黒い大陸
スタンレー/宮西豊逸訳
目 次
一 ザンジバル
二 発端の騒ぎ
三 ヴィクトリア湖へ
四 ヴィクトリア湖周航
五 湖上の騒乱
六 ウガンダ帝国
七 タンガニカ湖
八 大河の秘密を探るために
九 暗黒の密林から大河へ
十 戦いながら大河をくだる
十一 瀑布を越えて
十二 河上の明暗
十三 死の大河
十四 目的を達成
十五 さらば大河よ
十六 故郷へ
解説
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スタンレー(Henry Morton Stanley)略歴
(一八四一〜一九〇四)アメリカのアフリカ探検家。イギリス・ウェールズのデンビーに生まれ、貧しい家に育ち、少年時代はジョン・ローランズという名前であったが、十七歳のとき、アメリカへ渡り、ニューオーリンズの富商スタンレー家の養子となった。二十歳のころ、南北戦争のさい、南軍に参加し、後、北軍に加わった。ニューヨーク・ヘラルド紙の記者となり、チベット、コーカサス、エチオピアなどで活躍。アフリカ探検中に消息を絶ったリヴィングストンを新聞記者として捜索、一八七一年ウジジで病床の彼と邂逅、その手記で有名になった。
ついで一八七四〜七七年、東海岸からコンゴ川を下って大陸横断に成功した。『黒い大陸(Through The Dark Continent)』はこの第二回アフリカ探検の記録であり、スタンレーの多くの著書のなかでも、最も有名かつ広く読まれた探検記である。一八七八年、ベルギー王レオポルド二世の要請により、国際コンゴ協会の代表になりコンゴを踏査し、その結果、コンゴ自由国が創設された。一八八七年、ナイル川上流でエミン・パシャを救出し、「月の山」を発見した。イギリスに帰化した後、下院議員に選出された。ロンドンで死去。
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一 ザンジバル
一八七四年八月十五日、私はイギリスを出帆して、アフリカ東岸へ向かった。
イギリスのデイリー・テレグラフ紙、アメリカのニューヨーク・ヘラルド紙の両新聞が、アングロ・アメリカン・アフリカ探検隊隊長として、私を派遣したのだった。こんどの探検の主要な目的は、ディヴィッド・リヴィングストン〔スコットランド生まれの宣教師、探検家。一八一三〜七三〕が追求しようとした「大河」の秘密を解き、タンガニカ湖の流出口を確かめ、ナイル川の水源をつきとめることであった。
九月二十一日、私はザンジバル島に着いた。なじみぶかい山の尾根、ヤシやマンゴーの木々の茂るゆるやかな傾斜面がぼうと、うす霞につつまれていた。うす青い空の下に、アフリカ大陸とザンジバル島とのあいだの海峡が、静かに眠っているようだった。ザンジバルの港に上陸して、私は旧友オーガスタス・スパーホーク氏の家へ出かけた。三年前に、消息を絶ったリヴィングストンを捜索するため、はじめて私がここへきたときと同じように、あたたかく歓迎された。
スパーホーク氏の助力で、まもなく私は、同行した三人の若いイギリス人たち……ケント州の漁師の息子フランシス・ポコック、エドワードの兄弟、ホテルの事務員だったフレデリック・バーカー、それに五匹のイヌたちを宿舎に落ちつかせた。そして多量の荷物を陸揚げして、倉庫に入れた。
多忙な日々がつづいた。アフリカ各地のいろいろな部族に提供する布地や、ガラス玉や針金を選んで、買い入れ、荷づくりもさせなくてはならなかった。採用されようとしておし寄せてきたザンジバルのワンワナ人(奴隷でない自由人の黒人)の大群の中から、適当な者たちを選抜することも重要な仕事だった。私は探検の経験のある者たちから、慎重に選びにかかり、マンワ・セラを首席班長とし、その下に各班長をすえ、探検隊を編成していった。
やがて、探検隊用のボート「レイディ・アリス号」がイギリスから着いた。長さ四十フィート、幅六フィート、深さ三十インチで、厚さ八分の三インチのスペインスギで特別に建造された優秀なボートだった。これは私の創案で、五つの部分に分割されているのだが、四つの部分はそれぞれ二百八十ポンド、一つの部分だけは三百五十ポンドの目方があった。検討してみると、密林を分けて運んでゆくのには、百人も人夫が入り用になりそうだった。ちょうどさいわいに、帰国しようとしていた腕ききのイギリス人船大工が、このボートを見て、出帆をのばし、私の希望どおりに、幅六フィートの四つの部分を三フィートずつの八つの部分に分割し、船の下ぶちは湖水に着いたとき、すぐ付けられるようにしてくれた。
若いポコック兄弟がこの工作を手伝った。この兄弟とフレデリック・バーカーは、多数の志願者たちのうちでも、とくに熱心にアフリカ探検を切望し、私に従ってきていたのだったが、やはり愛国心を忘れず、私の許可を求めて、十八インチ平方ばかりのイギリス国旗をつくり、キャンプや湖川のカヌーの上に、それを立てることにした。
探検隊の物品や薬品、寝具、衣類、テント、火薬、道具類、写真機、ボート、そのほか多数の用品の目方は一万八千ポンド、つまり八トン以上あった。これをおよそ六十ポンドずつに小分けすると、全部を運ぶのに人夫が三百人必要だった。さらに落伍《らくご》者が出ることも考慮してかからねばならなかった。それでバガモヨにも採用希望者たちを待機させておいた。そしてまず、ザンジバルのワンワナ人、ウスクマ地方出身のウスクマ人らを二百三十人、ザンジバルのアメリカ領事館の前に集合させ、それぞれの能力に応じて月給二ドルから十ドルとし、二年間または彼らの雇用が不要になるまで勤務する契約をさせた。
この契約の日に、おとなは二十ドル、少年十ドル、つまり四カ月分の給料の前渡しを受けた。食費も、採用時から出発日まで、一週一ドルの割りで支給された。各人は、近親や友人の許可や立会いがなければならなかったので、アメリカ領事館のすべての部屋も庭も、群集でいっぱいになった。ザンジバルとバガモヨで前渡しされた現金は、六千二百六十ドルだった。契約は一方的ではなく、私も彼らに、つぎのように誓約しなければならなかった……
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一 私は彼らを親切に扱い、がまんづよく彼らに対すること。
二 病気の場合は、適当な薬品を与え、できるだけの滋養《じよう》をとらせる。病人が前進できなければ、放棄せず、安全な場所へ運び、治癒《ちゆ》すれば、帰れるように便宜を図る。
三 たがいのあいだに争いが起こった場合は、私は公正に裁断する。強い者が弱い者をいじめたり、圧迫したりしないように、全力をつくすこと。
四 私は彼らに「父母」のように対し、蛮族や無法な土賊の暴力から、できるかぎり彼らをまもること。
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このようなことを私が実行すれば、彼らも男らしく任務を遂行し、私の指令を尊重して、忠実な部下として一致協力して私を支持し、危急の場合にけっして私を見すてないことを、彼らは約束した。
このようにして、アメリカ領事館の桟橋《さんばし》から、六隻のアラブ人の船が、探検隊を大陸へ輸送する手はずになった。お別れを告げる日がきた。私たちはイギリス代理領事や紳士淑女、ドイツ領事やフランス領事、アラブ人のサルタン、インドの友人たちに別離のあいさつをした。そして、一八七四年十一月十二日午後五時、盛大な歓送の声におくられながら、探検隊は乗船して、海峡を渡っていった。
太陽が沈んで、暗くなっていく海上を、悲壮な思いにつつまれながら、われわれは暗黒大陸へ向かうのだった。
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二 発端の騒ぎ
一八七四年十一月十三日の朝、パガモヨに上陸したわれわれは、第一回の探検のときにながく滞在して準備した古びた家へいった。そして荷物を納屋《なや》へ入れ、銃をきちんと並べ、イヌやロバたちをつなぎ、分割したボートを屋根の下の丸太の上において、白アリがつかないようにした。それから十日分の食費を各人に支給し、あちらこちらのテントでポコック兄弟は、アフリカ探検の心得をみんなに話して聞かせた。すこし落ちつくと、私はこの地で採用する連中を集めにかかった。
だが、三時間たたぬうちに、バガモヨはわきかえっていた。「白人がザンジバルの泥坊や悪党や殺し屋どもを引き連れて、この町を乗っ取りにきた」……そんな噂《うわさ》が街路にも、路地にも、広場にも、市場にも乱れ飛んでいた。探検隊の連中が目を血走らせ、それ銃だ、火薬だと騒ぎたてた。抜き身の剣をひっさげたアラブ人たちや火縄銃を持ったバルチスタン人たちが、威嚇《いかく》するように近づいてきて、そのあとから興奮した雑多な男たちがつづいた。背後には狂いたった女たちや、わんぱく小僧どもがひしめいていた。
「いったい、どうしたんだ?」と私はたずねた。
「どうしたんだと!」
この町のおえらがたの一人らしいアラブ人がわめき返した。「おまえの手下どもが盗んたり、殺したり、店を掠奪《りゃくだつ》したり、襲いかかったり、女たちに暴行してナイフをつきつけたり、放火して皆殺しにするとおどかしたりしているんだ。いったい、どういう料簡《りょうけん》なんだい?」
すさまじい黒い目でにらみつけ、たくましい腕で剣をふりまわしながら、このアラブ人は私の首をちょん切ってしまいそうな勢いを見せた。私は相手に腰をおろさせて、「談合」をした。数十人の男女が進み出てきて、ワンワナ人たちがやってのけた悪事のかずかずを並べた。それから三時間後に、やっと騒ぎがおさまり、二十余人のワンワナ人たちが引ったててこられて、いくつかの部屋に監禁された。
私はアラブ人の知事に使者をやり、乱暴したワンワナ人たちは逮捕して処罰してくれと告げさせた。ところが、私の要求に乗じて、あくる日、街路に顔を見せたワンワナ人たちが、ほとんどみな暴行を受け、三十余人が鎖でしばられて、鞭《むち》打たれた。私は知事に反省を促した。しかし、知事はいよいよ暴虐になり、鞭打ちや法外な罰金の取りたてを強化するばかりだった。
十一月十七日の朝、探検隊は大陸奥地への第一歩をふみ出した。ラッパが鳴りひびいて、全員は宿所の前に整列し、それぞれの力に応じて荷物が渡された。
たくましい男には、六十ポンドの布地の包み。これは絶えず費消されてゆくから、二カ月後に五十ポンド、六カ月後には四十ポンド、一年後には三十ポンドに目方が減るはずだった。小づくりのしっかりした男には、五十ポンドのガラス玉の袋。十八から二十歳の若者たちには、食糧や火薬や雑貨の四十ポンドの箱。落ちついた思慮のありそうな年輩の男には、科学器具、寒暖計、晴雨計、時計、六分儀、羅針儀《らしんぎ》、歩程記録計、写真機、乾板、文房具、科学書などの詰められた四十ポンドのカバン。歩き方がきわめて用心ぶかい男には、三つの経緯儀を入れた二十五ポンドの軽いカバンが渡された。
そして、真紅の寛衣をまとった十二人のガイドは、巻いて輪にした真鍮《しんちゅう》の針金を、彼らの特権として運ぶことにした。彼らは第二の前衛で、行動的な大胆な青年たちで……そのうちの幾人かは、後にボートの乗組みとなり、光彩陸離《こうさいりくり》の活躍をするにいたるのである。各班長はそれぞれの地位にふさわしい服装をし、スナイドル銃で武装している。ボート運搬人たちは、ザンジバルの荷運び人夫をやめて探検隊に加わった者たちで、筋骨たくましく、分割したボートの一つの部分に四人ずつかかり、二人ずつ交代で運んでいる。彼らは首席班長マンワ・セラだけは別として、各班長よりも高い給金をとり、おまけに二倍の食費を受け、妻を同行する特権も与えられている。乗用のロバも六頭いて、そのうちの四頭にヨーロッパ人……ポコック兄弟、バーカー、私自身が乗り、あとの二頭が病人用に当てられている。また病人のためには六つのハンモックもそなえてあって、六人の男が救護班の役目をするようになっている。
九時に探検隊は男女の住民に見おくられ、ほめられたり、けなされたりしながら、町を出発した。数百ヤード前方に四人の班長が進み、つぎは十二人のガイド、そのあとに荷を運ぶ二百七十人の長い列、つぎに三十六人の女たちと、十人の少年たち、班長たちやボート運搬人たちの子どもたち、そのつぎに乗用ロバ、ヨーロッパ人たち、銃運搬人たち、最後に後衛の役目をする十六人の班長たち。彼らは落伍者たちを拾いあげるのを任務とし、今後さらに人員が拡充されるまで遊軍として活動することになっている。このアングロ・アメリカン探検隊は、現在の総人員三百五十六人、半マイルほどの長蛇の列をなして、いまや、ヴィクトリア湖への道をたどってゆくのである。
エドワード・ポコックは長期間オールダショット兵営などで修練していたので、ラッパ手をつとめ、ガイド長のハマディに曲調を覚えさせていたから、歩行停止が必要となれば、すぐさまハマディに知らせることができる。ガイド長もたいへん長い象牙《ぞうげ》の笛を持っていて、その愛笛は適当なキャンプ地に近づいたときとか、危険を知らせる場合にだけ、吹き鳴らしてもいいときめられている。
ハマディの前を、まるまるとふとった少年が太鼓《たいこ》を持って歩いているが、その太鼓も村々に近づいたときにだけ、探検隊の接近を予報するために、打ち鳴らすことになっている。なにしろ、多くの村々は深い密林のなかにあるので、村人たちがささやかな所有物を隠すひまもないうちに、ふいに見知らぬ人間たちの大部隊が乗りこんだりすると、妙な警戒心や不信の念をまき起こす怖れがあるから、予報するのはきわめて重要なことなのである。
こんなふうにして、われわれは希望に満ちあふれながら、長い旅を始めた。波のような土地の起伏につれて、のぼったり、くだったりした。細道の曲がるにしたがって曲がってゆきながら、陽気な話し声や笑い声を野面《のづら》にひびかせた。太陽は輝かしく頭上に光をなげ、細道はかわいてしっかりしていて、探検隊の長く細い列は、絶好の条件で進行してゆくようにみえた。
しかし、ほどなくキンガニ川の流域へくだると、ぎらぎら照りつける太陽の暑熱が圧倒するばかりに激しくなった。すると、隊列はきれぎれに乱れ、落伍者が多くなった。男たちはやりきれないとこぼし、イヌたちは苦しそうにあえいだ。ヘルメット帽をかぶっている私たちも、目があけていられないほど汗が流れ、息づまりそうな気分になった。旅路に慣れた者たちは、三マイル向こうの川岸の木かげで休もうと進んでゆくが、慣れない者たちは黄褐色《おうかっしょく》の地面に倒れ、暑さを呪い、水をくれとわめき、ザンジバルをあとにしてくるのではなかった、などと自分の愚かしさを嘆いたりした。私たちは彼らを励ましたり、慰めたりして、つらいのは最初だけで、だんだん慣れてくるといって聞かせた。
先に川岸へいったフランクとエドワードの兄弟は、レイディ・アリス号を組みたて、人員や荷物やロバやイヌたちを、てきぱきと渡した。そして午後三時半には、ボートはまた分離され、天びん棒にかけて運ばれた。キコカへ向かう途中、強健で耐久力のある者たちと、弱くて耐えられない者たちとの数が、およそ見当ついた。マスティフ種の猛犬「カスター」が日射病で死んだ。もう一匹のマスティフ「キャプテン」もまもなくあとを追いそうだ。「ネロ」と「ブル」と「ジャック」の三匹は、せわしくあえぎながらも、わずかに生気を見せている。
キコカのキャンプ地で、十八日は休息した。重態になった二人の男の契約は解徐され、前夜キャンプへ申しこんできた男たちが、新たに採用された。
旅の初日に、多くのワンワナ人たちが参りはてたのは、熱帯の暑熱や旅に慣れないためばかりではない。ザンジバル島で彼らはじつに不摂生《ふせっせい》な生き方をしていて、阿片《アヘン》を吸い、石灰をまぜた檳榔子《びんろうじ》をかみ、たいていみなインド大麻の煙(麻薬)をすさまじく吸引する。こんな破壊的な悪習にふけっている者たちは、摂氏六十度に達する陽光のなかで耐えてゆくだけの肉体的精力がなくなっているのである。
十八日の午後、バガモヨの知事の手紙を持った兵隊が、キャンプへ差し向けられてきた。その手紙を見ると、ワンワナ人たちが十五人の女奴隷をそそのかし、主人たちのもとから逃亡させたから、その女たちを返してくれ、と私に要求していた。
私はみんなを集めて、調べてみた。すると、たしかに相当な数の女たちが、夜のうちに探検隊に加わっていた。そのうちの幾人かは、ザンジバルのイギリス人駐在官から与えられた自由人の証明書を持っていたが、九人の女たちは逃亡したと告白した。私はどんな政府からも権限を与えられていないし、こんな新手の奴隷解放の片棒をかつぐのは私の任務でもないので、それらの女たちは兵隊と帰るべきだと指令した。
ところが女たちも、そそのかした男たちも、やっきなって反対の気勢をあげた。男たちの一党は銃をひっつかみ、血みどろの争闘をまき起こしそうな気配を見せた。私は第一回の探検のときの「忠実な部下」四十七人を呼び出し、一党の前に立ちふさがらせた。フランクも二十人を連れて一党の背後へまわり、たちまち一党の銃をとりあげた。それから、私の忠実な部下の小部隊が、兵隊と女たちをキャンプから送り出した。
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三 ヴィクトリア湖へ
探検隊はロサトから美しい緑の渓谷《けいこく》へ下り、ゆるやかな尾根へのぼり始めた。細い水の流れに砂岩の層が露出し、その上を豊穣《ほうじょう》な黄色い土がおおっている。水の流れは迷路のように木立をまわり密林を抜け、高台のあいだを曲がりくねりながら、ワミ川のほうへ向かっている。
十一月二十三日、ボングウェの円錐形の山のふもと、海抜九百フィートの村でわれわれは野営した。歩程記録計はバガモヨから四十六マイルを記録していた。二十四日、人口の多いコンゴリドからムフテの村に着く。この辺からバオバブの巨樹が見え始める。この北方には、ライオンがたくさんいるという。
ワミ川の南岸を西へ進む。キドゥドゥ山の巨大な峰がそそり立って見える。二十九日、ルブティに着く。鳥獣が多い。このあたりから道は山脈のすそをまわり、幾多の水流を横ぎってゆく。
十二月三日、ムクンディ川にたどりつく。四日、マクビカへくると、風景は雄大になる。海抜二千六百七十五フィート。われわれは、いまカグル山の東がわをのぼっている。北方にウカンバの峰々が見える。あの斜面はゾウが群れているので、その名が高い。東キタンゲに近づくと、どの丘陵の上にも村々が点在している。マサイ族の襲撃に、しばしばおびやかされていた村々の住民は、ひどく臆病になっている。バガモヨから西へ旅してきたわれわれは、ここで家畜をはじめて目にした。
キタンゲからだんだんのぼって、四千四百九十フィートの山の背に達した。広大な高原が北西西へひろがっている。その端の澄みきった美しい池のそばで野営し、獲物を見つけに出かけた私は、シマウマの小群に近づき、二頭を射止めた。ブル・テリアの「ジャック」が、最初の異国の獲物にとびかかった。
銃持ちの少年ビラリが、キャンプへワンワナ人を呼びにゆき、八人の人間を殺したムセンナは、すでに一頭のシマウマの皮をはぎにかかっていた。
私が北の山を見つめていると、ふいにジャックがとび起きて南のほうを見つめた。そちらへ目を向けると、黄褐色の動物が奇妙な足どりで近づいている。ライオンだった。私はムセンナに合図して身を伏せ、銃を構えて待ちうけた。ライオンは三百ヤードまで近づいてきて、なにかに驚いたように立ちどまり、急に身をひるがえして八百ヤードばかり向こうの潅木《かんぼく》の茂みへ走りこんだ。十分間たってその茂みから動物の群れが現われてきた。が、暗くなり始めていたので、はっきり見えなかった。先頭のが百ヤードまで近づいたとき、私は撃った。それはとび上がって倒れ、ほかの動物たちはすさまじい勢いで駆け去った。しかし、倒れたはずのライオンを捜したが、見つからなかった。
あくる日、マンワ・セラが捜しに出かけ、ハイエナに食われた動物の赤味がかった毛をすこしばかり持ってもどった。この日、私は小さなカモシカを仕止めた。
十二月十一日、われわれは高原を横ぎってトゥブグウェに着いた。わずか七マイルの距離のあいだに、十四個の人間の頭蓋骨《ずがいこつ》がころがっていた。蛮族に襲われて殺された不運な旅人たちの遺骨にちがいなかった。西へ進み、海抜三千七百フィートの峠へ出ると、トゥブグウェの盆地が見え、柵をめぐらした村々や小さな耕地が散在している。
十二月十二日、ムプワプワに到着。バガモヨから二十五日の行程である。岩塩が巨大なかたまりになって露出され、灰色がかった石灰華も見られる。大木が多く、なかでも巨大なものはタマリンド、ハコヤナギ、バオバブなどである。
探検隊からの逃亡は、これまでに幾度もあった。はじめ探偵長のカチェチェと四人の部下は、私の指令を受けて、本隊より一日おくれて進みながら、十七人の逃亡者をつかまえた。が、まもなく悪知恵のあるワンワナ人やウスクマ人は、それに気づき、東へ逃げずに、南か北へ逃亡するようになった。それでわれわれは、暁前に、キャンプから数百ヤードの潅木のなかに探偵たちに身をひそめさせて、逃亡を防いだが、そうしてみても、うまくいかなかった。ムプワプワに到着するまでに、五十人逃亡した。彼らは受け取った前渡し金だけでなく、しばしば銃を持ち逃げした。
われわれは荒野を通り、暑い太陽の下を進んだ。二重のテントの下でも摂氏三十六度だ。雷鳴がとどろき、稲妻が光り始めると、急に二十一度に下がった。
十二月二十三日から雨期が始まった。激しい大雨にたたかれながら、黄色の水の激流におおわれた野を、われわれは苦労して進んだ。
ジンゲで、クリスマスの日に、私は友人につぎのような私信を書いた……
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「私はいま、七フィートに八フィートのセンター・ポール型のテントのなかにいる。ぬれた地面に張られた幕布は、部下の出入りにつれて泥がはねかかり、隅は力なくぐったりとたれていて、わびしくみじめな気分をふかめる。ぬかるみの泥から、一フィートばかりの高さのベッドに、私は腰をおろし、現状を悲しく思いめぐらしている。ほかの者たちも、自殺してしまいたいと考えているのか、じっとすわりこんで死を待っているもののようだ。雨が降りつづけると、粘土《ねんど》質の細道はすべりやすくなるし、荷物は重くなるし、衣類はめちゃめちゃになる。雨のために、私たちは元気をなくし、しおたれているばかりでなく、空腹なのだ……この辺では、この時期には食糧が乏しく、私たちは定量の半分しか食糧が入手できないからだ。
土着民は五月から十一月までに、彼らの食糧を消費しつくし、種まき月の十二月になると、ほんのわずかの穀類しか残していないので、すこしばかり購入するのにも、私たちは十倍の代価を払わなければならない。この十日間、私自身にしても、ぜんぜん肉類は食べておらず、たいた米とお茶とコーヒーだけですませているが、まもなく私もみんなと同じように、原住民と同じ粥《かゆ》をすすらなければならなくなるだろう。ザンジバルを出発するとき、私は百八十ポンドあったのだが、あれから三十八日間に百三十四ポンドに減った。若いイギリス人たちも、同じように肉体的に弱っている。もうすこし豊かな地方へたどりつかなければ、私たちは骸骨になってしまうだろう。私のイヌのうち、≪ネロ≫も死んだ。ああ! みんな死んでゆくだろう」
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西へ向かい、ジウェニでキャンプすると、この地の酋長《しゅうちょう》キタラロが私とたいへん親しくなり、私が探検隊を連れてきた喜びのしるしとして、一頭のふとった雄ウシを贈呈してくれた。
十二月二十九日、キタラロの息子に案内されて、われわれはサリマの広野へ出た。ムコンドゥクで、五十人の男たちが逃亡を企てていた陰謀《いんぼう》が発覚した。私は首謀者たちをおさえ、だまされていた連中の武装解除をして、実行を防いだ。熱病、足痛、眼炎、リューマチの病人が二十人になっていた。五人が銃を持ち逃げした。このようなことは、日々の出来事や損失のほんの一部分にすぎない。
ポコック兄弟とフレデリック・バーカーは、よく私を助けて、多数の無秩序な、異様な、同化しがたい連中を和合させるように努力し、尊い貢献をしてくれている。いろんな連中のあいだで、喧嘩がよくもちあがり、物騒《ぶっそう》な形勢になったりする。血の雨が降りそうになると、私が割って入らねばならない。私は太陽の観察をしたり、人種学の覚書を記したり、酋長たちと貢金の交渉をしたり、病人の手当をしたり、朝から夜まで多忙をきわめている。
一八七五年一月一日、ムコンドゥクの首長から案内人を提供されて、われわれは北へ向かった。ワフンバの村の幾人かの女たちは、輪郭《りんかく》のととのった顔だちで、鼻の形もよく、唇もうすく麗しく、優美な姿体をしていて、異常にきれいだった。原住民たちはヨーロッパ人にたいへんな好奇心をもっていた。おもだった男女が村に泊まれとすすめたり、若い酋長が血をすすりあって兄弟分になろうとせがんだりした。
われわれはムティウィで野営した。夜、一時間ばかり豪雨が降りつづき、深さ六インチの水がキャンプ地を南へ流れた。テントの外がわで叫ぶ声を聞いて、私がろうそくをつけてみると、私のベッドは浅い川のなかの島みたいになっていて、これより深さと流れが増せば、私はルフィジ川のほうへ押し流されてゆくにちがいなかった。私の長靴は小舟のように浮き上がり、テントから外へ出ていこうとしていた。ジャックとブルは火薬箱の上に尻を押しつけあってすわり、弱りきってうなっていた。
朝になって、私の作業帽がテントの外へ流れ、長靴が南へ航行しているのがわかった。多量の火薬や米、茶、砂糖がだめになっていた。十時に太陽が現われ、自分のるすのまにできた新しい湖に、目をまるくした。昼ごろに、かなり水がひいたので、われわれは出発した。そして一月四日、ウヤンジに野営し、ウゴゴの高原を見おろした。高原をぬけ、ムハララに向かう途中、幾百人もの避難民が、キルルモ付近の戦場から逃げてくるのに出会った。西ウンヤムウェジの武将、ミランボがまき起こしている戦争の余波だった。ムハララで、われわれは新たに案内人を雇い、北東へ進んだ。
八日の午後になって、案内人が道をまちがえ、われわれを東方へ導いているのがわかった!
われわれはウヴェリヴェリの小村へたどりついたが、食糧はなかった。私は食糧を購入するために、屈強な四十人の男たちをスナへ派遣した。また、マンワ・セラに命じて、二十人の男たちを連れて落伍者たちを捜しにいかせた。三人の落伍者たちは空腹と憔悴《しょうすい》のために死んでいた。コーヒーの荷を積んだロバを引っぱっていた少年は、ついに見つからなかった。
十日の朝、私は獲物を射止めようと歩きまわったが、まるで出くわさなかった。ワンワナ人たちは草の根や木の実を捜しに出かけた。ある者たちは腐ったゾウを見つけてむさぼり食い、吐き気に襲われた。他の者たちはライオンの巣で二匹の子を見つけ、私のところへ持ってきた。薬品の包みをあらためていたフランクと私は、ひき割りカラスムギを発見した。さっそく、かゆがつくられて、みんなに一ぱいずつ分け与えられた。彼らは熱烈に「神さま」のお慈悲に感謝した。十一日の朝七時に、食糧の購入に出かけていた男たちが、みんなに一度たっぷり満腹させられるだけのキビを、運んでもどってきた。一同はそれを平らげると、スナをめざして出発した。
夕方、私はイノシシとカモを撃った。われわれはスナに四日間とどまった。病人が三十余名になり、エドワード・ポコックが発疹《はっしん》チフスにかかった。
ワンワナ人のうちでも手癖の悪いアルサシが、スナの原住民の穀物とニワトリを盗み、それが探偵長カチェチェの調べで判明し、アルサシは原住民たちの面前で鞭打たれたけれど、原住民たちは探検隊に対して不穏な気配を見せていたので、一月十七日、病人をハンモックに乗せ、幾百人もの武装した原住民たちのあいだを通り、ゆっくりと移動した。言いようもなくみじめな気分だった。そしてわれわれはチウユにたどり着き、丘の頂上に野営した。海から四百マイル、海抜五千四百フィートの地点だった。
「隊長は成功された」とエドワード・ポコックは、うわごとにつぶやき、自分はとても安らかな気持だといった。広々とした円形のキャンプ地に柵《さく》がめぐらされ、草小屋が建てられていたとき、フランクが呼びにきた。私はエドワードのそばへかけつけた。その瞬間、エドワードは最後にあえいで、息をひきとった。
ひろく枝をひろげたアカシアの根方に、われわれは深さ四フィートの穴を掘った。そして日没の光に照らされながら、経帷子《きょうかたびら》に包まれた死体を、最後の憩い場所に横たえて、お祈りをささげた。
チウユからマングラを通過したわれわれは、イトゥルへはいった。この地方の家畜は、ヒツジもヤギもやせこけていた。注意をひいた鳥類はガン、カモ、チドリ、シギ、ツル、青サギ、ヘラサギ、インコ、カケスなどだった。
一月二十一日、ヴィンヤタ着。フランクとバーカーと私は、荷物の整理をした。ここへくるまでに死亡二十人、逃亡八十九人だった。布の包みを調べてみると、いくつかの包みは雨でぬれていたので、布をひろげてかわかさなくてはならなかった。そうしている最中に、ヴィンヤタの妖術医師が、友好の貢物として一頭のふとった雄ウシを連れてきた。吉兆と考えられたので、彼は私のテントへ案内された。
私は良質のコーヒーやビスケットを出して彼を歓待してから、十五枚の布、三十個のガラス玉、十ヤードの真鍮《しんちゅう》の針金を彼に与えた。彼の雄ウシの代価の四倍に当たるお返しだった。彼がほしがるままに、からのサーディンの箱や、スープのびん、ジャムの空き缶など、こまごました物も与えられた。彼が要求するとおりに、私はしかつめらしく兄弟分になる儀式もやった。しまいに辞去しようとするときに、雄ウシを処分する準備がととのえられているのを見た彼は、その心臓は自分に返してもらいたいといった。それを待ちうけているあいだに、彼や供たちが、キャンプ地でかわかしている布に物ほしげな眼差しをなげているのを、私は不安な気持で見てとった。日中にワンワナ人たちは、以前のうめあわせに数日分の食糧を与えられ、この地の原住民たちときわめて仲良くつきあった。だが、夜、就寝時刻前になって、喘息《ぜんそく》のために到着が遅れていたカイフ・ハレック(一八七一年にリヴィングストンに書状カバンを運んでいった男)が、途中の森の端で三十箇所の切り傷を受け、殺されているのを発見した、とマンワ・セラが報告してきた。どうすることもできなかった。本隊から遅れないように、一同に伝え、病人を独り歩きさせてはならないと後衛に厳命するしかなかった。
あくる朝八時ごろに、妖術医師が一リットルばかりの凝乳をもって現われ、返礼を受け取って、九時半ごろに握手して引きあげた。
それから半時間ほどたって、ワンワナ人たちが穀物の購入に出かけたり、森へいって薪《たきぎ》を集めたりしていたとき、戦いの叫び声が聞こえた。住民同士の争闘だろう、と私たちは考えて、べつに気にもとめなかった。が、その「ヘフーア、ヘフ」という特異な叫び声は、だんだん近づいてきたので、私はいぶかしがりながら、キャンプ地の高台に、少数の人間たちを集めた。すると、まもなく百ヤード向こうの高台に、槍や楯《たて》や弓矢で武装した原住民の大集団が現われた。なんのために襲来したのか、私にはわかりかねた。
私は武装しない二人の使者を先方へやった。使者はキャンプ地と原住民との中間に立ち止まり、腰をおろして、二人の原住民に進み出させ、「談合」した。
使者の報告によって、ワンワナ人の一人が乳を盗んだのが、原住民襲来の原因とわかったので、私たちはその窃盗の損害を十分な贈り物でつぐないたいと申し入れた。しばらくして先方は同意した。たっぷりと布地が贈られて、この問題は解決したようにみえた。ところが、原住民が平和に退去しようとしていたとき、北から別の大集団がおし寄せてきた。二つの集団のあいだで口論が激しくなった。北からきた好戦的な連中は、あくまで戦えといきまいているのらしかった。
その最中にザンジバルの若者ソウディがよろめきこんできた。彼は投げ矢や投げ槍で傷つけられ、こん棒で額を打ち割られていて、兄のスリマンがキャンプの西の森の近くで殺されたと告げた。しかし、私たちはなにもしないことに決めた。堪忍《かんにん》が大事であることを、リヴィングストンに強く教えられていた。
「静かにかまえているんだ」と私はいった。「彼らがキャンプを襲撃してきたら、戦ってもよかろう」
そしてフランクに命じ、各人に二十発ずつ弾丸を配布させ、キャンプの入口の両がわに人員を配置させた。
原住民たちの評定はまだ決まらず、戦闘は避けられそうにみえたおりから、若いスリマンを殺した連中が、血まみれの武器をふりかざしながら進み出て、みんなを戦闘へあおりたてた。
「ワンワナ人は臆病者、白人どもは女みたいな奴らにすぎんわい」
彼らは急速に態勢をととのえ、ときの声をあげ、矢を放ってきた。キャンプが鳴りをひそめているのを、怖れてふるえあがっているものと判断した蛮人たちが、三十ヤードまで近寄ってくると命令一下、ワンワナ人とウスクマ人が駆け出た。蛮人たちは二百ヤード退却した。探検隊はまだ発砲しなかった。蛮人たちはまた前進してきた。私たちはもうためらわない、と通訳に先方へ伝えさせた。先方はとりあわず、矢を放った。そこではじめて探検隊に戦闘開始の命令がくだされた。活発な交戦が一時間つづいた。そして蛮人が追い払われると、ワンワナ人たちはキャンプへ呼びもどされた。
そのあいだにフランクは、斧を持った六十人の男たちに堅固《けんご》な柵をつくらせていたが、ワンワナ人たちはキャンプの隅ごとに「狙撃兵の巣」を建てるのに使用された。またキャンプの周囲二百ヤードの地面も、邪魔になるものがきれいに取り除かれた。
夜になったころには、キャンプは難攻不落、完全な防衛態勢がととのっていた。
二十四日の朝、われわれはキャンプで待機した。攻勢に出る気持はなかった。戦闘力のある男たちは七十人にすぎず、あとは病人や、おびえた運搬人や、女や子どもたちだった。しかし、九時に敵勢が現われた。人数も自信も増しているようだった。われわれのほうは、十人ずつ七個分隊を編成し、攻撃されれば、反撃して、五マイルかなたまで追撃する作戦をたてた。
まもなく、左翼の分隊が混乱におとしいれられ、皆殺しにされて、やっと生き残った一人が報告にきた。そこでマンワ・セラが十五人を率いて救援にかけつけ、第二分隊の八人を助けた。第三分隊は大胆に前進したが、六人を失った。サフェニの率いる第四分隊は、慎重に行動して、占領した村々に火を放った。十人の応援隊が派遣された。
午後四時ごろ、ワンワナ人たちは雄ウシやヤギを引っぱり、穀物を持って帰還した。この日、わがほうは二十一人の戦士と一人の使者が殺され、三人が傷つけられた。
二十五日の朝も、九時に敵勢は襲撃してきた。猛烈な一斉射撃で敵を追い払ってから、私はワンワナ人たちに指令して、密集隊形で進ませることにした。戦死した戦士たちの代りをつとめたい、と申し出る運搬人たちもあったので、探検隊はまだ強烈な戦力を発揮できた。キャンプ付近のすべての村々を潰滅《かいめつ》させてから、彼らは追撃をつづけ、最後に蛮人たちが本拠としていた岩山を攻撃し、ほうほうのていで遁走《とんそう》させた。
二十六日の夜明け前に、われわれはふたたび旅路をたどり始めた。この日の探検隊の総数はヨーロッパ人三人、ワンワナ人とウスクマ人二百六人、女二十五人、少年六人となっていた。われわれはヴィンヤタの真西十マイルばかりの地点に野営した。
二十九日に、ムゴンゴ・テンボの地へはいった。われわれは酋長と近づきになり、また例の著名な武将ミランボの噂を聞いた。神出鬼没《しんしゅつきぼつ》のミランボは、いまわれわれの前方で戦っているというのだった。さらに酋長は、われわれがヴィンヤタの蛮人たちに襲撃された理由も説明した。妖術医師に雄ウシの心臓を与えたから、蛮人たちはわれわれの肉体が衰弱したと思いこみ、たやすく屈服させることができると胸算用した。「奴らは強盗だよ」と酋長は話すのであった。
二月十日、われわれはモンビティの村に着いた。もはや、豊かなウスクマ地方へかなり入りこんでいたので、飢える心配はなかった。この高地の穀物、豆、ジャガイモ、エンドウ、ゴマ、キビ、野菜、蜂蜜、タバコなどを多量に仕入れることができた。探検隊はニワトリやヤギをふんだんに平らげた。みんな、ながいあいだの努力に対する報酬《ほうしゅう》を受けた。「太っ腹な白人」というおせじめいた称号を、私はまたささげられた。受け取った報酬で男たちも女たちも子どもたちも、たっぷり胃袋を満たし、どんちゃん騒ぎに浮かれた。われわれは歓喜と満悦の三日間をすごした。
ながらく苦しんできた者たちの荷を軽減するために、一群の運搬人たちが雇用され、新たな元気と活力にみち、豊富な予備品をもって、われわれは密林へ入りこんでいった。モナンガ川のあたりでは、たくさんのキリンがアカシアを食っていた。
二月十七日、東ウシハに到着。ウシハから、じつに美しい牧歌的な地方が展開する。起伏する緑の草原に、幾千の家畜が散在している。十九日の夜明けに、ゆるやかにうねる牧草地を、のぼったりくだったりして進む探検隊に、幾百人もの原住民たちがついてきて、陽気に話しかけたり笑ったりした。そして別れしなに「また、きておくれよ」といって引き返していった。モンドの北方は、アバディまで、木のない公園のようだ。ほとんど一本の潅木《かんぼく》もなく、草はほんの一インチばかりにすぎない。が、岩をいただいた丘陵は、あちこちにある。アバディのおとなの男たちは、真裸で歩きまわっている。しかし、女たちは牛皮をまとっている。アバディでは、敷布地六ヤード出せば、雄ウシ一頭が入手できる。ウゴゴ地方の八分の一の値段だ。
二月二十七日、われわれは朝早く起きて、気をひきしめた。午後四時にヴィクトリア湖畔のカゲヒイに着く予定だった。ラッパが鳴りひびいて、探検隊は出発した。われわれは盆地へくだり、尾根を越え、水流や峡谷を横ぎり、耕地のそばを通り、村々をぬけ、ゆるやかな坂道をくだっていった。すると突然、前方に歓声が聞こえた。前衛がヴィクトリア湖を見たのだ!
大急ぎで峠へのぼっていったフランクが、じっと見つめてから、帽子をふりながら、私たちのほうへもどってきて、歓喜に顔を輝かせ、青年らしい熱烈さで叫んだ。
「湖を見ましたよ、隊長、あれは雄大です!」
病気の身をロバに乗せて運んでいたバーカーが、顔をあげて微笑した。まもなく私たちも峠へ着くと、探検隊は休止していた。そして六百フィート下方、三マイルかなたに、長大なスピーク湾の水面が見えた。輝かしい陽光に、銀色に化していた。われわれの立っている峠のすそは、ゆるやかに広い湾へくだり、その岸には緑のアシが生え並び、疎林が散在し、円錐形の小家の集まった小村がいくつかあった。その向こうに、湖は銀色の平原のように、はるか東方へのびひろがっていた。いくつかの灰色の岩の小島が、白帆をあげたアラビア船のように見えた。このウスクマ地方出身の若い男が、歓喜の声をあげて歌い出した……
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歌え、おお仲間よ、歌え、旅は終わったぞ。
たからかに歌え、おお仲間よ、
この大湖《おおうみ》をたたえて歌え。
みんな歌え、声高く歌え、
おお仲間よ、この大うみをたたえて歌え。
後ろの国を最後にながめ、この海に向かえよ。
ずっと前におまえらは、自分の国をあとにして、
女房や子どもたち、兄弟や仲間をあとにしてきた。
塩からい大きな海をあとにしてきてから、
こんな海を見たことがあったか?
(合唱)
では歌え、おお仲間よ、歌え、旅は終わったぞ。
高らかに歌え、おお仲間よ、
この大うみをたたえて歌え。
この海は真水、味がよくて、甘いぞ。
おまえらの海は塩水、味が悪くて、飲めやせぬ。
この海は渇いた人間が飲めば甘露《かんろ》。
塩からい海ときては、へっ! 飲めば胸が悪くなる。
顔をあげろよ、おおみんな、
そしてとっくり見てみろや。
果てが見えるか見えないか。
見ろや、はるかにはるかにひろがるよ、
この大きな、甘い、真水の海は。
おれたちはウスクマ生まれ、
牧草地、ウシとヒツジとヤギの国、
勇士、戦士、強い男たちの国、
そして、ほーら! これこそ名高いウスクマの海。
おまえら仲間よ、
おれたちを笑い草にしてきたおまえらよ、
アーハッ! ワンワナ人たちよ。
いま、おまえらはなんというぞや?
おまえらはこの国を、牧草地を、家畜を見て来、
いま名も高いウスクマの海を見ておるんだぞ。
カドゥマの領地はすぐこの下よ。
あの酋長はウシもヒツジもヤギも、
布も玉もふんだんにもち、
気前がよくて、さばけている。
あすは酋長がおれたちを、
肉や酒やのご馳走で活気づけるに決まっている。
日がな一日おれたちは、踊って遊んで、
食って飲んで、歌いまくって遊ぼうよ。
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これは、若い美男のたくましい音頭《おんど》取りが、即興的に歌ったものを、私が韻律などは考えずに、ただ意訳したものだが、合唱になると、野生的な美妙な音楽となって丘陵にひびきわたった。活気をもり返したわれわれは、微風に旗をなびかせながら、ゆっくりと坂道を下っていった。
カゲヒイの村の半マイルばかり手前までいったとき、数百人の戦士が弓矢や槍をたずさえて、突進してくるのを見て、われわれは驚いた。探検隊の長い隊列をながめた彼らは、神出鬼没のミランボの率いる軍勢と勘ちがいしていたのだった。しかし、まちがいだったとわかっても、彼らはこの好機をむだにせず、おおいに勇敢な武者ぶりをみせ、その演技でわれわれを楽しませてくれた。アラブ人のスンゴロ・タリブも歓迎の使者をよこした。
村に着くと、スンゴロのあっせんで、酋長のカドゥマから、直径二十フィートの円錐形の小家が、倉庫として私に提供された。もう一軒の小家が、フランク・ポコックとフレッド・バーカーに宿所として当てがわれた。夕方、計算してみると、われわれの踏破《とうは》してきた距離は七百二十マイル。一八七四年十一月十七日から一八七五年二月二十七日まで、百三日のうち、進行した日が七十日、休止していた日が三十三日。進行速度は一日平均十マイルと少々になるが、休息は絶対必要なのであるから、全距離を全日数で割ると、一日七マイルとなるわけである。
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四 ヴィクトリア湖周航
二月二十八日、カドゥマやスンゴロ、酋長の娘や彼女の友人たちが訪れてきたので、私たちは、旅路のことやザンジバルの最近のニュースを話して聞かさねばならなかった。
午後、私は探検隊の全員に給料を払い、特別の報酬を与え、人員を整理した。そしてウシ七頭と地酒二十ガロンを買い、みんなに酒盛りをやらせて、労をねぎらった。探検隊到着の報が、たちまち八方に飛んで、数十マイルかなたから原住民たちが物を売りにきた。ヴィクトリア湖の岸辺からは漁民が乾魚をカヌーで運んできた。東方の村々からはカサバやバナナ。ジョン・スピーク(イギリス人探検家、一八二七〜六四)が、はじめてヴィクトリア湖の湾を見た地ムアンザの原住民たちは、大量のヤムやサツマイモのほかに、鍬《くわ》や鉄の針金や塩を持ってきた。南方の牧畜の民は雄ウシたちを引っぱってきた。
カドゥマは人のいい酋長だが、なにか計画でもたてようとする場合は、「のどがかわいていては口がきけまい」と朝っぱらから地酒を飲み始め、さかんにしゃべり、飲み終わると寝てしまう。午後三時ごろに目をさますと、また酒壷を二つ三つ空っぽにして、寝床によろめきこむ。彼はヴィクトリア湖の探検に、私に同行しようと約束したけれど、そんな調子なので、その約束は十年以内には実行されそうもなかった。
ほとんどすべてのワンワナ人たちも、レイディ・アリス号の艤装《ぎそう》をととのえているあいだ、この湖の探検は途方もない大仕事だと考えるようになっていた。湖の一部分しか知らない原住民たちが、迷信じみた話をしていたからだった。岸辺には尻尾《しっぽ》のある人間たちが住んでいるとか、人間の肉をなによりも好物としている食人種がいるとか、それに湖はおそろしく大きくて、岸をひとまわりするには幾年間もかかるから、生きて帰れる者はあるまい、などと話していたのだった。
艤装《ぎそう》ができあがり、コムギ粉や乾魚、いろいろな種類の布や玉、こまごました必要品が詰めこまれると、私は一同に、同行を志望する者はあるかと聞いた。みんなだまりこんでいた。余分の報酬を与えるといっても、誰も申し出なかった。
指名してたずねると、誰も彼も、船乗りをやった経験がないと答え、水の上ではひどく意気地がないと告げるのだった。
「では、私はどうすればいいのか?」
マンワ・セラがいった。「隊長、そんなふうにおたずねになるのは打ちきりにして、命令してください。あなたの部下の隊員はあなたの子どもたちですから、あなたの命令にそむきはしないでしょう。あなたが友人として話されているうちは、誰も申し出はしますまい。命令してくだされば、みんなゆくでしょう」
私は探偵長カチェチェを呼んで、航海に慣れている青年たちの名まえを調べさせた。その報告にもとづいて、私はこれまでの道中で見きわめた青年たちの能力も考慮したうえ、十人の乗組員と一人の舵手を選んだ。
そしてあとに残る探検隊の福祉について、私はフランク・パコックとフレッド・バーカーに二十項目にわたる指示をし、スンゴロとカドゥマに適当な贈り物をして、探検隊への好意を確保しておいた。そして一八七五年三月八日、私はヴィクトリア湖へ乗り出し、広いスピーク湾の岸にそって東へ向かった。
空は陰鬱《いんうつ》で、水はどんよりした灰色になっていた。乗組員は悲しげにため息をつきながら、死ににいくように漕いでいた。
南岸ぞいに五マイル進んで、イグサに着いたとき、一人の漁師が近づいてきた。彼は数日前にカゲヒイへ出かけていたので、われわれを知っていた。こちらの申し出た報酬に心をひかれて、彼は水先案内をひきうけた。乗組みの連中は喜んだ。このサランバという男は、あのアラブ人スンゴロの貿易船に乗りこんで、ウルリへ往来していたことがあるのだった。夜はうすら寒く、アシのなかの蚊《か》の大群に悩まされた。
あくる日、十一時に大嵐が襲ってきて、ものすごい波をまき起こし、東方へ向かっていたレイディ・アリス号を、マシャッカ付近の小島のほうへ吹きまくった。危機一髪ですりぬけたものの、乗組みの連中はひれ伏し、サランバは恐怖に打たれて、もじゃもじゃ髪の頭に腰巻きを引っかぶっていた。船べりの上に姿を見せているのは、舵手と私だけだった。二時に、シメエユ川が見え出し、その河口の向いがわの小島の影へたどりついた。
翌十日は美しい日だった。きのうの狂瀾怒涛《きょうらんどとう》は静まりかえり、池のようになっていた。マグの丘陵が樹木のない荒涼とした輪郭をくっきり見せ、千三百ヤードばかり隔てて、潅木におおわれたマザンザ高地が盛り上がり、その中間にシメエユ川の上流が幅広く気高くきらめいていた。これはナイル川の最南端を成しているものだ。シメエユ川の全長は三百マイルであるから、ナイル川の全長は四千二百マイルとなり、世界第二の大河となるのである。
このような事象を調査しながら、われわれはマザンザの岸にそって航行をつづけた。十一日に、スピーク湾の東端に達し、北岸にそって引き返した。多数のカバ、ワニ、大トカゲに出くわした。十四日、ウィルの岸をまわって北上し、クネネ諸島を左に見て、北北西に針路をとり、イランガラ島に着いた。この諸島を出ると、大洋のような縹渺《ひょうびょう》としたヴィクトリア湖の景観が心ゆくまで味わえた。
十六日、われわれは鳥島にキャンプした。それから北東に向かい、住民の多いウルリの岸ぞいに進んだ。この地方はよく耕作され、多数の村があるようだ。漁師のなかには、この湖をひとまわりするのには八年かかると告げる者たちがいた。ウチリの漁民は、われわれのボートにひどく興味をひかれたらしかった。舵にびっくりし、帆を揚げると、仰天して駆け去った。
島や川を観祭しながら、マヘタの岸にそって帆走っていたとき、われわれは槍を持った原住民たちに襲撃されかけ、島へのがれた。
二十四日、ウガンダ南方のマニヤラ入り江へ入りこみ、ヴィクトリア湖の北東端を突きとめた。午後、村の住民と交渉して、いくつかの青いガラス玉を出し、野菜とヒツジ一頭を入手できた。男も女もみんな真裸、バナナの葉を腰につけているだけで、アダムとイヴみたいだった。
二十五日、ヴィクトリア湖の北岸を航行。大雷雨にあい、ボートにたまる雨水を、乗組みは懸命にくみ出さねばならなかった。
二十八日、ウヴゥマの岸辺で、十三隻のカヌーに乗ったウヴゥマ人がおし寄せ、掠奪《りゃくだつ》しようとした。私は連発銃をとりあげ、右や左へ撃ち、ガラス玉を奪った男に一発くらわせ、不敵な男たちもひるむまに、カヌーの喫水《きっすい》線をねらい撃った。穴のあいた二、三隻のカヌーが沈みかけ、彼らがそれに気を奪われている暇に、われわれはナポレオン水路に入り、リポン滝を観察し、その近くにキャンプした。
二十九日、ウガンダの岸ぞいに航行したわれわれは、キワ島で休息して、いんぎんな酋長の迎えをうけ、ムテサ皇帝のお客さまとして歓待された。
あくる日、酋長はわれわれを案内して、ブカの若い首長のところへ伴っていった。若い首長は宴を張り、異国人がウガンダにきていることを告げるために、ムテサ皇帝に使者をやった。
四月二日、われわれは美しい岸にそってボートを進め、正午ごろキルドの村で船がかりし、ここでも歓待をうけた。
あくる朝、七隻の美しいカヌーが、岬をまわって近づいてきた。たくさんの人間が乗っていた。指揮しているのは、雄鶏の羽飾りをつけた帽子、雪白のヤギの毛皮、真紅の寛衣といういでたちの人物だった。われわれは漕ぎ出していって、カズイ入り江の真中で会った。指揮していた二十歳ぐらいの若い男は、こちらのボートへとび移り、私の前にひざまずき、皇帝の使者だと告げ、口上を述べた。
「陛下はあなたのご来訪を切望され、ウサヴァラにおとどまりになっています。あなたがどこの国からお出になったのか、陛下はご存じありません。数日前の夜、母后陛下が御夢に、一人の白人が湖上をボートでこちらへまいるのをご覧になりまして、あくる朝、皇帝陛下にお話しになったのでした。すると、あなたがお出になったのです! ご返事を承り、さっそく陛下にご報告の急使を派遣したいと存じます」
この若いマガッサはスワヒリ語を理解したので、私は自由に率直に話した。
急使が出発してから、マガッサにすすめられ、われわれはカズイの村に上陸した。百八十二人の従者を引き連れたマガッサは酋長代理に命じて、ウシ二頭、ヤギ四頭、熟れたバナナひと篭、酒壷四つを、われわれの前に出させた。ボートの乗組みの連中は、とほうもないご馳走を元気いっぱいで平らげた。従者のほうもウシ三頭を殺し、手当たりしだいにニワトリをしめた。
「ふしぎな国だ!」と私は思った。「皇帝の名をもち出すだけで、マガッサのような若い男が、やり放題をやれる」
しかし、私のために、かわいそうな住民が苦しめられているのではないかと心配になり、私はあまりむちゃをやりすぎないように、マガッサに説いた。
あくる日、われわれはカズイ入り江を出た。そしてマガッサの要請にしたがって、マーチソン湾の東側のソウェ島にキャンプし、翌日、皇帝の狩猟地の村ウサヴァラへ向かうことになった。
四月五日、マガッサのカヌーに先導されて、われわれはウサヴァラへ航行していった。ゆるやかに傾斜した浜辺に幾千人もの人々が整列していた。
浜辺へ一マイルばかりのところで、マガッサは十二人のマスケット銃兵に命令して発砲させ、われわれの接近を知らせた。距離が半マイルになると、人々が両側に整列し、その向こうの端に、真紅や黒や雪白のみごとな服装の人たちが、幾人かたっているのが見えた。浜辺へ近づくとマスケット銃隊が一斉射撃をやり、マガッサの率いたカヌー群が左右へ漕ぎ去った。そして二、三百発の猛烈な銃声がとどろいて、母后の夢みた白人の上陸を知らせた。たくさんの太鼓《たいこ》が鳴りひびき、旗や幟《のぼり》が振られ、人々は巨大な歓声をあげた。
このものものしい盛大な歓迎に、私はひどく驚きながら、大きな旗のほうへ歩いていった。その旗のそばに、真白なさらしもめんの衣服の上に真紅の寛衣をまとった小がらな若い男が立っていた。急いでやってきたマガッサが、その小がらな若い男の前にうやうやしくひざまずき、私に向かって、こちらは「カテキロ」とご承知願いたいといった。よくわからなかった私は、ただおじぎをしただけだった。すると、奇妙にも、相手は私の真似をし、ひときわ荘重におじぎをした。めんくらった私は、どぎまぎし、心のうちで赤面した。りっぱな服装の十数人の人たちが進み出てきて私の手を握り、ようこそウガンダへご光来くださいました、とスワヒリ語であいさつした。
カテキロが頭をふり、話も聞こえなくなるような太鼓《たいこ》の音につれて、私たちは肩を並べながら広庭へ入り、草ぶきの小家に円形にとりまかれた大きな家へ行った。それが私の宿舎だった。カテキロや数人の人物がたいへん愛想よく話し始めた。そのなかに、ザンジバル出身のトリという男がいた。まもなく私は、トリが皇帝の鼓手長であり、技師であり、なんでもやる役者であることを知った。このりこうな万能の男から、カテキロが総理大臣、皇帝の代理である事実や、ほかの大臣たちの称号を私は教えてもらった。
ウガンダ人は異国人の私に、さかんに質問をぶっつける。私の健康、旅行、その目的、ザンジバル、ヨーロッパ、海洋、天国、太陽、月、星、天使と悪魔、医師、僧侶、いろんな技術家などについての質問だ。「すべてを知っている」諸国民の代表として、私は徹底的な試問をうけ、一時間と十分たつと、異口同音《いくどうおん》に「合格」といわれた。
それから、彼らの態度がひときわ親しげになり、そわそわした黒い手が私の手へ押しこまれた。どうやら彼らは、大学の数学の学位試験で第一級優等者の首席を獲得したもののように、私を賞揚したのらしかった。ある者たちがすぐ皇帝の御前へ伺候し、あの白人は天才で、すべてのことを知っており、なかなか礼儀正しく愛想がよいと言上したところ、皇帝は「宝物を手に入れたように両手をもみ合わされた」そうだ。
私に好意的な評価が下された結果は、たちまちふとった雄ウシ十四頭、ヤギとヒツジ十六頭、バナナ百ふさ、ニワトリ三十六羽、乳四壷、サツマイモ四篭、青トウモロコシ五十本、米一篭、生みたての玉子二十個、マランバ酒十壷となって現われた。これらの下賜物をとどけてきた侍従長は、私の前にひざまずいていった。
「陛下は、はるばる遠方より来訪された友にご挨拶を申されております。友が召しあがり、満悦されるまでは、陛下はお目にかかられません。それで臣にほんの少々ながら、食べ物をとどけさせられました。陛下は友が休息されてから、〈第九時〉に謁見所へ招じられるとのことでございます」
私はできるだけ丁重にお礼を述べた。ボートの乗組みの連中は、皇帝の太っ腹に目を丸くした。ウスクマから水先案内になってやってきたもじゃもじゃ髪のサランバは、ウスクマの酋長が客に出すジャガイモの数ほど雄ウシやヤギをくれた皇帝のことを、どう思うかと聞かれたけれど、ぼうっとしてしまって返事ができなかった。彼はまだウスクマのヤギ皮をまとっていたが、ひどく脂じみてうすぎたない代物だった。もう私のことなら、顔つきから歩き方、性格まで、いちいち知りつくしていた宮廷の、きれいな小姓たちは、サランバを笑い草にした。
「あの裸の異教徒はどこの国からきたんだろうか?」小姓たちは、十分サランバに聞こえるぐらいの声で聞くのだ。
「あの異教徒の髪をご覧よ」もう一人がいう。
「陛下のお目にとまらないようにするがいいね」三番めがいう。
「きっと異教徒の奴隷にちがいない……ヤギ一頭の値段さ」四番めが評価する。
「いいや、私なら、バナナ一本の値段でも買わない」
私はサランバを見上げ、彼が青ざめているような気がした。かわいそうなサランバ!
「あの連中がいっちまったら、すぐにそのもじゃもじゃ髪を切って、おまえに白い布をまとわせてやるよ」ボート長のサフェニが同情するようにいった。だが、乗組みの一人で、度《ど》しがたい皮肉屋のバラカはいった。
「そんなことをしたって、なんの役にたつ? おれたちが布をやれば、彼は身につけているかい? なあに、くるくるっと巻いてひもでくくり、とっておいて母ちゃんにやるか、ウスクマで売りとばしてヤギの身代金にするぐらいがおちさ」
〈第九時〉が近づいた。
われわれは沐浴《もくよく》し、身じまいをして、赤道アフリカの第一人者に会見する用意をととのえた。二人の小姓が呼びにきた。われわれは広庭へ出た。スナイドル銃で武装した乗組みの連中が、私の左右に五人ずつ随従していった。広い道へ出た。その突き当りに、謁見所がある。そこに皇帝がすわり、その玉座《ぎょくざ》から下座にかけ、多数の高官や将星や群臣が、鼓手や護衛や刑執行官や小姓にいたるまで、腰掛けたりひざまずいたりして、ずらりと左右に並んでいる。われわれが近づくと、鼓手たちが太鼓《たいこ》を打ち鳴らし、トリの打つ音がひときわ冴えて聞こえる。赤道アフリカの第一人者は立ち上がって進み出る。ひざまずいたり腰掛けたりしていたすべての者たちも立ち上がる。
皇帝は長身で、きれいな顔に大きな目をし、神経質らしくみえるやせた人物で、漆黒《しっこく》の寛衣、白いシャツに黄金の帯をしめている。彼は私の手をあたたかく握り、会釈して鉄の床几《しょうぎ》をすすめた。彼がすわってから、私や他のすべての者たちが座についた。
皇帝は誠実な口調で話し、いろいろ好意的な申し出をしてくれた。彼は寛容な、率直な、知的な王者で、すぐれた独創性をひそめ、みずから考えているよりも高大な役割を果たす人物になりそうだった。彼の友誼的な種々の提案に、私はいんぎんに答えた。そして皇帝も私自身も、たがいに知りあったことを心うれしく満足して、謁見は日没に終わった。
七日の朝七時ごろ、皇帝は多勢の親衛隊や小姓、旗手、鼓手、笛手、高官、土豪の賓客《ひんきゃく》などに、二百人ばかりの宮女たちを従えて私の宿舎の広庭のそばを通りかかり、小姓をよこして、私の臨席を求めた。行列が通過してゆくあいだに、私は身じまいをし服装をととのえ、乗組みの二人に銃を持たせて、行列のあとから湖へ出かけた。
皇帝は鉄の床几に腰をおろしていた。そのまわりには宮女たちの大群が陣取っていて、私が現われたとたんに、彼女たちは四百のなまめかしい、うるみをおびた瞳を私の身に集中した。皇帝は笑っていった。
「ほら、見たまえ、スタンレー。わしの女どもがどんなに君を見つめておるか。君が白人の女を連れているものと彼女たちは思っていたんだよ。それにしても、わしは君を嫉妬したりはしない。こちらへきて、掛けたまえ」
やがて、ムテサ皇帝は一人の小姓に命令をささやいた。その召喚命令に応じて、西方のマーチソン湾の曲がりめから、堂々とした四十隻のカヌー艦隊が、さっそうと現われ出てきた。みんな黄土色をおびた褐色に塗られていた。これは一般に愛好されている色らしい。ウガンダ人の肉体の色に似ているせいかもしれない。純粋なウガンダ人はけっして真黒ではない。ウガンダ人の最上の見本になるムテサの宮女たちや高官たちは、ほとんどみな青銅色か赤味がかった暗褐色で、特殊ななめらかな、柔らかな肌をしていて、さらに入浴後にバターでマッサージする習慣があるので、いっそう微妙な、柔らかな感触になっている。ある女たちは明るい赤味がかった黄金色で、白色に近い女たちもあった。宮廷と直接関係のない大部分のウガンダ人が、右の肩から掛けてまとっている布も、明るい褐色だった。
いまやマーチソン湾の静かな灰緑色の水の上に乗り出していた四十隻のカヌーは総員千二百人。各カヌーの指揮官は白もめんのシャツをまとい、布をターバンのようにきっちり頭に巻いていた。提督はシャツの上に金モールでふんだんに飾られた真紅の上衣をまとい、赤いトルコ帽をかぶっていた。各指揮官は、われわれの前を通過するとき、楯と槍をつかみ、勇ましく水上の攻防戦を演じて見せた。提督が最大の拍手かっさいを受けた。彼は艦隊の勇将で、行動ぶりは優美でなかったが、たしかに奇妙きてれつだった。
観艦式が終わると、ムテサは指揮官の一人にワニかカバを見つけてくるように命じた。十五分後、指揮官はもどってきて、二百ヤードばかり向こうの岩の上に、若いワニが眠っていると報告した。
「では、スタンレー」とムテサがいった。「わしの女どもに、白人の射撃ぶりを見せてやってもらおう」
白人を代表する責任は大きかったが、さいわいに私は百ヤードの距離から三オンスの弾丸で、若いワニの頭をほとんど撃ち裂くことができた。これですべての白人が百発百中の名手と証明されたかっこうになった。
午後、われわれは射的《しゃてき》の練習をした。ムテサが二発めを撃ったとき、その二連銃が割れた。けがはなかったが、みんなは青くなって仰天し、凶兆と決めかけた。
私は銃を調べて、銃身の古いひび割れをムテサに示すと、彼は良識を働かせて割れた原因を見てとった。この銃はひどく古ぼけた代物で、明らかに年久しく使用されてきていたものだった。
四月十日、皇帝の一行は狩猟地を引きあげて、都へ帰った。だが、私は自分のボートを暑い陽光の中から、家のうちへしまいこんでおかなければならなかったので、午後一時にならなくては都へ到着できなかった。
皇帝の狩猟の旅のために、幅八フィートの道が、密林や林や田野のなかをつらぬいてつけられていた。だから、ゆるやかに起伏する土地や、静かな湖、巨大なタマリンドやゴムの木々、広大なバナナの森などの美しい風景を心楽しくながめることができた。特異な半球形の小さな家々が、バナナの深い木かげにうずもれていて、豊かに熟した実の芳香が大気にみちていた。道は緑の丘陵の頂上へのぼり、また木々におおわれた渓谷へくだっていた。澄みきった水が、せせらぎの音をたてながら、マーチソン湾のほうへ流れている。輝かしい草木の緑は赤道の雨に恵まれて、あざやかな色を増している。空はあくまで青く、暑さは強いながらも、丘からの微風が吹き、頭上には木々の茂みが多いので、さほどには感じられなかった。
三時間たらず進んでゆくと、なめらかな円形になった丘の頂上に、都が見えた。長い円錐形の草ぶきの小家が、多数密集していて、その中央にひろやかな高い納屋のような建物がそびえていた。われわれが話して聞かされたところによると、その大きな建物が宮殿だった! その丘がブバガ丘で、密集している小家が帝都なのであった!
ブバガ丘をとり囲んでいる高い籐《とう》の柵から四方へ、たいへん広い大通りが放射状に出ていた。広い湿地を横ぎり、大通りの一つをのぼり、半球状の丘の上へたどりついたわれわれは、裏がわの大通りからのぼってきていたのに気づいた。宮殿の表がわから出ている広い大通りの両がわには、見渡すかぎり家々が並んでいた。
私が謁見所のかげに立って、賛嘆しながら見晴らしていると、小姓がきて私を宿舎へ案内した。柵をめぐらした百フィート平方ばかりの庭に、バナナの木々が茂り、その真中に建っている大テント形の家で、入口の上にひさしが突き出、奥行二十フィート、二つの部屋に分かれていた。三十フィートほど離れた半球形の三軒の小家が、乗組みの連中の宿舎と台所、その庭の隅の柵をめぐらしたところが、われわれのウシやヤギたちの住み場所となっていた。
午後、私は宮殿へ招かれた。それは籐と藁《わら》で造られた宏荘な家で、すくなくともその広大さだけは宮殿らしい規模だった。その前には謁見所があった。下方には、初夏の緑におおわれた豊饒《ほうじょう》な土地が、陽光に輝いてすばらしいうねりを見せ、赤道の真水の大湖から吹くそよ風が、涼しさをただよわせた。
太鼓《たいこ》が鳴りひびいた。ムテサ自身が玉座にすわっていた。われわれは急いで席についた。
四月五日以来、私は十回ムテサと会見し、そのたびごとに機会をとらえては、キリスト教を話題に持ち出していた。そして私はムテサに、回教からキリスト教へ改宗させようと努めた。べつに教理などは詳しく説かず、白人と黒人の差別なく、全人類を救うために身をささげ、十字架にかけられながらも、邪悪な者たちのために、彼らを許したまえと神に祈ったキリストのことを、私は語った。白人が敬愛するキリストと、アラブ人が尊敬するマホメットの人格の相違を示した。キリストはすべての人間を愛せよと人類に教えた。これに対しマホメットは、異教徒や不信仰者を殺すのが、天国へゆくに値する行為だと自分の信徒に教えた。どちらのほうが偉大な人格であるかは、私はムテサや高官たちの判断にまかせた。アダムからマホメットにいたるまでの信仰の歴史も、簡単に話した。また十戒も、私はムテサに翻訳して聞かせ始めていた。
そして皇帝の祐筆《ゆうひつ》イディが、私のボートの乗組みの一人、ロバート・フェルジの話す正確なスワヒリ語から、十戒をウガンダ語に翻訳した。このロバート・フェルジはケンブリッジ、オックスフォード両大学の派遣した大学伝道団の教えをうけた若者だった。
私の熱意は、まもなくムテサや数人の高官たちに伝わり、彼らはこの問題に興味をひかれ、非常に熱心になった。だから、謁見所でも、道徳や宗教的戒律のことばかりが論議された。
あくる日、ゴードン総督の探検隊のフランス人リナン大佐が、カイロからきて宮廷を訪れたというので、私は皇帝に呼ばれて、大佐に会い、愉快に語りあった。ムテサにたずねられて、新教従の大佐は、キリスト教について私と同じような意見を述べた。ムテサはふかい印象をうけたようだった。私はウスクマのカゲヒイへ周航し、自分の探検隊をウガンダへ連れてこなければならなかったので、約束どおり護送部隊を出してくれるように皇帝に願った。さっそく皇帝は、マガッサに命令して、三十隻のカヌーを率い、私に従ってカゲヒイへ航行させることにした。
四月十五日、われわれはマガッサや彼の部下のカヌー指揮官たち、リナン大佐やその部下のヌビアの兵士たちにつきそわれて、ブバガ丘をあとにした。そして午前十時にウサヴァラに着いた。おろかしくも私は、マガッサが出帆準備をととのえているものと想像していた。ところが、この四月十五日のマガッサは、四月一日のマガッサよりも、幾段階か自己評価を高めていた。十五日間のうちに、皇帝のおんおぼえめでたく、海軍大将に昇進させられたことが、この青年をのぼせあがらせてしまっていた。もう二日しなければ準備ができない、と彼はいうのだった。
「このことを陛下に知らせてもか?」私は聞いた。
「ああ、いや、たぶん明朝には何とかなりましょう」
私はリナン大佐と話しながら散歩し、晩は前にいた宿舎で快談した。
ここで私は、自分を特派しているデイリー・テレグラフ紙、ニューヨーク・ヘラルド紙の英米両新聞あてに、ムテサ皇帝へキリスト教伝道団を派遺するよう世論に訴える手紙を書き、ムテサは二百万の臣民を支配する有能な皇帝であるから、こんな伝道団に金をつぎこめば、報いられるところは絶大であると述べた。この二通の手紙を、私はリナン大佐に託した。彼は私がウスクマからもどってくるまで待っているといった。そして強力な双眼鏡を私に貸してくれた。
マガッサは十六日にも準備ができなかった。彼女たちのうちの一人が姿をくらましたとか、ムテサの高官が彼女をつかまえているとかいうのだった。晩までに、やっと十隻のカヌーが到着しただけだった。
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五 湖上の騒乱
「さようなら、リナン君! 私は一カ月以内にもどってくるつもりです。もどってこなかったら、本部へ引きあげて、諸君によろしく伝えてください」
四月十七日の朝、私はボートに腰をおろしながら、リナン大佐にそう告げた。
(これが永久のお別れとなった。これから記すような事情のため、私のもどってくるのが遅れ、リナン大佐は六週間ちかく待っていたが、ナイル河畔の本部へ引きあげた。が、八月二十六日、また使命をおびて出かけ、ラボレ付近で蛮族に襲撃されて三十六人の兵士たちとともに彼は殺されたのだった…原注)
マガッサはひどく思いあがりすぎていた。手おくれにならぬうちに、私は彼に説教しておこうと考え、彼を呼んだが、彼はかすかにしかめ面をして、カヌーを寄せてこなかった。マーチソン湾の入口で私は緯度を観測した。午後になると、私のボートの乗組みは懸命に漕いだ。日没直前にチワヌコ島に上陸し、マガッサがついてきたので、私は彼をつかまえ、そばにすわらせて、彼の前途はたいへん有望だと話し、ただし、それは彼が陛下の命令に従い、りっぱに私と協調して行動するのが前提条件になるといった。
マガッサはそうすると誓い、誠実である証拠を見せたいから、陛下のカヌー艦隊が引きあげてあるセッセ島へ自分にゆかせ、約束されたとおり、三十隻の護送部隊が編成できるようにさせてもらいたいと頼んだ。そして夜、二人の指揮官のもとに五隻のカヌーをあとに残して、彼は出向いていったので、なかなか精力的な活躍ぶりだと私は思った。だが、じつのところ、彼はほんの二マイルだけ進み、一つの村で権力を悪用し、酋長を縛り、女をつかまえて、寝ていたのであった。
あくる日、われわれは五隻のカヌーとともに進航し、ジュンバの入り江にキャンプした。ウガンダ本国はキタロンガ川までで、この川岸からウッドゥ地方が始まり、アレクサンドラ・ナイル川までつづいている。われわれは事もなく航行をつづけ、二十一日、セッセ島の南端に近い本土のドゥモ港に着いた。
夕方、マガッサが現われて、自分がセッセ島で直面した危険を写実的に物語った。島の人間たちは、こんな嵐の多い海を果てしもなくカヌーで出かけ、命を的《まと》に働かされるぐらいなら、あっさり陛下に首をちょん切られたほうがましだ、といきまいた。しかし、セッセ島の海軍造船場長の海軍大将から、十四隻のカヌーをあとから派遣するという約束をとりつけてきたと話した。五隻のカヌーを引き連れていったマガッサは、わずか二隻を連れてきていたが、あとの三隻はひどく浸水してとても航行に適さないと断言するのだった。そしてまた、海軍造船場長は、放っておけば、ひどく遅延させるかもしれないから、私は二人の指揮官を連れて先へ進み、彼は五隻を率いてあとに残りたいといった。ドゥモ港で、まだなにかやろうと企らんでいるらしい、と私はにらんだが、私には阻止する力もないので、彼の不始末は、ほどなく皇帝の耳にはいるにちがいないから、その処理を待つことにした。
南下したわれわれは、アレクサンドラ・ナイル川をさかのぼろうとした。が、流れが強いので、三十三マイルのぼって、やめなければならなかった。河口の幅百五十ヤード、最大水深八十五フィートで、これがヴィクトリア湖へ流入する川のうちで一番大きなものだ。だから、あのシメエユ川は二番めに大きなものとなり、この二つを合わせると、リポン滝を出口とする川に匹敵することになる。
ウガンダ人の二人の指揮官は、アレクサンドラ・ナイル川を「ジンジャの川(リポン滝)の母」と呼ぶ。
アレクサンドラ・ナイル川はウガンダの統治権と、川の南の属国カラグウェ、ウゾンゴラ両王国との自然的な境界線をなしている。ウゾンゴラの岸で、われわれが最初にキャンプした村では、真夜中に、すさまじい太鼓《たいこ》の音がひびきだした。夜明け前に、槍や弓矢や大包丁のような武器を持った二、三百人の原住民たちがおし寄せてきた。ここはわしらの国だから、すぐさま退去してくれ、と長老が告げた。食物が入り用なら、向こうの島へとどける、というので、まもなくわれわれは、ボートと二隻のカヌーを水上へ押し出し、ボートは数ヤード漕ぎ出た。が、カヌーの指揮官のセントゥムが怒って、大声で原住民たちに不心得をさとした。まかりまちがって、皆殺しにされたりしないように、私はセントゥムにわめいて、ただちに漕ぎ出させた。
三マイルほど向こうのムシラ島へゆくと、コーヒーやバターを積んだ四、五隻のカヌーがいた。原住民たちに向っ腹をたてていた二人の指揮官は、コーヒーの包みをいくつか引っつかんだ。ウガンダの水兵たちは、かっぱらうことにかけては用意おさおさ怠りないので、たちまち上官の模範に従い、強奪の手伝いをやってのけた。一人の原住民が私に訴えてきた。ボートの乗組みにテントを張らせていた私は、さっそく奪った代物《しろもの》を返させた。
午前十時ごろ、村の酋長が十ふさのバナナをとどけてよこした。われわれ一行六十二人の一日分の食糧になるだけの量だった。
それから、私はひとり密林のなかへぶらついていった。そして赤、黒、黄、灰、白、まだら、色とりどりのアリの大群が、戦ったり、守ったり、餌を運んだりしているのを見た。無数の白アリが、動物も植物も、あらゆるものを食い荒らしながら進んでいた。蛾《が》の大群が潅木《かんぼく》から飛びたち、すべての枝々にセミがやかましく鳴きつづけている。アリジゴクが落し穴を仕掛けているし、緑色や灰色の不気味なカマキリが、昆虫を待ちうけて立っていた。私の見た多種多様の昆虫の世界は、とても百分の一も述べつくせない。
午後五時ごろ、私は水平線にマガッサのカヌー艦隊を見てとった。十四隻だった。私はサフェニと数人のウガンダ人をカヌーでやり、食糧が乏しく、ぐずついておれば飢えるだろうから、明早朝急いで私に追いつくように、マガッサに告げさせた。九時ごろサフェニがもどってきて、マガッサの返事を伝えた。私のほうは、どんなにでも早く出発してもらいたい、かならずキャンプ地へあとを追ってゆくというのだった。
しかし、私は午前九時までマガッサを待っていた。それから、指揮官のセントゥムもセンタゲヤも、ウスクマへの近道だとすすめるので、三十マイルかなたのアリス島へ向かうことにした。
このとき、セントゥムはマガッサが着くまで、このムシラ島にとどまっていて、センタゲヤと私がとった方向を知らせるという段取りに決まった。
われわれが三マイルばかり進航すると、センタゲヤがカヌーをめぐらし、私に進航をつづけるように手をふりながら、全速でムシラ島のほうへ引き返していった。なにか忘れ物でもしたのだろうと思った私は、ずっと進みつづけた。
午後四時から強い向い風のために航行が遅れ、九時ごろにアリス島へ着いた。あくる朝、マガッサに会えるだろうと待機していたり、飢えないように、高価でもすこし食糧を買い入れようとしたりしていたので、やっと正午になって出発した。そして夜、バーカー島の潅木に囲まれた小さな入り江にたどりついた。もう食べるものは、なにもなくなっていた。降りしきる雨のなかで、われわれはふるえながら、みじめな一夜をあかした。
だが、よくあるように、輝かしく美しい朝がきた。目に入るかぎりの大自然は、生き返り、すがすがしそうだった。ただ、われわれはなんとか人間に近づかねばならなかった。人間に接触するよりほかに、生きる道はなかったからだ。それで二マイルほど離れたブンビレ島へいった。長さ二マイル、幅二マイルばかりの島で、丘がつらなり、その頂上は短い草におおわれ、傾斜面はたいてい険しかったが、草地や耕地になっている。二十軒ぐらいずつ小家の集まった部落が五十ぐらいあって、四千人ほどの人間が住んでいるらしい。
頂上や傾斜地には、家畜の群れが草を食っていた。あちらこちらに、かなり広い耕地が褐色の土を見せ、部落にはバナナの森がひろがり、豊かなたたずまいだった。われわれが岸にそってすこしばかり航行していると、平らかな頂上に、数人の人影が見え、「ヘフーア、ヘフーウーウーウ!」と長く引きのばした戦いの叫び声が、高くひびきわたった。人影は数を増し、叫び声は大きくなった。飢えに臓腑《ぞうふ》をかまれていたわれわれは、ある危険をおかさねばならなくなった。
午前九時、長い島の南東端の近くに一つの入り江を見つけ、そろそろ入りこみ始めた。たちまち、原住民たちがすさまじい叫び声を放ちながら、傾斜面をかけおりてきた。岸へ五十ヤードほどの距離になったとき、私は乗組みに漕ぐのをやめさせようとした。が、サフェニやバラカが説きたてた。
「蛮人どもは、いつもこうですよ、隊長。わめいて、おどかし、威張って見せるが、われわれの話を聞けば、すぐ静まるんです。それに、素手でここを引き揚げたら、どこでわれわれの食糧を手に入れますか?」
私は命令しなかったが、乗組みの四人がそろそろとボートを進め、サフェニとバラカが原住民たちに話そうと身がまえた。もう原住民たちは水ぎわへかけつけ、大きな石をつかみ上げたり、弓を構えたりしていた。十ヤードばかりに近づくと、サフェニとバラカは自分の口を指さし、身ぶり手まねで腹が空っぽであることを懸命に説明した。きげんをとるように微笑しながら、さかんに「兄弟」とか「友だち」とか「いい人間たち」とか言い、ウガンダのムテサ皇帝や、このブンビレ島を領有するイハンギロの王の名を、うまく織りまぜて話した。それが効果を奏したのか、原住民たちの態度はおだやかになった。
「隊長、どんなもんです」サフェニとバラカが得意そうにいって、もう二百人ばかりになっていた原住民たちを、招き寄せた。原住民たちはちょっと相談して、数人がにやにや笑いながら、ゆっくり水のなかへ進み出てきて、ボートの船首にふれた。愛嬌《あいきょう》たっぷりに話していたが、突然、彼らはボートを浜へ押し上げ、他の連中が太綱や船べりをつかんで、岩の多い浜辺を二十ヤードばかり引っぱり上げた。
それから、言語に絶する場面がくりひろげられた。武装した悪魔どもが、われわれのまわりに荒れ狂った。八方から槍、弓矢が突きつけられ、太いこん棒が、われわれの頭上に振りまわされた。二百人の真黒な悪魔どもが、金切り声をあげてひしめきあい、われわれをやっつけようと先を争った。
私はぱっと立ち上がり、自動コック式の拳銃を両手にかまえた。だが、こんな多数の群集に対しては、撃ってもたいして効果はないと思えたし、サフェニも私にがまんしてもらいたいと哀願したので、私はあきらめたかっこうになった。サフェニは聖者のようにおとなしく両腕をこまぬいた。バラカは両手を開いて差しのばし、やさしげに聞いた。
「いったい、どうしたんだね? わしらのような素手で、にこにこ笑っている人間たちを、おまえらは怖れたりするのか? おまえたちとは友だちさ。わしらは友だちに少しばかりの食物を買いにきたんだから、おまえらがそうしてくれるなら仲よくつきあって引きあげるつもりだよ」
われわれの態度は、大きな影響を与え、騒ぎが静まってゆくように見えたとき、新たに五十人ばかりの人間がやってきた。またもや怒声がわきたち、サフェニは突きころがされ、キランゴは槍の柄で頭をなぐられ、サランバはこん棒で背中をぶたれて悲鳴をあげた。私は左の手に二挺の拳銃を持ち、忠告しようとかかった。原住民たちが出すぎるのをおさえようとしているらしい長老に私は話しかけ、ガラス玉や布や針金を見せ、ムテサ皇帝や原住民たちの王、アンタリの名をもち出した。彼らは論議し始めた。皆殺しにしようとすれば、彼ら自身のほうも何人か殺されるにちがいない。
「あの白人の持っている鉄の代物が、どんなものだか、だれも知るまい?」そんなことを言いあっているようすだった。
どう考えたのか、長老は憤《いきおど》ろしげに杖を上げて、連中を左右に追い払った。他のおもだった面々も、その長老を支持し出した。その長老は、このブンビレ島の首長シェッカだった。
シェッカは群集の背後へ歩き去り、六人の男たちと評定した。群集の半分が首長についていった。あとの半分は居残って、われわれに毒づいたり、こん棒や槍でおどかしたりしつづけた。不敵な一団は、すさまじい身ぶりをしながら、私に直面した。そのうちの一人は、かつらと勘ちがいして、私の髪を引っぱった。私がその手をつかんで、ぐっとねじあげると、痛さにうめき声をあげた。仲間が槍をふりまわしたが、私は微笑まじりに彼らを見つめた。もう私は、死を賭けて闘う覚悟を決めていた。首長から使者がきて、サフェニを手招いた。私は彼にいった。
「サフェニ、知恵を働かせるんだぞ」
サフェニは出かけた。好奇心の強いアフリカ人の群集は、ほとんどみな彼についていった。サフェニが弁舌をふるっている姿が見えた。
やがて顔を輝かしながら、サフェニがもどってきて、大丈夫、と報告していると、大人の原住民たちがかけ寄り、ボートのオールをつかんだ。とめようとしたサフェニを、彼らはこん棒でなぐりつけようとした。私は叫んだ。「持ってゆかせろ、サフェニ」
オールを奪いとった原住民たちは、歓声をあげた。評定はつづいた。また使者がきて、布地と首飾りを要求した。それらの物はとどけられた。だが、もう正午だったので、蛮人たちはいちばん近くの部落へ引きあげ、酒と食物で元気をつけた。
三時ごろ、たくさんの太鼓《たいこ》の音がひびいて、丘の上に武装した原住民たちの長い列が現われた。サフェニやバラカも驚いて、戦う準備をしなければいけないといった。私はサフェニを首長のところへやり、和平の交渉をさせたが、不調に終わった。まもなく、五十人の不敵な蛮人たちが、ボートめざして駆けくだってきて、われわれの太鼓を奪い去った。かなたの原住民たちから歓声が高くひびいた。やがて二人の男たちが、われわれのほうへおりてきて、丘の上に集まっている三百人以上の原住民たちとわれわれとの中間で、草を食っている雌ウシたちを追い払い始めた。そのうちの一人に、サフェニがわけをたずねると、まもなく戦い始めるからだ、と相手は冷笑するように答えた。
その二人の男たちは丘へ引き返しかけた。
「さあ、サフェニ」私はいった。「この二枚のみごとな赤い布を手に持って、あの二人のあとからゆっくりとすこしばかりのぼってゆけ。そして私の声を聞いたら、すぐ駆けもどれ。それから、ほかの者たちはボートの両がわに並び、さりげなく、しっかり船べりをつかんでいろ。そして私が声をかければ、百人力でボートを水へ押し入れてゆくんだ。みんないいか、やれると思うか?」
「やれますとも、隊長」彼らはいっせいに叫んだ。
「ゆけ、サフェニ!」
彼が五十ヤード歩いてゆくまで、私は待った。そして彼が指令どおりに行動するのを見とどけた。
「押せ、みんな。命をかけて押せい!」
乗組みは首をかがめ、腕に力を集中した。ボートは動き始めた。私は二連銃をとりあげて叫んだ。
「サフェニ! サフェニ、もどれ!」
原住民たちは目ざとくボートが動いているのを見てとった。そしてすさまじいかぎりの叫喚《きょうかん》をあげながら、なだれのようにどっと丘から駆けくだってきた。ボートは水ぎわへきていた。
「それ、早く湖へ出せい」
ボートは矢のように湖へ出ていった。その瞬間、サフェニが水ぎわへたどりついていた。原住民たちの先頭の男が二十ヤードばかり背後にせまり、槍をあげて身がまえた。
「水へとびこめ、サフェニ、頭からとびこめ」
かまえた槍はいまにも飛び出そうとしていたし、もう一人の男も槍を投げようとしていた。とたんに私は銃を上げ、その弾丸は先頭の男とつぎの男を射抜いた。弓を持った原住民たちが立ち止まって、弓を引きしぼった。私は彼らの真ん中へカモ打ち玉を撃ちこんで、てんやわんやに混乱させた。
原住民たちは浜辺から退いた。原住民たちを制圧しておいて、私はサフェニをボートへ引き上げ、原住民たちを見張りながら、また大型の銃に装填《そうてん》した。原住民たちは岬へ出てきたが、私の銃に撃たれて、引きさがらないわけにいかなかった。乗組みが銃をとり上げるのをおさえて、私はボートの敷板をめくりとらせ、それを櫂《かい》にして漕がせた。そのとき、二頭のカバが大口あけて、われわれに向かってきていたのだった。私は一頭が十ヤードまで近づくと、両眼のあいだをねらって穴をあけ、二番めは傷つけて、立ち向かってこられないようにした。原住民たちはちょっと相談してから、入り江の東北隅に引き揚げられていた二隻のカヌーで乗り出そうとした。私はカヌーを押し出す連中を二度ぶっ倒したが、とうとう彼らは押し出し、猛烈な勢いで追跡してきた。べつのカヌーが二隻、島の東岸をまわってくるのが見えた。脱出しきれなかったので、われわれは待ちうけた。
私の銃に爆発性の弾丸がこめられた。この弾丸は四発で五人の男を殺し、二隻のカヌーを沈めた。あとの二隻は退いて、戦友たちを水中から助け上げた。浜にいた原住民たちが岬へ出てきたので、われわれはまた漕ぎ出した。
「湖へ出て、くたばれ!」と叫ぶ声が聞こえ、彼らが矢を射るのが見えた。
が、それらの矢はわれわれにとどかず、数ヤード背後に落ちた。われわれは助かったのだ!
午後五時だった。ボートには、四つだけバナナがあった。微風が吹いてきたので、縦帆をあげて、南東へ向かった。だが、七時に、ばったり風がとだえた。それでまた敷板の櫂《かい》で漕いだ。進航速度は一時間わずか四分の三マイル! 夜っぴて漕ぎつづけ、朝になったが、陸地の影も見えない。午前九時ごろ、突風がきたので、その順風に吹き送られて八マイルほど南へ進んだ。しかし、十時半ごろ、また風がとだえたが、絶えまなく漕ぎつづけた。
夜、南方七マイルばかりの距離に島を見つけ、それへたどり着こうと懸命に努力した。ところが、南西から嵐が吹きつけ、どうにもならなくなった。四十九時間、なにも食べずに漕いでいた乗組みは、疲れてくたくたになった。
われわれは波と雨風に身を任せた。真夜中に、嵐がだいぶ静まり、月が出て、ぶきみな光を湖面や盛り上がる長い大波になげた。その高い波頭には、まだ白あわが見えた。ボートの漕ぎ手座を一つ割って、火をたき、リナン大佐からもらったコーヒーをすこし飲んで、いくらか気分がよくなった。それから、乗組みはみんな眠った。だが、私はいろいろな思いにふけりながら、見守っていた。
朝がきた。四月三十日の朝だった。乗組みは私の声に応じて、また漕ぎ出した。午後二時に……アリス島を出てから七十六時間後に、われわれは一つの無人島に着いた。ボートからはい出て、みんな輝かしい砂の上に横たわって休んだ。
だが、夜までに食糧を手に入れなくてはならなかった。私は銃を持って出かけ、半時間のうちに一つがいのカモをとった。バラカとサフェニは、青いバナナを二ふさずつ持ってもどった。ムラボと仲間はサクランボのような甘美な果実を見つけてきた。
バナナ、カモ、果実、コーヒー! 最後にパイプをふかした。楽しいかぎりの一夜だった。
あくる日はオールをつくるために、この島にとどまった。さらに捜すと、六ふさのバナナが手にはいった。われわれの食欲は、じつに旺盛だったので、つぎの朝、出発の用意をととのえたときには、もうほとんど残っていなかった。オールで漕ぎ、帆をあげながら、シンゴ鳥からイト島へいったが、原住民たちに石を投げられて、ウケレウェ半島に近いクネネ諸島に向かった。
五月四日の午後、激しい向い風に見まわれて、ウィルの入り江へ避難せねばならなかった。ここは水先案内サランバの故郷なので、彼の人徳によって、なごやかに歓迎され、肉やジャガイモ、牛乳、蜂蜜、バナナ、卵、鳥肉を、いくらでもわれわれに売ってくれた。これらのご馳走をボートで調理したわれわれは、半ば飢えた人間らしく賞味しながら、さかんに平らげた。
午後九時に出帆し、あくる朝カゲヒイの探検隊のキャンプへ着くつもりで、広いスピーク湾を横ぎっていった。ところが、午前三時ごろ、湾の中ほどまでいったとき、北北東から風が吹き始め、ムラサキハシバミの実ほどの大きな霰《あられ》が降り出した。空は真っ黒で、稲妻がひらめき、雷が鳴りわたり、すごい波がわれわれをゆりまくった。進航をつづけようとしても、どうにもならなかったから、われわれは風と波にボートを任せた。
うら悲しい灰色の朝になった。われわれはカゲヒイの北西二十マイルばかりのところへいっているのに気づいた。けんめいに帆をあげ、はじめはうまくいかなかったが、風向きが変わると、ウスクマの岸ぞいに、まっすぐキャンプのほうへ、さわやかに吹き送られていった。
幾マイルも離れているうちから、帆を見て気づいていた探検隊の連中が、岸から歓迎の叫び声をあげた。近づくと、マスケット銃の一斉射撃となり、旗がうちふられ、おどりあがって喜ぶ人の群れで浜はわきかえるようだった。なにしろ五十七日間、われわれは探検隊から離れていて、帰還が遅れるにつれて、死滅の虚報などが幾度も彼らに伝わっていたのだった。
岸近くボートが止まると、五十人の男たちが水へとびこんできて、私をボートから彼らの肩へかつぎ上げ、さかんな笑声や拍手や万歳の渦まくなかで、キャンプをまわり歩いた。フランク・ポコックも歓喜に顔を輝かせていた。だが、フレデリック・バーカーはどこにいるのか、と私が聞くと、急に彼の顔は曇った。
「隊長、彼は十二日前に死んだのです。そしてあそこに横たわっています」と彼はおごそかに、湖のそばの低い塚を指さすのだった。
フランクの報告によると、バーカーは四月二十三日の朝、湖で水浴してから、気分が悪くなり、全身が冷えきって発作を起こし、「隊長がお帰りになれば、生きのびられるかもしれないんだがなあ」と幾度もくり返しながら、午前十一時、はかなく世を去っていった。そのほか、六人が赤痢で死んでいた。フランクは酋長のカドゥマや、アラブ人のスンゴロとも仲良くやつてきていた。
われわれは休息した。私の体重はわずかに百十五ポンドで、ザンジバルを出たときより六十三ポンドも減っていた。一千マイルにわたる湖上周航の話を、みんなが聞きたがって寄り集まってきた。聞いたカドゥマは目をまるくし、スンゴロは驚嘆の声を放ちつづけた。
肉体が弱っていた私は、熱病にやられ、また七ポンド目方が減った。だが、キニーネを服用しつづけ、熱病を克服して、五日めに起き出た。あのマガッサはカヌー艦隊を率いて、どこへいったのだろうか? 毎日われわれは彼が現われるのを待ち望んでいたが、彼のカヌー艦隊は水平線に現われてこなかった。とうとうわれわれはあきらめて、陸路ウガンダへいこうとした。しかし、陸路を領有しているルゥオマ王が、例のミランボと同盟していて、ワンワナ人に強い反感をいだいていたし、白人をきらっていたので、カゲヒイへ使者をよこして、口上を述べさせた。
「ルゥオマは白人の布も玉も針金もほしくない。白人はわが領内を通過してはならない。ルゥオマは白人を怖れるものではなく、もし白人がわが領土へ近づくならば、ミランボとともに、戦うであろう」
私は水上をゆくことを検討してみた。どうやらマガッサは、ムシラ島から引き返して帰ったらしかった。カドゥマはカヌーを持たず、私自身は荒天候の場合、十五人の人間を運べるボートを一隻所有するきりだ。しかも、私はウガンダへゆき、ムタ・ウンジゲ湖へ出かけるつもりだった。私の苦境をスンゴロに話すと、彼はウケレウェの王ルコンゲがたくさんのカヌーを持っていると告げ、貸すかどうかはわからないが、相手が気に入れば、好意を見せる人物だといった。
私はまた熱病にやられた。すこし良くなってから、相談して、フランクが贈り物を持って、ルコンゲに交渉に出向いた。二十八日に、フランクが五十隻のカヌーを引き連れてもどった。だが、これらのカヌーで探検隊をいちおうウケレウェへ運んでゆく手はずだ、と彼はいう。そんなことをしていては、ぐずぐず遅延するばかりなので、私は毛布や縞《しま》布や優秀な玉など、八百ドルほどの値打ちの贈り物を用意し、みずからルコンゲの都へ出かけていった。
三十一日、ウケレウェのムソッシに到着した私は、王と会見した。美男で、明るい顔色の二十七、八の青年だった。幾日も折衝《せっしょう》がつづいた。やっと二十七隻のカヌーを獲得できた。私がカゲヒイへもどったのは、六月十二日だった。腐っているカヌーを修理し、食糧を積み、全部の人員や荷物を一挙に運べないので、ひとまずわれわれは、十九日の夜明けに百五十人の同勢で出帆した。
だが、二十日の日暮れに、ミアンデレ諸島に近づいて、真暗闇になってから、静かに航行していたとき、突然、激しく呼ぶ声々が聞こえた。私がそちらへボートを急行させて見ると、おんぼろのカヌーが沈んで、それに乗っていた者たちが泳いでいるのだった。われわれはそれらの者たちや布の包みを引き上げたが、火薬や穀物は沈んでしまっていた。半マイルも進まないうちに、また一隻のカヌーが沈んだ。さらにまた一隻沈みかけた。ウレディにシュマリという若い兄弟が、二隻のカヌーを指揮しながら、ボートに協力して、つぎつぎと沈むカヌーの者たちを引き上げ、ミアンデレ諸島へ上陸させた。あくる朝、シンゴ島へ移り、ウケレウェ人の水先案内に交渉させ、イト島の酋長やコメ島の首長から食糧や新しいカヌーを入手した。
二十四日、この前にわれわれがブンビレ島からたどりついた無人島へ漕いでゆき、堅固なキャンプをつくりにかかった。そして、大きな小屋を建てて、食糧や用具類を入れ、四十四人の守備隊を選び出し、フランクを隊長、マンワ・セラを副隊長に任命して、二十六日、私は十七隻のカヌーと百六人の人間を引き連れて、またカゲヒイへ引き返した。到着したときには、三隻のカヌーが見つからなかった。私は三十人乗れる大型カヌーを買い入れた。修理している最中に、ワンワナ人たちが酔っぱらって喧嘩し、一人が殺された。七月の五日に、見つからなかった三隻のカヌーのうち、二隻が発見されて、乗っていた者たちも連れてこられた。あくる日、私は探検隊のすべての人員、動物、荷物とともに、カゲヒイを出帆した。
七月十一日、無事に無人島へ着くと、守備隊は元気よくやっていた。私は心労のために五日間、病床に横たわった。十八日の朝、私は守備隊を連れ、カゲヒイに残っていた連中を無人島に休息させておいて、カサラジ島へ出帆した。この島で一夜休み、あくる日、ワウィズア島へ向かった。二十一日、あの怖るべきプンビレ島に連らなる島々のうちの最南端、マヒイガ島に着き、慎重に観察して、人が住んでいないことを確かめた。西がわの小さな入り江に大規模な野営地の跡が見つかった。ウガンダ人がきていたのらしかった。
われわれは危険区域の近くにきていたので、適当なキャンプをつくり始めた。南の無人島に休息させてある探検隊の残りの者たちを、この島へ運んでくるまで、少数の連中がここにとどまっていなければならなかったからである。
午後五時ごろ、イロバ島のほうから、二隻の大きなカヌーが用心ぶかく入り江へ近づいてきて、われわれのカヌーや人員の数を調べた。そしてその連中は探検隊に呼びかけ、前にブンビレ島へきた白人の隊長はまだ生きているのかとたずね、この島で野営したマガッサは、ブンビレ島の首長シェッカからボートのオールを受け取り、白人の一行は湖で死んだものと信じて、ウガンダへ引きあげたと話した。そして、食糧をよこすと言い、高らかな笑い声をひびかせながら、二隻のカヌーは漕ぎ去った。二十三日の朝、また一隻のカヌーが不敵な態度で近づき、キャンプを探るように見まわしながら、去っていった。
二十四日の夜明け前に、私はマンワ・セラを指揮者として、探検隊の残りの者たちを運んでくるために、大きな部類のカヌーを十六隻率いて、無人島へ向かわせた。
もうキャンプはすっかりできあがっていた。私とともに島にとどまっていたのは、四十五人の守備隊と、四人の水先案内だった。この日もイロバ島からカヌーがやってきた。探検隊が仲良くしようとしても、相手の原住民たちは、櫂で水をこちらにはねとばし、軽蔑を示しながら漕ぎ去った。
二十五日に、イロバ島の原住民たちが現われたとき、愛想よくするのは、かえって誤解されやすいと考えた私は、きびしい口調で、「イロバ島の首長は友誼の証拠として、明日正午までに、売る食糧をよこさなければならない。また首長はブンビレ島の首長と連絡しているにちがいないから、和平の保証として、あのボートのオールを返すか、二人か三人の人間をよこすべきだと思う」と話した。原住民たちはすぐに食糧を送ると約束した。
二十六日の朝、島の頂上の見張り小屋の者たちが、本土からブンビレ島のほうへ多数のカヌーが進航していると報告した。私が双眼鏡で見ると、原住民たちを満載した十八隻のカヌーが、イロバ島の西端をまわって、ブンビレ島へ向かっていた。いまこちらが小勢であるのを知り、彼らはこの島へ夜襲をかけようとしているらしい、とも考えられた。
私は午後三時まで、イロバ島の首長を待った。が、こなかった。私としては、なんとしても、ただちに行動しなければならなかった。ボートと四隻のカヌーに、三十五人を乗せ、キャンプにサフェニ以下十四人だけ残して、私はイロバ島へ偵察に出向いた。一つの村の岸に上陸し、首長と長老たちにきてもらいたい、とウケレウェ人のルカンジャにいわせた。
首長たちは十五人ばかりでやってきた。私はルカンジャに話させた。
「首長は若い連中をよこして、われわれを嘲弄《ちょうろう》させ、約束を守らなかったから、二人の酋長といっしょにキャンプへきてもらう。危害は加えない。ただ、ブンビレ島のシェッカをつかまえるか、和平が成立するまで、とどまってもらわなくてはならない」
すこしも暴力は用いられず、しずかに首長と二人の酋長はボートに乗った。そして首長は、われわれの要請にしたがって、ブンビレ島のシェッカと二人の酋長を捕えるように、部下の若い連中に申しつけた。このときには、もう原住民たちが岸に群がり集まっていて、明日シェッカを私の手に渡すと告げた。
あくる朝、イロバ島から一隻のカヌーが首長や酋長たちの食物を運んできて、若い原住民たちはブンビレ島で失敗したことを報告した。そのうちの一人は、首長の息子で、父に代わってここにとどまるから、父がシェッカを捕えるように図らってもらいたいと申し出た。私は感動して、首長にワンワナ人の一人と血盟させてから、帰らせた。
午後五時に、約束どおり、イロバ島の首長がブンビレ島の首長と二人の酋長を捕えてきた。それを見ると、ワンワナ人はわめき声をあげた。私がその場に居あわさなかったら、たけりたったボートの乗組みは、ブンビレ島の首長を殺していたにちがいない。だが、彼の生命とその役割は、われわれに必要であり、好遇すれば、彼の友情も、ブンビレ島との和平も確保できるかもしれない、と話して聞かせると、乗組みの連中もしずまった。
長期間のさまざまな経験から、私は蛮人たちが畏敬するのは、ただ、力、断固とした処置だけであることを知った。忍耐は、蛮人には臆病に見える。おだやかに、しんぼうづよく、静かにかまえているのは、道理のわからない未発達な蛮人の心には、柔弱さの証拠と映るにすぎない。獰猛《どうもう》なブンビレ島の原住民たちにしても、われわれがみごとに脱出してから、はじめてわれわれに畏敬の念を感じたのだ。ずるいイロバ島の首長も、われわれが静かに力を示してから、はじめて本当の親しみを見せたのだった。
だが、寛大さがなくて、力だけふるえば、残虐行為になってしまうし、一時的な効果しかない。だから、私としては、ブンビレ島の首長や島民に、彼らのはじめて目にした白人が、怒らせれば強い力を発揮するけれど、あとでは寛大であることを見せて、永続的な良い効果を彼らの心に残すべきだと思った。
捕えられてきたシェッカは、きわめて謙虚な態度になった。彼はブンビレ島を領有するイハンギロの王アンタリが、日夜ブンビレ島に大軍勢を集め、この島を襲撃しようとしていると告げた。われわれは騒乱を求めず、平和的な関係を望んでいるだけだ、と彼からブンビレ島民とアンタリに伝えさせるために、彼の部下の酋長二人と原住民三人が、イロバ島の首長とともに、ブンビレ島へやられた。
正午に、アンタリの重臣中の最長老が、六十人の同勢を連れて、三隻のカヌーで島へきた。私は一同に会い、ルカンジャを通訳にして話した。アンタリからの口上は、「白人たちが引き返せばよし、さもなければ、皆殺しにしてしまう」というのだった。
私はシェッカを連れ出させた。相手がわはみんな立ち上がって、威嚇《いかく》的な気配を見せた。われわれのほうもみんな立ち上がって、身がまえた。相手がわは暴力が役にたたぬのを悟った。私は重臣たちにいった。
「シェッカを救う方法は諸君がよく承知だろう。アンタリに告げなさい。白人はなんとしてもウガンダへいくつもりだ。平和は欲するが、アンタリを怖れるものはない。あす正午までに回答をえなければならない。さもなければ、私はシェッカと二人の酋長をウガンダへ連れてゆき、アンタリの主君ムテサ皇帝に引き渡す」
重臣中の最長老が、カヌーに落ちついてから告げた。
「白人はアンタリの息子、シェッカを掌中に握っておられる。アンタリは戦いますまい。明日、和平の回答をもってまいりましょう」
午後四時ごろ、褐色に塗った美しい五隻のカヌーの小艦隊が、ブンビレ島とイハンギロとのあいだの水路の真中を通りぬけ、こちらへ近づいてくるのが見えた。まもなく、ウガンダの艦隊とわかった。声をあげて歓迎されて、その指揮官が上陸し、サバドゥと名のった。彼はカゲヒイへ航行し、アラブ人のスンゴロをウガンダへ護送することと、私自身の消息を探ることとの二つの任務をおびていた。
彼の話によると、ながく消息を絶っていたマガッサは、ウガンダへ帰ると、私がブンビレ島の蛮人たちに殺されたか、湖で沈没したか、どちらかだと報告していた。オールと太鼓《たいこ》を持って帰っていたので、ムテサはひどく驚き、われわれが殺されたものと思った。だが、ほかには何の証跡もボートの破片も見つからなかったから、ムテサは疑問をいだき、サバドゥに命じて私のことを調べさせ、マガッサに強力な部隊をつけてウゾンゴラからイハンギロへ向かわせたばかりでなく、ムクワンガという指揮官に、八隻のカヌーを率いて水路ずっと岸ぞいに厳密な捜索をさせることにした。そうしたわけでサバドゥは、本土に上陸し、ムクワンガとともにウゾンゴラのキタワ王のところにいたとき、われわれの危急を聞き、こちらへ救援に急行してきた。そして明日はムクワンガも現われるだろうし、キタワ王幕下の二人の酋長も五隻のカヌーを率いてくるだろうから、彼らがアンタリと交渉して、うまく和平を成立させるかもしれない、とサバドゥは話すのだった。
二十九日午前十一時ごろ、ムクワンガの捜索隊が、キタワ王幕下の二人の酋長の指揮する五隻のカヌーとともに到着した。これで私は総勢四百七十人をえたので、もう襲撃されても心配はなかったが、ただ飢える心配があった。
日没ごろ、屈強な男たちが乗った一隻のカヌーが、キャンプの正面へやってきて、一人の男が槍と楯を持って立ち、ふてぶてしい文句を放ち、急速にブンビレ島へ去っていった。ウガンダへ向かうわれわれが、激しい抗争にぶつかるのは明らかだったが、結果は誰にも見当がついた。アンタリのもっているカヌーは、小型のものが百隻、一隻に十人乗るとして、総勢一千人ぐらい。そして一隻に弓組六人ずつとして、戦闘兵力六百。それに対して私は七梃の銃と、戦闘実力をそなえた三百六十人のウガンダ槍兵を差し向けることができる。しかし、流血の衝突を、あくまで避けようとした私は、幾度もアンタリと和平の交渉をした。
八月二日、またアンタリの重臣たちがきて、われわれの邪魔はしないと保証し、その証拠として、アンタリは自分の息子のシェッカと二人の酋長を、われわれが本土に着いた日にキタワ王に引き渡すことを条件として、ブンビレ島民に食糧をわれわれに売るよう命令するといった。私は心から喜んだ。あくる日、サバドゥが布や玉や宝具を供給され、一隊を連れてブンビレ島へ出かけた。そして六時間たってから、もどった。陰気な顔つきで、キャンプに近い岸へあがった彼に、私は聞いた。「どうかしたのか?」
「ああ」彼はため息をついた。「ブンビレ島の奴らは、けしからん悪人どもです。われわれが入り江から上陸すると、二十人ばかりの人間がきていたので、キタワ王幕下の酋長が話したところ、いくらでもほしいだけバナナを切り取るがいい、値段のことはあとで話そう、という返事でした。ウガンダの連中は槍をおいて、なた鎌だけを持ってバナナを切り取りに出かけ、わしはカヌーに残っていたんです。すると突然、バナナの森で叫び声や、ざわめく音が聞こえ、ウガンダの連中が駆け戻り、カヌーを押し出して、飛び乗りました。キタワ王幕下の酋長は左の腕を斬りとられ、頭を斬られて殺されたんですよ。八人のウガンダ人も深傷《ふかで》を受けています。まもなく運び上げられてくるでしょう。ああ、ブンビレ島は悪島です!」
槍や矢でむごたらしく傷つけられた男たちが、岸へ運び上げられた。それを見て興奮した二、三百人のウガンダ人やウゾンゴラ人が、人質のシェッカや二人の酋長へ殺到した。が、ワンワナ人やフランクが、やっと三人を助けた。
「静かに、静かに。こんどのことをやったのは、この人たちでない」
ウガンダの指揮官ムクワンガは、たけりたち、部下を集めて武装を命じ、これからブンビレ島を徹底的にやっつけ、アンタリのところへ乗りこみ、彼を殺し、イハンギロ全土を焼野ガ原にしてくれようと告げた。だが私は彼をとめ、いちおうみんなで相談し、復讐すべきだと考えられれば、私がやると話した。ウガンダ人は大むくれで、引きさがった。ウゾンゴラの連中も、彼らの酋長が殺されたのを怨《うら》み悲しんでいた。
幾分間もたたぬうちに、私はボートと五隻のカヌーに数人を乗せ、イロバ島へ向かった。イロバ島の酋長は、こんどの事件をまるで知らなかった。その島へきていたアンタリの年少の息子を、われわれはボートへ連れこんだ。そして和平を望むならば、明日正午までに回答せよと、イロバ島の首長からブンビレ島へ伝えさせた。
夕方、マンワ・セラの率いた探検隊が南から到着した。晩、フランクやワンワナ人のすべての班長たちが、私のテントへ集められ、協議が行なわれた。一同の意見は、戦うしかないということだった。私はみんなをさがらせてから、ひとり考えた。
私の指揮しているのは、軍事的な遠征隊ではなく、文明諸国と未開の国々の利益のために、通商と伝道事業に適した新路線の踏査を目的とする探検隊だ。だが、隊員には自衛の権利がある。ここへ着いてから十三日。その十三日めに計画的なだまし討ちをやったブンビレ島の連中は、「あした用心しろよ」とわめいた、とサバドゥはいった。もはや相手方は戦う気分を盛りあげたにちがいない。探検隊はもうウガンダへ向かう用意がととのったが、まず水路を打開しなければならない。どんな陰謀がめぐらされているにしても、それを打ちくだき、不信行為を懲罰しなくてはならない。不問にしておけば、相手方を増長させ、われわれに危険をもたらすかもしれない。すでに相手方は、本土から二千の援軍をえて、気勢をあげている。あの蛮人たちに決定的な一撃を加え、彼らの思いあがった気分をたたき伏せるしかあるまい、と私は心を決めた。
あくる朝、銃を持っている者たちに、二十発ずつ弾丸が配布された。二百三十人の槍兵と五十人のマスケット銃兵の戦闘部隊が編成され、十八隻のカヌーが用意された。私は正午まで回答を待ち、幾度もブンビレ島のほうを双眼鏡で見つめた。しかし、なにものもこちらへ近づいてこなかった。そこで戦闘部隊が集められた。私は彼らに話しかけた。
「諸君……われわれは水路を開かねばならない。彼らの謀略をつきとめ、阻止しなくてはならない。私は不信行為を懲罰しにゆく。彼らを破滅させるつもりはない。戦闘中に彼らの獰猛《どうもう》な気分がくだかれたか、それとも上陸して戦わねばならぬかが判断できるだろうから、諸君は私の指令どおりに行動してもらいたい」
ブンビレ島までは八マイルほどあったので、われわれは午後二時に島へ近づいた。蛮人たちは予期していたらしく、連らなる丘の上に大群が集まり、どの岬にも見張り番が立っていた。私が双眼鏡で見ると、南端の丘の頂上にある茂ったバナナの森へ、しきりに使者たちが駆け集まっていた。その森かげに、原住民たちの主力部隊が待機していることは明らかだった。
私はカヌー群を呼び集め、私のボートについてこさせた。丘の真下の入り江へ入りこむように見せかけ、近づいてから、高い丘のかげに隠れると、さっと左へ進路を転じ、激しく漕いで、一つの岬をまわり、小湾が見えるところへいった。やはり、敵はバナナの森かげに集結していた。われわれは邪魔物の小さい丘の傾斜面のほうへ進んだ。蛮人たちはわれわれがそこへ上陸しようとしていると思い、大挙して駆けおりてきた。二千から三千のあいだの人数だった。
岸から百ヤードのところへゆくと、われわれのほうはカヌーの中央から石錨を投げこみ、舷が岸へ向かうようにして、カヌー群を並べた。
私はウケレウェ人のルカンジに、和平を望むのか、とブンビレ島民にたずねさせた。
「いや、いや、いや!」彼らは槍や楯をふりまわしながら、声高く答えた。
「シェッカを救うために、なにもしないのか?」
「しない、しない。シェッカなどはなんでもない。おれたちには別の王がある」
「アンタリの息子を救うために、何もしないのか!」
「しない、しない。アンタリにはたくさんの息子がある。おれたちは戦うよりほかに、なにもしない。そちらからやってこなければ、こちらから攻めるところだったんだ」
「おまえたちは後悔するだろうよ」
「ふん。さあ、かかってこい。こちらはお待ちかねだぞ」
これ以上の談合はむだだった。おのおのの銃兵が、ねらいを定め、五十人ばかりの群れのなかへ射撃した。数人の死傷者が出た。かたまっていた蛮人たちは散らばり、水ぎわからとびこんで、腰までの深さのところまで進んでくる不敵な者たちもあった。用心ぶかい部類の連中は、アシの茂みのかげから矢を放ったが、われわれにとどかなかった。われわれは五十ヤードまで近づき、おのおのの銃兵は懸命に撃った。蛮人たちは勇敢に、一時間にわたって水ぎわを死守し、石を投げつけた。彼らの意気はさかんだったが、ここでは彼らの常用の武器とする槍が、まるで使えなかった。
すこし彼らの元気が衰えるのを見てとり、われわれはカヌー群を集合し、一挙に上陸する気勢を見せた。とたんに幾百人もの原住民たちが槍をかまえて前進してきた。急にカヌー群は止まり、一斉射撃をみまった。これですっかり彼らの勇気はくじけ、退却して遠くの丘へ引きあげた。これで懲罰はなしとげられたのだった。二百三十人のウガンダ槍兵は、それまで手に汗握って見物していたのだったが、これから上陸して復讐させてくれと、やかましくせがみだした。ムクワンガの要求ぶりはすさまじかった。数隻のカヌーは岸へつっ走った。だが、そんなに極端にまでやるのは、私の目的ではなかったので、私は一同をおさえた。指令にそむいて上陸する者は、私が撃つとおどかすと、やっとしずまった。
われわれがマヒイガ島のキャンプへ着いたときは、もう暗かった。これだけ敵に立ち向かう度胸と戦力を示しておけば、探検隊の女、子どもや荷物を乗せていっても、あの水路が危険なく通過できそうだった。それで、八月五日の早暁、六百八十五人を乗せた三十七隻のカヌーとボートは、ブンビレ島のほうへ向かった。
午前九時に、ブンビレ島に着くと、丘の頂上に数百人が並んでいた。われわれが岸に近づいたとき、一発の銃声がひびいて、百人ばかりが急いで去り、長老たちがわれわれのほうへおりてきた。われわれはルカンジャにたずねさせた。
「また戦いを始めるのか?」
「いや、そうではないです」
「では、いざこざはもう、けりがついたわけだね?」
「もう、なにも申すことはありません」
「われわれが静かに去ってゆけば、お前らはもう手出しはしないか?」
「しない、しない」
「今後も他国の人々に自由に通過させるだろうね?」
「さよう、さよう」
「食糧を買いにくる人々を、二度と殺したりしないだろうね?」
「しない、しない」
そこで私は彼らに、ムテサ皇帝の臣民を一人殺し、八人を傷つけたのだから、シェッカと酋長たちを皇帝のところへ連れてゆくのは私の義務だろうが、よろしくとりなすから、たぶん二カ月以内に帰れるようになるだろうと話した。八月八日、われわれはムシラ島に到着した。ウゾンゴラへゆくと、キタワ王が多勢の使者を派遣して自分の殺された酋長の復讐をしてくれたことを感謝し、食糧を送ってきた。
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六 ウガンダ帝国
八月十二日、ウガンダのドゥモ港にはいった。私は新聞へ手紙を書いたり、こまごました用件をかたづけたりした。そのうちに、ムテサ皇帝がウヴゥマと戦う準備をしている噂が伝わった。十八日、われわれがウンテウィへ急行してゆくと、すでに皇帝はウソガのほうへ進み、ウヴゥマの軍と戦っているということだった。またウヴゥマの軍は幾百隻のカヌーを湖上に放ち、獲物をねらっているとも聞いたので、われわれはウンテウィの村の真中へボートを運び、しまいこんだ。
ここでわれわれは、マガッサがブンビレ島民から受け取ったオールを手に入れたばかりでなく、マガッサを軟禁している二人の軍人にも会い、さらに皇帝から歓迎のあいさつをおくられた。
二十日にブカ入り江に着き、ここにカヌー群を残したわれわれは、陸路の旅をつづけた。
ブカ入り江とナカランガとのあいだの全距離を、徒歩で踏査してみた結果、ヴィクトリア湖からの出口はただ一つ、つまり、リポン滝だけであり、これがヴィクトリア・ナイル川となることを、私は断言できるにいたった。リポン滝の向かいがわにたどりついた私は、皇帝から迎えの使者をうけた。ナポレオン水路に、五隻の大型カヌーが待ちうけていて、私は近衛《このえ》部隊に護衛されながら、水路の向こう岸のジンジャへ渡った。五カ月前に、私がウヴゥマ人と小ぜりあいをやってから、この水路へ入りこんだときのありさまとは、たいへんなちがいだった。いまは水路に多数の大型カヌーが浮かび、両岸には幾千の男女や子どもたちが群れていた。五カ月前は、四辺が静まりかえって寂しく、ただ滝の単調な音が聞こえるだけだった。
水路を渡ってまもなく、ムテサが帝国のあらゆる地方から召集した大軍のただなかに、われわれは入りこんでいた。しばらくして、皇帝の行在所に近づくと、私の知っているウガンダの高官たちやカテキロに会った。彼らはみんな、無事でけっこうだったと言い、ブンビレ島民から脱出したいきさつを聞きたがった。
あくる朝、小姓たちに案内されて、私はムテサに謁見した。行在所は二百ヤード平方ばかりで、仮に建てられたものであったが、じつに品よくりっぱだった。謁見所で群臣を従えた皇帝に、サバドゥがいろいろな出来事を驚くほど詳細に報告した。それから私の名で、シェッカ以下の人質を提出し、皇帝は彼らを殺さず、アンタリが身代金をおさめるまで拘禁しておくようにお願いしたいといった。つぎに私は、前に約束されたように、ムタ・ウンジゲ湖への案内者たちを、できるだけ早急に提供してもらいたい、とムテサに頼んだ。
ムテサは答えて、いま反逆的なウヴゥマの者どもと戦っており、皇帝が戦争をしているときに、異国人に旅をさせないのがウガンダの慣習になっている。だが、この戦争はまもなく終わるだろうから、それまで待つならば、一軍を率いた部隊長に、いちばん近道を湖へ案内させようといった。私としては、ムタ・ウンジゲ湖の探検計画を放棄して、すぐさまタンガニカ湖へ向かうか、がまんづよく戦争の終わるのを待ち、急速に強行して、損失した時間のうめあわせをつけるか、どちらかだったが、重ねて戦争はながくかからないといわれて、とどまる決心をした。
八月二十七日、ムテサはナカランガへ軍を進めた。ウヴゥマの軍が根拠地にしているインギラ島から七百ヤード離れた地点だった。ムテサはウヴゥマばかりでなく、反逆的なウソガとも戦わねばなるまいと考えていたので、十五万の兵を集めていた。そのほかに五万近い女たちや、それと同数ぐらいの子どもたちや男女の奴隷たちがいたし、多くの属国や島々なども兵を派遣していたので、ムテサの陣営には約二十五万の人間たちがいたのだった。
私は皇帝の進発を見おくった。主力部隊が通過して、二時間ほどたってから、後宮の女たちが五千人ばかり進んでいった。そのうちの五百人ぐらいが皇帝の側女《そばめ》だった。五百人のうち二十人ばかりが白人の賛美に値する女たちで、なかでも三人は群を抜いて美しかった。まっすぐな鼻、うすい唇、なまめかしい大きな瞳をしていた。十四世紀のペルシア詩人ハーフィズなら、詩的|陶酔《とうすい》に駆られて、「ヤシのようにすくすくと伸び、月のように美しく」と歌ったことだろう。
四日後の九月一日、ムテサの軍はナカランガ岬に陣を張った。全軍の中央に四百ヤード四方の皇帝の行在所が造営された。全軍の将兵は、約三万ばかりの半球形の仮小屋に落ちついた。あとからついていった私とボートの乗組みにも、ムテサの命令でカテキロが建てさせた広い住居が提供された。
私は山の上からインギラ島を観望した。反逆したウヴゥマ人が、家族や家畜の群れも引き連れて立てこもっている島だった。槍や石投げ器を武器とする二万ばかりの原住民たちが、ムテサ皇帝の軍が陣を張った岬の突端から、わずか七百ヤードの水路を隔てて対峙《たいじ》しているこの島は、長さ一マイル、幅半マイルにすぎない。山が岸辺にせまり、その斜面はかなり険しかったが、攻撃軍には、容易にのぼっていけそうだ。
しかし、ウヴゥマがわにも、独裁的君主ムテサを怖れ憎み、自由を獲得しようと同盟している王国や島々があって、強固な共同戦線を張り、ウソガ人などは岸辺一帯に百五十隻のカヌーを配置している。その同盟軍は、インギラ島をカヌー連合艦隊の集合基地にしているのだ。ムテサの作戦は、この島を占領し、つぎの島へ渡り、それからウヴゥマへ進攻して、完全に屈服させようとするのだった。
ナカランガ岬から湾を隔てたナマゴンゴ岬へ進出した猛将セケボボは、五万の兵と三百二十五隻のウガンダ艦隊を率いて、皇帝の命令を待機していた。が、ウガンダ艦隊の大小のカヌーのうち、真に戦闘力のあるのは二百三十隻にすぎなかった。全ウガンタ艦隊五百隻の司令長官ガブンガは、最高指揮権をもたず、戦闘部隊の将軍の指揮下にあった。
九月二日、ウヴゥマ軍が三度か四度、湖上へ乗り出してきて、ウガンダ軍からマスケット銃の弾丸をあびせられた。が、ウヴゥマ軍は頭を低くかがめて、片手でカヌーを漕ぎ、大胆な者たちは立ち上がって、槍を巧妙に使ってみせた。
あくる朝、前夜中に命令を受けていたセケボボが、皇帝の艦隊を率いて湾を渡り始めた。ムテサの使者が知らせてきたので、私は岸辺へ出かけてみた。好奇心を燃やしたウガンダ人は見物につめかけ、ぎっしり数マイルにわたる人垣をきずいていた。島の山の頂上から見張っていたウヴゥマ軍は、急いで百隻ばかりのカヌーに乗りこみ、ワニのようにナマゴンゴ岬のほうへ押し寄せた。セケボボが艦隊の戦列をととのえるまもなく、ウヴゥマ軍は湾の真中へ出て、渡島を阻止しようと静かに待ちうけていた。
百隻で三百二十五隻にぶつかるのは、分《ぶ》がわるい、とウヴゥマ軍も見てとったのか、ウガンダ艦隊が近づくと、左右にカヌー群の列を開き、艦隊を通過させた。ウガンダ人たちが気をよくして、歓声をあげ始めたとたんに、ウヴゥマ軍が水に泡をたてて漕ぎ出した。そして密集した艦隊の両翼から、ウヴゥマ軍は勇敢に突入し、全ウガンダ軍をびっくり仰天させた。
その光景をながめたムテサは、高くとび上がり、戦いの叫び声をあげた。「カヴヤ、カヴヤ!」
そして軍も、男も女も子どもたちも、「カヴヤ、カヴヤ!」とわめきてた。
その叫び声を聞いた艦隊もすさまじく呼応してわめき、威勢よく敵に立ち向かった。しかし十四隻を拿捕《だほ》したウヴゥマ軍は正面きって戦おうとせず、急いで水の深いところへ退いていった。奇妙千万にもウガンダ艦隊は、そちらへ追跡していこうとはしなかった。
それから二、三日、何事もなくすぎた。そしてムテサが私に、戦略について相談した。ウガンダ軍は水上戦に慣れていないので、うまく戦えない。陸上ではつねに勝つが、カヌーでゆくと転覆させられるのを怖れる。兵の大部分が奥地からきているので、泳ぎ方も知らない。ウヴゥマ軍のほうは水上戦がたいへん巧妙で、魚みたいに泳ぐ。だから、ウガンダ軍がカヌーに乗らずに、島へ渡れるなにかの方法が考え出せるなら、かならず勝てるにちがいない、とムテサはいうのだった。私は答えた。
「この陣営にいる多数の人々に、一日に五十個ずつ、岩石を湖水へ投げこませれば、数日中に、乾いた地面を歩いてインギラ島へ進軍できることを保証します」
ムテサは膝を打って賛意を表し、ただちにカテキロに命じて二軍団を集め、その仕事に当たらせた。岩の多い山の表面が、たちまち四万の兵におおわれた。彼らはナカランガ岬とインギラ島を連絡する岩石の土手道をつくりにかかったのだった。三時間たってから、私が仕事ぶりを見に出かけると、彼らは幅百フィートばかりの土手道をつくろうとして、汗水たらしていた。私はカテキロに、こんなことをやっていては一年もかかるだろうから、これを幅十フィートにするがよかろう、といった。
だが、このウガンダの総理は、私にいんぎんに応対しながらも、異国人からの忠告は受け入れようとしなかった。ひょうたんいっぱいの甘美なバナナ酒をすすめ、ヨーロッパ人の生活ぶりなどを聞いたりして、微笑しつづけたが、その如才《じょさい》のない仮面の下に、鋼鉄のように不屈な、誇り高い心を、私は見てとった。こんな泰然自若《たいぜんじじゃく》としたウガンダの貴族を相手にしては、私は胸のうちでうめくよりほかにどうしようもなかった。
それから二日間、岩石で土手道をつくる仕事がつづけられたが、そのうちにムテサが、樹木で水路を埋めるほうが早かろうと思いつき、そうせよとカテキロに命令した。
ウガンダ軍は三日間、樹々を切り倒しつづけ、ナカランガ岬へ運んで、樹皮でつくった綱でしばり合わせ、沈めていった。五日めの朝、ムテサは土手道を検分にきて、それが百三十ヤードほどインギラ島のほうへのびているのを見て喜んだ。そして和平使節団をおくろうと思うが、どう考えるか、と私に聞いた。ヨーロッパでなら聡明なことだが、ウヴゥマ人たちは皆殺しにしてしまうだろう、と私は答えた。
しかし、寵愛《ちょうあい》の小姓ウェッバと十五人の使節団がやられた。そのカヌーが島へ近づいてゆくのを、ムテサをはじめウガンダ軍は見つめた。使節団が上陸しようとする地点の近くに、ウヴゥマ人たちが寄り集まった。カヌーが岸へ着くか着かないかに、使節団の悲鳴が水上を越えてひびき、勝ち誇ったウヴゥマ人たちのわめき声がとどろいた。
まもなく、土手道にいちばん近い地点へ駆けてきたウヴゥマたちは、嘲笑しながら、殺されたウガンダ人たちの首をムテサに見せ、湖へ放りこんだ。ムテサは、陰鬱《いんうつ》に、落ちつかない物腰で立ち上がり、行在所へ引きあげたが、土手道をつくりつづけよ、とカテキロに命じた。静かにカテキロは命令を受けたけれど、それが下僚へ伝達され、末端へ達したときには、ほんの百人ばかりの人間が、土手道でのろのろとうろつくにすぎない始末となった。
それきり、土手道のことは口にされなくなった。ムテサがヨーロッパの科学について知りたいと思いついたからたった。私は科学百科辞典みたいになって、宇宙|森羅万象《しんらばんしょう》の解明に大わらわにならねばならなかった。岩石や金属の性質、幾多の物品を製造するためにヨーロッパ人が発明した千態万様の機械のことも、話題になった。皇帝は熱心に聞き入り、カテキロや大臣たちもぽかんと口をあけて、感嘆ぶりを見せた。やがて私は、例のとおり、神へ話をもってゆき、天使のことにふれた。すると、ムテサは歓喜の叫び声をあげ、大臣たちも同調した。ムテサがいった。
「スタンレー、アラブ人は布や玉や針金を持って、象牙や奴隷を買いにくる。火薬や鉄砲も持ちこんでくる。そういう物品はみな白人が製造したものだ。だから、わしは白人を尊重する。知識をうるためには、白人と話すしかない。スタンレー、その天使について君の知っているだけ話してくれ」
これはじつにむずかしい注文だったが、私はミケランジェロやドレの描いた天使を思い浮かべ、ミルトンやエゼキエルの記述の助けをかりて、天使の面影をあざやかに描出しようと努めた。皇帝や高官たちは知識欲を満足させて、驚嘆したようだった。私は自分の話に根拠があることを示すために、『聖書』をとり寄せ、「エゼキエル書」や「ヨハネ伝」の天使についての記述を翻訳して聞かせた。このささやかな出来事は、きわめて興味ぶかい結果をもたらした。皇帝が『聖書』や「祈祷《きとう》書」に、ものほしそうな目をなげたので、その意を察した私は、大学伝道団の教えを受けたダリントンを皇帝に引きあわせ、『聖書』をスワヒリ語に訳させたり、私の言いたいことを伝えさせたりした。
それ以後、戦いの合い間の余暇ごとに、皇帝と、大臣たちと、ダリントンと、私は、『聖書』の抜粋《ばっすい》の翻訳にいそしんだ。たくさん筆記用紙があったので、私は皇帝のために大きな帳面をつくり、それに祐筆のイディが翻訳をきれいに書き写した。これが完成すると、ムテサはスワヒリ語の抄訳版の『聖書』を所有することになるのだった。それには「創世記」からキリストの十字架上の死まで、すべての主要な事件が網羅《もうら》されていた。とくに救世主の生涯が詳記されている点から、「ルカ伝」は完訳された。
この抄訳版の『聖書』が完成したとき、ムテサは大臣や将軍たちを集め、宗教問題について話し始めた。
「父のあとをついで皇帝になった当時の自分は、父祖の慣習に従って、血を流すことを楽しんだ。だが、アラブ人がきて回教を教えてから、自分は斬首刑はあまり行なわなくなり、酒にも酔っぱらわなくなった。しかし、回教には不可解な事がらが多かった。たとえば、天国へゆくためには、割礼を行なわねばならぬ、などということは理解できなかったから、自分は割礼をこばんだ。ところでいま、白人スタンレーがマホメットの『コーラン』よりも古い書物をもってきておる。マホメットは虚言者であり、『コーラン』の多くの部分は『聖書』からとられている、とスタンレーはいう。わしは『聖書』を読み聞かされて、『コーラン』よりもはるかにりっぱなものだと思う。ここにいたって、われらはどうすべきか、各人の意見が聞きたい。われらはイサ(イエス)か、マホメットか、いずれを信ずべきか?」
大臣の一人は答えた。「いちばん善《よ》いものを信じたいと存じます」
カテキロがいった。「どちらがいちばん善いものか、私どもにはわかりかねます。アラブ人は『コーラン』がいちばん善いと申しますし、白人は『聖書』がいちばん善いと申します……してみれば、いずれが真実を語っているのか、どうして私どもにわかりましょう?」
侍従長はいった。「陛下が回教徒におなりあそばしたとき陛下のご教示をうけ、私は回教徒になりました。陛下がさらに多大の知識をえられまして、あれは誤りであると御意《ぎょい》あそばすならば、正しいほうをご教示たまわりたく存じます。私はお言葉をお待ちするばかりでございます」
ムテサは微笑した。「それぞれ一理ある意見だ。聞くがよい。アラブ人たちはわが国へきて、かならずしも真実を語らず、自分たちと同じ皮膚の色の人間を買い、鎖でしばったり鞭打ったりして虐待する。白人たちは奴隷を提供されても、『われらの兄弟を奴隷にできようか? いや、われらはみな神の子らだ』といって、断わる。白人がうそをいうのは、まだ聞いたことがない。われらは奴隷を取引しているにしても、これが悪いことでないとは断言できない。そしてアラブ人たちも白人たちも、それぞれ『コーラン』や『聖書』で教えられたとおりに行動しており、白人たちのほうがアラブ人たちよりもはるかに卓越《たくえつ》していることを考えめぐらすと、白人たちの『聖書』のほうがすぐれていると思われる。スタンレーが話して聞かせるのに、ひたすら耳を傾けてきたわしは、信じがたい事がらはなにもふくまれていないと考え、いとも満足しておる。では、われらは『聖書』か『コーラン』か、いずれをわれらの指針として受け入れるべきか?」
もはやムテサの意向が明らかだったので、一同は答えた。「白人の『聖書』を信奉したいと存じます」
それを聞いた皇帝の顔は、喜ばしげに輝いた。
このようにして、ムテサは回教を放棄し、キリスト教への改宗を明言した。私はヨーロッパから牧師が派遣されて、ムテサに洗礼を受けさせ、キリスト教の道徳を教えるようになるまで、『聖書』の勉強の助手として、グリントンをムテサのそばにとどめておくことを約束した。
九月十四日、ウヴゥマ軍が日増しに図太《ずぶと》くなり威張りだしてきたので、ウガンダの皇帝は戦う決意をした。
朝、ウガンダ軍のカヌーが四十隻、ナカランガ岬の土手道の前で戦闘隊形をとり、船足をインギラ島のほうへ向けた。
ムテサは全軍の四分の三を従えて、岬へ観戦に出た。そして水路を見おろす広々とした仮小屋に、寵愛する女たちとおさまった。すると、男女の呪術師たちが百余人、皇帝に近づいてきて、つぎからつぎへ祈祷《きとう》をささげた。水ぎわから山の頂上まで、幾万もの見物人が目白おしに並んだ。
隊形をととのえたカヌー群は、船尾を先にして、ゆっくりとインギラ島のほうへ進んだ。ウヴゥマがわはまだ押し出さず、急いで集まっていた。そして山の傾斜面に、守備隊や数千人の女、子どもがすわりこんでいる。水ぎわには藺《い》や葦《あし》が高く茂っているので、カヌー艦隊の数はわからない。ウガンダがわのカヌー群は、マスケット銃の着弾距離まで進むと、射撃して敵を悩まし始めた。酋長たちの合図とともに、ウヴゥマのカヌー艦隊の船首は藺《い》や葦のあいだから飛び出し、すさまじい戦いの叫び声を放ちながら、百九十四隻が驚くべき速度でウガンダがわに殺到した。ウガンダがわはゆっくりと土手道のほうへ退き始めていた。
土手道の突端には、百人のマスケット銃隊と四門の小さな曲射砲が、カテキロとムテサの万能従者トリの指揮下に待機していた。
ウヴゥマの艦隊が殺到すると、ウガンダのカヌー群は急いで退き、土手道に近づいたとたんに左右に分かれ、カテキロとトリに敵撃滅の機会を提供した。だが、砲手たちの訓練不足やら、マスケット銃兵たちの興奮過剰やらのために、ウヴゥマの艦隊にごくわずかな損害しか与えられなかった。しかし、その音響や弾丸のうなりは、艦隊の進行をとめ、ウヴゥマ軍はまるでペテンにかけられて、獲物をまきあげられた腹ぺこのワニどもみたいな面相で退いていった。それで戦いはおしまいだった。みじかい一戦であったが、あんなに腹をすえた敵が守っているインギラ島は、ムテサには占領できないことが、はっきりと私にわかった。
土手道をつくる仕事が、のろのろと進められた。私はムテサや大臣たちにキリスト教のことを教えたり、この帝国の複雑な政情を理解する情報をすこしずつ集めたりしながら、日々をすごした。
九月十八日の早暁、戦闘準備の戦鼓《いくさつづみ》が鳴りひびいた。サバドゥの話によると、その前に皇帝が、拳のような大きな目をして、ウガンダには戦う者はいないのか、と大臣たちを叱咤《しった》し、「今日こそ、戦わない者、逃げる者を見とどけ、そうした卑怯者を焼き殺し、その領地を功名をたてた百姓にくれてやる」と告げていたのだった。
午前八時三十分に、ムテサがナカランガ岬へ観戦に現われた。まもなく、二百三十隻のウガンダ艦隊が、灰色の水路へ乗り出してきた。一万六千の兵を率いて、大臣や侍従長がインギラ島攻撃に向かった。勇将ムクエンダは左翼の八十隻を指揮して進み、ウヴゥマ軍の右翼へマスケット銃兵の弾丸をあびせ、カヌーに穴をあけて敵を悩ました。ウヴゥマの百九十六隻の艦隊が急速に進航してくると、ウガンダ艦隊は退き、中央を開いた。トリが四門の曲射砲を二十隻ばかり密集した敵のカヌー群へぶっぱなし、半数以上を撃ちくだき、さらにすばやく弾をこめて砲撃し、すばらしい戦果をあげた。ウヴゥマ軍は退いた。ウガンダ軍はナカランガ岬の岸へ呼び集められて、皇帝の祝辞と大群集の歓呼をうけた。
皇帝はまた出撃を命じた。ウヴゥマ軍はものすごい勢いで応戦した。壮烈な戦闘だった。ウガンダ軍は皇帝に処分されるのを怖れていたから、沈着にじょうずに駆け引きして戦果をあげ、ウヴゥマ軍は死にもの狂いの猛勇ぶりを見せた。この一戦が終わってから、もう一度ウガンダ軍は出撃し、敵がわも必死に殺到したが、なにしろ、土手道の曲射砲とマスケット銃に応酬する武器がないのだから、砕かれたり傷ついたりするしかなかった。
数日後、ウヴゥマの百七十八隻のカヌー艦隊と、ウガンダの百二十二隻が戦った。ウヴゥマ軍は、ひじょうに意気消沈していた。だから、ウガンダ軍が気魄《きはく》をみなぎらせていたなら、この日に戦局を決定していたかもしれなかった。
そのあくる日、ウガンダ艦隊二百十四隻とウヴゥマ艦隊二百三隻が激突した。ウヴゥマがわが異常な勝機をつかみ、ウガンダ軍を追跡してナカランガ岬へ四十ヤードまでせまった。が、マスケット銃と曲射砲が、その近距離でぶっぱなされたので、大損害をこうむって、追い払われた。この日、ウガンダ軍は二度めの出撃をやらなかった。異常な敗退に混乱し、意気消沈していたからだった。
その理由を聞いてみると、ムテサの火薬がほとんど消耗しつくされて、マスケット銃一|梃《ちょう》に一発ずつも配布できかねる実情とわかった。
もう十月五日になっていた。私はこの戦争を早くかたづけねばならなかった。そこで双方とも傷つけず、しかも納得させる解決の仕方を、けんめいに考究した。やがて、うまくいきそうな一つの計画をつくり上げた。だが、この計画を実行しないうちに、一つの出来事がもち上がった。
ムテサは密偵団を使って、ウヴゥマのおもだった酋長の一人を捕えていた。その火刑を見にくるように、と私は招かれた。火刑場へ出かけてみると、もう大量の薪束《まきたば》が積まれていた。ムテサは上きげんだった。寵愛の小姓ウェッバと和平使節団が皆殺しにされたのに対して、いまこそ復讐してやるという狂喜を、彼はかくしきれないのだった。
「さあ、スタンレー、ウヴゥマの酋長が火刑されて死ぬさまを見せてあげよう」とムテサはいった。その酋長は六十ぐらいの老人だった。「この男がどんなにして死んだか、ウヴゥマの者どもが聞いたら、ふるえあがるだろうよ」
「ああ、陛下」私はいった。「あなたは『聖書』の言葉をお忘れになったのですか? 自分の敵を愛し、許せという言葉を」
「しかし、この男はウヴゥマの原住民で、ウヴゥマはわしと戦っているのだ。君はウェッバを忘れたのか」
「いや、まことにかわいそうだったと思っています」
「わしは彼のために血を求める。この男を焼いて灰にする。捕えた奴を、ことごとく焼き殺す。わしは血を求める! ウヴゥマのすべての奴らの血をな」
「いや、陛下! もう血はたくさんです。もはや戦争は終結すべきときです」
「なんと!」ムテサは発作的な憤りを爆発させた。「わしはウヴゥマのすべての奴らを殺し、すべてのバナナの木を切り倒し、すべての男も女も子どもも火刑にする。わしの父スナの墓のそばでな」
「いや、陛下、そんな考え方はおやめください。いつも血を夢見たり、血を流すことを語ったりするのは、邪教徒だけです。いま話しているのは、私が会い、知己となったムテサという人ではありません。『善良なムテサ』、キリスト教徒のムテサではありません。蛮人です。いやはや! もううんざりしました。いまにして私はあなたがわかりました」
「スタンレー! ちょっと待て。なぜおまえたちはぐずついているのか?」と突然ムテサは、火刑執行人たちのほうを振り向いた。
たちまち老酋長は縛りあげられた。が、さっと私は立ち上がって、ムテサにいった。
「先日あなたは、始祖のキントゥが、ウガンダは血の悪臭にみちていたから、この国を去ったとお話になりました。遠い遠い昔、キントゥがウガンダを去ったように、私もここを去ってふたたびもどってこないでしょう。今日キントゥは、霊魂の世界からあなたを見おろし、私を通じてあなたを戒めているのです。あなたがあのかわいそうな老人を殺されるならば、私も殺されないかぎり、私は今日ここを去って、ザンジバルからカイロにいたるまで、出会うすべてのアラブ人に、あなたがどんなに残虐なけだものであるかを告げ、あらゆる白人の国で、ムテサの邪悪な行為を大声で語るでしょう。さようなら、陛下。あなたはあの酋長を殺されるかもしれませんが、私はおいとまして、それは見ないことにします」
私は火刑場から歩み去った。
一時間たってから、小姓が呼びにきて、私はムテサの前へ出かけた。ムテサはいった。
「もうスタンレーはムテサを悪く言いはすまいな。わしはあのウヴゥマの酋長を許し、指一本ふれはしないからだ。もうスタンレーは、ムテサは善良だというであろうな?」
「陛下はたいへん善良です」私は熱心に彼の手を握った。そして戦争を終わらせる計画を話し、協力を求めた。
「君の思うようにするがよい。セケボボと彼の部下を君に授けよう」
あくる朝、私の住居の前へセケボボが二千人ばかりの部下を連れてきて、指令を承りたいといった。私は彼に話して、千五百人に材木や樹皮の綱をつくりにいかせた。そして彼と五百人の部下を連れて、私はカヌー艦隊の基地へ出かけ、三隻の堅牢《けんろう》なカヌーを選び出した。長さ七十フィート、幅六フィート半のもので、この三隻を水ぎわの地面に四フィートずつ間隔をおいて平行に並べさせた。つくられた材木や綱がどんどん運ばれてくるにつれて、私は三隻のカヌーを土台にして、長さ七十フィート、幅二十七フィートの浮き城を建造した。
二日めに、この浮き城が完成すると、ムテサや大臣たちが、その進水式を観覧にきた。大臣たちは沈むだろうといったが、皇帝の女たちは、浮かないものをスタンレーがつくりはしないだろうといった。私はボートの乗組みの最優秀の者とトリに、航行の指揮をさせ、浮き城の守備隊と乗組み二百十四人を乗りこませることにした。そして千人を動員して進水させた。すると、みごとに浮き城は湖に浮かんだ。大軍がこれの創案者に、かっさいをおくった。
奇妙な浮き城の上に青、白、赤の旗や幟《のぼり》が立てられて、出入口がぴったり閉ざされると、浮き城はふしぎな魔力でみずから動いているようで、静まりかえった城壁のうちには、なにか妖《あや》しく怖ろしいものがひそんでいるかに見えた。
十月十三日の朝八時に、ナカランガ岬にはなばなしく一軍が集められ、土手道の突端から水路ごしに、ウヴゥマ軍へ勧告が行なわれた。ただちに和平をしなければ、怖ろしいものが攻め寄せて、ウヴゥマ軍を木っ端みじんに吹っ飛ばしてしまうぞ、というのだった。ウガンダのすべての悪神や魔物が、その怖ろしいもののなかにひそんでいる、と告げたようだった。あのウヴゥマの老酋長も、ムテサの条件を受け入れるように説いた。降伏の形式をふむならば、すべてを許す、という条件だった。
このような勧告が行なわれてから、太鼓《たいこ》や笛がすさまじく鳴りひびくさなかに、ぶきみなふしぎな浮き城が現われた。私にとっては、いろいろな理由から、苦慮の一瞬だった。槍で武装した原住民たちがどんなに猛烈に襲撃しても、完全に防衛できるようになっていた浮き城は、だんだんに岬に近づき、それから進路を転じて、まっしぐらにインギラ島へ向かい、五十ヤードまでせまっていった。
「話せ!」浮き城のうちの死のような静寂のなかから、異常に大きな声がいった。
「おまえたちはどうする所存か? 和平をして、ムテサに服従するか? それとも、われらが島を吹っ飛ばそうか? すみやかに答えよ」
恐怖に打たれたウヴゥマ人たちは、ちょっと相談した。すぐに回答を決定しなければならなかった。浮き城は巨大で、これまで彼らが湖上で目にしてきたものとはまったく異なっていた。浮き城には人っ子ひとり見えず、しかも大きな声がはっきりと話したのだった。一つの霊だろうか? 敵がわの祈祷を聞き入れたウガンダの悪霊たちが勢ぞろいしてきたのだろうか? あれにはなにか怖ろしい魔物がひそんでいるかもしれない。彼らはさまざまな悪霊を思い浮かべた。浮き城の大胆不敵な、落ちつきはらった動きは、彼らにおぞけをふるわせた。
「話せ!」きびしい声はくり返した。「われらは、ながくは待てぬ」
たちまち、一人の酋長らしい男が答えた。「いや、わかりました。皇帝の御意に従うことにいたします。今日、われらは貢物を集め、皇帝のところへ参上いたしましょう。おお、霊よ。ご帰還くだされい、戦いは終わりました!」
ふしぎな浮き城はおごそかに、入り江へ引き返し始めた。この異様な光景を見物していた二十五万の未開の人間たちが、大空もつん裂くばかりの喚声をあげた。その叫喚《きょうかん》がインギラ島の山のてっぺんにこだまして、ナカランガ岬へはね返ってきた。
それから二時間後、インギラ島から、数人の酋長もまじった五十人の男を乗せ、一隻のカヌーが到着した。彼らは幾本かの象牙と二人の若い娘たちを運んできた。ウヴゥマのおもだった二人の酋長の娘たちだった。これらの貢物のうち、象牙は侍従長に渡され、若い娘たちは皇帝の後宮へ入れられた。侵入してその秘密を知った男は、みな命がなくなるという後宮であった。例の老酋長は自分の部族へ返された。
このようにして、一八七五年十月十三日、ながながしい戦争は終結したのだった。
十月二十九日、ムテサは旧都ウラガラへ凱旋《がいせん》した。数日後、私はムタ・ウンジゲ湖へ探検にゆくために、ムテサに協力を頼んだ。ムテサは護送部隊の部隊長を私に選ばせた。こんどの戦争で幾度か功名をたてていた三十くらいのサンブジという若い男を、私は選んだ。皇帝の命令を受けたサンブジは、平伏して謝辞を述べ、立ち上がって槍を構えながら叫んだ。
「私はウンヨロ国のまっただなかを突破し、スタンレーを湖へ連れてまいります。われらは堅固な砦をつくり上げ、スタンレーが仕事をすませるまで、がんばりぬきます。何者が私に敵対できまししょうか? このサンブジの旗を見れば、ウンヨロの兵どもは尻尾《しっぽ》をまいて逃げ出しましょう。サンブジを派遣されるのは、皇帝陛下ご自身であるからでございます!」
十一月十六日、私はウンテウィから湖上をドゥモ港へ向かい、二十日にドゥモ港に着いてフランクに会い、探検隊の荷物をまとめ、用意をととのえた。そして七日めに、われわれは出発し、陸路を北北西へ進んでいった。カトンガ川でサンブジ将軍の護送部隊と出会うことになっていたからだった。
カトンガ川へたどりついたが、サンブジ将軍はきていなかったので、われわれは北岸に五日間、野営していなければならなかった。いらいらしたけれど、がまんするより仕方がないと思った。
六日めに、ラウグルウェで、われわれは千人の護送部隊を率いたサンブジ将軍に出会った。戦争中にサンブジは、われわれの住居の裏がわに陣を張っていて、ひどく熱心に私と親しくなろうとした。それが理由の一つとなって私は彼を選び、ムテサに推奨したのだった。ところが、こんど彼に会ってみると、彼は皇帝の態度を大げさにまねて、ふんぞり返り、あいさつもろくにしなかった。
彼の昇進がこんな結果になろうとは、私もまるで予期しないではなかったが、やはりさむざむとして少し腹がたった。友人に対してどうしてそんなにふんぞり返っているのか、と私が聞くと、彼は答えた。
「わしは皇帝陛下のご名代《みょうだい》で、全部隊はわしの指揮下にあるのです。あなたの友人だったサンブジは、いまやサンブジ将軍と変わっているんですよ。おわかりですかな」
私はウガンダを通過しているあいだはどうでもよいが、国境を越えてウンヨロに入り、危険がせまれば、こちらの意見も聞いて行動してもらわなくてはならないと告げた。サンブジはウガンダ軍の手なみを見てもらいたいといった。
国境のカワンガまでゆっくり進んでゆくうちに、四人の大佐や二人の大尉の引き連れた軍が追いついてきて、サンブジの兵数は二千二百九十人となった。それに、五百人ばかりの女や子どもたちがついてきていたので、総数はざっと二千八百人だった。
一八七六年一月一日の前夜、探検隊はカワンガを出発し、一日の正午、ウガンダとウンヨロの国境線ナブタリ川の岸で野営した。そして二日にナブタリ川を渡って、いよいよウンヨロへはいった。
サンブジ将軍やセカジュグ大佐は、ウガンダ軍がこの国へ進攻すると、たいてい原住民たちが丘の上から呼びかけ、進攻の理由を聞くのだが、今度は原住民の影も見えないところから察すると、どこか別の地点へ集まって敵対しようとしているにちがいないといって、密偵を八方へ放ち、あくる日は進行を停止した。
一月六日、コタンガ川を渡り、西へ進んだ。ウガンダ軍の食糧徴発隊がはじめて原住民たちの姿を見つけた。
「鳥みたいに飛べないなら、お前らは帰れやしねえぞ」と原住民たちはわめいた。
西の山地へ入りこむにつれて、夜は寒く、朝は霧がたちこめた。九日、ウジンバの田野へくだってゆくと、住民はわれわれのことをまるで知らず、逃げ去りながら、明日は引き返してきて戦うといった。
あくる日、われわれは会議をひらき、原住民たちを十人ばかり捕えてきて、布や玉を与え、彼らの首長たちに、われわれの意図を伝えさせるようにした。ウガンダ軍が連れてきている白人は、湖を見るのが目的で、数日間この国に静かに滞在したいこと。村を占拠せず、村の外にキャンプし、住民たちが食糧を売りにくれば、代価を払い、理由なく住民に迷惑をかけないこと。そしてこの二日以内に回答をもらいたい、とわれわれは原住民たちに話した。
一月十一日、われわれは海抜四千七百二十四フィートの高原へ進んだ。この高原の端から千五百フィートほど下方に、湖は横たわっているのだ。われわれは低い尾根の平らかな頂上に野営した。探検隊は湖のほうの端に、ウガンダ軍は尾根の中央と東の端に野営した。
つぎの日、回答がもたらされた……住民は他国人には慣れておらず、他国の人間たちがこの国へくるのを好まない。ウンヨロの王はナイル河畔の白人たちと戦っているのだから、その背後へきた白人を見のがしておくわけにはいかない。口先ではうまくいっても、目的は邪悪にちがいないから、あす戦う覚悟をしてもらわねばならぬ。
こんな回答を、三百人ばかりの原住民たちがもたらし、捕えられないように用心ぶかく口上を述べて、ウジンバ山のほうへ引きあげた。
この宣戦布告は、ウガンダ軍を不安におとしいれ、かしましい軍議評定となった。親衛隊二十人を連れてきていた例のサバドゥや、総理の弟ブゴンバが、弁舌をふるって、帰還するようにサンブジに説いた。セカジュグ大佐らも、即刻帰還を力説した。
混乱の危険を見てとった私は、サンブジにいった……ムテサは私を湖へ連れてゆけと命令しているのに、まだその湖を見もしないうちに、帰還をうんぬんしているが、彼らがみんな帰る気なら、二日だけ待ってくれるならば、私はムテサあての手紙を渡し、みんなが叱責をまぬがれるようにとり図らおう。この二日間に、ウガンダ軍五百人と私のほうの五十人が、高原の断崖からボートやカヌーや荷物を、湖へおろす道を見つけ、湖へたどりつけば、もっと多くのカヌーを手に入れ、湖上へ出帆できるかどうかを検討するようにしたい。
私の意見は、ウガンダ軍の将校らの気に入り、ただちに実行された。私自身も別に五十人の一隊を連れて、高原の端から湖へおりる安全な道を捜しに出かけた。湖を見おろすと、巨大な鏡のように静かで、青かった。十五マイルほどかなたの向う岸は、高い尾根になっていた。正午に湖からもどってきた連中の報告によると、最初の五十フィートの断崖からボートをおろすのには、長く強い綱がなくては困難で、荷物を背負った人間はおりられず、またカヌーは漁師のものが五隻あるきりで、それも人間や荷物を乗せて湖上を航行するのには、まったく役にたたないというのだった。
これを聞いたウガンダ軍の連中は、即刻帰還説を燃えさからせた。われわれのまわりのすべての丘の上に、多数の原住民たちが配置されたのも、ウガンダ軍の恐怖をそそった。南から大軍が前進してくるという噂がひろがると、ウガンダ軍は帰途の食糧にする大量のサツマイモを荷造りした。
午後五時に、私はサンブジに呼ばれて、軍議評定に出た。サバドゥが帰還説を強調し、皇帝の怒りを柔らげる役は自分が引き受けるといった。わずか十七歳のブゴンバが、総理の弟で皇帝の小姓であるところから、サバドゥを強力に支持し、なんとしても即刻退去しなければならぬという結論へもっていった。
セガジュグ大佐らは、押し寄せるウンヨロの大軍のために、ウガンダ軍は皆殺しにされるだろう、とサンブジに告げた。すると、サンブジは私の意見を聞いた。私はいった。
「友人として私は君に忠告する。二日ここにとどまりたまえ。ウンヨロの軍は怖れるに当たらぬ。今夜、われわれは強固な柵《さく》をつくることができる。二日ここにとどまっても、たいした危険はない。だが、私のムテサあての手紙を持たずにウガンダへ帰れば、君は死に直面するに決まっているのだ」
サンブジは、二日はおろか一日もぐずついておれないといった。今夜用意をととのえ、あす日の出に帰途につくつもりだと話した。私は自分のキャンプへ引きあげ、フランクや斑長たちを集めて、実情を話し、意見を求めた。
カチェチェがいった。
「隊長、私はあなたのご命令どおりにします。ただひとつ申しあげておきたいことがあります。あすの朝サンブジが進発の太鼓《たいこ》を打てば、この探検隊の半分以上が彼についでゆくでしょうし、それを阻止できないでしょう」
私は答えた。「ウガンダ軍は私の信頼を裏切り、この国の人々は敵意をいだいている。こうなれば、もはや私としてはサンブジと引き返し、また別の道から、この湖の探検を試みるしかない。別の道が見つからなければ、これまでやったことで満足するよりほかあるまい」
夜明けに出発の準備をした。千人のウガンダ槍兵を前衛とし、千人の槍兵と三十人のワンワナ人を後衛として、太鼓と笛の音を合図に探検隊は進み始めた。かなりの距離をおいて原住民たちはついてきたが襲撃するすきがないのを見てとり、なにも手出しはしなかった。十五日の朝、探検隊の後衛が、ひそんでいた原住民の群れに猛襲されたが反撃して追い払った。
二十七日にウガンダへはいった。キソッシ山の南麓まできて、われわれはサンブジと別れた。そこは前にサンブジに出会ったラウグルウェよりすこし東だった。サンブジは近くの自分の領地へ帰り、われわれはこの地に三日間休止した。湖からの帰路、私が運搬を依頼していた三袋の玉、百八十ポンドのものを、サンブジは返さずに持っていってしまい、よけい私を不快な気分にした。
私はムテサあてに報告の手紙を書いて、カチェチェに持たせてやった。
ムテサは謁見所へカチェチェを呼び、大臣たちの前で、カチェチェに一部始終を語らせた。そしてムテサはいった。
「皇帝を愚弄《ぐろう》できないことを、サンブジに教えてとらせよう! こりゃ、サルチ」と親衛隊の指揮官に告げた。「兵を連れて乗りこみ、サンブジの領地を奪い、彼を縛って引ったててまいれ」
サルチは平伏して、ご命令を完遂《かんすい》しますと誓った。ムテサはカテキロを叱りつけ、増長してしゃべったちんぴらのブゴンバと、舌長《したなが》のサブドゥを呼べと命じ、以後そんな舌の使い方ができないようにしてやるといった。そして猛将セケボボとムクエンダに、十万の兵を指揮させて派遣すれば、スタンレーはもう一度あの湖へゆくと思うか、とムテサはカチェチェに聞いた。
「陛下、スタンレーは二度もあざむかれたのですから、もうウガンダ人を信用しないだろうと存じます。マガッサが逃げ、サンブジも逃げたのですから、セケボボも同じことをやるだろうと、スタンレーは申すでしょう」
カチェチェが率直に答えると、セケボボとムクエンダがとび出し、皇帝の前に平伏して、声張りあげて言上した。
「いえ、われらをご差遣ください、陛下。いかなる大軍が攻め寄せようとも、われらは断じて退くものではございません!」
そこで皇帝は、ダリントンに命じて手紙を書かせた。
私は南西へ進みつづけ、二月九日、アレクサンドラ・ナイル川に近いチャルガワへ到着していた。ここへダリントンの書いた手紙を持って、カチェチェが追いついてきた。私はながいあいだ考えて、やはりウガンダ軍は信用できないと思い、遠くまた引き返して時間のむだ使いをするのはやめることにし、ムテサに感謝の手紙を書き、ねんごろに別れを告げた。
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七 タンガニカ湖
私は探検隊を率いて、南西へ旅をつづけ、二月十九日、ガラグウェ王国のアラブ人の根拠地キタングレで野営した。カラグウェ山脈を越えてゆくと、ゾウ、サイ、キリン、野牛、カモシカが群れている。アラブ人たちに案内されて、いくつかの湖を観察しながら、二月二十七日、カフルロから海抜五千三百五十フィートの尾根に達し、草におおわれた高原へくだり、円形に柵がめぐらされたカラグウェの古都に、国王ルマニカを訪れた。
ルマニカは聖者のような気高い顔だちで、静かな音調で話した。カラグウェはウガンダの属国で、この国王は異教徒であったが、ムテサが敬愛しているのも当然と思われる人物だった。おだやかで仁愛に満ち、親しみぶかい慈父のようだった。赤い上衣をまとい、すわっている姿は中背に見えたが、六フィート六インチもある巨人で、並んで歩くと、私の頭のてっぺんは彼の肩あたりまでしか達しない。面長な顔で、鼻はローマ鼻に似ていて、くっきりとみごとな横顔をしている。
会見はたいへん気分がよく、私の質問に彼はふかい興味をもち、私の話すことを熱心に聞いた。私がこの国の地理について知りたがると、彼はその地方に精通している人間を呼んで、くわしく問いただしてくれた。この国には、美しい湖や川、山や温泉、その他いろいろなものがたくさんあるから、白人が探検して知ってくれるのは、喜ばしいと彼はいった。
三月六日、フランクがウィンダミア湖にボートを浮かべた。あくる日ルマニカは五十人の槍兵を連れ、私といっしょに湖へ出かけた。息子たちや一族の者たち、アラブ人たち、原住民たちが多勢ついてきた。湖畔の傾斜面の草原が、千二百人の原住民の観覧席になった。
探検隊のボートと原住民たちのカヌーとの国際レース! 喚声に励まされて、双方とも懸命に漕いだ。八百ヤードのレースでは、両方のスピードにたいして差はなかった。
八日から、われわれはウィンダミア湖を周航して調査した。長さ八マイル、幅二マイル半、水深は四十八フィートから四十五フィート。島や川も調べた。夜、キャンプすると、ものすごい蚊の群れに襲われた。
十三日、私はルマニカに三十人の案内人をつけてもらい、三十五マイル北のムタガタ温泉へ出かけた。高い樹木が、鬱蒼《うっそう》と茂った峡谷だった。巨大なヒヒやオナガザルの群れが追いつ追われつ、木から木へとび移り、ほえたり騒いだりしながら、枝をゆすぶり、ざわめかせていた。このムタガタは、近国一帯にも効験《こうけん》を知られているので、諸方から原住民たちが湯治にきていた。湯元は六カ所あって、浴場は直径十二フィート、深さ二フィートから五フィート、温度は摂氏四十三度から四十二度だった。原住民たちが効験あらたかだとたいへんほめるので、私は三日滞在して、みずから試してみることにした。そして熱心に多量の湯を飲んだが、いっこうにききめがなく、かえって間歇《かんけつ》熱に見まわれた。微温的な雰囲気からマラリアをすいこんだせいだったろうと思う。ルマニカの息子のルアジュンバが、私のために確保してくれた浴場で、朝から晩まで入浴できたのが、せめてものしあわせだった。
皮膚病をわずらっている者たちは急速に治癒《ちゆ》し、多数の原住民たちが引きあげたり、現われたりして、ゆあみしたり、ぶらついたり、歌ったり、野卑なおしゃべりをしたりして、峡谷に活気をみなぎらせつづけた。
十八日、われわれは帰路につき、途中で私は白サイを一頭撃ち、十八人のワンワナ人が二十ポンドずつ、その肉を持って、あくる日、カフルロへ着いた。二日後、私はまたルマニカを訪問し、アラブ人や原住民たちから、ムタ・ウンジゲ湖やキヴ湖などについて地理学的な情報を多量に提供された。最後にルマニカは宝物蔵を見せてくれた。武器や種々な物品が、みごとに保存されていた。鋼の翼の真鍮《しんちゅう》のアヒル十六個。同じ金属の大カモシカ十個。頭のない銅のウシ十個。すばらしい出来ばえの鉄のなた鎌。二《ふた》また刃の槍。幅八インチ、長さ十八インチの鋭利な穂先の優美な槍。鎖形の柄の槍。驚嘆すべき原住民の芸術的才能を示した、鉄の柄のついた大きなハエたたき。小錨のような四本の角がつき出た大包丁《おおぼうちょう》。繊細な草でつくり、黒と赤で模様や縞を染め出した美妙な布。また王の腰掛けは、ハコヤナギの丸太をくりぬいてつくったもので、旋盤細工《せんばんざいく》の傑作だった。このほか、木製の湯呑み、大杯、皿などの工芸品も、みな美しく清らかだった。円形の炉が建物の真中にあって、きわめて風雅につくられていた。
三月二十六日、カフルロを出発して南南西へ向かった。三十日、西ウスイにはいった。ウスイ地方は飢饉《ききん》で、食糧が法外に高かった。
四月七日、南へ進み、海抜五千六百フィートの尾根に立った。ここがヴィクトリア湖へ注ぐ川と、タンガニカ湖へ流れ入るマラガラジ川の水源との分水界であった。われわれは、いよいよこれからタンガニカ湖へ向かってゆくのだった。
十三日、ウサンビロの大きな村ガンバワガオへ進んでいたとき、イギリスから私といっしょにきたイヌたちのうちの最後の生き残りの「ブル」がついに倒れた。陸路千五百マイルを旅し、ぶきみなハイエナの叫びにも、ヒョウのうなり声にも、へきえきしなかった彼であったが、もはやふたたび立てなくなってしまった!
十八日、ウンヤムウェジのウラングワに着くと、このウンヤムウェジからウスクマ一帯にかけ、泣く子もだまり、女たちも動悸《どうき》を高鳴らせるという怪物、神出鬼没の武将ミランボ自身が、二十マイル先へ土匪《どひ》の大軍を率いてせまってきている、と伝えられた。私の指揮下には、百七十五人の探検隊とアラブ人たちの従者四十人がいて、弾丸は幾箱もあった。しかし、私はミランボと争う気はなかった。
あくる朝、斥候《せっこう》を前方へ放って、警戒しながら、われわれは出発した。そしてウンヤムウェジのいちばん大きな町セロンボに到着した。柵と堀をめぐらした周囲二マイル半、人口五千ばかりの町。首長は二年ほど前に死んだマカカの息子という十七歳の少年、ウンデガで、二人の長老が執権の役目をつとめている。
われわれは、特殊な形の家へ案内された。
戸口の高さ七フィート、床から円錐形の屋根までの高さ二十フィート。首長の家は高さ三十フィート、内部の直径四十フィート。ウンデガはミランボの義理の弟なので、アラブ人たちと和平したばかりのミランボが、こんどこちらへくるのは、義理の弟を訪問するためにすぎず、なにも心配することはないと布告して、不安がっている人心を静めた。
たそがれに、大太鼓《おおだいこ》の音がひびいて、町のふれ役が叫んでいる声が聞こえた。
「聞かっしゃれ、おおセロンボの人々よ。ウンデガの兄者ミランボは、朝ご入来じゃぞや。用意さっしゃれよ、若いご家来衆は空《す》き腹じゃ。女子衆《おなごしゅう》をやらっしゃれ、イモ掘りに、イモ掘りに!」
あくる日、午前十時に、幾百|梃《ちょう》もの火打ち石銃が放たれて、ミランボの先ぶれをした。歌にもうたわれる名高い首領を見ようと、探検隊の連中も外へ出かけた。戦鼓と歓声がミランボの到来を知らせた。探偵長のカチェチェが私に報告にきた。
「ミランボは年寄りではなく、若いです。たいへんいい男で、りっぱな服装をし、アラブ人そっくりですよ。アラブ人の外套をまとい、三日月刀を持ち、マスケット銃や二連銃で武装した千五百人ばかりを引き連れています。自分の銃は三人の若い男たちに持たせています。たしかに、ミランボはえらい男ですな!」
ウンヤムウェジ最大の王者を賛美する女たちの声々が、引きも切らず鋭くかん高く聞こえつづけた。
まもなく、探検隊の首席班長マンワ・セラが、三人の若い男たちを私のところへ連れてきた……頭にターバンをまき、赤と青の上衣に、雪白のシャツをまとっていた。ミランボの親衛隊の腹心の幹部だった。
「ミランボから白人にごあいさつを申します」おもだった一人がいった。「ミランボは白人が友好的で、アラブ人の偏見に加担《かたん》せず、ミランボを悪い人間と思わないことを望みます。白人はミランボに、和平の言葉をおくりますか?」
「ミランボに伝えてくれたまえ」私は答えた。「偉大なミランボに会い、握手して、ムテサやルマニカと強い友情で結ばれたように、ミランボとも強い友情で結ばれるならば、うれしいと思う。できるだけ早くきて会ってもらいたい、と伝えてくれたまえ」
あくる日、ミランボは使者をよこしてから、二十人ばかりのおもだった部下を連れて現われた。私は熱烈に握手した。すっかり彼の人がらに魅せられた。彼の風貌はアフリカの「紳士」だった。目鼻だちのととのった美男で、言葉つきはやわらかく、物腰は優しくて、身長は五フィート十一インチばかり、三十五歳ぐらいで、すこしも贅肉《ぜいにく》はなく悠然としていた。五年間にわたり、原住民の王侯たちやアラブ人たちを、神出鬼没の軍事的天才をひらめかせて猛襲し、震撼《しんかん》させつづけた武将、そういう人物として私が想像していた面かげとはまるでちがうので、しばらく私はいっぱいくわされているのではあるまいかと疑ったほどだった。だが、彼の静かな底力のある両眼だけは、傑出した人物の眼差しをそなえていた。
会話のなかで、ミランボは中年や老年よりも、青年を引き具するのが好ましいといった。「青年の目は鋭く、四肢はヘビのように柔軟に、シマウマのように急速に動く」と彼は話した。
「アラブ人たちと戦ったのは、なにが原因だったのです?」と、私はたずねた。
「たくさんの原因がありましたよ。アラブ人たちは威張りかえって、話合いのしようがなかった。私を自分の配下と勘ちがいした王もあった。しかし私の父はウヨウェの王だった。私はアラブ人たちや他の王の干渉を受ける理由はなかった。それにしても、もう戦いは終わったのです。アラブ人たちも私にどんなことができるかを知りました。私たちはもう戦わないでしょう。ただ通商貿易のほうで実力を見せるだけです。どんなアラブ人でも白人でも、私の国を通過したい人々は歓迎します。私は肉類や飲み物や宿舎を提供し、なんの危害も加えられないようにしましょう」
ミランボは引きとった。夕方、私は十人のおもだったワンワナ人を連れて訪問を返した。ミランボは高さ二十フィート、直径二十五フィートの鐘形テントの中で、おもだった部下にとりまかれていた。先方からの申し出で、ミランボと私は義兄弟の血盟の儀式をして友情をかためることになり、マンワ・セラが藁《わら》の敷物の上に私たち二人を差向かいにすわらせ、両人の右足に刻み目をつけ、そこから取った血を交換しながら高らかに叫んだ。
「いま立てた義兄弟の盟約を破る者は、ライオンにむさぼり食われよ、毒蛇にかまれよ、友たちに見すてられよ、ありとあらゆる災厄に見まわれて死にいたらしめられよ」
私の新しい義兄弟は布十巻を差し出して、私のおもだった部下に分けてくれと言い、私からは三巻しか取ろうとしなかった。それで私は自動拳銃一梃と弾丸二百発に、イギリスからもってきた小さな骨董品を与えた。すると彼は自分の国へ五人の若い男たちをやり、三頭の乳ウシと子ウシ、三頭の去勢ウシを選んで、私にとどけさせることにし、また三人の案内者も提供してくれた。
二十三日の朝、ミランボは町はずれまでおくってきて、名残りを惜しみながら、私たちは別れた。探検隊は南ウンヤムウェジを南東へ向かい、貢物を強要する危険な蛮族のなかを抜け、洪水に襲われた平原を苦労して横ぎり、二十九日、南西へ転じた。五月四日、ミランボがとどけさせた乳ウシや子ウシや去勢ウシを受け取り、南南西の森のなかの村ルウィンガに着いた。あくる日、蛮族に襲われた女が、片足を斬り取られて野に横たわっていた。原住民の酋長と酋長とが戦っていて、ウガラ付近は物騒だった。十五日、ウヴィンザに入り、二十日、マラガラジ川を渡り、密林を通りぬけ、山岳地帯を越え、二十七日正午、高い峠に立つと、西にタンガニカ湖の水が輝きわたって見えた。そして午後三時、探検隊は湖畔のウジジに到着した。このアラブ人の港町のおえらがたは、あたたかく私を迎えてくれた。なにもたいして変わっていなかった。
それにしても一八七一年十一月、私がリヴィングストンとめぐり会った広場は、もうアラブ人たちの家々でふさがれている。そして彼と私が住んでいた家は、ずっと以前に焼かれて、わずかばかりの灰燼《かいじん》と巨大な空虚が残されているだけである。市場に立つと、湖は以前と同じような雄大な美しさで眼前にひろがる。対岸のゴマの山々も、同じような青黒い色を見せ、リウチェ川も褐色に流れつづけている。波は相変わらず寄せてはくだけ、太陽も輝かしい。大空も以前のままに麗しく青く、ヤシの木々も美しい。だが、かつてウジジを熱烈な関心の的にしていた偉大な老探検家は、もう世に存在しないのだった!
ウジジはアラブ人の占拠するウゴイ地区と、ワンワナ人や奴隷や原住民たちの住むカウェレ地区とに分かれている。市場はウゴイ地区にあって、一八七一年には約三千平方ヤードの広場だったが、最近は二千百平方ヤードに縮小されている。市場の前の湖岸には、アラブ人たちの大型のカヌーがたくさん引き上げられている。市場には毎日、周辺の各地から種々さまざまの商品が送られてくる。キビ、ゴマ、豆、ニワトリ、ヤギ、ヒツジ、バター、雄ウシ、パーム油、料理用バナナ、鉄器、針金、腕輪、くるぶし飾り、カサバ、穀類、白魚、乾魚、塩、トウモロコシ。
ウジジの近在からはバターミルク、ナンキンマメ、サツマイモ、トマト、ヤマイモ、エンドウ、菜っ葉、メロン、キュウリ、サトウキビ、卵、陶器。湖岸ぞいの地方からは、奴隷、白魚、鮮魚、象牙、篭、網、槍、弓矢など。
早朝から幾多の種族が騒がしく売買をやり、その通貨として使っているのは縞物の布地や、ソフィという半インチばかりの長さの黒白のガラス玉だ。この玉を二十個、ひもに通してつないだものを出せば、奴隷の二日分の食糧が買える。市場の商品の値段は長さ四ヤードの布地を通貨に使う場合、次のようになっていた。
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象牙一ポンドにつき…布地一枚
ヤギ一頭………………布地二枚
ヒツジ一頭……………布地一・五枚
ニワトリ十二羽………布地一・五枚
去勢ウシ一頭…………布地十枚
酒三ガロン入り一壷…布地二枚
パーム油三ガロン入り一壷…布地四枚
キビ六十ポンド………………布地一枚
トウモロコシ九十ポンド……布地一枚
蜂蜜半ガロン入り一壷………布地一枚
奴隷十歳から十三歳までの少年一人……布地十六枚
奴隷十歳から十三歳までの少女一人……布地五十枚から八十枚
奴隷十三歳から十八歳までの少女一人…布地八十枚から二百枚
奴隷十八歳から三十歳までの女一人……布地八十枚から百三十枚
奴隷三十歳から五十歳までの女一人……布地十枚から四十枚
奴隷十三歳から十八歳までの少年一人…布地十六枚から五十枚
奴隷十八歳から五十歳までの男一人……布地十枚から五十枚
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ウジジ王国はダンガニカ湖にそい、北はムシャラ川までで、長さ四十六マイル、幅二十五マイル。ウッハとの国境になっている連山のなかの盆地に、王は居を構えていて、タンガニカ湖に迷信的な恐怖をいだき、この湖を見れば、たちまち死ぬと思いこんでいる。
王国の人口は三万六千、ウジジ町だけで三千。このウジジ町のアラブ人の知事ムイニ・ケリは、百二十人の男女の奴隷、八十梃の銃、六十本の象牙、二つの邸宅、米麦の田畑、九隻のカヌー、四十頭のウシ、二十頭のヤギ、三十|梱《こり》の布地、二十袋のガラス玉、三百五十ポンドの銅の針金、二百ポンドの鉄の針金を所有している。全部をウジジの市価で見積もると、一万八千ドルぐらいになるだろう。ほかのおもだったアラブ人たちも、一万五千ドルから一万ドルを所有している。
私の旧友の知事や、リヴィングストンの世話をしたモハメッド・ビン・ガリブが、砂糖菓子やコムギのパンや米や乳を、自由に供給してくれたので、フランクも私もぐんぐん体重を増し始めた。私はタンガニカ湖周航の準備にかかり、二人のガイドを雇った。その一人は一八七四年四月、V・L・カメロン〔イギリス人探検家、一八四四〜九四〕に同行したパラで、もう一人は一八七一年十二月、リヴィングストンと私自身に同行してタンガニカ湖の北端へ出かけたルアンゴだった。
この湖の起原については、いろいろな伝説がある。その一つをルアンゴは語った。
遠い遠い昔、この大湖のあるところに広漠とした平原があった。たくさんの種族が住み、多数のウシやヤギを飼っていた。この平原に大きな町があって、人々は当時の習わしに従い、自分の家を籐の高い垣で囲み、夜はその庭にウシやヤギを入れていた。
そのような一軒の家に、一人の男と妻が住んでいて、この家のなかにある深い泉には、ふしぎにも、無数の魚がいた。そして夫婦の豊かな佳肴《かこう》となっていたのだったが、これは家族以外の誰にももらしてはならない秘密だった。他人にこの泉を見せれば、立ちどころに一家は破滅せしめられる、と先祖代々、父から息子へ言い伝えられていた。
ところが、妻は夫に隠れて、他の男を愛し、情炎が燃えさかるにつれて、ひそかにふしぎな泉からとった魚を愛人のところへ持っていった。その魚の肉は、すばらしく美味で、珍奇な風味をおびていたので、どこでどうして手に入れたのか、と愛人は知りたがった。しかし、彼女は怖ろしい羽目になるのがこわくて、長いあいだ、言葉をにごしていた。が、とうとう彼女は、秘密を打ち明けようと約束した。
ある日、夫はウヴィンザの国へ旅に出た。妻は愛人を誘って、家へ連れこみ、シュロ酒やバナナ酒を出し、魚の肉をたっぷりご馳走した。
「さあ、このふしぎな白い肉の秘密を教えておくれ」と愛人はせまった。
「いとしいあなたのために」と彼女は立ち上がり、円い池のように見える泉のそばへ連れていった。深い底から澄んだ水がわき出ていた。
「美しいでしょう? この泉のなかにあの魚がいますのよ」
彼は狂喜してすわりこみ、しばらく見つめていた。魚たちはとび上がったり、追いつ追われつしたりして、白い腹や美しくきらめく横腹を見せながら、水面へ浮かび上がったり、さっと底へもぐりこんだりした。
が、一匹の魚が彼のそばへ近づいてきたとき、急に彼は手を突き出して捕えようとした。それですべてが終わった!
泉の霊が赫怒《かくど》した。世界が引き裂け、広漠とした平原は下へ下へと底なしに沈みこみ……大地震でできた巨大な谷間に泉の水が満ちわたって、現在のようなタンガニカ湖になった。平原に住んでいたすべての人々は死滅し、すべての家々も、庭も田畑も、ウシやヤギの群れも、水の底へのまれてしまった。
「これは古老がわしらに話してきたことで、ほんとうかどうかは、わしにはなんともいえませんがね」とルアンゴは語った。
「その夫はどうなったのか?」私は聞いてみた。
「ああ、彼はウヴィンザで用件をすませてから、帰途に向かっていたところ、急に見も知らぬ山路へきて、山の頂《いただき》から大きな湖を見おろしたんです。それで彼は、自分の妻が泉の秘密をもらし、その罪のために、すべてが破滅してしまったのを知ったのでした」
六月十一日、われわれのボート「レイディ・アリス号」は、知事のムイニ・ケリが貸してくれたカヌー「メオフ号」につきそわれて、歓送の声におくられながら、ウジジを出帆し、タンガニカ湖の東岸ぞいに南へ進んだ。ボート長は二十五歳のウレディだった。
十二日、マラガラジ川の河口へ着くと、川をさかのぼって調べた。こんどの周航は湖をとりかこむ山岳を検討し、湖にあふれる水の流出口を見きわめるのを目的としていた。十三日の正午、カボゴ岬から二マイル湖心のほうへ出て、水深を測ろうとし、測鉛を千二百フィートおろしてみたが、底へ達しなかった。
高い山々の絶壁になった岸伝いに、雄大な美しい風景のなかを航行し、十七日、この真水の海を横行する「海賊」の村、ウンデレから数マイル離れたボンゴ島にキャンプした。それでも、夜中に、マスケット銃をひっさげた六十人が押しかけてきた。われわれは布地を与えて、やんわりと応対し、血なまぐさい荒くれ男たちと衝突するのを避け、夜明け前に、彼らに見つからぬように、われわれは忍びやかに出帆した。
湖面から三千フィートばかり高くそびえているクングウェ岬の峰の頂上に、昔この地方一帯に猛威をふるったと伝えられる原住民族の末裔《まつえい》の砦が見える。その難攻不落の砦に住んでいる彼らは、傾斜面を耕して十分な食糧をえている。不敵な襲撃者を追っ払うために、手近に大きな岩石を積み上げて用意おさおさ怠りない。ふたたび勃興《ぼっこう》するためにか、それとも滅亡の寸前にしばし息づくためにか、彼らはワシの巣のような砦に立てこもって危っかしい生を営んでいる。
十九日の午後二時ごろ、キウェサという大きな村へ近づくと、人っ子ひとり出てこず、しんと静まりかえっていた。
ほんの五週間前に、商売の取引で立ち寄ったことがある、とガイドたちがいうので、何か企んでいるのではないかと警戒しながら、われわれは上陸してみた。すると、槍で刺されたり、首を斬られたりした男女の死体がころがっていた。村の柵は壊されたり焼かれたりしていて、五十軒ほどの小家は焼け残っていたが、あとはすっかり灰になり、バナナの木々まで焦げていた。あのウンデレの海賊どもの仕業《しわざ》にちがいない、とガイドのパラはいった。
われわれは南航して、美しい岸辺を進んだ。タンガニカ湖の水量は増大している、と私は考えていたが、本土のほうのルグフ川へゆくと、前にカメロンとキャンプした小島が水中に没してしまっている、とパラも叫んだ。南航をつづけ、七月二日から三日にかけて無人の岸伝いに漕ぎ進み、三日の正午、この湖の最南端に達した。南緯八度四十七分だった。ささやかなカパタ川が、暗い密林のなかから流れこんでいた。
われわれは西へ向かい、湖の西岸にたどりついた。このあたりは、古代のウルング国の神話の舞台で、どの岩山にも、森林にも、峡谷にも、神霊がひそんでいるものとされている。大自然の塔のような、奇怪な層をなした三つの丘は、千二百フィート湖上にそびえ、それぞれの神霊は夫妻と息子で、波と風を支配し、丘の頂上に住んでいると伝えられている。
西岸ぞいに北へ進んだわれわれは、七月九日、キピンピ岬にキャンプした。この岬からカランブウエ岬へゆく岸の近くに、ウンヤムウェジから移ってきた首長ムリロが奴隷売買の根拠地をつくっている。ムリロはいつでも多数の奴隷を手もとにおさえていて銃や弾丸と交換し、絶えず配下にうろつかせて、奴隷にする人間を狩り集めさせている。
この辺の湖岸は山岳地帯で、北へ航行するにつれて、風景はいよいよ絵のように美しく雄大になる。ゾングウェ岬付近は半円形の山々がそそり立ち、傾斜面には木々が茂り、深い森林におおわれた峡谷にはゴリラやチンパンジーが出没する。私も幾度かその声を聞いたが、遠くからだったので、原住民たちの争う声とたいして差異がないように思えた。
十四日、ルアンダ川の岸でキャンプした。わりあいに低い山なみをながめていた私は、この地帯にこそ、湖水流出口がありそうな気がしてきた。
十五日の夕方、われわれはルクガ川の南岸の地域の酋長カウェ・ニアンゲと近づきになった。この酋長は二年前にこの地へ探検にきたカメロンを、はっきりと記憶していた。それでわれわれは案内をしてもらうことにした。このルクガ川は、近年どうも始末が悪くなり、ときには西へ流れ、ときには東へ流れるようになった、と酋長は話した。つまり、ルクガ川は雨期にはたいへんな水量でタンガニカ湖へ流れこむが、乾期には西へ流れ、かわいた地面や土手を越え、カルンビの近くでルインディ川となり、カマロンド川へ流れ落ちるというのだった。
十六日、われわれはルクガ川をさかのぼった。河口の幅は二千五百ヤード、一マイルさかのぼると八百ヤードになり、さらに一マイルさかのぼると、五百から四百ヤードになった。さかのぼりつづけていると、酋長がとめて、木切れを水へ投げ、さざ波や風は湖のほうから寄せているが、木切れと泡は湖のほうへ向かっているのを見てもらいたいといった。そして水が湖へ流れこむことを、得意そうな顔で証明した。あとは、水が西へ流れることを証明すればよいわけだった。
さかのぼるにつれて、川幅は二百五十ヤードから四十ヤードへとせまくなり、一時間ばかりして、開けた水面の端へたどりついた。前方はトウモロコシのように茂ったパピルスで閉ざされていた。この水草の下の水深を測ってみると、七フィートから十一フィートあった。ボートの舷側で囲った小さな水面に、裂いた葉を投げてみた。すると五分間のうちに、それは一フィートばかりパピルスのほうへ流れた! われわれが二十ヤードほどパピルスを分けて入りこむと、通りぬけられない真黒な泥の砂州にゆき当たった。
あくる日、私は酋長や探検隊の連中を連れて、岸づたいに踏査した。丘のふもとへ着くと、キバンバ川のかわいた河床にぶつかった。
このかわいた泥の河床から、ルクガ川の水草の茂った河床へは、ほんの一歩にすぎなかった。雨期には、キバンバ川が氾濫《はんらん》して、ルクガ川の水草のなかへ流れこんでいるのは明らかだった。ルクガ川の倒れ伏したアシのあいだの小路をたどってゆくと、だんだん地面は湿ってきて、両がわのアシは十フィートか十二フィートの高さになり、その頂が交差してトンネルを形づくった。小路はあちこち溝《みぞ》のようにくぼみ、冷たい水が浅くたまっていた。しまいに、二百ヤードばかり進み、葦《あし》におおわれた河床の真中……原住民たちが「ミトワンジ」と呼ぶところへゆくと、酋長は葦《あし》のなかのすこし広い空地を踏みへこませ、勝ち誇ったよう水が西へ流れているのを指さした。
この河床は、ミケトの西方数マイルのところまで、ルクガ川と呼ばれていて、そこからルインディ川と名が変わっている。われわれはさらに三マイル踏査し、キャンジャ山の南端まで出かけてみた。この南端と、河床の南岸に終わっているキフンガ山との合い間を、ルクガ川は西へ流れている。ここでも、それは茂った水草のなかをくぐりぬけているささやかな流れにすぎない。測量と観察をつづけた結果、ルクガ川がタンガニカ湖の流出口であることを私は確認した。
七月二十一日、ルクガ川の河口から出帆。美しいゴマの山岳に、六つの滝が見えた。枝をひろげた木々の下に、多種多様の熱帯植物が茂っていた。さらに北航して、二十八日正午、ルブンバ川に近いマサンシの小さな入り江に着いた。ここで一八七一年に、リヴィングストンと私は、タンガニカ湖北岸の探検を終えたのだった。つまり、私は一八七一年にウジジから東岸伝いに湖の北端へ達し、西岸伝いにルブンバ川まできていたのだから、こんどの探検によってタンガニカ湖一周をなしとげたわけだった。
二十九日、タンガニカ湖を東へ横断していった。湖心で、測鉛に千二百八十フィートの綱をつけ、水深を測ったが、底に達しなかった。
三十一日、ウジジに到着した。五十一日間に八百十余マイルを航行していた。タンガニカ湖の全湖岸線は約九百三十マイルである。
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八 大河の秘密を探るために
われわれの不在中に、ウジジでは天然痘《てんねんとう》が発生し、種痘をしていないアラブ人の奴隷たちの死亡はおびただしい数にのぼり、探検隊の者たちも五人死亡、六人が重態だった。私はこんなことを予想して、前に探検隊全体に種痘をほどこしておいたのだったが、愚かしい偏見から種痘を受けなかった者たちのうち、五人が死に、五人が重態になっていたのだ。種痘を受けた者も一人重態になっていた。
アラブ人のおえらがたの一人も死亡し、知事は三人の子どもが死んで悲嘆にくれていた。死亡率は増していて、三千ばかりの人口のうち、毎日五十人から七十五人が死につづけ、人々は蒸し暑い天候を呪い、熱烈に雨乞いの祈祷《きとう》をしているのだった!
フランクは探検隊の者たちを献身的に看護し、みんなに敬愛されるようになっていたが、彼自身も熱病に冒され、やっと立ち上がれるようになったばかりであった。天然痘からのがれるために、探検隊は早急にまた西へ出発しなければならなかった。それで私は用意を命じ、八月十七日にキャンプを引き払う予定をたてていたところ、激しい熱病に襲われて、出発が遅れた。
二十七日の朝、出発を告げる太鼓《たいこ》とラッパが鳴りひびいたとき、私は多くの逃亡者があるのを予期していた。だが、百七十人のうちから、三十八人も逃亡していたのは、意外だった。マニエマの食人種に食われてしまうぞ、と連中はおどかされていたので、さらに大量の逃亡が起こって、探検隊はくずれてしまうのではないか、と班長たちはひどく心配して話した。そこでボートとカヌー群の用意をととのえ、逃亡する懸念《けねん》のある連中をカヌー群に乗せて送り、しっかりした忠実な者たちを私自身が連れて、陸路カボゴ岬へ向かった。途中で三人逃亡した。カボゴ岬からタンガニカ湖を横断し、西岸のウグハへ着いてから、また二人、姿を消した。私はフランクと探偵長のカチェチェをウジジへやり、逃亡していた者たちのうち七人をつかまえてもどらせた。
アフリカ探検では、こんな逃亡はよく起こることで、カメロンの場合も逃亡が続出したし、リヴィングストンが長期間さすらいの旅をしなければならなかったのも、主として逃亡のためだった。原住民たちは精神力が弱く、いろんな誇張した話を聞かされると、危険を妄想しておびえるし、金や悪事を目当てに探検隊に加わっている悪党が、そばからそそのかしたりするので、ふらふらと逃げる気になる。八人の人間を殺した例のムセンナも、これまで幾度も逃亡を企てていたのだったが、こんどはウジジで逐電《ちくでん》してしまった。
九月十六日、探検隊はルグンバ川を渡り、北西へ向かった。低い山々を越え、野牛の群れる渓谷をすぎ、十八日、キャンジャの尾根にのぼった。この尾根は、東へ流れてタンガニカ湖へ入る水流と、西へ流れてルアラバ川へ注ぐルアマ川との分水界であり、ウグハとウブジウエとの境界線でもある。この辺の森には、野生のスモモやナシなどが豊かに実っている。蜂蜜もふんだんに手に入る。
ウブジウエの原住民たちは、純朴でおとなしい。結髪の仕方はじつに風変りで、涙ぐましいばかりに丹念に趣向をこらしている。彫刻や旋盤細工も好み、木像を村に立てたり、人の顔をきざんだ木彫で家の入口を飾ったりしている。どの村でも、赤く塗ったみごとな椀《わん》や大杯を、売ってやろうと持ち出してくる。
二十日、西北西へ進み、十月一日、ウヴィンザへはいり、高原をいく。多くの村々の廃墟《はいきょ》を通りすぎる。以前は人々の多かった地方らしいが、奴隷貿易業者が荒らしまわったのだ。三日、ウホンボの豊穣《ほうじょう》な渓谷に着く。ヤシの森が美しく、田畑が階段ふうになり、きれいな小川が流れている。村の人々はものやわらかで、いくらでも食糧を売ってくれる。
私が円形の村の広場へ出かけると、奇異な自分自身を観覧に供するつもりだと勘ちがいしたらしく、百人余の真裸の男や女や子どもたちが、ぐるりと私をとり囲んで、まじまじ私を見つめる。そして彼らは、たがいに問答しあい、この白人はなんの用事で、どこからきてどこへいくのかとたずね、知ったかぶりの男が答えると、「ほう、これが人間かねえ!」と女たちがポカンと口をあける。「からだじゅう白い」人間がいたりするのが、ふしぎでならないらしい!
十月五日、われわれはマニエマの村リバリバへ進んだ。ここから家屋の様式が変わり、円錐形の家が屋根のゆるやかな角ばった家になる。ヤギも尻尾の短い胴体の大きな種類に変わる。真紅の尾の灰色のオウムが、たくさん見られるようになる。周囲の深い森の中から、日夜ゴリラのほえる声が聞こえ始める。あの分水界を越えてから、ひときわ大自然が美しく、植物が豊かに茂り、山野が優美な曲線を描いている。
六日、探検隊は十三マイル北西へ旅して、カバンバルレに着いた。ここはリヴィングストンが、足の腫《は》れ物に悩みながら、滞在していた村だった。ヤシの木陰の筵《むしろ》に腰をおろした老首長は、私に話した。
「あの老白人は、わしによくしてくれて、わしを幾度もアラブ人どものむごい仕打ちから救ってくれた。あれは善い人じゃった。わしの子どもらも、すいておった。聞けば、死なれたとやら」
「そう、死なれた」
「どこへいってしもうたのじゃ?」
「天上」と私は天空を指さした。
「ああ」首長は息をはずませながら、見上げた。
「あの老白人は天からきていたのか」
「そうではないけれど、あんな善い人は死後は天上界へゆく」
私たちはリヴィングストンのことをあれやこれやと語りあった。首長の息子たちは、リヴィングストンがながいあいだ住んでいた家へ案内した。村人たちは彼の思い出をなつかしがっていた。あのウホンボ地方の原住民たちはニグロ型の顔だったのに、この村へきてみると、急に住民はエチオピア型の顔になっていた。首長は老齢で、もう美貌も失われていたが、彼のまわりに侍《はべ》る女たちは水ぎわだってきれいで、なまめかしい物腰はじつに魅惑的だった。首長は笏《しゃく》を持ち、二十四平方ヤードの多彩な布をまとい、村の雄鶏たちの羽を飾った頭巾をかぶり、村を闊歩《かっぽ》するのであった。
十月十日、首長の一族が酋長をしているキザンバラへ、われわれはゆき、十一日、ルアマ川を渡った。幅二百フィート。ここからルアラバ川までの水流の速さは三ノットから六ノット、水深は約五フィート、頁岩《けつがん》の河床を流れている。
十二日、われわれはルアマ川の岸伝いに、ウゥスンビリに着いた。リヴィングストンやカメロンは、この川を渡ってから西へ向かったのだが、私は川岸伝いにルアラバ川との合流点までゆき、そこからニャングウエへ向かうことにしたのだった。
西へ西へ進みつづけた探検隊は、十六日、ムプングから四マイルの低い峠に達し、ルアマ川がルアラバ川へ注ぐ合流点を見た。ルアマ川は流入口の幅四百ヤードばかりで、ルアラバ川のほうは約千四百ヤード、薄灰色の水が南微東からゆるやかに曲がりながら流れていた。われわれは歓声をあげてその場に休止し、その景観を心ゆくばかりながめた。山と山とのあいだを流れる巨大な川の河床には、緑の樹木やスゲにおおわれた小島が二つ三つある。この地点で見ても、これはミズーリ川が合流する前のミシシッピ川に匹敵《ひってき》すると私には思えた。
この大河をぐっと見つめながら、私の魂はひそかな歓喜にみたされた。幾世紀にわたり、大自然が科学の世界から隠していた巨大な秘密が解かれようとしているのだ。源流の一つを二百二十マイルにわたり、この合流点までたどってきた私の眼前に、いま豪勢な大河そのものが横たわっているのだ! 私の仕事は、これを大洋までたどってゆくことである。
探検隊はまた旅路をたどり始めた。ウスクマ出身の音頭《おんど》とりが、自分の覚える歓喜を写実的な調子で歌い始め、男も女も子どもたちも大らかに合唱した。
すばらしく快速な前進ぶりだった! 大またの歩調には、活気がみちあふれていた! 速度を速める命令は一度も放たれはしなかった。だが、探検隊の全員が私の希望を直覚的に知っているようだった。銃持ちの少年たちまでが、たがいに競って健脚《けんきゃく》ぶりを見せた。丘を越え谷を渡り、われわれは合流点から八マイル北北西のムクワンガ村に着いた。ここで会った二人のワンワナ人から、マニエマの森へ復讐に出かけていたアラブ人の一隊が、いまマンバ首長のところへ引きあげてきたばかりだと、われわれは聞かされた。
あくる日、われわれは北西へ十八マイル急行し、マンバ首長の村に着くと、アラブ人サイード・メズルイの家の広いベランダで待った。やがて有名なハメッド・ビン・モハメッド、通称チプ・チブが現われた。長身で、黒いあごひげをはやし、動作が敏捷《びんしょう》で、精力のみなぎった壮年の男だった。知的な顔つきで、目を神経質にちかつかせ、きれいにそろった白い歯を光らせた。若いアラブ人の部下や、ワンワナ人やウスクマ人の配下数十人を従えていた。彼はこの連中を引き連れて、アフリカを幾千マイルも馳駆《ちく》していたのであった。
育ちのよいアラブ人らしく、彼は丁重にあいさつして、私と対座した。真白な衣服に、トルコ帽をかぶり、銀の線条細工のみごとな短剣を腰に下げていた。このアラブ人がカメロンに付きそって、ルアラバ川をくだり、南緯五度、東経二十五度五十四分のウトテラまでいっていたのだ。このチプ・チブの語ったところによって、アフリカ地理学の最大の問題が、ちょうどリヴィングストンが旅をつづけるのを不可能と感じ、ウジジへ引き返した地点で、未解決のまま放棄されたのを、私ははっきりと知った。
カメロンが探検を断念したのは、カヌーが入手できず、原住民たちが白人をひどくきらったためだ、とサイード・メズルイはいった。あの川がどこへ流れているのか、誰も知らないので、カメロンの従者たちも、川をたどってゆくことを強硬に反対したのだ、とチプ・チブも断言した。
「同じような理由で、あのリヴィングストン老人もゆけなくなったと聞いています。あの老人はカヌーを貸してくれと懸命にアラブ人たちに説いたのですが、死ににゆかせたくないとドゥグンビ首長が断わったのです。カメロンもカヌーを求め、高値をもち出しましたけれど、ドゥグンビは承知しませんでした。なにかカメロンの身に変事が起こった場合、ザンジバルのイギリス領事に責任をおわされたくなかったからです」
「ねえ、チプ・チブ」私はいった。「君は他の白人に助力を提供したのだから、私にも同じ金額で助力を提供してくれることに異議はあるまいね?」
「それはわかりませんな」彼は微笑して答えた。「いま私は多くの人間を連れていない。多数の連中はインバルリにいるし、ほかの者たちはマニエマで商売をやってますのでね」
「現在どのくらい連れている?」
「たぶん三百……いや、二百五十ぐらい」
「そのくらいあれば、豪勢な護送部隊だ。うまく活用すれば、完全に守備できる」
「そう、あなたの部隊と協力すれば、強い部隊になるでしょう。しかし、私が自分の部隊だけを連れて帰途についたときには、蛮族どもにやられるでしょうな」
「だが、自分のささやかな部隊だけを頼みにして、大陸を突破してゆかなければならない私の場合を考えてみたまえ!」
「いや、あなたたち白人たちが生命を捨てたがっているからといって、われわれアラブ人たちがそうしなければならない理由はないんですよ。われわれは象牙と奴隷を獲得するために、すこしずつ旅程をすすめる……この私にしても、ザンジバルを出てからもう九年になる……ところが、白人たちは川や湖や山ばかり捜しまわって、わけのわからぬ生命の捨て方をする」
「私のために、君が生命の危険を冒すことを期待する権利は、私にはない。ただ私は、六十日間の行程だけ、君に護送してもらいたいと願うだけだ。それがながすぎるとすれば、その半分でもよかろう。私が苦慮しているのは、私の隊のワンワナ人が恐怖に駆られて動揺しやすいことだが、チプ・チブが私に助力して、いっしょに出かけると聞けば、すべての連中が勇気百倍するだろう」
「まあ、今夜よく考えて、一族や部下の者たちとも相談してから、明晩もう一度、話しあうとしましょう」
あくる日の晩八時ごろ、チプ・チブは従弟のモハメッド・ビン・サイードや他の連中を連れて現われた。丁重なあいさつが終わってから、私は自分の意図を述べるように要求された。
「私はカヌーであの川をくだり、あの川が西か東か、とちらかの方向へ決定的に曲がってしまうところまで到達したいのだ」
「それにはどのくらいの日数がかかりますか?」チプ・チブがたずねた。
「私にはわからない。君にはわかるか?」
「いや、私はぜんぜんあの方向へいったことがありませんのでね。しかし、誰よりもいちばん奥地へ入りこんだ男が、ここにいます」
彼の部下のアベッドという男だった。私がたずねると、あの川は北へ北へ、果てしもなく北へ流れつづけている、とアベッドは答えた。
「たぶん、塩水の海へ流れつくんでしょう。そんなにいう者たちもおりますからな」
「その塩水の海は、どの方角なのか?」
「神さまだけがご存じでさ!」
「君はあの川のことをすっかり知っているわけではないのか?」
「あれが北へ流れているのは知ってますよ」アベッドは強烈な語調でいった。
「どうして知っているんだ?」
「わしはムタガモヨに連れられてウソンゴラ・メノへ行き、ウリンディの近くでルアラバ川を渡り、ルマニ川から小人の国へ乗りこんだからでさ」
「ここからその小人の国までは幾日かかるのか」
「九カ月ばかり」
「ルアラバ川から小人の国は近いか」
「そう遠くもござんせん」
「小人の国の近くでは、ルアラバ川はどの方角へ向かっているか?」
「この方角でさ」と彼は北微西を指さした。私はその旅路のことを彼に語らせた。
怖れを知らず、ライオンのような豪胆《ごうたん》な男ムタガモヨは、できるだけ奥地まで象牙を狩り出しにゆく、とニャングウエのアラブ人やワンワナ人に告げ、若いアラブ人たちやマスケット銃を持たせた奴隷を引き連れて出発した。はじめ森の国ウレッガへいったが、うまくいかず、ルアラバ川へ向かい、ウソンゴラ・メノで毎日戦い、ルアラバ川を渡って、ウクスをすぎ、ルマミ川の岸へたどりついた。
ここで小人の国の話を聞かされた。象牙がひどくたくさんあるから、宝貝一つ出せば象牙一本、といわれて、さっそくムタガモヨは二百九十梃の銃をかつがせ、ルマミ川を渡り、そこへきていた一ヤードばかりの身長の小人たちに出会い、彼らに案内させて六日の旅路をたどり、小人国の国境の村に着いた。
ここで王の許可を待ち、三日めにアラブ人たちは王の村へいった。王は彼らに多くの象牙を売った。いくらでもあった。全国から小人たちが象牙を持って集まってきた。大きな国だった。アラブ人たちは象牙を銅の針金やガラス玉や宝貝で買い、布地は出さなかった。小人たちは王をはじめ、みんな真裸であったからだ。十日間の滞在中の食物はバナナで、それが小人たちの身長ほどもあって、小人なら一日一本で十分なのだった。アラブ人たちは、象牙を四百本も入手したので、もう引きあげた方がいいと考え、出立したいと王に告げた。ところが、王は「余が手に入れただけの象牙を、そちらへ買いとらねばならぬ」と出立を許さなかった。アラブ人の足ほどの身長の王は、サルみたいな顔をして歯ぎしりした。ムタガモヨが笑って、帰らなくてはならないとくり返したが、王は国外へ出てゆかさぬと言い放った。
アラブ人たちは相談して、二日以内に出立することに決めた。とたんに女の悲鳴が聞こえ、アラブ人たちが外へ駆け出て見ると、水をくみに出ていた女が、小人たちの毒矢にやられていて、すべての村々から小人たちの大軍が雲霞《うんか》のごとく攻め寄せていた。アラブ人たちが銃をとって応戦するまもなく、小人たちの放つ毒矢に多くの者たちが射殺された。ムタガモヨは両手で大刀を振りまわし、バナナのように小人たちを斬りまくった。ほかの連中も戦ったが、効果がなかった。小人たちは樹のてっぺんから矢を射かけたり、高い草のなかをくぐりぬけてきて、アラブ人たちの顔めがけて矢を放った。形勢不利と見てとったムタガモヨは、みんなに命じて、バナナの木々や、引き倒した家や戸で前後にバリケードを造らせた。それでアラブ人たちはすこし落ちついて射撃できるようになって、数時間戦って小人軍を追い払った。
だが、たちまち、また新手の小人軍が攻め寄せた。アラブ人たちは相手が小さすぎて狙い撃ちがきかず、夜になると、半数が寝て、半数が戦った。夜っぴて矢がうなり、鬨《とき》の声がひびきつづけた。
戦いはつぎの日も、つぎの夜もぶっ通しにつづき、アラブ人たちは水をくみにいけなかった。ムタガモヨは五十人に銃、五十人に水瓶《みずがめ》を持たせ、自分自身は楯を前に構えながら、バリケードからとび出し、小人軍の密集部隊へ突入して、二人の小人を捕え、ついていったアラブ人たちも数人の小人を捕えた。そして小人軍が退くと、水をくんだアラブ人たちは、バリケードへ引き返し、自分たちが王を捕えていたのに気づいた。
小人軍は戦うのをやめ、近づいてきて、「停戦、停戦!」と叫んだ。
アラブ人がわが停戦すると、小人がわは王を返還すれば、アラブ人たちに邪魔をせずに出立させようといった。アラブ人がわは王を渡した。だが、戦いはいよいよ激化するばかりとなった。その日も、その夜も、アラブ人たちは戦いつづけた。が、弾丸がなくなりかけた。彼らは相談して手はずを決め、いっせいに抜刀してとび出し、小人軍を斬りまくり、オオカミみたいに追っかけ、多数の小人軍を殺害した。それから引き返し、大急ぎで荷物をまとめ、象牙の荷を半分だけ持って、森林へ向かった。そして夜まで歩きつづけ、すっかり疲れ果てて、寝入った。
すると真夜中に、またもや小人軍が襲来した。ヒューヒュー、八方から矢が飛んできて、アラブ人たちはばたばた倒された。弾丸はどんどんなくなり、とうとうアラブ人たちは、なにもかも投げ捨て、銃と刀だけ下げていっさんに逃げ出した。ときおり、ムタガモヨの角笛が聞こえ、アラブ人たちはそれについていったが、ほとんどみな、飢渇《きかつ》のために弱り果て、ぶっ倒れて死んだ。横たわって休んでいた者たちも、忍び寄った小人軍に殺された。
「ニャングウエを出発していった幾百人のうち、生きて帰ってきた者はわずか三十人、わしはその一人でござんすよ」
「君の話はたいへんおもしろかったよ」と私はアベッドにいった。「その幾分かはほんとうだろう。四年ばかり前に、ウジジでリヴィングストンが、同じようなことを私に話したからね。それにしても、私はチプ・チブの意見が聞きたい」
チプ・チブは身ぶりをして、他のアラブ人たちを去らせ、モハメッド・ビン・サイードだけ残して、私に話した。彼の一族や友人たちは、そんな危険きわまる旅に出るのには反対しているが、彼は前途に希望を失う私を目にしたくないから、野営地間の行程をそれぞれ四時間とし、六十回野営する距離だけ、五千ドルの金額で私に同行することに決めた。その条件としては、旅はニャングウエから始め、出発日から三カ月以上かからないようにする。進行と休止は二対一の割りにする。四時間ずつ六十回進行すれば、その到着地点から、相互の防衛のために、私はまた彼とニャングウエへ引き返さねばならない。もっとも、西の海岸からきた交易者たちに出会った場合は、私の隊の三分の二を彼につけてニャングウエへ帰すようにするなら、私は交易者たちといっしょに西方の海へおもむいてもよい……そう彼が話すのを聞いた私は、まず妥当だと考えた。ただ、また引き返さねばならないという項目だけは修正し、私の判断に従って単独で旅をつづける自由を確保しておきたかった。
だが、チプ・チブはいっしょに引き返してもらわなければ、自分はこちらへ生きて帰ってこられないだろうといった。そのかわり、もし自分が六十回進行しないうちに、自分の弱気から旅を打ち切りにする場合は、五千ドルの謝金も帰還の護衛も受ける権利がないものとする、という項目を彼はつけ加えた。
「急ぐ心要はない」と私はいった。「君にしても、私にしても、気持が変わるかもしれない。もう二十四時間、おたがいに考えよう。そして明晩、決定することにしよう」
じつのところ、この交渉は探検隊の者たちと相談せず、私的に進めていたものだったので、私はフランクと二人きりで差し向いになったとき、前途に横たわる比類のない危険について話し、私たち両人だけでなく、探検隊全体の生死にかかわる重大問題であるから慎重に考えてほしいといった。
「やりましょう、隊長」フランクはすぐさま答えた。
「ここから北東を探検し、ムタ・ウンジゲ湖を周航して、またウガンダを通過し、カゲヒイからザンジバルへもどってゆくほうが、いいのではないか?」
「それも、やれるならば、りっぱな業績となりましょうね、隊長」
「それにしてもだな、フランク、リヴィングストンがはじめて見て、胸も張り裂ける思いで、その秘密を探るのを断念したあの大河も、崇高な探検の領域にはちがいない。思ってもみたまえ、やがてわれわれが、だんだんに幾隻ものカヌーを買い入れるか造りあげるかして、あの大河に浮かび出て、くる日もくる日も流れくだり、ついにはナイル川か遠く北方の巨大な湖か、もしくはコンゴ川から大西洋へたどりついてゆく日のことを! われわれの探検がアフリカにどんな利益をもたらすか。汽船がコンゴ川の河口からベンバ湖へ、さらに、それに流れこんでいる多くの大きな川へさかのぼってゆくだろう!」
「銭を投げて決めましょう。表が出れば、北へルアラバ川をたどってゆく……」
フランクは六ぺん銭を投げたが、六ぺんとも裏が出た。さらに長短二本の藁《わら》で、長いほうを北と決め、それを握った私の手から、フランクはその一本を引き抜いた。幾度やりなおしても、フランクが引き抜くのは、短いほうの藁ばかりだった。
「むだだよ、フランク。銭や藁はどうあろうと、われわれは運命に直面しよう。君が助力してくれるなら、私は大河をたどってゆくつもりだ」
「スタンレー隊長、私のことは懸念《けねん》におよびません。私はあなたに従ってゆきます。私の父が最後に申しましたのは、『しっかり隊長についてゆけよ』という言葉でした。隊長、私はあくまでやりぬきます」
「よし、では、やろう」
つぎの夜、チプ・チブとその一党が訪れた。そして契約書が作成され、双方が署名した。探検隊の班長たちは、これを聞いて喜んだ。チプ・チブの部隊に、十分の食費が支払われた。
十月二十四日、探検隊は西北へ向かった。そして二十七日、アラブ人の根拠地ニャングウエに着いた。あくる日、ドゥグンビ首長が訪れてきた。配下の連中もついてきたが、そのなかには悪名高い例のムタガモヨもいた。年のころは四十四ぐらい、中背で、浅黒い幅の広い顔に、ゴマ塩になりかけたあごひげ、薄い唇をしていた。あまりしゃべらなかったが、ていねいな口のきき方をした。
あとで私がチプ・チブに聞いてみると、こんなに評した。「ムタガモヨは勇猛であるにはちがいないが、小指の先ほどの心しかなく、情け容赦もなく男でも女でも毒蛇みたいに殺す男です」
ここの市場では、陶器の壷から美しい娘にいたるまで、たいていのものが売買されていた。そばのルアラバ川の灰褐色の水面に、われわれは「レイディ・アリス号」を浮かべ、あちらこちらの島々へ漕いでいってみた。最大の川幅は千三百ヤードだった。アラブ人たちはパイナップルやポーポーやザクロなどの果樹を植え、イネもりっぱに作っていたが、タマネギは虫にやられて育たないといっていた。
チプ・チブの連れてきた人数は意外に多く、約七百人だった。が、そのうちの三百人は、タタという地方へ向けるのだと話した。
十一月四日にわれわれは探検隊を集合した。新たに採用した者たちも合わせて、百五十四人となっていた。
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九 暗黒の密林から大河へ
一八七六年十一月五日、われわれはニャングウエをあとにした。東経二十六度十六分のニャングウエから、南緯四度の線にそって、東方はすでに探検されていたが、西方の大西洋にいたるまではまったく知られていなかった。この暗黒大陸の西方の半分に、微光を注ぎ入れるのが、われわれの決死の探検の目的だった。だが、大河は東方へ、ムタ・ウンジゲ湖かナイル川のほうへ曲がっているかもしれないので、ほんとうに西方へ流れていることを確かめるために、われわれは川の東岸にそって北へ進まなくてはならなかった。
十一月六日、ミタンバという暗黒の密林へ入りこんだ。雑多な種族から成り、女たちもまじえたチプ・チブの部隊が先行したので、早く歩き慣れている探検隊は、ときどき立ちどまって、先の進行を待たねばならなかった。木々は雨のように、大きなしずくを落としつづけた。大きな厚い葉の枝が、頭上に幾重にも重なりあって交差し、まったく日光をさえぎり、まるで日が暮れてから一時間後の暗がりのなかを、進んでゆくのに似ていた。
まもなく小道は、こねた固い粘土《ねんど》のようになり、歩くたびに、前や左右の者たちの足へ水がはねとんだ。小道の左右は幾世代にもわたって積み重なった落ち葉や枯れ枝の暗褐色の腐食土で、そこから下ばえの雑草や潅木《かんぼく》が二十フィートもの高さにおい茂っている。これらの下ばえの草木は、嵐に見まわれれば、すぐ倒れ伏すだろうが、外界に嵐が吹き荒れても、この密林の奥はしんと静まりかえっている。巨木のあいだから、幾筋も小川が流れ出ていて、その岸の野生のバナナなどの葉が、われわれの顔をなで、野ブドウの長いツルが足に引っかかる。絶えまなくしずくが落ち、衣服はぬれて重くなり、長靴には水がはいって音を立て、むっとした空気なので、汗がふき出るものだから、いらいらした気分になった。そのうえ、熱い地面から立ちのぼる水蒸気が、灰色の雲のように頭上をおおい、早朝などは、木々の葉の見分けもつきかねるのだった。
同日午後三時、ニャングウエから二十一マイルのムポティラに着いた。分割したボートを運んでいる連中は、密林のなかをかき分け、苦労して進まねばならなかったので、やっと夕方になって到着した。ひどく疲れたという彼らのために、つぎの日われわれは休止しなければならなかった。
八日、また暗い密林を、やるせない気持でたどった。チプ・チブの腹心ショッカは、前にこの地方へきたことがあるので、こんなのはまだほんの序の口で、これから幾週間も、すさまじい密林のなかをぬけてゆかなけれはならないのだと告げた。一つの丘の上の樹上から見渡すと、密林は波のように起伏して、ルアラバ川の渓谷へくだっていて、川向こうの西岸は緑の草原のように見えた。こちらがわのぶきみさとはたいへんな相違だった。密林のなかはひどく暗く、私が鉛筆で書いているノートの文字も見えないこともあった。疲れ果てて、三時三十分、われわれはキャンプ地にたどりついた。
九日には、もう探検隊はばらばらになって進んでいた。粘土質の地面はすべるので、爪先《つまさき》に力を入れて歩き、荷物を頭上に載せ、両手で潅木をかき分けてゆかねばならなかった。ボートを運ぶ連中がさんざんこぼしたので、私は班長たちで先駆隊を編成し、さえぎる草木を切り払わせた。幾本もの巨木が小道に横倒しになっていたから、潅木のなかに迂回路《うかいろ》もつくらなくてはならなかった。
十日は休息した。いまやわれわれは森の国ウレッガのなかに入りこんでいた。めったに侵入できない森に囲まれて、原住民たちは森の奥にチンパンジーみたいに暮らしていた。細長い家の壁に、地上十八インチほどの個所にわずか一フィート平方の入口をあけ、内部を幾室にも分けて、幾家族も住んでいる。ヤギやマングース、ジャコウネコ、イタチ、ヤマネコ、サル、ヒョウの皮、とても大きなカタツムリの殻をだいじに保存し、木できざんだ奇妙な魔除《まよ》け、きれいなスプーンも所持している。
また入口にヤギやシカの角をかけ、内部にはオウムの羽をつけた華麗な戦争頭巾や、太鼓《たいこ》、広い穂先の槍を飾っている。どの家にも、葦《あし》で編んだ小ぎれいな長椅子があり、一本の丸太をけずってつくったベンチもあって、東アフリカの原住民たちよりも社交的な性情を示している。男たちはヤギやサルの皮の頭巾《ずきん》、酋長や長老はヒョウの皮の頭巾をかぶり、ヒョウの尻尾を後ろへぶら下げている。女たちは太い鉄輪をはめ、えらい女らしい一人は腕と足に、すくなくとも十二ポンドの鉄輪と五ポンドの銅輪をはめ、一ダースばかりの首飾りをつけていた。
十一日、ミリモに着いた。住民たちは人がいい。ボートを運ぶ連中は、あくる日の正午になって着き、遅れたために食物にありつけず、げっそりしていた。
十三日、ワネ・ムベザにたどりつくと、ワンワナ人はぶつくさ言い始めた。ボートを運ぶ連中には、多数の補佐役がつけられていたのだが、彼らは荒っぽく文句をぶちまけた。チプ・チブまでがぶつぶつ言い、アラブ人たちのなかには、この「邪教徒の森」に呪いの文句を放つ者もあった。護送部隊には病人がでてきていた。このキャンプ地で、チプ・チブの腹心ショッカが、三百人を連れて北東のタタへ向かった。
十五日、北西へ六マイル半たどってゆくうちに、森のなかの悪路のために私の靴がすり切れ、はだしで歩かねばならなくなった。ワネ・キルンブに着くと、私は最後の一足の靴をとり出すしかなかった。フランクはもうすでに最後の一足をはいていた。しかも、われわれはまだ大陸の真中にいたのだから、これがだめになってしまえば、どうしたらよかろうか、と話しあったものだ。暗鬱な、やるせない密林のなかをくる日もくる日も歩きつづけてきた一行は、みなだんだん勇気を失っていた。この日、われわれは十フィートのニシキヘビや緑色のマムシ、ものすごい大毒蛇を見たし、白い首をしたサルや真っ黒なサル、うなっている灰色の大きなヒヒも目にした。チンパンジーの声も聞き、ワタの木のまたにその巣も見た。キツネザルも目についた。その鋭く高い叫び声は、毎夜すさまじくひびいた。長さ六インチの黒や褐色のムカデが小道に現われ、白カブトムシがたくさんいた。濃褐色の怖ろしいアリの大群もいたので、うっかり歩けなかった。
こんな難路だったから、分割したボートを運んでいる二十四人は、わずか六マイル半にまる一日かかり、へとへとに疲れた。それでまたわれわれは一日休息しなければならなかった。この辺の木々の下を埋めている多種多様の植物が、こんがらがり、からみあい、はびこり茂っているさまは、じつに驚くべきものだった。これまでわれわれも、いろいろな密林にぶつかってきたが、こんどほど辛酸《しんさん》をなめたのは、はじめてだった。暗鬱な気分が、みじめさを激化した。絶えず落ちつづける水滴、むっと息づまるような不健康な雰囲気、交差する枝々、高くそびえ立つ幹、もつれからんだ下ばえが、果てしもなくつづく単調きわまる密林のなかを、われわれは野獣さながらに、かき分けたり四つん這いになったりして進まねばならないのだった。
ワネ・キルンブのキャンプ地で、チプ・チブがアラブ人たちと私の小屋へきて、旅路の困難を話してから、護送契約の解消を申し出た。私は危機がきたと思った。が、おたがいに慎重に考えて契約したのだから、これは守りぬく必要があるとけんめいに説いた。
「だめですな」チプ・チブは答えた。「私はこの密林へきたことがなかったし、世界にこんなところがあるとは夢見もしなかったのです。私の部下の連中は生命を落としかけています。毎日ひどい文句がつのるばかりです。ここは旅のできる国ではなく、下等な邪教従やサルや野獣の住むところですよ。私はもうこれ以上はゆけません」
「じゃ、チプ・チブは誓言も約束も破って、ニャングウエへ引き返すのか? それを聞けば、すべてのアラブ人たちはどういうだろう?」
「男の仕事をもち出してください。そうすれば、私はやりますよ」
「それではだな、チプ・チブ。ルアラバ川のこちらがわよりも、西岸のほうが土地はひらけている。あのムタガモヨはあちらがわの道を通ってルマミ川へいったのだ。もっとも、原住民たちはこちらがわよりも悪質らしい。だが、われわれはムタガモヨとちがうから、原住民たちもおとなしく、ふるまうかもしれない。あちらがわをいってみよう」
二時間ばかり談合して、やっとチプ・チブは、ここから二十回野営する行程だけ同行することを承諾した。
十一月十七日、われわれは高い尾根をいくつか越え、おそろしく暗い渓谷を渡り、びしょびしょしずくの落ちる密林を、北西へ二マイル突っ切り、カンプンズに着いた。森の国の本物の土着民が住む村だった。村の長さは五百ヤードばかり、幅三十フィートの一本道の両がわに切り妻屋根の低い家々が並んでいた。
特異な光景は、村の端から端まで、十フィートずつ離れて、地面に二インチほど埋められた頭蓋骨が、ずらり二列に並べられて、風雨にさらされて白くきらめいていたことだった。百八十六個あって、どうも人間の頭蓋骨のように見えた。
さりげなく私は、探検隊の班長やアラブ人に、なんの頭蓋骨かと聞いてみた。ソコ《チンパンジー》のものだ、と彼らは答えた。三十五歳ぐらいの筋肉たくましい長身の酋長に、私はたずねた。
「この道に飾ってあるのは、なんだね?」
「森の肉《ニヤマ》」と彼は答えた。それは少年ぐらいの背丈で、棒切れを持って歩きまわり、バナナをとって食うから、原住民たちは殺して食うのだという。味はいいかと聞くと、彼は笑って、たいへんいいと答えた。私は宝貝を百個出して、それを捕えてきてくれといった。酋長は部衆を連れて出かける前に、背中の毛皮らしいものを私に見せた。長さ一インチの暗灰色の毛が生えていた。これが、その「ソコ」の毛皮だと彼はいって、それでつくった帽子も見せたので、私はそれを買った。
夕方ごろ、酋長は引き返してきて、見つからなかったと告げ、もう二、三日待ってくれるなら、ワナで捕えると話した。私はそんなに待つわけにいかなかったので、男性のと女性のと二個の頭蓋骨を買いとった。(これらの頭蓋骨を検討したイギリスの生物学者ハックスリー教授は、つぎのように断定した……一個は三十歳よりすこし下の男の頭蓋骨、もう一個は五十歳以上の女の頭蓋骨で、両方とも頭示数は七十五、アフリカ黒人のものに相違ない)
この村の女たちは、わずか四インチ平方の木皮や布のエプロンだけを前につけ、男たちはジャコウネコやサルの毛皮を前後につけて、その尻尾をたらしている。だから、彼らの姿を、ちらとながめた旅人たちは、尻尾のある人間を見たと思ったわけだろう。
十九日、密林を西へ五マイル進むと、ルアラバ川へ出た。南緯三度三十五分、東経二十五度四十九分の地点だった。ここでルアラバ川の名に終止符を打ち、これから私はリヴィングストン川と呼ぶことにしたい。
右岸の草原にテントが張られ、ボートが組みたてられているあいだに、私は渡河の時期や、左岸の好戦的な種族への近づき方、抗争に直面した場合などのことを考えめぐらした。
夏の夢のように、大河の褐色の水は、おだやかに、広く、ふかぶかと流れていた。対岸には、こちらがわと同じような森が、くろぐろと空に浮かび上がっている。黒い森に両岸を囲まれた大河は、ゆうゆうとした雄大さを見せて流れてやまない。言いようもない静寂の威厳《いげん》が、私の心を強くひきつける。
「この大河は未知の世界へ流れてゆく。われわれは暗黒の密林を苦闘して通り、探検隊の活気は衰えている。私は道を求める。ああ、未知の世界をつらぬいて、どこかの海へ通じている広大な水路が、光明の道のように、ここに横たわっているではないか! しかも、このまわりには千隻のカヌー艦隊でも建造できるだけの樹木が満ちあふれている。それをやってのければいいではないか!」
私はぱっと立ち上がり、鼓手に集合の太鼓《たいこ》を打たせた。ものうげに探検隊は集まった。フランクや班長たちもきた。アラブ人たちも周囲に厚い人垣をきずいた。私は探検隊にいった。
「この大河は、どこへ流れてゆくか? 塩水の海へだ! 大船が往来するその塩水の海のそばには、私の友人たちや諸君の友人たちが住んでいる。しかも、いまわれわれが立っている地点から、塩水の海のそばの白人の友人たちのところまで、この大河をくだってたどりついた人間は、まだ一人もない。それはわれわれがやるために残されていたのだ。まことに諸君、それは世界の始まりから今日まで、われわれのために残されていたのである。その役割を果たすのは、われわれであって、他の何者でもない。これこそ運命の声である! もはやわれわれは路傍《ろぼう》であえがず、忌まわしい暗黒にも直面せず、ただこの川をひたむきにゆく。今日、私はボートをこの流れに浮かべ、目的を達成するまで、乗りつづけてゆくであろう。諸君よ! 父に従う子らのように、はるばる遠く私に従って、この怖ろしい未開の国まで旅してきた諸君は、ここで私を見捨てるか? 蛮地で私を放棄して、死ぬがままにまかせたと、たち帰って私の友人たちに告げるか? それとも、子らのように諸君を愛する私をしばりあげ、むりやりに連れ帰るか? ライオンの豪胆《ごうたん》さをもった若者たちは、どこにいる? 話せ、ワンワナ人諸君、そして勇ましく私に従う者たちの姿を見せてくれないか」
ボート長のウレディが、おどり上がり、とび出してきてひざまずき、私のひざをつかまえていった。
「わしを見てください、隊長! わしはその一人です! 死ぬまで隊長に従ってゆきます!」
「私も」とカチェチェが叫び、「わしも、わしも、わしも」とボートの乗組みが声をあげた。
「よろしい。私に協力してくれる者たちがあるのはわかっていた。では、私と運命をともにする者たちは、こちらがわに立ってもらおう」
三十八人いた。九十五人はじっと立ったまま、なにもいわなかった。
「これだけの人数でも十分だ。私は諸君とともに海へたどりつくだろう。それにしても、なお時間はたっぷりある。われわれはまだカヌーを造っていない。アラブ人たちとも別れていない。まだチプ・チブとながい旅路をたどらねばならぬ。そのうちに、われわれは善良な人々に出会い、カヌーを買うことができるかもしれぬ。アラブ人たちと別れるときには、いま同行を怖れている九十五人も、われわれとともに大河をくだるにちがいないと思う」
あとで、私がチプ・チブやアラブ人たちに、ワンワナ人をおびえさせるようなことはいわないでほしい、と話していると、向こう岸のウェニヤの村から、二人の原住民たちが乗った小型のカヌーが出てきた。
たくさんのカヌーをよこして、われわれを渡してくれ、と通訳にいわせたが、原住民たちは「悪い連中に渡ってもらいたくねえ。帰れ!」ときめつけ、「オオーフー、オオーフーフー!」とぶきみな戦いの叫び声を川面にひびかせた。
すると幾百もの声々がそれに呼応した。だが、戦う理由が見当たらなかったので、私は気にせず、水面に浮かんだ「レイディ・アリス号」に、チプ・チブやアラブ人たちと乗りこみ、半時間ばかり川を漕ぎのぼらせた。
中流の小島を双眼鏡で見ると、岸に三十隻ほどのカヌーがつないであって、木々のあいだから数軒の家が見てとれた。岸では原住民たちの群れが、こちらの動静をうかがっていた。われわれはボートを左岸へ向け、ゆっくりと流れくだりながら、村の住人たちに向かい、白人は友人になるつもりで訪れてきたので、バナナ一本も掠奪《りゃくだつ》させず、誰にも暴力をふるわせたりするものではない、と通訳に話させた。住人たちは奇妙な目つきで私を見つめ、相談してから、あくる朝早く小島で義兄弟の血盟をして、それがすめば、渡河させようと約束した。
だが、あくる朝四時に、ボートはひそかにカチェチェと二十人の部下を小島へ運び、潅木の茂みに隠れさせた。そして引き返し、七時にフランクと十人の部下を血盟の儀式に運んだ。そしてまた引き返してくると、私が乗りこんで、右岸ぞいに漕ぎのぼらせ、待機した。九時に原住民たちがいっぱい乗ったカヌーが現われ、私が双眼鏡で見つめていると、ほかのカヌーもつぎからつぎへ小島へ乗りつけた。奇怪な喚声が聞こえた。私はボートを小島へ急行させた。フランクを見つけ、いきさつをたずねると、血盟を待っていたフランクは、原住民たちにとり巻かれ、槍で刺されそうになったとき、カチェチェが現われ出てきたので、原住民たちはカヌーへ逃げ去ったのだと答えた。
私はカチェチェと部下をボートに乗せ、左岸の村の川上の森をめざして漕ぎつけさせて、斧を持った三十人を上陸させ、小さな基地をつくらせた。そして川をくだって村の前へゆき、通訳にいわせた。
「われわれのほうは、すでに三十人こちらがわへ上陸しているから、われわれに助力して渡河させるのが、はるかに上分別だろう。賃金は十分に支払うことを保証する」
同時に私はガラス玉の小袋を原住民たちに投げてやった。まもなく彼らは承諾した。そしてカヌー群がキャンプのほうへきて、探検隊を渡し始めた。夜になったころには、一人残らず左岸の村へ渡った探検隊は、キャンプの火のそばで、上機嫌にくつろいでいた。
朝、目がさめてみると、村の原住民たちはいなくなっていた。付近の村々の住民も逃亡していた! どの村の道にも、食われた人間の頭蓋骨が二列に並んでいる。カヌーは船着場に、みんな置き捨てにしてある。バナナやヤシの実は、たわわにぶら下がっている。このウェニヤの原住民たちと平和に交渉を始めるのは、なんとしても必要だったので、探検隊の者たちに宝貝を持たせ食糧を買いにやった。やっとカチェチェらが住民のいる村を探し当てたが、たちまち襲撃されてキャンプへ逃げもどった。
一物にも触れず、われわれは最初の村をあとにし、三十三人がボートで川を流れくだり、フランクやチプ・チブや陸上部隊は河岸をたどって、食糧が入手できる村までいくことにした。川下の村々では、われわれがたどりつかぬうちに、原住民たちは「オオーフーフー、オオーフーフー」と奇妙な戦いの叫び声をあげ、なにもかも放っておいて、叢林《そうりん》へ駆け入った。われわれが彼らのヤギや黒いブタを捕えたりすれば、ふいに彼らは叢林から襲いかかってくるにちがいなかった。
午後三時、ルイキ川の河口にきた。幅百ヤード、深さ十二フィートばかりなので、ボートがなくては、陸上部隊は渡れそうになかった。それでその右岸とリヴィングストン川の左岸のあいだの一地点に、われわれはキャンプし、十一月二十三日はここで休止して陸上部隊を待ちながら強固なキャンプをつくった。
二十四日の早朝、私は陸上部隊を見つけたいと思い、ルイキ川を十マイルほど漕ぎのぼらせた。午後二時ごろ引き返し始め、キャンプへ近づいたとき、銃声が聞こえた。全速で漕ぎくだると、河口はカヌー群でいっぱいになり、それに乗った蛮人たちが槍を投げたり、矢を放ったりしていた。われわれが大声でわめきながら向かってゆくと、さっと蛮人たちは川を流れくだって散り去った。
キャンプでは、誰も負傷していなかったが、投げ槍や矢が幾十本も打ちこまれていた。白人の隊長が出かけたのを知り、原住民たちは三十隻ののカヌーで押し寄せ、「肉」を獲得しようとしたのらしかった。私の銃持ちの少年ビラリが一人の男を撃ち、その死骸が流れに浮かんでいた。どうして私の銃を使って人を撃ったりしたのか、と私が聞くと、彼は驚いて答えた。
「どうしようもなかったんですよ、隊長。相手はすぐ数フィート向こうから槍でねらっていたのですから、もうほんのすこしぐずついていたら、僕は殺されていたでしょう!」
その夜も陸上部隊は到着しなかった。早朝、私はボート長のウレディに、五人の若手の乗組みをつけて見にやった。午後四時になって密林のなかから銃声がとどろき、まもなくウレディが、顔を輝かせて現われた。
「隊長、すぐやってきます」
陸上部隊は疲れて、やつれ、意気消沈していた。彼らは道に迷ってうろつき、原住民たちに矢で射られて三人殺され、報復して一人の原住民を捕え、それに案内させて、十五時間ほど進んできたとき、ウレディに出会っていたのだった。
ボートで全員をルイキ川の左岸へ四時間たらずで渡した。みんながひどく苦しんでいたので、代価を払わずに食物を入手してはならないという厳重な命令を、私は緩和《かんわ》せずにおれなかった。
二十六日、われわれはナカンペンバへくだった。この日、陸上部隊は河岸の近くを進んだ。しばしば深い密林の底に隠れたけれど、ときどき太鼓《たいこ》をたたいて連絡することができた。
川幅はだんだんひろがり、千七百ヤードとなって、木々におおわれた大きな島が散在し、両岸には高い森林や下ばえが濃密になった。通過してゆく村々には人っ子ひとり見当たらず、ときおり、この辺で残虐非道をやってのけた例のムタガモヨのことを、原住民たちが叫ぶ声が聞こえるばかりだった。
密林を通り、食糧が乏しく、疲労し、苦難が山積《さんせき》するために、病人が多くなり、陸上部隊には天然痘や赤痢が発生した。トゲで足を刺された者たちが潰瘍《かいよう》になり、歩けなくなった。
われわれは放棄されている六隻のカヌーを見つけ、修理して、しっかりつなぎあわせ、病院船にした。
ナカンペンバから左岸伝いに、ウカッサの急流までくだった。陸上部隊を急流から半マイルの地点に野営させ、私はフランクとマンワ・セラに何物もキャンプから動かしてはならないと厳命しておいて、屈強《くっきょう》な若い連中を連れ、河流を調べに出かけた。右岸から頁岩《けつがん》の岩棚《いわだな》が突出し、川中に二つの岩島ができているために、半マイルのあいだに水位が十フィート低くなり、激流が一マイル半にわたってすさまじく渦まいている。
さらに二マイルほど河岸をくだって観察していたわれわれは、危うく原住民たちの群れのなかへ踏みこみかけた。木々の茂みにおおわれた小さな入り江に四、五十隻のカヌーがひそみ、原住民たちがじっと川面を見張っていたのだ。すぐさまわれわれはキャンプへとって返した。すると、フランクがマンワ・セラに、病院船のカヌーを二隻引き離し、急流をくだらせることを許可していた。それを聞いた私は、血が冷たくなるのを覚え、さっそく五十人を引き連れて、きびすを返した。さっきの小さな入り江へゆくと、空っぽになっていた。私は高額の賞金をかけて、みんなに捜索させた。ウレディや弟のシュマリらが駆け出していった。
まもなく森のなかから銃声がとどろいた。われわれがそちらへ駆けつけると、川の中流に引っくり返った二隻のカヌーが見え、それにすがっている五人のワンワナ人たちを、六隻のカヌー群の原住民が襲撃していた。ウレディは原住民たちを撃ち、ワンワナ人たちを救った。彼らは岸へ引き上げられたが、たいせつなスナイドル銃が四梃なくなった。聞いてみると、彼らは渦へ巻きこまれ深く引きずりこまれてから、数フィート下流へ突き出されていたのだった。こんな被害をもたらした命令違反に対して、私はきびしく叱責した。
これがひどくこたえたらしいマンワ・セラは、チプ・チブのキャンプへいき、もう役目をやめさせてもらうといってよこした。私は笑って、「もどってくるものと確信している」と彼にいってやった。フランクに対しては、義務の不履行《ふりこう》を厳重にたしなめた。指令の忠実な実行に、いまや探検隊の生死がかかっていたからである。
チプ・チブやアラブ人たちが、私のところへ談合にきた。眼前には急流をひかえ、食人種は敵意を燃えさからせ、天然痘ははびこり、みんなは気分が沈み、首席班長のマンワ・セラも陰気になっているのであってみれば、もはや前途には怖ろしい潰滅《かいめつ》しかないではないか? いまのうちに引き返したほうがいい、と彼らはいうのだった。
「まあ、明日のことにしよう」と私は彼らを引きとらせた。
あくる朝早く、探検隊は集合した。彼らはボートを引き上げ、注意ぶかくかついで、一時間ほどかかって急流の下流へ運び、静かな入り江に浮かべた。それから、四隻のカヌーに急流をくだらせた。無事に急流を通過したわれわれは、二十九日、四マイル下流のムブルリに着いた。夜、就寝時刻に、見張りに立っていたシュマリが、川をくだって近づく一隻のカヌーを見つけ、ボートの乗組みの助力を求め、ふいに襲いかかって、カヌーに乗っていた原住民を捕え、私の前へ連れてきた。年寄った邪悪な顔つきの蛮人で、私が十数個の宝貝を差し出すと、無愛想なイヌが見知らぬ人間の手から肉をかみとるように、ふんだくった。年をとってひどく頑迷《がんめい》になり、なにをいっても受けつけないようすだった。われわれは彼をカヌーに乗せて帰らせた。一時間たって、また一人の原住民が見つかった。こんどは十六、七歳の若者だった。私はおだやかに微笑して、優しく話し、一連の赤いガラス玉を与え、宝貝を片手にいっぱい握らせて、すこし質問した。五つめまでは答えたが、それから疲れたと言い、もう答えようとしなかった。朝、彼を帰らせた。
われわれがキャンプ地から去ろうとしていたとき、右岸から三隻のカヌーがとび出してきた。近づいた原住民たちに、われわれは通訳に優しく話させた。何も危害を加えない異国人を、どうしてそんなに憎むのか、友だちになる気はないか? われわれは玉や布や真鍮《しんちゅう》や銅や鉄を持っており、それでバナナやヤギや穀物を買いたいのだ。
そんなふうに話されるのを、原住民たちは注意ぶかく聞いて、うなずいた。そして、太鼓《たいこ》をたたいて楽しませてくれないかといった。それで、ムテサ皇帝の小姓だったカドゥが、太鼓の名手だったので、呼び出された。太鼓と、ばちをとったカドゥは、ちょっと小手調べをやってから、鼕々《とうとう》とウガンダ流の名調子で打ち始めた。とどろきわたるその音は、森林のなかにうずくまる幾百人の蛮人たちも聞き入って、底ぬけに感嘆したにちがいなかった。
「ああ!」もじゃもじゃ髪の裸の原住民たちは声をあげた。「こいつは、すごいや!」大はしゃぎで手をたたき……急速に下流の右岸へ漕ぎ去った。
熱帯樹の茂る美しい島々のそばを、われわれはくだりつづけ、十二月五日、ムリワ川の脇へきた。
この川の北岸にいくつもの村々が長く連らなり、幅三十フィート、長さ二マイルの道が通じていて、家々の後ろにはバナナやヤシの森があった。これはイコンドゥという町で、南緯二度五十三分に位置していた。たいへん風雅な小家は、縦七フィート、横五フィート、高さ六フィートの篭を二つ寄せ合わせたようなもので、屋根は連らなっているが、境い目になっている真中の部屋は、両方の家族の共有で、ここで彼らは家事をしたり、友人連を迎えて社交的なおしゃべりをしたりする。この辺では、一日おきぐらいに土砂降りの雨に見まわれるので、われわれも気づいたわけだが、このような篭みたいな小家は、小じんまりとして居心地がよく、船室みたいに水をはじき返している。
この町には人っ子ひとりいなかったが、食糧はたくさんあった。シュロの木々には酒壷がとりつけてあったし、バナナはふさになって下がっていたし、畑にはみごとな大きなメロンがあった。カサバの木々も繁茂《はんも》し、ナンキンマメ畑も広く、大きな畑にはサトウキビが風に揺れていた。
だがわれわれは憂鬱だった。このようなすべてのものを打ち捨てて、住民はどこへ去ったのだろう? たしかに人口は二千をこしているにちがいなかった。また、探検隊には天然痘、赤痢の患者が多くなり、疥癬《かいせん》に五十余人、潰瘍《かいよう》に二十人がかかり、肺炎、肋膜炎の苦痛を訴える者たちも多かった。毎朝、二人か三人の死体が、大河へ水葬にされた。フランクと私は、苦悩を軽減するために、最善をつくした。
ここには、幾年も前に大洪水でうち上げられたらしく、底に大穴のあいた大型カヌーがあった。≪へさき≫も≪とも≫も腐りかけていたものの、六十人の病人を乗せ、ボートで引っぱっていけそうだった。それで私は、探検隊の大工たちに修理させた。彼らは板をはめこみ、木釘でとめ、つぶしたバナナや木の繊維をすきまへ詰めこんだ。川へ押し出してみると、この大カヌーはみごとに水に浮かんだ。
こんな古びたカヌーの修理に成功したことは、全員を乗せてゆけるだけのカヌー群をつくる能力が、探検隊にある事実を私に確信させた。
あくる日の正午ごろ、小さな弓矢を持った原住民が、潅木のなかで見つかった。身長はわずか四フィート六インチ半で、明るいチョコレート色の顔には、頬ひげがいっぱいはえている。例のアベッドの話にあった小人が思い出されたので、私はアベッドを呼んで、たずねてみた。すると彼は、自分が相手にした小人たちは、これよりなんとしても頭の長さぐらい低かったが、小さな矢は同じだと答えた。それは一フィートぐらいの長さの矢で、ツチハンミョウに似た匂いのする黒ずんだものが鏃《やじり》に塗ってあった。
さりげなく私は、その小人の腕を取り、その矢を刺そうとして見せると、小人は恐怖の色を浮かべて、「マビ、マビ(悪い、悪い)」と叫んだ。毒が塗ってあることは疑う余地がなかった。小人はいろんなことを話し、このすぐ下流の島は雷電《らいでん》に打たれて、男も女も子どももヤギもバナナも、みんな死滅してしまったといった。また、ここの町の首長は、住民全部を連れて向こう岸にいると告げた。
十二月八日、われわれは大河をくだり、ウニヤ・ウンシンゲ川の河口に着いた。その北岸と南岸の絶壁の上に、一つずつ町があった。
午後四時ごろ、中流の島伝いに大型のカヌー八隻、左岸伝いに六隻が漕ぎのぼってきて、中流へ出て戦え、とわめいた。われわれは戦う目的できたのでないから、戦いたくないと通訳にいわせた。相手がわは嘲笑を投げ、つぎの瞬間、十四隻のカヌーが喚声をあげて襲来した。私は人員を岸に配置した。三十ヤードにせまると、原住民たちの半数は毒矢を放ち始め、半数は漕ぎつづけた。彼らが上陸しようとしたとき、命令一下、約三十梃のマスケット銃が火を吹いた。
原住民たちは退いて、百五十ヤードの距離から矢を放ちつづけた。私は岸の者たちに射撃をつづけさせながら、ボートにチプ・チブも乗せて、中流へ突進した。蛮人たちはうれしがったらしく、高らかな喚声とともに突撃してきた。が、五十ヤードの距離に接近した彼らは、こちらの銃にさんざんに撃ち倒され、たちまち川を漕ぎくだった。
ウソンゴラ・メノの原住民たちとの最初の一戦は、こうして簡単にかたがついた。探検隊の三人が矢を当てられていたが、硝酸銀をつけると、毒が消されて、はれあがって痛みはしたものの、たいしたことにはならなかった。
ここでわれわれは、小人が提供した正確な情報に報いるために、ひとつかみの宝貝とガラス玉の首飾り四つを与え、彼を帰らせた。自分が食われてしまわないわけが、彼にはわかりかねるらしく、故郷《ふるさと》の森林へとびこんでしまうまでは、安心しきれないようすだった。
十一日、さらに八人の天然痘患者が病院船のカヌーへ収容され、そのうちにはチプ・チブの寵愛する若い女たちも三人ふくまれていた。
十四日、われわれはらくに川を流れくだり南緯二度三十五分の左岸に位置する町、キスイ・カチアンビに着いた。途中の入り江からとび出した原住民たちに襲撃されたが、たえずわれわれは警戒しているので、ただ一人だけ微傷を受けたにすぎなかった。この町に休止しているあいだに、チプ・チブの寵愛する女が二人天然痘で死に、ほかに三人の青年も死亡した。陸上部隊で死んだのは一人だけだった。
十八日、左岸ぞいにくだっていると、ふいに病院船のカヌーの護衛が、密林から飛来した矢で胸を射られた。川下へ急行したわれわれは、人影のない市場の広場にバリケードをつくった。
やがて、密林から原住民たちが、幾百人も殺到した。叫喚、マスケット銃の一斉射撃、戦闘する者たちのわめき声、病人たちのテントの女や子どもたちの悲鳴などが入り乱れ、凄惨《せいさん》な戦闘が二時間つづいた。たそがれに、敵は退いたが、象牙の笛をすさまじく近隣の森に鳴りひびかせ、ときどき毒矢を射かけてきた。
十一時ごろから夜襲が始まった。われわれは弾丸を放って応戦した。敵はまた退いたが、遠くから毒矢を飛ばした。
夜があけると、私はボートで右岸のほうへ五百ヤードほど出て、岸辺を見わたした。驚いたことに、われわれのキャンプ地からほんの四分の一マイル川下に、人口の多い富裕らしい町があった。ふと私は、ヴィニヤ・ウンジャラという地方に勢力をはっている酋長が、ひどくたくさんの部衆を支配しているからとても通過できまい、と例の小人が話したのを思い起こした。
まもなく私は計画をたてた。病人たちを家へ収容し、食糧を入手して、陸上部隊が到着したときに連絡するために左岸の最南端の村を占領することだった。私はキャンプへもどり、すぐ全員をボートとカヌーに乗りこませ、一マイルの距離の、最南端の村へ漕ぎのぼらせた。そのあいだじゅう、河岸の密林から矢が飛んできた。
最南端の村へ着くと、われわれは険しい岸を駆け上がった。村は空っぽだったので、木々を切り倒して、村の両端にバリケードをつくり、防備をととのえた。やがて、それと気づいた蛮人たちが、村を奪還《だっかん》しようと押し寄せてきた。われわれのほうのマスケット銃は火を吹きつづけた。正午になって探検隊の二十五人が出撃し、村のまわりの敵を一掃した。そしてウディは一人の原住民を捕えてきた。また村の両端に、高さ十五フィートの櫓《やぐら》を建て、十人ずつ狙撃《そげき》隊を配置し、接近する敵を制圧することにした。夕方、ほぼ造作を終わった。ささやかな夜襲が一度あったが、われわれは相手にならなかった。
あくる朝、また襲撃しようとして、敵は潅木《かんぼく》の中から駆け出てきた。しかし、われわれの防備態勢に驚いたらしく、すぐ密林へ退き、戦笛を吹いたり、ものすごく「ボオ、ボオ、ボオ」と戦いの叫び声をあげつづけた。
どうやらわれわれは、「オオーフーフー、オオーフーフー、オオーフーフー」という戦いの叫びをあげる種族の地域を通りすぎたらしかった。ここへきてからは、「ボオーボオ、ボオーボオ、ボオーボオーオーオーオ」という特異な音調の異様な戦いの叫び声を、われわれは聞かされるばかりだったからである。
正午ごろ、おびただしい数のカヌーの大艦隊が、左岸近くを漕ぎのぼってくるのが見えた。満載している総勢は、五百人から八百人。彼らはわれわれの地点より半マイルばかり上流へさかのぼり、激しく戦笛を吹き、戦鼓を打ち鳴らしながら、水流を利用してわれわれのほうへ突進してきた。同時に、それに呼応するかのように、密林から戦笛がひびいて、彼らの陸上戦隊がいっせいに探検隊へ矢を放ってきた。
だが、密林からの襲撃は、櫓《やぐら》の上から狙撃隊が防衛したので、私は河岸の潅木にそって二十人を並ばせ、川面の防衛に当たった。もはや、探検隊の各人は、戦いぬくか殺されるかだった。これまで幾度も危機を突破してきた記憶が、弱気な者たちの心にもよみがえり、不死身の感覚を呼び起こし始めた。少数のワンワナ人は別として、大部分の者たちは、冷静に危機に対処する能力が乏しかったのだが、この二年間、とくにこの大河での体験によって、彼らも急速にしっかりした探検隊員に鍛《きた》え上げられつつあったのである。したがって、戦笛はすさまじく鳴りひびき、敵は多勢で圧倒的な勢いを見せていたけれど、探検隊員はみな奮いたっていた。
凄絶な戦闘は一時間つづいた。弾丸は豊富にあったから、われわれはそれを使用して目ざましい効果をあげた。しかし、危機が刻々にせまったとき、もしチプ・チブの前衛と探検隊の陸上部隊が到着していなかったら、われわれの運命はどうなったかわからない。彼らが到着すると、密林のなかの蛮人たちはたじろぎ、戦笛を吹き鳴らして、援軍の到来をカヌー艦隊の蛮人たちに知らせた。その瞬間、必死に上陸しかけていた川面の蛮人たちは、その戦笛を聞くと、退いていった。が、漕ぎ去りながらも、見のがしはしないぞと、彼らは告げ、櫂《かい》で水をこちらへはね飛ばし、すごい軽蔑を示した。すべてのカヌー群は、われわれのキャンプから千六百ヤードほど離れた向かいがわの島かげへ、魔物のように消え去った。
陸上部隊の一同にあいさつするのは、うれしいかぎりだった。それにしても彼らもみじめな状態にあった。食物が悪く、それも密林を通過する三日間は乏しくて、絶えず通りぬけられる個所を捜してうろつきまわり、ひどく体力を消耗《しょうもう》していた。数日間たたなければ、また旅路へ出られないのは、一目見て明らかだった。
その夜十時に私は探検隊員二十人を連れ、ボートで向かいのムピカ島の南端へ向かった。フランクも二十人を指揮して、カヌーで島の北端へ忍び寄った。そして急速に右岸に達し、右岸ぞいに捜して、杭《くい》につないだ八隻の大型カヌーを見つけたわれわれは、つぎからつぎへ籐《とう》の綱を切って、カヌー群を押し流し、さらに数百ヤード川下で四隻押し流してから、右岸と島とのあいだの水路へ入りこんだ。島にはたくさんの灯がきらめいて、多数の敵が野営し、人声も聞こえた。が、高い岸や木々のかげの真暗がりをゆくわれわれは、敵に見つけられずに進み、片っ端からカヌーを早い流れへ押しやった。
こんなにして、三十八隻のカヌーが押し流された。もう見当たらなかったので、われわれも流れをくだっていくと、フランクが二十人とともに、流れてきたカヌー群をくいとめていた。われわれは協力して、カヌー群をつなぎ、キャンプへ引っぱってもどった。
あくる朝九時に、われわれはまた前夜の活躍の現場へボートで乗りつけた。すると、原住民たちの大部分は島から退散してしまっていた!
残されているほんの少数の者たちに、和平をしないならば、われわれはあの村を占領しつづけ、すべてのカヌーを保留する、と通訳に告げさせた。
その結果、十二月二十二日、川の中流で、探検隊のサフェニとヴィニヤ・ウンジャラの酋長が、義兄弟の血盟をやり、探検隊に捕えられていた原住民と十五隻のカヌーが返還され、二十三隻は十分な代価を支払って保留された。このようにして戦闘は終わった。探検隊は四人が殺され、十三人が負傷していた。
この午後、チプ・チブやアラブ人たちは、別の道をとってニャングウエへ引き返すと告げた。おそろしく決然とした口調だったので、私も彼らの決心をひるがえらせるように説くのはやめにした。あのワネ・キルンブでの約束からしても、まだ八回野営する行程だけ、彼らは同行しなければならぬはずであったが、もはや彼らの勇気はつきたと見たので、私はチプ・チブが探検隊の連中を激励して、私に従ってゆかせるようにすることを条件として、契約を解消しようといった。
チプ・チブはそれを承諾した。それで私は、これまでのチプ・チブの貢献にむくい、一同の労苦をねぎらうために、つぎのような贈与をした。
チプ・チブへ……二千六百ドルの手形、乗用ロバ一頭、トランク一個、金鎖一本、上等の布地三十枚、ガラス玉百五十ポンド、宝貝一万六千三百個、拳銃一梃、弾丸二百発、真鍮《しんちゅう》の針金五十ポンド。
おもだったアラブ人たちへは……布地二十枚から十枚、五枚、二枚ずつ。チプ・チブの従者九十人へは……布地一枚ずつ。またワンワナ人の班長たちへは……布地二枚半ずつ。探検隊の各員へは……布地一枚半ずつ。女、子どもたちへは……布地一枚ずつ。
そして私は探検隊にいった。
この大河が、いずこの海へ流れこんでいようとも、われわれはそこへたどりつくであろう。諸君が無事に元気で故郷の家々へ帰りつくまで、私は諸君の安全を図るであろう。私が諸君に求めるのは、私の言葉を全面的に信頼してほしいということだけである。諸君の生命に私の生命は依存しているのであるから、諸君の生命を危険にさらすならば、私は自分の生命を危険にさらすことになる。父が子らのめんどうをみるように、私は諸君のめんどうをみよう。わが探検隊は以前ほどに強大ではないが、同じ人々の一団であり、同じ精神を保持している。
すでに多くの人々は死んだ。しかし、死は万人のたどりつくところである。われわれより先に死んだ人々があったにしても、それは神の意志であってみれば、だれが神の意志に反逆できよう?
今後まだわれわれは、百回も蛮族どもに直面するかもしれない。彼らはわれわれを食うために、襲いかかってくるであろう。われわれは彼らに干渉したくはない。金を持っているわれわれは、貧乏人とはちがう。彼らが戦いをしかけてくるならば、どうしようもない病気のように、それをわれわれは邪悪なものとして受けとらなくてはならぬ。あくまでわれわれは最前をつくして、仲よくするように努力しよう。戦うとなれば、われわれは自分の生命を救うために戦うだけである。飢餓や欠乏に苦しむ場合もあるかもしれない。さらに多くの急流や大湖に直面し、その荒れ狂う大波をわれわれのカヌーでは乗り越えられないかもしれない。だが、われわれは子どもではなく、頭もあれば、腕もあり、つねに神の目に見守られているのではないか。されば、諸君、いまやわれわれは、この大陸の真中にきていて、引き返すにも同じような艱苦《かんく》をなめねばならぬのであってみれば、ひたむきにこの大河をたどりつづけ、塩水の海へ到達する決意を、私とともに固めるべきである」
かっさいの喚声が高らかにひびいた。
つづいてマンワ・セラが、自分たち海の子らはもって生まれた土性骨《どしょうぼね》をウスクマ人に見せなければならないと言い、アラブ人たちのほうに向かい、「お前さんがたがおぞ気をふるっていることを、やってのけようとする黒人たちを見てほしい」と告げた。
ボート長のウレディは、乗組みを代表して、ほかのすべての者たちが前進を拒んでも、自分と乗組みは、すぐこれからでもながい旅へ出発する決心だといった。
この危険をはらんだ旅へ出るのには、幾多の準備をととのえなくてはならなかった。食糧をすくなくとも二十日分は入手しておかねばならず、カヌー群も修理し、転覆《てんぷく》を防ぐために二隻ずつ縛り合わせ、また河岸を歩行する場合にそなえて、三頭のロバを乗せてゆく用意もしなければならなかった。
クリスマスの日は、いのちの洗濯をしておこうという気持で、われわれはたいへん愉快に楽しくすごした。朝、探検隊の全員が集まり、それぞれ乗りこむカヌーが指定され、その一隻一隻の命名式が行なわれた。それからカヌー競漕がくりひろげられ、勝った乗組みに布地の賞品が授けられた。午後は徒歩競走で、賞品にひかれてアラブ人たちも参加した。
呼び物はチプ・チブとフランクの競走だった。チプ・チブは賞品を獲得しようと、つねになく張りきっていた。これはみごとな彫刻をほどこした銀杯で、イギリス出帆前に私がもらったものだった。コースは村の道の端から端までの三百ヤード。フランクはけんめいに走ったが、アラブ人はたくましい筋肉を活用して、最後に十五ヤードぬいた。
つぎは探検隊の小さい少年たちと、護送部隊の小さい少年たちが駆けっこをした。最後に十人の若い女たちが競走して、観衆をわかした。幾人かの女たちは、ぶかっこうで、ゾウみたいな走り方をし、わけてもサフェニの妻ムスカティはその代表的なものであったが、ほかの女たちは、きわめて優美な四肢を軽快に動かしながら、ギリシア神話の無敵の乙女アタランタのように急速に走った。勝利を得たのは、ザンジバルの娘カミシであった。
百人のウスクマ人が、羽飾りをつけ、ものものしい戦士のいでたちで、太鼓《たいこ》を打ち、象牙の笛を美妙に吹き鳴らしながら、踊りまくった。そしてお祭り騒ぎの幕は閉じた。
二十六日、チプ・チブは探検隊を招待し、米の飯とヒツジの焼き肉に、ムピカ島のシュロ酒をご馳走した。探検隊の意気はいよいよ高揚した。
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十 戦いながら大河をくだる
十二月二十八日、夜明けの霧が晴れ、太陽の光が川面を鏡のように輝かせる九時ごろ、探検隊の全員百四十九人は、アラブ人たちの別れの歌曲におくられて、大河をくだり始めた。われわれは河岸に並んだ彼らに手をふった。最後のお別れになるかもしれなかった。胸がつまって、口がきけなかった。
暗色の水流は、刻々われわれを下流へ運び、川面を渡ってくる歌声は、だんだんかすかになり、ついに消えうせ、寂しい孤独感がわれわれにせまった。だが、目を上げて見れば、未知の世界への大水路が、前面にきらめいていた。はるか遠くへ、大河が神秘の魅力をたたえてのびていた。私は立ち上がって、探検隊を見まわした。決然としている者たちはきわめて少なく、たいてい悲愁に打たれたように、がっくりとうなだれていた。
「ザンジバルの子らよ」私はわめいた。「アラブ人たちは諸君の勇敢さを、ほめたたえているんだぞ。頭を上げよ。なにを怖れることがある? 全世界は歓喜の微笑をたたえているのだ。われわれは一家族のように、みんな心を合わせ、強く決意をかためて故郷へ到達しようとしているのだ。この川を見よ。これはザンジバルへ通じる道だ。こんな広い道を見たことがあるか? こんな道を旅したことがあるか? しっかり漕げよ! そして前進しようではないか」
彼らはじつに悲しげな微笑で答え、いとも力なげに漕ぐのだった。だが、強い水流はぐんぐんカヌー群を運び、ヴィニヤ・ウンジャラの村も後ろに遠ざかっていった。下流には三、四マイルごとに、小さな村が両岸に見えたが、さいわいにわれわれはなんの騒ぎにもぶつからなかった。午後五時、カリ・カレロという小村に着き、原住民たちが静かに退いたので、そこで野営した。半時間ほどして、住民たちがもどってくると、義兄弟の血盟が行なわれ、平和な一夜が保証された。
二十九日の朝、われわれは四マイルほど大河をくだり、カスク川の河口へきた。カインバ島の下流では、大河は千八百ヤードの幅になっている。しばらくは静かに通過してゆけるだろうと考えながら、左岸ぞいにくだっていると大きな木をくり抜いてつくった大太鼓《おおだいこ》が、激しく打ち鳴らされた。われわれは原住民たちと不和になるのを避けて、中流へ漕ぎ出た。だが、左岸からはなやかな羽を頭につけ、幅広の黒い楯や長い槍を持った原住民が、われわれのほうへ漕ぎ出てきた。
チプ・チブが食人種の若い男を二人、通訳として雇ってくれていたので、われわれはこの二人に指令して、「センネンネ(仲よくしよう)!」と呼びかけさせ、みんな友だちだといわせた。
だが、原住民たちは答えようとせず、帰れと威丈高《いたけだか》にわめいた。
「しかし、おれたちはなにも悪気はないんだよ、友だち衆。川がおれたちを押し流してきているんだ。川はとまりはしないし、引き返しはしないぜ」
「これはおれたちの川じゃ」
「よかろう。連れて帰れって、川にいってくれ。そしたら、おれたちは帰ることになるだろうぜ」
「帰らねえのなら、おれたちは戦うぞ」
「いや、よしてくんな。みんな友だちだ」
「お前らなんざ友だちにしたくねえ。食っちまうんじゃい」
だが、こちらから話しかけつづけると、好奇心の強い原住民たちは聞き入りつづけ、そのうちに水流がわれわれを右岸のほうへ運んでいった。他部族の地域に近づいてはまずいと考えたらしく、原住民たちはそそくさと上流へ漕ぎ去った。
右岸の村々でも、太鼓《たいこ》や戦笛を鳴らしつづけていたが、やがて蛮人たちが、へさきのとがったカヌー群に乗りこんで、飛魚《とびうお》のように急速に近づいてきた。彼らは話しかけられるのも待たず、五、六十ヤードの圏内に入ると、たちまち槍を投げつけながら、わめいた。
「肉! 肉! ああ! ああ! たらふく肉が食えるぞ! ボオーボオーボオーボオ、ボオーボオーボオーボオーオーオー!」
われわれは人食い人種に対抗して立ち上がった。ちっとも腹だたしさは覚えなかった。美食家がふとった雄鶏を見るようにしか人間を見られない原住民たちに、腹をたてるのはおかしなことだと私には思えた。肉! われわれがか? ああ、とんでもない!
「肉! ああ! 今日は肉にありつけるぞ。肉! 肉! 肉!」
蛮人たちは撃退され、五分間のうちに川面から消え去った。われわれはいくつかの楯を拾い上げた。今後はすべての楯を保存しておくように、私は命じた。われわれのカヌー群のために、うってつけの防護物になると考えたからだった。
それから一時間後、ウリンディ川の河口の近くをすぎ、右岸ぞいにくだりつづけ、午後四時、カバやゾウの出没する低い密林に野営した。ここへも、対岸の絶壁の上の村から蛮人たちがカヌーでおし寄せた。しかし、二人の若い食人種の通訳が、奇異な雄弁をふるって、やっとなだめた。だが、丸焼きを食う大宴会をやるのだから、あすの朝早くかならず首を斬る、と蛮人たちは告げて引きあげた。それを待つ気になれないので、われわれは夜明けに出発して、右岸伝いにくだり、大河へ流れこんでいるロゥワ川の河口に着いた。河口の幅千ヤード。激しい雨に襲われて、その北岸の原始林のかげに野営した。
そそり立つ巨大な樹木から判断すると、この辺にはまだ人間が住んだことがないようだ。下ばえには、いろいろな種類のシダ、ヤシの若木、トウガラシ、野ブドウ、籐などがぎっしり茂り、キャムウッドやワタの木、チーク、ゴムの木々にからみついている。木々の≪また≫にはランやシダがはえ、枝々からは、優美なコケ類が下がっている。冷湿な木かげには多足類が、つやつやしいチョコレート色や暗黒色の長いからだをくねらせ、褐色や黒色や黄色のアリ、シロアリの群れが貪欲《どんよく》に食い荒らしたり、あさりまわったりしている。なめらかな地虫、ぶきみなカマキリ、あざやかな赤い背に黒点のついたテントウムシもいる。だが、こんな陰湿な原始林へ、風土に馴化されない者が深入りすると、厳罰としてマラリア熱を背おいこまされるに決まっている。
「森林の静けさ」などと、よく聞かされるが、熱帯の森林は静かではない。昆虫の大群のざわめきが絶えず聞こえる。コオロギの鳴き声、ウシガエルのほえたてる声。木の葉や木の実の落ちる音。風に揺れる木々のきしる音。十時ごろ、ロゥワ川の合流点の対岸から、原住民たちがキャンプをのぞきにきた。
われわれはじっと静かにかまえていたが、食人種の通訳カテンボが、やんわりなじるような声で、和平や友愛や善意を説いているのが聞こえた。
「センネンネ(仲よくしよう)」という言葉を、幾度もカテンボはくり返していた。やっと和平が成りたった。原住民たちは長さ十三インチ、直径三インチの大きな料理用バナナをわれわれに売った。
ここは南緯一度二十八分、あのルアマ川の合流点からは百九十九|海里《カイリ》、タンガニカ湖の北端を横ぎる緯度線からは五十五マイル北方になっている。
午後二時に、原始林をあとにしたわれわれは、左岸へ向かった。が、雨がやんでから吹き始めていた強風が、北からの嵐になり、われわれが中流に出たころには、巨大な波をまき起こしていた。そのために二隻のカヌーが浸水沈没し、二人溺死、マスケット銃四梃と玉一袋がなくなった。探検隊のショックは大きかったが、運命で定められていたのだから、二人の死は救いようがなかったのだと彼らはいった。われわれの計画を放棄すべきだときり出す者は一人もなかった。しかし、この突然の不運に、みんながおびえたのは明らかだった。
十二月三十一日、一八七六年の最後の日の朝は、空が青く晴れ、高い森林はくろぐろと静まり、大河はさざ波もなく流れ、磨いた銀のようで、万象が麗しかった。だが、しばらく漕ぎくだっていると、両岸に太鼓《たいこ》がひびき始めた。中流をゆくわれわれに、両岸から原住民たちのカヌー群がせまってきた。われわれは彼らに叫んだ。
「仲よくしよう、友だち衆。われわれには悪意はない。だが、槍をふり上げてくるなら、戦うぞ」
一瞬ためらった原住民たちは、槍で楯をたたき、すさまじい文句を放っていたが、やがてカヌー群は引き返していった。われわれが無人島のそばを通りすぎると、西から流れこむ小さな川で十余人の漁師が、スゲのあいだから網を引き上げていた。正午に、砂の多い一つの無人島に着いて、測ってみると、南緯一度二十分三秒、大河は海抜千七百二十九フィート。それから五マイルほどくだり、右岸の森に野営した。
一八七七年の初日《はつひ》が出てから三時間ばかり、無人の地帯を心楽しく流れくだった。大自然はふかぶかと眠り、森林は美しく、夢見るように静まり、あわく、かなしい物思いにも誘うのであった。
しかし、九時をすぎてまもなく、島々や岸に戦鼓がひびき、われわれの鼓動をはやまらせた。探検隊は密集隊形をとって進んだ。前方に十隻ばかりのカヌーが現われ、蛮人たちが戦いの歌を歌い、槍や楯を高くふり上げては、音をたててふりおろした。近づくと、われわれは「センネンネ」と叫んだ。このわれわれの標語に、原住民たちは答えようとしなかった。
カテンボはやんわりした声で、静かに身ぶり手ぶりで、雄弁をふるった。これまでわれわれは原住民たちから「ワサンビエ」と呼ばれていたが、ここでは「ワジワ(太陽の民?)」と呼ばれた。
「今日はワジワの肉が食えるぞ。おほっ、ワジワの肉が食えるぞ!」
老酋長が命令をくだすと、百本の櫂《かい》が水に泡をたて、カヌー群は突進してきた。が、つかのまに戦いは終わり、探検隊は漕ぎ進んだ。
島々をすぎると、大河の幅は三千ヤードにひろがった。正午に、われわれは南緯一度十分に達し、無人の地帯を流れくだって休息しながら、大きな島の南端に野営した。
一月二日は戦闘の連続だった。両岸から襲ってくる原住民たちを撃ち払いながら、われわれは南緯〇度五十二分のキボンボ島に着き、押し寄せたアム・ニヤムの蛮人たちを撃退し、川をくだって、午後四時、右岸に野営した。夜になって、探検隊が三人の蛮人たちを捕えてきた。あくる朝、この蛮人たちは川下に強大な部族がひかえているし、その近くに瀑布《ばくふ》があるから、いくつ命があってもたるまいといった。われわれは蛮人たちを釈放し、大河をくだった。
しばらくして数隻の大型カヌーが島かげから出てくるのを見て、カテンボが「センネンネ!」と叫ぶと、多数の原住民たちが「センネンネ! センネンネ! センネンネ!」と大声で答えたので、われわれは喜んだ。先へ進んでゆく彼らに、微笑しながら「センネンネ」をくり返しているうちに、たしかにこの平和を願う言葉には霊験があることが、われわれにもわかってきた。原住民たちが答えているのを聞いていると、ほんとうの発音の仕方は、ふるえるような哀調をおびた声で、一音ずつ長くひきのばしていうものらしかった。
われわれは豊かな緑のバナナの森へきた。この森をすぎると、幾百人もの男女が岸に立ったりすわったりして、われわれのカヌー群に目を向けていた。「センネンネ!」とボートの乗組みの一人が呼びかけたりすると、男女の大群がいっせいに「センネンネ!」と答えつづけ、大河の両岸が哀調をおびた声にこだました。
私は投錨《とうびょう》を命じ、われわれの先へ進んでいた大型カヌーの原住民たちに、近寄ってくるように告げた。が、彼らは異国人との交渉の皮切りはやりたくないらしかった。われわれは岸から百フィートも離れていなかったので、岸の大衆に呼びかけた。彼らはわっと笑声をあげた。長いあいだの体験で、もう原住民たちの微妙な感情の差異にも気づくようになっていたわれわれには、その笑声に愚弄《ぐろう》や軽蔑がふくまれていないのがわかった。探検隊の者たちは両手をさしだし、首をかしげ、仲よくしてほしいと頼んだ。遠く故郷を離れ、道を見つけようとして川をくだっているのだと告げた。
その効果ははっきりと現われた。大衆全体に、優しい気分が波動した。いとしむ表情が動き、同情の言葉が交わされた。
「ああ」私は思った。「リヴィングストンがこの場の情景を見たら、どんなに喜んだことだろう。きっと彼は、真の土着民の純真さをいよいよ強く確信していたにちがいない」
私はうれしさを禁じえなかったが、待ちうけた。 青、赤、白、黄、黒、色さまざまの玉の首飾りを差し出して見せると、幾多の口から賛嘆のため息がもれた。
「さあ、話しあおう。一隻のカヌーでくるがいい。近づいてくる人たちには、これをあげよう」
まもなく、ひょうたんやニワトリ、バナナ、野菜などを小型のカヌーに積んだ二人の女たちが、こちらへ漕ぎ出してきた。みごとな玉の首飾りを、ながいあいだ差し出しつづけていた私の腕は疲れ始めていたが、気が変わるのを怖れて、私は引っこめなかった。カヌーが横づけになると、私はカテンボに通訳させて、こんな二人の美人が白人の隊長に会いにきてくれたことを、ほんとうにうれしく思うといわせた。そして二人の美人にそれぞれ首飾りを与えた。彼女たちは手をたたいて喜び、岸の大衆に首飾りを見せると、大衆も手をたたいた。
それから女たちは、シュロ酒を詰めたひょうたんや、ニワトリ、バナナ、ジャガイモ、カサバなどを差し出した。探検隊がさかんに拍手すると、岸の大衆は笑声に波打った。まもなく大型カヌーが近づいて、ボートに横づけになった。川上の連中はひどく悪いのに、ここではどうして仲よくしてくれるのか、とたずねると、酋長が答えた。
「昨日こちらの漁師連が川をさかのぼって、キボンボ島の近くへゆき、アム・ニヤムの連中に、おまえたちが仲よくしようといっているのを聞いてきたからじゃ。あの連中は根性曲がりで、人を食う。わしらはそんなことはせんのじゃ」
われわれはこの地方の地理や部族や瀑布について、原住民たちからいろいろ聞いた。そして静かに川をくだった。われわれが通りすぎるどの村でも、岸にすわっている男女の群れが、われわれの平和のあいさつに、なごやかに答えた。左手の島々の下流へ出ると、獰猛《どうもう》な蛮族の分野になっていた。北微西へ流れていた大河がだんだん北微東へ曲がり、右岸が高くそびえている。
午後二時ごろ、はやくも瀑布を警戒して聞き耳をたてながら静かに右岸から三十ヤードほどのところを進んでいると、潅木《かんぼく》の茂みから八人の男が現われ、戦いの叫び声をあげ槍を投げた。そのうちの幾本かがボートに当たったので、すぐさま探検隊は中流へ出たが、それがムワナ・ウンタバの蛮族の目に探検隊をさらけ出す結果になり、たちまち大太鼓《おおだいこ》がひびき、多数のカヌーが戦闘に乗り出してきた。
蛮人たちは出陣化粧をほどこし、半身を白く、半身を赤く塗り、太い黒線を入れていて、全体的に異様で悪魔じみていた。超大型の長いカヌーは、ワニみたいだった。蛮人たちは笛と太鼓ではやしたて、いっせいに大声でわめいて景気をつけていた。
探検隊は戦闘隊形をとり、すべての楯を非戦闘員の防壁にして、襲撃を待ちうけた。長さ八十五フィート三インチのいちばん大きなカヌー群のうちの一隻が、ボートを目がけて突っ走ってきた。五十フィートの距離内へはいりこんでから、一斉射撃を見舞まった探検隊は、ボートで突撃した。カヌーの原住民たちは、すばやく方向転換ができず、カヌーから水中へとびこんで、友軍のほうへ泳いだ。そのあいだにわれわれはこの超大型カヌーを拿捕《だほ》し、探検隊の三十人をこれに乗りこませ、ボートを先頭に、また進行し始めた。出鼻をくじかれた蛮族は、あわをくって川をくだり、笛と太鼓をけたたましく両岸にひびかせた。やがて四十隻ばかりのカヌーが、すさまじい勢いで馳せくだってゆくのが見えた。
四時に、われわれは幅二百ヤードばかりの川の河口に着いた。私はベルギー国王レオポルド二世陛下に敬意を表して、これをレオポルド川と呼ぶことにする。この合流点を通過してまもなく、大河は幅二千五百ヤードの上流より相当狭くなり、急に東北東に曲がっている。左岸に川面から三百フィートそびえる一つの丘があるためである。急屈曲している右岸の真近に、いくつかの白い花崗岩《かこうがん》が一フィートから六フィート水面上に突き出ている。そこを通過したわれわれは、すぐその下流に、連続するスタンレー瀑布の第一瀑布がとどろく音を聞いた。
だが、瀑布の音よりも高く、両岸から蛮族のわめき声がつんざいた。われわれは征服か死か、どちらかを選ばねばならなかった。引き返して獰猛《どうもう》な食人種に直面するか? 戦慄《せんりつ》の瀑布へ突入してゆくか?
苦慮しているあいだにも、われわれはなめらかに破滅の方向へすべり流れていた。だから、ただちに決断をくださなくてはならなかった。だが、どちらにしても、おそらく死にたどりつくであろう。残虐な短刀で喉《のど》を斬られるか、溺れて死ぬかである。
絶体絶命となったわれわれは、右岸の森林と水上に進出した蛮族のほうへ向かい、投錨して戦い始めた。だが、十五分間後、彼らが撃退できないのを知り、われわれは錨をあげ、またもや急屈曲している個所まで流れをさかのぼり、マンワ・セラに三隻のカヌー群を率いてすこし川上へ漕ぎのぼらせた。そしてわれわれが正面の蛮族の気をひきつけているあいだに、マンワ・セラに森林をぬけて迂回《うかい》させ、敵を背後からつかせる作戦をとった。
午後五時三十分から、われわれは陽動作戦をつづけ、森林から一発の銃声がひびくと、岸へ突進し、雨のように飛来する槍や矢をくぐって上陸した。樹木から樹木へ、じり押しの戦闘が日没までつづき、ついに敵勢を追い払い、やっとわれわれは一夜の平和を確保した。
十時ごろまでけんめいになって、潅木の防壁をつくりあげたわれわれは、火もたかず、わびしく、疲れきった肉体を横たえた。
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十一 瀑布を越えて
一月五日午前四時、われわれは食事の支度をととのえ、英気を養った。暗い森では、キツネザルやゴリラの叫び声が、ぶきみにひびく時刻だった。
八時になって、蛮族のカヌー群が左岸へ渡り、その合図に呼応して、われわれの背後の森林に蛮族が群れ集まってきた。フランクは四十三梃の銃に三十発ずつ弾丸を配布した。私の銃をあわせても、探検隊には四十八梃しか銃がなかった。敵がわは第一瀑布の下流のバスワ族と同盟して押し寄せていた。われわれは十時にキャンプから打って出て突撃し、午後三時まで戦闘をつづけた。十人が負傷し、二人が殺された。やがて敵勢は退いた。そして二、三日、鳴りをひそめていた。
六日の早朝、私はスタンレー瀑布の第一瀑布を調査にかかった。ボートで出かけてみると、幅二百ヤードばかりの水路が、火成岩の岩脈で本流から分離されていた。この水路を二マイルほどボートでくだると、また岩脈が現われていて、いくつかの岩脈は低く狭く、他のものはずっと大きく、木々のはえた島になり、バスワ族が住んでいる。これらの小島のあいだを、左がわの水路は小滝になったり、泡だったりしながら、低い段丘の河床の上を流れ、一フィートから十フィート落下している。
幅九百ヤードの本流は、東北東へ流れ、一マイルの急流になってから、南北に横たわる丘陵にぶつかっている。地上二十フィートの木のまたから、双眼鏡で見ると、右がわの本流をくだるのは不可能とわかった。水量が膨大であり、傾斜が急なので、川面全体が泡だっている。そして河流がぶつかっている丘陵の下部では、河水が絶壁のように高くはねあがり、それが険しい傾斜面を流れる水へ逆まいて落ちくだけ、ものすごく渦巻く奔流となっている。
それで私は、八人を連れて左岸を踏査し、密林をかき分けて、瀑布の下流に達するまでの二マイルの小道を見きわめた。そしてキャンプへもどると、小道の邪魔な草木を切り払うために、斧をもった五十人と、二十人の護衛をつけて、フランクに小道へ行かせた。七日の正午までに、左がわの水路の瀑布の上手まで注意ぶかくカヌー群に漕ぎくだらせた。密林のなかに幅十五フィートの道がきりひらかれ、この道の中ほどの河岸に、ざっとしたキャンプがつくられていたので、そこへすべての荷物が移された。午後八時までに、われわれは道へ引き上げたカヌー群を、一マイル引っぱっていった。あくる日、またわれわれはカヌー群を引っぱって進んだ。そして八日の午後三時には、第一瀑布を越え、バスワ島と左岸とのあいだの静かな細い流れに浮かんでいた!
用心ぶかく細い流れをくだったわれわれは、まもなく大河へ出た。静かに川面がのびひろがり、前途は平穏のようにみえた。だが、すぐにまた瀑布のとどろく音が聞こえた。陰気な小島の連らなるかげを進み、また大河へ出ると、夕方だったので、中流のチェアンドア島にキャンプした。左岸では、絶えず太鼓《たいこ》や戦笛が鳴りひびき、この島のバスワ族も呼応していた。だが、第二瀑布のとどろく音は、第一瀑布よりも激しくひびき、われわれの潰滅《かいめつ》を待ちうけているように思えたので、瀑布より五十フィート上手の左岸へ、われわれは移った。
あくる日、またチェアンドア島へいき、歩きまわった私は、いろいろと方法を考えた。
チェアンドア島の東のほうで大河はまた一つの島のために二つに分岐し、怒涛《どとう》が荒れ狂い、身の毛もよだつばかりの音をとどろかせていた。また西がわの流れは、すごい勢いで段丘を落下し、巨大な渦になって旋回していて、渦の中心のくぼみは、その外がわのふちよりも十八インチも低くなっていた。一隻の腐ったカヌーを流してみると、それは矢のように瀑布を落下し、すさまじい渦にまきこまれ、つぎの瞬間、くぼみへすいこまれて、まもなく三十ヤード下流へ逆立ちして突き出された。
もはや、ただ一つしか方法はなかった。左岸のバクム族と対決し、密林のなかをカヌー群を引っぱってゆくことだった。それで十日の夜明けに、われわれは一マイルほど川をさかのぼり、河岸の蛮族を急襲した。それから川をくだり、瀑布のすぐ上の曲がりめへカヌー群を寄せ集め、フランクに強固なキャンプをつくらせ、そのあいだに私は三十六人を連れ、潅木の茂みをくぐりぬけて、蛮族を襲い、村から駆逐《くちく》した。そして探検隊を昼組と夜組の二手に分け、昼夜交代で三マイルの細道を密林のなかに切り開かせていった。夜明け前には、みんな起き、けんめいにカヌー群を引っぱり、九時には半マイル先の仮キャンプへ、カヌー群も荷物も運んだ。蛮族が押し寄せてきたが、探検隊は彼らを追跡し、二マイル奥の他の村へ逃げこんだのを、さらにその村からも追っ払った。
このようにして、十二日の午前十時には、われわれはまた四分の三マイル先の仮キャンプへ前進した。この日も蛮族とのあいだに小ぜりあいがあったが、まもなく追っ払った。そして十三日の午後五時には、一マイル四分の一先へ前進した。この夜は、カチェチェと見張りの数人だけ残して、みんな眠った。朝になると、さわやかな気分で仕事をやってのけたわれわれは、総計七十八時間の苦闘の結果、とうとう大河にカヌー群を浮かべることができた。
だが、ウントゥンドゥル島の北端まで進んでくると、川面がものすごくわきかえり、山のような巨涛《きょとう》が盛りあがっては、激しくどよめいてくだけながら、凄絶《せいぜつ》な激流となっていた。ここを回避するために、われわれはまた三マイル近い道を切り開いて、カヌー群を運ばねばならなかった。
一月十六日と十七日はこの仕事に汗を流し、やっと出発しかけると、向こうがわのアサマ島の原住民たちが襲いかかってきた。私はマンワ・セラにカヌー群の半数を率いて島の上手へ上陸させ、自分自身は突進して島の下手へ上陸し、混乱に乗じて、マンワ・セラのほうへ二十人を急派した。またたくまに、彼らは二つの村を占領し、すべての非戦闘員ばかりでなく、多数のヤギやヒツジを捕え、原住民の戦士たちが戦っている岸へ連れてきた。それで戦士たちも戦意を失い、カテンボが和平工作に努め、私が宝貝を分配してやると、どうやら原住民たちは静まった。やがて酋長と五人の男がきて、宝貝や布地の贈り物を受け取り、彼らの腕につけた小さな刻み目に探検隊のワンワナ人の血を注ぎこませ、奇妙な形式をふんで休戦条約を成立させた。
村の道は人間の頭蓋骨で飾られていたし、大腿骨《だいたいこつ》や肋骨《ろっこつ》や脊椎骨《せきついこつ》が、ごみために積み重なっていて、彼らの嗜好《しこう》を物語っていた。彼らもキツネザルやカワウソ、ヤギ、赤いヤギュウ、カモシカの毛皮の帽子をかぶり、尻尾を後ろへぶら下げている。ヤシ、バナナ、カサバ、トウガラシ、トウモロコシ、サトウキビが、みごとに育っている。家は大きく、まわりに漁用の網や篭がたくさん置かれていて、鉄や木の槍の束も置かれているのは、島民が勤勉でもあるが、戦いもすきなことを示している。島民はまた、われわれのカヌー群がずっしり水へ沈むほど、多量のバナナを提供して、食人種にも人間性があることを示した。
十九日、探検隊は、また水上の旅路をたどり始めた。大河は、北北東へ流れつづけていた。第五瀑布の下流では、大河は海抜千六百三十フィート。ここは南緯〇度二十三分だが、すくなくとも、私が大河は西へ曲がっているだろうと予期していたあたりなのに、北北東へ向かいつづけているのである。水深は三十三フィートから四十七フィート。左岸は美しい絶壁になり、雄大な森が景観を高めている。
夜、われわれは右岸の原住民たちが市場に使う広場らしい場所に野営した。朝の市に住民たちが出かけてくる時分には、われわれは出発してしまっているつもりだった。ところが、朝、探検隊の一人がきて、われわれは網に入れられていると告げた。キャンプの周囲に細縄の網が、ぐるりと高く張りめぐらされているというのだった。
「網が張られているのなら、その後ろに獲物を槍で突く人間たちが待ちかまえているにちがいない」と私はマンワ・セラに、三十人を連れて、半マイルばかり川を槽ぎのぼらせ、森のなかに入りこんで待ち伏せさせた。一時間たって、探検隊の四人が楯をもち、角笛を合図に、網を切り始めた。とたんに、潅木の茂みから四、五本の槍が飛んできた。探検隊は銃を発射し、突撃した。マンワ・セラの一隊が八人の原住民を捕えてきた。どの男の上歯も、やすりをかけてとがらせてあって、額に二本の曲線の入れ墨をし、こめかみにも入れ墨をしていた。
カテンボが訊問すると、原住民たちは人間にありつくつもりだったと白状におよんだ。彼らの村では、森で捕えた他国者だけでなく、年老いた男女も食うと告げた。彼らは探検隊の三頭のロバをひどくこわがるようだった。
九時に、探検隊は彼らをカヌーに乗せて出発した。つぎの瀑布へ案内させるためだった。左岸ぞいに一時間くだると、両岸の丘陵が接近していた。二マイル下流に山々に囲まれた水路があって、水流は五ノットで、いくつかの渦があるだけだった。ここをすぎると、大河はまっすぐ北へ向かっていた。
二マイル下流へゆくと河幅は二千ヤードとなり、また瀑布の音が聞こえ始めた。われわれは右岸ぞいに第六瀑布に近づき、ウレッガ人がたくさん住む島から四百ヤードの地点に野営し、八人の原住民たちを放免してやった。彼らが川上へ駆け去ってながくもたたぬうちに、戦いの叫びや笛や太鼓《たいこ》がとどろき、原住民の軍勢が攻め寄せた。われわれは奮戦して一時間で撃退した。島民も襲来したが、すぐに追い払った。彼らは五十ヤードばかりの水路へとびこみ、島へ泳いで帰った。午後じゅう、探検隊の先駆隊は右岸に道を切り開きつづけ、夕暮れにカヌー群もボートも川からキャンプへ引き上げ、陸上を運ぶ用意をととのえた。
二十日の朝、われわれはカヌー群やボートを引っぱり、第六瀑布を越えていった。左岸の高い絶壁の下部から、緑がかった頁岩《けつがん》の広い岩脈が突き出ているために、これは怖ろしい瀑布になっているのである。瀑布の下流二マイルのあたりで、いささか荒波にぶつかったが、無事に乗り越えた。
一月二十三日、われわれは赤道より四マイル北へ到着していた。両岸に丘陵がそびえ立ち、たがいに七百ヤードの距離に接近し、またもや瀑布のありそうな気配が濃厚になった。赤道から北へ十マイル進み、狭い水路の下流の左岸の村にキャンプした。この村の住民は、老人ひとりだけ残して、みんな退去してしまっていたが、それは下流のずっと強大な部族との戦いのためらしかった。二十四日は、ここでボートやカヌーを修理し、あくる日また旅をつづけた。
大河は第六瀑布から水路までは北北西へ向かっていたが、いまは北北西よりかすかに西へ曲がり、幅は二千ヤードとなった。三つの小島を通過してからまもなく、スタンレー瀑布の最後の第七瀑布が激しくとどろく音が、われわれの耳を打った。そしてまた戦鼓が鳴りひびいて、ウェニヤ族の原住民たちが集まり始めた。われわれは用心ぶかく瀑布の上手に接近し、右岸の密林の一角に上陸して、三日月形にライフル銃隊を配置し、急いで潅木の高い防壁をつくった。原住民たちは襲来し、幾度もマスケット銃隊の線を突破しようとしたが、くいとめられて、日没に攻撃を中止した。
あくる朝五時に、私は三十五人を連れて、密林をくぐりぬけ、川下へいった。そして瀑布の近くを占拠し、ウレディに合図して、ボートやカヌー群をくだらせるようにした。ここの川幅全体は千三百ヤードばかりで、右端に幅四十ヤードの浅い水路がある。これは川面に岩脈が二十フィート突き出ているためにできている。そして七百六十ヤードはウェニヤ族の住む島で、五百ヤードが大河の流れになっている。水路を越えたわれわれが、島へあがってみると、村々の住民は逃亡しているようだった。岩の多い島の絶壁と険しい対岸とのあいだの五百ヤードへ、河流が瀑布になって流れ落ちているのだから、とどろく音はものすごいばかりだった。川幅が狭くなるとともに、急流となった大河は、十フィートばかり落下し、わきかえりながら、六フィートの高波をはね上げ、その狂いたつ荒波が、すさまじくぶつかりあっている。これほど凄絶な瀑布は、私もまだ見たことがない。
この瀑布の位置は北緯〇度十五分。海抜千五百十一フィート。第六瀑布と第七瀑布とのあいだの河床は、一マイルごとに十七フィートずつ低くなっている。こちらの岩の多い島と対岸とは、かつては尾根で連らなっていたものらしいが、その尾根を大河が乗り越え、現在の瀑布を形成しているのである。瀑布の下に高い棒が一列に突き立てられていて、それが水の深さばかりでなく、ウェニヤ族の勤勉さをも示している。
瀑布の中流の三百ヤードほどは近づけないが、両がわの百ヤードには突き出ている岩石を利用して、原住民たちは直径六インチの太い棒をずらりと打ちこみ、巨大な梁簀《やなす》を籐網で結びつけている。両がわに六、七十の梁簀が仕掛けてあって、かなりうまく魚がとれるようになっている。ボートの乗組みが六つほどの梁簀を引き上げてみると、大きな魚が二十八匹はいっていた。そのうちの一匹は川カマスで、体長四十インチ、胴まわり二十四インチ、重さ十七ポンドあった。
われわれは浅い水路の右岸にキャンプし、原住民たちが水中へ打ちこむために切っていたたくさんの長い棒を、岸の岩石の上に並べ、その上を引っぱって、ボートやカヌー群を水路の下流へおろした。
あくる日の午後、原住民たちが前後から襲撃してきたが、日暮れごろに退いた。そして一月二十八日の午前十時、ついにわれわれはスタンレー瀑布を完全に越えて、幾日も幾夜も悩まされつづけた瀑布の音から急いで遠ざかっていった。
大河は西北西へ曲がりながら、雄大に流れ、灰褐色の河水は神秘感をそそった。われわれは怖ろしい体験によって、すこしもうちひしがれてはいなかった。生きていて、未開の大自然をながめることに喜びを覚え、ふしぎな反発力が生じるのを感じていた。ボートの乗組みは活気みなぎる歌を歌い、探検隊の全員は唱和した。男も、女も、子どもたちも、向こう見ずの陽気さをふるい起こしていた。
ボートの乗組みが声をからしてしまうと、フランクが悲しげな歌を歌った。もっと景気のいい歌をやりたまえ、と私がいうと、にこやかな顔になって、彼は歌ったのだった。
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輝かしくわれらの旗ははためく、
天空をさして。
さまよえる者たちを励ましつ、
天上の住み家へ。
砂漠を旅しつつ、
うれしくわれらは祈る。
心をあわせて、
天空のかたへわれらはゆく。
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彼が真剣な、宗教的な気分になっているのを見てとり、私は口を出すのをやめた。ボートの乗組みが、また野蛮ながらも陽気な歌を合唱し始め、両岸の森林は威勢のよい船歌にこだました。
ムビルラ川が流れこんでいる河口から、一マイル下流で大河は二千ヤードの幅になり、まもなく島で二分されていた。われわれは右の流れをくだった。これは北西よりすこし北へ向かい、また西北西へ曲がっていた。またもや愚かしい蛮族が襲来したので、撃ち退けなくてはならなかった。
このコルル島の原住民たちのカヌーは、スタンレー瀑布の上流のものとは異なっていて、ゆったりした平底形で、香りの高いゴムの木をくり抜いて造られていた。村の本通りらしい道の中ほどに、粘土で固めた台の上に、九本の象牙で支えられた円錐形の屋根があって、その下にあごひげをはやした男の木像があった。たいへん大事にされているものらしかった。
二十九日の正午、大河をくだって大きな村へ近づいていたわれわれは、また襲撃を受け、追い払った。北緯〇度二十二分二十九秒に達していた。午後一時から、さらに別の蛮族にくいさがられて、われわれは上陸して戦った。このイツゥカの蛮族は半身を白く、半身を黄土色に塗っていた。楯は長方形で、美しく籐でつくられ、軽くて丈夫で、槍も短刀も貫通しないものだった。彼らは「ヤーマリワ! ヤーマリワ!」と戦いの叫び声をあげ、探検隊のバリケードへ野牛の群れのように突進してきて、幅の広い穂先の槍を投げつけた。その槍で探検隊の一人は腹を八インチ裂かれて死んだ。いまではわれわれは、扉のような楯を六十五枚入手していたので、非戦闘員の女や子どもたちが、これらの楯を銃隊や漕ぎ手たちの前に立て、槍や矢から防護するようにしていた。
三十日朝、イツゥカの下流へかかると、大河は北西よりすこし西へ曲がり、連らなりつづく高い尾根のそばをすぎると、砂岩の絶壁になり、それが美しいシダや、ライラックに似た花の咲いた潅木におおわれていて、楽しい芳香を放った。
またもや十時に原住民たちとの戦いが始まり、われわれは一隻のカヌーと八人の男をつかまえ、ヤンガンビの向かいの小島へ退いた。そして、原住民たちの気力をそぐのには、捕虜にするのがいちばんききめがあるし、これがまた血を見ずに難局を打開できる方法であることを、われわれは知った。捕虜を通じて交渉するには、時間がかかり、肺が疲れるほど口をきかねばならなかったが、結局、多くの面がうまく解決でき、戦いつづけるよりも好ましい行き方だった。
ヤンガンビの原住民たちは、彼らの仲間をわれわれが捕えて、小島に野営しようとしているのを見ると、村へ引きあげて相談し始めた。五百ヤードかなたの右岸を双眼鏡で見ると、幾百人もの原住民たちが大きな円陣を描いてすわりこみ、評定していた。幾人もの原住民は岸を歩きまわりながら、穂先の長さ六フィート、幅六インチのきらめく槍を、われわれに見せつけていた! 探検隊の連中がたまげて声をあげた。
「ひぇー、あいつらはあんな槍で人間を裂こうてえのか!」
「そうじゃねえや、あれはお宮からかついできた飾り物さ」
「なあに、ありゃ子ども連中を突き刺す焼きぐしだあな」とバラカがひょうきんにかたづけた。
原住民たちが何かわけのわからぬことをわれわれにわめき出したとき、われわれは捕虜八人に宝貝をすこしずつ与え、彼らにカヌーに乗らせて引きあげさせた。彼らが向こう岸に着くと、戦士たちはどっとまわりに寄り集まり、しきりに問答をくり返してから、ぶつぶつうなずいたり、驚いたりした。
しだいに太鼓《たいこ》の音がやみ、戦いの叫び声は聞こえなくなり、げんじゅうみんたちは散ってゆき、巨大な槍もきらめかなくなった。われわれは一時間ほど待ち、もう大丈夫とみて、しずかに出発し、抵抗も受けずに大河を流れくだっていった。
今日はもう襲撃にぶつかりたくないと思い、われわれは無人の森林の向かいの島に野営した。が、幾人かの漁師が見つけ、下流の村に知らせたので、またもや両岸に太鼓が激しく鳴り始め、小やみもなく朝まで鳴りつづけた。大河は四千ヤードの広さになり、島々の数も多くなって、高い巨木が繁茂していた。
くる日もくる日も戦わねばならないのには、われわれもうんざりしていた。ながいあいだ絶えず敵意にさらされたわれわれは、意地わるく苦しめられているような、にがにがしい気持になっていた。それで両岸を避け、島々のあいだをぬけてゆくことにした。
だが、ディヴァリ島の下流に、十四隻のカヌー群が待ち伏せていた。われわれは弾丸を見まって、右岸ぞいにくだった。ヤヴゥンガでまた、二、三度やりあわねばならなかったが、さいわいに三十一日はそれで終幕になった。
二月一日、右岸伝いに進んでいると、河岸に鈍角のみぞがたくさん掘られ、梁簀《やなす》が仕掛けられているのが目についた。スタンレー瀑布より下流の原住民たちは、魚をたいへん愛好しているようである。正午に、われわれは北緯〇度五十分十七秒に達した。
二時ごろ、アルウィミ川の合流点の下流で、五十四隻の巨大なカヌー艦隊が襲来した。私は探検隊のカヌー群に十ヤードずつ離れて投錨させ、戦争態勢をととのえた。超大型のカヌーを先頭に、大太鼓《おおだいこ》を打ち鳴らし、幾百の象牙の笛を吹きたて、二千人の原住民の兵士が戦いの歌を歌いながら、攻め寄せた。私は探検隊をかえりみていった。
「鉄のように沈着にいけ。槍が投げられるまで待て。一挙に撃つな。よくねらえ。逃げようと考えるな。銃だけが諸君を救うのだ」
先頭のカヌーは私のボートを目がけて突進してきたが、五十ヤード圏内にはいると、横に転じ、へさきに立った戦士たちが槍を投げ始めた。銃声がとどろいた。それから五分間は、ひたむきに撃つばかりだった。が、二百ヤードほど上手で、敵勢が戦闘力を再編成しているのに気づくと、われわれはかっとして、はじめて残虐な食人鬼どもに憎悪を感じた。
敵勢を追跡したわれわれは、右岸ぞいにさかのぼり、村へ突入して戦い、敵を森林へ追いこんだ。
私が引きあげようとしていると、探検隊の一人がきて、村に酒もあるし、それに象牙の祠《ほこら》があると告げた。三十三本の象牙で円屋根をささえ、そのなかに高さ四フィートの偶像があるのだった。あざやかな朱色で塗られ、両眼とあごひげと頭髪は黒くしてあって、ひどく粗野なものではあったが、人間の像にはちがいなかった。その象牙はワンワナ人がほしがり、許可されて、カヌーへ運んだ。
原住民たちの象牙の調度品や装身具、衣装や武器、鉄製の道具類を見ても、彼らは知的で、工芸的にも川上の原住民たちより進歩していることがわかった。大小さまざまの木像、巧妙な意匠の腰掛け、きわめて優秀な陶器、異様な形のキセルなど、すべてが著しい知性と繁栄を示していた。
午後五時に、われわれは出発した。川幅はひじょうに広くなり、島が多くなった。われわれは島に野営し、島々のあいだをぬけていったが、原住民たちに見つかると襲いかかられた。私は備忘録《びぼうろく》に書いた。
二月三日、大河は北西へ流れている。正午、北緯一度二十九分一秒。
二月四日、たくさんの村々を見たが、急速に漕ぎぬけ、正午、北緯一度四十五分四十秒に達した。大河の方向は北北西。
二月六日、はじめて大河は西へ曲がった。正午、北緯一度五十一分五十九秒。両岸は低く森林におおわれている。ヤシが茂り、ライラックに似た花の咲く島々の岸に、日なたぼっこしながらワニたちが昼寝をしていて、大きな音をたてて水へとびこむのがおもしろい。
二月七日、大|嵐《あらし》。川面に荒波が逆まき、森かげに風がほえ、おまけに食糧がなくなり、空腹のためにひときわ暗い気持になる。三頭のロバたちはいるが、こんなに遠くいっしょに旅してきて、仲間同様になったロバたちを殺して食うぐらいなら、死んだほうがましだとみんなはいう。
二月八日、ありがたいかな! 苦悩の一日は、安らかに終わった。いま、われわれは北緯一度四十分四十四秒、東経二十一度四分の小島に野営している。五百ヤード離れた左岸には、ルバンガの村があり、千七百ヤード離れた右岸には、グンジの大きな町がある。
今日は西南西へ流れる大河をくだり、全員に戦う用意を命じながらも私は、食糧のためにしても、敵意をまき起こすのは怖ろしいことだと告げた。みんなはうめいた。私はルバンガの村が見え出すと、四分の一マイル後方からカヌー群についてこさせるようにフランクに指令し、ボートで村へ近づいた。
まもなく三隻のカヌーが静かに漕ぎ出てきた。太鼓《たいこ》も笛も鳴らされなかった。われわれは「センネンネ!」と優しく叫んだ。原住民たちは逃げ去った。われわれはしんぼうづよく、村へ三十ヤードまで近づいた。そして残っていた一本のバナナを片手に、きらめく銅の腕輪と多彩な玉の首飾りを片手に持った私は、腕輪と首飾りを岸に集まった幾百人かの原住民たちに見せ、バナナを自分のあけた口へもっていきながら、無言劇を演じた。
やがて老酋長が高い岸から船着場へおり、長老たちもおりて、みんなすわりこんだ。老酋長はうなずいた。われわれはボートを漕ぎ寄せた。私はとび上がって老酋長の手を強く握った。ボート長のウレディも、老酋長に抱きついた。乗組みの若い連中も長老たちの手を握り、にこやかにふるまった。たちまち義兄弟の血盟が行なわれ、和平と友好の協約が成立した!
われわれは原住民たちに贈り物を配布し、お返しに多量のバナナと魚を受け取った。老酋長の前を去る前に、私はスワヒリ語やウスクマ語などをとりまぜながら、この大河はなんというのかとたずねた。しばらくして理解した彼は「河《イバリ》」と答え、コンゴへ流れてゆくのだと告げた。私もスタンレー瀑布をあとにして以来、この怖ろしい大河は結局、コンゴ川になることを確信していたが、そう告げられたのは、うれしかった。
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十二 河上の明暗
二月九日、われわれのために小島で大市場が開かれるので、朝の九時ごろから両岸の原住民たちが軽快な、両端のとがったカヌーで売る物を運んできた。生魚や乾魚、食用カタツムリ、カキ、ムラサキ貝、イヌの乾肉、生きているイヌやヤギ、バナナ、カラムシ布の衣服、カサバ、槍、小刀、斧、ベル、鉄の腕輪など。小刀はアフリカ人|鍛冶屋《かじや》のつくった特異なもので、たいてい波状の鎌みたいな形をしている。おもだった男たちが身につけている真鍮《しんちゅう》の柄の小刃は、長さ十八インチの両刃のもので、広い刃の真中に血の流れる溝が二本つき、鍔《つば》の近くに二つの穴があいていて、柄頭にはカワウソの毛がついている。原住民たちは髪をふさのように頭の後ろにまとめ、優美な形の鉄のピンでとめている。そして髪のはえぎわから膝まで、すさまじいばかりに入れ墨をしている。それに人間やゴリラやワニの歯をぎっしり連らねた首飾りをしている。みがいたイノシシの牙を、先が向き合うようにしてつけている者たちもある。
義兄弟の血盟は、血の渇望を満足させるためか、それとも贈り物を交換して利益をうるためか、さかんに要求される。双方の腕に刻みめをつけてから、両人が頭をかがめ、たいへんな熱烈さで血を吸いあっている。血を愛好するせいなのか、友情に駆られるせいなのか、断定しかねる。彼らはわれわれが、けちけちしないのを見てとると、まるで乞食みたいになり、いくらでもねだろうとする。銅は軽蔑するが、真鍮の針金は黄金のように珍重し、これさえ出せば、カヌー以外のなんでも売る。
われわれが、ルバンガで見つけたいちばん興味ぶかいものは、四梃の古びたポルトガル製のマスケット銃だった。それを目にした探検隊の連中は、喜びの声をあげた。それはこの大河がほんとうに海へ達している確証、と彼らにはみえたのだ。一年に一回、マンガラからくるカヌーで運んでこられたもので、その商人たちは黒人であって、白人やアラブ人のことはまるで知らない、と原住民たちは話した。
十日の朝、下流から現われた住民たちにつきそわれて、探検隊は二時間ほど大河をくだり、とても人口の多いウランギに着いた。とたんに、おびただしい数のカヌーが近づいて、騒がしく迎えた。われわれは仲たがいが起こるのを怖れて、巨木の立ち並ぶ島に野営したが、押しかけてきた入れ墨をした原住民たちや、抜き身の短刀や長刀をさげた連中のただなかに、私は微笑しながら腰をおろしていた。
が、まもなく、キャンプのなかがざわめきたってきた。敷物を盗まれたという者もあれば、小刀や布地、ガラス玉をちょろまかされた者たちもあった。三本か四本の槍も持っていかれ、しまいに二梃の銃が盗まれた。しかし、さいわいにその泥棒は逃げきらぬうちに捕えられた。われわれは柵をつくって、原住民たちをキャンプへ入れないようにした。
午後八時ごろ、ウランギの村々から太鼓《たいこ》の音がひびき、六発ほどマスケット銃の銃声がとどろいた。原住民たちがシュロ酒を飲んだり、踊ったりしているのだろう、とわれわれは想像した。
夜明け前に、探検隊は朝食の支度をしたり出発の準備をととのえたりした。日が出てからまもなく、ルバンガからつきそってきたウランギの案内人たちが、約束どおり、下流の部族のところへつきそっていこうとやってきたので、われわれは出発した。幾十隻ものカヌーが近づくのが見えた。十分間ばかり大河をくだったとき、突然、私は銃声を聞き、ボートの近くをザラ玉がかすめる音を耳にした。ふり返った私は、原住民たちのカヌーから硝煙が流れているのを見てとった。探検隊の一人が叫んだ。
「隊長、こちらの一人がやられてますよ。蛮人どもは探検隊を撃っているんです」
例の案内人たちは、カヌーで逃げ去っていた。あらかじめ企んでいたことが、私にわかった。
私は探検隊のカヌー群を先へ進ませ、ボートをしんがりにして戦い始めた。原住民たちは勇ましく進出して射撃し、急いで退いて弾丸をこめ直した。そのあいだ彼らは細身の槍を投げつづけ、カヌーを飛魚のように駆けめぐらした。探検隊は楯で防ぎ、銃口から必中弾をぶっぱなした。だが、原住民たちはしつこく追ってきて、下流へくると、ムパキワナ地方の原住民がわれわれに突撃してきた。正午ごろ、われわれは一つの水路を見つけ、島々のあいだの迷路のように曲がりくねった細い流れへ入りこんだ。
ウランギのすこし上流では北緯一度三十六分であったが、ウランギの西方二十マイルの個所では北緯一度四十一分だった。島々のあいだを進んでいると、日中はたちの悪いアブやツエツエバエに襲われ、夜はひどく蚊が多くて、ほとんど眠れなかった。
二月十二日は襲撃されずにすぎた。大河は七マイル以上にひろがった。島々にはツル、ガン、野ガモ、アビ、カワセミ、白サギ、シギなどの鳥が群れていた。ゾウも、赤い野牛の群れもいた。肉がほしくてたまらなかったけれど、われわれは撃てなかった。一発の銃声も、マスケット銃で武装した原住民たちを引きつけ、われわれ自身の生命をも危険にみちびく怖れがあったからである。樹木の茂った高い島々には、ヒヒやキツネサル、オナガザルが群れていた。水路にはカバ、ワニ、大トカゲがたくさんいた。
十三日の朝、水路を曲がると、思いがけなく多数の村々の前へ出て、引き返すまもなく戦鼓や笛が森林にひびきわたった。われわれは大河の中流へ出た。原住民たちは「ヤハーハーハ」と戦いの叫び声をあげながら、カヌーでせまってきた。三隻のカヌーが私の前に現われて、九|梃《ちょう》のマスケット銃の銃口を向けていた。探検隊のカヌー群が三日月形の隊形をとったので、先頭を進んでいたボートの船首の私は、いよいよ銃口の的《まと》になった。だが、これまでにも幾度か、私の風貌が原住民たちを驚かせたために、命びろいをしている私だった。いまも、原住民たちはマスケット銃の引き金に指をかけながら、この世の者でないような奇怪な「白人」の観察にすっかり気を奪われていた。左翼のフランクも、多くの原住民たちの注視の的になっていた。そして探検隊のロバたちも、原住民たちの驚異の対象になる光栄に浴していたのだった。カテンボが原住民たちと話そうとしたことから、どうやら驚異の呪文が破れたらしい。五分後、黙々としてわれわれが彼らの村々から二マイルばかり下流へくだったとき、邪悪な黒人が狙撃《そげき》し、探検隊のレハニが殺されたのだった。本能的に探検隊の者たちは楯をあげ、急速にボートを原住民たちへ漕ぎ進め、復讐の銃火をあびせた。三十分たつと、マスケット銃で武装した原住民たちの七十隻のカヌー群は、すこし退き、なおも五マイル追ってきてから、あきらめて消えうせた。
二月十四日、北緯一度七分の島のあたりから、あの川上のルバンガの原住民たちが、マンガラといったバンガラの黒人たちに襲撃された。私は探検隊に戦闘態勢をとらせながらも、片手に長い赤布、片手に真鍮《しんちゅう》の針金の束を持って、平和に取引をしようと呼びかけた。しかし、黒人たちは答えず、七十三隻のカヌー群に、三十五梃のマスケット銃をそなえて、四十四梃の銃しかない探検隊に向かってきた。それにしても、黒人たちは彼らのザラ玉の貫通力と射程が、探検隊の弾丸と同じもののように錯覚していた。酔っぱらっているらしい彼らは、はじめは三十ヤードまで近づいてきたが、百ヤード離れてから、探検隊の弾丸にやられると、ほんの少数の不敵な者たち以外は、接近しようとしないで射撃した。
一人の若い酋長は勇敢に前進して狙撃していたけれど、マンワ・セラがスナイドル銃でその太腿《ふともも》を傷つけた。すると、若い酋長は静かに布を取り出し、ゆっくり包帯して、ゆうゆうと岸のほうへ退いた。その若武者ぶりがじつに気高く、あっぱれだったので、私は命令して、彼を撃たせず退去させた。彼が去ると、敵勢は射撃ぶりもだらしなくなり、とうとう五時半に退散していった。探検隊は万歳を三唱した。
十五日正午、われわれは北緯〇度五十八分に達した。毎日川面を吹く風に、ひどく進行を妨げられた。広い川面に出ると、二フィートに高まる波が、かなり危険だった。日かげでは、めったに摂氏二十三度以上になることはなく、風土は乾燥してはいなかったが、じとじと湿っぽい東海岸地方よりずっと気分がよかった。東海岸では、日傘をささずに旅行するのは危険だが、ここでは二重のもめん布の帽子をかぶっておれば、ぎらぎら太陽の照りつけるボートのなかに立っていても、なんともなかった。だが、日除けをせずにボートのなかにすわっているのは、ここでも危険である。夜は毛布がなくては安楽でなく、ときには二枚ほしい場合もある。この季節の風は、南西か、南から吹く。つまり、南大西洋の温帯から、西方の山脈ですこし冷やされて吹いてくる。早朝は摂氏十八度にも温度がさがり、午前十時から午後四時半までは、日かげで二十四度から二十九度、午後四時から日没までは、二十二度から二十七度。一月十二日から三月五日まで、われわれは雨にあわなかった。
大河に現われる蜃気楼《しんきろう》は、とんだいたずらをやらかした。さしあたり襲撃を受けることはあるまいとほっとしているわれわれを、突如として蜃気楼はびっくりさせるのだった。たいていの場合、ペリカンやガンの群れが、べらぼうにでかく拡大されて、それらの鳥どもが、われわれの極度に緊張した感覚には、背の高い戦士たちの群のように見える。砂州《さす》で日なたぼっこをしている子ワ二が、カヌーのように大きく見えたり、漂白された古木が船に見えたりするので、蜃気楼には肝を冷やされるのだった。
二月十七日正午、北緯〇度十八分四十一秒。十六日から十七日にかけて、われわれは南西へ進んでいたが、十七日の日没ごろ、大河はだんだん南へ曲がった。十日から食糧が購入できなかったので、これがまた心配の種になった。私は備忘録に書いた。
二月十八日、午前七時、われわれはまた赤道を越え、正午、南緯〇度十七分五十九秒に達し、ほとんど真南へ向かっている。
二月十九日、左岸ぞいにくだっていたわれわれは、午前十時、いままで大河へ流れこんでいた川のうちで最大のイケレンバ川に直面した。カサイ川という名で知られているこの川は、幅千ヤード以上、紅茶色の深く強い水流は、合流点から百三十マイル下流にいたるまで大河の本流とまじりあわない。この辺の住民は、大っぴらに襲ってこないが、われわれが話しかけると、「ヤハーハーハ!」と戦いの叫び声で答えた。
空腹に悩みながら、われわれはブウェナやイングバをすぎ、イケンゴに着いて、その向かいがわの小島に野営した。原住民たちがカヌーで乗りつけ、われわれの贈り物を受け取って引き返してから、二人の酋長がきた。奇妙千万ながら、誇りというものは、つまらぬ事柄から生じるものらしい。ヨーロッパ人は皮膚が青白いことを誇りとしているが、ほとんどすべてのアフリカの土着民は、黒いことを誇りとしているようだ。胃袋がいっぱいであることも誇りの種になる。二人の酋長がふんぞり返っていた原因は、私にも当りはついたが、納得はしかねた。
われわれは彼らをすわらせて話し、いっしょに笑った。彼らが驚嘆したのは、私の備忘録と双眼鏡だった。備忘録には天来の魔力がこめられているものと思いこんだ彼らは、売ってくれないかと聞いたが、私は象牙をもらっても手離せないと答えた。すると腹を立てて、ふきげんになる彼らをなだめたりすかしたりして、いい気分にさせると、彼らはシュロ酒のいっぱいはいったひょうたんを私に差し出した。だが、私が熱心に食糧をもらいたいと頼むと、彼らは自分たちのカヌーを返して、カサバやバナナを積んでこさせた。
二月二十日、二人の酋長は多量のカサバやバナナやトウモロコシ、二頭のヤギ、二つの大きなひょうたんに詰めたシュロ酒を運んできて、よその連中も説き、島で市場を開いてくれた。大部分の原住民たちは銃を持っていたが、すこしも無礼な態度や敵意を見せなかったので、われわれはほっと安堵の思いをした。
二月二十一日、午後二時、われわれは出発した。八隻のカヌー群が途中までおくってきて、なごやかに別れを告げた。大河は南西へ流れ、白っぽい灰色の水は五千ヤードの川幅にひろがっている。
二十二日の朝、右岸をくだり、正午、南緯〇度五十一分十三秒に達した。左岸へ寄ってみると、原住民たちはわれわれを浮浪者と考えているらしく、いたるところでドンドン鉄砲玉をぶっぱなしてきた。道化役のバラカがいった。
「邪教徒どもはこちとらに、穀物よりも鉄砲玉のほうをよけいに食らわしやがるぜ」
二十三日正午、南緯一度二十二分十五秒。くる日もくる日も、強い向い風が吹く。島々は多く、細い水路は曲がりくねっている。蛮人たちの目からのがれて、われわれは静かな無人島のあいだを進んだ。
二十四日の午後、カチェチェの忠実な妻アミナが、死にかかっていると聞いて、私は彼女の横たわっているカヌーに、ボートを横づけにした。彼女は弱々しくいった。
「ああ、隊長。私はもう海は見られません。ココナツやマンゴが、とても見たかったんですけれど、もうアミナは死んでゆきます。さようなら、隊長、アミナをお忘れにならないで!」
流れくだりながら、われわれはアミナの死体に経帷子《きょうかたびら》を着せ、日没に静かな大河の底へ葬った。
二十六日正午、南緯二度二十三分十四秒から右岸のほうへゆき、カバの群れる水路をぬけた探検隊は、漁師たちに出くわしたが、襲撃は受けなかった。このあたりから、原住民たちもだんだん人間らしくなり、この地上には他の人種も住んでいることを理解するようにみえた。
二十七日、右岸の岩の多い岬のかげで、三人の漁師が手網でハヤをとっていた。われわれが話しかけると、彼らは静かに答え、戦いの前ぶれのような、あらあらしい興奮は見せなかった。われわれが仲よくしようと申し出ると、彼らはうなずいて、義兄弟の血盟も、ささやかな贈り物の交換も承諾した。そして二人が大河を横ぎり、チュンビリの王に告げにいった。ほんのすこしたつと、左岸から王の三人の息子が四十人ばかり従者を連れ、三隻のカヌーで探検隊のキャンプへきて、シュロ酒やヤギやバナナやニワトリなど、王の贈り物をとどけ、王の歓迎の口上を伝えた。
二十八日午前九時、王自身がはなばなしく現われた。五隻のカヌーに乗りこんだマスケット銃隊が護衛についてきた。
王は五十ぐらいの人物で、おっとりとかまえていながら人をそらさぬ物腰をし、やんわりした声で話したが、貪欲《どんよく》な商人根性と底知れぬ狡猾《こうかつ》さが言動の端々に現われた。左肩からなた鎌形の刀をつり、その肩の上にゾウのしっぽの荒毛が突っ立っていた。手にはハエたたきにつくられた野牛のしっぽを握っていて、やんごとなき顔にたかる蚊《か》やブヨを、これで打ち払うのだった。彼の臣下はたいへん忠誠のようで、息子たちもひじょうな従順さを見せていた。彼はひっきりなしに嗅ぎタバコをやったり、六フィートもある長キセルで、もうもうとタバコをふかし、その長キセルを一座にまわして吸わせたりした。王とわれわれとの交渉は、きわめてなごやかで、たがいに満悦するかのようだった。ただ、私が異国人として、玉に傷だと考えたのは、彼の極端な、とほうもない狡滑さだった。明らかに彼は、二枚舌や欺瞞《ぎまん》を秘術として修練しているにちがいないと思えたが、うまく甘やかに口車に乗せてしまう。こちらは文句をつけるどころではない。ペテンにかけられたくてたまらない気持になる。ペテンにかけられるぞと、あらかじめ注意されていたとしても、われわれは彼の友好的な≪わな≫へ落ちこまずにはいられなかったろう。
彼は自分の村へ招待した。われわれは空腹であったし、大河の両岸の状態から、瀑布《ばくふ》に近づいていることも疑わなかった。狭くなった大河の下流はどうなっているか、川下にはどんな部族がいるか、その連中は道理を聞き入れるか、白人のことを耳にしたことがあるか、瀑布は通過できるか、などを知ることができれば、ありがたいと思ったので、われわれは招待を受諾して、大河を越えていった。
探検隊はチュンビリの淑女たちに歓迎された。王に忠実で従順な彼女たちは、異国人に優しい心づかいを見せてくれた。われわれは大市場をひらき、気前よく取引して、民心をとらえた。久しぶりに、珍しい港へ上陸した船乗りの気分で、探検隊は無鉄砲にじゃんじゃん金を使った。
淑女たちは見るだけの値打ちがあった。あざやかな褐色の肌、目が大きく、みごとな姿態で、肩の曲線が麗しく、美人も多かった。だが、型にはめこまれた奴隷だった。女性の六割は直径二インチの真鍮《しんちゅう》の首輪をはめ、三割は直径二インチ半の首輪、一割は直径三インチの首輸をはめていて、それがすっかり頚《くび》をおおい、ほとんど肩の上端までのしかかっていた。重さ三十ポンドの首枷《くびかせ》で永久的に圧迫されている女たち! しかも、これらの圧迫されている女たちが、王の愛妾たちであった! そして彼女たちはその圧迫を受けて随喜《ずいき》しているのだった!
ぬけめのない企業家らしく、王はどんな真鍮の針金でも入手すると、すぐさま熔解《ようかい》して愛妾たちの首輪に造りあげるにちがいなかった。彼は四十人の愛妾をもっており、どの愛妾も太い首輪をはめられている、と私に自慢した。私がざっと計算してみると、彼の愛妾たちは死ぬまで、すくなくとも八百ポンドの真鍮の首輪をはめており、六人の娘たちは百二十ポンド、寵愛する女奴隷たちは約二百ポンドの首輪をはめている。さらに六ポンドの真鍮の針金を、すべての愛妾や娘が腕や足の飾りにつけているから、王は手軽に移動できる真鍮のストックを千三百九十六ポンド所有している勘定《かんじょう》になる。
死んだ愛妾の真鍮の首輪はどうするのか、と私がたずねてみると、王は微笑して、そんなせんさくをした私を、いつくしむようにながめ、意味深長な手つきで、喉元を横ぎって指先を動かした。
戦士たちや若い男たちは、この地方の、ウヤンジ人独得の髪の結い方をしている。髪を四つに分けて編み、編んだ二本の束を額に結んで突き出している。
ウヤンジ人のもう一つの特徴は、額に二本の線の入れ墨をしていることだ。ウヤンジ人の言語は、中央アフリカのほとんどすべての方言を混合したもののようだった。三日間のうちに、ウヤンジ人から聞いた言語を分類し、他のアフリカ人たちの言語と比較してみた私は、日常の用ぐらいはたせる程度に、ウヤンジ人の言語が話せるのを知った。
三月七日、われわれはチュンビリの王に別れを告げ、三隻のカヌーに乗った四十人のウヤンジ人につきそわれて出発した。そのウヤンジ人部隊の指揮者は王の長男で、探検隊を「瀞《とろ》」の近くまで案内してゆくように王から命じられていた。
われわれは右岸を二マイルくだって野営した。夜中にウヤンジ人は、航行の安全を祈り、熱烈に偶像に礼拝した。あくる日、ウヤンジ人部隊は探検隊より遅れ、あとから追いつくと告げた。彼らは放棄して去る気ではないか、と私は疑惑を覚えたが、探検隊だけで進行し、日没に密林で野営した。
一時間ほどたって、一人の少年の叫び声に驚かされ、みんなが駆けつけると、ニシキヘビが襲いかかってきた、と少年は話した。それは密林へ消えた、と少年はいったが、半時間ばかりして、そのニシキヘビか、別の一匹かが、キャンプの他の個所で一人の女に巻きつこうとした。みんなが興奮して、それを退治した。体長わずか十三フィート六インチ、胴のいちばん太いところが十五インチのニシキヘビにすざなかった。
翌早朝、われわれはまた右岸ぞいにくだりつづけた。百三十マイルにわたって、大河の本流とまじりあわなかったカサイ川の黒ずんだ茶色の水は、ボロボの近くでまじりあい、大河の水を白っぽい灰色から濃い褐色に変えている。大河は千五百ヤードにせばまり、台地のあいだの深い河床を急速に流れている。水深は七十九フィートから百六十三フィート。南緯三度十四分四秒の左岸から、川幅四百五十ヤードのウンクツ川が流れこんでいる。
この合流点から六マイル下流の大きな森林で、探検隊は食事の支度を始めた。できあがるのを待っていたとき、われわれの近くで幾発かの銃声がひびき、六人の男たちが負傷して倒れた。かなり不利な態勢の場合に襲撃されたわけだったが、ながいあいだの修練で、われわれは潅木にひそんで防衛する作戦方法を心得ていたから、決然と戦い始めた。一時間ばかり戦闘がつづいてから、蛮人たちは退却した。
負傷者たちの手当をし、食事をすませたわれわれは、大河をくだり、二時に一つの小島へ上陸した。四時になって、ながく姿を見せなかったウヤンジ人部隊が現われ、そこに野営することを拒んだので、われわれは彼らに従って、下流のムワナ・イバカという大きな村へ向かった。ウヤンジ人部隊が先行したから、探検隊が警戒もせずに進んでいると、岸に集まった数百人の原住民たちがマスケット銃で射撃してきた。探検隊は漕ぎ去り、三マイル下流の右岸に野営した。日没にウヤンジ人部隊は現われたが、左岸にたむろした。
三月十日の朝、そそり立つ美しい両岸のあいだを、われわれはくだった。ウヤンジ人部隊が追いついてきて、やっと十時に話しあったが、彼らが瀑布までつきそってゆくならば、もっと真鍮の針金を与えてもよいと、われわれはいった。しかし、彼らはそれを前渡ししてくれと要求した。だが、すでにチュンビリで、彼らの役目に対して十二分の報酬を出してあるのに、その役目もまだ果たそうとする気配を見せていないのだから、こんど新たに取り決めても、彼らは実行しないにちがいないと、われわれは考えたので、もはやわれわれ自身の独力でゆくことに腹を決めた。
あの第六瀑布の上流で網を張った食人種や、とほうもなく狡猾なチュンビリの王のわれわれの扱いぶりを考えめぐらしてみると、彼らの行為はいずれも、自分の知らない人間に対する軽侮《けいぶ》から出ていることがわかる。私も五百人のアフリカ人首長に会ってきたが、あのやんわりした声のチュンビリの王こそ、全アフリカでもっとも巧妙なペテン師といってもよかろうと思う。
十一日は、激しい風が吹いただけで、事もなく探検隊は大河を進みつづけた。十二日の午前二時ごろから、大河は千四百ヤードの幅から二千四百ヤードにひろがった。たちまち探検隊の者たちは「プールだ」といった。前方に、砂の多い島々が「海浜」のように現われ、右手には低く長い絶壁が白くきらめいて、イギリスのドーヴァ海岸の絶壁そっくりだった。正午に河岸の大きな砂丘の頂上へあがったフランクは、急にひろがった河面を双眼鏡で観望した。
「適当な名まえをつけてくれたまえ」と私がいうと、フランクは答えた。
「≪スタンレー・プール≫と呼ぶのがいいじゃないですか」
それで私は、ドーヴァ海岸のような絶壁から、リヴィングストン瀑布の第一瀑布まで、三十平方マイルにわたって、大河が湖のようにひろがったところを、「スタンレー・プール」と名づけた。
[#改ページ]
十三 死の大河
われわれはプールの右岸をくだる途中、出くわしたバテケ族に連れられて、その村へゆき、酋長のマンコネに会った。マンコネは親切気のある男で、瀑布の案内役を買って出た。村から数百ヤード下流でプールは瀑布になっていた。カヌーに乗ったマンコネは、そろそろとそちらへ近づいた。瀑布の音が、われわれの耳に激しくひびきだした。落下する線から百ヤードのところまでゆくと彼は前方を指さし、これより先へいってはあぶないといった。
われわれは右岸へ上陸し、丘の下の雑木林のなかに野営した。左岸のウンタモの村から、原住民たちがカヌーでやってきた。マンコネが彼らをわれわれに引きあわせたので、明朝酋長のイツイに会わせる、と彼らは約束して引きあげた。
夜、われわれは静かに寝ることにしたが、みんなひどく空腹だった。五日前にチュンビリの村を出てから、なにも買えず、欠乏の底にあった。あの狡猾《こうかつ》な王がやんわりした声で述べたてた事がらを、われわれがあまり信用しすぎていたためだった。あの王はあれやこれやと助力の約束をしたが、一つも実行されず、しかもそのために私がどれほど多量の物品を彼に提供したか、私としては恥ずかしくて公表できないくらいである。
十三日朝九時、一隻の大型カヌーが他の二隻を従え、急速に大河を横ぎってきた。ウンタモの酋長イツイと部衆だった。ゴマ塩髪の長老のうちの一人が、イツイだと紹介された。その老人はカラカラとうち笑って、われわれと親しく話し、友誼《ゆうぎ》のしるしとして、カサバのパン十個、カサバの根茎五十個、バナナ三ふさ、サツマイモ十二個、数本のサトウキビ、ニワトリ三羽、小型のヤギ一頭を私に差し出した。一人の二十六歳ぐらいの若い男は、私が受け取った倍ほどの量の贈り物をフランクに提供した。その若い男の顔には、煤《すす》と油をまぜたものの点々がつけられていて、両肩からは、ごばん縞《じま》の長い布がたらされ、片方の肩からは嗅ぎタバコや種々な護符のはいったいろいろな小さなひょうたんが、帯革でつり下げられていた。フランクと私が返礼に、布地をおもだった住民たちに与えようとすると、彼らは断わった。驚いたわれわれは、なにをほしがっているのかと聞いた。
すると、例の若い男が、首長は自分なのだと告げ、「あの大きなヤギだけがほしい」といった。
その大きなヤギは、あるイギリスの貴婦人に四年前に約束していた私が、ウレッガで買ってきていたものだった。私は断わり、二倍の布地を進呈しようとした。
とたんにイツイはふきげんになり、立ち去りかけたのを、われわれはなだめ、一頭のロバを受け取らせようとしたが、食われてしまいはしないかと女たちがふるえあがっていたので、それは受け入れられなかった。とうとうアフリカじゅうで「いちばん大きなヤギ」が、イツイのカヌーへ移されると、彼は意気揚々と引きあげていった。
持ってこられた食糧は、われわれの食欲を満たすにたりず、数分間で平らげられ、あくる日いくらか入手できるのを待ち望むしかなかった。
十四日に、イツイが小型のヤギ三頭、カサバのパン二十個、カサバの根茎少々をカヌーに積んで現われた。一時間後、マンコネやスタンレー・プール付近の二人の首長が、すこしばかり食糧を持って到着し、白人と黒人との和平友好協定が行なわれた。
リヴィングストン瀑布の上手では、海抜千百四十七フィート。ニャングウエで二千七十七フィートだったのだから、千二百三十五マイルの距離のあいだに九百三十フィートしか低くなっていないわけである。広漠とした未開の大陸ではあるが、大河をこのあたりまでくだってくると、交易通商によって原住民たちの獰猛《どうもう》性が柔らげられ、もはや彼らはわれわれが近づいても猛獣のような狂暴さでたけりたったりしなくなっている。これから千辛万苦《せんしんばんく》をわれわれにもたらすのは、大河そのものだ。いまや大河は、すさまじくたけりたちながら、絶壁の峡谷を奔流し、泡だつ巨浪をどよめかせて、広大なコンゴ川となろうとしているのである。
二月十六日、ゴードン・ベネット川の流れ入る合流点まで出かけて踏査し、実情を見きわめたわれわれは、けんめいに仕事にかかった。まずフランクが指揮して荷物や女、子どもたちを陸上から合流点に近い仮キャンプへ移した。それから私はボートやカヌー群を指揮し、右岸ぞいにすこしずつ第一瀑布をくだり始めた。巧妙に進まなければ、激流にさらわれる怖れがあったが、われわれは岩石の出張った個所へゆくたびに籐の太綱で引っぱり、その危険な突角をカヌーにまわらせてから、岩かげへみちびいた。太綱が切れたりすれば、カヌーもそれに乗りこんでいる男たちも、たちまち波の泡だつ深淵へ転落してしまうのだった。
このようにして、われわれはゴードン・ベネット川にたどりつき、この川の向こう岸へ探検隊を渡して、この日の仕事を終えた。
イツイの話したところによると、瀑布は三つあるきりで、それらを彼は「子滝」「母滝」「父滝」と呼んだ。われわれは「子滝」と「母滝」を苦心|惨憺《さんたん》して越えたが、「父滝」が難関だった。長さ四マイル、幅半マイル、それが台風に荒れ狂う海に似ていた。百ヤードにわたるいくつもの≪くぼみ≫があって、一つの≪くぼみ≫からつぎの≪くぼみ≫へ狂瀾《きょうらん》がなだれ落ち、その膨大な水量が急傾斜を描いて上昇し、尾根となって二、三十フィートまっすぐにはね上がり、またつぎの≪くぼみ≫へ逆巻きながら落ちてゆく。山のような波浪が砕けて泡だち、飛沫《ひまつ》をあげ、奔騰《ほんとう》して巨浪となり、両岸の下部に積み重なって並ぶ巨大な漂石が、砕け散る荒波にうずまる。とどろく音はものすごく、雷が鳴りわたるようで、そばの人間に話すにも、その耳へわめかねばならない。川上から流れてくる木を見つめながら、水流の速度を測ってみると、時速三十マイルだった。
十七日、われわれは潅木《かんぼく》を切り、それを敷いて八百ヤードの細道をつくり、ゴードン・ベネット川の支流へカヌー群を運び、この支流を流れくだって大河との合流点にたどりついた。食糧がないため、みんなは気が遠くなりかけていた。十八日、マンコネの尽力で、カサバを多量に入手できた。われわれはまた八百ヤード、カヌー群を引っぱってゆき、「父滝」の下流のわりあいおだやかな流れを半マイル川下までくだった。二十一日から二日間、岸の多い岬を横ぎって四分の三マイル、われわれはカヌー群を運んだ。
二十五日の早朝、「大釜《おおがま》」と呼ばれる大河の難所にさしかかったとき、五十人が太綱で引っぱっていた長さ七十五フィートのカヌーが、ぷっつり太綱が切れたために流れ去って砕けた。午後も一隻、流れ去ったが、これはフランクがキャンプしていた下流の入り江で見つかった。事故が多かった。波にぬれたなめらかな岩石は、すべりやすく危険だった。肩をくじいたり、尻を傷つけたり、頭に打撲傷をおったりする者たちが続出した。私自身もけんめいになりすぎて、大きな漂石のあいだの深さ三十フィートの水中へ落ちこみ、一瞬、半ば気が遠くなったが、さいわいに肋骨《ろっこつ》にすこしばかり打撲傷を受けただけで助かった。
二十七日、「大釜」をすぎ、あくる日、岩島の瀑布の上手の入り江に達した。例のようにフランクをキャンプにとどめておき、私は九十人を連れ、木々を敷いて細道をつくった。そして午後二時までに、われわれは瀑布の下流に着いた。残っている十七隻のカヌーにみんなを乗りこませた彼は、右岸に密着して進み、けっして中流へ出てはならないと指令した。とくに目をかけている少年カルルが、「ワニ号」と命名されているカヌーに乗っているのを見て、私はどうする気だとたずねた。
すると彼は哀願するような微笑を浮かべて答えた。
「僕は漕げますよ、隊長、見ていてください!」
ボートは先頭に漕ぎくだった。川幅は四百五十ヤードほどだったが、水深は百三十八フィートあった。七ノットの速さで流れ、あちこちに小渦や波がゆらめいていたが、分別のある人間には危険ではなかった。まもなくボートは一マイルをくだり、前方六百ヤードに、すごい瀑布が見えるところから、突角をまわって瀑布の上手の入り江へ入り、きれいな砂浜のキャンプ地に着いた。つづいて一番め、二番め、三番めのカヌーも到着したので、私は首尾よくいったと考え始めていた。とたんに、ボートがまわってきた突角よりもずっと下流へ、ぶきみに静かな瀑布の真上のほうへ、あの「ワニ号」が矢のように流れてゆくのが見えた。もう人間の力ではどうすることもできなかった。
五人が乗っている「ワニ号」は、たちまち瀑布を分割している小島のわきに達し、左がわの瀑布をすべり落ちた。三度か四度、旋回したカヌーは、ぐっと深みへ沈みこみ、まもなく≪とも≫を突っ立てて現われ、もうカルルや四人の者たちの姿は見られなかった。
この悲劇を嘆く暇もなく、また二人の男たちの乗った一隻のカヌーが、急速に突角を流れすぎた。私はボートの乗組みを突角の崖へやって、左岸へ向かえと二人に叫ばせた。舵手は瀑布の上で奇妙にうまく方向を転じ、左岸へたどりついて、二人とも助かった。するとまた、勇敢な若者ソウディだけを乗せた一隻の小型カヌーが、矢のように流れすぎた。
「もうだめです! 隊長!」と彼は叫んだ。そして瀑布を流れ落ちた。まもなくぽっかり現われ、瀑布の段丘から段丘へ落ちつづけ、旋回して巨浪にとらえられ、右や左に振りまわされて、すさまじく打ちのめされたが、彼を乗せたカヌーは沈まず、島かげへ押し流され、夕闇のなかに消えた。
私への報告によると、ソウディの場合は、仲間の不誠実が原因だった。一人の男が大河の怖ろしさにふるえあがって潅木に隠れ、二人の男たちは引き綱を離していたのだった。三十日、フランクに使いを出して、キャンプを移させた。原住民たちはたいへんおとなしく、始終キャンプへ食糧を持ってくる。彼らはまた、≪わな≫や≪鳥もち≫でさかんに鳥を捕える。日没ごろ、オウムのような鳥の大群が、キャンプの上空を通過し、その列が半時間ちかくもつづいた。鉛色のミズヘビがじつにたくさんいて、いちばん大きいのは長さ七フィート、直径二インチ半あった。八百フィートばかりの丘陵が両岸にそびえ、狭く深い峡谷に閉じこめられながら、とどろく大河の音を聞かされつづけていると、気が遠くなりそうだった。
四月一日、われわれは瀑布を越え、下流の右岸にキャンプした。あくる日、急流を一マイル半くだり、途中でまた一隻カヌーを失った。若いソウディと、左岸へ上陸していた二人の男たちが現われたので、みんなが喜んだ。ソウディは瀑布から下流へ押し流され、いくどもきりきり舞いをさせられて、ふらふらしたが、カヌーにしがみついていたと話した。
「日が暮れて一時間ほどしてから、僕は一つの岩に近づいているのに気づき、とび上がってカヌーを岸へ引き上げたんです。とたんに両腕をつかまれて、二人の悪者に縛られちまいました。奴らは山を越え、一つの村へ着くと、僕を一軒の家へ押し入れ、あかあかと火を燃やして、僕を裸にして調べ、したり顔で、親切げに話しかけ、たんまり食べ物を出したのです。そして一人が眠ると、もう一人が見張っていました。朝になって、きれいな奴隷が捕えられたという噂がひろまり、たくさんの村人が見にきたんです。そのうちの一人が、上流のウンタモでわれわれを見かけていたので、これは白人の部下だと告げ、あなたのことを話しましたよ、隊長。炎のような大きな目をして、髪が長く一日じゅう玉が飛び出しつづける鉄砲を持っている白人、と吹聴におよんだものだから、みんなの村の衆がびっくり仰天、二人の野郎に僕を返させることにしました。さっそく二人は僕に服を返し、僕がカヌーをつないでいた近くへ僕を連れもどして、こういうのでした。
『おまえの王さまのところへ帰ってくれ。さあ、食べ物はここにあるぜ。おれたちのやったことは忘れて、親切な連中に助けられたと話してくれれば、こちらも無事ですむわい』」
なんとか左岸から渡りたいと、うろつきまわっていた探検隊の二人は、カヌーのそばにすわっていたソウディに出くわした。そして元気をふるい起こした三人は、大河を渡り始め、急流に一マイル押し流されながらも、とうとう右岸にたどりついていたのだった。
四月八日、「大渦の河峡」をすぎたわれわれは旅費が少なくなってきたので、できるだけ旅を急ぎ始めた。ガンフウェの入り江からウンケンケ川の入り江までの急流三マイルを、ボートでくだったときは十五分しかかからなかった。もっとも、この場合は押し流されたのであった。二十一日、バセッセ族の村に着き、川下にまだ瀑布があるかとたずねると、もう一つだけ、ものすごく大きいのがあると原住民たちは答えた。私はそれこそ「タッキー瀑布」であろうと思った。なんとしても、そこまでは大河をたどってゆかなければならない、と前から私が目ざしていた瀑布だった。
二十三日、われわれはその「ものすごい」瀑布に到達し、さっそく踏査してみた。「神通大滝」と呼ばれているこの瀑布は、台地の沈下によって生じたもので、幅わずか五百ヤードの峡谷を怒涛《どとう》が逆《さか》まき流れている。両岸にぶち当たった大波が、はね返って中流へくだけ落ち、下流は混沌《こんとん》として荒れ狂っている。
瀑布の上の台地の村へのぼり、地形を観察した私は、川下にもう一つ瀑布があるかと聞いた。すると住民たちは答えた。
「もうないよ。ただ一つ、ちっぽけのがあるが、ぞうさなく通れる」
それで私は、これこそ「タッキー瀑布」にちがいないと考えた。地図を見ても、この判断は不合理と思えなかったからである。
まもなく私は、キャンプの探検隊に、カヌー群を山へ引き上げ、台地を越えてゆく計画を話した。彼らはあっけにとられた顔つきになった。キャンプへきた原住民たちはそれを聞くと、「山へ!」と仰天し、木々がそそり立ち、岩石が突き出ている高い頂上を見あげ、いまにも世界の終末がくるか、天変地異でも起こりそうに、おぞけをふるい、険しい千二百フィートの道をのぼって村へ帰り、黒ブタやニワトリやヤギを家へ入れ、白人が山へカヌーを引っぱり上げるぞ、とみんなに伝えた。探検隊は斧をふるって仕事にかかり、潅木を敷いた千五百ヤードの道をつくり、二十六日の朝には、台地の頂上の新しいキャンプへ、ボートと小型のカヌー一隻を引き上げていた。
その離れわざがやってのけられても、天変地異などはなにも起こりはしなかったので、原住民の酋長たちは、にこやかな驚きぶりを見せ、探検隊の勤勉な奮闘ぶりをほめあげた。そして交渉開始に打ってつけの雰囲気になったのをきっかけに、一時間の「談合」とシュロ酒の宴会が行なわれてから、彼らはわれわれの希望に応じ、布地四十枚の贈り物を受け取り、六百人の住民たちを探検隊へよこし、大型カヌーを引き上げるのを手伝わせた。チーク材の二、三隻の大型カヌーは七十フィート以上の長さがあり、目方が三トン以上あった。
二十八日の夕方には、全部のカヌー群が台地の頂上へ引き上げられていた。二十九日の朝、台地の上を三マイル、ウンザビまで運ばれ始めた。そのあいだに、私は森林を踏査して巨木を観察し、カヌーをつくる方策をたて、ウンザビの老酋長と話し、了解をえた。五月一日、ウレディらが巨木を切り倒し、みんなで協力して、十六日までに二隻の大型カヌーをつくりあげた。
カヌー群が台地から千二百フィートの急斜面をおろされ、ついに瀑布の下流に達したときは、探検隊は原住民たちの賞賛をうけたが、ニワトリやカサバなどを盗まれたという苦情も住人たちからもちこまれた。文明開化の地方へ近づくにしたがって布地の価値がだんだん下落し、ニワトリ一羽を手に入れるのに上等の布地を四ヤードも出さねばならなくなったので、財源が乏しくなったわれわれは、できるだけ節約して、カサバのパンやナンキンマメ、ヤマイモ、バナナなどで、どうやら飢えをしのいでいた。
そんな実情も、探検隊の一部の者たちの盗みの原因とはなっていたのだが、そのうちの一人のサブリ・レハニは原住民たちに捕えられ、私が身代金《みのしろきん》を出さないかぎり、奴隷に売りとばされようとしていたのだった。まる一日かかって、私は彼の釈放を交渉したあげく、価格百五十ドルの布地で彼を買いとらねばならなかった。このために、げっそりするほど手持ちの布地の量が減った。たださえ乏しくなっている財源を、こんな泥棒の身代金で食い荒らしていると、探検隊の全員が乞食をするか餓死《がし》するかの羽目になりそうだった。だから私は一同をきびしく戒め、幾度も説明して、盗みをしていて原住民たちに捕えられた者は、そのままに放置すると告げた。
十六日の午後、探検隊はウンザビの入り江へくだった。休息を必要としたけれど、ぜんぜんなにもしないでのらくらしていると、活力が沈滞する怖れがあるので、われわれはチークの巨木を切り倒し、カヌーをつくりにかかった。
病人が多く、フランクも両足の小さな吹き出物に悩まされていた。老酋長の話によると、川下にはまだ瀑布が五つあるらしかった。
五月二十二日、長さ五十四フィートのカヌーができあがった。これで探検隊は大型カヌー一隻とボート一隻で構成されることになり、運よくゆけば、私の目ざす「タッキー瀑布」へたどりつける見こみがついた。
激しく雨が降り始め、電光がきらめき、すさまじい雷鳴がとどろきつづけた。増水する大河は、われわれの恐怖をそそった。老酋長に十二分の礼物を贈ったわれわれは、二十三日、入り江の西端へ移り、岩の多い尾根を越えてカヌー群を引っぱり、つぎの入り江へおりて、一マイルくだり、うまくウンセト瀑布の下流に達した。二十五日、フランクは潰瘍《かいよう》になり、歩くのが困難だったので、ボートに乗った。
私は探検隊の前衛や女、子どもを連れて起伏する台地を越え、モワの急流の上の白砂のひろがる地点にキャンプ地を見つけ、地勢を観望していた。
すると、「ボートがきます」と少年の一人が告げた。急流に現われたボートの≪へさき≫にはフランクが立ち、ウレディが舵をとっていた。が、フランクが瀑布からくだる指揮をとったのは、こんどがはじめてだった。私が見守っていると、彼はすこし混乱していた。あまりひんぱんに手を振りすぎ、舵手をとまどいさせていた。そのために、急流の最悪の個所にボートを突入させていたのだった。
われわれが布を振って合図したが、注意が向けられなかった。そしていままで割れ目もなかったボートは一つの岩へ乗り上げ、≪とも≫に直径六インチの穴があき、危うくフランクは≪へさき≫から真逆《まっさか》さまに転落しそうになった。
一瞬、キャンプ地には興奮がわきたったが、わめいたり、激しく身ぶりをしたりし、ボートの乗組みも必死になり、やっとボートは≪へさき≫を空中に上げ、≪とも≫を沈下させながら岸へたどりついた。すぐさま私はボートの修理に着手した。
二十五日と二十六日にカヌー群も到着した。二十七日に、さらに下流のキャンプへ移り、無事にモワ瀑布を越えた。モワで野営してから三日めに、原住民たちがなれなれしげにキャンプへきていたとき、私はいろいろな物品を言い表わす原住民たちの言葉を、言語学の資料として備忘録に書きとめ始めた。ほんの数分間すると、住人たちが妙に騒ぎたち、まもなく駆け去った。しばらくすると、高く鋭く、戦いの叫び声が台地にひびきわたった。そして二時間後、マスケット銃を持った戦士たちの長い列が台地をくだり、キャンプのほうへ進んでくるのが見えた。総勢五、六百人だった。彼らがキャンプから百ヤードの地点に陣どったとき、サフェニと私は歩み出て、キャンプと彼らとの中ほどにすわりこんだ。向こうからも五、六人の原住民たちが近づいてきて、談合が始まった。
「どうしたんだね?」私は聞いた。「どうしてそんなに大ぜいで、まるで戦おうとでもするかのように、銃をもってやってきたりしたのか?」
「商人《ムンデレ》」と背の高いもじゃもじゃ髪の男が、そう私に呼びかけて答えた。「おまえはなにかの符牒《ふちょう》を紙につけておった。あれはおそろしく悪い。おれたちの土地は荒れ、ヤギどもは死に、バナナは腐り、女どもは孕《はら》まなくなるだろう。いったい、おれたちがなにをしたというのか? 食物を売り、酒も持ってきてやったし、おまえの部衆はどこへでも気ままにうろつき放題にしてやっていたんだ。どうして商人はそんなに極悪なのか? おまえがあの紙を焼き捨てないなら、おれたちは戦うつもりだ」
私は彼らを待たせ、サフェニを残しておいて、自分のテントへ引き返しながら、そんな迷信からくる気違いざたを、くつがえす方法を考えめぐらした。彼らが焼かせようとしている私の備忘録には、すべての瀑布や入り江や村々の構造、各地の状況、民族学や言語学に関連する詳細な事実が、ぎっしり書きこまれていた。それを原住民たちの他愛もない気まぐれのために犠牲にしたりできなかった。私は本箱を捜しているうちに、幾度も読んで古びた一冊のシェイクスピア戯曲集にぶつかった。これは備忘録と同じくらいの大きさで、表紙も似ていた。私はこれを持って、原住民たちのところへ出かけた。
「君たちが焼かせたいのは、これか?」
「ああ、ああ、それじゃ!」
「よろしい、これを持ってゆきたまえ、そして焼くなり、とっておくなりするがいい」
「うーむ、いや、いや、おれたちはそれにさわりたくない。それは呪われたものだ。おまえが焼かなければならん」
「私が! よし、そうしよう」かがり火のそばへゆき、いくたびか苦悩の夜の伴侶となって心を慰めてくれたシェイクスピアを、私はおごそかに炎にゆだねた。
「ああ……」原住民たちは救われたようにため息をついた。「商人《ムンデレ》は善人じゃ……とても善人じゃ。もういざこざは水に流そう」
そして彼らは歓喜の声をあげた。
六月三日の夜明け、カチェチェが陸上をゆく部隊を連れてモワを出発し、私はジンガ瀑布の上手にキャンプ地をととのえるために、ボートで大河をくだった。カヌー群はあとから用心ぶかくくだる予定だった。
ボートはマセッセ岬の手まえまで進み、大渦に巻きこまれそうになり、危うくのがれたものの、修理の不十分なボートに水が漏り、半分ばかり水びたしになったので、われわれはまたモワへ引き返した。疲れきったボートの乗組みは、食物を捜しに出かけた。私は陸上をいった部隊のことが心配でならず、自分がおもむいて酋長たちの好意をうるようにしようと心を決め、マンワ・セラに指令した。
「ボートの乗組みがもどってきたら、あのいちばん軽快なカヌー、ジェイソン号を提供して、両舷へ綱をまわし、≪へさき≫と≪とも≫に強い太綱をつけ、モワがわの岸ぞいに注意ぶかくマサッサ瀑布の上までくだらせ、あそこがカヌーで通過できるか、それともカヌーを岩石を越えて運ばねばならないか、ウレディに判断させてもらいたい」
それからフランクに向かい、私は告げた。「急いで私はジンガへゆき、酋長たちと交渉して、朝食とハンモックをよこすから、君はハンモックに乗って陸上をきてくれたまえ」
三マイルの迂回路《うかいろ》を歩き、正午ごろ私は新しいキャンプに着いた。それはジンガ瀑布から百ヤードほど上手の岬につくられていて、四人の酋長と幾百人もの原住民たちが商人を見ようと集まってきていた。
あいさつは少々騒がしかったが、まもなく了解はついた。とくにラザラという若い男が、私にイギリス人か、フランス人か、ドイツ人か、ポルトガル人かとたずね、自分のいった海岸の港町の名をたくさんもち出し、白人たちの習慣風俗などを愉快にしゃべりまくってからは、すっかり親しい間がらになった。
午後一時に、朝食とハンモックを持った者たちが出かけていった。四人の酋長や原住民たちの大部分は、高い台地の村々へ引きあげ、キャンプには病人や女たちのほかに、十四人の強健な男たちが残された。三時ごろ、私は岬の高い岩の上に腰をおろし、双眼鏡でボロボロ深淵のかなたのマサッサ瀑布とマセッセ急流のほうを見やった。ながくもたたぬうちに私は、マサッサ瀑布の狂瀾《きょうらん》のなかに、なにか長く黒いものがのた打っているのを見てとった。転覆したカヌーだった。それに幾人かの男たちがしがみついていた!
ただちに私は、カチェチェとワディ・レハニに十人をつけ、籐の綱を持たせて、ボロボロ深淵の中ほどへ出向かせた。波の方向から察して、水流がカヌーの男たちをジンガ瀑布のほうへ押し流す前に、その近くへ運んでくると見きわめたからだった。
私が見つめているうちに、カヌーの男たちは深淵を流れてきながら、カヌーの底に上がり、怖ろしいジンガ瀑布からのがれようとして、必死に岸のほうへ漕いだ。やがて陸に近づくと、水中へ飛びこんで、岸へ泳いだ。まもなく、ほんの一瞬前に彼らが放棄したジェイソン号は、私の近くを矢のように流れすぎ、瀑布を落下して巨浪のなかへ突入し、渦巻きの底へ巻きこまれて消えうせた。
息せききって駆けつけたカチェチェが、モワからあのカヌーで出発した十一人のうち、八人だけが助かったと告げた。行くえ不明になった三人のうちの一人は、フランクだというのだった。そんなはずはあるまい、と私は思った。だが、そうにちがいないとカチェチェが言い張るので、私はずぶぬれでやってきたウレディらに、潰瘍《かいよう》で歩くこともできかねるフランクが、どうしてカヌーに乗りこんだりしたのか、と問いつめた結果、つぎのようないきさつを知った。
ウレディと乗組みが出発しようとしたとき、フランクが岸へ這い出てきて、乗せていってくれといった。ウレディは隊長からそんな指令はなかったと言い、マンワ・セラも、難所だから思いとどまったがよいと説きふせようとした。だが、フランクは病人らしくいらだち、むりやりに自分をカヌーへかつぎ入れさせた。
ジェイソン号は軽快なので、たやすく大渦を乗りきり、半時間たたぬうちにマセッセ急流を走りくだっていた。そしてわずか一マイル下流のマサッサ瀑布に近づいたとき、とどろく音を聞いたウレディは、向こう見ずに接近するのを警戒し、絶壁伝いに進み、マサッサ瀑布のすぐ上の小さな入り江へたどりついた。乗組みが岩石につかまっているあいだに、ウレディは岩石をよじのぼり、瀑布がどれほど危険であるかを、たちまち見てとり、カヌーの底にすわりこんでいるフランクのところへもどり、この瀑布はくだれないと告げた。だが、フランクは聞き入れず、静かな左岸へ渡ろうといった。
しかし、この瀑布は斜めになっていて、左岸は遠いし、右岸のほうはすぐに落下し始めているから、左岸へ渡ろうとすれば、瀑布へ引きこまれて死ぬしかないだろう、とウレディは説いた。
「では、どうすればいいのか?」
「隊長に使いをやらなくてはなりますまい。そして隊長がお出になるまで、カヌーをつないで待ちましょう」とウレディは答え、まもなくハンモックを持ってくるから、フランクはそれで運ばれてキャンプへゆけると話した。が、無能な人間のようにハンモックで運ばれたりすれば、みんなの笑いものにされるだろう、とフランクには思えたらしい。
「私自身が瀑布を観察すれば、たちまちくだる道を見つけるだろう」
「わしのいうことをお疑いならば、ムプワプワでもシュマリでもやって、見させてください。彼らがくだれるというなら、わしはやってみましょう」
フランクは二人を調べにやった。
しばらくしてもどってきた二人は、とても乗り越えられないといった。フランクは、にがにがしく笑った。
「君たちワンワナ人は、いつも水には臆病なのだ。さざ波も大波に見える。ここに四人の白人がいれば、みごとに乗り越えられるかどうかを、君たちに見せてやるんだがなあ」
平底の貨物運搬船の船頭をしていたし、水泳も達者なフランクは、あのカルルが溺死したときも、自分ならあの瀑布で溺れたりはしない、と自信のほどを見せたものだった。それで私は、渦巻きの怖しさを彼に話し、向こう見ずな行き方を戒め、陸上をゆく部隊の指揮に当たらせていたのである。フランクにしても、ウレディの大胆さや雄々しい行動力はよく知っていたのだが、潰瘍に痛めつけられている苦悩に駆《か》られ、心にもないことをいったにちがいなかった。ボート長のウレディは、その言葉に胸を刺された。
「白人でも黒人でも、生きてはここをくだれますまい。われわれが怖れているといわれるのは、当たっていないと思います。われわれはけっして怖れてはいません。ご命令があれば、さっそくくだりましょう。ただ、なにか事故が起こって、『なぜそんなことをしたか?』と隊長に聞かれた場合、あなたがその責めをおうことを約束していただきたいのです」
「いや、私は君に命令はしない。このカヌーの指揮者は君だからな。君がくだりたいと思うならば、くだりたまえ。そうすれば、『君たちは男だ。水を怖れない』と私はいおう。くだりたくないのなら、とどまりたまえ。そうなれば、君たちが怖れたためだと私にはわかるわけだ。こんな瀑布は、なんのぞうさもなさそうだし、事故などが起こるとは私には思えない」
ウレディは乗組みに向かった。
「おい、みんな、おれたちは怖れているといわれているんだ。この瀑布をくだれば、死ぬことはおれにはわかっている。だが、おい、黒人も白人に劣らず、死を怖れないことを見せようじゃないか。どうだ?」
「人間は一度しか死なねえよ」
乗組みは口々に答えた。「誰が運命に逆らえるか?」「運は天にまかせるより仕方がない」
「よかろう。みんな座につけ」とウレディはいった。
「君たちは男だ!」とフランクは声をあげた。
「行け!」とウレディは叫んだ。
「合点《がってん》だ!」と乗組みは呼応した。
数秒間のうちに、彼らは瀑布の上へ出ていった。フランクの言葉に従って、ウレディは左岸へ進路をとった。だが、まもなく、そちらへたどりつけないのが明らかになった。見かけによらず強い河流は、ぐんぐんカヌーを横ざまに瀑布のほうへ引っぱっていった。
それを見てとったウレディは、≪へさき≫をぐっと転じ、大胆に瀑布の真中へ向けた。雷のようにどよめいてきた怖ろしい水音に、はっと立ち上がったフランクは、前の者たちの頭の上から見まわして、自分の身にせまる危険をはっきりと気づいたようだった。
だが、もう遅かった! すでに瀑布へ達していた彼らは、波浪と飛沫《ひまつ》のただ中へ飛びこんでいった。怒涛《どとう》ははね上がり、カヌーへ襲いかかった。彼らはきりきり旋回させられ、逆まきおどり上がる波頭にのせられて下方に大口をあけた渦巻きへ運ばれた。苦悩と悔恨《かいこん》と戦慄との一瞬がきた。
「みんなカヌーにつかまれ。綱をつかまえろ!」
フランネルのシャツをぬぎ捨てながら、フランクはいった。だが、彼が身支度をととのえるまもなく、カヌーは深淵へ引きこまれて、急速に渦巻く水がすべてを閉ざした。渦巻きのくぼみがみたされると、大量の水がぐうっと盛り上がり、輝かしい陽光のなかへカヌーが持ち上げられた。それに数人がしがみついていた。すこし流されてから、カヌーへ乗組みが寄り集まると、八人しか生き残っておらず、白い顔は見えなかった。が、まもなくすぐ真近で、また激動が起こり、大波が盛り上がって、その波間から意識を失ったフランクの姿が現われ、声高くうめくのが聞こえた。
ウレディはいまさっき渦巻きからのがれたばかりなのも忘れ、勇敢にフランクのほうへ泳ぎ出した。だが、また渦が巻いて、両人とも吸いこみ、波浪の下に閉じこめた。息も絶え絶えに、ウレディは浮かび上がったが、もうフランク・ポコックの姿は見られなかった。
私はフランクの死を悲しんだ。ながい年月のあいだ、誠実に努力をつづけてきた彼が、報いられるところもなく、こんなに突如《とつじょ》として世を去ったことを思いめぐらしていると、悲愁がつのるばかりだった。誰かが私に代わり、すべての配慮を引き受け、探検隊の黒人たちをザンジバルへ帰らせてくれるならば、この日喜んで私は苦闘に終止符を打ち、「さきがけて死にゆく者こそ、いとよけれ」と叫びながら、ボートで乗り出し、静かに瀑布から永遠の未来へ落ちていったであろう。
深淵の南の絶壁の上に、月が高くのぼった。蒼白い光は死の現場をぶきみに照らし出した。ジンガ瀑布の上手の漂石に、私は幾時間もすわりつづけ、上流のマサッサ瀑布のほうを見やりながら、もしかしたら、フランクは渦巻きからのがれているかもしれないと、はかない望みをかけたりした。
[#改ページ]
十四 目的を達成
私は備忘録に書いた。
六月四日、きのうの惨事のために、われわれは気力を奪われ、どうしたらいちばんいいか、決しかねている。いまや探検隊は大河に恐怖を抱き、八十人以上はモワにいるが、陸上をゆくのは疲れるので、連絡ができない。ジンガの原住民たちが私にたいへん同情してくれるので、苦悩は慰められる。
六月五日、けさ、マンワ・セラから使いがきて、探検隊の連中が反抗し、仕事をしようとはしないと知らせた。苦労したあげく、死ぬに決まっているのだから、いっそ邪教徒に雇われて草取りでもしたほうがましだ、と彼らはいったりしているようだ。モワの原住民たちが、なにもかも瀑布の霊たちの祟《たた》りのせいだなどと、ばかげた迷信を吹きこんだためもあるらしい。瀑布にヤギの生贄《いけにえ》をささげておれば、あんなことにはならなかったろうといっているのだ!
六月九日、私はウレディやボートの乗組みを連れて、河岸ぞいに進み、マサッサ瀑布に近寄ってみた。巨大な岩石が積み重なって突き出、それが渦をまき起こしているので、フランクもほんの一目みれば、安全に通過できないのがわかったはずだった!
モワへいくと、探検隊の連中は極端に意気消沈し、悲しげな顔つきで、絶望におちこんでいるようだった。マンワ・セラや班長たちやボートの乗組みたちだけが、飢餓《きが》にせまられないうちに出発しなければならない事実を知っているようにみえた。私はボートの乗組みに、一隻のカヌーへ乗りこませ、例のマサッサ瀑布のすぐの上の小さな入り江までくだらせて、カヌーを岩石にしばりつけさせた。
六月十日、きのう私がジンガから出かけているあいだに、サブリ・レハニが原住民たちのカサバを盗みにゆき、それが原住民たちの怒りをまき起こしたために、けさはしばらく暗鬱な事態がつづいた。
しかし、十二分に布地を出し、ふきげんな原住民たちをなだめたうえ、サブリは処罰された。午後、ボートの乗組みは、また一隻カヌーをマサッサ瀑布の上までくだらせた。
六月十一日、三日前にキルンガの深淵に、フランクの死体が浮きただよっていたのを、一人の漁師が見たが、怖ろしさのあまり手を触れなかった、と住民が知らせてきた。死体は仰向けになっていて、上半身は裸だった。シラスをとりに出かけていた漁師は、なにか水上に光るものがあるので、カヌーを漕ぎ寄せてみると、白人の顔だったものだから、おぞけをふるって、ただよい流れるままにしておいたという。死体に不名誉な姿をさらさせるのは遺憾《いかん》なことだ。ジンガの酋長も、岸へあげて丁重に葬るべきだったと嘆いている。
六月十三日、十四日、熱に悩む。だが、マンワ・セラが全部のカヌーをマサッサの上へくだらせ、探検隊が残らずモワを出たと聞いて、私はうれしい気持だ。
六月十五日、早朝にマサッサ瀑布の左岸へ出かけてみると、全員が協力して木の枝や潅木《かんぼく》で岩石の合いまをうずめ、カヌーを運ぶ道をつくっていた。
六月十八日、六百ヤードの道ができあがり、三隻のカヌーが注意ぶかく引っぱられて、瀑布の横手を越え、深淵に浮かべられた。私はマンワ・セラに指令しておき、カヌーに人員を乗りこませてジンガへ向かった。
六月十九日、ありがたいことに、全部のカヌー群がジンガ瀑布の上手二百ヤードばかりのところに着いた。フランクが生命を失った個所から七百ヤードほど下流の深淵を測ってみると水深は三百三十フィートだった。
ここの漁業法はたいへんきびしい。朝の七時に両岸の原住民たちが大河へおりてくる。そしていくつもの大きな漂石のあいだの細い流れへ網を入れる。ジンガがわでは、三十もの網が入れられるが、酋長たちのうち一人か、彼らの息子が検分にくるまでは、誰も網をあげられない。その漁獲高の半分は、三人の酋長たちが等分してとることになっていて、それぞれの酋長の分け前をおく岩がべつべつになっている。アフリカの湖や河川にいる川カマス、ナマズ、ウナギなどの魚は、やはりこの大河にもいる。原住民たちはこの大河を、ウンザビではビルンブ川、つまり「日の川」と呼んでおり、ジンガではムワナ・キルンガ、つまり「大海の主」と呼んでいる。このあたりには猟鳥獣類はいない。銃声やその威力に追われて、奥地へ退散してしまっているが、小型のカモシカやウサギなどはいて、原住民たちや野良犬どもにねらわれている。
六月二十日、けさ、探検隊はジンガ岬を越え、下流の深淵へカヌー群を運んでいく道をつくり始めた。ものうく、ふきげんそうな連中の一人に、どうしたのかと聞くと、「くたびれきってるんでさ」と答えた。全員の三分の一が、そんな気持とわかった。食糧が乏しく、激しく働かねばならぬ時機に、そんな気持は軽視できないので、私は一同を呼び集め、不満や苦情をぶちまけさせた。彼らは、大河には死がひそんでいるし、くる日もくる日も岩石の上で汗水たらすばかりで、食物はないし、力がなくて働けない、というだけだった。
そこで私は話した。
「私にしても、諸君と同じように空腹なのだ。私は精力をつけるために、肉を食べることもできるが、そんな諸君のものを奪うようなまねはしない。諸君がみんな私から去ってゆくならば、私は責任から解除される。私のボートは大河に浮かんでいるし、水流は速いし、瀑布は眼前にある。ボートをつないでいる綱をナイフで切りさえすれば、私は永遠の眠りへ落ちこんでゆくだろう。あそこに宝貝があるから、諸君はとって、自由勝手にふるまうがいい。諸君が私とともにいるあいだは、私はこの大河をたどりつづけ、すでに世に知られている個所まで到達してゆく。諸君が去るにしても、やはり私は大河にしがみつき、大河のなかで死んでゆくであろう」
そして私はその場から去った。
あのヴィクトリア湖のブンビル島で戦った当時、ボート長であったサフェニが、不満をいだく一団の連中に、どうしたらいちばんいいかと聞かれて、「荷物をまとめて去ってゆくんだな。とどまっても、旅に出ても死ぬことはいっしょだからな」といった。
ほどなく、彼の意見に従う連中が、ぞろぞろ台地へのぼっていった。全員の三分の一だった。探検隊の全員が動揺しないのを確かめた私は、脱出した連中の生命を危険にさらさせるのを防ごうと決心し、カチェチェとマンワ・セラをやり、彼らに説かせた。が、彼らは帰還を拒み、旅をつづけた。こちらではみな、仕事をやりつづけている。
六月二十一日、けさ、カチェチェとマンワ・セラを前方の土地の酋長たちへ派遣し、脱出した連中をおしとめてくれるように依頼した。酋長たちは大乗り気で引き受け、戦鼓を打ち鳴らして軍勢をくり出したので、脱出組も足がふみ出せなくなった。すでに彼らは、脱出したことを悔いているという報告があった。
六月二十二日、十五マイルかなたの脱出組へ、カチェチェとマンワ・セラが出向き、免罪を約束し、友好な酋長たちの助力をえて、脱出組を連れてもどった。彼らはひときわ悲しげだったが、無謀を悟り、またそれぞれの任務につくことになった。
六月二十三日、ジンガの原住民たち百五十人の援助を受け、探検隊は午前十時、三隻のカヌーを二百フィートの急斜面から、岬の上へ引っぱり上げた。四番めのカヌーは新しいリヴィングストン号で、重量が三トンほどあった。すでに二十フィートばかり引っぱり上げていたとき、突然、太綱が切れて急斜面をすべり落ちた。このカヌーの建造を指揮した大工|棟梁《とうりょう》のサラーム・アラーが、カヌーを引き止めようとしてしがみついていて、引っぱりこまれて河中へ落ち、泳げないので、カヌーへ這い上がった。すぐさまウレディが河中へ飛びこみ救い上げようとして、カヌーから川へ飛びこめと叫んだ。
「ああ、兄弟、わしは泳げないんだよ」不運な男は答えた。
「早く飛びこめ! おまえは瀑布のほうへ流されているんだぞ!」
「そうらしいな」
「それじゃ、あばよ、兄弟。もうどうにも救いようがないよ!」
瀑布の上方わずか五十ヤードまで達していたウレディは、泳いで岸へもどった。
一秒後、サラーム・アラーを乗せた大型カヌーは瀑布を落下して、渦巻きへ吸いこまれた。私が五十四まで数えたとき、カヌーは水底から突き上げられ、まだ彼はつかまっていた。きりきり舞いながら、またカヌーは吸いこまれ、数秒後に突き上げられたときにも、まだ彼はつかまっていたが、三度めに引きこまれたカヌーが、また現われたときには、もうサラーム・アラーは消えうせていた。
この事件をワンワナ人は、探検隊の前途に待ちうける破滅の運命を示すものの一つと思いこんでいる。私がこれを書いているいまも、かがり火のそばで彼らは、死滅した者たちの数をかぞえあげているのである。
六月二十四日、五時間かかっていちばん長いカヌーが引っぱり上げられた。連中がもの思いに沈みこまないように、私は酒や太鼓《たいこ》や歌で景気つけるようにしている。そのために気前よく経費を出しており、こんな時期にぜいたくなようにもみえるが、じっさいはこれはいちばん経済的な行き方なのである。
六月二十五日、夜明けに起き、ボートとカヌー群とを下流の深淵へおろし始めた。夜までに、ジンガ瀑布を越えた。
六月二十六日、つぎのムベロ瀑布へ、荷物を陸上から運ばせた。この一カ月間に、われわれはわずか三マイルしか進んでおらず、そのあいだに四人も溺死しているのだ!
六月二十七日、私はボートで、ムベロ瀑布を観察に出向いた。急流をくだりムベロの深淵へ入りこみ、三百フィートの絶壁の上のキャンプへたどりつき、バナナで昼食をすませ、籐綱の梯子《はしご》でまたボートへおり、≪へさき≫と≪とも≫にしばりつけた籐綱を、十人が陸上から引っぱりながら、すこしずつ用心ぶかくボートをムベロ瀑布へ近づけた。左方に岩の多い小島が散らばり、頭上に絶壁がそびえ白っぽい褐色の荒波はぶきみにどよめいていた。とたんに河水が盛り上がるとともに、≪とも≫の籐綱がはずれ、≪へさき≫の籐綱がぷっつり切れて、ボートは荒波の波頭に乗せられて中流へ運ばれた。
信じられないような速さで、岩石や絶壁が後ろへ突っ走った。ボートに乗っていたのは、私のほか六人で、舵をとっていたウレディは、冷静に落ちつきはらっていた。危機に直面していたのだが、これまでとは感じ方がちがっていた。
「くるものはくる。人間は不可避なものからのがれられない」そんなささやき声がどこからか聞こえて、危険感が鋭くせまってこなかった。神経も魂も、あまりひんぱんに苦悩にぶつかり、不幸にたたかれると、無感覚になるものらしかった。あまりたびたび泣いてきたわれわれは、もう泣けなかった。あまり苦しみすぎてきたわれわれは、もう苦しめなかった。われわれをたたきつける山のような波も、荒っぽい巨大な威力も、われわれは怖れなかった。そそり立つ絶壁も、すさまじい荒波も、われわれはものの数ともしなかった。「くるものはくる」
われわれはムベロ瀑布を越え、渦に二回くるくる旋回させられ、たぎりたち、どよめき、泡だつ荒浪の上を矢のように突っ走り、やがてウングルの深淵のゆるやかな流れへ運ばれた。
「また助かった!」とわれわれはつぶやきながら、キランガの砂の多い岸へ向かった。
私がキャンプへもどっていったとき、恐怖に打たれていた探検隊は、近づいていくのが私だとは信じかねるくらいだった。まるで私が死からよみがえったように狂喜した彼らは、これこそ上天の助けと考え、「かならず海へたどりつけるにちがいない!」と勇みたち、これからは自分たちがやるから、瀑布を越えるまで隊長はもう川へ出ないようにしてもらいたい、といった。
ムベロ瀑布を越えたわれわれは、キランガで二日だけ休息し、七月六日、キンゾレをすぎ、ムパカンベンディに着いた。ここで絶壁にはさまれた狭い峡谷は終わり、大河の幅は広くなっている。山々も丸味をおびて、ゆるやかに傾斜している。これは岩石の性質がちがってきたためで、上流では水平の層をなした片麻岩《へんまがん》や砂岩に、花崗岩《かこうがん》が不規則におおいかぶさり、台形の岩石が突き出ていたのだが、このムパカンベンディから下流では、もっと柔らかい緑がかった頁岩《けつがん》の岩棚がたくさん突出し、それが河流にたたき砕かれてしまっているので、急流はあっても、渦巻きや、はね上がる荒波に悩まされることはない。ウンセンガまでの一マイル半ばかりは、大河は静かにふかぶかと雄大に流れ、右岸はすばらしいキャンプ地になっている。
ワンワナ人は相変わらず原住民たちから窃盗《せっとう》をやりつづけていて、ここでも二人がニワトリを盗み、女たちに乱暴しようとして捕えられた。それで探検隊から多額の身代金を払って、二人は引き取られたが、そのために探検隊の財政状態は破産にひんしてきた。私はまた一同を戒め、今後そんなことをすれば、捕えられたまま放棄しておくより仕方がなくなるだろうと告げた。罪を犯した二人のうち、一人は潰瘍《かいよう》、もう一人は慢性的な赤痢の苦悩に駆りたてられていたのだった。赤痢は多くの者たちを苦しめ、食糧の欠乏はみんなを痩《や》せこけさせていた。
コンゴやゾンボのバコンゴ族やバゾンボ族の連中が、ここから東へ近距離の商売に出かけようとしていた。彼らの大きな目や赤褐色の顔色を見た私は、むかしポルトガル人と原住民とが混交した結果だろうと思ったが、その印象はまちがっているとしても、顔だちのととのった明るい褐色のバコンゴ族やバゾンボ族は、とくに研究する値打ちがある。彼らは黒人ハブウェンデ族やバセッセ族やバテケ族より背が低い。
これまで彼らの取引地であったところへ白人の商人《ムンデレ》がきていると思った彼らは、おもしろくないらしく、ひどくいかめしく頭を振って、話していた。
「白人が現われて、ひどい目にあわされなかった国はないから、いまにこの国も破滅させられるだろうよ」
七月十日、われわれはウンセンガ山のふもとまでくだり、あくる日は、あちこちに流れの上へ突き出て急流をつくりだしている頁岩《けつがん》の岩脈に、しばしば邪魔されながら、ウンソロカの高い山の崖下に着いた。
十三日、ルカル岬から、マンサウ瀑布とマトゥンダ急流の横手の水路を難なく通過した。そして好戦的と噂に聞いたカコンゴの地域へきた。しかし、多数の原住民たちは大河を渡ったが、すぐに仲よくなり、五人の男たちはウントンボ・マタカ瀑布まで案内しようと申し出た。これこそほんとうに最後の瀑布だという話だったので、私は「タッキー瀑布」にちがいあるまいと考えた。
マトゥンダの下流のウンゴヨで、大市場がひらかれて、われわれは布地やガラス玉、針金、銃、火薬などを提供し、それと交換にバナナやパイナップル、バンジョウ、ライム、タマネギ、魚、カサバ、パン、ナンキンマメ、その他の物品を入手した。
十六日、探検隊は案内の男たちにつきそわれて、大河の速い流れを三マイルくだり、ウントンボ・マタカ瀑布に着いた。三人の酋長の申し出を受け、あくる日も四百九人の原住民たちの協力をえて、ボートとカヌー群はみごとに瀑布の下流へ移された。一隻だけ小型のカヌーが沈み、彼らはひどくそれを気にしたが、私は気まえよく約束以上の報酬を与えたので、酋長たちはたいへん喜び、さらに三マイル下流の右岸までカヌー群を移してくれた。
二十日、マタ川の河口をすぎ、ウングフ・インチの急流を乗り越えて、われわれはキボンダの村の近くにたどりついた。
村は食糧が乏しく、住人たちは喧嘩ずきで、うるさくからむものだから、私はわずかばかりのナンキンマメしか入手できなかった。がまんしかねたワンワナ人の一人が、カサバの根茎を掘りにゆき、とがめられて、乱暴を働いた。村人たちはこの男の手足を縛り、村へ運んでいった。
それを聞いた私は、その事実を確かめさせるために部下をやった。すると、原住民の酋長や長老たちがキャンプへきて、身代金を要求した。それがとほうもないたいへんな金額で、探検隊の支払い能力全体の四倍にものぼった。われわれは、なんとかその金額を引き下げさせようと骨をおったが、だめだった。探検隊の班長の一人が、捕えられているハマディを返してくるまで、キボンダの酋長を引っ捕えておこう、ときり出したが、私は拒否した。探検隊の財政が底をついて、ハマディの自由を買いとることができないからといって、暴力を用いるのは不当な行き方にちがいなかった。だから、ハマディは捕えられたままに放棄された。
これでワンワナ人も、原住民たちのものを盗もうと企てたりしないようになるだろう、と私は思った。ところが、二十四日、三マイル半くだってカルブへゆくと、また一人の男がニワトリと布地を盗んで捕えられた。私はその処理を班長たちに任せ、もし捕えられた男の自由が買いとれるならば、探検隊の資産の半分は提供しようといった。だが、彼らがその男をとり返すために戦う決意をするならば、私は自分に従う者たちだけを連れて大河をくだることにしたいと告げた。班長たちは満場一致でその男を放棄することに決め、その決定は一同の面前でおごそかに伝えられた。
二十五日、探検隊は四マイルくだり、またもや危険なイトゥンジマ瀑布に到達した。あくる日、八時間にわたる汗みどろの努力をして、下流の美しい屈曲地点に野営した。ここのキャンプで、はじめてわれわれはイェララ瀑布の名を知っている原住民たちに会った。ところが、彼らはイトゥンジマ瀑布の下流に、まだいくつもの瀑布があると話した。
それを聞いた私は、ついに「タッキー瀑布」を捜し求める考えを放棄した。そして「サンガラ」という瀑布を知っている者はないかとたずねた。それは誰も耳にしていなかったが、「イサンギラ」なら知っていると彼らはいい、大河を五日くだればゆき着けるけれど、とてもあぶないから、原住民は誰も水上をゆかないと告げた。
食糧が乏しく、肉体的にも弱りきっていたワンワナ人は、もう海は遠くない、と私が告げると、激しい感動に打たれた。なかでも、ヴィクトリア湖周航当時のボート長サフェニは歓喜にのぼせあがり、言動がめちゃくちゃになってきた。だが、彼が狂っているなどとは、私には思いもよらなかった。彼は私に進み寄り、両足を抱きしめていった。
「ああ、隊長! われわれは海へたどりつきました。もう故郷へ帰ったんです! もう帰ったんですよ! もうこれからは、空腹にも、呪わしい蛮人どもにも苦しめられることはありません! わしは海まで走ってゆき、隊長が近づいていることを白人たちに知らせるつもりです!」
彼は涙を流したり、ひどくそうぞうしくふるまったりしたが、それは極端に感動し、神経が興奮しているせいだろう、と私は思った。しかし、彼は自分のオウムを肩にとまらせ、森林へ駆けこんでいった。ちょっと考えめぐらしてから、あの男は狂っているのだと私は気づき、ただちに三人の男たちをやって、彼を連れもどらせるように手配した。しかし、四時間捜しまわったが、彼は見つからなかった。もっとも、数日間もかけて捜索すれば、彼を連れもどせたかもしれないけれど、なにしろ探検隊全体に餓死《がし》がせまっていたから、われわれは急がないわけにいかなかった。
七月二十六日、観測してみると、南緯五度九分の地点にあった。野生のオリーヴや林の木々が立ち並ぶ左岸ぞいに、四マイルくだったわれわれは、台地がまた岸へせまり、小さな川が流れこんでいる地点に着いた。そのすぐ下流に、またまた瀑布の音が雷のようにとどろくのが聞こえた。大河の真中に大きな岩山がそびえ、右がわの流れは通過不可能だったが、左がわの急流を探検隊の全員はボートとカヌーに乗りこんだまま、無事に走りくだった。
二十八日朝早く、短い距離をおいて連続する四つの急流を通過し、南緯五度十九分に達した。両岸の台地や南北に走る尾根の風光を探る機会にもめぐまれていたが、すべての状況がそういうことには向かなくなっていた。いまでは、私がインド洋から出発したときの新鮮さも情熱的な気持も、すっかり磨滅《まめつ》していた。幾多の艱苦《かんく》、心労、空腹のために、心身ともにまいりこんだ探検隊の連中は、うめき声をあげ、若々しい活気も、燃えさかる熱情もなくなり、落ちくぼんだ目をして、血色が悪く、言いようもなくみじめな顔つきをしていた。それでわれわれは、圧倒的な自然の情に屈して、ただ一つの想念……いまひとたび青い大海を見たいという想念だけを、ひたむきに追求してゆくことにした。
かなり静かな水域を一直線に進んでから、絵のような岬をまわり、左岸に野営すると、激しい空腹に駆られて、まもなく探検隊の連中は、キロロ地方に散らばっていった。どんなことが起こったのか、私は知らない。おそらくおうへいな原住民たちにいじめつけられ、飢えにせまられた探検隊の者たちは、前後の考えもなくなり、代価を払わずに食物を手に入れたのだろう。
私が右岸からきた原住民の群れのなかに腰をおろし、彼らが海岸で会った白人たちのことを話したり、ボマに私自身と同じような白人たちがいると告げたりするのを聞いていると、台地の畑のほうから銃声がひびいた。
まもなく、探検隊の者たちが銃傷を受けてもどり、ウレディも原住民たちに捕えられかけた男をかついでもどってきて、カサバやバナナを盗んだというので数人つかまえられたと話した。
「どうして君たちはそんなことをしたのだ?」
「どうしようもなかったんです」一人がいった。「飢え死にしそうになっていたんですよ、隊長。誰もみんな、ガラス玉や金を地面においておき、食い始めたら、蛮人どもが撃ち始めたんです」
そう話している最中に、原住民たちの大群が現われ、たけりたって、弾丸をこめた銃を振りまわして戦いをいどんだ。探検隊の斑長たちは急いで銃をとり上げ、防衛にかかろうとしたが、私は彼らを制止し、右岸からきていた原住民たちに口をきいてもらった。
そしてがまん強く、腰を低くして二時間頼みこむと、やっと復讐心に燃えた原住民たちも気分をやわらげて、引きあげていった。
あくる朝、私が探検隊を集めてみると、七人が傷を受け、三人が捕えられていた。ほんの半時間、われわれがすばしこく活動すれば、捕えられている三人を奪還できるばかりでなく、多量の食糧も獲得できたであろうが、そんな行き方は探検隊の原則に反するものだった。探検隊が武器をとるのは、キャンプや隊員が理不尽な襲撃をうけたり、野蛮な暴虐《ぼうぎゃく》に抵抗したりする場合にかぎられていた。事情を考えれば、飢えた人間たちが食糧を手に入れようとしたのは、とがめだてできかねるけれど、われわれとしては、彼らの苦悩に対して同惰しか与えることはできなかった。悲愁の思いにみたされながら、われわれは彼らを暗い運命のままに放棄して去っていった。
(捕えられていた三人のうち、アリ・キボガは脱走し、ポルトガルの砲艦にアンゴラのルアンダへ運ばれ、そこからアメリカのコルベット艦にセント・ヘレナへ乗せてゆかれ、さらにケープ通いの汽船にケープタウンへ無料で便乗させてもらい、合同汽船会社の代理人の好意によって、カフィル丸でザンジバルに向かった。その途中、カフィル丸は難破したが、アリ・キボガは助かった、というケープ・タイムス紙の一八七八年二月十九日付の記事を、後になって私は見たのだった…原注)
七月三十日、われわれは進みつづけた。大河の幅は千八百ヤードばかり。水流は北西よりすこし北へ向かっている。いくつかの急流を難なく乗り越えた探検隊は、一直線に進航した。小さな川がゆるやかに流れこんでいる左岸の曲がりめから、大河は南南西へ方向を転じている。このあたりから、二マイル下流の瀑布の音がすさまじく聞こえ、そこから薄霧が立ちのぼり、ときおり水煙が高くはね上がるのが見える。その左がわには、険しい山の肩がそびえている。用心ぶかく近づいていったわれわれは、イサンギラ瀑布、つまり一八一六年コンゴ探検隊のキャプテン・タッキーが「第二サンガラ」といった瀑布の五十ヤード上手に着いた。
岩石の段丘の下の砂地に囲まれた入り江に、ボートとカヌー群を入りこませてから、われわれはイサンギラ瀑布を踏査した。左がわの山の頂上は九百フィートぐらいはあろう。右がわからは千二百フィートの台地の下部から、あらわな岩石の段丘が低く突き出ている。瀑布は三日月形になっていて七カ所に岩石が突起し、右端に近い水流は十フィート落下し、そのすぐ下でまた八フィート落下している。左がわの水流は絶壁にぶち当たり、南西よりすこし南の方向へ急角度に曲がり、高く大波をはね上げながら、すさまじく流れ落ち、一マイル半の激流となり、瀑布の南の左岸の深淵へ流入している。この深淵に面した突角へ進み出た私は、大河が西へ向かいつづけているのを見てとった。この瀑布の付近には熔岩《ようがん》の形跡が多く、向こうがわの絶壁の岩には、猛烈な噴火の影響が見える。
ここに二時間ばかり休止しているうちに、近くの住民がやってきて、まもなく親しくなったが、不運なことに、彼らはナンキンマメと苦いカサバとすこしばかりのバナナしかもちあわせていなかった。二頭のヤギを手に入れるのに、おそろしい高値を払わねばならず、ひとつかみのナンキンマメに、首飾りを一つ出さねばならなかった。宝貝は無価値だった。
ここからボマまで、わずか五日でいけると聞かされて、われわれは喜んだ。また、このイサンギラ瀑布の下流には三つの大きな瀑布があり、急流はいくらでもあるということも聞かされた。下流の三つの瀑布はウンソンゴ・イェララと呼ばれていた。
もはや私は、このイサンギラ瀑布がキャプテン・タッキーの「第二サンガラ」であり、ウンソンゴ・イェララがキャプテン・タッキーのサンガ・イェララであることを、疑問の余地もなく確信できた。このようにして、大河をくだってきた目的は達成され、リヴィングストンが探検しようと希求してやまなかった大河と、キャプテン・タッキーが一八一六年に探検したコンゴとがむすびつけられたので、私はもうこれ以上大河をたどってゆく必要はなく、わずかばかり残っている活力を下流の瀑布を苦労して越えるのに費消するにもおよばないと断定した。それで私は、勇敢ながらも疲れきっている探検隊に、もうわれわれは大河をたどるのをやめ、陸上をボマへ向かうことにしようと告げた。一同は歓喜の叫びをあげ、熱烈にアラーの神に感謝した。食費も四倍、おのおのの男、女、子どもに配布されたが、原住民たちのぬけめのない商魂や貪欲《どんよく》な根性にしてやられて、飢えかけているワンワナ人たちにはあまり利するところはなかった。
それから、装身具類も、槍も、小刀も、斧も、銅や真鍮《しんちゅう》の針金も、みんな彼らに配布し、三十本の薬びんも空っぽにし、私個人の布袋も、毛布も、防水服も、なくても済ませるすべての物品が、ことごとく頭割りに分け与えられた。そして七月三十一日は、それらの物品と食糧との交換日となったのだったが、夕方までかかって、それらの物品の十分の一の価値の食糧すら入手したワンワナ人はほとんどなく、そんなにして入手した食物にしても、肉体の弱った人間たちにはまるで不向きなものだった。
日没にわれわれは勇敢なボートを引き上げ、瀑布から五百ヤードばかり北の岩石の頂上へ運び、その運命のままに任せることにした。このレイディ・アリス号は三年前に建造し始められ、二年前のいまごろはヴィクトリア湖岸の絶壁ぞいに航行していたし、それから十二カ月後にはタンガニカ湖の周航を終えようとしていた。そして一八七七年七月三十一日、広漠としたアフリカを約七千マイル旅した後、いまや憩いの場所に安置されたのである。やがて風雨にさらされ、朽ち果てて塵《ちり》と化してゆくであろう!
[#改ページ]
十五 さらば大河よ
八月一日、やつれ、弱り、苦しみながら、探検隊はイサンギラの段丘を越え、台地へのぼっていった。約四十人が病人で、赤痢《せきり》、潰瘍《かいよう》、壊血病《かいけつびょう》に悩まされていて、とくに壊血病は刻々増加していた。しかも、私の激励の叫びに、彼らが元気に呼応するのを見ると、私は誇らかに微笑するのだった。
そして台地をふみ越えたけれど、酷薄《こくはく》な原住民たちは、報酬を提供しても、われわれをつぎの村へ案内してくれようとはしなかった。われわれがこの地域の端の村へ入りこんだとき、ふいに原住民たちが激しい口調で呼びかけた。そして年寄った首長が五十人ばかりの原住民を引き連れ、せわしく私に近づき、道に腰をすえた。四十人が銃を持っていた。
「わしがこの国の王であることを、おまえは知っておるか?」落ちつきはらった、しかつめらしい調子で彼は聞いた。
「それは知らなかった」私はおだやかに答えた。
「わしは王じゃ。わしに貢物を納めずに、よくもわしの国を通り抜ける気になりおったもんじゃの?」
「いったい、この商人《ムンデレ》はどんなものをあげればいいのか?」
「ラム酒。ラム酒の大びんを出せば、おまえは通りぬけごめんじゃわい」
「ラム酒?」
「いかにも、ラム酒じゃ。わしは、この国の王じゃでな!」
「ラム酒ね!」私は小首をひねった。
「ラム酒、あれはええもんじゃ。わしの大好物での」と彼は品の悪い横目を使った。
ウレディが進み出てきて、激しく聞いた。「この老人は何を要求しているんですか、隊長?」
「ラム酒だよ、ウレディ。考えてもみるがいい!」
「このラム酒をくらわせましょう」とウレディは相手のやんごとなき顔に平手打ちをくらわせた。すると、床几《しょうぎ》のすわりが悪かったものだから、年寄った首長はばったり倒れた。
当然、これは無礼な行為だったので、私はウレディをしかった。しかも、どうやら彼はその大胆さでわれわれを難関から脱出させたようだった。老首長と家来どもは、急いで自分の村へ駆け帰った。村はたいへんな興奮にわき返った。だが、その結果を、われわれはのんべんだらりと待ちうけてはいなかった。
うねる尾根の上へのぼると、われわれがながいあいだ流れくだってきた戦慄の大河が、やはり白く泡だちながら、暗い峡谷を海のほうへ奔流してゆくのが見えた。われわれは山峡へくだり、険しい傾斜面をのぼり、くだったり、のぼったりしながら、難儀《なんぎ》な小路をたどりつづけた。午前十一時、ヤンギ・ヤンギという千二百フィートの尾根に達し、一時間十五分後に、ウンダンビ・ムボンゴの村の南のささやかな高原に野営した。
酋長たちが、時代物の緋《ひ》の戦衣をまとって現われた。われわれはガラス玉を出して食糧を求めたが、だめだった。針金も、宝貝も、彼らは受けつけようとせず、「布地は?」と聞くと、「市日まで三日待たなくちゃならん! おまえらがラム酒を持っているのなら、ふんだんに物が手に入れられるんだがな!」
ラム酒! 三年八カ月前に東アフリカの海岸をあとにしてきたわれわれに、ラム酒を要求するとは! しかも、彼らは暴慢ではなく、無感情なのであり、おうへいではなく、鋼鉄のように利己的なのであった。
彼らの話によると、強健な男なら、三日でボマへゆけるというのだった。食物や慰安から離れているのも、もう三日!
あくる朝、まだほの暗いうちに、われわれは出発し、空腹をがまんしながら、けんめいに悪路を歩き、やっと八マイル進んで、渓谷に野営し、水を飲んだ。三日めの夜、ウンサンダの村から二百ヤードほど離れた地点に野営していると、シュロ酒に酔った壮年の首長が現われた。彼は親切気があって、人づきあいがよく、笑ったりおもしろい話をしたりした。もちろん、彼はボマを知っていて、しばしば出かけ、多量のナンキンマメを売ってラム酒に代えていた。
急に私は思いついて、探検隊の三人を連れ、ボマへ手紙を持っていってくれまいか、と彼に聞いた。彼は自分自身で乗り出していくには偉すぎたが、あした若い者二人をやろうといった。揚げ物にしたバナナ三つと、煎《い》ったナンキンマメ二十個と、にごった水を一ぱい……これがいまの私の常食となっていたのだが、こんな夕食をすませると、私はボマの英語を話す紳士を目当てに、つぎのような手紙を書いた。
[#ここから1字下げ]
私は男、女、子どもをふくめて、百十五人とともに、この地に着いています。われわれはいま、餓死にせまられているのです。原住民たちがわれわれの持っている種類の布や玉や針金を受けつけないので、なにも買うことはできません。この地では、市日以外に食糧は入手できませんが、飢えている人間たちはその日を待てないのです。それで私は思いきって、この手紙を使者に持たせてやり、貴下の救援を懇願する次第です。
私は貴下を存じあげておりませんが、ボマには一人のイギリス人がおられると聞かされたのでした。貴下はキリスト教徒であり、紳士であられるからには、どうか私の要請をお聞きとどけくださるよう、願いあげます。われわれは貴下が扱っておられるような質の布地の供給を受けたいとも思いますが、なによりも望ましいのは、危機のせまっている胃袋をただちにみたすことができる米とか穀類です。布地で食糧を入手するにしても、時間がかかり、飢えている人間たちは待てないからにほかなりません。食糧は二日以内に到着する必要があります。さもなければ、死んでゆく者たちのただなかで、私は断腸の思いをしなければならぬかもしれません。もちろん、この件のために貴下が負担されるどんな経費に対しても、私自身が責任をおいます。いま必要なのは、緊急の救援です。どうか、貴下が全力を駆使して、ただちにこれを実行してくださるように懇願いたします。頓首再拝。
一八七七年八月四日 ウンサンダの村にて
アングロ・アメリカン・アフリカ探検隊隊長
H・M・スタンレー
[#ここで字下げ終わり]
ボマにはイギリス人が一人、フランス人が一人、ポルトガル人が三人いると聞いたので、私はフランス語でも一通、ポルトガル語の代りのスペイン語でも一通、手紙を書いた。
班長たちやボートの乗組みをテントへ呼んで、私は実情を話し、あらゆる傷害を突破して、急速に使者の役目がやれそうな者たちの名まえを知りたいと告げた。ウレディがとび上がって、まっさきに名のりをあげ、つづいてカチェチェ、ムイニ・ペンベ、ロバート・フェルジが、ゆきたいといった。
「よろしい。ちょうど私の望むとおりだがな、ロバート、君は三人の男についてはいけまいよ」
「なあに、この若いのがまいりこめば、われわれがかついでゆきますよ」とウレディがいった。「なあ、カチェチェ?」
「そうとも」カチェチェが決然と応じた。「われわれはロバートを連れていかなくちゃならない。さもないと、白人たちはわれわれのいうことを理解しないかもしれないからな」
あくる日、二人の案内役がきたが、ぐずついて腰を上げず、ウレディがいらだって、おれたちだけでいくといきまいた。やっと正午に、案内役と使者の一行は出発した。
探検隊の強健な若い連中は、布や玉を持って八方へ飛び、食糧の買い出しにけんめいになった。午後遅く、へとへとになってもどった彼らは、貧弱なナンキンマメの包みを三つ四つと、各人に小さいのを三つずつ分配できるだけのサツマイモしか入手していなかった。それも二十倍の値段で買い取っていたのだった。しかし、それでわれわれは死からまぬがれることができた。そして五日の朝、探検隊はものうい足を引きずって、待ちうける救援へ一歩でも近づこうとした。
尾根にそって渓谷へくだり、草の茂った高地へのぼり、南ウンサンダともいえる村から二百ヤードばかり出離れたとき、多勢の群集を従えた一人の権力者が、われわれのほうへ進んできて、貢物を納めずに、なぜ通過したかと聞いた。
「貢物! なんのための貢物か? この人間たちを見よ。骨と皮だ。食糧不足のために、君の国で死にかけているんだ。引き下がったほうが無事だぞ」
権力者はたけりたって、銃をとった。郎党どもも銃をかまえた。私は万一の場合にそなえて、戦闘態勢をとり、こちらの人間たちがやり始めたら、止めようがなく、ウンサンダの者どもを一人残らず食ってしまうぞ、と権力者に言い放った。最後の文句がすごくききめがあった。相手がわでは大声で相談が始まり、それがささやき声になって、まもなく権力者が「もうええわい」といった。それからわれわれは、たがいに歩み寄り、大笑いして握手した。
おりしも、われわれに案内役を提供した例の酋長が現われ、いきさつを聞いて、権力者にシュロ酒を大量に持ち出させ、それを「まわし飲み」して、われわれの友情を固めさせた。それで私は権力者に、ボマからラム酒を一びん送ろうと約束した。
十二マイル進んだ探検隊は、イクングの尾根の傾斜面をくだる途中で野営した。下方にムビンダの十八の村々が見えた。人口はざっと三千。以前この地方は、奴隷貿易と象牙の取引で生活の大部分をささえていたのだが、いまは奴隷の需要はなく、象牙も大もうけできるほど豊富ではなくなったので、原住民たちはボマのヨーロッパ人たちに供給するナンキンマメや、彼ら自身の酒をつくるためのシュロの栽培に力をそそぎ、マメやエンドウやサツマイモなどを自家用にすこしばかり作っている。
六日も、われわれは必死に歩きつづけ、バンザ・ムブコに近づいた。この地は繁栄しているようで、住民たちは美食をたっぷり平らげているらしかったが、まるでわれわれを他の世界の住民のようにながめ、どの顔にも同情の影も見てとれなかった。鋼鉄のような冷酷な目で見つめられていても、飢えている探検隊の者たちは非難がましい言葉ももらさず、ささやかなアカシアや潅木《かんぼく》のかげに、黙々と身を投げて休むのだった。
ときどき赤ん坊の泣き声や、飢えた母親のほそぼそとした声、年上の子どものかん高い叫びなどが聞こえたが、おとなたちはじっと自分の苦悩のなかに閉じこもっていた。若い連中や班長たちは、テントの近くに寄り集まって腰をおろし、子どものない女たちも二、三人ずつ身を寄せて、ささやきあっていた。むろん、探検隊の前途を話題にしているにちがいなかった。
突然、小さな子どもの鋭い声がひびいた。「ああ! ウレディとカチェチェがあの丘からおりてくるよ。たくさんの人たちもついてくる!」
「え! なんだって!」草の中からも、木かげからも、黒っぽい人影が立ち上がり、多くの瞳が白くかわいた丘の傾斜面へ向けられた。
「ああ、ほんとだ、ほんとうだ! おおアラーの神よ! ありがてえ! ありゃ食べ物だ! やっと食べ物にありつけるんだよ! ああ、あのウレディは本物のライオンだあ! おれたちは救われたんだぜ、ありがてえ!」
幾分間もたたぬうちに、ウレディとカチェチェが草を分けて、飛ぶような大またで近づいてきた。私に持参した手紙は、八月六日午前六時、ボマのイギリス商館ハットン・アンド・クックソン社で書かれたもので、同社の支配人A・ダ・モッタ・ヴェイガ氏とJ・W・ハリソン氏の署名がしてあった。至急に手配して、手持ちの布地や食糧を運搬させたと書かれてあり、探検隊の成功を祝し、ボマへの到着をお待ちするとあった。私はこの手紙を一同に翻訳して聞かせた。
それからウレディとカチェチェが経過を話した。例の案内役の二人はムビンダの原住民に威嚇《いかく》されて逃亡したが、四人のワンワナ人はひたむきに数時間一つの道をたどりつづけ、日が暮れてからビッビに着いた。
あくる日(五日)、ボマは川下だと原住民たちに聞かされて、案内人が雇えなかったので、コンゴ川の岸ぞいにくだっていった。いくつもの丘を越えて、日が沈んでから一時間後にボマに着き、ハットン・アンド・クックソン社を訪ね、眼鏡をかけた白人に手紙を渡し、ロバート・フェルジが質問に答えて、あらましを英語で説明した。そして三十余時間なにも食べていなかった四人は、ふんだんにご馳走を食べさせてもらったというのだった。
やがてハットン・アンド・クックソン社の運搬人たちの行列が到着して、探検隊の者たちが米や魚やタバコなどの荷をどんどん地面へおろしたが、ラム酒の篭入りの大びんだけはたいへん注意ぶかく扱った。班長たちが袋をあけ、食糧を分配しかけると、ボートの乗組みのムラボが高らかに朗々と歌い始めた。この吟唱詩人は即興的に、旅路の巨大な瀑布や、食人種、邪教徒、飢餓、荒野、大湖、貪欲《どんよく》な部族などのことを歌い、もはや旅は終わり、西の大海の微風がにおうと歌いあげた。一節の末尾ごとに、合唱の声々がさわやかに高まった……
[#ここから1字下げ]
では歌え、おお仲間よ、歌え、旅は終わったぞ。
たからかに歌え、おお仲間よ、
この大うみをたたえて歌え。
[#ここで字下げ終わり]
若い男や女たちは水をくみに出かけ、ほかの者たちは薪《たきぎ》を集めにかかり、キャンプは活気にみなぎった。すべての男たちに、ラム酒が一杯ずつ分配され、食べ物が急速にでき上がり始めると、私は自分のテントへはいった。私あてにとどけられていたいくつかのびんのレッテルを見ると、エール酒、シェリー酒、ポートワイン、シャンペンだった! 包みには一週間分ほどのコムギ粉のパン、バター二びん、茶、コーヒー、白い棒砂糖、サーディンとサケの罐詰《かんづめ》、プラム・プディング、干しブドウ、スグリとキイチゴのジャム!
ありがたいかな、飢餓や苦悩とのながい戦いは終わりを告げ、いまやわれわれは豊かな文明生活の領域ヨ入りこんでいたのだ。一同が飲んだり食べたりして、生き返った気分になると、布地の荷が開かれた。まもなく、一同はぼろになった古布を火で焼きすて、白い布や、はなやかなプリント物を身にまとった。あらわな肋骨《ろっこつ》や突き出た骨は、それでおおわれたけれど、くぼんだ頬《ほお》ややつれた顔が、栄養十分なアフリカ人らしく、健康な青銅色にかえるまでには、数カ月たたなければならなかった。
七日の朝、探検隊は出発し、半時間後に一つの市場に着いた。すると、その前日一人の女から塩を奪いとった二人の泥棒が、土地の慣習によって、ただちに市場で極刑に処せられ、その二人の死体が悪党どもへの戒めに、道の間近に横たえられていた。
正午に海抜千五百フィートの峠を越え、ウンランバ・ウンランバの村へはいった。人口が多く、家々や道路はたいへん清潔で、きちんとしている。が、昔から原住民たちは偶像崇拝なので、木像の彫刻に熱を打ちこみ、どの道路にもその証左が示されていた。
八日、海抜千百フィートの峠を越えて五マイル進んだとき、ボマへ感謝の手紙を持参していたウレディとカチェチェが、返書を持ってもどってきた。この返書に、モッタ・ヴェイガ氏は途中まで迎えにゆくと述べ、ボマにいるヨーロッパ人はポルトガル人が十一人、フランス人一人、オランダ人一人、セント・ヘレナからきている紳士一人、それに自分たち二人だけにすぎないと書いていた。
八月九日、探検隊がザンジバルを出発してから九百九十九日めに、われわれは文明の先駆《せんく》に出会おうとして、ウンサフの峠を越えていった。この峠からコンゴ川の流域のほうへ地形が傾斜し、一見したところ、土地がやせ、みすぼらしい寒村の人口は少ないようだった。傾斜した道を五百フィートばかりくだってゆくと、ハンモックが見え、驚くべき白さが光りきらめいた。探検隊の連中が、びっくりしてざわめいた。すこし進んでいって、われわれは休止した。そしてまもなく、私は四人の白人に直面していた……文字どおり白人だった。
彼らの顔を見入っていた私は、その蒼白さに驚いている自分に気づいて赤面した。あの食人種の蛮人たちの弓や引き金をひく手をとめたのが、なんであったか、たちまちその秘密が私の心にひらめいた。それこそは、私自身とフランクのぶきみな蒼白さにほかならなかったのだ! それと同じ筆法で、ボマの商人たちの蒼白い顔を見たとき、おぼえず私もかすかに身ぶるいした。濃い黒色や青銅色の顔ばかりながいあいだ見つめてきた目には、なにか名状しがたい底気味悪さが感じられた。彼らは病気にちがいないという思いから、私は脱却できかねた。
しかも、彼らの身ごなしには、なにかひじょうに沈着なところがあった。ひたむきな至情に多少の自負をまじえた態度だった。そんな態度には、アフリカのどんな部族のなかでも私は接したことがなかった。彼らはまた話し方がうまかった。そして彼らの軽快なムギわら帽、色物のネクタイ、エナメル革の靴、仕立てのいい白服という服装も、けだかく清潔だった。私は自分が彼らと同等の人間であるとはまだ思えなかった。彼らの静かな青や灰色の目はいささか私を畏怖《いふ》させ、真白な服は私をまばゆがらせた。しばらく私は、白人とアフリカ人をつなぐ一種の連結体であると思いこむことにした。親しみのほうが、大きな信頼を生み出すものらしい。白人たちは真情のこもった祝辞を述べ、私に「ボマの市民権」を与えた。
私はモッタ・ヴェイガ氏を筆頭とする白人たちと一マイル歩き、それからハンモックに乗せられて、ボマに入り、コンゴ川の右岸の高台に建てられた屋根の急な、四角い箱みたいな板張りの家に近づいた。アメリカで、文明の境界地帯のいたるところに見られるような家だった。まもなく、白塗りの柵のそばで、ハンモックはとまった。四角い二階建の家は、気味が悪いほど奇妙な姿でそびえていた。これがイギリス商館を運営している人たちの住居だった。
この家からながめていた私は、コンゴ川に目をすえた。ああ、おぞましい死の大河! いまはひろびろと誇らしげに、雄大な静けさを見せて流れている。友や忠実な多くの人間たちを私から奪い、たけりたって白濁の怒涛《どとう》をまき起こし、どよめきわたったことなどは、まるで忘れ顔である。それにしても、船着場のすぐ下流から一隻の汽船、カビンダ丸がのぼってくる。なんと急速に文明が私にせまってくることだろう! 横たわって休むまもない! 戦慄の過去をふり返って見る暇も与えず、文明は押し寄せてきて、みずからの支配下へ私を引きもどそうとする。そんな思いが、ひしひしと私の心にせまった。
われわれがボマにとどまっていたのは、九日の午前十一時から十一日の正午までにすぎなかったが、極度に楽しく愉快な時間の連続だった。
(私のために、小宴会が三回ひらかれて、すべての人たちが乾杯してくれたことを、私はたいへんありがたいと思った…原注)
ボマには商館が六つほどあって、みな板張りの建物で、たいてい波形の亜鉛板の屋根になっている。オランダ、フランス、ポルトガルの商館より数百ヤード上に、イギリス商館がある。それぞれの商館には、取引を行なう広々とした前庭がある。ここで綿織物、ガラス製品、陶器、鉄器、ジン、ラム油、銃、弾薬を、ヤシ油、ナンキンマメ、象牙と物々交換するのである。白人の商人たちは、収入の許すかぎり、安楽に暮らそうと工夫している。果樹や野菜やブドウを栽培している者たちもある。パイナップル、バンジョウ、ライムなどは、ヨーロッパ人の居住地の裏がわからすこし離れた地点で、隔日にひらかれる市場で入手できる。
十一日正午、探検隊はカビンダ丸に乗りこんで出帆した。そしてコンゴ川を三十五マイルくだり、日没前に右岸へ近づき、ポンタ・ダ・レンハのハットン・アンド・クックソン社の波止場に着いた。すぐ近くに、ポルトガル商館も二つ三つあって、くろぐろとしたマングローヴや森林を背景に、明るく灯をつけている。われわれはイギリス人のもてなしを受け、なごやかな一夜をすごした。
そしてまたカビンダ丸は進航し始めた。ボマからくだるとコンゴ川は広大な川幅になり、島々が多かった。見わたしていた私は、あの原始的なアフリカのただなかで猛獣のような蛮人たちを避け、島々のあいだを抜けていたころを思い起こした。そして失われた友たちと現在の歓喜を分けあえないことを思いめぐらしていると、私の目は涙にみたされた。
数時間後、われわれはひろびろとした河口を出て、大西洋へ進み入っていた。青くひろがる文明の領域だった! 私は雄大なコンゴ川をふり返り、さらば大河よ、と別れを告げた。その褐色の流れの中で千辛万苦《せんしんばんく》してきたのであったが、茫洋《ぼうよう》として果てしれぬ大海を前にしては、怖ろしかったその暴威《ぼうい》も、狂瀾怒涛《きょうらんどとう》も、ほんの微小なものとしかみえなかった。
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十六 故郷へ
コンゴ河口から北へ数時間航行し、探検隊はカビンダ港へ入り、ハットン・アンド・クックソン社のジョン・フィリップス氏らに迎えられた。私はフィリップ氏の庭をめぐらした住宅に泊められ、ほかの連中は港に面した大きなバラックふうの建物へともなわれた。
あくる朝、私が出かけてみると、ワンワナ人の一人が日の出ごろに死んでいた。もうなにも努力する必要がなくなって、急に気がゆるんだのが根本原因だった。私自身は新聞へ記事を書き送ったり、ながいあいだ音信を絶っていた友人知己へ文通したりしなければならなかったが、そんな刺激手段のない探検隊の連中は、ぼうっと知覚麻痺状態におちいり、それが致命的な結果をもたらしていたのだった。
「君たちはザンジバルを見たいか?」私は聞いた。
「ああ、あそこは遠い。いや、いってくださるな、隊長。わしらはもうあそこを見ることはありますまい」と彼らは答えるのだった。
「だが、いまのような調子では、君たちは死んでしまうだろう。心の目をさまし、気力をふるい起こして、男であることを見せなくてはならん」
「人間が神さまに逆らえますか? 誰が死を恐れましょう? 安らかに死んで未来|永劫《えいごう》休ませてもらいたいもんです」
彼らはものうく麻痺作用に身を任せ、生きることに無関心になりかけているのだった。この奇怪な疾患《しっかん》のために、やがて八人が死亡するにいたった。彼らの価値や美徳、堅固不抜の勇気、大胆な奮闘ぶりを、あざやかに覚えている私は、これを書きながらも、悲痛に打たれないわけにいかない。
探検隊は八日間カビンダに滞在し、好意的にポルトガルの砲艦に乗せられて、ポルトガル領アンゴラのルアンダへいった。そしてアンゴラ総督の肝《きも》いりで、全部の経費を植民地政府が負担し、探検隊は八月二十一日から九月二十七日まで滞在した。総督は私を砲艦でリスボンまで送ろうと申し出た。幾度も私は盛大な宴会に招かれた。政府の病院は探検隊の病人に開放され、われわれの住居の病室へも毎日医師たちが往診し、訓練された看護婦も配置された。
イギリス海軍の士官たちも、騎士的な好意を示してくれた。私は大陸を横ぎってワンワナ人を送り帰さねばなるまい、と思案していたのだったが、J・C・パーヴィス大佐がイギリス軍艦インダストリーでケープタウンへ航行するようにすすめてくれた。砲艦でリスボンへ送ろうという総督の申し出も、定期的に到着する郵便船も、ひどく誘惑的だったけれど、探検隊の現状を見ている私としては、彼らを置き去りにするわけにはいかなかったので、喜望峰まで同行してゆくことにした。
インダストリーの艦上でも、われわれは丁重な待遇をうけ、病人たちも手厚く診療された。十月二十一日、ケープタウンに着くと、F・W・サリヴァン提督から懇切《こんせつ》な手紙がきて、私は賓客《ひんきゃく》として鎮守府《ちんじゅふ》へ招待された。提督は探検隊をザンジバルへ送りとどける準備をすすめ、イギリス海軍省から許可の電報を受け取った。
ケープタウンからナタルに至るまでの南アフリカの植民地人たちから、われわれに殺到したすべての招待に応じられたら、われわれは幾百日もお祭り気分を楽しめただろうが、イギリス軍艦はわれわれの歓楽のためにぐずついてはいられなかった。しかし軍艦が再装備しているあいだに、総督夫人をはじめおえらがたの尽力によって、探検隊は盛大な歓待をうけ、健康も回復した。
はじめて汽車を見たワンワナ人は、ステレンボッシュの町まで時速三十マイルのスピードで乗せられてゆき、目を丸くして驚嘆した。さらに探検隊は快適なメリヤスセーターを着せられ、特別番組の劇場へ彼らだけで招待されて、演じられる曲芸に雷のような拍手かっさいをおくった。
彼らは私がザンジバルまで同行することを切望していた。それで私は、そうしようと彼らに告げた。それから彼らは、めっきり活気づいてきた、とインダストリーの艦長タイヤー大佐や士官たちはいった。
十一月六日、インダストリーは抜錨《ばつびょう》してザンジバルへの航海に出た。十二日、ナタルのダーバン港に投錨《とうびょう》し、石炭を積みこんだ。十四日までナタルの報道機関とダーバン市長が、われわれに賛辞をささげ、さかんな歓迎のもてなしをしてくれた。
それから十四日後には、ヤシの茂るザンジバル島が見えだした。そして午後には、われわれはまっすぐに港へ向かっていた。私はワンワナ人をながめ、みんなの心が歓喜にみたされているのを見てとり、数カ月を犠牲にして彼らを送りとどけたことが、十分むくいられたのを感じた。病気にかかっていた者たちも、ただ一人だけを残して、みんな回復し、ずっと元気な姿になっていたから、彼らが生ける屍《しかばね》のようによろめきながら、ボマの道を歩いたとは、とても思えぬくらいだった。
回復しなかった病人は、あの気が狂ったサフェニの妻ムスカティだけであったが、ふしぎにも、彼女は自分の父の腕に抱かれるまで生きていて、近親や友だちに見守られながら死んだのだった。だが、他の探検隊の全員は、元気いっぱいに張りきって、幸福に輝くばかりだった。
なじみぶかい入り江や芳香のにおう浜辺、ムブウェンニの赤い色の絶壁が近づくと、彼らはおどり上がって喜んだ。もう見ることはあるまいとあきらめがちだった故郷を、彼らはまた見たのだ。盛り上がるウィレズの尾根、そのふもとに彼らの家々があり、ささやかな庭もある。サンディ岬から彼らの住むウンガブまで、大きくうねる地形のたたずまいも、すべての家々も、茂るヤシやマンゴーの木々も、すぎ去った日々の思い出にみちあふれている。
艦長は彼らを艦上に待たせてはおかなかった。ただちにすべてのボートがおろされて、彼らはどっとタラップへ押し寄せた。私は第一番のボートに乗った者たちを見つめた。
浜辺にいた連中は、白シャツを着てターバンをまいた男たちが、こんなにたくさんイギリス軍艦から上陸するのに、びっくりしていた。奴隷たちなのか? いや、それにしては身なりがよすぎる。そんなら、いったい、なんなのか?
ボートの竜骨が浜にふれた。待ちかねていた男たちは、ボートから浜へとび上がり、故郷の島の砂の上で、狂喜の乱舞をやった。それからひざまずいた彼らは、なつかしい大地に頭を下げ、熱烈にアラーの神に感謝した! いまこそ彼らは、故郷へ帰ってきた甘美な満悦感を、心ゆくまで味わうのだった。
「スタンレー隊長の探検隊が帰ってきたぞ!」
うれしい知らせが浜辺にひびきわたった。
たちまち友人知己や土地の人々が、わっととび出してきて、口々にやっきに問いかけた。
お前らはどこへいっていたのか? どうして軍艦に乗ってきたんじゃ? どんなことを見てきたのか? 誰が死んだのか? あの人はどこにいるの? ニャングウエを越えて向こうがわの海へ出たんだって? ひえー、たまげたなあ!
ボート群はしきりに往来した。
帰郷した勇敢な連中は、ぞくぞくと浜へとび上がり、踊りまわって、握手したり、しっかり抱きあったりした。彼らは文字どおり、たがいの腕のなかへとびこんでいた。うるんでいる瞳も多かった。死や災難や苦悩の怖ろしい物語が、舌べらのたっしゃな者たちからいくつか話されていた。幾千も幾万ものこまごました事件の詳細は、明日から毎日、これから幾年間にもわたって語りつづけられるのだった。
まもなく軍艦は、毛色の変わった乗客たちをすっかり陸へ揚げた。私も上陸して、旧友オーガスタス・スパーホーク氏の家へいった。探検隊の連中が友人知己や近親たちと会って、くりひろげた種々さまざまな場面は、すべて省略するが、探検隊の若者たちのうちでも、ひときわ聡明で、たくましく、輝かしい目をした若者マブルキが、つぎの日に話したことだけ、記しておきたい。
「どうだ、マブルキ、おかあさんに会ったか?」
その会った模様を私がたいへん知りたがっていることが、マブルキにはわかった。ときどき彼は、もう母には会えないだろうと絶望していたからである。顔面の緊張をゆるめた彼は、幸福感にみちあふれているように、両眼から光を放ち、かすかにうなずいて、急いで答えた。
「はい、隊長」
「おかあさんはとても元気か? どんな様子だね? 自分の息子がこんな大きな、たくましい若者になっているのを見て、どういったか? すっかり話してくれたまえ」
「ええ……でも、もう母はすっかり年寄りになっています。はじめ僕が、母にはわかりませんでした。僕はいちばん先に上陸した組で、いっさんに家へ駆けつけ、さっと入口の戸をあけたのです。母はすわって、一人の友だちと話していましたが、『誰?』と声をあげました。
『かあさん、僕だよ。僕だよ……マブルキだよ、かあさん。大陸から帰ってきたんだよ』
『なんじゃって! わしの息子のマブルキ!』
『そのとおり、僕だよ、かあさん』
母は僕が帰ってきたことをほんとうとは思いかねました。なんの知らせも受けていなかったからです。しかし、まもなく近所の女たちが集まってきて、家のなかがいっぱいになり、誰も彼もが、みやげ話を聞きたがりました。そして夜遅くまで、みんな声をあげたり笑ったり、早口にしゃべったりしつづけました。母は僕のことをとても得意がっていましてね、隊長。食事の用意ができあがったときには、二十人以上の人たちが相伴《しょうばん》しました。みんながこう言いましたよ。
『ああ! おまえはたしかに男にちがいない。いままでどんなアラブ人が出向いたところよりも、ずっと遠くへいってきたんだからなあ』」
私は四日間をかけて、探検隊の全員に支払う巨額の金を入手した。また死亡者たちの近親縁者たちにも、彼らの要求の正当さを証言する三人の証人を用意して、スパーホーク氏の家へ出頭するように伝えられた。
五日めの朝、アングロ・アメリカン探検隊の男や女や子どもたちが、幾百人もの友人たちにつきそわれて、街路から広い部屋部屋にみちあふれて、艱苦《かんく》の結晶の報酬を受け取り始めた。
女たち十三人は、ながい旅路の疲労に耐え、未開の奥地の荒涼としたキャンプを、故郷の村にも似たなごやかなものにし、夫たちを励まして、あらゆる苦難をつらぬいて責務を遂行させてきたのであるから、みな報酬を与えられた。
斑長たちの子どもたちも、ザンジバルから大西洋まで探検隊に同行し、子どもらしく無邪気なおしゃべりをしては、しばしば大陸の真中で私を慰め、責任の重荷を忘れさせてくれたのであってみれば、報酬を与えられないはずはなかった。また小さな赤ん坊たちにしても、あの瀑布地方の陰鬱な悲劇的な場面のなかでこの世に生まれ、驚きの目を見開いて、いま歓喜する男女の集まりへ声をあげてきたのだから、この最後の総決算でほうびを与えられないはずはなかった。
つぎの支払日は、忠実な死亡者たちへの報酬|供与《きょうよ》に当てられた。彼らは予想外の熱意と誠実さと無限の信頼をもって、死にいたるまで私に従ってきてくれたのだった。たしかに、しばしば黒人の性情を強烈に現わしはしたものの、それも結局、人間の性情にほかならなかった。彼らはみずから英雄であるなどけっして誇りはしなかったが、広漠とした未知のアフリカ大陸で、千態万様《せんたいまんよう》の戦慄すべき事態に対処しながら、真に英雄的な資質を発揮していたのだった。
彼らの妻たちがつぎつぎと出頭した。死亡者の名まえに接するごとに、過去の悲愁が思い出された。激しい痛恨《つうこん》が私の胸によみがえった。私の見る顔々は悲しげに、じっと感情を抑制していたし、私自身も悲しく抑制していた。このような共通の心情が、おたがいのあいだにあったので、すぐに満足すべき了解が成りたった。どの女たちもたいして説明を必要とせず、証人も一人で十分と見なされて、それぞれ金を供与された。しかし、男たちのなかには、なかなかめんどうな者たちもあった。どうも身元がはっきりせず、探検隊の連中も縁故関係を保証せず、相当な地位の人もまるで知らない者たちだった。数人の者たちは、知り合いであったとか、同一の主人の奴隷だったのが、その主人が死んだのでいっしょに自由人になったとか、そんなことを根拠に金を要求した。両親や実の兄弟は、たやすく見きわめがついた。このような要求の査定が五日間つづいた。それがすむと、アングロ・アメリカン探検隊は解消した。
十二月十三日、イギリス・インド汽船会社のパックンバ丸が、ザンジバルからアデンへ向かって出帆する予定で、ウィリアム・マッキノン氏がその船の特等室を私のためにとっておいてくれた。私に従ってアフリカを横断した連中は、みな私の出発を見送るのに間にあうように、朝早くから家を出てきていた。誰も彼も、お国ぶりの麗しい衣裳をまとい、軽いステッキを手にしていた。私がたずねてみると、すでに数人はこんど得た報酬で、ちょっとした資産……家と庭を手に入れ、あのながい旅路は苦悩や酷烈な体験とともに、たぶんに節倹《せっけん》や知恵ももたらしたことを証明していた。
私がボートへ乗りこもうとしたとき、勇敢な忠実な連中は、私の前へ駆け出し、ボートを海へ押しやって、私を彼らの頭上へ差し上げ、寄せては砕ける波のなかを運んでいって、ボートに乗せた。
幾百回も握手しあってから、やっとボートは出発した。私が見ていると、彼らは集まって相談し、まもなく浜辺を走って、二十トンの運送船に乗りこみ、私を追って漕いできた。
そんなにしてパックンバ丸へ漕ぎつけた彼らは、ウレディをはじめ、カチェチェ、ロバート、ザイディ、ワディ・レハニを代表として船上へよこし、こう私に告げさせた。
「われわれは、いまもなお、あなたをわれわれの隊長と考えています。無事にあなたが故郷の国に到着したという手紙を、あなたから受け取るまでは、ザンジバルを離れないつもりです。あなたはアフリカをまわって、はるばるわれわれを故郷へ送りとどけてくださったのですから、あなたが故郷の国に着くまでは、われわれは新たな大陸の探検に出向こうとは思いません。あなたが自分の故郷へたどりつくために、われわれの助けを必要とするならば、われわれはあなたに力をかすつもりです!」
純真な、大らかな心の人間たち!
彼らとの別れは、甘美なかなしい瞬間だった。ながいながいあいだの真の友情は、ここで断ち切られてゆくのだった。なんと不可思議な人生の有為転変《ういてんぺん》のなかを、彼らは私に従ってきたことか! なんと波瀾万丈《はらんばんじょう》の千変万化の場面を、われわれはともに見つめてきたことだろう! なんと気高い誠実を、これらの無教育な人間たちは発揮してきたことか!
班長たちは一八七一年ウジジへ私に従っていった者たちだった。彼らは私の姿を見たリヴィングストンの歓喜を目撃していた。最後の宿命的な旅へ出かけるリヴィングストンの護衛を、私が頼んだのも彼らであったし、ムイララで彼の死体のそばで哀悼したのも、その偉人の遺骸をインド洋へ運んだのも彼らであった。
突然、大暴風雨にも似たすさまじい年月の記憶が、どっと私の心によみがえった。これらの雄々しい連中……いま私から別れ去ってゆこうとしている連中が、あくまで誠実に私を助け、みごとに突破してきた危機や大嵐のパノラマだった。これらの男たちや女たちが私とともに、人間や大自然と戦い、同生共死の純情によって私を慰めてくれたすべての場面が、天啓の幻のように、急速に私の心をよぎった。
私の眼前にあるどの顔も、みななにかの事件、なにかの危難とむすびつけられていて、私になにかの場合の勝利か損失かを思い起こさせるのだった。心にひらめく苦難にみちた過去の追想は、なんという狂おしくぶきみなものであろう! まるで悪夢にも似ている!
しかも今後、幾年も幾年もにわたり、ザンジバルの幾多の家々で、われわれの大いなる旅路の物語が語られ、それに登場するすべての人物は、その同族の英雄となるであろう。私にとっても、彼ら無学のアフリカの子らは、みな英雄である。あのイトゥルで蛮人たちと最初の死闘を決行してから、最後にボマへよろめきながら入りこんでゆくまで、彼らは古つわ者たちらしく、私の声に応じて奮いたち、危急存亡《ききゅうそんぼう》のときにのぞんで、けっして私の期待にそむいたことはなかった。そのようにして、彼らの誠実な心と、積極的な行動に助けられて、探検隊は使命を達成し、黒い大陸の地理学上の三大問題も正しく解決されたのであった。
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解説
本書『黒い大陸』(一八七八年)は、スタンレーの第二回アフリカ探検の手記で、彼の多くの著書のうちでももっとも有名であり、いまなお、ひろく読まれる探検記として、すぐれた古典の一つにかぞえられている。リヴィングストンの遺志をついだスタンレーが、なお多くの未知を秘めたアフリカ大陸を、自力のおよぶかぎり見きわめようと、アングロ・アメリカン探検隊の隊長として、ザンジバルにその巨歩を印したのは、一八七四年九月のことであった。同年十一月には、ついに、アフリカ大陸に入り、ヴィクトリア湖、タンガニカ湖をきわめ、コンゴ川をくだって、一八七七年八月九日、出発以来九百九十九日めにして、大陸を横断し、ボマに到着した。そしてさらにコンゴ川を七十マイル下航して大西洋岸に達したのである。その全行程は、じつに七千百五十マイルにもおよんだといわれる。
スタンレーは白人として、はじめてアフリカ大陸横断を企てたのであり、その道行きはまこと想像を絶するものであったことは本書が如実に語るとおりである。不必要なまでに周到な準備と、綿密慎重な進行計画をもってしても、なお、予測をこえたいろいろな事故が起こりがちだった。
探検隊に随行した大多数は現地で雇傭《こよう》した原住民で、彼らが、迷信ぶかく無知蒙昧《むちもうまい》であったことも、スタンレーの探検を必要以上に困難なものとした。なにかといっては、ものにおびえ、尻ごみをし、ささいなきっかけからも四分五裂の混乱におちいり、あげくの果ては逃亡を企てようとすらする彼らを、スタンレーは、叱咤《しった》し、威嚇《いかく》し、あるいは、おだてたりしながら、ひたすら前進を図らなければならなかった。しかも行く手には、いたるところに無知凶猛な未見の蛮族が蟠踞《ばんきょ》していて、探検隊と見れば見さかいもなく戦いをいどんだ。新しい通商路を開拓し、文明を伝えようとの錦の御旗《みはた》も、ここでは、まったく、伝える術《すべ》もなかった。なににしても相手は意思疎通のおよそ不可能なメクラヘビに似た原住民たちなのだ。もちろん白人などというものは見たこともなく、世界に白人種が住んでいるという事実さえも知らない蕃族のただなかへ、いきなり、とびこんだのではたまらない。いわば白と黒との抗争は、彼らに対決の機会さえあれば、果てしもなく、随時随所に展開されたといっても過言ではなかった。
だが、考えてみれば、このようないきさつは、たまたま、この探検のうえに象徴的に現われただけのことで、世界の列強が植民地拡大に狂奔していたこの時代にあっては、世界の各地で、無残にもくりひろげられていた植民地主義そのものの悲劇だともいえよう。それはさておき、探検隊の一行は、さらに一つの強敵、未開地という名の、あの大自然の挑戦をもいやというほど受けねばならなかった。人跡未到の密林や、峨々《がが》たる峻嶮《しゅんけん》や、河川湖沼の深淵やらが、死にまさる苦難を一行に強い、その強行突破のあとには、貴重な人命がつぎつぎと大陸の土となって消え去ったのであった。
こうした探検隊の苦渋にみちみちた、悲劇をも思わせる道行きの過程を、スタンレーはこの『黒い大陸』に一種名状しがたい現実のドラマとして、みごとに描き上げているのである。少年時代からつねに、ある種の野望に心を動かし、何事にもあれ鉄の意志をもって初志を貫こうとした彼の性格が、この探検記にはしなくも躍如《やくじょ》として現われている。わけても、身を引くことを知らぬげに、ゆく先々の諸部族と壮絶な戦いを繰り広げながら、阿修羅《あしゅら》のようにコンゴ川をくだる一連の場面には、まこと、ぶきみな鬼気をさえ感じさせるものがある。だが、読者はそうしたスタンレーに単なる野人然たる勇者の映像をのみ描いてはいけない。
彼は蕃族との絶えまない激闘のただなかにあっても、泰然として、戦いながら綿密に情景を観察し、写真をとり、スケッチを描き、詳細なメモを書きとめた。探検した山河や風土、湖や島々、各地の原住民の政治的、経済的、社会的組織、特異な風俗習慣、言語、武器、工芸品、それぞれの地点の緯度や経度など、手記の内容はじつに多岐にわたり、詳細をきわめている。要するに、彼はひとりの比類なき勇者であったと同時に、冷静|緻密《ちみつ》な科学者の目をもったまれに見る学徒でもあったことを忘れてはならない。
文字どおり血と汗のにじむこの手記『黒い大陸』は、当時まだまったく知られていなかったアフリカ奥地の真相を、世界の人々にまざまざと伝えるとともに、不可能視されていた未到のアフリカ大陸横断路を、はじめて全世界の人々に公開したのである。その意義はまことに画期的なものというべく、人類のアフリカへの真の認識は、じつにこの書によって始まったといっても過言ではないのである。旧ベルギー領コンゴをつくり出したのは、レオポルド二世とスタンレーであった、とはジョン・ガンサーの言葉であるが、私にはこの言葉をもってしても、なおたりないものを覚える。(訳者)