目次
ジーキル博士とハイド氏
解説(田中西二郎)
ジーキル博士とハイド氏
戸口の由来
弁護士のアタスン氏は、いかつい顔をした、ついぞ明るい笑《え》顔《がお》を見せたこともない男である。ひとと話すときも、よそよそしく、口かず少なく、訥弁《とつべん》で、なかなか感情を顔にあらわさない。痩《や》せて、のっぽで、じじむさく、陰《いん》気《き》くさかったが、それでいてどことなく人に好かれるたちであった。親しい会合で、酒が口に合ったときなどには、あふれるばかりの人情味が、ふとその眼《め》にかがやいて見えた。この人情味はかれの談話のなかでは決して出てこないものでありながら、かえってこうした晩餐《ばんさん》後の顔の表情のうちに思いがけず声なき声を発するばかりでなく、かれの性行そのもののなかでは、はるかにしばしば、雄弁《ゆうべん》に、うちだされてくるのである。身を持することは謹厳《きんげん》で、ひとりのときには一杯《ぱい》の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》をたしなむことさえ差控《さしひか》えてジン酒をのみ、芝《しば》居《い》ずきであるのに二十年来、劇場の木戸をくぐったことがない。しかし他人に対しては寛《かん》大《だい》であって、ひとが血気にはやって不始末をしでかしでもすると、うらやましいといわんばかりに眼をみはっていることもあり、窮地《きゅうち》に陥《おちい》ったりした場合には、非難するどころか助けてやることが多い。「ぼくはカインの異《い》端的《たんてき》思想に好意をもつね。自分の同胞《きょうだい》だって好きなように堕《だ》落《らく》させておくよ」よくこんな妙《みょう》なことを言っていた。こんな性格だから、堕落してゆく人たちと最後まで立派につきあってやり、最後までよい感化をあたえるような廻《まわ》りあわせになるのだった。そしてこういう人たちがかれの事務所へ訪ねてくるのに対して、最後まで少しも変ったそぶりを見せたことがなかった。
こんな芸当も、アタスンにとってはなんでもないことだったにちがいない。というのは、かれはどんなことがあっても感情を外にあらわす人間でなかったし、かれの交友関係さえ、同じような心のやさしい鷹揚《おうよう》さによって出来たものらしかったからである。内気な人の常として、ふとした機会にできた友だちで満足して、そのままつきあいを続けてゆくものだが、この弁護士の流儀《りゅうぎ》がそうであった。かれの友だちというのは、身よりのものか、さもなければ、ごく古い知りあいかであった。かれの友愛の情は、蔦《つた》のように、長い時間をかけて成長したもので、かならずしも、相手が友だちとして適当だからというわけのものではなかった。だからこそ、かれとリチャード・エンフィールド氏との友情もむすばれたものにちがいない。この人はかれの遠い親戚《しんせき》で、評判の有閑紳《ゆうかんしん》士《し》である。このふたりが、おたがいにどんな点を認めあっていたか、また、どんな事がらに共鳴しあっていたか、多くの人たちには謎《なぞ》だった。日曜日などにふたりが散歩しているのを見かけたものの話では、ふたりは別に話をするでもなく、ひどくつまらなそうなようすで、誰《だれ》か友だちでも見かけると、いかにもこれで救われたという顔で声をかけるというのだ。それでいて、ふたりはこの日曜の散歩を何よりも大切にして、毎週のいちばん楽しみな行事のように考え、この散歩を自由に楽しむためなら、ほかに遊ぶ機会があってもふりむかないばかりか、必要な用事さえ捨ててかえりみないのだった。
そういうある日曜の散歩のとき、はからずもふたりは、ロンドンのとある繁《はん》華《か》街《がい》の裏町を通りかかったことがあった。通りは狭《せま》く、まず閑静というほうであったが、日曜日以外は、なかなか商売が繁盛《はんじょう》していた。そこの商人はみんな裕福《ゆうふく》そうだったが、その上にもたがいに繁栄をきそって、余分の儲《もう》けは店の飾《かざ》りにつぎこんでいた。だから、それぞれの店先が往来に軒《のき》をならべて客の眼を奪《うば》いあっているようすは、ちょうど愛《あい》想《そ》のいい女店員たちがずらりと両側に列をつくって、にこにこと客を誘《さそ》い寄せているのに似ていた。日曜日なので、ふだんの派手さはなく、わりに人通りも少なかったが、それでも、煤《すす》で汚《よご》れた付近の町にくらべると、この通りは、まるで森のなかの火事のように、ぱっとあたりに照り映《は》えて、ま新しく塗《ぬ》りたてた鎧戸《よろいど》、よく磨《みが》きあげた真鍮《しんちゅう》の看板、それに、その辺一帯がきれいで、なんとなく陽気な感じだから、すぐと通行人の眼をひいて、うきうきさせるのである。
この通りを東へ向って、左手の、とある角から二軒目のところで家並《やな》みが途切《とぎ》れて、そこに路地の入口がある。ちょうどそこのところに、うす気味悪い建物が一棟《むね》、往来に向って破風《はふ》を突《つ》き出している。それは二階建で、一階に戸口が一つあるだけ、二階もうす汚れた壁《かべ》で、窓は一つもなかった。どこを見ても、長いあいだ、汚れ放題にほったらかしてあったとしか思えぬ。たった一つの戸口にも、呼《ベ》鈴《ル》も戸叩き《ノッカー》も取付けてあるわけではなく、ペンキが剥《は》げて変色している。浮《ふ》浪人《ろうにん》どもは、入口の凹《へこ》んだところへ入りこんで、戸の羽目板でマッチを摺《す》るし、子供たちは階段で商売ごっこをしたり、学童たちは刳形《くりがた》のところでナイフの切れ味をためしたりした。もう三十年も、誰ひとりなかから出て来て、こんな勝手ほうだいな侵入者《しんにゅうしゃ》たちを追いはらったり、かれらの荒《あ》らした跡《あと》を修繕《しゅうぜん》したりすることもなく過ぎた。
エンフィールドと弁護士は、裏通りのその反対側を歩いていたが、例の路地の角まで来ると、エンフィールドは、ひょいとステッキをあげて指し、
「あの戸口に気づいたことがありますか?」とたずねた。相手がうなずくと、「あれについては、まったく妙な話があるんですよ」とつけ加えた。
「そうかい!」とアタスンは、いくらか語調も変って、「そりゃあ一体、どんな話かね?」
「まあ、こうなんです」とエンフィールドは応じて、「真っ暗な冬のあけがたでした。かれこれ三時頃《ごろ》だったでしょう、なんでもおそろしく遠いところへ行った帰り道なんですが、途中の町には、それこそ街灯のほかは何ひとつ見えません。どの通りもどの通りも、みんな寝《ね》静《しず》まっているんですね――通りという通りは、まるで行列でも迎《むか》えるように、明りがついていて、そのくせどこもみな教会堂のようにがらんとして人《ひと》気《け》がないんです。――とうとうわたしは、一生けんめい耳をすましてあるきながら、せめて巡査《じゅんさ》でも来てくれればいいがなあとあせるような気分になったほどでした。そのときです。突然《とつぜん》ふたりの人影《ひとかげ》があらわれました。ひとりは小《こ》柄《がら》な男で、東のほうへ急ぎ足にぐんぐんあるいて行く。もうひとりは、八つか十ぐらいでしょうか、女の子で、横通りを息せき切ってかけて来た。そこで当然ふたりは、曲り角で出会いがしらにぶっつかってしまったんです。それからです、ぞっとするような事が起こったのは。つまり、男は、平気な顔で、子供を踏《ふ》みつけて、地べたで泣きわめいているのを、そのまま、さっさと行ってしまおうとするではありませんか。聞いただけではなんでもないことでしょうが、実際に見たものの眼にはまるで地《じ》獄《ごく》。とても人間わざではない。人を轢《ひ》き殺して極楽《ごくらく》へ送るというインドの忌《いま》わしい神のようです。こら、待て、とわたしはいきなり飛びだして、そいつの胸ぐらをつかんで、元の場所まで引っ返して来たのですが、泣き叫《さけ》んでいる子供のまわりには、もうだいぶ人だかりがしていました。ところがその男は、まるっきり冷静で、別に手向いしようでもなく、じろりとわたしを一目みただけですが、その眼つきのいやらしいこと、わたしは、まるで駆《か》け足のあとみたいに、からだじゅうじっとり汗《あせ》をかいた。そこへ飛び出して来た人たちは、女の子の家のもので、つづいて医者が来あわせました――女の子はその医者を呼ぶために使いに出されたんです――で、医者の話では、怪我《けが》は大したことはなく、驚《おどろ》きかたがひどかったのだと言うのです。さて、これで事は落着したものと、あなたは思うでしょうがね、そうでない、ここにひとつ、奇妙《きみょう》なことがあるのです。その紳士というのが、わたしは一目みたときから、ぞっとするほど厭《いや》なやつだと思った。だからその子の家の者もそう思ったのは、これはしごく当然ですが、医者の場合はちょっとわたしには意外だった。その医者というのが、月並みのありふれた医者で、年格《としかっ》好《こう》もはっきりしないし、平凡《へいぼん》な顔だちの上に、ひどいエディンバラ訛《なま》りで、まあ風笛《バグパイプ》みたいに鈍感《どんかん》なしろものなのに、それがあなた、その医者がわたしたちと同じでね、わたしがつかまえて来た男の顔を見るたびに、むらむらっと顔を真っ青にして、そいつを殺しかねない見幕なんです。わたしには医者の気持がよくわかったし、わたしの心のうちも医者にはわかったでしょう、殺すということはできないにきまっていますから、わたしたちは次善策をとった。つまり、そいつに言ってやったのです。この事件を大っぴらにして、きさまの悪名が広いロンドンの隅《すみ》から隅まで、かくれもないようにしてやるのは造作もないし、またそうしてやるから覚《かく》悟《ご》しろ。きさまに友人なり信用なりがあるなら、そいつも根こそぎ剥ぎ取ってやる。と、わたしたちは真っ赤になってまくし立てながら、一方、婦人たちをできるだけやつに近づけないようにしていました。婦人たちもまるで鬼《き》女《じょ》のように夢中《むちゅう》で騒《さわ》ぎたてていたんですからね。まあ、あんなに憎《ぞう》悪《お》にみちた顔にとりまかれている図なんて見たこともありません。ところが、そのまんなかに立ってそいつは、冷然と凶悪《きょうあく》なうす笑いを浮《うか》べて――たしかに内心恐《おそ》れていることはわかるんですが――平気でそれを受け流してるんです。いやはや、まったくの悪魔《サタン》だね。そうして、その言い草は、『きみらがこの事件を利用しようと思うんなら、もちろんわたしはどうにもしかたがないが、わたしも紳士である以上、ごたごたは避《さ》けたい。金高を言いたまえ』と、こうなんです。そこでわたしたちも、子供の家族のために慰藉料《いしゃりょう》として強引《ごういん》に百ポンド吐《は》きださせることにしました。やつもあくまで突っ張るつもりだったらしいが、こちらの不《ふ》穏《おん》な気配を見てとったか、とうとう折れて出ました。さて次はその金をとる段になった。わたしたちを、どこへつれて行ったと思いますか。それが、ほかでもない、あの戸口なんですよ。――鍵《かぎ》をひょいと出して、なかにはいり、間もなく金貨で十ポンドばかりと、クーツ銀行宛《あて》の残額の小切手とを持って出て来た。小切手は持《じ》参人払《さんにんばら》いで、しかもその署名が――この名前がこの話の重要な点なのですが、わたしには言えない――少なくとも非常に有名で、新聞にもよく出る名前なのです。金額も大きいが、その署名さえ本物なら、まさしくそれ以上の金額でも通用する代物《しろもの》です。そこでわたしは突っこんでやりましたよ。だいたい、きみのやることは何から何まで信用できんことだらけだが、それにしても朝っぱらの四時頃に、穴蔵《あなぐら》みたいな戸口からはいり込《こ》んで行って、百ポンドに近い他人の小切手を持って来るなんて、そんな話が実際の世の中にあってたまるものかってね。ところがそいつは一向に平気で、せせら笑いながら、『安心したまえ、銀行の開くまできみたちといっしょにいて、その小切手を自分で現金にしてあげるから』と言うんです。そこでわれわれは、医者も、女の子の父親も、やつも、わたしも、みんな連れだって、ひとまずわたしの部屋へ行き、夜の明けるのを待った。翌朝、朝飯をすませてから、みんなで銀行へ出かけました。わたしはその小切手を自分で窓口に差出して、どう考えても偽物《にせもの》らしいが、と言ったものだ。ところがどうして、小切手は正真正銘《しょうしんしょうめい》、本物だったんです」
「ちぇっ」とアタスン氏は舌打ちした。
「あなたもわたしと同感らしいですね」とエンフィールドは言った。「まったく、ひどい話です。その男ときたら、誰ひとり相手にしそうもない、実に憎《にく》むべきやつなのに、小切手を振《ふり》出《だ》した人というのは、典型的な紳士で知名の士で、(なおわるいことには)善行をもってきこえるあなたがたの仲間の一人なのですからね。ゆすりですよ、これは。ある正直な人物が、若気の道楽でも種に、目玉の飛び出るような法外な金を絞《しぼ》り取られているのだ。そんなわけで、あの家を、わたしは『ゆすりの家』と呼ぶことにしたんです。――もちろん、それにしたって、とても事の真相がすっかりわかったとは言えないが……」と、こうつけ加えた彼は、それなりじっと黙想《もくそう》に落ちてしまった。
「で、きみはその小切手の振出人があの家に住んでるかどうか知らないのかい?」と、ややだしぬけなアタスンの質問に、エンフィールドは、はっとわれに返った。
「そう思うでしょう?」とエンフィールドは答えた。「だが、偶然《ぐうぜん》にわたしはその人の住所を知っていました。どこだったかの辻《スクエア》に住んでいますよ」
「それで、きみは訊《き》いてみたことはないのだね――例の戸口の家のことは?」とアタスンは言った。
「ええ、遠慮《えんりょ》をしましてね」とエンフィールドは答えて言った。「わたしは詮《せん》議《ぎ》だては嫌《きら》いなんです。いかにも最後の審判《しんぱん》の真似《まね》をするようですからね。一つのことについて穿鑿《せんさく》を始めるのは、石を一つ転がすのに似ているのです。自分は丘《おか》の上に静かに腰《こし》をおろしている、が、その石は転げおちながら、途中の石をいくつも転がして行く。やがて(こちらには思いもよらないような)どこかの罪も報《むく》いもない老人か何かが、自分の裏庭で石に頭を打たれて死ぬ、そのために家族のものは家の名前を変えて、世の中をせまく生きなければならないってことにもなる、いやですからね。わたしは主義としてこうきめているんです――怪《あや》しく見えれば見えるほど、なおさら穿鑿はしないことだ」
「それはなかなかいい主義だ」と弁護士は言った。
「だが、あの家については自分で調べて見ましたよ」とエンフィールドはつづけて言った。「人の住んでいる家とは言えないくらいのものです。ほかに戸口はないし、あの問題の男が、例の戸口からごく稀《たま》に出はいりするだけで、ほかには誰ひとり出はいりするものがないのです。窓は路地に向って二階に三つあるきりで、階下《した》には一つもない。それらの窓はいつも閉《し》め切ってあるが、きれいになってます。それから、煙突《えんとつ》が一本あって、たいてい煙《けむり》が出ているところをみると、誰か住んでいるに違《ちが》いないとは思うのですが、なにしろあの路地は家がたてこんでいて、どこがどこだか区切りがわからないありさまだから、それもあんまり確かだとは言えんようです」
二人はまたしばらく黙《だま》って歩いて行った。それから、「エンフィールド君」とアタスンが言った。「きみの主義は、あれはいい主義だよ」
「ええ、わたしもそう思っています」とエンフィールドは答えた。
「それにもかかわらずだ」弁護士は言葉をつづけた。「きみに訊きたいことが一つだけある。子供を踏みつけた男の名前が訊きたいんだよ」
「そうですね、別に差しさわりもないでしょう。ハイドという名前の男です」
「ふむ、見たところ、どんなふうの男かね?」
「さあ、なんと言ったらいいでしょうか。あいつの様子には、どこか変なところがある。何かしら不《ふ》愉快《ゆかい》な、何かしら、たまらない憎々しいところがあるのです。わたしはあんな厭なやつに会ったことはないがそのくせ、なぜ厭なのか、ちっともわからない。あいつはどこか、出来そこなったところがあるに違いない。どこということは、取りたてては言えないが、出来そこなっているらしいという強い印象を与《あた》えるんです。まことに異様な感じの男です。けれども異様な点をどうしても実際に指《し》摘《てき》できない。そうなんです、わたしにはなんとも言いようがない。うまく言葉で説明ができないんです。しかしそれは、おぼえていないわけではないのです。現に、たったいまでも、あいつの顔がはっきり、この眼に見えてくるくらいですからね」
アタスン氏は、またしばらく黙々と、重苦しく考えこみながら歩いていたが、とうとう、「そいつが鍵を使ったことは、きみ、確かなんだね」とたずねた。
「どうしてそんな……」びっくりしてエンフィールドは、われを忘れて言いかけた。
「いや、わかってるよ、きみが変に思うのももっともだ。もう一人の相手方の名前をきみに訊かないのも、もうぼくにはちゃんとわかっているからなんだ。ねえ、リチャード、きみの話は、みごとに的にあたったのだよ。もしいまの話に不確かな点でもあったら、訂正《ていせい》しておいてもらいたいな」
「それなら前もって注意してくれればよかったのに」と相手は少しむっとして答えた。「しかしわたしは物《もの》識《し》りぶってると言われるほど、正確に話したつもりです。やつは鍵を持っていた。それどころか、現にいまでも持っています。ほんの四、五日前にも、やつがそれを使うのをわたしは見たんだから」
アタスンは深いため息をついたが、一言も言わなかった。青年はすぐまた話を続けた。
「またひとつ、何も言うなという教訓を受けましたね。自分のおしゃべりが恥《はず》かしくなりました。この話にはもう二度とふれないことを約束《やくそく》しましょう」
「結構だ」と弁護士は言った。「固く約束しよう、さあ握手《あくしゅ》だ、リチャード」
ハイド氏捜索《そうさく》
その晩、アタスン氏は暗澹《あんたん》とした気持で、ひとり暮《ぐら》しのわが家に帰り、いやいやながら食卓《しょくたく》についた。いつも日曜日は、食後、煖《だん》炉《ろ》の近くに坐《すわ》って、読書机の上に無味《むみ》乾燥《かんそう》な神学の本などを開いて読み、やがて近所の教会の大時計が十二時の鐘《かね》を打つのを聞くと、厳《げん》粛《しゅく》に感謝の祈《いの》りを捧《ささ》げて、床《とこ》につくのがならわしである。ところが今晩に限って、テーブルクロスがとりのけられるとすぐさま、燭台《しょくだい》を持って事務室に入って行った。金庫を開いて、いちばん奥《おく》から『ジーキル博士遺言状《ゆいごんじょう》』と書いた封筒《ふうとう》入《い》りの書類を取りだすと、腰をおろし、眉《まゆ》を曇《くも》らせながら、その内容を調べはじめたのだ。遺言状は本人自筆のものであった。というのは、作成された遺言状の保管はしているものの、それを作る際には、アタスンは一切《いっさい》の助力をことわったからである。遺言状には、医学博士、民法学博士、法学博士、王立協会員、等、等、であるヘンリー・ジーキル死亡の場合は、その所有財産はすべて、「友人にして恩人たるエドワード・ハイド」の手に譲渡《じょうと》すべきこと、なお、ジーキル博士の「三カ月以上にわたる失踪《しっそう》、もしくは理由不明の不在の場合」にも、前記エドワード・ハイド氏は、遅《ち》滞《たい》なく、前記ヘンリー・ジーキル氏の財産を相続し、博士の家人に対して、少額の支払いをなす以外には、なんらの義務または責任を負わざること、が規定されている。この書類は長いあいだ、弁護士の頭痛の種になっていたものだった。弁護士として、また、気まぐれなことは不《ふ》謹慎《きんしん》なことにほかならぬと考えるような、世の中の穏健《おんけん》なしきたりを愛する人として、かれはこの書類に不快を感じていた。それに、これまでかれの腹だたしさをつのらせたのは、ハイドという人物の正体がわからないことであった。それがいまや一変して、正体がわかったのだ。ハイドという名前だけで、自分がそれ以上何も知らないということからして、そもそも不《ふ》埒《らち》であった。その名前が、さまざまのいまわしい属性につつまれるに至っては、なおさらもってやりきれないことだ。そして久しいあいだ、かれの眼《め》をさえぎっていた、幻《まぼろし》のようなもやもやとした霧《きり》のなかから、いまや忽然《こつぜん》として、悪《あっ》鬼《き》の姿がくっきりとおどり出て来たのだ。
「狂気《きょうき》の沙汰《さた》だと思っていたのだ」そのいまいましい書類を金庫にしまいこみながら、かれは言った。「不《ふ》名《めい》誉《よ》なことにならなければいいが」
そう言いながら蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》をふき消すと、かれは外套《がいとう》をひっかけて、医学の城砦《じょうさい》といわれるキャヴェンディッシュ・スクエアへ出かけて行った。そこには、かれの友人である名医ラニョン博士が邸宅《ていたく》を構えて、殺到《さっとう》する患者《かんじゃ》に接している。「もし知ってるものがあるとすれば、さしずめラニョンだ」とかれは考えたのである。
もったいぶった召使頭《めしつかいがしら》は、顔見知りなので、喜んでかれを迎えた。少しも待たされずに、玄関《げんかん》からまっすぐ食堂へ案内されて行くと、ラニョン博士が、ひとりで葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》を飲んでいた。この人は元気で、健康で、きびきびしたあから顔の紳《しん》士《し》である。もじゃもじゃの髪《かみ》は、それほどの年でもないのに、もう白く、物腰は陽気でにぎやかで、てきぱきしている。アタスンを見ると、椅子《いす》から跳《と》び上がって、両手をひろげて歓迎《かんげい》した。この歓迎ぶりは、いつもながらのかれの仕草で、いくぶん芝《しば》居《い》じみて見えるものの、いつわらない気持がこもっていた。それというのも、ふたりは古くからの友だちで、小学校から大学までを通じての同窓だし、ふたりとも自尊心が強く、しかも同時におたがいに深く尊敬し合ってもいたし、また、そういう間柄ではいつもそうとは限らぬものだが、おたがいの交際を無上の喜びとしてもいたからである。
とりとめのない話を少ししてから、弁護士は、不愉快で気がかりな、例の問題のほうへ話を持って行った。
「ときにラニョン、おそらくヘンリー・ジーキルのいちばん旧《ふる》い友だちといえば、どうしたって、きみとぼくだろうね」
「友だちも、おたがいにもっと若いといいんだがね」ラニョン博士は笑いを含《ふく》んだ声で言った。「それはそうと、わしもきみの言うとおりだと思うが、それがどうしたんだい? 近ごろはあの男にもほとんど会わないよ」
「それはほんとうかい! きみたちには同業のよしみがあると思っていたんだが」
「もとはそうだったんだ。だがね、もう十年も前からヘンリー・ジーキルがあんまり気違いじみているので、わしには我《が》慢《まん》がならなくなってきた。あの男は変になってきたのだよ、精神が。むろん、いわゆる昔《むかし》のよしみで、いまでも関心は持っているが、この頃《ごろ》ではもう、とんと会っていないよ。あんな非科学的なたわごとを並《なら》べられては」ここで医師は、さっと顔色を変えて、つけ加えた。「デモンとピシアスのような親友どうしだって、仲が悪くなるにきまっているさ」
このちょっとした憤慨《ふんがい》に、アタスンはいくらかほっとした。「ふたりは単に何か学問上の点で、意見が合わないだけなのだ」そう考えて、そして(財産譲渡証書作成のこと以外は)打込んだ科学的な熱情などは少しも持ちあわせぬ男だけに「たった、それだけか!」とさえ心のなかで付言した。で、友だちが平静になるのを、ちょっとの間待ってから、自分が訊こうと思って来た問題にふれていった。
「きみは、あの男が世話をしてやっている男、――ハイドとかいう男に、会ったことがあるのかね?」
「ハイド?」とラニョンは訊きかえして、「いいや、聞いたことがないね。いままでのところでは」
その夜、弁護士の持ち帰ったのは、たったこれだけの知識であった。大きな暗い寝《ね》床《どこ》のなかで、あちこち寝がえりを打っているうちに、夜も過ぎて明けがたになってしまった。闇《やみ》のなかで、さまざまな疑問にとりまかれて悩んでいるかれの苦しい心には、それは不安の一夜であった。
アタスンの住居にほど近い教会の鐘が、六時を打った、が、それでもまだ、かれはその問題を穿鑿していた。その問題を、前には、ただ理知的に考えていたのに、いまでは、想像力までが狩《か》り出され――いや、無理無体に、想像力までが酷《こく》使《し》されることになった。カーテンをおろした部屋の、濃《こ》い闇のなかで、悶《もん》々《もん》と横たわっているとき、エンフィールドの物語が、一巻の幻灯《げんとう》画《が》のようにつぎつぎに、かれの心の前に映しだされていった。いちめんに街灯のかがやいている夜の都会。ひとりの男が足早に歩いて行く。つづいて子供が、医者の家から駆《か》け戻《もど》って来る。ふたりが、ばったり、出会う。人間の姿をした悪鬼が、子供を踏《ふ》み倒《たお》し、泣き叫《さけ》ぶ悲鳴などには耳もかさずに立ち去って行く。と場面が変って、裕《ゆう》福《ふく》な邸宅の一間、かれの友人が眠《ねむ》っている。夢《ゆめ》みながら、ほほえんでいる。部屋の扉《とびら》があく。寝台《ベッド》のカーテンが、さっと引きあけられ、眠っていたものが、呼び起こされる。と、見よ、枕《まくら》もとにひとりの男が立っている。その男には威力《いりょく》が与えられている。友人はこんな真夜中でも起き出て、その男の命令に従わなければならない。この二つの場面にあらわれた、その男の姿が、一晩じゅう、弁護士を悩《なや》ましつづけた。うとうとと眠りかけると、またしてもその男の影《かげ》が、忍《しの》びやかに、いっそう忍びやかに、寝静まっている家々を出入りしたり、街灯の光の冴《さ》えた都会の、広い迷《めい》路《ろ》のようなところを、だんだん足早に、さらにさらに足早に、ついには眼にもとまらぬほどの速さで走りまわって、街角という街角で、子供を踏み倒しては、泣き叫ぶままに打ち捨てて行く場面が見えるのだ。それでいて、その男の姿には、見覚えのできるような顔がなかった。夢のなかでさえ、その男には顔がなく、あっても、それはきまった顔ではなく、かれの眼の前でぼうっと消えてしまうような顔であった。そういうわけで、弁護士の心のうちには、本物のハイド氏の顔を見たいという、特別に強い、異常ともいうべき好《こう》奇《き》心《しん》がわいてきて、それがいや増しに強くなっていった。ただ一目でもいいから、ハイドを見ることができたら、世の多くの神秘めいた事柄《ことがら》でも、よく調べるとそうであるように、この不思議も明らかにされて、おそらくはなんでもないことになってしまうのではないかと、かれには思われたのである。そうすれば、あんな男を友人に持ったかれの友人ジーキル博士の酔狂《すいきょう》というか、腐《くさ》れ縁《えん》というか(どう言ってもよろしいが)その理由も、それにあの遺言状の容易ならざる条文を物した理由までも、はっきりしてくるかもしれない。少なくとも、見ておく値うちのある顔であろう。その顔は、なさけを知らない男の顔だ。勘《かん》のよくないエンフィールドの心にさえ、一目みただけで、永久に消えない憎《ぞう》悪《お》の念をひきおこさせた顔ではないか。
それ以来、アタスンは、店の立ち並んだあの裏通りの、問題の戸口へ、しげしげと通いはじめた。仕事前の朝のひととき、多《た》忙《ぼう》な事務に逐《お》われる真昼どきの寸《すん》暇《か》をぬすんで、また夜は夜で霧ふかい大都の月かげを踏みつつ――なんの光の下であれ、人通りが途絶《とだ》えようと雑沓《ざっとう》のなかであろうと時をえらばず、そのきまった場所に、かならず弁護士の姿が見られた。
「あいつが“隠れ役《ミスタ・ハイド》”なら、おれは“捜し役《ミスタ・シーク》”になってやる」とかれは考えていた。
ついに、かれの苦労のむくいられるときが来た。からりと晴れた夜であった。空気はひえびえと凍《こお》り、街路は舞踏場《ぶとうじょう》の床《ゆか》のように清潔であった。街灯の光は、そよともゆるがす風もないので、明暗の影をくっきりと地上にえがいていた。店が閉《と》ざされる十時頃になると、その裏通りはしんかんと淋《さび》しくなり、四方からつたわる大ロンドンの低い、唸《うな》るようなどよめきにもかかわらず、まことに静かであった。かすかな物音でも、遠くまで響《ひび》いていった。家家から洩《も》れてくる家事仕事の音が、往来のどちら側でも、はっきりと聞きとれた。通行人の近づく足音も、姿の見えないずっと先から聞こえて来る。アタスン氏は、例の場所に立って数分すると、変な、軽い足音の近づいて来るのに気がついた。夜の見張りを続けているうちに、かれは、たったひとりの足音でも、その人がまだずっと遠くにいるのに、市中の騒々《そうぞう》しいざわめきのなかから、急に、はっきりと、跳び出すように響いてくる、あの奇異な感じには、もうとっくに馴《な》れきっていた。しかしこのときほど、鋭《するど》く、決定的に、注意を惹《ひ》きつけられたことは、一度もなかった。今度こそ、という強い、迷信めいた予感を感じて、かれは、路地の入口に身をひそめた。
足音が急速に近づき、街角をまがると、急に大きくなった。路地の入口から眺《なが》めていた弁護士は、相手がどんな男か、すぐに見てとることができた。その男は小男で、ごく地味な身なりをしている、が、これだけ離《はな》れていても、なぜか見ている弁護士を、むかむかとさせる顔であった。しかしその男は、近道をして往来を横切り、まっすぐに戸口へ向って行った。そしてちょうど自分の家へ帰って来た人のように、あるきながら、ポケットから鍵《かぎ》を取り出した。
アタスンは、つと進み出て、通り過ぎようとする相手の肩《かた》をたたいた。「ハイドさんじゃありませんか」
ハイド氏は、はっと息を呑《の》んで、たじろいだ。が、その驚《おどろ》きも、ほんの一瞬《いっしゅん》だった。弁護士の顔を、まともには見なかったが、それでも落着きはらって、答えた。「いかにも、ハイドだが、何か用かね」
「おはいりになるところを、お見かけしたものですから」と弁護士は答えた。「わたしは、ジーキル博士の旧い友人で――定めしご存じのことと思いますが、――ゴーント・ストリートのアタスンというものです。大へん都合よくお目にかかれましたので、わたしも入れていただけると思ったのです」
「ジーキル博士には会えませんよ。留守だから」とハイド氏は、鍵穴の塵《ちり》をぷっと吹《ふ》きながら、答えた。それから、だしぬけに、依《い》然《ぜん》として顔は上げずに、「どうして、わたしがわかったんです?」と訊《き》いた。
「まずあなたに、お願いがあるんですが」とアタスンは言った。
「いいですとも」と相手は応じた。「どんなことかね」
「お顔を拝見したいんですが」と弁護士はたのんだ。
ハイドはためらっているようすだったが、急に何か思い返したらしく、いどみかかるように、ぐるりとこちらへ向き直った。ふたりは数秒間、じっと睨《にら》み合っていた。「さあこれで、またお会いしてもわかります」とアタスンは言った。「いずれ何かの役に立つでしょう」
「そう」とハイドは答えて、「お会いしてよかった。ついでに、わたしの住所も知らしておこう」と、ソーホー区のある通りの番地を教えた。
「おやおや! こいつもやっぱり、遺言状のことを考えていたんだろうか」とアタスンは考えたが、そんなそぶりは見せず、ただ、住所を教えてくれた返答を口のなかで呟《つぶや》いただけであった。
「ところで」と相手は言った。「どうしてあんたは、わしがわかったんだね?」
「ごようすを聞いていましたから」
「誰《だれ》に?」
「わたしたちには共通の友だちがいます」とアタスン氏は言った。
「共通の友だちだと!」とハイドは、ややしわがれた声で、「それは誰だい?」
「たとえば、ジーキルです」と弁護士は言った。
「ジーキルが話すもんか」ハイドは、かっと怒《おこ》ってどなった。「あんたが嘘《うそ》つきとは思わなかった」
「ちょっと、きみ」とアタスンは言った。「その言葉はおだやかでありませんね」
相手は歯をむき出して、唸り声を発した。ものすごい笑い声だ。そして、あっという間に、すばやく戸口の鍵をあけて、家のなかに消えてしまった。
ハイドにとり残された弁護士は、落着きのない面持《おももち》で、しばらくその場にたたずんでいた。やがて、ぶらぶらと通りを歩きはじめたが、一、二歩あるいては立ちどまり、額に手をあてて、すっかり途方にくれている人のようであった。こうして歩きながら、かれが思案を重ねている問題は、そうやすやすと解けるようなものではなかった。ハイド氏が、青白い小男であること。どこといって畸《き》型《けい》なところがないのに、出来そこないの印象を与《あた》えること。不《ふ》愉快《ゆかい》な笑い方をすること。弁護士に向って、小心と大胆《だいたん》とをまじえた、一種殺気だった態度で振《ふる》舞《ま》ったこと。しわがれ声で、ささやくように、いくらか途切れがちに話すこと。――こういう点は、すべてハイドに不利な点であったが、これらの点をすべて一緒《いっしょ》にして見たところで、アタスンがハイドを見て感じた、あの為《え》体《たい》の知れない厭《いや》な気持、憎悪、恐怖《きょうふ》の念を説明するわけにはいかぬ。「このほかにまだ何かあるにちがいない」とこの紳士は当惑《とうわく》して言った。「なんと言っていいかはわからないが、たしかに、このほかにまだ何かあるのだ。そうだ、あの男はどうもこの世の人間とは思えない! 穴居人《けっきょじん》みたいだと言ったら、どんなもんだろう? あるいは、例の、いわれもなく人に嫌《きら》われた昔話のフェル博士のたぐいだろうか? それともまた、その“何か”とは、単に醜悪《しゅうあく》な霊魂《れいこん》の放射にすぎなくて、それが人体を通して外にあらわれ、その人体を畸型なものに変えるのであろうか。どうも、そんなところに違《ちが》いない。それにしても気の毒なのは、旧友のハリー・ジーキルだ。悪《あく》魔《ま》の極印《ごくいん》つきの顔というものがあるとすれば、さしずめ、それはジーキルよ、きみの新しい友人の顔だということになるぞ」
その裏通りの角をまがると、むかしふうの、堂々とした家並《やな》みの一画がある。もっともいまは、昔の由緒《ゆいしょ》ある面影も大方荒《あ》れはてて、一階々々、部屋々々に区切って、種々雑多な連中、つまり、地図の版下《はんした》師《し》、建築師、三百《さんびゃく》代言《だいげん》、不明朗企業の代理人などという手合に貸している。しかし角から二軒目の一棟《むね》だけは、いまなお、一個人の邸《やしき》になっていた。玄関の扇窓《おうぎまど》をのぞいて、あとは暗闇につつまれていたが、戸口に立って見ると、いかにもゆったりと物持らしく、安楽に暮《く》らしているようすである。アタスンは、この戸口に足をとめて、戸を叩《たた》いた。扉を開いたのは、身なりのいやしからぬ老僕《ろうぼく》である。
「ジーキル博士はおいでかね、プール」と弁護士は訊《たず》ねた。
「見て参りましょう、アタスンさま」とプールは言って、そう言いながら、客を大きな、天井《てんじょう》の低い、気持のよい広間に案内した。その広間の床は平石を敷《し》きつめ、(田舎《いなか》の屋敷ふうに)赤々とむき出しの煖《だん》炉《ろ》の火で暖かく、樫材《かしざい》製の高価な用箪《ようだん》笥《す》が備えつけられてあった。「火のそばでお待ち下さいますか? それとも食堂にあかりをつけて差し上げましょうか?」
「ここで結構」弁護士はそう言うと、高い炉囲いに近づいて、それによりかかった。かれがいまひとりでいるこの広間は、友人である博士の、数寄《すき》をこらしたご自慢の部屋であった。アタスン自身も、ロンドン随一《ずいいち》の快適な部屋であると日頃から言っていた。しかし、今夜だけは、身内にぞくぞく身ぶるいを感じ、その上ハイドの顔が、かれの記《き》憶《おく》に重々しくのしかかってきて、(かれとしてはめったにないことなのに)世の中がいとわしく、味気なく思われた。そして磨《みが》きのかかった用箪笥の上にちらちら映る火《ほ》影《かげ》や、天井にあやしくゆらぐ影法師に、かれは何か不《ふ》吉《きつ》の前兆《ぜんちょう》を読むような気がした。間もなくプールが帰ってきて、ジーキル博士が不在の旨《むね》を知らせてくれたとき、ほっと救われたような気持になったのが、われながら恥《はず》かしかった。
「わたしはね、プール、ハイド君が、あのもとの解剖室《かいぼうしつ》の戸口から入るのを見かけたんだが」とかれは言った。「ジーキル博士が留守のとき、そんなことをしていいのかい」
「よろしいのですよ、アタスンさま」と召使《めしつかい》は答えた。「ハイドさまは、鍵を持っていらっしゃいますから」
「お前のご主人は、あの若い男を馬鹿《ばか》に信用しているらしいね、プール」と考え考え、アタスンはまた言った。
「はい、さようでございますとも」とプールは言った。「わたくしどもは、あの方のおいいつけどおりにしろと申し渡《わた》されているのでございます」
「ぼくはまだハイド君に会ったことがないように思うんだが」とアタスンは訊いてみた。
「ございませんとも。旦《だん》那《な》さま。あの方はこちらへお食事に見えたことは一度もございません」と召使頭は答えて言った。「実のところ、お屋敷のこちらのほうへは、めったにお見えになりませんのです。あの方はたいてい、実験室から出入りなすっていらっしゃいますから」
「そうか、ではおやすみ、プール」
「おやすみなさいませ、アタスンさま」
こうして弁護士は、ひどく暗い気分になって、帰ってきた。「かわいそうなハリー・ジーキル」とかれは思った。「どうもあの男が、苦しい羽目におちこんでいるように思えてならない。あれも若い時分は無茶だった。ずっと昔のことには違いないが、しかし、神様の法則には、時効なんてものはないからな。そうだ、それに違いない。旧悪のたたりだ。かくされた醜行のむくいだ。天罰《てんばつ》というものは、あやまちをけろりと忘れてしまって、身びいきから、それを許したつもりでいても、何年もたってから、のっしのっしと、やって来るのだ」こんな自分の考えにおびやかされてしまった弁護士は、しばしのあいだ、自分自身の過去を回想してみた。もしかしたら何か旧悪でもあって、何かのはずみに、びっくり箱《ばこ》かなんぞのように、ひょいと明るみへ飛び出して来るのではなかろうかと、記憶の隅々《すみずみ》までさぐってみた。かれの過去は、まあまあ無きずであった。自分の一生涯《しょうがい》の記録を、なんの懸《け》念《ねん》もなく、くりひろげることのできるものは、まず少ない。けれどもかれは、いままでにしてきた非行の数数を思うと、土にひれ伏《ふ》すばかりの気持にもなったが、つい犯《おか》しかけて、結局せずにすんだ多くの非行を思うと、ふたたび元気づいてきて、厳粛《げんしゅく》な感謝の念も湧《わ》いて来るのであった。それからまた、先刻の問題に立ち返ると、一《いち》縷《る》の望みがありそうに思われてきた。「若造のハイドも、調べてみたら」とかれは考えた。「やっぱりあいつ相応の秘密を持ってるに違いない、それも、あいつのご面相から察すると、おそるべき暗い秘密があるに違いない。それにくらべれば、気の毒なジーキルの最悪の秘密でも、お天とう様も同然だろう。事態をこのまま捨て置くわけにはゆかない。あんなやつが、盗人《ぬすっと》のように、ハリーの枕もとに忍びよるのかと思うと、ぞっとする。かわいそうなハリー、眼《め》をさましたとき、どんな気がするだろう! それにまた危《き》険千万《けんせんばん》なことだ! もし、このハイドというやつが、遺言状《ゆいごんじょう》のあることを嗅《か》ぎつけたら、遺産相続が待ちきれなくなるかもしれないではないか。そうだ、一肌《ひとはだ》ぬいでやらなければならん――もしジーキルが、委《まか》せてさえくれたら」とかれはつけ加えた。「ほんとに、もし、ジーキルがわたしに委せてくれさえすればだ」するとまたもや、あの遺言状の奇《き》怪《かい》な文句が、かれの心の前に、まるで透《す》かし絵のように鮮《あざ》やかに見えて来るのであった。
ジーキル博士の安《あん》堵《ど》
それから二週間ばかり経《た》って、いたって好都合に、ジーキル博士は五、六人の昔《むかし》なじみを招待して、恒例《こうれい》の楽しい晩餐会《ばんさんかい》を催《もよお》した。いずれも学識もあり、名望もある人たちで、揃《そろ》いも揃って、酒の味のわかる連中であった。アタスンは計画的に、ほかの連中の帰ったあとにひとり残っていた。これは何も今夜に限ったことではなく、もう何回となくあったことである。アタスンは好かれる人には、ひどく好かれた。気軽でおしゃべりな客たちが、いとまを告げて、すでに閾《しきい》をまたいでいるときでも、主人側では、この無愛想な弁護士を引きとめて置きたがったものである。かれらは、さんざん陽気に騒《さわ》ぎ疲《つか》れたあと、しばらくのあいだ、この遠慮深《えんりょぶか》い話相手と対《たい》坐《ざ》しながら、相手の豊かな沈黙《ちんもく》にひたって、孤《こ》独《どく》に慣れるようにし、浮《う》いた心をしずめたがったのだ。ジーキル博士も例外ではなかった。いま煖炉をへだてて、アタスン氏と向い合って坐《すわ》っているのは、大柄で、均斉《きんせい》のとれた、髭《ひげ》のない五十格好の紳《しん》士《し》で、多少ずるそうなところもあるにはあるが、見るからに才幹と温情にあふれているかれの様子から見て、かれがアタスンに対して、心からあたたかい愛情を抱《いだ》いていることがわかるのである。
「ジーキル、ぼくはきみと話したいと思っていたんだが」とアタスンは話し出した。「きみはあの遺言状を憶《おぼ》えているだろうね」
こまかい観察者なら、この話題が、博士にとって不愉快なものだったことは、推測されよう。しかし博士は、それを快活に受け流して、「お気の毒だね、アタスン」と言った。「こんな依《い》頼人《らいにん》を持って、きみはさぞ迷惑《めいわく》しているだろうね。ぼくの遺言状を見たときの、きみの困りようったら、なかったよ。もっとも、あの頑迷《がんめい》な大学者づらしたラニョンが、あの男のいわゆる科学的異《い》端者《たんしゃ》のぼくに困りきっているのは別格としての話だが。そりゃ、あの男もいい男さ。――何もきみ、にがい顔をすることはないよ――すぐれた男だ。ぼくは、もっともっと会いたいと、しじゅう思っているくらいだ。それにしても、つまり頑迷な衒学《げんがく》の徒だね。無知で、やかましい衒学の徒さ。ぼくは、ラニョンには、すっかり失望してしまったよ」
「あれは、ぼくが絶対不賛成なのを、きみも知っているはずだ」とアタスンは、新しい話題を容赦《ようしゃ》なく無視して、話をつづけた。
「遺言状のことかい? それはたしかにそうだ。ぼくだって知っているよ」博士はやや鋭い調子で、「それは、きみから前にも聞いたよ」
「うむ、ところでぼくは、もう一度、あらためて、きみにそう言っておくのだ」と弁護士は続けた。「あのハイドという青年のことが、多少わかって来たからね」
ジーキル博士の大柄な、立派な顔が、みるみる、唇《くちびる》まで青ざめて、眼のあたりにけわしい色があらわれてきた。「もう言わないでくれたまえ。このことは、おたがいに口にしない約束《やくそく》だったじゃないか」
「ぼくは、けしからん話を聞いたんだ」とアタスンは言った。
「それだって、どうにもならんよ。ぼくの立場がきみにはわからないんだ」博士はしどろもどろに答える。「ぼくは、アタスン、苦しい立場なんだよ。非常に妙《みょう》なんだ――実に妙な立場なんだ。話しても、どうにもならないようなことなのだ」
「ジーキル、きみはぼくを知っているだろう。ぼくは信頼されていい人間だよ。内証で、すっかり打ち明けてくれないか。きっときみを救えると思うんだ」
「ありがとう。アタスン」と博士は言った。「きみは親切だ。ほんとに親切だ。お礼の言いようもない。ぼくはすっかりきみを信じている。世界じゅうの誰よりも、そうだ、どちらかと言えば、ぼく自身よりも、きみを信じているほどだ。だが、この事件は、きみが想像しているようなものじゃないんだよ。それほどひどいことじゃ、ないんだ。ただ、一つだけ話そう、親切なきみに安心してもらうように、ね。ぼくがそうしようと思えば、いつなんどきでも、ぼくはハイドと手を切ることができるのだよ。これは誓《ちか》ってもいい。ぼくはきみに何度でも、お礼を言いたい。それから、ちょっと一言つけ加えておきたいんだが、アタスン、わるく取ってくれては困るが、この事件は、ぼく個人の問題だから、どうか、たのむ、そっとしておいてもらえないかね」
アタスンは、煖炉の火を見ながら、しばらくじっと考えていた。
「きみの言うことは、至《し》極《ごく》もっともだ」立ち上がりながら、ようやくかれはこう言った。
「それはそれとして」と博士はつづけて、「話がこの事にふれた以上、もっとも、これっきりにしたいんだが、きみに諒解《りょうかい》しておいてもらいたいことが一つあるんだよ。あの気の毒なハイドのことは、ぼくは事実、非常に心配しているのだ。きみは、あの男に会ったそうだね。あの男がそう言っていた。無作法なことをしやしなかったかね。だがぼくは、あの青年のことを、ほんとうに、ほんとうに心配でたまらないんだよ。ぼくが死んでしまったら、ね、アタスン、約束してくれないか、あいつを許してやって、あいつの権利を守ってやってもらいたいんだ。何もかもきみが知ったら、きっと約束してくれると思うがね。きみがそれさえ約束してくれたら、ぼくは、重荷をおろしたような軽い気持になるだろうよ」
「あの青年が好きになれるなんて、嘘にも言えないね」と弁護士は言った。
「そんなことを頼《たの》んでいるんじゃないよ」とジーキルは、相手の腕《うで》に手をかけて懇願《こんがん》するのであった。「ぼくはただ、正当な権利を守ってやってくれと言ってるんだよ。ぼくが死んでしまったら、ぼくのために、あの男を助けてやってくれと頼んでいるだけだよ」
アタスンは、思わず、大きな溜息《ためいき》をもらして、言った。「よろしい、では約束しよう」
カルー殺害事件
それからほとんど一年ほどたった一八――年十月のこと、比類のない凶暴《きょうぼう》な犯罪事件によって、ロンドン全市は震駭《しんがい》した。被《ひ》害者《がいしゃ》の社会的地位の高かったことが、いっそう騒ぎを大きくした。事件の内容はつまびらかでないが、しかも驚《おどろ》くべきものであった。テムズ河からほど遠くないある家に、ひとり住まいをしていた雇女《やといおんな》が、寝《ね》ようと思って、十一時頃《ごろ》に二階に上がった。夜中になると、霧《きり》が全市を包んでしまったが、宵《よい》のうちには、一点の雲もなく、雇女の窓から見える横丁は、皎《こう》々《こう》と満月に照らされていた。女は空想的な性質だったらしい。というのは、窓のすぐ下に置いてあった箱に腰《こし》をかけると、夢《ゆめ》のような物思いに耽《ふけ》りはじめたからである。このときほど(と彼女《かのじょ》は、その晩の出来事を物語るときには、いつもさめざめと涙《なみだ》を流しながら話すのであったが)あらゆる人間に対して、なごやかな親しみを感じ、世の中をなつかしく思ったことはなかった。そうして彼女が坐っているうちに、彼女は、ひとりの立派な、白《はく》髪《はつ》の老紳士が、その横丁をこちらへ向って近づいて来るのに気がついた。すると、もうひとりの大へん小《こ》柄《がら》な紳士が、かれのほうへ歩いて来たが、はじめ彼女は、それには注意も払《はら》わないでいた。ふたりが話のできるくらいの距《きょ》離《り》に近よって来たとき、(それはちょうど、雇女の窓の真下であった)老紳士のほうは、頭を下げて、非常に慇懃《いんぎん》な態度で相手に話しかけた。話といっても、大して重要なことではなかったらしい。実際、かれがときどき指さしをしたことなどから察して、ただ道でもたずねているくらいにしか見えなかった。話している老人の顔が、月の光に照らされているのを、女は楽しく眺《なが》めていた。その顔は、いかにも無《む》邪《じゃ》気《き》で親切な、むかしふうの気質をあらわしている上に、しっかりとした心のゆとりからでもあろうか、何かしらある気品が漂《ただよ》っているように感じられた。やがて彼女は眼を相手のほうに移して見て、びっくりした。それはいつか彼女の主人を訪ねて来たことのある、厭なやつだと思った、あのハイドという男なのだ。手に重いステッキを持って、それをいじくりながら、一言の返事もせずに、もどかしさにじりじりしながら、話を聞いている様子であった。そうしているうちに、突《とつ》然《ぜん》、怒《いか》りを爆発《ばくはつ》させると、地だんだふみながら、ステッキを振《ふ》りまわし、(雇女の話によれば)まるで気違いのようにあばれまわった。老紳士は、一足あとへさがったが、ひどくびっくりしてしまって、いくらか腹も立てたようであった。それを見ると、ハイドは、すっかり自制を失ってしまって、老紳士を地べたになぐり倒《たお》し、つぎの瞬間《しゅんかん》には、狂暴《きょうぼう》な猿《さる》のように、相手を足で踏《ふ》みにじり、めちゃくちゃになぐりつけた。そのために、骨は音を立ててくだけ、死《し》骸《がい》は路上に跳《は》ねあがった。この光景や物音のおそろしさに、雇女は気を失ってしまった。
彼女が正気にかえって、警官を呼びに行ったのは、二時であった。犯人は、とうの昔に逃《に》げ去っていたが、被害者は、見るも無《む》慚《ざん》にずたずたにされて、通りのまんなかに放《ほう》り出されたままであった。この凶行に使われたステッキは、ちょっと珍《めずら》しい、非常に堅《かた》くて重い木であったが、言語道断な残虐《ざんぎゃく》さでなぐりつけたために、まっ二つに折れて、一方は付近の溝《みぞ》のなかに転がり落ち、――片一方は、疑いもなく、犯人が持ち去ったものと思われる。紙入れが一つと金時計一個とが、被害者から発見されたが、名《めい》刺《し》も書類もなく、ただ、封《ふう》をして切手を貼《は》った一通の封書を持っていた。ポストへ行く途中《とちゅう》であったらしく、それには、アタスンの名前と住所が書かれてあった。
この封書は翌朝、弁護士のところへ、かれがまだ起き出さないうちに届けられた。その手紙を読み、事情を聞くより早く、かれは気むずかしく口を尖《とが》らせた。「死体を見るまでは、何事も申し上げられない」とかれは言った。「これは容易ならぬ事件のように思います。すまないが、着換《きが》えをするまで、お待ち願いたい」そして、沈痛《ちんつう》な面持《おももち》で、急いで朝飯をすますと、死体が運ばれていた警察署へ馬車を走らせた。監房《かんぼう》に入るとすぐ、かれはうなずいた。
「そうです」とかれは言った。「わたしはこの方を知っております。お気の毒に、サー・ダンヴァズ・カルーです」
「なんですって、あなた」と警官は叫《さけ》んだ。「ほんとうですか?」そう言うなり、かれの眼は、みるみる、職務上の功名心に燃えて来た。「これはたいへんな騒ぎになりますよ」とかれは言った。「犯人逮《たい》捕《ほ》にご協力願えましょうか?」そしてかれは雇女の目撃《もくげき》したままを、手短かに話して、折れたステッキを見せた。
アタスンは、ハイドという名前を聞いただけで、もうおぞけを振《ふる》ってしまったが、そのステッキを眼の前に出されて見ると、もう疑いの余地はなかった。折れて、ひどく傷《いた》んではいたが、それはだいぶ前に、かれからヘンリー・ジーキルに贈《おく》ったステッキに相《そう》違《い》なかった。
「そのハイドという人は、背の低い人ですか」とかれは尋《たず》ねた。
「非常に小男で、非常に人相がわるいと、あの雇女は申し立てています」というのが警官の答えであった。
アタスンは考えこんだ。それから、頭を上げて、「わたしの馬車でいっしょに来てくれるなら、あの男の住居へご案内しましょう」と言った。
時刻は、かれこれ朝の九時ごろであったが、この季節に入っての最初の霧が立ちこめていた。チョコレート色の霧が、まるで大きな柩《ひつぎ》覆《おお》いのように、空いっぱいに垂れさがっていたが、風がたえずこの密集した湿《しっ》気《け》を、吹《ふ》き散らしていた。街から街へ、ごとごとと馬車にゆられて行きながら、アタスンは、あたりの薄明《うすあか》りの色合いが、おどろくほど複雑に変化するさまを見た。あるところは、夕暮の終りのように暗いかと思うと、あるところは、不思議な大火事の明りかと見まごうほどに、燃えるような、物すごく濃《こ》い鳶色《とびいろ》であった。またあるところでは、一瞬のあいだ、霧がすっかり散ってしまって、渦《うず》まく雲のあいだから、わびしい日の光が弱々しく射《さ》していたりした。泥濘《でいねい》の道と、小《こ》汚《ぎた》ない通行人と、いつも消したことのない(あるいは、陰《いん》気《き》な暗闇《くらやみ》の押《お》しよせて来るのを防ぎとめるために、新しくともした)街灯の立ち並《なら》んだ陰惨《いんさん》なソーホーの街は、このように刻々に変化する光景のなかで眺めると、弁護士の眼には、悪《あく》夢《む》にあらわれるどこかの市街の一画のように思われた。のみならず、かれの心に浮かぶ思いも、ひどく暗い影《かげ》を帯びていた。そして同乗の警官をちらっと見たとき、法律と役人に対する恐怖感《きょうふかん》を、かれはふと感じた。こんな感じは、どんな潔白な人の心にも、ときどき、おそって来るものである。
馬車が、指定の番地の前で止まった頃には、霧もすこしはれて、うす汚ない通りや、俗悪な居酒屋や、下等なフランス料理店、三文雑誌や惣菜《そうざい》料理などを売る店、方々の戸口にかたまっているぼろを纏《まと》った子供たち、鍵《かぎ》を手に持って朝酒を飲みに出かける、国籍《こくせき》さまざまの大ぜいの女たちなどが、かれの眼に映った。が、すぐにまた、褐土《アンバー》のように濃い鳶色の霧が、そのあたり一面を蔽《おお》っていかがわしい情景をさえぎってしまった。こんなところに、ヘンリー・ジーキルのお気に入り、金二十五万ポンドの相続者たる男の住《すま》居《い》があったのである。
象《ぞう》牙《げ》のようにつやつやした、銀髪の老《ろう》婆《ば》が扉《とびら》を開けた。悪意のみえる顔だちで、愛想をつくっていたが、応対ぶりはさすがであった。「はい、さようでございます。こちらがハイドさまのお住居ですが、ただ今はお留守でございます。昨晩は大へん遅《おそ》くお帰りでしたが、すぐまた一時間とたたないうちに、お出かけになりました。そんなことは別段、珍しいことでもございませんので、日ごろ大へん不規則なもんですから、たびたびお留守のことがございます。さようでございます、昨日お帰りになりましたのも、あらかた二カ月ぶりでございました」
「よくわかった。ではご主人の部屋を見せてもらいたいが」と弁護士は言った。老婆が、それはできかねますと言い張るので、「それじゃ、この方が誰《だれ》だか、お前さんに言っとくほうがよかろう」とかれはつけたした。「こちらは、ロンドン警視庁のニューコモン警視さんだよ」
憎々《にくにく》しい喜びの色が、ちらっと老婆の顔にあらわれた。「ああ、じゃあ挙《あ》げられたんですね? いったい何をやらかしたんです?」
アタスンと警視は、たがいに顔を見あわせた。「あいつは、あんまり気受けのいい人物ではなさそうですね」と警視が言った。「ではね、お婆《ばあ》さん。この方とわたしとに、この辺を調べさせてもらいたい」
老婆が居なければ、あとはからっぽなこの家全体にわたって、ハイド氏の使っているのは、たった二部屋きりであるが、二部屋とも、家具は贅沢《ぜいたく》で凝《こ》ったものであった。戸《と》棚《だな》には、葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》がいっぱい入っていたし、食器は銀で、テーブルクロスも高《こう》雅《が》であった。壁《かべ》には立派な絵がかかっていたが、これは(アタスンの推察によると)美術鑑定《かんてい》にかけては玄人《くろうと》のヘンリー・ジーキルの贈り物であろう。絨毯《じゅうたん》は、幾枚《いくまい》も織り合わせた厚手のもので、色合いも感じがよかった。しかし、このときは、二つの部屋とも、ごく最近、あわただしく引っ掻《か》きまわした形跡《けいせき》が、いたるところ、歴然としていた。床《ゆか》の上には、ポケットを裏返しにしたまま、衣類がほうり出されている。錠《じょう》のかかる抽《ひき》出《だ》しは、あけはなしになったままだ、煖《だん》炉《ろ》の上には、たくさんの書類を焼き捨てたのであろう、青い灰がうずたかくたまっている。その燃え屑《くず》のなかから、警視は、燃えずに残った緑色の小切手帳の片端《かたはし》を掻きだした。例のステッキの片方も、扉のかげから発見された。これだけ嫌《けん》疑《ぎ》の確証が挙がれば満足だと警視は言った。銀行に行ってみて、数千ポンドが犯人の預金になっていることも突《つ》き止めたので、かれはまったく有頂天《うちょうてん》になってしまった。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」とかれはアタスン氏に言った。「もうつかまえたも同然です。あいつ、うろたえたに相違ないです。さもなければ、ステッキを置き忘れたり、とりわけ、小切手帳を焼いたりはしませんからね。なにしろあいつには、金より大事なものはないんですからな。もうこっちは、銀行に張り込《こ》むことと、人相書を掲《けい》示《じ》しさえすりゃいいんです」
しかし、人相書を掲示するということは、そう簡単にできることではなかった。なぜなら、ハイドには親しいつきあいはほとんどないし、――あの雇女の主人でさえ、たった二回しか、ハイドを見たことがないのだ。それに、かれの家族は、どこを探しても見あたらないし、写真をとったこともなかった。かれの人相を知っている、ごく少数の人たちの言うところも、普《ふ》通《つう》の人の観察の常で、やむを得ないが、甚《はなは》だしく相違しているのだ。たった一つ一《いっ》致《ち》しているのは、この逃亡《とうぼう》した犯人が、見るものの目に、なんとも言いあらわしようのない、畸《き》型《けい》の感じをしつこく植えつけたという点である。
手紙の出来事
アタスンが、ジーキル博士の邸《やしき》に着いたのは、その日の午後も遅くなってからであった。すぐさま、プールに案内されて、台所のそばを通り、以前庭園であったところを横切って、実験室とも解剖室《かいぼうしつ》とも、どっちつかず呼ばれている建物に連れて行かれた。博士はこの邸を、ある知名な外科医の相続人から買い取ったのであるが、かれの興味が、解剖学よりもむしろ薬学のほうにあったので、庭の奥《おく》にあるこの建物の使い途《みち》を変更《へんこう》してしまったのである。弁護士が、友人の邸のこの建物に通されたのは、これが初めてであった。かれは、汚ない、窓のない造りを、物めずらしげに眺めた。階段教室を通りぬけるときは、妙な、いやな気持で、あたりを見まわした。以前は、熱心な学生がいっぱいに詰《つ》めかけたのであろうが、いまは淋《さび》しいほどひっそりとして、テーブルには化学実験用の機械が積まれ、床は、籃《かご》がほうりだしてあったり、荷づくり用の縄《なわ》が取り散らかしてあったりして、霧の渦巻いている光が、ぼんやりした円天井《まるてんじょう》からさしこんでいた。ずっと奥の階段をのぼると、赤い粗《あら》織《お》りの羅紗《ラシャ》を張った扉がある。ここを入ってアタスン氏は、ようやく博士の書斎《しょさい》へやって来た。大きな部屋である。まわりにはガラス戸棚が備えつけられ、いろいろなもののあいだに、姿見が一つと事務机が一つ置いてあった。埃《ほこ》りにまみれた三つの鉄の格《こう》子《し》窓《まど》が、中庭に面して開いている。煖炉に火が燃えていて、炉棚の上には、ランプが一つともされていた。家のなかでさえ、濃い霧が立ちこめて来たからである。ジーキル博士は、煖炉のま近に、ひどいやつれようで、坐《すわ》っていた。かれは立ち上がって客を迎《むか》えようともせず、冷たい手をさしのべて、挨拶《あいさつ》をしたが、その声も変っていた。
プールが出て行くとすぐ、アタスンは切りだした。「ときに、きみはあの事件の話を聞いたかね」
博士は身ぶるいした。「あの辻《つじ》でどなっていたからね、食堂で聞いたよ」
「一言だけ言いたいんだ」と弁護士は言った。「カルーはぼくの訴訟《そしょう》依頼人《いらいにん》だが、きみもそうだ。そこでぼくは、自分の関係していることは、はっきりわかっていたい。きみはいくら気《き》違《ちが》いじみていても、まさか、あの男をかくしたりはしないだろうね?」
「アタスン、神かけて誓《ちか》うよ」と博士は叫んだ。「神かけて、ぼくは二度とあれには会わないつもりだ。ぼくの名《めい》誉《よ》にかけてきみに誓うが、もうこの世では、あれとぼくは関係がない。みんな片づいてしまった。それにあの男も、もうほんとうに、ぼくの助力はいらないんだ。あれについては、きみよりもぼくのほうがよく知っている。あれのことは安心なんだ。まったく安心なのだ。わかったね。もう二度とあれの噂《うわさ》は聞かないだろうよ」
弁護士は暗い気持で聞いていた。かれは、熱に浮《う》かされたような友人の態度が気に入らなかった。「きみはあの男について、ひどく自信があるらしいね」とかれは言った。「きみのために、きみの言葉どおりであるようにと祈《いの》るよ。裁判にでもなったら、きみの名前も出るかもしれないしね」
「あれのことなら、はっきりわかっている」とジーキルは答えた。「誰にも打ち明けられないが、はっきりした根拠《こんきょ》があるんだ。ただ一つだけ、きみに助言してもらいたいことがある。ぼくは、――ぼくは、ある手紙を受取ったんだ。それを警察に差し出したものか、どうか、迷っているのだ。アタスン、ぼくはそれをきみに渡《わた》して置きたいんだ。きみなら立派に判断がつくと思う。ぼくはほんとうにきみを信頼しているんだから」
「その手紙がもとで、あの男がつかまりゃしないかと、きみは心配しているんだね」と弁護士は訊《き》いてみた。
「そうじゃないよ。ハイドがどうなろうと、ぼくの知ったことじゃない。ぼくは、まったくあれとは関係なしなんだ。ぼくの考えているのは、このいまいましい事件のおかげで、ぼくの名誉があぶなくなってきたことなのだ」
アタスンはしばらく考えあぐんだ。かれは友人の利己主義なのに驚《おどろ》いたが、それでも、ほっとした思いである。「よし、ではその手紙を見せたまえ」と、ついにかれは言った。
その手紙は、おかしげな直立体の字で書いてあって、エドワード・ハイドと署名がしてある。それには、恩人たるジーキル博士には、長いあいだ、量り知れないご恩を受けていながら、かえってご迷惑《めいわく》をかけて申しわけない。しかし自分の身の安全については、確信の持てる逃げ道があるから、少しもご心配はいらないということが、ごく手短かに書いてあった。弁護士はこれを読んで、非常に喜んだ。手紙によると、ふたりの親交は、かれが考えていたよりも、はるかに美しいものであった。かれはこれまで、いくらかでも邪推《じゃすい》していたことを恥《はず》かしく思った。
「この封筒《ふうとう》はあるかい」とかれは訊《たず》ねた。
「うっかりして燃してしまったんだ」とジーキルは答えた。「だが、消印はなかったよ。手紙は使いが届けて来たんだから」
「これを預かって、一晩、考えてみようかね」とアタスンは訊いた。
「ぼくに代って、十分、判断してみてくれたまえ。ぼくはすっかり自信をなくしてしまったから」という返答であった。
「よろしい、考えてみよう」と弁護士は答えて言った。「もう一言ききたいが、きみの遺《ゆい》言状《ごんじょう》に、失踪《しっそう》に関する条項を指定したのは、ハイドだろう」
博士はめまいしそうになった。が、口を堅く結んで、だまってうなずいた。
「ぼくは知っていたよ」とアタスンは言った。「あいつはきみを殺すつもりだったんだ。きみはうまく逃《の》がれたもんだ」
「ぼくは、もっと重大なことを経験したんだ」と博士は真面目《まじめ》になって答えた。「ぼくは、ある教訓を得たんだ。――ああ、ほんとうに、アタスン、ぼくがどんな教訓を得たと思うね?」こう言ってかれは、しばしのあいだ、両手で顔を蔽っていた。
帰りがけに、弁護士は立ちどまって、一言二言、プールと話した。「ところで」とかれは言った。「今日、手紙が一通届いたはずだが、どんな人が持って来たかね」しかしプールは、郵便の来たほかは、何も来なかったと断言した。「それも回状みたいなものだけでございます」と、プールは言いたした。
この報告を聞いた訪問客は、また心配を新たにして帰って行った。明らかに、あの手紙は実験室の入口から届けられたに相違ない。あるいは、実のところは、あの部屋で書いたものかもしれない。果してそうだとすると、違った判断を下さなければならぬし、もっと用心して取り扱《あつか》わなければならぬ。道々、新聞売子が、歩道を走りながら、「号外、号外、上院議員惨殺《ざんさつ》事件!」と、声をからして叫んでいた。その声はかれの友人であり、訴訟依頼人でもあった人をとむらう弔辞《ちょうじ》であった。それにつけても、かれは、もうひとりの友人の名声が、この忌《いま》わしい事件の渦中《かちゅう》に巻きこまれはすまいかという不安の念を禁じ得なかった。少なくとも、慎重《しんちょう》な決心をしなければならぬ、と思った。平生は自信の強いアタスンも、いまこそ助言がほしいような気がしてきた。その助言も、直接には得られないにしても、間接にたぐり寄せることはできるかもしれぬと思った。
それからまもなく、かれは自宅の煖炉のそばに、腹心の主任書記、ゲスト氏と対《たい》坐《ざ》していた。ふたりのあいだには、煖炉の火からちょうど程《ほど》よく距《きょ》離《り》をはかったところに、長いこと地下室に貯蔵してあった特別に古い葡萄酒の壜《びん》が、一本おいてあった。市街は湿気に濡《ぬ》れそぼって、その空には依然として霧《きり》が翼《つばさ》をひろげて静かに眠《ねむ》り、街灯は紅玉のようにうるんでいた。息づまるほどに重くるしく垂れこめた雲霧のなかを、この都のひとびとの生活を織りなす車馬の往来が、すさまじい強風のような響《ひび》きをあげて、大通りにとどろいていた。だが部屋のなかは、煖炉の火で明るかった。壜の酒は、もうずっと前から酸味が消えて、葡萄の紫《むらさき》いろは、窓の色硝子《いろガラス》の色が深く冴《さ》えて行くように、時のたつにつれて、やわらかに落着いていた。丘《おか》の斜面《しゃめん》の葡萄畑に降りそそいでいた、秋の暑い昼さがりの日の光が、いまにも壜のなかから照り映《は》えて、ロンドンの霧をきれいに吹き払《はら》ってしまうかと思われる。弁護士の気分も、おのずとやわらいできた。ゲスト氏には、ほかの誰よりも秘密が打ち明けやすかった。言うまいと思った秘密さえ、うっかり打ち明けかねないのだ。ゲストは、用事でたびたび博士の邸へも行っている。プールも知っていた。おそらくハイドが心安く、博士の邸へ出入りしていることも、知らぬはずはあるまい。この男なら、あるいは結論を出すかもしれない。とすれば、あの不思議を解く手がかりの手紙を、見せてわるいこともあるまい。それに、ゲストは、筆跡にかけては、熱心な研究家でもあるし、鑑定家でもあるから、そうしても、当然な、行きとどいた処置と思うだろう。そればかりか、この書記は、相談相手にもなる人物なのだ。こんな奇《き》怪《かい》な書類を読んで、意見が一つもないなどということはない男だ。してみれば、その意見によって、自分のこれからさきの方針も、きまるかもしれぬ――。
「サー・ダンヴァズには、なんともお気の毒な事件だ」とアタスンは言った。
「ほんとうにそうですね。世間の同情も、ずいぶんひいているようです」とゲストは答えて、「犯人は、おそらく、正気ではありますまいね」
「その点について、きみの意見を聞きたいんだが、実は、犯人の書いた書面をここに持っているんだ。もっともこれは、ふたりだけの話にしてもらいたいのだがね。ぼくはその手紙の処置に迷っている。とにかく、いやな問題だよ。ほら、これが書面だ。きみのお手のものだよ。ある殺人犯の筆跡だからな」
ゲストの眼《め》はかがやいた。すぐさま腰《こし》を落ちつけて、熱心に研究しだした。「いいえ、先生」とかれは言った。「狂人じゃありませんね。ただし、おかしな書体です」
「それに、なんと言ったって、書いた男がまた変りものさ」と弁護士も言った。
ちょうどそこへ、召使《めしつかい》が一通の手紙を持って入ってきた。
「ジーキル博士からではありませんか、先生」と書記はたずねた。「その筆跡には見おぼえがあると思いました。何か内密の用件ですか、アタスン先生」
「いいや、ただの晩餐《ばんさん》の招待状だ。どうして? 見たいのかい?」
「ちょっと拝見。ありがとうございます」と言いながら、書記は二枚の紙を並《なら》べて、じっとその内容を見くらべていた。がやがて、「ありがとうございました」と、両方の手紙を返しながら、「非常に興味ある筆跡です」と言った。
ちょっと話がとぎれて、アタスンはいらいらした。「ゲスト、どうしてきみは両方の手紙を見くらべたんだい?」とだしぬけにきいた。
「それは、先生」と書記は答えた。「とても奇妙《きみょう》に似かよったところがあるのです。ふたつの筆跡は、多くの点で同じ手です。ただ字の傾《かたむ》け方がちがっているだけなのです」
「どうもすこし変だな」とアタスンは言った。
「おっしゃるとおり、どうもすこし変です」
「この手紙については、他言は無用だよ」
「かしこまりました、先生」と書記は言った。「よくわかっております」
その晩、アタスンは、ひとりになるとすぐ、手紙を金庫に入れて錠をおろした。手紙は、それ以来ずっと、そこに入ったままになった。「なんというこった! ヘンリー・ジーキルが、殺人犯人の手紙を偽《ぎ》造《ぞう》するなんて!」こう考えると、かれの血管を流れる血が一時に凍《こお》る思いであった。
ラニョン博士の変事
時は流れた。数千ポンドの懸賞金《けんしょうきん》がかけられた。サー・ダンヴァズの死は、公《おおやけ》の被《ひ》害《がい》として、世人の憤激《ふんげき》を買ったからである。しかるにハイド氏なるものは、警察当局の捜《そう》査《さ》を尻《しり》目《め》に、杳《よう》としてその姿を消してしまった。そんな人間は、はじめからいなかったもののように。なるほど、かれの過去は明るみに出された。けがらわしい事だらけであった。冷《れい》酷凶暴《こくきょうぼう》なかれの残忍性《ざんにんせい》、かれの悪の生活、怪《あや》しげなかれの友だち、行くところ必ず忌《い》み嫌《きら》われたことなど、いろいろな話も出た。けれども現在の消息となると、ちょっとした噂すらないのだ。殺害の行なわれた朝、ソーホーの家から出たまま、かれはまったく行方《ゆくえ》をくらましてしまったのだ。アタスンも、時がたつにつれて次《し》第《だい》に、おどろきのあまり興奮していたのも静まり、いまではよほど落着きをとりもどしていた。かれの考え方によれば、サー・ダンヴァズの死も、ハイドの雲がくれのおかげで、十分に償《つぐな》われているのでもある。邪悪な影響がすっかり取りのけられたので、ジーキル博士にも新しい生活がよみがえってきている。孤《こ》独《どく》な生活から抜《ぬ》けだして、友だちとも旧交をあたため、親しく客にもなり、客を招いて饗応《きょうおう》する身にもなっていた。もともと、慈《じ》善《ぜん》家《か》として著名だった人であるが、いまはそれに劣《おと》らず、信仰《しんこう》家《か》としても有名になっている。かれは多《た》忙《ぼう》であった。よく外出もしたし、善行も積んだ。顔つきも、内心、世のために尽《つく》していることを意識しているせいか、明るく、晴ればれとしていた。こうして二カ月以上も、博士は平和に暮《くら》したのである。
一月八日、アタスンは博士の邸で、小《こ》人数《にんずう》の客と晩餐をともにした。ラニョンも来ていた。主人の博士は、この三人が離《はな》れがたい友だちだった当時のように、ふたりの顔をかわるがわる眺《なが》めまわしていた。越《こ》えて十二日、またつづいて十四日と二回にわたって、弁護士は玄関払《げんかんばら》いを食ってしまった。「博士はお引き籠《こも》りちゅうで、どなたにもおあいになりません」とプールが言った。十五日にもまた行ってみたが、やっぱりことわられた。この二カ月というもの、ほとんど毎日のように会っていたのに、またしても孤独の生活に帰ってしまったことが、かれには悲しいことに思われてならなかった。五日目の晩には、かれはゲストを呼びこんで一緒《いっしょ》に晩餐をしたためた。六日目にはラニョン博士を訪《たず》ねて行った。
そこでは、ともかくも、ことわられはしなかった。が、通されてみて、博士の様子が変っているのに、度《ど》胆《ぎも》を抜かれた思いだった。その顔には、はっきりと死相が出ているではないか。血色のよい赤ら顔が、蒼白《そうはく》に変ってしまった。肉は痩《や》せ落ち、みるからに、頭が禿《は》げ、年よりじみてしまった。けれども、弁護士の注意を強く惹《ひ》きつけて離さないのは、肉体の衰弱《すいじゃく》がこんなに急激《きゅうげき》に出てきたことよりも、何かしらこころのなかに根ぶかい恐怖《きょうふ》がこびりついている証拠《しょうこ》としか思えぬ、その眼つきや挙動であった。この医師が死を怖《おそ》れることは考えられぬが、しかしアタスンには、そう思われてしかたがないのだ。「そうだ」とかれは考えてみる。「このひとは医者だ。自分の容態も、自分の命数もさとってるに違いない。とすれば、そういう自覚はとても耐《た》えられるものではないだろう」それでもアタスンが、顔色のわるいことを注意すると、ラニョンはしっかりした態度で、死期は近いと断言した。
「おれは、あるひどい衝撃《ショック》を受けたんだよ」とかれは言った。「回復はとてもできん。死ぬのも何週間の問題だ。思えば、楽しい人生だった。おれは生きているのが好きだった。ねえ、きみ、いつも人生をよろこんで生きてきたものだよ。だがときには思うことがある。何もかも知りつくしてしまったら、死ぬことのほうがもっと喜べるんじゃないか、とね」
「ジーキルもやっぱり病気だよ」とアタスンは言った。「あれから会ったかい?」
ラニョンの顔色が変った。かれはふるえる片手を差し上げて、「ジーキル博士なんかには会いたくもないし、あいつの話も聞きたくないんだ」と、大きなふるえ声で、言った。「あの男とは、絶交だ。死んだものと思ってるやつの話なんか、まっぴらだ」
「ツッ、ツッ!」とアタスンは舌打ちをした。しばらく話がとだえてから、「ぼくの力でどうにかできないかねえ?」と訊いてみた。「われわれ三人は、ねえ、ラニョン、ずいぶん旧《ふる》い友だちだ。長生きしたって、もうこんな友だちは、できやしないからね」
「もうどうにもならないよ」とラニョンは答えた。「あいつに訊いてみてくれ」
「あの男はぼくに会おうとしないんだ」と弁護士が言うと、
「別に不思議じゃないさ」という返事だった。「いつか、ねえ、アタスン、ぼくが死んでから、事の曲直は、たぶんきみにもわかることになるよ。おれの口からは言えないんだ。まあ、それはそれとして、きみがほかの話をしてくれるんなら、どうか、ゆっくりしてくれたまえ。どうしてもこのいやな話がしたいんなら、後生だ、帰ってもらいたいな。おれは我《が》慢《まん》がならんのだ」
家に帰るとすぐ、アタスンは机に向って、ジーキルに手紙を書いた。面会してくれないことを責め、なお、ラニョンとの不幸な仲たがいの理由を訊ねたのである。すると次の朝、長い返事がとどいたが、文面には、あちこちに、ひどく悲しげな言葉が書きつらねてあったり、ところどころ、どうにも意味のとりかねるような個所があった。ラニョンとの不和は、もう到底《とうてい》、和解の望みがないという。「ぼくは、永年の友人を責めようとは思わない」とジーキルは書いていた。「けれども、二人は絶対に会うべきでないというかれの意見には、わたしも同感だ。わたしは、今後、徹底《てってい》した孤独の生活を送るつもりだ。きみにさえも面会をお断わりするようなことが再三あっても、おどろいたり、わたしの友情を疑ったりしないでくれたまえ。どうか、わたしには、わたしの暗い道を行かせてほしい。わたしの上には、みずから招いた言葉に尽せない刑罰《けいばつ》と危険とが、おおいかぶさっている。わたしがもっとも罪ふかい人間なら、わたしは、また、もっとも悩《なや》みの多い苦《く》悩者《のうしゃ》でもあるのだ。人間を、こんなにもひどく打ちのめしてしまう苦痛や恐怖が、この世のなかにあるとは、思ってもみなかったほどだ。アタスン君、わたしの運命を軽くするために、きみにしてもらえることは、たったひとつ、きみが、わたしの沈黙《ちんもく》を尊重してくれることだ」
アタスンは愕然《がくぜん》とした。ハイドの不《ふ》吉《きつ》な影《かげ》が消えてからというもの、博士は本来の仕事に帰り、友情をとりもどし、つい一週間前までは、あらゆる意味で、愉《ゆ》快《かい》な名《めい》誉《よ》ある晩年が送れる、明るい見通しがあったのだ。それがいまや、がらりと変って、友情も、心の平和も、かれの将来も、すべて、めちゃくちゃになってしまった。あまりと言えばあまりにひどい、突然《とつぜん》の変りようだ。狂気《きょうき》の沙汰《さた》だ。しかしまた、ラニョンの態度や言葉から考えて、何か、もっと深い理由がなければならないのではあるまいか。
それから一週間ほどして、ラニョン博士は病気で倒《たお》れた。そして二週間とたたないうちに、死んでしまった。悲しい思いで葬《そう》儀《ぎ》をすませた晩、アタスンは事務室の扉《とびら》に錠《じょう》をおろして、陰《いん》気《き》な蝋燭《ろうそく》の光のそばに腰をおろすと、亡《な》き友が自分の手で宛《あて》名《な》を書き、自分の封印で封をした一通の手紙を取りだして、前に置いた。封筒の表に、「秘密。J・G・アタスン以外の者、開封《かいふう》すべからず。余の死亡前に同君死亡の場合は、未開封のまま、焼却《しょうきゃく》のこと」と、ことさらに明記してある。弁護士はなかを読むのが怖《こわ》かった。「今日は友だちをひとり、葬《ほうむ》った」とかれは考えた。「もしこの手紙が、もうひとりの友だちを失わせるようなことになったら、どうしよう?」しかし、こんなことを恐《おそ》れるのは、友だちに対する不信ではないのかと思いかえして、封を切った。封を切ると、なかに同じように封をした、もう一つの封筒が入っていて、その表に、「ジーキル博士が死亡、あるいは失踪《しっそう》するまで、開封すべからず」と書いてあるのだ。アタスンは、あっけにとられた。たしかに、失踪と書いてある。またしても書いてある。かれがずっと前、本人に返してしまったあの常軌《じょうき》を逸《いっ》した遺言状に書いてあったように、またまたここに、失踪という考えとヘンリー・ジーキルの名前とを、結びつけて、書いているではないか。だが、遺言状に書いてある失踪のほうは、あのハイドという男の悪がしこい入れ知恵《ぢえ》で、あまりにも明白な、怖ろしい目的をもって書かれた言葉だった。それが、ラニョンによって書かれたとなると、いったいこれはどういうことなのだ? 開封すべからず、を破っても、これらの秘密の底の底まで究《きわ》めたい、強い好《こう》奇《き》心《しん》が、保管者である弁護士の心に湧《わ》いてきた。けれども、職業上の名誉と、亡友に対する信義と、この二つは、破りたくてもやぶれないきびしい拘束力《こうそくりょく》であった。かれはこの手紙を、私用金庫のいちばん奥《おく》にしまいこんだ。
好奇心をおさえることと、それにうち克《か》つことは、別である。そんなことのあったあとでもアタスンが、以前のように熱心に、生き残っている友人と会いたがったかどうかは、どうも疑わしい。この友だちに、好意を持ってもいたが、また不安で怖ろしい思いもするのであった。たしかに訪ねてゆきはした。が、面会をことわられて、かえってほっとしたともいえるのだ。すき好んでわれとわが身を監《かん》視《し》している座《ざ》敷牢《しきろう》のようなところへ通されて、えたいのしれぬ世捨てびとと対談したりするよりも、ひろい市中の空気とざわめきとを離れぬ玄関先《さき》でプールと話をするほうが気が楽だと、心の底では思っていたかもしれないのだ。そのプールが、あまりかんばしくない話しか持ちあわせないことも事実であった。この頃《ごろ》では博士は、以前よりも、実験室の上の書斎《しょさい》にとじこもることが多いらしく、ときにはそこで眠ってしまうこともあるらしい。元気がなく、ひどく無口で、読書もしなくなった。何かよほど心配なことがあるらしい。アタスンは、いつもこんな同じようなことを聞かされるので、しだいしだいに、足が遠のくのであった。
窓の出来事
日曜日のことである。アタスン氏はいつものようにエンフィールド氏と散歩していたが、いつの間にかまたあの裏通りへ出た。例の戸口の前で、ふたりは立ちどまって眺めた。エンフィールドが言った。
「まあ、どうにかあの話もけりがつきましたね。もう二度とハイド氏に会うようなこともありますまい」
「会いたくないよ」とアタスンは言った。「話したことがあったかね、ぼくがあいつに会って、きみと同じように、ぞっとした話さ」
「あいつを見て、ぞっとしないものなんかありませんよ。ところで、ここが、ジーキル博士の邸《やしき》の裏口だということに気がつかなかったなんて、さぞあなたは、ぼくをとんまだと思ったでしょうね。まあぼくも気がついたには気がついたんですがね、それも実は幾《いく》らかはあなたのせいだったんですよ」
「そうか、きみも気がついたのか」とアタスンは言った。「そんなら、路地へ入って、ひとつ、窓を眺めてみようじゃないか。実は、ぼくは、あのジーキルのことが気にかかるのだ、気の毒な男さ。たとえ家の外にでも、友だちがひとりいてやることが、あの男のためになるような気さえするんだよ」
路地へ入ると、ひやりとして、すこししめっぽかった。見あげると高い空は、まだ夕ばえで明るいのに、ここのあたりは、もうたそがれの気配である。三つの窓のうち、まんなかの一つが半分ほどあいていて、見ると、窓ぎわに、ジーキルがなんと侘《わび》しい囚人《しゅうじん》みたいに、言いようなく悲しげな面持《おももち》で、風にあたっているではないか。
「どうした、ジーキル!」アタスンは叫《さけ》んだ。「きみはよくなったのか?」
「元気がないんだ、アタスン」博士はもの憂《う》げに言った。「まるで元気がないんだ。しかし、もう長いこともあるまい、ありがたいことだ」
「閉じこもってばかりいるからだよ。外へ出て、血液の循環《じゅんかん》をよくすることだ、エンフィールド君やぼくみたいにさ。(これは従弟《いとこ》のエンフィールド君だ。――あちらがジーキル博士)さあ、帽《ぼう》子《し》をもって下りて来たまえ、ぼくたちと元気に歩こう」
「親切にありがとう」博士はため息をついた。「ほんとうに、そうしたいんだがね。いや、だめ、だめ、だめ。とてもできない。だがアタスン、ほんとにきみに会えてうれしい。とてもうれしいんだ。きみにもエンフィールドさんにも上がってもらいたいんだが、こんなひどいところなもんで」
「いやいや」弁護士は愛想よく、「ぼくたちはここでいいんだ、ここできみと話すのがいちばんだ」と言った。
「ぼくも、すまないが、そうお願いしようかと思っていたんだ」博士は、にっこり笑って言った、が、そう言った途《と》端《たん》、笑いはふいに消えて、見あげているふたりは、ぞっとした。その顔が、みるみる、目もあてられない恐怖と絶望の表情に変ったのである。すぐに窓がぴしゃりと閉《し》まってしまったから、ふたりはその表情をちらっと見ただけだった。けれども一目で十分だった。ふたりはものもいわずに、踵《きびす》をかえして路地を出た。裏通りを、無言のまま、歩いていった。そして日曜日でもかなり人通りのある次の大通りへ出て、はじめて、アタスン氏はふりむいて相手を見た。ふたりとも真っ青だった。眼《め》にも同じように恐怖の色があった。
「たいへんなことになった。たいへんなことになった」とアタスンは言った。
しかしエンフィールド氏は、重々しくうなずいただけで、なお黙々と歩みつづけた。
最後の夜
ある晩のこと、アタスンが、食後、煖《だん》炉《ろ》のそばに坐《すわ》っていると、だしぬけにプールがやって来たので、びっくりした。
「おや、プール、なんの用で来たんだ?」と彼は、叫んだ。そしてもう一度、プールの顔を見なおすと、「どうかしたのかい?」と言ってみた。「博士がお悪いのか?」
「アタスンさま」プールは言うのだ。「ただごとではございません」
「まま、坐って、葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》でも一杯《ぱい》飲みなさい。――さあ、落着いて、どんなことか、はっきり言ってごらん」
「あなたさまは、博士の習慣をご存じでいらっしゃいます。それにお引籠《ひきこも》りのこともご存じです。はい、博士はまた、お書斎に閉じこもっておしまいになりました。困ったことでございます、旦《だん》那《な》さま――まったくもって、こんな困ったことはございません。アタスンさま、どうもわたくしは心配でたまりませんです、はい」
「おい、お前」と弁護士は言った。「すっかり話しておくれ。何が、お前、心配なのだね」
「一週間というもの、心配しつづけでございます」相手からたずねられていることなどにはいっこう無頓着《むとんちゃく》に、プールは言いつづけた。「もうわたくしには、辛抱《しんぼう》ができませんでございます、はい」
その話しぶりで、言葉に嘘《うそ》のないことが知れた。その様子は、ますます不安でたまらないというふうだ。はじめて怖ろしさを口に出したときのほか、一度もプールは、弁護士の顔をまともに見なかった。いまもかれは、葡萄酒のコップは口もつけずに膝《ひざ》にのせたまま、床《ゆか》の一隅《いちぐう》を見つめている。「わたくしはもうもう辛抱ができないのでございます」かれはまた繰《く》りかえして言った。
「さて」と弁護士は言った。「それには、プール、わけがあるんだろう。とんでもないことでもあるんじゃないかい? それを言ってごらん」
「人殺しがあったんじゃないかと思うんでございます」プールはしわがれた声であった。
「人ごろしだと!」ぎょっとして、弁護士は叫んだ、というよりむっとしたのだ。「何が人殺しだ。お前、いったい、何を言ってるんだ」
「わたくしには申しあげられません」という返事だ。「わたくしと一緒《いっしょ》においでになって、ご自身でごらんを願えませんでしょうか?」
返事のかわりに、アタスンは立ち上がると、帽子と外套《がいとう》をつかんだ。が、召使頭《めしつかいがしら》の顔にありありと安《あん》堵《ど》の色が浮《う》かんだのを見て、なるほどただごとでないなと思った。プールがついて来ようとして下に置いた葡萄酒に、まだ口がつけずにあったのにも、その感じは深められた。
いかにも三月らしい、風の強い、寒い夜であった。蒼《あお》じろい半月が、風に吹《ふ》き倒されたように傾《かたむ》いて、すき透《とお》った寒冷紗《かんれいしゃ》のような雲が、ちぎれちぎれに飛んでいた。風は話もできないほどに強く、顔に紅《あか》い斑点《はんてん》が出るほどだった。それに、風に吹き払《はら》われたように、通りにはいつになく人影もなかった。ロンドンのこの界隈《かいわい》が、こんなに淋《さび》しいのは今夜がはじめてだと、アタスンは思った。かれは人通りがあってほしかった。このときほど烈《はげ》しく、人に会って触《ふ》れあいたいとねがったことは、これまでにないことだった。いくら払いのけようとしても、何か災厄《さいやく》が迫《せま》ってくるような、怖ろしい予感がしてならなかったからである。二人が博士の家の四辻《よつつじ》に来かかると、風と埃《ほこ》りが荒《あ》れ狂《くる》っていた。庭園の枯枝《かれえだ》ばかりの木立は、風にあおられてぴしぴし柵《さく》をたたいていた。これまでずっと、一、二歩先を歩いていたプールは、ここまで来ると、舗《ほ》道《どう》のまんなかに立ちどまり、身を切るような寒さなのに、帽子をぬいで、赤いハンケチを出して、額《ひたい》の汗《あせ》をふいていた。いそいで来たには来たが、いまふいた汗は、いそいだための汗ではない。締《し》めつけられるような苦悩の脂《あぶら》汗《あせ》である。現に、かれの顔は蒼白《そうはく》で、話すときの声はおろおろとかすれていた。
「さあ旦那さま、いよいよ、参りました。ああ、神さま、何ごともございませんように」
「アーメン、プール」と弁護士も言った。
それから老僕《ろうぼく》は、非常に、用心深く扉を叩《たた》いた、と扉が鎖《くさり》のついたまま少しあいて、中からたずねる声がした。「プールさんかね」
「そのとおりだ」プールが言った。「あけてくれ」
入ると、広間にはあかあかと灯《ひ》がつけてあったし、煖炉にもうずたかく火がおこっていた。そして煖炉を囲んで、召使たちが全部、男も女も、まるで羊の群れのように一かたまりになって、集まっているのだ。アタスン氏の姿を見ると、女中はヒステリーみたいに、ひいひい泣きだすし、料理女は、「あ、アタスン様だ」と叫んで、抱《だ》きつかんばかりに駆《か》け寄った。
「なんだ、なんだ。みんなこんなところにいるのか」腹立たしげに弁護士は言った。「なんてだらしない、見苦しいじゃないか。ご主人が気を悪くなさるぞ」
「みんなこわがっているのでございます」とプールが言った。
しんと水を打ったようになってしまい、誰《だれ》ひとり、弁解するものもなかった。ただ女中が今度は大声をあげて、おいおい泣きだしただけだった。
「静かにしろ」プールはどなった。その荒々《あらあら》しい調子は、かれの心中の苛《いら》立《だ》っている証拠《しょうこ》であった。事実、女中がだしぬけに大声で泣きだしたときには、みんな一斉《いっせい》にぎょっとして、怖《おそ》ろしいものを待ちうけるように、奥の扉のほうを振《ふ》り向いたほどだった。「さあ」と召使頭は言葉をつづけ、ナイフ研《と》ぎのボーイに向って、「燭台《しょくだい》を持ってこい。すぐに片づけてしまうんだから」と言った。そしてアタスンに、後から随《つ》いて来てくれるようにたのむと、裏庭のほうへ案内して行った。
「そこで、旦那さま」とかれは言った。「できるだけお静かにおいで下さいまし、あなたさまには聞いていただきたいのですが、先方に聞きとがめられると困りますから。よろしいですか、旦那さま、万一、入れと言われても、決してお入りになってはいけませんぞ」
思いもかけないこんな始末に、アタスンは、ぎくりとして、よろけそうになった。やっと気を取り直すと、かれは召使頭について実験室に入り、籃《かご》や壜《びん》の散らかっている外科の階段教室を通って、例の階段の下まで来た。ここまで来ると、プールは、片隅《かたすみ》に身を寄せて聞いてくれるようにと、身振りで知らせておいて、自分は燭台を下に置き、はた目にわかるほど懸命《けんめい》の勇気を振《ふる》い起こして階段を上り、書斎の赤い粗《あら》織《お》り羅紗《ラシャ》を張った扉を、かすかに震《ふる》える手で、叩いたのだった。
「旦那さま、アタスンさまが、お目にかかりたいとおっしゃいますが」と声をかけた。こう言いながらかれは、もう一度、弁護士に向って、よく聞いているように大げさに合図をした。
内から声がした。「どなたにもお会いできないと言ってくれ」それは不満らしい声に聞こえた。
「かしこまりました」プールは、それ見たことかと言わんばかりにこう言うと、燭台を取り上げて、アタスンの先に立ち、裏庭を横切って、広い台所に入ったが、そこはもう火の気もすっかりなくなって、床にはゴキブリが跳《と》びはねていた。
「旦那さま」と、かれはアタスンの眼を見つめながら、言うのだった。「あれが主人の声でございましょうか」
「だいぶ声が変ったようだ」真っ青な顔をした弁護士は、それでも相手を見返しながら、こう答えた。
「変ったですって? もちろんですとも。わたくしもそう思うのです」と召使頭は言った。「このお邸に二十年もご厄介《やっかい》になっていて、ご主人の声を聞き違えてたまるものではございません。いいや、とんでもない。旦那さま、ご主人は殺されなすったのでございます。八日前でしたか、神様のみ名を、大声あげて呼んでいらっしゃいました。あのときに殺されなすったのでございます。ご主人のかわりに、あすこに誰がいるのか、どうしていつまでもあすこにいるのか、考えても恐ろしいことでございます。アタスンさま」
「おかしな話じゃないか、プール、少しでたらめだよ」とアタスンは、指を噛《か》みながら言った。「お前の推察どおりだとしてもだね。ジーキル博士が――まあ、いいや、お前の推察どおり殺されたとしてだ、なんのために犯人がいつまでも、あすこにぐずついていなければならないんだい。辻つまがあわんじゃないか。理《り》屈《くつ》にもなんにも合いやしない」
「まったく、アタスンさま、あなたさまはなかなか、骨の折れるお方ですわい。ですが、ご納得《なっとく》のゆくようにして、ごらんに入れましょう」プールは言った。「よろしゅうございますか、人間だか、獣《けもの》だか、なんだか存じませんが、あの書斎のなかにいるものが、この一週間というもの、まるで昼となく夜となく、何か、薬品をほしがって、わめき散らしているんでございますよ。ところが、気に入ったものが、手に入らないのでございます。ときどき注文を紙に書いては、あの階段のところにほうっておくのが、これはあの方の――ご主人の習慣でございますがね。この一週間はまるっきり、もうその、注文の紙ばかりでございます、はい。部屋はしめっ切り、食事でさえあそこに置いとくと、誰も見ていないときに、こっそりなかへ持ちこむという始末。いやはや、どうも、毎日々々、いいえ、日に二度も三度も、紙に書いた注文と叱言《こごと》ばかりでございました。そんなしだいでわたくしは、ロンドンじゅうの薬種問屋という薬種問屋を、駆けずりまわらされているのでございます。ところが、そうして薬品を持ち帰ると、きまって、こんどは、不純だから返せという紙と、また別の店へ注文が出るというわけでございます。この薬品というのが、旦那さま、いったいなんのためでしょうか、馬鹿《ばか》に必要らしいのでございます、はい」
「その注文を書いた紙というのを、お前どれか持っているかい」とアタスンは訊《き》いた。
プールはポケットのなかを探して、皺《しわ》くちゃになった手紙を一枚手《て》渡《わた》した。弁護士は蝋《ろう》燭《そく》の光に近づけて、それを仔《し》細《さい》に調べてみた。その内容は、「モー商会御中《おんちゅう》。ジーキル博士敬白。貴店最近の見本は不純で、小生目下の目的には使用いたしかねます。一八――年、小生は貴店よりこの薬品を相当多量に買い求めたことがあります。それと同質の品を入念にお探し下さい。残っていましたら、多少に拘《かかわ》らずすぐ小生までお届け下さい。費用は考《こう》慮《りょ》に及《およ》びません。その品は目下の小生にとって、必要不可欠のものですから」ここまでは、すこぶる落着いた書きぶりであるが、ここのところへ来て急に、感情が制し切れなかったと見え、文面も乱れて、「どうか、後生だから、以前の品をいくらかでも見つけてくれ」と走り書きでつけ加えてあった。
「これは妙《みょう》な手紙だ」とアタスンは言ったが、やがて鋭《するど》く「お前はどうしてこれを、開封《かいふう》したんだ」
「モー商会のものが、かんかんになって、旦那さま、ごみでもまるめて捨てるように、このわたくしに投げ返したんでございます」とプールは答えた。
「これは、たしかに、博士の手跡《しゅせき》じゃないか」と弁護士はつづけた。
「そうらしいと、わたくしも思いました」と老僕はいかにも不機嫌《ふきげん》そうに言うのだった、が、また調子を変えて、「書いた物なんど、別にたいしたことでもないじゃございませんか」と言った。「わたくしは、この眼で、ちゃんとあいつめを見たんですから」
「見た?」とアタスンは、おっかぶせて言った。「え?」
「たしかに見たんでございます、はい」とプールは話しはじめた。
「それは、こういうしだいでございました。わたくしが、いつでしたか、だしぬけに庭から階段教室へ入って行ったことがございます。するとあいつめ、この薬品か何かを探しに、こっそり部屋から抜《ぬ》けて来たものと見えます、書斎《しょさい》の扉《とびら》があいておりましたから。あいつは、部屋の向うの隅で、籃のあいだを引っ掻《か》きまわしておりましたんで、わたくしが入って行きますと、ひょいとこちらを見て、きゃっというような声をあげながら、二階へ駆け上るではございませんか。ちらっと見ただけですが、わたくしはもうぞっとして、髪《かみ》の毛が総立ちでございました。はい。旦那さま、あれがご主人だったら、なぜ覆面《ふくめん》なんぞしていなさるんです? ほんとにご主人だったら、どうしてまた鼠《ねずみ》みたいにきゃっと言って、わたくしから逃《に》げかくれなさるんです? わたくしは、ずっと長くあの方にお仕えしているのでございますからね。それから……」と言って言葉を切ると、片手で顔をつるりと撫《な》でまわした。
「おかしな話ばかりだ」とアタスンは言った。「だが、どうやら、はっきりしかけて来たぞ。お前のご主人は、ねえ、プール、たしかに病気に罹《かか》っているのだ。あんまり、苦しいものだから、人相まで変るような病気なんだ。だから、まあ、声も変ったし、覆面をして、人目も避《さ》けたいわけだ。そして夢中《むちゅう》で薬を探して、その薬で、かわいそうに、どうかして癒《なお》りたいとねがっているわけだよ――ほんとに、望みが叶《かな》えばいいが! わたしはこんなふうに考えるわけだ。まったく痛ましいことだ、ねえ、プール、考えてもぞっとするようだ。けれどもこう考えれば、ことははっきりするし、あたりまえのことで、話のつじつまも合うしさ、そんなにひどく驚《おどろ》くにもあたらないじゃないか」
「旦那さま」召使頭はまだらな青ざめた顔色で、「あれはご主人ではございませんでした。たしかでございます。ご主人は」――こう言いながら、かれはあたりを見まわして、声をひそめた――「背《せ》丈《たけ》の高い、立派なご体格でございます。それがあいつは、まるっきり小男なんで、はい」アタスンが、さえぎろうとすると、「旦那さま、あなたさまは」とプールは叫《さけ》んだ。「二十年もご奉公《ほうこう》しているご主人を、わたくしが知らないとでもおっしゃるのですか。ご主人の背の高さが、書斎の扉のどの辺まであるか、わたくしが知らないとでもおっしゃるのですか。そこで、二十年のあいだ、わたくしは毎朝、ご主人を見て参ったのでございますよ。いいえ、旦那さま、覆面をしていたやつは、断じて、ジーキル博士ではございません。――あいつがなんだかは、神さまがご存じです、が、絶対に、ジーキル博士じゃございません。あそこで人殺しがあったことは、金輪際《こんりんざい》、間《ま》違《ちが》いじゃございません」
「プール」と弁護士は答えて言った。「お前がそう言うなら、是《ぜ》が非《ひ》でも、わたしは確かめなければならん。お前のご主人の感情もそこねたくないし、この手紙はどうも腑《ふ》に落ちないが、これを見ると、どうもまだ生きておられるように思われるが、それでもやはり、あの戸をぶち破っても入って見るのが、わたしの義務だと思うのだ」
「ああ、アタスンさま、そりゃもうごもっともでございます!」と召使頭は叫んだ。
「そこで第二の問題だが」と、アタスンは話を進めて言った。「誰がそれをやるかということだ」
「そりゃ、旦那さま、あなたさまとわたくしとで」という気負った返事であった。
「よく言ってくれた」と、弁護士はすぐそれを引き取って言った。「で、どんなことになっても、尻《しり》はわたしが引き受けて、お前に迷《めい》惑《わく》はかけないからね」
「階段教室に斧《おの》が一梃《ちょう》ございます」とプールはつづけて言うのだった。「あなたさまは台所の火かき棒をお持ちなさいまし」
弁護士は、不細工な重い棒を手に取って、重さを計ってみた。「わかってるだろうな、プール」と、顔を上げてかれは言って聞かせた。「これからお前とわたしは、多少とも危険なところへ乗りこむんだぜ」
「さようでございますとも、旦那さま」と召使頭は答えた。
「さて、それでは、おたがいにあけすけに話すとしようよ」とアタスンは言った。「考えていることで、まだ話してないこともあるからね。すっかり打ち明けて話すとしよう。ところで、お前が見たという覆面の男だがね、誰だか見覚えはなかったかい」
「さようでございますね。あんまり逃げるのが速かったし、ひどく腰《こし》をかがめておりましたんで、確かなことは申しかねるのですが」という答えだった。「あなたさまは、ハイドさんじゃないかとおっしゃるんでしょう。――さよう、たしかにわたくしも、そう思うんでございますよ。背丈も同じくらいですし、身軽ですばしこいところも同じでしてね。それにあの人以外に、実験室の戸口から出入りする者は、ほかにはございませんものね。旦《だん》那《な》さま、お忘れではございますまい? あの人殺しのあった当時も、あの人はまだ鍵《かぎ》を持っていたのですからね。それだけではございません、アタスンさま、あなたさまは、あのハイドさんにお逢《あ》いになったことがございましたかしら?」
「うん、あの男とは一度話したことがある」と弁護士は言った。
「それなら、あなたさまもわたくしども同様ご存じのはずですが、あの人にはどことなく、妙な――人を、こう、ぎょっとさせるようなところが――ございましたよ。旦那さま、なんと言ったらいいか、どうもわたくしにはこういうより言いようがわからないんですが、あなたさまも、何かこう、背中がぞっとするような、そんな思いをなすったでしょうね」
「まったくお前の言うとおりの思いがしたよ」とアタスン氏は答えた。
「まったくでございますね、旦那さま」とプールは応じて、「こう覆面をしたやつが、薬品のあいだから、ぱっと跳び出して、猿《さる》みたいに書斎のなかへ逃げ込《こ》んだときには、わたくしはまったく、水でも浴びせられたようにぞっとしてしまいましたよ。いや、こんなことが証拠にもなんにもならないぐらいのことは、わたくしも承知しておりますがね、アタスンさま。そのくらいの理屈はこれでもちゃんと存じておりますよ。ですが、人には感じというものが、ございますからね、誓《ちか》って、あれはハイドさんです。それに相《そう》違《い》ありませんとも」
「なるほど、なるほど」と弁護士はうなずいて、「わたしの心配もお前と同じだ。おそらく、ふたりのあの関係から禍《わざわい》が生じたのだ。――禍が起こるのは当然だ。そうだ、たしかにお前の言うとおりだ。気の毒に、ハリーは殺されたに違いない。そして、犯人は、(なんのためだか、神ならぬわれわれにはわからんが)いまだにあの被害者の部屋に隠《かく》れているんだ。よし、復讐《ふくしゅう》してやるぞ。ブラッドショーを呼べ」
馬《ば》丁《てい》は呼ばれて、真っ青になり、おどおどしながらやって来た。
「しっかりしろ、ブラッドショー」と弁護士は言った。「どっちつかずの状態だから、お前たちもみんな不安でびくびくしているんだ。だから、これからはっきり片をつけてしまおうというんだ。ここにいるプールとわたしが、力ずくでも、あの書斎へ押《お》し入る。もし何事もなかったら、一切《いっさい》の責任はこのわたしが引き受けてやる。その間、何かやり損《そこな》いがあったり、犯人が裏口から逃げ出そうとしたりするといけないから、お前とあのナイフ研《と》ぎのボーイは、いいか、頑丈《がんじょう》なステッキを一本ずつ持って、その角をまわって、実験室の戸口を張番していろ。十分間待つから、お前たちの持場へすぐゆけ」
ブラッドショーが立ち去るとき、弁護士は懐中時計《かいちゅうどけい》を出して見た。「さあ、プール、われわれも持場へ行こう」と言いながら、かれは火かき棒を小《こ》脇《わき》にかかえ、先に立って裏庭へ出て行った。風に吹《ふ》かれて飛ぶ雲が月を隠して、外は真っ暗闇《くらやみ》である。高い建物に囲まれて深い井戸底のようになっているこの裏庭には、風もとぎれとぎれに吹き込んで来るだけで、そのたびに蝋燭の光がふたりの足もとで、ゆらゆら揺《ゆ》れるのだった。ふたりは階段教室のなかに入って腰をおろすと、じいっと待っていた。ロンドンの街のざわめきが、重々しく唸《うな》るように、四方から聞こえてくる。が、ふたりのいるあたりは、しいんと静かで、誰かが上の書斎の床《ゆか》をこつこつと、あちこち歩いている音が聞こえるだけであった。
「ああして一日じゅう、歩いているのでございます、旦那さま」とプールがささやいた。「いいえ、昼間だけでなく、夜も大ていああなんでございます。薬種屋から新しい見本が来ると、そのときちょっと途絶《とだ》えるだけで、はい。あんなにそわそわ落着けないというのも、つまりは良心の呵責《かしゃく》からでございましょうね! ああ、アタスンさま、あの一歩々々に、非道に流した血が、こびりついております! あ、もう一度お聞きなすって、もっとずっとこちらへお寄りになって――じいっとお聞きなすって。アタスンさま、あれが、あれが、博士の足音でございましょうか」
ゆっくり、ゆっくり歩いているのに、どこかはずんだ調子の、妙に軽い足音だった。たしかに、ずしりずしりと重くきしむ、ヘンリー・ジーキルの足音ではなかった。アタスンは、嘆息《たんそく》した。「ほかには何も変ったことはないかい」と彼はたずねた。
プールはうなずいて「一度、わたくしは一度だけ、あいつの泣いているのを聞いたことがございました」
「泣いていた? そりゃどうして?」急にぞくっと寒気が走るのを感じながら、弁護士が訊《き》いた。
「女か、地《じ》獄《ごく》に堕《お》ちた亡者《もうじゃ》みたいに、泣いていましたんで、はい」と召使頭《めしつかいがしら》は言うのだ。「それが、旦那さま、胸にしみて、戻《もど》ってくるなりわたくしも泣きたくなったくらいでございましたよ」
定めの十分間も、もうすぐだ。プールは、荷造り用の藁束《わらたば》の積み重ねてある下から斧を取り出した。燭台《しょくだい》は、攻撃《こうげき》に都合のいいように、いちばん手近なテーブルの上に置いた。夜の静けさのなかを、こつ、こつといまなお根気よく歩きまわっている足音のほうへ、ふたりは、息を殺して忍《しの》び寄って行った。
「ジーキル」アタスンは大声をあげてどなった。「会ってくれ!」ちょっと黙《だま》って耳を立てたが、答えはなかった。「ぶちまけて言うが、きみの動静が腑《ふ》に落ちなくなってきたんだ。ぼくはきみに会わなければならん。どうしても会うんだ」と立てつづけにかれは言った。「尋常《じんじょう》方法でだめなら、不当な方法も厭《いと》わぬ――きみが承知しなければ、暴力だ」
「アタスン」さっきと同じ声であった。「後生だ、どうか許してくれ!」
「おお、ジーキルの声じゃない、――ハイドだ」アタスンは叫んだ。「扉を叩《たた》きこわせ、プール」
プールは高く斧を振《ふ》りかぶった。打ちおろすと、建物が震動《しんどう》し、赤い粗《そ》羅紗《ラシャ》張りの扉は、錠前《じょうまえ》と蝶番《ちょうつがい》のはずみで、はね返った。ただもう動物的な恐怖《きょうふ》といおうか、物すごい悲鳴が、書斎から聞こえた。またもや斧は振り上げられた。鏡板は砕《くだ》け、枠板《わくいた》ははずんだ。四度まで、斧は打ちおろされた。が、板は堅《かた》いし、金具は頑丈なつくりであった。五度目の斧でやっと、錠前がはじけ飛び、壊《こわ》れた扉は内側の絨毯《じゅうたん》の上にばったり倒《たお》れた。
ふたりは、躍《おど》りかかったが、自分たちの狼《ろう》藉《ぜき》と、そのあとの静けさに、呆然《ぼうぜん》とし、思わず後しざりして、おずおずとなかをのぞき込んだ。ふたりの眼《め》の前にいつもの書斎が、おだやかなランプの光に照らされていた。煖《だん》炉《ろ》には気持のいい火が、ぱちぱち音を立てながら盛《さか》んに燃えていた。湯《ゆ》沸《わか》しは歌うような低い音を立てていた。抽《ひき》出《だ》しが一つ二つ、引き出されたままになっていたが、事務机の上には書類がきちんと整頓《せいとん》されていた。煖炉のそばには、茶道具がすぐにも使えるように用意してあった。この室《へや》のようすは、その夜のロンドンのどこかのいちばん静かな落着いた室とも言えたし、また、薬品類のいっぱい詰《つ》まっている硝子《ガラス》戸《と》棚《だな》さえなければ、ごくありふれた平凡《へいぼん》な室とも、言えば言えたろう。
ちょうど室のまんなかに、からだをひどく捻《ね》じ曲げて、まだぴくぴく動いている男の死体が横たわっていた。ふたりは爪《つま》立《だ》ちして近づいて行った。仰《あお》向《む》けにして見ると、それはまさしくエドワード・ハイドの顔であった。ハイドは、からだに合わないだぶだぶの、博士のからだならよく合いそうな服を着ていた。顔面筋は、生きているもののようにまだ動いていたが、呼吸はまったく切れていた。手に持っている薬瓶《くすりびん》と、部屋じゅうに漂《ただよ》っている強烈《きょうれつ》な杏仁水《きょうにんすい》の臭《にお》いから考えて、アタスンは、眼の前の死体が、自殺によるものであることを知った。
「遅《おそ》かったな」と彼は厳粛《げんしゅく》な面持《おももち》で言った。「助けるにしても、罰《ばっ》するにしても。とうとうハイドは、死んでしまった。もうあとは、お前の主人の死体を探すことだけだ」
この建物は、一階のほとんど全部を占《し》めて天井《てんじょう》から光線をとり入れている階段教室と、二階の隅《すみ》にあって裏庭に面している書斎と、この二つが大部分だった。階段教室と例の裏通りの戸口は廊《ろう》下《か》でつながっていて、書斎からこの戸口へ行くには別の階段を通るようになっていた。このほかに、二、三の暗い物置と、広い地下室が一つある。これらの場所を全部、ふたりは隈《くま》なく調べまわった。物置はどれも空っぽで、戸口から塵埃《じんあい》の落ちているのを見ても、長らく、しめきったままだったことがわかるので、一目見れば十分だった。地下室は、なるほど壊れかかったがらくたが、いっぱい詰まっていたが、それもあらかたジーキルの前に住んでいた外科医の頃《ころ》からそうしてあったもので、戸口をあけて見ると、長年戸口をふさいでいたせいか、筵《むしろ》のように厚ぼったい蜘蛛《くも》の巣《す》がどさりと落ちて来るしまつで、それ以上捜《さが》してみる必要のないことは明らかであった。死んでいるのか、生きているのか、どちらにしても、ヘンリー・ジーキルの手《て》掛《がか》りは、どこにも見あたらないのだった。
プールは、廊下の敷石《しきいし》を踏《ふ》んでみて、その音に耳を傾《かたむ》けながら、言うのだった。
「ご主人は、ここに埋《う》められたに相違ございません」
「さもなければ、逃げたかもしれないね」そう言ってアタスンは、裏通りの戸口を調べに行った。扉は錠がかかっていた。が、ふと、すぐそばの敷石の上に、もう錆《さび》だらけの鍵が落ちているのが目についた。
「これは使えそうもないぞ」と弁護士は鍵を見て言った。
「使えるどころか!」プールは畳《たた》みかけて、「旦那さま、壊れているじゃございませんか? 人が踏んづけたみたいに」
「なるほどなあ」とアタスンはつづけて、「それに、折れたところも、錆びてるわい」ふたりは驚いて、眼を見あった。「これは、わたしにはわからないよ、プール」弁護士は言った。「書斎へ引っ返そうじゃないか」
ふたりは黙ったまま階段を上がって行った。そしてなおもときどき、気味悪そうに死体のほうをぬすみ見ながら、書斎のなかの物を、さらに丹念《たんねん》に調べはじめた。一つのテーブルでは、化学の実験をした形跡《けいせき》があった。さまざまの分量の白い塩類らしいものが、硝子《ガラス》皿《ざら》に盛《も》り分けてあった。あの不幸な男が、実験をしている最中に邪《じゃ》魔《ま》が入って、そのままになっているというふうであった。
「あれは、わたくしがいつも持って来た薬でございます」とプールは言った。とたんに、びっくりするような音を立てて、湯沸しの湯が吹きこぼれた。
それをきっかけにして、ふたりが煖炉の近くへ行ってみると、安楽《あんらく》椅子《いす》を具合よく据《す》えて、坐《すわ》れば、ちょうど肘《ひじ》のあたりには茶道具の用意がしてあるし、茶碗《ちゃわん》のなかには、ちゃんと砂糖まで入れてあるという具合だった。棚には数冊の本が並《なら》べてあったが、茶道具のすぐそばにも、一冊、開いたままになっていた。この本を見てアタスンははっと思った。それは、かつてジーキルが何回となく激賞《げきしょう》したことのある宗教関係の書物であったが、いま見ると、まさしく当のジーキルの筆跡で、驚《おどろ》くべき冒涜《ぼうとく》の言葉が余白に書きこまれてあったのだ。
ひきつづき室のなかを調べまわって、姿見の前までやって来たふたりは、思わずぎくりとして鏡の奥《おく》を覗《のぞ》きこんだ。しかし、鏡の向きのせいか、天井にちらちらしている薔薇《ばら》色《いろ》の光と、戸棚の硝子に幾百《いくひゃく》となく反射する煖炉の火花と、かがみこんで覗いているふたりの恐怖に蒼《あお》ざめてゆがんで見える顔のほかは、これといって何も映ってはいなかった。
「この鏡には、いろいろ、怪しいものが映ったことでございましょうね、旦那さま」とささやくようにプールは言った。
「しかし、この鏡自体が、そもそも変じゃないかね」と弁護士も同じ調子で答えた。「いったい、なんのためにジーキルは」――と言いかけたその言葉にぎょっとして絶句したが、すぐにそんな自分の気の弱さにうちかって、「どうしてこんな鏡が、ジーキルは、必要だったんだろうなあ?」と言った。
「ほんとうに、まあ!」とプールも言った。
次にふたりは、事務机のほうへ行って見た。机の上には、きちんと整理した書類のいちばん上に、大きな封筒《ふうとう》がのせてあって、それには博士の自筆でアタスンの名前が書いてあった。弁護士はその封を切って、見た。と、ばらりと数通の同封書が、床に落ちた。第一のは遺言状《ゆいごんじょう》で半年前かれが返したものと同じ突《とっ》飛《ぴ》な条件を書きつらねてある。しかもこれが、博士死亡の場合は遺言状となり、失踪《しっそう》の場合は財産譲渡《じょうと》証書として通用することになっていた。ただ、その相手の名前が、エドワード・ハイドではなくて、なんと、ゲブリエル・ジョン・アタスンとなっているではないか、弁護士は驚きのあまりあっけにとられてしまった。かれはプールを見た、それから書類を見直し、最後に絨毯の上に倒れている犯人の死体を見た。
「頭がぐらぐらする」とかれは言った。「あいつは最近ずっとこれを持っていたんだ。あいつがわたしを好くわけはないさ。名前が書き変えてあるのを知ったら、怒《おこ》るのは当り前だ。それなのにあいつは、この証書を破らずに置いたんだ」
かれは次の書面を取って見た。それは博士自筆の簡単な手紙で、上のほうに日付が書いてある。「おや、プール」とかれは叫んだ。「博士は生きていて、今日もここにいたんだぞ。こんなちょっとの間に、殺されてしまうはずはない。きっと生きている。逃《に》げたに違《ちが》いないよ! だが待てよ、なぜ逃げたんだ?どうやって? 逃げたとすれば、この自殺を発表するのは考えもんだぞ。慎重《しんちょう》にしなくちゃいけない。この先またお前の主人を、とんだ災難に巻きこんでしまうようなことにならないとも限らん」
「どうしてお読みにならないのですか、旦那さま」とプールは訊いた。
「読むのがこわいんだ」と真剣《しんけん》な顔で弁護士は答えた。「どうか、そんなものでなければいいが!」それから、かれはその手紙を眼に近づけて、次のように読んだ。
「親愛なるアタスン、――この手紙が手に渡《わた》る頃には、わたしはもう居ないでしょう。どんな事情のもとに居なくなるか、それはわたしにも予測できません。しかしわたしは直感的に、また、現在の名状し難《がた》い立場の一切の事情から考えて、わたしの最後が確実に、しかも程《ほど》なくやって来ることがわかります。どうかまず、ラニョンがきみに預けて置くと言っていた手記を読んで下さい。そして更《さら》に詳《しょう》細《さい》なことは、わたしの告白を読んで下さい。
きみにふさわしくない、不幸な友、ヘンリー・ジーキル」
「もう一通あったはずだな」とアタスンは訊いた。
「さあ、これでございます」とプールは言って、何個所も封をした、分厚い包みを渡した。
弁護士は、包みをポケットに入れて、「わたしは、この包みについては、何も言わぬつもりだ。お前の主人が逃げたにしろ、死んだにしろ、とにかく、名《めい》誉《よ》だけは傷つけずにすませたいものだ。さあ、もう十時だ。帰って、静かにこの書類を読まなければならない。十二時前に、またもどってくるよ。警察へ届けるのは、それからのことにしよう」
ふたりは階段教室の扉《とびら》に錠をおろして、それから出た。広間の煖炉のまわりには、まだ召使たちが集まっていたが、それはそのままにして置いて、アタスンは、この秘密を解決してくれるはずの二つの記録を読むために、自分の事務室へ重い足をひきずって帰って行った。
ラニョン博士の手記
いまから四日前の一月九日に、わたしは夕方の配達で、一通の書留郵便を受取った。同《どう》僚《りょう》で、古い同窓のヘンリー・ジーキルの手で宛《あて》名《な》が書いてあった。わたしはこれには少なからず驚いた。いままで一度だって文通などあったためしがなかったからだ。現に、昨夜、わたしはかれと晩餐《ばんさん》を共にしたばかりだ。ふたりの間柄《あいだがら》に、いまさら堅苦しい書留郵便でもないではないか。文面を見て、なおさらわたしは不《ふ》審《しん》が増した。次のような手紙である。
「一八――年十二月十日。
親愛なるラニョン――きみはぼくの最も古い友だちのひとりだ。ぼくはときどき、学問上の問題でこそ、きみと意見を異《こと》にしたことがあったが、われわれの友情にかつて破《は》綻《たん》があったとは、どうしても考えられない。もしかりにきみが、『ジーキル、ぼくのいのちも、名誉も、理性も、きみの一存に懸《かか》っている』とでも言おうものなら、ぼくはきみを助けるためには、ぼくの財産でも、ぼくの左の腕《うで》でもなんでも、犠《ぎ》牲《せい》に供して悔《く》いない、必ず助けずにはおかないぞ、と思っていない日は一日だってなかったくらいだ。ところでラニョン、逆にいま、ぼくのいのち、ぼくの名誉、ぼくの理性ことごとくが、きみのお慈悲《じひ》に懸っているのだ。きみが今夜、ぼくのこの希望を叶《かな》えてくれないと、ぼくは破《は》滅《めつ》なのだ。こんな前置をならべると、きみは、ぼくが何かきみの名誉を傷つけるようなことでも、きみに頼《たの》むのではないかと想像するかもしれない。だがそれはきみの判断にまかせる。
今夜だけは、後生だ、どんな用事もあとまわしにしてもらいたいのだ――そうだ、たとえ国王の枕頭《ちんとう》に呼ばれてもだ。玄関先《げんかんさき》にいまきみの馬車がいなかったら、辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》を雇《やと》ってでもすぐ来てくれないか。参考のためにこの手紙を持って、まっすぐにぼくの家まで駆《か》けつけてもらいたいのだ。召使頭のプールには指図をしておいた。錠前屋といっしょにきみの着くのを待っているはずだ。ぼくの書斎《しょさい》の扉をこじあけることになっている。そしたら、きみひとりだけなかに入って、左手の硝子棚(符《ふ》号《ごう》E)をあけてくれたまえ、鍵《かぎ》がかかっていたら、壊してもかまわない。そして上から四番目、あるいは下から(どちらでも同じことだが)三番目の抽出しを、中身はそっくりそのま《・・・・・・・・・・》ま《・》にして、引き抜《ぬ》いてもらいたい。ぼくはいま心痛で頭が錯乱《さくらん》しているから、つい間違った指図をするのではないかと、ひどく不安な気もしているのだが、かりにぼくの指図が間違っていても、きみは、中身でその抽出しがわかるはずだ。ある種の散薬と、薬瓶が一つと、手帳が一冊、入っている。その抽出しを、お願いだから、きみのキャヴェンディッシュ・スクエアの家へ、そっくり持ち帰ってもらいたいのだ。
これが第一の用件だ。さて次に第二の用件だが、この手紙を見てきみがすぐ出かけてくれれば、きみは十二時よりずっと早く家へ帰れることになる。こんなに時間の余《よ》裕《ゆう》を取っておくのは、一つには不可測の障《しょう》礙《がい》を心配するのと、一つにはきみの召使たちが寝《ね》てしまってからのほうが、一時間ほどですむことだが、あとの仕事に好都合だと思うからだ。十二時になったら、きみひとりできみの診察室《しんさつしつ》にいてくれないか。ぼくの名前を言って訪ねて行くものがあるから、きみ自身でなかに入れて、ぼくの書斎から持ち帰った抽出しをきみの手で渡してやってくれたまえ。これできみの役目は万事終って、あとはぼくがきみに心からお礼を申し述べることになるわけだ。もしきみが強《し》いて説明を求めるなら、そのあと五分もたてば、きみにものみこめるわけだが、以上の手順がすこぶる重大であって、いかに異様に見えても、この手順をそれこそ一つでもなおざりにすると、ぼくは死ぬか発《はっ》狂《きょう》するかして、その結果きみの良心を苦しめるようなことにならないとも限らないのだ。
きみが、ぼくの心からの頼みを無下《むげ》に断わるようなことは万々《ばんばん》ないものと信じるが、もしや断わられでもしたら、と思うだけで、ぼくは気が沈《しず》み手も震《ふる》えるくらいだ。奇妙《きみょう》な場所で、想像も及《およ》ばない暗澹《あんたん》たる不安におののいているぼくを、たったいま、思いだしてくれたまえ。きみがぼくの頼みを正確に果たしてくれさえしたら、ぼくのいまの苦しみだって、昨日の夢《ゆめ》のように消えてしまうこともわかってくれたまえ。
どうぞ、親愛なるラニョン、力を貸してくれたまえ。ぼくを救ってくれたまえ。
君の友なる
H・J
追申《ついしん》――この手紙の封をしてしまってから、また新しい恐怖が襲《おそ》ってきた。郵便局がぼくの期待を裏切って、この手紙が明日の朝まで、きみの手に渡らないということもありうるわけだ。その場合は、どうかラニョン、明日じゅうできみにいちばん都合のいいとき、ぼくの頼んだ用事を果してくれたまえ。そして、夜の十二時にもう一度ぼくの使を待ち受けてもらいたいのだ。そのときではもう既《すで》に遅いかもしれぬ。その晩、何ごともなかった場合は、それでヘンリー・ジーキルの最後だと思ってくれたまえ」
この手紙を読んでわたしは、わたしの同僚は気が狂《くる》ったに違いないと確信したのだった。しかしかれの発狂が疑う余地なくそうだとわかるまでは、かれのたのみどおりにしてやらなければならないと思った。この辻褄《つじつま》の合わない事柄がどうにもわたしには腑《ふ》に落ちないだけに、事の重要さも、うまく判断がつかないのである。これほどまでに言って来た頼みを無下にしりぞけでもしたら、重大な責任を背負わされるような羽目になるかもしれぬ。そこでわたしは机を離《はな》れると、すぐ貸馬車をつかまえて、まっすぐにジーキルの家に駆けつけたのだ。案の定、召使頭《めしつかいがしら》がわたしを待っていた。かれもわたしと同じ配達で、書留にした指図の手紙を受取り、すぐさま錠前屋《じょうまえや》と大工を呼びにやったのだった。話しているうちに職人たちがやって来たので、わたしたちは打ち揃《そろ》って、もとデンマン博士の外科学教室だった建物へ入って行ったが、きみもよく知っているとおり、ジーキルの私室に入るにはここからが、いちばん都合がいいのだ。扉は非常に堅《けん》固《ご》で、錠前も頑丈だった。無理にこじあけるには、なかなか面倒《めんどう》だし、それにだいぶ壊《こわ》さなければならないと大工は言うし、錠前屋もほとんど見放したかたちだった。しかし錠前屋のほうは器用な男で二時間ばかりかかって、どうにか扉をこじあけた。わたしは、Eという符号のついた戸《と》棚《だな》の錠をあけ、抽《ひき》出《だ》しを引き抜くと、それに藁《わら》をいっぱいつめこみ、布で包んで、キャヴェンディッシュ・スクエアの家に持ち帰った。
そこでわたしは、抽出しの中身を調べにかかった。散薬はなかなか上手に包んであったが、それでも薬剤《やくざい》師《し》のように手《て》際《ぎわ》よくはいっていなかったので、ジーキルが自分でこしらえたことは、はっきりしていた。包紙を一つあけて見ると、ただ白い塩類の結晶体《けっしょうたい》のようなものが入っている。次に薬瓶の方を注意して見ると、半分ほど、血のように赤い液体が入っている。嗅覚《きゅうかく》を強く刺《し》激《げき》するところから、燐《りん》と何か揮《き》発性《はつせい》のエーテルを含有《がんゆう》しているらしい。他の成分については、推定できない。帳面というのは普《ふ》通《つう》の雑記帳《ノート》で、日付が続けて書いてあるほかに、これといって書いてあることもなかった。日付は、何年間にもわたってずっと記《き》載《さい》してあるが、それが一年ほど前のところで、急にふっつり途切《とぎ》れてしまっている。日付には、ところどころ、簡単な言葉が書きつけてあるのだが、それがどれも決って一語だけだ。総計数百に上る記入事項のなかで、「倍量」という語がおそらく六回くらいは出て来たろうか、また表《リスト》のごく初めのほうに、たった一回だけ、感嘆《かんたん》符《ふ》をいくつもくっつけた「全然失敗!!!」というのが書いてあって、こういう点はすべて、わたしの好奇心をそそりはしたが、一向に要領を得ないのだった。ここにある種のチンキ剤を入れた薬瓶と、ある塩類の紙包みと、なんら実用に役立ちそうもない(ジーキルの研究というのは残念ながらたいていそんなものだが)一連の実験の記録がある。こんな品物がわたしの家にあったところで、それがどうして、わたしの気まぐれな同僚の、名誉や健全な精神や、まして生命などと、かかわりがあることになるのか。かれの使いがここへは来られるのに、どうしてあの場所へは行けないのか。たとい何分の差し障《さわ》りはあるにしても、どうしてこの紳《しん》士《し》に、わたしが秘密に会わなければいけないのか。考えれば考えるほど、わたしは精神病患者《かんじゃ》を相手にしているような気持がしてくるのだ。そこでわたしは、召使たちを寝かしてしまったものの、正当防衛の気構えのもとに、一梃《ちょう》の古拳銃《ふるけんじゅう》に装弾《そうだん》して置いたのだった。
十二時の鐘《かね》が、ロンドンの空に鳴り響《ひび》いたと思ったとたん、戸口の戸叩き《ノッカー》が、こつこつとかすかに低い音を立てた。その音を聞きつけて、わたしが自身出て見ると、玄関の円柱に背をもたせて、小男がひとりうずくまっている。
「きみはジーキル博士のところから来たんですか」とわたしは訊《き》いてみた。
するとその男は、妙におずおずと「そうです」と言う。わたしが入りたまえとうながすと、すぐには入らずに振《ふ》り返って、探《さぐ》るように、大通りの闇《やみ》のなかに眼《め》をやった。少しばかり離れたところを、角灯を照らしながら警官がやって来る。それを見ると、男はぎくりとして、ひどくあわててなかへ入ったようにわたしは思った。
こんな点が一々わたしには、正直に言って、不快に思われた。男のあとについて明るい診察室に行きながらも、わたしは一瞬《いっしゅん》も拳銃から手を離さなかった。部屋へ入ってわたしは、はじめてこの男をはっきりとまともに見る機会を得たのだった。わたしはこの男とは初対面だった。これだけは確かなことだ。前にも言ったとおり、かれは小男だった。その上わたしが驚《おどろ》いたのは、この男の、人をぞっとさせるような形相《ぎょうそう》と、すばらしく活溌《かっぱつ》な筋肉の動きと、見るからに弱々しい体格とが、著《いちじる》しい対照をなしていることだ。――最後に、といっても前の二つに劣《おと》るものではないが――この男の身近にいると、変な精神的な圧迫《あっぱく》を感じることだ。これは幾分、悪《お》寒《かん》を感じるときの初期の症状《しょうじょう》に似ていて、脈搏《みゃくはく》が著しく減退して来るのであった。そのときには、そんな感じも、特異質の、個人的な毛《け》嫌《ぎら》いからだろうくらいに考えたが、それにしても、その徴候《ちょうこう》のはげしいのを不《ふ》審《しん》に思うばかりだった。しかし後になってわたしは、この原因が人間の本性深く横たわっているもので、嫌《けん》悪《お》の原理というようなものよりも、もっと崇高《すうこう》な本質に根ざしていることを確信するようになったのである。
この男は(入って来たそもそもから、厭《いや》らしい物好きとでも言うより言いようのない感じを、わたしに起こさせたが)普通の人なら噴《ふ》き出したくなるような格好の、身なりをしていた。つまりその衣服は、生地《きじ》こそ贅沢《ぜいたく》で地味ないいものだが、この男のものにしては、どこの寸法を取ってみても、馬鹿《ばか》げて大きくだぶついているし、――ズボンはまたズボンで、だぶだぶと脚《あし》に垂れさがるのを地面を曳《ひ》きずらぬように捲《ま》くり上げ、上衣《うわぎ》の胴まわりは臀《しり》の下まで来ているし、襟《えり》まわりは肩《かた》のほうまでぶざまに拡《ひろ》がっているという始末だった。ところが不思議なことに、こんなおどけた服装を見ていながら、笑えるどころではなかったのだ。それどころか、現にわたしに面と向っているこの男の本性そのものには、何かしら変態的な、間違ってこの世に生まれ落ちたとでもいうような畸《き》型《けい》な感じ――見る人の心を捕《とら》えてぎょっとさせ、反感を起こさせるような、そんな感じ――があるので、服装のあんな仰々《ぎょうぎょう》しい不《ふ》釣合《つりあい》が、かえってこの感じによく似合い、この感じを引き立てているようにさえ思われるのだった。したがってわたしはこの男の人物や性格に興味を感じたばかりか、その素性《すじょう》、生活、運命、社会的な身分に対する好《こう》奇《き》心《しん》までかき立てられたのであった。
こう書いてみると相当の長さにわたったが、これはたかだか数秒の観察に過ぎないのである。訪問者は、事実、陰《いん》気《き》な興奮でじりじり胸を焦《こ》がしていたのだった。
「あれを持って来てくれましたか」とかれは叫《さけ》んで、居ても立ってもいられぬというふうに、わたしの腕に手をかけて、わたしの体をゆすぶろうとさえするのであった。
かれの手に触《さわ》られるとわたしは、全身の血が一時にぞっと凍《こお》る思いがして、かれを突《つ》き返したのだった。「ちょっと、きみ」わたしは言ってやった。「まだ初対面のご挨拶《あいさつ》もしていませんね、まあ、お掛《か》けになったらどうです」例を示すつもりで自分で先に常用の椅《い》子《す》に腰《こし》をおろすと、わたしはつとめて、患者に対する平生の態度をよそおおうとしたが、夜も更《ふ》けていたし、この男に対してさきに述べたような先入観や恐怖心《きょうふしん》を抱《いだ》いていたせいか、なかなかいつもの平静な態度にはなれなかった。
「どうも失礼いたしました、ラニョン博士」とすこぶる鄭重《ていちょう》にかれは答えた。「おっしゃることは、ごもっともです。あまり焦《あせ》っておりまして、無作法なことをいたしました。わたしは、あなたの同僚のジーキル博士のご依《い》頼《らい》で、ある緊急《きんきゅう》な用向きのために参りました。たしか……」こう言って言葉を切ると、かれは手を咽喉《のど》へ当てがった。落着いているように見えながら、かれが、ヒステリーの発《ほっ》作《さ》の起こるのを押《おさ》えようともがいていたのは明らかだった。――「定めし、抽出しが……」
わたしは訪問客の不安な気持があわれになったが、それにはわたし自身の募《つの》りゆく好奇心も幾分《いくぶん》手つだっていたかもしれない。
「そこにありますよ、きみ」と抽出しを指さしてわたしは言った。抽出しは、テーブルの向う側の床《ゆか》の上に布に包んだまま置いてあったのである。
かれは飛びかかって行った、が、ふと立ち止まると、片手を胸にあてた。顎《あご》がひきつり、歯のぎりぎり軋《きし》むのが聞こえた。顔が見るも物すごい形相になったので、わたしは、かれが死んでしまうのではないか、発狂しはすまいかと、気が気でなくなってしまった。
「まあ気を落ちつけたまえ」とわたしは声をかけた。
かれはわたしのほうを向いて、ぞっとするような気味悪い笑いを見せた。と思うと、決然と、まるで死にもの狂いで蔽《おお》いの布をむしりとった。そして中身を見るや、さもさも安心したと言わんばかりに、わっと声を立てて嗚《お》咽《えつ》しはじめた。坐《すわ》ったまま、わたしは化石みたいに体がこわ張って動けなくなってしまった。ところが次の瞬間には、かなり自制を取り戻《もど》した声で、「メートルグラスはありますか」とかれはたずねるのだった。
わたしは、やっとの思いで椅子から立ち上がり、望みの品を取ってやった。
にっこりうなずいて礼を言うと、かれは赤いチンキ剤を数滴《てき》はかり分け、それに散薬を一包《ぽう》加えた。初め赤い色をしていたこの混合物は、結晶塩が溶《と》けるに従って輝《かがや》くような色合となり、ぶつぶつと音を立てて沸騰《ふっとう》しながら、ぼうっと蒸気の煙《けむり》を立てはじめた。と、とたんに、沸騰は止まって混合物は暗紫色《あんししょく》に変り、それが色《いろ》褪《あ》せて徐々《じょじょ》に淡緑色《たんりょくしょく》に変っていった。こういう変化を食い入るように見つめていたこの訪問客は、にっこり笑うと、メートルグラスをテーブルの上に置き、向き直って、探るようにわたしを眺《なが》めるのだった。
「さて」とかれは言った。「残っていることを片づけてしまおう。きみ、知りたいかね。教えてもらいたいかね。ぼくがこのグラスを持って、なんにも言わずに、ここから出て行くのを黙《だま》って見ているかね。それとも、好奇心がうずうずして、聞かずにはいられないかね。よく考えて返事したまえ、きみの決めたとおりにするつもりだからね。きみの決心次《し》第《だい》では、きみをもとのままにして置いて上げてもいいが、これ以上金持にも、利口者にもなるまいよ。もっとも、死ぬほど苦しんでいる男をひとり助けてやったという意識が、精神上の一種の富と見做《みな》されることもあるがね。それともお望みならばだ、知識上の新しい領域、名《めい》誉《よ》と権力に至る新しい大道を、ここで、この部屋で、立ちどころにきみの目の前に展開して見せてもいいのだ。魔《ま》王《おう》の不信もぐらつくような奇《き》蹟《せき》を演じて見せたら、きみのまなこもあっという間にどんでん返しをするかもしれないね」
「きみ」とわたしは、その実はうろたえながら、強《し》いて冷然と構えて言った。「きみの喋《しゃべ》っていることは、まるで謎《なぞ》だ。きみの言うことをわたしが大して信用して聞いていないと言っても、きみは多分あやしまないだろうね。しかしわたしも、わけのわからぬご用をここまで勤めたからには、結末を見ないことには引っ込《こ》めないよ」
「よかろう」と訪問客は言った。「ラニョン、きみは、きみの誓《ちか》いを覚えているだろうね。これから起こることは、われわれの職業上の秘密に属することだ。さあきみは、いまがいままで、最も偏狭《へんきょう》にして唯物的《ゆいぶつてき》な見解に囚《とら》われて、霊妙《れいみょう》な医薬の効果を否定したり、きみより傑《すぐ》れた人間を嘲笑《ちょうしょう》したりしてきたが――さあ、これを見ろ」
かれはメートルグラスを口に当てて、ぐいと一と息に飲み干した。一声あっと叫ぶとよろよろとよろめいて、テーブルを掴《つか》み、それにしがみついたまま、血走った眼を見開き、口を大きくあいて喘《あえ》いでいた。見る見る変化があらわれた、とわたしは思った。――かれの体が膨《ふく》れあがって来るように見える――顔色が俄《が》然《ぜん》、黒ずんだ、かと思うと、目鼻立ちが溶けて形が変って行く。咄《とっ》嗟《さ》にわたしは、跳《と》び上がると、ぱっと後ろに飛びのいて壁《かべ》にもたれかかり、腕《うで》をあげて、この怪物《かいぶつ》から身を護《まも》ろうと身構えたが心は恐怖の底に投げこまれていた。
「おお」とわたしは悲鳴をあげた。繰《く》り返し「おお、おお」とわたしは叫んだ。わたしの目の前には、――色蒼《いろあお》ざめてわなわな震えながら、半ば気を失ったまま、死からよみがえった人のように目の前を手さぐりしている――ヘンリー・ジーキルが立っているではないか!
それから一時間ばかりのあいだにかれが話したことは、とても書き止めるに忍《しの》びない。わたしの見たことは事実であり、わたしの聞いたことも事実である。そのためにわたしの心は痛むのだ。しかるに、当時の光景が眼前から消え去ったいま、あのことを信ずるかどうかと自分に問いかけてみても、わたしにはなんとも答えられないのである。わたしの生命は根底からぐらついてしまった。わたしは、不眠症《ふみんしょう》にとりつかれてしまった。身を噛《か》むような恐怖が夜となく昼となくわたしの身につきまとって離れない。わたしの余命もいくばくもない、やがて死ななければならない気がする。しかも半信半疑のままで死ぬのである。あの男が悔《かい》悟《ご》の涙《なみだ》に暮《く》れながら、わたしに告白した背徳行《こう》為《い》については、思い出すさえ慄《りつ》然《ぜん》とせずにはいられない。わたしは、アタスン、たった一言だけ言って置きたい。(きみが信じてくれるなら)その一言だけで十分だ。あの晩、わたしの家に忍んで来た男は、ジーキルの告白では、ハイドという名で知られ、カルー殺害犯人として、全国に手配されている男なのだ。
ヘイスティー・ラニョン
本件に関するヘンリー・ジーキルの詳細《しょうさい》な陳述書《ちんじゅつしょ》
わたしは一八――年、ある資産家の家に生まれた。傑れた才能を恵《めぐ》まれ、生来勤勉、同《どう》胞《ほう》中の賢明《けんめい》善良な人々と交わることを好んだ。かくて十分に高貴顕栄《けんえい》の将来を保証されていたことは想像に難《かた》くないところである。わたしの最悪の欠点は、抑《おさ》えることのできない享《きょう》楽性《らくせい》にあった。この気質のために多くの人は幸福を味わったであろうが、わたしの場合は、尊大に構えて人前に尋常《じんじょう》以上の威《い》厳《げん》をとりつくろっていたいというわたしの傲慢《ごうまん》な欲望とこの気質とは、氷炭相《あい》容《い》れないものであった。その結果、わたしは自分の快楽を人に隠《かく》すことを始め、分別のつく年齢《ねんれい》に達して四囲の情《じょう》況《きょう》をも観察するようになり、栄達と社会的地位とを仔《し》細《さい》に検討し得た頃《ころ》には、既に甚《はなは》だしい二重生活の深みに陥《おちい》っていたのである。多くの人は、わたしの犯したような不行跡《ふぎょうせき》をかえって誇示《こじ》するでもあろうが、わたしは自ら目標として立てた高邁《こうまい》な見地から、ほとんど病的ともいうべき羞恥感《しゅうちかん》をもってこれらの行為を眺め、かつ、これを隠蔽《いんぺい》したのである。そのような人間にわたしがなったのは、わたしの欠点がとくに下《げ》劣《れつ》だったためではなく、むしろかえってわたしの理想の厳《きび》しさのためであった。かつわたしが、人間の二重生活を分《ぶん》離《り》結合する善と悪の精神領域を、おのれの内心で一般《いっぱん》世人よりも遥《はる》かに深い溝《みぞ》で断ち切らざるを得なかったのも、そのためであった。ここにおいてわたしは、人生の苛《か》酷《こく》きわまる掟《おきて》なるものについて、深刻かつ執拗《しつよう》に考えざるを得なかった。この掟こそ、宗教の根元に横たわり、しかも夥《おびただ》しい苦《く》悩《のう》を醸《かも》しだす源泉の一つともなっているものだ。わたしは甚だしい二重人格者ではあったが、いかなる意味でも偽《ぎ》善者《ぜんしゃ》ではなかった。わたしにあっては、善悪両方面ともひとしく真剣《しんけん》であった。日中公然と学問の進歩なり悩《なや》める人々の救済なりのために精進《しょうじん》しているときも、自制を失って破《は》廉《れん》恥《ち》に憂《う》き身をやつしているときも、ひとしく真剣なわたし自身たるに変りはなかった。たまたまわたしの学問研究の方向が、まったく神秘的、かつ超絶的《ちょうぜつてき》なものに向っていたために、わたしの善悪両面の不断の闘争《とうそう》という意識にそれが反映し、強い照明をあてる結果ともなったのである。かくしてわたしは知性の両面たる道徳的、ならびに主知的見地から、日一日とかの真理、すなわち、人間は実は単一の存在ではなくして二元的な存在であるという真理に、着々と近づきつつあった。そうしてこの真理の片手落ちな発見のために、わたしはかくも怖《おそ》るべき身の破《は》滅《めつ》を招いてしまったのである。わたしはあえて二元的な存在という、そういわざるを得ないのは現在のわたしの知識程度ではそれ以上に深くは究《きわ》め得ないからである。今後この方面の研究について、わたしに追随《ついずい》するものも、わたしを凌駕《りょうが》するものも現われるだろう。わたしはあえて推論する、人間とは究極のところ、ひとりひとりが多種多様のたがいに調和しがたい個々独立の住民の集団のごときものに過ぎないものとして把《は》握《あく》されるだろう、と。わたしとしては、本来の生活上誤ることなく一つの方向を、ただ一つの方向を突き進んで行った。わたしが人間は完全かつ本源的に二重性格のものであることを悟《さと》ったのは、人間の道徳的の面から、とくにわたし個人についての経験を通じてであった。しかも自分が意識の領域において相争っている二つの性質のどちらかであると誤りなく言えるとしても、それはもともとわたしがその二つを兼《か》ね備えているからにすぎないことをわたしは知った。わたしの科学上の発見過程において、いまだかかる奇蹟が明らかに可能であるという暗示さえ持たない前から、わたしはこの善悪二つの要素の分離という着想を、愛する白昼夢《はくちゅうむ》として、心楽しく空想するようになっていたのである。この二つの要素をおのおの別個の個体に宿らせることさえできたら、人生から一切《いっさい》の堪《た》えがたいものがとり除かれることになるだろうし、正しからざる一方の性格は、その双生《そうせい》児《じ》である一方の正しき性格の抱く理想や悔恨《かいこん》に煩《わずら》わされることなく、おのが欲するままに行動することもできるだろうし、正しき一方の性格はまた、善をなすことに喜びを見《み》出《いだ》し、もはやかの縁《えん》なき悪の手によって恥辱《ちじょく》や悔悟にさらされることなく、着実に、不安なく、向上の一路を辿《たど》ることができるだろうと。かく調和し得ない二本の薪《たき》木《ぎ》が一つの束《たば》に束ねられていること、――苦《く》悶《もん》する意識の胎内《たいない》にこの両極端《りょうきょくたん》の双生児が絶えず相争っていること、これが人生の災《わざわ》いでなくてなんであろう。しからば、いかにしてこの二つを分離せしめるか。
といってもいままでのところは頭のなかで思《し》索《さく》していただけであったが、そのとき前述のごとく実験室の机上《きじょう》から、偶然《ぐうぜん》にも一《いち》縷《る》の光明がこの問題を照らしはじめたのである。われわれがそれをまとって歩いている、この一見まことに充実《じゅうじつ》して見える肉体なるものが、実は蜉蝣《かげろう》のごとく実体なきもの、狭《さ》霧《ぎり》のごとくはかないものであることを、かつてなんびとの説いたよりも深く認識《にんしき》するに至った。あたかも風が天幕のカーテンを揺《ゆる》がすごとく、ある種の作用には、肉体というこの被覆《ひふ》をゆすぶり引き剥《は》ぐ力のあることを、わたしは知った。わたしの告白においては、これ以上科学的な分野には深入りすまい。それには二つの正当な理由があるからだ。一つの理由として、人生の悲運と重荷は永劫《えいごう》に人類の肩に結びついて、これを払《はら》い除《の》けようとすれば、さらに思いも寄らぬ一層怖るべき重圧となってわれわれに戻ってくるだけだということを、わたしは思い知らされているからである。第二の理由としては、残念ながら、わたしの記録によってやがて明瞭《めいりょう》すぎるほど明瞭になるが、わたしの発見が不完全なことである。そこでこれだけ言えば十分であろう、すなわち、わたしはわたしの生来の肉体が、わたしの心《しん》霊《れい》を構成しているもろもろの力のなかのある力の精気と光のあらわれにほかならないことを確認しているのみならず、ある種の薬剤《やくざい》の力によって、それらの力を支配的な地位からしりぞけ、それに代るものとして、わたしの魂《たましい》の劣等な要素のあらわれでもあり、その刻印を押《お》されている以上、やはりわたしにとって生得のものであることに変りのない第二の形体と容貌《ようぼう》とを、その地位に据《す》えることのできるような、そういう薬剤の調合に成功したのだと。
この理論を実地に試験してみるまでには、わたしは長いあいだ躊躇《ちゅうちょ》していた。これが命を賭《か》ける冒険《ぼうけん》であることをわたしはよくよく承知していたのである。なぜなら、個性の堅《けん》固《ご》な城砦《じょうさい》ともいうべき肉体を制御《せいぎょ》し破《は》壊《かい》しつくすほどの薬は、ごく微量《びりょう》の飲みすぎでも、服用時間のいささかのずれでも、せっかく薬の力で変化させようとしている霊魂《れいこん》の仮屋を木《こ》っ端《ぱ》みじんにしてしまわないとも限らないからである。しかし、かくも類例のない深遠な発見の誘惑《ゆうわく》は、ついに、身に迫《せま》る危険にたいする警戒心《けいかいしん》さえ、打ち負かしてしまったのだ。チンキ剤はずっと前から用意してあったので、わたしは直ちにある薬種商から特殊《とくしゅ》な塩類を多量に買い入れた。これで必要な成分が全部揃《そろ》ったことは、実験の結果からはっきりわかっていた。かくて呪《のろ》うべき一夜、夜も更けてからわたしは成分を調合し、コップのなかでそれが一斉《いっせい》に泡《あわ》立《だ》つ煙《けむり》をあげるのを見つめていたが、沸騰が鎮《しず》まるや、渾身《こんしん》の勇を振《ふる》ってぐっと薬を飲みほしたのである。
肉を引き裂《さ》くような激痛《げきつう》が起こった。骨々の砕《くだ》けるような痛み、死ぬほどの嘔《はき》気《け》、生まれでる刹《せつ》那《な》、断末《だんまつ》魔《ま》の刹那の恐怖にも劣《おと》らぬ精神の恐怖。やがて苦痛はたちまちうすらぎ、わたしは正気づいたが、あたかも大患《たいかん》からやっと生きかえった心地であった。その感覚は一種異様な、一種言いようのない清新な感じで、その清新さのために信じがたいほど甘《かん》美《び》な感じでもあった。わたしの肉体はこれまでよりもずっと若々しく、ずっと軽快になり、非常な幸福を感じたが、心のうちには、捨鉢《すてばち》ともいえる向う見ずの念、空想のなかを水車を回す奔流《ほんりゅう》のように流れ止まらぬふしだらな肉感的な幻影《げんえい》、義務の束縛《そくばく》からすっかり解放された感じ、未知の、しかしながら清純ならざる精神の自由感を意識した。この新しい生命の息吹《いぶ》きを呼吸するやいなや、わたしはこれまでにも増して邪悪《じゃあく》な、しかり、十倍も邪悪な人間となり、わたし本来の悪にわが身を奴《ど》隷《れい》として売渡《うりわた》してしまったことを悟った。そしてこの考えは、酒のようにわたしを興奮させ喜ばせたのである。この感覚の清新さにこおどりして、わたしは両手を大きくひろげた。と、そのとたん、はっとわたしは気がついたのである、背《せ》丈《たけ》が低くなっているではないか。
この当時、わたしの部屋には鏡がなかった。いまこれを書いているかたわらの姿見は、そういう体の変化を映して見るだけのために、ずっと後になって持ち込《こ》んだものである。もう夜明けに間もなかった――まだ暗いことは暗かったが、夜明けは間近で――家のものたちはぐっすり睡《ねむ》りこけている最中であった。希望と勝利感で興奮しきっていたわたしは、この新しい姿のままで自分の寝室《しんしつ》まで行ってみようと決心したのであった。わたしは裏庭を横切りながら、頭上の星座も、夜もすがら下界を見張りしていながら、いままでについぞ見かけたことのないような種類の最初の生きものであるわたしの姿を、さぞ驚異《きょうい》の目で見おろしていたことであろうと思った。自分の家にいながら実は他人であるわたしは、廊《ろう》下《か》をこっそりと忍んで歩いた。こうして自分の寝室までやって来て、はじめてわたしは、エドワード・ハイドの風貌に接したのであった。
わたしはここで、わたしが知っているわけではないが、まさしくそうであろうと推定する事柄《ことがら》を、理論上から語らなければならない。わたしがいま、生々しい活動力を与《あた》えたわが本性の悪の面は、それと同時に片づけてしまった善の面に較《くら》べると、強さの点、発育の点ともに劣っていた。さらにわたしのこれまでの生涯《しょうがい》が、要するに十中の八、九まで努力と徳行と節制の生活であったために、悪の面は善の面にくらべて行使することも少なく、従って消耗《しょうもう》も少なかったわけである。思うにヘンリー・ジーキルにくらべて、エドワード・ハイドがずっとからだが小さく、弱く、若々しいのはこのためであったろう。一方の顔に善が輝いているのに反して、一方の容貌にはあけすけに悪がくっきりと書かれていた。あまつさえ悪(これこそが人間を殺す要素であることをわたしはいまもって信ぜざるを得ないのだが)の肉体には、不具と頽廃《たいはい》の跡《あと》が著《いちじる》しかった。にもかかわらず、この醜悪《しゅうあく》な映像を鏡のなかに眺めながら、わたしは些《いささ》かも嫌《けん》悪《お》の情を感じなかったばかりか、かえって小《こ》躍《おど》りして歓迎《かんげい》したいほどの感じを味わった。これもまたわたし自身だったのである。それは自然で人間らしく思われた。これまで自分の顔と呼び慣れていた不完全などっちつかずの顔よりも、鏡の顔のほうがわたしの目には遥かに生き生きと姿をあらわし、一層はっきりとしていて純粋《じゅんすい》でもあるように思われた。ここまでは確かにわたしの考えは正しかった。わたしがエドワード・ハイドの外貌をかりていると、はじめてわたしに近づくものは誰《だれ》も必ずありありとわたしの肉体に疑懼《ぎく》の念を抱《いだ》かずにはいないことに気がついたのであった。これは思うに、われわれの出会うほどの人々は、すべて善と悪との混合体であるのに、全人類社会において、エドワード・ハイドのみただひとり、純粋なる悪そのものの化《け》身《しん》であったからであろう。
わたしはほんの一瞬《いっしゅん》、鏡の前にぐずついていただけだった。まだ第二の決定的な実験をしてみなければならない。わたしが、自分の本体を失ったままもとの姿にかえる方法がなく、もはや自分のものでなくなったこの家から夜の明けぬうちにいちはやく逃《に》げださなければならないような羽目になるかならぬか、この点を確かめておかなければいけないのである。書斎《しょさい》に急いで帰るとわたしは再び薬を調合してそれを飲み、再びかの分解の激痛に苦しみ、再びヘンリー・ジーキルの性格と背丈と容貌とを持ったわたしに戻《もど》ったのである。
あの晩こそ運命の十字路にわたしは立っていたのであった。もしわたしがわたしの発見を遇《ぐう》するにより崇高《すうこう》なる精神をもってし、高潔敬虔《けいけん》なる向上心に動かされてあの実験をとり行なったのならば、すべてはまったく異なる結果をもたらしたであろうし、ああした生死の苦しみのなかからわたしは悪《あっ》鬼《き》としてではなく、天使としてあらわれ出たことであろう。薬そのものはなんら差別的な作用はなかった。それは神を生むものでも悪魔を生むものでもなかった。ただ単にわたしの気質を閉じ込めている獄舎《ごくしゃ》の扉《とびら》を揺《ゆ》すぶるに過ぎず、閉じこめられていたものがフィリッパイ市の囚《とら》われ人のごとく走りでて来ただけのことである。あのときちょうどわたしの徳性がうたたねをしたその隙《すき》に、野望のために目をさましていたわたしの悪が目ざとくもいちはやく機会を掴《つか》み、かくして投影されたのがほかならぬエドワード・ハイドなのであった。それゆえにわたしはいまや二重の容貌と二重の性格の持主であったが、その一つは完全なる悪であり、他の一つは依《い》然《ぜん》として昔《むかし》ながらのヘンリー・ジーキル、すなわち、矯正《きょうせい》も改善もすでに絶望となったあの調和せざる混合体であった。かくてまったく悪への一《いっ》途《と》を辿るに至ったのである。
そういう当時においてさえ、わたしは無味《むみ》乾燥《かんそう》な学究生活に対する嫌悪の情に打ち勝ち得なかった。依然としてときに逸楽《いつらく》にふけりたい気分になるのであった。わたしの遊興なるものがまた(控《ひか》え目に言っても)品位を傷つけるていのものであったし、世間的にも有名で、少なからず尊敬を受けていたのみならず、年輩《ねんぱい》もようやく老年に近づいていたわたしには、かかる生活の矛盾《むじゅん》をうとましく思う心が日に日に募《つの》って行くばかりであった。この虚《きょ》に乗じて、新しく身についた力が、わたしを誘惑し、ついにその奴隷たらしめたのである。ただ一ぱいの薬液を飲みほすだけで、立ちどころにわたしは著名なる大学教授の肉体をぬぎ棄《す》て、あたかも厚い外套《がいとう》でも着るようにエドワード・ハイドの肉体をかりることができるのである。この考えにわたしはほくそ笑《え》んだ。当時わたしはそれを面白いこと《ユーモラス》くらいに思っていた。わたしはきわめて用意周《よういしゅう》到《とう》に準備を整えていった。ハイドが警官に跡をつけられたことのある、あのソーホー区の家を手にいれて家具を備えつけ、無口でしたたかものであることを十分承知しているあの女を家政婦として雇《やと》いいれた。一方わたしは召使《めしつかい》たちに、ハイド氏という人は(その人相を説明した上で)スクエアのわたしの邸《やしき》ではまったく自由勝手に振《ふる》舞《ま》ってよいことを言い聞かしておいた。が同時に間《ま》違《ちが》いを避《さ》けるために、わたしは第二の姿で訪ねて行き、ハイドになったわたし自身の姿をよく見覚えさせることまでしておいたのである。ついでわたしはきみが強硬《きょうこう》に反対した、あの遺言状《ゆいごんじょう》を作成した。こうしておけば万一ジーキル博士としての身の上に何事か起こった場合でも、些かも金銭上の損失を招かずにエドワード・ハイドとして暮《く》らしてゆけるからであった。かくのごとくわたしはあらゆる方面に予防線を張りめぐらしたつもりで、自分の立場のどっちに転んでも危険のない不思議な免疫性《めんえきせい》を利用しはじめたのであった。
暴漢を雇って自分の身代りに犯罪を犯《おか》させ、自分は陰《かげ》に隠れてその一身と名《めい》誉《よ》との安全をはかった例はこれまでにもあった。しかしほかならぬ自分の楽しみにかかる犯罪を犯したのは、わたしがはじめてだった。公衆の面前では、世の人の温かい尊敬の重荷を背負ってこつこつと努力しながら、時あればたちまちにして、小学生がするように、こんな借り物は思い切りよくぬぎ棄ててしまって、まっ逆さまに放埒《ほうらつ》の大海に跳《と》び込むことのできたのは、わたしがはじめてであった。しかも見破ることのできないマントを身にまとっているわたしは、完全に安全なのであった。考えても見たまえ――わたしという人間は存在さえしていないのだ! 試みに実験室のなかへ逃げこませ、常備してあるあの薬を調合して飲む時間をわずか一、二秒与えてくれさえすれば、いかなる犯罪を犯して来たにせよ、エドワード・ハイドなるものは鏡に吹《ふ》きかけた息の曇《くも》りのようにたちまち掻《か》き消すようにいなくなって、ハイドの代りに、ゆったりと書斎に落ちついて嫌疑などはあざ笑いながら、真夜中のランプの芯《しん》をかき立てて研究にいそしんでいるヘンリー・ジーキルがあらわれるのである。
わたしが姿を変えてまで焦《あせ》り求めた快楽は、すでに述べたごとく、わたしの品位を損《そこ》なうものであった。これ以上ひどい言葉は使いたくないが、しかしその快楽がひとたびエドワード・ハイドの手にかかると、たちまちにして途方もなく醜悪な方向へそれだしてしまうのであった。放埒な遊びをして帰ったときなど、わたしの分身たるハイドの犯した邪悪な行《こう》為《い》を思って慄然《りつぜん》としたことが一再ならずあった。わたしが自分の魂のなかから呼びだして、勝手気ままに振舞わせてやろうと世にだしてやったこの使い魔は、もともと性、凶悪《きょうあく》邪険であった。かれの為《な》すこと考えること、ことごとく自己中心であって、少しでも他人を苦しめては獣《けもの》のごとく貪欲《どんよく》に快楽を貪《むさぼ》り、冷酷無情《れいこくむじょう》、木石のごとくであった。ヘンリー・ジーキルもエドワード・ハイドの所業を見ては愕然《がくぜん》として立ち竦《すく》むこともしばしばであったが、こういう立場は尋常一様《じんじょういちよう》の法則で律しきれるものではないので、内々でうまく良心の手《た》綱《づな》をゆるめてやる結果にもなるのであった。要するに罪を犯すのはハイドであり、ハイドひとりなのである。ジーキルは少しも悪くなっているわけではなく、一夜明ければまたもとのちっとも損われたとは思えない善良な性質に立ち戻っているのであった。そして機会があれば、ハイドの犯した悪事を、機会あるごとに急いで償《つぐな》いさえしたのであった。こうしてかれの良心は眠《ねむ》りつづけたのである。
このようにわたしが大目に見すごしてきた(というのはいまもってわたしは自分が犯したとは認めがたいのであるから)醜行の詳細《しょうさい》に立ちいるつもりはわたしには毛頭ない。ただわたしは自分に対する懲罰《ちょうばつ》が近づいて来そうな気配のあったことと、それが一歩々々迫って来た経路だけを指《し》摘《てき》するにとどめておこう。たまたまわたしはある一つの事件に遭遇《そうぐう》したが、大事に至らずにすんだから、これもちょっと触《ふ》れるだけにしておこう。ある少女に対するわたしの残虐《ざんぎゃく》な行為が、ひとりの通りすがりの人を憤慨《ふんがい》させたことがあったが、その通りすがりの人というのがきみの親戚《しんせき》だったことはつい先日わかったのである。医者と少女の家族がその人に加勢する騒《さわ》ぎで、一時は身の危険を感じたほどであったが、結局その人たちの至《し》極《ごく》当然な憤《いきどお》りをなだめるためにエドワード・ハイドはみんなを家の戸口まで同道して行って、振出人ヘンリー・ジーキル名義の小切手で慰藉料《いしゃりょう》を支払うことにしたのであった。しかし早速《さっそく》またエドワード・ハイドの名義で別の銀行と取引をはじめたので、こういう危険はその後はたやすく避けることができたのであった。その上わたしは、自分の書体を右下がりにして書いてそれを分身たるハイドの署名の書体にしておいたから、こうしておけば災厄《さいやく》の手の届かない安全地帯にいるも同然だと考えたのであった。
サー・ダンヴァズ殺害事件のほぼ二た月ほど前、わたしはいつもの遊楽にでかけて夜が更《ふ》けてから帰って来たが、翌朝寝《ね》床《どこ》のなかで目をさましたとき、なんだか変な気持がしたのであった。あたりを見まわしてみたが、どうにも収まらなかった。わたしは四辻《スクエア》の自分の室《へや》の上品な家具や天井《てんじょう》の高い宏壮《こうそう》なつくりなどを眺《なが》めたりしてみたが、それも無駄《むだ》であった。寝台《ベッド》のカーテンの模様やマホガニー製の寝台の意匠《いしょう》などもなるほどと気がついているのだが、それでもやはり変な気持は収まらないのであった。おれはいつものところにいるのではない。おれはいつものところで目をさましたと思っているが、そうではないぞ。おれがいつもエドワード・ハイドの姿になったとき眠りつけているあのソーホー区の家の小さな部屋でおれは目をさましているのだ、と心のなかで何かがしきりに言い張っているのであった。わたしはひとりほほえむと、持前の心理学的方法によってゆっくりとこの錯《さっ》覚《かく》の諸要素を探りはじめたのであるが、そうしながらも、ときどき、うつらうつらと快い朝のまどろみに落ちるのであった。こんなことをつづけているうちに、いくぶん目がはっきりしてきたなと思った瞬間、ひょいと見るともなく自分の手を見たのだった、ヘンリー・ジーキルの手というのは(きみもたびたび気がついていようが)形も大きさも職業柄、大きめでがっしりとした白い美しい手であった。ところがいまわたしがなかば夜具にくるまりながら、ロンドン中央部の黄色い朝の光のなかでまざまざと見ている手は、痩《や》せて筋ばって節が高く色が青黒く、うす黒い毛がもじゃもじゃと生えている手であった。これはまさしくエドワード・ハイドの手であった。
驚《おどろ》きのあまりただ茫然《ぼうぜん》としてしまって、わたしはかれこれ三十秒も眺めていたに違いない。と急にシンバルでも打ちあわせたかのように、わたしの胸にけたたましく恐怖《きょうふ》の念が湧《わ》き立った。わたしは寝床からがばと跳《は》ね起きると、まっすぐ鏡の前へ飛んで行った。鏡のおもてを一目見るなり、全身の血がさっと引いて一時凍《こお》りついたようであった。そうだ、わたしはヘンリー・ジーキルで床につき、エドワード・ハイドで目がさめたのだ。これはどう説明したらよいものであろうか? とまたしても恐怖のあまり跳びあがる思いで――これはいったいどうして元どおりに癒《なお》したものだろうか? と、わたしは自問したのであった。もう日も高くなっている。召使たちは起きている。薬はみんな書斎においてある――こうしてわたしが怖《おそ》ろしさのあまり棒立ちになっているここからあの書斎まで、二つの階段をおいて、裏の廊《ろう》下《か》を通り、見え放題の裏庭を横切って、それから解剖学《かいぼうがく》の階段教室を抜《ぬ》けて行くとなると、ずいぶん遠い道のりだ。なるほど顔を隠《かく》すことはできもしよう。しかし、身長の変化を隠すことができぬとすれば、それがなんの役に立とう? だがそのとき、第二のわたしであるハイドの出入りを召使たちが見慣れていることに考えつくと、ほっとして包みきれないほどの嬉《うれ》しさがこみあげて来たのであった。わたしは時を移さず、ジーキルの寸法の洋服をできるだけ体裁《ていさい》よく着こなして、すばやく家のなかを通り抜けたが、そこに居あわせたブラッドショーは、こんな時刻にこんな妙《みょう》な服装《ふくそう》をしたハイドを見ると、眼《め》を瞠《みは》って引っこんでしまった。それから十分ほどたつと、その間にジーキル博士は自分のもとの姿に戻っていたのであったが、眉《まゆ》を曇らせながら、朝食を食べるように見せかけて、食卓《しょくたく》についていたのであった。
食欲は事実あまりなかった。説明のつけようがないこのできごと、かつての経験を引っくりかえしてしまったこのできごとは、その昔バビロンの王城にあらわれて壁面《へきめん》に王の運命を記したといわれる指のように、わたしに対する審判《しんぱん》の判決文を綴《つづ》っているように思われたのであった。わたしは前とはうって変って真剣《しんけん》に、わたしの二重生活の結末と見込みについて反省しはじめた。わたしの力によって形を与えることのできるわたしの分身は、最近では非常にからだを使うことも多く、発育も目立ってよくなって来た。エドワード・ハイドのからだは、近頃《ちかごろ》では背丈もずっと伸《の》び、(わたしがハイドの姿をかりているときの)感じでは、血液の量も以前より豊富になったのを意識しているように思われた。もしこんなことがこのまま長くつづいて行くと、わたしの本性の均衡《きんこう》は永久に破れてしまい、やがては――自由自在に変身する力も失われて、エドワード・ハイドの性格が自分の性格となりおわって、ついにはとりかえしのつかない羽目に陥《おちい》りそうな危険をわたしは、うすうす感じはじめていた。薬の効果はいつも一様にあらわれるわけではなかった。わたしの経験のごく初期の頃であったが、一度だけ完全な失敗に終ったことがあった。そのことがあってから、倍量を用いなければならなかったことは一度ならずあったし、一度などは、すっかり死ぬ覚《かく》悟《ご》を決めて、三倍の量を用いなければならなかったこともあった。たまにこんなことの起こるのが、これまでのわたしの満足な気持を暗くするただ一つの影《かげ》であった。しかし今朝のできごとに照らしてみてわたしは、はじめのうちこそジーキルの肉体をぬぎ棄《す》てることに困難を感じたのであったが、近頃では徐々《じょじょ》にではあるが確実に、困難はかえって逆に反対側に移ってしまっていることをわたしは認めるようになった。従って万事はこの一点に帰着するように思われるのである。すなわち、わたしは次《し》第《だい》々々にわたし本来の善なる自己を喪失《そうしつ》し、次第々々にわたしの第二の悪なる自己に合体しつつあるということだ。
いまやわたしはこの二者のうちのいずれかを選ばなければならぬ瀬戸《せと》ぎわにいることを感じた。わたしの二つの性格は、記憶力《きおくりょく》だけは共通であるが、そのほかの能力ではすべてが裏腹になっているのであった。(善と悪との混合体である)ジーキルは時には神経《しんけい》過《か》敏《びん》すぎるほど懸《け》念《ねん》するかと思うと、ときには飽《あ》くことを知らぬ興味に駆《か》られたりしながら、ハイドの快楽や冒険《ぼうけん》を計画したり共に享楽《きょうらく》したりするのであった。しかるにハイドはジーキルに対しては無関心であったし、あるいはたかだか山賊《さんぞく》の追跡をのがれて身を隠す洞穴《ほらあな》を覚えているくらいにしかジーキルを覚えていなかったのである。ジーキルは父親以上の関心を持っていたが、ハイドは息子《むすこ》以上に無関心であった。ジーキルと運命をともにすることは、わたしが長いあいだひそかに楽しみに耽《ふけ》り近頃では耽溺《たんでき》するようになった数々の欲望を思い切ることである。ハイドと運命をともにすることは、数々の利益や抱《ほう》負《ふ》を捨てて、一挙に、しかも未来永劫《みらいえいごう》、侮《ぶ》蔑《べつ》を買い友を失うことである。この二つの遣《や》り取りは一見ふつりあいに見えるかもしれない。が、さらにもうひとつ、秤《はかり》にかけて考慮《こうりょ》してみなければならないことがある。それは、ジーキルが禁欲の火あぶりに遭《あ》ってひどい苦しみを嘗《な》めているのに、一方ハイドは自分の失ったものを何ひとつ意識さえもしないであろうということである。わたしはこんな奇妙《きみょう》な立場にいるのであるが、この討論の条件というものはおよそ人間の歴史と同じく古くして平凡《へいぼん》である。これと同じような誘惑《ゆうわく》と同時に警戒《けいかい》の念が、誘惑に負け震《ふる》えおののく罪人に代ってかれの運命を決する骰子《さいころ》を投げるのである。わたしの場合においても、たいてい大多数の人間がそうであるごとく、たまたま、より善き自己を選びながらあくまでそれを守り抜く力が欠けていたのである。
まさしくわたしは、常に親しい友だちにとりまかれて誠実な希望を胸に宿しながら、決して現状に甘《あま》んじない中年すぎの医者たらんことを選んだのである。さればわたしは、ハイドの姿に身をやつして享楽した自由、真のわたしよりも若々しい青春、軽快な足どり、高鳴る胸の鼓《こ》動《どう》、秘密の快楽などに決然と別れを告げたのである。かかる道を選んだものの、おそらく無意識のうちに多少の未練を残していたのであろうか、わたしはそうしながらも、一方、ソーホーの家を引き払《はら》おうともせず、エドワード・ハイドの衣服を破り棄てようともせず、いつでも着られるようにそのまま書斎に残しておいたのであった。それでも二た月のあいだというもの、わたしは忠実にわたしの決意を守っていた。その二た月は、かつてなかったほどの謹厳《きんげん》な生活を送り、その報償《ほうしょう》として良心の称讃《しょうさん》を得たのであった。しかるに時のたつにつれて、あんなになまなましかったわたしの警戒心も次第にうすれてしまって、良心の称讃も当然のことのように思われだしたのだった。そしてわたしは、ハイドが放埒を求めてあがいているごとく、ひどい苦《く》悶《もん》と欲望へのあこがれにさいなまれはじめた。かくて、ついにわたしは道徳心の衰《おとろ》えた虚に乗じて、またしても、あの変身薬を調合して飲みほす結果に立ちいたってしまったのである。
のんだくれが自分の悪習に理《り》屈《くつ》をこじつけるときは、五体が獣のように麻痺《まひ》してしまうために、おのれが冒《おか》す危険を千に一つも気にかけるとは思われない。わたしも自分の立場を丹念《たんねん》に思いめぐらしたとはいいながら、エドワード・ハイドの主要な性格たる完全な道徳的不感症と悪行への猪突性《ちょとつせい》を十分考慮に入れていなかった。こういう性格によってわたしは罰《ばっ》せられたのである。久しく檻《おり》のなかに閉じこめられていたわたしの悪《あく》魔《ま》は、唸《うな》り声をあげながら飛びだして来た。薬を飲みほした刹《せつ》那《な》でさえ、わたしはさらに放埒に、さらに狂暴《きょうぼう》に、悪へ突《つ》っ走ろうとする兆《きざ》しが身内にあるのを意識していた。あの不幸な被害者の鄭重《ていちょう》な言葉を聞いていたとき、わたしの心のなかに嵐《あらし》のような苛《いら》だたしさをわきおこさせたのも、あの兆しだったに相《そう》違《い》ない。神の前でわたしはこのことだけはあえて断言しておこう。すなわち、道徳的に健全な人間なら、あんなちょっとした立腹ぐらいのくだらぬ理由で、あんな大それた罪悪を犯せるはずのものではないし、要するにわたしは病気の子供が玩具《おもちゃ》を壊《こわ》す程度の無分別な気持で殴《なぐ》ったにすぎなかったのであると。どんなに悪党でも、誘惑の多いなかをどうやらしっかりした歩調で歩きつづける平衡の本能ともいうべきものを持っているものだが、それをわたしは自発的に自分のなかから剥《は》ぎとって捨ててしまったのである。それゆえわたしの場合にあっては、ちょっと誘惑されてもそれに負けることなのであった。
たちまち地《じ》獄《ごく》の悪霊《あくりょう》がわたしの心に目をさまし、猛《たけ》り狂《くる》った。嬉しさのあまり小《こ》躍《おど》りしながら、わたしは抵抗《ていこう》もしないからだを殴りつけ、殴りつけるたびごとに歓喜を味わった。ようやく疲《つか》れを覚えて来はじめると、無我《むが》夢《む》中《ちゅう》の発《ほっ》作《さ》のさなかに突然、ひやりと恐怖の戦慄がわたしの胸を貫いた。霧《きり》が晴れた。わたしは死罪になるものと観念した。悪の欲望はひとたびみたされるやますます興奮し、生の執着《しゅうちゃく》は極度に緊張《きんちょう》して来る。わたしは有頂天《うちょうてん》に喜ぶと同時に恐怖におそれおののきながら暴行の現場から一目散に逃《に》げだした。ソーホーの家に駆け戻《もど》ると(大事の上に大事を取って)わたしはいっさいの書類を焼き捨ててしまった。そこから外にでると、心に分裂《ぶんれつ》した興奮を味わいながら街灯に照らされた街を歩きまわった。一方では、自分の犯した罪を小気味よく思ったり、これから先またやってのけようと思う犯罪を暢《のん》気《き》に画策したりしながらも、また一方ではむやみに足を早めて、追手の足音が聞こえはしないかと絶えず耳をそばだてたりした。薬を調合しながらハイドは鼻唄《はなうた》を口ずさみ、いざ飲みほす段になると、死者のために弔《とむら》って乾盃《かんぱい》した。五体を引き裂《さ》くような変身の激痛《げきつう》がまだ鎮《しず》まらぬうちに、感謝と悔恨《かいこん》にさめざめと泣きながら、ヘンリー・ジーキルは跪《ひざまず》き、合掌《がっしょう》した手を神に向ってさしのべていた。わたしを包んでいた放縦《ほうじゅう》の覆布《ベール》が、頭から足の先まですっかり引き裂かれると、わたしは過去の全生涯《ぜんしょうがい》をふり返って見た。父の手にすがって歩いた幼い子供の頃を思い、職業生活の厳《きび》しい労苦を思い、最後に、やはり夢《ゆめ》のような気持で、あの夜の呪《のろ》わしい惨《さん》事《じ》を繰《く》り返し繰り返し思い浮《う》かべていた。わたしは大声を立てて泣きたかった。涙《なみだ》と共に神に祈《いの》りながら、わたしはわたしの記憶のなかにむらがるようにおしよせて来て、わたしを責めさいなむ幾《いく》多《た》の怖ろしい場面や物音を、揉《も》み消してしまおうとした。それでもやはり、祈りのあいまあいまに、わたしの罪悪の醜悪《しゅうあく》きわまる顔が心のなかをじっと覗《のぞ》きこむのである。この悔恨の激《はげ》しさが消えて行くと、それにつづいて歓喜の情が湧いて来た。わたしの行動の問題は解決したのだ。今後ハイドになることはもうできない。否《いや》でも応《おう》でも、わたしの存在は今後善の面だけに限られるのだ。それを思ってわたしはどんなに喜んだか! いそいそとした謙虚《けんきょ》な気持で、どんなにわたしは自然の生活の束縛《そくばく》をいまさらながら甘受《かんじゅ》したことだろう! わたしはどんなにきっぱりと断念して、あんなにしげしげ出はいりした扉《ドア》に錠《じょう》をおろし、その鍵《かぎ》を踵《かかと》で踏《ふ》みにじったことだったろう!
翌日になると、あの殺人事件を二階から見ていたものがあった、ハイドの犯行であることはすでにあまねく知れわたっている、被害者は名声の高い人物だった、という噂《うわさ》が取り沙汰《ざた》された。それは単なる犯罪というよりむしろ、呆《あき》れはてた惨劇だという噂でもある。わたしはこれを聞いて嬉しく思ったようである。わたしの善なる衝動《しょうどう》が、絞首台《こうしゅだい》を怖れる気持でこのように支えられ守られることを嬉しく思ったようである。ジーキルはいまやわたしにとって避難《のがれ》の都市《まち》である。もしハイドがちょっとでも顔を突きだすようなことがあったら、あらゆる人が手をふりあげてかれを引っ捕《とら》え打ち殺してしまうに違《ちが》いない。
わたしは今後の行動によって過去を償おうと決心した。そしてこの決意の結果いくぶんでも善根を積んだことは、わたしの誠意をもって言い得るところである。昨年の末の数カ月間というもの、わたしがどんなに真剣に悩《なや》める人たちの救済に努力したか、これはきみも知っているとおりだ。世の人のために多くを尽《つく》しながら、わたしも幸福と言っていいほど平穏《へいおん》に日を送ったこと、これもきみのよく知るところだ。わたしは事実この清い慈《じ》善《ぜん》の生活に決して倦《う》むことがなかった。それどころか一日ごとにますますこの生活を完全に楽しむようになって行ったのである。しかしなおわたしは依《い》然《ぜん》として二重の目的に悩んでもいたのである。あの最初の頃の悔悛《かいしゅん》の鋭《するど》い切《きっ》尖《さき》が鈍《にぶ》くなって来ると、久しく野放しにしておいてつい最近鎖《くさり》でつないだばかりのわたしの下《げ》劣《れつ》なる性格が自由を求めて唸《うな》りはじめた。と言ってもわたしは決してハイドの再生を夢みたのではない。そんなことは思っただけでも、驚きのあまりわたしは逆上してしまったろう。いやそうではない、わたしはジーキルの姿のままでまたも良心をもてあそぶように誘惑されてしまったのだ。世間にありがちの、こっそりと罪を犯《おか》す罪人のように、わたしはとうとう誘惑の鉾《ほこ》さきに兜《かぶと》をぬいでしまったのだ。
物にはすべて終りがある。どんな大きな桝《ます》目《め》もついには満たされる。ちょっと悪に屈服《くっぷく》したばかりにわたしはとうとう魂《たましい》の平衡まで破ってしまった。しかもわたしはそれに気がつかなかったのである。この堕《だ》落《らく》も従って、例の薬を発見しなかった昔《むかし》に立ち返るように、ごく自然の成行きに思われた。美しく晴れて空気のよく澄《す》んだ一月のある日のことであった。足許《あしもと》の土は霜《しも》が解けて濡《ぬ》れていたが、空には雲ひとつなかった。リジェント公園は冬の小鳥の囀《さえず》りに満ち、春の匂《にお》いが甘く流れていた。わたしは日当りのいいベンチに腰《こし》をおろした。わたしの獣性《じゅうせい》は、過去の歓楽の思い出に舌なめずりしているのであった。精神的な面は、やがて後悔することは感じながらまだ動きだそうとはせずうとうととまどろんでいた。結局わたしも隣人《りんじん》たちと変りはないのだと考えた。わたしは自分を他人とくらべてみた。慈善のために活動している自分と、冷《れい》酷《こく》に無関心にぶらぶら怠《なま》けている他人をくらべてみて、わたしは微笑《びしょう》を禁じ得ないのだった。こんな自《うぬ》惚《ぼ》れた考えに耽《ふけ》っていると、突然胸がむかつきだし、つづいて怖ろしい嘔《はき》気《け》といっしょに我《が》慢《まん》しようにもしきれない震えが襲《おそ》って来た。それが過ぎ去ると、それなりわたしは気が遠くなってしまった。そしてこの失神状態もしずまると、自分の考え方の調子に何かしらいままでよりも一層大胆《だいたん》になり、危険を蔑視し、義務観念を無視してはばからないような、そんな変化が起こって来たことに気がついた。わたしは下を見た。洋服はちぢまった手足にだらりと垂れさがり、膝《ひざ》に乗っている手はと見ると筋ばって毛むくじゃらではないか。またしてもエドワード・ハイドに変ってしまっていたのだ。一瞬《いっしゅん》前までは、わたしはたしかにあらゆる人々の尊敬を受け、富みかつ世人から愛されて、家の食堂にはわたしのためにちゃんと食事の用意までしてあるほどの身分であった。ところがいまは天下のお尋《たず》ね者、かり立てられて宿るべき家もない、世間周知の人殺し、絞首台にくくられる人間になりはててしまったのだ。
わたしの理性は動揺《どうよう》した。といって全然なくなったわけではなかった。いままでにもたびたび気がついたことだが、わたしが第二の性格に変身しているときは、わたしの心の働きは極度に研《と》ぎ澄まされ、気力は一層張りのある弾力《だんりょく》を帯びて来るのであった。その結果、ジーキルならば恐《おそ》らくは耐《た》え切れずに屈してしまうような場合でも、ハイドはひるまずに急場に立ち向うことができるのであった。わたしの例の薬は書斎《しょさい》の戸《と》棚《だな》のなかにある。どうしたらそれを手に入れることができるだろうか? こめかみを砕《くだ》けんばかりに両手でおさえつけながら、わたしが解決しようと苦心した問題はこれであった。実験室の扉《とびら》はすでにわたしの手で閉ざしてしまった。邸《やしき》のほうから入ろうとすれば、わたしの召使《めしつかい》たちがこのわたしを絞首台に突き出すだろう。どうしてもこれは他人の手を借りなければならない、そしてわたしはラニョンのことに考え及《およ》んだ。それにしても、どうしたらかれのところまで辿《たど》りつけるだろうか? どうしてかれを説きつけたらいいものだろうか? 幸い街なかで捕《ほ》縛《ばく》を免《まぬか》れたとしても、どうしたらかれの面前まで行き着けるだろうか? かれには未知の不《ふ》愉快《ゆかい》な訪問客であるいまのわたしに、どうしたらあの著名な医師を説得して同僚《どうりょう》たるジーキル博士の書斎を捜索《そうさく》させることができるだろうか? が、ふとわたしは、わたしの本来の性質の一部だけがまだ残っていることに思い当った。それはわたしが自分の手跡《しゅせき》で字が書けるということだ。ぱっとひらめいたこの思いつきで、わたしの採るべき方針は万《ばん》事《じ》はっきりと浮かびあがって来たのであった。
そこでわたしはできる限り体裁《ていさい》よく服装を整え、通りがかった辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》を呼び止めると、偶然《ぐうぜん》に憶《おぼ》えていたポートランド街のあるホテルに走らせた。わたしの姿(たとえわたしの衣服がどんな悲惨な運命を包んでいたにせよ、見た眼には実に滑稽極《こっけいきわ》まる風体であった)を見ると馭者《ぎょしゃ》は思わず吹《ふ》きだしてしまったのであった。悪《あっ》鬼《き》のように激《げき》怒《ど》したわたしは、馭者に向って歯を噛《か》み鳴らした。馭者の顔から――さいわいなことに――すっと笑いが消えた、しかしわたしのためには一層さいわいであった。さもなければ、すんでのところで必ずその男を馭者台から引きずりおろしたに違いないからだ。旅館に入りながら、あんまり凄《すご》い形相で睨《にら》みまわしたものだから、給仕人どもは震えあがってしまったのか、わたしの面前では顔を見あわすことさえできず、言いつけどおり従順にわたしを別室に案内しておいて、手紙を書くに必要な品々を運んで来た。生命の危険にさらされているときのハイドは、わたしにもはじめて見るものだった。異常な憤《ふん》怒《ぬ》に身を震わせ、人殺しもやりかねないほどに興奮し、人に危害を加えようと躍《やっ》起《き》になっている有様であった。しかしこの男は抜け目がなかった。非常な意志の努力で怒《いか》りをおさえ、一通はラニョンに、他の一通はプールにあてて、二通の重要な手紙を認《したた》めおわると、投函《とうかん》した確証を握《にぎ》っておくために、書留郵便で出すように指《さし》図《ず》したのであった。
それがすむとかれは別室の煖《だん》炉《ろ》のそばに一日じゅう爪《つめ》を噛みながらかがみ込《こ》んで坐《すわ》っていた。かれは恐怖《きょうふ》におどおどしながら、たったひとりで食事をすませた。給仕もかれの前ではすっかりおじけづいてそわそわしているのであった。やがてすっかり夜になってしまうとかれは旅館を出て窓をしめ切った辻馬車の片隅《かたすみ》に身を潜《ひそ》めながら、ロンドンの通りをあちらこちらと乗りまわしていた。
「かれ」とわたしは言う。どうしても「わたし」とは言えないのだ。その地獄の子には少しも人間らしいところがなかった。かれのうちに住んでいるのは恐怖と憎《ぞう》悪《お》だけだった。しまいにとうとう、馭者が怪《あや》しみだしたらしいと見てとると、かれはさっそく辻馬車を乗りすてて、からだにあわない服を着たままの姿で、人目につくのもいとわずに、夜の人通りの雑沓《ざっとう》に紛《まぎ》れこんで行ったが、かれの胸のうちでは恐怖と憎悪と、この二つの浅ましい感情が嵐のようにたけりくるっていた。恐怖に駆り立てられてぶつぶつ独りごとを呟《つぶや》いたり、割に人通りの少ない往来をこそこそと逃げるように通りぬけたり、十二時までにはまだどのくらい間があるだろうなどと時間を数えたりしながら、かれは足ばやに歩いて行った。
その途中《とちゅう》ひとりの女がかれに話しかけて来て、マッチの箱《はこ》らしいものを差しだして、買ってくれとでも言ったのであろう、するとかれはいきなりその女の顔を殴りつけたのである。女はあたふたと逃げ去ってしまった。
ラニョンの邸でわれに返ったとき、旧友の恐怖のさまを見て多少ともわたしは心を動かしたはずである。しかしわたしは憶えていない。それはとにかく、恐怖といったところでそんな程度のものは、その前の怖《おそ》るべき数時間を回想するときの憎悪の念に較《くら》べれば、たかが大海中の一滴《てき》の水にすぎなかった。いまやわたしの心は一変した。わたしを苦しめるものはもはや絞首台の恐怖ではなく、ハイドに変ることの恐怖であった。わたしはラニョンの非難をなかば夢《ゆめ》心地《ごこち》で聞いていた。家に帰り寝《ね》床《どこ》に入ったのもなかば夢心地であった。その日の激しい疲《ひ》労《ろう》でわたしはぐっすりと前後不覚な眠《ねむ》りに落ちこんでしまった。わたしをなやます悪《あく》夢《む》でさえこの猛烈《もうれつ》な深い眠りを呼びさますことはとうていできなかった。翌朝わたしはぐったりと気力も失《う》せたようになって目をさましたが、それでも気持は晴々していた。わたしは自分の身内に眠っている獣性を思うと、なお憎《にく》しみと怖れにおののくのだったが、それでも前日のぞっとするような危険のことは、もちろん忘れるものではなかった。しかしわたしはこうして家に帰っていまは自分の家にいるのだ。薬もすぐ手近にある。こう思うと、危険をのがれた感謝の思いが心のうちに強く照りわたって、希望の輝《かがや》きかと見まごうばかりであった。
朝食をすますとわたしは爽《さわ》やかな朝の冷たい空気を心ゆくまで吸いながら、裏庭をぶらぶら歩きまわっていた。と、またもやにわかに変身の前ぶれである、あのなんともかとも言いようのない気分に襲われた。かろうじて書斎に逃げこんだと思ったとたん、もうわたしはハイドの激情で怒りにわなわなと身を震《ふる》わせていたのであった。もとのわたしに返るには、今度は倍量の薬を飲まなければいけなかったが、それから六時間ほどたって煖炉の火を見つめながらわびしい気持で坐っていると、悲しいかな! 変身の苦痛がまたもぶり返して来て、またもう一度薬を飲まなければならなくなった。要するにその日からこのかた、わたしがジーキルの姿でいられるのは、体操のような懸命《けんめい》な努力をつづけているあいだか、薬液の直接的な刺《し》激《げき》の利《き》いている当座だけになってしまったのである。夜となく昼となく、わたしは変身の前兆を告げるあの戦《せん》慄《りつ》に襲われどおしであった。ことにわたしが眠るか、あるいはちょっと椅子《いす》の上でうたたねしただけでも、目をさますときまってハイドの姿に変っているのであった。この絶えずおしかぶさって来る死の強迫《きょうはく》感と、およそ人間には背負い切れそうもないほどのいまわたしの陥《おちい》っている不《ふ》眠《みん》のために、わたし本来の姿はしていても、実はうなされるほどの興奮に蝕《むしば》まれ消耗《しょうもう》しつくした人間となってしまい、身も心も力なく萎《な》えはててしまって、念頭を離《はな》れないのは、ただわたしの分身たるハイドに対する恐怖――ただその一念だけになってしまった。しかし眠るか、薬のききめが切れてしまうかすると、わたしはほとんど一足飛びに(と言うのは変身の苦痛は日一日と薄《うす》らいで行ったから)いきなり、恐怖の幻影《げんえい》にみちた空想と、いわれない瞋《しん》恚《い》の炎《ほのお》に煮えかえる心と、荒《あ》れ狂う生命を包容するには弱すぎる肉体の所有者たるハイドに早変りしてしまうのであった。ハイドの能力はジーキルの衰《すい》弱《じゃく》が増すに従って次《し》第《だい》に増大して行くようであった。いまやふたりを仲たがいさせてしまった憎しみの度合は確かに双方《そうほう》おなじくらい強いのであった。その憎しみはジーキルにあっては、かれの生存本能から出て来るものであった。ジーキルは、意識現象のある面を自分と共有し自分と生死を共にしなければならなくなったこのハイドという男が、完全な不具者であることをいまは知っていた。そしてこういう共有関係の因縁《いんねん》だけでもジーキルには最も痛切な悩みの種であったのみならず、ジーキルから見るとハイドは、よし生活力は旺盛《おうせい》であるにしてもどことなく地獄臭《くさ》く、無機物らしく思われるところがあるのだった。この地獄の粘《ねん》土《ど》が人間の叫《さけ》び声や話し声をだすということ、この定形なき塵芥《じんかい》が人間の身《み》振《ぶ》りをしたり罪悪を行なったりするということ、死して形なきはずのものが人間の生命の機能を横領するということ、これはまことに戦慄すべきことがらであった。それにまた反逆心に燃えるこの怖ろしきものが妻よりも目よりも固くこの身に結びつけられているということ、それがほかならぬわたしの肉体の檻《おり》のなかにつながれていて、その呟《つぶや》く声が聞こえ、生まれいでんともがき苦しむのが感じられるということは、さらにまたわたしの衰弱の機を掴《つか》みわたしの眠りの隙《すき》に乗じてわたしを打ち負かし命さえ奪《うば》ってしまうということは、これはまことに怖るべきことであった。ジーキルに対するハイドの憎悪はこれとは趣《おもむき》を異《こと》にしていた。ハイドは絞首台の恐怖に駆られて絶えず一時的の自殺を行ない、一箇《こ》の人間の代りにジーキルの一部という従属的地位に立ち返るのであったが、ハイドはこんなことをしなければならないことを嫌《きら》い、ジーキルの陥っている無気力を厭《いと》い、ジーキルから自分が忌《い》み嫌われていることを遺《い》恨《こん》に思った。そのためにハイドはわたしに対して猿《さる》のごとき奸策《かんさく》をたくらみ、あるいはわたしの筆跡でわたしの書物に冒涜《ぼうとく》の言葉を書き散らしたり、手紙を焼いたり、わたしの父の肖像《しょうぞう》を破り棄《す》てたりした。実際、かれに死の恐怖がなかったならば、かれはわたしを破《は》滅《めつ》の淵《ふち》に巻きこむためにとうの昔に自殺を敢行《かんこう》していたであろう。しかし、ハイドの生への執着は驚《おどろ》くべきものであった。さらに進んで言えば、ハイドを思うだけでも胸がむかつき寒気を感ずるわたしではあるが、この卑《ひ》劣《れつ》にして熱烈なるかれの生への執着を思うとき、また、自殺によってかれを切り離し得《う》るわたしの力をかれがいかに怖れているかを知るとき、わたしは心中かれを憐《あわ》れむの情に堪《た》えないのである。
これ以上この記録を書き続けることは無益であり、またそういう時間の余《よ》裕《ゆう》がわたしには全然ないのである。かつて何人もかかる責苦に苦しんだものはない、と言うだけに止《とど》めておこう。しかも、これほどの責苦に対しても習慣は――決して苦しみの軽減ではなく――ある種の精神的無感覚、一種の絶望的諦《あきら》めとでもいうべきものをもたらした。そしていまわたしの上に落ちかかって来た最後の災厄《さいやく》が起こらなかったとしたら、わたしに対する懲罰《ちょうばつ》はなお数年はつづいたかもしれない。しかしこの災厄が、わたしの生まれながらの容《よう》貌《ぼう》と性格を永久にわたしから剥《は》ぎ取ってしまった。最初の実験以来少しも補充《ほじゅう》しなかったので、塩類の蓄《たくわ》えも欠乏《けつぼう》している。わたしは使いを走らせて新しい品を調達し、それで薬を調合した。沸騰《ふっとう》も起こり、第一回の色の変化もあらわれたが、第二回目の変化は起こらなかった。それを飲んでみたが、ききめはなかった。わたしがどんなにロンドンじゅうを隈《くま》なく探しまわらせたかは、プールから聞けばわかるだろう。しかし無駄《むだ》であった。最初買入れた塩類が不純なものであり、その何物ともしれぬ不純物がかえって、薬に効力を与《あた》えたのであるということを、わたしはいまにしてはじめて思い知ったのである。
それから約一週間経過した。私はいま、最後に残った散薬の力をかりて、この陳述《ちんじゅつ》を書き終りたいと思っている。されば、これが、奇《き》蹟《せき》の起こらざる限り、ヘンリー・ジーキルがかれ自身の頭によって考え、あるいはかれ自身の顔(いまはなんと痛ましく変りはてたことだろう!)を鏡に写して見ることのできる最後である。あまり手間取らずに、この陳述書の結末もつけなければならない。なんとなれば、わたしの記録がいままで破棄《はき》を免れたのも、ひとえに大いなる配慮《はいりょ》と大いなる僥《ぎょう》倖《こう》との賜物《たまもの》にほかならなかったからである。もしもわたしがこの記録を書き綴《つづ》っている最中に、あの変身の苦痛に襲われるようなことでもあったら、ハイドはたちまちこれをずたずたに引き裂《さ》いてしまうにちがいない。しかしこれを綴り終ってから若干《じゃっかん》の時がたてば、かれがその怖るべき利己主義、刹《せつ》那《な》主義にかかわっている間に、おそらくはこの記録も、かれの猿のごとき執念《しゅうねん》深い仕《し》業《わざ》にであわずに残されることとなろう。そしてわれわれふたりに迫《せま》りつつある最後の運命は、すでにハイドを変化し圧倒《あっとう》してしまったことも事実である。わたしはいまから知っている。これから三十分後に、わたしは再びかの憎むべき人格に変身してしまうであろうが、そのときわたしがどんなに椅子のなかで戦慄し慟哭《どうこく》していることか、あるいは恐怖のために極度に緊張《きんちょう》し、(この世におけるわたしの最後の隠《かく》れ家である)この室《へや》のなかをあちこちと歩きまわりながら、どんなに無我夢中で耳をそばだてて、わたしを脅《おびや》かす物音はすべて聞き洩《も》らすまいとすることか。ハイドは絞首台《こうしゅだい》で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間に自己を救うだけの勇気があるであろうか? それは神のみぞ知ることで、わたしの関知するところではない。いまこそわたしの真の臨終の時である。これから後に起こることはわたし以外の者に関することである。されば、わたしがペンをおき、わたしの告白に封印《ふういん》するときこそ、またかの不幸なるヘンリー・ジーキルの生涯《しょうがい》の幕を閉じるときなのである。
解説
田中西二郎
1
ロバート・ルイス・スティーヴンソン Robert Louis Stevenson は一八五〇年十一月十三日、スコットランドのエジンバラで生まれた。父の名はトマスといい、祖父の代から二代つづいて、スコットランド海岸に著名な幾《いく》つかの灯台を建設した土木技師として世に知られた家柄《いえがら》であった。母マーガレットは牧師リュイス・バルフォアの娘《むすめ》で、フランス人の血をひいていた。
幼年時代のスティーヴンソンが病弱だったことは伝説的にまで有名である。冬になると一歩でも外出すれば気管支炎や肺炎に冒《おか》されたし、胃もわるかった。乳母《うば》のアリスン・カニンガムが始終やさしく看護して、聖書や十七世紀スコットランドの宗教的独立運動の物語などを読み聞かせ、病弱な子供の空想を育て、読書欲をめざめさせた。
家業を継《つ》がせようとする父の意向でエジンバラ大学では初め工学を学び、次に法科に転じて弁護士の資格を得たが、まもなく生涯《しょうがい》つきまとった肺患《はいかん》のためサフォークの親戚《しんせき》の家や地中海のリヴィエラで静養のかたわら、ようやく文筆に親しむようになった。
最初に筆を染めたのはエッセイと旅行記で、一八七六年に北フランスの河や運河を丸《まる》木《き》舟《ぶね》で周遊した『内地の船旅』やその二年後の『驢馬《ろば》の旅』の紀行、また数年後に『ヴァージニバス・ピュエリスケ(青年処女のために)』、『わが親しめる人と書物』の二著に収められたエッセイがその頃《ころ》に書かれた。だがその前に彼《かれ》の生涯に大きな転機が来る。
それは一八七七年、パリで、二人の子供を連れて滞在《たいざい》していた有夫のアメリカ女性ファニー・オズボーンとのめぐりあいであった。ふたりは恋《こい》に落ちた。次の二夏はパリで楽しく過ごされたが、やがてオズボーン夫人はカリフォルニアの夫の許《もと》へ帰らねばならなかった。越《こ》えて一八七九年、夫人が病気になり、離《り》婚《こん》の手続をとろうとしているという便りに接して、スティーヴンソンは病弱の身でアメリカへ渡《わた》った。大西洋の船旅、粗《そ》末《まつ》な汽車での大陸横断旅行のあと、サンフランシスコに着いた彼は二度まで瀕《ひん》死《し》の重症《じゅうしょう》に苦しみ、旅先での困窮《こんきゅう》とたたかいながら、ようやく離婚の成立したファニーと結婚することができた。妻と二人の連れ子とをともなって帰った彼は、ファニーが両親に気に入られて、はじめて長いあいだの親子の不和を解消することができ、落着いて著作に没頭《ぼっとう》できるようになった。夏はピトロクリやブレーマーの避《ひ》暑《しょ》地《ち》で、冬はスイスのダヴォスで、病を養った。『宝島』はこの頃、ファニーの連れ子のロイド・オズボーンを楽しませるために空想の地図を描《えが》き、それをもとに毎日一章ずつ書いては夕食後に子供に読み聞かせたのが元でできあがった、という話は有名である。一八八二年、短編集『新アラビア夜話』出版、この年南仏のイエーレに住居を持ったが、やがて父の病が重くなったので帰国し、ブァンマスに家を買って住んだ。
彼の文名が確立したのはこのブァンマス時代(一八八四―八七)である。『プリンス・オットー』、『誘拐《ゆうかい》されて』に次いで、わずか数日で書き上げた『ジーキル博士とハイド氏』The Strange Case of Dr.Jekyll and Mr.Hyde(一八八六)が出て、空前の成功を収めた。三年前に出ていた『宝島』も冒険《ぼうけん》小説の傑作《けっさく》として盛《さか》んに読まれるようになった。
一八八七年、父が死んで、母と妻子とをともなってアメリカへ渡ってから、彼はついに一度も故郷へ帰らなかった。アメリカの出版者スクリブナーズの依《い》頼《らい》で一巻の南洋紀行の著述を求められ、キャスコ号というヨットを買い入れて家族を連れ、マルケサス、タヒチ、サンドウィッチ諸島などを巡遊《じゅんゆう》したのが機《き》縁《えん》となり、南太平洋の風土が自分の健康に最も適していることを知ったので、老母を故国へ帰らせ、ホノルルに約半年をすごしてから再び南海へ向って旅立った。最後にサモア諸島中のウポルー島に土地を買い、妻ファニーとその子ロイド・オズボーンとともに、ここを永住の地と定めた。
みずから“ヴァイリマ”と命名したこの未開の島で、彼は島人からツシタラ(酋長《しゅうちょう》の呼称)と呼ばれて、敬われ、慕《した》われつつ、執筆《しっぴつ》生活をつづけた。原住民の政争を調停したり、教化につとめたりしながら、世界の各国から訪《おとず》れる遠来の客をよくもてなした。そしてこの最後の六年間は健康にも恵《めぐ》まれて、『バラントレー家の若殿《わかとの》』、『カトリオーナ』、『難船掠奪《りゃくだつ》船』(ロイド・オズボーンとの合作)、『島の夜話』等の成熟した作品を書き、不朽《ふきゅう》の傑作『ハーミストンのウエア』執筆中、一八九四年十二月四日、突然《とつぜん》卒中の発作を起こし、わずか二時間で息を引き取った。
ヴァイリマの原住民たちは“ツシタラの死”を悲しんで、翌朝までにヴァイア山頂にいたるほとんど垂直な道を切り開いて、恩人の遺《い》骸《がい》を山頂にはこび、彼の望みどおりそこに葬《ほうむ》った。サモア時代のスティーヴンソンの生活は、その日記や親友コルヴィンあての手紙にもとづいて、わが中島敦《あつし》の名作『光と風と夢』が美しく描いている。
2
英米、ことにイギリス文学の伝統に、unpleasantness の興味というものが、濃《こ》く流れている。アンプレザントネスは不《ふ》愉快《ゆかい》と訳したのでは、ちょっと何のことかわからないが、人間の生活は愉《たの》しいほうがよく、愉しからざることをなるべく避《さ》けて生きようと心がけるのが普《ふ》通人《つうじん》の態度であり、同時に愉しからざることを避けえないのが人生であることを誰《だれ》でも知っている。貧、老、病、死はみな愉しくないが、それらのほうが愉しいことよりも却《かえ》って現実的に感じられるのは、実はそれが愉しくないからであろう。だがそう考えるとリアルな人生を描いた小説はみなアンプレザントネスの文学ということになり、そういうジャンルを考えることが無意味である。しかし小説の読者はみな他人が借金に苦しんだり、好きな女に逃《に》げられたり、他人の生活のアンプレザントネスを上手に味つけした物語を料理を味わうように味わって、それを “愉しんで”いる人種だということを反省するのは無意味ではない。
英人のいう unpleasantness はもう少し限定された意味である。というのは、すでに愉しからざることが人生の本質により《・・》近いことを認識《にんしき》してしまえば、だからこそ、人生は愉しいと空景《からけい》気《き》をつけないで、おたがいに愉しからざることを内に耐《た》え、少なくとも社会生活では愉しくはないまでもできるだけ愉しからざる人生の真相を暴《ばく》露《ろ》しないように生きてゆこうと努力するのが、彼らの考え方であり、生き方である。ある場合、それは他の国民には、虚飾《きょしょく》とも、偽《ぎ》善《ぜん》とも、狡猾《こうかつ》ともみえるかもしれないが、こういう考え方、生き方が、彼らの富、彼らの良識、彼らの民主主義、彼らの労働運動や福《ふく》祉《し》国家建設、彼らの愛国心等を育て、また特色づけてきたことも疑えない。コモン・センスとか、ジェントルマンシップとかいう言葉の内容が、そこに根ざしている。だが、このように「愉しからざること」を締《し》め出そうとする努力は、それを殺しきることはできない。むしろそれを内に耐えることによって、それは精神によっていっそう unpleasant になる。貧、老、病、死といえば受身であるが、それらはみな貪欲《どんよく》、虚栄、放《ほう》埒《らつ》、憎《ぞう》悪《お》、嫉《しっ》妬《と》、その他、その他の人間の悪につながっている故《ゆえ》にこそ、いっそう耐えがたいのである。それらの悪心を良識がしりぞければしりぞけるほど、それらはいっそう醜《しゅう》悪《あく》な腫物《はれもの》のように精神の内部で化《か》膿《のう》し、腐《ふ》爛《らん》する。それの社会的なあらわれが、犯罪であり、スキャンダルであり、自殺である。逆に、犯罪、醜聞、背徳行為等は各人の心のうちに抑圧《よくあつ》されている悪心に鋭《するど》く反応し、そこに人間のまぬかれえぬ“愉しからざる”もろもろの深淵《しんえん》を人々にのぞかせる。怖《おそ》ろしいが、同時にそれはコモン・センスに生きている普通人にとって、内心の膿《うみ》を切開し、爛《ただ》れを癒《いや》す快感でもある。心理学上でいうカタルシスの作用がここに起こり、一般《いっぱん》に愉しからざることを愉しむ嗜《し》好《こう》という逆説的な現象として、何故《なにゆえ》に特にイギリス人が探偵《たんてい》小説、怪《かい》奇《き》譚《たん》、悪党譚、冒険譚、スリラー、スパイ物語等を愛好し、またイギリスの作家がこれらの文学の名手であるかの謎《なぞ》が解ける。
つまり右に挙げたような、英米の大衆が廉《れん》価《か》版《ばん》で買って一晩で読みすてる種類の文学の特質、すなわちそれらに共通する魅力《みりょく》の性質を一言で言いあらわそうとすると、それは unpleasantness(不愉快)という魅力なのであって、そうした特殊《とくしゅ》な刺《し》激《げき》を求める読物が、もっと日常的な現実生活の諸相を追究する所《いわ》謂《ゆる》“純文学”よりも一段低い眼《め》で見られていることは、英米でも日本と変りはない。事実イギリスでは shilling shocker とか penny dreadfuls とか、この種の小説に対する蔑称《べっしょう》があって、その蔑称にふさわしい駄《だ》作《さく》が年々大量に生産されている。しかしこうした嗜好そのものは前述のようにイギリス人の本来の性向に根ざしたものである以上、こうした通俗小説の形式をとって発表される作品のうちに、しばしば眼をみはらせるような傑作、名作がまじっていることがあるのもまた、驚《おどろ》くに当らぬことである。現代でもグレアム・グリーンとかエリック・アンブラーのような優《すぐ》れた作家が、わざわざ“エンタテインメント”(娯《ご》楽《らく》読物)と自作に銘《めい》打《う》ったりしながら、芸術的価値の上では純文学的作品と甲乙《こうおつ》のつけがたい“スリラー”やスパイ物語を書いている。
さて、ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、まさにイギリスのこの“不愉快”の文学の古今を通じての第一人者である。そしてこの『ジーキル博士とハイド氏』は右に説明したアンプレザントネスの原理を、もっとも巧妙《こうみょう》にフィクションの形で提出しているという意味で、彼の最高の傑作ではないが、最も重要な作品の一つである。つまりこの作で彼は彼自身の文学だけでなく、英文学の強い一面――したがってイギリス的知性の一面を、もっとも的確に定式化してみせた。
主人公ジーキル博士は、すぐれた学者、名望ある紳《しん》士《し》として、富と名《めい》誉《よ》と徳行とで社会から重んぜられる人物であり、しかも青年時代から放《ほう》恣《し》な逸楽《いつらく》を求めて人知れず悪行に身をゆだねる二重生活を送って来た。その内部の悪心を自由に解放する道を必死に求めた彼は、おのれの知力によって薬品の力で、おのれの分身ハイド氏の創造に成功する。ハイド氏こそは私が先に説明した“アンプレザントネス”の典型的な像にほかならない。物語は主人公がみずから解放したみずからの悪心の跳梁《ちょうりょう》によって身をほろぼすにいたる結末によって、作者は依然としておのれの悪に耐えるイギリス的紳士の態度を擁《よう》護《ご》したような印象を与えるが、読者の感銘はまたおのずから別であろう。それはこの作のもつ“力”が、一時代の堅《けん》固《ご》な文明の神髄《しんずい》を理解させるものを持っているからである。
(一九六六年十二月)
(1)カインの異《い》端的《たんてき》思想……旧約創世紀四章八―九。カインは弟アベルを野原で殺し、主から「弟アベルはどこにいるか」と問われ、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」と答えた。このカインの考え方をアタスンが採用したことをいう。
(2)デモンとピシアス……ギリシア古代、前四世紀前半の二人の青年。きわめて信義の厚い親友であった。ピシアスが死《し》刑《けい》の宣告を受けたとき、家事の整理のため帰宅するあいだデモンが身代りとして獄《ごく》に入った。ピシアスが約束《やくそく》どおり刑をうけるため帰ったので、ディオニシウス王はその信義に感じてその罪を許した。
(3)フェル博士……Dr.John Fell(1625―86)オックスフォードの有名な宗教家・教育者だったが、大学の下級の友トマス・ブラウンが"I do not love thee,Dr.Fell,/The reason why I cannot tell."という詩を作ったので、「何となくとっつきにくい(いやな)人」のことをいうようになった。
(4)フィリッパイ市の囚《とら》われ人……新約使徒行伝一六章二五、二六。ピリピの町で使徒パウロはシラスとともに捕《とら》えられ、獄にいた。「真夜中ごろパウロとシラスとは神に祈《いの》り、讃《さん》美《び》を歌いつづけたが、囚人《しゅうじん》たちは耳をすまして聞きいっていた。ところが突然《とつぜん》、大《おお》地《じ》震《しん》が起こって、獄の土台が揺《ゆ》れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖《くさり》が解けてしまった」
(5)バビロンの王城……旧約ダニエル書五章。
(6)避難《のがれ》の都市《まち》……旧約ヨシュア記二〇章一―三。「そこで主はヨシュアに言われた、『イスラエルの人々に言いなさい、先にわたしがモーゼによって言っておいた、のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい』」