マネキン人形殺害事件
S・A・ステーマン作/松村喜雄訳
目 次
プロローグ
一 悪天候
二 奇妙な被害者
三 世界最大の犯罪
四 ≪ひげ≫に訊《き》け
五 古物商
六 追跡
七 呪《のろ》われた家
八 ジルベエル
九 人形の捜査《そうさ》
十 閉ざされた部屋
十一 戦争ごっこ
十二 誰かが酒倉にいる
十三 マレイズ警部の≪退化本能≫
十四 犯罪実例集
十五 当代青年気質
十六 恐るべき子供たち
十七 コーヒーとリキュール酒
十八 大山猫《おおやまねこ》の眼の理由
十九 無実の囚人
二十 監獄の影
二十一 ロールの悲嘆
二十二 感謝の念
二十三 ド・ラ・ファイエット氏
二十四 わが狂乱の青春
二十五 二十階
二十六 オイディプス王
二十七 ジャダン事件訴訟
二十八 警部の推理
二十九 口止め
三十 無実の証人
訳者あとがき
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登場人物
エイメ・マレイズ……ブリュッセル警察の警部
ドゥヴァン……洋服屋
ジャコブ……古物商
ジルベエル・ルコト……ルコト家の長男(死亡)
アルマン・ルコト……同次男
イレーヌ・ルコト……同長女
エミイル・シャロン……ルコト兄妹の従弟、ロールの兄
ジャンヌ・シャロン……エミイルの妻
ロール・シャロン……ルコト兄妹の従妹、エミイルの妹
イルマ・トラシェ……ルコト家の老女中
レオポルド・トラシェ……イルマの息子
フュルネル医師……ルコト家の主治医
ジェロム……白痴
セゼエル・ジャダン……剥製師(死亡)
ウエンズ(ウエンセスラス・ヴォロヴェチック)……名探偵
マルグリット……ルコト家の小犬
バルタザアル……ルコト家の猫(死亡)
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――女はだれでも、芸術家に霊感を与えようと、念を入れて粧《よそお》いをこらすのです。自分が無視されることを惧《おそ》れて、粧いをこらすのです。将来のことなど考えず、美しく飾ろうとするのです。将来のことを考えて、画をかき、彫刻をし、文学を書くのでしたら、それは、おろかしい傲慢《ごうまん》というものです。
アナトール・フランス「紅い百合」
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プロローグ
一九三×年、九月二十日付、「アラルム」紙より抜粋。
ジャダン裁判
ジャダン事件は、かつて本紙において報道したことがあるが、大分以前のことなので、諸君のなかには詳しい内容を忘れた方も多いのではないかと思う。この事件が発生した当時は、極めて特異な事件として、本紙はとくに詳細に報道したものである。この事件は、本日、司法裁判所において起訴されることになり、その謎《なぞ》がいかに解明されるか、その成り行きが注目されている。さらに、法廷の審議は、活発な論議が行なわれる模様である。
一年前の今頃のことであるが、セゼエル・ジャダン氏は、剥製業《はくせいぎょう》をいとなみ、英国通り四十四番地で、元気に仕事をしていた。彼は丁寧《ていねい》な仕事をするので注文も多くなっていた。そのときより六か月前に、フェルディナン・ビショップという青年を弟子として雇った。ジャダン氏は、優しい性質の男で、社交性もあり、仕事にも打ち込むというわけで、人から愛される好人物であった。とくに人づきあいがよいので、親しい友人も多かった。ところが、一九三×年九月二十四日のことであるが、突然、不思議な事件が起こり、真相が今もって解明されないままになっている。その不思議な事件というのは、ジャダン氏が、店の裏手で、呼吸《いき》が苦しいのか咽喉《のど》をかきむしって苦しんでいるところを発見された。医師が到着したときには、意識を完全に失い、窒息状態となっていたため、処置のほどこしようもなかった。
医師は、この奇妙な臨終に立ち会って、疑問を持った。もともとジャダン氏は健康な人であることを思い出し、変死と判断し、死亡診断書を書くことを断わり、一部始終を検察庁に報告した。検察庁では、法医学の最高権威者であるペリルおよびベイザン両博士に依頼して、行政解剖を行なった。両博士は、毒物学者として著名な、ホスト博士およびルプチ=プチ教授の応援を仰いだ。こうして四名の最高権威が全力を傾注し、執刀を行なった結果、共同所見が発表された。死因は、強力な植物性毒物、矢毒《キュラール》と呼ばれる毒物が使用されているというものであった。
その間、検察当局の指示に従い、スーヴァル予審判事は、厳重な捜査《そうさ》を行なったところ、殺人容疑者として、ジャダン夫人と青年弟子を逮捕することになった。両名は不義の関係を続け、ジャダン氏を殺害したという容疑である。当局の厳しい訊問《じんもん》の結果、ジャダン夫人は、青年弟子と正式に結婚しようと決心し、夫に離婚を哀願し、拒否にあっていることを認めた。ジャダン氏は、たび重なる夫人の哀願にもかかわらず、カトリックの戒律にもとることを理由に、そのつど、拒絶していたことが判明した。
他方、未亡人は、極めて激しやすい性格の婦人であった。ジャダン氏死亡の直前、聖所めぐりの旅行をしていたが、その旅行中に、旧友と偶然めぐりあい、その旧友が所持する毒物コレクションのなかから、見本《サンプル》と称して、若干の毒物を入手していたことが、当局の捜査により、明るみに出た。
起訴状で、われわれに明らかにされているのは、きわめて醜悪な殺人動機である。じつに遺憾きわまる事件である。
ジャダン氏は、死亡する二年まえに、妻を受取人と指定した生命保険に加入している。未亡人と青年弟子は、共謀して、ジャダン氏を殺害し、この保険金を手に入れようとしたものと、当局では見ている。
予審裁判では、両被告は、無罪を主張するものと予想されている。しかし、本事件は、わが国における、もっとも重大な犯罪事件として慎重に裁判が行なわれることになる。本紙の予想としては、先に述べたように、犯罪動機、仕組みは明らかであり、被告両名の死刑判決は、ほとんど確定的と思われる。
夫および主人を毒殺した共同謀議殺人事件として、ジャダン夫人およびビショップ両名を告発するため、司法裁判所において、公判が執り行なわれる。第一弁護士として、ボンヴァル弁護士が確定し、第二弁護士として……。
一 悪天候
エイメ・マレイズは、列車の昇降口のドアガラスを、身をかがめて開け、注意深く窓外を見まもった。黒インクのような、どろんとした空の下で、横なぐりの大粒の雨が、見事に縞模様《しまもよう》をえがいていた。停車した列車の列をまんなかにして、なにもかもが風で荒れ狂い、まるで狼《おおかみ》の群れが、すさまじく吼《ほ》えつづけているようであった。
その旅客は、じっと窓外を見まもっていたが、激しく身顫《みぶる》いをする近くの数本のポプラの木の影と、藁《わら》ぶきのあばら家の濃い塊りとを認めたのだった。つぎに、身体をのり出すようにして、彼は左方《ひだりかた》数百メートルのところで、大粒の雨にかすみ、ぼんやりした光の暈《かさ》に、ちらりと視線を向けた。
マレイズは、かぶっている帽子を、怒ったようにポンと一つたたくと、スーツケースを手に持ち、昇降口から鉄道線路の砂利の上に飛びおりた。
≪うまくやるんだぞ。やり損じはご免だからね!≫と、彼は考えた。
雨が顔をたたき、キラキラと輝いて流れた。靴《くつ》の底が、かたくとがった砂利の上で、たえずすべった。先頭の機関車が、頭をぐっと持ち上げるようにして、白い蒸気を吐き出すと、何台もの灯《ひ》の入った長い客車の列を引っぱって、ゆっくり動き出した。
プラットフォームに投げかける、走り去る列車の最後尾の灯《あか》りをたよりに、エイメ・マレイズは、プラットフォームに上がり、駅の建物の灯りがもれている窓に歩み寄って、窓枠《まどわく》を拳《こぶし》でコツコツとたたいた。
屋内で人の動く気配はうかがえなかった。赤と黒の市松《いちまつ》模様の窓のカーテンを開ける者がいなかった。
けれど、その部屋に、男が一人いたのだ。長いテーブルに鉄道地図が広げられ、そのテーブルを前に、その男は坐《すわ》っていた。緑色の陶器を笠《かさ》にした、事務所用ランプの灯りが、鉄道員制服のボタンを、キラキラ輝かせていた。その男は、両眼の間に小皺《こじわ》をよせ、何か熱心に書いていた。
エイメ・マレイズは、窓枠を力まかせにたたきつづけていた。
≪こいつ、ツンボかもしれんぞ!≫と、マレイズはひとりごとをいい、さらに強く、ガラスがこわれるかと思われるほど、ガンガンたたきつづけた。
やっと、室内で男の動く気配がした。ゆっくりと頭を持ち上げ、手をのばし、引き出しを開けた。それから眼《め》をしばたたき、じっと窓を見つめていた。やがて、右手を上着のポケットに突っ込むと、長椅子《ながいす》から立ちあがり、プラットフォームに出るドアに向かって、注意深く迂回《うかい》しながら、近づいていった。
エイメ・マレイズも、それと同じドアのほうに近寄った。ドアの前で足をとめると、ドアの向こう側から、緊張した声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
相手のその疑い深いやり方に、マレイズはすっかり腹をたてていた。
「サンタクロースだ!」と、挑戦的な声で叫んだ。
最初の返事は、沈黙だった。それから、鍵穴《かぎあな》に鍵を入れる音がして、突然ドアが開かれた。
「どなたです、あなたは? なんですか、ご用は?」
「部屋のなかに入れてくれるか、駅から外に出していただくか、どちらかに願いたいものですな」と、マレイズは皮肉った。「汽車を間違えて乗ったのですよ」
「へえ! 間違えたんですか、汽車を……」
その声は、相手を疑っている様子だった。
「ほら、これが乗車券ですよ。さあ、ここから出してください」
駅長は、乗車券にチラッと眼をやると、さすがに、態度を変えた。マレイズは、駅長を押しのけるようにして部屋に入り、すぐドアを閉めた。
「ぼくのために、少々時間をさいてくださいませんかね。ぼくのほうは、あなたを恐《こわ》がっていないのですからね」
「じつは、あなたが、この二週間のうち、この駅に降りた、ただひとりの旅客なんです」と、駅長は、響きの悪い声で答えた。「あなたが窓枠をたたかれたとき、わたしは考えたんです……。あなたが降りた列車は、じつはこの駅に停車しないのです。線路を入れ替えるために停《と》まるだけなのですから……」
「ぼくが線路入れ替えの機会をつかんだというわけで、別に自慢にもならん、というわけですね」
マレイズは、帽子からたれる雨滴《うてき》をぬぐおうともせず、頭をゆすっただけだった。
「十一時ですね」と、マレイズは、壁に掛かっている振り子時計の針を見ていった。「今晩一晩だけなのですが、駅の近くのホテルを紹介していただけませんか?」
「駅の近くのホテルですか?」と、駅長は、当惑した顔でいった。
しばらく考え込んでいたが、やっと答えた。
「駅を出たら、道を右におとりなさい。五百メートルほど行くと、キリスト磔像《はりつけぞう》が見えますよ。その磔像のごく近くに、宿屋があります。ステーション街の入り口ですよ。村に入って、五軒か六軒目です」
それだけいうと、駅長は、先ほどから夢中になっていた仕事を続けるために、テーブルに戻りかけた。
「あとひとつだけ、教えてくださいませんか」と、マレイズがいった。「グランモン行きの始発は、何時に当駅を通過するのですか?」
「朝の八時四十五分です」
「ほかにも、あるんでしょう?」
「もちろん、ありますとも。十七時十分発が二番列車です……。両方とも、普通列車ですがね」
「普通列車ですって?」と、マレイズは、思わず声が高くなった。
マレイズは、入り口のところまで歩いてから、振り返り、皮肉った。
「おやすみなさい、駅長。引き出しのなかに、ピストルでも用意しておくんですな……」
相変わらず、雨が降りつづいていた。もう激しい雨ではない。人の気を滅入《めい》らせるような、降り方だった。風にゆすりあげられるたびに、樹木がぶるぶる顫えた。黒い雲が、霊柩車《れいきゅうしゃ》のように、音もなく頭上を通り過ぎた。
「こいつは、ひどい!」と、マレイズは、ぶつぶつ呟《つぶや》いた。「暖かい、リビエラへでも行けばよかった」しかし、口にした言葉とは裏腹に、この男はリビエラが好きではなかった。彼は北国生まれだったから、ギラギラ光る太陽は性《しょう》に合わなかった。
泥土のなかを歩みつづけながら、マレイズは奇妙な感じに襲われていた。それは、不安を感じるという性格のものではなかった。一種の圧迫感のようなものだ。歩くたびにけたたましい音をたてる、自分の跫音《あしおと》の連鎖反応と、荒涼たる真夜中のせいだったのかもしれない。
風は、笑い声ともすすり泣きともとれるような、奇妙な音をたてていた。白鳥の形のふたつの雲の間に、教会の鐘楼《しょうろう》がちらりと姿を見せ、それがたちまち姿を消した。
猫《ねこ》が一匹、生垣《いけがき》の背後で、咽喉をかき切られた子供のような声で、鳴いていた。マレイズに、一種の感動のようなものが湧《わ》きあがり、同時に、自然と口もとに微笑が浮かんだ……。そんな気持ちになったのは、ほんの短時間だったが、自分自身の疑心暗鬼から生じたことに気がつき、思わず笑ってしまったからだ。
マレイズは、キリスト磔像を見つけた。その磔像から数メートル離れたところに、通行人の注意もひきそうにない、馬鹿でっかい、四方形の建物があった。鎧戸《よろいど》で厳重に閉ざされ、ペラペラの看板が、風でけたたましい軋《きし》み音をたてていた。
「どなたでしょうか?」
その声が窓のひとつから聞こえてきたとき、マレイズは、呼び鈴をさんざ押してうんざりし、スーツケースを手に持ち、ほかの旅籠《はたご》をさがそうと決心したところだった。
「道に迷った旅行者ですが」と、マレイズは、事務的な声で答えた。「今夜泊まる部屋がほしいんです」
「おひとりですか?」
「そうです」
そこで返事がとぎれ、ちょっと沈黙があったあとで、相手はこういった。
「この旅籠のことを、誰《だれ》が教えたんですか?」
「駅長さんですよ」
「どうしたんですか、こんな深夜に?」
マレイズは、寒さのため、歯をカチカチ鳴らしていた。
「乗る汽車を間違えたんですよ」と、彼は叫んだ。「お願いです。早くドアを開けてください。ごらんのとおりだ。ぼくは野良犬のように、ずぶ濡《ぬ》れなんだ」
マレイズは、窓のなかから、囁《ささや》き声を耳にした。旅籠の女房が、ゴソゴソ起きてきたのにちがいない。窓が音を立てた。
≪なんと素敵な土地だろう≫と、マレイズは、皮肉いっぱいに考えた。≪深夜の客を疑いもしないで、のんびりと夫婦が相談しているなんて……≫
マレイズの思惑どおり、ドアを開けることに相談がまとまったのか? それとも、じっくり相談する長い時間、このまま待たせておくつもりなのか?
マレイズが、ふっと路上に視線を落とすと、彼の顔に驚愕《きょうがく》の色が浮かんだ。異常に痩《や》せたひとりの男が、足を引きずりながら、マレイズのほうに近づいてくるところだった。雨が降りしきっているにもかかわらず、その男は無帽で、見る影もないカラーつきの厚手のセーターを着て、ビロードのズボンをはいていた。何やら理由《わけ》のわからぬことをブツブツ口のなかで呟いていた。うつろな眼は、どこも見ているのではなかった。
マレイズは、ちょっと尻込《しりご》みした。この気味の悪い男の出現は、あまりに唐突で、背筋に冷たいものが走った。話しかけられでもしたら、身の毛がよだつのではないかと思われた。しかし、どうして自分の背後にいたのか。その理由を訊《き》くために、声をかけてみたい誘惑を感じていた。けれど、この深夜の散歩者の無気味な態度が、たちまち決心を鈍らせ、思いとどまらせた。まるで、眼に見えぬ糸に操られている、グロテスクな操り人形のようだ。突然糸が切れて、その場に倒れそうで、たよりがない。その男は、じっとマレイズを見まもっているだけで、立ち去ろうとしない。
旅籠のドアが、ギシギシ音をたてて開いた。まばゆい白光の電気の灯りが、マレイズの全身をとらえた。
「さあさあ、お入りなさい」
そうはいったものの、旅籠の亭主《ていしゅ》は、まだ最後の決断がつかないのか、入り口のところで動かずにがんばっていた。亭主は、でっぷり肥《ふと》った男で、フランネルの上着に、ズボン吊《つ》りで吊るしたズボンをはいていた。
「どいてください」と、マレイズがいった。「入り口に立っていたのでは、屋内《なか》に入れない」
彼はスーツケースを手に持ち、亭主の身体を押すようにして、奥に階段が見える廊下に、足を踏み入れた。
「食事をなさいますか?」
肥った亭主は、注意深くドアを閉め、閂《かんぬき》をかけた。
「いりません。あすの朝、出発します……」
マレイズの眼前を、スリッパを足に突っかけた亭主が、ちょこちょこと歩いた。
「八時四十五分発の列車で……」と、亭主は、踊り場で、呼吸《いき》苦しそうに、あえぎあえぎいった。「ご出発になるのですね……」
その質問に、マレイズは頷《うなず》いた。
「あすの朝、オムレツをつくりますよ」
この家は、ワックスとニカワの匂《にお》いが充満していた。廊下の奥で、たったひとつの光が、一筋の線を映し出していた。
旅籠の亭主は、右手でドアを開け、石油ランプに灯りを入れた。
「ベッドの下に、尿瓶《しびん》が用意してあります。では、おやすみなさい、ごゆっくりと……」
「おやすみ」と、マレイズは短く答えた。
ドアを閉めると、神経質そうに、鍵か閂をさがした。跣《はだし》で、シャツとズボンだけの姿になり、窓を開け、窓枠に軽く肱《ひじ》をおいた。
雨がやんで、空は濃藍色《のうらんしょく》になっていた。
マレイズはパイプに火をつけ、ランプの灯りを、呼吸《いき》でふーっと吹き消した。身体を暖めるものは何もなかった。しかし、あと数時間たてば、衣服もかわくだろうし、天井の低い部屋で、オムレツが食べられるだろう。それから、目的地に運んでくれる列車に腰をおろし、こうして道草をくったことを、楽しく思い出していることだろう。この冷え冷えとした土地では、駅長はピストルを用意していたし、旅籠の夫婦は、雨のなかで寒さに顫える旅客を、長い時間屋外で待たしたのだと。
≪あいつは、どこから来たのだろうか?≫と、突然、マレイズは、暗夜に、帽子もかぶらず、蒼《あお》ざめた額に、雨に濡れた髪をべったりとへばりつけた、あの無気味な深夜の散歩者のことを思い出した。
エイメ・マレイズ警部の長い長い警察生活のなかで、神秘的な事件やさまざまな犯罪は、枚挙にいとまがなかった。事件は、夜の幕《とばり》のなかに、じっと身をひそめていた。まれには、白昼堂々という事件があったが……。香水の匂いが満ちた閨房《けいぼう》のなかで、大銀行の黄金色の建物の背後で、橋や十字路の汚れた路上で、人けのない公園や大声でわめく淫売屋《いんばいや》の奥で……などなど。それらの事件は、いずれも千差万別で、変化に富んでいた。しかし、その過去のどの事件を例にとっても、今夜のような、静寂に支配されるこの村落と結びつく犯罪は、ひとつも見当たらなかった。
現在のところまでは、犯罪と結びつく確実なものは何もなかった。じじつ、犯罪とは無関係なのかもしれないが、そうかといって、近い将来、ここの住民が、≪見事な犯罪≫に出くわさない保証はないと、マレイズは考えた。
マレイズは、現在いる場所の名前さえ知らないことに気がついた。夜だからといって、人間世界の出来事ではないと思いたくなかった。常日頃から、日常生活の単調な時間をもて余し、何か変わった事件でも起こらないかと願っていた。今夜がそのチャンスだとすれば、みすみす見逃せないのだ。真昼の太陽のもとで見れば、このような神秘的なことも、また別の興味あることになるのではないか。
何を躊躇《ちゅうちょ》しているのか。敢然とチャンスをとらえるべきだ。あらゆる艱難辛苦《かんなんしんく》をなめてきた彼の年齢ともなれば、表面的な現象に、だまされはしないのだ。冒険を愛する者は、チャンスをとらえ、一路邁進《いちろまいしん》すべきであり、そうすれば、おのずから素晴しい前途が横たわり、無為をかこっていたことが、かえって楽しく思い出されることになるのではないか。そのためにも、朝まで待つ必要はない、この場所からすぐ始めるべきだ。
そんなことを考えながら、マレイズは、パイプを窓枠でたたき、灰を落とした。眼がしぜんと、窓外に移った。夜景をとらえると、警部は、びっくりした顔をして、身体を顫わした。
遙《はる》か彼方《かなた》に、盛り土した鉄道線路が見える。その線路の上で、何かが蠢《うごめ》いているのだ。眼をこらして見ると、それは人間の影法師だった。眼に見えない糸で操られているかのように、重そうな奇妙な形の荷物を、緩慢な動作で引っぱっている。その形が、巨大な昆虫《こんちゅう》を連想させた。
その荷物は、ずんぐりして、丸みをおびていた。人間の形ぐらいの大きさだ……。荷物を引っぱっている男の身体と同じ形で、同じ大きさだ。
≪確実に間違いない。この死んだような化石の村で、しかも深夜のこの時間に、重い荷物を引きずっている……≫と、マレイズは考えた。
その男が、先ほど旅籠の前で会った男だと、警部は本能的に感じとった。
≪死体だ……。あの引きずっている重さから判断して、まさに死体だ!≫
警部の背後で、振り子時計が、チーン、チーンと十二を打った。警部は身顫いをした。窓ガラスからの寒気と、列車を降りてから駅長、旅籠で夫婦と、いらいらする応対が続いた。その疲れがどっと襲ってきて、もう欲得もなくなり、ぐっすり熟睡したかった。
しかしながら、このすさまじい寒気、この激しい疲れ、ぐっすり睡《ねむ》りたいと願っているにもかかわらず、眼下に展開する好奇心をそそる光景に魅せられ、まるで呪《のろ》いをかけられた人のように、窓辺から離れることができなかった。
この異様な光景はどうだ! 鉄道線路の上を、ひっそりと影法師がひとつ、人間の形をした荷物を引きずりながら、サン・アンドレ寺院のキリスト磔像に向かって、ゆっくりと歩いていた。
二 奇妙な被害者
旅籠の亭主が約束したオムレツは、ついにマレイズに用意されなかった。人の約束は当てにならないものだ。秘密の数々を見破ることもできずに、この村を立ち去ることは、警部として、じつに心残りなことであった。宿屋を立ち去るとき、小さなスーツケースを持っていた。昨夜のように、もう雨は降っていなかった。風も鎮《しず》まり、四辺《あたり》の大気は、大変すがすがしい香りをふくんでいた。蒼白い太陽の下で、銀線を混じえた雲がいくつもたなびいていた。
太陽の光が、昨夜の幻覚を一掃していた。キリスト磔像の十字架の両翼は、緑色の苔《こけ》がびっしりとこびりつき、無数の雀《すずめ》がいま翼をやすめ、家々の鎧戸は生き生きと彩られ、農家の犬どもが低いうなり声を立てていた。魔術でもかけられたように、徐々に朝の光が増してゆき、いっせいに鶏の歌声がにぎやかに起こり、百姓たちの木靴《サボ》が心地よく周囲《あたり》に音を響かせていた。そして、疑いもなく、邪悪な眼差《まなざ》しのあの夢遊病者の男が、建築土台を眼前《まえ》にして、石工《いしく》の仕事にとりかかろうとしているのだ……。
≪これで、あのおそろしい幻覚も、蝋燭《ろうそく》の焔《ほのお》のように消え去った……≫と、マレイズは、歩きながら考えた。
風と土の新鮮な息吹が、白昼の人間世界の冷厳な現実の世界に、マレイズを連れもどした。しかしそうはいっても、昼夜の別こそあれ、これは同じ村だった。ともかく、昨夜は確実に神秘に満ちており、眼前の邪悪な眼の男が、そのなかで活動していた。そうこう考えているうちに、マレイズは不覚にも、頭がくらくらした。彼自身の眼前で、熱帯地方の灼熱《しゃくねつ》の花が、見事に炸裂《さくれつ》する錯覚に襲われた。
マレイズは、砕けるほどパイプを、歯で強く噛《か》んだ。彼は突然、詩人になってしまったのだろうか? それとも、幼い頃に夢中になった妖精《ようせい》の世界を、まともに再び信じたのであろうか?
警部はマッチをするために足をとめ、それから手で焔を覆い、パイプに火を点《つ》けた。昔から愛用してきたパイプだった。彼はパイプから流れ出る、軽やかな青味をおびた渦巻きを、しばしうっとりと見つめていた。
マレイズは、足を速めた。駅に向かう前に、寺院のある、ステーション街に行ってみたいという誘惑に、負けてしまった。
突然、警部は、足をとめた。ひび割れた飾り窓ガラスの店の前で、群衆が集まり、ザワザワとどよめき、活気づいているのに気がついたからだ。その砕けたガラスから、ドゥヴァン氏、××××××と、謎《なぞ》めいた文字が、かろうじて読みとれた。野次馬が店の入り口に群がり、はみ出した者は通りに立っていた。この店の主人は、ワイシャツを腕まくりにした、癇癪《かんしゃく》持ちらしい肥った男で、一メートルもあろうかと思われるリボンを、首に巻きつけていた。まるで糸巻きのお化けだったが、これがまた、充分にこの不幸を一身に背負っているのだと、野次馬に印象づけていた。ドゥヴァン氏は、飾り窓ガラスのなかで、立ったまま仕事にとりかかっていたが、まだ完全にはマネキン人形に衣装を着せ終わっていなかった。仕事の手をやすめ、野次馬の喋《しゃべ》る言葉に、耳をすましているところだった。
マレイズは、しばらくその様子を見まもっていたが――警部の関心は、ドゥヴァン氏の飾り窓ガラスが、どんなヤクザ野郎の石で砕かれたか? ということだったが――それから十分後には、昨夜と異なり、トラブルもなく、駅長に乗車券の切符を見せることができた。
「やあ駅長、このまま通っていいのですか?」と、マレイズがいった。
「時間がないんだ。すぐ発車します。出発の合図が聞こえるでしょう」
駅長にしてみれば、すぐにでも、この悪魔野郎に出発してもらいたいのだ。到着もしていない列車が、出発すると嘘《うそ》をついている。しかし、駅長は、時間が経過すれば、この嘘に心が傷つき、いつまでも、そのことが頭のどこかに残ることになろう。
ひどくゴワゴワしたスカートをはいた百姓女と、目覚めの悪い不機嫌《ふきげん》な顔の外交員と肩を並べて、マレイズは、この小駅のプラットフォームに立っていた。
駅長の言葉にもかかわらず、定刻に列車が到着しなかった。警部は、いらいらして二十分も待った。八時四十五分に到着するはずの列車が、九時二分にやっと、遙か遠くの曲がり角に姿を現わし、のろのろとこちらに前進してくるのだった。
警部は、ドアガラスに喫煙室と掲示された客室を見つけると、大きな溜息《ためいき》をつきながら、その客室に入った。その溜息が、あきらめの溜息か、それとも心残りの溜息か、時間が経過すれば、結果はわかることだ。
警部の真向かいで、司祭が幸福そうな顔をして、胸に手を置き、スヤスヤと睡っていた。向こう側の列車からは、鋭い声で泣く子供の声が聞こえてきた。
もしマレイズが、ベルギー国有鉄道の時間表を熟知していたなら、このような汽車の遅延に、少しも愕《おどろ》かなかっただろう。それどころか、この小駅で待つ時間が意外にわずかなことに、首をかしげたはずだ。警部は、時計を見た。九時十三分……だ。乗降口から、あたりを見回した。プラットフォームには、見渡すかぎり人影がなかった。
マレイズは、何か口のなかでブツブツ呟《つぶや》いた。機関車がするどい発車の汽笛を鳴らすと、警部はガラスドアを開いた。まずスーツケースを投げおろし、次いでプラットフォームに飛び降りた。
機関士は、蒸気がたちこめるなかで、機関車から首を出していた。その前で、駅長と助手が、大声で喋《しゃべ》っていた。助手の腕が、何かを抱いている。
マレイズは、その場所に、大股《おおまた》で歩きながら近づいた。
「ちょっとお訊《たず》ねしますが!」と、警部が大声を張りあげた。「この列車は、何時発ですか? 八時四十五分発ですか、それとも、十七時十分発ですか?……」
駅長は身体をぐるりと警部のほうに向け、きつい眼でにらんだ。がすぐに、相手がマレイズだとわかると、駅長は態度を変えた。
「急いで、客室にお戻りなさい」と、駅長が不機嫌にいった。「すぐ発車しますから……」
けれど、警部は、駅長の言葉に従おうとはしなかった。
「なんですか、それは?」と、警部は、助手が抱えているものを、指さしながら訊ねた。
「これですか?」と、助手は、どう答えたものか、ちょっと考え込んだ。「これは……」
助け舟を出したのは駅長だった。身ぶりをまじえたお喋りだった。
「あすこの……二百メートル先のレールの上に、横たえてあったんですよ……。誰かわからないが、汽車に轢《ひ》かせようと計算して、レールの上に置いたんですよ!」
マレイズは、返事をしなかった。助手が鉄道線路を巡視し、そのときに発見した腕のなかのものを、手柄顔に報告していたのだ。警部は、助手の腕のなかのものを見まもった。
それは、マネキン人形だった。洋服屋のドゥヴァン氏の破れた窓ガラスのなかに飾られていたと同じマネキン人形だった。三ツ組の背広が着せられていたが、ひどく不自然だった。
「ごらんなさい!」と、助手が、抱えている人形を警部に示した。「ごらんなさい、この無残な顔を……」
本当に、助手のいうとおりだった。誰かが作為的に、こんなひどいことをしたのだ。蝋《ろう》づくりの顔が、めった切りにされていた。頬《ほお》の塗料がはげ、鼻はそげ、眼はくり抜かれていた。手足はバラバラに切断され、見るからに怖ろしい有様だ。狂人の仕業としか思えない。見ているうちに背筋に冷たいものが走った。むろん、傷口から血が流れているわけではない。無数の切り傷のついた唇《くちびる》が、微笑をたたえている。
マレイズは、自分がタフな男だと信じていたにもかかわらず、思わず視線をそらした。死刑執行人の手腕を認めたからだ。マネキン人形の心臓をナイフがつらぬき、その柄が見えていた。人形の心臓をズバリと突き刺していた。
「どうです」と、駅長がいった。「ご感想は?」
マレイズは、無言のままでいた。彼はじっと考えていたのだ。≪確かにこれは、ゆるしがたい事件だ。まさしく殺害事件だ……≫と。
しかし、警部のこの考えは、滑稽《こっけい》で、非現実的で、そのうえ暗示的だった……。
その問題のマネキン人形が、いま、警部の顔前にあった。両眼をえぐられ、口もとに微笑をたたえ、顔面を切りきざまれ、苦痛の跡がないにもかかわらず見る者を顫えあがらせ、そのうえに、柄《つか》まで通れと、グサリと心臓をひと突きなのだ。
そのうえ、この破壊芸術作品をさらに完全に仕上げるため、殺害犯人は、鉄道線路の上に被害者を引きずってきて、レールの上に横たえた。始発の列車が通過すれば、このマネキン人形は、木端微塵《こっぱみじん》に砕かれると計算されていた。
これは、明白な殺害事件なのだ。それにもかかわらず、誰もがこう反論するだろう。
≪マネキン人形を殺害することはできない! 物質《もの》には生命がなく、ましてや人間としての人格もない。生命のないものに、死を与えることはできない……≫と。
駅長は、その場から立ち去ろうとしない警部の態度に、少々おこり出していた。手に警笛を持っている。
「さあ、早く客車に乗ってください。出発の合図をしますから……」
「かまいませんよ、どうぞ、どうぞ……」と、マレイズがいった。「わたしを残して、出発させてください。わたしは、ここに残りますから」
三 世界最大の犯罪
旅客列車の長い行列が、徐々に速度をはやめた。駅長は、マレイズに身体を向け、助手が相変わらず抱えているマネキン人形の首を、指でさした。
「この人形があなたの興味をひいたため、ここに残られるのですか?」
マレイズは、昨夜、警部という自分の身分を明らかにしていた。したがって、警察官という職業からしても、このような異常な事件にぶつかれば、捨てておけないし、個人的にも、興味深いことだった。
「まるで、笑劇《ファルス》だな!」
警部は、額まで目深に帽子をかぶり、パイプをくわえ、眉《まゆ》をひそめ、じっと立っていた。顔前をじっと見まもっていたが、じつはずっと遠くの、時間を越えた空間を見つめていたのだった。
「たしかに、あなたがおっしゃるように、じつに悪質な笑劇《ファルス》ですね!」と、駅長が、警部のいった言葉に、こだわった。
マレイズは、自分が警官であってよかったと、改めて自分の立場のことを考えた。
「無人格の人形が殺害されたと考えると、じつに滑稽です」と、警部は、自分の考えを述べた。「でも、わたしは、必ずしもそうは思っていませんがね」
警部はさらに、ずばりといった。
「滑稽といえば、あなただってそうでしょう。昨夜あなたは、理由のない幻影におびえ、ピストルを手にしたのですからね。あのピストルには、わたしも唖然《あぜん》としましたよ……」
駅長は、むっとした顔で、黙りこくっていた。そのままで、長い時間が過ぎ去った。もう列車の驀進音《ばくしんおん》も、聞こえてこなかった。
やがて、マレイズは、言葉を口にした。語りかける目標はなく、理解してもらおうと、期待してもいなかった。誰も耳を傾けてくれなくてもよかった。自分に語りかけていたのだ。
「わたしの意見が知りたいのでしょう」と、ゆっくりした口調で、警部がいった。
「昨夜、犯罪が行なわれたのです。それもとびきりの、世界で最大の犯罪が行なわれたのですよ……」
警部のいい方は、断定的で、頑固《がんこ》で、独断的であった。
駅長と助手は、互いに疑い深そうな視線を交わしあった。警部の意見の理由がわからなかったからだ。ふたりとも、警部の発言の原因が、マネキン人形であると、気がついていなかった。警部は、困惑している二人を、嘲笑《ちょうしょう》していた。
「きみが」と、突然マレイズが、助手に話しかけた。「このマネキン人形を発見した、正確な場所に、わたしを連れていってください……」
警部は、唇をじっと噛んだ。マネキンといわず、死体といいたかったからだ。
「承知しました」と、助手が答えた。しかし、すぐ、抱いている人形の処置に困り、「この人形は、どうしたらいいのですか。ここに残していいのですか」と、訊いた。
マレイズは、助手からマネキン人形を受け取り、駅長に差し出した。
「お願いしますよ。これを駅の事務室に厳重に保管し、誰も近づけないようにしてください。何か事故が起これば、あなたの保管責任が追及されることになりますから……」
駅長は、機械的な動作でマネキン人形を受け取り、警部に抗議するために、口を開こうとした。しかし、マレイズは、助手を促して、すでに現場に向かって歩き出していた。歩きながら、警部は、強烈な満足感と喜びを味わっていた。待望久しい大事件の渦中に、今や身を投じている。それも、世界に類例のない極めてユニークな事件なのだ。警部自身も、長い警察生活のなかで、このような特異な事件にぶつかったことがなかった。
「ここから、二百メートルほど先のところです」と、助手が説明した。「トロッコで行きましょう。でも、目的地に行っても、なにもありませんよ」
「できるだけのことをするんだ!」と、マレイズは、助手の言い分に頷《うなず》いた。
目的の線路の上に、青い小さな雲が流れていた。「あそこか……」といって、警部は、その方向にパイプを向けた。パイプのけむりが大気のなかに散った。
二人を乗せたトロッコは、猛進する競馬のような速さで、たちまち目的地に到着した。
「ここですよ、たしかです。そうです、ここです。線路に横になって、背中を上にして、寝そべっている格好でした。頭はこちらのレールの上、足はそちらのレールの上に乗っていました……」
マレイズは、助手の説明を正直に聞いていたのであろうか? 聞いている様子はなかった。辺りの地上を、しきりとあちこち視線を走らせていた。盛り土の上に上がった。そこから、マレイズが泊まった旅籠の裏手が手にとるように見えた。彼が宿泊した部屋の窓は、開いたままだった。
≪寝具を風に当てているのだな≫と、警部は考えた。トロッコのところまで帰ると、警部の唇に微笑が湧いた。
「あの盛り土の上を歩いたのは、きみですか?」
警部は、盛り土の濡れた砂の上に、くっきりと残っている、足跡を指さした。
助手は、頭で大きく否定した。
「絶対に、歩きません」と、大罪を告発したマレイズに対し、猛然と反発するとでもいうように、勢い込んで助手が叫んだ。「わたしは、ここまで線路の上を歩いてきたんです。ここでマネキンを発見し、拾って戻ったのです。鉄道線路に敷いた砂利の上しか歩いていません」
「そうだろうな。それで、わたしの考えとピッタリだ」と、警部がいった。
警部は身をかがめ、皺《しわ》くちゃの新聞を外套《がいとう》のポケットから引っぱり出し、さらにズボンのポケットから、大型のナイフをとり出した。
エイメ・マレイズのナイフは、ベルギー警察のなかで、有名な代物《しろもの》だった。彼が警察に奉職した記念すべき日以来、同僚の話題となり、さらに冷笑の対象となった。もともと警部の七ツ道具が物笑いの種《たね》だった。たとえば、鑢《やすり》だが、当然のことに陰口の対象となり、栓《せん》抜き兼用の鉤《かぎ》を使用するときなど、格好の嘲笑の餌食《えじき》となり、鋏《はさみ》も例外ではなかった。しかし、その反面、日に二十回も、「きみのナイフを貸してくれ」と、マレイズは申し込まれていた。警部は、根は好人物だったので、こころよくそのナイフを貸していた。警部は、署内のこうした嘲笑を、完全に無視した。大小の刃、鑢、栓抜き兼用の鉤、鋏……。その他もろもろのもの……。警部は、七ツ道具の無限の効用を、かたく信じていた。
マレイズは、土の上に残った靴跡の上に、皺くちゃの新聞紙を突っ込むと、僚友の嘲笑の的となっていた例の鋏で、靴の底で押さえたまま、あまった新聞紙を見事に切りとった。つぎに、注意深く、書類|鞄《かばん》のなかにしまった。それが終わると、警部の動作を見まもっていた助手のほうに向きを変え、口を開いた。
「さあ、ぼつぼつ帰るとしよう」
駅長は、溜息をひとつつくと、マレイズに頷いて見せた。厳重に事務室のドアを閉めると、マネキン人形のうつろな眼を、ハンカチで覆った。
「なにか特別なものでも、発見なさったのですか?」と、駅長が話しかけた。
警部は、頭を横にふった。
「いや、何も変わったことはなかったですよ」
「ところで、わたしは……」と、駅長が、話題を変えた。
そして、キョロキョロしていた駅長の、疑い深い視線が、マネキン人形の上でとまった。
「……わたしは、このマネキン人形が、どこにあったのか、知っているのですよ!」
「ほほう。誰があなたに喋ったのですか?」
「誰も喋りません。ただ、その窓の外で話すおしゃべりを、小耳にはさんだのです。その話によると、昨晩、マネキン人形が盗まれたとか……」
「ドゥヴァン氏の洋服屋ですね」と、マレイズが、駅長の話をしめくくった。
四 ≪ひげ≫に訊《き》け
「椅子《いす》をどうぞ、警部さん!」と、ドゥヴァン氏が、癇癪持ちらしく、せっかちにいった。
「あなたがお訪ねくださったのは、神の摂理です……。神の摂理をお信じになりますか? もちろん、わたしは信じていますよ……。きのうも、≪ひげ≫と話し合いました。≪ひげ≫は女房の愛称《ニックネーム》です。≪お互いを結ぶものは何もない。結ばれるとしたら、神の摂理による仲介だけ、とね≫いかがですか、ポルト酒でも少々おやりになりませんか?……。ところで、あなたは、わたしをお信じになれますか。それとも、お信じになられませんか……」
「むろんわたしは、信じていますとも」と、マレイズは、溜息まじりにいった。
「それはそれは、まことに結構なことです。ことわたしに関しては、嘘も誇張も、申しあげはいたしません。小羊のように従順な≪ひげ≫とわたしは、いつものように、昨晩も食事のあとで、やすむために階上《うえ》に上がったのですよ……。どんな日でも、この原則に背くようなことは、絶対にしません。早く寝て、早く起きるのが、わたしの家憲です。よろしかったら、≪ひげ≫に訊ねてみたらいかがですか!」
警部は、ポケットからパイプをとり出し、くゆらし始めた。ドゥヴァン氏が完全に話し終えるまで、パイプをくゆらしているつもりらしい。このおしゃべりの洋服屋は、気持ちよく招待してくれたが、もともとマレイズは、長話をするつもりではなかった。しかし、長年の経験で、彼にはわかっていた。ドゥヴァン氏のようなタイプの男は、話は下手だが、大変に有益な内容の話を語ってくれるものだ。多弁のおかげで、どんな些細《ささい》なことでも、語り落とすということがなかった。
「晩がたから深夜にと続くわけですが、いずれにしても、この辺りは、異常に静かです。客も来なければ、映画館もなく、ラジオさえないのですから。どうです、このような環境がお好きですか? わたしは大好きですね。その理由を申しあげますと、どんな犠牲をはらってでも、平和だけは自分のものにしておきたいからです。そのために、街なかに住むことを諦《あきら》めているのですよ。わたしのささやかな希望は、活気に満ちた世界の外で生活することです。≪ひげ≫がおやすみなさいとわたしに告げると、わたしは≪ひげ≫の傍《そば》に横たわるのです。むろん、悪い習慣だとはぞんじていますがね。そして、すぐに眠ってしまいます。何もかも忘れて。いずれにしても、実際あったことをありのまま申しあげなければいけませんね? あなたは、わたしの説明を待っておられるのですね。明けがた、ぐっすり眠っている間に、このわたしは、短い夢を見る傾向があるんです。ガラスが砕ける大きな音で、この夢が破られ、びっくりして目覚めたのです。悪い夢を見て、そのために目覚めたのではないことが、自分にわかりました。≪ひげ≫がわたしと同時に、目を開けたのです。≪お前も聞いたかい?≫≪聞きましたよ≫≪あの音は階下《した》で起こったんだ≫≪そうですよ、店ですよ!≫わたしは、もう立ちあがっていました。≪ともかく、見に行かなくては!≫あなたは、近所の口さがない女どものことをごぞんじですか、警部さん。≪ひげ≫は何度も大声をあげて、階下《した》におりるのをとめました。階下《した》で何が起こったのか、わかっていたので、わたしの身を心配してとめたのです。≪金庫破りでないという保証はないんですよ≫≪ひげ≫は何度もかきくどくように申しました。わたし自身も、そのいい分をもっともだと考えましたので、なかば破れかぶれになり、どうともなれと、捨鉢《すてばち》になっていました。誰だって、そんなときは、こんな心理状態になりますよね、警部さん……」
「ところが、案に相違して、なんでもなかったんですよ」と、ドゥヴァン夫人が口をはさんだ。「店の大きな帳簿が落ちた音だったんですよ」
「お前は、わたしがかっとなって、何をやらかすかわからないと思って、怖がっていたんだ。ともかく、わたしは、カッカしていたのだからね……」
「つまり、あなたは、頭にきて、部屋から飛び出したのですね?」と、マレイズは、しびれをきらして、そう口をはさんだ。
「おっしゃるとおりです。わたしは大急ぎでズボンをはき、懐中電燈をポケットから、ブローニングをナイト・テーブルのなかからわしづかみにし、部屋のドアを開けたんです。わたしが、ブローニングを所持しているからといって、まさかあなたは愕《おどろ》かれはしますまいね。ごぞんじのように、このような田舎《いなか》では、浮浪者が多いので、用心のために所持しているんです。しかし、ピストルを所持しているからといって、臆病者だというわけではありません。わたしの考えでは、用心こそ真に勇気ある者がすることで、思慮分別がなければ、用意しないのです。そうじゃあありませんか。ところで、階下におりたわたしは、ひとめ見ただけで、店の中の損害をたちまち計算してしまいました。砕けたショウ・ウインドーのガラスの破片が四散し、陳列品がめちゃくちゃにほうり出されていることに気づきました」
「お訊ねしますが」と、マレイズがいった。
「店には、自動鎧扉《オートマチック・ドア》がおろしてなかったのですか?」
「おろしてあるにはあるんですが! じつは、水曜の日から動かなくなっていて、修繕してなかったのです。神様への祈祷《おいのり》のことを考えてください。祈祷は、必ず実行しなければならないものですが、どうかすると一日延ばすことがあります。明日から必ずしようと誓うのです。いつも明日、明日と思っているうちに、一週間ぐらいは、たちまち過ぎ去ってしまいます。つまり、それと同じことで、うちの店の鎧扉も、そんなわけで半開きの状態になっていたものですから、泥棒《どろぼう》のやつめ、こいつは好都合と、利用しやがったんです」
「じつに奇妙な泥棒だね!」と、マレイズが呟いた。「普通の泥棒だったら、こんな盗みかたはしない。二つあるマネキン人形のうち、一つだけ持ち去るなんてことは、常識では考えられないからね」
ドゥヴァン氏は、コップをたかだかと上げた。
「健康を祝して、警部さん!」
ポルト酒をぐっと一気に飲みほすと、ドゥヴァン氏が話しつづけた。
「警部さんのお疑いはもっともです。まことに奇妙な泥棒です。じつのところを申しあげますと、店の銭入れにも手をつけていないのですから、これにはますますびっくりした次第です。懐中電燈の光をたよりに、ちらっと一瞥《いちべつ》しただけでしたので、完全にわかったわけではありません。最初に目についたのは、相当な分量の布ぎれでした。織物、毛織物、輸入もののイギリス製服地、ヴェルウィエ……。わたしの日頃からの商法に従えば、良質のものしか売らない、それも最上のものだけを……。それがわたしの仕事をするうえの鉄則です。最新型の洋服が、衣装掛けにたくさん吊《つる》してあったのですが、これこそ泥棒にとって格好の獲物《えもの》だったはずです。けれど、ぜんぜん盗まれていなかったのです。つね日頃から、店に灯りをつけておくということを実行していたわけですが、これが泥棒の仕事を制約したのではありませんか……」
マレイズは、ドゥヴァン氏のすぐ傍の長椅子に置いてある包装した包みを見て、あることに思い当たった。
「盗まれた人形は、おそらく、特別に高価なマネキンだったのでしょう。顔が蝋でつくられ、そのうえ全体が精巧につくられていたので、盗む気になったのでしょう……」
ドヴァン氏は、肩をすくめた。
「とんでもない……。お笑い草の代物《しろもの》ですよ。盗まれたマネキン人形は、寺院の近くの商店街に住む、ジャコブ老の家から、わたしが手に入れたものですよ。焼き捨てるしかしようのないような、がらくたの古家具のなかで、まるで溺死者《できししゃ》のように、ポツンと首を浮かべていたんですよ。特別にほしかったわけではないのですが、ジャコブ老があまり誉《ほ》めるものですから……」
「その首をお買いになってから、ずいぶん月日がたったのでしょうね?」
「ところが、違うのですよ。買ったのは、つい最近です。やっと、十日ぐらいのものですかね。なんでしたら、≪ひげ≫にお訊ねになられては……。そうです、手に入れたものの、すぐマネキンとして陳列したわけではなかったのです。飾り窓に陳列したのは、一昨日からでした……」
「あなたに勧めるほどよくできた人形の首を、ジャコブ老は、なぜ簡単に焼却物のなかに入れておいたのでしょうね。よく考えてみてください。本心から焼却しようと考えていたのでしょうかね。それとも、あなたに売ろうとして、甘言を弄《ろう》したのでしょうか」
ドゥヴァン氏は、頭を抱えた。
「じつにむずかしいご質問です。腹ペコのわたしが、パンをひときれ恵まれて、それを誰かにくれてやれと強制されるようなものです」
「その夜、あなたが店にお降りになったとき、逃げ出す泥棒の姿をごらんになりませんでしたか?」
「もちろん見ませんとも。わたしが店に足を踏み入れたとき、店内は静まりかえって、人の気配はありませんでしたよ。ガラスが砕けて、マネキンが姿を消していただけです……」
「泥棒がマネキンを盗んだ、正確な時間をお話し願えませんか?」
「正確な時間ですって。そりゃあ不可能ですよ。でも、大体の時間ならわかります。盗まれたのは、十一時十五分から二十分ぐらいの間でしたよ……。≪ひげ≫が心配していると思って、階段をのぼり、寝室に戻ったのですが、たまたま、そのとき柱時計を見たんです。ちょうど、十一時半を打っているところでした……」
≪十一時半か≫と、マレイズは考えた。≪その時間に、おれは旅籠で服をぬいでいた。犯罪が行なわれたのは、深夜だったのだ。しかも、この街のひとは、何か事件が起こりそうだと思い、ビクビクしていたのだ!≫
「いかがですか、もう一杯ポルト酒を!」
しかし、マレイズは黙ったままでいた。警部は、考えつづけていたからだ……。
彼は、考え得るあらゆる場合を組み合わせていた。どれもこれも、考えれば考えるほど謎に満ち、異常だった。思考の中心は、砕かれた飾り窓のガラスと、盗まれたマネキン人形だった……。泥棒は、なぜマネキンを持ち去ったのか。毒にも薬にもならぬマネキンを盗んで、どうしようというのか。どのような理由で、盗んだ人形を短刀で突き、手足を切断して、鉄道線路に横たえたのか?
「最後にひとつだけ、お訊ねしたいのですが、ドゥヴァンさん! 左足がちんばで、視線の動かない眼をし、ざんばら髪で異常に痩せた男を、ごぞんじないでしょうか? 着ているものは……」
「ああ、その男なら知っていますよ」と、ドゥヴァン氏が叫んだ。「それは、ジェロムのことです」
「ジェロムというのですか?」
「街にダニのように巣くっている、白痴ですよ……。じつに不幸なやつで、乞食《こじき》と泥棒を半々ぐらいにして、食いつないでいるのです。寝るところといえば、納屋か水車小屋で、青空の下で寝ることもあります。そういえば、ここ数週間姿を見かけませんが、街の噂《うわさ》では、何か悪事を犯したとかで、どこかに身をひそめているということですが……。夢遊病者のように、夜な夜なさまよい歩いている姿を、よく見かけたものです。≪ひげ≫にお訊ねになられては……」
マレイズは、ひどく疲れたと思った。
「ジェロム……白痴……」
こうして、聞き込み捜査を開始した警部は、思わぬ手掛かりをつかむことになり、事件の真相究明に向かって、つっ走りはじめたのだった。
五 古物商
事件の手掛かりをとらえたのだ。ひとことだが、その言葉には、謎をとく重要な鍵が秘められていると、警部は直感した。
白痴の存在が確認されたからだ。
エイメ・マレイズは、マネキン盗難が行なわれた二十分ほど前に、洋服屋が住んでいる通りのほうに向かおうとしている、問題のその白痴の男と会っていた。それだけではない。鉄道線路の盛り土の上に、その男の足跡を認めたではないか。鋲《びょう》を打った靴を履き、しめった砂の上に、靴の跡を残していた。
この二つの事実を組み合わせると、一つの仮定が、警部の頭のなかで組み立てられた。
マレイズが、昨夜|旅籠《はたご》の自分の部屋から望見した、人間の形をした荷物を引きずり、サン・アンドレ寺院の十字架の方面に向かって歩いていた影法師は、間違いなく盗んだマネキン人形を背負った、ジェロムという白痴ということになるのだ。
それにしてもなぜ、この窃盗犯は、人形の手足をバラバラに切断したのか。奇怪な行動としか、いいようがなかった。
もう一度、じっくりと白痴という言葉の意味を考えてみようと、警部は思った。白痴だから、行動が異常なのであろうか? 果たしてそうなのか? と、突然、警部の脳裡《のうり》をよぎったのは、白痴という言葉にこだわりすぎては、真相の究明ができないのではないかということであった。いずれにしても、じっくり時間をかけて考えるべき問題なのだ。そうは思うものの、≪殺害されたマネキン人形≫とは、いかにもできすぎている、という考えを捨てきれずにいた。狂人の仕業と解釈するのが、もっとも平凡な解決方法だった。たしかに、狂人の仕業と割り切ってしまえば、一応の納得がゆく――しかし、それでも、死人同然の人形を殺害するという不可解な行動が、どうしても、ひっかかるのだが――ジェロムという白痴は、石か舗石で洋服屋の飾り窓のガラスをたたき割り、マネキン人形をかつぎ出し、なにかの怨恨《えんこん》を根にもって、ナイフで突き刺し、線路のうえに引きずっていった。たぶん、蝋人形の顔に見覚えがあったのだろう。かつてどこかで怨《うら》みを受けたことのある敵の顔に似ているために、憎しみがドッと湧きあがったのではあるまいか?
こう考えながら、エイメ・マレイズは、駅へ通ずる道を、機械的な足どりで、歩いていた。つぎに警部は、現在までに書かれたあらゆる探偵小説、あらゆる犯罪実話のなかにも、こんな奇怪な事件は、まだ書かれていないことを知った。この事件は、まさに≪世界最大の犯罪≫であると、確信を持った。そう考えると、すさまじいファイトが湧きあがり、事件解決のために全力を傾けようと心に誓った。手掛かりは平凡な現象のなかにあるというのが、警部が日頃から考えている心がまえであった。事件を解明するためには、ごく微細な一見平凡な現象でさえ、見落とすことはゆるされなかった。たとえ、不条理だと思えることでも、見捨てることなく、その現象をとらえて、論理的解明を試みるべきなのだ。いかなる困難が前途に横たわっていても、調査が困難をきわめても、生命を賭《か》けて解決の手段を発見すべきである。十七時十分の普通列車に乗ることができず、そのために駅長が嘲笑しようとも、この地に残り、必ず最後の勝利をかちとらなければならない。
警部は、調査にあまり協力的でなく、たえず質問をはぐらかそうとしたドゥヴァン氏の発言を、精力的に何度となくじっと考えつづけていた。
しばらく考えているうちに、警部は、ドゥヴァン氏の発言のなかから、あることを発見した。
シャーロック発の列車に、ジャコブ老人から買った価値あると思えないマネキン人形を、なぜ轢《ひ》かせなければならなかったのか。なぜひどく急いで、洋服屋からマネキン人形を持ち出したのか。この二つの現象と、白痴のジェロムが行なった犯罪行為との間に、どのような結びつきがあったのか。しかし、この問題を別としても、人形を中心とした出来事は常軌《じょうき》を逸し、疑えば疑うほど、疑惑が深まるばかりであった。
マレイズは、ジャコブ老人に会って、事情を訊ねてみようと決心した。もしこの調査が徒労に終わっても、一列車遅れるだけだと思った。
警部は、その考えどおり、寺院通りまで来た。お目当ての古物商の店舗は、鍛冶屋《かじや》と酒場にはさまれていた。半開きの入り口から、雑多な古道具が乱雑に山積みになっているのが見えた。しかも、古道具の山が、舗道まであふれていた。店名の文字が古びて、ところどころ読めないところがあった。これはまるで謎ときであった。
「どなたか、おいでですか?」と、マレイズは、入り口に並べてある古ぼけたデッキ・チェアに足をかけ、大声で叫んだ。店内は使用不能の家具が乱雑に、しかもギッシリと、低い天井まで積み重ねられていた。そのため、警部は、店の奥に行きつくまでに、古道具の下敷きになるのではないかと思い、うんざりした。いたるところ、びっこのテーブル、背凭《せもた》れや座部が欠けた椅子、スプリングがはみ出した長椅子、満足な形をしたのが一つも見当たらない小装飾品などが、目白押しに雑居していた。例のマネキン人形は――この考えが即座に脳裡に浮かんだのだが――ここでは、一番ましな代物であったにちがいなかった。もともと、急場しのぎでマネキン人形が調達されたというなら、それはそれで説明がついた。いずれにしても、このがらくたの山のなかから、例のマネキン人形が調達されたということには、疑惑の持ちようがなかった。
「お入りください。どうぞ、どうぞ。怖れてはいけませんよ。この店で事故が起こったことは、一度もないのですから。ところで、なんのご用でしょうか……」
赤みがかった黒頭巾《くろずきん》をかぶったひとりの老人が、長椅子の透かし彫りのある背凭れの背後から、姿を現わした。しおたれた小さな顔に、とがった頬骨が浮かびあがり、樹《き》のように長い手を交互にブラブラさせていたが、痛風で関節が痛いらしかった。
「なんのご用でしょうか……。ルイ十四世時代の絨毯《じゅうたん》でもおさがしですか? それとも、ルネサンス時代の絵画でしょうか? もしお望みでしたら、新品もお取り揃《そろ》えいたしますが……」
「ほしいのは、マネキン人形だ!」と、マレイズがいった。
両手をポケットに落とし込み、消えたパイプをくわえ、額まで目深に帽子をかぶり、どっしりと尊大にかまえ、警部は単刀直入にズバリといった。
「洋服屋で使う、マネキン人形だ!」
しかし、ジャコブ老人は、顔色ひとつ変えなかった。顎《あご》をなでただけで、眉ひとつ動かさない。警部の言葉を気にかけていない証拠だった。
「それでしたら、心当たりがございますよ」と、古物商は、突然立ちあがって、もみ手した。
「傑作中の傑作で、ほれぼれするような珍品がございます。蝋人形でしたね。ちょっとお待ち願えれば……。店の信用にかけまして……ひとっ走り行ってまいりますが……」
この言葉に、マレイズは、わが耳を疑った。≪なんて厚顔無恥な男だ。ノアの長男の、あの破廉恥なセムと同じじゃないか。ドゥヴァン氏からマネキン人形を買いもどし、高い値でおれに売りつけようという魂胆だぞ。が、待てよ。そうだとすれば、昨夜の出来事とは無関係ということになるが……≫
「おやめになることですな、ジャコブさん! ドゥヴァンさんのとこに行くつもりでしたら、無駄《むだ》というものだ……。あなたが売ったマネキン人形は、昨夜盗まれ、けさがた、こなごなになって、鉄道線路の上で発見されましたよ。じつを申しあげますと、マネキン人形を買うのが、訪問の本当の目的じゃないのです。これが、わたしの名刺です。ブリュッセル警察の警部です」
この老人が明らかにした事実は、マネキン殺害に直接手をくだしていないということであった。老人はもみ手をやめ、ぶるぶる顫《ふる》え、臆病そうな眼で、警部の顔色をうかがっていた。
「わたしは、正直に商売をしている者です」と、顫え声で、警部に抗議した。「わたしをお調べになっても、塵《ちり》ひとつ出てきませんよ」
「別に疑っているわけではないのですよ」と、マレイズがおだやかな口調でいった。「わたしが知りたいことは、問題のマネキン人形を、どこから手に入れたかということです」
ジャコブ老人は、ほっとした顔で頷いた。
「警部さんは、わたしのことを誤解していなさる」と、古物商がマレイズを非難した。「わたしは、誠実な客筋から買ったので、法律には少しも違反していないのです」
「その客に、迷惑をかけたくない、ということなのですね、ジャコブさん……」
そういって警部は、ユダヤ人の肩をちょっと押した。そのため、ジャコブ老人は、店の中央に押し出されることになった。
「ドゥヴァンさんは、神様のように敬虔《けいけん》なお人柄の方です。あなたは、この立派なお客と取引をなさった。むろん、あなたも神を信じておられると考えますが……。じつは、わたしに少々解らないことがあるので、その点をお話し願いたいのですが……。神に誓って、真実を述べていただければ、わたしとしてもありがたいのです。率直に申しますと、あなたがごぞんじのことをお聞かせ願いたいのです。といっても、大したことではないのですよ。蝋づくりのマネキン人形のことですが……。洋服屋に売ってしまったもので責任はない、とおっしゃりたいのでしょうが……。人形を買ったのは、この店の近くの洋服屋ですね。洋服屋をだましたなどとは考えていません。どんなに上手に売りつけたところで、あの人形では、大金がポケットに転がり込むとは思えませんからね。そんながらくた人形を、遠方から買ったのでは、あなたとしても商売にならないでしょう。そうじゃあありませんか、ジャコブさん……。わたしが話していることを、お聞きになっておられるのでしょうね? わたしは、捜査に従事している警察官ですよ」
警部は、老人の顔をじっと見まもったまま、相手のベトベトに汚れたフロックコートを、手でぐっとつかんだ。
「あなたにお訊ねしているんだ。マネキン人形は、どこで手に入れた!」
古物商は、困りきった顔をしていた。なんとかうまく、責任を逃れたいという顔つきだった。警部に答える声には、力がなかった。
「どのようにお答えすれば、警部さんのお気に召すのでしょうか……。あまりご期待にそえないとぞんじますが……。どの品物も、手に入れた場所は、それぞれ違います。倉庫にも、まだまだたくさんございますが……。ところで、ご質問のマネキン人形のことですが、あれは競売で手に入れましたもので……。わたしどもは、しばしば競売で品物を買います。ご承知のとおり、競売で買いました品物については、それ以前の所有者のことは、まったく承知しておりませんので……」
マレイズは、入り口のドアに背をもたせかけていた。警部の堂々たる体躯《たいく》が入り口をふさいでいたため、店内に陽《ひ》の光が入るのをさえぎっていた。
「どこで、マネキン人形を手に入れたんだ?」と、落ち着いた声に凄味《すごみ》をきかせて、警部は、もう一度同じ質問を繰り返した。
「ご返事は、すでに申しあげました。そのほかのことは、わたしはなにもぞんじません。神に誓って、真実を申しあげているのです。わたしは、正直な商人で、正しい商取引で人形を買い入れたのです。わたしが申しあげられますことは、これで全部です!」
マレイズは肩をすくめ、ポケットからマッチ箱をとり出すと、ななめに鉤《かぎ》のついた家具でマッチをこすった。それから、ジャコブ老人の鼻先に、パイプをぬっと突き出し、火をつけた。
古物商の老人は、両手で頭を抱え、肩をブルブル顫わせ、恐怖におののいていた。
「わたしが申しあげたことは、真実です」
マレイズは、この辺で相手をおどさなければ、埒《らち》があかないと考えた。先ほどから、坐ってもこわれないと目星をつけた椅子があった。座部はないが、尻を落とすだけなら、なんとか坐っていられそうだった。たしかに、坐り心地はよくなかったが、どうにか腰を落ち着けることができた。
「気を落ち着けて、じっくり聞くんだな、ジャコブさん」と、警部は、落ち着いた口調でいった。「わたしは、特別に急いでいるわけではない。しかし、あなたのようなお年寄りを相手に、長居をするつもりはサラサラない。あなたの返事を、五分だけ待つことにする。五分間待って返事がなければ、警察に同行願うことにする。そうすれば、時間を気にしないで、じっくりとお話をうかがえるが……」
ジャコブ老人は、水に落ちたネズミが、はいあがろうともがくように、それでも四分三十秒がんばった。それから、入り口までゆき、ドアを閉めると、グラグラした椅子に、うなだれて腰を落とし、口のなかで、ボソボソと呟いた。
「なにもかも、お話しいたします……」
六 追跡
閉めたドアが、太陽の光の侵入をさえぎっていた。ただ、灰色の窓から入り込む光で、ひどい埃《ほこり》が、わずかに見分けられた。薄暗い店内で、ジャコブ老人が、一切の事情を説明しはじめた。老人は、息苦しそうに低い声で喋《しゃべ》り、たえず骨ばった長い手をふりまわしていた。残念なことに、警部は、感情を隠せない性格だった。乱雑に積み上げられた古道具と、こわれた家具のなかで、老人の奇妙な話を聞いた。
「いまから二週間ほど前のことです。そうです、正確に二週間前のことでした。月曜日でした。ぞっとするような美しいお嬢さまが、人形を手前にお売りになったのです。そのお嬢さまのおうちの物置部屋におうかがいすると、その部屋に、問題の人形があったのです」
「率直に、お話し願いたいのです。ジャコブさん。そのぞっとするような美人のお嬢さんというのは、いったいなんという名前なのですか?」
「ルコト、イレーヌ・ルコトさまです」
「そのお嬢さんのことを、詳しくお話し願いたいのですが?」
「イレーヌさまは、寺院広場の由緒ある大きな邸宅に住んでおられます。その日、わたしが六時ごろ、この店に帰ってきますと、≪むく犬≫とあだ名のあるイレーヌさまの召使いが、わたしの帰りを待ちわびていました。その召使いは、ルコト家に、十五年も住みついているのです。また、ルコト家の子供たちは、みなその邸宅でお生まれになったのです。≪イレーヌお嬢さまが、待ちかねていらっしゃるのです≫と、その召使いが申すのです。ルコト家の前まで行きますと、すぐにイレーヌさまが出てみえて、わたしに家に入るようにと合図をなさったのです。家に入りますと、自分のあとからついてこいと申されますので、そのあとに従って、階段のほうに歩いてゆきました」
「できるだけ簡単に、お話しください、ジャコブさん。それで、物置部屋に上がったのですね?」
警部の声が厳しく響いた。そのとき、突然、風がひと吹きし、すさまじい音を立てたため、警部の声が一段と高くなった。
「はい。大きな、じつに大きな物置部屋でした。がらくたが、うずたかくつめこまれていました。≪窓のほうに整理して積んである、あれです≫と、イレーヌさまが、ドアのところにわたしを導いて、こう申されました。≪ジャコブさん。はりこんで値をつけてください≫。ところで、警部さんがお訊《き》きになりたいのは、どのようなことでしょうか。その物置部屋には、じつはロクなものがなかったのです。肘《ひじ》のとれた肘掛け椅子、足がとれた机、満足な家具はひとつもなく、値段のつけようがない、がらくたばかりでした。さすがのわたしも唖然《あぜん》として、ただただ困惑するばかりでしたが、そんなわたしのことなどおかまいなしで、イレーヌさまは、いくらに売れるかと胸算用《むなざんよう》をしているらしいのです。わたしとしましても、ともかく、値段をつけなければなりませんでした」
そこまで喋ってジャコブ老人は、つぎの言葉につまり、困った顔をしていた。マレイズが助け船を出した。
「人形につけた、値段のことでしょう?」
「申し訳ありませんが……」と、古物商はいった。自分のつけた値段に、触れたくないらしかった。
「いいのですよ、そのことは。お答えにならなくとも。喋りたいことだけを、お話しくださればけっこうです」
ジャコブ老人は、申し訳ないという表情をした。しかし、それで決着がついたと考えていないらしく、くどくどと言い訳をした。
「いずれにいたしましても、イレーヌさまは、胸算用は別としまして、わたしが申し出た額に対して、別になにも異議をさしはさむようなことはなさいませんで、商談は簡単にまとまりました。≪いつ、引き取りにいらしていただけますか。わたしどもとすれば、すぐにでも、引き取っていただきたいのですが……≫。こちらにも、荷車を用意するという家庭の事情がございますので、翌日の朝、引き取るということで、話がまとまりました」
「すると、三日の火曜ということになるな」
「おっしゃるとおりです」
≪じつに不思議だ!≫と、マレイズは考えた。≪この老人のここまでの話では、古物商の人形を引き取る日が確定されていたわけではなく、その場の談合できまった。ジャコブ老人の話に、いつわりがあるとも思えない。また、マネキン人形だけを対象として考えてみても、イレーヌがいつ古物商を呼ぶか、呼んでみなければ、売買の日も、引き取りの日もわからなかった。イレーヌは、物置部屋のがらくたを整理して、このユダヤ人に不用品を売り払おうとしただけなのだ≫
「翌日、約束どおり、ルコト家に行き、召使いのイルマに、家のなかにいれてもらいました。≪お嬢さまはご不在です≫と、召使いが申しました。≪階段を上がって、品物を運び出してください。物置部屋のなかのものだけですよ。間違えないでください。物置部屋のなかの、お嬢さまが売却すると約束したものだけを運んでください。運び出すものは、すべてドアの傍に積んでありますからね。鍵《かぎ》は鍵穴に差し込んでありますから……≫。まったく、間違えないでくれなどと、失礼にも程があるというものですよ。信用第一のこのわたしが、なにかちょろまかすとでも思ったのでしょうか。もちろん、わたしは、召使いにいわれたとおり、何回も階段をのぼりおりしました。細かいものは袋に入れ、急いで仕事をしましたので、思ったより早く仕事が終わりました」
マレイズは、苦笑した。警部は、やっとこの男の正体がわかりはじめたのだった。≪古狐《ふるぎつね》め!≫と、考えた。この男のやることで、尊敬できることは何もない、と。
そんなマレイズを前にして、このユダヤ人は、ベラベラと喋りつづけた。
「ここに帰ってきてから、がらくたをつめた袋のなかに、蝋の首と胴体が別々に入っていたことに気がつきました。この二つを、ひとつにしてみますと、一体の人形がぴったりとできあがるじゃありませんか。これが、マネキン人形を手に入れた一部始終です」
古物商は、つぎの話題に入る前に、ちょっと時間をおいた。
「ところで警部さん、わたしが何か盗んだとでもお考えなのですか。イレーヌさまの命令を受けた召使いのイルマが、ちゃんとわたしに指示し、わたしはイルマの指示どおり、行動したのですよ。≪運び出すものは、ドアを入ったすぐのところに積み上げてあるものだけですよ≫とね。わたしは、その積み上げた雑品を、何個も袋につめ、運び出したんです。イレーヌさまはご不在でしたが、イルマが注意深く見張りをしていましたから、先方が売却したいと望んでいるものだけしか運び出しませんでした。だから、わたしが運んだものは、すべてわたしの所有物です。この点はとくに、おわかりになっていただきたいのです。わたしの心の負担を軽くするためにも、イレーヌさまにお会いになったら、充分お確かめ願いたいと思います。神かけて、偽りは申しません。ルコト家から買った品は、じつのところ、損害をこうむるのではないかと、内心ひやひやだったのです。ところが、二日後のことです。六日の金曜日に、ドゥヴァン氏が、わたしの店の前を通りかかり、マネキン人形に目にとめ、興味を示してくれたのです。警部さん、一度でも、わたしの立場になって、わたしのことをお考えになったことがありますか? ドゥヴァン氏に、それはひどく安い値段でゆずったのです。イレーヌさまが買いもどしたいとお申し出になられた場合と同じぐらい、安い値段でおゆずりしたのです」
「失礼だが」と、マレイズがいった。「ドゥヴァン氏と、どの程度の交際《つきあい》があるのですか?」
ジャコブ老人は、鼻の穴をふくらませた。
「警部さんはいろんなことをお訊《たず》ねになられる……わたしはこのような老人ですから、十年も以前のことになりますと、記憶が曖昧《あいまい》でして、はっきりと覚えていません。相当以前から、確かに取引はありましたが、細かいことまで覚えておりません……」
「しらばっくれるな」
そういうと、マレイズは立ちあがり、ドアを開いた。戸外では、雨が降っていた。警部は、胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んだ。そこで警部は、ちょっとしたことに気がついた。古物商は、雑品をこの店に持ち込んでから、マネキン人形が、がらくたのなかに入っていたことは認めたが、ルコト家に返却する考えはなかった。さらに確実なことは、ルコト家からマネキン人形が盗まれたのではなく、がらくたと一緒に、売却されたのだった。そのくせ、売却品のなかの首と胴体は、別々に切り離されていた。
「わたしが申しあげましたことは、すべて事実ばかりでございます。信じていただけますでしょうね、警部さん……」
マレイズは、ぴしりといった。
「あなたの立場で、お話しになられたことは、じゅうぶん了解していますよ」
警部は、帰りがけに、ドアの傍に隠すように置いてあったマネキン人形に手をかけ、ひょいと肩に乗せ、わざと古物商に見せびらかした。古物商は、化石のように身体をかたくし、ポカンと口を開けたまま、びっくりした顔をしていた。
「では、さようなら、ジャコブさん。幸運を祈っておりますよ」
「さようなら、警部さん。まだ何か、ご質問がおありでしょうか?」
「ありませんとも……」
マレイズは、店を出る前に、次にとる行動をきめていた。
≪事件解決のための道は、これしかない。寺院広場へ、まっすぐ行くことだ!≫
七 呪《のろ》われた家
寺院広場の邸宅は、過去数代にわたり、ルコト家一族が住んできた。建物の正面だけで、六個の窓があった。三階建てのその建物は、広場では断然ほかの家を圧し、壮大で見事な屋敷であった。往時は、穴蔵から納屋まで、蜂《はち》の巣をつついたように、元気いっぱいの子供たちが跳躍し、落ち着いた立派なこの屋敷内に、終日活気と笑い声がみちあふれていたものだ。それが今では、ひっそりと物音一つなく、家全体が長い睡《ねむ》りをむさぼっているようだった。豪奢《ごうしゃ》なこの屋敷の外観を一瞥《いちべつ》しただけで、高価な壁掛けや敷物、金製品や琺瑯《ほうろう》細工を並べたガラス・ケース、古色豊かで貴重な家具類が、地味な光沢を反射している床《ゆか》の上に、整然と並んでいる有様が、目に浮かぶようだった。しかしながら、この街の住人ならひとり残らず、どの部屋も使われず、すべて鎧戸《よろいど》でかたく閉ざされ、一年中真夜中のようだと知っていた。しかも、その夜の闇《やみ》は、腐った水のように、時が経過するにしたがい、ますます深く厚く濃くなってゆくのだ。家具はすべて布で覆われ、時計は時を刻まず、豪華なシャンデリアの水晶も、ダンプカーが通ることでもなければ、ゆるぎもしない。
奇妙な呪《のろ》いが住む者に重大な影響を与え、これが抜き差しならぬ重圧となっていた。そのうえに、過ぎゆく毎日が、寺院広場のこの家を、ますます重苦しく圧しつけていた。
マレイズ警部が呼び鈴を押した。その呼び鈴の音が、家のなかの人に波紋を与えた。
ルコト氏は、毎朝、自分の部屋の窓辺に、長椅子《ながいす》を置いて静かに坐《すわ》っていた。そのまま、ベッドに入るまで坐りつづけ、夢想にふけっていた。たとえ、呼び鈴の音に気がついたとしても、殉教者ぜんと動こうとしなかった。御用商人でさえ、最近では、この家の雰囲気《ふんいき》におじけをふるい、呼び鈴を押そうとしなかった。影響は、そればかりではなかった。この家を中心とする付近一帯をも、陰気臭く巻き込んでしまった。訪れる者といえば、書留郵便をとどけに来る気短な郵便配達人ぐらいのものだが、それも年に六回ぐらいのものだ。そのつぎの訪問客は、家族同様の待遇を受けている主治医のフュルネル医師《せんせい》と、とりもちのうまい、思慮深い司祭だった。彼は神様のお慈悲と心のなぐさめを、ルコト家に持ってくるのだ……。ルコト氏は、立ちあがって窓を開きたいと思い、身体をのり出そうとすることがあったが、水腫《すいしゅ》の足が、鉛《なまり》のように動かなかった。
イレーヌと従妹《いとこ》のロールは、手入れをしないため野生に戻った庭園の、ギラギラと濃緑の影を反射している見事な緑一色を前にして、横に長いヴェランダに坐って、なにも置いてないテーブルを前に、両手をきちんと膝《ひざ》に置き、愕《おどろ》いたような視線を見交わした。彼女たちは二人とも、いつもの訪問客だったら、いつもと同じ時間に入り口のドアをたたくことを知っていたので、ドアのところに出てみても、悪戯《いたずら》かなにかで、誰《だれ》もいないのではないかと思った。
召使いの老女中イルマは、長いことジャムひとつ盗まれたことのない地下の広い調理場で、料理用かまどの火をかきたてる仕事を止めて、腰に手をあてたまま、じっと立っていた。
いずれにしても、警部の呼び鈴の音に対する共通の考えは、≪呼び鈴を鳴らしたものは誰か?≫ということだった。
そうこうしているうちに、再びけたたましく呼び鈴が鳴った。先ほどの慎み深い音ではなく、力いっぱい長く鳴っているのだ。
これだけ鳴れば、もう間違いはない。入り口のドアのところで、誰かがいらいらしながら呼び鈴を鳴らしているのだ。ドアを開けに行かなければならない。
老女中イルマは、決心したように、火かき棒を置き、日頃から掛けっぱなしのエプロンをとった。
アルマン氏だったら、家のなかの隅々《すみずみ》まで知っているから、そっと入ってくるはずだった。また、エミイル氏だったら、続けて二回、そっと指で、短く押すだろう。彼の訪問する時間は、ハンで捺《お》すようにきまっていた。
こう考えて老女中イルマは、地下からゆっくりと階段を上がって、広い玄関に向かって歩いていった。行商人か乞食《こじき》かと考えたが、すぐその考えを打ち消した。この街で行商人か乞食で食っている者は、十人そこそこだったが、彼らでさえ、≪寺院広場の大邸宅へ行っても無駄《むだ》だ。なにも買ってくれないし、なにもほどこしてくれない≫ことを知っていた。だから、そんな種類の人たちさえも、この家を訪れるということはないはずだった。
老女中イルマは、ドアの傍《そば》にいた。彼女は疑い深い目をして、息をはずませていた。手がブルブル顫《ふる》え、拳《こぶし》をかたくにぎりしめ、神経をひどく緊張させていた。
それもそのはずだった。ロクな者が訪ねてきたためしがなかった。盗みに入ったやつと、生命《いのち》がけで争ったことがあった。老女中イルマは、蒼白《あおじろ》い、ちっぽけな顔をしていた。だらしなく乱れた髪の毛が、顔半分を隠していた。年齢の判別もつかない眼《め》、柔らかな唇《くちびる》、顔いっぱい汗が流れていた。年相応に老けた執念深そうな顔が、見る相手に嫌悪《けんお》の情を与えるのだ。寒けが骨身にしみる寺院のミサの長い時間の間でさえ、感情を表わさずに祈っていられる女の顔であった。
老女中イルマは、拳をギュッとにぎり、思いつめた顔で立っていた。
もし、レオポルドが入ってきたら? あの息子のレオポルドが飛びついてきたら……。レオポルドが自由の身となり……いや、脱走してきたら……。
どうしたらいいのか!
≪|こんにちは《ボン・ジュール》、ママン!≫と、呼びかけられたらどうしよう……。
老女は、後ずさりし、うろたえていた……。
しかし、そこに立っていたのは、見知らぬひとりの男だった。でっぷりと肥《ふと》った、頑丈《がんじょう》そうな男で、声をたてずに歯を出して笑い、大きな包みを、肩に紐《ひも》でくくっていた。
その男は、ゆっくりと屋内に入り、ドアを閉めた。生き生きとした小さな眼が、老女中イルマをじっと見つめ、それから暗い家のなかを見まわした。彼は機械的な動作で、マットの上で、靴をこすった。
「イルマですね、あなたが」
そういわれて、イルマは、召使いがするように、丁寧に頭を下げた。
「エイメ・マレイズ警部です。ご主人とお会いしたいと思い参上しましたが……」
しばらく無言で、ふたりは向かい合ったままでいた。
すると、暗がりのなかから、音楽的な美しい声が湧《わ》き起こった。
「失礼ですが、父は病気で、誰ともお会いできません。でも、わたしでおよろしかったら、お話をうかがいますが……」
八 ジルベエル
マレイズは、礼儀正しく、愛想よく頭を下げ、警察官らしくない態度をとった。しかし、そんな態度をとったのは、相手に尊敬の念を植えつけようと、技巧をこらしたからであろうか?
「イレーヌお嬢さまですね?」
若い娘は、睫毛《まつげ》をぴくっと動かして、そうだと答えた。しかし、その愕《おどろ》きの色は、たちまち蒼い目のなかで消えた。
「わたしのあとから、尾《つ》いてきてください」
マレイズは、静かに頷《うなず》いた。そのとき、彼が思ったことは、間違っていたのであろうか。イレーヌ嬢が、不安そうな眼で、肩にかけた包みに、くい入るように、一瞥をくれたと、警部は思ったのだが。
マレイズは、彼女のあとに尾いて、ヴェランダに入った。歩きながら、包みのなかのマネキン人形が、ゴトンゴトンと音をたてた。包みをおろして、壁のところに置いた。
身体の大きな、背の高い二番目の若い娘は、イレーヌと同じように、黒い色の織物の服を着て、テーブルを前にして立っていたが、イレーヌと対照的に、暗い感じのする女だった。かげりのある漆色《うるしいろ》の広い額の上で、髪にリボンを結び、まっ黒な眼をキラキラと輝かせ、うつむき加減にして、侵入者の警部をそっと観察していた。
「ロール・シャロン、従妹です」と、イレーヌが、そっけなく紹介した。
イレーヌは椅子に進み寄ったが、マレイズは動こうとしないで、立ったままだった。ロールにちらりと目をくれ、≪陰気臭い女だな≫と、警部は思った。つぎに、無遠慮にイレーヌをじろりと見た。平凡な感じの女だ、少なくとも第一印象では……。優柔不断を思わせる顔立ち、長すぎる鼻、輝きを失ったブロンドの髪。≪昔、ゴム腫《しゅ》にかかった顔だな≫と、マレイズは判断していた。
「お坐りになりませんか?」
その声は優しく、歌うようであったが、どこかよそよそしい感じだった。
マレイズは、椅子をすすめられたのに、気がつかなかった。ロールという女のことを、考えていたからだった。石のように冷たい女だった。そして、この女が、この家にどのような影響を与えているのか。この古い邸宅のなかで、世間と没交渉《ぼっこうしょう》で、孤独で陰気くさい生活を長年続けていれば、心もかたくなになり、こうした女ができあがるのではないかと思った。
若い女はお互いに、目くばせしあっていた。この家の現在の実状に触れることを、極度に怖《おそ》れているようであった。
≪信用されているはずがないから、いろいろと聞き出す仕事は、大変な努力を必要とするぞ!≫と、マレイズは、嫌《いや》な予感に襲われた。≪突然、この家に侵入したおれという男は、丸顔の健康な男性で、泥《どろ》だらけの靴をはき、カラーが汚れているときている……。おれが持ち込んだ包みには、この女たちの家のなかにあった芸術作品が入っているのだし、どうやら中身に気がついているらしい……。これでは、嫌《きら》われるのがあたりまえだ……≫
警部は、ふと、われにかえると同時に、考えた。≪まだ二人とも、立ちん坊のままでいるのかな?≫
警部が目をこらすと、そのとき、イレーヌがマレイズから一番離れた椅子に坐り、手を膝の上に置き、顔を赤らめたところだった。
「何のご用でいらしたのですか? 父にご用がおありとのことですが、どんなことなのでしょうか?」と、イレーヌが、呟《つぶや》くような、ボソボソした声で訊ねた。
「質問がいくつかあるのですが、それにお答え願えれば幸いです」
「で、そのご質問といいますのは?」
そう話しかけたのは、ロール・シャロンだった。短い返事だったが、一本の矢で必ず敵を倒す気迫がこめられていた。
「ひとことで申しますと、お宅での日常生活のことをお訊ねしたいのです。私生活にたちいったことで、まことに恐縮だと思いますが、どんな暮らしむきなのか、そんなことを……」
マレイズは、話し方がしどろもどろだったので、自分でもちょっとうんざりした。ロールは、訪問客とみれば誰でも、このように敵対視するのにちがいなかった。そして、こんな態度が習慣となり、用心深くなって、なるたけ余計なことは発言しないことにしているのだろう。じつに見事だった。
「じつは、みなさんにお見せしたいものがあって、ここに持参してまいったのですが……」
そういってから、マレイズは、ポケットからパイプをとり出すと、親指でタバコを詰め、二、三服すった。気分を落ち着かせる必要があったからだ。
やがて、警部は、突然、力いっぱい包みをポンポンと手でたたき、それから手をかけた。
そうして包みに手をかけたまま、警部は、二人の若い女をじっと見つめた。一人は坐り、もう一人は、相変わらず立ったままだった。二人とも、無言のままで、動こうとしなかった。警部は、この若い女たちは、何か考えているのだなと思った。その何かというのは、恐怖であることに間違いなかった。
「お訊ねになりたいことを、おっしゃっていただきたいのです!」と、ロールがいった。
マレイズの顔は、怒っていた。≪おっしゃっていただきたいのです!≫だなんて。この若い女は、まだ二十五歳にもなっていないと警部は考えていた。そんな小娘が、このおれに命令するなんて! 彼は、この無礼な小娘を無遠慮にじろじろ見た。まるで、浮気女が口にする言葉だ!
しかし、眼前の若い女は、地味な服を身につけ、男を手玉にとるような女の感じは少しもなかった。大きなヒダのある、野暮ったい感じの服で、粗末な金色のブローチをつけ、よく下宿人に見受けられる、丸い小さなカラーをしている。ロール・シャロンという女は、自分が異性に魅力があるかどうか、一度でも考えたことがあったのだろうか?
マレイズは、ついに、最後の手段をとる決心をした。
彼は立ちあがり、断乎《だんこ》として宣言した。
「この包みを開けますよ」
しかし、わざと不器用に、包みをほどきはじめた。ポーカーフェースの手だ。
ゆっくりと包みの紐を持ち上げ、灰色の包みの紙を破りはじめた。そうしている間に、警部は、ロールとイレーヌが、恐怖をこめた視線を見交わしていることを、確かめたのだった。
九 人形の捜査《そうさ》
マレイズ警部は、異常な事件だと直感し、≪世界最大の犯罪≫と断定していたけれど、いまはじめて、その断定にふさわしい冒険の渦中に身を投じていることを、実感として感じていた。そう思うと、内心ゾクゾクするほどうれしかったが、その喜びを顔に表わさないように注意しながら、警部はイレーヌに話しかけた。
「失礼ですが、|お嬢さん《マドモアゼル》。事実だけをすべて、思い出していただきたいのです。亡くなられた兄上の、顔を写したマネキン人形について、ごぞんじのことをあらいざらい、お話いただけませんでしょうか?」
ロールが、傍から口をはさんだ。
「従姉《いとこ》からよりも、わたしがお答え申したほうがよいと思います。じつを申しますと、ジルベエルとわたしは、結婚することになっておりましたの……」
聞き手の興味を、そそるような話し方だった。
「そうでしたか、なるほど」と、マレイズがいった。「どうぞ、そのまま話を続けてください」
「わたしの父は、二年ほど前に亡くなりましたが、その父からある日のこと、わたしの口ぞえで、ジルベエルにモデルになってもらえるか、申し入れてくれといわれました。父は充分に才能のある彫刻家で、いつも新しい作品をつくりたいと、モデルを求めておりまして、何よりも蝋で人形をつくる仕事が大好きでした。兄のエミイルは、ジルベエルの首を父が作製していることを知って、どこかの競売で、人間大の首のないマネキン人形を買ってきました。やがて首が完成し、完全な人形ができ上がると、箱のなかにしまわれたのです。そのときから、この第二のジルベエルが、わたしたちの遊びに欠かせないものとなりました」
「あなた方の遊びですって?」と、マレイズは、怪訝《けげん》な顔をした。遊びの意味が、よく呑《の》み込めなかったからだ。しかも、このような、古風な家の中でのことである。
「そうです。イレーヌ、従兄《いとこ》のジルベエル、アルマン、兄のエミイル、老女中の息子のレオポルド、それにわたし。あの頃は、みんな、とても若かったんです。溌剌《はつらつ》とした若さでいっぱいでした……。正真正銘《しょうしんしょうめい》の病人でした。だれもが、青春という病気にとりつかれていたんです」
ロールは、壁の一点を見つめていた視線を、警部に向けた。
「婚約者のジルベエルが死んだので、マネキン人形と蝋の首は、物置部屋にしまい込まれ、それ以後、とり出して見るようなことはありませんでした。ところが、六か月後のこと、老女中のイルマが、わたしの知らないうちに、人形をきれいに掃除して、エプロンで首を包み、わたしの部屋に置いたのです。わたしはしばらく、そのままにしておきました。本当によくできた人形で、あの人の写っている写真よりも、ずっと本人に似ておりましたし、生きた人そっくりでした。しかし、じつのところ、あの人形は、いろいろと悲しい出来事を思い出させるのです。父を失ったこと、ジルベエルの死、続いて叔母《おば》の死、そのほかにも、まだまだ悲しいことがたくさんありました。そのため、わたしは、もとの物置部屋に戻しておいたのです」
「マネキン人形は、首をつけたままで置いたのですか?」
「いいえ。でもなぜですの?」
「あなたは、もとのところに戻したとおっしゃったでしょう。人形と首は、物置部屋のもとの同じ場所に戻しておいたのでしたね?」
「そうです。間違いないと思います」
「ドアの傍ですね? 右側ですか?」
ロールは、しばらく考え込んでいた。
「いいえ。逆でした。左側でした」
警部は、イレーヌのほうに顔を向けた。
「そうそう、最後に人形を見たのは、あなただったのですね?」
若い女の顔に、ほんのりと紅がさした。
「たしかに……。そうです、わたしです……」
ロールが、今度は、警部に質問した。
「警部さんは、わたしたちの話を、注意深くお聞きになっていらっしゃいます。いろいろと質問をなさるので、よくわかるのです。この家のことを、何もかもお知りになりたいのですね。ご訪問の理由はよくわかるのですが、わたしにも、質問をさせてください。人形がどうして、めちゃくちゃに砕かれたかということです……」
「じつは、わたしもあまりよくわかっていないのです。ですから、マネキン人形について、どんな些細《ささい》なことでもいいですから、ごぞんじのことを、なんでもお教え願いたいのです。わたしの捜査によりますと、マネキン人形は、昨夜、洋服屋のドゥヴァン氏の飾り窓から盗み出され、短刀でグサリと突き刺され、鉄道線路に寝かされているところを発見されたのです。たまたま機関助手が鉄道線路を点検していなかったら、八時四十五分に通過する列車に、確実に轢《ひ》かれていたでしょう……」
若い女たちは、疑い深そうな目で、見交わした。
「でも……」といったのは、イレーヌだった。
その言葉を押さえるようにして、マレイズが喋《しゃべ》った。
「ここ半月ぐらいの間に、この家の物置部屋に積み上げられていたがらくたのなかから、人形を古物商のジャコブ老人に、お売りになりませんでしたか?」
「売ったのだと思いますが……」
「ジャコブ老人が申し述べた話と一致します。つぎに、そのマネキン人形は、ドゥヴァン氏に売られたのです」
警部がジャコブ老人の名前を出したのは、人形売却の事情を訊きたいと思ったからだ。
「本当にこちらの意志で、人形が売られたのか、疑っているのです」と、警部は、率直に意見を口にした。「ジャコブ老人という男は、こちらのような立派な家に出入りするような、正直な男とは思われません。わたしの見るところでは、遺憾ながら、腹黒い、もうけ主義のユダヤ人です。はっきり申しあげれば、物置部屋で、ひともうけできそうなものをキョロキョロ物色しているうちに、たまたまマネキン人形の胴体と首とに目をつけ、店に持ち帰ってから、売りものになるように手を加えたのです。ただ同然の品を……」
ロールが、警部の言葉を引き継いだ。
「ジャコブ老人が盗んだか盗まなかったかは、物置部屋の人形があった場所を確かめればわかることです」と、彼女は、冷静そのものの声でいった。「ジルベエルの人形は、ドアの傍の左手か、右手か、どちらかに置いてあったのです。左手にあったとすれば、疑いもなく、ジャコブ老人が盗んだと判断できるのです。右手に、売却するものが整理され置いてあったからです」
マレイズは、すっかり感心した顔をしていた。ロールの理路整然とした考えに、舌を巻いたからだった。
「そう考えるのが順当でしょう。わたしの考えを申しあげます。なるほど、ジャコブ老人が左手から人形の胴と首をとったとすれば、獲物のある場所を前もって覚えておき、品物を引き取りに行ったとき、一緒に持ち帰ったのです。引き取りの品物は、相当な分量だったはずですから、誰からも疑われず、楽々と一緒に運び出せたことと思います。盗んだ盗まないはともかくとして、ジャコブ老人が持ち出したことは確実なことです」
「わたしの考えでは」と、ロールがいった。「マネキン人形と首は、売却品のなかに入っていたのです。そうしたのはイレーヌで、ほかのものと一緒に売ってしまったのです」
そういいきったが、彼女の声は、ひどく弱々しかった。深く疑ってはいるが、確信はないらしかった。
マレイズは、肩をそびやかした。
「この家の方が、どのようにお考えになろうと、それは自由です。たとえば、マネキン人形と首を、家人の目につかない場所に移転するために、ジャコブ老人を呼んで、持ち去ってもらおうとしてもです。どこかに持っていってもらうという考えで……」
そういって、警部は、反発を待った。しかし、警部の期待に反して、若い女は二人とも、何の反応も示さなかった。
「現にこの村で起こったことです」と、警部が話題を変えた。「じつに不可解な問題を提起している一連の出来事です。第一の問題は、いかにしてマネキン人形が、ジャコブ老人の所有に帰したかということです。第二の問題は、人形がなぜ、ドゥヴァン氏の飾り窓から盗まれたかということです。第三の問題は、どのような理由から、無残に人形を傷つけ、線路に横たえ、列車に轢《ひ》かせようとしたかということです。第二と第三の問題は、まさしく狂人の仕業としか思われません。これに反して、第一の問題は、論理的で人間の意思が働いています。考え抜かれた計画をもとにして、実行されているのです。これは事実です。この謎《なぞ》の人物は、古物商をなかだちとして、人形を移動させたのです。人形を移動させられるのは古物商だけで、古物商が人形を移動させなければ、計画は駄目《だめ》になるのです。ユダヤ人が、人形をここから持ち出せば、必ず誰かに売ることになります。買い入れたのは、ドゥヴァン氏でした。かくして、人形は飾り窓の中心部に飾られたのです。謎の人物の思惑は別のところにあった。これでは、まさに破局です。謎の人物の――今後、|X《エックス》氏と呼ぶことにします――もくろみと反するわけです。そこで、X氏は、つぎにどのような手をうったでしょうか? 夜のうちに、洋服屋の飾り窓を砕き、夢中になって、マネキン人形の手足を切断し、列車でコナゴナにしようとしたのです。|X《エックス》氏は、何を考えているのでしょうか? わたしは、一つの仮説をたてているのですが、じつになんとも形容のできない、心のいたみを感じています。じつに方法が単純で、手っ取り早い、雑なやり方なんです。蝋人形の顔を砕いたのですからね。しかも、それだけでは恨みが晴れない。恨み……。もっともっと恐ろしい恨みの晴らし方がある。死以上に、強烈で、非人間的で、ねばっこい恨みを晴らす方法がある……」
マレイズは、大きく溜息《ためいき》をついた。
「お嬢さま方、あなた方はどうお考えですか? |X《エックス》氏は、≪世界最大の犯罪≫を遂行するために、面影を抹殺する死刑執行人、追憶を抹殺する殺人をもくろんだのではないでしょうか?」
ロールとイレーヌは、顔が蒼くなった。
「順序として、つぎに考えられることは、このような恨みの原因が、過去に関係していると判断されることです。このマネキン人形殺害というお芝居は、鬼面|人《ひと》を驚かすようなものではありますが、ひるがえって考えれば、古い犯罪と因果関係にあることは確実です。そのうえ、今度は、人形のモデル問題という新事実が明らかにされたのです。マネキン殺害とモデル事件とは、まさに表裏一体をなすものではないでしょうか?……」
マレイズは、じつに熱心に喋った。警部にとって、この数時間は、捜《しら》べれば捜べるほど疑惑が深まり、蝋人形造りの芸術家の存在が、この事件の中心であるとの確信を持つにいたった。
警部は、突然静かな態度になり、びっくりしている二人の若い女に近寄り、きっぱりした口調で訊ねた。
「あなた方のどちらか、あるいはお二方かもしれませんが――一年前に、モデルとなった若い青年、ご兄弟か婚約者かわかりませんが、ジルベエル・ルコトが、どのように死なれたか、お話し願いたいのですが……」
十 閉ざされた部屋
表面から見ただけでは、人形を殺害するなど、極めて喜劇的であるが、事情をよく見きわめると、悲劇的な要素も多分に含まれている、じつに珍しい事件であった。ジルベエル・ルコトの死について、二人の若い女性から事情を聴取することは、人跡未踏の深山を見きわめでもするのと同じくらい、非常な困難さを、マレイズ警部は感じた。しかし他方では、どうにか事情を聴き出せるのではないかと、楽観もしていた。イレーヌも、ロールも、異常な事態に直面して、すっかり心が乱れているから、必ず何か喋るだろうと考えられた。
「警部さんは、質問するのを、怖れておられるのでしょう……」と、ロールが、深い溜息とともにいった。
ロールの頬《ほお》に、かすかな赤味が、えがき出されていた。
「婚約者のジルベエルは、自然死なんですよ。納得がゆくように、お話しすることができますわ」
エイメ・マレイズのほうも、顔が上気してくるのを感じていた。
厚い悲しみが、若い女の声のなかに、こめられていた。その悲しみには、同情がこめられていたが、しかし、多少とも自嘲《じちょう》めいたものも感じられた。
「重ねてお訊ねいたしますが」と、警部が厳しい声でいった。「あなたの婚約者は、自然死ということですが、もちろん、いまここで口になさることはつらいことだとは思います。でも、どうか詳しく事情をお聞かせ願いたいのです」
ロールは、細い指で、服をギュッと握りしめた。
「ジルベエルは心臓病にかかり、数年の間に、少しずつ痩《や》せてまいりました。ある日曜日の朝のことでしたが、突然に病気が悪化して、階段から落ちたのです。そのとき家のなかに、イルマと叔父《おじ》がいたことはいたのですが、運の悪いことに、ジルベエルが落ちたその場所には、誰も居合わせていなかったんです。わたしたちは、ミサから帰ってきて、階段の下の玄関のところで、ジルベエルが倒れているのを発見したのです」
「もう少し具体的に、わたしにわかりいいように、階段から落ちて亡くなった事情を、お話し願いたいのですが……」
「階段から落ちたことが、死亡の直接の原因ではなかったのです。打撲傷を負い、顔にかすり傷をうけただけでした。フュルネル医師《せんせい》は、階段を落ちる前に、心臓が停まっていたと診断しておられます」
するとそのとき、ドアのかすかに開く音がして、老女中のイルマが入ってきた。誰も呼んだりはしていなかった。老婆の眼は、警部と砕かれたマネキン人形とを交互にじろじろ見ていたが、やがて急いで、イレーヌに近づき、耳に口を押しあて、なにやら話した。
イレーヌは、マレイズのほうを向いた。
「父がお会いしたいと申しておりますが……」と、自分の喋った言葉が相手に信じてもらえないとでもいうように、ためらいがちになった。
「父は、あなたが鳴らした呼び鈴を、聞いていたのです」
「それはそれとして、なぜわたしがこうしてお邪魔したことを話されたのですか?」
「誰も、申しません……」
イレーヌがロールに助けを求めた。
「叔父は、水腫を病んでおりますので、部屋から出られる状態ではないのです。ジルベエルと叔母が亡くなってから、何も考えようとしなくなったのです。お会いしたいと申しましても、別に深い理由があってのことではないのですが……」
「事情は、よくわかりました」と、マレイズがいった。
その間に、イレーヌが、ドアを開けて待っていた。マレイズは、イレーヌのあとに従った。イレーヌは、階段を黙ったままで上がっていった。その後から尾《つ》いてゆく警部が、手摺《てすり》に手で触れてみると、ひどくもろくなっていることがわかった。警部は質問した。
「お母さまが亡くなられてから、相当に長くなるのですか?」
警部には、若い女の背中しか、見えていなかった。その背中が、突如かがむと、返事がかえってきた。
「ずいぶん以前というほどではありません。七か月ほど前のことです。母はジルベエルが先に死ぬなんて、夢にも考えていなかったのです。兄のことを……」イレーヌは、ちょっと間をおいてから、ゆっくりといった。「気にいっていたのです」
二人は、踊り場を、通り過ぎようとしているところだった。踊り場は暗く、それにひどく寒かった。イレーヌは、右側のドアを開けた。部屋のなかで、地方なまりの低い声が、暗く響いた。
「お入りなさい」
イレーヌが、うわずった声でいった。
「お父さまにご面会の方です」
マレイズの視線は、たちまち窓辺の近くに置いた、肘掛け椅子をとらえた。むくんだ顔の男が、ひっそりとじっと坐っていた。この世の人とは思えぬ、怨霊《おんりょう》かなにかのように思われて、警部はゾッとして背筋に氷が走るような思いがした。年齢のほども定かではなく、幽鬼《ゆうき》もかくやと思われた。
悲しみの果てに、病気にとりつかれたこの男は、じめじめと湿気に充ちた、この閉ざされた部屋のなかで、焚火《たきび》の残り火のように、じわじわと迫りくる死を、じっと待っているようであった。心臓が衰弱してゆくのを防ぐため、細心の注意をはらい、褐色《かっしょく》のガラス小壜《こびん》と冷水の入った壜とに取り囲まれ、しかも、それらの小壜はいつでも自分で手にとることができるように、用心深く配慮がなされていた。両足は蒲団で包まれ、手をのばせばカーテンの開け閉めができるようになっていて、坐っている場所から、窓のそとの街の広場と菩提樹《ぼだいじゅ》が見渡せた。
マレイズが自分の傍に来たことを感じとると、老人は頭を動かそうともせず、重々しい声でいった。「このままにしておいておくれ、イレーヌ!」
若い娘は、無言のまま、椅子を警部にすすめた。それから、部屋から出て、音もなく静かにドアを閉めたが、出るときに唇《くちびる》に指をあて、どうぞ何も喋らないようにお願いしますと、父親に合図を送った。
マレイズは、椅子に坐ったが、どこも見ていなかった。ルコト氏が人生に疲れ果て、その苦しみをじっと噛《か》みしめ、耐えている生活のことを、頭にえがいていた。この家のなかで、どんなことが起こったのであろうか? たぶん、それは悲痛きわまる過去で、そっとして触れたくないと願っているのにちがいないのだ。警部がその過去に、無理に割り込もうとして、なにか質問を試みても、聞き出すことは非常に困難だと考えざるを得ない。イレーヌが、部屋から出るとき、指を唇におき合図したことでもわかるではないか。ところで、この目の前の老人は、なにを語ってくれるというのであろうか。第一、イレーヌが黙っているようにと懇願しているのに、この気がめいるような雰囲気のなかで、どのようにして、訪問の目的を説明したらよいのか。警部は、グズグズ時間を稼《かせ》いだり、嘘《うそ》をつくことだけはしたくなかった。でも、なぜ、嘘をつく必要があるのか。老人は、警部の訪問の目的を感づいているだろうし、警察が捜査に出向いてきたのは、これがはじめてではないだろう。この老人の息子が、殺害されたのではないかと疑惑を持たれていたとしたら、必ず警察が介入しているはずだった。
ルコト氏の声は、じつに奇妙な響きを持っていた。病人特有の声ではなかった。色の褪《あ》せた唇からもれた声は、一種異様な抑揚のないものであった。話し相手が警部だと承知していても、当惑もしていなければ、特別に意識もしていないようであった。
「わたしは、この家が悲しみに沈んでいるからといって、あなたに対する接待が、おろそかになっているのではないかと、怖れているのです。また、あなたにしても、不幸にうちひしがれている一家という先入観をもって接しようとなさるのでは、こちらが困るのです。じじつ、この一年の間に、残酷な、二重の悲しい出来事が起こったことは否定しませんが……」
この老人の口上は、明らかに前もって準備されているものであった。ルコト氏は、この家の悲劇を聞き出そうとする訪問客があることを、ちゃんと承知していたのだ。だから、たまたま今日訪問してきた、この新顔の客に、この家で発生した出来事を喋る心構えができていたのだ。だから、先ほど、ロールが、≪せっかく、お訪ねになられたのだから……≫といったのだ。
「息子のジルベエルが、この家の階段から落ちて死んだのですが、ちょうどあすが満一年にあたります。あの子は、少年時代から少しずつ、身体が弱くなっていたことは事実ですが……。階段から落ち、玄関のタイルの上に投げ出されていました。そのとき、わたしは家のなか、それも現場からあまり離れていないところにいたのですが、少しもその事故のことに気がついていなかったのです――その頃、わたしは、いまのように、こんなひどい病気ではなかったのですが――たぶん、息子は、助けを求めたのにちがいありません。妻がミサから帰ってきて、階段の下で、倒れているところを発見したのですが、そのときは、すでに呼吸《いき》が絶えておりました」
「あなたは、真実をお話しになっておられる……」と、マレイズは、早口でいった。
警部は、もっと詳細に聞きたいと思ったが、老人は、それ以上、喋ろうとしなかった。警部にしてみれば、またとないチャンスと思っていたので、この機会を利用して、真相をさぐり出したいと考えていた。ジルベエル・ルコトは、辺りに人けのない場所で、ほとんど傷も負わず、死んだのだった。先ほど、「自然死」と説明されていたが、警部は、本能的に、「他殺」という疑いが濃厚であると判断していた。
「妻のオノリイヌもわたしも、ほかの子供よりも、ジルベエルを愛していたといえば、嘘になるでしょう。わたしたち夫婦は、平等に三人の子供を愛していたつもりです。でも、ジルベエルは、とくに将来を期待していたわけではありませんが、親の欲目でしょうか、あの子には、天性の才能がそなわっていたのです。そのことでは、あの子を知る者は誰も、非常に愕いていたのです。教師たちも、≪わが校の、最大の秀才≫と、太鼓判を押していたくらいです。医学を勉強していたのですが、洋々たる未来が約束されていました。それが、突然の死によって、何もかも終わってしまったのです。栄光に充ちた前途も、輝かしい将来の生活も……。妻は、悲しみに、うちのめされました。三か月後に、ジルベエルの後を追って、悲しみに耐えかね、自殺して果てたのです……」
「ところで、あなたは、どうなのですか? 悲しくはないのですか?」と、マレイズがいった。
しかし、警部は、自分の質問が、いかにもバカバカしいと感じたので、それはそれで黙ってしまった。
老人のほうも、警部の質問は無視して、追憶の数々を、話しつづけた。
「わたしども夫婦は、ジルベエルには、いつも尽くし足りないと思っておりました。とくに妻は、たえずやさしく面倒をみて、目に入れてもいたくないような可愛がり方でした。どうか、ジルベエルを見てやってください。あなたの右側に、肖像がかかっているのですよ。あれがあの子の写真で、死ぬ三か月前に写したものです。二十二歳になったばかりでした」
マレイズは、写真をチラッと見たが、ジルベエルの顔は知っていた。マネキン人形の首で、知っていたからだ。その顔は、ドゥヴァン氏の飾り窓のなかで、通行人に微笑《ほほえ》みかけていた、あのジルベエルだった。短刀で突かれながらも、微笑んでいた、あのジルベエルだった。ジルベエルは、二度死んだのだった。ブロンド髪の天童のように可愛い、官能的で健啖家《けんたんか》の顔。細長く平べったい鼻をもつ、男らしい顔。あり余る巻毛の髪、娘のような髪の毛、尊大な印象を与える小さな口ひげ。見る者をうっとりさせる眼。何もかも、非のうちどころがなかった。
「あの子の額の特長に、お気づきですか? 特長がないとはいわせませんよ。ある日のこと、わたしの旧友が、ジルベエルの額を見て、骨相学上から見ると、将来どこか遠くに行ってしまうだろう、そんな予言をしたものでした。可哀想なジルベエル……。ほら、ここにアルバムがあるでしょう。この写真帳に、ジルベエルの写真がたくさんはってあるのです。妻のオノリイヌと野原で写したものを、お見せすることができますよ。それから、婚約者と一緒のものも……。可哀想なロールは、この家で一緒に住んでいるので、わたしたちの苦しさを、よく知っているのです。この家の者は、誰も苦しんでいるのです……」
沈黙が続いた。マレイズは、注意深く、アルバムを繰《く》った。ルコト氏は、貪《むさぼ》るようにして、警部の顔に浮かぶ印象を読みとろうと、じっと見まもっていた。
「ロールの父、すなわち、わたしの義理の兄にあたるフレデリックは、彫刻家として世に知られています。ある日のこと、ジルベエルをモデルにして製作を始めたのですが、それはひどいはりきりようで、全力をあげて、仕事に没頭しました。そうです、蝋の顔に、真実の生きた顔を写しとってしまったのです。あまり見事なできばえだったので、わたしの部屋に置いてあったのですが、ジルベエルが死ぬと、その蝋の首が消えてしまったのです。その首のモデルが……」
マレイズは、突然、アルバムをパタンと閉じた。
「その首のモデルが、どうしたのですか?」
しかし、そのとき、ドアが開いて、ロールが部屋のなかに入ってきた。
十一 戦争ごっこ
「叔父《おじ》さまは、確かな理由があってお話ししているのではないのです」と、ロールは、老人の椅子《いす》に近づきながら、呟《つぶや》くようにいい、椅子の高い背に手を置いた。「フュルネル医師《せんせい》は疲れるのが一番悪い、といっておられますし、とくに昔ばなしはお話しになってはいけないと申されています。悪いことは、すぐおやめになってください……」
「いや、そんなことはないよ」と、ルコト氏は、弱々しく抗議した。「お喋《しゃべ》りすることは、気晴らしになって身体にいいくらいのことは、おまえだって知っているはずだ……」
若い娘は、身体をかがめて、病人の蝋色《ろういろ》の額に接吻《せっぷん》した。
「叔父さまは、どんなことも、知ろうとなさってはいけないのだわ。ただゆっくりと身体を休息させて、おやすみになられることだわ……。さあ、そのアルバムを、わたしにお渡しなさい。ぼつぼつ、イルマがおいしい料理を用意しておりますわ。一時間もすれば、ここにお持ちします。お昼になったら、わたしがご本をお読みしますよ。叔父さまは、とてもものわかりのよいお方ですから……」
「しかし、この方が……」と、老人が呟くような声でいいはじめた。
「この方は、お友達からお聞きになられたアルマンの消息を、わざわざご親切に、わたしたちに知らせにおいでになったのです。このあと、お約束があるので、急いでおられるのです」
マレイズは、咳《せき》払いをした。なんとまあ、巧《うま》くはぐらかされたことか。この若い娘は、上手に瞞着《まんちゃく》するすべを知っていた。それにしても、ルコト氏と会見していることを、なんでこんなに、恐れているのか? 老人が警部に、何か聞かれて悪いことを話すとでも思っているのか? それとも、二人の若い娘に共通する、何か知られては困ることでもあるのか?
反射的にマレイズは、≪十七時十分発の列車に乗っていたら?≫と考えた。
列車に乗る時間は、とうに過ぎ去っていたが、あの列車に乗ってしまっていたら、卑怯者《ひきょうもの》のそしりをまぬがれることはできなかったであろう。
「こちらへどうぞ、さあ!」と、警部にロールがいった。「叔父は、疲れやすい身体ですから、ボツボツ休息をとらなければなりませんので……」
マレイズは、ロールのあとに尾いて、階段の降り口まで行ったが、しかし、階段をおりようとしなかった。警部は、両手をポケットに落とし込み、とつぜん足をとめて、ロールと向い合った。
「あなたは、日曜日の朝、ミサから帰ると、階段の下で、あなたの婚約者が死んでいたと、おっしゃいましたね?」
ロールは、愕《おどろ》いた顔で訊《たず》ねた。
「たしかにそう申しあげましたが、でもなぜ、改めてそのような質問をなさるのですか?」
「別に、なんでもないのです」
そして、じじつ、マレイズがいったとおり、それ以上、その話を続けようとはしなかった。警部は頭のなかで、情況を構成していたのか、それとも捜査を妨害したロールから、何か訊きだそうと鎌《かま》をかけたのか、そのいずれかだったのだろう。
「叔父さんと老女中イルマが、家のなかにいたと、お話しになりましたね?」
「そうです」
「階段から落ちたジルベエルの助けを求める声を、ふたりはどうして耳にしなかったのでしょうね?」
マレイズは、この家の旧《ふる》くからの友達のように、わざとジルベエルと、姓ではなく名で呼んでいた。
「叔父は、耳が遠くなっているのです。叔父にお会いになられたのですから、おわかりのこととぞんじます。つぎに、台所からでは、家のなかの物音は、聞こえないのです」
「叔母《おば》さん、従姉《いとこ》のイレーヌ、それにあなたと、その日ミサにご出席になられていたのは、ほかに誰と誰なのですか?」
「前の晩から泊まっていた従兄《いとこ》のアルマン、兄のエミイル夫妻、この三人ですが、ミサが終わってから、寺院の出口のところで、一緒になりました」
「ほう、お兄さんは、結婚しておいでなのですか?」と、マレイズが、念を押すようにいった。
ロールがいったように、≪若いうちは、未婚のままで過ごす≫主義が、一族の若い者の間に蔓延《まんえん》していた。それなのになぜ、この点を説明しようとしないのだろうか。
若い娘は、ちょっと、うなだれたようであった。
「父が亡くなって数年間、兄のエミイルはわたしと一緒に暮らしていたのです。現在エミイルは、鞣皮《なめしがわ》工場の監督をしております。その工場の経営主である妻の両親とともに、暮らしているんです。従兄のアルマンは、ブリュッセルに住み、自動車販売業をしております」
「エミイルお兄さまは、ジルベエルが亡くなられたとき、すでに結婚をしておられたのでしたね?」
「そうです」
「どのくらい前から?」
「数か月前です」
「あなたは、先ほどヴェランダで、女中のイルマの息子のことを、ちょっとお話になりましたね。その息子は、わたしの考えでは、イルマと一緒に暮らしていないようですが……」
ロールは、暗い顔で頷《うなず》いた。
「どのようにお話ししたらいいのかしら。じつは、あの朝、逮捕されたのです」
マレイズは、驚愕《きょうがく》の色を巧みに隠しておけるような、器用なことができる男ではなかった。
「逮捕とおっしゃいましたね? 逮捕というと、もちろん、警察にですね?」
「そうです。殺人の嫌疑《けんぎ》で逮捕されたのです」
マレイズは、わが耳を疑っていた。意外な事情が、隠されていたからだった。
「殺人ですって?」と、警部は、もう一度この言葉を繰り返した。「誰に対する殺人嫌疑でしたか?」
「この付近に住む農夫が、斧《おの》で撲殺され、現金が盗まれるという事件が起こりました。その盗まれた金を、彼が隠していたのです」
警部は、過去に起こった重大犯罪事件について、ことごとく詳細にわたって、頭のなかにたたみ込んでいた。
「女中さんの息子は、なんという名前ですか?」
「レオポルド・トラシェです」
「被害者は?」
「農夫のシュルレです」
「ああ、わかったぞ!」と、マレイズは、うれしそうにいった。
じじつ、警部は、その事件を思い出したのだ。新聞の第一面に、続けて数日間、大きく報道されていた。犯罪の発見、殺人容疑者の逮捕。そのうえ、重罪裁判所で裁判が行なわれた、シュルレ=トラシェ事件のことを思い出した。判決の予測記事によれば、有罪は確定的で、強制労働十五年という重刑が課せられるであろうとあった。
ロールはそれで、警部の質問が終わったものと考えたのか、階下におりるために、階段に足をかけていた。
しかし、マレイズは、この機会を利用して、なんとかねばろうと考えていた。
「物置部屋に案内していただけませんか?」
若い娘は、注意深く、警部を見まもった。
警部は、ロールのかたい視線を感じると、申し出を断わられるのではないかと思った。断わられても、家宅捜査令状を携行していないから、これ以上は……。
ロールが、階段の下をのぞき込むようにして、叫んだ。
「イルマ!」
台所のある地下室から、なんの返事もかえってこなかった。
「少々お待ち願えますか? 鍵を探してまいりますから……」
その物置部屋は、面積が普通の部屋を三つも合わせたような広いもので、家具とか不用になった種々雑多ながらくたが、いたるところに山積みになっていた。四個の天窓から、短刀でスパッと切ったような光線が、いずれも斜めに差し込んで、金色の微細な埃《ほこり》がじつに見事に乱舞していた。
「ジャコブ老人が手に入れた例の人形も、ここに置いてあったのですね?」
「そうです」
「ジルベエルが死んでから六か月後に、老女中イルマがあなたの部屋に持ち込んだ蝋づくりの首を、あなたがご自分でもとの場所に戻したということですが、あの場所なのですね?」
「違いますわ」と、ロールは、冷静な声で否定した。「警部さんは、右側を指しておられますが、わたしの置いたのは左側です」
マレイズは、唇《くちびる》を噛《か》んだ。若い娘は、罠《わな》を張ったのか、それとも、逃げ口上でそういったのか、と疑ったからだ。
「ジャコブ老人がこの部屋を訪れてから、誰も入った者はいないのですね?」
「はい、間違いございません。大分以前から、イレーヌもわたしも、この部屋に足を踏み入れておりません。ごらんのとおり、古道具がたまりすぎておりますので、捨てる決心をしたのです」
「決心はしたが、まだ実行していない、というのですね?」
ロールは、眼を大きく見開いた。最初、警部のその言葉を無視しようかと考えたが、どうせ嵩《かさ》にかかって質問をあびせてくるだろうと思い、素直に答えることにしたようだった。
「たしかに、捨てはしませんでした。なぜ、急いで捨てなければならないのですか? 考えてみれば、捨てるより、売ったほうがお金になり、有利です。それにしてもなぜ、こんなことを、わたしにいわせるのですか?」
≪あなたは、正直な方だ。あなたがいったとおりだ。おっしゃったことは、じつによくわかる≫と、マレイズは、言葉にして、答えたいと思った。≪思い出になるものなど、どれもこれも、始末してしまったほうがいいのだ≫
しかし、警部は、そう思っただけで、ついに言葉にしなかった。黙っていたほうが、こちらの手のうちを知らさないですむ。そうすれば、巧く何か聞き出すこともできるだろう。爪は隠しておくにかぎる……。
ロールは、警部が訊ねもしないことを、喋りつづけた。
「古道具がいっぱいつまっているので、ここからなかに入れないのです。イルマは、なかに入れないのでお掃除ができない、と常々こぼしているのです」
「なるほど、よくわかりました」と、マレイズがいった。「すると、イルマは、ある時期から、掃除はいっさいしていないのですね?」
「それはどうか、わたしにはわかりません。直接、イルマにお訊ねになられてはいかがですか?」
声の調子はかたく、皮肉さえこめられていた。
マレイズは、積み上げられた家具と家具との間を、もぐり込める隙間があるかどうか、注意深く探していた。見るばかりではなく、積極的に、手で押してみた。結果は、眉《まゆ》をひそめ、大きく溜息《ためいき》をつくことになったのだが……。
「ともかく、ひどい埃《ほこり》なのですから……充分気をつけてください……」
ロールは、嫌悪《けんお》をこめた、強い調子の声でいった。
「ほら、わたしがご注意したとおりですわ。外套《がいとう》が、埃で灰色になっていますわ!」
「気にしてなんていませんよ」と、警部が、吐き出すようにいった。
やがて警部は、ぐらぐらした古道具の堆積の上から、見事の極彩色の装幀《そうてい》の一冊の大型本を手にとり、埃をはらい落とすと、口もとに微笑を浮かべ、パラパラとめくった。
「これはこれは……。ギュスターヴ・エイマアル全集ですね?」
警部の口もとの微笑が、だんだん大きくなった。
「ギュスターヴ・エイマアルは、わたしの愛読書ですよ」
警部がうれしそうに、ニコニコしてそういったので、ロールもつられて、微笑した。
「あたしも、愛読しているのです」と、彼女がいった。「長い間、ただもう夢中で、読みふけったものです。兄のエミイルも、作品名は忘れましたが、非常に感銘を受けていました。兄は、『鋭い眼差《まなざ》しの男』を読んでいたときなど、夢中になってしまって、わたしが声をかけても、返事もしませんでした。あの頃、この物置部屋のなかは、喊声《かんせい》と哀願とが交錯し、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の坩堝《るつぼ》と化していました。わたしたちは、≪死人の顔≫という遊びをして、羽目をはずしたものです。わたしたち、若い女性は、それぞれの好みに従って、しばしば柱に縛りつけられ、拷問《ごうもん》ごっこをしたものです」
ロールは、屋根を支えている丸い支柱をじっと見つめながら、生き生きとした口調で語った。マレイズは、甲斐絹《かいき》のエプロンを掛け、長いリボンを背にたらし、細い脚に黒い靴下をはいた小娘の姿を、頭のなかでえがいた。そして、いま、悲しみと苦しさを、じっと噛みしめているロールを見ていると、これこそ、まことのロールの姿であると考えた。
「あなたの婚約者とエミイルも、その遊びに加わっていたのでしょうね?」
ロールは、ちょっとためらいの色を見せたあとで、それでも、きっぱりと答えた。
「もちろん、一緒でした」
「あなたのお父さまも、この家に住んでおられたのでしたね?」
「そうです、住んでおりました。わたしたち悪戯小僧《いたずらこぞう》どもは、この広い家から、外部《そと》に出たことがありませんでした。この物置部屋、階段を中心にしてその上下、三階までが、わたしたちの支配地域でした。冬がめぐってくると、太陽が輝き、処女林がわたしたちに微笑《ほほえ》みかけてきます。わたしたちには、庭園がありました」
警部は、微笑した。追憶は美しい。ロールの顔は、信じがたいほど明るかった。そして、マレイズは、山積みの本に、最後の一瞥《いちべつ》を投げた。
「わたしは、フェニモア・クーパーは、それほど好きではない」と、警部が、機械的な口調でいった。「彼は、内部に秘めた、烈々たる情熱を持ち合わせていません……」
そこで、警部は突然、話題を変えた。
「わたしの考えはこうです。わたしの記憶に間違いがなければ、レオポルド・トラシェは、二十歳《はたち》そこそこで逮捕されたのです。ずいぶん、年齢《とし》が若い。ところで、先ほどのお話の、≪死人の顔≫の|遊び《ゲーム》に、彼も加わっていたのですか?」
ロールの顔に、暗い影がよぎった。
「あの人にも、仲間に加わってもらったことがありましたわ。彼の役割は、≪戦争踊り≫を踊ることだったのです」
警部は、辺りに山積みになっている雑品を、遮二無二《しゃにむに》調査しつづけた。
種々雑多な雑品と古道具のなかを、ひとりモソモソと、爬虫類《はちゅうるい》のようにもぐり込んでいた。
物置部屋のなかは、色|褪《あ》せた聖像画、原型をとどめぬ大型トランク、原型さえわからなくなったもの等々が、山積みになっていたが、警部の注意を惹《ひ》くようなものは、ひとつも見当たらなかった。
雑品を押しのけて小刻みに進むと、ときおり、小さな隠れ場所から、小鼠《こねずみ》がチョロチョロと逃げ出した。
マレイズは、アメリカ・インディアンの攻撃用武器である、それぞれの武器の頭の先が黒ずんだ褐色《かっしょく》で塗られている武器一式――石槍《いしやり》、矢、投げ槍さえ含まれていたが――を見つけた。
「毒が塗られているのでしょうか?」と、ロールのほうを振り向きもしないで、警部が訊ねた。
「それはどうかぞんじません。十三か月も南米で学術研究に従事しておられた、叔父の旧いお友達が、持ってきてくださったものです。叔父が、ひどく大切にしていたものですから……。わたしたちは、慎重に取り扱いました。けっして、軽はずみな扱い方は、いたしませんでしたわ」
「投げ槍ですが、とくに注意深く、取り扱ったのでしょうね?」
「はい。とくに念を入れて、慎重に取り扱いました。ところで、家具の下で、何をみつけられたのですか?」と、ロールは、額に皺《しわ》をよせ、いらいらしながらいった。
「ほら、これですよ」と、警部は、腕に抱いた品物を、ロールに差し向けた。それは、毛を逆立て、長い口髭《くちひげ》をそなえた、奇妙な緑色の眼をした猫《ねこ》であった。
じつに見事な、剥製《はくせい》の猫であった。いまにも、怒りの声をあげそうだった。
「バルタザアルです……」と、ロールが、夢見るような、優しい声でいった。「この牡猫が生きていたときには、ジャガー〔南米産の大|豹《ひょう》〕、ピューマ、ムスタング〔北米の野馬〕のいずれにも負けないほど精悍《せいかん》でした。婚約者のジルベエルが亡くなった日の翌朝、死んだのです。わたしたちは、誰もみんな、すごく可愛がっていました……」
マレイズは、戸口に向かって歩いた。
「わたしだったら、インディアンの武器を、物置部屋などに置きはしませんよ」
警部は、なぜ不意に、そんなことを口にしたのだろうか。インディアンの武器、ジルベエルの蝋の首、バルタザアルの剥製と、ルコト家にとって、懐かしい想《おも》い出の品々ばかりだ。それをなぜ、物置部屋にほうり込んでおいたのか。年月の経過が、粗略な扱いになったのか。
≪これらの品々は、この家で、宗教的な崇拝の役割を果たしているのだろう!≫と、マレイズは考えた。
「ジルベエルが死んでから、一家中、沈み込んでしまったのですよ」と、ロールが再び喋り出した。「老女中のイルマは、叔父の部屋だけは丁寧に掃除しますが、あとの部屋はどこも手をつけないのです。イレーヌが飼っている小犬のマルグリットは、いまでもバルタザアルが生きていると思い込み、いつ復讐《ふくしゅう》されるかと、それはひどい、おびえようです。わたしたちは、マルグリットをなぐさめるのに、大変な気の使いようです」
警部は、物置部屋から出て、ロールがドアを閉めるのを待った。まったく、奇妙な家だ。じつに奇妙な住人たちだ。なかでも、息子を獄につながれているイルマは、一室を除いて、どの部屋も汚れるにまかせている。しかも、物置部屋を掃除しなければならないと、そればかりこだわっている。
ロールは、物置部屋の鍵をかけると、マレイズより先に、階段のところに来た。そこで足をとめ、振り返ったままで、マレイズを待った。
「腹蔵のないところを、お話し願えますか。無理にとは申しませんが。何をあなたはお考えなのですか。わたしたちの、悲しい、控え目なこの生活を、疑っていらっしゃるのですか?」
マレイズは、立ったままで、身動きさえもしなかった。
「あなたの婚約者の顔を写した首が、何の理由もなく、この家から持ち出されたという事実を、あなたは不自然と思いませんか。このことを、どう解釈したらよいのですか?」と、警部は、間髪を入れずに、問い返した。「そのうえ、夜中に、ドゥヴァン氏のうちの飾り窓が破られ、マネキン人形が盗まれたのですよ。さらにその首が、めちゃくちゃに切りきざまれ、鉄道線路の上に置かれていたのですよ。あなたは、おかしいと思いませんか。わたしは、この一連の出来事の裏に、ひそかに犯罪が計画されていると判断しているのです。したがって、この犯罪の真相を糾明するまで、捜査をやめるつもりはありません」
「でも」と、ロールが反発した。「犯罪事件とすれば、何も証拠はないじゃありませんか……」
「あなたは、物的証拠にこだわっておられる」と、マレイズが応酬《おうしゅう》した。
警部は、確実にロールの信頼をかち得たのだ。それだけでも、今後の捜査のことを考えると、収穫といわざるを得なかった。
二人は、ヴェランダに入った。イレーヌが、大木の緑色の陰で、じっと立っていた。小犬そっくりの、しわがれた犬のなき声が聞こえてきた。
「マルグリットだわ」と、ロールが、機械的な声で、駄目《だめ》を押すようにいった。
マレイズは、壁のほうを見て驚愕した。
マネキン人形が、消えていた。
十二 誰かが酒倉にいる
庭園のなかで、イレーヌは、ヴェランダに入ってくる従妹のロールとマレイズをじっと見つめていた。イレーヌは、ふたりのほうに近寄って、声をかけた。
「パパと、どんなお話をなさったのですか? 兄の死について、なにかとお話になったと思いますが」
イレーヌは、生き生きした声で、話した。先ほどの、よそよそしい様子も、迷惑そうな態度も、すべて姿を消していた。頬《ほお》が、ほんのりと淡紅色に色づいていた。警部は、庭園ですずしい風に吹かれてすずんでいるのか、それとも、何かあって、心がはずんでいるのだと思った。
「わたしたちの過去のなかに、秘密めかしいことはないと、おわかりになられたでしょうね。パパがジルベエルのことをお話ししたとしても、あなたにお話しするようなことはないのですから、彼の死についてどんな意見をお持ちになろうとも、それはあなたの勝手というものです。警部さんは、あなたがおっしゃる≪マネキン人形殺害≫と、ジルベエルの死との間に、何か関係があると考えておられるのでしょうが……」
「わたしが勝手に、空想にふけっている、とでもおっしゃりたいのでしょうが……。しかし、それには、いつかお答えできるでしょう」
警部は、椅子の上に置いてあった帽子を、手にとった。
「椅子に腰をおろさせていただきますよ。ちょっと、疲れましたので……。ところで、わたしが持参しましたマネキン人形ですが、あなたがどこかに置きかえなさったのですか?」
イレーヌは、びっくりした様子で、自分の周囲を見回した。
「本当だわ、人形がないわ。わたしは、てっきり警部さんが、玄関にでも運んだとばかり思っていたのですが……」
「わたしがロールさんと、お父上の部屋に行く前に、この壁のところに、置いたのです」
「それなら、ここになければなりませんわね。あれから、わたしは、地下室におり、台所を通って、そのまま庭園に出ました。あなたとお別れしてから、この壁のところには近寄っておりません」
「じつに、不思議だ!」
そういって、警部は、ロールのほうに向いた。
「叔父さんの部屋に、わたしを呼びに来るため、この場所を離れたとき、マネキン人形は壁のところにありましたね?」
「はっきりと、覚えておりませんわ。でも、たしか、壁のところにあったような気がします。イレーヌと警部さんが叔父の部屋に行っている間、わたしは一人ここに残って、イレーヌがおりてくる足音を聞くまで、ヴェランダにおりましたが、その間、別に変わったことはありませんでした。そのあと、イレーヌと数分間、玄関でおしゃべりをし、わたしは階上《うえ》へ、イレーヌは台所へ行くため、階段をおりたのです」
「それはそれで事実に違いないだろうが、マネキン人形が消えたことも事実なのです」
警部は、わざと≪消えた≫といったが、内心では、≪盗まれた≫と、判断していた。
「あなた方おふたりが、玄関で話をしている間に……」
そこで言葉をきり、イレーヌのほうを向いた。
「あなたは、庭園のなかから、何がヴェランダで起こったか、ごらんになったのではないでしょうか。わたしたちがここに入ってから、あなたはわたしたちのほうに歩いておいでになった……」
「たしかに、お話のとおりなのですが、じつは、わたしは、小犬のマルグリットと遊んでいたのです。だから、ヴェランダを始終、注意深く見まもってはいなかったのです……」
「お父さまが、椅子に釘《くぎ》づけになったままで、動けないことを、あなたは充分ご承知だったはずです」
「父は、寝るときを除いて、坐《すわ》ったままでした」
「何かご用があるときだけ、あなたをお呼びになるのでしょう?」
「そうです。わたしかロールが助けなければ、なにひとつできない無能力者です」
「イルマを、ここに呼んでいただけませんか?」
間もなく、老女中がドアから姿を現わし、機嫌《きげん》の悪い顔でいった。
「ご用はなんでしょうか。焼肉を火にかけて置いてきたんですよ」
マレイズは、単刀直入に、ずばりと訊いた。
「どのくらいの間、台所にいたのだ?」
老女中は、こわい眼差しを、警部に投げた。
「あなたに、何ができるというのですか?」
「おれの質問に答えるのだ」
「お答えなさい、イルマ」と、イレーヌが、きつい声でいった。
「十五分ぐらいのものです」
「その間、どこにも行かず、台所でずっと仕事をしていたのだな?」
「火を燃やしていたんです。あぶなくって、どこにも行けやしませんよ」
「ここに来なかっただろうな?」
「来られるはずがないじゃあありませんか?」
「呼び鈴が鳴らなかったか? 誰もここに通しはしなかっただろうな?」
「呼び鈴が鳴れば、あなたにだってわかりますよ」
そういうと、老女中は、露骨に警部をにらみつけ、回れ右すると、ひどい音をたててドアを開き、台所に戻って行った。
そのとき、マレイズは、階段のところで、かすかだが足音を聞いたのだった。
「ふん」と、警部が悪態をついた。「あいつのいうことは、いい加減なことばかりだ」
「態度が悪いかもしれませんが」と、ロールが、素早く、イルマの言い訳をした。「あの女は、いつどんなときでも、ああなんです。嘘《うそ》のつけない人間です。まして、マネキン人形を盗むなんて、そんな大それたことはできませんわ……」
警部は、咳払《せきばら》いをした。若い娘はふたりとも、口でこそ老女中をかばっているけれど、正直なところ、じつは疑っていると考えていた。
「わたしには、わかっているのです。ロールさんは、過去の出来事を、率直に話そうという気持ちはお持ちのようだが、全部を話していただいていないのです。この際、何もかも、全部ぶちまけてください。たとえば、マネキン人形を隠したなら隠したと……」
イレーヌが、警部のその言葉に、腹を立てた。
「まあ、ひどいことを。ここに来て、じつに無作法な質問をたくさんなさいました。そのあげく、マネキン人形を盗んだなどと、おっしゃるのですね。わたしたちを、なんだと思っていらっしゃるのですか。あなたとわたしたちと、どちらがこの家の者なのですか?」
「イレーヌったら……」と、ロールが、優しくなだめた。
「ほうっておきなさい」と、マレイズが、きっぱりといった。「わたしは、お世辞もいえないし、みてくれだけの形式主義者でもないのですよ。お嬢さんのいい分には、たしかな理由があります。わたしは、この家の人間ではありません。でも確実に、人形は消失しているのです。わたしにも、その理由をただす権利があるのです……」
「お生憎《あいにく》さまですね。わたしは、隠したりなどいたしません!」と、イレーヌが叫んだ。「隠したのは、あなたではないの? あなたなら、そういうことができる卑劣な男よ。じつに、いやらしいやつだわ。出ていってください、すぐに……」
「イレーヌ!」と、ロールが再び繰り返しなだめた。
それから、従姉に近づき、腰を抱きかかえるようにして、無理に椅子に坐らせた。
「気持ちを静めるのよ……」
マレイズも、すっかり腹を立てていた。
「出ていきますとも。出ていきますよ。この家のひとは、みんな嘘つきだ。こんな嘘つきばかりの家は、はじめてだ……」
警部は、ロールに顔を向けた。
「最後に、もう一つだけ、質問をさせてください。気にいらなければ、返事をなさらなくてもいいのです」
警部の眼は、懇願しているようだった。
「叔父上は、ジルベエルが亡くなると、生き写しのマネキン人形が消えてしまったとおっしゃいました。そして、モデルが……といいかけたところで、あなたが入ってきたので、その後を聞くことができませんでした。すると、マネキン人形は、ジルベエルが亡くなるまで、叔父上の部屋にあったのですか?」
ロールは、肩をすぼめた。
「叔父のいうとおりです。ジルベエルが死んでから、蝋人形は見ていないはずです。イレーヌとわたしが相談して、叔父の部屋に置かないほうがいいと判断したのです……」
「その理由は?」
「叔父の身辺には、追憶の種になるようなものが多すぎるのです。手紙を読んでは泣き、時間さえあれば、写真帳を繰っているのです。叔父にとって、思い出は残酷です。だから、なるたけ、思い出をかきたてるようなものは、とりあげてしまったのです。なかでも、生き写しの蝋仮面が、いつも眼の前でちらついているのは、感心できませんからね。わたしでさえ、そんなものがいつも眼の前にあったのでは、たまったものではありません……」
イレーヌは、従妹の肩に頭をうずめた。涙が、ゆっくりと頬を伝わって流れた。
≪休息させたほうがいい≫と、マレイズは考え、ドアの把手《とって》を回した。
「お見送りいたしますわ」と、ロールがいった。
警部は、その申し出を断わった。ひとりで、自由な行動をとりたかったからだ。
しかし、若い娘は立ちあがって、警部より一足先に、玄関に出ていこうとしていた。
マレイズは、ちょっといいすぎたと思い、イレーヌに謝《あやま》りたいと思っていた。しかし、そうはしなかった。最後の一瞥《いちべつ》を、マネキン人形が消失したヴェランダに投げた。こちらからでは、庭園の小犬のマルグリットは見えなかったが、もう鳴き声は聞こえなかった。≪小鳥でも、追っかけているのだろう≫と、警部は考えた。彼は、捜査の目標を見失ってしまっていた。厚い壁の前で、うろうろしている自分の姿を頭にえがいた。公式の捜査に切りかえようかと、迷っていたのだ。
警部は、ドアを出て、玄関のところに来た。≪まったく、異常な事件だ。しかし、マネキン人形が盗まれたことだけは、現実の出来事だった。盗んだ犯人がいるのだ。盗んだのは、三人のうちの誰なのか? 三人のうち、一人が犯人だ……≫
先に歩くロールが足をとめたので、警部はロールに突き当たった。謝ろうと思ったが、ロールの挙動が変わったので、声をかけるのをやめた。ロールは頭を傾け、じっときき耳をたてている。
「穴倉のドアが、開いております……」と、ロールが、囁《ささや》くような声でいった。
ロールがいったことは、本当だった。なるほど、階段の下に、ポッカリと暗い穴が認められた。
「ねえ、聞こえるでしょう。なかに、誰かいるわ……」
マレイズは、じっと耳をすました。なにか物音らしいものが、かすかに酒倉から上がってくる。
警部は歩み寄って、穴の上に身をかがめた。穴のなかに、光が見えた。
「誰ですか、そこにいるのは?」
沈黙。次いで再び物音が起こり、ドアが軋《きし》んだ。
「どなたですか?」と、マレイズが、もう一度声をかけた。
ふっと灯《あか》りが消えた。木の階段が、音をたてた。まっ暗ななかで、何かが蠢《うごめ》いている。影の輪郭がくっきりと浮かび、階段がさらに強く軋んだ。
「おれだよ!」と、陽気な声が湧《わ》き起こった。
暗闇《くらやみ》のなかから、ひとりの男が姿を現わした。皮の外套を着、フェルトの帽子の下から額がはみ出し、両手に埃だらけの酒瓶《さかびん》をにぎっていた。
「一九〇一年のリシュブールだ! ばんざい!」
穴倉のドアを、靴の踵《かかと》で閉めた。
「やあ、こんにちは、ロール!」
「まあ、アルマンじゃあないの!」と、ロールがびっくりして叫んだ。
「どこから入ったの?」
「ドアからだよ、別嬪《べっぴん》さん!」
「まあ、アルマンたら、呼び鈴も鳴らさなかったの?」
「どんなときでも、鍵を忘れるような、下手《へま》はしないからね」
「誰にも、見とがめられなかったの?」
「誰にも見とがめられずに、おれはここに来た……」
彼は、床に酒瓶を置くと、ロールを抱いて、両頬にキッスをした。彼のやり方は、この家のやり方ではない。
「ますます美しくなるね! お父さまはお元気かい? イレーヌは?」
ロールは、アルマンを手で押して身体を離した。彼は、マレイズなど、眼中にないようであった。警部は動かず、厳しい表情で、銅像のように立っていた。
「この方は、どなたですか?」
十三 マレイズ警部の≪退化本能≫
エイメ・マレイズは、宿泊中の旅籠《はたご》の、低い天井の食堂で、食事を終えたところだった。舌を焼く思いで、熱いブラック・コーヒーを飲みながら、以前読んだことのある、エドガー・ウォーレスの『二本の針』の一節を、思い出していた。なぜか、その一節だけが、頭の底に鮮明に残っていた。
≪もし、なぜか、という疑問が起こったら、結論を先に求めてはならない。結論を先に出すと、多くの場合、事件を正しく判断することができなくなる。しばしば、わたしが経験することだが、本能で結論に到着したときは、ひとつの問題だけを、深追いしないことにしている。ひとつの問題だけを深追いしていると、全体の方向を誤まることになる。原始時代の人類は、野生の動物と同じだけの能力と、原始的本能のふたつを持ち合わせていた。ところが、判断力を体得するに従って、野性の本能が弱まり、今日では、わずかな痕跡《こんせき》だけでは、目的物を追う力すらなくしている。しかし、現在の人類は、学問を修得することにより原始的本能の弱点をおぎない、目的物に向かって追跡し、勝利者たるの技術を身につけることができるのだ≫
技術さえ駆使すれば、マレイズも、勝利者たり得るのか? 彼はこの論理に、少々疑問を持たざるを得なかった。技術は、あくまでも技術だった。技術を修得するだけで、果たして勝利をかちとることができるのか?
≪わたしたちは、しばしば、身内に閃光《せんこう》がピカリとひらめくことがある。予感と呼ばれているものだ。本能は退化しているが、まだ少々は残っている。人間本来の本能が、活動しているからだ。だが、それ以上に進展させることはできない。論理がこれを打ち消し、弁証をもって訂《ただ》そうとすれば、本能は直ちに死滅する≫
マレイズが、考えにふけっている問題は、この≪退化本能≫であった。マレイズは、昔日の下劣な犯罪が、マネキン人形を殺害することにより、この犯罪を完了させたと、≪退化本能≫が嗅《か》ぎつけたと解釈したからだった。では、これまで手に入れた材料だけで、論理を組み立て、弁証法で結論を導き出すことによって、マネキン人形殺害事件を解決することができるだろうか?
とても、これだけでは駄目だ。時間をかけなければならない。そのために、ブリュッセル警視庁に電報を打ったところだった。地方の小都市に起きた、ある重大な事件の捜査に従事するために、承諾を得ようとする電報だった。
返事を待ちながら、捜査が困難なものになると予想されるだけに、浮かない気持ちになり、自然と顔色に出ていた。はかり知れない幾多の困難が、マレイズの前途に横たわっている。まず、ジルベエル・ルコトが殺害されたことを、実証しなければならない。いかなる方法でか。それには、被害者の過去を調べることだが、これは案外たやすいことかもしれない。そのためには、ルコト家とシャロン家の秘密に、多少とも触れなければならないし、過去のうずもれた汚い事実を、白日のもとに、さらけ出して見せなければならない。
朝の一時間で、マレイズは、人間の本能について、どうにか結論にたどりついたが、しかしさらに、とくに推理の部分が、事実とくい違っていないか、何度となく吟味していた。ヴェランダに置いたマネキン人形の消失が、警部に幸いしていた。異様な現象のなかで、これだけが、いわば現実の物的証拠といってよかった。しかも、人形をめぐる事件の様相が、意外に根が深いことが確認された。
この事件を考えてみると、確証は三点、いや四点あることに警部は気がついた。
第一の確証――ジャコブ老人が、マネキン人形を手に入れたやり方である。多少とも、腑《ふ》に落ちない点が、ないでもない。また、ルコト家でも、タダ同然の価額で、せっかちに首と胴を分離して、ユダヤ人に売り払った。適当な理由はつけているが、人形を復元することをひどく怖《おそ》れている。
第二の確証――ドゥヴァン氏には確かに損害を与えたけれど、あの奇妙な盗難事件は、金銭的に、いささかの不利益ももたらしていない。人形を盗んだ者は、ドゥヴァン氏が派手に騒ぎすぎたため、最初の計画を変更しなければならなかったのではないか。手に入れた獲物の処置に困り、動機を隠すために、あのような行動をとったと考えられないこともない。
第三の確証――マネキン人形の謀殺。すなわち、鉄道線路に運び、人形をバラバラに粉砕しようとした。一および二の確証を除外すれば、冗談半分の単なる悪戯と、いえないこともない。しかし、警部は、そう考えず、≪人形殺害≫に対して、すさまじい憎悪の示威と考え、そのため、あえて犯罪と断定したのだ。人形を列車によって粉砕するという着想を、生きている人間を苦しませながら死刑に処すことに置きかえれば、まさに身の毛もよだつ恐怖を感じさせるのだ。
第四の確証――ルコト氏の言を信用するとすれば、息子のジルベエルの死亡と同時に、ルコト氏の部屋から、マネキン人形が消失している。ロールは、ルコト氏を悲しませないため隠したと説明しているが、どれだけ信用ができるか。
そのほか、ヴェランダで、マネキン人形が消失したという事実がある。この消失は、解釈が、二つできる。第一は、思い出の品をとりもどそうとして、人形を盗んだこと。第二は、マレイズが偶然巻き込まれた事件の唯一の物的証拠を、湮滅《いんめつ》するために盗んだこと。
警部は、ルコト家を訪問したときのことを、思い返した。マネキン人形をだましとったのは、アルマンだったのか? あまり可能性があるとは思えない。イレーヌが庭園にいる間、マレイズとロールは一緒に、物置部屋にいた。その間を利用して、アルマンがヴェランダに忍び入り、マネキン人形を盗んで穴倉に隠す。しかし、これは、実行不可能だ。じつは、警部が自身でタバコ入れをさがすという口実で、(じつは、わざと落としたのだが)穴倉におりて、なかを一瞥したのだが、別に変わったものは発見できなかった。では、ロールはどうか。ロールは、イレーヌがマレイズを父の部屋に案内している間に、実行すればできる立場にあった。会談の時間を計算すれば、充分に盗んで処置する時間があった。イレーヌはどうか。イレーヌは、ヴェランダに足を踏み入れなかった。警部が辞去する前に、イルマに質問して、確かめた。では、老女中のイルマはどうか。台所を通り抜けたイレーヌが、証人だった。イレーヌは、庭園から、台所のカマドの前を終始行ったり来たりしているイルマの姿を見ていた。
マレイズは、パイプの灰を落とすと、立ちあがった。公式の令状なしでは、手も足も出なかった。令状は、手回しよく、手に入れておくべきだった。
それから十分後、マレイズ警部は、ステーション街十八番地の、フュルネル医師のドアをたたいていた。薄暗い、ちっぽけな控室に通された。古風なヒポクラテスの控室だ。暖炉の上に、青銅の置物が載せてあり、窓枠《まどわく》の上に、石膏像《せっこうぞう》が置いてあった。
部屋の奥の暗がりにサインの寄せ書きが、陽のあたるところに、雪景色の森を描いた絵がかけられていた。黄金色の木製の丸テーブルには、旅行社と自動車販売元が発行したパンフレットが置かれていた。
マレイズは、|鉤針編み《クロシェ》のレースを背にかけた、目のつんだ薄黄色の長椅子に腰をかけた。肘掛《ひじか》け椅子には、どれも小さなクッションが、体裁よく置いてあった。長い時間待たされるのではないかと、警部は少々うんざりしていた。
けれど、間もなく、診察室のドアが半分開き、重々しい声が聞こえてきた。
警部は、庭園に面した、明るい部屋に通された。季節外れの遅咲きのバラが、花を結んでいた。
「ご用件は?」と、フュルネル医師は、診察室に警部を招じ入れ、奥の自分の椅子に腰をおろして、そう訊いた。
多血質の顔と、豊かな白髪の、身体の大きな、がっちりした見事な体格の男だった。煙草《たばこ》のヤニで黄色くなった山羊《やぎ》ひげの、まばらなひげのまん中に、肉の厚い唇が、あぐらをかいていた。
「マレイズと申します」と、エイメ・マレイズ警部は、ゆっくりと発音した。「少々、先生にお訊ねしたいことがあって、かく参上した次第です」
しかし、警部は、それ以上、なにも説明を付け加えなかった。
フュルネル医師は、びっくりした顔をして、警部を見た。何か特別な感動でも起こらないかぎり、動こうとしない、重くたれた眼瞼《まぶた》の奥に、明るく青い、印象的な大きな眼があった。
「わかりました。で、どこがお悪いのですか?」
「別に、どこも悪いところはありません」
医師は、太い指を鳴らした。
「でも、悪いことは悪いのでしょう?」
「いいえ、どこも……」
そう答えてからマレイズは、突然、態度を変えた。
「わたしは、心臓機能停止から生じる徴候と、毒殺から生じる徴候と、まったく同一の徴候かどうか、知りたいのです。もし、同じ徴候だとすれば、その毒物の名前を知りたいのです」
十四 犯罪実例集
沈黙が、長いこと続いた。マレイズは、医師が当惑して、だまり込んでいると考えた。医師のほうも、マレイズが当惑して、何も口にしないのだと思っていた。
「あまり突然でしたので……。それに、思いもよらないご質問なので……。で、どのような理由から、このような質問をなさるのですか?」と、医師が訊ねた。
マレイズは、紙幣《さつ》入れから、公式の名刺をとり出すと、テーブルの上に置いた。
「どうか、わたしの質問に、お答え願いたいのです。ご意見を参考として、捜査の役に立てたいのですが……」
医師は、しばらく、ポカンとした顔をしていた。
「ちょうど、一年ほど前のことになりますが、自然死と見せかけ、じつは毒殺による殺人事件が、この街で起こりました」
「それで……」
医師は、重たげに眼瞼を開いたが、すぐもとのように、おろしてしまった。
「わたしは、この小さな街で、名医として祭り上げられていますが、名医どころか藪《やぶ》医者です。むろん、毒物学の専門家でもありません。ところで、誰から、わたしのことをお聞きになりましたか?」
マレイズは、名刺を紙幣入れに戻し、ポケットにしまった。
「先生が扱われた、ジルベエル・ルコトの死亡のことからです。死亡診断書は、あなたがお書きになられている」と、警部は熱のない態度でいった。
次いで、警部は、くたくたの煙草の紙袋を、相手に差し出した。
「いかがですか、おひとつ?」
相手は、不器用な手つきで、機械的に手を差し出したが、頭で否定すると、ふたたび椅子にどっかりと坐った。
「あのとき、自然死と検案したのはわたしですが、現在でも、その意見を変更するつもりはありません。正式な手続きをとって、行政解剖をなさいますか?」
「いまのところ、そのつもりはありません。しかし、今後の事態の進展いかんによっては、どうなるかわかりません」
「ご質問にお答えすることは、警察の公式要請に基づくものですか?」
「いいえ、違います。あくまでも、わたし個人の、情報収集ということです」
「わたしは、現場に居合わせたわけではないのです」
そういい、医師は、顔を上げた。
「そうです。わたしの措置に、間違いはありません」
マレイズは、身動きひとつしなかった。相変わらず、足を組んだままで、居心地の悪い椅子に腰をかけていた。何か得るところがないかぎり、長椅子から離れたくない、という顔をしていた。
「わたしは、あなたの同業者に、問い合わせることだってできるのですよ。たとえば、わたしを追い払うようなことでもすれば、すぐさま、いま申した措置をとりますよ。捜査が、ちょっと、回り道にはなりますがね。これでは、話が少しも進展いたしませんね。誰でも、間違いということはあるのです。先生が、自発的に喋られるぶんには、問題は別だと思いますが……」
フュルネル医師は、立ちあがり、陽《ひ》のあたっている書棚《しょだな》から、本を一冊抜きとった。医師は突然、ひどく老け込んだように見えた。
「ジルベエル・ルコト殺害を肯定するため、その本をおとりになったのですか?」
警部の言葉は、医師の降伏を意味していた。警部が予想していなかったほど、はやい降伏であった。
「こまごまとお喋りすれば、ただあなたを退屈させるばかりです。この書物は、じつは未解決の問題の実例を集めたものです」
「その判例集で、説明なさろうというのですか?」
「そのとおりです」
入り口で呼び鈴の音がした。その音を耳にして、女中が地下室から上がってきて、木靴《サボ》をひきずりながら、玄関のドアを開けに行った。
「どのような理由で、あなたは毒殺とお考えになられるのですか?」
「別に誰から教えられたわけではないのです。証人の話を総合するとジルベエル・ルコトの身体を調べているうちに、屍体《したい》に致命的な傷ひとつないのに、死亡していることが判明したからですよ。彼の身体に、他人の手が触れていないで、しかも死亡したということになれば、毒殺以外に考えられないじゃあありませんか?」
「たしかにおっしゃるとおりですが……」
「ジルベエル・ルコトは、階段から落ち完全に絶命するまで、どのくらいの時間がかかったのでしょうか。あなたが呼ばれて、現場に到着したときはどうでしたか?」
医師は困惑して、椅子の上で、身体をモソモソと動かした。
「ちょっと待ってください。当時の情況を思い出してみましょう。わたしは、正午を三十分ほど経過した時刻に、現場に到着したのです。屍体の硬直状態から判断すると、完全に死亡してから、たいして時間が経過していなかった。死亡時間は十一時半、十一時十五分以前ということは絶対に考えられません」
「死が急激にきた、とわたしは考えるのですが……」
医師は、複雑な表情をした。
「屍体の状態から見て、犯罪の疑いは、何もなかったのですか?」
「絶対に、疑わしい徴候はありませんでしたね」
「打撲傷なり、かすり傷なりはあったと思うのですが?」
「ともかく、階段から落ちたのですからね。少々の傷があるのは当然じゃあありませんか」
「すると、あなたは、一見しただけで、即座に、心臓がとまったと、所見なさったわけですね?」
「一目でわかりましたよ。ジルベエル・ルコトは、もともと、ずっと以前から心臓を患っていましたので、あのような場面に遭遇すれば、誰でも当然駄目だと考えますよ。心臓停止以外に、別に異状は認められませんでしたよ」
「よくわかりました」と、マレイズがいった。
警部は、アルフォンス・ベルティロンの有名な言葉を思い出した。≪ひとは誰でも、眼に映ずるものしか見ないか、心に映ずるものしか見つめないものだ≫。この医師は、自分の手掛けている患者の病気を治そうと心掛けていたが、いったん患者が死ぬと、責任を病気に転嫁し、死んで横たわっている患者を、慎重に検案しなかったのだ。
「わたしが最初にした質問を、もう一度ここで質問させてください。心臓機能停止から生じる徴候と、毒殺から生じる徴候が、まったく同一の徴候かどうか、知りたいのです」
医師は、書棚から抜きとった、厚い本のページを、熱心にめくった。
「屍体を一見しただけでは判別がつきませんが、ある毒物学者によると……」
「学術的なご意見は、けっこうです。実際の問題について、お話をうかがいたいのです。ジルベエル・ルコトが猛毒で倒れたことは確実です。ゆっくりと効果が現われる毒物を使用したとすれば、死ぬ相当以前から、体内に入っていたことになります。作用の緩慢な猛毒薬物とは、いかなる薬物のことでしょうか? 青酸カリでしょうか?」
「違いますね」と、フュルネル医師は、強く否定した。「青酸カリで毒殺された場合は、わたしも手掛けたことがありますが、屍体全体が蒼白《あおじろ》い色で発見され、やがて生きている人間のように、バラ色となるのですが、一酸化炭素で窒息死した者も、ほとんど同じ徴候が現われます。わたしは、胸郭と股《また》の内側が、とくに鮮やかな蒼白い色になっているのを見たことがあります。最後に付け加えて申しますと、青酸は、苦っぽいアーモンドの強い匂《にお》いがしますから、すぐ疑惑を持つことができます」
「ストリキニーネは、どうでしょうか?」
「ストリキニーネを用いた場合、痙攣《けいれん》をともなう最初の発作で、死ぬことは決してないのです。したがって、ジルベエル・ルコトは、階段の下で呼吸が絶えていたのですから、ストリキニーネは使用されていなかったと考えられます。毒薬のききめは、素人の方が考えるほど、効果が現われないのです。ただ、青酸を使用した場合、まれにですが、神経が侵される以前に死に至ることがあります」
警部が考え出す大胆な推理は、ことごとく医師の専門的な発言によって、打ち砕かれていた。
「ジルベエル・ルコトは、虚弱な体質だということですから、毒物に対して、抵抗力がなかったのではないですか?」
「お言葉のとおりだと思います。わたしも、警部さんと同じ考えだったのです。しかし、外見上は、青酸カリ以外に、屍体の徴候から考えて、短時間で一人の男の生命を奪う毒薬が使用されたとは考えられなかったのです。たとえば、作用の極めて激しい、アルカロイドによる毒殺の場合も、屍体の状態から見て、決して当てはまりませんでした」
医師は、冷静さをとりもどしていた。
「わたしは恐れているのですよ」と、医師がいった。「わたしが喋ったことが、間違っているのではないかとね……」
しかし、マレイズは、その医師の言葉を無視した。じつは、医師の説明を聞き終わっても、別に落胆していなかったからだ。あることに気がついて、ちょっと興奮さえ感じていた。
「まだ、矢毒《キュラール》が残っていますね!」と、警部は、無造作にいった。突然、そう発言したのは、相手の心を動揺させることを計算に入れてのことだった。警部は、その言葉で、どんな影響が現われるか、医師の顔をじっと見まもった。
「矢毒ですって?」フュルネル医師は、眼瞼をしばたたいた。呼吸《いき》を呑《の》んでいるような顔であった。
「ヨーロッパでは、この種の毒物を使用したと、あまり耳にしませんね。で、どのような理由から、矢毒とお考えになったのですか?」
「ルコト家の物置部屋に、半端《はんぱ》ものだが、インディアンの武器一式があったことを思い出したからです」
そして、警部は、さらに言葉を続けた。
「あなたが手にお持ちの本を、ちょっと貸していただきたい」
警部は、相手からとりあげるようにして本を手にとり、ペラペラとめくって、ある個所を指で押さえた。
「ここにありますよ。矢毒《キュラール》。南米産植物性毒物。極めて高度の毒性あり、ストリキニーネ性各種植物から、精製される。とくに、呼吸器に障害を起こさせる特質を有する。黒みがかった褐色の樹脂の外観を呈し、水またはアルコールで溶解する。長期間にわたり、毒物性特質を保つ」
マレイズは、すっかり興奮して、身体をこきざみに顫《ふる》わせていた。
「これだけではないのです。まあ、お聞きください。≪矢毒素《クラリン》≫の項目を読みますよ。矢毒素《クラリン》は、矢毒《キュラール》のエキスの結晶体で、矢毒と同じ作用をするが、効果は極めて強烈。矢毒の二十倍の作用をする」
フュルネル医師は、蒼白《そうはく》な顔で立ちあがり、相手の肩の上からのぞき込んで、警部が読みあげた文字を読んだ。
「どうです、何かとくにご意見がおありですか?」と、鼻高々に、マレイズがいった。
「わたしは、むろん現場を見ておりませんが、この書物にもあるとおり、殺人犯人がいかにして毒物を手に入れたか、お話しすることができるのですよ。毒物を入手するには、用心深く、誰にもわからぬようにそっと、投げ槍の先から削りとるだけで充分だったのです。たぶん、わたしたち同様に、医学知識を学び、矢毒素に還元して、毒薬の効果を完全に発揮できるようにしたのでしょう」
フュルネル医師の顔に、徐々にだが、生色がよみがえってきた。
「しかし、ジルベエル・ルコトが死亡したとき、彼の身辺には、誰もいなかったのですが……」
「けれどそれは、屍体《したい》が発見された後の情況を、おっしゃっておられるのでしょう」と、マレイズが応答した。
「矢毒を調合し、時間を計算して、被害者が口にする飲み物か、食物に巧みに投じたとしたらどうでしょう。つぎに犯人は、毒物が作用する時間を計算して、アリバイを作り、被害者が倒れる時間に現場に居合わせないように仕組むこともできたのですよ」
フュルネル医師は、警部と対談を始めて以来、はじめて微笑を口もとに浮かべた。でもこの微笑は、警部が新しい手掛かりを発見し、確信に充ちた論理を展開はしたが、少々理解が浅薄で、論旨が飛躍しすぎていると、医師が認めたからだった。
「わたしは、あまりせっかちに結論を出すことは、いましめなければならぬと思いますよ。警部さんの論理構成に、何か肝心なものが欠けているのではないでしょうか?」
「なんですって?」と、マレイズは、医師の言葉にびっくりしていった。
「傷口から入った矢毒は、非常に迅速に吸収される」と、フュルネル医師は、大声で読みあげた。「南アメリカのインディアンは、矢に塗って用いる。これに反して、嚥下《えんげ》しても、普通の場合は危険がない。どうです、警部さん、この定義によれば、矢毒《キュラール》では、ジルベエル・ルコトを毒殺することはできませんよ。口から入っただけでは、何の害もないのです」
マレイズの今度の声は、力のないものだった。
「畜生! そこまでは考えなかった」
そして警部は、最後の反撃を試みたのだった。
「あと、残されたことは、死体を発掘し、解剖するだけだが……」
医師は立ちあがっていたが、ソワソワした態度になっていた。待たしてある訪問客のことが気になっていたからだ。
「警部さんのそのご意見には反対です。一年以上、カンピンヌ墓地の砂質の土壌に棺桶《かんおけ》を埋めておくと、少々は何かが残っているでしょうが、あなたが固執する矢毒は、まさしく毒物の一種には違いありませんが、細胞とともに跡形なく消失していますよ……」
そして医師は、シガレット・ケースを、親指でパチンと開いた。
「煙草でも、いかがですか?」
ステーション街十八番地の医師の家を出ると、マレイズは、ひどい寒さに襲われた。フュルネル医師の発言は、確実な理由があった。矢毒《キュラール》による毒殺の場合は、ほかの薬物を使用するよりも、殺害の可能性がない。毒物を口に入れても、危険性がなかった。殺人犯人は、(もちろん、仮定の殺人犯人だが)ジルベエル・ルコトが死亡する前の若干の時間を計算して、注射しなければならない。ところが、ジルベエル・ルコトは、階段をおりてきたのだ。いかに素早い行動をとっても、注射をする、これはできない相談である。これだけ証拠をつきつけられると、警部はあとの言葉が出なかった。医師の論拠には、説得力があった。泣き悲しむ父親のルコト氏、忠実な女中の老女イルマ、現場に居合わせた警部が名前すら知らぬ者まで含め、誰も彼も、ただオロオロとうろたえ、ジルベエル・ルコトを冷静に見る者はなく、ましてや死亡以前の時間にまで考え至る者はひとりもいなかった。
警部は、トボトボと駅まで歩いた。貴重な二十四時間を無駄にしてしまったのだ。しかし、そのとき、十七時十分発の列車は、駅を発車して、すでに十キロほど離れた牧場を、驀進《ばくしん》していた。
十五 当代青年気質
旅籠の亭主《ていしゅ》は、カウンターの背後で、コップを洗っていた。マレイズが、天井の低い食堂に入ろうとすると、亭主が声をかけてきた。
「ジェロムを見ましたよ」と、低い声でいった。「ここに呼び入れ、一杯ご馳走したんですよ」
「えっ!」
といって、警部は、周囲《あたり》を見回した。
「どこにいるんだ?」
その朝、警部は、旅籠の亭主に、白痴を見かけたらつかまえて、自分が帰ってくるまで、なんとか引き留めておいてくれと頼んであった。
「でも旦那《だんな》、一時間以上も引き留めておくのは、すごくむずかしい仕事ですよ」
亭主は、軟毛で覆われた手を、ゴシゴシこすった。
「でも、わたしとしては、これでも精いっぱいやってみたんですよ。あいつめ、一週間分も、飲んだり食ったりしやがった……」
それから、嘲笑《ちょうしょう》を浮かべ、
「お支払いのほうは頼みましたよ。牛一頭分ぐらいも、ガツガツ食べやがったんですからね」
マレイズは、ドアの一番近くのテーブルに、どっかと坐り、額にかかった帽子をうしろにずらして、脚を広げた。
「わたしの勘定につけておいてくれ。ところで、いま、何時かね? どうも腕時計が遅れてね……」
亭主は、うしろ向きになり、半開きのドアに、ちらっと一瞥を投げた。
「五時半から五時三十五分の間くらいですよ。何かお飲みになりますか?」
「ドゥミ〔ビール、半カップ〕を頼む」と、マレイズは、溜息まじりにいった。
駅からここまで来る途中、幸いにも、警部は、アルマン・ルコトに話しかけることができたので、自動車を買いたいという口実で、会見の申し入れをし、応諾を得た。
しかし、六時まで、待たなければならなかった。その時間になるまで、青年は姿を現わさないからだ。
「あと、何日、ご滞在ですか?」警部が椅子から立ちあがると、亭主が訊ねた。
「いまのところでは、予定がたたないね。あす、きめることにするよ」
警部は、寺院広場まで歩き、街かどの邸宅の呼び鈴を二度鳴らした。
けさと同じように、ドアが開くまで、相当に手間どった。けさと同じように、ドアが細目に開き、警部自身がドアを押した。
「こんにちは、イルマ!」
相手を無視することにして、強引に家の中に入った。
「まだ何か、ご用がおありなのですか?」と、老女中はぶつくさ呟いた。さすがに、けさのように、拳《こぶし》をかためて、屋内に入ることを、拒否はしなかったが。
「あなたを屋内に入れるために、日に十回も台所の仕事の手を、休めなければならないのですよ」
マレイズは、イルマの愚痴を無視した。
「アルマンさんは、いらっしゃいますか?」
「外出中ですよ」
「ひとりで……」
「ロール嬢さまとご一緒です」
「帰りの時間を知っていますか?」
「さあね。そのことなら、わたしのほうで、あなたにお訊ねしたいくらいのものですよ」
「イレーヌさんは……」
老女中は、ますます依怙地《えこじ》になった。
「いませんよ」
そういって、むりやり、警部を屋外に押し出そうとした。
≪この女は、ほんものの番犬だ≫と、マレイズは考えた。
警部は、ポケットから手帳と鉛筆をとり出した。
「おれだって、お前の立場になれば、ドアを開けないよ、イルマ」と、警部は、上機嫌《じょうきげん》だった。「北風は寒いし、これ以上吹きっさらしで顫えるのはたまらないからね。しかし、ちょっとだけ、待ってくれないかな。アルマン氏に、ひとこと書き残しておきたいのでね」
「どうぞ、お気に召すように」と老女中が呟いた。
イルマはドアの錠をかけないで、そのままにしておいた。
マレイズがルコト家を辞去した頃には、夜の幕《とばり》がおりて、近くの巨大な樹木が、荒廃した影を浮かびあがらせ、背をつぼめた通行人が、寒気に全身をさらしていた。寺院の蝋燭《ろうそく》は消え、黒いつづれ飾りと見える雨が、広場の菩提樹《ぼだいじゅ》を濡《ぬ》らしつづけていた。周囲《あたり》を取り巻く窓に、ひとつずつ灯《ひ》がともり、どこかで、荷車の音が聞こえていた。
警部は、ステーション街の、ドゥヴァン氏の店の前で足をとめた。衣装を身につけたマネキン人形が、気どったポーズで、飾りつけられていた。嵐《あらし》が近づいてきているというのに、何の防備もほどこされていなかった。むっちりと肉づきのよいバラ色の蝋の指が、ちょっと上向きに白絹の小さなポケットをさし、もう一方の指は綾織《あやおり》の上着の裾《すそ》をつまんでいた。
「このマネキンなら、色男ぶった若者に人気があるだろうて!」と、マレイズは、ボソボソと呟いた。
一陣の風が鐘楼をなぎ、鐘をグラグラゆらしてから、街なかを通過する急行列車に襲いかかった。マレイズは、じっさいに、その風が通過するのを見まもっていた。警部はうしろ向きになり、その風を防いでから、道の端で牢獄のようにガッチリと建っている旅籠に戻りついた。
「食事の用意をしてくれ」と、警部は、窓を背にして、片隅に腰をおろした。「なんだっていいのだ……」
アルマン・ルコトは、どんな理由で、約束の時間に姿を見せないのか? 警部の経験からすれば、ブローカーは、自動車の専門家であればあるほど、将来のことを考え、よい条件をつくろうと、仕事には忠実なはずだ。それが、姿を見せないのだ。アルマンにしてみれば、マレイズがほんとうに自動車を買ってくれる気持ちがあるかどうか判然としないため、積極的に動くべきかどうか、判断がつかないということはあり得る。「フォード会社のヒスパノさえ、ほかの自動車と区別できない男だと、あの男は考えているのだろうか?」
別の考え方もある。
「アルマンさんは、ロール嬢さまとご一緒にお出かけです」と、老女中のイルマがいった。若い娘は、従兄《いとこ》とランデヴーのため、遠出をしたのだろうか?
マレイズは、皿を片隅に押しやると、財布のなかから、ジルベエルの写真をとり出した。ルコト氏の写真帳からとりあげてきたものだ。
「この写真のジルベエルを見ていると、わかるような気がする」と、警部は、ひとりごとを呟いた。「この青年は、接触する誰をも、アッと愕かすような、持って生まれた才能をもっている。たぶん学校では、教師の教えることを、てんで信じようとはしなかったろう。彼は、将来がバラ色に輝く、医学を勉強していた。母親は、性格の優しい子だといい、まるで娘のように可愛がっていた……」
マレイズは、口もとに冷笑を浮かべた。医師という職業は、果たして、最上の光輝ある、唯一のものだろうか。警部は、堕落した天使とさえ考えているのに……。
「母親は、息子があらゆる美徳の模範であると信じ、熱愛していた。その息子が死ぬと、この母親は、あとを追って自殺した……」
ここで警部は、以前読んだ、ジョルジュ・シムノンの小説『ニューファウンドランドで逢《あ》おう』のなかの一節を思い出した。
≪あなたは、年若くして死んだ人たちの写真を、じっくりと見まもったことがありますか? わたしが、いつも、健康な人、すなわち、この写真に写っている人たちに心をうたれるのは、じつはこの人たちに、痛ましい影が感じられるからです……。彼らの顔には、悲劇の被害者としての、罪の宣告が焼きつけられているのです……≫
悲しみと忍従とが同居する、病的なこの種の恐怖を、マレイズはよく承知していた。だから、無数にはられた写真帳を見る気持ちで、眼下の一枚の写真を見つめていたのだ。
やがて、警部は、その写真のなかから、不吉な匂いのする、青春の激情のしるしを発見した。そして、それはまた、挑戦的な一種の精神錯乱型で、同時に異常な性的早熟さも含んでいた。
突然マレイズは、写真を眺《なが》めているのが自分ひとりではなく、彼の背後の低い窓の柵《さく》に、ひとつの顔がはりついていることを知った。警部は、額の上に視線を感じたが、それは、劇場や電車のなかで、肩ごしにプログラムとか新聞をのぞき込まれているような感じであった。警部は、ひとことも口にせず、身体を動かそうともしないで、旅籠の亭主の注意を自分のほうに向けさせた。
「気をつけてください」と、旅籠の亭主がかすかな声で囁《ささや》いた。「そのまま坐っていてください。わたしが喋っているのを、聞いているような素振りはしないでください。やつは、窓から、わたしのことを、注意深く観察しています。こちらを見たりしては駄目です。うしろの戸口から出て、うまくとり押さえますから……」
何気ない様子で、旅籠の亭主は、カウンターに鍵束をそっと置き、ドアを開け、奥に消えた。
警部は、テーブルをそっと足で押して、いつでも自由行動がとれるようにした。マレイズは、柵の軋る音を聞き、路上で大声があがるのを聞いた。
警部は、部屋をぐるりと回り、イスパニア錠を手にがっちりとつかみ、錠を差し込むと、窓を力いっぱい引っぱった。
ちょうど、亭主のずんぐりした影法師が、もうひとつの影法師につかみかかろうとしていた。もう少しで、つかまえることができる。
窓が大きな音を立てた。蒼白い二つの顔が、こちらを向いた。ついで、亭主の襲ったやつが、すさまじい一吹きの風に乗って、あっという間に、その姿を消した。
「あっ、ジェロムだ!」と、警部は窓から身をのり出し、手でメガフォンをつくり、怒鳴った。
旅籠の亭主は、力なく腕をおろしていた。
「野郎、すげえ力で、なぐりやがった。近づくのが、やっとだったんです」
マレイズは、それに答えようともしないで、雨と暗闇のなかを、じっと見まもっていた。
逃亡者は、風に乗じて、嵐のど真ん中に、忽然《こつぜん》とその姿をくらましてしまっていたのだった。
十六 恐るべき子供たち
その翌朝のこと、マレイズは旅籠《はたご》をあとに歩きながら、イルマに託した伝言をアルマン・ルコトが読み、逢《あ》うことに同意したはずだと考えていた。そうして、警部が、ステーション街を曲がろうとしたとき、朱色のブガッティが、金属性の鋭い音をギギッと軋《きし》らせて、警部の前で停《と》まった。
「やあ、警部さん! お出かけで?……」
厚ぼったい皮|外套《がいとう》を無造作に着て、髪の毛を風になびかせ、アルマンが、手袋の手を差し出した。
「ここから四十キロほどのところに、松で覆われた古風なホテルがあるんです。可愛い少女が、自家製の飲み物を飲ませてくれます。よろしかったら、ご一緒しませんか? 十分ほどで行けますが……」
警部は、ほかにいい考えを持ち合わせていなかったので、青年の隣に坐《すわ》った。じつは、警部は、角《かど》がすりきれた四角なテーブルや、ギシギシ音がする床《ゆか》、鋸屑《おがくず》をぶちまけたようなザラザラのカウンター、荷車引きや百姓どもがだべりに来る旅籠の食堂に、少々うんざりしているところだった。
「貴重な時間を使わせて、申し訳ありません」と、警部がいった。帽子を風に飛ばされないように、何度も手で押さえていたが、そのうち、膝《ひざ》の上に置いた。「わたしのほうは、別に時間を気にする必要はないのです」
アルマンは、運転しながら、喋《しゃべ》った。
「今度の事件について、わたしは何も知らなかったのです。わたしがしたことは、父と妹と従妹《いとこ》に、それぞれ一度だけキッスをし、老女中のイルマに、レオポルドのニュースを訊《たず》ねただけで、わたしが生まれた旧《ふる》い邸宅のなかの出来事は、何も知らないのです。それはそれとして、きのうのことは、心からお許しを願いたいと思います。ロールが、どうでもこうでもというので……」
しかし、警部は、ロールとアルマンの交渉について、少しも興味を示さなかった。排気ガスを押し出すエンジンが、柔らかな音を立てて、車が道路からひどく狭い道に入り、無理に方向を変え、スピードを落とさずつっ走ったので、生垣《いけがき》の枝がバリバリ折れ、ニワトリが風をくらって逃げ散った。百姓たちは、敷居の上に立ち、シャベルを置いて、朱色の矢がアッという間に通り過ぎるのを、じっと見守っていた。
マレイズは、最初のうちこそ、帽子に注意力を集中していたが、やがて両足をふんばり、両手で座席を持ちささえ、ハアハアいいながら、寒風が眼《め》に襲いかかってくるのを、懸命にこらえていた。
車は、小部落を通り過ぎた。牛の群れがわれがちに逃げ出し、牛飼いが悪罵《あくば》を投げかけ、通行人が道端によけ、腕を広げて怒鳴っていた。堀のところで、憲兵が二人、自転車を停めて、アルマンの車を見送っていた。
「ここです」と、突然、アルマン・ルコトがいい、エンジンをとめた。
この電光のようなドライヴが終わると、樅林《もみばやし》のなかに、車が停まっていた。マレイズは、ほっとした気持ちになった。そっと手の甲で頬《ほお》の汗をぬぐい、最初にやったことは、注意深くもったいぶって帽子をかぶったことだった。次いで、そっと足をのばし、戦闘中の船橋に足をのっけるようなしぐさで、足を置く大地をそっとさぐった。
「こちらです、警部さん!」
アルマン・ルコトは、そのときすでに、飾りつけのバラの花がしおれているノルマン風の横に長いバンガローに、大股《おおまた》で歩み寄り、ドアを押していた。
「こんにちは! ぼくだよ……」
アルマンは足をとめ、周囲《あたり》を見回した。
「マハラニ妃《ひ》はいないの?」
新鮮《フレッシュ》な色彩のナフキンを、テーブルの上に並べていた、身体の小さな給仕女が、アルマンのいるところに、急いで近づいてきた。
「おりませんの、アルマンさん。あの人は、暗くならなければ帰ってまいりませんわ。わたしが、お給仕いたします……」
アルマンは、マレイズの顔を見て訊ねた。
「お酒でもいかがですか、警部さん。シェリーですか? それとも、ポルト・フリップですか? フリップを二杯、マリーアンジュー、ぼくたちは、ここで、飲みたいのだよ。温めなければ、お口になさらないのでしょうね、警部さん? わたしも、火で燃やしたやつのほうがいいんです」
「乾いた薪《まき》はないと思いますがね、アルマンさん。雨が多いですからね……」
「酒を温めるくらいなら、酒場《バー》にありますよ。ところで、シガレットをいかがです?」
「ありがとう」と、マレイズがいった。「わたしはパイプ党でしてね」
この青年と会って以来、警部ははじめて自分の意見を口にしたのだった。アルマンが酒をすすめたときも、じつはビールと答えたかったのだが、自分の意思を示すことを差し控えていた。
≪イレーヌに似ていないな≫と、腰よりずっと高いとまり木に、やっとの思いで腰をおろそうとしている連れの横顔を見まもりながら、警部は考えた。≪この青年は亡くなった兄のことを、すっかり覚えているのだ。おれだって、彼と同じくらい、はっきりと頭にえがくことができる。感じやすい性格で、ちょっとうぬぼれが強く、安易に空威張りする青年だ……。悪意はなく、生きることに喜びを持っている……≫
「警部さん。車を買うおつもりはないでしょう?」
そういわれても、マレイズは、平然としていた。何か口実をもうけて、相手に接近するのが警部の仕事だった。いちいち気にしていたのでは、仕事にならないのだ。
「わかりましたよ。口をきく機会をつくるために、口実として使ったのですが、もうその必要はないようです。これから、率直にお話ししますよ……」
警部は、マリーアンジューが、きき耳を立てていないことを、眼で確かめた。
「わたしは、あなたの兄君のジルベエルが、殺害されたと考えているのですよ」
「わたしも、同じ考えです」と、アルマンがいった。
次いで、大声で笑い出した。
「わたしがここで、警部さんのご意見に憤慨して、大声をあげ、コップの半ダースも床に投げつけ、大きな音でもたてなければ、あなたはびくともしないのでしょうね……。けれど、それは、わたしのやり方ではないのです、警部さん! 芸術家のやりそうなことはよくわかりますから、たとえ、彼らが反道徳的な軽はずみなことをし、それを隠そうとしても、わたしには充分に見抜くことができますよ……。むろん、悪意は持っていません――あなたには理解できないかもしれませんが――世の荒波にもまれ、俗っぽい習慣が身についてしまったのでね……」
煙草《たばこ》のけむりが、あたりを覆っていた。
「恐るべき子供たちのことを、ごぞんじでしょうか?……。こうした子供たちを仕置きするため、パンと水だけ与え、穴倉に閉じ込めるだけで、効果があるとお考えですか? 彼らが一番苦手とすることは、自由がない、ということに尽きると思うのですが……」
「あー!」と、マレイズが声にした。しかし、警部は、それだけで、何もいわなかった。
「わたしの考えを、よく味わってみてください。老人たちは、現実から遙《はる》かに遠くの、手のとどきそうもないところに理想をおき、子供たちのすることを、歯がゆく思い怒っている、わたしには、そうとしか思われません。したがって、我が家のゴタゴタは、わたしに関係のないことです。わたしは、つねにわたしなのです。もう一つのお願いは、あなたの捜査の対象から、父を除いていただきたいのです。心からお願いいたします」
「あなたのお申し入れは、たしかにお約束します」と、マレイズはいった。
「では、いま述べた趣旨のことは除いて、わたしが知っていることを、ご説明いたしましょう。兄のジルベエルの生活が、わが家のすべての者から愛情をそそがれていたとは、ゆめゆめわたしは考えておりませんが、彼自身では、日々|誰《だれ》からも熱い愛情を受けていたと確信していたはずです……。警部さん、ひと言いわせていただくとすると、事実を知ることがいかに重要なことであるか、ご忠告申しあげないわけにはゆかないのです」
アルマンは、話しているうちに、だんだん力がこもってきた。マレイズは、興味ある事実だけを、丁寧に話そうとしているのだと考えた。
「殺害について、何か疑惑を抱かせる具体的根拠があったのでしょうね?」と、警部が訊ねた。「個人的偏見を持たぬ性格の方とお見受けしますが」
「自分を傷つけないためと、いわれるのですか? それはどうも。お礼を申しあげねばなりませんね」
「ジルベエルが亡くなったとき、教会にいらしたのでしたね?」
「お言葉のとおりです。わたしは、母とイレーヌと一緒に、教会にいったのでした。母はわたしが日曜のミサに出席しないと、それはうるさいのです。その日もうるさくいわれて、出かけたのです」
「従弟《いとこ》のエミイル夫妻も、教会に行っていたのでしたね?」
「ふたりとも、たしかに、わたしたちの背後《うしろ》におりました。わたしたちは、礼拝式のあと、教会の中庭で、おしゃべりをしました」
「教会からお宅まで、広場を横切るだけでよかったのですね。ミサの間、誰もその場から、席をたった方はいなかったのですね?」
「席をはずした者は、絶対におりません。わたしは、偶然ですが、じつは、注意深く見まもっていたのですよ」
「兄上は、礼拝式に出席なさることを、好まれておられたのですか?」
「もちろんですとも。彼の短い生涯の間、それは熱心に、礼拝式に出席したものですよ。ただ、香の匂《にお》いでめまいがし、ひざまずいていると心臓が苦しくなるということでしたが。けれど、哀れな母が、さびしく微笑し、眉《まゆ》をひそめると考えると、誰もそのことに触れる者がいませんでしたが……」
「食事を用意するために地下室にいた老女中イルマ、病気で寝ておられた父上、この二人が知らぬ間に、誰かが何らかの方法で、屋内に侵入したと、考えておられるのではないでしょうね?」
「そんなことのできるはずがありませんよ。ドアと窓は、いつも注意深く閉じられているのですから。田舎の家の柵《さく》が、厳しい風雨を避けるために、いかに頑丈に造られているか、警部さんだって、よくごぞんじのはずですが……」
「すると、兄上の死亡の原因について、何も疑わしいことがなかったと、おっしゃるのですか?」
「階段から転落して生じた打撲傷と引っかき傷以外に、死亡の原因は考えられませんが」
「たとえば、皮膚の色とか、正常でないと認められる痕跡《こんせき》とか、そんなことに気がつきませんでしたか?」
「わたしは、医者じゃないのですよ」と、憤然とした語調で、アルマンがいった。
二人の男は、しばらく黙ったまま、それぞれ自分のコップをにらんでいた。背後の部屋で、マリーアンジューが、食器|戸棚《とだな》から、よく響く音をたてて、皿をとり出していた。
「兄上が殺害されたと、信じておられないのですか?」
「信じるも信じないも、わたしには判断する材料がないのです」と、アルマンが、ぎこちない口調でいった。「しかし、恐らくは、兄が死ぬことによって、私どもは、多少なりとも、利益を得るということにはなりますがね……」
マレイズは、憎悪から生じた犯罪と見込みをつけていたので、アルマンがいうように、遺産相続によるものとは考えていなかった。けれど、警部は、アルマンの言葉に、耳を傾けることにした。
「全部ありのまま、お話し願いたいですね」
「父は、わたしたちに、遺産の分配について、すべて知らせておりました。財産の大部分は、もちろん、哀れな母に遺産を残し、イレーヌ、ジルベエル、それとわたしに、相応な額を遺贈することになっていました。また、ロール、エミイル、それに老女中のイルマには、わが家に尽くした報償として、誰でも納得がゆくような額を贈ることになっていたのです。だから、ジルベエルが死ねば、それだけほかの遺贈者の配分が多くなるわけです」
マレイズは、コップの酒を呑みほした。けれど、アルマンのこの簡単な説明では、警部は満足していなかった。
「遺産問題はそれとして、ほかに、何か特別のことで、人にいえないようなことがあったのではないですか?」
アルマンは、ちょっとためらっていたが、やがて決心をしたのか、喋り出した。
「わたしの家の雰囲気から生まれた、いわば、狂気じみた若人《わこうど》の乱痴気騒ぎといったものなのですが……」
マレイズは、眉《まゆ》をひそめた。青年のこのにわかな変化に、ひどく不愉快になっていた。アルマンの≪率直で歯に衣《きぬ》を着せぬ喋り方≫にもかかわらず、真実をいっていないのだと、警部は直感していた。
そこで、この機会をとらえ、積極的に質問をすべきであると、警部は決心をしたのだった。
「ひと言でいえば」と、警部は相手の話を無視していると見せかけた。「殺人犯人が出なければよいがと、望んでおられるのですね?」
「なんということをおっしゃる……」と、アルマンは、むっとした顔になった。
「お妹さん、従妹《いとこ》の方たち、それからあなたですが、いずれも故人のこととなると、話題を避けようとなさる。あなた方は、故人の愛される面だけを思い出そうと努力しておられる、そうとしかわたしには考えられません。いいかえれば、都合の悪い面は、わざと口にしないようにしておられる……」
「なにを考えているのですか?」
「じつに、平和だということです。わたしがあの家を訪問したとき、妹さんと従妹のおふたりは、お互いに何もいわないように相談し、わたしと接せられたのです。わたしは、すぐに、そのことを見抜きました。老女中のイルマまでが、殺人鬼を見るような眼で、拳《こぶし》をかためて、わたしに打ちかかろうとしたのです。あなたでさえ、ものわかりのいい面《めん》をお持ちにもかかわらず、いざあなたの家のことになると、牡蠣《かき》のように黙って、何もお話しいただけないじゃあありませんか。たまたま話題が家庭内のこととなると、触れようとしないばかりか、避けようとして黙ってしまうではありませんか!」
警部は、もう遠慮していなかった。声は大きくなり、語調が強くなった。
「寺院広場の家のなかでは、みなさんそれぞれ、共同の秘密を守っていらっしゃる……。あなたのお父上だけは例外で、その共同謀議にくみしておられません。なぜですか? たとえば、ジルベエルの死の前後のこと、ジルベエルの死によって生じたいろいろの出来事のことです。そして、最後に必ず口をついて出る言葉は、何も隠しておりません、何も秘密はございません、ということだけです。けれど、あなたの家族のひとりの証言によると、母上の亡くなられたことを、ひどく低く評価しておられるのです。それが、わたしに、ひっかかるのです。母上は、最愛の息子が死んだため、悲しみのあまり亡くなられた。死ぬほどの悲しみの背後に、何が隠されているのか、わたしはその点に非常に興味を持っているのです」
「お母さんは、ジルベエルを失ったことが、あきらめきれなかったのです」と、アルマンは、確信なげな声でポツンといった。
「さあ、そこなんだ、問題は。母上は、息子を可愛がりすぎたので、悲しみのあげく後を追ったと、誰でも信用する一般的な言葉で、軽く逃げているではありませんか。何ひとつ不自由ない生活のなかで、息子が死んだからといって、その死があきらめきれず、後を追って死ぬというのは、何かそれなりの理由があると思わなくてはなりません。その苦しみがいかに深刻でも、息子のあとを追うというのは異常で、何か特別の原因があったはずです。母上が、死を決心した原因はなかったと、あくまでも否定しますか。わたしがお話し願いたいのは、過去の事実です。あなたの家の方《かた》なら、どなたでもよろしい。故人の装飾をふるい落として、事実をありのままお話し願いたいのです。事実が判明すれば、正しい結論が得られるのです。そうすれば、現在それぞれみなさんが背負っている重荷を、軽くすることができるのです。病人の病気を癒《いや》すためには、ときには荒療治を必要とします。ジルベエルの死から、何者かの罪が発覚するとしても、この際はっきりと決着をつけるべきです。たとえ、二十年間、天使だと信じていたものが、じつは……」
「悪魔といいたいのでしょう」と、アルマンの唇《くちびる》から、ほとばしり出た。しかし、彼はそれを、口にしたくなかったのだ。
「やっとおわかりになりましたね」と、マレイズがいった。「母上が、天使だと信じていた息子が、じつは手がつけられない性格|破綻《はたん》者だとわかり、絶望したのだと、わたしは考えるのですよ。つぎに、あなたの従妹の問題があります。ジルベエルが死んだあと、婚約者として、しばらく喪に服していたはずです。しかし、現在のロールは、以前のロールとは違う。ジルベエルから愛され、ジルベエルだけを愛した、若さあふれるロールではない。形、名前は同じだが、別のロールです」
そういってから、マレイズは、自分が口にした言葉に、愕然《がくぜん》となった。犯罪を追う警察官が、詩的な啓示によって、犯罪解決の糸口を発見しようなどと、いままで一度も、考えたことはなかった。現在のマレイズには、この啓示以外に、捜査の手掛かりがなかった。このような、精神感応《テレパシー》という手段に訴えないかぎり、アルマンに真実を語らせる方法がないのか。すると、そこで突然、警部の脳裡《のうり》にひらめくものがあった。やがて、そのひらめきが、はっきりした形になった。これは、昨夜旅籠の寝室で考えたことが、思いだされただけだった。じつは昨夜、警部は、深更まで、ジルベエルの死が、どのような影響を与えたか、じっくり考えた。寺院広場の暗い家のなかを、あれこれ思いえがいているうちに、ロールが、≪非常に若かった頃《ころ》≫といった言葉を、ふと思いだしたからだ。警部の脳裡にひらめいたのは、このロールの言葉だった。
いずれにしても、ジルベエルをめぐる一家のなかに、殺害の動機を求めるしか方法がなかった。それには、衝撃的な言葉で、相手にショックを与え、その機会をとらえて、喋らせようという方法をとるしか手段がなかった。ルコト一家の過去を調査する仕事は、曲がりくねった道をトボトボと歩くようなものだったが、しかし、いつかは、真実に達すると、警部は確信していた。
「悪魔が天使を追い払ったかどうかはわからない」と、警部は、抑揚のない声でいった。「もともと、悪魔だったのかもしれない」
アルマン・ルコトは、一瞬、衝撃にうちのめされたが、やがて、平静をとりもどしたらしかった。
「警部さんは、罰を与えることができないことと、殺人犯を見逃すことを、問題にしていらっしゃるのですね。しかし、殺人犯を見逃すことが、最良の方法ということだって、あるのではないですか?」
「われわれ警官は、正しく事件を解決し、唯一の真実を発見することにしか、興味がありません」と、マレイズが、かたい語調でいった。「男は必ずしも、正義の味方とかぎりませんからね」
「では、女性はいかがですか?」
警部の眼が、相手をさぐった。アルマンの質問の真の意味は、なんなのか。単なる気まぐれから出た言葉だったのか。それとも、何の意味もなく、つられて反射的に口にしたのだろうか。それとも、アルマン・ルコトが、警察がどの程度捜査をしているか、さぐりを入れたのだろうか。
「女性も、同じようなものです」と、簡単にマレイズが答えた。
そして、彼は付け加えた。
「わたしは、あなたの家の大部分の方が、あなたのお兄さんを憎む、立派な動機を持っていると考えています」
アルマンは、肩をすくめてから喋った。
「いま、あなたは、≪立派な動機≫とおっしゃいましたが、たしかに、それぞれ動機がありますよ。ジルベエルは、反道徳的といえる行動をとったのです。それは、手の込んだやり方でしたが……。じつに考え抜いたもので、最初は善意で計画されたのでしょうが、結果はがっかりするようなひどいもので、美しく装われていても、じつは下劣なものと誰の目にもわかるもので、純粋な気持ちを、巧みに愚弄《ぐろう》するのでした。あなたがわたしの立場にあったら、わたしと同じように、いつも嫌悪《けんお》の情を抱いたに違いありません。そのため、わたしは両親のもとから逃げ出しましたし、従弟のエミイルは結婚したのです。ジルベエルは、そうしたわたしたちの考えを見抜き、やがてわたしたちを煙たがるようになりました。彼は聡明《そうめい》な眼差《まなざ》しでわたしたちを凝視し、わたしたちがその攻撃に堪えられないように、しむけたのです。遠回しにいうことが上手で、冗談を交えた、もの柔らかな声音《こわね》は、ついには、その言葉を耳にするだけで、わたしたちは身顫《みぶる》いするようになりました。彼がひと言いえば、それで充分でした。わたしたちを逆上させ、殺意さえも起こさせるのでした。警部さん、いかがですか。じつに立派な殺人動機じゃありませんか。もし誰かが、殺害を企図し、日数をかけてジワジワと、毒が完全に息の根をとめる方法をとれば、直接手をほどこさなくても、成功疑いなしだったのです。ジルベエルは、たしかに、そのような条件のなかに生きている嫌《いや》なやつでした。われわれは、誰でも、機会をつくることができたでしょう。わたしたちのひとりが毒殺を実行しても、見破られることはなかったでしょう」
「誰だと、お考えですか?」と、マレイズが熱のこもった口調で訊ねた。
アルマンは、腰掛けから立ちあがると、マリーアンジューを呼んだ。
「さあ、わたしにはわかりませんね。わかっているのは、わたしたちのうちの誰かひとりというだけで、それ以上のことはわかりません。愛情の問題と、わたしは考えるのですがね! それというのも、ジルベエルは、この愛情の問題に苦慮し、悩んでいたからです。愛しはじめると同時に、憎みはじめていたんです」
十七 コーヒーとリキュール酒
黒い髪の毛の、褐色《かっしょく》の皮膚をした、やぶにらみで身体の小さな旅籠の女房が、ドアを半開きにし、顔をのぞかせた。
「コーヒーをお飲みではないのですか?」と、彼女は、食事を終えて、皿を押しのけたマレイズにいった。
警部は、立ちあがった。
「きょうは、けっこうです。ありがとう。ルコト家で、お茶の招待を受けているものですから」
口から出まかせではなかった。≪わたしは、何かあなたのお役に立ちたいのです。偽装のヴェールをはいで、真実を知るためにです≫と、旅籠の前まで帰ってくると、別れしなに、アルマンが立ちどまって、警部にいったのだった。≪いつものとおり、全家族が集まり、間もなく、食事をとることになっています。その食事に、あなたをお招きすることはできませんが、デザートのときには、ご出席ください。わたしが、うまく、とりはからいますから≫。マレイズは、≪ありがとう。必ず出席させていただきます≫と、答えていたのだった。
警部は、外套《がいとう》を着、山高帽《やまたかぼう》をかぶった。外套を着、山高帽をかぶることによって、彼の意思の厳しさを誇示し、大股に歩いていった。
アルマンという青年は、なんと奇妙な若者なのか! もちろん、疑いもなく、非常に誠実なのだが、他面――たぶん、何をいおうとも――横柄な口調になるのだ。そうしたとき、話し相手は、思うことを自由に喋り、心のうちをすべて、さらけ出したいと思うのだが、けれどその反面、彼の真摯《しんし》さの巻き添えをくい、してやられるのではないかという、危惧《きぐ》を感じさせるのだ。
≪アルマンは、疑いの眼で見るのではなく、冷静に事態を見まもることができないものか?≫と、マレイズは考えた。≪アルマン自身は、真実を追求することに熱情を示しているが、そのことが果たして、偽善のヴェールをはぐ熱情と、解釈してよいのか? 責任を兄に転嫁することにより、自分の責任から逃れようとしているのではないか?≫
雨が再び降り出していた。すさまじい渦となって溝《みぞ》のなかに流れ込み、庇《ひさし》からあふれた雨水が、どっと地上に落下していた。
≪そうではない。何か確信を抱いたのかもしれない。人間的な温かなもの、たぶん、生きる喜びだろう……。それが、従妹に愛情を持ったためだといわれても、おれは少しも愕《おどろ》きはしないぞ!≫
身体はちっぽけだが、馬鹿でっかい傘《かさ》のなかに身をちぢめるように、ひとりの老女が塀《へい》に沿って小走りにやってきた。マレイズは、相手とぶつかるのを避けるため、間髪を入れず、ぱっと身をひるがえさなければならなかった。
マレイズの脳裡に、ふと動機という言葉が浮かんだ。と同時に、犯罪記録のなかのあることを思い出して、びっくりした。ジルベエルの殺人には、物理的な論理構成では解釈できない要素があったのではないか。普通、警察官が口にする、動機とは別のものではなかったのか。また、殺人に必要な道具を用いずに、殺すことだってできるのだ。すぐ思い浮かぶのは、疲労とか、嫌悪とか、自分自身のための利益とか、そういったたぐいの動機だが、そういう種類の動機ではなく、ルコト家の旧い因習から生じた別のものではなかったのか。彼らの間に確実に存在していたのは、ルコト家の人々に、生活があったということだ。その生活のなかで、なかの一人が秩序を乱せば、人間関係に亀裂《きれつ》が生じ、やがて、その溝が大きくなる。そのうちに、相互の意見がバラバラになり、平和の家の秩序が完全に破壊される。
≪つまり、おれは、ジルベエルを除くルコト家のすべてのひとを、被害者と考えているのだ。ジルベエルこそ、ルコト家の歴史に対する反逆者で、ジルベエルが不倶戴天《ふぐたいてん》の敵と考えたのは、じつはジルベエル自身だったと考えているのだ≫
マレイズは、寺院広場の家に到着すると、呼び鈴を鳴らした。今回は、三度鳴らしただけで、老女中イルマが姿を現わし、警部を屋内に入れると、ピシッとドアを閉じた。アルマンが警部に近づき、手を差し出した。
「やあ、よくいらっしゃいましたね。コーヒーを飲もうとしていたところです。どうか、ご一緒にお飲みいただきたいのですが」
アルマンは、パントマイムみたいに、絵にかいたような機械的な身振りだった。
「外套をおぬぎください。まあ、まあ、びっしょり濡《ぬ》れていますよ」
ヴェランダに入ると、まるで舞台に上がったようであった。一人の男が席から立ちあがった。エミイルだった。その傍に、小柄な、色つやの悪い女が、礼儀をわきまえない態度で、足を組んで坐っていた。
「従弟をまだごぞんじないと思いますが……。エミイル・シャロンです……。それから、シャロン夫人です……。こちらが、マレイズさんです」
しばらく沈黙の時間が続いた。エミイル・シャロンは、金縁の眼鏡をかけていたが、近視のため、奇妙に大きな眼という印象を与えていた。席につこうとしないで、突っ立ったままでいたが、わざと我慢しているようであった。咽喉《のど》ぼとけが突き出て、カラーがうまくおさまっていなかった。髪が長すぎていたため、襟首《えりくび》が隠れていた。
≪学校の先生によく見かける、空威張りをする男だな!≫と、マレイズは考えた。≪いつも雨傘を用意し、たえず落度がないかと気をくばっているタイプだ。さらに彼の女房ときたら、毛織物の下着を着ている、野暮ったい女だ!≫
警部は、話をしているうちに、何か気に入らない言葉でもいおうものなら、この夫婦は、突然がみがみと口角泡《こうかくあわ》を飛ばすのではないかと思った。警部をじろじろ見つめているのは、彼のポケットに爆弾が詰まっているとでも思っているのだろうか。
「どうか、お坐りください。ご自分の家と同じように、おくつろぎいただけませんか」
そうだ。このエミイルの言葉は、アルマンと同じで、純真としか思えないやり方だ。わたしたちは、じつにおとなしい紳士淑女《しんししゅくじょ》なのですよ。いくらお調べになられても、何も出てきませんよ。そういっているのと同じだった。
「コーヒーをいかがですか、警部さん?」
ロールは、自分の存在を誇示するかのように、注意深く、一座のなかに無理に割り込ませた。そして、彼女は立ちあがり、食器|戸棚《とだな》に、茶碗をとりにいった。
「ミルクは?」
「ありがとう、いただきます」
「お砂糖は?」
「どうぞ、お願いします」
「いくつ入れますか?」
「四つ入れてください」
これで心に余裕のできたマレイズは、長方形のテーブルを囲んで席についている、五人の会食者たちを、順々に見定めた。イレーヌとエミイル夫人の間にエミイルが席につき、アルマンの隣に、ロールが坐っていた。その席の配置が、警部に新しい視野を開いた。
イレーヌが、突然、発言した。
「日常生活が、惰性となり、習慣になってはいけないと思うのですよ。事実が証明していますよね、警部さん!」
すると、すかさず、エミイル夫人が口をはさんだ。
「わたしは、あなたの説に反対です。たとえば、家庭の食事ですが、精力をつける以外、何もないじゃあありませんか……」
マレイズは、このふたりの会話のやりとりを、非常に興味深く聞いたのだった。この場面に、出席していたことも幸いした。イレーヌは、この家の昔ながらの因習に反発しているのであり、エミイル夫人は、実利一点ばりで、精力をつけるだけと、イレーヌの発言に、ピシリと釘《くぎ》をさした。このふたりの発言のやりとりは、まさにこの家の底にあるものを、代弁しているのだ……。では、エミイルはどうか。ふたりの論争を、ただ黙って見ているだけだろうか。それとも、彼独自の意見を吐いて、一石を投じるだろうか。たとえば≪十二か月前に起こった、あの悲劇的な事件は、わが家の旧い習慣が原因となっているではないか≫と。
≪おれの考えは、と、マレイズは考えた。彼らにしてみれば、お祭りなのだ――意識しているか、意識していないかはわからないが――ともかく、年中行事のひとつのお祭りなのだ。ジルベエルが死んだ記念日は、あすで満一年になります、と、イレーヌがきのう、おれにいった。ジルベエルが死んで満一年の記念日、そのお祭りの日が、きょうなのだ≫
なおも、エミイルの、悲しい、不透明な≪孤児の声≫が、警部の耳もとで、囁《ささや》いているようであった。≪わたしの叔父《おじ》は、二階で、長椅子《ながいす》に釘づけになったまま、感情のない人形のように横たわっているのです≫
「わたしは、証拠をすぐにでもここに提示することができるのですよ!」と、イレーヌが、声を荒げていった。
彼女は、頬《ほお》を紅潮させていた。≪イレーヌは、なぜこんなに興奮するのか?≫と、マレイズは考えた。
一方、エミイルは、≪あなたさえ同意するのでしたら、叔父のところにお連れいたしますよ≫と、警部に語りかけているようであった。
警部は、なおも考えつづける。ここで発言すれば、ロールの味方となり、彼女を喜ばせることができるのだ。
≪エミイルの奥さん、お言葉が過ぎますよ。わたしは、毛織物の下着を着た、野暮ったい女だという証拠を提供することができるのですよ≫と、発言したらどうだろう。
≪こいつは面白いぞ。下着、下着っと≫と、マレイズは、ひとり悦《えつ》に入《い》った。つぎは、イレーヌとエミイルだが、非常に巧みに、表面だけはとりつくろっているが、じつは裏があるのではないかと、警部は疑った。とかく、田舎者は、つまらぬ隠し立てをする、悪い癖がある。
「ところで警部さん、わたしが何を考えているか、おわかりですか?」と、アルマンが、半ばふざけた調子でいった。
「おやおや、まるで旧友とでもお話ししているみたい」と、イレーヌが皮肉った。
青年は、イレーヌの皮肉の相手にならなかった。妹のほうを見向きもしないで、警部に顔を向けた。
「ブランデーは、なににいたしましょうか、警部さん。本物のナポレオンなど、いかがですか?」
ロールが、びっくりした顔をした。
「ねえ、アルマンたら、あなたは……」
「ないはずはないね。温めてもらいたいね。冷たすぎるのは困るな……」
「地下倉庫の鍵のあり場所、わたし知らないわ」
「ここに持っているよ」
「あら、でも、瓶《びん》の置き場所を、誰かが変えたわ」と、ロールが反抗した。「あなただって、どこにあるのか知らないくせに……」
そういいながらも、ロールは、いやいや腰を上げて、アルマンと一緒に、ドアのところまで近づいた。先にドアの前に行ったのはロールだったが、アルマンのほうがもちろん背が高かったので、背後から、ロールの髪の毛に、ちょっと接吻するのが、一同の者から見えた。
「可愛いロール! 倹約のため、ぼくたちがビックフォードを何本も、貯蔵室に隠したことを、きみは思い出したのだね。そう、あのときは、煙突掃除人みたいに、真っ黒になったっけね……」
「そうよ」と、ロールが、機嫌《きげん》よく答えた。
アルマンの質問、ロールの返事、これはいずれも、この家の人間でない警部に聞かせる言葉ではなかった。
マレイズは、エミイル夫妻、イレーヌとともに、その場に残っていた。
≪どんなことを、話したらいいのだろうか?≫と、この場の雰囲気を気にして、警部は考えた。≪天候が悪いですな、とでも、いおうか≫と思ったが、どうも適当と思えなかったので、黙っていた。
エミイルは、自分の痩《や》せた手の上の袖口《そでぐち》を、ぼんやりと見つめていた。
≪この家の者は、誰も彼も、大山猫《おおやまねこ》の眼だといってみようか≫と、なおも警部は、考えつづけていた。
警部は立ち上がり、足のしびれを直そうとして、大股で何歩か歩き、ポケットからとり出したパイプを、くゆらしはじめた。
地下倉庫の階段から、足音が聞こえた。ロールの抑《おさ》えた声が、閉め忘れたドアのわずかな隙間からもれてきた。
「わたしは、あなたのいうことが、理解できないのです。家のなかに通して、食卓に招待するなんて。この家で、なにができるというのですか。気違いの一歩手前だわ」
つぎは、アルマンの声だった。
「馬鹿なことをいうな。気違いはきみのほうだよ。少なくともぼくたちは、警察のような術策は弄《ろう》さないことだ。あの男《ひと》は――ぼくのいうことをよく聞くんだ――ぼくたちのことを、いろいろと知りたいんだ。何も隠すことはないじゃあないか。いずれにしても、丁重に扱わなければならないのだ……」
「あなたは、簡単にそうおっしゃいますが、あなたはいいですよ、すぐどこかへいっちまう人なんですから……」
しばらく、沈黙が続いた。
「わたしたちが、昔の生活に戻りたがっていること、あなたにはわからないのよ。百姓が生まれ故郷に、帰りたがっているのと同じだわ。わたしたちが、誰もじっと沈黙に耐えているのは、そう願っているからだわ。彼に、過去のすべてを打ち明けないかぎり、解決などあり得ないわ……」
「わかったよ。じゃ何もかも、全部喋ったらいいじゃないか。きみが話をすれば、ぼくに、何の罪もないことがわかるんだから。けれど、できればきみが黙っていたいのは、ジルベエルの罪のことなんだろう? いっそのこと、それを告白したらどうだい!」
「アルマン! あなたこそ全部ぶちまけたらいいわ! あなたが叔母さんを殺したように、叔父さんも殺すだろうとね……」
「ぼくの口から、それをいわせたいのか、ロール?……。きみは善《よ》かれ悪《あ》しかれ、正常な理性を失っているんだ! この家の雰囲気、ジルベエルの追憶、一家を狂わせた毒素が充満している……。もう一度いうがね、きみはまったく、いじけきっているんだ!」
足を引きずって歩く足音がした。それから、老女中イルマの声がした。
「その瓶をとってください、アルマンさん。栓《せん》はわたしが開けますから。そうでもしなければ、この場のあらそいの決着が、つきそうもありませんからね」
アルマンの声。
「好きなようにしたまえ! ちょっと待て、ぼくも一緒に行くよ。そうだ、もしぼくがここに数日残っていれば、情況が変わることは必定だよ!」
老女中イルマの男のような声が、聞こえてきた。
「あなたが変えるんですか?」
「みんながだよ」
ロールがドアから出てきた。マレイズは、普段より一層|蒼白《そうはく》になった大理石のような顔色をしたロールを発見したのだった。彼女は、思慮深い小娘のように、静かな態度でもとの席についた。黒いスカートに皺《しわ》がよらないように、膝《ひざ》の上に両手をきちんと置いていたが、やがてぎこちなく、冷えたコーヒーを飲んだ。
「どうだい、まだあったかい?」と、その場の空気を変えようとして、エミイルがいった。
ロールが、愕《おどろ》いた眼差《まなざ》しを、エミイルに投げた。
「なにがですか?」
「ブランデーがだよ」
「もちろんだとも」と、答えたのはアルマンで、自分の席に戻る途中だった。「毎日飲むわけでもなし、積極的にお客を招待しているわけでもないから、酒はまだまだ残っている。まったく、いつもいつも節約なのだからね。イルマは、じつに不幸な女だよ。瓶を開けるたびに、罪を犯しているような気持ちになるんだ。イルマが可哀想だから、こっちが罪をかぶることにし、コップになみなみと注ぐ決心をしたんだよ」
エミイル夫人の、ジャンヌ・シャロンが、咳払《せきばら》いをした。
「わたしは、少しでいいのよ。アルマン、あなたは承知しているわね、アルコールが全然|駄目《だめ》だということを……」
アルマンは、好意のひとかけらもない眼差しで、ジャンヌの顔をじろりと見た。
「あなたのような方が、酒が駄目だなんて、まったく不幸なことだ。イルマが、代わりに飲むでしょうがね」
召使いの老女が姿を現わし、球形のコップをのせた盆を、うやうやしく運んできた。
「それじゃなかったわね」と、ジャンヌがいった。「あの哀れなジルベエルが好きだったのは、リキュール酒だったわね?」
たしかに、この場で口にする、適当な言葉ではなかった。アルマンの顔に、ありありと非難の色が認められた。
≪少なくとも、おれには、理解できないことだ!≫と、かたわらで、警部が考えた。≪ジャンヌは、ジルベエルの死について、自分自身で考え出した幻影を、いくつか持っている。しかし、おれは、その幻想の正体を、いつまでも理解できないであろう……≫
老女中イルマは、テーブルの脇《わき》に居残っていた。アルマンと同じように、テーブルについた人たちに、陽気な動作でコップをくばっていたが、最後に警部に近寄り、コップを置いた。
「お客さんの健康を祝して、盃《さかずき》を空《あ》けることを提言します」と、アルマンが、妹と従妹の視線をはじきかえすようにしていった。
アルマンが、コップを持つ手を、グッと眼のあたりまで差し上げた。ツンとすましたジャンヌを除いて、ほかの者はすべて、コップの音を響かせた。
「健康を祝して、警部さん!」
「ちょっと、待ってください」と、間髪を入れずに、マレイズがいった。「この乾杯を中止してください。どうも、腑《ふ》に落ちないことがありますので……」
そういってから、警部は、突然、イルマのほうに身体を向けた。イルマは、病人のように熱い眼で警部の顔を見つめていた。
≪警部が、乾杯を中止させたのは、わたしが原因なのだ!≫と、イルマの眼が認めていた。
一瞬、一同はハッと息をのんだ。マレイズが、台所に向かって走ったからだ。やがて、深紅色の札《ふだ》をつけた、褐色のガラス壜《びん》を手にもって、警部が戻ってきた。
「蓚酸《しゅうさん》ですよ。まずは、ひと一人ぐらいは殺せる代物《しろもの》です」
警部の声が終わらないうちに、老女中は、イレーヌを押しのけ、前掛けで顔を隠しながら逃げ出していった。
「可哀想なイルマ。悪気《わるぎ》はなかったのでしょうが、一時の出来心でしょう」と、警部はおだやかにいった。「たまたま、手にしたまでで、魔がさしたのでしょう」
警部は、ガラスのなかの、匂いをかいだ。
「こんなにひどいこの匂いでは、子供も飲まないですな」
それから五分後、台所に逃げ込んだイルマのところに、警部が足を運んだ。
老女中は、嗚咽《おえつ》で身体を顫《ふる》わせながら、逃げ出した動機を説明した。
「レオポルドを捕えたのは警察です。警察のやつは、だれも憎い……」
十八 大山猫《おおやまねこ》の眼の理由
家庭で飼う動物、とくに犬は、その家に来たときから、その家の人間になつくという本能を持っている。そして、おはじき玉のような、宝石のトパーズのような眼で、人間をじっと見まもって観察し、主人の手をザラザラした舌で控えめになめ、無鉄砲と思えるほど、しっぽを無闇《むやみ》とふるものだ。鼻面《はなづら》に皺《しわ》さえよせずに、いつもの二倍ほどの大きな口を開けて、アクビをすることがあっても、じつは、この動作は、主人に愛情を示すためのものなのだ。
犬は、愛情を示すか怒るか、この二つの動作しか、持ち合わせていない。だから、愛情を示すとき以外は、怒っているのだ。普通、小犬がしかめっ面《つら》をするのは、すでにその小犬が、一人前の犬になっている証拠だ。誰でも知っていることだが、犬が鼠《ねずみ》に近づいたときは、大声で吼《ほ》え、辺りの者の注意を惹《ひ》こうとして、できるだけ物音を立てようとする。
小犬のマルグリットは、普通のときでも、ほかの犬の倍は大声で吼え、特別な場合には、三倍ぐらいの大声で吼えた。マレイズは、マルグリットが激昂《げっこう》すると、そのような状態になることを知っていた。イレーヌが優しくマルグリットを呼んだつもりでも、気が向けば吼え、ときには気違いのように吼えることもあり、ハアハアと呼吸《いき》づかいが荒くなることもあった。
マルグリットは、普通の犬とくらべて、ひどく怒りっぽく、狂犬病にかかっているのではないかと思えることさえあったが、警部はその点に、非常に興味を持った。イレーヌもロールも、そんなマルグリットの習性をよく知っていて、それなりの扱い方をしていた。もともと、そんな気むずかしいマルグリットのことだから、ルコト家に突如侵入してきたマレイズを、心よく思っていないことは当然だった。そのうえ、犬の習性として、強いものに対してはしっぽを巻いているが、弱い相手と見ると、俄然《がぜん》攻撃に転じるのだ。しかも、マルグリットは、甘やかされた飼い犬で、怒りっぽいのだ。
いま、そのマルグリットが、そう考えている警部の眼前で、眼をむいている。いつ攻撃に転じるか、時間の問題だった。警部は、忍耐強く、相手が攻撃をかけてくるのを待っていた。マルグリットは、警部が攻撃に出ないと見きわめをつければ、憎悪をむき出しに吼え、ズボンに飛びつき、ズタズタに噛《か》みきるだろう。その危険は、目の前に迫っていた。そのとき、警部は、マルグリットの機先を制すれば、この危機から逃れられると気がついた。≪いい子だね、マルグリットちゃん≫、そう声をかけ、親愛の情を示せばいい。しかし、警部は、それを態度で示さなかった。警部は、犬を相手に貴重な時間をつぶしている愚かしさに気づき、思わず眉《まゆ》をひそめていた。
警部は、台所から出てきたところだった。台所で、イルマ・トラシェが、自分の犯した過失にうちのめされて――それが尾を引くのではないかと、気づかわれるが、誰が知るものか――テーブルに肘《ひじ》をつき、両手で顔をおおい、泣きつづけた。
警部が不機嫌な顔をしているので、ほかの者たちは、しゅんとしていた。やがて、ドアが完全に閉じられると、老女中が、自分の息子が投獄されて以来、どのように苦しみ悲しんだか、一同の胸によみがえり、心がしめつけられた。それと同時に、警部が口にした毒薬という言葉のことを、イレーヌとロールは、互いに眼で執拗《しつよう》に語り合っていた。
沈黙がしばらく続いたが、その沈黙を破ったのはロールだった。
「わたしは信じませんよ。たとえ、イルマが毒物を入れたとしても……」
「警官としてのわたしが、イルマを侮辱したとお考えなら、謝罪してもかまいませんよ。けれど、わたしが現在までに知ったこと以外で、まだまだわたしの知らぬ、びっくりするようなことが、たくさんあるのじゃあありませんか?」と、マレイズが応酬した。しかし、じつは、マレイズは、話題を変え、この場の雰囲気を和《なご》やかなものにしたいと望んでいた。それには、相変わらず眼をむいているマルグリットを、イレーヌの腕に抱かせるのがよいと思った。そうすれば、みんな、和やかな気持ちにもどることになろう。それで、マレイズは、「いい子だね、マルグリットちゃん!」と、大声で声をかけた。しかし、警部の思惑どおりにはいかなかった。もともと、好意をもたない動物に好意を求めても、大海のなかで一枚の葉を求めるようなものだった。ロールとエミイル夫人のジャンヌが、ヴェランダで、むずかる犬をなだめていた。その間に、イレーヌは、従弟のエミイルと一緒に、階段をのぼっていった。
アルマンとマレイズは、玄関のところにいた。
「いかがでしたか?」と、アルマンがいった。
警部が黙っているので、アルマンが続けた。
「うちの連中には、心というものがありませんね。じつのところ、当惑しましたよ。わたしたちの家のこと、どうお考えですか?」
マレイズは、パイプを見つめていた。機械的な動作で、親指でタバコを詰めていた。
「本当のところ、こんな家はないほうがいいですね。座を白けさせるだけで、なんの取り柄もないのですからね。わたしがどう考えているか、お知りになりたいのでしたね。あなたの妹さんも、あなたの従妹も、いわば、死んだ人間ですよ。人間なら、人間らしくならなければ……」
「たしかに、あなたがおっしゃるとおりです。長い長い過去が、まるで不治のガンのように、あの人たちに巣くっているのです。あの人たちは、生きた人間ではないのです。生きた身体こそ持っているが、実体は死骸《しがい》ですね。せいぜいよくいって、子供というところですか……。わたしたちが子供だった頃、兵隊屋敷みたいなこの家に、火をつけてなくしてしまいたいと思ったことがありましたが、いまのわたしでは、それもできないというのが本音です」
「この家の人たちの秘密主義が、呼吸《いき》のつまりそうな雰囲気をつくっているのです」と、マレイズは、辺りに誰もいないとでもいったように、ボソリといった。「このままでは、いつまでたっても、同じことじゃあないですかね……。ジルベエルの一周忌という名目で、きょうここで、みなさんが会うように計画をたてたのは、あなただったのでしょう……」
「そうです」と、アルマンが短く答えた。「けさ、わたしがあなたと、車でお会いしたとき、じつは、寺院から出てきたところだったのです」
階上で、ドアの音がした。
「わたしは、階上《うえ》に行きますよ」と、マレイズが、突然いった。「いいえ、ご案内願わなくとも、けっこうです。あなた方が子供の頃遊んだ例の三階の踊り場は、先日ご案内いただいたので、よくぞんじておりますから……」
そういうと、警部は、アルマンから離れ、階段をのぼりはじめていた。あとに残されたアルマンは、ゆっくりした歩調で、庭園に向けて、歩き出していた。
二階の踊り場で、次いで三階の踊り場で、警部は足音がしないように注意をくばりながら、そっと歩いて、耳をすました。そして、例の物置部屋のドアの前まで来ると、足をとめた。
このドアの向こう側に、アルマン、イレーヌ、ジルベエル、ロール、エミイル、それにレオポルドが、アメリカ・インディアンごっこをする大草原があった。そこで、生き生きと、活発《かっぱつ》に、追っかけごっこが行なわれた。ドアを開けば、そこが大西部《ファー・ウェスト》の国境線であった。床の上の彫刻をほどこした両開きの背の高い衣装戸棚が、警部の眼には、防舎の翼のように見えた。髪を乱した荒馬《ムスタング》が、階段を荒し回っているさまが、眼に浮かぶようであった。
そうしたマレイズを現実の世界に引きもどしたのは、エミイルの声が聞こえてきたからだった。
「ぼくは、ぼくなりに戦ってきたんだ。イレーヌ……。ぼくは、いまでは、一人前の男だ。それなのに、ふんぎりがつかないで、こうして、のめのめと生きている……」
マレイズは、音を立てないように、静かに階段に腰をおろした。ちょうど、彼の上司のシューが、インディアンの長いパイプを、いつも火をつけるばかりにして火をつけたことがないように、火のないパイプを手に持っていた。ロールが、兄のエミイルと従姉のイレーヌとの間を説明するために、ジャンヌとヴェランダでおしゃべりをしているという彼の考えは、間違っていなかった。イレーヌは、気持ちが悪くなったといって、自分の部屋に戻っていた。エミイルは、病状を見舞うという口実で、イレーヌの部屋を訪れたのだった。エミイルが部屋に入ると、イレーヌは、寝台に横になっていた。両手で頭を抱え、小さな肩が嗚咽《おえつ》で小刻みにゆれ、唇をハンカチで押さえていた。最初エミイルは、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》している様子だったが、やがて決意がついたのか、不器用な動作で、イレーヌに近づいた。
警部が聞いたのは、そのとき、エミイルが喋った言葉だった。
続いて、エミイルは、思いつめた声音《こわね》で喋った。
「イレーヌ、ぼくはきみに哀願する。ぼくは、きみを愛している……。ぼくはきみを、心から愛している……」
イレーヌが、興奮した声で、
「それをいってはいけません。口にすることではないのです。わたしは、決してあなたのことは忘れません。決して、あなた以外のひとを愛するようなことはしません。でも、あなたは、奥さんと一緒に暮らさなければならないのです。わたしたちは、愛しあっても、どうにもなるものではありません」
「別々に暮らすなんて、とうていぼくにはできない。このままでは、耐えていくことができない……」
沈黙。マレイズは、寝台の足もとでひざまずいて、手に接吻しているエミイルの姿やら、若い娘が男をすげなくふりきっている有様を頭にえがいていた。それにしても、この不吉な出来事が相次いで起こるなかで、大時代がかった方法で、求愛をするなんて! 警部には、まったく理解できないことだった。
「ジャンヌのやつめ。ぼくは、あいつを憎む。ぼくは、いつまでも、心底からあいつを憎むぞ!」
「いくら憎んでも、二重結婚はできないわ」
「イレーヌ! ぼくはくやしまぎれにボヤいていることも、頭にきて気違いみたいになっていることも、きみは先刻承知のはずだ。ジルベエルが、きみのことを怖《おそ》ろしい女だと、何度もぼくに話していたっけ。きみは、そういう女だ!」
「そう信じるなら、どうぞご随意に! いずれにしても、あたしあってのことだわ」
「ぼくは嫉妬《やい》ていたんだ。きみは傲慢《ごうまん》な女だ。ぼくの話など、耳をかさないんだ。イレーヌ、おまえという女は、そんな女だ。ぼくは気違いになりそうだ。わかってくれ。ぼくはきみを愛しすぎている。ぼくはきみと、どこか遠くに行きたい。ぼくひとりのものにしたいのだ。きみは、ぼくにこういうだろう。≪もし、あたしを信用していないのなら、もし、あたしのいうことを信じないのなら、あたしを愛していない証拠だわ≫と。しかし、このままでいると、ぼく以外の男のことがはっきりとしてきて、いろいろと証拠が発見されることになる。≪いついかなる日、いついかなる時間に、きみはどうしていたんだ≫と、ぼくがきみに訊ねるようになり、きみは返事に窮することになる。これは絵にかいたように、はっきりしている。ぼくは、納得がゆくまで、しつこくきみを責めることになる。ぼくは、そんなことにならないようにしたいのだ。ぼくがいっていることを、よく理解してほしい。じつは、これはみな、ジルベエルがぼくにいったことを、繰り返しているだけだ。けれど、そんなことは、どうでもいいんだ。きみのためなら、何もかも投げ出す気持ちになっている。ぼくは、きみが犯した罪を、ここで改めて難詰しようと思っていないどころか、きみには罪がなかったと信じてさえいる。ぼくがこんなことをいったので、さぞきみは怒っているだろうが……」
ここで、突然、エミイルの声の調子が、悲壮になった。
「ぼくの求愛を受け入れてくれれば、それだけでぼくは元気になり、ぼくの病気も全快するというものです。きみの兄さんが、生まれつきの意地悪で、ぼくの気持ちなど踏みにじり、きみが憂鬱《ゆううつ》な気持ちになるのを、手をたたいて喜んでいたなどと、どうしてぼくは信じることができますか。兄さんは、友情の名を借りて、ぼくを牽制《けんせい》したのです。ぼくが、決して将来、幸福になれないとね……。なんという、みじめな気持ちだったでしょう……」
沈黙が、しばらく続いた。
それから、エミイルのとがった声が聞こえてきた。
「なんとみじめな思いだっただろう! 殺しても、あきたらない思いでした」
マレイズは、その叫び声を耳にして、部屋のなかの有様を想像しながら、じりじりして拳を振りまわしていた。
エミイルは、自分が喋った言葉を、怖れたのではないか? 警部は、ドアのところまで、コトコト歩いてくる足音を聞いた。そして、ドアが、ぴしっと閉められてしまった。もう声は、警部のところまで聞こえてこなかった。
「そうだ。彼らの秘密は、これなんだ」と、警部はひとりごとをいった。
そうはいったが、警部は内心、舌うちしたいくらいに思っているのだった。これではまるで、カウボーイの生活ではないか。昔、子供の頃、乱暴に扱った小娘の前で、いい若い者がぶるぶる顫えている。そして、顫えながら、自分の心の弱さを、じっと噛みしめているのだ。あの頃と違い、荒馬に蹂躙《じゅうりん》されることもないし、インディアンの鉞《まさかり》から、左手をまもる必要もないのだ。あの頃は、若者だけが持ち合わせた狂気の世界に酔い、紙片に詩を書きなぐりお互いに交換しあい、月光にうっとりし、サクランボのような唇にくちづけして、大声で青春を謳歌《おうか》した。いわば、悲しみとは縁のない年頃であった。庭園の大木の樹々《きぎ》が、夜の幕《とばり》のなかに落ち込んで、オルガンのパイプのように、ザワザワと音を立てていた。ほの暗いランプの灯《あか》りの下で、互いに視線を見交わし、訊ねかける。相手の身体に唇をあてて、愛の証拠とし、むき出しの腕を傷つけ、歯の跡を鮮明に残す。鏡のなかに、自分の姿を映して見る。心臓まで凍るかと思われる寒さを、肌《はだ》でじかに知るため、わざと床《ゆか》の上を素足で歩く。武器を試すとき、悦《よろこ》びを強調するとき、ただ理由《わけ》もなく、泣き、笑う。秘密めいたことを囁き合って、お互いに顫えてみせる。こうして、二人の娘と四人の青年が、一緒に育っていった。子供のころから、庭園と物置部屋と家のなかだけの世界で、彼ら以外の娘や青年と没交渉で育ってきたのだ。その狭い世界のなかで、愛を誓い合う。ジルベエルはロールに愛を打ち明け、(ロールがジルベエルにしたのかもしれないが)エミイルはイレーヌと、あるいは逆かもしれないが……。果たして、親たちは、そんな事実を知っていたのだろうか? たぶん、この二組のカップルのことは知っていたのだろう。では、この二組の男女以外の者は、どうだったか。エミイルは、イレーヌの心を疑っていたのではないか。「ぼくは嫉妬《やい》ている」と、いま告白したばかりではないか。そして、ジルベエルが学業を放棄し、破廉恥漢に堕落してしまう。ジルベエルは、先天的に自我の強い男で、そのくせ恋愛を軽蔑《けいべつ》する性格を持っていたため、妹と従弟の恋愛を邪魔したのではなかったか。エミイルは、それやこれやで、疑い深くなった。そのあげくが、恋愛をなし遂げるため、泥《どろ》にまみれる思いまでして、イレーヌに、心のなかの思いを喋ったのだ。それは、確たる証拠がないことばかりだが、それでも胸のなかにあるものを、話さずにはいられなかった。しかし、エミイルのことだから、彼の性格から判断して、行きつくところまで行きつかねば、気がすまないのであろう。そのため、策略を用い、巧みに匿名《とくめい》の手紙を送ったり、暗闇《くらやみ》のなかに隠れて動静をさぐったり、家に火をつけることまで思いつめる種類の男なのだ。恋愛は、どんな男をも、盲目にするものだ。そんなエミイルと対照的に、ジルベエルのほうは、身辺で起こった恋愛に対して、飽くことを知らぬ憎悪を抱いた。そのため、悪質な中傷をふれあるき、エミイルを絶望の底にたたきこんだ。イレーヌは、中傷に反駁《はんばく》し、潔白を訴え、子供っぽくデマを否定し、エミイルから執拗《しつよう》に信頼をとりつけようと懸命になる。エミイルは、中傷にうちのめされ、イレーヌから遠ざかり、新しい世界を求め、村一番の評判の美人と結婚する。
そしてその後は?
エミイルの結婚はうまくゆかず、遅ればせだが、中傷が偽りであることがわかり、その罰として不幸な結婚というむくいを受けていると、イレーヌに知らせた、というのが真相であろう。その証拠には、エミイルが先ほど、≪殺しても、あきたらない思いでした≫と、イレーヌに、強い語調で、心のなかを打ち明けていた。≪では、イレーヌのほうは、どうか?≫と、マレイズは、考えた。≪エミイルがジルベエルの死を願っていたと同じように、イレーヌも死を願っていなかったかと、果たしていいきることができるか? エミイルの人生は、ひと握りの小石ほどの価値しかなかったのか。気ぐらいの高いイレーヌが愛していたとすれば、実の兄とはいえジルベエルか、エミイルしかいないわけだ。そのライバルを倒すために、エミイルが絶望のあまり、犯罪を犯すことがなかったかどうか?≫
警部は、内心、困惑していた。捜査を、エミイルとイレーヌにしぼったらどうかということだった。この線は有力だと思えるが、踏みきるだけの自信がなかった。そうこう考えているうちに、警部は、イレーヌに、同情の念を抱いた。あのとき、イレーヌが、涙を見せまいとして、立ったまま、膝でパンタロンをこすり、大山猫の眼をしていたことも思い出したからだ。
ドアが開いた。床《ゆか》が音を立てた。エミイルとイレーヌが、二階の踊り場のところにいる。警部が坐っているところから、十メートルと離れていない。
「イレーヌ、ちょっと階上《うえ》に上がってみないか。きみがぼくに約束した場所に、行ってみたいのだ。階段のかどのところ。三階の踊り場……。ぼくたちの物置部屋……」
階段をのぼる足音が響いた。エミイルがゆっくりと、そのあとからイレーヌがのぼっていく。
「マネキン人形は、相変わらず、物置部屋にあるんだろう?」
「まあ、マネキン人形ですって!」と、イレーヌが、愕いた声でいった。「あなた、まだ、何も知らないの?」
イレーヌは、詳しく事情を説明する時間を、持ち合わせていなかった。階段の一番上に、マレイズ警部が腰かけているのを、二人が認めたからだった。
「なにを……なにを、あなたはそこで、なさっておられるのですか?」と、エミイルが、口ごもりながら訊ねた。
マレイズは、立ちあがった。うえから見おろしているので、二人は威圧を感じた。まるで、巨人がたちはだかっているようだった。
「みんな聞いてしまいましたよ」と、警部は重々しい口調でいった。「エミイル・シャロンさん、あなたに、従兄のジルベエル・ルコト殺害に関する、罪状を告白するよう要求します」
十九 無実の囚人
マレイズは、前日捜査した、いろいろの出来事をあれこれ考え、落ち着かない一夜を送った。アルマン・ルコトとのやりとり、ルコト家訪問、老女中のイルマの毒薬、エミイルとイレーヌふたりだけの秘密の発見、二人に対する――無駄に終わったが――質問……。
「わたしは、ジルベエルを憎みます!」と、エミイルは認めた。しかし、ただそれだけで、復讐《ふくしゅう》という点に関しては、一切その事実を認めようとしなかった。
警部は、追及の手をゆるめようとしなかったが、結果はこうだった。
「わたしは、どのような方法で殺害されたのか、全然わかりません」
この答えに、警部は失望した。どのような方法で殺害されたのか? そんなことを訊《き》いているのではなかった。
マレイズは、これ以上質問しても、聞きだせるものはないと判断して、がっくりした。
「わたしが、殺人犯人を発見していれば、当然、どのような手段で行なわれたか、説明ができるのですが」たしかに、この男は、どのような方法で殺害されたか、知らないことは事実であろう。しかし、エミイルがこだわっていたのは殺害方法で、警部が質問したのは、殺害犯人であった。
エミイルは、真面目《まじめ》な態度で、マレイズの質問に答えた。しかし、老女中イルマの毒殺未遂のことについては、例の≪退化本能≫が警戒警報を出したのか、黙秘権を行使した。≪マネキン人形殺害≫は、事件の本流ではなく、ルコト家が事件の中心と考え、緊張でコチコチになっていた。老女中イルマは、息子のレオポルドがこの家の悲劇の犠牲となったと考えているが、そのことはほとんど口に出したことがない。しかし、息子の悲劇は、彼女の責任ではない。こうした、この家の悲劇的な空気は、すでに一年も経ているが、(ただし、昔の出来事をあれこれ考えると、ジルベエルの死は、当然起こり得べくして起こったものだが)そして、その結果が犯罪という形になったとしても、特別に愕くに当たらないことだ。
「痕跡《こんせき》を残さずに、犯罪を行なう方法は、ひとつしかありませんね……」と、マレイズは、エミイルに明言した。「では、どんな方法ですか?」「毒物の使用ですよ」しかし、それだけの説明では充分ではない。具体的には、飲食物に毒物を入れ、ジルベエルに摂取させるようにし、その効果を見て、分量を加減する。それとも、自殺とみせかけるため、屍体《したい》のそばに、コップか茶碗か皿か、それともそのうちの一つの破片をばらまき、手から落ちたように見せかける。警部は、情痴犯罪ときめつけたため、毒物を使用したものと結論づけてしまったのか?
じつは、マレイズは、こうした考えを、すでに結論として持っていた。これしか方法がないとかたく信じていた。≪少なくとも、何か巧《うま》くごまかして、使用したに違いない……≫
警部は、ひどく不機嫌な顔で立ちあがり、≪ひげ≫をそってから、黒パンとラードでいためた玉子で食事をとり、静かにパイプをくゆらす場所をさがしはじめた。弱い太陽の光が、雲の多い空にぼんやり映え、宿屋の正面で、背つきの小さなベンチを、断続的に暖めていた。警部は、ポケットに両手を落とし込み、熟考するために眼を半眼に閉じ、ベンチに坐った。
マレイズ警部は、ジルベエルの死が、犯罪に関係しているのかしていないのか、マネキン人形が盗難にあったかどうか、じっくり考えているのだろうか。そしてまた、先年の九月二十二日の朝まだきではなく、今年の九月二十日の晩、警部が直接自分で手がけた捜査の結果を、≪容疑者≫として考えている者たちのことを、慎重に吟味しているのであろうか。じつは、警部はちゃんと結論を考えていた。マネキン人形を盗み、こなごなに打ち砕いた者が、ジルベエル・ルコトの殺人犯人であると。
この結論は、具体的にはつぎのようなことだ。マネキン人形の盗難は、村の白痴、例のジェロムによって行なわれたのだが、その事実は、三日前、真夜中に、マレイズによって発見されていた。白痴のジェロムは、奇妙な荷物を肩にかつぎ、鉄道線路をさまよっていた。観点を変えれば、単純な白痴の仕業とは思われず、白痴は単に踊らせられている人形と考えられた。すると、これは、やはり巧みに遂行された犯罪の匂いがする。
マレイズは、頭を上げて、見渡すかぎり人影のない路上に一瞥《いちべつ》を投げた。旅籠《はたご》の近くのキリスト磔像《はりつけぞう》の前の石段で、風に追いやられた新聞が舞い、踊り子草の茂みでいったんとまったが、すぐに飛びあがり、あちこちと風に吹かれていく。
警部は、路上で足をとめた。
まだ、じっくりと、考えつづけているのであろうか。いや、違う。彼は、例の≪退化本能≫というやつを、実践したのだった。つまり、この三日間、世間と没交渉だった警部が、ここで再び接触することになった。警部は、例の風に吹かれている新聞をひろうと、すぐに眼についた、≪無実の囚人≫という見出しの記事を、読みはじめた。
[#ここから1字下げ]
……シュルレ殺害事件について、その後の最新のニュースを報道する。新聞紙上をにぎわし、世間の注目を集めたシュルレ殺害事件は、読者の記憶を新たにする残酷な事件であったが、この事件の殺害犯人として、レオポルド・トラシェが逮捕され、昨年の冬、裁判の結果十四年の強制労働の判決を受け、服役中のところ、最近に至り、日雇い労務者ヴァンハンクが真犯人であることが判明したため、レオポルド・トラシェの無実が明らかとなり、けさほど、ローヴァン刑務所より釈放された。
[#ここで字下げ終わり]
新聞報道によれば、レオポルド・トラシェの裁判は誤審であり、真犯人の逮捕の結果、自由の身となったというのだ。
熱にうかされたように、警部は、新聞をむさぼり読んだ。あまり力を入れて握ったため、新聞紙が破けてしまい、読むに耐えなくなった。新聞の記事に、九月二十日発のロンドン、ジュネーヴ、ローマ至急電が掲載されていたが、その発行の日付は、九月二十一日であった。しかし、この新聞の日付をそのまま額面どおり信用してよいかどうか。新聞社が新聞を発行するとき、よくやる手だが、一日先付けで印刷することがある。するとどういうことになるか。新聞に、≪けさ≫とあるが、日付を先付けにすれば、二十日ということになるし、先付けでないとすれば、二十一日となる。
なぜ、レオポルドが釈放された日が、大切かというと、マネキン人形が盗まれ、殺害されたのが、二十日から二十一日にかけての夜間に行なわれたからだ。この夜、ジルベエル・ルコトは、再殺害されたのである!
レオポルド・トラシェが、二十日に釈放されたとすれば、当然自動的に容疑者のひとりに入れなければならず、釈放されたのが二十一日であれば、時間的に不可能であるから、容疑者のリストから、除外されることになる。≪いずれにしても、四十八時間以内に、母親のもとに、姿を現わすだろう≫と、マレイズは考えた。≪考えすぎかもしれないが、ナポレオンに蓚酸を混ぜれば、相手に気づかれることはないだろう。しかし、あの老女中の息子が、果たして、そんな邪悪なことをするだろうか?≫
「やあ、ご亭主!」
と、マレイズは声をかけながら、旅籠にもどった。
「農夫のシュルレを殺害し、強制労働の刑を受けた、ほら思い出すだろう、例のレオポルド・トラシェのことだが、なにか知っているかね?」
亭主は、知っていると、頷《うなず》いた。その事件のことは、彼の記憶に鮮やかに残っていたのだ。
「レオポルドが帰っていれば、きっとファリイズさんの家ですよ。この大通りをまっすぐ行ったところの、右手の最初の農家ですよ……」
しかし、マレイズは、亭主の言葉を、最後まで聞いていなかった。先ほど新聞をひろったのとは別の道を、駆けるように歩いていった。
老女中イルマは、寺院広場の家で新聞をとっていないため、息子が釈放されたことも知らないのだろう。確かに、規定で公告されたはずだが、あるいは、監獄長が出獄のことを忘れてしまったか、それとも、レオポルドが、母親を驚かせて喜ばせるという口実を使って、母親に連絡をとるのを中止してもらったのではなかったか? アルマンとエミイル夫妻だけが、そのニュースを知っていたのかもしれない。しかし、たまたま、何か偶然が重なって、母親の耳に入らなかったのかもしれない。
マレイズは、フランドル通りと標識が建っている、白色とバラ色の壁に囲まれた、背の低い大きな農家の前で、足をとめた。鎧戸《よろいど》にかけたチュール織りのカーテンが、風にはためいているのを、警部は、機械的に、眼でとらえていた。林檎《りんご》の樹《き》の枝が、通路をふさいでいた。
しかし、警部は、少しもためらわず、住居の建物に通じる、えぐられたように深い溝の、その土の道に入っていった。中庭では、まるまるした顔の、健康そのものといった娘が、濃厚な牛乳をなみなみと入れた二個の手桶《ておけ》を、リズミカルに揺り動かしていた。
「失礼ですが……。この家のご主人と、お話ししたいのですが……」
「家畜に注意してください」といってから、若い娘が手桶を置きながら、口もとに微笑を浮かべ、答えた。
「父に代わり、わたしでよかったら、お答えしますけれど……」
マレイズも、微笑しながらいった。
「もちろん、あなたでけっこうですが……」
そういい、警部は、相手を熱心に観察した。
「正確に、いつから、レオポルド・トラシェを、納屋に泊めているのですか?」
若い娘は、顔が蒼白になり、次いで眼まで赤くなった。
「わたしは……わたしは、あなたが何をおっしゃっているのか、少しもわかりません」
「そんなことはないですよ。わたしのいったことが、わかっている」と、マレイズがきっぱりといった。
じつは、この農家の中庭に侵入する前に、遙《はる》かに路上を見渡し、付近に家がないことを確認していたのだった。
「レオポルド・トラシェが、以前逮捕されるまで、ここで働いていたことまで、まさか否認なさるのではないでしょうね?」
「はい……」
しかし、はいと答えたが、それ以上喋りたくないということは、警部にもわかった。
「わたしは、警察の者です」と、マレイズは、自分の身分を明かした。「彼が釈放されたことについて、法律上、正式な手続きがとられたかどうか、一応確かめたいと思って、さがしているのです」
若い娘は、ホッとした顔になった。
「まさか、あの人を困らせるのではないでしょうね?」
「それどころか、彼のために、訊ねなければならないのです。そして、あなたのためにも! なぜ、隠そうとなさるのですか?」
「あのひとは、隠れてなどおりません!」
若い娘は、手桶を持ち上げ、家のほうに身体を向けた。
「彼は、病気なのです」
「彼の部屋に、わたしを連れていってください……。部屋にいるんでしょう?」警部は、母屋への道を眺《なが》めた。
「はい、そうです。でも、あなたはどうして、ごぞんじなのですか?」
「いつから、ここにいるのですか?」
「二、三日前からです」
ふたりは、家のなかに入り、階段をのぼった。
「二、三日前といいましたね?」
しかし、若い娘は、その質問には答えず、静かにドアを開き、そこから頭をのぞき込ませた。
「彼は、この部屋におります」と、溜息《ためいき》まじりに、若い娘がいった。「寝《やす》んでおりますのよ」
若い娘は、ちょっと、不安になって、
「起こさないでしょうね?」
「起こしませんとも」と、マレイズがいった。
警部は、明るい色の家具が備えつけられている部屋のなかに入り、背凭《せもた》せの椅子を引っぱってきて、寝台の枕《まくら》もとに置き、腰をおろし、敷居のところで、動かずに立ち尽くしている若い娘のほうに、身体を向けた。
「このまま、待っておりますわ」
すると、そのとき、レオポルド・トラシェは、ブロンドの髪の毛と額だけを見せていたが、大きく息をつくと、身体の向きを変え、眼を見開き、優しさに充ちた眼で農家の娘を見、それから、マレイズを見た。
二十 監獄の影
「気分がすぐれないのかね?」と、パイプにタバコを詰めながら、警部が呟《つぶや》くようにいった。
「ひどく悪い、というほどでもありません」と、息苦しそうな声で、青年が答えた。
長くて、繊細な感じの、貧血で蒼白《あおじろ》くなった両手が、蒲団《ふとん》の上で、かすかに顫《ふる》えていた。
≪まだ、監獄の影響が、残っているな≫と、マレイズは考えた。≪訪問者の顔を見るため、自分の力で頭を持ち上げるには、まだちょっと、時間がかかるな≫
農家の娘は、慎み深く、戸口のところにひかえていた。
まぶしそうな眼をし、呼吸するたびに、痩せた胸を大きく波うたせていたが、寝台の男が、突然、「警察だな」と、怒った声でいった。死体ではないかと思えるほど痩せていたので、心臓が動いているのが不思議にさえ思われた。
「そうですよ、警察の者です。どうか、わたしに、いろいろと話してください。日雇い労務者のヴァンハンクが、臨終の場で、思いがけない真実を告白したのでしたね? あなたが、けさほど、新聞を窓から投げさえしなかったら、まだわたしにはわからなかったのですよ」
レオポルド・トラシェは、額に手を置いた。
「あっ! では、あの新聞を読んだのですか! あなたがごぞんじのことは、どの程度ですか?」
「けさ、新聞を窓から投げたのでしたね。それが運よく、わたしのところまで、飛んできたのですよ。しかし、昨夜はどしゃ降りだったから、すっかり濡《ぬ》れてしまって、全部読めなかったのです。臨終の場で告白したといいましたが、わたしの当て推量でね、じつはわかっていなかったのですよ」
青年は、警部の希望に応じ、詳しく喋った。
「まず、事件当時、わたしの着衣に、被害者の血が、若干付着していたのです。兇器は手斧《ておの》でしたが、この手斧からわたしの指紋が発見されたのです。幸いなことに――わたしにとって、じつに幸運だったのですが――この二つだけでは証拠不充分というわけで、判決が下されるまでにはいってなかったのです。そうこうしているうちに、八日前のことですが、裸馬《らば》にひかせた荷車を運んでいたヴァンハンクが、こそ泥《どろ》が発覚して、ひっ捕らえられたのです。そいつは、訊問《じんもん》を受けているうちに、良心の呵責《かしゃく》に耐えかね、事実をすべて自白したため、彼が真犯人であると、判明したのです」
そして、苦笑いを、口もとに浮かべた。
「公式の手続きをとり、宣告解除の再審が行なわれるかどうか、わたしはぞんじません。司法機関が、その手続きをとらないのではないかと、わたしはむしろ心配しているのです。わたしのような立場にいると、誰でも、健康な身体で、自由の身になりたいと願うものです」
マレイズは、眉をひそめた。この青年は、警察の間違ったやり方を、どこまでも追及しようとしているのだ。
「病気なのですか?」
「そうです」
「どんな病気です?」
「わからないのです」
青年は、ハンカチを口もとに持っていき、苦しそうにあえいだ。
「咳が出るのですか?」
「少々ですが……」
「手を出してごらんなさい。熱がありますか?」
「あると思います。時間によってですが」
「症候でもあるんですか?」
「すごく疲れます。めまいがするのです」
「食欲は?」
「ありません」
「ねむれますか?」
「駄目ですね。監獄が、寒すぎたからだと思います。数日間、胸が息苦しく、咳がひどかったのです」
「医務室に行きましたか?」
「行きません」
「なぜですか?」
レオポルド・トラシェは、恥ずかしそうに声を落とした。
「わたしから、何もいわなかったのです。同情されたくなかったので」
「なぜですか?」
警部は、同じ質問を二度繰り返した。
答えは、簡単だった。
「死にたいと思ったからです」
「で、いまは?」
「おそろしいのです、死ぬことが……。正直、生きたいのです……」
「釈放されたことを、どうして母上に知らせないのですか?」
「たいして、喜ばないでしょう……」
「なぜここにいるのですか? どうして、自分の家に帰らないのです?」
青年は、じっと沈黙を守った。
「きみは、なにか隠しているでしょう?」
「そうですとも!」と、レオポルドは、捨鉢《すてばち》な口調でいった。「母は、わたしと会う必要はありません。まだ、その時ではないのです。わたしは、母に会う気持ちになれません」
「ではなぜ、この村に帰ってきたのです?」
「ほかに、どこへ行くところがあるというのですか? それに、わたしは、知り合いが誰もおりません。ここなら、わたしを歓迎してくれますし、気持ちよくつき合ってくれます」
「この農家で、長く働いていたのですか?」
「一年ぐらいでしょうか……」
「きみの仕事っぷりに、家のひとは、満足していますか?」
「満足していると思います」
マレイズは、もっと具体的に、説明してもらいたかった。そう望んでいるにもかかわらず、警部は、直接そのことに触れようとしなかった。
「あなたが投げ捨てた例の新聞ですがね、何日の日付でしたか?」
「待ってください。監獄を出て買ったのですから、二十一日付のものです」
「すると、二十日に釈放されたのですね?」
「たしか……そうです、間違いありません」
そう答えたが、若い男の神経は、ますますたかぶった。
「ここに到着したのは、いつでしたか? 昼、それとも夜でしたか?」
「暗くなってからです」
「何時の列車で?」
「列車などに乗りません。貨物自動車の助手席に、乗っけてもらったのです。わたしは……わたしは、余分の金など持っていないのです」
「しつこいようですが、正確に、何時にここに帰ってきたのですか?」
この質問には、素直に答えなかった。
「どうも理由《わけ》がわかりません。なぜ、そのような質問に、答えなければならないのですか?」
頬にバラ色の汚点《しみ》が二つぽっかり浮かび出た。「わたしは疑われているのだ。わたしと関係のない、別の犯罪事件が起こったため、そんな質問を受けるんだ」
マレイズは、唇をかたく噛んだ。
「さあ、答えていただきましょう」と、警部が、かたい語調でいった。「この質問は、あなたにとって、重大な利害関係がからんでいるのです」
「わかりました。記憶はそれほど曖昧《あいまい》ではないのです。九時、いや、九時半でしたよ」
「すぐ、やすまれましたか?」
「すぐではありません。ファリイズさんが、食事の用意をしてくれましたから。それから、わたしが拘束され、釈放されたときの事情を、あれこれ詳しくお訊ねでした。そうこうしているうちに、ジャニイヌが帰ってきたのです」
「ジャニイヌですか?」
「ええ、ファリイズさんの娘です」
「すると、あなたがここで横になったとき、ファリイズさんがご一緒していたのですね?」
「十時半でしたか……いや、おそらく、十一時頃でしたね」
「そのあと、すぐねむったのですか?」
「いいえ。疲れすぎていたのです。ちょうど、真夜中の十二時頃でしたでしょうか、ジャニイヌが、わたしの咳を聞いて、薬とミルクを一杯、わたしのところに運んでくれました。そのちょっとあとで、今度はぐっすりねむったのです」
「ところで」と、マレイズは、相手をあまり信用していないという顔つきを、あらわにしながらいった。「さてと、じつはわたしは、あなたと腹を割って、率直に話し合いたいのです。ジルベエル・ルコトが死亡したとき、あなたはすでに拘禁されていたのですね。わたしが了解しているところでは、ジルベエルが死んだ数時間以前に、あなたが逮捕されたと思うのですが……」
青年は、きっぱりと、うなずいた。
「ところが、ジルベエルは、自然死ではなかったのです。殺害されたのです」
「殺害されたんですって?」と、蒼白な顔で、レオポルドが叫んだ。
額から玉の汗が滴となって流れているのを、じとじとした手でぬぐっては、機械的に、ベッドのシーツでふいていた。
「殺害の犯人は誰です? どうしてまた、殺害されたのですか?」
声はしわがれ、低かったが、マレイズは、その声を聞くというよりも、質問の唇の動きに注意を向けていた。
「犯人が誰かも、どんな方法で殺害されたかも、まだわかっていないのです」
そういってから警部は、レオポルドの眼をじっと見つめ、視線をはずそうとしなかった。
「マネキン人形が盗難にあったため、その捜査をわたしがしているのです。マネキン人形といえば、思い出すことがあるでしょう? ほら、死人の顔をモデルにした、あれですよ。いろいろと秘密めいたゴタゴタがあったあとで、ドゥヴァン氏、ステーション街の服屋ですが、この男がマネキン人形を買い取って、飾り窓に並べておいたのです。ところが、ある夜、あなたが村に帰ってきた晩だったのですが、何者かが人形を持ち去り、ナイフで顔をめちゃくちゃに突きくずし、翌朝、通過する列車でこなごなにするため、線路上に横たえておいたのです。じつは、わたしが、その列車に乗っていたのですよ。それがきっかけでわたしは下車する決心をし、こうしてここにいるわけです」
「ああ!」と、レオポルドは、うつろな眼でいった。
「むろん、この事件には、関係がないと、おっしゃるのですね?」
「わたしには、あなたにお話しする、どんなことがあるというのですか……」
「お話しになりたくなければ、お話しにならないでけっこうです!」と、にわかに、椅子から立ちあがると、警部は、断乎《だんこ》としていい、床《ゆか》の上を大股で歩き出していた。「君の母上に、一刻も早く、君が釈放になったことを、告げに行かなければなりません。そうすれば、母上は、わたしを毒殺しようとした動機がなくなり、したがって嫌疑《けんぎ》を受けていないことがわかるはずですから……」
レオポルドの顔に哀願するような表情が浮かんだ。警部は、それを確認すると、態度を変え、この三日間、はからずも介入することになった出来事を、順序だてて簡略に、相手がびっくりした顔で聞いているのにかまわず話しつづけた。
「わたしには、まるで夢のようなお話です」と、レオポルドが、警部が話し終わると、口のなかで呟いた。「警部さんは、もちろん、わたしのことを疑っておられるのでしょうね?」
「誰も疑ってはいないよ」と、マレイズは、抗議するように、ちょっと嫌な顔をした。
「けれど、きみらしく振る舞うことが、とりもなおさず、きみのためになるんだ」
レオポルドは、質問がしたくなって、じりじりしていた。若い娘のように、顔を赤らめて、いった。
「捜査のために、何度くらい、寺院広場の邸宅に行かれましたか?」
「三度です」
「母にお会いでしたか? それから、誰と会われましたか? ロールさんとは?」
「ロール嬢、イレーヌ嬢、それから一家の方みなさんと……」
「で、変わりはありませんか?」
青年は、内心の苦悩と闘っているようであった。大きな溜息をついた。
「相変わらず、美しいですか?」
「誰のことです?」と警部は、青年が口にした相手を誰か承知していながら、わざと残酷に訊いた。
「ロールさんのことです」
ドアのところで、人の気配がした。
「わたしにはわかりませんが、あなたがおっしゃるとおりでしょう」と、警部が呟くようにいい、ドアの把手《とって》をグッと引っぱった。
そこに佇《たたず》んでいたのは、病人の健康を心配していた、ジャニイヌ・ファリイズだった。大分前から、室内のことが気にかかり、ドアのところに立っていたのだ。
「ちょっと、お訊ねしますが」と、マレイズは、玄関に案内しようとしている若い娘に、階段をおりながらいった。「レオポルド・トラシェが、ここに着いた日、十一時に床《とこ》につき、真夜中の十二時頃、あなたが部屋に牛乳を持って行ったのでしたね?」
それからちょっと経って、警部は道路に出ながら、二度とうしろを振り向こうとしなかった。
≪ジルベエル・ルコトが殺害されたとき、あの男はすでに逮捕されていた≫と、考えた。≪旅籠のおれの部屋から、殺害犯人を確認した。疑いもなく、そいつは、殺害犯人だった。殺害犯人は、第二の被害者を背に、レオポルドが牛乳を飲んでいる時刻に、鉄道線路に向かって歩いていた。ルコト家からマネキン人形が消失したとき、レオポルドは、村から遠く離れた農家にいたのだ。そう考えるしか、考えようがないのだ≫
二十一 ロールの悲嘆
「やあ、こんにちは、イルマ!」と、息子のニュースを知らせようと思い、老女中が敷居のところに出てくると、マレイズが声をかけた。マレイズは、相変わらず、愛想よくふるまっていた。
ところが、老女中は、ドアのところで拳《こぶし》を握っていたが、マレイズだと認めると、悪魔にでも出会ったかのように、いち早く逃げ出したので、警部は、ひとことも喋《しゃべ》る余裕がなかった。
≪なんと、おれときたら、相変わらず嫌《きら》われ者だ≫と、心のなかで呟《つぶや》いた。
警部は、自分で入り口のドアを閉め、玄関のなかに進み入った。よいニュースを持ってきたという確信が、その動作にありありと現われていた。静かに外套《がいとう》をぬぐと、外套掛けに掛けた。と、すぐに、若い娘の二人のうちの一人が姿を現わした。
警部が振り向くと、ロールが部屋から出てきたところだった。
「やあ、ロールさんですね! また、お邪魔しますよ」と、警部が、上機嫌《じょうきげん》でいった。「ちょっと、付き合っていただけませんか、お話がしたいのですが……」
若い娘は頭で頷《うなず》き、ヴェランダに出るドアを開けた。と同時に、ストーブのところで丸くなっていた小犬のマルグリットが、籠《かご》のなかからポンと飛び出し、猛烈に吼《ほ》えながら、来訪者に向かって突進してきた。
ロールは身をかがめ、マルグリットをつかまえると、庭園のなかに連れていった。
「どうもありがとう!」と、マレイズが礼をいった。
警部は、エミイルの妹を、じっくりと観察した。きのうも、おとといも、同じ黒服を着ていたが、きょう違っているのは、白いネクタイを用いていることだった。
「どうぞ、ご遠慮なく、お話しください」と、ストーブの傍に置いてある、皮製の大|長椅子《ながいす》を指して、響きの悪い声で若い娘がいった。ルコト氏が病気になる前に、一日の大部分を過ごした長椅子だった。
「老女中イルマの息子が、出獄したのです」と、警部が、ゆっくりと喋り出した。「ご承知のように、殺人犯人として告発されていたのですが、無実ということが、幸いにも判明したのです」
ロールは、口を半開きにしていたが、何も喋っていなかった。眼《め》のふちが黒ずんでいたので、昨夜は一睡もしていないと、警部は見抜いていた。
「わたしは、数時間前にイルマの息子を発見したのです。近郊の農家、ファリイズ家に隠れていました……」
緩慢な動作で、警部が辺りをぐるりと見回してから、左胸に手を当てている若い娘のほうに歩み寄った。
「不注意から、肋膜炎《ろくまくえん》になっているところを、監獄に入れられたために結核となり、ひどく苦しんでいるレオポルドを、わたしは自分の眼で確かめてきました。彼は、一部始終を話してくれました。彼が話したことは、すべて事実だと思われます」
庭園の、ヴェランダのドアの前で、たけりたったマルグリットが、すさまじく吼えていた。警部が話している間じゅう、とぎれなく、吼えつづけていた。
「お宅にお邪魔する途中、フュルネル医師《せんせい》に会って、レオポルドのことは、頼んでおきました。わたしは、イルマに息子さんのことを伝えて、喜んでもらおうとまいったのです。どうか、イルマにこのニュースを話してあげてください……」
ロールは沈黙を守っていたが、内心少なからず、混乱しはじめていた。そんなロールにかまわずに、警部は話しつづけた。
「いますぐでも、あすでもかまいませんが、レオポルドの処置を、考えていただきたいのです。けれど、病気のことだけは、話さないでおいてください。いずれ苦しむとしても、なるたけ後のほうがいいのですからね……」
長椅子にじっと正座しつづけていたロールは、まっ赤に色づいたストーブを、じっと見まもっていた。
「あなたは、じつにいい方です」と、まるで他人のことでもいっているかのように、ロールが、やっと小さな声でいった。
そして、彼女は、顔を上げると、
「あなたのお話は、いつもすべて真実ですわ」
マレイズは、椅子の上で、姿勢を変えた。
「ともかく、あの青年に、できるだけ早く、信頼感を持たせるように、しむけなければいけませんね。そのためにも、わたしは、この家の本当の姿を知りたいのです。アルマンはあなたが婚約者と一緒に楽しそうに写っている写真を、見せてくれたのですよ。楽しそうな反面、敬虔《けいけん》な神につかえる人かと見えましたよ。ところで、ジルベエルが死んだあと、あなたは叔母《おば》さんに、いろいろと打ち明け話をしたのでしたね?」
ロールの長い指が、長椅子の肘掛《ひじか》けを、ギュッとつかんでいた。
「いいえ、違います。イレーヌです……。イレーヌは、秘密を漏らしたため、あのような悲劇が起こったと、少しも疑ってもいなかったのです」
「すると、むろん、いまでは後悔しているのですね?」
「はい、そうです。後悔しているからこそ、いかなる種類の幸福も、かたくなに認めようとしないのです。ですから、叔母の死も、責任が自分にあると信じているのです」
「まるで、狂人のやることだ」と、マレイズが、吐き捨てるようにいった。
「イレーヌの心は、休まることがなかったのです。たえず妄想《もうそう》を抱き、その妄想をジルベエルの母の死と結びつけて、自分を責めさいなむのです。結婚したわたしの兄のエミイルの姿を見るだけで、悲嘆に暮れ、錯乱状態におちいるのです」
沈黙がふたたび支配した。その沈黙を破ったのは警部だった。
「あなたは、ジルベエルが殺害されたと思いますか? それとも、殺害されたのではないと……」
ロールは、顔を赤らめた。ストーブのせいかもわからなかった。
「わたしには、どうとも判断がつきません。あなたは、どのような理由から、殺害されたとお信じになるのですか? 例えていえば、鍵を掛けた戸棚の中身を調べようと試みるが、どうしても開けることができない。ジルベエルの死は、そんなものです。わたし自身、ジルベエルが死んだので、解放されたのです。わたしは、たえずそう考えて心を慰めているんです。医師《せんせい》も、疑わしいことは、何もないとおっしゃっています。ジルベエルを、周囲の人のなかで嫌《きら》っている者がいなかったとは申しませんが……」
ロールは、そう曖昧《あいまい》にいい、具体的には嫌っている者の名前はいわなかった。
「エミイルですか? アルマンですか? ジルベエルを嫌っていた者は、誰なのですか?」
「イレーヌだけは、悲嘆がましいことを口にしたことがありません。わたしの知るかぎりでは……」
「すると、イレーヌを除いた、ほかの者ということですか?」
「エミイルとアルマンは、嫌っておりました。とくにアルマンは、ときどき、当てつけがましい挙動をとりました。自分の兄が死んだのは、神様のおぼしめしだと、いったことさえあります。そのとき、少なくとも、わたしが受けた印象は、神の摂理で死んだ、という意味に受けとれました」
そしてさらに、若い娘は、はげしい口調で、付け加えた。
「しかし、誰も、ひとの心のなかのことは、わかりません……」
マレイズは、若い娘のこの遠回しのいい方を、微笑を浮かべて聞いていた。どうして、この一家の者は、こうした曖昧な、にえきらない、もののいい方しかできないのであろうか。警部は、ロールとエミイル、エミイルとアルマン、アルマンとロール、この組み合わせで、それぞれ相手を意識してとり交わす会話、しかも、言外に含まれた意味を推定し、言葉にならない言葉を補強し、いいたいことをいわずにおわす、そうした各組の会話を、頭のなかにえがいてみた。それは、想像を絶する神経の乱費であった。だから、アルマンの場合には、こうした陰湿な空気に反発して、灰のなかで長いことくすぶっていた残り火が、突如、火を吹き上げたのではないか。彼らは、どれほどお互いを牽制し、隠蔽《いんぺい》し、秘密にし、日々の生活の流れをとめ、時間を空費させていたことか?
「さあ、勇気を持つのです。真実を話してください。アルマンが、ジルベエルの死について、何か特別の動機を持っていたかどうかを……」
ロールは、発言をためらった。
「率直に、話してください」と、マレイズは、しつこく訊《たず》ねた。「率直にお話になれば、この家の平和が、とりもどせるのですよ」
「ジルベエルは、悪いことをしては、手をたたいて喜ぶ、という性格でした」と、若い娘は、直接にはアルマンに触れなかった。
「美しいものに対しては、容赦しませんでした。ただ、ちょっとですが、純真さの片鱗《へんりん》は残っていましたが……。わたしは、中傷がましいことを申し上げて、特定のひとに迷惑をかける、といったことはしたくありません。わたしには寛大でしたが……。容赦しない対象は、彼の母でした」
「まるで、性格|破綻《はたん》者だ!」と、マレイズが叫んだ。
「彼の娯《たの》しみは――官能的快楽に燃えることですが――乳房に手が触れると、頂点に達するのです。あなたは、すでに、エミイルとイレーヌの幸福が、いかにして破られたかごぞんじです……。ジルベエルがわたしに求愛させ、そのあと、わたしたちの愛がいかにして破れたか、そのことをお話しします……」
ロールは、勇気を出し、警部の視線にがっちりと立ち向かった。
「ジルベエルがわたしを……」と、そこで、ちょっとためらってから、「アルマンの胸のなかに、力まかせに押し込んだのです。そして、どうでしょう、ふたりが抱きあっていたと、家のなかの者に告げ口して、わたしたちを苦しめることに夢中だったのです。ひどい中傷とでたらめを並べたてたのですが、最初のうち、両親は悪い冗談と笑っていましたが、毎日あまりしつこくまくしたてるので、最後には、一家の者がみな、きまずいことになってしまったのです」
マレイズには、ロールの苦しみがよくわかった。この三日間、初対面のときから、血のかよわない人形のように、死者の暗い眼をし、それでいて、内心でいらいらしていることが、ロールのいまの話で思い出された。
「わたしは、幾度となく、自由をかちとろうと、むなしくあがきました! そのたびに、ジルベエルは、わたしを押さえ、笑っていたのです。彼が死んだとき、わたしは、精も根も、尽き果てていたのです。疲れてはいましたが、それでもまだわたしは、少々未練があったので、泣きながら、希望をさがし求めていたのです……。帰らぬ昔を求めて……。ジルベエルという男が、この家で絶対的な力を持ち、いかに暴君として君臨していたか、想像してごらんなさい。わたしは何度、侮辱的な言葉をかけられたことか、そのたびに、口答えひとつしないで顫《ふる》えていたことか。彼が生きている間、わたしは、嘲笑《ちょうしょう》と侮辱に沈黙を守りつづけ、そしてどんな悪質な難題を吹きかけられても、ハンで捺《お》したように、勝利をかちとるのはジルベエルでした。わたしは、いつもみじめな敗残者でした。彼は、恋愛の感情などわからない男で、憎むことに生き甲斐《がい》を持っていたと考えるほうが当たっているでしょう。これは、当時、誰でも、感じていたことだと思います。今日でも、まだあの当時のジルベエルの影響が、そっくりこの家に残っているのです。わたしは、声を大にして申し上げることができます。人が憎むことのできる最高の憎悪で、わたしはジルベエルを憎みます。わたしは、彼に関する、思い出から姿かたちまで、何もかも憎みます。この憎しみを除いては、わたしという人間は成立しないのです……」
ロールは、両手で顔をおおい、最後の言葉を、呟くようにいった。
「わたしは、すでに老婆になってしまいました!」
「アルマンのことを、お話し願えませんか?」と、傷痕《きずあと》に触れるのを怖《おそ》れるように、突然、マレイズが話題を変えた。
「わかりました、アルマンのことですね! ジルベエル、そうでしたね、ジルベエルがわたしを、アルマンの胸に抱くように、わたしを押し込んだ話は、先ほど申しあげましたね。そのときのアルマンの眼は、じつに優しく、わたしをうっとりとさせたものです。わたしが愛しているのはジルベエルではなく、じつはアルマンだとわかったので、両親に結婚の承諾をもらおうと、決心しました。アルマンも、わたし同様、結婚を熱望したので、ふたりで力を合わせて努力しました。この辺の経緯《いきさつ》は、ご想像にまかせます。いずれにしても、結果は、叔父を憤らせてしまい、アルマンが呼びつけられ、釈明させられたのです。アルマンは、わたしを巻き添えにすることを怖れ、叔父と気まずくならないようにとの考慮の結果、ひどくまずい、言い訳をしたのです。そのうえ、ジルベエルのことを批判したものですから、話し合いは決裂でした。≪もう、何もかもおしまいだ≫と、その日、アルマンがわたしに申しました。≪ぼくは、この家を追い出されるのだ。だから、ぼくは、この家を出る。ぼくは、勘当になったのだ≫と」
「勘当ですと!」と、マレイズは疑い深そうにいった。
次いで、ひとつの考えが、警部の脳裡《のうり》に閃《ひらめ》いた。
「なぜ、今度ここに帰ってきたのです? それから、ジルベエルが死んだ日、どうしていたんです?」
「アルマンのことなら、わたしがお話するまでもなく、いろいろとごぞんじです。わたしは、アルマンを信じております。ジルベエルが悪い人だと同じくらい、アルマンはよい人でした。アルマンは、謝罪したのです。自分がいたら母を死なせはしなかったのにと、そのことを謝罪したのです。今日では、哀れな叔父は、息子が原因で、いろいろと不和になったことについて、記憶が薄れている、とわたしは考えています」
「でも、法律的には、勘当の措置がとられているのでしょう?」
「詳しいことは、ぞんじません」
マレイズは、ストーブの熱で、軽くほてっている若い娘の顔を、じっと見まもっていた。ロールは、膝《ひざ》の上の服の折り目のところに、きちんと両手を置いていた。その姿を見ていると、ロールが、古い家庭の桎梏《しっこく》から抜け出し、新しい世界の空気を呼吸しているように、警部には思えたのだった。
でも、なぜこのとき警部は、レオポルド・トラシェの言葉を思い出したのであろうか?
≪ロールさんは、相変わらず、美しいですか?≫と。そしてなぜ、ロールは、最初のうち、アルマンの名前を口にすることをためらったのだろうか。
「ところで、|お嬢さん《マドモアゼル》」と、マレイズが優しくいい、彼女のほうに身体を傾けて、「まだ、わたしに理解できないことがあるのですが……。それは、ジルベエルがあなたにつらく当たるような態度をとったのは、じつはあなたが好きでしかたがないので、悲しみのあまり、わざとしたのではないのですか?」
ロールは、怒ったように、つと立ちあがり、ひややかにいった。
「そうですとも。ジルベエルは、わたしがいま持っている、悲しみと同じ種類の悲しみを、持っていたのです。若い娘の恋の悲しみは、彼が死ぬと同時に、死に絶えてしまったのです」
そして、警部が、返事をするひまも与えず、ドアに歩み寄り、それを開いていた。
「イルマに、ご親切にお知らせいただいた、レオポルドが帰ってきたという知らせを、伝えておきましょう」と、敷居のところでいった。
ロールが姿を消すと、部屋のなかが、いいようもないほど空虚になったと、マレイズには思えた。
二十二 感謝の念
マレイズは、まだ一度も庭園に出てみたことがないことに気づき、ガラス扉《ど》に近寄り、額《ひたい》をガラス扉に押しつけた。マルグリットのことを、すっかり忘れていた。癇癪《かんしゃく》持ちの小犬は、狆《ちん》特有の怒った声で吼えたが、すぐ、おとなしくなった。マルグリットは、それから、庭園のほうをうかがっていたが、つぎにドアに爪《つめ》をたてた。ドアが開くと、警部のあとから、チョコチョコ追っかけてきた。警部が、すぐ遠くへ行くのかと思ったのか、なだめるだけで充分だった。すぐに、小犬は満足してうずくまり、頭をたれ、舌を出した。
「ロールは、どこかしら……」
その声に、警部は、振り返った。イレーヌが、ヴェランダに入ってくるところだった。
「あら、警部さんでしたの?」と、イレーヌが、愕《おどろ》いた顔をした。
ついで、イレーヌの顔に、微笑が浮かんだ。
「まだ、あたしのことを疑っていらっしゃるのね。だから、マルグリットが怒るんだわ」
「あいつ、わたしが嫌いなんだ」と、マレイズが、渋い顔をした。
「以前、猫のバルタザアルは、庭園で放し飼いにされていたのです。そのとき、マルグリットは、いつもいじめられていたので、いまでも怖がっているんです。だから、マルグリットを、家のなかに入れてやらなければなりませんの」
「食いつきませんか?」
「食いつきませんよ。屋外に放っておくと、声を嗄《か》らすんです。可哀想ですよ、ね……」
マレイズとしては、イレーヌの考えに、異議をとなえる理由がなかった。しかし、小犬に、活発《かっぱつ》に動き回られるのは、困ると思った。
「ロールは、どこです?」と、ドアを開けながら、叫ぶような声で、イレーヌがいった。それから、小犬をつかまえた。小犬は、走り回ろうとしているところを無理につかまったので、イレーヌの腕のなかで、死にもの狂いで、あばれていた。
「ロールさんは、台所で、老女中のイルマに、息子が帰ってきたと、うれしいニュースを伝えているんですよ」と、マレイズは、この機会を利用し、前から用意していたことを、イレーヌにいった。
「わたし、あなたがおっしゃったことを、父に報告しに行ってまいります」と、マレイズの話が終わると、イレーヌはいった。「父は、必ず大喜びするでしょう。まだ、父を喜ばせることがあったのですね」
≪まさに、典型的な、ブルジョアの娘だな≫と、階段をのぼってゆく娘を視線で追いながら、マレイズは考えた。≪義務がいかに厳しいものであるか、はっきり承知しているし、近親者の愛情のこともちゃんと忖度《そんたく》しているし、失うものも、守るべきものも、個人の意思で、自由に判断しなければならないことも、知っている≫
そんなことを考えているうちに、庭園のなかは夕がたとなり、木々が黒い影となりはじめた頃、台所から、警部のところまで、何やら物音が聞こえてきた。ついで、すさまじい叫び声と、何か物の割れる音が響いてきた。
≪イルマは、まだ、こだわっているのだな!≫と、警部は、ひとりごとをいった。と同時に、イルマのびっくりした老人の顔を、眼に浮かべた。
一層|甲高《かんだか》い声が、ふたたび伝わってきた。椅子《いす》の脚が、石の上で、激しく引きずられているような音を立てた。
≪おれが毒殺の疑いをかけたことで、荒れているのだ!≫と、マレイズは考えた。
警部は、その場から遠ざかり、部屋のなかをさがしたが、やがて、暖炉の上に置いてある、暦の前で足をとめた。
≪二十日、二十一日、二十二日、二十三日と……。この村で、もう三日三晩も、時間をつぶしてしまった≫
果たして、ただの空費なのか? 誰も、単なる空費と、断定するわけにはゆかないだろう……。では、どれだけの事実が、この三日の間にわかったのか? 捜査上から見て、どのような成果があがったというのか?
≪捜査に首を突っ込んだときと今とをくらべると、どのくらいの成果があがったのか。正直なところ、うんざりするな!≫
ドアをたたく音、地下室から上がってくる足音、荒々しい呼吸のあい間あい間に老女中イルマの声。≪あれに伝えることを忘れちゃいけない……。あれに伝える……≫と、いっているのだ。ついで、家から外出する音、入り口のドアの重々しい軋《きし》み音。
≪とうとう、イルマは、外出したな!≫と、警部は、ひとりごとをいった。
と同時に、ロールが部屋に入ってきて、ストーブの傍の、皮製長椅子に、ひとこともいわず坐《すわ》ると、警部のほうに顔を向けた。
「ここで監視をしていらっしゃるのでしたら、ご注意までに申しあげますが、お目当ての方は、もうこの屋敷におりませんわ!」
マレイズは、身をかがめた。バケツから薪《まき》をとり出し、火のなかに投げ入れると、大きな音が起こった。
それから、警部は、ポケットのなかから、パイプをとり出した。
「パイプをやっても、よろしいでしょうか?」
警部は、前日のように、ためらったり、困惑したりすることはなかった。自分の家にいるのと同じくらい、気やすく感じていた。
「喜びが、恐怖を生んだのですよ」と、相手が知りたいことを、わざと避けて、意地悪く、不明瞭な声で、突然ロールが喋った。「イルマは、息子に何が起こったのか、少しもわかっていないのです。もちろん、無実は信じておりますが……。イルマは、わたしを抱きしめて、くれぐれもあなたに感謝の念を伝えてくれ、と申しておりました……」
「わたしが出る幕ではない!」と、マレイズが、断乎《だんこ》としていった。
「あなたがイルマによくしておやりになれば、イルマのほうも、あなたによくするでしょう」
足もとに転がってきた薪の破片を、ロールは、機械的な動作で、足で押しかえしていた。
「イルマは、あなたに、二つのことを伝言するように頼んだのです。ちょっと大袈裟《おおげさ》にいえば、二つの謎をとく鍵なんです……」
警部は、いつものように、パイプを両手で暖めていたが、内心すごく喜びを感じていた。
「正直いって、イルマからの話では、謎の解決の役に立つとは思えません」
「むろん、わたしだって、それで全部、解決するとは思っていません。でも、うまく取り扱えば、充分に役に立つと思います。イルマの伝言というのは、重要な告白が含まれているのです……」
「何ですか、その告白というのは……」
「ジャコブさんに売る古道具のなかに、マネキン人形を故意に突っ込んだのは、イルマだったのです。そして、さらに、おととい、ヴェランダで、マネキン人形が消失したときの犯人も、イルマだったのです」
「どうして、マネキン人形を、売ったり盗んだりしたのですか?」
「イレーヌとわたしに、好意を持っていたからです。古道具屋が来ることを知ったイルマは、わたしたち二人にとって、つらい想《おも》い出の人形を、うまく処分する機会だと考えたのです……」
「失礼ですが! あなたは、自分の部屋で、マネキン人形を発見したといわれましたね。たしか、ジルベエルが死んで、六か月目のことでしたね。その後、あなた自身で、物置部屋に運んだのでしたね。そうじゃあありませんか。それなのになぜ、イルマは、古道具屋に渡したりしたのでしょうかね。あなたが、喜ぶとでも、考えたのでしょうかね……」
「そうじゃあなかったのです。逆の効果を狙《ねら》ったんです。じつは、イルマは、わたしの部屋に人形を置いておけば、怒りのあまり、わたしが暴力をふるって、ジルベエルの人形を打ち砕くと思ってやったことです。わたしの部屋に運んでおけば、手近なところにあるのですから、それだけ人形を打ち砕く機会が多いと考えてしたことです。イルマは、冷静に、人形が打ち砕かれるのを待っていたのです」
「物置部屋にもどしたのでしょう。物置部屋だったら、誰のさまたげもなく、自由に処分することができたのではありませんか」
「まだ、おわかりになられないのですか。三日間も、この家の空気を呼吸なさっておられるのに。三日間もですよ。あなたは、この家の特別な空気について、証人になれるだけの資格があるのですよ。悲劇に出場したわたしたちは、ドラマの立役者であるマネキン人形が、家の最上階の、物置部屋にしまいこまれているという事実で、一応は落着したと、胸をなでおろす思いだったんです。それとも、警部さんは、わたしたちが、魔法の呪《のろ》いでもかけられていると思っておられるのですか?」
ロールは、声を落とした。
「よく聞いてください。マネキン人形がこの家にあるかぎり、イルマは、わたしたちが自由になれないと考えたのです。イルマが処分しなかったら、いつかわたしがやったでしょう。わたしがしなければ、イレーヌがやったでしょう。わたしたちは、この家から、マネキン人形がなくなれば、それでいいのです。ジャコブさんに、古道具と一緒に、マネキン人形を売ったからといって、そのあとのことまで、わたしたちには責任がありません。あのとき、売りそこない、もう一度古道具屋を呼び、マネキン人形を売ろうとしても、どんな方法で、阻止できるというのですか。わたしたちがいつかやることを、イルマが一足先に実行しただけなのです」
「マネキン人形を、それほど憎んでおられたのなら、なぜあなたが、破壊しなかったのですか。そのほうが、完全で、簡単だったのではありませんか」
「どうして、そんなことができますか!」と、顔色を変えて、ロールがいった。「そんな勇気があると、わたしたちのことを考えているのですか。そんなことをすれば、殺人を犯すと同じことではありませんか!」
しかし、ロールは、痛い急所を警部につかれたため、悔《くや》しそうに唇《くちびる》を噛《か》んでいた。
警部は、一昨日起こった事件は、イルマがマネキン人形を売ったことから起こったことで、もしこの家のなかで処分していたら、ゴタゴタは起こらなかったと説明した。
「老女中イルマは」と、ロールが、イルマの犯したもう一つの事実を話し出した。「物置部屋の奥から、古道具屋に処分するがらくたの置いてあるドアの右側に一緒に置いたからといって、別に悪いことをしたと思っていなかったのです。だから、それ以後に起こった出来事は、イルマとは、なんの関係もないのです。ところが、永久に姿を消したはずの人形を、警部さんが、この家にもう一度、持ち込んできたのです。イルマは、自分の手でもう一度処分しないかぎり、落着しないと考えました。すでに、自分の手で人形を処分したのですから、一度が二度となろうと、同じことと思ったのです……。警部さんが叔父の部屋におられるとき、わたしはイレーヌと玄関でお喋《しゃべ》りをしていました。そのわずかな隙を狙って、イルマは、この部屋に侵入し、人形を盗み、捨てに行ったのです……」
「どこに捨てたのですか?」ロールが、捨てた場所を口にするのを、ためらっているのを見て、マレイズが素早く訊ねた。
「庭の奥の井戸のなかです」
警部は、辺りに立ち込めるパイプのけむりを、手で追いはらった。
「なるほど、井戸のなかでしたか!」と、警部は、考え深げにいい、それに追っかぶせるように、すぐ付け加えた。
「その井戸を、見に行きたいのですが」
「どうぞ。ご案内いたします」
ロールが立ちあがり、部屋を横ぎって――彼女が通り過ぎるとき、服が警部の手に触れた――庭に出るドアを開けた。冷たい風が、雨を混じえて、ヴェランダに吹き込んできた。
ふたりは、夜の庭に出た。腐朽した葉を踏みつぶし、低い枝にぶつかりながら、ふりそそぐ冷たい驟雨《しゅうう》に首をすくめ、なお一層厚い暗闇《くらやみ》のなかに入っていった。マレイズは、少しずつロールが、彼のほうに身体を近づけてくることを知った。木の根に足をとられ、転ぶのを警戒していたのだ。警部がパイプに火をつけると、そこだけが、小さな赤い色の点となった。
ふたりは、井戸のところについた。
ロールは、突然、警部のほうに振り返り、よく聞こえるように大きな声で、「ここが、井戸です」と、いった。警部は、真っ暗なその場所に、身を傾けた。しばらくそのままでいると、警部の眼が暗闇に馴《な》れてきて、井戸の縁石《ふちいし》を見分けることができるようになった。
「老女中イルマは」と、警部がいった。(あたりの闇を警戒して、しぜんと、声が小さくなっていた)「ともかく、マネキン人形を、人の眼に触れないようにしようとしたのに間違いありますまい……。彼女も、常日頃から、ジルベエルに不満をもっていたのでしょう?」
「きらいでした」と、ロールがいった。
「息子のほうは?」
返事に、時間がかかった。
「レオポルドは、自分にいつもつらく当たるジルベエルを、好いておりませんでした。ジルベエルが死ぬまえに、決定的に、いがみ合う状態になっていました」
この暗闇のなかでの囁《ささや》くような小さな声の会話は、過去の悲劇を思い出させ、奇妙で、非現実的な感じにと追い込んでいった。底知れぬ井戸に身を傾けている、ロールとマレイズの二つの影法師は、この世の生きた人間の影とは思われなかった。
「すると」と、沈黙を破って警部がいった。
「このなかで、ジルベエルが、ゆっくりと休息しているわけですね……」
そして、警部は、辺りをぐるりと、うかがった。
「この井戸は、相当に深いのでしょうね?」
「わたしたちが子供の頃は、この井戸をすごく怖がったものです」
ロールは、奇蹟的に、この暗闇のなかで、少女の頃の自分を思い出していた。
「毎年暮れになると、びっこが暦を売りに来たのです。あるときなど、この庭のなかに、わたしたちが入るようにといったものです」
マレイズは、小石をつかむと、外壁に向けて投げた。そのぶつかる音が、遙《はる》かなる潮流の荒波の音のように聞こえ、無限にいつまでも、響いているように思われた。
「びっこの話は、遠い昔ばなしとは思われません。わたしも、あなたと同じ思いです」と、マレイズは淡々と話すのだった。
二十三 ド・ラ・ファイエット氏
「やあ、こんばんは、ジェロム!」と、マレイズが、声をかけた。
ジェロムは、ファリイズ氏の農家の周辺をさまよい歩いていた。――そこは、煌々《こうこう》と灯《あか》りが輝いている窓の下の路上で、窓には、老女中のイルマが、忙しげに動き回っている影が見えていた――警部の眼前十メートルぐらいのところの小道に、骸骨《がいこつ》のように痩《や》せた、ぎこちないしぐさの、背の高い男の影が立ち現われた。背中を見せているだけだったが、警部には、その背を見るだけで、それが誰か充分にわかった。
ジェロムは、腕をブラブラふりながら、まっすぐ眼をおいたまま、警部に答えようともしないで、ゆっくりと道を歩きつづけていた。逃げ出す心配がないと見てとって、マレイズは、同じ歩調で、彼のあとに尾《つ》いていた。
「ぼくは、きみにこうして会えて、喜んでいるのだよ」
警部は、子供か病人にでも話しかけるようにいったが、しぜんに出た言葉だった。
「まる三日間、ぼくはきみをさがしていたんだよ!」
相手は、やっと、自分が話しかけられていると、わかったらしかった。
「汝《なんじ》はどうして、かくの如《ごと》き無礼なことをいうのか?」
そして、じっと、警部を見まもった。
「汝は、喋っている相手が誰か、わかっているのか?」
「でも、きみは……」と、マレイズは、度胆《どぎも》を抜かれ、あとの言葉が出なかった。
「マリイ・ジョゼフ・モチェ・ド・ラ・ファイエット侯爵だよ!」頑固《がんこ》そうに、それでいて、貴族らしい高雅さは露ほどにも感じさせずに、ジェロムがいった。
つぎに彼が口にした言葉は、さらに警部を唖然《あぜん》とさせた。
「森には行かないよ。月桂樹《げっけいじゅ》が色|褪《あ》せてしまったからね」
マレイズは、やっと、平静を取りもどした。
「心おきなく、お切りになられますように」と、警部が調子を合わせていった。
「色褪せては、いたしかたない……」すぐに、ジェロムがいい返した。
これでは、相手のいいなりになっているしか、方法がなかった。マレイズは、ジェロムが悪感情を抱くことを、極度に怖《おそ》れた。
「なるほど、仰せのとおりで」と、警部は、額をたたいて、あいづちをうった。「では、これから、どこにまいられるので?」
「わたしは、癇癪《かんしゃく》持ちでしてね」と、ド・ラ・ファイエット氏がいった。
もう傍らにいるマレイズなど眼中にない様子で、風も雨も少しも気にせず、自分の眼前を、相変わらず、見まもりつづけていた。
≪と、すると≫と、マレイズは、悲痛な思いで考え込んだ。≪こいつに質問して、返事を得る方法がなきにしもあらずだぞ。昔のよき時代の頃の気分で話しかければ、……チャンスがあるとすれば、これ以外にない……≫
マリイ・ジョゼフ・モチェ・ド・ラ・ファイエット侯爵……。確かなことは、この白痴が、あの奇怪な行動をとったことだ。この白痴が、アルマン、イレーヌ、その他の人たちと、ほぼ同年配だと考えると、一緒に遊び、いがみ合ったのではなかろうか。ジルベエルに、酷使されたのであろう。あの頃、頭の弱いこの男が、暴君のように君臨する、厳しい圧力をかけてくるジルベエルを、豪胆な冒険家かインドの大酋長のような、栄光に輝く英雄と、思い込んでしまっていたのではないか。
マレイズは、大股《おおまた》に歩いて、白痴と一定の距離を保ちつつ追っていったので、相手を見失う惧《おそ》れはなかった。
「殿下」と、突然、マレイズが声をかけた。
「お見かけしたところ、貧乏ではあるが、高貴な魂をお持ちと考えますが、どのようなことを、なさっておられるのですか?」
「わしは、旅を続けているのだよ。誰をも公平に愛するのがわしの主義でね。ところで、煙草《シガレット》をお持ちではないかな?」
警部は、素早く、ポケットから、皺《しわ》くちゃの煙草包みをとり出した。
「どうぞ。わたしは、パイプをやりますので……。で、火は?」
「なぜ、火がいるのかね?」と、逆に白痴が質問した。
「なぜですって? なぜ、火がいるのですって?」
ド・ラ・ファイエット氏は、煙草を口いっぱいにほおばって、モグモグ噛みはじめた。
マレイズは、抜け目なく、相手に顔を近づけた。
「どうです、わたしを思い出しなされたでしょう! ほら、殿下は、鉄道線路の盛り土の上を、歩いておられましたね?」
ド・ラ・ファイエット氏は、声を一段と高めて、意見を述べた。
「わしは、毎晩、必ず散歩をする」と、氏は率直にいった。「数えきれないほど、いろいろの人と会います」
氏の顔に、暗い影が浮かんだ。
「不幸なことだが、ジャック・レコルシュール〔皮|剥《は》ぎ人〕が、子供たちを、こわがらせたのだ」
「ジャック・レヴァントルー〔腹をえぐる人〕じゃ、なかったのですか?」と、マレイズは咄嗟《とっさ》に訂正した。
「いや、違うね!」と、ド・ラ・ファイエット氏が、いらいらした顔で答えた。「正真正銘、ジャック・レコルシュールだ」
≪相手は白痴だ。むきになってはいけない≫と、警部は考えた。
「二十日から二十一日にかけての深夜、殿下は、包みをお持ちでしたね」と、話を必要な方向にもどした。
「そんなことがあったね」と、ド・ラ・ファイエット氏が、警部の質問を肯定した。「陸海両軍の兵站《へいたん》基地のことだ」と、淡々とした口調で付け加えた。
警部は、がっかりしたが、突然、あることに思い当たった。この白痴が、鉄道線路のところに行ったことは事実だ。警部は、自分の眼で、確認している。それで、警部は、白痴の背後に回り、ひざまずき、ポケットから懐中電燈を取り出してボタンを押し、財布のなかから、折りたたんだ紙片をとり出した。その紙片には、鉄道線路の泥《どろ》のなかで採集した、靴跡《くつあと》が捺《お》されていた。その紙片の靴跡と、ド・ラ・ファイエット氏の靴跡と比較した。両方とも、完全に一致していた。
「なにをしているのか?」ド・ラ・ファイエット氏が、振り返って訊ねた。
「いえ、別に……」マレイズは、懐中電燈を消すと、口のなかで呟いた。
それから、足早に、白痴に追いついた。
「ド・ラ・ファイエット殿下。ちょっとお訊ねしますが、真夜中のことでしたが、包みをお持ちのところを見たことがあるのですが……たぶんそれは、マネキン人形だったと思われるのですが……」
「マネキン人形?」と、殿下は眉《まゆ》をひそめた。「それで、その人形について、何か訊ねたいことでもあるのか?」
そういい、白痴は、もう一本、煙草を口のなかに入れて噛みはじめた。
「そのマネキン人形というのは」と、確信なげに、警部が付け加えた。「ある人に似せた、生き写しの顔だと聞いているのです。わたしの申しあげることが、おわかりですか?」
「全然、わからんね」と、ド・ラ・ファイエット氏がいった。「あなたは、何か高貴な精神を持っておられる」
「高貴な精神、そうですとも、殿下!」
しかし、白痴は肩をすくめただけだ。
「殿下は、ぶらぶら散歩をしておられた」と、悲しそうな声で、警部が繰り返した。
ふたりは、村の最初の家のところについた。マレイズは、ふとインスピレーションを感じた。
「わたしと一緒に、おいでください!」そういうと警部は、相手の腕をとらえ、ステーション街に連れていった。
ドゥヴァン氏は、飾り窓のカーテンを、まだおろしていなかった。部屋の奥から、光線がもれ、飾り窓を通して、屋外まで達していた。
「この店を、ごぞんじでしょうか?」
「目的のためには、手段を選ばない、というところですね……同じことを、これで二度なさった!」
いつも、こうして、はぐらかされる――しかも、簡単に――言葉遊びをしてうれしがり、結果は、必ず何も得るところがないのだ。
「殿下!」と、警部は、断乎たる声でいった。
「二十日から二十一日の夜間に、あなたは、この飾り窓のガラスを砕き、マネキン人形を盗み、短刀でめちゃくちゃに砕き、翌朝列車が通るはずの鉄道線路の上に捨てた」
不思議なことに、この白痴は、否定しなかった。顎《あご》に手を当てて、何か深く考え込んでいた。
「あなたは、このガラスを砕いて」と、マレイズは、一語一語に力を入れ、いらいらしながら、同じことを繰り返した。「あなたは……」
「違う」
まるで、そういうのが楽しいかのように、その短い言葉を何度も何度も繰り返した。だんだん速度を増し、リズムさえ加わった。
「違う。違う。違う。ガラスは砕かれていた、そして、そして……」
マレイズは、一種の勘で、白痴の言葉を信じた。が突然、覚醒《かくせい》して、あのときのことを、思い出してきたのにちがいない。
「そして、どうしたんですか?」と、警部は執念深く訊ねた。
「わしは≪黒い小型砲≫を、捕獲したのじゃ」と、ド・ラ・ファイエット氏が、重々しくいった。「そいつを、わしは、肩にかついで……」
「≪黒い小型砲≫ですって?」と、マレイズが、繰り返した。
警部に、やっと意味がわかってきた。子供のとき、エミイルの仇名《ニックネーム》は≪大山猫の眼≫で、ジルベエルの仇名《ニックネーム》が≪黒い小型砲≫だったのだ。
ド・ラ・ファイエット氏が、ニコニコ顔で、うれしそうにいった。
「金狼《きんろう》だ。金狼だ。金狼が……」
「殿下に意地悪したのは、あの男ですね?」
すかさず、マレイズがいった。
「ああ、とても意地悪をした。とても意地悪をした……」
「なぜ、あいつを殺したんですか?」
「殺した……」
といってから、ド・ラ・ファイエット氏は、一歩あとずさりをした。
「わしは、殺さなかったぞ!」
「殿下は、屍体《したい》に鞭《むち》打ったのですぞ。(むろん、マネキン人形は物体であるが、白痴には区別ができず、ジルベエルと錯覚していたのであろう)それとも、擲《なぐ》ったのですか?」
「そうじゃ」と、ド・ラ・ファイエット氏は、即座に答えた。「わしは、≪黒い小型砲≫を、確実に……、確実に……、確実に……寝ている間も忘れはしなかったぞ。金狼、金狼、金狼がやったんだ……」
マレイズは、額の流れる汗をぬぐった。ここまでは、真実であると判断していいかどうか、ちょっと迷った。
「しかし、わたしは見ていたのです」と、頭を振って、マレイズがいった。
そして、この白痴の言葉をもとにして、あの晩のことを、頭のなかで再構成した。
白痴は、この場所に来たら、飾り窓は砕かれていたと証言した。そして、警部が、朝ここに来たときには、マネキン人形がなかった。そして、鉄道線路で発見されたマネキン人形は、かたい物体であるにもかかわらず、第三者が見れば、殺害犯人の怒りが惻々《そくそく》と感じられ、身の毛がよだつ恐怖を与えていた。人形の顔の微笑を消すために顔を砕き、心臓には……。
「殿下は、まだまだ、お話しにならなければなりません。つぶさに思い出されることです。あの夜、この飾り窓のところにいらっしゃったとき、誰かの人影を認めませんでしたか? 殿下が近づかれたので、逃げ出した者はいなかったでしょうか?」
白痴は、飾り窓のなかにジルベエルがいると錯覚し、自分の身を守るために、ガラスを砕いたのではなかったか?
「いました」と、ド・ラ・ファイエット氏は、しばらく考えてからいった。
「男でしたか、女でしたか?」
けれど、ド・ラ・ファイエット氏は、ぼんやりした顔をしているだけだった。
「影でした」と、ポツリと答えた。
そして、眼を半眼にしたまま、耳をそばだて、同じ言葉を繰り返した。
「かげ……かげ……かげ……」
マレイズは、あきらめはじめていた。もう、これ以上は、何も聞き出すことができないと。
けれど、一瞬だが、警部は、ふっと疑惑を抱いた。この男は、白痴を装っているのではないか。彼の応答ぶりは、口のなかで、ボソボソ呟くだけだ。見たところ、生来の白痴だし、その態度も、社会からはみ出している。それにもかかわらず、他人に迷惑をかけずに、生きているのであろうか?
そんなことを考えていた警部は、白痴の声で、われにかえった。
「ここが別れ道だ」と、ド・ラ・ファイエット氏がいった。「いろいろとお話ができて、まことに喜ばしい。お腹がいっぱいだ。ジャム屋さん」
そして、踵《きびす》をかえすと、どこかちぐはぐな動作で、夜の闇のなかに姿を消し去った。
二十四 わが狂乱の青春
その翌日、九月二十四日の朝、マレイズ警部は、至急首都に呼びもどす旨《むね》の、司法警察からの電報を受けとった。
警部は、ボツボツ帰還命令の電報が来るころだと、心がまえはできていた。一種の勘であった。地方で事件捜査に従事し、事件の大詰めが近くなると、しきりにブリュッセルが思い出される。まだ捜査は完全でないが、そんなところにきた帰還命令だった。大蔵省が強盗に襲われたが、同僚がお多福|風邪《かぜ》で捜査ができず、そのための呼びもどしだった。
ブツブツいいながら、警部は、トランクをとりに行くために、自分の部屋に上がった。窓外では、灰色の空が、まるで大きな蓋《ふた》のように、低い家にかぶさっていた。見るからに、ゆううつな風景だった。
「おや、ご出発ですか?」と、踊り場のところで、旅籠《はたご》の亭主が、声をかけた。
「ごらんのとおりでね!」
「でも、お食事は、おとりなさるのでしょうね?」
すると、マレイズは、朝の列車には遅く、そうかといって、午後の列車には早すぎるということを思い出して、ひどく幸福な気持ちになった。
ルコト家のことが気になって、旅籠の亭主の申し出を断わり、警部は、階段を駆けおり、寺院広場のほうに大股《おおまた》で歩いていった。
この村を去るに当たって、出発前に、お別れの言葉を述べることを口実に、もう一度最後の機会を利用し、≪犯罪の現場≫を訪れたいと思ったからだ。
ドアを開けてくれたのは、ロールだった。
「老女中のイルマは、農家へ、息子に会いに行っています」と、彼女が説明した。「お昼の食事を一緒にするために、呼びに行ったのです」
「ああ、そうですか!」と、マレイズが短くいった。
警部は、パイプに煙草を詰めながら、喋《しゃべ》った。
「皆さんに、お別れをいいに来たのです」
「では、ご出発になられるのですか?」
昨夜のロールなら、こうしたニュースは大歓迎だったはずだ。しかし、きょうの彼女は、惜別の情がありありと顔に描かれていた。
マレイズは、秘かに、そうしたロールの態度の変化を感じ、丁寧に頭を下げた。
「至急、ブリュッセルに帰るようにと、上司からの命令があったのです」
「いつ、ご出発ですか?」
「十七時十分の列車で出発します。アルマンは、まだしばらく、ここに滞在するのでしょう」
「そんなことはありませんわ。アルマンは、ブリュッセルに帰るため、一時にこの家を立ち去ろうと考えているのです。ブリュッセルまで、ご一緒してはいかがですか?」
「願ってもないことです」と、マレイズは喜んだ。朱色のブガッティでドライブしたあの楽しさを、もう一度味わえることになった。「アルマンさんが歓迎してくれるのでしたら、旅は道連れと申しますし、わたしは喜んでご一緒させていただきます。ところで、アルマンさんは、いまどこにおられるのですか?」
「叔父の部屋にいます。おりてきたら、あなたのことを話しますわ」
マレイズは、階段に足をかけていた。
「わたしも、上がりますよ」と、警部は、厳しい声でいった。「わたしのことは、かまわないでください。もう秘密めいたものはないのです。最後の機会を利用して、ひとりでなんとなく歩いてみたいのです」
ロールが答える前に、手摺《てすり》をつかんで、警部は階段を上がりはじめていた。
ジルベエルが、一階で死亡したことは、疑いもなく、事実だった。
警部は階段をのぼりながら、この家が、暗く、悲しく、空気がよどんでいることを、つぎつぎと感じるのだった。かくして、マレイズの漕ぐ船は、巨大な深奥に向かって突き進み、やがて碧々《あおあお》と水をたたえる湖にと近づいていった。
三階の踊り場で、深い溜息《ためいき》をつき、厳しい坂道で憩《いこ》いの場所を発見した旅人のように、胸を幸福でふくらませて足をとめた。彼の眼前にある物置部屋は、静かなたたずまいで、嬉々《きき》とたわむれる子供たちの遊び場所ではなかった。彼らは、ここで、大きな夢を発見したのだが、それぞれが抱いた夢は、同じ夢ではなかった。
「わたしたち悪童どもは、この部屋から出ることができなかったのです」と、警部がはじめここの家を訪問したとき、ロールが、いみじくもそういった。「物置部屋、踊り場、階段を三階まで、みな、わたしたちの支配圏だったのです」
そして、アルマンは、
「言葉では、いい表わしようのない、何かがあったのです。この家の空気のなかに、異常なもの、端的にいえば、わが狂乱の青春があったのです……」
わが狂乱の青春! か。まさにいい得て妙だ。そうだ、その言葉なら、マレイズにも納得できることだった。警部は、情熱を傾けて、遙か昔の過去のなかに、この青春のドラマの根因をさがし求めた。彼らはまだ少年で、青春を謳歌し、素朴に喜び、夢をふくらませて、新しいものへと芽吹《めぶ》いていた。
「兄のエミイルときたら、自分の名さえ忘れてしまって、仇名で≪大山猫の眼≫といわなければ、返事さえしなかったのですよ」
警部は、ポケットからパイプをとり出し、煙草を詰め火をつけた。映画でも見ているように、彼の眼前で、いろいろの場面が展開した。けばけばしい、ぞっとするような気がしたが、悪童どもの顔と名前を結びつけた。背の高い食器戸棚の暗い影をじっと見つめると、エミイル、アルマン、イレーヌが蠢《うごめ》いていた。さらに眼をこらすと、エミイルとアルマンはインディアンの酋長《しゅうちょう》に、イレーヌはインディアンの娘にそれぞれ扮《ふん》したまま、そっと身を隠しているのが、はっきりと見分けられるのだった。
「本当に、じつに長い年月、熱狂したものでした。血の気のない顔で、思いつめて、何もかも投げ捨てて、この遊びに没入していました」
警部の耳に突然|跫音《あしおと》が聞こえた。すると、階段の上のところで、ロールを囲むようにして、ジルベエルとレオポルドの姿が現われた。≪インディアン小屋の女王≫は、手をかざして、遙かなる地平線を視《み》た。しかし、食器戸棚の陰からでは、蛮刀のきらめきが見えるはずもなく、ふたりの若人を従え、毛皮靴の音を立てぬようにこっそりと、物置部屋の敷居をすばやくまたいで、追走してくるインディアンの声が聞こえるわけもなかった。
たちまち、奇襲攻撃がかけられ、戦闘のおたけびがあがり、乱戦となり、ウインチェスター銃が吼《ほ》えた。
「わたしたち娘どもは、しばしば高手小手に縛りあげられ、各人の好みどおりに、拷問にかけられたのです」
エミイルの≪大山猫の眼≫およびアルマンの≪跳躍鬼≫は、力の尽きた者を捕虜にして、床《ゆか》に押しつけるかその辺に立たせ、かたく縛りあげ、奴隷になることを誓わせる……。
しかし、敵の不意をついて、レオポルドが、突然、ジルベエルに襲いかかる。ふたりともインディアンのつもりなのだ。白人通過の情報がないため、同族同士で、お互いに強敵を倒そうというわけだ。今度は、両若人とも真剣に闘う。ジルベエルは、足、爪、歯と、あらゆる武器を総動員して、全力を傾けて闘う。そして、最後に必ず、≪人間じゃない、野獣と同じだ≫と、この言葉を敵に投げつけるのだった。
「ジルベエルは、レオポルドに対するときは、死にもの狂いで闘いました。ついにふたりの間柄は、和解の余地のないほど、憎み合うようになりました」
こうして、映画の最後の場面が、消えていったのだった。マレイズは、壁に背をもたせたまま、じっと坐っていた。パイプのけむりが、静かに立ちのぼっていた。続いて、眼前の映画に字幕が映った。
―五年後―と。
その場面を理解するのは、なお一層困難であった。画面はぼやけていて、登場人物がかろうじてわかるという程度であった。
男女ふたりが、階段に坐っている。エミイルとイレーヌだ。≪大山猫の眼≫のイメージは、影をひそめていた。もう、大家族主義ではなかった。破れて膝《ひざ》が出ていたが、たっぷりした長ズボンをはいていた。エミイルは、イレーヌの手を握りたいらしい。いい出そうかいい出すまいか、じりじりしているのだが、口に出せないでいるのだ。やっと、口にしたが、視線を相手からそらしている。ちょっと手が触れると、早速あやまる。イレーヌが身体を離したり、背を向けたりすると、それが永遠の別れにでもなるのではないかと、オドオドするのだった。
ふたりの姿が消える。今度は、ロールが階段をおりてくる。花模様の衣装を身につけている。一歩あるくたびに、裾《すそ》が割れ、肉づきのよい丸味をおびた膝がチラッと見える。首には、模造の首飾りをつけている。ルージュを下手くそに塗った唇は、まるで血のような果物に見える。彼女は、階段をおりながら、あたりを、ぐるりと見回した。ジルベエルはひやかし半分の顔をし、アルマンは感嘆の表情を現わし、レオポルドは溜息をついている。
それが、この階段だった。この階段を背景としなければ、ぴったりとおさまらないのだ。最後の踊り場とその前の踊り場の中間の階段をおりているとき、ジルベエルの事件が突発したのだ。
≪床《ゆか》に触れる前に、死亡していた≫と、医師がいっていたではないか。
何かブツブツ呟きながら、マレイズは、辺りを見回し、ポケットから万能捜査道具をとり出して、錠前を開ける仕事にとりかかった。こうして、物置部屋に入った。
三日前のように、警部は、手をのばし、手に触れたもの、埃《ほこり》だらけの一冊の書物をしっかり手にとると、開いた……。警部は、何をさがしているのか?
彼は身を低くして、雑然と積み重ねられた家具の下を見まもった。この家具を、ひっくり返してみたところで、果たして手掛かりとなる証拠を、発見できるとも思われない。
相変わらず、めちゃくちゃに傷んだ、インディアンの武器が、そこにあった。警部は近づいて、万能ナイフを使い、武器の尖端《せんたん》を削り、削り落とした褐色《かっしょく》の粉を、封筒のなかに入れた。警部は、ブリュッセルに持ち帰り、鑑識課で調べようと考えていた。
突然、警部は、振り返った。背後に、誰かいると感じたからだ。しかし、誰もいなかった。
マレイズを見つめていたのは、緑色の不思議な眼をした、あの死んだ猫、バルタザアルだった。
警部の注意をひいた猫は、剥製《はくせい》だった。彼はその前に行き、じっと長い間見つめていた。
≪バルタザアルが生きていたときには、草原に生きる豹《ジャガー》、ピューマ、荒馬《ムスタング》にしたてられ、遠くからロールに、大声でけしかけられていたのです。わたしたちは、すごく可愛がっておりました。ジルベエルが死んだ翌日、死んだのです≫
マレイズは、いまだに好戦的な、バルタザアルの≪ひげ≫を、手で愛撫《あいぶ》した。
≪小犬のマルグリットは、いまでも、部屋のなかに入りたがらないのです。バルタザアルのご機嫌《きげん》を損じることを極度に惧《おそ》れ、復讐を警戒しているのです。わたしたちは、屋外にいるマルグリットに、たえず、気を配っていなければならないのです≫
「マレイズさん!」
警部は、その声が聞こえないのか、バルタザアルの黒い毛の上に手を置き、死んだ猫をあちこちとなでまわし、愛撫の感触を楽しんでいた。
「マレイズさん!」
警部は、今度は聞こえたのか、辺りに最後の一瞥《いちべつ》をくれ、物置部屋から立ち去った。三階から、アルマンが呼んだのだった。
「ボツボツ出発しようと思うのですが……。旅籠に寄って、スーツケースを積みましょう……」
「どうぞ、お願いします」
マレイズは、ゆっくりと階段をおりた。
「なにをなさっておられたのですか?」と、アルマンが、階段をおりてくる警部を見て、愕いた顔をした。「何か、あったのですか?」
「期待はずれでしたよ」と、マレイズは、率直に答えた。「すぐ出発するのですか?」
帰るときまったら、なるたけ早いほうがいい。もう、ここには何もない。
「ちょっと待ってください。もう少し、話があるので……」
十五分後、警部は、ロール、イレーヌ、小犬のマルグリットと、別れの挨拶《あいさつ》をし、自動車の座席に腰をおろした。
車は、ステーション街に入り、右に曲がった。
「ほら、あの家ですよ」と、突然、アルマンが、ドゥヴァン氏の店のまん前にある、大きな家を指さした。「あの家に、エミイルが住んでいるのです」
「えっ、なんですって?」と、マレイズがいい、びっくりして、振り返った。
「おどろかれましたか?」
「いや、別にね……」
ふたりがブリュッセルに到着したのは、正午を三十分ほど過ぎていた。マレイズは、途中、まんじりともしなかったが、ブリュッセルに帰るのだと思うと、まるで楽園に向かっているような気持ちになった。テルビュレンを通過したとき、警部は連れのほうに顔を向けた。
たぶん、薄暗い車内で、警部は、威厳をつくろっていたにちがいない。
「アルマンさん、きみは、お父上がきみを廃嫡《はいちゃく》したと、わたしにお話しくださいませんでしたね?」
二十五 二十階
その翌日の夜、マレイズ警部は、電報で呼びかえされた大蔵省強盗事件を――もちろん、事件を片づけるには、いろいろと障害があり、気の疲れる仕事だったが――満足のゆくように解決し、上司から賞讃をかち得たのだった。
十一時四十分だった。
警部は、あの村の出来事が、どうしても忘れることができなかった。捜査を間違えたのではないかと、一抹の不安が心のなかでうずいていた。事件を、考えれば考えるほど、解決に自信を失うばかりだった。自分の家に帰るべき道の街かどまで来たとき、警部は足をとめて、十分ほど思案していたが、思い直して、二十階建てのビルディングに入り、アパルトマンの守衛のドアをたたいた。
あまり思いつめていたので、窓に灯りが入っているかどうかさえ、確かめる心の余裕がなかった。エレベーターを降りると、空《から》になったエレベーターはゴーッという音を立てて、降りて行った。その唸《うな》る音が弱まるにつれて、とぎれとぎれに音楽の響きが耳に入ってきた。音楽は、閉ざされたドアの向こう側から聞こえてくるもので、笑い声と意味が聞きとれぬ声とが混ざっていた。
「客を呼んで、歓待しているんだな!」と、警部は直感で感じとった。と同時に、彼が、≪社交≫といわれる大嫌いな世界が、これから訪れようとするドアの向こう側にあるのだと考えると、訪問の意欲を失い、そのまま階段をおりて帰ろうかとさえ思った。
しかし、警部は、こうしてここに来たのは、≪事件をとく鍵≫を求めるためだと思い返した。その鍵は、彼の能力では、どうしても手に入らぬものであった。彼は帰ることをあきらめたが、半分はいらいらした気持ちで、ベルを押した。
ドアのなかでは、大勢の人たちが、手拍子に合わせて合唱を始めていたため、警部のベルの音が打ち消された。
わたしの罪の重荷を
とりのぞいておくれ、
ダニエル、ダニエル。
なぜみんなの罪の重荷を
とりのぞいてくれないの
ダニエル、ダニエル!
合唱の声がとぎれると、警部は、ベルを鳴らす機会が来たと思った。先ほどよりも、もっともっと長い間、ベルを鳴らしつづけた。ベルを鳴らすだけでは足りないと考え、力まかせに拳でガンガンたたいた。
やがて、警部の努力が実を結び、ドアが開いた。黄色い顔に微笑をたたえた、中国人のボーイが立っていた。ふだん、この家では見馴れぬ顔だった。室内では、黄色い炎が点々とゆれていた。灯りはそれだけだったので、薄暗かった。酒に酔ってふらふらの若い女が、手にマホガニー色の蝋燭《ろうそく》立てを持ち、眉をよせ、ドアの近くに寄りかかっていた。もう一方の手には、ふちまで溢《あふ》れたコップを持っていた。絹ばりのような蝋燭の蝋の滴が、華やかなポンパドール式の服にしたたっていた。
「あら、電気屋さん?」と、その若い女は、わざと色っぽい声で訊ねた。
相手を電気屋とみくびって、優越感を感じている、そんな態度だった。
「ウイ、マダム!」と、警部は、若い女に調子を合わせて、即座に答えた。このレセプションに、招待されていないことを思い出したからだ。電気屋でもなんでもいい、ともかく屋内《なか》に入ることが先決だ。見事な仕上がりの、芸術的なマットレスで、靴をぬぐった。
「あら、立派な顔の人ね!」と、若い女は、まだ間違いに気づいていなかった。
若い女が、手に持った灯りに、ふっと息を吹きかけると、ゆらゆらとゆらいだ。
「きっと、電気がショートしたのよ!」と、わざと子供っぽくいった。酔っていることを隠そうとしているのだ。
「調べてみましょう……」と、抑揚のない声で呟いて、――そして、鉄面皮にも――マレイズは屋内に入り、ドアを閉めた。
若い女は、大きな眼で、警部の顔を見た。
「本当に、タイミングよく来てくれたのね。あなた、神通力《じんつうりき》でもあるの? 消えたとたんに、ご入来だなんて……」
マレイズは、電気屋でないと説明したかったが、時機を失していた。電気屋が来たというので安心して、若い女は、自分の蝋燭を、すでに吹き消していた。
「こちらに来てちょうだい!」と、警部の手をがっちりつかむと、引っぱりこむようにして案内するのだった。警部の手に、猫のような爪《つめ》が、くい込んでいる。
壁の蝋燭のとりつけ方が見事だった。金持ちの家庭でよく見かけるものだ。壁のところどころで、蝋燭の弱々しい光が、濡れたようにやわらかい効果をあげ、室内に幻想的な陰影をつくり、甘いムードをもりたてていた。婦人のブラウスが、浮き出し模様のように純白な色を閃《ひらめ》かし、別のところでは、若いカップルが頬《ほお》を寄せ合っていた。さらに眼を転ずると、踵《かかと》の高い銀の小さな靴が、そっと男から離れ、裸の腕が適当な相手をさがしていた。何組かのカップルが、身体をつけて踊っていた。バーのカウンターには、ずらりと乳白色のコップが並び、婚礼のときかぶる、ヴェールの模様のように美しかった。まっ赤に薪《まき》が燃える背の高い暖炉の前に人が集まっていたが、まるで、キャンプの火のまわりで、猟師が獲物をサカナに楽しんでいるようであった。笑い声が高まったかと思うと、部屋から部屋へ伝令がとび、ガヤガヤいう声が辺りを支配した。次いで、一瞬シーンと静まり、あの感動的な、黒人霊歌の、静かな、しかも熱情的な合唱が始まった。
神さまに捧《ささ》げよう
ウイ、ムッシュウ
神さまに捧げよう
ウイ、ムッシュウ
ウイ、ムッシュウ
神さまに捧げよう
神さまのパンをつくるため、
醗酵《はっこう》させましょう
聖人さまをさがして、
パンを捧げよう
ウイ、ムッシュウ
マレイズは、行く手をはばむ人たちを、右に左にと巧みにかわし、ともかく、ここまで無事に来ることができたのだった。
「ちょっと、お訊ねしたいんですが!」と、警部は、ボソボソと早口でいった。しかし、相手のご婦人は、手をギュッと握ったまま、警部の質問を無視し、別のことを耳もとで囁《ささや》いた。
「こちらへいらっしゃい。ヒューズの飛んだ現場へお連れします……」
若い女は、合唱の仲間に入れないばかりか、蝋燭とコップを置くことができないので、頭にきていた。それで、早くマレイズを片づけたいと思い、ブツブツと何かわめき、スカートを大きくたなびかせながら、長椅子と壁の間にもぐり込んだ。警部も、彼女と一緒にもぐり込んだ。
エデンにお連れしますよ
ウイ、マダム
エデンにお連れしますよ
ウイ、マダム
わたしたちの善き行ない
わたしたちの大きな喜び
エデンにお連れしますよ
気高い聖母様のみもとの
エデンにお連れしますよ
ウイ、マダム
≪何が気高い聖母さまなものか!≫と、マレイズは、内心悪態をついていた。帽子が飛んでしまっていた。繻子《しゅす》の波のなかに、顔を突っ込み、あちこちと、むなしくさがした。
≪これでは、美女に暴力を振るわなければならんぞ≫と、冗談半分にブツブツ呟いた。するとそのとき、暗いなかで、電燈がパッとともり、白い灯りが輝いた。
最初、警部は、激しい混乱を感じた。それから、大きく溜息をひとつついた。警部のこの急場を救ってくれる者は、たった一人の人物しかいないことを知っていた。その男に会うために、ここに来たのだ。その男が、助けにきてくれなければ、当然の結果として、屋外にほうり出されることになる。周囲の嘲《あざけ》り騒ぐ声のなかに、警部は、親しみを込めた眼差《まなざ》しで、自分を見つめてくれている、その人物を見つけ出したのだった。
「なんとかしてください」と、警部が、その人物に哀願した。「神さまにすがれというのなら、神さまにもすがりましょう。ここから無事に出られるよう、どうかお助けください」
「あなたのやり方が、悪かったのではないのですか?」
白い電燈の灯りが遮《さえぎ》られると、マレイズは、力強い手で腕を押さえられた。
「わたしをさがしに、まいられたのでしょう?」
この簡単な言葉の裏に、相変わらずこの男のやり方だが、皮肉がこめられていた。警部は、乱れた髪の毛を、顫える手でなで上げた。
「あなたのおっしゃるとおりです」と、マレイズは、小さな声で呟いた。「あなたにお会いできる方法といえば、これしかなかったものですから……」
壁と長椅子の間に、ニョッキリ立っている二本の足を見ているうちに、自分のやり方を決して後悔していないことがわかった。
「あなたしか、全世界でわたしを救える人物はいません!」
ウエンセスラス・ヴォロヴェチック――ウエンズ氏という名前で親しまれているのだが――は、冷静に、この場の出来事を見つめていた。彼は、誰もがうらやましがるような、大君主が着るような服装をしていた。
「わかったよ」と、ウエンズ氏が肯定した。「聖母マリアの場合のように、困難な事態が起こり、窮地から救出してくれというのだろう。≪きみを家のなかに入れた共犯者は誰か?≫まず、この問題から解決しなければならんね。恥も外聞も、気にしないことだね。すべて、あからさまに喋ってもらいたいね……」
長椅子に膝をついて、警部に手を差しのべた。
「どうだね、決心がついたかい? ぼくの手にすがって、起きあがるかい?」
マレイズは、ボソボソ何か口のなかで答えたが、何をいっているのか、相手に通じなかった。
「長椅子に腰かけたまえ!」と、ヴォロヴェチックが、きっぱりいった。「この家に、無断で侵入してきたやつは、きみが五人目だ」と、嘲笑《ちょうしょう》と真面目さを半々にして、付け加えた。「じつは、きのうから、若い男がしつこく屋内に入りたがっているんだ。ぼくが訊いても、さっぱり要領を得ない。犯罪事件とは、関係ないがね……」
「きのうからですって?」と、マレイズは、信じがたい顔でいった。
「そのとおりだ。ところで、今晩だが、娘のノアが木曜日で、満十八歳になるんで、こうしてお祝いをしているところなんだ……」
「わたしが……」と、マレイズはいい出したが、ここに来た目的を話そうかどうか、ためらった。それというのも、彼の視線が、絨毯《じゅうたん》の上に、老紳士がニコニコした顔で横たわっているのをとらえたからだ。手に酒瓶《さかびん》を持ち、一人の婦人とギャンブルに打ち興じていた。その周囲に、人が群れ、興味深そうに、見まもっていた。
ヴォロヴェチックは、口もとに微笑を浮かべた。
「ここに集まっているのは、友人か知り合いばかりだが、みないい人ばかりだ!」
そして、マレイズの視線を追ってから、
「きみは、ギャンブルをしていると、疑っているのだろう。あの老紳士は、いかがわしい人物ではない。古代エジプト学の権威で、ムウンのエジプト博物館の管理責任者でもある。あの人の娘さんは、判事と結婚しているが、いま、別室で頭を氷で冷やし憩《やす》んでいる。相手の婦人は彼の細君で、座をもたせることが上手な大変愉快なひとだ。こういうパーティーには、欠かせない夫婦でね……」
そうこう喋っているうちに、老紳士が、奇妙な格好の、若い娘のマホガニー色の毛を引っぱるしぐさをした。それで、ゲームは決着したのだった。ヴォロヴェチックは、飲み物を用意し、女たちが、ゲームに加わった者全員に酒をくばった。次いで、警部は、ヴォロヴェチックと一緒に、足もとに、煌々と電燈が輝く、馬鹿でっかい部屋に足を踏み入れた。
「これじゃあ」と、マレイズは、度胆を抜かれて、叫んだ。「ヒューズが飛ぶのもあたりまえです」
ヴォロヴェチックは、眼でドアを示した。
「誰も彼も、甘いムードに酔い痴《し》れている。この世の幸福ってやつを、わずか数時間だが、この人たちに提供できると、信じているんだ」
そこで、お喋りをやめた。眠りから覚めたばかりというような、はれぼったい眼をした身体の大きな青年が、書斎から出てきた。燕尾服《えんびふく》にぶらさがるようにして、皺になった、薄手のチュール織りの服を着た若い娘と一緒に、青年は、ふらふらした足どりで、ドアのほうに向かった。青年は、ひどく酔っぱらって、「しっかりしなきゃあ! しっかりしなきゃあ!」と、クドクドといい、相手の娘は、「ギュッと抱いて、フェルディナン、ギュッと抱いて!」と、繰り返し口走っていた。
「悪魔にでもくわれちまえ!」と、ヴォロヴェチックが、怒ったようにいった。「楽しく過ごすようにと招待したのに……」
ヴォロヴェチックが、肘掛け椅子をとり除くと、私室のドアがあった。ドアを入ると、燐光《りんこう》を放っている養魚鉢《ようぎょばち》のところまで行った。その部屋には、彼の私生活の影と匂いとがあった。
「誰もいないぞ」と、彼はホッとしたような顔になった。この男と相対していると、いつもそうだが、仮面からのぞく二つの眼で、身体じゅうを、じろじろ見つめられている気持ちになった。
ヴォロヴェチックが腰を掛け、警部に、ハヴァナ煙草の入った箱を差し出した。
「で、どうなんだね。今度は、どんな難問題を持ち込んできたのかね。あれから、三月《みつき》ほどになると思うが、顔を見せないじゃあないか!」
マレイズは、ほっとした気持ちになった。来てよかったと思った。
「鍵をさがしにまいったのです」と、警部が丁重に答えた。「あなた以外には、鍵を……」
「事件の鍵をとく鍵のことだね?」
「もちろん、あなたがおっしゃるとおりです」
ドアがそっと開き、中国人の少年のチャウ・チィーが姿を見せた。
「お呼びでございますか?」
そういわれて、マレイズは、馬の置物に、呼び鈴が二個仕掛けられているのに気がついた。
「こんばんは、マレイズさん。ご機嫌《きげん》はよろしゅうございますか?」
「ウイスキーを、持ってきなさい、チャウ!」と、ヴォロヴェチックが命令した。「ノアは、どこにいるか、知っているか?」
「ノアお嬢さまは、屋上で、月をご覧になっていらっしゃいます」
「ノアに会ったら、旧友と、この部屋でお話ししているからと、申しあげるんだよ」
「はい、わかりました旦那《だんな》さま。チャウ・チィーは、すぐお嬢さまに、その旨をお話しいたします」
「マレイズさん。では、あなたのお話というのを、承《うけたまわ》ろうじゃありませんか」と、ヴォロヴェチックがいうと、ボーイが部屋から出ていった。「ぼくの管轄地区内で、また何か兇悪《きょうあく》犯罪でも起こったのかね?」
「マネキン人形が殺害されたのです」と、マレイズは、急に声の調子を変え、重々しい口調でいった。
そして、ゆっくりと、少しも省略することなく、詳しく話しはじめた。警部が、みずから介入することになった、このブリュッセルから遙かに遠く離れた、フランドル地方の見捨てられた村落で出会った、世にも奇怪な出来事の数々を、すべて彼に話そうと考えた。
二十六 オイディプス王
マレイズが話し終わるまで、ウエンズ氏はひとことも口をはさまなかったが、話し終わると、「情熱《パッション》の事件だ!」と、考え深げな声でいった。
「きみはじつに忠実に、事実を完璧《かんぺき》に報告してくれたね。事実に対する知識を、こうも完全に承知したからには、このぼくが、事件の真相を解明できないはずがない。いままで、こんな立派で、完全な報告を受けたことがない。このぼくにしてみても、きみみたいに、ドラマの登場人物を正確に描けそうもないね。ぼくは、きみの話の一部始終を注意深く聞いた。ぼくは、事件に直接介入して、捜査する質《たち》ではないのだ。ぼくの考えでは、ジルベエル・ルコトの死は、病的な誘惑、偏執狂的《へんしゅうきょうてき》な中傷、愛憎がからんだ痴情の事件だと思うね。で、きみはどう考えるかね? たしかきみの考えでは、あらゆる角度から検討すると、疑惑の対象となるのは、七人だったね?」
「おっしゃるとおりです。弟《アルマン》、妹《イレーヌ》、従弟《エミイル》と従妹《ロール》、老女中《イルマ》、その息子《レオポルド》、最後が、村をさまよう白痴《ジェロム》です」
「きみの捜査によると、ジルベエル・ルコトが死んだとき、誰も彼の身辺にいなかったことが実証されているのだったね?」
「どちらとも、判断がしかねます。あまり信用ができるとも思われません。彼らの証言を信用するとすれば、ミサに出席していたのです。ただ、レオポルド・トラシェは、事件の朝、警察に逮捕されたのですが、逮捕された場所というのが、村から遠く離れたところでした。つぎに、白痴のジェロムですが、この男については、どこでどのような行動をとったか、少しもわかっていません。ずいぶん、問いただしましたが、記憶が曖昧《あいまい》で、追及のしようがなかったのです。しかし、少なくとも、精神薄弱の白痴が、犯罪を行なうため、家宅侵入したとは思われません。まして、殺人を犯すなどとは……。残るのは老女中ですが、たしかに、家のなかにいたのは彼女だけでした。しかし、被害者の父と一緒の場所にいたのでは、殺害を実行する機会はありません……」
マレイズは、話しているうちに、だんだんと興奮状態となり、椅子から立ちあがり、喋《しゃべ》りながら、部屋のなかを歩いていた。
「ジルベエル殺害に使用された毒物は、急激には効果の出ない、吸収に時間がかかり、徐々に毒の効果が現われる物質だったと思われます。わたしは、まず最初、青酸カリが使用されたのではないかと考えたのです。けれど、医師の死後所見によると、死ぬ前に毒物を飲んだ痕跡《こんせき》がなかったのです……。そこで、わたしは、矢毒《キュラール》が頭に浮かんだのです。それで、確証を得ようと思い、物置部屋に置いてあったインディアンの武器一式のなかの、槍《やり》の先を調べたのです。しかし、あなたもご承知のとおり、矢毒《キュラール》を用いて死亡させるためには、衣服の上から、ズブリと血液のなかに注入しなければならないのです。では、その毒物を、いかなる方法で被害者の体内に注入したのか。しかし、被害者の傍には、誰ひとりいなかったのです。殺害犯人は、現場を離れた遠くから、どうして毒物を注入できたのでしょうか?」
「死体には、外傷がなかったと、お話しになりましたね?」
「外傷は、何もなかったのです。階段から落ちたため、顔にかすり傷、全身に打撲傷が認められたにすぎません」
「ジルベエルの殺害犯人がマネキンも殺害した、つまり、二つの事件は、同一犯人によって行なわれたと、きみは見ているのだね。それで、二十日から二十一日にかけての晩、マネキン人形を殺害した者が、ジルベエルを殺害したと見込みをつけているのだね?」
「ひとり残らず、といっても、ジェロムは別ですが――ずいぶん聞き出そうと努力しましたが、話がちぐはぐで要領を得ません――ベッドで寝ていたと申し立てているのです」
ヴォロヴェチックは、しばらく、じっと考え込んでいた。やがて、コップを手に持つと、灯《あか》りを反射させながら、警部の眼の高さに持っていった。まず、酒でも飲んで、というのだった。
「きみの話から考えると、ジルベエル・ルコトの死は、彼の身辺でごく親しくしている者から、怨《うら》みを晴らすために殺されたと見るのが、公平だと思うね。容疑者がはっきりと断定でき、しかも、憎むべき男の顔と生き写しの人形が破壊されたんだよ、なんとか打つ手がなかったのか?」
マレイズは、興奮のあまり、「お手上げだったんです!」と、叫んでいた。
マレイズの話をじっくり検討したが、ウエンズ氏も、事件を解明することができなかったのではないか?
「あなたは、あの村に行っておられないので、わたしの苦心がわからないのでしょう。名もないような、ちっぽけな田舎で、ニワトリどもを相手に捜査したのです。過去のことを質問すれば、はぐらかされ、ひとりとして協力するやつはいないのです。あんな目に遭えば、あなただって、お手上げですよ」
ヴォロヴェチックは、口もとに微笑を浮かべた。
「ぼくがいったのは、そういう意味のことではないんだ。ロールという娘は、どんな娘だったね、美しい娘さんかね?」
「知るもんですか!」と、警部は、いささかお冠《かんむり》だった。「マーブルのように清楚《せいそ》で、春のそよ風のように、魅力たっぷりです」
「黒い色の衣服を着て、リボンのついた帽子をかぶっているのだね?」
「そうですよ」
「ぼくの考えでは、従兄《いとこ》の死を悼《いた》んでいるのだね。喪服のつもりなんだ。愛に心を燃やしつづけている、典型的な娘の姿だ!」
「周囲のひとたちは、みんなジルベエルを憎んでいる、と口をそろえていっているのです」
「妹のイレーヌのせいだよ。お節介《せっかい》な型の女だね」
「まあ、そんなところでしょう」
ヴォロヴェチックは、溜息《ためいき》をついた。
「きみは、容疑者と非容疑者を、はっきり区別しているね。しかし、果たしてきみのその考えで、事件を解明できるのかね。ぼくは、疑問だと思うよ。きみがあげた容疑者以外にも、誠実をモットーとする商人のドゥヴァンとジャコブ、ルコト家の主治医で上品なフュルネル医師《せんせい》、駅長、旅籠の亭主、ジャンヌ・シャロンがいるんだ。きみは、七人の容疑者がなぜ容疑を受けなければならないか、その理由を調べ、ぼくに話してくれた。しかし、きみは、その七人以外の人物が、事件に関係がないと断言できるかね? たとえば、フュルネル医師《せんせい》だが、この男はルコト家の主治医で、なにかとジルベエルに力を貸していたのだが、事件に関係がなかったかどうか。駅長は、自己保身のために、行動をとらなかったかどうか。きみも承知のはずだが、現状では、すべて仮定の上からみた推理で、百パーセント殺人事件に無関係と断言することはできないのだよ。きみは、物置部屋を調べ、インディアンの武器を発見したとぼくに話したね。で、そのほかに、きみの注意をひくような、何か発見はなかったかね?」
ヴォロヴェチックは、決して高邁《こうまい》な哲学を口にしなかったし、お座なりの質問をしたことがなかった。しかし、この男は、このときすでに、マレイズ警部が捜査した結果を、はるかに通り越し、マレイズがまだ考え及ばない何かを見通していたのだ。
「いいえ、何も」と、マレイズは、考えてから答えた。「でも、これは、事件に直接関係がないと思われることですが、猫が一匹います。剥製の猫ですが、これには、びっくりしました。あまり重要とも思われないので、すっかり忘れていたのです」
「その猫のことを、話してもらいたいね」
「腕白どもが西部劇ごっこをしていたことは、すでにお話ししましたね。バルタザアルというのが、この牡猫の名ですが、腕白どもが遊び興じているとき、この猫は、荒馬《ムスタング》になったり、ピューマになったりしました。ところが、この猫は、ジルベエルが死んだあと、二十四時間後に死んでいるのです。イレーヌが可愛がっている狆《ちん》のマルグリットは、バルタザアルと犬猿の間柄で仲が悪く、バルタザアルが死んだ今日《こんにち》でも、まだこわがって、室内に入ってこようとしないのです」
そう喋《しゃべ》り終わると、マレイズは、書架の本をぼんやりと見つめ、貴重な時間を無駄にしているのではないかと、いらいらしてきた。彼自身、たしかに暗闇のなかを模索しつづけていたのだ。しかし、突然、その暗闇のなかで、キラリときらめくものを感じた。そのきらめきは、ウエンズ氏と事件とを結んだ。そして、その距離がちぢまればちぢまるほど、事件の解決に近づくことを、マレイズは知ったのだった。
「きみは新聞を読んだかね?」
書架のなかの、フロイト、マンテガツア、ロンブロゾの名をぼんやりと眼で追っていた警部は、突然の質問に、「え?」と、聞き返した。それから、相手の質問の意味をのみ込むと、「もちろん、読んでいますとも!」と付け加えた。
「最新版の新聞だよ……」
「最新版ですって? いいえ、なぜですか?」
「ぼくは、その新聞の記事のことを考えていたんだ……」
ウエンズ氏は、静かに立ちあがり、灰皿のなかに、ハヴァナ煙草をもみ消した。
「もうきみには、わかっていることと思うが……」
「なにがですか?」と、マレイズは、びっくりした顔をした。「わかっているって、なんのことですか?」
「犬を猫にけしかけろ、だよ!」
そのとき、ドアが開いて、チャウ・チィーの顔がのぞいた。
「なんだ?」と、ヴォロヴェチックは、言葉短く訊《き》いた。
少年は、漆《うるし》のような歯を見せて微笑《わら》った。
「ノアお嬢さまは、たいへん忙しい。ノアお嬢さまが、新しい星をお見つけになった」
「そいつは素晴らしいぞ! まったく、おどろきだ。じつに素晴らしいことだ。早速、見に行くから……」
マレイズは、このまま続けて、ウエンズ氏の意見を聞きたいと望んでいた。しかし、ヴォロヴェチックは、マレイズの腕をとり、「これ以上、ここでお話しすることはお断わりします」と、いい出したので、警部は、話を続けることをあきらめた。ウエンズ氏という人物は、ふだんでもこうした奇行の持ち主で、事態がこうなっては、いくら頼んでも、テコでも動かないことを、マレイズは知っていた。
廊下に出ると、狩りラッパをブウブウ夢中で吹いている、部屋着姿の身体の大きな男にぶつかった。
「誰か、わたしの相談にのってくれる人を、ごぞんじありませんか?」と、マレイズは、意地悪く訊いた。
「きみが持ち込んだ事件を、ズバリ解決できそうな人は、誰もいないね」と、ウエンズ氏が答えた。「ところで、二時間も大騒ぎをして、大きな音を立てつづけているんだ。そろそろ、階下から苦情をいってくる頃だな」
ノアは、新しい星を発見していなかった。新しい星を発見したと、錯覚していたのだった。彼女にとって確実なことは、冷たさが身にしみてわかったことだ。ウエンズ氏とマレイズは、ふたりがかりで、ノアを床《とこ》のなかに入れ、グロッグ酒を用意して飲ませたので、どうやら身体が暖かくなり、人心地がついたらしかった。
ふたりの男がノアの部屋から出たとき、空はすでに明るくなりかけていた。警部は、何かと質問をしてみたけれど、ウエンズ氏は浮かぬ顔をしていた。
マレイズがエレベーターに乗り込もうとすると、「英国通りを知っているかね?」と、ウエンズ氏が訊《たず》ねた。
「ぞんじませんが……」と、しばらく考えたあとで、マレイズが答えた。
「その通りは、凱旋《がいせん》並木通りとエイル通りの中間のところにあるんだがね。ぼくだったら、一刻をあらそって、できるかぎり早く、その通りの四十四番地を訪ねるがね……」
「なんのことですか?」納得のゆかない顔でマレイズがいった。「なにを、おっしゃりたいのですか?」
「いや、別に」と、ウエンズ氏は、そっけなくいった。
「そこへ行くと、誰と会えるのですか?」
「誰とも」
そういうと、ウエンズ氏は、エレベーターの扉《とびら》を閉めた。
二十七 ジャダン事件訴訟
朝のうち警部は、百回も、≪おれは行かないぞ≫とひとりごとを呟《つぶや》いていたが、ついにガラス張りの店のドアのベルを鳴らした。埃《ほこり》だらけのセロファンの日除けが、オレンジ色の影を投げ、見るかげもなく葉っぱがむしりとられた残骸《ざんがい》のような枝に、頭の禿《は》げたミミズクと、お坐《すわ》りしているリスが乗っかっていたが、全体の印象は見すぼらしく、大分以前から、通りすがりの人から一顧だにかえりみられないくらいに荒れていた。
「ひでえもんだ」と、警部は吐きすてるようにいった。「これじゃ、人間の住める家じゃないぞ」
と同時に、警部は、好奇心にかられて、店の様子を見ようと、数歩あゆみ寄った。そして、雨でびしょびしょに濡《ぬ》れた、ジャダン、剥製師という文字を、かろうじて発見した。
「誰か、おさがしになっておられるのですか」と、声をかけられた。
レモン色の毛編みセーターを着、格子縞《こうしじま》織りのスカートをはいた、痩《や》せて骨だらけの小柄な婦人が、隣の店の敷居をジャアジャア水で流しながら洗っていたが、その仕事をやめて、腰に手を当て、警部を見まもっていた。
「ジャダンさんをさがしているのです」と、マレイズが答えた。「引っ越しでもされたのですか?」
「引っ越しですって?」と、婦人が嘲笑《ちょうしょう》した。
「引っ越しならいいんですがね」
好奇心と猜疑心《さいぎしん》とをまぜた眼で、警部の顔をのぞき込んだ。
「警察の方でしょう?」
その質問に、マレイズはびっくりした。警察の人間と思われないように、ずいぶん注意深く行動をとっているはずだった。それにしても、どうして、警察の人間だと考えたのであろうか。
「違いますよ」と、マレイズは、ずうずうしく、嘘《うそ》をついた。「親戚《しんせき》の者です」
「ご親戚の方でしたか」
警部の言葉を信用したのか、態度が軟化した。しかし、まだ、何か割り切れない顔つきをしていた。
「ごぞんじなかったのですか?」と、婦人は、あきれた顔をした。
マレイズは、いらいらしはじめていた。
「謎《なぞ》とき遊びは、ご免ですよ」と、警部はボヤいた。相手が相手だから、余計なことは喋らないほうがいい。「どんな経緯《いきさつ》があったのか、知らないものですから」
婦人は、謎めいた言い方がてきめんに図に当たったと考え、気をよくしたのか、あとはすらすらと喋った。
「一年ほど前のことになりますが、ジャダンさんが亡くなられたのです」
質問するのは、今度は警部の番だった。
「亡くなったのですって?」
「殺害されたのですよ。きょう、重罪裁判所で奥さんと使用人の、公判が行なわれるのですよ」
「なんですって?」
≪新聞を読みましたか?≫と、昨夜、無邪気に、ウエンズ氏が訊ねた。
そのことを思い出すと、警部は店を飛び出し、風のように走って、五分後、最初に目についたカフェに、飛び込んだ。
「ドゥミ・カフェと……それから新聞!」
ボーイは、ほかの客の注文を聞くため、ぐずぐずしていたので、マレイズのところに、なかなか来なかった。
「おい、きのうの新聞を持ってこい!」
と、警部は、いらいらして怒鳴った。
ボーイは、のろのろと、あちらこちらさがしていたが、
「あいにく、きのうの新聞は置いてありません。二十日付けのアラルム紙ではいけませんか」
と、ボーイが、不安そうな表情でいった。
二十日付けだって? この日付けに、マレイズは、記憶があった。旅籠《はたご》の前で、風に吹かれて飛んできた、半ぺらの新聞をひろった。あの新聞に、じつは事件をとく鍵、いや真相に近づく鍵が掲載されていたのだ。
「二十日付けのアラルム紙でいいから、急いで、ここに持ってきてくれ!」と、警部が大声を出し、引ったくるようにして、新聞を手にとった。
警部のさがし求めている記事が、眼のなかに飛び込んできた。
ジャダン裁判
ジャダン事件は、かつて本紙において報道したことがあるが、大分以前のことなので、諸君のなかには詳しい内容を忘れた方も多いのではないかと思う。この事件が発生した当時は、極めて特異な事件として、本紙はとくに詳細に報道したものである。この事件は、本日、司法裁判所において起訴されることになり、その謎がいかに解明されるか、その成り行きが注目されている。さらに、法廷の審議は、活発な論議が行なわれる模様である。
一年前の今頃のことであるが、セゼエル・ジャダン氏は、剥製業《はくせいぎょう》をいとなみ、英国通り四十四番地で、元気に仕事をしていた。彼は丁寧な仕事をするので注文も多くなっていた。そのときより六か月前に、フェルディナン・ビショップという青年を弟子として雇った。ジャダン氏は、優しい性質の男で、社交性もあり、仕事にも打ち込むというわけで、人から愛される好人物であった。とくに人づきあいがよいので、親しい友人も多かった。ところが、一九三×年九月二十四日のことであるが、突然、不思議な事件が起こり、真相が今もって解明されないままになっている。その不思議な事件というのは、ジャダン氏が、店の裏手で、呼吸《いき》が苦しいのか咽喉《のど》をかきむしって苦しんでいるところを発見された。医師が到着したときには、意識を完全に失い、窒息状態となっていたため、処置のほどこしようもなかった。
医師は、この奇妙な臨終に立ち会って、疑問を持った。もともとジャダン氏は健康な人であることを思い出し、変死と判断し、死亡診断書を書くことを断わり、一部始終を検察庁に報告した。検察庁では、法医学の最高権威者であるペリルおよびベイザン両博士に依頼して、行政解剖を行なった。両博士は、毒物学者として著名な、ホスト博士およびルプチ=プチ教授の応援を仰いだ。こうして四名の最高権威が全力を傾注し、執刀を行なった結果、共同所見が発表された。死因は、強力な植物性毒物、矢毒《キュラール》と呼ばれる毒物が使用されているというものであった。
その間、検察当局の指示に従い、スーヴァル予審判事は、厳重な捜査を行なったところ、殺人容疑者として、ジャダン夫人と青年弟子を逮捕することになった。両名は不義の関係を続け、ジャダン氏を殺害したという容疑である。当局の厳しい訊問の結果、ジャダン夫人は、青年弟子と正式に結婚しようと決心し、夫に離婚を哀願し、拒否にあっていることを認めた。ジャダン氏は、たび重なる夫人の哀願にもかかわらず、カトリックの戒律にもとることを理由に、そのつど、拒絶していたことが判明した。
他方、未亡人は、極めて激しやすい性格の婦人であった。ジャダン氏死亡の直前、聖所めぐりの旅行をしていたが、その旅行中に、旧友と偶然めぐりあい、その旧友が所持する毒物コレクションのなかから、見本《サンプル》と称して、若干の毒物を入手していたことが、当局の捜査により、明るみに出た。
起訴状で、われわれに明らかにされているのは、きわめて醜悪な殺人動機である。じつに遺憾きわまる事件である。
ジャダン氏は、死亡する二年まえに、妻を受取人と指定した生命保険に加入している。未亡人と青年弟子は、共謀して、ジャダン氏を殺害し、この保険金を手に入れようとしたものと、当局では見ている。
予審裁判では、両被告は、無罪を主張するものと予想されている。しかし、本事件は、わが国における、もっとも重大な犯罪事件として慎重に裁判が行なわれることになる。本紙の予想としては、先に述べたように、犯罪動機、仕組みは明らかであり、被告両名の死刑判決は、ほとんど確定的と思われる。
夫および主人を毒殺した共同謀議殺人事件として、ジャダン夫人およびビショップ両名を告発するため、司法裁判所において、公判が執り行なわれる。第一弁護士として、ボンヴァル弁護士が確定し、第二弁護士として……。
「このことだったのか……」と、マレイズは、ぼやいた。明けがた、ウエンズ氏が口にした、謎めいた言葉の真の意味を、了解したのだった。
そして、ただちにその場から、警部はアルマン・ルコトのもとに急いで走った。アルマンがまだ食事をしていると見込みをつけていたからだ。その二十分後には、アルマンの運転する車に乗り、時速百キロで、街から走り出していた。
ルコト事件……。ジャダン事件裁判……。
マレイズは、ウエンズ氏が述べたことを、にがい思いでかみしめていた。じつに鋭敏な、何もかも見通している言葉だった。そして、≪犬を猫にけしかけろ!≫という言葉の意味を、じっと考えつづけているのであった。
二十八 警部の推理
「死んだの……? 本当に死んだの?」と、眼に涙をいっぱいためて、イレーヌがおろおろしていた。
イレーヌの部屋の前だった。眼としっぽが見事に復元されたバルタザアルと床《ゆか》に横たわっている小犬を、マレイズはじろっと見た。警部は、小犬を膝《ひざ》の上に置き、注意深く、時間をかけて、顔のあたりを調べた。
「イレーヌさんが、おっしゃったとおり、死んでいますね」と、溜息《ためいき》まじりに警部が答えた。
なぜ、小犬は死んだのか。じつは、これには少々ばかり、理由があったのだ。エミイル夫婦が、玄関のドアの呼び鈴を押す五分ほど前のことだった。マレイズは、物置部屋に上がり、以前やったと同じ方法で部屋のなかに入り、床《ゆか》の中央に置いてあったバルタザアルの剥製を抱いて、イレーヌの部屋の前まで行った。その部屋のなかには、小犬のマルグリットがとじこめられていた。庭に出しっ放しにしておくと、野犬に襲われるのを警戒して、若い娘たちが入れておいたのだ。警部は、その部屋の前に剥製の猫を置くと、ドアを少し開けた。やがて、部屋から出られることに気のついた小犬は、部屋から出てきた。部屋の前に、警部ががんばっていたので、別の方法をとることにした。しかし、そこには、敵のバルタザアルが眼を光らせている。小犬のマルグリットは、ウゥーとうなりながら、警戒する身ぶりで、バルタザアルのまわりを、グルグル歩きはじめた。
マレイズは、音のしないように、こっそりヴェランダに戻った。そして、そのヴェランダで、闇《やみ》のなかから、一点の灯《あか》りでも発見しようとするような気持ちで、ジャンヌ・シャロンを含めて、午後招集をかけた八人の人たちを待った。しかし、招集をかけた八人の人たちが集まる前に、二つの騒ぎが起こった。うめくような犬の鳴き声と、玄関のところでガヤガヤ喋る声が起こったからだ。そして、いま……。
「可哀想な、マルグリット!」と、イレーヌが、悲しみで身体を顫わせながら呟いた。
次いで、ひざまずき、小犬を抱えようとしたが、警部は、断乎《だんこ》としてやめさせた。
「触ってはいけません」
若い娘の頬《ほお》を涙がとめどもなく流れ、それをふくことさえ忘れているようであった。
「なぜですの?」
イレーヌは、嗚咽《おえつ》を交えた声で、問いかえした。
「死体から伝染病がうつるとも思えませんわ……」
「それが」と、マレイズがいった。「ときとして、あるのです……」
その警部の言葉に、その場にいた一同は、納得のゆかない顔をした。
「バルタザアルは、物置部屋にしまってあったのですわ」と、イレーヌが、突然、強い調子の声でいった。「それに、マルグリットは、わたしの部屋にいました。こんなことにしたのは、あなたにちがいありません」
「そのとおりです」と、マレイズは肯定したが、内心では、自分のやったことがほめられたことではないと反省していた。
こんなやり方をしたのははじめてだったし、彼が見るところでは、まさに共同謀議犯罪と責められても仕方がなかった。イレーヌの悲嘆があまり激しいので、彼は彼なりに必要だからしたのだと言い訳はしたが、心のなかには、悔恨が芽生えはじめていた。
「たしかに、こうして決闘させたことは、うまい方法じゃなかった」と、警部が付け加えた。
そして、そういいながらも、彼を囲むようにして集まっている八人の人たちを、順ぐりに見まもった。イレーヌは、頬を濡らしていた。エミイルは、そうしたイレーヌを、なぐさめようとしていた。ジャンヌ・シャロンは、臆病そうに、夫に身体をよりかからせていた。ロールは、アルマンとレオポルドの間にはさまれて、陰になって、よく見えなかった。イルマは、老いさらばえたフクロウのように見えた。白痴のジェロムは、殿下の尊厳を守りつづけていた。警部は、彼らのなかで、自分がいった言葉の真の意味を理解し、顔に心配を浮かばせているのではないかと、不安そうな顔をしている人物をさがした。誰もいないのだ。誰の顔にも、少しの変化も認められなかった。
「あなたに、マルグリットを殺す権利はありません」と、死んだ犬から眼を離そうとしないで、イレーヌが抗議した。「そのうえ、何の説明もなさらないじゃありませんか」
そして、突然、子供がだだをこねるみたいに、泣きじゃくった。
「なぜなの?……。どうして死んじゃったの?……」
マレイズは、その質問を無視して、一同にヴェランダに集まるようにといった。
「こうしなければならなかったのです」と、閉めたドアを背にして、警部がいった。「わたしは、必要だから、そうしたのです。じつは、この小犬を殺したと同じ方法を用いて、人間を殺害したのです。つまり、殺害犯人は、猫の爪《つめ》に矢毒《キュラール》を塗って、その爪をたてるようにしむけ、ジルベエル・ルコトを殺害したのです!」
ジャンヌ・シャロンは、金切り声をあげた。ほかの人たちは、あまりにも意外な警部の言葉に圧倒され、全身が麻痺《まひ》したかのように立ちつくしていた。そうしている間にも、マレイズは、このなかに、犯人であることを暴露されると予測しながらも、なにくわぬ顔をしている者がいると考えていた。
「わたしは、長いこと、この毒殺という問題について、悩みつづけてきました。ジルベエル・ルコトは、彼が死んだとき、その身辺に何者もいなかったという事実からして、毒物が注入される以外に方法がないと判断したのです。どうして? 何者によって? いかなる方法で? この三つの疑問を考えてみましたが、毒物を持った者は誰も見当たらず、少なくとも、ジルベエルの死ぬ前に、彼に近づいていた者はいないのです。それで、理論的には、何者かが直接毒物を注入したのではないと考えました。わたしは、家庭の一員として、この家の生活に密着している、マルグリットとバルタザアルの存在を、すっかり忘れていたのです。ジルベエルを憎むものが、この家の人間だけでないということを、忘れていたのです。わたしの考えは、間違っていますか?」
誰も答えなかった。マレイズは、もう一度、声を大きくして繰り返した。
「わたしの考えは、間違っていますか?」
「いいえ、間違っていません」そう答えたのは、ロールだった。「ジルベエルは、バルタザアルを残酷にいじめていました。死ぬ直前には、ジルベエルがバルタザアルに近づくと、それはもう大変で、怒りと恐怖とがひとつになったような様子で、ものすごい反抗をしました」
「殺害犯人は、この憎悪を巧みに利用したのです。昨年の九月二十二日の日曜日のことを、思い出してみましょう。ジルベエルは、朝食のとき、ミサに行かないことを明らかにしたのです。頭痛がするというのが理由ですが、心臓が非常に悪かったのではないかと、わたしは考えるのですが、いかがなものでしょうか? 殺害犯人は、ずっと以前から、殺害手段は考えていたのですが、機会が来たと覚《さと》り、行動を起こす決心をしたのです。その機会とは、殺害現場から遠く離れ、誰も被害者の傍にいないという状況をつくり、司直に見破られないようにすることです。これこそ、真の完璧なアリバイというべきです」
誰かが、それは、じつはアルマンだが、警部のこの発言に、異議の申し立てをした。
「理論的ではありませんね、警部! われわれのなかの誰もが――われわれのなかから、殺害犯人をさがそうとしていらっしゃるらしいが――殺害の危険にさらされることになりませんか。必ずしも、ジルベエルだけが殺されるとはかぎらない。間違ってほかの者が殺害されるかもしれませんよ」
マレイズは、きっぱりと断言した。
「きみの考えるような危険は、まったく存在していなかったのです、アルマンさん。あのときの情況を、すべて思い出してごらんなさい。寝たっきりで部屋から出ることができないお父上を除いて、一家のほとんどの方は、ミサに出席しておられた。わたしの想像では、食事の準備にいそがしいイルマとバルタザアルが一緒だった。バルタザアルは、イルマの親友だから、飛びかかって爪をたてる危険はなかった……。そんな情況のなかで、殺害犯人は、誰も証人がいないところで、ジルベエルが、ふだんと同じように、猫をいじめることを知っていた。また猫が、以前からの経験で、爪に塗った矢毒《キュラール》をなめないことも知っていた」
「すると、何かの偶然でも起こらないかぎり、犯行がバレる惧《おそ》れがなかったのですね?」
「偶然といえば、偶然ともいえるでしょうね。犯人は直接自分で手をくださないで、バルタザアルという猫にやらせたため、手掛かりを残してしまったのです。バルタザアルは自分のからだをひっかいて死んだのです。犯人は、バルタザアルの死骸《しがい》の爪に塗られた矢毒《キュラール》を、ぬぐうことを忘れたか、横着してぬぐわなかったか、どちらかだと思うのですが、これが犯人の生命《いのち》とりになったのです。ところで、きょう、はしなくも、犯行が明らかになるような、きっかけが発見されたのです。じつは本件とは別に、犯人が考え及ばないほかの場所で、第二の犯罪が明らかにされたためです。みなさんが可愛がっていた猫を、剥製にするため、委託した剥製師の関係する事件です」
「なんのことをおっしゃっているのですか?」
「それがなんで、この事件と関係があるのですか?」
と、一座のものは、口をそろえて訊ねた。
マレイズは、質問した人たちに、鋭い一瞥《いちべつ》をくれた。驚愕《きょうがく》した人たちの顔は、どれも心から愕《おどろ》いているようであった。この顔のなかに、殺害犯人がいるのだ。同じように愕いているのは、たぶん、新聞を読んでいなかったか、もし読んでいたとしても、ジルベエル殺害と剥製師の死と関係があるなどと、夢にも考えていなかったからであろう。
「ジャダン氏は、バルタザアルを剥製にする仕事をしている間に、傷ついたのです。皮を剥《は》ぐとき、ちょっと小さな傷をつくるだけで充分だったのです。毒物が血液と混じれば、体内に注入されたことになります。これは、まったく偶然の事件で、司直は、バルタザアルの一件を知らないものだから、剥製師の妻と使用人の両名を、きょう、重罪裁判所において、毒殺犯罪として、裁判を行なっているのです」
警部は、ポケットからパイプをとり出すと、手で暖めるようにして持った。こうしてポーズをとったのは、これから説明することが、一語一語事件の核心をつくものなので、いささか得意になっていたからだった。
「まったく、奇妙な事件でした」と、警部は、満足そうな顔で話しつづけた。「いろいろの角度から、論理的に考えたすえ、ある正しい結論を得たのです。マネキン人形を殺害したのは、ジルベエル本人を殺害したのと、同じ動機から、二度行なったと、わたしは考えたのです。この基本の考えをもとにして、捜査を行なったのです。ところで、ジェロムの証言によりますと、彼がドゥヴァン氏の店の前で人形を発見したとき、すでに飾り窓は砕かれ、人形の蝋《ろう》の顔は破損し、心臓を短刀でつきぬかれていたというのです。この人形の状態は、たとえそれが人形であっても、ジルベエルと同一視し、たちまち反応を示し、狂気じみた怒りで、飾り窓をたたき割り、顔を破損し、短刀で心臓を突いたと見て間違いありません。これは、憎悪が起因しているものと信じます。被害者との過去の交渉を思い出しながら、人形をめちゃくちゃに破壊することで、生理的な喜びにひたったというのが、真実の姿だったのでしょう。けれど、そのような動機を持っている者は、ジェロムだけではありません」
マレイズは、突然、老女中イルマのほうに顔を向けた。
「イルマさん、あなたも死者を憎んでいましたね。あなたのご子息のレオポルドを、愚弄《ぐろう》していたのですからね。この事実は、誰も承知していることで、理由としては、死者とご子息の間に、主従という越えがたい壁があったからです」
次いで、警部は、ロールに顔を向けた。
「あなただって、ジルベエルを憎んでいた。ジルベエルは、あなたを堕落させ、非道徳なことを強いたのです。そのため、まだ若い身空《みそら》で、年寄りじみてしまったのだ。今日では、そのことを後悔しているのでしょう。けれど、あの頃は、そうしたことを企てることが、とりも直さず、自由をかちとるものと信じ、自分から進んで、身を投じていたのでしょう」
マレイズのかたい視線が、森で火が枝から枝へ飛び移るように、顔から顔へと移動させていた。
「エミイルさん、あなただって、動機がないわけじゃありませんよ。若い娘たちが、どんな立場にあったか、わたしが承知しているくらいのことは、あなたもごぞんじだった。この前の水曜日に、物置部屋の前で、あなたとお話ししたことを思い出していただくだけで充分です。あなたは、若い娘たちの立場に、心を痛めておられた。余談ですが、あなたは、ドゥヴァン氏の店の前に住んでおられるのだから、ジルベエルの顔と生き写しのマネキン人形が、飾り窓に陳列されたことを、誰よりも早く知ったはずですね」
エミイルは、異議をとなえた。
「はっきり申しあげますが、わたしに、そのような事実はありません。ジルベエルの一周忌のとき、警部さんからお聞きしたのが、はじめてだったのです。物置部屋から、人形がなくなったということを聞き、びっくりした始末です……」
マレイズは、肩をすくめた。
「あなたが、喜劇を演じていないという保証でも、あるのですか?」
次いで、警部は、長いこと、何もいわずに、相手が困惑の表情を示すまで、イレーヌの顔をじっと見まもっていた。警部は、イレーヌの眼のなかに、無言の非難がこめられていることがわかっていた。今度は、レオポルドに、顔を向けた。
「レオポルドさんは、疑いもなく、犯罪が行なわれた数時間前に、二人の憲兵につきそわれて、この家から立ち去っています。それにもかかわらず、爆弾をしかけるため、準備する時間は充分にありましたね」
老女中イルマの息子は、唇《くちびる》をわななかせていった。
「それはそうかもしれません。でも、ぼくを、≪マネキン人形殺害犯人≫として、告発することはできませんよ。人形が殺害された時間に、ぼくはベッドで寝ていたのですからね。ジャニイヌ・ファリイズが証人です……」
「そうではない」と、マレイズが答えた。「きみがベッドにいたと証明できるのは、ジェロムが、別人によって盗まれ破損された人形を手に入れてから、しばらくたってからです。きみがベッドにいたことが証明できるとは、正確にはいえないのです。きみが寝ていた農家の部屋の窓は、路上に面し、林檎《りんご》の木の枝が窓のところまで繁茂し、それを用いれば、誰でも難なく、路上におりることができたのだ。きみは、この家のまわりを、さまよい歩こうと思い、ステーション街まで来た。そこで、きみは、マネキン人形を発見して、ひどいショックを受けた。そして、その人形を完全にこの世から葬り去るため、飾り窓を破り……。きみには、もとどおり、ベッドまで帰る時間があった。ファリイズ嬢がきみにミルクを持ってきのは、ベッドに帰った直後だったのだ……」
レオポルドは、胸を思いきり張った。
「あなたのご高説に服するとしても、動機がありませんよ」
「憎悪だよ。死んだあとまでも、憎んでいたのだ……」
老女中イルマの息子は、最後の抵抗を続けた。
「ぼくは、ジルベエルが好きではなかった。これは、事実です。けれど、嫌《きら》っているからといって、必ずしも、その相手を殺害するとはかぎらないじゃありませんか」
「きみの心のなかに、女神がいたんだ!」
「なんですって?」
「きみたち、ジルベエルときみは、同じ婦人を恋していたんだ!」
警部の声は、感動で高くなった。ロールは、両手で顔をおおった。
「どうだね、否定できないだろうが」と、マレイズは、冷酷に、話しつづけた。「きみのような男が恋愛をすると、命がけになる……。きみはロールを愛するあまり、愛する女に不幸をもたらすジルベエルを消すべきだと決心した……。監獄で、重病にかかった。きみは、自殺を決心すると同じように、自分から何らかの方法で、病気になったのだ。きみは……」
レオポルドは、警部の説明に、自信がゆらいだようであった。
「やめてくれ! 神のために、やめてくれ!」
マレイズは、ためらった。これ以上、敗戦の将に、追い打ちをかける男ではなかった。そこで、最後の容疑者、アルマンに立ち向かう決心をした。
「アルマンさん、あなたはお父上から除籍されたことで、ジルベエルを怨んでいたのです。あなたがおっしゃった≪際限のない欲望≫とは、じつは、あなた自身のことではなかったのですか? 良心の呵責《かしゃく》に耐えかね、この家から去り、二度と帰るつもりがなかった。それほど、ジルベエルにはうらみがあったのです。だから、マネキン人形の事件は、あなたがひき起こしたと……」
「あなたは、母の悲しみのことを忘れておられる……」
「そのことなら、承知していますよ。退屈……。そう退屈です。マネキン人形が殺害された翌日の二十一日に、あなた自身が、この家で発見したものは、その退屈だったのではないですか……」
「ジルベエルの一周忌の日に、イレーヌとロールのふたりに、これから一緒に暮らそうと約束したのですよ」
「あなただって、マネキン人形を盗んで、粉砕することができたのですよ。この村に、いつ帰ってきたのか、確証がないのですから」と、マレイズは、冷静に語った。「この点は、レオポルドさんと、まったく同じ条件ですよ。やろうと思えば、ジルベエルを二度、殺害することもできたのですよ……」
「これは愕いた」と、アルマンが、興奮気味にいった。「わたしには、ジルベエルの死を喜ぶ、何の理由もないのです!」
「どうか、わたしの反論を、許していただきたい。あなたの兄上がいなくなれば、父上のもとに戻って、遺産を相続することになるのは、火を見るよりも明らかなことですよ……」
「おやおや、今度は、利益のための犯罪ですか。わたしは、マネキン人形を殺害もしなければ、痴情のもつれから、ジルベエルを殺したりもしませんでしたよ」
「熱烈な恋情、限りなき悔恨、その上に、すさまじい恐怖か」と、マレイズが嘲笑《ちょうしょう》した。「しかし、この混乱《パニック》の要素は、どれをとっても、甲乙つけがたしだな」
アルマンが、突然、冷静さを失った。
「もうこれ以上、屁理屈《へりくつ》はやめてくれ。犯人が誰かわかっているのなら、すぐここでいってくれ。こんな猿芝居《さるしばい》は早くやめて、さっさと犯人を逮捕してくれ!」
警部は、そのとき、ドアから遠ざかっていた。ドアの把手《とって》が静かに回り、ドアが開き、玄関から鈍い音が聞こえた。それは、ハアハアと荒い呼吸で、ついで、ドスンと何かが倒れる音がした。
「あら、大変だわ!」と、ジャンヌ・シャロンが、こわばった指で、開かれたドアを指し示しながら、絶叫した。イレーヌは、押し殺したような声で、「パパ!」と、叫んだ。
その場にいた一同は、ペタンと床《ゆか》に坐っている老人を発見した。気息|奄々《えんえん》たる、無残な姿のルコト氏だった。じっと見つめる眼差《まなざ》しは、部屋のなかを見とおそうとしているようであった。ひきつった顔には、恐怖の色が刻みこまれていた。まさに、絶望にうちのめされた、瀕死《ひんし》の男の姿であった。
「パパ! パパ!」と、イレーヌは何度となく小さな叫び声をあげていたが、父親に近づこうとしなかった。ただ冷たい視線をそそぎ、誰か見しらぬ人でも見ているかのように、顔をゆがめていた。
「医師《せんせい》を呼んでくる!」と、アルマンが、ドアに向かって、帽子もかぶらず突進した。
イレーヌのすすり泣く声が、次第に大きくなった。エミイルは、誰にも遠慮しないで、積極的に妻に近づき、腕をとり、肩で顔を隠すようにしていた。
「ここまで身体を引きずってきたとしても、よく力が続いたものですね?」と、マレイズが、感動をこめていった。
「ひとが集まり、ザワザワしていたので、心配でここまで来たのでしょう」と、抑揚のない声で、ロールが答えた。「呼び鈴を鳴らしたのでしょうが、鳴る場所が台所ではね……。こうして集まり、重大な話をしていることが、なんとなくわかったのでしょう……」
こういいながらも、ロールは、警部から視線を避けていた。≪おれのやり方を、非難しているのだな!≫と、警部は、苦痛にうちひしがれながら考えていた。
ルコト氏が、グロテスクな姿を現わしたが、何の力もないことを警部は知っていた。マレイズは、外套《がいとう》掛けに近寄り、外套をとって着た。
帽子をとるとき、一座のものがすべて、自分に注意を向けていることに、警部は気がついた。
「殺人犯人を逮捕しないのですか?」
そういったのは、老女中のイルマだった。息子が逮捕されるのではないかと、惧れていたのだ。警部が最初この家を訪問したときと同じように、イルマは挑戦的で、警戒していた。
マレイズは、じっと立ったまま、動かずにいるひとびとに、丁寧に頭を下げた。
「あすにならなければ、逮捕はしません」
「なぜですの?」今度は、ロールが訊ねた。
「夜に聞いてみることですな。夜が解決策を与えてくれることを、わたしは知っています。わたしは、どう処置したらよいか、自分で判断をつけるよう、時間を与えるのです」
「この恥しらずめ!」と、ジャンヌ・シャロンが、鋭い声を投げた。
「あなたは、殺人犯人に、逃亡する機会を与えるのですね……」
マレイズは、ジェロムに近づき、腕をとった。
「逃亡させるためではないのです」と、警部は、おだやかに答えた。「先ほども申しあげましたが、自分の処置を、自分でとらせるためです」
街を歩きながら、マレイズは溜息をついた。
「わかっていただけますね、殿下」と、警部は、悲しそうにいった。「所詮《しょせん》、ぼくの職業は、いつも悲しい宿命みたいなものが、ついて回るのですよ。ぼくは、いかにしてジルベエルが殺害されたか、全部説明をしたのです。しかも、誰が犯人か、ぼくが知っていることも喋った……殿下なら話してもかまわないが、話してみたところで、どうということもないし、もともと、殿下にわからせる手段はないのですからね。いずれにしても、今度のこの事件は、完全犯罪の様相を呈していますね。あるひとつのことを除いて、確実なものは何もないのです。今晩、ヴェランダに犯人がいたことを除いてはね。殺害の動機は、ぼくが話したとおりです。ぼくは、殺害の本人を、見破ることに成功しました。勝負に勝ったのですよ。勝負が裏目に出れば、何もかも失うところでした……」
そして、黙って、数歩あるいてから、付け加えた。
「ぼくの演技が上出来ならば、殺人犯人は、今晩、逃げるすべを失ったことを覚《さと》り、自分の身を処するでしょうね……」
二十九 口止め
予測したとおり、成功したのだ。
マレイズは、直感でそう信じた。
なにか鈍い音が響いてくるのに気がつき、腕時計の夜光針に視線を送った。それまでに、その夜光針を百回も見ているのだった。
影法師がひとつ、ぼんやりと姿を現わした。その人影は、寺院広場の邸宅から、ひそかに逃げ出すように出てきて、背をまるめ、壁にそって、小走りに歩いている。
≪いよいよ、獲物を追いつめたぞ≫と、マレイズは考えた。十二時を十分過ぎている。この暗闇のなかで蠢《うごめ》く男は、一《いち》か八《ばち》かの冒険に賭《か》けて、朝がたまでに姿をくらまそうとしている。帽子を目深にかぶり、顔を隠すようにし、リュックサックと小さなスーツケースを、それぞれの手に持っていた。
マレイズは、口笛を吹いて合図をした。夜の闇のなかで、人のざわめきが起こった。警部は、広場を中心にして、憲兵隊の一隊に、監視させていたのだ。
その男は、辺りを警戒しながら、急ぎ足で歩いていたが、立ちどまり、おどおどと自分の周囲を見回した。マレイズは、身をひそめていた木陰から姿を現わし、そいつを捕えようと思った。ところが、めざす相手は振り返って、警部の姿を認めてしまった。十メートルとは、離れていなかった。
警部の心臓が、高らかに音を立てた。
「おい、とまれ!」
相手を、絶望だと覚らせるために、
「お前が誰か、おれは知っているぞ! もう、逃げも隠れもできんぞ。広場を中心に、包囲陣が敷かれているのだから……」
男は、ちょっと、ためらいを見せた。月が雲間《くもま》から姿を現わし、突然、柔らかな光で、男の姿を浮き彫りにした。
マレイズは、歩調のリズムをくずさないで、めざす相手に近づいていった。
「法律の名において……」と、警部が喋りはじめた。けれど、警部の口から出た言葉は、そこまでだった。
そいつは、一目散に駆け出していた。
「畜生!」と、警部が怒鳴った。
逃亡者にとって、絶望的な状態だった。広場の傍らで警戒に当たっていた憲兵が二人、その男の駆け出した行く手から、のぼってきた。憲兵は壁面から離れ、男のほうに突進してきた。男は、スーツケースを足もとに投げ、素早く巧みに鉤《かぎ》を手にとると、それで前面の敵に襲いかかった。
「鉤を捨てろ!」と、憲兵は、マレイズに襲いかかる男の姿を認め、怒りに燃えて、怒鳴った。
そして、その憲兵は、腰のサックから、ピストルを素早く引き抜いた。
「射つな!」と、マレイズが警告した。
警部がためらっている隙に、相手は通り過ぎていた。数時間前、ルコト家を去るとき、こうした事態が起こることは、充分予想していたが、それにしても、このやり方は、少々無謀だったかもしれないと、マレイズは反省していた。
別のところで、鈍い音がした。誰かが、ルコト家のドアを、内部から開いたのだ。
警部が振り返ると、人の影がひとつ、走りながら、こちらに近づいてきた。
「さあ!」と、警部が憲兵にいった。「何をぐずぐずしているんだ。ますます距離がはなれるぞ。それだけ、やつに、時間を稼《かせ》がすことになる!」
憲兵はふたりとも、それぞれ懐中電燈をつけた。それから、夜の闇のなかに、謎の男を捕えるため走り出していった。その男は、身体を曲げるようにして、道路に向かって駆けていた。
「とまれ!」と、警部は、ハアハア呼吸《いき》づかい荒く、駆けながら叫んだ。「とまらないと、射つぞ!」
そして、彼自身、空に向けて、威嚇射撃《いかくしゃげき》をしたのだ。
「マレイズさん、マレイズさん」
警部の背後から、声をかける者がいた。その声は、警部が逃亡者の名を承知していると確信している声だった。しかし、警部は、その声に答えようとしなかった。≪ブドー酒の栓《せん》は開けてしまったのだ……≫もとに戻すことはできないぞと、警部は、にがい思いを噛《か》みしめていた。次いで、怒りがムラムラと起こり、「馬鹿ものめ。あいつが誰か、おれは見抜いているんだ!」と、吐き捨てるようにいった。
警部が誰か正体を見破っているとして、では、これから何をしようというのか? 警部には、何の当てもなかった。出たとこ勝負だった。誰がこの場にいても、打つ手があるわけもない。ただ、はっきりしていることは、いま懸命に逃げている男が、殺人を犯したことだ。それも、二回。彼は、その犯した罪に対して、それだけの償いをしなければならないのだ。
憲兵隊が辺りを、しらみつぶしにさがし回り、舗道という舗道に、警戒網がしかれていた。
遙《はる》か遠くの小駅から、出発の用意を告げる列車の、かん高い音が聞こえてきた。雲間から月が、ときどき、思い出したように姿を現わし、周囲《あたり》の人影を明るくするが、そのたびに、路上を走る人の影が、低地の草におおわれた原っぱで、巨大な影となりダンスを踊っているようであった。
発砲の命令を、憲兵に与える必要があるだろうか? マレイズには、決心がつかずにいた。警察官は、あらゆる必要な措置をとり、犯罪者の逃亡を阻止し、逮捕する義務が課せられているのだ。
「マレイズさん、マレイズさん」
相変わらず、同じ声が、距離をおいて、遠くから聞こえていた。
「射っちゃいけない、射っちゃいけない!」
と同時に、リズミカルな駆ける足音が起こり、警部が立っている前方、数百メートルのところで、叫び声があがった。
「列車を警戒しろ!」
≪あっ、畜生め!≫と、マレイズが思った。
耳のなかで、ガンガン音をたてている。もうそれ以上、遠くから聞こえてくる声を、聞いていなかった。聞かなくてもわかっていた。悪寒が全身を走った。列車、そうだ、ちょっと前、発車を告げる音を耳にしていた。列車は蒸気をまきちらしている。発車寸前なのだ。逃亡者にとって、逃亡の最後の機会は、この列車に飛びのることしか残されていない……。
「レオポルド!」と、手をラッパにして、警部が怒鳴った。
警部は、全速力で、数メートル走った。
「レオポルド! レオポルド! とまれ!」
警部は、興奮と恐怖とで、身体が顫えた。冷たい汗が、全身を流れていた。作戦を間違えたのだ。部下の憲兵をこのように散開させてしまったのでは、力をもがれたようなもので、いざという場合、期待が持てそうもなかった。
と、そのとき、二重のうなり声があがった。発電機《モーター》のうなる音と、その発電機にまき込まれた男の声であった。素早く、窓という窓に、一度に灯《あか》りがともった。
「マレイズさん……」
マレイズは、瀕死《ひんし》の男におおいかぶさるようにして、最後の告白を一語残さず、正確に聞きとろうとして、全神経を緊張させた。背後に立っているロールに、血まみれの顔を見せまいとして、警部の山のような大きな背で、さえぎらせていた。
「あなたの……あなたの推測は正しかったのです……殺害犯人はわたしです……わたしは……わたしは逮捕されました……わたしは、犯しもしない罪で、監獄に入れられるために逮捕されることを、知っていました……。それで、わたしは……わたしは、この機会を巧く利用して、本当にこの世から消したいと願っている男を、殺そうと考えました……。わたしが前から考えていた方法でやれば、有罪になることはないのです……そのうえ、あのひとが救われるのです……」
彼の眼は、マレイズの身体を通りこして、ロールの姿を求めていた。絶望的な眼で……。
「わたしは……わたしは、彼女を幸福にしようとして、殺人を犯したのです……けれど、あのひとは、何も知っていません……ただただ、彼女が幸福であれかしと願っていたのです……わたしを許してください……」
唇から、ドッと血が溢《あふ》れ、顎《あご》を濡らした。爪で、土をえぐりとった。
「わたしを許してください……」
その言葉が、この男の生きる力の限界だった。首がガックリと傾いた。
マレイズは、立ちあがった。最後まで逃げ回り、最後の土壇場《どたんば》まで、殺害の動機を口にしなかったこの男の心意気を、理解したのだった。その行為は非難されるべきかもしれないが、女性に不幸をもたらす敵に、鉄槌《てっつい》をくだしたという英雄的行為をなしとげたのだ。
黒い服を着、透き通るような蒼白《あおじろ》い顔のロールが、熱病患者のような、ギラギラ光る眼で、警部の顔を見まもった。
「亡くなったの?」と、響きの悪い声で、ロールが訊ねた。
「亡くなりました」と、マレイズが、沈んだ声でいった。
「あのひとは……あのひとは、話しましたか?」
「話しました」
「どんなことをいいましたか?」
「あなたを愛していたと……」マレイズは、そう短く答えただけだった。
それから、警部は、ロールの耳に顔を近づけ、囁《ささや》くような小声でいった。
「ジルベエルの殺害犯人でした……」
ロールは、ゆっくりと、手をこめかみに持っていった。
「あなたは、信じるのですか?」
彼女の眼が、警部にそそがれた。挑戦するような、眼差しだった。
「信じます」と、マレイズがいった。「愛する人を救うために、彼は死んだのです」
「嘘だわ!」と、ロールが叫んだ。「あのひとではないわ! あのひとではないわ! あのひとは無実だわ。殺人事件は、両方とも無実だわ。ただ、わたしを救おうとしただけだわ。わたしは、話さなければ……。わたしは告白しなければ……。罪を犯したのは……」
マレイズは、力まかせに、ロールの身体を激しくゆすった。
「お黙《だま》んなさい!」と、警部は、激しい口調でいった。「これは、わたしの命令だ。お黙んなさい!」
警部は、なおも力を強めて、締めつけた。警部の眼は、ロールと最初に会ったときと同じような、厳しいものになっていた。恐怖さえも交えて……。
「なにも申し立てる権利は、あなたにないのです。昨日だったら、話す自由があった。今晩では、ないのです。いまになっては、遅いのです」
「なぜですか?」と、ロールが呟いた。
「あなたのために、あの男は死んだのですよ。あなたは、あの男のためにも、黙っていなければいけない!」
≪あなたは、黙っていなければいけない≫そう口にしながら、マレイズは、冷たいものが背筋を走り、大きな身顫いをした。レオポルドは、臨終で、愛する婦人の幸福を願って殺人を犯したと懺悔《ざんげ》したのだ。じじつ、彼は、生命を賭《か》けた犠牲的精神の代償として、罪を自白し、沈黙をかちとったのだ。
憲兵がふたりで、青年の血まみれの屍《しかばね》を、担架《たんか》に横たえていた。その担架が持ち上げられると、ロールの口から、けたたましい叫び声が起こった。
「レオポルド!」
そして、ロールは、担架に横たわるレオポルドの屍に、ひしとしがみついた。
必死に屍体にしがみつくロールを、マレイズは、やっとの思いで引きはなした。
警部は、ロールを家のなかに連れて入りながら、やさしい声でいった。
「さあ、家に入るんだ。事件は落着したんだ。いまからでは、どうにもしようがないのだからね!」
三十 無実の証人
その翌日の朝、剥製師《はくせいし》ジャダン毒殺事件を審議するための重罪裁判所の法廷で、ジャダン夫人とビショップ氏の弁護を担当する弁護団のひとり、第二弁護士のホディ弁護士が、証人の出廷の申請をした。
「裁判長閣下、本日第一に、新しい証人の出廷を申請いたします。本証人は、被告の無実を明らかにするため、重大なる証言を行なうものであります」
警察側および弁護側双方の所定の手続きが終わった後で、裁判長は、自由裁量権を行使して、証人を出廷させ、発言を行なうべしと命じた。
しっかりした足どりで、エイメ・マレイズは、法廷の証人席に姿を現わした。
「わたしは、裁判官諸氏の注意を、切に要求するものであります」と、マレイズは、話しはじめた。「わたしは、この八日間、個人的な捜査を行なったのでありますが、その捜査の結果に従えば、ジャダン夫人およびビショップ氏の両名は、ジャダン氏の死と何の関係もなく、無実である旨、法に誓って、申し述べるものであります。本事件は、犯罪でなくして、まったくの事故により起こったものであります。被害者は、一匹の猫によって殺害されたのであります……」
マレイズの声は、法廷内のざわめきの声で、だんだん聞きとれなくなっていった。
マレイズは、最後の言葉を、特に大きな声で発言したので、法廷内の人たちは、かろうじて聞きとることができた。
「……死んだ猫によって、殺害されたのであります」(完)
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訳者あとがき
フランスの探偵小説には、二つの特徴がある。第一は、ボアゴベ、ガボリオのようなフランス探偵小説の鼻祖が、新聞小説専門に筆をとっていたことで、家庭内の悲劇が必ず書き込まれ、以後のフランス推理小説に大きな影響を残したことである。第二は、パリ警視庁の初代長官で、盗賊の経歴をもつヴィドックが書いた『回想録』の影響である。この影響は、『ロカンボール』『ジゴマ』『ファントマス』『アルセーヌ・ルパン』『ポアソン・シノアーズ』と続く。
この二つの影響は、形こそ変わるが、現在でも、パターンが引き継がれている。
以上がフランス推理小説の流れであるが、この流れからはずれた時期があった。一九三〇年代である。一九二〇年代の後期に、ヴァン・ダインの諸作が仏訳され、フランスの読書界に旋風が起こった。とくに、『僧正殺人事件』が世評に高く、大いに読まれた。
この事件は、読者側ばかりではなく、作者側にも、大いに影響を与えた。ジョルジュ・シムノンの探偵小説として傑《すぐ》れたものはこの時期に書かれ(『男の首』『霧の港』『怪盗レトン』『オランダの犯罪』)、S・A・ステーマン、ピエル・ヴェリイ、ジャック・ドゥクレ、レオ・マレ、ピエル・ボァローなどなど、続々クラシック型(本格物)の探偵小説作家が輩出して、今読んでも、骨格の正しい、考え抜かれた作品が多い。しかし、シムノンを除いて、わが国にはあまり紹介されていない。これは、戦争という谷間があったためで、機会を逸したきらいがある。おそまきながら、このブランクは、なんとかうずめなければならないと思う。この時期の代表作家は、シムノン、ステーマン、ヴェリイの三人かと思われるが、そのうちシムノンのみがほとんど完全に紹介されているが、ステーマンとヴェリイは、二、三の抄訳があるのみで、完全な姿では紹介されていないのである。
スタニラス・アンドレ・ステーマン(STANISLAS-ANDRE STEEMAN)は、フランドル・スラブ系で、一九〇八年、ベルギーのリエージュで生まれた。若い頃、絵のデッサンを勉強していたが、のち、フランスで発行される、「スーリイル」(微笑)、「ファンタジア」、「リール」(笑い)、「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」(パリの生活)、「フル・フル」など、キオスクや売店などで売っている週刊誌に、ショート・ショートを書きまくった。ほとんど同じ頃、同じ週刊誌に、シムノンが同じような読み物を書きなぐった事実は興味深い。ふたりとも、ベルギー出身で、フランス語で小説を書こうとする動機が同じだからである。たぶん、ベルギー人が、フランスの文壇に出ようと決意すると、まず、このような消耗品的な原稿を書くことから、始めなければならなかったのかもしれない(結果として、シムノンはアンドレ・ジッドに、ステーマンは、映画監督のクルゥゾーに認められることになる)。
その後、一九二四年に、ブリュッセルの「ラ・ナシヨン紙」の記者となり、同じ記者仲間のサンテールと共同で、探偵小説を書きはじめた。その作品は、ステーマン・サンテール共同の名前で、シャンゼリゼ書房の仮面叢書《ル・マスク》にとりあげられた。やがて、ステーマンは、サンテールと別れ、一九二九年から、独立で作品を書きはじめた。一九三一年に発表した『六死人』で、その年の冒険小説大賞をかち得ている。生涯、約四十冊ほどの探偵小説を書き、約十か国語に翻訳され、数多くの作品が映画化された。そのなかに、クルゥゾーの傑作、『犯人は二十一番に住む』『犯罪河岸』などが含まれている。ステーマンの映画に関する関心は深く、ベルギー版では、わざわざ自作の映画化の楽屋話に一章をつかい、自作の映画化作品の数本には、みずから出演さえしているのである。たとえば、本書『マネキン人形殺害事件』では、フュルネル医師に扮《ふん》している。
ステーマンは、一九七〇年、マントンで、ガンのため死去した。
ここに訳出した、『マネキン人形殺害事件』(LE MANNEQUIN ASSASSINE)は、ステーマン約四十冊の作品のなかで、ベスト5に入るべき傑作で、戦前、「新青年」に三分の一程度の抄訳で紹介されたことがある。しかし、「新青年」のものは、一九三一年に書かれたものをテキストにしているが、本書は、一九四三年に改稿されたものをテキストとした。このテキストは、全篇にわたって書き直され、分量も三分の二程度にへらされている。
ステーマンの作品は、初期のものほど、本格物の味が濃い。したがって、初期に属する本書は、マネキン人形の列車粉砕という謎に充ちたショッキングな事件を設定し、この事件に疑問を持つ、ベルギー警察のマレイズ警部が介入し、最後まで犯人を伏せる技巧をこらし、本格探偵小説の醍醐味《だいごみ》を満喫させてくれる。
ステーマンは、同国出身で、同時代に書き出したシムノンに、ひどくこだわっているふしがある。翻訳のテキストに使ったベルギー版には、わざわざつぎのような注がつけられている。
「本書に登場するマレイズ警部は、シムノン氏創造するところのメグレ警部と似かよっていると考える読者がいるかもしれないが、じつは、メグレ警部より、マレイズ警部のほうが先に書かれているのである。すなわち、マレイズ警部は、一九三〇年の仮面叢書《ル・マスク》のなかの『盗まれた指』に登場しているが、メグレ警部は、一九三一年、ファイヤアル社の『死せるガレ氏』に初登場している」
本書を翻訳するきっかけとなったのは、鮎川哲也氏の慫慂《しょうよう》による。七年前である。本格探偵小説のチャンピオンである氏が、海外探偵小説のベストテンの上位に、本書を掲げておられる。本書は、氏なかりせば、世に出なかったものであり、これで氏との永年の約束を果たすことができて、訳者はやれやれと思っている次第である。
一九七六年八月