ロバート・ルイス・スティーヴンスン/日高八郎訳
ジーキル博士とハイド氏
目 次
ジーキル博士とハイド氏
扉の話
ハイド氏捜索
ジーキル博士の安泰
カルー殺害事件
手紙のできごと
ラニヨン博士の異変
窓辺のできごと
最後の夜
ラニヨン博士の手記
本件に関するジーキルの詳細な陳述書
水車小屋のウイル
平原と星
牧師の娘マージョリー
一夜の宿
解説
あとがき
ジーキル博士とハイド氏
扉の話
弁護士のアタソン氏は微笑すら浮かべたことのない顔の厳《いか》つい人だった。話をするにも冷ややかで、口数は少なく、そのうえ口下手、無表情ときていた。ひょろひょろのっぽで、そっけなく陰気ですらあったが、どことなく愛すべきところのある人だった。親しい者同士が集まり、手にする葡萄酒《ぶどうしゅ》が口に合うときなどは、何かすばらしく人情味のある光が彼の眼に浮かんだ。それは言葉となって彼の口から出ることはなかったが、晩餐《ばんさん》後くつろいだときに、心の鏡ともいうべき眼に現われるばかりでなく、日常の生活行動の中に現われた。
彼は自分に対してきびしかった。たとえば葡萄酒が大変好きだったが、客でもないかぎり、ジンでがまんしていた。芝居好きでありながら、二十年も劇場の木戸をくぐったことがなかった。
他人にはすこぶる寛大で、ときには不行跡をしでかす人の盛んな血気に目をみはり、それをうらやみさえしたり、人が窮地に陥っているときは、咎《とが》めるどころか、肩をもち助けてやった。「ぼくはカインの異端〔旧約聖書創世紀に出るアダムとイブの長男。自分の供物が神に拒まれ、嫉妬のあまり弟アベルを殺し、神から追放の呪いを受けた〕にあやかりたいね。ぼくの兄弟にも本人の好きなように地獄におちたければおちるようにさせるがね」彼はよくこんなことを口にした。こういう性格だったから、彼は堕落してゆく人びとにどこまでもつきあってやり、いつまでも感化を与えたものだった。こういう人たちが彼の法学院内の事務所をたずねてくるかぎり、彼はふだんと少しも変わらない態度で迎えた。
こういう芸当を彼は|なんなく《ヽヽヽヽ》やりとげていた。どうみても彼は自分を誇示する質《たち》ではなかったが、善良で寛大な人だったので人づきあいが良かった。慎《つつ》ましいタイプの人は、ふとした動機で得られた交際をそのまま快く受け入れているものだが、このアタソン氏の場合がそうであった。彼の友人といえば、血縁の者か、ごく古くからの知り合いに限られていた。彼の愛情は、|つた《ヽヽ》のように、年月とともに成長したもので、相手がそれにふさわしいかどうかは問題外だった。彼の遠縁で、粋人《すいじん》で通っているリチャード・エンフィールド氏との結びつきもそうだった。この二人はどうして気が合うのか、どういうことに共鳴し合っているのか、多くの人びとにとっては皆目《かいもく》わからない謎《なぞ》であった。日曜日に二人が連れだって散歩しているのに出会った人たちの話によると、二人は口もきかず、不思議なほど沈んでみえ、だれか友だちにでも会うと、いかにもほっとしたように声をかけるというのである。それでいて彼らはこの散歩を毎週の至宝のように考え、他の楽しみをさしおき、時には用務さえことわって二人で散歩に出かけたものだった。
こうした散歩の途中、二人はたまたま、ロンドンの繁華街の横町へはいっていった。それは狭くおちついた感じの通りであったが、週日には繁昌していた。そこの商人たちは景気がよく、繁昌を競い合って、余分なもうけは店のおめかしに費《つい》やしているようすだった。往来に立ち並ぶ店頭は、満面に微笑《えみ》をたたえた女売子がずらりと並んで客を招き入れるようなふうをしていた。日曜には、ふだんより華《はな》やかさは失せ、割合に人通りは少なかったが、それでもうす汚ない隣の街並みに比べると、この通りだけはまるで森のなかの火事のように照り映えていた。真新しく塗られた鎧戸《よろいど》、念入りに磨き立てられた真鍮《しんちゅう》の標札、どこもかしこも小ぎれいで、華やかなうきうきするような雰囲気は、すぐに通行人の目をひいて楽しませるのであった。
東に向かう左手の角から二軒目の所に、路地《ろじ》への入り口があって、ちょうどそこに気味の悪い建物が、その破風《はふ》を通りに突き出していた。それは二階建ての家で、一階の一つの戸口を除いて、窓は一つもなく、二階は色の褪《さ》めた盲壁《めくらかべ》で、どこをみても長い間手も入れずに汚れ放題にされているのがわかった。呼び鈴も叩《たた》き金もない扉はペンキが剥《はが》れ、変色していた。浮浪者たちは戸口の窪《くぼ》みへはいり込んで羽目板でマッチを擦《す》ったり、子どもたちは上り段でお店ごっこをしたり、小学生は繰形《くりがた》でナイフの切れ味を試したりしていたが、三十年近くも、こういう気まぐれな来訪者を追い払ったり、荒らされた跡を修繕《しゅうぜん》したりする者は現われなかった。
エンフィールド氏と弁護士は通りの反対側にいたが、その袋小路の入り口まで来ると、エンフィールド氏は杖を上げて向こうをさした。
「あの戸口に気づいたことがありますか?」
と彼はたずねた。相手がうなずくと、
「あれを見ると、わたしはとても妙な事件を思い出すんですよ」
とつけ加えた。
「そうかい! どんな事件かね?」
アタソン氏はいつもと少しちがった声色できいた。
「それはこれからお話しましょう」
とエンフィールド氏は答えた。
「ある冬の夜明けがた三時ころ、わたしは遠方から帰宅途中でしたが、街並みには街灯のほかには文字どおり何ひとつ見えず、皆しんと寝静まっていました。聖歌行列でも迎えるようにあかあかと照らされているのに、まるで教会の中のようにがらんとしていました。わたしは歩いているうちに、終《しま》いにはじっと耳を澄まして、警官の姿でも見えないものかと思い始めました。すると突然、わたしは二つの人影を見たのです。一人は小男で東のほうへ足早にすたすたと歩いてゆき、もう一人は八、九歳の女の子で、十字路を懸命に駆《か》けて行くところでした。ところが二人は曲がり角でぶつかったのです。続いて実に恐ろしいことになりました。というのはその男は平然と、倒れた少女を踏みつけて、泣き叫んでいるまま置き去りにしてしまったのです。こういっただけではなんでもないようですが、まったくわたしの目には地獄も同然に見えました。その男は人間じゃなくて、何かいまいましい夜叉《やしゃ》かなんかにちがいありません。わたしは|おい《ヽヽ》と叫んで、飛んで行き、その男の胸倉《むなぐら》をつかんでもとの所へ連れて来ましたが、そのときはすでに幾人もの人びとが泣き叫ぶ子どものまわりに集まっていました。彼はまったく冷静で、手向かいもせずただわたしを一瞥《いちべつ》しただけでしたが、その目つきに私はぞっとし、冷汗がでました。外へ出て来た人たちはその少女の身内の者で、医者もやってきました。(実はその子はその医者を呼びに行った帰りだったのです)その外科医の話によると、子どもの怪我《けが》は大したことはなく、ただ脅《おび》えているだけだとのことでした。これでこの事件はおしまいだとお思いでしょう。ところが一つ妙なことがあったのです。わたしがその小男をひと目見たときぞっとしたと申しましたが、当然ながら子どもの身内の者たちもそうでした。ただわたしが驚いたのはその医者のようすです。彼は平凡な風采《ふうさい》で、若くも年寄りでもなく、これと言った特色もなく、ただ強いエジンバラ訛《なま》りのある、風笛のように無神経な男でした。ええ彼もまったくわれわれと同じだったのです。彼はその男を見るたびに、いやな顔をし、まっさおになって、できれば殺してしまいたいというようでした。彼もわたしもお互いの気持ちがよくわかりました。勿論彼を殺すようなことはできないので、思う存分ののしってやりました。たとえばこのことを公にして彼の名前をロンドン中の鼻つまみ者にすることだってできるのだぞ、と威してやりました。もしお前に友人や信用があるなら、それを滅茶苦茶にしてやるぞとも言いました。まっかになってこの男を責めたてている間中も、われわれは女たちを彼になるたけ近寄らせないようにしていました。というのは女たちも鬼のように猛《たけ》り狂っていて、何をするかわからなかったのです。わたしはあんなに憎々しげな表情をした人びとを見たことはないですよ。取り囲まれたその男はむっつりと、ふてくされて──内心ではこわがっていることはわかりましたが──まるで悪魔のようにずうずうしくしていました。
『もしきみたちがこれを利用してせしめようというなら、わたしとしては何ともいたし方ない。紳士なら誰だっていざこざは避けたいからね。いくら出せばいいのかね?』
こう男は言うのです。そこでわれわれは子どもの身内のために百ポンド彼から絞り取りましたよ。その男はなかなか聞き入れそうにもなかったんですが、われわれの痛めつけてやるぞとばかりの態度に、彼もついに折れました。次はわれわれが金を受け取る段ですが、彼はわれわれをどこへ連れて行ったと思いますか? それがね、ほかならぬあの扉の所なんですよ。彼はポケットから鍵《かぎ》を取り出すと、なかにはいり、やがて金貨でおよそ十ポンド、差額にはクーツ銀行払いの小切手を持って戻って来ました。その小切手は持参人払いで、振出人名がはいっていました。その名前がわたしのこの話の重要点なんですが、今ちょっと言いかねるのです。しかしその名前は世間によく知れ渡った、新聞などでもときどき見かける名前だということだけは申しておきましょう。金額もたいしたものだったんですが、もし小切手が本物なら、その振出人名のほうがはるかに価値のあるものだったのです。わたしはかまわずにこう言いました。『まるで信用できないね。朝の四時に地下室へはいって百ポンドに近い他人の小切手を持ってくるなんてまるで夢みたいな話じゃないか』男は落ちつき払って、小馬鹿にしたように言うのです。
『まあ落ち着きなさい。銀行が開くまでいっしょにいて、自分でこの小切手を現金にしてあげるから』
そこで、医者と子どもの父親とその男とわたしとで夜が明けるまでわたしの家で過ごし、翌日朝食をとってから、一同連れだって銀行へ行きました。わたしが自分で小切手を示して、これはどうみても偽物《にせもの》にちがいないと言ったんです。ところがとんでもない。その小切手は本物《ヽヽ》だったんですよ」
「ちえっ!」
とアタソン氏が舌打ちした。
「それはあなたも同感でしょう」
とエンフィールド氏が言った。
「まったくひどい話ですよ。その男はだれも鼻もかけない、いまいましい奴なのに、小切手の署名は礼節ある人間の典型で、有名鳴り渡っているばかりでなく、さらに悪いことには、いわゆる慈善家の一人なんですからね。ゆすりだと思いますね。奴は正直な男からその人の若気のあやまちをたねに法外な金をゆすっているのにちがいありません。それでわたしはあの扉の家を〈ゆすりの家〉と呼んでいるのです。ごぞんじのように、他にまだいろいろあるんですがね……」
エンフィールド氏はここで言葉を切って、もの思いに沈んだ。
「それで君は小切手の振出人がここに住んでいるかどうかは知らないんだね?」
アタソン氏がこう突然たずねたので、彼は我に返って答えた。
「奴の住んでいそうな所じゃないですか。しかし、たまたま彼の住所を聞いたことがあったんです。何とかいう街に住んでいるんです」
「それで君は何もたずねなかったのか──この扉の家のことは?」
「ええ、たずねませんでした。わたしもいろいろ気を使いましてね。聞いてみたいのはやまやまでしたが、それではあまりに最後の審判めいてきますからね。いったん詮索《せんさく》を始めると、崖の上から石を転がすようなものです。こっちは丘の上にじっとすわって見ている。石のほうは次から次へ他の石を誘って転げ落ちてゆく、そして裏庭にいる罪のない老人の頭を打ち砕くというようなことになりかねません。家族まで名前を変えなければならないはめになりますからね。どうもいかがわしいとみえたら、触れないようにする、これがわたしの主義なんですよ」
「それはたいへんよい主義だね」
と、弁護士は言った。
「ですがわたしは自分でそこを調べてみたんですよ」
と、エンフィールド氏は続けた。
「それはほとんど家といえるようなしろものではないですね。戸口と言ってはあの扉しかないし、ごくまれに、例の紳士が出入りするくらいで、ほかにだれも出入りしていません。二階には横町の路地に面した窓が三つありますが、一階には全然ありません。窓はいつもしまっていますが、きれいなのです。煙突が一つあって、たいてい煙が出ているんですから、だれか住んでいるにちがいない。でも確かなことはわかりません。なにしろあの横町には家がたてこんでいて、区切りがわからないんですから」
二人は黙ったまま、しばらく歩き続けた。それからアタソン氏が口を切った。
「君子危うきに近よらず。これはなかなかよい金言だよ、エンフィールド君」
「わたしも同感です」
「それにしても、ぜひ聞きたいことが一つある。その子どもを踏みつけた男の名前なんだがね」
「うむ、言っても別にさしつかえないでしょう。それはハイドという名前なんですよ」
「ふむ。どんな風采《ふうさい》の男なんだ?」
「ちょっと言いようがないですね。容貌《ようぼう》にどことなく変な所があるのです。なにか人を不愉快にさせるような、まったくいまわしいところが。あんないやな奴は見たこともないですね。どういうわけかわかりませんが、どこか不具にちがいない。どこと言って指摘はできないんですが、かたわ者だという印象が強いのです。ともかく尋常でない顔つきの男なんですが、それをどう言ったらいいか……。ああ、お手上げです。わたしの記憶不足というわけじゃないんです。こうしていても奴の姿がありありと見えるようですよ」
アタソン氏は黙ったままふたたび歩き出したが、明らかに深くもの思いにふけっているようすだった。
「彼が鍵《かぎ》を使ったというのは確かだね?」
と、彼はたずねた。
「またどうしてそんな……」
エンフィールド氏は驚いて言った。
「いや、わかっているよ」
アタソン氏が言った。
「そんなこと聞くなんて妙に思われるにちがいない。実はぼくも一方の人の名前をたずねないのは、わたしにはすでにわかっているからだよ。ねえ、リチャード、君の話は興味しんしんだ。もし君の話に不正確なところがあったら訂正してくれないか」
エンフィールド氏は少しむっつりとして、答えた。
「それなら最初に注意してくださればよかったのに。でもわたしはいわゆる学者なみに正確にお話したつもりです。あいつは鍵を持っていましたよ。今だって持っています。四、五日前に、鍵を使っているのを見ましたからね」
アタソン氏は深いため息をついたが、一言も言わなかった。エンフィールド氏が後を続けた。
「触らぬ神に崇《たた》りなしですよ。どうもわたしはおしゃべりが過ぎたようです。二度とこの話を持ち出さないように約束しましょう」
「リチャード、心から誓うよ。固く約束する」
と、弁護士は言った。
ハイド氏捜索
その晩アタソン氏は、憂うつな気分でひとり住まいの我家に帰ると、食欲もないままに、食卓についた。夕食が終わると、暖炉の側にすわって、読書机でなにか無味乾燥な神学書を読み、近隣の教会の鐘が十二時を打つと、厳粛な感謝に満ちた心で床に就くというのが、彼の日曜日の習慣だった。
ところが、この晩は、食卓が片づけられるとすぐに、彼はロウソクを持って事務室へはいって行った。彼は自分の金庫をあけ、極秘の場所から「ジーキル博士遺言状」と裏書きしてある封筒を取り出し、眉を曇らせて腰をかけると、その内容を調べ始めた。遺言状は博士の自筆のものだった。というのは作成された以上はやむなく保管しているものの、その作成にあたっては、彼は少しも助力しなかったからである。
その書面には、「医学博士、民法博士、法学博士、英国学士会会員ヘンリー・ジーキル死亡の場合には、彼のすべての財産を、彼の友人にして恩人なるエドワード・ハイドに譲渡すべきこと」ということばかりでなく「ジーキル博士三か月以上にわたり失踪《しっそう》もしくは理由不明の不在の場合には、前記エドワード・ハイド氏は遅滞なく前記ヘンリー・ジーキルの財産を譲り受け、博士の使用人に少額を支払う以外いっさいの義務、または、負担を負う義務なし」と記してあった。
この証書はながいことアタソン氏の目ざわりであった。弁護士として、また人生の健全かつ保守的側面を愛する者として、彼はこの遺言状に腹がたった。彼にとって、風変わりなことは不埒《ふらち》なことであった。今までに彼の憤りを募らせたのは、彼がハイド氏なる人物を知らないためであったが、彼を知った今となってはがまんならないのだった。ハイドという名前だけしかわからないということがすでにもうおもしろからぬことであったが、さらに悪いことには、その名がいろいろな厭《いと》うべきことをまとっていた。彼の目をながいこと晦《くら》ませていた変幻きわまりなく朦朧《もうろう》とした霧の中から突然、くっきりと悪鬼の姿が現われてきたのであった。
「狂気の沙汰《さた》だと思っていた。恥さらしなことにならなければいいが」
と、彼はそのいやな証書をふたたび金庫にしまいながら言った。
それから彼はロウソクを吹き消し、外套《がいとう》を着ると、医学の牙城《がじょう》ともいうべきキャヴェンディシュ街へと出かけて行った。そこにはラニヨン大博士が居を構《かま》えて、つめかける患者をさばいていた。「知っている人があるなら、それはラニヨンをおいて他にいない」と彼は考えたからである。
謹直な執事は彼を覚えていて、喜んで迎えた。彼は控《ひか》えの室で待たされることもなく、すぐに玄関から食堂へ通された。ラニヨン博士はひとりすわって葡萄《ぶどう》酒を飲んでいた。博士は心温かく、元気旺盛、きびきびした赤ら顔の紳士で、年にしては早い白髪を持ち、豪胆でてきぱきした態度の人物であった。アタソン氏を見ると、椅子から飛び立って、両手を広げて迎えた。こういう愛想《あいそう》のよさは、博士のいつものやり方で、やや芝居じみて見えたが、実は純粋な心からでたものであった。というのは、二人は小学校から大学までずっと同窓で自尊心があるとともに、お互いを尊敬していた。そして、そうざらにあることではないが、おたがいの交際を何よりも楽しみにしていた。
しばらく四方山《よもやま》話をした後に、弁護士は、彼の心を占めていた例の不快な一件を切り出した。
「ねえ、ラニヨン君、ヘンリー・ジーキルのいちばんの|旧い友だち《ヽヽヽヽヽ》といえば、何といっても君とぼくだろうね」
「お互いに|若い友だち《ヽヽヽヽヽ》であるといいんだがね」と、ラニヨンは、くすくす笑いながら言った。「そうだと思うね。ところでそれがどうしたんだい? 近ごろあまりあの男に会わないが」
「ほんとうかい! 君たちは同じ分野で結ばれていると思ってたんだが」
「昔はそうだった。でも十年余り前からどうもヘンリー・ジーキルは奇想を弄《ろう》し過ぎて、ぼくも堪《たま》らなくなったんだよ。彼はおかしくなっているんだよ、精神が。もちろん、昔の誼《よし》みで気にはかけているが、近ごろは彼にとんと会わないね。あんな非科学的|戯言《ざれごと》を言われては、デイモンとピシアスの友情〔シラクサのディオニュソス王に死刑を宣告されたピシアスが身辺の整理をする間デイモンは友の身代わりとなった。ピシアスは約束通り戻り、二人の友情に心を打たれた王は二人を許すというローマの故事〕にも水がはいるというもんだよ」
ラニヨン博士のこのちょっとした憤慨に、アタソン氏はいくらかほっとした。「二人は学問上のことでなにか意見を異にしているんだな」と彼は思った。そして根が学問的情熱にとぼしい(財産譲渡の問題は別だが)人だけに、「たったそれだけのことなのか!」とさえつけ加えた。彼はしばらく相手の気持ちが鎮《しず》まるのを待って、疑問の核心へ近づいた。
「君はあの男の保護を得ているハイドとかいう男に会ったことあるかい?」
「ハイド?」
ラニヨンはくり返した。
「そんな名前今まで聞いたこともないね」
ただこれだけの情報しか得られずに、アタソン氏はあの大きな暗い寝床へ戻ったが、いく度も寝返りを打っているうちに、ついに夜が白々と明けてきた。まっ暗闇《くらやみ》の中で、いろいろの疑問に縛られ、苦悶《くもん》する彼の心には安らかな夜どころではなかった。
アタソン氏の家の近くにある教会の鐘が六時を打っても、彼はまだその問題について考えていた。それまでは彼の理知的興味だけが働いていたが、今や彼の空想力も加わった、というよりはその問題が彼の空想力を虜《とりこ》にしてしまったと言ったほうがよいだろう。夜の深い闇の中を、カーテンをおろした室の中で横になり転々としていると、エンフィールド氏の話が絵巻物のように心に浮かんだ。街灯に照らされた夜の街が心に浮かぶ。次に足早に歩いてゆく一人の男、医者の家から駆《か》け出してくる少女。そして二人はぶつかって、人間の姿を借りた悪鬼は少女を踏みつけ、少女が泣きわめくのもかまわず立ち去ってゆく。あるいはりっぱな邸宅の一室が見え、彼の友だちジーキル博士が夢を見て微笑しながら眠っている。それから室の扉が開いて、ベッドの前のカーテンが引きのけられ、ジーキル博士は眼を覚《さま》す。見よ! 側《そば》に一人の男が立っている。彼はジーキル博士を思いのままにする力を持っている。この深夜でもジーキル博士は起き上がって彼の命令に従わねばならないのである。
この二つの場面に現われた人物が、夜通し弁護士を悩ました。彼がうとうとするとすぐに、その人物が寝静まった家々にそっと滑り込んだり、目もくらむほどすばやく、街灯に照らされた夜の街の迷路を行き、街の角ごとに子どもを踏み倒して、泣き叫ぶままに置き去りにしてゆく様が見えるのであった。しかもその人物はそれと見覚えのある顔を持っているわけでもなく、夢の中でさえ、その顔は朧《おぼ》ろで、彼をただ困惑させ、彼が目を凝《こ》らして見つめると、その輪郭は消えてしまうのであった。
このようにして、本物のハイド氏なる人物を見たいという、強い途方もない欲望が、弁護士の心に湧きあがって、刻一刻と広がっていった。一目だけでもハイド氏を見ることができたら、このミステリーも霧散するだろうと考えた。すべてミステリーとは、よく調べれば、なんのことはないのだから、ジーキル博士がなぜこの男を好いているのか、いやこの男に束縛(どう言おうとかまわぬが)されているのか、さらにはなぜあんな奇怪な遺言を書いたのか、その理由もわかるかも知れない。ともかく一目見る価値のある顔である。慈悲心のひとかけらもない顔。なかなか物に動じないあのエンフィールド氏も一目見ただけで終生忘れがたい憎悪《ぞうお》を覚えたという顔なのである。
それ以来アタソン氏は店の立ち並ぶ裏通りのあの戸口のあたりをうろつくようになった。朝のうち事務所に行くまえも、仕事に多忙で時間のない昼どきも、夜霧に包まれた都会の月影の下でも、夜となく昼となく、閑散としたときも、また雑踏のなかでも弁護士は彼の見張り場所に姿を現わした。「むこうが|隠れん坊《ハイド》のつもりなら、こちらは鬼になってやるぞ」
と彼は思った。
そしてついに彼の忍耐が報いられるときが来た。それは晴れてからりとした晩で、大気はひやりと冷たかった。街路は舞踏室の床のようにきれいで、街灯は風に揺《ゆら》ぐこともなく、光と影の模様を交互にくっきりと地上に描いていた。店がしまる十時ごろには、その裏通りには人影も少なく、あたりからはロンドンの低い喧騒《けんそう》が響いてきていたが、非常に静かであった。ちょっとした物音でも遠くまで聞こえた。路のどちら側にいても、あたりの家々の団欒《だんらん》の物音が聞こえ、通行人の足音はかなり遠方から聞きとれた。
アタソン氏は見張り場へきて数分したころ、奇妙な軽い足音が近づいてくるのに気づいた。毎夜、見張りをしているうちに、たった一人の人の足音でも、まだずっと遠く、街の雑踏と喧騒から突然はっきりと浮かびあがるように聞こえてくる、あの異様な感じにも慣れていた。しかし、このときはいつになく彼の注意は鋭く強く惹《ひ》かれたのであった。彼はこんどこそハイドに会えるという予感をもって袋小路の入り口へと身を引いた。
足音はずんずん近づいて、街路の角までくると急にはっきりと聞こえてきた。袋小路の入り口から様子をうかがっていた弁護士は、隠れん坊の相手の風貌を見てとることができた。その男は小柄でごく地味な身なりをしていたが、その顔付きは、遠くから見ても、気にくわぬ、むかむかさせるようなところがあった。彼は自分の家へはいる人のように歩きながらポケットから鍵《かぎ》を取り出した。
アタソン氏は歩み出て、相手の肩にふれた。
「ハイドさんですね?」
ハイド氏は一瞬息をのんでひるんだが、すぐに恐怖の影は消えた。彼は弁護士の顔をまともに見もせず、冷然と答えた。
「そうですが、なんのご用です?」
「おはいりになるのを見かけたものですから。わたしはジーキル博士の旧友で、ゴーント街のアタソンと申します。多分わたしの名前をお聞きになったことがあるでしょう。折よくお会いできたのですから、お通し願えると思うのですが」
「博士はいませんよ。出かけているんでね」
とハイド氏は鍵の穴につまった塵《ちり》を吹きながら答えた。それからだしぬけに顔をあげないまま彼はたずねた。
「どうしてわたしをご存知で?」
「一つあなたにお願いがあるんですが」
とアタソン氏は言った。
「いいですとも、どんなことです?」
相手は答えた。
「どうかあなたのお顔を見せていただきたいのです」
と、弁護士は頼んだ。
ハイド氏はちょっとためらうようなふうをみせたが、突然思い直したように毅然《きぜん》と向き直った。そして二人はしばらくじっと見つめ合った。
「もうこれであなたをお見それするようなことはないでしょう。きっとなにかの役に立つでしょう」
とアタソン氏が言った。
「そうですよ。ついでにわたしの住所もお教えしておきましょう」
そう言ってハイド氏は、ソーホー〔ロンドンの古い街のひとつ〕のある街の番地を知らせた。アタソン氏は心の内で「おや! この男もあの遺言状のことを考えているのかな?」と思ったが、それを顔に表わさずに、住所を教えてくれたお礼をぼそぼそと呟《つぶや》いた。
「ところで、どうしてわたしをご存知だったのです?」
と、相手は言った。
「人相をお聞きしていましたからね」
「だれからです?」
「われわれは共通の友人を持っているんです」
「友人だって! それはだれです?」
ハイド氏は、少ししわがれた声で鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
「たとえばジーキルです」
と、弁護士は言った。
「彼がしゃべるはずがない」
ハイド氏は怒りに顔を紅潮させて叫んだ。
「君が嘘《うそ》をつくとは思わなかったよ」
「なんということを! それはあまりにひどい言葉だ」
と、アタソン氏が言った。
相手は大きく唸《うな》ったが、それは荒々しい笑い声に変わった。そして次の一瞬、目にもとまらぬすばやさで、扉の錠《じょう》をはずし、中に消えてしまった。
ハイド氏に置き去りにされた弁護士は、落着きのない様子でその場にたたずんでいたが、やがて通りをにぎやかなほうへ向かって歩き始めた。彼は一、二歩行っては足を止め、深く思い悩んでいる人のように額に手をあてた。彼がこうして道々考えあぐんでいる問題は容易には解決できない質《たち》のものだった。
ハイド氏は青白い矮小《わいしょう》な男だった。これといった奇形でもないのに、人に不具者という印象を与えた。不愉快な笑い方をし、臆病《おくびょう》と大胆をつき混ぜたような一種凶悪な態度で弁護士に対し、ひからびた、ささやくような、とぎれ声で話した。これらはハイド氏の不利な点ばかりであるが、それでもアタソン氏が彼に対して抱いている未だに不明の憎悪、嫌忌《けんき》、恐怖を説明するに十分ではなかった。
〈もっとほかに何かあるに相違ない〉困惑した弁護士は思った。〈なんと言ってよいかわからないが、もっとほかにある。そうだ! あの男には人間らしさが少しもない。太古の穴居人《けっきょじん》とでもいうか、嫌われ者のフェル博士〔十七世紀オックスフォード大学の学寮長で宗教家。諷刺詩の中で言及されて以来「虫の好かない人」の意味で使われる〕の類とでもいうか、肉体から滲《し》み出て、肉体を変化させる不浄な魂の光とでもいうか……。きっとそうだ。ああ気の毒なジーキル、悪魔の極印というものがあるならそれはまさしく彼のあの新しい友だちの顔の上に押されている〉
例の通りの角を曲がった所に、昔ふうのりっぱな家の建ち並ぶ一角があった。今はほとんどが昔のりっぱな面影もなく腐朽していた。階ごとに、あるいは室ごとに区切って、地図師だの、大工だの、いかさま弁護士だの、いかがわしい事業家だの、ありとあらゆる種々雑多な人びとに賃貸ししてあった。ただ、角から二軒目の家だけは、邸宅として残っていた。闇の中にその家から欄間《らんま》の明りがもれていたが、戸口のあたりには、富裕と安泰の趣《おもむき》が漂っていた。アタソン氏はその戸口の前で立ち止まって、扉を叩《たた》いた。すると身なり卑《いや》しからざる老僕が扉を開いた。
「ジーキル博士はいるかい、プール?」
と、弁護士は尋ねた。
「ちょっと見てまいりましょう」
こう言いながらプールは、大きな低天井の気持ちのよい広間へ案内した。広間は板石が敷きつめられ、田舎ふうにむき出しの暖炉で暖められ、樫《かし》の高級なキャビネットが備えてあった。
「暖炉の側でお待ちになりますか? それとも、食堂のほうに灯火《あかり》をおつけしましょうか?」
「ありがとう、ここでいいよ」
と、アタソン氏は答えて、暖炉に近づき、高い囲い格子によりかかった。今彼がここにひとりでいる室はジーキル博士の特に意匠を凝《こ》らしたお気に入りで、アタソン氏自身もよくこの室はロンドン中でもいちばん気持ちのよい室だとほめていた。しかし今夜は身震いがして、ハイド氏の顔が彼の記憶に重くのしかかっていた。めったにないことだが、彼は厭世的になっていた。ふさぎの虫に取りつかれた彼には、磨《みが》かれたキャビネットに映る暖炉のゆらぐ火も、天井のあやしげな影も何か不吉なものに思われた。間もなくプールが戻ってきて博士の不在をつげたとき、彼はむしろほっと安堵《あんど》感をおぼえた。
「プール、ハイド氏が古い解剖室の扉からはいるのを見たんだが。ジーキル博士がいないのにいいのかね?」
「いいのですともアタソン先生、ハイドさんは鍵をお持ちなんですよ」
「ご主人はずいぶんあの若い男を信用しているようだね」
と、弁護士はもの思わしげに言葉をついだ。
「さようですとも、わたしどもはあの人の言うとおりにしろと申しつけられているんです」
「わたしはハイド氏に会ったことはないと思うが」
「さようでございましょう。あの人はけっしてここで食事をなさいませんし、めったにこちらへみえません。たいてい実験室から出入りなさっています」
と、執事は答えた。
「ではおやすみ、プール」
「さようなら、アタソン先生」
弁護士は重い心を抱いて家路についた。〈かわいそうなハリー・ジーキル。彼は苦境に陥っているんだろう。彼は若いときにむちゃをやった。ずいぶん昔のことだが、神の掟《おきて》には時効がないからな。そうにちがいない。背犯した罪の報い、こっそり犯した非行の崇《たた》りなんだ。記憶もうすれ、自己愛が罪を宥恕《ゆうじょ》しても、報いは何年も後にびっこ引き引きやってくるものだ〉
こう考えると彼はおびえて、自分の過去をふりかえり、古《いにしえ》の罪悪がびっくり箱から飛び出すように明るみに出てはきやしまいかと、記憶の隅々までほじくり返してみた。彼の過去はまずまず咎《とが》のないものであった。彼ほど心配なく一生涯の行為《おこない》を回顧できる人も少なかったが、それでも自分の行なったかずかずの不正なことを考えるとまったく身の縮むような思いがした。しかしあやうく犯しそうになったが、うまく避けることのできたかずかずのことを思うと、ふたたび厳粛な畏敬にみちた感謝の念が湧いてきた。それから、従前の問題にたちかえってみると、一縷《いちる》の希望の光がさしてくるような気がした。
〈このハイドという男も、子細《しさい》に調べれば、奴《やつ》だけの、しかも顔つきからみると、漆黒《しっこく》の闇より暗い秘密をもっているにちがいない。それに比べたらジーキルのどんな罪悪だってまるでお天道様みたいなもんだろう。このままにしておかないぞ、あいつが盗人のようにこっそりハリーの枕辺に忍びよるなんて考えただけでもぞっとする。かわいそうなハリー、どんなにかつらい目覚めだろう。それに危ないことだ! もしハイドの奴が遺言状を嗅《か》ぎつけたら早く相続しようとあせるにきまっている。ジーキルが承知さえしたら、ぼくも一肌脱がなければ〉そして彼はもう一度〈ジーキルさえ承知してくれたなら〉とつけ加えた。彼は心のうちで、透かし絵を見るように、はっきりと遺言状の奇妙な文句を思い浮かべていた。
ジーキル博士の安泰《あんたい》
それから二週間|経《た》って、きわめて好都合なことに、ジーキル博士は五、六人の親友を招いていつもの愉快な晩餐会を開いた。親友というのはいずれも、聡明《そうめい》な名高い紳士で、しかも酒にはうるさい連中だった。アタソン氏は他の客が帰った後も居残っていた。しかしこれは特別な手段を弄《ろう》したということでなく、今までに幾度となくあったことなのである。アタソン氏は好かれる人にはたいへん好かれた。気軽なおしゃべりな客が帰るころ、よく主人たちはこの無愛想な弁護士を引き止めたがった。彼らは、思う存分はしゃいで疲れた後で、このつつましい客といっしょにすわり、閑寂《かんじゃく》の気を養い、この弁護士の沈黙という黄金で心の酔いをさますことを好んだ。
ジーキル博士も例外ではなかった。今こうして暖炉の向かい側にすわっている博士は大柄な、釣り合いのとれたからだをしており、年は五十歳くらいだったが、髯《ひげ》は生やしていなかった。いくらかこそこそと隠れた所で何かをやると言ったふうがなくもないが、見るからに才幹と親切気にあふれ、その顔つきからも、アタソン氏になみなみならぬ暖かい愛情を抱いていることが読み取れた。
「ねえ、ジーキル、前々から君に話そうと思っていたんだが」
と、アタソン氏は口を切った。
「君の遺言状のことだがね」
綿密な観察者だったら、その話題がジーキル博士にはいやなものだと推量できたろう。しかし、博士は陽気に受け流して答えた。
「アタソン君、あんなもの頼まれて困っているだろう。わたしが遺言状をあずけたとき、君はずいぶん当惑していたね。もっとも、わたしの学問を異端だと言ったときのあの偏狭な衒学者《げんがくしゃ》のラニヨンはもっと苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような顔をしていたが……。もちろん、あいつがいい男だってことは知っているが──そんなに顔をしかめなくてもいいよ――まったく優秀な男だ。わたしはほんとうにもっと彼とつきあいたいと思っているんだが、あいつの頑迷な衒学者ぶりはどうしようもない。無知でそうぞうしい衒学者だ。まったく、ラニヨンばかりは見損なったよ」
「ぼくはあのことにどうしても賛成できないのだ」
と、アタソン氏は冷淡に、新しい話題を無視して追求した。
「わたしの遺言状のことかね? たしかに知っているよ。前にもわたしに言ったろう」
と、博士はやや鋭い調子で答えた。
「では、もう一度そう言わしてもらうよ。ハイドという男のことが少しわかってきたからね」
と、弁護士は続けた。
ジーキル博士の大きな、端麗な顔が、唇《くちびる》まで蒼白《そうはく》になって、眼のあたりに険悪な暗い影が現われてきた。
「これ以上聞きたくたいね。お互いに口にしないと約束したんじゃなかったかね」
「ぼくは良からぬ噂を聞いたのだ」
と、アタソン氏が言った。
「どっちだって同じことだ。君にはわたしの立場がわからんらしい」
と、博士はいくらかもじもじしながら答えた。
「アタソン、わたしは苦境に立たされているんだよ。わたしの立場は奇妙な――実に奇妙なものだ。話したってどうにもならない質《たち》のものなんだ」
「ジーキル、君はぼくという人間がわかっているはずだ。ぼくは信頼のおける人間だよ。内証で、洗いざらい打ち明けてくれないか。きっと君を救えると思うんだ」
「アタソン、ありがとう。君は実に親切だ。なんともお礼の言いようがない。わたしはすっかり君を信じている。だれよりも、いや自分よりも君を信じている。しかしあの問題は君が想像しているようなものじゃない。それほど心配したことじゃない。君に安心してもらうために、一つだけ言っておこう。つまり、わたしはハイドと手を切ろうと思えば、すぐにでもそうできるということなんだ。誓ってもいい。君の好意はほんとうにありがたい。もう一つつけ足そう。けっして悪くとらないでくれると思うが、これはぼく自身の個人的なことだから、どうか放っておいてくれないか」
アタソンは、暖炉の火をじっとみつめながら、しばらく考え込んでいたが、
「なるほどまったく君の言うとおりだ」
と、言うと椅子から立ち上がった。
「とにかく、この問題に触れるのはこれきりに願いたいが」
と、博士は続けた。
「君にひとつ了解しておいてもらいたいことがある。わたしはあの気の毒なハイドをとても心配しているのだ。君は彼に会ったそうだね。彼がそう言っていたよ。無礼な男だろう。しかしわたしはあのハイドが気がかりでならないのだ。アタソン、もしわたしが死んだら、彼を大目にみてやって、彼のために権利を守ってくれると約束してくれたまえ。君もいっさいの事情がわかれば、そうしてくれると思うんだが。君が約束してくれれば、わたしはどんなにほっとするだろう」
「どうしたって、あの男を好きにはなれないね」
と、弁護士は言った。
「そんなことを頼んでいるんじゃない」
ジーキルは弁護士の腕に手をかけて哀願した。
「ただ彼の権利を守ってくれればいいのだ。わたしがこの世にいなくなったら、どうかわたしのためだと思って、彼の力になってくれたまえ」
アタソンは思わずため息をもらした。
「よろしい、約束しましょう」
カルー殺害事件
それから一年ほどたった、一八――年の十月のこと、ロンドン全市民は残虐きわまる犯罪に驚愕《きょうがく》したが、被害者の社会的地位が高かっただけに、騒ぎはさらに大きくなった。ことの子細《しさい》は単純だが、驚くべきものであった。テムズ河に近いとある家に、ひとり住まいの通い女中がいた。彼女は夜の十一時ごろ、二階へ寝に行った。真夜中になると市中に霧が立ちこめたが、宵の口は雲一つなく、その女中の家の窓から見下ろせる小路は、満月に皓々《こうこう》と照らされていた。彼女は空想好きだったらしい。と言うのは、窓のすぐ下にある箱に腰を下ろすと夢想に耽《ふけ》りはじめたのである。この晩ほど――彼女はこの晩の出来事を話すたび、涙を流しながら語るのだったが──すべての人が身近に思われ、世の中が暖かく感じられたことはなかった。
そうしてすわっているとき、彼女は小路を通って、こちらへ近づいて来る一人の白髪のりっぱな老紳士に気づいた。すると初めは気にとめていなかったが、もう一人の非常に小柄な紳士が彼に追いすがるようにやってきた。お互いに言葉を交わせる所まで来ると、(それはちょうど、彼女の目前だったが)老紳士はお辞儀をして、非常に慇懃《いんぎん》な態度で相手に話しかけた。話の内容はさほど重大なものに思われなかった。ときどき、指さしているところから察すると、道をたずねているくらいにしか見えなかった。月の光が話している老紳士の顔を照らしたとき彼女は心地よいものを感じた。その顔はいかにも悪意なく、昔ふうのやさし気をおび、しかも何となく気品があった。それは、自分に十分満足している人のみが持っている表情であった。それから彼女は、もう一方の紳士へと目を向けたが、それが以前彼女の主人を訪れたことのあるハイドとか言う男であることがわかって驚いた。彼女はそのときに彼からいやな印象をうけたのである。ハイドは片手に重いステッキを持ちそれをいじくりまわしていたが、一言も答えず、ただじれったそうに聞いていた。ところが突然、すさまじい怒りを爆発させたかと思うと、足を踏みならし、ステッキを振りまわし、(女中の証言によると)まるで狂人のように荒れ狂った。その老紳士のほうは、たいへん驚いて、いくぶん腹を立てたのか、一歩後退した。ハイド氏はめちゃくちゃに暴れ出し、老紳士を地面に殴り倒した。そして次の瞬間、相手を足で踏みつけ、続けざまに殴りつけたがその姿はまるで狂暴な猿そのものだった。老紳士の骨が音をたてて砕け、からだは路上に跳ね上がった。この恐ろしい光景と物音に、女中は気を失ってしまった。
彼女が意識を回復して、警官を呼んだのは二時ごろであった。殺人者はとっくに立ち去っていた。しかし被害者は目もあてられぬほどむごたらしく、小路のまん中に放り出されていた。殺人の道具となったステッキは、固くて重い珍しい木であったが、まん中で折れてハイドの残酷さを物語っていた。その折れた片一方は近くの溝に転がっていたが、他の一方は明らかに殺人者が持ち去ったらしかった。財布と金時計が、被害者のからだから発見されたが、名刺や書類は見当たらなかった。ただ封緘《ふうかん》して、切手の貼ってある手紙が一通発見されたが、それは被害者がおそらく、郵便局へ持って行くつもりのものであったらしく、宛名はアタソン氏になっていた。この手紙は翌朝、弁護士が床から出る前に、届けられた。彼はそれを見、昨夜の情況を聞くや否や、さっと顔をこわばらせて唇《くちびる》をとがらした。
「死体を見るまではなんとも言えないが、これは重大な事件のようだ。どうか着換える間、待ってください」
彼は急いで朝食を済まし、死体の運び込まれている警察署へと馬車を走らせたが、その間ずっと沈痛な面持ちであった。彼は収容室にはいるとすぐうなずいた。
「そうです、この人を知っています。お気の毒に、この方はダンヴァース・カルー卿です」
「えっ、なんですって! 本当ですか?」
係官は叫び、次の瞬間には、彼の目は職務上の功名心に輝き出した。
「犯人逮捕に協力していただけるでしょうね」
それから、彼は弁護士に向かって、女中が目撃したことを手短かに説明し、折れたステッキを見せた。
アタソン氏はハイドという名前を聞いただけで身震いを覚えたが、ステッキを見せられるにおよんで、これ以上疑う余地はなかった。それは折れて、無残な様《さま》になっていたが、数年前に彼がヘンリー・ジーキルに贈ったものに相違なかった。
「そのハイドという奴は、小柄な男でしたか?」
と、彼はたずねた。
「ええ、女中の話によると、それはもう小さな、とても邪悪な顔つきの男だということです」
と、係官は答えた。
アタソン氏はしばらく考え込んでいたが、やがて頭を上げて言った。
「ぼくの馬車で来ませんか、その男の家へお連れしましょう」
もう時刻は、朝の九時ごろであったが、そろそろ霧の立ちこめる季節になっていた。大きなチョコレート色の枢衣《きゅうい》のような霧が空低く一面にたちこめていたが、風がこの戦陣を敷いた霧をたえず追い払っていたので、馬車が通りから通りへとのろのろと走ってゆく間、アタソン氏は、黎明《れいめい》が驚くほど種々さまざまの色合いに変化するのを眺めることができた。あるところは、夕闇が迫ったように暗いかと思うと、あるところは、異様な大火事とみまがうばかり妖《あや》しく、ものすごい暗褐色にもえていた。またあるところを通りかかると、一瞬、霧がすっかり切れて、一条の無気味な日光が、うず巻く霧の間から射していた。刻々と変化してゆく光景の中で、ソーホーの陰うつな街は、ぬかるみの道や、ものうげな通行人や、いつも消えたことがないのか、あるいはこの陰気な闇を防ぐためにあらたに点《とも》された街灯とともに弁護士の目には、悪夢の中のどこかの街のように見えた。その上、彼の心も暗い考えに占められていた。そして同乗の警官をちらりと見やったとき、法律と法律を司《つかさど》る役人に対する恐れをふと感じるのであった。最も正直潔白な人でもときにはこういう恐れを感じるのであろう。
馬車が目的地へきて止まったとき、霧がいくらか晴れて、うす汚ない通りや、大きな居酒屋、下級フランス料理店、安雑誌や安サラダを売る小売店、家々の戸口に群らがっているぼろ服の多くの子どもたち、朝酒を一杯ひっかけに鍵《かぎ》を手にしてやってくるいろいろな国籍の女たちが見えた。しかし次の瞬間には、黄土色の霧がふたたび降りてきて、彼の目からこのあたりのいかがわしい情景をさえぎってしまった。ここにヘンリー・ジーキルのお気に入り、正貨二十五万ポンドの相続人たる男の家があるのである。
象牙のようにつやつやした顔の銀髪の老婆が扉をあけた。上べは猫を被《かぶ》ったように愛想《あいそう》がよいが、底に悪意をのぞかせている顔つきだった。しかし応待ぶりはみごとであった。
「はい。ここはハイドさんのお宅ですが、今はお留守でございます。昨晩はたいへんおそくお帰りになられましたが、一時間もしないうちにまたお出かけになられました。こういうことは珍しくないんでございますよ。あの方はいつも不規則で、よく留守になさいます。昨晩も実は二か月ぶりにお帰りになったんですよ」
「よろしい。それではご主人のお部屋を拝見したい」
と、弁護士は言って、老婆がそれはできないと答えると、彼はさらにつけ加えた。
「この方がだれだか言っておいたほうがよいだろう。この方はロンドン警視庁のニューカメン警部さんだ」
醜悪な喜びの表情が老婆の顔をよぎった。
「それではあの方は検挙されたのですか? いったい、何をなさったんですか?」
アタソン氏と警部は視線をかわした。
「ハイド氏はどうもあまり評判がよくないらしいですな」
と警部は言った。
「さて、お婆さん、わたしとこの方にここをちょっと調べさせてもらいたい」
老婆がいなければ、空家同然のこの家の中で、ハイド氏はたった二室しか使っていなかったが、どちらの室も調度は装いを凝《こ》らしてあり、上品な好みのものであった。戸棚には葡萄《ぶどう》酒が所せましと並べてあり、皿類はすべて銀製で、テーブル掛けも優雅なものであった。よい絵が壁に掛けてあったが、アタソン氏の推察によると、それは非常にすぐれた鑑定家であるヘンリー・ジーキルからの贈り物に相違なかった。絨毯《じゅうたん》は幾重《いくえ》にもなった厚いもので、気持ちのよい色合いのものだった。しかし、今見たところでは、これらの室は、最近、あわただしく引っ掻《か》きまわされたらしい形跡があった。ポケットが裏返された衣類が床に放り出され、錠前のついた引き出しはあけっぱなしであった。暖炉には灰が山になっていて、多くの書類が焼かれた模様だった。これらの灰の中から、警部は燃え残った緑色の小切手帳の片端を掘り出した。例の折れた杖《つえ》の半分が扉のかげから発見された。これで疑う余地がなくなって、警部は喜んだ。銀行へ行ってみると、数千ポンドが殺人者の名義であずけてあるので、警部はすっかり満足した。
「もう大丈夫ですよ」
と警部はアタソン氏に言った。
「もう奴はこちらのものです。奴はだいぶうろたえたんですな。でなきゃ、杖を置き忘れたり、おまけに小切手帳を焼き捨てるなんてことはしなかったでしょうからね、これで後は、銀行に張りこんで、人相書きを出しさえすればいいでしょう」
しかし、人相書きの件となると、事はそう容易に運ばなかった。というのは、ハイド氏はほとんど知人をもたなかったし、事件を目撃した例の女中の主人さえも彼には二度会っただけだと言うし、家族がいるのかいないのかもわからなければ、写真もなかった。それにたいていの観察者のように、ハイドと遇ったという二、三の人びとも、言うところはまちまちであった。ただひとつだけ一致していたのは、この犯人がなんともいえぬ不具者であるという強い印象を人々に与えたという点である。
手紙のできごと
アタソン氏がジーキル博士の家にたどりついたのは、その日の午後遅くであった。すぐにプールに迎え入れられて、調理場の側を通り、かつては庭園だった中庭を横ぎって、実験室とも解剖室とも言われている建物へ行った。博士はこの家をある有名な外科医の遺族から買いうけたのだった。博士の趣向は解剖学よりむしろ化学のほうにあったので、庭の一端にある建物の用途を変えたのである。アタソン氏がこの建物に通されるのはこれが初めてであった。彼はこの黒くすすけた窓のない作りの建物を興味深く眺《なが》めた。そして階段教室を横ぎったときには妙にしっくりとしない気分であたりを見まわした。ここはかつては熱心な弟子たちがつめかけていたが、今はうす気味の悪いほどひっそりとしていた。
テーブルには化学器具が積み上げられ、床には器具を運ぶ箱や詰め藁《わら》が散らばり、ぼんやりかすんだ丸天井から薄暗い光が射していた。この教室の奥の階段を登った所にある赤い粗|羅紗《らしゃ》を張った扉を通ってアタソン氏はようやく博士の部屋にはいった。それは大きな部屋で、周囲にはガラス戸棚が備えつけられ、他の調度品に混じって、姿見と事務用テーブルがあり、その部屋から鉄格子のある汚れた三つの窓を通して、中庭を見下ろすことができた。暖炉には火がもえ、家の中まで霧が深くたち始めていたので、炉棚の上にはランプがともされていた。そしてこの暖炉の照り返しを受けるいちばん暖かい所にジーキル博士は、ひどく衰弱したようすですわっていた。アタソン氏がはいって行っても、立ち上がりもせず、握手を求めたが、その手は冷たく、ようこそと言ったが、その声はいつもと違っていた。
「ところで、あの事件のこと聞いたでしょう」と、アタソン氏はプールが出てゆくとすぐに言った。博士はからだを震わせた。
「広場でみな、大声で言っていたよ。わたしは自分の食堂でそれを聞いた」
「ひとこと言わしてもらうがね、カルーはぼくの依頼人だったし、君もそうだ。だからぼくは自分のやっていることをはっきり知っておきたい。まさか君は|あいつ《ヽヽヽ》をかくまうようなおかしなまねはしないだろうね?」
「アタソン君、神に誓って言うが、わたしはけっして二度とあの男とは会わないつもりだ。わたしの名誉にかけて、あの男とは縁が切れたのだということを言っておこう。すべては終わったのだ。実際あの男はもうわたしの助力を必要としない。あの男は安全、まったく安全なんだ。念を押しておくが、いいかい、あの男のことはもう人の口にのぼらないだろう」
弁護士は暗い顔をして聞いていた。彼は友だちの興奮した態度が気に入らなかった。
「君は奴のことにかなり確信をもっているらしいね。君のためにも、君の言うとおりになればいいのだが。もし裁判|沙汰《ざた》にでもなれば、君の名もでるだろうからね」
「いや、大丈夫だ、自信がある。打ち明けるわけにはいかないが、確固とした根拠を握っているんでね。だが君に助言してもらいたいことが一つある。実はその――手紙を受けとったんだ。そこでわたしはそれを警察に見せたものかどうか迷っている。アタソン君、わたしはそれを君に委《ゆだ》ねたいと思うんだが、君ならきっと、賢明に判断してくれるだろう。わたしは君を大いに信頼しているんだ」
「君はその手紙がもとで、奴が見つけ出されやしないかと心配しているんだね」
と、弁護士は聞いた。
「いいや、そうじゃない」
と相手は答えた。
「ハイドがどうなろうとわたしの知ったことじゃない。彼とはもうすっかり縁が切れたのだから。このいまわしい事件でわたし自身の評判がどうなるか考えていたんだ」
アタソン氏はしばらく黙想していた。彼はジーキルの利己主義に驚いたが、かえって安心もしたのである。
「では、その手紙を見せてくれないか」
その手紙は奇妙なまっすぐな字体で書いてあり、エドワード・ハイドの署名がはいっていた。そして簡単に〈恩人ジーキル博士にはひとかたならぬご好誼《こうぎ》を受けながら、かえってご迷惑をかけたが、これからは確かな逃亡の|つて《ヽヽ》があるから心配にはおよばない〉ということがしたためてあった。弁護士はこの手紙を見てたいへん喜んだ。この手紙によって、彼が考えていたよりもジーキルとハイドの関係が憂慮すべきものでないことがわかった。彼はこれまでの自分の疑いを恥ずかしく思った。
「封筒はあるかね」
と、彼はたずねた。
「うっかりして焼いてしまったよ。だが消し印はなかった。使いのものが渡していったから」
「これをあずかって行って、よく考えてみるよ」
「万事、君の判断にまかせよう。どうもわたしは自信をなくしちゃってね」
「ではよく考えてみよう」
と、弁護士は答えた。
「それからもうひとつ聞きたいことがある。君の遺言状の中に失踪《しっそう》のことを書いた条項があったが、あれはハイドが書かせたんだろう?」
博士はこの言葉を聞くと眩暈《めまい》がして気を失いそうになった。彼は口を固く結んだまま、うなずいた。
「そうだろうと思った。奴は君を殺すつもりだったんだ。危いところだった」
「わたしはもっと重大なことを学んだよ。ある教訓を──それも実に恐ろしい教訓を学んだんだ」
彼は重々しい口調でそう言い終えると、しばらく、顔を両手に埋めた。
帰りがけに、弁護士は立ち止まって、プールと二言三言|交《か》わした。
「ところで、今日、手紙をもって来たのはどんな男だったのだい?」
しかしプールは郵便以外に何もこなかったと断言した。それに郵便で来たのは広告だけだとつけ加えた。
これを聞いて、ふたたび不安を抱いて、アタソン氏は家を出た。明らかにあの手紙は実験室の戸口から渡されたのだ。おそらくあの書斎で書かれたのだ。そうだとすると再考を要する。もっと注意深くしなければ──。道すがら、新聞売り子が大声で、号外! 号外! 恐るべき代議士殺害事件! と叫んでいた。それはまるで彼の友人であり依頼人であったダンヴァース卿への弔辞のように聞こえた。そしてもう一人の友の名声がこの醜聞《しゅうぶん》の渦中《かちゅう》にまきこまれはしまいかという危慎《きぐ》をおさえきれなかった。そう簡単に結論の出せない問題だった。彼はつねづね自信の強い人だったが、こんどばかりはだれかから、助言を得たいような気がしてきた。たぶん遠まわしに聞くこともできようと彼は考えた。
それからほどなく、アタソン氏は自室の暖炉の前で彼の主任書記のゲスト氏と向かいあってすわっていた。そして二人の間にはながいこと家の地下倉にねかせておいた、とっておきの古い葡萄《ぶどう》酒が一|瓶《びん》暖炉からほどよい所に、おいてあった。霧は未だに市全体をひたしたまま街の上をおおい、街の灯は、紅宝石のように輝いていた。息づまるばかりに深く立ちこめた霧を通して都会生活の連綿とした往き交《か》いが、大通りを、大風のような音をたてて、通ってゆくのが聞こえていた。しかし室内は暖炉の明かりでうきうきと華《はな》やいでいた。葡萄酒の酸味は和らいで、その紫色も、ステンド・グラスの色が年とともに濃くなるように、落ち着いた色合いになっていた。そして丘の斜面の葡萄畑を照らしていた暑い秋の午後の日射しが今しも解き放たれて、ロンドンの霧を消散させようとしていた。
何とはなしに、弁護士の気分も和らいでいた。彼はゲストに対してはあまり隠しごとをせず、時には思わぬ秘密を打ち明けてしまうこともあった。ゲストは用事でたびたび博士の家を訪れて、プールを知っていた。彼がハイドが博士の家に出入りしていたことを聞かないはずがない。彼なら適切な判断を下せるかもしれない。それなら秘密を解くこの手紙を、彼に見せたほうがよくはないか? その上、ゲストはすぐれた筆跡の研究家、鑑定家なのだから、手紙を見せられても当然だと思うだろうし、喜ぶことだろう。さらにこの男は助言好きだから、この奇怪な手紙を読んだら何か言わずにいられまい。そうすれば、その意見をもとにしてこれからの方針を決めることもできよう。
「ダンヴァース卿も痛ましいことになったもんだね」
「まったくそうですね。この事件はずいぶんと世間の同情を惹きました。むろん、犯人は気違いなんでしょう」
「それについて君の意見が聞きたいのだが」
と、アタソン氏は答えた。
「ここに犯人自筆の文書があるんだがね、このことはだれにも言わないでくれ。ぼく自身どう処置していいかわからないのだ。ともかく始末におえない事件だ。ほら、ここにある。君のお手のものだ、犯人の自筆だからね」
ゲストの眼は輝いた。いきなり腰を下ろすと、熱心にそれを調べ始めた。
「いいや」
と、彼は言った。
「これは気違いのじゃない。しかし奇妙な筆跡ですね」
「それに、それを書いた奴もどう見ても変な男なんだよ」
と、弁護士はつけ加えた。
ちょうどそのとき、召使が一通の手紙をもってはいってきた。
「ジーキル博士からですか?」
と、主任書記は聞いた。
「見覚えのある筆跡だと思いましたよ。何か内密の要件ですか? アタソンさん」
「ただの晩餐の招待状だよ、どうして? 見たいのかね?」
「ちょっと見せてください。ありがとうございます」
そう言って主任書記は二枚の紙を並べて、その内容を注意深く比べた。
「どうもありがとうございました。これはたいへん興味深い筆跡です」
と、二枚の手紙を返しながら言った。
しばらく話がとぎれ、アタソン氏はいらいらしていた。
「なぜ、君は両方を比べたんだい、ゲスト?」
彼は出し抜けにきいた。
「ええ、実は両方があまりによく似ているんです。二つの筆跡は、字体の傾斜がちがうだけで、多くの点で一致しています」
「それは変だね」
と、アタソン氏は言った。
「おっしゃるとおり、変です」
と、ゲストが答えた。
「この手紙のことは人に言わないようにしたい。いいかね」
と、アタソンが言った。
「かしこまりました」
と、主任書記のゲスト氏は答えた。
その夜、アタソン氏はひとりになると、その手紙をさっそく金庫の中にしまい込んだ。彼はそれ以来それを金庫から取り出さなかった。
「なんということだ! ヘンリー・ジーキルが殺人犯のために偽の手紙を書くなんて!」
そう考えると、冷たい血がからだ中を走る思いがした。
ラニヨン博士の異変
時は流れていった。ダンヴァース卿の死は、世間がこうむった危害として憤激を買い、数千ポンドの懸賞金がかけられた。しかしハイドは最初からこの世に存在しなかったかのように、警察当局の捜査網を尻目に、姿を消してしまっていた。彼の過去はおおよそ、明るみに出されたが、どれもかんばしくないことばかりだった。冷酷暴虐なハイドの残忍性、彼の恥ずべき生活、彼の奇怪な仲間、絶えず周囲から憎悪の目で見られていたこと、などが話の種になったが、彼の現在の居所については、ささやき一つ聞かれなかった。殺人の朝、ソーホーの家を出てからの彼の足どりはまったくわからなかった。やがて、月日の経《た》つにつれて、アタソン氏は強烈な驚きから覚めて、落ち着きを取り戻し始めた。彼の考え方によれば、ダンヴァース卿の死はハイドの失踪《しっそう》によって十分に償《つぐな》われたのであった。厄《やく》払いが済んでジーキル博士にも新しい生活が始まったのである。彼はそれまでの蟄居《ちっきょ》を止めて、友人たちとの交際をふたたび始め、彼らに招かれたり、招いたりするようになった。彼は世間には慈善家としてかねてから知られていたが、今や信仰厚い人としても有名になった。彼は多忙で、戸外で活動し、人びとに尽くした。彼の顔は、率直で、輝いていたが、おそらく内に社会奉仕を意識しているせいであった。こうして二か月以上、博士は安泰であった。
一月八日に、アタソン氏は少数の人たちとともに博士の家で晩餐をした。ラニヨンも出席した。三人が固く結ばれた友だちであったころのように主人役の博士はアタソン氏とラニヨンをかわるがわる眺《なが》めていた。ところが十二日にも、十四日にも、弁護士は玄関払いをくわされた。
「旦那《だんな》様は家に籠《こも》っていらっしゃいます。どなたにもお会いになりません」
と、プールは言った。十五日に彼は再度訪問したがすげなくあしらわれた。ここ二か月ばかり、ほとんど毎日博士に会っていたので、博士がふたたび引き籠ってしまったことがたいへん気がかりであった。五日目の晩、彼はゲストを呼んで、いっしょに食事をした。さらに六日目には、彼はラニヨン博士の家へ出かけて行った。
ラニヨン博士の家では面会を断わられなかったが、中に通されて驚いたことには、博士のようすはがらりと変わっていた。彼の顔には死相がはっきりと現われていた。赤《あか》ら顔は蒼白《そうはく》になり、肉はげっそり落ち、目にみえて禿《は》げ、老《ふ》けていた。しかし弁護士が注意をひかれたのは、この肉体の急激な衰弱ではなく、むしろ、博士の心に深くくい込んだ恐怖を現わしているように見える眼や挙動であった。博士が死を恐れるなどとはとうてい考えられないことではあったが、アタソンはどうしてもそう考えずにはいられなかった。
「そうだ。彼は医者なのだ。自分の容態も、自分の余命の短いことも知っているにちがいない。それが彼には耐えがたいのだろう」
と、彼は思った。しかし、アタソン氏が顔色の悪いことを指摘すると、意外にもラニヨンはしっかりした態度で、自分に死の近づいていることを断言した。
「わたしはある衝撃を受けたんだ。とても助からないだろう。あと数週間の命だろう。ああ、人生は楽しかったよ。わたしは人生を愛した。ねえ、君、わたしはいつも人生を愛していたよ。でもわたしはときどき思うのだが、もしわれわれが何もかも知りつくしてしまったら、むしろ死ぬことをうれしく思うのではないかね?」
と、ラニヨンは言った。
「ジーキルも加減が悪いのだが、君は彼に会ったかい?」
と、アタソンは口をはさんだ。
ラニヨンの顔色がさっと変わって、彼は震える手を差し伸べた。
「ジーキル博士にはもうどんなことがあっても会いたくないし、話を聞きたくもない」
彼はおろおろ声で言った。
「わたしと彼の縁はもう切れたのだ。どうか頼むから死んだものと思っているあの男のことは口にしないでくれたまえ」
「おやおや」
と、アタソンは言い、しばらくの沈黙ののち、こう聞いた。
「ぼくに何かできないかい? ぼくたち三人は昔からの友だちじゃないか、ラニヨン。これからはもう仲のよい友だちなんてできやしないよ」
「どうしようもないんだよ。ジーキル自身に訊いてみたまえ」
と、ラニヨンは答えた。
「彼はどうしてもぼくに会おうとしないんだ」
と、弁護士は言った。
「別に驚くにあたらないね」
と、ラニヨンは答えた。
「アタソン、いつかわたしが死んだ後になって君にもこの事件の白黒がわかるときが来るだろう。今、君に言うわけにはいかないのだ。ともかく、そこにすわって別のことを話してくれるなら、どうかゆっくりしていってくれたまえ。それともこの忌《い》まわしい話を止められないなら、後生だから、出て行ってくれないか。どうもわたしにはがまんならないのだ」
家に帰ると、アタソンはすぐ机に向かってジーキルに手紙を書き、玄関払いをくった不満を述べるとともに、なぜラニヨンとあのような不幸な絶交をしたのか問いただした。翌日長い返事が届いたが、感情的な言葉使いが目立ち、ところどころ意味の不|明瞭《めいりょう》な所があった。そしてラニヨンとの不和はとり返しのつかないものだと書いてあった。
「わたしは自分の旧友を責めるつもりはない。しかし、われわれがお互いに二度と会ってはならないという点ではラニヨンと同じ意見だ。わたしは、今後、まったくの隠遁《いんとん》生活をするつもりだ。もしたびたび君に面会謝絶するようなことがあっても、驚いてはいけないし、わたしの友情を疑ってもいけない。どうかわたしにはわたし自身の暗い道を歩ませて欲しい。わたしは今、たとえようのない天罰と危害を自分の身に招いている。わたしは最も罪深い人間であると同時に最も悩める者だろう。これほどまでに勇気を失わせる苦痛と恐れがこの世にあり得るとは夢にも思わなかった。アタソン、わたしのこの運命を和らげるために君の為《な》し得ることはただ一つ、それはわたしの沈黙を尊重してくれることだ」
アタソンはびっくりした。──ハイドの忌まわしい影は消え、ジーキル博士はかつての仕事と親睦《しんぼく》を取り戻したのに。一週間前には、楽しく、名誉に満ちた晩年がやさしい微笑で行く手を照らしていたのに。それが、今やたちまちのうちに、友情も、心の平和も、彼の人生のあらゆる行路が破壊されてしまった。これほどにも大きな思いもかけぬ変化は狂気の沙汰《さた》としか思えなかった。──が、ラニヨンの態度と言葉から考えるに、これには何かもっと根深い理由がありそうだった。
一週間後にラニヨン博士は床に就き、二週間と経たぬうちにこの世を去った。悲しい葬式の済んだ日の夜、アタソンは事務室の扉に錠を下ろし、陰鬱《いんうつ》なロウソクの明りの側にすわって、一通の封筒を取り出して前に置いた。それは死んだ友が自ら宛名を書き、封緘《ふうかん》したものであった。〈親展。J・G・アタソン自ら開封のこと。もし万一氏が先立ちて死亡せるときは、開封せずして破棄せられたし〉と但し書きがついていた。弁護士は内容を見るのが恐ろしかった。
「今日ラニヨンが逝《い》ってしまった。もしこの手紙を読んだために、もうひとりの友人を失うようなことになったらどうしよう」
だが、こんなふうに恐れるのは友人に対する裏切りだと思い直して、彼は封を切った。中にはもう一つの封筒があり、同じように封がしてあって、表に〈ヘンリー・ジーキル博士の死亡または失踪《しっそう》のときまで開封せざること〉としたためてあった。アタソンは自分の目を疑った。またもや失踪だ。ずっと以前にジーキルに返した例の気違いじみた遺言状と同じように、ここにもまた失踪のことが記されている。それもヘンリー・ジーキルの名と結びついて。しかし、あの遺言状の場合は、失踪の考えは、ハイドの忌《い》まわしい指図によるもので、明らかに身の毛もよだつ意図のもとに書かれていたのであった。ところで同じことがラニヨンによって書かれるとは、一体どういうわけであろうか? アタソンは強い好奇心にかられて、禁制を無視してでもこの秘密の真相を明らかにしたいと思ったが、職業上の名誉と亡《な》き友に対する信義は、冒してはならぬ重大な義務であった。かくてこの封筒は彼の私用金庫のいちばん深くにしまいこまれた。
好奇心を抑えるのは、それに打ち勝つのと別の問題である。その日以来、アタソンが生き残っている友人ジーキルとの交際を以前のように熱心に求めたかどうかは疑わしい。彼はやはりジーキルに好意をもってはいたが、今はその気持ちに、不安と恐れが混じっていた。事実、彼はジーキルを訪ねて、面会を断わられたが、かえってほっとしたようである。自ら好んで閉じこもっている男の家へ通されて、わけのわからぬ世捨て人と話すよりも、むしろ広々した都会の空気とざわめきに囲まれて、玄関先でプールと話をするほうがよい、と内心思っていたようである。もっともプールが、愉快な話題を伝えてくれるという訳でもなかった。博士は以前にもまして、実験室の上の書斎に閉じこもって、時にはそこで夜を明かす事もあるらしかった。博士は元気もなく、無口になり、読書もしなかった。何か気にかかることがあるようすだった。いつも同じ報告を聞かされるので、アタソンの足も次第に遠のいていった。
窓辺のできごと
たまたまある日曜日にアタソン氏はいつものようにエンフィールド氏と散歩していたが、ふたたび彼らの足はあの裏通りへ向いた。そして二人はちょうどあの扉の前へ来たとき、足を止めて、まじまじと眺めた。
「ねえ、あの話にも|けり《ヽヽ》がつきましたね。ハイドを見ることもけっしてないでしょう」
とエンフィールドが言った。
「そう願いたいね。前に君に言わなかったっけか? あの男を見たとき、君と同じようにぞっとしたってことを?」
「あいつを見れば、だれだってぞっとしますよ。ところで、これがジーキル博士の家の裏口だってことを知らなかったなんて、なんて間抜けな奴だと思ったでしょうね。わたしがやっと気づいたのも、幾分かはあなたのおかげですよ」
「では君にもわかったんだね。それじゃ路地をはいって、ちょっと窓をみてみようじゃないか。実を言うと、ジーキルのことが気がかりでね。窓の外にしろ、友人がいてやるということが、彼のためになるような気がするんだよ」
路地は冷《ひ》えびえとして、少し湿っぽかった。空は頭上高く、夕映えでまだ明るかったが、この路地にはもう黄昏《たそがれ》の色がたちこめていた。三つあるうちの真ん中の窓が半開きになっていた。アタソン氏は、その窓辺に、しょんぼりした囚人のように、限りない悲しみの面持ちで外気に当たっているジーキル博士をみとめた。
「やあ! ジーキル! 少しはよいかい」
「どうも元気が出なくてね。アタソン。とても悪いんだ。しかし、ありがたいことにこれもそう長くは続くまいと思うよ」
と、博士はもの淋《さび》しげに答えた。
「君はあまり内に籠《こも》り過ぎるんだよ。出て来て、エンフィールド君やぼくのように、血の循環をよくすることだよ。ちょっと紹介しよう。これは僕の従弟のエンフィールド君、あちらがジーキル博士、さあ、帽子をかぶって来たまえ。いっしょにひとまわり元気よく散歩しようじゃないか」
「親切にありがとう」
博士はため息まじりに答えた。
「そうしたいのはやまやまなんだが。いや、いや、とても無理だ。そんな元気はない。でもアタソン、君に会えてほんとうにうれしいよ。まったくこの上なくうれしい。君とエンフィールド君に上がってもらいたいんだが、場所がこんな所だから」
「なあに、ぼくたちはここでいいんだ。ここから君と話すのが何よりだよ」
と、弁護士は愛想《あいそう》よく言った。
「わたしもそう願おうと思っていたんだ」
と、博士は笑いながら言葉を返した。しかしそう言い終わるか終わらぬうちに、博士の顔から微笑が消えて、見るも凄《すさ》まじい恐怖と絶望の表情に変わったので、下にいた二人の紳士は全身の血が凍るような気がした。窓がすぐにぴしゃりとしめられたので、博士の形相をちらりと見ただけだったが、それだけで十分だった。彼らはむきを変え、一言も言わずに路地を離れた。そしてやはり黙ったまま、横町を通り抜け、日曜日でもなんとなく活気のある近くの大通りへ出たときはじめてアタソン氏はふり向いて同伴《つれ》の顔を見た。二人ともまっさおで、眼にも同じ恐怖の色を浮かべていた。
「ああ困ったことになった。たいへんなことになった」
と、アタソン氏は言ったが、エンフィールド氏はひどく生真面目《きまじめ》な顔をしてうなずくだけで、また無言のまま歩き続けた。
最後の夜
ある晩、アタソン氏が夕食後暖炉の側にすわっていたとき、突然プールが訪ねてきた。
「おや、プール、どうしてまたここへ?」
彼はプールを見直してふたたび聞いた。
「どうしたのだ? 博士が悪いのか?」
「アタソン先生、どうも少し変なのです」
「まあすわりなさい。ここに葡萄《ぶどう》酒があるよ。落ちついて、どんなことかはっきり話してごらん」
「ご存知のように博士はああいう方で、まったく外に出られません。それがまた近ごろ、書斎に閉じこもったままなのでございます。どうも気になって気になって仕方ないのです。アタソン先生、わたしは心配でなりませんのです」
「おい、はっきり言いなさい。何がそんなに心配なのだね?」
「わたしはここ一週間心配のしどおしで、もうがまんなりません」
プールは質問には全然無頓着に答えた。
その言葉がどうやら嘘《うそ》ではないことは、明白であった。ますます不安がつのる様子で、はじめに恐怖を打ち明けたとき以外は、まともに弁護士の顔を見なかった。今も、葡萄酒のコップに口をつけないで膝《ひざ》に載せたまま、床の一隅を見つめていた。
「もうとてもがまんできません」
と、彼は繰り返した。
「さあ、話してごらん。何かわけがあるんだろう。プール、何かとてつもないことがありそうだね。それを聞こうじゃないか」
「人殺しがあったのじゃないかと思うんです」
と、プールはかすれ声で言った。
「人殺し!」
弁護士は仰天して叫び声をあげ、もうじっとしていられなかった。
「どんな人殺しだ? いったいお前は何を言ってるんだ!」
「わたしには申し上げられません。どうぞわたしといっしょにおいでになって、ご自分で見ていただけないでしょうか?」
アタソンはものも言わずに立ち上がると、帽子と外套《がいとう》を取った。だが執事の顔にありありと浮かんだ安堵《あんど》の色をみてこれは徒事《ただごと》ではないと思った。また出がけにプールが葡萄酒を口もつけずに下に置いたのにもその感は深められた。
蒼白《あおじろ》い月が風に吹き倒されたかのように横たわり、透明な寒冷紗《かんれいしゃ》のような雲がちぎれちぎれに飛んでいた。風の強く、寒い、三月の夜であった。風が強くて話もできず、顔には寒さのために赤い斑点《はんてん》ができた。風に吹き払われたかのように、通りに人影もなく、アタソン氏は、ロンドンのこの界隈《かいわい》がこれほどまでにうら淋《さび》しいようすをしているのを見たことがないと思った。彼は淋しくてやり切れなかった。彼はこれほどまでに人が恋しいということを今まで経験したことはなかった。どんなに払いのけようと努めても、何か災厄《さいやく》が落ちかかってくるような気がしてならなかった。例の四つ角までくると、風と埃《ほこり》が一面に舞っていて、庭の細い立ち木は柵《さく》にそって鞭《むち》のようにひゅうひゅうとしなっていた。ずっと二、三歩先を歩いていたプールはここまで来ると、道の真ん中で立ち止まって、身を切る寒さにもかかわらず、帽子を脱ぎ、赤いポケット・ハンカチで額を拭った。しかしそれは急いで来たためにかいた汗を拭ったのではなく、身を締め付けるような苦悶から滲《にじ》みでた脂汗を拭ったのである。実際彼の顔は血の気がなく、声はかすれて、とぎれがちであった。
「さあ、先生、着きましたよ。なにとぞ変わったことがありませんように!」
「アーメン、プール」
と、弁護士は言った。
それからプールが注意深く扉を叩いた。すると扉は鎖のついたまま少し開いて中から、
「プールさんかい?」
という声がした。
「そうだよ。あけとくれ」
と、プールは言った。
彼らがはいってみると、広間は皓々《こうこう》と照らされて、暖炉の火は勢いよく燃えていた。そして暖炉のまわりに、家中の召使が、男も女も、羊の群れのように寄り集まっていた。アタソン氏を見ると女中はヒステリックにしくしく泣きだした。料理番の女は、
「ああ、ありがたい! アタソン先生だわ!」
と叫んで、抱きつくように走り寄って来た。
「いったいどうしたんだい! みんなここにいるのかい?」
弁護士は気むずかしい顔をして言った。
「だらしがないぞ、みっともない、ご主人が気を悪くなさるぞ」
「みんなこわがっているのです」
とプールが言った。
言いわけする者もなく、水を打ったように静かになった。ただ女中だけが声を上げておいおい泣きだした。
「うるさいぞ!」
と、プールは彼女を叱りつけたが、その激しい語調からみて、彼自身いらだっているようだった。実際女中が突然大声をはりあげて、泣き出したときには、みなぎょっとして、恐ろしいものを待ちうけているような顔つきで、いっせいに奥の扉のほうを見た。
「おい、ロウソクを持ってこい、すぐにこの仕事を片づけよう」
プールはナイフ研ぎのボーイにそう言いつけると今度はアタソン氏に、彼の後をついてくるように頼み、裏庭へ出て行った。
「さて、先生。できるだけ静かに来てください。先生に聞いてもらいたいので、逆に先生の足音を聞きつけられるとまずいのです。いいですか、もし万一先方ではいれと申しましても、はいらんように願います」
思いがけないことの成り行きに、アタソンはびっくりして、気も動転せんばかりであったが、気をとり直して、執事の後から、実験室に入っていった。木枠や壜《びん》などのがらくたの散らかっている外科教室を通り、階段の下まできた。そこでプールは彼に隅のほうに身を寄せて、耳を澄ましているよう身ぶりで示し、自分は、ロウソクを下に置き、傍目《はため》にもわかるほど必死に勇気をふるい起こしながら、階段を登って書斎の扉の赤い羅紗《らしゃ》の上をいくらかおどおどした手つきで叩いた。
「旦那《だんな》様、アタソン先生がお目にかかりたいと申しております」
彼はそう言いながらも、もう一度弁護士のほうを向いて、耳を澄ますよう懸命に合図した。
部屋の中から声がした。
「だれにも会えないと伝えなさい」
不|機嫌《きげん》そうな声だった。
「はい。承知いたしました」
と、プールは答えたが、その声はいくらか勝ち誇ったような調子をおびていた。彼は燭台を取って、アタソン氏を導き、裏庭を通り、広い台所へ来た。台所には火の気がなく、甲虫が床の上を跳びはねていた。
「ねえ、先生。あれがうちの旦那様の声でしょうか?」
「ずいぶん変わったようだね」
弁護士は青ざめて、それでもプールの顔をみて答えた。
「変わった? ええ、そうですとも、わたしもそう思います」
と、執事は言った。
「二十年もこの家に仕えてきたわたしが旦那様の声を聞き違えるなんてことがあるでしょうか? いいえ旦那様は殺されなさったのです。八日前に神の御名を呼んで、喚《わめ》いていらっしゃったとき殺されなさったのです。今代わりにあの部屋にいるのはだれなのか、なぜあそこにいるのかは神様だけがご存知なのです。アタソン先生!」
「これは実に奇怪なことだ。プール、突飛《とっぴ》な話だ。お前の言うとおり、ジーキル博士が殺されたとして、いったいなぜ犯人が、いつまでもあそこでぐずぐずしているんだろう? それでは辻褄《つじつま》が合わないよ。理屈では考えられない」
と、アタソン氏は指を噛《か》みながら言った。
「まあ、先生、先生ときたらなかなか納得なさらないのですね。ではよくお話いたしましょう。ここ一週間ばかりというもの、人間だか化け物だか、ともかくあの書斎にいるものが朝から晩まである薬を欲しがって喚き散らすのですが、まだ気に入ったのが手にはいらないのです。紙片に用を書きつけて階段に投げ出して置くのがあの人の――あの人とは旦那様のことですが──習慣だったのですが、ここ一週間はもうそればかり、ただ紙を出しておくだけで、扉はしめ切り、食事もあそこに置いておくと人目のないときにこっそり持ち込むと言ったふうなのです。そして毎日、いや、一日に二度も三度も注文と小言があって、わたしは町中の薬屋という薬屋を駆《か》けずりまわっているのです。薬品を持って帰ってくると、今度はそれは純粋じゃないから返して、別の店へ行けと出ている始末です。何のためかは知りませんがとてもその薬を欲しがっているのですよ、先生」
「その書きつけというのを持っているかね?」
と、アタソン氏がきいた。
プールはポケットをまさぐって、しわくちゃの紙片を取り出した。弁護士はそれを受け取って、ロウソクのほうへ身をかがめ、注意深く調べた。文面にはこう書かれていた。
「ジーキル博士よりモウ商会に敬意を表す。先刻の品は不純でありますので、小生の目下の用途には合いかねます。一八――年小生は貴店からかなり多量に買い求めたことがあります。なにとぞ念入りにお捜しくださって、もし、万一同じ品が残っていましたら、すぐに小生までお送りください。費用はいくらかかってもかまいません。この品は小生にとり、この上もなく貴重なのであります」
手紙はここまでは落ちついた筆つきで書いてあったが、それからは急に乱れて、博士の感情の乱脈を物語っていた。
「後生《ごしょう》だ。何とか前の品をみつけてくれ!」
と、つけ加えられていたのである。
「これは奇妙な手紙だ」
と、アタソン氏は言い、それから鋭く、
「なぜお前はこれを開封したんだ?」
とたずねた。
「モウの店の者がたいへん腹を立てましてね、先生、それを塵芥《ちりあくた》のように投げ返したのですよ」
と、プールは答えた。
「これは確かに博士の筆跡だな。そうだろう?」
と、弁護士は言葉を継いだ。
「わたしもそう思いました」
と、プールはいささかむっつりして答えたが、また語調を変えて言った。
「筆跡などはどうでもよろしいではないですか、わたし自身その男を見たことがあるんですよ!」
「彼を見たって! それで」
「そこなんですよ! こういう次第なんです。あるとき、わたしが庭から階段教室へだしぬけにはいったことがあるんです。書斎の扉が開いていて、彼はどうも書斎から出て薬か何かを捜していたようです。彼は室の向こうの隅でがらくたの間を捜しまわっていました。わたしがはいると、こちらを見て叫び声を上げ、階段をかけのぼったかと思うと書斎の中に消えました。わたしが彼を見たのはほんの一瞬でしたが、ぞっとして身の毛がよだったのです。先生、もしあれがわたしの旦那《だんな》様だとすると、なぜマスクなんかつけていたんでしょうね? それになぜ鼠のような声を出して、わたしから逃げたんでしょうね? わたしはあの人にずいぶん長いこと仕えました。それに……」
そこまで言うと、執事は声をのんで、手で顔を蔽《おお》った。
「まったく不思議なことばかりだ。しかしどうやら読めてきたぞ。プール、お前のご主人は激しい苦痛のために顔かたちまで変わってしまうような病気に罹《かか》っていられるんだよ。わたしの知る限りでは声が変わったのも、マスクをしているのも、友人を避けるのも、そのためだよ。かわいそうに何とか回復しようと夢中になって薬を捜しているんだ。神よ願わくは彼が救われんことを! ぼくの推量は、まあこんな具合だ。たしかに痛ましい。いや、考えるだに恐ろしいことだが、プール、こう考えれば、筋道は明らかになるし、辻褄《つじつま》が合ってくる。そんなにひどく驚くこともないじゃないか」
「先生」
プールの顔はまだらに青ざめていた。
「あれは旦那《だんな》様ではございません。ほんとうです。わたしの旦那様は──」
ここで彼はあたりを見まわしてから、声をひそめて続けた。
「わたしの旦那様は背の高いがっちりした人ですが、わたしが見たのはたいへん小さな男でした」
アタソンが何か文句をつけようとすると、プールは声を高めた。
「いいえ、先生、二十年も奉公して来たわたしに、旦那様の見わけができないとお考えですか? 毎朝書斎で見ていながら、旦那様の頭が扉のどのへんまで届くかぐらい知らないとでもお考えですか? いいえ、あのマスクの男は断じてジーキル博士ではございません。だれだかはわかりませんがジーキル博士でないことは確かです。あそこで人殺しがあったとわたしは固く信じております」
「プール、お前がそうまで言うなら、ぼくとしてもどうしても突きとめなければならない。お前のご主人の感情を害したくないのは山々だし、この手紙も不審な点ばかりだが、どうやらこれを読むとまだ生きているらしい。あの扉をぶち破ってはいってみるべきだと思うのだが」
「ああ、アタソン先生、それはごもっともでございます」
「ところで次の問題は、だれがやるかということだ」
「もちろん、先生とわたしで」
と、プールは臆《おく》せず答えた。
「よく言ってくれた。どうなろうともわたしはお前に迷惑はかけないからね」
「階段教室に斧《おの》があります。先生は台所の火かき棒をお持ちください」
弁護士はその不細工《ぶさいく》な重い道具を手に取って振ってみた。
「プール、わかっているだろうな。わたしたちはこれから少々危険な所へ乗り込むんだ」
「まったくそのとおりでございます」
と、執事は答えた。
「ではお互いに腹蔵なく話したほうがよいだろう。二人とも心の中で考えてまだ口にしてないこともあるようだから、胸をわって話そうじゃないか。お前の見たというマスクの男に見覚えはなかったのかい?」
「ええ、先生、そいつは足が速くて、ひどくからだを曲げておりましたので。確《しか》とは言えないのですが、ハイドさんではないか? とおっしゃるなら、わたしもそう思います。からだの大きさも同じくらいですし、すばしっこくて身軽な点も似ていました。それに実験室の扉から出入りできるものと言っては、ハイドさん以外にいないのですから。人殺しのあったときも、やはりあの男は鍵を持っていたことを先生は覚えていらっしゃいますか? それだけではございません。アタソン先生はハイドさんに会ったことがおありですか?」
「あるよ。一度話したことがある」
「それならわたしどもと同様ご存知のはずですが、あの方にはどこか普通でない──人をぎくりとさせるようなところがございます。これ以上、なんと申し上げてよいやら。先生だって、骨の髄《ずい》までこう何かぞっとなさったでしょう」
「そうだ、お前の言うとおりだ」
「まったくそうなんでございます。あの猿のようなマスクをした奴が薬品の間から飛び出してあっという間に書斎に駆け込んだとき、まるで冷水でもかけられたように身の縮む思いがしました。ああ、アタソン先生、それが何の証拠にもならないことくらい、わたしだって知っています。それくらいはわたしも理屈をわきまえております。しかし人には感じというものがございます。聖書に誓って申しますが、あれはハイドさんです」
「うんうん、ぼくもそう思うね。あの二人の関係から何かよくないことが起きたんだ。そうなるのも道理だよ。うん、まったくお前の言うとおりだ。かわいそうにハリーはきっと殺されたんだ。そしてどんな目的でかわからないがおそらくは犯人はジーキルの室にまだ潜《ひそ》んでいるに違いない。よし敵《かたき》討ちだ。ブラッドショーを呼べ」
呼ばれてやって来た馬丁は青ざめてびくびくしていた。
「しっかりするんだぞ、ブラッドショー」
と、弁護士は励まして、続けた。
「こういう気がかりな状態がお前たちを不安にしていることはよくわかった。ひとつ皆で片をつけようじゃないか。ここにいるプールとわたしが書斎に押し入る。もし何も変わったことがなければ、わたしが責任をすべて引き受けよう。それから、何かやり損《そこな》ったり、犯人が裏口から逃げるといけないから、お前とボーイはめいめい頑丈な棒を持って、角をまわって実験室の戸口を見張ってくれ。十分待つから、さあ自分の持ち場へ行きなさい」
ブラッドショーが立ち去ると、弁護士は自分の時計を見た。
「さて、プール、ぼくたちもとりかかろう」
そう彼は言って、火かき棒を小脇にかかえて先に立って裏庭へ出た。飛び雲が月にかかり、あたりはまっ暗闇《くらやみ》であった。ときおり風が起こり、この建物に囲まれて奥まった裏庭へも隙間《すきま》風がはいってきて、彼らの足もとを照らすロウソクの明りをちらちらさせていた。やがて彼らは階段教室にはいると腰を下ろしてじっと待っていた。
ロンドン市のざわめきが四方から伝わってきたが、彼らの身辺はしんとしていて、わずかに書斎の床をこつこつ歩きまわる足音だけが聞こえていた。
「あのように一日中歩きまわっているのでございますよ、先生」
とプールはアタソン氏にささやいた。
「昼だけでなく、夜もあの調子なのです。ただ新しい薬が薬屋から届いたときは、足音もちょっと止むのですが。ああまで落ちつけないのは良心が咎《とが》めるからですよ! あの一歩一歩には忌《い》まわしい血がつきまとっているのです。注意なさってください。もっと近くへ寄って耳を澄ましてお聞きください。アタソン先生。あれが博士の足音でございましょうか?」
その足音はゆっくりしていたが、どことなくはずんだ、軽快で奇妙な響きがあった。それはヘンリー・ジーキルの重くきしむような足音とはまったく違っていた。アタソンはため息をもらした。
「他に変わったことはないのか?」
プールはうなずいた。
「一度、一度だけあいつが泣いているのを聞きました!」
「泣いていたって! どんなふうに?」
背筋に冷たいものを感じながら弁護士は訊いた。
「女か、浮かばれない亡者《もうじゃ》のような声で泣いていました。それを聞いて帰ってくるわたしも泣き出したいくらいでした」
しかしやがて予定の十分も終わりに近づいてきた。プールは、積み重ねた詰め藁《わら》の下から斧《おの》を取り出し、二人が突撃するときよく見えるように燭台をいちばん近くのテーブルの上に置いた。それから彼らは息を殺して、夜のしじまを、止むことなくあっちこっちと行き来している足音のほうへと近づいた。
「ジーキル!」
アタソンは大声で怒鳴《どな》った。
「君にぜひとも会いたいんだ」
しばらく待ったが、何の答えもなかった。
「前もって公正に断わっておくが、ぼくたちに腑《ふ》に落ちないことがあるので、どうしても君に会わなければならないのだ」
彼はさらに言葉を継いだ。
「公正な手段でだめなら、非常手段を用いるぞ。もし君の同意が得られないのなら、暴力も止むを得ないだろう!」
「アタソン、どうか勘弁《かんべん》してくれ!」
と、声がした。
「あ! あれはジーキルの声じゃない。ハイドだ!」
アタソンは叫んだ。
「扉をぶちこわせ。プール」
プールは肩越しに斧《おの》を振り上げた。彼の一撃は、建物全体を揺がした。赤い羅紗《らしゃ》張りの扉は錠前と蝶番《ちょうつがい》に当たって跳ね上がった。叫び声が中から聞こえた。それは怯《おび》えた獣の咆哮《ほうこう》のようだった。斧がふたたび振り上げられ、鏡板が砕かれ、枠板が跳んだ。斧は四度振り下ろされたが木が堅いのと金具がしっかりしていたので、五度目になってやっと錠前が打ち切れ、扉の残骸が室の内側の絨毯《じゅうたん》の上に倒れた。
二人は、自分らの乱暴と、その後の静けさに思わず息をのみ、たじろぎながらのぞきこんだ。彼らの目前には穏やかなランプの光に照らされた書斎があった。暖炉には火が明るく音を立ててもえ、やかんは低い音をたてて沸《たぎ》っていた。引き出しが一つ二つ引き出され、書類がきちんと事務机の上に整えられており、暖炉の側には茶道具が用意されていた。静かな部屋だった。薬品類のいっぱいにはいっているガラス戸棚さえなければ、ロンドン中のどこにもある平凡な部屋にすぎなかったろう。
部屋のちょうどまん中に、ひどく歪《ゆが》んで、まだぴくぴく動いている男の死体が横たわっていた。彼らは爪先立ちで近より、その男を仰向けに返してみると、そこにエドワード・ハイドの顔を認めたのである。ハイドは彼には大きすぎる、博士の身丈ほどもある服を着ていた。顔の神経はまだ生きているかのようにぴくぴく動いていたが、息はすでに絶えていた。片手に握っている薬|瓶《びん》とあたりに漂っている強い杏仁水《きょうにんすい》の臭いから、アタソンは、この男が自殺したことを見てとった。
「遅すぎた」
アタソンは厳しい口調で言った。
「救うにしろ、罰するにしろ遅すぎた。ハイドはとうとう往生《おうじょう》を遂げたんだ。こうなった以上、あとはお前のご主人の死体を見つけることだ」
この建物の大部分は階段教室と書斎から成っていた。階段教室は一階のほとんどを占め、天井から明りが採ってあったが、一方書斎は二階の隅にあって裏庭に面していた。廊下が一つあって教室と横町に面した例の扉を結び、また書斎は別の階段で扉に通じていた。この他に二、三の物置きと広い地下室が一つあった。これらのすべてを彼らは隈《くま》なく調べた。物置きはどれも空《から》で、あけると扉から埃《ほこり》が落ちて、永いこと使われていないことが明らかだったので一目見れば十分だった。地下室は、ジーキルの前に住んでいた外科医のときから使われておらず今にもこわれそうな|がらくた《ヽヽヽヽ》でいっぱいだった。しかし扉をあけたとき、彼らはそれ以上調べても無駄だということがわかった。というのはおそらく何年も入り口を閉ざしていたに違いないマットのような蜘蛛の巣が落ちてきたからである。生きているにしろ、死んでいるにしろヘンリー・ジーキルのいるようすはどこにもなかった。
プールは回廊の敷石を踏んでみた。
「旦那《だんな》様はこの下に埋められているにちがいない」
そう言いながら、彼は音に耳を傾けた。
「それとも逃げたのかも知れない」
と、アタソンは言って、横町へ出る扉を調べに行った。それは錠が下りていて、すぐ側の敷石の上に錆《さ》びついた鍵が落ちていた。
「どうも使えそうもないな」
と、弁護士は言った。
「使うですって! 先生、ほらこわれていますよ。だれか踏みつけたようです」
と、プールが鸚鵡《おうむ》返しに言った。
「なるほど。それにこわれたところも錆びついている」
二人は驚いて顔を見合わせた。
「どうもわたしにはわからんよ、プール。書斎へ戻ろう」
彼らは無言のまま階段を登り、ときどき死体のほうを恐ろしそうに見やりながら、書斎の中をもっとよく調べ始めた。一つのテーブルの上には化学の実験をした形跡があり、白い塩《えん》類がさまざまの分量にガラス皿に盛られていた。実験の途中、この不幸な男にじゃまがはいって、中止しなければならなかったようすである。
「あれはわたしがいつも買ってまいった薬なのです」
と、プールが言った。そのとき、薬罐《やかん》がびっくりするような音をたてて沸《わ》きこぼれた。
そこで彼らは暖炉のほうへ行ったが、そこには安楽椅子が居心地よく置かれ、茶道具は椅子からすぐ取れるようになっており、茶碗《ちゃわん》の中には砂糖までいれてあった。棚の上には数冊の本が並べられ、一冊は茶道具の側にあけてあった。アタソンはそれがジーキルがかつて幾度も激賞していた宗教書であるのを知って愕然《がくぜん》とした。というのは今見るとその余白にジーキルの自筆で冒涜《ぼうとく》的な言葉が書き散らしてあったのである。
次に部屋を調べているうちに、彼らは姿見の所へやって来たが、その奥をのぞき込んで、思わずぎょっとした。しかしそれは向きの加減で天井にゆらめくばら色の明りと、戸棚のガラス戸にいくつも反射してきらきら光る暖炉の火と、彼ら自身のかがんでのぞき込んでいる恐怖に青ざめた顔を映していたのである。
「この鏡はいろいろと怪しいものを映したことでございましょうね、先生」
と、プールがささやいた。
「それよりも、ここに鏡があること自体、そもそも不思議だ」
アタソン氏も小声で言った。
「なんだってまたジーキルは――」
そこで彼ははっとして息をのんだが、また勇気を出して言った。
「ジーキルはこの鏡でどうしようとしたんだろう?」
「さようでございますね」
と、プールが答えた。
それから彼らは事務机のほうへ行ってみた。机には、きちんと整理された書類のいちばん上に、大き封筒が載せてあり、おもてには博士の自筆でアタソン氏の名が記してあった。弁護士がそれを開封すると、数通の同封書が床の上に落ちた。最初の一通は彼が六か月前ジーキルに返したのと同じようなとっぴな条項を認《したた》めたもので、博士の死亡の場合は遺言状として、失踪《しっそう》の場合は財産譲渡証書として効力を発するものであった。しかしエドワード・ハイドの代わりにゲイブリエル・ジョン・アタソンの名があるのを見て、弁護士は茫然《ぼうぜん》とした。彼はプールを見、それから書類を見返し、最後に絨毯《じゅうたん》の上に伸びている死体を見た。
「頭がぐらぐらする」
彼は言った。
「この男はずっと何かに憑《つ》かれていたんだ。ぼくに好意を持っていたはずはないし、自分の名が書き代えられているのに腹が立ったに相違ないのだ。それなのにこの証書を破らなかったのはどういうわけだろう」
アタソン氏は次の書面を取り上げた。それはやはり博士自筆の簡潔な手紙で上部に日付けが書いてあった。
「おお、プール! 博士は生きていたんだ。今日もここにいたんだ。まさかちょっとの間に殺されるはずはないものな。彼は生きている。きっと逃げたんだ。しかしなぜ逃げたのだろう。どこから逃げたんだろう。そうだとするとこの自殺を発表するのは考えものだぞ。慎重にしなくては。この先、お前のご主人を恐ろしい破滅に巻き込まないとも限らないからね」
「それをお読みになったらどうですか、先生」
と、プールが催促《さいそく》した。
「恐ろしいんだよ」
弁護士は沈痛な口調で答えた。
「どうか恐ろしいことが書いてありませんように」
そう言いながら、彼は手紙を眼もとに近づけて読み始めた。
親愛なるアタソン君へ──この手紙が君の手に渡るころには、わたしは姿を消しているだろう。いかなる事情のもとにか、今から予測はできない。しかしわたしの直観と、わたしを取り囲むこの名状しがたい状況からみて、わたしの最期がまぢかに迫っていることは確かだ。したがってまずラニヨンが君に渡すと言っていた手記を読んでくれたまえ。もしもなお詳細が知りたければ、わたしの懺悔録《ざんげろく》を読んでくれたまえ。
君の不肖にして不幸なる友
ヘンリー・ジーキル
「もう一通あったね」
と、アタソンは聞いた。
「ここにございます」
と言って、プールは、数か所を封印したかなり厚い包みを手渡した。
弁護士はそれをポケットに納めた。
「ぼくはこの書類については何も言わないつもりだ。お前のご主人が逃げたにしろ死んだにしろ、少なくとも彼の名誉は傷つけないようにしよう。もう十時だね。帰って静かにこの手紙を読まなければならない。だが十二時前には戻ってくるから、そのとき、警察を呼ぶことにしよう」
ふたりは教室に鍵をかけてそこを出た。アタソンは、広間の暖炉のまわりに集まっている召使たちをふたたび後に残して、この謎を秘めた二通の手記を読むために、彼の事務所へとぼとぼと帰って行った。
ラニヨン博士の手記
今から四日前の一月九日にわたしは一通の書留を夕方の配達で受けとった。その差出人は、わたしの同僚で古い同窓でもあるヘンリー・ジーキルであった。わたしはたいへん驚いた。というのはわれわれはそれまで手紙などやりとりしたことがなかったのである。前の晩、彼に会っていっしょに食事をしたばかりで、それにわざわざ書留で伝えるようなことは、われわれの関係ではとても考えられなかった。手紙を読んで、わたしはますます訝《いぶか》しく思った。文面には次のように書かれていた。
一八――年十二月十日
親愛なるラニヨン、──君はわたしのいちばん古い友人の一人だ。ときには学問上の問題で意見を異にしたこともあったが、少なくともわたしの覚えているかぎりでは二人の友情にひびがはいったことはないと思う。もし君がわたしに向かって〈ジーキル、わたしの生命、わたしの名誉、わたしの理性はすべて君にかかっている〉と言ったら、わたしはいつでもわたしの財産と左腕を君を助けるために差し出したであろう。ラニヨン、わたしの生命、わたしの名誉、わたしの理性は、いま君の友情にかかっているのだ。もしも今晩君がわたしを助けてくれないと、わたしは万事休するのだ。こんな前置きを読むと、君に何か不名誉なことをお願いするのではないかと思われるかもしれないが、それは君自身で判断してくれたまえ。
今夜、ほかにどんな約束があろうとも、たとえ国王からのお召しがあろうとも、延期して欲しい。いま君の馬車が玄関先になかったら、辻馬車を使ってくれたまえ。そして念のためこの手紙を持ってまっすぐにわたしの家へ駆《か》けつけてもらいたい。わたしの執事のプールに言いつけておいたから、錠前屋といっしょに君の到着を待っているだろう。わたしの書斎の扉をこじあけて、君一人で中にはいって欲しい。もし鍵がかかっていたらこわしてもいいから、左手のEという印《しるし》のついたガラス戸棚をあけ、上から四番目、あるいは下から三番目──どっちでも同じことだが――の引き出しを中身《ヽヽ》そのまま引き出してくれたまえ。わたしはノイローゼ気味なので、君に間違った指示をしていやしないかと不安でいたたまれないが、もしわたしのこの指示が間違っていても、君がその中身をみれば正しい引き出しがわかるだろう。そこには、散薬と薬|瓶《びん》と手帳が一冊はいっている。この引き出しをそっくりそのままキャヴェンディシュ街の君の家へ持ち帰ってくれたまえ。
以上が頼みたい第一の用件だ。さて第二の用件に移ろう。もしこの手紙を受けとってすぐ出かけてくれれば、十二時前には帰れるだろう。しかし十二時までの時間を余裕として残しておこう。不測の避けられない事故を恐れてそうするというより、君の使用人が床についてからの一時間がその後の仕事のために都合がよいからだ。そして十二時ごろ君の診察室に一人でいてもらいたいのだ。わたしの使いの者が行ったら、君はじかに内へ通して、例のわたしの書斎から持って行った引き出しを渡してくれたまえ。それで君の役割は終わりだが、無事に果たしてくれたならわたしは大いに感謝する。もし君が強いて説明を求めるなら、それから五分たてば、以上の手筈《てはず》の至極重大なことがわかるだろう。この手筈は奇異に思えるかもしれないが、その一つでも怠れば、わたしは死ぬか発狂するかして、君は良心の呵責《かしゃく》を招くことになりかねない。
君がわたしの願いを軽視するようなことはないと確信しているが、もしそんなことになればと考えただけで心は沈み、手が震えて仕方がない。どうか、今この時刻にも、奇妙な場所で、想像も及ばぬ暗い不安に苛《さいな》まれているわたしのことを考えてくれたまえ。君がきちんとわたしの用件を果たしてくれたら、わたしの苦しみは昨日の夢のように消えてしまうだろう。親愛なるラニヨン、わたしに力を貸して、救ってくれ。
君の友なる H・J
追伸。すでにこの手紙を封じてしまったが、また新しい不安が襲ってきた。郵便局の都合から予期に反して、この手紙が明朝にならなければ君のもとに届かないことも考えられる。その場合は、ラニヨン君、その日のうちに都合のよいときを選んでわたしの家へ行き用件を果たしてくれたまえ。そして夜中の十二時にわたしの使いを待ち受けて欲しい。そのときはもう遅いかもしれない。もしもその晩、何事もなく過ぎ去ったら、ヘンリー・ジーキルはもうこの世にいないものと思ってくれたまえ。
この手紙を読んで、わたしはきっとジーキルは気が違ったのだと思った。しかし彼の発狂が疑う余地のない明白なこととわかるまでは、彼の要求に応じなければならないと思った。この戯言《ざれごと》の意味がよく理解できないだけに、事の重大性の判断がつかなかった。しかしこの切々と書いてある訴えを退けたら、わたしは容易ならぬ責任を負わされることになる。そこでわたしはテーブルから立ち上がると、辻馬車に飛び乗って、まっすぐにジーキルの家へ向かった。執事はわたしを待ち受けていた。彼もわたしと同時刻の配達で指示をしたためた書留を受けとり、すでに錠前屋と大工を呼びに使いをやっていた。われわれが話し合っているところへ、職人たちがやって来た。われわれはジーキルの書斎にはいるのにいちばん便利な、かつて、デンマン博士の使っていた外科教室へと揃ってはいって行った。扉は頑強で錠前も丈夫にできていた。大工はむつかしい仕事で、もし無理にあけようとすれば、相当こわさずには済むまいと言い、錠前屋は錠前屋で最初は手のつけようがなかったが、この男は器用な質《たち》で、二時間ばかり奮闘したあげく、とうとう扉が開いた。Eと印《しるし》のついた戸棚には鍵がかかっていなかった。わたしは引き出しを取り出し、藁《わら》を一ぱいに詰め込んだ上、敷布にくるんで、キャヴェンディシュ街へ持ち帰った。
家へ帰ってからわたしは引き出しの中身を調べてみた。散薬はかなり手ぎわよく包んであったが、薬剤師のやったようにはきちんとしていない点からみて、ジーキル自身がこしらえたものであることは明らかだった。包みの一つをあけてみると、白い単純結晶塩らしいものがはいっていた。次に薬|瓶《びん》をみると、血紅色の液体が半分ほどはいっていたが、鼻をつく強い刺激臭があり、燐《りん》と揮発性のエーテルを含んでいるようだった。他の成分が何であるかはわたしにもわからなかった。本というのは普通の雑記帳で、ただ日付けが連続して書いてあるだけであった。日付けは幾年間にもわたっていたが、約一年前くらいの所でまったく突然切れているのに気づいた。日付けの個所にところどころ簡単な言葉が書かれていたが、たいてい一語かそこらであった。総計数百もある書き込みの中に「二倍」という語がおよそ六回記してあり、リストの最初のほうにはいくつも感嘆符をつけた「全部失敗」という書き込みが一つあった。すべてこれらのことは、わたしの好奇心をそそったけれど、何のことだかいっこうわからなかった。
今ここにチンキのはいった瓶と、ある塩類を包んだ紙と、実際の役に立ちそうにもない──もっともジーキルのたいていの研究はみなそうだが――一連の実験記録がある。しかしこういったものがわたしの家にあったところで、それがいったい気まぐれな同僚ジーキルの名誉や理性や生死にどう関係するのだろう。使いの者をわたしの家にさし向けるくらいなら、なぜ自分の家へやれないのだろうか? それにはなんらかのさし障《さわ》りがあるにしても、なぜわたしがじかにこっそりと使いの者に会わなければならないのだろう? 考えれば考えるほど、わたしは精神病患者を相手にしているのだと確信するにいたった。わたしは一応使用人を寝かせてから、正当防衛の場合に備えて古い拳銃に弾を込めておいた。
十二時の鐘がロンドンの夜のしじまに鳴り止まぬうちに、扉を軽く叩く音がした。自分で出てみると、一人の小男が玄関の円柱に寄り掛かってうずくまっていた。
「ジーキル博士の使いの人ですね?」
と、聞くと、彼はぎこちない身ぶりで、
「そうです」
と答えた。中にはいるように言ったが、彼はすぐには従わず、ふり返って大通りの暗闇《くらやみ》のほうをうかがった。一人の警官が角灯を照らしながら、あまり遠くない所へやってきた。それを見るとわたしの訪問者はぎくりとして、たいそうあわてて家の中へはいってきたように思えた。
実のところ、彼の挙動を見てわたしは不快になった。わたしは彼の後ろから明るい診察室へ向かったが、その間もわたしの手は絶えず拳銃にかけられていた。部屋の中で初めて相手をはっきり見ることができたが、以前彼に会ったことがないことだけは確かだった。前にも言ったようにこの男は小柄だったが、それだけでなく、見る人をぞっとさせるような表情と、非常によく動く筋肉をもっていた。そして不思議なことにからだの明らかな衰弱も読みとれ、そして最後に、といっても重要な点だが──彼の側にいるとなんとなく不安になってくるのである。この不安は悪寒《おかん》の初期症状に似て、脈搏のいちじるしい低下を伴っていた。当座は特別な個人的嫌悪感に基づくものと考え、ただその徴候の激しさに驚いたが、後になってその原因が単なる好き嫌いということでなく、人間の本性に根ざした、もっと高貴な原理によるものであることを確信した。
この男は──このように、部屋にはいって来た瞬間からむかむかするような好奇心としか言いようのない感情をわたしに抱かせたが――普通の人なら吹き出したくなるような服装をしていた。すなわち、彼の服は上質の地味な生地のものであったが、あらゆる点で彼には馬鹿でかすぎた。ズボンはだぶだぶで、地面に着かぬよう捲《まく》しあげられ、上衣の胴まわりは臀部《でんぶ》の下まで垂れて、カラーは肩の上にぶざまに開いていた。奇妙なことに、この滑稽《こっけい》な身なりを見てもわたしは笑う気にはなれなかった。むしろ、現に向かい合っているこの男には本質的に何かこの地上に生まれるべきでないのに生まれて来てしまったような異常なもの──何かしら人の心を捉《とら》え、慄然《りつぜん》とさせ、反発を感じさせるもの──があったので、この鮮かな不釣り合いがかえってこの男と調和し、異様な効果を収めていた。そのために彼の本性や性格に対する興味だけでなく、彼の素性《すじょう》や、生活や、財産や、社会的地位にまで好奇心が湧いてきたのである。こういった観察は書くと長くなったが、ほんの数秒間にわたしの眼に映ったものにすぎない。訪問者は陰鬱な感じだが内心は興奮にいらだっていた。
「あれを持って来てくれましたか?」
彼は大声で繰り返した。
「あれを持って来てくれましたか?」
彼は焦《じ》れったそうに、わたしの腕に手をかけて揺すぶろうとさえした。
わたしは彼を突き離したが、そのときある冷たい戦慄《せんりつ》がわたしのからだを走った。
「まあ、君、まだ初対面のあいさつも済んでいないじゃないですか。どうぞ掛けてください」
わたしは自分から先に愛用の椅子に腰を下ろした。
日ごろ患者に接するときのような態度を装っていたが、夜も更《ふ》けており、いろいろな先入観と、相手に対する恐怖からなかなか平静にはなれなかった。
「どうも失礼しました、ラニヨン博士」
彼はたいへん礼儀正しく答えた。
「おっしゃるとおりです。気がせいていたのでたいへん失礼いたしました。わたしはあなたの友人、ヘンリー・ジーキルの依頼により、ある重大な用件でここへ伺った次第です。おそらく──」
ここで息をついで、彼は手を咽喉《のど》にあてたが、その落ちついた態度にもかかわらず、わたしは彼がヒステリーの発作を懸命におさえようとしているのを見て取った。
「おそらく引き出しは──」
しかしここでこの男の不安なようすが気の毒になったのと、自分の好奇心が募ってきたのも手伝って、
「ほら、君、あそこにありますよ」
と、言いながら、テーブルの後ろの床の上に、まだ敷布に覆《おお》われたままになっている引き出しのほうを指さした。
彼はやにわに引き出しに飛びついていったが、急に止まって、手を胸に当てた。彼の顎《あご》が痙攣《けいれん》するたびに、歯がぎしぎし鳴るのがわたしのほうまで聞こえた。彼の顔は見る目も恐ろしい形相になって、そのまま死んでしまうか、気でも狂うのではないかとわたしは不安になった。
「落ちつきたまえ」
と、わたしは言った。
彼はわたしのほうを向いて、背筋の寒くなるような笑いをもらしたが、それから死に物狂いで敷布を跳ねのけた。引き出しの中身を一目見ると彼はひどく安心したのか、声をあげてすすり泣くのであった。わたしはびっくりぎょうてんして身をすくめたまますわっていた。そして次の瞬間に彼はかなり平静を取り戻した声で、
「目盛りグラスはありますか?」
と、言った。
わたしはやっとの思いで力を奮い起こして席を立ち、彼の求めるものを渡した。
彼はにっこりうなずいて礼を述べ、赤いチンキを数滴|量《はか》ると、それに一服の散薬を混ぜた。その混合物ははじめは赤い色をしていたが、結晶塩が溶解するにつれて、鮮かな色合いをおび、音をたてて沸騰しながら、水蒸気の煙を発散し始めた。突然沸騰が止むと、混合物は暗紫色に変化し、やがて徐々に淡緑色に色あせていった。この化学変化をじっとくい入るように凝視していた彼は、にやりと笑ってガラス器をテーブルの上に置き、ふりかえると、わたしを探るかのようにじっと見た。
「さて」
と、彼は言った。
「あとの仕事にかかることにしよう。君はおとなしく聞きわけて、わたしの言うとおりにしてくれるかね? わたしがこのグラスを持って、これ以上何も言わずにここから出ていってもよいか、それとも好奇心が強すぎて聞かずにおれないか、君の決めるとおりにするから、よく考えて返事をするがいい。君の決心しだいによっては、君をそのままにしておいてやってもよいが。死ぬほど苦しんでいた男を助けてやったということは、君を金持ちにも、賢くもしないが心を豊かにするかも知れないね。それともお望みとあれば、知識の未知の領域や、名誉と権勢を得る新しい道を、今たちどころに、この部屋でお目にかけようか。悪魔の不信仰をも揺がすような奇跡に、君の目もくらむことだろうが」
「おい君」
わたしは内心それどころでなかったが、冷静を装《よそお》って言った。
「君の言うことはまるで判らん。わたしが君の言葉をあまり信用せずに聞いているのも無理はあるまい。わけのわからぬ君の頼みをここまでやってあげたのだから、最後まで拝見したいものだ」
「よろしい」
わたしの客は答えた。
「ラニヨン、その言葉を忘れるなよ。これからのことはわれわれの職業上の秘密に属することだ。君は長い間偏狭な物質主義の見解に捕われ、超自然的な霊薬の力を認めようとせず、先輩たちを嘲《あざけ》ってきたが、見るがいい!」
彼はグラスを口にもってゆくと、一息に飲み干した、かと思うと叫び声をあげ、彼はひょろひょろとよろめいてテーブルにしがみついて、血走った眼でじっと見|据《す》え、口を大きくあけて喘《あえ》いでいた。見るまに変貌《へんぼう》が起きて、彼のからだがふくらむように思えた。彼の顔が突然黒ずみ、目鼻が溶けて一変した。次の瞬間に、わたしはたち上がり、うしろの壁へとびすさって、この怪物から身をかばうために腕を振り上げた。わたしは恐ろしさのあまり茫然《ぼうぜん》としていた。
「なんということだ! なんということだ」
わたしは何度も叫んだ。わたしの前には、なんと顔面|蒼白《そうはく》、わななき震えながら、死からよみがえった人間のように手で前方を探りながら、ヘンリー・ジーキルその人が立っていたのである!
それから一時間ばかりの間に彼が語ったことは、とうてい書く気になれない。わたしは直接この目で見、この耳で聞き、わたしの心は痛んだ。しかしあの光景が次第に眼前から薄らいできた現在では、それを果たして信じていいものか、わたしはなんとも答えることができない。わたしの人生は根底からゆらいでしまった。眠ることもできなくなってしまった。この上なく恐ろしい恐怖が昼となく夜となくわたしにつきまとっている。私は余命いくばくもなく、死も間近だ。わたしは信じ得ぬままに死ぬだろう。彼が悔恨の涙さえ流してうち明けた背徳《はいとく》行為に関しては、思い出してもぞっとする。しかし、アタソン、一つだけ言っておこう。もし君が信じてくれるなら、それだけで十分なのだ。ジーキル自身の告白によれば、その晩わたしの家へこっそりやって来た男こそ、ハイドという名で知られ、カルー殺害犯人として全国に指名手配されている男だったのだ。
ヘスティー・ラニヨン
本件に関するジーキルの詳細な陳述書
一八――年、わたしはある富豪の家に生まれた。その上卓越した才能に恵まれ、生来勤勉で、学識や徳望高い人びとを深く尊敬した。そして当然名誉ある輝かしい未来を嘱望《しょくぼう》されていた。わたしの最大の欠点といえば、制御しがたい享楽性にあった。世間にはこの性質のために幸福な人生を送る人も少なくないが、わたしの場合、尊大にかまえて、人前で必要以上の威儀を示したいという専横な欲望とこの享楽性がうまく融和できなかった。そこでわたしは自分の快楽を隠蔽《いんぺい》するようになり、やがて分別の年齢に達して、身辺を見まわし、この世における自分の出世や社会的地位を子細《しさい》に考えるようになったころには、もうすでに深く二重生活の泥沼にはまり込んでいた。
人によっては、わたしの経験したような変則的な生活に色どりを添えて吹聴する場も少なくなかろう。しかしわたしは自分が掲げた高い見地から、これを病的なまでの羞恥心をもって眺め、かつ隠蔽したのである。わたしがかような人間になったのは、わたしの欠点に巣くう堕落のためというよりも、むしろ向上心の強烈なためであり、またそのためにこそ、人間の二重性を分離結合する善悪二つの領域がわたしにおいては世の大多数の人びとの場合よりも判然と切り離されていたのである。その点でわたしは宗教の根底にあり、おびただしい悩みの一因となっている人生の苛酷《かこく》な掟《おきて》を深く、執拗《しつよう》に考えざるをえなかった。
わたしはなるほど、はなはだしい二重人格者であったが、いかなる意味においても断じて偽善者ではなかった。なぜならば、わたしの内部の二つの面は、それぞれ非常に真剣だった。堂々と知識の進歩のため、悲しめる人びとや苦しむ人びとのために精を出して働いているときと同様、自制心をふり捨てて、恥辱の中に飛び込むときも、やはり真の自分自身にほかならなかった。そしてたまたまわたしの科学上の研究は、概して神秘的、超自然的な傾向をとっていたので、わたしの人格における善悪両面の絶えまない軋轢の意義に呼応して、その解明に大いに役立ったのである。わたしはわたしの知性の両面、すなわち、道徳的方面と、理知的方面から、人間は一面的存在でなく、二面的存在であるという真理に着実に日一日と近づいていった。そしてこの真理の一部を垣間《かいま》見たためにわたしはかような恐ろしい破滅へと運命づけられたのである。
わたしは二面的存在といおう。なぜならわたしの知識の程度では、それ以上のことを究めるのは不可能なのである。この方面で、わたしと同じ見解をたてる人もいるであろうし、わたしを凌駕《りょうが》する者も出よう。わたしは人間とはたとえてみれば雑多に矛盾し孤立した人びとの集落のようなものを内に蔵している存在にすぎないとわかる日が来るのではないかとあえて言いたい。わたし自身は、自分の本来の生活上、一方面にのみまっしぐらに進んで行った。わたしはわたし個人の道徳的側面を考察して、人間は完全に、生まれつき二面的存在であることを認めるにいたった。わたしの意識の領域で争っている二つの性質の双方ともわたし自身だと言っても誤りでないのは、わたしが本来二面的存在であるためである。学問上の発見途上で、こうした奇跡が生まれようとは夢にも思わなかった頃から、善悪の二要素を分離するという考えに、楽しい白昼夢のように耽溺《たんでき》するようになった。
わたしは自問自答した。もし善悪がそれぞれ別の人間に宿ったら、人生のあらゆる耐え難き苦しみは救われるのではないか。悪しき分身はその双生児である正しき分身の向上心や悔悟から解放されて、おのれの道を行くであろうし、正しい分身は、縁なき邪悪の手によってもはや恥辱と悔恨にさらされることなく、善行に喜びを見い出しつつ、毅然《きぜん》と誤ることなく向上の道を歩き続けることができるのではないか? これらの相反する分身、両極端の双生児が一つに結びつけられ、もだえ苦しむ意識の胎内で、絶えまなく争っているというのは、人類の災いである。それでは、いかにして、この二つの性格を分離できるであろうか。
ここまで考察を進めていたころ、前述したように、わたしはふとしたことから、実験室で問題解決の糸口を発見したのである。わたしはわれわれが着て歩くこの一見しっかりした肉体というものが実は絶えず霧のようにうつろいやすい非物質であることを、これまでのだれよりも深く見抜いたのである。風が天幕を吹きまくるように、ある種の薬品にはわれわれの肉体という衣装をふるい落とす力があることをわたしは発見した。二つの理由から、この科学分野について深く述べることをわたしは避ける。第一に、人生の運命と重荷は永久に人間に負わされたものであり、それを払いのけようとすれば、今度はもっと異常な恐ろしい圧迫となって帰ってくることをわたしは悟ったからである。第二に、このわたしの告白がこれから明らかにするように、わたしの発見は明白に不完全だったからである。したがってただ次のことを記すだけで十分であろう。すなわちわたしは自分の肉体を、わたしの魂を形成しているもろもろの力から発する発気・発光にすぎないと認めたばかりでなく、その力を最高の王座から引きずり落とすある種の薬の調合に成功したのである。そしてその薬の作用で造り出された別個の肉体や容貌《ようぼう》は、わたし自身の魂の下等な要素の現われ、その極印であっても、やはりわたしにとっては自然の姿にほかならなかった。
わたしはこの理論を実験に移すまでに永いこと躊躇《ちゅうちょ》した。それが命がけであることをよく知っていたからである。というのは強力に人間の肉体の堅塁《けんるい》を支配し揺り動かす薬品は、少し量が多すぎても、投薬の時期がちょっと狂っても、わたしが変化を期待している無形の仮小屋である肉体をまったく破滅してしまうかもしれないからである。しかし発見の非常に強い誘惑が、こうした危惧《きぐ》をついに打ち負かしてしまった。チンキ剤は前々から用意しておいたので、ただちに特殊の塩類を大量に薬問屋から買い求めた。これで必要な成分が全部そろった。そして呪《のろ》うべきある夜ふけに、わたしは薬を調合し、それがガラス器の中で沸騰し、煙を立てるのを眺《なが》めていた。やがて沸騰がしずまったとき、渾身《こんしん》の勇気を奮《ふる》って、一気に飲み干した。
発作的激痛、骨を挽《ひ》くような痛み、死ぬほどの吐き気、生死の刹那《せつな》にも劣らぬ魂の恐怖が続いた。これらの苦悶がすみやかに鎮まるとわたしは大病から癒《い》えたように、我に返った。わたしの感覚にはなんともいえない新奇な変化が起こり、そのためにまた信じ難いほど爽快《そうかい》であった。わたしの肉体は若返り、軽やかになり、浮々としていた。向こう見ずな無鉄砲をしてみたい気持ちになり、空想のなかを水車溝の水のように、無秩序で官能的な幻影がほとばしり、義務の縄目《なわめ》がほどけて、未知の不純な魂の自由を感じた。
この新しい生命の息吹に触れたとたん、わたしは自分が、今までよりも十倍も邪悪になり、わたし自身の生来の悪に身を売ったことを知った。そしてこのことを思うと、葡萄《ぶどう》酒でも飲んだように、興奮し、うれしくなった。五感の新鮮さに雀躍《じゃくやく》して、両手を広げたが、その刹那、わたしははっと気づいた。何と自分の身長が縮まっているではないか。
その時分わたしの室には鏡がなかった。わたしが今これを書いている側にある鏡は後になって、この変身を見るために持ち込んだものである。夜も更けて、明け方に近かったが、まだ暗かった。家の者たちは熟睡していた。希望と勝利に気をよくして、変身したままでわたしの寝室まで行くことにした。わたしが裏庭を横ぎったとき、夜もすがら天空で輝く星座も、わたしのような珍しい生きものを初めて見て、驚嘆の眼差しで見下ろしているような気がした。自分の家にいながら、今は他人であるわたしは忍び足で廊下を通って室にはいった。そこで初めてわたしはエドワード・ハイドの姿を見たのである。
ここでわたしは、わたしがたしかに知っていることを述べるのでなく、たぶんそうではないかと考えるところを理論だけで話さなければならない。いまわたしは自分の性質の悪の分身に肉体の形を取らせたのだが、これはたった今わたしが追放した善の分身に比べてひ弱く、発育も遅れていた。これまでわたしの生活は十中八九まで努力と徳行《とっこう》と克己《こっき》の生活であったから悪の分子は訓練を欠き、またそれだけはるかに消耗もしていなかった。そこで当然、エドワード・ハイドはヘンリー・ジーキルよりも小柄で、ほっそりして、若々しかったのだと思う。
ジーキルの顔には「善」が輝いていたが、ハイドの顔にはくっきりと「悪」が刻まれていた。その上、悪は──これが人間を死に導くものであるというわたしの信念に変わりはない──ハイドの肉体に不具と頽廃《たいはい》の痕跡を留めていた。しかしわたしはその醜い姿を鏡に見たとき、反発を覚えるどころか、歓んで飛び上がったほどである。これもまたわたし自身なのだ。それは自然で人間らしいものであった。わたしがそれまで自分のものだと呼び慣れていたあの不完全で分裂した顔よりも、ハイドの顔のほうがよりいきいきとしていて、明白で、純一《じゅんいつ》に思えた。この点まではわたしの考えはまったく正しかったのである。
エドワード・ハイドの姿のときのわたしに近よる人は必ずおびえて身震いするのがわかった。これは思うに、一般の人びとは善と悪の混ざり合ったものであるのに、エドワード・ハイドだけは、一人だけ純粋の悪の化身だったからである。
わたしは鏡の前にほんの少しの間、たたずんだだけで、次の決定的な実験にかからなければならなかった。回復できないほど本来の自分を失って、もはや自分のものでないこの家から夜の明けぬうち逃げ出さねばならない羽目になるかどうか試す必要があった。わたしは急いで書斎に戻り、もう一度薬を調合して飲んだ。すると同じように変身の激痛が起こり、ふたたびヘンリー・ジーキルの性質と、身長と顔をもった自分に返ったのである。
あの晩、わたしは運命の岐路に立っていたのだ。わたしがもしもっと高尚な心のもとにあの発見を利用し、高潔で敬虔《けいけん》な理想のもとにあの実験を敢行していたのなら、結果はすべて異ったものになったであろうし、これらの生死の苦悶から、悪魔ではなく、天使が生まれたことだろう。この薬自体に差別的作用はなかった。それは悪魔的でも神聖でもなかった。それはただわたしの諸々の性質がはいっている獄舎の扉をゆり動かして、フィリッパイの囚人〔新約使徒行伝一六章参照。使徒パウロはシラスとマケドニアのフィリッパイで捕えられたが、牢獄で賛美歌をうたい、祈るうち大地震が起きて戸は全部開いて、鎖が解けた〕のように閉じ込められていたものが外へ飛び出したのにすぎなかった。
そのときわたしの徳性は眠っていた。野望に燃えていたわたしの悪は、油断なく敏捷《びんしょう》に機会を捉《とら》えた。かくして出現したのがエドワード・ハイドだったのである。このようにわたしは二つの容貌《ようぼう》と二つの性格を持つにいたったのであるが、一方はまったくの悪、他方は矯正《きょうせい》も改善もすでに不可能な異分子の混合体である従来のヘンリー・ジーキルである。事態は悪化の一路をたどっていった。
その当時でさえわたしは無味乾燥な学者生活がいやでたまらず、時には遊び浮かれたい気持ちになった。わたしの享楽は控え目にみても品のよいものではなかったし、有名で少なからず尊敬もされ、その上年齢も老境に近づいていたから、こうした矛盾した生活は日々に耐えがたくなっていった。この弱みに乗じて、わたしの新しい変身の力はわたしを誘惑し、ついにその奴隷に堕《お》としめたのである。
わずか一ぱいの薬を飲みさえすれば、たちどころに高名な教授の肉体の衣を脱ぎすて、外套でも着こむように、エドワード・ハイドの姿になれるのだ。これを思ってわたしはほくそ笑んだ。その時分は、そのことがわたしにはユーモラスに思えたのだ。そこでわたしは細心の注意を払っていろいろ準備を始めた。
ハイドが警察に追跡されたあのソーホーの家を手に入れ、家具を備えつけると、無口で、ふしだらだと十分承知のうえで、ある女を家政婦として雇い入れた。他方、使用人たちには、人相を説明して、広小路の家はハイド氏なる人物に自由に使わせるよう言いつけた。なお間違いを避けるためにわたしはハイドの姿をして訪問し、ハイドを彼らになじませるようにしたのである。次に君が反対したあの遺言状を書きあげ、何か不都合なことがジーキル博士の身上に起きた場合に、金銭上の損失を招かずに、エドワード・ハイドの名儀で相続できるようにしたのだ。
こうして自分ではあらゆる方面に防備を施したつもりで、わたしの奇妙なまでに安全な立場を利用し始めた。一身と名声をかばうために、刺客を雇って罪悪をやらせる例はいくつもあった。しかし自分の快楽のためにそうしたことをやったのはわたしが初めてであった。衆人の前では快い尊敬という重荷を背負って汲々《きゅうきゅう》としていた者が、たちまちこの借り着をかなぐり捨てて、自由の海へざんぶりと子供のように飛び込むことができたのも、わたしが初めてだったろう。しかも絶対に見透かすことのできないマントを着て、わたしは安全そのものだった。
考えても見たまえ! わたしは存在さえしていなかったのだ! 実験室に逃げこんで、常に用意してある薬を調合し、飲む一、二秒の余裕があれば、何をしでかして来たにせよ、鏡にふきかけられた息のように、エドワード・ハイドの姿は消えてしまうのだ。そして彼の代わりに、静かに部屋にこもり、夜ふけまで研究に勤《いそ》しむ男、いくらでも嫌疑《けんぎ》を嘲笑できるヘンリー・ジーキルその人がいるのだ。
わたしが変身してむさぼり求めた快楽は、前にも言ったように、不品行なものであった。今はこれ以上ひどい言葉は使いたくない。しかしエドワード・ハイドの手にかかっては、これらの快楽も思いもよらない方向へと向きはじめた。こうした遊興から帰ってくるたびに、わたしの代わりにハイドのやった悪行のものすごさに驚きの念を禁じ得ないこともしばしばだった。わたしがわたし自身の魂から呼び出し、好き勝手なことをやるよう送り出した使い魔はまったく徹底した悪意と邪悪の化身そのものだった。彼の考えることなすことすべて自己中心であり、他人に少しでも苦痛を与えることに貪欲《どんよく》な喜びを見い出していた。まるで石でできた人間のように冷血無慈悲だった。ヘンリー・ジーキルが、エドワード・ハイドの悪行を前にしてあっけにとられて立ちつくすこともしばしばであった。
しかしこうした情況は普通一般の法則の圏外にあったので、いつかしら良心の呵責《かしゃく》も弛《ゆる》んできたのである。結局、罪を犯すのはハイド、ハイドだけである。ジーキルは少しも変わっていなかった。覚めてみると、もとの善良な性質は全然そこなわれていないかのようなのである。彼は、機会あるごとに、ハイドのやった悪事を急いで取り消そうとさえした。こうしてジーキルの良心はまどろんでいったのである。
このようにしてわたしが大目に見てきた──というのは今日でもわたし自身がそれを犯したとは認め得ないから──醜行の詳細について立ち入るつもりは毛頭ない。ただ天罰が近づいてきた予感のしたこと、それが現実に一歩一歩近づいて来た経過だけを指摘するに止めておこう。わたしはある事件に遇《あ》ったが、別に大事にいたらずに済んだから、これも手短かに述べて置く。路上でのわたしのある少女に対する残酷な行為が、通行人の激怒をかったことがある。その人が君の親類の者であることを先日知ったが、その人に医者と少女の家族が加勢し、わたしの命も危うかった。とうとう彼らの至極正当な憤りをなだめるため、エドワード・ハイドは彼らを例の戸口へ案内し、ヘンリー・ジーキル振り出しの小切手で金を支払わなければならなかった。しかしこの危険もエドワード・ハイド自身の名儀で他の銀行に口座を開くことにより未然に防がれた。そしてわたしの筆跡を右下りの書き方にし、ハイドの署名とすることによって、わたしは運命の手の届かぬ安全なところにいると考えたのである。
ダンヴァース卿殺害事件のおよそ二か月前、わたしは例のごとく冒険に出かけ、夜遅く帰宅した。翌日床の中で目をさましたとき、何か変な感じがした。わたしはあたりを見まわし、広小路の自分の部屋の上品な家具や、広壮な作りの天井をみたが、どうも変だった。寝台のカーテンの模様や、マホガニーの枠のデザインを眺めてもおなじことだった。どうも何かいるべき場所にいない、いつもの所で目をさましたのでなく、エドワード・ハイドの姿で眠ることにしているソーホー街のあの小さな部屋にいるような気がした。わたしは忍び笑いをした。そしてわたし独自の心理学的方法で、おもむろにこの幻想の原因を考え始めたが、そうしながらも、ついうとうとと、快い朝の眠りに引きこまれていった。こうした状態の中で幾分意識がはっきりした瞬間、わたしはふと自分の手に視線を落とした。ヘンリー・ジーキルの手は──君もよく知っているように――形も大きさも職業にふさわしく、大きく、しっかりしていて、その上、白くてきれいだった。ところが今わたしが夜具に半分くるまって、ロンドン都心の朝の黄色い光の中で見た手は、やせて筋っぽく、指関節が太く、色は黒ずみ、黒い毛でもじゃもじゃと覆われていた。それは紛《まぎ》れもなく、エドワード・ハイドの手だった。
わたしは茫然《ぼうぜん》として、ものの三十秒もその手を見つめていたにちがいない。それから突然シンバルが鳴り響くように、恐怖がわたしの胸を襲った。わたしは寝台から跳《は》ね起きて、鏡の前へ飛んでいった。そこに映ったものを見たとたん全身の血が凍りつくように思われた。そうだ! 床に就くときはヘンリー・ジーキルであったのが、目覚めてみるとエドワード・ハイドになっていたのだ。これはどう説明したらよいのだろう?
わたしは自問した。が、またもや恐怖に襲われた。──どうしたらもとの姿に戻れるだろう? 日もだいぶ高くなっていた。使用人たちももう起きているし、薬は全部書斎に置いてある。――今こうして立ちすくんでいる場所から書斎までは二つの階段を降り、裏廊下を通り、まる見えの中庭を横ぎり、階段教室を通り抜けなければならない。かなり長い距離だ。顔を隠したらどうだろう。しかし身長の変化は隠しきれないとしたらそれが何の役に立とう? だが使用人たちが第二の自分であるハイドの出入りに慣れていることに思いいたったとき、ほっと安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろした。わたしはすぐにできるだけからだに合う服を着て、家を通り抜けたが、そこに居合わせたブラッドショーは、早朝から異様な服装をしたハイド氏を見て、目を丸くして引っ込んでしまった。それから十分ほど後にわたしはジーキル博士の姿に戻り、眉を曇らせながら、朝食をとるようなふりをしてテーブルに向かった。
実際食欲は少しもなかった。わたしの従来の経験をくつがえしてしまったこの謎のようなできごとは、バビロン王宮の壁に現われたあの指〔旧約聖書ダニエル書第五章。エルサレムのネブカデネザル王の宮殿の壁に不思議な文字を書き、神の予告を表わした指のこと〕のように、わたしに対する審判の文字を綴っているように思われた。二重生活の結果と可能性を、わたしは今までになく真剣に反省し始めた。わたしが出現させる力を握っているあの悪の分身は近ごろではよく訓練され、発育してきた。エドワード・ハイドの身長は伸び──わたしがハイドの姿をとるとき、前より血液が増加しているのがわかるようだ。こういうことがこれ以上ながびくと、わたしの性質のバランスは永久に破壊されるばかりでなく、思うままに変身する力を失い、ついにはエドワード・ハイドの性格だけが残ることになるのではないかという懸念《けねん》が芽ばえてきた。
薬はいつも一様にその効き目を現わすとは限らなかった。こうした生活に足を踏み入れた初期のころ、一度だけ完全に失敗したことがある。それ以来たびたび薬を二倍使用しなければならないことも一度ならずあったし、また一度だけ死を覚悟して、三倍にしたこともあった。こうしたときたまの投薬の失敗が、これまで、わたしの満足しきった気持ちに唯一の影を投げかけていた。しかし今やあの朝のできごとに鑑《かんが》みて、次のことに気付き始めた。すなわち当初、問題はジーキルのからだから脱け出すことであったが、最近ではハイドのからだから脱却することが、徐々にではあるが非常に難しくなってきていた。わたしが次第に本来の善良なる自我を喪失して、第二の悪しき自我と合体し始めていたことがあらゆる問題の中心であるように思われた。
今やこの二者のうちどちらかを選ばなければならないと感じた。二つの性格は記憶力の点では共通していたが、その他の能力にいたっては不均衡もはなはだしいものだった。善と悪との混合体であるジーキルは、ときには過敏な危惧《きぐ》をもって、またときには激しい興味をもって、ハイドの遊びや冒険を計画したり共に加わったりした。ハイドは反対に、ジーキルに無関心であった。彼はせいぜいジーキルのことを山賊が追跡の手から身を隠す洞穴を記憶しているくらいにしか意識していなかったのである。
ジーキルは父親以上にハイドに関心を抱いているのに、ハイドのほうは息子以上に冷淡だった。ジーキルと運命を共にすることは、人目を忍んでながいこと楽しみ、最近では耽溺《たんでき》するまでになった数々の欲望を断念することであり、ハイドの道を選ぶことは、数多くの利益と願望に堅く目をつぶり、しかも一挙にかつ永久に人に軽蔑され、友を失うことを意味していた。この賭《かけ》は不釣り合いのように思われるかも知れないが、もう一つ考慮すべきことがあった。というのはジーキルが禁欲の劫火《ごうか》に堪え難い苦痛をなめているのに、ハイドのほうは自分の失ったものさえ気にかけないであろうということである。わたしの直面しているこの問題は人間の歴史と同じくらい古く、多くの人が経験するものだ。誘惑に負けて震えおののく罪人の運命をこれと同様の動機・恐怖が決定するのである。大多数の人びとと同じく、わたしも善良なる自我を選んだのだが、結局それを守り抜く力に欠けていたのである。
わたしは友人に囲まれて、誠実な希望を胸に抱きながら、現状に甘んじきれない初老の医者であることのほうを選んだのだ。そしてハイドの姿で享楽した自由、いくらかの若さ、軽快な足どり、踊る胸の鼓動、ひそかな快楽、わたしはこういったものにきっぱりと別れを告げた。しかしわたしはこの決断に無意識のうちに保留をつけておいたらしい。というのはソーホーの家を手放さなかったし、エドワード・ハイドの服も破棄せずにおいた。それは今でもきちんとわたしの書斎に置いてある。
二か月の間は、しかしながら、自分の決断に忠実だった。二か月というものわたしはそれまでになく厳格な生活を送り、良心のすがすがしさを楽しんだ。しかし時が経つにつれて警戒心も薄れ始め、良心の賞賛も当たり前のことになりだした。あたかもハイドが自由を求めてもがいているように、わたしは苦悩と渇望にさいなまれ、ついに、道徳的自制心のゆるんだあるとき、ふたたび変身薬を調合して飲んでしまったのである。
大酒飲みが自分の悪癖に理屈をつけるときは、獣のようにからだが無感覚になっているために、自分の犯す危険を千に一度も気にかけないであろう。わたしもながいこと自分の立場を考え続けてきたが、ハイドの主な性格上の特徴である完全な道徳感の麻癖《まひ》、無意識に悪事を犯す可能性について十分な酌量を払わなかった。まさにこのことによってわたしは罰を受けたのだ。ながらく檻《おり》の中に閉じ込められていたわたしの悪魔が唸《うな》りながら飛び出してきたのである。わたしはそのとき薬を飲みながらすでに、いっそう放埒《ほうらつ》でいっそう激しい邪念が兆《きざ》すのを意識していた。
あの不幸な犠牲者ダンヴァース卿の丁重な言葉を耳にして、狂暴な癇癪《かんしゃく》が破裂したのも、この邪念のなせるわざである。わたしは神の前で少なくとも次のことを宣言することができる。倫理的な人間ならば、あのような些細《ささい》なことで人を殺すようなことはあり得ないと。しかもわたしは、すねた子供が玩具をこわすように、ただわけもなく殴りかかったのであった。どんなに悪い人間でもそれに頼って、種々の誘惑の中を多少はしっかりした足どりで歩いてゆくあの平衡の感覚を、わたしは自ら放棄してしまったのである。従ってわずかの誘惑が犯罪へと私を引きずり込んだのである。
たちまち、地獄の悪霊《あくりょう》がわたしの心に目覚め、荒れ狂った。わたしは狂喜のあまり有頂天《うちょうてん》になって、無抵抗のダンヴァース卿のからだをめった打ちにし、殴るたびに歓喜した。やがて疲労を感じ始めると、突然、ぼんやりしたわたしの身うちを冷たい恐怖の戦慄が走った。霧は晴れ、わたしは死に価する罪を犯したことを悟った。わたしはこの見るも無惨な現場を逃げ出したが、悪の欲望が満足し刺激されると同時に、わたしが愛着する生命も極度に脅《おびや》かされていたので、歓喜に酔いながら同時に、恐怖に震えていた。わたしはソーホーの家に駆《か》け戻って、大事のうえにも大事をとって、書類を焼き捨てた。それから家を出て街灯のともる街々を歩きまわったが、歓喜と恐怖で夢中だった。自分の犯した罪にほくそ笑み、軽率にもこれから犯そうと思う罪をいろいろ画策していたが、一方では歩調を早めて、復讐者が後を追ってきはしないかと耳を澄ましていた。
ハイドは薬を調合しながら鼻歌を口ずさみ、それを飲みながら死者への手向《たむ》けとした。変身の苦痛がまだ身を引き裂き終わらぬうちに、ヘンリー・ジーキルは、感謝と悔恨《かいこん》の涙を流しながら、ひざまずいて神に合掌していた。放縦《ほうじゅう》のヴェールが頭の先から足先まで引き裂かれると、わたしは自分の全生涯を目前に見る思いがした。父の手に縋《すが》って歩いた子供のころから、わたしの学者生活の克己的な苦労を想い浮かべ、そして最後には、あの夜の忌《い》まわしい惨事を幾度も、夢のように思い出すのであった。わたしは大声をあげて泣きたいほどだった。涙を流して祈りをあげ、記憶に群がってくるあの恐ろしい事件の思い出を打ち消そうとした。
しかし、祈っている間も、わたしの犯した罪という醜い顔がわたしの魂の内をじっとのぞきこむのである。やがて鋭い悔恨の念が薄れるにつれて、歓喜の情が湧いてきた。わたしの行動の方針は決定した。ハイドとはもう完全に縁が切れたのだ。いやおうなしに、わたしの存在のよい分身、ジーキルを選ばなくてはならない。ああ、そう考えるとどんなにうれしかったことだろう! どんなに心を謙虚にして、新たに自然な生活の拘束を甘受したことだろう! 出入りしていた扉に鍵をかけ、その鍵を踏みにじってしまったとき、わたしは自分の心に固く誓ったのだ!
翌日、殺人の現場を二階から見下ろしていた者があって、ハイドの犯行は世間に伝わり、被害者は世間で高く評価されている人物だということも報道された。それは単に犯罪というより悲劇的愚行のように思われていた。わたしはこれを聞いてよろこんだ。絞首台を怖れる気持ちからわたしのよいほうの分身を守りぬく砦《とりで》が強くなるからであった。今やジーキルはわたしの避難場所であった。ハイドがちょっとでも顔を出せば、人びとは手を振り上げて彼を殺すだろう。
わたしはこれからの行動をもって過去の罪ほろぼしをしようと決心した。これがいくらかのよい結果をもたらしたことをわたしは正直に言うことができる。昨年末の数か月、いかに熱心にわたしが苦しめる人びとを救うのに努力したか、どれほどのことを人のためにつくしたか君もご存知のとおりだ。わたし自身も平穏に、ほとんど幸福とさえ言いうる日々を過ごした。わたしはこの慈善心に富む清らかな生活に倦《う》むところがなかったといっても偽りではない。むしろ、日増しに心から楽しむようになっていた。しかしわたしは依然として、二重の目的に悩まされていた。鋭い改俊《かいしゅん》の情も薄らぐにつれて、ながい間甘やかされて最近鎖につながれたばかりのわたしの下劣な分子が、自由を求めて唸《うな》り始めたのである。わたしはけっしてハイドを復活させるつもりはなく、そう考えただけで恐怖に気も転倒《てんとう》したであろう。そうではなくて、ジーキルの姿のままでふたたび良心を弄《もてあそ》びたい思いに駆られたのだ。そして世間によくある、人目を忍んで悪事を行なう人間のように、この誘惑の攻勢の前に陥落してしまったのである。
すべて物事には終わりがある。いくら大きな桝《ます》でも、ついにはいっぱいになるものだ。ちょっと悪に心を許したことがわたしの魂の平衡を失わせる羽目となった。それでもわたしは驚かなかった。この堕落も、まだあの薬を発見しなかった昔に帰るように、自然の経過と思われた。それは爽《さわ》やかに澄み切った一月のある日だった。霜の溶けた所は足もとが湿っていたが、空には一片の雲もなく、リージェント公園では小鳥のさえずりがあちこちに聞かれ、春の香気が甘く漂っていた。わたしは日なたにあるベンチに腰を下ろしたが、心に潜む獣性は過ぎし日の快楽の追憶に舌なめずりをしていた。わたしの良心のほうは、うとうとまどろみ、まだ動き出さないでいたが後悔することは目に見えていた。結局、自分も隣人たちと変わりないのだと考えた。それから自分と他人を比べてみて、わたしが活動的に慈善を施しているのに、彼らは怠けて傍観していることを考えると、ひとりでに微笑がこぼれた。ところがこうしたうぬぼれに耽《ふけ》っている最中に、突然気分が悪くなり、吐き気がし、ひどい身震いに襲われた。それが静まったとき、わたしは気が遠くなっていた。
そして今度は気がついてみると考えが変わり、大胆な気分になって、危険など気にならず、義務感は消え去った。わたしは見下ろした。わたしの服は身長が縮んだためにだらしなく垂れ、膝《ひざ》にのせた手は筋ばって、毛が生えていた。わたしはふたたびエドワード・ハイドに変身していたのである。一瞬前には、みなの尊敬を一身に集めた、富裕で愛すべき人物――家の食堂では彼のために食事が用意されている人物だったわたしが、一瞬後には人びとのおたずね者となり、後を追われ、帰る家もなき有名な殺人犯、絞首台に登るべき人物となっていたのである。
わたしの理性は動揺したが、それでもまったく考える力がなくなったわけではなかった。今までに幾度も経験してきたことだが、ハイドに変身したときのわたしの諸能力は極度に鋭敏になり、精神はたいへん柔軟になった。そこでジーキルなら恐らく挫《くじ》けてしまうであろうような重大な危機に直面して、ハイドは立ち向かったのである。わたしの薬はわたしの書斎の戸棚《とだな》の一つにしまってあった。どうしたら手に入れることができるだろう? わたしはこめかみを手で抑さえながらその問題を思案した。実験室の扉はしめてきてしまった。もしも表からはいろうとすれば、使用人がわたしを警察へつき出すだろう。どうしても人手を借りなければと思ったとき、ラニヨンのことを思い出した。しかし彼の所へどうして行って、説得できるだろう? たとえ往来で捕まるようなことはなくても、直接彼に会うにはどうしたらよいだろう。さらにまた自分のように未知の不快な訪問客が、あの名医を説きふせて、同僚ジーキル博士の書斎から品物を持ち出させることなどできるだろうか?
そのときわたしはわたし元来の性質のうち一つだけ、筆跡だけはもとのままであることを思い出した。いったんこの一縷《いちる》の光明を見出すと、わたしのとるべき道はすみずみまで明らかになった。
そこでわたしはできるだけ体裁《ていさい》を整えて、通りがかりの辻馬車に乗り、偶然記憶していたポートランド街のホテルヘと走らせた。わたしのようすを見て――いかに悲劇的運命がその中に隠されていようと、実際はた目には滑稽《こっけい》な服装だった──御者は笑いを隠すことができなかった。わたしは激怒して、彼に向かって歯ぎしりしたので、彼はあわてて笑うのをやめたが、それは彼にとって幸いだった。いな、わたしにとってはもっと幸いだった。というのはもう少しでわたしは彼を御者台から引きずり出すところであったから。
ホテルにはいると、わたしがあまり恐ろしい形相であたりを眺めまわしたので、給仕たちは縮み上がってしまった。わたしのいる所ではお互いの顔も見合わせずに、従順に言い付けに従い、個室に案内し、筆記用具を持ってきた。生命の危機に直面したハイドはまったく別の生き物となり、怒りに震え、人を殺しかねないほど気が高ぶり、他人を痛めつけたくてうずうずしていた。しかしこの男は抜け目がなかった。意志の力を奮《ふる》い起こして怒りをおさえ、一通はラニヨンへ一通はプールへ、二通の重大な手紙を書き上げると、投函したという確証をとるためにそれを書留で出すよう言い付けた。
その後は終日個室に引きこもって、爪を噛《か》み噛み暖炉の側にすわっていた。彼は恐怖に苦しみながらそこで夕食を済ませたが、給仕はすっかりおじけづいていた。それからとっぷりと日も暮れたので彼はしめきった辻馬車の隅に身を寄せると、ロンドンの町中をあちこちと走らせた。「彼」と言おう。「わたし」とはどうしても言えない。あの地獄の子には人間らしいところがなかった。彼の中に住んでいるのは恐怖と憎悪だけだった。そのうちとうとう御者が怪しみ出したようすなので彼は馬車を捨て、からだに合わぬ服を着たまま、衆人環視の中を夜の雑踏へと歩み入って行ったが、恐怖と憎悪といういまわしい熱情が身内を嵐のように荒れ狂っていた。彼は足早に歩いた。恐怖に駆《か》り立てられ、ひとり言を呟《つぶや》きながら、人通りの少ない通りをこっそりと抜けて行った。が、その間も十二時までの時間を数えていた。一度女がマッチ箱らしいものを買ってくれと言い寄ってきたが、彼はその女の顔をなぐりつけたので、女は逃げてしまった。
ラニヨンの家でもとのジーキルに帰ったとき、わたしの旧友の驚愕《きょうがく》にわたしはいくらか心を動かされたのだろうが、よくは覚えていない。わたしがそれまでの数時間を思い出すときの嫌悪感に比べて、彼の恐怖などは大海の一滴にすぎないのである。今やわたしの心は一変した。わたしを苦しめるのはもはや絞首台の恐怖ではなく、ハイドに変身しはしまいかという心配だった。わたしは半ば夢見心地にラニヨンの非難を聞いていた。朦朧《もうろう》としたまま家に帰り、床についてその日の疲れからぐっすり寝込んでしまい、わたしをさいなむ悪夢さえ眠りを破ることはできなかった。朝、目覚めてみると衰弱していたが、気分は爽快《そうかい》だった。獣性がなお体内に潜んでいるかと思うと憎悪と恐怖が蘇《よみがえ》ってきたが、もちろん前日の恐ろしい危険を忘れたわけではなかった。しかしわたしはふたたび自分の家にいて、薬が手近にあることを思うとき、やっと危険をのがれたという感謝の念が、希望の光に劣らぬほど強く輝いた。
朝食後、冷たい朝の空気を心地よく味わいながら、中庭をゆったりと歩いていた。すると突然、変身を予告するあのなんとも言いようのない感覚がふたたび襲ってきた。どうにか書斎に駆け込んだとたん、ハイドの激情に身も心も荒れ狂っていた。このときはジーキルの姿に戻るために二倍の薬を必要とした。しかし、悲しいことには、六時間後、わたしが悲しみに沈んで暖炉の火を見つめていたとき、激痛がふたたび始まり、ふたたび薬を飲まなければならなかった。つまり、その日以後、わたしがジーキルの姿を保てるのは、体操のような激しい努力をしている間か、もしくは飲んだ薬が直接効く間だけだった。夜となく昼となくいつも前兆の戦慄に襲われた。椅子にもたれてまどろむだけでも、目覚めてみると必ずハイドに変わっていた。このように絶えまなく迫り来る運命の圧迫と、人間のからだでは信じられないほどの極度の不眠に苦しめられ、ジーキルの姿のときでも、興奮と緊張に消耗しきって、身も心も萎《な》え、わたしはただハイドに対する恐怖に心を奪われていた。
しかし眠ったときとか、薬の効き目がきれてしまうと、ほとんど経過症状もなしに──変身の苦痛は日々柔らいでいったから──恐ろしい幻影に満ちた空想の虜《とりこ》となり、心はわけもなく憎悪だけに沸き立ち、からだは猛《たけ》り狂う生命の激情を容れるにはあまりに衰弱してしまうのであった。ジーキルが虚弱になるにつれて、ハイドの能力は強まったように思われた。二人が互いに対して抱く憎しみは同じように強かった。ジーキルにあっては、憎悪は生存本能に基づくものである。彼は自分と共通した意識現象をもち、死を共にしなければならないこのハイドという男が完全な奇型人であることを十分承知していた。こうした二人の関係は、ジーキルに非常な苦痛を与えていたが、それを抜きにしても、ハイドはその旺盛な生命力にもかかわらず、どこか悪魔的で普通の人間には見えなかった。地獄の土塊《つちくれ》が叫んだり、声を出したり、型なきこの塵芥《ちりあくた》が身ぶりをしたり罪を犯すこと、死せる無型のものが、生命の機能を奪うこと、これほど恐ろしいことはなかった。同じように恐るべきことには、この反逆心ある恐ろしきものは、妻よりも密接に、自分の眼より身近なものとなって肉体の内に宿り、そこで呟《つぶや》いたり、生まれ出ようともがいていた。ジーキルが弱っているときとか安心して眠っているときに、彼をうち負かして彼の生命を略奪しようとしていた。
ハイドのジーキルに対する憎しみはまた質を異にしていた。絞首刑の恐怖のために、ハイドは絶えず一時的自殺を行ない、一人前の人間になれずに、ジーキルの一部という従属的立場に戻らなければならなかった。しかし彼はその拘束を心から嫌い、ジーキルの意気消沈を憎んだばかりでなく、彼自身が憎まれていることを憤った。そこで彼は猿のような奸計《かんけい》をめぐらせて、わたし自身の筆跡で本の余白に冒涜《ぼうとく》の言葉を書きなぐり、手紙を焼き捨てたり、わたしの父の肖像をこわすようなことをしたのである。実際、彼は死への恐怖さえなければ、わたしを破滅のまき添えにするために、とうの昔に自殺したかもしれないのだ。しかし彼の生命への愛着には驚くべきものがあった。さらにくわしく言うと、彼のことを考えただけで気分が悪くなり、ぞっとするわたしも、彼のこの卑屈で熱っぽい生命への執着を見たり、自殺によって彼との縁を切ることのできるわたしの力を彼が非常に恐れていることを思うと、彼への憐れみの情を禁じ得ないのである。
これ以上書き続けることは無益であり、その時間もないが、わたしほどの苦しみを背負った人間は未だかつてなかったということだけは言っておこう。しかしこうした地獄の責め苦のような苦悩にも、習慣というものが──けっして苦しみを軽減したのではないが──ある種の魂の無感覚、一種の絶望の黙認をもたらした。そして今わたしに降りかかってきた最後の災難が、わたしからこの容貌《ようぼう》や性格を永久に奪い去ることがなかったとしたら、わたしの懲罰は幾年も続いたことだろう。最初の実験以来少しも補充しなかった塩剤の貯えも底をついてきた。わたしは新たに調達させ、薬を調合した。しかし沸騰と、一回目の変色は起こったが、二回目の変色は起こらなかった。それを飲んでみたが効き目は現われなかった。わたしがどれほどロンドン中をあさったかは、プールに聞けばわかるであろう。だがそれも無駄だった。そこでわたしは最初に手に入れた品は不純品で、そのなんともわからぬ不純性こそ、わたしの薬に効力を与えていたのだと今では思っている。
およそ一週間が過ぎた。そして今やわたしは残りの古い薬の力を借りてこの手記を書き終わろうとしている。だから、ヘンリー・ジーキルが自分の頭で考え、自分の顔──なんとあさましくも変わり果てたことか!──を鏡で見ることができるのも奇跡でも起こらぬかぎりこれが最後だろう。
もうそろそろこれを書き終えなければならない。わたしのこの手記が今まで破棄されずに済んだのも細心の注意と幸運のおかげなのだ。もしこれを書いているうちに、変身の苦しみが起こったなら、ハイドはこれをずたずたに引き裂いてしまうことだろう。しかし、もしもわたしがこれを書き終えた後、いくらかの時間があれば、驚くほど利己心が強く、目先のことしか考えないハイドのことだから、おそらくこの手記は彼の猿のような悪意から救われるであろう。事実、われわれに迫りつつある運命がすでに彼を変化させ、勇気をくじいてしまった。今から三十分の後には、わたしはふたたび、かつ永久にあの忌《い》まわしい人格に変身しているであろうが、そのときわたしは椅子に腰かけて、震えたり泣いたりしていることだろう。あるいはまた恐怖のために極度に緊張していっしんに耳をそばだて、この部屋――この世のわたしの最後の隠れ場所──をぐるぐる歩きながら、自分を脅《おびや》かす物音を聞きもらすまいとしているだろう。
ハイドは絞首台の露と消えるであろうか? それとも最後の土壇場《どたんば》で自分を救う勇気をふり絞るだろうか? それはわたしのあずかり知らぬことだ。わたしにはどうでもいいことである。今こそわたしの死のときなのだ。今後のことはわたしと何の関係もないことである。ここにわたしはペンを置き、この懺悔録《ざんげろく》を封じ、もって不幸なるヘンリー・ジーキルの生涯の幕を閉じることにする。
水車小屋のウイル
平原と星
ウイルが養父母と住んでいた水車小屋は、松林と大きな山々に挟《はさ》まれて下り坂になっている谷間にあった。背後には連峰が聳《そび》え立ち、常緑樹の深い森からさらに上へと続く峰々は、その裸の山肌を空にくっきりとあらわしていた。その谷の少し上のほうには、木々のこんもりと茂った山腹に沿って、細長い灰色の村がたなびく霞のように横たわっていた。そして風向きのよい日には、教会の鐘がウイルのところまでかすかに聞こえてきた。下るにつれて谷はますます険《けわ》しくなり、同時に両側にずっと拡がっていた。
水車小屋の近くの高台からは、谷の全長と、その向こうに広い平原を見渡すことができた。平原には川がうねり、輝き、海への旅路を町から町へと続けていた。たまたまこの谷越えに隣国へと通じる道があって、静かで鄙《ひな》びてはいたが、川に沿った公道は二つの強力な王国を結ぶ街道になっていた。夏中、旅馬車がのろのろと登ってきて、水車小屋の前を通り、がらがらと勢いよく降りて行った。そしてこの谷越えの反対側のほうが登りやすくなっていたので、水車小屋の前を下へと降りて行く人びとの他は、その道を通る人はあまりなかった。
ウイルが見る馬車のうちで、その六つに五つは勢いよく下へと下って行く馬車で、のろのろと登ってくるのは一つくらいのものだった。身軽で足の速い旅人も、珍しい品物を背にした行商人も皆、道に沿って流れる川と同じに下へと降りて行くのであった。
しかしこれだけではなかった。というのは、ウイルがまだ子どもの頃、悲惨な戦争が世界のいたる所で勃発《ぼっぱつ》したことがあった。新聞には、敗北や勝利の知らせが満載され、大地は騎馬の蹄《ひずめ》の音に轟《とどろ》き渡り、そして時には、幾日も幾日も、あたり何マイルにもわたって続く戦乱のために、善良な人びとは恐れおののき、野良仕事も手につかぬ有様であった。すべてこのようなことについても、谷間の村へは、ながいこと何も伝わってこなかった。しかし、とうとう一人の司令官が、強行軍を敢行して、谷越えを行なった。そして三日の間、騎兵や歩兵、大砲や弾薬車、太鼓・軍旗が、水車小屋の前を流れるように、下へ下へと降りて行った。ウイルは終日、立ちつくして、彼らの行軍を眺めていた。律動的な歩調、日に焼けた頬骨《ほおぼね》の艶《つや》のない、髯《ひげ》だらけの顔、色|褪《あ》せた軍服、そしてぼろぼろの軍旗。ウイルの胸は、嫌忌《けんき》と憐愍《れんびん》と驚異でいっぱいだった。ベッドにはいってからも、水車小屋の前を、下へと進んで行く砲車のがたがたいう音や、人馬の足音、大軍の行軍の響きが、夜どおし聞こえていた。
谷間の住人はだれひとりとして、その後の軍隊の運命を知らなかった。というのは、こうした喧噪《けんそう》の乱世にあっても彼らは、世間話の伝わらぬ所に住んでいたから。しかしウイルがはっきりと知っていることが一つあった。それは兵士たちはひとりとして帰って来なかった、ということである。彼らは皆、どこへ行ってしまったのであろう? あの旅人たちや、珍しい品物を背にした行商人たちはどこへ行ったのであろう? 後部座席に召使たちを乗せた軽快な馬車はどこへ行ったのであろう? たえず上から下へと流れて尽きぬ川の水はどこへ行くのであろうか? 風さえも、谷を下って吹くことが多く、秋には枯葉が下へ吹き流されて行く。ウイルには、それらがまるで生あるもの、生なきものの共謀のように思われるのであった。すべてのものが、楽しそうに、急ぎ足で下って行き、彼だけ路傍の切り株のようにひとり取り残されているように思われるのであった。彼はときどき、魚たちがその頭を上流へと向けている様を見るとうれしくなった。少なくとも魚たちだけは、他のすべてが未知の世界へと急ぎ足に下っているなかにあって、彼のもとに忠実に留まっていたからである。
ある夕方のことだった。ウイルは彼の養父である水車小屋の主人に向かって、川はどこへ行くの、とたずねたことがあった。
主人はこう答えた。
「この川は谷を下って、たくさんの水車を回しているのさ。聞くところによれば、ここからウンタデックまでに百二十もあるそうだが、そんなにたくさんの水車を回しても、この川は少しも疲れないんだよ。そしてそれから低地へ出て、広い畑を潤《うるお》し、きれいな町をいくつも通り抜けて行くんだよ。人の噂では、そういう町には王様がひとりで住んでいるりっぱな宮殿があって、番兵がその門の前を行ったり来たりしているそうだ。そして川はいくつもの橋の下をくぐって行くんだが、橋の上からは、石像が水を見下ろして、奇妙な微笑を浮かべていたり、人びとが欄干《らんかん》に肱《ひじ》をもたせて川の面を眺めているんだよ。それから川はどんどん流れ下って行き、沼地や砂地を抜けて、終《しま》いには海へ流れ込むのさ。海にはインドから鸚鵡《おうむ》や煙草《たばこ》を運んで来る船が浮かんでいるそうだよ。川はああして歌いながら家《うち》の水車の堰《せき》を越えて行くが、まだまだながい旅をしなければならない。ほんとに、まったくたいへんなことだよ!」
「それで、海はどんなものなの?」
とウイルはたずねた。
「海だって! ああ、お前、それは神様のお創りになったもののうちで、いちばん大きなものさ! そこは世界中の水が全部流れ込んで、大きな塩水の湖になっているんだよ。海はわたしの掌《てのひら》のように平らで、子どものように無邪気なようすをしているんだが、噂によると、風が吹くときは、ここらのどの山よりも大きな水の山となって、家《うち》の水車小屋なんかよりずっと大きな船ものみこんでしまい、あまり大きな怒号をたてるので、何マイルも離れた陸の上からでもその轟《とどろ》きを聞くことができるんだ。また海には牡牛の五倍もある大きな魚がいたり一匹の年老いた蛇がいて、その長さはこの川のように長く、この世ができたときから生きながらえて、人間のように髯《ひげ》を生やしているばかりか、頭には銀の冠をのせているんだとさ」
ウイルはこんな話は一度も聞いたことがないと思った。彼がこの川の向こうにあるいろいろの危険と驚異に満ちた世界について、やつぎばやに質問をあびせたので、とうとうこの老主人自身も興にのってきて、最後にはウイルの手を取ると、谷と平原の見渡せる丘の上へと連れて行った。日は沈みかけ、雲ひとつない空に低くかかっていた。すべてのものが、金色の光のなかで輝き、はっきりと眺められた。ウイルは生まれて初めてこんなにも広大な土地を見た。彼は立ちつくして、じっと眼を凝らしていた。町々や森や野原、それにきらきら輝きうねる川も見ることができた。そしてさらに遠くを見晴らすと平原の果ては輝く天と溶け合っていた。
ある力強い感動が少年の身も心も捕えていた。彼の心臓は息もつけぬほど激しく打ち、目前の風景が揺らめくかに見えた。太陽は、ぐるぐる回転しながら、奇妙な形を投げ出すように見えた。そしてその奇妙な形は、あっという間に消えて、他の形が後に続いた。ウイルは両手で顔を覆うと、激しい発作に襲われたかのように急に泣き出した。かわいそうに水車小屋の主人は、ひどく失望当惑して、仕方なく、ウイルを腕に抱き、黙って家へ連れ戻した。
その日以来、ウイルの心は新しい望みと憧れに満たされた。何かがたえず彼の心の糸を爪繰《つまぐ》っていた。飛ぶように流れてゆく川面《かわも》を、夢見心地に眺めているとき、その流れ行く水は彼の願いを運び去って行くのだった。風は、無数の木々の梢をわたるとき、激励の言葉を投げかけて行くのだった。枝々は、彼を下へと招き、角々を曲がって、谷の下のほうへとずんずん消えてゆく道も、彼を誘《いざな》い苦しめるのだった。彼は高台に登っては、川の流域を見下ろしたり、はるか彼方の平坦な低地を眺めたり、ゆるやかな風にのって旅をしながら、紫色の影を平原に投げかけている雲をみつめたりして長い時間を過ごした。またあるときは、路傍にさまよっては、川に沿って下のほうへと、がらがら走り去る馬車の後ろを目で追うのであった。どんなものでも構わなかった。憧れに恍惚とした彼の心は、雲であろうと、馬車であろうと、鳥であろうと、川を流れる褐色の水であろうと、その後を追うのであった。
海の上の水夫たちの数々の冒険も、古代史を口碑《こうひ》と風説で混乱させている民族の移動も、すべて単なる需要と供給の法則と、安い食糧を獲得したいという一種の本能から生じたに過ぎないと科学者たちは言っている。しかし、ものごとを深く考える質《たち》の人にとって、この説明は、退屈で貧弱なものと思われるだろう。北方と東方から群らがってきた種族も、もし、実際に他の種族によって圧迫され、前進を余儀なくされたとしても、また同時に、南方と西方の魅惑によって引きつけられたのだ。他の国々の名声は彼らの耳に達していた。永遠の都の名は、彼らの耳に鳴り響いていた。彼らは植民地開拓者ではなく、巡礼者であった。彼らは、葡萄《ぶどう》酒と黄金と日光を求めて旅をした。しかし、彼らの心は、何かもっと高いものに向けられていたのだ。イカルス〔ギリシア神話に出てくる人物。父ダイダロスの発明した翼を身につけ飛んだが父の命令に従わず高く飛翔したため太陽の熱で翼の蝋が溶けて海に墜死した〕が翼をひろげ、荒涼たる大西洋へとコロンブスが船出したのは人間の業《ごう》ともいえる活動性のためだが、これらの未開人を震憾《しんかん》し危険な旅へ出発させたのもこの活動性である。
彼らの精神をよく表わす一つの伝説が伝わっている。これらの放浪者たちのうち、急ぎの旅を続けていた一団が、鉄の靴を履《は》いた一人の老人にあった。その老人は、彼らにどこへ行くのかとたずねた。彼らは口をそろえて答えた。「永遠の都へ!」老人は彼らを重々しい眼差しで眺めて言った。「わしもそれを探して、世界中を隈《くま》なく歩いて来た。わしの今履いているような靴を三足、この旅で擦《す》り切らし、この四足めの靴も、わしの足の下でもう薄《うす》くなってきている。こんなにして探しても、わしはまだその都を見つけることはできんのじゃ」彼はくるりと背を向けると、茫然《ぼうぜん》としている彼らを後にして、また、ひとり自分の道を歩いて行ったという話である。
しかし、この話も、ウイルの平原に対する憧れの激しさには比べものにならなかった。もし彼方の平原に行くことさえできるなら、眼は清められ、はっきりと見えるようになるだろう。耳はもっと敏感になり、息は喜びに弾《はず》むだろうと彼は思った。彼は自分が場違いな所へ生まれあわせ、このまま枯れしぼんでしまうのだと考えた。彼は見知らぬ異郷にあって、故郷恋しさに悩んでいるようなものだった。
少しずつ、彼は下界についての切れぎれな考えを継《つな》ぎ合わせた。荘厳な海へ向かって、たえず流れては大きくなる川のことや、活発で美しい人びと、戯れる噴水、音楽隊や大理石の宮殿などが満ちあふれている町、夜ともなれば、金色の星と見まがうばかりの明かりで照らされる町を想った。大きな教会やりっぱな大学、勇敢な軍隊、そして地下室に貯えられた莫大な財貨のこと、白昼堂々と横行する途方もない悪事、真夜中に、こっそり迅速《じんそく》に行なわれる殺人のことなどを考えた。
わたしは彼が故郷恋しさに悩んでいると言ったが、こんな形容は当たらない。彼はまるで、生まれる前の形の定かでない半麻酔状態で、色彩豊かで、さまざまな音に満ちたこの世へと手をさし伸べている人のようであった。彼が不幸なのは、怪しむに足らなかった。彼はよく魚たちにこう話しかけに行った。お前たちは、お前たちの生活に適《かな》うように創られている。お前たちには虫と、流れる水と、土手下の穴さえあればよいのだ。しかしぼくはそのように創られていない。さまざまな欲望と願望に満ち、指は何かをしたくてむずむずし、目は何かを見たがっているが、多彩な全世界の色、真実の生活、ほんとうの輝かしい日の光は、遠く平原の上にある。ああ、死ぬ前に一度でもその日光を見ることができたら! 黄金の国を陽気に歩くことができたら! 熟練した歌い手たちや、美しい教会の鐘の音を聞くことができたら! 休日でにぎやかな公園を見ることができたら!「おお、魚よ!」彼はこう叫ぶのだった。「お前たちは、その鼻を下流に向けるだけで、あの有名な海にいとも簡単に泳ぎ入ることができるのだ。そして巨大な船が頭の上を雲のように通りすぎるのを見たり、山のような大波が奏《かな》でる音楽を一日中聞くこともできるのだ!」しかし、魚たちは辛抱強く上流のほうを見続けているので、最後にウイルは、笑っていいのか、泣くべきなのかわからなくなるのだった。
これまで道を過ぎる旅人や馬車は、ウイルにはまるで絵の中での出来事のように見えていた。彼は多分、旅人とあいさつを交わしたことも、馬車の窓に、旅行用の帽子をかぶった老紳士を見かけたこともあったろう。しかし、多くの場合、道を通るものは単なる象徴であり、彼は遠くから、多少迷信的な気持ちでそれらを眺めていたのだった。
しかしすべてが一変するときがやって来た。彼なりに欲をもっていた水車小屋の主人は、正直な金儲けなら機会をけっして逃すことはなかった。彼は水車小屋を小さな旅籠屋《はたごや》にしたのであった。そして折よく数回の幸運に遇《あ》って、馬小屋を建て増し、その街道の宿駅長の地位を得た。水車小屋庭園を登りつめた所にある小さな亭屋《あずまや》で、朝食をとる人びとを給仕するのがウイルの役目になった。オムレツや葡萄《ぶどう》酒を運びながら、人びとの話に耳を傾け、外の世界について、多くの新しいことを学んだのは言うまでもない。否、それどころか、彼はひとり旅の客などを見つけると、しばしば話相手になり、如才《じょさい》なく質問したり、相手の話を謹聴《きんちょう》して、自分の好奇心を満足させたばかりでなく、旅人に好かれたのだった。多くの人が水車小屋の老夫婦に向かって、たいへんよい給仕をおもちだ、などと褒《ほ》めそやした。ある教授は、ウイルを連れて行って、平原で彼をりっぱに教育したいと熱心に言った。水車小屋の主人と妻はたいへん驚いたが、それ以上に喜んだ。この旅籠屋を開いてよかったと彼らは思った。
「ねえ、お前、あの子は宿屋の主人にむいているね。あの子は放って置いたって、けっして他の職には就きたがらないだろうよ」と老主人はよく言うのだった。このようにして、満ち足りた生活が谷間に続いていったが、ウイルだけは別だった。旅籠の門前を去って行く馬車の一つ一つが、彼の一部を奪い去って行くように思われた。たまに人が冗談半分、彼を乗せて行こうと申し出ると、彼は自分の感情を抑えるのがやっとだった。毎晩のように、慌てふためく召使たちに起こされて、彼を平原に連れて行くために、みごとな従者つきの馬車が戸口で待っている夢を見るのだった。それが毎夜のことだったので、最初は愉快だった夢も、だんだん重苦しくなってきて、夜中の呼び声と待っている馬車は、期待と恐れで彼の心をいっぱいにした。
ウイルが十六のころだった。ある日、一人の太った若者が日暮れにやって来て、一夜の宿をとった。快活な目をした暢気《のんき》そうな男で、ナップザックを背負っていた。夕飯の支度の間、亭屋にすわって、本を読んでいた。しかしウイルに気づくとすぐ本を置いた。彼は明らかに、物語中の架空の人間よりは、生身《なまみ》の人間を愛する質《たち》の人であった。ウイルのほうでは、最初見たときは、この見知らぬ男に、さして興味を覚えなかったが、やがて彼の話がおもしろくてたまらなくなった。彼の話は、善良さと良識に富み、ウイルは彼の人柄と総明《そうめい》さに深い尊敬の念を抱くようになった。彼らは夜更けまで話しこんでいた。そして朝の二時ごろになって、ウイルは自分の心中をこの若い男に打ち明け、彼がどんなに谷を去ることを望んでいるか、平原の町々に、いかに輝かしい夢をかけているかを語ったのだった。若い男は、口笛を吹いて、突然、笑《え》みを浮かべた。
「君、君はまったく奇妙な人だね。君はけっして手にはいらない多くのものを望んでいる。君の言うおとぎの町の若い人びとも、君と同じような愚かな夢を追いかけて、山の中で生活したいなどとたえず胸を痛めているんだよ。こう聞けば、君も随分恥ずかしくなるだろうね。
わたしの言うことを聴きたまえ、平原に下って行く人びとも、そこに居つくか居つかないうちに帰りたくてたまらなくなるものなんだ。平原の空気はそんなに軽やかでもないし、澄んでもいない。太陽だって、ここほど美しく輝いていない。君の考える美しい男女だって、多くは襤褸《ぼろ》を着て、恐ろしい病気で醜い姿になっているんだよ。町というものは、貧しく、感じやすい人には、あまりに苛酷《かこく》なのだ。そこでは多くの人びとが、自ら命を絶っているんだよ」
「あなたは、ぼくを非常に単純な人間だと思っているのでしょう」とウイルは答えた。「ぼくはこの谷間を出たことはありませんが、無駄に両眼をもっているのではありません。ぼくは一つのものが、どのようにして他のものを食べて生きているか知っています。たとえば、魚が自分の仲間を捕えようとして、渦巻《うずまき》の中をうろついている様《さま》も知っています。また、小羊を家に運ぶ羊飼いのようすは、美しい一幅の絵ですが、実際は、食事のために小羊を運んでいるのにすぎない。あなたの町では、すべてが結構なものばかりだろうなどと期待しているのではないのです。今、ぼくを悩ましているのは、そんなことではないのです。昔ならそんなこともあったかも知れません。ぼくはこの谷を離れたことはありませんが、ここ数年、たくさんの質問をし、多くのことを学んだのです。それで確かに昔のような空想に耽《ふけ》ることはしなくなりました。善いものにしろ、悪いものにしろ、見るべきものを見ず、為すことのできることもせず、犬死にするなんてことを、あなただってぼくに望んではいないでしょう? 勇気をもって納得のいく人生を送ることもできず、この狭い谷間で生涯を過ごすなんて!」彼は叫んだ。「今のようにぐずぐずしているくらいなら、この場で死んだほうがましです」
若い男は言った。
「多くの人は、君のように生き、そして死んでいく。だからと言って彼らはけっして不幸ではないのだよ」
ウイルは答えた。
「そんなに多くの人が、ぼくのように、生涯を送りたいというなら、その中の一人くらいぼくの代わりをしてくれてもよさそうなものではありませんか?」
あたりは真っ暗であった。亭屋《あずまや》の中の吊りランプは、テーブルにかけて話し合う二人の顔を照らし出していた。アーチに沿って、四つ目格子に絡《から》みついた葉が照らされて、夜空に浮き上がり、黒ずんだ紫色の上に、透きとおるような緑の模様を描いていた。その太った若い男は、立ち上がり、ウイルの腕をとると、広々した大空のもとに連れ出した。
「君は星を見上げたことがあるかい?」
彼は上のほうを指さしながらたずねた。
「何度もあります」とウイルは答えた。
「では、星が何だか知ってるかい?」
「いろいろ想像したことはあります」
若い男は続けた。
「星はわたしたちの世界と同じようなものなんだよ。そのいくつかは、わたしたちの世界より小さい。しかし多くの星は百万倍も大きいんだ。君が見ているいちばん小さいきらめきのいくつかは、天体であるだけではなく、宇宙の空間の中を、お互いの回りをぐるぐる回っている天体の大集団なのさ。わたしたちには、それらの中に何があるのか見当もつかない。もしかすると、それらの中には、わたしたちのすべての苦労への答えか、あるいはいっさいの苦しみに対する救いがあるかも知れない。しかし、わたしたちは、けっして、それらの星に達することはできない。
最も器用な人でも、あれらの星のうちいちばん近いものへ行く船を用意することはできないし、最も長寿な人の一生をかけても、その旅には短すぎるのだよ。大戦に敗れたときも、親しい友の死んだときも、また、わたしたちの気分が沈んでいようと、快活であろうと、星はいつもあのように、たゆむことなく、わたしたちの頭上で輝いている。わたしたちが大ぜいいっしょになって、この地上に立ち、心臓の張り裂けるまで叫んだとしても、ささやきひとつ星には届かない。最も高い山に登っても、それらに近づくことにはならない。わたしたちのできることといえば、この庭に立って、星たちに敬意を表し、帽子を脱ぐことだけなのさ。星の光がわたしたちの頭の上に降り注いでいるね。そしてわたしの頭の少し禿げている所が、闇の中で光っているだろう? 月と|すっぽん《ヽヽヽヽ》なんだ。どうあがいてもわたしたちと、大角星と、雄牛座の一等星の関係はそんなところなんだよ。君には比喩《ひゆ》がわかるかい?」彼はウイルの肩に手をかけて、つけ加えた。「比喩は理屈より、もっとはるかに人を納得させるものなんだよ」
ウイルはうなだれていたが、ふたたび空を見上げた。星たちはさらに空一面に広がって、いっそう鋭い光を放っているようだった。そして、上を見上げるにつれて、星たちはいよいよその数を増していくようだった。
「わかりました」ウイルは、その若い男のほうに向きながら言った。「ぼくたちは、鼠罠《ねずみとり》の中にいるんですね」
「そんなものだね。君は籠《かご》の中を走り回っているりすを見たことあるかい? また籠の中で木の実を食べながら、もの知り顔にすわっているりすを見たことあるかい? どちらのりすが愚かに見えるか、君に訊く必要もないだろうね」
牧師の娘マージョリー
それから数年が過ぎたある冬に、水車小屋の老夫婦は、自分たちの養子に手厚く看護されながら、共にこの世を去り、しめやかに葬儀が行なわれた。ウイルの放浪への憧れを知っていた人びとは、彼が直ちに家財を売り払い、身を立てるために川を下って行くだろうと思った。しかしウイルには、そんな意図は毛筋ほども見られなかった。それどころか、彼は旅籠《はたご》をもっとりっぱにし、経営を手伝わせるために二人の雇人を置くことにしたのであった。彼は、親切で、話好きで、頑丈な体格と、愛想《あいそう》のよい声をもち、しかも身の丈《たけ》六尺三寸もある若者に成長していた。彼には底知れぬようなところがあって、やがてこの土地では少し変わった人間と思われるようになったが、それも当然のことだった。というのは、彼の頭は空想でいっぱいで、きわめてあたりまえの常識をも疑うのだったから。だが彼をさらに評判にした事件があった。それは、彼が、牧師の娘マージョリーに求婚したという奇妙な事件であった。
マージョリーは十九歳くらい、ウイルはそのころおよそ三十歳であった。彼女は、たいへん見目《みめ》うるわしく、そしてまた、家柄にふさわしく、その地方の娘の中ではいちばん教育もあった。気位も高く、これまでに、幾度か結婚の申し込みがあったが、誇り高い彼女が断わったため、近隣では生意気だなどという噂も立っていた。それにもかかわらず彼女はどんな男でも十分に満足させることができるほどすばらしい娘であった。
ウイルが彼女に会うのはまれだった。というのは、教会と牧師館は水車小屋から二マイルしか離れていなかったが、日曜日以外にはそこに行かなかったからである。だが、たまたま牧師館が破損して、屋根や壁などを取りはずさなければならなくなり、牧師と彼の娘は、割引した安い料金で、一か月ほどウイルの旅籠《はたご》に泊まることになった。今ではウイルも、旅籠や水車小屋からの収入と、老主人の残していった貯えで、かなりの財産家になっていた。その上、彼は気立てのよさや明敏さで評判となっていた。こういった人の性質というものも、結婚のときの一種の持参金のようなものなのである。そこで口さがない連中は、牧師と娘は、考えがあって、ウイルの所を仮の宿にしたのだろうと噂した。しかし、ウイルは甘言にのせられたり、脅《おど》されて結婚するような男ではけっしてなかった。澄んで静かな淵《ふち》のような、内から射す明るい光をたたえた彼の目をみれば、まさに、ここにひとりの、自分というものを知り、あくまでそれを貫く男がいるということがわかった。マージョリーは、強いしっかりした眼と、決然として物静かな態度からして、女々《めめ》しい女ではなかった。その意志の強さにおいて彼女はウイルに引けをとらず、また、結婚後にどちらが相手を尻に敷くかはわからなかったといったほうがよいだろう。しかしマージョリーは、そんなことは少しも考えず、至極無邪気に、屈託《くったく》のないようすで、父と共にやってきた。
季節がまだ早かったので、ウイルの客はごく僅かであった。しかし、ライラックの花はすでに咲きはじめ、天候はたいへん穏やかだったので、彼らは、川のせせらぎや、森で囀《さえ》ずる小鳥の声を聞きながら、亭屋《あずまや》の四つ目格子の下で食事をとった。牧師は、食卓で居眠りする癖のある、あまりおもしろくない相手であったが、乱暴な言葉や、冷酷なことを口にするようなことはなかった。マージョリーのほうは、どこにいてもこの上なく優雅にふるまっていた。また彼女の言うことはすべて適切で、見事だったので、ウイルは彼女の才幹に感服したのであった。彼女が前に身を乗り出すとき、聳《そび》える松林を背にして、彼女の顔がよく見えた。彼女の瞳は穏やかに輝いていた。彼女の髪のあたりに漂う陽光は頭巾《ずきん》のように見えた。彼女の頬《ほお》には、うっすらと微笑が浮かび、彼女をみつめる度に、ウイルは心地よい驚嘆を覚えた。最も静かにしているときでも、まったく完全な女性に見え、指先からスカートの裾《すそ》にいたるまで生気に満ちていたので、彼女と比べたら、他のものは、単なる汚点《おてん》にすぎなかった。ウイルが、彼女から目を離し、周囲のものを眺めてみると、木々は生気を失って、無意味なものに見え、空の雲は死んだように垂れ、山の頂さえ、つまらぬものに思えた。その谷全体が外見において、このひとりの娘と比べることができなかった。
ウイルは人といるときはいつも注意を怠らず気を配る質《たち》であったが、マージョリーの前で彼の観察力はほとんど痛ましいというほどに熱心になるのだった。彼女の言うことはすべて聞きもらさないように耳を傾け、彼女の眼を読み、顔色に現われた意を汲み取ろうとした。彼女の心のこもった、誠実で気どらない言葉は、彼の心の中でこだました。美しく平衡を保ち、静けさに包まれて、何事も疑わず、何ひとつ望まない魂に彼は気づいたのだった。彼女の姿と物の考え方はひとつのものであった。彼女の一挙手、静かな声の響き、眼の光、そしてからだの輪郭《りんかく》は、歌い手の声を支え、それに和す伴奏のように、彼女のまじめなやさしい言葉とつり合っていた。彼女の不思議な魅力は、分離したり、論じたりすることのできないもので、ただ、感謝と喜びで感じることができるだけだった。ウイルにとって、彼女の存在は、彼の子どものころを思い出させ、夜明けや、流れる水や、早咲きの菫《すみれ》やライラックの花と同じように、彼女は彼の心から離れなかった。われわれの内にふたたびみずみずしい感覚と、年と共に消えてしまいがちな神秘的なものへの感受性を呼び覚ましてくれるのは、初めて見るものとか、春の花々のようにながい冬の後にふたたびわれわれの前に現われるものの特質なのである。だが、愛する人の顔は、人の性格を根底から新しいものにする力がある。
ある日、食事の後で、ウイルは樅《もみ》の林を散歩していた。深い幸福感が彼の全身を包み、風景に向かってひとりでに笑いがこぼれるのであった。川は飛び石の間に、美しいさざ波を立てて流れていた。森では、小鳥が声高らかに歌い、山々の頂は、天を突くほどに高く思われ、ときどき、見上げると、慈愛深くしかも尊厳に満ちた好奇心をもって、彼のようすをみつめているように思われた。彼は道を辿《たど》って、平原の見渡せる高台へ出た。彼はそこで石に腰をかけ、深く楽しい物思いに陥《お》ちた。平原は、その町々や銀色の川と共に、彼方に横たわっていた。あらゆるものがまどろみ、ただ鳥たちだけが大きな渦《うず》を巻いて、青い空を上昇したかと思うと下降し、あたりをぐるぐる飛んでいた。彼は大声でマージョリーの名を繰り返し呼んでみた。それは彼の耳に心地よく響いた。彼が目を閉じると、彼女の姿がぽっかりと目前に浮かび、静かに光を放ちながら、彼を楽しい想いに耽《ふけ》らせるのだった。川は永遠に流れ、鳥たちは星に達するまで高く飛んでゆくだろう。だが、そのようなこともつまらぬ空騒《からさわ》ぎにすぎないのだ。なぜなら、このせまい谷間から一歩も動かずに、彼もまた、満ちたりた幸福を手に入れたのだから。
翌日、牧師がパイプに煙草をつめているとき、ウイルは食卓越しに、思いきって胸中を打ちあけた。
「マージョリーさん、私は今まであなたほど素晴らしい女《ひと》に会ったことはありません。わたしはいつも冷たい不親切な人間です。しかし、それは愛が欠けているからではなくて、物の考え方が少し変わっているためなのです。わたしには人びとが自分から遠くにいるように思われるのです。わたしの周囲にはひとつの環《わ》があって、あなた以外の人はそこにはいれません。わたしは他の人たちが話したり、笑ったりするのを聞くことはできます。しかし、あなたのようには、わたしという人間に近づいてはいないのです。おそらく、こんな話は、不愉快でしょうね?」
マージョリーは何も答えなかった。
「お前も何でもお話ししたらよい」と牧師は言った。
「いいえ、今でなくとも結構です」とウイルがふたたび言った。
「わたしはお嬢さんに無理強いはしたくありません。こんなことには慣れていないので、うまく話せません。それにお嬢さんは、女の方《かた》ですし、何と言っても、まだ子どものようなものです。わたしのほうとしては、世間の人たちの言う恋におちたに違いないと思っています。しかし、わたしがそう断言したとお考えになっては困ります。わたしが思い違いをしているかも知れませんから。どうも恋をしているというのがほんとうのようなのですが、もしマージョリーさんのほうで、そうお思いでないのなら、どうか頭を横に振っていただいて結構です」
マージョリーは黙っていた。ウイルの話を聞いていたというそぶりさえ見せなかった。
「どうでしょうか、牧師様」
「娘が答えなければなりませんね」牧師は、パイプを下に置きながら答えた。
「マッジ、この方はお前が好きだと言っている。お前の方はどうかね?」
「好きだと思います」マージョリーは、小声で答えた。
「それは、願ってもないことです」とウイルは心の底から叫んだ。そして彼は、食卓越しに彼女の手をとり、深い満足感にひたりながら、彼の両手で、しばし握りしめるのだった。
「あなたたちは、結婚すべきですな」と、牧師は、ふたたびパイプをくわえながら言った。
「そうするのが当然だとお思いですか?」
とウイルはたずねた。
「是非結婚すべきです」と牧師は答えた。
「わかりました」と求婚者は言った。
他人は気づかなかったかも知れないが、それからの二、三日はウイルにとって心がうきうきするような毎日だった。彼は毎日、マージョリーと差し向かいで食事をしたり、彼女の父親のいる前で、彼女と話をし、彼女をみつめたのだった。しかし、彼は二人だけで会おうとはしなかったし、婚約以前と違う態度をとるようなことはなかった。彼女は少し失望したようだった。しかし、それも当然のことだったと言えよう。だが自分がいつも相手の意中にあり、その人の全生活にしみ込んで、その人の生活を変えるだけで十分だと言えるなら、彼女も十分に満足していたと言ってもよいだろう。なぜなら彼女のことは、かたときも、ウイルの心を離れたことはなかった。彼は川岸に腰を下ろして、渦巻のなかの木の葉や芥《あくた》を眺めたり、じっと動かぬ魚や、流れの中にたなびく水草をみつめた。またあるときは、黄昏《たそがれ》どきにさまよい出て、あたり一面|鶇《つぐみ》の鳴く森の中をひとりで歩いた。またあるときは早朝に起き出て、空が灰色から金色に変わり、朝日が山の端をさっと照らすのを眺めた。そのようなとき、彼はいつも、これまでそんなけしきを見たことがないように思い、また、何とそれらのものが以前とは異なったふうに見えるのだろうといぶかしく思った。自分の水車の回る音、木々の梢を渡る風の音は、彼の心をかき乱し、魅了するのだった。彼をうっとりさせる考えが、たえ間なく湧き、彼はたいへん幸福で、夜も眠れぬほどだった。そわそわして、彼女のいない所にはじっとすわっていることさえできないほどだった。それでいて、彼女を求めるよりは、むしろ避けているようだった。
ある日、彼が散歩から帰って来たとき、マージョリーは庭で花を摘《つ》んでいた。彼は彼女に近づき、歩調を弛《ゆる》めて、彼女の傍《かたわら》を歩き続けた。
「花が好きなんですね」
「ええ、とても」彼女は答えた。「あなたは?」
「いいえ、それほど好きではありません。結局、花なんてつまらないものです。人が花を愛する気持はわかりますが、今あなたがなさっているような愛し方は理解しかねます」とウィルは答えた。
「どのようにですの?」彼女は摘む手を休めて、彼を見上げながらたずねた。
「花を摘むことです。花は自然のままにしておくほうがずっとよいのです。その上、そのほうが、ずっと美しくみえるのです」
「わたしは、花を自分のものにしたいの。胸に飾ったり、室に置いたりしたいわ。花はここに咲いていると、わたしを誘惑します。花が『わたしたちに何かしてください』と言っているようなの。でも摘んで、わたしの側に置くと、わたしは安心して眺めることができるのですもの」と彼女は答えた。
「あなたは花に心を煩《わずら》わされないように、自分のものにしたいのですね。それは金の卵を産む鵞鳥《がちょう》を殺すようなものです。わたしも子どものころにはそうしたいと思っていました。わたしは平原を見渡すのが好きで、そこへ下ってみたいと願ったものです。しかし、一度降りてしまえば、もう平原を見渡すことはできないのです。ちょっとうまい理屈ではありませんか。まったく、皆、こういう風に考えさえすれば、わたしのようにするでしょうに。そしてあなたも、わたしがこの山の中にとどまっているように、あなたの花をそのままにしておくでしょうに」そこで彼は突然、話を止め、
「ほんとうにそのとおりなんだ!」と叫んだ。そして、彼女がどうしたのですかと訊いてもそれには答えず、奇妙な表情を浮かべて、家にはいってしまった。
食事のときも、彼は終始無言だった。そして、夜の帷《とばり》がおりて、星が満天に輝き出したころ、彼は、何時間も中庭と庭園を落ちつかぬ足どりで歩き回った。マージョリーの室の窓にはまだ明りがついていて、青黒い山々と銀色の星の光の世界の中で、そこだけは、オレンジ色をしていた。ウイルの心はその窓に激しくひきつけられた。しかし彼の考えは、普通の恋人の考えとは違っていた。「あの室に彼女はいる」彼は思った。「そして頭上には星が輝いている。──この二つのものに幸あれ!」この二つのものは、彼の人生によい影響を与えたのだ。彼を慰め、元気づけ、この世に対する深い満足を与えてくれたのだ。この二つのものに対して、これ以上何を望むことがあろう。あの太った若い男と、彼の忠告をウイルはよく憶えていた。彼は空を仰ぎ、両手を口にもって行くと、満天の星に向かって大声で叫んだ。彼の頭を上に向けたせいか、あるいは急に全身を緊張させたためか、彼には星たちが一瞬、揺れ動いたかに見え、冷たい光が夜空を走るかに見えた。同時に、マージョリーの室の窓のブラインドの一隅があがり、またすぐに、おろされた。彼は声をたてて笑った。「あそこでも、ここでもか!」ウイルは思った。「星はふるえ、ブラインドはあがる。ああ、わたしはど偉い魔法使いにちがいない! たとえわたしが愚者であるにしても我ながらたいした傑物さ!」そうして彼はくすくす笑いながら寝室に消えた。「たとえ、わたしが愚者だとしても!」
翌朝、かなり早く、彼はふたたび庭にいる彼女を見て、出て行った。彼はだしぬけに言った。
「わたしは今までずっと結婚について考えてきました。よくよく考えた末、わたしは結婚はくだらないものだという結論に達したのです」
彼女は物言いたげにちょっと彼のほうを見た。しかし、彼は天使をもまごつかせるような晴れやかな優しい表情をしていた。彼女は黙ってふたたびうつむいた。彼は彼女が、慄《ふる》えているのがわかった。
「どうか気にかけないでください」彼は、いくぶん、度を失った。「気になさってはいけません。わたしはよく考えてみたのです。誓って言いますが、結婚には得る所がないのです。結婚しても、今以上にわたしたちが近づくことはけっしてありません。そしてわたしの言うことが正しいとすれば、今ほど幸福なときはないのです」
「遠まわしにおっしゃる必要はありませんわ。わたくしはあなたが結婚すると断言なさらなかったのをよく覚えております。あなたが思い違いをなさっていて、実際には、わたくしのことなぞ何とも思っていらっしゃらなかったのがわかりました。ただ、今まで徒《あだ》な望みを抱いてきたことだけを悲しく思います」
「失礼ですが」ウイルは毅然《きぜん》とした態度で言った。「あなたは、わたしの考えがわかっていませんね。わたしがあなたを愛していたかどうか、第三者に聞いてみなければわかりません。しかし、第一にわたしの気持ちは少しも変わっていません。第二にあなたは、わたしの生活と性質を以前とは違ったものにしたことを自慢してもよいのです。わたしは本気で言っているのです。わたしは結婚は価値のないものだと思うのです。わたしはむしろあなたがおとうさんといっしょに暮らしてゆくことを望むのです。そうすれば、教会に行くときに、わたしは週一度か二度、あなたに会えます。そのほうが、わたしたちもより幸福でしょう。これがわたしの考えです。しかしあなたが望むなら結婚します」
「あなたはわたくしを侮辱《ぶじょく》していることを知らないのですね」彼女は突然叫んだ。
「マージョリー、そんなことはありません。良心にかけて誓いましょう。わたしはわたしの最上の愛情のすべてをあなたに捧げましょう。それを受けようと、拒《こば》もうとあなたのご随意ですが、一度起きたことを変えたり、恋を知らなかった昔にわたしを戻すことは、わたしたちの力の及ばないことだと思うのです。あなたが望むなら、結婚しましょう。しかし、何度も申し上げますが、結婚なんてつまらないものですし、わたしたちは友だちのままでいるのがいちばんだと思います。わたしは控《ひか》え目な人間ですが、これまでに、たくさんのことを見てきました。わたしを信頼して、わたしの言うとおりにしてください。もしそれがいやだとおっしゃるなら、そうおっしゃってください。そうすれば、わたしは今すぐにも、あなたと結婚しましょう」
かなりながい沈黙が続いた。ウイルは不安になり、そして気が立ってきた。彼は言った。
「あなたは自分の考えを言えないほど気位が高いようですね。ほんとうに残念なことです。心の中を打ち明ければ、爽《さわ》やかな日々を送れるのです。女の人に対して、わたしほど率直で、志操正しい態度をとることは、なかなかできることではありません。わたしはわたしの言い分を述べ、あなたに選択をまかせました。あなたは、わたしと結婚したいのですか? それとも、わたしが最善と考えたように、わたしの友情を受けてくださいますか? それとも、わたしがもういやになったのですか? どうかはっきりおっしゃってください。あなたのおとうさんも、こういうことは、女がその心の中をいわなければならないと、おっしゃっていたではありませんか」
この言葉を聞いて、彼女は我に返ったようだった。彼女はひと言も言わず、背を向けると、足早に庭を抜けて、家の中に消えた。後に残ったウイルは、どうなることか少し心配であった。彼は独り口笛を吹きながら、庭をあちらこちら歩き回っていた。ときどき、立ち止まっては、空や、山頂を眺めた。また堰《せき》の端へ降りて行って、そこに腰を下ろし、水面をぼんやり眺めていた。このような疑念や困惑は、ウイルの性格と、彼が断固として選んできた生活に、そぐわないものであったので、彼はマージョリーの来たことを後悔するのだった。彼は考えた。
「結局、わたしはこの上なく幸福だったのだ。わたしは、望むときにここに降りて来て、一日中、魚を眺めていることもできたのだ。わたしはわたしの古い水車小屋のように、落ち着き、満足していたのに」
マージョリーは、食事に下りて来た時、こぎれいな服装をして、落ち着いたようすだった。三人が食卓につくと、彼女は自分の皿に目を落としたまま、父親に話しかけた。だが別に当惑の色も、困惑のようすも見られなかった。
「おとうさま」彼女は話し出した。
「ウイルさんとわたくしは今までいろいろ話し合ってきました。わたくしたちは二人共、自分の気持ちについて思い違いをしてきたのです。そして、わたくしがお頼みして、ウイルさんは、結婚を断念することに同意してくださいました。わたくしたちは今までどおりただのお友だちとして、おつき合いすることにしました。わたくしたちは、けっして喧嘩《けんか》なぞしたのではないことはおとうさんもおわかりでしょう。わたくしたちは、家にウイルさんをいつでも喜んで迎えるのですから、これからも、たびたびお会いすることができると思っています。もちろん、このことは、おとうさまにおまかせしますが、わたくしたちは、当分、ウイルさんの所から出たほうがよいと思いますの。こうしたことがあった後では、しばらくお互いに気持ちよく過ごすことはできないでしょうし」
ウイルはそのときまで辛《かろ》うじて自分を抑えていたが、これを聞いて、突然、声を出したが言葉にならなかった。彼は、彼女の話に口を出し、反駁《はんばく》するように、すっかりあわてたようすで片手をあげた。しかし、彼女は、すばやい視線を彼に向け、頬には怒りの色を浮かべて、すぐに彼をさえぎった。
「このことは、わたくしに説明させてくださってもよいでしょう」
ウイルは、彼女の表情と、声の調子にまったく度胆をぬかれてしまった。彼はこの少女には、彼の理解できないものがあるとあきらめて、黙っていた。
牧師はかわいそうに、まったく落胆《らくたん》してしまった。彼は、こんなことは、ほんとうの恋人同士の痴話喧嘩《ちわげんか》にすぎないもので、一晩もたたぬうちに消えてしまうものだと言い張った。しかしこの考えが通じないのがわかって、喧嘩もしないのに別れる必要はないと論じ続けた。この老人は、ウイルと彼の歓待を気に入っていたのだった。マージョリーが彼らをあやつる様は実に巧妙であった。終始、言葉数も少なく、控え目でありながら、彼らを意のままにしていた。女性特有の才知と手練で、知らぬうちに彼女の思う所へ導いて行くのだった。
彼女と父親が、その日の午後に、農場の荷車で出発し、彼らの家ができあがるまで、はるかに谷を下った別の村で待つことになったのも、彼女の意図でやったことのようには思えず、自然の成り行きのように見えた。しかし、気をつけて観察していたウイルには、彼女の手際のよさと決心とがよくわかった。独りになってみると、さまざまの奇妙なことが心に浮かんだ。何よりもまず、彼は悲しく、淋しかった。あらゆる興味が生活から消えうせ、どんなにながく星を眺めていても、どういうわけか、心の支えも慰めも見い出すことはできなかった。マージョリーを想うと、彼の胸は騒ぐのだった。彼は彼女のふるまいを不思議に思い、いらだちもしたけれど、またそれを賞賛せずにはいられなかった。彼は、今まで疑ってもみなかったような、すばらしい天使を彼女の静かな魂の中に見い出したような気がした。彼はそれが、自分の生活の苦心して身につけた静けさとは合わないと思った。しかし、それを自分も持ちたいという燃えるような熱望を禁じえなかった。今まで物陰で生活してきて、急に日の光を見た人のように、彼は苦痛と喜びを同時に感じるのだった。
日は過ぎて行ったが、彼は極端から極端へと揺れ動いて行った。あるときは、自分の決心の強さを誇らしく思う一方、あるときは、自分の臆病で愚かな用心深さを軽蔑するのだった。おそらく、前の気持ちが彼のほんとうの考えであり、彼の内省の本筋を示していたのだろう。だが、時折、抑え難い激しさで、自蔑《じべつ》の念が湧き起った。そのようなとき、悔恨《かいこん》に我を忘れた人のように、家の中や、庭や、樅《もみ》の森を歩き回るのだった。平静で、物に動じないウイルにとって、この状態は耐えがたいものであった。彼は、どうあろうとも、このような状態を脱け出そうと決心した。そこで、ある夏の暑い午後、彼は晴れ着を身につけ、茨《いばら》の杖を手に、川沿いに谷を下って行った。彼はひとたび決心すると、たちまち、以前の心の落ち着きを取り戻し、不安と不愉快な焦燥《しょうそう》もまじえずに、晴れやかな天気や、移り変わるけしきを楽しんだ。結果がどう出ようと、同じことだ。彼女が彼を受け入れたら、今度は、彼女と結婚しなければならないだろう。そして、おそらく、それこそ神の御意に叶《かな》ったことなんだ。彼女が拒絶しても、彼はできる限りのことはしたことになるし、良心にこだわることなく、自分の思うとおりの道を行ければよい。彼は彼女が拒絶してくれればという気持ちに傾いていた。ところが、彼女の泊まっている家の茶色の屋根が、川の曲がり角にある数本の柳の間からのぞいているところまで来ると、半ばその希望を翻《ひるがえ》したいような気になり、それ以上に自分の意志薄弱なのを恥ずかしく思った。
マージョリーは彼に会えてうれしそうだった。そして、気取ることなく、すぐに彼に手を差しのべた。
「わたしは、この結婚についていろいろ考えてきましたが」と彼は口を切った。
「わたくしもです」彼女は答えた。「そして、わたくしはたいそう賢明な方としてますますあなたを尊敬していますの。あなたはわたくしが自分を理解している以上にわたくしを理解してくださいました。わたくしは、今では、このままでいるのがいちばんよいのだということがはっきりわかりました」
「と同時に──」とウイルは思い切って言おうとした。
「あなたは疲れていらっしゃるにちがいありません」彼女は彼をさえぎった。
「どうぞおすわりください。葡萄《ぶどう》酒を一ぱい持ってまいりますから。きょうの午後はほんとうに暑いですわね。でもこれに懲《こ》りずに、たびたびいらっしてくださいね。時間がおありなら、週に一度はお出かけください。わたくしはお友だちにお会いするのがとてもうれしいのです」
「ああ、そうだ。やっぱり、自分の思ったとおりだった」とウイルは思った。彼は気持ちのよい訪問を済まして、はればれとした気分でふたたび家路についたのだった。そして彼は、このことについて、それ以上心を煩《わずら》わすことはなかった。
三年間ほど、ウイルとマージョリーは、このような交際を続け、週に一、二度会っていたが、彼らの間で愛の言葉が交わされることはなかった。しかしこの間、ウイルはこの上もなく幸福であった。彼はむしろ、彼女に会う喜ひを抑えようとした。彼は牧師館への道を途中まで行って、あたかも自分の欲望を刺激するかのように戻ってきてしまうことがよくあった。途中にひとつの曲がり角があって、そこから三角形をした平地を背に、傾斜をなす樅《もみ》の森の間の谷の割れ目に、教会の尖塔《せんとう》が楔《くさび》のようにそびえているのを見ることができた。彼は家に帰る前に、その曲がり角に腰を下ろして、いかに生くべきかについて瞑想《めいそう》するのを好んだ。そして、農夫たちは、夕暮れどきに、彼の姿をそこで見かけることがたびたびだったので、そこを、「水車小屋のウイルの曲がり角」と呼ぶようになった。
三年目の終わりに、マージョリーは他の男と結婚してしまった。ウイルは悲しみ、裏切られたと思った。ウイルは男らしく顔色ひとつ変えなかった。自分は女についてあまりよく知らないが、三年前、彼女と結婚しなかったのは賢明だった、とだけ彼は言った。マージョリーは自分の気持ちさえつかんでいなかったことは明らかであり、表面はそうは見えなかったが、やはり他の女同様に、移り気で、気まぐれだったのだ。彼は、彼女と結婚しなかったことを、祝福すべきだ。そして自分の知恵にもっと尊敬を払ってもよいのだと言った。しかし、心の奥で、彼はまったく不愉快であり、一、二か月の間はすっかり元気をなくし、下男たちも驚くほど、げっそり痩せてしまった。
マージョリーが結婚してから、恐らく、一年ばかり経ったころだったろう。夜遅く、馬が街道を疾駆《しっく》する音が聞こえ、続いて旅籠屋《はたごや》の戸を、あわただしく叩く音に、ウイルは目を覚ました。彼が窓をあけて見ると、馬にまたがり、もう一頭の馬の手綱《たづな》をひいた百姓の下男が、彼といっしょにできるだけ早く来てくださいと言った。マージョリーは死にかけていた。彼女はウイルを枕辺に連れて来るために、急いで使いを走らせたのだった。ウイルは馬に乗るのがじょうずではなかったので、途中急ぐことができなかった。彼が到着したときには、すでに、彼女は死の敷居を越えようとしていた。しかし、彼らは、二人だけで数分の間、話すことができた。彼女が最期の息をひきとるとき、ウイルはそれを見届け、ひどく泣き崩れたのだった。
歳月は、いたずらに流れていった。その間にも、平原の町々には撃ち合いや騒動があった。過激な暴動が起こり、流血のうちに鎮圧された。戦争はあちらこちらで勃発し、天文台にいる忍耐強い天文学者は、新しい星を発見しては、命名していった。明るく照らされた劇場では、芝居が上演され、またあるときには担架《たんか》にのせられた人びとが病院に運ばれた。このように、平原の町々では、人間生活の相も変わらぬ喧騒《けんそう》と煽動《せんどう》が続いていた。一方ウイルの住む谷間では、風と季節だけが、時の流れを告げていた。魚は急流を泳ぎ回り、鳥は頭上を飛翔《ひしょう》し、松の梢《こずえ》は星の下でさらさらと鳴り、高い山々がすべてを見降ろすがごとく聳《そび》え立っていた。ウイルは路傍の旅籠屋《はたごや》を、まめまめしく切り回していたが、いつしか、雪に見まがうばかりの白髪になりはじめていた。しかし彼の心臓は若々しく、活気に溢れていた。脈搏は、落ち着いた調子だったが、手首のあたりでは、まだ強く規則正しく打っていた。彼の頬には、熟したりんごのような赤みがあった。腰は少し曲がっていたが、足どりはまだまだしっかりしたものだった。彼は、たくましい手を差し出して、すべての人びとと親しみをこめて握手するのだった。彼の顔には、戸外で働く人特有の皺《しわ》があったが、よく見れば、永久の日焼けというようなものだった。このような皺は愚かな顔つきをますます愚鈍にみせるものであるが、澄んだ眼と、微笑をたたえた口もとのあるウイルのような人の場合には、質素で心配のない生活の印《しるし》として、別の魅力を与えていた。
彼の話は、知恵ある言葉に満ちていた。彼は、人を愛し、人々も彼を好きだった。また季節がら谷間に多くの旅人が来るときなどは、ウイルの亭屋《あずまや》では、陽気な夜が続いたものだった。彼の隣人たちには気まぐれのように思われていた彼の意見も、町や大学から来た学識ある人びとから、しばしば賞賛を受けた。実際、彼の老年はすばらしいもので、日ごとにその名は知れ渡っていったのだった。そしてしまいには、彼の名声は平原の町々でも聞かれるようになり、夏に旅をする若者たちは、町の喫茶店で、水車小屋のウイルと、彼の男らしく素朴な人生観について話した。当然、ウイルは数多くの招待を受けたが、なにものも、彼をこの谷間から誘い出すことはできなかった。彼は頭を横にふって、パイプを口にくわえたまま、意味ありげに微笑むのだった。「あなたの来るのが遅すぎたのですよ」彼はこういつも答えるのだった。「わたしは今ではもう、死んだも同然です。わたしの一生はもう終わってしまった。五十年前なら、あなたの招待は、わたしの心を踊らせたでしょう。しかし今では、そんな気にもなれません。こうして生に執着のなくなるのが、長生きの目的なんですが」またあるときは「長生きと、ご馳走《ちそう》との間には一つだけ違うところがある。それはご馳走では甘いものが最後にくるということです」またあるときはこう答えるのだった。「わたしはまだ子どもだったころ、少し迷ったことがあります。興味深く、知るに値するのはわたし自身なのか、この世の中なのかよくわからなかったからです。今では、それはわたし自身だということを知っています。この考えを変えるようなことはしません」
彼は少しも老衰の兆候をみせず、最後まで頑丈で、しっかりしていた。しかし、彼が晩年に近づくにしたがって、口数も少なくなり、他人の話を、おもしろそうに、何時間も黙って聞いていた。ただし、口を開けば、その話は以前にまして的をえており、深い経験に富んでいた。彼は一|瓶《びん》の葡萄《ぶどう》酒を傾けるのを好んだ。とりわけ、夕方の山頂で飲むとか、夜更けの星空の下の亭屋《あずまや》で飲むのが好きだった。魅惑的でしかも手に入れがたいものを見ながら飲むのはすばらしかった。それからまた、長生きするにつれて夜空の星よりも、蝋燭《ろうそく》の灯をますます賛美するようになっていた。
七十二歳になったある夜、彼は床の中で目を覚ました。身心に非常な不安を感じたので、彼は起きあがり、服を着ると、瞑想《めいそう》に耽《ふけ》るため亭屋に出かけた。あたりは星もなく、まっ暗闇であった。川は増水し、湿った森や牧場の香《こうば》しい匂いにあたりはむせかえるようだった。その日は昼間、雷が鳴っていた。そして翌日もまた雷雨になりそうだった。七十二歳の老人には、陰うつな、息詰まるような夜だった。
天候のためか、不眠のためか、あるいは老いた手足に多少の熱があったためか、ウイルの心は、湧き返る感情的な思い出に占められていた。少年時代、あの若い太った男との夜、養父母の死、マージョリーとの夏の日々、他人にはつまらないものだろうが、彼自身にとっては、自分の生活の精髄《せいずい》であったさまざまの小さな出来事――目でみたもの、耳で聞いたもの、誤解した顔付き──そういったものが忘却の中から現われて、彼の注意を奪うのだった。死んだ人びとも次から次へと、湧いてくるおぼろげな記憶に現われるばかりでなく、深く生々《なまなま》しい夢の中でのように彼の肉体の感覚にも訪れてくるのだった。太った若い男は、食卓の向こうに両肱《りょうひじ》をついて、マージョリーはエプロンに花を一ぱい入れて庭と亭屋《あずまや》の間を行ったり来たりしていた。ウイルは老牧師が、パイプの灰を叩き出したり、大きな音をたてて、鼻をかんでいるのを聞くことができた。彼の意識の潮は退《ひ》いたり、満ちたりして、半分眠って過去の追想の中でまどろむかと思うと、ときにはすっかり目覚めて、自分自身をいぶかしく思うのだった。
真夜中近くになって、死んだ水車小屋の主人の声が、昔、お客の到着したときのように、彼を家の中から呼んだので彼は驚いた。その幻聴があまりにはっきりと聞こえてきたので、ウイルは椅子からとび上がり、彼を呼ぶ声がまた聞こえはしないかと耳を澄ました。彼がじっと聞き耳を立てているうちに、川の音と彼の熱っぽい耳鳴りの他に、別の音がしているのに気づいた。それは馬の動く音、馬具の軋《きし》る音のようだった。それは先を急《せ》く馬に引かれた一台の馬車が、中庭の門の前の道で止まったように聞こえた。このような時間に、しかもこのでこぼこの危険な山道をと、考えただけでも馬鹿馬鹿しく思えた。そこでウイルは、そんな考えを心から押しのけて、亭屋の椅子にふたたび腰を下ろした。すると、流れる水のように眠りがふたたび彼を閉じこめた。彼は死んだ水車小屋の主人の呼び声にふたたび目を覚ました。それは以前よりもかすかな、そして気味の悪い声だった。彼はふたたび、道に馬車の響きを聞いた。このように、三回も四回も同じ夢、同じ空想が、彼の五感を訪れるのだった。彼はついに、むずかる子どもの機嫌をとるように、自分自身に微笑しながら、不安を静めるために、門のほうへ出かけて行った。
亭屋《あずまや》から門までは、たいして離れてもいなかったが、ウイルにはかなりの時間を要した。中庭では、死んだ人びとが彼の回りに集まり、一歩ごとに、彼の行く手を横切るようだった。まず彼はヘリオトロープのむせかえるような香りにびっくりした。庭一面にヘリオトロープが植えられて、暑く湿っぽい夜が一息に、その香りを吸い取って発散させたかのようだった。そして、ヘリオトロープは、マージョリーの大好きな花だった。だが、彼女が死んで以来、この花は一本もウイルの庭には植えられていなかった。
「わたしはきっと気がおかしくなりかかっているんだ」彼は考えた。「かわいそうなマージョリーに、彼女のヘリオトロープ!」
彼はこう言いながら、昔彼女の泊まっていた部屋の窓のほうに目を向けた。もし彼がその前にうろたえていたと言ってよいなら、彼はそのとき腰を抜かさんばかりに驚いた。なぜなら、その室に明かりがついていたのだ。窓は、昔と同じオレンジ色の長方形をしていた。ブラインドの片すみが巻き上げられ、また降ろされた。それは彼が昔、困惑して星に向かって叫んだ夜と同じだった。この幻は、ほんの一瞬続いただけだったが、彼はおどろいて、眼をこすり、輪郭だけ見える家と、その後ろの黒い夜をみつめた。こうして彼は立っていたが、かなりながい間立っていたに違いない。ふたたび道のほうが騒がしくなってきた。彼はふり向いた。すると、ちょうど、見知らぬ一人の男が、中庭を横切って、彼のほうへやってくるのが見えた。その見知らぬ男の後ろの路上には、大きな馬車の輪郭とおぼしきものが見え、その上に、羽毛のように見える黒い松の梢が二、三本そびえていた。
「ウイルさんですか?」とその新来者は、きびきびした軍隊口調でたずねた。
「そうですが、何かご用ですか?」とウイルは答えた。
「わたしはあなたの噂をよく聞きましたよ。ウイルさん。たいそうな評判で、それも好評です。わたしは両手にあまるほどの仕事があるんですが、あなたの亭屋《あずまや》で、あなたと葡萄《ぶどう》酒を一献《いっこん》傾けたいと存じ、まいりました。おいとまする前に、わたしの名を申し上げましょう」
ウイルは、その男を四つ目垣のほうへ案内し、ランプをともすと、一|瓶《びん》の栓を抜いた。彼はこのような慇懃《いんぎん》な訪問にまったく不慣れというわけではなかった。そして多くの場合、こういった訪問には失望を味わっていたので、この見知らぬ男の訪問にもたいして期待はしていなかった。一種、雲のようなものが彼の心にかかっていて、彼は時刻の異常なことに気づかなかった。彼は眠っている人のように動いた。彼がそうしようと思ったとたんに、ランプには灯がともり、葡萄酒の栓は抜けたかのように思われた。それでも、彼はこの訪問者のようすに、多少奇異の念を抱いていた。彼はランプの灯をその男のほうに向けようとしたが、無駄であった。彼がランプを無器用に動かしたためか、あるいは彼の眼に霞がかかっていたためであろう。ともかく、彼は彼といっしょに、食卓にすわっている男の影だけしか見分けられなかった。彼は眼鏡を何度も拭《ふ》きながら、この影を凝視した。すると、胸のあたりが冷たく、奇妙に感じられてくるのだった。沈黙が彼の上に強くのしかかっていた。彼には、何一つ聞こえてこなかった。川の音さえも聞こえず、ただ、耳に彼自身の鼓動の波うつ音だけが響いていた。
「さあ、健康を祝して」と見知らぬ男は、そっ気なく言った。
「あなたにも健康を」とウイルは答えて、葡萄酒を啜《すす》ったが、幾分妙な味がした。
「わたしはあなたがなかなか強情な人だと聞いています」とその男は続けた。
ウイルは幾分満足の微笑をうかべ、軽くうなずいて返事をした。
「わたしもそうなんですよ」相手の男は続けた。「わたしは他人を困らせるのが無性に好きでしてね。わたしはけっして他の人に強情を張らせません。ただの一人もです。わたしは盛んな時分には、王様でも将軍でも、大芸術家でも気まぐれをさせなかったんですよ。ところで、わたしがあなたの気まぐれをくじくために、わざわざここまでやって来たとしたら、どうお思いです?」
ウイルは、手厳しく言い返してやろうと舌の先まで出しかかった。しかし旅籠《はたご》の老主人としての丁重さがそれを許さなかった。彼は平静さを保って、手でていねいに合図しただけだった。
「わたしは実際そのために来たのです。もし、わたしがあなたを特に尊敬していなかったら、こんなことは口にしませんよ。あなたは、ご自分の場所に留まっていることを誇りに思っていらっしゃるようですね。あなたはあくまでこの旅籠屋を離れないというつもりらしいですが、わたしは是非ともあなたをわたしの馬車にのせて一回りさせるつもりなんですよ。この瓶が空にならないうちに、そうしてもらわなければなりますまい」
「これはまた希代《けたい》なことですね、ほんとうに」ウイルは、くすくす笑いながら答えた。「あなた、わたしは古い樫《かし》の木のようにここに生えて来たのです。悪魔だって、わたしを根こぎにすることはできんでしょう。お見かけしたところ、あなたはたいへんおもしろそうな老紳士ですけれど、わたしに対するお骨折りが無駄なことは、もう一本|葡萄《ぶどう》酒をかけてもかまいませんよ」
この間にも、ウイルの視力はますますぼんやりしてきた。それでも彼は、相手の探るような鋭く冷たい視線を感じていた。腹立たしさを覚えたが、彼はそれに打ち勝つことはできなかった。
「あなたは」ウイルは、自分自身驚くほどの、爆発的で熱っぽい調子で、突然に口を切った。
「あなたは、わたしが世の中のあらゆるものを恐れて、家の中ばかりにいると考えてはいけません。わたしが、この世のすべてのものに飽き果てていることは、神様もご存知です。そして、あなたが今まで夢に見たこともないような長い旅に出るときが来ても、わたしは、自分にすっかり準備ができているつもりです」
その見知らぬ男は、グラスを干して、傍《かたわら》に押しやった。彼はしばらくうつむいていたが、食卓に寄りかかるように身をのり出し、一本の指でウイルの二の腕を軽く三度たたいた。
「その時が来たのです」と彼は厳《おごそ》かに言った。
ぞっとするような戦慄《せんりつ》が、その男の触れたところから、ウイルの全身に伝わった。その男の声の調子には、単調でありながら人をびくっとさせるものがあり、それはウイルの心の中で、奇妙に反響したのだった。
「失礼ですが、あなたはどうなさるというのですか?」ウイルは幾分うろたえながらたずねた。
「わたしを見てごらんなさい。あなたは目まいがするでしょう。手を挙《あ》げてみなさい。それは鉛のように重いでしょう。ウイルさん、これはあなたの最後の葡萄酒なんですよ。そして今夜は、あなたのこの世での最期の晩なのです」
「あなたは医者ですか?」とウイルは、慄《ふる》え声で言った。
「この世のまたとない名医です」と相手の男は答えた。「わたしは、同じ処方で、心もからだも癒《いや》すのです。わたしはあらゆる苦痛を取り去り、あらゆる罪を許すのです。わたしは、わたしの患者が、この世で過ちを犯したときには、あらゆる悶着《もんちゃく》を取り除き、彼らをふたたび自由な身にしてやるのです」
「わたしはあなたの手は借りません」とウイルは言った。
「ウイルさん」その医者は言った。「舵がその手から取り上げられるときは、だれのところへでもやって来ます。あなたの場合には、賢明で、静かに生きてきたので、その時の来るのが遅く、あなたは、その時を受け入れるまで、十分な時を自分の修練に費すことができたのです。あなたは、水車小屋のまわりで見られるべきものはすべて見てきました。あなたは、巣穴の中の野兎のように、一生ずっとすわり続けてきたのですが、それも終わりです。ですから」と、医者は立ち上がりながらつけ加えた。「あなたは立ち上がって、わたしといっしょに来なければいけません」
「あなたは奇妙な医者だ」ウイルは彼の客をじっと見つめながら言った。
「わたしは自然の法則です」と相手は言った。「人はわたしを『死』と呼んでいます」
「なぜ、あなたは、最初にそうおっしゃらなかったのです」とウイルは叫んだ。「わたしはながいこと、あなたを待っていたのです。わたしに手をください。ようこそいらっしゃいました」
「わたしの腕に寄りかかりなさい。あなたの力はもう衰えているのです。いくらでもわたしに寄りかかりなさい。わたしは老いてはいるが、それでも力は強いのです。わたしの馬車までほんの二、三歩です。そうすれば、あなたの苦労は、いっさい終わるのです。ねえ、ウイルさん」見知らぬ男は続けた。「わたしは、あなたを実の息子のように思い続けて来たのですよ。また、わたしがながい生涯の間、迎えに来た人びとの中で、あなたを迎えに来たときほどうれしかったことはありません。わたしは辛辣《しんらつ》なところを持っているのでしょう。ときどき、一目で人びとに嫌われるのですが、あなたのような人には心の底から親しみを覚えるのです」
ウイルは答えた。
「マージョリーが逝《い》ってから、神に誓って申しますが、あなたこそ、わたしが待ち望んでいたただ一人の友でした」
そして、二人は腕と腕を組んで、中庭を横切って行った。
召使の一人が、そのころ眼を覚まして、馬の足掻《あが》きの音を聞いたが、ふたたび眠りに陥ちた。その夜は、平原へとたえ間なく、そよ吹く風の音が聞こえていた。そうして、翌朝人びとが目を覚ましたときには、果して水車小屋のウイルは、永遠の旅へと出かけてしまっていたのだった。
一夜の宿
――フランソワ・ヴィヨンの物語──
一四五六年の十一月も末の頃だった。激しい雪が、容赦なく、執拗《しつよう》に、パリ一面に降りしきっていた。ときおり、突風が起こり、雪を巻き込んでは吹き散らしたかと思うとまたすぐ凪《な》いだ。暗い夜空からひらひらと舞い落ちる雪はいつ止むとも知れなかった。濡れた眉をした貧しい人びとは、空を見上げながらいったいこんなにたくさんの雪はどこから来るのだろうと思った。
フランソワ・ヴィヨン学士は、その日の午後、居酒屋の窓際で、『これは異教の神ジュピターがオリンパスの山上で鵞鳥《がちょう》の羽をむしっているのさ』とか『聖天使たちが羽変わりしているからだ』などという仮説を出していた。『おれは一介《いっかい》の貧乏学士にすぎない』と彼は続けた。『事は幾分、神学にわたっているので、あえて結論は下せない』と。そこに居合わせたモンタルジから来たひとりの愚かな老僧が、ヴィヨンの冗談とそのしかめっつらに敬意を表して葡萄《ぶどう》酒一本をおごり、彼もヴィヨンの年ごろには、|ごろつき《ヽヽヽヽ》だったと、自分の白い髯《ひげ》にかけて断言した。
気温は氷点下をそれほど下まわってはいなかったが、大気はひやりと肌を刺すようだった。舞いおちる雪は、大きく、湿っていて、ねばり気があった。パリ全市が白布の雪に包まれていた。一軍隊が市の端から端まで行進しても、足音ひとつ、市民を驚かすようなこともなかったろう。もしねぐらに帰りそこなった鳥が空に舞っていたならば、大きな白い点のような島(シテ島)と黒い川を地に、細く白い円材のようないくつかの橋をきっと見下ろしたにちがいない。頭上高く、雪は、ノートルダム寺院にそびえる塔の透かし彫りの間にも積もっていた。聖像を安置する壁龕《へきがん》は、吹き寄せる雪に埋まり、多くの像は、その奇怪な、あるいは神聖な頭に長く白い帽子を冠っていた。樋嘴《ひし》は、突端の垂れさがったつけ鼻と化し、尖塔の唐草細工《からくさざいく》は、片方がふくれて、まっすぐに立った枕のようであった。風の合い間合い間に、教会の境内のあたりで、雫《しずく》の垂れる鈍い音が響いていた。
聖ジョン寺院の墓場にも雪は積もっていた。すべての墓は小ぎれいに雪で覆われていた。そしてその周囲には、高い家々の屋根が、厳《おごそ》かに立ち並んでいた。りっぱな市民たちは、彼らの家と同様、ナイト・キャップを冠って、とっくの昔に寝てしまっていた。あたりには灯ひとつなく、ただ教会の合唱室に吊られたランプが、揺れながら、ここかしこに影を投げかけているのみだった。時計が十時を打とうとしているころ、戟《ほこ》と提灯を携《たずさ》えた夜番が、手を拍《う》ち鳴らしながら通り過ぎた。彼らは聖ジョン寺院の界隈《かいわい》に異常なしと認めたのだった。
墓地の塀《へい》を背にして小さな家が一軒あったが、白河夜舟の界隈で、その家だけに人の気配があった。しかもよからぬ心算《しんさん》があってのことで、外から眺めただけではそれと知られなかったが、ただ煙突の先から暖かな煙が一筋すーっと立ち昇り、屋根に一か所雪の溶けた所があり、また戸口には、半分消えかかった足跡が点々と残っていた。
しかし、鎧戸《よろいど》を下ろした窓の内側では、詩人のフランソワ・ヴィヨンと仲間の泥棒たち数人が、寝もやらず騒いで、酒瓶をまわしていた。
うず高く積まれ、赤々とした残り火が、弓形の壁炉から強いまっ赤な光を投げかけていた。その前には、ピカルディの剃髪《ていはつ》修道僧、ニコラスが、大股をひろげて立ち、裾《すそ》をたくし上げて、むき出しの太った足に暖をとっていた。彼の影は脹《ふく》れて、室を二つに分けていた。炉の光は彼の幅広いからだの両側からどうにか室に広がり、また彼の広げた両脚の間に、ちょっとした光の水たまりを残していた。彼は大酒飲みの例にもれず、酒焼けした顔をしていた。充血した血管が浮き立ち、ふだんの紫色も今は薄い菫色《すみれいろ》になっていた。というのは、背中を火に向けていたものの、寒さは反対側から彼を攻めていたのである。彼の帽子は半ばずり落ちて、猪首《いくび》の両側に異様な瘤《こぶ》のようになっていた。こんなようすで、彼はぶつぶつ言いながら股を広げて、立っていたが、その巨体の影で部屋を二つに分けていた。
その右手では、ヴィヨンとガイ・タバリが一枚の羊皮紙の上に、からだをすり寄せるようにして屈《かが》んでいた。ヴィヨンは「焼き魚の歌」と題するつもりのバラードを作っていて、タバリは彼の肩越しにしきりに賞賛の声を発していた。詩人は風采《ふうさい》の乏しい、浅黒く、小柄で、痩《や》せぎすな男で、頬は落ち窪《くぼ》み、髪は薄黒いまき毛だった。彼は熱病のごとき活気をもって、二十四歳という年齢の重みをになっていた。貪欲が目のまわりに皺《しわ》を作り、邪悪な微笑は口をすぼませていた。そこでは、狼《おおかみ》の残忍性と豚の貪欲がせめぎ合っていた。それは雄弁で、鋭く、醜悪で俗っぽい顔つきであった。彼の手は小さく、すばしっこそうで、指は節くれだっていた。それは激しく、表情たっぷりに、からだの前でせわしなく動いていた。タバリといえば、満足しきって、他愛もなく他人に感心するという隠しようもない愚鈍さが、彼のつぶれた鼻と、しまりのない唇から現われていた。一級のりっぱな市民になっていたかも知れないこの男も、今は泥棒になっていたのだった。それというのも、無慈悲な偶然というものが、愚かな人間の人生を支配しているからだろう。
また修道僧の向こう側では、モンティニィとテヴナン・パンセットが賭博《とばく》をしていた。モンティニィにはどことなく生まれ育ちのよさがあり、堕落天使といったふうなところがあった。からだつきは、すんなりしなやかで、雅《みやび》やかだったが、鷲鼻《わしばな》で浅黒い顔をしていた。テヴナンのほうは、たいへん張りきっていた。彼はその日の午後、フォーブール・サン・ジャックでいかさま賭博をうまくやって、今また一晩中モンティニィから捲《ま》き上げているところだった。薄笑いが顔に浮かび、花冠のような赤毛のまん中で、禿頭《はげあたま》がばら色に輝いていた。彼の少し突き出た腹は、儲け銭を掻き集めるたびに、含み笑いで揺れるのだった。
「倍取りか、帳消しか?」とテヴナンが言った。
モンティニィは、むっつりとうなずいた。
「もったいぶった食事を好む輩《やから》もいる」とヴィヨンは書いた。
「銀皿に盛ったパンとチーズで。あるいは──あるいは──、助けてくれよ、ギド──!」
タバリはくすくす笑った。
「あるいは黄金の皿にパセリを盛って」と詩人は書きなぐった。
外では風が勢いを増していた。それは雪を吹きまくり、時には勝ち誇ったようにヒューヒューと音をたて、煙突の中に吹き込んで陰気な唸《うな》り声をたてていた。夜が更《ふ》けるにつれて、寒さはいっそう厳しくなっていった。ヴィヨンは唇を突き出して、口笛とも唸《うな》り声ともつかぬ音で、突風の音をまねた。それは詩人の気味の悪い特技だったが、ピカルディの修道僧はそれが大きらいだった。
「絞首台でかたかた鳴っているのが聞こえないかい?」とヴィヨンは言った。「あそこじゃ、奴ら、みんな宙ぶらりんになって地獄の踊りをやってるんだぜ。踊りたけりゃ、やりたまえ、諸君、しかし、暖かくなんかならないよ。ヒュー、なんて風だい。どいつか一人落っこちたぞ! 三本|叉《また》の枇杷《びわ》の木の枇杷の実一つ風に落ちたり! おい、ニコラス坊主、今夜はサン・ドニ通りは寒いだろうなあ」
ニコラス師は大きな眼をしばたいて、喉仏《のどぼとけ》で息が詰まったようなようすをした。大きく凄惨《せいさん》なモンフォーコンの絞首台が、サン・ドニ通りの近くにあったので、このヴィヨンの冗談は彼の痛いところに触れたのだった。タバリのほうは、この枇杷|云々《うんぬん》にげらげらと笑っていた。彼はこんな陽気な表現は聞いたことがなかった。そこで彼は脇腹を抱えてげらげらと笑うのだった。ヴィヨンがその鼻を指で弾《はじ》くと、笑っていたタバリは激しく咳き込んだ。
「おい、その馬鹿騒ぎを止めろよ」とヴィヨンは言った。「そして魚との押韻《おういん》語〔詩中で韻律をつくりだす同一音や類似音〕を考えてくれ」
「倍取りか、帳消しか」とモンティニィはしつこく言った。
「よしやろう」とテヴナンは言った。
「その瓶《びん》にはまだあるかい」と修道僧がたずねた。
「もう一本あけろよ」とヴィヨンが答えた。「お前の大樽みたいな図体を、瓶なんて小さなものでいっぱいにできると思ってるのか。お前はどうやって天国へ行こうってんだ? ピカルディ生まれのたかが一匹の坊主を天国へ連れて行くのに、いったい何人の天使たちを都合してもらえると思ってるんだい? それとも、自分がエライアス〔BC九○○年頃の予言者の一人。火炎の馬の牽《ひ》く車に迎えられて昇天したことが旧約に出ている〕なみに偉くて、天国からお迎えの車が来るとでも思ってるのか」
「|人のよくするところにあらず《ホムニブス・イムポッシビレ》」と、グラスに酒を注ぎながら、修道僧はラテン語で答えた。
タバリは大喜びだった。
ヴィヨンはまた彼の鼻を弾《はじ》いた。
「笑いたけりゃ、おれの洒落《しゃれ》を笑えよ」と彼は言った。
「だが、今のは実にうまい文句だぜ」とタバリは言い返した。
ヴィヨンは彼に向かってしかめっ面をした。
「魚との押韻を考えてくれよ」と彼は言った。「お前とラテン語とどういう関係があるんだ? 最後の審判のときにゃ、そんなものは知らなけりゃよかったと思うよ、きっと。そのときには、悪魔が学僧ギド・タバリ出廷と呼ぶぜ――せむしで、まっ赤に灼《や》けた爪の悪魔がね。悪魔と言やあ」と彼はささやき声で付け加えた。「モンティニィを見ろよ」
三人はその賭博《とばく》者のほうをこっそりと見た。どうも彼はついていないようすだった。口を少し一方に歪《ゆが》めて、一つの鼻孔をほとんど閉じ、他方をひどく開《ひろ》げていた。子どもを宥《なだ》めたり嚇《おど》したりするときのあの恐ろしい隠喩《いんゆ》で言えば、黒犬が彼の背中に取り憑《つ》いていた。彼はその恐ろしい重荷の下で端《あえ》いでいた。
「あいつ、まるでドスでぶすりとやりそうな顔しているぜ」とタバリは目を丸くしてささやいた。
修道僧はぶるっと身震いして、顔をそむけ、まっ赤な燃えさしのほうへ両手をひろげた。だが、彼は道徳的感情からそうしたのでなく、ただ寒かったためである。
「さて、このバラードだが、今までの調子はどうだろうなあ」彼は手拍子を取りながら、タバリに朗読して聞かせた。
しかし、ヴィヨンが四つ目の押韻を読んだ時に、賭博者たちはあっという間に刃傷沙汰《にんじょうざた》を起こしていた。ちょうど一勝負が済んで、テヴナンが「また勝ったぞ」と言おうとしたとき、モンティニィは蝮《まむし》のようにすばやく立ちあがって、彼の心臓をぶすりと刺したのだ。その一撃で、テヴナンは声をあげ、動く間もなくやられた。一、二度からだが痙攣《けいれん》した。手がひらいて結ばれ、踵《かかと》は床の上でがたがたと鳴った。それから彼の頭は、両眼をかっと見開いたまま、一方の肩の後ろへがくりと落ちた。こうしてテヴナン・パンセットの魂は、それを造りたもうた神の御許《みもと》に帰って行った。
一同はさっと立ち上がった。しかし事件は即座に終結した。四人の生きている連中は、ものすごい様で、お互いの顔を見合わせた。死人は、いっぷう変わった気味の悪い横目で天井の一角を睨《にら》んでいた。
「なんてこったあ!」とタバリは言って、ラテン語でお祈りを始めた。
ヴィヨンは急に狂気じみた笑いを始めた。彼は前に一歩踏み出し、テヴナンに向かって、ひょっこりと剽軽《ひょうきん》に頭を下げると、さらに大声で笑い続けた。それから彼はどっかりと椅子に腰を下ろして、身も砕け散らんばかりに笑いこけていた。
モンティニィがまず落ち着きをとり戻した。
「奴の持ち合わせを調べようじゃないか」と彼は言った。それから慣れた手つきで、死人のポケットの中身を抜き取り、テーブルの上で、その金を四等分した。
「さあ、分け前だ」と彼は言った。
修道僧は深いため息をつきながら分け前を受け取り、死んだテヴナンのほうをちらりと見たが、テヴナンはもはや崩折《くずお》れて、横ざまに椅子からころげ落ちそうになっていた。
「おれたちゃ皆、同罪だぞ」とヴィヨンは笑い出しそうなのを抑えながら叫んだ。「ここにいるどいつにもこりゃあ絞首刑ものだ。ここにいない奴は別にして」彼は右手を上げてぞっとするような手ぶりをし、舌を出し、頭をがくりと一方に傾けて、絞首刑囚の真似をした。それから彼は略奪金の分け前をポケットに入れてから、まるで血行をよくしようとするかのように、摺《す》り足で踊った。
タバリは最後に分け前を取った。彼は金にとびつくと、部屋の向こう側へしりぞいた。
モンティニィはテヴナンを椅子にまっすぐにすわらせて、ドスを引き抜いたが、その痕《あと》からは鮮血がほとばしった。
「おまえらはそろそろずらかったほうがいい」と彼は死人の上衣でドスの刃を拭きながら言った。
「そうしたほうがいい」とヴィヨンは、息苦しそうに唾を飲んで答えた。「ちぇ! なんてでぶでぶの面《つら》をしてるんだ!」と彼は叫んだ。「痰《たん》みてえにおれの喉《のど》にひっかかりやがる。死んでも赤毛をしているって法があるもんか」それから彼はどたりと椅子に倒れ込み、両手ですっかり顔を蔽《おお》った。
モンティニィとニコラス師は大声で笑った。タバリも弱々しく調子を合わせた。
「泣き虫め」と修道僧は言った。
「だからおれはいつも奴《やつ》は女だと言っていたんだ」とモンティニィは嘲笑しながらつけ加えた。
「しゃんとできないのか」と彼は死人をもう一度揺すった。
「あの火を踏み消せ、ニック」
しかし、ニックはもっとうまい仕事をしていた。三分とたたない前に詩を作っていた椅子に、今はぐたりとなって震えているヴィヨンから、ニックはこっそり財布を失敬していたのである。モンティニィとタバリは、獲物の分け前をよこせと目|配《くば》せした。修道僧は小さな袋を自分の法衣の懐に入れながら|後で《ヽヽ》と身ぶりで示した。いろいろの点で、芸術家|気質《かたぎ》というものは人間を実生活に不向きにするものである。
この窃盗《せっとう》仕事が片づいたとたん、財布を盗られたのも知らずにヴィヨンはからだを震わせ、すっくと立ち上がると、燃えさしを踏み散らして消す手伝いを始めた。この間、モンティニィは戸をあけて、注意深く通りをうかがった。人っ子ひとりいなかった。うるさい巡邏《じゅんら》も見えなかった。それでも、一人ずつ抜け出すのが賢明だということになった。そしてヴィヨンは死んだテヴナンの側から早く逃げ出したかったし、ほかの連中は彼が自分の金のなくなったことに気づかぬうちに早いところ追い払ってしまいたいと思っていたので、ヴィヨンがまっ先に通りに出るということに、意見が一致した。
風は勝ち誇ったようにひゅうひゅうと吹き、空から雲をすっかり追い払ってしまっていた。ただ月光と見ちがうばかりに淡い幾筋かの蒸気が星空を横切ってすみやかに流れていた。身を切るような寒さだった。そしてよくあることだが、眼のかげんであたりの物が真昼間よりもはっきりと見えるような夜だった。眠っている街には、もの音ひとつ聞こえなかった。またたく星空の下には、ただ白頭巾を冠った家々が立ち並び、小さなアルプス山脈のような凹凸のある雪の原だけが広がっていた。ヴィヨンは己れの運命を呪《のろ》った。まだ雪が降っていてくれればいいのに。このままでは、どこへ行こうと、輝く街路にいつまでも消えない足跡を残すことになるだろう。どこへ行こうと聖ジョン寺院の墓地の側《そば》のあの家につながれたままということになる。このままだとどこへ行こうと、自分の歩む足で、自分をあの犯罪に縛りつけ、やがては絞首台に縛りつける縄《なわ》をなうことになりそうだ。
死んだ男の気味の悪い眼付きが新しい意味をおびてよみがえってきた。彼は勇気をふるい立たそうとするかのように指を鳴らし、でたらめに路を選んで、雪の中を大胆に歩いて行った。
歩きながらも、二つのことが彼の心から離れなかった。この明るい風立った夜分のモンフォーコーンの絞首台が一つ、もう一つは、禿頭《はげあたま》と、それを花輪のごとく囲む赤い巻毛をもったあの死人の顔付きであった。この二つが彼の心臓を冷やりとさせた。そして彼は足を早めさえすれば、このいやな考えからのがれられるとでもいうように歩き続けた。彼はときどき神経質にびくっとして、肩越しにふり返った。しかし白一色の街に動くものといっては、自分だけだった。風だけが街角を吹き巡《めぐ》り、凍りかけている雪をまばゆく輝く塵《ちり》の竜巻のように吹き上げていた。
突然彼は、はるか前方に一つの黒い塊と、二つの提灯を認めた。その塊は動いていた。そして提灯は歩いている人間がさげているように揺れていた。巡邏隊《じゅんらたい》だった。それは彼の行く手を横切っているにすぎなかったけれど、できるだけ速く巡邏隊の目の届かぬ所へ行くのが賢明だと判断した。彼は誰何《すいか》されたくなかった。それに雪の上に非常にはっきりとした足跡を残していることを知っていた。ちょうど、彼の左手に、いくつかの小塔と戸口の前に車寄せのある大きな邸宅があった。そこは半ば荒れるにまかせられ、ながいこと人が住んでいなかったのを彼は思い出した。そこで彼はそちらへ三歩あるいて、車寄せの陰へ飛び込んだ。そこは明るい雪の路を歩いてきた後では、かなり暗かった。彼は両手を伸ばして手探りで進んでいった。
そのとき彼は急に何かにつまずいた。それは堅いようで柔らかく、しっかりしているようでぐにゃりとしたなんとも言えぬ感触だった。彼はびくりとした。二歩ばかり後へ躍びさがり、おそるおそるその物を見つめた。それから彼はほっとして微かに笑いをもらした。それはただの女だった。しかも彼女は死んでいた。彼は死んでいることを確かめるために彼女の側にひざまずいた。彼女は凍るほど冷たく、棒のように硬直していた。ぼろぼろになりかけたレースの髪飾りが、風にひらひら揺れて、彼女の頬はその日の午後に塗ったと思われる紅《べに》でそめられていた。彼女のポケットはまったく空《から》だった。しかしヴィヨンは、靴下の中のガーターの下で「白銭」という名で通用している小銭を二枚ばかり見つけた。まったくわずかではあったが、いつも何かの役には立つのである。詩人は、彼女がこの金を使わずに死んでしまったことに深い悲痛を感じるのだった。それは彼にとって不可解な哀れな神秘のように思われた。彼は掌中の銀貨と死んだ女を交互に見やって、人生の謎《なぞ》に思いをはせて頭を振るのだった。英国国王ヘンリー五世は、フランスを征服したすぐ後で、ヴァンサンヌで崩御《ほうぎょ》した。この哀れな賤婦は二枚の銀貨を使う暇もなく偉い人の玄関口で、冷たい風に吹かれて死んでしまった。それが神の摂理なのだろうがあまりに酷なことだと思われた。二枚の銀貨くらいはたちまちなくなってしまったろう。だが悪魔が魂を奪い、肉体が鳥や蛆虫《うじむし》の餌になる前に、もう一度おいしいものを食べ、舌鼓を打つことくらいはできたろう。彼は自分の生命の明かりが吹き消され、提灯がこわされる前に、自分の|ろうそく《ヽヽヽヽ》を燃やし尽くしておきたいものだと思った。
こんなことをいろいろ考えながら、彼は半ば無意識に自分の財布を探っていた。突然、彼の心臓は止まった。冷たいぞっとするような感じが脚の背後から伝わって、冷たい一撃を頭にくらったような気がした。一瞬彼はぎょっとして立ちすくんだ。それから熱に浮かされたように、もう一度探ってみた。やっぱり財布をなくしたのだ。同時に全身に冷汗を浴びたように感じた。
放蕩者にとって金はそれほど生きたもの、現実的なものである。彼らと彼らの快楽には薄いヴェールがあるだけである。彼らの楽しみには制限が一つあるだけである。それは時間の制限だ。数枚のクラウン銀貨をもった放蕩者は、それを使い果たすまではローマ皇帝のようなものである。そんな人間にとっては、金をなくすということは、最も衝撃的な不運であり、一瞬にして、天国から地獄へ、至福から無へと転落することに等しい。その金を手に入れるために自分の首を危うくするという高価な代償を払ったのに、愚かにもなくしてしまった財布のために、明日首を吊《つ》られるかもしれないとすればなおさらのことである!
ヴィヨンは、その場に立ちすくんで自分の運を呪《のろ》った。彼は二枚の白銭を路上に放り投げ、天に向かって拳を振り上げた。彼は地団太《じだんだ》を踏んだ。彼は哀れな女の死体を踏みつけているのに気づいても、恐ろしいとも思わなかった。それから彼は墓地の傍の家に向かって、自分の足跡を急いでたどり始めた。彼は巡邏隊《じゅんらたい》の恐ろしさなど忘れてしまっていた。それはとにかくずっと前に通り過ぎてしまったのだし、彼の頭には自分のなくした財布のことしかなかったのだった。彼は雪の上をあちこちと見回したが、無駄であった。何も見当たらなかった。街路に落としたのではなかったのだ。それではあの家で落としたのだろうか? 彼は中へはいって、調べてみたいという気に強く駆られながらも、テヴナンの恐ろしい死体を想うと気がくじけてしまうのだった。その上、さっきの家に近づいてみると、彼らが一生懸命に消そうとした火が消えずにいることがわかった。それどころか、火はめらめらと燃え上がり、戸口や窓のすき間に揺らめく光を投げかけているのだった。それを見ると、官憲とパリの絞首台に対する恐怖がよみがえってきた。
彼は車寄せのある邸宅に戻り、さきほど子どもじみた激情にまかせて投げ棄てた銭がないかと、雪の上を手探りで捜した。しかし白銭一枚が見つかっただけだった。もう一枚はおそらく、横ざまに、深く雪の中にはいってしまったのだろう。ポケットにわずか一枚の白銭では、にぎやかな酒亭で乱痴気騒ぎをして夜を明かそうという彼の計画も水の泡と消えてしまった。そして彼の掌中から嘲笑《あざわら》いながら逃げていったのは楽しみばかりではなかった。車寄せの前に無念の思いで立っていた彼は、激しい不快、厳しい苦痛に襲われた。汗は乾いてしまっていた。風は止んでいたが、身を刺すような雪が降り始めていた。身体は凍え、意気消沈していた。どうしたらよいだろう? 時刻は遅いし、巧《うま》くゆく見込みはないが、ともかく養父である聖ベノア寺院の牧師の家に当たってみようと彼は思った。
彼はそこまでずっと走って行った。そしておそるおそる戸を叩いてみた。答えはなかった。そのたびに気を取り直しながら彼は幾度も叩いた。ついに内から近づいて来る足音が聞こえた。鉄鋲を打ち込んだ戸に付いた鉄格子の小窓が開いて、黄色い光が一条さっと流れた。
「小窓のほうへ顔をあげなされ」と内から牧師は言った。
「ぼくなんです」とヴィヨンは涙声で言った。
「なあんだ、お前さんか」と牧師は答えた。そしてこんな時刻に彼の邪魔をしたことに対し、口汚く、牧師らしからぬ毒舌を吐き、もとの地獄へとっとと失せてしまえと怒鳴った。
「ぼくの手は手首まで紫です」とヴィヨンは訴えるように言った。「足は死んだようで、ずきずきしています。鼻は刺すような空気でひりひりしています。寒気が心臓まで来ています。朝にならないうちに死んでしまうかも知れません。今度だけですおとうさん、神かけて誓いますが、二度とお願いしませんから」
「お前はもっと早く来るべきだったね」と牧師は冷ややかに言った。「若い者には、時には懲《こ》らしめが必要じゃて」彼は小窓をしめて、家の奥へゆっくりと戻って行った。
ヴィヨンは逆上した。彼は手足で戸を叩いたり、牧師の後ろから声を限りに罵《のの》しった。
「虫けらみたいな古狐め!」と彼は叫んだ。「股《また》ぐらに手でもはいれば、底なしの地獄へとまっさかさまに放り込んでやるところだぞ」
奥の扉のしまる音が、長い廊下を伝って、かすかに詩人のところまで聞こえてきた。彼は悪態をつきながら手を口に当てた。自分の滑稽《こっけい》な立場に気づくと、彼は笑いながら、なにげなしに天を仰いだ。星は彼の当惑ぶりを見て瞬《またた》いているように思われた。
どうしたらいいだろう。どうも凍《い》てつくように寒い街路で夜を明かすことになりそうだった。死んだ女のことがふと頭に浮かび、彼は心の底からぞくっとした。宵の口にあの女の身にふりかかったことが、朝までに彼の身に起こることは明らかだと思われた。こんなに若い身空で放蕩もまだまだできる身だというのに! 彼は自分の運命についてまるで他人事ででもあるかのように、痛ましい気分になり、朝になって自分の死体を人びとが発見するときの場面を小さな挿絵《さしえ》のように思い浮かべてみた。
彼は白銭を親指と人指し指の間で回しながら、うまいことはないものかといろいろ考えてみた。昔ならこんな苦境に彼を憐れんでくれただろうと思われる友だちとも、不幸なことに、今では仲たがいしていた。彼は詩の中で彼らを風刺したり、殴ったり、欺いたりしてしまった。だが、こんなに困っているのだから、かわいそうに思ってくれる人が一人くらいはいるだろうと彼は考えた。一か八かであったが、少なくともやってみるだけのことはあるだろう。彼は行ってみようと決心した。
途中でちょっとした二つの事件が起きた。第一に彼は巡邏隊《じゅんらたい》の足跡に出くわしたのである。彼は、自分の向かう方向とははずれていたが、その跡を数百ヤードほどつけて行った。そしてこのことは、彼を元気づけた。ともかく彼は自分の足跡を紛《まぎ》らしたのである。というのは彼はまだパリ中雪の上を人びとが彼を追跡して、翌朝彼が目を覚ます前に彼を捕えるだろうという考えにとり憑《つ》かれていたのである。もう一つのことはまた彼の心に、非常に異様な影響を与えた。彼はある街角にさしかかった。そこでは、先日、母子《おやこ》が数匹の狼に食われたのだった。今夜は、狼どもがまたパリの街にはいろうなんて気を起こしそうな晩だなと彼は考えた。こんな人気のない街に一人でいると、単に胆《きも》を潰《つぶ》すだけでは済まないような災難に遭遇する危険があった。
彼は立ち止まり、不安を抱きながら、あたりを眺めた。そこはいくつかの路が交差している街の中心だった。彼はその路のひとつひとつを順々に見晴かし、雪の上を駆《か》ける黒いものが見えないか、川の方で咆《ほ》えている声が聞こえはしまいかと息をひそめ、耳をすました。彼がまだ子どもだったころ、母がその話をして、その場所を指してくれたのを思い出した。おかあさん! ああ、おかあさんのいる所さえわかれば、少なくとも、泊る場所くらいはなんとかなるはずなのに。彼は朝になったら母の居所を調べてみようと決心した。いや、自分で行ってかわいそうな母に会おうと思った。そんなことを考えながら彼は目的の場所に着いた。今夜の最後の望みをかける所に。
その家は近所の家と同様まっ暗だった。だが二、三度叩くと、上のほうで物音がし、戸の開く音が聞こえ、注意深い声がだれだとたずねた。詩人は、相手に聞こえるようにささやき声で名前を言って、いくらかどきどきしながら結果を待った。しかしながく待つ必要はなかった。窓が突然開いたかと思うと、手おけいっぱいの汚水が、戸口に打ちかけられ、ヴィヨンはこんなこともあろうかと思い、できる限り車寄せの奥に身を避けていたが、それでも腰から下がみじめなほどにびしょ濡れになってしまった。彼の長ズボンはほとんどすぐに凍りつき始めた。寒さのために行き倒れになることは必定《ひつじょう》だった。彼は自分が肺病の気があることを思い出し、ものの試しに咳《せき》をし始めた。だが身に迫る危険の重さが、かえって心を落ち着けた。かくもひどい仕打ちを受けた家の戸口から数百ヤードばかり離れると、彼は立ち止まって、指を鼻にあてて考え込んだ。
宿を手に入れる道は一つしかなかった。それは宿を獲得することである。彼は程遠からぬ所にある家に目を留めた。その家は容易に闖入《ちんにゅう》できそうに見えたので彼はそちらへ急ぎ足で歩いて行った。道々彼は、まだ温《ぬく》もりのさめない部屋のこと、そこにある夕飯の残りがまだ盛ったままの食卓のこと、そこで夜半を過ごして、朝になったら高価な食器を腕一ぱい抱えこんで出てこようなどとうまいことを考えていた。彼はあれを食べて、これを飲もうなどということにまで考えをめぐらせていたのだった。それから自分の好物をつぎつぎと数えているうちに、好きな焼き魚が、ふと頭に浮かんだが、それは同時に、あの殺人事件を思い出させた。
「あの焼き魚のバラードは仕上げられそうもない」と彼は考えた。それからあのことを思い出して彼はふたたび身震いした。「ああ、畜生、あいつの太っちょ頭め!」と熱狂して繰り返し、雪の上に唾《つば》を吐いた。
その家は一見したところでは暗かった。だがヴィヨンが闖入《ちんにゅう》しやすい所を捜して下検分しているとき、カーテンをした窓の後ろから微かな光が洩《も》れているのが目についた。
「ちえっ! 起きてらあ! 学者か坊主だな、いまいましい奴らだ! 他の奴らのようにいっぱいくらって、高鼾《たかいびき》で寝たらよさそうなもんだ。消灯の鐘も役に立たない。気の毒に鐘守りが鐘楼で綱に飛びついたってなんの役に立つ? 夜通し起きてるってんじゃ、お日様も泣こうってもんじゃないか? へたばっちまえ!」
彼は自分の論理の結論が自分の首を締めることに気づいて、にやりと笑った。「結局、百人百様ってわけか!」と彼はつけ加えた。「起きているなら、まったく今度ばかりは正直に夕飯にありついて、悪魔にいっぱい食わせてやれるかも知れないぞ」
彼は大胆にも戸口へ歩み寄って、ためらいもせずにノックした。前回は二度とも彼は、びくびくして、人に気づかれるのを恐れながら叩《たた》いたのだったが、強盗並みに闖入しようという考えを捨てた今は、扉を叩くということは非常に簡単で、造作《ぞうさ》のない行為のように思えた。彼が叩くと、あたかも空き家であるかのように、夢の中のような、か細く虚《うつ》ろな反響が家中に響いた。そしてこの反響が消えやらぬうちに、規則正しく、落ち着いた足音が近づいて、一対の閂《かんぬき》が外され、あたかもこの家人は欺瞞《ぎまん》や欺瞞を恐れる心を持たないかのように、扉の一翼があけられた。
筋骨|逞《たくま》しく、細身でいくらか腰の曲がった背の高い男の姿が、ヴィヨンの前に立ちはだかった。頭は大きかったが、りっぱな形をしていた。鼻先はひしゃげていたが、上に行くほど上品になって、剛直そうな眉と交わっていた。口と眼の周囲には小皺《こじわ》があり、そして顔全体は、きちっと四角に刈った濃い白|髯《ひげ》の上に載っているように見えた。ちらちらする手提灯の光で見たその顔は、おそらく実際以上に高貴に見えたのであろう。しかしそれは知的というより威厳のある、剛直で律義そうなりっぱな顔に相違なかった。
ヴィヨンはへり下《くだ》って頭を下げ、卑屈な弁解を並べ立てた。こういうふうな危急に遇って乞食根性がまっさきに頭をもたげ、天才気質は困惑して頭を引っ込めていた。
「お寒かろう」と老人は繰り返した。「それに腹も空いていられるじゃろう。さあ、おはいりなさい」そして彼はたいへん気品のある身ぶりで詩人を招き入れた。
「どこかの偉い領主だな」とヴィヨンは考えた。その間、主人は提灯を舗石を敷いた玄関口に置くと、閂を元どおりにかけた。
「失礼じゃが、わしが先に歩きましょうぞ」と、閂をしめた後で彼は言い、火鉢で暖められ、天井から吊《つ》った大きなランプに照らされた広い部屋へ通ずる階段へ詩人を導いた。その室は家具がなく、ただ食器棚の上に幾枚かの金の皿と、幾冊かの二つ折りの大きい書物、窓と窓の間のひとそろいの甲冑《かっちゅう》だけだった。壁にはりっぱな絨毯《じゅうたん》の壁掛けがあり、一枚にはキリスト磔刑図《たっけいず》、もう一枚には、流れる小川のほとりに男女の羊飼いの図が描いてあった。また暖炉の上には紋章の楯形があった。
「おすわりなされ」と老人は言った。「ちょっと失礼。今夜は家にわしひとりじゃもんで、あなたが食事をされるようなら、わしが食べ物を捜して来なければならぬ」
主人が去るや否や、ヴィヨンは今腰かけたばかりの椅子からさっと立ち上がり、猫のようにこっそりと、眼を輝かせて室の詮索《せんさく》を始めた。彼は金の徳利を手に取って、重さをみたり、二つ折り本を片っ端から開いたり、楯形の紋章や椅子に張ってある毛織物を調べてみた。窓掛けを持ち上げてみると、窓には、彼の見た限りでは何か戦争に関する人物図をあしらったどっしりした焼き付けがはめ込まれていた。それから彼は室の真中に立って、息を深く吸って、頬をふくらませて息を止め、室の特徴のひとつひとつを記憶に留めようとするかのように、踵《かかと》を軸にして回りながら、周囲を見回した。
「皿が七枚か」彼は言った。「もし十枚あれば、ひとつやってやるんだがなあ、実際、家もりっぱだし、主人もりっぱな|じいさん《ヽヽヽヽ》だ」
ちょうどその時、廊下伝いに老人の足音が聞こえたので、彼はこっそりと元の椅子に戻って、火鉢の前で、慎《つつ》ましく濡れた足をあぶり始めた。
老人は片手に肉の皿、もう片手には葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶《びん》を持っていた。彼は食卓に皿を置くと、ヴィヨンに、椅子を食卓に引き寄せるように合図し、食器棚から二つの酒杯を持って来て、それに葡萄酒をなみなみと注いだ。
「あなたのいっそうのご幸運を祈って」と彼はヴィヨンの酒杯に自分の酒杯を触れ合わせながら言った。
「今後の親交を祝して」と詩人は言った。彼の気がねもだんだん薄らいでいた。並みの人間ならこの老領主の慇懃《いんぎん》さに畏《おそ》れをなしたことだろうが、ヴィヨンはこういうことには慣れっこになっていた。以前にも偉い諸公・貴族のお相手をしたことがあって、彼らもやはり彼と同じ悪党だということを知っていた。そこで彼は夢中になって、がつがつと肉を貪《むさぼ》ったが、その間老人は椅子の背にもたれて、興味深げにじっと彼を眺めていた。
「肩に血がついていますぞ、あんた」と彼は言った。あの家を出るときモンティニィが、血だらけの右手で肩に触れたに相違なかった。彼は心の中でモンティニィを呪《のろ》った。
「わたしが殺《や》った血じゃありません」と彼はつかえつかえ答えた。
「わしもそうじゃろうとは思ったが」と老主人はもの静かに答えた。「喧嘩《けんか》でもおやりかな?」
「まあ、そんなところですよ」とヴィヨンは震え声で答えた。
「おそらく一人殺られたというわけじゃな?」
「いやいや、殺られはしません」詩人はますます|しどろもどろ《ヽヽヽヽヽヽ》になってきた。「それはまったく公正な勝負でした──ちょっとした弾《はず》みで殺られたんです。神かけて誓いますが、わたしには何の関係もありません」と彼は熱心につけ加えた。
「この世から一人悪党が減ったというところじゃろうよ」
「そうおっしゃってもよろしいでしょう」と、ヴィヨンは安堵《あんど》の胸を撫でおろしながら合いづちを打った。「いやはや稀代《きだい》の悪党でしたが、小羊みたいにころりとくたばりましたよ。しかし見られたもんじゃありませんね。あなた様も若い頃は死人をご覧になったことでしょうね」と甲冑のほうをちらっと見て、詩人は言った。
「数多く」と老人は言った。「お察しのとおり、何度も戦いに出たからのう」
ヴィヨンはふたたび手にしたばかりのナイフとフォークを下に置いた。
「禿《は》げた奴もおりましたか?」と彼はたずねた。
「もちろんいたとも。それにわしのように白髪の者もな」
「白髪はさして気にもならないのですが」とヴィヨンが言った。「奴は赤髪でした」ふたたび身震いがして、笑いたいような気になったので、彼は葡萄《ぶどう》酒をがぶりと一口飲んでそれを抑えた。「思い出すといやな気分になりますよ」と彼は続けた。「わたしは奴を知っていたんです──あん畜生め! それに寒いといろいろ奇妙なことを考えますね──いや奇妙なことを想うから寒いのかな。どちらだかわかりませんが」
「金はお持ちかな?」と老人はたずねた。
「白銭を一枚持っています」と詩人は笑いながら答えた。「ある家の車寄せの所で、死んでいた|すべた《ヽヽヽ》女の靴下の中から取ったんです。まったく事切れていましたよ。あの女は、髪にリボンをつけて、石のように冷たかったなあ。この娑婆《しゃば》ってのは、冬には、狼や|すべた《ヽヽヽ》やわたしのような貧しいごろつきには、まったくやりきれないもんです」
「わしは」と老人が言った。「アンゲラン・ド・ラ・フェイエ。ブリズトウの領主でパタトラックの長官じゃ。ところであなたの名と職業は何じゃろう?」
ヴィヨンは立ち上がって、相応の敬意を示した。
「わたしはフランシス・ヴィヨンと申す者、ソルボンヌ大学出の貧乏な文学士です。わたしはラテン語をいくらか心得ており、悪事ならたんと知っております。シャンソン、バラード、レイズ、ヴィルレイズ、ルウンドルを作れますし、酒には目がありません。生まれは屋根裏部屋、往生する所は絞首台ってところでございましょうな。さらに今宵よりはあなた様の忠実な僕《しもべ》であると申し加えてもよいでしょう」
「わしの召使などとはとんでもない」と騎士は言った。「今夜のわしの客人じゃ、それだけのことじゃよ」
「それでは感謝満ちあふれる客人ということに」とヴィヨンはていねいに言った。そして主人に向かって無言の乾盃をした。
「あなたは頭が切れる」老人は額を叩きながら言い出した。「たいへん敏《さと》い。あなたは学がおありだ。学者じゃ。それでいて行き倒れた女から小銭を盗む。それでは一種の窃盗《せっとう》であろう」
「戦争のときよくやる窃盗ですよ、閣下」
「戦争は名誉の場所じゃよ」と老人は胸を張った。「戦場では人は乾坤一擲《けんこんいってき》に生命をかける。己の主なる国王のため、神のため、あらゆる聖人、天使の名において戦うのじゃ」
「わたしがほんとうに泥棒だとしても、生命をかけていることにはかわりはありません。しかもいっそうの強敵を向こうに回してね」とヴィヨンは言った。
「儲《もう》けのため、名誉のためではないわい」
「儲けですって?」とヴィヨンは肩をすくめて言った。「儲け! 貧乏人は夕飯がほしくて、盗む。戦場じゃ軍人も同じことをする。あのよく耳にする徴発ってのは何なんです? ありゃ、取る者にとっては儲けじゃないにしても、取られる身にはたいへんな痛手ですよ。軍人様は気持ちのよい火の側で一杯きこしめす。ところが一般の人びとは彼らに酒と薪《まき》を買ってやるために爪に火をともすような生活をしているんですよ。わたしは田舎のあちこちで相当の人数の百姓たちが木にぶら下がっているのを見ました。そう一本の楡《にれ》の木に三十人も見ましたよ。まったく見ちゃいられませんね、あの様は。どうして首を吊《つ》られるような破目になったかとたずねてみると、奴らは軍人を満足させるだけの金を掻《か》き集めることができなかったからだと言うじゃありませんか」
「そういうことは戦争にはつきもんじゃから、下《しも》じもの者たちは節操正しく忍ばねばならん。なるほど、隊長どもの中には手きびしくやりすぎる者もおろう。どの階級にも同情心にたやすく動かされない輩《やから》がいるものじゃて。実際山賊同然の者がたくさん軍人になっているのだからのう」
「それご覧なさい」と詩人は言った。「軍人と山賊の区別はあなたにもできないでしょう。泥棒とはびくびくした一人立ちの山賊でなくて何でしょう。わたしは人の安眠も乱さず羊肉二片を盗みます。百姓は少しはぶつぶつ文句を言いますが、それでも残ったものでじゅうぶん食っていけるんですよ。ところがあなたたち軍人ときたら大げさにラッパを吹きながらやって来て、羊をまるまる全部ぶんどり、その上、おまけにかわいそうな百姓の横っ面を張るんですからねえ。わたしなんぞはラッパなんぞは持っちゃいません。わたしはただの熊公に八公でさあ。ごろつきの犬で絞首刑さえもったいない。まったくもっともなことですよ。ところで百姓にわたしたちのどちらが好きかたずねてご覧なさい。百姓が寒い夜中に寝もやらず呪《のろ》っているのはどっちかということを調べてごらんなさい」
「わしら二人をくらべてみなされ。わしは年寄りで、強壮で、尊敬されている。もし明日わしがこの家から追い出されるようなことになったら、幾百人もの人間がわしを庇護《ひご》することを誇りに思うじゃろう。わしが一人になりたいとちょっと仄《ほのめ》かしさえすれば、貧乏人は、子どもを連れて出て、街で夜を明かすじゃろう。ところがあなたは起きていて、宿もなくうろつき回り、行き倒れた女から端銭《はしたぜに》を盗んでいる! わしは何人も何物も恐れない。ところがあなたは一言いわれても震えて度を失うのをわしはすでに見ておるぞ。わしは自分の家で満足して神のお召しを待っている。あるいはふたたび王様のお呼び出しがあれば、戦場でな。だがあんたを待っているのは絞首刑じゃよ。希望も名誉もない、つまらぬあっけない死じゃよ。それでも軍人と盗人には相違がないとお言いかな?」
「月とすっぽんほどの違いがありますね」とヴィヨンは同意した。「しかし、わたしがもしもブリズトウの領主に生まれ、あなた様が貧乏文学士フランシスに生まれていたら、この相違は今より小さくなっていたでしょうかね? わたしはこの火鉢で膝《ひざ》を暖め、あなた様は雪の中で端銭を捜していたんじゃないでしょうか。わたしは軍人に、あなた様は盗人《ぬすっと》という具合になっていたんじゃないでしょうか」
「盗人!」老人は大声で言った。「わしが盗人だって! あんたは自分で言っていることがわかれば、後悔するじゃろう」
ヴィヨンは独特の厚かましい身ぶりで両手を前に差し出した。「恐れながらあなた様がわたしの論旨を理解してくださればよいのですがねえ!」と彼は言った。
「何を言うか! わしがあんたに会っているというだけでも過分の栄誉を与えているのじゃぞ」と騎士は言った。「老齢の名誉ある人びとと話すときには言葉使いを慎むようにしたまえ。さもないと、わしより気の早い者なら、ただでは済まんじゃろう」そう言って彼は立ち上がり、怒りと嫌悪《けんお》の情と戦いながら、部屋の下手のほうをゆっくり歩いた。ヴィヨンはこっそりと杯を満たして、膝を組み、頭を片手にもたれかけ、その肱《ひじ》を椅子の背に突っ張って、いっそう気持ちよく椅子にすわっていた。彼は今は満腹し、からだも暖まった。全然主人を怖いとも思わなかった。というのは、二人の性格はかくまで異なっていたけれど、詩人は正確に老人を見抜いていたのである。夜はだいぶ更《ふ》けていた。それもまんざら居心地の悪い夜更けではなかった。その上、朝になれば無事にこの家を出られることは万々間違いないと思われた。
「一つだけたずねたいことがある」老人は歩くのを止めて言った。「あんたはほんとうに泥棒かね」
「まさか賓客《ひんきゃく》をその筋へ突き出すようなことはなさらないと信じます」と詩人は返答した。「閣下、わたしは泥棒ですよ」
「あんたはたいへん若い」と騎士は続けて言った。
「わたしは今まで生きてはいなかったでしょう」ヴィヨンは、自分の指を見せながら答えた。「この十本の指で自分を養ってこなかったなら。この指こそはわたしの育ての母、育ての父でした」
「あんたはまだ悔い改めることができるじゃろう」
「わたしは毎日悔いていますよ」と詩人は言った。「この哀れなフランシスのように、始終後悔ばかりしている人間はほかにないでしょう。改俊《かいしゅん》ということなら、だれかにわたしの境遇を改めさせてください。人間はともかく食っていかなければなりません。たとえ後悔のしどおしだとしても」
「改俊はまず心の中に芽生えねばならんのじゃ」老人は厳しい顔で言った。
「親愛なる閣下」ヴィヨンは答えた。「あなたはわたしがおもしろくて盗みをするとでも思っていらっしゃるのですか? わたしは他の仕事や危険同様、盗みも大嫌いです。絞首台を見るとがたがたと歯の根も合わぬほどですよ。だがわたしは飲み食いしなけりゃなりませんし、ある種の交遊もせねばなりません。なんということでしょう! 人間は孤立した動物じゃありません。──神これに女を与えたもう──というわけです。わたしを王様の食事係、サン・ドニ寺院の僧正、またはパタトラックの長官にしてみてください。そうすればほんとうにわたしも改まるでしょうよ。でもわたしを文《もん》なしの貧乏学士フランシス・ヴィヨンにして置くかぎり、そりゃむろんのこと、わたしはこのままですよ」
「神のお恵みは万能じゃぞ」
「それを疑うようなことがあっては、異端者でしょうよ」とフランシスは言った。「それはあなた様をブリズトウの領主でパタトラックの長官にしてくれました。またわたしにはこの帽子の下の機敏な頭と、手の指をくれましたが、それ以外は何も恵んではくれませんでしたよ。自分で葡萄《ぶどう》酒をついでもかまいませんか? たいへんありがとうございます。まったく、神は極上の葡萄酒をあなた様に恵まれたもんですねえ」
ブリズトウの領主は手を後ろに組んで、行ったり来たりしていた。たぶん彼は盗人と軍人の比較について、まだじゅうぶん納得できなかったのであろう。あるいはまたヴィヨンが同情の綾《あや》で彼の関心を惹《ひ》いていたのかもしれない。またおそらく、彼の頭が聞きなれぬ理屈のために混乱していたのかもしれない。理由はともあれ、彼はこの若者を改心させたいと熱望し、彼をふたたび街へ追い出すことには決心がつきかねていたのである。
「どうもわしには理解できかねるところがあるんじゃが」と彼はとうとうこう言った。「あんたの口は巧妙な理屈でいっぱいじゃ。悪魔があんたをずいぶん踏み迷わせてしまったようじゃが、悪魔なんぞは神の真理の前では誠に弱々しい霊にすぎん。やつの屁理屈《へりくつ》なんぞはほんとうの栄誉ある一言の前では雲散してしまうじゃろう。朝を迎えた闇のようにな。もう一度、わしの言うことを聞きなされ。わしは昔、紳士たるべき者は、神と国王と己の婦人に対しては、勇気をもって礼儀正しく、また愛情を捧げて生きなければならぬと教わったものじゃよ。わしは多くの奇妙なことが行なわれるのを見てきたが、それでもこの掟《おきて》に従って生きようと努めてきたのじゃ。それはあらゆる高貴な物語に書かれておるばかりでなく、注意して見れば、すべての人の心の中に書いてある。あんたは食べ物や飲み物のことを言う。わしも飢えが堪えがたい試練だということはよく心得ておるのじゃよ。だが、あんたはそれ以外のものの不足については何も言わんではないか。名誉や、神と人に対する信義、礼儀や、邪《よこしま》ならぬ恋については、あんたは何も言わない。わしはあまり賢くないかもしれないが――自分では賢いと思っておるが――あんたはどうも人生に迷い、大きな誤りを犯した者のように思われるのじゃ。あんたはつまらぬ欲求ばかりに気を使い、大きな真の欲求をまったく忘れてしまっている。最期の審判の日に歯痛の治療を受けている人のようなもんじゃよ。というのは、名誉とか愛とか信義は、食べ物や飲み物より高尚であるだけでなく、わしらはそれらのもののほうをいっそう望み、それらがない場合はもっと苦しむじゃろうとわしは思っておるのじゃ。あんたがわしの言うことを容易にわかると思えばこそこうして話しているのじゃ。あんたは腹を満たすことを気にしている間は、心の中の別のもう一つの欲求をないがしろにしているのではないかの。そうして、そのためにあんたの人生の楽しみを台なしにし、相変わらずみじめな生活をしておるのじゃないかのう」
ヴィヨンはこういうお説教にかなりいらだっていた。
「あなたは、わたしが名誉を全然気にしないとお考えですね!」と彼は叫んだ。「わたしはいかにも貧乏です! 金持ちが手袋をしているのに、自分は手に息を吹きかけているのはつらいもんですよ。あなたは軽くおっしゃいますが、空《す》きっ腹ってのは辛いもんです。あなたもわたしくらいたびたびひもじい思いをすれば、口のきき方をかえるでしょうに。とにかくわたしは盗人ですよ──せいぜいそのことを悪く言ってください。──しかしわたしだって地獄から来た悪魔じゃありませんよ、まったくのところ。わたしだってあなたにおとらない名誉心をもっていることを知ってもらいたいもんですね。ただわたしはそれをいくらかもっているのが神の奇跡ででもあるかのように、四六時中名誉名誉なんて言っちゃいませんがね。名誉なんてわたしにはごく当たり前のものに思われますがね。わたしはそれが必要なときまで箱にしまっておきますよ。ところでねえあなた、わたしはあなたとこの部屋にどれくらいいたでしょうか。あなたの金の皿をご覧なさい。まああなたは強いでしょう。でもあなたは老人で、武器を持っちゃいませんよ。ところがわたしはナイフを持ってますぜ。この肱《ひじ》をちょいと動かしてさえいれば、あなたは腹にナイフを突き刺されてここに伸びていて、わたしは腕にいっぱい金の皿をかかえて街中をすばやく逃げていたということになったはずですぜ。それくらいのことをわたしがわからないとでもお思いでしたか。だがわたしはそんな行為は蔑《さげす》んだってわけです。それであなた様のいまいましい杯も教会の内にあるように安全だし、あなたもそうしていて、心臓は嬰児《えいじ》のように健やかに動いているんですよ。そしてわたしはこうして、あなたに咎《とが》められた白銭一枚もって、来たとき同様貧しく出て行こうってんです! それでもあなたはわたしに名誉を重んずる気持ちがないとお考えですか──とんでもない!」
老人は右手を突き出した。「あんたがどんな人間か言ってやろう」と彼は言った。「あんたは、悪党で、厚かましく腹黒い|ごろつき《ヽヽヽヽ》で浮浪者じゃよ。わしはあんたと一時間過ごした。ああ、まったく、恥ずかしいことをしたもんだ! あんたはわしの食卓で食べたり飲んだりしたんじゃ。だがあんたを見るだけで胸くそが悪くなるわい。夜が明けた。夜鳥は己の巣へ帰るべきじゃろう。先になって行くか、それともわしの後からついて来られるか」
「どちらでもお好きに」と詩人は立ち上がりながら答えた。「わたしはあなた様がどこまでも名誉に篤《あつ》いと信じておりますから」彼は思いをこめて杯をあけた。「その上あなたは賢明と申し上げたいところですが」と彼は言葉を続け拳《こぶし》で頭を叩いた。「年、年ですな! 頭が堅くてリウマチですよ」
老人は自尊心から先に立った。ヴィヨンは両手のおや指を帯革に突っ込んで、口笛を吹きながら後に続いた。
「神様が憐れみをあんたにたまわらんことを」とブリズトウの領主は戸口で言った。
「さようなら、とうさん」とヴィヨンはあくびしながら答えた。「冷たい羊肉をありがとう」
扉は彼の後ろでしまった。夜は白化粧した屋根の上でほのぼのと明けそめていた。冷たい、気持ちの悪い朝が昼の手を取って近づいていた。ヴィヨンは立ち止まると、道のまん中で思う存分あくびをした。
「ああ、なんて退屈なじいさんだ」と彼は思った。「あの杯はどれくらいの値打ちかな」
解説
スティーヴンスンの生涯
スティーヴンスンは、「辻待ちの馬車」ひとつから一大ロマンスを生み出すことのできる、すぐれた物語作家である。むかし、イギリスの大政治家グラッドストーンも、『宝島』の評判を聞き、さっそくこれをさがし求め、読み出すと夢中になり、一晩で読みあげたといわれている。わが国の読者も、彼の作品から、小説のおもしろさをあらためて教えられる人が少なくないはずである。
スティーヴンスンは、物語の奇想天外な展開と、生彩に富む語りによって、通俗的な冒険奇談を、精妙な芸術の域にまで高めた作家であった。作品の永続的価値については、作者自身疑念を持っていたようであるが、『宝島』や『ジーキル博士とハイド氏』『新アラビア夜話』『水車小屋のウイル』等の短編、『若い人々のために』『旅は驢馬《ろば》をつれて』等のエッセイは、作者の死後百年以上たった今日でも、広範な読者層から愛好されている。
また、『ハーミストンのウィア』『バラントレイの世嗣』等の後期の作品は、物語のおもしろさだけでなく、レアリストとしての観察眼によって、芸術的深みを増している。
彼は、生涯、二つのデーモンにつきまとわれた。病苦と創作欲である。絶えず自己の生存を可能にしてくれる新しい土地を求めてさまよいつづけながら、病躯に鞭《むち》うち、つぎつぎと作品をまとめていった。
彼の作品の多くは、奔放な空想力の所産であったが、彼の生涯そのものが、常にひとつところにとどまることなく、病魔と戦いながら、漂泊の境涯に身を置いた一編の数奇な物語とみなすことができるのである。
〔生いたち〕 ロバート・ルイ・スティーヴンスンは、一八五〇年十一月十三日、スコットランドの首都エディンバラに生まれた。灯台建築技師トマス・スティーヴンスンを父に、コリントンの牧師ルイス・バルファーの娘マーガレットを母として、彼らの一人息子として育った。
彼は、父方のスコットランド人特有の憂鬱《ゆううつ》で生真面目な性格と、母方のフランス系の快活で行動的な気質を受け継いだ。そして、一人っ子であるうえ、小年時代から病弱であったため、両親から溺愛《できあい》された。彼の母も結核で、スティーヴンスンは母親の体質を受け継いだものと思われる。乳母《うば》カニンガムもまた、献身的なまでの愛情を傾けて、ルイを守り育てた。
父はすぐれた灯台技師であっただけでなく、ロマンティックな心情の持ち主で、灯台や海にまつわる物語を、おとぎ話のように息子に話してきかせた。乳母カニンガムも物語の天才で、巧みな人物描写を織りまぜながら、さまざまな物語を名調子で読みきかせた。これがルイの文学的素養の基礎をつくった。
エディンバラでは三度住居を変えたが、一人っ子の彼はいつも家にとじこもりがちの生活で、従兄弟《いとこ》のアランがときどき遊びに来てくれるのが、ルイにとってなによりの楽しみだった。また、母の実家であるコリントン館へ行くと、美しい芝生や木の茂る墓地があって、そこでルイは奔放な空想の翼をひろげて楽しんだ。
〔大学時代〕 ルイにとって学校生活はあまり楽しいものではなかった。七歳の時、近くの学校に入り、十一歳でアカデミーに進んだが、病弱と怠惰のためよく休んだ。その後ロンドン近郊のスプリング・グローヴの寄宿学校に行ったが、一学期でやめてしまった。ルイが十七歳の時、一家はエディンバラの郊外のペントランドの丘に建てられたスーオンストン荘に移り、彼はエディンバラ大学に入学した。
父トマスは息子が家業の灯台技師になってくれることを望んでいた。ルイもはじめは土木技師になるための講義を受けたが、しだいに他の方面に関心を持ち、文章表現や弁論術の練達を目的とするスペキュラティヴ・ソサイエティの会員となって活躍するようになった。
大学時代の彼の生活も決して模範的であるとはいえなかった。長身に黒いビロードの上着と、襟《えり》のだぶだぶな黒シャツを着ていたため、「ビロードの上着」という渾名《あだな》をつけられた。
また、放蕩無頼《ほうとうぶらい》の生活の果てに早逝《そうせい》した薄命の詩人ロバート・ファーガソンに傾倒し、みずからも無頼な生活を送り、怪しげな巷《ちまた》に出入りした。豊かな黒髪とやさしい目をした野性的なケイト・ドランモンドという売春婦を知り恋をしたりした。
自堕落《じだらく》な生活と当時流行の無神論的思想をいだくようになったことが原因で、父親との仲はうまくいかなかったし、偽善的上品さに満ちていたエディンバラの人びとの非難のまなざしを一身に受け、ルイの毎日は孤独であった。
やがて、父親はルイが気質的にも体力的にも灯台技師に向いていないことに気がつき、法律を学んで弁護士になることで譲歩した。
しかし、彼は遊び暮らしているように見える時でも、まったく怠けていたわけではなかった。「灯台明滅灯の新型」という論文を発表して、王立スコットランド協会から、銀メダルを授与されたし、のちに立派に弁護士の資格もとった。
スティーヴンスンは稀代《きだい》の文章家といわれ、文章にもっとも意を用いた作家の一人であるが、このころから文章修業を怠らなかった。モンテーニュ、ハズリット、ラム、サー・トマス・ブラウン、デフォー、ホーソン等、内外の偉大な先輩作家たちの文章を模倣し、文章の彫琢《ちょうたく》に心がけた。
人からは無頼の徒のように思われ孤独だったルイにも、理解ある味方が一人いた。エディンバラ大学工学教授フリーミング・ジェンキンである。どんな悪評が耳に入ろうとも終始変わりない暖かい心でルイを迎え、素人芝居を催しては彼の心の憂さを晴らしてやった。
またフランスヘ絵の勉強にいっていた才能ある自由の権化のごとき従兄弟《いとこ》アランが帰国した。このことは周囲のとりすました偽善的態度にへきえきしていたルイの生活にとって、ほっと救いがもたらされたように感じられた。
〔文学に志す〕 一八七三年六月、健康回復の目的でサフォーク州のコックフィールドにいった。ここに滞在中、生涯のよき理解者となったシットウェル夫人に出会った。夫人は「スコットランド訛《なま》りの若いハイネ」がすっかり気に入り、のちに彼女の夫となったシドニー・コルヴィンにスティーヴンスンを紹介した。コルヴィンはケンブリッジ大学美術教授の職にあり、スティーヴンスンが将来作家として立つ決心をするようにすすめた。
コルヴィンの斡旋《あっせん》で、処女随筆『街道』を「ポートフォリオ」誌に発表した。コルヴィンは、ルイの作家としての生活に、もっとも大きな影響を与えた人で、父親との和解をはかり、ロンドンの雑誌の主筆たちに紹介してやり、遠慮なく作品の批評をしてやった。スティーヴンスンは彼の恩恵をどれだけこうむったかしれない。
同じ年の秋、弁護士試験準備のためロンドンに行ったが、病気診察の結果はそれどころではなく、危険な結核の病状のため、ただちに転地療養を命じられて、十一月南フランスのリヴィエラに滞在することになった。あまりの苦しさのため阿片《あへん》を用いることを知ったが、さいわい中毒にまではいたらなかった。『南国に転地を命じられて』というエッセイを書き、「マクミランズ・マガジン」にコルヴィンの援助で載《の》せてもらった。
このころ、詩人で批評家であるアンドルー・ラングに会った。ラングははじめルイのボヘミアンふうの生活に反発を感じたが、やがてコルヴィンとともに生涯のよき友人となった。
一八七四年の夏、ふたたびエディンバラに帰り、「コーンヒル」の編集長の知遇をうけ、数編の随筆を「コーンヒル」に掲載してもらった。また、レズリー・スティーヴンの紹介でW・E・ヘンリーという寄稿家に引き合わされた。ヘンリーは結核で片足を失い、エディンバラ療養所で治療中であった。陰惨で暗い病室に閉じこめられていながら、強靱《きょうじん》な精神力を失わないヘンリーに、ルイは同情と尊敬の念をいだいた。
ヘンリーは、彼に模倣をやめ、空想的・夢幻的傾向を認め、洞察力と真の芸術を追求することを教えた。ヘンリーは非妥協的・独創的で、なにものにも左右されない磊落《らいらく》さを持ち、才能ある野性人であった。彼は『宝島』の一本足のコック、ジョン・シルバーのモデルである。
一八七五年から七九年にかけてスティーヴンスンはあちこちと旅行している。イギリスをはじめ、ドイツ、フランスと歩きまわった。フランスのフォンテンブローにはなんども行き、各国の芸術家たちが大勢集まり、楽しい自由な生活を送っているのに仲間入りをして、共にその雰囲気を楽しんだりした。
フランス文学に興味をもち、セーヌ川のほとりの古本屋から本を買いあさり、デュマ、モリエール、ヴォルテール、ロシュフーコー、ボードレール、フローベル、アナトール・フランス等の作家たちのものをかたっぱしから読んだ。「テンプル・バー」誌に載《の》った最初の短編小説『一夜の宿』『マレトロア卿《きょう》の門扉』は、彼のフランス研究のたまものである。
〔恋愛と結婚〕 このフランス滞在中、スティーヴンスンは一つの運命的な出会いを経験する。フォンテンブローの森からの帰途、二人の子供を連れたアメリカの女性ファニー・オズボーンと知りあった。夫人は当時三十七歳、不貞の夫と離婚するつもりで、子供たちの教育のためフランスに来ていた。
小づくりのからだ、浅黒い肌、きらきら輝く瞳、まっ黒い髪をもつファニーは一見ジプシーの女のようであった。彼はたちまちこの夫人の魅力にひきつけられてしまった。二人の間は急速に発展し、たちまちロマンチックな雰囲気でつつまれてしまった。
しかしロマンスには苦悩はつきものである。ひとまずオズボーン夫人はカリフォルニアに引きあげていった。法律が夫人を解放するまで彼は悶々《もんもん》と待たねばならなかった。一方、彼も自活できるように準備を整えねばならなかった。相変わらず異様なスタイルで放埒《ほうらつ》な生活を送っていた彼は、依然として父親のすねをかじっていた。十歳も年上の、子供も二人まである夫人との結婚は、だれに言わなくても反対と嘲笑を買うことは目に見えていた。フランス南部の小さな町モナスティエに引っこんで『新アラビア夜話』を書きあげると、生来の放浪癖が頭をもたげ、ファニーに会えない淋しさをまぎらすためもあって、一匹の驢馬《ろば》に荷をつみ、驢馬の尻をつつきながらセベンヌ山中をさまよった。この地方は荒涼たる山間で、宿屋などほとんどなく、この時の作品が『旅は驢馬をつれて』となった。
一年後、ファニーからの手紙で離婚手続きを取りはじめたことを知った。一人で考え悩みぬいた揚句《あげく》、両親や友人の反対を押しきってカリフォルニアに向かった。
三週間ほどかかってファニーのもとにたどり着いたが、なれない船旅、移民列車での平原横断ですっかり健康を害し、疲労|困憊《こんぱい》しきってまるで幽霊のようであった。父からの援助なしの悲壮などんぞこ生活を経験した彼は、これまでの自堕落《じだらく》な生活をいやでも自覚しないではいられなかった。疲れはてた身体でやっと結婚できた時には、医者から二、三か月しか生きられまいといわれた。結婚と同時に彼はいくぶん大人になり、気取りを止めてこれまでのあまり善良でなかった半生に別れを告げて善良な夫となった。
〔作家生活〕 一八八○年八月、両親は彼らに会いたがり、スティーヴンスンも里心をもよおし、彼はファニーと義理の息子ロイド・オズボーン(十二歳)を連れてスコットランドに帰った。さいわいなことにファニーは両親の気に入り、一家の生活はうまくいきそうにみえた。またファニーの努力もたいしたもので、アメリカから出した両親あての手紙はたいへん立派なものである。
ファニーは性格もスティーヴンスンとは反対で、強い性格と聡明《そうめい》な判断力をもち、絵と文の才能をそなえていた。献身的に病弱のスティーヴンスンの看病をなし、実際的な行動力をもった彼女は、ルイの作家生活にとってかけがえのない好伴侶であった。
スティーヴンスンは新しい目でスコットランドを眺《なが》め魅力を感じたが、荒涼たるスコットランドの冬は彼の健康には向いていなかった。十月、親子三人はそのころようやく結核療養所として知られはじめたアルプスの山中ダヴォスヘ発《た》った。批評家のJ・A・シモンズもやはり療養に来ていて、冬の淋しさのなぐさめになった。ここでも山のエッセイをいくつか書いたが、体が弱く山に登ったことのないスティーヴンスンは、人を近づけぬ岩と雪の峻厳《しゅんげん》な山の風景に威圧を感じたのか、アルプスやダヴォスに対しては反発を感じている。
一八八一年四月ダヴォスをおり、パリに立寄り、五月末にはエディンバラに帰った。彼の健康は依然としてはっきりしなかったが、八月ブレイマーに両親や妻たちと滞在した。ある雨の日の午後、息子のロイドが一枚の地図を書いていた。スティーヴンスンが山だの湾だのの名前をつけて右の上の方に宝島と書いた。いろいろ話をつくって息子に話していくとロイドはすっかり夢中になってしまった。これにヒントを得て彼は『宝島』を書きはじめた。翌年九月にはスコットランドを去って南仏へ行った。イエールの海と島々を見下す孤独荘という静かな住居をみつけ、健康も回復ししばらくの間幸福な日々を送った。ここで『幼年詩苑』の中の詩や『プリンス・オットー』を書いた。この年の八月には『新アラビア夜話』が、翌年『宝島』が出版された。『宝島』は冒険|譚《だん》として『ロビンソン・クルーソー』以来の傑作と評され、一般大衆にも歓迎され、ルイの出世作となった。
この夏にはフランスの南部オーベルニュのロワイヤで両親を招いていっしょに過ごした。九月にはそれぞれエディンバラとイエールに帰った。静かな落着いた環境と美しい住居を得て、健康状態も比較的よく、名声も徐々にたかまってきて、スティーヴンスンは生涯の一つの峠を登りつめた。
一八八四年、風邪をこじらせて持病の結核を悪化させ、イギリスに帰り息子ロイドの学校のあるボーンマスに落着いた。父が家を一軒買ってくれたが、ルイはその家を叔父アランの作った灯台の名をとってスケリヴォアと名付けた。この年の四月から一八八七年七月まで三年間ここに住んだ。つたの生い茂ったレンガ造りの二階家で、急湍《きゅうたん》アラム・チャインの縁に建っていた。予期に反してルイの健康ははかばかしくなく、病床に過ごす時間が多かった。しかし、彼は健康が衰えた時の方が頭が冴え、仕事がはかどるのであった。彼はこの家で『ジーキル博士とハイド氏』と『誘拐《ゆうかい》されて』を書いた。ヘンリ・ジェームズの『小説の技法』の反論として『貧しい抗議』を書いた。この論文はスティーヴンスンの小説観がよくうかがえるという意味で興味ぶかい。彼はリアリズムは小説手法の一部にすぎないとし、人物の性格を髣髴《ほうふつ》させるような事件・行動、読者がわれを忘れて作品の世界に惹《ひ》きこまれていくような事件の進展こそ読者を楽しませる小説の第一の目的であるとみなした。
一八八五年には『幼年詩苑』と『プリンス・オットー』が出版された。『プリンス・オットー』は彼が非常に愛着をもった作品で、メレディスも激賞した。
翌年一月には『ジーキル博士とハイド氏』が出版された。以前から人間の二重性格を物語の主題とすることを考えていたが、夢で物語のヒントを得て一気に書きあげた。怪奇きわまる空想と天衣無縫の構想をもち、ポーの作品におとらない傑作とされた。この物語の倫理性が大きな反響をよび、宗教家たちの説教の材料にされた。作品はおどろくべき売り上げを示し、劇や映画にもなり、パロディもつぎつぎに生まれて、スティーヴンスンは一躍人気作家になった。同じ年に、ハイランド史に材料を得た『誘拐《ゆうかい》されて』が出た。
一八八七年五月、父親重態の知らせを聞いてエディンバラの両親の家に急拠おもむいたが、彼が着いた時には息子の顔がわからないほど意識がぼんやりしてしまい、その翌日には亡《な》くなった。父にはこれまで世話のかけ通しであったが、彼が作家として一人立ちできるようになったのを見てから死んだのが、せめてもの慰めであった。
この年の八月、スティーヴンスンは医師のすすめに従い、アメリカに渡る決心をした。ラットゲット号で母とファニーとロイド、それに女中を一人連れてアメリカに向かったが、ふたたびイギリスの土を踏む日はついに来なかった。ニューヨークに着いてみると、彼の名声はアメリカ中にいきわたり、新聞記者につきまとわれ、新聞、雑誌は高い稿料を出して彼の原稿を求めた。しかし、ルイはジャーナリズムの要求にどんどん応じていける作家ではなかった。
ニューヨークの喧騒《けんそう》にうんざりさせられ、健康もすぐれず、アメリカのダヴォスともいうべきアディロンダック山脈のサラナックレイクに姿をかくした。ここは山間の一寒村で郷里のスコットランドの荒涼さによく似ており、寒気がきびしかった。七か月のサラナック滞在中、以前から構想していた『バラントレイの世嗣』を書きはじめ半分ほど仕上げた。
心を許し合った友であり、よき理解者、助力者であったヘンリーとの仲がこのころからうまくいかなくなった。二人はもともと性格も正反対で、おたがいに自我の強い人間であったので、一度気まずいことが起これば、それが決定的なことになりかねなかった。ヘンリーは二人の不和の原因を夫人ファニーにあるとし、夫人を非難しているが、コルヴィンは夫人の立場を弁護して、夫人がヘンリーを遠ざけようとしたのはルイの健康をおもんぱかってのことであるとしている。
身辺の煩《わずら》わしさがつのるにつれ、以前から抱いていた南海の太陽と島々に対する憧《あこが》れが切実になってきた。ファニーがサンフランシスコでキャスコ号という帆船を手に入れ、彼の夢が実現するときが来た。七十四トンの小さな船で、船体は美しいが荒海を乗りきるには快適とはいえなかった。母と妻とロイドと女中をのせてサンフランシスコを出帆し、約六か月にわたり、マトケイサス群島、タヒチ、サンドウィッチ諸島を巡航した。海洋を家とした祖先の血がよみがえり、太陽と青い海と空にルイは心をおどらせた。行くさきざきで酋長《しゅうちょう》や島の人たちと親しくなり、その生活を楽しんだ。旅行記『南海にて』はこの航海の感動を描いている。
一八八九年一月ホノルルに到着し、ここでキャスコ号を売却し、母はスコットランドヘ帰ることになった。ルイはワイキキに家を借りて、ここで『バラントレイの世嗣』を完成させた。ルイは十年来例をみないほど健康を回復し、きわめて愉快な日を過ごした。ハワイの王カラカウアとも親しくなった。王は聡明《そうめい》な教養ある紳士で、自分たちのうけている不当な迫害や、腐敗した政治状勢についてスティーヴンスンに話してきかせたが、これがサモア島で彼がポリネシアの政治抗争を傍観できず、その渦中《かちゅう》にまきこまれることになった遠因である。
〔晩年の生活〕 その後さらに地図にも記載されていないような南太平洋の島々の探検を続け、一八八九年十二月サモア諸島のウポル島の首都アピアに着いた。ここが人生の最後の到着地になろうとは彼自身も想像だにしなかっただろう。首都といってもヴァエア山をうしろにひかえた木造の家のゴタゴタ並んでいるだけの町であった。アメリカ商人H・J・ムーアズにすすめられ、ヴァエア山の中腹に四百エーカーばかりの土地を買い求めた。
翌年一度イギリスヘ帰国の途についたが、シドニーで喀血《かっけつ》し寝込んでしまった。それ以後、ヨーロッパや温帯地方をふたたび訪れることは死を意味するものとして厳禁された。スティーヴンスンはサモア定住を決意し、家具を整えるためにロイドをエディンバラにやり、ヴァイリーマ邸の建設を進めた。ヴァイリーマとは五つの川の意味で、付近に渓流《けいりゅう》、断崖《だんがい》が多く、鬱蒼《うっそう》たる熱帯樹がしげる台地からは、アピア港が見下ろせ、波の音がきこえた。ヴァイリーマ建設にあたっては、スティーヴンスンもみずから斧《おの》や鋤《すき》をもって働いた。ファニーのからだにはアメリカ開拓者の血が流れていていっそう積極的であった。自分たちの生活が自分たちの手によって築かれていくのは何よりも純粋なよろこびであった。
ヴァイリーマの家は階上階下あわせて十数室もの部屋があって、家のまわりには奥行十二フィートのヴェランダがついていた。スティーヴンスンの書斎は家の外に鳥の巣のように突き出していた。一八九一年ロイドがイギリスの家の跡始末に行き、老母を連れて帰ってきた。ファニーの娘オースティン・ストロング夫人とその子供もやってきて、新居ヴァイリーマでの生活がはじまった。
この島でスティーヴンスンは酋長のような生活を送り、世界各地からさまざまな訪問客を迎えた。朝早く起き軽い朝食をすますと、すぐ机に向かい、午前中ずっと仕事を続けた。書くのに疲れると森の中を散歩したり、木を伐《き》り倒したり、使用人や島民たちが働く姿を眺《なが》めて気を晴らした。サモア人は元来社交好きで、スティーヴンスンは舞踏会を開いて彼らとの社交にも大いに活躍した。島民から物語者を意味するタシタラ、殿下というような意味をもつアフイオガという称号をつけられ、彼らの尊敬をあつめた。
ヴァイリーマ邸建築にかかった費用ならびにその維持に必要な経費を調達するため、つぎつぎに作品を書きまくらなければならなかった。この最後の多作の時間に『カトリオナ』『難破船』『干潮』『技術者の一家の記録』『セント・アイヴス』『島の夜話』と題される南洋物語、没後一八九五年に出版された『ハーミストンのウィア』の一部を書いた。
島民たちは宣教師の熱心な布教の結果、キリスト教を信奉するようになっていたが、スティーヴンスンは彼らの宗教的中心にもなって、家族の礼拝式を行ない、自分で作った祈祷文《きとうぶん》を朗読した。この祈祷文は全部で二十あり『祈祷』という一冊の本にまとめられた。
一見平和そうに見えるこの南海の小島にも、混沌《こんとん》とした政争の渦がうずまいていた。サモア諸島は一八八九年のベルリン協定により、イギリス、アメリカ、ドイツ三国の協同管理下に置かれていた。島民の支持の強かったマターファ王がドイツ軍と衝突したため、外国勢力の干渉により、ラウペパが島民を支配することになった。ベルリン協定の結果任命された三国を代表する監督者も無能であった。このような実状を知ってスティーヴンスンはマターファの立場に同情した。抑え切れない島民の不満に動かされて、マターファはラウペパに対して反旗をひるがえした。一時優勢であったマターファ軍も英独海軍の砲火を浴びて、全く壊滅状態になり、マターファは流刑に処せられた。マターファの兵士は捕えられ牢に入れられた。スティーヴンスンは彼らが不当な迫害を受けているのを黙視できず、食物を運ばせたり、医者を呼んで看病させたりした。それと同時に外国勢力の内政干渉に反対し、ある程度の効果をおさめた。スティーヴンスンの死後マターファが正当な支配者として認められ、やがてイギリス・アメリカがこの島から手をひき、ドイツの統治領となった。皮肉なことに一九〇五年には、スティーヴンスンの建てたヴァイリーマ邸が外国人統治者の公邸になった。
このマターファ事件の後、彼の名声はますます高まり、島民の彼によせる信頼は一段と強固なものになった。一方、在留外国人たちはそれを心よく思わず、いろいろ彼を中傷するような言動に出た。一八九四年島民たちに英雄のように崇拝され、文名もほしいままにし、友人チャールズ・バクスターの骨折りで全集出版の話も決まっていたが、自分の創作力のおとろえを感じていたスティーヴンスンは、心の奥底になにか満たされないものを感じていた。
この年の十一月、誕生日の祝宴が盛大に催され、広間いっぱいに祝いの客たちがつめかけた。お客や家族と歓談するスティーヴンスンは幸福にあふれてみえたが、ときどき独《ひと》り離れてヴァエア山を見上げるまなざしには、弱々しい気力のおとろえがみえた。心中ひそかに死の近いことを予感していたのかもしれない。
十二月三日、夕方仕事を終わって妻の夕食の手伝いをしている時、突然脳溢血の発作に襲われた。気を失って倒れたきり、口をきくことができなかった。医者が駆けつけたときには、手のほどこしようがなく、それから二時間後にこの世を去った。同国人といえば、家族とわずかな知人しかいないこの流謫《るたく》の地で、四十四年の生涯を閉じたのである。彼は大分以前からこの島で一生を終わることを覚悟していて、死んだら自分の骨をヴァエア山の山頂に埋めてくれるように望んでいた。ヴァエア山は、藪《やぶ》や下草がびっしりしげり、通れる道はどこにもなかった。ロイド・オズボーンは酋長たちを呼び集め、タシタラの死を告げるとともに、彼の死後の望みを打ちあけた。彼の希望通りヴァエア山頂に埋葬されることになり、夜明けとともに屈強な男たちが険しい山の傾斜を切り開き、道をつくりはじめた。スティーヴンスンの柩《ひつぎ》はサモアの戦死者たちの槍《やり》のうえに高々とかつがれ、長い行列をしたがえて山頂に向かって登りつめていった。このようにして彼のなきがらは彼をしたっていた島人たちの手でヴァエア山頂に葬られた。
慈母でありかつ賢母であったトマス夫人はイギリスに帰り二年後息子のあとを追って他界したが、その遺骨の一部はヴァエア山の息子のかたわらに埋められた。また、よき伴侶として苦楽を共にし、看護婦としてマネジャーとしてつくした妻ファニーは、カリフォルニアのサンタ・バーラに帰り住み、一九一四年死亡すると、やはり骨は夫のかたわらに埋められた。
スティーヴンスンはその生涯に、十冊の小説、うち二冊はロイドとの共作、五冊の短編集、うち一冊は妻との共作、南海についての二冊の歴史、四冊の旅行記、四冊の詩集を書いている。これらの著作は、彼の健康状態を思うと創作力の旺盛さと多彩な才能を示している。彼は終生子供時代の想像力を失わなかった作家で、子供が自分のまわりの世界、新しい世界に対する驚異の目をもって事物を眺め、感動し、その興味はおのずから創作の世界にくりひろげられていったのである。
『ジーキル博士とハイド氏』
現在ジーキル博士とハイド氏といえば、二重人格の代名詞のように、この作品を読んでいない人びとでさえ知っている。それほどこの題名は知れわたっているのであるが、この小説の原題は『ジーキル博士とハイド氏の不思議な事件』The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde といって、『宝島』とともにスティーヴンスンの作品中もっともよく読まれている作品である。『宝島』はスティーヴンスンのロマンス作家としての特長を十分発揮した愉快な冒険物語の傑作であるが『ジーキル博士とハイド氏』は『宝島』とは全く作風の異なる作品で、二重人格の悲劇をテーマにした怪奇物語である。
人間の性格の二重性という主題は文学でもしばしばとりあげられる問題で、有名なものでは一八三九年に書かれたエドガー・アラン・ポーの『ウイリアム・ウイルソン』、オスカー・ワイルドの『ドリアングレイの肖像』(一八九一年)などがある。スティーヴンスンもこの作品の他に『執事僧ブロディー』『マーカイム』など同じような問題をテーマとした作品を書いているが、これは世人の注目するような作品にはならなかった。
『執事僧ブロディー』は彼の故郷エディンバラで実際にあった事件をモデルにした戯曲である。指物師《さしものし》ブロディーは昼間は市会議員として市民の尊敬をあつめながら、夜になると強盗に早がわりして略奪を重ねていたが、それが露見して処刑されたのである。『マーカイム』は骨董商《こっとうしょう》を殺して金を奪い、さらに殺人の罪を重ねようとしたマーカイムの前に人間の形をした超自然的な霊が現われ、マーカイムに残っていたわずかな良心を目覚めさせる話である。マーカイムとこの超自然的霊との対話はマーカイムの心の中の葛藤《かっとう》を客観化したものである。
この『ジーキル博士とハイド氏』は一八八五年に書かれた作品で、その創作過程については種々のエピソードが伝えられている。短編小説を一つ書こうと思っていたところ、ある晩一人の男が戸棚の中に押しこめられている間に薬を飲んで全く別の人間に変わってしまうという夢を見て、以前から考えていた二重人格の物語の構想がたちまちのうちにできあがったといわれる。
彼は部屋に閉じこもり誰も近づけず、三日間で一気|呵成《かせい》に書きあげたといわれている。批評家でもあった妻ファニーに見せると、この物譜の寓意《ぐうい》が明らかでないという非難を受けた。彼もその非難を認め、完全な改作を意図して原稿を焼き捨ててしまった。さらに三日かかって三万語におよぶこの作品をすっかり書き改めた。当時スティーヴンスンはイギリスの南海岸の保養地ボーンマスに父から一軒家を買い与えられて住んでいたが、相変わらず健康状態はわるく結核で弱っており、この仕事も例外でなく病床で書かれたものであるのを思う時、彼の創作に対する執念と情熱にはおどろくべきものがある。
一か月ほど推敲《すいこう》をかさね、翌年一月に出版されたのであるが、出版と同時に『宝島』を凌《しの》ぐ評価を得て、半年の間にイギリス国内で六万部を売りつくした。この作品がこのような圧倒的な人気を博した理由は、ポーの作品にも比肩されるこの物語の怪奇性にあるが、それと同時に二重人格という作品のテーマそのものにあると思われる。今日では人間の心の中にさまざまな潜在意識が存在することは心理学の常識であるが、この作品が書かれた当時は心理学がやっと研究の緒についたところで、一般には人間の潜在意識の問題についてはほとんど知られていなかった。ある意味ではそれだけ作家が空想力を自由に働かせる余地が多かったといえる。
われわれすべての人間の心には善と悪とが共存していて、絶えずその二つの心が葛藤《かっとう》をくり返し揺れ動きながらある均衡を保って一個の人格を形成している。この均衡がくずれ、人間の心が善と悪とに分裂すると二重人格の悲劇が起こる。この作品ではジーキル博士が変身剤を発明し、それを服用することによってハイド氏という悪の象徴に変身する。一度ハイド氏になって悪行の快感を知ったジーキル博士は変身剤の誘惑にうちかてず、何度もそれを便用している間に善の心を持ったジーキル博士に帰ることができなくなってしまうのである。
ジーキル博士の悲劇はもともとジーキル博士自身の心の内部に胚胎《はいたい》していたものであり、地位も名声もある医師として紳士的な生活をしていながら、「悪に近づくこと」にひそかな喜びを見いだした点にある。この作品でスティーヴンスンの描きたかったのは、ハイド氏の残忍、醜悪な行為そのものではなく、ジーキル博士の心に潜在している悪に近づくことを喜ぶ心である。
しばしば、スティーヴンスンは人間の行動の描写は巧みであるが、人間の心理の内部に立ち入ることは苦手であるといわれている。この作品でもジーキルの善性、ハイドの悪性の追求、そこにおける精神の葛藤や苦悩の描写はわれわれを満足させるものでは決してないが、ハイド氏の行動を通して人間の心のもっとも深い部分に触れている。そこに見いだしたものが、悪を抑える善の力ではなく、悪に誘惑され、圧倒されていく、悪を喜ぶ心であるところにこの物語の悲劇性やおそろしさがある。またロンドンという街の生活になんの不満もないはずの医師の、しかも大邸宅の密室で行なわれる「変身」は、また一方非常にイギリス的な偽善を暗示しているともいえる。
「変身剤」という非科学的な媒体を用いている一種の空想小説ではあるが、最初のページから異様な雰囲気がただよい、ロンドンのつめたい夜ふけの街のコツコツという杖と靴の音には、読者をずるずると深い恐怖とこわいもの見たさの興味へとひきずりこんでしまう。そういう意味での猟奇《りょうき》的な怪奇小説としては『ジーキル博士とハイド氏』はいつまでもわれわれを惹《ひ》きつけうる作品といえるだろう。
『水車小屋のウイル』
この作品はスティーヴンスンの短編の中でもっとも叙情的なもので一八七八年一月の「コーンヒル」誌に発表され、後に短編集『メリ・メン』に収められた。スティーヴンスンのロマンチシズムは多くの場合、奇想天外な物語の面白さとして作品に現われるのであるが、この作品では筋らしい筋はなく、ウイルという一人の内省的な若者の精神的成長が優美な情緒的な筆で、叙情詩のような哀感をこめて描かれている。
ウイルは深い山の中にある水車小屋の養子として、美しい自然に囲まれ静かな生活を送っているが、毎日近くの高みに登っては腰をおろし、下界の方を見下ろし、はるかかなたの平地でいとなまれる町の生活に憧《あこが》れている。街道を行く馬車も、山間の渓流《けいりゅう》もすべて平地をめざして下っていくのを見て、真の生活、ほんとうの明るい日の光はかなたの平野にこそあるものと信じていた。養父は水車小屋で宿屋をいとなむようになるが、ウイルが十六歳になったとき、たまたま泊まりに来ていた一人の読書好きの青年から自分の現在の生活に対して目を開かれる。ウイルの憧れていた町の生活も現実にはそれほど愉快な生活ではないし、夜空に輝く無数の星の広大な世界にくらべれば全くとるにたりない小さな世界であることを教えられる。人の幸福な一生とは現在の生活に生き甲斐《がい》と喜びを見い出すことに他ならないと知るのである。
ウイルは養父が亡くなったあとも、山を下りないで養父の跡をつぎ一生を山間の小屋で暮らす決心をする。籠《かご》にとじこめられ、あくせくと車を回すリスであるよりも、静かに胡桃《くるみ》をかじりながら人生を静観する哲学的なリスでありたいと望むのである。
ウイルが三十歳になったとき、父親の牧師といっしょに滞在した十九歳の美しいマージョリーという娘にウイルは惹《ひ》かれる。白い頬《ほお》にうかぶ美しい微笑、指さきにまで溢《あふ》れる若々しい美しさは、それまでのウイルの平静な心をかきみだした。ウイルにとってそれまで至高の価値を持っていた自然の美しさも、マージョリーの存在の前には色あせたものに思えるのだった。
ウイルはマージョリーと結婚することを考えるが、ある日、彼女が花を摘《つ》んでいる姿をみて、花は野に置いてこそ美しい、彼女の美しさを永遠に保つためには憧れを胸にいだきながらいつまでもいまの状態でいることのほうがいいと、婚約を解消して友となることを求める。二人の美しい友情は三年間続いたが、やがてマージョリーは他の男と結婚してしまう。ウイルは絶望し心満たされない日を送るが、一年後マージョリーは病のために死の床につく。マージョリーの臨終の姿をみて、自分の傍観的生き方がもたらした悲劇に自責の念にかられる。
その後、幾十年の年月が流れて、ウイルはいつか七十の白髪の老人になっている。その間、ずっと自然のふところに抱かれ、自分自身の生活について内省をつづけ、いつしか透徹した思想を持つようになったウイル老人の名は、かなたの平地まで広く知れわたるようになっていた。しかし、七十二歳になったある夜、激しい幻覚に襲われ、過ぎ去ったできごとがつぎつぎと老人の目前に現われては消えていく。そのうち馬の嘶《いなな》きが聞こえ、一人の黒い姿をした異様な客の訪問をうける。ヘリオトロープの芳香のたちこめる中庭に立っている姿かたちのはっきりしないこの影のような訪問客は、黄泉《よみ》の国から彼を迎えに来た死神であることを知る。ヘリオトロープはマージョリーの好きな花であることを思い出しながら、マージョリーが死んでからずうっとあなたの来訪を待ちのぞんでいたといい、その導きにしたがってはじめての長い旅路につくのである。
主人公ウイルは生涯水車小屋を離れず、世俗的生活から超然として終始傍観者的な生活を貫き、最後には東洋的な悟りの境地にまで到達して静かに死を迎える。
この作品は、スティーヴンスンの二十七歳のとき書かれたもので、彼は当然結婚前であり、人生についてもそう多くは経験していない。そういうことからみてもこの水車小屋のウイルは青年期の情熱と夢を象徴しており、一種のかぎりない憧憬《どうけい》をこめた作品といえる。後年、スティーヴンスンはこのような叙情的なやさしい小説を残していないのをみても、かなしいまでに美しい憧憬がこめられているといえる。
幼少のころ母親といっしょにアルプス山中を旅行したときの印象がこの舞台となっているわけだが、山の下を通る街道を人が通り、馬車が通り、道の向こうへ消えていくありさまが記憶の中に残っていたのであろう。
ウイルのこの世での真の生活は、マージョリーの死とともに終わっている。七十二歳という老齢まで生きながらえながら、その後の生活には死を迎える平静な心以外描くべきことが何一つとてない。スティーヴンスンの伝記作者、グレアム・バルフォアによると、スティーヴンスンがこの作品で意図したのは「引込み思案の人間が人生からどれほどの満足を汲み取り得るかを絵画的手法で描くこと」であったという。
スティーヴンスン自身は、内に抑えきれない烈々たる情熱を抱き、イギリス的偽善に反発を感じ、放埒《ほうらつ》な生活を送り、健康上の理由があったにせよ、生涯一つところにとどまることをせず、世界中を放浪し続けたのである。
結婚問題一つにしても、スティーヴンスンは夫も子供もある人妻ファニー・オズボーンを恋すると、あらゆる障害をのり越え、死ぬ一歩手前の健康状態にまで自分を追いつめながらやっとの思いで結婚生活にこぎつけてしまったのである。スティーヴンスンの実際にたどった生涯は、水車小屋のウイルとは似ても似つかぬ正反対の存在であったわけだ。その後の波乱に富む自分の生涯を予見していて、ウイルのような山間の小世界での自己を凝視して生きつづける静穏な一生を、青春における甘美な夢の記念碑として謳《うた》いあげておきたかったのだろう。
『水車小屋のウイル』は、現代のわれわれすべてにとって、所詮《しょせん》は夢物語にすぎないが、スティーヴンスンがこの作品に託した青春のリリシズムは、だれの胸にもかつてはさがっていた鈴の音をひびかせ、また若い人びとにとってはかぎりない憧憬をよびおこすことだろう。
『一夜の宿』
この作品はスティーヴンスンの書いた最初の短編小説で「テンプル・バー」誌一八七七年七月号に掲載された。翌年一月号の同誌に載った『マレトロア卿の門扉』と共にフランスに素材をとった特異な作品である。
主人公は十五世紀のフランスの偉大な叙情詩人フランソワ・ヴィヨンである。ある冬の夜、街はずれの一軒の宿屋に無頼漢と泊まりあわせ、彼らは賭事《かけごと》の争いから殺人事件を引き起こす。たまたまそこに居合わせたヴィヨンもこの事件に巻きこまれてしまう。役人の追求の手を逃れるため、雪の降りしきる夜の街をさまよい歩く。凍死をおそれて一夜の宿をさがし求めるが、親類、知人から爪《つま》はじきされているヴィヨンには行くべき泊まるべき宿がない。
この物語の筋は、ヴィヨンの伝記に基いているが、エディンバラの巷間《こうかん》で一時放埒な生活を送った経験のあるスティーヴンスンは、同じ芸術の道にたずさわるものとして、ヴィヨンの放蕩無頼の生活にかくされた真実の心を読みとろうとしたにちがいない。ヴィヨンが遭遇した殺人事件を一編の物語に仕立てて、盗人博徒と異なるところがないようにみえるヴィヨンに、詩人ヴィヨンの必然性があったことを訴えたかったのであろう。
伝記によるとヴィヨンはパリ大学で文学修士《メートル・エス・アール》の称号を得てまもなく、一四五五年六月、二四歳の時、女のことで破戒僧フィリップ・セルモアと喧嘩《けんか》をし、あやまって殺害し、パリを去って放浪することになる。いったん許されてパリに戻るが、放浪中ある盗賊団と関係があったとも思われ、これらの仲間と神学校の校金を盗んでまたパリを去って放浪。こういう生活を何度も繰り返すが一四六三年一月、ある殺傷事件に連座したため十年間パリ追放の宣告をうけてパリを去る。以後ヴィヨンの存在を証明するものは一つとてない。ヴィヨンの悪名はフランスの内外に広く知れわたるのであるが、詩人としてはフランス詩壇に立派な業績を残している。今日伝わっている詩集には『形見』『遺言書』等があり、その放浪生活から得た人生模様が巧みな才能で語られている。
スティーヴンスンはヴィクトリア朝小説の多くにみられる豊饒《ほうじょう》さのもたらす冗漫さとの訣別《けつべつ》を意図し、形式・文体について極度に意識的であったが、その性質上とくに短編小説の場合に顕著であった。この作品も短編小説としてきわめて完成された構成をもち、文体は一語一語を寸分の隙《すき》もなく積みあげたような無駄のない洗練されたもので、スティーヴンスンの二つの特質、物語作家としての巧みな作品構成と文章家としてのよく推敲彫琢《すいこうちょうたく》された文体が、すでにこの最初の作品からはっきりとうかがうことができる。ただ、表現に多少|凝《こ》りすぎたきらいがあり、後にスティーヴンスンが心がけた磨きぬかれた単純さと比較して流暢《りゅうちょう》さにかける憾《うら》みがある。
スティーヴンスン自身が後にこの作品について語ったところによると、彼がこの作品で意図したのは、ヴィヨンの置かれた肉体的状態の正確な描写で、殺人事件のあとヴィヨンがさまよわなければならなかった雪の夜のパリの街の寒さや、一夜の宿を求めて戸をたたいた友人に汚水をかけられて濡《ぬ》れてしまった衣服の冷たさを読者に明確に意識させることであった。この点はスティーヴンスンの卓越した描写力によって十分成功しており、この客観描写がヴィヨンの求めに応じて最後に宿を貸してくれたブリズトウの領主との道徳論議の中に生きてくるのである。
短編小説は一般に人生の一断面を鋭く抉《えぐ》りとり、その状況における人間の行動、心理を鮮明に浮きあがらせることを意図するのであるが、この形式はスティーヴンスンにうってつけであった。えんえんと心理分析を続けるかわりに、ある劇的シチュエーションにおける人間の姿を簡潔|直截《ちょくせつ》に描いて人間についてのあたらしい発見を読者の前に示すのである。
飢えと寒さのために凍死寸前まで追いつめられていたヴィヨンは、一夜の宿の主ブリズトウの老領主の寛大な態度や徳義を重んずる道徳観を素直に肯定できない。生きるための最低の肉体的要求を満たすために、多少の悪事をはたらくことは、人びとの幸福と安全を旗じるしとしてかかげながら、軍隊が徴発や数かずの悪行をなすのと同じではないかとヴィヨンは言う。その気さえあれば、老領主を殺して金の皿を奪って逃げることもできるのに、それをやらないのは自分が悪人ではない証拠だと考えるのだ。ここにはヴィヨンの放蕩無頼の生活に対するスティーヴンスンの解釈がうかがえるという点で興味があるが、読者はヴィヨンの考え方に共感できない点もあるだろう。無頼漢たちの凄惨《せいさん》な殺人場面やヴィヨンの醜悪な窃盗行為がリアルに描かれていればいるほど、ヴィヨンの行動を肯定できない。
したがってこの作品は作品の倫理性とは離れて、一芸術家の追いつめられた生活を雪の降りしきる一夜を舞台に刻明に描き出したところに価値があるのである。これはスティーヴンスンの多くの作品に言えることで劇的状況の描写力そのものが作品の価値を高めているのである。
代表作品解題
『若い人々のために』
これは、一八八一年に出版された、彼の若い日の心の記録ともいうべきものである。このエッセイ集の中心をなしている「若い人々のために」は、恋愛と結婚をテーマにしたもので、「南国に転地を命じられて」と「三重の鎧《よろい》」は死をテーマにしたものだが、若い日の彼の心にうかんだ切実な問題は、この恋愛と結婚と死であった。感じやすい彼の心には、結婚とは、墓場に通じている、長いほこりっぽい一本道であり、人生と同じく、一つの戦場のように思われたのである。また結核という不治の病に苦しめられていた彼にとって、死は常に彼の身辺にあった。彼の願いは、砂地の上をみじめにうろついたあげく死ぬことではなく、もえさかる生命を抱いて、断崖の上からはげしく落下することであった。彼の心にあったのは、死に際して、自分の姿勢を正したいという、美しい願望だった。
『宝島』
一八八一年のある日のこと、彼は息子のロイドがてすさびに描いたある島の地図から、この小説を書くことを思いつき、毎日一章ずつ書きつづけ、食事のあと家族たちに読んできかせた。ロイドと父親のトマスは、この物語に夢中になり、色々思いついたことをいいあっては、創作に協力した。愛する父親を喜ばせ夢中にさせたこの団欒《だんらん》の毎日は、スティーヴンスンのもった幸福な日々の一つであったにちがいない。このように、家庭の暖かい団欒の中から生まれたともいえるこの物語は、彼の他の作品とは異なり、一種の暖かさ、楽しさ、なつかしさをもっている。暗く陰惨な荒々しい彼の作品の中では、一つの例外ということができる。
しかし、この物語にしても、ぞっとするような「一本脚の水夫」の悪夢からはじまる。そしてその人物は、嵐の吹き荒れる恐ろしい夜など、さまざまな悪魔の形相《ぎょうそう》で、少年の夢の中に現われるのである。たしかに、この物語にしても、はじめから終わりまで悪夢の連続であるということができる。
この小説は、彼の長編小説の中では、むだや、退屈な枝葉の部分がまったくなく、非常にすっきりしていて、読みやすいものである。読者は自然に何の抵抗もなく物語の中にひきこまれ、緊迫のうちに起こる種々の冒険に胸をときめかす。
あとがき
現代は、ロマンティシズムはあまりはやらない時代だといわれている。たしかに、科学と技術とが大きくクローズアップされている現代は、ロマンティシズムとはほど遠い時代なのかもしれない。ひとむかし前の流行語でいえば、万事が、ウェットというより、ドライに傾いているといえそうである。
同じようなことが、文学についてもいわれている。たとえば、現代文学は、その文体からして、ハード・ボイルドといわれ、非情冷徹な文体がうけている。このことからも、文学の主流は、ロマンティックとは正反対の方向に流れていることが想像できるだろう。要するに、人生においても、芸術においても、レアリスティックな色彩が濃厚であり、そのレアリズムもいまや古いとされて、種々の新しい手法が試みられている状況である。
しかし、ロマンティシズムは、はたして現代から完全に追放されたのだろうか。そうとばかりはいえないようだ。実人生はさておき、芸術の世界からロマンティシズムが完全に消えたとは、とうてい考えられない。一例として、過去半世紀にわたる世界の映画史を振り返ってみても、通俗的な意味を含めても、大当りをとった映画は、どちらかといえば、ドライというよりウェットのもののほうが多かったように思われる。人間が人間であるかぎり、どうもドライにだけ徹し切れるものではなさそうだ。
しかし、わたしは、スティーヴンスンをロマンティシズム一辺倒の作家だとみているつもりはない。つづめていうならば、かれはロマンティックな虚像と、レアリスティックな実像とを、巧みに重ね合わせ、他の追随を容易にゆるさぬ独自の文学を創造した作家であった。
漱石の小説『彼岸過迄』(一九一二年)に登場する田川敬太郎は、高校生のころ、スティーヴンスンの「新アラビア夜話」(一八八二年)にすっかりとりつかれ、ロンドンからの新帰朝者(ということばも今はすたれたが)の英語教師にむかって、「十九世紀の倫敦《ロンドン》に実際こんなところがあったんでせうか」とまじめくさってきくと、教師が「十九世紀どころか、今でもあるでせう。倫敦といふ所は実際不思議な都です」と答え、さらに続けて、「尤《もっと》も書き手が書き手だから観察も奇抜だし、事件の解釈もおのづから普通の人間とは違ふんで、斯《こ》んなものが出来上つたのかも知れません。実際スティーヴンスンといふ人は、辻待の馬車を見てさへ、其所《そこ》に一種のロマンスを見出すといふ人ですから」と述べている。
漱石のこのことばは、ここにあらたに翻訳《ほんやく》した三編の小説を読んでくだされば、読者にもほぼ理解されると思う。この三編だけについていえば、読み方によって意見も違ってくるだろうが、本書でならべた順序でいうと、あとの作品ほどロマンティックな色彩は濃いといえよう。しかし、程度の差こそあれ、前述したように、かれの小説は、けっしてロマンティシズム一色ではない。読む人は誰しも、鋭いレアリズムが、作中のここかしこにちりばめられていることに気づかれるはずだ。ふたたび漱石をひきあいに出すと、漱石はスティーヴンスンの文体について、「西洋ではスティーヴンスンの文が一番好きだ。力があって、簡潔で、クドクドしい処がない、女々しい処がない。……殊に晩年の作がよいと思ふ。Master of Ballantrae(一八八九年刊の長編小説「バラントレイの世嗣」をさす)などは文章が実に面白《おもしろ》い。……彼は一字でも気に入らぬと書かぬ。人のいふことをいふのが嫌いで、自分が文句をこしらへて書く。だから陳腐の文句がない。其代《そのかわ》り余り奇抜過ぎてわからぬことがある。又彼は字引を引繰り返して、古い、人の使はなくなつたフレースを用ひる。さうして其実際の功能がある……」と語っている。
外国文学の文体について考えるということになると、その原文を十分に読みこむ必要があることはいうまでもない。その意味では、この翻訳を読まれる方々が、さらに一歩前進され、原書をひもとかれることを願うものである。考えようでは、翻訳も独立した文学作品であるし、そうあらねばならないのだが、原文の文体を訳文に反映させることはきわめて困難だ。翻訳とともに、原書にも手をつけてくださることを望むしだいである。
最後におことわりしておきたいことは、私の多忙のゆえに、翻訳の労のほとんどを橋本|槙矩《まさのり》氏に委ねた。さいわい、同氏は私の意をよく汲み取られ、従来の多きにのぼる既訳と較べても、前進した良訳を寄せられたことに、私はひそやかな喜びを覚えるのである。橋本氏へ感謝するとともに、読者のご了解を得られればさいわいである。
一九七五年三月 訳者
◆ジーキル博士とハイド氏
ロバート・ルイス・スティーヴンスン/日高八郎訳
二〇〇三年六月二十五日 Ver1