというのです? 私たちのためにどんな法律があるというのですか? それは私たちがつくった法律ではありません。――私たちが同意したものではありません。――私たちはそんな法律には無関係なのです。それは私たちを押しつぶし、そしておさえつけておくだけなのです。あなた方が行なう七月四日(アメリカ合衆国独立記念日)の記念演説を私は聞いたことがなかったでしょうか? あなた方は私たちすべての者に一年に一度ずつ、政府はその正しい力を被統治者の同意によってかち得るのだ、と教えてくれているじゃありませんか? こうしたことを聞いて、考えないでいられますか? あれとこれとを考え合わせて、それがどういう結論になるか知ることができないでしょうか?」
ウィルスン氏の心はちょうど一梱《ひとこり》の棉に例えてもいいようなものであった、――ふかふかで、柔らかで、優しくけば立って混乱していた。彼は実のところ心からジョージに同情し、そして自分の心をかき乱す感情をもかすかにぼんやりと感知していた。しかしどこまでも根気強く、彼のためになることを話しつづけるのが自分の義務であると思っていた。
「ジョージ、これはよくないことだ。私は、いいかね、友人としてぜひとも君に忠告せねばならないのだが。いつまでもそんな考えをひねくりまわしていないほうがいい。そんな考えはよくないよ、ジョージ、はなはだよくない、君のような境遇にある者にはね、ほんとにだ」とウィルスン氏はテーブルのかたわらに腰をおろし、いらだたしげにこうもり傘の柄《え》を噛みはじめた。
「ねえウィルスンさん」とジョージは歩み寄ると決然とした態度で彼の面前に腰をおろした。「さあ、この私を見て下さい。こうしてあなたの前にすわっている私は、どの点から見ても、あなたと同じ人間ではないでしょうか? この顔を見て下さい。――この手を見て下さい。――このからだを見て下さい」青年は誇らしげに胸をはった。「どうしてこの私が、他の人と同じように一個の人間ではないのでしょうか? まあ、ウィルスンさん、私の話を聞いて下さい。私の父は――あなたと同じケンタッキーの紳士の一人でしたが――私のことなどあまり考えてもくれなかったので、父が死ぬと、財産を処分するため、私は犬や馬と一緒に売られることになりました。私は、私の母が七人の子供と一緒に郡治安官の行なう公売に出されるのを見ました。子供たちは母親の目の前で、一人一人、みな違った主人に売られたのです。そして私が一番の末っ子でした。母親は私の買主の前へ来て膝をつき、どうぞ自分も一緒に買って下さい、せめて一人の子供とは一緒にいたいからと懇願しました。するとその男は重い靴で母親を蹴とばして追い払ったのです。私は目《ま》のあたりにそれを見ました。そして私が耳に聞いた最後のものは母親の呻き声と悲鳴でした。私が馬の首にくくりつけられて、買主の家へ連れ去られる時です」
「うん、それで?」
「私の主人は買手仲間の一人と取引きをして、私の一番上の姉を買いました。姉は信心深い、りっぱな娘でした。――バプティスト教会の会員で、――かわいそうな母親に似て美人でした。躾《しつ》けもよく、身だしなみもりっぱでした。最初の間は、姉が買われたことを嬉しく思っていました。味方が一人そばにいるわけですから。しかしまもなくそれを悲しむようになりました。そうです、私は戸口にいて、姉が鞭で打たれるのを聞いたのです。その時の鞭の一打ち一打ちは私のむきだしの心臓に食い入るようでした。しかも私にはなに一つ姉を助けることができなかったのです。姉が鞭打たれたのは、いいですか、りっぱなキリスト教徒の生活がしたいと望んだからなのです。あなた方の法律が奴隷にそういう権利を与えていない生活を姉が望んだためなのです。そしてとうとう姉がある奴隷商人のひきいる奴隷の群れと一緒に鎖につながれて、オーリアンズの市場へ送られていくのを私は見ました。――たったそれだけのことで姉は売られていったのです。――そして姉についてはそれから後のことは何もわかりません。私はだんだん大きくなりました。――ずいぶん長い間、――父もなく、母もなく、姉もなく、私を犬以上に可愛がってくれる人はだれ一人ありませんでした。あるものはただ鞭と叱責《しっせき》と飢えだけでした。そりゃあ、あなた、犬が投げてもらう骨を横取りして喜んだほど饑《ひも》じい目にあったこともありました。それでも私が小さい時分に夜っぴて目を覚まし、泣いたのは、それは饑じいためでもなければ、鞭で打たれたためでもありません。いいえ、ほんとうに私は私の母や姉たちのことを思って泣いたのです。――この世で私を可愛がってくれる友が一人もいないのが悲しかったのです。私は平和とか慰めというものがどんなものか知りませんでした。私はあなたの工場で働くようになるまでは、だれからも優しい言葉一つかけられたこともなかったのです。ウィルスンさん、あなたは親切にして下さいました。元気で暮らせ、読み書きを学べ、己れをひとかどの人物にするよう努力せよといって励まして下さいましたね。それを私がどんなに感謝しているかおわかりになりますまい。そのうち私は今の妻を知るようになりました。お会い下さいましたね。――あれがどんなに美しいか、あなたもご存知でしょう。あれが私を愛してくれているのを知った時や、二人が結婚した時など私は自分が生きているなんてとても信じられませんでした、もう嬉しくて嬉しくて。そして、ほんとうに、あれは姿が美しいばかりでなく心も同じように美しい女なのです。それが、今はどうでしょう? だしぬけに主人がやって来て、今までの仕事や、友だちや、私の好きなありとあらゆるものを私から取り上げて、私のからだがそれこそ塵《ちり》あくたに化するほどこき使うじゃありませんか! なぜ? 私が自分の身分を忘れたからだ、と言うのです。私が一個の黒ん坊にすぎないということを教えてやるためだ、というのです! 結局、最後には、私とあれとの中に割って入り、あれを諦めて、別の女と一緒になれと言うのです。そしてこうしたことすべてをあなた方の法律はあの男にさせる権力を与えているのです、神や人に逆らってです。ウィルスンさん、このことを考えて下さい! 私の母や姉、私の妻や私自身の心を打ち砕いてしまった、こうしたあらゆる行為の中で、ただの一つだってあなた方の法律が許さないものはないということを。ケンタッキーにおいては、だれでもがそうした権力を与えられており、したがってだれもあの男に反対をとなえることはできないということを! こうしたものをあなたは私の国の法律と言われるのですか? ほんとうに、私には国などありません、私に父というものがなかったと同様です。しかし私はこれから持とうとしています。私はあなたの国にしてもらいたいことは何もありません、ただかまわずにいてほしいのです、――おとなしくそこから立ち去らせてもらいたいだけです。そしてカナダに行き着けたら、そこでは法律が私を認めてくれ、私を保護してくれるでしょうから、そこを私の国とし、そしてそこの法律に私は従うつもりです。しかしたとえだれであろうと、この私をじゃましようという者があれば、その者は用心するがいい、私は命を賭していますからね。私は私の自由のために最後の息を引きとるまで戦います。あなたの先祖は自由のために戦ったと、あなたは日頃おっしゃっていたではありませんか。それが正当だったのなら、私にだってこれは正当なはずです!」
ある時はテーブルのかたわらにすわりながら、またある時は部屋の中をあちこちと歩きながら語られたこの言葉は、――涙と、燃える瞳と、絶望的なしぐさとをもって語られたこの言葉は、――それを聴かされたこの人の好い老紳士にとってはあまりにも強すぎるものであった。彼はいつの間にか大きな黄色い絹のハンカチをとり出して、はげしく顔を拭いていた。
「あの畜生どもめ!」と老紳士が突然叫んだ。「私はいつもそう言っていた、――あの地獄の鬼どもめ! いやこんなことを言ってこれが罰あたりな業《ごう》にならなければよいが。よし! やれ、ジョージ、やれ。しかし気をつけるんだよ、おまえ。人なんか射ってはいけないよ、ジョージ、いよいよという場合の、――いや射つのはよしたほうがいい、と私は思う。少なくとも、私はどんなことがあっても人を射つなんていうことはしなかったからね、おまえも知ってのように。で、おかみさんはどこにいるのかね、ジョージ?」心配そうに立ち上がりながら、そうつけたすと、彼は部屋の中を歩きはじめた。
「出たんです、あなた、家出したんです。子供を抱えて。どこへ行ってしまったのかかいもくわかりません。――なんでも北極星を頼りに行ったということですが。いつまた逢えることやら、いや私たちはこの世でいったい逢えるものなのかどうか、だれもわからないのです」
「まさか! 驚いたことだ! あんな親切な家からかね?」
「親切な人たちが借金をこしらえる、すると私たちの国の法律は母親の胸から子供をとりあげて主人の借金を返済するために売ることを許すのです」とジョージは苦々しげに言った。
「なるほど、なるほど」と正直な老人は、ポケットの中を探りながら言った。「私は、どうも、自分の判断力に従《つ》いてゆけなくなったようだ。――いや判断力なんぞどうだっていい。そんなものにはもう私は従いていかん!」突然そうつけ足すと、「さあ、ジョージ」と言って紙入れから一束の紙幣を取り出し、それをジョージに差し出した。
「いや、それはいけません、お気持はありがたいのですが!」とジョージは言った。「あなたはこれまでにもうずいぶんと私のためにして下さいました。そのうえこんなことをしていただいたりしてはあなたにご迷惑がかかるばかりです。私も必要なだけの金は十分に持っているつもりですから」
「いや、これはぜひ取っておいておくれ、ジョージ。金というものはどこへ行ってもたいへん役だつものだ。――いくらあっても多過ぎるということはない、正直に手に入れたものならばね。取っておくれ、――さあ、取っておきなさい。――さあ、おまえ!」
「それでは、あなた、いつかお返しするというお約束で、拝借いたします」とジョージはその金を受け取りながら言った。
「で、ジョージ、君はいつまでこんなふうにして旅を続けるつもりなのかね?――長旅や遠い旅ではないだろうね。なるほどうまいくふうだが、あまりにも大胆だ。それにあの連れの黒人、――あれはだれだね?」
「一年ほど前にカナダへ逃げて行った男なのですが、誠実な男です。向こうに着いてから、もとの主人があの男の逃げたのを非常に怒って、気の毒なその年寄りの母親を鞭で打つという噂を聞いて、母親を慰め、機会を見て連れて逃げようとはるばるもどって来たのです」
「で、母親は連れ出せたのかね?」
「いえ、まだです。近所にいて狙っていたのですが、まだ少しもその機会がないんです。それで一度私と一緒にオハイオまで行って、あの男を助けてくれた仲間たちの所へ私をあずけておいてから、また母親を連れに帰って来ることになったのです」
「あぶない、じつに危ないことだ!」と老人は言った。
ジョージはぐっと胸を張り、黙って微笑した。
老紳士は彼を頭のてっぺんから足の先まで、感にたえぬといった様子で見つめていた。
「ジョージ、おまえはいつの間にかすっかり変わったね。自信をもち、話し方といい、身のこなし方といい、まるで別人のようだ」とウィルスン氏は言った。
「それは私が自由な人間になったからです!」とジョージは誇らかに言った。「そうです、あなた。もう私はだれに向かってもご主人さまとは言いません。私は自由なんですから!」
「気をつけるんだよ! まだわからないからね、――つかまるかもしれない」
「だれだって墓の中でなら自由で平等ですよ、もしそんなことになるんでしたらね、ウィルスンさん」とジョージは言った。
「おまえの大胆なのにはまったくあきれてものも言えない!」とウィルスン氏は言った。――「こんなじき近くの宿屋に来るなんて!」
「ウィルスンさん、やり方があまり大胆なものですから、それにこの宿屋があまりにも近いものですから、かえってやつらには気がつかないのです。やつらはもっと先の方で私を探しているでしょうし、あなたご自身、私がわからなかったでしょう。ジムの主人はこの郡には住んでおりませんから、この辺では彼の顔を知っている者はだれもいません。そのうえ、主人のほうでももう諦めていますから、だれも彼を探すものはいないのです、それにあの貼り紙を見て私だと気づく者は一人もいないでしょうからね」
「しかし手の烙印というのは?」
ジョージは手袋をとって、なまなましい傷あとを見せた。
「これがハリスさんのくれた餞別《せんべつ》ですよ」と彼は吐き出すように言った。「二週間ほど前、彼はこれを私にくれることを思いついたんです、いまにきっと私が逃げるだろうからと言いましてね。おもしろいでしょう?」と再び手袋をはめながら彼は言った。
「ほんとに、考えただけでもこの血管を流れている血が凍る思いだ、――おまえの境遇や危険のことを思うとね!」とウィルスン氏が言った。
「私の血はもう何年もの間凍っていましたよ、ウィルスンさん。今は、それがほとんど沸騰点にまで達していますがね」とジョージが言った。
「ところで、あなた」とジョージは、しばらく口をつぐんでいたが、再び続けて言った。「あなたが私に気がついたのを見たものですから、ちょっとこのお話をしておきたいと思ったわけです。あなたの驚いた顔で私の素性がばれるとまずいものですからね。あすの朝早く、暗いうちにここをたちます。あすの晩にはオハイオで安心して眠れるだろうと思っています。昼間堂々と旅をして、一流のホテルに泊まって、その土地の地主たちと同じテーブルにつくのです。それでは、さようなら。私がつかまったとお聞きになったら、私は死んだものと思って下さい!」
ジョージは岩のように立ち上がって、王子のような態度で手を差し出した。親切なこの小柄の老人はその手を真心こめて握りしめ、わずかながらまた忠告の雨を浴びせかけてから、こうもり傘をとって、不器用な恰好で部屋から出ていった。
ジョージは老人のしめていくドアをじっと何ごとか考えながら見つめていた。やがて一つの考えが胸に浮かんだらしく、急いでドアに近寄ると、それをあけて言った。
「ウィルスンさん、もう一言ちょっと」
老紳士は再び中に入って来た。ジョージは、前と同じように、ドアに鍵をかけ、それから何かためらうように、しばらくの間床をみつめて立っていたが、やがて急に決心したように顔をあげて、――
「ウィルスンさん、あなたが今までこの私にして下さったことで、あなたがりっぱなクリスチャンだということがわかります。――そこで最後にもう一つだけあなたのクリスチャンとしてのご親切におすがりしたいのですが」
「なんだね、ジョージ」
「つまり、その、――あなたのおっしゃったことはほんとうです。私はじっさい今恐ろしい危険をおかしています。私が死んでも、この世には、だれ一人かまってくれる者はおりません」彼ははく息も荒く、やっとの思いでつけ加えた。――「足蹴にされ、犬のように埋められてしまうでしょう。そしてあくる日にはもうだれ一人思い出してもくれないでしょう、――かわいそうな妻のほかには! かわいそうに! あれは嘆き悲しむことでしょう。で、もしできましたら、ウィルスンさん、この小さなピンをあれに渡してやって下さいませんか。これはあれがクリスマスの贈り物だといって私にくれたものです、かわいそうなやつよ! これをあれに渡して、私が最後まであれを愛していたと伝えて下さい。ね? して下さいますね?」彼は熱心につけ加えた。
「ああ、いいとも――かわいそうにな!」と言って老紳士はピンを受け取ったが、その目は涙にうるみ、声は暗く震えていた。
「もう一言あれに伝えて下さい」とジョージは言った。「私の最後の望みですが、もしカナダに行くことができたら、そこへ行くようにと。奥さんがどんなに親切でも、――もとの家がどんなに恋しく思うようになっても、もどったりしてはいけないと言って下さい。――奴隷の身ではきまって最後は悲惨なのだからと。そして子供だけは自由の人間として育ててくれ、そうすれば私が味わってきたような目にはあわないだろうからと伝えて下さい。これだけのことをあれに伝えて下さい、ウィルスンさん、お願いいたします」
「よし、ジョージ、伝えてやるよ。しかしおまえは大丈夫死ぬなんてことはない。さあ元気をお出し、――おまえは勇気のある人間だ。神さまを信じるがいい、ジョージ。それにしても私は心の中でおまえがうまく無事に着けばいいがと思っているのだ、――実のところね」
「信頼できる神さまがあるんでしょうか?」ジョージは、老紳士の言葉を押さえつけてしまうほど痛ましい絶望的な調子で言った。「ああ、私はこれまで神さまなんて存在しえないと感じさせるものをいくつも見てきました。あなた方クリスチャンにはそういったものが私たちの目にどう映るかわからないのです。あなた方には神さまが存在するかもしれませんが、私たちにどんな神さまがあるというのでしょう?」
「おお、いけない、――いけないよ、おまえ!」老人はほとんどむせび泣かんばかりにして言った。「そんな気をおこしてはいけない! いらっしゃる、――きっといらっしゃる、神さまの周りにだってそりゃあ雲や暗闇《くらやみ》はある、しかし正義と審判とが神さまの玉座のある所なのだよ(詩篇、第九七篇第一〜二節)。神さまはいらっしゃるよ、ジョージ、――それを信じるのだ。神さまにおまかせするのだ、きっと力になって下さるからな。何もかもがよくなるだろう、――この世でなければ、あの世ではね」
素朴な老人の真の信仰心と慈悲心とは、話をしている間、一時的にもこの老人に権威と威厳とを与えた。部屋の中をいらだたしげに行ったり来たりしていたジョージは足をとめて、ちょっと考えていたが、やがて、静かな口調で言った。
「よくおっしゃって下さいました、ほんとに。私もそのことについてはよく考えてみましょう」
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第十二章 法律が認める取引きの実例
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「声ラマにありて聞《きこ》ゆ、――慟哭《なげき》なり、いとどしき悲哀《かなしみ》なり。ラケル己《おの》が子らを嘆き、慰めらるるを厭う」(エレミヤ記、第三十一章第十五節およびマタイ伝、第二章第十八節)
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ヘイリィ氏とトムとは馬車に揺られながら進んでいったが、二人とも、しばらくの間、めいめい自分かっての瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っていた。それにしても、こうして互いに並んで腰を下ろしている二人の人間の瞑想はじつに奇妙なものである、――同じ席に腰を下ろし、目や耳や手などすべて同じ器官をもち、そして眼前には同じ景色を見ていながら、――この同じ瞑想の中にはなんという驚くべき相違をわれわれは見出だすことであろう!
たとえばヘイリィ氏であるが、彼はまず第一に、トムがどのくらい長持ちするだろうか、胸幅や背丈はどうだろう、トムを市場に連れて行くまで肥らせ丈夫なからだにしておいたならば、どのくらいで売れるだろうかと考えた。それから、あとの奴隷はどう算段して集めようかとか、集まった男や女や子供たちはいったいいくらで市場で売れるだろうかとかその他それに関係のある商売上の事柄についていろいろと考えた。それから次に自分のことを考え、ほかの仲間たちは「黒ん坊」を手足とも鎖で縛っておくのに、このおれは足に枷《かせ》をはめただけで、このトムが神妙にしているかぎりやつの両手は使えるようにしてやっているんだから、おれという人間はなんと情《じょう》のある男なんだろうかと思ったりしていた。そして彼は、それにしても人間ってえやつはどうしてああも恩知らずにできているんだろう、だからこのトムの野郎だって、おれのこうした情深い心を身に滲みてありがたがるかどうかわかったものじゃあねえなぞと考えてため息をついた。おれはこれまで恩を施してやった「黒ん坊」にずいぶんとだまされた。それなのにまあおれはまたなんてお人よしなんだろう! などと思っては一人で驚いているのであった。
トムのほうは、さきほどから頭の中を何度も去来する、ある流行遅れの古い本の次のような言葉をくりかえしくりかえし考えていた。「われら地上《ここ》には永遠《とこしえ》の都なくして、ただ来《きた》らんとする都《もの》を求む。この故《ゆえ》に神はわれらの神と称えらるるを恥とし給わず、そはわれらの都を備え給えばなり」(ヘブル書、第十三章第十四節〜十六節)。主として「無智で学問のない人々」(使徒行伝、第四章第十三節)によって信奉される古い書物のこうした言葉は、いつも、なぜか、トムのように哀れな単純な人々の心を支配するある不思議な力をもっていた。その言葉は、以前はただ絶望の暗闇だけでしかなかった魂のどん底からその魂を揺り動かし、トランペットを吹き鳴らすようにして勇気を、力を、そして燃えるような感激を喚《よ》び起こすのであった。
ヘイリィ氏はポケットからいくつか新聞をとり出して、一応にその広告に目を通しはじめた。彼はとりわけてすらすら読めるほうではなく、節をつけながらなかば声にだして読むといった癖の持主であった。一度目で見たものをもう一度確かめるために耳に入れるというやり方である。そういう調子で彼はゆっくりと次のような記事を読んでいった。
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遺言執行者の公売――黒人!――裁判所の命令により、二月二十日火曜日、ケンタッキー州、ワシントン町の裁判所玄関前において、左記の黒人を公売する。ヘイガァ、六十歳、ジョン、三十歳。ベン、二十一歳。ソール、二十五歳。アルバート、十四歳。右はジェシィ・ブラッチフォード氏の債権者および遺産相続人のために公売せられるものなり。
遺言執行者
サミュエル・モリス
トマス・フリント
[#ここで字下げ終わり]
「こいつはひとつぜひとも見に行かにゃあ」とヘイリィはほかに話しかける相手がいないので、トムに向かって言った。「おれはな、おまえと一緒に川下へ連れていくりっぱな一組をこしらえようと思っているのさ、トム。そうすりゃあ賑《にぎ》やかで楽しいこったぜ、――いい連れができてな。だからおれたちゃ何をおいてもまっすぐワシントンに行かにゃあならねえ。でおれが商売をしている間、おまえは牢屋《ろうや》へぶち込んでおくからな」
トムはこの結構な知らせをきわめて神妙に承った。しかし心の中では、その不幸な人たちのうちに妻や子をもっている者が何人いるだろうか、その人たちも自分と同じように妻子と別れる時につらい思いをしただろうかと考えていた。そして実を言えば、牢屋にぶち込むなぞというこの率直で無造作な知らせは、真正直な正しい毎日を送ってきたことを常に誇りにしている哀れな男に対してはけっして愉快な印象を与えるものではなかった。じっさい、トムは、これも言っておかねばならぬことであるが、かわいそうに、自分の正直をことのほか自慢していたのである。――というのもほかにこれといって自慢できるものを彼はあまりもっていなかったからである。――もし彼が社会でもっと高い階級(原文の walks には「歩く場所」の意味がある)に属していたならば、おそらく、こうした窮境(原文の straits には「狭い場所」の意味、すなわち「牢屋」という意味があって、前出の walks にかかる。作者のしゃれ)に立たされることはけっしてなかったであろう。しかしそれはともかく、その日もしだいに暮れて、夕方になるとヘイリィとトムとはワシントンにゆっくり身を落着けることになった。――一人は旅籠屋に、そしてもう一人は牢屋に。
翌日十一時頃、種々雑多な人の群れが裁判所の石段のまわりに集まっていた。――煙草《たばこ》をすったり、噛み煙草をかんだり、唾をはいたり、悪口を言ったり、話をしたり、それぞれの好みと癖とによって思い思いなことをしながら――競売の始まるのを待っていた。公売される男や女は離れた所に一塊りにすわって、低い声で何か話しあっていた。ヘイガァという名で広告されていた女は、顔つきもからだつきもまぎれもないアフリカ人種であった。年は六十かもしれぬが、激しい労働と病気とのためにずっと老けて見え、目もなかば見えなくなっており、そのうえリューマチでいくらかびっこを引いていた。その女のかたわらには、彼女にたった一人残されたアルバートという十四歳になる利口そうな少年が立っていた。少年は、大家族であったヘイガァのただ一人残された息子で、あとの子供は次から次へと南部の市場に売られてしまったのである。母親は震える両手で子供にしっかりとしがみつき、だれか子供を調べに近づいて来る者があると激しく身を震わせながらその者を見つめていた。
「怖がるこたあねえだよ、アント・ヘイガァ」と男の奴隷の中で一番年上の者が言った。「わしがトマスの旦那に話しておいたからな、旦那もおまえたち二人を組で売ってもいいと考えていらっしゃるだ」
「わしはまだ耄碌《もうろく》なんかしてねえだよ」と彼女は震える両の手を挙げながら言った。「まだ料理だってできる、それに雑巾がけだって、洗濯《せんたく》だってできるだよ。――わし、安くなら買われるだけの値打ちはあるだよ。――みんなにそう言うて下せえ、――あんた、みなの衆に言うて下せえ」と彼女は熱心につけ加えた。
ヘイリィはこの時、奴隷たちの群れを押し分けて入って来ると、年とった男に歩み寄って、その男の口をあけて中をのぞき込んだり、歯に触ってみたり、立たせてからだをまっすぐにのばさせてみたり、背を曲げさせたり、そうかと思うと筋肉を見るためにいろいろな動作をやらせてみたりした。それから隣の男に移って、前と同じようなことをして試してみた。最後に彼は例の少年の所にやって来て、両腕に触わり、手を突き出させて指を調べ、それから飛び上がらせて身の軽さを試してみた。
「この子はわしと一緒でなけりゃ売らねえだよ!」と老婆は一生懸命になって言った。「この子とわしとは組になっているだ。わしはまだほんとうに達者だからの、旦那、仕事だって山ほどできますだよ、――山ほどやりますだよ、旦那」
「農園《プランテイション》でか?」とヘイリィはちらりと蔑《さげす》むような視線を投げて言った。「ふん、働けるだろうさ!」そして彼は、下見に満足したらしく群れから出るとあたりを見まわしながら、両手をポケットに、葉巻を口に、そして帽子を斜めにかぶって競売の始まるのを待った。
「どうでしょうね、やつらは?」とヘイリィのあとから下見に来ていた男が、参考にして自分の腹を決めようとでもするのか、彼に話しかけてきた。
「そうさな」ヘイリィはぺっと唾を吐いて言った。「おれだったら若いやつらとあの子供に入札《い》れるだろうな」
「子供と婆さんとは組で売りたいようなことを言ってますぜ」とその男が言った。
「そいつぁ無理だ。――なにせ、あの婆は骨と皮の老いぼれときてやがるからな――食わせるだけ無駄さ」
「じゃあ買わないんですね?」とその男が言った。
「買うやつぁばかだよ。目も半分見えねえし、リューマチで腰も曲がってやがるし、おまけに抜け作ときてやがる」
「ああいう老いぼれを買った人の話じゃあ、存外役にたつということだがね」と男は何か考えながら言った。
「おれはまっぴらだね」とヘイリィは言った。「くれると言ったっていやだ。――じっさい、――おれにゃあもう、ちゃんとわかってるんだから」
「だけど、ちょっと気の毒だね、ええ、あの婆さんを子供と一緒に買ってやらないなんていうのは。――えらく子供を心配している様子だ、――婆さんのほうは安く投げるだろうと思うがね」
「捨てる金がある連中にでも買ってもらやあ、それでたくさんさ。子供のほうは農園《プランテイション》の作男で売れるから値をつけてみるが、――あの婆はごめんだね、絶対、――くれるったっていやなこった」とヘイリィは言った。
「ひどく悲しむぜ」とその男は言った。
「そりゃあ、そうだろう」奴隷商人は冷やかに言った。
二人の会話はここで群衆のざわめきのために中断された。そして背の低い、せかせかした、偉そうな競売人が肘《ひじ》で群衆をかき分けながらやって来た。老婆は息をのんで、本能的に子供にしがみついた。
「おっかあにしっかりとくっついているだぞ、アルバート、――しっかりとな、――そうすりゃあ一緒に売ってくれるだからの」と彼女は言った。
「なあ、おっかあ、一緒にゃあ売ってくれめえよ」と少年は言った。
「きっとそうしてくれるよ、おまえ。そうしてくれにゃあ、とても、わしゃ生きていられねえよ」と老婆は激しい口調で言った。
競売人のとてつもない高い声が、道をあけるようにとどなっていたが、その時いよいよ公売の始まることを知らせた。道が一か所あけられて、公売が始まった。新聞の広告に載っていた男たちはみる間にかたづいていったが、その値段を見ても奴隷市場での需用はかなり活発であることがわかった。彼らのうち二人がヘイリィの手に落ちた。
「さあおまえの番だ、小僧」と競売人は持っていた槌《つち》で少年に触わりながら言った。「さあ台の上へあがって行って、跳び上がってみせろ」
「わしら二人を一緒に上がらして下せえ、一緒に、――どうかおねげえしますだ、旦那」と老婆は子供にしっかりとすがりついたまま言った。
「どけっ」と男は、荒々しく、その手を押しのけながら言った。「おまえは一番しめえだよ。さあ、黒、跳んでみろ」そう言いながら彼は少年を台の方へと小突いた。深い重い呻き声がその背後から聞こえた。少年は立ち止まって振り返った。しかしその場にぐずぐずしている暇はなかった。大つぶな輝く目から涙を振り払うと、彼はぱっと台の上にあがった。
少年のりっぱなからだ、敏捷《びんしょう》な四肢、それに利口そうな顔だちはたちまち競争を惹《ひ》き起こし、六つの指《さ》し値《ね》が同時に競売人の耳に入った。不安そうに、なかば怯《おび》えながら少年は左右を見まわし、競り合う指し値の掛け声を聞いていた。――今はここ、今度はあすこと――そして、ついに槌が落ちた。ヘイリィが彼を競り落としたのである。少年は台から新しい主人の方へ押しやられたが、ちょっと立ち止まって、後ろを振り向いた。その時彼の哀れな年老いた母親は、手足をぶるぶる震わせながら、その震える両手を彼の方に差し出した。
「わしも買って下せえ、旦那、後生《ごしょう》だから!――わしも買って下せえ、――買って下さらねえと、わし死んでしまうだ!」
「買ったところで死んじまうんだ。へん笑わせやがる」とヘイリィは言った。――「まっぴらだよ!」くるりと彼は向こうをむいてしまった。
この哀れな老婆の公売はすぐに決まった。さきほどヘイリィに話しかけた、同情心には欠けていなさそうに見える男が、わずかの金で彼女を買ったのであった。そして見物の群れは散っていった。
公売の哀れな犠牲者たちは、長年ひとつ所で共に暮らしてきた者だけに、望みを失ったこの老母のまわりに集まって来た。彼女の苦悶《くもん》は見るも哀れであった。
「一人も残してはくれねえだか? 旦那はいつも一人だけは子供を残してやると言ってたによう。――そう言ってただによう」彼女は悲痛な声でいつまでもいつまでもくりかえした。
「神さまを信じるだよ、アント・ヘイガァ」と一番年上の男が悲しげに言った。
「それがなんの役にたつだ」と彼女は激しくすすり泣きながら言った。
「おっかあ、おっかあ、――泣くでねえよ! 泣くでねえてば!」と少年が言った。「おっかあを買った旦那はええ人だというだからな」
「そんなこたぁどうだってええだ、――わしはかまやせんだ。おお、アルバート! おお、わしの子供や! おまえはわしの最後の子供だというに。神さま、わしはどうしたらええだ?」
「おい、だれかこの婆さんを向こうへ連れてゆかねえか?」とヘイリィが素気なく言った。「こんなことをさせといちゃ、こいつのためにならねえぜ」
仲間の中の年上の男たちが、なかば説きつけ、なかば力ずくで、これを最後と必死になって子供にすがりつく哀れな老婆を引き離して、新しい主人の車の方へと、彼女をいろいろと宥《なだ》めながら連れていった。
「さあ!」と言ってヘイリィは自分の買った三人の奴隷を一まとめにすると、一束の手錠を取り出してそれを彼らの手首にはめた。それから一つ一つの手錠を長い鎖につないで、彼らを牢屋の方へと追いたてていった。
それから二、三日後ヘイリィは、彼の所有物と一緒に、無事オハイオ・ボート(オハイオ川を航行する船底の平たい汽船)の一つに乗り込んでいた。それがヘイリィの集める奴隷団の始まりで、船が進むにつれて、彼やあるいは彼の手先が川沿いのいろいろの場所に集めておいた同じ種類の商品を乗せてその数を増していくのであった。
航行するこの川にちなんで命名したラ・ベル・リヴィエール号(フランス語で「美しい川」の意)は、川と同じようにみごとな美しい船であった。船は光り輝く青空の下を、頭上に自由の国アメリカの星条旗をひるがえしながら、楽しげに川を下っていった。甲板《ガーヅ》には大勢の美しく着飾った淑女紳士が気持のよい日を楽しみながら、あちこちと歩きまわっていた。だれも彼もが生気にみち、うきうきと、心をはずませていた。――ただヘイリィの一団だけは、他の荷物と一緒に下の甲板に放り込まれて、どうしたわけか、彼らの特権をありがたがる様子もなく一塊りになって、互いにぼそぼそと話し合っていた。
「おまえたち」と言ってヘイリィは威勢よくやって来た。「元気を出して、楽しくしているんだぞ。陰気臭え面《つら》なんか見せるなよ、いいか。気を落とすんじゃねえぞ、みんな。おれの言うとおりにするんだ。そうすりゃおれも、おまえたちを可愛がってやるからな」
言われた黒人たちは、何年もの間哀れなアフリカの合言葉となっているあのいつもの「はい、旦那さま」を答えたが、実のところ、彼らがことさらに陽気な顔つきをしたわけではなかった。みんなこれが見おさめと別れて来た妻や母親や姉妹や子供たちのことをあれこれと心配していたのである。――「彼らをくるしむる者彼らにおのれを歓《よろこ》ばせんと」(詩篇、第一三七篇第三節)しても歓びはすぐにやって来るものではなかった。
「わしには女房があるのだが」と、「ジョン、三十歳」と記されていた商品が口をきいた。そして鎖につながれた手をトムの膝の上に置いた。――「わしがこうなったことを少しも知らねえだ、かわいそうに!」
「どこに住んでいるんだね?」とトムは尋ねた。
「すぐこの下手《しもて》の旅籠屋にいるだがね」とジョンが言った。「どうか、まあ、いま一度この世で会うことができたらと思うだよ」と彼はつけ足した。
哀れなジョン! それはまったく無理からぬことであった。彼が話しながら落とした涙は、白人の涙と少しも変わることなく、ごく自然に流れ落ちた。トムは痛む胸から長いため息をはくと、たどたどしくはあったが、彼を慰めようと試みた。
そして頭上の船室では何人もの父親や母親や、夫や妻がいて、子供たちがその周りを小蝶のように楽しげに飛びまわっていた。そこではあらゆるものがじつに楽しく心地よくいっていた。
「ねえ、ママ」と一人の少年が下の甲板から上がって来るなり言った。「この船に奴隷商人が乗ってるよ。そして下に奴隷が四、五人いるんだよ」
「かわいそうに!」とその母親は嘆きとも憤りともつかぬ調子で言った。
「なんですの?」と別の婦人が尋ねた。
「かわいそうな奴隷が下に何人かいるんですって」と母親が答えた。
「みんな鎖をはめられてね」と少年が言った。
「まだそんな光景を目にするなんて、わたくしたちの国にとってなんという恥辱でしょう!」と婦人が言った。
「あら、その問題でしたらどちらの側にも言い分はたくさんございますよ」と特等室のドアの所にすわっていた品のよさそうな一人の婦人が言った。彼女は縫物をしながら自分の小さな女の子と男の子とをかたわらで遊ばせていた。「わたくし、南部にいたことがございますの。で、わたくし、黒人は自由になった時よりも今のほうがはるかにいいと思っていますわ」
「そりゃあある点では、あの人たちの中にだって現在いい暮らしをしている人たちがいることはわたくしも認めます」と自分の意見に対する反論として話しかけられた婦人が言った。「でもわたくしの考えでは、奴隷制度の最も恐ろしい点は、人間の感情とか愛情とかを踏みつけにすることですわ。――たとえば肉親を引き離すとか」
「それは確かに悪いことですわ、おっしゃるとおり」と相手の婦人は、縫い上げた赤ん坊の着物をかざして、その縁飾りを熱心に調べながら言った。「でも、そんなこと、そうたびたび起こるとは思えませんもの」
「いいえ、起こっています」と最初の婦人が熱心な口調で言った。「わたくし、ケンタッキーにもヴァージニアにも長年住んでおりました。そしていやというほど目にしてきました。もし奥さま、そこにいらっしゃいます二人のお子さまがあなたから取り上げられて、売られてしまったとしたらどうでしょう?」
「奴隷階級の人たちの感情を、わたくしどもの感情で想像しろとおっしゃっても、それは無理ですわ」と相手の婦人は、膝の上で梳毛糸《すきげいと》を何本か選り分けながら言った。
「まあ、奥さま、それがあなたのお言葉でしたら、あなたにはあの人たちのことはなに一つわかるはずがありません」と最初の婦人は興奮して言った。「わたくしはあの人たちの中で生まれ、そして育てられました。あの人たちはわたくしたちと同じように――いいえ、それ以上かもしれません――感じやすいことをわたくし知っております」
相手の婦人はあくびをしながら、「そうですかしら!」と言うと、しばらく船室の窓から外をながめていたが、やがて話に結末をつけるように、初めに述べた意見をもう一度くりかえして言った。――「でもやはり、黒人は自由になった時より今のほうがはるかにいいと思いますね」
「アフリカ人が召使いとなるべきことは疑いもなく神の思し召しです。――地位の低い境遇に止どまっていなければならないのです」と黒い服を着た厳かな顔つきの紳士が言った。見るとそれは最前から船室のドアのかたわらに腰掛けていた牧師であった。「『カナン詛《のろ》われよ。彼は僕輩《しもべら》の僕《しもべ》となりて』(創世記、第九章第二十五節)と聖書にあります」
「もしもし、|あんた《ストレンジャー》、その言葉が言おうとしているのはそういうことなんですかい?」と側に立っていた背の高い男が尋ねた。
「疑いもなくそうです。昔からこの種族を奴隷の身分と定めたのは、ある測り難い理由で、神の思し召しに適ったからです。ですから私たちはそれに対して意見をさしはさむべきではないのです」
「そうですかい、それならわしらはみんな遠慮しねえで黒ん坊を買うことにしよう」とその男が言った。「もしそうすることが神さまの思し召しだと言うんならね。――ねえ、旦那?」と彼はヘイリィの方を向いて言った。ヘイリィは先刻からポケットに両手を突っ込み、ストーヴのかたわらに立って熱心にこの話に耳を傾けていたのである。「そうさ」と背の高い男は続けた。「わしらはだれもみな神さまの思し召しどおりにしなけりゃいけねえんだ。だから黒ん坊は売ったり、取り替えたり、おさえつけておいたりしなけりゃあいけねえ。初めっからそうされるようにできているってんだからね。なんだかばかに気が清々するような意見じゃありませんか、ねえ、あんた?」と彼はヘイリィに向かって言った。
「そんなことはあまり考えたことがねえから」とヘイリィは言った。「あっしにはそんな口はきけないね。なにしろこちとらあ学問てえものがからきしねえんでね。あたしゃただ食うためにこの商売を始めたんでさあ。だからそれがよくねえっていうんなら、いずれは悔い改めようと思ってたんだよ」
「それじゃあこれでその必要もなくなるってえわけだ、ねえあんた?」と背の高い男は言った。「それにしても聖書を知るってえことはありがたいこったねえ。あんたがこの旦那のように聖書を勉強してさえいたら、こんなことはとうの昔にわかって、ずいぶんとめんどうが省けただろうからね。『詛われよ』――なんと言ったかな、その男の名前は?――『てなことを言やあいいんだ。それで万事うまくいったんだ』」ところでこの見知らぬ男というのは、実は、ケンタッキーの旅籠屋ですでに読者に紹介したあの実直な家畜商なのであった。彼は腰を下ろすとそらとぼけた長い顔に奇妙な薄笑いを浮かべながら煙草をのみはじめた。
その時、優れた感情と知性とを顔にうかべた背の高いすらりとした年若い男が口をさしはさんで次のような言葉を誦《とな》えた。「『すべて人に為《せ》られんと思うことは、人にもまたそのごとくせよ』(マタイ伝第七章第十二節)私は」とその男はつけ加えた。「これも『カナン詛われよ』と同様、聖書の言葉だと思いますが」
「なるほど、これもまたしごくわかりのいい言葉のようだね。|あんた《ストレンジャー》」と家畜商のジョンが言った。「わしらのような哀れな人間にとっちゃあね」そう言ってジョンはまた火山のように煙草をふかした。
若い男はちょっと口をつぐんで、さらに何か言いそうな様子を見せたが、そのとき突然船が止まったので、一同は船の着くところを見ようと、例によって甲板をあわただしく駆けはじめた。
「ありゃあ二人とも牧師さんかね?」とジョンは、出て行こうとする人たちの一人をつかまえてきいた。
尋ねられた男はうなずいた。
船が止まると、一人の黒人の女が気違いのように橋板を駈け上がって来た。彼女は群衆の中に跳び込むと、奴隷の一団がいる所へ飛んで行って、前述のあの不幸な商品、――「ジョン、三十歳」に抱きつき、鳴咽《おえつ》と涙とをもってそれを夫と呼び嘆き悲しんだ。
しかし、あまりにもしばしば語られ、――毎日のように語られる――この心の琴線《いと》の引きちぎられるような物語を、――弱い者が強い者の利益や便益のために滅ぼされ、引き裂かれるこの物語を、いまさらなんでここに語る必要があろう! 語る必要などないのである。――毎日がそれを語っているのだから。――毎日が、いつも黙って何もおっしゃらないけれど聾《つんぼ》ではないお方の耳にもそれを物語っているからである。
先刻、人間性と神のために弁じようとした年若い男は、腕組をしてこの場の光景を見ていた。彼が振り返ると、側にヘイリィが立っていた。
「あなた」と彼は重い言葉つきで言った。「あなたにはよくこんな商売ができますね、よく平気でできるものですね? ごらんなさい、あのかわいそうな二人を! 私はこうして、妻や子供の所へ帰るのを心に喜びながらこの船に乗っているのですが、私を家族のもとへ運んでくれる船出の鐘が、この気の毒な人とその連合いとにとっては、二人を永久に引き離す合図の鐘となるのです。きっと、神はこれをあなたの裁きとなさるでしょう」
奴隷商人は黙ったまま顔をそむけた。
「ねえ、あんた」と家畜商がヘイリィの肘に手をかけて言った。「牧師さんもいろいろだね、ええ?『カナン詛われよ』ってえのはこの場合通用しそうもないね?」
ヘイリィはぎごちない唸《うな》り声をあげた。
「しかも、これなんぞはまだいいほうさ」とジョンが言った。「あんたが、そのうち、みんなと同じように神さまのお裁きを受けにゃならなくなった時ぁ、そいつはたぶん神さまの前でだって通用しないだろうぜ」
ヘイリィは思案げに船の片隅へ歩いていった。「この後一回か二回、黒ん坊でたんまり儲けたら」と彼は考えた。「今年はこれでやめておこう。やけに危なくなってきやがった」そして彼は紙入れをとり出して金勘定を始めた。――つまり、ヘイリィ氏ばかりでなく、多くの紳士たちが不安な良心を鎮める時の特効薬と考えているこの動作を始めたのである。
船は悠然と岸を離れていった。そしてすべてがまた前と同じように楽しくつづいた。男たちは話をしたり、ぶらついたり、本を読んだり、煙草を吸ったりした。女たちは縫物をし、子供たちは遊び、そして船は更に川を下っていった。
ある日、船がケンタッキーの小さな町にしばらくの間停泊していた時、ヘイリィはちょっとした取引きのことでこの町に上陸した。
トムは、足枷をはめられてはいたがこの辺を歩きまわるくらいのことは少しはできたので、船の舷側へ寄って、手摺からものうげに向こうをながめて立っていた。するとほどなくして奴隷商人がすたすたと、幼児を抱いた黒人の女と一緒にもどって来るのが見えた。女はかなりりっぱな服装《なり》をしていて、黒人が一人小さなトランクを持ってあとからついて来た。女はトランクを持った男と話しながら、いそいそとこちらへやって来ると、橋板を渡って船に乗り込んだ。鐘が鳴り、汽笛が鳴り、エンジンが唸り、咳をしながら、船は岸を離れて川を下っていった。
女は下の甲板の箱や貨物の間を歩いていって、やがて腰を下ろすと、せわしげに赤ん坊をあやした。
ヘイリィは船の中を一、二度まわってから、彼女の近くにやって来ると、腰を下ろして、無造作な低い声で何か話しかけた。
トムはすぐに、女の顔がさっと曇り、何か早口で激しく言い返すのを見た。
「そんなことはねえ。――そんなはずはねえだ!」と言う彼女の声が聞こえた。「旦那はわしをからかっていなさる」
「そんなはずはねえって言うんなら、ほら、これを見てみな!」と言って男は一枚の書類を取り出した。「こりゃあ譲渡状でな、ちゃんとおまえの旦那の署名もついていらあ。それにおれは現なまをすぐその場で払ったんだぜ、ええ、――どうだ、これで得心がいったろう!」
「うちの旦那さまがこんなふうにしてわしをだましなさるなんてはずはねえ。嘘にきまってるだ!」女はだんだんと興奮して言った。
「じゃあここにいるだれにだっていいから、字の読める人にきいてみろ。あ。もしあんた!」と彼はちょうど側を通りかかった男に言った。「ちょっとこれを読んでやってくれませんかね! この女はあっしが言ってもほんとうにしねえもんですから」
「これかね、これはジョン・フォズディックの署名した譲渡証書だ」とその男が言った。「ルーシィなる女およびその子を貴殿に譲るとある。私の見るところではおそらく完全な証書らしいね」
女が激しい叫び声をあげたので、彼女の周りには大勢の人が集まって来た。そこで奴隷商人は簡単にその事情を説明した。
「旦那さまはわしがルイヴィル(ケンタッキー州北部の町。オハイオ川に臨む)へ行って、うちの人が働いている旅籠屋の料理人に雇われるのだと言わっしゃっただ、ご自分のお口でよ。その旦那さまがわしに嘘いわっしゃるとは思えねえだよ」とその女は言った。
「しかしその旦那がおまえさんを売っちまったんだ、かわいそうだがね、そりゃあ疑う余地がない」と証書を調べてくれた先刻の人の好さそうな男が言った。「旦那は売ってしまったんだよ、確かにね」
「そんならもう何を言ってもしかたねえだ」と言って女は急に静かになってしまった。そしていっそうしっかと赤ん坊を抱きしめて、自分の箱の上に腰を下ろすと、くるりと向こうをむいてぼんやり川面を見つめた。
「とうとう、諦めたらしいな!」と奴隷商人は言った。「女っちゅうものは強気《ごうぎ》なもんだよ」
女は船が進むにつれて落着いてきたようであった。心地よいさわやかな夏を思わせるそよ風が憐れみ深い精霊のように彼女の頭上を吹いていた。――しかしそのそよ風も、吹かれる人の額が曇っているのか晴れているのか一度も尋ねてはみなかった。彼女は、陽《ひ》の光が水面に黄金の漣《さざなみ》となってきらきら輝いているさまをじっと見つめていた。自分の周りのあちこちで交わされる寛ぎと喜びにみちた陽気な話し声を聞いていた。しかし彼女の心は大きな石におさえつけられたように重苦しかった。赤ん坊は母親にもたれながら立ち上がって、小さな両の手で彼女の頬をたたいた。そして跳ねたり、叫んだり、おしゃべりをしたりして一生懸命母親の注意を引こうとしているようであった。彼女は不意に赤ん坊をしっかりと抱きしめた。涙がぽたり、ぽたりと、不思議そうに母親を見上げるその無邪気な幼な子の顔の上に落ちた。やがて彼女もだんだんと、少しずつではあるが、落着いてきたらしく、一心に赤ん坊の世話をしたり守りをしたりしはじめた。
生後十か月ばかりになる赤ん坊は年のわりには珍しいほど大きく、丈夫で、手足もかなりしっかりしていた。少しもじっとしていないので、母親はたえずしっかりと抱いて、跳び出さぬように注意していなければならなかった。
「いい子だなあ!」不意に、両手をポケットに突っ込んだ男が赤ん坊の前で立ち止まると言った。「いくつになるんだい?」
「十月半」と母親が言った。
男は子供に向かって口笛を吹き、細長いキャンディを折って差し出した。赤ん坊はそれをしっかり握ると、すぐに、赤ん坊がなんでも持っていく所、つまり、口へと運んでいった。
「利口なやつだ!」とその男が言った。「ちゃんと知ってやがる!」そう言うと彼は口笛を吹いて向こうへ歩いて行った。彼が船の向こう側へ行くと、積み上げた箱の上で葉巻をふかしているヘイリィに出会った。
その見知らぬ男はマッチを取り出して葉巻に火をつけ、そうしながら口をきいた。
「あすこにちょいといけそうな女をお持ちですな、あんた」
「いやあ、あたしゃじっさい、相当な別嬪《べっぴん》だと思ってるんだがね」とヘイリィは口から煙を吹き出しながら言った。
「南へ連れて行くんでしょうな?」とその男が言った。
ヘイリィはうなずいて葉巻を吸いつづけた。
「農園《プランテイション》用かね?」と男は言った。
「うむ」とヘイリィは言った。「いま農園《プランテイション》の注文をとっているんでね、あの女も一緒に納めようと思ってるところでさ。料理がうまいっていう話だから、そのほうで使ってもいいし、でなきゃあ棉つみをさせてもいい。それにお誂《あつら》え向きの手をしてるんでね。調べてみたんだ。だからどっちに転んだって高く売れるね」そう言ってヘイリィはまた葉巻をふかした。
「農園《プランテイション》じゃ赤ん坊は欲しがらんだろう」と男は言った。
「だから買手のつきしだい売っちまうのさ」とヘイリィは新しい葉巻に火をつけながら言った。
「どうせ安く売るつもりだろうね」と見知らぬ男は箱の山にのって楽に腰をかけながら言った。
「さあ、そりゃあどうかな」とヘイリィは言った。「なかなか利口な子供だからね。――ぴんとしていて、肉づきもいいし、からだも丈夫だ。肉なんかまるで煉瓦《れんが》みたいに固いんだから!」
「まったくね、しかしそれじゃあ育てるのに手がかかるし金もかかるな」
「冗談言っちゃいけねえ!」とヘイリィは言った。「子供を育てるのなんか、そこいらの生きものと同じくれえ簡単さ。犬ころよりも手はかからないよ。あと一月もたってみねえな、あの赤ん坊、そこいらじゅうを駆けずりまわりやがるから」
「子供を育てるのにお誂えの場所があるんでね、もう少し子供を仕入れておこうと思ってるのさ」とその男が言った。「料理人のやつが一週間ばかり前に赤ん坊を亡くしたもんでね、――洗濯物を干しているすきに盥《たらい》へはまり込んで溺れちまったんだ。――で、あの赤ん坊を育てさせたら好都合だろうと思ってるんだが」
ヘイリィとその見知らぬ男とはしばらくの間黙って葉巻をふかしていた。どちらも肝腎な話は切り出したくない様子である。とうとう男のほうがまた口を開いた。
「あんた、まさかあの子供で、十両以上欲しいなぞと思っちゃいまいね、どうせしまつせにゃあならんのだから?」
ヘイリィは頭を振って、大仰に唾を吐いた。
「そりゃあだめだ、てんで」と彼は言って、また葉巻をふかしはじめた。
「それじゃあ、あんた、いくらならいいんだ?」
「そうさな」とヘイリィは言った。「なんだったらおれが一人で育てたっていいし、人に育てさせたっていい。なかなか頼もしいやつで、からだも丈夫ときてるからな。半年もたちゃあ百両にゃあなるね。一、二年もすりゃあ、それこそ、もっていきようで二百両にもなるてえ代物《しろもの》だ。――だから五十両を一文かけても今は売れないね」
「ええ、あんた! そいつはべらぼうだ、まったくの話」とその男は言った。
「いやほんとうさ!」と言ってヘイリィはこくりとうなずいてみせた。
「三十両出そう」と見知らぬ男は言った。「だがそれ以上は一文だってごめんだ」
「じゃあ、こうしよう」とヘイリィは、また唾を吐きながら、考え直したという様子で言った。
「中をとって、そう四十五両といこう。こっちとしちゃあこれでせいいっぱいだね」
「よし、よかろう!」とその男はちょっと考えてから言った。
「じゃあ決まった!」とヘイリィが言った。「ところであんたはどこで上陸するね?」
「ルイヴィルだ」とその男は言った。
「ルイヴィル」とヘイリィは言った。「そりゃあいいあんばいだ。そこへこの船が着く頃は日暮れになる。子供は眠ってるだろう、――こいつぁいい。――そっと連れ出しゃあ泣かずにすむ、――うめえ具合だ。――あっしは何事も穏かにやりたいほうだからね、――騒いだり喚いたりってえのは大嫌いなのさ」こうして何枚かの札束が男の紙入れから奴隷商人の紙入れに渡ると、ヘイリィはまた葉巻をふかしはじめた。
船がルイヴィルの埠頭《ふとう》に着いたのは、よく晴れた静かな夕方であった。例の女は子供を抱いたまま、まだ腰を下ろしていたが、子供はすやすやと寝入っていた。女は町の名を呼ぶ声を聞くと、箱の間の窪みが、ちょうど小さなベッドのようになっている所へまず自分の外套をそっと敷いて、そこへ急いで赤ん坊を横たえた。それから女は舷側へと飛んでいった。埠頭に集まって来る方々の旅館の番頭に混って、もしや自分の夫の姿が見えはしないかと思ったのである。こうした望みを抱きながら、彼女は前部の欄干へと押し進んで、欄干からからだを乗り出すようにして岸に動いている人の顔をあれかこれかと探した。そのうち人の群れが女と赤ん坊との間に入ってこの二人の間を隔ててしまった。
「さあ今のうちだ」とヘイリィは眠っている子供を抱き上げ、その見知らぬ男に渡しながら言った。「ここで起こして泣かせちまったらだめだぜ、そんなことをしようもんなら、それこそあの女、大騒ぎをしやがるから」男は用心してその包みを受け取ると、まもなく上陸する人の群に混って姿を消してしまった。
船が軋《きし》み、呻《うめ》き、そして喘《あえ》ぎながら埠頭を離れ、そろそろと苦しい旅をつづけようとした時、女がもといた所へ帰って来た。そこには奴隷商人が腰かけていた、――が、子供の姿は見えなかった!
「あら、あら、――どこだろう?」と彼女は当惑しながら言いはじめた。
「ルーシィ」と奴隷商人が言った。「あの子はもういねえよ。どうせわかることなんだから言っておくがな。おまえがあの子を南部へ連れて行くこたぁできねえってえことがわかったんでな、りっぱな家へ口を見つけて売ってやったのさ。自分で育てるよりゃあうまく育ててくれるからな」
この奴隷商人は、最近北部のある説教家や政治家たちが推奨しているあのキリスト教的・政治的完成の域に達していた。つまり、この商人は人間的弱さとか偏見というものをすべて完全に克服していたのである。彼の心は、読者の皆さんや私の心が、その気になって努力し修錬すれば達することのできるまさにそういった段階にあったのである。だから女がこの商人に投げかけた苦悶《くもん》とまったくの絶望との狂おしげな表情は、彼ほどに修錬を積んでいない者に対してはその心を掻き乱したことであろうが、この男はそうしたものには慣れてしまっていた。そんな表情はもう何百回となく見ているのである。皆さん、あなた方もそうしたものに慣れることはできるのですよ。しかも連邦の名誉のためにといって、われわれ北部の全社会をそうしたことに慣れさせようとするのが最近の努力の大きな目的なのです。そこでこの奴隷商人も、この暗澹たる顔、この握りしめた拳、息もつまるような呼吸に見える死の苦悶を目のあたりに見ても、それはこの商売につきもののできごとだぐらいにしか考えず、女がいまに喚き散らして船の上に一騒動起こしはしまいかと、そのことばかりを心配していた。なぜなら、この国のこうした奇妙な制度を支持する人たちと同じように、彼もまた騒ぎというものが大嫌いだったからである。
しかし女は喚かなかった。あまりにも的確に心臓を射抜かれたので、喚くことも、泣くこともできなかったのである。
よろよろと彼女は腰を下ろした。力を失った両の手は死人の手のようにだらりと垂れ下っていた。目はまっすぐ前方を見ていたが、何も見えなかった。船の中のにぎやかな騒ぎや機械のたてる呻き声が、途方に暮れた彼女の耳にぼんやりと混り合って聞こえてきた。そして哀れな、今では音もたてなくなってしまった心臓には、そのまったくの悲惨さを表わすべき叫びも涙も残ってはいなかった。彼女はまったく静かであった。
この奴隷商人に何か優れた点があるとすれば、それはこの国の政治家のある人たちとほとんど同じくらい人情に厚いということであったので、彼はどうもこの場合何か慰めを言ってやらねばいけないのではないかという気持になったらしい。
「初めのうちはちょいとばかりつれえだろうが、なあルーシィ」と彼は言った。「おまえのような利口な、物わかりのいい娘はこんなことでへこたれやあしねえ。おまえにもわかるだろうが、ありゃあしかたのねえこってな、どうしようもねえんだ!」
「ああ! 何も言わないで、旦那さん、何も言わないで下せえ!」と女は窒息しそうな声で言った。
「おまえは利口な娘だ、ルーシィ」と彼はなおも言った。「おれはおまえを可愛がってやるぜ、そして川下のいい所へ売ってやるつもりでいるんだ。そうすりゃあ、じきに新しい亭主が見つからあな。――おまえみてえな頼もしい娘にゃあ――」
「ああ! 旦那さん、おねげえだからもう何も言わねえで下せえ」と女は、奴隷商人がこうなってはもう自分の手には負えないものがあると悟るほどの、なまなましい苦悶の声で言った。そこで彼は立ち上がった。女は向こうをむいて、外套の上に突っ伏した。
奴隷商人はしばらくの間その場を行ったり来たりして、時おり足を止めては彼女を見つめていた。
「気むずかしい女だな、こいつぁ」と彼は独り言をいった。「が、まあ静かにしていよう――泣きたけりゃ泣いてるがいいさ。そのうちにゃだんだん落着いてくるだろうからな!」
トムはこの場のできごとを初めから終わりまで残らず見ていたので、その結果がよくわかった。彼には、それは口にすることもできぬほどの恐ろしい残酷なことのように思われた。それというのも、彼は、(ああ哀れな無知なる黒人!)物事を概括的に論じたり、広い視野で物を見たりすることを学んではいなかったからである。もし彼がキリスト教のある宣教師たちによって教えを受けてさえいたならば、この事件をもっとよく考え、それが法律の認めている取引きにつきものの日常茶飯事的な出来事であって、この取引きというものが、アメリカのある神学者(フィラデルフィアのジョウエル・パーカァ博士。パーカァは長老教会の牧師(一七九九〜一八七三)で作者ストウ夫人の実家ビーチャア家の友人。作者は初版のステロ版からこの傍注を削除するつもりでいたが果たさなかった。したがって後の版にはこの傍注はなく、本文は「あるアメリカの神学者たち」となっている)がわれわれに説くように、「社会的・家庭的生活に関係をもつ、他のいかなるものからも切り離すことのできないような弊害以外には、何らの弊害も認められない」一つの制度を支える重要な役割を果たしているということに気がついたであろう。しかしトムは、読者が知ってのように、哀れな無知な人間であったから、そして彼が読むものといえば、新約聖書だけに限られていたから、こうした考えにみずからを慰めることはできなかった。彼の魂は、箱の上の踏みにじられた葦《あし》のように横たわっている、この哀れな苦しみ悶《もだ》える品物に加えられたかずかずの非行に対して血を迸《ほとば》しらせるのであった。この感じやすい心をもち、生きる命をもち、滴る血汐をもち、それでいてしかもなお人間ではない品物。これをアメリカの法律は、周囲にある包みや、梱《こり》や箱と同じ部類に冷然と区分けしているのである。
トムは近寄って言葉をかけようとした。しかし彼女はただ呻くだけであった。彼は熱心に、自分も涙を頬に伝わらせながら、天にある愛の心のこと、情深いイエスのこと、永遠の家庭《ホーム》のことを語って聞かせた。しかし女の耳は苦悶に閉ざされ、麻痺した心は何を感じることもできなかった。
夜が訪れた。――静かに、じっと動かぬ晴れ渡った夜が、無数の厳かな天使の瞳をちりばめて、きらきらと、美しく、しかし静かに見下ろしていた。そのはるかな空からは、なんの話も、なんの言葉も、彼女を憐れむなんの声も、なんの救いの手も下りてはこなかった。一つ、また一つと、商談や歓談の人声が消えてゆき、船の中のものはみな眠りについた。そして船首に砕ける漣《さざなみ》の音がはっきりと聞こえるようになった。トムは箱の上に身をのばし、そこにからだを横たえたが、彼の耳には時々、倒れ伏している女のこらえきれぬすすり泣きや叫び声が聞こえてきた。――「おお! どうしよう? おお神さま! おお神さま、どうぞお救け下さい!」時おりつぶやくこの声も、やがては聞こえなくなっていった。
真夜中ころ、トムは突然はっとして目を覚ました。何か黒い影がすっと自分のかたわらを通って舷側の方へ行った。やがて水しぶきの音が聞こえた。彼のほかにはだれ一人それを見、それを聞いた者はなかった。彼は顔を上げた。――女のいた場所は空になっていた! 彼は立ち上がって辺りを見まわしたが無駄であった。哀れな、血を滴らせていた心はついに静まったのだ。川はまるでその心を吸い込みはしなかったかのように、きらきらと漣を立てていた。
忍耐! 忍耐! かかる非行を見て憤りに胸わきたたせる読者よ。虐げられた者の、苦悶の鼓動ひとつだに、流す涙ひとつだに、悲哀《かなしみ》の人(イザヤ書、第五十三章第三節)、栄光の神は忘れ給わぬのだ。神はその忍耐強き寛大な胸の中で世の苦悶を耐《た》え給うのだ。神のごとく耐え、愛をもって労せよ。必ずや「救贖《あがない》の歳《とし》が来るであろう」(イザヤ書、第六十三章第四節参照)から。
奴隷商人は翌朝早く目を覚ますと、彼の家畜を検べにやって来た。そして今度は彼のほうが当惑してきょろきょろと辺りを見まわした。
「あの女はどこへ行きやがったんだ?」と彼はトムに言った。
トムは、自分の密事は胸におさめて洩らさぬほうが賢明だ、ということを学んできたので、この場合にも自分の目撃したことや不審に思ったことが尋ねられているのではないと考えて、ただ知らないとだけ答えた。
「あの女が夜中にどこかの船着場から逃げ出すなんてこたあ絶対にできるはずはねえ。なにしろおれは船が着くたびに目を覚まして見張ってたんだし、こういった仕事をほかの者に任せたことあねえんだからな」
こうした言葉は、まるでそれがトムにとって特に興味のあるものででもあるかのように、かなり打ち明けた調子で語られた。しかし、トムは何も答えなかった。
奴隷商人は船の中を船首から船尾まで、箱、梱、樽《たる》の間、機関のまわり、煙突のかたわらと探しまわったが、無駄であった。
「おい、トム、正直に言え」彼は探しあぐねて、再びトムのいる所へやって来るとそう言った。「おまえは何か知っているにちがえねえ。黙っていやがるが、――おれにゃちゃんとわかっているんだ。あの女は十時頃にも、十二時頃にも、一時と二時の間にも、ちゃんとここに寝ていたのをおれは見ているんだ。そいつが四時になるといなくなってしまった。だがおまえはずっとここで寝ていたんだ。さあ、何か知っているだろう、――知らねえとは言わせねえぞ」
「へえ、旦那」とトムは言った。「朝方、なんだかわしのかたわらをかすって通ったものがあったので、わし、半分目を覚ましましただ。そのうちに大きな水音が聞こえたもんで、すっかり目が覚めましただが、そしたら女の姿が見えないんでごぜえますよ。わしの知ってるのは、これだけでごぜえます」
奴隷商人はぎくりともせず、また驚きもしなかった。なぜなら、彼は、前にも述べたように、読者の皆さんが慣れてはいないような非常に多くの事に慣れきっていたからである。恐ろしい死神に直面してさえも彼は荘重な身のひきしまる思いを感じることはなかった。彼はこれまでに死神を何度も見てきたし、――この神さまとは仕事の途中でよく出会って馴染みになっていたから――死神というものは、彼の商売をきわめて不都合にまごつかせる、手に負えぬ馴染客ぐらいにしか考えてはいなかった。そこで彼は、ただ、あのあばずれ女の畜生め、おれはめっぽう運のねえ男だ、こんなことが続いたひにゃあこの旅行じゃ一文も儲かりゃしねえ、などと悪態をついただけであった。つまり、彼は自分をじつに虐げられた人間だと考えたらしいのである。しかし、もうどうしようもなかった。女は逃亡者をけっして引渡しはしない邦《くに》へ、――光栄ある連邦がいくらこぞって要求しても引渡すことのない邦へ逃げ込んでしまったからである。そこで奴隷商人はしぶしぶ腰を下ろすと、小さな会計簿をとり出して、この失われた肉体と魂とを欠損の部へ記入した!
「恐ろしい人間じゃあありませんか、――この奴隷商人は? なんという残酷な! じつに恐ろしいことだ!」
「おお、しかしこうした奴隷商人についてはだれもなんとも思ってはいませんよ。どうせ彼らはだれからも軽蔑され、――上流社会にはけっして受け入れられることがないのですからね」
しかしだれが、皆さん、こうした奴隷商人を作り出すのでしょうか? 最も責められるべき者はだれなのでしょう? それは当然の結果として奴隷商人を生み出すこの制度の支持者であるところの、啓発された教養のある聡明な人でしょうか、それとも哀れな奴隷商人それ自身でしょうか? とりもなおさず皆さんこそ、そのような商売を要求する一般の感情を作り出しているのです。そしてそれは奴隷商人を堕落させ腐敗させ、ついには彼も自分の仕事に恥を感じなくなってしまったのです。ですからどの点で皆さんは奴隷商人より優れていると言えましょうか?
皆さんには教養があって奴隷商人は無知だというのですか? 皆さんは身分が高く彼は低いというのですか? 皆さんは上品で彼は下品だというのですか? 皆さんには才能があって彼は愚かだというのでしょうか?
来たるべき最後の審判の日には、こうした事情をよく考えてみると、皆さんよりもこの奴隷商人のほうがまだ恕《ゆる》されるべきものとなるでありましょう。
以上、法律が認めるこうした小さな事件の物語を結ぶにあたって、世界の皆さんにお願いしておかねばならないことは、アメリカの立法者たちがまったく人情に欠けているというふうに考えないでほしいということです。というのは、こうした種類の取引きを保護し永続させるためにわれわれの国家的組織体においてなされた大きな努力を見て、おそらく皆さんはこれを不当に推測するかもしれないからです。
わが国の偉大な人たちが外国の奴隷売買を激しく非難する点で前例にないほどの力の入れ方をしていることを知らぬ人がいるでしょうか? クラークスン(トマス・クラークスン、一七六〇〜一八四六。イギリスの博愛主義者、奴隷制反対論者)やウィルバフォース(第一章の注参照)のような人物が何人もわれわれの間から起こってこの問題を語り、多くの人がわれわれの見聞をひろめてくれています。アフリカから黒人を買入れるということは、皆さん、じつに恐ろしいことです! それは思いもよらぬことです! と。しかしケンタッキーから黒人を買うことは、――これはまたまったく別の問題なのでしょうか!
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第十三章 クエーカー教徒の居住地
今度は一場のもの静かな光景がわれわれの前に展開する。大きく、ひろびろとして、小ざっぱりとペンキの塗ってある台所、つやつやと滑らかで、塵《ちり》一つ落ちていない黄色い床《ゆか》。小ぎれいな、黒磨きの手入れもゆきとどいた料理用ストーヴ。口に出しては言えぬほどのすばらしいご馳走を連想させるずらりと並んだ輝く錫《すず》の食器。古いけれどもがっしりとした、つややかな緑色の木の椅子《いす》数脚。藺草《いぐさ》を編んで座《すわ》りにした小さな揺《ゆり》椅子が一つ。それには色とりどりの毛織物の小切れをてぎわよく縫い合わせて作った、つぎはぎ細工のクッションが置いてある。それからもっと大型の、母親のような感じのする古めかしい揺椅子が一つ、その大きくひろげた両の腕が、まるで積み重ねた羽根のクッションの誘いを口添えにして歓待のささやきをもらしているようであった。――ほんとうにすわり心地のよい人を引きつけるような古い椅子。真の家庭的な慰《たのし》みという点においては、皆さんの家庭にあるような、プラシ天や浮織錦で張った豪華な客間の椅子の十二脚分にも相当する椅子。その椅子に、静かにからだを前後に揺すりながら、細かな縫物に目をそそいで、われわれのイライザがすわっていた。たしかに、それはイライザであった。ケンタッキーの家《ホーム》にいた時よりもいっそう青ざめ、やせ細って、静かな悲しみの世界が彼女の長いまつげの蔭に宿り、彼女のやさしい口もとに漂っていた! 年端もいかぬ女の心が激しい悲しみの苦行にあってどんなに成長し、堅固なものになってきたかは一見しただけでも明らかであった。そして、やがて、その大つぶな黒い瞳をあげて、熱帯産の胡蝶《こちょう》のように床の上をあちこちと飛びまわっている小さなハリィの姿を追い求めた時の彼女の姿には、以前のもっと幸福な時代には一度も見られなかった強い決意と固い覚悟とがうかがえるのであった。
彼女のかたわらには一人の婦人がすわっていた。膝にぴかぴか光る錫の鍋《なべ》をのせ、その中へ干した桃の実を丁寧に選り分けては入れていた。年の頃は五十五か六十くらいのようであったが、その顔は年月がそれを輝かせ、美しさをひきたたせるためにのみ触れたとしか思えないほどの若々しさであった。つつましいクエーカー教徒の様式に則《のっと》って作った、雪のように白い絽《ろ》のクレープの帽子、――胸もとにきちんと襞《ひだ》をつくってかかっている質素な白いモスリンのハンカチ、――とび色のショールと衣服、――これらを一見しただけでもこの婦人の所属する団体がいかなるものであるかはすぐとわかった。彼女の顔は円くばらのような色合いで、その健康的な綿毛にも似た柔かさは、熟した桃を連想させた。髪の毛は、年のためなかば銀色にはなっていたが、高い静かな額からきれいに後ろへ分けられていて、その額の上に年月が書き記したものといえば、地上には平和、人には善意というあの聖書の教え(ルカ伝、第二章十四節)以外の何ものでもなかった。そしてその額の下には澄んだ、誠実な、愛に満ちた茶色の大きな目が輝いていた。その目をじっと見つめていさえすれば、これまでどんな女性の胸にも脈うったことがないほどの善良で誠実な心をその奥底にいたるまで見ることができるように思えた。美しい若い娘たちについてはこれまでいろいろと話されたり詩《うた》われたりしてきたが、どうして年とった婦人の美しさに気づく人がいないのであろうか? もしだれかこうした問題について霊感を得たいと思う人があったなら、ちょうど今ここの小さな揺椅子に腰かけているわれわれの善き友レイチェル・ハリディを紹介しよう。むかし風邪《かぜ》をひいたためか、あるいは喘息《ぜんそく》の病からか、あるいはまたおそらく何か神経の錯乱のようなものからか――これは彼女の腰かけている椅子についての話であるが――近頃はガタガタいったりキイキイいったりするようになっていたが、それを彼女が静かに前後に揺すると、椅子は従順な「キコキコ」というような音をたてるのである。他の椅子でそんなことをしようものならさぞ聞くにたえない音であったろう。が、夫のシメオン・ハリディは、自分にはどんな音楽にもまして快い音だとしばしば言っていたし、子供たちも皆そろって世界じゅうのどんなものをくれるからといっても母親のこの椅子の音だけは聞かずにはいられないと言っていた。それはなぜであろうか? 二十年あまりも、ただひたすら愛情あふれる言葉、やさしい訓《おし》えが、母親の慈愛にみちた恵みが、この椅子から湧き出てきたからなのである。――頭痛や胸の痛みが何度ここでいやされたことであろうか、――信仰の悩み世俗的な悩みもここで解決されたのだ、――何もかもこの一人の善良な、愛情あふれる婦人によってなのであった。なにとぞこうした婦人に神の御恵みがありますように!
「それで、あなたはやはりカナダへ行きたいと思っているのね、イライザ?」と彼女は桃の実を静かに調べながら言った。
「はい」イライザはきっぱりと答えた。「私は行かなくてはなりません。やめるわけにはいかないのです」
「で、どうするつもりなの、向こうへ着いてからは? そのことも考えておかなければいけませんよ、娘や」
この「娘や」という言葉はごく自然にレイチェル・ハリディの口から出た。なぜなら彼女の顔や姿は「母親」という言葉が世の中で一番自然な言葉であるように思わせるものであったからである。
イライザの手が震え、涙が縫物の上に落ちた。しかし彼女は、きっぱりと答えた。
「私、やってみます――なんでも見つかった仕事を。何かあるだろうと思います」
「ここは、あなたがいたければ、いつまでいてもかまわないのですよ」とレイチェルは言った。
「はい、ありがとうございます」とイライザは言った。「でも」――と彼女はハリィを指さして――「私、夜もおちおち眠れませんし、気の休まることがございません。昨夜もあの男が中庭に入って来た夢をみました」と彼女は身を震わせながら言った。
「かわいそうに!」とレイチェルは、目をふきながら言った。「でもそんなに心配しなくてもいいのですよ。神さまの思し召しで、これまでに、逃げて来た人でわたしたちの村から連れていかれたためしは一度もないのですからね。あなたの坊やがその最初の例になるとは思えません」
この時ドアがあいて、小柄で背の低いまるまると肥った、まるで針刺《はりさし》のような感じの婦人が戸口に姿を見せた。陽気な、血色のいいその顔は熟れたりんごのようであった。彼女は、レイチェルと同様、地味な灰色の着物を着て、まるく、ふくらんだ小さな胸にはモスリンをきちんとたたんで掛けていた。
「ルース・ステッドマン」とレイチェルは嬉しそうに出迎えながら言った。「どう、この頃は、ルース?」と言って、心からその両手をとった。
「ええおかげさまで」ルースはそう言いながら小さなとび色のボネットをぬいで、その埃をハンカチで払った。ボネットをとったので丸い小さな頭が見えたが、彼女はすぐにまたそれをかぶりなおした。小さな丸い手で、あっちを撫でつけたりこっちをたたいたり、いろいろ苦心をしてかぶるのであるが、このクエーカー教徒の帽子はどうもいうことをきかない。巻毛のような髪くせのほつれ毛も、また、あちこちということをきかず、宥めたりすかしたりするようにして元の場所に押さえつけなければならなかった。やがて、年の頃二十五歳かと思われるこの新来の客は、こうして小さな姿見の前で身繕いをすませると、こちらを振りむき、あふれるような笑顔を見せた。――それは、彼女を見たらたいていの人が同じようにほほえむほどの笑顔であった。――というのは彼女はいつも人の心を輝かせるような、いかにも健《すこ》やかな誠意あふれる快活な可愛い女性であったからである。
「ルース、この人がイライザ・ハリスさんよ。そしてこれがお話した坊や」
「お会いできて嬉しいわ、イライザ、――ほんとうに」とルースは言って、手を握り合ったが、その様子はまるでイライザが、長い間待ちもうけていた昔の友だちででもあるかのようであった。「これがあなたの可愛いお子さんね、――私、お菓子を持ってきてあげたわ」そう言いながら彼女は小さなハート形のお菓子を子供の方へ差し出した。すると子供は近寄って来て、巻毛の間からじっとみつめていたが、そのうちにはにかみながらそれを貰った。
「あなたの赤ちゃんはどこ、ルース?」とレイチェルが言った。
「ええ、いま来ますわ。今そこでおたくのメアリィが見つけて、納屋《なや》の方へ連れて行きましたの、みんなに見せるんだからと言って駆けてね」
ちょうどその時、ドアがあいて、まじめそうな、ばらのような頬の、母親と同じように大きな茶色の目をした娘、メアリィが赤ん坊を抱いて入って来た。
「まあ! まあ!」と言いながらレイチェルは近寄って、大きな色の白いまるまると肥った赤ん坊を両手に抱いた。「なんて可愛い! それにずいぶん大きくなったことね!」
「ほんとうに、大きくなりましたわ」と、やや忙《せわ》しげにルースが答えた。彼女はその子を受け取ると、小さな青色の絹の頭巾だの、上に着ているいろいろなものを脱がせ、あっちを引っ張ったり、こっちをかき合わせたり、さまざまに子供の着つけをなおし、心からのキスをしてやってから、子供を落着かせるためにそっと床《ゆか》の上におろしてやった。赤ん坊はこういう扱いにはよく慣れているようであった。というのは口の中に(まるでしごく当然のことででもあるかのように)親指を突っ込んで、すぐに自分の考えにふけりだす様子であったからである。母親はこのすきに腰を掛け、青糸と白糸との混った編みかけの長靴下を取り出して、せっせと編みはじめた。
「メアリィ、湯沸しに水を入れたほうがよくはなくて?」と静かに母親は言った。
メアリィは湯沸しをとって井戸辺へと行ったが、すぐもどって来て、それをストーヴの上においた。まもなくその湯沸しは音を立て湯気を吹きはじめた。それは歓待《かんたい》となごやかさとの匂う香炉にも似ていた。そしてまたレイチェルが二言三言静かにささやくと、すぐその指図どおりに、桃の実がやはりメアリィの手によってシチュー鍋の中に入れられて火にかけられた。
やがて今度はレイチェルが雪のように白いこね板を取り出して、エプロンをかけ、静かにビスケットを作りはじめたが、彼女はその前にメアリィに声をかけた。「メアリィ、ジョンに鶏の用意をするように言ったほうがよくはなくて?」するとメアリィはすぐに出ていった。
「ところで、アビゲイル・ピータァズの具合はどうなの?」とレイチェルはビスケットをこしらえながら尋ねた。
「ええ、前よりいいようよ」ルースは答えた。「私、けさ、ちょっと寄って、寝床をなおしたり、家の中をかたづけたりして来ましたのよ。昼からは、リア・ヒルズが行って、二、三日分のパンやパイを焼いてくれましたわ。で私、また晩に行ってからだを起こしてあげる約束をしてきましたの」
「私もあした行って、何か洗濯物があったらしてあげて、繕い物なぞも見てあげることにしましょう」とレイチェルが言った。
「まあ! それはいいわね」とルースが言った。「話によると」と彼女はつけたして、「ハナ・スタンウッドが病気ですってね。|うちの人《ジョン》が昨夜《ゆうべ》見舞いに行って来ましたの、――私もあすは行かなければ」
「それならジョンはうちへ来て食事をするといいわ、もしあなたが一日じゅう向こうに行っていなければならないのならね」とレイチェルが言った。
「ええ、すみません、レイチェル。あすの様子をみてからお願いするわ。あら、シメオンが帰っていらしたわ」
背の高いすらりとしたたくましいからだのシメオン・ハリディがとび色の上衣とズボンを身につけ、縁の広い帽子をかぶって、その時入って来た。
「どうだね、ルース?」彼は、温かみのこもった言葉でそう言いながら、大きな幅の広い手をルースの小さな肥った手の方へ差し出した。「それからジョンも元気かな?」
「ええ! ジョンも元気ですし、ほかの者もみんな元気ですわ」とルースは快活に言った。
「何か変わったことは、おとうさん?」とレイチェルはビスケットをオーヴンに入れながら尋ねた。
「ピータァ・ステビンズの話によると、みんなが今夜来るそうだよ、お友だちをつれてね」シメオンは意味ありげにそう言いながら、狭い裏口にあるきれいな流しで手を洗った。
「まあそうですか?」と言ってレイチェルは何か考えながら、ちらっとイライザを見た。
「あなたの名はハリスとか言いましたな?」シメオンはイライザに尋ねながら、再び家の中に入って来た。
レイチェルは、イライザが震えながら「はい」と答えるのを見て、素早く夫の方へ目をやった。イライザの恐怖心は、まず何よりも先に、自分を捜索する広告が出たのではなかろうかと思ったのである。
「おかあさん!」とシメオンはポーチに立ったままレイチェルを呼び出した。
「なんのご用、おとうさん?」レイチェルは粉だらけの手をこすりながらポーチへと出て行った。
「あの子の連れ合いがこの居住地にいて、今夜ここへ来るんだよ」とシメオンが言った。
「まあ、それほんとうですか、おとうさん?」とレイチェルは満面を喜びに輝かせながら言った。
「ほんとうだとも、ピータァがきのう、荷馬車で、隣りの中継所《スタンド》へ行ったんだが、そこで年寄りの女と二人の男とを見つけたんだ。で、そのうちの一人が名前をジョージ・ハリスだと言うのだ。そしてその男の身の上話の様子から、確かにその男にちがいないと思うのだ。頭のよさそうな、頼もしい男だしな」
「今あの子に話そうかね?」とシメオンが言った。
「ルースに話してみましょう」とレイチェルは言った。「ねえ、ルース、――ちょっとここへ来てちょうだい」
ルースは編み物を置いて、すぐに裏口にやって来た。
「ルース、あなたはどう思って?」とレイチェルは言った。「イライザの連合いが今度来る人たちの中にいて、今夜ここへ来るとおとうさんが言っているのだけれど」
この話は小柄なクエーカー教徒の口をついて出た歓声で中断された。ルースは小さな手をたたきながら小躍りして喜んだので、とうとう巻毛が二つ、かぶっていた帽子からはみ出して、白いネッカチーフの上にぱさりと垂れ下がってしまった。
「しっ、静かに!」とレイチェルはやさしくたしなめた。「静かにしてちょうだい、ルース!どうだろうね、今あの子に話そうかしらね?」
「今! もちろんそうだわ、――今すぐよ。だってこれが|うちの人《ジョン》だったらどう、私がどんな気持になると思って? ぜひ話してあげて下さいな、今すぐに」
「あんたは汝の隣人を愛せよという言葉をひたすら学ぼうというのだね、ルース」とシメオンは顔を輝かせながら、ルースを見つめた。
「そうですとも。私たちはそのために生まれて来たのではなくって? 私がジョンや赤ちゃんを愛しているからこそ、あの女《ひと》の気持も私にはわかるのよ。さあ、早く、話してあげて下さいな、――ぜひとも!」彼女は説き伏せるように両手をレイチェルの腕に置いた。「あなたの寝室へ連れていらしたらいいわ、あなたがお話していらっしゃる間、鶏肉は私が揚げておきますから」
レイチェルは、イライザが縫物をしている台所の方へと行った。そして小さな寝室の戸をあけると、やさしく声をかけた。「わたしと一緒にこちらへいらっしゃい、娘や。あなたに聞かせたいお話があるんです」
イライザの青白い顔にさっと血の気がさした。彼女は不安に身を震わせながら立ち上がると、子供の方に目をやった。
「いいえ、そんなことではないのよ」と小柄なルースが駈け寄って、彼女の両手を握った。「何も心配することはないのよ。いい知らせなんですもの、イライザ、――さあ、お入りなさい!」そう言いながらイライザをやさしく戸口に押しやった。戸は彼女の背後でしまった。そこで、くるりと向きなおると、彼女は小さなハリィを抱きあげてキスをしだした。
「お父さんに逢えるのよ、坊や。わかる? 坊やのお父さんが来るのよ」と彼女は何度も何度もくりかえして言った。子供は不思議そうに彼女の顔を見ていた。
その間、部屋の中では、別の場面が展開していた。レイチェル・ハリディはイライザをかたわらに引きよせて言った。「神さまがあなたにお恵みを下さいましたよ、娘や。あなたのお連合いは奴隷の家(出エジプト記、第十三章第三節)から逃げられました」
イライザの頬にさっと血が上って急に輝きだしたが、すぐまたその血は心臓へ帰って行った。彼女はまっさおになってへなへなとそこへ腰を落とした。
「勇気を出すのよ、ね」とレイチェルは、イライザの頭に手を置きながら言った。「お連合いはわたしたちのお仲間と一緒にいます。そしてその人たちが今夜ここへ連れて来てくれるのです」
「今夜!」イライザはくりかえした。「今夜ですって!」この言葉は彼女にとってまったく意味を失ってしまった。頭がぼーっとして何がなんだかわからなくなった。あらゆるものが一瞬の間かすんでしまったのである。
気がついてみると、彼女はベッドの上に心地よく寝かされ、毛布をかけられていた。そして小柄なルースが樟脳《カンフル》で両手をこすってくれていた。目はあけたものの、まだ夢見心地の快いけだるさで、まるで長い間重い荷物を背負っていた人が、ようやく荷物がおろされて、ほっと一息入れた時のような感じであった。神経の緊張は、逃げ出した当初から瞬時もゆるむことはなかったが、今はそれもすっかりほぐれて、安心と休息との不思議な感情が彼女を覆った。そして、彼女はベッドに横たわったまま、大きな、黒い目をあけて、静かな夢の中にでもいるかのように、あたりの人たちの動きを追っていた。次の部屋へ通じる戸があいていて、夕食のテーブルに雪のようにまっ白な布がかけられてあるのが見えた。湯沸しの低い夢のような歌声が聞こえてきた。ルースがお菓子の皿や砂糖漬の入れ物をもって足どりも軽く行ったり来たりして、時々足をとめてはハリィの手にお菓子を持たせたり、頭をなでてやったり、ハリィの長い巻毛を自分の白い指にからませたりしている姿が見えた。またレイチェルのふくよかな、母親らしいやさしい姿が、時々彼女のベッドのかたわらにやって来て、夜具の皺をのばしたり、整えたり、掛布団の端をあちこちと挾み込んだりして、何かと親切なせわをしてくれるのが見えた。そしてその大きな、澄んだ褐色の目から太陽の光のようなものが自分の上にそそがれるのを感じた。ルースの夫が入って来るのが見えた。――ルースが彼に飛びついて、非常に熱心に、時々、感にたえないといったしぐさで、こちらの部屋を指さしながら、何か囁《ささや》きはじめるのが見えた。ルースが、赤ん坊を抱いて、夕食の席につくのが見えた。一同がテーブルについて、小さなハリィも子供用の高椅子にのせられて、レイチェルの大きな翼のかげに護られていた(詩篇、第十七篇第八節)。低い話し声、ティー・スプーンのやわらかな音、茶碗《ちゃわん》と受皿の触れあう音楽のようなひびき、あらゆるものが快い休息の夢の中でまざり合った。そしてイライザは眠った。それは霜の星明かりの中を子供を連れて逃げたあの恐ろしい真夜中以来、一度も味わったことのない眠りであった。
彼女はある美しい国の夢を見た。――それは彼女には、休息の地のように思われた。――緑の海辺、気持のよい島影、美しく輝く水。そしてそこで、やさしい声が彼女にこれが家庭《ホーム》だと告げる家の中で、彼女の子供が、自由で幸福な幼な子が遊んでいるのが見えた。彼女は夫の足音をきいた。夫がだんだんと近寄ってくるのを感じた。彼の両腕が彼女を抱いた、彼の涙が彼女の顔の上に落ちた、そして彼女は目を覚ました!
それは夢ではなかった。昼の光はとっくにかげっていた。彼女の幼な子はかたわらで静かに眠っていた。ろうそくが台の上にぼんやりと点《とも》っていて、そして彼女の夫が枕元でむせび泣いていた。
その翌朝、このクエーカーの家は陽気な朝であった。「お母さん」は早くから起きて、せわしく働く娘や息子《むすこ》たちに取巻かれていた。この子供たちのことについては時間がなくて昨夜は読者の皆さんに紹介することができなかったが、彼らはみなレイチェルのやさしい「そうしたほうがいいわ」とか、もっとやさしい言葉づかいの「そうしたほうがよくはないかしら?」という指図をすなおにきいて、朝食の用意をしていたのであった。というのも、インディアナ州の豊かな谷間の朝食というものは複雑多様なもので、しかも、それは天国でばらの葉を摘みとったりその茂みを刈り込んだりする仕事に似て、人類最初の母親の手だけではとても足りなかったからである。そこで、ジョンがきれいな水を汲みに泉へと走ってゆき、シメオン二世がコーン・ケーキにする粉をふるい、そしてメアリィがコーヒーをひいている間、レイチェルはやさしいおだやかな物腰であちこちと歩きまわっては、ビスケットを作ったり、鶏肉を切ったり、そしてみんなの仕事の上にもれなく太陽の光のような輝きをまきちらしていた。もしもこのあまりにもたくさんな若い働き手たちが自分の仕事に熱中しすぎて摩擦や衝突が起こりそうな危険が少しでも見えると、彼女のやさしい「まあ! まあ!」とか「わたしだったら、今はそんなことはしませんよ」といったような言葉だけで、そのもつれを静めるのにもう十分であった。吟遊《ぎんゆう》詩人たちは昔ヴィーナスの帯(人の愛情を起こさせる帯)のことを詩《うた》った、それは幾世となく全世界の人の心を酔わせたものである。しかしわれわれとしては、レイチェル・ハリディの帯を持ったほうがいい、それはわれわれの心を酔いから護り、すべてのものを調和よく進めるからである。このほうがきっと、現代にはふさわしいと思われるのである。
他のあらゆる準備が進められている間、老シメオンはシャツ一枚で片隅の小さな鏡の前に立って、髭《ひげ》そりという家長らしくない仕事に従事していた。すべてのことが、この大きな台所では、いかにもうちとけて、いかにももの静かに、いかにも調和よく進んでいた、――すべての人にとって自分が今やっている仕事をするのがいかにも楽しいといった様子で、いたる所に互いの信頼と親交の雰囲気《ふんいき》があふれ、――ナイフやフォークまでもがテーブルに置かれる時には親しげな音をたて、そして鶏肉やハムは鍋の中で陽気なうれしそうな音をたてていた、それはまるで料理されるのが何よりも楽しいといわんばかりであった。――それでジョージとイライザと小さなハリィとが出て来た時には、こうした心からの喜びの歓迎をうけた彼らにとっては、それが夢のように思えたのも不思議ではなかった。
とうとう、一同は朝食の席についた、メアリィだけはストーヴの所に立って、グリドル・ケーキを焼いていたが、それも申し分のない狐色に焼きあがると、たいへん手ぎわよく食卓に運ばれた。
レイチェルは食卓の正面にすわっている時ほど、ほんとうに優しさにあふれた幸福そうな様子をみせたことはなかった。ケーキののった皿をみんなに回わしたりコーヒーをついでやったりするしぐさにまで母親らしさや真心がみち溢れていたので、彼女のすすめる食物や飲物にも霊《れい》がこもるかと思われるほどであった。
ジョージが白人の食卓に対等の間柄でついたのはこれが初めてで、それゆえ、最初のうちは腰を下ろしていても何か気兼ねでぎこちなかったけれども、この素朴で、溢れ出んばかりの親切な優しい朝の光の中では、そうした気持はすべて霧のように消えてなくなってしまった。
これこそ、ほんとうに家庭《ホーム》というものであった。――ホーム――ジョージにはまだその言葉の意味がはっきりとはわからなかったが、神の存在を信じ、神の摂理を信じる心が、まるで保護と信頼との金色の雲のように、彼の心を取巻きはじめ、彼の暗い、厭人的《えんじんてき》な、人知れず悩む、無神的な疑惑と烈しい絶望とは、この生ける福音の光の前に溶け去っていくのであった。その福音の光は、今ここにいる人々の顔に吹き込まれ、愛情と善意とに満ちた数えきれない無意識の行為によって説かれたものなのである。その行為は、使徒の名において与えられたあの一杯の冷たい水と同じように、その報いを失うことはけっしてないであろう。(マタイ伝、第十章第四十二節)
「お父さん、また見つけられたらどうするの?」とシメオン二世が、ケーキにバターをぬりながら言った。
「罰金を払うよ」とシメオンは静かに言った。
「でももし牢屋《ろうや》へ入れられたらどうするの?」
「おまえとお母さんとで農場はやってゆけないかね?」とシメオンは微笑しながら言った。
「お母さんはどんなことだってできるよ」と少年は言った。「でもこんな法律を作るなんてひどいね?」
「政治をする人たちのことを悪く言ってはいけないよ、シメオン」と父親はまじめな顔で言った。「神さまは私たちが正義と慈悲とを行なうためにこの世の財産を私たちにお授けになるだけなのだ。もし政治を行なう人々がそのために代償を私たちに求めるのなら、私たちはそれを与えなくてはならないのだよ」
「でも、ぼくは奴隷をもっているあんなやつらなんか大嫌いだ!」と少年は言った。彼は現代のいかなる改革者にも劣らぬほどに非キリスト教徒的な気持になっていた。
「これは驚いたね、おまえ」とシメオンは言った。「おまえのお母さんはおまえにそんなことは教えなかったはずだ。私だったら奴隷と同じように奴隷所有者にだって同様のことをしてあげるよ、もし神さまが難渋《なんじゅう》しているその人を私の家の戸口にお導きなさったらね」
シメオン二世はまっかになった。が、母親はただほほえんで、こう言った。「シメオンはいい子ですよ。だんだん大きくなって、そのうちにお父さんと同じようになります」
「あのう、私たちのためにご迷惑がかからなければいいのですが」とジョージが心配そうに言った。
「何も心配することはないよ、ジョージ、私たちはこうしたことのためにこの世につかわされてきたのだからね。善いことをするのに困難とぶつかりたくないというのだったら、私たちは私たちの名にも価《あたい》しない人間だ」
「でも、私のせいですから」とジョージは言った。「私はじっとしているわけにはいきません」
「それなら、心配することはないよ、ジョージ。これはあんたのためではなく、神と人とのためなんだよ、私たちがやっているのはね」とシメオンは言った。「さあ、きょうはじっと、静かにしていなさい。そして今夜、十時に、フィニアス・フレチャアがあんたを次の中継所《スタンド》へ連れていってくれる。――あんたとあんたの連れをみんなね。追手がすぐあとまで来ているんだ。私たちはぐずぐずしてはおれない」
「そういう事情なら、なぜ夕方まで待つのでしょうか?」とジョージは言った。
「昼間はここにいるほうが安全なのだ。この居住地の者はみんなフレンド会の人(クエーカー教徒のこと)で、だれもが見張っていてくれるからね。これまでの経験で夜中に行ったほうが安全なことがわかっているんだ」
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第十四章 エヴァンジェリーン
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「人の世を照らせし
幼き星!――この世の鏡にはあまりにも甘《うつくし》き像《すがた》!
未《いま》だ姿も容《かたち》も整わぬ、愛《いと》しきもの、
今もなおその甘き葉に包まれし一輪のばら」
(バイロン「ドン・ジュアン」第十五篇第四十三節)
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ミシシッピー川! この川も、まるで魔法の杖で変えられたように、その光景はなんと変わってしまったことだろう。昔はシャトウブリアン(フランスの小説家、一七六八年〜一八四八年)が、夢にも想像できぬような不思議な植物や動物のいる中を流れて行く、強大な犯し難い孤独の川としてこれを散文詩に描いて(「アタラ」一八〇一年)いたのだが。
しかし、このかずかずの夢と野性の物語《ロマンス》とをもって流れる川も、またたく間に、それと同じように幻想的ですばらしい現実へと変わってゆくのである。世界中の一体どんな他の川が、こんな大きな国――熱帯地方から極寒地へいたるすべての産物を生みだす国――の富と企業とをその胸にたたえて大洋へはこんでゆくだろうか? このすみやかに泡立ちながらはげしく流れる濁った水、それは旧世界がこれまでに見てきたいかなる民族よりも、もっとはげしく精力的な民族によって今日この水路に注ぎ込まれるあの事業の向こう見ずな潮《うしお》にも似たものがある。ああ! その水がもっと恐ろしい船荷をもまた運んでいなければいいのだが。――あの虐げられた人々の涙、寄辺《よるべ》ない人々のため息、未知の神に対する、あわれで無知な心の悲しい祈りなどを――だが、このまだ知られぬ、目に見えぬ、語らぬ神も、やがては「その処を出でて地上の貧しきしもべたちをすべて救いたもう」であろう!
沈んでゆく太陽の傾く光が海のように広い川面《かわも》にゆれて、ふるえる砂糖きびや、暗い、喪服のような苔《こけ》を垂らした丈の高い暗い糸杉が、金色の光に輝く中を、貨物を満載した汽船が進んでゆく。
方々の農園《プランテイション》から集めた棉の梱《こり》を、甲板や両舷側にまで積み込んで、ついに、遠くから見るとまるで四角い大きな灰色の塊りのように見えるようになったこの船は、次の市場に向かって重そうに動いている。われわれはこの足の踏み場もない甲板をしばらくの間捜さなければ、われわれの謙虚な友人トムを再び見出だすことはできないであろう。上甲板の、いたる所にはばをきかせている棉梱の間の狭い一隅に、ようやくわれわれは彼を見つけ出すことができるからである。
一つにはシェルビィ氏の説明によって吹き込まれた信用からと、また一つには本人の驚くほど悪気のない穏やかな性格から、トムはいつの間にかヘイリィのような男の心にも深く入り込んで信用されるようになっていた。
最初ヘイリィは彼を昼間も厳重に監視し、夜は足枷《あしかせ》をせずに寝かすようなことはけっしてなかったが、トムが不平も言わず、じっと辛抱して現状に満足しているらしい様子を見ると、だんだんこうした束縛をゆるめていった。そして少し以前からトムは宣誓解放《パロゥル・オヴ・オナァ》を受けた捕虜《ほりょ》のように、船中好きな所を自由に往き来することを許されていた。
常にもの静かで親切で、下で働いている船員たちの間に起こる急場の用事にはいつも喜んで手をかしていた彼は、船員たちのだれからも評判がよかった。しかも彼は、多くの時間を彼らの手伝いに費すにもケンタッキーの農場で働いていた時と同じように心底からの善意をもってしていたのである。
何も用がないと思われる時には、彼はよく上甲板の棉梱の片隅によじ登って、一心に彼の聖書を読んでいた。――そしてこうした場面《ところ》で今われわれは彼を見るのである。
ニューオーリアンズの上流百マイル以上の間、この川の水位は沿岸の土地よりも高くなっていて、すさまじい量の水が高さ二十フィートにもおよぶ巨大な堤防の間を流れている。そのため旅人は汽船の甲板から、ちょうど浮かんだ城の頂上からのように、何マイルにも渡ってこの一帯の土地を見渡すことができる。したがって、トムは次から次へと展開してゆく農園《プランテイション》の光景によって、自分が近づいて行きつつある生活の縮図を自分の目の前にひろげていたのである。
彼はけんめいに働いている遠くの奴隷たちを見た。はるかかなたには、多くの農園《プランテイション》に長い列をなして光る小屋ばかりの彼らの村を見た。それは主人の堂々たる邸宅や遊園地からはずっと離れた所にあった。――こうしてその動く画が移り行くにつれて、彼の哀れな、愚かな心は鬱蒼《うっそう》としたぶなの木のあるケンタッキーの農場へ、――広い、涼しい広間のある主人の家や、そのすぐ近くの、ばらやノウゼンカズラのおい茂っている小さな丸木小屋へと帰っていった。そこで彼は子供の頃から一緒に育った友だちの親しい顔を見たように思った。彼は自分のためにせっせと夕食の支度をしているせわしい妻の姿を見た。遊びたわむれている子供たちの陽気な笑声や、彼の膝にのった赤ん坊のはしゃぐ声を聞いた。それからやがて、はっとわれに返ると、あらゆるものが消えて、彼は再び砂糖きびの茂みや糸杉や滑るように過ぎてゆく農園《プランテイション》を見、再び機関のきしる音や呻く音を聞いた。そしてこういうものすべてがあまりにもはっきりと、ああした生活はもう何もかも永久に失われてしまったのだと彼に告げるのであった。
こうした場合、われわれならば妻に手紙を書き、そして子供たちへ言伝《ことづ》てを送ったであろうが、トムには字が書けなかった。――彼にとっては郵便は存在しなかった。別離の深淵《しんえん》は親しい言葉や信号によってさえ橋をかけることができなかったのである。それで、棉梱の上にひろげて、根気のよい指で、一語一語をゆっくりと縫うようにたどりながら、約束の言葉を読んでいた彼の聖書のページに、幾滴かの涙が落ちたからといってなんの不思議があろうか? 年をとってから習いおぼえたので、トムは本を読むにもゆっくりとしか読めなかった。そして一句一句を非常な努力で読んでいった。彼にとって幸せなことは、彼が一心になって読んでいるこの本はどんなにゆっくり読んでもさしつかえのない、――いやそれどころか、その中に書かれている言葉は、心がその貴重な価値を理解するためには、金の塊りのように、一つ一つ別々に重さを量ってみることが必要だとしばしば思われるような本であった。しばらくの間彼について行ってみよう。彼は一語一語を指さしながら、なかば声を出して、こう読んでいるのである。
「なんじら――心を――騒がす――な。わが――父の――家――には――住処《すみか》――おお――し。われ――汝ら――のために――処――を――備え――に――往く」(ヨハネ伝、第十四章第一節および第二節)
キケロ(ローマの政治家、哲学者、紀元前一〇六〜四三)は、彼の最愛の一人娘を失った時、哀れなトムの心と同じように偽りのない悲嘆にみちた心をもった(プルターク英雄伝、第五巻キケロ参照)。――その悲しみの度合はおそらくトムと同じであったろう。なぜなら二人とも神ならぬ身であったからである。――しかしキケロにはここに書かれた崇高な希望の言葉について考えさせるものもなく、またここに述べられるような来世での再会を少しも期待することはできなかった。仮にキケロがこうした言葉を見たとしても、九分九厘まで信じようとはしなかったであろう。――彼は最初から写本の真偽、翻訳の正確性についての数限りない疑問で頭を満たしたにちがいない。しかし、哀れなトムにとっては、現にそれはそこに、まさに彼が必要とするものとして、はっきりし過ぎるほど真実な神聖なものとして存在していたので、一つの疑問さえも彼の単純な頭には入りえなかった。それは真実でなければならなかった。なぜなら、もし真実でなかったなら、いかにして彼は生きて行くことができようか?
トムの聖書には、その欄外に博学な註釈者の註解や解説などはなに一つなかったけれども、トム自身が工夫した一種の道路標識や道案内板のようなものがいろいろと書き込まれていて、それらは最も学問的な解説以上に彼には役だっていた。彼はこれまで主人の子供たち、特に若旦那のジョージに聖書を読んでもらうことにしていたが、読んでもらいながら、太い、はっきりとした符号や線を、ペンとインクで、ことのほか自分の耳を喜ばせたり自分の心を感動させたりしたページに書き込んでいたのである。彼の聖書にはこのようにして、初めから終わりまで、さまざまの形や印がつけてあったので、言葉の一字一字を骨折って読まなくても、すぐに自分の好きな章句をつかみ出すことができた。――そして聖書が自分の目の前に開かれているかぎり、一つ一つの章句が昔の家のある場面を思い起こさせ、過去のある楽しみを呼び起こさせるので、彼にとっては聖書こそこの世に残された生活のすべてであり、また同時に来世の生活の約束であるように思えるのであった。
船には船客にまじって資産家で由緒《ゆいしょ》のある年若い紳士が乗っていた。ニューオーリアンズの住人で、セント・クレアという名前だった。彼は五、六歳の娘と、一人の婦人とを同伴していたがその婦人は二人の親戚《しんせき》にあたるらしく、また特にその小さな娘の監督にあたっているようであった。
トムはよくこの少女の姿を見かけることがあった。――彼女は、あの目まぐるしくあちこちと動きまわる世間の子供たちと同じで、日光や夏のそよ風と同じように一つ場所にいつまでもじっとさせておくことのできないような――そして一度見たら、すぐには忘れられないような子供であった。
彼女の姿は子供らしい美しさの極致で、子供によく見られるような輪郭がずんぐりとしていたり四角ばったりしているようなことはなかった。その姿には、ただよう夢のような優美さがあった。それはちょうど神話や寓話《ぐうわ》の中の人物がもっているものを夢想させるようなものであった。彼女の顔が人目をひいたのは、目鼻だちの完全な美しさのためというよりは、むしろ不思議な夢みるようなまじめな表情のためであって、理想家たちが彼女を見れば、その表情にはっとするほどであった。そしてどんなに鈍感で想像力の働かない人たちでも彼女の表情には、なぜかはっきり理由はわからないながらも、心をうたれたのである。彼女の頭の形、それに首から胸へかけての線は特に気高かった。そしてその周囲に雲のように漂う長い金褐色の髪や、同じ金褐色の、重たげなまつ毛の蔭にかくれた彼女のすみれ色の瞳の深い精神的な落着き、――これらすべてのものが彼女を他の子供たちから区別し、彼女が船の中をあちこちと歩きまわっている時に、みんなを振りかえらせるのであった。にもかかわらず、この少女はおとなぶった子とか陰気な子とかというようなものではなかった。むしろその反対に、快活で無邪気な茶目っ気が、夏の木の葉の影のように彼女の子供らしい顔の上や、軽快なからだのまわりにゆらいでいるように思われるのであった。彼女はいつもからだを動かしていた。いつもばらのような口もとになかば微笑をたたえ、波のうねりのような、また雲のような歩調であちこちと飛び歩き、歩きながら歌を口ずさんでは楽しい夢にひたっているかのようであった。彼女の父親や保護者の婦人は、彼女のあとを追いかけるのにたえず忙しかった。――しかし、彼女は、つかまえられても、すぐにまた夏の雲のように彼らのもとから消えてしまった。そして彼女がどんなことをしても彼女の耳には小言一つ非難の声一つ落ちたことがなかったので、彼女は船中いたる所を歩きまわっていた。いつも白い服を着て、どんな所でも、そこに汚点《しみ》も汚れもつけず、彼女は影のように通って行くように思われた。そして船中のどんな片隅でも、上甲板といわず下甲板といわず、この妖精の足取りが通らなかった所はなかったし、深い青い目をもったあの幻のような金髪の頭が通りすぎなかった所はなかった。
火夫は、その汗まみれの労役から目を上げた時、焦熱《しょうねつ》地獄のようなこの部屋を不思議そうにのぞき込んで、彼が何か恐ろしい危険の中にいるとでも考えているかのように、おそるおそる気の毒そうな様子で彼を見つめている彼女の目をよく見つけた。また舵輪を握っている舵手《だしゅ》は、絵のような彼女の頭が丸い部屋の窓からちらりとのぞき込み、そしてすぐにまた消えるのをみて、手をやすめて微笑した。彼女が通ると、一日に幾度となく荒くれた声が彼女を祝福し、船乗りたちには見慣れぬあのやわらかい微笑が、そのこわばった顔にいつの間にか浮かぶのであった。そして彼女が危険な場所を平気でちょこちょこ歩いている時には、荒くれた煤《すす》だらけの手が彼女を救おうと思わずさしのばされ、行く手の障害を取り除くのであった。
トムは、その親切な種族のやさしい感じやすい性質をもって、純真な子供らしいものには常に憧れていたので、日ごとに興味をつのらせてこの少女をながめていた。彼女は、彼にとってはほとんど神聖なもののように思われた。そして彼女の金髪の頭と深く青い目が薄黒い棉梱の後ろからのぞいたり、あるいはまた荷物の上から見おろしたりするたびごとに、彼は自分の新約聖書から抜け出た天使の一人がそこにいるのだとなかば信じ込むのであった。
幾度も幾度も彼女は、ヘイリィの連れた男女の一群が鎖につながれてすわっている場所にやって来ては、そのまわりを悲しみに沈んだ様子で歩き回わった。彼らの中にそっと入って来て、当惑した悲しげな様子でしんけんに彼らを見つめていることもよくあった。そして時々その細い手で鎖をもちあげ、やがて痛ましげにため息をつきながら、立ち去ることもあった。また両手にいっぱいキャンディやくるみやオレンジを持って、突然彼らの間に姿を現わし、うれしそうにそれを彼らに配って、また行ってしまうことも何度かあった。
トムはこの小さな淑女をいつまでも観察していたが、やがて思いきって近づきになるきっかけを作った。彼は小さな人々の接近を和《やわ》らげ、そして誘う簡単な方法をいくつも心得ていた。それで彼はそれを巧みにやってみようと心に決めた。彼は桜んぼの種を刻んで気のきいた小さな籠を作ることができたし、ヒッコリーのじつに奇妙な顔を彫ったり、にわとこの髄でおかしな踊りの人形を作ったりすることができた。そして大小さまざまな種類の笛を作ることにかけては彼はまさにパンの神(ギリシァ神話に出てくる牧神。笛を吹く)であった。彼のポケットには子供を引きつけるいろいろなものがいっぱい入っていた。それは以前主人の子供たちのためにと貯えておいたものだったが、いま彼はそれを、称賛に値するほどの賢明さと倹《つま》しさとをもって、一つ一つ取り出しては、彼女と知りあいになり、友だちになるきっかけを作ろうとしたのであった。
少女は、あらゆるものに目まぐるしいほどの興味をもっていたけれども、はにかみやだったので、彼女を手馴づけることは容易ではなかった。初めのうち、彼女は、トムが例の細工をせっせとやっている間、近くの箱や船荷の上にカナリヤのようにとまって、彼が差し出す小さな品物を、非常に恥ずかしそうな様子で受けとっていた。しかしそのうちに二人はすっかりうちとけた間柄になった。
「お嬢さまの名はなんとおっしゃいますだ?」やがて、機会が熟してこうした質問をしても大丈夫と思うようになったころトムは言った。
「エヴァンジェリーン・セント・クレアよ」と少女は言った。「でもパパやほかの人はみんなエヴァって呼ぶわ。で、あんたの名はなんていうの?」
「わしの名はトムでごぜえます。ちいさい子供さん方はわしのことをアンクル・トムって呼んでいましただよ、ずっと遠くのケンタク(ケンタッキーのこと)でのことでごぜえますがね」
「じゃあ、あたしもアンクル・トムって呼ぶわ、だって、あたし、あんたが好きですもの」とエヴァは言った。「それで、アンクル・トム、あんたはこれからどこへ行くの?」
「わからないのでごぜえますよ、エヴァさま」
「わからないの?」エヴァは言った。
「はい。わしはだれかのところへ売られて行くんでごぜえます。だれのとこかはわからねえですだ」
「わたしのパパならあなたが買えるわ」とエヴァは急いで言った。「そしてパパがあなたを買って下さったら、あなたは楽しく暮らせるわ。あたしパパにお願いしてみるわ、きょうにでもね」
「ありがとうごぜえます、お嬢さま」とトムは言った。
船はこの時材木を積み込むために小さな波止場に着いた。そしてエヴァは、父親の声をきくと、すばやく飛び去って行った。トムは立ち上がって、材木を積み込む手伝いをしに向かった。そしてまもなく彼は船員たちにまじって忙しく働きはじめた。
エヴァと父親とは一緒に手摺《てすり》の所に立って船が波止場から離れるのをながめていた。船尾外車《ホイール》が水の中で二、三度回転した。その時、不意の動きに、少女は突然からだの平衡を失って、船べりからまっすぐ水の中に落ちてしまった。父親はわれを忘れて彼女のあとから飛び込もうとした。が背後からだれかに引きとめられた。その人はもっと有能な救い手がすでに子供のあとを追っているのを見たからであった。
少女が落ちた時、トムはちょうどその真下の下甲板にいた。彼は彼女のからだが水に当たって、沈むのを見ると、次の瞬間には彼女のあとを追っていた。広い胸幅と、たくましい腕の持主、彼にとって水の中に浮かんでいることぐらいはなんでもなかった。すぐに、子供は水面に浮かび上がった。そこで彼は彼女を両腕にかかえ、船側に泳ぎつくと、水滴のたれる彼女のからだを差し上げて、大勢の手に引きわたした。それらの手は、まるでその全部が一人の人間のものででもあるかのように、彼女を受け取ろうと熱心に差し延べられていた。数分ののち、父親は、ずぶ濡れになって気を失っている彼女を、婦人船室へ運んでいった。そこでは、こうした場合の例として、一般に婦人客の間にはきわめて善意の、そして心やさしい競争がおこって、だれが一番多く手伝いをして看護のじゃまをするか、そしてまた可能な限りのあらゆる方法で彼女の回復を遅らせるかが争われるのであった。
次の日は、蒸し暑い、うっとうしい日で、汽船はニューオーリアンズに近づいていた。船の中はいつものような期待と準備のざわめきが広がっていた。船室では、一人二人とつぎつぎに自分の手回わり品をまとめ、それらを整えて、上陸の支度をしていた。ボーイやメイド、そしてすべての者が、忙しく立ち働き、このすばらしい船の汚れを落とし、磨きをかけ、整頓をして壮麗な入港の準備をしていた。
下甲板にはわれわれの友人トムが、腕組みをしてすわっていたが、心配そうに、時々、船の向こう側にいる人々に目をむけていた。
そこには美しいエヴァンジェリーンが立っていた。昨日よりも少し青ざめてはいたが、それ以外には彼女にふりかかったあのできごとのあとは少しも見られなかった。気品のある、優雅な姿の青年が一人彼女のかたわらに立って、無造作に片肘を棉の梱についていた。彼の前には大きな紙入れが開いたまま置いてあった。その紳士がエヴァの父親であることは、一見して、もう明らかであった。同じような気高い形の頭、同じような大きい青い目、同じような金褐色の髪、しかしその表情はまったく違っていた。大きな澄んだ青い目には、その形もその色も確かに同じではあったが、あの霧に包まれた夢のような表情の深さはなかった。すべてがはっきりと、きわだって、そして明かるかったが、それはただこの世の光がそうしたものなのであった。きりっと結んだ口もとには誇らしげなそしてやや皮肉な表情が見られたが、その反面、屈託のない尊大な態度が彼のりっぱな姿の一挙手一投足にぶざまに映るようなことはなかった。彼は機嫌のよい無頓着なそしてなかば道化《おどけ》たような、なかば蔑《さげす》むような態度で、ヘイリィの話に耳を傾けていた。ヘイリィは二人がこれから取引きしようとする商品の品質についてべらべらと際限なくまくしたてていたのである。
「あらゆる道徳的キリスト教的美徳が、黒いモロッコ革ですっぽり包まれているっていうわけだな!」と彼は、ヘイリィがしゃべり終わると言った。「それで、君、ケンタッキーで損害《ダメジ》(ケンタッキーの方言で「代価」のこと)だとかいわれる、代価はいくらなんだね。つまりこの取引きにはいくら払えばいいのかね? 君はいくら私からごまかすつもりなんだい、ええ?はっきり言ってごらん!」
「そうですなあ」ヘイリィは言った。「仮にあたしがあの男に千三百ドル欲しいって言ったって、あたしにとっちゃあちっとも潤いにゃならないんで、ちっとも、え、ほんとうの話が」
「そりゃあ気の毒だ!」と青年は、その鋭い嘲るような青い目をじっと彼に据えて言った。「だがその値で私にゆずってもいいと思うんだね、特別、私のためにね」
「そりゃあ、ここにいらっしゃるお嬢さんが、あの男をどうしてもと言っていらっしゃるようですからな、無理もねえこって」
「うん! なるほど、君の慈悲心に訴えるものがあるというわけだな、君。それで、キリスト教的な慈悲の問題として、いったいどれくらい安くあの男を手放し、どうしてもと言ってきかない若いご婦人の願いをかなえてやってくれるのかね?」
「まあ、ねえ、ちょっと考えてみて下さいよ」と商人は言った。「ほらあの手足、――胸幅が広くって、馬みてえに頑丈で。ほらあの頭、額の広いやつはきまって利口な黒ん坊ですからね、どんな仕事だってできまさあ。あたしも長年見ててわかってるんです。それにあのくらいの重さと恰好《かっこう》の黒ん坊なら、たとえ頭の中は空っぽでも、からだだけで相当の値打ちがあるというもんですからね。だがあの男のそろばんの腕ときたひにゃあ、その腕のみごとさはお目にかけたいくらいですがね、いや、まったく、それで値段のほうも高くなっているんですよ。なにしろ、あの男は前の主人の農場を全部切りまわしていたんですからね。仕事にかけちゃあ、めっぽういい腕を持ってまさぁね」
「だめ、だめ、全然だめだね、それじゃあ何もかもあんまり知り過ぎている!」と青年は、例の蔑むような薄笑いを口もとにただよわせながら言った。「全然役にはたたんな、まったくのところ。そういう利口なやつはきまって逃げ出したり、馬を盗んだり、大騒ぎを起こしたりするもんだ。あの男が利口だというんならそのために二、三百ドルは引かなきゃいかんと思うね」
「そりゃあ、そんなことはあるかもしれませんよ、もしあの男に人物証明書がなかったとしたらね。ところがあたしはやつの主人や他の人たちからの推薦状をちゃんと持っているんですぜ、この男が世間でいうほんとうの信心家ってえやつで、――これまでに見たこともないようなおとなしい、お祈りの好きな、信心深い人間だってえことを証明するものをね。なにしろ、もといた辺じゃあ、みんなから牧師さまだなんて呼ばれていたんですからね」
「じゃあわが家専属の牧師に使えるかもしれんな、おそらく」と青年は冷やかにつけ加えた。「そりゃあうまい考えだ。信心はわが家にあってはいちじるしく欠けているものだからな」
「ご冗談を」
「どうしてそれが冗談とわかるんだい? 君はいまあの男を牧師として請合《うけあ》ったばかりじゃないか? 教会会議か宗教会議で試験ずみなんだろう? まあ、その証明書とかをこっちに渡してごらん」
もしこの商人が、あの大きい青い目の中の機嫌のいいきらめきを見て、こうした冗談も、最後には、きっと金の上の利益になるだろうと確信していなかったなら、少々こらえきれぬところもあったであろう。だが、そうではないので、彼は手垢《てあか》でよごれた紙入れを棉梱の上において、気づかわしげに中の書類をしらべはじめた。青年は、その間、かたわらに立って、無頓着な、のんきな道化《おどけ》た態度で彼を見下ろしていた。
「パパ、ほんとうにあの人を買ってね! いくらお金がかかってもよ」とエヴァは、船荷の上にのって片腕を父親の首に巻きつけながら、そっと耳打ちをした。「お父さまはお金をたくさん持っていらっしゃるんでしょ、あたし知ってるわ。あたしあの人がほしいの」
「どうしてなんだい、小猫ちゃん? がらがら箱か、揺り木馬か何かの代わりにしようというのかい?」
「あたしあの人を幸福にしてあげたいのよ」
「奇抜な理由だね、まったく」
ここで商人は、シェルビィ氏の署名した証明書を差し出した。それを青年は長い指の先ではさみとると、無造作に目を通した。
「達筆だな」と彼は言った。「それに、文章もりっぱだ。ところでだ、この信心というやつだが、私にはどうもまだ納得《なっとく》がいかんね」と言う彼の目にはまた例のいたずらっぽい表情が浮かんだ。「この国は信心深い白人のおかげで崩壊しかけている。選挙が近づくと急に信心深くなるような政治家連中、――教会や州のあらゆる分野で行なわれているあの信心深い行為、おかげで同じ仲間の人間でも次にはだれが自分をだますかわからないようなありさまだ。その信心が、こうやって、商売の中にまで入り込んできたとは、私も知らなかったね。最近は新聞もろくに読んでいないので、その相場もわからん。で、君はこの信心に何百ドルの値をつけようというんだい?」
「冗談がお好きと見えますな」と商人は言った。「ですが、そりゃあみんな感じ方しだいですよ。信心にゃいろいろ違いがあるってえことはあたしだって知ってますからね。ある種のものはお粗末なもんだ。集会に出るだけの信心もありゃあ、歌って、騒ぐだけの信心だってある。こんなのは一文にもなりませんや、黒人にだって白人にだってね。――だが、あたしのは全然ちがってるんでさ、それにあたしゃだれにも負けないくらい何度もそれを黒ん坊たちの中に見てきたんですからね。つまり世間全体がどんなに唆《そその》かしたって、やつらがこれは間違っていると思ったことは絶対にやらせることができないような、ほんとうのもの柔らかに、穏やかな、堅実な、正直な、信心てえものをね。で、トムのもとの主人がこの男のことをなんと言っているかこの手紙でおわかりでしょう」
「それじゃあ」と青年は、まじめな顔つきをして彼の紙入れの上にかがみ込みながら言った。「もし、こういう種類の信心を私が金を出してほんとうに買うことができ、そしてそれが私のものとして、天国の帳簿の私の口座へ記入されるということを君が保証できるなら、そのために少しぐらい余計に払ったって私はかまわないが。どうだね?」
「さあ、実際のところ、そんなことはできませんね」と商人は言った。「あたしゃ人間はだれだって、あの世へ行ったら自分自身の鉤《はり》にぶらさがらなけりゃならねえだろうと思ってますからね」
「信心のために金を余計払って、しかもその信心が一番必要な州(「天国」のこと)へ行ってもそれで商売ができないとは情けないね、ええ?」と青年は言い、そう言いながら札束を算《かぞ》えていた。「ほら、君の金だ、数えてごらん!」と彼は札束を商人に手渡しながら、つけ加えた。
「はいはい」とヘイリィは言った。彼の顔は喜びに輝いていた。そして古ぼけた矢立てをとり出すと、売り渡し状に書き込みを始めたが、すぐに彼はそれを青年に渡した。
「こりゃあ、驚いた、もし私が一つ一つばらばらに分けられて明細目録に作られたとしたら」と後者は、その書類に目を走らせながら言った。「私は一体いくらになるんだろうね。ええと頭の恰好がいくら、広い額がいくら、腕、それに手、それに脚がいくら、それから教育、学問、才能、誠実、信仰がいくら! おやおや! 私にはこの最後のやつではたいした値はつけてもらえんだろうな。さあお出で、エヴァ」と彼は言った。そして娘の手をとると、船の反対側へと横ぎって来て、無造作にトムの顎の下に指先をあて、気さくな調子で言った。「顔をおあげ、トム、そしておまえの新しい主人が気に入るかどうか見てごらん」
トムは顔をあげた。その快活な若いりっぱな顔を見れば、だれでもある快感を覚えないわけにはいかなかった。そこでトムは目に涙の浮かぶのを感じながら、心をこめて言った。「神さまのお恵みがあなたさまの上にありますように、旦那さま!」
「うん、そうあってもらいたいね。神さまは、汝の名はなんと申す? トムと申すか? と言って、きっと私の願いと同じようにおまえの願いをかなえて下さるだろう、何が何だといってもね。おまえ、馭者《ぎょしゃ》がやれるかい、トム?」
「馬にはいつも慣れております」とトムは言った。「シェルビィの旦那さまがたくさん馬を飼っておいででしたから」
「それじゃあ、おまえを馭者にしてやろうかな、特別の場合は別として、一週に一度以上は酔っぱらわぬという条件でな、トム」
トムはびっくりし、やや気を悪くしたように見えた。そして言った。「わしは酒は一滴も口にしませんだよ、旦那さま」
「そういう台詞《せりふ》は前にも聞いたことがあるよ、トム。だがまあそのうちにはわかる。おまえが飲まなきゃあ、関係者一同にとってはことさらありがたいってわけだ。まあ気にするなよ」彼は、トムがまだまじめくさった顔をしているのを見ると、陽気な調子でつけ足した。「一生懸命やろうというおまえの気持を疑っちゃあいないからね」
「わしきっとやりますだ、旦那さま」とトムは言った。
「だからあなたは幸福に暮らせるわよ」とエヴァが言った。「パパはだれにでもほんとうに親切ですもの、いつも人をひやかしてばかりいるけれど」
「ご推挙にあずかってパパはおまえに厚くお礼申し上げるよ」とセント・クレアは、笑いながら言うと、くるりと背をむけて向こうへ歩いて行った。
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第十五章 トムの新しい主人、および他のいろいろな事柄について
われわれの身分の低い主人公の命の糸が、こうして身分の高い人々のそれと織り混ぜられることになったので、それらの人々についてここで簡単に紹介しておく必要がある。
オーガスティン・セント・クレアはルイジアナ州の富裕な農園主の息子《むすこ》であった。この家族はカナダにその祖先をもっていた。気質も性格も非常によく似通った二人の兄弟のうち、一人はヴァーモント州のある肥沃《ひよく》な農場に落着き、そしてもう一人はルイジアナの豊かな農園主になった。オーガスティンの母親はユグノー派のフランス人で、その一家は昔ルイジアナの開拓時代にそこへ移住して来た人たちであった。オーガスティンともう一人の兄とはこうした両親の間にできた二人きりの子供であった。母親からきわめて繊細な体質を受けついでいた彼は、何人もの医者の勧めで、その少年時代の多くの歳月の間、ヴァーモントの伯父《おじ》のところに預けられた。もっとからだが引きしまるこの地方の気候によって彼のからだを鍛えるためであった。
子供の頃の彼は、きわめて著しい敏感な性格で人目を引いた。男の子が普通もっているあの強さというよりは、むしろ女の子がもっている柔らかさに近いものであった。しかし、この柔らかさにも歳月が男らしさの荒い樹皮を着せたので、それが今でも髄の中でどんなにいきいきと水々しく生き残っているか、それを知っている者はほとんどいなかった。彼の才能はそれこそ第一流のものであった。だが、彼の心は常にどちらかといえば理想的なもの審美的なものへの憧れを示していた。それでこうした性能の均衡がもたらす通常の結果として、あの実生活に対する嫌悪感《けんおかん》が彼につきまとっていた。大学の課程を完了するとまもなく、彼の全身は燃え上がってそれはロマンチックな情熱の強烈で熱烈な沸騰状態に達した。彼の時が来たのである、――たった一度しか訪れることのない時が。彼の星が地平線に現われたのだ、――多くの場合いたずらに現われては、夢の一事としてのみ思い出されるあの星が。そして彼の前にもそれはいたずらに現われたにすぎなかった。つまり、――彼は北部のある州で一人の気高く美しい女性の愛を知り、それをかち得た。そして二人は婚約した。彼は結婚の準備のために南部に帰って来たが、その時、まったく思いがけなく、彼の手紙がまとめて郵便で送り返されてきた。そしてそれには彼女の後見人からの簡単な手紙がついていて、彼あてに、これがそちらに届く頃にはあの婦人は人妻となっているであろうと書いてあった。気も狂わんばかりに痛手を負った彼は、これまで多くの人々がしてきたと同じように、必死の努力によって自分の心からすべてを振りすててしまいたいとむなしく願った。哀訴したり説明を求めたりすることを潔《いさぎよ》しとせず、彼はすぐ社交界の渦《うず》に身を投じ、運命の手紙を手にした時から二週間後には早くも社交期《シーズン》一の美人の恋人と認められるようになっていた。そして準備ができるとすぐに、彼は美しい容姿と、輝く黒い瞳と、財産十万ドルの女性の夫になった。そして、もちろん、だれもが彼を幸福な男だと思った。
結婚した二人はハネムーンを楽しんでいた。そして華《はな》やかな社交界の友人たちをポンチャトレイン湖(ルイジアナ州南東部、ニューオーリアンズ北部に位して、メキシコ湾の入江になっている)の近くにある自分たちの壮麗な別荘に招いてもてなしていた。と、ある日、一通の手紙があの見覚えのある筆跡で彼のもとに届けられた。その手紙は、部屋いっぱいの客にまじって、陽気で巧みな会話のまっただ中にあった彼の手に渡された。彼はその筆跡を見た瞬間まっさおになったが、それでも心の平静は保って、向かい側にいる婦人とそれまで交わしていた冗談合戦を最後までつづけ、そして、しばらくしてから、一座から姿を消した。自分の部屋に帰って、一人だけになると、彼は手紙の封を切って読んだ、いまさら読んでもしかたのない無益な手紙ではあったが。それはまさしく彼女からのものであった。それには彼女が彼らの息子と一緒になるように仕組まれた、彼女の後見人一家からうけた迫害の様子が綿々としたためられてあった。そしてまた、長い間、彼からの手紙が来なくなってしまったこと、自分が幾度となく手紙を書き、ついには待ちくたびれて不安になったこと、心配のあまり健康が衰えたこと、それから、最後にやっと、自分たち二人に対して行なわれていた欺瞞《ぎまん》に気がついたことが書かれてあった。手紙は希望と感謝の言葉と、変わらぬ愛の誓いとで終わっていた。しかしそれはこの不幸な青年にとっては死よりもつらい言葉であった。彼はすぐに返事を書いた。
「あなたの手紙を受け取りました。――しかしあまりにも遅すぎました。私はあの時聞いたことをすべて信用していたのです。私は絶望しました。今は結婚しております。すべては終わりました。ただ忘れて下さい、――それだけが私たち二人に残されたすべてなのです」
こうしてオーガスティン・セント・クレアにとって、その全ロマンスと生涯《しょうがい》の理想は終わった。だが、現実は残った――青いきらめく波が、滑り行くボート、白帆をはった船、櫂《かい》とその調べを共に奏《かな》でる波の音などすべてのものと一緒に、引いて行ってしまった時にあらわれる、あのべっとりした、あらわな、ねばりっこい潟泥《タイド・マッド》のような現実。その現実がそこにべっとりと、泥のように、あらわに横たわっていたのである――それはあまりにもありありと。
もちろん、小説の中であれば、人の心が張り裂け、そして死んで、それで小説は終わりとなる。物語の中ではこれはまことにつごうのよい結末である。しかし実生活の中では、人生を輝かすすべてのものが死んだものとなってしまっても、われわれは死にはしない。物を食べたり、飲んだり、着物を着たり、道を歩いたり、人を訪ねたり、物を買ったり、売ったり、話をしたり、本を読んだり、一般に生きてゆくことと呼ばれているものを作りあげているいっさいの事柄の、この上なくせわしくそして重要な生活面はなお残っていて、これからそれを経験してゆかねばならないのである。そしてオーガスティンにもこれが残っていた。もし彼の妻が完全な女性であったならば、人生のこの断ち切れた糸をつなぎ合わせて、光り輝く織物をもう一度織り上げるために、彼女は何か――女としてできるような――何かをしたかもしれない。しかしマリー・セント・クレアはそれが切れていることさえ気がつかなかったのである。前にも述べたように、彼女は美しい容姿と、輝く瞳と、十万ドルの持主ではあったが、そのうちのどれ一つとして病める心を慰めるものはなかった。
オーガスティンが、死人のように青ざめて、ソファの上に横たわっているところを見られ、その理由を突然のひどい頭痛のためだと訴えると、彼女はそれならアンモニア水をかいだらどうかと勧めた。そして青い顔や頭痛が何週間も続くと、セント・クレア氏が病弱だったとは少しも知らなかったが、彼はたいへんな頭痛もちらしい。それは自分にとって非常に不幸なことだ。なぜなら彼は自分と連れだって友人の中に入って行くことを喜ばないし、かといって結婚したばかりで、そうそうは自分一人で出かけて行くのも変に思われるから、と彼女は言うだけであった。オーガスティンは胸の中で自分がこうした感じの鈍い女と結婚したことを喜んだ。しかしハネムーンの虚飾と礼儀とが消え去っていくにつれ、彼は、これまでをただ人から可愛がられ侍《かしず》かれて生きてきた美しい若い女性というものが、家庭生活においてはまったくだめな女だということを発見した。マリーは豊かな愛情とか、感受性などというものをあまりもってはいなかった。わずかにもっていたとしても、それらはこの上なく強烈な無意識なわがままとなって現われた。それは自分以外の要求にはまったく鈍感で、頭から無視してかかろうというものだけに、いっそう望みのないわがままであった。幼児の頃から、彼女は多くの召使いたちにとりまかれていたが、彼らはただ気ままな彼女の機嫌をとるためにのみ生きていたのである。彼らにも感情や権利があるのだという考えはこれまで一度も彼女の心に浮かんできたことはなく、そのかすかなきざしさえもうかがわれなかった。彼女の父親は、彼女が一人娘であったゆえに、人間の能力の範囲内にあるものならばどんな要求でも彼女に拒んだことがなかった。そして彼女が美しく、たしなみのある、しかも相当な財産の相続人として社交界に出現した時、彼女の夫としてふさわしい男性も、またふさわしくない男性もすべてが彼女の足もとにひざまずき、ため息をもらしたのはもちろんであった。そこで彼女は自分を手に入れたオーガスティンこそじつに幸運な男だと信じて疑わなかった。心をもたぬ女というものは愛情の交換においては御《ぎょ》しやすい債権者になるであろうとわれわれが思うのは大きな誤りである。徹底してわがままな女くらい他人に対して無慈悲な愛の取立人はこの世にいないのである。そして自分に可愛さがなくなってゆけばゆくほど、ますます嫉妬《しっと》深く、周到に根こそぎ愛を取り立てようとするのである。したがって、セント・クレアが求婚時代の習慣から、初めのうちもっていたあの慇懃《いんぎん》さやこまごまとした心づかいをなくしはじめた時、彼の王妃《サルターナ》はその奴隷を手離す意志の全然ないことが彼にはわかった。涙と、不機嫌と、小さな嵐《あらし》が絶えず、不満、愚痴、非難がただよった。セント・クレアは人が好く、己れにも寛大だったので、贈り物や甘い言葉でそれをなだめようとした。そしてマリーが美しい女の子の母親となった時、彼は、しばらくの間、何かやさしさといったものに、ほんとうに目覚めるのを感じたのであった。
セント・クレアの母親はまれにみる気品と清らかな性格とを備えた女性であった。そこで彼は自分の母の名をこの子に与え、亡き母のイメージとそっくりの女性になってくれるようにと願った。このことは彼の妻から烈しい嫉妬で見られるようになり、彼女は子供によせる夫の夢中の愛情を疑惑と嫌悪とをもってながめた。子供に与えられるすべてのものはみんな自分から奪い去られたもののように思えたのである。この子供が生まれた頃から、彼女の健康は徐々に衰えていった。肉体的にも精神的にも、活動のない毎日の生活が、――休みなく続く倦怠と不満の軋轢《あつれき》が、出産時のあの一般的な衰弱と結びついて、――わずか数年の間にあの花と咲き誇っていた若い美女を、黄色い、色あせた、病身の女に変えてしまった。そのうえ彼女は絶えずさまざまな病気を考え出しては、自分をあらゆる意味でこの世における最も虐げられた傷ついた人間だと思い込んでいた。
彼女のさまざまの不平には際限がなかったが、最も得意とするところは頭痛にあるらしく、時にはそれで六日のうち三日も(日曜日は別なわけである)自分の部屋に引きこもることがあった。当然、いっさいの家事が召使いの手に任されたので、セント・クレアは家庭が少しもおもしろくなかった。彼のたった一人の娘は非常に虚弱であった。それで彼は、娘のめんどうをみ、気をつけてやる者がいなくては、彼女の健康と生命とが母親の無能の犠牲となってしまうかもしれないと心配した。彼はヴァーモントへの旅行に娘を連れてゆき、従姉《いとこ》のミス・オフィーリア・セント・クレアを説きふせて南部の彼の邸《やしき》に来てもらうことにした。そして一行がこうして帰る途中、その船の上でわれわれは彼らを読者に紹介したわけである。
そして今、ニューオーリアンズの円屋根や尖塔がはるか彼方《かなた》に見えてきたところであるが、まだしばらく余裕があるのでその間にミス・オフィーリアのことを紹介しておこう。
ニューイングランド諸州を旅行したことのある人ならだれでも、あのどこかひんやりしたある村に、大きな農家が、きれいに掃除《そうじ》された芝生の庭をもって、鬱蒼《うっそう》と繁る砂糖楓《さとうかえで》の葉蔭に立っていたのを憶えているであろう。そして辺りいちめん漂っているように思われる、あの秩序と静寂との永続性と、不変の平静との空気を憶えているであろう。そこには失われたもの、あるいは秩序を乱すようなものはなに一つない、柵には一本としてゆるんだ杭《くい》はなく、芝生の庭には塵一つ見あたらず、窓の下にはライラックの茂みが植えられている。家の中の、あの広い清潔な部屋部屋のことも、憶えているであろう。そこでは現にしかけているもの、あるいはこれからとりかかろうとするように見えるものなどなに一つなく、すべてのものがきちんと整頓されて、家の中のあらゆる仕事は、片隅にあるあの昔からの時計のように几帳面な正確さで進行しているのである。家族のいわゆる「居間《キーピング・ルーム》」と呼ばれている部屋には、落着いた、上品な古い本棚があったのを憶えているであろう。それにはガラスの戸がついていて、なかにはロランの「歴史書」(フランスの歴史家、シャルル・ロラン[一六六一〜一七四一]の「古代史」十三巻[一七三〇〜三八]はアメリカでも広く愛読された)、ミルトンの「失楽園」、バニヤンの「天路歴程」、それにスコットの「家庭聖書」(イギリスの聖書学者トマス・スコット[一七四七〜一八二一]編註の聖書(五巻)[一七八八〜九二])が正しい順序で、他の同じように厳かで上品な多くの本と一緒に並んでいる。家には召使いは一人もいないが、雪のように白い帽子をかぶり、眼鏡をかけた婦人がいて、毎日の昼下がりを娘たちと一緒にすわって縫物をしている。その様子はまるでこれまでやった仕事もなければ、またこれからしなければならぬものもないと言ったゆったりした様子なのである。――つまり彼女や娘たちは、もうその日も、とっくに忘れてしまうほど早くに、「家事をすっかりすませ」、そして後は、おそらく、いつなんどきわれわれが見ても、家事は「すっかりすんでいる」状態になっているからである。古い台所の床は、汚れやしみは一度もついたことがないように見え、テーブルや腰掛け、それにいろいろな料理道具も、一度もとり散らかされたり乱雑にされたりしたことがないように見える。それでいて一日に三度か時には四度もここで食事がとられ、またそれでいて家族の洗濯《せんたく》やアイロン掛けがここで行なわれ、またそれでいて何ポンドものバターやチーズが静かな神秘的な方法でここで作り出されるのである。
このような農場、このような家庭と家族の中で、ミス・オフィーリアが四十五年ほどの静かな生活を送ってきた時、彼女の従弟《いとこ》が南部の邸へ来てくれるようにと話をもちかけてきたのであった。大家族の長女ではあったが、その父親や母親からはまだ「子供たち」の一人と考えられていたので、彼女をオーリアンズへやるという話はこの家族の者たちにとっては重大問題であった。年をとった白髪の父親はモースの地図(ジャーナリスト、地理学者シドニー・エドワーズ・モース[一七九四〜一八七一]の「蝋版刷り合衆国地図」[一八四二〜四五])を本棚から取り出して来て、正確な緯度や経度を調べ、フリントの南西部旅行記(長老教会の宣教師ティモシー・フリント[一七八〇〜一八四〇]の「ミシシッピー流域ですごした過去十年の思い出」[一八二六])を読んでこの地方の自然について自分の心をはっきりさせようとした。
やさしい母親は、心配そうに、「オーリアンズという所は大変不道徳な土地ではないのだろうね」と尋ね、「サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島の旧名)か、それともどこか異教徒のいる中へ行くのとほとんど同じくらいに自分には思えるのだが」と言った。
オフィーリア・セント・クレアが従弟と一緒にオーリアンズに行くことを「話し合っている」ということが、牧師の家と、医者の家と、それからミス・ピーボディの婦人帽子店とに知れた。それで当然、村全体がこの事件について話し合うというきわめて重要な過程を促進する結果となった。牧師は、奴隷制度即時廃止論者の意見に強く傾いていたので、かかる一歩がますます南部の連中に奴隷制度を続けさせることにもなりかねないとかなり否定的であった。これに対して医者は、堅固な移植論者《コロニゼショニスト》(合衆国の黒人奴隷をアフリカに移植させ、彼らの地位を改善せよと主張する人)であったので、ミス・オフィーリアは行くべきだ、行ってオーリアンズの人たちにわれわれが、結局は、彼らのことを悪く思ってはいないのだということを教えてやるべきだ、との意見に傾いていた。彼は、じじつ、南部の人たちには激励が必要なのだという意見をもっていた。しかし、彼女が行くことを決めたという事実が一般の人たちにはっきりすると、彼女は二週間の間友人や近所の人たちすべてから厳かに茶の招待を受け、彼女の期待と計画とがそこであらためて論議され取調べられた。ミス・モウズリィは、服の仕立てを手伝いに家へやって来ては、自分に任されたミス・オフィーリアの衣装類のふえ具合から重要な話の種を毎日仕入れていった。シンクレア氏《スクワイヤ》、彼の名は近所では普通そう詰めて呼ばれていたが、彼は五十ドルを数え出して、それをミス・オフィーリアに与え、自分で一番いいと思う着物を買うようにと言ったこと、そこで新しい絹のドレスが二着と、ボネットが一つ、ボストンから取り寄せられたことが確かな筋から明白になった。この法外な支出が妥当であるか否かについては、世論が割れた。――ある者は、万事を考慮に入れて、一生に一度のことであるから、それは当然だと断言し、また他の者はその金は宣教師たちに送ったほうがよかったと強く主張した。しかしどちらの側も、ニューヨークから送られてきたあのすばらしいパラソルはこの辺りでは今までにだれも見たことがないということと、彼女には前から絹のドレスが一着あって、その所有者が何と言われようとも、それだけは見栄えのするものであると考えることができるということではみんなの意見が一致した。縁飾りのしてあるハンカチについても、また確かな噂《うわさ》が流れた、そして噂は噂を生んで、とうとうミス・オフィーリアは四辺をすっかりレースで飾ったハンカチを一枚持っているということになった、――おまけにそれはこの村で作られたものだということもつけ加えられた。しかしこの後者の点については十分な確証がなく、じじつ、今日まで未解決のままになっている。
ミス・オフィーリアは、このようにして、いま読者の前に、光り輝く褐色のリンネンの旅行服を着て、ひょろりと角張った恰好で、ぎごちなく立っているのである。彼女の顔はやせていて、その輪郭はややきついほうであった。口は、すべての事柄に対してきっぱりと心を決める習慣をもっている人のそれのように、堅く結ばれていた。同時にその鋭い黒い目は、特別何かを探るような、分別のある動き方をし、あらゆるものの上を、何か注意すべきことはないかと探し求めてでもいるように、それからそれへと移っていた。
彼女の動きはすべて活溌で、はっきりとしていて、精力的であった。そしてけっして口数の多いほうではなかったが、いざ口をきけば、その言葉は驚くほど率直で、また要領を得ていた。
彼女の習慣はといえば、彼女は秩序と、規律と、正確との権化《ごんげ》であった。几帳面なことにかけては、彼女は時計のように必然的で、機関車のように頑固《がんこ》であった。そしてその反対の性格をもっているものはどんなものでもじつにはっきりと軽蔑《けいべつ》し憎悪《ぞうお》した。
彼女の見るところでは、罪の中で最も大きな罪、――あらゆる悪の総和は、――彼女の使う言葉の中でもきわめて平凡でしかも重要な一語によって表現された。すなわち――「だらしがないこと」である。彼女の軽蔑の最後の幕と最後の台詞《せりふ》はこの「だらしがない」という言葉に思いきり力を入れて発音することにあった。そしてこうすることによって彼女は、自分の行為の全方式を特色づけていたのであるが、それは目的の貫徹には直接的必然的な関係をもたないにしても、やがてははっきりと人の心の中にもつものであった。何もしない人、あるいはしようとしていることが自分ではっきりとわからない人、あるいは着手したことを達成するのに最も直接的な方法をとらない人は、彼女の完全な軽蔑の対象となった――この種の軽蔑は、彼女が口にするどんな言葉によるよりも、むしろ、そんなことで口をきくのは恥ずかしいとでもいったように、石のように冷たい沈黙によって表わされることのほうが多かった。
精神的教養については、――彼女は澄みきった、力強い、活動的な心をもっており、歴史やイギリスの古典にも明かるく、限られた狭い範囲内ではあったがきわだつ知力でものを考えた。彼女の神学上の教義はすっかりできあがっていて、最も実証的な明確な形に分類されて、小物用トランクの中の包みのように、きちんとしまい込まれていた。なんでもがちゃんと揃っていて、それ以上に何か必要だというようなことはけっしてなかった。実生活の多くの問題、――たとえばあらゆる分野に及ぶ家政、自分の村のさまざまな政治的関係、といったものに関しての彼女の考えも、また、そのようであった。そして、あらゆるものの根底には、何物よりも深く、高くそして広く、彼女の存在の最も強力な主義――すなわち、良心が横たわっていた。ニューイングランドの女性たちに対するほど、良心が支配的ですべてのものを凝り固めてしまう所はどこにもない。それは花崗岩《かこうがん》の層のように、最も深く横たわり、そして最も高い山の頂きにまでも、聳《そび》え出るものなのである。
ミス・オフィーリアは「せざるべからず」によって縛られたまったくの奴隷であった。彼女のいわゆる「義務の道」が、ある一つの方向に横たわっていると、ひとたび彼女が確信すれば、火であろうと水であろうと彼女を妨げることはできなかった。そこに自分の行く道が横たわっているのだと確信したが最後、彼女は井戸の中へでも、また弾丸のこめられた大砲の口へでも真一文字に進んで行った。彼女の正義の標準はあまりにも高く、あまりにも広範囲で、あまりにも緻密《ちみつ》で、人間のもろさにもほとんど譲ることがなかったので、彼女はそれに達しようと英雄的な熱情をもって努めてはいたものの、実際には一度も到達したことがなく、そこで、当然、彼女は断え間のない、そしてしばしば心に食い入るような不満の重荷を背負っていた。このことが彼女の宗教的性格に苛酷なそしていくぶん憂鬱《ゆううつ》な影を与えていたのである。
しかし、いったいどうしてこのようなミス・オフィーリアがオーガスティン・セント・クレアと一緒に暮らしていくことができるのであろうか、――あの陽気で、のんきで、ずさんで、迂遠《うえん》で、懐疑的な、――つまり、彼女が最も大切にしている習慣と意見とをことごとく無遠慮な、また無頓着な態度で踏みつけてゆくような男と?
実を言うと、ミス・オフィーリアは彼を愛していたのである。少年の頃、彼に教義問答を教え、彼の着物を繕い、彼の髪を梳《す》き、彼の進むべき道へと彼をあまねく育てたのは彼女であった。そして彼女の心はこうしたことに対して温かい一面をもっていたので、オーガスティンは、彼がいつも大概の人にするように、彼女の心の大部分を独り占めにした。そしてそれゆえに彼女を説いて「義務の道」はニューオーリアンズの方向に横たわっている、彼と一緒に行って、エヴァのめんどうを見、彼の妻の頻繁《ひんぱん》な病気の間にすべてが破壊し崩壊しつくさぬよう努めねばならぬのだと彼女に思い込ませることに彼はやすやすと成功した。だれもせわをする者がいない家、という考えが彼女の心を打った。それに彼女はこの可愛い少女を、当然のことではあるが、愛していた。そして彼女はオーガスティンを非常に異教徒くさいと思ってはいたが、それでも彼を愛し、彼の冗談を笑い、そして彼の欠点をしのんだ。それは彼を知っている人にはまったく信じられぬと思われるくらいであった。しかしミス・オフィーリアについてのこれ以上のことや他のことは読者の直接の知識から発見していただきたい。
さてその彼女は、いま特等室にすわって、大小さまざまの|旅行かばん《カーペット・バッグ》、箱、バスケットの山に取囲まれていた。彼女はそれぞれの重荷を負っているこれらのものをしんけんな顔つきで、くくりつけたり、縛り上げたり、つめ込んだりしていたのである。
「さあ、エヴァ、自分の荷物がいくつだか数えてみましたか? もちろんまだでしょうね、――子供はけっしてそんなことはしないものだからね。そこにまだらの|旅行かばん《カーペット・バッグ》とおまえの一番上等のボネットの入った小さな青い紙箱があるでしょう、――それで二つですよ。それからゴムの手さげかばんで三つ、それに私の裁縫箱で四つ、私の紙箱で五つ、私のカラー入れで六つ、それからあの小さな毛皮のトランクで七つ。おまえの日傘はどうしました? こちらにちょうだい。紙で巻いて、私の日傘と一緒にこの雨傘にくくりつけておきますから、――ほら、これでよしと」
「あら、おばさま、わたしたち家へ帰るだけでしょう、――そんなことしてなんになるの?」
「きちんとしておくためですよ、おまえ。人は自分の持物を大切にしなければいけません、もしなんでもほんとうに持っていたいと思うならね。それで、エヴァ、おまえの指貫《ゆびぬ》きはしまってありますか?」
「どうかしら、おばさま、あたしわからないわ」
「そう、じゃいいわ。私がおまえの箱を見てあげますから、――指貫き、蝋《ろう》、糸巻き二つ、鋏《はさみ》、ナイフ、紐《ひも》通し。大丈夫、――それをこの中にお入れなさい。パパと二人きりで来た時には、おまえ、いったいどうしていたの。持っていた物をみんな失くしてしまったろうと思えるわね」
「ええ、おばさま、あたしずいぶんいろんな物を失くしたわ。それで、どこかへ泊まった時、パパはどんな物でもまた買って下さったわ」
「まあ、この子ったら、――なんてことでしょう!」
「とても簡単なことだったわ、おばさま」とエヴァは言った。
「おそろしくだらしのないことですよ」とおばさまは言った。
「あら、おばさま、どうしましょう?」とエヴァは言った。「あのトランク、いっぱいでふたがしまらないわ」
「必ずしまりますよ」とおばさまは、将軍のような態度で言うと、品物を無理やり押し込んで、それからふたにとびかかった。――それでもまだ小さなすき間がトランクの口の辺にあいていた。
「この上におあがり、エヴァ!」ミス・オフィーリアは、勇ましい口調で言った。「前にできたことはもう一度できるはずです。このトランクだってちゃんとふたをして錠がかかるのが当然です――これには二つの道はありませんからね」
そこでトランクは、この断乎《だんこ》たる声明に、明らかに恐れをなしたとみえて屈服した。掛け金はカチリと音をたてて穴の中に入った。そしてミス・オフィーリアは鍵を回わし、勝ち誇ったようにそれをポケットにしまった。
「これで私たちの用意はできたわ。おまえのパパはどこにいるの? もうこの荷物を運び出してもらう頃だろうにね。探しておいで、エヴァ、パパがその辺にいるかどうか」
「ええ、いいわ、パパなら紳士用船室の向こうで、オレンジを食べていらっしゃいますもの」
「パパは船がどんなに近くまで来ているか知らないのね」とおばさまは言った。「おまえ、走って行って知らせたほうがよくはないの?」
「パパはどんなことにも急いだことなんかなくってよ」とエヴァは言った。「それにあたしたちまだ波止場に来てませんもの。早くこの甲板《ガーヅ》に上がってごらんなさい、おばさま。ほら! あたしたちの家が見えるわ、向こうの通りよ」
船はやがて、何か大きな、疲れた怪物のように、重苦しい呻き声をあげて、波止場に群がる汽船の間に押し入る準備を始めた。エヴァは見覚えのある故郷のいろいろな尖塔や、丸屋根や、道路標識を嬉しそうに指さした。
「ええ、ええ、ほんとうにすばらしいわね」とミス・オフィーリアは言った。「でも大変! 船はとうとう止まってしまったわ! お父さまはどこなんでしょうね?」
そしてやがて例の上陸の騒ぎが始まった――給仕たちはいっせいに四方八方へと馳けまわり――男はトランク、|旅行かばん《カーペット・バッグ》、箱を運び出し――女は心配そうに子供たちに声をかけ、だれも彼もが陸へ渡された橋板の方へと群れをなして押し寄せて行った。
ミス・オフィーリアはさっき征服したトランクの上に決然と腰を下ろし、自分の荷物、手回品をすべて軍隊式に整列させて、それを最後まで守り抜こうと決意しているように見えた。
「トランクをお持ちしましょうか、奥さま?」「荷物をお運びしましょうか?」「荷物のせわは私におまかせ下さいませんか、奥さん?」「これわしが出しましょうかのう、奥さん?」こんな言葉が雨のように彼女の上に降ってきたが顧みられなかった。彼女は不屈の決意をもって腰を据え、からだを板に突き刺したかがり針のようにまっすぐのばし、手には雨傘と日傘の束をしっかり握りしめて、貸馬車屋の馭者《ぎょしゃ》をさえ仰天させるほどの断わり方で答えながら、その合間合間に、エヴァに向かって、「いったい彼女のパパはどういうつもりでいるのか、まさか、船から落ちてしまったわけでもあるまい、――それにしても何か起こったにちがいない」なぞとつぶやいていた。――そして彼女がほんとうに心配しだした時、彼は例の無頓着な様子でやって来た。そして食べていたオレンジの四半分をエヴァに与えながら言った。
「さて、ヴァーモントの従姉《ねえ》さん、支度はいいようですね」
「とっくにできて、一時間近くも待っていましたよ」とミス・オフィーリアは言った。「私、あなたのことをほんとうに心配しかけたところでしたわ」
「そりゃまた心のお優しい方だ」と彼は言った。「さあ、馬車が待っています。それに人込みももうなくなったから、上品なクリスチャンらしい作法で出て行かれますよ、押されたり突かれたりせずにね。おい」と彼は後ろに立っている馭者に向かって言った。「ここの荷物を持っていってくれ」
「あの男の積み込むところを私、見に行って来ましょう」とミス・オフィーリアが言った。
「へん、ばからしい、従姉《ねえ》さん、そんなことしてなんになるんです?」とセント・クレアは言った。
「では、とにかく、私はこれと、そしてこれと、それにこれを自分で持ってゆきます」とミス・オフィーリアは言って、箱を三つと小さな旅行かばんを一つ選り出した。
「ねえヴァーモントのお嬢さん、ほんとうに、そんなふうにグリーン山脈|風《かぜ》を吹かせちゃいけませんよ(「グリーン山脈」はヴァーモント州にある。そしてこの州は俗に「グリーン山脈州」と呼ばれている)。せめて一つぐらいは南部のやり方を採用して、そんな荷物は持って歩かないで下さい。みんながあなたを侍女と間違えますからね。その荷物をこの男に渡しておやりなさい、卵のようにそっと下ろしてくれますから、さあ」
ミス・オフィーリアは、従弟が自分の宝物をみんな取り上げたので、がっかりした様子であったが、乗り込んだ馬車にそれらの物が、ちゃんと運び込まれているのを見ると喜んだ。
「トムはどこ?」とエヴァが言った。
「ああ、外に乗っているよ、小猫ちゃん。パパはね、トムをお母さんの所へ連れていって、仲直りの贈り物にしようと思っているんだよ。この前、馬車をひっくり返したあの酔っぱらい男の埋め合わせにね」
「ええ、トムならりっぱな馭者になるわ、きっと」とエヴァは言った。「酔っぱらったりなんかしませんもの」
馬車は、ニューオーリアンズの所々に見られる、スペインふうとフランスふうとを奇妙にとり混ぜた建て方の、ある古風な邸宅の前で止まった。それはムーア様式の造りで、――方形の建物が中庭を取囲んでいた。その中庭へ馬車はアーチ形の門をくぐって入って行った。内部のこの庭は、明らかに絵画的な官能的な嗜好《しこう》を満足させるために造られたもののようであった。広いヴェランダが四方をぐるりととりまいていて、ムーア式のアーチ、細い柱、それにアラベスクふうの装飾は、人の心を、夢の中のように、スペインに君臨する東洋的なロマンスの時代へと連れもどすのであった。庭の中央には、噴水が銀白の水を高く吹き上げていて、匂いも豊かなすみれの花に深く縁どられた大理石造りの池の中へと、消えることのない霧となって落ちていた。噴水の水は、水晶のように清らかで、無数の金魚銀魚が、生きた宝石のようにきらめき、水中を矢のように泳ぎまわっていた。噴水のまわりには、小石をモザイクふうに敷いて、いろいろと空想的な模様をあしらった散歩道があり、そしてこれをまた、縁のビロードのように滑らかな芝生がとりまき、更にこれらすべてを馬車道《キャリッジ・ドライブ》が取巻いていた。大きなオレンジの木が二本、ちょうどその時かぐわしく花を咲かせて、心地よい木蔭を作っていた。そして、芝生の上には、アラベスクふうの彫刻をほどこした大理石の花瓶がぐるりと輪を描いて並べられ、なかには熱帯地方の選り抜きの顕花植物が植えてあった。つややかな葉と、炎のような色の花をつけたざくろの大木、銀色の星をちりばめた暗い葉のアラビア・ジェサミン、ゼラニューム、びっしりと咲いた花の重みに枝をたわめた豊かなばら、金色のジェサミン、レモンのような香りのびじょざくら、すべてがその花と香りとを一つにしていた。一方ここかしこには神秘的な年老いたアロエが、奇妙な、分厚い葉をつけ、何か白髪の老魔法使いのような恰好で、それをとりまく命の短かい花と香の中で気味の悪い威厳を見せて生えていた。
中庭をとりまくヴェランダには、ムーアふうの織物で作ったカーテンが飾られて、それは随意に引き下ろして、日光を遮ることができるようになっていた。全体から見て、この家の外観は豪華でロマンチックであった。
馬車が入っていくと、エヴァはさながら籠を飛び出そうとする小鳥のように、喜しさに身を躍らせていた。
「ねえ、きれいでしょう、すばらしいでしょう! あたしの大好きな、大好きなお家よ!」と彼女はミス・オフィーリアに向かって言った。「きれいでしょう?」
「美しいお家ね」とミス・オフィーリアは馬車を下りながら言った。「私には少し古風で異教徒くさく見えるけれど」
トムは馬車から下りると、落着いた静かな喜びの様子であたりを見まわした。黒人というものは、これはぜひ心にとめておいてほしいのだが、かつては世界でも最も優れたりっぱな国々であった所から連れて来られた種族なのであって、したがって彼らは心の奥底に、華麗な豊かなそして奇想を凝らしたあらゆるものに対する熱情をもっているのである。だが、その熱情は、洗練されない嗜好によって粗雑に放置されたために、今ではより冷静なより礼儀正しい白人種族から嘲笑《ちょうしょう》を買う結果となってしまったのである。
セント・クレアは、心の中は詩的な官能主義者だったので、ミス・オフィーリアが彼の家について意見を述べたとき微笑した。そして、喜色に輝く黒い顔を賞賛の思いにますます輝かせながらあたりを見回わして立っているトムに向かって言った。
「おい、トム、ここが気に入ったようだな」
「はい、旦那さま、申し分ないようでごぜえます」とトムは答えた。
こうしたこともすべて一瞬のうちに過ぎて、その間にもトランクが勇ましく運び込まれ、馭者には料金が支払われ、そして一方あらゆる年齢あらゆる背丈の人の群れが、――男も、女も、そして子供も、――ヴェランダを上からも下からも馳けて来て、旦那さまのお帰りを出迎えた。彼らの先頭にはりっぱな服装の若い混血《ミュラトゥ》の男がいた。みるからに|気品のある《ディステーンジェ》人物で、流行の最尖端を行くような身なりをして、手には香水をつけた白麻のハンカチを持ち、それを優雅にゆり動かしていた。
この人物は非常に敏活に、召使いたちの群れを一人残らずヴェランダの片隅へ追いやろうと努力していた。
「さがるんだ! みんな。おまえたちには恥ずかしくなる」と彼は威信のある口調で言った。「旦那さまのご帰宅早々、身内の方々のご挨拶をじゃましようというのか?」
みんなは、自信ありげな態度で述べられたこの優雅な言葉を聞いて、きまり悪そうな様子をした。そしてごたごたと固まり、失礼にならぬように少し後ろに下がって立った。ただ二人のたくましい玄関番《ポーター》だけは、つかつかとやって来て荷物を運びはじめた。
アドルフ氏の組織的な整理によって、セント・クレアが馭者に料金を支払って振り返った時には、そこにはだれも見あたらなかった。ただそこには、アドルフ氏だけがしゅすのチョッキを着込み、金の留鎖をつけ、白いズボンをはいて異彩を放ちながら、言語に絶した優美なそして優雅な態度で頭を下げていた。
「ああ、アドルフ、おまえか?」と主人は彼に手をさしのべながら言った。「元気かい?」アドルフはその間、二週間も前からきわめて慎重に準備しておいた挨拶を、下書きも見ずに、いとも流暢《りゅうちょう》にしゃべりたてた。
「ほ、ほー」セント・クレアは、例の無頓着な道化《おどけ》た様子で、歩を進めながら言った。「なかなかうまくできたぞ、アドルフ。荷物がちゃんと運ばれたかどうか見てくれ。じきにみんなの所へ来るから」そして、そう言いながら彼はミス・オフィーリアをヴェランダに面した大きな客間へと案内して行った。
こうしたことが行なわれている間、エヴァは小鳥のように、車寄せから客間を通り抜けて、同じようにヴェランダに面している小さな婦人用私室《ブードアー》へ飛んで行った。
背が高く黒い瞳をした血色の悪い婦人が、横たわっていた寝椅子からなかば身を起こした。
「ママ!」とエヴァは夢中で、彼女の首にかじりつき、何度も何度も抱擁した。
「もう結構、――気をつけておくれ、おまえ、――そんなことして、母さん頭痛がするじゃありませんか」母親はものうげに彼女に接吻《せっぷん》したあとでそう言った。
セント・クレアが入って来て、ほんとうの、型どおりの、夫らしい仕方で妻を抱擁すると、彼の従姉を彼女に紹介した。マリーは大きな目をあげ、いくぶん好奇心にかられた様子で従姉を見ると、ものうげな丁重《ていちょう》さで彼女に挨拶をした。
そのとき召使いの群れが入口のドアに詰めかけて来た。そしてその先頭にはかなり上品な様子の中年の混血女《ミュラトゥ》が、期待と喜びに身を震わせながら戸口に立っていた。
「あら、マミィだわ!」とエヴァは、飛ぶように部屋を横ぎると、彼女の腕の中に飛び込み、くりかえしくりかえし彼女に接吻した。
この婦人は頭痛がするなどとは言わなかった。それどころか、彼女を抱きしめ、そして笑い、そして泣き、しまいにはその正気が疑われるほどであった。そしてエヴァは彼女から釈放されると、次から次へと馳け寄っては、一人一人に握手をしたり接吻をしたりした。その様子を見ていたミス・オフィーリアはほんとうに胸がむかつく思いだったと後になって言った。
「ねえ!」とミス・オフィーリアは言った。「あなた方南部人の子供というものは私にはどうしてもできないことができるのね」
「何がですって?」セント・クレアが言った。
「つまり、私はだれにでも優しくしたいと思っています。で人を傷つけるようなことなど考えてもいません。けど接吻だけは――」
「黒ん坊にでしょう」とセント・クレアは言った。「どうしてもできないというのは、――えっ?」
「ええ、そうよ。それがあの子にはどうしてできるんでしょう?」
セント・クレアは笑いながら廊下へと出ていった。「おっ、どうしたんだ、こんな所で? みんな来ているな――マミィ、ジミィ、ポリィ、スーキィ――旦那さまに会えて嬉しいか?」彼はそう言いながら一人一人に握手していった。「赤ん坊たちに気をつけるんだぞ!」と彼は、床の上を這いまわっていた煤《すす》のように黒い小さないたずら坊主につまずくと、そうつけ足した。「もし私がだれかを踏んづけたら、そう言っておくれ」
あふれる笑い声と旦那さまへの祝福を浴びながら、セント・クレアは小銭を彼らに分け与えた。
「さあ、みんな、おとなしく、引きとってくれ」と彼は言った。そこで一同は、黒い色のも薄い色のも、一方のドアから大きなヴェランダへと消えていった。エヴァはそのあとから、大きなかばんを持ってついて行ったが、そのかばんの中には帰りの旅行中に詰めておいたりんご、くるみ、キャンディ、リボン、レース、それにいろいろな種類の玩具がいっぱいに入っていた。
セント・クレアがひきかえそうとして振り返った時、彼の目がトムにとまった。トムは落着かぬ様子で、一方の足から他方の足へと体重を移しながら立っていた。それをアドルフはずぼらな恰好で手すりによりかかりながら、オペラ・グラスを通してながめていた。まさに洒落男《しゃれおとこ》よろしくといった態度である。
「ぷっ! この小僧」と言って、彼の主人はオペラ・グラスをたたき落とした。「それが自分の仲間に対するしぐさか? なんだ、ドルフ」彼は、アドルフがこれ見よがしに着ている上品な型のしゅすのチョッキに指を置いて、つけ加えた。「これは私のチョッキのようだが」
「はあ! 旦那さま、このチョッキは葡萄酒《ぶどうしゅ》でしみだらけでございます。当然、旦那さまのようなご身分の方にこのようなチョッキはとてもお召しになれません。私めが頂戴してさしつかえないものと存じました。私のような、卑しい黒ん坊には似合っておりますので」
そしてアドルフは頭をもたげ、香水をふりかけた髪を優雅な手つきでかき上げた。
「と、いうわけなんだな?」とセント・クレアは無頓着に言った。「ところで、私はこのトムを奥さまに紹介してくるから、そのあとで台所へ連れていってくれ。そしていいか、もったいぶった真似なんかするんじゃないぞ。あの男はおまえのような小僧の二人分の値打ちがあるんだからな」
「旦那さまはいつもご冗談がお上手で」とアドルフは笑いながら言った。「たいそうご機嫌がよろしくて結構でございます」
「おい、トム」とセント・クレアは合図しながら言った。
トムは部屋へ入って行った。彼は懐しそうにビロードの絨毯《じゅうたん》を、そして鏡や、絵や、彫像や、カーテンの、以前には想像したこともない目もあやな美しさをながめた。そしてソロモンの前に出たシバの女王のように、彼はその心を奪われた(列王紀上、第十章第一〜十三節および歴代志下、第九章第一〜十二節)。彼は自分の足を踏み入れることさえ恐れる様子であった。
「ねえごらん、マリー」とセント・クレアは妻に言った。「おまえに馭者を買って来てあげたよ、やっと、お誂え向きのをね。なにしろおまえ、黒さといい謹厳さといいりっぱな霊柩車《れいきゅうしゃ》だ。そのうえお望みなら、葬列のようにゆっくり走らせてくれるからね。さあ、目をあけて、あの男を見てごらん。ほら、留守の間でも私はちゃんとおまえのことを考えていたんだよ」
マリーは目をあいてトムを見つめたが、からだは起こさなかった。
「きっとこの男も酔っぱらうわ」と彼女は言った。
「いや、信心深くてまじめだという保証つきのしろものだよ」
「そお、そうだといいわね」と婦人は言った。「でも、それは期待以上ね」
「ドルフ」とセント・クレアは言った。「トムを下へ連れて行ってやれ。そして、いいか、さっき言ったことを忘れるなよ」
アドルフは優雅な腰つきで足どりも軽く先にたった。そしてトムは、無恰好な足どりで、後ろからついて行った。
「あれはまるで巨獣《ビヒーモス》(ヨブ記、第四十章第十五節―二十四節)だわ!」とマリーは言った。
「ねえ、マリー」とセント・クレアは彼女のソファのかたわらにあった|腰掛け《スツール》に腰を下ろしながら言った。「やさしくして、人の耳にも何か快いことを言っておやり」
「あなたこそ予定より二週間も遅れたくせに」と婦人は口をとがらせながら言った。
「うん、だから手紙でその理由は知らせたろう」
「あんな短かな、冷たい手紙!」と婦人は言った。
「おやおや! 郵便がちょうど出るところだったんで、ああするよりしかたがなかったんだがね」
「そのとおりよ、いつでもね」と婦人は言った。「いつも何かが起こって、旅行は長く、手紙は短かくなるんですわ」
「まあ、これをごらん」と彼はポケットからりっぱなビロードのケースを取り出すと、それをあけながらつけ加えた。「贈り物だよ、君のためにニューヨークで撮《と》ったんだ」
それは彫版のようにはっきりと、しかも柔らかみのある一枚の銀板写真で、エヴァと父親とが互いに手をとり合ってすわっているところを撮《うつ》したものであった。(銀板写真は当時まだ珍しく、一枚十五〜二十五ドルもした)
マリーはそれを不満そうにながめた。
「どうしてこんな見苦しい恰好ですわってらっしゃるの?」と彼女は言った。
「まあ、恰好のことは意見の問題だろうがね。だが似具合いのほうはどうだい?」
「一つのことで私の意見を無視なさるんなら、ほかのことでも同じでしょう」と婦人は言って、銀板写真をぴしゃりと閉じた。
「この女め!」とセント・クレアは心の中で言った。しかし口に出しては、「まあ、まあ、マリー、似具合をどう思うかね? さあ、下らんことを言わずにね」
「あなたという人はずいぶん思いやりがありませんのね、セント・クレア」と婦人は言った。「私に無理に口をきかせたり、物を見させたりなさるなんて。私は頭痛で一日じゅう臥せっておりましたのよ。そしてあなたがお帰りになってからは、あの大騒ぎで、私もう死にそうですわ」
「あなたは頭痛もちのようね、奥さん?」とミス・オフィーリアが、突然大きな肘掛椅子《ひじかけいす》の底から身を起こして言った。彼女は最前から黙ってそこに身を沈めて部屋の調度品を数えたり、その値踏みをしたりしていたのである。
「ええ、それはもうまったくの殉教者ですわ」と婦人は言った。
「落葉松《ジャーニパ》の実を煎じて飲むと頭痛にはききますよ」とミス・オフィーリアは言った。「少なくともオーガストは、エイブラハム・ペリィ執事《ディーコン》の奥さんですけれども、よくそう言っていましたわ。それにあの人は看護も大変上手な方でしたから」
「じゃあの湖の畔《ほとり》の、うちの庭に生えている落葉松の実が熟ししだいその特別な用途のために採ってこさせよう」とセント・クレアは言って、そう言いながらまじめな様子で呼鈴の紐を引いた。「ところで、従姉《ねえ》さん、ご自分の部屋へ行って、少しゆっくりしたいでしょうね、なにしろ旅のあとですから。ドルフ」と彼はつけ加えて、「マミィにここへ来るように言ってくれ」。最前エヴァが有頂天になって抱きついたあの上品な混血女がすぐに入って来た。彼女はきちんとした身なりをして、頭には高い赤と黄色のターバンを巻いていた。それは今エヴァから貰ったばかりのおみやげで、この子が彼女の頭に巻いてやったものであった。「マミィ」とセント・クレアは言った。「この方のせわをおまえにまかせたからね。疲れていて、お休みになりたいのだから、お部屋にご案内して、ゆっくりできるよう、よく気をつけておくれ」そこでミス・オフィーリアはマミィのあとについて姿を消した。
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第十六章 トムの女主人と彼女の意見
「でね、マリー」とセント・クレアが言った。「これからいよいよ君の黄金時代が始まるんだよ。こうして実践的でてきぱき屋のニューイングランドの従姉《ねえ》さんが来てくれたから、これまでの苦労の重荷は残らず君の肩から取り除いてくれるだろう。君もゆっくり休んで、若く美しくなれるというもんだ。鍵の引渡し式はすぐにしたほうがいいね」
彼はそんなことを言った。ミス・オフィーリアがこの家に来て数日たったある朝の食卓でのことである。
「ええ、ぜひともやっていただきたいわ」とマリーは片方の手に物憂《ものう》げに頭をもたせながら言った。「そうすれば従姉《ねえ》さんもあることを発見なさるでしょうからね。つまり、この南部では、奴隷であるのは私たち主婦だということをね」
「ああ、きっと見つけ出すだろう。そしてむろん、その他いろいろとたくさんの有益な真理もね」とセント・クレアが言った。
「私たちが奴隷を使っているのは、まるで私たちの便利のためにそうしているんだとでもいうような口ぶりですけど」とマリーは言った。「そんなことのためでしたら、一人残らず今すぐにでも解放してやったほうがましですわ」
エヴァンジェリーンは大きなまじめな目を母親の顔にじっと向けて、しんけんな訝《いぶか》しげな顔つきをしていたが、やがて無邪気にこう尋ねた。「じゃあなぜあの人たちを使ってらっしゃるの、ママ?」
「さあ、きっと、何かの祟りからだろうよ。あの連中ときたら、ほんとうに私の一生の疫病ですよ。きっと、私のからだのすぐれないのも、べつにこれという理由からではなく、大部分あの連中のせいなのよ。それにうちの奴隷ときたら、それはもう、どこの奴隷よりもしまつが悪いんだからね」
「まあ、マリー、君はけさはどうも気がふさいでいるようだよ」とセント・クレアが言った。「そんなことはないさ、それは君だって知っているはずだ。第一、マミィがいるじゃないか、あんなりっぱなやつがね、――あれがいなかったら君はいったい何ができるんだね?」
「マミィは、私の知る限りでは一番です」とマリーは言った。「でもそのマミィがわがままなんですからね――おそろしくわがままですよ。それは黒人共通の欠点なんですわ」
「わがままというものは確かに恐ろしい欠点だ」とセント・クレアがまじめな口調で言った。
「ええ、それでマミィですけど」とマリーは言った。「あれが毎晩あんなにぐっすり眠るなんて私、わがままだと思います。私は気分がひどく悪くなった時には、もう片時も忘れずに少しでも介抱してもらわなければならないのを承知でいながら、あれはなかなか目を覚まさないんです。けさ、私の気分がことにすぐれないのも、昨夜《ゆうべ》あれを起こすのにずいぶんと苦労したからですわ」
「マミィはこの頃、幾晩も寝ずに看病してくれているんではないの、ママ?」とエヴァが言った。
「そんなこと、おまえにどうしてわかります?」とマリーは強い口調で言った。「あれがそう言ってこぼしたんだね、きっと」
「こぼしたりはしないわ。ただ、お母さまは幾晩も、――幾晩も引続いて悪かったって話しただけよ」
「一日、二日ジェインかロウザに代わらせたらどうかね」とセント・クレアが言った。「そしてあれを少し休ませてやったら?」
「まあ、あなたはよくそんなことが言えますわね?」とマリーは言った。「セント・クレア、あなたはほんとうに思いやりのない人よ。私みたいに神経質なものは、ちょっとした息づかいにも、すぐいらいらするんです。それを馴れない手で触られでもしたら私、ほんとうに気がちがってしまいますわ。マミィが私のめんどうをみるのは当然のことなんですから、私のことを考えたらもっと早く目を覚ませるはずです、――もちろんですわ。私、そういうりっぱな召使いをもっている人の話を聞いたことがありますもの。でも私にはそういう運がないのね」とマリーは言ってため息をついた。
ミス・オフィーリアは最前から鋭く注意深いまじめな様子でこの話に耳を傾けていたが、意見を述べる前に、自分の立場をよく確かめておこうと決心したのか、固く口を閉ざしていた。
「そりゃあ、マミィにだってちっとはいいところもありますよ」とマリーは言った。「如才なくって慇懃《いんぎん》で、でも心のうちはやはりわがままですわ。あの連合いのことがどうしても諦めきれず、今でもぐじぐじと心配しているんですからね。だって、私が結婚してここへ来るようになった時、もちろん、私はあれを一緒に連れてこなければなりませんでしたし、それにあれの連合いのほうは父が手離せなかったんですからね。その男は鍛冶屋《かじや》でしょ、ですから、当然、父にはどうしても必要だったのです。で、私、そのとき考えて言ってやったんです、マミィとその男とは互いに諦めたほうがいい、どうせ二人はこれから先、また一緒に暮らせるようなおりもなさそうだからってね。今になって、あのとき少し強く言ってマミィをだれかほかの男と結婚させておけばよかったと思いますわ。私、ばかで甘かったものですから、ついきついことも言わずにしまって。マミィにはそのとき、私こう言ったんですの、死ぬまでに一度か二度以上、連合いに会えるなぞと思ってはいけないよ、父のいる土地の空気は私の健康には合わないので私はここへ帰ってくるわけにはいかないのだから。それでおまえにも勧めるんだけど、だれかほかの男と一緒になってはどうだろうかってね。ところが、どうして――あれは言うことをきかないんです。マミィはあれでなかなか強情なところがあるんですよ、ほかの人にはわからないでしょうけどね」
「子供はあるんですか?」とミス・オフィーリアが言った。
「ええ。二人」
「それを別れて暮らすのはさぞつらいでしょうね?」
「ですけど、もちろん、私あの子供たちを連れてくるわけにはいきませんでしたわ。なにしろ汚ない子でしてね――側になぞおいておけませんわ。おまけにあれの時間をずいぶんとつぶしますでしょう。なのにマミィときたら、いつもこのことで拗《す》ねているんですからね。ほかの男と一緒になるなどとはどうしても言いませんの。それであれは、あれがいないと私がどんなに困るか、私のからだがどんなに弱いか知っているくせに、できればあすにでも連合いの所へ帰るつもりでいるんですよ、きっと。確かにそうなんです」とマリーは言った。「黒人なんてほんとうにわがままですからね。一番りっぱなのでも、まあこんな具合ですわ」
「考えるのも苦々しいことだね」とセント・クレアがすげなく言った。
ミス・オフィーリアは鋭く彼を見つめたが、彼の顔は屈辱といらだたしさで赤らみ、口もとは皮肉にゆがんでいた。
「でも、マミィは私にはいつも気に入りの娘《こ》でしてね」とマリーは言った。「あれの衣裳だんすなぞ、あなた方の住んでいらっしゃる北部の召使いに見せてやりたいくらいですわ、――絹ものから、モスリンから、それに本麻のまっ白なものも一枚、そこには掛けてあるんですからね。時には私、昼下がりを全部つぶして、あれのために帽子の飾りをつけてやったり、パーティへ行く支度をしてやったりしたこともありますのよ。虐待なぞということは、それがどんなものかもあれは知りませんわ。鞭《むち》で打たれたことだって、これまでにほんの一度か二度くらいのものですものね。コーヒーでもお茶でも毎日濃いのを飲んでいるんですよ、白砂糖なんか入れましてね。ほんとうに呆れかえってしまいますわ。それなのにセント・クレアは階下《した》にも高い生活を、なぞと言うものですから、みんなだれも彼もいい気になって好きかってな暮らしをしているんです。じっさい、うちの召使いは甘やかされ過ぎています。ですからあの連中がわがままで、駄々っ子のようにふるまうのも一つには確かに私たちが悪いんです。セント・クレアにはこれまで何度も言ったんですけど、もう私、愛想がつきましたわ」
「ああ、私もね」とセント・クレアは朝刊を取り上げながら言った。
エヴァ、美しいエヴァは、彼女独特のあの深い神秘的なまじめな様子で母親の話に耳を傾けながら立っていた。彼女は静かに母親のすわっている方へと回わって行き、両腕を母親の首に巻きつけた。
「おや、エヴァ、なんなの?」とマリーは言った。
「ママ、あたしにママを一晩看護させていただけません――一晩だけでも? 大丈夫、ママをいらいらさせたり、あたしが眠ったりはしませんから。あたし、よく夜中でも寝ずに考えごとを――」
「まあ、この子ったら――何をばかなことを!」とマリーは言った。「おまえはほんとうに変な子だね!」
「でもいいでしょう、ママ? きっと」と彼女はおずおずとつけ加えた。「マミィはからだの具合がよくないのよ。近頃、しじゅう頭痛がするって言ってましたもの」
「ああ、それがマミィのやり口なんですよ! マミィもほかの者とちっとも変わりゃあしない――ちょっと頭痛がしたり、指が痛んだりしてもすぐにそうやって騒ぎたてるんだからね。そんなものを本気で聞いてはいられませんよ――絶対にね! 私はこういうことでは主義をたてていますのよ」と言って彼女はミス・オフィーリアの方を向いた。「従姉《ねえ》さんだってそれの必要なことが今にわかってきますわ。ちっとやそっと気分が悪くたって、それをいちいち聞いてやったり、少しどこか痛いからといっていちいち不平を言わせていたら、こちらの手が塞《ふさが》ってしまいますわ。私など、一度だって不平を言ったことがありませんもの――ですから私がどんなに我慢しているかだれも知らないのです。私はそれをじっと耐えるのが義務だと思い、そして実行しているんです」
この結論にはさすがのミス・オフィーリアも目を丸くして、いかにも呆れたという様子であった。それがセント・クレアにはこの上なくおかしかったので、彼は声をあげて笑い出した。
「セント・クレアは、私が少しでも自分の病気のことを言うといつも笑うんですわ」とマリーは受難の殉教者のような声で言った。「それを思い起こすような日が来なければと、私はもう、そう願うだけです!」と言ってマリーはハンカチを目にあてた。
もちろん、しばらくはばからしい沈黙が続いた。やがて、セント・クレアは立ち上がって、懐中時計を見、町に約束があるからと言った。エヴァは軽い足どりで父親のあとからついて行った。食卓にはミス・オフィーリアとマリーの二人だけが残った。
「あのとおりなんですのよ、セント・クレアという人は!」とマリーは、ハンカチに弱い犯人が姿を消してしまうと、やや威勢のよい手つきで目からハンカチを離しながら言った。「あの人は私がいま苦しんでいるものが、そして何年も苦しんできたものがなんであるか全然知らないのですわ、知ることができないのですわ、これからだってできっこありませんわ。もし私が愚痴っぽい人間だったり、病気のことで騒ぎを起こしたりしたことがあるとすれば、それにはそれ相当の理由があったからです。男が愚痴っぽい妻に飽きてくるのは当然です。けれど私は何事もじっと胸におさめて我慢に我慢を重ねてきたんですからね。それでセント・クレアは、私という人間はなんでも我慢できると思うようになってしまったんですわ」
ミス・オフィーリアは、マリーがこれに対してどんな答えを期待しているのかはっきりわからなかった。
なんと言おうかと彼女が考えている間、マリーは徐々に涙を拭い去り、俄雨《にわかあめ》にあった鳩の化粧よろしく、あちこちと身繕いをすませると、いずれはミス・オフィーリアにその監督を引き受けてもらうことになった食器棚、押入れ、衣裳だんす、物置部屋その他いろいろのことについて彼女と主婦らしいおしゃべりを始めた。――そしてあれこれとさまざまな注意や任務を並べたてるので、もしこれがミス・オフィーリアほどの組織的なてきぱきとした頭の持主でなかったならば、おそらくすっかり目が回わって混乱してしまったことであろう。
「さあこれで」とマリーは言った。「すっかりお話しましたわ。で、今度私の病気が起こった時には、私に相談なさらずとも、なんでもどんどんおできになるでしょう。――ただエヴァのことですけど、――あの子はたえず見ていてやらないといけませんの」
「あの子はいい子のようですけどね、ほんとうに」とミス・オフィーリアは言った。「あんないい子はほかにありませんよ」
「エヴァは変わっていますのよ」と母親は言った。「ほんとうに。あの子には、それは妙なところがありましてね。私には少しも似てないんですの」とマリーは、そう思っただけでもいかにも憂鬱だと言わんばかりにため息をついた。
ミス・オフィーリアは心の中で「似てなくて幸い」とつぶやいたが、それを胸にしまっておくだけの分別はもっていた。
「エヴァはいつも召使いたちと一緒にいたがるんです。子供によってはそれもいいと思います。私なぞ父の所の黒人の子供たちとよく遊びましたものね――それでいてべつになんの害も受けませんでしたもの。でもエヴァの場合はどうやら、だれでも自分の近くに来るものと同じ地位に自分を置こうとしているらしいのです。それがあの子の変なところなんですわ。私、いくらやめさせようとしてもできませんの。セント・クレアが、きっと奨励しているんでしょ。じっさい、セント・クレアという人は妻の私を除いて、この屋根の下にいる者をみんな甘やかしているんですからね」
再びミス・オフィーリアは黙りこくっていた。
「召使いに対する扱いというものは」とマリーは言った。「おさえつけて、頭の上がらぬようにしておく以外にありませんわ。私は子供の時からそれがあたりまえだと思ってきました。それをエヴァは一人で家じゅうの者を甘やかしてしまうんですからね。自分で家をやっていくようになったら、いったいあの子はどうするつもりなんでしょう、ほんとうに。そりゃあ私だって召使いたちには親切でなければいけないと思っています――で、私も常に親切にしています。でもやはり身のほどはわきまえさせておかなくてはいけませんもの。それをエヴァはしませんの。召使いの身分というものがそもそもどんなものであるか、それがあの子の頭には入っていないんですわ! さっきも夜中に私を看病したいなんて言ってましたでしょう、マミィを寝かせてやろうだなんて! あの子を一人にしておいたら、いつもあんなことばかりしているんですからね」
「でも」とミス・オフィーリアはそっけなく言った。「あなたの召使いも人間なんですから、疲れたら休ませてやらねばと、あなたもお考えでしょう」
「そりゃあ、もちろんですとも。私、つごうさえつけばなんでもさせてやるようにずいぶんと気を使っていますのよ、――けっしてほかの者の迷惑にならないようなことでしたらね。ですからマミィが寝不足を取り返すぐらいのことは、いつだってできますわ。けっしてむずかしいことじゃありません。あれくらい眠たがりやの女もありませんからね。縫物をしていても、立っていても、すわっていてでも、すぐに居眠りを始めるんです。どんな所ででも所かまわずにね。ですからマミィの睡眠が足りないといっても、べつに命にかかわることではありません。それを舶来の花か焼物の花瓶かなんぞのように召使いを大事に扱うなんて、ほんとうにばかげたことですわ」と言いながらマリーは、ふかぶかとした柔らかな寝椅子の底にだるそうに身を沈めると、美しいカット・グラスの気付薬《ヴィネイグレット》の小瓶を引き寄せた。
「私ね」と彼女は、アラビアン・ジェサミンか何かそういった微妙な花が萎《しお》れる時の香りにも似たほのかな貴婦人らしい声で続けた。「私ね、オフィーリア従姉《ねえ》さん、自分のことはあまりしゃべらないでしょう。それは私の習慣ではないからですの。私にはそんなこと、向きませんわ。第一、そんなことをする元気もありませんもの。ですけど、セント・クレアと私とで折合わぬ点がいくつかありますのよ。セント・クレアはけっして私を理解してくれません、認めてはくれないんです。私、自分の病気の元はみんなそれだと思いますわ。セント・クレアは悪気があって言っているんではないんでしょうよ、そのことは私も信じなければいけませんけど。でも男というものは生まれつきわがままで、女に対して思いやりのないものなんですわ。少なくとも、私はそう思っています」
ミス・オフィーリアは、純粋のニューイングランド人がもっている、あの用心深さを少なからずもちあわせており、そのうえ、家庭のごたごたに巻き込まれることはことのほか恐れていたので、その時、何かそういう種類の事件が起こりそうな気配をいち早く感じはじめた。そこで、頑《がん》として中立を守り抜こうといった顔つきを装って、ポケットから一ヤード四分の一ほどに編みかけたストッキングを取り出した。それはワッツ博士(アイザック・ワッツ、一六七四〜一七四八。イギリスの聖職者、讃美歌の作者)の主張する、人が両手を遊ばせておくのは悪魔《サタン》の悪癖に染まった証拠だという言葉に対する反証として彼女がいつももっていたものであった。彼女はそれをせっせと編みはじめた。口は固く閉ざしていたが、その様子は言葉に出して言うのと同じくらいはっきりと、「私にしゃべらせようたってだめですよ。私は、あなた方のいざこざには何も関わりたくないんですからね」と言わんばかりであった。――じじつ、彼女は石造りのライオンのように無情な顔をしていた。しかしマリーはそんなことは少しも意に介しなかった。話相手がいる以上、話をするのが自分の義務だと思った。理由はそれだけで十分であった。そこで彼女はもう一度、気付薬を嗅いで元気をつけると、再び話をつづけた。
「私ね、セント・クレアと結婚した時、自分の財産と召使いをもってきましたの。ですから法律上、私はそれらを自分で好きに使う権利があります。セント・クレアにも自分の財産と自分の召使いとがありましたわ。ですから私、あの人がそれらをかってに使ったって少しも不服ではありません。ですけど、セント・クレアは何かというとすぐに喙《くちばし》を容《い》れるんです。あの人は何事につけてもとほうもないそれは突飛な考えをもっていますの。ことに召使いの扱いについてそうですわ。ほんとうに、あの人のすることを見ていると、まるで召使いのほうを私よりも、そしてあの人自身よりも大切にしているみたい。だって、自分がどんな厄介な目にあっても召使いたちにはかってにやらせておいて、指一本あげようとはしないんですからね。かと思うと、ある事では、セント・クレアはじつに恐ろしいんですのよ――私、怖くなりますわ――いつもは人の好さそうな様子をしているんですけどね。つまり、あの人は、たとえどんなことがあっても、あの人か私がたたく以外この屋敷内で召使いをたたいてはならぬと言って、そう言い出したらきかないのです。私などにはとても反対できないほど頑として言い張るんですの。で、それがどんな結果になるかは従姉《ねえ》さんにもおわかりでしょう、だって、セント・クレアは、召使いが一人残らずあの人を踏みつけていったって手をあげるようなことはしないでしょうからね。それに私は――ねえあなた、私にそんな真似をしろといっても、それはあまりに酷なことですものね。ここの召使いたちがからだばかりおとなになった子供でしかないことは、あなただってご存知でしょう」
「私、そんなこと少しも存じません。そして知らないことを神さまに感謝しております!」とミス・オフィーリアはぶっきらぼうに言った。
「そう、でもここにいらしたら、そのうち何か知らなくてはならなくなりますわ、さんざんな目に会ってからね。従姉《ねえ》さんはまだ、あの連中がどんなに小うるさい、愚かな、ぞんざいな、聞きわけのない、幼稚な、恩知らずのろくでなしだかご存知ないんですわ」
マリーは、この話になるといつも驚くほど元気が出るらしく、今では目を見開いて、先刻のけだるさなどすっかり忘れてしまった様子であった。
「あの連中のために、いたる所で、あらゆる方法で一家の主婦がどんなに毎日、毎時、悩まされつづけているかを従姉《ねえ》さんはご存知ないんですわ、また知るはずもないんですわ。でもあのセント・クレアにそんな愚痴を言っても無駄です。あの人ときたら、それは奇妙なことを言うんですから。あの連中がこうなったのも私たちがそうしたからで、だから私たちは我慢するのが当然なんだなんて言うんですもの。それにあの連中の欠点はみんな私たちのせいなんで、こちらがその欠点を作っておきながらそれを罰するのは残酷だって言いますの。私たちが連中の立場におかれたら、やはりあれ以上のことはできないだろう、ですって。まるで連中のことが私たちにもあてはまるとでもいったような口ぶりなんですのよ」
「神さまは、あの人たちも私たちと同じ血でお造りになったとはお考えになりません?」とミス・オフィーリアはぶっきらぼうに言った。
「いいえ、とんでもない! それはまったくの作り話というもんですわ、ほんとうに! 連中は卑しい種族ですもの」
「あの人たちにだって不滅の魂があるとはお思いになりません?」とミス・オフィーリアは義憤にもえながら言った。
「まあ、そうね」とマリーは欠伸《あくび》をしながら言った。「それは、もちろん――だれも疑う者はいませんでしょうね。でも、私たちと比較ができるかなんぞのように、あの連中を私たちと同じ立場におくなんていうことは、ねえ、不可能なことですわ! それをセント・クレアは、マミィをその連合いから引き離しておくことは私を夫から引き離しておくのと少しも変わりがないんだなんて、私に向かって実際に話したことがありますのよ。そんなふうに較べることが第一間違っているんですわ。あのマミィに私がもっているような感情があるはずはないのですもの。それは全然違ったものなんですからね、――もちろん、そうですとも、――それをセント・クレアは知らんふりをするんです。そして、私がエヴァを可愛がるのとマミィがあの汚ならしい赤ん坊を可愛がるのとでは少しも違うところはない、ですって! そのうえセント・クレアは、いつだったか、私がこんな弱いからだで、苦しんでいるのに、マミィを家にもどらせてだれかほかの者を代わりに使うのが私の義務だなんて、それを本気でまじめな顔をして説き伏せようとしたんですのよ。それには、もういくら私《ヽ》だって我慢できませんでしたわ。私という人間はあまり感情を表に出しません。何事も黙ってじっとこらえるのを信条としています。それが妻というもののつらい運命なのですから、私はそれに耐えているのです。でも私、その時ばかりは大声をたてましたわ。それで、あの人もそれからは二度とこの話はしなくなりました。でもあの人の顔つきや、ちょっとした言葉の端から、相変わらず前と同じ考えでいることを私、知っています。そう思うと、なおさら腹立たしいやら、くやしいやらで!」
ミス・オフィーリアは、この辺で何か言ってやらねばというような顔つきであった。しかし彼女は黙ったまま、せっせと針を動かしていた。その手つきには、もしもマリーにそれが理解できさえしたら、大きな意味を含んでいたのであるが。
「これで、従姉《ねえ》さんにもおわかりでしょう」とマリーは言葉をつづけた。「あなたにやっていただかなくてはならないのがどんなことか、がね。とにかく規律のない家庭なんですからね。召使いは自分かってにふるまい、なんでも好きなことをして、好きなものをもらっている家なんですのよ。そりゃあ私だってこの弱いからだで、取締まれるだけは取締まってきましたけれどもね。それで私、いつも牛革の鞭を手もとにおいて、時々それをみまってやるんですけど、こういった骨の折れる仕事は私にはいつもきつすぎますわ。セント・クレアがこの仕事をほかの人がやっているように、人に頼んでくれさえしたら――」
「どうするんです?」
「いえ、あの連中を留置場かどこかへ送って思いきり鞭で打ってもらうんですわ。それしか方法はありませんもの。私がこんな病身でなかったら、セント・クレアの倍もの力でやってみせるんですけどね」
「で、セント・クレアはどんなふうにしてやっているんです?」とミス・オフィーリアは言った。「さきほどのお話だとけっしてぶたないと言うことですが」
「そりゃあ、男というものは女よりもどこか睨《にら》みがききますもの。やりよいわけですわ。それに、あの人の目をじっとよく見ていると、不思議ですわ、――あの目は、――きっぱりとものを言うような時には、何かきらっと光るものがあるんですものね。それを見ると私だって怖くなりますわ。ですから召使いたちはその時は気をつけなくてはいけないことを知っているんです。私がいくら小言をいったり叱ったりしても、セント・クレアが一度本気でじろりと睨む時ほどには効目《ききめ》がありませんもの。ですから、セント・クレアには何の苦労もないんですわ。私のことをなんとも思っていないのもそのためなんです。でも従姉《ねえ》さんに管理していただくようになれば、厳格でなければやってはいけないことがおわかりになりましょうよ、――あの連中ときたら、ほんとうに質《たち》が悪くって、ずるで、怠け者なんですから」
「またやってるね」とセント・クレアがぶらりと入って来ながら言った。「そのろくでなしの連中も、とうとう、しまつのわるい負債を清算しなければならぬ時期にきたらしいね、ことに怠け者という理由でね! ねえ、従姉《ねえ》さん」と彼は、マリーの向かい側にある寝椅子の上に長々と身を横たえながら言った。「マリーと私とがこうして連中に示しているこの手本に照らしてみたら、連中はまったく許し難いですな、――この怠け方の点ではね」
「まあ、セント・クレア、あなたったらずいぶんひどいことおっしゃるのね!」とマリーは言った。
「そうかね? いやあ、私としては珍しく親切に言ったつもりだがね。私は君の意見を励行しようとしているんだよ、マリー、いつでもね」
「ほんとうは、そんなおつもりでないことをご自分ではご存知のくせに、ひどいわ、セント・クレア」とマリーは言った。
「おや、それじゃあきっと私が間違っていたんだ。ご指摘をありがたく思いますよ」
「あなたはまったく人をいらいらさせようとなさるのね」とマリーは言った。
「まあ、マリー、きょうもだいぶ暑くなってきた。それにいま私はドルフと長時間言い争いをしてきたばかりで、ひどく疲れているんだ。だからどうか機嫌を好くして君の笑顔の光の中で私を休ませてもらいたいね」
「ドルフがどうかしましたの?」とマリーは言った。「あの男のずうずうしさといったら、私にはもう我慢がなりませんわ。しばらくの間あの男を、うむを言わさず取締れさえしたらと思いますわ。私、あれの鼻をへし折ってやりますから!」
「君のその言葉はいつもの鋭さと良識で光っているね」とセント・クレアは言った。「ドルフのことというのは、実はこうなんだ。やつはあまり長い間私の上品な態度やたしなみを真似てきたので、とうとう本気で自分を主人と思い込むようになってしまった。それで私はしかたなく、やつにその誤りを悟らせてやらざるをえなくなったんだよ」
「どのようにしてですの?」とマリーは言った。
「いやね、私の着るもののうち少しは私が自分で着るためにとっておきたいのだ、ということをはっきりとやつに飲み込ませてやらねばならなかったのさ。それからやつがおめかしするにもコローン水をむやみと使わぬように一定量をきめてやり、私の本麻のハンカチも一ダース以上は絶対に使うなと、じっさいずいぶん酷《こく》なことを言ってやったよ。ハンカチのことではドルフのやつ、とりわけむくれていた。それで私はやつを納得させるのに、まるで父親のようによく言いきかせてやらなければならなかったんだ」
「まあ! セント・クレア、あなたという人はいつになったら召使いの扱い方がわかるんでしょう? 言語道断ですわ、そんなふうに連中を甘やかすなんて!」とマリーは言った。
「だが、要するにだよ、哀れな犬がその主人のようになりたいと思ったからといって、別に害はないじゃないか。それに、コローン水や本麻のハンカチに一番の喜びを見出だすようにしかやつを躾《しつ》けることができなかったとしたら、その私がやつにそういったものを与えていけない道理はないだろう?」
「それなら、どうしてもっとよく躾けてやらなかったのです?」とミス・オフィーリアがぶっきらぼうな調子できっぱりと言った。
「めんどうくさいからですよ、――つまり怠惰ですね、従姉《ねえ》さん、怠惰だからですよ、――こいつは数えきれないほどたくさんの霊魂を滅ぼしますからね。もしそれが怠惰のためでなかったら、今ごろ私はりっぱな天使になっていたでしょうよ。どうも怠惰というやつは、あのヴァーモントのボザレム老博士がよく言っていたように『道徳的悪の本質』のような気がしますからね。考えると恐ろしくなりますよ、まったくね」
「あなた方奴隷所有者は己れに対して恐ろしい責任を負っていると私は考えます」とミス・オフィーリアは言った。「私だったら世界をいくつくれてもそんなものは持ちたくありませんけど。でもあなた方は自分の奴隷を教育し、理性のある人間らしく、――不滅の魂をもった人間らしくその人たちを扱ってやるのが当然です。あなた方もいずれは神の審判《さばき》の庭に彼らと並んで立たねばならないのですからね。これが私の意見です」とこの善良な婦人は、けさから心の中に強まってきた熱誠を一度に吐き出すようにして言った。
「いや! まあ、まあ」と言いながらセント・クレアはすっくと立ち上がった。「あなたは私たちについてどれだけのことをご存知です?」そして彼はピアノの前に腰を下ろすと陽気な曲を弾きだした。セント・クレアには生まれつきすばらしい音楽の才能があった。彼のタッチは美しく、しっかりとしていた。そして指は鍵盤の上を速やかな、小鳥のような動きで、かろやかに、しかも正確に飛んでいた。彼は一曲、また一曲とつづけて弾いた。まるでピアノを弾くことによって自分の機嫌をよくしようとしているようであった。やがて彼は楽譜をかたわらに押しやると、立ち上がって快活に言った。「それで従姉《ねえ》さん、あなたは今、大変ためになるお話を私たちにして下さって、ご自分の本分をお尽しになった。全体から言えば、私はだからこそ、あなたをいっそう好く思うんです。あなたが私に真理のダイヤモンドを投げて下さったことを、私は少しも疑いません。ただそれが、あまりまともに顔に当たったものですから、最初はその有難味がよくわからなかったんです」
「私には、そういうお話がなんの役にたつのかいっこうにわかりませんわ」とマリーが言った。「だって、私たち以上に召使いのために尽している人がおりましたら、一体それがだれだか知りたいくらいですもの。そんなにまでしてやっても、あの連中にはなんにもならないんですのよ、――これっぽっちもね、――かえってますます悪くなるばかりですわ。話して聞かせてやったら、とかなんとか言いましてもね、私はもう、それこそくたくたになって声がしゃがれるまであの連中に自分たちの義務やら何やらを話してやりました。もちろん、教会だって行きたければ行かせてますわ。もっとも説教を聞いたところで豚みたいな頭じゃ一言もわかりはしないでしょうけどね、――ですから行ったって無駄なんですよ。それをあの連中は行くんですから、機会はいくらでもあるんです。でも前にも言いましたように、あの連中は卑しい種族でしょ、これからだって同じように卑しいんですから、もうしかたありませんわ。やってみたところでなんにもなりませんもの。ね、オフィーリア従姉《ねえ》さん、私はこうして、やってみましたのよ、あなたにはまだその経験がないんです。私はあの連中の中で生まれ、育ってきたんですからよくわかってるんです」
ミス・オフィーリアは、言うだけのことは言ったつもりであったから、ただ黙ってすわっていた。セント・クレアは口笛で何かの曲を吹きはじめた。
「セント・クレア、口笛はやめていただきたいわ」とマリーが言った。「それを聞くとよけい頭痛がひどくなりますから」
「じゃあ、やめておこう」とセント・クレアは言った。「そのほか、私にしてほしくないことがあるかね?」
「少しは私の苦しみに同情していただきたいわ。私のことなど、あなたはなんとも思っていては下さらないんですもの」
「わが愛する手きびしき天の使よ!」とセント・クレアは言った。
「そんな口のききかたをされると私、いらいらします」
「それじゃあ、どんなふうにされたいんだね?ご註文しだいで、――いかようにもお話いたしますよ、――お気のすむようにね」
この時、中庭の方から陽気な笑い声がヴェランダの絹のカーテンを通して聞こえてきた。セント・クレアは出ていってカーテンを上げると、思わず自分も笑い出してしまった。
「なんですか?」とミス・オフィーリアが言いながら、手摺《てすり》の所へやって来た。見ると、中庭の少し苔の生えた所にトムがすわっていて、そのボタン穴には一つ残らずケイプ・ジェサミン(「くちなし」の一種)の花が差してあった。そしてエヴァが陽気に笑いながら、ばらの花環《はなわ》を彼の首にかけてやっているところであった。それがすむと彼女は小雀のように彼の膝の上にすわって、なおも笑いながら言った。
「ねえトム、おまえとても妙な恰好よ!」
トムは穏やかな優しい微笑をうかべていたが、そのもの静かな笑顔の中には、彼の小さな女主人とまったく同じようにこの喜びを味わっている様子が見えた。彼はセント・クレアに気がつくと、なかば申し訳なさそうな、弁解するような表情でこちらを見た。
「よくあの子にあんな真似をさせておけますね?」とミス・オフィーリアが言った。
「いけないんですか?」とセント・クレアは言った。
「さあ、私にはわかりませんけど、なんだかとても恐ろしいようだわ!」
「あなたは、子供が大きな犬を抱いていてもべつに害はないとお考えでしょう、たとえその犬がまっ黒でも。ところが、考えることができ、ものの道理もわかり、感情もあり、不滅の魂をもった人間だと、あなたは身震いするんです。そうでしょう、従姉《ねえ》さん、私はあなた方北部の人たちのそういった感情をよく知っています。私は、われわれ南部人はそうした感情をもっていない、だからわれわれには少しばかり徳があるのだというのではありません。われわれの習慣が、キリスト教が、しなければならぬことを、しているのです。――つまり個人的偏見という感情を抹殺《まっさつ》することを、です。私は、北部を旅行している間に、たびたび気がついたのですが、この偏見はわれわれよりもあなた方の間によりいっそう強いのです。あなた方は黒人を蛇《へび》かひき蛙《がえる》のように嫌っている。そのくせ彼らに対する非行には憤慨する。あなた方は彼らが虐待されることを好まない。しかしあなた方自身で彼らに何かしてやりたいという気持はない。自分たちから見えないように、そして自分たちの鼻に匂ってこないように彼らをアフリカへやって、あとから宣教師を一人か二人送り、その人たちにあらゆる献身的な努力をさせて、黒人をてっとり早く向上させようというのです。違いますか?」
「そうねえ」とミス・オフィーリアは考え込みながら言った。「あんたの言うことにも多少の真理があるようね」
「この世に子供というものがいなかったら、哀れな賤しい人たちはどうするだろう?」とセント・クレアは手摺にもたれて、トムを連れて足どりも軽く向こうへ歩いていくエヴァの姿を見つめながら言った。「神《あなた》の小さな子供だけが、あなたのおっしゃるほんとうの民主主義者なのです。あのトムも、今、エヴァにとっては英雄です。彼の話はあの子の目には驚異です。彼の歌、彼の歌うメソジスト派の讃美歌はオペラよりもすばらしいのです。そして彼のポケットにある身の回わりの品物やつまらぬがらくたは宝石の山なのです。そして彼自身は、黒い皮膚をした者の中で一番すばらしいトムなのです。これこそ、ほかにこれといって何も持っていない哀れな賤しい人々のために神が特に授けて下さったエデンのばらの一つなのです」
「不思議ねえ、あなたは」とミス・オフィーリアは言った。「その話を聞いたら、人はあなたを信仰告白者《プロフェサァ》と間違えるかもしれないわ」
「教授《プロフェサァ》と?」とセント・クレアは言った。
「ええ、信仰告白者《プロフェサァ》よ」
「とんでもない。あなた方の町の人が言っているような信仰告白者《プロフェサァ》じゃありませんよ。それに、もっと悪いことには、私は実践者でもなさそうですからね」
「じゃあ、なぜあんなことを話すのです?」
「話すことぐらい簡単なことはありませんからね」とセント・クレアは言った。「たしかシェイクスピアもだれかに言わせていましたよ、『どんな行ないが善いか、それを示すだけならすぐに二十も算えあげることができるが、それを実行する二十人の一人になるのはなかなかだ』(「ヴェニスの商人」第一幕、第二場、第十七行〜第十八行)ってね。分業に越したことはありませんよ。私の|手《えて》は話すことにあって、従姉《ねえ》さんの得手は実行にあるんですからね」
この頃のトムの外面的生活には、世間なみな言い方をすれば、なに一つ不平はなかった。小さなエヴァの彼を慕う気持は、――それは気高い性質のもつ本能的な感謝と愛の気持であるが、――やがて、散歩や馬乗りなど召使いの付添いが必要な時には必ずトムを自分の特別のお伴にしてほしいと父親にせがむようになった。そしてトムは、お嬢さまがご用の時にはいつでも他の仕事はやめて、お側に行くようにと命令された。――この命令は読者の皆さんにも想像できるように、トムにとってはけっして不愉快なものではなかった。彼はいつもきちんとした身装《みなり》をさせられた。というのもこの点、セント・クレアは非常にやかましかったからである。トムの厩《うまや》での仕事はただ名目だけで、毎日ちょっと見回わっては異常がないかを調べ、あとは下働きの者に指図しておけばそれでよかった。というのは、マリー・セント・クレアは、トムが近くに来たとき馬の臭いが少しでもするのは困る、自分の神経組織はそういう性質の苦しみにはまったく耐えられないのだから、トムを、自分にとって不快なものにするような仕事には絶対につけてくれるな、と強く主張したからであった。彼女の言うところによると、ちょっとでも不快な臭いを嗅いだが最後、その場は暗闇《くらやみ》となって、自分のこの世でのあらゆる苦難もすべてもうおしまいになってしまう、とのことであった。それゆえ、念入りにブラシをかけたブロードの服を着込み、上質のビーヴァ(「シルクハット」のこと)をかぶって、ぴかぴか光る長靴をはき、汚点《しみ》一つないカフスやカラーをつけて、まじめくさった人の好さそうな黒い顔のトムの姿は、カルタゴ(アフリカ北岸、今のチュニス付近にあった古代の都市国家)の大僧正《だいそうじょう》と言ってもいいくらいにりっぱなもので、彼と同じ色の種族が栄えたあの過去の時代を髣髴《ほうふつ》させるものがあった。
それにまた、彼は美しい場所に住んでいた。それはこの敏感な人種がけっして無関心ではいられないほどのものであった。じじつ彼は、鳥、花、噴水、芳香、それに中庭の光と麗わしさ、そして彼にはアラジンの宮殿かとも思えるような屋内の、客間を飾る絹のカーテン、絵画、燭台、小さな立像、金箔の飾り物、それらを静かな喜びに浸りながらうちながめるのであった。
もしアフリカが卓越した教養ある民族を世界に示す日があるならば、――そしてこの人類発展の大きな劇の中で、その日はいつかきっと訪れてくるであろうが――われわれつめたい西欧の種族がぼんやりとしか考えていなかった生命が、そこに、華やかに、光り輝きながら目を覚ますことであろう。黄金、宝石、香料、風にゆらぐ椰子《やし》、珍しい花、奇蹟とも思われるほど豊饒《ほうじょう》な、このはるか彼方の神秘の国に、新しい形体の芸術が、新しい型の輝きが目を覚ますことであろう。そして黒人民族《ニグロ》は、もはや蔑まれることもなく、踏みひしがれることもなく、おそらく、人間の生活についての最も新しい、最もすばらしい事実をわれわれの前に示すであろう。彼らはその心の優しさ、その謙譲な心の従順さ、より優れた心の上にいこい、より高い力の上に休もうとするその傾向、子供にも似たその愛情の素朴さ、だれをも恕《ゆる》そうとするその心の寛大さ、をもって必ずわれわれに示すことであろう。彼らはこうしたものすべてをもって、とくにキリスト教的である生活の最高の型を教示することであろう。ゆえに、おそらく、神はその愛する者を懲《こら》しめんがごとく(ヘブル書、第十二章第六節)哀れなアフリカを患難《なやみ》の炉(イザヤ書、第四十八章第十節)の中に選び入れ給うたのだ。それはあらゆる王国を試みそして失敗した後、神が自らうち建てるあの王国の中で、最も気高く最も崇高なものにするためなのである。なぜなら、最初《さき》なるものが最後《あと》に、最後《あと》なるものが最初《さき》になる(マタイ伝、第十九章第三十節)からなのである。
これは、日曜日の朝、華やかに着飾ったマリー・セント・クレアが、細い腕にダイヤモンドの腕輪をはめながら、ヴェランダに立っていた時に彼女が考えていたことなのであろうか? そうであってもよさそうである。もしそうでなかったなら、それはまったく奇妙なことであった。なぜなら、マリーはいろいろな慈善事業を後援しており、今もこうして、いそいそと、――ダイヤモンド、絹、レース、宝石などあらゆるもので身を飾って、――りっぱな教会へ、深い信心のために出かけていくところであったからである。マリーは日曜になるときまって信心深くなるのである。ヴェランダに立った彼女の姿は、非常にすらりとして優雅であった。身のこなしはどこまでも軽く、たゆとうばかりで、彼女を包むレースのスカーフはさながら霧のようであった。彼女は奥ゆかしい女性に見えた。そしてじっさい自分でも非常に善良な、非常に優雅な人間だと感じていた。ミス・オフィーリアは夫人のかたわらにきわめて対照的な姿で立っていた。それは彼女が同じようにりっぱな絹のドレスやショール、同じように美しいハンカチを持っていなかったということではなくて、漠然《ばくぜん》とではあるが、それでもやはりだれにでも感じとれるほどに彼女をすっぽりと包んでいる、固く角ばってぴんとまっすぐにつっ立った、そういった感じのものを彼女がもっていたということである。それはちょうど、彼女のかたわらに立っている優雅な夫人に与えられた恵みと同様であったが、夫人の恵みは神の恩恵ではなかった、――それはまったく違ったものなのである!
「エヴァはどこへ行きましたの?」とマリーが言った。
「石段の所でマミィに何か話していましたよ」
エヴァは石段の所でマミィに何を話しているのであろうか? 読者の皆さん、耳をすましてごらんなさい。マリーには聞こえなくとも、皆さんには聞こえるでしょうから。
「ねえマミィ、おまえ、ひどく頭痛がするんでしょ」
「まあ、お嬢さま! この頃はもう、しょっちゅうでございます。ですから心配なさらねえで下せえまし」
「そう、でも外へ出られるようでよかったわね。さあ、これを持っておゆき」――そう言って少女はマミィに抱きついた。――「マミィ、おまえにこの|気付薬の小瓶《ヴィネイグレット》をあげるから」
「なんでございますって! お嬢さまのあの美しい金のをでごぜえますか、ダイヤモンドのついた? まあ、お嬢さま、それは頂くわけにはまいりません、絶対に」
「なぜいけないの? おまえにはいるけど、私にはいらないものなのよ。ママは頭痛の時、いつもこれを使うわ、だからおまえもきっと気分がよくなってよ。さあ、もらっておくれ、私のためにね、さあ早く」
「まあなんてお優しいお言葉を!」とマミィは言った。その間にエヴァは瓶をマミィの懐に押し込んで、彼女にキスすると、石段を母親の方へと駈けて行った。
「何をぐずぐずしていたの?」
「私、マミィにヴィネイグレットをあげていましたの、教会へ行くとき持って行くようにって」
「エヴァ!」とマリーはいらだたしそうに足を踏み鳴らしながら言った。――「あの金のヴィネイグレットをマミィへですって! おまえはいつになったら物のけじめがつくんです? すぐに取り返していらっしゃい、さあっ!」
エヴァはしょげてつまらなそうな顔をしていたが、やがてそろそろと向きを変えた。
「ねえ、マリー、放っておおき。あの子の好きなようにさせておやり」とセント・クレアが言った。
「セント・クレア、そんなことをさせておいたら、この子は将来世の中をどうやって渡ってゆけます?」とマリーは言った。
「それはわからんね」とセント・クレアは言った。「しかし天国では、君や私よりもうまくやっていけるだろうよ」
「まあ、パパ、そんなことを言ってはいけないわ」とエヴァが、彼の肱《ひじ》にそっと触れながら言った。「お母さまを困らせるだけですもの」
「ところで、従弟《あなた》、支度はいいんですか?」とミス・オフィーリアがセント・クレアの方へくるりと向き直って言った。
「せっかくですが、私は行きません」
「セント・クレアが教会へ行ってくれたら、ほんとうにいいんですけどね」とマリーが言った。「でもこの人には爪の垢《あか》ほども信仰心がないんですの。ほんとうに他人《ひと》さまにも顔向けができませんわ」
「なあに」とセント・クレアは言った。「君たちご婦人方が教会へ行くのは世渡りの方法を学ぶためなんだろうが、そうした信心のおかげでわれわれは世間体がつくろえるんだからね。私は教会へ行くんなら、マミィの行くところへ行くね。あそこなら少しは居眠りをしなくてすむものがあるからね」
「なんですって! あの騒々しいメソジスト派の教会へですって? 聞いただけでもぞっとしますわ!」とマリーは言った。
「だが君たちがありがたがっているあんな死の海のような教会よりはまだましだよ、マリー。とにかく教会へ行けというのは無理な註文さ。エヴァ、おまえどうだい、行きたいかい? さあ、家にいて私と一緒にお遊び」
「ええ、パパ。でも私、教会へ行くわ」
「ひどく退屈じゃないかい?」とセント・クレアは言った。
「退屈だと思うわ、少しね」とエヴァは言った。「それに私、眠くなるのよ。でも一生懸命目をあけているわ」
「それじゃあ、なんのために行くんだい?」
「あら、だって、パパ」と彼女は小声で言った。「従姉《おば》さまが教えて下さいましたわ、神さまは私たちをお側においておきたいんですって。そして、ほら、神さまはなんでも私たちに下さいますでしょう。ですから神さまが私たちにそうお望みになっても、それは無理な註文ではありませんわ。それに、そうひどく退屈だというわけでもないんですもの」
「おまえはほんとうに優しい、親切な子だね!」とセント・クレアは言って彼女にキスをした。「じゃあ行っておいで、いい子だね。そして私のためにも祈っておくれ」
「ええ、いいわ、私いつもそうしていますもの」と子供は、母親のあとについて馬車にとび乗りながら言った。
セント・クレアは石段の所に立って、馬車を見送りながら、彼女にキスを送った。彼の目には大粒の涙がたまっていた。
「おお、エヴァンジェリーン! ほんとうにふさわしい名だ」と彼は言った。「神はおまえを私への福音《エヴァンジェル》としておつかわしになったのではないだろうか?」
彼は一瞬そんな気がした。それから彼は、葉巻をくゆらせ、新聞《ピカユーン》を読んでいるうちに自分の可愛い福音のことは忘れてしまった。彼も世間一般の人々とたいして違ってはいなかったからである。
「だからいいかい、エヴァンジェリーン」と彼女の母親が言った。「そりゃあ、召使いたちに親切にしてやるのはいつだって正しくふさわしいことにきまっています。だけど身内の人たちや私たちと同じ階級に属している人たちにするのとまったく同じようにあの連中を扱うのは適当ではありません。それで、マミィが病気になっても、あれをおまえのベッドに寝かせたいなんていう気を起こすんじゃありませんよ」
「私、そうしてあげたいと思うわ、ママ」とエヴァは言った。「だってそうすれば看病してあげるにもつごうがいいし、それに、ほら、私のベッドのほうがずっと上等ですもの」
マリーは、この返事の中に道徳的知覚力がまったく欠けていることを知ってすっかり落胆してしまった。
「いったいどうしたらこの子は私の気持をわかってくれるんだろう?」と彼女は言った。
「どうしようもありませんね」とミス・オフィーリアは意味ありげに言った。
エヴァはしばらくの間、申し訳なさそうな当惑した顔つきをしていた。しかし子供というものは、幸い、一つのことにいつまでもこだわっているものではないので、数分後には彼女も、走る馬車の窓から見えるさまざまな光景に笑い興じていた。
「ところで、ご婦人方」と一同がゆっくりとした気持で昼食のテーブルについた時、セント・クレアが言った。「きょうの教会での献立《こんだて》はなんでしたかな?」
「ええ、G――博士がすばらしい説教をなさいましたわ」とマリーが言った。「あのお話こそあなたにぜひ聞かせたかったわ。私の考えを全部そっくりそのまま話して下さいましたもの」
「じゃあ、さぞためになるものだったろうね」とセント・クレアは言った。「題のほうも広範囲にわたったものでね」
「いえ、私のいうのは社会とかそういったものに対しての私の考えですわ」とマリーは言った。「で、題も『神はすべてのものをその季節《とき》に適《かな》いて美麗《うるわ》しく為《な》し給えり』(伝道之書、第三章第十一節)でした。博士は、社会におけるあらゆる序列と区別はすべて神によって定められたものであることを説かれましたわ。そして、その御業《みざわ》は、ねえあなた、まことに適切で、そして美しいものであるということ、人はある者は身分が高く、ある者は低いのが当然であること、そしてある者は支配するために生まれ、ある者は仕えるために生まれてきたのだということなどをお話下さいましたわ。それから博士は、それを奴隷制度について最近行なわれているあのばか騒ぎにじつに上手に当てはめ、聖書が私たちの味方であることをはっきりと証明なさって、だれでもが納得《なっとく》いくようにこの制度を逐一支持なさいましたわ。ほんとうにあなたにもぜひ聞いていただきたかったわ」
「いやあ、私にはそんな必要はないさ」とセント・クレアは言った。「そのくらいの結構なお話なら、いつだって新聞《ピカユーン》から学べるからね。それに葉巻も吸っていられるが、教会ではまさかそれもできんだろうからね」
「おや」とミス・オフィーリアが言った。「それでは、あなたはこういう意見を信じないんですか?」
「だれ、――私ですか? 私はご存知のように、神に見離された人間ですからね、こういう問題についていくらそういった宗教的なお話を伺ってもたいして身のためにはならないんですよ。もしこの奴隷制問題について私が何か語らなければならないとしたら、私は正直に、はっきりとこう言いますね、『われわれは奴隷制度に賛成だ。現にわれわれは奴隷を所有している。将来も所有しつづけるつもりである。――そのほうがわれわれにとってつごうがいいし、われわれの利益にもなるからだ』とね。なぜって、つまりはそういうことなんですからね、――この問題をいくら正当化しようとしたって、行きつくところはそこなんですよ、結局はね。で、私はこのほうがどこでだれにしゃべったってわかりがいいと思いますね」
「まあ、オーガスティン、あなたっていう人はずいぶん不敬な人なのね!」とマリーは言った。「そんなお話を伺うなんて、私ショックですわ」
「ショックだって! まったくそのとおりだ。この問題についてのそんなお説教こそね、――それならば彼らはどうしてそのお説教をもう少し進めて、酒を飲み過ぎる者、勝負ごとに夜更《よふか》しする者、そういった神の摂理によるというさまざまな事柄のその季節《とき》に適った美しさを説明しようとはしないのかね。われわれ若者の間にはずいぶんと頻繁に見られるものなのだからね。――こういったものもまた正しく神の定められた事柄なのだとお説教してもらいたいもんですよ」
「では」とミス・オフィーリアは言った。「あなたは奴隷制度を正しいと思いますか、それとも悪いと思いますか?」
「従姉《ねえ》さん、私はね、あなた方ニューイングランドの方たちのように、物事をそうはっきりと言いきることはしませんのでね」とセント・クレアはおかしそうに言った。「もし私がそんな質問に答えたら、あなたはきっと、だんだんにむずかしい質問を半ダースも抱えて私に向かってくるでしょうからね。だから私は、自分の立場ははっきりさせないんですよ。私という人間は、他人の造った温室には石を投げるが、人から石を投げられると困るから自分では温室は造らないといった手合いの一人ですからね」
「この人はいつもこんな口のきき方をするんですのよ」とマリーが言った。「この人から満足な答えを得ようとしても無理ですわ。自分の話をこういう具合にいつも途中ではぐらかしてしまうのも、きっと宗教が嫌いだからだと思いますわ」
「宗教か!」セント・クレアの語調にびっくりした二人の婦人は、そろって彼の顔を見つめた。「宗教か! 君が教会で聞く、あれが宗教なのかね? 自分かってな、世俗的な社会のあらゆるゆがんだ面にうまく合うように、曲げたり、ねじったり、下げたり、上げたりすることのできるものが宗教なのかね? 私のような罪深い、世俗的な、盲目的な性質以上に、もっと人間に対して不徳な、偏狭な、不正な、無情なものが宗教だというのかね? 断じて違う! 私が宗教を求める時は、自分よりも高い所にあるものを探さねばいけないはずで、低い所にあるものではないはずだ」
「では、あなたは、聖書が奴隷制度を認めているとは信じないわけね」とミス・オフィーリアが言った。
「聖書は私の母の本でした」とセント・クレアは言った。「それによって母は生きそして死んだのです。ですから私にはその聖書が奴隷制度を認めているとはどうしても考えられないのです。そんなふうに考えるくらいなら、私がブランデーを飲み、煙草《たばこ》を噛み、神をののしっていてもそれは正しいことなのだと私を納得させるために、母にも同じことができたということを証明してもらったほうがましなくらいです。もっとも、こんなことが証明されたとしても、私自身少しも納得しないでしょうし、母を尊敬する慰みを私から奪い去るだけでしょうけどね。人が何か尊敬できるものをもつということは、この世では、ほんとうに慰みですからね。つまり、こうなんですよ」と彼は急にまたもとの陽気な調子に返って言った。「私はただ、異なった物は異なった箱に入れておいてほしいと言っているだけです。ヨーロッパにしろアメリカにしろ、そこにある社会の機構は、真に理想的な道徳規準に照らし合わせてみた時には、それに堪えることのできないようなさまざまなものから成り立っているのです。それで、人々は完全無欠な正義を求めずに、ただ世間の他の人々と大体同じようにしようとしているにすぎない。これは、かなり広く一般に認められている事柄なのです。そこで、だれかが男らしく、はっきりと、奴隷制度はわれわれにとって必要なのだ、われわれはこの制度なしにはやってゆけないのだ、もしこれを廃止してしまったらわれわれは乞食にならなくてはならないのだ、だからもちろん、われわれはあくまでもこの制度を固守していくつもりだ、と言えば、――これは強力で、明確で、立場のはっきりした言葉です、そうすればこれはこれなりに、奴隷制度について真実を語るりっぱな権威をもつものなのです。ですからもし世間の慣例から判断すれば、世間の大多数の人々はわれわれの奴隷制度を黙って認めてくれるでしょう。しかしその男がしかつめらしい顔をして鼻声を出し、聖書の言葉を引用しだしたら、私は、そいつは眉《まゆ》つばものだという気がしますね」
「あなたはほんとうに辛辣《しんらつ》な人ね」とマリーが言った。
「それなら」とセント・クレアは言った。「もし仮に何かの事情で棉の値段が下がって、それっきりになってしまい、奴隷という財産が市場で売れずに残ってしまってごらん、そのとき私たちはすぐに聖書の教義の新しい解釈を知るようになるだろうからね、君はそうは思わないかね? 教会の中にはたちまち光が差し込み、聖書の中のすべての言葉と道理とが、まったく反対の方向に進んでいくことをすぐに発見するようになるだろうよ!」
「さあ、とにかく」とマリーは寝椅子によりかかりながら言った。「私は奴隷制度のあるところに生まれたことをありがたく思っていますわ。そして私は、この制度は正しいと信じています、――ほんとうに、正しくなくてはならないという気がします。それに、とにかく、私はそれがなければやっていけないことは確かなんですから」
「じゃあ、おまえはどう思うね、小猫《ニャーコ》ちゃん?」とちょうどこの時、花を手にして入って来たエヴァに向かって父親が言った。
「なんのこと、パパ?」
「なにね、おまえはどっちがいいかと言うのだよ、――ヴァーモントの伯父《おじ》さんのところで、みんながやっているようにして暮らすのと、ここのように家じゅうに召使いをおいて暮らすのとではね?」
「そりゃあ、もちろん、うちのほうが楽しいわ」とエヴァは言った。
「どうして楽しいんだい?」とセント・クレアは彼女の頭をなでながら言った。
「だって、可愛がってやるものが側にたくさんいるんですもの」とエヴァはまじめな眼差《まなざ》しをあげて言った。
「ほら、エヴァはいつもこうなんですからね」とマリーが言った。「また妙なことを言いだしたりして」
「妙なこと、パパ?」とエヴァは父親の膝の上に乗りながら小声で言った。
「まあ、世間なみに言えばね、小猫ちゃん」とセント・クレアは言った。「ところで私の可愛いエヴァは、私たちが食事をしている間ずっとどこへ行っていたんだね?」
「ええ、私、トムのお部屋へ行って、歌を聞いていたのよ。私の食事はアント・ダイナが作ってくれたわ」
「トムの歌を聞いたって、え?」
「ええ、そうよ! ニュー・エルサレムや、輝く天使や、カナンの国のことをうたったとても美しい歌を歌うのよ」
「そうだ。オペラよりもすばらしいだろう?」
「ええ、そして私にも教えてくれるって言ってたわ」
「歌のお稽古《けいこ》かい、え?――いよいよね」
「ええ、トムが私に歌を歌ってくれるでしょ、で、私がトムに聖書を読んであげるの。そうするとトムはそれがどういう意味だか説明してくれるのよ」
「まあ驚いた」とマリーは笑いながら言った。「近頃の傑作だわ」
「しかし、トムは聖書の説明にかけてはへたではないよ、誓ってもいいがね」とセント・クレアが言った。「トムは宗教に対しては生まれつきの才能をもっているんだ。私はけさ早く、馬を出してもらいたかったので、そっとトムのねぐらへ行ってみたんだ、あの厩の向こう側のね。するとやっこさん、一人で祈祷会《きとうかい》を開いているのが聞こえたんだよ。じっさい、トムの祈祷ほど香りのある祈祷は近頃聞いたことがないね。まったく使徒のような熱心さで私のために一生懸命祈っていたよ」
「たぶん、あなたが聞いていると思ったからでしょう。私、そういう手を前にも聞いたことがありますもの」
「そうだとすれば、やっこさん、あまり政策的ではなかったね。なにしろ、神さまに向かって私に対する意見をかなり不遠慮に述べていたからね。あの様子だと、私には改善する余地が大いにあると思っているのだろう。それに私は悔い改めなければならないとしんけんになって思っているふうだったよ」
「それをよく心にとめておいていただきたいものね」とミス・オフィーリアが言った。
「あなたもどうやら同じ意見をおもちのようですな」とセント・クレアは言った。「まあ、今にわかるでしょう、――ね、エヴァ?」
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第十七章 自由人の防禦
その日の午後も終ろうとする頃、例のクエーカー教徒の家では穏やかなざわめきがあった。レイチェル・ハリディは静かにあちこちと動きまわって、その夜|発《た》って行こうとする流離《さすらい》の人々のために、自分の家にしまってあるものの中から、小さな荷物にまとめられるだけの必要な品々をあれこれと選んでいた。午後の日影が東にのびて、丸いまっかな太陽が地平線に思案顔で立っていた。その光は、ジョージとその妻とがすわっている小さな寝室の中にも黄色く穏やかに差し込んでいた。ジョージは子供を膝《ひざ》にのせ、妻の手を握っていた。二人とも何事か思案しながら、しんけんな面持《おもも》ちで、その頬には涙のあとが光っていた。
「そうだよ、イライザ」とジョージが言った。「きみの言うことはみんなほんとうだ。きみはりっぱな人間だ、――ぼくなんかよりはるかにりっぱだ。だからぼくもきみの言うとおりにやってみようと思う。自由な人間としてふさわしい行動をとるようやってみるつもりだ。キリスト教徒らしい気持になるように努力するつもりだよ。全能の神は、すべてがぼくに逆らっていた時でも、ぼくが正しくやっていこうとしたことを――正しくやっていこうと一生懸命努力したことを――ご存知のはずだ。そしてぼくはこれからは過ぎ去ったことはすべて忘れ、いっさいのわだかまりを捨てて、聖書を読み、りっぱな人間になるよう学ぶつもりだ」
「そして私たち、カナダに着いたら」とイライザは言った。「私もあなたのお手伝いができますわ。私、裁縫ならとても上手にできますし、洗濯やアイロン掛けも知っていますもの。二人でやればきっと暮らしてゆけますわ」
「そうだよ、イライザ、こうしてぼくたち夫婦がそろっていて、ぼくたちの子供がいる限りはね。おお! イライザ、妻や子をほんとうに自分のものだと感じることがどんなに大きな幸福であるか、あの人たちにわかってくれさえしたらねえ! ぼくは、妻や子供たちをほんとうに自分のものだと言えるような人たちがほかのことでくよくよしたり、悩んだりしているのをよく見かけて不思議に思っているんだ。こうして裸の手以外になんの財産も持っていないぼくたちなのに、ぼくなんか豊かで強い気持になっている。もうこれ以上神さまにお願いすることはできないような気がしているのにね。そうだよ、ぼくは二十五歳になる今日まで毎日一生懸命働きつづけて来たが、それでいて一セントの金も持たず、身を覆う屋根もなく、自分のものと呼べる一片の土地さえもない。それなのに今、彼らがぼくを放っておいてくれさえしたら、それでぼくは満足し、――感謝もするよ。ぼくは働いて、きみと子供の代金は送り返すつもりだ。ぼくの元の主人には、やつはこれまでに、ぼくのために使った総額の五倍も手に入れている。だからぼくはもう何も借りはないはずだ」
「でも私たち、危険がすっかりなくなったわけではありませんわ」とイライザが言った。「まだカナダにいるわけではないんですもの」
「ほんとうだ」とジョージは言った。「でもぼくは自由の空気を吸っているような気がして力が湧いてくるんだよ」
この時、戸の向こうに人声がして、何やら熱心に話しあっている様子であったが、すぐにだれかが戸をたたいた。イライザははっとして立ち上がると戸をあけた。
そこにはシメオン・ハリディが立っていた。そして彼と一緒にクエーカー教徒が一人立っていたが、それを彼はフィニアス・フレチャア(「フィニアス」はエジプト語で「黒人」と言う意味である)と言って紹介した。フィニアスは背の高いやせ型のからだに赤い髪をした男で、その顔つきにはどこか非常に鋭敏でしかも機敏なところがあった。彼にはシメオン・ハリディのような穏やかで、静かで、世俗を離れたような様子は見えなかった。反対に、自分がこれからしようとしていることがどういうことなのか、それをよく知っていて、その先々のことにも油断なく目をくばるのを得意とする男とでもいったふうの、じつに油断のない、何事にも精通《オーフェ》した様子の男であった。こうした彼の特徴は、縁の広い帽子や形式ばった言葉づかい(いずれもクエーカー教徒のもつ特徴)とはじつに奇妙な調和をみせていた。
「フィニアスがあんたやあんた方一行の利益にとって重要な影響を及ぼす事柄を発見したもんでな、ジョージ」とシメオンが言った。「あんたの耳にも入れておいたほうがいいと思って」
「そうなんだ」とフィニアスが言った。「だから、私がいつも言ってるように、人は所によっては、寝ている時でも必ず片方の耳はあけておくべきだと言うんだ。昨夜のことだが、私は街道筋のある小さな淋しい旅籠屋《はたごや》に泊まった。そこは、シメオン、あんたも知っている家だ。大きなイヤリングをつけてでっぷり肥ったそこのおかみに去年われわれがりんごを売った所だからな。で、私はあまり馬を走らせて疲れていたので、夕食がすむと片隅に積んである何かの袋の上に横になり、野牛《バファロゥ》の毛皮の膝かけをひっかぶって、寝床の支度のできるのを待っていた。そのうちつい、ぐっすりと寝込んでしまったんだ」
「片方の耳をあけてだな、フィニアス?」とシメオンが静かに言った。
「いや、耳も何も、一時間か二時間というものすっかり眠ってしまった。なにしろひどく疲れていたもんだからね。しかしふとわれに返って気がつくと、その部屋に人がいて、テーブルを囲んで酒を飲みながら何やら話をしている気配なのだ。で、私は首をつき出す前に、連中が何を話しているのか確かめてやろうと思ったんだ。ことに何やらクエーカー教徒のことを話していたもんだからね。『だからよう』と一人が言うんだ。『やつらはクエーカーの居住地にいるにちげえねんだ』とね。それで私は両方の耳をすまして聞いていると、やつらはこの人たちのことを話しているじゃないか。で、私はじっと横になったまま、やつらの計画をすっかり聞いてやったんだ。やつらの話だと、この若い人はケンタッキーの元の主人の所へ送り返す。主人は他の黒ん坊が逃げないようにみんなの前でうんと懲しめて見せしめにするはずだ。奥さんのほうは連中のうちの二人が自分たちでニューオーリアンズに連れていって売りとばす。そして千六百や千八百ドルは手に入れるつもりでいる。それから子供さんは、それを買った奴隷商人に渡すということだ。それにまた、ジムとあれの母親とは、ケンタッキーの主人のところへ返すことになっている。やつらの話だと、この少し先の町にいる警官が二人、やつらに加勢してこの人たちをつかまえ、奥さんを判事の前にしょっぴいて行くということだ。そしてやつらの中の一人で、背の低い、口先のうまい男が、これは自分の所有物《もの》だと誓言して奥さんを引き渡してもらい、そのまま南部へ連れて行ってしまうんだそうだ。やつらは、われわれが今夜行く道筋までちゃんと知っている。そのうちわれわれのあとを追ってくるだろう、六人から八人の追手だ。そこでだが、いったいどういう具合にするかな?」
この知らせを聞き終わった時の、さまざまな姿勢で立っているこの場の人々の様子こそ、画家にとっては見のがすことのできぬ光景であった。最前からビスケットを焼く手を休めてこの知らせを聞いていたレイチェル・ハリディは、粉だらけの両手をあげて、いかにも心配そうな顔つきで立っていた。シメオンは深く思いに沈む様子であった。イライザは夫にすがりついて、彼の顔をじっと見上げていた。ジョージは両手を固く握りしめ、目をぎらぎらと輝かせながら物凄《ものすご》い形相《ぎょうそう》で立っていた。自分の妻が競売で売られ、子供が奴隷商人に引き渡され、こうしたことがすべてキリスト教国の法律の庇護のもとに行なわれると聞いては、ジョージならずともその形相はそのように変わったことであろう。
「私たちどうしましょう、ジョージ?」とイライザは絶え入るように言った。
「ぼくはどうするか、覚悟がある」と言ってジョージは部屋に入っていってピストルを調べはじめた。
「それ、それ」とフィニアスがシメオンの方を向いてうなずきながら言った。「どうだねシメオン、私の言わんことじゃない」
「なるほど」とシメオンはため息を吐きながら言った。「ああいうことにならねばいいが」
「私は、だれも私と一緒に巻添えにしたり、私のために巻添えにしたくはありません」とジョージが言った。「馬車を貸していただき、道を教えていただければ、私一人で次の中継場《スタンド》まで走らせて行きます。ジムは力の点では巨人のようですし、大胆なことは死や絶望と同じほどです。それに私だってそうですから」
「それはそうだろうが」とフィニアスが言った。「しかし、それにしても馭者は必要だ。戦うほうは全部そちらに任せよう、ご存知でしょうからな。しかし道のことは私のほうが少しばかり知っている。あんたの知らん道をな」
「でもあなたを巻添えにするようなことはしたくありません」とジョージは言った。
「巻添えにするって」とフィニアスは奇妙な鋭い表情で言った。「私を巻添えにする時には、ひとつ知らせてもらいますかな」
「フィニアスは頭がよくてなんでもよくできる人だ」とシメオンが言った。「だからこの人の判断に従えば、ジョージ、あんたに間違いはない。それに」と彼はジョージの肩にやさしく手を置いて、ピストルを指さしながら、つけ加えた。「これで短気を起こしてはいけませんぞ、――若い血は沸きやすいでな」
「私はだれに対してもこちらからは攻撃しません」とジョージは言った。「私がこの国に要求したいのは、ただかまわないでほしいということだけです。そうすれば私はおとなしく出て行きます。しかし」――と彼は言葉をきった。彼の額は曇り、顔は引きつった。――「私には姉がおりましたが、あのニューオーリアンズの市場で売られました。みんながなんのために売られていくのか私にはよくわかっています。それなのに私は、やつらが私の妻をつかまえて売るのをただ黙って見ておれましょうか、神が妻《あれ》を守ってやる二本の強い腕を私に下さっているのに? いいえ、黙ってはおれません、絶対に!私は妻と子供のために、息のつづく限り戦うつもりです。それをあなたはお責めになりますか?」
「だれ一人あんたを責めることはできないよ、ジョージ。生身の人間に戦うなと言うほうが無理なのだからね」とシメオンが言った。「この世は躓物《つまずき》あるによりて禍害《わざわい》なるかな。されど之を来《きた》らする者は禍害《わざわい》なるかなだ」(マタイ伝、第十八章第七節および、ルカ伝、第十七章第一節)
「あなたでも私の立場に立たされたら同じようなことをなさりはしないでしょうか?」
「そういう試練にあわぬよう私は祈っているのです」とシメオンは言った。「肉体は弱いものだからね」
「私の肉体は、そういう時には相当強くなるだろうと思うね」とフィニアスが風車の翼板のような二本の腕を突き出して言った。「だれか貸しのあるやつがいたら、ジョージ、私がきっとそいつを押さえておいてあげるからな」
「もし仮に人間が悪に対抗すべきものだとしたら」とシメオンが言った。「ジョージはだれはばかることなく、今、それをすべきだろう。しかしわれわれ人類の指導者たちはもっと優れた道を教えられた。人の怒りは神の義《ぎ》を行なわざればなり(ヤコブの書、第一章第二十節)とな。神の正義は人間の堕落した意志にははなはだしく背くものなのだ。だから神によって授けられる者以外は何人《なんびと》もそれを受け入れることはできないのだ。誘惑されぬようわれわれは神に祈ろう」
「では私もそうしよう」とフィニアスが言った。「しかしその誘惑があまりにも強かったら――まあ、その時はやつらも気をつけるがいい、それだけのことさ」
「どうもあんたは、根っからのクエーカー教徒でないことは確かなようだね」とシメオンはほほえみながら言った。「昔の性質がまだ相当強くあんたの中には残っている」
実を言うと、フィニアスはもと、辺鄙《へんぴ》な未開拓地に住む元気|壮《さか》んな腕っぷしの強い移住者であった。彼はまた活気にあふれた猟師で、鹿撃ちの名人でもあった。ところが、ある美しいクエーカー教徒の娘に結婚を申し込んでからは、彼女のもつ不思議な魅力に動かされて、近くにあるこのフレンド会に入会することとなったのである。そして彼は正直者で、酒も飲まず、有為な会員となり、特にこれといって非難されることはなに一つなかったのであるが、会員の中でももっと精神的な人々はそれでもなお彼の進歩にははなはだしく香りが欠けていると認めざるをえないものがあった。
「フィニアスさんはいつもご自分の思うとおりになさいます」とレイチェル・ハリディはほほえみながら言った。「でも、私たちはみんな、お心はやはり正しい所にあるのだと思っていますわ」
「では」とジョージが言った。「われわれの出発も急いだほうがよくはないでしょうか?」
「私は四時に起きて全速力でやって来たから、もしやつらが予定どおりにあすこを発《た》ったとすれば、二、三時間は大丈夫だ。どっちみち四辺が暗くならぬうちに出発するのは安全でないからな。この先々の村にはならず者がいる。そいつらのことだからわれわれの馬車を見つければ何か手出しをしてくるかもしれん。そうなったら、ここでじっとしているよりもかえって遅くなってしまう。だが二時間もしたら出発することにしよう。私はマイクル・クロスの所へ行って、彼に脚《あし》の早い馬に乗ってあとからついて来るよう、そして道筋をよく見張っていてそれらしい一行が来たらすぐに知らせてくれるように頼んでくる。マイクルのところにはたいていの馬を楽に追い抜けるようなやつが一頭いるんだ。だから何か危険があればすぐに飛んで来てわれわれに知らせてくれる。これから行ってジムとお袋さんにも支度をさせ、その馬も見ておくとしよう。われわれはずいぶん公平なスタートをするわけだが、やつらに追いつかれないうちに中継所につく勝算は十分ある。だからうんと勇気を出すんだよ、ジョージ。これっぱかしの難儀は何も今度が初めてではない。私はこれまで何度もあんたのような人たちを助けてきたんだからね」とフィニアスは戸をしめながら言った。
「フィニアスはなかなか機敏な男だ」とシメオンは言った。「あんたのためにできる限りのことをしてくれるからね、ジョージ」
「ただ私の申し訳なく思うのは」とジョージが言った。「あなた方に降りかかる危険です」
「そのことなら、ジョージ、もうこれ以上言わんでおいてくれるとありがたいのだがな。私たちは良心がしろと言ったことをしているにすぎないので、他にしようがないのだからね。さて、おかあさんや」と彼はレイチェルの方を向きながら言った。「この人たちの支度を急いでおくれ、お腹《なか》をすかしたままで発たせるわけにはいかんでな」
そしてレイチェルとその子供たちとが一生懸命コーン・ケーキを焼いたり、ハムや鶏肉を料理したり、その他いろいろと夕食の支度に追われている間、ジョージと彼の妻とは小さな部屋の中で互いに抱き合っていた。そして二人の語り合うその様子は、数時間後にはもうこれっきり二度と会えなくなるのかもしれないと覚悟を決めた夫婦が語る様子にも似ていた。
「イライザ」とジョージが言った。「友だちや、家や、土地や、金や、そうしたものすべてを持っている人でも、お互いの他には何も持っていないぼくたちのように愛すことはできないよ。ぼくはね、イライザ、きみを知るまでは、あのかわいそうな悲嘆に暮れた母と姉の他には、だれ一人ぼくを愛してくれた人はいなかった。ぼくは奴隷商人が姉《エミリィ》を連れていくあの朝、姉に会った。姉はぼくが寝ていた片隅にやって来て、こう言った。『かわいそうなジョージ、おまえの最後のお友だちも、もう行ってしまうのよ。これから先、おまえはどうなるのかしら、かわいそうにね?』ってね。そこでぼくは起き上がって姉を抱きしめると、おいおいと声をあげて泣いた。姉も泣いていた。そしてその時の言葉は、十年という長い年月の間、ぼくが聞いた最後のやさしい言葉だったのだ。ぼくの心はすっかり萎れて、灰のようにひからびていた。そんな時、初めてぼくはきみに会ったのだ。そしてきみはぼくを愛してくれた、――それはもう、まるで死んだ者が蘇ったようだった! それからのぼくはまったく新しい人間になったのだ!だから、イライザ、ぼくは、自分の血は最後の一滴までくれてやっても、きみをぼくから連れていかせるようなことは絶対にさせないからね。きみを取ろうとするやつはぼくの死骸《しがい》を越えなくてはならないのだ」
「おお、神さま、どうぞお慈悲を下さいますよう!」とイライザはむせび泣きながら言った。「私たちを揃ってこの国から出て行かせて下さいませ、ただそれだけでいいのでございます」
「神はやつらの味方なのだろうか?」とジョージは、妻に向かってというよりもむしろ、自分の胸の中にたまっている苦々しい思いを吐き出すような口調で言った。「やつらのやることはすべてご覧になっているのだろうか? なぜこんなことをさせておかれるのだろうか? そしてやつらは、聖書はやつらの味方だと言っている。確かにあらゆる権力がやつらの味方だ。やつらは金もあり、からだもよく、幸福に暮らしている。やつらは教会の会員で、天国へ行くつもりでいる。そしてやつらはあんなに気楽に世の中を渡って、思いのままにやっている。それなのに哀れな、正直な、誠実なキリスト教徒たちは、――やつらと同じくらい、いややつらよりももっとりっぱなキリスト教徒たちは、――やつらの足もとの埃《ほこり》の中に這いつくばっているのだ。やつらはこういう人たちを買ったり売ったりして、その人たちの心の血を、呻《うめ》きを、涙を金に代えているのだ、――そして神は、それを黙ってさせているのだ」
「ジョージ」とシメオンが台所から声をかけた。「この詩篇の中の言葉をお聞き。あんたのためになるだろうからね」
ジョージは戸口ににじり寄った。イライザも涙を拭きながらやって来て耳をすました。シメオンは次のように読んだ。
「然《しか》はあれどわれはわが足つまずくばかり、わが歩《あゆみ》すべるばかりにてありき。こはわれ悪《あし》きものの栄ゆるを見て、その誇れる者をねたみしによる。かれらは人のごとく憂におらず、人のごとく患難《なやみ》にあうことなし。このゆえに、傲慢《たかぶり》はかざりのごとくその頸《くび》をめぐり、強暴《あらび》はころものごとく彼らをおおえり。かれら肥《こえ》ふとりてその目とびいで、心の欲《ねがい》にまさりて物を得るなり。また嘲笑《あざけり》をなし、悪をもて暴虐《しいたげ》のことばをいだし、高ぶりてものいう。このゆえにかれの民はかえり、水のみちたる杯《さかずき》をしぼりいだして、いえらく、神いかで知りたまわんや、至上者《いとたかきもの》に知識《さとり》あらんやと。(詩篇第七十三篇、第二節〜第十一節)」
「こんなふうにあんたは思ってはいないかね、ジョージ?」
「まさにそのとおりです」とジョージは言った、――「まるで私自身が書いたようです」
「それならば、聞きなさい」とシメオンは言った。「われこれらの道理《ことわり》をしらんとして思いめぐらししに、わが眼《め》いたく痛《いたみ》たり、われ神の聖所にゆきて、かれらの結局《いやはて》をふかく思えるまでは然りき。誠になんじはかれらを滑かなるところにおき、かれらを滅亡《ほろび》におとしいれ給う。主よ、なんじ目をさまして、かれらが像をかろしめたまわんときは、夢みし人の目さめたるがごとし。されど、我つねになんじとともにあり、汝わが右手《みぎのて》をたもちたまえり。なんじその訓諭《さとし》をもて我をみちびき、後またわれをうけて栄光《さかえ》のうちに入れたまわん。神にちかづき奉るは我によきことなり。われ主なる神をわが避所《さけどころ》となせり」(詩篇、第七十三篇、第十六節〜第二十八節)
親切な老人によってささやかれたこの神に対する信頼の言葉は、いつしか聖《きよ》らかな音楽のように、ジョージの悩みいらだつ心を覆っていた。そして朗読が終わった時には、彼の美しい顔にはすでに穏やかな静かな表情が浮かんでいた。
「もしこの世だけがすべてであったならば、ジョージ」とシメオンは言った。「あんたは確かに、神はどこにいるのだ? と尋ねてもよかろう。だが神さまがその王国にお選びになる者は、往々にして、この世で最も貧しい者なのだよ。神さまを信じなさい、そうすれば、たとえこの世でその身にどんなことが降りかかろうとも、あの世では、神さまがすべてを正しくして下さるのだからね」
もしこうした言葉が、安楽で放逸な訓戒者《エグゾータァ》(俗人で、牧師の指揮を受けて説教する人)によって語られたものならば、そしてそういう者の口からでもこうした言葉は、悩める人々に対して使うには体裁のいい単に偽善的な美辞麗句として、語られることもあるであろうが、おそらく大した感銘は与えなかったであろう。しかし、神と人とのため、日々|従容《しょうよう》として、罰金や投獄の危険を冒している人の口から出たこの言葉は、人を感動させずにはおかぬ力をもっていた。そしてこの哀れな見る影もない逃亡者たちは、そこから吹き込まれる落着きと力強さとを、自分たちの胸の中に共に感じるのであった。
やがて、レイチェルがイライザの手をやさしくとって、夕食の席へといざなった。一同が席についていると、戸を軽くたたく音がして、ルースが入って来た。
「私、ちょっと立ち寄っただけですのよ」と彼女は言った。「この小さなストッキングを坊やにと思いましてね、――とても暖かな毛織りのが三足あるわ。カナダはとても寒いでしょうからね。あなた元気でやっていらっしゃる、イライザ?」と彼女はテーブルをイライザの方へ歩み寄って、その手を温かくとりながら言った。それからシード・ケーキ(香味にカラウェーの種などを入れたケーキまたはクッキー)を一つハリィの手に握らせた。「坊やにこれを少し焼いて来ましたの」と言いながら、彼女はポケットをごそごそやってケーキの紙包みを取り出した。「子供って、ねえ、しじゅう口を動かしているものですもの」
「まあ、ありがとうございます。ほんとうに親切にしていただいて」とイライザは言った。
「さあ、ルース、あなたもすわって食事をしていらっしゃいな」
「ええ、そうしたいんですけど、だめなの。|うちの人《ジョン》に赤ちゃんを頼んできたでしょう、それにビスケットがオーヴンに入っているんですもの。私がここでぐずぐずしていたら、あの人、ビスケットをみんな黒こげにしてしまって、赤ちゃんには砂糖入れの中のお砂糖をみんなやってしまうわ。いつもそうなんですから」と小柄なクエーカー教徒は笑いながら言った。「ですから、これで失礼するわ、イライザ。さようなら、ジョージ。どうぞ道中、ご無事でね」そう言ってルースは急ぎ足で部屋を出ていった。
食事が終わってしばらくすると、大きな幌馬車《ほろばしゃ》が戸の前で止まった。その夜は澄みきって星が光っていた。フィニアスは馭者台から勢いよく飛び降りると座席の具合を見た。ジョージが片腕に子供を抱き、もう一方の腕で妻をかかえながら戸口から出て来た。彼の足取りはしっかりとして、顔にも落着いた決意の色がうかがえた。レイチェルとシメオンとがそのあとからついて来た。
「あんたたちちょっと外へ出ておくれ」とフィニアスは馬車に乗っている者に言った。「女の人と子供のために、馬車のその後の方をうまく直すからね」
「ここに野牛《バファロゥ》の毛皮の膝かけが二枚あります」とレイチェルが言った。「座席をできるだけすわり心地よくしてあげて下さいな。夜通し乗っていくのはつらいことですから」
ジムが先に姿を見せた。それからそろそろと彼に手をとられて年老いた母親が出て来た。彼女は息子の腕にしがみつき、今にも追手が現われはせぬかと心配そうにあたりを見まわしていた。
「ジム、おまえのピストルは二梃とも大丈夫かい?」とジョージは低い、しっかりとした声で言った。
「ええ、大丈夫です」とジムが言った。
「で、やつらが来たらどうするか、わかってるね?」
「わかってますとも」と言ってジムはその広い胸をぐっと張り、深く息を吸いこんだ。「この私がもう一度お袋をやつらの手に渡すとでも思ってるんですかい?」
こうした短かい会話の間に、イライザはその親切な友レイチェルに別れを告げていた。そしてシメオンの手を借りて馬車に乗ると、子供と一緒に後部へ這い込んで、野牛の毛皮の中に腰をおろした。次に老婆が乗せられて席についた。ジョージとジムとは彼らの前の固い板の上にすわり、フィニアスは馭者台にのぼった。
「達者でな、皆さん」とシメオンが外から言った。
「どうぞ皆さまもお幸せに!」と中から一同が答えた。
そして馬車は凍《い》てついた道をがたがたと揺れながら走り去っていった。
道がひどく車の音がやかましいので、だれも話をする機会がなかった。馬車はただ長く暗く続く森の中をがたがたと進んで行った。――広い寂しい平野を、――丘を越え、谷をくだり、――先へ先へとどこまでも何時間も進んでいった。子供はすぐに眠くなって、母親の膝の中で重そうに横たわっていた。哀れな怯《おび》えた老婆も、やっとその恐怖を忘れるようになった。そしてイライザさえも、夜が更けるにつれて、いくら心配していても目をあけてはいられなくなって来た。フィニアスは、見たところ、一行の中で一番元気がよさそうであった。彼は馬車を進めながら、口笛で何か非常にクエーカーらしからぬ歌を吹いてはこの道中の退屈をまぎらしていた。
しかし三時頃、ジョージの耳は、遠くから彼らを追って近づいてくる馬蹄《ばてい》の速いはっきりとした音を聞きつけた。そこで彼はフィニアスの肘《ひじ》を突ついた。フィニアスは馬を停めて、耳をすました。
「あれはきっとマイクルだ」と彼は言った。「あの飛ばせ方は確かにそうだ」そして彼は立ち上がると、心配そうに首をのばして今来た道を見つめた。
その時、全速力で馬を飛ばしてくる一人の男の姿が向こうの丘の頂きにぼんやりと見えてきた。
「ほら、きっとあの男だ!」とフィニアスは言った。ジョージとジムは二人とも思わず馬車から飛びおりた。だれもが固唾《かたず》を飲んで、近づいてくる使者の方へ顔を向けて待っていた。彼はぐんぐんと近づいて来た。と、彼は谷に降りて姿が見えなくなった。しかしその鋭く速い蹄《ひずめ》の音はだんだんと近くに聞こえて来た。そしてついに彼の姿が、呼べば答えるほど近くの小高い丘の上に現われた。
「そうだ、やはりマイクルだ!」とフィニアスが言った。そして声を張り上げて、「おおい、マイクル!」
「フィニアス! あんたか?」
「そうだ。どうした――連中がやって来たのか?」
「すぐあとからやって来る。八人か十人だ。ブランデーをひっかけて、どなりながら泡をふいて、まるで狼《おおかみ》のようだ」
こう言っているうちにも、全速力で彼らに迫って来る蹄の響が風に送られてかすかに聞こえてきた。
「さあ乗った、―― 早く、二人とも、馬車に乗るんだ!」とフィニアスが言った。「戦わなくちゃならないにしても、もう少し先へ行くまで待つんだぞ」その言葉に二人は馬車に飛び込んだ。フィニアスは馬に鞭をあてた。馬上の男は彼らと並んで馬を走らせた。馬車は大きな音をたてて跳ね上がりながら、凍てついた大地を飛ぶように走っていった。しかしあとから追ってくる者たちの馬蹄の響きはますますはっきりと聞こえてきた。女たちもそれを聞いた。そして気づかわしげに外を見ると、はるか彼方の、丘の上に、一団の人影が明け方の赤く染めはじめた空を背に、ぼんやりと浮かんで見えた。次の丘にさしかかった時、明らかに追手は馬車の姿を見つけた。白い布の幌が、かなり離れた所からでもはっきりとわかったからである。大声で叫ぶ野獣のような勝ち誇った声が風に乗って聞こえてきた。イライザはぞっと身を震わせ、子供を胸にしっかりと抱きしめた。老婆は祈った。そして呻いた。ジョージとジムとは絶望の手でピストルを握りしめた。追手はみるみる迫って来た。馬車は突然ぐっと曲がると、険しく覆いかぶさるように立っている岩の端に近づいた。その岩は孤立した山の背かあるいは岩の塊りのように、大きな岩場の中に一つだけそそり立っていて、周囲はかなり開けて平坦であった。この孤立した岩山、といおうかあるいは一連の岩石は、明けゆく夜を背にして黒くどっしりと立っていて、究竟《くっきょう》な隠れ場所のように思われた。そこはフィニアスのよく知っている場所であった。昔、狩猟をしていた頃、よく来た所なので、この地点の様子にはかなり通じていた。そして彼が馬を走らせて来たのも実はここに到着したかったからであった。
「さあこれからだ!」と彼は言って突然馬を停め、馭者台から地上へ飛び下りた。「みんな、すぐ出るんだ。一人残らずだぞ。そして私と一緒にあの岩の蔭へ登るんだ。マイクル、あんたは自分の馬をこの馬車につないで、このまままっすぐアマリィヤの家へ行ってくれ。そして彼と彼の息子たちを連れて来てやつらによく言いきかせてやってくれ」
みんなはたちまち馬車から出た。
「さあ」とフィニアスはハリィを抱き取って言った。「あんたたちは、それぞれ女のせわをしろ。そしてできるだけ速く走るんだ!」
そんな言葉はまったく不必要であった。われわれがそう言っている間にも、一行はすでに柵を越え、岩山を目がけて全速力で走っていた。一方マイクルは馬から跳びおりて、手綱を馬車に結びつけるとそれを駆ってたちまち姿を消してしまった。
「さあこっちだ」とフィニアスは、一行が岩山に着くと言った。見ると、星のまたたく暁の光の中に、ひどい道ではあるが明らかにそれとわかる一筋の小道が岩蔭を通って上へと延びていた。「ここは昔われわれが猟をした所さ。さあ登るんだ!」
フィニアスは先頭に立って、両手で子供を抱きながら山羊《やぎ》のように岩を跳んで登っていった。その後をジムが震える老母を肩にかついで続いた。そしてジョージとイライザとが殿《しんがり》をつとめた。追手の一団は柵の所までやって来た。そして叫んだりののしったりしながら馬をおりて、一行のあとを追おうとした。一行はしばらくよじ登るうちに岩山の頂きについた。すると小道は岩と岩とに挾まれた狭い小道となって、一度に一人ずつしか通れなくなった。そしてやがて一行は突然、幅が一ヤード以上もある地隙《ちげき》とでも言うような岩の裂目にぶつかった。その向こうにはもう一つの岩山が、こちらの岩山とは別に離れて立っており、その高さは優に三十フィートもあって周囲は城壁のように険しく切り立っていた。フィニアスはその裂目を苦もなく跳び越えて、岩の上をいちめんに白苔《しろごけ》が覆っている柔らかな平坦な場所に子供を下ろした。
「みんなも跳び越えるんだ!」と彼は叫んだ。「さあ、命がけで跳ぶんだ!」と彼は、一人また一人と跳び越えるごとに言った。その場に転がっているいくつかの岩は、まるで胸壁のようになって一行の姿を下の追手の目から遮っていた。
「さあ、これでよし」と言いながらフィニアスはその胸壁から追手の様子をうかがった。彼らは騒々しくわめきながら岩山の下にやって来た。「つかまえられるもんならつかまえてみるがいい。ここへ来るやつはみんなあの岩の間の狭い道を一人ずつ通ってこなければならないんだ、そのピストルの弾が十分とどくところをな。どうだ二人ともわかったかい?」
「わかりました」とジョージが言った。「で、これは私たちの問題ですから、危険を冒すのは私たちです。戦いはすべて私たちにまかせて下さい」
「いいとも遠慮なく戦ってくれ、ジョージ」とフィニアスはあかももの葉を噛みながら言った。「だが私にも見物するくらいの楽しみはもたせてくれるだろうね。だが見てごらん、やつら下で何やら相談しているぜ。それにあの上を見ている恰好《かっこう》は、まるで止まり木に飛び上がろうという時の雌鶏《めんどり》そっくりだ。やつらが登って来る前に一言忠告しておいたほうがよくはないか、やつらは上がって来たら撃《う》たれるんだと、はっきりとな?」
下にいる追手の姿は、暁の光をあびて今では大部はっきりしてきた。例のトム・ロウカァとマークス、それに警官が二人と、少々のブランデーでおもしろ半分に黒ん坊たちの逮捕の加勢を承知した例の旅籠屋《はたごや》にいたならず者の一団とであった。
「なあトム、おまえさんの浣熊《あらいぐま》あ(原文「クーンズ」には「黒人たち」の意味もある)、うめえ具合に木に追い上げられちまったじゃねえか」と一人が言った。
「ああ、おれもやつらがちょうどここん所を登っていきやがるのを見た」とトムは言った。「ほら、こんな所に道がある。おれが登っていってやろう。やつらは跳び下りようたってそうは簡単にいかねえんだから、狩り出すにも手間はかかるめえ」
「だが、トム、やつらはあの岩の蔭から撃ってくるかもしれないぜ」とマークスが言った。「そうなったらおまえさん、事だぜ」
「ふん!」とトムはせせら笑って言った。「相変わらず自分のご無事を願ってやがるじゃねえか、マークス! 危ねえことなんかあるものか! 黒ん坊なんてやつはてんで臆病なんだからな!」
「自分の無事を願っていけねえということはあるまい」とマークスは言った。「命はおれの一番大事なものだからな。それに黒ん坊ってえやつは時々、悪魔みてえに向かって来やがるんだぜ、ほんとうに」
この時、彼らの頭上の岩の上にジョージが姿を現わして、落着いたはっきりした声で言った。
「皆さん、そこにおられるあなた方はどなたですか、そしてなんのご用ですか?」
「おれたちゃあ、脱走した黒ん坊どもに用があるんだ」とトム・ロウカァが言った。「ジョージ・ハリスてえやつと、イライザ・ハリス、それにやつらの小僧、それからジム・セルデンと婆あだ。おれたちゃ、ちゃんと役人を連れて、逮捕状も用意している。で、これからひっつかまえようてんだ。わかったか? だがそういうおめえはジョージ・ハリスじゃねえのか、ケンタッキー、シェルビイ郡のハリス氏が持っていた」
「私がジョージ・ハリスだ。ケンタッキーのハリスという男は確かに以前私を彼の所有物《もの》と呼んでいた。だが今は、私は自由な人間だ。そして神の自由の土地に立っているのだ。妻も子供も私は自分のものだと主張する。ここにはジムも彼の母親もいる。われわれには自己を防衛する武器もある。そしてわれわれはどこまでも自己を防衛するつもりでいる。登って来たければ来るがいい。だが最初にわれわれの射程距離に入って来た者は必ず撃ち殺されるからな。次の者も、その次の者もそして最後の者までもだ」
「おい、こら! こら!」と背の低いずんぐりとした男が前に進み出て、鼻をかみながら言った。「若造、そんな言いぐさはおまえらのためにはならんぞ。いいか、わしらは正義を司る役人だ。われわれの側には法律がある、権力がある、すべてが揃っておる。だからおとなしく諦めたほうがいいぞ。どうせしまいには諦めなきゃならんのだからな」
「あんた方に法律があり、権力があることは私だってよく知っている」とジョージは苦々しげに言った。「あんた方は私の妻をつかまえてニューオーリアンズで売りとばし、私の息子を子牛のように奴隷商人の檻へ入れようとしている。そしてジムの年とった母親をあの狂暴な主人の所へ送りかえそうとしている。そいつは以前、ジムが逃げてしまって虐待できないものだから、代わりにその母親を鞭で殴って酷使した男なのだ。あんた方は、あんた方が主人と言っている人間のところへジムや私を送り返して、鞭で殴り拷問《ごうもん》にかけ、やつらの踵で踏みにじらせたいのだ。そしてあんた方の法律は、そういうことをするあんた方を正当と認めるだろう、――あんた方にも法律にも大きな恥辱ではないか! だが、あんた方はまだわれわれをつかまえてはいない。われわれはあんた方の法律を認めてはいない。あんた方の国も認めてはいない。われわれは、あんた方と同じように、この神の御空の下で自由の人間として立っているのだ。そして、われわれを創《つく》り給うた偉大なる神にかけて、われわれは命の限りわれわれの自由のために戦うのだ」
ジョージが彼の独立宣言をした時、彼は岩の頂上にすっかり姿を見せて立っていた。夜明けの光は、彼の浅黒い頬をあかね色に染め、激しい憤りと自暴自棄とが彼の黒い目を燃え上がらせていた。そして、まるで人間から神の正義に訴えるかのように、彼は語りながら片手を天に向けて高く挙げた。
もし、オーストリアからアメリカに亡命する逃亡者たちの退路をいま勇敢にどこかの山岳の要塞《ようさい》で守っているのがハンガリーの青年であるとしたならば(オーストリアは一八四八年三月の革命によって立憲政治の生誕を見、これを機会に、当時オーストリアの治下にあったハンガリーにも独立運動が起こり、一時仮政府が組織されたが、同年十一月、革命は旧支配勢力によって鎮圧された)、それは崇高な英雄的行為となったであろう。しかし、アメリカからカナダへ逃亡する人たちの退路を守るのが祖先をアフリカにもつ青年ということになると、もちろんわれわれはあまりにも啓発され愛国的過ぎて、そこにいささかも英雄的行為を認めることができないのである。そしてもし読者の皆さんの中で、だれかこういう行為をする人があれば、その人は自分の個人的な責任でそれをしなければならないのである。自暴自棄のハンガリーの逃亡者たちが、彼らの法律上の政府のあらゆる捜索令状や官憲に反抗してアメリカへ逃がれて来た場合には、新聞も政府も拍手して歓迎する。しかし自暴自棄のアフリカの逃亡者たちが同じことをした場合、それは――それはいったいどうなのであろうか?
それはともかくとして、語り手の姿勢、目、声、態度が、下にいる一団を一瞬、沈黙させたことは確かであった。大胆や決意というものの中には、どんな粗暴な人間でも一時沈黙させてしまう何かがあるからである。ただマークスだけはまったく感じる様子もなかった。彼はそっとピストルの打ち金を起こしていた。そしてジョージの言葉が終わって一瞬静かになったところで、彼をめがけて発射した。
「どうせケンタッキーへ行きゃあ、死んでたって生きてたって同じ額の金がもらえるんだからな」と彼は上衣の袖《そで》でピストルを拭きながら冷然と言った。
ジョージは跳びさがった、――イライザは悲鳴をあげた、――弾は彼の髪の毛をすれすれに飛んで、妻の頬をかすめるようにして頭上の木に当たった。
「なんでもないよ、イライザ」とジョージはすぐに言った。
「姿を見せんようにしてやったほうがいいな、演説をする時はな」とフィニアスが言った。「やつらは卑怯なならず者だからな」
「さあ、ジム」とジョージは言った。「おまえのピストルはみんな大丈夫か見てごらん。そして私と一緒にあの道に気をつけているんだ。初めに姿を見せたやつは私が撃つ。二番目のやつはおまえだ、そういう順でな。いいか、一人のやつに二発使うのはもったいないからな」
「でも、もしあんたの弾が当たらなかったら?」
「必ず当ててみせる」とジョージは冷然として言った。
「よろしい! あの男はなかなか腹がすわっているぞ」とフィニアスが小声でつぶやいた。
下にいる一団は、マークスが発砲した後、しばらくはどうしようとも決しかねる様子で立っていた。
「確かにだれかに当たったように思うんだが」と連中の一人が言った。「悲鳴が聞こえたからな!」
「おれも登っていって一人ぶち殺してやろう」とトムが言った。「おれは黒ん坊なんか怖いと思ったことあ一度もねえんだ。今だっておんなじさ。だれがあとからついて来るんだ?」と岩山に跳び上がりながら彼は言った。
ジョージはその言葉をはっきりと聞いた。彼はピストルを引き寄せ、それを改めると、先頭の男が現われるはずの、岩に挾まれた狭い小道の一点に狙いをつけた。
一団の中で一番勇気のありそうな男がトムのあとに続いた。するとそれにつられて全員が岩を登りはじめた、――一番最後の男が前の者たちを押すので、そうでなくても速い一団の足取りは更に速くなった。彼らはぐんぐん登って来た。そしてまもなく、トムの大きなからだが現われて、ほとんど岩の裂目の縁のあたりまで迫った。
ジョージは引金をひいた、――弾はトムの脇腹に入った。――しかし傷を負っても彼は引き下がろうとはせず、たけり狂った雄牛のように叫びながら、裂目を跳び越え一行の中へ躍り込もうと土を蹴った。
「おっと、|あんた《フレンド》」と言いながら、フィニアスが突然前に進み出て、その長い両腕で彼のからだをどんと突いた。「ここはお断わりだよ」
トムはもんどりうってその裂目の中に落ちていった。樹《き》、藪《やぶ》、丸太、石の間を大きな音をたてて転げ落ちると、ついに三十フィート下の地面に傷だらけになって呻きながら倒れた。彼の着ていた物が大きな木の枝にひっかかって、落ちる力が弱まりおさえられなかったならば、彼はこの墜落で命を亡くしたかもしれなかった。しかし、そうはいっても、彼の落ちて来た時の力は相当なもので、――かりそめにも幸運であったとか、つごうがよかったなどと言えるものではなかった。
「こいつは驚いた、やつらはまるで悪魔だ!」とマークスは、みんなのあとについて登って行った時よりもはるかに堅い決意で退却の先頭に立ち、岩山を下りながら言った。すると他の連中もそのあとから転げるようにしてまっしぐらに下りて来た。――特に例の肥った警官は、非常な勢いでふうふう息を切らしながら下りて来た。
「なあ、みんな」とマークスが言った。「おまえさんたちは向こうへ回わって、トムを看てやってくれ、おれはその間に一っぱしり馬に乗って加勢を呼んでくるからな、――頼んだぜ」そう言うとマークスは、仲間の嘲《あざけ》りや冷やかしなど気にもかけず、約束どおり、たちまち馬を飛ばして姿を消してしまった。
「あんな卑怯なならず者ってあるかい?」と一人が言った。「てめえの仕事でやって来ておきながら、自分はさっさと行っちまって、おれたちをこんなふうにおいていきやがったぜ!」
「とにかく、あの男のほうを看てやらんことにゃあ」ともう一人が言った。「死んでいようと生きていようと、こっちの知ったことじゃあないがな」
みんなはトムの呻き声をたよりに、切株や丸太や藪の中をあちらこちら、がさごそと探しながら、この英雄が烈しい調子で呻いてはののしり、ののしっては呻いている場所へと近づいて行った。
「なかなか大きな声でやってるな、トム」と一人が言った。「ひどくやられたのか?」
「わからねえ、起こしてみてくれ。畜生あのいまいましいクエーカー野郎め! あいつさえいなかったら、ほかのやつらはここへたたき込んで思い知らせてやったんだが」
やっとのことで、この墜落の英雄はひどい呻き声をあげながら助け起こされた。連中は両方から彼の腕を担《かつ》ぐようにして馬のいるところまで連れていった。
「とにかく一マイルあとにあるあの旅籠屋まで連れていってくれさえすりゃあいい。だれかハンカチか何かくれ。ここへ突っ込んで、このいまいましい血を止めるんだ」
ジョージが岩の上からのぞいて見ると、彼らがトムの大きなからだを鞍《くら》の上へ押し上げようとしているのが見えた。二度三度とやっていたが、彼はふらついて、どさりと地上に落ちた。
「おお、あの人死ななければいいけれど!」と、みんなと一緒にこの光景を見ていたイライザが言った。
「どうしてだね?」とフィニアスが言った。「いい気味じゃないか」
「でも、死後、神さまのお裁きがありますもの」とイライザは言った。
「そうですじゃ」と戦いの間じゅう、メソジスト流の祈りを呻きながらあげていた老婆が言った。「それはあの気の毒な男の魂にとっては恐ろしいことじゃ」
「おやっ、やつらはあの男を置き去りにして行くつもりらしいぞ」とフィニアスが言った。
それはほんとうであった。なぜなら、連中はしばらくの間話が決まらぬらしく、あれこれと相談している様子であったが、そのうちにみんな馬に乗って駈け去ってしまったからである。彼らの姿がすっかり見えなくなると、フィニアスは活動を始めた。
「さあ、われわれも下りて行って少し歩かなけりゃいかん」と彼は言った。「私はマイクルに、加勢を頼みに先へ行って、馬車でまたここへもどって来てくれるように言っておいた。が、その一行と出会うにもおそらく少しは道を歩かなけりゃあならんだろうからな。神さまがきっと早くおよこし下さるだろう! 朝も早いことだから、まだしばらくは人の往来もあまりあるまい。二マイルも行かぬうちにわれわれの目的地につく。ゆうべだって道がこんなに悪くなけりゃあ、絶対に追いつかれはしなかったんだが」
一行が柵の所に近づくと、道の向こうから、自分たちの馬車が馬に乗った数人の男に付添われてやってくるのが見えた。
「うん、ありゃあマイクルに、スティーヴンに、アマリィアだ」とフィニアスが嬉しそうに叫んだ。「これで大丈夫だ、――もう向こうへ着いたようなもんだからな」
「では、ちょっと待って下さい」とイライザが言った。「そしてあの気の毒な人をなんとかしてあげて下さい。ひどく呻いていますもの」
「それはキリスト教徒として当然のことだ」とジョージが言った。「助け起こして連れていってやろう」
「そしてクエーカー教徒の仲間が手当をしてやるか!」とフィニアスが言った。「それもまたよかろう! 私もかまわんからな。どれ、ひとつあの男を見てやろう」と言ってフィニアスは、昔猟をしながら未開の森の中に住んでいた頃、ごく大ざっぱながら外科手術の経験があったので、その傷ついた男のかたわらに膝をつくと、傷の様子を注意深く調べはじめた。
「マークス」とトムは力のない声で言った。「おまえか、マークス?」
「いや、そんな者ではない」とフィニアスは言った。「マークスも自分の命が安全なら、あんたを大切にするんだが、とっくの昔に逃げていったよ」
「おれはもうだめらしい」とトムは言った。「あのいまいましい卑怯者の畜生め、おれを置き去りにして一人で死なせやがるなんて! おれのかわいそうな老母《ばあさん》が、おれはこんなことになるだろうとよく言っていたっけが」
「おやまあ! この気の毒な男の言うことを聞きなせえ。おっかさんがあるちゅうでねえか」と黒人の老婆が言った。「おらあ、なんだかかわいそうな気がしてなんねえ」
「まあ、まあ、そうがみがみ言うもんじゃあない」とフィニアスは、自分の差し出す手をトムがおどおどしながら押しのけようとするので言った。「私がその出血を止めてやらねば、あんたには助かる見込みはないんだぜ」そう言いながら、フィニアスは自分のハンカチやそこにいる人たちの持っているハンカチをみんな集めて、せっせと応急手当の準備をした。
「おめえだな、おれを突き落としやがったやつは」とトムは力のない声で言った。
「しかし、私がやらなかったら、あんたのほうでわれわれを突き落としただろうからな」とフィニアスは彼に繃帯を巻こうと身をかがめながら言った。「さあ、さあ、――この繃帯を私に巻かせなさい。われわれはあんたに親切にしてやろうと思っているんだ。敵意なぞ少しももってはいないのだからな。そしてこれから、あんたをたいそう大事に――あんたのお袋さんみたいに大切に看護してくれる家へ連れていってあげるんだ」
トムは呻き声をあげて、目を閉じた。彼のような種類の人間は、威勢のよさとか決意なぞというものはまったく肉体的なものであって、血が出るとそれと一緒にからだから出ていってしまうものなのである。そこでこの大男もふがいのないまったく哀れなありさまであった。
やがて加勢の者たちが到着した。馬車から座席が取り払われた。野牛の毛皮が四つに畳んで片側に敷かれた。そして四人の男がやっとのことでトムの重いからだをその中に担ぎ入れた。彼は馬車に乗せられる前にまったく気を失っていた。黒人の老婆は、同情のあまり、床板にすわって彼の頭を自分の膝の上にのせて支えてやった。イライザもジョージもジムもできるだけ空いている片隅に寄って、この男のためにゆとりを作ってやった。そして一行は出発した。
「どんな具合ですか、あの男の様子は?」とフィニアスと並んで前の方にすわっていたジョージが尋ねた。
「うん、ちょっとばかり深い傷だが、骨にまでは行っておらんな。だが、あの時、あすこから転げ落ちて掻き疵《きず》をつくったのがあまりよくなかった。それで出血がひどくなって、――すっかり流れ出ちまったんだ、――勇気も何もかもね、――だがそのうち快《よ》くなるだろう、そしてこれで少しは悟ることだろうさ」
「それを伺って安心しました」とジョージは言った。「たとえ正当防衛でも、私のために死んだということになると、いつまでも気がかりですからね」
「さよう」とフィニアスは言った。「殺生はいやなことだ。たとえどんなやり方でもな、――人間でも獣でも。私は昔、なかなかの猟師だったが、実は、私の撃ち倒した雄鹿にその死にぎわ、じっと見つめられたことがあったんだ。それを見たら殺生はよくないことだとつくづく思った。だから相手が人間だったらもっと大変だ。なにしろあんたの奥さんが言うように、神さまのお裁きが死後にあるんだからな。だからこの問題について私たちの宗派がもっている意見はけっして厳しすぎることはないと思う。そして自分が昔どんなふうに育てられたかを考えると、私の考えもずいぶんと変わったものだ」
「あなたはこの気の毒な男をどうするおつもりですか?」とジョージは言った。
「なあに、アマリィヤの家へ連れていくよ。あすこにはスティーヴンズ祖母《おばば》――みんなはドーカス(使徒行伝、第九章第三十六節)と呼んでいるが、――がいて、じつに看病の上手な人なんだ。根っからの看病好きで、けが人が出たらあの人にまかしておくのが一番だ。だから二週間かそこいら、あすこで預かってもらえるだろう」
それから約一時間も乗って行くと、一行はある小ざっぱりとした農家についた。疲れ果てた旅人たちはここで十分に朝食をご馳走になった。トム・ロウカァはすぐに、彼がふだんもぐり込んでいたベッドよりもはるかに清潔で柔らかなベッドにそっと寝かされた。傷口も注意深く手当されて繃帯を巻かれた。病室のまっ白な窓掛けや静かに動く人影に向かって目をあけたり閉じたりしながら、ものうげに横たわっている彼の様子は、まるで疲れて寝ている子供のようであった。しかしわれわれは、ここでしばらくこの人たちに別れを告げることにしよう。(つづく)