赤と黒(下)
スタンダール作/大久保和郎訳
目 次
第二部
第一章 田園の楽しみ
第二章 社交界への登場
第三章 第一歩
第四章 ラ・モール邸
第五章 感受性と敬虔な貴婦人
第六章 口の利き方
第七章 神経痛の発作
第八章 ひときわ立派な勲章は?
第九章 舞踏会
第十章 マルグリット女王
第十一章 乙女の威力
第十二章 ダントンになるか?
第十三章 奸計
第十四章 乙女の想い
第十五章 奸計か?
第十六章 午前一時
第十七章 古刀
第十八章 恐ろしい時
第十九章 オペラ・ブッフ
第二十章 日本の花瓶
第二十一章 密書
第二十二章 討議
第二十三章 僧侶、山林、自由
第二十四章 ストラスブール
第二十五章 貞操の役目
第二十六章 道徳的恋愛
第二十七章 宗門の最上の地位
第二十八章 マノン・レスコー
第二十九章 倦怠
第三十章 喜歌劇の桟敷
第三十一章 恐がらせる
第三十二章 虎
第三十三章 弱気地獄
第三十四章 才人
第三十五章 嵐
第三十六章 悲しいことども
第三十七章 天守閣
第三十八章 権勢家
第三十九章 陰謀
第四十章 平安
第四十一章 公判
第四十二章
第四十三章
第四十四章
第四十五章
付録『赤と黒』について
解説
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彼女は美しくない。
少しも紅をさしていない。(サント・ブーヴ)
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第二部
第一章 田園の楽しみ
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ああ、田園よ、いつの日か汝の姿を眺め得よう!(ウェルギリウス)
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朝食を取るために立ち寄った宿の主人が彼に言った。「旦那はパリ行の郵便馬車をお待ちになるおつもりでしょう?」
「今日のでも明日のでもかまわないんだが」とジュリアンは言った。あいかわらず無頓着な様子で構えているところへ馬車がついた。空席は二つあった。
「おや、君じゃないか、ファルコス」と、ジュネーヴのほうからやって来た客がジュリアンと一緒に乗車したのに言った。
「ぼくは君がリオンのあたりに腰を据えているものと思っていたよ」とそのファルコスという男は答えた。「ローヌ河に近いどこかのすばらしい谷間にでもさ」
「腰を据えるなんてものか。逃げ出したのさ」
「何だって! 逃げる? ねえサン・ジロー、君はそんなおとなしそうな顔つきをして何か悪事でもやったというのかい?」とファルコスは笑いながら言った。
「実際のところ、まったくそのたぐいだな。ぼくは田舎の言語道断な生活から逃け出して来たんだ。君だって知っているように、いかにもぼくは森の涼しさや田園の静けさは好きだよ。君はよくそういうぼくにロマネスクだと文句を言ったもんだが。ぼくはもう一生、政治談なんて聞きたくないと思っていたが、その政治に今度はこちらが追い立てられているていたらくさ」
「だが君はいったい何党なんだい?」
「何党でもないさ。ところが何党でもないおかげでこんな羽目になっちまったんだ。音楽と絵画を愛好する、良い本を読むということはぼくにとっては一つの事件だ、近々ぼくも四十四歳になる、といったのがまあぼくの政治生活のすべてだよ。まだあとどれくらい生きられるか? 十五年、二十年、まあせいぜい三十年だろうな。まあいいさ、その三十年のうちに大臣どもは少しは今より抜け目なくなるだろうが、今のままの偽君子《ぎくんし》であることには変わりはあるまいとぼくは信じているんだ。イギリスの歴史を見るとぼくは我が国の将来が手に取るようにわかる。依然として自分の特権を伸張しようとする国王はいるだろうし、代譲士になりたいという大望《たいもう》やら、またミラボーがやったように栄誉と数十万フランを一時に獲得しようとする野心やらで、あいかわらず地方の富豪連中はおちおち夜も眠れまい。奴らはそういうことを自由主義的であり民衆を愛するゆえんだと称するだろう。依然として貴族院議員とか食膳侍従とかになりたいという欲望にユルトラの連中は駆り立てられるだろう。国家という船の上では誰もがみなその舵《かじ》を取りたがる。つまりそうなればたくさん金がもらえるからさ。それじゃあ、一介の船客のためにはいつまでたってもごくみすぼらしい狭い座席すらないということになるのか?」
「本筋にはいりたまえ、本筋に。何しろ君は静かな性格の人間なんだから、何か起こるとすればだいぶ不愉快なことがあったんだろう。この前の選挙のおかげで住んでいた田舎から追われたというわけかい?」
「ぼくの禍根《かこん》はもっと深いんだ。四年前、ぼくは四十歳で五十万フランの金を持っていた。今では年は四つも取ったが、金のほうはたぶん五万フランは減っているだろう。なぜって、あのローヌ河のほとりのすばらしい位置にあるモンフルーリの館を売れば、それだけの損はどうせするだろうからね。
「パリではぼくは、君らが称して十九世紀文明と呼ぶところのものが否応なしに押しつけるあの永遠の喜劇がいやになっちまったんだ。ぼくは稚純朴訥《ちじゅんぼくとつ》なものをひたすら渇望していたのさ。それでぼくは、およそ天下にこれほど美しい所は絶無だと思われるような、ローヌ河沿いの山のなかに地所を買ったのだ。
すると村の副司祭やあたり近所の田舎紳士どもが半年ばかりぼくに阿諛追従《あゆついしょう》する。ぼくはやつらを晩餐に呼んで言ってやった、『私がパリを去ったのは一生政治の話をしたりまた聞かされたりするまいと思ったからです。ごらんのとおり私はここで全然新聞など取っていません。郵便配達夫が持って来る手紙が少なければ少ないほど、私は満足しているんです』
これでは副司祭の当てこんでいたこととは大ちがいだ。まもなくぼくは何やかにやの無遠慮な要求やうるさい干渉などを受けはじめた。はじめは年に二、三百フランぐらい貧民たちに喜捨してやろうと思っていたが、いろいろの宗教団体のほうから、その金を要求して来る。聖ジョゼフ協会やら聖母協会やら何やらかにやらといった始末だ。ぼくがことわる、すると無数の罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせられる。本気でそれに腹を立てるなんて、ぼくも馬鹿な真似をしたものさ。こうなったらもう、毎朝そのあたりの山の美しい眺めを楽しもうと思って外へ出ても、何かしら厭な思いをさせられて夢想に耽《ふけ》ることもできないし、人間どもやその悪辣《あくらつ》さを思い出して不愉快にならずにはおられない。たとえば豊熟祈願《ロガシオン》の行列だって、あの歌はぼくも好きなんだが(あれはおそらくギリシャのメロディだろうがね)、ぼくの畠だけはもう祝福しないと来る。なぜかといえば、副司祭の言うところじゃ、その畠は不信者のもちものだからというんだ。信心家の百姓婆さんの牝牛が死ぬ。婆さんは、パリからやって来たぼくのような不信心な哲学者の持っている池が隣にあるからだという。するとそれから一週間もして、その池の魚が石灰の毒にやられてみんな腹を上にしてあぷあぷやっているという始末。紛争はあらゆる形をとってぼくの周囲を取り巻いている。治安判事は元来正直な男なんだが、自分が首になるのがこわいもんだから何でもかんでもぼくが悪いことにする。田園の平和なんてものはぼくにとっては地獄さ。村の修道会の長になっている副司祭がぼくを見限り、自由主義者の親玉になっている退役大尉がぼくを支持しないということがひとたび知れわたっちまうと、誰も彼もがぼくに飛びかかって来やがる。ぼくが一年のあいだ飯を喰わしてやった石工や、うちの鋤《すき》をなおさせたときごまかしをやろうとするのを大目に見といてやった車大工までがだよ。
それでも少しは後楯《うしろだて》をつくって訴訟もいくつか勝たにゃなるまいと思ってぼくは自由党になった。しかし、さっき君が言ったように、あの忌々しい選挙がはじまってぼくは一票要求された……」
「知らない男にかい?」
「とんでもない、知りすぎるほど知っている男にだ。ぼくは拒絶した、いやはや、それが大変な軽率だったのさ! そのときからはぼくは自由主義者の連中からもいじめられる、ぼくの立場は堪えがたいものになった。実際ぼくは思うんだが、もし副司祭がぼくのことを女中を殺したといって告発しようなんて料簡《りょうけん》を起こしたら、現にその犯行を見たと誓言する証人が両方の党派から二十人も出て来るだろうて」
「君は田舎で隣人たちの煩悩《ぼんのう》に仕えないで暮らそうと思ったんだね、しかも彼らの饒舌《じょうぜつ》に耳をかしてやらずに。何というまずいことをしたもんだ!……」
「ようやくその失策も償いができるわけだ。モンフルーリはいま売立てに出ている。やむを得なければ五万フランはなくしてしまったっていい。だがぼくは実に嬉しいんだ。なにしろあの偽善と中傷の地獄から出て行くんだからね。ぼくは孤独と田園の平和を求めて、フランス国内でそれが存在する唯一の場所、つまりシャンゼリゼに臨んだ五階部屋へ行くんだ。そればかりか、ぼくはルール区に住んで、その教区の会堂へ聖餅でも奉献すれば、それから早速ぼくの政治生活もはじまりゃしないだろうかと考えざるを得ないんだ」
「そんなことはボナパルトの時代にならまったく起こらなかったろうに」とファルコスは憤怒と追懐に目をきらめかせながら言った。
「そりゃまあそうだろうさ。だが君のボナパルトはなぜ自分の地位を保つことができなかったんだい? ぼくが今日悩んでいるのはみなあいつのせいだ」
ここでジュリアンの注意は倍加した。彼は最初の一言から、このボナパルチストのファルコスがド・レナル氏の竹馬の友で、氏から一八一六年に絶交された男であり、哲学者のサン・ジローのほうは例の入札のとき町有家屋を安値でうまうまと競《せ》り落した……県庁の課長の兄弟にちがいないとわかった。
「そうさ、こういったことはみんな君のボナパルトのせいなのさ」とサン・ジローが続けた。「四十歳で五十万フランの財産を持っている、無害なことはおよそこの上ない真面目な人間が、地方に定住することもそこに平和を見出すこともできない。あいつがつくった坊主とあいつがつくった貴族が追い出すのだ」
「ああ、ボナパルトの悪口はよしてもらおう!」とファルコスが叫んだ。「彼が支配した十三年のあいだほどフランスが各国民から高く尊敬されたことはかつてなかったんだからね。あの時代には何事が為されようと、かならずそこには偉大さがあった」
「君の皇帝なんざ、どうなろうと知ったことか」と四十四歳の男が言う。「あいつは戦場にいたときと一八〇二年ごろ財政を建てなおしたときだけはいかにも偉大だったよ。だが、それ以後の全行動は、いったいあれは何だい? 侍従を従え虚飾を事としてチュイルリー宮で謁見《えっけん》を仰せつけるとあっては、王政時代の愚行の新版を出したようなものだ。改訂版だからそのままあと一世紀か二世紀は続いて通用したかもしれんがね。貴族や坊主は古い版に戻りたがった。だがやつらには古い板を売りさばくに必要な鉄腕《てつわん》がないだけさ」
「なるほど、そういった言い方はいかにも印刷屋あがりらしいや!」
「おれを自分の地所から追い立てたのは誰だ?」と印刷屋は勃然《ぼつぜん》として続けた。「まず坊主どもさ。国家が医者や弁護士や天文学者を取り扱うように取り扱っておけばいいものを、つまり何で稼いで食って行くかなどということは気にかけずに単なる市民と見ておけばいいものを、ナポレオンは和親条約《コンコルダ》(一八〇一年のナポレオンと法王との条約)を結んで坊主らを呼びもどしやがったんだ。また、もしボナパルトが男爵や伯爵を何人もつくらなかったら、現在傲岸無礼な貴族どもがまだいるだろうかね? いるものか、もうそんな流行は廃《すた》ったんだ。おれを一番いらだたせ、無理矢理に自由主義者になっちまうように仕向けたのは、坊主に次いで田舎の小貴族どもだ」
この会話は果てしもなく続いた。こういった話題は今後なお半世紀もフランス人の頭を去らないであろう。サン・ジローが繰り返し地方に住むのは不可能だと言うものだから、ジュリアンは遠慮しいしいド・レナル氏の例を話してみた。
「いやはや、若い方、あんたも人がいいよ」とファルコスは叫んだ。「あの男は鉄敷《かなしき》になるまいと思って鉄鎚《かなづち》になった(他から圧制されまいとして圧制者になった)」しかも恐ろしい鉄鎚にね。だが私の見るところ、あの男はヴァルノに押しのけられてしまっている。あの悪党をご存じですか? あいつこそ正真正銘の悪党ですよ。いずれそのうち自分が免職されてヴァルノの奴がそのあとに就くとなったら、ド・レナル氏は何と言うでしょう?」
「あいつなんざ、一人で自分の悪事をとっくり考えていりゃよかろう」とサン・ジローが言った。「それではあなたはヴェリエールをご存じなんですね? まあごらんなさい、あのボナパルトが……天が彼と彼の王政的反動とを懲《こ》らしめられんことを……ド・レナルやシェラン輩の支配を可能ならしめ、次いでヴァルノやマスロンの手合いの支配を招来したんですよ」
この陰鬱な政治についての会話はジュリアンを驚かせ、逸楽的な夢想から彼の心をそらせた。遠くから目にはいってきた最初のパリの眺めにも、彼はあまり心を動かされなかった。将来の自分の運命についての取りとめもない空想は、ヴェリエールで過ごして来たばかりの二十四時間の今なお生々しい記憶を消すことはできなかった。彼は心に誓った、恋人の子供たちは決して見棄てたりするまい、もし坊主どもの傲岸無礼が高じてついにこの国を共和国にし貴族たちを迫害するようなことになろうと、すべてをなげうって彼らを保護しよう、と。
もしヴェリエールに到着した晩、彼がド・レナル夫人の寝室の窓に梯子をかけたそのときに、その部屋に訪問客かもしくはド・レナル氏その人がいたとしたら、いったいどんなことが起こっていたろうか?
それにしてもまた、恋人が真剣になって追い返そうとするのにさからって闇のなかで夫人の身近に坐って弁解していたあのはじめの二時間は、何というえもいえぬ楽しさだったろう! ジュリアンのような心の持主はこの種の思い出から生涯逃れられないものだ。それからのちの密会の時間は、十四カ月以前の彼らの恋愛の初めの時期の思い出とすでに混じりあってしまっていた。
車が停まったのでジュリアンは深い夢想から醒《さ》まされた。ちょうどジャン・ジャック・ルソー街の駅亭の庭にはいったところだった。……近づいて来た一頭立二輪馬車《カブリオレ》をつかまえて「マルメゾンヘ行きたいんだが」と彼は言った。
「こんな時刻に、旦那、何のためにいらっしゃるんです?」
「君の知ったこっちゃなかろう! やってくれ」
すべて真の情熱は自分のことのほか考えない。情熱がパリであんなに滑稽なものとされるゆえんはここにあると私には思われる。パリでは誰でもがおたがいに自分のことをいろいろ考慮に入れてもらいたいと思っているからである。私はマルメゾンにおけるジュリアンの感激を語ることは差しひかえよう。彼は涙まで流したのだ。何だって! 見苦しい白壁が今年建てられて、あの公園を区切ってばらばらにしてしまっているというのにかい?……そうですよ、|あなた《ムシュウー》。後世にとってと同様ジュリアンにとっては、アルコーレもセント・ヘレナもマルメゾンもそのあいだに何ら区別はないんですからね。
夜になるとジュリアンは劇場にはいろうとしてその前でだいぶ躊躇した。彼はこういう放埒《ほうらつ》の場所については奇怪な考えを持っていたのだ。
深い猜疑《さいぎ》の心が生けるパリを嘆賞することを妨げた。彼は自分が尊敬する英雄《ナポレオン》の遺した記念物に感動するばかりだった。
〈おれはとうとうこうして陰謀と偽善のただなかに出て来たんだ! ここではド・フリレール師を引き立てているような連中が我が物顔に振る舞っているんだ〉
三日目の夜になると、ピラール師のところへ顔を出す前に何もかも見ておこうという計画よりも、これから自分はどうなるのかという好奇心のほうが強くなった。師は彼に冷やかな口調でド・ラ・モール侯爵邸で彼を待っている生活がどんなものであるかということを説明してくれた。
「もし数カ月たっても君が役に立たないようだったら、また神学校へ帰るのだ、だがちゃんとした資格でな。君はフランスで最高の大貴族の一人であるあの侯爵の家に住むことになる。黒服を着ねばならないが、聖職者のようなのではなく、服喪中の人が着るような服だ。わしは君が、これからわしが紹介する神学校で、週に三回神学の勉強を続けるように要望する。毎日正午に君は侯爵邸の図書室に行く。侯爵は訴訟やその他の事務についての手紙を書かせるために君を使おうというおぼしめしなのだからね。侯爵は受け取った手紙の余白に、それぞれどういう返事を書くべきかということを簡単に書きつけておかれる。わしは、三月もすれば、君が自分の書いたものを侯爵の署名をお願いするため十二通ほど提出したら、そのうち八通か九通ぐらいはそのまま署名していただけるくらいに返事をつくることができるようになるだろうと申し上げておいた。夜は八時になれば侯爵の事務机を整理して、十時には自由になれる。それからどこかの老婦人、あるいは猫なで声の男なんかが」とピラール師は続けた。「君に莫大な利益をほのめかすとか、ないしは露骨に侯爵の受け取った手紙を見せてくれれば君に金品を提供しようと申し出ることもあろうが……」
「ああ、先生!」とジュリアンは真っ赤になって叫んだ。
「君みたいに貧しくて、しかも神学校で一年暮らして来たのに」と、師は苦い微笑を浮かべて言った。「そういった道徳的な怒りが君に残っているのは奇妙だね。君はよっぽど世事に盲目だったにちがいない」
〈これは血筋のせいなのだろうか?〉と師は自分自身に言うように低い声で言ってから、今度はジュリアンのほうを見て付け加えた。「奇妙なことといえば、侯爵が君を知っておられるのじゃ……どうしてかはわしも知らんが。侯爵ははじめ百ルイの報酬をくださる。あの方はただ気まぐれだけで行動されるような方なのだ。それがあの方の短所となっている。子供みたいなことをやる点では、君とはいい勝負じゃろう。もし君にご満足が行けば君の報酬はその後八千フランにまで上がるかもしれぬ。しかし君にもよくわかっておるじゃろうが」と師はとげとげしい語気で語をついだ。「侯爵は何も君の目が綺麗だからといってそんなにお鳥目《ちょうもく》をくださるわけではない。問題は君が役に立つかどうかなのじゃ。もしわしが君の立場にあったら、わしは口数を少なくし、特に自分の知らないことは決して口に出さんことにする。
ああ、それから、君のためにわざわざ聞き合わせておいたのじゃが、ド・ラ・モール氏の家族のことを話すのを忘れていた。子供は二人、娘と十九歳になる息子だ。息子は非常にお洒落で、十二時になっても自分が二時に何をするかということに見透しをつけられたためしがないという、いわば一種の畸人《きじん》だ。才智もあり豪胆ではある。スペイン戦役にも出征しておるのだから。侯爵は、なぜか知らぬが、君にその若いノルベール伯爵の友人になってもらいたいと希望しておられる。わしは君のことを優れたラテン語学者だと言っておいたから、たぶん侯爵は君がキケロやウェルギリウスについてのいくつかの極《きま》り文句を息子に教えてくれるだろうとでも思っているのかもしれん。
わしが君の地位にいたら、決してあんな美青年なんかにからかわれてはおらん。そしてむこうから慇懃《いんぎん》な点では申し分なくてもいやにあてこすりを含めたような態度で好意を見せて来たって、たわいなく好い気になってはしまわんつもりだ。
つつまず言うがド・ラ・モール若伯爵ははじめは君のことを軽蔑するにちがいない。君は一介の小市民にすぎぬからな。伯爵の先祖は宮廷人で、しかも政治的陰謀のかどで一五七四年四月二十六日にグレーヴ広場で斬首《ざんしゅ》されたという面目をほどこしているのだ。君のほうはどうかといえば、ヴェリエールの木挽大工《こびきだいく》の倅で、のみならず相手の父親から俸給をもらって雇われているのだ。この区別はよくよくわきまえておかなければいけない。そしてモレリ〔十七世紀のフランスの伝記作者〕の著書を読んで、この一門の歴史を研究するのだな。あの家へ来て晩餐にあずかるお追従者たちはみんな、〈気の利いたほのめかし〉と称するものを時々やって見せるからじゃ。
軽騎兵の中隊長で未来のフランス貴族院議員であるノルベール・ド・ラ・モール伯爵の冗談に対して返事をするときには、よほど言葉や態度に気をつけて、あとになってわしのところへ愚痴を言いに来ないようにしてもらいたい」
「ぼくのことを軽蔑するような人間には返事さえしてやってはならぬとぼくには思えますが」とジュリアンは真っ赤になって言った。
「君はまだその軽蔑がどんなものだか想像もつかないでいる。その軽蔑はおもてにあらわれるときは、もっぱら丁寧すぎるほどのお世辞となってあらわれる。君が馬鹿だったら、うまうまそれに乗せられてしまうじゃろう。だが成功しようと思うなら、馬鹿になってそれに乗せられていなければならんのじゃ」
「いつかそういったことがぼくの気持に堪えられなくなって百三号の小房へひきかえすようなことになりましたら、恩知らずだと言われましょうか?」
「それはもちろんじゃ」と師は答えた。「この家に阿諛《あゆ》追従するものは、みな君をそしり罵《ののし》ることだろう。しかしそうなったらこのわしが出て行く。Adsum qui feci(そうしたのはこの私だ)、その決心をさせたのはこの私だと言ってやる」
ジュリアンはピラール師の言葉に辛辣《しんらつ》な、ほとんど悪意のある語気があるのに気づいて深く心を傷つけられた。このような語気で言われたために師が最後に答えてくれた言葉もまったく味もそっけもないものになってしまった。
実際のところは、師はジュリアンを愛することに、ある良心上の不安を感じていたのだ。そして、このように直接的に他人の身の上に干渉することに、ある種の宗教的な畏怖をも感じていた。
「そのほかにまだ」と、師は相変らずの仏頂面《ぶっちょうづら》で、まるで何か辛い義務を果すといったふうに続けた。「そのほかにまだド・ラ・モール夫人に会うだろう。この人は金髪で大柄な女で、敬虔《けいけん》で、気位が高く、きわめて丁重ではあるが、何といったって結局はごくつまらない人じゃ。貴族的偏見であんなに有名なド・ショーヌ老公の娘なのだよ。こういった貴婦人は、いわばあの階級の女どもの性格をなしている要素を浮彫りにした一種の縮図だと思えばいい。何しろあの人と来たら、十字軍に出征した先祖を持っているということが自分が尊敬する唯一の偉さだと公然と言うのだ。金なんてものはそれよかずっとあとの問題なのだ。驚いたかい? わしらはもう地方にいるのではないのだよ。
夫人のサロンで多くの大貴族たちがこの国の王族のことを妙に気軽な口調で話すのを君も見るだろう。ド・ラ・モール夫人はというと誰か王族、特に女の王族の名を言うたびにうやうやしく声を低めるのじゃ。特に君に忠告しておくが、夫人の前でフィリップ二世やヘンリ八世のことを人非人だなぞと言わぬがよい。彼らは〈国王〉なのじゃ。そしてこの王たることが彼らに、すべての者の敬意、なかんずく君やわしのような素姓の卑しい人間の敬意を要求する絶対的な権利を与えているのだから。とはいえ」とピラール師は付け足した。「われわれは僧侶なのじゃ。夫人は君を僧侶と思うだろうからね。だからこういった肩書きつきで、夫人はわれわれのことを自分の魂の救いには欠くことのできない従僕だと見なしておるのじゃ」
「先生、ぼくはパリには長くいられそうにもありません」ジュリアンは言った。
「それはまあそうかも知れぬ。しかしだな、わしらのような法衣をまとった人間にとっては大貴族の引き立てによらぬかぎり立身成功の道はないということも心得ておきたまえ。君の性格には、すくなくともこのわしには何とも名づけがたいあるものがあって、それあるために、君は出世しなければかならず迫害されることとなろう。君にとっては中道というものは存在しない。自分というものを誤解してはいかんよ。世間の人たちは、君に言葉をかけてやったって君がいっこう喜びもしないのを認めている。この国のような社交的な国では、君などは人から尊敬されるようにならないかぎり不幸になることは必定なのだ。
ド・ラ・モール侯爵がこんな気まぐれを起こさなかったら、君はブザンソンでどんなことになっていたろう? いずれそのうち侯爵が君のためにして下さったことがどんなになみなみならぬことであったかが君にもよくわかって、もし君が恩知らずでなかったなら侯爵とその家族に対し尽きぬ感謝を捧げると思う。いかに多くの君よりも学殖の深い貧乏な僧侶たちが、ミサ代の十五スーとソルボンヌの神学部での宗論で得た十スーとで、パリで数年を暮らしたことだろう!……この前の冬、あのデュボワ枢機卿という曲者《くせもの》のまだ駈け出しだったころの話を君に聞かせてやったが、あの話を思い出してごらん。君の自尊心がいかに強かろうと、よもやあの男以上の手腕があるとは思うまいね?
たとえばこのわしだ、わしはおとなしい凡庸の人間じゃが、自分の神学校を死場所と心得ておった。学校のことばかりに脇き目も振らず没頭するなど、大人げないことじゃった。だがな、わしが辞表を提出したときには、まもなく免職になることになっていたのじゃ。わしの全財産とはどんなものだったか、君は知っているかね? わしの持っていた生活の資《かて》は、掛け値なしの五百二十フランだったのだ。友人とてない。わずか二、三人の面識のある人がいただけだ。一度も面会したことのないド・ラ・モール氏がこの窮地からわしを救い出してくだすった。あの方が一言言ってくれただけでわしは司祭職にありついた。その教区民といえばみんな裕福で、野卑な悪弊《あくへい》などには超然としているような人々ばかり、収入はわしの仕事には不釣合いなほどなのでわしは恥かしくてならん。わしがこんな長いこと君に話をしたのは、ただ君にあまり軽はずみな真似をさせまいとという老婆心からにほかならぬ。
もう一言。わしはあいにく気が短かい。それで君と話もしないようにならんとも限らぬ。
もし侯爵夫人の尊大さ、あるいはその息子たちの悪いいたずらのためこの家にいることが何としても君に堪えられなくなったら、わしは君がパリから百二十キロほど離れた、それも市の方よりもむしろ北の方の、どこかの神学校で学業を完了するように勧める。北の方が開けてはいるし不正もすくない。それに」と師は声をひそめて言い添えた。「打ち明けて言うなら、パリの新聞が近くにあるということは田舎の小暴君どもには脅威だからな。
もしわしらがいつまでも顔を合わすのがたのしいと思えるようなら、そして侯爵邸が君には向かぬとなったら、わしは君にわしの下の副司祭の地位を提供しよう。司祭職の収入《みいり》は君と折半しよう」そう言ってから師はジュリアンが感謝の言葉を言おうとするのを遮《さえぎ》って付け加えた。「わしには君にそうしなければならぬ、いやそれ以上のことをしなければならぬ義理があるのじゃ。君がブザンソンでわしにしてくれたあの突飛な申し出のお礼にな、もしわしが五百二十フラン持っていず懐中一文もなかったら、わしは君に救われたはずだからな」
師の声色にはもう苛酷な響きはなかった。大変恥かしいことだったが、ジュリアンは目に涙が浮かぶのをおぼえた。彼はこの敬愛する師の腕のなかに身を投げたいという気持に矢も楯もたまらなかった。できる限り男らしい態度をよそおってではあったが、彼は師にこう言わずにはおられなかった。
「ぼくは物心もつかぬうちから父に憎まれておりました。これはぼくの最大の不幸の一つです。けれどもぼくはもう偶然などを嘆いたりしません。ぼくは、先生、あなたのうちに父を見出したのです」
「もういい、もういい」と師はどぎまぎして言った。それから大変都合よく神学校長らしい言葉を思いついて、「偶然などと決して言ってはいかんよ、いいかい。いつも摂理と言うんだよ」
辻馬車は停まった。馭者が非常に大きな門の青銅製のマルトー《ノッカー》を指差した。それが HOTEL DE LA MOLE(ラ・モール邸)だった。そして通行者が見てすぐわかるように、扉の上の黒大理石にその文字がしるされていた。こんなてらった様子はジュリアンには不愉快であった。〈彼らはジャコバンをあんなに恐れている! ありとあらゆる物のかげにロベスピエールやその処刑車〔大革命の恐怖時代に死刑囚を刑場に運んでいった車〕がひそんでいるのが見えるのだ! 滑稽で見ていられないようなこともよくある。しかもこうやって自分の家を麗々《れいれい》しく見せびらかして、もし叛乱でも起こったら賎民どもがすぐにこれと見わけがついて略奪できるようにしている〉そう考えて彼はそのことをピラール師に言った。
「ああ、可哀そうに。君はまもなくわしの副司祭になるだろうな。なんという空恐ろしいことを考えるのだ!」
「こんなことはごくあたりまえのことだと思います」とジュリアンは答えた。
門番の荘重な様子、また特に中庭の清潔さがジュリアンを感嘆させた。日は明るく差していた。
「何という壮麗な建築でしょう!」と彼は敬愛する師に言った。
実はこれは、ヴォルテールの死んだ一七七八年ごろに建てられた、フォブール・サン・ジェルマンに多い、はなはだ陳腐な表構えの邸宅の一つにすぎなかったのである。流行と美しさとのあいだにこれほどのへだたりがあったことはかつてなかったことだ。
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第二章 社交界への登場
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滑稽な、だが胸を打つ思い出、それは十八歳で自分一人で誰ひとり頼るものなく出席した、初めてのサロンの思い出である! 一人の婦人から眺められているというだけで私は心が臆するのだった。人の気に入ろうとすればするほど私はますますぎごちなくなった。何事につけても誤謬《ごびゅう》もはなはだしいような考え方ばかりした。理由もなしに何かに夢中になるとか、あるいはまた、真面目な顔で私を見つめていたからといって、誰かを自分の敵だと思うとか。しかし、小心であるがゆえに恐ろしいほどの惨めな気持ちを数々味わいながらも、楽しい日は何と楽しかったことであろう!(カント)
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ジュリアンは中庭の真ん中に茫然として立ちどまった。
「ちゃんとした様子をしたまえ」とピラール師は言った。「つい今しがた空恐ろしいようなことを考えていたかと思うと、今度はまるで子供みたいになる! ホラティウスの nil mirari(決して感動することなかるべし)は一体どこへやった? ここにいる侍僕連中は君がここに住み込むのを見て、いずれからかってやろうとしているのだということを忘れなさんな。彼らは君のことを自分らと身分の等しい人間でいながら、不当にも自分らより高い位置につけられたのだと見るだろう。親切ごかしや有益な忠告やまた君にいろいろと手引きしてやろうという気持などでうわべを装って、何かのことで君にどえらいへまをやらせようとするにきまっている」
「そんなことを奴らにさせておくものですか」とジュリアンは唇を噛みしめて言い、またいつもの人を警戒する態度にかえった。
侯爵の書斎にはいるまでにこのご両人が横切って行ったいくつかのサロンは、ああ読者よ、あなたから見ればいかにも壮麗ではあるが陰鬱なものに思われたであろう。よしんばこの部屋々々をそのまま提供すると言われたとしても、あなたはここに住むことはお断りになったろう。こんなところから欠伸《あくび》や陰鬱な屁理屈が生まれるのである。だがこれを見てジュリアンの感激はひとしお増したのであった。〈こんな豪華なところに住んだら不幸になるはずがないじゃないか〉とジュリアンは考えた。
とうとう二人は、この見事な部屋々々のなかで一番見苦しい部屋に来た。ほとんどそこには日の光もさしていなかった。部屋のなかには短身|痩躯《そうく》の、眼光の鋭い金髪のかつらをつけた男がいた。師はジュリアンのほうを振り向いてその男に引き合わせた。これが侯爵だった。ジュリアンはなかなか侯爵だとわからなかった。それほど侯爵は慇懃《いんぎん》な態度だったのだ。これはもはやブレ・ル・オーの修道院で見た傲然たる風貌の大貴族ではなかった。ジュリアンには侯爵のかつらがあまり毛が多すぎるように思われた。そんな感じがしたために、もうまったく気おくれはなくなってしまった。アンリ三世の友たる人(ボニファス・ド・ラ・モールのこと)の後裔《こうえい》にあたるこの侯爵は、はじめ彼にはかなり卑俗な風采をしているように思われた。侯爵はひどく痩せていて、せわしなくからだを動かした。しかしまもなく彼は、侯爵が話し相手に対して、あのブザンソンの司教と較べてさえいっそう感じのよい慇懃な態度を持していることに気がついた。お目見えは三分とかからなかった。邸を出るとき師はジュリアンに言った。
「君はまるで絵に描こうとでもするように侯爵を見つめていたね。わしはああいった人たちが礼節と呼ぶところのものについては苦手のほうで、まもなく君はわしよりもそのほうのことには物識りになるじゃろうが、それにしても君の無遠慮な目つきは、わしにはあまり礼儀にかなっているとは思えなかったね」
二人はまた辻馬車に乗った。馭者《ぎょしゃ》はブルヴァールの近くで車を停めた。師はジュリアンを連れて大きな広間の続いたところへはいった。ジュリアンはそこに家具が一つもないのに気がついた。彼は金色に塗った素晴らしい振子時計を眺めていた。その装飾は、彼の見るところでは非常に卑猥《ひわい》な意匠だった。そのときたいそうハイカラな一人の紳士が笑顔で彼に近づいて来た。ジュリアンは軽く会釈した。
その紳士は薄ら笑いを浮かべてジュリアンの肩に手をのせた。ジュリアンはぞっとして一歩跳びすさった。彼は憤怒に頬を染めていた。さしも謹厳《きんげん》なピラール師も涙が出るほど笑いころげた。その紳士は仕立屋だったのである。
「二日ほど君を自由にしてあげよう」と師は出がけに言った。「そのあとではじめてド・ラ・モール夫人にお目にかかることになろう。この新しきバビロンともいうべき都へ出て来たばかりなのだから、ほかのものなら若い娘みたいに手もとに引き留めておくだろうがね。もし君が堕落するような人間ならさっさと堕落してしまうがいい。そうすればわしは君のことを思いわずらうという余計な心配から解放されるわけだ。あさっての朝、あの仕立て屋が君のところへ服を二着持って来るだろう。着具合を見に来た小僧に五フランほどやるんだ。それから、そういったパリ生まれの連中に君の発音を聞かせないようにな。君が一言言ったらたちまち奴らは尻尾をつかまえて君をからかい出すだろう。そういうことには生まれつき才能を持っているんだから。あさっての正午わしのところへ来たまえ……さあ行って道楽でもして来るがいい……。忘れていた、ここに書き付けがあるから、そこへ行って長靴とシャツと帽子を註文して来るのだ」
ジュリアンはその書き付けの文字を眺めた。
「それは侯爵の自筆だよ」と師は言った。「どんなことでもよく気のまわる活動的な人で、人に命令するより自分でやってしまうほうがお好きなのだ。そういった余計な骨折りをしないですむようにというので、侯爵は君を召し抱えるわけだ。あのてきぱきした御仁が簡単な言葉であらまし言っただけのことを一から十まで立派にやりのけるだけ君の頭が働くかな? まあそれはあとになってわかることだ。気をつけて行きたまえ!」
書き付けで教えられた職人の店へジュリアンは一言も口をきかずにはいった。皆がうやうやしく自分を迎えるのに彼は気がついた。靴屋などは彼の名前を芳名帳に書くとき、ジュリアン・ド・ソレル様と書き入れた。(貴族の名前にはドという言葉がつく)
ぺール・ラシェーズの墓地へ行くと、非常に世話好きな、しかも話の模様では自由主義者らしい紳士が、ネー元帥〔ナポレオン軍の将軍。第二王政復古後に銃殺された〕の墓を教えてあげましょうとジュリアンに申し出た。この墓は巧妙な政策のために碑銘《ひめい》を刻むことさえ許されぬという憂目《うきめ》にあっていた。自由主義者は悲憤の涙にくれてジュリアンをほとんど両腕に抱きしめたと言っていいくらいにしたが、別れるともう時計がなくなっていた。いろいろとこういった経験を積んで翌々日の正午彼がピラール師の前に出ると、師はまじまじと彼を見つめた。
「君はたぶんお洒落《しゃれ》になるだろうな」と師は厳しい顔つきで言った。正式の喪服のような黒づくめの服装のジュリアンは大変若々しく見えた。実際のところ実にりゅうとした身なりではあったのだが、好人物の師自身が田舎者だったので、田舎では伊達《だて》でしかも威容があると思われていた妙な肩の動かし方がまだジュリアンに残っていることを見逃してしまったのだ。侯爵はジュリアンを見ると、師とはまったく違った見方で彼のめかしぶりを見たので、こう師にむかって言った。
「ソレル君がダンスの教授を受けることにはあなたは反対ですか?」
師はあいた口がふさがらなかった。
「いいえ、ジュリアンはまだ僧侶にはなっていませんから」と師はようやく答えた。
侯爵は小さな忍び階段を二段ずつ登って、邸の宏大な庭に面する小綺麗な屋根裏の部屋へ自らわれわれの主人公を連れていき、その部屋を彼にあてがった。侯爵はジュリアンに下着の商人のところで何枚シャツを買ったかと尋ねた。
「二枚です」とジュリアンは、こんな大貴族がそんな細かなことにまで気をくばるのに恐縮して答えた。
「よろしい」と侯爵は真面目な顔をして、ジュリアンが気をまわすほど何か命令的なそっけない口調で続けた。「よろしい。そのほかになお二十二枚買いなさい。これが給料の最初の四分の一だ」
屋根裏部屋から降りると侯爵は一人の老人を呼んで「アルセーヌ、おまえはソレルさんのお世話をしなさい」と言った。数分後ジュリアンは一人だけで豪勢な図書室のなかにいた。この時は何ともいえぬほど楽しかった。こんなに感動しているところを人に見られてはと思って、彼は薄暗い片隅へ行って身をひそめた。そこから彼は無数の書物の絢爛《けんらん》たる背皮を陶然として眺めわたした。
〈おれはこれをみんな読めるのだ〉と彼は心に言った。〈ここにいておれが不愉快になるということはあり得ない。ド・レナル氏なんかは、ド・ラ・モール侯爵が今おれのためにしてくださったことの百分の一もしたら、自分の顔が永久に丸つぶれになると思うことだろう〉
〈だがこれからつくる写しを見ておこうか〉写しの仕事が終るとジュリアンは思い切って書物に近づいた。ヴォルテールのある版を見つけて喜びのあまり気がちがいそうになった。彼は不意に人にはいって来られたりしないように、駈けて行って図書室の扉を閉めた。そうしてから彼は八十巻の全集を一冊々々ひろげてみるという楽しみに耽《ふけ》ったのであった。その本は素晴らしい装釘を施されていた。これはロンドンの一番腕のいい職人の傑作だった。これほどのものでなくてもジュリアンは感嘆に堪えぬ思いをしたことであろう。
一時間ほどして侯爵がはいって来て写しを見た。そしてジュリアンが cela《それ》を l を二つにして cellaと書いているのに気がつくと驚いてしまった。〈あの坊さんがこの男の学識について言ったことは、それじゃ何のことはない、みんなでたらめだったのか?〉侯爵は大変失望はしたが、やさしくジュリアンに言った。
「君は自分の綴りに自信がないのかね?」
「ええ、実際ないのです」とジュリアンは、それが自分にとってどんなに良からぬ結果になるかということをこれっぱかりも考えないで言った。彼はド・レナル氏の横柄な口調と思い合わせて、この侯爵のやさしさに涙ぐむほど感激していた。
〈このフランシュ・コンテの小坊主なんかを使ってみることは結局時間の空費だな。わしは信頓のおける男を大いに必要としているのに!〉と侯爵は思った。
cela を書くときは l は一つだけだ」と侯爵はジュリアンに言った。「写し終えたら綴りの不確かな字はいちいち辞書を引いてごらん」
六時になると侯爵は彼を呼びにやった。ジュリアンがやって来ると侯爵はあきらかに困惑の色を見せて彼の長靴を見つめた。「これは私が悪かった。毎日五時半になったらきちんと正装をしておかねばならないということを君に言っておかなかったね」
ジュリアンはわけがわからず相手を見つめた。
「つまり、長靴下と半靴をはくということだ。これからはアルセーヌから君に注意させることにしよう。今日は私がとりつくろっておく」
こう言い終るとド・ラ・モール氏は、ジュリアンを金色燦爛《こんじきさんらん》たるサロンに連れていった。こういった場合ド・レナル氏はかならず足を速めて人より先に部屋へはいったものだった。前の主人にこんなつまらない虚栄心があったので、ジュリアンは侯爵のうしろについて歩くということになってしまったが、侯爵は痛風があるためずいぶん煩《わずら》わしい思いをした。……〈ああ、おまけにこの男ときたらのろまじゃないか〉と侯爵は心に思った。侯爵は彼を、背が高くて厳《いか》めしい様子の女に紹介した。それが侯爵夫人だった。ジュリアンはこの夫人に、かつて聖シャルルの日の晩餐会に出席したときのヴェリエール郡長ド・モジロン氏の夫人といくらか似た横柄な態度があるのを認めた。
サロンの極度の華麗さにいささか狼狽したジュリアンにはド・ラ・モール氏の言葉も耳にはいらなかった。侯爵夫人は彼に一顧だに与えてくれなかった。そこにいた数人の人々のうちに、数カ月まえブレ・ル・オーの式典のときに言葉をかけてくれたアグドの青年司教の姿を認めて、ジュリアンは何ともいえぬ喜びを感じた。この若い僧正は、臆病なジュリアンがなつかしげな目つきで自分を凝視していたのを無気味に思ったらしい。そしてすこしもこの田舎者のことを思い出そうとしてくれなかった。
このサロンに集まっている人たちには何か陰気な窮屈なところがあるようにジュリアンには思えた。パリでは低い声で話をするし、つまらないことを誇張したりしないからである。
非常に蒼白い、だがすらりと背の高い口髭を生やした美青年が六時半ごろはいって来た。顔がとても小さかった。
「あなたはいつも人を待たすのね」と侯爵夫人は、自分の手に接吻しているその青年にむかって言った。ジュリアンはこれがド・ラ・モール伯爵だとさとった。最初の一目で彼は伯爵を感じのよい人だと思った。
〈この男が侮辱的な悪ふざけをしておれをこの家から追い出すなんて、そんなことがあり得ようか?〉そう彼は心に思った。
熱心にノルベール伯爵を観察してみたあげく、ジュリアンは彼が長靴をはき拍車をつけているのに気がついた。〈それなのにおれは、きっと身分が低いからなんだろうが、半靴をはいていなくちゃならないのだ〉一同は着席した。ジュリアンは伯爵夫人がいくらか声を高めて厳しい言葉を言ったのを耳にした。ほとんどそれと同時に彼は非常に鮮やかな金髪で大変からだつきのいい一人の若い女がやって来て、彼と真向かいの席に坐るのを目にとめた。この女はまったく彼には気に入らなかった。けれども注意深く見つめているうちに彼は、これほど美しい目は一度も見たことがないと思った。しかしその目は非常な心の冷たさをあらわしていた。それからさらにジュリアンは、その眼差しに倦怠《けんたい》があらわれているのを認めた。倦怠のあまり人をじろじろと見つめているが、そのうちにふと勿体《もったい》ぶった様子をしていなければならなかったことを思い出すといった風なのだ。
〈だがド・レナル夫人だって実際きれいな目をしていた。だれもみなあの目のことではお世辞を言っていたっけ。しかしあの目にはこの人の目に似たところはすこしもなかった〉と彼は心に思った。ジュリアンはまだ世馴れていなかったので、マチルド嬢……みなが彼女のことをそう呼んでいるのを彼は聞いたのだ……の目に時おり輝くものが機智の火花であることを見分けることができなかった。ド・レナル夫人の目が生気を帯びるのは、情熱の焔《ほのお》か、あるいは何か悪事を聞かされて義憤に燃え立ったときだったのである。食事の終りごろになってジュリアンはド・ラ・モール嬢の目にある一種の美しさを言いあらわすべき言葉を思いついた。〈この目は煌《きらめ》いている〉と彼は心に言ったのだ。その他の点では彼女は、ジュリアンにはますます厭わしく思われるその母親に恐ろしいほどよく似ているので、彼はもう彼女のほうを見るのをやめた。そのかわりにノルベール伯爵はどこからみても敬服に価するように彼には思われた。すっかり魅惑されてしまったので、ジュリアンは、自分より金持だとか高貴だとかいうのでこの男を妬《ねた》んだり憎んだりするような気持には毛頭なれなかった。
ジュリアンは侯爵が退屈しているらしいのに気がついた。
二番目の皿が出るころ彼は息子に言った。
「ノルベール、ジュリアン・ソレルさんに親切にしてやっておくれ。今度この人に私の参謀になってもらったので、もしまあ|そら《ヽヽ》(cella)ができることなら、ひとかどの人間にしてあげたいと思っている」
また隣席の人にはこう言った。「これは私の秘書です。ですが|cela《スラ》を| cella《セラ》と書くんですよ」
一同はジュリアンのほうを見た。彼は特にノルベールのほうに向いたような形で頭を下げた。しかし全体として彼の目つきには人々は満足した。
侯爵はジュリアンがどんな種類の教育を受けたかを話しておいたにちがいない。なぜなら会食者の一人がホラティウスについて論戦を挑んで来たからである。〈おれがブザンソンの司教のおぼえがめでたくなったのも、やっぱりこのホラティウスの話をしてだった〉とジュリアンは心に思った。
〈きっとこういう連中はほかの作家を知らないんだろう〉この瞬間から彼はまったく落ち着いてしまった。今しがたこの家の令嬢などは決して女として見たりすまいという決心をしたところだったから、落ち着きを取り戻すことは楽だった。神学校以来、彼は男たちは最悪のものときめてしまっていたので、男に対してはなかなか怯《ひる》まなかった。もし食堂の飾りつけがこれほど豪華なものでなかったら、彼も平生の冷静さをすっかり取り戻していたことだろう。実は、彼がまだ気押《けお》されたように感じていたのは、それぞれ高さ二メートル四十センチもある鏡が二つもあったせいで、その鏡のなかにホラティウスについて論じている相手の姿が時々映って見えるのだった。彼の文句は田舎者としてはくだくだしくなかったし、美しい彼の目には、おろおろしているような、そしてまたうまく返事ができたときにはいかにも喜んでいるように見える内気さがあって、そのため目のかがやきが増すのであった。こういった一種の試験がしかつめらしい晩餐の席にいくらか興味を添えることになった。侯爵はジュリアンの話し相手にどんどんつっこむように目くばせした。〈この男に何らかの知識があるなんてとんでもない話だ!〉と侯爵は思っていた。
ジュリアンは自分で考えついたことで返事をした。そしてかなりおずおずしたところがなくなったが、別に才智を示そうとしたわけではなかった。そんなことはパリで使われる言葉を知らぬものには到底不可能なことであったから。彼は、それを手際よく当意即妙に言いあらわすことはできなかったが、斬新《ざんしん》な考えを持っていた。そして彼が完全にラテン語に熟達していることが一座の人々にははっきりとわかった。
ジュリアンの論敵はアカデミー・デ・ザンスクリプシオン(歴史および考古学アカデミー)の会員で、たまたまラテン語を知っていた。彼はジュリアンが非常に優れた古典学者《ユマニスト》であるのを認めて、もう相手に恥をかかすなどという心配がなくなると、本気になってやっつけようとしはじめた。
論戦に熱中しているうちに、ジュリアンはとうとうこの食堂の華美な調度品のことなど忘れてしまった。しまいに彼はラテンの詩人たちについて、相手がどんな本でも読んだことのないような独自の考えを述べはじめた。相手は篤実《とくじつ》な人だったので、この点については若い秘書に花を持たせてやった。さいわいホラティウスが貧乏だったか金持だったか、モリエールやラ・フォンテーヌの友人のシャペルのように娯しむために詩作する愛想がよくて快楽好きな屈託のない人間だったか、あるいはまたバイロン卿の非難者だったサウジのように宮廷に出仕して国王の誕辰《たんしん》のために祝詩をつくる情けない佳冠詩人だったろうか、という問題について論争がはじめられた。アウグストゥスやジョージ四世治下の社会状態が話題になった。この二つの時期には貴族階級が全権をふるっていた。しかしローマでは、貴族階級は一介の武人にすぎぬマエケナスに権力を奪い取られて行ったし、イギリスでは貴族階級がジョージ四世をおおよそヴェニスの大統領といった地位に落してしまっていた。この論争がはじまると、晩餐の初めのころ退屈のあまりぼんやりとしていた侯爵も、やっと我にかえったように見えた。
ジュリアンは、サウジやバイロン卿やジョージ四世などという近代の人の名ははじめて耳にしたので、全然何が何だかわからないでいた。しかしローマで起こった事柄で結局ホラティウスやマルティアリスやタキトゥスなどの作品から知り得るようなこととなると、ジュリアンが何といっても相手を圧していることは誰の目にもあきらかであった。ジュリアンは、ブザンソンの僧正としたあの有名な議論の際に僧正から教えられたいくつかの見解を、平気な顔をして自分のもののように言った。これもまた前に劣らずみんなから喜ばれた。
一同が詩人についての話に倦んで来ると、夫を楽しませるものにはどんなことにも感心してみせることを原則としている侯爵夫人は、ジュリアンのほうにやっと目を向けてくれた。「この若い坊さんのぎごちない態度動作の裏に、おそらく学識優れた人物がひそんでいるのでしょう」と、アカデミー会員がそばにいた夫人に言った。ジュリアンにもその言葉が少しは聞こえた。こういう出来合いの文句がこの家の女主人の心にはまずまずぴったり来るのである。彼女はこの言葉をジュリアンについての自分の意見とすることに決め、そしてアカデミー会員を晩餐に招いたことを満足に思った。〈あの人は主人を楽しませてくれた〉と彼女は考えた。
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第三章 第一歩
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燦たる光と数千の群集に満ちたこの広大な谷は私の眼を奪う。私の知った顔は一つもなく、すべてみな、私よりたちまさった人々ばかりだ。私は度を失ってしまう。(弁護士レイナの詩)
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翌日は非常に朝早くからジュリアンが図書室で手紙の写しをつくっていると、書物の背で大変うまく隠された小さな忍び戸からマチルド嬢がはいって来た。ジュリアンがこの忍び戸の工夫に感心している一方、マチルド嬢はここで彼に出逢ったことにたいそう驚いて困っているらしい様子であった。
ジュリアンにはパピヨットをつけた彼女が、うるおいがなく高慢でほとんど男みたいに見えた。ド・ラ・モール嬢は人にわからぬように父親の図書室からこっそり本を盗み出すこつを知っていた。ジュリアンがいたおかげで、この朝彼女がわざわざ足を運んで来たことも徒労になってしまったし、また取りに来たのがまさにサクレ・クール派の傑作と称すべき際立って王政的かつ宗教的な教育を補うためにはまことに好適な書物だった、ヴォルテールの『バビロンの王女』の第二巻だったので、なおさらのこと彼女は不服だった。この娘は気の毒に、十八歳という年で、小説に面白味を感ずるためにはどうしてもそこに辛辣《しんらつ》な機智がひらめいていなければならぬと思うまでになっていた。
ノルベール伯爵が二時ごろ図書室に姿をあらわした。彼はその夜、政治論ができるように新聞をしらべるために来たのだが、これまでその存在すらすっかり忘れていたジュリアンにここで出逢うと喜んだ。伯爵はジュリアンに対して申し分のない態度を取り、乗馬に誘った。
「おやじは晩餐までぼくたちに暇《ひま》をくれたのですよ」
ジュリアンはこの|ぼくたち《ヽヽヽヽ》というのが誰を含めて言っているのかわかると、なるほど耳ざわりのいい言葉だと思った。
「いやそれは大変です、高さ二十四メートルの木を伐り倒して角材にして板をつくるということなら、ぼくだってみごとにやってごらんに入れましょうとあえて申し上げることもできますが、馬に乗るとなると、生まれてから今まで六回しかその機会がありませんでしたので」
「そうですか、それではこれで七回目になりますね」とノルベールは言った。心ひそかにジュリアンは***王のヴェリエールご入来のことを思い出して、立派に乗りこなせると思っていた。ところがブローニュの森からの帰途バック街のまん中で急に一頭立二輪馬車《カブリオレ》をよけようとしたはずみに落馬して泥まみれになった。さいわいと彼は服を二着持っていた。晩餐のとき侯爵は彼に言葉をかけてやろうと思って散歩の様子を尋ねたが、ノルベールが急いで横からあたりさわりのない言葉で返事をしてくれた。
「伯爵様は私に対して大変親切になさってくださいます」とジュリアンが口を入れた。「私はこのご好意を大変感謝いたしておりますし、それがいかほど有難いものであるかも存じております。実は伯爵様は一番おとなしい一番きれいな馬を私にあてがうようにしてくださったのですが、やはり私を馬の背にくくりつけるわけには行かなかったらしゅうございます。そういう用心をしなかったため、あの橋の近くの大変長い街路のまっただなかで落馬してしまいました」
マチルド嬢はおさえようとしてみてもこらえきれず笑いを爆発させてしまった。そのうえ彼女は無遠慮にその顛末《てんまつ》を仔細に尋ねたものである。ジュリアンは非常に率直にそれに答えた。このときの彼には自分では意識していない品の良さがあった。
私はこの若い坊主は将来、立派なものになると請け合いますよ」と侯爵はアカデミー会員に言った。「ああいった羽目になっても素朴な田舎者らしいところを失わない! こんなのはこれまで見たこともなければ今後見ることもあるまい。しかも自分の災難を婦人方の前でご披露におよぶんだから!」
ジュリアンはこうして自分の災難のことでみんなを気楽にさせてしまったので、晩餐の終り近くなって一座の会話が別のほうへ逸《そ》れて来たときにも、マチルド嬢は兄にむかってその不幸な事件の顛末について詳しい質問をしていた。質問は延びるし、ジュリアンは何度も彼女と目をあわすことになるので、自分が訊かれたのではないのに思い切ってじかに返答をした。そしてしまいにこの三人は、森の奥の村に住んでいる三人の若い男女みたいに、大きな声で笑い出してしまった。
明くる日、ジュリアンが神学の講義に二つ出て、それから二十通ほどの手紙を写すためにもどって来ると、図書室の自分の席のそばに、服装は大変めかしているが卑しげな様子をして妬《ねた》ましさを顔つきにあらわした一人の青年が腰をすえているのを見た。
侯爵がはいって来た。
「タンボー君、君はここに何の用があるんだ?」と彼は厳しい口調でその新来者に言った。
「私は……」とその青年は下品な微笑をうかべて口を切った。
「駄目だよ、君、|私が《ヽヽ》どうのこうのもないよ。そんなことをやってみてもはじまらんよ」
タンボー青年はふいと立ち上がって姿を消した。これはド・ラ・モール夫人の友であるあのアカデミー会員の甥《おい》で、文学で身を立てるつもりだった。アカデミー会員は頼みこんで侯爵にこの男を秘書として登用することにしてもらった。タンボーは離れた部屋で仕事をしていたが、ジュリアンが寵遇《ちょうぐう》を得ていることを知ったのでその分け前にあずかりたいと思い、その朝、自分の筆記用具を図書室に持ちこんだのである。
四時になるとジュリアンはしばらく躊躇したが、思い切ってノルベール伯爵の部屋に行った。こちらはこれから馬に乗ろうと思っていたところだった。まったく慇懃《いんぎん》な男だったので伯爵は困却した。
「いずれ近いうちに馬場へいらっしゃるといいですよ」と彼はジュリアンに言った。「そうして何週間かたってあなたと一緒に乗馬できれば、ぼくはほんとに嬉しいと思います」
「ご好意は実にありがたく存じます」それからジュリアンはとても真面目な顔をして付け加えた。
どれほどあなたからご恩を受けているかということは、ぼくも痛感しております。ぼくがあんな不手際なことをしたためあなたの馬が怪我をしていませんでしたら、そしてあの馬があいていましたら、ぼくに今朝乗らせていただきたいと思ったのですが」
「それではどういうことになっても、みんなあなたの責任ですよ、ソレルさん。ぼくがあくまで慎重にかまえて出来るだけお止めしたということにしておいてください。もう四時になっている、ぐずぐずしてはいられません」
馬に乗ってしまうと早速、「落ちないようにするにはどうすればいいのですか?」とジュリアンは若い伯爵に訊いた。
「そりゃ、ずいぶんいろんな方法がある」とノルベールは大声で笑って、「たとえばからだをうしろへそらすとか」
ジュリアンは馬を疾駆させた。そのとき二人はルイ十六世広場にいた。
「いやこれはがむしゃらだ」とノルベールが言った。「馬車はいやというほど通ってるんだし、しかも馭者はみんなぼんやりした奴らばかりだ! いちど地面に振り落されたが最後、奴らの軽二輪馬車《チルビユリ》はあなたのからだを轢《ひ》いて行っちまいますよ。いきなり馬を停めて馬の口に怪我をさせかねないような真似はなかなかしませんからね」
何度もノルベールはジュリアンがあわやおっこちそうになるのを見た。だがやっと散歩は事もなく済んだ。帰って来ると若伯爵は妹に言った。
「こちらにおいでなのは大胆な荒馬乗りだよ」
晩餐のとき食卓をへだてて父親にその話をして、彼はジュリアンの大胆さを賞讃した。実際、彼の乗り方で褒《ほ》められるところといえば、それしかなかったのだ。若伯爵はその日の朝、下僕たちが中庭で馬の手入れをしながらジュリアンの落馬のことを種にして、いやというほど彼を嘲笑しているのを耳にしていたのだった。
これほどの好意を与えられていたにもかかわらず、ジュリアンはやがてこの家族のなかでまったく孤独なのを感じた。あらゆるしきたりが彼には異様に思われ、彼にはどれも守れないのだった。彼がしくじりをするのを見ると侍僕たちは満悦した。
ピラール師は自分の司祭区に出発してしまっていた。〈もしジュリアンが弱い葦《あし》ならば折れてしまうがいい。もししっかりした人間なら自分で切り抜けるがいい〉と師は考えていたのである。
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第四章 ラ・モール邸
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彼はここで何をするのか? ここが気に入っているのだろうか? またここで人から好かれていると思っているのだろうか?(ロンサール)
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ラ・モール邸の高雅なサロンではすべてがジュリアンには奇異に思われたが、また一方ではこの顔色の蒼い黒服の青年も、わざわざ彼に目を留めてくれた人々からは異様に思われた。ド・ラ・モール夫人は、特にある人たちを晩餐に招いたときはジュリアンに何かの用事を与えて外に出すことにしようと夫に提案した。
「私はこの試みを最後までやり通してみたいと思う」と侯爵は答えた。「ピラール師は私たちが出入りを許したものたちの自尊心をそこなうことはいけないと言っている。逆らうくらいのものでなければ頼りにはなりません、などと言うのだ。あの男はまだ顔を知られていないので、これだけは困る。もっともあの男は聾唖《おし》みたいなものだ」
〈勝手がわからなくて困るから、このサロンにやって来る人たちの姓名と、それからごく簡単にその性格を、書きとめておかねばならん〉とジュリアンは心に思った。
彼はまず第一行に、彼のことを侯爵の気まぐれから寵愛されているのだと思ってむやみにご機嫌を取りに来る、五、六人のこの家の常客を書き込んだ。この連中は程度の差はあれ卑しい貧乏人だった。しかし、このことは今日貴族階級のサロンのなかで見出されるような人種の名誉のため是非とも言っておかねばならないが、彼らは誰に対してもひとしく卑しいというわけではないのである。彼らのうちのあるものは侯爵からひどいあしらいを受けるのには唯々諾々《いいだくだく》として甘んずるが、ド・ラ・モール夫人から一言でも苛酷な言葉を言われたならば激昂したかもしれないのである。
この一家の人々の性格はあまりに傲慢《ごうまん》であり、また飽きっぽかった。彼らはその倦怠を紛らすため他人の心を傷つけたりすることが習慣になっていたので、真の友を望むことなどは到底できなかった。しかし雨の日と、それからこれは非常に稀ではあるが、堪え切れぬほどの倦怠を感じているときとを除けば、彼らはいつも申し分なく慇懃《いんぎん》であった。
ジュリアンに対して実際父親のような情味を示す五、六人のおべっか者たちがラ・モール邸によりつかなくなってしまったら、侯爵夫人はおそろしい孤独の時間にさらされてしまうだろう。そしてこの階級の婦人から見れば、孤独とはむごたらしいものなのだ。それは失寵《ヽヽ》のしるしなのである。
侯爵は夫人に対しては非のうちどころのない夫だった。そして夫人のサロンにいつも充分のお客があるように気をつかっていた。だがお客にするのは貴族院議員などではなかった。侯爵は自分の新しい同僚のことを、友人として家に呼ぶだけの身分ではないし、下位のものとして出入りを許すには面白味が足りないと思っていたのだ。こういった真相をジュリアンが見抜いたのは大分のちになってからだった。平民の家では話題になる現在の政治といったことは、この侯爵の階級の家ではよほど話の種がなくなったときでなければ触れられなかった。
この倦怠に悩む世紀においてすら、娯楽の必要ということはなお強大な力を持っていて、晩餐会の日でさえ侯爵がサロンから出るや否や一人残らず逃げ出してしまうくらいであった。神や僧侶や国王や要路にある人々や宮廷から保護されている詩人、つまりすべて確定されているものを冗談の種にしさえしなければ、ベランジェ〔反権力的な時局風刺詩人〕や反対派の新聞やヴォルテールやルソーのこと、つまりすべて多少とも率直な言葉をあえて口にするもののことを善く言いさえしなければ、なかんずくまた決して政治を談じさえしなければ、どんなことでも自由に議論することができたのだ。
十万エキュの年金といえども、青綬勲章といえども、このようなサロンの掟《おきて》に対しては何の力にもならなかった。ほんのわずかでもどぎつい考えを口に出せば粗野と見られた。鷹揚《おうよう》な態度や完璧な礼儀や愛想よくしようという気持を裏切って、すべての人の顔には倦怠の色が浮かんでいた。義理で訪問して来た青年たちは、何か自分の思想を疑われるようなことを言ったり、ないしは禁制の書物を読んだということがばれたりするのがこわくて、天気のことやロッシーニのことで何か気の利いたことを二言三言言ったあとは口をつぐんでいるのであった。
ジュリアンは、この会話を活気づけているのは、たいていド・ラ・モール氏が亡命中に知りあった二人の子爵と五人の男爵の話だということに気がついた。このお歴々はだいたい六千から八千リーヴルの年収を得ていて、そのうちの四人はコチディエンヌ紙を支持し、他の三人はガゼット・ド・フランスを支持していた。その一人は毎日何か宮中であった珍聞を話の種に持っていて、話をするたびに感嘆すべきという言葉を惜し気もなく連発するのであった。ジュリアンはその男が勲章を四つも持っているのに気がついた。
サロンの控えの間には仕着せをきた侍僕が十人もいて、一晩じゅう十五分おきにアイスクリームやお茶が出る。そして真夜中ごろにシャンパンをそえた軽い夜食が出るのだった。
ジュリアンがときどき最後までその席にとどまっているのはそのためだった。しかし彼には、この豪奢《ごうしゃ》な金色にかがやくサロンでふだん話されていることに、人々がなぜ真剣に耳を傾けていられるのか、ほとんど理解できなかった。ときどき彼は話をしている連中が自分の言っていることを真面目に考えてはいないんじゃないかと思って彼らのほうへ目をやって見た。〈おれが暗記しているド・メストル氏なんかはこれよりずっとましなことを言っているが、それでもやはりずいぶん退屈なものだ〉と彼は思った。
この精神的|仮死状態《アスフィクシー》に気がついていたのはジュリアン一人ではなかった。あるものはたっぷりアイスクリームをご馳走になってわずかに憂さを紛らしていたし、あるものはそこを出てから一晩じゅう、〈私は今ド・ラ・モール氏のお邸からおいとまして来たんですが、そこで聞いた話では、ロシアが……〉といった調子で話ができるのを楽しみにして、せめてもの心やりとしていた。
ジュリアンは、おべっかを使いに来る連中の一人から、二十年以上も倦《う》まずたゆまずサロンに通って来た、王政復古以来の郡長である気の毒なル・ブルギニョン男爵を、ド・ラ・モール夫人がその恪勤《かくきん》に報いて知事にしてやってから、まだ半年とたっていないと教えられた。
この大事件は、ここにいるお歴々の熱心さをふたたび燃え上がらせた。彼らは以前ならばごくつまらぬことにすぐ腹を立てもしたろうが、今ではもうどんなことにも腹などたてなかった。あからさまに客に対して礼儀を欠いた仕打ちに出ることは稀だったが、しかしジュリアンは、食卓で侯爵と夫人とがそのそばに坐っている連中には聞くに堪えないような短かい言葉をちょっと交わすのを、すでに二度か三度耳にはさんだことがあった。この高貴な身分の夫妻は王のお車に陪乗した人々の血筋をひいていないすべての人に対して、衷心《ちゅうしん》からの軽蔑を隠しはしなかった。ジュリアンはただ十字軍という言葉のみが、彼らの面上に尊敬をまじえた非常に厳粛な表情を浮かばせるものであることに気づいた。ふだん人に対して示す敬意にはいつもお愛想といった感じがつきまとっていた。
この華美と倦怠のただなかにあって、ジュリアンはド・ラ・モール氏以外の人には何らの興味を感じなかった。ある日侯爵が、自分はあの哀れなル・ブルギニョンの昇進には全然関与しなかったのだと公言するのを聞いて、嬉しく思った。これは夫人に花を持たせようという心づかいだった。ジュリアンはその真相をピラール師の口から聞いていた。
ある朝、師が侯爵家の図書室でジュリアンと一緒にいつになっても終らないド・フリレール師との訴訟のことで仕事をしていると、
「先生」とジュリアンが突然言いだした。「毎日侯爵夫人の晩餐に列することはぼくの義務なのでしょうか、それともご好意から許されているんでしょうか?」
「むろん明らかな名誉じゃないか!」と師は憤慨して答えた。「アカデミー会員のN***氏なんかは十五年このかたせっせとご機嫌を取っているが、甥《おい》のタンボー氏が同じ名誉にあずかるようにすることはできないでいるのじゃ」
「これはぼくのお役目のなかで一番辛いものなのです。神学校にいたときのほうが退屈が少なかったほどです。この家の常客のお愛想の好さにはもう慣れっこになっておられるはずのド・ラ・モール嬢までが欠伸《あくび》していらっしゃるのを時々拝見しますからね。居眠りしてしまいはしないかと思って心配です。お願いですからどこかの人に知られぬような宿屋へ、四十スーの食事をしに行く許可を得るようにしていただけませんでしょうか」
師は正真正銘の成り上がり者だったので、大貴族と同座して晩餐するという光栄にはとても無関心ではいられなかった。こういった気持をジュリアンに納得させようと師がおおわらわになっていたとき、かすかな物音がしたので二人は振り返った。ジュリアンは立ち聞きしているド・ラ・モール嬢を目に止めた。彼は赤くなった。彼女は本を取りに来て何もかも聞いてしまったのだ。これを聞いて彼女はジュリアンをいくらか見なおす気になった。〈この人は生まれつき人の前に頭をさげるような人ではないのだわ、あの年取った坊さんとちがって。ああ、あの坊さんは何て醜いんだろう!〉そう彼女は思った。
晩餐のときジュリアンは、思い切ってド・ラ・モール嬢のほうへ目をやることさえできなかった。だが彼女のほうは親切に彼に言葉をかけてやった。この日はたくさんお客があることになっていた。彼女はジュリアンに居残るように勧めた。パリの乙女たちは年輩の人々に対して、特にその人々が服装に気をつかっていない場合には、あまり好意を持たないものだ。ル・ブルギニョン氏の仲間がサロンに残ればド・ラ・モール嬢の冷やかしの的とされているということは、ジュリアンには大して頭をはたらかさなくてもわかった。この日は、わざとそうしているのかどうかはわからなかったが、退屈な連中に対して彼女は容赦しなかった。
ド・ラ・モール嬢はほとんど毎晩、侯爵夫人の大きな肘掛《ひじか》け椅子のうしろに集まる小さなグループの中心になっていた。そこにはド・クロワズノワ侯爵やド・ケリュス伯爵やド・リュス子爵、そのほかノルベールやその妹の友だちである二、三人の青年士官がいた。この面々は空色の大きな長椅子《カナペ》に腰をかけている。輝くばかり美しいマチルドが坐っている場所とは反対側の、そのカナペのはしのところに、ジュリアンは黙然とかなり背の低い小さな藁《わら》椅子に席を占めているのだった。このささやかな位置はあらゆる追従者たちから羨望されていた。ノルベールは彼に言葉をかけたり、また一晩のうちに一度か二度その名を口にしたりして、父親の若い秘書がこの位置を失わないように体裁よく気をつかってやった。その晩、ド・ラ・モール嬢は、ブザンソンの城砦の立っている山の高さはどれくらいだろうかと彼に訊いた。ジュリアンはその山がモンマルトルの丘よりも高いか低いかさえわからなかった。この小さなグループで話されていることがおかしくて、彼はたびたび心底から笑い出してしまった。けれども彼はこういったことを自分で考えて口に出すことはまったく不可能だと思っていた。これはいわば、聞いていればわかるが自分で話すことはできない外国語のようなものだった。
その晩、マチルドの友人連は、この広いサロンにやって来る人々に対して絶えず反感を見せていた。家の常客連は一番よく知られていたので、まず最初に槍玉《やりだま》にあげられた。ジュリアンがいかばかり耳をそばだてていたかは察するにあまりある。話されることの背景も、またそれを洒落のめすやり方も、すべてがジュリアンには面白かった。
「あら、デクーリさんがあすこにおいでよ」とマチルドが言った。「もう鬘《かつら》をつけていらっしゃらないのね。あの方、ご自分の才幹によって知事の位にありつこうとでも思っているのかしら? 高遠な思想が詰まっているんだなどと自惚れているあの禿《はげ》頭を見せびらかしているじゃないの」
「あの男はおよそどんな人間だって知っているんですよ」とド・クロワズノワ侯爵が言った。「ぼくの伯父の枢機卿《すうききょう》のところへだってやって来るんです。何しろどの友人のところへ行っても嘘をついて、何年間もそのまま嘘を通していることができるんだから。しかもその友人というのが二、三百人からいるんですよ。あの男は友情を育てるすべを知っている、これがあの男の才能なのです。ああいった恰好で冬の朝七時という時刻に、もう誰か友だちの家へ泥だらけになって押しかけて来るといった始末です。ときどき人と仲たがいして七、八通も絶交状を書く。それからまた仲なおりして今度はほとばしり出る友情を伝えるため、七、八通も手紙を書くというありさまです。ですがあの男が一番生彩を放つのはどんなことでも根に持ったりしない誠実な人間らしく、率直かつ真摯《しんし》に真情を吐露するときです。この人は誰か人から尽力を請いたいというときにはいつでも出て来るのです。ぼくの伯父の下にいる副司教で、デクーリ氏の王政復古以来の行状をまったく見事に話して聞かせるのが一人おりますがね。そのうち連れて来てみましょう」
「何だって! その話はぼくには信じられないね」とド・ケリュス伯爵。「そんなことは下らぬ連中が商売|敵《がたき》だからというんでそう言っているんだよ」
「デクーリ氏は歴史に名をのこすでしょうよ。あの人はド・プラト師やタレーラン氏やポッツォ・ディ・ボルゴ氏と一緒に王政復古の大立者《おおだてもの》だったんですから」と侯爵は続けて言った。
「あの男は数百万の金額を動かしたことがあるんだ」とノルベールが言った。「それなのに何でうちのおやじの、ときには聞くに堪えないほどの嘲罵《ちょうば》を聞きにここへやって来るのか、ぼくにはとんと合点が行かない。いつぞやなんかはテーブルをへだてて、『デクーリさん、あなたは何回友だちを裏切ったことがあるのですか?』と大きな声をはりあげて訊いたくらいだ」
「だがあの人が裏切ったというのはほんとうなんでしょうか? 裏切ったことのない人なんているものかしら?」とド・ラ・モール嬢が言った。
「おや?」とド・ケリュス伯爵がノルベールに、「君のところにあの有名な自由主義者のサンクレール氏が来ているんだね。あいつめ、何をしに来たんだろう? ぜひともそばへ行って話しかけて、何かしゃべらせてみなくっちゃ。非常に才智に富んだ男だという話だからね」
「だが君のお母さんはどういう風にあの男をあしらうのかな?」と、ド・クロワズノワ侯爵。「何しろあの男の考えというのはまったく途方もない、高遠な、独自のものだというし……」
「ごらんなさいな」とド・ラ・モール嬢が言う。「その独立|不羈《ふき》な人がデクーリさんに頭が地につくほどのお辞儀をしていますわ、しかも手を握って。まるでその手に接吻するのではないかと思ったくらい」
「デクーリはわれわれが想像する以上に権力者とうまくやっているにちがいない」とド・クロワズノワ侯爵が口をはさんだ。
「サンクレールはアカデミーに入れてもらおうと思ってここへ来るんだ。クロワズノワ君、あの男が***男爵にどんな風にお辞儀をするか見ていたまえ」とノルベールが言った。
「いっそのことひざまずいてしまったほうがまだしも卑屈と見えないのに」とド・リュス氏がそのあとを受けた。
「ねえソレルさん」とノルベール。「君は才智があっても山国からやって来られた人だ。よしんば父なる神の前に出ても、あの大詩人みたいなお辞儀は絶対にしないようになさったほうがいいですよ」
「あら、こんどはあの稀代の才人がおいでになったわよ、バトン男爵」とド・ラ・モール嬢が、その来訪を披露した侍僕の声色《こわいろ》をちょっと真似しながら言った。
「お宅の召使いでさえあの男のことを馬鹿にしているように思えます。なんという名だ、バロン・バトン(バトンは棒の意)なんて!」とド・ケリュス氏が言った。
「あの人はいつか私たちに言っていたわ。『名前なんか何ですか。あのド・ブイヨン公爵(ブイヨンは肉入りのスープ)の名がはじめて披露されたときのことをまあ想像してみてください。要するに私の考えでは、世間の人がこの名に耳慣れていないというだけで……』といった調子なのよ」
ジュリアンは長椅子《カナペ》のそばから離れた。まだ軽妙な皮肉の持ついかにも洗練されたあじわいを理解し得なかった彼は、冗談を聞いてもそれを笑って聞きのがすことができず、何かそこに理由があると思うのだった。彼はこの青年たちの無駄口のなかに何にでもけちをつけようという口吻《くちぶり》のみが感ぜられ、不愉快になった。田舎者らしいと言おうか、イギリス人的と言おうか、謹厳ぶった彼はそこに羨望すらをも認めるまでになったが、この点ではたしかに彼は誤っていた。
〈ノルベール伯爵が自分のところの連隊長にほんの二十行ほどの手紙を書くため三つも下書きをつくっているのを見たことがあるが、もし一生のうちたった一ぺージでもサンクレール氏みたいな文章を書くことができたら、伯爵はどんなに喜ぶだろう〉と彼はひそかに思った。
取るに足らぬ存在であるために人から注意されないのをいいことにしてジュリアンは次々にいくつかのグループに近づいて行った。遠くからバトン男爵の跡をつけながらその言葉を聞き取ってやろうと思っていたが、この非常な才人はそわそわとした様子で、辛辣《しんらつ》な文句を三つ四つ見つけてからやっと少々落ち着いたのをジュリアンははっきり見て取った。この種の機智を発揮するためには相当のゆとりを必要とするようだとジュリアンには思われた。
男爵は気の利いた言葉を言うことができないのだった。才気を見せるためには紙に書いてそれぞれ六行ほどになる文句をすくなくとも四つは発明しなければならないのだった。
「|あの男は議論しているのですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|しゃべっている《ヽヽヽヽヽヽヽ》|のじゃありません《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」とジュリアンのうしろで誰かが言った。彼は振り返ったが、そのときシャルヴェ伯爵の名が披露されたので、嬉しさのあまり彼は頬を染めた。これはこの世紀でも比類のないほどの利口者《りこうもの》だった。ジュリアンは何度もその名を『セント・ヘレナ覚書』や、ナポレオンの口授した史実に関する断片的な文草のなかで見た。シャルヴェ伯爵の言葉は簡潔だった。その舌鋒は稲妻のように閃き、的確で、鋭く、しかも含蓄《がんちく》があった。この男が何かの事件について話すと、たちまち議論は一歩前進する。彼は事実を持ち出してきて議論を豊かにする。その話を聞くのは快かった。しかも、政治のこととなると、彼はふてぶてしいほど冷嘲的《シニーク》だった。
「私は自由独立な人間なんですよ」と彼は三つも勲章をつけている紳士にむかって明らかに愚弄するように言うのだった。「私が今日も六週間前と同じ意見でいなくちゃならんというのは、どういうわけでしょうかね? そういうことになれば私は自分自身の意見の奴隷になってしまいます」
まわりにいた四人の真面目くさった青年がいやな顔をした。このお歴々はふざけたことが嫌いだったのだ。伯爵はあまりやりすぎたと気がついた。さいわい彼は誠実一方の偽善家《タルチュフ》と言われるあの誠実なバラン氏に目を留めた。伯爵は氏と話しはじめた。みんながそのほうに寄って来たが、哀れなバラン氏はこれからなぶり者にされるのだということは誰にもわかった。バラン氏は社交界に出たてのころには言語道断な苦難を嘗《な》めたが、やたらに道徳を振りまわし固く操行を守った甲斐あって、ものすごく醜怪な容貌にもかかわらず非常に金持の細君をもらったが、この細君には死なれたので、また非常に金持の二番目の細君をもらった。だがこんどの細君は社交界にはいっこう顔を見せなかった。彼はきわめてつつましやかに六万リーヴルの年収を享受し、しかも自ら数人の追従者にかしずかれているのである。シャルヴェ伯爵はご当人にこういったことを情け容赦もなく指摘してやった。まもなく彼らのまわりに三十人ほど集まって来た。誰も彼もにやにや笑っていた、世紀の希望たるあの真面目くさった青年たちでさえもが。
〈明らかにからかわれるとわかっているのに、なぜあの男はド・ラ・モール氏のところへ来るんだろう?〉とジュリアンは考えて、そのわけを訊くためピラール氏のほうへ近づいて行った。
バラン氏はこそこそ逃げ出した。
「よかった!」と、ノルベールが言った。「うちのおやじをつけねらうスパイが一人出て行った。あとはもうちびでびっこのナピエだけだぞ」
〈これで謎が解けるんだろうか? しかしそれならば、なぜ侯爵がバラン氏を家に入れるのだろう?〉とジュリアンは思った。
厳格なピラール師は侍僕が来客の名を披露するのを聞きながら顔をしかめていた。
「これではまるで悪人の巣窟じゃ」と氏はバジール(ボーマルシェの『セヴィリャの理髪師』の登場人物)もどきに言った。「やって来るのはみんな堕落した奴らばかりだ」
つまりこの謹厳な師は上流社会の事情を知らなかったのである。しかし師は友人のジャンセニストたちから、老獪《ろうかい》にあらゆる党派の手先となったり、あるいは汚らわしい財産に物を言わせたりしてようやくサロンに出入りを許されたこういった種類の人間について、非常に精確な知識を与えられていた。この晩はしばらくのあいだ、ジュリアンの性急な質問に腹蔵《ふくぞう》なく答えてやったが、突然、事ごとに皆の悪口を言わざるを得ぬのがやりきれなくなり、またそれが自分の罪なのだと思う気もして、ぴたりと口をつぐんでしまった。根が胆汁質の性格であり、ジャンセニストであり、キリスト教的慈悲の義務を信じていた師には、社交界に生きること自体がすでに一つの戦いであったのだ。
ジュリアンがまたあの長椅子《カナペ》のほうへ近づいて行くと、「あのピラール師というかたのお顔ったら!」とド・ラ・モール嬢が言った。
ジュリアンは腹立たしさを感じたが、しかし彼女の言うのももっともだった。ピラール師はむろんこのサロンで一番誠実な人ではあったが、良心の呵責に動揺している癰《よう》のできたその顔が、このとき師を醜悪に見せていた。〈これでもまだ人相占いなどというものを信じられるなら勝手に信じてるがいい〉とジュリアンは考えた。〈ピラール師の鋭敏な良心が何かつまらない過ちを心に咎《とが》めているときにはその顔つきが残忍になる。一方、世にかくれもないスパイのあのナピエの顔には汚れのない物静かな幸福があらわれているんだ〉だが、そのピラール師も自分の属することになった党派のためには非常な譲歩をしていた。下男を一人雇い、身なりも立派に整えていたのである。
ジュリアンはサロンに何か異様な気配があるのに気がついた。突然、話し声が少なくなって、みんなの顔が戸口のほうに向いたのである。侍僕があの有名なド・トリー男爵の名を披露した。この男は最近の総選挙の結果、一般の注目を浴びることになった。ジュリアンは前に出て、男爵をよく見た。彼はある選挙会を主宰していたのだが、小さな四角な選挙用紙のうち、ある一つの党派に投票された分だけはごまかしてしまおうという素晴らしい名案を思いついたのである。しかしごまかしただけは、かわりのものを入れておかねばならぬので、自分にとって好都合な名前を書いた別の紙きれと適当にすりかえておいた。この果断な策略は数人の選挙人に見つけられたが、この連中は熱心にド・トリー男爵がこんなことをしたのに敬意を表したものである。この大将はそういう大事件があったため、今なお生色がなかった。意地の悪い連中は懲役という言葉まで口にしていた。ド・ラ・モール氏も冷やかに彼を迎えた。哀れな男爵は逃げ出した。
「あんなに急いで出て行ったのはコント氏(有名な手品師)のところへ行くためですよ」とシャルヴェ伯爵が言った。皆は笑った。
この晩、次々にド・ラ・モール氏のサロンに集まって来た(彼が大臣になるという噂がもっぱらだったのだ)口数の少ない数人の大貴族や、またどれもこれも才人ではあるが中にはだいぶ堕落し果てた人間もいる策謀家たちの中にたちまじって、あのタンボーも初陣《ういじん》していた。まだ透徹した見解は持っていなかったが、その埋め合わせに威勢のいい言葉をならべたてていた。
「なぜあの男を十年間、監獄に叩きこんでやらんのでしょうか?」と、ジュリアンが彼のいるグループに近づいたとき、彼はそう言っていた。「あんな卑劣漢どもは地下牢の底にとじこめてしまわなくちゃなりません。暗闇のなかで死なせるがいいのです。でなければ彼らの害毒はあふれ出して、ますます危険になるばかりですよ。千エキュぐらいの科料《かりょう》に処したところで何になります? あの男は貧乏だ。いかにも、それはそうです。しかし彼の所属する党がかわりに罰金を払うでしょう。ぜひとも五百フランの科料と十年間の地下牢にしてやらなくちゃいけません」
〈おやおや、今の話の極悪人とは、いったい誰だろう?〉とジュリアンは、この同僚の激越な口調と荒々しい身振りに感嘆しながら思った。このアカデミー会員の甥の、肉のそげたやつれた小さい顔は、このときには二目《ふため》と見られないほど醜くなっていた。しばらくしてジュリアンは問題の人物が当代最大の詩人(ベランジェのこと)であることを知った。
〈ああ、この見さげはてた奴め!〉とジュリアンは半ば声に出して叫び、高潔な涙があふれ出て彼の双眸《そうぼう》を濡らした。〈乞食小僧め! いま言ったことの返報はおれがしてやるぞ〉と彼は思った。
〈だがしかし、侯爵もその幹部になっている一派のため身命を賭して戦う連中がこれなんだ! そしてあいつに罵倒されたあの名声赫々《めいせいかっかく》たる男にしてからが、よしんばド・ネルヴァル氏の下らぬ内閣ではなくとも、先ごろ相継いで立った、まあどうにか恥かしくないような内閣の一つに身を売ったとすれば、どれくらいの勲章やら閑職やらを与えられたかわかったものではない〉
ピラール師が遠くからジュリアンに合図をした。ド・ラ・モール氏がちょうどその前、師に何かひとこと言葉をかけて行ったのだった。あいにくこのときジュリアンはある司教の愚痴を目を伏せながら拝聴していたところだったが、やっと解放されて敬愛する師のそばへ近づいて行くと、こちらはあの憎たらしいタンボーにつかまっているところだった。この若僧の極道者は、ジュリアンが寵を得ているのはこいつのおかげだと思って、師を目の敵《かたき》にしていながら、ここへやって来てご機嫌を取っているのだった。
「|いつの日か死によってわれらはこの古き堕落より《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|脱れられるか《ヽヽヽヽヽヽ》?」こういう聖書にあるような威勢のいい言葉をつかって、この青二才文士は今あの尊敬すべきホランド卿(英国の自由主義者)の話をしていた。この男の取柄《とりえ》は現存の人物の伝記をとてもよく知っていることだった。このとき彼はイギリスの新王の治世〔すなわちジョージ四世の治下、年代的には一八二〇年より三〇年〕に何らかの勢力を得る可能性のある人々を一人のこらず次から次へと論評を加えたところだった。
ピラール師は隣のサロンのほうへ行った。ジュリアンはそのあとについて行った。
「侯爵は三文文士を好まれない、このことを一言、君に言っておく。これだけはどうしても侯爵には我慢がならないのだ。君がラテン語や、できることならギリシア語やエジプト史ペルシア史などに通じているというのなら、侯爵は君を重んじてくださるだろうし学者として後援してもくださるだろう。しかしフランス語では一ぺージたりとも、ものを書いてはいけないよ。特に社会における君の身分に不相応な重大な問題についてはだね。そんなことをしたら侯爵は君のことを三文文士だといって見放してしまうだろう。どうして君は大貴族の邸宅に住まっていながらド・カストリ公爵がダランベールやルソーについて言ったこういう言葉を知らないんだろうね?『この連中はすべてを論じようとする、だが千エキュの年収すらないのだ』という言葉だ」
〈ここでは神学校と同じで何もかも筒抜けだ!〉とジュリアンは考えた。彼はかなり威勢のいいものを八、九ぺージ書いていたのだ。これは、彼の言うところでは自分を一個の男子としてくれたあの老軍医正に対する一種の追悼文だった。〈それにあれを書いた手帖はいつも鍵をかけてしまってあったのに!〉と彼は心のなかで言った。自分の部屋へ戻ってその手稿を焼き捨ててから彼はサロンヘ戻った。あの才気喚発の悪党どもはもういなかった。浅っているのは大勲章をつけた連中ばかりだった。
召使いたちがちゃんと準備を整えて今しがた運び入れた食卓のまわりに、非常に身分の高い、非常に信心深い、非常に様子ぶった、三十歳から三十五歳ぐらいの婦人たちが集まっていた。綺羅《きら》を飾ったド・フェルヴァック元帥夫人が遅参の申し訳をしながらサロンへはいって来た。もう真夜中を過ぎていた。元帥夫人は侯爵夫人のそばに席を占めた。ジュリアンは深い心の動揺を感じた。彼女の目や眼差しはド・レナル夫人にそっくりだったのだ。
ド・ラ・モール嬢のグループにはまだたくさん人がいた。彼女はその仲間と一緒に不運なド・タレール伯爵のことをからかっていた。これは、諸国の国王に人民とたたかうための軍資金を貸しつけて財貨を獲得したことで有名なあのユダヤ人の一人息子だった。このユダヤ人は一カ月に十万エキュの収入と名前……それも何とあまりにも世間周知のものになってしまった名前……を残して先ごろ死んだ。このような特異な地位に置かれれば、単純な性格か、あるいは非常な意志の力が必要とされることになるものである。
不幸にして伯爵は、追従者たちから吹き込まれたあらゆる種類の自惚れは持ちながら、ありきたりのお人好したるにすぎなかった。
ド・ケリュス氏は彼が人からそそのかされてド・ラ・モール嬢に結婚を申し込む意志を持つようになっていると主張した(彼女にはいずれ十万リーヴルの収入のある公爵になるはずのド・クロワズノワ侯爵が言い寄っているのであった)。
「ああ、意志があったって咎《とが》め立てする必要はないよ」とノルベールが憐れむように言った。
おそらくこの哀れなド・タレール伯爵に一番欠けているものは、意志するという能力であった。彼の性格のこの面よりすれば彼は国王となるにふさわしかったろう。あらゆる人々に絶えず助言を求めておりながら、彼には何かの意見を最後まで忠実に守りとおすという勇気がなかった。
彼の顔つきを見ているだけで、自分には永遠に尽きぬ悦びが感ぜられるとド・ラ・モール嬢は言った。その顔は不安と幻滅とが一種異様に混合したようなものであったが、しかし時には何か勿体ぶった様子やきっぱりした態度もはっきり見受けられる。なかなかの好男子でまだ三十六歳になっていないフランス随一の富豪たるものならば、当然そういう様子や態度はそなえているはずだが。あの男はおそるおそる大きな顔をするのだとド・クロワズノワ氏は言っていた。ド・ケリュス伯爵とノルベールとそのほか二、三人の口髭を生やした青年たちが、相手にはそんなことが全然気づかれないようにして思う存分彼をひやかしたあげく、一時が鳴ると彼を追っ払ってしまった。
「こんなお天気なのにあの有名なアラブ種の馬を門前に待たしてあるのですか?」とノルベールが訊いた。
「いや、あれは新しく買ったずっと安いつなぎ馬なのですよ」とド・タレール氏は答えた。「左のほうの馬には五千フランはらいましたが、右のやつはわずか百ルイでした。ですが実のところ、あの馬は夜だけしか繋《つな》がないのですよ。走り方だけなら右のも左のもまったく同じですからね」
ノルベールがそんなことを訊いたためド・タレール伯爵は、自分のような人間ならば馬に道楽を持ってしかるべきだし、また自分の馬を雨に濡らしておいたりしてはいけないはずだと考えた。彼が出て行ってしばらくのちに、ほかのお歴々も彼のことをいろいろと嘲笑しながら退散した。
ジュリアンは彼らが階段のところで立てている笑い声を聞きながら、〈こうしておれは自分の地位とは正反対のものを見る機会に恵まれた!〉と思った。〈おれには二十ルイの収入しかない。だが今おれは一時間に二十ルイの収入のある男と並んでいた、そしてその男が嘲弄されたのだ……こういったことを見ると羨望などというものはなくなってしまう〉
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第五章 感受性と敬虔な貴婦人
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ちょっと鋭い考えでもそこでは野卑のように見える。それほど人々は陳腐な言葉に慣れ切っているのだ。話しながら独創を見せる人間こそいい面《つら》の皮だ!(フォーブラ)
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数カ月の試錬を経てジュリアンはこの家の執事から年俸の三度目の四半期分を受け取ることになった。ド・ラ・モール氏は彼にブルターニュとノルマンディにある領地の管理を任せた。ジュリアンはそれゆえ、この地方へ繁々と旅行した。彼はまたド・フリレール師とのあの有名な訴訟事件に関する通信の主任になるように命ぜられた。ピラール師はこのことについて彼によく教えこんでおいた。
侯爵が自分のところへ来たあらゆる種類の書類の欄外に短かい覚え書きを摘記しておくと、ジュリアンはこれによって手紙をしたため、その手紙はほとんど全部そのまま署名してもらえるのであった。
神学校では彼を教える教授たちは彼があまり勉強に精を出さないことに不足を言っていたが、それでも彼をきわめて優秀な学生の一人として認めていた。満たされない野心を追おうとする熱情をもっていろいろの仕事に努めたため、ジュリアンはたちまちのうちに地方から持って来た生き生きとした顔色をなくしてしまった。彼の蒼白い顔色はその学友である若い神学生の目には彼のえらさを示すものと思われた。彼はまた、この学生たちがブザンソンの連中にくらべてはるかに辛辣《しんらつ》なところがすくなく、またエキュ金貨一枚の前にひざまずくようなこともはるかにすくないと思った。彼らはジュリアンが肺病にやられていると思いこんでいた。侯爵は彼に馬を一頭くれた。
乗馬中に誰かに逢うと困ると思ってジュリアンは、この運動は数人の医者から命ぜられたものだとみんなに言っておいた。ピラール師は彼をいろいろのジャンセニストの会へ連れて行った。ジュリアンは驚いた。宗教という観念は彼の頭のなかでは偽善とか金儲けができるという当て込みとかと密接に結びついていたからだ。金の出入りなどといったことを考えてみることもないようなこの敬虔で厳格な人々に彼は感服した。何人かのジャンセニストが彼に好意を持ち、いろいろ忠告してくれた。新しい世界が彼の前にひらけた。ジャンセニストたちのところで彼は、身の丈一メートル八十センチ近くもあり、本国では死刑の判決を受けている自由主義者で、しかも信仰の厚いアルタミラ伯爵というような人を知った。この、厚い信仰と自由への愛という奇妙なコントラストが、彼の心を打った。
ジュリアンの若い伯爵との仲は冷却していた。ノルベールは彼が数人の自分の友だちの冗談にひどく手厳しい返事をしているのを見てしまったのだ。ジュリアンは一、二度礼儀にもとったことをしてしまったので、もうマチルド嬢には言葉をかけないことにしようと固く決心していた。彼に対してはラ・モール家の人々は、つねに申し分なく丁重にしてくれた。しかし彼は人々の好意を取り逃したように思った。田舎者である彼の良識《ボン・サンス》はこういう結果になったことを新しければ何でも良いという俗間に知られた諺《ことわざ》で説明していた。
おそらく彼ははじめのころにくらべていくらか目はしが利くようになっていたのだろう。あるいはパリ人の都雅な態度を見て感じた最初の陶酔が醒めてしまったのかもしれない。
仕事をやめたとたんに彼はやりきれない倦怠に襲われるようになっていた。彼をこんな風にさせたのは、特に上流社会で行われている、敬服すべきものではあるが非常に堅苦しくて、それぞれの身分によってはっきりと段階をきめられている礼節というものの持つ、人の心を干からびさせるような作用だった。多少とも感受性のある心ならば、すぐその不自然さがわかってしまう。
もちろん田舎の陳腐な、あるいは洗練を欠いた物腰は、非難されても仕方があるまい。しかし田舎では人が諸君に対して何かの返事をするにしても、多少とも熱がこもっている。ラ・モール邸でジュリアンの自尊心が傷つけられるようなことがあるというのでは決してない。しかし一日の終りにいっそ泣いてしまいたいという気持になったことも、しばしばだった。地方ではカフェの給仕でも、諸君がそのカフェにはいるときにもし何かちょっとしたことが諸君の身に起こったならば、見て見ぬ顔はしないだろう。だがもしそこに起こったことに何かしら自尊心を傷つけるような点があったら、給仕は諸君に同情しながらも諸君が閉口するようなことを十回もくりかえして言うだろう。パリでは、笑うときには人目につかぬように注意してこっそりと笑ってくれる。だがいつまでたっても諸君はよそ者にすぎないのだ。
もしジュリアンがいわば物笑いにするにも足らぬような人物でなかったとすれば、彼を物笑いの種にさせたような多くのくだらぬ出来事などは、ここでは触れないでおくことにしよう。めっぽうに激しい感受性のあまり彼は数えきれないほどのへまをやった。彼のすべての娯楽は遠謀深慮から来るものだった。たとえば彼は毎日ピストルの射撃をやったし、またきわめて名の高い剣術の師範の優秀な門弟になっていた。ほんのしばらくでも余暇を勝手に使えるようになると、昔のようにその時間を読書に充てたりせずに、馬場に駈けつけて一番癖の悪い馬を連れて来させた。調教師と一緒に乗馬で散歩するときには、ほとんどかならず地べたに振り落された。
侯爵は、彼が仕事には根気よく口数がすくなく頭がよく働くので調法だと思うようになり、だんだん多少かたづけにくいような仕事を全部彼に任せるようになった。高い野心を多少忘れたときには、侯爵は機敏にいろいろな事業をやった。いろいろなニュースをすぐ知ることができたため、彼はいつも投機には成功した。彼は家や森を買った。だが彼はすぐ腹を立てやすい。それゆえ数百ルイの金を与えておきながら数百フランのことで訴訟をはじめたりした。卑しからぬ心を持った金持は取り引きのなかに楽しみを求めるのであってその成果を求めるのではない。侯爵は自分のすべての財政上の事務を理解しやすいように、はっきりと整理しておく参謀長を必要としていたのだ。
ド・ラ・モール夫人はあんなに堅苦しい性格だったにもかかわらず、ときどきジュリアンのことをからかった。感受性のためにひきおこされる思いがけぬことというものは、貴婦人方には身の毛のよだつほど恐ろしいものだった。これは礼節の正反対のものだからである。二、三度侯爵は、「あの男はあなたのサロンでは笑いものになっていたって、事務にかけてはあの男の右に出るものはない」と言って彼の肩を持った。ジュリアンのほうは自分が侯爵夫人の秘密をつかんだと思った。ド・ラ・ジュマート男爵の来訪が披露されると、たちまち彼女は何にでも活発な興味を示すようになる。この男爵は物に動じないような顔つきをした、つんとした男だった。小男で、痩せていて、醜悪で、大変立派な服装をして、宮中に入りびたっていて、一般にどんなことについても一言も言わなかった。これが彼の考え方なのであった。もし彼を娘の婿《むこ》にすることができたら、ド・ラ・モール夫人は生まれてはじめて心の底から幸福になり得たろう。
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第六章 口の利き方
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彼らの高い使命とは民衆の日常生活のささやかな出来事を冷静に批判することである。彼らの叡知は、些細な事柄や、また世人の噂によって遠くまでひろまるうちに内容が変ってしまう事件に対して激しい怒りを感じたりしないように、警戒しおくべきである。(グラシウス)
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新参者でありながら傲慢さのため決して人にものを尋ねるということをしなかったにもかかわらず、ジュリアンはあんまりひどい失敗をしないですんだ。ある日、にわか雨にあってサン・トノレ街のとあるカフェへ逃げこむと、カストリーヌ〔ラッコの毛と羊毛を混じた織物〕のフロックコートを着た大男が彼の陰鬱な目つきに驚いて、今度はむこうから、かつてブザンソンでアマンダ嬢の情人がやったのとまったく同じように彼のことをじろじろと眺めた。
あの最初の侮辱を見過ごしたことをさんざん口惜《くや》しく思っていたので、ジュリアンはこの凝視には黙っていられなかった。彼は釈明を求めた。フロックコートの男は言下にこの上なく口汚ない悪態をつきはじめた。カフェにいた連中は皆そのまわりに集まった。通行人でさえ戸口のところで立ちどまった。地方人らしい用心深さでジュリアンはいつも二挺の小型のピストルを身に携《たずさ》えていた。彼の片手はポケットのなかで痙攣的にわななきながらそのピストルを握りしめていた。けれども彼ははやる心を抑えて相手にむかってひっきりなしに「あなたの家はどこです? ぼくはあなたを軽蔑する」とくりかえすにとどめた。
執拗に彼がこの言葉ばかりくりかえすのを見て、とうとうそこに集まった人々は心を動かされた。「まったくだよ! あっちのやつは自分一人でしゃべってばかりいるが、こちらの男に住所を教えてやらなくちゃいけない」フロックコートの男は皆がこういう結論をくだして何度もそう言うものだから、ジュリアンの鼻っ先に五、六枚の名刺を投げつけた。さいわい一枚も彼の顔には当たらなかった。むこうが手を出したときでなければピストルは使うまいと彼は心に決めていたのだ。男は出て行ったが、途中でときどき振り向いて拳骨で嚇《おど》したり、悪態をついたりすることを忘れなかった。
ジュリアンは自分が汗でぐっしょり濡れているのに気がついた。〈してみると下劣きわまる人間でもこれほどまでにおれを激昂させることができるというわけだな!〉と彼は憤怒に駆られながら心に思った。〈どうしたらこういう外聞の悪い多感さをなくさせることができるか?〉
どこで介添え人を見つけて来よう? 彼には友だちがなかった。知人はたくさんいたが、しかし誰もが一様に、交際をはじめて六過間もすると彼から離れて行くのであった。〈おれは非社交的だ。そのため今になってひどい罰があたったんだ〉と彼は思った。やっと彼は、たびたび彼と武術の稽古の相手になった貧乏な男でリエヴァンという名の、もと第九十六連隊付きの退役中尉を捜し出そうと思いついた。ジュリアンはリエヴァンに肚《はら》を打ち割って話してみた。
「いかにも君の介添え人になりましょう」とリエヴァンは答えた。「だが一つ条件がある。もし君が相手の男を負傷させることができなかったら、ぼくと決闘するんです、その場ですぐ」
「よろしい」とジュリアンは欣喜雀躍《きんきじゃくやく》して言った。こうして彼らは例の名刺で教えられた住所によって、C・ド・ボーヴォワジ氏を尋ねてフォブール・サン・ジェルマンの奥まで行った。
まだ朝の七時だった。捜し当てた家に案内を乞いながら、はじめてジュリアンは、この男が以前ローマだかナポリだかの大使館につとめていて歌手ジェロニモの紹介状を書いてよこした、ド・レナル夫人のあの若い身内の人に違いないと思いついた。
ジュリアンは出て来た大男の侍僕に、自分の名刺と一緒に前日投げつけられたのを一枚渡しておいた。相手は彼と彼の介添え人を優に四十五分も待たせた。そのあげくやっと彼らは素晴らしく洒落た居間に通された。そこには、まるで人形のようにめかしこんだ大柄な青年がいた。この男の顔立ちはまるでギリシア人の美貌のような完璧さと空虚さを示していた。いやに小さい彼の顔には目もさめるほど美しいブロンドの頭髪がピラミッド形に生えていた。その髪は、一筋も乱れがないほど非常に丹念に縮らせてあった。〈このお洒落野郎がおれたちを待たせやがったのは、こんな風に髪を縮らすためだったんだな〉と九十六連隊の中尉は思った。けばけばしい色の部屋着、朝のズボン、のみならず刺繍《ししゅう》つきの上履きにいたるまで、すべてが一分の隙もなく、驚くほど凝ったものだった。品位はあるが無表情なその外貌は、滅多にものを考えることはないが考えるにしてもあたりさわりのないことしか考えないという風に見えた。つまり、突飛なことや冗談というものは頭から嫌いで、えらく勿体ぶる社交的人物の典型というべきであったのだ。
介添えの九十六連隊の中尉から、荒々しく名刺を顔にむかって投げつけておいて、その上こんなに長いこと待たせるのは重ね重ねの侮辱だと教えられていたジュリアンは、いきなりド・ボーヴォワジ氏の部屋につかつかとはいって行った。彼は横柄《おうへい》に出てやろうという肚《はら》だったのだが、しかし同時に品を崩さぬようにもしたかった。
彼はド・ボーヴォワジ氏の身のこなしの温雅さ、堅苦しいと同時に様子ぶった自惚《うぬぼ》れた態度、またその身のまわりのものの素晴らしい優美さにすっかり心を打たれてしまって、またたくまに横柄に出ようという考えなどすっかりなくしてしまった。これは昨日の男ではなかった。カフェで逢ったあの男のかわりにこんなに上品な男に出くわしたという驚きのあまり彼は一言も言えず、黙って昨日投げつけられた名刺を一枚相手に見せた。
「これは私の名前です」とその最新流行型の男は、朝の七時というのにジュリアンが黒服を着ているのを見ていくらか馬鹿にしたいような気になって言った。「ですが私にはどうもわけがわかりませんね、誓って申しますが……」
この最後の言葉の言い方にジュリアンはむかむかした。
「私はあなたと決闘するためにまいったのです」そう言って彼は一気に事の次第を説明した。
シャルル・ド・ボーヴォワジ氏はつらつら詮議したあげく、ジュリアンの黒服の仕立てにはかなり満足した。〈こいつはたしかにストーブ製だ〉と氏は相手のしゃべっているのに耳をかしながらひそかに思った。〈あのチョッキの趣味はいい、靴だって悪かない。だがそれはそうとして、こんな朝っぱらからあの黒服とは!……つまり弾をうまく避けられるようにというわけか〉とシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジは思った。
こういう風に一人合点してしまうと、氏はまた例の申し分のない慇懃《いんぎん》さにかえって、ジュリアンに対してほとんど対等にふるまった。対談はだいぶ長かった。問題は微妙だった。だが結局ジュリアンはこの明々白々な事実を拒むことはできなかった。彼の目の前にいるこの名門の青年は昨日彼に無礼をはたらいた野卑な人物とは何としても似てもつかぬものだった。
ジュリアンはこのままひきさがるのがいやでたまらなかったので長々と話し合いを続けた。シュヴァリエ・ド・ボーヴォワジの自惚れた態度も彼は見のがさなかった。ド・ボーヴォワジはジュリアンが自分のことをただ簡単にムシューと呼ぶのを不快に思って、自分のことを言うときにはシュヴァリエ(男爵の下位の貴族の称号)と自称していたのである。
ジュリアンは相手の荘重さに感服した。目立たぬほどのお高くとまった様子がまじってはいたが、いっときもこの荘重さをなおざりにすることはなかった。ものを言うときに妙に舌を動かすのも彼には奇異な感じがした……だが結局、すべてこういったことのなかには強いて喧嘩をしなくてはならないという理由になるものは毫《ごう》もなかった。
若い外交官はたいへん如才ない態度で決闘を受諾しようと申し出て来たが、一時間も前から足をひろげて両手を腿《もも》の上に置き、肘《ひじ》を張った姿勢で坐っていた九十六連隊の退役中尉が、友人ソレル氏は、相手が名刺を盗まれたからといってその人に理不尽な喧嘩を吹き掛けるような人ではないという結論を下した。
ジュリアンはひどくむしゃくしゃしながら家を出た。シュヴァリエ・ド・ボーヴォワジの馬車が中庭の石段の前で主人を待っていた。たまたまジュリアンが目を上げて見ると、その馭者が前日の男だとわかった。
それと見るやその男の長いモーニングコートをつかまえて席からひきずりおろすと乗馬用の鞭でさんざんに打ちのめす、これは一瞬の出来事だった。二人の下男が仲間をかばおうとした。ジュリアンは拳骨《げんこつ》でいくつか殴られた、と同時に彼は一挺の小型ピストルの撃鉄を挙げて彼らに向けて発射した。彼らは逃げ出した。これらすべてはほんの一分間の出来事だった。
シュヴァリエ・ド・ボーヴォワジはおよそ滑稽なことこの上ないほどの威厳をよそおっていかにも大貴族といった口ぶりで「何事だ、何事だ!」と言いながら降りて来た。明らかに非常な好奇心を持っているのだが、外交官としての体面からそれ以上の興味を示すことは許されないのだった。事の次第を知らされたときにもなお、彼の面上にはあくまでも外交官たるものがその容貌に示していなければならない幾分人を馬鹿にしたような冷静さがあって、なかなか尊大な顔をしてみせることはできなかった。
九十六連隊の中尉はド・ボーヴォワジ氏が決闘したがっていると悟った。そこで彼もまた外交的に友人のために機先を制して有利な立場においてやろうと思った。……「今度こそは決闘すべき理由がある!」と彼は叫んだ。「いかにも左様ですな」と外交官が応じた。
「そのごろつきはお払い箱だ」と外交官は下僕たちに言った。「誰かほかのものが乗れ」
馬車の扉が開かれた。シュヴァリエは是非ともジュリアンとその介添え人にご同乗願いたいと言った。ド・ボーヴォワジ氏の友人を一人尋ねて行くと、その男が静かな場所を教えてくれた。途中の会話は実際面白かった。おかしいことといえば、外交官が部屋着を着ていることだけだった。
〈この紳士たちはずいぶん高貴な身分なのにド・ラ・モール氏の邸へ晩餐に来る連中みたいに退屈ではない〉とジュリアンは思った。〈しかしその理由もわかる〉とジュリアンは一瞬のちに続けて思った。〈この人たちは礼儀にそむくこともあえて厭わないからだ〉昨晩のバレエで特に観衆の目を惹《ひ》いた踊り子などが話に出た。相手の紳士たちはきわどい逸話をほのめかしたりしたが、ジュリアンにもその介添え人である九十六連隊の中尉にもそんなことについての知識は皆目なかった。ジュリアンは知ったかぶりをするような馬鹿な真似はしなかった。彼は気軽に自分の無知を白状した。この率直さにシュヴァリエの友人が好感を持った。その男はこういう逸話の数々をきわめて綿密に、またたくみに話してくれた。
ある一事がジュリアンを非常に驚かせた。街路のまんなかに聖体節の行列のため休憩祭壇《ルポゾアール》が一つ建てられていたので、その前で車はしばらく止まった。するとこの紳士たちはいろいろ冗談口をたたくのだった。そこの司祭は彼らの言うところによると、大司教の息子であった。公爵になろうというのが望みのド・ラ・モール侯爵の邸では、こんなことをあえて口にするものはいなかった。
決闘はたちまちのうちにかたづいた。ジュリアンは腕に一発お見舞いされた。ハンカチで縛りそのハンカチを火酒《オ・ド・ヴィ》で湿すと、ド・ボーヴォワジ氏はジュリアンに、お連れした馬車でお宅までお送りさせてくださいとたいへん慇懃に頼んだ。ジュリアンがラ・モール邸を教えると、若い外交官とその友人はめくばせを交わした。ジュリアノのために呼んだ辻馬車《フィアクル》はそこに来ていたが、お人好しの九十六連隊の中尉と話をするよりこの紳士たちとしたほうが彼には比較にならないほど面白いと思われた。
〈何だ! 決闘ってこれだけのものなのか! あの馭者を見つけ出したということは、まったく幸運だった! カフェで受けたあの侮辱をまた忍ばねばならないということだったら、おれはどれほどみじめだったろう!〉愉快な会話はほとんど中絶されることなく続いた。ジュリアンはこのとき、外交的虚飾というものも何かしら役に立つものだということをさとった。
〈それでは倦怠というものは何も名門の人たちの会話に元来つきまとっているというわけではないんだ! この人たちは聖体節の行列だってひやかすし、まったく言いにくい妙な話だって微に入り細を穿《うが》って手に取るようにやってのける。実際この人たちがしないのは政治上のことについての議論だけだ。しかしそれをしないからといったって、あれほど品の好い話し方をするんだし言葉づかいは申し分のないほど適切なんだから、十二分に償われているわけだ〉ジュリアンは彼らに対して強く心をひかれるのを感じた。〈この人たちとちょいちょい会えたらどんなに嬉しいか!〉
別れるや否やシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジは情報を集めに駈けまわった。だが得られた情報はぱっとしなかった。
彼は相手の男の名を無性に知りたかったのである。体裁よく相手を訪問することができるだろうか? ようやく得られたわずかばかりの知識も彼の心をそそり立てる体《てい》のものではなかった。
「まったくこいつはひどいよ!」と彼は自分の介添え人に言った。「ぼくがド・ラ・モール氏のただの秘書なんかと決闘したなどと白状することは何としたってできないからね。しかもぼくの馭者が名刺を盗んだってことが原因でさ」
「そりゃたしかに物笑いの種にされないとは言えんな」
その日の晩にシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジとその友人は、このソレル氏は何といってもまったく申し分のない青年で、それにド・ラ・モール侯爵の親友の私生児なのだとそこらじゅうに言い触らした。この噂は文句なしにひろまった。一度そういうことになってしまうと、若い外交官とその友はジュリアンが部屋に閉じこもっていた二週間のあいだ、数回彼をわざわざ見舞いに来た。ジュリアンは彼らに、これまでただ一度だけしかオペラ座に行ったことがないと白状した。
「それは驚き入った話ですな」と相手は言った。「行くところといえば、あすこしかないんですがね。今度外出できるようになったらまず『オリー伯爵』(ロッシーニの歌劇)を見るようになさらなくちゃ」
オペラ座へ行くとシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジは名声赫々たる歌手ジェロニモに紹介してくれたが、この歌手は当時非常な喝釆を博していた。
ジュリアンはシュヴァリエのご機嫌を取っていたと言っていいくらいだった。自尊心とわけのわからぬ勿体ぶりと青年らしい自惚れとのこの混淆《こんこう》に彼は魅了されていたのだ。たとえばシュヴァリエは少しどもった。これはどもりぐせのあるある大貴族にたびたびお目にかかるからだった。このように一人の人間のなかに、愉快な滑稽さと、哀れな田舎者が努めて見習わねばならぬような完璧な物腰とが一体となっているのを、ジュリアンはかつて見たことがなかった。
彼がオペラ座でシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジと一緒にいるのが人々の目に留まりはじめた。このおかげで彼の名も人々の口に上《のぼ》せられるようになった。
「なるほど」とある日ド・ラ・モール氏が彼に言った。「それでは君は私の親友のフランシュ・コンテの裕福な貴族のかくし種ということになりすましたわけか?」
「ド・ボーヴォワジ氏は木挽大工の倅なんかと決闘したと思われたくないのです」と言って、自分ではそんな噂を流布《るふ》させようとしたことなぞはすこしもないと断言しようとするジュリアンの言葉を侯爵はさえぎった。
「わかっている、わかっている」とド・ラ・モール氏は言った。「今度は私がその流説を信じこませるようにさせねばならない。その噂は私に都合がいいからね。だが一つ君にお願いしたいことがある。といっても、君の暇を三十分ほど割いてくれればいいのだが、毎晩十一時半にオペラ座で上流社会の人たちが出て来るのを玄関のところで見てもらいたい。君の立ち居振る舞いにはまだ時々田舎風のところが見える。あれはなくさなければいけない。それにまたお偉方のせめて顔だけでもおぼえておくことは悪いことではない。いずれ君にそういう人たちのところへ何かの用事で行ってもらわねばならんこともあるかもしれんから。桟敷《さじき》の申し受け所に顔を出してみなさい、君は木戸御免になっている」
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第七章 神経痛の発作
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そして私は昇進した。だがそれは私の才能によってではなく、私の主人が神経痛を病んでいたからである。(ペルトロッティ)
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読者はおそらくこのこだわりのない、ほとんど友だちに対するような口の利き方を意外に思われたであろう。私は侯爵がこの六週間来、神経痛の発作のためやむなく自室にひきこもっていたと一言することを忘れていた。
ド・ラ・モール嬢とその母親はイエールの侯爵夫人の母君のところへ行っていた。ノルベール伯爵は、時々ほんのしばらくしか父親に会いに来ない。この親子は大変仲がよいのだが、たがいに話し合う種がなかったのだ。ド・ラ・モール氏は仕方なくジュリアンを相手とするようになって、この男がいろいろ独創的な意見を持っているのを知って一驚を喫した。彼に新聞を読ませることにしていたが、まもなくこの若い秘書は特に興味のある個所を拾い出すことができるようになった。侯爵の大嫌いなある新しく刊行された新聞があって、侯爵はこれを二度と読むまいと自ら誓っていながら、毎日その新聞の話をするのだった。ジュリアンはそれを嗤《わら》った。当今の時世に痛憤している侯爵は彼にティトゥス・リウィウスを読ませた。ラテン語の原文を読みながら即席にする翻訳が侯爵には面白かった。
ある日侯爵は、ジュリアンが苛々することがよくあるような例の極端に慇懃《いんぎん》な口調で言った。
「親愛なソレル君。失礼だがあなたに青い色の礼服を一着、差し上げたいんですがね。いやでなかったらそれを着用になって、私の部屋に来てください。そうしたら私はあなたを、ド・ショーヌ伯爵の弟、つまり私の友人である老公のご子息ということにしてお迎えしますよ」
ジュリアンにはそれがいったいどういことなのかあまりよくわからなかった。その晩さっそく彼は青い色の礼服を着て侯爵を訪問してみた。侯爵は彼を同等の身分のものとして待遇してくれた。ジュリアンは真の礼節を感じ得るだけの心を持っていた。だがそれにまつわるいろいろのニュアンスは彼にはわからなかった。侯爵がこんな気まぐれを起こすまでは、彼は侯爵からこれまで以上の敬意をもって迎えられることはあり得ないと断言したであろう。〈何という素晴らしい手際だろう!〉とジュリアンは心に思った。おいとましようと立ち上がると、侯爵は神経痛のためお見送りできませんからとわざわざ詫びをいった。
このおかしな思いつきはジュリアンの念頭を去らなかった。〈侯爵はおれのことをからかっているんだろうか?〉そう彼は考えた。ピラール師のところへ意見を聞きに行った。師は侯爵よりも慇懃ではなかったから、返事をせずに鼻であしらったりほかのことを話したりした。翌朝、ジュリアンは黒服を着て紙挟みと署名してもらう手紙を持って侯爵に目通りすると、もとと同じ態度で迎えられた。晩方、青い色の礼服で行くとそれとは打って変わった、前日とすこしもかわらぬ慇懃な口調あった。
「あなたはこうやって、ご親切にも私のような病気の老人を訪問してくださっていながら大して退屈なさる様子もない」と侯爵は彼に言った。「それではこの老人に、あなたのこれまでの生活のいろいろの出来事を細大もらさず話していただけませんか。だが率直に、そしてはっきりと、面白く話そうということ以外は念頭に置かないでね。なぜなら」と侯爵はつづけた。「面白くやるのが必要なんですよ。それを除けば人生に真実などないんです。毎日戦争へ出て誰かに命を救ってもらうとか、でなければ毎日百万金を贈ってもらうとかいうことはできることではありませんからね。しかしもしあのリヴァロール〔十八世紀末のフランスの著述家。革命中は亡命した。才人として有名〕がここに、この長椅子のそばにいれば、毎日一時間は痛みと倦怠を散じさせてくれるでしょう。私は亡命時代にハンブルクであの男とよくつきあっていましたがね」
そうして侯爵はジュリアンにリヴァロールと、一つの警句を理解するために四人で額をあつめて考えたというハンブルク市民との逸話をいくつか話した。
この小坊主だけしか話し相手にするものがなくなったド・ラ・モール氏は、彼の気持を浮き立たせてやろうと思った。侯爵は本気でジュリアンの自尊心を煽《あお》り立てた。相手から真実を求められたのでジュリアンは何もかも言ってしまおうと決心した。しかし二つのことだけは口を閉ざしていた。侯爵の機嫌を悪くさせるある一人の人間の名前に対する熱狂的な讃仰《さんごう》と、将来の司祭たるべき身にはあまりそぐわない徹底した不信との二つである。例のシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジとのちょっとした一件もちょうどうまく壷にはまった。侯爵はサン・トノレ街のカフェでの口ぎたない罵言を浴びせる馭者を相手の一幕を聞くと涙を流して笑った。このときこそ主人と雇い人との関係が溶解してこれ以上ないまでに肝胆《かんたん》照らし合った時期だった。
ド・ラ・モール氏はこの特異な性格に興味を感じた。はじめしばらくのうちはジュリアンの滑稽なところをことさら甘やかして慰みにしようとしていたが、やがてこの青年の誤った物の見方をそれとなくなおしてやることにいっそうの興味を感ずるようになった。〈ほかの田舎者だったらパリヘやって来ると何から何まで感心してしまうもんだが〉と侯爵は考えた。〈この男は何から何まで目の敵《かたき》にする。ほかの奴らには気取りがありすぎるがこの男にはなさすぎる。馬鹿者どもはこの男のことを馬鹿だと思うだろう〉
神経痛の発作は冬の厳しい寒さがつづいたために長びいて数カ月もおさまらなかった。
〈まあ、とにかくきれいなスペイン犬に熱をあげる人だっているんだから〉と侯爵は心に思うのであった。〈私がこの小坊主に夢中になったってそう恥かしがるには当らないじゃないか。この坊主は何しろ変わり者だ。私はこの男を自分の息子のようにあしらっている。まあいい! 何も不都合なことはないではないか! こんな気まぐれなんか、もしいつまでもつづいたとしても、遺言状を書くとき五百ルイのダイヤモンドでも遺贈するように書き入れりゃすむことだ〉
この雇い人のしっかりした気性をいちど呑み込んでしまうと、毎日々々侯爵は彼に何か新しい仕事を託すようになった。
ジュリアンは、この大貴族が同じ事柄についてときどき相矛盾する決定を下すことがあるのに気がついてたいへん驚き恐れた。
こういったことは彼を非常に危うい羽目に陥《おとしい》れるかもしれない。ジュリアンはその後、侯爵と一緒に仕事をするときには、かならず相手のくだした決定を書き込むノートを携えていることにし、決定事項には一々侯爵に花押《かきはん》を捺《お》してもらった。すでにジュリアンは、それぞれの事務に関する決定事項を特別のノートに書きうつす書記を一人雇っておいた。このノートにはまたすべての手紙の写しも記入された。
この思いつきは最初は笑止千万な煩わしいことこの上なしのもののように思われた。しかし二カ月もたたぬうちに侯爵はこれの長所がわかった。ジュリアンは侯爵に提案して、もと銀行にいた一人の書記を雇って、自分がその管理を委託されている地所の収支一切を複式簿記で記載させることにした。
こういう方法を採ったおかげで、侯爵は自分の事業が一目瞭然《いちもくりょうぜん》とわかるようになり、そのため名義人の名を借りて上前をはねられるなどという心配なしに二、三の新しい投機をしてみることができたので嬉しく思った。
三千フランほど自分のものとして取っておいてくれたまえ」とある日侯爵は若い自分の助手に言った。
「それでは私のやり方が非難されるようにならぬともかぎりません」
「それではどうしたらいいかね?」と侯爵は機嫌を悪くして言った。
「ご自分で一つ決算をなさって、ご直筆でそれを帳簿に書き込んでくださいますよう。その決算によって私が三千フランいただくことになるのです。だいたいこういった簿記を思いつかれたのはピラール師ですけれど」侯爵はまるで執事のポワソン氏の会計報告を聞くド・モンカード侯爵〔アランヴァルの劇『町人貴族』の登場人物〕のような退屈そうな顔つきでこの決定を記入した。
晩がた、ジュリアンが青の礼服すがたでやって来ると、まったく事務のことは話にならなかった。侯爵が示す数々の好意は常に苦しみ悶えているわれわれの主人公の自尊心にとって、はなはだこころよいものであったので、まもなく彼はこの愛想の好い老人に対して心ならずも一種の愛著を感じはじめた。これはパリで言われる意味においてジュリアンが情にほだされ易いからではなかった。けれども所詮《しょせん》、彼とて血も涙もない冷血漢ではなかったし、あの老軍医正の死後これほどの好意をもって彼に話しかけたものは一人としてなかったのである。彼は侯爵が自分の自尊心に対して、あの老軍医が決してしてくれなかった礼儀正しい配慮を加えてくれているのに気がついて、たいへん驚いた。しまいにはあの軍医が、侯爵が青綬勲章《コルドン・ブルー》を自慢する以上に自分のレジオン・ドヌール十字章を自慢にしていたこともわかった。侯爵の父君もまた大貴族であったのだ。
ある日、黒服を着て事務のための午後の接見を済ませると、ジュリアンが何かと侯爵を楽しませたので、侯爵は二時間も彼を引き留めて、名義人が取引所から持って来たばかりの数枚の紙幣を何としても彼に受け取らせようとした。
「侯爵閣下、あえてこんなことを申し上げましても私の深い敬意をお疑いくださいませんように」
「話してごらん」
「畏《おそ》れながらそのご贈与はご辞退申し上げたいと存じます。それをいただきますのは、黒服の男のほうで、そうしますと青服の男のほうがご好意によってお許しを得ておりますあんな態度が、もうまったく取れなくなってしまいます」こう言って彼は頭をさげて相手のほうを見ずに出て行った。
この調子が侯爵を喜ばせた。彼はその晩ピラール師にその話をした。
「結局これはあなたに打ち明けねばならぬことですがね。私はジュリアンの素姓を知っているのですよ。こう打ち明けて申し上げたからといって、何もこれを秘密にしていただかねばならぬなどとは私は申しませんがね」
〈あの男の今朝のやり方は貴族的なものだった。よし、私があの男を貴族にしてやろう〉と侯爵は思った。
その後しばらくして侯爵はやっと外へ出ることができるようになった。
「ロンドンへ行って二か月ほど過ごして来てくれないかね」と彼はジュリアンに言った。「私の受け取った手紙は私の覚書と一緒に特別の郵便か何かで君のほうへ送付する。君が返事を書いて、それぞれの手紙を同封して、私のほうへ送り返してください。それによる遅延は五日ぐらいしかないだろうと私は勘定しているのだ」
カレーへの街道を駅馬車を駆って行く道々、ジュリアンはこうして派遣される口実となったその用向きのつまらなさをいぶかしんでいた。
彼がどのような憎しみの、いやほとんどこらえきれぬほどの嫌悪の情をいだいてイギリスの土を踏んだかということは、ここでは言うまい。彼のボナパルトに対する常軌を逸した熱情はすでに人の知るところである。彼は士官を見るたびにハドスン・ロウ卿〔セント・ヘレナでナポレオンの警護にあたり、虐待した〕と思え、大貴族を見るごとにあのセント・へレナの卑劣行為を指令し、その代償に十年間大臣職を与えられたバザースト卿〔ピットの友人でナポレオン嫌いで有名〕と思えた。
ロンドンで彼はやっと高級な気取りというものを知った。彼はここで数人のロシアの青年貴族と交わり、この連中からそういうことの手ほどきを受けたのである。
「ねえソレルさん、あなたはそういう天賦を与えられているんですね」と彼らは言うのだった。「あなたは私たちが身につけようとしてあれほど努力しているあの自分の現在感じていることは毛筋《けすじ》ほども見せぬ冷静な顔つきというやつを生まれつき持っておられるのですな」
「あなたは自分の生きている世紀を理解しなかったんですね」とコラゾフ公爵は彼に言うのだった。「人があなたから期待することの反対を常に行ないなさい。誓って言いますが、これがこの世紀の宗教なのですよ。気ちがいにも気取屋にもなってはいけない。なぜならそうなったら人々はあなたから気ちがい沙汰や気取りを期待するようになりますし、それでは今言った掟《おきて》を実行することはできなくなりますからね」
ジュリアンはある日、コラゾフ公爵と一緒に晩餐に招いてくれたフィッツ・フォーク公爵のサロンで非常な面目をほどこした。一時間にもわたって待たされたが、その待つ人々のあいだに立ちまじったジュリアンの態度振る舞いはいまだになおロンドン駐剳《ちゅうさつ》大使館の若い書記官たちのあいだで引き合いに出されるものとなっている。そのときの彼の顔つきは古今無類のものだったのだ。
友人のダンディたちの意に逆らって、彼はロック以来イギリスのもつ唯一の哲学者である有名なフィリップ・ヴェインに会いたいと思った。この男はその牢獄での第七年目を終えるところであった。〈この国では貴族階級の連中はふざけてはいられないのだ〉とジュリアンは思った。〈それにヴェインは辱められ、くさされ、そのほかいろいろな目に遭わされている〉
ジュリアンはこの男を豪快な人間だと思った。貴族階級の憤怒のおかげでこの男は退屈から救われたのだ。ジュリアンは牢獄を出るときに心に思った。〈これこそおれがイギリスで逢ったただ一人の陽気な男だ〉
「暴君たちにとって一番役に立つ観念は、神の観念です」とヴェインは彼に言ったのであった……その学説の爾余《じよ》の部分はシニークなものであるとして割愛しよう。
彼が帰ると、……「どんな面白い考えをイギリスから持って来てくれたかね?」とド・ラ・モール氏は彼に訊いた。彼は黙っていた。……「どんな考えを持って帰って来たのだ、面白いのか、それともそうでないのか?」と侯爵はせきたてた。
ジュリアンは答えた。「第一に、最も賢明なイギリス人でさえ日に一時間は分別をなくします。自殺の悪魔に憑《つ》かれるのです。この悪魔があの国の神なのです。
第二に、才智や天稟《てんぴん》はイギリスへ上陸しますとその真価を二十五パーセントは失ってしまいます。
第三に、イギリスの風景ほど美しく素晴らしくまた感動的なものは絶無です」
「では今度は私が言おう」と侯爵が口を切った。
「第一に、なぜ君はロシア大使館の舞踏会で、フランスには熱情的に戦争を待望する三十万の青年がいるなどと言ったのだ? そんなことは国王たちが快く聞けることだと思っているのか?」
「立派な外交官の方々に対すると、どうしていいのか途方にくれるものです。あの方々は何かといえば重大な議論をはじめるという癖を持っておられます。そんなとき、もし新聞にあるありふれた文句ばかり借用しておりましたら愚か者ということになってしまいます。ところがまた何か真実な、耳新しいことをあえて口にしようものなら驚いてしまって、何と答えていいかわからず、翌日の七時というのにもう大使館の一等書記官を通して不届きなことを言ったとお咎《とが》めになるのです」
「なるほどうまいことを言う」と侯爵は笑いながら、「しかしそういう烱眼《けいがん》な君も、何をするために自分がイギリスへ行ったかということは見当もつかなかったろうね、私は断言してもいい」
「お言葉ですが」とジュリアンは言い返した。「私は一週にいちど我が国の大使館での晩餐会に出席するために行っていたのです。あの大使は世にも慇懃な方です」
「君はここにある勲章をもらうために行っていたのだ」と侯爵は言った。「私は君に黒服を脱がせようとは思わん。しかしまた青い色の礼服の男と話すときのあのいっそう面白い話しっぷりにもうすっかり慣れてしまった。それであらためて君に何とか言うまでは、このことを了承しといてもらいたい。君がこの十字章をつけて私の前に出たときには、私の友人のド・ショーヌ公爵の次男だ、そして、自分ではそんなことは全然知らないのだが、実はもう六カ月も外交の用務に就いている、というわけだよ。記憶しておいてもらいたいことは」と侯爵は、ジュリアンが謝意を示そうとするのを素気なくさえぎって、ひどく真面目な顔つきで付け足した。「私は決して君が現在の身分から上のものになることは望まないということだ。そんなことはいかなる場合にも、雇うほうの身にも雇われるほうの身にもあやまちであり不幸だから。私のところの訴訟問題がいやになるとか、あるいは私と気が合わなくなるとかすれば、私たちの友人のピラール師のためにしてあげたように私は君にも立派な司祭職を一つ斡旋《あっせん》して差し上げる。だが|それ以上のことは駄目《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ですよ」と侯爵はひどくぶっきらぼうな口調で言い添えた。
この勲章はジュリアンの自尊心を満足させた。彼は前よりずっとおしゃべりになった。会話がはずんで来ると皆の口からうっかり飛び出す、あまり礼儀にはかなっていないと解釈することのできるような話を聞いても、侮辱されたとか、その話が自分のことを諷《ふう》しているとか思うことはすくなくなった。
この勲章のおかげで彼は奇妙な訪問を受けた。ド・ヴァルノ男爵の訪問だった。彼は叙爵について内閣にお礼を言上するため、またジュリアンとわたりをつけておくために、パリへやって来たのだった。彼は近々ド・レナル氏にかわってヴェリエール町長に任命されることになっていた。
ド・ヴァルノ氏が、最近ド・レナル氏がジャコバンだったことが判明したと匂わせたときには、ジュリアンはほんとに肚《はら》のなかで笑い出してしまった。実はこうなのである。現在準備中の再選挙でこの新米男爵は与党の候補者になっているのだが、実際はなはだユルトラ的なこの県の選挙大会でド・レナル氏が自由主義者連中から推挙されていたのだ。
ジュリアンはド・レナル夫人の消息を何か知りたいと思ってさぐってみたが駄目だった。男爵は昔恋仇だったことを思い出したらしく、どうしても口を割らなかった。最後に彼はジュリアンに、今度おこなわれる選挙ではお父さんのご一票をこちらにお願いしたいと頼んだ。ジュリアンは手紙を書きましょうと約束してやった。
「シュヴァリエ、あなたは私をド・ラ・モール侯爵閣下にお引き合わせくださるはずですが」
〈いかにも、|そのはずだよ《ヽヽヽヽヽヽ》〉とジュリアンは思った。〈だがこんな悪党をか!〉
「ありていに申せば、私はこのラ・モール邸では取るに足らぬつまらん小僧にすぎませんので、ひとさまをご紹介することなどをお引き受けするわけにはまいりません」
ジュリアンはこの顛末《てんまつ》を逐一侯爵に告げた。その晩、彼はヴァルノの不遜な大望や、また一八一四年以来の行状を侯爵に話して聞かせた。
ド・ラ・モール氏はたいそう真面目な顔をして答えた。「あしたその新米男爵を私に紹介してもらおう。それだけではなく、あさっての晩餐に招待してやる。いずれその人に我が党の新任知事の一人になってもらうことになるからね」
「その場合には」とジュリアンは平然としてつづけた。「貧民収容所長の職は私の父親に下されますよう」
「それもよかろう」と侯爵は快活な様子にかえって言った。「承知した。私は君から道徳的なお説法を聞かされるものと思っていたのだが。君もだいぶ修養を積んだ」
ジュリアンはド・ヴァルノ氏からヴェリエールの富くじ事務所長が最近死んだということを知らされた。この地位をド・ショラン氏にやるのも面白かろうとジュリアンは思った。これはかつて彼がド・ラ・モール氏の部屋でその請願書を拾ったことのある阿呆爺《あほうじじい》である。ジュリアンがこの地位を大蔵大臣に依頼する手紙に署名を求めに来て、例の請願書の文句を暗誦すると侯爵は心から呵々《かか》大笑した。
ド・ショラン氏が任命されるかされないかのうちにジュリアンはあの有名な幾何学者グロ氏のためにその県の議員たちがこの地位を請求していたということを知った。この高潔な男は年収千四百フランしかないくせに、先ごろ死んだその事務所長に子弟の教育費を補助するため毎年六百フランを貸し与えていたのである。
ジュリアンは自分が心ない所行をしてしまったことに驚いた。〈こんなことは何でもない〉と彼は自分に言って聞かせた。こちらが成り上がろうと思うのなら、こんなこととは別の不正の数々をどうせやってのけねばならないんだ。しかもそういう不正を感傷的な巧言《こうげん》令色《れいしょく》で隠蔽《いんぺい》しなければならん。まったくグロ氏にはお気の毒だ! 勲章をもらう資格があるのはあの人だ、それなのにこのおれがもらっている。そしておれはこの勲章をくれた政府の意のままに動かねばならない〉
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第八章 ひときわ立派な勲章は?
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おまえのところの水ではおれの渇きは癒されない」と喉の乾いた精霊が言った。……「ですがこれはディアル・ベキールじゅうで一番冷たい泉なのです」(ペリコ)
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ある日ジュリアンはセーヌ河のほとりにあるヴィルキエという風光明媚な地所から帰って来た。この地所は、ド・ラ・モール侯爵のあらゆる所有地のなかで、あの有名なボニファス・ド・ラ・モールに属していた唯一のものだったから、侯爵は特にこの地所のことには心をつかっていた。彼が帰って来てみると、侯爵夫人とその娘がイエールから邸に帰還したところだった。
ジュリアンは今はひとかどのダンディになっていたし、パリの処世術というものも会得していた。ド・ラ・モール嬢に対しては彼は完璧な冷淡さをよそおっていた。まるで彼女からあの落馬の様子をあんなに浮き浮きした様子で仔細に尋ねられたころの思い出などは何一つ心にとどめていないように見えた。
ド・ラ・モール嬢は彼が丈が高くなり顔色が悪くなったと思った。彼のからだつきや風采には、もはやあの田舎者じみたところなどすこしもなかった。だが会話はそうではなかった。まだあまりに真面目すぎるところや事実に立脚しすぎるところが認められたからだ。こういう理屈っぽい性質が多々あったにもかかわらず、彼の自尊心が働いていたためにこの会話には全然卑屈なところは見出されなかった。ただ彼がまだあまりにいろいろなことを重要視しすぎるということは感ぜられた。しかし彼が自分の言葉をたがえたりするような人間ではないことはよくわかった。
「あの人に足りないのは才智ではなくて軽快さなのよ」とド・ラ・モール嬢は父親にむかって、父がジュリアンのためにもらってやった勲章のことをからかいながら言った。「兄さんはもう一年半も勲章をお父様にねだっているじゃありませんか。兄さんはラ・モール家のものなんですのに!」
「もちろんさ、だがジュリアンには何か人の意表を衝《つ》くところがある。これはおまえが言うそのラ・モール家のものには全然見られなかったものだよ」
ド・レス公爵の来駕《らいが》が告げられた。
マチルドは急に欠伸《あくび》がしたくてどうにも抑えようがなかった。彼女は父親のサロンの古めかしい金色の飾りや昔ながらの常連を今さらながら思い出した。これからパリでまたはじめることになる生活について、彼女はまったく退屈きわまるイマージュを描いていた。けれどもイエールにいたときには、彼女はパリを懐しく思っていたのである。
〈それなのにあたし、もう十九にもなっているんだわ!〉と彼女は思うのだった。〈あの金縁の馬鹿げた本にはどれにもこの年は幸福の年だって書いてあるけど〉彼女はプロヴァンス地方への旅のあいだサロンの脚の曲がったテーブルの上に積みかさねておいた新刊の詩集を眺めた。不幸にして彼女はド・クロワズノワ、ド・ケリュス、ド・リスの諸氏や、その他の男友達よりも才智が優れていた。その連中が自分のところへやって来てプロヴァンスの清らかな空、詩、南国、等々について言うであろうことなどはすべて彼女には今からもう大体わかっていたのだ。
かくも美しいこの目が、極度に深い倦怠と、それよりももっと悪いことには、もう楽しみを見出すことはできないという絶望とを映して、ジュリアンの上にじっと注がれた。〈すくなくともこの人はほかの人たちと同じだとは言えない〉
「ソレルさん」と彼女は、上流階級の若い女たちがよく使うあの勢いのいい、愛想気のない、女性的なところのまったくない声音《こわね》で言った。
「ソレルさん、あなた今晩ド・レスさんの舞踏会においでにならない?」
「お嬢様、私はまだ公爵様にはご紹介を得ておりませんので」(こういった言葉、また特にこの公爵という称号は、自尊心の高いこの田舎者にとって口にするに忍びがたいものだったろう)
「公爵はうちの兄にあなたをお連れするように頼んでいらっしゃったのよ。それにもし来てくださったら、あたしあなたからヴィルキエの土地のことを詳しく聞かせていただこうと思っていたのに。あの土地へ春になったら行こうかという話があるのです。私はあの館に泊れるか、またあのあたりは人が言うほど美しいのか知りたいのです。評判倒れということがよくありますもの」
ジュリアンは答えなかった。
「兄と一緒に舞踏会へいらっしゃい」と彼女は大変そっけない口調で付け足した。
ジュリアンはうやうやしく一揖《いっしゅう》した。〈こういった調子で舞踏会の最中にすら、おれはこの家の人々に報告を行なわねばならんのだ。おれは事務員として金をもらっているのではないのか?〉彼は不機嫌になって付け足した。〈おれがあの娘に何とか言ったら、それがあの娘の父親や兄や母親の計画していることを妨げることにならないとは言えない。まったくこれじゃ最高君主の宮廷みたいなもんだ。まったく無能でいなければならん、しかも誰にも不平を言わせるようなことはしてはならぬと来ている〉
〈あの大柄の娘は何て不愉快な女だ!〉と、母親が自分の親しくしている数人の婦人に紹介しようとして呼んだのでそのほうへ歩いて行くド・ラ・モール嬢を見つめながら彼は思った。〈すべての流行の尖端《せんたん》を行こうとする。服が肩から落ちそうな恰好だ……旅行の前より顔色が蒼いな……何という髪だ、ひどく金色をしているものだからかえって無色のように見えるが!日の光が透き通るくらいだな!……あのお辞儀の仕方や目つきの何という尊大さ! まったく女王然とした身のこなしじゃないか!〉
ド・ラ・モール嬢はちょうど今サロンを出て行く兄を呼びとめた。
ノルベール伯爵はジュリアンのほうへ寄って来て言った。
「ソレル君、ド・レスさんの舞踏会へ行くのに夜の十二時に待ち合わせることとして、どこがよろしいですかね? 公爵はぜひ君を連れて来てくれと熱心にぼくに言っていらっしゃったんだ」
「それほどまでご親切にしていただいて心から有難く思っています」とジュリアンは頭が地につくほどのお辞儀をしながら言った。
彼の不機嫌は、ノルベールが自分に話しかける慇懃《いんぎん》な、しかも好意までこもった口調に対しては何ひとつ咎めだてのしようもなかったので、自分自身がこの懇切な言葉に対して答えたその答え方のほうに働いた。つまり彼は自分の答え方にある程度の卑屈さを感じたである。
その夜、舞踏会に行って彼はレス邸の壮麗さに驚いた。入口の前庭には金の星模様のついた暗赤色の雲斎布《うんさいふ》の大きな天幕を張ってあった。これ以上に上品なものはなかった。この天幕に蔽われた中庭は花ざかりのオランジュと夾竹桃《きょうちくとう》の林と化していた。鉢は十分深く土のなかに埋められているものだから、夾竹桃やオランジュの樹は地面から直接生えているように見えた。馬車が行き交っている道には砂利が敷いてあった。
この全体が田舎者の彼にはなみなみならぬものに見えた。彼はこれほどの壮観を考えてみたこともなかった。一瞬のうちに彼の想像力は唆《そそ》られて不機嫌などはあとかたもなく消散してしまった。舞踏会に来る道すがら馬車のなかでノルベールは楽しそうだったが、彼は何でもかんでも暗く見た。ところが前庭にはいるや否やこの立場は逆転してしまった。
ノルベールはこれほどの壮麗さのなかでそこまでは手のとどきようもなかった二、三の細かい点にだけしか目をつけなかった。何を見てもきまってそれに要した費用を値踏みし、その総額が非常に高いものとわかって来るにつれ、彼がほとんど嫉妬心をおこして不機嫌になって来ることにジュリアンは気がついた。
彼はというと、嘆賞の念にあふれて感動のあまりほとんどおずおずしなから、魅せられたように最初の舞踏場のサロンに辿《たど》りついた。二番目のサロンへの扉のところには人々がひしめいていて、雑沓があまりに激しかったため前へ進むことができないくらいだった。この二番目のサロンのデコレーションはグラナダのアルハンブラをあらわしていた。
「あれは舞踏会の女王だな。どうしたってこれは認めなくちゃならん」と、ジュリアンの胸に肩を押しつけていた口髭を生やした青年が言った。
「あのフルモン嬢はこの冬のあいだはもっときれいだったがね」とその隣にいた男が答えた。「今は自分がもう一段落ちていることに気がついているようだ。あの妙な様子を見るがいい」
「ほんとにあのひとは、人の気をひこうとしてヴェールをすっかり取ってしまっている。見ろ見ろ、あの四組舞踊《コントルダンス》でひとりだけで踊るときのあだっぽい微笑を。あれはまったくもってすばらしいぞ」
「ド・ラ・モール嬢は自分が勝利を占めたことをはっきりと自覚しているくせに、その喜びを自分で抑えているようだ。話し相手に好意を持たれることが心配だという風じゃないか」
「至言だね! あれが誘惑術なんだ」
ジュリアンはその誘惑的な女を見てやろうといろいろしてみたが駄目だった。彼よりも背の高い男が七、八人もいて邪魔になって見えなかった。
「あの品のいい慎ましさにもたしかにコケットリーはあるね」と口髭の青年がつづけた。
「今にも本心をさらけ出しそうだと思えるような瞬間にゆっくりとうつむいてしまうあの青い大きな目だってそうだ」と隣の男が言った。「実際、あれ以上の手管《てくだ》はないぜ」
「あのひとのそばへ来るとさしもの別嬪《べっぴん》のフルモン嬢も月並みに見えるじゃないか」ともう一人の男が言った。
「あのつつましやかな様子は『私にふさわしい男ならいくらでも好意を見せてあげますわ!』と言おうとしているのさ」
「それではあの高貴なマチルドにふさわしいのは誰なんだ?」と最初の男が言った「国を支配する王公で、美貌で才気があって姿もよく、戦場では剛勇のほどを示し、年は少なくとも二十歳まで、というところかな」
「ロシア皇帝のご落胤《らくいん》じゃどうだね……あの人と結婚したおかげでどこかの最高君主になるといった具合で……それともあっさりド・タレール伯爵というところかな、百姓に礼服を着せたという恰好の……」
戸口が通れるようになったので、ジュリアンは中にはいることができた。
〈あのひともこういっためかし屋どもの目に図抜けて見えるとすりゃあ、おれが研究してみるだけの値打ちはあるわけだ〉と彼は思った。〈こういう手合いがどういうものを完璧だと思っているか、おれにもわかるだろう〉
彼が目でマチルドをさがしていると、彼女の視線とぶつかった。〈おれの義務がおれを呼んでいる〉とジュリアンは心に思った。しかしもはや彼の不機嫌は表情に残っていただけだった。好奇心に促されて彼はある喜びを感じながら進んで行ったが、ずっと肩から下へさがったマチルドの服を見ると、この喜びは急速に高まった。これは実は彼の自尊心にはあまり快いものではなかった。〈あの美貌には若さがある〉と彼は思った。四、五人の若者がマチルドと彼とのあいだを隔てていて、そのなかにはさきほど扉のところで話をしているのが聞こえたあの連中もいるのにジュリアンは気がついた。
「あなた、冬じゅうこちらにいらっしゃったんですね」と彼女は彼に言った。「この舞踏会が今度のシーズンで一番感じのいいものじゃないかしら?」
彼はこれに答えもしなかった。
「あのクーロン〔当時の有名な舞踊家の一族〕のカドリーユは私には素晴らしかったわ。それにここにいるご婦人方はあのカドリーユをたいへん上手にお踊りになるし」青年たちは、どうしてもその返事を聞かせてもらいたいと迫られている幸福な男はどんな男かと振り返って見た。ところがその返事というのは面白くもないものだった。
「ぼくはちゃんとした批評など、できたものではないのです。なにしろ毎日々々物を書いて暮らしていますので。こんなに華やかな舞踊会を見たのはこれがはじめてなのです」
口髭を生やした青年たちは腹を立ててしまった。
「あなたはまるっきり賢人ね、ソレルさん」とこちらはますます興味をあらわにして言った。「あなたはこういった舞踏会やこういった饗宴をみんな哲学者のような、ジャン・ジャック・ルソーのような目でご覧になっていらっしゃるんだわ。こんな馬鹿げたことはあなたの心をひきつけるかわりにただ驚かせるだけなのでしょう」
そのなかの一言を聞くと、ジュリアンの空想は消え失せ、彼の心からあらゆる幻影が追い払われた。彼の口もとには、おそらくはいくらか誇張されたある軽侮の表情が浮かんだ。
「ジャン・ジャック・ルソーなどは」と彼は答えた。「彼が上流社会を批判しようとする場合、ぼくの目から見れば一個の愚物たるにすぎません。彼は上流社会など理解していなかったのです。そして成り上がりの下男のような心でそれに臨んだのです」
「けれど『社会契約論』を書いていますわ」とマチルドは敬意をこめた口ぶりで言った。
「共和国とか君主制の位階の撤廃とかを説きながら、この成り上がり者は、もしどこかの公爵が食後の散歩の方角を変えて自分の友人と同行してくれたりしようものなら、喜びに感きわまってしまうのです」
「ええ、そうね、モンモランシーのド・リュクサンブール公爵がコンデ氏をパリのほうへ送って行きますね……」ド・ラ・モール嬢は、はじめて自分の知識をひけらかす喜びを味わえたので夢中になってそう言った。ほとんどフェレトリウス王の存在を発見したあのアカデミー会員にも似た気持で、彼女は自分の学識に酔っていた。ジュリアンの視線はなおも鋭く厳しいままであった。マチルドは忘我の一瞬を味わったのだ。だが今相手の冷やかさを見てすっかり面喰った。平生自分のほうで他人をこういう目に遭わせてやるようにしていただけ、彼女はこのときいっそう驚かされた。
ちょうどそのときド・クロワズノワ侯爵がいそいそとド・ラ・モール嬢のほうへやって来た。人の群れを突き抜けて来ることができなかったので、彼はしばらく彼女からちょっと離れた位置にとどまっていた。通れないので苦笑しながら侯爵は彼女のほうを見た。若いド・ルヴレ侯爵夫人が侯爵のそばにいた。夫人はマチルドの従姉妹《いとこ》だった。彼女は二週間前に結婚したばかりの夫に腕を取られていた。ド・ルヴレ侯爵も同じくたいへん若い男で、まったくたわいもない愛情を抱いていたが、こんな愛情は、万事公証人にお膳立てをととのえさせて地位財産本位の結婚をやってみたら申し分のない美人にぶつかったというたぐいの男にはいかにもふさわしいものだった。ド・ルヴレ氏は高齢の伯父が死んだら公爵になることになっていた。
ド・クロワズノワ侯爵が群衆を突っ切って来ることができないままにマチルドのほうを笑顔で眺めていたあいだ、彼女もまたその空色の大きな目で侯爵とその周囲の人々を見ていた。〈この連中以上に味もそっけもないような人間なんているものかしら!〉と彼女はひそかに思った。〈あのクロワズノワは私と結婚しようと思っている。やさしくて丁重で、ド・ルヴレさんみたいに物腰には非のうちようもない。退屈を感じさせさえしなければ、この紳士たちはすばらしく感じが好いんだけど。あの人だってやはり例のちょっと足りない、嬉しそうな顔をして、私について舞踏会へ来るだろう。結婚して一年もたてば、私の馬車、馬、着物、パリから八十キロほど離れた別荘、こういったものはすっかりこの上もないほど立派に揃って、たとえばまあ、あのド・ロワヴィル伯爵夫人のような成り上がりの女なんかには羨ましさに居たたまれないような思いをさせることはできるたろう。けれどもその後では?……〉
マチルドはこうして先を見透しただけで、もう退屈してしまった。ド・クロワズノワ侯爵がやっと近づいて来て話しかけたが、彼女はそれに耳もかさずに思いに耽《ふけ》っていた。彼のしゃべる声が彼女の耳には舞踏会のざわめきと入りまじって聞こえた。彼女は、うやうやしい、けれども傲然《ごうぜん》とした不満そうな顔つきで立ち去って行くジュリアンを、我にもあらず目で追っていた。そうしているうちに、波を打っている群衆から遠く離れて片隅のほうに、読者もすでにご存じの本国で死刑の宣告を受けているアルタミラ伯爵を見出した。ルイ十四世の時代に、この伯爵の身内の女の一人がド・コンチ公(ブルボン家の血統をひく王族)と結婚していた。こういう事情が忘れられていなかったので、伯爵は修道会の警察からもいくらか遠慮されていたのである。
〈人間の偉さを決めるものは死刑の宣告を措《お》いてないと思うわ〉とマチルドは思った。〈お金で買えないものといえばそれだけなのだから〉
〈そうだわ! いま私が言った言葉は、いい警句だわ! うまく思いついたら喝采を博したろうに、何て残念なことだろう!〉マチルドはあらかじめ考えておいた警句を会話のなかに持って来るほど趣味がない女ではなかった。だがそれと同様に、自分自身に夢中にならないではいられないほど自惚れの強い女でもあったのだ。倦怠の表情が楽しげな顔つきに変わった。あいかわらずしゃべりつづけていたド・クロワズノワ侯爵は成功したと思ってますます雄弁をふるいはじめた。
〈この私の警句にはどんな意地の悪い人だって文句のつけようがないだろう〉とマチルドは心に思った。〈批評する人がいたら答えてやるわ。男爵や子爵の爵位なんてものはお金で買えます。勲章をもらうなんてわけないことです。私の兄も最近もらいましたけど、どれほどのことをしたでしょう? 位階、これも簡単に手に入ります。たとえば十年も衛戌隊《えいじゅたい》にいるとか身内に陸軍大臣がいるとかすれば、ノルベールみたいに中隊長ぐらいになれますもの。莫大な財産……これはやはりなかなか手に入れにくいし、それだけにいっそう賞讃に価するものです。これはおかしいわね、本に書いてあることとはあべこべだわ……そうそう、財産にありつくためならロスチャイルド氏の娘と緒婚すればいいわ〉
〈実際、私の言葉は意味深長だわ。死刑の宣告だけはやはり自分から欲しいと思って奔走することのない唯一のものだ〉
「あなた、アルタミラ伯爵をご存じ?」と彼女はド・クロワズノワ侯爵に言った。彼女は心がまったく別のところにあったのがはじめて我にかえったという様子だったし、それにこの質問は哀れな侯爵が五分ばかり前から彼女にむかって言っていたこととはあまり縁のないことだったので、彼の愛想の好さもすっかり出鼻をくじかれた。けれども彼は才人であり、また才人としての名も大いに上がっている男だったのである。
〈マチルドも風変わりなところがある〉と彼は思った。これはたしかに好ましからぬことだが、しかしあれの夫となれば素敵な社会的地位が手にはいる! あのド・ラ・モール侯爵がどういったやり口をしているのかはおれは知らない。だがあの人はあらゆる党派の上層人物と交渉を持っている。まずまず没落するなどということのあり得ぬ人だ。それにまたこのマチルドの奇矯《ききょう》さも天稟《てんぴん》の才と思われぬことはあるまい。家柄も高く非常な財産を持っているとなれば、天稟の才というものも決して笑い草になりはしない。それどころか、天才ということになったらどれほど人目に立つか……それにあの娘はその気になれば才智も気概も機転もすべて持っているが、これがあってこそ申し分のない愛矯が出て来るんだ〉……一どきに二つのことをすることはむずかしいので、侯爵がこう考えながらマチルドに返事をした様子は、放心しているような、何か学課を暗誦しているという風だった。
「あの気の毒なアルタミラを知らない人がいるでしょうか?」そうして彼はアルタミラの、失敗に終った、滑稽で馬鹿げきった謀反《むほん》の一件を話して聞かせた。
「まったく馬鹿げてるわ!」とマチルドは独り言のように言った。「けれどあの人は行動したのですわ。私は男らしい男に会ってみたいのです。あの人をここに連れて来ていただけません?」と彼女はすっかり気を悪くしている侯爵に言った。
アルタミラ伯爵はド・ラ・モール嬢の尊大な、ほとんど傲岸《ごうがん》と言ってよい態度をきわめて公々然と讃美しているものの一人だった。伯爵に言わせれば彼女はパリ最高の美人の一人だった。
「あのひとが王座に立ったら、どんなに美しく見えるでしょう!」と彼はド・クロワズノワ氏に言って、唯々諾々《いいだくだく》と引っぱられて行った。
社交界には、謀反などはまったく俗悪きわまることだときめてかかろうとする輩《やから》がかならずいるものだ。謀反などはジャコバン臭いからである。そして成功しないジャコバン以上にみっともないものがあるだろうか?
マチルドの眼差しはド・クロワズノワ氏とともにアルタミラのリベラリスムを冷笑していたが、彼の話には楽しく耳を傾けた。
〈舞踏会に来ている謀反人、これは面白い対照だわ〉と彼女は考えた。彼女はこの黒い口髭を生やした謀反人に、眠っている獅子の風貌を見出した。しかし彼女はやがて彼の精神がただ一つの態度しか持っていないのに気がついた。それは実利であり実利崇拝である。
両院制の政府を自国にもたらし得るものを除けば、この若い伯爵は何ひとつ関心に価しないと思っているのだった。彼はペルーのある将軍がはいって来るのを見たので、この舞踏会で一番魅力的な女であるマチルドのそばから嬉しそうに離れて行ってしまった。
ヨーロッパに絶望した気の毒なアルタミラは、南アメリカの諸国が強力になり勢威を得たあかつきには、ミラボーがこれら諸国に贈った自由をヨーロッパに返してくれるかもしれぬと考えるまでになっていたのだ。
口髭を生やした若い連中が渦をまいてマチルドのほうへ近づいて来た。彼女はアルタミラがすこしも自分に惹かれなかったのを十分認めていたし、彼が行ってしまったことで腹が立ってもいた。彼の黒いひとみがペルーの将軍と話しながらきらめくのが彼女には見えた。ド・ラ・モール嬢はフランス人の若者たちを、彼女の競争相手の女たちには誰にも真似られないあの底知れぬ厳粛さでみつめた。〈このなかで誰か〉と彼女は思った。〈進んで死刑の宣告を受けるような人がいるかしら、いろいろそれに都合のいい機会に恵まれるとしても?〉
この異様な目つきはあまり頭のよくない連中を喜ばせたが、ほかのものは不安を感じた。何か痛烈な、そして返答に窮するような言葉を不意に投げつけられないかと恐れていたのだ。
〈高貴の生まれというものは、それがないと私には不愉快に思えるような幾多の美点を与えるものだ。たとえばこのことはジュリアンにも見られる〉と彼女は思った。〈けれど高貴の生まれは死刑の宣告を招くような魂の美点を弱める〉
ちょうどこのとき誰かが彼女の身近で言った。「あのアルタミラ伯爵というのはサン・ナザロ・ピメンテロ公の次男ですよ。一二六八年に斬首されたコンラーディン〔十三世紀のシュヴァーベン公〕を救おうとしたのもピメンテロ家の一人だったのです。ナポリ屈指の名家の一つですよ」
〈これで私の原則もみごとに証明される〉とマチルドは心に思った。〈高貴な生まれというものは、それなくしては到底自分から死刑を招くことなどはできない性格の力を奪ってしまうわけだわ! でもこんなことを考えるようでは、今晩は私、はじめからつまらない理屈を並べたてることにきまっていたんだろうか。私だってほかの人たちと変わりのない女だもの、そうね、踊ればいいんだわ〉そう思って彼女は、一時間も前からガロ(急速調の舞踏)を踊ってくれと懇望していたド・クロワズノワ侯爵の願いを容れてやった。哲学めいた考えに耽《ふけ》って悲しい気持になったのを紛らわすために、マチルドは申し分ないまでに魅力をふりまいてやろうと思ったから、ド・クロワズノワ氏は有頂天になってしまった。
しかし舞踏も、また宮廷随一の美男をたらしこんでやろうという気持も、マチルドの心を紛らわしてはくれなかった。実はこれ以上の成功はあり得ないほどだったのである。彼女は舞踏会の女王になっていた。自分でもそのことはわかった。しかし彼女の心は冷たかった。
〈クロワズノワみたいな男と一緒になったらどんな味気ない生活を送ることになるだろう!〉そう彼女は、一時間ほどして侯爵に導かれてもとの席へもどるとき心の中で思った。〈半年ほど出席しないでいると、パリじゅうの女の羨望《せんぼう》の的となるような舞踏会に出て来てすらその中で楽しみを見出せないというのでは、私にとって楽しみというのは一体どこにあるのだろう?〉そう彼女はやるせない気持で思った。〈しかも私はその舞踏会で、これ以上立派な人達を集めることなどは思いもよらないような、最上の社交界の讃嘆の的となっているのに。ここには数人の貴族院議員とジュリアンみたいな人がたぶん一人か二人いるほか、平民《ブルジョワ》なんて一人もいないのだ。それのみか〉と彼女はますます昂まってくる憂鬱とともに思った。〈あらゆる利点が私には与えられているじゃないの、名声も、財産も、青春も! ああ、ただ一つ、幸福だけを除いて!〉
〈みんながこの一晩じゅう私にむかってお世辞を言っているその利点というのが、一番疑わしいものなのだ。才智、これはたしかに私にも自信がある。誰もみな明らかに私のことを恐がっているんだから。この人たちがようやくのことで真面目な話をすることにしても、私なんかがもう一時間も前からくりかえしくりかえし言っていることを、五分間も話し合った上で息をはずませながらまるで大発見でもしたような調子で思いつくという始末なんだから。私はきれいだ。ド・スタール夫人がそのためには何もかも犠牲にしていいと言ったこの利点を私は持っている。それなのに私が退屈で死にそうなほどだということは動かしようのない事実だ。今の苗字《みょうじ》がド・ラ・クロワズノワ侯爵の苗字にかわったところで私の退屈がすくなくなるという理由があるかしら?〉
〈ああ何ということだ!〉と彼女はほとんど泣き出したい気持で思いつづけるのだった。
〈あの人こそまったく申し分のない男ではないだろうか? あれこそ現代の教育の傑作なのだわ。顔を見ればかならず何か愛想のいい、それどころか気の利いたことを言ってよこすし、勇気もあるし……けれど、あのソレルという人も変っているわ〉そう思うと彼女の目は陰鬱な表情をなくして腹立たしげな色を見せた。〈話すことがあると言っておいたのに姿も見せようともしない!〉
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第九章 舞踏会
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脂粉の驕奢、蝋燭の輝き、香料のかおり。多くの美しい腕と美しい肩。花束、恍惚たらしめるロッシーニの歌曲、チチェリの絵! 私は忘我の境にあった。(『ユゼリの旅行』)
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「機嫌を悪くしておいでだね」とド・ラ・モール夫人は娘に言った。「お気をつけ、舞踏会でそんな顔をしているのは失礼ですよ」
「頭が痛いだけです」とマチルドは馬鹿にしたような顔つきで答えた。「ここは暑すぎるわ」
ちょうどこのときド・ラ・モール嬢の言葉を証拠だてるように、ド・トリー老男爵が気分を悪くして倒れた。運び出さねばならなかった。卒中だなどと言っているものもあったが、面白からぬ事件であった。
マチルドはそんなことは全然気に留めなかった。老人とか、くよくよしたことばかり言うと相場のきまっている人たちとかには全然注意を向けないというのが、彼女の主義だったのである。
卒中などといった会話を耳にすまいとして彼女は踊った。だが卒中ではなかったのだ。あくる日には男爵がまた姿を見せたからである。
〈だけどソレルさんはちっとも来やしない〉と、踊りをやめてからまた彼女は心に思った。ほとんど彼の姿を捜しもとめるようにしているとようやく別のサロンで見つかった。不思議なことに彼はこのとき、生来のあの物に動じない冷やかさを失ってしまったかに見えた。いつものイギリス人めいた様子などはもうなかった。
〈あの人はアルタミラ伯爵と話をしている、あの死刑の宣告を受けた人と!〉とマチルドは心に思った。〈あの人の目には底知れぬ情熱がみなぎっている。身をやつした王子みたいに見える。目つきにはいつもよりもずっと誇らしげな様子が出ている〉
ジュリアンは依然としてアルタミラと話をつづけながら彼女のいる席のほうへ近づいて来た。彼女は目を凝らして彼を注視しながら、死刑の宣告を受けるという名誉にふさわしいだけの優れた資質が彼にもあらわれていないかと思って、その顔だちをつらつら眺めた。
彼はマチルドのすぐそばを通り過ぎたときに、
「そうです、ダントンは一個の人物でした!」とアルタミラ伯爵に言っていた。
〈まあ何ということを! この人がダントンだというのか〉とマチルドは心に思った。〈けれどあの人はあんなに高貴な顔つきをしているのに、あのダントンはおそろしく醜かった、たしかあれは肉屋だったっけ〉ジュリアンはまだ彼女からそんなに遠くないところにた。彼女は躊躇《ちゅうちょ》せずに彼の名を呼んだ。若い娘の身では尋常ではない質問だとはっきり意識し、しかもそれを誇らしく思いながら彼女は言った。
「ダントンは肉屋ではなかったでしょうか?」
「ある人々の目にはそうでしょう」ジュリアンは深い侮蔑をほとんど隠しもせず、アルタミラとの会話に熱していまだに目をきらめかせながら答えた。「しかし良家に生まれた方々にはお気の毒ですが、彼はメリ・スュル・セーヌの弁護士だったのです。つまり」と彼は意地の悪い顔をして付け加えた。「彼とて、はじめはここにおいでの貴族院の方々とおなじだったのです。ただダントンが美という点からいえば大変な欠陥を持っていたことは本当です。ひどく醜悪だったのですから」
この終わりの言葉は早口に、異様な、そして明らかに礼を失するような態度で言われた。
上体をわずかにかがめて倨傲《きょごう》さを含んだうやうやしい態度でジュリアンはしばらく相手の言葉を待った。〈あなたのお尋ねにお答えをするために私はお金をいただいております。その給料で私は口を糊《のり》しているのです〉とでも言いたげな様子だった。目を上げてマチルドを見ようともしなかった。彼女はその美しい目を異常なまでにみひらいて彼を凝視しながら、かえって彼の奴隷のように見えた。沈黙がつづいたのでとうとう彼のほうも、侍僕が指図を受けようとして主人の顔を見るような具合に彼女の顔を見た。あいかわらず異様な目つきで彼を凝視しているマチルドと真っ向から視線があったのに、彼はことさらに急いで立ち去った。
〈実際あんなに美男子のあの人が、醜いものをあんなに賞賛するのだ!〉とマチルドは深い物思いから醒めてそう思った。〈決して自分のことを顧《かえり》みたりしない! ケリュスやクロワズノワとはちがうんだわ。このソレルという人には、うちのお父様が舞踏会でナポレオンの真似をとても上手にやって見せたときにした様子とどこか似たところがある〉彼女はダントンのことなどすっかり忘れてしまっていた。〈たしかに今夜、私は退屈している〉彼女は兄の腕を握って、相手がいやがるのに無理矢理に舞踏会場をひとまわりして来ようと言った。死刑の宣告を受けた男とジュリアンのあとをつけて、二人の会話を聞いてやろうという考えが浮かんだのである。
人ごみはものすごいほどだった。けれども彼女は、ちょうどアルタミラが彼女から二歩ばかりのところでアイスクリームを取ろうとして一つの盆に近づいたときに、彼らに追いつくことができた。彼はからだを半分横に向けてジュリアンにものを言いかけていた。そのとき彼は、刺繍のついた燕尾服《えんびふく》の腕がのびて来て、自分の取ったののわきにあるアイスクリームを取るのを見た。その刺繍が彼の注意を惹《ひ》いたらしく見えた。その腕の持ち主を見るため彼はすっかり向きを変えた。と見るまに、彼のあれほど高貴な、あれほど天真爛漫《てんしんらんまん》な目に、軽い軽蔑の表情がうかんだ。
「あの男をごらんになりましたか」と彼はわりに低い声でジュリアンに言った。「あれは***大使のダラチェリ公爵ですよ。あの男は今朝フランスの外務大臣のド・ネルヴァル氏に私を引き渡すように要求したんです。ほら、あれですよ、あそこでウィストをやっている。ド・ネルヴァル氏は私を引き渡そうかという気にだいぶなっているのです。私の国からも一八一六年にお国へ謀叛《むほん》人を二、三人引き渡したことがありますからね。我が国の国王のほうへ戻されたら、私は二十四時間以内に縛り首に処せられるんですよ。そしてあの口髭を生やした美男の紳士諸君のうちの誰かが私を|とっつかまえて《ヽヽヽヽヽヽヽ》くれるんでしょう」
「汚らわしい奴らだ!」とジュリアンは半ば声に出して叫んだ。
マチルドは彼らの会話を片言隻句も聞きのがさなかった。倦怠は消え失せていた。
「そんなに汚らわしい奴らではありませんよ」とアルタミラ伯爵が続けた。「私はあなたに生きた実例を見せつけようと思って自分のことをお話ししたのです。あのダラチェリ公爵を見てごらんなさい。五分ごとにあの男は自分の胸の金羊毛勲章に目をやるでしょう。あいつは自分の胸にあるあのやすぴか物を見るのが嬉しくてたまらないんですよ。結局あの哀れな男はアナクロニズムの好例たるにすぎない。百年前には金羊毛勲章もあきらかな栄誉だった。だからその頃ならあんな男なんか到底もらえなかったでしょう。こんにち名門の人間であんなものに有頂天になっちまうのはまずダラチェリ一人ぐらいのものでしょうな。あいつらならそれが欲しさに一つの町全体をくびり殺すことだってやりかねませんからね」
「実際、そんなことをやってあれをもらったんですか?」とジュリアンは不安になって訊いた。
「かならずしもそのとおりだというのではありませんが」とアルタミラは無頓着に答えた。「おそらくあいつの国で自由主義者として聞こえている金持の地主たちを三十人ばかりも河のなかへ投げこませたんでしょうがね」
「何という非道な男だ!」とまたジュリアンが言った。
ド・ラ・モール嬢はきわめてはげしい興味をもって頭を垂れてジュリアンのすぐそばによりそっていたので、その美しい髪の毛がほとんど彼の肩に触れるばかりであった。
「あなたはほんとにお若い!」とアルタミラが答えた。「前に申し上げたが私にはプロヴァンスで結婚した姉妹が一人おりますがね、今でもまだ綺麗で、親切でやさしい女です。良妻賢母で、あらゆる義務に忠実ですし、敬虔でいながら馬鹿信心はしないという女ですがね」
〈どこへ話を持って行くのだろう?〉とド・ラ・モール嬢は思った。
「彼女《あれ》は幸福です」とアルタミラ伯爵はつづけた。「いや一八一五年には幸福だったのです。当時私はその家に身をひそめていました、アンチーブの近くのそのきょうだいの地所でね。ところがネー元帥の処刑を聞いたそのとき、彼女《あれ》は嬉しさのあまり踊り出したのです!」
「そんなことが!」とジュリアンはうろたえて言った。
「これも党派心のさせたことですよ」とアルタミラが答えた。「十九世紀にはもはや真の情熱なんて存在しません。フランスで人々がこんなに倦怠を感じているのはそれがためですよ。残虐きわまる所業をいくつもやってのける、だがそういう人が残虐であるというわけではない」
「それならなおさら悪い!」とジュリアン。「すくなくとも犯罪を行なうんなら楽しみをもっておこなうべきです。それ以外に犯罪なんか何の役にも立ちやしない。もしその犯行を弁護し得るというのならば、この点を措《お》いてありませんよ」
ド・ラ・モール嬢は自分の義務としていることまですっかり打ち忘れて、ほとんど完全にアルタミラとジュリアンのあいだに割り込んでしまっていた。腕をかしていた兄のほうは彼女の言いなりになることに慣れていたので、広間のほかのほうに目をやりながら、体裁をつくろうために雑沓で前ヘ進めないという様子をしていた。
「あなたのおっしゃるとおりだ」とアルタミラが言った。「どんなことをしても楽しんだりまた思い出したりしません、犯罪さえも。私はこの舞踏会のなかで殺人犯として断罪されるべき男をおそらくは十人ぐらい教えてさしあげることもできます。ですが当人はそんなことを忘れている、それにまた世間のほうだって。
飼い犬が脚を折ったら涙を流してまで同情する奴だってすくなくありません。ぺール・ラシェーズの墓地で、あなたがたパリの人が使うおもしろい言い方を真似すると、人々は彼らの墓の上に花を投げながら、彼らが勇猛な騎士の持つべきすべての美徳を一身にあつめていたと私たちに教えてくれ、アンリ四世時代に彼らの先祖がおこなった数々の偉業を話してくれます。もしグラチェリ公爵が一生懸命役目を果たそうとしても失敗して私が縛り首にされないですんだら、そして私が自分の財産をパリで使えるようなことになったら、世間から敬《うやま》われ何ら良心の呵責《かしゃく》もなしに暮らしているあの殺人犯どもを九人か十人呼んで、あなたもご一緒に晩餐をしていただくことにしたいと思いますがね。
その晩餐の席にいるもののなかでは、あなたと私だけが血に汚れていないということになります。それなのに私は、血を見ることの好きなジャコバン的な人非人として蔑《さげす》まれ、いやほとんど憎悪されるでしょうし、あなたは上流社会へ闖入《ちんにゅう》した下層民だというだけで蔑まれるでしょう」
「まったくおっしゃるとおりですわ」とド・ラ・モール嬢は口を入れた。
アルタミラは驚いて彼女を眺めた。しかしジュリアンは一瞥《いちべつ》だに与えなかった。
「ご留意ねがいたいことは、私が先に立ってやった革命も、ただ三人の男の首を斬ることと私が鍵を持っていた金庫にあった七、八百万の金を味方のものに分配することとを私が欲しなかったというだけの理由で挫折したんですよ。今では私の首を絞めてやろうとして躍起《やっき》になっている国王も、その叛乱を起こすまでは私とは友だちづきあいをしていたんですから、もし私がその三人の男の首を斬らしておいて金庫の金を分けてやったら、自分の制定した大勲章を私にくれたことでしょう。なぜならそうしておけば私はすくなくともある程度までの成功はおさめていたでしょうし、私の国もまあどうにかこうにか勲章と言えるものを持つことになったでしょうからね……。だいたい世の中ってものはそんなものですよ、将棋《しょうぎ》の勝負と同じものです」
「その頃は」とジュリアンは燃えるような眼差しで言った。「あなたは将棋の仕方をご存じなかったわけですね。今では……」
「私も首を斬らせるだろう、とあなたはおっしゃりたいんでしょう? 先日あなたがほのめかしてくださったようにジロンド党員みたいなことにはならなかったろう、と?……それに対するお答えは」とアルタミラは陰鬱な顔をして言った。「あなたがいつか決闘で人を殺したという経験をお持ちになってからのことにしましょう。もちろんそれは死刑執行人の手で人を処刑させるほど醜悪なことではありませんがね」
「いやいや」とジュリアンは言った。「目的は手段を選ばないんですよ! もし私がこんな取るに足らぬ存在ではなくて何らかの権力を持っていたとしたら、四人の命を救うためなら三人の首を絞めさせますよ」
彼の両目は強烈な自信と人間どものくだらぬ批判に対する侮蔑とをあらわしていた。その目が彼のすぐそばにいたド・ラ・モール嬢の目と逢ったが、そこにあらわれた侮蔑は愛想のいい丁重な様子に変わるはおろか、いっそう激しくなるように見えた。
彼女はそれに対して深い憤りを感じた。しかしジュリアンを忘れ去るということはもう彼女にはできなかった。彼女は兄を引きずってくやしそうに立ち去った。
〈ポンスを飲んでうんと踊ってやらなくちゃ〉と彼女は心に思った。〈一番立派な相手を選んで、どうあっても人気をさらうようなことをして見せてやる。あら、都合よくあの評判の無作法者のド・フェルヴァック伯爵が来た〉彼女は伯爵の申し込みに応じた。二人は踊り出した。〈さて問題は、二人のうちどちらがいっそう無作法かということだわ〉と彼女は思った。〈けれどこの男のことを存分にからかってやるために喋《しゃべ》らせてやらなくちゃならない〉やがて四組舞踏《コントルダンス》をやっているうちに、ほかの連中はみんなお体裁だけで踊っているようになってしまった。人々はマチルドが相手に手厳しい応酬をするのを一つとして聞き洩らすまいとしていたのである。ド・フェルヴァック氏は狼狽していたが、粋な言葉を思いつくだけで独創的な考えは浮かばず、愛想笑いをして見せるだけだった。マチルドはむしゃくしゃしていたので彼に対して容赦《ようしゃ》しなかった。そしてとうとう相手を本気で怒らせてしまった。夜が明けるまで踊ってから、やっとくたくたに疲れ果てて彼女は会場から引き取った。しかし車のなかでも、ようやく残ったわずかの力で彼女はことさらに惨めな、悲しい考えを追うのだった。彼女はジュリアンに軽蔑された。それなのにジュリアンを軽蔑することはできないでいたのだ。
ジュリアンは幸福の絶頂にいた。音楽や花々や美しい女性たちや、全体の優雅な趣に恍惚《こうこつ》とし、そして何よりまず、自分の得るべき数々の栄誉やすべての人に与えられるべき自由を思い描く自分自身の空想に有頂天になって、彼は伯爵に言った。
「何て結構な舞踏会でしょう! 何一つ不足なものはない」
「思想が不足しています」とアルタミラが答えた。
そして彼の顔は、礼儀上包みかくさねばならぬということがわかっているためいっそう痛烈に見えるあの軽蔑を示していた。
「ごもっともです、伯爵。それも謀反的な思想が、でしょう?」
「私は名前のおかげでここに来ていられるのです。しかしあなた方のサロンでは思想は嫌われますね。思想といってもヴォードヴィルの対句の洒落《しゃれ》以上に出てはいけないんですな。その域を出ない場合にはお褒《ほ》めにあずかりますがね。ものを考えるような人間でその機智に強烈さと斬新さがあると、あなたの国の人たちは|シニーク《ヽヽヽヽ》だという! お国の裁判官の一人がクーリエ〔当時のフランスの辛辣なジャーナリスト〕のことをやはりそう呼んだんじゃなかったですか? ベランジェと同様クーリエをも牢屋に入れたんですね。あなたの国では何か精神的に意味あるものがあると、何もかも修道会が軽罪裁判へ引き渡してしまう。すると上流社会が喝采するという寸法です。
結局これは老いはてたフランスの社会が何より礼節ということを重んずるからですよ……。フランス人には決して戦場で勇猛な働きをするということ以上はできますまい、ミュラは出てもワシントンみたいな人間は出ません。私がフランスで見るものは虚栄ばかりです。独自な考え方をしながらしゃべる人間は得てして不用意な機智を口にするようなことになる、するとその家の主人は体面を汚されたように思いこむのですよ」
こう言ったとき、ジュリアンを送って来た伯爵の車がラ・モール邸の門前に停まった。ジュリアンはこの謀反人に惚れ込んでいた。アルタミラは彼に、あきらかに深い確信から発したものと思われるこういう嬉しいお世辞を言ってくれた。「あなたにはフランス的|軽佻《けいちょう》がない。そして実利の原理がわかっておいでだ」
ジュリアンはちょうどその前々日にカジミール・ドラヴィーニュ氏の悲劇『マリノ・ファリエロ』を見ていた。
〈あのイスラエル・ベルトゥッチオはヴェネチアのあらゆる貴族よりも気力を持っていたではないか〉とこの反逆の平民は心に思った。〈しかしあの連中はシャルルマーニュ帝よりも一世紀も前の紀元七百年にまで遡《さかのぼ》ってその貴族としての家系を確認できる連中なのだ。一方、今晩ド・レス氏の舞踏会に来ていたなかで一番家柄のいい貴族でさえせいぜいどうにかこうにか十三世紀まで遡れるにすぎない、ところがだ! それほど立派な家柄のヴェネチアの貴族に立ちまじって、人々の心にその名を残しているのはイスラエル・ベルトゥッチオだけなのだ。
いったん謀反ということになれば、社会の気まぐれで与えられた称号などはなくなってしまう。そうなったら、死に面する態度いかんによって自分が如何《いか》なる階級に属すべきかがはっきりするから、一挙にしてその階級に到達することができるのだ。才智すらが権威を失ってしまう……
今日、ヴァルノやレナルという輩《やから》が天下を取っているこの時代にダントンが出て来たらどうなるだろう?検事補にさえなれやしない……
何を言っているんだ! 修道会に身を売って大臣にぐらいはなっているだろう。あの偉大なダントンといえども盗みをはたらいているんだからな。ミラボーだってやはり身を売った。ナポレオンだってイタリアで数百万の金を盗んでいる。その金がなかったらピシュグリュのように簡単に挫折《ざせつ》せしめられたろう。ラ・ファイエットだけが一度も盗みをしなかった。盗みをしなければならないんだろうか、身を売らなければならないんだろうか?〉そうジュリアンは考えて来ると、この疑問のためそれっきり前へ進めなくなった。彼は大革命史を読んでその夜の残りを明かした。
あくる日、図書室で手紙をしたためながらも彼はまだアルタミラ伯爵との会話のことばかり考えていた。
〈実際〉と彼は長い夢想にふけったあげく心に思った。〈あのスペインの自由主義者たちもいろいろ悪事をはたらいて民衆を抱きこんでいたら、あんなにやすやすと追い散らされることはなかったろう。自尊心が高くて口先だけ達者な子どもと同じだったのだ……このおれみたいに!〉びくっとして目を覚ましたもののように突然ジュリアンはそう叫んだ。
〈とにかくあの哀れな連中だって一生に一度は決起して行動を開始したのに、この連中を批判するだけの権利が与えられるだけの難事業を、おれがかつてしたことがあるのか! おれなんぞはまあ、食卓から立ち上がるときに≪明日は昼飯を食うまい。食わなくたって結構今日とおなじくらい元気で陽気にしていられるさ≫と怒鳴るような人間だ。大業を為しとげるまでのあいだにどんなことにぶつかるか、わかりゃしないではないか?……〉このような高尚な想念はド・ラ・モール嬢が思いがけず図書室にはいって来たために乱された。敵に負けるということを知らなかったダントンやミラボーやカルノの優れた資性に対する賛嘆のあまり、彼は彼女のことを考慮に入れもせず、挨拶もせず、ほとんど彼女を見ようともせず、ただド・ラ・モール嬢の上に漠然と目をすえていた。やっと大きくみひらいた目が彼女の存在を認めると、その眼差しは和らいだ。ド・ラ・モール嬢は苦い気持でそれを目に留めた。
彼女は一番上の棚にあるヴェリの『フランス史』を一冊取ってくれと頼んだが、それも何にもならなかった。ジュリアンはそれを取るために二つある梯子の大きなほうを取りに行かねばならなかった。彼はその本を捜し出すと、まだ彼女のことなど考えていられぬという様子でそれを手渡したのである。梯子をもとのところに持って行くとき、ほかのことに気を取られていたので、彼は片方の肘《ひじ》を書架のガラスにぶっつけてしまった。かけらが床に落ちたのでやっと彼は我にかえった。彼はあわててド・ラ・モール嬢に言い訳をしようとした。礼儀正しくしようと思ったが、結局礼儀以上のことはできなかった。マチルドは、自分のため彼が当惑していること、そして彼には自分と話をするよりも、自分が来るまで彼の心のなかにあったことを考えているほうが好ましいのだということを、明らかに見て取った。長いこと彼をみつめてから彼女はゆっくりと出て行った。ジュリアンは彼女が歩いて行くところを眺めていた。昨夜の衣裳の豪華な優美さと今のそれの簡素さの対照を彼は快く思った。昨夜と今の顔つきの相違もほとんどそれと同じほど顕著であった。ド・レス公爵の舞踏会ではあんなに傲然《ごうぜん》としていたこの娘が、ほとんどこの瞬間には哀願するような顔つきをしていた。〈ほんとうにこの黒い服はこの女の姿態の美しさをますます引き立たせている〉とジュリアンは心に思った。〈まったく女王のように気高い姿だ。だが何でこのひとは喪服《もふく》をつけているんだろう?〉
〈この喪服の理由をおれが誰かに訊いたら、またもやへまをやることになるんだろう〉ジュリアンはこの深い感激からすっかり我にかえっていた。〈今朝書いた手紙を全部読みなおしてみなくちゃなるまい。どれほど言葉を飛ばしたり、へまをやったりしているか知れたもんじゃないからな〉強いて注意を凝らして最初に手に取った手紙に目を通していると、ごく身辺に絹のローブの擦《す》れる音が聞こえた。彼はさっと振り返った。ド・ラ・モール嬢が彼の机から二歩ばかりのところにいた。彼女は笑っていた。この二度目の妨害がジュリアンの癇《かん》にさわった。
マチルドとしては、自分がこの若者にとって無きにひとしいものであることを今さき痛切に感じたところだった。で、今の笑いは困惑を隠そうとして浮かべたものであった。それは成功した。
「たしかにあなたは何かよっぽど面白いことを考えていらっしゃるのね、ソレルさん。アルタミラ伯爵がこのパリへおいでになるような羽目になったあの謀反事件についての何か珍らしい逸話でなくって? どんなことだかおっしゃってくださいな。どうしてもそれを知りたくてたまらないのよ。あたし、秘密を守りますわ、誓って!」彼女は自分の言うこの言葉を耳にして驚いた。何たることか、それでは自分が下位のものに懇願するのか! 彼女の困惑は増した。ちょっとした軽い口調で彼女は付け足した。
いつもあんなに冷静なあなたが、どうしてあのときあんな、ミケランジェロの予言者みたいなインスピレーションに憑《つ》かれた人になったのでしょう?」
この鋭い無遠慮な質問にジュリアンは深く心を傷つけられて、いつもの狂熱をすっかり取り戻した。
「ダントンが盗みをはたらいたことは正しかったでしょうか?」と彼は性急に、そしてますます凶暴になる顔つきで言った。「ピエモンテ〔北部イタリアの山岳地方の都〕やスペインの革命家たちは、悪事によって民衆を抱きこむべきだったのでしょうか? 取柄《とりえ》のない人間に軍隊におけるあらゆる地位、ありとあらゆる勲章を与えるべきだったのでしょうか? これらの勲章をつけるべき人々は王政の復帰を恐れていたのではないでしょうか? トリノの財貨を劫掠《ごうりゃく》すべきだったのでしょうか? 一言して申せば」と彼はすさまじい権幕《けんまく》で彼女に近づきながら言った。「地上から無知と罪悪を駆逐《くちく》することを望む者が、嵐のように席巻して手あたり次第に悪事を働くべきものでしょうか?」
マチルドは恐怖を感じ、彼の目つきに堪えられなくなり、二歩ばかり後ずさった。彼女は一瞬彼のほうへ目をやった。次いで自分が恐れたことを恥かしく思いながら軽い足どりで図書室から出て行った。
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第十章 マルグリット女王
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恋よ! おまえはどんな狂乱のなかにも私たちに楽しみを見出さしてくれるではないか!(ポルトガルの尼僧の手紙)
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ジュリアンは手紙を読み直した。晩餐の鐘の音が聞こえたとき、〈あの人形みたいなパリ女の目におれはどんなに滑稽にうつったことだろう!〉と彼は思った。〈自分の考えていたことをほんとにあの女に言うなんて、何て馬鹿げたことだ! だが馬鹿げたことといっても、おそらく大してひどいもんじゃないかもしれんぞ。この場合、真実を言ったことはおれにふさわしいことだった〉
〈だが、なぜあんな立ち入ったことをおれに聞きに来たりしたんだろう! こんな質問をしかけるのはぶしつけな話だ。作法にかなっていない。ダントンについてのおれの考えなんぞは、彼女の父親から報酬を受けている仕事のうちにははいらないのだ〉
食堂へ来てみるとジュリアンはド・ラ・モール嬢の着ている第一喪装を見て不機嫌を忘れさせられた。この喪服はほかの家族のものが誰一人として黒い服を着ていなかっただけ、いっそう彼を驚かせた。
仕事が終わると、彼はこの一日つきまとっていた発作的な熱狂からすっかり解放されていた。さいわいあのラテン語を解するアカデミー会員がこの晩餐に出席していた。〈この男ならおれを馬鹿にしないだろう〉とジュリアンは心に思った。〈たとえおれが予想しているとおりド・ラ・モール嬢の喪服の理由を尋ねることがへまなことであったにしても〉
マチルドは妙な目つきをして彼を見つめていた。〈ド・レナル夫人がおれに鮮やかに説明してくれたような、この土地の女のコケットリーというのがこれなんだぞ〉とジュリアンは心に思った。〈おれは今朝、あの女に愛想よくしてやらなかった。おれと話をしようという気紛れに譲歩してやらなかった。そのためにあの女の目にはおれは男を揚げたわけだ。といったってあの阿魔《あま》め、このままおさまったりするものか。あの人を見下して高慢に構えている女のことだから、いずれそのうちこの腹いせはしてよこすだろう。いや、あの女はもっと悪いことをするだろう。おれが失ってしまったあの人〔ド・レナル夫人〕とは何という相違だ! 何という魅力的な自然さだったか! 何という無邪気さ! あの人の考えることは、あの人よりもおれのほうが先にわかってしまったものだ。考えが浮かんで来るのがおれには目に見えたもの。あの人の心のなかでおれに逆らうものといえば、子供の死に対する恐怖だけだった。これはしごく当然の生まれつきの情愛で、そのために悩まされたこのおれが見てさえ感じが好かったものだ。おれは馬鹿だったのだ。パリのことをいろいろ思い描くばかりで、あのたぐいない女性の真価を認めることができなかったんだ。
ああほんとに、何という相違だ! そしてまたおれがここで見出したものは何だ? 気位が高いだけで優しみのない虚栄心、あらゆる色合いの自尊心、ただそれだけだ〉
皆はテーブルから立ち上がった。〈例のアカデミー会員がほかの話に巻き込まれないようにしなけりゃ〉とジュリアンは心に言って、一同が庭園へ移るときそばへ近づくと、ものやわらかなへりくだった顔をして『エルナニ』の成功を彼と一緒になって憤慨してやった。
「まだ封印状《レトル・ド・カシエ》〔大革命以前に王が発行した追放または投獄の令書。貴族は私刑のためこれを濫用した〕の発行されるような時代だったならば……」とジュリアンは言った。
「それならあの男〔ユゴー〕だってまさかあんな思い切ったことをしなかったでしょう」とアカデミー会員はタルマ(フランスの悲劇俳優)もどきのしぐさで叫んだ。
一輪の花のことでジュリアンは、ウェルギリウスの『ゲオルギカ』の数言を引用したり、またドリーユ師の詩に匹敵するものは全然ないと言ってやったりした。要するに彼はありとあらゆる方法でこのアカデミー会員に媚《こ》びへつらったのだ。そうしたあげくこれ以上とはない無関心そうな様子で彼は言った。
「ド・ラ・モール嬢はどなたか伯父様でも亡くなって遺産をお受けになったのでしょうね、そのための喪装なのでしょう」
「何ですって! あなたはこの邸の方なのに」とアカデミー会員はぱったり足を止めて言った。「お嬢さんのあの酔狂ざたをご存じないんですか? 実際お母様があんな真似を許しておかれることからして不思議ですよ。だが、ここだけの話ですが、ほかのことはともかく気骨の点で人に優れた人物はこの家にはいないのです。そのかわり、マチルド嬢が皆の分まで引き受けていて、皆を思うままに動かしている。今日は四月三十日ですからね!」そう言ってアカデミー会員は狡《ずる》そうな顔をしてジュリアンのほうを見て話を切った。ジュリアンはできるかぎり才走ったような様子をして微笑して見せた。
〈一家を思いのままに動かすことと黒衣を着ることと四月三十日とのあいだにどんな関係があるというんだろう?〉と彼は思った。〈どうもおれは自分で考えていた以上にへまなことを言っているに違いない〉
「打ち明けて申し上げますと」と彼はアカデミー会員に言った。彼の目はあいかわらず不審の色を浮かべていた。
「庭をひとまわりして来ましょう」アカデミー会員は、これを機会に長々と趣味の好い話ができると見ると大喜びで言った。「これはどうしたことでしょう? あなたが一五七四年四月三十日の顛末《てんまつ》をご存じないなんてことは、本当だとは思われませんよ」
「どこであったことなのですか?」とジュリアンは驚いて訊いた。
「グレーヴの広場で」
ジュリアンはあんまり驚いていたので、この言葉を聞いても何のことやら見当もつかなかった。好奇心と、彼の性格にふさわしい悲劇的な興味への期待とが、目をかがやかせた。聞き手がこういう目をするのは話し手にとっては大いに嬉しいことである。アカデミー会員は何も知らない相手を見つけ出したのに有頂天になって、一五七四年四月三十日に絶世の美男子ボニファス・ド・ラ・モールがその友なるピエモンテの貴族アンニバル・ド・ココナッソとともにグレーヴ広場で首をはねられた次第を長々と話して聞かせた。
ラ・モールはナヴァル女王マルグリット〔国王シャルル九世の妹。新教派と旧教派の和解政策のためにナヴァル王アンリ・ド・ブルボンと結婚させられたが、アンリがフランス国王の位についてから離婚させられた〕の熱愛する情人だったのです。それにご注意願いたいことは」とアカデミー会員は付言した。「ド・ラ・モール嬢はマチルド・マルグリットというのですよ。ラ・モールは同時にダランソン公爵〔シャルル九世およびマルグリット女王の実弟〕の寵臣《ちょうしん》でもあり、のちにアンリ四世となった自分の恋人の夫たるナヴァル王の親友でもあったのです。この一五七四年の謝肉節の最後の日には、宮廷は臨終の床におられるお気の毒なシャルル九世にお供してサン・ジェルマンに移っておりました。このときラ・モールは王妃カトリーヌ・ド・メディシスが囚人として宮廷に監禁していた自分の友人である王公たちを奪い去ろうとしたのです。サン・ジェルマンの城壁のもとに二百騎の兵を前進させたのですが、ダランソン公爵が怖気づいたためラ・モールは死刑執行人の手に落ちてしまいました。
しかしマチルド嬢を感動させたものは、もう八年も前、あの人がまだ十二歳のとき自分で私に白状したことなんですがね……なぜって、この少女が首のことを言ったんですからね、首のことを……」と言ってアカデミー会員は天を仰いだ。「この政治的|破綻《はたん》のなかで特にあの人を感動させたのは、ナヴァル女王マルグリットが自らグレーヴ広場の一軒の家に身をひそめていて、自分の恋人の首をよこせと執行人に決然と言ってやったことです。そして翌日の晩、真夜中に、女王はこの首を自分の馬車のなかへ持ち込んで、モンマルトルの丘の麓《ふもと》にある礼拝堂へ手ずからその首を埋めに行ったのです」
「あり得ることでしょうか?」とジュリアンは心を打たれて叫んだ。
「マチルド嬢は兄上を軽蔑している。それというのは、ご覧のとおり兄上のほうはこんな古い歴史のことなど一向考えてもみず、四月三十日になっても全然喪服をつけないからですよ。この有名な処刑があって以来、ココナッソに対するラ・モールの深い友情を記念するため、このココナッソがイタリア人だったのでアンニバルと名乗っておりましたから、この家の男は一人残らずアンニバルという名を持つことになっています。そして」とアカデミー会員は声を落して付け足した。「このココナッソは、シャルル九世自身の言葉によると、一五七二年八月二十四日〔聖バルトロメの日、有名な新教徒虐殺の日〕の一番残酷な虐殺者の一人だったと言います。ですが、ねえ、ソレルさん、この家の食卓に列するあなたが、どしてこういったことをご存じなかったんでしょうかね、あなたがね?」
「では晩餐のとき、二度もド・ラ・モール嬢が兄上をアンニバルと呼んだ理由がそれだったのですね。私は聞きちがえたんだと思いましたが」
「それは非難の意味なのです。侯爵夫人がこんな狂気の沙汰を黙って見ておられるのは解《げ》せない。……将来この背の高い娘さんのご亭主になった人はとんだ目に遭わせられることでしょうよ」
この言葉につづいてなお皮肉な文句が五つ六つ言われた。アカデミー会員の目が喜びと親しみにかがやいているのを見てジュリアンは不快だった。〈おれたちがこうやっているところは、夢中になって主人筋の人たちの悪口を言っている下男といった有様だ〉と彼は思った。〈だがこのアカデミーの奴さんのことだ、何を言ったって驚くに当らない〉
いつだったかジュリアンはこのアカデミー会員がド・ラ・モール侯爵夫人の前にひざまずいている現場を見たことがあった。彼は夫人に地方にいる自分の甥《おい》のため、煙草の集金局員の地位を懇請していたのだ。その晩、かつてエリザがしたようにジュリアンに言い寄っていたド・ラ・モール嬢の小間使いの小娘が、お嬢様は人目をひきつけようとして喪服を着られるのではないのだと彼に教えてくれた。この奇妙な振る舞いは彼女の性格の底から出ているというのだった。彼女は実際、その世紀に比類のない才智の優れた女王が思いをよせた情人であり、自分の友人たちを自由の身にしようとしたがために命を落した、このラ・モールを愛していた。しかもその友人たちとはどんな人々だったか! 直系の王子とアンリ四世ではないか。
ド・レナル夫人のありとあらゆる態度振る舞いのうちにかがやく完全な自然さに慣れきっていたジュリアンは、パリのあらゆる女性のうちに虚飾のみしか見なかった。そしてすこしでも悲しい気分にいるときには、このような女性たちに何と言葉を掛けたらいいのかまったくわからなかった。だがド・ラ・モール嬢だけがその例外となった。
物腰の高雅さから発する一種の美しさをも、彼はもはや心の冷たさとは考えないようになってきた。晩餐の後などにサロンの開いた窓に沿って彼と一緒に散歩をするド・ラ・モール嬢と、長い会話を交わすこともあった。彼女はある日ドービニェの歴史とブラントーム〔ともに十六世紀末より十七世紀にかけての文人〕を読んでいると言った。〈妙なものを読むのだな〉とジュリアンは思った。〈侯爵夫人はウォーター・スコットの小説を読むことさえ許さないというのに!〉
ある日彼女は楽しそうに目を輝かせながら(これは彼女が心から感嘆していることのしるしだった)、今しがたレトワール〔十六世紀の年代記作者〕の『回想録』で読んだばかりのアンリ三世時代のある若い人妻の行為を話して聞かせた。夫が不実なのを知ると短刀で刺し殺したという話だった。
ジュリアンの自尊心は慰められていた。周囲からこれほどの尊敬をもって遇され、アカデミー会員の言うところによれば家内全体を牛耳っているという人間が、ほとんど友情に類するような態度で自分に話しかけてくれるのだから。
〈おれはまちがっていた〉とやがてジュリアンは思った。〈あれは親しみではない。おれは悲劇に出て来るようなコンフィダン(打ち明け話の聞き役)にすぎない。あれは喋りたいという欲求なんだ。この家でおれは学者として通っている。これからおれもブラントームやドービニェやレトワールを読んでみよう。ド・ラ・モール嬢が話してくれる逸話のうちいくつかには異説を立ててやることもできよう。おれはこういう受け身の聞き役の役まわりはご免にしたい〉
はなはだ様子ぶっているところがあるかと思うとその一面なかなか気の措《お》けぬ態度を示すこの娘との会話は、だんだんに興味の深いものになってきた。彼は自分の反逆した平民という悲しい役割を忘れた。彼女が博識であり、それのみか理屈をわきまえた女だということもわかった。彼女が庭を散歩しながら言う意見は、サロンで自分のものとして認める意見とはまったく別のものだった。ときどき彼女は彼に対して感激と率直さとを示すことがあったが、これらは平素の彼女のあれほど倨傲《きょごう》で冷やかな生活態度と完全な対照をなすものであった。
「宗教戦乱時代がフランスの最も英雄的な時代でした」とある日彼女はジュリアンに、才気と感激にきらめいた目で言った。「あのときは誰も彼もが、あなたの皇帝の時代みたいに平凡に勲章を一つ頂戴しましょうなんていうのではなく、自分の欲する何ものかを獲得するため、自分の党派を勝たせるために闘いました。そこにエゴイスムや卑劣な行為が少なかったことはあなたも認めてくださるわね。私はあの時代が好きなのです」
「そしてボニファス・ド・ラ・モールはその時代の英雄だったのですね」と彼が言った。
「すくなくともあの人は、そういう風に愛されることはおそらく楽しいだろうと思われるような愛され方をしていました。当世の女で斬首された自分の情人の生首に手を触れると思うとぞっとしないような人がいますかしら?」
ド・ラ・モール夫人が娘を呼んだ。偽善が役に立つためには、それとわかってはならない。それなのにジュリアンはご覧のとおりド・ラ・モール嬢に自分のナポレオン崇敬を半ば打ち明けてしまったのだ。
庭に一人残ったジュリアンは心に思った。〈これこそ彼らがわれわれに対してはるかにたちまさっているゆえんなのだ。彼らの祖先の歴史のおかげで彼らは卑賎な感情から超然としていられる。それに彼らは、ひっきりなしに暮らし向きのことを考える必要がないのだ! 何たる悲惨だ!〉と彼は苦々しい心でさらに思った。〈おれにはこういった偉大な事柄を論議する資格がないのだ。おれの一生は偽善の連続にすぎない。それはおれが糊口《ここう》の資とすべき千フランの年収を持っていないからなのだ〉
「何をぼんやり考えていらっしゃるの?」と走って帰って来たマチルドが言った。
ジュリアンはもう自分を蔑《さげす》むことには厭気がさしていた。自尊心から彼は自分の考えていたことを率直に言った。かくまで裕福な人に自分の貧窮を話すとなると彼はひどく顔を赤らめた。自分は何も求めているのではないのだということを、彼はことさら誇らしげな物の言い方をしてはっきりとあらわそうと努めた。彼がこのときほど好ましく思えたことはマチルドにはなかった。彼女は多くの場合に彼に欠けている感じやすさと率直さのあらわれを彼に見出した。
それから一月もたっていなかったが、ジュリアンは物思いに沈みながらラ・モール邸の庭をそぞろ歩きしていた。しかし彼の顔には、絶えることのない劣等感によって刻み込まれたあの厳しさと哲学者めいた傲慢さはもはやなかった。彼はちょうど、兄と一緒に駆けて足を痛めたと言っているド・ラ・モール嬢をサロンの入口まで送って行ったところだった。
〈あの人は、実に妙な風におれの腕にもたれかかった!〉とジュリアンは心に思った。〈おれは自惚《うぬぼ》れているんだろうか、それともほんとにあの人がおれに好意を持っているのだろうか? あの人はあんなにやさしげな様子でおれの言うことに耳を傾けてくれる、おれが自尊心の悩みをあますところなく打ち明けたときにさえ! 誰に対してもあれほど横柄に構えているあの人が! もし誰かがサロンであの人があんな顔つきをするのを見たら、実際おどろいちまうだろう。何といったってあんなやさしい親切な態度をほかの誰にも見せはしないということは確かだ〉
ジュリアンはこの奇妙な友情を誇大視すまいと努めた。彼自身それを、武器を片手にした取り引きに比較した。毎日顔を合わせるたびに前日と同じくらいの親しみを取り返すまでは、〈今日は敵か味方か?〉と双方とも自分に問うてみるようなものであった。ジュリアンには、ただの一度でもこの気位の高い娘から侮辱されて黙ってひきさがったら、それこそ一切を失ってしまうということがわかっていた。〈どうしても反目せねばならないのであれば、おれが自分の人間としての誇りをちょっとでもなおざりにしたらたちまちのうちにあからさまに軽蔑されるんだから、そのときその軽蔑を拒否して反目するのより、はじめから自分の自尊心の正当な権利を守りつづけて反目するほうがましではなかろうか?〉
機嫌の悪い日には、マチルドは何度も彼に対して貴婦人ぶった態度を取ろうと試みた。このときには彼女の出方は心憎いほど巧妙なのだが、ジュリアンは遠慮会釈なくはねつけるのだった。ある日彼は唐突に彼女の言葉をさえぎった。
「お嬢様はお父様の秘書に何かお申しつけになることがおありなのでしょうか?」と彼は言った。「秘書はそのご命令を拝聴してうやうやしく遂行いたさねばなりません。一言も言葉をおかけしてはならないのでございます。秘書は自分の考えていることをお嬢様にお伝えするため報酬をいただいているのではございません」
ジュリアンの身につけているこういう生活態度と奇妙な猜疑《さいぎ》とのため、いかにも豪華ではあるが誰もがそこでは何事によらず恐れはばかって何ひとつ冗談口を利くことも許されぬこのサロンにはいると、彼にはきまって感ぜられたあの倦怠も消え失せてしまった。
〈あの人がおれを恋しているんだったら面白いだろうな! しかしおれに恋しているにせよいないにせよ、おれは才智すぐれた娘を仲の好いコンフィダンにしている。しかもこの娘の前では家内全体がびくびくしているんだからな、なかでも特にド・クロワズノワ侯爵がひどいが。あれほど慇懃《いんぎん》で、あれほど柔和で、あれほど勇敢で、そのなかの一つだけをもらってもおれなんか嬉しくてたまらなくなるほど家柄と財産とのあらゆる利点を併《あわ》せ持っているあの青年がだ! あの男は彼女に気が狂うほど惚れ込んでいる。彼女を妻にすることになっているんだ。その結婚契約を結ぶためド・ラ・モール氏はどれほどおれに二人の公証人宛ての手紙を書かせたろう! ところがペンを手にして風下に立っていたつもりのおれが、二時間もしてこの庭へ出て来れば、おれはあの非常に愛すべき青年に対して勝利を得ているのだ。何といったって結局どちらが好きかということは明々白々にあらわれるものだからな。おそらくまた彼女はあの男を未来の夫と見て憎んでもいるんだろう。そういったことは矜持《きょうじ》の高いあの人にはふさわしい。それにあの人がおれに対して示す親切さだって、おれがあの人の風下に立つコンフィダンという資格で与えられるわけなんだ!
いやそうじゃない。おれが目がくらんでいるか、でなければあの人がおれに言い寄っているのかどちらかだ。おれがあの人に対してよそよそしくうやうやしい態度を取れば取るほど、ますますあの人はおれと仲好くしたがる。これはそういう政策を取ることにきめて、そう装っているのかもしれない。だがおれが不意に姿を見せると、あの人の目が生き生きして来るのがわかる。パリの女たちはこれほどまでに心にない真似をして見せることができるのか? なに、かまうものか! おれはおれで、おれに対して示される外見を見ればいいんだ。そういう外見を楽しもう。ああ、ほんとに彼女は何て美しいのだ! 近くに寄って見るとき、そしてよくするようにあの人がおれを見つめていたりするとき、あの大きな青い眸《ひとみ》がどれほどおれには好ましく思われるか! 去年の春、陰険な汚ならしい三百人もの偽善家どものまんなかで自分の意地だけに頼ってみじめな気持で暮らしていたころにくらべれば、この春は何という変わりようだ! おれだってほとんどあの連中と同じくらい陰険だった〉
不信の心が萌《きざ》している日は、〈あの娘はおれのことをからかっているのだ〉とジュリアンは考えるのだった。〈あの女は兄と腹を合わせておれを騙《だま》そうとしている。だがあの女はその兄の気力の無さをあんなにまで軽蔑しているらしく見せている! 兄は勇敢です、けれどそれだけですのよ」とあの女は言ったっけ。「兄にはちょっとでも流行をはずれることなんか考えられないんですわ」って。だからおれがいつも、やむを得ず兄を弁護することになる。これが十九歳の少女なんだ! この年頃では、いくら心にきめたからといって偽善を一日じゅう休む間なしに守りつづけることなどできるもんだろうか?
それにしてもド・ラ・モール嬢があの青い大きな目にある独特な表情を浮かべておれをじっと見まもっていると、かならずノルベール伯爵はその場をはずす。これはおれには胡散《うさん》臭く思える。伯爵は妹が家の使用人に特に目をかけるのに憤慨すべきではなかろうか?ド・ショーヌ公爵がおれのことを使用人と言っているのはちゃんと聞いているんだからな〉このことを思い出すと憤怒が他のあらゆる感情に取って代わった。〈あの偏屈な公爵は古臭い言葉が好きなのでああ言ったのだろうか?〉
〈まあとにかくあの娘はきれいだ!〉とジュリアンは虎のような目つきをして思いつづけた。〈おれはあの娘をものにしてやる、そして逃げるのだ。逃げるのを妨げようとする奴がいたら目に物を見せてやる!〉
この考えがジュリアンの唯一の関心事となってしまった。彼にはもうそれ以外のことは何も考えられなかった。一日々々の過ぎ去るのが一時間のように思われた。
しょっちゅう何か真剣な問題に専心したいと努力していながら、彼の想念はあらゆることから離れて行ってしまう。そうして十五分もすると胸をときめかせ、思い乱れて〈あの人はおれを愛しているのだろうか?〉というただこの一事に思いふけりなから、彼はやっと正気に還るのであった。
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第十一章 乙女の威力
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私は彼女の美しさには感嘆する。だがその才智をおそれる。(メリメ)
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もしジュリアンが、マチルドの美しさをやたらにすばらしいものとして考えたり、あるいはこの家の人々が生来身につけている尊大さに対して憤激したり……もっともこの尊大さも彼女だけは彼に対する場合忘れてくれるのだったが……して過ごす時間を、サロンで起こる事柄を観察するのにあてたならば、マチルドが周囲のすべてのものに及ぼしている威力が何から来ているかということを了解し得たであろう。ド・ラ・モール嬢はいちど何かが気にさわると、さっそく嘲弄を浴びせて相手に思い知らせてやるすべを心得ているのだが、その嘲弄《ちょうろう》というのが、実に用心深い、なかなか洗練された、外見はごくあたりさわりのないもので、それが適切に飛び出して来るものだから、やられた方は考えてみればみるほどますます手痛くやられたと感ずるのであった。自尊心を傷つけられた人間にとって、それはだんだんやりきれなく思えて来る。ほかの家族のものが真剣になって願い求めるようないろいろなものを彼女はまったく問題にしなかったので、彼らの目にはいつも彼女は冷淡だと思われた。貴族階級のサロンというものは、そこから出て来てこんな話があったあんな話があったと引き合いに出して話せるから愉快であるが、しかしそれっきりのものなのだ。礼節ということがそれだけで何かの意味を持っているように思われるのは、はじめの数日だけである。ジュリアンはそういう経験をしているところだった。最初の感激が終わってしまうと最初の驚きがやって来た。〈礼節なんてものは無礼な態度を見せつけられても怒らないでいるということにすぎん〉と彼は心に思った。マチルドは退屈してしまうことがよくあった。おそらく彼女はどこへ行っても退屈してしまったろう。それゆえますます鋭い警句を飛ばすことが彼女にとって気晴らしであり真の慰みだったのだ。
彼女がド・クロワズノワ侯爵やド・ケリュス伯爵やその他二、三の最上流の青年に希望を持たせるように仕向けたのは、たぶん自分の祖父母や、またその祖父母にへつらっている例のアカデミー会員やその他五、六人の身分の低い者たちよりも、多少は面白味のある連中をいじめてやろうと思ったからなのだろう。つまり彼らは彼女にとって新しい警句の種にすぎなかったのである。
マチルドが彼らのうち若干のものから手紙を受け取りもし、また彼女のほうから時々返事を出したこともあるということは、マチルドを愛するわれわれも不承《ふしょう》不承《ぶしょう》認めることとしよう。しかし急いで付け加えるが、このマチルドのような人物は今世紀の人情風俗の例外をなしているのである。貴族的なサクレ・クールの修道院の薫陶《くんとう》を受けた女たちが非難される点は、概して不謹慎などということではないのだ。
ある日ド・クロワズノワ侯爵がマチルドに、彼女がその前日書いてやったかなり危険性のある手紙を返してよこした。侯爵はこんな風に思慮のあるところを見せておけば結婚のこともぐんぐん進捗《しんちょく》するだろうと思っていたのだ。ところがマチルドがこのような手紙のやり取りを好むわけは、その無謀さにあったのである。彼女の楽しみというのは自分の運命をもてあそぶことだった。彼女はその後六週間も彼に言葉をかけてやらなかった。
彼女はこれらの青年たちの手紙を嘲笑していた。彼女の言うところでは、どれもこれも似たりよったりだった。毎度々々胸の底からの哀愁切々たる情熱ばかりだったのだ。
「あの方々はどなたもおんなじで、今すぐにでもパレスティナへ向けて十字軍の征途につこうという申し分のない青年たちですわ」と彼女は従姉妹に言った。「これ以上味もそっけもないことを、あなた何か知っていらっしゃる? 死ぬまでこんな手紙をもらわなくちゃならないのね! こういった手紙は、そのときそのときの流行になっている職業の如何《いかん》によって二十年ごとに調子が変わるくらいのものなのよ。帝政時代にならこういった手紙にももっと生彩があったはずだわ。あのころは上流社会の青年たちはみな実際に偉大さを持った行為をその目で見たか、それとも自分で実践したかしているのですもの。私の伯父のド・N***公爵なんかヴァグラム〔オーストリアのウィーンに近い村落。一八〇九年七月ナポレオンはここで大勝利を収めた〕の役に従軍していますのよ」
「軍刀を振りまわすのにどれほどの才智がいるでしょう? またもしそんなことになったらしょっちゅう武勲のことを話してばっかりいるようになるわ」とマチルドのいとこのド・サント・エレディテ嬢が言った。
「かまいませんとも! そういう話、あたしには面白いわ。正真正銘の戦争、一万人の兵士が殺されたナポレオンの戦争にでも従軍したら、勇気のあることが証明されるでしょう。危険に身をさらすということが魂を高揚させ、あの可哀そうなあたしの崇拝者たちが溺れているらしい倦怠から魂を救い出してくれるのよ。それにこれは伝染性があるものね、この倦怠というものは。あの人たちのうちで誰か、何かしら並はずれたことをして見せようと思う人がいるかしら? あの人たちはあたしから結婚の承諾を得ようとして一生懸命なのよ、結構な仕事だわ! あたしはお金持だし、あたしの夫となったら父が昇進させてくれるでしょうからね。ああほんとに、父がすこしは面白味のあるお婿《むこ》さんを見つけてくれればね!」
マチルドの鋭く明快な、直覚的な物の見方は、ご覧のとおり彼女の言葉づかいを台なしにしていた。彼女の言った一言が、あのように慇懃《いんぎん》な友人たちからすると耳ざわりになるようなこともしばしばだった。もし彼女がこれほどまでに皆からもてはやされることがなかったら、彼女の物の言い方が少々派手すぎて女性的な繊細さにはそぐわないといったようなことまで彼らはおたがいのあいだで承認し合ったろう。
彼女のほうでも、ブローニュの森に集まるこの美男の騎士たちを遇するに、決して正当だとは言えなかった。彼女は恐怖をもって未来を見はしなかった。これもやはり一つの強烈な感情となったろう。だが彼女はその年頃では滅多にない嫌悪の情で未来を見たのである。
いったい彼女には何か求めるべきものがあっただろうか? 財産も高い家柄も才智も美貌も、人も言い、またみずからも信じているところによれば、すべてがどういう因縁でか彼女の一身に集められていたのだ。
このフォブール・サン・ジェルマンで最も羨望の的とされていた跡取娘が、ジュリアンと連れ立って散歩することに楽しみを見出すようになりはじめた頃は、こういったことを思っていたのである。彼女は相手の自尊心に驚いた。またこの下層の町人の利発さに驚いた。〈この人はモーリ師〔靴屋から枢機卿になった〕みたいに司教にまでなることができるだろう〉と彼女は思った。
やがてジュリアンが彼女のいろいろな考えに対して示す、装ったものではない真剣な反発が、すっかり彼女の心をとらえた。彼女はこのことを反省した。彼と交わした会話をごく細かな点まで自分の女の友だちに話してみても、どうしても彼の全貌を遺憾なく伝えることはできないことに彼女は気がついた。
突然ある考えが彼女の目を開かせた。〈とうとうあたしは恋をすることができたんだわ!〉と、ある日彼女は信じられぬほどの歓喜に我を忘れて心に言った。
〈あたしは恋している、恋している、これは明白だわ! あたしぐらいの年で、美しくて才智のある娘なら、恋愛のなかにでないとしたらどこに強い感動を見出すことができよう? あたしはいくら努めても、クロワズノワやケリュスやそのほかの tutti quanti(有象無象《うぞうむぞう》)に対して恋愛なんか決してできなかったろう。あの人たちは非のうちどころがない。たぶん非のうちどころがなさすぎるのだわ。とにかくあの人たちには、あたし、いやになってしまうもの〉
彼女は『マノン・レスコー』や『新エロイーズ』や『ポルトガル尼僧の手紙』やその他の本のなかで読んだあらゆる情熱の描写をひととおり頭のなかに思い浮かべてみた。言うまでもなく偉大な情熱でなければ問題にならなかった。軽薄な恋などは彼女の年頃の、彼女のような生まれの娘にはふさわしからぬものだった。フランスのアンリ三世やバッソンピエールの時代に見かけるようなあの英雄的な感情にしか彼女は恋愛の名を与えなかった。この恋愛は卑屈にもいろいろな障害の前に屈するようなことは決してなかった。いやそれどころか、偉大な事業まで為さしめているのだ。
〈カトリーヌ・ド・メディシスやルイ十三世の宮廷のような、真にその名に価する宮廷がないということは、あたしにとって何という不幸だろう! あたしだって、この上なく大胆な、またこの上なく偉大な事柄をやりおおせるだけの力はあるような気がする。たとえばルイ十三世のような王様があたしの足許に身を投げて溜息をついておられたら、あたしなら励まして勇敢な人にしてあげないではおくものか! ド・トリー男爵がよく言うようにヴァンデ地方にお連れして、そこから王国を回復できるようにして差し上げる。そうなったらもう憲章などというものはなくなるのだ……ジュリアンはあたしに手をかしてくれるだろう。あの人に足りないものといえば何だろうか? 名前と財産だけじゃないの。あの人は名を挙げるだろうし、財産も手に入れるだろう。
クロワズノワには何一つ足りないというものはない。けれどあの男は一生、半ばユルトラで半ば自由主義的な一公爵、煮えきらない一人物にすぎないだろう、いつも両極端を避けて、|それだからどこへ行っても二流《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|の人にすぎない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ような。
着手されたそのときに極端でないような、偉大な行為なんかあるだろうか? 遂行されたときにはじめて凡俗の目には可能のことのように見えるのだわ。そうよ、今あたしの心を支配しようとするのは、こういった奇蹟をすべてそなえた恋愛なのだ。こうして熱情に燃え立たされているのだから、それにちがいないと思う。神様はいつかはこういうお恵みをあたしに授けたもうべきだったのだ。このあたしただ一人にあらゆる利点を一時にお授けくださったのが、無駄に終わるはずはない。あたしの幸福はあたしにふさわしいものになるだろう。あたしの過ごす一日々々が冷やかな単調なものになることはあるまい。社会的な境遇のため自分とはるかにかけ離れた男をあえて愛するというだけで、すでに偉大な大胆なことなのだわ。だけどまあ、あの人はいつまでもあたしに恥かしくないだけの人であってくれるかしら? もし何か弱味を見せたら、あたしはさっそくあの人を見限ってしまう。あたしのような家柄の、そして誰だって進んであたしに認めてくれるような騎士的な性格の(これは彼女の父親の言った言葉であった)娘が、馬鹿な女のような振る舞いをしてはならない。
もしあたしがド・クロワズノワ侯爵を愛していたら、そういう馬鹿な女の役割を演ずることになったろう。頭からあたしが軽蔑しきっている従姉妹たちの幸福の再版を出すようなことになったろう。あの哀れな侯爵があたしに言うことや、あたしが答えることは、何もかもあたしにははじめからわかっている。欠伸《あくび》をもよおさせる恋愛なんていったい何という代物だろう。尼さんになるのと同じじゃないの。あたしの従妹の一番年下のがしたように、あたしも結婚契約に署名することになったろう。お祖父さまやお祖母さまはもし相手方の公証人が前の日最後のものとして一つ付け足した条件に腹を立てていなかったら、そのとき涙ぐむまでに感動してみせるというわけなんだわ〉
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第十二章 ダントンになるか?
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不安の欲求、これが、私の伯母であり、現在アンリ四世という名でフランスを支配しているナヴァル王と後に結婚した、美しいマルグリット・ド・ヴァロワの性格であった。賭事の欲求が、この愛すべき王女の性格の秘密をなしていた。これが理由になって、十六歳になる早々から兄弟たちと不和になったり和解したりしているのである。ところで、若い娘が何を賭けることができるのか? 彼女にとって最も貴重なもの、すなわちその評判、一生にわたっての人々からの尊敬を賭けたのである。(シャルル九世の落胤ダングレーム侯爵の『回想録』)
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〈ジュリアンとあたしとのあいだには契約書の署名もなければ公証人もないのだ。すべては英雄的で、何もかも偶然によって生まれる。相手が貴族でないということを別にすれば、その時代で最も優れた傑人だった若いラ・モールをマルグリット・ド・ヴァロワが愛したことと変わりはない。宮廷の若い人たちは穏当ということばかりをあんなに後生大事にして、ちょっと風変わりなごくつまらない冒険でもそんなことは考えただけで真っ青になってしまうのだが、それはあたしの落度だろうか? ギリシアやアフリカにちょっとした旅行をすることだって、あの連中にはこの上なく大胆不敵なことだと思われるのだ。しかもあの連中はその場合でも仲間を誘い集めて行くということしか知らない。自分一人だけになってしまうとたちまち怖気づいてしまう。ベドウィン族の投げ槍がこわいのではない。笑いものにされるのがこわいのだ。そしてこのこわさのあまり気ちがいになってしまう。
あたしの好きなジュリアンは反対に自分一人で行動することのみを愛するのだ。この特別の才能に恵まれた人の心には、他人に支持と助力とを求めようなどという考えなんかこれっぱかりだって浮かんだことはないのだ! この人は他人を軽蔑する。だからこそあたしはこの人を軽蔑しないのだ。
ジュリアンがあのとおり貧しいままでも、もし貴族だったとしたら、あたしの恋愛は月並な馬鹿げたことにすぎなくなる。ありふれた身分ちがいの結婚にすぎないことになるのだ。そんなものはあたしはご免だわ。そんな恋愛には、克服すべき巨大な困難とか、事の成りゆきが見透せぬ恐ろしい不安感とかの、偉大な情熱の特質となるようなものは一つもない〉
ド・ラ・モール嬢はこういった快い理屈にすっかり溺れ切ってしまったので、あくる日何の気なしにド・クロワズノワ侯爵と兄にむかってジュリアンのことを褒めちぎってしまった。あまりにその雄弁の度がすぎたので、二人が感情を害したほどだった。
「あの若い男にはよくよく気をつけたがいい、すごくエネルギーのある男だからね」と兄が叫んだ。「また革命がはじまったら、あの男はぼくたちみんなを断頭台にかけるだろうぜ」
彼女はそれに答えることは差し控えて、兄とド・クロワズノワ侯爵がエネルギーというものに恐れを抱いていることを早速からかいだした。結局それは思いがけぬものにぶつかるのがこわいから、思いがけぬものに顔を突き合わして手も足も出せないでいることにならないかという心配からだ……
「いつもいつも世間の物笑いってものがこわいのね。そんなお化けはあいにくと一八一六年に死んじまってるわ」
「二つの政党が分立している国ではもう世間の物笑いなんてものはない」とはド・ラ・モール氏の言っていることだった。
その娘はこの考えを理解していたのだった。
「それだからですわね、あなたがたは」と彼女はジュリアンを敵視する連中に言っていた。「あなたがたは一生、戦々兢々としておいでになって、あとになって人からこう言われるでしょうね。『そは狼ならずして、その影なりしのみ』と」〔ラ・フォンテーヌの寓話詩『羊飼いと羊たち』のなかの言葉〕
マチルドはやがて彼らのそばから離れた。兄の言葉が彼女には不気味だった。ひどく彼女は不安になった。だが翌日になると、もう彼女はこの言葉のうちに最大の賛辞を見た。
〈あらゆるエネルギーというものが死滅しているこの世紀では、あの人のエネルギーは恐れられるのだ。あたし、あの人に兄の言ったことを聞かせてあげよう。何て返事をするか聞いてみたいわ。でもあたし、あの人の目がかがやいているときを選んで言ってやるのだ。そういうときにはあの人は嘘をつけないんだから〉
〈あの人はダントンになるだろう!〉と彼女は長いあいだとりとめもなく物思いに耽《ふけ》ったあげくつづけた。〈そうだわ、革命が再発したとする。そうなったらクロワズノワやうちの兄さんはどんなだろうか? それはもうきまりきったことだわ、崇高な諦《あきら》めというところよ。英雄的な羊といった風に、一言も言わずに首を斬られるのだ。死にぎわになってもまだ一つだけ恐れることといえば、自分の態度が品が悪くはなかろうかということ。あたしのジュリアンだったら、ちょっとでも脱走する望みがあったら逮捕にやって来たジャコバンの頭をピストルで射ち抜いてしまうわ。あの人は品の悪さなんて恐れはしない、あの人にかぎって〉
この最後の言葉から彼女は憂鬱になった。この言葉が悲しい追憶をよびおこし、不敵な気持などすっかりなくなった。この言葉が機縁になってド・ケリュス氏、ド・クロワズノワ氏、ド・リュス氏および彼女の兄がかつて言った冗談を思い出したのである。このお歴々は口をそろえてジュリアンに坊主ぶった様子があると非難した。へりくだった偽善的な様子だというのだった。
〈だけど〉と彼女は突然喜びに目を輝かせながらつづけた。〈あの人たちがあんなに辛辣《しんらつ》にからかうのは、あの連中が何と言おうと結局この冬じゅうあたしたちが会った人々のなかであの人が一等優れた人だということを証明しているんだわ。あの人の欠点や滑稽なところなんか問題じゃない。あの人には偉大さがある。それがあの連中にはしゃくにさわるのだ、ほかの点ではあんなに親切で寛大な人たちだけど。あの人が貧乏なこと、それから坊さんになるために学問をしたこと、これはたしかだ。ところがあの連中はみな中隊長で、学問する必要なんかない。いかにもそのほうが楽だわ。
可哀そうにあの若者は、飢え死にすまいがためにああいった黒い服を年がら年じゅう着て坊さんぶった顔つきをしているけれど、そういう不利な点があるにもかかわらずあの人の真価がみんなに恐れられていることは火を見るよりも明らかだわ。それにあの坊さんぶった顔つきだって、あたしと二人だけでしばらくいればすぐになくなってしまう。あの紳士方だって自分で気の利いた人の意表に出たと思うようなことを一言言えば、まず最初にジュリアンの顔色をうかがうじゃないの。あたしはそれにちゃんと気がついている。そのくせあの連中は、あの人が何か尋ねられないかぎり決して自分から話しかけないということを承知しているのだ。あの人が言葉をかけるのはあたしにだけだ。あの人はあたしには高邁《こうまい》な心があると信じていてくれるのだわ。あの連中の反駁《はんばく》に答えるにしても、礼儀にそむかない範囲でなければしない。そしてすぐさま敬意のこもった態度にかえってしまう。あたしが相手だとまるまる数時間にわたって議論をする。そしてあたしが何かちょっとした異論を唱えるかぎり、あの人は自分の考えに確信が持てないのだ。この冬のあいだには結局鉄砲をぶっぱなすような事件はなかったから、言葉によって人の注意をひくことくらいが関の山だった。何といったってうちのお父様みたいな、家の財産をずっと殖《ふ》やすにちがいない立派な方が、ジュリアンを尊敬しているのだ。ほかの人はみんな反感を持っているが、誰一人としてあの人を軽蔑するものはいない、お母様のお友だちの信心家の婦人連を除いては〉
ド・ケリュス伯爵は非常な馬道楽だった。あるいはそんな様子をして見せていたのかもしれない。伯爵は毎日|厩《うまや》に入りびたってばかりいて、そこで昼食を摂《と》ることもしばしばだった。こういう非常な道楽が、決して笑顔を見せることはないという平常の習慣とかさなって、友人間でたいへん尊敬を勝ち得ていた。これがこの小さなサークルのなかでの白眉《はくび》であった。
そのあくる日、ド・ラ・モール夫人のペルジェール(大きな広い肘掛け椅子)のうしろに集まると早々、ジュリアンがその場にいなかったので、ド・ケリュス氏はクロワズノワとノルベールを味方にしてマチルドがジュリアンについて抱いている好意的な意見に対して猛烈に攻撃した。しかもこれは潮時を見てなどというものではなく、ド・ラ・モール嬢の顔を見るなりほとんどその場で始めたのだった。彼女はこの攻撃の裏の意味をたちまち悟って、それが愉快に思えた。
〈この人たちは〉と彼女は心に思った。〈十ルイの年収しかなく、しかも質問されぬかぎり返事をすることもできぬ一人の天才を相手に、みんなで同盟を結んだのだわ。黒服を着たあの人を恐れているのだ。あの人が肩章をつけたらどんなことになるかしら?〉
彼女がこれほど才気煥発だったことはかつてなかった。最初の攻撃を受けるや否や彼女はケリュスとその同盟者たちに悪くふざけた皮肉を浴びせかけた。この天晴《あっぱ》れな士官たちの揶揄《やゆ》の火の手が消されてしまうと、
「明日にでもフランシュ・コンテの山岳地方の田舎紳士が」と彼女はド・ケリュス氏に言った。「ジュリアンは自分の落し胤《だね》だと気がついて、しかるべき家名と数千フランをよこしたら、六週間もすればジュリアンは皆さま方と同じように口髭を生やしますわよ。六カ月もすれば皆さま方と同じように驃騎兵《ひょうきへい》の士官になりますわ。そうなったらあの人の性格の偉大さはもう滑稽なものではなくなります。未来の公爵様、そうなればあなたは古臭いまちがった理屈を頼みにする以外ありませんわね、地方貴族に対する堂上《どうじょう》貴族の優越だなんて。けれどももし私が、これは意地悪なことですけど、とことんまであなたを追いつめて、あの人の父親がナポレオン時代にブザンソンで戦争の捕虜とされたスペインの公爵で、良心の呵責からいまわのきわにあの人を自分の子として認めたということにしたら、あなたにまだどれほどの言い分が残るでしょうかしら?」
嫡出《ちゃくしゅつ》子でなかったらなどというこの仮定は、ド・ケリュス氏やド・クロワズノワ氏からはだいぶ悪趣味だと思われた。マチルドの理屈のなかに彼らが見たものはそれだけだったのだ。ノルベールはいくら妹に頭が上がらないといっても、今日の言葉はあまりにもあからさまなのでいかめしい顔をして見せはしたが、実を言うといつも微笑を浮かべている人の好さそうな容貌とはあまりそぐわぬものだった。彼は思い切って二言三言言った。
「あらお兄様、お病気なのじゃないの?」とマチルドはちょっと真面目な顔になって答えた。「冗談を言っているのにお説教で言いかえすなんて、よっぽどお加減が悪いのにちがいないわ。お兄様がお説教をなさる、お兄様が! まあ、知事になろうとして運動なさっていらっしゃるの?」
マチルドはたちまちのうちにド・ケリュス伯爵の腹を立てたらしい様子やノルベールの不機嫌やド・クロワズノワ氏の無言の絶望を忘れてしまった。彼女はいま自分の心をとらえたある決定的な考えについて何とか態度をきめねばならなかった。
〈ジュリアンはあたしに対してはかなり正直だ〉と彼女は心に思った。〈あの年で、財産とて取るに足りず、大変な野心のために惨めな思いをしているとあれば、どうしても女の友だちがほしいと思うだろう。あたしがおそらくその女友だちにあたるのだ。けれどあの人にはまったく愛情は認められない。あれだけ果敢な性格の人だから、愛情があればあたしに打ち明けているはずだが〉
この瞬間からマチルドは二六時中このような不安、このような自問自答にふけって、ジュリアンと話すたびに自分に都合のいい理屈が新しく見つかって行くのだったが、そのためこれまではあれほど彼女を襲った倦怠もすっかり追い払われてしまった。
大臣に任ぜられればまた僧職者に山林を返還させる〔革命中に教会は財産を没収された。その返還のこと〕こともできそうな才智優れた人物の娘であったため、ド・ラ・モール嬢はサクレ・クールの修道院で極端な阿諛追従《あゆついしょう》の的とされていた。こういう不幸はいつまでたっても取り返しがつかない。その家柄その財産等のあらゆる利点のために他のどんな女よりも自分は幸福なのだと彼女は心から信じ込まされていたのである。これこそ王侯たちの倦怠とそのあらゆる狂気沙汰の原因となるものなのだ。
マチルドはこのような観念の好ましからぬ影響から決して逃れてはいなかった。どれほど才智があったところで、十歳という年では一修道院を挙げての、しかも一見ちゃんとした理由があるように思われる阿諛追従に対して身を守ることはできない。
自分はジュリアンを愛しているとはっきりきめてしまった瞬間から、彼女はもう倦怠を感じなかった。毎日彼女は、偉大な情熱に身を任せようということに決めたその決心を自賛した。〈この慰みにはたしかに危険がある〉と彼女は考えるのだった。〈だからこそいいんだわ。どんなにいいかわからないほどよ!〉
〈偉大な情熱を知らなかったから、あたしは十六歳から二十歳まで一生で一番素晴らしい時期を倦怠に悩んでいたんだわ。あたしはもうあたしの一番美しい年齢を失ってしまった。唯一の楽しみといっては、一七九二年にコブレンツにいたころのほうが今ほど険しい言葉を口にしなかったという噂の、うちのお母様のお友だちの屁理屈を無理矢理に聞かされるだけで〉
ジュリアンがじっと長いあいだ自分の上に注がれている彼女の眼差しを理解し得ないでいたのは、こういう非常な不安がマチルドの心を乱していたあいだだったのだ。彼はノルベール伯爵の素振りのうちにいっそう冷やかさが増し、ド・ケリュス氏やド・リュス氏やド・クロワズノワ氏が近来なにかと高慢に振る舞うことに気がついた。彼はそんなことには慣れていた。こういった厭なことは、彼が自分の身分にふさわしい以上に頭角をあらわして見せた夜会のあとなどには、よく彼にはあることだった。マチルドが彼に対して示す特別のあしらいと、またこういった集まりに対して好奇心をそそられることとがなかったならば、この口髭を生やしたきらびやかな青年諸公が昼食の後ド・ラ・モール嬢を連れて庭へ出るときにも、彼はこの連中のあとについて行くことは避けただろう。
〈そうだ、これは何としても掩《おお》い得ぬ事実だ〉とジュリアンは心に思った。〈ド・ラ・モール嬢はどうも妙な風におれを見つめる。しかしあの美しい青い目が全然何もかも忘れて大きくみひらいたまま、おれを見つめているときでさえ、おれにはいつもその奥底に何か人を探るような、冷やかな悪意のこもったものが読み取れる。これが恋愛だなどということがあり得るだろうか? ド・レナル夫人の眼差しとは何という違いだ!〉
ある日の昼食ののち、ド・ラ・モール氏に従って書斎に行ったジュリアンは急いで庭へ戻って来た。何の気なしにマチルドのグループのほうへ近づいて行くと、ひどく高声でしゃべっている言葉のはしが彼の耳にはいった。彼女が兄をいじめているのだった。ジュリアンは自分の名前が二度まではっきりと言われるのを耳にした。彼が姿を見せた、と、突然深い沈黙が生じて皆は言葉の継ぎ穂を見つけようといたずらな努力をするばかりだった。ド・ラ・モール嬢とその兄とはあまりに昂奮していたので、ほかの話題を見つけ出すことができないくらいだった。ド・ケリュス氏、ド・クロワズノワ氏、ド・リュス氏、それから彼らの友人の一人は、ジュリアンに対して氷のような冷やかさを示した。彼は立ち去った。
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第十三章 奸計
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脈絡のない人の話も偶然の邂逅《かいこう》も、もし想像力の強い人がいささかなりと心に熱情を抱いている場合には、きわめて明らかな証拠となる。(シラー)
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あくる日、彼はまたノルベールとその妹が自分のことを話しているところに行きあわせた。彼がやって来ると前日と同じく死のような沈黙が生じた。彼の猜疑《さいぎ》はもはや際限もなかった。この感じのいい若い人たちはおれのことをからかおうと企んでいたのだろうか? そのほうが惨めな秘書風情に対してド・ラ・モール嬢が情熱とやらを抱いているなんてことよりはるかにありそうなことだし、はるかに自然なことだということは認めなくてはならぬ。第一この連中は情熱なんか持っているのかしら? この連中が得手《えて》とするのは人をかつぐことだ。しゃべることにかけてはおれのほうがどうにか巧いので妬《ねた》んでいるのだ。妬み深いということもやはり彼らの弱点の一つだ。すべてはこういった順序で考えれば説明がつく。ド・ラ・モール嬢はただ単に自分の婚約者にむかっておれを見世物にしてやりたいという肚《はら》で、自分が特におれのことを優過しているのだとおれに納得させたがっているのだ〉
このむごたらしい疑惑はジュリアンの心境をまったく一転させた。こう考えたために自分の心のうちに恋愛が萌《きざ》していたことはわかったが、またこう考えたためにその恋愛を打ち消すことも造作はなかった。この恋愛を支えていたものはマチルドの絶世の美貌、あるいはむしろ彼女の女王のような物腰と目を欺《あざむ》くような衣裳にすぎなかった。この点ではジュリアンはまだ一個の成り上がり者だった。これは誰もが断言することだが、田舎者の才人が社会の最上階級に顔を出したとき最も驚かされるのは、上流社交界の綺麗な女性からである。これまでのあいだジュリアンを夢想に溺れさせていたものは、決してマチルドの性格ではなかった。彼にも、自分にはこんな性格はまったく見当がつかないということを理解し得るだけの頭はあった。この性格について彼の見たことはまったく外見だけにすぎないのかもしれなかった。
たとえば、マチルドは何を差しおいても日曜日にミサを欠かすことはなかった。ほとんど毎日彼女は母親のお供をして教会に行っていた。もしラ・モール邸のサロンで誰か軽率な男が場所柄を忘れ、架空のものにせよ真実のものにせよとにかく王座または祭壇の尊厳なるものを傷つけるような冗談を、ごく遠まわしにでもほのめかそうものなら、たちまちマチルドはおそろしいほど厳粛な顔になるのだった。平生きびきびしている彼女の目つきが、この家の古い祖先の肖像のような冷然とした尊大さをすっかり取り戻してしまうのである。
しかしジュリアンは、彼女がいつも自分の部屋にヴォルテールの最も哲学的な著書を一、二冊置いておくということを突き止めておいたのである。彼自身もこの豪華な装釘《そうてい》の美しい版のうち二、三巻をちょいちょいこっそりと持ち出すことはあった。本と本とのあいだをすこし空けて自分の持ち出した本がなくなっているのがわからぬようにしているのだったが、じきに誰かほかの人がヴォルテールを読んでいることに彼は気がついた。彼は神学校流の策略を利用した。ド・ラ・モール嬢の興味をひきそうだと思われる数冊の本の上に細い毛を幾本か置いておくことにしたのだ。それがまるまる数週間もなくなっていることがあった。
ド・ラ・モール氏は贋《にせ》回想録を一つのこらず送って来る本屋に業を煮やして、少々興味のある新刊書をみな買っておくようにジュリアンに一任した。しかしその害毒が家のなかに蔓延《まんえん》しないように秘書はそういう本を侯爵の自室にある小さな書架におさめておくことを命ぜられていた。まもなく彼は、その新しい本がすこしでも王座または祭壇の立場に反対するようなものだとすぐに姿を消してしまうという確証を得た。たしかにこれを読むのはノルベールではなかった。
ジュリアンはこういう見聞を誇張して、ド・ラ・モール嬢にはマキアヴェリ的な表裏背反があると思いこんだ。この陰険さと思われるものが、彼の目には一つの魅力、彼女の持っている唯一の精神的魅力のように思えた。偽善と道学者流の話に対する倦怠が、彼をしてこんな極端にまで走らせたのだった。
彼は愛情にひかれるよりもむしろ空想をかき立てていた。彼が自分の恋していることに気がついたのは、ド・ラ・モール嬢の肢体《したい》の優美さや、その衣裳の優れた趣味、その手の白さや腕の美しさ、またその動作の desinvoltura(軽快さ)についていろいろと夢想にふけった揚句《あげく》だった。そうして彼は彼女の魅力を完璧なものとするために、彼女をカトリーヌ・ド・メディシスのような女だと思った。彼が彼女のものとして描いた性格からすれば、どんな端倪《たんげい》すべからざる、またどんな陰険なものを考えても、それで度が過ぎるということはなかった。それは、彼が若いころに感服していたマスロン、フリレール、カスタネードの徒の理想であった。約言すれば、彼にとってのパリの理想だったのである。
だが、パリ人の性格に端倪すべからざるものや陰険さがあると思うこと以上に滑稽なことがおよそあるものだろうか?
〈あの三人組《トリオ》がおれのことをからかっているとも考えられる〉とジュリアンは考えた。彼がマチルドの眼差しに答えるときにその目に浮かべる陰鬱な冷やかな表情を見ていないものには、彼の性格はほとんど理解されていないのである。ド・ラ・モール嬢が驚いて思い切って自分のほうから親愛の情を保証するようなことを二、三度言ったことがあるが、手ひどい皮肉ではねかえされてしまった。
こんな不意の気まぐれに刺激されて、生来冷やかな、だが倦怠に悩まされていて機智には敏感なこの娘の心も、その性格として可能なかぎりの情熱にとらわれてしまった。だがマチルドの性格には強い自尊心もあったので、自分のすべての幸福を他人に委ねることになるある感情の生まれることには、暗い悲しみが伴いもした。
ジュリアンはすでにパリヘ出て来てからだいぶ進歩していたので、これが倦怠から来る潤《うるお》いのない悲しみではないと見分けることはできた。彼女はもう以前のように夜会だの芝居だのそのほかあらゆる種類の気晴らしを飢え求めることをぜず、むしろそれを避けていた。
フランス人が歌う音楽を聞くのはマチルドには息が止まるほど退屈だった。ところが、オペラ座の退時《ひけどき》に顔を出すことを職務の一つとしていたジュリアンには、彼女ができるかぎり繁々と人に連れられてやって来ることに気がついた。彼女のあらゆる動作のなかで特にきわだっていた申し分のない節度がいくらか失われて来たのが、彼にはわかるように思えた。時として彼女はあまり語勢が鋭いために侮辱的にまで聞こえる揶揄《やゆ》をもって、男の友だちに答えることもあった。特にド・クロワズノワ侯爵を目の敵《かたき》にしているらしく彼には思われた。〈いくら相手が金持だといって、あんなにまでされてあの娘をほったらかして行っちまわないところを見ると、あの若者はものすごく金に執着があるにちがいない〉とジュリアンは考えた。そして自分としては、男性の品位を傷つける侮辱に憤激してますます彼女に対する冷やかさを増した。あまり慇懃《いんぎん》でない返事まですることもたびたびだった。
けれどもマチルドが彼に示す好意は、彼がいくらそれにだまされないようにと決心していても、日によっては疑いようもないまでのこともあり、そのため目が開けて来たジュリアンは、時折どぎまぎしてしまうほど彼女を綺麗だと思うようになった。
〈この上流社会の青年たちの如才なさや辛抱強さが、結局おれの経験の不足に勝ってしまうだろう〉と彼は心に思った。〈ここを立ち去って、一切こんなことにけりをつけてしまわねばならない〉
ちょうど、ド・ラ・モール侯爵がラングドック地方に所有している多くの小さい地所と家作の管理を彼に委任したところだった。一度旅行して来なければならなかった。大きな政治的野心に関することを除けばジュリアンは侯爵の半身となっていたからである。
〈結局あの連中はおれに一杯食わすことができなかった〉そうジュリアンは旅に出る準備をしながら心に思った。〈ド・ラ・モール嬢があの紳士方に対してした嘲弄《ちょうろう》が本心からのものであれ、また単におれに信頼の念を起こさせるためのものであれ、とにかくおれはあれを楽しめた〉
〈木挽大工の倅《せがれ》相手に悪だくみがなされているとでもいうのでないかぎり、ド・ラ・モール嬢の仕打ちは合点が行かぬ。だが合点が行かぬという点では、ド・クロワズノワ侯爵にとってもすくなくともおれと同じくらい合点が行かないはずだ。たとえば昨日だって、彼女はほんとに不機嫌になっていて、素寒貧《すかんぴん》で平民のおれに好意を見せて金持で貴族の青年のほうに肩透かしを食わせたのは痛快だった。これこそおれの勝利のなかでも最も赫々《かくかく》たるものだった。ラングドックの平野を駅馬車を駆って行く道々こんなことを思い出して気持を浮き立たすこともできよう〉
彼は出発のことを秘密にしておいたが、マチルドは彼が明くる日パリを去ること、しかも長期間不在にすることを、彼自身よりもよく知っていた。頭が割れるほど痛くて、サロンのむんむんする空気のためますますひどくなるとかこつけて、彼女は庭のなかをさかんに歩きまわった。そしてノルベールやド・クロワズノワ侯爵やケリュスやリュスやそのほか数人のラ・モール邸の晩餐に列した青年たちに痛烈な冷嘲を浴びせつづけて、彼らが退散せざるを得ぬようにしてしまった。それから彼女はジュリアンに異様な視線を向けた。
〈こんな視線はおそらくお芝居なんだろう〉とジュリアンは思った。〈だがあの息づかいの激しさ、思い乱れた様子!〉と彼は心に思った。〈ヘえ、おれがこういったことを判断できるような人間か! なにしろパリの女たちのなかで最も卓越した、最も才気のある女を相手にしているのだ。あのせわしい息づかいにはおれももうすこしで心を動かされるところだったが、これもあの女があんなに好きだと言っているレオンチーヌ・ファイ(ジムナーズ座の女優)を見ておぼえて来たのかもしれない〉
彼らは二人だけ残っていた。会話は目に見えてだれて来た。〈だめ! ジュリアンはあたしのことなんか何とも思ってはくれない〉とマチルドは悲しい気持になって心に言った。
彼が別れを告げようとしたとき彼女はその腕を強く握りしめて、
「今晩あたし、あなたにお手紙を差し上げますわ」と、ほとんどその声を聞きまがうほどいつもと変わった口調で彼女は言った。
こういった様子にたちまちジュリアンは心を動かされた。
「父は」と彼女はつづけた。「あなたのお勤めぶりを十分高く買っています。明日お発《た》ちになっては|いけ《ヽヽ》|ません《ヽヽヽ》。何か口実をつくってくださいね」そう言って彼女は走り去った。
彼女のからだつきは魅惑的だった。これ以上きれいな足などはおよそあり得ようはずがなかった。ジュリアンを悩殺するような風情で彼女は駈けて行った。しかし彼女がすっかり姿を消してから、それに次いで彼が何を考えたかを誰が推測し得たろう? 彼女が|いけ《ヽヽ》|ません《ヽヽヽ》という言葉を言ったときの命令的な口調に彼は心を傷つけられたのだ。ルイ十五世も臨終の床で、侍医頭が粗相から|いけません《ヽヽヽヽヽ》という言葉をつかったのに激昂したというが、そのルイ十五世は成り上がり者ではなかったのである。
一時間ののち、一人の侍僕がジュリアンに一通の手紙を渡した。何のことはない、それは愛の告白だった。
〈書きっぷりに気取りはない〉と、こういった文学的な観察で、思わず頬がゆるんで否応《いやおう》なしに笑いが浮かんで来る喜びを抑えようと努めながら、彼は心に思った。
〈それではとうとうおれが〉と突然彼は叫んだ。抑えようにも情熱はあまりに強すぎた。〈おれが、貧しい百姓のこのおれが、貴婦人から恋の告白を受けたんだ!〉
さらに彼は自分の喜びをできるかぎり抑えながら付け加えた。〈おれとしちゃあ、これは悪くない。おれは自分の性格の威厳を保ち得たのだ。おれは自分が愛しているなんてこれっぱかりも言わなかった〉彼は手紙の字面《じづら》を調べはじめた。ド・ラ・モール嬢はイギリス風の小ぎれいな細かい字体だったのだ。逆上するまでになりそうな歓喜をまぎらすために、からだをつかう仕事が必要だった。
「ご出発とあってはお話し申し上げずにはおられません……もはやお目にかからないでいることはあたしにはとてもできないことです」
ある考えが浮かんで何か初めて発見されたもののように彼の心を打ち、彼がマチルドの手紙を調べていたのをやめさせてその喜びをいっそう激しくした。〈おれはド・クロワズノワ侯爵に勝った〉と彼は叫んだ。〈生真面目なことしか言えないこのおれが! あの男はあんなに美男なのに! 口髭を生やして瀟洒《しょうしゃ》な軍服を着ているし、いつも機に応じて才智のあるうまい言葉を言ってのけるのに〉
一瞬ジュリアンは陶然とした。彼は幸福に酔いしれて、あてどもなく庭のなかをさまよった。
その後彼は事務室へ帰って、折よく外出していなかったド・ラ・モール侯爵に取り次いでもらった。ノルマンディから来た捺印した書類を見せて、ノルマンディの訴訟事件に手を打たねばならないから、ラングドックへの出発は延期せざるを得ないと、難なく彼は侯爵を言いくるめた。
「君が出発しないので私は安心した」と侯爵は事務上の話が終わると彼に言った。「私は君の顔を見るのが好きなのさ」ジュリアンは退出した。侯爵の言葉は彼を苦しませた。
〈そのおれがあの人の娘を誘惑しようとしている!あの人が老先《おいさき》の楽しみにしているド・クロワズノワ侯爵との縁組もたぶん駄目にしてしまうだろう。自分では公爵とならずとも、せめて娘は王の前に座れる身分(公爵)にしたいというつもりだったのに〉ジュリアンはマチルドからの手紙も打ち捨てて、侯爵にあのように説明してあるにもかかわらずラングドックへ旅立とうかと思った。だがこの徳義心の刹那《せつな》のひらめきもたちまち消えた。
〈何ておれは人がいいんだ!〉と彼は心に言った。〈平民のおれがこんな階級の家庭に憐れみを感じるなんて! ド・ショーヌ公爵に召使いと言われたこのおれが! それに侯爵は一体どうやってあの莫大な財産を殖《ふ》やしているんだ? 宮中で明日あたりクーデタがありそうな模様だと聞くと国債を売りに出して儲けるといったやり方だ。ところがこのおれは、無慈悲な摂理の手で最下層の階級のなかに投げ込まれ、貴族的な心は与えられているが、千フランの年収は、つまりパンは与えられていない、厳密に言ってパンは与えられていないのだ。そのおれが、目の前に出された快楽を拒むのか! こんなにまで辛い気持で今おれが横切って行く、灼《や》きつくような凡庸性の砂漠のなかで、これはおれの渇きを和らげてくれる清冽《せいれつ》な泉ではないか!いやいや、おれはそんなに馬鹿じゃない。人生と呼ばれるこのエゴイスムの砂漠のなかでは、誰しもが我身《わがみ》第一に振る舞うものなのだ〉
そうして彼は、ド・ラ・モール夫人や、またなかんずく夫人が親しくしている貴婦人方がときどき自分に向ける軽蔑をたたえた目つきを思い出した。
ド・クロワズノワ侯爵に勝ったという喜びのため、先ほど心に浮かんだ徳義観念もすっかり押しやられてしまった。
〈あの男を散々に怒らせてみたいものだ!〉とジュリアンは言った。〈こうなったらもう、おれは本当に自信満々であの男に一撃食わすこともできる〉そう言って彼は剣道の第二姿勢の突きの真似をした。〈今までおれは自分のわずかばかりの勇気を卑しくふりまわしていた一個の衒学者《げんがくしゃ》にすぎない。この手紙をもらってからは、おれはあの男と対等なんだ〉
〈そうだ〉と彼は限りない悦楽に酔ってゆっくりとひとりごちた。〈あの侯爵とおれとの真価が秤《はかり》にかけられた。そしてジュラ山地の貧しい木挽大工の倅が勝ったんだ〉
〈よし〉と彼はまた叫んだ。〈返事には、はっきりそう署名してやることにしよう。ド・ラ・モール嬢、私が自分の身分を忘れているなどとはお考えになりませんよう。あなたが木挽大工の倅のためにルイ聖王に従って十字軍に出征した有名なギ・ド・クロワズノワの後裔《こうえい》を見棄てたのだということを、あなたによくよく思い知らせて差し上げるようなことになるでしょう、と〉
ジュリアンは自分の歓喜を抑えることができなかった。居たたまれずに庭へ降りた。鍵をかけて自分の部屋に閉じこもっていたのだが、息ができぬほど狭苦しいような気がしたのだ。
〈ジュラ山地の貧しい百姓のおれが〉と彼はひっきりなしにくりかえした。〈年がら年じゅうこんな惨《みじ》めな黒服を着ていなくてはならない定めのこのおれが! ああ! 二十年も前ならばおれもあいつらと同じように軍服を着ていたろうに! あのころなら、おれみたいな男は殺されるか、でなければ三十六歳で将軍だ〉手に握りしめて放さなかったあの手紙が、彼に英雄のような態度姿勢を取らせていた。〈今ではこんな黒服を着ていても、ボーヴェの司教さんのように四十歳で十万フランの俸給と青綬勲章をもらえることは間違いないが〉
〈よし!〉と彼はメフィストフェレスのようにほくそ笑《え》みながらひとりごちた。〈おれは奴らよりも頭はいい。おれにはこの世紀にふさわしい制服を選ぶことができる〉そう思うと彼は、自分の野心と僧服に対する愛着の情とが倍加するのを感じた。〈おれよりか卑しい生まれで支配者の地位に立った枢機卿がどれほどいるだろう! たとえばおれと同郷のグランヴェル〔十六世紀の司教。カール大帝の大臣となった〕だ〉
だんだんにジュリアンの昂奮は鎮まった。慎重さがおもてへ出て来た。彼はその役をすっかり暗誦して師と仰いでいたタルチュフのように、心のなかで言った。
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あのお言葉も体裁のいい策略と思えば思われます。……
私の焦れ求めるご寵愛をいささかなりと示されて
今のお言葉で仰せのことが偽りないと得心させてくださらぬかぎり
優にやさしいそのお言葉もなかなか信ぜられますまい。
(『タルチュフ』第四幕第五場)
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〈タルチュフも一人の女のため身を滅ぼした、人におくれを取るような男ではなかったのに……おれの返事は人に見せられぬともかぎらん……その対策にはどうしたらいいか〉と彼はゆっくりとした口調で、語気に凶猛《きょうもう》な気持があらわれて来るのを抑えながら付け足した。〈あのお高くとまったマチルドの手紙のなかで一番どぎつい文句を冒頭に持って来るんだ。
そうだ。だがド・クロワズノワ氏の侍僕が四人ほど飛びかかって来て、元の手紙を奪い取らんともかぎらん。いやそんなことはさせない。おれだって十分武装しているんだ。それに誰も知っているように侍僕にピストルをぶっ放すのはおれの癖だ。
そうだ! 奴らのうち一人が勇敢な男で、おれに飛びかかって来る。ナポレオン金貨百枚の約束でもされたんだろう。おれがそいつを殺すか負傷させるかする。結構なことさ、そこが連中の狙《ねら》いなんだ。で、おれはきわめて合法的に牢獄に投げ込まれる。でなければ軽罪裁判に出頭する。すると、裁判官のほうから言えばまったく公明正大なやり方だが、ポワシー監獄へ送られてフォンタン氏やマガロン氏〔当時実在の風刺新聞の編集者〕の仲間入りとくる。監獄では四百人のならず者と雑魚寝《ざこね》だ……そしておれはこういった連中のことをいくらか同情するだろう!〉と彼は性急に立ち上がりながら叫んだ。〈だがここの連中は第三階級の人々を仲間に入れたにしたって、彼らを気の毒だと思ったりするだろうか!〉この言葉は、彼をこれまで否応なく苦しませて来たド・ラ・モール氏に対する感謝の念の末期《まつご》のうめきであった。
〈貴族諸卿、まあお静かに。私にはそういったマキアヴェリスムの手口など、お手のうちが見えすいているんですからね。マスロン師や神学校のカスタネード師よか手際はお上手ですよ。皆さんは私から挑発的な手紙を手に入れて、コルマールのカロン大佐〔一八二二年、王政に対する陰謀のかどで銃殺された実在人物〕の二の舞をやらせようというんでしょう。
まあまあしばらく。私はこの生死にかかわる手紙を、ちゃんと封印した小包にしてピラール師のところへ送って、保管を頼みますよ。この人は誠実な人でジャンセニストですから、金銭の誘惑に対しては安全です。そうだ、だがあの人は手紙を開けて見るかもしれぬ……じゃフーケに送ることにしよう〉
どうみてもこのときのジュリアンの目つきは兇暴であり人相は醜悪になっていた。その相好には紛れもない悪人の相があらわれていたのだ。これは全社会を相手に戦っている不幸な男だった。
〈武器を執れ!〉とジュリアンは叫んだ。そうして彼は一躍して玄関の石段を飛び越えた。街角の代書人の店へはいって行くと、代書人が怖気づいたほどだった。……「写してくれたまえ」と彼はド・ラ・モール嬢の手紙を渡しながら言った。
代書屋が仕事をしているあいだ、彼は自分でフーケに手紙を書いて、大切なものを寄託するから保管してもらいたいと頼んだ。〈しかし〉と彼は書く手を止めて心に思った。〈郵便局の私信検閲課がこの手紙を開けてあなた方がさがしておいでのものを渡してしまうかもしれませんね……いや皆さん、そんなことはさせませんよ〉彼は新教徒の本屋へ行って馬鹿でかい聖書を一冊買って来ると、その表紙のなかへ実に手際よくマチルドの手紙を隠して、それをすっかり荷造りさせた。そしてこの小包は、パリでは誰一人その名を知るものとてないフーケの雇いの職人の名宛で、乗合馬車で発送された。
これをしおえると彼は嬉しそうに足取りも軽くラ・モール邸へ帰って来た。〈さて、こんどは二人のあいだの事だ!〉と彼は鍵をかけて部屋に引きこもり、服を脱いで投げ出しながら叫んだ。
「なんということでしょう! お嬢様」と彼は、マチルドに宛てて書いた。「ド・ラ・モール嬢ともあろうお方が父上様の侍僕アルセーヌを通じてジュラの木挽大工の倅にあまりにも気を惹《ひ》くようなお手紙をくださいましたが、これはもちろん単純な私をもてあそぼうとのお心からでございましょう……」そして彼は今さき受け取ったその手紙のなかで最も明瞭な文句をいくつか書きうつした。
彼のほうの手紙は、シュヴァリエ・ド・ボーヴォワジの外交官としての慎重さにおくれを取るものではなかった。まだようやく十時だった。ジュリアンは幸福と、彼のような不幸な男にはまったく未経験な自己の力の意識とに酔いながら、イタリア・オペラに行った。彼は旧知のジェロニモの歌うのを聞いた。音楽がこれほどまで彼を昂奮させたことはかつてなかった。自分が神になったように思われた。
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第十四章 乙女の想い
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何という当惑! 幾夜かまどろみもせずに過ごしたことであろう! ああ神様! あたしは見下げ果てた女となるのでしょうか? あの人さえあたしを卑しむでしょう。けれどあの人は旅出して、立ち去ってしまいました。(ミュッセ)
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マチルドがあの手紙を書くには内心の葛藤《かっとう》なしには済まなかった。ジュリアンに対する彼女の興味が最初はどんなものであったにせよ、やがてそれが、物心ついて以来彼女の心を絶対に支配していた自尊心までも屈服させてしまったのである。この高ぶった冷やかな魂がはじめて情熱的な感情の虜《とりこ》となった。だが自尊心は屈服されていたにしても、自尊心によってできあがっていた習慣にはこの感情も忠実だった。二カ月の内心の葛藤と、今まで知らなかったさまざまな感じを味わったあげく、いわば彼女のすべての内生活は新たによみがえったのである。
マチルドは幸福を見つけたと思っていた。幸福が見えて来たということは、優れた才智と結びついた勇敢な心の持ち主にはどんなことでもさせてしまうのであるが、やはり長いあいだ体面やあらゆる平凡な義務の感情と闘わねばならなかった。ある日、彼女は朝の七時というのに母親のところへはいって行って、ヴィルキエに逃げ出すのを許してくれとせがんだ。侯爵夫人は返事もしてくれず、帰って寝床へはいるようにと言うだけだった。これが、世間的な思慮を重んじ普通一般に行なわれている考え方を尊重しようとする、彼女の最後の努力だったのだ。
ケリュス、ド・リュス、クロワズノワの輩《やから》が犯すべからざるものと思っている考えを傷つけたり、またそれに逆らったりすることになるまいかという危惧《きぐ》などは、彼女の心にはほとんど問題にならぬことだった。このような連中はまったく自分を理解するようにはできていないのだという風に彼女には思えた。もし無蓋|四輪馬車《カレーシュ》を買うかそれとも地所を買うかということだったならば、彼女はこの連中に相談しもしたろう。彼女の真の恐怖は、ジュリアンが自分を不足に思っていはしないだろうかということだったのである。
〈もしかすると、あの人も外観だけ優れた人物のように見えるんじゃないかしら?〉
彼女は無気力さということが大嫌いだった。これが周囲の美青年たちに対する彼女の唯一の苦情だった。流行からはずれたものやまた下手に流行の真似をしたものを彼らが巧みに茶化せば茶化すほど、彼女の目には彼らが下らなく思われて来るのだった。
〈あの人たちは勇敢だった、だがそれだけだわ。それに、どんな風に勇敢だったのだろう?〉と彼女は心に思った。〈決闘で。だが決闘なんてものはもう、一つの儀礼にすぎなくなっている。何もかも前からわかっているのだ、倒れながら言わなければならない言葉まで。芝生の上に横たわって手を心臓のところに当てて、敵に対して寛大な赦《ゆる》しの言葉と、意中の美女のために何か一言を言ってやらねばならぬ。それも多くの場合、架空の美女か、でなければ疑惑を招くのが恐ろしくて男が死んだその日に舞踏会へ出かけて行くような女だ〉
〈鋼鉄の兜《かぶと》をかがやかせた騎兵中隊の先頭に立って危険を冒す人はいる。だが一人だけで、一風変わった、意外な、まったく見ぐるしい危険を冒す人は?〉
〈ああ!〉とマチルドは言うのだった。〈家柄によると同時にその性格によって偉大だった人間が見られたのは、アンリ三世の宮廷だった! ああ! もしジュリアンがジャルナックかモンコントゥールにでも従軍していたら、あたしにはもう疑う余地などなかったろうに。あの雄々しくたくましい時代にはフランス人はお人形ではなかった。合戦の日こそ人が一番困惑などを感じない日だったのだ。
あの時代の人たちの生活は、エジプトのミイラのように、誰も彼も一様におそろいの袋に包まれているといったものではなかった。そうよ、カトリーヌ・ド・メディシスの住んでいたソワッソンの邸から出て夜の十一時に一人で帰って来るのは、今日アルジェに出かけて行くこと以上に真の勇気があってはじめてできることだったのだ。男の生涯は一か八かの勝負の連続だった。現在では文明が一か八かの勝負などというものを追い払ってしまった。もう思いがけぬことなどはない。思いがけないことが人の考えのなかに出て来たとなれば、どれほど辛辣なことを言われるかわからない。もし思いがけないことが何か現実の事件のなかにあらわれて来たら、今の人たちはおよそどんな卑怯な人間にも考えられないほどのこわがりようをする。そのこわさのため、どんな馬鹿げた真似をしようと無理もないということにされるのだ。堕落した退屈な世紀! もしボニファス・ド・ラ・モールが斬り落された頭を墓からもたげて、一七九三年に十七人の自分の子孫が二日後には断頭台に載せられるため羊のようにおとなしく捕えられるのを見たら、何と言ったろうか? 死ぬことははっきりわかっていたのだ。けれども身を守ってせめて一人か二人のジャコバンを殺してやるのが下品だというわけだったのだろう。ああ、フランスの英雄的な時代、ボニファス・ド・ラ・モールの世紀だったならば、ジュリアンは騎兵中隊長になっていたろうし、うちの兄は身持ちが良くて分別くさい目をしてもっともらしいことばかり言っている若い坊さんになっていたろう〉
数カ月前までは、マチルドは世間なみの型とすこしでも異なった人間にめぐりあうことなどは絶望していた。社交界の数人の青年に手紙をやるなどという大胆な真似をすることで、彼女はいささか幸福を見出していたである。若い娘としてはなはだ不都合な、またはなはだ軽率なこの大胆さは、ド・クロワズノワ氏やその父のド・ショーヌ公爵や、またもし現在の婚約が破談にでもなったらその理由を知ろうとしたにちがいないショーヌ邸のすべての人々の目から見て、彼女の名誉を傷つけるものとなるかもしれなかった。そのころは手紙を一通書いた日にはマチルドは眠られなかった。だがその手紙といってももらったものへの返事にすぎなかったのだ。
今度は彼女のほうから思い切って愛すると言ってやったのである。彼女の|ほうが先に《ヽヽヽヽヽ》(何という恐るべき言葉!)社会の最下層に位置している男へ手紙をやったのだ。
こういった事情は万一露顕した場合、一生ぬぐい切れぬ不名誉となることは明らかであった。母親のところへ来る婦人たちのなかで誰か一人でもあえて彼女の味方になってくれるものがいるだろうか? 社交界《サロン》のおぞましい侮蔑の鋒先を和らげるため、どんな文句をその婦人たちに触れまわってもらったらよかろうか?
口にするだけで恐ろしいのだ、しかも、それを書くなどとは! |紙には書けぬことがある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とナポレオンはバイレンの降服を聞いたとき叫んだ。そして、あらかじめ忠告を与えておくといった風にこの言葉を教えてくれたのはジュリアンだったのだ!
だがこんなことはまだ何でもなかった。マチルドの煩悶《はんもん》には別の原因があった。社交界に与えるすさまじい影響、またその階級を侮辱したがゆえに軽蔑に満ちあふれた消し去りがたい汚辱を受けること、そんなことは忘れてマチルドは、クロフズノワ、ド・リュス、ケリュスの輩とはまったく別の天性の男に手紙をやろうとしていたのだ。
ジュリアンの性格の究《きわ》めがたさ、その未知数は、ただ尋常のつきあいをしているだけでさえ人に畏怖《いふ》を与えるものであっただろう。それなのに彼女は彼を自分の情人に、おそらくは自分の支配者にしようとしていたのである!
〈もしいつかあたしを思いのままにすることができるようになったら、あの人はあらゆることを当然の権利として要求するかもしれない。いいわ! あたしはメディアのように自分に言って聞かせよう。これほどの危険に取り巻かれても、私には自分《ヽヽ》というものが残っている、と〉
ジュリアンは生まれつきの貴族階級などをすこしも尊敬していないと彼女は思っていた。いやそれどころか、もしかすると自分にまったく愛情など抱いていないのかもしれぬ!
このむごたらしい疑惑の最後の瞬間に女らしい自尊心が頭のなかに浮かんで来た。〈あたしのような若い娘の身の上に起こることは、すべてが特異なことでなければならない〉と、マチルドは苛立って叫んだ。そう思うと物心のつかぬころから注ぎ込まれていた自尊心が道徳と衝突することになった。ちょうどこのとき、ジュリアンの旅立ちがすべてを急転させたのである。
(こういった性格はさいわいなことにきわめて稀でしかない)
その夜深更に、ジュリアンは非常に重いトランクを門番のところまでおろさせておくという意地の悪いいたずらをやった。彼はそれを運ぶためにド・ラ・モール嬢の小間使いに言い寄っている供まわりの下男を呼んだ。〈この策が何の効果もあげないということはあり得ない〉と彼は心に思った。〈だがもしこれが成功したら、あのひとはおれが出発したと思うだろう〉彼はこんないたずらをしたのをとても愉快に思いながら寝入ってしまった。マチルドのほうは目を閉じられなかった。
あくる日の明け方、ジュリアンは人目につかず邸を抜け出したが八時前に帰って来た。
彼が図書室にやって来るとたちまちド・ラ・モール嬢が扉のところに姿をあらわした。彼は返事の手紙を渡した。話しかけるのが義務だと彼は思った。すくなくとも話しかけるのが一番楽なことだった。しかしド・ラ・モール嬢は彼の言葉などいっこう聞こうともせずに姿を消した。ジュリアンはそれを喜んだ。何を言うべきかわからなかったからだ。
〈もしこういったことがノルベール伯と腹を合わせた上でのいたずらでなければ、この高貴の生まれの娘がおれに抱こうというその奇怪な愛情をかきたてたものは、あきらかに冷やかさをたたえたおれの目つきにちがいない。だがおれのほうもいい気になってこの大きなブロンドのお人形さんに好意を持つようになったら、こちらもまあだいぶお話にならぬ馬鹿者だというわけだ〉こんな小理屈のおかげで彼はかつてなかったほど冷静で打算的でいられた。
〈これから始まる戦いでは〉と彼は付け加えた。〈家柄の誇りは、いわばひときわ高い丘のようにあの女とおれとのあいだの一つの陣地となるだろう。この陣地を攻め落さねばならぬというわけだ。パリに留まったのは実にへまだった。出発を延期したことが、もしこれがいたずらにすぎなかった場合には、おれの値打ちを下げおれを危地に陥れることになる。出発したって何の危険もなかったじゃないか。あいつらがおれを馬鹿にする気なら、旅行に出てやればこちらがあいつらを馬鹿にすることになったろう。もしあの女のおれに対する気持が多少とも真実のものだったら、その気持は百倍も激しくなっていたろう〉
ド・ラ・モール嬢の手紙はジュリアンの虚栄心をひどく悦ばせてくれたので、自分の身に起こって来たことを真面目に取り合わぬつもりでいながらも、旅に出るほうが得策だということを本気で考えることなど忘れ果てていたほどだった。
自分のあやまちに極度に敏感だということは、彼の性格の背負った宿命だった。このあやまちのおかげでひどく苦しんでいたので、旅に出なかったというこの小さな失策に先立つあの真実とは思えぬほどの勝利のことなどはもはやほとんど念頭になかった。そうしているうちに、九時頃、ド・ラ・モール嬢が図害室の敷居際に姿をあらわして一通の手紙を彼に投げつけるとそのまま立ち去った。
〈この調子で行けば書翰《しょかん》体の小説にでもなりそうだ〉と彼はその手紙を取り上げながら言った。〈敵はこちらに水を向けているんだ、おれのほうはあくまで冷淡に構えて道徳堅固な様子をしてやろう〉
手紙の主は彼に決定的な返答を求めていたが、その横柄な書き方を見ると彼は内心ますます愉快になった。彼は自分をからかおうと思っているらしい連中を、二ページにわたる手紙を書いて翻弄《ほんろう》してやって楽しんだ。しかも返事の終わりのほうに翌日の朝出発することに決めたと冷やかすように書いてやったのである。
この手紙を書き終えると、〈こいつを渡すには庭がよかろう〉と考えて彼は出て行った。彼はド・ラ・モール嬢の部屋の窓を眺めた。
その部屋は二階にあって、母親の部屋と隣り合わせだったが、下とのあいだには大きな中二階があった。
この二階はひどく高くなっていたので、手紙を手にしながら菩提樹の並木の下を徘徊しているジュリアンには、ド・ラ・モール嬢の部屋の窓から見つけられる気づかいはなかった。丹念に刈り込まれた菩提樹の木立が形づくっている丸天井のために視野が遮《さえぎ》られていたのだ。〈いやはや、何ということだ!〉とジュリアンは不機嫌になって自分の心に言った。〈また軽率な真似をするのか! おれのことをからかおうとたくらんでいるんだったら、手紙を手にしているところを見せるなど、わざわざ敵の罠《わな》にかかりに行くようなものだ〉
ノルベールの部屋は妹の部屋のちょうど真上にあったので、もしジュリアンが刈り込まれた菩提樹の枝々のつくっている丸天井のかげから外へ出たら、伯爵とその仲間は彼の一挙一動を観察できるのだった。
ド・ラ・モール嬢がその部屋のガラス窓のうしろにあらわれた。彼はちょっとその手紙を見せた。彼女はうなずいた。すぐにジュリアンは駈け足で自分の部屋へ帰って行くと、偶然大階段のところで美しいマチルドにぶつかった。彼女はまったくおちつきはらって目で笑いながら彼の手紙を握った。
〈あの可哀そうなド・レナル夫人の目には何という情熱がかがやいていたろう〉とジュリアンは心に思った。〈おれとわりない仲になって半年たってからでさえ、おれの手紙を受け取ろうとしたときには、あのひとが目で笑いながらおれの顔を見たことなどは一度だってなかったじゃないか!〉
これ以上のところは今ほどはっきりと心のなかで言われたものではなかった。その理由が下らないことなのを彼は恥かしく思ったのだろうか?〈だがまた何というちがいだ!〉と彼は思いつづけた。〈あの朝着《あさぎ》の上品さにしても、身のこなしの優雅さにしても! 趣味のある男ならド・ラ・モール嬢を三十歩の距離から見ても、彼女が社交界でどんな位置を占めているかを言い当てることができるだろう。これこそ紛れのない真価と呼び得るものだ〉
こういう冗談半分のことを言いながら、ジュリアンはまだ自分の考えたことをはっきりと承認できないでいた。ド・レナル夫人には彼のために棄てなければならぬド・クロワズノワ侯爵がいなかった。彼の競争者としては、貴族ではないくせにモジロン家の人々が絶えてしまったのをいいことにしてド・モジロンと名乗っている、あの郡長シャルコ氏しかいなかったのであった。
五時にジュリアンは三番目の手紙を受け取った。その手紙は図書室の扉のところから彼のほうへ投げつけられたのだ。ド・ラ・モール嬢は今度も逃げて行った。〈何て手紙好きなんだ!〉と彼は笑いながら言った。〈わけもなく話ができるというのに! 敵はおれの手紙をほしがっているんだ、明らかに。しかもたくさん手に入れたいんだ!〉彼はその手紙を開封するのを急がなかった。〈またまたお上品な美辞麗句なんだろう〉と彼は思った。だが読んでいるうちに彼は顔色を変えた。手紙はわずか八行だけだった。
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どうしてもお話ししたく存じます。今晩お話し申さねばならないのです。午前一時が打ちましたら、庭にお出になってください。井戸のそばにある庭番の大きな梯子を持ち出してあたしの部屋の窓にかけて登って来てください。今夜は月が出ていて明るいですけれども、そんなことはかまいません。[#ここで字下げ終わり]
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第十五章 奸計か?
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ああ、心に抱いた大望を実行に移すまでの期間は、何とむごたらしいものであろうか! 数々のいわれのない恐怖にとらわれ、逡巡することも幾たびか! 事は生死にかかわる。いやそれ以上、名誉にかかわる問題なのだ!(シラー)
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〈これは由々《ゆゆ》しいことになって来たぞ〉とジュリアンは思った。……〈だがちとばかり見え透いている〉と彼はしばらく考えてから付け足した。〈何だって!あの美しいお嬢さんは、ありがたいことにはまったく誰はばかることなく自由に図書室でおれと話ができるんじゃないか。侯爵はおれが計算書を見せるのがこわくって決してあすこにゃ来ない。そうじゃないか! あすこにはいって来るのはド・ラ・モール氏とノルベール伯爵だけだが、二人はほとんど一日じゅう家を明けている。邸に帰ってくる時刻は簡単にわかるのだ。それなのに、王公といえども婿《むこ》にするのに身分が高すぎるということはないほどのあの崇高なマチルドが、おれに言語道断な暴挙を冒せというのか!〉
〈これはもう明らかだ、おれを破滅させるか、あるいはすくなくともおれを嘲弄しようと思っているのだ。最初おれに手紙を書かして破滅させようと思った。ところが手紙には下手なことが書いてない。そうだ! それでおれにまったく疑いようのない行動をさせてしまわねばならぬことになった。あの美貌の下らぬ紳士どもは、おれがそんなに馬鹿で自惚れが強すぎると思っているんだな。やれやれ、まったくこの上ないほど澄み切った月光に照らされてそんな風に梯子で七メートル五十センチもある二階へ登って行くんだって! 隣の邸からだって見つかるくらいの時間がかかる。梯子を登ってるおれの姿なんか、よい見物《みもの》じゃないか!〉ジュリアンは自室に戻って口笛を吹きながらトランクをつくりはじめた。返事さえしてやらずに出発しようと決心したのだ。
しかしこの賢明な決心は彼の心におちつきを与えなかった。〈もしかして〉と彼はトランクに蓋《ふた》をしてしまうと突然心に思った。〈マチルドが本気だったら!とすれば、おれがあの女の前で申し分のない卑怯者の役を演ずることになる。おれには家柄なんてものはない。おれに必要なのは、好意的な推測なんてものによってではなく、はっきりとした行為によって充分に証明された、いわば現金の、優れた資質なのだ……〉
彼は十五分ほど熟考した。〈それを否定したって何にもならない〉ととうとう彼は言った。〈あの女から見ればおれは卑怯者になるのだ。おれは単に、あの連中が口をそろえてド・レス公爵の舞踏会で言っていたことだが、上流社会で一番輝かしい人物を失うのみならず、公爵の御曹司《おんぞうし》でみずからもゆくゆくは公爵になるあのド・クロワズノワ侯爵がおれの犠牲にされるところを見るという絶大な喜びをも失うことになる。おれには欠けているあらゆる長所を兼ねそなえている魅力のある青年だ、機に応じて飛び出す才智とか家柄とか財産とか……
この後悔は一生おれについて離れまい。何も彼女が惜しいのではない。情婦なんぞいくらでもいるんだ!
……だが名誉は二つとはない!
と、あの年取ったドン・ディエーグ〔コルネーユの『ル・シッド』の登場人物〕も言った。それにこの場合、おれは誰が見てもわかるようにはっきりと、おれの前に出て来た最初の危険から脱却している。最初と言うのは、例のド・ボーヴォワジとの決闘なんて冗談みたいなものとしか思えないからな。今度のは全然ちがう。下男に射たれて死ぬなんてこともあるかもしれんが、そんなことは一番つまらぬ危険だ。名誉を汚されるかもしれないんだ……〉
〈こいつは由々しいことになったぞ、なあ若いの〉と彼は陽気になってガスコーニユ訛《なま》りで付け加えた。〈こいつは|メーヨ《ヽヽヽ》(名誉)の問題だ。たまたまおれみたいに社会の下層に生みつけられた人間が、このような機会をまたと見出すことはあるまい。おれだってこれから情事をすることもあろうが、もっと凡庸な情事だろう……〉
彼は長いこと熟考した。ときどきはたと足を停めながら彼は駈けるように歩きまわった。彼の部屋にはリシュリュー枢機卿の素晴らしい大理石の胸像が置いてあったが、それが心ならずも彼の視線をひきつけた。この胸像は厳しく彼を睨《にら》みつけているように見えた。まるで彼に、フランス人の性格に生来あるべきはずの豪胆さが欠けているのを非難しているかのように。〈あなたの時代だったならば、偉人よ、私は躊躇《ちゅうちょ》したりしたでしょうか?〉
〈一番悪い場合として〉とやっとジュリアンは心に思った。〈これがすべて陥穽《かんせい》だったと仮定してみると、若い娘の身にしてはずいぶんと腹黒い、また自分自身の身をも危険にするようなものだ。おれが黙っているような人間じゃないとは誰も承知している。そうなるとおれを殺さねばならんということになる。これも一五七四年、ボニファス・ド・ラ・モールの時代ならよかったろうが、今日のラ・モール家の人間には敢行できないだろう。この連中はもう昔の人たちと同じではない。ド・ラ・モール嬢はあれほど羨望の的となっているのだ! 明日には四百のサロンに彼女の汚辱について喧々囂々《けんけんごうごう》の声があがるだろう、しかもみんな大喜びをしながら。
召使いどもは仲間同志で、おれが特に寵遇されていることをとやかく言っている。おれはちゃんと知っているんだ、しゃべっているのを聞いたんだから……
また一方では彼女からの手紙だ!……奴らはおれがいつもあの手紙を持ち歩いていると思っているかもしれぬ。彼女の部屋にはいっているところを不意打ちされてその手紙を強奪されることも考えられる。そうなると三、四人、いや何人になるかわからないが、とにかく何人かを相手にしなくちゃならん。だがそういった男をいったいどこから連れて来るんだ? 口の堅い手下をパリのどこで見つけて来るんだ? 裁判なんてことを考えりゃ奴らは怖じ気をふるうし……そうさ!ケリュス、クロワズノワ、ド・リュスといった連中自身がやるつもりなんだな。おれが奴らに取り巻かれたその瞬間、そのときのおれの馬鹿づら、そんなことを考えて奴らはやる気になったんだ。それでは、秘書さん、アベラール〔中世の神学者。エロイーズとの恋で有名〕みたいなことにならんようにご用心!
ようござんすよ、皆さん! それじゃ私が傷を負わせて帰してあげましょう。ファルサロスでカエサルの兵隊がやったように、私はあなたがたの顔を狙って打ちかかりますよ……手紙のほうは大丈夫、私には安全な場所に移すことができます〉
ジュリアンは後からもらった二通の写しを取ると、それを図書室の美しいヴォルテール全集の一巻に隠し、元の手紙のほうは自分で郵便局に持って行った。
帰って来ると、〈おれは何という狂気の沙汰に身を投じようとするのだ!〉と、驚愕と恐怖を感じながら彼は心に思った。彼はその夜なすべき自分の行為を、十五分ほどまともに見ようとしないでいたのだった。
〈だが、もしおれが拒否すれば、その後でおれは自分を軽蔑するにきまっている! 一生のあいだそんなことをしたということが疑惑の対象となるだろう、しかもおれにとってはこのような疑惑こそ最も苛烈な悩みなのだ。それはすでにアマンダの情人のことで経験ずみじゃないか! いっそはっきりした罪を犯したほうがまだしも楽に自分を赦せると思う。一度その罪を白状してしまえば、いつまでも考えないですむかもしれぬ〉
〈何だって! おれはフランスで一番立派な家名の一つを身に帯びた男を敵にまわしているんだ、それなのにおめおめと、あいつよりも下らん人間だと自分から宣言するのか! 実際、行かなかったら卑怯なのだ。この言葉がすべてを決定する〉とジュリアンは身を起こしながら叫んだ。〈……しかもあの女はあんなにきれいなんだ。
もしこれが悪だくみでなければ、あの女はおれのために何という気ちがい沙汰をするのだ! たぶらかそうというんなら、いいさ、皆さん、私の出方しだいでその冗談は重大なものになりますよ。それに私はそうして見せますからね。
だがもし奴らが、部屋にはいろうとするときおれの両腕をつかまえたら。あいつらは何か巧妙な仕掛けをしておかないともかぎらないぞ!〉
〈これは決闘みたいなもんだ〉と彼は笑いながらひとりごちた。〈どんな攻撃にも身をかわす手があるとおれの剣術教師は言ったが、神様はご親切でどうにか片がつくようにと思し召されるから、二人のうち一人が身をかわすことを忘れるようにしてくださる。けれども、これで奴らに返答をしてやるのだ〉そう言って彼はポケットから例のピストルを取り出した。雷管は発火できるようになっていたのに彼はわざわざ新しいのに取り替えた。
まだたっぷり数時間は待たねばならなかった。何かしようと思ってジュリアンはフーケに手紙を書いた。
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友よ、同封の手紙は、事故が起こって、ぼくの身に何か変わったことがあったという話を聞くまでは、開かないでくれたまえ。そういうことがあったときには、ここに送る手稿の固有名詞を消して写しを八通つくり、マルセーユ、ボルドー、リオン、ブリュッセル等の新聞に送ってもらいたい。それから十日ほどしたらその手稿を印刷させて、最初に刷ったのをド・ラ・モール侯爵に送るのだ。そして二週間後に他のをヴェリエールの街々に夜のうちに撒《ま》きちらす。
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椿事《ちんじ》が起こった場合でなければフーケが開いてはいけないという、物語《コント》のような体裁に物したこの短い弁明の手記を、ジュリアンはできるかぎりド・ラ・モール嬢の身を危うくしないように書いた。だが所詮、彼は自分の立場をきわめて克明に描いたにすぎなかった。
小包を作り終わったところへ、ちょうど晩餐の鐘が鳴った。その鐘の音に彼の心臓はときめいた。今しがたしたためたばかりのあの物語に憑《つ》かれていた彼の想像力は悲劇的な予感にすっかり没入していた。下男たちに捕えられ、縛り上げられ、猿轡《さるぐつわ》をはめられて穴倉へ引き立てられる自分を、彼は心に描いた。穴倉では一人の下男が彼を監視している。そしてもしこの高貴な家門の名誉がこの事件に悲劇的な結末をつけることを要求するとなれば、まったく痕跡を残さぬあの毒薬ですべてを決着させることも容易なのだ。その場合には、彼が病死したと言って死体を彼の部屋に移すだろう。
劇作家みたいに自分自身の物語に興奮して、ジュリアンは食堂にはいるとき実際恐怖を感じた。彼は堂々たる仕着せを着た下男たちすべてに目を注いだ。彼らの人相を調べてみた。〈今夜おれに差し向けるのに選ばれた奴は、こいつらのなかの誰だろう?〉と彼は心に思った。〈この家のなかではアンリ三世の宮廷の思い出がいまだに生きていてあんなによくみんなの口に上るのだから、侮辱されたと思ったら、この人たちは同じ身分のほかの連中よりも果断なことをやるだろう〉彼はド・ラ・モール嬢を見つめて彼女の目からその家の人々の企図していることを読み取ろうとした。彼女は青ざめていた。そしてまったく中世風の顔つきをしていた。彼女がこのように堂々とした様子をしているのを見たことはかつてなかった。真に美しく威厳があった。彼はほとんど彼女に恋心を感ずるようになった。〈Pallida morte futura(迫り来る死を思いて色蒼ざめて)〉と彼は心に思った。〈彼女の蒼白さは大きなはかりごとを抱いていることを告げている〉
食後、彼は長いあいだ庭園を散歩しているように装ったが無駄だった。ド・ラ・モール嬢はいっこうに姿をあらわさなかった。彼女と話をすることができれば、この場合彼の心は重圧から解き放たれたであろうが。
何も隠すにはあたらないではないか、彼は恐ろしかったのである。行動しようと臍《ほぞ》を固めていたのだから、彼は恥じることなくこの恐怖の感情に浸っていたのだ。〈決行する瞬間が来さえすれば、おれには必要なだけの勇気が出て来る〉と彼は自分に言った。〈現在どんなことを感じようとそれが何だ〉彼はその場の様子と梯子の重さをたしかめに行った。
〈この梯子という道具は、ここでもヴェリエールと同じに、おれには使う運命《さだめ》になっているんだな!〉と彼は笑いながら心に思った。〈だが何という相違だ! あのときは〉と彼は嘆息とともにまた言った。〈そのためにおれが危険を冒した女《ひと》を、疑わねばならぬということはなかった。同じ危険と言っても何という違いだ!
たとえド・レナル氏の庭で殺されていたって、おれには何の汚辱にもならなかったろう。死因不明ということにしておくのも容易だった。だが今度は、ショーヌ邸やケリュス邸、レス邸など、結局はすべての邸のサロンでどんな忌わしい噂が立てられることかわかったもんじゃない。後世おれは人非人ということになっちまうだろう〉
〈いやそれは三年のあいだだ〉と彼は笑いながら自嘲してまた言った。だがこの考えが彼を打ちのめしてしまった。〈けれどこのおれの身のあかしはどこで立てられるだろうか? フーケがおれの書き残したパンフレットを印刷するとしたところで、そんなことは恥の上塗りになるだけだろう。何ということだ! おれは一つの家庭に迎えられた。そしてそこで受けた手厚いもてなしとおれの一身に浴びせられたさまざまの好意との返礼に、その家の内情についてのパンフレットを印刷させるのか! 女たちの名誉を損なうのか、ああ、甘んじて欺《あざむ》かれたほうがずっといい!〉
この一夜は堪えがたかった。
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第十六章 午前一時
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この庭園はとても広く、ごく近年申し分のない趣味で設計されたものだった。しかし立木は一世紀以上の齢を経ていた。何かそこには田園の匂いのするものがあった。(マッシンガー)
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十一時が鳴ったときは、彼はフーケに前言取り消しの手紙を書こうとしていたところだった。自分の部屋に閉じこもったのだというように、彼はわざと部屋の扉の錠《じょう》を音高く動かした。彼は忍び足で、家じゅうの様子、特に使用人たちが住んでいる五階の様子を偵察に行った。変わったことはまったくなかった。ド・ラ・モール夫人の小間使いのなかの一人が仲間を集め、召使いたちは大変陽気にポンスを飲んでいた。〈あんな風に笑い興じている連中が夜の襲撃に加わるはずがない。加わるならもっと本気になっているはずだ〉と彼は思った。
とうとう彼は庭園の暗い片隅へ行って陣取った。〈召使いたちにはわからないようにやろうというのが奴らのもくろみなら、おれを急襲する役の連中は庭の壁を乗り越えて来るだろう。
ド・クロワズノワ氏がこの件について少々冷静に頭を働かせたら、おれがあの部屋にはいりこむ前に襲撃させたほうが、自分の妻にと思っている若い娘にとって危険が少ないとわかるはずだがな〉
彼は軍隊式のはなはだ綿密な偵察をおこなった。〈おれの名誉にかかわることだからな〉と彼は思った。〈もしおれが何か失策をしでかしたら、そんなことは考えてもみなかったと言ってみたところで、おれ自身の目から見て何の言い訳にもならないんだ〉
空はまったく絶望的になるほど晴れわたっていた。十一時ごろ月が昇った。十二時半には月光は庭園に面した邸《やかた》の前面《ファサード》を隈なく照らしていた。
〈あの女は頭がどうかしてるんだ〉とジュリアンは心に思った。一時が鳴ったときにもノルべール伯爵の部屋の窓はまだあかりが消えていなかった。生まれてからこれまでジュリアンはこれほどの恐怖を感じたことはなかった。彼はこの企ての危険ばかりを思って、何の感激もおぼえなかった。
彼は馬鹿でかい梯子を取りに行き、相手に取り消しをする余裕を与えるため五分ほど待った。そして一時五分すぎに梯子をマチルドの部屋の窓に立てかけた。彼は片手にピストルを握って、襲われないのをいぶかしみながら静かに登った。窓のほうへ近づいて行くと窓は音もなくひらいた。
「とうとうおいでになったのね」とマチルドは深い感動とともに彼に言った。「あたし、一時間も前からあなたのなさることからずっと目を離さないでいたのです」
ジュリアンはひどくどぎまぎしていた。どうふるまっていいのかわからなかった。まったく愛情など感ぜられないでいた。途方にくれながら、彼は敢行しなければならないと思った。彼はマチルドに接吻しようとしてみた。
「まあ、いやなことを!」と彼女は彼を押しのけながら言った。
しりぞけられたのをかえって喜んで、彼は急いであたりに一瞥《いちべつ》を投げた。月光は煌々《こうこう》として、ド・ラ・モール嬢の部屋のなかに落ちた物の影はくっきりと黒い輪郭を描いていた。〈おれには見えないが、隠れている奴らがどうしてもいるようだぞ〉と彼は思った。
「上着の脇ポケットに何を入れていらっしゃるの?」と、会話の種を見つけたことに大喜びでマチルドは言った。彼女には異様な悩みがあったのだ。良家の生まれの娘にはごく自然な、慎みと内気のあらゆる感情がその力を取り戻して、彼女を責めさいなんでいたのである。
「ぼくはあらゆる種類の武器とピストルを持って来たのです」とジュリアンは、何か言うことができたのを彼女に劣らず喜びながら答えた。
「梯子を引き上げなければいけませんわ」とマチルドが言った。
「とても大きいんですから階下《した》のサロンや中二階のガラスを割るかもしれません」
「ガラスを割っちゃ駄目よ」とマチルドは平常の会話の調子になろうといたずらに努めながらつづけた。「一番上の横木に綱をゆわえつけておろせやしないかと思いますけど。あたしいつも部屋に綱を用意しているんですの」
〈恋する若い女ってこんなものか!〉とジュリアンは思った。〈自分じゃ恋しているなどとあえて明言してはいるけれど! これほど冷静に、これ思慮ぶかくいろいろと用心している以上、おれが愚かにも信じていたようにド・クロワズノワ氏に勝利を収めたのではなく、ただ単にあの男の後釜に据わっただけだということがはっきりわかる。だが実際のところ、それがおれにとって何だ! おれがこの女に恋しているのか!後釜と見替えられたということは侯爵にはずいぶん口惜しかろうし、またその後釜がおれだということになったらなおさら口惜しかろう。その点でおれは侯爵に勝ったのだ。昨夜カフェ・トルトニでも、あの男はおれのことなど見おぼえないという様子をして、何て傲然とおれを見つめやがったろう! もう挨拶しないわけには行かないというときになって、なんていう意地の悪い様子で会釈しやがったことか!〉
ジュリアンは梯子の末端の横木に綱を縛りつけておいて、窓ガラスにさわらないようにバルコンの外へぐっと身を乗り出しながら静かにおろしていった。〈おれを殺すには絶好の機会だぞ〉と彼は思った。〈もし誰かがマチルドの部屋に隠れているんだったら〉
だが深い静寂があいかわらずあたりを蔽《おお》っていた。
梯子が地についた。ジュリアンは首尾よく梯子を壁に沿った外国種の草花の花壇に寝かせることができた。
「大切にしていらっしゃる綺麗な草花がすっかり押しつぶされているのをご覧になったら、お母さまは何とおっしゃるでしょう」とマチルドは言った。「……綱を投げ棄ててしまわなけりゃ駄目よ」と彼女は落ち着きはらって付け足した。「バルコンからぶらさがっているのを誰かに見られたら、とても言い逃れられないことになるわ」
「それではぼくが出て行くときはどうするんです?」とジュリアンはおどけた口調で植民地|訛《なま》りを真似して言った。(この家の小間使いの一人はサント・ドミンゴ島の生まれだったのだ)
「扉から出ていらっしゃるのよ」とマチルドは自分のこの思いつきに有頂天になって言った。
〈ああ、この男はあたしのすべての愛情を捧げつくすにふさわしい人だ!〉と彼女は考えた。
ジュリアンが庭園のなかへ綱を落すと、マチルドが彼の腕を握りしめた。彼は敵に捕えられたと思って短刀を引き抜きざまはげしく振り向いた。彼女は窓の開く音がしたと思ったのだ。二人は身動きもせず息を呑んでいた。月は彼らを照らし出した。物音は二度としなかった。もはや不安はなかった。
すると当惑がまたはじまった。両方ともひどくどぎまぎしていた。ジュリアンは扉にすっかり掛け金がかっているのを確かめた。ベッドの下をのぞいて見ようとは考えたが、思い切ってそうすることはできなかった。そこに侍僕を一人、二人ひそませておくことも不可能ではなかったのだ。とうとう彼は後になって慎重を欠いたことを後悔するのはつまらないと思ってのぞいてみた。
マチルドはまったく極度の気おくれにさいなまれていた。彼女は自分の立場がたまらなく恐ろしかった。
「あたしの手紙はどうなさって?」とやっと彼女は言った。
〈あの紳士方が盗み聴きをしていたら、その度胆を抜いて戦闘を避けるには絶好の機会だ!〉とジュリアンは思った。
「最初のは新教の厚い聖書のなかへ隠して、昨晩乗り合い馬車でずっと遠いところへ送りました」
彼は細かい点まで非常にはっきりと、先に調べてみるだけの勇気がなかった二つの大きなマホガニーの衣裳箪笥のなかに隠れているかもしれぬ人物に聞こえるように話した。
「あとの二通は郵便局に行っていて、最初のと同じ道をたどるはずです」
「まあ大変なこと! 何でそんなにご用心なさったんでしょう?」とマチルドはびっくりして言った。
〈うそをつく理由があるだろうか?〉とジュリアンは考えて自分の懸念《けねん》をすっかり彼女に打ち明けた。
「それであなたの手紙はあんなに冷やかだったのね!」とマチルドは、愛情をこめて、というよりもむしろ気が狂ったような口調で叫んだ。
ジュリアンはそういうニュアンスには目をとめなかった。この隔てのない言葉づかいが彼の分別を失わせた。すくなくとも彼の疑念は消え失せた。彼は決然として深い尊敬の気持さえ起こさせるこの美しい娘を両腕に抱きしめた。今度は弱い反抗があっただけだった。
彼はかつてブザンソンでアマンダ・ビネにしたように、記憶の助けをかりて『新エロイーズ』の特別美しい文句をいくつも暗誦して聞かせた。
「あなたは男らしい方だわ」と彼女は、彼の暗誦する文句などにはたいして耳をかさずに答えた。「あたし、あなたの豪胆《ごうたん》さをためしてみたかったのよ、白状すると。最初疑っていながら覚悟をきめたのを見ると、あたしが思っていたよりもあなたに度胸があることがわかるわ」
マチルドは彼に隔てのない言葉づかいをしようと努めていた。彼女は明らかに、自分の口にすることの内容よりもこの異常な口の利き方のほうに気をとられていた。この、調子に情愛の感ぜられぬ隔てのない言葉づかいは、いっこうにジュリアンを喜ばさなかった。彼は幸福な気持が味わえぬのを不思議に思った。とうとうその気持を味わうために彼は頭を働かせ出した。あれほど高ぶった、決して無条件に人を褒めたたえるなどということをしないこの乙女から自分が尊敬されているのを彼は認めた。こういう風なことを頭で考えて、はじめて彼は自尊心を満たされた幸福を味わい得た。
これは実際、彼がド・レナル夫人のもとでときどき味わったあの魂の逸楽ではなかった。この最初のあいだの彼の感情のなかには何らやさしいものはなかった。これは野心が満たされたという最も激烈な幸福感だった。そしてジュリアンは何にもまして野心家だったのだ。彼はまたもや自分が疑ってみた人々のことや自分の工夫した警戒のことを話した。話しながら彼は自分の勝利をどういう風にして利用しようかと思いめぐらした。
マチルドはまだ大変どぎまぎしていて、自分のふるまいに狼狽《ろうばい》しているような様子だったが、話の種を見出したことを喜んでいるらしく見えた。これからどうして会うかということもいろいろと話し合った。ジュリアンはこの話し合いのあいだにまたしても自分の才智と度胸とを示し得たことを何とも言えぬほど快く思った。相手は実に炯眼《けいがん》な連中だったし、タンボーは疑いなくスパイだった。だがマチルドや彼とてもなかなか巧者なほうだったのである。
万事を打ち合わせておくには図書室で顔を合わせるのが一番容易なことではなかろうか。
「ぼくは邸のどこに顔を出したって人の疑いを招くことはありません」とジュリアンは付言した。「ド・ラ・モール夫人の部屋にだって顔を出せるくらいです」娘の部屋へ行くためには、どうしても夫人の部屋を横切って行かねばならなかったのだ。けれどももしマチルドがいつも梯子をつかって来たほうがいいというのなら、そのような取るに足らぬ危険などは喜び勇んで冒して見せようと彼は言った。
彼の言葉を聞きながら、マチルドは彼のこういう勝ち誇った様子が不快になった。〈それじゃこの男は私の主人になってしまったんだ!〉と彼女は心に思った。もう彼女は悔恨に苛《さいな》まれていた。彼女の理性には自分の今おかした疑いようのない気ちがい沙汰がたまらなかった。できることなら彼女は自分の身をもジュリアンの身をも滅ぼしてしまったろう。束の間、意志の力で悔恨の声を封じても、気おくれと傷つけられた差恥との感情に彼女は極度に悩ましくなるのであった。自分の現在のこのような状態はまったく彼女の予想していなかったものだった。
〈けれどもあたし、この人と話をしなくちゃならないのだ〉としまいに彼女は心に思った。〈とにかく何と言ってもそうするのが作法だ、恋人とは話をするものなのだ〉そこではじめて、一つの義務を果さんがために、そしてまた声音よりも言葉づかいのほうに情愛をあらわして、彼女は最近の数日のあいだ彼のことで心に固めたいろいろの決意を語り聞かせたのだった。
彼女は、彼が言われたとおり大胆に庭師の梯子を利用して自分の部屋へやって来たら、すっかり彼に身をまかせようと決心していた。しかしこれほど愛情の通ったことがらをこれ以上冷やかな、これ以上取り澄ました言葉つきで口にしたものはおよそあるまい。これまでのところはこの逢い引きも凍ったように冷やかだった。これでは、恋などは厭わしいものだと思わせるくらいだった。軽はずみな娘にとってはすばらしい教訓ではないか! こんな一瞬のために将来を棒に振ってしまうだけのことがあるだろうか?
表面だけしか見ない観察者にはまったく動かしようのない憎悪の結果とも思われかねない長い遅疑逡巡《ちぎしゅんじゅん》のあげく(女性が自分自身を守る気持は、これほど強固な意志に対してさえこのようになかなか譲らないものなのだ)マチルドはついに彼の愛すべき恋人となることができた。
実を言えば彼ら二人の恋の陶酔も多少|意識的《ヽヽヽ》なものだった。それは真実情熱的な愛情だったのではなく、むしろそういう恋愛をお手本にしたものだった。
ド・ラ・モール嬢は自己に対し、また情人に対して一つの義務を遂行するのだと思った。〈可哀そうに、この青年も、これだけ申し分のない度胸を見せてくれたんだから幸福にしてやらなくちゃいけない。でなければあたしが意気地なしだということになる〉しかし彼女は、今この場でしなければならぬ堪えがたいことを逃れるためならば一生不幸になってもしかたがないとまで思ったのだ。
しかし自分を抑えようと必死の努力をしながら、彼女はまったく思うままに言葉をあやつっていた。
ジュリアンにとっては幸福というより奇怪に思われたこの夜には、彼は後悔や自責などで悩まされることは全然なかった。彼が最後にヴェリエールに二十四時間留まったときとは、ああ、実に何という相違だったろう!〈このパリの体裁のよい流儀というやつは、何でもかんでも台なしにしてしまうのだ、恋愛さえも〉そう彼は極端にひがんだ心で思った。
こういった省察に彼がふけったのは、あの大きなマホガニーの衣裳箪笥の中にたたずみながらだったのだ。隣のド・ラ・モール夫人の部屋で最初の物音がすると、彼はそこへもぐりこまされていたのである。マチルドは母についてミサへ行き、女どもはまもなく部室を去った。そしてジュリアンは女たちが仕事を仕上げるためにもどって来る前にわけなくそこから抜け出した。
彼は馬に乗ってパリ近傍の森の一つで一番|人気《ひとけ》のない場所をさがした。彼は幸福だというよりもむしろ驚き入っていた。時おり彼の心をとらえる幸福感も、何か驚くべき殊勲をあげて軍司令官から一足飛びに大佐に任命された若い少尉のそれに似ていた。目もくらむばかりの高みにのぼらされたような気がした。前日には自分の上にあったものがみな今では自分と同じ高さか自分よりも下にあるのだった。パリから遠ざかるにつれて徐々にジュリアンの幸福感は増してきた。
マチルドの心には何らやさしい気持はなかった。それは、こんな言葉はどれほど異様に思われるかもしれないが、彼に対するあらゆる行為は彼女にとって一つの義務をはたすことにすぎなかったからである。小説に書かれているあのまったき至福のかわりに、不幸と恥辱を見出したこと以外には、この夜のすべての出来事のなかで彼女にとって思いがけぬことは一つもなかった。
〈あたしはまちがっていたのかしら? あたしはあの人に恋を感じていたのではなかったのかしら?〉そう彼女は心に思った。
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第十七章 古刀
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今は私は真面目であろうと思うのだ。……まさにその時だ、今日では笑いさえ真面目すぎると思われ、悪徳をののしることをさえ道徳は罪と呼ぶのだから。(『ドン・ジュアン』第一三章)
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彼女は晩餐に出て来なかった。夜になってほんのしばらくのあいだサロンへやって来たが、ジュリアンのほうは見なかった。こういう振る舞いは彼には異様に思われた。〈だがおれはあの連中のしきたりを知らないからな〉と彼は考えた。〈どうしてこんな風にするのか、いずれ彼女がちゃんとした理由を説明してくれるだろう〉そうは思いながらも極度に激しい好奇心に駆られて、彼はマチルドの顔だちにあらわれたものを観察していた。彼女が邪険に意地わるく見えるということは認めぬわけにいかなかった。明らかにこれは、前の晩に真実とは思われぬほど激しく幸福に惑溺《わくでき》していた、ないしはそのように見せかけていた女と同一人物ではなかった。
翌日も翌々日も、彼女の冷やかさは変わらなかった。彼女は彼の顔を見ず、彼の存在にも気がつかなかった。きわめて激しい不安にさいなまれて、ジュリアンは、最初の日に彼を奮いたたせていた唯一のものだった勝利感などはすっかり忘れてしまった。〈もしかすると貞操ということを思い出したんじゃあるまいか?〉と彼は心に思った。だが傲岸《ごうがん》なマチルドにとって、この貞操などという言葉はあまりに低俗なものだったのである。
〈日常生活では、あの女は宗教なんてほとんど信じていない〉とジュリアンは考えた。〈ただ自分たちの階級にとっては非常に有利なものとして宗教に好意を持っているけれど〉
〈だが単に弱い女心から自分の犯した過失を痛切に心に咎《とが》めているんだろうか?〉ジュリアンは自分が彼女のはじめての恋人だと思いこんでいたのだ。
〈しかし〉と別のときに彼はまたこう思うのだった。〈あの女の生活態度のどこにも、素朴な、単純な、情味のあるものはまったくないということも認めねばならない。あれほどあの女が傲然としているのをおれは見たことがない。おれを軽蔑しているんだろうか? おれの生まれが卑しいというだけの理由で、おれに対してあんなことをしたのをみずから責めるのも、あの女にとってはふさわしいことじゃあるまいか〉
ジュリアンがいろいろの書物やヴェリエールの思い出からこねあげたさまざまの先入見に満たされて、恋人を幸福にしてやったその瞬間からもはや自分自身のことなどは考えないようなやさしい情人の幻を追っていたあいだ、マチルドの虚栄心は彼に対する憤懣《ふんまん》に猛りたっていた。
この二カ月ばかり倦怠を感ずることがなかったので、彼女はもう倦怠を恐れなかった。その結果ジュリアンは、こんなことは彼にはまったく思いもよらなかったことであるが、彼の最大の利点を失ってしまっていたのである。
〈あたしはもう自分の主人をつくってしまった!〉そうド・ラ・モール嬢は暗鬱きわまる悲しみに責められながら心に思った。〈あの男は名誉心に満たされている。それも悪くはないわ。けれどもあたしがあの男の虚栄心を踏みにじったら、あの男はあたしたちのあいだにどんな関係があるかということを公表して復讐するだろう〉
マチルドは一度も恋人というものを持ったことがなかったのだ。そしていかに木石《ぼくせき》の心を持った人といえども何らかの優しい幻を描く人生のこういった状況で、彼女は最も苦々しい反省にとらわれていたのだ。
〈あの男はあたしの上に恐ろしいほどの支配力を持っている。恐怖であたしを思いのままにするし、もしあたしが怒らせたりしようものなら残忍な刑罰であたしを懲《こ》らしめることもできるのだから〉
こう思っただけでもド・ラ・モール嬢は、彼を侮辱したい気持になってしまうのであった。勇気は彼女の性格の第一の長所だった。彼女に何らかの昂奮を与え、間断なしにわき起こってくる心の底からの倦怠をいやし得るものは、自分は全生命をかけて一か八かの勝負をしているのだという観念のほかにはなかった。
三日目には、ド・ラ・モール嬢があいかわらずかたくなに彼を見まいとするので、ジュリアンは明らかに彼女の意志にさからって、晩餐ののちビリヤード室まで彼女のあとについて行った。
「それではあなたは、あたしに対してよほど大した権利を得ているのだとでもお思いですの?」と彼女はやっとのことで怒りを抑えて言った。「あたしのはっきりとした意志表示に逆らってあたしに話しかけようとなさるんですもの……そんな思い切った真似をした方は今まで一人もいらっしゃいませんでしたことよ」
この二人の恋人の対話ほど面白いものはなかった。気づかぬうちに彼らはおたがいに最も激しい憎悪の情にいきり立っていた。両方とも我慢強い性格ではなかったし、そのうえ彼らは上流社会の風習を持っていたから、やがて永久に絶交したとはっきり宣言するまでになってしまった。
「ぼくは一生秘密を守ることを誓います」とジュリアンは言った。「あまりはっきりと様子が変わってしまうのであなたの評判に傷がつくおそれがないとすれば、今後決してあなたにお言葉をかけないということも付け加えましょう」彼はうやうやしくお辞儀をして立ち去った。
彼は大して苦労もせずに自ら義務と信ずることを果たした。自分がド・ラ・モール嬢に想いをかけているなどと思うどころではなかった。もちろん三日前に大きなマホガニーの衣裳箪笥に隠されたときにも、彼女を愛してなぞいなかったのだ。しかし彼女と永久に絶交してしまったその瞬間から、彼の心のなかでは何もかも急速に一変した。
彼の無慈悲な記憶力は、実際には彼がしまいまであれほど冷やかに過したあの夜のごく些細な情景までも、あざやかに彼の前に描き出すのであった。永久の絶交を宣言したその夜のうちに、ジュリアンはもう何としてもド・ラ・モール嬢を愛していることを自認せざるを得ないで、気も狂わんばかりだった。
このことを認めてからは、恐ろしい内心の葛藤がつづいた。あらゆる彼の感情は転倒した。
二日すると、ド・クロワズノワ氏を見下すどころか、彼はほとんど涙にくれながら氏を抱擁しかねまじき気持だった。
不幸に慣れたために彼は良識が働くようになって来た。ラングドックへ出発することに決めて、彼はトランクをつくり駅馬車の発着所へ行った。
郵便馬車の事務所へやって来て、珍らしいことだがたまたま翌日トゥルーズ行の馬車の席があると聞かされたときには、失神しそうな気がした。その席を予約して彼は侯爵に出発を報告するためラ・モール邸へ帰った。
ド・ラ・モール氏は外出していた。死んだような気持になって彼は図書室へ行って帰りを待つことにした。そこでド・ラ・モール嬢を見出したとき、彼はどんな気持になったろうか?
彼がやって来たのを見て、彼女は何としても見間違い得ないような悪意のある顔つきをした。
自分の不幸に我を忘れ、この思いがけぬ邂逅《かいこう》に取り乱して、ジュリアンは心の奥底から出るやさしい口調でつい彼女にこう言ってしまった。「それではあなたは私をもう愛してくださらないんですか?」
「あたし、みさかいなしに人に身を任せたことが我ながらいやでいやでたまらないの」とマチルドは自分自身に憤りながら涙を流して答えた。
「|見さかいなしに《ヽヽヽヽヽヽヽ》ですって!」とジュリアンは叫ぶと、身を躍らせて骨董品として図書室にしまってあった中世の古刀を手に取った。
ド・ラ・モール嬢に向かって言葉をかけたときにすでに堪えがたいとみずから思っていた彼の苦痛は、彼女の流す慚愧《ざんき》の涙を見ると百倍も激しくなった。彼女を殺してしまえたらどんなにか彼は幸福だったろう。
その古びた鞘《さや》からいくらか骨を折って刀を抜きはなった瞬間に、はじめて知ったこういう感情を喜ばしく思いながらマチルドは悠然と彼のほうへ歩みよった。彼女の涙はもう乾いていた。
恩人であるド・ラ・モール侯爵のことが強くジュリアンの頭にひらめいた。〈その人の娘をおれは殺すのか!〉と彼は心に思った。〈なんという恐ろしいことだ!〉彼は刀を投げ棄てようと身を動かした。〈きっとこの女は、そんなメロドラマめいた所作を見たら大声で笑い出すだろう〉と彼は考えた。そう考えたおかげですっかり冷静さを取り戻すことができた。彼は物珍らしそうに、錆《さび》の痕《あと》を捜しているような様子で古刀の刃を見つめ、それから鞘におさめるとこれ以上はなく落ち着きはらってもとの金メッキをした青銅の釘にかけた。
すべてこれらの動作は、終わりのころにはごくゆっくりとしていたが、わずか一分間ほどのものだった。ド・ラ・モール嬢はびっくりして彼を見つめていた。〈それじゃあたしはもうすこしで恋人の手にかかって殺されるところだったんだわ!〉と彼女は心に思った。
この考えが彼女を、シャルル九世やアンリ三世の最も華やかな世紀へ連れて行った。
彼女は刀をもとのところへ置いて来たジュリアンの前に凝然《ぎょうぜん》としていた。彼を眺めた彼女の目にはもはや憎悪はなかった。この瞬間に彼女が魅惑的だったことは認めねばならぬ。確かにこれほどパリ人形(この言葉はジュリアンのこの首都の女に対する激しい抗議を意味していた)などというものと似てもつかない女は決していなかった。
〈あたしはまたこの人に対して何か弱い気持を見せそうだ〉とマチルドは思った。〈あれほどきっぱり言ってやったばかりなのに、そのあとでまたよりをもどしてしまったら、今度こそこの男は自分が君主で主人だと思いこんでしまうだろう〉彼女はその場を逃れ去った。
〈ああ、まったく何て美しい女だ!〉とジュリアンは彼女が駈けて行くのを見ながら言った。〈一週間とたたぬ前にあれほど狂おしくおれの腕のなかへ身を投げて来た、これがその女なのだ。そしてあの瞬間はもう二度と帰って来るまい! しかもおれの過ちから! そしてあんなに異常な、おれにとってはあれほど重大な行動をする時にあたって、おれはぼやっとしていた!……これではおれもずいぶん平凡な、実に惨めな人間に生まれついていると認めなくちゃなるまい〉
侯爵がやって来た。ジュリアンは急いで出発を告げた。
「どこへ?」とド・ラ・モール氏は言った。
「ラングドックです」
「それは止めてくれたまえ。君にはもっと高等な仕事をしてもらうことになっているのだ、出発するなら北のほうにしてもらう……それどころか、軍隊用語で言うなら、私は君を邸に禁足する。決して二、三時間以上留守にしないようにしてもらえないかね。いつなんどき君が必要になるかもしれないのだから」
ジュリアンは頭を下げて、驚き切っている侯爵を後にのこして一言も言わずに引きさがった。口を利くことができなかったのだ。彼は部屋に閉じこもった。部屋にいれば、自分の運命の苛酷さをいくらでも誇張して考えることができた。
〈それではおれはここを離れることさえできないんだ!〉と彼は考えた。〈侯爵がおれを何日ぐらいパリへ引き留めておくかわかったものではない。ああ、ほんとにおれはどうなっちまうだろう。相談できる友人さえいないのた。ピラール師ならおれの言いかけた文句をしまいまで言わしてくれまいし、アルタミラ伯爵なら何かの陰謀に荷担《かたん》しろと勧めるだろう。
〈けれどもおれは気が狂っているのだ、おれにはそれがわかる。おれは気が狂っているのだ! 誰がおれを導き得よう。これからおれはどうなるだろうか?〉
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第十八章 恐ろしい時
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そして彼女はそれを私に告白するのだ! きわめて些細な事情まで彼女はこまごまと話してくれる! 私の目にじっと注がれたあの美しい彼女の目に、私以外のものに彼女が抱いている愛情があらわれ出ていた!(シラー)
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ド・ラ・モール嬢は嬉しくてたまらずに、殺されかかったという幸福のことばかり考えていた。彼女はこんなことを心に思うまでになったのだ。〈あの人はあたしの主人になる資格がある、私を殺しかけたのだから。これほどの情熱の衝動など、社交界のあの美青年どもをいったい何人集めたら期待できるだろうか?
室内装飾の職人がきめておいた似合いの位置にきっちり元通り刀を置こうとして椅子に乗ったときには、何と言ってもほんとにあの人は綺麗に見えた。結局、あたしがあの人を愛したって、それほど分別を失っていたわけじゃなかったのだ〉
この瞬間には、よりをもどす何か適当な方法があったら彼女は欣然《きんぜん》としてそれを利用しただろう。ジュリアンは二重に鍵をかけて自分の部屋へとじこもり、極度に激しい絶望の虜《とりこ》になっていた。狂おしい想念に溺れながら、彼は彼女の足許に身を投げようかと思った。そんなふうに離れた場所にいつまでも身をひそめていないで、機会をとらえ得るように庭なり邸のなかなりを徘徊していたら、一瞬にしてその恐ろしい不幸をきわめて強烈な幸福に変えることもできたろうに。
われわれは彼を巧者なところがないと非難するけれども、もし巧者だったならば、あの瞬間ド・ラ・モール嬢の目に彼をあんなに美しいものと思わせた刀をつかむなどという壮絶な真似はしなかったろう。ジュリアンにとっては有難いこの気紛れはまる一日つづいた。マチルドは自分が彼に愛情をおぼえたその束の間を楽しかったものとして思い描いて、その束の間をなつかしく思ったのである。
〈実際〉と彼女は心に思った。この可哀そうな人に対するあたしの情熱は、この人から見れば、あの夜の一時にありったけのピストルを上着の脇ポケットに入れて梯子づたいにあたしのところヘやって来たときから朝の八時までつづいただけだとしか思えないだろう。あれから十五分もたつと、サント・ヴァレール寺院でミサを聴きながら、あの人がこれからあたしの主人になったつもりで恐怖によってあたしを服従させようとしかねないなどと、あたしはもう考えはじめていたんだから〉
晩餐ののちド・ラ・モール嬢はジュリアンを避けるどころか、彼に話しかけて一緒に庭へ来るようにとそれとなく勧めた。彼は服従した。このような試練を彼は今まで受けたことがなかった。マチルドはそれほど意識もせずに、彼に対してまた抱くようになった愛情に流されていた。彼とならんで散歩することに彼女はこの上ない喜びを感じた。彼女は彼が今朝、自分を殺そうとして刀をつかんだ両手を珍らしそうに眺めた。
ああいった行為があったのち、またそのほかいろいろの事があったのちには、もはや以前のような会話などはできるはずがなかった。
だんだんにマチルドは腹蔵なく自分の心持ちを彼に打ち明けるようになった。彼女はこういう種類の会話に一種異様なうっとりするほどの喜びを感じた。とうとう彼女はド・クロワズノワ氏やド・ケリュス氏に束の間のぼせあがったことなどを語り出した……。
「何ですって! ド・ケリュスさんにまで!」とジュリアンは叫んだ。そして見棄てられた恋人の苦い嫉妬のすべてがこの言葉にはっきりとあらわれていた。マチルドはそのように判断した。だがすこしも気には障《さわ》らなかった。
彼女はなおもかつてのさまざまの感情をきわめて具体的に、しかも心の底の真実を打ち明けるような調子で詳しく話してジュリアンを悩ませつづけた。彼には彼女が自分の目の前に浮かんで来たことをそのまま話しているのだということがわかった。彼女がこうやって話をしながら自分自身の心のなかにいろいろと新しいものを発見しているのだと気がつくと、彼は苦しかった。
嫉妬の惨めさといっても、これ以上のものはあり得ない。
恋仇が自分の女から愛せられていると疑うことすらやりきれぬことなのに、自分の熱愛する女の口からその男に対する愛情を縷々《るる》と打ち明けられるなどとは、まさに苦悩の極致であろう。
ああ、この瞬間、ジュリアンをしてケリュスやクロワズノワの輩《やから》より自分のほうが上だと思わせていた自尊の気持は、どれほどの罰を受けたろう! 何という痛切な不幸をまざまざと感じながら、彼はあの連中のごく些細な長所をも誇大視して考えたことか! 何という灼《や》けるような直情をもって彼はおのれを蔑《さげす》んだことであろう。
マチルドは彼には熱愛すべき女と思われた。彼の感嘆の情の激しさを言いあらわすにはどんな言葉でも弱すぎた。彼女とならんで散歩しながら彼はひそかに彼女の手、彼女の腕、彼女の女王のような姿に目をやった。彼はもうすこしで、愛情と不幸とに打ちひしがれて〈お慈悲を!〉と叫びながら彼女の足もとに身を投げそうになっていた。
〈だがこんなに美しい、誰よりも優れたこの女も、一度はおれを愛してくれた。しかしそのうちきっとド・ケリュス氏が愛されるようになるんだろう!〉
ジュリアンにはド・ラ・モール嬢の誠実さを疑うことができなかった。真実のこもった語調が彼女の言う言葉のすべてにあまりにも明らかにあらわれていた。彼の不幸を完全なものとするかのように、一度ド・ケリュス氏に抱いたことのある感情を話すのに夢中になったあまりマチルドはひとしきり現在も氏を愛しているかのような言い方をした。たしかに彼女の言葉つきには愛情があらわれていた。ジュリアンははっきりとそれを見て取った。
彼の胸中は煮えたぎった鉛《なまり》を満たされても、これほど苦しくはなかったであろう。これほどの不幸の絶頂に達していながら、この気の毒な若者は、ド・ラ・モール嬢がかつてド・ケリュス氏あるいはド・リュス氏に対していだいた出来心の恋を思いかえすことにかくまでの喜びを見出しているのは彼を相手に話していればこそなのだということを、なぜ洞察し得なかったのであろうか?
ジュリアンの苦悶は何ものをもっても表現し得なかった。ほんの数日前には彼女の部屋へ忍び入ろうとして一時の鳴るのを待っていたその同じ菩提樹の並木路で、いま彼はほかの男たちに彼女が抱いた愛情のこまごまとした打ち明け話を聞いていたのだ。人間にはこれ以上の不幸に堪えることができぬ。
こういった風な残酷な親しみはたっぷり一週間もつづいた。マチルドはある時は進んで彼と話をする機会を求め、ある時はそういう機会が来ることをことさらには避けぬように見えた。そして彼ら二人がいつも一種のむごたらしい決感を感じながら戻って行くように見える会話の主題は、彼女がかつてほかの男たちに抱いた愛情のことだった。彼女は自分の書いた手紙の話をし、その文句まで言って聞かせ、いくつかの文章を全文暗唱してみせたりするのだった。最後の数日は、彼女は一種の意地の悪い喜びをもってジュリアンをうち眺めているかに見えた。彼の苦痛は彼女にとって強烈な楽しみであったのだ。
ジュリアンが何ひとつ人生の経験を持っていないのは明らかだった。彼は小説さえ読んだことがなかった。彼がもうすこし無器用ではなくて自分がこれほどに熱愛している、そして自分にこんな奇妙な打ち明け話をして聞かせる乙女に、多少冷静にこんなことを言ったとしたらどうだったろう、〈もちろんぼくはああいった紳士方には太刀打ちできませんが、しかしあなたが愛しているのはこのぼくなのだということをお認めになったらどうです……〉
おそらく彼女はそれを見破られたことを嬉しく思ったろう。少なくともその成否は、ジュリアンがこのことを言いあらわすときの優しみ、およびそれを言うのに彼がどういう時機を選ぶかということにかかっていたろう。いずれにせよ彼は、マチルドから見れば単調になって行く状況を、上手に、しかも自分に有利に脱し得たはずだった。
「それではもうあなたはぼくを愛してくださらないんですか、あなたを熱愛しているこのぼくを!」と、ある日ジュリアンは愛情と不幸に取り乱して言った。馬鹿げているといってもおよそこれ以上馬鹿げた文句はちょっとない。
この言葉は、ド・ラ・モール嬢が自分の心持ちを彼に話して聞かせることに感じていた楽しさを、一瞬のうちにぶちこわしてしまった。彼女は、あんなことがあった後なのに彼がこういった話に気を悪くしないことを訝《いぶか》しく思い始めていたところで、彼が先の馬鹿げたことを言い出した瞬間には、彼はもうおそらく自分を愛していないのだろうと思うまでになっていたのだ。〈自尊心がきっとこの人の愛情を消してしまったのだ〉と彼女は心に思った。〈この人は、ケリュスやド・リュスやクロワズノワみたいな連中に自分などはとても及びもつかないと認めてはいても、人がああいった連中のほうに好意を持つのを黙って見ているような人間ではない。そうだわ、この人はもうあたしの足許にひざまずいたりしないだろう!〉
以前にはジュリアンは不幸のため素直になっていて、たびたびこれらの紳士方の立派な長所を彼女に向かって心から称讃していたのだ。そればかりか誇張することさえあった。こういったニュアンスをド・ラ・モール嬢は見のがさなかった。彼女は驚いてしまった。だがその理由を見抜くことはできなかった。実はジュリアンの熱狂的な心は、自分の女から愛せられているものと信ぜられる恋仇を褒《ほ》めることで、恋仇が幸福なら自分も幸福だという風に感じていたのである。
ところが今の率直な、だが間の抜けた彼の言葉が一瞬にして万事を一転させてしまった。マチルドは自分が愛されていると確信を持つと、すっかり彼を軽蔑してしまったのだ。
この間の悪い言葉が言われたときは彼女は彼と散歩していたのだ。彼女は彼のそばを去った。そして最後に彼を見た彼女の眼差しは実にすさまじい軽蔑をあらわしていた。サロンへ帰っても、その一夜のあいだ彼女はもう彼を見なかった。あくる日はこの軽蔑は彼女の全心をとらえた。一週間にわたってジュリアンを自分の最も親しい友として遇することにあれほどまでに楽しさを感じさせていた気持などは、今はもう問題ではなかった。彼の姿を見ることすら不愉快だった。そういうマチルドの気分は嫌悪とまでなった。彼女が彼をその眼前に見出したとき感ずる激越な軽蔑の情は何ものをもってしても表現し得なかったろう。
ジュリアンはこの一週間来、マチルドの心に何が起こったかをまったく理解していなかった。しかしその軽蔑ははっきりわかった。ジュリアンにもできるだけ彼女の前に姿を見せぬようにするだけの分別はあった。そして決して彼女のほうに目をやらなかった。
しかしいわば彼女の前に出ることをこうしてみずから禁ずるということは、堪え切れぬ苦痛なしにはすまなかった。彼はこれによって自分の不幸がいっそう増大するのがわかるように思った。〈どんなにしっかりした男だって、これ以上のことには堪えられない〉と彼は心に言った。彼は邸の屋根裏の小さな窓のそばで日々を過ごした。鎧戸《よろいど》はきちんとしめられていたが、しかしそこから彼は、ド・ラ・モール嬢が庭園に出たときにはせめてものことにその姿を目に留めることはできた。
彼女がかつて何か淡い恋情を感じたことがあると彼に告白した、ド・ケリュス氏やド・リュス氏やその他の男たちと晩餐の後で庭園を散歩しているところを見たとき、彼はどんな気持になったろうか?
ジュリアンはこのような強烈な不幸など思ってみたこともなかった。あやうく彼は叫び声をあげるところだった。あれほど剛毅《ごうき》なこの心もとうとう徹底的に乱れ切ってしまった。
ド・ラ・モール嬢と関係のないことは考えるのも厭《いと》わしくなった。ごく簡単な手紙さえ書く力がなかった。
「君はどうかしているよ」と侯爵が言った。
ジュリアンは見破られはしないかと戦々兢々としながら、病気と称してどうにかそれを信じさせることができた。彼にとってさいわいなことに、侯爵は晩餐の席で彼の今度の旅行のことで冗談を言った。マチルドは旅行が大変長いものらしいとさとった。ジュリアンが彼女を避け出してもう何日もたっていた。そして、かつては彼女も愛してやったこの蒼白な顔をした陰鬱な男に欠けているものをすべてそなえているきらびやかな青年たちも、もう彼女を深い物思いから引き戻すことはできなかった。
〈平凡な娘なら、サロンですべての人の目を惹きつけるこういった青年たちのなかで好きな男を捜すのだ。しかし天才の性格の一つは、凡俗の踏んだ道にしたがって自分の思想を進めないことだ〉と彼女は心に思った。
〈ジュリアンは私のように財産は持っていないが、ああいった男の伴侶となれば絶えず人の注目を惹くだろう。しょっちゅう人の目につくだろう。民衆がこわいので、馭者が下手なことをしたって叱ることさえできないあたしのいとこたちみたいに、しょっちゅう革命を恐れているどころか、あたしは何かの役割を、しかも大きな役割を演じられるという確信が持てるだろう。なぜって、あたしの選んだ男は気概《きがい》があるし、限りのない野心を持っているのだもの。あの人の持っていないものは何だろう? 友だちだろうか、お金だろうか? お金なんかあたしが上げる〉しかし彼女の考え方には、自分より目下の、好きな時に自分を愛させるように仕向けることができる男としてジュリアンを扱っている気味がいくらかあった。
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第十九章 オペラ・ブッフ
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おおこの愛の春は、四月の日の頼りない晴天とどんなに似ていることだろう。今は日の光のあらゆる美しさを示しながら、やがて雲はすべてを包み隠す。(シェイクスピア)
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未来のこと、また自分の演じてみたいと思う特異な役割のことに心を奪われて、彼女は前にジュリアンとたびたび無味乾燥な形而上的な議論をかわしたことさえやがてなつかしく思うようになった。こんな高遠な思想に倦《う》むと、ときどきまた彼の身近にあって味わったあの幸福の瞬間もなつかしまれた。このあとのほうの追憶は、悔恨をともなわずにあらわれて来ることはなかった。時として彼女はそのためひどく沈んでしまった。
〈あやまちを犯したにしても〉と彼女は思うのだった。〈本当に優れた男のためだけに自分のつとめを忘れたというならば、あたしほどの娘にはふさわしいのだわ。きれいな口髭や乗馬すがたのあざやかさに誘惑されたのだとはよもや人は言うまい。けれどフランスの将来に関するあの人の含蓄《がんちく》の深い議論や、これからこの国に襲いかかろうとする事件がイギリスの一六八八年の革命と似たところかがあるかもしれぬという考えに、あたしは惹かれたのだ。あたしは誘惑された〉と彼女は自分の悔恨に答えて言った。〈あたしは弱い女だ。けれど、すくなくともあたしは人形のように外見の良さなどに迷わされはしなかったのだわ〉
〈革命が起こったら、ジュリアン・ソレルがロランの役割を演じないということがあろうか。そしてあたしはロラン夫人〔ロランは革命時代のジロンド党の領袖。その妻も女傑で、山岳党のために断頭台に送られた〕の役割を! あたしはこのほうがド・スタール夫人の役割より好きだ。素行の不道徳はこの世紀では障害になるだろう。決してもう二度と過ちを非難されるようなことはすまい。恥かしさのあまりあたしは死んでしまう〉
マチルドの夢想は、実を言えばすべてがここに書いたようなまじめくさった考えばかりではなかった。
彼女はジュリアンを見た。彼のごくつまらない動作にも魅力的な優美さが感じられた。
〈たしかに〉彼女は心に思った。〈あたしはこの人が自分の権利について持っている観念を徹底的に打ちこわしてしまったのだ。
この可哀そうな若者が一週間前にあたしにむかってあの愛の言葉を口にしたときの、悩みと深い情熱とをあらわした様子は、十分それを証明している。あれほどの敬意と情熱のあふれている言葉を聞いて腹を立てるなんてあたしよほどどうにかしていたに違いないわ。あたしはあの人の妻ではないのか? あのときの言葉はいかにも自然だったし、また肚《はら》の底を割ってみれば、あの人はほんとに愛すべき様子をしていた。あのはてしのない会話のあとでも、ジュリアンはまだあたしを愛してくれていた。あの会話のときあたしは、あの人に対してはずいぶん残酷だったと自分でも認めるけれど、日ごろの生活の倦怠のあまりあの人があんなに嫉妬している社交界の青年たちにかりそめの愛情を感じたということしか話さなかったのに。ああ、あんな連中があたしにとってどれほど危険のないものだかということを、あの人が知ってくれたら! あの人の前に出ればあんな連中なんかみんな色あせてしまって、どれもこれも似たりよったりにしか見えないかということを知ってくれたら!〉
こういう思案をめぐらしながらマチルドは自分のアルバムのぺージの上に何ということなしに鉛筆を動かしていた。そこに出来あがったプロフィルのうちの一つを見て、彼女は愕然とし、狂喜した。それが驚くほどジュリアンに似ていたのだ。〈これこそ神の御声だわ! 愛の奇蹟なのだわ!〉と彼女は我を忘れて叫んだ。〈まったくそんなこととは思いもよらずにあの人の肖像を描いている〉
彼女は自分の部屋に引っ込んで鍵をかけて閉じこもった。一意専心して真剣にジュリアンの肖像を描こうと努めたがうまくできなかった。何の気なしに描いた肖像がやはり一番似ているように見えた。マチルドはそれを見て夢中になって喜んだ。彼女はそこに偉大な情熱の明白な証拠を見たのである。
だいぶたって、侯爵夫人がイタリア・オペラへ行くために呼びによこしたとき、やっと彼女はアルバムを手放した。ジュリアンを見つけ出して母から一緒に来るように誘ってもらおうと、彼女はそのことばかり考えていた。
彼はいっこう姿を見せなかった。この婦人たちの桟敷には俗っぽい連中ばかりしかいなかった。オペラの第一幕のあいだじゅう、マチルドはもっぱら自分が最も激しい忘我の情熱をもって愛している男のことを夢みていた。しかし第二幕ではいかにもチマローザ〔十八世紀のイタリアの音楽家〕にふさわしいメロディで歌われた、恋愛についての金言が彼女の心臓を貫いた。オペラの女主人公が言うのだった。〈あの人に対して抱く私の熱愛の激しさを罰せねばならぬ、私はあまりに恋し過ぎている!〉
この比類のない詠嘆曲《カンチレーヌ》を聞いた瞬間から、この世のありとあらゆるものはマチルドの目からは姿を消してしまった。人から話しかけられても彼女は返事をしなかった。母親が小言を言っても、ほとんど母のほうに目をやることさえできなかった。彼女の熱狂は、ここ数日ジュリアンが彼女に対して感じたきわめて激烈な感情に劣らぬほどの昂奮と情熱の域に達した。神々しいまでの気韻をたたえた、そして自分の立場にぴったりとあてはまるように思える金言を歌にしたこのカンチレーヌは、直接ジュリアンのことを考えていないときでさえ絶えず彼女の心を占めていた。音楽が好きだったため、この夜彼女は、ド・レナル夫人がジュリアンのことを考えていつも感じていたような気持になれた。頭だけの恋愛はたしかに真実の恋愛よりも才気は持っている。しかし情熱に燃え立つのは瞬間にすぎない。あまりにも自分を識りすぎており、絶えず自己批判し、思想が乱されることなどはまったくない。もっぱら思想によってつくられた恋愛なのだから。
家へ帰ると、ド・ラ・モール夫人が何と言おうとマチルドは熱があると言い張って、あの詠嘆曲《カンチレーヌ》を自分でピアノで伴奏して操り返し歌いながら夜の更けるまでを過ごした。彼女はその、自分の心を奪った曲のなかのこういう文句を歌うのだった。
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Devo punirmi, devo punirmi
Se troppo amai, etc.
わりなきおもいに焦るるこの身
いざ罰すべし、罰すべし、云々。
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この思い乱れた一夜の結果は、彼女が自分の愛情についに打ち克ち得たと思いこんだということだった。
(この一頁は不幸な作者にとっていろいろな点で不利となろう。心の冷たい人々は無作法だと言って作者を非難するだろう。だが作者は、パリのサロンで光彩を放っている若い女性たちのなかに、マチルドの性格を台なしにしてしまっているあんな気ちがいじみた衝動を感ずるような人がたった一人でもいるなどと仮定して、女性たちを侮辱するようなことは毛頭していないのである。このマチルドはまったく想像によって生まれたもので、しかも、あらゆる世紀のなかでこの十九世紀文明に最高の地位を保証する、あの社会的慣習というものの埒外《らちがい》で想像されたのだ。
この冬の舞踏会で花形となった乙女たちに欠けていたものは、決して慎しみというものではない。
それにまた私は、彼女たちが豪勢な財産や馬や美しい領地やそのほか世間で快適な地位を保証するすべてのものをあまり軽蔑しすぎると言って非難しうるとは思わない。こういったすべての利益のなかにただ倦怠のみしか見ないなどとはもってのほかのことで、こういったものは一般に決して変わることのない欲望の対象とされているし、もし彼女らの心に熱情があるとすれば、それはこういったものに対してなのだ。
ジュリアンのように何らかの才能に恵まれている青年たちの立身出世をもたらすものは、これまた決して恋愛ではない。彼らは一つの党派と切っても切れぬような関係を結ぶ。そしてこの党派が羽振りがよくなると、社会のありとあらゆる良いこと結構なことが彼らの上に降りかかって来る。いかなる党派にも関係しない学問の人こそわざわいなるかな、だ。ほんのちょっとした全然当てにもならぬ成功をしたというだけでさっそく非難を浴びせられるし、しかも高徳の士がそれを横取りして自分の手柄顔に凱歌《がいか》をあげるのだ。ところで読者諸君、小説はいわば人が大通りを持ちまわる鏡である。あるときは諸君の目に蒼穹《そうきゅう》を写しもしよう、またあるときは道のぬかるみの泥をも映すのである。そして負い篭《かご》に鏡を入れて持って歩く男は諸君から不道徳だと責められるだろう! むしろぬかるみのある道を責めたまえ。いやそれ以上、水がたまってぬかるみができるのをそのままにしている道路監視人を責めるのがいいのだ!
マチルドのような性格は、道徳的であると同様に慎重でもあるこの世紀においては存在し得ないということがはっきり認められた以上、私はこの愛すべき娘の気ちがい沙汰の話をつづけてもそれほど憤慨される心配はないと思う)
その翌日、一日じゅう彼女は自分の気ちがいじみた情熱を克服し得たことを確かめ得る機会がないかと思っていた。彼女の大きな目的はあらゆる点でジュリアンに不快な思いをさせようということだった。しかし彼の行動は一つとして彼女の目からのがれなかった。
ジュリアンはこんなに複雑な情熱の駆け引きを見破るにはあまりにも惨めな気持で、あまりに動揺しすぎていた。いわんやこのような駆け引きには彼にとって有利なところがあるということはわからなかった。すっかりそれに騙《だま》されていたのだ。おそらく彼の不幸がこれほど極端だったことはなかったろう。彼のすることなすことはあまりに理性の統率を得ていなかったので、もし誰か気むずかしい哲学者が、〈むこうの気持はあなたに有利になって行きますから早速それを利用するように考えなさい。ああいう種類のパリでよく見られる頭だけの恋愛では同じ状態は二日以上はつづかないものですからね〉と言ったとしても、彼は理解しなかったろう。しかし彼がいかほど昂奮していたにせよ、ジュリアンには名誉心があった。彼の第一の義務は慎しみであった。彼はそのことを理解した。相手かまわず人に意見を求めたり自分の苦痛を述べ立てたりすることは、不幸な男が灼熱した砂漠を横切って行くとき天から冷たい水の一滴を授けられたというにひとしい幸福であったろう。だが彼はそうすることの危険を知った。相手が無遠慮に何か尋ねでもしたら返事のかわりに涙が堰《せき》を切って流れ出てきはすまいかと心配だった。彼は自分の部屋に閉じこもった。
彼はマチルドが長いこと庭を散歩しているのを見た。とうとう彼女が行ってしまってから彼は庭へ降りた。先に彼女が花を一輪摘んで行った薔薇《ばら》の木に彼は近づいた。
夜は暗く、彼は人から見られる恐れなしに自分の不幸に没入することができた。ド・ラ・モール嬢が先ほどあんなに愉快にしゃべりあっていたあの青年将校たちの一人を愛しているということは、彼の目には明らかだった。彼を愛してくれたこともたしかにあった。だがもう彼など大して値打ちのある人間ではないということを彼女は知ってしまったのだ。
〈それに実際おれには大して値打ちなんぞないな!〉とジュリアンは心からそう思いこんで自分に言った。〈所詮《しょせん》おれはまったく平凡な、野卑な、他人から見れば実に退屈で自分としてもまったくやり切れぬ人間なんだ〉自分の美点とかこれまで夢中になって愛好していたものとかが、何もかもいやでいやでたまらなくなった。そしてこういう|ひっくりかえしの空想《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にふけりながら、彼は自分の空想をもって人生を批判しようとしていた。こういう誤謬《ごびゅう》は衆にぬきんでた人間のおかすものである。
何度も自殺という考えが浮かんで来た。この観念は魅力にあふれていた。いわばそれはこころよい休息であった。砂漠で渇きと暑熱のために死んで行く哀れな男の前に出された一杯の冷たい水であった。
〈死ねばあの女のおれに対する軽蔑はますますひどくなるだろう!〉と彼は叫んだ。〈どういう思い出をのこして行くことになるか!〉
こういう不幸の奈落の底にまで落ちてしまえば、人間に残された最後の頼みの綱《つな》は勇気だけしかない。ジュリアンは〈断乎として進まなければならぬ〉と自分に言って聞かせるだけの頭はなかった。しかしマチルドの部屋の窓を見つめているうちに、彼は鎧戸《よろいど》越しに灯が消えたのが見えた。彼はかつてその目に見たあの感じの好い部屋を思い浮かべた。そうだ、生きているうちにもう一度見よう! 彼の空想はそれ以上はつづかなかった。
一時が鳴った。その音を聞いたのと、〈梯子《はしご》で昇って行こう〉と心に言ったのとは、まったく同じ瞬間だった。
これは天才の閃《ひらめ》きだった。それをするための立派な理由はいくらでも頭のなかに湧いてきた。〈これ以上に不幸になれるものか!〉と彼は心に言った。梯子のところに駈けて行くと、庭番が鎖をかけてしまっていた。持っている小型短銃を一挺こわして、この瞬間、超人的な力に動かされていたジュリアンはその撃鉄で梯子をつないでいた鎖の輪をねじまげた。数分ならずして梯子を我物にした彼は、マチルドの部屋の窓にそれを立てかけた。
〈あの女め、怒っておれに軽侮を浴びせるだろう。かまうものか! 接吻してやるのだ、最後の接吻を。そして自分の部屋に帰って命を断つ。……死ぬ前におれの唇はあの女の頬に触れるのだ〉飛ぶように梯子を昇ると彼は鎧戸を叩いた。しばらくしてマチルドはそれを聞きつけた。鎧戸を開けようとすると梯子が邪魔をした。ジュリアンは開いた鎧戸を留めておくための鉄鈎《てつかぎ》にしがみつき、何度も落ちそうになる危険を冒して梯子を激しく動かし、ようやくすこしだけずらした。マチルドは鐙戸を開けることができた。
彼は死んだような気持で部屋のなかへ躍りこんだ。
「あなただったの!」と彼女は彼のふところにころがりこみながら叫んだ……
……
ジュリアンの天にも昇る歓びを誰が描き得よう? マチルドのそれもほとんど同じくらいだった。彼女は自分に不利なことを言った。彼の前で自分の罪を責めたのだ。
「あたしの大それた傲慢《ごうまん》さを罰してちょうだい」と彼女は息がつまるほど彼を両腕に抱きしめながら言うのだった。「あなたはあたしの主人、あたしはあなたの奴隷なのだわ。あなたに背《そむ》こうとしたことは、あたし、ひざまずいてお赦しを願わなければならないわ」彼女は彼の腕をはなれて足許に倒れるようにひざまずいた。「そうよ、あなたはあたしの主人なの」と彼女はまたも幸福と愛に酔い痴《し》れて言った。「いつまでもあたしを支配してちょうだい。この奴隷が反抗しようとしたら厳しく罰してちょうだい」
またあるときには彼女は相手の腕から身をふりほどいて蝋燭《ろうそく》をつけ、そしてジュリアンは彼女が髪の毛の片側をすっか切るというのを止めるのにさんざん手を焼いた。
「あたし、あなたの婢《はしため》であるということを忘れないようにしたいの。いつかまた恐ろしい傲慢さがあたしの心を迷わせたら、この髪の毛を見せてそう言ってちょうだい、もう愛情の問題ではない、いまこのときあなたの心がどんな風に動いているかなんてことじゃない、あなたはぼくに服従を誓ったのだ、名誉にかけて服従するがいい、って」
しかし、これほどまでの錯乱や至福を描くことは、やめるほうが賢明だろう。
しかし、ジュリアンの意志の力は幸福感に劣らなかった。「ぼく、梯子で降りなくちゃなりません」そう彼は、庭園のむこうの東のほうにある遠い煙突の上に黎明《れいめい》があらわれて来るのを見て言った。
「ここでぼくが自分に課する犠牲はあなたにふさわしいものなのです。人間の心が味わい得るかぎりの一番すばらしい幸福の数時間を自分から奪うことなんですからね。あなたの評判を傷つけないために、ぼくはこの犠牲を引き受けるのですよ。ぼくの心がわかってくださったら、ぼくがどれほど無理矢理に自分を抑えているかを理解していただけるでしょう。いつまでも今と同じにぼくのものになっていてくれますか? けれどあなたは名誉にかけて誓ってくれた、それで十分です。ぼくたちがはじめて会ったときにも、疑いはみんな泥棒に向けられたのではないことを、よく呑み込んでおいてください。ド・ラ・モール氏は庭に見張りを立てることにしました。ド・クロワズノワ氏はスパイに取り巻かれています。あの男が毎夜どんなことをしているか、もう筒抜けになっているんです……」
そう言われてマチルドは大声で笑い出した。母親と女中が目を覚まして扉越しに彼女のほうに何か言って来た。ジュリアンは彼女のほうを見た。彼女は真っ蒼になって小間使いを叱りつけ、母親のほうには一言も言ってやらなかった。
「しかしあの人たちが窓を開けようと思ったら、梯子が見られてしまう!」とジュリアンは言った。
もういちど女を両腕にかきいだくと、彼は梯子に身を躍らせて、降りるというよりむしろ滑り落ちた。一瞬にして彼は地面に降り立った。
三秒後にはもう梯子は菩提樹の並木の下に置かれ、マチルドの体面は救われた。ジュリアンは我にかえると、血みどろで半裸体でいる自分に気がついた。用心もせずに滑り落ちたとき怪我をしたのだった。
極度の幸福のあまり彼はすっかり持ち前の気性の激しさを取り戻していた。二十人の男が立ちむかって来ても単身彼らに挑《いど》みかかることは、この瞬間には、彼にとっていっそうの喜びにすぎなかったろう。さいわいこのような武勇は発揮されずにすんだ。彼は梯子をいつも置いてある場所に寝かせて、それを繋《つな》いでおく鎖ももとのようにした。ぬかりなくマチルドの部屋の窓の下にある外国種の花の花壇に残された梯子の痕《あと》も消した。
暗闇のなかで痕がすっかり消えているのをたしかめるため柔かい地面を手でなぜていると、自分の手の上に何かが落ちて来たような気がした。それはマチルドが片側の髪の毛をすっかり切りおとして彼のほうへ投げたのだった。彼女は窓際にいた。
「それ、あなたの下女からあなたに差し上げたのよ」と彼女はかなり高い声で言った。「永久に服従するというしるしよ。あたし、もう自分の頭で考えることなど諦めたの、あなたがあたしの主人になってちょうだい」
ジュリアンはこの言葉に負けてしまって、もう少しで梯子をまた持ち出して来て彼女の部屋へ昇って行こうとしたほどだった。ようやく理性が力を取り戻した。
庭園から邸の中へ戻ることは容易なことではなかった。彼はある地下室の扉をどうにかこじあけることができた。家の中へやっとはいると、彼はできるかぎり音をたてないように自分の部屋の扉を打ち壊さねばならなかった。自分の上衣のポケットにはいっていた鍵までも、あたふたしていたためにあの小さな部屋に置き忘れて、あんなに急いで飛び出して来てしまったのだ。〈あの恐ろしい忘れものを隠すことを、あのひとが思いついてくれればいいんだが!〉と彼は思った。
とうとう疲労が幸福感を押しのけて、日が昇るころ彼は深い眠りに沈んだ。
昼食の鐘もなかなか彼の目を覚まさなかった。やっと彼は食堂に出て行った。ほどなくしてマチルドもはいって来た。ジュリアンの自尊心は、かくまで美しい、そして周囲からあれほどの尊敬の的とされているこの女の目に輝く愛情を見て、一瞬ほんとうに幸福だった。だがまもなく慎重な彼のふるえあがるようなことが目についた。
ひまがなくて結髪に気をつかっていられなかったという口実で、マチルドは、ジュリアンが一目見ただけで昨晩自分のために髪を切りおとした犠牲がどんなにひどいものかわかるような髪の整え方をしていた。これほど美しい顔立でも何かのため醜くされることがあるとしたら、マチルドもやはり醜く見えたことだろう。灰色のまじった金色の美しい髪の毛の片側が頭の上から半インチばかり切り取られているのである。
昼食のときのマチルドの態度はこの最初の無謀な振る舞いにも劣らなかった。ジュリアンに対する気ちがいじみた情熱をすべての人々に知らせようと一生懸命に努力しているといった風だった。さいわいこの日はド・ラ・モール氏も侯爵夫人も近々おこなわれる青綬勲章の叙勲にド・ショーヌ氏が含まれていないということで夢中になっていた。食事の終わりごろジュリアンと話していたマチルドはつい彼を|あたしの主人《ヽヽヽヽヽヽ》と呼んでしまった。ジュリアンは顔じゅう朱を注いだようになった。
偶然にかあるいはド・ラ・モール夫人が故意にそうさせたのか、この日はマチルドは一時たりとも一人だけになれなかった。夜になって食堂からサロンへ移るとき、それでも彼女は機を見て彼にこう言うことができた。
「こんなことを言うとあなたはあたしが口実をつくってるんだとお思いになるかしら? お母様は女中を一人いつも夜あたしの部屋に寝かすようにおきめになったのよ」
この一日は矢のように過ぎ去った。ジュリアンは幸福の絶頂にいた。翌日は朝の七時から彼は図書室に腰をすえた。ド・ラ・モール嬢がそこへ顔を出してくれるだろうと彼は期待していたのだ。彼は彼女にあてて長い手紙を書いておいた。
何時間もたって彼は昼食のときやっと彼女に会った。この日彼女はきわめて念入りに結髪していた。驚くべき技巧のおかげで、髪の毛を切り取った箇所が隠されていた。彼女は二、三度ジュリアンのほうを見た。だがその目は取り澄まして冷静だった。彼のことを|あた《ヽヽ》|しの主人《ヽヽヽヽ》と呼ぶなどとはもう考えられなかった。
ジュリアンは驚愕のあまり息もつけなかった。……マチルドは彼のために自分のしたほとんどすべてのことを悔んでいたのだった。
じっくり考えてみて、彼女はこの男はまったく平凡ではないまでも、少なくとも自分があえて彼のためにしてやったあんな並はずれた狂気の沙汰に値するほど人並み優れた人物ではないと結論をくだした。要するに彼女はほとんど恋愛などということを考えていなかったのだ。この日は愛することに倦《う》んでいたのである。
ところがジュリアンのほうは、その心の動きもまるっきり十六歳の少年のそれと同じだった。恐ろしい疑念や驚きや絶望が、彼にはあたかも永遠につづくように思われたこの午餐のあいだ、こもごも彼をとらえた。
やっと体裁よく食卓から立ち上がることができるようになると、厩《うまや》に駆け込むというよりむしろ転げこんで、自分で馬に鞍をのせるとガロップで走り去った。何か弱味を見せて面目を失うようなことをしてはと彼は心配だったのだ。〈からだをくたくたに疲らせて胸の想いを殺さねばならぬ〉と彼はムードンの森をガロップで馬を駆りながら自分に言った。〈おれはあんな不興を買うようなことを何かしたろうか? 何か言ったろうか?〉
〈今日は何もしてはいけない、言ってもいけない〉と彼は邸《やかた》へ帰る道で思った。〈おれはもう精神的に死んでいるが、肉体的にも死んでいなくちゃならん。ジュリアンはもう生きていない。まだ動いているのはその屍《しかばね》なのだ〉
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第二十章 日本の花瓶
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彼の心は最初自分のあまりにも激しい不幸を理解しなかった。感動したというより狼狽していたのだ。しかし理性が戻って来るにつれて、彼は自分の不運の深さがわかった。あらゆる人生の楽しみが彼にとってはなくなっていたし、彼には自分を引き裂く絶望の鋭い切っ先しか感じられなかった。しかし肉体的苦痛のことなど言っても何になろう? 肉体によってのみ感じられたどんな苦痛が、この苦痛と比較し得るであろうか?(ジャン・パウル)
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晩餐の鐘が鳴った。ジュリアンにはやっと着替えするひましかなかった。サロンでマチルドを見かけたが、彼女は兄やド・クロフズノワ氏に、スュレーヌのド・フェルヴァック元帥夫人の家の夜会へ行かないでくれとしきりに頼んでいた。
彼らの目にこれ以上魅力的に、これ以上愛らしく見せることはむずかしかったろう。晩餐ののちにド・リュス氏、ド・ケリュス氏、その他彼らの友だちが数人やって来た。まるでド・ラ・モール嬢はまた親密な友情ときわめて厳格な礼節を尊重しはじめたようだった。その夜の天候は快適だったにもかかわらず、彼女は庭へ出ないと頑張った。ド・ラ・モール夫人が占めているペルジェールのそばから皆が離れないように彼女は望んだのだ。青い長椅子《カナペ》は冬のあいだと同様このグループの中心だった。
マチルドは庭のことを思うと腹が立った。すくなくともまったく我慢できぬものに思われた。庭がジュリアンの思い出と結びついていたからだ。
不幸は人間から智恵を奪うものだ。われわれの主人公はぶざまにも、かつて彼のあれほど輝かしいかたみであったあの小さな藁《わら》椅子のそばに佇《たたず》んでいた。今晩は誰も彼に言葉をかけなかった。彼の存在は認められぬようだった。いやそれよりもっと悪かった。ド・ラ・モール嬢の男の友人たちのなかでカナペのはしの彼から遠くないところに坐っていた連中は、ことさらに彼に背を向けるといった風にしていた。すくなくとも彼にはそう思われた。
〈こいつは宮廷で失寵したのと同じだ〉と彼は思った。彼は侮蔑《ぶべつ》で自分を打ちのめそうとする連中をしばらく観察して見ようと思った。ド・リュス氏の伯父は国王の側近で重大な職についていた。その結果この美男の将校は話し相手ができるとかならず、自分の伯父はサン・クルーへ向けて七時に出発して晩はむこうで泊って来ると言っていますというような面白い話を、会話の冒頭に持って来るのだった。こういう顛末《てんまつ》を彼は実に好人物然として話し出すのだが、しかもいつもかならずこの話は持ち出すのだった。
ジュリアンは不幸のために厳しくなった目でド・クロワズノワ氏を観察しているうちに、この愛すべき善良な青年が神秘的な目に見えぬ原因に万物を動かす絶大な力があると認めていることに気がついた。しかもそれは、いくぶん重大な事件が単純なごく自然的な原因に帰せられていると、悲しくなり腹が立つという程度にまでなっているのだった。〈こいつはちとばかり気ちがいじみている〉とジュリアンは心に思った。〈こういう性格は、コラゾフ公爵が話してくれたあのアレクサンドル皇帝の性格に驚くほど似ている〉パリに住みついて最初の一年間は、神学校から出て来たばかりのジュリアンはこういう愛すべき青年たちが一人残らず持っている彼にとっては目新しい優雅さに幻惑されて、感嘆する以外に能がなかった。彼らの真の性格は、今やっと彼の目に明らかになって来はじめたにすぎなかった。
〈おれはここで下劣な役割を演じている〉と急に彼は思った。あまりぶざまに見えないようにこの小さな藁椅子から離れて行かねばならない。彼は何かうまいやり方がないものかと思い、まったく別のことを考えていた頭で急に何か新しい手をひねり出そうとした。記憶に頼らねばならなかったのだが、彼の記憶のなかには、実を言うと、こういう種類の手段はあまり多くなかった。気の毒にこの若者はまだほとんど作法を心得ていなかった。それで彼がサロンを出て行こうとして立ち上がったときの様子はまったくぶざまで、誰もみなこれに気がついたほどだった。それまで四十五分ばかりというものは、彼は身分の一段低い邪魔者という役割をやらされていたのだった。こういう邪魔者には誰も自分の思っていることを骨を折って隠そうなどとはしない。
自分の競争者たちを批判的に観察して来たおかげで、彼はそれでも自分の不幸を過度に悲惨なものと思わないですんだ。自分の矜持《きょうじ》をまもるために彼は前々夜あったことを思い出してみた。〈奴らがおれに対しどんなに優っていようと〉と彼は一人で庭へ足を踏み入れながら思った。〈マチルドはおれの生涯にただ二度だけおれのためにああいうものになってくれたが、奴らの誰に対してもああいうものになってやったことはないのだ〉
彼の思慮はそれ以上には進まなかった。たまたま彼の幸福をまったく思いのままに左右することになったあの一風変わった女の性格が彼にはてんでわからなかった。
その翌日は一日じゅう、自分も馬もくたくたに疲れ切ってしまうまで乗り廻すことだけしか彼はしなかった。彼はもう夜になっても、あいかわらずマチルドがやって来ている青い長椅子《カナペ》のそばには寄ろうともしなかった。ノルベール伯爵に家のなかで出逢っても、こちらの顔を見てくれさえしないのに彼は気がついた。〈伯爵もなみなみならぬ無理をしているにちがいない〉と彼は思った。〈生まれつきあんなに慇懃《いんぎん》な男なんだから〉
ジュリアンにとっては眠ることさえできれば幸福だったろう。しかし肉体の疲労にもかかわらずあまりにも誘惑的な追憶が彼の空想のすべてに侵入しはじめた。いくらパリの近郊の森々のなかを遠くまで乗り廻したところで、それは自分自身の上には何らかの影響を及ぼしこそすれ、マチルドの心や頭には何ら影響するところはなく、結局自分の運命の処理を偶然に委ねているにすぎないということを見て取るだけの頭は彼にはなかった。
ただ一事だけが彼の苦悩を測り知れぬほど軽減してくれるもののように彼には思えた。それはマチルドに話しかけることだった。だがどんなことをあえて彼女に言ったものだろうか?
ある朝七時ごろ、彼がちょうどそのことに深く思いふけっていたときに、突然彼女が図書室にはいって来るのが見えた。
「あたし知っていますことよ、あなたがあたしと話したがっていらっしゃることを」
「何ですって! 誰がそんなことを言いました?」
「あたしは知っているんですの。それ以外はあなたに関係がないでしょう。もしあなたが約束を破る気なら、あたしを破滅させてしまうこと、すくなくとも破滅させようと試みることはおできになるのよ。けれど、あたしは実際あなたがそんなことをなさるとは思いませんが、そういう危険があるにしてもあたしは決してそのために嘘をつくようなことはしません。あたしはもうあなたを愛していませんの、妄想に迷わされたのですわ……」
この凄まじい一撃に、恋情と不幸のあまり正気を失ってジュリアンは弁明しようとしてみた。これ以上馬鹿らしいことはない。誰が嫌われたことの弁明をするだろうか? しかし理性はもう彼のあらゆる行為に何らの支配力を持っていなかった。ある盲目的な本能が彼を駆って自分の運命の決定を延期させようとしていたのだ。いくらしゃべってもそれだけではまだ全部を言っていないような気がした。マチルドは彼の言葉など聞いていなかった。その声が彼女を苛立《いらだ》たせた。話を中絶するだけの大胆さすら彼にないことが彼女にはわからなかった。
操《みさお》を破り自尊心を汚した悔恨のあまり、彼女はこの朝彼に劣らず不幸であった。自分に対する権利を百姓の倅である小坊主に与えてしまったという恐ろしい考えに、彼女はいわば打ち砕かれていた。
〈これはまあ〉と彼女は自分の不幸を誇張して考えるときなど心に思うのだった。〈まるで下男|風情《ふぜい》に弱味を見せたことを恥じているようなものだわ〉
大胆で自尊心の強い性格にあっては、自己に対する憤怒と他人に対する激昂のあいだは紙一重である。憤怒の激情はこの場合ひとつの強烈な喜びとなる。
一瞬にしてド・ラ・モール嬢は極端なほどに激しい軽蔑をあからさまにジュリアンに浴びせかけるまでになっていた。彼女にはすばらしく機智があった。そしてこの機智は相手の自尊心をさいなみ無残な痛手を負わせることとなると見事なものだった。
生まれてはじめてジュアリンは、自分に対する極度に激しい憎悪にあおられた優れた機智に翻弄されるままになっていた。この瞬間に自己弁護をしようなどと思うどころか、自分自身を軽蔑するようになったのだ。どれほど彼が自惚れた考えを持っていようと、ことごとくぶちこわしてしまうようにたくみに急所々々をねらった、これほど残酷な軽侮の言葉が自分にむかって注がれるのを聞きながら、彼には、マチルドのほうが正しい、いやまだあれで言い足りないとさえ思えるのだった。
彼女のほうはといえば、数日前あんな風に熱愛したその罰を自分にも彼にもこうやって加えることに言うに言われぬ自尊心の喜びを感じていたのだ。
彼女には、いい気になって彼に投げつけているこのむごい言葉を、今はじめて頭をひねって考え出したりする必要はなかったのである。つまり彼女は、この一週間来、彼女の心のなかでこの恋愛に反対する声が主張していたことを、そのままくりかえしたにすぎなかったのだ。
その言葉の一つ一つがジュリアンの恐るべき不幸を百倍にも増した。彼は逃げ出そうとした。が、ド・ラ・モール嬢は命令的にその腕をつかんで引き留めた。
「失礼ですが、あんまり声が高すぎますよ。隣の部屋までも聞こえます」と彼は言った。
「かまうものですか!」とド・ラ・モール嬢は傲然と言い返した。「あたしの言ってることを聞いたと、あたしにむかって言うだけの勇気のある人がいるものですか! あなたは下らない自尊心からあたしのことをいろいろ考えていたんでしょうけど、あたしは今後絶対にそんな風に考えさせないようにしてあげようと思っているのです」
ようやく図書室から出ることができたとき、ジュリアンはまったく度胆を抜かれていたので、そのため自分の不幸をそれほど強く感じられなかった。〈そうか、あの女はもうおれを愛していないのだ!〉と彼は、自分の立場を自分自身に知らせようとするかのように何度も大きな声でくりかえした。〈あの女は一週間か十日ほどおれを愛していたらしい。ところがおれのほうは一生愛しつづけるだろう〉
〈あり得ることだろうか、彼女が何の意味もないなんて! あれからまだ何日もたっていないのに、彼女がおれの心にとって何の意味もないものになってしまったなんて!〉
マチルドの心は自尊心の喜びに満たされていた。これで永久に縁を切ることができたのだ! あれほど強い愛情をすっかり押し殺してしまうことに、彼女は無上の幸福を感じた。これであのお馬鹿さんも、自分があたしに対して何の力も持っていないし、これからだって決してそんなことはないのだということを、今度という今度こそは思い知るだろう〉彼女は幸福のあまり、この瞬間には実際もう愛情を感じなかったほどだった。
これほど残忍な、これほど侮辱的な一幕があったあとでは、ジュリアンほどの情熱家でなければ恋愛などはもう考えられなくなってしまうはずだ。ド・ラ・モール嬢は一瞬たりとも自分に対する義務をのがれることなく、あんな聞きづらい言葉を彼にむかって言ってやったのだが、それも十分熱考した言葉だったので、冷静になって思いかえしたときでさえ真実と思われるほどだった。
こんな驚くべき一幕からまずジュリアンが引き出した結論というのは、マチルドは測り知れぬ自尊心を持っているということだった。自分たちの仲はもうこれで永久におしまいだと彼はかたく思いこんでいた。そして翌日の昼食のときには、彼女の前へ出ると彼は無器用でおずおずしていた。これまで彼がこんな欠陥を咎《とが》められるようなことは一度もなかったのである。大事小事を問わず、彼はいつも自分の為すべきこと、また為そうとすることをはっきりと心得ており、そしてそれを実行していたのだから。
この日、昼食のあとでド・ラ・モール夫人が、朝のうち司祭がこっそりと持って来てくれた不穏なものではあるがかなり珍らしい小冊子を取ってくれと頼むと、ジュリアンは台の上からそれを取るとき、およそこの上なくきたならしい青磁の古い花瓶を落してしまった。
ド・ラ・モール夫人は悲鳴をあげて立ち上がり、近よって来て自分の秘蔵していた花瓶の破片に目を注いだ。
「これは古い日本のものなのですよ」と彼女は言った。「シェルの尼僧院長をしていた私の大伯母から私の手に渡って来たのです。オランダ国民が摂政《せっしょう》ドルレアン公に献上したのですが、公はそれを自分の御息女にお下しになって……」
マチルドは、おそろしく汚ならしいと思っていたこの青い花瓶が壊されたのを見て夢中になって喜びながら、母親の動作を見まもっていた。ジュリアンは寡黙《かもく》で、大して取り乱した様子もなかった。彼はド・ラ・モール嬢が自分のすぐそばにいるのに気がついた。
「この花瓶は」と彼はド・ラ・モール嬢に言った。「永久に壊れてしまいました。前にはぼくの心を支配していた感情もこれと同じです。その感情のためにあんな気ちがいじみた真似をやりましたことをどうぞ赦してくださいますよう」
そう言って彼は出て行った。
「ほんとうに」とド・ラ・モール夫人は彼が立ち去ると言った。「あのソレルさんは自分のしでかしたことを自慢して満足に思っているといった風じゃないの」
この言葉はまともにマチルドの心に食い入った。〈ほんとだわ〉と彼女はひとりごちた。〈お母様はちゃんと言い当てておしまいになった。あの人は本当にそういう気時になっているんだわ〉そう思うとはじめて前日彼に対してあんな仕打ちをしたことを喜ぶ気持がなくなった。〈そうだわ、なにもかもおしまいだ〉と彼女は一見平静な態度で心に言った。〈あとに残るものは、一つの重大な前例だけ。この過ちは恐ろしい屈辱的なものだ! この過ちのおかげで今後一生あたしは利口になれるだろう〉
〈何で本当のことを言わなかったのだ?〉とジュリアンのほうは考えた。〈あんな気ちがい娘に対する愛情がなぜまだおれを苦しめるのだろう?〉
この愛情は彼の希望するように消えてしまうどころか、急激に増大するのだった。〈あの娘はどうかしている、それはたしかだ〉と彼は心に思った。〈だからと言ってすばらしい女であることに変わりはないじゃないか。あの女よりも綺麗な女なんているものだろうか? 最も優雅な文明が生み出すあらゆる強烈な快楽が、いわば競い合うようにド・ラ・モール嬢の一身に集まっているのではないだろうか?〉こういう過ぎ去った幸福の回想がジュリアンの心を奪い、理性が考えたすべてのことをたちまちのうちに打ち砕いてしまった。
理性がこの種の回想と闘っても決して勝つことはない。理性がいくら厳しい努力をしようと、魅惑を増大するにすぎない。
古い日本の花瓶を割ってから二十四時間後には、ジュリアンはたしかにこの世にまたとないほど不幸な男だった。
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第二十一章 密書
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なぜならば私の話しますことは一切私自身で目撃しているのです。そして見そこないはあったかもしれませんが、これをお話し申し上げるについてあなたをだますことは決してありません。(著者への手紙)
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侯爵が彼を呼びよせた。ド・ラ・モール氏は若がえったような様子で、その目は輝いていた。
「ちょっと君の記憶力のことが問題なんだが」と、侯爵はジュリアンに言った。「驚くべきものだそうだね! 四頁ほど暗記してロンドンに行って暗誦することができるかね? しかも一言も変えずに!……」
侯爵は苛立たしげにその日の「コチディエンヌ」紙をもみつぶした。そして対フリレール訴訟事件が問題になっているときですらかつてジュリアンの目に留まったことのないような真剣な顔つきをかくそうと努めているのだった。
ジュリアンはもうだいぶ世故《せこ》に長《た》けていたので、相手の示す気軽な調子にすっかり騙《だま》されているように見せねばならぬと直感した。
「この『コチディエンヌ』紙はおそらく大して面白いものではないでしょうが、お許しくださいますなら、私は明日の朝すみからすみまで暗誦してご覧に入れましょう」
「何だって! 広告までもか?」
「きわめて正確に、しかも一語もまちがえずに」
「君はそれを私に誓うかね?」と侯爵は突然厳粛になって言った。
「はい、誓います。しくじらないかという心配さえなければ、私の記憶が乱されることはありません」
「このことは昨日君に訊いておかねばならぬのを忘れていたのだ。これから君が聞くことを決して他に口外しないなどという誓約なぞは、私は君に求めようとは思わぬ。私は君をよく知っているから、そんな失礼なことはするまでもないわけだ。君についての責任は私が引き受けて来た。私はこれから十二人ほどの人間の集まっているサロンへ君を連れて行く。各人の言ったことを君に控えておいてもらうのだ。
心配するにはあたらない。何もこみいった会話じゃないんだから。めいめいが自分の順番が来るとしゃべる、もっとも秩序立ててとは言わんがね」と侯爵は、いかにも彼らしい気のきいた気軽な態度にかえって付け加えた。「こちらがしゃべっているあいだ、君には二十頁ぐらい書き取ってもらう。それから私と一緒にこの家へ帰って来てその二十頁を二人で四頁に縮める。その四頁に縮めた分を君は明日の朝『コチディエンヌ』紙全文のかわりに私の前で暗誦するのだ。それからすぐ君に出発してもらう。自分の道楽で旅行している青年みたいな様子で駅馬車を駆って行かねばならぬ。君の心掛けねばならぬことは、誰にも気づかれぬということだ。それであるお偉方《えらがた》のところに行く。むこうに行ったらいっそう上手にやってもらわねばならない。その方の側近の連中をみんな騙《だま》してしまわなくちゃ駄目なんだからね。そこの秘書とか奉公人とかのあいだにも、われわれの敵に買収された奴らがいる。そしてそいつらがこちらの使者が行くのを阻止しようと途中で窺《うかが》っているからだ。
君は形式だけの紹介状を持って行く。
閣下が君のほうに目をやられたら機を失せずこの私の時計を引き出すのだ。時計はこの旅行のため君に貸して上げる。いま持って行きなさい。どうせ持って行ってもらうのだから。そのかわり君の時計を私のほうへよこしてくれたまえ。
公爵ご自身が、君の暗記して行った四頁を君の口から書きうつされるだろう。それが終わったら、……だがその前では駄目だよ……閣下がもしご質問になったら、君がこれから列席する会合の模様をお話し申し上げてよろしい。
旅のあいだ君の退屈を追っぱらってくれるものはいくらでもある。というのは、パリとその大臣の住所とのあいだには、ソレル師に小銃を一発お見舞い申そうと、それのみを念じている輩《やから》がだいぶいるのだから。だからその使命が終わってからでも、まだだいぶ手間取るものと見ねばなるまい。なぜなら、君、もし君が死んだとしたらどうしてわれわれにそれがわかるだろう。君がいくら熱心だといって、まさか死んだことをこちらに報らせることまではできまいからね」
「すぐ大急ぎでそろいの服を買って来たまえ」と侯爵は真剣な顔にかえって語をついだ。「二年前の流行の身ごしらえをするのだ。今夜はあまりかまわないなりをしてもらわなければならぬ。旅行中は反対に普通の様子をしてもらう。というと君には意外かもしれないが、警戒心の強い君のことだから察しがつくだろうね? そうなのだ、これから君が意見を聞きに行く尊敬すべき人物のうちの一人は、情報を洩らすくらいのことはたしかにしそうなのだ。そのために君が晩方どこかの宿屋で夜食でも注文したとき阿片ぐらいは盛られぬとも言えぬからね」
「百二十キロほどまわり道して、まっすぐ行かないほうがいいんじゃないでしょうか。行先はローマかと私は思いますが……」
侯爵はブレ・ル・オー以来ジュリアンが見たこともないような尊大さと不満の表情を浮かべた。
「それはね、私が言っていいと判断したときに私が教える。私はとやかく質問されることは好まない」
「これは質問ではないのです」とジュリアンは真情を見せて言った。「決してそうではないのです。考えていることが口に出てしまいましたので、私は頭のなかで一番安心のできる道順を探していたのです」
「なるほど、君の頭はだいぶ遠いところへ行っちまっているようだね。だが決してこのことは忘れないようにしなさい。使節というものは、ましてや君のような年頃では、自分を信頼させようと無理強いするような真似をしてはならないのだよ」
ジュリアンはまったく面目を失ってしまった。彼のほうが悪かったのだ。彼の自尊心は何か言い訳はないものかと捜したが見つからなかった。
「誰でも何か馬鹿な真似をしたときにはかならず善意からだと言う、それがわからなくては駄目だ」と侯爵は付け加えた。
一時間ほどすると、ジュリアンは古臭い服に薄よごれた白のネクタイを締めて、全体に見たところ似非《えせ》学者といったようなところのある、見劣りのする風采で侯爵の控えの間にいた。
それを見た侯爵は腹をかかえて笑い出した。このときになってやっとジュリアンは申し分のない弁解を言うことができた。
〈この青年が私を裏切るというのなら〉とド・ラ・モール氏は心に思った。〈誰を信頼できるだろう? しかも事を行なうに当っては誰かを信頼しなければならない。うちの倅も、またどれもこれも同じような性質の華やかな友人たちも、その勇気その忠実さでは十万人を束《たば》にしたにも劣らぬ。戦わねばならぬとあれば王座の階《きざはし》で討ち死することも厭《いと》わないだろうし、何でも知っている……当面必要なことを除けば。彼らのなかで誰が四頁ものものを暗記して跡をつけられずに百里の道を行ける男がいたらそれこそお目にかかりたいものだ。ノルベールなら祖先たちと同じような死に様をして見せることだろう、これだってやはり壮丁たるものの値打ちだが〉
侯爵は深い物思いに沈んだ。〈だが死んでみせるということなら〉と侯爵は嘆息とともに言った。〈おそらくこのソレルもあれに劣らぬ死に方ができるだろう……〉
「車に乗ろう」と侯爵は煩わしい想念を追い払おうとするかのように言った。
「閣下」とジュリアンは言った。「この服を整えさせるあいだに今日の『コチディエンヌ』紙の第一面を全部暗記しましたが」
侯爵は新聞を取った。ジュリアンは一語も間違えずに暗誦した。「よろしい」と今夜はひどく外交家らしい様子になっていた侯爵は言った。〈暗誦しているあいだはこの青年もどの街を通っているか気がつくまい〉
彼らは一部には羽目板を張り一部には緑色のビロードのかかった一見かなり陰気な大きなサロンに到着した。サロンの中央には、しかめ面《つら》をした一人の侍僕が大きな食卓をいま整えたところだったが、その後しばらくして侍僕はどこかの官省のお古《ふる》らしいインキのしみだらけの馬鹿に大きな緑の掛け布をかけてそれを仕事机に一変させた。
この家の主人は馬鹿にからだの大きな男だったが、その名は誰の口にも上らなかった。ジュリアンはこの男が食道楽の人間のような顔つきと話しっぷりをしているのに気がついた。
侯爵の合図によってジュリアンはテーブルの末席にとどまっていた。体裁を繕《つくろ》おうとして彼は鵞《が》ペンを削りはじめた。横目づかいに七人まで話し手を数えたが、ジュリアンにはみなその背中だけしか目にはいらなかった。そのうち二人はド・ラ・モール氏に同輩口調で話しかけていた。ほかの連中は程度の差はあれ丁重にしているようだった。
新しく一人の人物が名前を披露もされずにはいって来た。〈こいつは変だぞ〉とジュリアンは思った。〈このサロンじゃまったく来客の名を披露しない。おれがいるからこんな用心をしているのかな?〉一同は立ち上がってこの新来者を迎えた。この男はすでにサロンに来ていたほかの三人と同じ非常に位の高い勲章を侃用《はいよう》していた。皆はかなり低い声で話していた。その新来者を批評しようと思っても、ジュリアンはその目鼻立ちと風釆から判断することしかできなかった。背が低く鈍重で、血色はよく、目は輝いていたが猪《いのしし》のような邪悪さしかあらわれていなかった。
ジュリアンの注意は、前のとは全然違う一人の男がほとんど直ぐその後からやって来たため強くそちらへ向けられた。今度のは背の高い、たいへん痩せた男で、チョッキを三、四枚も重ねて着ていた。目は実にやさしく、所作は慇懃《いんぎん》だった。
〈こいつはまったく、あのブザンソンの老司教そっくりの顔だ〉とジュリアンは思った。この男は明らかに宗門に属する人物だった。年のころは五十歳かせいぜい五十五歳に見えた。これ以上とはない慈愛深い様子をしていた。
アグドの青年司教が姿を見せた。来会者を一応見わたしてジュリアンに目を留めたときには、彼はひどく意外そうな顔をした。司教はブレ・ル・オーの祭典以来、彼に声をかけたことはなかった。そのびっくりした目つきがジュリアンを狼狽《ろうばい》させ、立腹させた。〈なんたることだ〉とジュリアンは心に思った。〈人を識っているということがかならずおれの不幸になるんだろうか? ここにいる大貴族たちは一度も会ったことがないからおれには恐れる気持もまったく起きない。ところがあの若い司教の目つきを見ると、おれはぞっとする! おれもこれでは、よっぽどおかしな、よっぽど惨めな男だということになる〉
ほどなく黒一色の服の小男が騒々しくはいって来て、敷居をまたぐや否やしゃべり出した。皮膚の色が黄色く、いくらか頭がおかしいように見える。この遠慮会釈のない饒舌《じょうぜつ》家が到着するやいくつかの組ができた。明らかにこの男の話を聞かねばならぬ退屈を逃れるためだったろう。
暖炉をはなれて皆はジュリアンが席を占めていた末座のほうへ近づいてきた。彼の様子にはますます当惑があらわれて来た。なぜならどれほど聞くまいとしてみても話が耳にはいって来るのはどうしようもなかったし、いかほど経験に乏しいとはいえ、彼にも皆が露骨に話している事柄の重大さが十分理解できたからだ。そしてまた、自分の目の前にいるこれらの高位の人物たちがどれほど一生懸命になってこういったことの秘密を守ろうとしているかということも!
できるかぎりゆっくりとだったが、ジュリアンはもう二十本ほどの鵞ペンを削り終えていた。この手ではもうそろそろ追っつかなくなって来そうだった。彼はド・ラ・モール氏の目に何かの命令を求めたが無駄だった。侯爵は彼のことなど忘れてしまっていた。
〈おれのやっていることは滑稽だ〉とジュリアンは鵞《が》ペンを削りながら心に思った。〈だがこんな平凡な容貌の連中でも、他人から頼まれてかみずから進んでか、こんな重大な問題を引き受けている以上、極度に敏感にはなっているはずだ。おれの情ない目つきには何か疑いを抱いているような敬意を欠いたところがあって、それがたしかにこの連中の気にさわるにちがいない。おれがはっきり視線を落してしまったら、まるで彼らの言葉を注意深く聞き取っているように見えるだろうし〉
彼の困惑はまったく限りなかった。異様なことが聞こえて来た。
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第二十二章 討議
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共和国……今日では人民の福祉のためにすべてをなげうつ人間一人に対して、自分の亨楽、自分の虚栄しか知らぬ人間は数千数百万もいる。パリでは人はその馬車のゆえに重んじられるのであって、その徳のゆえにではない。(ナポレオン『覚書』)
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侍僕が「ド・***公爵様」と言いながらあわただしくはいって来た。
「黙っていろ、おまえはまったく馬鹿者だな」と言いながら公爵がはいって来た。その言葉の言い方がいかにもうまく、しかも非常な威厳をそなえていたので、ジュリアンは侍僕に腹を立ててみせるくらいの心得がこの大人物の知っていることのすべてだろうと思ったほどだった。ジュリアンは目を上げたが、すぐにまた伏せた。この新来の客がどれほど権威のある人物かはっきり見て取ったので、自分などが目を向けるのは不謹慎ではあるまいかと思ってびくびくしたのだ。
この公爵は五十歳ほどの男でダンディな装いをし、弾むような歩き方をした。顔が細長く、鼻は大きく、中高《なかだか》の顔をひどく前へ突き出していた。これ以上貴族的な、これ以上空っぽな顔をするのはむずかしかろう。彼の到着によって会議が始まることにきまった。
ジュリアンの骨相学的観察はド・ラ・モール氏の声で急に中断された。……「ソレル師をご紹介します」と侯爵は言った。「驚くべき記憶力をそなえた人物で、与えられることになっている使命のことを私はつい一時間ばかり前に話して聞かせたのですが、自分の記憶力を証明するため『コチディエンヌ』紙の第一面を暗記して見せました」
「ははあ、あの気の毒なN***の海外報告ですな」と家の主人が言った。彼は性急に新聞を取り上げ、あんまり勿体ぶろうとするので滑稽に見えるほどの顔つきでジュリアンを見つめながら、
「言ってごらんなさい」とうながした。
深い沈黙のうちにすべての人の目はジュリアンに注がれた。暗誦は立派なものだったので二十行もつづけると公爵が「それで結構」と言ってくれた。猪のような目つきの小男は腰をおろした。彼が議長だったのだ。というのは、席につくかつかないかに彼はジュリアンに勝負事用のテーブルを指して、それを自分のそばに持って来るように合図したからだ。ジュリアンは筆記に必要なものを持ってそこに坐った。緑の掛け布をかこんで坐っている人たちは数えてみると十二人だった。
「ソレル君」と公爵が言った。「隣の部屋へ引き取ってください。あとでまた呼びにやるから」
家の主人がひどく不安そうな顔をした。「雨戸がしまっていないんです」と彼はすこし声を落して隣の男に言った。「窓から覗《のぞ》いたって駄目ですよ」と彼は愚かにもジュリアンにむかって叫んだ。……〈これでおれも少くとも何かの陰謀にまきこまれてしまった〉とジュリアンは思った。〈さいわいこの陰謀はグレーヴの広場へ曳かれて行くようなものではない。危険があったとしても、おれは侯爵に対してそれをやりのけるだけの義務があるのだ、いやそれ以上の。おれの気ちがい沙汰のためにいつか侯爵にひどい心配をさせることもあろうが、これでそんな心配の償いをすることができるとありがたいが!〉
自分のやった狂気沙汰や不幸のことなど考えながら、彼はこの場の様子を記憶に刻みこむように観察した。そのときはじめて彼は、侯爵が街の名を侍僕に言うのを聞かなかったこと、それから、これは侯爵には決してないことだったが、辻馬車を拾って来させたことを思い出した。
長いあいだジュリアンは一人思いに耽《ふけ》るままに打ちやられていた。そこは幅の広い金モールのついた赤ビロードが張られたサロンだった。台の上には象牙の大きな十字架があり、暖炉棚の上には小口を金色に塗った豪華な装釘のド・メストル氏の『法皇論』が一冊置いてあった。ジュリアンは耳を澄ましているような様子を見せまいと思ってその本を開けてみた。ときどき隣の部屋の話し声はひどく高くなった。とうとう扉が開いて彼が呼ばれた。
「皆さん」と議長が言った。「私たちはいまド・***公爵の前で話しているのだということをお忘れにならないように。こちらの方は」とジュリアンをさして彼は言った。「われわれの神聖な目的のために献身しておられる若い聖職の方で、驚くべき記憶力を持っておられますからわれわれの議論のごく些細《ささい》な点までもやすやすと操り返すことができます」
「今度はあなたがお話しになる番です」と彼はあの慈悲深そうな顔をしてチョッキを三、四枚重ねている人物を指差して言った。ジュリアンはそのチョッキを重ね着している紳士の名前を言ったほうがずっと自然だと思った。紙を取り出して彼はさかんに書いた。
(このところを作者は一頁ぶん点線だけにしておこうと思った。ところが「それじゃあまり愛想っ気がないですよ」と出版屋が言う。「それにこんな下らぬ著書では愛想っ気がなけりゃおしまいです」
「政治なんてものは」と作者が言いかえす。「文学の首にくくりつけた石みたいなものだ。そのおかげで半年もたたぬうちに文学のほうは溺死してしまう。架空の物語のまんなかへ政治を持って来るなんて、演奏会の最中にピストルをぶっぱなすようなもんですよ。力強い音じゃないが、何もかもめちゃめちゃにしてしまう。どんな楽器の音とも調和しないんですからね。この政治というやつは一部の読者の心を我慢できぬほど傷つけるし、朝の新聞でもっと別な専門的で強烈なのを読んでしまっているほかの読者には退屈きわまると来ている……」
「ですがあなたの作中人物が政治談をやらかさぬというんでは」と出版屋も言いかえすのだ。「そりゃあもう一八三〇年のフランス人じゃなくなりますね。そしてあなたの小説は、ご自分で自負していらっしゃるように、もう鏡じゃなくなりますよ……」)
ジュリアンの議事録は二十六頁におよんだ。以下にその摘要を掲げるが、これは実に色が褪《あ》せてしまっている。なぜなら毎度のことであるが、滑稽なところもあまり度を越すと厭味になり真実性が薄らぐので、削除しなければならなかったからである。(|『法廷新報』(カゼット・デ・トリビュノー)参照)
慈愛深そうな顔をしたあのチョッキの男(これはおそらくどこかの司教だったのだろうが)はしきりに薄笑いして見せたが、そうすると瞼《まぶた》のたるんだ目が異様な輝きを帯びて平生よりもきっぱりした表情になるのだった。この人物が最初に公爵(〈それにしても何という公爵だろう?〉とジュリアンは心に思った)の前でしゃべらされたのだが、それは明らかにいろいろの意見を開陳させて次席検事の役目をさせるためだった。しかし彼は、これは司法官がよく人から非難されることだが、不決断に落ちて断乎たる結論をつけずに終わったようにジュリアンには思えた。議論の進むうちに公爵でさえそのことを非難しはじめた。
道徳と寛容の哲学について多言を費したのちチョッキの男は言った。
貴族的なイギリスは不滅の大人物ピット〔イギリスの首相。フランス革命政権およびナポレオンと敵対したが、ナポレオンの敗北を見ることなく一八〇六年に死んだ〕に指導されて革命を妨害するために四百億フランを費しました。しかし、もしここに参集の諸氏が厭うべき考えをいくらかなりと率直に述べることを私にお許しくださるならば申しますが、ボナパルトのごとき人物を相手にした場合、ことにそれに対抗するに人々の善意のみを糾合するよりほかないというときには、各個人の手腕による以外に何ら決定的な手段はないということを、英国は十分理解しなかったのです……」
「ああ、また虐殺の讃美か!」とこの家の主人は不安そうに言った。
「あなたの感傷的なお説教は、ご勘弁ねがいましょう!」と議長が向っ腹を立てて怒鳴った。その猪のような目が爛々《らんらん》と兇暴な光りを発した。「続けてください」と彼はチョッキの男に言った。議長の頬も額も真っ赤になった。
貴族的なイギリスは」と報告者がまた口を切った。「今日はもう疲弊《ひへい》しております。英国民の各人が自分のパンをあがなう前にジャコバンに対抗するために使われた四百億フランの利子を払わねばならぬからであります。もはやピットなく……」
「ウェリントン公がいますよ」といやに威張りくさった顔をした軍人が口を出した。
「お願いですから静かにしてくたさい」と議長が叫んだ。「まだ議論をつづけるのならソレル氏に来ていただいても何にもならないではありませんか」
「あなたがいろいろなご意見を持っていらっしゃることは誰でも知っています」と公爵は癇癪《かんしゃく》を起こした様子で、いま話の邪魔をしたもとのナポレオン軍の将軍をにらんで言った。ジュリアンはこの言葉に何か個人的な非常に侮辱的な事柄を含ませていることに気がついた。誰もにやりと笑い、身を売った将軍は憤怒にもだえるらしく見えた。
「もはやピットはいないのであります、皆さん」と報告者は聞いている連中に理屈を言い聞かせることに希望を失った人間がするようながっかりした様子でつづけた。「第二のピットがイギリスにいたにせよ、同じ手段をもって国民をもういちど瞞着《まんちゃく》することはできません……」
「それだからこそボナパルトのような常勝将軍が今後フランスに出て来ることはあり得ないのだ」と例の軍人の邪魔者が叫んだ。
今度は議長も公爵も立腹をあらわには見せなかった。もっともジュリアンは彼らの目を見てだいぶむかむかしているのがわかったように思ったが。彼らは目を伏せた。公爵は皆に聞こえるように大きな溜息をつくだけで我慢した。
ところが報告者が癇癪を起こしてしまっていた。
「皆さんは私に早くやめてもらいたいと思っておられるのですな」と彼は憤然として、ジュリアンが彼の性格のあらわれだと思っていたあの微笑を含んだ慇懃《いんぎん》さと節度を越えぬ言葉づかいとをすっかり放擲《ほうてき》して言った。「皆さんは私に早くやめてもらいたいと思っておられるのですな。どれほど冗漫になってもいいからどなたの耳にも痛くないようにと私が骨を折っているのも一向|斟酌《しんしゃく》していただけぬのですな。よろしい、皆さん、手短かにやりましょう。
そこで、だいぶ卑俗な言葉で申しますが、イギリスは立派な目的のため使い得るような金は、もうびた一文も持っておらぬ。たとえピットその人が再来しようと、そのあらゆる天才をもってしてもイギリスの小地主を瞞着することには成功しますまい。なぜなら彼らはワーテルローの短い合戦すら、それだけで十億フランを要したことを知っているからです。皆さんは簡明な言葉を所望しておられるから」と報告者はだんだんと気色《けしき》《けしき》ばんで来た。「あえて私は申します、〈|汝ら自らを助けよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》〉〔当時この格言を党名とする自由主義結社があったことにかけて言っている〕です。なぜならイギリスは諸氏のために供する一ギニーすら持たぬ。そしてイギリスが払わぬぬかぎり、勇気のみあって金を持たぬオーストリア、ロシア、プロシアは、もはやフランスに対して一度二度の戦役以上のことはなし得ない。
ジャコビニスムのもとに集められた若い兵士らが、最初の戦役、おそらくは二度目の戦役にも敗北を喫するだろうという希望は持てます。ただし三度目には……こういうと気をまわしすぎるあなた方からは革命家だなどと思われるでしょうが……三度目には、もう一七九二年の徴集された農民兵とはまるで違った一七九四年の兵隊が相手になりますよ」
ここで一どきに三、四箇所から弥次がはいった。
「あなたは隣の部屋へ行って、書き取った議事録の最初のほうを浄書してください」と議長はジュリアンに言った。ジュリアンは非常な未練を感じながら退席した。報告者がちょうど、彼がいつもよく考えている将来の公算ということをしゃベり出したところだった。
〈奴らはおれに馬鹿にされるのがこわいんだ〉と彼は思った。彼が呼び戻されるとド・ラ・モール氏が、氏のことをよく知っているジュリアンから見ると実におかしく思われるほど真剣になってしゃべっているところだった。
「……そうです、みなさん。
神たらんか、テーブルたらんか、盥《たらい》たらんか?〔ラフォンテーヌの寓話に出てくる彫像師の言葉〕
というこの言葉は、特にこの不幸な国民について言い得ることなのであります。〈神たらん!〉とその寓話作者は叫ぶのです。このように高尚にしてかつ意味深い言葉は、皆さん、まさにあなたがたのためにあるように思えます。あなたがた自身が自力をもって行動すべし、かくしてこそわが貴族的なフランスは、われわれの祖先がこれを作り、われわれ自身ルイ十六世崩御以前にこの目で見ていたのとほとんど同じ姿を取り戻すでありましょう。
英国は、すくなくともその高貴な貴族《ロード》たちは、卑賎なジャコビニスムをわれわれと同じくらい憎悪しています。イギリスの金なくしてはオーストリア、ロシア、プロシアもわずか二、三度戦いを交え得るにすぎません。わずかこれだけの理由で、ド・リシュリュー氏〔ルイ十八世のもとで首相をつとめ、極右反動主義を抑えて穏健な立憲主義を維持しようとし、またフランス進駐の外国軍隊をはじめの期限より早く一八一七年に撤退させることに成功した。王党はジャコバン主義の危険に対して王政を守るために外国軍隊の進駐を歓迎した。この章の語る陰謀はこのような史実を諷している〕が一八一七年に愚かにもむざむざと撒退させてしまったような、喜ぶべき占領を再来せしめるには、十分でありましょうか? 私はそう思わないのです」
ここに弥次《やじ》がはいったが、みんながしッと言って黙らせた。この弥次はまたもやあの青綬勲章ほしさに密書起草者たちのなかで頭角をあらわそうとしている旧帝政将軍が発したらしかった。
「私はそう思わないのです」とド・ラ・モール氏は騒ぎがしずまるとつづけた。彼はこの|私は《ヽヽ》という言葉を、ジュリアンが見てほれぼれとするような不遜な態度で強調した。〈これはなかなかうまい〉とジュリアンは侯爵がしゃべるのとほとんど同じくらいの速さで筆を走らせながら思った。急所をついた一言でド・ラ・モール氏はこの降伏した将軍の二十回にわたる出陣の誉れを丸つぶしにしてしまった。
「われわれは、新しい軍事占領について」と侯爵はきわめて慎ましやかな口調で語を継いだ。「外国のみに頼ることはできないのであります。『グローブ』〔一八二八年に創刊した自由主義者の新聞〕に扇動的な論説を書いている青年たちを全部合わせて、その中から三千なり四千なりの若い中隊長を作り出すことはできましょうし、そのうちにはクレベール、オシュ、ジュルダン、ピシュグリュ〔いずれもナポレオン麾下の名将〕のような人物もいるかもしれぬ、だが彼らほどの優れた志操は持っておりません」
「われわれはそういった連中の名を顕彰するすべを知らなかった」と議長が言った。「彼らの名を不朽に留めるべきだったのだ」
「結局フランスに二つの党派が存在することが必要なのです」とド・ラ・モール氏はつづけた。「たんに名前だけではなく、旗幟鮮明《きしせんめい》な截然《さいぜん》とわかれた二つの党派が。どちらをつぶすべきかをわれわれは知らねばならぬ。一方にはジャーナリスト、選挙人、一言にして言えば世論です。さらに青年と、それを賛美するすべてのもの。彼らが自分らの無意味な言葉のざわめきに茫然としているあいだに、われわれには予算を消費し得るという確実な利益があります」
またもや弥次がはいった。
「あなたは」とド・ラ・モール氏は感嘆すべき不遜さと悠然とした態度でその弥次を放った男に言った。「あなたは国の予算に計上された四万フランとあなたが王室費から受け取る八万フランとを、消費するという言葉があなたのお気にさわるならそうは申しますまいが、あなたはそれを濫費《らんぴ》していらっしゃるんですよ。
よろしい、それではあなたが私に無理にもそうさせるのですから、私も大胆にあなたを例にしてお話しすることにしましょう。ルイ聖王に従って十字軍に出征したあなたの高貴な祖先の方々と同様、あなたご自身もこの十二万フランをもらっておられる以上、せめて一個連隊ぐらい集めて見せるべきだ、いや一個中隊でも、それどころか、正しい目的のために生死を賭けて闘おうと覚悟のできている兵士ならわずか五十人の半個中隊でもかまわぬ。ところがあなたは、もし暴動でも起こったらあなた自身が恐ろしく思うような侍僕たちしか持っておられぬ。
玉座も祭壇も貴族階級も、明日滅びぬともかぎらないのです、皆さん、もしあなた方が各県に|献身的な《ヽヽヽヽ》五百名の兵力を設置なさらないかぎりは。だが私が献身的なと言う意味は、たんにフランス的の勇猛のみでなくスペイン風の堅忍不抜をも含んでいるのです。
この部隊の半数はわれわれの子供、われわれの甥《おい》、つまり真の貴族によって組織されねばなりません。彼らはその各々が、一八一五年〔一八一五年の百日天下を意味する〕がもし再来するようなことがあればさっそく三色徽章を掲げようとしている饒舌な小市民《プチ・ブルジョワ》ではなく、たとえばカトリノー〔石工の息子だったが、反革命軍の首領として奮戦して死んだ〕のような単純質朴な善良な農民を一人、自分の味方にしておく。我らの貴族はこの農民を教育し、できることなら乳兄弟として遇するのもいいでしょう。この各県ごと五百人の献身的な小部隊を結成するのにわれわれ各人は自己の収入の|五分の一《ヽヽヽヽ》を供すべきでしょう。こうしてこそ外国軍の占領を期待し得るようになるのです。各県に自分の味方となる五百人の部隊がいることがはっきりするまでは、外国の兵隊はディジョンまですらはいって来ますまい。
外国の国王たちは、彼らのためにフランスの門戸を開放すべく武器を執ることも辞さぬ貴族が二万人もいるということをあなた方が告げぬかぎり、あなた方の言葉に耳をかしますまい。つらいご奉公だとあなたはおっしゃるだろう。だがわれわれが首を斬られまいとするのにはこれだけの代償が必要です。言論の自由とわれわれ貴族階級の存立とのあいだには生死を賭した決戦があるのです。製造業者《マニュファクチュリエ》に、農民になり下るか、しからずんば銃を執るかしなければならぬ。臆病になるなら臆病になるのでいい、しかし愚鈍になってはなりません。目を開いてはっきり物を見ていただきたい。
|隊を組め《ヽヽヽヽ》、と私はジャコバンの歌とともにあなた方に言いたい〔この句は「ラ・マルセイーズ」のなかの一句〕。かくしてこそ高貴なグスターフ・アドルフといった人物があらわれ、君主制原理に迫った焦眉《しょうび》の危機を見て奮起して自国から三百里の道を長駆し、グスターフが新教の君主たちのためにしたことと同じことをあなた方のためにするでしょう。あなた方は何ら行動することなく、今後もなおひたすら口舌《ぐぜつ》を事とするつもりなのですか? それでは十年もすればヨーロッパには共和国大統領のみあって一人の国王もないことになりましょう。そしてこのR、I、O(国王)の三字とともに僧侶や貴族も消滅してしまうのです。私にはもはや泥だらけの多数に阿諛《あゆ》する候補者のみしか見えません。
フランスは現在すべての人から信任を受け、識られ、愛されている将軍を一人も持たぬとか、軍隊は玉座と祭壇のためにのみ組織されており、古つわものたちはみな奪われてしまったのに反して、プロシアやオーストリアの各連隊には砲火をその目で見て来た五十人の下士官がいるとか、そういうあなた方の議論は何にもならぬものなのです。
小市民階級に属する二十万の青年は戦争を熱望しています……」
「そんな耳に痛い事実はそれくらいにしましょう」と一人の威厳をつくった人物が自惚《うぬぼ》れた口つきで言ったが、ド・ラ・モール氏がそれに対して腹を立てるかわりに愛想よく微笑して見せたところを見ると、この男は宗門で非常に高い地位にあるらしかった。ド・ラ・モール氏がそんな風にしたことはジュリアンには非常に意味のあることのように思われた。
「耳に痛い事実はこのくらいにして、それでは簡略に申しましょう。壊疽《えそ》にかかった片脚を切らねばならぬという男が外科医にむかって、〈この悪い脚はしごく丈夫なんです〉などと言うべきではない。こんな言葉を使うのを許していただきたいが、皆さん、私たちにとってのこの外科医は高潔なド・***公爵であります」
〈とうとう重大な言葉が言われてしまったぞ〉とジュリアンは考えた。〈今晩おれが馬を駆って行くことになるのは……の方だろうな〉
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第二十三章 僧侶、山林、自由
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あらゆる存在の第一の掟、それは自己保存であり生存である。あなたは毒人参の種を播いて麦の穂の熟れるのを見ようと思うのか!(マキアヴェッリ)
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威厳のある人物がつづけた。彼がいろいろなことをよく知っていることは誰の目にも明らかだった。彼はものやわらかな穏かな雄弁で次のような重大な真相を発表したが、この雄弁はたいへんジュリアンには好ましく思われた。
「第一。イギリスはわれわれのために使うべき一ギニーも持っておりません。倹約とヒューム〔イギリスの哲学者で歴史家〕とがあの地では風靡《ふうび》しています。聖者たちさえわれわれに金を与えようとはしますまいし、ブルーム氏〔イギリスの文学者、歴史家、政治家〕もわれわれのことなど鼻であしらうでしょう。
第二。イギリスの金なくしてヨーロッパの諸国王に二度以上の戦役を遂行させることは不可能です。しかも二度の戦役をもってしては小市民階級と闘うには不足である。
第三。フランスに武装した一党派をつくることの必要。これなくしてはヨーロッパの君主制原理を守る国家はその二度の戦役をも敢行できまい。
第四の点は、私は次のことをこれはもう明々白々なこととしてあえてあなた方に提言する。
|僧職者なくしてフランスに武装せる党派を組織する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|ことは不可能《ヽヽヽヽヽヽ》なること。私はこれを断乎としてあなた方に申し上げる。なぜなら私はこれからそれを立証してご覧に入れるからです。すべてを僧職者に与えねばならない。
その第一の理由は、夜となく昼となく自己の公務に没頭し、この国の国境から三百里も離れて動乱のかなたに身を持している才能秀でた人々から指導され……」
「ああ、ローマだ、ローマだ!」と家の主人が叫んだ……。
「いかにも、|ローマ《ヽヽヽ》です!」と枢機卿は傲然《ごうぜん》とつづけた。「あなたが若かったころ流行《はや》った洒落が、どれほど気の利いたものであったか知りませんが〔十八世紀における教会風刺を意味している〕、私は公然と言います。一八三〇年の今日では、ローマによって指導された僧職者のみがよく下層民衆を説得し得るものである、と。
五万の司祭が、その頭《かしら》にあるものが定めた日に同一の言葉を繰り返す。そして民衆は、これは所詮兵士の供給源となるのですが、世俗のくだらぬ詩歌などよりこれらの司祭の声によって動かされるであろう……」(この人身攻撃のため聴いている人々のなかでつぶやきが起こった)
「僧職者たちはあなた方よりも優れた才能を持っております」と、枢機卿は声を張り上げてつづけた。「|フランスにおいて武装した党派を持つ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というこの主要目的のため、あなた方が踏み出した数歩は、われわれの足跡を追うにすぎないのであります。(ここで実例があげられた)……ヴァンデに八万|挺《ちょう》の小銃を送ったのは誰だったか?……等々。
僧職者は自分の山林を持たぬかぎり何の所有もない。戦争が勃発《ぼっぱつ》したらたちまち大蔵大臣は、もう司祭たちにやる俸給を除いて僧職者のための金などはないと手先機関に通達する。実はフランス人は信仰など持っていない、ただ戦争が好きなのです。戦争をさせてくれるものならば誰であろうと二重の意味で人民に喜ばれる。すなわち戦争をするということは、俗衆の言い方にしたがえば、ジェズイットを弱める。他面、戦争をするということは、この自尊心の怪物ともいうべきフランス人たちを外国の干渉という脅威から解放することであるからです」
枢機卿の言葉は好意をもって傾聴された。……「ド・ネルヴァル氏は内閣を去るべきだ。氏の名前は不必要な刺激を与える」と彼は言った。
この言葉とともに皆は一斉に立ち上がってがやがや言い出した。〈またおれは追い出されるぞ〉とジュリアンは思った。だが賢明な議長さえ、ジュリアンがここにいること、のみならず彼という人間すらをも忘れてしまっていた。
すべての人の目はジュリアンにも見覚えのある一人の人を追っていた。それは彼がド・レス公爵の舞踏会で見かけたことのある宰相ド・ネルヴァル氏だった。
議会のことを報告する新聞の言い方でいえば、混乱《ヽヽ》|はその絶頂にあった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。たっぷり十五分ほどして静粛はようやくいくらか戻ってきた。
するとド・ネルヴァル氏は立ち上がって伝道者のような口調で、
「私は内閣に固執しないとあなた方に断言することは到底できません」と奇妙な声で言った。
「私の名が多くの温和派までも断乎われわれの反対派となるようにさせ、そのためジャコバンの勢力を倍加するとおっしゃるのはわかりました。それなら私は喜んで身を引きたい。しかし主の示された道は少数の者にしかわからないのであります。しかも」と彼は枢機卿をまじろぎもせず睨みつけながら付言した。「私には一つの使命があります。神は私に言われました。
『汝は断頭台上に首を横たえるか、しからずんばフランスに王国を再興し、議会《シャンブル》をルイ十五世治下の高等法院《パルルマン》と同様のものに縮小するか、そのいずれかであろう』と。そして、皆さん、私はそれを遂行します」
彼は口をつぐんで腰をおろした。深い沈黙がつづいた。
〈こいつは大した役者だ〉とジュリアンは思った。彼はまた例によって例のごとく、人の才智を買いかぶるというあやまちをおかしていたのだ。このように活気のある一夜の討論に、そして特にその議論の真剣さに昂奮させられて、じつはド・ネルヴァル氏はこの瞬間自分の使命を信じていたにすぎない。勇気には優れていたがこの男は頭が悪かったのだ。
|私はそれを遂行します《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というこの立派な言葉につづいて、沈黙のうちに十二時が鳴った。ジュリアンはその振子時計の音に何か重々しい、不吉なものがあるように思った。彼は感動していたのだ。
やがて論争は、ひとしお活発に、そして特に信じられぬほどの率直さをもってまたはじまった。〈この連中は後でおれを毒殺でもさせるんだろう〉とジュリアンはときおり思った。〈平民の目の前でどうしてこんなことをしゃべるんだろう?〉
二時が鳴っても皆はまだしゃべっていた。この家の主人はもうだいぶ前から居眠りしていた。ド・ラ・モール氏が蝋燭を取り替えさせるために呼鈴を鳴らさなければならなかった。大臣のド・ネルヴァル氏は一時四十五分に退席したが、その前に自分のわきにあった鏡に映るジュリアンの顔を何度も子細に観察することを忘れてはいなかった。彼が出て行ったことが一座を寛《くつろ》がせたように見えた。
蝋燭が取り替えられているあいだに、……「あの男が王様に何を言うか知れたものじゃない!」と例のチョッキの男が隣の男にごく低い声でささやいた。「われわれのことをさんざん笑いものにして、われわれの前途を台なしにしてしまうかもしれません。
この席に出て来るということにしてからが、よほど稀に見る自惚れ、いやそれどころか大変な厚かましさがあればこそにちがいありませんぜ。内閣にはいるまであの男はここにやって来ていたんですがね。しかし大臣の職という奴は、何もかも変えてしまうし、一個の人間としての利益などすべて消滅させてしまう。これはあの男も身に泌《し》みて感じなければならなかった筈ですがね」
大臣が出て行くや否やボナパルト軍の将軍は目をつぶってしまっていたのだが、ちょうどこのときになると自分の健康やら負傷のことやらを話し出して、時計を引っ張り出して見ると席を立って行ってしまった。
「私は賭けてもいいが」とチョッキの男は言った。「将軍は大臣のあとを追っかけて行ったんですよ。ここに出席していたことの言い訳を言って、われわれを指導しているんだとでも言うのでしょう」
半分眠りこんでいるような召使いたちが蝋燭の取り替えをし終えると、
「これでいよいよ協議することにしましょう」と議長が言った。「もうおたがいに相手を説き伏せようとすることはやめましょう。四十八時間後には国外にいるわれらの味方の目に入れられることになる密書の趣旨を考えることにしようではありませんか。さきほどは内閣のことが話になっておりました。ですがド・ネルヴァル氏が去られた今はじめて言えるのですが、われわれにとって大臣連が何でしょう? 彼らはわれわれの意のままになるでしょうから」
枢機卿は上品な微笑をもってこれに賛意を表した。
「われわれの立場を簡単に説明するのはごく容易だと私には思われます」とアグドの青年司教が、きわめて激越な狂信《ファナチスム》の熱情を、おもてにはあらわさずに内に集中させながら言った。これまで彼は沈黙をまもっていたのである。ジュリアンがはじめに見つめたときには彼の目はおだやかでおちついていたが、議論がはじまって一時間もするとその目は爛々と輝き出した。いま、彼の熱情はウェスウィオ山の熔岩のように迸《ほとばし》り出たのだ。
「一八〇六年から一八一四年まで、イギリスのおかした過ちはただ一つです」と司教は言った。「すなわち、ナポレオン個人に対する直接的な行動をしなかったことです。あの男が公爵や侍従どもをつくったとき、帝王の位を復興したときから、神が彼に委ねたもうた使命は終わったのです。もはや犠牲に捧げられる以外に用はなくなってしまったのです。聖書はそのいくつかの箇所で、いかにして僭主《せんしゅ》の手を脱すべきかということをわれわれに教えております。(ここで彼はいくつかラテン語の文句を引用した)
今日犠牲に供さねばならぬのはもはや一人の人間などでは済みません。それはパリです。各県五百人の人員を武装させたところで何になりましょう? あぶなっかしい計画ですし、第一それで埒《らち》があくものではありません。パリのみにかかわることに、フランス全体を巻き込んで何になりましょう? パリのみがその新聞とそのサロンをもって害悪を流している。新しきバビロン滅びよと言わねばならぬ。
祭壇とパリとは手を切らねばなりません。大破綻《だいはたん》は王座の世俗的な利害にも関係する。なにゆえパリはボナパルトのもとであえて発言し得なかったか? これはサン・ロック〔一七九五年の国民公会に対する反乱に際して、暴徒鎮圧を命じられたナポレオンは、この寺院の階段に砲をすえて断固砲撃を命じ、政府を守った〕の大砲に聞いてごらんなさい」
ジュリアンがド・ラ・モール氏とともに退席したのは、もう朝の三時にもなっていた。
侯爵は恥かしそうな様子で、疲れていた。ジュリアンと話をするときの彼の語調に懇願するような調子があるのはこれがはじめてだった。侯爵はジュリアンに、たまたまさきほど目撃することになった今日の一同の極度の熱狂ぶりを(そう侯爵自身で言うのだった)決して人には明かさないと誓ってくれと言った。「外国のわれわれの味方にも、むこうがこちらのあの若い気ちがい連中のことを報らせてくれと本気で頼まないかぎり、このことは言わないでくれたまえ。国家が転覆《てんぷく》されようと、彼らにとって果してなにほどのことがあろう? 彼らは枢機卿になってローマへ逃げるのだ。だがわれわれは、われわれの城のなかで農民たちに殺戮《さつりく》されるのだからね」
ジュリアンが書いた三十六頁にわたる長文の記録によって侯爵がしたためた密書は、四時四十五分になってやっと整えられた。
「私は死ぬほど疲れている」と侯爵は言った。「この密書が終わりのほうになると明快さを欠いているのからもそのことはわかるだろう。一生のあいだ私はこれ以上不満な仕事をしたことはなかった。さあ、君」と侯爵は付け足した。「行って二、三時間休んで来たまえ。君が誰かにさらって行かれるのが心配だから、私が一緒に行って君が部屋にはいったら鍵をかけておいてあげよう」
明くる日、侯爵はジュリアンをパリからかなり離れた孤城に連れて行った。そこには一風変わった連中が住んでいたが、ジュリアンはこれは僧侶だと判断した。偽名を記載した旅行免状が渡されたが、今までジュリアンがいつも知らないような顔をしていたこの旅行の真の目的地がそこに記されていた。彼は一人で四輪馬車に乗り込んだ。
侯爵は彼の記憶力のことにはいささかも不安を感じていなかった。ジュリアンが何度も密書を暗誦して聞かせたからである。しかし侯爵はそれが奪い取られはしないかとひどく恐れていた。
「何よりもまず、ひまつぶしに旅をしている洒落者みたいな顔をしているんだよ」と侯爵はサロンを出るときに親しげに言ったのだった。「昨夜の集会にも裏切り者が一人ならずいたかもしれないからね」
旅行はいそがしく、そしてひどく陰鬱だった。ジュリアンは侯爵の視野から離れるや否やさっそく密書のことも使命のことも忘却して、マチルドから蒙《こうむ》った侮蔑のことばかりを思った。
メスから数里行ったある村で駅亭の主人がやって来て馬がないと言った。夜の十時だった。ジュリアンは途方にくれて夜食を注文した。門の前を散歩しているうちに知らず識らず、また人目にも立たずに、厩《うまや》のある中庭の方へ行ってしまった。馬はいなかった。
〈だがあの男の様子はそれにしても奇妙だったぞ〉とジュリアンは心に思った。〈無遠慮な目でおれのことを見まわしてやがった〉
こういったように彼は、自分に対して言われる言葉が一から十まで信じられぬようになりはじめたのだ。夜食を食べてからここから抜け出ようと思って、やはりこの土地のことを多少識っておくため自分の部屋から出て台所の火にあたりに行った。そこで有名な歌手シニョール・ジェロニモを見出したときの彼の喜びはいかばかりだったろう!
火のすぐそばに肘掛け椅子を持って来させて腰をすえたこのナポリ人は、彼を取り巻いて呆れかえっている二十人ほどのドイツ人の百姓よりも口数が多く、大声で愚痴をならべたてていた。
「この連中のおかげで私は世間に顔向けならぬようになっちまう」と彼はジュリアンにむかって叫んだ。「私は明日マインツ〔ライン左岸にあるドイツの町〕で歌う契約があるんでしてね。一国に君臨している王公が七人までも私の歌を聞くために駈けつけて来ているんですぜ。だがちょっと外の空気を吸って来ましょう」と彼は意味ありげな顔をして言い添えた。
街道へ出て百歩ほど行ってもう人から聞かれる心配がないとわかると、
「一体これはどういうことになるんだか、あなたはわかりますか」と彼はジュリアンに言った。「この駅亭の主人は悪者ですよ。私は散歩しながら腕白小僧を一人つかまえて、二十スーやって、いっさい聞いてしまったんですがね。村の反対のはずれにある厩には十二頭以上も馬がいるんですよ。どこかの飛脚でも遅らせてやろうっていうんでしょう」
「本当ですか?」とジュリアンは何喰わぬ顔で言った。
「いんちきを暴《あば》くだけで事が片づくわけでない。出発しなければならなかったのだ。ところがそのことがジェロニモとその友人の手に負えぬことだったのである。「夜の明けるのを待ちましょう」としまいに歌手は言った。「奴らは私たちのことを警戒している。めざすところはおそらく私かあなたかでしょう。明日の朝、上等の朝食をあつらえてやろうじゃありませんか。その用意をしている間にわれわれは散歩に行く。そして逃げ出すんですよ。馬を借りて次の駅亭まで行くんです」
「それであなたの荷物は?」とジュリアンは、ひょっとするとジェロニモさえも自分をつかまえるために派遣されたのかもしれぬと思ってたずねた。夜食をとって寝床へはいらねばならなかった。ジュリアンはやっとうとうとはじめたところを、自分の部屋のなかで大して遠慮もせずにしゃべっている二人の男の声で、いきなり目を覚まされた。
彼には、龕燈《がんどう》を持っている駅亭の主人がわかった。その光は、ジュリアンが部屋へ持って来させておいた四輪馬車のコッフル〔馬車の腰掛けの下に設けられた荷物などを入れる箱〕のほうへ向けられていた。主人のわきに箱を開いて音を立てずに中をかきまわしている男がいた。ジュリアンにはその男の上着の袖しか見分けられなかったが、その袖は黒くてひどく締まっていた。
〈これは法衣《スタース》だ〉と彼は心に思って、枕の下にひそめておいた小型短銃をそっと握りしめた。
「目を覚ますなんて心配はありませんよ、司祭様」と駅亭の主人が言った。「こいつらに出した葡萄酒は、あなたさまがご自分で用意なすっていらっしゃったものですから」
「書類なんてものはこれっぱかりも見つかりはせん」と司祭は答えた。「下着とか香水とかポマードとかの愚にもつかんものがいっぱいあるだけだ。こいつは道楽にばかりうつつをぬかしている当世風の若者なんだよ。密使はどうもあのイタリア語のアクセントをわざと使っているほうの男らしい」
連中は彼の旅行服のポケットを探そうとしてジュリアンのほうへ近よって来た。彼はいっそのこと、この二人を盗賊なみに殺してやりたいと思った。そうしたところでこれっぱかりも危険があるわけではない。やりたいとは思った……。〈そんなことをしたらおれは馬鹿者だ、おれの使命が危くなる)と彼は心に言った。彼の上着を探してから、「こいつは外交官じゃない」と僧侶が言った。彼は立ち去った。そうしたのは賢明だった。
〈ベッドへ手をのばしておれにさわりでもしようものなら、こいつも年貢の収め時だぞ!〉とジュリアンは心に言っていたのである。〈やって来て匕首《あいくち》で刺すかもしれんな。だがそんな真似をさせておくものか〉
司祭は顔を振り向けた。ジュリアンは薄く目をあけていた。彼の驚きはいかばかりだったか! カスタネード師だったのだ! 実際、この二人の人物がかなり低い声で話すようにしていたにもかかわらず、最初から彼は一方の声に聞きおぼえがあるような気がしていた。彼はこの世から卑怯きわまる悪漢を一人片づけてしまいたいという猛烈な欲望に襲われた……
〈だがおれの使命は!〉と彼は心に言った。司祭とその助人《すけっと》は出て行った。十五分ほどするとジュリアンは目を覚ましたようなふりをして、喚《わめ》き出して家じゅうを起こしてしまった。
「毒を盛られた!」と彼は怒鳴った。「苦しくてたまらない!」こうして彼は何か口実を見つけてジェロニモを助けに行こうと思ったのだ。行って見るとジェロニモは葡萄酒のなかに混ぜられていた阿片剤にやられて半ば仮死に陥っている。
ジュリアンはこういった種類のいたずらをされないともかぎらぬと思って、パリから持って来たショコラで夜食をしておいたのだった。彼はジェロニモをはっきり目覚めさせて出発の決心をさせようとしたが、どうしてもそうは行かなかった。
「ナポリ王国全部をくれると言ったって」と歌手は言うのだった。「今はおれはこのうっとりとした眠りを棄てるのはごめんだ」
「それじゃ七人の王公は?」
「待たしておくがいいさ」ジュリアンは一人で出発して、このほか異常なく例の大人物のもとに到着した。午前中のあいだずっと謁見《えっけん》を求めて過ごしたが駄目だった。さいわい四時ごろ公爵は散歩しようという気になった。ジュリアンは彼が徒歩で外出するのを見て、ためらうことなく近づき、施しを求めることにした。その大人物の二歩ばかりのところに近づくと、彼はド・ラ・モール侯爵の時計を取り出してわざとらしくそれを見せた。
「遠くからついて来なさい」と相手は彼の顔を見ずに言った。
そこから一キロほど行くと、公爵は不意に一軒の小さなカフェ・ハウスにはいった。この最下級の宿屋の一室で、ジュリアンは公爵の御前で例の四頁を暗誦して聞かせたのであった。彼が言い終わると「もう一度、もっとゆっくりやってください」と相手は言った。
公爵は控えをとった。「次の駅まで歩いて行きなさい。荷物と四輪馬車はここに置いていくがいい。何とかしてストラスブールへ行くのだ。そして今月二十二日(この日は十日だった)の十二時半にまたこのカフェ・ハウスに来てもらいたいのだ。三十分たってからでなければ出ていっては駄目ですよ。口を利いてもいけない!」
ジュリアンが聞かされた言葉はただこれだけだった。しかしそれだけでもう彼の心は極度の感嘆の念に満たされてしまった。〈事務を扱うのはこういった風にやるものなのか〉と彼は思った。〈この大政治家が三日前のあの逆上した饒舌家どもの話を聞いたら何と言うだろう?〉
ジュリアンはストラスブールまで行くのに二日かかった。行ったところでそこで何もすることがないと彼は思ったのである。それで彼は大変な回り道をした。〈あのカスタネード師がおれだということに気がついていたら、あの極悪人め、なかなかおれの足跡を見失うような奴じゃない。それにあいつにとっては、おれのことをからかって使命を挫折させることができりゃ、どれほど嬉しいことかわからないじゃないか!〉
北部国境全域にわたる修道会の秘密警察の長だったカスタネード師は、さいわい彼だとは気がついていなかった。それにストラスブールのジュズイット連中も、非常に熱心だったにもかかわらず、青いフロックコートに勲章をつけているので自分一身のことにばかり夢中になっている若い軍人といった風にしか見えないジュリアンの動静を監視しようなどとは夢にも思わなかったのである。
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第二十四章 ストラスブール
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蠱惑よ! おんみは恋のあらゆる激しさ、不幸を味わわしめるあらゆる力を持っている。おんみの及ばぬものは、ただ恋の魅するごとき快楽《けらく》、甘やかな歓びのみだ。私は彼女の寝姿を眺めながらも「この天使のような美しさ、うましきかよわさのすべてをあげて、彼女は自分のものだ! 天が憐れみの心から一人の男の心を陶酔に導こうとして造り給いしままに、彼女は今ここに私の力に委《ゆだ》ねられた」と言うことはできなかった。(シラー『抒情小詩』)
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ストラスブールで一週間ほど過ごさねばならなくなって、ジュリアンはいろいろと武勲のことや祖国のため献身的に働くことなどを空想して努めて心を紛わしていた。ではいったい彼は恋していたのだろうか? それは彼自身にもまったくわからなかった。ただ自分の堪えがたく疼《うず》く心のうちに、自分の幸福をも空想をも絶対的に左右するマチルドの存在を感ずるばかりだった。絶望に屈しまいとすれば、あらゆる努力を傾けつくさねばならなかった。ド・ラ・モール嬢に関係のないことを考えることは彼の力ではできなかった。かつてはド・レナル夫人のためどんな気持を味わわされようと、野心や虚栄心のたんなる満足が、そんな気持を紛らわしてくれたものだった。今はマチルドがすべてを奪ってしまった。どのように未来を思い描こうとも、かならずそこにマチルドの姿が見えるのだった。
その未来のなかではどちらを向いてもジュリアンには失敗だけしか見えなかった。ヴェリエールではあれほど自惚れで固まりあれほど自尊心の高かったこの男が、今では滑稽なほど法外な自卑の念にとりつかれていた。
三日前には、彼は喜んでカスタネード師を殺してしまったろうが、今このストラスブールでどこかの子供が彼に喧嘩を吹っかけたら彼はその子に降参してしまったろう。生まれてから今までに遭遇した対立者や仇敵のことを思い出してみても、ジュリアンにはいつも自分ばかり悪かったように思われるのだった。
その理由は、かつては絶えず自分の前に絢爛《けんらん》たる成功の数々に飾られた未来を描き出すのに使われた、あの旺《さか》んな空想力が、今では彼の不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵となっていたからだった。
旅の日の完全な孤独が、この暗鬱な空想の力をいっそう強めた。このような場合ひとりの友人はどれほど貴重なものだったろう!〈しかし〉とジュリアンは心に思うのだった。〈いったいこの世におれに心を寄せてくれるような人がいるものだろうか? またたとえ友だちが一人いたにせよ、名誉心はおれに、絶対に打ち明けるなと命じないだろうか?〉
彼は馬に乗って淋しくケール〔ライン川を隔ててストラスブールに面するドイツの小都市〕の近傍をさまよった。これはドゼーとグーヴィオン・サン・シールによってその名を史上に留めることとなったライン河畔の小さな町である。一人のドイツ人の農夫が、この偉大な両将軍の勇戦のおかげで有名になったいくつかの小川や道路やライン川に浮かぶ小島を教えてくれた。ジュリアンは左手で馬の手綱を取りながら、右手でサン・シール元帥の『回想録』についている美しい地図をひろげて持っていた。すると愉快そうな叫び声がして彼は顔をあげた。
それはロンドンにいたときの友人で数カ月前に上流社会での気取り方の手ほどきをしてくれた、あのコラゾフ公爵だった。このすばらしい技術にしたがって、コラゾフは、前日ストラスブールに着いたばかりでケールに来たのはつい一時間前、しかも一七九六年の攻囲のことなど生まれてから一度も読んだことがないくせに、知ったかぶりにありとあらゆることをジュリアンに説明しはじめた。ドイツ人の百姓はびっくりして彼を見つめていた。なぜならこの百姓も公爵がとてつもない誤りを言うのを聞きわけるくらいにフランス語を知っていたからだ。ジュリアンにはこの百姓が何を考えていようとまったく問題ではなかった。彼は感に堪えぬようにこの美青年を眺め、その優雅な乗馬ぶりを嘆賞していたのだ。
〈恵まれた性格だ!〉と彼は心に思った。〈何てしっくりしたズボンだろう。髪だって実に品好く刈ってあるじゃないか! おれだってこんな風だったら、おそらくあの女も三日おれを愛しただけで毛嫌いしてしまうようなことはなかったろうに〉
公爵はそのケール攻囲の話を終えると、「あなたはまるでトラピストのような顔をしておられる。私がロンドンで教えてさしあげた威厳を保つという原則も、それではあんまりひどすぎます。悲しそうな様子は上品とは言えない。退屈そうな様子をすることが必要なのです。悲しそうな様子をしておられると、何かあなたに不満なところがある、何かうまく行かなかったということになりますよ。
|それは自分を下らぬ人間に見せることです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。反対に退屈しておられるなら、下らぬ人間は、あなたから快く思われようと徒《いたず》らに試みる奴のほうだということになります。だから、ねえあなた、自分がどれほど重大な誤解をしていたかわかってくださるでしょう」
ジュリアンはぽかんと口を開けて二人の話に聞き入っている百姓に一エキュ投げてやった。「けっこう」と公爵は言った。「それこそ気品がある。貴族的な軽侮ですよ! たいへんよろしい!」そう言って彼は馬を疾駆《しっく》させはじめた。ジュリアンは感嘆のあまり呆気に取られてそのあとを追った。
〈ああ、おれもこんな風だったら彼女もクロワズノワのほうが好きになるようなことはなかったろうに!〉彼の理性が公爵のおかしな真似を見て反発を感ずれば感ずるほど、ますます彼はそのおかしな真似に感服することのできない自分を軽蔑し、そんな真似のできない自分を不幸に思うのだった。これ以上ひどい自己嫌悪というものはあり得ない。
公爵は彼が本当に悲しそうなのを見て、「さあさあ、どうしたんです。有り金全部なくしてしまったんですか? それともどこかの下っ端女優にでも惚れこんだのですか?」とストラスブールへ帰る道でたずねた。
ロシア人はフランスの風俗の真似ばかりしている。が、いつも五十年ほどおくれているのだ。彼らは今やっとルイ十五世の時代にいるのである。
こんな恋愛についての冗談口をたたかれるとジュリアンの目は涙ぐんだ。〈こんな気持のいい男に相談しないって法はない〉と突然彼は心に思った。
「実はそうなんです」と彼は公爵に言った。「ぼくはこのストラスブールでものすごく恋い焦《こ》がれているところなんですよ、しかも女から振られてしまって。隣の町に住んでいる別嬪《べっぴん》なんですが、三日ばかり夢中で愛してくれたあげくほっぽり出してしまったんです。その心変わりがぼくにはたまらないんですよ」
彼は偽名をつかってマチルドの仕打ちや性格をあるがままに物語った。
「もうしまいまで言わなくとも結構です」とコラゾフが言った。「あなたの医者として信頼してもらうため、私がその打ち明け話の結末をつけてご覧に入れましょう。その若い婦人のご亭主は莫大な財産を持っている、あるいはむしろその女の人自身この国の最高の貴族階級に属している。で、彼女は何かを鼻にかけているにちがいない」
ジュリアンはうなずいた。もう物を言う気力も出て来なかったのだ。
「よろしい」と公爵は言った。「ここに三つ、だいぶ苦い薬があります。早速これを飲んでいただきましょう。第一、その何とか夫人に会うこと……。何てお名前でしたっけ?」
「ド・デュボワ夫人」
「これは何という名前だ!」と公爵は大声をあげて笑い出しながら言った〔デュボワという名はごくありきたりの市民的な名前で貴族などにはふさわしくないのである〕。「いやご免なさい。あなたにとっては崇高な名前ですものね。つまり毎日そのド・デュボワ夫人に会うことです。特に夫人の前では冷やかな、また腹を立てたような様子をしてはいけません。〈人の思うところの逆を行くべし〉というあなた方の世紀の一大原則を思い出してください。一週間前、夫人からやさしくしてもらったときとそっくりそのままの態度でいるのですよ」
「ああ、あのころはぼくも気楽だったんですよ」とジュリアンは絶望的に叫んだ。「ぼくのほうが夫人を気の毒に思っていたつもりだったのに……」
「飛んで火に入る夏の虫って奴ですよ」と公爵はつづけた。「これは大昔から言い古されたたとえですが。
「それで、第一には毎日夫人に会うこと。第二には情熱に焦がれているような素振りを見せずに社交界の誰かほかの女のご機嫌を取ること、いいですか。はっきり申しますが、あなたの演ずべき役割はむずかしいのですよ。あなたはお芝居をするのです。そしてもしそれがお芝居だと見破られたらあなたはおしまいですよ」
「あの人はすばらしく才智があるけれど、ぼくのほうはちっともない! ぼくはもう駄目です」とジュリアンは悲しげに言った。
「そうじゃありませんよ。あなたはただ私が思っていた以上に惚れこんでいるだけです。ド・デュボワ夫人は、神さまからあまりに高い身分やあまりに大きな財産を授けられたあらゆる女性の例に洩れず、自分のことばかりしか考えられないんですね。彼女はあなたのほうを見るかわりに自分自身を見つめているのです。だから彼女はあなたがどういう人か知らないんだ。さかんに空想を働かせて二、三度あなたを熱情的に愛しているような気がしたけれど、そのとき彼女があなたのなかに見ていたものは、自分の夢想している英雄であってあるがままのあなたではなかった……
馬鹿々々しい。そんなのは初歩のことですよ。ソレルさん、あなたはもうまったく小学校の生徒にかえってしまったんですか?……
おやおやだ! まあこの店にはいりましょう。なかなか素敵な黒いカラーがある。これはバーリントン通りのジョン・アンダスン製だと言ってもおかしくありませんね。ひとつ私のためだと思ってこのカラーをつけてください、そしてあなたの首につけている品の悪い黒紐みたいなやつはうっちゃってしまいましょうよ」
「さて」と公爵はストラスブール第一の装飾品店を出ると言った。「ド・デュボワ夫人はどんな社交界の人なんです? いやまったく、デュボワなんて変な名前だな! いや、怒らないでくださいよ、ソレルさん。どうもこれはたまらない……それではあなたは誰のご機嫌を取ることにします?」
「すばらしく貞淑ぶった女で、ものすごい富豪の靴下商人の娘がいますが、これにします。世にも美しい目をしている女で、ぼくもこの目はとっても好きなんですがね。この娘はたしかこの地方で最高の地位を占めているんですが、そういうすばらしい身分にいながら誰かが商売とか商店とかの話をしようものなら真っ赤になって取り乱してしまうほどなのです。ところが不幸にしてその親父さんはストラスブールで最も知名の商人の一人だときている」
「そうすると実業の話が出れば」と公爵は笑いながら言った。「あなたの美人はもう自分のことだけを考えてあなたのことなんか考えないってことは確かなのですな。その滑稽なところがこたえられないところで、かつたいへん好都合だ。おかげで彼女の美しい目を見ていても馬鹿げた気持を起こす気遣いは全然ありませんからね。成功うたがいなしです」
ジュリアンは頻繁《ひんぱん》にラ・モール邸にやって来るド・フェルヴァック元帥夫人のことを考えていたのだ。この人は外国生まれの美人で、元帥が死ぬ一年前に結婚したのであった。この女はただ自分の実業家の娘という生まれを人々の頭から追い出そうということのみを生涯の目的としているかに見えた。しかもパリで何か名前を売りたくて、道徳家連中の先頭に立って働いていた。
ジュリアンは心から公爵に感服した。あんな馬鹿げた真似ができるようになれるのだったら、彼はどんなものでも投げ出したろう! この二人の友の会話ははてしもなくつづいた。コラゾフはすっり悦に入っていた。フランス人が彼の話にこんなに長いこと耳を傾けてくれたためしはかつてなかったのだ。〈これでやっとおれも〉と公爵は嬉しくなって心に思った。〈自分の先生に当るフランス人に教訓を与えて傾聴されるようになったのだ!〉
「話はわかりましたね」と彼はジュリアンに十回も繰り返した。「ド・デュボワ夫人の前でそのストラスブールの靴下商の娘だという若い別嬪《べっぴん》さんに話しかけるときには情熱の片鱗《へんりん》だにあらわさないのですよ。反対に手紙を書くときには燃えるような情熱をぶちまける。うまく書けた恋文を読むことは貞淑ぶった女には無上の楽しみなんですからね。そのときには張りつめた気が弛《ゆる》みます。彼女はもうお芝居などはやらない。思い切って自分の胸のうちの声に耳を傾けるものです。ですから一日に手紙を二通出す」
「駄目ですよ、駄目ですよ!」とジュリアンはがっかりして叫んだ。「そんな手紙の文章を三つ作らされるより、いっそ乳鉢に入れられてつき砕《くだ》かれたほうがまだましですよ。ぼくは死骸も同然だ。ぼくにはもう何も期待なさらないでください。のたれ死にするままにほっといてください」
「いったい誰があなたに文章を作れと言いました? 私の旅行用具入れのなかには恋文の写しが六冊もあるんです。女のありとあらゆる性格にそれぞれ応じたものがあります。最も貞節な女に対するものもありますからね。あのカリスキーなんかは、あなたもご存じでしょう、例のロンドンから十二キロほどのリッチモンド・ラ・テラスで、イギリスじゅうで一番綺麗なクエーカー教徒の女に言い寄ったじゃありませんか」
夜中の二時に友のもとを去ったとき、ジュリアンは前ほど惨めな気持でなかった。
翌日、公爵は筆耕《ひっこう》を呼びにやり、それから二日ののちには世にも崇高にして始末の悪い操を守っている女に宛てて出す、ちゃんと番号のついた五十三通の恋文が、ジュリアンの手に渡されていた。
「五十四通にはならないんです」と公爵は言った。「それというのはカリスキーが体《てい》よく追っ払われたからですがね。しかしあなたにとっては靴下商人の娘からつれない仕打ちをされたって何でもないでしょう、あなたはもっぱらド・デュボワ夫人の心を攻めようと思っているんだから」
毎日々々二人は馬に乗って歩いた。公爵はジュリアンにものすごく熱を上げてしまった。突然生まれて来たこの親愛の情をどうして表明したらいいかわからなくなって、公爵はしまいにモスクワで莫大な財産を相続することになっている従柿妹の一人を妻にしないかと言い出したほどだった。「それに結婚してしまったら、私の勢力とあなたがそこにつけている勲章とで、あなたはむこうで二年のうちに大佐になれますよ」と彼は言い添えた。
「ですが、この勲章はナポレオンからもらったんじゃありませんよ。そんなものには及びもつかぬものなのです」
「かまいませんとも」と公爵は答えた。「ナポレオンが制定したんじゃありませんか。今だってヨーロッパで文句なしに最高の勲章になっている」
ジュリアンはもうすこしで承諾するところだった。しかし義務が彼を例の大人物のもとへ呼び戻した。コラゾフと別れるとき、彼はきっと手紙を差し上げますと約束した。持参した密書の返事を受け取ると、彼はパリへ急いだ。しかしつづけて二日一人ぼっちでいると、たちまち彼にはフランスを去りマチルドと別れることが死よりも堪えがたい苦痛であるように思われた。〈コラゾフがおれに提供する数百万の財産なんかとは結婚すまい。だがあの男の助言にはしたがおう〉と彼は心に思った。
〈結局、誘惑術があの男の職業なんだ。いま三十歳だからもう十五年以上もあの男はこの唯一の仕事だけしか念頭に置いてない。あの男だって才智がないとは言えない、利口で狡猾《こうかつ》なんだから。ああいった性格では熱狂とか詩とかは不可能なことだ。つまり検事のような男なのだ。とすると、ますますもって誤るはずがないわけだ。
やってみなければならぬ。おれはド・フェルヴァック夫人の歓心を求めるのだ。
ちとばかり退屈させられるだろう。だがおれはあの美しい目を見ていることにしよう。あれはこの世でおれを一番愛してくれた人の目に実によく似ている。
あの女は外国人だ。だから新しい性格を研究することになる。
おれは気が変になっている。溺れている。友人の意見にしたがわねばならぬ。自分自身を信じたりしてはいけないのだ〉
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第二十五章 貞操の役目
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しかしその快楽も、用心しいしいあまりに慎重に味わうとなると、それはもう私にとって快楽ではなくなってしまう。(ローペ・デ・ベーガ)
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パリへ帰ってド・ラ・モール侯爵に文書を差し出したわれわれの主人公は、それを見て非常に狼狽した様子の侯爵の書斎を出ると、早速アルタミラ伯爵のところへ駈けつけた。死刑の宣告を受けるという取柄《とりえ》のほかにこの美貌の外国人は、非常な威厳と敬神家であるという幸福を持っていた。この二つの美点をそなえていたのみならず、また何よりも高貴の生まれであったところから、伯爵はまったくド・フェルヴァック夫人には打ってつけだった。夫人はよく伯爵と会っていた。
ジュリアンは夫人に熱い思いをかけているとしかつめらしい顔をして伯爵に告白した。
「あの人はきわめて純潔な気高い貞操の人です」とアルタミラは答えた。「ただ少々偽善的で大袈裟《おおげさ》ですがね。ときどき私には、あの人の使う言葉の一つ一つの意味はわかっても、言っていることの全体の意味が呑み込めぬような日があるんですよ。そのため自分が人の言うほどフランス語がわからないんじゃないかと思わせられるようなこともすくなくない。あの人と知り合いになればあなたの名前も人々の口の端にのぼることになりましょうし、社交界で重みがつくことになりましょう。まあとにかくブストスのところへ行きましょう」と物固い性分のアルタミラ伯爵は言った。「あの男は元帥夫人に言い寄ったことがあるんですよ」
ドン・ディエゴ・ブストスは、自分の事務窒におさまった弁護士といった風に一言も口をはさまず、長々と一件の説明をさせた。黒い口髭を生やした僧侶然とした大きな顔の男で、とびきり無類の威厳をそなえている。しかも立派なカルボナーロ〔炭焼き党といわれる自由主義秘密結社の党員〕だった。
「わかりました」としまいに彼はジュリアンに言った。「ド・フェルヴァック元帥夫人が愛人を持ったことがあるかないか、あなたにも成功の望みがあるか、これが問題ですね。つまり、私のことを申しますと、私はしくじっちまったんですよ。今じゃもう何とも思っていませんから、こんな風に考えています。彼女はちょいちょいおかんむりをまげる。それに、あとからよくお話ししますがなかなか執念深いのです。
「私が見たところ彼女は、天才にはよくありますが、すべての行為にいわば情熱的な外観といったものを与えるあの胆汁質《たんじゅうしつ》という性格じゃありません。いやその反対で、オランダ人の持つ粘液質な落ち着いた態度のおかげでああいった稀代《きだい》の美貌や生き生きとした色艶《いろつや》を保っているのですよ」
ジュリアンはこのスペイン人の悠長さと微動だにせぬ冷静さにもどかしくなっていた。ときどき、ふと我にもあらず短かい言葉が口をついて出ることもあった。
「私の言うことを聞いていただきましょう」とドン・ディエゴ・ブストスは重々しく言った。
「furia francese(フランス人の性急さ)をどうぞゆるしてください。ぼくは一生懸命傾聴しております」とジュリアンは言った。
「ド・フェルヴァック元帥夫人はつまり非常に憎悪の念が強いのです。一度も会ったことのないような人間までも情け容赦もなく迫害するんです。たとえば弁護士とか、コレ(小唄《シャンソン》作者で劇作家)みたいに小唄《シャンソン》を作った貧乏文士なんかをね。あのシャンソンをあなたご存じでしょうね?
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マロット(女の名)を愛すは
私のマロット〔突飛な癖とか、嗜好の意〕……言々」
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それでジュリアンはこのシャンソンをしまいまで拝聴しなければならなかった。スペイン人はフランス語で歌えるのが実際いい気持だったのだ。このすばらしいシャンソンがこれ以上いらいらした気持で聞かれたことはかつてなかったろう。やっと歌い終わると、……「元帥夫人は」とドン・ディエゴ・ブストスは言った。「こういうシャンソンの作者も免職させてしまったんですよ。
ある日酒場で恋人が……」
ジュリアンは、相手がまたこれを歌おうとするのかと思ってぞっとした。だがその内容の解説を聞くだけですんだ。実際それは無信仰な、品のよくないものだった。
「元帥夫人がこのシャンソンに憤慨したときに、あなたのような身分の婦人がこんな愚劣なものが出版されるのを一つ残さず読まねばならぬという法はないと、私は夫人に注意してあげたんですよ。いくら敬神の念や厳粛な態度が一般にひろまったにしたところで、いつまでたってもフランスにはキャバレの文学というやつが残るでしょうからね。ド・フェルヴァック夫人が休職年金で暮らしているその哀れな作者から千八百フランの口《くち》を取り上げてしまったとき、私は言ってやったんですよ。『お気をつけなさい、あなたはあのへぼ詩人をあなたの武器で攻撃なさった。そうすればあの男は詩でもってあなたに報復しないともかぎりませんよ。あなたの貞操を戯《ざ》れ歌にでもして見せるでしょう。金箔のサロンはあなたの味方になってくれるでしょうが、ふざけることの好きな連中はその風刺詩《エピグラム》を歌いまくりますよ』そうしたら、あなた、元帥夫人が何て答えたとおぼしめす?……『主のおんためとあれば私が殉教にも赴《おもむ》くことをパリじゅうの人に見せつけてやりますわ。こんなことはフランスでは目新しい見物《みもの》でしょうね。これで民衆は名門に対する敬意を持つことを教えられるでしょう。それが私の一生の一番美しい日ですわ』そう言ったときのあのひとの目ときたら、それ以上美しかったことはなかったほどでした」
「いやほんとにあのひとの目はすばらしいです」とジュリアンは叫んだ。
「なるほどあなたもだいぶご執心ですな……それでは」とドン・ディエゴ・ブストスは重々しくつづけた。「あの人は人に復讐をくわだてるほどの胆汁質な性分じゃない。それなのに人を傷つけて喜んでいるのは、あのひとが不幸だからなのです。私はそこに|内面的な《ヽヽヽヽ》不幸《ヽヽ》があるんじゃないかと思うんですがね。まあ結局、自分の仕事に倦《あ》いた貞女ではなかろうか、とね」
スペイン人はたっぷり一分間、何も言わずに彼を見つめた。
「問題は一にここにあるんですよ」と彼は重々しく付け加えた。「あなたが何か希望を引き出すとすればこの点からですね。私は彼女のまことに恭順な下僕となっていた二年のあいだ、そのことは実によく考えてみたんですがね。惚れこんでいらっしゃるあなたの未来はすべてこの大問題にかかっているのですよ、彼女は自分の仕事に倦いた貞女であり、不幸であるがゆえに意地が悪いのではないかという問題にですね」
「それとも」とアルタミラがやっと深い沈黙を破って口を切った。「ぼくが君にもう何度となく言ったような女かもしれないさ。何のことはない、フランス的虚栄というやつさ。父親が有名なラシャ商人だったということが忘られないので、生まれつき陰気でかさかさした性格のあの女も不幸な気持になっているのさ。あの女にとって幸福とはたった一つしかない。つまりトレドに住んで、懺悔聴聞僧から毎日、口を開いた地獄のありさまを聞かされていじめられるということさ」
ジュリアンがいとまをつげると……「アルタミラがあなたはわが党の士だと教えてくれました」とドン・ディエゴはますます重々しく言った。「いつかあなたも私たちが自由を奪還するのにお手伝いしてくださるでしょうね。ですから私もこのちょっとした遊びごとにあなたをご援助しようと思うのです。元帥夫人の文章を知っておくことも役に立ちましょう。ここにあのひとの自筆の手紙が四通あります」
「それでは写させていただきます」とジュリアンは叫ぶように言った。「あとからお返しにまいります」
「私たちが申し上げたことは誰にも一言も洩《も》らさないでくださるでしょうね?」
「決して洩らしません、名誉にかけて!」とジュリアンは叫んだ。
「それでは、神さまのお加護がありますように!」とスペイン人は付け加えた。そして無言のままアルタミラとジュリアンを階段まで送って行った。
こういった一場があったため、われわれの主人公もいくらか気が晴れて来た。笑い出しそうな気持だった。〈何しろこの敬神家のアルタミラが姦通をするのに手を貸してくれるんだからな〉と彼は心に思った。
ドン・ディエゴ・ブストスと厳粛な会話をつづけているあいだじゅう、ジュリアンはアリーグル邸の時計の打つ時刻に気をつけていた。
晩餐《ばんさん》の時刻が迫っていた。それではまたマチルドに会うことになる! 彼は家へ帰って念を入れて衣服をあらためた。
〈もうへまをしてしまった〉と彼は階段を降りながら呟《つぶや》いた。〈公爵の命令にそっくりそのまましたがわねばならぬ〉
彼はまた自分の部屋へ上がって一番簡単な旅行服に着替えた。
〈さてこんどは目つきだ〉と彼は思った。まだようやく五時半だった。晩餐は六時からだった。サロンヘ行ってやろうと思った。行ってみると誰もいなかった。青い長椅子《カナペ》を見ると彼は涙ぐむほど心を動かされた。やがて彼の両頬は燃えるように熱くなった。〈この愚劣な多感さをなくしてしまわなくては〉と彼は腹立たしくなって言った。〈こんなことでは本心がばれてしまう〉彼は何とか体裁をつくるため、一枚の新聞を手に取ってサロンから庭へ三、四回往復した。
やっと彼は震えながらオークの大木にすっかり身をかくして、思いきって目をド・ラ・モール嬢の部屋の窓へ上げてみた。その窓はぴったりとしまっていた。彼はあやうく倒れそうになり、長いあいだオークの木に身をもたせていた。それからよろめきよろめき庭番の梯子を見に行った。あのときの事情で彼が捻《ね》じまげた鎖の輪はそのまますこしもなおされていなかった。あのときの事情、ああ、それはもう今ではまったく違ってしまったけれど! 狂おしい衝動に駆られて彼はその輪を自分の唇に押しつけた。
サロンから庭へ長いこと歩きまわったあげく、ジュリアンは恐ろしく疲れてしまった。彼はこれが最初の成功だとはっきりと感じた。〈おかげでおれの眼差しも光がなくなって、本心があらわれたりすまい!〉だんだん会食者がサロンへやって来た。その扉が開くたびにジュリアンは極度の惑乱を心に感ぜずにはいられなかった。
一同が食卓についた。とうとうド・ラ・モール嬢が、人を待たせるという習慣をあいかわらず固くまもって、姿をあらわした。ジュリアンを見ると彼女はひどく顔を赤らめた。彼が帰って来たということをまだ聞いていなかったのだ。コラゾフ公爵の勧告にしたがって、ジュリアンは彼女の手を見つめた。その手は震えていた。これに気がつくと彼自身なんとも言いようのないほど狼狽してしまったが、外見はただ疲れているとしか見えないはずだと思って安心した。
ド・ラ・モール氏が彼のことを賞讃した。侯爵夫人はすぐその後で彼に言葉をかけてやり、疲れた様子をねぎらった。ジュリアンは絶えずこう心のなかで言っていた。〈ド・ラ・モール嬢をあんまり見つめすぎてはいけない。だがおれの視線が彼女を避けてもいけないのだ。不幸になる前の一週間に実際そうしていたのと同じような様子でいなければならない……〉実際そのとおりにすることができたので、彼はサロンにとどまった。今度はじめて彼はこの家の女主人に注意を向けながら、社交界の人々の話を途切らせないように、また活発な会話が絶えないように、あらゆる努力をはらった。
この礼儀正しい態度の報いはあった。八時ごろド・フェルヴァック夫人の来訪が告げられたのである。ジュリアンはしばらく脱け出して、やがてきわめて入念な装いをしてまたやって来た。ド・ラ・モール夫人はこの敬意の表明をこの上なく満足に思った。そして彼の旅行のことをド・フェルヴァック夫人に話して、自分の満足の意を彼に示してやろうとした。ジュリアンは、自分の目がマチルドから見られないようにして元帥夫人の身近に腰を据えた。例の技術の規則を一々守ってこういう席を占めてみると、ド・フェルヴァク夫人は彼にはまったく茫然とするほど驚嘆すべき女のように見えた。コラゾフ公爵が彼に贈った例の五十三通のなかの最初の手紙は、こういった感情についてのくだくだしい長口上ではじまっていた。
元帥夫人はこれからオペラ・ブッファへ行くと言った。ジュリンも急いでそこへ行った。そこでシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジに逢って、ちょうどド・フェルヴァック夫人の桟敷《さじき》のわきにある侍従官のお歴々の浅敷へ連れて行かれた。ジュリアンはのべつに夫人のほうばかり見ていた。
〈これは一つ攻囲日誌をつけねばならん。でないと、こちらがどんな攻め方をしたのか忘れてしまう〉と彼は邸へ戻るとき心に思った。この退屈な問題について無理にも二、三ページ書いておこうと努めたが、そうしてみると、実に驚くべきことだが、ド・ラ・モール嬢のことをほとんど考えずにいられるようになった。
マチルドは旅行のあいだ、彼のことなどほとんど忘れ去っていた。〈所詮《しょせん》あの人は平凡な男なんだ〉と彼女は考えた。〈あの人の名前はこれからいつまでもあたしの生涯の最大のあやまちを思い出させることになるだろう。貞淑とか体面とかいう平凡な観念に本気でたちかえらなければならない。それを忘れたら、女なんか何もかも失ってしまうことになるのだから〉彼女はずっと前から準備されていたド・クロワズノワ侯爵との縁談に同意してやろうかという素振りをあらわしさえした。侯爵は喜びに気もそぞろになっていた。彼がそんなに得意になっているマチルドのこういう気持の底には諦らめがあるのだと言われたら、彼はずいぶんと驚いたことだろう。
ジュリアンを見ると、ド・ラ・モール嬢の考えはがらりと変わってしまった。〈実際この人こそあたしの夫だ〉と彼女は心に言った。〈ほんとうにまた貞淑な考え方をするとなれば、あたしが結婚しなければならないのは、もちろんこの人だ〉
彼女はジュリアンからしつこい真似をされたり、悲しそうな様子をされたりするものと予期していた。何と答えようかということまで彼女は考えていた。なぜなら食卓から立つとき、彼はきっと何とか彼女に言葉をかけるにちがいないから。あにはからんや、彼はサロンにどかりと腰を据え、その目を庭のほうに向けようともしないのだった。しかしそうすることは彼にとってどれほど辛かったか!〈これはすぐその理由を突き止めたほうがいい〉とド・ラ・モール嬢は思った。彼女は一人だけで庭へ出て行ったが、ジュリアンは出て来なかった。マチルドはサロンのガラス戸のあたりへ行って徘徊しはじめた。彼を見ると、ライン川のほとりのここかしこの丘の頂に立って独特の風趣をそえている廃墟となった古城のさまを、ド・フェルヴァック夫人に夢中になって話しているのであった。彼もこのころ、ある種のサロンでは機智と呼ばれる感傷的で情趣に富む文句をどうにかうまく使いこなせるようになりはじめていたのだ。
コラゾフ公爵もこのときパリにいたとすれば、だいぶ得意になったろう。この夜会ではすべて彼の予言どおりになっていたからだ。
彼はジュリアンがそれにつづく数日のあいだとった態度にも賛成したことであろう。
国政を左右している隠れた一派の人々がたくらんで、いくつかの青綬勲章を勝手に動かそうとしていた。ド・フェルヴァック元帥夫人は自分の大伯父をぜひとも帯勲者にさせたいと思っていた。ド・ラ・モール侯爵も自分の義父のため同じような望みを持っている。そこで二人は協力して奔走することになったので、元帥夫人はほとんど毎日ラ・モール邸へやって来るのだった。ジュリアンが侯爵が大臣になるはずだということを知ったのは彼女からだった。侯爵はカマリラ〔宮廷にあった過激王党の一派〕に、動揺を起こさずに三年のうちに憲章を廃止してしまう非常に巧妙な案を建言したのである。
もしド・ラ・モール氏が内閣に列するとなると、ジュリアンは司教区を一つもらう当てができるわけだった。しかしいま彼の目は、こういったあらゆる重大な利害問題も、何かヴェールを通したようにしか見られなかった。彼の想像力はもうこういう問題を漠然と、いわば遠い彼方に認め得るにすぎなかった。恐るべき不幸のため一個の狂人となっていた彼には、あらゆる人生の利害問題をド・ラ・モール嬢との関係においてしか見ることができなかったのだ。五年か六年いろいろと自分の言動に注意して努力すればあらためて愛してもらえるようにもなれようと、彼は期待していたのである。
あんなに冷静だった彼の頭脳は、ご覧のとおりまったく混乱し切った状態に陥ってしまったのだ。かつては彼をして衆をぬきんでしめる所以《ゆえん》のものだったいろいろの長所のうちでわずかに残ったものは、いくらかの意志の堅固さだけだった。コラゾフ公爵から言い含められた行動計画に絶対的に忠実に、毎晩彼はド・フェルヴァック夫人の肘掛け椅子にかなり近い席をとることにしていたが、口を利くとなると一言たりと言葉を見つけ出すことは不可能だった。
マチルドの目には心の痛手から癒《いや》されたように見せようとして無理にする努力が、彼の心のあらゆる力を奪い取り、彼は元帥夫人のそばにほとんど生気を奪われた人間のように坐っているのだった。目さえ極度の肉体的な苦痛に苛《さいな》まれているときのようにまったく輝きを失ってしまっていた。
ド・ラ・モール夫人の物の見方は、自分を公爵夫人としてくれるかもしれぬ夫の意見の引き写しにすぎなかったので、数日前から彼女はジュリアンの値打ちをすばらしく高く買っていた。
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第二十六章 道徳的恋愛
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さらにまたアデラインの話しぶりには言うまでもなく、自然のあらわそうとするものの中庸を決して越えることのない、あの貴族的な落ち着いた品のよさがあった。それはあたかも、中国の大官が何ものをも美しいと思わず、すくなくともその態度に自分の見たものにひどく喜ばされたということを決して示さないのと同じだった。(『ドン・ジュアン』第一三章八四節)
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〈この家の人たちの物の見方は少々どうかしている〉と元帥《げんすい》夫人は思った。〈みんなが、あの坐りこんで人の話を聞くよりほかに能のない若い坊さんに熱をあげてしまっている。もっともなかなか綺麗な目をしていることは事実だけれど〉
ジュリアンのほうは元帥夫人の物腰のうちに端正な礼儀と、さらにそれ以上に、決して激しい感動に動かされることがあり得ないということをあらわしている、あの貴族的なおちつきのほとんど完璧なお手本を見出していた。思いがけぬ動作や自制力の欠如は、下位のものに対して威厳を欠くこととほとんど同じくらいに、ド・フェルヴァック夫人の顰蹙《ひんしゅく》を買ったであろう。ほんのすこしでも情をあらわすことは彼女の目にはいわば一種の精神的|酩酊《めいてい》と見えただろうが、この酩酊は恥ずべきものであり、身分の高い人間が自分の義務とするところには、はなはだしく悖《もと》るのであった。彼女の大きな幸福とは王の最近の狩猟の話をすることであり、愛読書は『ド・サン・シモン公回想録』であったが、その理由は特にこの書の系譜の部分にあるのだった。
ジュリアンは、光線の具合でド・フェルヴァック夫人の持っている美しさが引き立って見える席があるのを知っていた。彼ははじめからその席へ坐りこんでいた。だがマチルドの姿が見えないように、注意ぶかく自分の椅子の向きを変えておく。彼があくまで自分に顔を見せまいとするのに驚いて、ある日彼女は青いカナペから離れ、元帥夫人の肘掛け椅子の隣にある大きなテーブルのそばに行って仕事をはじめた。ジュリアンにはド・フェルヴァック夫人の帽子の下からかなり間近に彼女の姿が見えた。自分の運命を左右する彼女の目に、最初彼は畏怖を感じたが、やがて彼はいつもの無感動《アパチー》を守っていられなくなった。彼はしゃべりだした。しかも非常に弁舌さわやかに。
彼は元帥夫人に話しかけた。しかし彼の目的とするところはただ一つ、マチルドの心に働きかけることであった。彼は調子づいて、しまいにド・フェルヴァック夫人は彼の言うことを理解し得ないまでになった。
それが第一の手柄だった。もしジュリアンがドイツの神秘思想や高度の宗教性やジュズイットの教義などを持って来て話に綾《あや》をつけようと思いついたら、元帥夫人は世紀の人心を一新せしめるため招命された偉人たちの列に、一挙にして彼を加えてしまったことだろう。
〈あんなに長いこと、しかもあんなに熱中してあのド・フェルヴァック夫人と話していられるほど悪趣味な人なんだから、あたしはもうあの人の言うことなんかに耳をかすまい〉とド・ラ・モール嬢は心に誓った。この夜会の終わりのあいだ彼女はずっとこの誓いを守りとおしたが、やはりだいぶ辛かった。
夜の十二時になって彼女が母親を部屋まで送って行くために母親の手燭を取ると、ド・ラ・モール夫人は階段のところに立ち止まって言葉をかぎりにジュリアンを褒《ほ》め上げた。マチルドはとうとうほんとうに癇癪《かんしゃく》を立ててしまった。眠ることさえできなかった。ふとあることを思いついて彼女の心はやっとおちついた。〈あたしが軽蔑するようなことでも、元帥夫人の目には非常に優れたことのように思われるのだ〉
ジュリアンとしては、とにかく行動したので不幸な気持も薄らいでいた。彼の視線はたまたまコラゾフ公爵が五十三通の恋文を入れて寄贈してくれたロシア革の紙ばさみの上に落ちた。ジュリアンは第一の恋文の下のほうに、〈第一号ははじめて会ってから一週間後に発送のこと〉と注記してあるのを見た。
〈遅れちまったぞ!〉と、ジュリアンは叫んだ。〈ド・フェルヴァック夫人に会ってからもうだいぶになるからな〉彼は早速この第一の恋文を写しはじめた。これは道徳的な文句だらけの死ぬほど退屈なお談義だった。ジュリアンはさいわいに二頁目のところで眠りこんでしまった。
数時間ののち、机にもたれかかった彼は明るい日の光に驚いた。彼の生活のなかで一番つらい瞬間の一つは、毎朝目が覚めて自分の不幸を|思い知らされる《ヽヽヽヽヽヽヽ》ときだった。この朝は彼は半分笑いながら、しのこした手紙を書きあげてしまった。〈いったいこんな文句を書くような青年がいたなんてあり得ことだろうか!〉と彼は心に思った。数えてみると九行もつづく文句がずいぶんある。原文の下のほうに鉛筆で書かれた注意書きがあるのに気がついた。
〈この手紙は自身にて持参のこと。黒のネクタイ、青のフロックコートにて乗馬で行くべし。手紙は傷心の面持にて門番に渡すこと。そのさい眼差しには深甚の憂愁をあらわすべし。小間使いなどを見かけたときにはひそかに目頭《めがしら》を拭《ぬぐ》うべし。小間使いに言葉をかけること〉
これはそっくりそのまま忠実に実行された。
〈おれのやっていることはだいぶ思い切ったことだぞ〉とジュリアンはフェルヴァック邸から出がけに思った。〈だがコラゾフには申し訳ない。あんなにまで道徳堅固で有名な女に臆面もなく恋文をつけるのだからな! 猛烈な軽蔑で迎えられるだろう。だがおれにとってそれ以上のお慰みはなかろうて。結局おれが面白いと思うことができるような芝居といえば、これだけしかない。そうだ、この自分という実に厭味な人間がさんざん嘲笑されるのを見たら、おれは愉快に思うだろう。もしおれが自分というものを信じられたら、気ばらしのために何か犯罪でもしてやるんだが〉
この一カ月ほどジュリアンの日常で一番楽しい瞬間は、馬を厩《うまや》にかえすときだった。コラゾフは、どんな理由であろうと心がわりをした恋人のほうへ目をやることをかたく禁じていた。しかし彼女はこの馬のひづめの音をよく知っていて、ジュリアンが誰かを呼ぶために厩の戸を鞭《むち》でたたくその叩き方にひかれて自分の部屋の窓のカーテンのかげへときどきやって来ることもあった。寒冷紗《かんれいしゃ》のカーテンはごく薄く、ジュリアンはそれを透かしてなかを見ることができた。うまく帽子の縁《ふち》のかげから目をやると、マチルドの目は見えずに胴体だけが見えた。〈だからむこうだっておれの目は見えない。だからこれはあのひとを見つめるということにはならんわけだ〉と彼は思っていた。
その夜、彼に対してド・フェルヴァック夫人は、今朝彼があんなに愁いをたたえて門番に渡した例の哲学的で神秘的で宗教的な作文を受け取りはしなかったような顔をしていた。前の晩ジュリアンは偶然にどうしたら雄弁になれるかということを知ったので、マチルドの目が見えるような席を取った。彼女のほうでも元帥夫人がやって来ると、さっそく青い長椅子《カナペ》から離れた。ド・クロワズノワ氏はまたもやこんな気まぐれをはじめられて面喰《めんく》らった様子だった。まざまざとあらわれた彼の苦悩を目にして、ジュリアンは自分の不幸から感じられる堪えがたい気持も紛れた。
こんな思いがけぬことがあったために、彼はすばらしく舌がまわるようになった。そして最も優れた道徳の殿堂となるような心のなかにも自尊心というものは忍びこむものゆえ、元帥夫人は辞去して自分の馬車に乗り込むときに、〈ド・ラ・モール夫人がおっしゃってたとおりだわ、あの若い坊さんはほんとうに傑《すぐ》れた人だ〉と心のなかで言っていた。〈きっと最初のころは、私がいたために気おくれしたにちがいない。実際この家で逢う人はみんな軽薄で、それ以外には年を取ったために道徳的になれたというような人ばかり、それも寄る年波で不感症になったればこそなのだ。あの若者は自分でもそういう相違に気がついているらしい。手紙の書き方も立派だ。ただ私がとても心配なのは、あの人は手紙で私にいろいろ意見を聞かせて導いてもらいたいと懇請しているけれど、これが実際は自分で気がついていないある感情からなのではなかろうか、ということだわ〉
〈けれどもこんな風にして回心がはじまった例は、今まで何度もあったことだわ! 第一この人に私が期待できるのは、私がこれまで折りに触れて見てきた若い人の手紙なんかと、その文体からしてまったくちがっているからだ。この若い聖職者の文章にある感動的な調子や衷心《ちゅうしん》からの真摯《しんし》さ、また確たる信条は、どうしても見まちがうことのできないものだ。きっとこの人はマシヨン〔十七世紀から十八世紀にかけてのフランスの聖職者〕みたいな柔和な徳を身につけるようになるだろう〉
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第二十七章 宗門の最上の地位
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勤め! 才能! 功徳! ばかばかしい。なにか一つの党派に属することだ。(『テレマック』)
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こうして、早晩フランス教会における最上の地位を自由に人に与え得ることになっている一人の婦人の頭のなかで、はじめて司教職という観念がジュリアンの名と結びつけられたのである。こういう利益もほとんどジュリアンの心を動かさなかった。今このとき彼にはどうしても目前の不幸と無関係なものを考えることができなかった。何につけてもこの不幸は増すのだった。たとえば自分の部屋を見ることすらが、彼には堪えられなくなった。夜になって彼が蝋燭《ろうそく》を手にして自分の部屋へ帰って行くと、あらゆる家具、あらゆるささやかな装飾が声を発して、何かこれまでには感じなかった自分の不幸の細かい点を無慈悲に告げ知らせようとするかに思えるのであった。
〈今日は是非やらねばならぬ仕事がまだあるんだ〉と、部屋にかえりながら彼はここ久しくのあいだ感じられなかった活発な気持で言った。〈二番目の手紙も最初のと同じくらい退屈なものだと覚悟しておくことにしよう〉
その手紙は、前のよりはるかに退屈なものだった。自分の写しているものが実に馬鹿げたものに思われて、しまいには意味も考えずにもっぱら行を追って筆写するようになってしまった。
〈ロンドンで外交問題の教授から筆写を命ぜられたあのミュンスター条約の公文書よりも、こいつのほうがもっと大袈裟《おおげさ》だわい〉と彼は心に思った。
やっとこのときになって、彼はド・フェルヴァック夫人の手紙のことを思い出した。この手紙を写し取ってからあの真面目くさったスペイン人のドン・ディエゴ・ブストスに返すことになっていたのを彼は忘れていたのだ。捜し出して見ると、この手紙もまた実際あのロシアの青年貴族の手紙とほとんど同じ程度に支離滅裂であった。まったく曖昧模糊《あいまいもこ》としているのだった。すべてを言い尽くそうとし、しかも何事をも言うまいとしている。こいつは風奏琴《アルプ・エオリエンヌ》〔戸外に吊るしておくと風に当たって自然に音色を発する一種の弦楽器〕みたいな文体だな〉とジュリアンは思った。〈虚無とか死とか無限とかいったことについてのきわめて高遠な思想がならべられているなかで、本当のものといえば嘲笑されはしないかという恐ろしい不安のほかはないじゃないか〉
ここに私が要約したような独白はひきつづき二週間もくりかえされたのである。『黙示録』の註釈というような手紙を写しながら居眠りをし、翌日その手紙を憂愁をたたえたような顔をして持って行き、マチルドの服が見えないだろうかという期待をいだきながら厩に馬をつなぎに行く、仕事をし、夜になってド・フェルヴァック夫人がラ・モール邸に来ないときはオペラ座に顔を出す、これがジュリアンの生活にくりかえされる単調な事件であった。こういった生活もド・フェルヴァック夫人が侯爵夫人のところへ来たときにはちょっと面白くなった。そういうときには元帥夫人の帽子の縁の下からマチルドの目をちらちら見ることができた。そうして彼は弁舌をふるった。彼の形容の多い感傷的な美辞麗句はますます目覚ましく、ますます優雅なものとなりはじめるのだった。
自分の言うことがマチルドからは愚にもつかぬものと思われるということは彼にも十分わかっていたが、しかし彼は自分の言葉づかいの優雅さで彼女を驚かそうと思っていた。〈おれの言っていることが嘘であればあるほどあの人の気に入るにちがいない〉とジュリアンは思った。そうして彼はまったく言語道断なあつかましさで、ひどく誇張した自然描写をやって見せた。元帥夫人から月並みだと思われないようにするためには、特に単純で筋の通った考えを滅多に口にしないようにしなければならないと、彼はじきに気がついた。こうして彼は、好意を得ようとしているこの二人の貴婦人の目から、うまく行ったかそれとも相手の興味を惹いていないかを読み取って、それに応じてこの誇張した話をつづけたりはしょったりした。
全体として彼の生活は、為すところもなく手をつかねて日々を過ごしていたころにくらべて、それほど苦しいものではなくなっていた。
〈しかし〉と彼はある晩、心に思った。〈おれは今こうやってあの忌々《いまいま》しい作文の十五番目のやつを写している。はじめの十四通はちゃんと元帥夫人の家の門番にわたした。そのうち夫人のデスクの抽斗《ひきだし》をおれの手紙でいっぱいにさせていただくことになろう。それなのに夫人はおれが全然あんな手紙を書かなかったようなあしらいをする! こんなことをやっていて、結局どんなことになるのだろう? おれがこんなに根気よくやっていることが、おれ自身にとって退屈なのとおなじくらいあのひとにも退屈なのだろうか? リッチモンドの美しいクエーカー教徒の女に惚れたというそのコラゾフの友だちのロシア人は、この手紙を書いていたときにはよっぼどたまらない男だったにちがいない。これ以上うるさがらせな真似なんかあるもんじゃない〉
ぼんくらな人間がたまたま傑《すぐ》れた将軍が機動演習をやっているところを見せられたのと同じに、ジュリアンはその若いロシア人が美しいイギリス女のハートにむかってした攻撃の意味がまったくわからなかった。はじめの四十通の手紙はそういう風に大胆に手紙を書くのを許してもらうことだけを目的としたものだった。おそらく非常な倦怠を味わっているにちがいないこの温雅な婦人に、彼女の毎日の生活よりも多分いくらか面白味があるかもしれぬ手紙を受け取ることを、一つの習慣にさせるようにしなければならなかったのである。
ある朝ジュリアンは一通の手紙を渡された。彼はド・フェルヴァック夫人の家の紋章を認めて、その数日前ならば到底そんな風にはなれなかったと自分にも思われるほどの性急さで封を切った。それは晩餐の招待状にすぎなかった。
彼はあわててコラゾフ公爵の注意書きを読んだ。あいにくこの若いロシア人は、簡潔で明快であるべき箇所でさえドラ〔十八世紀の詩人。軽薄な技巧倒れの典型とされている〕みたいに軽薄な書き方をしている。それゆえジュリアンは、元帥夫人の晩餐の席でどういう精神的態度を取るべきか見当がつかなかった。
サロンは華麗をきわめ、チュイルリー宮のディアーヌ廊堂のように金に塗られて、塗り壁にはいくつかの油絵が飾られていた。その絵にはところどころ色の薄い部分があった。ジュリアンは後になって、その主題がこの家の女主人にはあまり上品ではないと思われたので彼女の命令で修正されたのだということを聞いた。〈|道徳的な世紀《ヽヽヽヽヽヽ》!〉と彼は考えた。
このサロンで彼は密書の作製に加わっていた人物が三人いるのに気がついた。そのうちの一人で元帥夫人の伯父にあたる***の司教|猊下《げいか》は僧職任免権を独占しており、姪《めい》の言うことは何一つ拒むことができないという話だった。〈おれも実際すばらしい前進をしたものだ〉とジュリアンは憂鬱な気持で微笑しながら心に思った。〈だがそんなことはおれには実に興味のないことなんだ! おれは今こうやって、あの有名な***の司教と同じ席で晩餐しているんだが〉
晩餐は平凡で会話は我慢できぬようなものだった。こいつはまるでくだらぬ本の目 次みたいなもんだ〉とジュリアンは思った。〈人間の思想の最も重大な主題のすべてがここでは得意気に論ぜられている。だが三分も聞いていれば、話している奴の誇張のほうがひどいか、それとも呆《あき》れかえるほどの無知のほうがひどいか考えさせられちまうな〉
読者はもちろんアカデミー会員の甥《おい》で、将来教授となるべきタンボーという名のあのちんぴら文士のことなどお忘れになっていることだろう。下劣な誹謗《ひぼう》を放ってラ・モール邸のサロンの空気を毒そうとするのを役目にしていたかに見えるあの男のことである。
この下らぬ男のおかげでジュリアンは、ド・フェルヴァック夫人が自分の手紙に返事をよこさなくても、自分にこういう手紙を否応なく書かせてしまった感情を寛大な気持で見ているのではなかろうかと、はじめて考えるにいたったのである。タンボー氏の陰険な心はジュリアンの成功のことを思うと張り裂けるようだった。だが一方から言えば、いかに才能ある人物といえども馬鹿者と同様同時に二箇所にいるわけにはいかないのだから、〈もしあのソレルが気高い元帥夫人の情人になったら、夫人はあいつに教会のなかの何か有利な地位を与えるだろう。そうなればおれはラ・モール邸であいつに煩わされずに済むというものだ〉とこの未来の教授は心のうちで言っていたのだ。
ピラール師もまたフェルヴァック邸での成功について彼に長いお説教を聞かせた。厳格なジャンセニストと徳の高い元帥夫人のジェズイット的で革新的で王政主義的なサロンとのあいだには、宗派的偏見《ヽヽヽヽヽ》が存在していたのである。
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第二十八章 マノン・レスコー
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ところで彼は修道院長の愚かさ間抜けぶりを見きわめてしまうと、白いものを黒と言い、黒いものを白と呼んで、まずまず大抵の場合は言いくるめてしまうことができた。(リヒテンベルク)
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ロシア人の注意書きには、手紙をさしだす相手の女と話しているときは決して逆らってはいけないと厳しく命令してあった。いかなる理由によっても、有頂天になって讃仰している男の役割から逸脱してはならないのであった。手紙はいつもそういう仮定のもとに書かれねばならなかった。
ある夜オペラ座のド・フェルヴァック夫人の桟敷で、ジュリアンは『マノン・レスコー』のバレエを口をきわめて賞讃した。彼がそうした理由はただこれがまったく取るに足りぬものだと思ったからにすぎなかった。
元帥夫人はそのバレエはアベ・プレヴォの小説よりずっと劣ると言った。
〈これはまたどうしたことだ!〉とジュリアンは驚きもし面白くも思いながら心に思った。〈こんな高徳の人が小説を褒《ほ》めるなどとは!〉ド・フェルヴァック夫人は週に二、三度、このような安っぽい小説によって遺憾ながらあまりにも官能の過ちにおちいりやすい青年たちを堕落させようとしている作家たちを、完膚《かんぷ》なきまでにこきおろすことを売り物にしていたのである。
こういう不道徳で危険な種類のもののうちで、『マノン・レスコー』は」と元帥夫人はつづけた。「第一流のものの一つだという話です。罪深い心にふさわしい弱さと苦悶とが深刻なまでの真実さで描かれているそうです。そうはいってもあなたのボナパルトはセント・ヘレナで、これは下僕のために書かれた小説だと断言したということですけれど」
この言葉を聞くと、ジュリアンの心はすっかりもとの緊張を取り戻した。〈おれが元帥夫人の不興を買うようにした奴がいる。ナポレオンに対するおれの熱狂を夫人に言いつけやがったんだ。そのために夫人はだいぶおかんむりをまげて、ついおれにその気持を思い知らせようとしてしまったんだ〉
この発見がその夜のあいだじゅう彼を楽しませ、彼は愛想がよくなった。オペラ座の玄関口で彼が元帥夫人に別れをつげると、「私を愛している人はボナパルトに好意を持ったりするものではありませんよ、よくおぼえていてください」と夫人は彼に言った。「あんな人はせいぜい神様の摂理《せつり》でやむなく必要とされたのだと思って認めてやるだけです。それにあの男には芸術の傑作を鑑識できるだけの柔かみのある心などなかったのです」
〈|私を愛している人は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!〉とジュリアンは何度も言った。〈こいつはまったく意味がないか、あるいはあらゆる意味を含めているかだ。われわれ哀れな田舎者なんかには考えも及ばない言葉の綾《あや》だ〉そうして彼は元帥夫人に宛てて出す馬鹿に長い手紙を写しながら、しきりにド・レナル夫人に想いをよせた。
翌日彼女は、彼にはその裏が見えすいた無関心を装った顔で言った。「オペラ座からお帰りになってからだろうと思いますけど、昨夜あたしにお書きになった手紙で、ロンドンやリッチモンドのことばかり言っていらっしゃったのは、いったいどうしたわけなのでしょう?」
ジュリアンははなはだ狼狽した。自分の書いていることの意味など考えもせず行を追って写しているうちに、原文のなかにあるロンドンやリッチモンドという言葉をパリやサン・クルーになおすことを忘れてしまったのだ。二つ三つの言い訳の文句を言い出したが、到底しまいまで言えたものではなかった。狂ったように笑い出しそうな気持を抑えられないような気がしたからだ。とうとう言い訳のことばを捜しながら、こういうことを思いついた。
人間の魂についての最も崇高な、最も重大な問題を論じたために昂奮していて、あなたにお手紙を書いていたとき私自身の魂はあらぬ方へ行ってしまっていたのかもしれません」
〈どうだ、感心したろう〉と彼は心に言った。これで夜の眠るまでの時間を退屈しないで過ごせる〉彼は急いでフェルヴァック邸を出た。その夜、前夜写した手紙の原文を見なおすと、例のロシア青年がロンドンとリッチモンドのことを書いている箇所がすぐ見つかった。ジュリアンはこの手紙がほとんど愛情のこもっているものなのに気がついてだいぶ驚かされた。
特に目立っているところは、しゃべることが一見いかにも軽佻なのにひきかえて、その手紙には崇高な、ほとんど黙示録的な深遠さがあるという、その対照にあるのだった。文章が長いということが特に元帥夫人の気に入った。これはあのひどく不道徳な人間だったヴォルテールが流行《はや》らせた文体ではないのだ! われわれの主人公は自分の話すことのうちからあらゆる種類の良識《ボン・サンス》を追い出そうと最善の努力をしたけれども、まだ反王政主義的で反宗教的な色彩が残っていて、それをド・フェルヴァック夫人は見逃さなかった。すぐれて道徳的ではあるが一晩を通して何ひとつ才気を見せられぬようなことがよくある人々に取り巻かれていたので、この貴婦人は目新しく思われることには何にでも深く心を打たれるのであった。だがそれと同時に彼女は、そういうときに腹を立てねばならない義務があるように思っているのだ。彼女はこういう欠点を、世紀の軽佻浮華の痕《あと》をとどめていると言っているのであった……
だがこのようなサロンは、何か求めるところがなければ行って見てもおもしろくはない。したがって、近頃ジュリアンが送っているこの興味のない生活の倦怠は、読者にもきっと十分わかっていただけるだろう。これはわれわれが旅行のなかで出逢う荒野みたいなものである。
ジュリアンの生活のなかでド・フェルヴァック夫人とのつまらぬかかわりあいで潰《つぶ》されてしまった期間を通じて、ド・ラ・モール嬢は決して彼のことなど考えないという決心に堪えて行かねばならなかった。彼女の心は激烈な葛藤に悩まされていた。時として彼女はこのひどく陰気な青年を軽蔑しているのだと自惚れることもあった。だが彼の会話には我にもあらず心を奪われてしまう。彼女を持に驚かせたものは彼の完璧な偽善だった。彼が元帥夫人に言うことは一言として嘘ではないものはなかった。あるいはすくなくとも、マチルドがほとんどすべての題目について隅から隅まで知り抜いていたいつもの彼の考え方を、徹底的にごまかしたものでないものはなかった。このマキアヴェリスムに彼女は驚嘆した。〈何という底の知れぬ人だろう!〉と彼女は心に思った。〈同じ言葉をつかっても、タンボーさんみたいな大袈裟《おおげさ》なおしゃべり屋やそこらへんにいる悪党などとくらべると、何という違いだろう!〉
実はジュリアンは苦しい日々を送っていたのである。彼が毎日元帥夫人のサロンに顔を出していたのは彼の義務とするところの最も困難なものを遂行しようがためだった。一つの役割を演じようとする彼の努力は彼の精神からあらゆる力を奪い取ってしまった。しばしば夜おそくフェルヴァック邸の宏荘な中庭を横切りながら、彼が辛うじて絶望に沈むまいとこらえていられたのは、もっぱら意志と理智の力のみに頼ってだった。
〈おれは神学校で絶望に打ち勝った〉と彼は心のなかで言った。〈けれどもあのときの将来の見透しといえば何と恐ろしいものだったろう! 出世をするか、しそこなうか、そのどちらの場合にしても、結局おれはこの地上で最も軽蔑すべき最も不愉快な奴らと一生鼻をつきあわせて暮らさにゃならぬものと思っていた。わずか十一カ月後のその翌年の春には、おれはおそらく同年輩の青年たちのなかで一番幸福な人間になっていた〉
だがこういった立派な理屈をいくらならべても、やりきれぬ現実に対しては何の足しにもならないこともしばしばだった。毎日、彼は昼食と晩餐のときにマチルドの姿を見た。ド・ラ・モール氏の口授で書いた無数の手紙によって、彼は近日中に彼女がド・クロワズノワ氏に嫁ぐことを知っていた。この愛すべき青年はもう日に二度もラ・モール邸にやって来るようになっていた。棄てられた恋人の嫉妬の目は、彼のすることなすことを何一つ見落しはしなかった。
ド・ラ・モール嬢がその婚約者を迎えてやさしくしているように思えると、自分の部屋にかえってジュリアンはピストルをいとしむように見つめずにはおられなかった。
〈ああ! 下着から商号をはぎ取ってパリから二十里ほど離れたどこかの人気ない林のなかへ行き、この呪わしい生活にけりをつけてしまったほうがどれほど賢明なことだろうか! このあたりの地方では顔を知られていないのだから、おれの死んだことも二週間はわからないだろうし、そうして二週間もたってしまえば、おれのことなんかおぼえている奴はいるものか!〉
この理屈ははなはだ賢明ではあった。しかし翌日、服の袖《そで》とマフのあいだからマチルドの腕をちらと覗《のぞ》いただけで、もうこの若い哲学者は無惨な回想のうちに溺れてしまうのであった。そうしてその回想がそれでも彼を生につなぎとめてしまうのだ。〈よし!〉と、そういうとき彼は心に言うのであった。
〈あのロシア人の策略を最後までやり通してみよう。どういう結果になるだろうか。元帥夫人のほうには、むろんこの五十三通の手紙を写してしまったらもうそれ以外に手紙なんか書きはしない。マチルドに対しては、この六週間もつづいた苦しい喜劇が彼女の怒りをまったく変え得ないか、あるいはほんの一瞬でもこれで和解が得られるかだ。ああ、ほんとにそういうことになったら、おれは幸福のあまりに死んでしまうだろう!〉
それ以上、彼は考えをまとめることができなかった。
長い夢想のうちにやっとまたもとの思索にかえれるようになると、〈それでおれが幸福な一日を得るとして、そのあとでまたおれがあの女の気に入るようにする能力がないというので、ああ! それも当然のことだが、あの女はまた例のとおり手厳しくいためつけはじめるんだろう。そうすりゃおれにはもうどうにも手の出しようがないし、さんざんにやられて永久に破滅してしまう……。
あんな性格だとすれば、どんな心の保証を彼女から受けることができよう! ああ、何をやっても、おれの無能があらわれて来る。おれの物腰にはこれから先だって優雅さはあるまいし、物の言い方は鈍重で単調だろう。ああ、ほんとになぜおれはおれなんだろう!〉
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第二十九章 倦怠
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自己の情熱のために身を犠牲にする、よかろう、だが自分の持たぬ情熱のために身を犠牲にするとは、ああ、悲しき十九世紀よ!(ジロデ)
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はじめは何の楽しみもなくジュリアンの長ったらしい手紙を読んでいたが、やがてド・フェルヴァック夫人はこの手紙に気を取られるようになりはじめた。しかしある一事が彼女の心痛の種となっていた。〈あのソレルさんがほんとうにお坊さんになっていないなんて、何という残念なことだろう。それならあの人と親しくしてやっていいのだけれど、何しろあの人は世俗の人とほとんど同じと言っていいあんな服を着てあんな勲章をつけているのだもの、何のかんのと人から手厳しいことを言われるかもしれないし、そうなったら何て返事していいかわからない〉夫人は最後まで考えてみようとはしなかった。〈だれか意地のわるいお友だちの女《ひと》が、あの人のことを私の父の親戚で、国民軍《ガルド・ナシオナル》で勲章をもらった何かの商人で、身分の低い従弟《いとこ》だなどという風に想像し、そればかりかそんなことを言い触らすかもしれない〉
ジュリアンに逢う瞬間までのド・フェルヴァック夫人の最大の楽しみといえば、自分の名のわきに元帥夫人《ヽヽヽヽ》と書き添えることだった。だが彼に逢ってからは、夫人のいかにも成り上がり者らしい、どんなことにでもすぐ傷つけられる病的な虚栄心は、芽生えかけた好意とたたかっていたのである。
〈あの人をパリに近いどこかの教区の副司教にしてあげることも、ごく容易なことなのだ!〉と元帥夫人は心に思った。〈けれどもただ簡単にソレル氏というだけでは、それにまたド・ラ・モール氏のつまらない秘書というんでは! ほんとうに情けないこと〉
ここにはじめて、この|何事につけ戦々兢々としてい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|る心《ヽヽ》は、身分や社会的優越を求める野望と縁のない事柄への興味に動かされたのである。夫人の家の門番の老人も、あの悲しげな顔つきをした美青年の手紙を持って行けば、元帥夫人が自分の召使いがやって来るとかならずわざと顔色に見せるあの無関心な不満そうな様子がきまって消えてしまうことに気がついた。
世間体をよくすることにばかり汲々《きゅうきゅう》としていながら、それに成功した場合にも心底ではいっこう嬉しくはなれないという生活態度は、元来倦怠をもよおさせるものであるが、ジュリアンのことを考えるようになるとこんな倦怠は実に堪えられないものとなり、そのため夫人が前夜一時間でもこの一風変わった青年と過ごすことができさえすれば、翌日は一日じゅう夫人の小間使いたちはいじめられないですむというほどにまでなったのである。彼を信じる心が芽生えかけて来て、いかにも巧みに書かれた匿名《とくめい》の中傷の手紙など受け取っても、なかなかそんなものには動かされなかった。あのタンボーがド・リュス氏やド・クロワズノワ氏やド・ケリュス氏の耳にまことしやかな中傷を二つ三つ注《つ》ぎこみ、またこれらのお歴々もいい気になってその非難が真実なものかを大してたしかめもせずに言いふらしたものだが、それも何の甲斐もなかった。元帥夫人の心はもともとこんな卑しいやり方に反発するようなたちではなかったので、疑惑が起こるとマチルドに打ち明けたが、答えを聞いていつも安心するのだった。
ある日ド・フェルヴァック夫人は手紙が来ていないかと三度も訊いてみたあげく、急にジュリアンに返事を書いてやろうと決心した。倦怠がこの夫人を負かしてしまったのだ。だが二番目の手紙を書くと、元帥夫人は自分の手で|ド《ヽ》・|ラ《ヽ》・|モール侯爵様方《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|ソレル様《ヽヽヽヽ》などというこんな俗っぽい宛名など書くのは具合が悪いので、つづけて書く気がほとんどなくなってしまった。
「あなたの宛名が書いてある封筒を私のところへ持って来ておいていただかねばなりません」と彼女はその夜ひどくそっけない顔をしてジュリアンに言った。
〈これでおれも恋人役の侍僕を仰せつかったわけだ〉とジュリアンは思った。そうして彼は面白半分に侯爵の老侍僕のアルセーヌみたいな老いぼれた顔をして見せて頭をさげた。
その夜のうちに彼は封筒を持って行った。すると翌日早朝に三番目の手紙を受け取った。彼は最初の五、六行と終わりのほうの二、三行を読んでみた。四ページにわたる、細字のみっしり詰まった手紙だった。
ほとんど毎日手紙を書くというしんみりとした習慣がだんだんにできてきた。ジュリアンはその返事にあのロシア人の手紙をそっくりそのまま写して送った。だが、これが誇張的文体の優れている理由であるが、ド・フェルヴァック夫人は自分の手紙とそれに対する返事とのあいだにほとんどまったく関連がないのをすこしもあやしまなかったのだ。
すすんでジュリアンの動静をスパイすることを買って出たタンボーが、夫人の手紙がまったく開封もされずにジュリアンの抽斗《ひきだし》のなかへほうりこまれていると彼女に知らせてやることができたとすれば、彼女の自尊心はいかばかり憤激に燃えたったであろう!
ある朝、門番が図書室へ元帥夫人の手紙を一通持ってきた。マチルドは門番とすれ違って、その手紙とジュリアンの字で書かれた宛名とを目にとめた。門番が出るのと入れ替りに彼女は図書室にはいった。手紙はまだテーブルのはしに置いてあった。ジュリアンは書き物にすっかり気を取られていたので、その手紙を抽斗のなかへ入れておかなかったのだ。
「こんなこと、あたしもう我慢できません」とマチルドは手紙を引ったくって叫んだ。「あなたはもうあたしのことをすっかり忘れてしまったのね、あたしはあなたの妻じゃありませんか。おそろしい仕打ちをなさるのね、あなたは」
こう言ったかと思うと、彼女の自尊心は自分のやったことが実に恐ろしいほどはしたないことだったのに驚愕《きょうがく》して、声が出なくなった。彼女は泣きくずれた。それを見ているとジュリアンは彼女の息が止まるのではないかと思った。
不意を打たれ狼狽したジュリアンは、この激しい言葉がどれほど自分にとってすばらしい、また喜ばしいものであるかということを理解し得なかった。彼は手をかしてマチルドを坐らせた。彼女はほとんど彼の両腕のなかに身をゆだねていた。
彼女のこのような動作に気がついた最初の一瞬は極度の歓喜に満たされた。次の瞬間に彼はコラゾフのことを考えた。〈一言言ったら何もかも失ってしまうかもしれぬ〉
彼の両腕は硬ばった。駆け引きのためやむなくする努力がそれほど彼には辛かったのだ。〈このやわらかい美しいからだを胸に押しつけるような真似さえしてはいけないのだ。そんなことをしたら、またおれは軽蔑され虐待されるだろう。何という恐ろしい性格だ!〉
そうしてマチルドの性格を呪いながらも、彼はその性格ゆえに百倍も彼女を愛《いと》しく思った。自分の腕のなかに女王を抱いているような気がした。
ジュリアンのいささかも動じない冷やかさがド・ラ・モール嬢の心を引き裂き、自尊心を傷つけられた悲しみを倍加した。この瞬間に彼が自分に対して何を感じているかということを彼の目から読むためには冷静さが必要であったが、そんな冷静さは到底得られるものではなかった。彼の顔を見る気にさえなれなかった。侮蔑の表情で迎えられないかと恐れていたのである。
図書室の蒲団椅子《ディヴァン》に坐って身動きもせずにジュリアンには顔をそむけながら、彼女は自尊心と愛情とが一人の人間の心に味わわせ得るかぎりの最も激烈な苦痛にさいなまれていた。何というおぞましいことをしでかしてしまったのだろう!
〈ああ、あたしはほんとに不幸だわ、こちらからあんなことを言い出すなどという、これ以上とはないあられもない真似をやりながら、それまではねつけられてしまったのだ! しかも誰にはねつけられたのだろう?〉と苦悩に狂乱した彼女の自尊心は思いつづけるのだった。〈あたしの父の召使いからじゃないの〉
「これはもう我慢できないわ」と彼女は声高に言った。
そして怒り狂って立ち上がりざま、彼女は自分の前二歩ばかりのところにあるジュリアンの机の抽斗を開けた。門番がさきほど持って来た手紙とまったく同じ手紙が八、九通開かれもせずそのなかにはいっているのを見ると、彼女は恐怖にすくみあがったように凝然とした。その宛名を見ると、多かれ少なかれ字体を変えてはあったが、ジュリアンの字だとわかった。
「それでは」と我を忘れて彼女は叫んだ。「あなたはあの方と仲好くしているだけでなく、あの方を軽蔑までしていらっしゃるのね。あなたのような身分の卑しい人がド・フェルヴァック元帥夫人を軽蔑するなんて!」
「あら! 赦《ゆる》してちょうだい、あなた」と彼女は彼の足もとに身を投げながら言った。「あたしを軽蔑するなら軽蔑してもいいわ、けれどあたしを愛してちょうだい。あたしはもうあなたから愛されなかったら生きられないの」そう言って彼女はほんとうに失神して倒れた。
〈これでとうとう、この傲慢《ごうまん》な女もおれの足もとに身を投げているのだ!〉とジュリアンは心に思った。
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第三十章 喜歌劇の桟敷
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一番暗い空が一番激しい暴風《あらし》の兆しとなるように。(『ドン・ジュアン』第一章七十三節)
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こういう激しい動揺のさなかにあって、ジュリアンは幸福を感ずるよりも驚愕していた。マチルドから今ああ罵《ののし》られてみて、あのロシア人の計略がいかに聡明なものであったかがわかった。〈|あまりしゃべらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あまり行動しないこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、これがおれの救われる唯一の手段だ〉
彼はマチルドを引き起こしたが、一言も言わずまたディヴァンの上にかえした。だんだんに彼女の涙ははげしくなった。
体裁をつくろうために、彼女はド・フェルヴァック夫人の手紙を手に取ってゆっくりと開封した。元帥夫人の字体を認めると、彼女ははっきりとそれとわかるほど神経的にふるえた。読みもせず彼女はその手紙をめくっていった。多くのものは六ぺージもあった。
「せめてあたしに返事してちょうだい」と、とうとうマチルドはきわめて哀願的な声音で、だが思い切ってジュリアンに目をやることはできずに言った。「あたしが自尊心が強いのは、あなたもご存じです。この不幸はあたしの境遇、そればかりかあたしの性格からも来ているものですわ、それはあたしも認めます。だからド・フェルヴァック夫人にあなたの心を横取りされたのだわ……あたしがあの宿命的な恋に曳かれてあなたに捧げてしまったような犠牲とすっかり同じだけのものを、あの方もあなたにしてしまったのでしょうか?」
陰鬱な沈黙がそれに対するジュリアンの答えのすべてであった。〈どんな権利があってこの女は、まともな人間なら訊けないようなぶしつけなことを訊くのだろう?〉と彼は思った。
マチルドは例の手紙を読もうとしてみた。だが涙の溜まった目ではどうしても読めるはずがなかった。
この一カ月、彼女は不幸な気持でいたのだ。だがこの驕慢《きょうまん》な心では自分のそういう感情を自認することはとてもできなかった。まったく偶然のみがこういう爆発にまで彼女を導いたのである。束の間の嫉妬と愛情が自尊心に打ち克った。彼女は彼のすぐそばのディヴァンに坐っていた。彼は彼女の髪と雪白の首筋を見た。一瞬彼は自分の義務としていたことをすっかり忘れた。片腕を彼女の胴にまわしてほとんど彼女を自分の胸に抱きしめかけた。
彼女はゆっくりと顔を彼のほうへ向けた。彼は相手の目に極度の苦悩を見て愕然《がくぜん》とした。そこに彼女の日ごろの目つきを見出すことはできないほどだった。
ジュリアンは自分の力が虚脱していくのを感じた。断然やりとげねばならぬと自らに課したその行為が、それほど彼には堪えがたく苦しかったのだ。
〈もしおれがずるずると愛する幸福に溺れてしまったら、やがてこの目はもうまったく冷やかな軽蔑のみしかあらわさぬようになるだろう〉そう彼は心に思った。けれどもこのとき彼女は消え入りそうな声で、ほとんど言葉をしまいまで言い切る力もないというように、あまりの自尊心に促されてしてしまったああいう仕打ちの数々を自分はいま深く侮んでいると何度も何度も断言するのだった。
「ぼくだってやはり自尊心を持っています」とジュリアンはようやく声に出して言った。そして彼の表情は極度の体力の衰耗《すいもう》をまざまざとあらわしていた。
マチルドははげしく彼のほうを振り向いた。彼の声が聞けるということすら、彼女がほとんどその希望を失っていた幸福であったのだ。この瞬間に彼女は自分のかつての高慢さを思い出しては、ひたすらにそれを呪った。いかほどまでに自分が彼を愛しており自分を嫌悪しているかを彼に証《あか》しするために、何かなみはずれた途方もないやり方がないかとまで思いもした。
「おおかたその自尊心のためでしょう」とジュリアンはつづけた。「一時あなたがぼくを特別目にかけてくださったのは。あなたが今ぼくを尊敬してくださるのは、たしかにこの男子たるものにふさわしい勇敢な決断力のためです。ぼくは元帥夫人に愛情を持つこともできます……」
マチルドはふるえあがった。その目は異様な表情を帯びた。いよいよ判決が下されようとしているのだ。この心の動きをジュリアンはすこしも見逃さなかった。彼は勇気がくじけるのを感じた。
〈ああ〉と彼は自分の口から出る無意味な言葉の響きを、さながら自分とは縁のない雑音のように聞き流しながら心に思った。〈おまえにはわからないようにその蒼白い頬の上に接吻の雨を注いでやることができたら!〉
「ぼくは元帥夫人に愛情を持つことができるのです」と彼はつづけた……が、彼の声はますます力がなくなっていくのだった。「しかしもちろん夫人がぼくに好意を持っているという決定的な証拠などまったく握っていないのですが」
マチルドは彼の顔を見た。彼はその視線に堪えた。すくなくとも彼は自分の顔つきから本心をさとられないようにすることができたと思った。自分の心の一番深い襞《ひだ》にまで彼は愛情がしみわたっているのを感じていたのだ。これほどまでに彼女を熱愛していたことは一度もなかった。彼自身ほとんどマチルドと同じくらい正気を失っていた。もし彼女が策を弄《ろう》するだけの冷静さと勇気を取り戻せたら、一切の無意味な喜劇を振りすてて彼は彼女の足もとに身を投げたであろう。彼はまだしゃべりつづけるだけの気力を保っていた。〈ああ、コラゾフさん〉と彼は心ひそかに叫んだ。〈あなたがここにいてくれたら! どう振る舞うべきか教えてくれる一言を今おれはどれほど必要としていることか!〉心のなかではそう思いながらも、彼の声のほうはこう言っていた。
「ほかに何らの感情がなくても感謝の気持だけでぼくは十分元帥夫人に愛着が感じられるのです。夫人はぼくに寛大にしてくださいましたし、ほかの人から軽蔑されたときには慰めてくださいました……ぼくはもう外見だけはたしかに極端に嬉しがらせをするけれどもその反面まったく長持ちしそうもないような態度に、全幅の信頼を寄せることはできないのです」
「まあ、何ということを!」とマチルドは叫んだ。
「それじゃいったい、あなたはぼくにどんな保証をしてくださいます?」そうジュリアンは言い、断固とした、そして一瞬は外交的な慎重な体裁など捨て去ったように見える口調で言った。「どんな保証が、どんな神が、今あなたはぼくをもとのような地位にかえそうという気持になっておられるらしいけれど、それがまあ二日以上もつづくと請け合ってくれますか?」
「あたしのかぎりない愛情と、それから、もしあなたに愛していただけなければ極度の不幸に陥ることと、それが保証だわ」と彼女は彼の両手を取って彼に顔を向けながら言った。
そうした激しい動作のために彼女の肩掛けがいくらかずれた。ジュリアンは彼女の惚れ惚れとするような肩を目にとめた。やや乱れた彼女の髪の毛を見てこよなく甘美な追憶がよみがえった。
彼は屈服しかけていた。〈一言軽率なことを言ったら、またあのように何日も何日も絶望に沈んで暮らすことになる〉と彼は心に思った。〈ド・レナル夫人は何かと理屈をつけて自分の心の命ずるままにしたがったものだ。ところがこの上流社会の小娘はちゃんとした理屈によって感動すべきだと証明されぬかぎり、自分の心が感動するままに任せておいたりしやしない〉
彼はこの事実を一瞬にしてさとった。そして一瞬にして彼はまた勇気を取り戻した。
彼はマチルドがその手のうちに握りしめていた自分の手を引っ込めると、ことさらにうやうやしく彼女からいくらか離れた。男として出し得るかぎりの勇気をふるい起こしたのである。それから彼は脇目もふらずにディヴァンの上に散らかっていたド・フェルヴァック夫人の手紙を全部集めはじめた。しかもこの場合としてはいかにも残酷な極度の慇懃《いんぎん》さをよそおってこう付け足したものだった。
「畏れながらこのことはよくよく熟考させていただきたく存じます」彼は足早にその場を離れて図書室を立ち去った。彼が次々に扉をしめていく音が彼女には聞こえた。
〈血も涙もないんだわ、まったく心を動かしもしない〉と波女は心に言った……
〈まあ、あたし、血も涙もないんなんて、何てことを言ったんだろう! あの人は聡明で、慎重、気だてがいいのだわ。想像もつかないほどの悪いことをしたのはこのあたしなのだ〉
こういう物の見方は一時的のものではなかった。マチルドはこの日ほとんど幸福と言ってよかった。なぜなら彼女はすっかり愛に溺れ切っていたからだ。まるでこの心が自尊心に動かされたことなど全然ないというようだった。いわんやあのような自尊心などに!
その晩サロンで一人の侍僕がド・フェルヴァック夫人の来訪を報じたとき、彼女は恐怖に震え上がった。その侍僕の声が彼女には不吉に思えた。彼女は元帥夫人の姿を見るに堪えず、急いでそこを離れた。自分の得た苦しい勝利を誇る気のなかったジュリアンは、自分がどんな目つきをするだろうかと下安に思われて、ラ・モール邸の晩餐には出ていなかった。
彼の愛情と彼の幸福感とはあの戦いの瞬間から遠ざかるにつれて急速に増した。彼はもはやそのことで自分自身を非難するまでになっていた。〈どうしておれはあの人の意に逆らったりできたのだ〉と彼は心に言った。〈もしあの人がもうおれを愛さないなんていうことになったら! ほんの一瞬で、あのような倨傲《きょごう》な女のことだからすっかり気が変わるかもしれない。しかもおれは何といったってあんまりひどいあしらいかたをしてしまった〉
夜、彼はどうしても喜歌劇《ブッフ》のド・フェルヴァック夫人の桟敷に顔を出さねばならないような気がした。夫人がしきりに勧めたのだった。どうせマチルドが、彼がそこへ行ったかそれとも礼を欠いて行かなかったかを知らずにすますことはあるまい。こういう理屈はいかにも明々白々ではあったが、宵の口からそういう交際社会へ入っていくだけの気力は彼にはなかった。人と話したら、自分の幸福が半ば失われてしまいそうだった。
十時が鳴った。どうしても顔を見せに行かねばならなかった。
行ってみるとさいわい元帥夫人の桟敷はご婦人方で満員で、彼はずっと扉のそばにしりぞけられて、みんなの帽子で隠されることになった。このような位置にいたため、彼は物笑いになるところを救われた。
≪Matrimonio segreto(スタンダールの愛好したチマローザ作曲の喜歌劇『秘密の結婚』)≫のカロリーヌの霊妙な絶望の節まわしを聞いて、彼は涙にくれた。ド・フェルヴァック夫人はその涙を見て取った。その涙は平生の彼の顔つきにあらわれている雄々しい剛毅さとはあまりに対照的だったので、成り上がり者の慢心のきわめて腐食的な作用に長いあいだのうちにすっかり毒され切っていたこの貴婦人さえ、ついこれに心を打たれたほどだった。わずかに残った女らしい情に動かされて、彼女は言葉をかけようとした。彼女はこのとき自分の声の響きをしみじみ味わいたかったのだ。
「ラ・モール家のご婦人方をごらんになって? 三列目にいらっしゃいますわ」と夫人は彼に言った。すぐにジュリアンは、だいぶ不作法なことだが桟敷の前仕切りに寄り掛かって場内へ身を傾けた。彼はマチルドを見た。彼女の双眸《そうぼう》は涙にきらめいていた。
〈だがおかしい、今日はあの人たちがオペラ座に来る日じゃなかったんだが〉とジュリアンは思った。〈何とご熱心なことだ!〉
この家にとりいっているある婦人が提供して親切に勧めてくれた桟敷の列が家の身分にふさわしからぬものだったのをおして、マチルドが母に喜歌劇を見に行くことを決心させたのだった。彼女はジュリアンがこの宵を元帥夫人と一緒に過ごすかどうかを見届けたかったのである。
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第三十一章 恐がらせる
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かくてこれこそ諸君らの文明の奇蹟だ! 諸君は愛を一つのありきたりの事務としてしまった。(バルナーヴ)
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ジュリアンはド・ラ・モール夫人の桟敷へ駈けつけた。彼の目はまず涙に濡れたマチルドの目に出逢った。彼女はまったく手ばなしで泣いていたのだ。そこにはこの桟敷を貸してくれた婦人や知りあいの男たちなどの一段身分の下の連中だけしかいなかった。マチルドはジュリアンの手の上に自分の片手をのせた。母親に対する気がねなど忘れてしまったようだった。涙にほとんど声も出ぬまま、彼女はただ一言「保証!」と彼に言った。
〈すくなくともこの女には何も言うまい〉と、ジュリアンは自分でも非常に感動したが、この桟敷の三列目にいると釣り燭台がまぶしいということを口実にどうやらやっと片手で目を隠しながら、心に思った。〈もしおれが口をきいたら、この女にはおれがどれほど激しく感動しているか、もう疑う余地のないほどはっきりわかってしまう。おれの声が本心を発《あば》いてしまうだろう。まだまだいっさいがおじゃんになってしまうかもしれないのだ〉
彼の内心の葛藤《かっとう》は朝よりもはるかに辛かった。それまでのあいだに彼の心がだんだん動かされてきていたのだ。彼はマチルドがまた虚栄心を唆《そそ》られはしないかと恐れた。恋と逸楽に酔いながらも、彼は決して彼女に話しかけまいと心にきめた。
私に言わせれば、これは彼の性格の最も優れた特徴の一つである。これほど自制の努力ができる人間はsi fata sinant(もし運命が許したならば)、大したものになれる。
ド・ラ・モール嬢は是非ジュリアンを邸に連れてかえると言い張った。都合よくひどく雨が降っていた。だが侯爵夫人は彼を自分の向かいの席に坐らせてひっきりなしにしゃべりつづけ、彼が一言も娘に話しかけられないようにしてしまった。これは侯爵夫人がわざわざジュリアンの幸福をはかってやったとさえ言える。あまりの感動にすべてを失うという心配がもうなくなって、彼は狂おしくその感動にひたり切っていた。
部屋に帰るなりジュリアンがひざまずいてコラゾフ公爵からもらったあの恋文に接吻の雨を降らせたことも、私はあえて言ってしまおう。
〈ああ、あなたは立派な人だ! 何もかもあなたのおかげです!〉と彼は取り乱して叫んだ。
だんだんにおちつきが戻って来た。彼は自分をいま大きな戦闘に半ば勝利を得たばかりの将軍に比した。〈勝利は確実だ。しかもすばらしい大勝利だ〉と彼は心に思った。〈しかし明日はどんなことが起こるだろう? 一瞬にしてすべてを失わぬともかぎらないのだ〉
彼は情熱に駆られてナポレオンの『口授によるセント・ヘレナ覚書』を開き、たっぷり二時間にわたって強いて読もうとしてみた。目だけが字を追っていた。が、そんなことはどうでもいい。彼は無理にも読もうとしてみたのだ。この奇妙な読書のあいだ、彼の頭脳も心情も、最も崇高偉大なものと同じ水準にまでたかまって、彼の知らぬ間に勝手に働き出しているのであった。〈あの人の心はド・レナル夫人のとは全然ちがう〉と彼は心に思った。だがそれ以上のことには考えが及ばなかった。
〈恐がらせる〉と、彼は突然本を遠くへ投げ出して叫んだ。〈敵はおれが恐怖を感じさせぬかぎりおれに服従するまい。恐怖を感じさせたらおれを軽蔑するようなことはできまいが〉
彼は歓喜に酔いながら狭い自室のなかを歩きまわった。実を言えばこの幸福感は愛情よりもむしろ自尊心によるものだった。
〈恐がらせるのだ!〉と彼はひとり誇らかにくりかえした。しかも彼には誇るべき理由があったのだ。〈この上なく幸福な気持でいる瞬間にさえ、ド・レナル夫人はいつもおれの愛情が自分の愛情に劣らぬものかどうか疑ってばかりいた。今度はおれが征服するのは悪魔なのだ。だから征服しなければならぬのだ〉
彼には、あくる朝八時にはマチルドが図書室にやって来るということがはっきりわかっていた。で、彼はやっと九時になって顔を出した。恋に焦がれながらも、彼の頭脳は心情を支配していた。おそらくは一分間も休みなく、彼はこういうことをくりかえして自分に言い聞かせていた。〈この女がいつも≪あの人はあたしを愛しているだろうか?≫という重大な疑惑から逃れられぬようにしてやらなければならぬ。ああいうすばらしい地位にはいるのだし、話しかける奴はかならず何とかお世辞を言うのだから、そのためあの女は|ちと《ヽヽ》|ばかり安直に《ヽヽヽヽヽヽ》いい気になりすぎるようになっている〉
彼が見ると、彼女は蒼白な顔をしてディヴァンに腰をかけていたが、明らかに身動きひとつする力もないように見えた。彼女は彼に手を差しのべた。
「あなた、あたしはあなたの心を傷つけてしまいました。これは事実だわ。あなた、あたしのことを怒っていらっしゃるのでしょう?……」
ジュリアンはこんなに素直な口の利き方など予期していなかった。あやうく彼は本心をさらけ出してしまうところだった。
「あなたは保証を要求なさるのね」と彼女はしばらく沈黙していたのち、期待していたようにその沈黙が破られないので付け加えた。「いかにももっともだわ。あたしをさらって行ってちょうだい、ロンドンに行きましょう……そうすればあたしは永遠に取り返しのつかないことになり、名誉も汚されてしまう……」彼女は気をとりなおしてジュリアンから手を引き、その手で目をおおった。慎しみと貞節とのあらゆる感情が彼女の心のなかにたちかえって来た。……「いいわ、あたしの名誉を汚してちょうだい」としまいに彼女は嘆息とともに言った。「それも|ひとつの保証《ヽヽヽヽヽヽ》だわ」
〈昨日はおれは幸福だった。自分自身に対して厳しくするだけの気力が保てたからだ〉とジュリアンは思った。ほんの一瞬の沈黙ののち、ようやく彼は冷やかな口調でこう言えるほどに自分の心を抑えることができた。
「ひとたびロンドンへの旅に立って、あなたの言葉を借用させていただけば、いったん名誉を汚してしまってから、あなたがなおぼくを愛してくださると誰が請け合ってくれるのですか? 旅路の駅馬車の席にすわっているぼくがあなたにわずらわしく思われないと誰が請け合ってくれます? ぼくだって血も涙もない人間じゃないのです。あなたに世間の評判を取り返しがつかないほど落してしまうようなことをさせるのは、ぼくにとっても今以上の不幸となりますからね。障害となるのは決してあなたの社会的地位ではない、不幸なことにはあなたの性格が障害となるのですよ。いったいあなたは一週間はぼくを愛していられると自分自身の心に保証することができますか?」
〈ああ、彼女が一週間、たった一週間だけでもいいからおれを愛してくれないだろうか。そうしたらおれは幸福のあまり死んでしまうだろう〉とジュリアンはごく低い声で呟《つぶや》いていたのだ。〈おれにとって将来が何だ、生命が何だ! そしてその天上の幸福はおれが欲しさえすれば今たちどころにはじまるのだ。すべておれの出方ひとつだ!〉
マチルドは彼が考えこんでいるのを見た。
「それではあたし、もうまったくあなたに愛される資格がないのね」と彼女は彼の手を取りながら言った。
ジュリアンは彼女に接吻した。が、たちまち義務の鉄の手が彼の心臓をつかんだ。〈おれがいかばかり熱愛しているかむこうにわかったら、おれは彼女を失うのだ〉そうして相手の腕から身を放す前に、もう彼は男らしいあらゆる威厳を取り戻していた。
この日とこれにつづく数日のあいだ。彼は自分の味わっている極度の至福を秘めておくことができた。時には彼は彼女を両腕に抱きしめる喜びをすら、みずから許さぬこともあった。
またある時には、幸福に浮かされて思慮のささやくあらゆる忠告をも打ち棄ててしまうこともある。
庭のなかにある、梯子をかくすためにつくられた忍冬《すいかずら》の棚のほとりは、常々彼がやって来ては人知れずマチルドの部屋の鎧戸を眺め、彼女の心の変りやすさを泣き悲しんだところだった。そのすぐそばにオークの巨木があって、この木の幹のため彼はつつしみのない目で見られずにすんだ。
あの極度の不幸をまざまざと思い起こさせるその同じ場所をマチルドとともに通り過ぎたとき、かつての絶望と現在の至福の対照は彼の性格にはあまりにもきつすぎた。涙が両の目にあふれた。そして愛人の手を自分の唇に持って行きながら……「ここでぼくはあなたを想いながら過ごしたのですよ。ここでぼくはあの鎧戸に目を注いでいたのです。まる数時間も、あの手があれを開く幸福の一瞬がいつか来ないものかと待っていたものでした……」
まったくこれ以上とはない心の弱さだった。到底頭のなかでこしらえることなどはできない真実の色彩で、彼はその頃の極度の絶望をまざまざと彼女の前に描き出した。時たま叫ばれる短い感嘆詞が、あの酷烈な苦痛にとってかわった現在の幸福をあらわしていた。
〈なんてことを言っているのだ、とんでもない!〉突然我にかえって彼はそう心に言った。〈こんなことではもうおしまいだ〉
その恐怖のあまりの激しさに、彼はもうド・ラ・モール嬢の目に愛情がうすらいだように思った。それは錯覚だった。しかしジュリアンの容貌はたちまち一変して、死人のように土気色になってしまった。目の輝きは一瞬にして消え失せ、悪意をも含めた傲慢の表情が、やがて、すべてを打ち忘れたひたすらに真実な愛の表情にとってかわった。
「どうなさったの、あなた?」とマチルドはやさしく不安そうに訊いた。
「ぼくは嘘をついています」とジュリアンは腹立たしげに言った。「あなたに嘘をついているのです。ぼくは後悔しています。けれどもぼくがあなたには嘘をつけないほどあなたを尊敬していることは神さまもご承知です。あなたはぼくを愛してくださる、ぼくに身も心も捧げてくださる。だからぼくにはあなたのお気に入るために気障《きざ》な文句をひねくる必要はないわけです」
「まあ、そんなことを! あなたが二十分ばかり前からあんなすばらしいことを言ってくださったのは、あれはみんな気障な文句だったのでしょうか?」
「だからひどく心に咎《とが》めているのですよ。むかしぼくを愛してはくれたけれども、こちらは退屈にさせられてしまうような女がいて、その人のためにぼくはあんな文句をつくったのでした……これはぼくの性格の欠点なのです。わざわざ自分からこんなことを言って出たのですから、どうぞ許してください」
苦い涙がマチルドの頬を濡らした。
「何かちょっとしたことで不愉快になると、たちまちひどい妄想にしばらく取り憑かれてしまうのです」とジュリアンはつづけた。「こんなときには呪わしく思うのですが、この厄介な記憶力が何かしら種を見つけて来るので、ついぼくはそれを濫用《らんよう》してしまうのです」
「それではあたし、今知らないで何かあなたの気に障るようなことをしてしまいましたかしら?」とマチルドは愛らしい素直さで言った。
「いつぞや、ぼくはよくおぼえておりますが、この忍冬《すいかずら》のそばを通ってあなたは花を一輪摘みましたね。ド・リュスさんがその花をあなたの手から取ってしまった、あなたは取られたまま黙っていらっしゃった。ぼくは二歩ばかりのところにいたんですよ」
「ド・リュスさんが? そんなことはありません」とマチルドは、あの生来の高慢な態度にかえって答えた。「だいたいあたしはそんな風な真似は全然しませんもの」
「いや確かに見たのです」とジュリアンははげしく言葉を返した。
「ああ、そうですわね。ちがいありませんわ」とマチルドは悲しげに目を伏せて言った。彼女はこの数カ月そのような振る舞いをド・リュス氏に許したことはなかったとはっきりとわかっていたのだが。
ジュリアンは言うに言われぬ優しみをあらわして彼女を眺めた。〈そうだ、これでもやはり愛情がうすらいではいない〉と彼は心に思った。
彼女はその夜、笑いながら彼がド・フェルヴァック夫人に好意を持っていることを咎めた。〈平民が成り上がり者の女を愛するんですって! おそらくあたしのジュリアンも、おそらくこういった連中の心だけは夢中にさせることができないだろう〉……「あの方のおかげであなたも正真正銘のダンディになってしまったのね」と彼女はジュリアンの髪の毛をもてあそびなら言った。
マチルドから軽蔑されていると思いこんでいたあいだに、ジュリアンはパリで一番身なりのいい男の一人になっていた。しかし彼にはそれでもこういった種類の人士よりも優れたところがあった。というのは身なりをととのえてしまうと、もう彼は身なりのことを考えなかったのである。
マチルドが腹立たしく思うことが一つあった。ジュリアンがまだあのロシア人の手紙を写しては元帥夫人へ送っていたことである。
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第三十二章 虎
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ああ。なにゆえこれであって、他ではないのだ?(ボーマルシェ)
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あるイギリスの旅行家が一匹の虎と仲よく暮らしていたことを語っている。彼はその虎を飼い馴らし非常にかわいがった。だがいつも卓上には装填《そうてん》したピストルを置いていたという。
ジュリアンは、マチルドが彼の目の表情を見ることができないでいる瞬間だけしか、自分の極度の幸福に溺れ切ることはできなかった。しかも彼は、ときどき彼女に何か無慈悲な言葉を言ってやるという義務を厳格にはたしていた。
彼が見て驚き入ってしまうほどマチルドがやさしくしてくれたり、また極度の献身を見せられたりして、自制力をすっかり失いかけると、勇気をふるい起こして彼は唐突に彼女のそばから離れて行くのであった。
生まれてはじめてマチルドは恋を味わった。
これまではいつも彼女にとっては亀《かめ》の歩みのように地を這っていた生活が、今では高らかに飛翔《ひしょう》していた。
とはいえ自尊心はどうかしておもてにあらわれずにはいなかったから、彼女はみずから進んでこの恋愛のゆえにおかさねばならぬあらゆる危険にしゃにむに身をさらそうとした。慎重にかまえていたのはジュリアンのほうだった。しかも彼女が断然恋人の意志に譲らなかったのは、こういう危険が問題になるときだけだった。しかし彼に対しては従順に、ほとんどへりくだっていると言っていいほどにしていながら、彼女は身内のものであれ下僕たちであれ家のなかで接する人間にはむしろいっそうの高慢さを見せるのであった。
夜になってサロンへ出ると、六十人もの人々に囲まれていながら彼女はジュリアンを呼んで彼一人を相手に長い話をするのだった。
ある日タンボーが二人のそばに席を占めようとすると、彼女は一六八八年の革命のことが書いてあるスモレット〔スコットランドの文筆家〕の一巻を図書室から取って来てくれと彼に頼んだ。この男が躊躇《ちゅうちょ》すると、「何もお急ぎになるには及びませんわ」と彼女はジュリアンがまったく痛快になるほどの侮辱的な尊大な顔つきをして付け足したものだ。
「あの小悪党の目つきをあなた見ましたか?」と彼は言った。
「あの男の伯父さんはこのサロンへもう十年か十二年ぐらいご奉公しているのよ。そうでもなかったら、あたしこの場であんな人追い出してやるけど」ド・クロワズノワ氏やド・リュス氏などに対する彼女のやり方は、体裁だけは申し分なく慇懃《いんぎん》ではあったが、実際はそれに劣らぬほど挑戦的であった。マチルドは前にジュリアンにいろいろとあのような打ち明け話をしたことを痛切に心に悔いていた。しかもそういうお歴々に対して示したほとんどまったく罪にもならない好意のしるしを、実はひどく誇張して言ったのだと思い切って彼に白状できなかっただけに、その後悔はいっそう痛切だった。
実に見上げた決心をしていたにもかかわらず、毎日ジュリアンにこう言おうと思いながら、女としての誇りから彼女は言えないでいたのだ。〈ド・クロワズノワさんが大理石のテーブルの上に手をのせようとしてあたしの手にさわったとき、あたしがその手をひっこめなかったというあやまちを話して聞かせるのを嬉しく思ったのは、あなたを相手にしていたからこそですわ〉
昨今は、このお歴々のうちの誰かがしばらくのあいだ彼女と話をしていると、さっそく彼女はジュリアンに何か質問しなければならないようになってしまう。するとそれを口実にして彼を身近に留めておくのであった。
彼女は妊娠《にんしん》したのに気がついた。そうしてそのことを大喜びでジュリアンに告げた。
「こうなっても、まだあなたはあたしをお疑いになる? これが保証にならないかしら? あたしは未来|永劫《えいごう》あなたの妻ですわ」
この報らせはジュリアンを深く驚愕させた。彼はもうすこしで自分の行動原則を忘れるところだった。〈おれのために身をあやまったこの気の毒な娘に対して、故意に冷やかな侮辱的な態度をどうしてつづけていられよう?〉彼女がちょっと苦しそうな様子をしていると、思慮が恐ろしい警告を発するような日でさえ、経験によって二人の愛情を永続させるには必要不可欠と思われるあんな冷酷な言葉を彼女にむかって言う勇気は、どうしても彼には出て来なかった。
「あたし、お父さまに手紙を書こうと思います」とある日マチルドが彼に言った。「あの人はあたしにとって父親以上のものなのよ。あたしの友だちだわ。だからたとえ一瞬でもお父さまを欺《あざむ》こうとすることは、あなたやあたしにふさわしくないと思うの」
「何ですって! 何ということを言うのです?」とジュリアンは恐れをなして言った。
「あたしの義務よ」と彼女は歓喜に輝く目で言った。
このとき彼女はその恋人よりも昂然としていた。
「だがお父さんはぼくを辱《はずか》しめて追い出してしまうでしょう!」
「それはお父さまの権利です。その権利は尊敬しなければなりません。そうしたらあたしたちは腕を組んで白昼公然と正門から出て行きましょうよ」
ジュリアンは驚いて一週間延ばしてくれと頼んだ。
「それはできません」と彼女は答えた。「名誉が要求することです。義務を認めた以上その義務にしたがわねばなりません。しかも今すぐ」
「よろしい! それならぼくが延期しろと命令するのだ」としまいにジュリアンは言った。
「あなたの名誉は大丈夫だ、ぼくがあなたの夫なのだから。そのような決定的なことをしてしまったら、ぼくら二人の状態は一変してしまうことになる。ぼくだってやはり当然の権利を持っている。今日は火曜日ですね。来週の火曜日はド・レス公爵の招待日です。その日の晩ド・ラ・モールさんがお帰りになったら、門番からその宿命を決する手紙をわたさせるようにしたらいい……あの方はあなたを公爵夫人にすることしか考えていない、そのことはぼくはちゃんと知っているのだ。あの方がどんなに不幸になるかを思ってごらんなさい」
「ということは、お父様の罰がどんなものか思ってみるがいいという意味なのでしょう?」
「ぼくが恩人のことを気の毒に思い、また恩人に迷惑をかけることを深く心痛していることは当然でしょう。しかしぼくは現在もまた将来も決して誰をも恐れはしない」
マチルドは服従した。彼女が自分のからだの具合のことを彼に報らせてから、彼が命令的な口を利いたのはこれがはじめてであった。これほど彼が彼女に愛情を感じたことは一度もなかった。彼の魂のやさしい一面がいつものようなむごい言葉を彼女にむかって言わないで済ます口実を、さいわいと現在のマチルドのからだ具合に見出していたのである。ド・ラ・モール氏に告白すると言われてひどく彼は動揺した。マチルドとのあいだを割《さ》かれるであろうか? そして彼が出て行くのを見てどれほど彼女が苦しんだにせよ、彼が立ち去って一カ月もしたら、彼女は果たして彼のことを思い出してくれるであろうか?
当然ながら侯爵が自分に投げつけるであろう非難の言葉を思うと、ほとんどそれと同じくらい彼には恐ろしかった。
その夜、彼はこの第二の心痛の種をマチルドに打ち明け、次いで愛情に目がくらんで第一の心痛事までも打ち明けてしまった。
彼女は顔色を変えた。
「あたしから離れて半年暮らすことが、ほんとうにあなたにとって不幸になるのでしょうか?」
「たいへんな不幸だ。この世でぼくが恐怖を感じるのはそれだけです」
マチルドは実に幸福だった。これまでジュリアンは非常に熱心に自分の役割を演じつづけていたので、彼女のほうが彼よりいっそう熱くなっているのだと思わせることができたのであった。
運命を決するあの火曜日が来た。真夜中に帰宅して侯爵は一通の手紙を見出したが、その上書《うわがき》には誰も見ていないときに開封せられたしと書いてあった。
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父上様
私たちの社会的なつながりはすっかり断たれてしまいました。あとはもう自然の絆《きずな》だけしか残されておりません。私の夫に次いであなたは現在もまた将来いつまでも私の最も親しい人であることに変わりはありません。私の目に涙はあふれておりますし、私のことであなたがどれほどお苦しみになるかも考えないのではありませんが、それでも私の汚辱が世間に知られないようにするため、またお父様にも十分熟考して処置していただくため、しなければならぬ告白をこれ以上延期することは私にはできませんでした。常日ごろお父様が私に過分のご厚情を見せてくださいますことは私も存じておりますけれど、そのご厚情によってささやかな年金でもいただけましたら、私は夫と一緒にどこなりとお命じになるところへ、たとえばスイスへでも行って、身を落ちつけます。夫の名前はまったく人に知られておりませんから、ヴェリエールの木挽《こびき》大工の嫁のソレル夫人といったらだれもあなたの娘だとは気づきますまい。この名前、これを書くのが私にはほんとうに辛かったのです。お父様がお腹立ちになることはいかにも一応ごもっともとは存じますが、それでも私はジュリアンのために心配なのです。私は公爵夫人にはなりませんわ、お父様。けれどこのことは、あの人を愛しはじめたときに私にはわかっていたのです。なぜって、最初に愛しはじめたのはこの私なんですもの、あの人に誘いをかけたのはこの私なんですもの。卑しいもの、あるいは私には卑しく思われるものに心を留めるにはあまりに気位の高い心を、私はお父様から受けついでいるのです。あなたの思《おぼ》し召しにかなうようにと思ってド・クロワズノワさんに想いを寄せてみたこともありますが、駄目でした。なぜあなたはほんとうに優れた男を私の前に連れて来たりなさったのです? 私がイエールから帰ったとき「わしを喜ばせるのはこのソレルという若者だけだ」とご自分で私にむかっておっしゃったでしょう。この手紙をご覧になってあなたがどんなに悩んでおられるかと、可哀そうにこの青年もきっと私と同じくらい胸を痛ませておりますことでしょう。父親としてあなたがお憤《いきどお》りになることには、私としてはとやかく申すことができません。ただいつまでも友だちとして私を愛してくださいませ。
ジュリアンは私に対していつもうやうやしい態度を取っていました。ときおり私と話をすることがあるにしても、それはひたすらあなたに対する深い感謝の情があるからでした。なぜならあの人の生まれつき気位の高い性格のため、自分よりも非常に高い地位にある人に対してはお役目から、うけこたえすることしかできないようにされているのです、社会的な身分の相違についてはとても鋭い先天的な感覚を持っておりますから。私、こんなことはこれからも決してほかの人に打ち明けたりしませんけれど、顔を赤らめながら私の一番よいお友だちに白状しますわ、いつだったかお庭であの人の腕を握りしめたのはこの私でしたのよ。
今からまる一日ご考慮くださった上で、なおあなたがあの人にご立腹していらっしゃるはずはありませんわ。私のあやまちはもう取り返しのつかないものなのです。もしそれをご要求になれば、あの人の深い敬意とあなたのご機嫌を損じたことについてかぎりなく胸を痛めているということは、私を通じてはっきり申し上げることにいたしましょう。もうあなたはあの人にお会いにはなりませんでしょう。けれど私はあの人の行こうというところへついて行きます。それはあの人の権利ですし、私の義務なのです。あの人は私の子供の父親なのですから。もしご好意から生活費として六千フランくださいますなら、私ありがたくお受けいたします。いただけませんでしたら、ジュリアンはブザンソンに身を落ちつけてラテン語と文学の先生をすると申しております。どんな低い身分から出発しましても、私はあの人がいつか高い地位にのぼるだろうと信じて疑いません。あの人と一緒なら私は微賎《びせん》な身分をも恐れませんわ。革命が起こりでもしたら、あの人はかならず第一流の役割を演じるものと私は確信しています。これまで私に結婚を求めて来た方々について、あなたがこれと同じことをおっしゃれますかしら? あの方々は立派な領地を持っていらっしゃる! けれど私はそれだけのことではあの人たちに敬服する理由を見出せないのです。私のジュリアンは現在のような制度のもとでさえ高い地位につけるでしょう、もしあの人に百万の財産とお父様のうしろだてがあればですけれど……
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侯爵がいつもかっとなるたちの人間であることを知っていたマチルドは、この手紙を八ぺージにわたって書いておいた。
〈どうしたらいいか?〉とジュリアンは、侯欝がその手紙を読んでいるあいだに心に問うていた。〈第一に、おれの義務はどこにあるのか? 次におれの利益は? あの人の恩義は莫大なものだ。あの人がいなかったらおれは下っぱの悪党にすぎなかったろう、しかも人から憎まれ迫害されるだけのこともできない下らぬ悪党に。あの人はおれを社交界の人間にしてくれた。おれが今後する|必要のある《ヽヽヽヽヽ》悪事も、おかげで第一に数が少なくなるだろうし、第二にあんまり賎《いや》しいものではなくなるだろう。これは百万金をくれた以上のことだ。それにあの人のおかげでこの勲章ももらえたし、人なみすぐれた外交官めいた風采をも身につけることができた。おれにこれからどう身を処すべきかを命ずるためペンを取るとしたら、あの人は何と書くだろうか?……〉
そのときジュリアンの思いは唐突にド・ラ・モール氏の老侍僕に妨げられた。
「侯爵さまが即刻おいでになるようにとのことです。そのままのご服装でも結構だそうで」
侍僕はジュリアンとならんで歩きながら低い声で付け加えた。「激昂《げっこう》していらっしゃいますよ、お気をつけなすって」
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第三十三章 弱気地獄
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そのダイヤモンドを切りながら、あるへたくそな宝石加工職人がその一番あざやかな閃《ひらめ》きをちょっと減らしてしまった。中世には……いやそればかりかリシュリューの時代にも、なおフランス人は意志の力を保っていたのだ。(ミラボー)
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ジュリアンが行ってみると、侯爵は猛り狂っていた。おそらくは生まれてはじめてこの殿様は下品になった。彼は口にのぼって来る罵言《ばげん》を見さかいもなしにジュリアンに浴びせかけた。われわれの主人公は驚き、我慢できなくなった。しかしそのために感謝の情が揺らぐことはなかった。〈気の毒に、長いあいだ心の奥底に大切にはぐくんで来たいかばかり多くの楽しい計画が一瞬にして崩れ去ってしまったことだろう! だが返事をしてやらなければならぬ。黙っていたらいっそう怒るばかりだ〉返事はタルチュフの役が教えてくれた。
「|私とて天使ではございません《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……私も真面目におつとめはいたしましたし、あなたも鷹揚《おうよう》に酬いてくださいました……私もそれは感銘しております。ですが私はまだ二十二歳なのです……このお宅ではあなたと、それからあのやさしいお方だけしか私の考えを理解してくださいませんでした……」
「人非人めが!」と侯爵は叫んだ。「やさしいだって! やさしいだって! それなら君はやさしくされたと思ったその日にさっそく身をひくべきだったじゃないか」
「そうしようと試みはしたのです。あのころ私はラングドックへ出発させていただきたいとお願いいたしました」
激怒して歩きまわるのに疲れた侯爵は、苦悩のため心が弱くなってどっかりと肘掛け椅子に腰をおろした。ジュリアンは彼が低い声でひとりごとを言っているのを耳にした。〈この男だって決して悪い人間じゃないんだが〉と。
「そうです。私は決してあなたに対して悪い人間ではありません」とジュリアンは彼の足もとに身を投げて叫んだ。しかしこのような動作に極度の屈辱を感じて彼はすぐさま立ち上がった。
侯爵はほんとうに正気を失っていた。この動作を見るとまた辻馬車《フィアクル》の馭者にでもふさわしい憎々しい罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》を彼にあびせはじめた。こんな呪詛《じゅそ》の言葉を常になく口にすることの新奇さが、おそらくいくらか彼の心を紛《まぎら》わしてもいたのだろう。
「何だって! わしの娘がソレル夫人と名乗るんだって! 何だと! わしの娘が公爵夫人にならないんだって!」この二つの考えがこんな風にはっきりとあらわれて来るたびにド・ラ・モール氏は悶《もだ》え苦しみ、心の動きすら意のままにはならなかった。ジュリアンは殴られはしまいかと心配した。
合間あいまには正気にかえり、そうして侯爵はだんだんとこの不幸に慣れていきはじめたが、そういうときには彼はジュリアンに相当筋道の通った非難を投げた。
「身をひかなけりゃならなかったのだ、君は」と侯爵は言った……「君の義務は身をひくことだったのだ。君は見さげはてた人間だ……」
ジュリアンは机に近づいてこう書いた。
だいぶ前から私には生きることが堪えられなくなっていました。こんな生活にけりをつけようと思います。かぎりない感謝の情を表明させていただくとともに、私が死んだためお邸《やしき》内にご迷惑をおかけいたしますことを幾重にもお詫びいたします。
「恐れ入りますが、この紙にちょっと目を通していただきたく存じます……私を殺してください」とジュリアンは言った。「でなければ侍僕の手で私を殺させてくださいますよう。ただいま午前一時です。私はこれから庭のつきあたりの壁のほうへぶらぶらまいりますから」
「どこへでも行っちまうがいい」と侯爵は彼が立ち去るうしろから叫んだ。
〈読めたぞ〉とジュリアンは考えた。〈侯爵はおれが侍僕の手にかかって死ぬような真似をしないほうがありがたいんだな……あの人がおれを殺す、それは結構だ。そうすればおれもあの人を満足させてあげることができる。……だが、どうしてなかなかそうは行かんわい。おれは人生を愛している……これから生まれるおれの息子にだっておれは責任があるのだ〉
この考えがこれほど明確に彼の頭のなかにあらわれて来たのはこれがはじめてだったが、危険感に脅かされていた散歩のはじめの数分間が終わると、彼はすっかりこの考えに取り付かれてしまった。
彼にとってはまったく新しいこの問題が、彼を慎重な人間に変えてしまった。〈あのかっとなりやすい男を相手にどう振る舞ったらいいかを教えてくれる人がいないかな……何しろあの人は理屈なんてまったく考えられないんだからな。何をしでかすか知れたものじゃない。フーケじゃあんまり遠すぎる。それにあの男は侯爵みたいな性質の人の感情なんて理解できまいし。
アルタミラ伯爵なら……あの人なら決して口外してくれないと確信できるかな? だがおれが助言を求めたということが表沙汰になってしまって、おれの立場を両倒なものとしてしまってはならない。やれやれ!それじゃあとはあのむっつりしたピラール師だけか……なにしろジャンセニスムでいやに偏狭《へんきょう》になっている人だからな……ジェズイットの悪党なんかのほうが世間というものをよく知ってて、今のおれにはずっと誂《あつら》えむきなんだがな……ピラールさんなら、おれがこの罪を言っただけでぶんなぐりかねない〉
タルチュフの精神がジュリアンを助けに来てくれた。〈よし、ピラールさんに懺悔《ざんげ》しに行ってやろう〉これが、たっぷり二時間も歩きまわったあげく、彼が庭で最後に固めた決意であった。彼はもう不意打ちに小銃で一発食らわされるかもしれないなどということを考えなかった。眠たくてたまらなくなってしまったのだ。
あくる日の朝まだきに、ジュリアンはもうパリから数里も離れて、あの厳格なジャンセニストの家の扉を叩いていた。師が彼の打ち明け話を聞いて大して驚かないのには彼はたいへん意外に思った。
「たぶんこのわしにも心に咎《とが》めるべきことはあるのじゃろう」と師は腹を立てるというよりもむしろ気づかわしげにひとりごとを言った。「わしもその恋のことはわかったような気がしていた。だが君も不幸な子供だ。わしは君に対する好意からそのことを父親に告げ口することはできないでいたのじゃ……」
「あの方はこれからどうなさるでしょう?」とジュリアンはせきこんでたずねた。
(この瞬間、彼は師を愛していた。口論などは彼にはやり切れぬほど辛いことだったのだ)
「ぼくは三つの道があると思います」とジュリアンはつづけて言った。「第一にはド・ラ・モール氏が誰かにぼくを殺させること」ここで彼は例の侯爵のもとに残して来た自殺の手紙のことを話した。「第二は、ノルベール伯爵からぼくに決闘の申し込みをさせ、ぼくを射殺させること」
「そんな決闘を君は受諾するのか?」と師は憤然として立ち上がりながら叫んだ。
「しまいまで言わせてください。もちろんぼくは恩人のご子息にむかって発射なんかしません。第三に、私を遠ざけること。エディンバラヘ行け、ニューヨークへ行けとあの方がおっしゃれば私はそれにしたがいます。そうしたらド・ラ・モール嬢のからだ具合は隠すことができる。けれどぼくはぼくの子供を何とか処置してしまうということには黙っていられません」
「それじゃよ。たしかにあの放縦《ほうしょう》な人が第一に考えることはそれにちがいないて。疑うまでもないことじゃ……」
パリではマチルドが絶望に沈んでいた。彼女は父親に七時ごろ会ったのである。父親は彼女にジュリアンの手紙を見せた。彼女はジュリアンが死を選ぶほうが高潔だなどと思いはしないかと思って恟々《きょうきょう》としていた。〈しかもあたしの承認も求めずにそんなことをするだろうか?〉と彼女は怒気を含んだ苦悩を感じながら心に思った。
「あの人が死んでしまっていたら、あたしも死にますわ」と彼女は父親に言った。「あの人が死んだらあなたのせいです……あなたとしては、たぶんそうなったらお喜びになるでしょうけれども……けれどあたしあの人の魂魄《こんぱく》に誓って、何よりもまず喪服を着、公然と|ソレル未亡人《ヽヽヽヽヽヽ》になります。そうしてあたしの名で死亡通知を出します。そのつもりでいらっしゃってちょうだい。決して意気地のない真似や卑怯な真似はお見せしませんからね」
彼女の愛は狂乱にまで進んだ。今度はド・ラ・モール氏が狼狽してしまった。
彼は事態をいくらか理性的に見るようになりだした。昼食にもマチルドはいっこう姿を見せなかった。侯爵は娘が母親に何とも言っていないのに気がつくと堪えがたい心の重荷が除かれたような気がし、何よりもほっとした。
ジュリアンが馬から降りた。マチルドは彼を呼びにやり、ほとんど小間使いの女の見えるところで彼のふところへ飛びこんだ。ジュリアンはこの熱狂を大してありがたくも思わなかった。彼はピラール師との談合の席から、きわめて外交的になりきわめて打算的になって出て来たのだ。いろいろとありうべき事柄を打算していたために、彼の空想力は衰えてしまっていた。マチルドは目に涙をたたえながらあの自殺の手紙を見てしまったと彼に告げた。
「お父さまは思いかえしてくださるでしょう。あたしのためだと思って、今すぐヴィルキエへ出発してちょうだいな。また馬に乗って、家の人たちが食卓から立たないうちに邸《やしき》から出て行ってちょうだい」
だがジュリアンがまだ怪訝《けげん》そうな冷やかな顔つきをしているので、彼女は激しく泣きくずれてしまった。
「あたしたち二人のことは、あたしにかたづけさせてちょうだい」と彼女は我を忘れて彼を両腕に抱きしめながら叫んだ。「あなたにだってよくおわかりでしょうけれど、あたし、何もすき好んであなたから離れようとするのじゃありません。あたしの小間使いあてにしてお手紙をくださいね。宛名は誰かほかの人に書いてもらうのよ。あたしも何冊かの本になるくらいお手紙をさしあげますから、さようなら! 逃げてちょうだい!」
この最後の一言がジュリアンの心を傷つけたが、それでも彼はそのまま従った。〈まったくいやな話だが、この連中は一番彼らの優れたところを見せる瞬間でさえ、みごとにおれを怒らせてくれるわい〉
マチルドは頑として父親の持ち出すあらゆる|賢明な《ヽヽヽ》計画に反対した。彼女は次のような基本条件による以外には決して話し合いをはじめようとはしなかった。すなわち、自分がソレル夫人となって、夫と一緒に、スイスでつつましく暮らすかあるいはパリの父のもとで暮らすこと、というのである。人目からかくれて秘密にお産をしたらという提案などはもう頭からはねつけた。
「そんなことをしたら、かえって人々の中傷を招いたり体面を汚したりすることになるかもしれないじゃありませんか。婚礼ののち二月もしたら、あたし夫と一緒に旅に出ます。そうしたら子供がちょうど適当な時期に生まれたという風にするのはずっと楽でしょう」
この毅然《きぜん》とした態度は、はじめのうちこそ父親の激昂を買ったものの、しまいに侯爵は自信をなくしはじめた。ある時つい心がくじけて、
「さあ、ここに一万フランの年金証書がある」と彼は娘に言った。「おまえのジュリアンに送ってやるがいい。わしがこれを取り戻すことができないように早くしてしまったがいいよ」
マチルドに服従するために、彼女が命令することが好きだと知っていたジュリアンは、無益なことながら百六十キロの道のりをやって来ると、ヴィルキエで小作人の勘定の整理をやっていたのだが、侯爵がこの恩恵を与えてくれたおかげで彼はパリヘ帰る機会ができた。彼はピラール師のところへ行って身を寄せることにさせてもらったが、彼が不在のあいだ師はマチルドの一番ためになる味方になっていたのである。侯爵から質問を受けるたびにいつも師は、公然たる結婚以外のあらゆる手段は神の御前では罪となるということを断言してやまなかった。
「さいわい」と師は付け加えて言うのであった。「世間的な分別がこの場合は御教《みおし》えと一致しております。お宅のお嬢さまの激しやすいご気性をもってしては、ご自分でかならず守ろうとご決心なすったわけではないのに、どうして秘密を守っていただけるものと期待できましょう? 公然の結婚という公明正大な処置をお許しにならぬかぎり、この奇怪な身分ちがいの結婚は、それよりもずっと長いあいだ世人《せじん》の口の端《は》にのぼされることとなりましょう。すべてを一どきに公表してしまったほうがよろしゅうございます、すこしでも秘密めいたこと、また事実上秘密を残すようなことはしないで、です」
「それはたしかにそうです」と侯爵は思わしげな様子で言った。「そういうやり方でいけば、この結婚のことを三日もたってなおとやかく申す者がいたら、思想のない人間のくだらぬ駄弁としか思われなくなります。まあ政府が何か過激派弾圧の措置でもするのに便乗して、うまくこっそりその後について行くとでもしなければなりますまい」
ド・ラ・モール氏の二、三人の友もピラール師と同じような考え方をしていた。彼らから見て大きな障害となるものはマチルドの果断な性格であった。しかしこういう立派な理屈をいろいろと聞かされた上でも、なお侯爵の心は娘を|公爵の椅子《ヽヽヽヽヽ》につけるという望みを棄てる気持にはなりきれなかった。
彼の記憶や想像は、彼が若いころにはまだ行なわれることのあったあらゆる種類の権謀《けんぼう》やら欺瞞《ぎまん》やらでいっぱいになっていた。やむを得ないこととして引っ込むこと、法を恐れること、そんなことは彼ほどの身分の人間にとっては馬鹿げた不面目なことであると思われた。この最愛の娘の未来にもう十年もいい気になって描いていた快い夢の数々の代償を、いま彼は高い価で支払うことになったのだった。
〈誰がこれを予見し得たろうか?〉と彼は心に思った。〈あんなに倨傲《きょごう》な性格の、あんな優れた才分を持った、そしてこのわしよりも家門の名を誇りにしていた娘が! 進んであれを妻に迎えたいとわしのもとに言って来たものは、みなフランス一流の名門の子弟だったではないか!
あらゆる思慮を棄ててかからねばならぬのだ。この世紀はすべてを混乱させるようにできている! われわれの行く手にあるものは混沌《カオ》しかない〉
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第三十四章 才人
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知事は馬に乗って道々こんなことを心に思った。〈なぜおれは大臣に、総理大臣に、公爵になれないのだろう? そうしたらおれはこんなふうに戦争をしてやる……こうやって改革者を牢獄へほうりこんでやるのに……〉(「グローブ」紙より)
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いかなる論拠をもってしても、十年間もつづいた快い夢想の力を砕くことはできなかった。侯爵は腹を立てるのが理性的だと思いはしなかったが、許そうと腹をきめることはできなかった。〈なにかの事故でジュリアンが死んでくれたら〉と彼はときどき心に思った。……こんな風に彼の憂鬱な空想はこのうえなく愚劣きわまる幻想を描くことにいくらかの慰藉を見出していたのである。そのためにピラール師のあの聡明な議論の影響も力をそがれていた。このようにして話し合いは一歩も進まずに空しく一月がたった。
この家庭問題についても政治問題におけると同様に侯爵にはいくつかすばらしい思いつきが浮かぶことがあって、三日というものそれに夢中になっていたりした。ところが一定の行動計画というものが彼には気に食わなくなる。なぜならそれは正しい論証によって支えられているからだ。とにかく論証というものは、彼には自分の好きな計画を支持するのでないかぎり面白くないのである。三日のあいだ侯爵は非常な意気ごみでまるで詩人のような感激をもって事態をある局面にまで持っていこうと努力した。だがその次の日にはもう、そんなことは思ってもみなかった。
最初ジュリアンは侯爵の暢気《のんき》さに張り合い抜けがした。ところが何週間かたってみると、彼はド・ラ・モール氏がこの事件について確たる方針をまったく持っていないのだとさとりはじめた。
ド・ラ・モール夫人もその他の家人もみなジュリアンが領地の管理のため地方へ旅行に行っているものと思いこんでいた。彼はピラール師の司祭館にかくまわれて、ほとんど毎日マチルドに会っていたのである。彼女は毎朝父親のところへ行って一時間を過ごしていたが、そのくせこの親子は、ときには数週間もつづけて、現在彼らの頭を占めている事件には一言も触れないこともあるのだった。
「わしはあの男が今どこにいるか知ろうとは思わん」とある日侯爵は彼女に言った。「この手紙をあの男に送っておやり」マチルドは読んだ。
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ラングドックの領地は二万六百フランの収益をもたらす。小生は一万六百フランを娘に、一万フランをジュリアン・ソレル氏に与える。領地そのものを与えることはもちろんなり。公証人に別個に二通の贈与証書を作成し明日その証書を持参するよう命ぜられたし。その後は貴下と小生とのあいだには何らの関係なきものとしたい。このようなことになるとは小生いささかも予想し得ぬことでした。
ド・ラ・モール侯爵《ヽヽ》
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「ほんとうにありがとうございました」とマチルドは欣然《きんぜん》として言った。「あたしたちそれではエギュイヨンの館に落ち着くことにしますわ。あすこはイタリアと同じくらい美しい国だそうですから」
この贈与はジュリアンを非常に驚かせた。彼はもはや以前われわれが知っていたような厳しい冷酷な人間ではなかった。これから生まれて来る自分の子供の身の上のことを考えると、もうほかのことが考えられないのだった。彼のように貧しい人間にとってはかなり莫大なこの思いがけぬ財産を得ると、彼は野心家になった。彼は、自分の妻にかまたは自分にか、三万六千リーヴルもの年収があることを知ったのだ。マチルドのほうは、彼女のあらゆる感情は自分の夫に対する熱愛に集中されていた。彼女は自尊心からジュリアンのことをいつも夫と呼んでいたのである。彼女の大きな野心、しかも唯一の野心は、自分の結婚を承認させるということであった。優れた男の運命に自分の運命を結びつけることで示した自分の賢さを、日がな一日誇張して考えて彼女は倦きなかった。彼女の考えでは個人的才能こそ今の流行《はやり》なのだった。
ほとんどいつも一緒にいられないこと、事件の錯綜《さくそう》、睦言《むつごと》をささやきあうための時間のないこと、このおかげで、かつてジュリアンが発明したあの賢明な政策の好結果がさらに完璧なものとなった。
マチルドはやっとのことで自分が本当に愛せるようになれたこの男にこんなわずかしか会えないのでしまいに腹が立った。
気がむしゃくしゃしていたとき彼女はこんな手紙を父に書いたが、その書き出しはまるでオセロのようだった。
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上流社会がド・ラ・モール侯爵令嬢に提供するいろいろの楽しみよりも私がジュリアンのほうに惹かれたということは、私の選択が証明しているとおりでございます。人々の尊敬とかつまらない虚栄心とかによって得られる喜びなどは今の私にとってはもう何の価値もありません。私はやがて夫から六週間も別れていることになります。これだけのことをすればあなたに私の敬意をあらわすには充分でございましょう。来週の木曜までに私はお父さまの家を去ります。あなたのお恵みのおかげで私どももお金持になりました。あの尊敬すべきピラール師のほか誰一人として私の秘密を知っている人はおりません。私はあの方のところへ行きます。式はあの方が挙げてくださいましょう。それから一時間もしましたら私たちはラングドックヘ出発して、あなたがいいとおっしゃらないかぎり二度とパリへは帰って来ないつもりです。けれど私が、一つ、とても心配でならぬことは、この一件が私自身についてもお父さまについても何かと辛辣《しんらつ》な噂を招くことにならないかということです。馬鹿な世間の人たちの嘲罵《ちょうば》のため、あの立派なノルベールがジュリアンに決闘を求めなければならぬような羽目にたちいたらないとも申せませんでしょう。そんなことになりましたら、私はもうあの人をどうすることもできません。あの人がどんな人か私はよく存じておりますもの。そうなればあの人は叛逆した平民として振る舞うにちがいありませんわ。ですから、お父様、私ひざまずいてお願い申し上げます、どうぞ来週の木曜にピラール師の教会へ私の結婚式参列のためおいでになってくださいませ。そうすれば意地の悪い噂もそれほど辛辣でなくなりましょうし、あなたのたった一人の娘とそれから……私の夫の生命とが安全になるのですから……云々
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侯爵の心はこの手紙を見て異様な困惑に陥った。それではとうとう|何らかの覚悟《ヽヽヽヽヽヽ》をきめねばならぬ。つまらぬ習慣やくだらぬ友人の忠告などはもう力を失ってしまっていた。
この異常な事態のなかにあって、青年時代のさまざまの事件によって刻印された彼の性格の優れた特質がすっかりもとの力を取り戻した。亡命中の辛酸《しんさん》が彼をして空想家たらしめていた。二年間、莫大な財産と宮廷におけるあらゆる栄誉とを楽しんだあげく、一七九〇年には彼はおぞましい亡命生活の悲惨に投げ込まれたのであった。この無慈悲な人生修行は二十二歳の青年の心を一変させてしまった。実を言えば彼は、現在の自分の富に支配されているというより、むしろ自分の富のまんなかに腰をすえているにすぎなかった。だが彼の心をして黄金による頽廃《たいはい》をまぬがれしめたその同じ空想力が、美しい肩書で娘を飾ってやろうという気ちがいじみた煩悩《ぼんのう》の虜《とりこ》にさせてしまったのだ。
ここに過ぎ去った六週間のあいだ、ある時はふとした出来心に動かされて侯爵はジュリアンを富ませてやろうと思いもした。貧しいということは賎《いや》しいことであり、自分すなわちド・ラ・モール侯爵ともあろうものの面目を損なうものであり、自分の娘の配偶者には我慢できぬものであると彼には思われた。それで彼は金を投げ出した。その翌日になると彼の空想はそれとは別の方向へ進み、彼がこうやって気前よく金を投げ出したことの言外の意味をジュリアンがさとってくれ、変名してアメリカヘ渡り、マチルドには自分が死んだものと思ってくれと手紙をよこす……そんなことになりそうな気がした。ド・ラ・モール氏は、この手紙が書かれたものと仮定して、それが自分の娘の性格にどんな風に響くだろうかと思ってみた……
例のマチルドの|本当の手紙《ヽヽヽヽヽ》を受け取ってこんな幼い夢想を破られた日には、長いあいだジュリアンを殺すなり行方をくらまさせるなりすることを考えたあげく、彼のため巨万の富をつくってやろうと夢みだした。どこか自分の領地の名を取って彼に名乗らせるのだ。それに彼を貴族に叙してやったっていいではないか。彼の義父のド・ショーヌ公爵は、その一人息子がスペイン戦争で戦死して以来、自分の爵位をノルベールに譲りたいという希望を何度となく彼に言っている……
〈何といったってジュリアンには、事務についての一種独特の技能、大胆さ、おそらくはまた才能の輝きをも認めないわけにはいかない〉と侯爵は心に思った……〈だがこの性格の底には何か恐ろしいようなものがあるといった感じがする。誰もがそういう印象を与えられるというのだから、それじゃやはり実際そういうものが何かあるのだな〉(この実際に存在する何かがつかみにくければつかみにくいだけ、それがこの老侯爵の空想的な心を怯えさせるのだった)
〈いつだったか娘がこのことを非常に巧みに言って来たことがある。(これはこの作品では省略した手紙のなかでのことだ)「ジュリアンはどんなサロンにもどんな党派にも加わりませんでした」と。わしを敵にする場合の支持者などいっこうに作っておこうとはしないし、またわしが見捨てた場合これっぱかりも頼りとなるものもないのだ……だがこれは社会の現状についての無知なのであろうか?……このことはわしも二、三度あの男に言ってやったものだが。「サロン以外にはほんとうにあてにできる出世の道はないのだよ」と……
そうだ、あいつは、わずかの一分間もおろそかにせずたった一つの機会も見のがすことはない代訴人みたいな、老獪狡猾《ろうかいこうかつ》な才能なぞ持ってはいない……あれはルイ十一世風の性格なんかではないのじゃ。またその一面、この上もないほどせせっこましい格言を守っているのはわしも知っている……どうもさっぱりわけがわからない………あの男は自分の情熱の防壁《ヽヽ》とするため、あんな格言をくりかえし自分に言い聞かせているのかな?
とにかく、この一事だけははっきりとしている。あの男は軽蔑されることには我慢がならぬのだ。この点ではわしはあの男の尻尾《しっぽ》をつかんでいる。
あの男は高い家柄を文句なしに尊敬するということはしない。それは事実だ。本能的にわれわれを尊敬したりしてはいないのだから……これは不埒《ふらち》なことだ。だが結局神学生なんぞというものは、享楽がないことと金のないことばかり、やいやい愚痴を言うものであるはずだ。ところがあの男はだいぶそれとはちがって、軽蔑ということは何としても忍び得ないと来ている〉
娘の手紙に急《せ》かれてド・ラ・モール氏はいよいよ決心しなければならないとさとった。……〈結局これが重大問題だ。ジュリアンはわしが娘を誰よりも愛しており、またわしに十万エキュの年収があるのを知っているから、それで大胆にもわしの娘に言い寄ろうと思い立つにいたったのか?
マチルドはその反対だと言明している……いいやジュリアン先生、この点ではわしはおいそれと目をくらまされたりしますまいよ。
実際、真の愛情が思いがけなく湧《わ》いて来たのだろうか? あるいは立派な地位にのし上ろうとする卑しい欲望だったのか? マチルドは聡明だ。ちょっとでもそんな懸念があったらわしがあいつを許さぬかもしれぬと何よりも先に感づいたのだ。だから、自分のほうから先にあの男を愛する気になったのだと、そんな告白をしたわけなんだな……
あれほど倨傲《きょごう》な性格の娘が、はっきりと自分のほうから気をひくまでに我を忘れる!……ある晩、庭で男の腕を握りしめる、いや、何てたまらないことだ、まるで自分が特別の好意を持っていることを知らせるのにもうすこし品の好いやり方がいくらでもあるのを知らないというようじゃないか。
|弁解すればボロが出る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という。わしはマチルドを信用せん……〉この日の侯爵の理屈は常になく明確であった。だがやはり習慣が勝った。彼は時を稼ぎ、娘に手紙をやろうと決心した。この邸では一方の側から他方の側へ手紙でやりとりすることになっていたのである。ド・ラ・モール氏は断固としてマチルドと議論し、彼女に反対しようという決心はつかなかった。何かで急にこちらが譲歩しなければならぬことになるのが心配だった。
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手紙
また新しく馬鹿げたことをやり出さぬよう慎しんでもらいたい。シュヴァリエ・ジュリアン・ソレル・ド・ラ・ヴェルネを軽騎兵中尉に任ずる辞令をここに同封する。私が彼のためにどれほどのことをやっているか、おまえにもわかってくれると思う。私を困らせたり質問したりしないでほしい。ストラスブールに着任するため二十四時間以内に出発させなさい。連隊はそこだ。なお私の取引銀行への手形を同封する。私の言うことに服してもらいたい。
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マチルドの愛と喜びはもはや果てしもなかった。彼女はこの勝利につけこんでやろうと思い、早速こんな返事を書いてやった。
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ド・ラ・ヴェルネ氏はお父さまが彼のためになすってくださったことを残らず知りましたなら、感謝の念に堪えずあなたの前にひざまずくことでございましょう。けれど、こんなご寛大なことをなすってくださりながら、お父さまは私のことを忘れていらっしゃいます。あなたの娘の名誉が危殆《きたい》に瀕《ひん》しているのでございます。ちょっとでも思慮を欠いたことをしましたら一生ぬぐえぬ汚点ができてしまうかも知れません。そうなったら二万エキュの年金をいただいても取り返しがつかないのです。来月中に私の結婚式を公然とヴィルキエで挙行してやるというお約束がいただけないかぎり、私はあの辞令をド・ラ・ヴェルネ氏へは送りません。どうぞこの時期をはずしておしまいにならないようにくれぐれもお願い申し上げます。この時期が過ぎてしばらくしたら、あなたの娘はもうド・ラ・ヴュルネ夫人という名前でしか人前に出られないことになりましょうから。
私の大好きなお父さま、あなたがあのソレルという名前を名乗らなくていいようにしてくださったことをどれほど有難く存じておりますことか……云々
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それに対する答えは思いがけぬものだった。
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言うことをききなさい。でなければ私は何もかも取り消す。むこうみずな娘だ、すこしは恐れるということを知るがいい。私はおまえのジュリアンがどんな人物かもまだ知らぬ。それにおまえ自身だって私よりもあの男を知らないのだ。あの男はストラスブールへ発たねばならぬ。そして命ぜられたことをまっすぐ実行するように。私の意向は追って二週間のうちに報らせる。
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この断固たる答えはマチルドを驚かせた。|私はジュ《ヽヽヽヽ》|リアンを知らない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、この言葉は彼女をとりとめない思いに沈ませたが、やがてその物思いは結局こよなく楽しいさまざまの仮定にかわった。しかし彼女はその想像した仮定を真実だと信じたのだ。〈あたしのジュリアンの心はそこらのサロンの安っぽい小さな制服などを着てはいないのだ。だからお父さまはあの人が人なみ優れた人間だということを信じていない。信じない理由はまさに、その優れていることを証明しているものにあるのだけれど……
そうはいってもあたしが今、お父さまのこのちょっとした意地にしたがわなかったら、世間から非難を浴びることにならないともかぎらないわ。一度そんな醜聞が立ったら社交界でのあたしの地位も堕ちるし、そうなったらジュリアンにとってあたしはそれほど愛すべきものではなくなるかもしれない。いちど醜聞が立ってしまったら……十年間の貧乏暮らしは覚悟しなくちゃならない。しかもその真価によって夫を選ぶなどという気ちがい沙汰をして、なおかつ世間から嘲笑されまいとすれば、豪華をきわめた贅沢暮らしをするよりほかに手はないだろう。お父さまから遠く離れて暮らすとなれば、あのお年のことだから、お父さまはあたしのことを忘れてしまうかもしれない……ノルベールは愛らしいやり手の奥さんをもらうだろう。ルイ十四世さえお年を取られてからド・ブルゴーニュ公爵夫人〔ルイ十四世の孫ブルゴーニュ公ルイの夫人〕に籠絡《ろうらく》されてしまったというもの……〉
彼女は服従しようと決心した。しかし父の手紙のことをジュリアンに知らせることは控えた。ジュリアンの狂暴な性格ではどんな気ちがいじみた真似をはじめるかわからなかった。
その夜、彼女がジュリアンにあなたは軽騎兵の中尉になったのですよと教えると、彼は限りなく喜んだ。彼の一生の野心、また現在彼が生まれるはずの子供に抱いている激しい愛情を思えば、その喜びのほども偲《しの》ばれよう。自分の名前が変わったこともひどく彼を驚かせた。
〈結局これでおれの物語も終わったのだ〉と彼は考えた。〈しかもその功はすべておれ自身にある。おれはこの自尊心に凝り固まった怪物みたいな女に自分を愛させることができた〉と彼はマチルドに目をやって思いつづけた。〈この娘の父親は、この娘なしには生きて行けない、そしてこの娘は、おれなしには生きて行けないのだ〉
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第三十五章 嵐
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ああ神よ、私を凡庸の人間にしてください!(ミラボー)
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あらぬ思いに心を奪われていた彼は、彼女の示すはげしい情愛に生半可《なまはんか》な応え方しかしなかった。ものも言わずに彼はむっつりしていた。マチルドの目には彼がこれほど大きく、これほどすばらしく見えたことがなかった。しかし彼女は、彼の鋭敏な自尊心が何かで傷つけられてすべてをひっかきまわしてしまいはしないかと恐れた。
ほとんど毎朝、彼女はピラール師が邸にやって来るのを見た。師の口からジュリアンが父の意図するところを何かさとったのだろうか? 侯爵自身が一瞬なにか気まぐれをおこして彼に手紙をやらなかったともかぎらぬではないか。あれほどの大きな幸福を与えられながらジュリアンがなお険しい顔つきをしているのは、なんと解すべきであろうか? けれど彼女には思い切って訊いてみることはできなかった。
|思い切って《ヽヽヽヽヽ》訊いてみることが|できなかった《ヽヽヽヽヽヽ》! 彼女が、マチルドが! 実はこの瞬間からジュリアンに対する彼女の感情のなかに、なにか漠《ばく》としたもの、予期し得ぬもの、いやほとんど恐怖に近いものがまじったのだ。この無情な心が、パリにおいて讃えられる過度に洗練された文明のただなかで育てられた人間の感じ得るかぎりの、最も激しい情熱を感じたのだ。
翌日の早朝、ジュリアンはピラール師の司祭館にいた。近くの駅亭から借りて来たがたがたの駅馬車が中庭にやって来た。
「あんな馬車なんぞこの季節に乗れるものではない」と厳格な師はむずかしい顔をして言った。「これがド・ラ・モール氏が君にくださった二万フランじゃ。侯爵はこの一年じゅうにこれだけみんな使ってしまえと言っておられる。もっともできるかぎり世間の物笑いにならんように気をつけて使えということだ」(こんなにまで多額の金を青年に投げあたえるなどということは、罪に導くもととなるとしかこの僧侶には思われなかった)
「侯爵はなおこう言っておられる。ジュリアン・ド・ラ・ヴェルネ氏は、この金子《きんす》を実父から受け取ったことにする、もっともその父親については別に何とも言わなくてもよろしいが。それからド・ラ・ヴェルネ氏は、自分が子供のときから面倒を見てくれたヴェリエールの木挽大工のソレル氏に、なにか贈り物をするのがよかろうということ……この用事のほうはわしが引き受けてもいい」と師は付言した。「わしもやっとド・ラ・モール氏にあのジェズイットのド・フリレール師と折り合う決心をさせた。あの男の勢力は何としてもわしらには手ごわすぎるからの。ブザンソンを支配しているあの男が君の高貴の生まれであることを暗黙に承認すること、これも示談の暗々裡の条件の一つとなるだろう」
ジュリアンはもはや自分の感激を抑えることができなかった。彼は師を抱擁した。やっとこれではっきりと承認されたと思ったのだ。
「馬鹿な真似を!」とピラール師は彼を押しやりながら言った。「何の意味だ、その世俗的なそらぞらしい所作は?……ソレルとその息子たちにはわしが自分の名前で五百フランの年金を提供してやろう、彼らがわしの満足のいくようにやっておるかぎり一人ひとりに支払ってやる」
ジュリアンはもう冷静な尊大な態度にかえっていた。彼はお礼を言った。だがその言葉は非常に曖昧な、まったく捉《とら》えどころのないものだった。〈おれが恐るべきナポレオンによってあの山岳地方に流謫《るたく》させられたどこかの大貴族の私生児だなんてことが、いったいあり得ることだろうか?〉と彼は心に問うた。だがこの考えもだんだんと彼には真実性がないこともなさそうに思えて来るのであった……〈おやじに対するおれの憎悪がその一つの証拠だ……してみると、おれはもう人非人なんかじゃないわけだ!〉
その独語をしてから数日後、陸軍でも最も名誉|赫々《かくかく》たる連隊の一つである軽騎兵十五連隊がストラスブールの練兵場で演習をしていた。シュヴァリエ・ド・ラ・ヴェルネは六千フランで買ったアルサス種の見るからにすばらしい逸物《いつぶつ》にまたがっていた。一度も少尉にならずに彼は中尉になった。もっとも聞いたこともないどこかの連隊の人員登録簿の上だけでは一度少尉になっていたわけだが。
彼の泰然たる様子、厳しい、ほとんど陰険なと言っていいほどの目つき、顔色の蒼《あお》さ、決して動ずることのない冷静さが、はじめの数日から評判になりはじめた。その後ほどなく節度をはずさぬ完璧な彼の礼儀や、大して様子ぶらずに彼が示したピストル射撃と剣術の妙技のため、彼のことを聞こえよがしに冷やかそうなどと考えるものはいなくなってしまった。五日か六日の逡巡があったのち、連隊の一般の世論ははっきりと彼に好意的になってしまった。〈あの若者には何もかも不足がない〉とからかい好きな老将校たちは言っていた。〈ただ一つだけ、若さがないが〉
ストラスブールからジュリアンはシェラン師に手紙を送った。このヴェリエールの旧司祭は今はもうたいへんな高齢に達していた。
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あるいきさつで私が親族の者から金持にしてもらったことは、すでにお聞き及びくださいましたでしょう。きっと喜んでいただけたことと信じます。ここに五百フランを同封いたしますゆえ、かつての私のように現在貧困に悩み、またあなたがかつて私を救ってくださいましたように現在必ずや救っておられるにちがいない不幸な人々に、決して表沙汰にならぬように、また私の名前はまったく言われずに、分配してくださいますようお願い申し上げます。
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ジュリアンは野心に酔っていたのであって、虚栄心に酔ったのではない。それでも彼は外見《みかけ》のことには相当の注意をはらっていた。馬や制服や使用人の仕着せのことには、イギリスの大貴族の几帳面さにも劣らぬほどの厳密な注意がはらわれていた。人の引き立てでしかも二日前に中尉になったばかりというのに、もはや彼は、偉大な将軍たちがすべてそうであったように遅くとも三十歳で一軍の長として指揮を取るようになろうとすれば、二十三歳にして中尉以上になっていなければならぬと計算していた。彼には武勲と子供のことのみしか念頭になかった。
このきわめて奔放な野心の熱狂のうちにあって、彼は突然手紙を持ってやって来たラ・モール邸の供廻りの若い侍僕の来訪を受けた。マチルドはこう書いてきた。
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なにもかもおしまいです。なにを犠牲にしても、必要とあらば脱営してもいいから、できるかぎり速く駈けつけて来てください。こちらに着いたらすぐ**街**番地の庭の小門のそばで辻馬車に乗ったまま、あたしを待っててちょうだい。あたしがあなたにお話しに行きます。たぶんあなたを庭のなかに入れるようにすることができるでしょう。何もかもおしまいです。もう手の打ちようもないんじゃないかとあたしは心配しています。ただあたしのことだけは当てにしてちょうだい。苦境にあってもあたしがあくまであなたに忠実で、弱い気持になっていないことは、お目にかかればあなたにもわかるでしょう。あたしはあなたを愛しています。
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数分のうちにジュリアンは連隊長から許可を得て全速で馬を飛ばしてストラスブールから出発した。しかし凄まじい不安に苛《さいな》まれて彼はメスから先、そんな風な旅をつづけて行くことができなくなった。彼は駅馬車に飛びこんだ。そうしてほとんど信じられないほどの速さでラ・モール邸の庭の小門のそばの指定の場所に到着した。その門が開いた。と思うまに、マチルドがもう恥も外聞も忘れてジュリアンの腕のなかへ飛び込んできた。さいわいやっと朝の五時という時刻で往来にはまだ人影がなかった。
「何もかもおしまいよ。お父さまはあたしに泣かれるのがこわくって木曜日の夜のうちに旅に出ておしまいになったの。行先はどこだか、誰にもわからないの。ここにお父さまの手紙があります。読んでごらんなさい」
そう言って彼女はジュリアンと一緒に辻馬車に乗り込んだ。
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わしは何もかも許せる、が、ただ一つ、おまえが金持だからというのでおまえを誘惑しようとする魂胆だけは許せぬ。可哀そうだが、これが恐るべき真実なのだよ。わしは断々乎として、おまえがあの男と結婚することには同意しないと言明しておく。もしあの男が遠くフランス国境の外で、あるいは、このほうがいっそうありがたいが、アメリカででも暮らすというなら、一万フランの年金をわしは保証しよう。ここに同封する手紙を読んでみるがいい。これはわしの出した問い合わせの答えとして受け取ったものだ。あの軽率な男が自分でこのド・レナル夫人に手紙を出すようにわしに勧めたのだ。
おまえが今後あの男に関してどんなことを言って来ようと、わしは一行も読まぬ。パリとおまえがつくづく恐ろしくなった。今後|出来《しゅったい》すべき事については固く秘密を守ってくれることを、当然わしは期待する。下劣な男のことなどは、あっさり諦《あきら》めてしまうがいい。そうすればおまえはまたもとどおりの父親を見出すだろう。
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「ド・レナル夫人の手紙はどこにある?」とジュリアンは冷たく言った。
「これよ。あなたがそれだけの心の準備ができてからでなければこれはお見せしないつもりだったんだけれど」
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手紙
神聖な宗教《みおしえ》と道徳とに対する私の義務に迫られて、やむなく私はただいまこのような悲しい仕事をあなたのために果たすのでございます。決してあやまつことのない一つの戒律が、ただいま私の隣人を傷つけることを私に命じます、しかしそれはいっそう大きな罪を避けるためにではございますけれども。私の心の苦しみは義務の感情に抑えられねばなりません。
あなたさまがすべて偽《いつわ》らざるところを知らせてくれとおっしゃるそのお方の行状が、何か説明できないようにも尊敬すべきもののようにも思われたということは、まったくそのとおりでございます。こんな事実は一部隠すなりぼかすなりしてしかるべきだとも思えましたし、またそれは宗教と同様分別からしてもそうすべところでございました。けれどもあなたさまが知りたいといわれるその行状は、実際のところきわめて罪深いものでございまして、まことに話のほかでございます。貧しく貪欲《どんよく》で、きわめて巧妙な偽善を用い、弱い不幸な女性を誘惑することにより、この男は何かの地位を得、いっぱしの人間になろうとしたものでございます。このようなことまで申し加えねばならないことは私の悲しい義務の一端でございましょうが、実は私はJ・***様がまったく宗教心をお持ちにならぬものと信じねばなりません。正直に申して私は、あの方がある家で成功しようとする手段の一つは、その家で一番信望を得ている婦人を誘惑しようとすることにあると考えざるを得ないのでございます。おもてには廉潔《れんけつ》をよそおい小説的な美辞麗句をあやつりながら、あの方の最大のかつ唯一の目的とするところは、その家の主人とさらにその財産とを意のままにしようとすることなのでございます。常にあの方は不幸と尽きぬ悔恨とを自分のうしろへ残して行くのです……云々
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この冗長なこと限りない、しかも涙のため半ば消えた手紙は、たしかにド・レナル夫人の手になったものだった。そればかりかこの手紙はいつもよりも十分気を使って書いてあった。
「ぼくにはド・ラ・モール氏を悪く言うことはできない」とジュリアンは読み終えてから言った。「あの人は正しいし、また慎重だ。愛する娘をこんな男にやろうとする父親がいるものだろうか! さようなら!」
ジュリアンは辻馬車から飛びおりて、往来のはずれに停まっていた駅馬車へ駈けよった。マチルドは忘れ去られたような恰好だったが、彼を追おうとして何歩か進んだ。だが彼女を知っている商人たちが自分の店の扉のところへやって来たので、その視線を恐れて彼女はあわてて庭に引っ返さねばならなかった。
ジュリアンは、ヴェリエールヘ向けてたった。このあわただしい旅路でマチルドに手紙を書こうとしたが、心に思っているような書き方はできなかった。彼の手は紙の上に何とも読み取れぬ線を描くのみであった。
日曜の朝、彼はヴェリエールに着いた。その土地の武器商の店にはいると、相手は彼の最近の出世のことでさんざん祝辞を言った。これはこの国で評判になっていたのである。
ピストルを一そろいほしいのだということを相手に呑み込ませるために、ジュリアンは大骨を折らねばならなかった。武器商は彼の註文で装填《そうてん》した。
鐘が三つ鳴った。これはフランスの地方の村々でひろく知られている、午前中のいろいろな行事があったのち、いよいよこれからミサがはじまるという合図である。
ジュリアンはヴェリエールの新しい教会へはいった。その建物の高い窓々はすべて暗赤色の帳《とばり》でおおわれていた。ジュリアンはド・レナル夫人の腰掛から数歩うしろにいた。夫人は熱心に祈祷しているように彼には思われた。かつてはあれほど自分を愛してくれたこの女性を見ると、ジュリアンの腕ははげしく震えて最初はその計画を実行することができなかった。〈おれにはできない〉と彼は自分にむかって言った。〈肉体的におれにはできないのだ〉
その瞬間、ミサのつとめをしていた若い僧侶がエレヴァシオン(司祭が聖餅と聖油とを奉供すること)のため鐘を鳴らした。ド・レナル夫人は頭を下げた。束の間その頭はほとんどまったく彼女のショールのひだに隠れた。ジュリアンにはもう、さきほどのようにはっきり彼女とは見分けられなかった。彼は彼女を目がけてピストルを一発放った。あたらなかった。二発目を打った。彼女は倒れた。
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第三十六章 悲しいことども
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私が弱気を起こすなどとは期待しないでいただきたい。私は復讐したのだ。当然殺されてもいい。私はここから逃げ隠れはしない。私の魂のために祈ってもらいたい。(シラー)
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ジュリアンは身動きもしなかった。もう目が見えなかった。いくらか我にかえると彼は信者たちがみな教会から逃げ出そうとしているのに気がついた。司祭ももう祭壇にはいなかった。悲鳴をあげながら逃げて行く数人の女のあとをジュリアンはゆっくりとした足取りでついて行った。一人の女が他人より速く逃げようとして手荒く彼を押しのけた。彼は倒れた。群衆がひっくりかえしていった一脚の椅子に足を取られたのだ。起き上がろうとすると強く首をおさえられた。制服を着た憲兵が彼をつかまえていたのだ。機械的にジュリアンは小型ピストルを取り出そうとしたが、もう一人の憲兵が彼の両腕をおさえた。
彼は牢獄へ引きたてられて行った。一室にはいって彼は手錠をかけられ、一人だけで残された。彼を入れたまま扉は二重鍵で閉められた。これらはすべてあっという間にかたづけられてしまった。彼にはそれを感じているひまなどなかった。
〈ほんとにこれで何もかも終わった〉と彼は我にかえってはっきりと声に出して言った。……〈そうだ、二週間たてば断頭台《ギヨチーヌ》だ……でなければそれまでに自殺するか〉
彼の考えはそれ以上進まなかった。まるで自分の頭が激しく締めつけられているような感じがした。誰かが自分をおさえているのじゃないかと思った。それからしばらくして彼はぐっすり寝入ってしまった。
ド・レナル夫人は致命傷を受けたのではなかった。最初の一弾は彼女の帽子を貫いた。彼女が振り向いたときに第二弾が放たれた。弾《たま》は彼女の肩にあたった。だが驚くべきことに、肩の骨を折りはしたが、そのままはねかえってゴチック式の柱石にぶつかり、その石の大きな破片を落したのであった。
長い苦痛の多い手当がすんで、おちつきはらった外科医が「あなたの命は私の命同様お請け合いしますよ」とド・レナル夫人に言ったとき、彼女はかえって深く悲しんだのである。
ずっと前から彼女は心から死を望んでいた。現在の懺悔聴聞僧《ざんげちょうもんそう》から強いられてやむなくド・ラ・モール氏に書いたあの手紙が、まったく絶えることのない不幸に憔悴《しょうすい》し切っていたこの女に最後の一撃を与えた。その不幸とは実はジュリアンがいないということであった。だが彼女はそれを|良心の呵責《ヽヽヽヽヽ》と呼んでいた。しかし最近ディジョンからやって来た、有徳で熱心な僧侶であるあの良心の導師《みちびきて》は、そんなことでこれを見あやまらなかった。
〈こんな風に死ぬ、しかも自分で手をくだして死ぬのでなければ、決して罪になんかならないだろう〉とド・レナル夫人は考えた。〈あたしがこれで死ねるといって喜ぶのを、たぶん神さまは許してくださるだろう〉けれどもやはり、彼女には思い切ってこう言うことはできなかった。〈しかもジュリアンの手にかかって死ぬなんて、あたしにとっては至上の幸福だわ〉
外科医やどっと駈けつけて来た見舞い客がやっと引きあげてくれると、早速彼女は小間使いのエリザを呼んだ。
「獄吏は無慈悲な人だってね」と彼女はひどく顔をあからめながら小間使いに言った。「きっと獄吏はそうすればあたしが喜ぶと思ってあの人につらく当たることでしょう……そう思うとあたしとてもたまらないの。ここにルイ金貨を幾枚か包んであるから、あなたが自分で行ったというような顔をしてこれを獄吏にわたして来てもらえないかしら。あの人に辛くするのは宗教《みおしえ》からは許されないと言って来ておくれ……特にこのお金をもらったことは決して口外してはいけないと言ってやってちょうだい」
実は以上のような事情があったればこそ、ジュリアンはヴェリエールの獄吏から親切にしてもらえたのだ。この獄吏はあいかわらず、アペール氏の来訪によってだらしなく震えあがって見せたことはわれわれも先刻ご承知の、例の完全無欠の御用主義者ノワルー氏だったのである。
一人の判事が牢獄にやって来た。……「私は予謀してあの人を殺したのです」とジュリアンは彼に言った。「某々という武器商でピストルを買い装填《そうてん》させました。刑法第一三四二条は明らかです。私は死にあたいします。それは私も覚悟のうえです」この答弁の仕方に驚いた判事は、被告に答弁ちゅう|矛盾したこと《ヽヽヽヽヽヽ》を言わせるために次々と質問しようとした。
「しかし私があなたのお望みどおり自分で有罪だと言っているのがおわかりにならんのですか」とジュリアンは微笑しながら言った。「もうむこうへ行ってくださいませんか。あなたが狙っておられる獲物を取り逃がすということはありませんよ。有罪の判決をくだす楽しみがふいになっちまうことはありません。とにかく今あなたがここにおいでになることだけは勘弁していただきたいものです」
〈あとはただ退屈な義務を一つ果さなければならないだけだ〉とジュリアンは思った。〈ド・ラ・モール嬢に手紙をやらなくちゃならん〉
その手紙にはこう書いた。
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ぼくは報復しました。不幸にしてぼくの名前が新聞に出てしまいましたのでインコグニトで(名前を知られずに)この世をおさらばするわけにはまいりません。二カ月以内にぼくは死ぬでしょう。復讐はあなたと別れているということの苦しみと同じくらい堪えがたいことでした。これからのち、ぼくは決してあなたの名を書いたり口にしたりすまいと思います。あなたもぼくのことを誰にも話さないでください、ぼくの子供にさえも。沈黙こそぼくの体面を汚さないですませる唯一の方法です。世間の大多数の人間からすればぼくは卑しむべき殺人犯ですから……もう最後の時が来たのだからぼくが真実を言うのを許してほしい。いずれあなたはぼくを忘れてしまうだろう。この重大な破局については決して口にしたりしないようにお勧めするが、この破局はなお数年にわたってあなたの性格にあるあらゆるロマネスクな、またあまりにも冒険的なものをとことんまで衰えさせてしまうことでしょう。あなたは中世の英雄たちを相手に生きるようにできているのです。その英雄たちの剛毅な気性をあなたが示さねばならぬ。なにごとが起ころうともあくまで隠密に、あなたの身が危くならないように、なるようにならせておきなさい。偽名でも使ったらどうでしょう、そして決して人に打ち明けたりしてはいけない。何としても友だちに頼らねばならぬというのならばピラール師のところへ行くのです。
決して誰にも言ってはいけない、特にあなたと同じ階級の人たち、ド・リュスやケリュスといった人たちには。
ぼくの死後一年したらド・クロワズノワ氏と結婚しなさい。どうぞそうしてくれるようにお願いします、いや、あなたの夫として命令します。ぼくに手紙を書いて来てはいけない、ぼくは返事を出しません。イアゴー〔シェークスピアの『オセロ』のなかの人物〕ほど自分が意地が悪いとも思えないが、ぼくもイアゴーのようにあなたに言います。〔今より後はおれは一言も口を利くまい〕と。
今後ぼくは一言も言わず筆も取らぬ。ぼくの最後の言葉も最後の熱愛もあなたに捧げられたものだ。
J・S
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この手紙を出してしまってからはじめてジュリアンはいくらか我にかえり、非常に悲しい思いをした。これまで彼の野心がいだいていたさまざまの希望が〈おれは死ぬのだ〉というこの重大な言葉によって一つ一つ次々と彼の心から奪われていくのであった。死はそれ自身としては彼には身の毛のよだつほどには思われなかった。彼の全生涯は不幸に対する心の準備を長いあいだかかって作り上げることにすぎなかった。それゆえ彼はあらゆる不幸のうち最大のものとされている死を忘れようなどとはすこしも思ったことがなかった。
〈何たることだ!〉と彼は心に思うのであった。〈三カ月以内にすばらしく剣術に優れた男と決闘をしなけりゃならんというのなら、恐ろしくてたまらずにこんなにしょっちゅうそのことばっかり考えたりするような気弱さをおれは見せるだろうか?〉
この点に関してはっきりと自分を見きわめようと、努めて彼は一時間を過ごした。
自分の心がはっきりとわかり、この牢獄の柱と同じほど鮮明に真相が彼の眼前にあらわれて来ると、彼は悔恨ということを考えた。
〈なぜおれは悔恨なぞに責められているのか? おれは堪えられぬような凌辱《りょうじょく》をこうむった。だからおれは殺した。おれは死罪に価する。それだけだ。おれは人間社会に対して自分の勘定を済ませた上で死ぬのだ。未償還の債務もあとに残しやしないし、誰に義理があるわけでもない。おれの死に何ら恥ずべきところはないのだ、ただ死ぬための道具は別だが。これだけが実際、ヴェリエールの町人どもの目から見たらおれの汚辱としてはまさに十分すぎるほどだ。だが知的な点から見れば、こんなことは実に取るに足りぬことではないか! おれにだってまだ、奴らの目から尊敬すべき人間のように見られる手は残っている。つまり刑場に曳かれて行く道々、公衆に金貨を撒《ま》きちらすことだ。金という観念と結びついておれの名は彼らにとって輝かしいものとして残るだろう〉
こういった考えは一分もたつと彼には疑う余地のない自明なものと思われた。〈おれはもうこの地上で何ら為すべきことはない〉とジュリアンは独語してぐっすり眠りこんでしまった。
夜の九時ごろ獄吏が夜食を持って来て彼を起こした。
「ヴェリエールじゃみんな何て言っている?」
「ジュリアンさん、この職についた日、裁判所で十字架の前で誓約してある以上、私はどうしても口を開くわけにはいかないのです」
彼は沈黙した。だが出て行かない。この卑しい偽善を見るとジュリアンは面白かった。〈こいつ、良心を売るのに五フランご所望なんだろうが、そいつは長いことお預けにしてやらなくちゃ〉と彼は思った。
獄吏は彼がいっこう自分を丸めこもうともせずに食事をすますのを見て、
「わたしはあなたに好意を感じていますから言わずにはいられないのですが」とうわべだけの甘ったるい様子で話しかけて来た。「これはあなたの弁護に役立つかもしれませんから裁判所の利益には反すると言われるでしょうけれども……ジュリアンさんは本来やさしい方でいらっしゃいますから、ド・レナル夫人の経過が良いとお聞きになったらさぞお喜びのことと思いまして」
「なに! あの人は死んだんじゃないのか?」とジュリアンは我を忘れて叫んだ。
「何ですって! なんにもご存じじゃなかったのですか!」と獄吏は間抜け面をして言ったが、すぐさまこれはしめたというような欲深そうな様子になって、「外科医にいくらかつかませるのが一番ですよ、医者は法律で何にも言ってはいけないことになっていますがね。しかしあなたに喜んでいただこうと思ってわたしはあの人のところに行って来たんですよ、そうしたら何もかも話してくれました……」
「要するに傷は生命にかかわらないというんだな」とジュリアンは苛立《いらだ》って言った。「きさま、自分の生命にかけてそれを保証するか?」
獄吏は身長一八〇センチもある大男なのに、恐れをなして扉のほうへあとずさった。ジュリアンはこんなことでは真相をつかめないと思ったので、また腰をおろしてノワルー氏にナポレオン貨を一枚投げ出してやった。
この男の話によってド・レナル夫人の傷が命には別条ないということがジュリアンの目に明らかになっていくにつれ、彼は涙を誘われてきた。……「出て行ってくれ!」と彼は唐突に言った。獄吏はおとなしく出ていった。扉がしまるや否や、〈ああ、あの人は死ななかったのだ!〉とジュリアンは絶叫した。そうして熱い涙にむせびなから彼はひざまずいた。
この無上の瞬間には、彼は信者になっていた。坊主どもの偽善が何だろう? そんな偽善が≪神≫という観念の真実さ崇高さから何を減殺《げんさい》し得るか?
このときはじめてジュリアンは犯した罪を悔いはじめた。こうして彼が絶望に陥ることをまぬがれたのと符節を合して、この瞬間にはじめて、彼がヴェリエールに向けてパリを発ったときから陥っていた肉体的焦躁と半狂乱の状態もやんでしまっていた。
彼の涙は高潔な心から流れていたのだ。自分に与えられるべき処刑のことには彼は何ら疑いをはさまなかった。
〈それではあの人はまだ生きつづけるのだ!〉と彼は心に思った……〈生きつづけて、おれを赦し、おれを愛してくれるだろう〉
あくる朝だいぶおそくなって獄吏は彼を起こすと、
「あなたはすばらしく胆っ玉の太い方ですね、ジュリアンさん」とこの男は言った。「もう二度も来たんですが、あなたを起こしちゃ悪いと思って。ここの司祭のマスロンさんがあなたにと言って、ほれ、この極上の葡萄酒を二本送って来ましたよ」
「何だって? あの悪党はまだここにいるのかい?」とジュリアンは言った。
「いますよ」と獄吏は声を低めて答えた。「ですがそんな大声で言わないでください。いためつけられんともかぎりませんよ」
ジュリアンは気持よく笑った。
「こんなていたらくではね、君、君がそんなにやさしく親切にしてくれる気がなくなりゃ、君ひとりだけでぼくをいためつけることもできるんだよ……そうすりゃたんまりご褒美をもらえるぜ」とジュリアンは、言いかけた言葉を切って権柄《けんぺい》ずくな態度にかえりながら言った。その態度も、すぐその場で彼が金貨を一枚投げ出したので、文句のつけようがなかった。
ノワルー氏はまたもやド・レナル夫人について聞き込んだことを、実に微に入り細を穿《うが》って一切合切話しはじめた。しかしエリザ嬢が自分のところへ来たことだけは口を拭って何も言わなかった。
この男はまったくこの上ないほど下品で卑屈だった。ある考えがジュリアンの頭を横切った。〈この醜い大男の稼ぎは三、四百フランだろう。この牢獄にはあんまり人もはいって来ないからな。おれと一緒にスイスヘ逃げ出す気になれば、おれはこいつに一万フラン約束してやることもできる。……ただ難点は、おれが真面目にそう思っているということを相手に呑み込ませることだ〉だがこんなさもしい男を相手に長いこと談合することを考えただけでもジュリアン嫌悪に襲われ、ほかのことに考えを移してしまった。
夜になるともうその機会はなかった。真夜中に一台の郵便馬車が彼を迎えに来た。彼は自分の道づれになった護送の憲兵たちには、はなはだ満足した。朝になってブザンソン監獄に着くと、彼は親切にもゴチック式の天守閣の最上階の房をあてがわれた。彼はこの建築を十四世紀初頭のものと判断した。その優美さと生き生きとして軽快な様式に彼は感嘆した。深く落ち込んだ中庭のむこうの二つの壁の狭い間隙から、美しい遠景が望まれた。
翌日は訊問があった。それがすむと数日にわたって静かにしておいてもらえた。彼の心は平静であった。自分の事件が彼にはまったく単純なものに思えた。〈おれは殺そうとしたのだ、だからおれは殺されるべきだ〉
彼の想念はこれ以上こういう理屈に留まっていなかった。公判、人なかへ出ることの不愉快さ、弁護、そんなものはみなつまらぬ迷惑、その日になって考えても間に合う退屈な儀式といったくらいにしか考えなかった。最後の瞬間のことだって、それ以上には大して彼の考えを引き留めはしなかった。〈公判が終わってからそのことは考えよう〉と思っていた。生活は彼にとってすこしも退屈ではなかった。彼はあらゆる事柄を新しい面から考察した。彼はもはや野心を持たなかった。ド・ラ・モール嬢のことを考えることも滅多になかった。悔恨だけがすっかり彼の心を占めていて、特に夜のあいだ、天守閣のなかではただ鶚《みさご》の鳴き声に乱されるばかりの寂寞《じゃくばく》のときなどに、しばしばド・レナル夫人の面影がそぞろに偲《しの》ばれてくるのであった!
彼は夫人に致命傷を負わせなかったことを神に感謝した。〈不思議なことだ!〉と彼は心に思った。〈あの人がド・ラ・モール氏にあんな手紙を書いたおかげで、おれの将来の幸福は永久に損なわれてしまったとおれは思っていた。それなのにおれはあの手紙にあった日付からまだ二週間もたっていないのに、あの当時おれの心を奪ったようなことはもういっこう考えもしない……ヴェルジーみたいな山国でひっそりと暮らすため二、三千リーヴルの年金があったら……おれはあのころ辛福だった……おれは自分の幸福を知らなかったのだ!〉
また別のときには彼は椅子から飛び上がって、〈ド・レナル夫人に致命傷を与えていたらおれは自殺していたろう……。そうわかっていなけりゃおれは自分というものがたまらなくなっちまう〉
〈自殺する! それは大問題だ〉と彼は自分に言った。〈あんなに形式主義者で、血眼になって哀れな被告を追い回し、勲章をいただくためになら最良の市民をも吊し首にしかねまじきあの裁判官たち……。おれも自殺すりゃあいつらの勢力を逃れ、拙劣なフランス語で言う奴らの罵言をまぬがれるわけだ、もっともこの地方の新聞なんかはその罵言を雄弁などと言うんだろうが……〉
〈おれはまだ多かれ少なかれ五、六週間生きつづけられるだろう……自殺する! そんなことをするもんか。ナポレオンは死にはしなかった〉と数日後彼は思った。
〈それにこの生活はおれには楽しい。この住いは静かだ、退屈な人間は一人もいない〉と彼は笑いながら付け足した。そうしてパリから取り寄せようと思う書物の表を作りはじめた。
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第三十七章 天守閣
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友の墓。(スターン)
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廊下で大きな物音が聞こえた。彼の獄舎へ人が来る時刻ではなかった。鶚《みさご》が鋭く鳴きながら飛び去った。扉が開いた。と、あの尊敬すべきシェラン司祭がぶるぶる震えながら杖を手にして彼の両腕のなかへ飛び込んで来た。
「ああ、何ということだ! あり得ることだろうか、我が子よ……いや、人非人! とそうわしは言わなければならなかったのじゃ」
そうして善良な老人は、これ以上ひと言も言うことができないのだった。ジュリアンは師が倒れないかと思って心配した。椅子のところへ連れて行ってやらねばならなかった。時の手がかつてはあんなに精力絶倫だったこの人を衰えさせてしまっていた。ジュリアンにはもうこの人がこの人自身の亡霊のようにしか思えなかった。
やっと息をつけるようになると……「つい一昨日ヴェリエールの貧乏人にくばってくれという五百フランと一緒にあんたのストラスブールからの手紙を受け取ったばかりなのに。今わしはリヴリュの山のなかにいる甥《おい》のジャンのところに引っ込んでいるのじゃが、手紙はそこまで届けられて来たのじゃ。昨日になってわしはこの変事を聞いた……ああ、ほんとにそんなことがあり得ることじゃろうか!」だが老人はもう泣かなかった。もう頭が働かなくなったように見えた。そうして彼は付け足した。「その五百フランが入用かと思ってここに持って来たのじゃ」
「いいえ、ただあなたにお目にかかれさえすればいいのです!」とジュリアンは胸を打たれて叫んだ。「お金はまだ残っています」
しかしもうまともな返事は得られなかった。ときどきシェラン師は涙を流した。その涙は音もなく頬をつたわって流れ落ちた。それからまた師はジュリアンを見つめた。そして彼が自分の両手を取って唇のところへ持って行くのを茫然として眺めているのだった。昔はあんなに生き生きしていてきわめて高潔な心情を力強くあらわしていたその相貌が、もう見るからに無感覚になりきったまま動かなかった。百姓みたいな男がまもなく老人を迎えに来た。……「疲れさせてはいけないんです」とその男はジュリアンに言った。彼はこれが甥だなと呑み込んだ。このようなことがジュリアンを悲痛な思いに沈ませた。泣くに泣けなかった。すべては彼に慰めのない傷ましいものに思われた。胸のなかで自分の心臓が凍ったような感じだった。
この一時《いっとき》は、彼があの犯行以来味わった最も堪えがたいものだった。彼は死を目《ま》のあたりに、しかもその醜怪きわまる姿のままに見たのだ。魂の偉大さや高邁《こうまい》さなどのあらゆる幻想は、嵐の前の雲のように散らされてしまった。
この恐ろしい状態は数時間もつづいた。精神が毒にあてられたあとでは肉体的療法とシャンパンが必要である。ジュリアンはそんなものに頼ることは卑怯だと思った。狭い天守閣のなかを歩きまわって朝から晩まで過ごしたその堪えがたい一日の終わりごろになると、〈何ておれは馬鹿げてるんだ!〉と彼は叫んだ。〈おれがほかの人間と同じような死に方をするという場合なら、あの哀れな老人を見てこんな恐ろしい憂鬱に沈むこともあろう。ところがこっちは若い盛りに手っ取り早い死に方をするんだから、まさにあんなみじめな老衰だけは避けられるのだ〉
どんな理屈を考えようとも、ジュリアンは気の弱い人間のようにくよくよした気持でいて、そのためいつまでもこの来訪を思い出しては悲しかった。
もはや彼のうちにはまったく硬骨さ雄壮さはなく、ローマ人のような気力などなかった。死は、彼にはずっと高い所にあるもののように思われ、なかなか容易なものではないように思われた。
〈こいつをおれの温度計にしてやろう〉と彼は心に思った。〈今夜はおれは平然と断頭台に登るだけの勇気から十度も下がっている、今朝はその勇気を持っていたんだが。だがまあそんなことはかまうもんか! 必要なときになってその勇気が戻って来さえすりゃいいのだ〉この温度計という思いつきが彼には愉快だった。そうしてやっと彼は気を紛らすことができた。
翌日、目を覚ますと彼には昨日の一日のことが恥ずべきことのように思われた。〈おれの幸福、おれの平静はぐらついている〉彼は検事総長殿に手紙を書いて、何人にも自分への面会は許さないようにしてもらおうという決心までしかけた。〈ではフーケは?〉と彼は思いかえした。〈わざわざブザンソンにまで出かける気になってくれたら、どんなにあいつ悲しく思うだろう!〉
おそらくもうこれで二カ月も、彼はフーケのことを思い出さないでいた。〈おれはストラスブールでは大馬鹿だった。洋服のカラー以上のものを考えることはなかった〉フーケの思い出がさかんに彼の心につきまとい、なおさら彼をしみじみとした気持にした。懊悩《おうのう》しながら彼は歩きまわった。〈これじゃ死の水準からたしかに二十度も下がっているぞ……。こんな気弱さが増したらいっそのこと自殺したほうがましだ。マスロン師やヴァルノの輩《やから》はおれが下らぬへぼ学者といった死にざまをしたらどんなにご満悦のことだろう!〉
フーケがやって来た。この素朴で善良な男は苦悩に取り乱していた。もし意見というものがあるとすれば、彼の唯一の意見は獄吏を買収しジュリアンを脱走させるため全財産を売り払うということだった。彼は長々とジュリアンにド・ラヴァレット氏〔ナポレオン派の貴族で王政復興後に捕えられたが、死刑執行の前日、妻を替え玉にして脱獄した〕の逃亡について話した。
その話を聞いてると悲しくなるよ」とジュリアンは言ってやった。「ド・ラヴァレット氏は冤罪《えんざい》だった。ところがぼくは有罪なんだからね。そんなつもりじゃ君はないんだろうが、君の話を聞いてるとこの違いを考えさせられる……」
だがそれはほんとなのかい? え、全財産を売り払ってくれるのかい?」とジュリアンは突然疑い深く人を観察するような態度にかえって言った。
フーケは友がやっと自分の頭のなかにいっぱいになっている考えに応じてくれたので、夢中になって喜びながら、自分の所有地の一つ一つから得られる金額を百フラン台まで事細かに話した。
〈田舎の地主にしては、何という崇高な心意気だろう!〉とジュリアンは思った。〈あいつがそんな風にしているのを見るとこちらのほうが実際恥ずかしく思ったほどの倹約やしみったれたやり方、それをみなおれのために犠牲にするというのだ! ラ・モール邸でおれが会ったあの『ルネ』〔有名なシャトーブリアンの作品。当時流行をきわめていた〕を読んでいる青年なら、誰一人としてこんなおかしな真似はしないだろう。まったく年も行かなくて、遺産をもらって金持になったばかりで、まだ金というものの値打ちを知らぬ連中ならいざ知らず、あののっぺりしたパリジャンのなかでこれほどの犠牲を為し得る奴が誰かいるだろうか?〉
フーケの使うフランス語のあやまりや俗っぽい身振りなぞはもうまったく彼には感じられず、ジュリアンはその腕のなかへ飛び込んだ。パリと比較されて地方がこれ以上面目を上げたことはない。フーケはこの瞬間、友の目にかがやいている感激を見て脱走に同意したのだと思い、夢中になって喜んだ。
この崇高なものを見たことがジュリアンに、シェラン師の来訪で失われた気力をすっかり戻してくれた。彼はまだ実際若かった。だが、私に言わせれば、立派な苗木だった。大部分の人間のようにやさしい心から次第に狡猾に移っていくのではなく、年とともに彼は感動しやすい善良さを加えてきた。あんな正気の沙汰ではない猜疑心《さいぎしん》からもいつか癒《いや》されることもあったろうが……。だがそんな無意味な予言をしたところで何になろう?
訊問《じんもん》は、ジュリアンが努めて答弁のたびに事件を早く切りあげさせようと仕向けていたにもかかわらず、いっそう頻繁《ひんぱん》になった……「私は殺人をおかしたのです。すくなくとも予謀して殺害しようとしたのです」と彼は毎日くりかえした。しかし判事は何よりもまず形式主義者だった。ジュリアンの何度もの言明もいっこう訊問を短くしはしなかった。判事の自尊心はそれによって傷つけられたのだ。ジュリアンは自分が恐ろしい土牢に移されようとしていたことも、また自分がこの百八十段もの高さの美しい房に留められていたのがフーケの奔走によるものであることも、まったく知らなかった。
ド・フリレール師は、フーケが暖房用の薪を納めることになっていた有力者の一人だった。この人のよい商人はやっとのことで全能の副司教に目通りねがうことができた。ド・フリレール師は、自分はジュリアンの優れた才能と以前の神学校での精勤ぶりには感心しているので、彼のことは判事によろしく依頼しておくつもりだと言ったので、フーケの有頂天の喜びは筆舌に尽くせぬほどだった。友を救う見込みがあるのを察すると、フーケは出がけに頭が地につくほど平伏して被告の釈放を祈願するためミサに十ルイ使ってくださいと言った。
フーケは奇妙な誤解をしていたのだ。ド・フリレール師は決してヴァルノみたいな人間ではなかった。彼はその金を受け取ることを拒み、しかもこの気の好い田舎者に財布の紐《ひも》は締めておいたほうがいいとほのめかしさえした。思い切ったことを言わなければはっきりさせることができないとわかると、その金額は本当に無一物で困っている可哀そうな囚人たちに施してやったがいいと勧めてやった。
〈あのジュリアンという奴は変わっている。やることがどうも不可解だ〉とド・フリレール師は思った。〈このおれにとって不可解なものなんて全然ないはずだが……おそらくあの男は、殉教者にしてやろうと思えばなるかもしれない……まあいずれにしてもこの事件の裏はわかるだろうし、そうなりゃおそらくあのド・レナル夫人を怯《おび》え上がらせる機会も出て来よう。あの女はいっこうわれわれを尊敬しないし、それどころか内心おれを蛇蝎視《だかつし》しているのだからな……ひょっとするとこの事件のなかに、あの神学生の小僧を偏愛しているド・ラ・モール氏とのすばらしい調停の手段が見つからんともかぎらん〉
この訴訟の示談はすでに数週間前に調印ずみになっていた。そしてピラール師は、ジュリアンの不思議な出生のことを忘れずに言いふらして、この不幸な男がヴェリエールの教会でド・レナル夫人を殺害しようとしたその日、ブザンソンから帰途についたのであった。
ジュリアンにはこれから死ぬまでのあいだの不愉快な事としては、もう一つだけしか予想できないものがあった。その一事とは父親の訪問であった。彼は検事総長に手紙を書いていっさい訪問を断わらせてもらおうかとフーケに相談してみた。こんな時になってなお父親に会うことを忌避《きひ》するのを見て、この材木商人の真面目な市民的な心は深く傷つけられた。
あれほど多くの人がこの友人を激しく憎んでいる理由を、いま彼はのみこめたように思った。相手の不幸を考えて彼はそんな感じはおもてにあらわさなかった。
「とにかくその面会禁止命令にしたって、君のおやじさんには適用されないんだよ」と彼は冷やかに答えた。
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第三十八章 権勢家
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しかし彼女のやることにはいろいろと不可解なこともあるし、からだつきはいかにも優雅ではないか! いったいあれは誰だろう?(シラー)
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翌日の朝まだきに天守閣の扉が開いた。ジュリアンはびくっとして目が覚めた。
〈ああ、たいへんだ!〉と彼は思った。〈おやじがやって来やがった。さあ、やりきれないことになるぞ〉
その瞬間に百姓女の服装をした一人の女が彼のふところに飛びこんで来た。それが誰だかなかなか見分けがつかなかった。ド・ラ・モール嬢だったのだ。
意地の悪い人、お手祇を見るまであなたがどこにいるかわからなかったのよ。あなたの言う罪、それはこの胸のなかで鼓動しているあなたの心の気高さをすっかりあたしに見せてくれたいさぎよい復讐だったわけだけど、あたしこのヴェリエールに来てはじめてそれがどんなことだったか知ったのよ……」
はっきりそう意識していたわけではなかったけれども、ジュリアンはかねてからド・ラ・モール嬢には警戒していた。それなのに今は彼女が非常に美しく思われた。こういった行動の仕方や話し方のなかに、卑小な人間がどんなに力《りき》んでもとても追いつけない、利害を超越した高貴な感情をどうして見ないですまされよう。彼はまた自分の愛しているのは女王だという気がした。そうしてしばらくのち彼は、まれに見る高貴な口調と思想とを示して彼女に言ったのだった。
「未来ははっきりとぼくの目に描き出されていた。ぼくの死んだ後はあなたにド・クロワズノワさんと結婚してもらう。あの人は未亡人と結婚するだろう。この魅力を失わぬ未亡人の高貴な、だがいくらかロマネスクな心は、異様な悲劇的な、しかも彼女にとっては実に重大なある事件によって驚愕し、一転して世間なみに賢くやるということを尊敬するようになり、この若い侯爵に実際そなわっている真価をはじめて理解してあげるようになるのだ。世間全体の人が幸福だと思うことにあなたも甘んじて幸福を感じるようになれるでしょう。世間の尊敬とか、富とか、高い身分とかに……。しかし、ねえマチルド、あなたがブザンソンに来たことが気づかれたら、ド・ラ・モールさんにとっては致命傷になりますよ。そんなことになれば、それこそぼくは永久に自分を許せなくなる。もうこれまでに、ぼくはあの方の心をあれほど痛ませて来ているのだ! あのアカデミ会員なら『身中に毒虫を養っていた』とでもいうでしょう」
「実を言うと、あたしはそんな冷やかな理屈やそれほどの将来についての配慮なんて期待していなかったわ」ド・ラ・モール嬢はいくぶん腹立たしげに言った。「あたしの小間使いはほとんどあなたと同じくらい慎重で、自分の名前で旅券を買って来てくれたんです。だからあたしはミシュレ夫人という名前で駅馬車でやって来たのです」
「それではミシュレ夫人という名でこんなに簡単にぼくのところまで来ることができたんですか?」
「ああ、やっぱりあなたは偉い人だわ、あたしが好きになっただけのことはあるわ! 最初あたしは、この天守閣にあたしがはいることは許されないと言った判事の書記に百フランやったのよ。ところがお金を受け取ってもこの実直な男はいつまでも待たせてばかりいて、いろいろ故障を申し立てるの。あたし、この男は何もしないであたしから巻き上げるつもりなんだと思ったので……」と彼女はためらった。
「それで?」とジュリアンはうながした。
「怒らないでね、ジュリアン」と彼女はジュリアンに接吻しながら言った。「あたしどうしてもその書記に自分の名前を明かさないわけには行かなくなったのよ、あたしのことをパリの若い女工で美男のジュリアンに首ったけになっているんだという風に思っているんですもの……実際そういう言葉を使って言ったのよ。ですからあたし、あなたの妻だときっぱり言ってやったのです。これから毎日あなたに会いに来る許可が得られるでしょう」
〈申し分のない気ちがい沙汰だ〉とジュリアンは思った。〈だがおれはこの女を思い止まらすことはできなかったのだ。何といったってド・ラ・モール氏は大貴族なんだから、どこかの若い大佐がこの綺麗な後家さんを妻に迎えたって、世間も何とか口実をつくってもっともだと見てくれるだろう。近いうちおれが死んだら何もかも隠蔽《いんぺい》されてしまうだろう〉そう思うと彼は恍惚としてマチルドの愛情に身をまかせた。この愛情は、狂おしさと魂の偉大さとあらゆる非凡なものとから成り立っていた。彼女は真剣に彼と一緒に自殺しようと言い出すのであった。
はじめのこの熱狂がさめてジュリアンの顔を見た喜びに飽満すると、強い好奇心がにわかに彼女をとらえた。彼女は恋人を観察した。想像していたより彼はずっと優れていると彼女は思った。ボニファス・ド・ラ・モールがよみがえって来たように彼女には思えた、しかもいっそう雄々しい姿で。
マチルドはこの国の一流の弁護士たちに会ってみた。あまり無遠慮に金を差し出したので彼らの気を損じてしまった。だが結局彼らは受け取った。
彼女はたちまち、ブザンソンでは、及ぼすところは重大であるがはっきりしないところのある事件についてはすべてがド・フリレール師の方寸にかかっているのだ、ということに思いあたった。
ミシュレ夫人というみすぼらしい名前で行くと、この全能の修道会員の面前にまかり出るのにまず越えがたい障害にぶつかってしまった。しかし若いジュリアン・ソレル師を慰めようとしてパリからブザンソンヘやって来た、恋に狂った若い美しい流行品店の女の噂は、町のなかにひろまりはじめていた。
マチルドは一人だけでブザンソンの街々を車にも乗らず駈けまわった。自分の素姓など知られないだろうと彼女は思っていた。いずれにせよ彼女は、公衆に深い印象を与えておくことが自分の目的のため無益でないとは思っていた。思い乱れたあまり彼女は、刑場に曳かれて行くジュリアンを救い出すために彼らを蜂起させようとまで思った。ド・ラ・モール嬢は、自分が悲嘆にくれている女にふさわしいように質素な服装をしているのだと思いこんでいた。実は彼女はあらゆる人の目を惹くような身なりをしていたのだ。
彼女はブザンソンで衆人の注目の的となっていたが、こうして一週間の奔走のあげく、彼女はやっとド・フリレール師に面会することができた。
いかほど彼女に勇気があったとはいえ、有力な修道会員という観念と抜け目のない悪辣《あくらつ》さという観念が彼女の頭のなかでは固く結びついていたので、司教邸の門口で鐘を鳴らしながら彼女はからだが震えた。主任副司教の居室へ通じる階段を登るときになると、彼女はほんど足を運ぶことさえできなかった。司教館の人気のない静寂が彼女に寒気《さむけ》を感じさせた。〈あたしが肘掛け椅子に腰をおろすと、その椅子があたしの両腕をつかまえ、それっきりあたしは行方不明になってしまうかもしれない。そうなったらあたしの小間使いは誰にあたしのことを訊いたらいいのだ? 憲兵隊の隊長だってすぐ手を打つことは控えるだろう……この大きな町のなかであたしは孤立無援だ!〉
居室のなかを一目見ただけでド・ラ・モール嬢は安心した。まず彼女のため扉を開けてくれたのはたいへん品のよい仕着せをきた侍僕だった。彼女が待たされていたサロンは、パリの家でなければ見られないような、下品な華麗さなどというものとは全然異なったあの洗練された精緻な豪奢さをくりひろげていた。いかにも温情に満ちたような顔をしてやって来たド・フリレール師を見ると、たちまち彼女の頭から凶悪な犯罪といった考えなどすっかりなくなってしまった。それのみか彼女は、この副司教の美しい容貌にパリの社交界ではひどく嫌われるあの精力的で何か野蛮なまでの感じの精力があらわれているのさえも気づかなかった。ブザンソンですべてを左右するこの僧侶の顔立ちをいろどっているかすかな微笑を見ると、この男が上流の交際社会の人間であり教養ある高僧であり敏腕な行政家であることがわかった。マチルドはパリにいるような気がした。
ド・フリレールがマチルドに、彼女が自分の手ごわい強敵であるド・ラ・モール侯爵の娘であると白状させるには、しばらく待ちさえすればよかった。
「私は本当はミシュレ夫人なんていう名ではないのです」と彼女は持ち前の尊大な態度にかえって言った。「けれど私にとってこんなことを打ち明けますのも大して辛いことではございません。なぜなら私はド・ラ・ヴェルネ氏を逃走させることが可能かどうかについてあなたのご意見を拝聴しにまいったのですから。第一にあの人は軽率だったというよりほかに罪がないのです、あの人に射たれたご婦人は経過がよくなっているのですし。第二に、下役人を買収するためなら私は今即座に五万フランをおわたししてもよろしゅうございます。その上になお倍額をお約束しても結構です。要するにド・ラ・ヴェルネ氏を救ってくださった方に対する私の、また私の一門の感謝としては、どんなことでもできないことはございません」
ド・フリレール師がこの名前を不思議に思っているらしく見えたので、マチルドは陸軍大臣からジュリアン・ソレル・ド・ラ・ヴェルネ氏にあてた手紙を数通出して見せた。
「ご覧のとおり、うちの父があの人の身分のことを引き受けてくれましたの。私はあの人と内輪で結婚いたしましたけれど、父はラ・モール家のものとして見れば少々突飛なこの結婚が公表されます前に、あの人が上級の将校になることを希望したわけでございます」
マチルドは、ド・フリレール師がこういう重大な真相を明かされて行くにつれて、人の好さそうなやさしく快活な表情が見る見るうちにその面上から失せて行くのに気がついた。底の知れぬ偽善をまじえた狡猾さがありありと彼の容貌にあらわれた。
師にはまだいろいろと不審があったのだ。彼はゆっくりと公文書を読みなおしていた。
〈この異様な打ち明け話をおれはどんな風に利用し得るか?〉と師は自問した。これでおれはまったく思いがけず、フランスの司教の任免を一手に左右している***の司教|猊下《げいか》の姪《めい》で、猊下を意のままにしているという有名なド・フェルヴァック元帥夫人の友人と、親しい関係ができたわけだ。
今までおれがずっと先のほうにあると思っていたことが今不意に目の前に出て来た。これでおれの宿望がすべて叶えられることになるかもしれんぞ〉
最初マチルドは、自分が奥まった部屋で二人だけで対座しているこの非常な勢力家の相好がにわかに変わったのを見て恐ろしく思った。〈こんなことは何でもないじゃないの!〉としばらくして彼女は思った。〈権力や享楽に飽満している僧侶の無情なエゴイスムに何ら感動を与えることができなかったとでもいうのなら、それこそ一番運が悪いというものだったろうが〉
思いがけなく自分の眼前に司教職に達する早道がひらけたのに眩惑され、またマチルドの才気に驚かされて、束の間ド・フリレール師は自分の言動に注意することを忘れた。ド・ラ・モール嬢は彼が神経的にふるえ出すほど野心に燃えて自分の足許にひざまずかんばかりにしているのを見た。
〈何もかもこれではっきりした〉と彼女は思った。〈ド・フェルヴァック夫人のお友だちだと言えばここではどんな無理でも利くだろう〉まだ疼《うず》いている嫉妬の情を抑えて、彼女は勇気をふるいおこしてジュリアンがド・フェルヴァック元帥夫人の昵懇《じっこん》な友人であり、しかも夫人の家でほとんど毎日***の司教猊下にお会いしているのだと説明してやった。
「当県の住民中の知名人物のあいだから三十六名選出して陪審員名簿を作成するため、引きつづき四、五回抽選が行なわれるとしますと」副司教は野心にがつがつした目つきで一語々々力を入れながら言った。「それぞれの名簿に八人から十人ぐらいの味方と、我が党のなかで一番目はしの利く連中とを入れることができなかったとすれば、私もあまり運のよくない人間だと思わねばなりますますまい。ほとんどどんな場合でも、私は過半数を取ることになりましょう。有罪にするとなれば過半数以上だって取れましょう。まあ見ていていただきましょう、どんなに楽々と私が無罪にして差し上げられるか……」
師は自分の言葉を聞いて愕然としたように突然ぷっつり口をつぐんだ。俗人には決して言ってならぬことを言ってしまったのだ。
しかし今度は師のほうが、このたびのジュリアンの奇妙な事件のなかで特にブザンソンの社交界の人々を驚かせ興味を惹いているゆえんは、かつてジュリアンがド・レナル夫人に熱烈に恋され、そして長いあいだおたがいに強く愛し合っていたことがあるからだ、と言ってマチルドを仰天させた。ド・フリレール師はこの話が相手の心に惹きおこした極度の不安を容易に見て取った。
〈これでしっぺ返しができたぞ!〉と彼は思った。〈とうとうこの果断な小娘を操縦する手段が見つかった。うまくいかないのじゃないかと思ってびくびくしていたんだが〉高雅な、だがなかなか容易に人に御されそうにもない態度を見ると、彼には今自分の前でほとんど哀願するようにしているこの稀代の美女の魅惑がひとしお深まるかに思えた。彼は持ち前の冷静さをすっかり取りもどして、躊躇せず刃《やいば》をかえして彼女の心臓をえぐった。
「まあそういうわけでしたから」と彼は気軽な様子で言った。「ソレルさんが昔はあれほど愛していたその婦人にピストルを二発射ったのは嫉妬心からだったと聞きましても、私は驚きもしません。あの夫人だってずいぶんと浮き名を立ててはおりますし、最近ではディジョンのマルキノとかいう、ジャンセニストでご多分にもれず破戒無惨な僧侶としげしげ会っておりますからな」
ド・フリレール師はこの美貌の娘の心の弱点を突いて、いかにも楽しそうにゆるゆるとこの心を責め苛《さいな》んだ。
爛々《らんらん》と輝く双眸でマチルドを凝視しながら、「ちょうどあのときソレルさんの恋仇がそこでミサを執り行なっているのでなかったら、何であの人が教会などを選んだでしょう? あなたの庇護を受けているその果報者がすばらしく賢明であり、またさらに慎重であることは、衆目のひとしく認めるところです。よく勝手を知っているド・レナル氏の家の庭に身をひそめるのがいちばん簡単なやり方ではありませんか。そこでなら人に見られたりつかまえられたり嫌疑をかけられたりする心配はほとんどなしに、自分の妬んでいる女を殺害することができたのですから」
この理屈は一見いかにも正しいように見えたので、とうとうマチルドはすっかり逆上してしまった。彼女の倨傲《きょごう》な心には、上流杜会では人間の心を如実に描き出しているものと見なされいるあの無味乾燥な思慮ですっかり満たされていたので、そんな思慮を無視してかかることがどんなに幸福であるかを直ちに理解することはどうしてもできなかった。熱烈な心を持った人にとってならば、そういう幸福は実に強烈に感ぜられたろうが。マチルドが暮らしてきたパリの社交界の上流階級では、情熱が世間的な思慮を振り落としてあらわになることは実に稀にしかあり得ない。窓から身を投げるのはかならず六階住いの人間である。
とうとうド・フリレール師は自分が相手に対して支配力を持っていると確信できた。彼はマチルドに、ジュリアンに対する論告をおこなう任にある検察官を意のままに動かし得るとまでほのめかした(もちろんこれは嘘である)。
抽選によって三十六人の陪審員が任命されたら、すくなくともそのなかの三十人に直接個人的に当たってみましょうと彼は言った。
もしマチルドがド・フリレール師にこんなに美しく思えなかったら、五、六回会ってからでなければ師はこんなあからさまな話し方をしなかったろう。
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第三十九章 陰謀
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カストル、一六七六年。私の隣の家で先だって一人の男がその姉妹を殺した。この貴族はすでにもう一つ殺人罪を犯していたのだ。その父がこっそり五百エキュを法廷判事にくばらせて、男の命を救った。(ロック『フランス紀行』)
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司教邸を出るとマチルドは躊躇《ちゅうちょ》なく使いをド・フェルヴァック夫人のもとへ走らせた。自分の身を危うくするなどという心配はほんの一秒も彼女の心に浮かんだりしなかった。彼女はこの恋仇の女に、全文***司教猊下の直筆でしたためた書面をド・フリレール師あてに出してくださるように懇望した。そして夫人みずからブザンソンへ駈けつけて来てくれるように嘆願までした。嫉妬ぶかい高慢な心の持ち主のやったこととしては、この行いはまことに悲壮なものであった。
フーケの忠告によって彼女はこんな奔走のことをジュリアンには話さないように気をつけた。それでなくとも彼女のいることが、だいぶジュリアンを悩ましていたのだ。死が迫って来るにつれ、これまで生きていたあいだよりも道義心が強くなって、ド・ラ・モール氏に対してのみならずマチルドに対してまで彼は済まなく思っていたのだった。
〈いったい何ということだ!〉と彼は心に思うのだった。〈あの女のそばにいると、おれは放心していることもあれば退屈を感じることさえある。あの人はおれのために身をほろぼしかけているのに、それに報いるにおれはそんな風にしているのだ! それではおれは悪人なんだろうか?〉
こんな疑問は、彼が野望を抱いていたころには彼の心をとらえたことがなかった。当時は、成功しないということだけが彼には唯一の恥辱と思われていたのだ。
マチルドと一緒にいるときの彼の道徳的不安は、このころ彼女がまったく尋常でない狂気のような情熱を彼に対して抱いていただけに、なおさら決定的なものだった。彼女はジュリアンを救うためにやってみたいといって、なみはずれた自己犠牲をすることばかり言っていた。
現在彼女の誇りとなり、彼女の自尊心をすっかり制圧しているある感情に熱して、何か異常な振る舞いをして絶えずこの感情を満たしたいと彼女は思っていた。まことにもって奇怪な、彼女の身にはこの上なく危険な計画が、ジュリアンとの長い会話のあいだじゅうひっきりなしに語られた。獄吏たちはたんまり金をもらっていたので、牢獄内で彼女の思いどおりにさせていた。マチルドの考えることはただ自分の評判を犠牲にすることのみにとどまらなかった。自分が現在どんな羽目になっているかを全社会に公然と知らすことも、彼女にとって大したことではなかった。ジュリアンに特赦を乞うために全速力で疾駆《しっく》している国王の馬車の前に身を投げてひざまずき、めちゃめちゃに轢《ひ》き殺される危険をおかして国王の注意を惹くことも、この熱狂した勇敢な頭のはたらきが描き出す空想のなかではまったく取るに足らぬものの一つだった。王の側近に勤めている自分の男の友だちに頼んで、サン・クルーの別宮の庭苑の中にまで入れてもらえる自信もあった。
ジュリアンは自分にはそれほどの献身をしてもらう資格がないと思っていた。実際のところ、彼はヒロイズムに倦《う》んでいたのだ。彼がいま感じることができたものは、単純素朴な、遠慮ぶかいくらいの情愛であったろう。ところが反対にマチルドの気位の高い心には、常に世間と他人《ヽヽ》という観念が必要だったのだ。
この人が死んでしまったら生きながらえようという気のしない、その愛する人の命を気づかって懊悩《おうのう》しながらも、彼女は自分の愛情の極度の激しさと壮絶なおこないとで世間にあっと言わせてやろうというひそかな欲求を抱いていたのだ。
ジュリアンはこういうヒロイズムにすこしも心を動かされていないことが自ら腹立たしかった。もし彼が、マチルドが気ちがいじみた計画をならべたてて、いかにも忠実ではあるが、ことのほか分別臭くて愚直な好人物のフーケを閉口させていることをすっかり知ったら、何と思ったであろうか?
フーケはマチルドの献身を非難することはどうもできなかった。彼自身とてジュリアンを救うためとあらば全財産を投げ出し命を賭《と》してまでどんな危険にもぶつかっていくつもりだったからである。マチルドがばらまいた金のおびただしさに彼は胆《きも》をつぶしていた。はじめのうちは、こんな風に使われた金額を見て、田舎者らしく金をおろがみたてまつっていたフーケは圧倒されたような気がしていた。
とうとう彼はド・ラ・モール嬢の計画が頻々《ひんぴん》と変わることに気がついた。そして彼にとってはやりきれないこの性格を非難する言葉を思いついて、彼はずいぶん気が軽くなったのだ。〈このひとは|移り気だ《ヽヽヽヽ》〉という言葉だった。この移り気という形容語と|頭が悪い《ヽヽヽヽ》という田舎では最大の侮辱とされている言葉との差は、ほんの紙一重なのだ。
ある日マチルドが彼の獄舎から出て行ったとき、〈こいつはおかしい〉とジュリアンは心に思った。〈おれ自身がその対象となっているこんなに激しい情熱に対して、おれがこんなに無感覚でいられるとは!しかも二月も前にはおれは彼女を熱愛していたんじゃないか! 死の接近があらゆることに対する関心を失わせるということは、おれはたしかに何かの本で読んだ。しかし自分が恩知らずで、しかもそういう自分をあらためることができないと自覚することは恐ろしい。それではおれはエゴイストなんだな?〉彼はこのことで自分自身にきわめて屈辱的な非難を加えた。
野心は彼の心のなかでは死んでいた。その野心の死灰のなかから、それとは別の情念が生まれて来ていた。彼はそれを、ド・レナル夫人を殺そうとしたことに対する悔恨と呼んでいた。
実際には彼は、夫人に狂おしいまでに恋焦がれていたのだ。たった一人だけで人からさえぎられる心配なしに、かつてヴェリエールやヴェルジーで過ごした多幸な日々の思い出に浸り切っていられるときには、異様な幸福感を感じるのであった。あまりにも迅速に飛び去ったあの時期のごく些細な出来事すらが、彼には逆らいがたい新鮮さと魅力とをもって思い出された。パリで得た成功のことを思い出すことなどなかった。そんなものには彼はもううんざりしていた。
急速に強まっていくこの気持は、嫉妬深いマチルドからある程度までは嗅ぎつけられた。彼女は彼の孤独を愛する気持に逆らわねばならないことを明瞭に認めていた。ときどき彼女はいかにも恐ろしそうにド・レナル夫人の名を口に出した。するとジュリアンが身震いするのを彼女ははっきりと見た。それ以後、彼女の熱情は度を越えて留まるところを知らぬまでになった。
〈この人が死んだらあたしもあとを追って死ぬのだ〉と彼女はこれ以上はない誠意をもって自分に言うのであった。〈あたしほどの身分の娘が死をまぬがれぬ恋人をこれほどまでに愛するのを見たら、パリのサロンの人たちは何と言うだろう? こんな感情を見出そうとすればあの英雄時代にまで遡《さかのぼ》らなければならない。シャルル九世やアンリ三世の世紀の人々の心臓を鼓動させていたものは、こういう種類の恋だったのだわ〉
極度に激しい歓喜に溺れてジュリアンの頭を自分の胸に抱きしめているときにも、突如として彼女は心に思うのであった。〈まあ! この可愛い頭が斬り落されるさだめなのか! いいわ!〉と彼女は幸福感をまじえぬでもないあるヒロイズムに熱してさらに思うのであった。〈今このきれいな髪の毛に押し当てられているあたしの唇も、それから二十四時間とたたないうちに冷たくなってしまうのだから〉
このヒロイズムと悩ましい逸楽との瞬間の思い出は彼女の心をがんじがらめにしてしまった。これまでつとめて彼女の倨傲な心がしりぞけていた、だがそれ自身としては執拗につきまとう自殺という観念が忍びこみ、やがて絶対的な力で彼女の心を支配するようになった。〈そうだ、あたしの祖先たちの血は、あたしまで伝わって来ても弱まってはいないのだわ〉とマチルドは昂然として心に言った。
「ひとつあなたにお願いがあるのだが」とある日恋人が彼女に言った。「あなたの子供が生まれたら、ヴェリエールで乳母《うば》にあずけてください。ド・レナル夫人に乳母の監督をしてもらいましょう」
「あなたが今おっしゃったこと、あんまりひどいわ……」とマチルドは顔色を変えた。
「いかにもひどいことだった。どうぞ赦しておくれ」とジュリアンは夢想から醒めて彼女を両腕に抱き締めながら叫んだ。
彼女の涙を拭ってから、彼はもういちど今の考えを話した。だが今度は前よりも上手にやった。その話に哀切な哲学的な色彩を加えたのだ。近く彼の前に閉ざされる未来のことを彼は語った。
「ねえ君、激しい恋愛というものは人生における一つの偶発事だということを認めなくちゃいけないよ、もっともこの偶発事は優れた人間の心にしか起こらないのだがね、……ぼくの子供が死んだら実際のところ君の家族の誇りを傷つけずに済むから嬉しいことなんだし、下様《しもざま》の連中にもこのことは考えてみりゃすぐわかることだ。だからこの禍《わざわい》と汚辱の子は、いずれ生まれて来ても誰にもかまってもらえない運命なのだ……それにぼくは、はっきりいつとは言いたくないが、君がド・クロワズノ侯爵と結婚なさいというぼくの最後の勧告にしたがうものと覚悟しているし、また予期している」
「何ですって、名誉を失ったあたしが!」
「君ほどの名門の人がそうやすやすと名誉を失うなんてことはないさ。君は後家さんになるのだ、気ちがい男の後家さんに、それだけのことさ。さらに言うなら、ぼくの罪は金銭を動機にしているのじゃないから決して不名誉にはなるまい。もしかするとそのころは哲学的な立法家でも出て来て、その時代の人々の偏見を破って死刑廃止に成功しているかもしれない。そうなったらわれわれに味方する意見も出て来て、例えば『見たまえド・ラ・モール嬢の最初の夫は気ちがいだった、だが決して奸佞《かんねい》な人間でも悪人でもなかった。あの男の首を斬るなんて愚にもつかぬことだった』と言ってくれるかもしれない……。そうなればぼくの名も決して卑しむべきものではなくなる。すくなくともある期間がすぎれば……。あなたの社会的地位、あなたの財産、あなたの、まあこう言わせてもらおう、あなたの才気、それがド・クロワズノワさんがあなたの夫となった場合、あの人一人ではどうしてもやりおおせられない目ざましい役割をあの人に演じさせることになるのだ。あの人にあるのは門地《もんち》と勇気ばかりだ。こういう長所は、一七二九年(この年には対スペイン戦争が行なわれていた。なお一七三三年には対オーストリア戦争開始)にならばそれだけで申し分のない男となれたのだが、その一世紀後にはもうアナクロニスムになっていて、ただ自惚れを強めるだけだ。フランスの青年の先頭に立とうとすれば、それ以外のものが必要なのだ。
「あなたはその旦那さんをどこかの党派に入れ、しっかりした進取の気象に富んだ性格でその党派を援助するのだ。あなたはフロンドの乱のシュヴルーズやロングヴィルみたいな婦人たちの後を継ぐこともできるでしょう……しかし、そのころになれば今あなたの心を燃やしている神々しい熱情もいくらか冷めているでしょうけれど」
さらになおいろいろと前置きの文句をならべた上で、「こんなことを言うのを許してほしいが」と彼は付言した。「十五年もたてばあなたはかつてぼくに対して抱いた愛情を狂気の沙汰だと思うようになるだろう、宥《ゆる》すことはできるがとにかく狂気の沙汰だったと……」
彼は突然言葉を切ってぼんやりと思いに沈んだ。彼はまたもやマチルドにとっては非常に不愉快な考えにぶつかったのだ。〈十五年後にはド・レナル夫人はぼくの子を心から可愛がってくれるだろう、あなたは忘れてしまっているだろうが〉
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第四十章 平安
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私が今日《こんにち》慎しみ深いのは、あのころたいへん無考えだったからだ。ああ、一時《いっとき》のことだけしか見ない哲学者よ、あなたの視野は何と狭いことか! あなたの目はひそかな情念のはたらきを観察するようにはできていない。(ゲーテ)
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この対話は訊問があったため中絶された。そのあとで彼の弁護を引き受けた弁護士と相談があった。こんなわずかなあいだだけが、ぼんやりとやさしい夢想に耽って過ごすこの生活のなかで、堪えがたく不愉快なものであった。
「殺人です、予謀的な殺人です」とジュリアンは判事に対しても弁護士に対しても言った。「それで私も辛いのです」と彼は微笑しながら付け加えるのであった。「しかしこれであなたがたのお仕事もずいぶん簡単になってしまうでしょう」
ようやくこの二人の人間から解放されるとジュリアンは心に思った。〈要するにおれは実際勇敢なんだな、すくなくともこの二人の男よりも勇敢なのにちがいない。あの結局は惨めに負けてしまうにきまっている決闘〔死刑〕のことを、おれはその場にのぞんでからでなけりゃ真面目に考えないつもりだが、この二人は不幸のきわみ、|恐るべきことの最たるもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思っているんだから〉
〈おれが勇敢なのは、もっと大きな不幸をなめて来ているからだ〉とジュリアンは自分自身を相手に哲理を談じつづけた。〈最初にストラスブールへ旅行していたあいだは、マチルドに見棄てられたと思いこんでいたので、今とはまったく別の意味で悩んでいたっけ……。しかも今ではああやって申し分のない親しみを見せられてもおれの冷やかさはいささかも和げられないが、その同じ親しみをあのときはあれほど情熱的に焦がれ求めていたのだとは!……実際、あの美しい娘がこの孤独に割りこんで来るときよりも、一人だけでいる時のほうがおれは幸福なんだ……〉
杓子定規《しゃくしじょうぎ》で形式家の弁護士は彼の頭がおかしいのだと思って、世間の人たちと同じように彼がピストルを手にしたのは嫉妬からだと考えた。ある日彼は、嘘にせよまことにせよそう陳述しておくことが弁護の手段としてはきわめて有効だと、思い切ってジュリアンにほのめかしてみた。するとまたこの被告はたちまちいきりたって痛篤《つうば》するのだった。
「命が惜しければそんな言語道断な嘘をもう口にしないでください」と我を忘れてジュリアンは怒号した。用心ぶかい弁護士は一瞬ほんとに殺されはしないかと怯《おび》え上がった。
弁護士はそれでもいよいよ最後の日が迫って来るので弁論の準備をした。ブザンソンのみか県全体がもっぱらこの有名な裁判事件の話でもちきりだった。ジュリアンはそんな事情は知らなかった。そういった種類のことは決して自分の耳に入れないでくれと皆に頼んでおいたのである。
ちょうどこの日、フーケとマチルドが彼らには大いに希望が持てそうに思える町の噂をいくつか彼に聞かせようと思ったのだが、最初の一言からジュリアンがさえぎってしまった。
「ぼくには理想的な生活をさせておいてくれ。君たちのつまらぬ心配や現実生活のこまごました出来事は、多かれ少なかれぼくに気まずい思いをさせるだけで、天国から引きずり降されるような感じがする。人は自分のできる死に方でしか死ねない。ぼくは自分流に死を考えたいのだ。他人《ヽヽ》が何だ! 他人とぼくの関係は近いうちに急激に断ち切られることになっているんじゃないか。おねがいだ、そんな連中の話はもうぼくに聞かせないでくれたまえ。判事と弁護士の顔を見るだけでもうたくさんだ」
〈要するに〉と彼は一人で心に思うのだった。〈おれの運命は夢みつつ死ぬことらしい。おれのようなどこの馬の骨とも知れない人間なんか、二週間もしないうちに忘れられっちまうことはわかっているんだから、お芝居をして見せたりしたら実際のところ馬鹿みたいなもんだ。……だがそれにしても、自分の生命の終末を目前にひかえて、はじめて生活を楽しむすべを知るなんて、おかしな話だ〉
彼はこの最後の数日を、マチルドが人をやってオランダから取り寄せた極上の葉巻をくゆらしながら、そして町にある限りの望遠鏡が毎日彼があらわれて来るのを待ち構えていたことなぞつゆ知らずに、天守閣の上部の狭いテラスを日がな一日歩きまわって過ごした。彼の思いはヴェルジーに馳《は》せていた。彼は決してド・レナル夫人のことはフーケに話さなかったが、しかしこの友は彼女が急速に快復したことを二、三度彼に告げた。その言葉は彼の胸のなかに鳴り響いた。
ジュリアンの魂がほとんど二六時中この観念の世界に溺れ切っているあいだ、マチルドは貴族的な心の持ち主にふさわしい実際的な事柄に没頭していて、ド・フェルヴァック夫人とド・フリレール師とが直接に手紙をやりとりするような親しい関係をつくったばかりか、もはや司教職《ヽヽヽ》という重大な言葉が出て来るほどのところにまで手際《てぎわ》よく事態を進展させていたのである。
あの僧位任免権を一手に握っている尊敬すべき僧正も姪の手紙に筆を添えて、「その気の毒なソレルなるものは所詮軽率たるにすぎませんから、当方におかえし下さるよう希望します」と書いてよこした。
この数行の文句を見るや、ド・フリレール師は正気を失ってしまった。彼はもうジュリアンを救うことを遅疑《ちぎ》しなかった。
「こんなたくさんの陪審員の名簿を作成することを命じている、実際のところは名門の人たちの権威をすっかり取り除こうというのが狙いのジャコバン主義的な法律がなかったら」と彼は今度の公判の三十六人の陪審員を抽選する日の前日にマチルドに言った。「私は裁決のことをお請け合いできたんですがね。私はあのN***師さえも放免させたことがあるんですから……」
その翌日、抽選箱から出てきた名前のうちに五人のブザンソンの修道会員と、さらに町民以外の人のなかからヴァルノ氏、ド・モワロ氏、ド・ショラン氏の名前を見出して、ド・フリレール師はよろこんだ。……「まずこの八人の陪審員のことはお請け合いします」と彼はマチルドに言った。「はじめの五人はまあ機械です。ヴァルノは私の手先ですし、モワロは私にはたいへんな義理がありますし、ド・ショランは何に対しても戦々兢々としている腰抜けです」
新聞が県全体に陪審員たちの名を報じた。するとド・レナル夫人はブザンソンに行きたいと言い出して、その夫を震え上がらせた。やっとのことでド・レナル氏が約束させ得たことは、ブザンソンへ行っても証人として呼び出されるという不愉快をなめないですむように決してベッドから離れない、ということだけだった。……「あんたは私の立場を理解してくれない」と元ヴェリエール町長は言うのだった。「あの連中の言い草では、今の私は寝返りを打った自由主義者なのだ。あのヴァルノのやくざ者やド・フリレール師が簡単に検事総長や陪審員を丸めこんで私をさんざん不愉快な目に遭わそうとすることは火をみるより明らかだ」
ド・レナル夫人は逆らいもせずに夫の命令に服した。〈あたしが重罪裁判所に顔を出したら復讐を要求するように見えるだろうから〉と彼女は心に思った。
しかし信仰の師や夫には慎重に振る舞うと固く約束してきたにもかかわらず、ブザンソンに出て来るや否や彼女はすぐ三十六人の陪審員の一人々々に自筆の手紙を送った。
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私は公判の日には姿を見せないつもりでおります。私の出席しておりますことがソレルさんに不利な結果を招く恐れがあるからでこざいます。私が衷心《ちゅうしん》から望んでおりますことはただ一つ、あの方の命が救われることでございます。どうぞこのことは信じてくださいまし、私のために無実の人が死刑に処せられたというような恐ろしいことになりましたら、それを考えただけで私はこれからの生涯堪えられぬ思いに悩まされましょうし、そればかりか命をちぢめることになるにちがいありません。私が生きております以上、何であなたがたがあの方を死刑にすることができましょう? いいえ、そもそも社会に、人の命を奪う、持にジュリアン・ソレルのような人の命を奪う権利などあるはずはございません。あの人がときどき逆上して物の見さかいがつかなくなることは、ヴェリエールでは周知の事実です。この気の毒な青年は勢力のある敵をもっておりますが、しかしその敵のなかにさえ(しかもその敵が何とたくさんおりましたことでしょう!)あの人の感嘆すべき才能と深遠な学識に疑いをはさむ人がおりますでしょうか? あなたがこれからお審《さば》きになるのは凡常の人物ではないのでございます。一年半ちかくのあいだ私たちはあの人が敬神の念が厚く慎しみぶかく勤勉な人であることを見て知っておりました。けれど年に二、三度憂鬱症の発作にとりつかれますと、きまって頭がおかしくなるほどになってしまうのです。ヴェリエールの町の人々も、私どもが気候の好い時節を過ごすことにしておりますヴェルジーの近所の方々も、私どもの家族のもの一同も、いえ郡長様さえも、皆様があの人の模範的な信仰心は正しく認めてくださいますでしょう。あの人は聖書を隅から隅まで暗記しているのです。不信心な者ならこの神聖な書を究めるために幾年も精進することなどしましょうか? このお手紙をご持参申し上げるのは私の子供でございます。まだ幼いものでございますから、どうぞこの子供たちにお訊きくださいませ。子供たちはあの気の毒な青年について何でも詳しくお答え申すことでしょう。これはあの人を断罪することがいかに心ないことであるかを納得していただくため、是非お耳に入れていただかねばならぬことでございます。あの人が断罪されれば、私のため仕返しをしていただくどころか、かえってあなたが私に死をお与えになるようなものでございます。
あの人の敵たちにしましても、この事実に対して何と反駁し得ましょう? 私の子どもたちですら自分たちの家庭教師に認めていた、あの一瞬の狂乱の結果にすぎない私の負傷などは、全然危険なものではなかったのでございまして、それから二カ月もたちませんのに私がこうやってヴェリエールからブザンソンヘ駅馬車でまいりますのを妨げなかったほどでございます。もしあなた様があのように罪もない人間を残忍な法の手より救うことをいささかでも躊躇しておられますならば、そのことが私にわかり次第もっぱら夫の命令で臥《ふせ》っておりますこの床より起き出して、じきじきお目にかかって懇願申し上げる所存でございます。
どうぞ予謀の事実は確証されていないと言明してくださいますよう。でなければ将来あなた様は無実の者の血を流させた呵責に苦しめられることになります。……云々
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第四十一章 公判
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この国の人々はこの有名な裁判事件のことを長くおぼえているだろう。被告への同情はついには民心の動揺にまで達した! それというのも、この被告の罪が驚くべきものではあったが決して凶悪なものではなかったからである。よしんば凶悪なものであったにせよ、この青年はすばらしい美貌だったではないか! 彼の非常な幸福がこんなに速く儚《はかな》くなってしまったことが人々の哀傷をいっそう深めた。〈あの人を有罪にするでしょうか?)と婦人たちは顔見知りの男たちに訊いた。そして彼女たちは相手の返事を待ちながら蒼白な顔をしているのだった。(サント・ブーヴ)
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ついにド・レナル夫人とマチルドがあんなに恐れていた日が来た。
町の異様な気配が彼女たちの恐怖を増させた。しっかりした気性のフーケでさえ動揺せずにはいられなかった。この地方の人々は老いも若きもブザンソンに駈けつけてこのロマネスクな事件の公判を見物しようとした。
数日前から宿屋という宿屋はもう超満員だった。重罪裁判長殿はあちらからもこちらからも傍聴券をねだられる、町のご婦人方はみんな公判を傍聴したがっている、ジュリアンの似顔絵が辻々で呼び売りされている、……などといった始末だった。
マチルドは特にこの最後の瞬間のため、***の司教猊下が全文直筆でしたためた手紙を用意していた。ランス教会を牛耳《ぎゅうじ》り司教を任免するこの僧正は、わざわざジュリアンの放免を請求してくれているのだった。公判の前日マチルドはこの手紙を全能の副司教のところへ持って行った。
会見が終わって彼女が涙にくれながら立ち去ろうとすると、……「陪審員の答申については私が請け合います」とド・フリレール師は、とうとう今までの外交官のような慎重な態度を棄てて、ほとんど自分までも昂奮して彼女に言った。「あなたの被保護者の犯罪が明確なものであるか、また特にそこに予謀があったかを調べる任に当たったものが十二人おりますが、私の見るところその六人は私が出世するためにはどんなことでもやってくれる男ですし、私もその男たちにはおまえの出方次第で私が司教職に進めるのだと言いふくめておきました。ヴァルノ男爵というのは私がヴェリエールの町長にしてやった男ですが、これがその配下にいるド・ショラン氏とド・モワロ氏の二人を思うままに動かしています。実を申しますと、抽選のため二人だけはなはだ心掛けのよくないのがこの事件の陪審員となっております。もっとも過激自由主義者《ユルトラ・リベラル》とは言いながら二人とも大きな事件に際しては私の命令に忠実にしたがう男で、私は人を通じてこの二人にもヴァルノ氏に倣《なら》って投票するように頼んであります。それからもう一人、六番目の陪審員は、巨方の富を持った饒舌な自由主義者の工業家ですが、内心では陸軍省の御用商人になりたいと熱望しているという話で、それなら私の気にさわるような真似をしようとは、きっとしますまい。この男にも私の決定的な命令はド・ヴァルノ氏に伝えてあると言わせておきました」
「で、そのヴァルノさんとおっしゃる方はどんな方なのでしょう?」とマチルドは気が気でなく言った。
「あなたがあの男を知っていらっしゃったら成功を疑うようなことはなさいますまい。実に図太い、向こう見ずな粗野な饒舌家で、馬鹿者どもをあやつるにはもってこいの男です。一八一四年のおかけで貧窮の極から引き上げられたのですが、近く私は知事にしてやろうと思っています。もしほかの陪審員が自分と同じに投票しなかったら殴ることだってやりかねないでしょう」
マチルドは少々安心した。
ところがもう一度、彼女は夜になって論争しなければならなかった。ジュリアンは、彼の目にはその結果はきまりきっていると思える不愉快な場面を長びかせないように、一言も発言しないと決心してしまっていたのだ。
「ぼくの弁護士がしゃべってくれる、それでたくさんだ」と彼はマチルドに言った。「ぼくは敵の眼前でいやになるほど長いあいだ見世物にされるんだろう。あの田舎者たちはぼくがあなたがたのおかげでこんなに速く出世したことを忌々《いまいま》しく思っていたんだ。だから誰一人としてぼくの処刑を望まぬものはいませんよ、ほんとに。もっともぼくが刑場に曳かれて行くときには馬鹿みたいに涙を流しては見せるだろうが」
「あの人たちはあなたが辱しめられるのをとても見たがっている、それは何といっても事実ですわ」とマチルドは答えた。「けれどあたしはあの人たちが残酷だとは思わないことよ。あたしがこのブザンソンに来ていること、そしてあたしが悩んでいる様子を見て、女の人たちはみんな同情してくれています。それにあなたの男ぶりを見ればもう申し分ないわ。あなたが判事の前で一言言ったら、傍聴人は一人のこらずあなたの味方になってしまいますわ、云々」
明くる日の九時にジュリアンが獄舎から降りて裁判所の大広間へ赴《おもむ》こうとすると、中庭に集まった途方もない群衆をはらいのけるのに憲兵たちは大骨折りをしなければならなかった。ジュリアンはよく眠ったので気分もおちついていたから、残忍な気持からでなくただ自分の死刑の判決に喝釆《かっさい》してやろうというのでやって来たこれらの嫉視者の群れに哲学者のように悟りきった憐憫《れんびん》の情以外のものは感じなかった。十五分以上もこの群衆に取り巻かれて引き留められていて、自分の姿が観衆にやさしい憐みの心を催させていることをどうしても認めないではいられなくなったとき、彼は意外の念に打たれた。聞いて不愉快になるような言葉は一言も耳にはいらなかった。〈おれが思っていたよりこの田舎者たちは悪意がないんだな〉と彼は心に思った。
法廷へはいると、彼はその建築の優雅さに驚かされた。ほんとうのゴチック様式で、きわめて入念に彫刻した石の綺麗な小円柱が何本も立っていた。彼はイギリスにいるような気がした。
だがやがて彼の注意は、被告の訊問台の正面の、判事や陪審員の頭上にある三つのバルコンに詰めかけた、十五人足らずの美しい女たちにすっかりひきつけられてしまった。振り返って一般傍聴者のほうを見ると、半円形の広間を取り巻いて一段高くなっている傍聴席も女でいっぱいになっているのだった。その大部分は若くて、彼にはたいへん美しいように見えた。彼女たちの目は輝き、同情にあふれていた。それ以外の場所にもものすごい群衆だった。戸口では殴り合いしているものもあるし、衛士がいくら静まらせようとしても駄目だった。
ジュリアンをさがしていたすべての人の視線が、ついに彼が被告用のすこし高くなった席につくのを認めると、驚きとやさしい同情のつぶやきが彼を迎えて起こった。
彼はこの日、二十歳にもなっていないように見えた。きわめて質素な身なりをしていたが、その品の好さは申し分なかった。髪の毛と額が魅力的だった。マチルドがみずからジュリアンの身支度をすると言ってそうしたのだった。彼はひどく蒼白な顔をしていた。被告席に坐るや否や彼は四方からこんな声が上がるのを聞いた。
「まあ! 何て若いんでしょう!……」
「まだ子供じゃありませんか!……」
「似顔よりずっといいですわ」
「被告、あのバルコンにいる六人の婦人を見たかね」と彼の右わきにいた憲兵が言って、陪審員が陣取っている階段席の上に突き出した狭い特別席を指さした。「あれが知事夫人、その隣がド・M***侯爵夫人、知事夫人は君にたいへん好意を持っている、予審判事と話しているところを私は聞いたんだ。それからあれがデルヴィル夫人……」
「デルヴィル夫人!」とジュリアンは叫んだ。顔が急に真っ赤になった。〈ここを出たらあの人はすぐド・レナル夫人に手紙を書くんだろう〉と彼は思った。彼はド・レナル夫人がブザンソンに来ていることを知らなかったのだ。
証人たちの供述はたちまちのうちに終わった。次席検事が論告をはじめると、ジュリアンの真正面のあの小さなバルコンにいた婦人のうち二人までがもうその冒頭から泣きくずれてしまった。〈デルヴィル夫人はこんな風に心を動かしてくれちゃいないだろう〉とジュリアンは思った。だが夫人もたいへん赤い顔をしているのに彼は気がついた。
次席検事はへたくそなフランス語で犯行の残虐性に悲憤慷慨《ひふんこうがい》してみせた。ジュリアンはデルヴィル夫人のわきにいる婦人たちが激しくそれに反対しているらしいのを目に留めた。この婦人たちの知り合いらしい数人の陪審員たちが彼女たちに話しかけて宥《なだ》めているらしく見えた。〈まあとにかくこれも幸先がよいしるしだ〉とジュリアンは思った。
これまでのところジュリアンは公判に出廷しているあらゆる人々に対して純粋な軽蔑の情を心から感じていた。次席検事の陳腐な雄弁がこの嫌悪の感情を強めた。しかしだんだんジュリアンの心の冷たさは、明らかに自分がその的とされている数々の同情のしるしを見せられて消え失せていった。
彼は弁護士の毅然とした顔つきを嬉しく思った。弁護士が発言しようとすると、「美辞麗句をならべないでください」と彼はごく低い声で言った
「今あなたに対して投げつけられたあのボスュエ張りの誇張が、かえってあなたの役に立ったのですよ」と弁護士は言った。実際、弁護士が五分間もしゃべったかしゃべらぬかに、女たちはほとんど皆ハンケチを取り出していたのだった。弁護士は奮い立って陪審員たちにむかい猛烈に激しいことを言った。ジュリアンは身震いした。もうすこしで涙を流すところだった。〈たいへんだ、敵の奴らが何と言うか?〉
彼がそろそろ感動に溺れて他愛なくなりかけてきたとき、これは彼にとってさいわいだったが、思いがけずド・ヴァルノ男爵の傲然とした目つきに出逢った。
〈あの生意気な野郎、燃えるような目をしてやがる〉と彼は心に思った。〈あの下劣な男にとっては、これはどれほどの勝利だろう! おれの罪の結果がこれだけのことだったとすりゃ、おれはその罪をさんざん呪わにゃならぬところだ。あの男がド・レナル夫人におれのことを何と言うかわかったものじゃない!〉
これを考えるとほかのことは一切考えられなかった。それからまもなくジュリアンは聴衆の賛同の声を聞いて我にかえった。弁護士がいま弁論を終えたのだ。ジュリアンは弁護士と握手して然るベきだと思い出した。これまでの時間のたつのは実に速かった。
弁護士と被告に冷たいものが運ばれてきた。このときになってやっとジュリアンはある事柄に気づいて驚いた。女たちは誰一人として法廷を去って食事をしに行こうとしないのであった。
「実際、死にそうなほど腹がへりましたね。あなたは?」と弁護士が言った。
「ぼくもへりましたよ」とジュリアンは答えた。
「ごらんなさい、知事夫人も食事を取り寄せていますよ」と弁護士は言って小さなバルコンを指さした。「気を落しちゃいけない、万事うまく行っています」裁判はまたはじまった。
裁判長が説示をしているときに夜の十二時が鳴った。裁判長は中断しなければならなかった。すべての人の不安に満ちた沈黙のなかに時計の音は高々と場内いっぱいに響きわたった。
〈これからおれの一生の最後の日が始まるのだ〉とジュリアンは思った。やがて彼は強い義務観念に燃え上がるのを感じた。今まで自分の感動を制し、決して口をきくまいとの決心をかたく守って来ていたが、重罪裁判長から何か付け加えることがないかと言われると彼は立ち上がった。自分の前にデルヴィル夫人の目が見えた。明かりを受けてその目はきらきら輝いているように彼には見えた。〈もしかしたらあの人も泣いているのかしら?〉と彼は思った。
「陪審員諸君
私は死に臨んでは人の軽蔑など無視してかかれるものと思っておりましたが、やはり軽蔑されるに忍びぬ気持に動かされて発言することにいたしました。諸君、私は遺憾ながらあなたがたと同じ階級に属するものでなく、あなたがたは私を自分の身分の憤りを感じた一介の農民と見ておられます。
私はあなたがたに何らの寛容も求めません」とジュリアンは声を励ましてつづけた。「私は決して幻想を抱いてはいない、私を待っているものは死である。しかもこの死は正当です。私はあらゆる尊敬、いやあらゆる畏敬に価する婦人の命を奪うところでした。ド・レナル夫人は私に対して母親のようにやさしくしてくださいました。私の罪は兇悪であり、しかも予謀されたものであります。それゆえ陪審員諸君、私の罪は死に価するのです。しかしたとえ私の罪がこれより軽かろうと、私の幼少時代が同情に価するものであることは顧みず、私を罰することによって、賎《いや》しい階級に生まれ、いわば貧にいためつけられながらさいわいにして優れた教育を受けて、富裕な人々が得々として社交界と呼んでいる世界にふてぶてしくはいりこもうとする一派の青年たちの気勢を決定的に削《そ》いでしまおうとしている人々も、ここにいることを私は知っています。
これが私の罪であります。諸君、そしてこの罪は、事実私を裁くものが私の同階級者ではないだけにいっそう厳重に罰せられましょう。私の見受けますところ、陪審員席には財産を作った農民などは一人もいないで、もっぱら激昂した市民の方々ばかりおられます……」
二十分にわたってジュリアンはこの調子でしゃべった。心にかかっていることを残らず言った。貴族階級の引き立てを得たいと切望していた次席検事は席から躍り上がった。しかしジュリアンがやや抽象的な言いまわしでこんな議論をしたにもかかわらず、女たちはみんな涙にくれていた。デルヴィル夫人すらハンケチを目頭に当てていた。終わる前にジュリアンはもう一度、この罪が予謀されたものであること、自分の悔恨、また自分がこの上なく幸福であったころド・レナル夫人に対して抱いていた敬意と子の親に対するような無限の愛情について述べた……デルヴィル夫人はひと声叫んで卒倒した。
陪審員たちが控え室にしりぞいたとき一時が鳴った。女は一人として席を立たなかった。男たちのなかにも目に涙をためているものがすくなくなかった。はじめのうちはあちこちで賑やかな話し声がしていた。しかし陪審員の裁決が延びるにつれて、だんだんと一般の疲労のため会衆は静まってきた。この瞬間はおごそかなものであった。ともしびの光さえ衰えていた。ジュリアンも非常に疲れていたが、自分の身近のところでこの裁決の遅延が吉兆か否かという問題を論じ合っているのが聞こえた。彼はすべての人が自分のために良かれと祈っているのを知ってこころよかった。陪審員はいっこうに戻って来なかった。けれども女たちは一人として場内を去らなかった。
二時が鳴り終わるとすぐに全体がざわめき出した。陪審員室の小さな扉が開いて、ド・ヴァルノ男爵が重々しい芝居がかった足取りで進み出、陪審員一同がそれにつづいた。彼は咳《せき》ばらいした。それから、ジュリアン・ソレルに殺人、しかも謀殺の罪ありと認めることが、陪審員の全員一致で決定された答申であると良心にかけて言明した。この答申は死刑を結果するものだった。一瞬後、死刑が宣告された。ジュリアンは自分の時計を見た。そしてド・ラヴァレット氏を思い出した。時刻は二時十五分だった。〈今日は金曜日だ〉と彼は心に思った。
〈そうだ、だがこの日はヴァルノの奴にとっては嬉しい日だ。あいつはおれを断罪したんだから……ド・ラヴァレット夫人がしたように、マチルドがおれを救い出すにしても、おれはあんまり監視されすぎている……だから三日後のこの時刻には、おれはあの grand peut-etre(推測することしかできない重大なものという意味。ここではもちろん「死」を意味している)という奴がいったいどういうものであるかを知るだろう〉
この瞬間に彼は一つの叫び声を耳にして現実世界に呼びかえされた。彼の周囲の女たちはすすり泣きしていた。皆の顔が、ゴチック式の主柱《おやばしら》の冠飾のところに設けられた小さな台座のほうへ向けられているのを彼は見た。後になって彼はマチルドがそこに身をひそめていたことを知った。叫び声は二度とくりかえされなかったので、一同はまた憲兵たちに助けられて群衆を横切ろうとしているジュリアンに目を注ぎはじめた。
〈あの悪党のヴァルノの奴に笑われるような真似はすまい〉とジュリアンは考えた。〈死刑という結果をもたらすあの答申を述べるのに、あの男は何というこびへつらった実に遺憾に堪えぬといった面《つら》つきをしやがったことか! 長年判事をやっていたあの重罪裁判長でさえ、おれに判決をくだすときは目に涙を浮かべていたというのに。ド・レナル夫人をめぐる昔の張り合いの復讐をすることはヴァルノにとってはどれほどの喜びだったろう!……これでおれはもう夫人に会うことはあるまい! もうおしまいだ……二人のあいだで最後の別れを告げることもできない。おれにはそんな気がする……。おれが自分の罪をどんなに厭《いと》わしく思っているかをすっかりあの人に言えたら、おれはどんなに幸福になれたろう!
私は正当な刑を受けたと思っています、と、この一言だけでもあの人に伝えられたら〉
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第四十二章
獄に連れもどされると、ジュリアンは死刑囚に当てられた一室に入れられた。普段はほんの些細なことにまでよく気がついた彼が、このときは自分が天守閣にかえされなかったということに気づかなかった。彼はもし最後の瞬間が来る前にさいわいド・レナル夫人に会えたときに、言うべき言葉を考えていた。彼は夫人が自分の言葉を遮るだろうと思った。だから最初の一言で自分の後悔をすっかり述べてしまいたいと思った。〈あんなことをしてしまったのに、どうしておれがあの人一人だけしか愛していないのだということを納得させることができよう? 何といったっておれは、野心によってだかマチルドヘの愛情によってだかは知らないが、あの人を殺そうとしたにはちがいないんだからな〉
ベッドに寝ると彼は敷布がごわごわした亜麻布なのに気がついた。彼の目はみひらかれた。〈ああ! おれはいま死刑囚として土牢に入れられているんだ。これも正当なことだ……〉と彼は心に言った。
〈アルタミラ伯爵がよく話してくれたが、ダントンは死刑になる前日、例のどら声でこう言ってたそうだ、「これは奇妙だ、guillotiner〔断頭台で首をはねる〕という動詞はすべての時称に変化させることはできない。Je serai guillotin e〔私は首をはねられるだろう〕tu seras guillotin e 〔汝は首をはねられるだろう〕と言うことはできるが、J'ai ete guillotin e〔私は首をはねられた〕とは言えない」と〉
〈なぜそう言えないんだ、もし彼岸の生があるならば?……〉とジュリアンはつづけた。〈実際のところ、もしおれがキリスト教徒の神に会ったら、おれはおしまいだ。あの神は暴君だからな。だからまた復讐の念に満ちている。その聖書は残酷な罰のことしか書いていない。おれは今までこの神を愛したことはない。また人々が本気でこの神を愛してると信じようとしたことはなかった。あの神は憐憫《れんびん》を知らない。(そうして彼は聖書の数々の章句を思い出した)神は実に言語道断な罰をおれに与えるだろう……
しかしもしおれがフェヌロンの神の前に出たら! その神ならおそらくこう言ってくれるだろう、おまえは多く愛したからそれだけ多く赦されるだろう、と……
だがおれは多く愛したろうか? ああ、おれはたしかにド・レナル夫人を愛した。だがおれのやったことは兇暴だった。この場合もいつものように、単純でつつましいおれの良さが、派手なもののために放棄されたのだ……
しかし、将来の見込みはどんなものだったろう!……もし戦争でもあれば軽騎兵の大佐、平時には公使館の書記官、次に大使にでも……おれだったら事務なんかすぐ呑み込んじまうからな……それにたとえおれがほんとの馬鹿にすぎなかったにせよド・ラ・モール侯爵の女婿《じょせい》となったら競争相手の心配なんかないじゃないか。どんな馬鹿な真似をしたって大目に見てもらえるどころか、むしろ手柄とされるだろう。才能ある人物としてヴィーンかロンドンで大層な生活を楽しんで……
どっこいそうはまいりませんな、三日後には首を斬られるときている〉
ジュリアンは自分のこの機智が面白くて朗らかに笑った。〈実際、人間は自分のうちに二つの存在を持っている〉と彼は思った。〈どこのどいつがそんな意地の悪い反省をしやがったんだ?〉
〈いかにもさようですな、三日後には首を斬られるときている〉と彼は自分の心のなかで今の弥次《やじ》を投げたものに答えた。〈ド・ショラン氏はマスロン師と割り勘で見物用の窓を一つ借りるだろう。それもよかろう、だがこの窓の借り賃のことでこの二人の立派な人物のうちどちらがどちらをちょろまかすだろうか?〉
ロトルーの『ヴァンセスラス』〔ロトルーはコルネーユと同時代の悲劇作家〕の次の章句が不意に思い出されてきた。
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ラディスラス
……心の用意はすっかりできております。
王(ラディスラスの父)
処刑台の用意も整うておる、いざそこへ首を差し出せい。
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〈見事な答えだ!〉と彼は思った。そうして彼は眠りこんでしまった。朝、だれかが強く抱きしめたので彼は目を覚ました。
「何だ、もうやるのか!」とジュリアンは血走った目を開いて言った。死刑執行人の手で起こされたと思ったのだ。
マチルドだった。〈さいわいおれの言ったことがわからなかったんだな〉この考えがすぐに彼に、もとの冷静さをすっかり取り戻させてくれた。彼の見たマチルドはまるで半年も病気していたように面《おも》変わりしていた。実際、彼女は見ちがえるほどになっていた。
「あの汚らわしいフリレールがあたしを裏切ったんだわ」と彼女は自分の手をねじ曲げながら言った。狂憤のあまり彼女は泣くことさえできなかったのだ。
「昨日ぼくが発言したときは見事なものだったでしょう?」とジュリアンはそれに答えて言った。「即興的にやったんですよ、しかも生まれてはじめてだ! もっともあれがまた最後のものとなるかもしれぬという恐れがあるのも事実だが」
このときジュリアンは、老練なピアニストがピアノを弾いているときのような冷静さでマチルドの性格を奏《かな》でていた……「名門の生まれという利点はいかにもぼくにはありませんが」と彼は付言した。「しかしマチルドの気高い魂がその恋人を自分の高さまで引き上げたのです。ボニファス・ド・ラ・モールなら裁判官の前へ出てあれ以上立派に振る舞えたろうとあなたは思いますか?」
この日のマチルドには六階の貸し間住まいの貧しい娘のような気取らぬやさしさがあった。しかし彼女は彼から今よりも率直な言葉を聞くことができなかった。彼はいま無意識ながらかつて彼女から受けた責め苦の返報をしていたのだ。
〈ナイル河の源泉を見きわめたものはない〉とジュリアンは心のなかで言った。この河の王者をたんなるせせらぎの状態で見ることが人間の目に許されたことは一度もなかった。同様に今後、何人の目もふがいないジュリアンを見ることは決してあるまい。第一ジュリアンはふがいない人間ではないからだ。しかしおれは得てして感動させられやすい心を持っている。ごく平凡な言葉でさえ、それが真率な語調で言われさえすれば、おれの声は感動をあらわしてしまうし、いやそれどころか涙をこぼしてさえしまう。石のような心の奴らからこの欠点のために軽蔑されたこともどれくらいあるか! 奴らはおれがお慈悲を求めているのだと思ったのだ。そんなことはもう何としても我慢できるものか。
ダントンは処刑台に上がるまえに妻のことを思い出して動揺したという。しかしダントンは青二才どもばかりの国民に力を与え、敵軍がパリに到達するのを阻止した。……しかしおれの場合は、おれが何をなし得たかということを知っているのはおれ一人だけだ……他人にとってはおれなんかせいぜい PEUT-ETRE〔恐らく……ともなり得たろう〕と言えるくらいの人間でしかないのだ。
マチルドのかわりにド・レナル夫人がこの土牢にいてくれたら、おれは自分のやることに責任を持てただろうか? 極度に絶望し痛悔して、ヴァルノみたいな奴らやその他この国の貴族連中の目に死に対する卑しむべき恐怖とも見られるようなことをしたろう。奴らは意気地なしのくせに金を持っているため下らぬ欲望にさらされるようなことがないから、あんなに威張りくさっていやがるのだ! おれに死刑の判決をくだしたあのド・モワロ氏、ド・ショラン氏なんかはさぞかしこう吐《ぬ》かしやがっただろう、「まあ見てごらんなさい、木挽大工《こびきだいく》の倅に生まれればあんなものですよ! 学者になることもやり手になることもできますがね、しかし勇気だけは……勇気だけは学びおぼえるわけにはいきませんから」と。可哀想に今泣いている、いやむしろもう泣くこともできなくなっているこのマチルドと一緒にいてさえ、おれは勇気を学びおぼえることはできなかった〉と彼は彼女の赤くなった目を見つめながら思った。そうして彼は両腕に彼女を抱きしめた。嘘いつわりのない悲しみの様を見て、彼はその三段論法を忘れた……。〈たぶんこの女は一晩じゅう泣き明かしたのだろう〉と彼は心に思った。〈だがいつかはこのことの記憶が彼女にとってどんな恥辱になるかわからない! まだずっと若いころに一人の平民の卑しい考え方に惑わされたこともあったと彼女は思うだろう……あのクロワズノワは気が弱いからこの娘と結婚してくれるだろう、そしてほんとうにそれが良いのだ。この女が彼に何かある役割を演じさせることになろう、
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剛毅《ごうき》にして進取に富める精神の
几常なる輩《やから》の蕪雑《ぶざつ》なる精神に対して持つ権威よりして。
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ああ、こいつはおもしろい。死ぬことになってから、これまでに知った詩句が一つ残らず脳裏によみがえって来る。これは衰えたことの一つの徴候だろう……〉
マチルドは彼にむかって何度も消え入りそうな声でくりかえした。「隣の部屋に来ているんですのよ」彼はやっとこの言葉に気がついた。〈弱々しい声だ〉と彼は心に思った。〈だがあの命令的な性格がそのまま語気にあらわれているな。ただ怒るまいとして声を低くしているのだ〉
「誰が来てるんですって?」と彼はやさしく訊いた。
「弁護士が、あなたの控訴《こうそ》願いに署名してもらうため」
「ぼくは控訴しない」
「何ですって! 上告しないんですって!」と彼女は立ち上がって目に憤怒をかがやかせながら言った。「それはなぜでしょう? 言ってちょうだい」
「なぜなら、今ならばぼくは人からあんまりひどく嗤《わら》われないで死ねる勇気があると思うからです。二カ月もこの湿っぽい土牢のなかに長々と滞留したあとだったら今みたいなしっかりした心構えでいられるかどうかわかりはしない。どうせ説教師やうちの親爺に会うことになると思いますし……こんな不愉快なことはまたとあるもんじゃないですからね。まあ死にましょう」
この思いのほかの反対に遭うと、マチルドの性格の倨傲《きょごう》な一面がすっかり呼び醒《さ》まされた。彼女は今朝ブザンソンの監獄の土牢の扉が開けられる時刻までにはド・フリレール師に会うことができなかったのである。そんなこともあったので、彼女の激怒はジュリアンの上に降り注がれた。彼女は彼を熱愛していた。だが彼はたっぷり十五分ものあいた、彼ジュリアンの性格を呪い彼を愛したことを悔やむ彼女の言葉のなかに、かつてラ・モール邸の図書室であんなに辛辣《しんらつ》なののしりの言葉を自分に浴びせかけた驕慢《きょうまん》な心をふたたび認めたのであった。
「神は君の家門の誉れのため、君を男に生まれさせるべきだったんだよ」とジュリアンは彼女に言った。
〈だがおれはといえば〉と彼は思った。〈貴族階級の一味徒党が頭をひねって発明する、あらゆる破廉恥な屈辱の的《まと》とされながら、慰めとしてはこの気ちがい女の呪詛《じゅそ》だけしか聞けないというありさまで、味気ないこんな場所にまだ二カ月も暮らすなんて間抜けたはなしだ……そうだ、あさっての朝おれはその冷静さとすばらしい腕前で世にかくれもない男と決闘をするのだ……何しろものすごくすばらしい腕前なんだからな〉と彼の内なるメフィストフェレス的なものが言った。〈決して打ちそこなうことはない奴だ。
よしよし、まあ何とでも言っていろ(マチルドがあいかわらず雄弁にしゃべりつづけていたのだ)。いや絶対にしない、おれは控訴なんぞしないぞ〉
この決心をしてしまうと、彼はいろいろよしないことを思い耽《ふけ》りはじめた。……〈郵便配達夫がいつものように六時に通りがけに新聞を届ける。八時にはド・レナルさんがもう読んでしまったあとでエリザが忍び足であの人のベッドの上に置きに来る。しばらくしてあの人は目を覚ます、読んでいるうちに突然彼女はうろたえ、あのきれいな手がぶるぶる震えだす、とうとうこういう言葉まで彼女は読む……十時五分《ヽヽヽヽ》、|彼はこ《ヽヽヽ》|ときれた《ヽヽヽヽ》、と。
彼女は熱い涙を流してくれるだろう、おれはあの人がどんな人だか知っている。おれが彼女を殺害しようとしたことも何にもならない、すべては忘られてしまうだろう。そしておれが命を奪おうとしたその女がただ一人だけ、おれの死を心から泣き悲しんでくれるだろう〉
〈ああ、これはあべこべだ!〉と彼は思った。そうしてマチルドがなおも彼にはげしく詰めよって来るたっぷり十五分ものあいだ、ひたすら彼が思いを馳せていたのは、ド・レナル夫人のことだった。ときどきマチルドの言う言葉に答えてやりながらも、我にもあらず彼はヴェリエールの寝室の思い出から心を逸《そ》らすことができなかった。彼はブザンソンの新聞がオレンジ色のタフタの掛け蒲団の上に置かれているのをまざまざと思い描いた。あの真っ白な手が痙攣的にその新聞を握りしめているさまが目に浮かんだ。彼にはド・レナル夫人が泣くのが見えた……。あのあでやかな顔の上に流れる涙の一筋々々を彼は見のがさなかった。
ド・ラ・モール嬢はジュリアンから何にも確答を得られぬので弁護士を呼び入れた。これはさいわい一七九六年のイタリア遠征軍の元大尉で、当時はマニュエル〔当時の自由主義政治家〕の戦友だった。
形式上、彼は死刑囚の決意に反対した。ジュリアンは敬意をもってこの男を遇するつもりになって、自分の理由とするところを一々詳しく説明した。
「いかにも、あなたのような考え方もあり得るですな」としまいにフェリクス・ヴァノー氏は言った。これが弁護士の名だったのだ。「しかしあなたにはまだまる三日、控訴する余裕がある。そのあいだ毎日やって来るのが私の義務なのですよ。万一この二カ月のうちに牢獄の下で火山が爆発でもしたら、あなたは救われます。それとも病気で死なないともかぎらない」と彼はジュリアンを見つめながら言った。
ジュリアンは彼の手を握りしめた。……「感謝します、あなたは親切な方です。これは忘れません」
そうしてマチルドがやっと弁護士と一緒に出て行くと、彼は彼女に対してよりもむしろ弁護士のほうに、はるかに多くの親しみを感じた。
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第四十三章
それから一時間ののち、彼はぐっすり眠っていたが、自分の手に涙が流れるのを感じて目を覚ました。〈ああ、またマチルドだ〉と彼はうとうとしたままで思った。〈自分の原則を守ってやさしい情味でおれの決意をひるがえさせようと思って来たわけだな〉また例の悲愴なひとくさりをやられるものと思うとうんざりして、彼はわざと目を開けなかった。妻から逃げ出すベルフェゴール〔人間の女と結婚し、閉口して逃げ出す悪魔で、多くの物語の題材になっている〕の詩句が思い出されてきた。
そのとき聞き慣れぬ溜め息が彼の耳にはいった。彼は目を開けた。ド・レナル夫人だった。
「ああ、死ぬ前にやっと君にまた会えた、これは夢ではないかしら?」と彼は彼女の足許に身を投げ出しながら叫んた。
「ですが、許してください、ぼくはあなたから見れば人殺しにすぎないのです」と彼は我にかえってすぐにまた言った。
「あなた……あたし、あなたに控訴してくださるようにお願いにまいったのです、あなたは控訴したくないと言っておられるというので……」嗚咽《おえつ》に息がつまって彼女は口が利けなかった。
「どうぞぼくを赦してください」
「赦してほしいというんなら」と彼女は立ち上がって彼のふところに身を投げながら、「すぐに死刑の判決に控訴してちょうだい」
ジュリアンは彼女に接吻の雨を降らした。
「その二カ月のあいだ、君は毎日ぼくに会いに来てくれる?」
「かならず来るわ。主人がいけないと言わないかぎり毎日」
「それじゃぼくは署名する!」とジュリアンは叫んだ。「ああ! 君がぼくをゆるしてくれる。あり得ることだろうか!」
彼は夫人を両腕に抱きしめた。気が狂ったようだった。彼女は小さな叫び声をあげた。
「何でもないのよ、ちょっと痛かっただけ」と彼女は言った。
「肩だね」とジュリアンは涙にくれて言った。ちょっと身をひいて彼女の手を燃えるような接吻でおおって、「ヴェリエールの君の寝室で最後に君と会ったとき、こんなことになろうと誰が思っただろう」
「あたしがド・ラ・モールさんにあんな汚らわしい手紙を書くなんて、あのとき誰が思ったでしょう」
「ぼくがいつも君を愛していたこと、君一人だけを愛していたことを信じておくれ」
「そんなこと、ほんとうにあり得るでしょうか!」と、今度はド・レナル夫人が狂喜して叫んだ。彼女は自分の膝のところにいるジュリアンにもたれかかり、そうして二人は口もきかずにながいこと泣いた。
これまでの生涯のいかなるときにも、ジュリアンはこのような一瞬を見出したことはなかった。
だいぶ長いことたって、やっと口がきけるようになると、
「それではあの若いミシュレ夫人、というよりあのド・ラ・モール嬢は? あたし最近あの奇妙な小説みたいな話を実際信じるようになりはじめたところなんですもの!」
「うわべだけではいかにもあれはほんとうだ」とジュリアンは答えた。「あれはぼくの妻だ、だがぼくの愛する女ではないんだ……」
二人とも何度となく相手の言葉をさえぎって口を入れたりしながら、ようやくのことでおたがいの知らなかったことをとうとう話し合うことができた。ド・ラ・モール氏あての手紙はド・レナル夫人の信仰をみちびく若い僧侶の手になるもので、彼女があとでそれを写したのだった。
「いくら宗教《みおしえ》のためでも、あたし、何という恐ろしいことをしてしまったのでしょう! あれでもあの手紙のなかで一番ひどいところはあたしが和げておいたんだけど……」
ジュリアンの感激と幸福を見ると、彼がどんなに自分を赦してくれているかということが夫人にははっきりとわかった。彼がこれほど恋に狂っていたことはいまだかつてなかった。
「それでもあたし、自分がまだ信仰を忘れてはいないと思っているのよ」とド・レナル夫人は会話をつづけるうちに言った。「あたし心から神を信じていますわ。それと同じように、これはもうあたしにははっきりわかっているんですけど、自分の犯した罪が恐ろしいものだということも信じています。ところがあのあなたにピストルで二発射たれた後だというのに、あなたにお目にかかったとたん……」このときまたジュリアンは、彼女がいやだと言うのに、ところきらわず接吻を浴びせるのだった。
「言わせてちょうだい」と彼女はつづけた。「忘れてしまうといけないから、あたしあなたと理性的に話しておきたいの……あなたのお顔を見たとたんに義務なんてことはすっかり頭から消えてしまって、ただもうあなたがいとしいばかり、いいえ、いとしいなんて言葉ではあんまり弱すぎるくらいだわ。あたしはあなたに対して、ほんとはただ神さまに対してだけしか感じてはならぬ感情を、感じているのです。敬意と、愛と、服従のまじった感情を……。実を言うと、あなたに対してあたしが感じるものが何だか自分でもわからないの。もしあなたが牢番を短刀で刺せとおっしゃったら、あたし頭で考える前にそうしてしまうでしょう。これはどういうことなのか、あたしがあなたと別れるまでにはっきりと教えてちょうだい。あたし、自分の心のなかをはっきり見とおしたいの。ふた月すればあたしたちはお別れするんですもの……。それにしても、ほんとにあたしたちお別れすることになるんでしょうか?」と彼女はほほえみながら彼にそう言った。
「ぼくは約束を取り消しますよ」とジュリアンは立ち上がって叫んだ。「死刑の判決に控訴することはやめますよ、毒でも短刀でもピストルでも炭のガスでも、またその他何らかの方法であなたが身をあやめるとか命を縮めるとかいうことをしようとするかぎり」
ド・レナル夫人の顔つきはにわかに変わって、熱烈な愛情は消え失せて深い物思いに耽っている表情になった。
「ここですぐ二人で死んだら?」としまいに彼女は言った。
「あの世に何があるかわかるものですか」とジュリアンは答えた。「呵責《かしゃく》か、あるいは何にもないか。ぼくたちは二人でこの二月この上なく楽しく暮らせるのじゃないか。ふた月、日数にすればずいぶんある。そうなれば、これほど幸福だったことはぼくにはかつてなかったほどだ!」
「それほど幸福だったことはかつてなかったんですって!」
「なかったとも」とジュリアンは有頂天になってくりかえした。「ぼくは自分にむかって言うのと同じ言い方で君にむかって言っているのだ。ありがたいことにもう誇張をしないですむ」
「そんなことをおっしゃると、あたし命令されているようだわ」と彼女はおずおずした愁《うれ》わしげな微笑とともに言った。
「よし! それじゃ君はぼくに対する君の愛にかけて誓うんだ、直接間接を問わずいかなる方法によっても自分の命をそこなうようなことはしないと……」さらに彼は付け加えた。「考えておくれ、君はぼくの子供のために生きてくれなけりゃならないんだってことを。マチルドはどうせド・クロワズノワ侯爵夫人になってしまったら子供を下男まかせにしてしまうにきまっているもの」
「誓いますわ」と彼女は冷やかに答えた。「けれどあたし、あなたがご自分で作成して署名した控訴願いをいただいて行きたいんです。自分で検事総長のところへ持って行きますから」
「だが気をつけなくちゃ。危ない真似だ」
「こうやってあなたの獄舎をたずねるなんてことをしてしまった以上、あたしはもうブザンソンばかりかフランシュ・コンテじゅうで一生、噂の的とされてしまうわ」と彼女は深い苦悩の面持ちで言った。「厳しい貞操の閾《しきい》も踏み越えてしまって……あたしは名誉を失った女ですわ。それはたしかにあなたのためですけれど……」
彼女の言葉つきのあまりの沈鬱さに、ジュリアンは彼女に対して今までとは全然ちがったある満足を感じながら接吻した。これはもう愛の陶酔などではなかった。この上ない感謝の念からであった。今はじめて彼は、夫人が自分のためにしてくれた犠牲がいかに大きなものであったかにすっかり気がついたのであった。
きっと誰か慈善家がド・レナル氏に夫人が再三ジュリアンの獄舎に長い訪問を行なうことを告げたのだろう。三日すると、夫は妻にすぐヴェリエールに帰るように言って馬車をさしむけて来たのである。
この残酷な別離につづく一日はジュリアンにはいやな日だった。それから二、三時間して、喰わせ者のくせにブザンソンのジェズイットの仲間のうちでは成功することのできなかった何とかという坊主が、朝っぱらから牢獄の門の前の街頭にがんばっていると彼は知らされた。ひどい雨が降っていたのに、そこでこの男は芝居がかりの殉教者の真似をして見せようというのだった。ジュリアンは気分が悪くなっていたので、この馬鹿げた真似に深く心を痛められた。
その朝すでにこの坊主に面会をことわっていたのだ。ところがこの男は、ジュリアンに懺悔をさせ、彼からいろいろ打ち明け話を聞かされたといってブザンソンの若い女たちのあいだで名を挙げようと計画しているのだった。
彼は牢獄の門前で昼も夜も過ごしてやると大声で宣言していた。……「あの背教者の心を動かすため神は私をつかわしたもうたのです……」すると、いつも何か変わったことがないかと思っている下層民たちが群がり出す。
「そうです、兄弟たちよ、私はここで日も夜も過ごします、そればかりかその後幾日も、幾夜も」と弥次馬にむかって坊主は言うのだった。「聖霊が私に語られたのです。私は天上より召命を受けている。あの若者ソレルの魂を救済すべきはこの私である。皆さん一緒に私の祈祷にあわせてください……云々」
ジュリアンは評判を立てられたり、また自分が関心の的とさせられたりするようなことは怖気をふるうほどいやだった。彼は何とか機会をつかんでインゴグニトでこの世をおさらばすることはできないかと思った。しかしド・レナル夫人に再会する希望もないではなかったし、彼は狂気のように彼女に恋いこがれていたのだ。
牢獄の門はいちばん人通りのはげしい往来に面していた。この人だかりをつくって騒ぎを起こそうとする泥だらけの坊主のことを思うと、ジュリアンはたまらなく心を苛《さいな》まれた。……〈きっとひっきりなしにおれの名前を持ち出しやがるにちがいないぞ!〉この瞬間は死より堪えがたかった。
彼は一時間ほどあいだをおいて二、三度、忠実に彼の言うことをきいてくれる看守を呼んで、まだ僧侶が門前にいるか見に行ってもらった。
「旦那、あいつはぬかるみのなかに両膝ついていやがりますよ」と、そのたんびに看守は答えるのだった。「大声で祈ってまさあ、旦那の魂を救うため連祷《リタニー》してるんですぜ……」
〈無作法者め!〉とジュリアンは思った。その瞬間、実際にぶいざわめきの声が彼にも聞こえてきた。弥次馬が連祷のあとを受けて唱えているのだ。看守までが口を動かしてラテン語の文句をくりかえしているのを見て、彼はもうまったく我慢できなくなった。……「あんな有徳な方のご助力をはねつけるなんて、旦那もよっぽど無情なんだってみんな言い出してますよ」
「ああフランスよ! おんみはまだ何と野蛮であることか!」とジュリアンは憤怒に我を忘れて叫んだ。そうして彼は自分の考えることを、看守のいるのも忘れてなおも口走りつづけた。
〈その男は新聞に書きたてられたいんだな、しかも成功すること疑いなしだ。ああ、忌々しい田舎もの!パリでならまさかこんないやがらせはされなかったろうに。パリじゃ法螺《ほら》を吹くにしたってもっと利口だからな〉
「その有徳な坊さんをここに通してくれたまえ」とうとう彼は看守に言った。汗が額からだらだらと流れていた。看守は十字を切って嬉しそうに出て行った。
その有徳な坊さんはものすごく醜怪だった。それのみか土まみれなのだ。冷たい雨が降っているので監房のなかは常にまして薄暗くじめじめしていた。僧はジュリアンを抱いて接吻しようとし、話しかけながら彼のために涙ぐむまでになりはじめた。最も低劣な偽善があまりにも見えすいていた。生まれてからジュリアンはこれほど憤怒に駆られたことはなかった。
僧がはいって来てから十五分もすると、ジュリアンはすっかり甲斐性もなくなっていた。今はじめて死が彼には戦慄すべきものと思われた。彼は処刑されて二日もたって自分のからだが腐乱しているさまを思ったりした。
彼はもうすこしで何かのことで心の弱さをあらわしてしまうか、あるいは僧に躍《おど》りかかって自分の鎖でくびり殺すかしそうになったが、ちょうどそのときこの有徳な男に、今日のうちに四十フランで自分のためちゃんとしたミサをあげてくださいと頼んでやろうと思いついた。ところがもう正午近くなっていたので僧侶はひきあげた。
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第四十四章
僧侶が出て行くが早いかジュリアンはさめざめと泣いた。死なねばならぬことを泣き悲しんだのだ。もしド・レナル夫人がブザンソンにいたら、夫人にこんな弱味を打ち明けてしまったろうとだんだん彼は思いはじめた……
この熱愛する女がここにいないことを悲しんで一番やりきれない気持になっていたとき、マチルドの足音が聞こえた。
〈この獄舎でいちばん不幸なことは、入口をしめることができないということだ〉と彼は思った。マチルドが言うことは何から何まで彼をいらだたせるばかりだった。
彼女は、公判の日ド・ヴァルノ氏はもう知事任命の辞令をポケットに入れていたのでド・フリレール師を鼻であしらう気になり、ジュリアンに死刑の判決を与えて快哉《かいさい》を叫んだのだ、と彼に話して聞かせた。
「あたしド・フリレール師からこう言われて来たところなのよ、『あなたのお友だちはまた何であの平民《ヽヽ》貴族《ヽヽ》の下らない虚栄心をかき立て、憤慨させようなどという気を起こしたんでしょう! なぜ階級《ヽヽ》のことなんかしゃべったんでしょう! 奴らが政治的利益のためやらねばならぬことを教えてやったのは、あなたのお友だちですよ。あの薄のろどもなんかそんなことを考えるどころか、あの人のため涙を流す気になっていたんですよ。その階級の利害ということを思い出したおかげで、人を死刑にするということの恐ろしさが奴らの目に見えなくなってしまったのです。何といったってソレルさんはこういったことには慣れていない。もし私たちがうまくやって特赦を願い出て助命することができなければ、あの人の死はまあ自殺《ヽヽ》みたいなものですよ』って、そう言われて来たのよ」
ただマチルドが自分でも全然考えてみもしなかったので、ジュリアンに言おうとは思いもよらなかったことがあった。それは、ド・フリレール師がもうジュリアンは駄目だと見切りをつけて、彼の後釜にすわるように望んだほうが自分の大望実現のためには有益だと考えたことだった。
どうしようもない怒りと不満とにほとんど我をわすれて、「ぼくのためにミサを聴きに行ってください、そしてしばらくぼくを一人で静かにさせておいてもらいたいんだ」と彼はマチルドに言った。ド・レナル夫人の再三の訪問にもうずいぶん悋気《りんき》を起こしていたマチルドは、夫人が立ち去ったことを今しがた知ったところだったので、ジュリアンの不機嫌の理由を察して泣きくずれた。
彼女の悩みには嘘いつわりはなかった。ジュリアンはそれと見てわかったが、そのためますます苛立たしくなるばかりだった。彼には何としても孤独が必要だった。だがどうしたら孤独が得られよう?
とうとうマチルドは彼の気持を動かそうとしていろいろと理屈をならべたてたあげく、彼を一人でおいて行ってくれたが、ほとんどそれと入れ替わりにフーケがやって来た。
「ぼくは今一人でいなけりゃならんのだ」と彼はこの忠実な友に言った。……だが友がもじもじしているのを見ると、「いま特赦の訴願のため手記を書いてるんだ……とにかく……ぼくの好き勝手にさせておいてくれ、決して死のことは言ってくれるな。その日になって何か特に君の手を借りたいことができたら、君に訊かれなくてもぼくのほうが先に言うからね」
やっと孤独となってみると、前よりもいっそう消沈して臆病になっていた。この憔悴《しょうすい》した心に残っていたわずかばかりの力も、ド・ラ・モール嬢やフーケの前に自分の精神状態を隠そうとする努力に絞りつくされてしまった。
夕方になって、ある考えが浮かんで彼は心を慰められた。
〈今朝、死がおれの目にあんなに醜悪なものと思われていたとき死刑執行の予告があったとしたら、人々の目がおれの名誉心の刺激剤となってくれたろう。たぶんおれの振る舞いには、いわば気の小さい気取り屋がサロンへはいって行くときのようないかにももったいぶった様子があったろう。誰か目はしの利く奴なら、もっともこんな田舎者たちのなかにそんな奴らがいればの話だが、おれの心弱さを洞察し得ただろう……だがさいわい、それをはっきり見たものはなかったろう〉
そう思うと彼は自分の不幸から部分的には解放されたような気がした。〈今おれは卑怯者だ。だが誰一人知ってるものはない〉と彼は歌うように何度もくりかえして言った。
ほとんどこれ以上に不愉快な事件が翌日、まだ彼を待っていた。だいぶ前から父親が会いに行くぞと予告していた。この日はジュリアンが目を覚ます前から、この白髪の老|木挽大工《こびきだいく》が彼の土牢にあらわれた。
ジュリアンは女々しい気持になった。不愉快きわまる叱責を彼は予期していたのだ。しかも彼の悩ましい気持をまったく申し分のないものとするためか、この朝彼は自分の父を愛さなかったことを激しく自責していたのであった。
〈ひょんなめぐりあわせでおれたちはこの地上で結びあわされたのだ〉と彼は、看守が監房のなかをちょっと片づけているあいだに心に思った。〈そうしておれたちはおたがいに、ほとんどなし得るかぎりいやな思いをさせあって来た。おやじはおれの最期にあたってとどめのひと突きを与えようとしてやってきたのだ〉
老人の峻烈《しゅんれつ》な叱責はほかに聞いているものがいなくなると早速はじまった。
ジュリアンは涙を堰《せ》き留めることができなかった。〈何という見下げはてた意気地なさだ!〉と彼は腸《はらわた》が煮えくりかえるような気持で心に言った。〈おやじはこれからそこらじゅうに行っておれの勇気のなさを大袈裟に吹聴しやがるだろう。そうなったらヴァルノやそのほかのヴェリエールで羽振りをきかしている安っぽい偽善者どもがどれほど勝ち誇りやがるだろう! 実際奴らはフランスじゃお偉いんだからな。ありとあらゆる社会的優越を一身に集めてやがるんだ。これまでのところ、少なくともおれはこう自分に言い聞かせることができた、いかにもあいつらには金はしこたまはいって来るし、あらゆる栄誉は奴らの一身に集まって来る、だがこのおれは心の気高さを持っているんだ、と。
ところが今ここにいる証人が、おれが死を眼前にして女々《めめ》しくなっていたとヴェリエール全体に誇張して断言すれば、誰もみなそれを信じるにちがいないと来ている! だれが見てもわかるこの試練に当たって、おれが卑怯者だということになるのだ〉
ジュリアンはほとんど絶望しかけていた。どうやって父親を引き取らせたらいいかわからなかった。実に炯眼《けいがん》なこの老人を騙《だま》せるように心にもない真似をして見せることは、この際彼の力では全然できないことだった。
彼は頭のなかでひととおり可能な方法を考えてみた。
「|ぼくはすこし金を貯めてるんですがね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と不意に彼は叫ぶように言った。
この天才的な言葉を聞くや老人は相好を崩し、ジュリアンの立場は一転した。
「どう始末したもんでしょうか?」とジュリアンは前よりおちついてつづけた。その効果を見ると彼は劣等感などすっかりなくなってしまった。
老木挽大工は、ジュリアンがその一部は兄たちに譲りたいと思っているらしく思えるこの金を、何としても取り逃すまいという欲気に身を焦《こ》がしていた。彼は長々と夢中になってまくしたてた。ジュリアンはやっとひやかしてやる気になれた。
「結構です! ぼくはどういう風に遺言すべきかについては主のお告げを受けているんですよ。兄さんたちに千フランずつあげて残りはお父さんにあげます」
「大いによろしい」と老人は言った。「残りは当然わしのもんじゃ。だが神さまのお恵みでそんな風にお告げがいただけるというんだから、おまえも立派なキリスト教徒として死にたいだろうが、それならおまえの借金はみんな済まして行ったほうがいいよ。わしが前貸しておいたおまえの食代《くいしろ》と教育費がまだある。これはおまえも考えていないらしいが……」
〈それじゃ父親の愛ってこんなもんなんだな!〉と、ジュリアンはやっと一人になったとき悲痛な心で何度もくりかえした。まもなく獄吏が来た。
「旦那、肉親の方が会いに来られた後では、私はいつもすばらしいシャンパンを一罎《ひとびん》みなさんに持って来ることにしてますがね、ちとばかり高いんで。一罎六フランですがね、飲めば気持が晴れますぜ」
「コップを三つ持って来てもらおう」とジュリアンは子供のように夢中になって、「それから廊下のところでぶらぶらやっているらしいあの囚人を二人ほどここへ来させてくれないか」
獄吏は再犯をやってまた徒刑場にかえされることになっている懲役人を二人連れて来た。二人ともたいへん陽気な、だが巧妙な手口と度胸と沈着さとで実際すばらしく名の聞こえた悪漢だった。その一人がジュリアンに言った。
「旦那が二十フランおくんなさるなら、一つあっしの身の上を詳しく話して差し上げましょう。なかなか|大した《ヽヽヽ》もんですぜ」
「だが君、でたらめ言うんじゃないかい?」
「でたらめなんか言うもんですかい」と男は答えた。ここにいる仲間はあっしが二十フランもらえば嫉《や》きますからね。あっしが嘘を言やあ、こいつがばらしちゃいまさあ」
彼の物語は実に言語道断なものだった。金銭欲以外には何らの情熱を持たぬ勇敢な心が、そこにはっきり示されていた。
彼らが出て行ってしまうと、ジュリアンはもうもとと同じ人間ではなかった。自分自身に対する怒りはすっかり心から消えていた。ド・レナル夫人が出発してからずっと彼の心をとらえて、臆病さのためいっそうやりきれないものになっていたむごたらしい苦悩が、哀愁に変わっていた。
〈おれも物事の外観に目をくらまされることがだんだんすくなくなって行ったら、それにつれてパリのサロンにもおれのおやじみたいな実直な人間、あるいは今の懲役人みたいな悪党がうようよしているのに気がついたはずだ。あの懲役人にも道理がある。サロンの人士なんかは毎朝起きると早速≪今日はどうしたら夕飯が食えるか?≫という痛切な問題を考えることなど決してないのだから。そのくせ奴らは身を持するに峻厳であるといって自慢してやがる! そうして陪審員に任ぜられれば、飢えのために気絶しそうだというので銀の食器を一そろい盗んだ人間に得々として有罪を申し渡しやがるんだ。
だがここに宮廷があるとして、そこで一つの職を得るか失うかということになれば、あのサロンの名誉あるお歴々も、飯を食う必要からあの二人の懲役人たちが思いついたのとまったく同じくらいの悪事に手を染めっちまうのだ……
自然法《ヽヽヽ》なんてものは存在しない。この言葉は先だっておれを追及したあの次席検事にでも似つかわしい古臭い|たわけ《ヽヽヽ》ごとだ。あの次席検事の先祖はルイ十四世時代の何かの財産没収で産をなしたということだが。何々することは禁ずる、犯せば処罰するという法律があって、はじめて法というものが存在するのだ。法律ができる以前に|自然な《ヽヽヽ》ものがあるといえば、獅子《しし》の力か、ひもじい、寒い思いをしている人間の欲求、つまるところ欲求《ヽヽ》というものがあるだけだ。…そうだ、人から尊敬されている人間なんてみんな、運よく現行犯でつかまることを免れた悪漢なんだ。社会がおれを糾弾させたあの告発者だって、今までに醜悪な行ないをやって金をつくったのだ。……おれは殺人を犯した。そうして正しい刑を受けた。だが事実だけを除けば、おれを断罪したヴァルノなんかおれより百倍も社会に有害な人間なんだ〉
〈まあいいさ!〉とジュリアンは陰鬱に、だが怒りはせずに思いつづけた。〈貪欲《どんよく》ではあるがおれのおやじのほうがあの連中よりもまだましだ。おやじはこれまで全然おれを愛してくれなかった。おれはこんな汚辱の死を遂げて、おやじの体面を台なしにし、いよいよ申し分のない不孝をすることになる。ああやって金がなくなるのを恐れてばかりいるし、世間ではこれを貪欲《ヽヽ》と呼ぶが、人間の悪性を誇大視する癖があるから、おれが遺《のこ》していってやる三、四百ルイの金で慰めと安堵が得られるとおやじは大喜びができるのだ。日曜日の晩飯のあとにでもおやじはヴェリエールじゅうの羨望者に自分の金を見せびらかすのだろう。おそらくその目つきには、≪これだけの代償が得られるんだったら、あんたがたはどなたも断頭台にのぼされた息子を持つのも満更《まんざら》ではないとお思いになるでしょうて≫といった意味があらわれているだろう〉
この哲学は正しかったかも知れぬ。だがそれは人をして死を願わしめる性質のものだった。このようにして長い五日間が過ぎた。マチルドが極度にはげしい嫉妬心のため躍起《やっき》になっていることがはっきりとわかったが、そのマチルドに対しても彼は丁重でやさしかった。ある夜、ジュリアンは真剣に自殺しようかと考えた。彼の心はド・レナル夫人の出発によって悲嘆のどん底に落ちて憔悴《しょうすい》してしまっていた。現実のことでも空想したことでも、もうジュリアンの心を楽しますものは何ひとつなかった。運動不足のため彼の健康はそこなわれはじめ、彼はドイツの若い大学生のような熱狂的なくせに活気のない性格になりはじめた。惨めな気持でいる者の心を襲うあれこれの好ましからぬ想念を決然としてはねのけるあの男性的な自尊心を、彼はだんだん失っていった。
〈おれは真理を愛した。真理はどこにあるのか?……いたるところに偽善、あるいはすくなくともいかさまばかりだ。きわめて徳の高い人間においてすら、最も偉大な人物にあってすらも〉そう思うと彼の口もとに嫌悪の表情が浮かんだ……〈いや、人間が人間を信じることはできないのだ〉
〈ド・***夫人が気の毒な孤児のために寄付を集めていたとき、何とか公爵から先程十ルイいただいて来たとおれに言ったが、それは嘘だった。それどころじゃない! セント・ヘレナのナポレオンを見ろ!……ローマ王〔ナポレオンとマリ・ルイーズの間に生まれた皇子。生まれてすぐローマ王の称号を与えられた〕のため大見栄をきったなんて、まったくのいかさまじゃないか。
ああ、何たることだ! あれほどの人間が、しかも不幸によって厳しく自分の義務に引き戻されるべきときに、いかさまをするまでに卑しくなるものなら、いったいそのほかの人類全体から何を期待し得よう?……〉
〈真理はどこにある? 宗教のなかにか……いかにも〉と彼は極度の侮蔑をあらわす苦い微笑とともに言った。〈マスロン、フリレール、カスタネードの徒輩の口にあるんだ。……おそらくは昔の使徒と同じように報酬を得ていない僧侶の口から語られる、真のキリスト教のなかにあるのではなかろうか?……だが聖パウロは人に命令し自分でしゃべり自分の評判が立つという楽しみを報酬として得ていたのだ……
ああ! もし真の宗教があったら……おれは何て馬鹿だ! おれの目にはゴチック式の伽藍《がらん》と荘厳なステンドグラスが見える。おれの弱々しい心はそのステンドグラスから僧侶を思い描くのだ……。おれの魂はその僧侶の言葉を理解し、おれの魂はその僧侶を求めている……ところが実際おれが見るのは汚れた髪の毛をした馬鹿野郎だ……愛矯《あいきょう》がないということを除いたらあのシュヴァリエ・ド・ボーヴォワジと同じだ。
しかし、マション、フェヌロンといった真の僧侶は……マションはデュボワの神前任命式を執行している。サン・シモンの『回想録』を見るとおれはフェヌロンが大嫌いになってしまう。だがついに真の僧侶が出て来れば……、そうすれば諸々のやさしい魂はこの一人の人間を中心に集まれるだろう……。そうすればわれわれはもう孤立していないのだ……。その善良な僧侶がわれわれに神について語るのだ。だが果たしてどんな神か? 聖書の神ではない、あんな残忍で復讐欲に満ちた小暴君ではないのだ……公正で善良で無窮《むきゅう》の、あのヴォルテールの神だ……〉
自分の暗記しているあの聖書を思い出すと彼は動揺した……〈だが現在僧侶たちがあんなに猛烈に神の名を濫用しているのだから、今後はもう、|三人人間が集《ヽヽヽヽヽヽ》|まったら《ヽヽヽヽ》、この神という偉大な名を信ずることなどどうしてできよう?〉
〈孤独に暮らす!……何たる苦痛だ……〉
〈おれは頭がおかしくなった、そして考えることが公平でなくなった〉と言ってジュリアンは自分の額を叩いた。〈おれはこの土牢のなかで孤独だ、しかしこの地上でおれは|孤独に暮らした《ヽヽヽヽヽヽヽ》わけではなかった。おれには強力な義務《ヽヽ》の観念があった。正しかったにせよ誤っていたにせよおれが自分に課していた義務は……いわば嵐のあいだおれがしがみついていた逞《たくま》しい樹木の幹のようなものだった。おれはぐらつき、動揺した。何といったっておれも一個の人間にすぎなかったのだから……だがおれは吹き飛ばされはしなかった。
孤独などということを考えさせるのはこの土牢のじめじめした空気のせいだ……
だが偽善を呪いながら、なぜ自分自身なお偽善者でいるのか! 死や土牢やじめじめした空気のせいではない、ド・レナル夫人がいないのでおれは悄《しょ》げかえっているのだ。もしヴェリエールで夫人に密会するために夫人の家の穴倉でぶっつづけに数週間もひそんでいなければならぬとしても、おれは愚痴なんかこぼしたろうか?〉
〈おれの同時代人の影響力のほうが強かったのだ〉と彼は苦々しく笑いながら声に出して言った。〈死を目前にひかえて、一人だけで自分自身を相手にしゃべっていながら、おれはまだ偽善者だ……おお十九世紀よ!
……一人の猟師が森のなかで鉄砲を一発うつ、獲物が落ちる、猟師はそれを取ろうと駈けつける。その靴が六十センチばかりの高さの蟻塚《ありづか》にぶつかって蟻の住み家はめちゃめちゃになり、蟻もその卵も遠くへほうり出される……蟻のなかのいちばんの哲学者だって、この真黒で巨大な恐ろしい物体が何であるかを決して理解することはできまい。赤味を帯びた火花を伴ったものすごい音響につづいて、信じられぬほどの速さで自分らの住居のなかへ突然侵入する猟師の長靴が何であるかを……
……それと同様、死、生、永遠といったことも、それを認識し得るだけの大きな器官を持っている者にとってはごく単純な事柄にすぎないのだ……
蜻蛉《かげろう》は真夏の朝九時に生まれ、夕方五時には死ぬ。夜という言葉をどうして理解し得よう?
もうあと五時間生きながらえさせてやれば、夜がどんなものだかをその目で見もし理解もするだろう。
同様におれも二十三歳の若さで死ぬのだ。もう五年間生きながらえさせてくれないだろうか、ド・レナル夫人と一緒に暮らすために〉
そうして彼はメフィストフェレスのように笑い出した。〈こんな重大な問題を論ずるなんて何という馬鹿げたことだ!
第一、まるで誰か聞いているものがここにいるとでもいうようにおれは偽善的だ。
第二に、生きる日がもうほんのわずかしか残っていないというのに、おれは生きかつ愛することを忘れている……。ああ、ド・レナル夫人がいないのだ。おそらく夫人の夫は、夫人がまたブザンソンヘやって来て面目を失するようなことをつづけるのを黙って見てはいまい。
そのことがおれを孤独にするのだ。公正にして善良、全能にして悪意なく復讐の欲望もない神が存在しないからではない……
ああ、もしそんな神がいたら……そうだ! おれはその足許に身を投げるだろう。≪私は死に価します≫とおれはその神に言うだろう。≪偉大なる神、善良なる神、寛容なる神よ! 私の愛する者をお返しください!≫と〉
夜はすっかり更《ふ》けていた。一時間か二時間の安らかなまどろみののち、フーケがやって来た。
ジュリアンは、自分の心のなかを明晰に見透している人間のように、自分がしっかりとして果断でいるのを感じた。
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第四十五章
「ぼくはあの気の毒なシャ・ベルナール師を呼びよせるなどというたちの悪いいたずらをしたいとは言わない」と彼はフーケに言った。「そんなことをすれば、あの人は三日も飯が喉《のど》を通らんだろうからね。そのかわりピラール師の友だちで企みごとなんか決して受けつけないジャンセニストを一人、ぼくのために探してきてくれ」
フーケはこの申し出を待ちこがれていたところだった。ジュリアンは地方で世間への義理としてどうしてもしなくてはならぬようなことは一切きちんと済ました。ド・フリレール師のおかげで、聴罪師の選択をあやまっていたにもかかわらず、ジュリアンは監房のなかにおりながら修道会からひいき目に見られていた。もうすこし機敏にやれたら、彼は脱獄することができたろう。しかし獄房の悪い空気がてきめんに効果をあらわして、彼の頭の働きは鈍り出していた。それゆえにこそド・レナル夫人がまた来てくれたときには、彼の幸福はひとしおであった。
「あたしの第一の義務はあなたに対する義務なの」と夫人は彼に接吻しながら言った。「あたしヴェリエールから脱け出して来たのよ……」
ジュリアンはもう彼女に対しては下らぬ自尊心などまったく持っていなかったので、自分の弱味をひとつ残さず夫人に打ち明けた。夫人は彼に親切にやさしくしてくれた。
その夕方、牢獄を出るとすぐに彼女は自分の伯母の家に、まるでジュリアンが獲物だというように付けまわしていた例の僧侶を呼びつけた。この男はブザンソンの上流社会に属する若い婦人方の信任を得たいということばかり望んでいたので、ド・レナル夫人はブレ・ル・オーの僧院へ九日祈祷《ヌヴェーヌ》をやりに行くようにと簡単に説きつけてしまった。
ジュリアンの愛情の激しさ狂おしさはいかなる言葉をもってしても表現し得ないほどだった。
金をふんだんに使い、有名な金持の信心家の伯母の勢力をさんざん利用し濫用して、ド・レナル夫人はついに一日に二度彼に面会する許可を得た。
このことを報らされるとマチルドの嫉妬心は激して正気を失うまでになった。ド・フリレール師は、自分の全勢力をもってもあなたのため日に一回以上恋人に面会する許可を下させるまでに慣例を無視することはできぬと彼女に打ち明けていたのだった。マチルドは人をやってド・レナル夫人の跡をつけさせ、夫人のほんの些細な行動までを知ろうとした。ド・フリレール師はジュリアンなどあなたにふさわしくないと彼女に納得させるため、狡猾《こうかつ》きわまる才智を絞っていたのだ。
こういった苦悶のただなかにありながら、かえって彼女はますます彼を恋しく思い、そうしてほとんど毎日彼とおそろしい言い合いをするのだった。
ジュリアンは自分がこんな奇怪なことに巻き込んだこの気の毒な娘に対して全力をつくして最後まで誠実でありたいと思っていた。しかしド・レナル夫人に対して抱いている奔放な恋情に絶えず打ち負かされてしまうのだった。理屈にならない理屈をひねくって、彼女の恋仇の訪問なぞ決して特別の意味があるものではないのだとマチルドを説得しようとして果たし得ないときなど、〈これで芝居の幕が降りるのももう間近のはずだ。おれがあんまりうまくごまかすことができないとしても、だからやむを得ないということになろう〉と彼は心に思った。
ド・ラ・モール嬢はド・クロワズノワ侯爵の死を知らされた。あの富豪のド・タレール氏が、マチルドの姿が見えなくなったことでいろいろ聞くに堪えぬことを言ったのだ。ド・クロワズノフ氏は彼のところへ行って取り消してくれと頼んだ。ド・タレール氏は彼に、自分に送られてきた何通もの匿名の手紙を見せたが、これにはいろいろの詳しい事情が非常に手際よく書かれていて、可哀そうに侯爵も真相の一端を認めぬわけにはいかなかった。
ド・タレール氏はいい気になってあまり品のよくない洒落《しゃれ》を言った。ド・クロワズノワ氏は憤怒と悲痛に我を忘れてあんまりひどすぎる謝罪を要求したので、百万長者は決闘したほうがいいと言った。こんなつまらぬことが大騒ぎになった。かくてパリで最も女から愛される資格のある男の一人が、二十四歳にも満たぬ若さで命を落したのである。
この死はジュリアンの衰弱した心に奇怪な病的な衝動を与えた。
「クロワズノワも気の毒に」と彼はマチルドに言った。「われわれに対してほんとうに道理をわきまえた誠実な人間としてふるまってくれた。あなたのお母さんのサロンであなたがあんな慎しみのない真似をしたときは、あの男もぼくを憎んだはずだし、ぼくに決闘を求めるべきだった。侮蔑が憎悪に変わった場合には、その憎悪はたいていの場合、じつに猛烈なものなんだからね」
ド・クロワズノワ氏の死はマチルドの未来に関するジュリアンの考えを根こそぎ変えてしまった。何日もかかってジュリアンはド・リュス氏の申し込みを受諾すべきだと彼女に説きつけた。
「小心な男にはちがいないが、決して極端な偽善家《ジェズイット》だということはない。そのうちきっとあなたの結婚候補者に打って出るにきまっている。あの気の毒なクロワズノワにくらべればその野心も底が深く、終始一貫しているし、一族のなかに公爵が一人もいないから、ジュリアン・ソレルの未亡人と結婚するにも何ら支障を唱えないだろう」
「それも、偉大な情熱など蔑視する未亡人よ」とマチルドは冷たく言い返した。「なぜって、こうして半年も暮らしたのですもの、自分の愛する人がほかの女、しかも自分たち二人のあらゆる不幸の原因になった女のほうを愛していることを見て取るだけの経験を積んでしまいましたものね」
「あなたはまちがっている。ド・レナル夫人の訪問はぼくの特赦のことを頼んであるパリの弁護士に一風変わった口実を提供することになろう。弁護士は殺人犯がその被害者からいろいろ親切な心づかいを受けていることを説明してくれるだろう。そんなことが好い心証を与えて、おそらくいつかぼくが何かメロドラマの種にされてしまうかもしれませんよ……云々」
兇暴な、しかもはけぐちのない嫉妬心、先の希望のない不幸がはてもなくつづくこと(なぜなら、たとえジュリアンを救えたところで、離れて行った彼の心をどうして取り戻せよう?)、この不実な愛人がかつてないほどいとしく思われるという屈辱と苦悩、こういったことのためド・ラ・モール嬢はぷっつりと陰鬱に口をつぐんでしまって、ド・フリレール師が一生懸命なだめすかしても、またフーケが遠慮会釈なく率直に話しかけても、彼女にこの沈黙を破らせることはできなかった。
ジュリアンのほうでは、マチルドが来るため奪われる時間を除けば、ほとんど将来のことなど考えずにひたすら愛にのみ生きていた。この愛欲が極度にはげしくなって全然みてくれなどなくなってしまうと、それにひきずられてド・レナル夫人にまで彼の気楽さと物やわらかな朗かさがうつって来るという奇妙なことになるのだった。
「昔二人でヴェルジーの森のなかを散歩していたときにも、ぼくはこんなに幸福になれたはずだったが」とジュリアンは彼女に言うのであった。「あのときは狂おしいまでの野心にかられて、ぼくの心は無可有《むかう》の境をさまよっていた。あのときぼくの唇のすぐそばにあったこの愛らしい二の腕をつかんでぼくの胸に抱きしめるかわりに、未来のことに心を奪われて君のことなど考えなかったのだ。すばらしい運を開くために、ぼくは無数の戦いをつづけねばならなかった……そうだ、もし君がこの牢獄へぼくに会いに来てくれなかったら、ぼくは幸福というものを識らずに死ぬところだったのだよ」
事件が二つ起こってこの静謐《せいひつ》な生活を乱した。ジュリアンの聴罪師はいかにもジャンセニストではあったが、やはりジェズイットの陰謀を免れることができず、知らず識らずのうちに彼らの手先をつとめるようになった。
ある日、聴罪師は彼のところへやって来て、自殺という恐るべき罪業を犯したくないと思うならば特赦を得るために打てるかぎりのあらゆる手を打たねばならぬ、と言った。ところで宗門はパリの司法省に対して非常な勢力を持っているから、簡単な方法が一つ考えられる。つまり彼が華々しく改悛《かいしゅん》すればいい……
「華々しくですって!」とジュリアンはその言葉をくりかえした。「そうですか! あなたまでがまるで布教師みたいにお芝居をやってお見せになる、その現場を私はつかんだわけですね……」
しかしジャンセニストは厳粛に言った。「あなたの年齢、神さまから授けられた人の好意を惹かずにおかないその容貌、いまだにその真意が解《げ》せられないあなたの罪の動機そのもの、ド・ラ・モール嬢が労をいとわずあなたのためにする健気《けなげ》な奔走、いやその上あなたの被害者があなたに示す驚くべき友情にいたるまで、これらすべての理由であなたはブザンソンの若い婦人たちのあいだで人気者とされている。その他すべてのことは婦人たちは忘れ去ってしまっています。政治に関することすら……
あなたが改悛すればそのことが婦人たちの心に強い反響をよびおこし、深甚《しんじん》な感銘をのこすでしょう。そうしてあなたは宗教《みおしえ》のためたいへん役立つことになれましょう。とすれば私としても、ジェズイットどもがこういった場合にはこんなやり方をするものだからなどという愚にもつかぬ理由で、あなたに改悛することをお勧めしないでいられるはずがないじゃありませんか! 今度のは奴らの強欲非道な手からまぬがれ得た例外的な場合ですが、そんなことではやはり奴らに傷《いた》めつけられるかもしれませんよ! そんなことになったらたいへんだ!……あなたの改悛が人々に流させる涙は、あのヴォルテールの神を蔑《ないがし》ろにした著作が十版も版をかさねて世間に浸透させた激烈な害毒を消してしまうでしょう」
「それで自分自身を軽蔑するようなことになったら、ぼくにはあと何が残されていましょう?」とジュリアンは冷やかに言った。「ぼくはかつては野心家でした。今でも別にそのことを自分でやましくは思っておりませんけれども。当時はぼくも時代の慣行にしたがって行動しました。今ではこうやってその日その日を漫然と過ごしております。しかしこの際なにか卑怯な真似をやってしまいましたら、ちょっと考えただけでも実に惨めな人間になってしまうように思われます……」
もう一つのこれとはまた別にジュリアンの心にこたえた事件は、ド・レナル夫人が原因だった。誰かある策謀をすることの好きな女の友だちが、この素朴でしかも内気な心の夫人にサン・クルーヘ出かけて行ってシャルル十世王の御足のもとへ身を投げ助命を懇願することが彼女の義務だと説き落してしまったのである。
夫人は今までにもジュリアンと別れるという犠牲を忍びさえしたこともあるのだし、その上あれほど辛い努力もして来たのだから、大勢の人の前で見世物みたいな真似をすることも、昔ならば死よりもおぞましいことに思われたろうが、今ではもうまったく意に介するところではなかった。
「あたし、王様のところへ行きます。あなたがあたしの愛人だということをはっきり申し上げて来ます。一人の人間が、しかもジュリアンみたいな人が死ぬか生きるかということになったら、一切の顧慮は棄ててかからなくちゃならないはずだわ。あなたがあたしを殺そうとしたのは嫉妬からだと言いましょう。若い人たちがこれと同じような場合で陪審員の慈悲心や王様のお情けで救われたという例は数え切れないほどありますもの……」
「もし君がぼくたち二人を世間の物笑いにするような真似を決してしないと誓わなかったら、ぼくはもう君に会うのをやめてしまうよ、君に対しては獄舎の門を閉じさせてしまう」とジュリアンはわめいた。「もちろんその翌日は、ぼくは絶望のあまり自殺してしまうだろう。パリへ行くなんていうその思いつきは君の考えたことじゃないね。君にそんな入れ知恵をしたお節介な女は誰だ、名前を言っておしまい……
もう残りすくなになった生涯のわずかの日数を幸福に過ごそうじゃないか。そっと人目につかずに暮らそうじゃないか。ぼくの罪はあまりにも明らかだ。ド・ラ・モール嬢はパリではたいへんな名望がある人だ。人間の力でなし得るかぎりのことをしてくれているものと信じていたまえ。この地方ではぼくは金持の名士をみんな敵にまわしているのだ。君がそんなことをやったら、人生をいかにも安易なものと見ているこれらの裕福な、そして特に穏健な連中にいっそう悪感情を持たせることになるだろう……マスロンやヴァルノや、そのほかのもうすこしはましな連中の嘲笑を招くことはやめようじゃないか」
土牢の悪い空気はジュリアンには堪えがたくなった。いよいよ死なねばならぬことが彼に告げられた日は、さいわい美しい日の光に万象《ものみな》は朗かに息づいていた。それゆえジュリアンはからだじゅうに気力が漲《みなぎ》っているのを感じた。長いあいだ航海に出ていた人間が陸上を散歩するように、戸外の人気のなかを歩いて行くことは彼にとっては得も言えぬ快い感じであった。〈よし、万事上々だ〉と彼は心に言った。〈おれは決して勇気を失ってはいない〉
この頭はまさに斬り落されようとする瞬間におけるほど詩的な想いに満ちていたことはなかった。かつてヴェルジーの森で何度か味わったこよなく楽しい一刻《ひととき》の思い出が、群れをなして、しかもきわめて鮮明によみがえってきた。
すべては簡単に、型どおりにおこなわれた。彼もまったく気取った風は見せなかった。
この前々日に彼はフーケにこう言ったのだった。
「昂奮するかどうかということはぼくにも保証できない。この土牢は実に見られたもんじゃないし、こんなにじめじめしているので、ときどきぼくは正気を失うほど熱を出すことがあるのだ。しかし恐怖は感じないよ。蒼《あお》くなっちまったりすることは決してない」
最後の日の朝、フーケがマチルドとド・レナル夫人を連れ出すようにと、彼はあらかじめ手筈を決めておいた。
「二人を同じ車で連れてってくれ。そして馬車の馬をずっとガロップで駈けさせるようにうまくやってくれないか。あの二人がしまいに抱擁し合うか、それともどうすることもできぬ憎悪をたがいに示し合うか、いずれにせよあの可哀そうな女たちはそれで恐ろしい苦悶から多少心を粉らすことができよう」
ジュリアンはド・レナル夫人にも、マチルドの子供の面倒を見るために生きつづけるという誓約を求めた。
「誰にもわからんことだが、もしかするとわれわれの死んだ後にもまだ感覚があるかもしれないね」とある日彼はフーケに言ったことがある。「ぼくはヴェリエールを見おろしているあの高い山の小さな洞穴に憩《いこ》えたらいいと思う、いや実際、この憩うという言葉がぴったり来るからね。何度も君に話したことがあったが、あの洞穴のなかで夜を凌《しの》いでは、フランスの最も豊穣《ほうじょう》な地方を遠く見はるかしながら、ぼくの胸は野心に燃えたものだった。あのころは野心がぼくの情熱だったのさ……とにかくあの洞穴はぼくにはなつかしいし、またいかにも哲学者の心を誘惑するような場所にあると言って差しつかえあるまい……そうだ! あの善良なブザンソンの修道会員と来たら、何でもかんでも売って金儲けしているんだ。そこをうまくかけあえば、おれの死骸を君に売ってくれるだろうぜ……」
フーケはこの悲しい取り引きに成功した。彼が友のむくろを自分の部屋に置いて一人だけで通夜していると、マチルドがはいって来るのを見てひどく驚かされた。つい数時間前に彼は、マチルドをブザンソンから四十キロも離れたところへ置いて来たのだ。彼女の目も目つきも正気とは見られなかった。
「あの人を見たいのです」と彼女はフーケに言った。
フーケは口を利くどころか身を起こす勇気もなかった。床《ゆか》の上にある大きな青い外套を彼は指で示した。そこにジュリアンの亡骸《なきがら》が包まれていたのだ。
彼女はばったりひざまずいた。ボニファス・ド・ラ・モールとマルグリット・ド・ナヴァルの思い出がおそらく彼女に超人的な勇気を与えたのにちがいない。わななきふるえる彼女の手はその外套を開いた。フーケは目をそむけた。
彼の耳にはマチルドが性急に部屋のなかを歩いているのが聞こえた。彼女は何本も蝋燭をつけた。フーケがやっと気をとりなおして彼女のほうを見ると、彼女は大理石の小テーブルに自分と向き合わせてジュリアンの首を置き、そして、その額に接吻していた……
マチルドは彼が自分で選んだ墓場まで恋人の遺骸を送って行った。多数の僧侶が柩《ひつぎ》につきしたがって行った。だが、誰にも気づかれぬように黒布で包んだ自分の馬車にただ一人乗って、彼女はかつてあれほど恋い慕った男の首を自分の膝の上にのせて行ったのだ。
こうして夜半ジュラの高峰の一つの頂きのあたりに達し、無数の燈明に壮麗に照らし出されたあの小さな洞穴で、二十人の僧侶が葬礼の勤行《ごんぎょう》を挙げたのである。この葬列が横切って行った小さな山村の住民たちは皆、この異様な儀式の奇抜さにひかれてそのあとにしたがった。マチルドは彼らのまんなかに長い喪服を着てあらわれた。そうして勤行のすむころ、数千枚の五フラン貨を彼らのためにばらまかせた。
フーケと二人だけであとに残ると、彼女は自分自身の手で愛人の首を埋めたいと言った。フーケは苦悩のあまり気が狂いそうになった。
マチルドの配慮によってこの人里離れた洞穴にはイタリアで莫大な費用をかけて刻まれた大理石の飾りがつけられた。
ド・レナル夫人は彼と交わした約束には忠実だった。自分の命に危害を加えようとは全然しなかった。が、ジュリアンの死後三日して子供たちを抱きながら彼女は身罷《みまか》った。
(世論は人に自由《ヽヽ》を与えるが、世論の支配のもたらす不便は、何ら関係のないことにまで、例えば人の私生活にまで干渉して来ることである。アメリカやイギリスの陰鬱さはこれに由来する。他人の私生活に触れないよう作者は|ヴェリエール《ヽヽヽヽヽヽ》という小都市を仮構し、司教、陪審員、重罪裁判所が必要となった場合には、作者がまだ一度も行ったことのないブザンソンにこれらのものを置くことにした)(完)
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付録『赤と黒』について
一八三二年十月十八日―十一月三日
ご所望がありましたので、昨夜お話し申し上げたことを書面にしたためます。
フランスの地方の女たちの大きな仕事といえば小説を読むことです。フランスの小都会では風俗はまったく乱れていません。すべての女が隣の女を監視し、しかもこれ以上立派な警察はないほどです。男がちょっといける女のいる家に六回も行けば、隣近所が騒ぎ出さずにはいません。しかもこのように警戒厳重な警察の課する刑罰たるや恐ろしいものなのです。人口二万以下の町に住んでいる女で、不幸にして|噂のたねにな《ヽヽヽヽヽヽ》|って《ヽヽ》しまったら(これは|地方の《ヽヽヽ》|猫かぶり《ヽヽヽヽ》が発明したきめつけの言葉ですが)、もうこの小都会で催されるどの舞踏会にも招かれないのてす。この公けの罰は町全体の軽蔑をよびおこします。その罪を犯した女が何かの手で舞踏会場へ入りこむことができたとしても、女たちはわざと言葉をかけないようにする。その辱しめ、軽蔑、味わわされる苦しみたるや法外なものです。
ところでフランス人の性格は何にでも堪えられるが、|公然と表明された軽蔑《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だけは我慢できない。で、色恋のために隣人たちのあいだで少々名前に傷がついた地方の不幸な女たちのうち、毎年誰か一人ぐらい自殺《ヽヽ》をして、もはや堪えがたくなった生活にけりをつけるのが見られます。
それほどの決断のない女は田舎にとじこもり、生涯もはや自分たちの小都会の謝肉祭の舞踏会にも社交界にも姿を見せません。田舎ではどんなに貧しい百姓でさえそういう女たちを憐れみの目で見、いくらか軽蔑さえします。町の住民たちよりも寛大な亭主どもが、小都会の金棒引《かなぼうひ》きや信心屋の女どもから、かつて不義をはたらいたときめつけられた自分の細君に敬意や愛情を惜しみなく注ぐこともあった。このようなやさしい亭主たちは細君を田舎から引っぱり出そうとし、自分の住む小さな町の公設散歩場に細君を連れ出そうとした。するとたちまち、女どもはこの不幸な追放された女が夫と一緒に歩いている側の散歩道から姿をひそめてしまう。その不幸な女の子供たちさえも、一緒に来ると全体のこういう気配に気づいて、母親にその理由を訊いたほどなのです。
ルイ十八世とシャルル十世の政府のおかげでフランスの地方に生まれて来た風俗とはこのようなものです。この二人の王族……特に前者は、色恋沙汰には全然むかなかったのですが(彼はそういうことには不適…性的不能……だということになっていたのです)、たいそう風雅ではあり、女性を好み、女相手の口の利き方も心得ていて、彼らの時代のフランスに生じてこの国を暗くし、革命以前のフランスがいかにもそれにふさわしかった|陽気な《ヽヽヽ》という肩書を持つ資格を失わせた、馬鹿げた偽善とはまったく無縁でした。ナポレオンがその専制政治のためを図ってこの退屈な偽善を作り出し、修道会《ヽヽヽ》が地方の風俗のなかにこれを定着させたと言っていいでしょう。修道会はいたるところに密告とスパイを植えつけた。その指導者たちは、フランスのそれぞれの小都市の一軒々々で読まれている新聞の名を知ろうとし、それに成功した。彼らは毎日それらの家にどんな訪問者があったかを知ろうとし、事実それを知った。しかもこれは何らの費用も経費も用いず、もっぱら思想穏健な人々の自発的なスパイ活動によってなのてす。
これが、『赤と黒』の著者ド・S(スタンダール)氏が描こうとした、フランスに今までなかった風俗です。しかしこの作品の分析に進む前に、フランスの道徳的習慣、一八○六年から一八三二年までに確立されたような風俗《ヽヽ》のもう一つの結果を指摘しなければなりません。このような風俗は、マルモンテルのコントやド・ジャンリス夫人の小説のなかにフランス社会の像を今なお求めている外国人にはまったく知られていませんが。
フランスでは何から何まで変わってしまいました。革命前のフランス地方都市の風俗の正確な像は、マルモンテルの|気取った《ヽヽヽヽ》コントではなく、ド・ブザンヴァル男爵の『憂愁』という魅力的な短い小説のなかに見出されるでしょう。この小説を見れば一七八九年以前にはフランス人がどれほど遊び楽しんでいたかわかります。もう一つ証拠をお見せしましょう。ナポレオンの伝記はすべて、彼がヴァランス(ドフィネ地方)に駐屯する連隊の砲兵中尉だったときこの小都会で送った愉快な生活を描くことから始まっています。ヴァランスには毎夜客を迎える三、四軒の家がありました。ところが今日ではそういったことは全然ない、人口六、七千の町では何を見ても陰気で妙にもったいぶっています。よそ者はイギリスにおけると同じくらい夜をもてあます。男は狩猟と農業を趣味とし、その気の毒な伴侶たちは、自分で作ることはできない小説を読んで心を慰めるのです。
フランスで行なわれている莫大な小説の消費の理由はここにあります。地方の女で月に五、六冊の小説を読まないのはほとんどいません。多くのものは十五冊から二十冊も読む。ですから貸本屋が二、三軒ない小都市などは見られません。貸本屋では小説一冊一日あたり一スーで貸します。誰か名のある作家の小説の場合には、貸本屋の儲けは一日二スーから往々にして三スーまでになります。流行の挿し絵画家で事実なかなか独創的な才能の持ち主であるトニー・ジョアノの挿し絵がはいっており、かつまたその小説が新聞で褒《ほ》めたてられたりすると、貸本屋の主人はその小説の各巻を二つに切って、その分冊一つが一日三スーで貸し出される。けれどこのような成功のしるしを得るためには、その本は八ツ折判(A5判にあたる)でなければなりません。
これから報告する作品は三スーの待遇を受け、のみならずそのようにぶったぎられる光栄に浴したものです。
フランスの女性は一人残らず小説を読みますが、皆がみな同等の教育を受けているわけではありませんから、|女中むき《ヽヽヽヽ》の小説(この言葉は本屋が発明したのだと思いますが、その粗雑さについてはお許しを乞います)とサロンの小説とのあいだにはっきりした区別ができています。
女中むきの小説は一般に十二折判(B6判にあたる)で、ピゴロー氏の店から出されています。この人はパリの本屋で、一八三一年の恐慌以前に地方女性の紅涙《こうるい》を絞らせて五十万も儲けた人です。というのは、女中むきの小説というこの軽蔑的な名称にもかかわらず、ピゴローの十二折判の小説は、かならずうっとりするほどの美貌をそなえ、体もすらりとし、出目《でめ》の大きな目を持った非の打ちようのない男を主人公としているので、ルヴァヴァッスールもしくはゴスラン書店から出た文学的価値を狙う作者による八ツ折判の小説よりも、地方でははるかに多く読まれているからです。
パリで八十冊もの小説を発行し、その名はトゥルーズ、マルセーユ、バヨンヌ、アジャンではすべての人の口にのぼされていながら、パリでは全然知られていないような作家もいます。たとえば、『知事殿』と題する小説その他二十冊ばかりの作品のあるド・ラ・モット・ランゴン男爵がそれです。ポール・ド・コック、ヴィクトル・デュカンジュ等の諸氏も、小説と同時に悲劇やメロドラマを書こうと決心しなかったとすれば、ド・ラ・モット・ランゴン男爵と同じくらいパリでは知られなかったでしょう。
パリやルーアンや、南仏よりも文明の発達しているフランス北部のいくつかの都会では、|女中むき《ヽヽヽヽ》の小説は決してサロンにはいって来ない。女中むき小説の常に非の打ちようのない主人公や罪なくして迫害されるあの不幸な女たちほどパリで味気なく思えるものはないのです。
地方でももちろん時たま社交界の小説、ルヴァヴァッスール発行の八ツ析判小説が読まれることがありますが、一般に地方の人はそれを隅から隅までは理解していません。それを読むのは楽しみを味わうためというよりも、むしろ義務を果たすという気持なのです。
ウォーター・スコットとマンゾーニ氏だけは例外で、この二人の大詩人の作品は地方でもパリでもひとしく読まれました。もっとも次のような相違はあります。つまり、パリの読者はあまりにもくだくだしくてあまりにも生気のない細部描写に満ちたウォーター・スコットの最初の何冊かにうんざりしてしまいますが、そういう細部が田舎では反対に魅力になっている。パリの読者はマンゾーニが一六二八年のミラノのペストや|ウントリ《ヽヽヽヽ》についてした細部描写に少々うんざりしてしまいましたが、地方の読者は反対にこれがこたえられなかったのです。
サー・ウォーター・スコットはフランスにおよそ二百人ばかりの模倣者を持っていました。これらの作家たちの作品はすべてよく読まれたばかりか、そのうち何冊かは版をかさね、パリで読まれるようにさえなりました。しかし一、二年後にはそれらはすべて完全な忘却のうちに沈められてしまったのです。
|女中むき《ヽヽヽヽ》小説においては、事件が馬鹿げていようと、主人公を引き立てるために都合よく仕立てられていようと、要するに嘲笑的に|ロマネスク《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれているものであろうと、大して問題ではありません。
地方の小市民の女たちは、彼女たちすべてを涙にくれさせるような異常な場面しか作者に求めない。そこへ持って行く|方法などはどうでもいい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです。八ツ折判の小説を楽しむパリのご婦人方はこれと反対に、異常な事件という奴にはものすごくやかましい。ある事件が主人公を引き立たせるのに都合よく布置されているように見えでもしたら、彼女たちは早速本を投げ出し、その作者は彼女たちの目には論ずるに足りぬものになってしまいます。
地方の市民階級の女の居間でもパリのサロンでもひとしく読まれる小説を作ることが至難のことであるのは、以上のような二つの相反する要求があるためです。
小説に対する一八三○年代のフランスの一般読者の状態は以上のようなものです。ウォーター・スコットの天才は中世というものを流行にしてしまいました。主人公のいる部屋の窓からの眺めの描写に二ページを費し、主人公の服装の描写にさらに二ページを費し、その上さらに彼の坐っている肘掛け椅子の形を描くのに二ページを費せば、受けることは確実でした。ド・S(スタンダール)氏はこういった中世や十五世紀のオジーヴとか服装とかにはうんざりして、十九世紀に起こった一つの事件を語り、ド・レナル夫人とド・ラ・モール嬢という二人の女主人公の服の形などはまったく読者に紹介しないという大胆な挙に出ました。二人の女主人公と申しますのは、在来のあらゆる規則にそむいてこの小説には女主人公が二人いるからです。
作者はそれ以上大胆なことまでしています。朝になるたびに|恋人を失いかけている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という気がしないかぎり恋人を愛することのできないパリ女性の性格を描くということまでしたのです。
才人ばかりのこの都会のほとんど唯一の情熱になってしまっている途方もない虚栄心の結果がこれなのです。ほかのところでなら、恋する男は自分の情熱の激しさや忠実さなどを誓い、これらの賞賛すべき美点を恋人に証明することによって、相手の愛を得ることができる。パリでは男がいちずに思い定めて|熱愛している《ヽヽヽヽヽヽ》ことを相手に悟らせれば悟らせるほど、相手の女の心のなかで価値が減じてしまう。これはドイツ人などからすれば決して信じられないことでしょうが、私はしかしド・S氏が事実を忠実に描写する人ではないかと思っています。
ドイツ人の生活は観照的で空想的ですが、フランス人の生活は虚栄心と活動性そのものなのです。
ド・S氏の本から出て来る教訓は、美しいご婦人方にとっては唾棄《だき》すべきものでしょうが、次のようなものです。……
虚栄心が情熱とまではいかなくても、絶えず人につきまとっている感情になってしまったような文明のなかでは、女に愛されようと思う青年諸君よ、昨日まで君の熱愛する恋人だった女に、自分はあなたから別れようとしているのだと毎朝丁重に言い聞かせたまえ。
この新しい流儀がいちど身についたものになってしまえば、恋の対話というものも面目を一新してしまうでしょう。ド・S氏のこのいわゆる発見があるまでは一般に、恋する男が相手の麗人に何と言っていいかわからないとき、退屈になりかけたときには、いきなり激しい思いのたけを縷々《るる》と述べ、熱狂《ヽヽ》や幸福の陶酔《ヽヽ》といったものに陥ったものです。ド・S氏はこの興味津々たる二巻をひっさげてあらわれ、気の毒な恋の奴《やっこ》たちに、彼らが何の妨げにもならないと思っているそのような言葉こそ|彼らの身の破滅《ヽヽヽヽヽヽヽ》であるということを証明した。この作家によれば、恋する男が相手の女のそばで退屈している場合……こういうことは、かくも道徳的、かくも偽善的、したがってかくも退屈なこの世紀には、どうしても往々にして起こってしまうのですが……最善のことは、自分の退屈を否定しないということです。そんなことはちょっとした災難、どこにだってあるような不運にすぎない。イタリアでならそんなことはごくあたりまえのことのように見えるでしょう。態度、振る舞い、口の利き方の|自然さ《ヽヽヽ》ということはイタリアでは理想美《ヽヽヽ》なのですから。しかしフランスというもっと気取りの多い国では、そういうことは一大革新でしょう。
態度振る舞いや口の利き方の自然さというものは、ド・S氏がその小説のすべての重要な場面で持ち出してくる理想美です。そして、流行に忠実なルヴァヴァッスール書店がその本の飾り表紙につけた挿し絵だけによって判断すれば、恐ろしい場面もあります。女主人公ド・ラ・モール嬢が、斬り落とされたばかりの自分の恋人の首を両腕にかかえているのです。しかしこのような状態になってしまうまでに、この頭は数々の気ちがい沙汰をしたのでした。そしてこの気ちがい沙汰は人を驚かせますが、あくまで自然なものではあるのです。これがド・S氏の功績です。
通俗小説の主人公たちの犯す気ちがい沙汰では、悪くないのは最初のものだけです。それは読者を驚かせるからです。それ以外のものはすべて、実人生における愚人の奇行と同じもので、読者はそれを期待していますが、何の取柄《とりえ》もなく、月並なものです。月並な趣味は女中むきに書かれた十二折判小説の陥りやすい危険なのです。けれどもこの種の小説の作家にとって非常にありがたいのは、パリのサロンでは|月並に《ヽヽヽ》思えるものが、アルプスやピレネーの山麓の人口八千の小さな町や、数千冊のフランスの小説が流れついてそこで果てるアメリカや外国ではなおさらのことですが、興《ヽ》|味ある《ヽヽヽ》ものと見られることです。
|道徳的な《ヽヽヽヽ》フランスは外国では知られていません。だからこそド・S氏の小説に触れる前に、ジュズイットと修道会と一八一四年から一八三○年までのブルボン王家の政府とがわれわれに与えたもったいぶって道徳的で気むずかしいフランスほど、一七一五年から一七八九年までヨーロッパの手本だった陽気で楽しく少々|放縦《ほうしょう》なフランスに似ても似つかぬものはないとお断りしておかなければならなかったのです。小説を書く場合、現実をそのまま写すこと、|他の本を引き写さない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことほどむずかしいことはありません。ですからド・S氏以前にはまだ何人《なんぴと》も、まことに不愉快なこの風俗をあえて描こうとはしませんでした。しかし不愉快なものではあっても、ヨーロッパの卑屈な精神を見れば、この風俗は結局ナポリからペテルブルグまで風靡《ふうび》してしまうでしょう。
われわれが外国にいては考えてみることもできない一つの困難をここで指摘しましょう。一八二九年(この小説の書かれた時期)の社会の描写をするとなれば、作者は醜悪な人物の似姿を描いて、これら醜悪な連中のご不興をこうむる危険があるわけですが、この醜悪な連中はこの時代に全能の力を握っていますから、作者を法廷に引き出し、マガロン氏やフォンタン氏に対してしたようにポワシーで十三カ月も懲役《ヽヽ》に服させることもできたのです。
さて、この興味津々たる小説の筋は次のようなものです。
ヴェリエールはフランシュ・コンテの最も美しい町の一つで、丘の中腹に栗《くり》の大木の木立に囲まれて建てられている。フランスで最も景観に富んだ川の一つであるドゥー河は、南のほう、ヴェリエールがその中腹にひろがる丘の麓を流れる。北方はジュラ山脈の山の一つがヴェリエールの上にそびえている。町は赤い屋根を頂いた白い家々と製材所と釘造りのきれいな娘たちの集まりです。町は清潔だ。というのは、ナポレオンが没落しフランスに商業が復興した時期である一八一四年に大部分建設されたからだが、しかし町の人間は信心家で、有徳な僧侶である司祭と、一八一五年に修道会によって任命された町長ド・レナル氏と、全能の権力をもつようになった修道会が自己の立場にまだ完全に盲目的に献身していないとみなしたこの司祭と町長との目付役として、一八二四年に派遣されてきた副司祭マスロンの三人によって牛耳《ぎゅうじ》られている。
この本のなかでは、ヴェリエールは作者が地方の町の典型として選んだ架空の場所なのです。
町長ド・レナル氏は長身の男。大まかな目鼻立ちで、金銭欲以外に何の表情もない。年配は四十八歳から五十歳ぐらい、たくさんの勲章を持っており、貴族の身分をいやに鼻にかけており、非常に金持ちの女を妻にしている。彼がヴェリエールの大通りを歩いて行くと百姓たちがうやうやしくお辞儀をするところを作者は書いています。しごく当然のことですが、この八九年ド・レナル氏にはヴェリエールで不可能ということはないのです。
非常な廉直《れんちょく》の士である司祭とこの町長のほかに、もう一人見るべき人物がいる。これは貧民収容所長ヴァルノ氏です。この地位によって彼は一万から一万二千フランの金を得ているが、彼がその地位を保っているのは、修道会のお気に入りでその言いなりになっているからにすぎません。この全能の宗派の上層部の肚《はら》のなかでは、町長ド・レナル氏や司祭シェラン氏がどれほど王党派だったにせよ、機会がありしだい鉄面皮《てつめんぴ》のヴァルノ氏や狂信以外の何ものもないマスロン副司祭に交替させられることになっていたのです。
この小説のはじまるころには、長いあいだド・レナル氏から引き立てられていたヴァルノ氏がそろそろ町長の嫉妬心をかきたてはじめます。ド・レナル氏とヴァルノ氏というこの二人の人物から一瞬も目を離さないでください。この二人は一八二五年ごろのフランスの富裕階級の半数の肖像です。ド・レナル氏は行政家であり、小都市の有力者です。ヴァルノ氏は地方に見られるとおりの平服のジュズイットで、不敵で活動的で狡猾《こうかつ》で、なにをされても恥と思わず、ジュズイットの管長のご機嫌を取るためにはどんな役割を演ずることも厭わない。そのかわりこの管長は彼の将来のことを引き受けている。この物語の進むにつれてヴァルノ氏がとんとん拍子に男爵になり、衆議院議員になり、要するにすばらしい栄達を遂げるのが見られるでしょう。小さな町の小市民にすぎず、父親から緑色の服一着と六百リーヴルの年金を残されたにすぎない彼が、です。この物語の発端では、修道会はすでにヴァルノ氏をヴェリエールの貧民収容所長にしてしまっている。彼はすでに無蓋四輪馬車《カレーシュ》と数頭の馬を持ち、思想穏健な人々を集めて、晩餐を催していますし、出世するのが望みのヴェリエールの野心家連中はいやに貴族ド・レナル氏の晩餐よりもそちらのほうを好みますので、ド・レナル氏ははなはだ機嫌が悪いのです。
最近ヴァルノ氏はすばらしいノルマンディ種の馬を二頭買いましたし、パリから取り寄せたばかりの彼の無蓋四輪馬車《カレーシュ》はド・レナル氏の|幌付き四輪馬車《カロッス》を圧倒してしまいました。優位をとりもどそうとしてド・レナル氏は三人の子供に家庭教師をつけてやることを考える。彼はこの役目に町の木挽大工の倅《せがれ》ジュリアン・ソレルを選ぶ。ジュリアンはこのドラマの主人公なので、彼がどんな人物かを述べる必要があります。
ジュリアンは感受性の強い、黒い目をしたひよわな美少年です。彼は斧を扱うことにかけては兄たちや父親に及ばないので(父親は製材所《ヽヽヽ》を持っています)彼らから軽蔑されています。ジュリアンは兄たちや父親になぐられ、彼らを憎んでいます。彼は字が読める。これは家のほかのものは誰も持っていない取柄《とりえ》なのです。ある伯父《おじ》がJ・J・ルソーの『告白』と『セント・ヘレナ覚書』を彼に残して死んだ。ジュリアンは彼の魂を高めてくれるこの著書をむさぼり読む。家のなかでは絶えず鉄拳や冷嘲の的とされているので、非常に敏感でしょっちゅう侮辱されているこの心は疑い深くなり、怒りっぽくなり、あらゆる幸福を無惨に奪われているので他人の幸福を羨《うらや》むようになり、しかもとりわけ自尊心が強くなる。美しい邸《やしき》や財貨や幌付き四輪馬車や貴族の位やボタン穴からつるした数々の勲章をもったド・レナル氏よりも自尊心が強いくらいなのてす。
誠実なシェラン老司祭はこの気の毒な少年ジュリアンが木挽大工の仕事をするにはあまりにひよわすぎるのを見て、哀れに思って彼にラテン語を教える。シェラン氏は彼が熱心で、深い感受性と非常な読書欲をもっているのを見て、彼を神学校へ送って聖職者にしようと計画している。シェラン師がド・レナル氏に、あの青年はラテン語を完全に知っているという。この推薦にしたがってヴェリエールの町長さんはジュリアンを家へ来させようとして父親と交渉をはじめる。長いこと取り引きをさせ、それを機会に金銭問題に関するかぎりフランスの地方では一般にどのように振る舞うかを紹介したあげく、ド・S氏はド・レナル氏の美しい邸に住みこんだジュリアンを登場させる。彼は町長の三人の男の子の教師なのです。
ジュリアンは人間や社会については、シェラン司祭には内証でこっそりルソーの『告白』を読んで教えられたこと以外に何も知らなかった。青年期のルソーの立場は彼の立場といくらか似たところがありますが、彼の性格に対するこの本の甚大な影響はそれがためなのです。しかしジュリアンはもちろんルソーと『セント・ヘレナ覚書』のことを人に言うのは慎しんでいます。シェラン司祭とド・レナル町長は熱烈な王党でしたから、ジュリアンはひそかに崇拝しているこの名に何か侮辱的な形容詞をつけずには決してナポレオンの名を口にしないのです。
世間の人の目には、ジュリアンの学識といえばラテン語の旧約聖書にかぎられていました。彼はそれを暗記していて、誰にでも暗誦して聞かせる。相手が所望すれば最後の節からはじめて第一節で終わるという調子です。
この種の才能は誰にでもすぐわかるものです。この種の才能は否定することができませんから。記憶力というものは軍人の勇気みたいなもので、うわべだけ装うことはできない。だから最初からジュリアンはド・レナル氏の家で成功をおさめます。ド・レナル氏は彼に感嘆し、その友だちも家の召使いたちも彼に感嘆する。ヴェリエール町長の虚栄心にとっては何という幸運でしょう。この小さな町は、彼が幸運にもこのような教師を子供たちのために掘り出したという話で持ちきりです。しかも嬉しくてたまらないのは、ヴァルノ氏がこの若い教師のことで彼を羨んで、あらゆる手段でこの教師を横取りしようとすることです。
小都会の成り金のこのような卑しい権勢、かくも下劣な富のただなかにあって、まだごく若い心底でひそかに町長殿の栄耀栄華の|下劣さ《ヽヽヽ》をしみじみ痛感していた若いジュリアンの性格が、素直な、しかし滋味のある真実性をもって描かれています。作者はジュリアンをいささかも|女中むき《ヽヽヽヽ》小説の主人公のようには取り扱っていません。彼のすべての欠点、彼の心のあらゆる悪い感情をさらけ出しています。第一に、彼の心は何としても利己主義的ですが、それは彼がとても弱いから、そして虫けらから英雄まですべての生物の第一の掟《おきて》は自己保存《ヽヽヽヽ》ということだからです。ジュリアンはたしかに辱しめられた、孤独な、無知だが好奇心の強い、けれども誇りに満ちた百姓の子倅です。というのは、彼の心は高邁《こうまい》であり、金のためならどんなことでもする裕福なド・レナル氏の卑しさを軽蔑し、その軽蔑する自分に驚いているからです。ジュリアンは自分が敵に取り巻かれているのを知ります。人々は毎日彼の前でナポレオンを罵倒しますが、ナポレオンは百姓の青年でも勇気があれば隊長にし、やがては将軍にもしたので、彼はナポレオンを崇拝しているのです。ジュリアンは信心ぶかい青年僧という自分の役割を演ずるためには公然とナポレオンを罵倒しなければならない。ジュリアンの心情としてはやりきれない立場にあるわけで、誰をも愛することなく、ド・レナル氏やヴァルノ氏や、町長さんの脂ののった去勢鶏を食べに来るこの小都市の善良な王党派の名士連中のすべてを日に日にますます軽蔑せざるを得なくなることに我ながら意外なのです。
これまでお話しして来た人物はすべてありのままに描かれていますが、あまり好感は持てません。一八○○年以来フランスをおおったかくも退屈なかくも猜疑《さいぎ》に満ちたこの新しい地方生活は、一つの魅力ある女性の性格を生みだしましたが、このような性格は一七一五年から一七九○年までに支配的だった陽気な風俗のなかでは生じ得なかったものです。私はまだド・レナル夫人のことを話していませんが、ド・レナル夫人は地方によくいるような魅力的な女性なのです。
たとえ町長という身分であれ、猜疑心の強い修道会の手先をつとめる身であれ、地方の人間は隣人に密告されることを恐れて孤独を守り世間をのがれて暮らすものですが、そのおかげでド・レナル夫人は次のような部類の女性だったのです。つまり、自分が美しいかどうかもとんとご承知なく、自分の亭主を世界一の立派な男とみなしてその前で戦々兢々とし、全心を捧げて彼を愛しているものとみずから思いこみ、やさしくつつましく、家事に専心し、貞淑でいつも家にひきこもっていて敬神家で祈り好きな女です。言うまでもなくこのような女の部屋着姿は優雅だし、たいてい白いローブを着ているし、草花や森や流れる山川やさえずる小烏や雛《ひな》に囲まれて走る牝鶏《めんどり》を愛します。まことに、虚栄を知らず、悲しみに浸ったり陽気に浮かれたりすることもなく、生涯恋というものを知らぬことすらよくあるような魅力的な女性たちです。
以上のごときがド・レナル夫人です。つまり、一七一五年のあの勢威ならびなきルイ十四世の死去と同時にフランスに侵入し、その曾孫たるルイ十六世の一七九三年の非業の死にいたるまで支配的だった淫奔《いんぽん》な風俗のなかでは考えることもできなかったようなあの女性です。ド・レナル夫人の高貴な心は夫の感情の俗悪さに不快を感じていましたが、金銭をすべてと心得ているこの連中に対する内心の軽蔑だけは彼女は自分で認めようとしませんでした。ド・レナル氏が食卓に集める友人たちも氏と同様に、金銭と、政府が報酬として与える高い地位と、それのおかげで綬章をもたない隣人の前で膝《ひざ》を曲げずに傲然《ごうぜん》と胸を反らせることのできる勲章だけしか尊重していない。ド・レナル夫人は男たちはみな自分の夫と同じだと思っていたのですが、半年もすると彼女には、食卓の末席のほうに子供たちとならんで坐っている蒼い顔をした神父の卵が他のなにものよりも金銭を崇拝しているのではないということがわかり出す。しかも彼はひどく貧乏なのです! だんだんと夫人は彼をヴァルノ氏や自分の夫と比較しだす。給料四百フランの貧乏な家庭教師ジュリアンが、三万フランの年金のあるド・レナル氏よりも、金を儲けることに熱心でない。だんだんとド・レナル夫人の素朴な心は、ジュリアンの高潔で誇り高く自尊心の強い性格に共感していく。彼女はジュリアンのそばに坐って仕事をするのが楽しい。そして彼女は、自分がそうするのは子供への愛からだと思いこんでいる。三十歳近くにもなりながら、彼女は恋とはどんなものか知らないのです。彼女には一度もそんな経験がなかった。小説などあまり読まない。それも近代の小説は自由主義的で、彼女は過激王派だからです。ヴァルノ氏は彼女の夫よりも俗悪な心の持ち主で、彼女に言い寄ろうとしたのですが、彼女は怖毛をふるっただけでした。
ジュリアンの心はこの王党派の家で聞く人々の話がしょっちゅう癪《しゃく》にさわり、いらいらして怒りっぽくなっている。ド・レナル夫人などちっとも好きではないのです。
ある夏の日、一同は家のすぐそばの庭の栗の大木の下で宵《よい》を過ごしていました。ド・レナル夫人はたまたまジュリアンの手にさわり、すぐ自分の手をひっこめる。心がいらだって怒りっぽくなっているジュリアンは、その動作を軽蔑のあらわれと見てしまいかねない。〈この手をつかまえなくちゃならん〉と彼は心に思う。〈何とかしてこの手をおれに委ねさせなければならん〉そう言ってしまうとジュリアンはぞっとします。というのは、彼は何といっても十九歳にすぎないし、若い女性の手を握ったことなどまだ一度もなかったからです。けれどもジュリアンは強い心の持ち主ですし、義務の感情は彼にとって絶対的な力を持っている。彼はこの信仰を『セント・ヘレナ覚書』から学んだのです。彼は心に思う。〈もし夜十二時までにおれの横にいるこの若い女の手を自分のものにしていなかったら、おれが卑怯者にすぎぬことはあきらかなわけだ。部屋へ帰ってピストルで頭を射ち抜こう〉
夜十二時の鐘が鳴る。あらんかぎりの勇気をふりしぼって……愛情の力ではないのです、このことによく気を留めてください……ジュリアンはその白いぽってりとした手をつかまえる。相手はその手を死ぬほどの思いで引っ込めようとしますが、ついに彼に委ねてしまうのです。
この大事件のあった夜、ド・レナル夫人は自分がジュリアンに愛情を抱いていることを発見し、われながら自分が空恐ろしくなります。翌朝、彼女はサロンでジュリアンに会うと、彼に辛く当たります。ジュリアンは心に思う。〈おれが木挽大工《こびきだいく》の倅なので彼女はおれを軽蔑している。おれの義務《ヽヽ》はこの貴婦人がおれを愛さざるを得ないようにしてやることだ〉ジュリアンの自尊心、今まさに傷つけられた彼の誇りは、最初は愛情を感ずることを妨げる。よし愛情を感じたにしても、最初の情熱にはかならずつきものの臆病さが、ド・レナル夫人の心底からの紛れのない貞操観念を決定的に打ち破る妨げになったでしょう。ところが反対に彼にはまったく愛情がなかったので、一、二カ月のちには彼はこ思うのです。〈今夜二時におれはド・レナル夫人の部屋へ行かなければならん〉彼は夫人にそう言います。今では自ら認めていた愛情にもかかわらず、その愛情に悩み苦しんでいた気の毒なレナル夫人は彼のそんな思いつきにぞっとさせられます。
ジュリアンの心には不安しかない。けれども二時が鳴ると彼はド・レナル夫人の部屋へ昇って行く。そこまで来てしまうと、一方の側の勇気と、もう一方の側の愛情の結果として、もしジュリアンが本当に恋していたとすれば不可能だったような事態が生まれてしまう。しかしド・レナル夫人はきれいなので、まもなくジュリアンはすっかり夫人にのぼせてしまいます。非常に信心ぶかいこの女は可哀そうに恐ろしい良心の呵責を味わう。息子の一人が病気になると、夫人は神が自分の姦通を罰せられたのだと思いこむ。彼女は決して自分の過ちをごまかそうとしないのです。一度は彼女はジュリアンを家から追い出すことまでするのですが、三日すると彼女はもうそれに堪えられず彼を呼びもどす。
けれどもヴェリエールの小さな町は挙げてこの醜聞に眉をひそめる。ヴァルノ氏はド・レナル氏に匿名《とくめい》の手紙を出す。この夫の嫉妬。情熱のおかけでド・レナル夫人は機智が出てくる。あれほど素朴なこの女性が匿名の手紙によって生じた波紋をもみ消す方法を見つけるのです。ジュリアンは彼女に感服し、彼の情熱はさらに強まります。しまいにある世話好きな友だちがやって来て、ド・レナル氏にその支配下の小さな町の取り沙汰を話して聞かせる。ジュリアンはブザンソンの神学校へやられます。
風俗描写としてこの小説の出色の部分は、ジュリアンの神学校在学の部分です。校長ピラール師は申し分のない廉直《れんちょく》の士ですが、ジャンセニストです。ブザンソンの副司教で修道会の親玉のド・フリレール師は最後にピラール氏が辞表を提出せざるを得ないように追いこんでしまいます。
ピラール師はパリの貴族院議員で青綬勲章帯勲者たるド・ラ・モール侯爵のもとに身をよせます。この人は快楽を好む才人で、旧制度《アンシャン・レジーム》の大貴族です。変革は一七九四年(恐怖政治の終焉)にはじまったにすぎないので、まだその時代の大貴族の性格を形造るだけの余裕はありませんでした。この愛想のいい男、ド・ラ・モール氏は、警察の鼻薬の利かない秘書を必要としていました。ビラール師はジュリアンを推薦します。ジュリアンはパリに呼ばれる。こうして彼はド・ラ・モール侯爵邸に住みこみます。はじめは誰も彼も彼の無器用さを嗤《わら》いますが、ド・ラ・モール氏とその息子のノルベールは彼をかばいます。
一年たつとジュリアンはサロンでもそれほど無器用でなくなっていました。ド・ラ・モール氏は不精なので、ジュリアンは彼の女房役《ヽヽヽ》をつとめる。ときどきジュリアンはサロンへしゃべりに行く。彼は公爵や貴族院議員やスパイどもでいっぱいのこのサロンで……何しろ彼は自尊心にあふれていますし、少なくとも人から軽蔑されたくないと思っていますから……時として頭角をあらわして見せることができるようになります。ここにもフォブール・サン・ジェルマンのサロンの真実そのままの描写が見られます。何よりも怠け者で仕事というものを|最大の悪《ヽヽヽヽ》とみなしている一方、ジャコバンと一七九三年の共和政の再来を恐れている大貴族たちは、変節してスパイになりさがった自由主義者たちに取り巻かれています。だから、最も高貴な最も富裕な分子が最も破廉恥な最も貧しい分子と手を握っているのです。これは一七八九年以前には考えられなかったことでしょう。ここでもまたド・S氏は自分の時代の描写に戻っているのです。
まことに奇妙な取り合わせのこのサロンでは、侯爵の令嬢で十九歳のパリ娘のド・ラ・モール嬢が異彩を放っています。彼女はシャルル十世の近衛騎兵隊の若い隊長で、六万フランの年金を持ち、いずれ公爵になるド・クロワズノワ侯爵と結婚することになっている。ド・クロワズノワ氏は申し分なく丁重で、何事につけてもかならず自分の話し相手に喜ばれるようなことを言えるのです。要するにフォブール・サン・ジェルマンの考え方によれば彼は完全無欠なのですが、ド・ラ・モール嬢は彼を面白味のない男だと思います。〈あの人の妻になったら私は退屈させられるだろう〉
この貴族ばかりのフォブールに住む五、六人の青年が彼女のまわりを遊弋《ゆうよく》しています。すべて挙措態度は魅力的ですが、誰も頭はからっぽ、心のほうはなおからっぽなのです。鷹揚《おうよう》なことでは申し分のないこれらの青年たちは、おたがいに|完全に相手の真似《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》をしていなければ面目を失してしまうと思うほどなのです。
平民は、思想はそれより豊かですが、態度振る舞いの優雅さは劣っています。簡素な黒い燕尾服《えんびふく》を着たジュリアンは、ときとしてチュイルリー宮からの帰りがけにおよそこの上なくきらびやかな軍服を着てサロンにあらわれる綺羅星《きらぼし》のようなこれらの青年たちを少々ひんしゅくさせます。これほど有利な点をたくさん持ちながら彼らはド・ラ・モール嬢を退屈させるのですが、ジュリアンは彼女には全然話しかけません。
正真正銘のパリ娘らしく彼女はジュリアンの気をひきます。父親のお気に入りの秘書の慎しみ深さは彼女にはほとんど軽蔑とさえ思えます。それが自尊心からだ、|軽蔑されまいかという《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》不安からだとは彼女にはわかりません。ド・ラ・モール嬢の極度の虚栄心は夢中になってジュリアンの心の平静をみだそうとします。
ジュリアンの自尊心がうまく働いてド・ラ・モール嬢はいよいよ本気でのぼせてしまいますが、ここのところは本そのものについて細部を読み、一見ごく些細なことのようでもパリの若い娘の虚栄心にとっては決定的なニュアンスをそこに求めなければなりません。
結局ド・ラ・モール嬢……百万の持参金をもち、しかもそれ以上のもの、自分の夫に対する宮廷の寵遇《ちょうぐう》まで得ようとしているド・ラ・モール嬢、かくまで輝かしい、かくまで名の売れた、人妻であるド・レナル夫人にくらべてすらはるかに世間を知っている若い女性……、あろうことか、この誇り高いド・ラ・モール嬢が、父親の使用人である秘書を愛そうとしているのです!
なぜか? それは自尊心のあまりにジュリアンが、ド・ラ・モール嬢の虚栄心を刺激するために必要な振る舞いを偶然してしまったからです。二、三度、しかも冗談ではなしに、ジュリアンは彼女をほっぽり出して行ってしまいかけたのです。今日のパリ女性における恋の秘密はここにあるのです。
冷たくすることでジュリアンは、ド・ラ・モール嬢に愛の表明の手紙を書かせてしまいます。
ド・ラ・モール嬢が心を惹かれたのは、ジュリアンは天才でありダントンの再来であると空想したからです。一八二九年のフォブール・サン・ジェルマンは革命を恐れること猛烈なもので、一七九三年の革命と同じ血なまぐさいものになるにちがいないと想像していました。この貴族街では、革命というものはそれが根絶すべき使命を負わされた悪弊《あくへい》の激しさに|正確に対応《ヽヽヽヽヽ》|する《ヽヽ》だけの血しか流さないということが知られていなかったのです。
ところで、一八二九年の悪弊はそうひどいものではなかった。ネーやムートン・デュヴェルネやラべドワイエールやフォーシュ兄弟につづいてブルボン方から銃殺された将官の数は百五十名には及びませんでした。
いずれにしても、ド・ラ・モール嬢は同じ階級のすべてのものと同じく恐怖を感じていますが、しかも奇抄なことに彼女は、ジュリアンがダントンの再来になると空想したがために彼を尊敬している。これもまたこの小説に描かれた事実のなかで、一七八九年には考えられなかったことの一つです。平民の青年が貴婦人を誘惑するとなれば……策略によるほかはなかったのですから。
ド・ラ・モール嬢の手紙のことに話をもどしましょう。ジュリアンはそれを受け取ったとき、これは罠《わな》だと思いました。彼は安全措置を講じます。〈おれを逢いびきに誘って、その場でおそらくおれを殺そうというんだな〉とジュリアンは心に思う。というのは、ド・ラ・モール嬢は思い乱れるうちに、逢いびきを申し込むことまでしてしまったのですから。〈奴らはおれを殺したら、あの手紙の原文をおれから奪って行くことはあまりにもあきらかだ。おれは人でなしで、夜陰に乗じてド・ラ・モール嬢の部屋に忍びこもうとした馬鹿者ということにされてしまう。お殿様方、どうかお手やわらかに!〉
ジュリアンはヴェリエールの友人の一人に、もし自分が人手にかかって死んだと聞いたらこれを公表しろという指令とともに、ド・ラ・モール嬢の手紙を送ってやります。自分の恩人の娘をこのようにして誘惑することに、ジュリアンは良心の呵責を感じるのです! けれども彼は、この恩人が、チュイルリー宮から国家機密を仕入れて帰って来て、|確実な公債《ヽヽヽヽヽ》に投機するのを見ていました。こんなのはジュリアンには詐欺行為と思えるのです。
彼は不当にもこのような人の非行を楯《たて》に取って、自分がさらに大きな非行を犯すことをあえてする。ド・ラ・モール嬢に言い寄っている青年貴族たちが、彼女が逢い引きの場所とした彼女の部屋に集まって自分を愚弄《ぐろう》するか殺すかしようとしているものと思いこみ、彼らの短刀に敢然と立ち向かうのだと思うと有頂天になったジュリアンは、梯子を持ちだし、邸の壁にたてかけ、こうしてこの気高い美しい令嬢の部屋へ窓から忍びこんだのです。
この夜の明けた日、ド・ラ・モール嬢は自分が身を任せた男のことが恥かしくなります。ジュリアンは絶望にくれる。彼は心から恋してしまったのです。地方にいたときは、始終思い描いていたそのパリに出られると思うと、善良で素朴なド・レナル夫人の価値を充分認めることができなかった。ド・ラ・モール嬢は、ジュリアンが十年ものあいだパリの冒険や魅力を思い描いてさまざまの夢想に耽《ふけ》ってきただけ、彼に対して強味があったのです。
ド・ラ・モール侯爵はジュリアンをマインツのある大使のところへ手紙を届けにやります。ジュリアンは恋に狂って絶望に陥っている。彼は女にもてると自惚れているある友人に出会う。この男は彼に、自分を軽蔑するその女と同じ社交界の別の女に言い寄れという平凡な忠告を与えるのみならず、これはもっと大切なことですが、この忠告に従う勇気《ヽヽ》を彼に与える。自惚れ男は不精なので、誘惑しようと思う女にあてて男が書いた手紙をたくさん用意している。その一揃いをジュリアンによこして自惚れ男は言います。「これを写しなさい。あなたを軽蔑している女と同じ社交界のなかから選んだ別の女に送ってやるのです。そして最後の写しを送ってしまってからでなければ絶望するには及びませんよ」
ジュリアンがあくまで意地を張って冷やかさを装《よそお》うので、ド・ラ・モール嬢はかつて自分が愛人にしてやった男に全然絶望を味わわせてやれなかったと思って気を悪くしてしまいます。それにまた、彼女はひどく虚栄心を持っていますが堕落してはいない。彼女は若いし……本来そういうたちではない…… in frncese io metterai una allusion, onestate la cosa.(フランス語でなら私はここでちょっと暗示するところですが、適当に言いつくろってください)……ジュリアンは彼女の最初の恋人だったのです。彼女はまたジュリアンを愛しだす。
ジュリアンはさいわいにして冷やかさをよそおうことができた。このことは彼に事実非常な気骨があることの証明です。この試錬はおそらく人間の心に加えられた最も過酷な試錬の一つだったでしょう。この雄々《おお》しさは大成功をもって報われます。二カ月間冷やかさと軽蔑をよそおっていると、ド・ラ・モール嬢は二度めの逢いびきをジュリアンに許す。しかしジュリアンは彼女に答えます。「傷つけられた虚栄心が私を呼びもどそうとしているのです。愛情ではありません」ド・ラ・モール嬢はジュリアンのために片側の美しい金髪をすっかり切り落し、庭にいる彼にそれを投げてよこす。Asinus fricat se ipsem.(かくて心はみずから興奮を呼ぶ)
このパリの恋愛の描写はまったく斬新《ざんしん》なものです。他のどんな本にもこんなものは見られなかったように思います。この恋愛は、ド・レナル夫人の真率な、素朴な、|自意識のない《ヽヽヽヽヽヽ》恋愛とは好個の対照をなします。それは心情の恋愛と対比された頭脳の恋愛です。けれどもフランスではおもしろいこの対照も、まことに描き出しにくいこのようなニュアンスから三百里も離れたところに生きているわれわれのような人間の目にはだいぶその価値を失いますが。
この記事はもう相当長くなっているので、ジュリアンとド・ラ・モール嬢の恋愛のいろいろな挿話を一々たどることはやめましょう。
人間精神の進歩のおかげでわれわれは、天才でなくてもおよそこのうえない大事件や大行動を考えてみることができます。たとえばド・ポリニャック氏〔シャルル十世時代の極端に反動的な政治家〕はマキアヴェリでもマザランでもないくせに、ある日〈|憲法を破棄しよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》〉という考えとともに目を覚ます。そして彼は軍隊を集めもせず、裁判官その他を買収もせず、その他この成功のために必要な、そしてマザラン枢機卿ならばかならずやったと思われる措置を全然せずに、大胆にその実践に身を投じたのです。
パリの何人かの若い女性に見られるような頭脳の恋愛とはかくのごときものです。若い娘にできる最も決定的なことは何か? とにかく、このパリの若い娘は、自分が偉大なる情熱を抱いていると思うのが嬉しいというだけのことで、愛情もないまま駈け落ちしようとするでしょう。
ジュリアンの愛情についてはここでその成り行きを述べる余地がありませんが、結局それによって彼は自分を大貴族にしてくれる娘と結婚することになりそうです。われわれはここでド・レナル夫人と再会することになります。
ド・ラ・モール氏は自分のお気に入りのジュリアンがド・レナル夫人の子供の家庭教師だったことを知っているので、夫人に彼について問い合わせてみようとごく単純に思いつきます。ところで恋人と引き離されていたド・レナル夫人は、誰でもそうするように恋人の後釜《あとがま》をこしらえていませんでした。本当にしおらしい心の持ち主なのです、この気の毒な女は。彼女は神を愛そうと努める。この世の色恋をくやんでいる。悔恨にさいなまれるド・レナル夫人の導き手はヴェリエールの若いジェズイット僧です。このジェズイットは、ド・ラ・モール氏の高貴な令嬢の心から木挽大工の倅への無分別な愛情を取り除いてやることに成功すれば、自分の出世は疑いなく、ド・ラ・モール氏の御意《ぎょい》にかなうだろうと思う。彼は悔い改めたド・レナル夫人に口授して一通の手紙を書かせるが、この手紙ではジュリアンは金銭欲以外に何の情熱ももたず女を手段に出世しようとする青年として描かれています。憤激したド・ラ・モール氏はこの手紙を娘のマチルドに渡す。マチルドはそれをジュリアンに見せる。ジュリアンは激昂し、出発し、ミサの行なわれているときにヴェリエールに着き、教会にはいり、ド・レナル夫人を見、まぢかから夫人にピストルを二発放つ。
ジュリアンは投獄されますが、ド・レナル夫人は傷が癒《い》えると、依然として愛している男に獄で会い、公然と彼と和解することによって、彼に赦免を与えようとします。ジュリアンの死に先立つこの期間の叙述は、Asimus asinum fricat(直訳すれば「心が心を高めあう」の意。ここでは愛し合う二人が互いに心を励ましあっている場面をいっている)です。
ある一事が読者を驚かせるでしょう。つまり、この小説は小説ではないのです。ここに語られていることはすべて、一八二六年にレンヌの近くで実際に起こったことなのです。このレンヌで、事件の主人公は最初の恋人に二発ピストルを放ったあげく死を与えられました。彼はその恋人の子供の家庭教師をしたことがあるのですが、女は彼が金持の娘である二番目の恋人と結婚するのを手紙で妨げたのです。ド・S氏はまったく仮構を加えていません。
氏の本は活気と色彩と興味と感動に満ちています。作者はやさしい素朴な恋を淡々と描くすべを心得ていました。
作者はあえてパリの恋を描こうとしました。彼以前には誰一人そんな試みはしなかったのです。十九世紀のはじめの三十年間に支配した諸政府のおかげでフランス国民のうちに生じた風俗を多少とも入念に描写した人もまた皆無です。いつかはこの小説はウォーター・スコットの小説と同様、古い時代を描いたものとされることになるでしょう。
D・グルフォト・パペラ
以上は検事が述べる事実の概要といったものにすぎません。公訴事項をご承知になりました以上、あなたの快い弁舌をもってA(アントロジア誌)の読者に説き、この作品こそ世にも優れた作品であって、書架で『トム・ジョーンズ』とならぶ位置を与えられるべきものであると思わせるようにしていただきたい。肝心なことは長々と冗舌をふるうことです。ただちょっと際《きわ》どい気味のある箇所には特別に手心を加えてください。(ここの原文イタリア語)
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解説
一八三○年四月上旬、当時四十七歳のマリ・アンリ・ベールは、現在制作中の小説『ジュリアン』の出版契約をパリのルヴァヴァッスール書店と結んだ。八ツ折判と十二折判との二種類の版として刊行することにし、それぞれ七百五十部ずつ刷り、八ツ折判は上下二巻、十二折判のほうは六巻とする予定でルヴァヴァッスールはこの二種類の版権料として千五百フランを作者に支払うという趣旨だった。
最初の原稿は五月初めに出版社に渡された。しかしスタンダールは作品を全部書き上げていたわけではない。書き上げた部分から印刷にまわし、そのゲラが出ると次の部分を渡すという調子で、第一部第二部を通じて全体の印刷が完了したのは十一月にはいってからだった。その間には七月革命というあの重大な事件が起こっているのであり、印刷工も市街戦に加わった。スタンダールはこの間、リシュリュー街のヴァロワ・ホテルの自室で銃声を聞きながら、愛読の『セント・ヘレナ覚書』の余白に民衆蜂起の進行状態を記していた。そしてこの革命の結果生まれたオルレアン王朝の政府によってトリエステ駐在領事に任命されたべールは、九年間のパリでの浪人生活に終止符を打って十一月六日赴任の途についたが、それから一週間ばかりのち八ツ折判上下二巻の『赤と黒……一八三○年年代記』は定価十五フランでルヴァヴァッスール書店から発売されたのである。
スタンダールが『赤と黒』の制作に着手したのはいつごろだったか? 一八二九年、彼は『ローマ散策』を出したが、この本を書くについてスタンダールの手伝いをした従弟ロマン・コロンは、当時彼の机の上に『ジュリアン』という題を表紙に付した草稿を見かけたと証言している。この草稿がのちに『赤と黒』となるべきものだったことは今更言うまでもあるまい。
さらにスタンダールが手許に置いた『ローマ散策』の一部に書きこんだ備忘によって、『赤と黒』の最初の着想がマルセーユで一八二八年十月二十五日から二十六日にかけての夜に得られたことがあきらかにされている。同様にまた『リュシアン・ルーヴェン』の草稿にも、「一八二八年マルセーユでだったと思うが、私は『赤』の草稿をごく簡単に書いた」と書きこんでいる。このような記載は他もいくつか見られ、スタンダールがマルセーユでこの小説の最初のインスピレーションを得たことは疑いえない。ただスタンダールが一八二八年という年にマルセーユに行った形跡はない。これは翌一八二九年の南仏からスペインにかけての旅行の時と見るほうが妥当のようである。すなわち一八二九年十月二十五日から二十六日にかけての夜と見るべきであろう。マルセーユであわただしく書き上げられたこの草稿は彼のパリ帰来以後さらに書き継がれて行った。先にも書いたように、ルヴァヴァッスールとの契約後、最初の部分が印刷所に入れられてからも、書き足され、修正を加えられて行ったのである。最初の『ジュリアン』という表題から軍服の赤と僧服の黒を象徴する『赤と黒』という含みの多い表題に変えられたのは、一八三○年五月、印刷が始まってからだった。スタンダールはこの作品の冒頭の「出版者の序」で、「以下の草稿が一八二七年に書かれたもの」と読者に思わせようとしているが、これが彼一流の韜晦癖《とうかいへき》から来た言辞であることは言うまでもない。ついでに言えば、ドン・グルフォット・パペラというイタリア名に隠れて彼の書いた「『赤と黒』について」のなかに、「ここに語られていることはすべて、一八二六年にレンヌの近くで実際に起こったことなのです」とあるのも事実ではない。これはむろん神学生ベルテ事件を示唆しているのだが、この事件は一八二七年、イゼール県のブラングという土地で起こったものであった。この小説の成立にとっておそらく最も重要な意味をもつこの犯罪事件について、ここでその概略を述べておく必要があろう。
アントワーヌ・ベルテはブラングの村の貧しい鍛冶《かじ》屋の倅だったが、その優れた知能のために村の司祭から特に目をかけられていた。彼は神学校に入学を許可されたが、まもなく病身を理由として退学させられた。もっとも病身というのは口実にすぎず、神学生にふさわしからぬ読書や言動が真の理由であったかもしれない。ブラングに住む素封家《そほうか》ミシュー・ド・ラ・トゥール氏はこの退校した神学生を家庭教師として雇い入れた。ベルテは貞淑の誉れ高い三十六歳のミシュー夫人の情人となった(すくなくとも彼自身はそう主張している)。その後彼はまた別の神学校に入学したが、まもなく放校された。今度はド・コルドン氏の家庭教師となったが、その家の娘と問題を起こし、解雇された。いつまでも従属的な身分から脱けられないことを怨《うら》み、復警を誓った彼は、一八二七年七月二十二日、恩人であるブラングの司祭の教会でミサの執行中にミシュー夫人にむかってピストルを二発放った。翌年二月二十三日に彼は二十五歳で刑場に引き出された。
このミシュー・ド・ラ・トゥール氏というのは、スタンダールの二歳年長の友人であり、彼がその頭脳と誠実な人柄を深く尊敬していたグルノーブル裁判所判事ジャン・クロード・リュック・ミシューの親戚に当たっていた。リュック・ミシューはベルテ公判に際して裁判長に指名されたが、被害者との親戚関係を理由としてこれを辞退している。
この事件に関する報告は、一八二七年十二月二十八日から三十一日までの「法廷新報」に掲載された。しかしスタンダールが掲載されたと同時にこれを読んだかどうかはわからない。一八二九年の『ローマ散策』には、恋人を殺害して死刑に処せられたオート・ピレネー県の家具職人ラファルグに関する、これまた「法廷新報」所載の公判記録を引用して、彼がイタリアに比較してエネルギーが枯渇《こかつ》していると見ているフランスにおいても、小市民階級のうちにはまだこのようなエネルギーの発揮があると断じている。しかしベルテ事件に関してはここではまったく言及されていない。
それはとにかく、右のような事件の記録を見れば、すくなくともプロットに関するかぎりスタンダールがこの現実の事件に多くを付加していないということはあきらかである。だいたい彼の制作方法は、嘱目の事件なり書物なりからおおよその筋を借りてきて、細部については自由に想像力を働かせながら、渾然《こんぜん》とした一作品に仕立て上げるということにあった。彼の最初の長編『アルマンス』はその大筋をラトゥーシュの小説『オリヴィエ』から採っている。『パルムの僧院』は彼がその抄訳を作っていたイタリアの古写本『ファルネーゼ家隆昌の起源』から霊感を得たものであった。同様に『赤と黒』はベルテ事件を核として生じた結晶化作用の所産と見て不都合ではあるまい。この小説について「小説化された三面記事」un fait-divers romance と言われることには、何らおとしめの意味は含まれていない。彼の文学的想像力がこの新聞記事に触発されたのは、彼がそこに時代相の一つの典型を読み取ることができたからであると同時に、またそれが彼の内面にあったドラマの原型というべきものに合致したからであろう。ごく若いころベールはタッソーを読みながら、「自らの手で殺したクロリンダに洗礼を施すタンクレディ」から深い感銘を与えられた。ラファルグにしてもベルテにしても自分の恋人の命を奪おうとするのであるが、こういう人物への興味は早くからべールの裡《うち》にひそんでいたと見ねばならぬ。そしてタンクレディがクロリンダに洗礼を施すのに対して、ジュリアンは死を前にしてド・レナル夫人に清浄な静かな情熱をよみがえらせるのであるが、ベルテの場合にはそういうこまやかな場面は見られなかったのだ。
主人公ジュリアン・ソレルのためには神学生アントワーヌ・ベルテがあったとすれば、二人の女主人公のイメージをスタンダールに提供したのは誰だったか? ベルテ事件の記録は、ジュリアンとド・レナル夫人との人目を忍ぶ恋愛を描くためにかなり大幅に利用されている。情熱的で素朴な、苦労知らずの地方貴族の夫人らしいド・レナル夫人の形而下的な面に関するかぎり、記録にあらわれたミシュー・ド・ラ・トゥール夫人の姿をそのまま再現すれば事は足りたかもしれない。しかしド・レナル夫人がこの小説の中で占めている位置は、『ファウスト』の中で Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan.(永遠に女性的なるもの我らを導く)と歌われているような意味での象徴的存在にまで高められている。スタンダールはこの理想化された像を描くために、自分がそれまで特に熱愛した幾人かの女性の性格を借り来ったものと考えられる。アンリ・マルチノーは特にマチルド・デンボフスキー、クレマンチーヌ・キュリアル、さらにアレクサンドリーヌ・ダリュの名を挙げている。またモーリス・バルデーシュは以上の三人のすべてをしりぞけて、妹ポーリーヌの学校時代の友だちであり彼自身一時恋したソフィ・ゴーチエをド・レナル夫人のモデルではないかと推測している。それはともかく、このド・レナル夫人がスタンダールの描いた女性たちのなかで、……いや、古今東西の文学にあらわれた女性のうちでも、最も魅力に富んだ人物であるということは誰しも認めるだろう。人によってはマチルド・ド・ラ・モールのような女性には嫌悪を感ずるかもしれない。しかしド・レナル夫人は、民族や時代の如何を問わずすべての男性の胸の裡にひそむ願望にこたえるものを持っており、ごく些細な挿話の一つ一つにもこの「永遠の女性」の相貌は生き生きとあらわれている。一例を挙げよう。パリに出ることになったジュリアンは、夫人に別れを告げるためにレナル邸に忍びこみ、二十四時間を過ごす。昼のあいだ夫人はジュリアンをデルヴィル夫人の部屋にかくしておくが、満足な食事をさせることができないでいた。夜になって夫が外出すると、やっと彼女はジュリアンの部屋へ行くことができた。空腹で死にそうな恋人のために彼女は台所ヘパンを取りに行き、そこで下女のエリザにぶつかったが、そんなことはいっさいかまわず肉饅頭とパンを持って帰る。ジュリアンは彼女の前掛けのポケットにあるパンは何だと言う。実は彼女は昼食のときからジュリアンのためにと思ってそのパンをポケットに詰めこんでおいたのを忘れていたのだった……。この一ぺージばかりの小さな挿話は、素朴でひたむきで甲斐々々しいこの無経験な恋人の性格を躍如《やくじょ》たらしめて遺憾がない。(ついでながらこれと類似の事実が、一八二四年ごろから二年ばかりつづいたキュリアル伯爵夫人との情交のあいだにあったという)
マチルド・ド・ラ・モールのこととなると、ド・レナル夫人の場合のように簡単にはいかなかった。ベルテ事件の記録においてはコルドン嬢の行動にはほとんど触れられていなかった。つまり、マチルドとの恋を描くに当たっては直接指針となり得るような実例がなかったのである。けれども、この作品に取りかかる直前とその執筆中に彼自身の味わった二つの恋愛体験、また執筆中に彼の見聞した一つの事件が、マチルドの性格形成とジュリアンとのその恋愛関係の推移に濃い影を落としている。
一八二九年の秋べールは南仏からスペインへかけての旅をし、その途上マルセーユで『赤と黒』の最初の着想を得たことはすでに書いた。この旅行の動機の一つは当時の恋人アルベルト・ド・リュバンプレとの仲がうまく行かなくなったことだった。彼はしばらくアルベルトと別れていることによって、冷めかけた相手の情熱をふたたびかきたてることができるかもしれないと考えた。したがって彼が『赤と黒』……いや、当時の表題では『ジュリアン』を考えた時期には、この気まぐれな恋人のことが彼の念頭をすっかり占めていたと考えて差しつかえあるまい。スタンダールがはじめて彼女を知ったのはその前年の末であった。彼女は男爵夫人であり、母を通じて有名なロマン派の画家ウジェーヌ・ドラクロワの親戚に当たっていたが、スタンダールはこのパリ生まれの女が彼の軽蔑する人形のような女ではないことを知って驚嘆した。しかし約二十歳年下のこの奔放な恋人は四十台半ばの彼をさんざん苦しめた。スタンダールはまずドラクロワと彼女とのあいだに何かあるのではないかと邪推した。次に彼の親友メリメが彼女に熱を上げて、短い期間ではあるが彼を絶望に陥らせた。同じく彼と一時は毎日顔をつきあわせていたマレストがついに決定的に彼女の心を奪ってしまった。彼が約三カ月の傷心の旅を終え、旅嚢《りょのう》のなかに『ジュリアン』の草稿を入れて十二月パリに帰ったときにも、この状態は変わらなかった。そこへあらわれて彼の心の痛手を癒してくれたのは情熱的なイタリアの若い娘ジューリア・リニエリだった。
ジューリア・リニエリはトスカナの名流貴族の娘であり、フランス駐在公使ベルリンギエリの養女としてパリに来ていた。スタンダールは一八二七年に当時十七歳だった(年齢については異論もあるが)彼女に紹介された。一八三○年の一月末、ジューリアは何の前触れもなしにこの中年の醜男に愛情を表明した。それまでのあいだ浮わいた噂一つなく、誰の目にも繊細な美しい小娘とばかり映っていた女、三年間ごくありきたりの交際しかなかった娘から、あなたが年寄りで醜男なのは承知の上だという前置きまでつけられて突拍子もなく求愛された、いつまでたってもうだつの上がらぬ中年男の心理を想像してみるのもまた格別の興味があろう。度胆を抜かれながらもべールはそのままやにさがってしまうようなことはなかった。とにかく真意をたしかめねばという気持もあったのだろう、二カ月の試験期間を置いて、そのあいだに自分が得心できればあなたを愛そうと彼は答えた。三月になって彼女はべールの情人となった。七月革命を経て十一月六日、領事としてトリエステに赴任すべくパリを発つに当たって、べールはベルリンギエリに手紙を送りジューリアを妻に求めた。ベルリンギエリは婉曲《えんきょく》に拒絶した。スタンダールもそれ以上踏み切れなかった。一八三三年ジューリアはある青年と結婚し、べールとの縁は切れた。この大胆で積極的な娘の姿が、ちょうどこの時期にスタンダールが執筆に専念していた『赤と黒』第二部の女主人公の上に大きな影響を与えていることは言わずもがなのことである。
『赤と黒』の完成ののち、アルベルト・ド・リュバンプレは作中のマチルドのなかに自分自身の姿を認めたかどうか。それはともかく彼女は特にこの作品の第二部に非常な不満を示した。マチルドの性格はあまりにも真実性を欠いているし、ジュリアンには嫌悪しか感じないとして、彼の欠点はすべて作者自身の身にそなわったものだと彼女は言った。スタンダールは長い手紙でこれに答えて、マチルドについてはマリ・ド・ヌーヴィルという実例があるし、自分はジュリアンのような野心家ではないと弁明した。さらにまた彼はリュバンプレ夫人の当時の情人であり自分の親友であったマレストに宛てて、「この〔『赤と黒』の〕結末は、それを書いているとき私にはなかなかいいように思われた。私は絶えず私の熱愛する美少女メリ〔マリ〕の性格を眼前に描いていた。メリならあのようにふるまわなかったかどうかクララ〔メリメ〕に訊いてみたまえ」と書いている。ここにクララ〔メリメ〕の名が出て来るのはメリメ自身このマリ・ド・ヌーヴィル事件に一役買っていたからである。
マリはシャルル十世時代の海軍大臣イード・ド・ヌーヴィルの姪《めい》として一八一二年に生まれた。スタンダールがジューリア・リニエリの例の唐突な訪問を受けたころ、つまり一八三○年一月下旬、この誇り高い貴族の娘は、ブルジョワの青年であり幼なじみの友であるエドワール・グラッセと手を取りあってロンドンへ出奔した。数日、ロンドンで男とともに過ごしたのち、彼女は家庭に帰り、二度と恋人に会おうとしなかった。グラッセは彼女のことを断念しようとしなかった。メリメはグラッセ家とヌーヴィル家とのあいだに立って斡旋《あっせん》の労をとったが、結局この仲介は何らの成果も挙げなかった。それにしてもスタンダールはメリメからこの事件について聞かされもしただろうし(メリメはスタンダールより二十歳年下であったが、一八二一年から一八四二年のスタンダールの死まで彼の親しい友人だった)、またスタンダール自身も、メリメとともに出入していたガーネット家のサロンでマリに会っているから、この事件についてはいろいろの情報を得ていたと思われる。
この三人の女性がマチルド・ド・ラ・モールを描くためそれぞれどれだけの材料を提供したかを分明にすることはもちろんできないし、また元来そのような詮索は無用のことであろう。しかしそれぞれがその個性に応じ、またスタンダールの前にあらわれ出た時期によって、『赤と黒』制作のために独自の役割を果たしたのを見ることは興味がある。むろんド・レナル夫人とマチルドというこの二種類の女性の原型は、早くからスタンダールの脳裡《のうり》にあった。一八二二年の『恋愛論』に集められたさまざまの挿話を見るがいい。アルマンス・ド・ゾイーロブ(『アルマンス』一八二七年)を見るがいい。『ローマ散策』の挿話を見るがいい。そして『赤と黒』以前に書かれた短編(『ヴァニナ・ヴァニニ』、『匣《はこ》と亡霊』)を見るがいい。彼の好む女性像はそれらを通じてますますはっきりとあらわれて来ている。そして彼がアルベルト・ド・リュバンプレに接して得たものは、社会的因襲や拘束を無視して自由に生きる社交界の女性のなかにも、自分の夢みていたような女性像が現実に存在するという確認だった。さらにその上に彼女はモーリス・バルデーシュによれば、「最も肝要な、そして彼自身ではなかなか想像できなかったようなこと、つまり、女性における男性的《ヽヽヽ》な愛情がいかに男を悩ますかということを」教えた。彼のエネルギー崇拝が女性に適用された場合、恋愛は冒険になるということ、……このことは彼にも想像することができた。しかしこのような恋愛がどんな行動を女に取らせるか、特に過失《ヽヽ》のあとでその行動はどのような色彩を帯びるか、またそのような女性の恋人はどのような苦悩をなめ自発的な行動を行なわねばならないか、……それは現実の教訓なしには知り得ない。つまりリュバンプレ夫人の出現のおかげで彼は事実の教訓を得、彼の「作中人物は文学的可能性の状態から記録《ヽヽ》の状態に移った」(バルデーシュ)のである。
このようにして一つの原型とその現実像とがはっきりスタンダールの前に描き出された。『ヴァニナ・ヴァニニ』以来『赤と黒』、『ミナ・ド・ヴァンゲル』を経て最後の未完成長編『ラミエル』にいたるまで、この原型はスタンダールの筆を通じてさまざまのヴァリアントを生み出した。しかしまだ彼は、ジュリアンのはいって行く最高の貴族社会の中にこのような原型が存在し得るかどうかは知らなかった。ジューリア・リニエリという例はある。しかしこれは情熱とエネルギーの国イタリアの産である。ここではじめてマリ・ド・ヌーヴィルの事件がスタンダールにとって持っていた意味があきらかになる。スタンダールは前に挙げたマレスト宛の手紙で続けてこう書いている。「モンモランシーの若殿たちやその家族は|意志の力《ヽヽヽヽ》などまるっきり持っていない……上流階級のこの気概のなさを見て私は|例外を作ろう《ヽヽヽヽヽヽ》と思った。……どうしてかと言えば、メリ〔マリ・ド・ヌーヴィル〕を考えたからだ」
ここまで書いて来てこう念を押すのはおかしなことかもしれないが、ジャン・プレヴォも言うように、「個人的な出所を探究すること(特にそれが完全にあきらかになっていない場合には)の危険は、鍵小説と思わせてしまうことである」。鍵小説 le roman a clefとは、現実の人物を名前だけ変えて登場させる小説のことであるが、『赤と黒』は一八三○年年代記という副題の示すとおり、復古王政時代の現実の事件や人物をいろいろと利用している。その最も顕著な例は、第二部第二十一章より第二十三章までに描かれた右派の政治的陰謀の箇所であろう。しかしこれらは結局この小説の副次的な要素にすぎない(もっともそれは看過していい要素だということではないが)。これまで述べて来た三人の女性の実例は、要するに彼のうちから湧き出た観念の裏づけとして、また補足的な材料として生かされているのである。そしてまたスタンダールの創作心理のメカニスムから言っても、外的素材というものは彼にはこれ以外に使いようがなかった。「人物たちの性格を明確に決める、事件は単に概括的に決める、細部はおのずから現われて来るに従って採り容れる……。その理由は、細部のことを一番深く考えるのは実際本を書いている時だからだ。事実上、あらかじめそう自分に言い聞かせていたわけではないのに、『赤と黒』を書くとき私はそういう風にしたのだ」
こうして二種類の女性の原型、二種類の恋愛の原型がここにできあがった。地方の「真率な、素朴な、自意識のない恋愛」と、それに対比されるパリの「頭脳の恋愛」と。そしてこの二つをスタンダールが一つの時代相としてとらえていることは、付録とした「『赤と黒』について」であきらかだろう。その時代とは、君主主義は自信を失い、新興自由主義は堕落し果てた復古王政の時代、その時代相とは一言で言えば「偽善」の風潮だった。この「偽善」の圧迫が三十歳になっても恋の何たるかを知らぬ善良な女性を生み、この「偽善」ヘの反抗が、「自分が偉大な情熱を抱いていると思うのが嬉しいというだけのことで、愛情もないままに駈け落ちしようとする」処女を生むのである。そればかりではなく、この小説のすべてが非常にはっきりとした社会小説的意図を持ったものであることを、「『赤と黒』について」はくどいまでに強調している。
この時代の政治に対する風刺が最も痛烈にあらわれているのは、前に触れた第二部第二十一章以下の陰謀の扱いであろう。これの素材は、一八一七年に実際行なわれた過激王党派の策謀だった。この年、血迷った過激王党派はヴィトロールの草した密書をオーストリア、イギリス、ロシアの宮廷に送って、共通の敵であるジャコバン主義と闘い、危殆に瀕《ひん》した王権を守護するという名目のもとに、外国軍隊の国土占領の期間を延長せしめようとしたのである。さらに同じころ、憲章の廃止を目的として自由主義的閣僚の追放をはかる、いわゆる「水辺の陰謀」なる事件も起こった。スタンダールはこれを拉《らっ》し来って、自信を喪失した反動派のヒステリー的狂態を諷した。また一方、堕落した自由主義者の戯画は、国王のヴェリエール行幸に際し儀仗隊に加わろうとして暗躍する工業家たちや、ヴァルノ氏の正餐に招かれた自由主義者たちに見られる。それのみかスタンダールは、ジュリアンの崇拝の対象であったナポレオンを、彼が馬車のなかで出逢った印刷屋あがりのサン・ジローの口を通して、手厳しく糾弾することもあえて辞さなかった。そして帝政時代を追慕してやまないが必ずしもボナパルチストではないジュリアンは、この国内亡命を憧れる哲学者サン・ジローに反駁を加えないのみか、心の裡に反感の萌《きざ》した様子すらない。またスタンダールが「泥だらけの多数」と呼んだ民衆にも希望はなかった。七月革命後の一八三一年にもスタンダールは「現代文明の形式は偉大な運動や情熱に類するものをすべて受けつけない」と断じているのである。つまり、スタンダールにとって、自分の生きる時代はまさに八方塞がりの時代、何らの光明も見出し得ない時代だった。そして彼自身は、時代に疎外された知識人のすべてに通ずるような一種のアナーキストだった。
理想と情熱を失って権謀術数のみしかないこの時代に生きた彼の目には、政治はまず技術としか映らなかった。「法律によって承認されたさまざまの力をすべて観察し、それらの力を試してみ、自分に有利なようにそれを働かせ、数学的厳密さと法運用の|冷酷さ《シニスム》を併せ持つこと、これが完全な政治というものの技術だろう」(ジャン・ピエール・リシャール)
これはそのままジュリアン・ソレルの偽善に通ずる。ジュリアンは優れた頭脳と高貴な魂を持っている。しかし彼はしがない職人の倅でしかない。復古王政時代の社会は偉大な行為をなすべく生まれついたこの俊秀な青年の前に乗り越えることのできない壁を建てめぐらしている。自信のない貴族と営利に汲々《きゅうきゅう》たる大ブルジョワと地上の権力を渇望する宗門人との支配のもとに、滔々たる偽善の風潮がすべてをおおうこの社会にあって、魂の高貴さや勇気など何の役に立つだろう? 偉大な行為の夢を見失わぬジュリアンは、そこに到達するまでなおどれほどの卑俗な妥協や駈け引きを重ねねばならないかと暗然として自問する。なぜなら「偽善はおれが口を糊するための唯一の武器だ」からだ。しかしわれわれは、偽善に対するに偽善をもってする悪循環についてあげつらう前に、ここで偽善というものの本質をはっきりさせておいたほうがいい。偽善とは一般に、安易に世間的成功を得るために通念的な道徳の衣に隠れることであろう。けれどもこの偽善者は、自分が表看板にしているその通念的道徳を内心で否定しているとはかぎらない。行為においていかに悪辣《あくらつ》であろうとも、既成道徳や慣習化された宗教にはごく従順である人間がきわめて多いのである。そのような人間は通念的道徳に自分の良心を預けて安心し、自分の行為の非を意識することなどいっこうにない。たとえば、慈悲を説くキリスト教を心から信じながら苦汗労働制度《スウェティング・システム》の維特のために狂奔したある時期の資本家などはその好例であろう。偽善の巣窟であるブザンソン神学校の学生たちも、キリスト教以外の宗教を信奉していたわけでもないし、いわんやアテイストではなかったろう。このように形骸と化した倫理や戒律に下駄《げた》を預けて良心の不安や相剋はまったく感ずる必要のないことこそ、実に抜きがたい偽善と言わねばなるまい。そして特に偽善が一つの時代、一つの社会を支配するという場合、その偽善とは以上のような性格のものなのである。これに対するジュリアンの偽善ということになると、これはもはや説明の必要もないであろう。それは自分の絶対に是認し得ぬ社会に対する疎外者の侮蔑、自分の絶対に承服し得ぬ制度や道徳律に対する唯一の可能な不服従の形式、自己の節操を貫く唯一の手段にほかならない。
『赤と黒』は政治小説だとよく言われる。(たとえばモーリス・バルデーシュ……「『赤と黒』は徹頭徹尾政治小説である」)たしかにこの小説は当時の支配体制を徹底的に批判し尽くした作品であった。しかし作者はそれに代るべき何らかの政治理想を提示しはしない。「世論」の暴力を諷することによって来たるべき大衆民主主義を個人に対する脅威として暗示する彼は、ある漠然とした心情的な自由主義を抱いていた。この自由主義は彼にとって気質的なものだったと同時に、また彼がそのイメージを固守していた教養人が社会を作った場合、その格律となるべきものだったのだろう。思想や階級や身分はどれほど異なっていても、すべて「本物」に対してはジュリアンは共感と敬意を惜しまない。ブレ・ル・オーにおける典礼の美しさはジュリアンをして「この瞬間にならば異端糾問のためといえども確信をもって戦ったろう」というほどの気持にさせてしまうし、シェラン師やピラール氏の廉直と温情はいつもジュリアンを感動させ、本来彼の「敵」であるド・ラ・モール侯爵の身についた高雅な洒脱さは彼を感嘆させる。そのような authentique なものの価値は教養人よってのみ広く正しく理解されるのである。
ここに興味あるスタンダールの言葉がある。一八三五年二月二十五日、彼は手許に置いた『赤と黒』の一部(いわゆる「ブッチ本」)の第一部第二十二章の余白に長い感想を書きつけた。抄訳すると、
一七八九年から一八三五年にいたる革命は、微妙な事柄を感ずる能力のない無数のフランス人に芝居を見に行こうという考えと木戸で払うべき金とを与えたことによって、ヴィクトル・ユゴー氏、アレクサンドル・デュマ氏等々の俗悪で誇張したジャンルを生み出した。
喜劇作者はニューヨークの市民みたいになってしまって、投票の数の多少を数えねばならぬが、その質の如何を測ってはならない。……戯曲を批判する大衆《マジョリテ》は、だから、『フランスに良識《ボンサンス》を与えた革命によって変わった、しかも悪いほうに変わってしまったのだ』(『 』大久保)
ここまで書いて来れば、彼の社会批評・文明批評から十九世紀後半の流竄遁亡《るざんとんぼう》の詩人たちのそれへの距離がいかに短いものであるかがわかるだろう。だからアーヴィング・ホウが次のように言っていることも十二分の根拠があるのだ。……「スタンダールこそ、インテリゲンツィアの独占的な立場から、政治と社会を俯瞰《ふかん》した最初の創造的作家の一人であり、歴史というものを、危険に瀕した半端な特殊グループとしてのインテリヘの歴史の影響によって測定した先駆者の一人なのだ。『幸福な少数者』の夢は……やがては芸術家の疎外という悪夢と化すのだが……ともかくスタンダールにとっては、彼の人生の不落の支柱であることをやめなかった。多くの点で、彼は階級からはみ出た人間であり、最も名誉ある意味でのディレッタントだった。彼の時代は支えとなる大きな信仰を欠いていたが……彼の全作品で、敗北に喘《あえ》ぐ自由主義がその力よりも過去ゆえに恐れられているのは意義深い……彼はバイロンにも似て、だがバイロンよりいっそう真剣に、みずからを根なし草の疎外者と感じる近代世界の人々を代弁しはじめたのである」
そういう意味での彼とボードレール以下の流竄《るざん》の詩人との親縁性は、ゴーチエ、ユゴー、ラマルチーヌなどよりもはるかに深かったと言わねばならぬが、むろん何事につけあれもこれもと手軽に結びつけることは慎しまねばなるまい。第一、芸術至上主義や神秘主義はスタンダールにとって無縁のものだった。彼の精神に十八世紀のフィロゾーフたちの与えた影響は抜きがたいものだったから、その普遍主義と合理主義は最後まで彼の思考基準をなしていた。音楽と美術を愛し、そのあるものには熱狂的な感激を示した彼、自然の美観に対してはきわめて敏感だった彼は、主観的には詩人であったかもしれない。しかし、あいにく詩というものはきわめて客観的な「形式」なのである。「彼のなし得ることは、自分の詩的感動について知的な翻訳を行なうことに尽きていた」(ジャン・イチエ)彼は天成の散文家だったのである。
次に彼は行為者であった。実生活の上でも彼が世間的な野心や功名心をいつまでも失わぬ人間であった。自分にとって絶対に相容れぬものであると彼の信じていた復古王政の没落によって、ふたたび官途に就く希望を彼は見出したのである。そして事実彼は領事の地位を得て熱愛するイタリアの地をまた踏むのであるが、しかしこの地位はいっこう彼を満足させるものではなかった。自分の不遇をかこつ気持はますます強くなるばかりだった。言うならば彼の作品は、現実の世界で不可能だった行為の想像の世界への転移なのである。太っちょの醜男だった彼には夢みるばかりで得られなかった女心の征服者という資格を、すらりとした美青年のジュリアン・ソレルは誇らかに手に入れる。しかしそういう意味でジュリアン・ソレルがスタンダールの alter ego(第二の我)である以上、彼は行為者として自己を全うすることはできない。いわばジュリアンは行為の不可能を体認し実証する行為者なのだ。そしてこの行為者が行為をやめたとき、スタンダールの小説は終わる。牢獄にはいり行為を奪われたジュリアンはもはや小説の主人公ではない。そこにあらわれて来るものは生地の作者の感想であり思索であって、小説はここでいったん終わる。つまり、行為が不可能になったときには小説も不可能になるのだ。
それと関連してスタンダールの自ら主張するようにこの小説を社会小説とする考え方が問題になる。それが社会小説であるということ自体には別に異論をはさむ必要はないように思える。それにしても、そもそも社会小説というものは何かという問題から始める必要がありはしないか? 行動を主題にする小説は、本来行動というものが外への働きかけであるという意味で、多かれ少なかれ社会小説だとは言える。むろんそれはあまりにも素朴な考え方であろうが、スタンダールの社会小説はあくまでこの素朴な考え方の延長にあるのである。それはバルザックと対比してみればはっきりする。バルザックは「自然史」に対するものとして「社会史」を考えた。つまりバルザックにとって社会は自然と同じ意味で実在であったのだ。そして彼の小説に即して言えば、外在的なものを描くことの喜びが彼の基本的な態度のうちに含まれていると言ってよい。スタンダールにとって描写すること自体は何の楽しみでもなかったことは、彼自身折りに触れて言っている言葉から明らかである。外的なものは主体の行為との関係においてしか彼の興味をひかなかったのだ。だから彼の作中ではすべてのものは誰かの目を通して見られている。(『赤と黒』のなかで作中人物の目を通さずに描写が行なわれているのは、冒頭の部分、小説の舞台であるヴェリエールを紹介する部分だけである。しかしそれもやはり、読者をこの町に案内して歩く作者自身の目を非常にはっきり感じさせる書き方だ)スタンダールの小説における社会的関心というものも同じである。つまりその社会は、あくまでジュリアン・ソレルに対立するものとしての社会、ジュリアンを圧迫し、ジュリアンが糾弾する社会なのであって、ユルトラの陰謀も、宗門の腐敗も、自由主義の堕落も、市民階級の卑しさも、すベてこの敢為《かんい》な聡明な青年を悲劇のうちに死なしめる重苦しい停滞した社会を性格づけるためにしか意味をもたない。
また次のようにも考えることができる。社会それ自体というものはとらえどころのないものである。それをとらえるためには、何らかの基本的概念もしくは仮説によって、自己の視角を定めねばならぬ。つまり、社会を外在的にとらえ、客観的に描くといっても、そこにとらえられ描かれた社会は結局抽象にほかならない。現象学の用語を借用すれば、このような主題的抽象 Thematische Abstraction こそ構想と言われるものなのである。一応それだけの前提を認めた上で、スタンダールのような小説の書き方こそ最も具体的なものだと言えないだろうか? なぜなら、彼は何もかも呑み込む社会という怪物に関心をもったのではなかった。彼が関心をもったのはむしろ個人であったが、その個人は内面に閉じこもった非社会的な存在ではなかった。彼のエゴチスムはソリプシスム(唯我論)ではない。社会からの影響によって動きつつある個人、動いているその両者の関係が、彼にとっての関心事だったのである。行動の小説ということにはそのような意味が含まれているのである。
これまでのところでも、ある程度スタンダールの小説手法のことには触れてきた。それは何よりごく単純で明快なものである。彼は何らのけれんや虚飾を小説に持ちこまなかった。彼の作品の主人公や主要人物たちの内面の心理は、外形や周囲の人物の反応を通じて暗示するというような迂路をあまり取らず、そのまま読者の前に露呈することを本旨としている。行為から動機へさかのぼるような倒叙法はほとんど用いられず、常に時間の経過に従って動機から行為へ自然に流れている。事件の入り組んだ関係はなく、まさに「年代記」的な順序に従って事件と事件はつながっている。いわば天衣無縫な単純さであり、しかもそれはすべて人間の呼吸にも似た自然のリズムで流れるのである。そう言えば、ジャン・プレヴォのいわゆる「対位法、すなわち筋を運ぶ章と風刺的観察による絵図の章のリズミカルな連続」なるものも、いわば生理的な変化の欲求を満たすものであった。そういう呼吸を呑み込んでいたということは、まさに彼が天成の作家だったことの証明であろう。これと同じ変化の妙味は、ある人間の心理描写から他の人間のそれへの移行の場含にも見られる。スタンダールの作品では、すでに述べたように対象は常に作中人物の誰かの視点からとらえられ、また内的独白もふんだんに使われて作中人物の内面は直叙されているのだが、その人物は絶えず交代するし、一つの対象に対する二人以上の人物の意識がそれぞれ書き出されることもある。つまりスタンダールの小説ほど平板ないわゆる一元描写なるものから遠いものはない。すでに言ったように事件は常に時間的順序に従って一本の道を進むのだが、それに対する意識は多元的であり、複雑に交錯し、厚みを帯びてくる。しかもそういう場合、いま言った呼吸の自然さによって冗雑に流れず、ポリフォニックな効果を得ているのである。そしてそれらの多元的な視点のなかで最も優位を与えられているのが主人公ジュリアン・ソレルのそれであることは言うまでもない。ジャン・プレヴォはその間の事情を次のように明快に述べている。
作者がわれわれの共感を誘おうとしているのはジュリアンだけだ。われわれが内側から見ることのない連中……たとえばヴァルノ、あるいはクロワズノワ……には、われわれに示すべき内面などないのだ。結局われわれはジュリアンの目を通して事件を見る。しかも作者は、事件をより高いところから見る必要があるとなればジュリアン自身よりも高い視点に立ち、他の人物の体内まで見透すという奇妙な能力をわれわれに授けてくれる。小説の筋は人の意表に出るものを多く含んでいるが、決して謎は含まない。われわれは絶えず理解することを促されている。読者は神のようにあらゆるところにいて、すべてを見るのである。かくも斬新な技術によってととのえられたこの知性の饗宴は、ロマン主義の伝統、その流儀とは根本的に対立する。してみると小説というものはもはや、結末によって解決される謎ではないのか?」
われわれ読者が神のような特権的地位に立たされるのは、むろん作者がそこに出て来て手引きしてくれるからに違いない。しかしスタンダールは自分の創造した作中人物に対する礼儀をわきまえた人間として顔を出す。作中人物が切羽詰まったときなりふりかまわず助太刀に出たり、いい気になった作中人物にこすからい半畳を入れたりする作者の tendresse のおかげで、「この知性の饗宴」のなかでわれわれは心おきない交歓の一時をもつ。スタンダールが近代小説の王道を歩む作家であることには誰も異存はあるまい。あえて私見を言うならば、十九世紀フランス文学において彼を超える作家はついに出なかった。しかしそれだけで彼があれだけ多くの読者の心を掴《つか》んだわけではない。彼の作品に含まれたこの親密な雰囲気に魅了されて愛読者になったものの数も少なくないだろう。「……孤独を脱するため、いやそれのみか悲しみから脱するためには、スタンダールの本を開きさえすればいい。そうすればわれわれは友人たちに囲まれる。しかもわれわれには〈入場券〉を買うために金を払う必要はないのだ……自分自身に払うのは別として」というジャン・イチエの言葉に私は共感するものである。
付記 この翻訳の底本としたのは、アンリ・マルチノー Henri Martineau編のプレイアッド版、ガルニエ版の二種類である。付録とした「『赤と黒』について」という一文は、スタンダールがフィレンツェの友人サルヴァニョーリ伯爵のもとへ、その地の文芸雑誌「アントロジア」に掲載するため送ったものだが、この雑誌はまもなく廃刊になり、サルヴァニョーリはこの草稿を利用し得なかったらしい。解説のなかで引用したのは次の書物である。アーヴィング・ホウ『小説と政治』(中村保男氏訳)
むろん、マルチノーの解説や著書はいろいろと参照している。この篤実なスタンダール研究家にわれわれはどれほど多くを負うているかわからない。彼を追悼することはスタンダール愛好者の義務であろう。(訳者)