カストロの尼
スタンダール作/宗左近訳
目 次
ヴァニーナ・ヴァニーニ
カストロの尼
パリアノ公爵夫人
サン・フランチェスカ・ア・リッパ
ヴィットリア・アッコランボニ・ブラッチャーノ公爵夫人
解説
[#改ページ]
ヴァニーナ・ヴァニーニ
炭焼党員最後の集会に関する秘録(ローマ教皇領において発見されたもの)
一八二*年の春の一夜のことである。ローマ中がざわめいていた。有名な銀行家B***公爵が、ヴェネチア広場の新邸で、舞踏《ぶとう》会をひらいたからである。イタリア美術と、パリ、ロンドンのぜいたくが生みだした、最高級の豪華な調度が集められ、この邸宅を飾っている。われもわれもとおびただしい数の人々が集まった。イギリス上流社会の、しとやかな金髪の美女たちも、この舞踏会に出る資格を苦心して手に入れ、ぞくぞくとやってきた。ローマきっての美女たちが、われこそは、と美を競うことになった。目の輝きとまっ黒な髪から、ローマの女とすぐわかる一人の娘が父親に連れられて、はいって来た。一同の視線がこれを追った。この娘の挙措の一つ一つに、際立った気品が見られたからである。
外国人たちははいってくるなり、このはなやかな舞踏会に目をみはり、「ヨーロッパのどんな宮廷の宴会でも、これにはとても及ぶまい」と言い合った。
国王たちは、ローマふうの建築の宮殿をもっていない。そして、宮中の貴婦人たちを招待しないわけにはいかない。ところが、B***公爵は美女しか呼ばないのである。とりわけこの夜は客の選び方がうまかったので、男性側はうつとりと目をうばわれてしまったらしい。多くの美女の中で、誰がいちばんの美女かということになった。しばらく決まらなかったが、ついに黒髪と、燃えるような目をもった、さきほどの娘ヴァニーナ・ヴァニーニが、夜会の女王として選ばれた。たちまち、外国人やローマの青年たちは、ほかのサロンをぬけだして、この令嬢のいるサロンへどやどやとはいってきた。
父、ドン・アスドルバーレ・ヴァニーニ公爵は、令嬢をまずドイツの二、三の諸侯と踊らせた。それから令嬢は、とりわけ美貌で大貴族のイギリス人いくたりかの相手をしたが、そのお高くとまった様子に愛想をつかした。リヴィオ・サヴェッリという青年が、ひどく彼女にのぼせあがってしまっていて、彼女は、むしろこの青年を苦しめるのを面白がっているように見えた。これは、ローマきっての評判の貴公子でもあるし、そのうえ、やはり公爵の息子でもあった。しかし、小説本を読めといわれて、二十べージも読めば、頭が痛いといって投げ出すような手合いである。それが、ヴァニーナから見れば、この青年の欠点のひとつなのである。
真夜中頃、会場にあるニュースが伝わり、それが人々にショックを与えた。サン・タンジェロ城に拘留されていた若い炭焼党員《カルボナーラ》が、その夜、変装して脱走し、小説にでもでてきそうな大胆不敵なふるまいだが、牢獄の最後の番小屋までくると、短刀で番人におそいかかった。だが、その青年の方も傷をうけ、警官がその血痕《けっこん》をたよりに街じゅうを追跡中で、やがて逮捕されるだろうというのである。
この話が口から口へ伝えられていたとき、ヴァニーナと踊りおわったドン・リヴィオ・サヴェッリは、相手のあでやかな姿と人気にとりのぼせてしまい、もとの席に送る途中、恋心にわれを忘れるばかりとなって、囁《ささや》いた。
「どうか、おっしゃってください。お気に召すような男とは、どんな人間なのです?」
「脱走したとかいう、その若い炭焼党員ですわ。少なくともその人は、わざわざこの世に生まれてきただけ、というより、ましなことをしたんですもの」とヴァニーナは答えた。
ドン・アスドルバーレ公爵が令嬢のそばに来た。二十年このかた、財政のことは執事にまかせっきりの金持で、その執事といえば、自分の収入を、ひどく高い利子で主人に貸しつけている。街で出会えは、誰もがこの公爵を老いぼれの俳優と間違える。その手に、途方もなく大きなダイヤ入りの指環を、五つも六つもつけているのが目につかぬからである。二人の息子はイエズス会にはいり、やがて気が狂って死んでしまった。この二人のことは忘れたが、一人娘のヴァニーナが結婚しそうもないので、残念に思っている。ヴァニーナはもう十九になるのに、願ってもない結婚相手を、いくつも断わっている。理由は何か。シッラがその地位を捨てたのと同じである。すなわち|ローマ人にたいする軽蔑の念《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
舞踏会の翌日、ヴァニーナは、およそ無頓着な人間で、ついぞ鍵などかけたこともない父が、邸の四階にある部屋に通じる小階段の扉を御丁寧にも鍵で閉めているのに気づいた。その部屋には、オレンジの木の植わったテラスに面しているいくつかの窓がある。ヴァニーナが、ローマ市内の二、三の訪問をすませて帰ってくると、邸の正門は、点燈装飾の取り付けでとりこんでいるので、馬車を裏庭に回した。ふと見上げると、驚いたことに、父があれほど注意して閉めていた部屋の扉が、ひとつ開いている。ヴァニーナは、侍女を追いやってから、邸のいちばん上まで行き、探しまわったすえに、オレンジの植わったテラスに面した小さな格子窓を見つけた。下で見た例の開いた窓がすぐそばにある。しかも、その部屋には人がいる様子である。だが誰なのだろう。翌日、ヴァニーナは、オレンジの木のあるテラスに面した小さな戸口の鍵を、手に入れることに成功した。
ヴァ二ーナは、相変わらず開いている窓にしのびよった。さいわい、よろい戸のかげに身を隠すことができた。部屋の奥にはベッドがあり、だれかがその中にいる。思わず身をひいたが、椅子に脱ぎすててある女の着物が目についた。よく見ると、ベッドの中にいる人は、金髪で、あきらかにひどく若い。ヴァニーナは、てっきり女だと思った。椅子《いす》に脱ぎすててある着物は血だらけで、テーブルの上に置かれた女物の短靴にも血痕がある。その見知らぬ女が身動きした。ヴァニーナは女が、怪我《けが》をしているのに気がついた。血のにじんだ大きな白布が胸を包んでいるが、その布は、紐でとめてあるにすぎない。そんなふうに布で巻くのは、医者のやり方ではない。ヴァニーナは、毎日四時ごろ、父が自分の部屋にひきこもり、例の女のところに行き、まもなく降りてきて、馬車でヴィッテレスキ伯爵夫人のもとへ出かけるのを知った。父が出て行くと、ヴァニーナは例の小高いテラスに上った。そこからは見知らぬ女の姿が見られる。このいかにも不幸そうな女に、ヴァニーナはひどく心を動かされた。その身の上の謎《なぞ》をときたいと思った。椅子に脱ぎすてられた血まみれの着物には短刀で切りつけられたらしいあとがある。そのさけ目の数さえわかるくらいである。ある日ヴァニーナは、この見知らぬ女をいっそうはっきりと見た。青い目をじっと空にむけている。祈りをささげているらしい。まもなくその美しい目に涙があふれた。若いヴァニーナは、話しかけたくてたまらないのを、やっとこらえた。翌日、ヴァニーナは、父の来る前に、この小さなテラスに身を隠した。父のドン・アスドルバーレが、見知らぬ女の部屋に入って行くのが見える。食べるものの入った小さな籠をさげている。公爵は不安そうな様子で、口数も少ない。それに、声がひどく低いので、テラスに通じる入口が開いていたにもかかわらず、ヴァニーナには父の言葉が聞きとれなかった。まもなく父が出て行った。
「おかわいそうに、この方には、ずいぶん恐ろしい敵があるにちがいない。いつもあれほど呑気《のんき》なお父さまが、だれにも打ち明けなさろうともしないし、わざわざご自分で、毎日百二十段もある階段を上っていらっしやるのだもの」と、ヴァニーナは思った。
ある夜、ヴァニーナが、見知らぬ女の部屋の窓に、そっと顔をのばしかけると、その女と視線が合ってしまった。もう隠しょうがなかった。ヴァニーナは、ひざまずいて、声をはずませながら言った。
「私、あなたが好きですの。あなたのためなら何でもいたします」
見知らぬ女は、入るように合図した。
ヴァニーナは声をはずませていった。
「ほんとにごめんなさいね。あさはかな好奇心など起こして、きっとお気にさわったでしょう。でも、秘密はけっして人には申しませんし、お望みなら、二度とここへは参りません」
「あなたにお目にかかれて嬉しく思わない人がありましょうか。この邸に住んでいらっしゃるのですか」
「申すまでもありません。でも、私をご存じないでしょうね。ドン・アスドルバーレの娘、ヴァニーナですの」
見知らぬ女は、驚いた様子でヴァニーナを見つめ、まっ赤になったが、やがて、こうつけ加えた。
「毎日、おいで願えないでしょうか。でも、あなたのいらっしゃることは、お父さまには内緒にしていただきたいのですけれど」
ヴァニーナの胸は、はげしく打った。見知らぬ女の態度がいかにも上品に思われたのである。かわいそうに、この人は、だれか勢力ある男の機嫌《きげん》をそこねたのだ。もしかしたら、嫉妬《しっと》にかられて、つい愛人を殺してしまったのかもしれない。ヴァニーナには、この人が、いやしい動機で、こんな不幸な身の上になったとは考えられなかった。見知らぬ女の話では、肩に傷を受けたのだが、それが胸まで達し、ひどく痛む。また口のなかに、いっぱい血が出てくることがよくあるという。
「それなのに、お医者さまに見ていただかないのですか」とヴァエーナは声高になってきいた。
「でも、ローマでは傷の手当てなどしますと、お医者さまは警察に、いちいちくわしい報告をしなければなりますまい。それで、お父さまが、ご自分でごらんの通り私の傷口を布で縛ってくださったのです」
見知らぬ女はあくまで気品を失わず、自分の受けた危害について、ぐちをこばしたりしなかった。ヴァニーナは相手をたまらなく好きになった。しかし、この若い令嬢にとって心外なことは、きわめて真面目な話の最中に、相手が急にこみあげてくる笑いを、無理におし殺そうとしたりすることだった。
「お名前をおっしゃっていただけませんこと」とヴァニーナはいった。
「クレメンティーナと申します」
「では、クレメソティーナさま、明日五時に、またお伺いします」
翌日、ヴァニーナが来てみると、近づきになったばかりの友だちは、容態がひどく悪い。
「どうしてもお医者さまに来ていただきます」とヴァニーナは相手を抱いていった。
「それくらいなら、いっそ死んだほうがましです。お世話になったかたがたに、ご迷惑をおかけしたくありませんから」
するとヴァニーナは強く言葉を返した。
「ローマ総督サヴェッリ・カタンツァラさまのかかりつけのお医者さまは、うちの召使の息子さんです。私どもにつくしてくれますし、地位も地位ですから、だれはばかることもないのです。父はこのひとを信用していませんから、私から呼びにやりましょう」
「お医者さまなどに来ていただきたくありません」と相手は、ヴァニーナがびっくりするほどきっぱりと答えた。「あなたがいてくだされば、神さまのお召しを受けても、あなたのお手に抱かれたまま、幸せに死ねます」
翌日になると、見知らぬ女の容態は、いよいよ悪化した。
「ほんとに私を好きだとおっしゃるのなら、お医者さまを呼ばせてください」別れしなにヴァエーナはいった。
「お医者さまがくれば、私の幸福は消えてしまいます」
「お医者さまを呼びにやります」とヴァニーナは言葉を返した。
それには答えず、見知らぬ女はヴァニーナをひきとめ、その手を取って接吻をあびせた。しばらく沈黙がつづいた。見知らぬ女の目に涙が浮かんだ。それからヴァニーナの手をはなし、たえいりそうな様子でいった。
「白状しなければならないことがあるのです。一昨日、私はクレメンティーナという名前だと申しましたがあれは嘘でした。私は札つきの炭焼党員なのです……」
驚いたヴァニーナは、椅子を後へずらした。そして立ち上がった。
「こんなことを白状すれば、あなたというかけがえのない宝を失うことになるのはわかっています。けれども、あなたをだますことは、私にはたえられない。私は、ピエトロ・ミッシリッリという名前です。十九歳です。父はサン・タンジェロ・イン・ヴァドのつまらぬ外科医で、私は炭焼党員です。会合《ヽヽ》しているところを襲われ、私は縛られて、ロマーニャからローマへ護送されてきたのです。昼も夜もたった一つのランプのともっている地下牢へ投げこまれ、十三か月過ごしました。ある情け深い人がいて、私を逃がそうという気になってくれました。私は女の着物を着せられ、牢獄を出て、最後の門の守衛たちの前を通りかかると、そのうちの一人が炭焼党員の悪口をいったのです。私は、その男をなぐりつけてやりました。いや、別にからいばりするつもりでなく、つい、手が出てしまったのです。この軽はずみのため夜中ローマ市内をあちこち追い回され、銃剣をくらって怪我をし、もう力がつきてしまいそうになったとき、偶然、戸口のあいた家があり、そこへのめりこんだのです。追いかけてくる兵士の足音がする。庭ににげこみました。すると、散歩しているご婦人の目と鼻のさきに出たのです」
「ヴィッテレスキ伯爵夫人でしたのね。父の知り合いの」とヴァニーナが言った。
「おお、あのかたからお聞きになったのですか」とミッシリッリは声を立てて言った。「とにかく、お名前はどうしても申し上げられませんが、そのご婦人が生命を救ってくださったのです。憲兵が私を捕えようと邸にふみこんできたとき、あなたのお父さまが、馬車で連れだしてくださったのです。工合がとても悪いのです。ここ二、三日、銃剣でやられた肩先の傷のせいで、息をするのが苦しいのです。やがて死ぬのでしょう。しかも絶望のうちに、あなたはもう来てはくださらないでしょうから」
いらだたしそうに聞いていたヴァニーナは、急いで立ち去った。ミッシリッリは、その美しい目のなかに、少しの憐れみの色も読みとれなかった。ただ気位の高い人間が、自尊心を傷つけられたときの表情を見ただけであった。
夜になると、外科医が現われた。一人である。ミッシリッリは、すっかり落胆して二度と再びヴァニーナには会えまいと思った。外科医にいろいろ聞いても、相手は血をとるばかりで、答えてはくれなかった。幾日か同じ沈黙が続いた。ピエトロの視線は、テラスの窓にたえずそそがれていた。その窓からヴァニーナはいつもはいって来たのだ。ピエトロはひどく不幸であった。一度、真夜中ごろ、テラスのくらやみのなかに、人影を見たような気がした。ヴァニーナだろうか?
ヴァ二ーナは毎夜やって来て、この若い炭焼党員の部屋の窓ガラスに、ぴったり頬を寄せて、のぞきこんでいたのである。
「口をきいたら、とり返しのつかないことになる。そうよ、二度とこの人に会ってはならないんだわ」
そう決心はつけたものの、うっかり女だと思って、この青年に抱いていた友情が、われにもあらず思いだされてくる。あれほど親しい仲になったのに、もう今は忘れ去らなければならないなんて! 冷静になって考えるとき、ヴァニーナは、自分の考え方がすっかり変わってしまったのをそらおそろしく思った。ミッシリッリが名前をあかして以来、ふだん彼女の考えていたことがらは、まるで霞につつまれたように、遠くの方にあるものとしか思えなくなった。
一週間もたたないうちに、ヴァニーナが、青ざめた顔をしておびえた様子をして、医者について炭焼党員の部屋に入って来た。召使が代わりに来るように公爵にすすめねばならないと言いに来たのである。ヴァニーナは少ししかいなかった。しかし、数日して、医者と一緒にお見舞いに来たと言って、また姿を見せた。ある夜、ミッシリッリもだいぶよくなり、ヴァニーナとしては、もう生命を気づかうなどという口実がなくなっているのに、思いきって一人ではいって来た。その姿を目にすると、ミッシリッリは嬉しくてたまらなかったが、自分の恋心は隠しておこうと思った。なんとしても、男としてふさわしい品位だけは失うまいとした。ヴァニーナは恋を打ち明けられるのではないかと恐れながら、顔をまっ赤にしてはいって来たのである。ところが、迎えた相手はまごころのこもった清い友情を見せてはくれたが、少しも恋らしい感情は見せてくれない。ヴァニーナはわれを失ってしまった。彼女が立ち去るときも、相手は引きとめようとしなかった。
数日後、ヴァニーナはまたやって来たが、相手の態度は同じである。うやうやしい敬意と永遠の感謝を示すばかり。もう炭焼党員の激しい情熱をおさえることに気をつかうどころか、ヴァニーナは自分の方の片思いではないかと思った。これまで、あれほど気位の高かったこの娘が、今は、恋のものぐるおしさを、苦い思いで味わわされていた。ヴァニーナは快活と、さらには冷淡をよそおった。前ほどしょっちゅうは来なくなった。だが、怪我をしたこの青年に会うことを諦《あきら》める決心はつかなかった。
ミッシリッリは恋に胸を焼かれる思いだったが、自分のいやしい生まれを思い、つくすべき義務のことを考えて、ヴァニーナが一週間も続けて姿を見せないことにならない限り、恋を打ち明けるようなまねはすまいと固く決心していた。若いヴァニーナの自尊心もなかなかあとに引かなかった。「いいわ、あの人にお会いしても、それは私自身のためなのだもの、自分の楽しみでそうするのだもの。あの人にたいしてどんな気持ちをもっていようとも、けっして打ち明けたりなぞしないんだから」とヴァニーナは、ついに思った。ミッシリッリのところへ行っては長居するようになった。それでもミッシリッリは、大勢の人間を前にしているのと少しも変わりない口のききかたをした。ある夜、昼間は相手を憎みつづけ、いつもよりもっと冷静でつれない態度をとろうと固く決心しておきながら、ヴァニーナは相手に恋していることを打ち明けてしまった。そうなるともう相手に拒む何ものもなくなってしまった。
とんでもない無分別なふるまいだったが、実はヴァニーナは完全に幸福だったのである。ミッシリッリも、もはや男の体面を保とうなどとは考えなくなった。十九歳の、しかもイタリアの青年の初恋がそうであるように、夢中になって恋した。情熱恋愛におちいった人間の心くばりのすべてを発揮した。ミッシリッリは相手の恋をつのらせるために用いたかけひきのことさえも、この気位の高い令嬢に打ち明けてしまった。彼は、われながら身に余る幸福に驚いた。四か月がたちまち過ぎた。ある日、医者はこの患者に自由を許した。ミッシリッリは考えた。「さて、どうしたものだろう? ローマきっての美女のうちにいつまでもかくまってもらうか? そうすれは、おれを十三か月も牢屋にぶちこんで、日の目も拝ませてくれなかった人でなし連中は、おれの勇気がくじけたとでも思うだろう。イタリアよ、おまえの子供たちが、このくらいのことでおまえを捨て去るようでは、お前が不幸すぎるというものだ!」
ヴァニーナは、いつまでも自分のそばにいることが、ピエトロにとっていちばん幸福だと思いこんでいた。ピエトロは幸福すぎるくらいに見えた。だが、彼の心には、将軍ボナパルトの一言が、皮肉な響きをもって刻みつけられていた。そして、それが女性に対する彼の態度を支配していた。一七九六年、将軍ボナパルトがブレッシアを離れる際、町の城門まで送ってきた役人たちは、どこのイタリア人よりも、ブレッシア市民は、自由を愛していると言った。すると将軍は、「なるほど、ブレッシア市民は似たような台詞をさぞかし恋人たちにいってるんだろうさ」と答えたものである。
ミッシリッリは、言いづらそうにヴァニーナに言った。
「夜になったらすぐ出かけなくてはならない」
「夜明け前に邸にもどるようにして。待っています」
「夜明けには、ローマから数マイルも離れているはずだ」
「そう。どこへいらっしやるの?」とヴァニーナは冷やかにきいた。
「ロマーニャへ行くんだ、復讐《ふくしゅう》に」
ヴァニーナはこの上なく落ち着きはらっていった。「私はお金持ちです。わたしのさしあげる武器とお金を受けてくださるでしょうね」
ミッシリッリは、しはらく、眉《まゆ》一つ動かさないでヴァニーナを見つめていたが、やがてその胸に身を投げかけて言った。
「かわいいひとだ。きみのおかげで、何もかも忘れてしまいそうだ、ぼくの義務さえ。だが、きみの心が気高ければ、それだけぼくの気持ちをよく察してくれるに違いない」
ヴァニーナは、涙にくれた。翌々日にならなければ、ローマをたたないことに若者はきめた。
翌日ヴァニーナが言った。
「ピエトロ、あなたはよくおっしゃってたわね。だれか有名な人で、たとえばたくさんお金を使えるようなローマの大貴族のような人がいれば、万一オーストリアが、私たちの国から遠いところで大戦争にまきこまれることにでもなった場合には、お国の自由のために大いに役立つだろうって」
「言ったょ」とピエトロは、けげんな顔をして答えた。
「いいこと、あなたには勇気がおありになる。ないのはただ立派な地位だけでしょう。私はあなたと結婚して、二十万リーグルの年金をさしあげます。父の許しを受けることは私にまかせてください」
ピエトロは、ヴァニーナの足下にひざまずいた。ヴァニーナは嬉しさに顔を輝やかせた。
「ぼくはきみをほんとうに愛している。だが、ぼくは祖国に身をささげた人間なのだ。イタリアが不幸であればあるほど、それだけ一層ぼくはイタリアに忠実でなくてはならない。ドン・アスドルバーレ公の許しを受けようと思えば、これから何年か情けない役割をつとめなければならない。ヴァニーナ、ぼくは受けない」
ミッシリッリは、こう言って早くも自分を引っこみのつかない立場においた。途中で何度も勇気がくじけかかった。
「きみを生命よりも愛していることがつらい」とかれはいった。「ローマを離れることが、どんな拷問《ごうもん》よりもつらい。イタリアが外敵から解放されていてくれたらなあ! きみと一緒にアメリカに渡って住めたら、どんなに嬉しいことか」
ヴァニーナは冷えきっていた。結婚をことわられたのが、自尊心に強いひびをはいらせたのだ。しかし、まもなくヴァニーナはミッツリッリの胸に身をまかせた。
「こんなにあなたが好きになったことはないわ」と彼女は叫んだ。「田舎医者のおぼっちゃん、私は、永久にあなたのものです。古代ローマ人のようにえらいかたですもの」
将来のことも、理性のいやなささやきも消え去った。満ちたりた恋の一時である。やがて現実にかえると、ヴァニーナは言った。
「あなたとほとんど同じころ、私もロマーニャへ行きます。お医者さまに頼んで、ポルレッタの温泉に湯治に行けるように、とりはからってもらいます。私はフォルタ近くの、サン・ニコロにあるうちの別荘に泊まります……」
「そこで、きみと一生過ごそう!」とミッシリッリは声をはずませて言った。
ヴァニーナはため息をついて言った。「これからは、どんな思いきったこともしなければならないわ。それが私の運命ですもの。あなたのためにすべてを失うことになったって私は、かまやしない……でも、あなたは、世間から相手にされなくなった娘を愛してくださる?」
「ぼくの妻じゃないか! しかもぼくが一生つれそう最愛の妻じゃないか! 愛しもするし、守りもする」
ヴァニーナは社交界に出なければならなかった。ヴァニーナが立ち去ると、早くもミッシリッリは、自分の行動が残酷ではないかと思いはじめた。
「祖国《ヽヽ》とはなんだ。恩を受けたために感謝しなければならない相手というわけではない。われわれが尽くさなかったからといって、不幸になるわけでないし、われわれを呪《のろ》うようなものでもない。祖国《ヽヽ》も自由《ヽヽ》も、いわば外套のようなものだ。親父から遺産として譲り受けなかった場合は、なるほど必要品だから買わざるをえない。だが、要するに、祖国も自由も、このおれの役に立つから、おれはこの二つを愛しているわけだ。八月の外套みたいなで、なんの役にも立たないなら、買うまでもないじゃないか。しかも、べらぼうな値段だからな。ヴァニーナは、ほんとうに美しいし、人と違った才能をもっている。みんなからちやほやされれば、おれのことなど忘れるだろう。一生一人の恋人しかもたなかった女がどこにいるものか。ローマの貴公子どもがおなじ市民かと思うと情けなくなるが、おれより有利な点をいくらでももっているし、女をそらさぬことを心得ているにちがいない。ああ、おれが行ってしまったら、あの女は忘れることだろう。おれは永久にあの女を失うことになるのか」
夜中にヴァニーナが会いに来た。ピエトロはその時まで思いなやんでいたことを打ち明け、ヴァニーナを愛すればこそ、(ヽヽ(も自由も、いわば外套のようなものだ。親父から遺産として譲り受けなかった場合は、なるほど必要品だから買わざるをえない。だが、要するに、祖国も自由も、このおれの役に立つから、おれはこの二つを愛しているわけだ。八月の外套みたいなもので、なんの役にも立たないなら、買うまでもないじゃないか。しかも、べらぼうな値段だからな。ヴァニーナは、ほんとに美しいし、人と違った才能をもっている。みんなからちやほやされれば、おれのことなど忘れるだろう。一生一人の恋人しかもたなかった女がどこにいるものか。ローマの貴公子どもが同じ市民かと思うと情けなくなるが、おれより有利な点をいくらでももっているし、女をそらさぬことを心得ているにちがいない。ああ、おれが行ってしまったら、あの女は忘れることだろう。おれは永久にあの女を失うことになるのか」
夜中にヴァニーナが会いに来た。ビエトロはそのときまで思いなやんでいたことを打ち明け、ヴァニーナを愛すればこそ、祖国《ヽヽ》どという大げさな言葉を引き合いに出して、さまざまに考えこんでしまったのだと言った。ヴァニーナにはそれがどんなに嬉しかったかしれない。
「どうしても祖国か私かということになったら、私の方に|ぶ《ヽ》がある」と彼女は思った。
近くの教会の大時計が三時を打った。最後の別れの時がきた。ピエトロは恋人の腕から身をふりほどいた。すでにピエトロが裏階段を降りようとしたとき、ヴァニーナは涙をおさえながら、笑顔を見せて言った。
「もしあなたの世話をしたのが、つまらない田舎娘でしたら、なんにもお礼をしないおつもり? お金をおやりになるでしょう? 先のことはどうなるかわからないし、敵の大勢いるなかへはいって行くあなたですもの。お礼のしるし三日くださいな。私をつまらない田舎娘だと思って、私の世話のお代として」
ミッシリッリはとどまった。だが、やがてローマを離れた。ある外国の大使館から買った旅券のおかげで、家族のもとにたどりついた。人々は大喜びした。死んだものと思われていたのだ。友人たちは帰りを祝って、カラビニエーレ(これはローマ教皇領の憲兵の呼び名である)を、一人か二人血祭りにしようと言った。
ミッシリッリは言った。「武器の使いこなせるイタリア人を、必要もないのに殺すのはよそう。おれたちの祖国は幸運なイギリスみたいに島国ではない。ヨーロッパ諸国の干渉に抵抗しょうとしても、なんとしても兵士がたりないじゃないか」
それからまもなく、ミッシリッリは憲兵たちに追いつめられ、ヴァニーナからもらったピストルで、ふたりを殺した。その首に賞金がかけられた。
ヴァニーナはロマーニャに姿をあらわさなかった。ミッシリッリは忘れられたと思った。虚栄心は傷つけられ、自分と女をへだてている身分の相違が気になりだした。ときには、感傷的になり、かえらぬ幸福への未練から、ローマヘ引きかえし、ヴァニーナの行動をさぐろうと思った。こういう無分別な考えが昂じて、みずから義務と考えていることを追いはらいかけたとき、ある夕暮れ、山の教会の打ち鳴らす|御告げの鐘《ヽヽヽヽヽ》が聞こえてきた。鐘つき男がうわのそらでついているような奇妙な鳴りかたである。実は|炭焼党員の集会《ヽヽヽヽヽヽヽ》の合図で、ミッシリッリは、ロマーニャに帰るとこの結社に加盟していたのだ。その夜、一味は森の中にある隠者の庵《いおり》に集まった。ふたりの隠者は阿片で眠らされ、自分たちの庵が、何の目的で使用されているのか、まったく気がつかなかった。ミッシリッリがひどく浮かぬ顔をして行くと、結社の党首が逮捕され、やっと二十歳になるかならない自分が新たな党首におされようとしていることを聞かされた。五十歳以上の党員が何人もいて、しかも一八一五年のミユラーの遠征以来陰謀をこととしている結社なのである。思いもかけぬこの光栄を受けて、ピエトロは胸の高鳴るのをおぼえた。一人になると早くも、自分を忘れさったローマの娘のことなど考えず、|イタリアを外敵から解放する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》義務〔一三五〇年にペトラルカが言った言葉である〕に専念しようと決心した。
二日後、ミッシリッリは、結社の党首として、受けとる人事往来報告書のなかで、ヴァニーナがサン・ニコロの別荘に着いたことを読んだ。この名前を見てミッシリッリは嬉しいよりも、心をかきみだされてしまった。その夜すぐにもサン・ニコロの別荘へ飛んで行ったりはすまいと決心し、祖国を思う心を固めたが、そのかいはなかった。ヴァニーナをほうっておくと思うと、果たすべき仕事にも、まともには手がつかなかった。翌日ヴァニーナに会った。ヴァニーナの愛情はローマのときと変わりなかった。父の公爵がむりにも結婚させようとして、出発をおくらせたのである。ヴァニーナは二千ツェッキーノの金貨をもってきた。この思いがけない資金のおかげで、ミッシリッリの新党首としての威信は、大いにました。彼はコルフーで短刀を作らせ、炭焼党検挙の役目にある州総督の秘書を買収した。そして政府のスパイをつとめている司祭たちのリストを手に入れることができた。
不幸なイタリアで企てられた陰謀のうちでも、きわめて周到な陰謀の組織ができあがったのは、このころである。くわしい点に立ちいることを作者はさしひかえることとする。ただ、もしこの陰謀が首尾よく成功していたら、その名誉の大半はミッシリッリに帰するべきものであったとだけ言い添えておこう。彼の命令一つで、数千の叛徒が立ち上がり、武装して幹部の到着を待つことになるはずだった。いざ決行というときになって、いつも起こることだが、幹部が逮捕され、陰謀は失敗に帰したのである。
ロマーニャに着いて、ヴァニーナがすぐ感じたのは、愛するミッシリッリが、祖国愛のために、ほかの愛情をすっかり忘れてしまうのではないかということであった。 ローマ娘の自尊心は大いに傷つけられた。いくら自分に言いきかせようとしてもどうにもならない。たちまち深い悲しみに押しひしがれてしまう。わが身の自由までが呪わしくなるのだ。ある日、フォルリへミッシリッリに会いに行くと、それまで自尊心からこらえてきた悩みが、とうとう押えきれなくなった。
「世間の夫なみに愛してはくださる。でも私は、そんなつもりじやなかったのよ」
たちまち涙があふれ出た。怨《うら》みごとを口にしてしまったわが身のはしたなさが恥ずかしかったからである。この涙にも、ミッシリツリは他のことに気をとられている様子で答えた。突然ヴァニーナは男と別れてローマに帰ろうという気になった。つい弱気から口ばしってしまったわが身をそうして罰するのに、残酷な喜びをおぼえた。ごくわずかの沈黙の間に決心はついた。自分がミッシリッリと別れられないようなら、とうてい彼にふさわしい女とは言えない。彼女は近くにいると思って探し、いないのを知って、男が驚き悲しむ姿を思いえがくと、痛快な気がした。だが、自分がこれほどまでに入れあげた男の愛を手に入れることができなかったのかと思うと、たちまち深い悲しみにおそわれた。そこで、ヴァニーナは沈黙をすてて、一言なりとも男に愛の言葉を言わせようと必死の努力をした。男は、うわのそらでひどく優しい言葉を口にした。だが、いざ政治上の計画の話になると、打って変わって、ひどく深刻な声音で、悲痛な言葉をはいた。
「ああ! |もしこの計画がうまくいかなければ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|今度もまた政府にかぎつけられたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|今度はぼくは党と縁を切る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ヴァニーナは身動きもしなかった。一時間このかた、これが恋しい男の見おさめだという気がしていた。そのヴァニーナの心に男の口にしたこの言葉が、運命的な光をなげこんだ。
「炭焼党員は私から数千ツェッキーノを受け取っている。誰一人私が陰謀に心から味方していることを疑うものはない」
ヴァニーナはやっと物思いからわれにかえって、ビエトロに言った。
「一日だけ、サン・ニコロの別荘にいらして、私と過ごしてくださらない。今夜の会合は、あなたがいらっしゃらなくてもよいのでしょう。明日の朝は、サン・ニコロを散歩しましょう。そうすれば、あなたのたかぶった気持ちもしずまるし、こんな大変な仕事のときに必要な落ち着きもとりもどせますわ」
ピエトロは同意した。
ヴァニーナは、いつものとおり、男との密会にあてていた小部屋に鍵をかけると、旅仕度のためにと言って、男と別れた。
その足で、ヴァニーナは前に使っていた小間使の一人の家にかけつけた。今では奉公をやめて結婚し、フォルリでほそぼそ商売を営んでいる。この女のもとにつくと、ヴァニーナはたまたま女の部屋にあった祈祷書をとって、その欄外に、その夜炭焼党員の集会《ヽヽ》が開かれることになっている場所を大急ぎで正確に書きしるした。そしてその密告文を次のような言葉で結んだ。「この集会《ヽヽ》のメンバーは十九名で、その姓名と住所は次のとおりです」ミッシリッリの名をはぶいたほかは、きわめて確かなリストを書きあげると、腹心の女に言った。
「この本を枢機卿の州総督さまのところへお届けしておくれ。書いてあることを読んでいただいたら、この本は返していただくのよ。さあ、十ツェッキーノあげます。万一、総督さまがおまえの名を口になさったら、おまえの生命はないけれど、おまえのおかげで、今私の書きとめたべージを総督さまに読んでいただくことができたら、おまえは私の生命を救うことになるのだよ」
万事が思いどおりに運んだ。州総督はおじけづいていたので、大官らしくもないふるまいにでた。じきじきお話し申し上げたいというこの卑しい女が、覆面《ふくめん》のままでなければ会えないというのはよろしいが、その代わり両手をしばっての上でという条件をつけた。商人の女房は、命じられたとおりの格好で、この高官の前に案内されたが、見れば相手は緑のテーブル掛けのかかった、途方もなく大きなテーブルの向こうがわに、身をふせぐようにして、ひかえている。
総督は、毒かなにかが巧妙にしかけてあるのではないかと恐れ、祈祷書をひどく離して、例のページのところを読んだ。祈祷書はこの商人の女房に返し、あとをつけさせるようなことはしなかった。恋人のところを離れて四十分とたたぬうちに、昔の小間使が帰ってくるのを見とどけたヴァニーナは、これで、相手は自分一人のものになったと思ってミッシリッリの前に姿を現わした。町がいつになくざわめいている、いつもは姿を見せたことのない通りで憲兵が見はっていると彼女は言った。さらにつけ加えて、「私のいうことをほんとにしてくださるなら、今すぐにも、サン・ニコロにたちましょう」
ミッシリッリは同意した。二人は彼女の馬車のあるところまで歩いて行った。ヴァニーナが十分な金をつかませて、口の固い腹心の侍女を乗せ、町から二キロばかりのところに待たせておいたのである。
サン・ニコロの別荘に着くと、ヴァニーナは、自分のとったとっぴょうしもない行動がそらおそろしくなり、いつもより激しい愛情を示した。だが、愛の言葉を口にしながらも、自分が芝居をしている気がしてならなかった。昨夜から今まで、裏切り行為を犯しながらも、彼女は自責の念を忘れていたのだ。男を腕に抱きしめながら、ヴァニーナは思った。
「この人の耳に入らないともかぎらない一言がある。その一言が口にされたがさいご、たちまち永遠に私はこの人から憎まれることになる」
真夜中ごろ、ヴァニーナの召使の一人が、荒々しく部屋にはいって来た。ヴァニーナは少しも気がつかなかったが、この男も炭焼党員だったのである。してみると、ミッシリッリは自分にたいして、こんな細かなことまで、秘密にしていたのか! ヴァニーナは身ぶるいした。この男は、その夜、フォルリで、十九名の党員の家が包囲され、この連中が集会《ヽヽ》からもどつて来たところを逮捕されたと、ミッシリッリのもとへ知らせに来たのだ。不意をおそわれたものの、九名は逃げのびた。憲兵どもは十名を城塞の牢獄へ連行することができた。牢獄にいれられかけたとき、そのうちの一人は、ひどく深い井戸に飛びこんで、自殺してしまった。ヴァニーナは色を失った。さいわいピエトロは、これに気づかなかった。女の目の色を見たら、その犯した罪を読みとれたにちがいない。
召使はつけ加えた。「今でも、フォルリの駐屯部隊が、通りで列を作っています。お互いに話ができるくらい間隔をつめて、並んでいます。町の連中は士官のいるところをつききらなければ、通りを横切れないしまつです」
この男が出て行ってから、ピエトロが考えこんでいたのはほんの一瞬間であった。やがて、
「さしあたって、どうにもしようがない」と言った。
ヴァニーナはたえいりそうな様子であった。男の視線をあびて、ふるえていた。
「変だね、どうかしたの?」と彼は言った。
だが、ピエトロはすぐまた別のことに考えを移し、ヴァニーナを見ることをやめた。昼頃になったとき、ヴァニーナは思いきって聞いた。
「また集会《ヽヽ》がばれてしまったのね。これであなたも、しばらく楽になれるわけね」
「|大いに楽になったさ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」とミッシリッリはうす笑いをうかべて答えた。そのうす笑いがヴァニーナをぞっとさせた。
ヴァニーナはやむをえぬ用件で、おそらくイエズス会派のスパイにちがいない、サン・ニコロ村の司祭をたずねて行った。七時の夕食に帰ってみると、男の隠れているはずの小部屋はもぬけのからである。われを忘れて家じゅう探してみたが、男の姿はどこにも見あたらない。悲嘆にくれて、もとの小部屋にとってかえしてみると、はじめて短い置き手紙のあるのに気がついた。彼女は読んだ。
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ぼくは総督のもとへ自首して出る。ぼくらの運動はもうだめだ。天われにくみせずさ。裏切り者はだれだ。あきらかに井戸に飛びこんだ見さげはてたやつだろう。ぼくの生命は、もう愛する祖国の役に立たなくなった。そうなった以上、ぼく一人つかまらないでいることから、裏切ったのがぼくだなどと、同志のものに思われるのは、まっぴらなのだ。あなたともお別れだ。ぼくを愛していてくれるなら、復讐してもらいたい。たとえ、ぼくの父であってもかまわない。ぼくらを裏切った卑怯者を葬ってくれ、打ち殺してくれ。
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ヴァニーナは不幸のどん底につき落とされて、なかば気を失って、椅子の上にばったり倒れた。一言も口がきけなかった。目は乾いて、炎でもえ立つばかりだった。
やがて、がっくりひざまずいて叫んだ。
「神さま、私の誓いをおききとりくださいませ。きっと卑怯な裏切り者を罰してやります。ただ、その前に、どうしてもピエトロを自由にしてあげたいのです」
一時間後、ヴァニーナはローマへ向かっていた。だいぶ前から父の公爵がしきりに帰って来いとせきたてていた。ヴァニーナの留守中に、リヴィオ・サヴェッリ公爵との結婚をまとめておいたのである。ヴァニーナが帰ると、公爵は内心びくびくしながら、さっそくその話を切りだした。切りだしたと思うと、たちまち娘が承知したので、公爵の方がびっくりしてしまった。その夜ただちに、ヴィッテレスキ伯爵夫人のもとで、父の公爵はヴァニーナに、ドン・リヴィオをいわば正式な形で紹介した。ヴァニーナは愛想よく話しかけた。相手は、きわめてエレガントな青年で、見事な髪の持ち主だが、才気は大いにあるとはいっても、性格は軽薄そのもので、政府からにらまれる心配の全然ない人物である。ちょっとつけあがらせれば、こちらの言いなりの手先になるだろうと、ヴァニーナは考えた。ローマ総督で警視総監のサヴェツリ・カタンッァラ閣下の甥ときているから、スパイもまさか尾行はしないだろう。
二、三日、この愛嬌者《あいきょうもの》のドン・リヴィオのごきげんをとってから、ヴァニーナは、とうてい私の夫にはなれませんよと申し渡した。彼は、あまりに軽はずみすぎる、というのである。
「あなたも子供ではないのですから、伯父さまの部下の人たちも、あなたには隠し立てしないでしょう。早い話が、ついこの間、フォルリで、炭焼党員がつかまったでしょう。あの人たちをどう処分するのでしょうね」
二日たつと、ドン・リヴィオは、フォルリで捕えられた炭焼党員が、全部脱走したと知らせに来た。ヴァニーナは、深い軽蔑《けいべつ》の皮肉な微笑を浮かべて、黒い大きな目でドン・リヴィオを見つめ、その夜はずっと、一言も口をきかなかった。その翌々日、ドン・リヴヴィオはやって来ると、顔を赤らめながら、この間はだまされていたと白状した。
「しかし、今度は伯父の書斎の鍵を手に入れましたよ。そこで見つけた書類でわかったのですが、とりわけ勢力のある枢機卿と司教で構成された『聖職代表会議《コングレガツイオーネ》』(または委員会)が、極秘のうちに召集され、炭焼党員連中の裁判を、ラヴェンナで行なうか、ローマで行なうかについて評議中なのです。フォルリで捕えられた九名の党員と、自首して出たミッシリッリとかいうまぬけな堂首が、目下サン・レオ城〔名うてのいかさま師カリオストロが死んだのは、この城においてである〕に監禁されているそうです」
この|まぬけな《ヽヽヽヽ》という言葉を聞いて、ヴァニーナは、力いっぱい公爵をつねった。
「私自分の目でその公文書を見たいと思いますから、あなたとご一緒に伯父さまの書斎にまいりますわ。読みちがえていらっしやらないとも限りません」
これを聞くとドン・リヴィオはふるえあがった。ヴァニーナの望みは不可能に近いからである。しかし、この令嬢の風変わりな性格が、恋をつのらせた。まもなく、ヴァニーナは男装し、サヴェッリ家の紋のついた、いきな仕着せを着て、警視総監の極秘の書類のある部屋にはいりこんで、半時間ばかり過ごすことができた。
被告|ピエトロ《ヽヽヽヽ》・|ミッシリッリ《ヽヽヽヽヽヽ》に関する日常報告を見つけたとき、ヴァニーナは強い喜びの衝動にかられた。書類をもつ手がふるえた。この名を読みかえすうちに、気分が悪くなりかけた。ローマ総督邸を出ると、ヴァニーナはドン・リヴィオに接吻を許した。
「あなたをためして見たいと思った試練をあなたは、見事にお切りぬけになったのね」
こういう言葉を聞かされると、若い公爵はヴァニーナが喜ぶなら、教皇庁に火でもつけかねない気持ちになった。
その夜、フランス大使館で舞踏会がもよおされた。ヴァニーナは踊りまくつた。しかも、ほとんど公爵ばかりを相手にした。ドン・リヴィオは幸福に酔いしれていた。なんとしても、この男に反省のひまを与えてはいけない。
ある日ヴァニーナが言った。
「私の父はときどき妙なことをしますの。今朝は召使が二人も追いだされてしまいました。その二人が私のところへ来て泣きながら訴えますのよ。一人は伯父さまのローマ総督のお邸に住みこみたいと申しますし、もう一人はフランスの軍隊で砲兵でしたから、サン・タンジェロ城に就職したいのだそうです」
「二人とも、私がやといましょう」と、若い公爵はいきおいこんで言った。
ヴァニーナは高びしゃに言いかえした。
「そんなことをお願いしましたかしら。私は気の毒な二人の希望を、言葉どおり、繰り返して申しているのです。二人を望みどおりの職につけたいのです。それ以外の職ならお断わりします」
これほどむずかしいことはない。カタンツァラ閣下は、軽はずみなところがまったくない人物であって、気心のよくわかっているものでなければ、けっして邸に住みこませないのである。一見何一つ不足のない楽しい生活を送りながら、ヴァニーナは後悔にさいなまされて、ひどくみじめなおもいをしていた。事のはかどらないのが、たまらなかった。父の執事のおかげで、金は手にいれてある。父の家をぬけだして、ロマーニャへ行き、男の脱獄をはかるべきだろうか。この考えはいかにも無分別ではあったが、それでもヴァニーナは実行に移そうとした。そのとき偶然が彼女を憐んだ。
ドン・リヴィオが言った。
「ミッシリッリ結社の党員十名は、判決を受けて、ロマーニャで処刑されれば別ですが、ローマに移されるとのことです。伯父が今夜教皇からその許可をもらったばかりなのです。ローマでこの秘密を知っているのは、あなたと私だけです。ご満足ですか?」
「一人前の男におなりになったわね。あなたの肖像画をくださいませんこと?」
ミッシリッリがローマに着く日の前日、ヴァニーナは口実を設けて、チッタ・カステッラーナヘでかけた。ロマーニヤからローマへ移される炭焼党員は、この町の牢獄で一夜を過ごすことになっている。翌朝、ヴァニーナは、ミッシリッリが牢獄を出てきたところを見た。彼だけ別に鎖でつながれ、荷車に乗せられている。ひどく青ざめてみえたが、少しもがっかりしているようではなかった。一人の老婆がすみれの花束を投げると、ミッシリッリは微笑して礼を言った。
恋人を見てから、ヴァニーナの考えは、すっかり変わったようであった。新たな勇気がわいてきたのである。すでに前もって、ヴァニーナはカリ神父のために、立派な昇進の道をつけておいた。これは恋人がこれから閉じこめられようというサン・タンジェロ城づきの司祭で、ヴァニーナはこのお人好しの司祭を自分の告解師に選んだのである。やがて総督の姪になるこの公爵の令嬢に選ばれるのは、ローマではたいしたことなのである。
フォルリの炭焼党員の裁判は、てまどらなかった。極右の連中は、炭焼党員のローマ護送を阻止できなかった腹いせから、とりわけ野心家の司教たちをもって、裁判にあたる委員会を組織させた。この委員会の委員長は警視総監である。
炭焼党員に適用される法律は明白で、フォルリの炭焼党員には全然希望の余地がなかった。しかし、彼らは助かろうとして、できうるかぎり言いのがれをした。裁判官たちは後らに死刑を宣告したばかりではない。手首を切りおとすなどという、残酷な刑を主張したものさえかなりいた。警視総監はすでに出世した人物であるから(この地位を去るのは、枢機卿になる場合だけであるから)、断乎《だんこ》刑を主張する必要はまったくなかった。そこで、教皇のもとに判決文をもって行き、全被告の刑を数年の禁錮に減刑してもらった。ピエトロ・ミッシリッリだけは例外とされた。総監はこの青年を危険な狂信的党員と見たのである。それに、前にも述べたように、憲兵二名を殺害した罪でも、死刑を宣告されていた。ヴァニーナは、総監が教皇のもとから帰ってまもなく、判決と減刑のことを知った。
翌日、カタンツァラ閣下が真夜中近くに自邸へ帰ると、部屋つきの召使がいない。いぶかしく思って何度も呼びりんを鳴らすと、やっともうろくした老僕が現われた。総監はいらいらして、自分で服を脱ぐことにした。戸口に鍵をかけた。ひどく暑い夜だった。服をぬぐと、まるめて椅子の上に投げた。服は、あまり勢いよく投げられたので、椅子を飛びこして、窓のモスリンのカーテンにぶつかり、人影をくっきり浮かびあがらせた。総監はすばやくベッドにかけよって、ピストルをつかんだ。窓のそばに取って返そうとすると、自分の家の紋のある仕着せを着たひどく若い男が、ピストルを手にして近よって来る。これを見た総監は、ピストルの狙《ねら》いをつけて、発射しようとした。青年は笑って言った。
「まあ、閣下、ヴァニーナ・ヴァニーニがおわかりになりませんの」
「どうして、こんなたちの悪いじょうだんをしたのです」と総督は立腹して、言いかえした。
「落ち着いてお話しいたしましょう。おことわりしておきますが、閣下のピストルの弾丸はぬいてあります」
総督はあわててピストルを調べた。こんどはチョッキのポケットから短刀をぬいた。
ヴァニーナは可愛らしい、しかし凛とした態度で言った。
「閣下、まあ腰をかけましょう」そして静かに長椅子に腰をおろした。
「まさかほかに人がいるのではないでしょうな」
「私一人だけです。その点はお誓いいたします」とヴァニーナはきっぱり答えた。
それでも総督は念のため調べてみた。部屋じゅうを歩きまわり、くまなく眺め直したあとで、ヴァニーナから数歩離れて、椅子に腰をおろした。
「閣下のような、おだやかなお方に危害を加えたところで、なんの役に立ちましょう。そんなことになれば、どうせ後をつぐのは、気短かで能なしで、自分をも他人をも破滅させかねないかたでしょうから」とヴァニーナはもの優しい、落ち着いた口ぶりで言った。
総督はふきげんな顔をして答えた。
「どういうご用なのです。こんな芝居は迷惑、てまどるのはまっぴらですぞ」
「これから加えて申し上げますことは、私よりも閣下に関係があるのでございますのよ」とヴァニーナは、急にもの優しい態度を忘れて、高圧的になって言った。「あの炭焼党員のミッシリッリの生命を、是が非でも救おうとしている人がいるのです。あの男が処刑になりましたら、閣下のお命はそれから一週間ともちますまい。このことに私は、なんの利害関係もございません。閣下はおおこりのようでございますが、私がこんな狂言を演じましたのも、第一には面白半分、第二には私の親しいある女のかたのためなのでございます。ほんとうは、私」と、ここでもとのしとやかな態度にかえって言葉を続けた。「まもなく私の伯父さまになられるもののわかったお方のために、お役に立ちたいと思いましたのです。どうお見うけいたしましても、これからますますご出世なさるお方ですもの」
総監のふきげんな顔がほぐれた。おそらくヴァニーナの美貌がこの急な変化をうながしたのにちがいない。カタンツァラ閣下の美女好みを、ローマで知らぬものはない。それに、サヴェッリ家の供まわりの男に変装し、金の靴下をきゅっとはき赤い胴衣に銀糸で縫い取りをした空色のいきな服を着て、ピストルを片手にもったヴァニーナの姿は、いかにも魅惑的なのである。
総監はほとんど笑い顔になって言った。
「いや未来の姪御さん、とんでもない狂言ですぞ、それにこれが最後でもなさそうですな」
「閣下のような賢明なお方なら、秘密を守っていただけると存じますが、とりわけドン・リヴィオさまに対しては、伯父さま。私の友達の大事な男の生命を私に下さいますなら、お約束を守っていただくための接吻をしてさしあげます」ヴァニーナは、そう答えた。
ローマの婦人は、こういう冗談半分の調子で、重要なことがらを処理するのを心得ている。ヴァニーナもその調子で会話をつづけながら、ピストル片手にはじまったこの会見を、サヴェッリ公爵の新夫人が、叔父のローマ総督を訪問したという体裁にうまく切りかえた。
やがて、カタンツァラ閣下は、不安にかられるような自分ではないと、むきになって言いながらも、ミッシリッリを助けるとなるとぶつかるかもしれない数多くの困難について、未来の姪を相手に話しだした。総監はヴァニーナとともに、部屋のなかを行ったり来たりしながら討論した。煖炉の上のレモン水のはいった水差しを手にして、クリスタル・グラスのコップにそそいだ。それを口にもっていこうとすると、ヴァニーナがとりあげた。しばらく手にしていたのち、ついうっかりしたようすをして庭へ投げ落とした。総督は菓子いれの、円いチョコレートをつまんだ。 ヴァニーナはそれも横どりして、笑って言った。
「お気をつけあそばせ。お宅のものにはみんな毒がはいっています。閣下のお生命をいただくことになっていましたから。私が閣下の生命ごいをいたしましたの。私の未来の伯父さまですもの。 サヴェッリ家のものになりますのに、まったくの身一つでまいるのはいやでございますもの」
カタンツァラ閣下はひどく驚き、未来の姪に感謝し、ミッシリッリ助命について、ひどくたのもしいことを言った。
「これで取引きはすみました。その証拠に、さあ、お礼をさしあげさせていただきます」と言ってヴァニーナは総督に接吻した。
総督はその礼を受けとった。
「ヴァニーナさん、ご承知願いたいが、私は元来血を見ることがきらいなたちでな。それにあなたには年寄りに見えるだろうが、私はまだ若いつもりでいる。今日流す血が私の汚点となるようなときまで、生きているかもしれない」
カタンツァラ閣下がヴァニーナを送って庭のしのび戸まで行ったとき、二時が鳴った。
翌々日、引き受けた助命運動にかなり当惑しながら、教皇の前に出た総監に、教皇|猊下《げいか》が言われた。
「なにはさておき、あなたにひとつお願いがある。例のフォルリの炭焼党員のことだが、そのなかで一人死刑の宣告を受けたものがいますな。それを考えると、私は夜も眠れない。あの男の生命を助けてもらいたい」
教皇がすでに決意しているのを見ると、総監は大いに反対をとなえたうえで命令書すなわち、教皇大教書《モツ・プロブリオ》を書いた。教皇は慣例に反して、これに署名した。
ヴァニーナは、おそらく男の助命は許されるだろうが、毒殺を企てるものがいるかもしれないと考えた。前日から、ミッシリッリは、その告解師カリ神父の手を通じて、航海用の乾パンの包みをいくつか受け取った。監獄で支給される食べものには手をふれないことと、注意書きがしてあった。
まもなく、ヴァニーナは、フォルリの炭焼党員たちが、再びサン・レオ城に移されようとしているのを知り、なんとかチッタ・カステッラーナで待ちうけて、会おうと思った。ヴァニーナはこの町へ囚人たちより一日早く着いた。そこで数日前から来ているカリ神父に会った。カリ神父が獄吏に頼んで、ミッシリッリが真夜中に、牢獄の礼拝堂でミサを聞くことができるように手はずしておいた。そればかりでなく、ミッシリッリが手足を鎖で縛られていてもよいというなら、獄吏は、礼拝堂の入口までひきさがっていて、ただ責任のある囚人のことだから、言葉は聞こえなくても、姿だけは見はっていることにしようということになった。
ヴァニーナの運命を決する日がついにきた。その朝から、ヴァニーナは牢獄の礼拝堂に閉じこもった。この長い一日を、どんなにヴァニーナが思いなやんだか、それはとうてい言いあらわすことができない。ミッシリッリは今でも自分を許してくれるほど、深く愛していてくれるだろうか。自分は集会《ヽヽ》のことを密告したにちがいないが、男の生命は救ったのだ。責めさいなまれる心に理性が立ちかえってくると、ヴァニーナは、男が自分と一緒に、イタリアを去ってくれるかもしれないと思うのであった。自分が裏切りの罪をおかしたのも、愛すればこそではなかったろうか。四時が鳴ると、おもての舗道から、憲兵の一隊の馬のひづめの音がかすかに聞こえてきた。その足音の一つ一つが、ヴァニーナの胸に響きわたる思いがした。まもなく囚人をはこぶ荷車の、にぶい車輪の音がはっきり聞きとれた。荷車は、牢獄前の小広場にとまった。一人だけ別の荷車に乗せられて、身動きできないほど厳重に鎖で縛られたミッシリッリを、二人の憲兵が助け起こすのが見られた。「生きているだけでもよかった。まだ毒殺されなかったのだわ」と、ヴァニーナは目に涙を浮かべながら思った。その夜はたえられぬくらい苦しかった。ひどく高いところに置かれたランプがただ一つ、獄吏が油を節約するためか、うす暗い、礼拝堂のなかを照らしている。ヴァニーナは、隣の牢獄で死んだ中世の大領主たちのいくつかの墓を見まわした。その彫像が恐ろしい姿をしている。
だいぶ前から物音一つ聞こえなかった。ヴァニーナは暗いもの思いにふけっていた。真夜中の鐘が鳴るとまもなく、こうもりの飛ぶ音に似たかすかな音がしたような気がした。ヴァニーナはその方へ行こうとした。だが、ほとんど気を失って、祭壇の手すりの上に倒れた。ちょうどそのとき、二つの幽霊のような人影が、ヴァニーナのすぐそばに寄ってきた。だが、ヴァニーナはその足音に気がつかなかった。獄吏と、身体じゅうを鎖でくるまれたかのように縛られているミッシリッリである。獄吏は、カンテラの光を裸にして、ヴァニーナの横の祭壇の手すりの上に置き、囚人の姿がはっきり見えるようにした。それから奥の入口の近くへしりぞいた。獄吏がしりぞくとすぐ、ヴァニーナはかけよって、ミッシリッリの首をかき抱いた。両腕で抱きしめたとき、冷たいごつごつする鎖しか感じられなかった。「誰がこの人をこんな鎖で縛るようにしたのだろう」と、ヴァニーナは思った。恋しい男を抱いても、少しも嬉しくなかった。この苦痛に、もう一つのさらに胸をえぐるような苦痛が加わった。ミッシリッリが、自分の犯した裏切りを知っているのではないかとふと思ったのである。それほど男の態度は冷やかであった。やっと男が口をきいた。
「愛情をお感じになった相手が、こともあろうにぼくだったとは、まったくお気の毒な話です。あなたの愛情にふさわしいだけの人間になろうとしても、できない相談です。ぼくはほんとにお願いします。どうかもっとキリスト教徒らしい気持ちにかえりましょう。ぼくたちは、まぼろしに迷わされていたのです。もうそれを忘れましょう。ぼくはあなたのものになることができません。ぼくの計画が次々に失敗したのも、ぼくがたえず神にたいして大罪を犯していたからかもしれない。いや、人間としての思慮の声に耳をかたむけてさえいたら、どうしてあのフォルリでの不運な晩に、友だちと一緒に捕えられないでいられたでしょう。なぜ、あの危急の際に、自分の持ち場にいなかったのか。どうして、あの場に居合わせなかったことが、たえがたい疑いをかけられる結果になったのか。イタリアの自由を求める以外に、別の情熱をもっていたからです」
ヴァニーナは、ミッシリッリの変わりかたを見て、驚きのあまり茫然としていた。彼はひどくやせたというわけでもないのに、三十歳にもなってしまったように見えた。この変わりかたは牢獄でひどい待遇を受けたせいだと思って、ヴァニーナは泣きくずれた。
「番人たちはあなたを大切にするからと、あんなに約束していたのに!」
事実は、死期が迫ると、イタリアの自由にたいする情熱に匹敵するような、あらゆる宗教的感情が、この若い炭焼党員の心に再びわいたのである。ヴァニーナは男の驚くべき変わりかたが、まったく精神的なもので、少しも肉体的に虐待された結果でないことに、ようやく気がついた。苦しみの極と思っていた苦しみが、そのためにさらにつのった。
ミッシリッリは黙っている。ヴァニーナはすすり泣いて、息もつまりそうな様子である。男もいくらか動かされたらしく、つけ加えて言った。
「この世で心ひかれるものがあるとすれば、それはヴァニーナ、あなたです。けれども、神さまのおかげで、今のぼくには、生きているかぎり、ただ一つの目的しかなくなったのです。牢獄で死ぬか、それとも、イタリアに自由を与える運動につくして死ぬか」
また沈黙がつづいた。あきらかにヴァニーナは口をきく気力がないらしい。口をきこうとしたが、きけなかった。 ミッシリッリがさらに言った。
「義務はつらいものです、ヴァニーナ。しかし、義務をはたすのに多少の苦痛が伴わなければ、ヒロイズムなどどこにありましょう。もうぼくに会おうとはしないと約束してください」
きつく身体を縛っている鎖の許すかぎりのことをして、ミッシリッリは手首を少し動かして、ヴァニーナの方へ指先をさし出した。
「あなたが愛してくださった男に、一こと言わせてください。あなたのお父さまのお決めになる立派な男と、おとなしく結婚なさい。けっしてつまらぬことを打ち明けたりしてはいけない。そして、ぼくに会おうなんて気を起こしてはいけない。これからはお互いに赤の他人となりましょう。あなたは祖国のためにたくさんのお金をお出しになった。祖国が暴君どもの手から解放される日がきたら、そのお金は国庫から立派にお返しできましょう」
ヴァニーナは突き倒される思いがした。自分に向かって話しながら、ミッシリッリの目が輝いたのは、祖国《ヽヽ》という言葉をロにしたときだけだった。
ようやくこの若い令嬢の心に、自尊心が頭をもちあげた。ヴァニーナは、いくつかのダイヤと数本の小さなやすりを用意してきていた。ミッシリッリの言葉に答えようとしないで、黙ってそれをさしだした。
「義務からいただきます」と彼は言った。「ぼくには、脱走すべき義務がありますから。だが、ぼくは、もうけっしてあなたには会わない。こうしてまたお世話になりながら、ぼくはそれを誓います。さようなら、ヴァニーナ。けっして手紙をよこさない、会いにもこないと約束してください。ぼくの身体をすっかり祖国に捧げさせてください。ぼくを死んだものと思っていただきたい。じゃ、ごきげんよう」
「いいえ、あなたが恋しいあまりに、私がどんなことをしたか、聞いていただきます」とヴァニーナは激しい怒りを見せて、言葉を返した。
そして、ミッシリッリがサン・ニコロ城を去って、州総督のところへ自首して出たときから、自分のした奔走のことを細かに話した。その話が終わるとヴァニーナは言った。
「こんなことはなんでもありませんわ。あなたが慕わしいばっかりに、それ以上のことをしたのですから」
そこでヴァニーナは裏切りのことを打ち明けた。
「この人でなし!」
激怒したピエトロは、荒々しくそう叫んで、ヴァニーナにおどりかかり、からだの鎖でなぐり殺そうとした。
叫び声に、いち早く獄吏がかけつけなかったら、事実、殺してしまっていたことだろう。獄吏は、ミッシリッリをとりおさえた。
「おい、人でなし、おまえなんかの世話になるのはまっぴらだ」
そう言うと、ミッシリッリは鎖の身の自由のきくかぎりをつくして、ヴァニーナに向かってやすりとダイヤを投げつけて、足早に立ち去った。
ヴァ二ーナは茫然として立ちつくした。彼女はローマに戻った。新聞の伝えるところでは、ごく最近ドン・リヴィオ・サヴェッリ公爵と結婚したということである。
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カストロの尼
十六世紀イタリアの山賊たちは、いままで通俗劇《メロドラマ》にあまり登場しすぎたうえに、よく知りもしないであれこれ取り沙汰するものが多かったために、今日ではこの連中についておよそ間違った考えがゆきわたっている。おおむねこれらの山賊は、イタリア中世の共和国のあとをうけた残虐な政府の数々に対する「反対派」であったと言ってよいのである。新興の暴君はふつう前の共和国時代のもっとも富裕な市民であった。そして、民衆の歓心をかうために壮麗な寺院や美しい絵画で都市を飾ったのである。ラヴェンナのボレンティーニ家、ファエンツァのマンフレディ家、イモラのリアリオ家、ヴェローナのカーニ家、ポローニャのベンティヴォーリオ家、ミラノのヴィスコンティ家、そして、もっとも非好戦的でもっとも偽善的なフィレンツェのメーディチ家など、みなそうである。これらの暴君たちが恐怖におびえて命じた無数の毒殺や暗殺について、あえて記《しる》そうとした者はこれらの国の歴史家のなかに誰一人いなかった。あのものものしい歴史家たちは御用学者だったのである。これらの暴君はいずれも自分を憎んでいる共和主義者の一人一人を親しく識っていた(たとえば、トスカーナ公コージモはストロッツィ(メーディチ家に対する謀叛の首謀者)と面識があった)。しかも、これらの暴君の畿人もが暗殺に倒れている。この点をお考えいただきたい。そうすれば、この深い憎悪と不断の猜疑心《さいぎしん》がわかっていただけよう。この憎悪と猜疑心とが十六世紀のイタリア人にあれほどの才知と勇気を与え、芸術家たちにあれほどの天才を与えたのである。おわかりでもあろう、こうした根深い情念からは、セヴィニエ夫人時代の、いわゆる「名誉」などというおよそばかばかしい偏見は生まれなかった。この偏見は、とりわけ、生まれついた主君に家臣として仕え、ご婦人のお気にめさんがためには、おのれの生命を犠牲にするというていのものである。十六世紀フランスでは、男の働きと真価が発揮され、賞賛を得るには、戦場あるいは決闘での武勇による他はなかった。だが女は武勇を、特に大胆さを好むものであって、女が男の価値を決める最高審判者となった。ここに「女性崇拝《ギャラントリー》の気風」が生まれる。これがしだいにあらゆる情熱を、さらには恋愛をさえも衰徴させ、ついにはわれわれすべてを服従させる残醜な暴君、すなわち虚栄をのさばらせることになる。国王たちはこの虚栄を鼓吹した。きわめて当然のことである。勲章の威力はこうして生じた。
イタリアでは、男は|あらゆる種類の《ヽヽヽヽヽヽヽ》価値によって頭角をあらわした。偉大なる武功によってと同じく、古文書上の発見によっても、である。ペトラルカを見るがいい。一代の寵児《ちょうじ》である。つまり、十六世紀の女は武勲の誉《ほま》れたかい男を愛するのと同様に、いやそれ以上にギリシャ語に堪能な男を愛した。当時の人々の関心は情熱であって、女性崇拝《ギャラントリー》の風習ではない。イタリアとフランスの大きな違いはここにある。イタリアがラファエッロやジォルジョーネやティチアーノやコルレッジオのような人物を生んだのに対し、フランスがただ十六世紀のあれら勇猛な武将ばかりを生みだした理由はここにある。しかも、彼らはあれほど多くの敵を殺したにもかかわらず、今日ではまったく忘れ去られている。
露骨な真実は、お許しねがおう。ともあれ、中世イタリアの小暴君が|やむなく《ヽヽヽヽ》行なった残虐な復讐行為は、民心を山賊に結びつけたのであった。山賊が馬や麦や金など、つまりは彼らの生活に必要なすべてのものを盗むとき、人々は山賊を憎みもした。しかし、結局、民心は彼らの味方であった。なにか無謀なことをしでかして、一生に一度は、andar alla machia(イタリア語で、「森へ行く」の意)つまり森に逃れ、山賊に隠まわれるようなはめになった若者を、村の娘たちはだれよりも好ましく思ったものであった。
今日でもなお、みな山賊に出くわすのを恐れてはいる。しかし、彼らが処刑されれば、だれもが彼らのために泣く。それというのも、なかなか小ざかしく嘲弄《からかい》好きなこの国民は、その筋の検閲を受けて出版されたものなどどれもばかにし、いつも名だたる山賊の生涯を賛美した短詩を愛誦していたからである。こうした物語のなかに彼らの見いだす英雄的なものが、|下層階級のなかに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》いつも躍動している芸術家気質をとりこにするのである。おまけに、彼らは国家が特定の連中に与える賛辞にうんざりしている。だから、こうしたものでお上《かみ》の臭いのしないものは、まっすぐに彼らの胸に迫るのである。また忘れてはならないのは、イタリアにおける民衆の苦しみは、たとえ旅行者が十年この国に滞在したところで、けっして気づかないようなことがらによるものだということである。たとえば、十五年前、政府の賢明な処置によって山賊が根絶されるまでは、山賊の働きで小都市の「代官」たちの不正行為が罰せられるといったことも稀れではなかった。これら代官は独裁的な行政者ではあるが、その月俸はよくても二十スクーディそこそこで、いきおいその地方でもっとも権力ある一族の意のままになってしまう。こうしたしごく簡単な方法によって、その一族は自分の敵を制圧する。山賊たちはいつもこうした専制的な代官どもをこらしめるのに成功したわけではなかったが、少なくとも彼らを愚弄し、ものともしていなかった。これが機知に富むこの国民の目にはなみなみならぬことと映ったのである。一篇の風刺詩は彼らのあらゆる不幸を慰める。だからといって、彼らが侮辱を忘れたわけではけっしてない。イタリア人とフランス人の主要な違いの一つがここにもある。
十六世紀には、小さな町の代官が土地の豪族ににらまれた哀れな住民に死刑の判決を下したりすると、山賊が牢獄を襲ってこの不当な罰を負わされた男を助け出そうとするようなことがしばしば見受けられた。豪族の方でも、八人や十人の政府の兵士に牢獄の警備をまかしてはおけぬというので、自費で臨時の兵隊を抱えこんだ。この連中は|bravi《ブラヴィ》(傭兵、または用心棒の意)と呼ばれ、牢獄の付近に野営し、金の力で死刑になったこの哀れな男を刑場まで護送するのである。もしこの豪族一門に青年がいれば、それがこれらにわか仕立ての兵士の隊長になった。
こうした文明状態は道徳に悲鳴をあげさせるものである、それは私も認める。現代人は決闘と不安を持っている。裁判官は買収されない。しかし、十六世紀のこうした習わしは、男の名にふさわしい男をつくりだすのにはまったく適していたのである。
アカデミーなどの旧弊な文芸が今日もなおもてはやしている多くの歴史家たちは、一五五〇年代、あれほど偉大な人物をつくりあげた、この情勢をつとめて隠そうとした。当時、彼らの用意周到な嘘は、フィレンツェのメーディチ家やフェルラーラのエステ家やナポリ歴代の副王らのあたう限りの栄誉をもって報われた。ジャノーネという不運な歴史家(一六七六ー一七五八。その主著『ナポリ王国国民史』(一七二二)が反教権的であるとのかどで断罪破門され、放浪生活の末、トリノ城に幽閉獄死した)はそのヴェールの一端をはがそうとした。しかし、彼があえて言及したのはごくわずかの真実にすぎず、それもどうにでもとれる曖昧《あいまい》な言葉を用いており、結局はしごく退屈なものである。とはいえ、そのために彼が一七五八年三月七日八十三歳で獄死したことに変わりはない。
イタリアの歴史を知ろうとする際にまず心得るべきこと、それは一般に認められている作者のものはけっして読まないことである。嘘の値うちがこれほどよく認識されていた国はないし、これほどよい値が支払われた国もないからである。
九世紀という暗黒の時代のあとイタリアで書かれた最初の歴史にも、すでに山賊の記載があり、太古から存在したように語られている(ムラトーリ(一六七二ー一七五〇。モデナ公国の著名な古代史家)の収集録を参照せよ)。中世期の諸共和国が圧しつぶされていったことは、公共の幸福、正義、よき治世のためには不幸なことであり、芸術のためには幸いなことというべきだが、そのとき、もっとも精悍《せいかん》な共和主義者たち、つまり大多数の市民同胞よりも自由を愛した連中は森に身を隠した。むろんのこと、バリオーニ、マラテスタ、べンティヴォーリオ、メーディチなどの諸家に苦しめられていた民衆は、これら諸家の敵を愛し尊敬した。初期の王位|簒奪者《さんだつしゃ》の後をうけついだ小暴君らの残虐行為、たとえば、フィレンツェの初代大公コージモがヴェネチアやパリに逃れた共和主義者まで暗殺させたというような残虐行為が、これら山賊に新参者をもたらすこととなった。 この物語のヒロインの生きた前後の年代だけについてみても、一五五〇年ごろは、モンテ・マリアーノ公アルフォンソ・ピッコロミーニとかマルコ・シアルラが武装して徒党を率いて善戦しており、アルバノ付近では、当時勇名をはせていた教皇軍を相手どったりしていた。いまなお民衆の賛美の的となっているこれら有名な首領たちの行動範囲は、ポー河およびラヴェンナ沼沢地帯から、当時ヴェスーヴィオ山をおおっていた森林にまで及んでいた。彼らの武勲ですっかり名高くなったファッジョラの森は、ローマからは二十キロのところ、ナポリ街道にのぞみ、シアルラの本拠であった。彼はグレゴリオ十三世時代に、ときとしては数千の軍勢を擁したこともあった。この名だたる山賊のことをくわしく物語ったとしても、現代の人々は彼の行動の動機を決して理解しようとはすまいから、でたらめだと思うのが|おち《ヽヽ》であろう。彼は一五九二年になってやっと降伏した。形勢まったく不利と見たとき、彼はヴェネチア共和国と和議を結び、もっとも忠実な、といって悪ければ、もっとも罪深い部下をひきいてこの国に仕えた。ヴェネチアは、ローマ政府の要請を受けるや、シアルラと和約に調印していたにもかかわらず、彼を暗殺させ、勇猛な部下たちはカンディア島に送って、トルコ軍の防衛にあたらせた。しかし、これはヴェネチアの詭計《きけい》で、カンディアに殺人的なペストが蔓延《まんえん》していることは百も承知であった。かくて、数日のうちに、シアルラにしたがってこの共和国に仕えた五百人の兵士は六十七人になってしまった。
このファッジョラの森の巨大な樹木は死火山を覆いつくしていて、ここがマルコ・シアルラ最後の武勇の舞台であった。すべての旅行者が言うように、あのすばらしいローマ平野のうちでも、ここはもっとも壮麗な風光を備えており、その陰鬱《いんうつ》な眺めは悲劇の舞台にふさわしく思われる。森は黒味をおびた緑で、アルパノ山の連峰を覆い飾っている。
この壮麗な山が出現したのは、ローマ建国から幾世紀かさかのぼった大昔の火山爆発による。あらゆる歴史に先立つ一時期、かつてアペニーノ山脈から海にまたがって開けていた原野のただ中にこの山は浮かび上がったのである。ファッジョラの鬱蒼たる樹々にかこまれてそびえ立つモンテ・カーヴォがその主峰である。これはどこからでも、テルラチーナやオスアィアからも、またローマやティーヴォリからも望まれる。そして、旅行者の間で有名なローマの南側の地平をさえぎつているのが、現在は宮殿の立ちならぶこのアルバノ山なのである。モンテ・カーヴォ山頂の、ベネディクト派の修道院はユーピテル・フェレトリウス〈軍神ジュピター)の神殿の跡に建てられたものだが、そこはかつてラテンの諸民族が集まって、共に犠牲を捧げ、一種の宗教的同盟の契《ちぎ》りをかためたところである。旅行者は栗の大樹に陽をさけながら数時間も行くと、ユーピテル神殿の廃墟に残る巨大な石の堆積に達する。しかし、鬱蒼としていて、こうした気候のもとでは実に心地よいこれらの木陰に立つと、今日でもなお、旅行者は不安にかられて森の奥をのぞきこむ。 山賊がこわいからである。モンテ・カーヴォの山頂に着くと、神殿の廃墟で焚火《たきび》をして食事の仕度をする。ローマ平野が全望されるこの地点からは、西に、海が、十二、三キロもかなたにあるのに、まるで目と鼻のところにあるように見うけられる。どんな小舟も見分けられる。お粗末な望遠鏡の一つもあれば、ナポリへ向かう汽船の上の船客までも数えられる。他の三方に、視界は壮大な平原を越えてどこまでも広がり、その尽きるところ、東はパレストリーナの上に連なるアルペニーノ山脈、北はサン・ピエトロ寺院をはじめとするローマの大建築物である。モンテ・カーヴォは高すぎはしないから、この土地の細部までも見分けられる。それは史跡などなくてもよいほどに荘厳である。とはいいながら、どんな森かげも、平野や山腹に認められるどんな廃家の壁も、ティツス・リヴィウスの語る愛国心と武勇によって名高いあれら戦場のひとつを想起させずにはおかない。
ユーピテル・フェレトリウス神殿の残骸であって、いまはべネディクト派僧院の庭の壁に使われている巨大な石の堆積へ行くのに、現代でも、かつて初代のローマ王たちが往来した「凱旋街道《がいせんかいどう》」をたどることもできる。この街道にはきわめて形のととのった切石が敷きつめられている。ファッジョラの森のまん中あたりには、その遺跡が長くつづいて残っている。
死火山の火口はいまや澄みきった水をたたえ、溶岩の堤に深くいだかれた、周囲二十二、三キロの美しいアルバノ湖となっているが、その岸に、ローマの母胎となったアルバがあった。ローマの政略によって、この町は初代王の時代に破壊された。しかしながら、その遺跡はまだ存在している。それから数世紀の後、海を見下す山の斜面に、新しい町アルバノが興った。しかし、その町は岩の障壁で湖水とはさえぎられていて、町からは湖水が、湖水からは町が見えなくなっている。平野からそれを望むと、例の山賊に因縁が深く、そのためよく語りぐさにもなった、そして、火山の頂《いただ》きをすっかり覆い尽くしている、あの森の黒味をおびた深い緑の上に、町の白い家家が浮かび上がっている。
今日、人口五、六千人を数えるアルバノも一五四〇年には三千人にもみたなかった。当時、第一級の貴族として栄えていたのは、豪族カンピレアーリの一門である。その一門の悲劇をこれから物語ろう。
私は二つの大部な写本からこの物語を翻訳する。一つはローマ、もう一つはフィレンツェのものである。冒険は覚悟のうえで、私はあえてそれらの文体を生かそうとした。それはわが国の古伝説の文体に近い。現代のひどく繊細で節度のある文体は、ここに語られた諸事件、とくに原作者の省察にはあまりにもふさわしくない、と思われるからである。書かれたのは一五九八年頃である。原作者に対して、また私自身に対して、読者のご寛容を乞いねがうものである。
≪数々の悲痛な物語を書いたものだ≫がとフィレンツェ写本の作者は言っている。≪おしまいに、そのなかでもいちばん気の毒で語るに堪えぬ物語をしよう。それは、人も知るカストロの聖マリア訪問童貞会の女子大修道院長、エーレナ・ディ・カンピレアーリの物語であって、彼女の裁判と死はローマと全イタリアの上流社会にたいそうな話題を与えたものである。すでに、一五五五年頃、山賊はローマ周辺を支配しており、代官は豪族に金で買われていた。一五七二年、つまり彼女の裁判の年、ブオンコンパーニことグレゴリオ十三世が聖座にのぼった。この教皇は使徒的な徳のすべてをそなえていた。しかるに、民政面での彼の無力には、非難されてしかるべきものがあった。公正な裁判官を選ぶことも、山賊を抑えることもできなかった。罪の多きに心を悩ませつつも、罪を罰する術は知らぬのであった。死刑を課せば、自分が恐ろしい責任を背負いこむことになるように思えたのだ。こういう考えの結果は、ほとんど無数の山賊を永遠の都へ通ずる街道にはびこらせることとなった。いくらかでも安全に旅をしたければ、山賊とねんごろになっておかねばならなかった。ファッジョラの森はアルバノをへてナポリにいたる街道にまたがっており、昔からローマ教皇庁に敵対する一政権の本拠であった。しばしば、ローマは森の王者の一人マルコ・シアルラと、いわば対等なもの同士として、和睦せざるをえぬのであった。これら山賊たちが勢力をえたのは、近隣の百姓に愛されていたからである。
≪山賊の本拠に間近い、この美しいアルバノの町に、一五四二年、エーレナ・ディ・カンピレアーリが生まれた。彼女の父はその地方随一の富裕な貴族として通っており、またそういうことで、ナポリ王国に広大な土地をもつヴィットリア・カラッファを娶《めと》ったのであった。ヴィットリア・カラッファとその娘をよく知っている老人たちもなお存命中ゆえ、その言をここに引くこともできる。ヴィットリアは思慮と才知の化身とも言える女人であった。とはいえ、その才のすべてをもってしても、一門の破滅を未然に防ぎえなかったのであった。不思議なことに、この物語の主題となる恐ろしい不幸の数々は、これより私の紹介する人物のなかで、とくに誰のせいだとは言いかねるように思われるのである! 不孝な人間はあるが、実のところ罪ある人間は見あたらぬ。若きエーレナの絶世の美貌とひどく優しき心根は彼女の二大禍根であったが、それゆえにまた、彼女の愛人ジュリオ・ブランチフォルテの無謀に弁解の余地を与えもする。同様に、カストロの司教チッタディーニ卿はその全き無能さのゆえにある程度まで許される。彼の宗門における経歴での速やかな昇進は、その品行方正さに、とりわけ、世にもまれた高雅な風姿と端正な容貌とによるものであったのだ。だれでも彼を一目見ると好きにならずにはいられなかった、と書いてあるのを私は見たことがある。
≪私はだれにへつらうつもりもないゆえ、隠さずに申しあげよう。モンテ・カーヴォの修道院に、一人の徳高き修道士があって、しばしば彼が僧房で、あたかも聖パオロのごとく、地上二、三メートルのところに舞いあがっているのが見かけられたという。神の恩寵《おんちょう》によらざれば、かように途方もない位置に身を保つことはかなうまい。この御人がカンピレアーリ卿に予言して、ご一門は貴殿一代にて滅び、子供は二人のみ、そのお二人も非業《ひごう》の死を遂げられよう、と言ったとのことである。まさにこの予言のゆえに、彼は国内では結婚の相手を見つけることができず、運を開んとしてナポリへ赴き、幸いにもそこで、莫大な財産と、かりに人力の及ぶものならば、その才知によって、彼の悪運をも転じうるほどの妻を見いだしたのであった。このカンピレアーリ卿はなかなかのお人柄とも言われ、ずいぶんな慈善もしはした。ところがまったく才知に欠けた人で、そのため、しだいにローマ生活からも足が遠のき、ついに一年じゅうほとんどアルバノの屋敷ですごすようになった。彼は町と海との間に広がるきわめて肥沃な平野にある自分の領地の耕作に従事した。奥方《おくがた》のすすめるまま、二人の子供には贅沢《ぜいたく》きわまる教育をほどこさせた。息子のファビオは自分の生まれに高い誇りをもつ若者であり、娘のエーレナは、ファルネーゼの収集中に現存する肖像画に見られるごとく、美の奇跡であった。私は彼女の物語を書きはじめてから、ファルネーゼ宮へでかけて、数奇の運命によって当代の語りぐさになり、いまなお人の記憶にのこるこの女性に、天が与えたもうたうつせみの姿をつくづくながめたものである。顔は面長で、額《ひたい》は高くひいで、髪は濃いブロンドである。顔の表情はむしろ陽気である。深い表情をたたえた大きな目と、はっきりと弧を描いた栗色《くりいろ》の眉《まゆ》をしている。唇はきわめて薄く、口もとは名匠コルレッジオの筆になるかとまがうばかりである。ファルネーゼの画廊で多くの肖像画にとりまかれたところは、まさに女王の風格である。陽気な表情に威厳のともなうのはきわめて稀なことなのである。
≪カストロの町の聖マリア訪問童貞会修道院はいまや跡かたもないが、当時はローマの王侯のほとんどが娘を預けたところである。エーレナもそこの寄宿生として、まる八年を過ごしてから、郷里に戻ったが、その修道院を去るにあたって、聖堂の大祭壇に見事な霊杯を寄進することを忘れなかった。アルバノに帰ってくるとすぐに、父親は当時すでに高齢の著名な詩人チェキーノに莫大な手当をあたえ、ローマから呼びよせた。詩人は詩聖ヴェルギリウスおよびその高名の弟子、ペトラルカ、アリオスト、ダンテらの美しい詩句でエーレナの教養を飾った≫
ここで訳者は十六世紀がこれら大詩人に与えたさまざまな賞賛についての長々しい議論を割愛しなくてはならない。エーレナはラテン語ができたようである。彼女の教えられた詩は恋愛をうたったもので、それも一八三九年代のわれわれが見たら、ばかばかしく思えるような恋愛である。言ってみれば、偉大な犠牲によって養われ、神秘につつまれてのみ生きのび、つねに恐るべき不幸と背中あわせになっているといった情熱恋愛なのである。
十七歳になったばかりのエーレナに、ジュリオ・ブランチフォルテが目覚めさせたのも、そういう恋であった。彼は近在のごく貧しい若者で、彼の住んでいたあばら屋は町から一キロほどの山中、アルバの廃墟の中央、湖水をめぐる緑におおわれた五十メートルもの断崖のふちに建てられていた。ファッジョラの森の鬱蒼とした大樹に隣接したこの家は、そののちバラッツォーラ修道院が建てられたとき、取り壊された。この貧しい青年の取柄《とりえ》といっては、生き生きした機敏な様子と、自分の逆境を意にかいさぬ、わざとらしさのない無頓着さだけであった。せいぜいひいきめにいえば、顔は美しくはないが表情に富んでいるということになる。しかし、彼はコロンナ公の配下にあって、その「傭兵《プラヴィ》」たちに伍して、二、三の危険きわまりない戦いで勇敢に戦ったと言われていた。貧乏で、美しくもなかったのに、アルバノ中の娘たちの目には、あの人の心がつかめたらどんなにか嬉しかろうと思わせるなにかを彼は持っているのであった。どこへ行ってももてはやされ、ジュリオ・ブランチフォルテはそのときまでただ戯れの恋しか知らなかった。そこへ、カストロの修道院からエーレナが戻ってきたのである。≪その後まもなく、大詩人チェキーノがこの娘に詩を教えるためローマからカンピレアーリの屋敷に移ったとき、彼と面識のあったジュリオはラテン語の詩一篇を彼に贈ったが、その詩には、あの美しい眸《ひとみ》がじっとこちらに注がれるのを、また、自分の考えにうなずいてもらえるときその純真な魂がうれしさでいっばいになるのを、その老いゆえに間近に見ることのできる詩人の幸福がうたわれていた。エーレナの帰るまでジュリオが優しくしていた娘たちの嫉妬《しっと》と怨《うら》みが、芽生えた情熱をかくそうとしていた彼の用心をやがてみなむだにしてしまった。それに、この二十二歳の若者と十七歳の娘との恋がはじめのうち、およそ慎重とは言いかねるような工合に進行していったことも否めぬことである。三か月たつかたたぬうちに、カンピレアーリ卿はジュリオ・ブランチフォルテが屋敷の窓の下をしげしげと通るのに気づいた。(この屋敷は湖水の方へのぼって行く大通りの中ほどにいまも見られる)≫
共和政体下で容認される自由の当然の結果である率直や荒々しさ、そして、君主制下の風習によってもなお消えていない直情の風、それらがカンピレアーリ卿のとった最初の行動のなかには、まがうことなく現われている。彼は若いブランチフォルテがひんぴんと姿を現わすのに腹をたてると、その日すぐさまこう言って彼をののしった。
「なんだってそんなにしょっちゅうひとの家の前をうろつきまわって、娘の部屋の窓をじろじろ見るんだ! きさまときたら、身につける着物さえないくせに近所からへんに誤解される気づかいがなけりやあ、きさまに金貨の三枚もくれてやりたいところだ。ローマへ行って、それで少しはましな上衣でも買ってくるがいい。そうすりや、せめて私も娘もこんなにしょっちゅうきさまの|ぼろ《ヽヽ》を見せつけられて、いやな思いをせんでいいってわけだからな」
エーレナの父はたしかに誇張している。若いブランチフォルテの服はけっしてぼろなんかではない。かなり粗末な布地で作ってあるだけだ。ただ、どんなに清潔でよくブラシがかけてあっても、ずいぶん着古したものであることは一見してわかった。ジュリオはカンピレアーリ卿の罵倒に深く心を傷つけられて、もう昼間のうちは屋敷の前に現われなかった。
ブランチフォルテの父が建てて息子に遺した家は古代の水道の残骸である二つのアーケードを主要な壁に利用したものだが、さきに述べたように、それはアルバノからわずか五、六百歩のところにあった。この高台から新しい町へ下りて行くには、ジュリオはどうしてもカンピレアーリの屋敷の前を通らなければならなかった。エーレナはやがて、ほかの娘との関係をすっかり断ち、エーレナの姿を見ることを無上の喜びだと思って、それに夢中になっている、と友だちから聞かされていたこの風変わりな青年が姿を現わさなくなったことに気づいた。
ある夏の真夜中ごろ、エーレナは窓を開けはなって、海から吹いてくる微風にあたって涼んでいた。この町と海は十二キロほどの平原でへだてられていたが、潮風はアルバノの丘の上でもはっきり感じられた。夜は暗く、静寂は深かった。木の葉の落ちる音までも聞こえるほどであった。窓によりかかって、エーレナはジュリオのことでも考えていたのであろう。そのとき、彼女はなにか夜鳥の翼のようなものが窓のすぐ前を静かにかすめるのを見た。彼女ははっとして身をひいた。それが通りがかりのだれかの差しだしたものだとは、とても考えられなかった。この窓のある屋敷の三階は地上から十八メートル以上もあったからである。突然、彼女は、深い静寂のなかで、自分のよりかかっている窓の前を行きつもどりつするこの奇異なものが花束であるらしいのに気づいた。彼女の胸は激しくときめいた。その花束は「カンナ」を二、三本つぎたしたその先端に結びつけられているのであった。「カンナ」は竹によく似た大きな燈心草《とうしんぐさ》の一種で、ローマ平野に生《は》えていて、茎は八、九メートルもある。カンナがしなううえに風がかなり強いので、ジュリオはエーレナがいると思った窓のちょうど前のところに、その花束を差しだしておくのにいささか苦労した。おまけに、まったくの暗闇で、通りからそんな高いところはなにも見えなかった。窓を前に身動きもせず、エーレナはすっかり心乱れていた。この花束を取ったものだろうか。それでは自分の気持ちをもらすことになりはすまいか。それ以外には彼女は、現代ならこうしたアヴァンチュールに際して、立派な教育をうけ人生への準備のできている上流社会の令嬢のいだきそうな感情はなに一つもたなかった。父と兄のファビオが家にいたので、まず頭に浮かんだのは、少しでも音をたてたらジュリオめがけて火縄銃が射ちこまれるということであった。彼女は危険を顧みぬこの青年をあわれに思った。ついで頭に浮かんだのは、自分はまだこの人のことをほとんど知らないけれど、家族のものをのぞけば、彼こそ自分がこの世でいちばん愛している人なのだということであった。ためらうこと数分、ついに彼女は花束をとった。まっ暗闇のなかで花に手を触れたとき、花の茎に手紙が結びつけられているのがわかった。彼女は大階段を駆けおり、マドンナの像の前にともされた灯明の薄明かりでこの手紙を読んだ。「まあ、なんて軽はずみな!」。最初の数行を読んでうれしさに頬をあからめながら、彼女は言った、「だれかに見つかったら、おしまいなのに。家の人はきっといつまでもかわいそうにあのかたをひどい目にあわすわ」。彼女は部屋にもどつて、明かりをつけた。この瞬間はジュリオにとって無上の歓《よろこ》びであった。彼は自分のふるまいが恥ずかしくて、暗い闇のなかでなおも身を隠そうとするかのように、今日でもカンピレアーリの屋敷の向かいにある、異様な形をしたあのそよごの立木の太い幹にぴたりと身をよせていたのであった。
手紙のなかで、ジュリオはエーレナの父からあびせられた屈辱的な叱責のことをきわめて率直に語っていた。続いて彼はこう書いた。「たしかに私は貧乏です。私の貧乏がどんなにひどいものか、あなたには想像もつかないでしょう。私がもっているものといったら、家だけです。ごらんになったことがおありでしょう、アルバのアーケードの廃墟の下にあるあの家です。家のまわりには畑があり、それを自分で耕して、そこでとれる野菜で生活しています。ほかに葡萄《ぶどう》畑が一つあり、年三十スクーディでひとに貸しています。なぜあなたが好きなのか、じつは自分でもわかりません。この貧乏暮らしを一緒にしてくれなどとはとてもあなたにいえません。そのくせ、あなたが私を愛してくださらなかったら、生きていることは私にとってもはやなんの価値もありません。言うも愚かなことです、あなたのためならいくら命を投げだしてもいいなんて。でも、あなたが修道院からお帰りになるまでは、私の人生も不幸ではなかった。反対に、とても輝かしい夢でいっぱいでした。だから、あなたを見る幸福が私を不幸にしたと言えます。そうです、あのころは、だれ一人としてあなたのお父上が私を傷つけたような言葉をこの私にあびせるものなんかいませんでした。そんなことがあったら、たちどころに、私の短剣が片をつけていたでしょう。あのころ、私には勇気と武器とがあり、世に恐るるものなしと思っていたのです。なに一つ欠けるものはなかったのです。いまはすべてが一変し、私は恐れを知るようになりました。よけいなことを書きました。たぶん私を軽蔑なさるでしょうね。もし、反対に、みじめななりはしていても、いくらかでも私をあわれんでくださるなら、おぼえておいてください。毎晩、丘の上のカプチン修道会の修道院で真夜中をつげる鐘がなるとき、私はこの窓の前の大きなそよごの木の下にかくれていますから。それがあなたの部屋の窓だと思って、いつも見つめているのです。あなたがもし、お父上のように私のことを軽蔑なさっていないのなら、この花束の花を一本投げてよこしてください。でも気をつけてください。お屋敷の軒先やパルコンに花がひっかからぬように」
手紙は幾度も読みかえされた。しだいにエーレナの目は涙でいっぱいになっていった。彼女はうっとりしてこの見事な花束をながめていた。花はとても丈夫な絹糸で結ばれていた。その一本を抜きとろうとしたが、うまくいかなかった。ついで後悔におそわれた。ローマの娘たちのあいだでは、愛のしるしにもらった花束から花を抜きとったり、どんなふうにであれそれを傷つけたりすると、その愛を死なせてしまうことになるとされていたからである。彼女はジュリオが待ちかねていはしないかと心配して、窓ぎわに駆けよった。しかし、そこまで行くと、突然自分の姿があまりにはっきりと見られてしまいそうな気がした。明かりが部屋じゅうを照らしだしていた。エーレナはもうどんな合図をしたらよいのかわからなくなった。どんな合図も露骨すぎるように思えた。
恥ずかしくなって、彼女は部屋に駆けもどつた。でも、ぐずぐずしてはいられない。突然ある考えが浮かんだ。すると、いいようもないほど気持ちが混乱した。ジュリオは私も父と同じように彼の貧乏を軽蔑していると思うかもしれない! テーブルの上に高価な大理石の小さな見本のあるのが目にとまった。それをハンカチにくるむと、窓の前のそよごの木の根もとへ投げた。そして、帰ってくれと合図をした。ジュリオがそれに従うのが聞こえた。立ち去るときは、もう足音をしのばせようとはしなかったからである。彼がアルバノの町はずれの家々と湖水のあいだにある帯状の岩山の頂きに達した頃、彼のうたう愛の調べが聞こえた。彼女もいまは大胆になって、別れの合図を送った。そしてまた手紙を読みはじめた。
その翌日も、また幾日もひきつづいて、同じような手紙とあいびきがあった。しかし、イタリアの村ではなにもかも人の目にたちやすく、しかも、エーレナはその地方きっての多額な持参金つきの娘であったから、カンビレアーリ卿に、毎晩真夜中すぎになると娘の部屋に明かりが見えると通報してきたものがあった。さらにいっそう不可思議なことには、窓は開けはなたれ、おまけにエーレナは「チンツァーレ」など気にするふうもなく窓際に立っているという(「チンツァーレ」というのは実にいやな蚊《か》の一種で、これがローマ平野の美しいタベをだいなしにする。ここでもまた読者のご寛容を乞わねばならない。異国の風習を知ろうとする場合、われわれとはすっかり違った、ずいぶん奇妙なものの考え方に出くわすことは覚悟しておいていただかねばならない)。カンピレアーリ卿は自分と息子の火縄銃の用意をした。その夜、十一時四十五分が鳴ると、彼はファビオに合図した。二人はできるだけ音をたてぬようにして、大きな石造りのバルコニーに忍びこんだ。それは屋敷の二階にあって、ちょうどエーレナの部屋の窓の真下にあたる。石の手摺《てすり》の太い柱が二人を腰のあたりまで隠しているので、外から銃で撃たれても大丈夫である。十二時が鳴った。父と子は屋敷の前の道ばたの木立ちの下でなにかかすかな物音がするのをはっきり聞きとった。ところが、いったいどうしたことか、エーレナの部屋の窓には明かりがつかない。いままでは実に無邪気で、まるで子供のように快活なふるまいを見せていたこの娘も、恋を知ってからは、性格が一変した。どんなにわずかな軽はずみも恋人の命にかかわるのだということを知ったのである。彼女の父ほどの大領主がジュリオ・ブランチフォルテのような取るにたらぬ男を殺したところで、ナポリへでも行って三か月も姿をくらましていればそれですむ。この間に、ローマの友人たちが事件を処理してくれる。そして、当時の流行にしたがって、マドンナの祭壇に数百スクーディほどの銀の燭台《しょくだい》でも寄進しておけば、万事片がつくのである。その日の朝、食事のとき、エーレナは、父の顔色から、父がなにかにひどく立腹しているのを見てとった。そして、彼女は気どられているとも知らずに自分を見る父の様子から、その立腹には自分が大いに関係していると思った。すぐに彼女は父の寝台のところへ行って、そのそばに父がたてかけている五丁の立派な火縄銃の銃身に粉を少しふりかけた。同じように短刀や長剣にも薄く粉をまいておいた。一日じゅう彼女はひどくはしゃぎまわって、たえず家のなかを上から下へと駆けまわった。しょっちゅう窓の近くに行った。うまくジュリオの姿を見つけたら、来るなと合図するつもりだったのである。しかし、彼女は気づいていなかった。この哀れな青年は金持ちのカンピレアーリ卿に罵《ののし》られてひどい侮辱を受けたので、日中はけっしてアルバノに姿を見せなかったのである。日曜日だけは聖堂区のミサに列席しなくてはならないので、しかたなく町にでてきたのだが.エーレナの母は娘を盲愛しており、娘の言うことはなに一ついやとは言えぬひとで、この日も、娘と三度も外出したが、それも無駄であった。エーレナはジュリオを見かけることができなかった。彼女は絶望した。夕方になって父の武器を調べに行くと、二丁の火縄銃には弾がこめられ、短刀や長剣のほとんどすべてに手を触れたあとがあった。それを見た彼女の心中はいかばかりであったろう! なにも気づかぬようなふりをしていなくてはという極度の緊張によって、やっと彼女は死ぬほどの不安をまぎらわすことができた。夜の十時に部屋にひきさがり、母の控え間につづくドアに鍵をかけると、窓にぴたりと身をよせ、床に横になって、外から見られないようにした。どんなに不安な思いで時刻をつげる鐘の音を聞いたことであろう。あまりにも早くジュリオに心ひかれてしまったので、それだけ愛するに値いしない女と彼に見られはすまいかと、いつも心にとがめていたのだが、もうそんなことは問題ではなかった。半年通いつめて誓いの言葉をくりかえす以上に、この一日は青年の立場を有利にした。「嘘がなんの役にたとう。私は心からあの人を愛しているのだもの」とエーレナは思うのであった。
十一時半になると、父と兄が彼女の窓の下の大きな石のバルコニーに待ち伏せをするのがはっきり見えた。カプチン修道会の修道院に真夜中の鐘が鳴って二分とたっていなかった。恋人の足音がこれもはっきりと聞こえた。それはそよごの大木の下で止まった。父と兄にはなにも聞こえなかった様子なのでほっとした。恋に悩むものでなければ、どうしてこんなかすかな物音が聞き分けられよう。
「いまに私は殺される」と彼女は思った。「けれど、どんなことがあっても、今夜の手紙はとられないようにしなくては。でないと、かわいそうにあのかたがきっといつまでもひどい目にあわされるわ」。彼女は十字を切ると、窓の鉄のバルコニーの柵を片手でつかみ、外に身を倒して、できるだけ通りへのりだした。するとじきに、例によって長いカンナに結びつけられた花束が、彼女の腕に触れてきた。彼女は花束をつかんだ。しかし、あわててカンナの先端から花束をもぎとろうとしたはずみに、カンナを石のバルコニーにぶっつけてしまった。その瞬間、二発の銃声がおこつて、あとは静まりかえった。兄のファビオは、バルコニーに強くあたったのは妹の部屋から降りてきたジュリオの綱なのかどうか、暗がりで、よくわからぬままに、妹のバルコニーめがけて発砲した。翌日、鉄柵の上にへこんだ弾丸のあとを見た。カンピレアーリ卿は石のバルコニーの下の通りをねらった。ジュリオが倒れかかったカンナを立てなおそうとして音をたてたのである。一方、ジュリオは頭上に物音をきくと、つぎに起こることを察知し、バルコニーの張出しの下に身をかくした。
ファビオはすばやく火縄銃に弾をこめなおした。父の言うことには耳もかさず、家から庭に走りでて、すぐ前の通りに接したくぐり戸をそっと開けると、屋敷のバルコニーの下をうろつく人影をもう少し見きわめようとして、足音を忍ばせて出て行った。その晩はちゃんと護衛のものをつれていたとはいえ、そのとき、ジュリオは一本の木にぴたりと身をよせ、ファビオからたった二十歩のところにいたのであった。エーレナはバルコニーの上に身をかがめ、恋人の身を案じていたが、通りに兄の足音を聞くと、すかさず大声で話しかけ、盗賊は仕止めたかと聞いた。
「そんなおまえのしゃらくさいペテンにひっかかるようなおれじゃあないぞ!」と、兄は四方へ目を走らせながら通りから叫んだ。「それより涙の用意でもしておくんだ。おまえの窓に近づこうなんて無礼な奴はいますぐ殺してやる」
この言葉がまだ終わらぬうちに、エーレナは母が部屋の戸をたたくのを聞いた。エーレナは急いでドアを開き、どうしてこのドアが閉っていたのかしらと言った。
「ねえ、私にはお芝居はおよしなさい」と母は言った。「お父さまはたいへんなお腹立ちよ、おまえを殺そうとなさるかもしれないわ。さあ、私といっしょに私の寝台におはいり。手紙をもっているなら渡しなさい、かくしてあげるから」
エーレナが言った。
「この花束なの。手紙は花のなかにかくしてあります」
母と娘が床についたかと思うと、カンピレアーリ卿が妻の寝室にひきかえしてきた。礼拝堂を調べにいき、そこらじゅうをひっかきまわしてもどつてきたのであった。エーレナをぎくりとさせたのは、父が亡霊のようにまっ蒼な顔をし、その動きは緩慢で、すっかり決意を固めた人のようであったことである。「もう助からない!」とエーレナは思った。
「子供があるのはうれしいことだ」と、父は娘の部屋へ行こうとして妻の寝台のそばを通るとき、激怒に身をふるわせながら、しかしまったくの平静をよそおって、言った。「子供があるのはうれしいことだ、まったく。その子が女ときた日には、どうしてどうしてこっちは血の涙を流さねはならぬってわけだ。なんてことだ!こんなことがあるものか! 娘のふしだらのおかげで、六十年間うしろ指一つさされなかった男は名誉がだいなしになってしまうのだ」
そう言いながら、彼は娘の部屋へはいって行った。
「もうおしまい」とエーレナは母に言った。「手紙が窓際の十字架像の台の下にかくしてあるんです」
するといきなり、母は寝台からはね起きて、夫のあとを追った。夫の怒りを爆発させようとして、あらんかぎりのわけも分からぬことをわめき散らした。うまくいった。老人は激昂して、娘の部屋のものを片っぱしから壊した。そのまに母は気づかれぬように手紙をとることができた。一時間後、カンピレアーリ卿が妻の隣の自分の部屋にひきあげてしまって、家じゅうがすっかり静かになると、母は娘に言った。
「さあ、手紙よ。お母さんはこんなもの読もうとも思わないけど、おかげで私たち、もう少しでどんなことになったか、おわかりでしょうね! 私なら、焼いてしまいますよ。おやすみ、接吻しておくれ」
エーレナは涙にくれながら部屋にもどつてきた。母の言葉を聞いてからは、もうジュリオなんか愛していないような気がするのであった。そして、手紙は焼いてしまおうと心にきめた。しかし、焼きすてる前に、もう一度読みかえさずにはいられなかった。あまりていねいに読みかえしていたので、やっと娘のためを思う母の忠告にしたがう決心がついたときには、日はすでに高くあがっていた。
その翌日は日曜日であったので、エーレナは母といっしょに聖堂区の聖堂へでかけた。幸い父はついて来なかった。聖堂で最初に目にとまったのは、ジュリオ・ブランチフォルテその人であった。一目で、怪我《けが》をしていないことがわかった。彼女は有頂天《うちょうてん》になり、昨夜の出来事などすっかり忘れてしまった。彼女は短い手紙を五、六通用意してきていた。それは泥水でよごした古い紙きれに書かれていて、聖堂の敷石の上にでも落ちていそうな紙くずに似せてあった。この手紙にはいずれも同文の警告が書いてあった。
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お名前のほかは、すべて露見。以後通りには姿をお見せにならぬこと。ここへはときどき来るつもり。
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エーレナはこの紙くずの一つを落とした。ジュリオに目くばせすると、彼はそれを拾って姿を消した。一時間たって、彼女が家に帰ってくると、屋敷の大階段のところに紙きれが落ちていた。その朝自分が使ったのとまったく同じような紙きれなので、すぐ目にとまった。彼女はそれを拾いあげた。母さえもそれに気づかなかった。こう書いてあった。
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やむをえずローマに行くが、三日後には帰る。市のたつ日、昼間歌をうたう、ちょうど百姓たちが騒ぎたてるとき、十時ごろに。
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このローマ行きがエーレナには不思議に思えた。「兄さんの鉄砲がこわいのかしら」と悲しく思うのであった。恋というものはすべてを許す、だが、相手が身をひくことを許しはしない。これほどつらい責苦はない。甘いもの思いにふけったり、相手が好きな理由をあれこれとひたすら考えてみたりする代わりに仮借のない疑いに命もちぢまる。「けれど、どう考えても、あのひとがもう私を愛していないとは信じられないわ」。ブランチフォルテのいないまる三日のあいだ、エーレナは何度もそう思った。突然、彼女の悲しみは狂喜に変わった。三日目である。真っ昼間、彼が姿を現わして、屋敷の前の通りを歩きまわるのを見たのである。彼は真新しい、豪奢《ごうしゃ》ともいえる服を着ていた。その上品な身のこなし、快活で雄々しい純真な顔だち、このときほどそれがきわだって見えたことはかつてない。また、この日ほど、アルバノでジュリオの貧乏が取り沙汰されたこともない。むごい言葉でそれをあかず口にしたのは、男たち、ことに若い連中であった。女たちは、ことに娘たちは彼の美貌をたたえてやまなかった。
ジュリオは一日じゅう町を歩き回った。貧乏のため何か月も引き籠っていなければならなかった、その憂さを晴らしているようであった。恋する男らしく、ジュリオは新調の上衣の下に十分な武装をしていた。短剣や短刀のほかに、「ジャッコ」まで着ていた。(これは鉄の鎖帷子《くさりかたびら》になった長い胴衣の一種で、着心地はとても悪い。しかし、このおかげで、イタリア人はある疫病を追っぱらうことができた。この不意の病には当時のだれもがたえず悩まされたものだ。つまり、町角などで顔見知りのかたきの一人に殺されはすまいかという恐怖のことである)。この日、ジュリオはエーレナに一目でも会いたかった。それにさびしい自分の家に一人でいるのは少し嫌でもあった。それには訳がある。もと彼の父の部下でラヌッチオという男は、彼の父にしたがってあちこちの「傭兵隊長《コンドツチェーリ》」の部隊を渡り歩いて十度も戦場をふみ、最後は、マルコ・シアルラの部隊に落ち着いたが、自分の隊長が負傷のため引退を余儀なくされると、自分もそれにしたがった。隊長ブランチフォルテにはローマでは暮らせぬ理由があった。自分が殺した連中の息子たちに出くわすおそれがあったのだ。アルバノでさえも、彼は政府官憲の庇護に頼るなどという気には少しもなれなかった。そこで町のなかに家を買ったり、借りたりするよりも、訪ねてくる人間が遠くから見えるような場所に家を建てたいと思った。アルバの廃墟にすばらしい場所が見つかった。いやな奴がおしかけてきても姿を見られずに、森へ逃げこむこともできる。森は彼の昔の仲間で保護者のファブリーチオ・コロンナ公の勢力圏であった。隊長ブランチフォルテは息子の将来などにはいっこう頓着しなかった。やっと五十になったばかりだが、全身に傷を負って引退することになったとき、彼はまだ十年くらいは生きられると見つもって、自分の家が建つと、町や村の略奪の際彼もそれに参加する栄に浴して蓄めこんだものを十分の一ずつ毎年使うことにした。
息子に三十スクーディの年収をもたらすことになったあの葡萄畑を買ったのも、アルバノのある町人に嫌味を言われ、その面当てからであった。ある日、彼が町の利害と名誉について夢中で論じたてているとその町人が、なるほど、あなたほどの大地主ともなれば、アルバノの「長老」たちに忠告がましいことも言えるわけだ、と言ったのである。隊長は葡萄畑を買いこみ、まだほかにいくらでも買うぞと公言したが、その後、人気のないところでこの嫌味を言った男に出くわすと、短銃で一発のもとに射殺してしまった。
こうした生活を八年送って、隊長は死んだ。副官のラヌッチオはことのほかジュリオを愛していたが、無為な生活に倦きて、また軍務にかえりコロンナ公の部下になった。彼はたびたび「息子のジュリオ」に会いにきた。ジュリオをそう呼んでいたのである。ある時、コロンナ公が手痛い襲撃をうけてべトレッラの居城にたて籠らねばならぬはめになったことがある。その前日、ラヌッチオはジュリオを戦場に伴った。ジュリオの勇猛果敢さを見て、ラヌッチオは言った。
「おまえはまったくどうかしている。いや、よほどの間抜けだ。アルバノのはずれになんぞ住んで、町いちばんの下等な貧乏人扱いされているなんてことがあるものか。あれだけの働きと親父の名前があるんだから、おれたちのあいだでも、ひとかどの野武士《ヽヽヽ》になれるし、一身代つくれるというのに」
この言葉にジュリオは苦しめられた。彼はある司祭にラテン語を習って知っていた。しかし、彼の父がいつもラテン語以外のことでは司祭の言うことをばかにしていたので、彼はまったくの無学であった。そのかわり、貧乏ゆえにさげすまれ、寂しい家に一人暮らすうちに、その大胆さにかげては学問のある人間をも驚かすほどの一種の見識をつくりあげていた。たとえば、エーレナを愛する前から、どいうわけか、戦争は大好きだったが、略奪には嫌悪を覚えるであった。父の隊長やラヌッチオの目から見れば、略奪などは崇高な悲劇に添えられた茶番にすぎなかったのである。エーレナを愛するようになると、この孤独な反省から生まれた見識がジュリオを苦しめるようになった。かってあれほど思いわずらうことのなかったこの魂も、いまは自分の疑いをだれに相談することもできず、ただ情熱と惨めさとにみたされていた。自分が「野武士」だと知ったら、カンピレアーリ卿はなんと言うだろう。そのときこそどう罵られようと返す言葉もないのだ! ジュリオは父の遺した鉄の箱のなかにあった金の鎖や宝石類を売りつくしたときには、確実な生計手段として軍職につこうとつねづね考えていたのであった。ジュリオが貧乏なくせに金持ちのカンピレアーリ卿の娘を奪うことになんのやましさも感じなかったのは、その当時の父親は自分の遺産を好き勝手に処分することができたので、カンピレアーリ卿が娘に全財産として千スクーディしか残さないということも大いにありうるからであった。別な問題でジュリオの頭はいっぱいであった。第一は、この年若いエーレナと結婚して父の手から奪ったあと、どの町に住まわせるか。第二は、彼女の生活費をどうするか。
カンピレアーリ卿から骨身にこたえる痛烈な非難をあびせられたとき、ジュリオは二日のあいだ怒りと激しい苦しみに責めさいなまれた。この無礼な老人を殺したものか、生かしておいたものか、決心がつきかねた。彼はまる二晩を泣き明かし、ついに、この世で唯一の友であるラヌッチオに相談することにした。しかし、この友は自分のことを理解してくれるだろうか。彼はファッジョラの森中ラヌッチオを探し歩いたが、むだであった。ナポリ街道を、ヴェッレトリの先まで行かねばならなかった。ラヌッチオはそこで伏兵の指揮をしていた。大部隊を配して、スペインの将軍、ルイス・ダバロスを待ち伏せていたのである。この将軍は先に大勢の面前でコロンナ公配下の野武士に対し侮蔑的《ぶべつてき》言辞を弄したのを忘れて、陸路ローマに赴こうとしていたのだ。しかし司祭が折よくこの際のちょっとした出来事を彼に思い出させたので、ルイス・ダバロスは船を艤装《ぎそう》させ、海路ローマに渡ることにした。
隊長ラヌッチオはジュリオの話を聞くなり、こう言った。
「そのカンピレアーリ卿とかいう奴の人相をはっきりおれに言ってみろ。そいつの不届きのおかげで、罪もないアルバノの人間が命を落とすようなことになってはいかんからな。おれたちはいま仕事で手がはなせないが、これが白か黒かけりがつきしだい、おまえはローマへ行くんだ。そして、一日じゅう、宿屋だとか盛り場にしょっちゅう顔をだすようにするんだな。娘にほれているからというので、おまえに嫌疑がかかるとまずいからな」
ジュリオは父の昔の仲間の怒りをしずめるのにさんざん苦労した。ついには腹をたてるより他なかった。
「ぼくがあんたの助太刀を頼んでいるとでも思ってるのですか」とついにそう言った。「ぼくにだって、刀のひとつくらいありますよ! 筋の通った話が聞きたかっただけなんだ」
ラヌッチオはいろいろ説教をしたあげく、こう言った。
「おまえは若いよ、傷一つ負ったこともないじゃあないか。おまえは人前で侮辱されたんだぞ、いいか、恥をかかされた男は女にだってばかにされるんだ」
ジュリオはどうしたら自分の得心がゆくのかもっと考えてみたいと言った。そして、ラヌッチオが、スペインの将軍護衛隊を襲えば、スペイン金貨はもちろん名誉まで手に入るのだから参加しろとしきりに勧めるのを振りきって、一人自分の家に戻ってきた。カンピレアーリ卿が彼に発砲した前日のことである。彼はヴェッレトリ方面から帰ってきたラヌッチオとその伍長を家に迎えた。ラヌッチオはむかし主人のブランチフォルテ隊長が略奪した金の鎖や宝石類をすぐ金に換えるのはよくないと考えてしまっておいた鉄の箱をこじ開けてみた。ニスクーディ出てきた。
「おまえは坊主にでもなったほうがいいと思うよ」と彼はジュリオに言った。「資格はなにもかもそろっているじゃあないか。貧乏が好きなのもその証拠だ。謙虚といえば、アルバノの成金風情に町のまん中でぼろくそに言われても平気でいるほどだ。あと足りないのは偽善と食い意地だけさ」
ラヌッチオはその鉄の小箱に無理やりスペイン金貨を五十枚つめこみ、
「はっきり言っとくがね」とジュリオに言った。「いまから一か月以内にカンピレアーリの旦那が貴族の身分と財産とにふさわしいご立派な葬式をだしてもらわなかったら、ここにいるこの伍長が兵隊の三十人も連れてきて、おまえの小屋をぶちこわし、このしみったれた家具なんか焼きはらってしまうからな。隊長ブランチフォルテの息子ともあろうものが、いくら色恋のためだからといって、世間に赤恥をさらしていいってことはないんだ」
カンピレアーリ卿とその息子が火縄銃を二発ぶっぱなしたとき、石のパルコニーの下にはラヌッチオと伍長が陣取っていたのであった。そして、まえのところで述べたように、ファビオが庭をぬけて無謀にも外へ出てきたとき、彼を殺してしまうか、でなければひっ捕えてゆこうと言う二人を思い止まらせるのに、ジュリオはまったくたいへんな苦労をした。彼はつぎのように説いて、ラヌッチオをなだめた。将来ひとかどのものになり、ものの役にたつかもしれぬ若者を殺すことはない。それより、もっと罪深い、墓場へ行くよりほか能のない老ぼれの悪党がいるじやあないか。
この事件の翌日、ラヌッチオは森に姿をかくし、一方ジュリオはローマへ発った。ラヌッチオがくれたスペイン金貨で立派な服を買おうという喜びも、ある考えのために無残にそこなわれてしまった。その考えは当時としては実に並はずれたもので、のちに彼が切り開く輝かしい運命を予告するものであった。「エーレナに自分がどんな人間かほんとうに知ってもらわねばならない」と彼は思ったのである。この年頃の、この時代のほかの男なら、自分の恋を楽しむこと、エーレナをさらって行くこと、ただそれだけしか考えず、半年後に彼女がどうなるかとか、自分のことをどう思っているかなどということはまったく考えてもみなかったであろう。
アルバノへ戻って、ローマから持ち帰った立派な服をみんなに見せびらかした、ちょうどその日の午後、ジュリオは仲よしのスコッティ爺さんから、ファビオが馬で町をでて、十二キロはなれた海岸の平原にある父親の領地へ行ったことを聞きこんだ。しばらくして、カンピレアーリ卿が二人の司祭を伴い、アルパノ湖を底にたたえ噴火口の周囲をとりまく、そよごのすばらしい並木道へ向かってでかけるところを見た。十分後、一人の老婆がおいしい果物を売りにきたと言って、あつかましくもカンピレアーリの屋敷のなかへはいって行った。老婆が最初に出会ったのは可憐な侍女のマリエッタで、主人エーレナの腹心であった。マリエッタは美しい花束をうけとると、顔じゅうをまっ赤にした。その花束に隠されていた手紙は途方もなく長いものであった。ジュリオは鉄砲でうたれた夜以来感じたことをすべて語っていた。ところが、まこと奇妙な羞恥心《しゅうちしん》から、その当時の青年ならだれしも自慢にしそうなことは打ち明けようとはしなかった。つまり、自分が数々の冒険で名をはせた隊長の息子であること、また、自分もすでに一度ならず戦いで武勇を示して人の注目を集めたことを書こうとはしなかったのである。老カンピレアーリがこれらの事実を知ったらなんというか、それがいつも耳に聞こえるような気がしていたからである。忘れてはならないのは、十五世紀の娘たちは、共和主義時代の良識に近いものの見方をしていて、祖先の蓄えた富やその偉業よりも、むしろ本人が自分自身でなしとげたことによって、男を評価していたということである。もっとも、こうした考えをもっていたのは主として庶民の娘たちである。有産階級または貴族階級に属する娘たちは山賊を恐れ、当然なことながら爵位と富裕とをおおいに尊重していたのである。ジュリオはつぎのような言葉で手紙を結んでいた。「私がローマから人並みな服を着てきたのをごらんになって、先日あなたの尊敬される方が私のみすぼらしいなりをさんざんに罵倒なさったことを忘れてくださったでしょうか。私は復讐することができた。復讐すべきだったかもしれない。私の名誉はそれを命じたのです。そうしなかったのは、その復讐が私の愛してやまぬ人の目に流される涙のことを考えたからです。不幸にしてあなたが信じてくださらぬとしても、これこそ、人はいかに貧しくとも高潔な感情をもちうるということの証拠となるはずです。それに、私はある恐ろしい秘密を打ち明けねばならないのです。あなた以外の女に言うのなら、きっとなんの苦痛も感じはしないでしょう。でも、あなたにそれを明かすのだと思うと、なぜか身体がふるえます。そのために、私に対するあなたの愛が一瞬のうちに破壊されてしまうかもしれないのです。そんなことはないといくらあなたから言ってもらっても、私は落ち着けません。この告白がどんなふうにうけとられるか、それを私はあなたの目のなかに読みとりたいのです。近いうちに、日が暮れる頃、屋敷の裏の庭でお会いします。それはファビオもあなたの父上も留守の日にします。見っともないなりをした若者と軽蔑しておられても、いまこそお二人にも私たちの四十五分や一時間の逢びきをじゃますることはできないと見きわめましたら、その日、一人の男がお屋敷の窓の下に現われ、町の子供たちに飼い馴らした狐《きつね》を見物させるはずです。やがて『|お告げの鐘《アヴェ・マリア》』が鳴るとき、遠く銃声のひびくのをお聞きでしょう。そのとき、庭の塀のそばへ来てください。お一人でなかったら、歌をうたってください。歌が聞こえなかったら、あなたの奴隷は身をふるわせながらあなたの足もとに現われ、あなたをおそらくおびえさせるようなことを話します。私にとって決定的で恐ろしいその日のくるまで、夜中に花束を捧げることはつつしみます。そのかわり、夜の二時頃、歌をうたいながら通ることにします。きっとあなたは石のバルコニーに待ちうけていて、あなたが手ずから庭でお摘みになった花を一輪投げてくださいますね。それがあるいはこの不孝なジュリオに与えてくださる最後の愛のしるしであるのかもしれないのです」
その三日後、エーレナの父と兄は海岸の領地へ馬ででかけた。日没少しまえにそこを発ち、夜の二時ごろ帰宅の予定であった。ところが、帰路につくときになると、二人の馬ばかりでなく、農場にいた烏まで一頭のこらず見えなくなってしまった。二人はこの大胆不敵な略奪にすっかり驚いて探しまわったが、馬が見つかったのはやっと翌日になってからで、海岸沿いの大樹の森のなかにいた。カンピレアーリ父子はやむをえず百姓の馬車を牛にひかせてアルバノへ帰ることになった。
その夜、ジュリオがエーレナの足許にひざまずいたとき、日はほとんど暮れはてていた。そして、いじらしくもこの娘はその暗闇がなによりもうれしかった。この男の前に彼女ははじめて立つのである。自分が深く愛し、相手もそれを知っているとはいえ、思えばまだ一度も言葉をかわしたことのない男である。
ふとしたことが目にとまって、彼女はいくらか勇気をとりもどすことができた。ジュリオが自分よりも青ざめて、ふるえているのである。彼は自分の足もとにひざまずいている。「とても口などきけません」と彼がいった。たしかに限りない幸福の瞬間であった。二人はじっと見つめ合った。発する言葉もなく、深い意味を秘めた一対の大理石像のように身動きもしなかった。ジュリオはひざまずいたまま、エーレナの手をとり、エーレナは頭をかしげ、一心に彼に見いっていた。
ジュリオは、ローマの道楽者の友人たちに入れ知恵されて、ここでなにを試みるべきかよく知つていた。しかし、そんなことは考えるのもいやであった。彼は、この恍惚状態、おそらく恋愛の与えるもっとも鋭い幸福から、ふとわれにかえった。「時間はどんどんたっていく。カンピレアーリ父子が屋敷に向かっているのだ」と思ったのである。そして、ローマの友人たちには愚の骨頂と思われるであろうが、愛する人に例の恐ろしい告白をしてしまわぬかぎり、自分のような生真面目な人間には、とても長続きする幸福は望めそうもないのだと悟った。
「告白することがあると言いましたね。すべきではないのかもしれないのですが」と彼はやっとの思いでエーレナに言った。
ジュリオはすっかり青ざめていた。苦しそうに、いまにも息がきれそうに、言葉をつづけた。
「あなたの愛情だけが私の生き甲斐なのです。でもいまは、それが消えていってしまいそうな気がします。あなたは私を貧乏だと思っておいでですね。それだけではないのです。|私は山賊です、山賊の子なのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
この言葉を聞くと、金持の娘としてその階級固有の恐怖をもっていたエーレナは、気が遠くなりそうに感じた。倒れてしまいそうであった。「かわいそうに、どんなにジュリオを悲しませてしまうでしょう! 軽蔑されたとお思いだわ」とエーレナは思った。彼はひざまずいていた。彼女は倒れまいとして、彼によりかかり、やがて気を失ったようになって、彼の腕のなかに倒れた。ごらんのように、十六世紀においては、恋物語で描写の精緻さが愛好されていた。こうした物語を精神によって判断せず、想像力によって感じとったからで、読者の情熱が主人公のそれと一体になったからである。いまわれわれがひもどきつつある二つの写本は、とくに、フィレンツェ方言特有の言いまわしが目につく写本は、その晩につづく密会をつぎつぎにこの上なく詳細に書きしるしている。危険が娘に悔恨のひまをあたえなかった。あわやと思われる危険もしばしばであった。しかし、そんな状態も二人の心を燃えあがらせるだけで、二人にとっては、恋ゆえに生じるいかなる心の動きもすべて幸福であった。いくどもファビオと父に現場をおさえられそうになった。彼らは挑戦されていると思って、怒りたけった。世間の噂でジュリオがエーレナの恋人だということは知っていた。ところが確証はなに一つつかめない。ファビオは気性が激しいうえに、自分の生まれに誇りをもつ青年で、ジュリオを殺させようと言って父につめよるのであった。
「あの男がこの世にいるかぎり、妹の命は大きな危険にさらされているんです。いつなんどき、われわれの名誉を守るために、あの強情な妹の血でわれわれの手を染めなくてはならぬなどということになりかねないんです。妹もすっかりずぶとくなって、もう自分の恋を否定しようともしないではありませんか。げんに、父上の小言に対してもただ黙りこくって、返答一つしないではありませんか。そうです、この沈黙こそ、ジュリオ・ブランチフォルテが死刑宣告されてよい証拠です」
「あの男の親父が何者だったか考えてみるがいい」とカンピレアーリ卿は答える。「たしかに、われわれがローマへ行って半年も暮らし、その間に、ブランチフォルテを無きものにするのは、いとも簡単なことだ。しかし、奴の親父はさんざん悪いことをしたが、勇敢で気前がよく、大勢の部下にはたんまりもうけさせてやったほどだ。あいかわらず自分は貧乏なくせにな。この親父の仲間がいまも生きていて、モンテ・マリアーノ公の隊とか、あるいは、ここから二キロ先のファッジョラの森にいつも陣取っているコロンナの隊などにいないとは、だれもうけあえないではないか。そうなった日には、われわれはみんな、おまえも私も、それに、かわいそうだが、きっとおまえの母親までが、情容赦なく虐殺されてしまうのだ」
こうした親子の話はなんどもむしかえされ、エーレナの母のヴィットリア・カラッファにもその大部分が知れてしまい、彼女を絶望させた。ファビオと父は議論の末こう結論した。アルバノじゅうにひろがった噂をこのままおめおめと甘受していては自分たちの名誉にかかわる。あのブランチフォルテの青二才は日に日につけあがり、おまけに、このごろは豪勢な服などを着こんで、公の場所でファビオやほかならぬカンピレアーワ卿にまでも言葉をかけるほどの自惚《うぬぼ》れようである。とはいえ、これを無きものにするのは賢明でないとなれば、つぎの二つの方策のいずれかを、いや、おそらくその二つを同時に採る必要がある。つまり、家族をあげてもう一度ローマに移り住むこと、エーレナをふたたびカストロの里マリア訪問童貞会修道院にあずけ、しかるべき縁談がみつかるまでそこにとどめておくこと。
エーレナはこれまで一度も自分の恋を母に打ち明けたことがなかった。娘と母は深く愛しあっており、いっしょに暮らしていながら、二人ともまったく同じように気がかりでならないこの問題はただのひとことも触れられたことはなかった。もっぱら二人の頭をしめていたこの問題は、家をローマに移す話があること、そればかりか、ことによると娘をふたたびカストロの修道院になん年かあずけるという話があること、このことを母が娘に話したとき、はじめて二人の間であからさまに語られた。
これをしゃべったのはヴィットリア・カラッファの軽率《けいそつ》であった。しかし、娘に対する盲目的な愛のためであってみればいたしかたもないであろう。恋に度を失ったエーレナは恋人に自分が彼の貧しさを恥としていないし、彼の誠実をどこまでも信じているという証拠を見せたいと思った。≪誰がこんなことを信じえようか!≫とフィレンツェ写本の作者は声を大にしている。≪大胆にも恐ろしい死と隣りあわせのたびかさなる密会が、庭園で、いな一、二度は彼女の寝所ですら行なわれた後にも、エーレナは、純潔であったのだ! 操《みさお》の堅い彼女は愛人をうながして夜半に庭から屋敷を抜けだし、そこから一キロ以上もある、アルバノの廃墟に建つ彼の小さな家へ行って、夜明けまでを過ごそうとした。二人はフランシスコ会の修道士に身をやつした。エーレナは背が高く、僧衣をまとうと、十八か二十の年若い修道士のように見えた。つぎのことはまこととも思えぬ話で、これぞ神の御業《みわざ》であろうか。いまなおカプチン会修道院の壁のわきを通っている、岩をうがった狭い道で、修道士に身をやつしたジュリオとその愛人は、カンピレアーリ卿とその息子ファビオに出くわしてしまった。彼らは厳重に身ごしらえした四人の従僕をしたがえ、松明《たいまつ》をかざした小姓《こしょう》を先にたてて、そこからほど遠からぬ湖岸の町カステル・ガンドルフォから戻ってきたところであった。カンピレアーリ父子と従僕らは二人の愛人に道をゆずるべく、岩をうがった幅三メートルほどの道の左右に寄った。 このとき正体を見破られた方が、エーレナにとってはいかばかり幸せであったろう! 兄か父の短銃で一発のもとに殺され、彼女の刑罰もただ一瞬にして終わったことであろうに。しかし、|天は別の刑罰を下し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》たもうていた≫
≪この奇妙な出会いには、さらにひとつの出来事がつづいている。これはカンピレアーリの奥方がほとんど百歳の高齢に達して、なおときおりローマの高貴な方々を御前にして物語ったことであって、その方々も高齢であられたが、私があくなき好奇心にかられて、この事件やその他さまざまのことについてお尋ねした際、聞かされたことである≫
≪ファビオ・ディ・カンビレアーリはおのれの勇気を鼻にかける尊大な若者で、年長の修道士が自分らのすぐ近くを通りながら、父にも自分にも頭一つ下げぬのを見て、叫んだ。
「こやつ、高慢な乞食坊主《こじきぼうず》め! こんな時ならぬ時刻に修道院をぬけだすとは、こやつも連れの坊主も、いったいなにしに行くのかしれたもんじゃない! かまうことはない、頭巾をひっはがしてやつらの面体改めてくれよう」
≪この言葉を聞くなり、ジュリオは僧衣の下の短刀を握りしめて、ファビオとエーレナのあいだに立ちふさがった。このとき、彼はファビオと三十センチとは離れていなかった。しかし、天の思召《おぼしめ》しはよそにあったのか、この二人の若者の怒りを奇跡的にしずめたもうて、二人は後日ふたたび相まみえることとなった。≫
そののち、エーレナ・ディ・カンピレアーリに対して起こされた訴訟のさいに、この夜中の道行きを堕落の証拠としてとりあげようとしたものがあった。それは狂わしい恋にもえた若い心の錯乱であった。しかし、その心は清らかであった。
ご承知おきいただきたいことがある。コロンナ家年来の宿敵オルシーニ家は、当時ローマ近郊に絶大な権力をふるつており、さきごろ政府裁判所を動かして、べトレッラ生まれのバルダッサーレ・バンディーニという富農に死刑の宣告をさせたのであった。バンディーニの罪状とされたさまざまな所業をいちいちここに述べるのはいかにもわずらわしい。その大部分は今日なら犯罪となるであろうが、一五五九年当時はそれほど厳格に考えられるべきものではなかった。バンディーニは、アルバノから二十五キロはなれた、ヴァルモントーネ近くの山中にあるオルシーニ家の属城に捕えられていた。ある夜ローマ警察隊長が警官百五十名をひきいて、街道を通りかかった。死刑の判決に対してローマへ上訴していたバンディーニをローマのトルディノーナ監獄に護送するため、その身柄を受けとりにやってきたのである。しかし、まえにも言ったように、彼はコロンナ家に属する要塞地べトレッラの生まれであったから、バンディーニの妻は、ちょうどべトレッラにいたファプリーチオ・コロンナのもとへ訴えてでた。
「あなたさまは忠実な家来のひとりを見殺しになさるおつもりですか」
コロンナは答えた。
「教皇猊下の裁判所で下される裁決は尊重せねばならぬ。それにそむくようなまねはいっさいしたくない!」
ただちに公の兵士は命令を受けた。徒党の面々すべてには待機の通告が発せられた。集結地点はヴァルモントーネ付近と定められた。そこは小高い岩山の頂きに建てられた小さな町で、どこまでも続く、高さ二十メートルから二十五メートルのほとんど垂直な断崖がその町の城壁をなしていた。この教皇領の小都市まで、オルシーニ一派と政府の警官たちは首尾よくバンディーニを護送してきていたのであった。もっとも熱心な権力派のなかには、カンピレアーリ卿とその子ファビオが数えられたが、彼らはオルシーニ家とも遠い縁つづきであった。これに反して、ジュリオ・ブランチフォルテとその父は常日頃《つねひごろ》コロンナ家に繋《つな》がるものであった。
公然と行動することが不都合な場合には、コロンナ派のものは用心のためごく簡単な手だてを用いていた。ローマの富裕な百姓の大部分は、当時も今日と同じように、なんらかの修行団体に属していた。修行者は公の場にでるときは、顔をかくすための、目に二つ穴のあいた頭巾をかならず被《かぶ》ったものである。コロンナ家では秘密裡に事を起こそうとするときは、一党のものに修行者の服装で集合するように命じていた。
二週間前からこのあたりの評判になっていたバンディーニの護送は、準備にてまどつていたが、日曜日と定められた。この日午前二時、ヴァルモントーネの代官はファッジョラの森一帯の村々に半鐘を鳴らさせた。どの村からもかなりな数の百姓が現われてきた。(中世共和国時代には、なにか欲しいものを手に入れるためには果たし合いをしたものだが、その当時の風習のなごりで、百姓の心にも勇ましいところが多かった。現在なら、だれ一人動こうともすまい) この日、いささか奇妙なことが起こった。村々から武装して現われた百姓の小さな一群が森のなかへ入るにつれて、その人数は半分になってしまった。コロンナに組みするものがファプリーチオの指定した集結地へ向かったのである。その主だった連中は今日は戦闘はないと決めこんでいるような顔をしていた。その朝彼らはそういう噂をひろめるよう指令を受けていたのである。ファブリーチオは一党の精鋭を選《よ》りすぐつて、牧場に放ち飼いされていた若い駿馬《しゅんめ》にのせ、これを率いて森中を駆けまわっていた。公は百姓の各分遣隊をいわば閲兵していたのである。しかし、彼らにはひと言も口をきかなかった。口は禍いのもとである。ファブリーチオは痩《や》せて背は高く、驚くべき敏捷《びんしょう》さと腕力とをそなえていた。やっと四十五になったばかりなのに、その頭髪と口髭《くちひげ》は銀白色に輝いていた。これには彼も弱った。この特徴のおかげで、知られずに通りすぎたい場所でも、正体を見破られてしまったからである。百姓たちは公の姿を目にすると、「コロンナ万歳!」と叫び、頭巾をかぶった。公自身も胸に頭巾をかけ、敵の姿を見とめたらすぐにかぶれるようにしていた。
敵は待つ間もなかった。朝日がのぼったと思うと、オルシーニ派約一千の軍勢がヴァルモントーネ方面から現われて、森に入り、ファブリーチオ・コロンナが一味のものを地に伏せておいた地点から三百歩ほどのところを通過した。この前衛隊をなすオルシーニ派の後尾が行きすぎて数分後、公は部下に行動を開始させた。彼はバンディーニの護送隊が森に入った十五分後に襲撃する決心であった。森のこのあたりには、高さ五メートルから七メートルの小さな岩場が散在していた。これは多少の時代差はあるが、古代の溶岩流で、この上には粟の木が見事に生い茂り、日の光をほとんどさえぎつていた。これらの溶岩流は時につれて多少とも風化し、土地に大きな起伏をつくっていたので、不必要な上り下りが多くなるのをさけるために、街道は溶岩のなかに切り開かれた。それで、街道が森の地表より一メートルあまり低いところもかなり多い。
ファブリーチオが予定していた襲撃地点のあたりには草に覆《おお》われた空地があり、その一端を街道が横切っていた。街道はまたすぐ森に入るが、森もこのあたりは立木のあいだに茨や灌木がはびこり、まったく足の踏み入れようもなかった。ファブリーチオが歩兵隊を配置したのは、森に百歩ばかり入ったところで、この街道の両側であった。公の合図に、百姓たちは各自頭巾を被り、火縄銃を手に栗の木の背後に陣どつた。公直属の兵士は街道にもっとも近い木の背後に身構えた。百姓は兵士より前に射ってはならぬという厳命をうけており、また、兵士は敵が二十歩の距離に近づくまでは、発砲してはならぬことになっていた。ファブリーチオは大急ぎで二十本ほど木を切らせた。木は枝ごと街道に倒され、このあたりでかなり狭くなり地面から一メートルも低くなっている街道をすっかりふさいでしまった。隊長ラヌッチオは部下五百をひきいて、敵前衛隊のあとを追った。彼はこの街道をふさぐ逆茂木《さかもぎ》から最初の銃声が起こるまでは攻撃せぬよう命令をうけていた。ファブリーチオ・コロンナは部下の兵士と郎党の面々がそれぞれ木の背後に位置をしめ、戦意にみちたさまを見てとると、騎馬隊全員をひきい、馬を駆って出動した。そのなかには、ジュリオ・ブランチフォルテの姿もあった。公は街道の右手の小道をとって、街道からいちばん遠く離れた空地の端へ進んだ。
公が去って数分とたたぬうちに、ヴァルモントーネ街道をはるかに騎馬の一大隊がやってくるのが見えた。バンディーニを護送する警官隊およびその隊長、そしてオルシーエ派騎兵隊の全軍である。そのまん中に、四人の赤装束の死刑執行人に取りまかれたバルダッサーレ・バンディーニがいた。この四人は万一コロンナ派一味がバンディーニを救出しそうになったら、初審の判決を執行して、彼を死刑に処せと命令されていた。
コロンナの騎兵隊が街道からいちばん遠くはなれた空地つまり牧場の端に達するやいなや、逆茂木の前方の街道に配置してあった伏兵の最初の銃声が聞こえた。ただちに公は騎兵隊を出撃させ、バンディーニをかこむ四人の赤装束の死刑執行人めがけて突進した。
ものの四十五分と続かなかったこんな小ぜり合いを詳しく物語るのはよそう。オルシーニ一味は不意をつかれて四散した。しかし、その前哨戦で、勇敢なラヌッチオ隊長が殺された。ブランチォフォルテの運命に不吉な影を投げる出来事であった。そしてジュリオはたえず赤装束の男に立ち向かうようにしていたのに、幾太刀か剣を振ったとみるまに、ばったりファビオ・カンピレアーリに出くわしてしまった。
勇みたつ荒馬にまたがり、黄金の「ジャッコ」(鎖帷子)をまとったファビオはわめきたてていた。
「このこしやくな覆面《ふくめん》のやつらはなにものだ。その覆面、一刀のもとに切りおとしてくれよう。ものどもつづけ!」
ほとんどその一瞬、ジュリオ・ブランチフォルテは横ざまに一太刀を眉間《みけん》にくらった。実に見事な太刀さばき、顔を覆った頭巾がはらりと落ちた。と同時に、傷口から流れでた血で目がつぶれた。傷は浅かった。ジュリオは馬を退いて、息をととのえ顔をぬぐおうとした。彼はどんなことがあってもエーレナの兄だけは相手にしたくなかった。彼の馬はすでにファビオから四歩離れていた。その時である、彼は胸に猛烈な一撃をうけた。ジャッコのおかげで身体には通らなかったが、一瞬、息がとまった。ほとんど同時に耳もとで叫ぶ声を聞いた。
「Ti conosco, Porco ! このげす野郎、きさまの顔、見忘れはせぬぞ! よくもぼろの代わりを見つけたと思ったら、こんなことをして稼いでいやがったのか!」
痛烈な皮肉に、ジュリオははじめの決心も忘れて、ファビオに立ち向かった。
「Ed in mal Punto tu venisti !(くたばるがいい!これがきさまの最後だ!)」とやり返した。
激しくわたりあううちに、彼らの鎖帷子の上にはおった服はちぎれ飛んでいた。ファビオの鎖帷子は黄金色の豪華なものであったが、ジュリオのはごくありふれたものであった。
「きさまのジャッコは、どこのどぶで拾ってきたんだ」とファビオがどなった。
その瞬間、ジュリオはすこし前からねらっていたすきをつかんだ。ファビオのきらびやかな鎖帷子はきちんと襟元がしまっていなかった。ジュリオはわずかに露出したその首元を突いた。見事にきまった。ジュリオの剣はファビオの喉に十五センチほど突きささり、おびただしい血がほとばしりでた。
「無礼者!」とジュリオは叫んだ。
そして赤装束の男たちの方へ馬を飛ばした。うち二人はまだ馬に乗ったまま彼から百歩のところにいた。彼が近づいたとき、三人目が倒れた。しかし、ジュリオが残る四人目の死刑執行人のすぐそばにたどりついたとき、相手は自分が十騎にあまる騎兵にかこまれたのを見て、無残にもバルダッサーレ・バンディー二に短銃の銃口をつきつけ発射した。バンディーニは倒れた。
「諸君、もうここに用はない!」とジュリオは叫んだ。「逃げまわるあの警官どもをなで斬りにしてやろう」
みんな彼のあとを追った。
三十分後、ジュリオがファブリーチオ・コロンナのもとへ戻ってくると、この貴族は生まれてはじめて彼に言葉をかけた。ジュリオは公が激怒しているのを見た。勝ちいくさにすっかりご満悦であろうと思っていたのである。勝利は完璧《かんぺき》で、それもひとえに公の指揮よろしきをえたためであった。なぜなら、オルシーニ派は三千に近い兵力であったのに、ファブリーチオはこの戦闘にせいぜい千五百の兵しか集めえなかったからである。
「勇敢なきみの友ラヌッチオを失ったのだ!」と、公はジュリオに向かってどなりつけるように言った。「たったいまこの手で彼の身体にさわってみたが、すでに冷たかった。かわいそうに、バルダッサーレ・バンディーニも致命傷だ。これでは、結局、勝ったとは言えない。だが、勇敢な隊長ラヌッチオの魂が冥土《めいど》の神の前へでるときは、せめて立派なお供をつけてやりたい。捕虜のやつらを一人のこらず木の枝にぶらさげろと命じておいた。みなのもの、ぬかりはあるまいな!」公は大声でそう叫んだ。
そして、彼は馬を駆って前哨戦のあった場所へとってかえした。ジュリオはラヌッチオの隊をほとんど副官として指揮していた。彼も公のあとを追った。五十をこえる敵の死体にかこまれて横たわるこの勇士の遺体のそばまでくると、公はふたたび馬をおりて、ラヌッチオの手をとった。ジュリオも公にならった。彼は泣いていた。
「きみはまだ若いが」と公がジュリオに言った。「見れば全身血まみれだ。きみの父もコロンナ一党のために二十余たびも負傷した勇士だった。ラヌッチオ隊の残兵を指揮するがよい。そして、この遺体をペトレッラのわれわれの教会まで運ぶのだ。途中で襲撃されるかもしれぬから気をつけてな」
ジュリオは襲撃されはしなかった。しかし、部下の一人が隊長には彼が若すぎると言ったので、一刀のもとに斬りすてた。この無鉄砲《むてっぽう》さは図にあたった。ジュリオは全身にファビオの返り血を浴びたままでいた。沿道のいたるところで、彼は敵兵が木にぶらさげられているのを見た。このいまわしい光景がラヌッチオの死、ことにファビオの死と結びついて、彼をほとんど狂気のようにしていた。まさかファビオの討手の名前が知れることはあるまい、これが彼のせめてもの希望であった。
戦いのこまごました話は省《はぶ》く。戦いの日から三日後、彼はアルバノにもどって数時間をすごすことができた。知人にあうと、ひどい熱病のためローマを離れることができず、まる一週間も寝たきりでいなくてはならなかったのだと語った。
しかし、彼はどこでもことさら丁重にもてなされるのであった。町の有力者は自分たちの方からあいさつした。不用意にも、彼を「隊長どの」と呼ぶものまであった。彼はいくどもカンピレアーリの屋敷の前を通ったが、戸はすっかりおろされていた。この新隊長もある種のことが問題となるとまったく臆病で、いつも親切にしてくれる老人のスコッティにやっとの思いで声をかけたのは、その日を半ばをすぎてからであった。
「ところで、カンピレアーリの家のものはいったいどこにいるんです。屋敷はしまっているようだが」
「いや、あなた」とスコッティは急に悲しそうなそぶりで答えた。「その名前だけはけっして口にしてはいけません。あなたの友だちはちゃんと知っていますよ、あの男の方からあなたに挑《いど》んだのだってことをね。また、そう言ってまわりもしましょう。ですが、要するに、あの男があなたがたの結婚にはいちばんのじゃまものだった。また、要するに、あの男が死んで妹はとてつもない大金持ちになったわけで、しかもその妹はあなたに惚れている。失礼な言いかたかもしれんが、この際は許していただいて言いそえておきますが、あのかたは夜中にアルバノのあなたの小屋までたずねて行くほど、あんたに惚《ほ》れてる。だから、あなたの利益を計ろうと思えば、あの因果な|チアンピ《ヽヽヽヽ》の戦い(この地方でさきに述べた戦いをそう呼んでいた)の前から、あなたがたは夫婦だったと言ってもよいわけですよ」
老人は口をつぐんだ。ジュリオが涙を流しているのに気づいたのである。
「宿屋へ行こう」とジュリオは言った。
スコティはジュリオのあとについて行った。一室があたえられると、二人は鍵をかけて閉じこもった。ジュリオは老人に一週間以来の出来事をすっかり聞いてほしいとたのんだ。この長い話が終わると、
「あなたの涙を見ただけで私にはよくわかります」と老人は言った。「あなたのやったことには前からのたくらみなどなに一つありはしませんよ。それにしても、ファビオが死んだことは、やっばりあなたにとってはむごい出来事だった。ずっと前からあなたがエーレナの夫だったということを、ぜひともあのひとの口から母親にはっきり言ってもらわねばなりませんな」
ジュリオは答えなかった。老人はそれを慎み深い感心なことだと思った。ジュリオは深いもの思いに沈んで自問するのであった。エーレナは兄の死に憤《おこ》って自分のあの優しい心づかいまでも認めようとしないのではあるまいか。彼はあのときのことを後悔した。それから、老人は彼の求めるままに戦いの日アルパノで起こったことを包み隠さずすっかり話した。ファビオが殺されたのは朝の六時半頃、しかもアルバノから二十五キロ以上も離れたところであったのに、なんとも不思議なことには、九時になるともう彼の死が噂にのぼりはじめていた! 正午頃、老カンピレアーリが涙を流しながら召使に支えられるようにして、カブチン会修道院へ向かう姿が見うけられた。まもなく、三人の修道司祭がカンピレアーリ家えりぬきの馬に乗り、多くの召使をしたがえて、戦いのあった近くの|チアンピ《ヽヽヽヽ》の村に向けて出発した。老カンピレアーリはどうしても彼らに同行すると言ってきかなかった。しかし、ファブリーチオ・コロンナが激昂している(なぜかはよくわからないが)ので、もし捕えられでもしたら、ひどい目にあわせられるにちがいないと言って、やっと彼を思いとどまらせたという。
その夜、真夜中頃、ファッジョラの森はまるで火事のようであった。アルバノ中の修道士と貧民が手に手に大|蝋燭《ろうそく》をともして、ファビオ青年の遺骸を迎えにでたのであった。
「かくしだてせず申しましょう」と、老人はひとに聞かれるのを恐れでもするように声を落として、「ヴァルモントーネや|チアンピ《ヽヽヽヽ》に行く道は……」と言葉をついだ。
「その道が……?」とジュリオが言った。
「さよう、その道はあなたの家の前を通っている。ところが、なんでも、ファビオの遺体があそこまできたとき、あの顔のむごい傷あとからどっと血がふきだしたんだそうです」
「なんて恐ろしい!」ジュリオは思わず立ちあがって叫んだ。
「まあ、気をおしずめなさい」と老人は言った。「おわかりでしょうが、あなたはなにもかも知っておく必要がある。いまだから言わせてもらいますが、今日ここへ出てきたのはいささか早計でしたな。隊長、私のようなものの言うことでも聞いてやろうとおっしゃるなら、もう一こといいますが、ここひと月はアルバノに姿を見せてはまずい。ローマに行くのも無謀です、それは私が申しあげるまでもありますまい。教皇さまがコロンナ派に対してどんな処置をおとりかまだわからない。チアンピの戦いのことは世間の噂ではじめて知ったと言っているファブリーチオの申し立てが聞きとどけられるかもしれないと世間では考えております。しかし、ローマ総督は大のオルシーニ派で、すっかり腹をたてているから、ファブリーチオの勇士のだれかを縛《しば》り首にでもできれば大喜びするでしょう。そうなったところで、ファブリーチオも自分はこの戦いに加わらなかったと言明した手前、まともに文句は言えぬわけです。もっとはっきり言えば、あなたは聞きたくもないかもしれぬが、いくさに関したことでひとつ忠告させてもらおうかと思うのです。つまり、あなたはアルバノでは人気があるからいいようなものの、さもなければここにいるのは危険千万ということですな。まあ、考えてもごらんなさい。あなたはもうなん時間も前から町をほっつき歩いておいでだが、オルシーニ一味のものはひとをくった話だと思うかもしれない。いや、そうでなくとも、うまい褒賞にありつく絶好の機会だと思うでしょうからね。カンピレアーリの爺さんは、あなたを殺したものには飛びきり上等の土地をくれてやると、それこそなんべんも言いふらしているんですよ。あなたの家においている兵隊をなん人かつれてアルパノヘはおりてくるのがほんとうだった……」
「わたしは家に兵隊なんかおいてはいません」
「それじゃあ、隊長、あなたはまるで気違いだ。この宿屋には庭があります。庭からぬけだしましょう。葡萄畑を通って逃げるんです。私もお伴します。私は年もとってるし、武器もありませんが、もしも変な了簡をもったやつらに出会ったら、私がそいつらに話しかけます。せめてそのまだけでもあなたに逃げてもらえるでしょうからな」
ジュリオは胸をえぐられるような思いであった。それにしても、彼の気違いじみた考えはなんといったものであろうか。カンピレアーリの屋敷が閉ざされ、一家のものがあげてローマへ移ったと聞くと、彼はすぐにエーレナといつもあいびきしたあの庭をもう一度見に行こうと思いさだめていた。母親の留守に迎え入れられた彼女の部屋をもう一度見たいとさえ思っていた。彼女があんなにも優しい態度を見せてくれたそれらの場所を見て、彼女が怒っているのではないかという不安を除く必要があったのである。
ブランチフォルテとこの気持ちのよい老人は、葡萄畑を横ぎって湖水の方へのぼる小路を行ったが、これといって変なやつには出会わなかった。
ジュリオはもう一度ファビオ青年の葬儀の模様をくわしく話してもらった。この勇敢な青年の遺骸は多くの司祭にまもられてローマに運ばれ、ジャニコロ丘の頂上にある聖オノーフリオ修道院の一族の礼拝堂にほうむられた。この葬式の前日、エーレナが父にカストロの聖マリア訪問童貞会修道院へふたたび送りかえされたことが、はなはだ異様なこととして衆目を集め、このことが、彼女は不運にも兄を殺すようなはめになった野武士と秘かに結婚していたのだという世間の噂を裏書きするような結果になった。
ジュリオは家の近くまでくると、自分の隊の伍長と四人の兵卒に会った。前の隊長は幾人か部下を連れずにはけっして森をでなかった、と彼らは言った。公はたびたびこんなふうに申し渡していた。みずからの軽はずみから命を落としたいものは、その復讐の責任を私におわさぬように、あらかじめ除隊してもらわねばならぬと。
ジュリオ・ブランチフォルテはこれまでそんなことを考えてもみなかったが、いかにももっともだと思った。黎明期《れいめいき》の民族のように、彼は戦争といえば勇敢に戦うことにほかならないと思っていたのである。彼はただちに公の意に従った。親切にわざわざ家まで送ってきてくれたこの思慮深い老人を抱きしめると、すぐに立ち去っていった。
しかし、幾日もたたぬうちに、ジュリオはわびしさに半ば狂気のようになって、カンピレアーリの屋敷を見に舞いもどつてきた。日が暮れると、彼と三人の部下はナポリの商人に身をやつして、アルバノに潜入した。ジュリオは単身スコッティの家に現われた。エーレナはやはりカストロの修道院に監禁されていることがわかった。彼女の父は娘が息子の下手人と呼ぶことにしている男と結婚しているものと思いこみ、一生娘には会うまいと考えていた。娘を修道院に連れて行く途中でさえ、顔を見ようとはしなかった。反対に、母の情愛は倍加したようであった。娘のもとで一両日をすごすために、ローマを離れることもしばしばあった。
「もしエーレナに身のあかしを立てておかなかったら」と、ジュリオはその夜森にある自分の隊の本部へかえりながら考えた。「あの人はおれを人殺しだと思ってしまうだろう。あの呪《のろ》わしい戦いについてどんな話を聞かされているかわかったものではない!」
ジュリオはべトレッラの城砦《じょうさい》に出向いて公の指命をあおぎ、カストロ行きの許可を求めた。
ファブリーチオ・コロンナは眉をひそめた。
「例の争いごとに関しては教皇とのあいだでまだ話がついていない。きみにもよく心得ておいてもらわねばならぬのだが、私は真実の申したてをしておいた。 つまり、私はあの合戦にはまったく無関係で、その話もやっと翌日このペトレッラの城で知ったほどだとな。教皇も結局はこのうそ偽りのない話を信用なさるだろうと思っている。しかし、オルシーニ一門の勢力も侮《あなど》りがたい。それに、あの乱闘騒ぎできみが抜群の働きをしたことはもっぱら世間の語りぐさだ。オルシーニの連中は捕虜の多くが木の枝につりさげられたとでたらめまで言っている。 こんな話が、いかに根も葉もないことか、それはきみも知っての通りだが、やつらの仕返しは当然予想される」
深い驚きの色が若い隊長の世慣れぬ目にうかぶのを見て、公はおもしろがっていた。しかし、あまりのばか正直さに、もっとはっきり話してやったほうがよかろうと思いなおして、言葉をついだ。
「かつてイタリアじゅうにブランチフォルテの名をとどろかせたあの無類の勇敢さを、きみもまたそなえていると思う。私が心から愛したきみの親父が示してくれたあの忠誠を、きみもわが一門のために尽くしてもらいたい。私は親父への恩返しをきみに対してしたいと思っていたのだ。わが軍隊の心得はこうだ。
私ならびに私の部下に関してはいっさいけっして真実を口にせぬこと。万一どうしても口を開かねばならぬ場合にたちいたり、どんな嘘も役には立たぬと見たら、その場かぎりの出まかせを言うがよい。そして、すこしでも真実を洩らすことは大罪と心得て、かたく戒めねばならない。おわかりだろうが、いかに些細な真実も他の情報と結びつけられると、私の計画を知る手がかりとなる恐れがあるのだ。ところで、カストロの聖マリア訪問童貞会修道院にきみの惚れた女がいるということは、私も知っている。あの町へ行って二週間ばかり無駄骨を折ってみるのもよかろう。だが、あそこにはきっとオルシーニ一門の仲間が、いや連中の手先さえいるにちがいない。私の家令のところによって行くがよい。二百ツェッキーニ渡すように言っておく。きみの父親とのよしみを思うと」と、公は笑いながらつけくわえた。「今度の恋といくさの冒険がうまくゆくように、すこしばかり注意を与えたくなってくる。きみは部下を三人つれて商人に変装して行くのだ。そしてきみは必ず連れの一人にむかって腹をたてているようにする。そやつはしょっちゅう飲んだくれているふりをし、カストロじゅうのろくでなし共に酒をふるまって、味方をたくさんこしらえるようにするのだ。しかし」と公は語気を変えて言った。「たとえオルシーニの手中におち、殺されることになろうとも、絶対にきみの本名を明かしてはならない。私の身内だなどということはなおさらだ。これは教えるまでもなかろうが、どんな小さな町でも外側をまわって、いつもやってきた方角とは反対側の門から入るんだぞ」
いつもあれほど厳格なこの人の口から、こんな父親のような訓戒をきかされてジュリオは感動した。はじめは公もこの青年の目から流れる涙を見て微笑していたが、そのうち公自身の声までも変わってきた。公は指にはめていたたくさんの指輪のうちから一つを抜いた。ジュリオはそれを受けとって、数々の偉業で知られたその手に接吻した。
「父でさえ、これほどまでに言ってくれたことはありません!」と、青年は感激して叫んだ。
その翌々日、夜の明ける少し前に、彼は小都市カストロの城壁内にはいった。五人の部下が彼と同じように変装して従っていた。そのうち二人は別に組をくんで、彼をも他の三人をも見識らぬふりをしていた。町にはいる前から、ジュりオはもう聖マリア訪問童貞会の修道院を見とめた。黒い壁にかこまれて、まるで城塞のような、巨《おお》きな建物である。彼は聖堂に駆けつけた。実に壮麗である。ここの修道女はすべて貴族で、そのほとんどが富裕な家族の出であったから、自尊心からたがいにきそって、修道院ちゅう外部のものの目にふれる唯一の場所であるこの聖堂を飾りたてようとしたのである。慣例によれば、聖マリア訪問童貞会を所管する枢機卿によって提示される修道女三名の名前の記された表に基づいて、教皇が女子大修道院長として任命した上流婦人は、莫大な寄進をして、自分の名を永久に伝えることになっていた。その寄進が前任の女子大修道院長の供物に劣ると、本人ばかりでなく、その一門までが軽蔑されたのであった。
ジュリオは身をふるわせながら、大理石と金泥に燦然《さんぜん》と輝くこの華麗《かれい》な建物のなかに足を踏みいれた。じつは大理石や金泥のことなど考えていたわけではない。エーレナの視線をあびているような気がしたのである。 ひとのいうには、大祭壇は八十万フラン以上もかかったそうだが、彼の視線はその華美な大祭壇を素通りして、ひたすら金泥の格子に注がれていた。この格子は高さほぼ十三メートルの二本の大理石の柱で三つの部分にわかれている。巨大な重量感がどこか人を怯《おび》えさせるものをもつこの格子は、大祭壇の背後にそびえ立って、修道女のいる内陣と一般信者に開放された聖堂とを仕切っているのである。
修道女と寄宿生はお務めのあいだこの金泥の格子の向こう側にいるのだとジュリオは思った。この内陣へは、修道女や寄宿生はお祈りがしたければ、日中いつでもはいることができる。こうした世間周知の情況に、哀れな恋人は希望をかけたのである。
たしかに大きな黒いとばりが格子の内部を覆いかくしてはいる。「しかし」とジュリオは考えた。「このとばりがあっても、寄宿生たちが一般信者の聖堂を見ようとすれば見えないことはあるまい。このおれにだって、あるところまでしか近よれないのに、とばり越しに、内陣を照らす窓の光がはっきり見えるし、窓の造作のこまかなところまで見分けられるくらいだから」。その豪奢《ごうしゃ》な金泥の格子の鉄棒には一本一本、参拝者の方に向けて鋭いとげがついていた。
ジュリオは、格子の左半分の正面の、もっとも明るい場所の、きわめて目立ちやすい席を選んだ。そこでミサを聞きつつ時をすごした。まわりは百姓ばかりだったから、格子の内部を覆いかくす黒いとばり越しにでも、自分の姿は目立つだろうと期待した。生まれてはじめて、この純朴な青年も自分を見せびらかそうとした。こつた身なりをし、聖堂の出入りには多くの施しを惜しまなかった。部下のものも彼も、修道院に多少とも関係のある職人や物売りには、だれかれなく愛想をふりまいた。しかしながら、やっとエーレナに手紙がとどけられそうだという希望がもてたのは三日目のことであった。彼の命令によって、修道院の糧食調達係を分担している二人の助修女の行動が細大もらさず調べられていた。そのうちの一人が小商人と関係をもっていることが分かった。ジュリオの部下で、修道士あがりの男が、この商人にとりいって、寄宿生エーレナ・ディ・カンピレアーリに手紙を一通とどけるごとに、一ツェッキーノ出すという約束をした。
「なんだって!」と、この話を切りだされると商人は言った。「手紙をあの|山賊の女房《ヽヽヽヽヽ》にですって!」
このあだ名はすでにカストロの町にひろまっていた。しかも、エーレナがここにきてからまだ二週間とたってはいない。なにごとであれ正確にこと細かに知りたがるこの国民のあいだでは、想像力をくすぐることがらはたちまち広がってしまうのである。
小商人はつけくわえた。
「ま、いいでしょう、あの人はとにかく結婚している! ところが、尼さんのうちには、そんな口実もないくせに、手紙どころか、それ以上のものを外から受けとってる人がいくらでもいるんですからな」
この最初の手紙で、ジュリオはファビオの死によって宿命的な刻印の押されたあの戦いの日のいっさいの出来事を詳細に物語った。そして、「あなたは私を憎んでいるだろうか」と書いて、それを結んだ。
エーレナの返事はたった一行、自分はだれも憎まず、余生をあげて兄を殺した人を忘れるようにつとめたいと書いてあった。
ジュリオは急いで返事をしたためた。まず当世流行のプラトン風のしゃれた言いまわしで、運命をののしり、ついでこう書いた。
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それではきみは聖書につたわる神の言葉を忘れてしまおうというのか。妻は家をも親をもすてて夫に従うべし、と神は言われているではないか。きみはぼくの妻ではないとでも言いはるつもりか。聖ピエトロの夜のことを思い出すがよい。暁の光がはやくもモンテ・カーヴォの彼方《かなた》に射しそめたとき、きみはぼくの足もとに身を投げだしたではないか。ぼくはきみの身体にふれようとは思わなかった。ぼくがその気なら、きみはぼくのものになっていたはずだ。きみはあのころぼくに抱いていた感情にはさからうことはできなかったのだから。そのときぼくはふとこう思った。きみのためには、ぼくの命もぼくにとってこの世でかけがえのないものも、ずっと以前からみんな犠牲にしてきたと、口ではなんども言いはしたが、そうした犠牲は一つとしてかたちに現われてはいないのだから、一人でそう思いこんでいるにすぎないと、事実きみはそんなことを言いはしなかったが、もしそう言われてもしかたがない、そんな気がしたのだ。ふとまた、ぼくにはつらかったが、結局は正しい一つの考えがぼくの迷いをさました。ぼくのかつて夢みた最大の幸福をきみのために犠牲にしよう、この機会がいま偶然あたえられたのも、けっしていわれのないことではないはずだ、そう考えたのだ。きみはもうぼくの腕に抱かれて、なすがままになっていた。忘れはすまいね。きみは唇さえもはや拒もうとはしなかった。そのときだ。モンテ・カーヴォの修道院に朝の|お告げの鐘《アヴェ・マリア》が鳴った。まるで奇跡のように、その鐘の音はぼくたちのところまでも聞こえてきたのだった。「あのまったき純潔の聖母マリアさまに、この犠牲をささげてください」ときみが言った。ほんの少し前から、ぼくもその至高の犠牲のことを考えていたところだった、それがぼくがきみのためになしうる機会をもつただ一つの本当の犠牲なのだと。同じ考えがきみにもうかんだのは不思議だった。あのはるかな|お告げの鐘《アヴェ・マリア》の音は、たしかにぼくを感動させていた。ぼくはきみの願いをきいてあげた。あの犠牲はただきみのためだけのものではなかった。聖母マリアの加護のもとにゆくゆくは二人がいっしょになれるだろうと信じたればこそだった。金持で貴族でもあるきみの家族から障害が生じることはあっても、まさかきみから、ああ、なんと不実な人だろう、まさかきみからそれが生じようとは、あのときぼくは思ってもみなかった。なにか超自然の力がはたらいていたのでなかったら、折から朝の微風に木々の梢のざわめく森の半ばを越えて、どうしてあの|アンジェルス《ヽヽヽヽヽヽ》の鐘が遠くぼくたちのところまで聞こえてきたのだろう。覚えているだろう、あのとき、きみはぼくの膝《ひざ》に身をよせていた。ぼくは立ちあがって、いまも肌身はなさず持っているこの十字架を胸からとりだした。そして、きみはその十字架にかけて誓った。それはいまも目の前にある。たとえどんな場所にいようとも、たとえどんなことが起ころうとも、ぼくが命令しさえすればすぐに、ちょうどモンテ・カーヴォの|お告げの鐘《アヴェ・マリア》が遠くきみの耳にひびいたあの瞬間と同じように、きみはぼくの意のままになる、もしこれに背《そむ》くなら地獄に堕《お》ちてもよいと誓ったではないか。そこでぼくたちは恭々《うやうや》しく|天使祝詞と主祷文《アベエ・パテール》を二度ずつとなえたのだ。そうだ、ぼくはきみに命令する! あのときのぼくによせたきみの愛情にかけて、いや、もしぼくの恐れがあたって、それを忘れたというのなら、地獄に堕ちてもよいという誓いにかけてもだ、今夜、きみは自分の部屋かこの聖マリア訪問童貞会修道院の庭でぼくを迎えるのだ。
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イタリアの写本作者はジュリオ・ブランチォフォルテがこれにつづいて書いた多くの長い手紙を一々ていねいに収録しているが、エーレナ・ディ・カンピレアーリの返事の方は概要を記しているにすぎない。二百七十八年をへたいま、われわれにはこれらの手紙にもられた恋愛およぴ宗教感情ははなはだ縁遠いものなので、冗漫を恐れて省略した。
それらの手紙によれば、エーレナは結局いま抄訳した手紙にある命令に従ったようである。ジュリオはうまく修道院にしのびこむ手をみつけた。女装したのだ、そう簡単に考えてよいであろう。エーレナは彼を迎えた。とはいえ、庭に面した一階の窓格子のところまで出てきただけである。かつてはあんなに優しく、あんなに夢中でさえあったこの娘がまるで他人のようになってしまったのを見て、ジュリオは言いようもない苦痛を感じた。彼女は彼に対しほとんど「慇懃《いんぎん》」と言ってよいようにふるまった。彼を庭に入れたのも、ただ誓約の神聖を侵すまいとしてやむなくそうしたまでであった。会見は短かかった。おそらく、二週間このかたのさまざまな出来事のために、ジュリオの自尊心はいくらか強靭《きょうじん》になっていたのであろう。じきに、その激しい苦痛にうちかつことができた。
「もはや、おれの目の前にいるのは」と彼は心中に言いきかせた。「テルバノでおれに一生を捧げたと思ったあのエーレナの屍《しかばね》にすぎない」
やがて、エーレナがことさらよそよそしい言葉づかいをするのを聞くうちに満面に溢れだす涙をかくすのに、ジュリオは苦心しなければならなかった。彼女に言わせると、兄を失ったからにはきわめて当然な心変わりとやらについて、彼女が話し、弁解するのを聞きおわると、ジュリオはごくゆるやかな口調で言った。
「あなたは自分の誓いを果たしたとは言えない。庭まで出てぼくを迎えてもくれないし、二人でモンテ・カーヴォのお告げの鐘を聞いた直後のように、ぼくの足もとにひざまずきもしない。あの誓いが忘れられるものなら、お忘れなさい。でもぼくは、このぼくはなに一つ忘れはしない。ほんとうにさようなら!」
これだけ言うと、彼は窓格子をはなれた。その気ならまだ小一時間もそこにいることができたのである。あれほどに熱望していた会見をみずから進んで切りあげようなどとは、一瞬まえまでだれが予想しえたであろう! この犠牲に彼の胸は張りさけんばかりであった。しかし、エーレナの「慇懃さ」にむくいるには彼女を後悔させてやるほかはなく、もしそうでもしなかったら、それこそ彼女からも軽蔑されてしまうだろうと思ったのである。
夜明け前に、彼は修道院を出た。部下にカストロでまる一遇間自分を待ち、その後は森へ帰るように命令すると、すぐに馬にまたがった。絶望のあまり無我夢中だった。ひとまず彼はローマに向かった。
「なんということだ! おれはあの女から遠ざかろうというのか!」と一歩ごとに彼はつぶやいた。「なんということだ! これで二人も赤の他人というわけだ! おい、ファビオ! きさまはうまく仕返ししたな!」
街道で行きかう人々の姿がますます彼の怒りをかきたてた。彼は馬を駆って野原を突っ切り、海ぞいに広がる人影もなく荒涼とした浜辺へ向かってひたすら走りつづけた。彼は平和そうな百姓の姿を見かけるたびにその運命がねたましくて心が乱れたが、やっと彼らにもわずらわされぬところまできて、息をついた。荒れ果てたあたりの眺めは彼の絶望にふさわしく、彼の怒りをしずめてくれた。そこで彼ははじめて自分の悲惨な運命を静かにかえりみることができた。
「おれほどの若さなら」と彼は思った。「まだなんとかなる。他の女を愛すればいいのだ!」 こんなみじめな考えが浮かんで、いっそう自分の絶望が倍化するのを感じた。自分にはこの世に女は一人しかいない、それがあまりにもはっきりしすぎているのである。エーレナ以外の女に向かって愛などという言葉をあえて口にするときの苦しさを想像してみた。想像するだけでも胸をさかれる思いがした。
彼はひきつったような苦い笑いにおそわれた。
「こんなところをうろついているおれは、自分の不実な愛人がほかの騎士の胸に抱かれているのを見て、それを忘れようとして、人跡たえた地方を一人旅するあのアリオストの物語の主人公そっくりじやあないか。しかし、エーレナはそれほどの罪をおかしたわけではない」と、彼は気違いじみた笑いがおさまると今度は涙にくれながら思うのであった。「不実とは言っても、ほかの男を愛するようなことまでしたわけではない。おれのことでさまざま恐ろしい話を聞かされて、あの敏感で純粋な心に迷いが生じただけのことだ。そうだ、きっと、おれが彼女の兄を殺す機会をつかもうとひそかに企んで、あの呪わしい戦いに武器をとったのだとでも話されているのだ。 いやそれどころではないかもしれない。兄さえ死んでしまえば彼女が莫大な財産の相続人になるからというような、そんな下劣な打算をおれがしていたと言って聞かせられたかもしれない。……それなのに、このおれは、彼女が敵どものたぶらかしのたねになるのを、まる二週間ものあいだ、手をこまぬいて見すごしていたという愚かさだ! おれはまったく運も悪いが、そればかりか天は人生に処してゆく分別までおれから奪ってしまったにちがいない! おれはなんて情けない人間だ、なんて軽蔑すべき人間だ! おれがこの世に生まれてきたことはだれの役にもたちはしなかった。いや、他人どころか、それ以上におれにとっても無用なのだ」
そのとき、青年ブランチフォルテは、この時代としてはきわめて珍しい一つのひらめきをえた。彼の馬は海の波打ちぎわを進んでいた。ときおりそのひづめを波がぬらしていた。彼はそのまま海中に馬を乗りいれて、自分を苦しめるこの苛酷な運命を絶ちきってしまおうかとふと考えたのである。かつて一度は彼に幸福というものがあることを感じさせてくれたこの世でただ一人の人、その人に見すてられたいまとなっては、生きながらえてなにをなすべきことがあろうか。すると、突然、また一つの考えが浮かんで、彼を思いとどまらせた。
「ひとたびこのみじめな命をすててしまえば、おれはあの世でどれほどの苦しみをなめねばならないかしれたものではない。それを思えば、いまのこの一瞬の苦しみなど問題ではない。たしかにエーレナはいまはおれに冷たいが、おれが死ねばそれだけではすむまい。だれか他の男の腕に抱かれた彼女の姿を目にせねばなるまい。しかも、そいつは金持ちで|人望のある《ヽヽヽヽヽ》ローマの若い貴族かなんかだ。悪魔はおれの心を責めさいなむために、残酷このうえない光景を見せつけようとするにきまっている。それがやつらの仕事なんだからな。だから、死んだところで、おれはエーレナを忘れることなんかできはしない。それどころか、彼女を思う気持ちはつのることだろう。おれが自殺という恐ろしい罪をおかしたあかつきに確実に神が下す処罰、それは神がおれに彼女への思いをつのらせることなのだ」
自殺の誘惑をはらいのけようとして、ジュリオは神妙に天使祝詞《アヴエ・マリア》をとなえはじめた。かつて彼があの思いやりのあるふるまいをすることになったのも、この聖母に捧げられた祈り、朝の|お告げの鐘《アヴエ・マリア》を聞いたためである。いまはそれを一世一代の不覚であったと思っている。しかし、神に対する慎みから、彼はそれ以上つっこんで、自分の頭をいっぱいにしている考えをはっきりさせようとはしなかった。
「もし、マドンナのお告げのために、おれがとりかえしのつかぬ間違いをしでかしたのなら、マドンナの方でも、その限りない正しい裁きの力で、もういちどおれを幸福にするよう、なんとかとりはからってくれるべきではないだろうか」
このマドンナの正しい裁きという考えが、しだいに彼の絶望を追っぱらった。ふと頭をあげて前方を見ると、アルバノの町と森のかなたに、あの暗い緑におおわれたモンテ・カーヴォと聖なる修道院があった。あの修道院の朝の|お告げの鐘《アヴエ・マリア》の音がいまでは不名誉にもたぶらかされたと思っているふるまいを彼にさせたのだ。思いもかけぬこの聖地の眺めが彼の心を慰めた。
「そうだ」と彼は叫んだ。「マドンナがおれを見はなすなんてことはありえない。エーレナの気持ちは、おれの妻になるつもりだったのだし、男としての自尊心からおれもそれを希望していたのだが、もしそのとおりになっていたら、兄の死を知ったとしても、エーレナは二人を結ぶきずなを思い出してくれたはずだ。運命的な偶然によって、おれとファビオが戦場であいまみえるずっと以前から、おれのものだったことを、エーレナも考えたに違いない。あの男はおれより二つ年上だ。おれより武芸がすぐれ、すべての点で大胆で強かった。あの戦いはおれのほうからしかけたのではないことを、おれの妻になっとくさせる理由はいくらでもあったはずだ。エーレナだって、兄がおれに向かって鉄砲を放ったときでさえも、おれが兄に対して少しも憎悪の気持ちを持っていなかったことを思い起こしてくれたに違いない。そうだ、おれははっきりおぼえている、ローマから帰って、二人がはじめてこつそり会ったとき、おれはこう言ったじやないか――きみはなんていうことを言う。兄さんは名誉を守るために、ああするよりしかたがなかったのだ、それを非難する気にぼくはなれない!」
マドンナへの信仰によって希望をとりもどしたジュリオは、急いで馬を駆って、数時間のうちに自分の部隊の舎営地に到着した。見ると彼らは戦備をととのえている。ローマからカッシーノ山越しにナポリに通じる街道に出動するのである。青年隊長は馬を替え、部下をひきいて出発した。その日は戦いはなかった。ジュリオはどういう目的で出動したのかきこうともしなかった。そんなことはどうでもよかった。部下の先頭にたつ自分の姿を意識したとき、彼は自分の運命にあらたな見とおしを抱いた。
「おれは正真正銘の大ばかだ。カストロをはなれたのは間違いだった。エーレナはおそらく、おれが腹だちまぎれに考えたほど、罪深くはないのだ。あの女がおれのものでなくなるなんて、そんなことのありうるはずはない。しんから無邪気で清い魂、それが初めて恋心に動かされるのを見てきたおれじゃないか! おれにはまったく心の底から打ちこんでいた! こんなに貧乏なおれと逃げて、モンテ・カーヴォの坊さんに結婚させてもらおうと言ったのも十ぺんじゃたりない。カストロで、何はともあれ、もう一度会って、なっとくのいくように話をするべきだった。実際、おれは恋のために、まるで子供のようにふぬけになっている! 神さま! 私にはどういうわけで相談すべき一人の友人すらないのでしょうか! いまのおれには、同じやりかたが、一、二分のあいだにたまらなくみえたりすばらしくみえたりするんだから!」
この日の夕方、軍隊が街道をはなれて森へ帰ろうとするとき、ジュリオは公の前へ出て、なお数日、例のところにとどまりたいと願った。
「勝手にするがいい!」とファブリチオは叫んだ。「私がそんなばかげたことに、かかわりあっていられるときだと思っているのか」
一時間後に、ジュリオはふたたびカストロに向かった。部下にめぐりあうことはできたが、あんなに大いばりで別れたエーレナに、どんなふうに手紙を書けばいいのか判断がつかなかった。最初の手紙には、次の数語しか書いてなかった。「あしたの夜、会えるだろうか」
「いらっしやつてください」。返事もこれだけだった。
ジュリオが行ってしまったあと、エーレナは、もう自分は永遠に見すてられてしまったと思った。そのときになって、はじめて、彼女はあの哀れにも不幸な青年の主張が正しかったことをはっきりさとった。彼が運悪く戦場で兄と相まみえた、その前から自分は彼の妻だったのだ。
こんどジュリオを迎えたのは、最初の会見で、彼に冷酷このうえない印象をあたえた、あの丁重な言葉づかいではなかった。エーレナは、やっぱり格子窓の向こうに姿を見せただけだが、彼女はふるえていた。そしてジュリオの言いかたがひどく遠慮がちで、まるで見も知らない女に対するような言葉づかいなので、こんどはエーレナのほうが親しくうちとけたあとで、急にとりすました物言いをされたときに人が受ける、あの残酷このうえない印象をうけた。
ジュリオは、冷たい言葉がエーレナの胸中からとびだして、胸をえぐられるのを何よりおそれて、運命的なチアンピの戦いのずっと前から彼女が自分の妻だつたことを証明するときでも、まるで弁護士のような言葉づかいをしていたのである。エーレナはだまって彼にしゃべらせていた。一こと二ことぐらいの返事ならともかく、まともに応答をしはじめたら、泣き出してしまいそうな気がしたからである。とうとう本心を見せてしまいそうになったとき、彼女は、あしたの晩もう一度出直してくれるように愛人にたのんだ。その夜は、大祭の前夜で、早朝のおつとめが夜明け前からとなえられ、二人の密会も見つかる心配があった。恋する男らしい推理をはたらかせていたジュリオは、深いもの思いに沈みながら庭を出た。彼には、今夜のもてなしがいいのか悪いのかそのことさえ判断できないような不安にかられていた。そして、戦友との会話によって生まれた武人らしい考えが、彼の脳裏に浮かんできて、
「いつかは、エーレナを略奪せねばならないかもしれない」とつぶやいた。
そして、彼は暴力をもって、この庭に侵入する方法を真剣に考えはじめた。この尼寺はかなり裕福で、略奪の対象になりやすかったので、ほとんどが兵隊あがりの壮士をおおぜい自費でやとっていた。彼らは兵舎のようなものに寝とまりしていたが、その建物の格子窓は、高さが二十七メートル以上もある黒壁の中央にあけられた尼寺の表門から、門番尼僧が番をしている内門につづく狭い通路に面していた。この通路の左手が兵舎、右手が高さ十メートルの庭の壁になっていた。広場に面した尼寺の正面は、年月がたってまっ黒になった不体裁な壁で、表門と番卒が外をのぞくためのたった一つの物見窓のほかには忍びこむすきもなかった。あいているところといえば、大きな鋲《びょう》どめの幅の広い鉄板でかためた門と、高さ一・五メートル、幅五十センチの小さな窓が一つだけの、この大きな黒壁がどんなに暗い感じをあたえたか、想像がつくであろう。
訳者は、ジュリオがエーレナにたのんで、その後、なん回も密会をかさねたことについて、原作者の長たらしい記述のあとを追うつもりはない。二人の愛人のあいだの言葉づかいは、かつてのアルバノの庭園のときのように、ふたたびすっかり打ちとけてきたが、ただエーレナは、庭へおりてくることをどうしても承知しなかった。ある夜、ジュリオは彼女が、もの思いに沈んでいるのに気づいた。母親が、尼寺で数日を過ごすつもりで、ローマから彼女に面会にきていたのである。この母親は思いやりが深く、娘が今もなお忘れかねているらしい愛情についても、いつもこまやかな心づかいを見せてくれるので、娘もこの母親をあざむかねばならないことを思うと、たえがたい悔恨の思いにかられるのであった。とはいえ、兄を殺した男と会っているということなど、どうして口にできるだろうか。ついには、エーレナはジュリオに一部始終を打ちあけた。これほどやさしくしてくれる母親には、相手のたずね方しだいで、自分には嘘をつく勇気がなくなりそうだ、と話した。ジュリオは不利な自分の立場をはっきり意識した。彼の運命は、カンピレアーリの奥方が、ひと言口にするかどうか、その偶然に支配されているのだ。翌日の夜、彼はきっぱりした口調で言った。
「あしたはもっと早くこよう。私がこの格子の鉄棒を一本抜いてしまうから、あなたはそこから庭へ下りるのだ。二人で町のお寺へ出かけて、そこで私の味方にしてある坊さんに結婚させてもらおう。そして、あなたは夜が明けぬうちに庭へもどつてくればいい。一度妻ということになってしまえば、私ももう心配はない。そしてもしお母さんが、私もあなた同様に悲しんでいるあの恐ろしい不幸の罪のつぐないとして、どうしてもと言われるなら、私はどんなことでも、たとえ数か月あなたに会ってはいけないと言われても、承諾するつもりだ」
エーレナが、この申し入れに同意する様子を見せたので、ジュリオはさらに言葉をつづけた。
「コロンナ公が私にそばへ帰ってこいと言われる。男をたてる上からも、またいろいろなわけあいからも、私はどうしても出かけねばならない。私のいま言った方法が二人の将来を保証するただ一つの道なのだ。もし、このことが承知できないというのなら、いますぐ、ここで永久に別れてしまおう。私は自分の軽率を後悔してたち去るだけのことだ。私はあなたの誓いを信じていた。それなのにあなたは神聖この上ない誓いにそむこうとする。この恋のために私は長いあいだ悩んできた。しかし、あなたのこんな軽薄さを見せつけられたからには、当然私の気持ちに軽蔑が生まれることだろう。その軽蔑が恋の傷手《いたで》を忘れさせてくれてほしいものだ」
エーレナは泣きくずれた。
「だって、そんなこと!」と彼女は涙にむせびながら叫んだ。「お母さんがどんなにお嘆きになることでしょう!」
だが、結局、彼女は申し入れを承知した「でも」と彼女はつけくわえた。「往復するあいだに見つかるかもしれませんわ。どんなに恥ずかしい噂をたてられるでしょう。お母さんの立場がどんなに苦しくなるか、考えてみてもください。お母さんがお帰りになるまで待ちましょう。もう二、三日のことなのですから」
「あなたはついに、私にとってもっとも神聖な、もっとも尊いもの、そうだ、あなたの誓いを信じる私の気持ちまで、疑わずにはいられないようにしてしまった。あしたの晩、結婚するか、さもなければ、幕の向こうへ行くまで、二人が会うのはこれが最後だ」
哀れなエーレナは答えるすべもなかった。涙を流すばかりだった。彼女は何よりも、ジュリオのきびしい、むごい口調に胸をひき裂かれた。これほどさげすまれねばならない理由が、はたしてあるのだろうか。これが、前にはあれほど素直でやさしかったあの愛人なのだろうか。結局彼女は命令に従うことを約束した。ジュリオはたち去った。その瞬間からエーレナは、しずまったり高まったりする身をひき裂くような不安に苦しみながら、つぎの夜を待つこととなった。たとえ死を覚悟したにしても、これほど痛烈な苦悩に悩むことはなかっただろう。そういう場合なら、ジュリオの愛情と母親の慈愛を思い浮かべて、ともかく元気をつけることもできたであろう。それから夜の明けるまで、耐えがたい苦しみのうちに、幾度となく決心が変わりに変わった。母に、いっさいを打ちあけてしまおうと思うときもあった。翌朝、母の前へ出たとき、彼女の顔があまり青ざめていたので、母はいつもの分別のある心がまえも忘れて、娘の腕のなかに身を投げて叫んだ。
「まあ! いったいどうしたの。おまえ、いったい何をしたというの、それとも何をしようとしているの。さあお母さんに言っておくれ、お前にそんなにじゃけんに黙っていられると、お母さんは、おまえの手で胸に短刀を突きさされるよりも、もっとつらいのだよ」
母のかぎりない慈愛の深さはエーレナの目にも、はっきり見えた。母が感情を誇張するどころか、かえって外に出すまいとおさえていることもあきらかだった。彼女は情にほだされて、とうとう母の膝にがばと身をなげた。この呪うべき秘密をつきとめようとして、母がエーレナは自分を捨てる気に違いないと叫ぶのを聞いて、エーレナは、あしたからは、いいえ、いつまでもけっしておそばを離れません、でも、いまはこれ以上なにもきかないでください、と答えた。
このような軽率な言葉がきっかけになって、ついにはすべてを告白しなければならなくなった。カンピレアーリの奥方は、息子を殺した男がこんなに身近にいることを聞いてふるえあがった。しかし、その恐怖のつぎにきたものは、実に強烈な、まったく純粋なよろこびの躍動だった。娘が一度も操をけがしていないと知ったときの奥方のこの上ない喜び、誰がそれを想像しえただろうか。
そのことを聞くと、この母親はぬけめなく計画をすっかりたてなおした。急場を切りぬけるためには、自分にとっては何ものでもない一人の男をだますことも許されると彼女は考えた。エーレナの心は身を切られるような激情にかきむしられていた。彼女の告白には一点のいつわりもなかった。胸がいっぱいになった彼女は洗いざらい吐き出さざるをえなかった。すぐにも、どんな手段をとってもいいのだという気持ちになっていたカンピレアーリの奥方は、ことこまかにここに記すには長すぎるが、しかしともかく筋のとおった理屈を考えついた。悲しみにしずむ娘にむかって、それほど思いやりの深い愛人には従うよりほかはなかろうが、ただ一週間だけ待ってもらえないだろうか、そうすれば女の一生の恥になる秘密結婚などをしなくても、晴れて式をあげることができる、と説得するのは簡単なことだった。
奥方は、自分はすぐにローマへ戻り、エーレナはあのいまわしいチアンピの戦いのずっと前からジュリオの妻であった事情をカンピレアーリ卿に説明することにしよう、結婚式は修道僧に変装した彼女が、托鉢僧の僧院の壁につづく岩の間の切通しで父と兄に出会ったあの晩にすんでいる、ということにしておこうと言った。その日、母親は終日娘のそばを少しの間も離れまいとした。夕方になってから、エーレナは愛人にあてて率直な、それだけにわれわれにはいっそう悲痛な印象をあたえる一通の手紙を書いた。彼女は胸もはり裂けるような心の闘いについて書き、最後に一週間の猶予をひざまずいて哀願して、さらに筆をつづけた。「お母さまの使いの者を待たせて、あなたにこの手紙を書きながらも、お母さまに何もかも打ちあけてしまったのは、ほんとうに悪かったと思っています。あなたのお怒りのご様子が、あなたの憎しみのまなざしが私をじっと見すえていらっしやるのが、目に見えるような気がいたします。世にも恐ろしい悔恨の思いに、私の胸は張りさけるようです。まったくのいくじなし、卑怯な人間、軽蔑に価する者、あなたはそうおっしゃるでしょう。いとしいあなたに、そのようにおっしゃられても、私にはお返しする言葉もありません。けれどお母さまがさめざめと涙を流して、私の前にひざまずくばかりになさった、あのときの様子をどうか想像してくださいませ。そんなふうにされると、私もどうしてお母さまのお言葉通りにできないのか、その理由を言わないではいられなくなったのです。そして気が弱くなって軽はずみな言葉を一度口にしてしまうと、あとは自分がどうなったのか自分でもわかりませんが、私たち二人のあいだのことを、何もかも打ち明けないではいられないような気持ちになってしまいました。いまになって、はっきりはしないまでも思いかえしてみると、力のつきはてた私の心は、どうやらはげましの言葉を望んでいたのかもしれません。私はそれを、お母さまの口から聞けるとばかり思っていたのでした……ほんとうにやさしいお母さまですけれど、あなたとはまるで反対の立場にいらっしやることを、どうしたことか、私はすっかり忘れていたのでした。まず、あなたに従わなければならないということこそ、私にとっては第一のつとめであるのを忘れていたのです。真実の愛は、どのような試練にも耐えると申しますのに、私にはそれを感じる資格がないのでしょうか。ジュリオさま、見さげはてた女だとお思いくださいませ。けれど、神かけてお願い申しあげます、どうかお見すてにならないでくださいませ。あなたのお気持ちしだいで、私をここから略奪なさってくださいますように。ただ、お母さまさえ、尼寺へお見えにならなければ、私はどのような恐ろしい危険にも、はずかしめにも、何ごとにもめげず、あなたのお言いつけにも必ずそむかなかったのです。私のこの気持ちだけは、どうか、お認めになってくださいませ。けれどお母さまは、ほんとうにおやさしい方なのです! とてもとても聡明な方なのです! ほんとうにひろいお心を持った方なのです! いつか、あなたにも申しあげたことを覚えていらっしやいますか。お父さまが私の部屋にとびこんでいらっしゃったとき、お母さまは私には隠す方法もなかった、あなたのお手紙を守ってくださいました。そして、その場を切りぬけたあとでも、お母さまはそれを読もうともなさらずに返してくださって、少しもお叱りになりませんでした。ほんとうにお母さまは、いつも、恐ろしいあのときと同じように、私のことを考えてくださいました。私がお母さまを愛さなければならないことは、あなたにもおわかりいただけることと思います。それなのに、あなたにお手紙を書いていると、なんという恐ろしいことでしょう、お母さまが憎らしくなってきさえいたします。お母さまは、暑いので庭のテントで寝るとおっしゃっています。槌《つち》の音がきこえてまいります。いま、そのテントをはっているのです。今夜はお目にかかることができません。寄宿生の寝所や回り階段の二つの扉まで鍵がかけられるのではないかしら、と不安にかられます。こんなことは、いままで一度だってなかったことですのに。こんなに用心深くされると、あなたのお怒りをやわらげるためにはいちばんいいことだと思ったところで、庭へおりることさえできなくなってしまいます。ああ! できれば、たったいま、あなたに身を捧げたいのです! 二人を結婚させてくれる御堂へかけつけたい!」
この手紙の終わりには、とり乱した言葉が二ページもつづいている。そして、そのなかに、プラトン哲学を真似《まね》たと思われる情熱的なもののみかたがあることに、私は気づいた。私はいま訳した部分でも、そういう種類のはなやかなところはかなり省略しておいたのである。
ジュリオ・ブランチフォルテは、アヴェ・マリアの一時間ばかり前に、この手紙を受け取って、あっけにとられてしまった。彼は、いま、僧侶と打ちあわせをすませたばかりのところだった。彼は激怒にかられた。「略奪のことなど、わざわざ教えてもらうまでもない。いくじなしの臆病女め!」
そして、ただちに、彼はファッジョラの森に向かって出発した。
一方、カンピレアーリの奥方はどうなっていたか。彼女の夫は臨終の床についていた。ブランチフォルテに復響しえないという無念の思いが、彼をしだいに死へと追いこんでいたのであった。ローマの壮士たちに莫大な金を提供してもみたが、効果はなかった。彼らのいうところのコロンナ公の幕僚の一人を、あえて攻撃しようなどと言うものは一人もなかった。自分自身はもちろん、家族までみな殺しにされることは火を見るよりあきらかだったからである。事実、まだ一年とたっていない話だが、コロンナ公の部下の一人を殺したといって、村全体焼き打ちにされたことがある。野原へ逃げ出そうとした村民は、男も女も一人残らず手足を網でしはられて、燃えさかる家の中へ投げこまれたというではないか。
カンピレアーリの奥方は、ナポリ王国に広大な領地を持っていた。夫はそこから刺客を呼びよせるように言ったが、奥方はただ聞きながすだけだった。娘とジュリオ・ブランチフォルテの関係は、もう取り返しのつかぬところまで行っているものと信じこんでいたからである。そういう仮定の下に、奥方はジュリオを、そのころフランドルの反乱軍と対戦していたスペインの軍隊におくり、一、二度砲火をくぐらさねばならない、と考えた。それでも彼が死ななかったら、それは神が、このやむをえぬ結婚をあえて否認されぬ証拠である。そうなったら、ナポリ王国の自分の領地を娘にあげよう。ジュリオ・ブランチフォルテは、その土地のどれか一つの名をとって改名し、妻と一緒にスペインで数年暮らしてくればよい。こうした試練をすべて経たのちなら、おそらく自分も彼に会う勇気が出るであろう。ところが娘の告白はすべての様相を一変させた。結婚はもはや避けえないことではない。それどころか、エーレナが愛人あてのいま訳したばかりの手紙を書いている間に、カンピレアーリの奥方はペスカーラとキエーティに手紙を書いて、部下の百姓のなかの腕っぷしの強いしっかり者をカストロに送らせることを命じた。奥方は彼らに、それは彼らの若主人、自分の息子ファビオの死の復讐をするためだということを、けっしてかくしはしなかった。これらの手紙の使者は、日暮れ前に出発した。
しかし、その翌々日、部下の兵士八人を連れてジュリオはカストロにかえってきた。この連中は、コロンナ公の怒りを承知の上で、彼に是非と望んでついてきたのである。公は時として、このような種類の仕事に加わった連中を死刑で罰することがあったのである。ジュリオはカストロに五人の部下を残しており、今八人を連れて来た。だが、いかに勇敢とはいえ、十四人の兵士では自分の計画には不十分に思えた。この尼寺は、強固な城塞そのものであったからである。
力ずくでゆくか、策略によるか、ともかく尼寺の最初の門を通り抜けることが問題だ。それから奥行五十歩以上の路次に沿って行かねばならない。しかもその左手は、さっきも述べたように、尼僧たちがもと兵士だった三、四十人の番卒たちを寝とまりさせておく一種の兵舎の格子窓が路次を見下ろす位置に開いている。一たび急がつげられたら、この格子窓からつるべ打ちに銃火をあびせかけられることは必至である。
いまの尼僧院長はしっかり者で、オルシーニ党の首領連、コロンナ公、マルコ・スキアラをはじめ、この付近で幅をきかせている連中の武力に警戒を怠らなかった。命知らずが八百人も、尼寺には財宝がみちているとでも思いこみ、カストロのような小さな町を不意に占領してしまったら、いったいどうして抵抗することができようか。
ふつう、カストロの聖母訪問尼僧院は、第二の門に通じている路次の左手の兵舎に十五人から二十人の壮士をおいていた。路次の右手は大きな壁でとうてい突き破ることができない。路次の突きあたりに鉄の門があって、柱のならんだ玄関につづいている。玄関の後は尼寺の大きな内庭で、右手に庭園がある。この鉄の門は門番尼僧が守っていた。
ジュリオは八人の部下をひきいてカストロから十二キロの地点にきたとき、きびしい暑さの時問のうつるのを待って、人家を離れた旅籠屋《はたごや》で休んだ。そこで彼ははじめて自分の計画を打ち明けた。そして、中庭の砂の上に、これから襲撃しようとしている尼寺の図面を引いて見せた。
「今夜九時に」と彼は兵士たちに言った。「町の外で晩飯を食う。十二時に町にはいる。おまえたちの仲間が五人、尼寺のそばで待っているはずだ。その一人が馬に乗っていて、ローマからの飛脚《ひきゃく》にばけ、カンピレアーリの殿さま危篤《きとく》のため奥方さまをお迎えにまいりました、と言うのだ。第一の門だけはそっと通り抜けるようにしたいものだ。その門というのは兵舎の中央、ちょうどここにある」そう言って彼は砂の上の図面をさし示した。「万一、第一の門で戦いを始めることになると、尼寺の壮士どもは、こちらがまだ尼寺の前のこのせまい広場にいるうちに、あるいはまだ、第一の門から第二の門へ駆け抜けているうちに、苦もなくねらい射ちすることができる。この第二の門は鉄でできている。だが、鍵は手に入れてある。
「実は、そこに大きな鉄のかんぬきか、横木のようなものが二本あって、その片端が壁にとりつけてあるのだが、これをうまくはめると門の両方の扉が開かなくなる。だがこの二本の鉄の棒は重すぎて、門番の尼には扱いかねる。うまくはまっているのは、私は一度も見かけたことがないくらいだ。しかも、この鉄門は、私が十度以上もくぐつたことがある。今夜もきっと無事通り抜けられると思う。おまえたちも察しているだろうが、尼寺の中には私の手引きをしてくれるものがある。私の目的は寄宿している女をひとり略奪することだ。尼ではないぞ。武器は万やむをえぬときまで使ってはならない。もしこの鉄のかんぬきのある第二の門まで行きつかぬうちに火ぶたを切ったりすれば、きっと門番の尼は二人いる年寄りの庭番をよぶに違いない。その庭番は七十の老人で、尼寺のなかで寝とまりしているが、この爺が私のいま言ったかんぬきを下ろしてしまうだろう。運悪くそういう破目になると、この門の向こうへ抜けるためには、壁をこわすしか手がなくなる。それには十分はかかってしまう。いずれにしても、私が先頭に立ってこの門に突進する。庭番の一人には金をつかませてある。だがもちろん略奪の計画をもらすようなことはしていない。この第二の門を抜けたら右に回る。すると庭に出る。庭に出てしまったら、いやでも戦いが始まる。出てくる奴は皆殺しにしなければならない。おまえたちはもちろん、長剣と短剣しか使えない。鉄砲の音など少しでもしようものなら、町じゅうが騒ぎだし、おれたちの退却口を襲うかもしれない。このようなことを言うのは、私が、おまえたちほどのものを十三人も連れていながら、こんな小さな町一つけちらかして通るのを恐ろしがっているからではない。街路まで下りてこようなどと思う奴はもちろん、一人もいまい。だが町には鉄砲をもっている奴がかなりいるから、家の窓からうつかもしれぬ。そうなると、家の壁づたいに行かねばならなくなる。だが、これは余計な付けたしだ。ところで、尼寺の庭まで侵入したら、飛び出してくる奴が男なら、低い声で『引っ込んでいろ!』と言え。言下に従わぬ奴は、片っぱしから短剣で突き殺せ。私は、おまえたちのうち、その時そばに居あわせた者をつれて庭の小門から尼寺の中にかけ上る三分たつと、女を一人か二人ひっさらって下りてくるが、女には歩くことを許さず、おれたちが腕にかかえて運ぶのだ。すぐさま尼寺の外へそして町の外へ引き上げる。おまえたちのうち二人だけ門の側に残り、町の者どもをおびやかし、寄せつけぬようにするため一分おきに、二、三十発鉄砲をうつんだ」
ジュリオは、二度この説明をくりかえした。
「みんなよくわかったか」と彼は部下にいった。「玄関のところはまっくらだろう。右が庭。左が中庭だ。まちがえるな」
「ご安心ください!」と兵士たちは叫んだ。
そして酒を飲みに出かけた。伍長が一人のこって、隊長にお話したいと許可を求めた。
「隊長殿のご計画はまったく造作もないことです。私はこれまでに二度、尼寺を襲撃したことがあります。今度のは三度目です。ただ、われわれはあまりに小勢すぎます。敵の出方一つで、第二の門のひじ金を支える壁を破壊する破目となった場合、そんなまだろっこしい仕事の間、兵舎の壮士どもがおとなしくしているとは思われません。鉄砲で味方を七、八人は殺すでしょう。そうなると、せっかく奪った女も、帰りに奪いかえされる恐れがあります。ポローニャの近くの尼寺でも、そういうことがありました。味方は五人やられ、敵は八人やっつけましたが、結局隊長は女を手に入れることができなかったのです。それで、私は、隊長殿におすすめしたいことが二つあるのです。実は、私たちの今いるこの旅籠屋の近くに、私の知っている百姓が四人います。むかしスキアラの配下で勇敢な働きをした奴で、一ツェッキーノもくれてやれば、一晩じゅう獅子《しし》のように戦うにきまっています。ひょっとすると尼寺の銀の器など盗むかもしれませんが、そんなことはかまやあしません。罪はそ奴にあるのです。あなたは女を奪うために奴らをやとったというだけなのですから。もう一つおすすめしたいのは、ほかでもありません。ウゴーネは学もあり、ひどく気転のきく男です。奴はもと医者ですが、養父を殺してmachia(森)へ逃げてきたのです。あれを日暮れの一時間ほど前に尼寺の門前にさし向けるという手があります。寺に奉公がしたいと言わせるのです。あの男のことです、なんとか要領よくやって、番卒のたまりに入れてもらうでしょう。そしてうまく尼寺の用心棒たちに酒をくらわせておく。奴らの鉄砲の火縄をしめらせてしまうことも、できかねぬ相談ではありません」
不孝にもジュリオは伍長の進言をいれた。伍長は行きかけて、さらに付けたした。
「われわれはこれから尼寺を襲うのですが、これはいちばん罪状の重い破門になります。その上、この尼寺のじきじきの御本尊はマドンナ様……」
「わかった!」この言葉に目覚めたようにジュリオは叫んだ。「私のそばにいろ」
伍長は扉を閉めて、ジュリオとともにお祈りをしにもどった。そのお祈りはたっぷり一時問続いた。日が暮れると、一同はまた行進をはじめた。
すでに単身十一時頃カストロにしのびこんでいたジュリオは、ちょうど十二時が鳴ったとき、町の門の外まで部下を迎えに出た。彼は八人の兵士をつれて町にはいったが、そこにはしっかり武装した三人の農民が加わっていた。町にのこしておいた五人の兵士と合わせて、彼は十六人の命知らずをひきいることになった。そのうち二人は下僕に変装させてあったが、この二人は鎖帷子をかくすために、黒布のゆったりした仕事着をきて、帽子には羽根をつけなかった。
十二時半、みずから飛脚の役をかって出たジュリオほ、馬を飛ばして尼寺の門前に乗りつけ、凄まじい物音をたてて、枢機卿からのお使者だ、すぐさま開門、と叫んだ。第一の門のわきの小窓から答える番卒どもが、かなり酔っているのを見て、彼は喜んだ。習慣にしたがって、彼は紙片に名を書いて渡した。番卒の一人がこの名札を第二の門の鍵をあずかっている門番尼僧に渡す。緊急の場合には、この門番尼僧が尼僧院長を起こすのである。返事がくるまでの息づまるような四十五分間、ジュリオは部隊の沈黙をたもつのにひどく苦心した。町民のなかには、恐る恐る家の窓をあけはじめたものさえあった。やっと院長からよい返事があった。尼寺の壮士たちは大門をあけるのを面倒がって、小窓から高さ、二メートルあまりの梯子をおろした。下僕に変装した二人の兵士をつれて、ジュリオは梯子を登って番卒のたまりへはいった。窓からたまりへ飛び下りるとき、ウゴーネの視線にぶつかった。彼の配慮のおかげで、番卒はのこらず酔っぱらっていた。ジュリオは、カンピレアーリ家の下僕を三人、道中の護衛として武装させてつれて来ている、その連中が途中で上等の火酒を買ったが、ぽつねんと広場で待つのも退屈だから、ここへ上げてほしがっていると、番卒の頭にむかって言った。だれ一人文句を言うものもなくそれは許可された。ジュリオは二人の部下をつれてたまりから路次につづく階段を下りた。
「なんとか大門を開くようにしろ」と彼はウゴーネにささやいた。
ジュリオはなんなく鉄門にたどりついた。そこにいる門番尼僧は、十二時が過ぎたためあなたを尼寺のなかにお入れすると、院長は司教に報告を書かなければなちなくなるから、かわりに少女を一人つかわし、手紙はそのものにお渡しねがうようにとの院長のお言葉ですと言った。そこでジュリオは、カンピレアーリ卿の突発的なお苦しみのためとりまぎれて、自分は医者の書いた信任状しかもってきていないが、ご病人の奥方と姫君がなおここにご滞在なら、お目通り願ってご病状をくわしく申し上げ、その上さらに院長さまにもご報告せよと言われてきた、と答えた。門番尼僧は、その信任状をもって退いて行った。門のそばには院長のよこした年若い尼僧がいるばかりとなった。ジュリオはその少女に話しかけてふざけながら門の太い鉄棒の間に手を入れ、笑いながら門をあけようとした。この尼僧はごく臆病なたちだった。おびえて、冗談がまるで通じなかった。そこで時間がむやみにたつのを恐れたジュリオは、軽率千万にも一つかみの金貨を少女にさし出し、疲れていて待ちきれないのだと言って、門を開けてくれるようにと頼んだ。自分がへまをやっていることは彼自身にもよくわかっていた。彼は、黄金ではなく、まさに鋼鉄をもって行動すべきだったのだ。だが、彼にはそんな勇気は出なかった。彼から三十センチたらずの門の向こう側にいる尼僧を引っつかまえて自由を奪うのは造作もないことだった。金貨を見せられた少女は不安を感じた。後に彼女の語ったところによればジュリオの話しぶりで、初めからこれはただの使者ではないということがよくわかっていたという。だれか尼僧の愛人が密会に来たのだ、そう尼僧は思った。彼女はきわめて道心堅固な尼であった。恐怖にとらわれた彼女は、大きい内庭にある小さな鐘につながっている綱を力まかせにひき始めた。たちまち鐘は死人の目をも覚ます勢いで鳴りひびいた。
「戦闘開始だ。抜かるな!」とジュリオは部下に叫んだ。彼は自分の合鍵を取り出した。鉄棒のあいだから腕をさしこんで、門をあけた。年若い尼僧は絶望にかられてひぎまずき、罰あたり、と叫んで、アヴェ・マリアをとなえ始めた。このときもまた、ジュリオは少女をだまらせてしまうべきであった。勇気が出なかった。部下の一人が彼女を引っとらえて、手で口をおさえた。
そのとき、ジュリオは後方の、路次に銃声をきいた。ウゴーネはすでに大門を開きおえていた。のこっていた兵士が足音をしのばせてしのびこもうとしていた。ほかの連中ほど酔っていなかった警備の壮士の一人が、ふと格子窓の一つに近づいて、路次に大勢の人影を見た。大いに驚き、ののしり声を上げてとまれと命じた。黙殺して、鉄門の方へ進むべきであった。先頭の兵士たちはそうしたのだ。ところが最後の一人、その日の午後かり集められた農民の一人が、窓から声をかけたこの番卒に、やにわにピストルをうって殺してしまった。この深夜の銃声と、仲間が倒れるのを見た酔っばらいどもの叫びとが、この晩寝所にねていてウゴーネのふるまい酒にあずかりそこねた他の番卒たちの目をさまさせてしまった。八、九人の壮士が半裸のまま路次に飛びおり、激しくブランチフォルテの兵士を攻撃しはじめた。
さきにも言ったとおり、この騒ぎはジュリオが鉄門を開いた瞬間に起こったものである。二人の兵士をひきいたジュリオは、庭に駆けこみ、寄宿生用の階段に通じる小さい戸口にむかって突進した。ピストルの五、六発が彼を迎えた。二人の部下はうち倒され、彼も右腕に一弾うけた。このピストルは、カンピレアーリの奥方の家来が放ったものだった。彼らは奥方の命令で庭で寝ていた。奥方が司教からもらった許可状によって黙認されていたのである。ジュリオは単身、勝手を知った小さな戸口の方に突進した。庭から寄宿舎の階段への通路であった。彼は力の限り戸口をゆり動かした。だが、戸は厳重にとざされている。部下を呼んでみた。答えようともしない。死にかけているのだ。彼は、くらやみの中で、カンピレアーリの家来三人にぶつかり、短剣をふるって防戦した。
味方をよぼうと彼は玄関へ、鉄門へとかけつけた。しまっている。若い尼僧のならした鐘の音で目をさました老園丁が、あの重い二本の鉄のかんぬきをしっかりとはめ、錠までかけてしまったのだ。
「ふくろの鼠だ」とジュリオは思った。
彼はそれを声にして部下につげた。長剣で錠の一つをこわそうとした。うまくいかない。これが成功したら、かんぬきを一本はずし、門の扉を一枚だけ開くことができるのだ。長剣が錠の環で折れた。その瞬間、彼は庭から出てきた従者の一人に肩さきを切りつけられた。身をかわした。門へ追いつめられた。大勢から切りつけられるのを感じた。短剣で防いだ。幸いまっ暗だった。 ほとんどどの長剣が鎖帷子《くさりかたびら》に切りつけるばかりだ。ひざをひどくやられた。ひざを切ったはずみに敵は前に踏みこみすぎた。とびかかりざまジュリオは短剣で顔を一撃してこれをたおし、幸いにも相手の長剣をうばうことができた。助かった、と思った。門の左側、内庭側に身をかまえた。かけつけてきた部下が門の鉄棒ごしにピストルを五、六発放って、家来どもを追っぱらった。この玄関の下では、ピストルの閃光でわずかにものの姿が見わけられるだけであった。
「私の方へうつんじゃないぞ!」とジュリオは部下をどなりつけた。
「まるであなたは鼠捕りにかかったようなものですな」と伍長が少しも騒がぬ様子で、鉄棒の向こうから声をかけた。「こちらは三人やられました。あなたのおられる反対側の門柱の根元をつぶすことにしましょう。近よってはいけません。弾がわしらの方へ飛んできますから。庭にも敵がいるようですな」
「カンピレアーリの下郎どもだ」とジュリオは言った。
彼はなおも伍長に話そうとした。そのとき、物音をたよりに玄関の方から放つピストルの弾がこちらめがけて降りそそいできた。ジュリオは門をはいって左手の、門番の小屋に身をひそめた。あるかなきかの灯がマドンナ像の前にもえていた。これを見て彼はひどく喜んだ。それを消さないように用心して手に取りあげた。自分の身体がふるえているのに気づいた。悲しかった。はげしく痛むひざの傷をしらべてみた。血がどくどくと流れていた。
あたりを見まわすと、木のひじかけ椅子の上で女が一人気を失っていた。それがエーレナの信頼する侍女マリエッタと知って、彼はひどく驚いた。はげしくゆすぶった。
「まあ! ジュリオさま」と彼女は泣いて叫んだ。「あなたは、このマリュッタを殺そうとなさるの」
「何を言うのだ。エーレナに、安らかな気持ちを私がみだしたことを詫びていたと、そう言ってくれ。それからモンテ・カーヴォのアヴェ・マリアを思い出してくれって。この花束は、彼女のアルバノの庭で私がつんだものだ。血で少しよごれているから洗ってから渡すのだ」
このとき、路次で鉄砲の一斉射撃の音が聞こえた。尼僧方の壮士が彼の部下を攻撃しているのだ。
「小門の鍵はどこにあるのだ」と彼はマリエッタにたずねた。
「小門のはありませんが、これが大門のかんぬきの錠の鍵です。これで外に出られます」
ジュリオは鍵束をひっつかむと小屋の外へ飛びだした。
「もう壁をこわさなくてよい」と彼は兵士たちに言った。「鍵を手に入れたぞ」
彼が小さい鍵の一つで錠をあける試みをしているあいだ、一瞬の沈黙があたりを支配した。彼は鍵をまちがえていた。別のを出した。やっと錠をはずした。だが、かんぬきを抜こうとした瞬間、ほとんど銃口をおしつけるようにしてうたれたピストルの群が彼の右腕をうち抜いた。たちまち腕がきかなくなるのを感じた。
「かんぬきを持ち上げろ」と彼は部下に叫んだ。
命ずるまでもない。
ピストルの閃光で、兵士たちは鉄のかんぬきの曲がったはしが、門にはめ込んだ環から半ばはずれかけているのを知った。すぐに三、四本のたくましい手がかんぬきを持ち上げた。はじを環からはずして、かんぬきを投げ出した。やっと門の片方の扉を開けることができた。伍長がはいってきて、声をひそめてジュリオに言った。
「もうどうしようもありません。手傷をおわぬ者はわずか三、四人です。五人がやられてしまいまんた」
「私はひどく出血した」とジュリオは答えた。「気が遠くなりそうだ。私を運ぶように言ってくれ」
ジュリオが勇敢な伍長にそう言った刹那、警備団の番卒が鉄砲を四、五発放った。伍長はたおれて死んだ。幸いウゴーネがジュリオの命令をきいていて、二人の兵士の名を呼んだ。彼らは隊長をだきあげた。彼はまだ気を失っていなかった。自分を庭の奥の、小さな戸口のところへ運べと命じた。この命令を聞いて兵士たちは舌うちをした。だが服従した。
「この扉をあけたものに、百ツェッキーニだ!」とジュリオが叫んだ。
しかし戸口はたけり立った三人の男の力にもゆるがなかった。老園丁の一人が三階の窓ぎわに陣取って、ピストルを乱射してきた。その閃光が兵士たちの行動を照らした。
戸口にむかって無駄な努力をくりかえすうちにジュリオは気を失ってしまった。ウゴーネは、兵士たちに隊長を急いで運び出すようにと言いおいて、自分は門番尼僧の小屋へかけこむと、マリェッタを戸口へおし出し、はやく逃げろ、誰に会ったかけっして口外ならぬぞ、と凄まじい声でどなりつけた。寝台の藁《わら》をつかみ出し、椅子を二、三脚くだいて、部屋に火をつけた。火がもえ上るのを見とどけてから、尼寺の壮士が鉄砲を乱射する下をくぐつて、いちもくさんに逃げだした。
聖母訪問尼僧院から百五十歩ばかりきたところで、すっかり気を失った隊長を全速力で運んでゆく仲間に追いついた。数分後には町の外に出た。ウゴーネは止まれを命じた。彼につき従うものは、わずか四人であった。彼は、そのうち二人をふたたび町にやり、五分おきに鉄砲をうつことを命じた。
「傷ついた仲間をさがし出すようにしろ。夜が明ける前に町をぬけ出すのだ。おれたちはこれからクローチェ・ロッサの間道を行くことにする。どこか火をつけられるところがあれば、忘れずに実行しろ」
ジュリオが正気にかえったのは、町から十二キロきた時だった。そして日はすでに地平線はるかに高くのぼっていた。 ウゴーネは彼に報告した。
「わが隊はのこるところ、わずか五名、うち三名は負傷しております。生きのこつた二人の百姓は、それぞれ二ツェッキーニの謝礼を受け取り、姿をくらましました。無事なもの二人、隣村まで外科医をさがしに出してあります」
医者は老人で、すっかりおびえきっていたが、やがてたくましいロバに乗ってやってきた。同行を決心させるには、家に火をつけるぞと脅《おど》さねばならなかった。まったくおびえきっていたので、火酒をのませねば仕事もできなかった。やっとのことで手当てにとりかかった医者は、ジュリオにけっして傷は心配なものではないといった。
「ひざの傷は危険なものではありません」と医者はつけくわえた。「ですが、二、三週間は絶対安静にしないと、一生びっこになるかも知れません」
医者は負傷した兵士にも手当てをした。ウゴーネはジュリオに目くばせした。医者は二ツェッキーニもらって、お礼の言葉も出てこないほどだった。それから感謝のしるしなどと言って、むやみに火酒をのませたので、とうとう医者は前後不覚に眠ってしまった。これこそ思うつぼだった。近くの畑まで運んでゆき、四ツェッキーニを紙につつんでポケットに入れてやった。ジュリオと脚に負傷した一人の兵士を彼のロバに乗せてゆく代金である。一行は池のほとりの古い廃墟へ行って日中の暑さをさけ、日が暮れると、この沿道にはごく少ない村落をさけて、夜どおしの行進をつづけた。翌々日、日ののぼるころ、部下にかつがれてきていたジュリオが目をさますと、ファッジョラの森の中心、彼の本営である炭焼小屋に着いていた。
戦いの翌日、「聖母訪問」の尼僧たちは、庭園と表門から鉄門にいたる路次にすてられた九つの死体を見てぞっとした。尼寺の壮士も八人負傷した。こんな恐ろしいことはこの尼寺では前代未聞だった。前の広場に銃声をきくようなことは、今までにも時おりあった。しかし、庭の中、建物の中央で、しかも、尼僧たちの居室の窓の下で、こんな多くの銃火がまじえられたことは、たえてなかった。戦闘はじつに一時間半の長きにわたったが、そのあいだ尼寺内部の混乱はその極にたっした。もし、ジュリオ・ブランチフォルテが尼僧のだれかと示しあわせていたなら事は成ったかもしれない。庭に面したたくさんの出入り口のうちの一つをあけておいてもらえばそれでよかったのである。しかし、ジュリオは、彼のいわゆる少女エーレナの裏切りにたいするはげしい怒りで逆上していたため、暴力ですべてを決しようとした。だれかに計画をもらし、もしそれがエーレナに伝わることにでもなれば、自らを裏切ることになると思ったのかも知れない。しかし、マリエッタにただ一こと言っておきさえすれば、それでもう十分成功するところだった。庭への出口を一か所あけておいてもらった上で尼僧たちの寝所へ一人でも男が姿をあらわせば、外にはたえず恐ろしい銃声がひびいているのだ、なんでも意のままにできないことはなかったであろう。エーレナは最初の銃声をきいたとき、愛人の身の上を思っておののいた。そして彼とともににげ出すことしか念頭になかったのである。
マリエッタが、ジュリオのひざにうけた恐ろしい傷の話をし、血がどくどく流れるのを見たと言うのを聞いたときの、エーレナの絶望は、とても筆舌につくせない。彼女は、自分のいくじなさと弱気が腹だたしくてたまらなかった。
「私の気のよわさから、お母さまに一こともらしたばかりに、ジュリオが血を流すことになった。この襲撃のすばらしさ、それもみんなあの人の勇気のせいだけれど、危うくあの人は命まで落とすところだった」
特別に許されて応接室に通された壮士たちは、身をのり出して聞きいる尼僧たちに、飛脚のなりをして賊徒たちを指揮したあの若者ほどの武勇は、自分たちも生まれてはじめて見たと言った。もちろんみんなが話に聞きほれたが、エーレナが壮士たちに、この年若い賊の首領のことを根ほり葉ほりの熱心さでたずねたことは想像がつくことであろう。彼らや、ごく公平な証人と言ってよい老園丁に、ながながと話させて、聞きおわると彼女は、母にたいする愛がもうすっかり消滅したような気がした。戦いの前日まで、あんなに優しく語りあっていたこの二人の間に、はげしい言葉のやりとりされる時すらできた。カンピレアーリの奥方は、エーレナが片ときも手ばなすまいとする花束に血の汚れのついているのを見て、不|機嫌《きげん》になった。
「そんな血のついた花なんか、すてておしまい」
「この尊い血潮を流させたのも、みんな私のせいですもの。私の気のよわさからお母さまにたった一こともらしたばっかりに、あのひとが血を流したのです」
「おまえはまだ兄さんを殺した男を忘れられないの」
「私は、夫を愛しています。兄さんがあの人にいどみかかったばっかりに、私は一生不幸な身になってしまいました」
こうした言葉がかわされて以来というもの、カンピレアーリの奥方が尼寺に滞在していたなお三日の間、この親娘は、互いに、ただの一言も口もきかなかった。
母が出発した翌日、大勢の石工が庭に入れられ、二つの門をさらに補強するため立ち働いている混雑にまぎれて、エーレナは、うまく寺をぬけ出した。マリエッタと彼女は職人に変装したのである。しかし町の連中が城門をきびしくかためていたので、そこを通りぬけるエーレナの苦心はなみたいていのものではなかった。けっきょく、前にブランチフォルテの手紙を取りついでくれたあの小商人が、彼女を自分の娘に仕立てて、アルパノまで送ることを引きうけてくれた。彼女はそこで、乳母の家に身をひそめることができた。乳母は、彼女が以前金を与えて、小さな店を出させてやっていたのである。着くなり彼女はブランチフォルテに手紙を書き、乳母が苦心の末、大胆にも、コロンナの兵士たちの合言葉も知らずにファッジョラの森に潜入しようという男を一人見つけだしてきた。
エーレナの出した使者は、三日目にすっかりおびえきって帰ってきた。ブランチフォルテなど見つけることは、まず不可能であり、それに、彼が絶えずこの青年隊長のことばかり聞きたがるので、しまいに嫌疑をかけられ、逃げ帰るしかなかったというのである。
「もう疑う余地はない、かわいそうにジュリオは死んだのだ」とエーレナはつぶやいた。「私があの人を殺したのだ。情けない私の弱気と臆病のために、こんな結果になってしまったのだ。あの人はしっかりとした人を、コロンナ公の隊長の娘さんか誰かを、愛するのがほんとうだった」
乳母はエーレナが死んでしまいそうだと思ったので、かつてファビオとその父が深夜、この二人の愛人に出会ったあの岩のあいだの切通しに近い、托鉢僧《たくはつそう》の僧院まで登って行った。自分の告解師にあれこれ話をしたあげく秘密の誓約をえてのち、エーレナ・ディ・カンピレアーリ姫は、夫ジュリオ・ブランチフォルテのそばにいらっしやりたいご希望で、この僧院の御堂にも価格スペイン銀貨百ピアストラの銀製の灯明台を寄進されるお考えだと打ち明けた。
「百ピアストラだと!」と僧は怒って答えた。「そのためカンピレアーリ卿のお怒りにふれたら、この寺はいったいどうなる。チアンピの戦場へご子息のなきがら引きとりに行く時、卿からいただいただけでも、ロウソク代を別にして、百ピアストラなどというものじゃない、千ピアストラだぞ」
僧院の名誉のために言っておかねばならないが、年若いエーレナの立場をよく知っていた二人の老僧が、ともかくアルバノまで下りて行った。それも最初は、彼女に会っていやおうなしに連れ出して一族の館に移らせるつもりであった。カンピレアーリの奥方からたっぷり褒美がいただけることを知っていたのである。アルバノの町は、エーレナが姿をくらませたことと、母君が安杏を知らせたものに莫大な賞金をお出しになるという話で持ちきりだったのである。しかし、二人の僧も、ジュリオの死を信じきったエーレナの絶望のさまを見て、すっかり心を動かされ、彼女を裏切って隠れ家を母に密告しょうという考えを捨て、ペトレッラの城まで彼女を送りとどけることにした。エーレナとマリエッタは、今度も職人に身をやつし、夜の闇にまぎれて徒歩でアルバノから四キロばかりのファッジョラの森のとある泉のほとりまで行くことになった。僧がそこにロバを用意しておいたのである。一行は夜明けを待ってペトレッラに向かった。この僧たちは、公の保護をうけていることが知られていたので、森で出会う兵士たちも、うやうやしく敬礼した。だが同行の二人の小さい男の方は、そうはいかなかった。兵士たちは、最初けわしい目つきでじろじろ見ていたが、やがて、二人に近づくと、大声で笑いだし、僧たちに可愛《いと》しいロバひきでお楽しみだね、などと言った。
「だまれ、下郎、みんなコロンナ公のお指金ということを知らぬのか」と僧は足も止めずに、しかりつけた。
だが、かわいそうにエレーナは運が悪かった。公はペトレッラにはいなかった。三日目にもどってきて、ようやく謁見は許されたものの、公の態度には取りつきようもなかった。
「あんたは何用あってこんなところへ来られたのだ。そのはしたないふるまいは何ごとです。あなたという女のおしゃべりからイタリアきっての勇士が七人まで命を落とした。思慮ある男なら誰もあんたを許せぬはずだ。この世では、思い立ったことは、つらぬきとおすか、さもなくば、初めから何も思い立たぬがよいのだ。ジュリオ・ブランチフォルテは、近く涜聖の罪に問われ、まっ赤にやいた火ばしで二時間苦しめられたすえに、ユダヤ人か何かみたいに、やき殺されるという判決が下った。私の知ったうちでいちばん立派なキリスト教徒と言えるあの男がそうした破目になったのも、きっと誰かが口をすべらせたせいだ! あんたが何か恥ずべきおしゃべりをしたのでなければ、あんな途方もない嘘を、ジュリオ・ブランチフォルテが尼寺襲撃の日にカストロにいたなどという大うそを、どうしてでっちあげることができよう。私の部下に聞いてごらんになるがよい。ちょうどあの日にあの男をこのペトレッラで見かけたものがあり、その夕方、私の命令であの男はヴェッレトリへ行った、とみんな答えるに違いない」
「でもあの人、命は無事なのでございましょうか」年若いエーレナは涙にかきくれて、同じ叫びをこれで十度もくりかえしていた。
「あんたには死んだも同然だ」と公は答えた。「もう二度と会うことはなりませんぞ。悪いことほ言わぬ、カストロの尼寺にお帰りなさい。これからはけっして軽はずみをしてはならぬ。今から一時間以内にぺトレッラを立ち去ってもらいたい。私に会ったなどとはとくに、誰にももらさぬように。さもないと、どんな目にあうか保証しませんぞ」
哀れなエーレナは、高名なコロンナ公からこんな扱いをうけて悲嘆にくれてしまった。公をジュリオも大いに尊敬していたし、彼女もジュリオが敬愛する人というので、公を敬愛していたのであった。
コロンナ公がなんと言いくるめようと、エーレナの行動はけっして無分別とは言えない。もう三日はやくペトレッラへ来ていたら、そこでジュリオ・ブランチフォルテに会えていたのである。彼はひざの負傷のため歩けないので、公が彼をナポリ王国のアヴェツァーノという大きな村へ運ばせたのである。カンピレアーリ卿の買収によって、ブランチフォルテを涜聖者ならびに尼僧院襲撃者と宣告する恐るべき判決がなされたことを耳にすると、公は、ブランチフォルテをかくまう段になれば、自分の部下といえども、四分の三は頼むにたらぬ、と見てとった。事はマドンナをけがした罪である。山賊たちも、マドンナをお守りするのはめいめいの特別の権利だと信じていたのである。もしローマに大胆な警察隊長がいて、ファッジョラの森の中にふみこみ、ジュリオ・ブランチフォルテを逮捕しようとしたら、成功したかもしれなかった。
アヴェッツァーノに着くと、ジュリオはフォンターナと名を改めた。彼を送ってきた連中もけっして秘密をもらさなかった。彼らはペトレッラへ帰ると、ジュリオは途中で落命したと、痛ましそうに報告した。以来、公の部下の兵士は一人のこらず、この不審な名を口にした者は心臓を短刀でえぐられるものと心得た。
ために、アルバノに帰ったエーレナが次々に手紙を書き、それをブランチフォルテにとどけようと持ち金すべてを使いはたしても、何の効果もなかった。例の二人の老僧は、今では、彼女の味方になっていた。フィレンツェの年代史家の語るところによると、絶世の美貌は、もっとも下劣な利己主義と偽善のため化石した心をも動かさずにはおかないからである。この二人の老僧は、哀れな少女にむかって、ブランチフォルテにせめて一ことでも思いを伝えたいという彼女の努力は無駄だと教えてやった。コロンナがいったん彼は死んだと宣言したからには、公にその意志のない限り彼はこの世に再び姿を見せぬはずである。エーレナの乳母も涙を流しながら、母君がとうとうこの隠れ家をさぐりあて、彼女をむりやりにアルバノのカンピレアーリの館に移すようにとの厳命が下されたと告げた。エーレナは、ひとたび館に連れこまれたが最後、この上なくきびしい監禁をうけ、あらゆる外部との連絡は絶対禁ぜられてしまうだろうと思った。ところが、カストロの尼僧院ならほかの尼僧たちと同様に、簡単に手紙のやりとりもできよう。その上、実は、このことが、彼女に最後の決心をさせたのだが、ジュリオが彼女のために血を流したのも、この尼僧院であった。彼がひざの傷をしらべるためにしばらく腰をおろした、門番尼僧のひじかけ椅子をもう一度見ることもできる。彼女が、今は片時も離さぬあの血ぞめの花束を彼がマリエッタに渡したのも、そこであった。こうして彼女は悲しみのうちに、ふたたびカストロの尼僧院に戻ってきた。物語は、ここで終わってよいはずである。彼女のためにも、またおそらく読者のためにも、その方がしあわせであったろう。事実、われわれは、これから気高く、けなげな一つの魂がしだいに堕落する経過を語らねばならないのだから。文明社会の抜けめのない術策と虚偽が、この後あらゆる方面から彼女に迫り、血気にあふれた自然の情熱の素直な躍動にとって代わろうとするのである。ローマの年代史家は、ここで次のような実に率直きわまりない意見をのべている。いわく、女というものは自分が腹をいためて美しい娘を生んだのだから、自分には娘の一生を指導するにたる才能があるかのように思い込んでしまう。子供が六つのとき、衿《えり》がゆがんでいるからお直しと言うのは当然なものだから、自分が五十歳、娘が十八歳で、母親と同じいやそれ以上に頭が働くようになっているのに、母親は支配癖にかられて娘の生活を指導しょうとする、それどころか、そのために嘘をつくことさえ許されると思い込むものである。そういう支配癖にかられるあまり巧妙無比の術策を用いてエーレナを十二年も不幸におとしいれたばかりか、ついには最愛の娘をむざんに死なせたのは、ほかならぬその母、ヴィットリア・カラッファであることを、これからわれわれは見ることとなるであろう。
ブランチフォルテはローマ目ぬきの四辻において、赤熱せる火ばしをもって二時間責めさいなんだ後、とろ火にてやき殺し、その灰はティベル河にすてらるべしという判決が、市中に公布されたのをカンピレアーリ卿は臨終をまえにして知って狂喜した。フィレンツェの聖マリア=ノヴェルラの僧院の壁画は、涜聖者にたいしてこの残忍な刑罰がどのようにして加えられたかを、今日なお如実に示している。怒りにかられる民衆が役人をおしのけ、みずから刑の執行にあたろうとするのが常であって、それを制するために、多数の警備を必要とした。誰もが自分はマドンナの申し子だと信じこんでいた時代である。カンピレアーリ卿は、死ぬ少しまえに、この判決文をもう一度朗読させ、この決判をかちとった弁護士に、アルバノと海のあいだにある立派な土地をくれてやった。弁護士もそれだけの働きはしたと言ってよい。なるほどブランチフォルテは恐ろしい刑罰を与えられた。しかし、尼寺襲撃の一味の進退を一糸みだれず指揮したと思われる飛脚にばけた若者が、ブランチフォルテだったとみとめた証人は一人としていなかったのである。このすばらしい贈り物には、ローマじゅうの策士たちが驚いてしまった。そのころ教皇庁に一人のfratone(僧)がいたが、彼は、いざとなればどんなことでも教皇にせまって、みずから枢機卿の位にのぼることさえやってのける奥底知れぬ男であった。コロンナ公の訴訟事務は彼にまかされており、このような恐ろしい依頼者をもっているというところから、いっそう幅をきかせた。カンピレアーリの奥方は、娘がカストロへもどったのを見て、この僧をまねいた。
「これからご説明申し上げますように、ごく造作もないことでございますが、お力にすがって都合よくまいりますれば、お礼だけは十分にさせていただきたいと思っております。もう日もせまっておりますが、ブランチフォルテにたいする恐ろしい刑の宣告が公布になり、それはナポり王国にも適用されることになるそうでございます。そのことは、実は、私の遠縁にあたりますそこの副王さまからわざわざお知らせをいただいております。手紙もここにございますから、どうぞお目通しくださいませ。ところで、ブランチフォルテは、どこの国にまいりますれば、安全にかくれることができるのでございましょうか。私は、あの人がスペイン王につかえ、フランドルの反乱軍と戦うことになりますれば、コロンナさまに五万ピアストラ差しあげ、その全部なり、一部なりをあの人にお渡しくださるようお願いしたいのです。副王さまからは、ブランチフォルに大尉の辞令をいただけることになっております。そして例の涜聖の判決、私はスペインでも効力があるようにと望んでおりますが、それが昇進のさまたげにならないためにはあの人はリッツァーラ男爵という名を使えばよいのです。これは、私がアブルッチ地方にもっている小さな地所の名ですが、仮装売買の手をつかえばあの人の所有にする方法もございましょう。あなたさまなどは、母親がわが子を殺した人間をこんなふうに扱うのは初めてだとおっしゃるかもしれません。じつさい五百ピアストラも出せば、ずっとむかしに、この憎い男を無きものにすることもできたのでございます。けれども、私どもは、コロンナさまのご機嫌をそこないたくはなかったのです。そういうわけでございますので、あの方のお顔を立てるためには、六万や八万のお金は惜しまぬという私どもの気持ちを、どうかあの方にお伝え願いたいのでございます。私は、このブランチフォルテという名を、これからいっさい耳にしたくないのです。ただ、コロンナさまに対する私どもの敬意をお伝えくださるよう、幾重にもお願いしたのでございます」
僧は二、三日中に、オスティアの方へ遊山に出かけるつもりだと答えた。そこでカンピレアーリの奥方は僧に価格千ピアストラの指環をわたした。
数日後に僧はふたたぴローマに現われ、カンピレアーリの奥方に、自分は奥方の申し出を知らせはしなかった。しかし若いブランチフォルテは一月以内にバルセローナにむけて乗船するはずだから、五万ピアストラの金は、その地の両替屋をとおして彼にとどけることができるだろうと言った。
公もジュリオにはずいぶん苦労した。恋にかられた若者は、今後イタリアでどんな危険にさらされようと、この国を捨て去る決心はつかぬと言うのである。公がカンピレアーリの奥方はそのうち死ぬかもしれぬといくらほのめかしても、きき目がない。どんなことがあろうと、三年たてば必ず帰国できるようにするといくら約束しても駄目で、ジュリオは涙を流すばかりで承知しない。最後には、公も自分にたいする奉公と思って出立してくれと頼まねばならなかった。ジュリオも自分の父の戦友の願いとなると、何と言われても拒むことができなかった。しかし彼は、まず何よりもエーレナの意向に従いたい、と言いはった。公は長文の手紙をあずかってくれ、その上、ジュリオがフランドルから月一回通信することを許してくれた。けっきょく、絶望のうちにこの恋人はバルセローナにむけて乗船した。公は彼の手紙をすっかり焼きすてた。ジュリオがふたたびイタリアの土をふむことを欲しなかったのである。なお言い忘れていたが、公はおよそ見栄をはるようなことは性格的に大嫌いだったが、このさい話をうまくすすめるためにやむをえぬと考えて、こんなことまで言った。いやしくもコロンナ家のもっとも忠実な徒党の一人息子にたいしては、わずかだが五万ピアストラぐらいの財産を手に入れてやるのが、自分としても当然のことと思っていると。
哀れなエーレナは、カストロの尼寺で王女のような待遇をうけていた。父の死によって莫大な財産を受けつぎ、すばらしい遺産が手に入ったのである。父が死んだとき、彼女は、カストロまたはその近くの住民で、カンピレアーリ卿の喪に服したいと申し出たものには、一人のこらず五アウナの黒布を与えた。彼女が父の喪に服して間もない頃、全くどこからとも知れず、ジュリオの手紙が彼女の手にとどけられた。彼女が、どんなに心おどらせて封を切り、それを読み終えたあといかに悲しんだかは筆舌につくしがたい。手紙は綿密にくらべてみたが、まがうことなきジュリオの手である。手紙には愛のことが書かれてある。しかし、それは、なんという愛であったことだろう! だが、この手紙は、策略にとんだカンピレアーリの奥方の偽作であった。奥方はまず七、八通の情熱的な手紙をおくっておき、その後の手紙で愛情がしだいに冷めてゆくよう仕組むつもりであった。
われわれは、不幸な生涯の十年間をいそいで通りすぎることにしよう。エーレナは、自分はもうすっかり見すてられたものと信じていたが、しかもローマ一流の貴公子たちからの求婚などはまるで問題にもしなかった。ただオッタヴィオ・コロンナ青年の話がでたときは、さすがの彼女も少し考えた。これはいつかペトレッラで彼女を手ひどく扱った高名なファブリッチオの総領息子である。彼女がローマ教皇領やナポリ王国にもっている土地を守ってゆくために、どうあっても夫をもたねばならぬからには、かつてジュリオが敬愛した人の姓をなのるのが、まだしものことだと思ったからである。もしこの結婚を承知していたら、エーレナはすぐにもジュリオ・フランチフォルテについての真相をつかめたことであろう。老ファブリッチオ公はリッツァーラ大佐 (ジュリオ・ブランチフォルテ)の超人的な功名を、しばしば感激して語っていたからである。ジュリオは昔の物語の英雄そのままに、目ざましい働きをすることによって、彼をあらゆる人生の快楽に無感覚にした恋のいたでを忘れようとしていた。エーレナはとっくに結婚したものと、彼は思いこんでいた。カンピレアーリの奥方が、彼のまわりをも、嘘でぬりかためてしまっていたのである。
エーレナは、この利口な母と半ば和解していた。娘の結婚を切望していた母は、折から聖母訪問尼僧院の監督者で、親しい間がらのサンティ=クワトロ老枢機卿が、カストロへ出かけるという話を聞きこむと、尼僧院へ行ったら、恩赦があって来るのが遅れたのだと主だった尼僧たちにこつそり言ってもらえまいかと、頼みこんだ。慈悲ぶかいグレゴリオ十三世が、かつてこの尼寺を荒そうとした山賊ジュリオ・ブランチフォルテなるものの死を聞こしめしてその魂にあわれをもよおされ、この山賊を涜聖者と断じた判決を取り消してやろうとおおせになったというのである。もちろんこうした罪名をせおっていては、メキシコで反乱の土民におそわれたブランチフォルテが、たとえ幸いにして煉獄《れんごく》へおちるだけですむにしても、永久に煉獄からのがれ出る道はないであろう。この知らせはカストロ尼僧院のすべての人々を動揺させた。それはエーレナの耳にもはいった。彼女は、そのころ莫大な富を抱いて退屈しきっている女が思いつく、ありとあらゆる愚かしい虚栄にふけっていたのである。だが、この知らせを聞いたその時以来、彼女はもはや居室から外へ出ようとはしなかった。ここで知っておかねばならぬのは、彼女はジュリオがあの戦いの夜しばらく身をひそめた門番小屋を自分の居室にするために、尼僧院の大半を改築させていたことである。次々に起こる多くの障害と、その上、容易なことではしずめられぬ悪評をものともせず、彼女はかつてブランチフォルテに仕えてカストロの戦いで生きのこつた五人の壮士のうち、今なお存命の三人を探し出し、自分が召使うことに成功した。その中には、ウゴーネもいた。今では年をとり全身傷だらけであった。この三人の姿は多くの人に非難の呟きを洩らさせた。だが、エーレナの高飛車な性格には尼寺じゅうが恐れをなしているので、けっきょく黙認する他はない。彼女のお仕着せをきた壮土たちが、外部との仕切り格子のところへご用をうけたまわりに来て、いつも同じ彼女の問いにたいして長々と答える姿が見られる日々が続いた。
ジュリオの死を耳にして以来、彼女は一室にとじこもり、あらゆる世事との交渉を断っていたが、六か月たったとき、救いのない不幸と長い退屈に打ちひしがれたこの心を初めて動かしたものがあった。虚栄の感情である。
少し前、尼僧院長はなくなっていた。九十二歳という高齢にかかわらず、今なお聖母訪問尼僧院の監督にあたっていた枢機卿サンティ=クワトロ師は、慣例にしたがって、教皇がそのうちから院長を選定されるべき三人の尼僧の名を書きつらねた表を作製した。しかし教皇は、よほど重大な理由がないかぎり、後に書かれた二人の名前をよまれることはない。普通はこれらの名前の上に、ただ一筆署名なさる。それで任命が済んだことになるのである。ある日、エーレナは、今は自分が命令して作らせた新しい建物の一翼になっているもとの門番小屋だった部屋の窓ぎわに坐っていた。この窓は、現在では、庭園の一部になってしまっているが、かつてはジュリオの血でそまった路地の地面から、わずか七十センチほど高くなっているだけである。エーレナはその地面をじっと見つめていた。そのとき、なくなった院長の後任者として、枢機卿の表に名前ののったことが数時間前から知れわたっていた三人の尼僧が、エーレナの窓の前を通りかかった。彼女には、尼僧たちの姿が見えないので、挨拶をすることができなかった。すると三人の中の一人が立腹して、聞こえよがしに二人に言った。
「寄宿生のくせに大したことですこと。部屋をみんなにみせびらかそうとするなんて!」
この言葉にわれにかえったエーレナが扉をあけると、三人の意地悪い目がこちらに向いている。
「いいわ」と彼女は挨拶もせずに窓をしめてしまった。「私も、この寺にきてから、ずいぶん長いこと羊のようにしていたけれど、これから狼《おおかみ》になってあげる。けっきょく町の物好きに、話のたねを作ってあげるのが落ちかもしれないけれど」
それから一時間後、飛脚にたった彼女の召使の一人が、十年このかたローマに住み社交界に大いに重きをなして暮らしている母のもとに次の手紙をとどけた。
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とうといお母上さま
毎年私の誕生日にお母さまは三十万フラン下さいます。ですが、私はいつもそのお金を、ここでつまらぬことに使ってしまいます。世間からほめられるたぐいのことではありましょうが、それでもつまらぬことに違いありません。もう長らくそういう機会を親しく持たしていただけないでおりますけれど、私、お母さまのご親切にたいして、感謝の気持ちをはっきりお見せする道が二つあることをよく存じております。結婚だけはどうしても嫌でございますが、|この尼僧院の院長《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》になら喜んでなりたいと思いますの。私がふとこんな気持ちになりましたのは、枢機卿のサンティ=クワトロが教皇さまにさし上げる表にお書きこみになった三人の方が、私の敵だったからです。そして、その中の誰が院長に選ばれても、私はあらゆる苦しみを忍ばねばならなくなるでしょう。誕生日の贈り物として下さるものを、どうか然るべきお方にさし上げてくださいませ。まず任命を六か月遅らせたいと思います。そうなれば私の大の仲良しで、いまここを治めていらっしやる尼僧頭の方が、どんなにお喜びになるでしょう。もうそれだけで私には喜ばしいことなのです。それにお母さま、私が、自分の身の上のことで、喜びなどという言葉など使えることは珍しいことなのです。この考えが愚かしいことは、私自身よく知っておりますけれど、もし少しでも成功の見こみがあるようでしたら三日のうちに私は、正式に尼になることにいたします。八年のあいだ尼僧院で暮らして、一度も外泊したことがないのですから、半年の訓練は免除してもらえます。免除は必ず認められます。四十スターディ出せばよいのです。
心からおしたいするとうとい母上さま、云々
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この手紙を読んでカンピレアーリの奥方は夢中になってしまった。ちょうど手紙を受け取った時、奥方は娘にブランチフォルテの死を知らせてしまったことを強く後悔していたところであった。娘はふかい憂鬱《ゆううつ》にとざされて、末はどうなることか想像もつかない。何かとんでもないことを考え出すのではないだろうか。ブランチフォルテはメキシコで惨殺されたことにしておいたが、娘はそこまで行くと言い出しはすまいか、そんな心配までしていたのである。そんなことになれば、マドリッドでリッツァーラ大佐の本名がわかってしまう恐れが十分あったのである。だが、一方娘が飛脚をたてて要求してきた内容は、世にも困難なことではないのか。いや狂気のさたと言えるかも知れない。まだ正式に尼にさえなっていない小娘、しかも少し名を知られてはいるが、山賊の男が夢中に恋いこがれたというだけのこと、しかもどうやらその恋にこちらも血道をあげていたらしい、そんな小娘がローマのあらゆる高貴な家庭の子女があずけられる尼僧院の長におさまろうというなんて!「けれど、どんな裁判でも弁護のしようがあり、とどのつまりには、勝にすることができるというではないか」とカンピレアーリの奥方は考えた。ヴィットリア・カラッファは、したいと言い出すことは、とてつもないことにきまっているが、そのかわり、すぐあきてしまうこの娘に希望をもたせるような手紙を書いた。その晩のうちに、カストロ尼僧院に関係ありそうな情報の直接、間接を問わない一切を拾い集めた奥方ほ、親しい枢機卿サンティ=クワトロが数か月この方、たいへん機嫌をそこねているという事実を知った。彼は自分の姪をファブリチォ公の長子、ドン・オッタグィオ・コロンナと結婚させたいと思っていた。これは、この物語の読者には、おなじみの人物である。ところが公の方では、それには次男のドン・ロレンツォをあてがおうと言う。というのも、ようやく和解したナポリ王と教皇が連合して、ファッジョラの山賊軍にたいして戦端をひらいた結果、公の手もとはひどく不如意になってきて、そのたてなおしのため、公としては長子の嫁に、ぜひとも六十万ピアストラ(三二一万フラン)を、持参金としてコロンナ家にもってきてもらわねばならなかったのである。ところが枢機卿サンティ=クワトロにしてみれば、ほかの縁者たちにはびた一文の金もやらぬというバカげたやりくりをしてみたところで、この姪のために、せいぜい三十八万ないし、四十万ピアストラしか提供できなかった。
ヴィットリア=カラッファはその晩、夜ふけまでかかって、老サンティ=クワトロのあらゆる知人から、これが間違いなく事実であることをたしかめた。そして翌朝、七時になるとすぐ、奥方は老枢機卿のもとを訪れた。
「猊下《げいか》、私たちはお互いに年寄りです。もともと美しくないものに美しい名をつけて、だまし合いをしてみたところで始まりません。私、猊下にとほうもない話をもって参りました。汚なくないということだけは、お受けあいいたしますけれど、実を申しますと、私自身も、ずいぶんおかしな話だとは思っております。前に、娘のエーレナとドン・オッタヴィオ・コロンナとの間に縁談がありましたときは、私あの方に好感をもちました。それで、あの方のご結婚の日に、私からあなたに、土地か現金か、ともかく二十ピアストラ進呈いたしますから、どうぞ、あなたからあの方にお渡しくださいませ。けれど、なにしろ私どものような貧乏やもめにとっては、ほんとにたいへんな犠牲をはらうことになりますので、なんとか娘のエーレナを、十九の年から尼寺にいて外泊などただの一度もしたことはないままに二十七歳を迎えておりますあの子を、|カスロの尼僧院長《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にしてやってはいただけないものでございましょうか。それにはまず、院長の選定を半年のばしていただかねばなりません。それは教会の法規にもかなったことでございましょう」
「奥方、あんたはいったい何ということをおっしゃる!」と老枢機卿はわれをわすれて叫んだ。「あんたがいまのこの無力な老人に要求なさっているようなことは、たとえ教皇さまご自身でも、おできにならぬことですぞ」
「ですから猊下に初めから、おかしな話だと申し上げたではございませんか。思慮の浅いものは狂気のさたと呼ぶかも知れません。けれど宮廷でどんなことが行なわれているかを知っている人たちなら、きっとお心の優しい教皇グレゴリオ十三世さまが、猊下の長年の忠実なご奉公に報いるため、猊下の望んでいらっしやることがローマじゅうに知れわたっているこの結婚の便宜をおはかりあそばしたのだ、とそう思うだけのことでございます。それに、これは少しもむずかしいことではございません上に大変教会の法規にかなっていることでございます。その点は、私が責任をお持ちいたします。娘は、明日にも、さっそく正式の尼にさせます」
「だが、それは奥方、聖物売買《シモニア》です!……」老人はおそろしい声で叫んだ。
カンピレアーリの奥方は帰ろうとした。
「そこにお置きになった書類は?」
「現金ではいやだとおっしゃるなら、二十万ピアストラの価格のある土地を差し上げさせていただきたいと存じます。これはその土地の権利書です。こういう土地の所有権は、かなり長い時間をかければ秘密のうちに移しかえることもできます。たとえば、コロンナ家から私に訴訟がおこされ、私が負けたというような……」
「でもそれは聖物売買です、奥方! 恐るべき聖物売買です!」
「まず選定を半年のばしていただかねばなりません。いずれ明日、猊下のおさしずをうけたまわりに参上いたします」
訳者は、アルプスの北で生まれた読者のために、この対話のところどころに、使われているほとんどお役所ふうの語調について、説明を加えておかねばならぬような気がする。厳格にカトリック的な国々においては露骨な問題についての対話は多くの場合、告解室へ行きつくことになってしまう。そうなると敬意をふくむ言葉をつかったか、皮肉なもの言いをしたかが、けっしていい加減な問題ではなくなるのだということを考えていただきたい。
その翌日、まだ自が暮れぬうちにヴィットリア・カラッファは、カストロ尼僧院長の侯補者に推された三人の尼僧の連名表のうちに重大な事実認定の誤りが発見されたため、この選定は六か月延期されたということを知った。この表の次席にしるされた尼僧の家族の中に、背教者があって、その大伯父の一人がウディネで新教徒になっていたというのである。
カンピレアーリの奥方は、自分がコロンナ家の財産をこんなに増やしてやる結果になるのだから、ファブリッチオ・コロンナ公にたいしても運動しておかねば、と考えた。二日間の苦心のすえ、やっとローマ近くのある村で会見できた。奥方はすっかりおびえきって会見の席から引き下がった。日頃ひどく冷静な公が、リッツァーラ大佐(ジュリオ・ブランチフォルテ)の武勲のことになると、全くのばせ上がっているさまを目のあたりに見せつけられて、奥方はこのことについて公に秘密を要求しても全くの無駄だと悟ったのである。大佐は公にとってはいわば実子であった。いやそれより愛弟子と言った方がよいかもしれぬ。公はフランドルからくる手紙を繰り返しひき返しして読むのを日課としていたのである。カンピレアーリの奥方が十年このかたこんなに多くのものを犠牲として成就をねがってきた計画も、一たびリッツァーラの大佐の生存と武勲が娘に知れたあかつきには、いったいどうなることであろうか。
ここで、訳者はこの時代と風習を描き出してはいるが、しかし語るに痛ましい数々の事件には筆を染めないで見おくるべきであると思う。ローマの古文書の書き手は、わたしがここに書かない小さな数々の事件の正確な日付を知ろうとして、無限の努力をはらっている。
カンピレアーリの奥方とコロンナ公の会見から二年後に、エーレナはカストロ尼僧院長になった。しかし、老枢機卿サンティ=クワトロは、この聖物売買の大罪をおかしたことを煩悶したすえに身まかっていた。当時カストロの司教の職にあったのは、教皇庁きっての美男子、ミラノの貴族出のフランチェスコ・チッタディーニ猊下であった。慎みぶかい敬虔な挙措と威厳のみなぎる言葉づかいをもって知られたこの青年は、聖母訪問尼僧院長が尼僧院の美化をはかって新しい建物をたてた時以来尼僧院長ととくに激しい交渉をもつようになった。当時二十九歳の若さのチッタディーニ司教は、この美貌の院長を狂気のように恋したのである。一年後にひらかれた公判に、証人として喚問された多くの尼僧たちは、尼僧院の訪問回数をできるかぎり多くふやした司教が、院長によくこんな言葉を言っていた旨を語った。「よそでは私は命令する立場にある。恥ずかしいことですが、それに多少とも喜びを感じているのです。ところがあなたの傍にくると、まるで奴隷のようにあなたの言いつけに従う。それなのによそで命令するときとは比べものにならぬ喜びを感じます。私は自分よりずっと優れた方の支配下にあるのを感じるのです。どうあがこうと、とうていその人の意志以外の意志はもてないのです。その人のそばをはなれて王者になるよりも、むしろ永久にその人の最もいやしい奴隷でありたい思いです」
こうした優雅な言葉を語る相手に院長はしばしば軽蔑をあらわに見せたきつい調子で沈黙を命じたと証人たちに告げた。
「実を申しますと」別の証人はつづけて言った。「院長さまはあの方を下男のように扱われました。そういうときには、お気の毒に司教さまは、目をふせて泣き出されますが、でも立ち去ろうとはなさいません。毎日毎日新しい口実をもうけて、尼寺へおいでになる、これが尼僧の懺悔聴聞僧の方々や院長さまの敵の格好の非難のまとになりました。しかし、院長さまの命令をうけて尼寺の内部をおさめておいでのうえ、院長さまにいちばんお親しい尼僧頭のかたが熱心に弁護なさいました。
尼僧頭はおっしゃいました。≪ご存知のように、院長さまは、ごくお若い頃の野武士との激しい恋の邪魔だてをお受けになって以来、お考えに奇妙なところがなくはありません。ご存知のように、あの方は一度さげすみを感じられた相手に対してはけっして考えを改められないという特別な性格をおもちになっておいでです。ですけれども、私たちの前であのお気の毒なチッタディーニ猊下に向かって言われたほど侮辱的な言葉をお出しになったことは、きっとあの方の御生涯に一度もなかったのではありますまいか。そのご身分を考えると私たちの顔の方が赤くなるほどの扱いを司教様は毎日私どもの目の前で受けておいでになったのでした。
でも僧院の名誉が傷つけられたと怒っている尼僧たちは答えたものでした。≪それはそうかも知れない。けれど、あの方はそれでも毎日ここへお見えになる。してみれば、それほどひどい目にあわされていらっしやらないこととなりましょう。事実はともかく、いずれにしろこんな色事の噂《うわさ》がたつだけでも、聖母訪問尼僧団の名誉はもう傷つけられてしまいます≫」
どんなに冷酷な主人が、どんな無能な召使を叱る場合でも、この気位の高い尼僧院長が、敬虔な青年司教に毎日あびせかけた罵倒の四分の一も口にしはしない。司教の恋は真面目であった。故郷を出たとき以来の彼の座右銘は、一度恋したからには、恋の成就のみを狙って、手段はとわぬということであった。
「つまるところ」と司教は腹心のチェーザレ・デル・ベネによく言ったものである。「恋をして、不可抗力に縛られないうちに攻略をあきらめた者こそ、軽蔑にあたいする」
悲しいことに、いよいよ筆者はエーレナの死を引きおこす種となったあの裁判事件の、当然のことながら要約を述べなければならなくなった。その名は明かせないが、筆者がある図書館で読んだこの裁判記録は、じつに二つ折本八巻を下らないものである。訊問と論告は、ラテン語、答弁はイタリア語になっている。この記録によると、一五七二年十一月のある夜十一時ごろ、年若い司教は単身、昼間の信者のために開かれている聖堂の戸口にきた。すると院長手ずから戸を開き、ついてくることを許した。彼女は秘密の扉で聖堂の脇間の上の説教壇に通じている日頃よく使用する一室にまねき入れた。一時間たつかたたぬうち、司教は唖然とした表情で追いかえされた。院長みずからが聖堂の入口まで送ってきて、こう言ったのである。
「屋敷へお帰りなさい。さっさと私のそばを離れてちょうだい。司教、これでお別れです。わたし、あなたがおぞましくってしかたがない。しもべにでも身をまかせたような気がするのです」
三月たつと、謝肉祭の季節がやってきた。カストロの人々は、この時町じゅうが仮装舞踏でわき立つお祭りさわぎをやらかすので有名だった。仮装の仲間は、尼僧院の馬小屋の一つのあかりとりの小窓の前を通ることを忘れない。この馬小屋が謝肉祭の三月前からサロンに改造され仮装のある日には満員になっていることを、みんなよく知っているのである。町じゅうの熱狂のただなかを、馬車でのりきった司教がそこを通りかかった。すると院長が彼に合図を送った。次の夜半の、一時、まちがいなく彼は聖堂の入口に姿を見せた。彼は内にはいった。だが四十五分もたたぬまに荒々しく追い出された。十一月に初めて密会して以来、彼はほぼ一週間ごとに尼僧院をおとずれていた。彼の顔に勝利と低劣のかすかな表情のあらわれるのが誰の目にもとまった。これが年若い院長の気位のたかい性格をひどく傷つけたのである。ことに復活祭の月曜には、彼女は司教をまるで人間扱いをせず、尼僧院のいちばん下働きの職人ですら、黙って聞いていられぬような言葉をあびせかけた。そのくせ数日たつかたたぬ間に、またも彼女は合図を送り、美貌の司教は真夜中にまちがいなく聖堂の入口に姿を見せた。彼女が彼を招いたのは、身おもになったことを知らせるためであった。裁判記録によると、この事実をつげられたとき、この美青年は驚いて色を失い、|恐怖のあまりわれを失った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。院長は発熱した。医者をよばせた。医者にはあえて身体のことをかくそうとはしなかった。医者はこの患者の日頃の闊達な性格をよく知っていたので、なんとか急場をすくおうと約束した。彼はまず、院長に身分の卑しい、若くてきれいな一人の女を紹介した。この女は産婆の免状はもたないが、それ相当の腕がある。夫はパン屋であった。エーレナは、この女と話して気にいった。女は、院長さまをおすくいするための計画を実現するには、尼寺内に二人、何事も打ちあけられる人物が必要だと言った。
「おまえと同じ身分のものを一人というのなら、それはあるわ。でも、私の仲間から一人ですって! それは不可能です。お下がり」
産婆は退出した。しかし数時間後、エーレナはこの女におしゃべりの種を与えたのは慎重さがたりぬと考えた。医者をまねいた。医者の手で女はふたたび尼僧院へおくられ、莫大な手当をもらった。女は、たとえ呼びもどされなくても、打ち明けられた秘密はけっしてもらしはしないつもりであったと誓った。しかし、尼寺の内部に万事を心得た上で院長のために身をささげようという人物が二人いないことには、自分は何も引き受けられないと、また同じことをくりかえした。(嬰児殺しのとがめを恐れて考えていたにちがいない)。とくと熟考したあげく、院長はC***公爵家という名門の出で尼僧頭のヴィットリアと、O***侯爵の娘のベルナルダに、この恐ろしい秘密を打ち明ける決心をした。彼女は、まずこれから打ち明けることは、たとえ告解の場にのぞんでも、ただの一ことももらさぬことを、日祷書にかけて誓わせた。二人は恐怖でこおったようになって身うごきもしなかった。裁判で訊問をうけたさい、二人は、院長の気位の高い性格のことが頭から去らなかったので、この時も殺人の告白でもされるものと思っていたと答えている。院長はそっけない冷ややかな調子で言った。
「私は、あらゆるつとめにそむいてしまいました。身おもになったのです」
尼僧頭のヴィットリアは、またエーレナと結ばれた長年の友情をおもって感動するとともに取りみだしてしまい、あさはかな好奇心にかられたわけではなかったが、涙をうかべて叫んだ。
「そんな罪おかした不謹慎な男、それはいったい誰でございます」
「私は、告解師にも、そのことばかりは言わなかった。それをあなた方に言えるものか考えてもごらんなさい!」
二人の尼はすぐに、このいまわしい秘密を尼僧院の他の者にかくす方法を相談した。まず、第一に院長の寝台を、寺のちょうど中心にあるいまの部屋から、エーレナの献金によって建てられた大きな建物の四階の、尼寺じゅうでいちばん奥まった場所、最近つくられた製薬室にうつすことにきめた。院長が男の子を生んだのはこの部屋である。三週間まえから、パン屋の妻は尼僧頭の部屋にかくまわれていた。この女が子供をだいて、廊下を小走りにいそぐ途中で、子供が泣きだした。女は恐怖にかられて穴倉に身をひそめた。一時間後にベルナルダが、医者の助けをかりて、やっとのことで庭園の門を開いた。パン屋の妻はすばやく尼寺を抜けだし、やがて町をあとにした。平原までのがれた女は、わけもないのになおも恐怖にかられて、偶然岩の間に見つかった洞穴の中に身をひそめた。院長は司教がすべてを打ち明けている侍者頭のチェーザレ・デル・べネに手紙を書いた。彼は指示された洞穴へかけつけた。騎馬だった。子供を腕にだきあげると、そのままモンテ・フィアスコーネへ疾走した。子供は聖マルゲリータ寺院で洗礼をうけ、アレッサンドロと命名された。そこの宿のおかみが、チェーザレから八スクーディもらって、乳母を見つけてくれた。洗礼式のあいだに、女どもがたくさん寺院のまわりに集まって、チェーザレに大声で子供の父親の名をたずねた。
「ローマのお大名の方が、おまえたちのような田舎女をおなぐさみなすったのだ」と彼は答えた。
そして姿を消した。
物見だかい女が三百人以上もすんでいる大尼僧院内のことでありながら、そこまでは、すべて手ぎわよく運んだ。何一つ誰の目にもとまらず、何一つ誰の耳にも入らなかった。ところで院長が医者に幾つかみか渡しておいた金貨は、ローマの造幣局で新しく鋳造したものであった。医者がその金貨を何枚かパン屋の妻にあたえた。この妻は美人で、亭主はやきもちやきである。亭主が妻の行李《こうり》を引っかきまわしているうちに、ぴかぴかした金貨を見つけた。てっきり身を汚した代償と思いこみ、包丁をのどに突きつけて金の出所を言えと妻にせまった。しばらくためらったが、けっきょく妻は事の真相を白状したのでまるくおさまった。夫婦はこんな莫大な金を何に使つたものかと、相談をはじめた。妻はあちこちの借金をかえしたいと思ったが、夫はラバを一頭買った方がよいと言い、そう決まった。このラバが夫婦の貧乏を知りぬいている町内に悪評の種をまいた。町じゅうの女房連が、敵も味方も、次々とやって来て、ラバを買えるほどの結構な身分にしてくれた気前のいい旦那は、どこのどなただとたずねた。女房は腹立ちまぎれに、ついに本当のことを言ってしまうことが幾度かあった。ある日チェーザレ・デル・べネが子供の様子を見に行って、院長にその報告をもたらすと、院長はひどく気分が悪いのをおして、仕切り格子のところまでにじり出てきて、彼の配下の口軽をしかりつけた。一方、司教は恐怖のあまり病気になった。ミラノの兄弟たちに手紙を書いて、ぬれぎぬを着せられた事情をつげた。ぜひ救援にきてくれと頼んだ。病気はかなり重かったが、司教はカストロから逃げ出そうと決心した。だが、出発の前に、彼は院長に手紙をしたためた。
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なにもかも世間に知れわたったこと、すでにご存知と存じます。私の名声のみならず私の生命を救い、これ以上世間の騒ぎを大きくしないことをお考えいただけるのでしたら、あなたほ、数日前死んだジャン=バッティスタ・ドレーリに罪をきせることもおできになるわけです。そうすれば、あなたの名誉はつぐなわれないにしても、少なくとも私の名誉は少しも傷つかずにすむことになるのですが。
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司教はカストロの修道院の懺悔聴問僧ドン・ルイージをまねいた。
「これを院長さまに直接わたしてもらいたい」院長はこの下劣な手紙をよむと、部屋にいあわせた皆の前で叫んだ。
「魂の美しさより肉体の美しさに心ひかれた愚かな娘は、こうなるのが当然のむくいです!」
カストロで起こつたことの噂は一つ残らず、早くも|恐るべき《ヽヽヽヽ》ファルネーゼ枢機卿(彼は数年前からことさらそういう性格をよそおっていた。次の教皇選挙にあたってZelanti〈厳格派〉の枢機卿たちの支持を得たいと考えていたからである)の耳にはいった。即刻彼はカストロの代官《ポデスタ》にチッタディーニ司教の逮捕を命じた。司教の家人はみな訊問を恐れて逃亡した。ただ一人忠実にふみとどまったチェーザレ・デル・べネは、一言でも主人の不利になるようなことをもらすくらいなら、むしろ拷問《ごうもん》をうけて死のうと誓った。チッタディーニは屋敷が警官にとりまかれたのを見て、ふたたび兄弟に手紙を出した。彼らは取るものも取りあえず、ミラノからかけつけたが、すでに司教はロンチリョーネ監獄に収容されたあとであった。
院長にたいする第一回の訊問書を見ると、彼女は自分の罪はすべて認めたが、司教猊下と関係があったという点だけは否認している。共犯は尼僧院の顧問弁護士ジャン=ハッティスタ・ドレーリだと言ったのである。
一五七三年九月九日、グレゴリオ十三世は、裁判をとくに急ぎ、とくに厳しく進めよと命じた。刑事、判事、検事および警視のおのおの一人が、カストロとロンチリョーネに出張した。司教の従者の頭、チェーザレ・デル・べネは、赤ん坊を乳母のもとに運んだことのみを告白した。ヴィットリアとべルナルダ両尼僧の面前で訊問が行なわれた。彼は連続二日にわたって拷問され、ひどく苦しんだが、誓いにそむかず、否認しえないことしか白状しなかった。検事も彼からはなに一つ聞きだすことができなかった。
尼僧ヴィットリアとベルナルダの番になったとき、二人はチェーザレにくわえられた拷問を見せつけられていたため、自分たちのしたことは、すっかり白状した。すべての尼僧が犯人の名前について訊問をうけた。大部分のものは司教猊下と聞いていると答えた。門番尼僧の一人は、院長が司教を聖堂の外へ追いだしたときの侮蔑的な言葉を報告した上でこうつけくわえた。
「お二人がああいう調子でものが言えるのは、ずっと以前から関係のあった証拠です。まったく、普段は自惚《うぬぼ》れの表情の目立ちすぎる司教さまが、聖堂からお出になるときはすっかりいくじのないお姿でした」
尼僧の一人は、責め道具のまえで訊問されて、罪をおかしたものは猫にちがいない、院長さまはいつもその猫をだきしめ、たいそう愛撫しておられたから、と答えている。またある尼僧は、罪をおかしたのは風にちがいない、風のふく日はいつも院長さまは嬉しそうで、ご機嫌《きげん》がよく、とくにおこしらえさせになられた物見の上で風にふかれていらっしゃった、そして、そこにおられる時にお願いしたことで、聞きとどけられなかったことは一度もないくらいだから、と答えている。パン屋の妻、乳母、モンテファスコーネの女房連は、チェーザレの拷問を見てふるえ上がっていたため、本当のことを言った。
青年司教はロンチリョーネで病気をしていた。あるいは仮病だったのかも知れないが、これを口実にして兄弟たちは、カンピレアーリの奥方の勢力とその裏面運動にたすけられて、何度も教皇の御前にひれふし、司教の健康が回復するまで裁判を延期されるように哀願した。そこで恐るべきファルネーゼ枢機卿は、司教のいる監獄の守備兵の人数をふやした。司教を訊問することができないので、警部たちはまた、院長に再訊問を行ないはじめた。母から勇気を出してすべてを否認しつづけるようにという言伝《ことずて》をうけたある日のこと、院長はすべてを自白してしまった。
「なぜ最初、ジャン=バッティスタ・ドレーリに罪をきせたのですか」
「司教のいくじなさがあわれになったからです。それに、もしあの人の大切な命を助けてやることができたら、あの人は私の子供の面倒をみてくれるかも知れぬと思ったからです」
告白が終わると、院長はカストロの尼僧院の一室に監禁された。四方の壁と天井が厚さ三メートルあまりもあるこの土牢は、尼僧たちが恐怖の色をうかべずには口に出せない部屋であった。修道士の部屋という名で知られたものである。院長はここで、三人の尼僧に監視されていた。
司教の健康が少し回復したので、三百の警官、あるいは兵士が、彼の身がらをロンチリョーネへ引きとりにきた。そして、彼は駕籠《かご》に乗せられてローマにおくられた。コルテ・サヴェルラとよばれる牢獄にいれられたのである。数日たたぬうちに尼僧たちもローマへ連行され、院長は聖マルタの修道院にあずけられた。四人の尼僧が罪にとわれた。ヴィットリアおよびベルナルダの両尼僧、外部からのとどけものを取りつぐ係の尼僧、院長が司教にあびせた侮蔑の言葉をきいたという門番尼僧の四人である。
司教は、司法界の最上級官吏の一人である審問所査問官の訊問をうけた。哀れにも、チェーザレ・デル・べネは、ふたたび拷問にかけられたが、何一つ白状しないばかりか、|監察当局に迷惑を及ぼすようなこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を口にしたというかどで、さらに拷問をくわえられた。こうした見せしめの体刑は、ヴィットリア、ベルナルダ両尼僧にもくわえられた。司教は愚かしくもまた見事に強情に、すべてを否認した。院長のもとで過ごした確証の上がっているその三晩の行動について、詳細をきわめた弁明をしたのである。
ついに院長と司教の対決が行なわれた。院長は終始真実を答えたにもかかわらず、拷問にかけられた。彼女は、最初の自白から変わらぬ答えをくりかえしたので、司教は自分の嘘偽をつらぬくため、彼女をののしった。
やがて数々の手続きの行なわれたのち――それらの手続きは、基本的には当然なものであったが、カルロス五世およびフェリーぺ二世の治世以来、あまりにもイタリアの法廷を支配した残忍の精神によってけがされていたものである――司教は、聖アンゲロ城に終身監禁の判決をうけ、院長は当時あずけられていた聖マルタ修道院に一生とじこめられることにきまった。しかし、カンピレアーリの奥方は、娘をすくい出すために、はやくも地下道を掘らせる計画をたてた。この地下道は古代ローマの偉大の名残りである下水道の一つからはじまり、聖マルタの尼僧の遺骨が安置されてある深い穴倉に達することになっていた。地下道は幅ほぼ六十センチあまり、左右に地盤をささえるための羽目板をおき、掘り進むにしたがって、ちょうど大文字のAのたての線のようにおかれた二枚の天井の板をおいて、天井を支えていた。
この地下道は、地下十メートルのところに掘られた。地下道を正しい方向に掘り進めてゆくことが重大な点である。たえず井戸や古代建築の基礎工事の障害物があらわれて、土工はまわり道をしなければならなかった。もう一つの大きな困難は掘った土である。この処分には困った。どうやら夜中にローマの全市街にまき散らしたらしい。天から降ったとでもいうほかはない、このたくさんの土は町の人々をおどろかせた。
娘をすくうためカンピレアーリの奥方が、いかに巨額の金を使ったにせよ、このような地下道は、必ず見つけられてしまうはずのものであった。しかし、おりから、一五八五年、グレゴリオ十三世がなくなり、教皇の空位とともに、世の中が乱れはじめていたのである。
エーレナは聖マルタで、ひどくみじめであった。位もなく貧しい尼僧どもが、ああした罪に問われた金持ちの尼僧院長を、やっきになっていじめにかかったことは想像にかたくない。エーレナは母の企てた仕事の結果を一日千秋の思いで待ちわびた。だが、突然、彼女の心は異常な衝撃をうけたのである。すでに六か月前、ファブリーチオ・コロンナは、グレゴリオ十三世の命長からぬことを知り、教皇の空位中に大いに事を起こそうとくわだて、今はリッツァーラの大佐の名でスペインじゅうにその勇名をとどろかせているジュリオ・ブランチフォルテのもとに一人の将校をつかわしていた。公は彼をイタリアへ呼びもどしたのである。ジュリオも祖国を再び見ることを熱望していた。彼は変名を使って、アブルッチ地方のキューティ山下アドリアチック海の小港、べスカーラに上陸し、山ごしにべトレッラまでやってきた。公の喜びようは皆をおどろかせた。公はジュリオを自分のあとつぎとして、部下の軍勢の指揮をゆだねるため呼びもどしたのだと言った。これに対してブランチフォルテは、軍事的にいって公のくわだてはもはや無意味であると答え、容易にそれを証明した。もしスペインが本気でとりかかれば、六か月のうちに、それもほとんど損害なしに、イタリアじゅうの野武士を一掃することができるであろう。
「しかし」と若いブランチフォルテは言葉をついだ。「公のお望みとあらば、私はいつでも進撃する覚悟をいたしております。チアンピで殺されたラヌッチオの後継者たる名を私がはずかしめぬものである証拠は、いつでもごらんに入れることができます」
ジュリオのつくまえに公は、ペトレッラにおいては、なんびともカストロのことや尼僧院長の裁判のことを口にしてはならぬ、といつものとおり、きびしく命令した。ほんの少しのおしゃべりも、容赦なく死刑になることは明白であった。公はあふれるばかりの友情をもってブランチフォルテをむかえたが、彼にけっして自分を出しぬいてアルバノに行かぬように、と要求することを忘れなかった。そして公は、その旅を実現するために、一千の軍勢でもってこの町を占領し、ローマ街道に一千二百の前衛を配置したのである。公はなお存命のスコッティを、軍の本部をおいた家によびよせて、ブランチフォルテと二人でいる部屋に招きいれた。その時、ジュリオが、どんな気持ちになったか、お察しになっていただきたい。二人の旧友がだきあうのを見すまして、「さて、気の毒だが、大佐」と公はジュリオに言った。「この上なくつらいことを聞かされるだろうが、そのつもりでな」
そう言って、公は、ロウソクを吹き消すと、部屋に鍵をかけ、二人の友をのこして出て行った。その翌日、ジュリオは一室から外に出ようともせず、公に使者をだして、ペトレッラに帰らせてもらいたい、そしてしばらく公の前に出ないことを許していただきたいと伝えさせた。だが使者は帰ってきて、公も部下も軍勢もすがたを消してしまったと報告した。公は、その夜のうちに、グレゴリオ十三世の死を聞きこむと、愛するジュリオのことを忘れ果ててすぐさま出動したのである。ジュリオの周囲には、かつてラヌッチオ隊に属した三十人ばかりの兵士しか残っていなかった。周知のようにこの時代、教皇空位のあいだは法律がものをいわず、めいめい勝手気ままなことをやり、実力のみが幅をきかせていた。だからこそ、コロンナ公は、その日の暮れ方までに、敵を五十人以上も吊るし首にさせることができた。一方、ジュリオは手勢四十にもたりなかったが、敢然としてローマに進撃しようとした。
カストロ尼僧院長の家来たちは一人のこらず主に操をたてて、聖マルタ修道院の近くのあばら家に起きふしていた。グレゴリオ十三世の最後のお苦しみはすでに一遇間以上もつづいていた。カンピレアーリの奥方は、この期に乗じて、地下道の最後の三十メートルを完成せんものと、崩御につづく混乱の日を今か今かと待ちわびていた。地下道は目下多くの人家の地下の穴倉を貫通せねばならぬところなので、奥方は計画の目的が世間に知られはしないかと大いに恐れているところなのであった。
ブランチフォルテがペトレッラについて三日目には、エーレナが召しつかっていたもとジュリオの配下の三人の壮士は、まるで気がくるったようになった。エレーナが彼女に反感をもつ尼僧たちに監視されている身の上で厳重な面会禁止であることは周知のことであったのに、壮士の一人、ウゴーネは、尼僧院の門前に現われて、主人に面会を、しかも即刻の面会を許可してもらいたいと、じつに奇怪な嘆願をこころみた。彼ははねつけられ、門外にほうり出された。絶望に打ちひしがれながらも、この男はそこを去ろうとはせず、尼寺のご用をつとめに出入りする一人一人をつかまえては、ハイオッコ(銅貨)一枚をわたし、こういう言葉をくりかえし言ったのである。――「喜んでください。ジュリオ・ブランチフォルテさまのお帰りです。生きていらっしやるのです。お知合いの方々にふれてください」
ウゴーネの仲間の二人は、その日一日じゅう彼のところへ銅貨を運んだ。そして、三人は昼となく夜となく同じ言葉を繰り返しながら、一枚もなくなるまで、銅貨をくばるのをやめなかった。銅貨がなくなっても三人の壮士は、交替でやはり聖マルタの門前で頑張りつづけ、ひっきりなしに通行人に同じ言葉を繰り返して、大げさなおじぎをした。――「ジュリオさまのお帰りです、云云……」
このけなげな連中の思いつきは成功した。最初に銅貨をくばり出してから三十六時間たたぬうちに、哀れなエーレナは地下牢の密室で、|ジュリオが生きている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを知ったのである。この言葉が彼女を狂気の状態に投げいれた。
「ああ、お母さま!」と彼女は叫んだ。「あなたは私になんというひどいことをなさったのです!」
数時間後、驚くべき知らせの正しさは少女マリエッタによって裏書きされた。この少女は、自分の黄金の装身具を全部なげうって、囚人であるエーレナに食事をはこぶ尼僧に同行する許しを得たのである。エーレナは、うれし涙を流しながら、その腕の中に身をなげた。
「ほんとによかったこと」彼女は言った。「だけど、私はもうおまえと一緒に長くはいられないの」
「そうですとも!」とマリエッタは答えた。「教皇さまの選挙のすむまでには、きっと禁錮《きんこ》がただのお国ばらいに変えられるにきまっていますわ」
「でもおまえ、ジュリオさまにお会いできて!罪をおかしたこの私が、どうしてあの人にお会いできて!」
こうした言葉がかわされてから三日目の夜半、聖堂のしき石が一か所大きな音をたててめりこんだ。聖マルタの尼僧たちは寺が奈落におちてゆくのかと思った。混乱は極度に達した。みんな地震だと叫んだ。聖堂の大理石のしき石がくずれてから一時間前後たったとき、カンピレアーリの奥方は、エーレナが召し使っている三人の壮士に先導させて、地下道から地下牢にしのびこんだ。
「勝利です! 勝利です。院長さま」と壮士たちは叫んだ。
エーレナは死ぬほどこわかった。ジュリオ・ブランチフォルテがいっしょだと思ったからである。彼らの口から、御一緒したのはカンピレアーリの奥方だけです、ジュリオさまは数千の手勢をもって占領したばかりのアルバノにおいでで、ここにはいらっしやらない、と聞かされて、彼女はほっと安心して、またいつものきびしい顔つきにかえった。
待つまもなくカンピレアーリの奥方が現われた。盛装して腰に剣をおびた侍者《スクディエレ》に腕をかり、歩むのも苦しげであった。侍者の花やかな服が泥だらけになっている。
「おおエーレナ、エーレナや! おまえをたすけにやって来たのだよ!」とカンピレアーリの奥方が叫んだ。
「たすけてもらいたいなどと誰があなたに申しました!」
カンピレアーリの奥方はあっけにとられ、目を大きく見ひらいて、娘の顔を見つめるばかりだった。まるで訳がわからないというようであった。
「ねえ、エーレナ」と奥方はやっとのことでロをひらいた。「私、どうしてもおまえに一つだけ、あやまらなければならなくなってきたことがあるのだよ。あのときはなにしろ私たち一家にいろいろ不幸があった後だから、そうしたのもむりはなかったのだけれど、今では私も後悔しているのだから、どうか許しておくれ。ジュリオ……ブランチフォルテは……生きているのだよ……」
「あの人が生きていればこそ、私は生きていたくないのですわ」
カンピレアーリの奥方は、さいしょの間、娘の言葉がのみ込めなかった。気付いてすぐ、優しい言葉の限りをつくして哀願した。だが答えは何一つ得られなかった。エーレナは十字架像の方へむいてしまい、耳もかさずに祈っているのだ。まる一時間のあいだ、カンビレアーリの奥方はせめて一ことでも言わせよう、一目でもこちらをむかせようと最後の努力をつくした。むだであった。おしまいに堪えきれなくなって、娘がいった。
「アルバノの私の部屋のこの十字架像の大理石の下に、あの人の手紙がかくしてあったのです。いっそあのとき、お父さまの短剣で殺されていたらよかった! もう帰ってちょうだい! そのお金は残しておいて」
カンピレアーリの奥方は、侍者がぐずぐずしては危険だとの合図をしきりにするのに、なお娘と話そうとした。エーレナはいらいらしてきた。
「せめて一時間だけ、自由にさせておいてください。私の一生をけがしておきながら、お母さんは私の死までけがそうとなさるのですか」
「地下道はまだ二、三時間はわたしたちの思いのままです。どうぞ考えなおしておくれ! 私はまだ、そうねがっているのだよ」カンピレアーリの奥方は涙にくれながら、叫んで言った。
そして奥方は、ふたたび地下道にもどつた。
「ウゴーネ、おまえはここにいておくれ」とエーレナは壮士の一人に言った。「そして、しっかり武装していておくれ。ひょっとすると私の身を守ってもらわねばならぬかも知れない。さあ、おまえの短剣と剣とあいくちをお見せ!」
老兵は、とぎすました武器を示した。
「それで結構。あそこで、牢のそとで待っていておくれ。私はこれからジュリオさまに長い手紙を書くのだがら。おまえはそれをあの方にお手渡しするのだよ。何もかくすいわれもないのだけれど、おまえ以外の人の手は通したくないの。おまえなら、手紙に書いてあることをみんな読んでもいいの。お母さまがおいていらっしゃったこのお金は、みんなおまえのポケットにおしまい。私は、五十ツェッキーニあればよい。それだけを私の寝台の上においておくれ」
そう言ってから、エーレナは手紙を書きはじめた。
[#ここから1字下げ]
おなつかしいジュリオさま。私は少しもあなたのお心を疑っておりません。私がいま死んでしまいますのも、もし私が罪をおかしていない身ならどんなに嬉しいことかと思うにつけても、あなたの胸にいだかれる時の苦しさで命がなくなりそうだからです。あなたとお別れしてから、私はこの世でだれ一人愛したおぼえはございません。どうぞ信じてくださいまし。それどころか、自分の寝所へ来させた人にたいして、私の心はこの上なくはげしい軽蔑でいっぱいだったのです。私の罪はただ退屈から、あるいは遊びから、生まれたのです。どうぞ考えてもみてください。私の心は、ペトレッラへ行っての運動が何の効果もなく、それまであなたが愛していらっしゃる、それゆえ私も尊敬申し上げた公から何ともむごい扱いをうけて、すっかり張りをなくしてしまったのです。ね、考えてもみてください。すっかり張りをなくした私の心が、十二年のあいだ、嘘でとりかこまれていたのです。私の周囲はいつわりとうそばかり、それは私もよく承知しておりました。初めのうちあなたのお手紙が三十通ばかり参りました。最初、どんなに心ときめかせて封を切ったことでしょう!けれど読んでいくうちに、私の心は冷たくなってしまったのです。字を調べてみても、あなたのお手にちがいない。けれどもとのお心ではなかった。考えてもみてください、この最初のいつわりが、私の生活の大切なところを狂わせてしまい、あなたのお手でかかれた手紙の封を切るのさえ嬉しくなくなってしまったのです。あなたがなくなったといういまわしい知らせを聞いたとき、それまで残っていた楽しかった私たちの若い日の思い出が、すっかり心の中で死に果ててしまいました。私がまず考えたのは、この気持ちはよくわかってくださいますね、メキシコの浜辺、あなたが土人の手にかかっておなくなりになったというところをたずねて、その砂に手をふれてみることでした。もしもそのとおりにしていたら……私たちは今、どんなに、幸福だったでしょう。マドリッドまで行っていたら、たとえ策略の手が私のまわりにたくさんのずるいスパイを放ったところで、私の方も、心に情けと親切気の少しでもある人々を動かして、ついには本当のことが聞けたにちがいありません。ジュリオさま、そのころはあなたの目ざましいお働きで、世界じゅうの目があなたの上にそそがれていた時ですもの、おそらく誰かマドリッドあたりには、あなたがブランチフォルテだと知った人があったでしょう。二人の幸福がさまたげられてしまった事情を、私が申し上げても、あなたは聞いてくださいますかしら。第一には、ペトレッラで公からうけた恐ろしいとも恥ずかしいともいいようのないもてなしの思い出です。カストロからメキシコまで、どんなに数しれぬひどい障害をのりこえねばならなかったことでしょう! それに、もう私の心ははずみを失っていたのでした。そのうえ今度は虚栄心が目ざめてきました。あの戦いの夜、あなたが身をしのばせた門番小屋を自分の部屋にしたいばかりに、私は尼僧院に大きな建物をたてさせました。ある日、いつかあなたが私のために血をお流しになった、その土の上をじっと見ていますと、軽蔑の言葉が耳にはいりました。目をあげるといじの悪い顔にぶつかりました。その復讐のために、私は院長になってやろうと思ったのです。お母さまは、あなたが生きていらっしゃることをよく知っていたものですから、この法外な任命を成功させるために、英雄みたいな努力をしてくださいました。そうした地位も私には、ただ退屈の種となるばかりでした。退屈が私の心を堕落させ、他人に不幸を与えて自分の権力を示すことに喜びを見出すようなことが多くなりました。不公平な仕打ちをしたのです。私も三十でした。世間からはみさお正しいと言われ、お金もあり、尊敬もされておりながら、本当はこのうえもなく不幸だったのです。そのとき、あの哀れな男が現われました。善良そのもののような、また無能そのもののような人でしたり無能であればこそ最初、話も聞いてやったのでした。あなたに行かれてからというもの身のまわりにあることみな不幸の種なので、私の心は少しの誘惑すらしりぞける力がなくなっていたのでした。こんな恥ずかしいことをお話してもよいものでしょうか。けれども、私も死ぬものにはすべてが許されると思いなおしました。あなたがこの手紙をお読みになるころは、ただあなたにこそ捧げられねばならなかったこのうつせみの美しさは、うじ虫どもがくらっていることでございましょう。いよいよ苦しいことをお話しなければならなくなりました。ローマの貴婦人たちのように、私もなぜ身体だけの快楽をもとめようとしないのか、わけがわからなくなってしまいました。私は遊びの気持ちをおこしたのでした。けれど、あの男に身は許しても、嫌悪と不快の感情をおこさなかったことは一度もありませんでした。そのため、快楽などまったくなくなるのでした。アルバノの異形の庭で、マドンナさまがあなたのお心を動かしたあのときのお姿が、いつも私のそばを離れないのです。それにしても、あのときのお考えは、うわべはけだかいことでしたが、ほんとうは、お母さまのつぎに、私たちの不幸のもととなったのです。私のそばのあなたのお姿には、少しも人をおびやかすようなところはなく、いつもどおりお優しく親切そうでした。あなたが私をじっと見つめてくださる、するとこのよその男に怒りがこみあげてきて力のかぎり打ちのめしてやるようなことすらありました。ジュリオさま、これでありのまま何もかもつつまず申し上げました。これだけのことを言わずには死にきることができなかったのです。あなたとこうしてお話しているうちに、実はもしかして、死ぬ気がなくなるかとも思っておりました。もしもあなたのおそばへ行って恥ずかしくない身体で、もう一度お目にかかれるのでしたら、どんなにか嬉しいことでしょう。そのことがいよいよはっきりわかってくるばかりでございます。どうか、私の言葉をきいてください。あなたは生き長らえて、武人としての生涯をつづけなければいけません。あなたのいさおしを耳にしたときの私は、どんなに喜んだことでしょう。ほんとに、もしもあなたのお手紙がいただけていたのでしたなら! アケンナの戦いのあとでお手紙がいただけていたのでしたなら! 私はどんなに喜んだことでしょう! 生き長らえてください、そしてときどきはチアンピで死んだラヌッチオと、あなたの目の中にとがめの色を見まいとして、聖マルタで死んだエーレナのことを思い出してやってくださいませ。
[#ここで字下げ終わり]
筆をおくと、エーレナは老兵のそばにきた。眠っていた。気づかれぬように、そっとその短剣を奪ってから、彼女はゆり起こした。
「さあ書けたわ。地下道が敵に占領されないか心配よ。早く机の上にある手紙をもって、ジュリオさまにお渡ししてきておくれ。|おまえ自身でだよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、わかって。それから、このハンカチをあの人にお渡しして、こう言っておくれ、私はあの人をどんなときも愛していました、今のこの瞬間も愛しています少しも変わらずって。|どんなときも《ヽヽヽヽヽヽ》だよ。忘れるんじゃないことよ!」
ウゴーネは立ち上がったが、行こうとしない。
「お行き!」
「院長さま、よっくお考えなさいましたか。それはそれはあなたのことを思っていらっしやるのですから、ジュリオさまは!」
「私だって、愛している。手紙をお取り、おまえ自身でお手渡しするのよ」
「それでは、神さまの祝福がお優しいあなたさまのお身の上に下りますように!」
ウゴーネは出かけた。すぐに取ってかえした。エーレナは死んでいた。短剣が心臓をつらぬき通していた。
[#改ページ]
パリアノ公爵夫人
一八三八年七月二十二日、パルム
私は自然主義者ではない。私は、ごく平凡にしかギリシャを知らない。シシリーに旅をしに来た私の主な目的は、エトナの珍しいものを見物することでもなければ、自分自身や他人のために、古いギリシャの作家たちがシシリーについて語ったことに何らかの照明をあてようとするためでもない。私はなによりも、この特異な国に大きい目の楽しみを探しにきたのだ。シシリーは、アフリカに似ていると言われる。だが、焼きつくすような情熱という点で、シシリーはイタリアに似ていると私は確信しているのだ。一たび、シシリー人が恋や憎しみに燃え立ったら、彼らには、不可能《ヽヽヽ》という言葉がないと言える。しかもこの美しい国では、憎しみは、金銭の利害からはけっして生じないのだ。
イギリスや、特にフランスで、|イタリア的情熱《ヽヽヽヽヽヽヽ》、十六、七世紀にイタリアで見られ並はずれた情熱について、しばしば話されることに私は注目している。現代では、この美しい情熱は死んでいる。フランスの風習と、パリ、ロンドンの流行の行動様式との模倣によって犯されているイタリアの階級においては、完全に死んでしまった。
シャルル五世(一五三〇)の時代以来、ナポリ、フィレンツェ、そしてローマさえも、いささかスペインの風俗をまねしたと言われることを私はよく知っている。だが、このきわめて貴族的な社会の慣習は、その名にふさわしいあらゆる人間が、自分の魂の動きに対して持つに違いない無限の尊敬の上にきずかれてはいなかったか。リシュリュー公爵をまねる|きざ《ヽヽ》な男の第一のモットーが、|何物にも感動する《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ようにみえぬことであった時代一七六〇年前後、この慣習は人間のエネルギーをしめだすどころか、逆に高めたのである。ところが今日ナポリでフランスのきざな男以上に模倣されているイギリスの伊達男《ヽヽヽ》たちのモットーは、すべてに卓越しているため、すべてに退屈しているようにみえることなのである……。
このように、イタリア的情熱は、一世紀来この国の上流社会にはすでに存在しないのである。わが国の小説家たちが、非常な確信をもって語っているこのイタリア的情熱について、少しばかり明確な観念をいだくために、私は、その歴史を調べることを余儀なくされたのである。しかし優れた人々によって作られた、しばしはあまりにもいかめしいその偉大な歴史は、情熱の詳細についてはほとんど何も語ってくれないのである。その歴史は、王や諸侯のなしたばかげた行為の数々を、ばかばかしく几帳面に記してくれているだけである。私は、それぞれの都市の特殊な歴史にも頼ってみた。だが、資料の多量さに肝をつぶしてしまった。そのような小都市は、四つ折り印刷本の三、四巻の歴史書や、七、八巻の写本を、いやというほど、あなたに提供してくれる。それらは、ほとんど、略字で埋められ、判読しがたく、奇妙な形の文字で書かれている。そして事件のもっとも興味ある瞬間については、その地方の普通の話し言葉なのに、八十キロ離れるともう理解されがたい言葉で書き込まれているのである。恋愛が数多くの悲劇的事件の種を蒔《ま》くこの美しいイタリアでは、ただ三つの都市、フィレンツェ、シエナ、そしてローマだけが、だいたい書かれている通りの言葉で話すのである。他の所では、書き言葉は、話し言葉から百里の距離にある。
イタリア的情熱と言われるもの、すなわち、ひたすらおのれの恋の成就を求めるだけで当人の|仰々しい恋の姿を他人には見せようとしない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》情熱は、十二世紀の社交界の再生に始まり、少なくとも一七三四年頃の上流社会の中に消えた。砲弾のさ中でも大胆無比だったルイ十四世の燐れむべき孫、フイリップ五世と再婚したファルネーゼ家の娘の息子ドン・カルロスがブルボン家の一員としてナポリを統治しに来ていた時代のことである。このドン・カルロスはひどく退屈していたが、音楽に対してだけは、たいへんな打ちこみようであった。最高の歌手ワアソネーリが、いつもおきにいりの同じ歌曲を、毎日毎日二十四年間彼のために歌ったということが知られている。
哲学的精神は、ナポリやローマで行なわれる情熱の現実的な表現の奇妙なものと思いがちである、だが、私は、登場人物にイタリア名前をつけた小説くらい非常識なものはないと思う。北部に向けて四〇〇キロ進むたびに情熱が変わるとは思わないだろうか。恋愛は、マルセーユでもパリでも同じものだろうか。長い間、同じ権力の支配に従っていた国々は、その社会的習慣の中に、ある種の外面的な類似が見られるようになるということだけは、言いうるのである。
情熱や音楽と同様、その風景も北部二、三度、緯度が進むと、また変化をする。イタリアにおいてさえ、人がナポリの美しい自然をほめることに同意しないのなら、ナポリ的な風景はヴェネチアではばかげてみえるだろう。パリではまだましである。われわれは、森や耕作地の外観が、ナポリでも、ヴェネチアでも絶対に同じものであると信じている。たとえば、カナレット(薄紅色)は、全くサルバトール・ローザ(薄バラ色)と同じ色だと思いたいのである。
最高にこっけいなのは、自分の島の完全さを身にうけて育ったため、その島では|恋と憎しみ《ヽヽヽヽヽ》を描くことができないと見なされているイギリス婦人すなわち、その有名な小説『黒い贖罪者たちの告解所』の人物たちに素晴らしい情熱とイタリア人の名を与えているアンヌ・ラドクリフ夫人ではあるまいか。
私は、非常に真実な小説のもつ、時として不愉快な荒々しさと単純さに読者の寛大をいいことにして特別の手を加えることはしたくない。たとえば、従兄のマルチェロ・カペスの愛の告白に対するパリアノ公爵夫人の答えを私は正確に、翻訳する。一名門のこの歴史は、なぜだか、パルムの写本歴史第二巻の終わりに載《の》っている。ただ私は、それにどんな説明も与えることができない。
残念ながらかなり省略したこの歴史は(私は多数の特殊事情を省いた)、ある一つの情熱の興味ある物語であるよりはむしろ、不幸なカラファ一族の最後の運命を描く物語である。数々の状況のなかにもっと事件を発展させ敷衍して、すなわち、人物が感じていることをもっと詳しく読者に解き明かし物語ることもそう不可能ではなかったのではないかと、文学的虚栄心は私に言う。しかし、パリ北部に生まれた若きフランス人たるこの私に、一五五九年のイタリア人たちが感じていたことを正確に推測することができるだろうか。私は、せいぜい一八三八年のフランスの読者に何が興味ぶかく何が高雅に見えるかが推測できるだけである。
一五五九年頃のイタリアに君臨した情念の情熱的なありかたは、言葉ではなく行動を求めた。したがって読者は、次の物語の中に会話は非常に少ないことを発見するであろう。われわれが物語の登場人物の長い会話に慣れていたことは、この翻訳には不都合なのである。彼らにとっては、会話が、闘いであるが、この物語の翻訳においてはそうでないのだ。読者にあらゆる寛容さを私が要求するこの物語は、イタリアの風習の中にスペイン人によってもち込まれた奇妙な特殊性を示している。私は、翻訳者の役割を越えなかった。十六世紀的な感じ方と、すべての点から推して、不幸な.パリアノ公爵夫人に仕えた一貴族であると思われる語り手の語り口とに忠実な物語の再現こそが、私の考えでは、もし長所というものがあるのだとすれば、この悲劇的物語の主要な長所となるものである。
この上なく厳格なスペイン的礼儀作法が、パリアノ公爵の宮廷《ヽヽ》を支配していた。各枢機卿やローマの諸侯が、類似の宮廷を持っていたことに注目してほしい。そうすれば一五五九年、大都市ローマの文明はどんな姿をとっていたかを、あなた方は想像することができるであろう。国王フィリップ二世が、二人の枢機卿の選挙陰謀の一方に加担するため、双方のそれぞれに、聖職禄として二十万リーヴルの年金を与えていた時代であることを忘れないでいただきたい。恐ろしい軍隊こそなかったとはいえ、ローマは世界の首府であった。一五五九年、パリは非常におとなしい蛮族の一地方都市であった。
一五六六年代に書かれた古い物語の正確な翻訳。
ジャン=ピエール・カラファは、ナポリ王国の最も高貴な名門の出であったが、羊の大群の番人に全くふさわしく激しく粗野であらあらしい行動の持主であった。彼は長衣《ヽヽ》(僧衣)を身につけ、若くしてローマに出た。ローマで彼は、ナポリ大司教の地位にある従兄の枢機卿オリヴィエ・カラファの好意に助けられた。全《すべ》てを知り全てをなしうる偉人、アレクサンドル六世が、彼をその侍従にした。(わが国の習慣からいえば、およそ、勅任高等官と呼ばれるものにあたる)ジュール二世は彼をチェッチの大司教に任命した。パオロ教皇が、彼を枢機卿にし、ついに、一五五五年五月二十三日、教皇選挙会議の会場に閉じこもった枢機卿たちの間の激しい論議と策略が繰り返された後、彼はパオロ四世の名のもとに、教皇の位を与えられた。時に、七十八歳であった。
教皇の座に彼をえらんだばかりのその同じ人たちは、今身を捧げたばかりの統率者の峻厳と、残忍で冷酷な信仰心を思って、たちまち身震いした。
この思いがけない任命の報道は、ナポリとパルムに暴動を起こした。数日たらずして、この有名なカラファの大勢の人々がローマに到着するのが見られた。全ての人々の処遇がきまった。それが当然であるかのように、教皇は、自分の兄のモントリオ伯爵の息子たち、彼の三人の甥たちを特別に好遇した。
すでに結婚していた長男のドン・ジュアンは、パリアノ公爵にされた。彼が仕えていたマルク・アントワーヌ・コロンナから奪ったその公領は、多数の村落といくつかの小都市を含んでいた。教皇の甥たちの二番目、ドン・カルロスは、マルタの騎士であり、従軍した経験をもっていた。彼は枢機卿、ポローニヤの教皇特使、さらに内闇総理大臣に任命された。彼は、決断力にとんだ男であった。一門の伝統に忠実で、世界でもっとも権威ある王(スペインとインド諸国の王、フィリップ二世)を畏れげもなく憎んでおり、その憎しみの根拠を公にしていた。新教皇の三人目の甥、ドン・アントニオ・カラファは結婚していたので、教皇は、彼をモンテペロ侯爵にした。そのうえ教皇はその兄が再婚によって得た一人娘を、アンリ二世の息子、フランスの王太子、フランソワに妻として与えることを企てた。パオロ四世は、スペイン王から奪うはずのナポリ王国を持参金として彼女にあたえるつもりだった。カラファ一族は、権力あるこの王を憎んでいた。この一族はやがて自らのおかす過失のために、これから読者がごらんになるように、パオロ四世の手で一族根絶やしにされることになるのである。
その時代のスペインの有名な君主をも凌駕《りょうが》するこの世で最高の権威をもつ教皇の座に昇って以来、教皇のほとんどの継承者たちがそうであったように、パオロ四世も、あらゆる徳の模範を示した。パオロ四世は偉大な教皇にして偉大な聖者であった。彼は教会の悪弊改革に専心し、多方面からローマの法院に要請されてはいても、聡明なる政治配慮から認めることのできない宗教総会議を避けることに意を注いだ。
今日忘れられてしまったその頃の習慣、主権者の利害関係よりより他の利害関係に意をもちいる人々に信頼することを主権者にさせない習慣に従って、教皇の政体は、三人の甥たちによって専制的に運営された。枢機卿は、内闇総理大臣であり、伯父の意志を代行した。パリアノ公爵は、一群の聖会の総会長に任命された。また、公邸護衛長官のモンテペロ侯爵は、自分の意にかなう者以外は、公邸に通さなかった。ほどなく、これらの若者たちは、この上ない行き過ぎを犯してしまった。その統治にそむく一族の財産を横領しはじめたのである。民衆は、裁きをつけてもらうために誰に訴えればよいかわからなかった。彼らは、その財産を心配しなければならぬばかりでなく、操正しきリュクレスの生地で言うも恐ろしい事態! その妻や娘たちの名誉すらあやうい事態にさらされた。パリアノ公爵やその兄弟たちは、いちばん美しい女たちを略奪した。不孝にして気にいられれば、それで終わりなのである。人々は、血筋の高貴に一顧だにしない彼らを、ただあきれて見ていた。それどころか彼らは、聖尼僧院の神聖な囲いによっても少しも制止されなかった。三人の兄弟が教皇に近寄るもの一切に吹き込む恐怖がどれほど大きなものであっても、民衆は、その嘆きを誰に訴え出ればよいかわからなかった。三兄弟は、大使連に対してさえ無礼なふるまいをしたのであった。
公爵は、叔父が偉くなる前に、スペイン出の第一級の家柄のナポリきっての貴族の家柄のヴィオラント・ド・カルドンと結婚していた。彼女は、「輝かしい聖美女」の一人に数えられている女性であった。
たぐいまれなるその美貌と、相手の気に入られようとする時にあらわれるその魅力によって名高いヴィオラントは、その度はずれた傲慢《ごうまん》さによっていっそうその名を高めていた。だが公平でなければならない。より気高い天性をもつことはむずかしかったことであろう。死ぬ前に懺悔《ざんげ》を聞いた兄のカプチン会修道士に告白しなかった彼女が、世間に見事に示したのは、そのことなのであった。彼女は、あの素晴らしいメッセル・アリオストのオルランド、詩神ペトラルカのほとんどのソネット、さらにペコロンヌの物語などを暗記しており、限りない優美さで語って聞かせた。だが、その心に浮かんでくる独特の考えを相手に話す時、彼女はもっと魅力的であった。
彼女には、カヴィ公爵という名の息子が一人あった。彼女の兄弟、ダリフ伯爵、D・フェランは、義理の兄弟たちの幸運にひかれて、ローマにやって来ていた。
パリアノ公爵は、豪華な宮廷をもっていた。ナポリの名門の若者たちは、その宮廷に属する名誉を熱望していた。ローマでの公爵に最も親しい若者たちの間では、マルチェロ・カペス(デュセジオ・ディ・ニド)が、人々に感嘆の声をもらさせるほどの目立って見事な人物であった。彼は、天が与えたもうたその神聖な美しさと教養のゆえに、ナポリでは有名な若き騎兵であった。
公爵夫人のお気に入りに、ディアヌ・ブランカチオがいた。彼女は、その時三十歳を過ぎており、義妹のモンテペロ侯爵夫人の近縁にあたる女であった。このお気に入りに対しては、公爵夫人はもはや傲慢ではなかったとローマでは言われていた。すべての秘密を、ディアヌ・ブランカチオに告白していた。だがその秘密は政治にしか関係がなかった。公爵夫人は、人に数々の情熱を起こさせてはいたが、自分ではそれをわかっていなかった。
枢機卿カラファの勧告によって、教皇は、スペイン王に戦争をしかけた。フランス王は、教皇を助けるため、ギーズ公の指揮する軍隊を送った。
だが、われわれは、パリアノ公爵の宮廷の内部の事件を追わなければならない。
カペスは、久しい以前から気違いのようになっていた。彼のこの上もない奇妙なふるまいは人目についていた。この哀れな若者は、女主人である公爵夫人を情熱的に恋するようになっていたが、その恋を打ち明けることができないのであった。だが、その目的を達することをけっして絶望しはしなかった。公爵夫人が、自分をないがしろにしている夫にひどくいらだたしい気持ちを抱いているのを知っていたからである。パリアノ公爵は、ローマでは全能であった。そして、その美しさで有名なローマの女たちが、ほとんど毎日、夫に会うために、夫自身の邸に日参して来るのを彼女ははっきり知っていた。それは、彼女の馴《なじ》むことのできない不名誉であった。
教皇パオロ四世の礼拝堂付司祭たちの間に、教皇とともに聖務日課書を吟誦《ぎんしょう》する役目の尊敬すべき僧侶《そうりょ》がいた。この人物は、身を滅ぼす危険をおかして、おそらくスペイン大使に励まされたのであろうが、ある日勇敢にも教皇に、その甥の悪辣《あくらつ》な行為を暴露した。ローマ教皇は、悲しみで病いにおちいってしまった。彼は、疑いたかった。だが、のっぴきならぬ数々の確証が、到るところからとどいた。あらゆる疑惑の根拠の正しさを教皇に教え、教皇に決意させたと思われる事件が起こったのは、一五五九年の最初の日であった。キリスト割礼の祝日(元旦)という特別な日のことであった。このことが信仰深い主権者の目に罪の過失をさらに悪化させて見せることになった。なりゆきは次の通りであった。パリアノ公爵の書記長、アンドレ・ランフランチが、枢機卿カラファにみごとな夜食を呈上した。大食の快楽に淫蕩のそれが欠けないようにと、彼は、高貴な都ローマの町ずい一のもっとも有名で、もっとも美しく、もっとも豊かな娼婦の一人、マルチュキアを席にはべらせた。ところがいかなる運命のめぐり合わせであろうか、公爵のお気に入りで、ひそかに公爵夫人に恋しているあの男、世界の首都でもっとも美男として通っているあのカペスが、少し以前から、マルチュキアを好きになってしまっていた。その夜、めぐり会えそうな場所で、彼は女を探し歩いていた。どこにも女はいない。ランフランチの所で夜食会のあることに気づいた彼は、何が起こっているのかを察知した。真夜中に、武装した大勢の男たちをつれてランフランチの家にたち現われた。
扉が開かれた。彼は坐って饗宴に加わるようにさそわれた。だが、ひどくぎごちない言葉を二こと三ことのべたあとで、彼はマルチュキアに、立って一緒に外に出るよう合図をした。これから起こりそうなことを予感してどぎまぎした彼女がためらっている間に、カペスは自分の坐っていた場所から立ち上がって近づいて、若い女の手をつかんで引きずって行こうとした。枢機卿は、女をこさせた名誉にかけて、彼女が出て行くことに強く反対した。カペスは、しつこく女を広間の外に引っぱって行こうとした。
その夜、高貴の身分を示す、余人とは違った衣服を身につけている総理大臣の枢機卿は、若い女の去ろうとするのを見ると、手に剣をにぎつて、ローマじゅうにかくれもない激烈と勇気を面にあらわして、なおもさえぎろうとした。怒りに酔ったマルチェロは、部下を邸内に入れさせた。だが、彼らの多くはナポリ人であった。まず、相手が公爵の書記官であることに気づき、さらに、特別な衣服に目をくらまされてそれまで気づかなかった目の前の人物が隠されていた衣服から枢機卿と知った時、彼らは、鞘《さや》に剣をおさめ、戦うことをのぞまず、争いをしずめるために仲に入った。
騒動の間、人々にとりかこまれてマルチェロ・カペスに左手をとられていたマルチュキアは、まんまと逃げてしまった。気づいたマルチェロが、女を追いかけ、皆がそれについた。だが、夜の闇が、この世にも奇妙な物語に信憑性を与えた。一月二日の朝、主都は、甥の枢機卿とマルチェロ・カペスの間で起こつた危険な争いの話でわきかえった。教会付軍隊の総指揮官パリアノ公爵は、実際以上に事の重大さを信じた。彼は、弟の総理大臣と仲が良くなかったので、その夜、ランフランチを逮捕させ、翌日早朝、マルチェロをも牢に入れた。誰も死んだ者のないこの事件での投獄は、枢機卿の上におちかかった醜聞を増すものに他ならないことに人々は気づいた。そこで、急ぎ囚人たちを自由にした。この三兄弟の巨大な権力は、この事件をもみ消すために結集された。彼らは初め、それがうまくいくことをねがった。だが、三日目に、全ての物語が教皇の耳に届いてしまった。教皇は、二人の甥を呼びよせ、彼らに、深く傷つけられた信仰厚い君主がなしうる話を話して聞かせた。
聖庁の聖省に大勢の枢機卿を集める一月の第五日に、教皇ははじめ、この恐ろしい事件について話した。この醜聞を世人に知られずにすむにはどうすればよいかを、教皇は、出席した枢機卿たちにたずねた。
「あなたがたは口をつぐんでいる! だが、この醜聞は、あなたがたに与えられた崇高な品位をけがすものですぞ!」カラファ枢機卿は、手に抜き身の剣をもち、世俗の衣服を着て、人目の多い公道にあえて姿を見せた。いったい何の目的あってのことです? けがれた娼婦を捕えるためですか?
総理大臣に対するこの激怒の間じゅうの静まりかえっている廷臣たちの死んだような沈黙は想像できるであろう。それまであらゆることを意のままに行なった八十歳の老人が最愛の甥に対して激怒しているのだ。
憤りのあまり教皇は、枢機卿の帽子を甥からとり上げてしまうぞと言った。
教皇のこの怒りは、総理大臣兼枢機卿の最近の乱行を訴え出たトスカーナの大公爵である大使の言葉によって更にあおられた。ここのところ権力の極みにある枢機卿は、日常の仕事のつもりで教皇のもとを訪れた。教皇は完全に四時間の間、控えの間の皆の面前で待たせたうえ謁見を許さず追い返した。大臣の法外な傲慢さがどれほどの屈辱を味わったか、想像のつくところであろう。枢機卿は、いらだった。だが服従はしなかった。寄る年波で疲れはてて俗事の処理に不馴れな老人は、一生涯激しい愛情を一族にいだき続けてきたのだから、やがては自分の行動力を頼りにしてこざるをえないだろうと大臣は考えたのである。だが、教皇の徳が勝利を占めた。教皇は枢機卿たちを召集し、長いこと、黙って彼らを見つめてのち、ついに涙にくれて、ちゅうちょなく、見事な謝罪をした。
「ご存じのように」と教皇は言った。「宗教界のあらゆる悪弊をのぞこうとしたわたしの配慮も寄る年波に負けて仇となり、世俗の権威を三人の甥に委ねてしまいました。彼らは、その権威を乱用してしまいました。私は、永久に彼らを追放します」
甥たちからあらゆる権威を剥奪《はくだつ》し辺境の村に閉じこめる旨の教皇書簡が読まれた。総理大臣兼枢機卿はチヴィタ・ラヴィ二アに追放される。パリアノ公爵はソリアノに、そして侯爵はモンテベロへそれぞれ追放。この教皇書簡で、公爵は、七十二万ビアストル(一八三八年の百万フラン以上)にのぼっていた定期俸給を剥奪された。
これらのきびしい命令への不服従はありえなかった。カラファ家の者たちは、彼らを憎んでいた全ローマの民衆から敵として見張られていたからである。
パリアノ公爵は義理の兄のダリフ伯爵と、レオナール・デル・カルディヌに従われて、ソリアノの小さな村に身を落ち着けた。一方、公爵夫人とその義母は、ソリアノからほんの七、八キロたらずのまずしい小部落、ガレーズに住むことになった。
これらの土地は好ましいものであった。だが追放の身の上なのである。かつて傲慢に君臨したローマの地から追われた暮らしなのである。
マルチェロ・カペスは、その愛人《ヽヽ》が追放された貧しい村に他の廷臣たちと共に付き従ってきていた。数日前までこの上ない誇りを抱いて高貴な生活を楽しんでいたこの女は、もはや、ローマじゅうの賞賛の代わりに、素朴な村人たちにとりかこまれているにすぎなかった。村人たちの驚嘆そのものが彼女にその没落を思いしらせるのであった。彼女には、いかなる慰めもなかった。 叔父は甥たちに帰国を許す前におそらく死ぬのではないかと思われるほどの年であったし、逆境の頂点にあって、三人の兄弟はお互いに憎しみ合っていた。枢機卿のような荒々しい情熱をもたなかった公爵と侯爵は、枢機卿の暴挙をおそれるあまり、叔父の教皇に密告するまでに至っていたと伝えられるほどであった。
この苛酷な失意の深い恥辱の最中に、公爵夫人とカペスにとって不幸なことには、ローマでマルチュキアに対するあのような行動に彼を導いたのは真の情熱でなかったことをはっきり示す事件が起こった。
ある日公爵夫人は、指図を与えるため彼を呼びよせた。彼は夫人とたった二人きりになった。このような事は、一年におそらく二度もあり得ぬことであった。公爵夫人が彼を迎えた広間に、他に誰もいないことを知った時、カペスは身動きをやめて沈黙した。隣室で誰かが聞き耳をたてていないか扉まで行ってみてから、やっとこんなふうに彼は言った。
「奥さま。驚かないでください。そして、大胆にも、私がこれから申し上げる奇妙な言葉をお叱りにならないでください。以前から私は、命よりあなたをお慕い申しておりました。もし、あまりにも不謹慎に、恋人のようにあなたの崇高な美しさを眺める勇気が私にあったとしても、あなたはその過ちを私のせいになさらず、私をそこまで追いつめて苦しめる超自然の力のせいになさるべきです。私は苦しみにさいなまれています、私は燃えています。私をやきつくす炎を鎮めてくださいとはねがいません。ただただ、あなたの寛大さが卑しさと畏れでいっぱいの一人の僕《しもべ》を哀れんでくださいますように」
公爵夫人は驚いた。そして、怒った。
「マルチェロ、おまえは、私をどう思ったのです」と彼女は言った。「私に愛を求める大胆さを誰がおまえに与えたのです。私の生活や私の会話が、おまえにそのような傲慢を許すほど、礼儀からはずれていたでしょうか。王や夫以外のおまえや他の全《すべ》ての男に私が身を捧げたりするなどと大それたことをどうしておえは、信じてしまったのです。私は、今おまえが私に言ったことを許してあげましう。おまえが狂乱に陥っていたと思うからです。けれど、二度と同じ過ちに陥らぬよう気をつけるのですよ。でないと、はっきり言っておきますが、一度目と二度目の傲慢を、一緒に罰せられることになりますよ」
公爵夫人は、腹立ちにわれを忘れて、出ていった。カペスは慎みの作法を欠いていたのである。恋の心を見抜いてもらうことは必要だが、言ってはならなかったのである。公爵夫人がこのことを夫に話すのではないかと非常に恐れて、彼は当惑した。
だが、続いて起こったことは、彼の気づかっていたこととはひどく異なっていた。村の淋しい暮らしのさなかだったから、高慢なパリアノ公爵夫人も、自分への恋の告白をお気に入りの女ディアヌ・ブランカチオに打ち明けずにはいられなかった。ブランカチオは、数々の恋に身をやいた三十女であった。彼女は赤毛の女であった(歴史家は、何度か、ディアヌ・ブランカチオのあらゆる狂気を説明するように思われるこの事実に言及している)。ディアヌは、モンテベロ侯爵とつながりのある貴族ドミティアン・フォルナリを熱愛した。結婚したいとさえ思った。が、名誉にもディアヌと血のつながりのある侯爵とその奥方が、現在自分たちに仕えている男と彼女の結婚にはたして賛成するであろうか。この障害は、少なくとも外観上、打ち勝ちがたいものであった。
たった一つ成功の機会があった。男が、侯爵の兄、パリアノ公のところから信頼されるよう努めねばならない。そして、ディアヌはこの点については望みがあった。公爵は、奉公人としてより親戚として彼女に対処してくれていた。公爵はその心に単純さと善良さをもった男であった。純粋な儀礼的な問題を彼は、他の兄弟よりはかなり自由に考えていた。自分の高い地位から来る特権を若者らしく利用して自分の妻には全然誠実ではなかったにしても、しかしやはり公爵は優しく恋愛していた。もしも妻からしつこく優しさを求められたならば決してこばみはしないであろうと見受けられた。
カペスが公爵夫人にあえてなした告白は、暗い気分に沈んでいたディアヌには望外の幸運に思えた。自分の女主人は、比類なき貞淑な女である。もし、奥方が、愛情を抱き、過ちを犯すことにでもなれば、そのたびごとに奥方はディアヌを必要とするだろうし、そうなればその秘密を知られた奥方はディアヌのどんな希望もこばむことはできなくなるであろう。
ディアヌは自分がなさねばならぬこと、何事もつつ抜けの宮廷の中で奥方がさらされることになる恐ろしい危険の数々をまず話してきかせること、それをするどころか、自分の恋の激しい熱にうかされたようになってドミティアン・フォルナリについて独り言を言うときの話しかたで、奥方にマルチェロ・カペスのことを話した。この淋しい生活の中の長い語り合いのうちに、孤独な時間の明け暮れのなかでゆるゆると奥方と語りあいながら、ディアヌは、ひどく悲しげで哀れなマルチェロの美しさと好意を公爵夫人に思い起こさせる方法を毎日見つけだした。マルチェロは、奥方同様、ナポリの名門の一族です。その物腰は、その血と同じく高貴です。ただ運命の気まぐれが、彼が愛する女にどの点から見ても匹敵するだけの財宝を与えていないだけのことです。
こういう話の結果、まず、公爵夫人の自分に対する信頼が倍加したことに気づいてディアヌは喜んだ。
ディアヌは、マルチェロ・カペスの身の上に起つていることについて注意を与えることを忘れなかった。この夏の燃えるような暑さの間、公爵夫人は、ガレーズをとりまく森の中を、よく散歩した。夕陽が沈む頃、公爵夫人は、森のまん中にそびえている素晴らしい丘の上に、海からのそよ風を待ちにやって来た。その丘の頂から、八キロたらずの距離のところに海が見える。
きびしい礼儀に反することなく、マルチェロは森の中にいることができた。つまり、ここに隠れていたのだ。ディアヌ・ブランカチオの話で公爵夫人が気分のよい時だけ、マルチェロは奥方の前に現われた。ディアヌがマルチェロに合図するのである。
その心に芽ばえさせられた宿命的な恋を奥方が受け入れようとしているのを見てディアヌはディアヌで、ドミティアン・フオルナリに懐いた激しい恋心に火がついて一夜をともにした。それ以来彼と結婚できると確信した。しかしドミティアンは、冷静で控えめな性格の思慮ある若者であった。激情的な愛人の有頂天《うちょうてん》ぶりは、心をひくどころか、彼にはやがて、不愉快に思えてきた。ディアヌ・ブランカチオは、カラファ一族の近い親戚《しんせき》である。パリアノ公爵の弟ではあるものの事実上の一族の主催者であるあの恐ろしいカラファ枢機卿に、自分たちの恋愛がほんの僅かでも知られたら、きっと自分は刺し殺されるに違いない。
公爵夫人は次第次第にカペスの情熱にほだされかけていた。そんなある日、モンテベロ侯爵の宮廷がそっくり引きうつってきていたこの村から、ドミティアン・フォルナリの姿が見えなくなった。かき消えてしまったのだ。ずっと後になって、ドミティアンがネッツノの小さな港に上陸したことがわかった。もちろん、名前を変えていた。以来彼の消息はふっつり絶えた。
ディアヌの絶望は筆紙に尽くしがたい。運命に対する彼女の嘆きを親切に聞いてやった後、ある日、パリアノ公爵夫人は、でも、その話はもう止めにしましょうという気持ちを態度にやわらかく見せた。ディアヌは、恋人から軽蔑されたと思っている。その心は、この上なく残酷な動きの餌食になっていた。ディアヌの何度もくりかえす嘆きを聞いている時公爵夫人が示した倦怠の一瞬の表情を見て、ディアヌは非常に奇妙な結論を引き出した。ドミティアン・フォルナリが永久に彼女から去る決心をさせ、その上、旅の世話までしたのは、公爵夫人なんだとディアヌは思いこんだのである。このばかげた考えのよりどころは、かつて公爵夫人がディアヌに与えたいくつかの諌言であるにすぎない。猜疑心のあとには、復讐心が続いた。ディアヌは公爵に謁見を求め、奥方とマルチェロの間に起こったすべてを話した。公爵はそれを信じることを拒んだ。
「考えてもみなさい」と彼は言った。「この十五年というもの、私は、妻に対するどんな小さな非難をも聞いたことがない。あれは、宮廷の数ある誘惑にも、かつてローマでもっていた輝かしい地位への誘惑にも抵抗してきた。世にも魅力的な諸侯、フランス軍隊の将軍、ギーズ公自身でさえ、無駄骨を折ったのだ。それが、一介の平貴族にまいるとでも思いたいのか」
不幸なことに、追放されたソリアノ村で、公爵はたいそう退屈していた。それに奥方のいる場所からわずか八キロしか離れていなかった。そのためディアヌは、奥方の知らぬ間に何度も公爵に謁見した。ディアヌは驚くべき才能をもっていた。情熱が彼女を雄弁にしたのである。ほとんど毎夜十二時頃、カペスが公爵夫人の寝室に忍び込み、明け方、二時か三時にならなければ出て来ないのだと、何度も公爵に繰り返した。こうした話に、初め公爵は、大した感じももたなかった。真夜中八キロもの道のりをガレーズまで行き、不意に妻の寝所を訪れる気にもならなかった。
しかし、公爵がガレーズにいたある夕方の陽が沈み残照がまだ消えやらぬ頃、ディアヌが、髪ふり乱して、公爵のいる客間の奥まで入って来た。皆がしりぞくと、マルチェロ・カペスが奥方の寝室に今忍び込んだばかりだと公爵に言った。明らかに気分を害した公爵は短刀を握り、公爵夫人の部屋に駆けつけた。忍び戸から中に入った。そしてそこで、マルチェロ・カペスを見つけた。本当に二人の恋人たちは、公爵の入って来るのを見て顔色を変えた。だが、彼らのいた場所には非難すべき何ものもなからた。公爵夫人は、寝台の中で、彼女が使ったばかりの小額の支出を書き控えるのに心を奪われていた。寝室の中には侍女が一人いた。マルチェロは、寝台から三歩のところに立っていた。
怒り狂った公爵は、マルチェロの喉もとをつかみ、隣の小部屋に引きずって行った。そこでマルチェロが身につけている短剣と短刀を投げすてるように命じた。その後で、公爵は、警備の男たちを呼び、即刻、マルチェロをソリアノの牢獄に連れて行かせた。
公爵夫人はその館に残されて、厳しく監視された。
公爵は、けっして残酷ではなかった。名誉が強要する極端な処分をとるに至ることを余儀なくされないため、不名誉な事態を隠そうと考えたのだと思われる。公爵は、全く他の理由でマルチェロが捕えられたのだと信じさせたがった。そして、二、三か月前に、マルチェロが高い値段で買った大きなひき蛙のことを口実にして、この若者が、ひき蛙からとった毒で自分を毒殺しょうとしたのだと世間に言った。だが、本当の罪はあまりにもよく知られていた。弟の枢機卿がその一門に加えられた恥辱はいつ、罪人の血ですすごうと考えているのかと、たずねてよこした。
公爵は、一家の友人、アントワーヌ・トランドと、妻の弟、ダリフ伯爵をあつめた。この三人で公爵夫人との姦通罪《かんつうざい》に問われる被告、マルチェロ・カペスを裁く法廷のようなものを形づくることになった。
ところが、人間の状況は変化ただならざるものがあるのであって、パオロ四世の後を継いだ教皇ピオ四世はスペイン側につくことをねがった。そうなると、枢機卿と.パリアノ公爵の死刑を要求するフィリップ二世の意向を拒む何の障害もなくなった。二人の兄弟は、地方裁判所で裁かれた。彼らが受けねばならなかった裁判の記録がマルチェロ・カペスの死の情況を、われわれにつぶさに教えてくれることになる。
訊問された大勢の人たちの一人は、次のように書きしるしている。
「私共は、ソリアノにいました。私の主人の公爵は、長い時間、ダリフ伯爵と話していました。その夜、ずいぶんおそく、皆で、一階の物置に降りて行きました。そこに公爵は罪人を拷問《ごうもん》するために必要な綱を用意させていたのです。物置には、公爵、ダリフ伯爵、アントワーヌ・トランド閣下、そして私がおりました……」
物置に呼ばれた最初の証人は、カペスの腹心の友、親友のカミーユ・グリフォン大尉であった。公爵は、次のように証人に話しかけた。
「友よ。真実を言ってくれ。公爵夫人の部屋でマルチェロがしたことについて何かおまえは知っているか」
「私は何も知らないのです。二十日以上も前から、マルチェロと仲たがいしていましたので」 グリフォンがそれ以上はがんとして口をつぐんでいたので、公爵は、外から警備の兵を何人か呼んだ。グリフォンは、ソリアノの行政長官に綱で縛られた。衛兵たちがその綱を引っぱった。このやり方で、地上からほんの少しその罪人をつるし上げた。グリフォンはこのようにして十五分ほど、つるされた後、言った。
「知っていることを言うから、降ろしてくれ」彼を地上に降ろすと、衛兵たちは遠ざけられ、彼と一座のものだけが残った。
「何度か、公爵夫人の部屋まで、私がマルチェロについて行ったのは本当です」とグリフォンは言った。「でも、それ以上のことは、知らないのです。というのは、明け方一時頃まで、近くの中庭で私は彼を待っていましたから」
すぐまた衛兵たちが呼ばれ、公爵の命令でグリフォンは、足が土につかぬように、再びつるし上げられた。すぐに、グリフォンは叫んだ。
「降ろしてくれ。私は真実を話す」彼は続けた。「数か月来、マルチェロが公爵夫人と恋をしているのに、私が気づいたのは本当です。私は、閣下やD・レオナールに忠告したいと思っていました。公爵夫人は毎朝、マルチェロの様子を聞かせに人をお遣《や》りになっていました。数々の小さな贈り物もマルチェロになさっていました。なかんずく、細心入念に準備されたとても高価なジャムなどを。私は、マルチェロのところで、明らかに公爵夫人からもらった素晴らしいでき栄えの細工の小さな金鎖を見たことがあります」
この陳述の後、グリフォンは再び牢に入れられた。次に、何も知らないと言った公爵夫人の門番が連れて来られた。彼も綱でしばられ、空中に引き上げられた。三十分後、彼は言った。
「降ろしてください、知っていることを申し上げます」
一たび地上に降ろされると、門番はまた、何も知らないと主張した。もう一度、彼はつるされた。三十分して降ろされた。門番は次のように説明した。公爵夫人の私的なお役に立っていた期間はほんの少しであると。この男は、何も知らぬ可能性があるとして、再び牢に送られた。証人の出入りのたびごとに、部屋から出される衛兵のために非常な時間がかかった。公爵たちはひき蛙から抽出された毒による毒殺の計画が問題になっていると衛兵たちに信じさせようとした。
公爵が、マルチェロ・カペスを来させた時、夜は、すでにかなりふけていた。衛兵たちは外に出され、戸はきちんと鍵がかけられた。
「公爵夫人の部屋で、おまえは何をする要事があるのか」と公爵はきいた。「どうして、夜明けの一時、二時、時には四時までも、そこにとどまっているのか」
マルチェロは、すべてを否定した。衛兵たちが呼ばれた。マルチェロはつるされた。綱が彼の腕をきかなくした。その苦しみに耐えきれず、彼は、降ろしてくれるようにたのんだ。マルチェロは椅子の上に降ろされた。だが、一度、話の途中で行きづまった。そして、自分が何を言っているのかがさっぱりわからなくなった。衛兵が呼ばれ、彼は、もう一度つるされた。だいぶ経ってから、マルチェロは降ろしてくれるようたのんだ。
「そのような時ならぬ時刻に、私が、奥方の部屋に入ったのは本当です」と彼ほ言った。「だが、私が恋をしたのは、閣下の女官の一人ディアヌ・ブランカチオ夫人なのです。私は彼女と結婚の誓いをしました。ディアヌは、名誉にそむくこと以外のものは、すべてを与えてくれました」
マルチェロは、再び牢にもどされ、そこで、グリフォンとディアヌに対決させられた。ディアヌはすべてを否定した。
それからマルチェロは、下の部屋に連れて行かれた。その時、証人たちは戸の近くにいた。
「公爵さま」とマルチェロは言った。「あなたは、もし私がすべての真実を申し上げれば、命は助けようと私に約束なさったことを覚えておいででしょう。もう一度私を綱でしばる必要はありません。これから、全部お話いたします」
それから、マルチェロは、公爵のそばに近づき、震えながら、かろうじて聞きとれる声で、自分が公爵夫人の寵愛をうけていたのは本当であると言った。その言葉をきいた公爵は、マルチェロに飛びかかり、その頬に食いついた。そして、短刀を抜いた。公爵が短刀でマルチェロを突き殺そうとするのを見て、証人が言った。マルチェロが自筆で今、白状したことを書く方がよい。その文書は閣下の正しさを証明するのに役立つことでしょう。一座のものは、書く道具のある下の部屋に入った。だが、綱が、マルチェロの腕や手をかなり傷つけていたので、ほんの少しの言葉しか書くことができなかった。
――はい、私は、閣下を裏切りました。確かに私は、彼女から名誉を奪いました!――
マルチェロが書くにつれて、公爵は読み上げた。このくだりになった時、公爵はマルチェロに飛びかかり、短刀で三度突き刺した。マルチェロは死んだ。ディアヌ・ブランカチオほ、ほんのそこから三歩のところに、生きた心地もなく死人のように立っていた。ディアヌは、もちろん、自分のやった事を何度も何度も後悔した。
「名家の生まれにふさわしからぬ女よ!」と公爵は呼んだ。「わが不名誉のただ一つの原因よ! おまえは、破廉恥な喜びに役立てようと、不名誉な働きをしてくれた。私は、すべてのおまえの裏切りのむくいをしなければならない」
こう言って、公爵は、ディアヌの髪をつかみ、ナイフでその首を挽《ひ》いた。不幸な女は、おびただしい血を流して命つきた。
公爵は、二つの死体を牢のとなりの汚水だめに投げ込ませた。
この一族の中でただ一人、パオロ四世が自分の手もとに引きとめていたモンテベロ侯爵の息子、年若い枢機卿、アルフォンス・カラファは、この事件を教皇に語らねばならないと思った。教皇は、こう答えただけであった。
「それで、公爵夫人は、どのようにされたのか」
ローマのおおむねの人々は、この言葉が、あの不幸な夫人に死をもたらすに違いないと考えた。だが、公爵夫人が、みごもっていたからにせよ、かつて夫人をたいそう愛していたためにせよ、公爵は、そういう大犠牲を決心することができなかった。
聖教皇パオロ四世が一家を離散させることによってなしとげたその偉大な徳行の後三か月して、教皇は病に陥った。病のさらに三か月後、一五五八年、八月十八日、教皇は死去した。
一族の名誉のため、公爵夫人の死を要求すると絶えず繰り返してパリアノ公爵への手紙のなかで枢機卿は書いている。枢機卿は叔父の死を知り、これから選ばれる教皇の考えがいかなるものであるか判らぬままに、ともかくできるだけ早く一切に結末をつけようと望んだのである。
名誉に関する問題に枢機卿ほど良心的ではなく、善良で単純な男の公爵は、要求された極端な処置を決意することができなかった。公爵は胸の中で思った。自分自身、公爵夫人に数々の不誠実なことをした。別に隠そうと苦心しもしなかった。この不誠実が、自尊心の強い妻の胸に復讐の心をそそぎこんだのではあるまいか。
ミサを聞き、聖体拝受を受けたあと、教皇選挙会議に入る時枢轢卿は公爵に手続を書いていて、相も変わらぬ貴下の不決断を自分はにがにがしく思う。もしも、一族の名誉が求める処置を公爵がついに行ないえないのであるのなら、もう自分は貴下にかかわりをもたず、教皇選挙会議においても、新しい教皇に対しても、けっして貴下の役立つようには働かないだろうと述べた。名誉についてのこの奇妙な理屈が、公爵の決意に役立った。公爵夫人はきびしく監視されてはいたが、公爵がおのれのものとしたパリアノ公領のことで、公爵の不倶戴天《ふぐたいてん》の敵となったマルク=アントワーヌ・コロンナに、もしもあなたが、わたしの命を救い、わたしを自由の身にしてくださることができるならば、わたしの復心の部下が守っているパリアノ城塞をあなたに差しあげます、と伝えることができた。
一五五九年八月二十八日、公爵は、ガレーズに兵士二箇中隊を送った。三十日、公爵の身内のD・レオナール・デル・カルディヌと、公爵夫人の兄弟、ダリフ伯爵のD・フェランがガレーズに着き、夫人の命を奪うため、その住居にむかった。彼らは公爵夫人に死を告知した。夫人はそれを聞いて少しもさわがなかった。公爵夫人は、まず、懺悔《ざんげ》をすまして、ミサを聞きたいと言った。二人の貴族が彼女に近づいてきた。その二人の間に意見のくい違いのあるらしいことに公爵夫人は気づいた。自分を殺せよと夫の公爵が命じたのかと夫人はたずねた。
「そうです。奥方さま」とD・レオナールが答えた。
公爵夫人は、命令書を見せてほしいと要求した。D・フェランがそれを彼女に見せた。
(パリアノ公爵の訴訟記録の中に、私は、この事件を目撃した修道士の証言を見つけた。その証言は、他の証人のものよりも非常にすぐれている。それは、他の証人たちが、多かれ少なかれ、主人と共犯者であったのに反して、修道士たちは、裁判官の前で語る恐怖を除かれていたことに由来しているように思える)
カプチン会修士、アントワーヌ・ド・パヴィ修道士は、次のように証言している。
「公爵夫人が、信仰深く聖体拝受を受けたミサの後、私どもが、夫人を力づけていますとき、公爵夫人の兄弟のダリフ伯爵が、親指大の太さで、長さ半オーヌ(約0.6メートル)もあろうと思われる大きな棒と綱をもって部屋の中に入って来ました。ダリフ伯爵は、ハンカチで公爵夫人の目をおおいました。非常に冷静な公爵夫人は、相手が見えぬようにするため、ハンカチをさらに日の下におろさせました。伯爵は、夫人の首に綱をまきました。しかし、うまくいかなかったので、綱をはずし、数歩、離れました。公爵夫人は、足音を聞いて、ハンカチを目の上からはずして、言いました。
『おや!いったい、どうしたのです』
伯爵は答えました。
「綱がうまくいかないのです。あなたを苦しませないために、他の綱をとりに行ってきます』
そう言って出て行きました。彼はすぐ他の綱をもって部屋に帰ってきました。もう一度、夫人の目の上にハンカチをあてがい、首に綱をかけ直し、結び目に棒を通し、夫人を一回転させてから、息の根をとめました。公爵夫人は、全く普段の会話の調子で言葉をおかわしになり、少しもお取り乱しはありませんでした」
もう一人のカプチン会修士、アントワーヌ・ド・サラザール修道士は、次のように語ってその証言を終わった。
「私は、良心の苦しみにたえがたく、その死を見ないため、天幕から引きさがろうとしました。だが、公爵夫人は、私にこうおっしゃいました。
『神様の愛のために、ここから離れないで』
(ここで、その修道士は、今まで書きうつしてきた通りの、夫人の死の模様を語った)
夫人は、神様を|私は信じます《ヽヽヽヽヽヽ》、|私は信じます《ヽヽヽヽヽヽ》、と何度も繰り返しながら、立派なキリスト教徒として死去なさいました」
おそらく、修道会長から必要な権限を得ていたであろう二人の修道士は、その証言の中で、公爵夫人は、いつも、二人との会話中や懺悔の間じゅう、またとりわけ夫人が受けた聖体拝受の、ミサに先んじる懺悔のおり、完全な潔白さを訴えたと繰り返し語っている。もし、彼女が本当に罪を犯していたならば、その勝気な性格からいってすすんで地獄に急いだであろう。
カプチン修道会のアントワーヌ・ド・パヴィ修道士はD・レオナール・デル・カルディヌとの対決のおりに、言った。
「私の同僚は、公爵夫人が子供を産むまで待つ方がよいのではないかと伯爵に申しました。夫人は六か月の身重です。そのおなかの中にいる、不幸にも哀れな小さな魂をなくしてしまってはならない、その子を洗礼せねばならない。私の同僚は、そうつけ加えたのです」
それに対してダリフ伯爵は答えた。
「私がローマに行かねばならぬことはご存じですな。私は顔に仮面(晴らしていない恥辱)をつけたままそこに現われたくないのです」
公爵夫人が死ぬとすぐに、これら二人の修道士は、すぐにその腹部を切開するようにと力説した。その子に洗礼を与えるためである。しかし、伯爵とD・レオナールはねがいを聞き入れなかつた。
翌日、公爵夫人の葬儀が盛大に行なわれ遺骸は家代々の教会に埋葬された(私はその報告書を読んだ)。このことは、すぐに世間に広まった。しかし、世間はほとんど動揺しなかった。すぐにその知らせが広がったこの出来事は、たいして印象づけられていない。ずっと前から予期されていた事柄だったからである。
すでに何度も、ガレーズやローマではこの死は人々の口の端にのぼっていた。その上、町の外での一つの暗殺は、教皇の座が空席の時であってみれば、別に驚くほどのことはなかった。パオロ四世の死に続く教皇選挙会議は激烈至極のものであった。それは続いて四か月に及んだ。
一五五九年十二月二十六日、気の毒なカルロ・カラファ枢機卿は、スペインから送られた一人の枢機卿と選挙で争うことを余儀なくされた。このスペイン側の枢機卿が選ばれればフィリップ二世が求めるカラファ枢機卿への苛酷な処置をしりぞけえなくなるであろうと思われた。スペイン側の枢機卿は、教皇にえらばれ、ピオ四世を名のった。
もしも、カラファ枢機卿が叔父の死のときに追放の身の上になっていなかったならば、選挙で勝ちをしめていたことであろう。そうでなくとも、少なくとも敵が教皇にえらばれるのを阻止する万策はなしえたことであろう。
しばらくして、公爵とカラファ枢機卿が逮捕された。フィリップ二世の命令は、明らかに、彼らを滅ぼすことであった。彼らは、四十もの告訴箇条に答えねばならなかった。この四十か条に説明を与えうるすべての人が訊問された。非常に巧妙に行なわれたこの訴訟の記録は、二つ折り判本二巻から成っている。私は、非常な興味でそれを読んだ。その各ページには、歴史家たちなら歴史の尊厳にふさわしくないと思うような風俗のこまごまとした報告が見られるからである。当時の絶対権力をもつ総理大臣たるカラファ枢機卿に対して親スペイン派の一味が行なった暗殺の陰謀の絵ときのような詳細な記述が印象ぶかかった。
それに、カラファ卿兄弟は、別の者にとっては犯罪ではなかったであろう犯罪、つまり、不忠実な女の恋人やその女自身を死刑にしたということ、そのために有罪にされたのである。数年後のこと、オルシーニ公は、トスカーナの大公爵の妹と結婚した。その夫人が不貞を働いたと信じた公は、夫人の兄の大公爵の同意のもとに、トスカーナで夫人を毒殺させた。だが、これは、けっしてオルシーニ公の罪とされなかった。メディチ家の何人かの夫人たちも、同じようにして殺されている。
カラファ家の二人の訴訟が終わった時、その長い概要が作製された。それは、枢機卿たちの形成する検間委員会の手によって何度も調べなおされた。裁判がけっして取り扱わぬ種類の犯罪、姦通《かんつう》の仇討ち殺人、この犯人をいったん死刑に処すると決めたため、公爵は姦通を処刑したかどにより、そしてカラファ枢機卿は公爵にその処刑を強制したかどにより、ともに有罪ということにせざるをえなかった。
一五六一年三月三日、教皇ピオ四世は、八時間にわたる枢機卿会議を行なった。その終わりに、教皇はカラファ家に対する次のような判決を申し渡した。
Prout in schedula(要請通りになされるよう)
次の日の夜、司法当局はサン・タンジュの城に密書を送り、二人の兄弟、カラファ枢機卿シャルルとパリアノ公爵ジャンに死刑を執行させた。それはこのようにしてなされた。まず、公爵の処刑から始められた。公爵は、サン・タンジュの城からトルディノンの牢に移された。一切の準備は、そこにととのっていた。公爵、ダリフ伯爵、D・レオナール・デル・カルディヌが首をはねられたのは、そこにおいてであった。
公爵は、名門の生まれの騎士としてだけでなく、神の愛にすべてを委ねる決意のできたキリスト教徒として、恐怖の瞬間に耐えた。
公爵は、死をむかえる同じ運命の二人に、美しい激励の言葉を捧げている。それから自分の息子に手紙を書いている。
死刑執行人は、サン・タンジュの城に引き返し、準備のため一時間だけの猶予しか与えられないといったのち、カラファ枢機卿に死刑を告知した。枢機卿は少しの言葉しか語らなかったため、枢機卿は、その兄よりもすぐれた魂の偉大さを示した。言葉は、常に人が自己の外に求めてよりかかる力である。恐ろしい知らせをうけたとき、枢機卿が低い声でこう言うのだけが聞かれた。
「この私が、死ぬ!おおピオ教皇よ!おおフィリップ王よ!」
枢機卿は懺悔した。七篇の悔罪詩篇を吟誦した。それから椅子に坐り、死刑執行人に言った。
「やってくれ」
死刑執行人は、絹の紐でその首をしめた。紐が切れた。枢機卿は、二度も正気にもどらねばならなかった。枢機卿は一言も洩らさずに執行人を見つめていた。
(付記)数年たたぬうちに、ピオ五世は破毀されていたこの訴訟記録に再び目を通させた。そして、枢機卿とその兄弟は、すべての名誉を回復させられた。彼らの死刑にもっとも貢献した検事総長は、絞首刑に処せられた。ピオ五世は、訴訟記録の廃絶を命じた。書架にあったすべての控えが燃された。教皇は、破門にするとおどしてその保存を禁じた。しかし、自分自身の書架にこの訴訟の控えがあることに、教皇の考えは及ばなかった。今日みられるすべての写本が作られたのは、その控えによってである。
[#改ページ]
サン・フランチェスカ・ア・リッパ
フランスの青年とローマの公爵夫人とのある恋の物語の詳細を、イタリアの年代記作家のものから翻訳してお伝えしたいと思う。前世紀の初め、一七二六年のことである。その頃ローマでは閥族主義のあらゆる悪弊が花開いていた。宮廷が、これほど輝かしい時代はなかった。ブノワ十三世(オルシーニ)の治世、というよりはむしろ、その甥、カンポバッソ公が、ブノワ十三世の名のもとに、大小あらゆる国事を支配していた。到る所から、外国人たちがローマに流れ込んできた。イタリア人諸侯や、新世界の黄金で富んでいたスペインの貴族たちが、むれをなして集まってきていた。そこでは、富と権力をもった男はだれでも法律を超越していた。優美と豪奢が、そこに集まった大勢の外国人や同国人たちの唯一の関心事のように思われた。
教皇の二人の姪《めい》、オルシーニ伯爵夫人とカンポバッソ公爵夫人は、伯父の権力と宮廷の賞賛を分かち合っていた。その美しさは、社交界の最高の人々の中においてさえ、彼女らをきわだたせていた。オルシーニは、(ローマでは親しみをこめてそう呼ばれていたものだが)、陽気で、闊達であった。そして、カンポバッソ公爵夫人はやさしく、慎み深かった。だが、やさしい魂は、もっとも激しい熱狂を抱きやすいものである。毎日教皇のところで出会い、しばしばお互いの家で会うにもかかわらず、この二人の貴婦人は、公然の敵ではないにしてもあらゆる点で好敵手であった。カンポバッソ公爵夫人より美人ではないが、派手《はで》で、軽妙、活発で策謀家のオルシーニ伯爵夫人には、彼女自身それほど気があるわけでもない、その日限りの何人もの恋人がいた。彼女の幸福は、自分のサロンで、二百人もの人々に会うことであり、また女王としてそこに現われることであった。彼女は従妹《いとこ》をかなり軽蔑《けいべつ》していた。カンポバッソ公爵夫人は、いろんな場所で、三年間続けざまにあるスペインの公爵と会いつづけた後、ついに、二十四時間以内にローマを離れろ、さもなければ命はないぞ、といわれる破目にその公爵をおとしいれてしまったのである。
「この大仕事以来」とオルシーニは言った。「私の崇高なる従妹は、笑わなくなりましたの。もう数か月になりますわ。哀れな妻が、恋と苦悩で死にそうになり、如才ないその夫が、父の教皇の目に、妻の苦しみを高い信仰心ゆえとみせかけましてから。そしてある日、その高い信仰心が、彼女にスペイン巡礼を思いつかせることになったのですのよ」
カンポバッソ公爵夫人は、スペインの公爵にもうほとんど未練をもっていなかった。彼は、恋人であった間、彼女を恐ろしくうんざりさせてしまっていたからである。もし彼女が未練をもっていたのであれば、彼を探しに人をやったであろう。ローマでこういう人物にお目にかかるのはまれではないが、彼女は、異性に夢中になるときも醒めるときもひとしく素直で自然な性格の人物であった。やっと二十三歳になったばかりの花も恥じらう青春の盛りに、信仰心の高まりのあまり、伯父の足もとに身を投げて、|教皇の祝福《ヽヽヽヽヽ》を与えたまえと嘆願した。世間にはあまり知られていないが、この祝福《ヽヽ》をうけた人は、二、三の極悪な罪を除いた他のすべての罪が、懺悔さえしないで、許されてしまうものである。善良なるブノワ十三世は愛情の涙を流した。そして彼女に言った。「お立ち、私の姪御よ。おまえには、私の祝福はいらない。主の御目には、おまえは私より価値ある人間なのだよ」
その点については、絶対無膠の教皇猊下も、ローマじゅうの人々同様に思い違いをした。カンポバッソ公爵夫人は、狂おしいまでの恋をしていたのである。その恋人もまた夫人を恋していた。それでも夫人はひどく不幸であった。ルイ十五世のローマ大使、サン=テニアン公の甥、セヌセ公に、この数か月ほとんど毎日彼女は会っていた。摂政オルレアン公フィリップの一人の愛人の息子、若きセヌセが、夫人のこの上なく独特な恋の対象であった。二十二歳になったばかりなのに、何年も以前から陸軍大佐である彼は、傲慢ではないが、うぬぼれやすいところがあった。快活、いつも何でも楽しみたい気持ち、軽率、勇気、善良、これが、この特異な人間のもっとも顕著な特徴を形づくつていた。人々がフランスの国をほめる時には、彼こそはフランスの完全な典型であると言ったものである。はじめて会った時からこの性格が、カンポバッソ公爵夫人を魅惑した。「私は、あなたを信用いたしません。あなたはフランスのお方ですもの」と彼女は言った。「でも、一つだけ申しあげておきますわ。私が、秘密に時々あなたにお会いしていることがローマじゅうに知れわたる日には、私はあなたが秘密をもらしたのだと思うことでしょう。そして、もうあなたを愛さないでしょう」
全く恋をもてあそびながら、カンポバッソ公爵夫人は狂おしい情熱にとらわれた。セヌセもまた彼女を恋していた。だが、すでに八か月も二人は理性を保っていた。そして、イタリアの女の情熱さらに募らせたその時間は、フランスの青年の情熱を殺した。青年の虚栄心が、青年の憂欝を少しはらしていた。彼は、カンポバッソ公爵夫人の二、三枚の肖像画をパリに送った。いわば、幼年時代以来、あらゆる種類の幸福と栄光に満たされていたこの青年は、虚栄の対象の中にまで、その無頓着を持ち込んだのである。無頓着は通常、彼の同国人の感情に不安の念を与えるものである。
セヌセは、愛人の性質を全然理解していなかった。そのため、時としてはその気まぐれな行為は、彼女を楽しませることになった。だが、彼女の名前をさずかった聖ヴァルビーヌの祭日などには、彼は彼女の熱烈で真摯《しんし》な信仰心の熱狂と悔恨に打ち勝つのに骨をおった。イタリア庶民の女たちのように|信仰を忘れ《ヽヽヽヽヽ》させることが、セヌセは夫人に対してできなかった。彼は激しい力で彼女を征服したのである。その戦いは、いつも何度も繰り返された。
幸運にもそれまでの生涯に欠けたものの何一つなかった青年が、初めて出会ったこの障害は、公爵夫人に対して慇懃《いんぎん》にやさしくする習慣を青年に与えた。時々、彼は、夫人を愛することを義務だとさえ信じた。セヌセには、一人だけ秘密を打ち明けられる人があった。それは大使、サンテニアン公であった。彼は、すべてをこころえているカンポバッソ公爵夫人の助力を得て、公のために尽くした。自分が大使の目に重要な存在としてうつることが、とくに彼を喜ばせた。セヌセとは違って、カンポバッソ公爵夫人は、恋人のもつ社会的な特権には少しも関心がなかった。愛されるか愛されないかが彼女にはすべてだった。「私は自分の永遠の幸福を彼のために犠牲にします。でもフランスの青年、異端である彼は、私のために同じ犠牲ははらえないのだわ」と彼女は胸の中で思った。だが、騎士が青年のなかから立ち現われたのだ。いささか衝動的ではあるが愛すべき彼の快活さは、カンポバッソ夫人の心を驚かし、魅了した。彼の姿を見ると、彼女が言うつもりでいたすべてのこと、すべての暗い考えは消え去った。高慢な魂にとってひどく新しいこの状態は、セヌセが姿を消してからもしばらくつづいた。彼女は、とうとう、セヌセと離れては考えることも生きてゆくこともできないと悟るに至った。
ローマでは二世紀来のスペイン人|贔屓《びいき》が、少しフランス人贔屓に立ち戻りはじめていた。立ち現われる至る所に楽しさと嬉しさをもたらす人物が理解されかけていた。しかしこのような人物は、当時のフランス本国に発見されただけのものであり一七八九年の革命以来、どこにも見あたらなくなってしまった。そのような時と場合をとわない快活が生まれるには呑気な無頓着が必要であるのに、フランスでは、職業の安定した人も、天才も、もはやそういった無頓着の好運に恵まれることはないからである。セヌセの階級の人間と、国の他の階級の人間との間に戦いが宜言された。ローマの見方も、今日とは異なっていた。まさか、六十七年後に、司祭にやとわれている者たちが、キリスト教国の首都を真にキリスト教化したいと語っていたジャコバン党員バスヴィルを殺害することになろうなどとは一七二六年の人々はほとんど想像もしていなかった。
セヌセのために、生まれてはじめて、カンポバッソ公爵夫人が、理性を失ってしまった。決して良識のうべないがたいことがらのために、時には、天にものぼる心地となり、時にはおそろしく不幸となった。彼女にとっては理性とは別の大切なものであった信仰心が一たびセヌセによって打ち負かされるや否や、きびしく真面目な彼女の心のなかで恋は、急速にこれ以上もない情熱にまで上昇せざるをえなかった。
公爵夫人は、自分がその運命を握っているフェラテッラ猊下をかねてから特に重く見ていた。セヌセが普段よりことにしげしげとオルシーニのところへ出かけている、しかも、数週間来公認の恋人だった有名な歌手を、最近オルシーニがお払い箱にしたのは彼が原因である、公爵夫人がフェラテッラからそう聞かされた時の驚きは、いかばかりであったであろうか。
この物語は、カンポバッソ公爵夫人がこの運命の知らせを受け取った日の夕暮れに始まる。
金色に染められた大きな肱掛椅子《ひじかけいす》の中で、彼女は身動きもしなかった。黒い大理石の小テーブルの上の彼女の脇に置かれた、かの有名なベンベヌート・チェリーニの傑作、脚の長い二つの銀製の大きなランプが輝いていた。というよりむしろ、この邸宅の一階の、時代がついて黒ずんだ絵で飾られた大広間の暗さを、ランプが証明していた。この時代にはすでに大画家の支配は遠い昔のことになっていた。
公爵夫人の向かい、ほとんどその足もとの、どつしり重い金の飾りのついた黒檀《こくたん》の小さな椅子に、若きセヌセが、その優雅な容姿を見せたばかりのところである。公爵夫人は彼を見つめていた。彼がこの部屋に入ってくるのを見て、かけよって彼の腕の中に身を投げるどころか、彼女は一ことも彼に話しかけなかった。
一七二六年、すでにパリは生活とおしゃれの二つながらの優雅の中心であった。セヌセは、フランスきっての美男の優雅を引き立てるあらゆるものを、定期便で取りよせていた。摂政の宮廷の道楽者たちの一人、彼の伯父にあたる、有名なカニラックの指導のもとに宮廷の美女たちを相手に初陣《ういじん》をかぎった高貴の身分の男にふさわしい自信があふれているにもかかわらず、セヌセの顔の中に、ある困惑を読みとることはたやすかった。公爵夫人の美しい金髪は少し乱れていた。その濃《こ》い大きな瞳は、じっと彼にそそがれていた。その表情はつかみにくかった。死による復讐を思っているのであろうか。それとも単に、熱情的な恋の深い誠実の輝きなのであろうか。
「それでは、あなたはもう私を愛してはいらっしゃらないのですね?」と、やがて彼女はおしころした声で言った。
長い沈黙がこの宣戦布告のあとに続いた。
もし彼女がセヌセにこんな世話場を見せないならば、セヌセは今にも恋の口説《くぜつ》のしれごとの数数を申しのべそうなありさまだった。そういう男のほれぼれする魅力を思い切るのはつらかつた。だが、やむをえなかった。彼女は、自分の気持ちを後まわしにするにはあまり傲慢すぎた。男好きする女が嫉妬深いのは自尊心のためである。浮気な女が嫉妬深いのは習慣からである。誠実に情熱的に愛する女は、権利の意識をもつ。ローマ的な情熱に独特なじっとみつめる恋の表現はセヌセを強く喜ばせた。彼はそこに深さと不安を見いだした。いわば裸の魂を見た。オルシーニは、この美しさを持っていなかった。
けれども、今度は沈黙が過度に長びいた。イタリア人の胸にかくされた感情を見抜く技術に長じていないこの若いフランス人は、相手の目のなかに冷静と理性の色しか見なかった。それが彼を落ち着かせた。それに、その時、彼は憂鬱のたねをもっていた。カンポバッソの邸宅の隣からこの低い大広間に通じる、地下室と地下道のなかで、前日パリから届いたばかりの素晴らしい衣装の色鮮やかな刺繍《ししゅう》にくもの巣がくつついてしまったのである。このくもの巣の存在が、彼の気分を落ち着かなくさせた。もともと彼は、この虫がこわかったのである。
公爵夫人の目に穏やかさを見たと思ったセヌセは、この場を逃げ出して、彼女に答える代わりに非難を避けることを考えた。今味わっている当惑のため真面目になつたセヌセは、心の中でつぶやいた。「彼女に少しでも真実を見てもらえる好機は、今ここにないものだろうか。今、彼女は自分から質間をした。すでにそれで困惑は半分消えたようなのだ。たしかに、私は恋のために生まれついていない男であるにちがいない。私は独特な目つきをしたこの女ほど美しいものを見たことがない。彼女のやり方がまずいのだ。私を不愉快な地下道など通って来させた。だが、彼女は国王のそばへ私をお遣りになった主権者の姪だ。その上、彼女は、全女性が褐色の髪をしているこの国で、金髪なのだ。これは偉大な卓越だ。こんな魅力的な女性と話ができるとは思いも及ばなかった男たちが彼女の美しさを毎日ほめそやしているのを私は聞いている。しかも、その男たちときたら、いい加減なことはいわない|れっき《ヽヽヽ》とした連中だ。男がその愛人にもっている力に関しては、私に不安はない。もし私が一言言いさえすれば、彼女をその邸宅や黄金の家具や、君主である伯父から奪ってフランスの奥深い田舎に連れ去り、私の領地の一つで淋しい田舎暮らしだってさせることができるんだ……だが、そういう献身をしてくれるだろうことが判っているからこそ、わたしは決して彼女にそれをさせまいと決心しているのだ。オルシーニは彼女ほど美しくはない。彼女は私を愛している。たとえ昨日、私が暇をとらせるように彼女にしむけた歌手のブタフォコよりも少しだけ多く愛しているのだとしても。だが、彼女は作法を心得ている。彼女は生きることを知っている。彼女のところには幌つき四輪馬車で行くことができるのだ。それから、彼女がけっして世話場を見せないだろうこともよくわかっている。彼女は、それほど私を愛しているわけではないのだ」
この長い沈黙の間じゅう、公爵夫人のじっとみつめていた視線は、フランス青年の美しい額からそらされなかった。
「私ほもうこの人に会わないだろう」と彼女は思った。突然彼女は、彼の腕に身を投げた。彼女と会ってももう幸せで赤らんでこないその額と目を接吻で覆った。この瞬間、もしも青年が別れる計画のすべてを忘れはてなかったとしたならば騎士とはいえなかったのではあるまいか。だが、その愛人は極度の興奮のあまり嫉妬を忘れはてていた。数瞬後、セヌセは、驚いて彼女を見つめた。彼女の目から涙がほとばしり出ていた。「まあ!」と彼女は小声で言った。「私は、彼にその心変わりのことを口にするほど卑しくなっていたのかしら。けっして彼の心変わりなど認めまいと決心していたこの私が、彼に心変わりを非難するなんて。このうえ、この心をとろけさせる顔形がわたしのなかに湧きたたせる情念にわたしが身をまかすことにでもなれば、卑しさも極まったというべきだわ! ああ! いやしい、いやしい、なんといやしい公爵夫人なのだろう!……もう決着をつけなければ」
彼女は涙を拭いた。いくらか平静をとりもどしたように見えた。
「あなた、決着をつけなければなりませんわ」と非常に穏やかに彼女は言った。「あなたは、たびたび伯爵夫人のところにいらっしやいますのね……」ここで彼女は極度に蒼白になった。「もしあの人をお好きなら、毎日でもお行きなさいませ。でも、ここにはいらっしやらないで……」
彼女は思わず黙ってしまった。彼女は青年の言葉を待っていた。だが、その言葉が一こともでないのだ。身をふるわせ歯をくいしばるようにして彼女は続けた。
「私とあなたの死刑の宣告のようなものですわね」
このおどしは青年のあいまいな心を決定させた。彼女のあれほどまでの献身ぶりの後の思いもかけない狂態にただおろおろしていただけであった。彼は笑いだした。
公爵夫人の顔じゅうがぱっと赤らんだ。見る見るまっ赤になった。「怒りが彼女の息をつまらせている」と青年は思った。「彼女は卒中を起こすかもしれない」彼は、彼女の着物の紐を解くために前に進んだ。はげしい力と決意で、彼女は彼を押し返した。セヌセにははじめての経験である。なおも彼女を腕のなかに抱こうとしている間に、彼女が一人ごとを言っているのを聞いたのを、セヌセは後になって思い出した。彼は少し後ずさりした。今となってどんな分別が役にたとう。彼女はもう自分に会うまいとしているようではないか。抑えつけたような低い声で、まるで彼とは千里も離れたところにいるかの様子で彼女はつぶやいた。「彼は私を辱《はずか》しめた。彼は私をあなどった。私がうけているこの屈辱のすべてを、あの年齢であの国の人のもちまえの無分別さで、あの人はオルシーニのところへ話しに行くに違いない。私は自分に自信がない。私は、この美しい顔の前で無感動のままいることについてさえ自分に責任をもつことができない……」ここで、青年にはひどく気づまりな新しい沈黙が来た。公爵夫人は、いっそう暗い調子で次のように繰り返していってから、突然立ち上がった。
「|もう決着をつけなければ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
和解が、真面目に説明しようという考えを失わせてしまっていたセヌセは、ローマで今もちきりの恋愛事件についての冗談口を二、三言彼女にたたいた。
「かまわないでおいてください、あなた」と公爵夫人は、それをさえぎつて言った。「私は気分がよくないのです……」
「この女は、不機嫌なのだ」と、あわてて彼女の言葉通りにしながらセヌセは思った。「不機嫌ほど伝染しやすいものはない」公爵夫人は、広間の端まで、目で彼を追った。……「軽率にも、私は一生の運命を決しようとしていた!」と、苦いほほえみを浮かべて彼女は言った。「幸いにも、彼の場違いな冗談が私を目覚めさせてくれた。あの男のなんというばかさ加減!私を少しもわかってくれない人をどうして愛したりできようか。私と彼の命にかかわる問題だというのに、冗談で私を喜ばせようなんて……ああ!あれこそ私を不幸な目にあわせる不吉な嫌な性質なのだ! その性質をいかにも私は知ってていたのに」彼女は怒りにもえて椅子から立ち上がった。「あの男があの言葉をいった時、その目のなんてきれいだったこと!……それに、正直にいえば、かわいそうなあの男のしようとしていたことは、うれしいことだった。彼は、私の性格の不幸を知っていたのだ。あの人は、私の物うい悩みの原因を尋ねる代わりに、私を苦しめているその悩みを忘れさせたいと思ったのだわ。いとしいフランス人!それに私は、あの人を愛する前に幸せというものを知っていたかしら?」
その恋人の申し分のない魅力を彼女は心楽しく考えはじめた。だが、彼女の思いは、だんだん、オルシーニ伯爵夫人の魅力に導かれていった。彼女の心はすべてを暗く見はじめた。この上なく恐ろしい嫉妬の苦しみが心をとらえた。事実、不吉な予感がこの二か月来彼女を悩ましていたのだ。耐えられるのは、青年のそばで過ごす時だけであった。だが、彼女が青年の腕のなかにいない時は、彼女はほとんどいつもとげとげしい口のきき方をした。
その夕暮れは、おそろしいものだった。疲れ切って、苦しみのせいで少し平静になった彼女は青年に話をしようという気になった。「とうとうあの人は私の怒りを見てしまった。でも、あの人は、本当の私の嘆きの原因を知らない。きっとあの人は伯爵夫人を愛してはいまい。おそらくあの人は、旅行者は自分の滞在している国の社交界、とりわけ主権者の家族たちに会っておかねばならぬという理由からだけで彼女のところに行ったのだわ。もし私がセヌセをおおやけに紹介してもらっていたら、そして彼が公然と私のところへ来ることができるようになっていたら、オルシーニの家でのように、わたしの家で彼は何時間も何時間も過ごすだろう」
「いいえ」彼女は激しく叫んだ。「話したりしたら品位が下がってしまう。彼は私を軽蔑するわ。それが私の得るすべてだ。私が軽蔑しているオルシーニの軽率な性格が馬鹿な私より好ましいのだ、とりわけあのフランス人の目には。この私は、スペイン人相手にうんざりするために生まれてきているというのだろうか。世の中の出来事というものが、まだまだそれだけでは真面目さに欠けているとでもいうかのように、いつも真面目でありつづけるほどばかげていることが他にあるだろうか。私に命を与え、私に欠けている火をこの胸に投げ込むための、あの人を失うようなことになったら、いったい私はどうなるのだろう?」
彼女は戸を閉めさせた。だが、フェラテッラ猊下に対しては例外であった。オルシーニのところで夜中の一時までおこった事を彼女に報告に猊下が訪れた。猊下は公爵夫人の恋の飛脚の役目を誠実につとめていたのである。今夜からたとえすでにそうでなかったとしても、オルシーニ伯爵夫人とセヌセの仲はまもなくもっと深い仲になることもはや疑いないと猊下に言った。
「信仰深い公爵夫人は」と彼は考えた。「社交界の女よりもっと私に有益な人だ。いつも彼女には、私より好ましい人がいることだろう。それは彼女の恋人だ。そしてもしその恋人が、ローマ人であれば、その恋人は枢機卿を自在にあつかう伯父をもつことになる。もし私が彼女の心をかえさせたら、あの情熱的性格を、何よりも先に考えるのは、教導者のことだろう。そうすれば、彼女の伯父からさまざまな恩恵をわたしは受けうるのではあるまいか!」
野心家の高位聖職者は楽しい未来の中にわれを忘れていた。公爵夫人が枢機卿のずきんを彼に与えさせるために伯父の足もとに身を投げるさまを思い描いた。ローマ教皇は、わたしという聖職者がこれから企てようとしていることにたいそう感謝なさるであろう。公爵夫人の心を改めさせたのち直ちにブノワ十三世の目の前に、若きセヌセとの密通の否みがたい証拠をお見せすることにしよう。フランス人たちをおそろしく嫌っている、誠実で信心深い教皇は、教皇猊下ご自身不愉快に思われるこの密通を終わらせる仲介人に対し、永遠の感謝をお持ちになることだろう。フェラテッラはフェラルの身分の高い貴族の一人であった。彼は金持ちで五十歳を過ぎていた。彼は枢機卿の地位に近づいたという気持ちから勢いづいていた。彼は、目ざましい事柄をやってのけた。公爵夫人のそばでの、その役割を突然、変えてしまったのである。セヌセが彼女をないがしろにしていたこの二か月来、彼を攻めるのは危険であった。この高位聖職者が、セヌセをよく理解できず、彼を野心家だと信じていたからである。
読者は、恋と嫉妬とで狂った若き公爵夫人と野心家の高位聖職者の対話をひどく長いと思うであろう。フォラテッラは、悲しい真実のもっとも詳しい報告から語り始めた。胸を打つ出だしから、彼がこの若いローマの女の心の奥にまどろんでいる情熱的な信仰心と宗教的感情のすべてを目ざめさせることは困難ではなかった。彼女ほ誠実な信仰心をもっていた。「不敬虔なあらゆる情熱は、不幸と不名誉によって終わらねばならないのです」と高位聖職者は彼女に言った。彼がカンポバッソの邸宅から出てきた時、すっかり夜は明けていた。彼は、その日セヌセには再び会わぬという約束をこの新しい改宗者に強く要求したのだった。この約束は公爵夫人にはたいしてつらくなかった。彼女は自分を信心深いと思っていた、それに自分の弱さが青年の目にうつって軽蔑されるのを恐れてもいた。
この決意は四時まではかたかった。四時は、青年の訪問しそうな時間であった。彼はカンポバッソの館の後の通りを歩き、会見不可能の合図を見て、満足しぬいて、オルシーニ伯爵夫人のところに出掛けて行った。
しだいにカンポバッソ公爵夫人は、自分が気が狂うのではないかと思いはじめた。世にも奇妙な考えと決意が急に次々とわいてきた。突然、発狂したように邸宅の大階段をかけ下りて、馬車に乗ると大声で御者に命じた。
「オルシーニの館へ」
極度の不幸が、われにもあらず彼女を従姉《いとこ》に会いに行かしめた。彼女は五十人ばかりの人々のまん中にいる従姉を見つけた。教養のある全ての男たち、ローマのあらゆる野心家たちは、カンポバッソの邸宅には近づかず、オルシーニのこの館にむれをなして集まっていた。公爵夫人の到来は、センセーションを起こした。みんな敬意を表して遠ざかった。彼女はそれに気づくことを潔《いさぎよ》しとしなかった。彼女は、自分の恋仇《こいがたき》をうち眺めた。そして感服した、従姉の魅力の一つ一つが心につきささった。最初の挨拶をかわして後の公爵夫人の沈黙と放心を見てとると、オルシーニ伯爵夫人は華々しく、闊達な会話をかわしはじめた。「私のばかげた退屈な情熱よりもこの人のあの陽気さが、なんとあの人にはよくあっていることでしょう!」とカンポバッソ夫人は思った。
感嘆と憎悪の説明しがたい熱狂のうちに、彼女は伯爵夫人の首に身を投げかけた。彼女には、従姉の魅力しか見えなかった。遠くからでも近くからでも、その魅力は、等しくほれぼれと見事なものに映った。彼女は、その髪や目や肌を自分のと比較した。この奇妙な調査のすえ、彼女は、恐怖と嫌悪にとらわれた。この女の恋仇のものは、すべてが申し分なく、すべてが立ちまさっているように思えたのである。
身動きもせず沈んだ様子のカンポバッソ公爵夫人は、そうぞうしく身振りしながら話している群集のただ中で、まるで玄武岩の彫像のようであった。人々は出たり入ったりした。すべての騒音がカンポバッソ公爵夫人を悩ませ傷つけた。だが、突然、セヌセ公の来訪を聞いた時の彼女の狼狽《ろうばい》ぶりはいかばかりだったであろう。彼らの関係の始まりの頃から、社交界ではなるべく彼女に話しかけないこと、派遣されて勤めている教皇の姪に月二、三度しか会わない外交官たるにふさわしい態度を示すこと、そういう取りきめができていた。
セヌセは慣例通り尊敬と誠意を籠めて彼女に挨拶をした。それから、オルシーニ伯爵夫人の方にもどると、いかにも毎日あって親しいつきあいのある教養ある女性相手の、親密すぎるくらい快活な調子で話しはじめた。カンポバッソ公爵夫人は打ちのめされた。「伯爵夫人は、私がどうあらねばならなかったか見せているのだわ」と胸の中で言った。「そうでなければならないのよ。でも私は絶対にそうならない!」いまにも毒をのむ決意をした人間が投げ込まれうる不孝の最後の段階に彼女はおちこんでいた。セヌセの恋が彼女に与えたすべての喜びも、この長い一夜の彼女が陥った極度の苦しみの前では、もはや無いに等しかった。こうしたローマ女の魂は、他国の女たちの知らぬ激しい苦しみのエネルギーの財宝を持っているのだと言えるかもしれない。
翌日、セヌセは通りがかりに再び拒否の合図を見た。陽気に彼は去った。だが、心は傷つけられた。「先日、彼女が言ったことは、さては私との縁切りの挨拶だったのか。涙にくれて彼女に会わずばなるまい」と彼の虚栄心が言った。彼は、教皇の姪のかくも美しい一人の女を永遠に失いそうになってはじめて恋愛らしいもののかすかな影を感じた。彼は、あのひどくうとましい不潔な地下道の中に入って行き、一階の大広間の戸をおし破った。公爵夫人が迎えに出てきた。
「どうなさったのです!あなたがわざわざここにいらっしやるなんて!」驚いた公爵夫人は言った。
「あの驚き方は本気じゃない」と若いフランス人は思った。「彼女は私を待つ気になった時しかこの部屋にいないのだ」
青年は、彼女の手を取った。彼女はふるえた。その眼は涙でいっぱいだった。青年には彼女はとても美しくみえた。そのため、一瞬青年は恋を感じたほどだった。彼女は彼女で、二日の間、彼女がなしたあらゆる宗教上の誓いを忘れた。彼女は青年の腕の中に身を投げた。「こういう幸福をこれからはオルシーニが享けるのだわ……」セヌセは、例によって、ローマの感情がよくわからず、彼女が楽しい愛情をもちながら行儀よく彼と別れたがっていると信じた。「私がフランス国王大使館の館員だから、私に信任状を与えている教皇の姪を宿敵(手ひどい別れかたをすれば、きっと彼女はそうなるだろう)として持つことは私にふさわしくないのだ」きっとうまい決着がつけられるものと思いこんだセヌセは、もっともらしいことを言いはじめた。二人はこの上なく気持ちよい友だちとして暮らしましょう。そうすれば、結構二人はたいそう幸せではないでしょうか。そうなれば、世間の人もあなたに非難のしようがないでしょう。恋は、好ましくやさしい友情に席を譲るのです。今二人のいる場所に時々来られる特権をわたしは切望することでしょう。こうしてわたしたちの間柄はいつもいつも快いものとなるでしょう……。
最初、公爵夫人は彼が何をいっているかわからなかった。おぞましさとともに彼を理解した時、目は一点を見つめ、身動き一つせず、彼女はつっ立った。|二人の快い関係《ヽヽヽヽヽヽヽ》というおしまいの言葉をきいたとき、ついに彼女は胸の奥から出るような声で、ゆっくりこう言って彼をさえぎった。「つまり、あなたのご用に役立つ程度には私が美しいと思っていらっしゃるのね」「でも、かわいい人よ、そんなに自尊心が傷つけられるお話なのでしょうか」今度は、本当に驚いて、セヌセがそう言い返した。「不平をおっしゃろうなどと、どうしてお思いにならなければならないのです、幸い、私たちの仲は、人からけっして疑われたりしていないのです。私は名誉を重んじる男です。もう一度誓って言いますが、私がこんな幸福をうけているとは誰も絶対に思ってはいないでしょう」
「オルシーニ夫人も」と、冷たい調子で彼女はつけ加えた。それでも相手は、まだわからなかった。
「私があなたの恋の奴隷になる前に恋した女の名をあなたに言ったことがこれまで一度でもありましたか」と青年は天心らんまんに言った。
「あなたの誓いに対して私の敬愛はお払いしますが、でもそれだけは私がのぞまないただ一つのことです」と、公爵夫人は、ついに断固とした態度で言った。それを聞いて、若いフランス人はやっと驚いた。「さようなら!あなた……」そして、彼が、少しためらいながら立ち去ろうとすると「私に接吻しに来て!」と彼女は言った。
彼女は明らかに涙ぐんでいた。だが彼に確固たる調子で言った。「さようなら、あなた……」
公爵夫人は、フェラテッラを探しにやった。「私の仇を打つためです」と彼女は言った。高位聖職者は有頂天になった。「彼女は身を危うくしようとしている。彼女はこれで永久に私のものだ」
二日後、あまりの暑さにたえきれず、セヌセは、並木道に散歩に出かけた。彼はそこでローマじゅうの社交界の人たちに会った。彼が馬車に乗ろうとした時、彼の従僕は、返事のできぬほど酔っぱらっていた。しかも御者の姿も見えなかった。従僕は、口ごもりながら、御者が敵と口論してしまったのだと言った。
「ああ! 私の御者には敵《ヽ》がいるのか!」とセヌセは笑って言った。
帰りの途中、狭い道の二、三通りに迷い込むとすぐ、彼は、つけられているのに気づいた。四、五人の男たちが、彼が止まると足を止め、動くと、また歩きだすのである。「鉤の手に曲がって、別の通りからコルソに戻ることができる」とセヌセは考えた。「ばからしい!こんな無作法な奴らには骨を折る価値もない。私は、武装しているのだ」彼はその手に抜き身の短刀を握った。
こんなふうに考えて、セヌセは、しだいに人気のなくなった二、三の裏通りを端から端まで通りぬけた。彼は、男どもの足音が二倍になったのを聞いた。この時、目を上げると、彼のまっすぐ前にステンド・グラスが不思議な光を投げている聖フランソワ修道会管理の小さな教会があるのに気づいた。彼はその戸口にかけつけて短刀の柄で、激しく強くたたいた。彼をつけて来たらしい男どもは、彼から五十歩のところにいた。男どもは彼に向かって走りよってきた。修道士が戸を開いた。セヌセは教会の中に飛びこんだ。修道士は大急ぎで戸を閉めた。同時に、暗殺者たちが、戸を足でけたてた。「不信心者め!」修道士が言った。セヌセは一ツェッキーノ金貨を彼に渡した。「確かに、彼らは私をねらっていたのだ」
その教会は、千本を下らないロウソクで照らされていた。
「いったいどういうわけなのです!こんな時間におつとめとは!」
「閣下、いとすぐれたる枢機卿代理猊下のご赦免があるのです」
サン・フランチェスコ・ア・リッパのこの小さな教会の狭い前庭には、壮麗な霊廟《れいびょう》がたてられていた。人々が追悼の祈りをくりかえしていた。
「誰か死んだのですか。公爵か誰かですか」とセヌセが言った。
「もちろんです」と司教は答えた。「お金に糸目はおつけにならないのですから。この霊廟のすべては、とかした金と蝋《ろう》です。院長さまは私どもにおっしゃった。故人は、罪を悔いあらためずに死んだのだからと」
セヌセは、近よった。フランスふうの小さな楯形模様を見た。彼の好奇心は倍加した。彼はもっと近よった。なんとそれは自分の家の紋章ではないか! そこにはラテン語でこう書いてあった。高潔にして勇敢の士、騎士ジャン・ノルベール・ド・セヌセ、ローマで死す
「私は、自分の葬式に参列する栄誉を得た最初の男だ……」とセヌセは思った。「こんな喜びをもった人間は皇帝シャルル五世以外に私は知らない……。だがこの教会の中に私がいるのはよくないぞ」
彼はもう一つのツェッキーノ金貨を香部屋係に与えた。
「神父さま、私をこの僧院の後の扉から出してください」と彼は言った。
「たやすいご用です」修道僧は答えた。
通りに出るとすぐ、両手にピストルをにぎり、セヌセはものすごい早さで駆け出した。まもなくうしろから追っかけてくる人々の足音が聞こえた。自分の館に着いた時、扉は閉まっており、前に一人の男が立っているのが見えた。「襲撃の時が来たのだ」と若いフランス人は思った。そして、ピストルでその男を殺そうとした。その時、それが従者だと気づいた。
「戸を開けてくれ」と彼は叫んだ。扉は開かれた。彼らは急いで内に入り、扉を閉めた。
「ああ!旦那さま、ほうぼうあなたをお探ししました。とても悲しいお知らせがございます。 あなたの御者のかわいそうなジャンは、ナイフで刺し殺されました。ジャンを殺した奴らが、あなたに呪《のろ》いの言葉を吐きかけました。旦那さま、あなたの命はねらわれています……」
従者がこう話した時、庭に面した窓から、らっぱ銃の八発の銃声がひびいた。セヌセは御者のそばに倒れて死んだ。二人の身体にはそれぞれ、二十発以上の弾丸が打ち込まれていた。
二年の後、カンポバッソ公爵夫人は、もっとも高い信仰心の鏡として崇拝された。そして、久しい以前からフェラテッラ猊下は枢機卿になっていた。
作者の誤りがあればお許しねがいたい。
一八三一年九月二十九・三十日
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ヴィットリア・アッコランボニ・ブラッチャーノ公爵夫人
私にとっても、読者にとっても不幸なことだが、これは小説ではなく、一五八五年十二月にパドヴァで書かれた、きわめて厳粛な物語の忠実な翻訳である。
数年前マントヴァにいた頃、私は自分のささやかな財産にふさわしい粗描や小品の絵の類を探していたが、一六〇〇年以前の画家のものを望んでいた。一五三〇年のフィレンツェ占領〔一五二七年フィレンツェ市民はメディチ家を追放して共和制を布いたが、一八三〇年、ドイツ皇帝兼スぺイン王のカ―ル五世や一族の教皇クレメンテ七世の援助をうけて、アレッサンドロ・ディ・メディナはブィレンツエ共和制都市の必死の防衛を排して、フィレンツェ公となった〕によって、すでに大きな危機に見舞われていたイタリアの独創性は、一六〇〇年の頃には完全に失われていたからである。
大富豪で吝嗇家《りんしょくか》のさる老貴族が、絵の代わりに、時代を経て黄色くなった写本を私に売りたいと申し出た。私はそれにいちおう目を通させて欲しいと要求した。彼はそれに同意したが、自分はあなたの誠実な人柄を信用しているのだから、もし写本を買ってもらえない場合は、あなたの読んだ機知に富む逸話を忘れて欲しい、と付け加えた。
こういう私の気に入った条件のもとで、私はおおいに目を痛めながらも、二、三世紀前の悲劇的な恋愛事件の物語や決闘の挑戦状、領地を相続する貴族間の和解の協定書、あらゆる種類の問題に関する覚え書などがいっぱい詰まっている三、四百巻の写本にざっと目を通した。この年寄りの所有主は、この写本について莫大な金額を要求した。何度も交渉した結果、私は私の好きな、しかも一五〇〇年頃のイタリアの風習をよく示している幾つかの小話を写し取る権利を、ずいぶんよい値段で買うことにした。以上のようなわけで、現在私の手もとにこれらの小話集が二つ祈り版で二十二巻ある。そして読者がこれから読まれるのが、もっとも読者にその忍耐力があるとしての話だが、忠実に翻訳されたこれらの物語のうちの一つなのである。私はイタリアの十六世紀の歴史をよく知っているので、これから述べる話はまったく真実だと信じている。荘重で、直接話法で、最高度にわかりにくい、シクストゥス五世(一五八五年)の教皇在位中、人々の関心の的であった事物や観念をふんだんに暗示しているこの古いイタリア語の文体の翻訳が、立派な近代文学や偏見のない現代の観念を反映しないように私は苦労した。
この写本の無名の作者は用心深い人物で、事件を判断したり、事件の辻褄《つじつま》を合わせるといったたぐいのことは少しもしていない。彼の唯一の仕事は、真実を語ることだけである。ときには、われ知らず、生き生きした描写をしていることもあるが、それは一五八五年頃、虚栄心が気取りという暈《かさ》でもって、人間のすべての行為を包んでいなかったからである。人々はできるかぎり明晰に自分の意見を述べることによって、はじめて隣人に働きかけることができるのだと信じていた。一五八五年頃には、宮廷に養われている道化師か詩人を除けば、誰一人として口先だけで愛想よくしようなどとは思ってもいなかった。いましがた、逃亡用の駅馬を探しにやったところなのに、「私は陛下のお側で死にます」などと言うものはまだいなかった。これなどは後世になってはじめて考え出された裏切り行為である。当時の人々には思いも及ばなかった。口数こそ少なかったが、各人、他人の言うことにはたいそう注意を傾けていた。
寛大な読者よ、こういうわけだから、面白く、簡潔で、当世流行の感じ方にさも忠実な、才気、換発といった文体をここに求めてはならない。とりわけジョルジュ・サンドの小説に見られる、人を引きずり込むような感動を期待してはならない。この偉大な作家は、|ヴィットリア《ヽヽヽヽヽヽ》・|アッコランボニ《ヽヽヽヽヽヽヽ》の生涯と不幸を材料にすれば、傑作を書いたことであろう。私がみなさんに提供するこの荘重な物語には、物語というものがもつ効用のうち、比較的目立たぬ効用しかないだろう。たまたま日暮れて、一人で駅馬車に乗って旅行している時、人間の心を識るという偉大な技術についてゆっくり考えてみようと思うことがあれば、次に述べる物語の状況を、その判断の基礎にすることができるだろう。作者はすべてを述べ、すべてを説明して、読者が想像力を働かせる余地を少しも残していない。彼は女主人公の死後十二日にして、これを書いたのである。
ヴィットリア・アッコランボニは、ウルビノ公国のアグビオという小さな町の、高貴な家柄に生まれた。少女の頃から、驚くほど稀な美貌のゆえに、万人から注目された。その美貌とても、彼女の魅力をなす最小のものであった。高貴な生まれの娘として人々から称《ほ》め讃《たた》えられるに必要なものは、彼女には一つとして欠けてはいなかった。しかし数々の驚くべき勝《すぐ》れた素質のなかでも、一目彼女を見ただけで、誰もが心と意志力を奪われてしまう、まったく魅力に富んだ優雅な物腰ほど注目すべきものはなかった。それは奇跡にも等しいと言いうるほどである。彼女のちょっとした言葉にも威厳を与えていた純真さに、少しもわざとらしいところがなかった。はじめて会っただけで、人々はかくも驚くべき美貌に生まれついたこの婦人を信用してしまうのであった。ただ彼女を見ただけなら、なんとかしてこの魅力に抵抗できたかもしれない。しかし彼女の話すのを聞くと、特に彼女と何かしゃべるようなことにでもなると、かくも驚くべき魅力から逃れることはまったく不可能であった。
彼女の父はローマに住んでいた。サン・ピエトロに近い、|ルスティクチ《ヽヽヽヽヽ》広場には、今も彼の館が見られるのだが、そのローマの町の多くの若い武人たちは彼女と結婚したがった。嫉妬《しっと》が渦巻き、恋の鞘当《さやあ》てがあちこちで起こつたが、とうとうヴィットリアの両親がモンタルト枢機卿の甥、フェリーチェ・ペレッティを選んだ。この枢機卿はその後、教皇シクストゥス五世となって、良き治世をつくりだした人である。
枢機卿のきょうだいカミリオ・ペレッティの息子フェリーチェは、最初フランチェスコ・ミニュッチと呼ばれた。彼が正式に叔父の養子になったとき、フェリーチェ・ペレッティと名乗ったのである。
ヴィットリアはぺレッティ家にはいる時、自分では気づかずに、宿命的とも言えるあの美点をそのままもちこんだが、これはどこにいても彼女について回るものなのである。したがって、彼女を熱愛しないようになるには、彼女をけっして見てはならぬと言われるほどであった。彼女の夫が彼女に抱いていた愛情はまことに気違いじみていた。義理の母カミリオとモンタルト枢機卿自身も、ヴィットリアの好みを察して、すぐにでもそれを満足させてやろうとする以外、この世に仕事がないように見えた。財産の少ないことと、あらゆる種類の贅沢《ぜいたく》を嫌うことで有名な枢機卿が、ヴィットリアのあらゆる願望をすすんで聞き届けてやることに、変わらぬ喜びを見いだしている様子を目の前にして、ローマじゅうの人々は驚いた。若くて、美貌に輝き、万人から熱愛されているものだから、彼女もときには、つい高価につく気紛れを起こすのだった。きわめて高価な宝石類や真珠、それに、当時品物の豊富にあったローマの金銀細工商の店で珍品といわれる物はなんでも、彼女は新しい両親に買ってもらった。
この愛すべき姪への愛情から、厳格をもって鳴るモンタルト枢機卿は、ヴィットリアの兄弟たちを、あたかも自分の甥のように待遇した。オクタヴィオ・アッコランボニは、十三歳になるやならずで、枢機卿の斡旋で、ウルビノ公の指名をうけ、教皇グレゴリオ十三世〔一五二〇年ボロ―ニヤに生まれ、一五八五年ロ―マに死す。教皇在位期間一五七二―八五年〕によってフォッソンブローネの司教になった。勇猛果敢な若者で、幾つかの罪に問われ、警察〔公共の牢屋の守護を任務とする軍隊で、一五八〇年における憲兵隊であり警察隊でもある〕の厳しい追求をうけていたマルチェロ・アッコランボニは、彼を死刑に追いやりかねない探索からやっとの思いで逃げていたが、枢機卿の庇護のお蔭で、平穏ともいうべき生活を取り戻すことができた。
ヴィットリアの三番目の兄弟ジュリオ・アッコランボニは、モンタルト枢機卿が要求するとたちどころに、アレッサンドロ・スフォルツァ枢機卿によって、彼の館の要職に任ぜられた。
要するに、人間が、自分の飽くことない、果てしない欲望に基づくのではなく、すでに所有している特権の実際的な享受によって、自分の幸福を量ることができるなら、ヴィットリア家の人人には、自分たちは人間としての幸福を極めたものと思われたことであろう。しかし、絶大ではあるが不安定な特権を無分別に求め出すところから、どんなに幸運の波に乗りきった人間も、奇妙な、危険にみちた考えに落ち込むものである。
ローマでは多くの人々がうすうす気づいていたように、ヴィットリアの親成の誰かが、もっと素晴らしい幸運を望むあまり、ヴィットリアを彼女の夫から解放する手助けをしたのだが、その男はやがて、快適な幸運がもたらしてくれる利益に、ほどよく満足している方が、より賢明であったのにと、認めねばならなくなった。というのは、この快適な幸運はやがて、人間の野心の望みうるすべてのものの頂点に到達することになっていたからである。
ヴィットリアが自分の屋敷で、かくのごとく女王然と生活していた頃のある晩、フェリーチェ・ペレッティは妻と共に就寝したところへ、ボローニャ生まれでカテリーナという名のヴィットリアの侍女から、一通の書状を渡された。この手紙はカテリーナの兄弟で、|Mancino《マンチーノ》(|左利き《ヽヽヽ》)というあだ名の、ドミニコ・ダックアヴィーヴァの持ってきたものであった。この男は幾つかの罪を犯してローマから追放されていたが、カテリーナの頼みで、フェリーチェは彼のために叔父枢機卿の強力な庇護を得てやり、それでこの|左利き《ヽヽヽ》は、しばしばフェリーチェの屋敷に出入りして、おおいに彼の信頼を博していた。
問題の手紙はマルチェロ・アッコランボニの名で書かれていた。マルチェロはヴィットリアの兄弟みんなの中で、彼女の夫といちばん親しくしていた。彼はたいていはローマの外で、隠れて生活していた。時々大胆にもローマ市内に入ってきたが、そんな時にはフェリーチェの屋敷を隠れ家にしていた。
時ならぬ時刻に渡されたこの手紙のなかで、マルチェロは義理の兄弟のフェリーチェ・ペレッティに救いを求めていた。フェリーチェに彼を助けに来るよう頼んで、ある火急の事件のため、モンテカヴァッロ宮殿〔歴代教皇の避暑の別荘〕の近くで彼を待っていると付け加えてあった。
フェリーチェは渡されたこの奇妙な手紙のことを妻に知らせ、それから衣服を着たが、剣以外の武器は帯びなかった。火のついた松明《たいまつ》を持った家来を一人だけ連れて出かけようとした時、彼は足下に母のカミリオと屋敷じゅうの女たち、そしてその中にヴィットリア自身の姿をも認めた。女たちはみな、こんな夜ふけに外出しないよう切に哀願した。彼が彼女らの頼みを聞き入れないので、彼女らはひざまずき、目に涙を浮かべて、聞き入れてくれるよう懇願した。
この女たち、なかでもカミリオは、前代未聞の混乱と暴行の横行しているグレゴリオ十三世の在位中のこの頃、毎日周囲で奇怪な事件が起こりながら、それらが処罰されずにいるのを話に聞いて恐怖に駆られていた。彼女たちはあることに気がついて更に驚いていた。つまりマルチェロ・アッコランボニは、ローマの町深く大胆に入り込んできても、フェリーチュを呼び出すような習慣はなかったし、夜のこんな時刻に、こんな遣《や》り方をするのは無礼千万だと彼女らに思えたのである。
その年齢にふさわしく、血気に溢れたフェリーチェは、これらの心配の種にも耳をかさなかった。そしてこの手紙を、彼がたいへん可愛いがってもやり、また力にもなってやっている|左利き《ヽヽヽ》が持ってきたことを知ると、なにものも彼を止めることはできなかった。こうして彼は屋敷から出て行った。
すでに述べたように、彼は火のついた松明を持った家来を一人だけ先に歩ませていたが、この哀れな若者フェリーチェはモンテカヴァッロの坂道を数歩登るか登らないうちに、火縄銃で三発射たれて倒れた。暗殺者たちは、フェリーチェが地面に横たわるのを見て、彼に飛びかかり、彼が確かに死んだとわかるまで、先を争って短剣でめった突きにした。すぐにこの不幸な知らせはフェリーチェの母と妻にもたらされ、彼女たちから彼の叔父枢機卿のもとに届けられた。
枢機卿は顔色も変えず、どんなに僅かな心の動揺をも示さずに、すばやく衣服を着せてもらうと、彼自身のために、また(かくも突然召された)この哀れな魂のために、神のご加護を求めた。それから彼は姪の屋敷に赴き、感嘆すべき荘重さと、深淵のごとく静かな態度で、屋敷じゅうに聞こえ始めていた女たちの叫び声や泣き声をぴたりと抑えた。彼女たちに対する彼の威光の効果のほどは覿面《てきめん》で、それからというものは、死体が屋敷の外に運ばれる時ですら、彼女らの態度には、ごくきちょうめんな家庭で、前から死ぬのがわかりきっていた死者に対するのといささかでも違った点は見られなかったし、また聞かれもしなかった。枢機卿はというと、苦しみの兆候らしいものはほんの僅かな、ささやかなものも、見受けられなかった。彼の生活の秩序と外見には、なんの変化もなかった。ふだんなら、かくもひどい侮辱を受けた男の行動や心理の、どんなに些細な点をも好奇の目で観察するローマの人々なのだが、しかし枢機卿になんの変化も認められないことをやがて納得した。
たまたまフェリーチェの非業の死の翌日、(枢機卿の)会議がヴァティカンに召集された。少なくとも会議の最初の日は、モンタルト枢機卿もこの公務《ヽヽ》を果たすのを見合わせるだろうと考えない者は、ローマじゅう誰一人としていなかった。そこへ現われれば、それこそ、好奇心に溢れた多くの目撃者の目におのが姿をさらさねばならないのである。高い地位から更に高い地位を望む人間というものは、こういう弱点を隠しておかねばならないのに、その人間本来の弱点のどんな些細な兆候までも、人々から観察されてしまうことになるのである。他のすべての人間に抜きんでて出世しようという野心をもっている人間が、他の人間と同じ態度を示すのは、ふさわしくないことだと誰もが認めているからであろう。
しかし、こう考えた人々は二重に間違っていたのである。まず、モンタルト枢機卿は、いつものように、枢機卿会議の部屋に早目に姿を見せた。そんな彼に、どんな慧眼《けいがん》の士も、人間らしい感受性のどんなささいな兆候をも認めることは不可能であった。それどころか、かくも残酷な出来事についての慰めの言葉を彼にかけようとする同僚たちに対する返答によって、彼はみんなを驚かせた。こんなにまで堪えがたい不幸のさなかにあっても、彼の魂は確固として、いささかも動じたところが見られないと、すぐに町じゅうの話題になった。
なるほど、この枢機卿会議においても、宮廷での処世術に長じた幾人かの人々は、この外見上の無感動を、感情がないからではなく、感情を多くいつわり隠しているせいにした。こういう見方はやがて大多数の宮廷人のものとなった。なぜなら、おそらく実力者が主謀者となって与えた侮辱に、あまり深く傷つけられたという態度を示さない方が有利であったであろうし、そういう態度を示せば今後最高の地位への道が塞がれる怖れがあったからである。
見たところまったく平然としたかかる態度の原因が何であれ、一つ確実なことは、こんな態度がローマじゅうとグレゴリオ十三世の宮廷を唖然《あぜん》とさせたことである。枢機卿会議に話を戻すと、枢機卿が全員集まって教皇が部屋に入ってこられた時、教皇はすぐにモンタルト枢機卿の方に目をやられ、それからさめざめ落涙されるのが人々に見えた。枢機卿の方は、ふだんの無表情な顔つきを少しも変えなかった。
この会議で、モンタルト枢機卿が、彼の担当している用務の報告をするため、猊下《げいか》の玉座の前に進みでてひざまずいたが、報告を始めるのを許される前に、教皇が思わず激しくすすり泣かれた、その時の人々の驚きは二重に大きかった。猊下はやっと口がきけるようになられると、かかる大犯罪はすみやかに、厳しく裁かれることを約束されて、枢機卿を慰めようと努められた。だが枢機卿は猊下に対し、きわめて謙虚に感謝申し上げた後、自分としてはその主謀者が誰であれ、心からその人間を許しているとはっきり言明して、すでに起こつたことについて探索をお命じにならないようお願いした。ごく僅かの言葉で、このお願いを申し上げるとすぐ、枢機卿は、変わったことは何も起こらなかったかのように、自分の担当している用務の細部に話題を移した。
会議に出席していた枢機卿全員の目は、教皇とモンタルトの上にじっと注がれていた。宮廷人の経験豊かな目を欺《あざむ》くことは、確かに至難のわざであったが、猊下のすすり泣きを間近に拝見した時のモンタルト枢機卿の顔に、僅かでも感動が表われていたと、言い切れる者は誰一人いなかった。実を言えば、むしろ猊下の方がすっかり取り乱しておられたのである。モンタルト枢機卿の驚くほど平然とした態度は、猊下と仕事をしている間じゅうも、少しも変わらなかった。それがあまり極端なので、教皇ご自身がそれに心を打たれ、会議が終わると、彼のお気に入りの甥サン・シスト枢機卿に思わずこう言われたほどであった。
Veramente, costui e un gran frate!(本当にあいつはしたたかな坊主だわい!)〔意地悪な連中の信ずるところによれは、僧侶によく見うけられるという偽善のあてこすり〕
モンタルト枢機卿の言動は、その後もずっと変わらなかった。慣例通りに、彼は枢機卿や司教やローマの諸侯たちのおくやみの訪問を受けた。そして相手が彼とどんな関係の人物であっても、苦痛や悲嘆の言葉はいっさい洩らさなかった。誰に向かっても人生のはかなさについて短い説教をし、それを聖書や教父たちから引用した格言や聖句を使って立証し、権威づけた後で、すぐに話題を変えて、あたかも彼を慰めに来てくれた人々を逆に慰めようとでもするかのように、ふと町の噂をしたり、相手の人間の個人的な問題について話をしはじめたりした。
ローマの人々は、とりわけブラッチャーノ公でもあるパオロ・ジョルダーノ・オルシーニ公が枢機卿を訪問する時、どんな事が起るだろうかと好奇心を燃やしていた。噂では、フェリーチェ・ベレッティの死は公のせいにされていたからである。凡人たちは、モンタルト枢機卿が公と間近に対面し、差し向かいで話すことになれば、必ずや彼に、感情のなんらかの兆候が表われるにちがいないと考えていた。
公が枢機卿の屋敷に来た時、屋敷の通りや門の側には大勢の群衆が集まっており、また屋敷の部屋という部屋には、たくさんの宮廷人がみち溢れていた。それほどこの二人の対面の瞬間の顔つきを観察したいという好奇心が大きかったのである。しかしこの両者のどちらにも、なんらかの変わった点を認めた者は一人としていなかった。モンタルト枢幾卿は万事にわたり、宮廷の礼儀作法の命ずるところに従った。彼の顔つきは人目を惹くほどにこやかで、公への話しかけ方も慇懃《いんぎん》そのものであった。
そのすぐ後で四輪馬車に乗る時、パオロ公は腹心の宮廷人たちと自分だけになると、思わず笑いながら次のように言った。
In fatto, e vero che castui e un gran frate !(まったくあの男はした口たかな坊主だわい!)
あたかも数日前教皇の口から洩れた言葉が、本当であることを確認しようとする呟きでもあるかのようであった。
かかる状況のなかでのモンタルト枢機卿のふるまいは、彼の教皇の座への道を平坦にするものだと、賢明な人々は考えた。なぜなら、それが誰であれ、彼の立腹の大きな原因であるにもかかわらず、生まれつきからかあるいは徳の力によるのか、ともかく彼はその人間に害を加える手段を知らなかったし、また加えようともしなかった、という見解を多くの人々が彼についてもったからである。
フェリーチェ・ぺレッティは妻の事は何も書き遺《のこ》していなかった。彼女は実家に帰らねばならなかった。モンタルト枢機卿は彼女の出発前に、衣服や宝石など、彼女が彼の甥の嫁《よめ》であった期間に貰った贈り物をほとんどすべて、彼女に届けた。
フェリーチェ・ぺレッティの死後三日目に、ヴィットリアは母を伴って、オルシーニ公の館に行き、そこに腰を落ち着けた。ある人たちは、彼女らは身の安全のためにかかる行動に及んだのだと言った。警察《ヽヽ》が犯された殺人に合意《ヽヽ》していたか、少なくとも犯行以前にそれを知っていた疑いがあるとして、彼女らを脅かしているふしがあったからである。他の人々は、ヴィットリアに夫がいなくなれば、すぐに結婚すると公が彼女に約束していたので、その約束を履行するため、彼女らはかかる行動に及んだのだと考えた(後日の事件がこの考えの正しいことを証明しているように思えた)。
いずれにしても、その当座もそれから後も、みんなはありとあらゆる人間に疑いをかけてみたのだが、フェリーチェを殺した主謀者は、はっきりとわからなかった。しかしたいていの人々は彼の死をオルシーニ公のせいにしていた。みんな、彼がヴィットリアに夢中になっていたことを知っていた。彼はまぎれもないその証拠を幾つも残していた。突然の結婚もその大きな証拠であった。女性の方がずっと低い身分であるにもかかわらず、ただ抑えがたい恋の情熱のみが、対等の結婚〔オルシ―ニ公の最初の妻は、トスカ―ナ大公、フランチェスコ一世とメディチ家のフェルディナンド枢機卿の姉妹で、二人の間にヴィルジニオという息子があった。公は彼女を密通の科で、彼女の兄弟たちの同意を得て殺害した。こういうのが当時の夫の名誉を守る掟であって、スペイン人によりイタリアにもたらされたものである。女性の非合法的な恋愛は、彼女の夫並びに兄弟の名誉を傷つけるものとされていた〕に彼を踏み切らせたのである。
洞察力のない連中といえども、ローマ総督に宛てられた一通の手紙によって、かかる見方を少しでも変えた者はいなかった。血気盛んな若者で、ローマから追放されていたチェーザレ・バランティエーリの名前で書かれてあるこの手紙は、事件後数日してばら撒かれたものである。
この手紙の中でバランティエーリは、高名なる閣下におかせられては、フェリーチェ・ぺレッティの殺人の主謀者をよそにお求めになるには及ばない、なんとなれば、少し前、二人の間に惹起したある確執のため、小生自身が彼を殺させたのだ、と述べていた。
多くの人々は、この殺人はアッコランボニ家の同意なしに行なわれたのではないと考えた。誰か有力で金持ちの公爵と姻戚関係になりたいという野心にかられたのだろうと、人々はヴィットリアの兄弟たちを非難した。不幸なフェリーチェを外出させる仕儀となった証拠の手紙のゆえに、とりわけマルチェロを非難した。ヴィットリアが夫の死後すぐに、未来の妻としてオルシーニ家の館に行って住むことに同意したと知らされると、人々はヴィットリア自身の悪口も言った。しばらくの間でもなんらかの関係がなければ、このようにまたたく間に、公の許へ走って行くなど、とても考えられるものではないと人々は主張した。
この殺人に関する調査は、グレゴリオ十三世の命により、ローマ総督ポルティチ卿の手でなされた。この結果、警察《ヽヽ》に逮捕された|左利き《ヽヽヽ》というあだ名のドミニコが、一五八二年二月十四日の二回目の訊問の時、拷問《ヽヽ》にもかけられないのに、白状したことだけがわかっている。
≪ヴィットリアの母がいっさいの原因であった。彼女はボローニヤ出身の侍女《ヽヽ》の助けを借りたのだが、侍女の方は殺人の直後に、ブラッチャーノ城砦(オルシーニ公の所有で、警察《ヽヽ》の手も及はなかった)へ逃げ込んだ。殺人を実際に行なったのはマキオーネ・ディ・グッビオとパオロ・バルカ・ディ・ブラッチャーノというさる貴族の兵士《ヽヽ》で、この貴族の名前は、当然の理由から記載されなかった≫
この|当然の理由《ヽヽヽヽヽ》に加うるに、たぶんモンタルト枢機卿の頼みもあったのであろう。彼は繰り返し探索がそれ以上のびないように要求していたし、また事実、訴訟はもう問題にならなかった。|左利き《ヽヽヽ》は、まっすぐ故郷に帰ること、さもなければ死刑に処せられるべし、特別の許可なくして故郷を離れることを禁ず、という教令《ヽヽ》を受けて牢獄から釈放された。この男の釈放は一五八三年のサン・ルイの日のことで、この日はまたモンタルト枢機卿の誕生日であったから、こういう事情のため、枢機卿の頼みにより、この事件もこういうように落着したのだという私の確信もますます強まってくるのである。グレゴリオ十三世のような弱体の政府の下にあって、もしこのような訴訟事件をおこしたならば、きわめて不愉快な、償《つぐな》いようのない結果をもたらしかねなかったことであろう。
警察《ヽヽ》の動きはこうして中止されたが、グレゴリオ十三世はブラッチャーノ公パオロ・オルシーニ殿下で、アッコランボニ未亡人と結婚するのを承認しようとはしなかった。猊下は未亡人に蟄居《ちっきょ》を課した後、彼および彼の後継者の特別の許可なくして、互いに結婚の契約をしてはならぬという教令《ヽヽ》を殿下と未亡人に与えられた。
グレゴリオ十三世が逝去されると(一五八五年の初め)、パオロ・オルシーニ公から相談を受けた法学博士たちが、教令《ヽヽ》はそれを発した方の逝去によって無効になると思うと答えたので、公は新教皇の選挙前にヴィットリアと結婚する臍《ほぞ》を固めた。しかし結婚は公の望むようにすぐには実現しなかった。一つには、彼がヴィットリアの兄弟たちの同意を望んでいたのに、フォッソンブローネの司教オクタヴィオ・アッコランボニは断じて同意しようとはしなかったし、また一つには、グレゴリオ十三世の後継者の選挙が、そんなに早く行なわれるとは、人々も思っていなかったからである。実を言えば、この結婚は、この事件にたいへん関係の深いモンタルト枢機卿が教皇になられたのと同じ日、すなわち一五八五年四月二十四日になって、やっと実現したのである。それが偶然の結果なのか、あるいほグレゴリオ十三世の時に怖れなかった警察《ヽヽ》を、新教皇の下でも自分は怖れないのだということを、公が見せびらかしたかったのかどうか、それはわからない。
この結婚はシクストゥス五世(これがモンタルト枢機卿の選んだ名前である)の魂を深く傷つけた。彼はすでに一介《いっかい》の僧侶にふさわしい考え方を捨てていた。そして神の命によって就任したばかりの高い地位にふさわしい高邁《こうまい》な魂をもっていた。
しかし教皇は怒っているようには少しも見えなかった。ただオルシーニ公はその日、教皇の足に接吻するため、大勢のローマの貴族たちと一緒に出席して、聖なる父教皇の顔色のなかに、いままで正体のわからないこの人物に期待してよいものか、それとも怖れねばならぬものかを読み取ろうという秘かな意図を抱いていたので、もはや冗談を言っている時期ではないことを悟った。新教皇は奇妙な仕方で公をじっと見詰め、公が彼に言上した挨拶に一言も答えなかったので、公は彼に対する猊下の意図がどこにあるのかをただちに探ってみる決心をした。
メディチ家の枢機卿(彼の最初の妻の兄弟)フェルディナンドとスペイン大使を介して、彼は教皇の居間での謁見をお願いして、許された。そこで彼は猊下に十分計算済みのお話を申し上げ、過ぎた事には触れず、新しく教皇になられたことを猊下と共にお喜びすると同時に、きわめて忠実なる臣下並びに下僕として、自分の所有物および勢力をすべてお役に立ててくださるよう申し出た。
教皇〔シクトゥス五世は一五八五年、六十八歳で法王となり、五年四か月君臨した。彼にはナポレオンと著しく似たところがある〕は異常なほど真剣に彼の言葉に耳傾けていたが、最後に、自分ほどパオロ・ジョルダーノ・オルシーニの生活と行動が、将来とも、オルシーニ家の血統と真のキリスト教徒の武人としてふさわしくあることを望んでいる者はない。殿下が過去、聖座に対しまた教皇個人に対してどう思つていられたかは、殿下自身の良心以上に知っている者はおりますまい。けれども殿下にとってただ一つ確かなことは、殿下がフェリーチェ・ぺレッティおよびモンタルト枢機卿としてのフェリーチェに対してなされたことは、自分は心から許すけれども、将来教皇シクストゥスに対してなされるかもしれないことは、断じてこれを許さないであろう。したがって殿下が現在まで隠れ家を提供しておられる盗賊(国外追放者)や悪人どもをすべて、殿下の屋敷や領地から即刻追放されるようお薦《すす》めする。新教皇はそう答えた。
シクストゥス五世がしゃべるときは、彼がどんな調子を採るにしても、その調子には独特な効果があった。彼が苛立《いらだ》ち、威嚇的《いかくてき》になっている時には、その目はさながら電光を放っているかのようであった。確かに言えることは、いつも歴代の教皇から怖れられるのに慣れていたパオロ・オルシーニ公は、十三年の間、これと同じようなことを一度も聞いたことがないので、こんな教皇の話し方に接して、自分の困難な立場を真剣に考えざるをえなかった。そこで猊下の御殿を出ると、すぐメディチ家の枢機卿のもとに駆けつけて、いましがた起こつたことを語った。それから枢機卿の忠告により、一瞬の躊躇《ちゅうちょ》もせずに、自分の館や領地にかくまっている前科者みんなに暇を出す決心をした。そしてできるだけ早く、何かまともな口実を設けて、かくも決然たる教皇の権力の及ぶ地域から、ただちに退出しようと考えた。
パオロ・オルシーニ公が異常に太っていたことを知っておく必要がある。彼の脚は普通の人間の胴体よりも太く、この巨大な脚の一方は雌狼《ヽヽ》という名の病名に罹《かか》っていた。こんな名前で呼ばれたのは、患部に多量の新鮮な肉を貼《は》って、病気に滋養分を与えねばならなかったからである。さもなければ気分が荒《すさ》んで、貪《むさぼ》るべき死肉がないと、周囲の生きた肉に飛びかかるかもしれなからである。
公はこの病気を口実にして、ヴェネチア共和国の従属国であるパドヴァの近くの有名なアルバノの温泉に行った。彼は六月半ば頃、新妻と一緒に出発した。アルバノは彼にとって安全な避難所であった。何年も前から、オルシーニ家はヴェネチア共和国と相互援助の同盟を結んでいたからである。
この安全な国に着いたら、数日の滞在を楽しもうと、公はそれしか考えなかった。そしてこの目的で三つの豪壮な館を借りた。一つはヴェネチアのゾァッカ通りにあるダンドーロ邸で〔ダンド―ロ家はヴェネチアの最も有名な家柄の一つ〕ある。二つ目はパドヴァで、アレーナという名の素晴らしい広場に面したフォスカリーニ邸で〔フォスカリ―ニ家もヴェネチアの古い名家〕ある。彼は三番目のをサロのガルダ湖の風光絶佳の岸辺に選んだ。この屋敷は昔スフォルツァ・パァラヴィチー二家のものであった。
ヴェネチア(共和国政体)の貴族たちは、自国に誰か殿下が来たのを知ると喜んで、|軍の統率費《ヽヽヽヽヽ》(毎年支払われる相当な金額で、その殿下が他日指揮する二、三千人の軍隊を召集するのに使われることになっていた)を献上するとすすんで申し出た。公はこうした申し出をすばやく処理した。彼はこれら元老議員に、生来のおよび家伝来の気質から、静謐《せいひつ》この上もなきヴェネチア共和国のために心からお役に立ちたいと感じてはいるが、現にスペイン国王に仕えている身であってみれは、他国との誓約を結ぷことは適当でないように思える、と答えた。この決然たる返答に、元老議員たちの気持ちがいくぶん冷めてしまった。最初彼らは、公がヴェネチアに到着すれば、全民衆の名において彼に敬意を表し、歓迎会を催すことを考えていたのだが、この返答をきいて、ただの個人として勝手に来させることに決めてしまった。
オルシーニ公はこうした情報をすっかり知ると、ヴェネチアにも行かない決心をした。彼はすでにパドヴァの近くに来ていたのであるが、この素晴らしい国で迂回して、徒者をみんな引き連れ、サロのガルダ湖の岸辺に彼のため準備された館に赴いた。彼はそこで、この上なく快適で、しかも変化に富んだ気晴らしをして、その夏をずっと過ごした。
滞在地を替える時期がやってきたので、公は幾つかの小旅行をしたが、その結果、昔のように疲労に堪えられなくなっているように思えた。自分の健康が心配になってきた。とうとうヴェネチアに行って数日過ごそうと考えた。だが、妻のヴィットリアはそれを思い留まらせた。彼女はサロでの滞在を続けるよう薦めた。
ヴィットリア・アッコランボニが、サロに留まるように夫の公爵に薦めたのは、夫の命が危険なことに気づいていて、イタリアの国外へ、たとえばスイス人たちのどこか自由な町へ夫を連れ出す計画を抱いていたからにほかならぬ、と考える人々がいた。こうすれば、公が死んでも、彼女の身柄および彼女個人の財産が安全だったからである。
この推測に根拠があるかどうかはともかくとして、実際はそうした事態は起こらなかった。十一月十日、公はサロで再び不快となり、即座に、自己の来たるべき運命を予感した。
彼は不幸な妻を憐んだ。花の盛りに、数々の天の恵みを受けながら、それに劣らぬ数々のつまらぬ評判をたてられ、イタリアの有力な諸候たちには憎まれ、オルシーニ家の人々にもあまり愛されず、自分の死後再び結婚できる希望もなしに、一人取り残される彼女の姿が目に浮かぶのである。豪腹で信義に厚い貴族らしく、彼は彼自身の気持ちから遺書を作って、この不幸な女性のしあわせを保証しようとした。彼は彼女に、この旅行で彼が使用したすべての馬、四輪馬車、家具類以外に、現金と宝石で十万ピアストルの莫大な額を遺した。それ以外の残りの財産はすべて彼の一人息子ヴィルジニオ・オルシーニに遺された。この人は、トスカーナ大公フランチェスコ一世〔一五四一年フィレンツェで生まれ、一五八七年同地で死す。メディチ家の出身。フィレンツェで独裁政治を始めたコシモ一世の息子。一五七四年から一五八九年まで、父の後を継いでトスカ―ナ大公となる〕の姉妹である彼の最初の妻(不義の罪により、彼女の兄弟たちの同意を得て、彼が殺させた女)との間にできた子供である。
けれども人間の予想ほどあてにならないものはない。パオロ・オルシーニが、不幸な若い妻の安全を完璧《かんぺき》に保証するはずだと考えたこれらのもろもろの措置が、かえって彼女のためには危険と破滅に変わったのである。
遺書に署名をすませると、公の容態は十一月十二日に少し良くなった。十三日の朝には刺賂《しらく》してもらった。厳しい節食をするしか望みはないので、医者たちはどんな食物も取らないよう、きっちりとした、事細かな処法を残していった。
医者たちが部屋から出るやいなや、公は食事を出すよう要求した。あえて彼に反対する者は一人としていなかったので、彼はふだん通り飲み食いした。食事が終わるとすぐ彼は意識を失い、日没二時間前に死んだ。
この突然の死の後、ヴィットリア・アッコランボニは、彼女の兄弟マルチェロと故公爵の取巻き達を全部引きつれて、パドヴァの、アレーナの近くにあるフォスカリーニ邸に赴いた。オルシーニ公が借りておいた館である。
彼女が到着すると間もなく、ファルネーゼ枢機卿の寵愛を一身に集めていた彼女の兄弟フラミニオが一緒になった。そこで彼女は、夫が彼女に贈った遺産を支払ってもらうに必要な交渉に専念した。この遺産は現金で六十万ピアストルにものぼり、二年後に支払われることになっていた。しかも持参金や、婿引出の金や、彼女の自由になるすべての宝石・家具類はそれとは別だった。オルシーニ公はその遺言の中で、ローマか、あるいは公爵夫人の選んだどこか他の町で、一万ピアストルの値打ちの館と六千ピアストルの葡萄園(別荘)を、彼女のために買うよう命じておいた。その上彼女の食事および他のいっさいの必要をまかなうのに、彼のごとき身分の者の妻に恥ずかしくないだけの給与が受けられるようとりしきっておいた。彼女に仕える召使の数は四十人でなければならず、またそれに相当する数の馬も必要であった。
ヴィットリア夫人はフェララ、フィレンツェ、ウルビノの諸候の好意および故公爵から遺言執行人に指名されたファルネーゼ枢機卿やメディチ家の枢機卿の好意に、おおいに希望を寄せていた。この遺言書がパドヴァで作製されたこと、その解釈に当たっては、きわめて卓越せるパリッツォーロとメノッキオの学識を仰ぐことになっていたのが注目される。この二人は、当時パドヴァ大学一流の教授であり、今日でも有名な法学者である。
ルイ・オルシーニ公は、故公爵およびその未亡人に関してなさねばならぬことを済ませ、その足で、静謐この上なきヴェネチア共和国から任命されていたコルフー島〔イオニア海岸のギリシアの島〕の政庁に赴くためパドヴァに到着した。
まず最初に、ヴィットリア夫人とルイ公との間で、故公爵の馬のことで悶着が生じた。公は、馬は普通の言葉使いによれば、いわゆる家具類には入らないと述べた。これに対し公爵夫人は、馬もいわゆる家具と見倣《みな》されねばならぬと証言した。そこで最終的決定まで、彼女が馬の使用を控えるよう決められた。彼女は、ヴェネチア貴族たちの傭兵隊長で、富豪の紳士であり、故郷でも一流人物であるリアルディ・ディ・べルガモ卿を保証人とした。
相当数の銀の食器類のことでも悶着が起こった。故公爵が借金の|かた《ヽヽ》に、ルイ公に渡しておいたものである。いっさいが裁判によって決められた。フェララ殿下(公爵)が、故オルシーニ公の最後のもろもろの措置が安全に執行されるよう尽力されたからである。
この二番目の事件は十二月二十三日に解決したが、この日は日曜日であった。
次の晩、前記のアッコランボニ夫人の館に四十人の男たちが闖入《ちんにゅう》してきた。彼らは異様な裁ち方をしたリンネルの衣服を着ていた。声を出さないと誰だかわからないように作り変えてあった。そして互いに呼び合う時は幾つかの隠語を使っていた。
彼らはまっ先に公爵夫人を探した。彼女を見つけると彼らの一人が、「さあ、死んでいただきます」と彼女に言った。
彼女が自分のために神のご加護を求めさせて欲しいと頼んだにもかかわらず、一瞬の猶予も与えずに、彼女の左腕の下に細身の短剣を突き刺し、四方八方に短剣を動かしたあげく、この残忍な男は、短剣が彼女の心臓に届いたかどうか告げるよう、何度もこの不幸な女性に要求した。ついに彼女は最後の息を引き取った。この間に他の連中は、公爵夫人の兄弟たちを探した。兄弟の一人マルチェロは無事であった。屋敷にいなかったからである。もう一人の兄弟はめった突きにされた。暗殺者たちは、屋敷じゅうの阿鼻叫喚《あびきょうかん》のうちに、死体を地面に打ち棄てたまま、宝石や金のはいっている小箱を掴んで立ち去った。
この知らせはすぐにパドヴァの司法官たちの所に届いた。彼らは死体を確認させ、ヴェネチアに報告した。
月曜日は一日じゅう、死骸を見るため、前記の館と|エレミターニ《ヽヽヽヽヽヽ》教会〔パドヴァのエレミタ―ニ広場にある〕にたくさんの群衆がやってきた。野次馬たちは、かくも美しい公爵夫人を見て、ことのほか同情の念に心を動かされた。彼女の不幸に涙し、暗殺者たちに対して|歯ぎしりした《ヽヽヽヽヽヽ》。しかしまだ彼らの名前はわからなかった。
警察は幾多の手掛りから、この事件は前記のルイ公の命令か、少なくともその同意を得て行なわれたとの疑いをもったので、彼を出頭させた。ルイ公の方は、武装した部下四十人を引き連れて、法廷に入ろうとしたので、法廷は門に閂《かんぬき》を差し、ただ三、四人の部下だけを連れて入るよう命じた。だがこの三、四人の部下が入る時、他の連中も続いて躍り込み、衛兵たちを押し除け、一人残らず入ってしまった。
ルイ公は高名なる長官の前に出ると、かかる屈辱的な取り扱いに不満を述べ、いかなる君主からも、このような待遇を受けたことはないと言いたてた。高名なる長官が、ヴィットリア夫人の死と前夜起こつた事に関し何か知っているかと尋ねると、知っている、自分がそれを司法当局に報告するよう命じたのだと答えた。彼の返答を書き留めておこうとすると、自分のような地位の人間はそんな手続きを踏む必要はない、同様にまた訊問されるいわれもないと反駁した。
ルイ公はヴィルジニオ・オルシーニ公に、訴訟とこの突発的な犯罪の報告をするため、彼宛ての書状を携えた飛脚を、フィレンツェへ派遣する許可を求めた。彼は本物のかわりにおとりの手紙を示し、要求を認められた。
しかし派遣された男は町を出ると捕えられ、入念な身体検査を受けた。ルイ公が先に示した手紙と、飛脚の長靴に隠してあった二つ目の手紙が見つかった。二つ目の手紙は次のような内容であった。
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ヴィルジニオ・オルシーニ殿
拝啓 われらが間にて取り決めし事、見事に敢行したれば、かの高名なるトンディーニ(明らかに公を訪問せる警察《ヽヽ》長官の名前)もまんまと欺かれ候。よって予は当地では、世にも信義を重んずる人物と思われおり候。予みずから事を決行せり。必ずやご貴殿ご存じの連中を即刻ご派遣くだされたく候。
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この手紙は司法官たちに強い印象を与えた。彼らは急いでこの手紙をヴェネチアに送った。彼らの命令で町の城門は閉ざされ、城壁には昼夜をわかたず兵隊が配置された。暗殺者を識りながら、司法当局に通知しない者に対する厳しい刑罰の載った布告が発表された。暗殺者のうちで、仲間の誰かに関する証言をする者は追求されず、のみならず褒美の賞金が与えられるというのである。クリスマス前夜の七時頃(十二月二十四日の真夜中頃)、アロイーゼ・ブラガディーネが元老院から広い権限と、生死にかかわらず、いかなる犠牲を払っても、前記のルイ公およびその一味を逮捕すべしとの命令を受けて、ヴェネチアから到着した。
前記のブラガディーネ卿と警察長官および行政長官が城砦に集まった。
歩兵並びに騎兵の全軍隊に、十分なる武装をして上記ルイ公の屋敷に赴くよう、しからざる時は絞首刑《ヽヽヽ》に処せらるべし、との命令が出た。公屋敷は城砦の近くにあり、|アレーナ《ヽヽヽヽ》広場のサン・アゴスティーノ寺院に隣接していた。
その日(ククスマス当日)になると、布告が出され、サン・マルコ〔ヴェネチアのサン・マルコ広場にある大寺院〕の氏子《うじこ》たちに、武装してルイ公の屋敷に駆けつけるよう督励した。武器のない者は城碧に呼ばれ、望むだけの武器が手渡されることになった。この布告は、前記ルイ公を生死にかかわらず、警察《ヽヽ》に引き渡した者に二千デュカ、彼の一味一人の身柄につき五百デュカの褒美を約束していた。その上武器をもたぬ者は公の屋敷に近づいてはならぬとの命令が出た。公が出撃するのが適当と判断した場合、味方の戦士の邪魔にならないための措置である。
同時に古い城壁の上には城砦用の小銃、臼砲、大砲が公の占有する屋敷に向かって配置された。新しい城壁にも同じものが据えられたが、この城壁からは前記の屋敷の背面が見えた。この方面には、必要な場合、自由に移動できるよう騎兵隊が配置されていた。河の岸辺では、ベンチや箪笥《たんす》や椅子《いす》や、その他胸壁の代わりをするに適した家具類を列べるのに人々が忙殺された。包囲された連中が、密集隊形をとって、民衆に向かって進撃を企てても、こうしておけば、彼らの動きを封じられると考えられたからである。この胸壁はまた、攻囲されている連中の火縄銃の射撃から、砲兵や兵隊を援護するのに役立つに違いなかった。
最後に公の屋敷の正面および両側の河の上に、船が配置された。これらの船上には、敵が出撃を試みる場合、彼らを悩ますに適当なマスケット銑や他の武器で武装した人々が乗っていた。また町じゅうの通りという通りにバリケードがつくられた。
これらの準備をしている間に、丁重を極めた言葉で綴《つず》られた一遍の手紙が届けられたが、この手紙の中で、ルイ公は、事件の調査もされずに、自分が有罪と判断され、敵として、更に、反逆者として扱われることの憤懣を訴えていた。この手紙はリヴェトロの作製したものである。
十二月二十七日、町の有力者である三人の貴族が、司法官たちからルイ公に派遣された。ルイ公は屋敷の中に四十人の部下たちと一緒にいたが、彼らはみんな武器の扱いに手慣れた退役兵士であった。彼らは杯や濡《ぬ》れた藁蒲団《わらぶとん》でつくつた胸壁で、防備を強化したり、火縄銃の準備をするのにかかっていた。
三人の貴族は公に、司法官が公の身柄の逮捕を決めたと申し渡した。彼らは公に降服を薦《すす》め、暴力行為に訴える前に降服すれば、司法官から何がしかの慈悲が望めるかもしれぬと付け加えた。
それに対しルイ公は、何を措いてもまず、屋敷の周囲に配置された番兵を撤退させるなら、自分は事件の交渉に、部下二、三人を連れて司法官のもとに出頭するつもりである、ただしいつでも自由に屋敷に帰れるという特別の条件を認めていただきたいと答えた。
使節たちは、ルイ公自身の手で書かれたこれらの堤案を携えて司法官のもとに帰ってきたが、司法官たちは、なかでも高名なピオ・ミネアと、その場に居合わせた他の貴族たちの助言に従って、これらの条件を拒否した。使節たちは再び公のもとに行き、無条件降服をしなければ、公の屋敷は大砲で破壊されるだろうと通告した。それに対して公は、そんな降服をするぐらいなら、死んだ方がましだと答えた。
司法官たちは戦闘開始の合図をした。そして一回の一斉射撃で、ほとんど完全に屋敷を破壊することもできたのであるが、包囲された連中が降服に同意するかどうかを見届けるため、最初は多少手心を加えて攻撃する方針が選ばれた。
この方針は成功した。攻撃された屋敷の破壊された部分を建て直すとすれば、多額の金が費やされたであろうが、サン・マルコはそれをせずに済んだのである。しかしながらこの方針は、必ずしもみんなに承認されたわけではなかった。もしルイ公の部下たちが、ためらうことなく、断固とした決意のもとに、屋敷の外に打って出ていたら、この成功もきわめておぼつかなかったであろう。彼らは退役の兵隊だった。糧食も武器も勇気も不足していなかった。彼らはとりわけ勝つことに最大の興味を寄せていた。最悪の場合を仮定しても、死刑執行人の手にかかるよりは、火縄銃で射たれて死んだ方がましであった。それに彼らはいったい誰を相手にしているのか。武器の操作にほとんど経験のないでくのぼうの攻囲軍である。この連中が外に打って出ていたならば、政府軍の貴族たちも、自分らの寛仁さと生来の人の良さを後悔したことであろう。
さて屋敷の前面上部にある列柱の砲撃が始められた。それからしだいに射撃が激しくなって、後正面の壁が破壊された。この間ずっと、屋敷内の連中は火縄銃を猛烈に射ちまくっていたが、民衆の一人の肩を傷つけた以外、なんの戦果もなかった。
ルイ公は血気にはやって、「戦闘だ! 戦闘だ! 戦え! 戦え!」と叫んでいた。彼は錫《すず》の皿や鉛《なまり》の窓粋を溶かして弾丸を造るのに大わらわであった。彼は今にも出撃せんばかりの勢いであったので、攻囲軍は新たな手段を講じて、もっと口径の大きな大砲を前面に押し出した。
その大砲の最初の一発で、屋敷の大部分がふっ飛んでしまった。そしてパンドルフォ・レウプラッティ・ディ・カメリーノとかいう男がその残骸の中に倒れた。彼は豪勇の人物であり、盗賊の中でも重きをなしていた。ローマ教会支配下の国々から追放され、その首には、ヴィンチェント・ヴィテッリを殺した科《とが》で、かの高名なヴィテッリ卿から四百ピアストルの賞金が賭《か》けられていた。このヴィンチェント・ヴィテッリは、前述のパンドルフォとその仲間の手で、馬車の中で攻撃され、ルイ・オルシーニ公が与えた火縄銃や短剣で襲われて殺されたのだった。墜落してすっかり目を回してしまったパンドルフォは、身動き一つすることができなかった。カイディ・リスタの殿ばらのさる従僕が、ピストルをかまえて彼の方に進み出で、勇敢にもその首をはね、急ぎ城砦に持ち帰り、司法官たちに手渡した。
間もなく、大砲をもう一発射つと、屋敷の壁面の一部が落ち、同時にモンテメリーノ・ディ・ペルーゼ伯が倒れた。彼は砲弾にこなごなに粉砕され、建物の残骸の中で死んだ。
ついでカメリーノ家の貴族の一人で、ロレンツォ大佐と呼ばれる人物が屋敷から出てくるのが見えた。大富豪であり、幾多の機会に勇武のほどを示し、ルイ公から高く評価されている人間である。彼は全然復讐もせずに死ぬことだけは絶対すまいと決心していた。彼は小銃の引き金を引こうとした。歯車が回ったのに〔この銃は歯車式引き金の火縄銃のことで、引き金を引くと歯車が回って発火する〕、神のお蔭であろうか、火縄銃は発火せず、その瞬間に彼の身体は弾丸に打ち抜かれた。この弾丸を射ったのは、サン・ミケルで生徒の復習教師をしているつまらぬ男である。約束の褒美を手に入れようと、この男が大佐の首をはねるべく近づく間に、彼より素早く、とりわけ彼より強い連中が先を越して、大佐の財布、革帯、小銃、金銭、指輪を取り上げ、その首をはねてしまった。
最も信頼をよせていたこれらの連中が死んだので、ルイ公はひどく動転したまま、もはやなす術も知らなかった。
彼の執事《ヽヽ》で、平服の秘書フィレンフィ氏は、露台から白いハンカチで降服の合図をした。彼は屋敷の外に出、閣下たち(司法官たち)の副官であるアンセルモ・シュアルドによって、戦争ではそれがしきたりだと言われているのだが、|腕をかかえて案内され《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》城砦に連行された。
その場で訊問を受けると、起こった事件について自分は何の罪もない、自分はクリスマスの前日にやっとヴェネチアから着いたばかりで、ルイ公の用事で、数日ヴェネチアに滞在していただけであると述べた。
公はどのくらいの人間と一緒にいるのかと尋ねられると、「二、三十人」と、彼は答えた。
それらの連中の名前を尋ねられると、肩書のある人物として、自分と同様に公の食卓で食事をするのは八人ないし十人おり、それらの名前は知っているが、渡り者の生活をしていて、ごく最近、公のもとにやって来た他の連中とは、特別な面識は少しもない、と答えた。
彼は十三人の名前を挙げたが、それにはリヴェロトの兄弟も一人含まれていた。
やがて間もなく、町の城壁に配置された大砲が唸《うな》り始めた。公の屋敷に隣接している家々には、公の部下の逃亡を防ぐため、兵隊たちが配置された。今しがたその死にざまが語られた二人の男と同じ危険を冒していたルイ公は、周囲の者たちに、ある目印を添えた自分の自筆の書き物を見るまでは持ちこたえるように命じた。そうしておいて彼は、上述したアンセルモ・シュアルドのところへ赴いた。たくさんの群集と町じゅうの通りに築かれたバリケードのため、命令通りに彼を四輪車で連行することができないので、一同は彼を歩かせることにした。
彼はマルチェロ・アッコランボニの部下に囲まれて歩いた。彼の両側には|傭兵隊長たち《ヽヽヽヽヽヽ》、シュアルド副官、他に指揮官たちや町の貴族たちが皆しっかりと武器を携え、付き従った。その後には町の武装した男たちや兵隊たちが優に一箇中隊ほど続いた。ルイ公は褐色の服を身につけ、細身の短剣を脇腹に吊り下げ、外套をいとも伊達《だて》に二の腕まで、捲《まく》り上げて歩いた。彼は軽蔑を湛えた微笑を浮かべて、自分が勝っていたのにと言わんばかりに、「|おれがもし戦って《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》|いたら《ヽヽヽ》!」と叫んだ。司法官たちの前に連れ出されると、彼はすぐ敬礼し、アンセルモ卿を指さして、「皆さん、私はこの方の捕虜です。起こったことははなはだ遺憾ですが、私のせいではありません」と、述べた。
長官が彼の脇腹に吊り下げている細身の短剣を取り上げるよう命じると、彼は露台に倚りかかり、そこにあった鋏《はさみ》で爪を切り始めた。
彼の屋敷にどんな人物がいるかと尋ねられると、なかでも、前述したリヴェロト大佐とモントメりーノ伯の名前を挙げ、前者を取り戻すためには一万ピアストルを投げ出すだろうし、また後者のためには自分の血でも与えるつもりだ、と付け加えた。彼は自分のような男にふさわしい場所に坐らせてほしいと要求した。これが認められると、彼は手ずから部下に手紙を書き、降服するように命じ、その印に自分の指輪を添えた。彼はアンセルモ卿に自分の剣と小銃を譲ると述べ、もし屋敷で彼の武器が見つかったなら、どうか誰か名もない兵士の武器としてではなく、紳士の武器として使ってほしいと頼んだ。
兵隊たちは屋敷に入り、念入りに捜索して、その場で公の部下たちの点呼をしたが、その数は三十四人に及んだ。部下たちはそれから二人ずつ宮殿の牢獄に連行された。死んだ者は打ち棄てられて犬の餌食となった。そしていっさいが急遽ヴェネチアに報告された。
事件の共犯者であるルイ公の兵士の多くがいなくなっていることが判明した。彼らに隠れ家を提供することが禁じられ、違反者は家を取り壊きれ、財産を没収されることになった。彼らを訴人する者には五十ピアストル与えられることになった。こういう手段で多くの者が見つけられた。
ヴェネチアからカンディア〔クレタ島の北海岸にあるギリシアの港〕に警備艇が派遣され、重大事件のため即刻帰国せよとの命令が、ラティーノ・オルシーニ卿に届いた。彼は解任されるものと信ぜられている。
昨日の朝、サン・テティエンヌの日だったが、前述のルイ公の死が見られるか、それとも牢獄で絞殺されたという話が聞かれるか、とみんな期待していた。だから、彼はいつまでも籠《かご》の中に入れておくべき鳥ではないという理由で、そんな事態の起こらなかったことに、人々は一様に驚いた。しかし次の晩、裁判が行なわれ、サン・ジャンの日の夜明け少し前に、ルイ公が絞殺されたこと、彼が従容《しょうよう》として死についたことを人々は知らされた。死体はただちに大伽藍《だいがらん》に移され、この寺院の聖者とジェジュイットの神父たちが付き添った。死体は、民衆の見世物となり未熟者の鏡となるべく、一日じゅう寺院の中央のテーブルの上に置いておかれた。
その翌日、彼が遺書のなかで命じておいたように、死体はヴェネチアに運ばれ、そこで埋葬された。
土曜日には、彼の二人の部下が絞首刑になった。はじめの、主だった方のはフュリオ・サヴオルニャーノであり、彼は下賤の者であった。
この年の終わりから二番目に当たる日の月曜日には、十三人の者が絞首刑になったが、そのうちの幾人かは身分の高い者であった。ほかに二人、一人はスプレンディアーノ隊長といい、他はパガネッロ伯といったが、広場を通って連行され、軽い鉄火責めを受けた。刑場に着くと撲殺され、頭を割られたが、まだ息があったので四つに切断された。これらの男たちも身分が高かった。そして悪事に耽《ふけ》るまでは大金持ちであった、パガネッロ伯は、先にも述べたように残酷な仕方で、ヴィットリア・アッコランボニ夫人を殺害した当人だと言われている。それに対し、ルイ公が上に引用した手紙の中で、彼みずからの手で事を決行したと証言しているではないかと異議を申し立てる人もいるが、たぶんそれも彼がヴィットリアを暗殺させた時にローマで示したような見栄からか、それともヴィルジニオ・オルシーニ公の好意にもっとあずかろうとの魂胆《こんたん》からであろう。
パガネッロ伯は致命傷をうけるまでに、ちょうど彼が哀れな夫人にしたように、彼の心臓に届けとばかりに左胸の下をナイフで何度も繰り返し抉《えぐ》られた。そのため彼の胸からは、血の河のようなものが流れ出た。みんながたいそう驚いたのだが、彼はこんな状態で三十分以上も生きていた。おおいに気力のほどを示した四十五歳の男である。
次の祭日でない最初の日に、残りの十九人を片づけるべく、絞首台はまだ設けられている。しかし死刑執行人が極度に疲労しており、また民衆もあんまり多数の死人を見すぎて、うんざりしているので、この二日間は死刑の執行が延期されている。誰か一人でも助かるとは考えられない。ルイ公に属していた人々のなかで、彼の執事《ヽヽ》のフィレンフィ氏だけがおそらく例外となるであろう。彼は事件に少しも関係なかったことを証明するため悪戦苦闘しているが、実のところ、事態は彼にとって容易ならないものとなっている。
パドヴァの町の最年長の人々の間ですら、かつてこれほど正しい判決によって、一度に多くの人命が処断されたことをおぼえている者は一人もいない。かくて《ヴェネチアの》司法官たちは、最も文明の進歩せる国に対し、良き評判と名声を獲得したのである。
(他の筆跡による追加)
秘書兼|執事《ヽヽ》フランチェスコ・フィレンフィは十五年の入牢の判決をうけた。|お酌係り《ヽヽヽ》のオノリオ・アダミ・ディ・フェルモは他の二人と共に、一年の入牢を言い渡された。他の七人は足に鎖をつけて徒刑場送りとなり、最後に七人が釈放された。(完)
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解説
人と作品
スタンダールはすでにあまりにも偉大な存在です。地球上のどの国のどの人が『世界十大小説』というたぐいの選をしても「赤と黒」または「パルムの僧院」がそのなかにあげられないためしはないでしょう。二十世紀の各国の人々からひとしく読まれ親しまれ、そしてどんな人々にも深い幸福感という名の喜びを与えている大作家中の大作家です。したがって、語られることも研究されることも、豊かで広いことこの上もない大小説家です。あの気むずかしいジャン・ポール・サルトルにいわせても「スタンダールとならば、完全に一緒に歩いて行ける。その文体は完全であり、その主人公たちは魅力的であり、その世界観は正しく、その歴史把握は強《したた》かな洞察力にみちている」そういうスタンダールです。現に日本のフランス文学者ほぼ八百名のなかでのスタンダール研究家の数だけをあげて見ても、五十名近いのではありますまいか。バルザック研究家でさえ三十名たらずであることを思えば、たいへんな人気作家ということになるのではないでしょうか。
二十世紀のフランスの詩人ポール・ヴァレリーの言葉に、「スタンダールについで論じだしたら尽きることがない。そして、これほどの讃辞がほかにあろうか」というのがあります。ヴァレリーがこの上ない小説ぎらいであったことを考えれば、これがどんなに素晴らしい感嘆の表現であるか、想像できるというものです。しかも、この言葉は正確です。少しでもスタンダールについて語ろうと思ったことのある人なら誰しもが経験のあるところです。これは、単にスタンダールの世界が広くて豊かすぎるということだけによるのではない。ゲーテやシェークスピアの場合とは違うのです。スタンダールが誰にもまして鋭く現代的であることによるのです。スタンダールの作品が生前ほとんど評価されず、「恋愛論」でさえ十七部しか売れず、スタンダール自身五十年後を期待するよりほかはなかった、というのは、もはや有名すぎるお話ですが、今となってみれば、それだけ彼が時代に先行していた、つまりそれだけ彼が二十世紀的であった、といわざるをえません。その点スタンダールは生前、不幸でした。そのぷんだけ、スタンダールの死後、読者であるわたしたちは幸福であるというわけです。苦い運命のいたずらです。スタンダールについて語るとは、結局はそのことを語ることになるよりほかはなさそうです。
まず、スタンダール、本名アンリ・べールという世界の文学史のなかでもたぐいまれな人間のアウトラインをつかむためには、伝記の要約が必要でしょうか。
一七八三年一月二十四日、東南フランス、ドーフィネ地方の首都グルノーブルに、アンリ・ベール誕生。長男。父親はグルノーブル高等法院弁護士で貴族。感受性の強いアンリは、母親をこの上なく愛す。ごく幼少より母のキスに快楽を感じ、夢中になってキスをかえすため、母親ひどく当惑。この母親、アンリ七歳のとき、死亡……。
人が全身で愛しているたいせつなものを永遠に失《なく》したとき、そのなくしたものが理念《イデー》(別名、理想)となります。後年の傑作「赤と黒」の女主人公レナール夫人や「パルムの僧院」の女主人公サンセヴェリーナ伯爵夫人が、いずれも男主人公に対して母親的愛情を抱く人物であることは、その点で注目に値します。父親は熱心なカトリック教徒の王党派であって、アンリの家族教師としてイエズス会土のライアンヌ神父をつけます。アンリは、この父親の保守性と神父の偽善性を極端に呪詛《じゅそ》し憎悪《ぞうお》します。なくなった母親への愛情の激烈さが、反転してここにはけ口を見つけだしたといえなくもないのですが、しかし、呪詛と憎悪は理由と論理をもつ情念です。少年アンリは、やがてたちまち過激共和思想をいだき、イエズス会攻撃の急先鋒となり、これは死ぬまで終始一貫変わりがありません。
この点では、同時代の文学者のなかでスタンダールを理解したごく少数の一人であったプロスペル・メリメの文章がおもしろいことを告げてくれています。「アンリ・べールは一生涯、想像にあやつられて、何ごとをするにも感激して唐突。そのくせ、自分では理性にかなってでなければ決して行動しないと自負。≪万事においてLo-gique(論理)にみちびかれなければならない≫、第一音節とそのあとのあいだに間《ま》をおいてそういうのが癖であった。しかし、他人の論理が彼の論理でないことにいらだってはよく苦しんだものである。だが、論争はあまりしなかった。他人の確信を尊重していたからであろう。それなのに、アンリの性格をよく知らない連中は、それを過度の自尊心のせいだととった。≪「君は猫、ぼくはねずみだからね」、彼は議論をうちきるときには、よくこういったものである≫
論理は、日本語で発音すれば、ロンリです。フランス語でLo-giqueと発音するのは、ロー・ジックです。日本語の論理の発音におきなおしてみれば、ロー・ンリ、というところです。こんな発音をするのは、単なる癖ではない。モノマニアック(偏執狂)的なものの、自然なあらわれです。つまり、スタンダールは、論理に対して偏執狂的であったということでしょう。別のいいかたをすれば、それだけ奥深くアンリが論理に犯されていたということです。論理がなければ、自分をとりかこむ環境、つまり父親の保守性と家庭教師の偽善性の形成する、現代の言葉でいう体制、これをたった一人で批判する武器も方法もありえないのです。呪詛と僧悪とは、この武器と方法をつかっての孤独な闘争が勝ち目のないところから生じる情念です。まったく≪君は猫、ぼくはねずみだからね≫という、やりきれないくやしさから噴き出る情念なのです。
この上のない屈辱というほかありません。いやされることのない閉鎖された憤怒というほかありません。屈辱と憤怒は、持続されると、どうなるか。伝記作者の一人は、「アンリは十歳のときすでに熱烈な気質をしめした……一種熱情的な酷烈……自己をおさえて社会習俗に屈しなければならぬときには、ほとんどつねに反抗心をあらわにした」と書いています。また別の伝記作者は、「アンリにはドーフィネという山国の人間独特の内向的であると同時に用心深い性格があった」としるしています。いつまでも出口のない屈辱と憤怒が内攻的で酷烈な人柄をつくるのは明らかではないでしょうか。そして、そういう人柄のできあがる筋道の、それこそ論理が見てとれない一般の人々に、アンリの行動が「何ごとをするにも感激して唐突」と思われ、「想像にあやっられて」のことであると見えるのは、これはむしろ当然すぎることでしょう。そういう無理解な一般の人々のなかに、メリメその他の文学者もいたこと、これはアンリの実生活においての不幸であったかもしれません。しかし、それが創作世界における幸福、作家たるものの本質的な幸福をつくりました。徹底的に、つまり偏執狂的に論理の人であったアンリは、行動の情念を論理以外のもので支配できなかった。実生活において非妥協的だということです。これは、周囲の人にとって、ずいぶんと迷惑で、いやなことです。しかし、こういう人間が作品世界の主人公となったならば? なんと魅力的なヒーローとなることか。「赤と黒」のジュリアン・ソレルや「パルムの僧院」のファブリス・デル・ドンゴの素晴らしさは、その情念の非妥協的な論理の徹底牲にあることを思いみるべきです。
以上のことは、ここで先き回りしすぎることをゆるしていただければ、現代作家中のずい一のスタンダール通ともいうべきクロード・ロワが別様の表現で語っていることにほかなりません。すなわち、「スタンダールこそはスタンダール小説の作中人物中の第一の、そしてもっとも嘆賞すべき人物なのである」
スタンダールについて語りつきないほど語られた数々の言葉のなかでの、おそらくこれは第一級の名言だろうと思われます。この名言には、どう誤解の余地もないでしょう。しかし、小説というものの機能と性格にひきつけて考えておくために、この名言に続くクロード・ロワの言葉を少しだけ引用しておきます。
「偉大な人間像の創造はまず第一に作者自身の人間像を、自己の外にひきはなして見つめ直し発見し直してゆくほかはない作業である。不毛の魂、無教養な精神、感情のこの上かい高まりと広まりにまで至りつこうと努めなかった心、こういうものでは真に興味ある人物を構想して自己の外に投影することは絶対に不可能であろう。モーパッサン、なるほどわるくはない。だがつまるところ、モーパッサンの作品世界では、モーパッサンはおのれ自身から外へでることはできない。りっぱな体躯をしたちっぽけな性格、女性に気にいられてそれを意識している、≪べラミ≫に残すところなく書きあらわされている人間典型――なんという奥行きのなさであろう! 文学の創造は人間の子を生むのといささか違う。小説家は自分より偉大な子をもつことが決してないのである。ジュリアン、ファブリス、リュシアンは一人のこらず、かれらを生んだ人間と正確に同じ大きさである。偉大さは身ぶりでつくれるものではない。現実に生きたすえに身にそなわるものである」
作中人物が作者と等身大、これはよくいわれることです。だが、スタンダールの小説においては、作中人物が作者とヒーロー(英堆)のスケールをもって等身大、なのです。これが、スタンダールの世界十大作家の一人であるゆえんなのです。ですが、英雄とは何なのでしょうか。
英雄の基本的性格は、情念の論理の非妥協的な徹底ということです。しかし、情念にもさまざまある。屈辱も憤怒もそうです。だが、単なる屈辱、単なる憤怒、これだけなら単なる自尊心の裏返しにすぎない。人を揺り動かして変革する力をもつものではない。もしも、人を揺り動かして変革する力、これがすぐれた小説のもつ最高の魅力であると考えうるとするならば、現実の人間の情念のなかでそういう魅力をもつ情念は何か。近代の父といわれるデカルトは、それは≪高邁の心≫(ジェネロジテ)といいます。そして現代の少し保守的だが物わかりのいい伯父さんという感じのフランスの哲学者アランもまた、それをうけて≪高邁の心≫といい、それこそがスタンダールの誰にもましての素晴らしさだと嘆賞しています。
まずこれらの意見に組みせざるをえません。≪高邁の心≫とは、あるものに堪えてそれをのりこえようとする情念のことです。人間が人間自身を支配しているもろもろの愛や憎しみや|そ《ヽ》|ねみ《ヽヽ》や|つらみ《ヽヽヽ》をのりこえてゆこうとする情念のことです。では、どこへむかってのりこえるのか。神へむかってか? 信仰者ならば、そうでしょう。しかし無信仰者ならば? 神のごときもの、というよりほかはないか、あるいは、神にかわるもの、というよりほかはない。要するに、幸福の約束を与えるもの、です。ところで、幸福の約束を与えるもの、それはスタンダールにとっては、美というものであり、それ以外にはありえないのです。
美というものは、これを卑俗な次元で味わえば、快楽ということになります。ここから往々にして、スタンダールにはられるレッテルの一つが生まれます。すなわち、快楽主義者。事実、自伝的作品「アンリ・ブリュラールの生涯」によれば、スタンダールが五十歳になるまでに愛した女性は十一名にのぼっていますし、このほかにも伝記研究家の説によれば単なる情交だけの間柄と思われる女性が少なくとも数名はあったようです。しかし、四十七歳にもなってからの二十七歳も年下の、しかもおしかけ恋人である少女ジューリアとの恋愛が結末をつげたあと数十日目に友人たちとパリの娼婦を買って、別れた恋人ジューリアへの愛の思いのためついに不能に終わった事実があります。そういう快楽主義者はありえません。例外はあるとしても、スタンダールの実生活上の恋愛を貫くものは、漁色ではないのです。有名な「恋愛論」のなかでスタンダールはラ・ロシュフコーの「恋の快楽は愛することにある。人は相手に抱かせる情熱によってよりも、自分が感じる情熱によっていっそう幸福になるものである」という言葉を引用して肯定したうえで、次のように書く人間なのです。「クレーヴ公爵夫人から愛していますといわれたときのヌムール公の幸福は、マレンゴの戦争に勝ったナポレオンの幸福よりも大きかったとわたしは思うのである」。スタンダールは愛することに至上の生きがいを求めるという意味での快楽主義者であったわけなのです。
「恋愛論」のなかでスタンダールが恋愛を四種類にわけているのは、今日ではもはや周知のことでしょう。一、情熱恋愛。二、趣味恋愛。三、肉体恋愛。四、虚栄恋愛。もちろん、このうちの情熱恋愛をスタンダールは最高のものとみなしますが、実例として四つの恋愛をあげています。一、ポルトガル尼僧の恋、二、エロイーズのアベラールに対する恋、三、ヴェゼルの大尉の恋、四、チェントの憲兵の恋。このうち、一は外国ではリルケ、日本では佐藤春夫の手によって「ポルトガルぶみ」として紹介され、二は「アべラールとエロイーズの書簡」が翻訳されていることで、それぞれ日本でも有名ですが、三はスタンダール研究家にも明らかではありません。四は、次のようなお話だそうです。「十九世紀初頭フェルラーラの近くのチェントのある憲兵が、一人の良家の子女を誘惑したことをとがめられて投獄された。恋人たちは牢獄の鉄格子をはさんで服毒して、二人とも死にはてた」。このチェントの憲兵の恋の例でもよくわかるように、情熱恋愛はそれ自体が最高の価値であり、それ以外のものの力によって動かされうるものではないのです。これが、情熱恋愛の存在の論理です。この論理の前には、死さえ無力なのです。次の「恋愛論」中の一句は、そのこと以外のものを語るものではありません。「(情熱)恋愛とはみずから鋳造した貨幣で支払われるただ一つの情念である」。情熱恋愛は情熱恋愛自体を目的とし、そのためにのみ捧げられる情念です。夾雑物の介入の余地がない。それだけでなく、金銭も地位も目的でないし、障害物ともならない。そういう目的や障害物をのりこえるためなら、相手の生命はもちろん自分の生命も犠牲にしてかえりみない。壮絶です。資本の論理が支配している近代と現代の世の中にあっては、じつにしばしば悲劇的です。すなわち、情熱恋愛をなしうるのは、英雄だけです。どんな英雄か? ナボレオンみたいか? いいえ、さきほど引用したスタンダール自身の言葉を思いだしていただきたい。「クレーヴ公爵夫人から愛していますといわれたときのヌムール公の幸福は、マレンゴの戦争に勝ったナポレオンの幸福よりも……」。情熱恋愛の英雄は、ナポレオン以上の幸福を求めようとする英雄です。しかも現世ではナポレオンよりもはるかに小さな権力しかもっていない。障害物との戦争は、この上ない苦戦です。むしろ敗北が必至かもしれない。つまり、悲劇的ならざるをえない宿命なのです。
では、どんな英雄なのか。
それにはこれを見てくださいといって差し出したいのが、「カストロの尼」以下のいわゆる「イタリア年代記」の一連の作品群です。すなわち、本書です。
スタンダールが生前三十二通も作成した遺言のなかに墓碑銘としてイタリア語で≪アリーゴ・ヘイーレ(アンリ・ベール)ミラノ人、生きた、書いた、恋した≫と書いたことは、これまたあまりにも有名なことです。イタリアは、スタンダールの精神の祖国であるわけです。なぜか。一口にいえば、「恋愛論」のなかの次の言葉の語るところが、その理由です。すなわち、「現在のヨーロッパ各国の風習にあっては、イタリアだけが、わたしの描かんとする植物(情熱恋愛)の自由に育つ唯一の国だから」。ついでにご紹介しておけば、この言葉には、次のような文章が続いています。「フランスでは虚栄心が、ドイツでは気違いじみた奇妙な哲学なるものが、イギリスでは臆病で気むずかしく恨みつらみでいっはいの自尊心が、この植物をいため窒息させて妙な方向へへしまげているのだ」
「イタリア年代記」の一連の作品とは、この植物の生態報告にほかなりません。
一八三四年十二月二十一日、チヴィタ・ヴェキア駐在領事であるスタンダールは、サント・ブーヴにあてて書いています。「わたしが|へそ《ヽヽ》|くり《ヽヽ》をはたいて、所有者が読めないままに大事に保存していた古文書を筆写してもらう権利を買いとったことは、アンペールがお話ししたことと思います。四折本八冊が手にはいりました。当時の人がなかば俗語のような言葉で書いたまったく真実の逸話のたぐいが集められたものです。わたしがもしももとの文なしになったら、五階にすんで、これを|忠実に《ヽヽヽ》訳そうと思っています。これはイタリア小史とでも名づけたらいいようなものです……」
だが、「忠実《ヽヽ》に訳」すのは、二年後、休暇をえてパリに帰ってからです。この間、材料をあたためていたわけですが、「|忠実に《ヽヽヽ》訳」して発表したのは、サント・ブーヴへの手紙にあった言葉をかりれば、「|へそくり《ヽヽヽヽ》」が必要となったためのようです。皮肉なことです。
発表は次のとおりの順序です。
一八三七年(五十四歳)。三月、「ヴィットリア・アッコランボーニ」を≪両世界評論≫誌に(匿名)。七月、「チェンチ一族」を≪両世界評論≫誌に(匿名)
一八三八年(五十五歳)。八月、「パリアノ公爵夫人」を≪両世界評論≫誌に(F・ド・ラジュンヌヴェの筆名で)。九月三日、「パルムの僧院」着想。九月中旬、「カストロの尼」第一部執筆。十一月四日――十二月二十六日「パルムの僧院」口述。
一八三九年(五十六歳)。二月、三月、「カストロの尼」を≪両世界評論≫誌に連載。三月―四月、「信道女スコラスティカ」執筆。四月上旬、「パルムの僧院」を出版。四月、「深情け」を執筆、中絶(死後、一九一二、一三年に発表)
一八四〇年(五十七歳)。九月二十八日、第三十二通目(最後)の遺書を書く。アーライン(チーニ伯爵夫人?)に恋する。
一八四一年(五十八歳)。三月中旬卒中の発作の第一回。失語症の症状。以後、死の予感。
一八四二年(五十九歳)。三月十五日ー二十一日、あらたに「修道女スコラスティカ」口述を開始。三月二十一日、≪両世界評論≫誌に、今後一か年間、中短編小説を隔月に発表する契約をむすぷ。三月二十二日朝、「修道女スコラスティカ」を口述し、その日の午後七時、外務省の門前近くで卒倒。翌三月二十三日午前二時、意識不明のまま死亡。
――思わず年譜のようなものを書いてしまうに至りましたが、これは一八三六年(五十三歳)より一八四二年(五十九歳)に至るスタンダールの最晩年の七年間あまりが、いかにも相かわらずスタンダールらしく恋と仕事をするのにいそがしいとともに、実に≪イタリア年代記≫ものに熱中した時期であることを、はっきりおわかりいただきたかったからです。ナポレオンの遠征軍の一員として、はじめてイタリアはミラノに入城した十七歳の六月のときと少しもかわらぬ六十歳の青春を、スタンダールはイタリアヘの情熱の炎のさかんな燃えあがりに焼きつくして、墓碑銘に刻んだとおりのミラノ人として死んでいったわけなのです。
この時期の最大の事件は、なんといっても「パルムの僧院」の口述による製作です。バルザックがいち早く「理念の文学の傑作」と称揚したこの世界的な小説の内容と価値については、他にゆずります。ただ、この制作のスタンダールの生涯においてしめた意味については、ぜひ次のアルべール・チボーデの文章を引用しておきたいのです。なぜなら、この文章の語るところは、またそのまま≪イタリア年代記≫ものの各小説にそっくりあてはまるものであるに違いないからです。チボーデは言っています。「他のどこの場所にいるよりも.パリにいるときに一番イタリア人になるスタンダールは、いまここフランスで、一八三八年十一月四日から十二月二十六日に至る五十二日間、マドレーヌ寺院にほど近いホテルの一室で、そのイタリアの大小説『パルムの僧院』を口述する……」。「≪僧院≫が結晶する核となった小事実、あるイタリア年代記のなかで読んだ囚人ファルネーゼの物語など、少しもとるにたりないものだ! べールがこれほど自由に、これほど創意にあふれ、これほど叙情につちかわれ、これほど力強い音楽の肩の上にのって疲れを知らずに仕事をしたためしはなかった。≪僧院≫の周囲にはもろもろの精霊がとびかって、これが≪僧院≫を創造するのである」。「この口述の五十二日間、騒々しい街路に面した部屋のなかをあるきまわりながら、ベールはおのれの過去の生活のいっさいの快楽、いっさいの衝動、そのいっさいの本質のいっさいを、よびいだすのである」。「すなわち、この五十二日のあいだ、べールは不屈の勇気にかられ、ロマネスクな衝動に燃えて、あのエネルギーのスタンダール的象徴たる第一統領ナポレオンのあとにしたがって進んでゆくのである」
チボーデのこれらの文章はひどく熱情的ですが、博識冷徹な二十世紀有数の大批評家を熱情的たらしめるものを、たしかにこの時期のスタンダールの作品は、「パルムの僧院」を筆頭としてもっているのです。
なかでも、一等迫力のある傑作は、「カストロの尼」です。これは、さきほどの年譜風な記述のところでおわかりのように、「パルムの僧院」口述の前と後に書かれています。詳しくいえば、一八三八年九月十二日、十三日の二日間で前半を、翌年一八三九年十月九日、二十日、二十一日の三日間で後半を、つまり合計五日間という驚くべき短い時間で「カストロの尼」を制作しました。
この「カストロの尼」が「パルムの僧院」を間にはさんで書かれたというのは、さまぎまな好奇心をそそる出来事です。だが、ここでは、立ちいらないことにします.ただ、すぐれたスタンダール研究家の一人、小説家ジャン・プレヴォーの興味ある発言は、ぜひご紹介しておかなければならない。ジャン・プレヴォーは、こう言っています。「この中篇小説は大長縮小説のテクニックで書かれている。≪カストロの尼≫は≪パルムの僧院≫の舞台稽古みたいなものだ」
舞台稽古とは、まったくうまいことをいったものです。人物たちの顔かたちと動きと展開のすぺては本番とまったく同じ。違うところは時間の長さだけです。本番の≪パルムの僧院≫が傑作なら、≪カストロの尼≫も傑作でないわけがありえないのです。
ジャン・プレヴォーの発言のうまさに感心しついでに、≪カストロの尼≫を語るかれの言葉をもう少し引用しておきます。
「底本となった古文書自体が、この場合、逸話にことかかなかった。小説に多すぎるほどの材料を呈供した。一巻本以上にしないままで、いかにして物語を人間化できたであろうか、そしてまた、いかにして物語に細部《ディデール》を書き加えることができるであろうか。
冒頭の細部と展開の明確さ、予兆の実現されかた(これは≪赤と黒≫と≪パルムの僧院≫においてと同じだ)、この二つは、作者が冒頭からいち早く小説の全体をはっきり見すえていることを示す。熱察によってか、または本能によってか、作者はこの小説をきれ目のない物語とするのを断念することによって、この小説を人間精神の実態を描く絵画と化するのに成功している。現代風ないいかたをすれば、作者は逸話を裁断したのである。いくつかの逸話だけをとりあげて、ちょうどシェイクスピアの芝居の一幕一幕のように切り離れた絵画と絵画との一連を形成してみせるのである」
少し長いのですが、「カストロの尼」の全体の結構を論じたジャン・プレグォーの文章を、引き続いてご紹介します。「イタリア年代記」もののほとんどすペての作品に共通するものがあるからです。
「プロローグには、あの≪ローマ散策≫の見事な歴史的な語り口が見いだされる。ジュピターの古い寺院、百年以上の年をへた森林、ローマ街道、死火山の火口湖、これらは一挙に読者を遠くすぎさった過去のなかに投げいれるために、そこにおかれている。冒頭部の模作、または字義どおりの翻訳、これは物語の展開してゆこうとする時代そのもののなかに読者をみちびきいれる。作者の前ぶれ、それに続く考察、これは導入部が始まるやいなや直ちに読者に結末を暗示する。したがって、エレーナとジュリオ・ブランチフォルテとのはじめての恋の心の動きを見ると同時に、≪チェンチ一族≫に悲劇的な響きをなりわたらせているあの運命の力、人力で避けえないあの運命の力に二人がとらえられて逃げえないだろうことを、読者は感じとってしまう。ただ、恋だけが自由である。だが、恋も最強ではないであろう。作者は恋が作中人物たちの魂のなかにはいってゆくだろうことを予見してはいない。また、作中人物たちの思念の反映が物語全体に臨場感を与えるだろうことを予見してはいない。奇妙なことに結論が物語に先行する。しかもこれがドラマのもつべき不可測性を邪魔しない。この奇妙さは、論理的にはおかしいことである。しかし、芸術的には少しもおかしいことではないのである」
スタンダールの小説家としての天才性と芸術の不思議性を語っている文章です。論理的にはおかしいが芸術的にはおかしくない。これこそが、芸術の論理というものです。そして、ずっと前にスタンダールが論理の偏執狂に近かったことを書きましたが、その場合の論理も実は、この芸術の論理にほかならないものなのです。単なる理性的論理への偏執なら、高校時代数学が最優秀であったスタンダールのことです、数学者か物理学者になったことでしょう。メリメの言葉を思い出していただきたい。「≪君は猫。ぼくはねずみさ≫、かれは議論をうちきるときによくこういった」。ふつうの議論を導くものは、理性の論理です。しかし、議論をうちきらせるのは、そしてうちきられた議論の続きを孤独の世界で行なわせるのは、これは心情の論理です。『君は猫。ぼくはねずみさ』。咬まれて傷ついています。おびえています。決して、猫とはなりえない優しさと悲しさ。これが主導力をもって人間を行動させるとき、その主導の論理こそが、心情の論理ですし、それに客観世界の外的制約力を加えて鍛練すれば、より高次な心情の論理、すなわち、芸術の論理となることでしょう。だが、その芸術の論理が果たして他人を感動させるか、どうか、それはまた別の問題です。スタンダールが実生活で成功せず社交界の笑いものになったのは、論理が理性のでなくて芸術のだったからです。それが文字による架空生活にあっては、どうであったか、それはすでに見てきたとおりです。「パルムの僧院」のような長大で深くゆたかなバルザックのいう「理念の文学の傑作」をわずか五十二日間で口述できたのは、理念そのもので、つまり芸術の論理そのもので、五十年近い実生活を生きてきた人でなくては、とうてい不可能なことです。
ところで、さきほどからしきりに援用しているジャン・プレヴォーは「イタリア年代記」ものの一連について、さまざまに実に見事で鋭い分析を行なってくれているのですが、最後に最も重大な指摘の一つだけをご紹介しておきたいのです。かれは、スタンダールは果たして古文書の記述が完璧な真実性をもっていると信じたであろうか、古文書の記述そのものがすでに≪小説≫化されていたことに気付かなかったであろうか、裸の真実の証言に、当時の独特な社会のもっている圧力、およびその社会の最高に暗鬱な仮定ごのみの習癖、この二つが介入してゆがめていることに気付かなかったのであろうか、と疑間を呈した上で、次のように書いているのです。
「その点に関してスタンダールはだまされていたのだと、M・アザールはその|著(スタンダールの生涯)のなかで言っている。しかしそんなに簡単にわりきることができるとはわたしたちには思えない。まず第一に、たとえば≪ヴィットリア・アッコランボーニ≫におけるように、古文書をこれから訳出して紹介しょうとしている≪わたし≫という人物はスタンダールではない。架空の人物である。たとえば≪パリアノ公爵夫人≫においては、≪パリの北部に生まれた若いフランス人≫と名乗る人物であって、グルノーブル生まれで当時五十五歳になるアンリ・ベールではない。第二に、この人物は古文書という商品をある雑誌の読者に提供して客寄せをしようとしている人間である。アンリ・べールはせいぜいのところ古文書の物語のはなやかな絵画性を信じているだけのことである。この絵画性が風俗を描く手助けとなるだろうこと、そして自分の愛している唯一のもの、すなわち≪内的な≫地方色をこの絵画性が与えるだろうこと、それを信じているだけのことである。スタンダールはだまされてはいなかった」
そのとおりだろうと思われます。問題は≪内的な≫地方色、すなわち「恋愛という植物が一番自由に成長する」精神の風土なのです。したがって、前にでてきた「|忠実に《ヽヽヽ》訳して」発表するというのは、その≪内的な≫地方色に|忠実に《ヽヽヽ》訳して、発表する、ということにほかなりません。そして、思えば、すべての小説の真実性というものは、実にそれ以外のことをしないのではありますまいか。≪内的な≫ドラマのすさまじささえあれば、外的な舞台装置と筋立てのいっさいは不要なはずです。ジャン・プレヴォーは「カストロの尼」のことを「パルムの僧院」の舞台稽古だといいましたが、その意味では、「イタリア年代記」ものの一連は、いわゆる「イタリア年代記」もののはるか以前の一八二九年に発表されていわば「赤と黒」の舞台稽古にあたる「ヴァニーナ・ヴァニーニ」をのぞいて、すべて「パルムの僧院」の、化粧も衣装も舞台装置もつけないでやる最後の稽古、舞台稽古の一回前の稽古、といえるものです。外的な虚飾のいっさいがない。それだけきびしく裸のドラマのすさまじさが端的にほとばしりでる。場合によれば、これのほうが、よりスタンダール的といえるかもしれない作品群です。「わたしは小説を二十世紀の演劇だと考える」。この言葉はスタンダールがおのれの作品の本質と時代の流れに、どんなに透徹した見解をもっていたかの証拠です。
スタンダールの作品の本質は、当人の別の言葉によれば、「黒と白による絵画、見るものの想像力に訴える絵画」ということになります。このことを、クロード・ロワの言葉に直せば、「スタンダールの文体は実にあくまで抽象の傑作だ」ということです。文体とは芸術の論理の運動の法則であり軌跡であるほかはないものです。バルザックの「理念の文学の傑作」ということも、これ以外のことを語っているものではない。そうであるとすれば、「イタリア年代記」の一連の作品群こそ、むしろスタンダールの代表作品といわねばならぬものではないでしょうか。トータル・タイトルをつければ「赤と黒」に対抗して、「黒と白」です。そして、実は「黒と白」という言葉こそ「パルムの僧院」のサブタイトルとしてふさわしかったものであることをも思いみるべきでありましょう。
以上の文章に付け加えるべきものは、もはや一言しかありません.スタンダールは、いっています。「小説は若い伯爵夫人が徹夜して読むようなおもしろさをもたねばならぬ」。そのとおりでしょう。そして、この「カストロの尼」以下の一連の小説こそ、まさしくそういう小説であることは、もうことあたらしく書き連ねる必要はないでしょう。ただ、「小説は若い伯爵夫人が徹夜して読むようなおもしろさをもたねばならぬ」という言葉につづけて、言っておかねばなりません。小説は読みおえた人が老人であろうと貧乏人であろうと、読みおえるまでの間その人を若い伯爵夫人にかえてしまう不思議さをもたねばならぬ。疑うものは、スタンダールの「イタリア年代記」の一連の小説を読まねばならないのです。
付記。分量の関係で「イタリア年代記」もののなかから、「チェンチ一族」「修道女スコラステイカ」「深情け」を残念ながら訳出いたしませんでした。なお、スタンダールの愛読者にすぎない訳者にかわって年譜を作成してくださった上に、微細な点に至るまで実質的にご教示いただいた優れたスタンダール研究家大阪府大助教授小泉隆雄氏、およびさまざま御配慮下さった角川書店毛利定晴氏、上田京子氏、以上の諸氏に厚くお礼を申しあげます。
一九七〇年十月(訳者)