赤と黒(上)
スタンダール作/大久保和郎訳
目 次
第一部
第一章 小さな町
第二章 町長
第三章 貧民の幸福
第四章 父と子
第五章 談判
第六章 倦怠
第七章 親和力
第八章 小事件
第九章 田園の一夜
第十章 偉大なる「心」と貧しき「富」
第十一章 一夜
第十二章 旅
第十三章 透いた靴下
第十四章 イギリスの鋏
第十五章 鶏鳴
第十六章 翌日
第十七章 正助役
第十八章 ヴェリエールにおける王国
第十九章 考えることが苦しみとなる
第二十章 匿名の手紙
第二十一章 夫婦の対話
第二十二章 一八三〇年の行動法
第二十三章 公吏の悩み
第二十四章 首都
第二十五章 神学校
第二十六章 世間、あるいは金持に欠けているもの
第二十七章 人生の初体験
第二十八章 聖霊発出
第二十九章 最初の昇進
第三十章 野心家
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真実、苛酷なまでの真実《ダントン》
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第一部
第一章 小さな町
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ちっとはましな連中を千人一緒に入れてみても、鳥篭は別段愉快にゃならぬ。(ホッブズ)
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ヴェリエールという小さな町はフランシュ・コンテ地方〔フランス東部、スイスとの国境地方〕の最も美しい町の一つに数えられていい。この町の赤い瓦《かわら》をいただいた尖り屋根の白い家々は、たくましい栗の繁みがそのきわめて小さな起伏までもくっきりと際立たせている丘の斜面に広がっている。昔スペイン人に造られ今では廃墟《はいきょ》となっている町の城壁の数十メートル下をドゥー河が流れている。
ヴェリエールの北側は高い山がそびえている。この山はジュラ山脈の支脈の一つである。ヴェラ山の鋸歯《きょし》状の峯々は十月の最初の寒さが来るころから雪におおわれる。山から流れ落ちる奔流《ほんりゅう》はドゥー河に合する前にヴェリエールの町を貫流し、多くの製材小屋の鋸《のこぎり》に動力を提供している。これははなはだ簡単な工業であるが、市民というよりむしろ農民に近いこの町の住民の大部分の懐《ふところ》を多少温めてはいるのである。けれどもこの小さな町を富ませたのは製材小屋ではない。ナポレオン没落ののちにヴェリエールのほとんどすべての|表構え《ファサード》を改築させたほどの一般の暮らしがよくなったのは、ミュルーズ製と称するところの更紗織《さらさおり》の製造のおかげなのだ。
町へはいるや否や人々は、一見ものすごい恰好《かっこう》をした騒々しい機械の轟音《ごうおん》に茫然《ぼうぜん》としてしまう。奔流の水が動かす水車によって持ち揚げられた二十もの重い鉄鎚《てっつい》が、鋪道をゆるがす轟音を立てて落下するのである。この鉄鎚の一つ一つが毎日幾千とも知れぬほどの釘を造り出す。若々しい美しい娘たちがこの巨大な鎚《つち》の落ちて来るところへ小さな鉄片を差し出すと、またたく間に釘《くぎ》になってしまうのだ。この仕事は一見いかにも手荒いものなので、フランスとエルヴェシー(スイス)との国境となっているこの山岳地帯にはじめて足を踏み入れた旅行者たちの度肝《どぎも》を抜くものの一つに数えられる。ヴェリエールに到着した旅行者が、大通りを登って来る者の耳を聾《ろう》せしめるほどの轟音を立てているあの立派な製釘工場は誰のものかと尋ねると、人々は間延びのした言葉つきで、「ああ、あれは町長さんのものですよ」と答える。
旅行者がドゥー河の岸から丘の頂まで登って行くこのヴェリエールの大通りにしばらく立ちどまっていさえすれば、忙しそうな尊大な様子をした一人の背の高い男がやって来るのを、かならず見かけるに相違ない。
この男を見ると誰もみな急いで帽子を脱ぐ。胡麻塩《ごましお》頭で鼠色《ねずみいろ》の服を着たこの男は、いくつもの勲章の帯勲者で、額は広く、鉤鼻《かぎばな》をして、全体として見れば彼の容貌は一応整っていないとはいえない。しかも一目見ただけでこの容貌はいかにも田舎の町長然とした貫禄《かんろく》と五十ぐらいまでの年輩の人にはまだよく見受けられるある種の愛想の好さとを兼ねそなえているのがわかる。けれどもパリから来た旅行者ならば、一種の自己満足と、何とはなしにせせこましい魯鈍《ろどん》な感じのするうぬぼれの態度がすぐに鼻につく。結局、この男の才能といえば、自分の貸した金はきちんきちんと支払わせ自分のほうで借りた金の支払いはできるかぎり延期することぐらいでしかないとわかってしまうのである。
ヴェリエール町長ド・レナル氏はこういう人物なのである。荘重な足取りで往来を横切ったのち、彼は役場へはいって旅行者の目からは姿を消してしまう。だが旅行者が散歩を続けてもう百歩も登って行けば、見かけはかなりきれいな一軒の家と、その家に接する鉄柵越しに宏荘《こうそう》な庭園とが目に入るだろう。その向こうにはブルゴーニュの丘陵に劃《かく》せられた地平線が連なっているが、これは目の保養にはまことにおあつらえむきにできているように見える。この眺めは、つまらぬ金銭上の利害打算に毒された雰囲気のためそろそろ息の詰まりかけてきた旅行者に、そんなことを忘れさせてくれる。
町の人は、この家がド・レナル氏のものだと旅行者に教えてくれるだろう。ヴェリエールの町長が最近、切石《きりいし》造りのこの美しい住居を落成し得たのは、あの大きな製釘工場で儲《もう》けたおかげなのだ。彼の家系はスペイン系の古い家柄だそうで、この地方にはルイ十四世の征服よりもはるかに以前に定住しているという話である。
一八一五年(王政復古の年)以来、彼は実業家たることを恥としている。この一八一五年という年が彼をしてヴェリエールの町長たらしめたのだ。いくつかの段をなしてドゥー河まで傾斜しているこの宏荘な庭園を支えているテラス状の石垣は、これまたド・レナル氏が鉄の取引きで才腕をふるったおかげである。
ライプチヒやフランクフルトやニュルンベルクなどのドイツの工業都市を囲んでいるあの絵のように美しい庭園をフランスで見ようと思ってはならない。フランシュ・コンテでは、石垣を造れば造るほど、層々積みかさねた石垣を自分の地所一面にそびえ立たせれば立たせるほど、他人から尊敬を要求する権利ができてくるのである。ド・レナル氏の庭園は、石垣だらけになっていたばかりではなく、彼が大金を投じてばらばらに買い求めたいくつかの小さな地所の上に造られたものだというので、なおさら人々の嘆賞を得ているのだ。たとえば諸君はヴェリエールにはいって来るとき、ドゥー河の岸に一軒の製材小屋を見て、その奇妙な位置に怪訝《けげん》な思いをされたことと思うし、また屋根からひときわ高い板の上にやたらに大きな文字で|SOREL《ソレル》という名が書かれてあるのに気づかれたことと思うが、この製材小屋は六年ほど前までは、現在ド・レナル氏の庭園の四番目のテラスの石垣が立っている場所を占めていたのである。
吝嗇《りんしょく》で頑固な田舎者のソレル爺を相手にしたときは、町長さんも持ち前の高慢さを折って大分きりきり舞いをしなければならなかった。この工場をほかの場所に移すことを承諾させるために、町長はソレルにたくさんルイ金貨を積まねばならなかったのである。製板用の鋸《のこぎり》を動かす公共の川のほうは、ド・レナル氏はパリで得ている声望を利用して迂回させる許可を得た。この恩典は一八二*年の選挙ののちに与えられたものである。
彼はソレルに一アルパン(約一アール)に四アルパンの割で、五百歩ほど下のドゥー河の川縁《かわっぷち》に土地をやった。しかし、この位置のほうが彼のモミ板の取引きにはずっと有利だったにもかかわらず、ソレル老人……彼が金持になってからは人々はこう呼んでいた……は、その隣人が焦躁《しょうそう》と気ちがいじみた土地所有欲《ヽヽヽヽヽ》とに取りつかれているのをこれさいわいと、六千フランの金額をみごと搾《しぼ》り取ったのであった。
いかにもこの協定は近所の頭のよい連中からとかくの批評を受けはした。一度、今から四年前のある日曜日のことであるが、ド・レナル氏は町長の制服を着て教会から帰る途中で、三人の息子に取り巻かれたソレル爺が遠くから自分を眺めながら薄笑いを浮かべているのを見た。この薄笑いを見て町長さんははっと心に思いあたることがあったが、もはやどうしようもなかった。そのとき以来、彼はもっと安値でこの交換ができたものをと思っている。
ヴェリエールで一般から名望を得るには、石垣をたくさん建てはしても、春先ジュラ山脈の山峡《やまかい》を横切ってパリへ行く石工たちがイタリアから持って来る設計は、どんな設計でも決して採用しないということが一番肝心なのである。 このような新機軸を採用しようものなら、その軽率な普請《ふしん》道楽の男は〈偏屈者《へんくつもの》〉という評判を一生負わせられてしまって、フランシュ・コンテで人の名望というものを決定する聡明《そうめい》かつ穏健な連中のおぼえは永久に悪くなってしまう。
実際、これらの聡明な連中がここでまったくうんざりさせられるような専制政治《ヽヽヽヽ》をおこなっているのだ。パリとよばれるあの大きな共和国で暮らして来たものにとって小さな町に滞在することが堪えられなくなるのは、この愚劣な言葉のためである。世論の圧制……しかも何という世論だ!……は、フランスの小都市ででもアメリカ合衆国ででも同じように|馬鹿げて《ヽヽヽヽ》いる。
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第二章 町長
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権勢ですって! あなた、そんなものはつまらんもんじゃありませんか。愚人の尊敬、子供たちの賛嘆、富者の羨望、賢者の軽蔑、それが権勢ってもんですよ。(バルナーヴ)
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ド・レナル氏が行政家としての名望を得るのに好都合だったことは、丘に沿ってドゥー河の流れから三十メートルほど上のほうにある公共散歩道に、巨大な防《ヽ》水壁《ヽヽ》をつくらねばならなかったことだ。この散歩道は素晴らしい位置にあるためフランスでも眺望絶佳といわれるところだった。しかし毎年春になると山から流れ出る雨水が散歩道に溝を掘り穴をうがち、通行できなくしてしまう。この不便は皆に痛感されていたので、ド・レナル氏は運よくも高さ六メートル、幅六十ないし八十メートルの石垣を築かざるを得なくなり、これによってその行政的手腕を不滅ならしめたのであった。
この石垣の胸壁のためド・レナル氏はパリへ三度も旅行しなければならなかった。なぜなら二代前の内務大臣はヴェリエールの散歩道のことに関しては絶対反対を表明していたのである。しかし今ではこの胸壁も地面から一メートル以上も高く立っている。そしてまるで現在のものと過去のものとを問わずすべての大臣を愚弄するみたいに、近頃この胸壁はひらたい切り石を並べて装飾されているのだった。
前日立ち去って来たばかりのパリの舞踏会を思い起こしながら、そして青みがかつた美しい灰色の大きな石材に胸をもたせながら、幾度か私の目はドゥー河の谷を見おろしたことであろう! 向こうの左岸には、五つか六つの支谷がうねりくねって、その底には小さな流れが走っているのがはっきりと見分けられる。滝から滝へと流れ落ち、この支流はついにドゥー河に合流している。この山岳地帯では日差しはひどく暑く、太陽が真上から直射するときこのテラスにいる旅人の夢想を守るものは、堂々たるプラタナスの木立だけだった。この木の急速な生長と青みがかった美しい緑とは、町長さんがあの巨大な防水壁のうしろに土を運んでつくらせた空地のおかげなのだ。つまり、町議会の反対を押し切って彼は散歩道を二メートル近くもひろげたのである。(彼は急進王党派《ユルトラ》で私は自由主義者《リベラル》だが、この点では私も彼を賞讃する)。これあればこそまた、彼自身も、人気の好いヴェリエールの貧民収容所長ヴァルノ氏も、このテラスがサン・ジェルマン・アン・レイ〔ヴェルサイユ近傍の王宮。壮麗なテラスがある〕のそれの向うを張ることもできるという意見を持していられるのである。
COURS DE LA FIDELITE(忠義通り)というのがこの散歩道の正式の名称であって、これを刻みこんだ大理石板が十五か所から二十か所もあり、しかもこれを設けさせたためにド・レナル氏は勲章をまた一つもらっているのだが、私としてはこの|忠義通り《クール・ド・ラ・フィデリテ》について文句をいいたいことはたった一つしか見つけられない。私が忠義通りについて非難したい点は、あのたくましいプラタナスの木を幹まで刈りこませ切り払わせる当局の野蛮なやり方である。頭を低く丸く平らにしてごくありふれた野菜なんぞのような恰好をさせるより、イギリスでよく見られるようなああいう堂々たる姿をさせてやるのが、このプラタナスには一番ふさわしいのだ。しかし町長さんの意志は専制的だ。そして町の所有になるすべての木は一年に二回容赦もなく枝を落されるのである。この土地の自由主義者が、副司祭マスロン師が払った枝を持って行くようになってから、役所で雇った植木屋がますます手荒くなったといっているが、これは言い過ぎだろう。
この若い僧侶は数年前ブザンソンから、シェラン師および付近の数人の司祭を監督するために派遣されて来たのである。ヴェリエールに隠退している元イタリア派遣軍の老軍医正が(町長の言によるとこの軍医は生前ジャコバンであり、かつボナパルチストだったそうであるが)かつて大胆にも、定期的にあの美しい木がめちゃめちゃに切り払われることについて町長に文句をいったことがあった。
「私は蔭《かげ》が好きです」とド・レナル氏は、レジオン・ドヌール受勲者たる軍医を相手に物をいうにふさわしい気位の高い調子で答えた。「私は蔭が好きなのです。だからいい蔭をつくるために私は|私の《ヽヽ》木を切らせるのです。私には蔭を造るという目的以外で木が生やされているなんてことは了承できませんのでな、もっとも胡桃《くるみ》みたいに何らかの|利益をもたらすことがない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》場合の話ですが」
「利益をもたらす……」これこそヴェリエールで万事を決する意味深長な言葉なのだ。この町の住民の四分の三以上の頭の中に常に宿っている考えは、わずかこの一語によって表されているのだ。
|利益をもたらす《ヽヽヽヽヽヽヽ》ということが、諸君の目にはあんなに美しく思えたこの小都会で、すべてを決定する理由となっている。町の周囲の涼しい深い渓谷の美しさに惹《ひ》かれてやって来たよその国のものは、はじめはこの町の住民たちが美に対してすぐれた感受性を持っているものと考える。実際彼らは自分たちの国の美観のことを極端すぎるほど瀕々《ひんぴん》と口には出すし、またこれを大いに重んじていることは否定できない。しかしそれはその美観が他国の人々を引き寄せ、引き寄せられた他国人の金が旅寵《はたご》の主人の懐を肥えさせ、入市税というからくりで町に利益をもたらすからにほかならない。
よく晴れた秋のある日、ド・レナル氏は細君と腕を組んで忠義通りを散歩していた。夫がもったいぶった顔で語る言葉に耳をかたむけつつも、ド・レナル夫人の目は三人の小さな男の子の動作を心配そうに追っていた。一番年上の子は十一歳ぐらいだったろうか、しきりに胸壁に近づいては登りたそうな様子をする。するとやさしい声がアドルフという名を呼ぶので、子供はその野心満々たる計画を放棄するのだった。ド・レナル夫人は三十歳ぐらいの女に見えた。だがまだ大分美しかった。
「あのいやみったらしいパリの先生、きっと後悔するぞ」と、ド・レナル氏は不機嫌らしい様子で、いつもよりも頬《ほお》の色を蒼《あお》くしながら言った。「おれだって宮中に幾人か味方がいないわけじゃない……」
しかし、私はこれから二百ページにわたって田舎の物語をしようと思ってはいるが、長ったらしい田舎者の会話や、|その巧みに言葉《ヽヽヽヽヽヽヽ》|に綾をつける《ヽヽヽヽヽヽ》ところを書きつらねて読者諸君を悩ませるような乱暴な真似はしないつもりである。
ヴェリエールの町長がこんなに嫌うパリのいやみったらしい紳士とは、ほかならぬアペール氏のことで、この人は二日ほど前、ヴェリエールの監獄や貧民収容所のみならず、町長はじめこの土地の主だった資産家たちの手で無償で経営されている慈善病院にまで、|つて《ヽヽ》を求めてはいりこんだのである。
「けれどあのパリから来た方が、あなたに対してどんな悪いことができますの?」と、ド・レナル夫人はおずおずと言った。「あなたは誠心誠意をもって貧しい人々の福祉をはかっていらっしゃるんですもの」
「結局あいつは誹謗《ひぼう》を浴びせかけるために来たのさ。そうしておいて自由主義者の新聞にいろんな記事を載《の》せさせるんだろう」
「そんな新聞なんか、あなたは決してお読みにならないくせに」
「しかしそういうジャコバン的な記事は問題になるよ。こういったことがわしたちの心を乱して|善いこと《ヽヽヽヽ》|をするのをさまたげるのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! わしとしては絶対にあの司祭を許さんぞ!」
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第三章 貧民の幸福
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高徳でたくらみごとをしない司祭は、村の人々にとっては神の恵みである。(フルーリ)
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ここで心得ておかねばならぬことは、ヴェリエールの司祭は八十歳の老人でありながら、この山岳池方の清浄な空気のおかげで健康と剛直な気概とをいまだに失わないでおり、いつでも勝手に慈善病院でも貧民収容所でさえも視察する権利を持っていたことである。パリから司祭に紹介されて来たアペール氏は、賢明にも朝の正六時にこの奇妙な町に到着した。すぐさま彼は司祭館へ行った。
貴族院議員でありこの地方の最も裕福な地主であるド・ラ・モール侯爵から自分に宛《あ》ててよこした手紙を読みながらシェラン司祭は考えこんでいた。
(わしは年よりだし、ここでは人から愛されている)彼はしまいに低い声でつぶやいた。(あいつらもまさか!……)すぐさまパリから来た紳士のほうを振り返って、その高齢にもかかわらず少々危険ではあるが善い事をしようという心の喜びを示す崇高な熱情に瞳《ひとみ》をかがやかせながら司祭は言った。
「私と一緒においでなさい。けれども、典獄《てんごく》や、とくに貧民収容所の監視人の前では、ご覧になったことについて一言もご意見を述べないでください」アペール氏は自分の相手が毅然《きぜん》たる心の持ち主だと了解した。彼はこの尊敬すべき司祭のあとについて、監獄と病院と収容所を訪問し、いろいろな質問を浴びせはしたが、奇妙な返事を聞かされても非難するような様子は毫末《ごうまつ》も見せなかった。
この訪問は数時間にわたった。司祭はアペール氏を食事に招いたが、彼は手紙を書かなければならないと言ってことわった。彼はこのもののわかった案内者にこれ以上|累《るい》をおよぼすことを望まなかったのだ。三時ごろこの二人は貧民収容所の視察を終えてから監獄へ戻って来た。ところが門のところに、一メートル八十センチもある|がにまた《ヽヽヽヽ》の大男の典獄が待ちかまえていた。下司《げす》っぽい彼の顔は恐怖のために醜くなっていた。
「ああ、司祭様」と彼は司祭を見るや言うのだった。「あなたと一緒にいらっしゃるそのお方はアペールさんではございませんか?」
「それがどうしたのです?」と司祭は反問した。
「昨日から私はそれはきついお達しを受け取っていますんで。知事閣下が憲兵をよこされたのですが、憲兵は一晩中かかって馬を飛ばして来たに相違ありません。それはつまり、アペールさんが監獄にはいるのを許してはいけないというのです」
「はっきり申し上げておくが、ノワルーさん、私とご一緒のこの旅の方はいかにもアペールさんです。だがあなたは、私が夜昼問わずいつでも好きな人を連れて監獄へはいっていいという権利を持っていることはご存じかな?」
「知っておりますとも」と典獄は、笞《むち》で打たれるのが恐ろしくていやいやながら服従させられるブルドッグのようにうなだれて低い声で言った。「ですが、司祭様、私にも妻もあれば子もあります。もしこのことが上申されたら私は免職させられます。この職以外に私には生計の道がないのです」
「わしだってこの職を失ったらたいへん迷惑する」と正直な司祭はますます激した声で答えた。
「いいえ、大ちがいです!」と典獄は激しく答えた。「司祭様、あなたは誰でも知っているように、八百リーヴルの年金と確実な財産を持っていらっしゃる……」
こういった事実が幾通りもの仕方で曲解され誇張され、二日前からこのヴェリエールの小さな町のあらゆる憎悪の感情をかきたてていた。そして、現に今このことが、ド・レナル氏とその細君のあいだに交わされているささやかな議論の題目となっていたのである。その朝、貧民収容所長ヴァルノ氏をともなって、きわめて強硬な遺憾の意を表明するため彼は司祭の家を訪れたのだった。シェラン師には誰一人としてうしろだてになってくれる人はいなかった。そ黷ナ彼には、この二人の言葉の意味するところが充分感ぜられた。
「よろしい、それでは私はこの近所で、八十にもなって免職させられる三人目の司祭になるわけですな。私はもう五十六年もここにいる。私は、私がここに来た当時はまだちょっと大きな村にすぎなかったこの町の住民を、みんな洗礼してやったものです。現在私は毎日若い人たちの婚礼を挙げてやっているが、その連中のお祖父さんも昔私の手で結婚させてやったのだ。ヴェリエールの町の人々はみんな私には家族のように思える。だが私は、あのよその人を見てこう思ったのです……パリから来たこの男は、実際、自由主義者でないとはいえぬ、自由主義者というやつはありあまるほどいるんだから。しかしそうだとしたところで、この人が町の貧民や囚人に対してどんな悪いことができよう……」
ド・レナル氏、とくに貧民収容所長ヴァルノ氏の非難は、ますます激しくなって来た。
「よろしい、それならわしをクビにしていただこう」と老司祭は声を震わせて叫んだ。「クビにされたってわしはこの国に住みます。ご存じのようにわしは四十八年前、年収八百リーヴルある畠を相続した。わしはその収入で生活しましょう。わしはな、この職にあって私腹を肥やすなんてことは決してしませんでした。多分それだからこそ、この職を奪うなどと言われてもこう泰然《たいぜん》としていられるのでしょう」
ド・レナル氏は夫人としごく睦《むつ》まじく暮らしていた。しかし彼女がおずおずと「あのパリの方が囚人たちにどんな悪いことができるのです?」とくりかえして尋ねるのに何と答えていいかわからなくて、あわや癇癪《かんしゃく》を破裂させようとした刹那《せつな》に、彼女は叫び声を挙げた。二番目の息子がテラスの石垣の胸壁に登って、石垣が向う側にある葡萄畑から六メートルも高くなっているというのに、その上を走っているのだ。息子をおどろかして落ちさせてはという懸念から、ド・レナル夫人は子供に言葉をかけることができないでいた。子供は自分の大手柄に得意になって笑っていたが、しまいに母親が真っ青になっているのを見て、散歩道にとびおりて母のほうへ駈けよった。子供はもちろんひどいお小言をくった。
この小事件が話の方向を変えた。
「私は何としてもあの板づくりの倅《せがれ》のソレルをうちに雇おうと思う」とド・レナル氏は言った。「子供たちはそろそろ私たちの手に負えなくなってくるから、あれに監督させるのだ。あれはまあ若い司祭といったところだよ。立派なラテン語学者だから、子供たちに学力をつけてくれるだろう。司祭の言うところでは、しっかりした気性だそうだからね。三百フラン払って食事もさせてやろうと思っている。しかし道徳観念のことは私も少々疑問に思っていたのだ。あれはレジオン・ドヌール受勲者のある老軍医のお気に入りだったからな。あの軍医は身内だとかいってソレルの家に身を寄せに来てたんだ。あの男はきっとほんとに自由主義者の密偵だったんだよ。自分ではこの山地の空気が持病の喘息《ぜんそく》にいいと言っていたけれど、そんなことは証拠があるわけじゃないからね。|ブォナパルテ《ヽヽヽヽヽヽ》(ナポレオンを軽蔑的に呼ぶ言い方)のイタリア遠征のたびにいつも従軍しているんだが、そのくせ帝政復興が問題になったときには反対投票をしたそうだ。この自由主義者がソレルの倅にラテン語を教え、自分の持って来たたくさんの本を譲ってやったのだ。私だって普通なら大工の倅をうちの子供たちにつけてやるなんてことはまったく考えやしなかっただろう。だが司祭が、ちょうどあの決定的な仲たがいをさせてしまった騒動のあった日の前日、そのソレルが神学校へはいるつもりで、三年前から神学を勉強していると私に言ったのだ。だからあれは自由主義者ではない、ラテン語学者なのだ」
「この手を打つと、もう一つ別の点で得になることがあるのだ」とド・レナル氏はずるそうな様子で妻を眺めながらつづけた。「あのヴァルノは無蓋四輪馬車《カレーシュ》につけるために最近買った二頭のノルマンディ種の馬のことですっかり鼻を高くしているのだ。だがあいつは子供のために家庭教師を雇ってはいないからね」
「あのひとは家庭教師まで私たちから横取りしてしまうかもしれませんわ」
「それではおまえは私の計画に賛成するんだね?」とド・レナル氏は、今しがた妻が非常に結構な思いつきを言ってくれたのに微笑をもって感謝しながら言った。「さあ、ことは決まった」
「あら、まあ! あなたは何て早く決心なさるんでしょう!」
「それは私が強い意志を持っているからさ。このことは司祭にも思い知らせてやった。今さら隠し立てすることもあるまい、私たちはこの町で自由主義者どもにかこまれているのだ、あの織物商人たちはみんな私を嫉《そね》んでいる、私はそう確信しているのだ。その中で二、三人は金持になったさ。何かまうものか、おれはやつらに、ド・レナル氏の子供たちが|おかかえの家庭《ヽヽヽヽヽヽヽ》教師《ヽヽ》に付き添われて散歩に出かけるところを見せてやりたいのだ。こいつはききめがあるよ。私のお祖父さんはよく、自分が子供のころ家庭教師をつけられていたと私たちに話したものだ。百エキュ(一エキュは普通では三リーヴル)ほど費用がかかるだろうが、この費用は家の格式を保つのに必要な経費としておかなければならない」
この突然の決心を聞かされてド・レナル夫人はすっかり物思いに沈んでしまった。彼女は大柄のきれいなからだつきをした女性で、この山岳地方の人たちが言うようにこの地方での美人だった。彼女には何となく天真爛漫《てんしんらんまん》な様子があり、その物腰には若々しいものがあって、パリ人の目から見れば無邪気さと生気のあふれているこの素朴な美しさは、快い肉感的な感じを唆《そそ》りさえするほどだった。自分にそんな意味で人気があるということを知らされたら、ド・レナル夫人はこれを恥ずかしく思っただろう。あだっぼく見せるとか、様子ぶるとかいうことは、彼女にはまったく思いもよらなかったことだった。金持の収容所長ヴァルノ氏は彼女に言い寄ったという噂《うわさ》を立てられていたが、しかしその甲斐はなかったそうである。このことが彼女の淑徳《しゅくとく》に特別な光彩をそえた。なぜならヴァルノ氏は、色つやのいい顔に黒い太い頬ひげをたくわえた、たくましいからだつきの大柄の青年で、田舎では美男子と呼ばれるあの厚かましく騒々しい粗野な連中の一人だったからである。
ド・レナル夫人は非常に臆病で、一見はなはだ気の変わりやすい性格だったが、とりわけヴァルノ氏の、ひっきりなしにからだを動かしていることと大きな声をはりあげることが不愉快だった。ヴェリエールで楽しみといわれているすべてのものを寄せつけなかったため、彼女は自分の家柄を大変自慢にしているという評判を立てられる結果となっていた。彼女にはそんな気持はまるっきりなかったが、しかし町の人たちがだんだん自分のところへ来なくなるのをとても喜んでいた。隠さず言ってしまおう、彼女はこの町のご婦人方の目からは馬鹿と見られていた。なぜなら、自分の夫に対してまったく駆け引きをしないので、パリ製やブザンソン製の美しい帽子を買ってもらう絶好の機会をいつも取り逃がしていたからである。自分の家の美しい庭園のなかを一人で漫歩させておいてくれさえすれば、彼女は決して不平を言わなかった。
素朴な心を持った彼女は、思い上がって、夫を批判したりまた夫か退屈だなどと思うことなどは決してなかった。彼女は、はっきりとそう心に思ったわけではなかったが、夫と妻とのあいだにこれ以上やさしいまじわりはないのだと思っていた。子供たちの将来について話すときのド・レナル氏が彼女はとくに好きだった。彼は子供の一人を軍人に、一人を司法官に、もう一人を僧職にしようと決めていたのである。要するに、彼女はド・レナル氏を自分の知っているすべての男性にくらべてはるかに厭味がないと思っていたのだ。
妻としてのこの判断はもっともであった。ヴェリエールの町長は、一人の伯父から受けついだ半ダースばかりの諧謔《かいぎゃく》のおかげで、才智のある人、とくに上品な人という評判を得ていた。この伯父、ド・レナル老大尉は、大革命以前にオルレアン公|麾下《きか》の歩兵連隊に勤務していた。そしてパリへ出たときには公のサロンに出入りすることを許されていたのである。彼はこのサロンで、ド・モンテッソン夫人や有名なド・ジャンリス夫人、パレ・ロワヤールの設計者デュクレ氏などに会った。こういった人物のことは、ド・レナル氏の語る逸話のなかにあまり頻々《ひんぴん》と出てきすぎるほどだった。しかしこのおいそれとは話題にしにくい事どもの思い出は、だんだん彼にとって面倒くさくなった。そしてしばらく前から彼はよほどの機会でなければお得意のオルレアン家に関する逸話を持ち出さないようになっていたのみならず、金銭上の話でなければ彼ははなはだ鄭重《ていちょう》であったので、ヴェリエールの最も貴族的な人物と思われていたが、これは蓋《けだ》し当然であろう。
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第四章 父と子
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そして、そうなったとしても、それがの罪であろうか?(マキアヴェリ)
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(うちの家内は実際なかなか頭がいいぞ)と、明くる日の朝六時、ヴェリエールの町長はソレル老人の製材小屋へ下って行くみちみち心の中で言った。(一家の主《あるじ》としての体面上ああ言ってやりはしたものの、もしおれがあの天使のようにラテン語ができるというソレル師をこっちのほうへ連れて来てしまわなければ、あのせかせかした収容所長のやつがおれと同じことを思いついて、先生を横取りしてしまわんともかぎらないなんてことは、おれは考えつきはしなかったからな。そんなことになったら、あの男がどんなに得々とした調子でおかかえの家庭教師のことを話すだろう!……だが、一度おれのところの家庭教師になってしまっても、いつか僧服を着るようなことになるだろうか?)
ド・レナル氏はこの疑問にすっかり気を取られていたが、そのとき遠くで一メートル八〇近い一人の農夫が、夜の白みがかったころから、ドゥー河の縁の曳舟道にならべた材木の寸法を一生懸命測っているらしいのに気がついた。町長さんが近づいて来るのを見ると、農夫ははなはだ面白くなさそうな顔をした。この材木が道を塞《ふさ》いでいたばかりか、禁制を犯してここに置いてあったのだからだ。
この農夫とはソレル老人だったが、彼は、ド・レナル氏が自分の倅ジュリアンに関してした突飛な申し込みに大変驚き、またそれ以上に喜んだ。そのくせ彼は、不服そうに陰鬱な、そして気がなさそうな様子でこの話に耳をかしたが、この山岳地方の住民たちはこんな様子をして彼らの狡猾《こうかつ》さをみごとに隠しおおせる術《すべ》を知っているのである。スペイン統治時代の奴隷であった彼らは、今なおあのエジプトの農奴のような人相を失っていない。
ソレルの返事は、最初は、彼が暗記している礼儀上のきまり文句を一つ残さず長々と朗読したにすぎなかった。このそらぞらしい文句をくりかえしながら、ぎごちない徴笑を浮かべているので、彼の容貌に生まれつきそなわった偽善的な、そしてほとんど狡猾というべき表情がそのためますます目立ってきたが、その一方、この老農夫の明敏な頭脳は、かくも名望ある人をして自分の息子のようなろくでなしを召しかかえようと決心させるに到った、その理由を看破しようと努めていた。彼はジュリアンについては大いに不満であった。ところがそのジュリアンのことでド・レナル氏は年三百フランという思いがけない給料と、さらに食事のみか服まで彼に申し出てきたのだ。もっともこの最後の服についての要求は、ソレル老人が辣腕《らつわん》をふるってやにわに持ちかけたのだが、ド・レナル氏はこれをも同時に承諾したのである。
この要求は町長を驚かせた。(まるでこうなるのがあたりまえたというように、ソレルのやつがおれの申し込みに狂喜もしなければ満足もしない以上は)と彼は心に思った。(こいつは明らかに誰かほかのやつが申し出をしたんだぞ。もしあのヴァルノでないとすれば、いったいこの申し込みは誰がしたんだ?)
ド・レナル氏はこの場で確定しろとソレルに迫ったが無駄だった。この悪賢い老農夫は頑強にそれを拒んだ。伜に相談しましょうと彼は言うのだった。まるで、田舎で金持の父親が無一文の息子に、ほんの形ばかりではなしに何か相談するということがあるとでもいうように。
水車利用の製材小屋は小川の縁《ふち》にある一軒の納屋にすぎなかった。その屋根は、四本の太い木の柱の上に載った木組で支えられている。納屋の真中の、三メートルたらずの高さに上ったり下ったりする一つの鋸《のこぎり》があるのが見える。一方ではごく簡単な装置がその鋸のほうへ一本の林木を押していく。上下する鋸の仕掛けと、ゆっくりと木材を鋸のほうへ押していく(鋸はそれを挽き割って板にするのである)それと、この二つの機械仕掛けを動かすものは、水の流れによって動かされる一台の水車なのである。
自分の工場のほうへ行きながら、ソレル老人は持ち前の大声を張り上げてジュリアンを呼んだ。誰も答えない。兄たちしか見つからなかった。これは巨人のような男たちで、重い斧《おの》を手に持って、これから鋸にかける樅《もみ》の幹を四角に割っていたのだ。彼らは木材の上に引かれた黒いしるしを正確にたどろうと一心不乱になっており、彼らの斧の一打ごとに大きな木片が削り取られていく。彼らは父親の声が耳にはいらなかった。父親は納屋のほうへ行った。なかへはいって、鋸のわきの彼が当然いるべき場所を捜したが、ジュリアンはいなかった。父は三メートルほど上の天井の梁《はり》の一つに跨《またが》っている彼を見つけた。機械全体の機能を注意深く見まもっているかわりに、ジュリアンは本を読んでいたのだ。これ以上ソレル爺さんの癪《しゃく》にさわることはなかった。彼はジュリアンの、兄たちとはまったくちがって力仕事にはあまり向かない華奢《きゃしゃ》な体格のことなら、大目に見てやりもしたろう。だがこの気ちがいじみた読書熱はたまらなかった、彼は一字も読めなかったのだ。
二度三度ジュリアンを呼んでも何にもならなかった。父親のおそろしい声が耳に入るのを妨げていたのは、鋸《のこぎり》の立てる騒音よりもこの青年が本に気を取られていたからだった。とうとう父親は年にも似ず敏捷に鋸にちょうどかかっていた木の上に飛び上がり、さらにそこから屋根を支えている横桁《よこげた》に飛び上がった。猛烈な一撃がジュリアンの持っていた本を小川のなかへ吹っ飛ばした。それに劣らず猛烈な第二撃がまんまるな形をした頭に打ちおろされ、彼はバランスを失った。もうすこしで彼は四、五メートル下の運転中の機械の槓桿《こうかん》のまんなかに墜落して、粉微塵《こなみじん》にされるところだった。だが父親が左の手で彼が落ちかかるところを引き留めた。
「何だ、なまけもの! それじゃきさまは鋸の番をするあいだに相変らずあのろくでもねえ本を読む気か。そんなものは夜読みな、あの司祭のところへひまつぶしに行くときに。そんならおれも文句をいわねえから」
ジュリアンは力いっぱい殴られて目がくらみ、血まで出ていたが、鋸の横の定められた持ち場へ近づいた。彼は両目に涙をたたえていた。肉体的な苦痛よりもむしろ熱愛する本を失ったことが原因だった。
「おりて来い、畜生め、話があるんだ」
機械の騒音のためにまたもやジュリアンにはこの命令が聞こえなかった。すでにおりていた父親はもういちど機械仕掛けの上へ登って行くのが面倒くさくて、胡桃《くるみ》を打ち落す長い棒を持ってきて彼の肩を叩いた。ジュリアンが地におりるが早いかソレル爺さんは彼をうしろから手荒らに追い立てながら家のほうへ連れていった。(おやじめ、何をしやがるんだろう)と青年はつぶやいた。通りすがりに彼は自分の本の落ちた小川をうらめしげに眺めた。それは彼があらゆる本の中で一番愛読したもの、『セント・へレナ覚書』〔ナポレオンがセント・ヘレナ流謫中に口述して残した覚書〕だった。
彼は頬を真赤にして目を伏せていた。十八歳か十九歳の、見かけの弱々しい、整ってはいないが上品な顔立ちで、鉤鼻《かぎばな》をした小柄な青年であった。黒い大きな目は、冷静なときには考え深さと熱情とを示していたが、今このときはきわめて激烈な憎悪をあらわしてかがやいていた。濃い栗色の髪はずっと低くまで生えさがっていたので、額が狭くなっていて、怒ったときには意地悪そうな顔つきになるのだった。人間の顔立ちには無数の変化があるものだが、そのなかでもこれ以上どぎつい特色で際立っているものはおそらく皆無であろう。すらりとした姿のよいからだつきは体力よりも身軽さを示していた。ごく小さなころから、その物思わしげな態度とひどい顔色の悪さのため、父親は、この子は育つまい、育っても家のものの荷厄介《にやっかい》になるだろうと思っていた。家中のものから軽蔑の的にされていたので、彼は兄たちと父親を憎んでいた。日曜、町の広場で遊ぶときには、彼はいつも殴られた。
一年足らず前から、彼はその美しい容貌のために娘たちからいくらかちゃほやされるようになりはじめた。しかし皆から弱い奴だと軽蔑されながら、ジュリアンは、プラタナスのことで大胆にも町長に苦言を呈したあの老軍医正を非常に尊敬していた。
この軍医はときどき父親のソレルに息子の日当に相当する金を払って、ラテン語と歴史を教えた。つまり歴史について自分の知っていること、結局一七九六年のイタリア戦役のことを教えたにすぎないが。
臨終に際して軍医はレジオン・ドヌール十字章と休戦年金の未払い額と三十冊から四十冊の蔵書を彼に遺品としてやったが、その書物のなかで一番貴重なものが、町長さんの熱望のおかげで、迂回された≪公共≫の川へ先ほど飛び込んでしまったのだ。
家へはいるや否やジュリアンは父親の力強い手が肩をつかむのを感じた。またいくつか殴られるものと思って彼は震えていた。
「嘘をつかないで返事をするんだぞ」と、老農夫の荒々しい声が彼の耳のはたで叫ばれると同時に、子供の手が鉛の兵隊人形をまわすように老人の手は彼をぐるりと一回転させた。ジュリアンの涙でいっぱいになった大きな黒い目は自分の心の奥底まで読み取ろうとするかに見える老大工の小さな灰色の目とまともに向き合った。
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第五章 談判
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ぐずぐずしながら彼は事態を挽回する。(エンニウス)
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「できるものなら嘘をつかねえで返事しな、本きちがいの畜生め。どこでおまえはド・レナルの奥さんと知り合いになったんだ? いつ話をしたんだ?」
「ぼくはあのひとと話したりしないよ」とジュリアンは答えた。「教会以外であの奥様を見たことはないんだから」
「だが見つめたんだろう? 図々しいやくざ者め」
「そんなことするもんか。お父さんも知ってるように、ぼくは教会じゃ神様のほかには目もくれないんだから」とジュリアンは、また殴られないようにするにはこうするのが一番良いと思っている、ちょっとした偽善的な態度で言い添えた。
「しかし、これには何か隠れた事情があるんだ」と意地の悪い農夫は言い返して、しばらく口をつぐんだ。「だがきさまみたいなやつからは何も聞き出せやしない、憎たらしい猫かぶりめ。手っ取りばやく言やあ、おまえに出て行ってもらうんだよ。そうすりゃうちの鋸《のこぎり》ももっとよく回るようになるだろうて。おまえは司祭さんか誰かに取り入って、良い地位を見つけてもらったんだろう。荷物をまとめて来い。そうしたらド・レナルさんのところへおまえを連れて行ってやるから。おまえはあすこで子供の家庭教師になるんだ」
「それでいくらもらえるんです?」
「食わしてもらって着物をもらって、三百フランの給料だ」
「ぼくは下男なんかになりたかない」
「馬鹿野郎、誰が下男になるんだって言った? おれが伜を下男にしたいと思ってるとでもいうのか?」
「じゃぼくは誰と一緒に食事をすることになるの?」
この質問にはソレル爺さんも面喰らった。しゃべっているうちにへまをやりかねないと思ったので、彼はかっとなってジュリアンに悪口を浴びせかけ、食いしんぼと罵《ののし》り、ほかの息子たちと相談するため立ち去った。
ジュリアンはしばらくして、彼らがめいめい自分の斧《おの》に寄りかかって相談しているのを見た。長いあいだ眺めていたのち、ジュリアンはどうにも見当がつかないとわかると、また見つかってどやされないように製材小屋の裏手へ行ってすわった。彼は、自分の運命を一転するこの意外な知らせについて考えてみようと思ったのだ。だが彼は慎重にものを考えることができないのを感じた。彼の空想はもっぱら自分がこれからド・レナル氏の美しい家で見ることどもをあれこれと思い描くばかりであった。
〈下男たちと一緒に食事をすることに甘んずるくらいなら、いっそこんなことは皆思い切らなくちゃならない〉と彼は心に思った。〈おやじは無理に押しつけるつもりなんだろう。死んだほうがましだ。おれには十五フランと八スーの貯金がある。今晩逃げ出してやるんだ。憲兵に見つかるおそれがまったくないあの近道を行けば、二日でブザンソンに着く。そこで兵隊に応募する。必要とあらばスイスへ行こう。だがそうなれば立身出世も野心もおしまいだ。それになりさえすればほかの何にでもなれるあの素晴らしい司祭職ともおさらばだ〉
下男たちと一緒に食事するのが大嫌いだということは、ジュリアンの持って生まれた性質から来るものではなかった。彼は幸運をつかむためになら、それとは別の辛酸をいくらでもなめもしただろう。この嫌悪はルソーの『告白』から汲み取ったものだった。この本は、彼の想像力が世間というものを思い描く時の手引になる唯一の本だった。ナポレオン軍の戦報の集録と『セント・ヘレナ覚書』とともに、これが彼の聖典《コーラン》となっていた。この三冊の本のためなら彼は死ぬことも辞さなかった。彼はこれ以外の書物を決して信用しなかった。あの老軍医正の一言によって、彼はこれ以外のありとあらゆる書物を嘘八百の、ペテン師が立身出世の手段として書いたものだと思っていたのだ。
熱情的な心とともにジュリアンは、頭の悪い人間がよく持っていることがあるような、あの驚くべき記憶力をそなえていた。彼はシェラン師が自分の将来の運命を左右する人だとはっきり認めていたので、このシェラン老司祭に取り入るために、ラテン語の新約聖書を暗記してしまっていた。同様にド・メストル氏の『法皇論』をも暗記していたが、しかし両方とも信じてはいなかった。
まるで相互の了解があってのように、ソレルと伜とはこの日、話をすることを避けた。晩方ジュリアンは司祭の家へ神学の教授を受けに行ったが、自分の父親に対してなされたあの奇妙な申し込みのことを話すのは賢明じゃないと判断した。〈たぶん、あれは罠《わな》なんだろう〉と彼は心に思った。〈忘れてしまったような顔をしていなくちゃならない〉
翌日の朝早く、ド・レナル氏はソレル爺さんを呼びにやったが、こちらは一、二時間も待たせた上で、門のところから早くも言訳をならべ立ててはお辞儀をしいしい、とうとうやって来た。ありとあらゆる異議やら故障やらを申し立てたあげく、ソレルは、息子が家の主《あるじ》や主婦と一緒に食事する、ただし客のある日には別室で子供たちと一緒にするということを了解した。町長さんが本当に熱心になっているのがわかればわかるほどますます不平を持ち出したい気になりながら、一方では警戒心と驚きに満たされて、ソレルは伜の寝ることになる部屋を見せていただきたいと頼んだ。非常に清潔なしつらえの大きな部屋で、早くも三人の子供たちのベッドが運びこまれているところだった。
こんな事情が老農夫にとっては一筋の光明だった。彼はすぐさまぬけぬけと伜のもらう服を見せてほしいと要求した。ド・レナルは事務机をあけて百フランを取り出した。
「このお金を持って息子さんが服屋のデュラン君のところへ行って、そろいの黒服を裁ってもらうのだ」
「それで私があれをお宅から引き取るときも」と老農夫は、急に例のうやうやしい態度を忘れて言った。「その黒服はあれにいただけますんで?」
「もちろんです」
ソレルはだらだらした口調で言った。
「それじゃあ、あとはただ一つ、あれがいただくお給金のことを申し合わせればよろしいんで」
「何だって!」とド・レナル氏は腹を立てて叫んた。「それは昨日、話がついている。三百フランあげるのだ。わしはそれで充分だ、いやたぶん多すぎると思っている」
「それはあなたのお申し出で。たしかにそうおっしゃったことは嘘だと申しませんがね」とソレル爺さんは、なおいっそうゆっくりとした言い方で言った。そして、フランシュ・コンテの百姓たちを識っていれば驚くには当らぬあの天才的な頭の働きで、ド・レナル氏をじっと見つめながら彼は言葉を添えた。「ほかに|もっといい口《ヽヽヽヽヽヽ》が見つかりますよ」
この言葉を聞くや町長の顔に周章の色が浮かんだ。けれども彼は我にかえり、優に二時間も、その場しだいで迂闊《うかつ》に言葉を洩らすというようなことのない巧みな会話が続いたあげく、農夫の狡智《こうち》は、生活するためにそんなものを必要としない裕福な人の狡智についに打ち勝った。ジュリアンの新しい生活を規定すべき多数の項目はすべて決定された。彼の給料は四百ランに取り決められたのみならず、毎月一日に前払いすることになった。
「よろしい。三十五フラン渡しましょう」とド・レナル氏は言った。
「半端《はんぱ》が出ないようにするため、町長様のようなお金持で気前の好いお方ならば」と老農夫は猫なで声で言った。「もちろん三十六フランにまで上げてくださいましょうね」
「よし。だがこれでおしまいだよ」とド・レナル氏は言った。今度は憤怒のあまり彼は決然たる態度を取った。農夫はこれ以上話を進めてはならないと見て取った。そこで今度はド・レナル氏のほうが攻勢に出た。彼は最初の月給の三十六フランを、息子のかわりに受け取ろうと夢中になっているソレル爺さんに、絶対にやろうとしなかった。ド・レナル氏は、この会話のあいだに自分がどんな役割を演じたかということを細君に話さなければならないということに思い到ったのである。
「あんたに渡した百フランを返しなさい」と彼は不機嫌に言った。「デュラン君はわしに借りがあるんだ。わしが息子さんと一緒に行って黒ラシャの服を裁たせよう」
この強硬手段にあって、ソレルは賢明にももとのうやうやしい極まり文句をまた言いはじめた。これがたっぷり十五分も続いた。結局、確かにもう何にも得にはならないとわかると彼は退散した。彼の最後のお世辞は、
「では倅をのちほどお館《やかた》へ遣わしますでございます」という文句で終った。
町長さんの支配下の人々は、彼の御意に召そうとする時、その家をこう呼ぶのであった。
自分の工場へ帰ってソレルは息子を捜したが、いなかった。何がおこるかも知れぬと警戒して、ジュリアンは真夜中に家を出たのだ。彼は自分の本とレジオン・ドヌール十字章を安全な場所に置きたいと思ったのである。ヴェリエールを見おろす高い山のなかに住んでいるフーケという名の友人の若い材木商人のところへ、彼は全部のものを移してしまった。
彼がふたたび姿をあらわしたとき……「怠《なま》け野郎」と父親は彼に言った。「きさまなんぞは、長い年月のあいだ前貸ししているきさまの食代《くいしろ》をおれに返すような殊勝な心掛には、いつまでたったってなれねえことだろうよ。ぼろをまとめて町長さんのところへ行っちまえ」
ジュリアンは殴られなかったのに驚いて、急いで出発した。しかし父親の目の届かぬところまで来ると、彼はたちまち歩みをゆるめた。教会にいちど寄って行くのが自分の偽善には有利だろうと彼は判断したのである。
この言葉は読者諸君に意外であろうか? この恐るべき言葉に到達するまでに、若い農夫の心は実際さまざまの紆余曲折《うよきょくせつ》を経なければならなかったのである。
小さな子供の時分に彼は、白い長いマントを着て黒い長い飾り毛のついた兜《かぶと》をかぶった、イタリアから帰った第六連隊の竜騎兵の一隊が、父の家の格子窓に馬をつなぐのを見た。これを見たことが彼をして軍隊生活に熱中させてしまったのである。のちになって彼は、年老いた軍医正の語るロディ橋、アルコーレ、リヴォリの合戦の話に感激しつつ耳を傾けた。老人が自分の十字章に注ぐ燃えるような眼差しをも彼は見て取った。
しかしジュリアンが十四になったとき、ヴェリエールに一つの教会が建立されはじめた。この教会はこんな小さな町としては壮大といってよかった。なかでもジュリアンの心を打つものに四本の大理石の円柱があった。この柱は、それが治安判事とブザンソンから派遣されてきて修道会《コングレガシオン》〔ナポレオンがカトリック教会と和解したのち多くの宗教団体が復活したが、なかでも最も勢力があったのは修道会で、反動勢力と結びついて政治的にも大きな力があった〕のスパイだと言われていた若い副司祭とのあいだに、極度の反目を引き起こしたというので、この国一帯に有名になった。治安判事はあやうく職を失うところだった。すくなくとも世論はそう言っていた。実際彼は、ほとんど二週間目ごとにブザンソンに行って親しく司教|猊下《げいか》に謁見して来るという司祭と、あえて確執したのではなかったか。
そうするあいだに、子だくさんの父親であるこの治安判事は、不公平と思われるような判決を幾度も下した。そしてこの判決がみな、住民のなかでコンスチチュシオネル紙〔一八一五年に創刊された自由主義の新聞〕を読んでいる人たちに下されたのだ。羽振りのよい党派が勝利を得た。実はこれも三フランか五フランの金額でかたづく問題であったのだが、このわずかな罰金を、ジュリアンの名づけ親である、ある釘商人が払えと命ぜられた。憤慨してこの男は叫んだ。「変れば変るものだよ! 二十年以上も昔からあの治安判事はとても正直な人だと思われていたんだがな!」
ジュリアンと親しかった軍医正はもう死んでしまっていた。ジュリアンはナポレナンの話をすることをばったりとやめてしまった。彼は僧侶になりたいという志望を表明した。そして始終父親の製材小屋のなかで司祭が貸してくれたラテン語の聖書の暗記に専念している彼の姿が見受けられた。この善良な老司祭は、彼の進歩に舌を捲いて、彼に神学を教えて一夜を過ごすことも幾度かあった。ジュリアンは彼の前ではもっばら敬虔な感情のみを見せるのだった。こんなに蒼白い、こんなにまでやさしい少女のような顔が、出世できないくらいなら百千の死の危険に身をさらそうという不動の決意を秘めていることを、誰が看破し得たであろうか?
ジュリアンにとっては、成功することとは何よりもまずヴェリエールを去ることだった。彼は自分の故郷をひどく嫌った。そこで見るものはすべて彼の想像力を麻痺《まひ》させたのだ。
ごく幼いころから彼には精神の高揚した瞬間を味わうことがたびたびあった。そういうときには彼は、いつか自分がパリの美しい女性たちに紹介されるということを陶然として考えるのであった。何か目覚ましいことをして見せて彼女たちの注意をひくことができるだろう。これもまたやはり貧しくはあったが、かがやくばかりのド・ボアルネ夫人(のちの皇后ジョゼフィーヌ)から愛されたボナパルトのように、自分とてその女たちの一人から愛されないということはなかろう。数年前からジュリアンは、財産もない無名の一中尉ボナパルトがその剣をもって世界の覇者《はしゃ》となったことを思わずに、おそらく一時間も過ごしたことはなかったろう。これを考えると、彼は自分では大変なものだと思っている数々の不幸から慰められ、また嬉しいときにはその喜びがひとしお深まるのであった。
教会の建立と治安判事の判決は突如彼の目を開かせた。心に浮かんだ一つの想念が数週間にわたって彼を気ちがいのようにさせ、そしてついにこの想念は、熱情的な人間が自分ではじめて何かを考え出したと思った時にそうなるように、無上の力ですっかり彼の心をとらえてしまった。
〈ボナパルトが威名を輝かせたときは、フランスは外敵の侵攻におびえていた。武功はぜひとも必要だったし、またその時代にははやりだった。今では四十歳の僧侶で十万フランの俸給をもらっているなどということもある。つまりナポレオン麾下《きか》の有名な師団長の三倍の俸給だ。それに坊主たちには手助けをしてくれる連中が必要なものだ。あの治安判事は頭もよければこれまでは非常に誠実な人間でいながら、あの年で、三十歳の若い坊主の不興をかってはという心配から面目をつぶしてしまったじゃないか。坊主にならなくちゃ駄目だ〉
いちど、ジュリアンが心機一転して信心を装い、もう神学を習い出して二年にもなったころ、心をむしばむ熱情が突然|堰《せき》を切ってあふれ出て本音を吐いてしまったことがあった。これはシェラン師の家で起こったことだった。僧侶たちの会食の席へ親切な司祭は彼を非凡な学識を持ったものとして紹介したのだが、その席上で彼はふとナポレオンのことを夢中になって賞讃してしまったのだ。その後彼は、樅《もみ》の幹を運ぶときに腕を挫《くじ》いたのだといって右腕を胸に縛りつけた。そして二カ月もこの不自由な姿勢のままにしていたのである。この苦しい刑罰ののちに彼は自らを赦《ゆる》した。今、十九歳とはいえ、見たところ弱々しくて人からはせいぜい十七ぐらいにしか見られないこの青年が、小さな荷物を小脇にかかえて、ヴェリエールの壮麗な教会へはいって行く。
はいって見ると教会は薄暗く人気もなかった。祭礼があるので建物の窓という窓は暗赤色の布でおおわれていた。そのために日の光が射すと、きわめて荘厳な、またきわめて宗教的な光の効果が生じているのであった。ジュリアンは立ちすくんだ。教会のなかにたった一人で、彼は見たところ一番きれいな長椅子に腰をおろした。その椅子にはド・レナル氏の家の紋章がついていた。
祈祷台の上にジュリアンは、読んでくださいとでもいうようにひろげられている印刷された紙片を見つけた。彼は目を近づけて読んだ。
〈……日、ブザンソンにて執行せられたるルイ・ジャンレルの処刑と最期の顛末《てんまつ》……〉
紙は破けていた。裏面には一つの行の最初の二語が読まれた。それは第一歩という言葉であった。
〈誰がこの紙をこんなところに置いたんだろう?〉とジュリアンは言った。〈可哀そうな男だ!〉と彼は溜息をついて付け加えた。こいつの名前の語尾はおれのと同じだ……〉そう言って彼は紙をまるめた。
出るときジュリアンは聖水盤のところに血が見えるように思った。それはそこに注がれている聖水だった。窓にかかっている赤い垂れ幕の反映が聖水を血のように見せていたのだ。
とうとうジュリアンは自分のひそかな恐怖を恥ずかしく思った。
〈おれは卑怯者なのか?〉と彼は自分の心に間うた。〈|武器を執れ《ヽヽヽヽヽ》!〉
この言葉は老軍医の戦争談のなかで何度も何度も繰り返された言葉だったが、ジュリアンにはこれが勇壮に思われた。彼は立ち上ってド・レナル氏の家にむかって急いだ。
しかしこのような立派な決心はしたものの、二十歩ほどのところに目的の家を見るとたちまち彼は、打ち克つことのできないおじけ心にとりつかれてしまった。鉄格子は開いていた。だがそれは彼には物々しく見えた。その中へはいって行かねばならないのだ。
この家に彼が来ることのため心を悩ましていたのは、ジュリアン一人だけではなかった。ド・レアル夫人の極端な臆病さは、職掌《しょくしょう》がら自分と子供たちとのあいだに始終介在することになるこのよその人のことを考えると、思い乱れてしまうのだった。彼女は平生自分の部屋のなかで寝ている息子たちを見馴れていた。朝、子供たちの小さなベッドが家庭教師に当てられた部屋へ運ばれるのを見たとき、彼女はさめざめと泣いた。夫に一番末っ子のスタニスラス・グザヴィエの床だけは自分の部屋へ戻してくれと頼んだが、だめだった。
女性らしい敏感さはド・レナル夫人にあっては極端な程度にまで達していた。ラテン語を知っているからというだけの理由で、子供をがみがみ叱りつけるのを役目とし、この野蛮な言葉のために息子たちを鞭《むち》で打たないともかぎらぬ、ろくすっぽ髪を梳《と》かしてもいない野卑な人間のことを想像すると、彼女は堪えがたく不愉快だった。
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第六章 倦怠
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私が何であるか、そして何をしているのか、もはや私にもわからない。(モーツァルト『フィガロ』)
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男たちの視線に煩わされていないときに自然にそなわっている敏捷さと優美さをみせて、ド・レナル夫人が庭園にのぞんだ客間の|ガラス戸《ポルトフネートル》から外に出たとき、入口の門のところにまだ子どものような若い農夫の、ひどく蒼白い、今しがた泣いて来たばかりの顔を認めた。彼は真白なシャツを着て、腋《わき》の下に紫色の粗織《あらおり》のラシャの大変さっぱりした上着をかかえていた。
この百姓の少年の肌の色は非常に白く目つきはやさしかったので、少々ロマネスクなド・レナル夫人の頭には最初、これは町長さんのところへ何か特別の願いごとを持って来た男装の娘かも知れぬという考えが浮かんで来たのだった。門のところに立ちどまって明らかに呼び鈴のところまで手を挙げる勇気ももてないでいるこの気の毒な人間に彼女は同情した。家庭教師が来ることを考えて苦い心痛を感じていたのを束の間忘れてド・レナル夫人は近づいた。ジュリアンは門のほうを向いていたので彼女がやって来るのを見なかった。やさしい声が耳のはたでこう言ったとき彼はびくっとした。
「何かご用? 坊ちゃん」
ジュリアンはさっと振り向いた。そしてド・レナル夫人のこぼれるほど愛想をたたえた眼差しに驚いて、臆病な気持もいくらかは忘れた。やがて夫人の美しさに驚嘆して彼はすべてを、自分が何しにここへ来たのかということさえ忘れてしまった。ド・レナル夫人は前の質問をくりかえした。
「ぼくは家庭教師になるためまいりました、奥様」と彼は、自分の涙が恥ずかしくて一生懸命ぬぐいながら、やっとそう言った。
ド・レナル夫人は唖然《あぜん》とした。二人はたがいに顔をのぞきこむほどくっつきあっていた。ジュリアンは今までこんなに立派な服装をした人から、特にこんな目もさめるほどの色艶をした女性からやさしい態度で話しかけられたおぼえはなかった。ド・レナル夫人は、はじめ真っ蒼だったが今では桃色に染まっているこの若い百姓の頬の上にとまった大粒の涙を見つめた。やがて彼女は若い娘のようにとりとめもなくはしゃいで笑いはじめた。彼女は今まであんなに思い悩んだ自分のことがおかしくなり、どれほど自分が幸福かということを充分理解することができなかった。まあ何ということ、これこそ、自分の子供たちを叱りつけたり鞭《むち》で打ったりしに来る、薄汚くて身なりの悪い坊さんだろうと彼女が想像していた、その家庭教師なのだ!
「何ですって! |あなた《ムシュー》」と彼女はしまいに言った。「あなたがラテン語をご存知なの?」
この|あなた《ムシュー》という言葉がひどくジュリアンには意外だったので、彼はしばらく考えこんでしまった。
「知っています、奥様」と彼はおずおずと言った。
ド・レナル夫人はすっかり幸福になって、こんなことまであえてジュリアンに言ったほどだった。
「あなた、あまりあの可哀そうな子供たちにがみがみおっしゃらないでしょうね?」
「ぼくが……子供さんを叱る、それはまたどうしてでしょう?」ジュリアンが驚いて問いかえした。
「ねえ、|あなた《ムシュー》」と彼女はちょっと口をつぐんだのち、刻々と感動の増して来る声で付け加えた。「あなたはあの子たちに親切にしてくださるわね、私にそれを約束してくださる?」
ほんとに真面目に、しかもこんな身なりの立派な貴婦人から、またもやムシューと呼ばれるなどとは、ジュリアンのありとあらゆる予想を越えたことであった。幼い日のあらゆる夢想空想のなかでも、彼は、美しい軍服を着るようにならなければ立派な貴婦人などから言葉をかけてもらえはしないのだと自分に言い聞かせていたのであった。ところがド・レナル夫人のほうでは、ジュリアンの顔の色の美しさや大きな黒い目や、また彼が先ほど頭を冷やそうと思って広場の噴水の水盤のなかにひたして来たためにいつもよりもいっそうちぢれている美しい髪の毛に、すっかりだまされていたのである。厳しくはなかろうか、恐ろしい様子をしてはいまいかと子供たちのためにあれほど彼女が恐れていた、もう避ける術《すべ》もないその家庭教師が、若い娘のように内気な様子をしているのを見て、彼女は非常に喜んだ。ド・レナル夫人の穏やかな心にとっては自分の不安と自分の見たものとのこの対照がすでに大きな事件であった。とうとう彼女は驚きから我にかえった。彼女は門口のところでほとんどシャツだけしか着ていないこの若い男とこんなにまでくっつきあっている自分に気がついてびっくりした。
「さあ、はいりましょう」と彼女は大分きまりわるそうに言った。
純然たる快感がド・レナル夫人の心にかくも深い感動を与えたことは、生まれてから一度もなかった。気が気でない不安ののちにこれほど優しいものに出逢わしたことは一度もなかった。これなら彼女があれほど大事にしている可憐な子供たちは薄汚ないやかまし屋の坊さんの手に落ちることもあるまい。玄関へはいるとすぐ彼女は、恐る恐る後ろについてくるジュリアンのほうを振り向いた。彼がこんなに美しい家を見て驚き入っている様子が、ド・レナル夫人の目にはひとしお快かった。彼女は自分の目を信ずることができなかった。特に彼女には、家庭教師というものは黒服を纏《まと》っているべきものと思われたのだった。
「でも本当に」と彼女はまた立ちどまって、そう思ってみれば非常に幸福であるだけに、そう思うのは間違いだったとなることを非常に心配しながら言った。「あなたはラテン語がおできになりますの?」
この言葉はジュリアンの自尊心を傷つけ、十五分ばかり前から恍惚《こうこつ》とした気持になっていた彼を我にかえらせた。
「できますとも」と彼は冷やかな態度を装おうと努めながら言った。「ぼくは司祭さんと同じくらいにラテン語ができます。時には司祭さんはおまえのほうができるとまで言ってくださることもあります」
ド・レナル夫人はジュリアンがひどく意地の悪い顔つきをしているのに気がついた。彼は夫人から二歩ばかり離れて立ちどまった。彼女は近づいて低い声で彼に言った。
「はじめのうちは、学課がよくわからないときでも、子供たちを鞭でぶたないでくださるわね?」
こんなに美しい婦人から非常にやさしい、ほとんど哀願的なこんな口調で言われると、ジュリアンは、自分のラテン語学者としての声望に対して持っている責任までもたちまち忘れてしまった。ド・レナル夫人の顔は彼の顔のすぐそばにあった。彼は婦人の夏着の放つ香水の匂いを嗅いだ。貧しい百姓にとってはこれは驚くべきものであった。ジュリアンはすっかり顔を赤らめて、溜息をつきながら力のない声で答えた。
「ご心配にならないでください。奥様、何についてもおっしゃるとおりにいたします」
子供のための不安が消えたこのときにこそ、ド・レナル夫人はジュリアンのこの上ない美貌にはじめて感嘆したのだった。彼の顔立ちのほとんど女性的な形ときまりわるそうな様子とは、自分自身極度に内気な女性の目には決して滑稽には映らなかった。一般に男性の美貌に欠くべからざるものと思われている雄々《おお》しい様子などは、彼女をおじけさせるものだったろう。
「お年はいくつ?」彼女はジュリアンに尋ねた。
「もうじき十九になります」
「一番上の子は十一なんですの」と、ド・レナル夫人はすっかり安堵《あんど》して言った。「あなたにとっては、まあお友達と言っていいでしょうね。よく言い聞かせてやってください。一度父親がその子をぶとうとしたことがあったんですけれど、子供はまる一週間も病気になってしまいました、ほんのちょっとぶっただけですのにね」
〈このおれとは何という違いだ〉とジュリアンは思った。〈昨日もおやじはおれを殴りやがった。まったくこういう金持の連中はしあわせなものだ!〉
ド・レナル夫人は早くもこの家庭教師の心の内の機微までわかるようになっていた。彼女は相手の悲しい気持を見るとはにかみだと解して、彼をはげまそうと思った。
「お名前は何とおっしゃいますの?」と彼女は、ジュリアンにもその魅力が充分に感じられるようなあでやかな言葉つきで言ったが、彼には何でこうまでされるのかわからなかった。
「ジュリアン・ソレルといいます。ぼくは生まれてはじめてよその家に来たのでこわくてたまりません。ぼくは奥様から引き立てていただかなければなりませんし、はじめのうちはいろんなことで大目に見ていただかねばならないでしょう。ぼくは学校へ行ったことがないのです。ひどく貧乏だったものですから。親戚のレジオン・ドヌール帯勲者の軍医正とシェラン司祭さんのほか、誰とも話をしたことがありません。あの司祭さんがぼくがどういう人物かちゃんと証明してくださるでしょう。兄たちはいつもぼくを殴りました。兄たちがぼくのことを悪く言っても信じないでください。落度があっても赦《ゆる》してください。決して悪意があるわけではないのですから」
ジュリアンはこうして長くしゃべっているうちに落ち着いて来た。彼はド・レナル夫人をよく眺めて見た。申し分のないあでやかさというものは、それがその本性の流露である場合、なかんずくその持ち主が自分があでやかだなどと思わないでいる場合には、このような効果をあげるものなのだが、女性の美しさというものに非常によく通じていたジュリアンも、この瞬間には彼女がまだようやく二十歳だと断言したほどであろう。彼は唐突に、彼女の手に接吻しようという大胆な考えを起こした。だがじきに彼は自分の考えがおそろしくなった。一瞬後に彼は心に思った。〈自分にとって有利かもしれない、そしてこの美しい貴婦人が、今しがた鋸《のこぎり》のそばから引きずり出されて来た若い職人に対して多分感じている軽蔑を弱めるかもしれない行為をやれないとは、おれが卑怯だからなんだぞ〉多分ジュリアンは、この半年ばかり前から、日曜日にそこらの若い娘たちが自分のことをちょいちょい美少年と言っていたのを思い出して、この言葉によって少々勇気を与えられたのであろう。こういう心中の相剋《そうこく》がつづいているあいだに、ド・レナル夫人は子供たちに引き合わされるときの心得を二、三彼に向かって言った。ジュリアンは自分の弱い心を抑えようと無理な努力をしていたのでまたもや真っ蒼になった。彼はぎごちない様子で言った。
「決してお子様をぶったりしません。神様の前で誓います」
こう言いながら、彼は思い切ってド・レナル夫人の手を取って唇のところへ持って行った。彼女はこの挙動に何よりもまず驚いた。そして思慮がかえって来ると腹が立った。とても暑かったので彼女の腕はすっかりあらわなままショールでかくしていただけだった。ところがジュリアンがその手を唇へ持って行ったので腕はすっかりむき出しになってしまったのである。
しばらくして彼女は自分自身を叱りつけた。その場ですぐ怒ってやらねばならなかったように思えたからである。話し声を聞いたド・レナル氏が自分の部屋から出て来た。役場で結婚式を主宰するときと同じ勿体ぶった父親のような態度で彼はジュリアンに言った。
「まず何よりも、子供たちが君に会う前に私が話しておかなければならん」
彼はジュリアンを一室に招じ入れ、二人だけにして出て行こうとした妻をも引き留めた。扉を締めてド・レナル氏は重々しく腰をおろした。
「司祭さんは君が立派な人だと私におっしゃった。このうちではみな君を丁重にあつかうことになっています。私も、もし満足がいったら、行く先君をお助けしてどうにか身を固めさせてあげたいと思っている。もうこれからは君のお父さんにも友人にも会わないようにしてほしい。あの人たちの調子は私の子供たちには向かないからね。ここに最初の一月分の三十六フランがある。しかし私は君がこの金の中から一文たりともお父さんには上げないと約束してもらいたいのだ」
ド・レナル氏は、例の取り引きで彼が自分以上に巧者にふるまったというのでこの老人に腹を立てていたのだ。
「ところで、|ムシュー《ヽヽヽヽ》……というのは、このうちで皆が君をムシューと呼ぶように命じてあるからだ。これで君も上流の人々の家庭にはいったことのありがたさがわかるでしょう……ところで、ムシュー、その背広姿で子供に見られては面白くない。召使いたちはこの人を見たかい?」とド・レナル氏は妻に訊いた。
「いいえ」と彼女はひどく案じ顔で答えた。
「それはよかった。これを着たまえ」と彼は自分のフロックコートを唖然《あぜん》としている青年に渡しながら言った。「それでは服屋のデュラン君のところへ行こう」
一時間以上もして、ド・レナル氏が黒い服を着込んだ新しい家庭教師と一緒に帰って来た時にも、妻はもとの場所に坐っているのだった。彼女はジュリアンがいることによって心が落ち着くのを感じた。つくづく彼を見まもりながら彼女はさきほどの不安を忘れた。ジュリアンは彼女のことなどまったく考えなかった。運命をも人間をもまったく信じなかったにもかかわらず、この瞬間の彼の心は幼児のそれに等しかった。三時間前に教会のなかで震えていたあの一瞬からもはや数年の歳月が過ぎ去ったように彼には思えた。ド・レナル夫人の冷やかな様子を目に留めて、自分があえてその手に接吻したことを怒っているのだと彼はさとった。しかし今まで着慣れていたのとはまったく違う服の肌ざわりを感ずると誇らしい気持が起こって来て、有頂天になり、しかも一生懸命自分の歓びを隠そうとするので、すべての動作に何か粗暴な、突拍子なところがあるのだった。ド・レナル夫人は驚きの目で彼を見つめた。
「子供たちや召使いたちから尊敬されようと思ったら、もっと重々しくしなければいかん」とド・レナル氏は彼に言った。
「この新しい服が窮屈なのです」とジュリアンは答えた。「貧しい百姓のぼくは背広以外のものを着たことはありませんでした。お許しくださるなら自分の部屋へ引きさがりたいと思いますが」
「おまえ、あの新しい獲物をどう思うね?」ド・レナル氏は妻に言った。
ほとんど本能的な、あきらかに自分でも理由のわからぬ衝勤で、ド・レナル夫人は夫に対して真実を言わなかった。
「私はあなたほどあの若い百姓に夢中になってはいなくってよ。あなたみたいに丁寧にしてやれば、つけあがって、一月もたてば家にかえさなければならなくなりますわ」
「かまうものか、かえしてやるさ。だいたい百フランがとこの出費だ。それでヴェリエールの町民は、ド・レナル氏の子供に家庭教師がついているのを見慣れてしまうだろう。おれがジュリアンに職人みたいな服装をさせておいたら、この目的はどうしたって達せられまい。あれをかえすときにはむろん、いま服屋で裁たせて来たそろいの服はこちらに取っておく。いま着せてある仕立屋で見つけた出来合いのやつしかむこうには残らんのさ」
ジュリアンが自分の部屋で過ごした時間はド・レナル夫人にはほんの束の間だったように思えた。新しい家庭教師の到着を知らされた子供たちは母親を質問攻めにした。とうとうジュリアンが姿をあらわした。まったく別人のようだった。彼が荘重だと言ったのではまだ足りなかったろう。これこそ荘重の権化《ごんげ》だった。彼は子供たちに引き合わされると、ド・レナル氏その人をも驚かせるような態度でしゃべった。
ちょっとした演説の終りに彼は子供たちに言った。「私はあなたがたにラテン語を教えるためにここに来たのです。暗誦ということがどういうことかは、あなたがたもご存じでしょう。ここに聖書があります」と彼は、黒い装丁の小型の三十二折本を子供たちに示して言った。「これは特に主イエス・キリストの物語です。新約聖書と呼ばれている部分です。今後私はあなたがたに何度も朗誦させますが、まず私に朗誦させていただきましょう」
一番上のアドルフが本を手に取っていた。
「どこでも勝手に開けてください」とジュリアンは続けた。「節の最初の言葉を私に言ってください。あなたがたがもういいというまで、われわれすべての者の行ないの規範であるこの神聖な本を暗誦して見せましょう」
アドルフは本を開いて最初の言葉を読んだ。するとジュリアンは、まるでフランス語で話しているかのように楽々と全ぺージを朗誦した。ド・レナル氏は勝ち誇《ほこ》った顔つきで妻を見やった。子供たちは両親の驚きを見て目をみはった。召使いが一人、サロンの戸口のところへ来たが、ジュリアンはラテン語をしゃべることをやめなかった。召使いははじめは身動きもしないでいたが、やがて立ち去った。間もなく夫人の小間使いと料理女が扉の近くへやって来た。その時にはアドルフはもう八カ所も開いていた。そしてジュリアンはいつも同じように楽々と全ぺージを朗誦した。
「まあ、素晴らしい! かわいい小さな坊さんだこと!」と、気立てが良くて信心深い料理女が大きな声で言った。ド・レナル氏の自尊心は落ち着かなかった。家庭教師を試すどころか彼は記憶のうちをさぐっていくつかのラテン語の言葉を思い出そうと一心になっていた。やっと彼はホラティウスのある詩句を言うことができた。ジュリアンは聖書のほかラテン語のものを一つも知らなかった。彼は眉をひそめて答えた。
「私は聖職につこうと思っていますので、そんな異端の詩人のものを読むことを禁じられております」
ド・レナル氏はホラティウスの詩句と称するものを大分たくさん引用した。彼は子供たちにホラティウスの何人たるやを説明した。しかしすっかり感嘆してしまった子供たちはほとんど彼の言うことに耳をかさなかった。彼らはジュリアンに目を注いでいた。
召使いたちがあいかわらず戸口にいたので、ジュリアンはこの試みをもっと続けねばならないと思った。
「今度は」と彼は一番末の子に言った。「スタニスラス・グザヴィエさんにもこの神聖な本の一章を私に言っていただきましょう」
小さなスタニスラスはすっかり得意になってどうにかこうにか一節の冒頭の言葉を言った。するとジュリアンはそのぺージ全部を言ってのけた。ド・レナル氏の勝利をまったく申し分のないものとしたのは、ジュリアンが朗誦しているときに、立派なノルマンディ種の馬の持ち主のヴァルノ氏と郡長のシャルコ・ド・モジロン氏がやって来たことだ。この場の光景はジュリアンに、真にムシューという称号を得させてしまった。召使いたちでさえ、そう呼ぶことをあえて拒み得なかった。
夜になるとヴェリエールの全町民がこぞってこの驚異的人物を見ようとレナル家へ押し寄せた。ジュリアンはうちとけない陰鬱な様子ですべての人に受け答えした。彼の名声は非常に速《すみ》やかに町のなかにひろまったので、数日後ド・レナル氏は彼を自分から横取りされることを恐れて、二年間の契約書に署名してくれと言い出した。
「いいえ」とジュリアンは冷淡に言った。「もしあなたが私をくびにしようとなされば私は出て行かねばなりません。あなたには義務を与えずに私だけを拘束する契約などは一方的なものです。私はお断りします」
ジュリアンは、この家に到着してから一カ月もたたぬうちにド・レナル氏その人さえも尊敬してしまうほど、上手に振る舞うことができた。司祭はド・レナル氏やヴァルノ氏と仲たがいしていたので、誰一人としてジュリアンのかつてのナポレオンへの傾倒をあばきたてることができるものはいなかった。彼はナポレオンのことを語るときには、かならず嫌悪の情をあらわして見せるのだった。
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第七章 親和力
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彼らは感情を害さずして、人の心に触れるすべを知らない。(一近代人)
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子供たちは彼を非常に敬愛したが、彼はちっとも子供を愛さなかった。彼はまったく別なことを考えていたのだ。この坊主たちがどんなことをしようとも彼がこらえかねるようなことはなかった。冷静で、公平で、泰然としていて、そのくせ彼は愛された。なぜなら彼がやって来たため、いわば家のなかの倦怠の気が追い払われたからである。彼は良い家庭教師だった。彼としては、自分がそのなかヘはいることを許された上流の社交界に対して、憎悪と嫌厭《けんえん》しか感じなかった。もっとも実のところは、はいることを許されたといっても食卓の一番末席にだったので、おそらく彼の憎悪と嫌厭の理由もそこにあるのだろう。時々豪勢な晩餐があったが、それに出ると彼は自分の身のまわりのすべてのものに対する憎悪を大変な努力をしてようやく抑え得たのだった。とりわけサン・ルイの祭日、ヴァルノ氏がド・レナル氏の家で会話を牛耳《ぎゅうじ》っていたが、ジュリアンはもうすこしで本性をあらわしてしまうところだった。彼は子供たちを見て来るという口実で庭へ逃げ出した。〈誠実ということを何て賞讃しやがるんだ!〉と彼は叫んだ。〈まるでそれが唯一の美徳とでもいうようだ。そのくせ自分が貧民の福祉施設の管理をするようになってから、明らかに財産を二倍にも三倍にも殖やしやがった男を、なんて重んじ、何という陋劣《ろうれつ》な敬意をはらってやがる! あいつが捨て子の養育のための資金から甘い汁を吸ってることを、おれは誓ってもいい。ほかの子供たちが惨めだといってもそれよかずっと惨めな気の毒な子供なのに! ああ、恐るべき人非人だ! それにこのおれだって、父親からも兄弟からも、家中のものから憎まれた捨て子みたいなものさ〉
サン・ルイの祭日の数日前に、ジュリアンは〈忠義通り〉を見おろす〈ベルヴェデールの森〉と呼ばれていた小さな森のなかを一人で散歩しながら聖務日祷を唱えていたが、遠くから人気のない小径を二人の兄がやって来るのを見た。避けようと思ったが駄目だった。この粗野な職人たちは、自分の弟の美しい黒服やきわめて小ざっぱりとした風釆を見、また彼が自分たちに抱いている肚《はら》の底からの侮蔑を感ずると、激しく嫉妬心をそそられて、血まみれになって昏倒《こんとう》するまで彼を殴った。ド・レナル夫人はヴァルノ氏と郡長と一緒に散歩していたが、たまたまこの小さな森へやって来た。彼女はジュリアンが地面に倒れているのを見て死んでいるのだと思った。彼女のぎょっとする様子がひどかったので、ヴァルノ氏が妬《ねた》みを感じたほどであった。
しかし彼がこう心配するのは早まりすぎていたのである。ジュリアンはド・レナル夫人を非常に美しいと思っていた。しかし彼はその美貌の故に彼女を憎んでいたのである。この美貌はもうすこしで彼の成功を妨げようとした最初の暗礁だった。最初の日に彼女の手に接吻させたほどのあの感激を忘れさせようと思って、彼はできるかぎり彼女と話をしなかった。
ド・レナル夫人の小間使いのエリザは、案の定《じょう》若い家庭教師を恋するようになった。彼女は女主人によく彼のことを話すのだった。エリザの恋情のおかげでジュリアンは一人の下僕に憎まれることになった。ある日、彼はこの男がエリザに言っているのを聞いた。「あの薄汚い家庭教師が家にはいって来てから、あんたはもう私と話をしようともしないね」この悪口はジュリアンには不当だった。しかし美少年の本能から彼は自分のすること為すことにいっそう注意をするようになった。それと同じくヴァルノ氏の憎しみも激しくなった。あんなに洒落《しゃれ》こむのは若い坊さんにふさわしからぬと、彼は公然と言った。ジュリアンの着ていたのはほとんど僧衣といっていい服だったのである。
ド・レナル夫人は彼がいつもよりもよくエリザと話をするのに気がついた。彼女は、ジュリアンのとても小さな洋服|箪笥《だんす》の内容《なかみ》のひどく欠乏していることが、この会話の原因となっていることを知らされた。彼はあまり下着を持っていないので、そのため非常に頻繁《ひんぱん》に外で洗わせねばならなかったのだ。こういう細かい身のまわりの世話のために彼にとってエリザが便利だったのである。夢にも思わなかったこの極度の貧しさがド・レナル夫人の心を動かした。彼女はいろいろのものを彼にやりたいと思った。しかしあえてやることはできなかった。この内心の抵抗は、ジュリアンが原因となって彼女が感じた最初のつらい気持だった。これまでジュリアンという名とまったく精神的な純粋な喜悦の感情とは彼女にとって同義語だった。ジュリアンの貧窮を思ってやりきれなくなり、ド・レナル夫人は彼に下着類をやってはと夫に話しかけた。
「愚にもつかんことを!」と彼は答えた。「何だって! おれたちのほうでは全然文句のない、よくやってくれるやつに贈り物をする? むこうがなまけているなら何とかして気を引いてやらなくちゃならんが」
ド・レナル夫人はこういう物の見方に心を傷つけられた。ジュリアンが来る前ならば彼女もこんなことに気を留めもしなかったろう。それ以後、彼女はこの若い僧のきわめて清潔な、しかも非常に質素な身なりを見るたびに、〈可哀そうな子だわ、どうしてこうしていられるのだろう?〉とひそかに思わないことはなかった。
だんだん彼女はジュリアンの窮乏ぶりを見て、不愉快を感ずるかわりに気の毒に思うようになって来た。
ド・レナル夫人は、人が会って見て最初の二週間はこれは馬鹿者だとまったく思いかねない、あの田舎女たちの一人だった。彼女は何一つ人生の経験を持っていなかったし、人と話をしようなどという気持はまったくなかった。彼女は繊細でしかも人を見下すような心を持ってはいたが、あらゆる人間に生得のあの幸福への本能のおかげで、運命の気まぐれから野卑な人たちの間にまじっていたにもかかわらず、これらの人たちのすることに大抵の場合まったく注意を向けないでいた。
もし彼女がほんのすこしでも教育を受けていたとすれば、その飾り気なさと頭の鋭さのために人から認められもしたであろう。しかし金持の跡取娘であったため彼女は、聖心修道院《サクレ・クール・ド・ジエジュ》の熱狂的な敬神家であり、ジェズイット教徒の敵フランス人に対する激しい憎悪に燃えていた尼僧たちの手許で育てられたのであった。ド・レナル夫人はちゃんとした判断力を持っていたので、修道院で教わったことはすべて荒唐無稽のこととして間もなく忘れてしまった。しかし彼女は何一つその埋め合わせをつけなかったので、結局なんにも知らずに終ることになってしまったのである。莫大な財産の相続人として早くからさまざまの阿諛追従《あゆついしょう》の的とされ、しかも熱烈な信仰へのはっきりとした傾向を身につけていたために、彼女はまったく内にこもった生活態度を身につけるようになった。ヴェリエールの亭主どもがその細君たちに手本として挙げもし、またド・レナル氏も自慢にしていたほどの、まったく申し分のない温雅さと自己放棄とを装いながら、平素の彼女の心の動きは実は最も思い上がった性分から来たものだった。あれは傲慢《ごうまん》な人だというのでよく引き合いに出されるような王女でさえ、見かけはこれほど穏かな、これほどつつましやかな女性が、自分の夫のあらゆる言行に注いでいる心ばえにくらべれば、無限に多くの注意を周囲の貴人たちのすること為すことに払っているほどである。ジュリアンが来るまでは彼女は実際子供たちにしか注意を払わなかった。子供たちのちょっした病気とか、苦しみとか、ささやかな喜びとかに、ブザンソンのサクレ・クール女子寮にいたとき神を熱愛したほか愛というものを知らぬこの心の、あらゆる感受性は奪われてしまうのたった。
人には誰にも言わなかったが、息子の一人が熱でも出すと、彼女はまるで子供が死んでしまったような気持になるのであった。結婚してはじめの数年は、どうしても誰かに打ち明けたいというやむやまれぬ気持からとうとう夫に言ってしまうと、そのたびに、女の馬鹿さに関する何かありふれた警句を放ちながら、夫は粗野な哄笑《こうしょう》をするか肩をすくめて見せるかして、こういった心痛の打ち明けを迎えるのだった。こういう種類の冗談は、特にそれが子供たちの病気に関する場合、短刀のようにド・レナル夫人の心を刺した。青春を過ごしたジェズイット派の修道院のあの丁重な甘ったるい追従《ついしょう》のかわりに彼女の見出したものが、こういうものだったのである。彼女の教育は苦悩によってなされた。あまりにも矜持《きょうじ》が高かったため、友だちのデルヴィル夫人にさえこの種の悲しみを打ち明けることのできなかった彼女は、男というものはみな自分の夫やヴァルノ氏や郡長シャルコ・ド・モジロンと似たり寄ったりだと想像していた。野卑、金銭問題や地位や勲章に関すること以外のあらゆる事物に対するまったく言語同断な無感覚さ、自分たちに都合のわるいあらゆる議論に対する盲目的な憎悪、これらのものは彼女には、たとえば長靴を履《は》きフェルト帽子をかぶっていることと同じように、男性には自然なもののように思われた。
長い年月がたってからも、こういう金のことしか頭にない連中のあいだで生きることを余儀なくされながら、ド・レナル夫人はまだこういう輩《やから》になじんではいなかった。
百姓の伜ジュリアンの成功の理由はここにあった。彼女はこの高貴な誇り高い魂に共感することのうちに、目新しいものの魅力の持つこころよい浮き立つような喜びのすべてを見出した。ド・レナル夫人はまもなく彼の極端な無知と行儀の粗暴さをゆるしもした。無知は彼女にはひとしお愛らしく見えたからだし、粗暴さはその後彼女の手で矯《た》めなおすことができたのだ。ごく平凡なことが話題になっている時でも、いや、犬が往来を横切るとき全速で走って来る百姓の荷馬車にひき殺されたという話であってさえ、彼女は彼の言うことには耳を傾ける甲斐があると思った。この犬の悶《もだ》えるさまを聞いて夫はげらげら笑ったが、それに反して彼女は、ジュリアンの形よく反《そ》りかえった黒い美しい眉毛がひきつるのを見たのだった。度量の広さや心の高貴さや人情などは、彼女にはだんだんこの若い僧侶にしかないように思われて来た。あらゆる共感も、またこれらの美徳が生まれのよい人の心にかきたてる嘆賞の念も、彼女はただジュリアン一人に対してしか持てなかった。
もしこれがパリだったならば、ド・レナル夫人に対するジュリアンの立場はいちはやく単純化されたことであろう。とにかくパリでは恋愛は小説の子である。若い家庭教師とその内気な奥様とは三、四編の小説を読みさえすれば、いやジムナーズ座でやりとりする台詞《せりふ》を聞きさえすれば、自分らの立場を理解しただろう。小説は二人に自分の演ずべき役割を描いてくれたろうし、模倣すべき手本を示してもくれたろう。そしてこの手本、これはジュリアンが、何らの楽しみを感ぜられなくとも、いやおそらくは顔をしかめながらも早晩、虚栄心の命ずるままにしたがわねばならなかったはずだが。
アヴェーロンかピレネー地方の小さな町だったならば、ほんのちょっとした出来事でもその土地の熱気のために決定的なものになってしまったろう。それにくらべればもっと暗いこの地方の空のもとでは、その心が繊細であったがために金によってしか得られぬ享楽のいくばくかを是非とも味わおうと思い、それ故に野望を抱いた一人の貧しい青年が、子供のことにばかり気を取られていて断じて小説などのなかに行動の手本などを見いだすことのない、心底から貞淑な一人の三十歳の女を、毎日毎日ただ見ているばかりなのだ。田舎では何事につけても進行は緩慢《かんまん》であり、万事は徐々に行なわれる。しかしそのほうが自然に事が運ぶのである。
若い家庭教師の貧しさを思いやってド・レナル夫人はしばしば涙を流すまでに感動した。ジュリアンはある日、彼女が実際泣きくずれているところを見つけた。
「おや、奥様、何か不幸なことでも起こったのですか?」
「いいえ、|あなた《モナミ》(このモナミという呼称を夫人は平生、夫に対して用いている)、子供を呼んでください。散歩をしましょう」
彼女は彼の腕を取って、ジュリアンにはおかしく思われるほど彼によりかかった。彼女が彼をモナミと呼んだのはこれがはじめてだった。
散歩が終りにちかづいたころ、ジュリアンは彼女がひどく顔を赤らめているのを目に留めた。彼女は歩みを緩《ゆる》めた。
「もう誰かがお話ししているかもしれませんけど」彼女は彼を見ずに言った。「私はブザンソンに住んでいる大変お金持ちの伯母の、たった一人の跡継ぎなのです。伯母は私にいやというほどいろんなものを送ってくれますの……子供たちはたいへん力がつきましたわ……驚くばかり……それで私、ぜひあなたにちょっとした贈り物を受け取っていただきたいの、私の感謝のしるしとして。あなたの下着類をつくるための、ちょっとばかりのお金だけなのよ。けれど……」と彼女はまたもや顔を赤らめて付け加えたが、そのまま言葉を切った。
「それで、何でしょうか?」とジュリアンは訊いた。
「うちの主人に」と彼女はうつむいて続けた。「こんなことをおっしゃるには及びませんわよ」
「私は下らぬ人間です、奥様。けれども私は卑しくはありません」とジュリアンは立ちどまって言いかえした。目は怒りに輝き、昂然と頭を反らしていた。「このことをあなたはよくお考えくださらなかったのですね。どんなことであろうと|私の金《ヽヽヽ》に関することでド・レナルさんに隠し立てしなくちゃならんような羽目になったら、下僕よりも私は劣ることになります」
ド・レナル夫人はうろたえた。
「私がこの家に住むようになってから」とジュリアンは続けた。「町長さんは私に三十六フランずつ五回渡してくださいました。私の出納簿《すいとうぼ》はド・レナルさんにだって誰にだって、私を憎んでいるヴァルノさんにでさえ、平然とお見せできるようになっているのです」
こんな風にやっつけられたので、ド・レナル夫人は蒼くなって震えていた。そうして散歩は、双方ともに途絶えた対話をふたたび始めるきっかけも見出されないまま終ってしまった。ド・レナル夫人を愛するということは、ジュリアンの矜持《きょうじ》の高い心のうちではますます不可能になって来た。彼女のほうでは、彼を尊敬し、彼に感服した。ところが彼女はいま彼に怒鳴りつけられたのだ。思わぬことで彼の心を傷つけた償《つぐな》いにとかこつけて、彼女はあえて彼のためにいろいろとこれ以上ないほどまごころのこもった心遣いをしてやった。こういったことをいろいろやってみるということの新奇な感じが、一週間というもの、ド・レナル夫人の楽しみだった。このことのためにジュリアンの怒りの幾分かは和げられた。しかし彼はその心づくしのなかに、個人的な特別の親しみとでもいったものをまったく読みとろうとはしなかった。
〈いかにも金持の連中らしいじゃないか。相手の心を傷つけておいて、それから何か見えすいたことをすれば何もかも償うことができると思ってやがる!〉
ド・レナル夫人は胸も塞《ふさ》がる思いをしていたし、のみならず無垢《むく》な心の人だったので、このことについては固い決心をしていたにもかかわらず、自分がジュリアンに対してした申し出と、どんなふうにそれをはねつけられたかということを夫に話してしまった。
「なに」とド・レナル氏はひどく怒って言った。「召使いから拒絶されて黙っていたんだと?」
そしてド・レナル夫人がこの召使いという言葉を聞きとがめたので、
「わしはね……亡くなったコンデ公が自分の侍従たちを新しい奥方に紹介するとき、ここにいる人たちは|みなわしの召使いだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とおっしゃったが、わしはその|でん《ヽヽ》で言っているんだよ。いつかあんたに読んであげたことのあるブザンヴァールの『回想録』のなかのこの句は、身分の順序ということについては根本のものなんだ。貴族でなくてこの家に住んどって給金をもらっとるものは、みんなあんたの召使いなのだ。わしはこれから行ってジュリアン君にちょっと話をした上で百フランやってくる」
「ああ! あなた」とド・レナル夫人は身震いしながら言った。「せめてほかの召使いたちの見ている前では上げないでね!」
「うん、やつらは妬《ねた》むだろうからな、それももっともだが」と言って、夫は金高のことを考えながら立ち去った。
ド・レナル夫人は悩ましさのためにほとんど失神したみたいになって椅子の上にくず折れた。〈あの人はジュリアンを辱《はず》かしめるだろう。それも私の落度からだ!〉彼女は自分の夫をひどく恐ろしく思い、両手で顔をかくした。今後二度と打ち明けたりしまいと彼女は心に誓った。
その後ジュリアンに会うと、彼女はわなわな震えていた。胸がひどく詰まって、ほんのちょっとした言葉さえ口に出すことができなかった。どぎまぎしながら彼女は彼の両手を取って握りしめた。
「ねえ、あなた、主人に不服はない?」と彼女はついに言った。
「不服があるはずがないじゃありませんか」とジュリアンは苦い微笑とともに答えた。「あの方は私に百フランくださいましたもの」
ド・レナル夫人は心もとなさそうに彼を見つめた。
「腕をかしてちょうだい」ととうとう彼女は、今までジュリアンがまったく知らなかった決然たる口調で言った。
ヴェリエールの本屋は自由主義者だという恐ろしい評判を立てられていたにもかかわらず、彼女は大胆にもその本屋まで出かけて行った。そこで彼女は十ルイ(一ルイは二十四フラン)で本を数冊貰い、子供たちにやった。しかしその本は、ジュリアンがほしがっていることを彼女が知っている本だった。彼女は本屋の店内で子供たちに、めいめいがすぐさま自分のもらった本に名前を書くようにと命じた。ド・レナル夫人がこういう大胆な振る舞いをしてジュリアンに償いのできたことを喜んでいる一方、彼は本屋で見る書物の多いことに驚いていた。彼は今までこのように世俗的な場所にはあえて一度もはいったことがなかった。彼の心は弾《はず》んだ。ド・レナル夫人の心の裡《うち》を見破ろうなどと努めるはおろか、若い神学生たる自分にも何とかしてこの本のうちの幾冊かを自分のものとする手だてはないものかと、一心に思いめぐらしていたのである。結局彼は、この地方の生まれの有名な貴族の歴史を子供たちに作文の材料としてあてがわねばならないとド・レナル氏に納得させることも、上手にやれば不可能ではないと思いついた。一月ばかり機をうかがっていた末、ジュリアンのこの思いつきは成功した。首尾よくいったのに気をよくして、しばらくたってからド・レナル氏との話のあいだに、この貴族の市長には前のことよりもはるかに迷惑なあることを一か八かで勧《すす》めてみた。というのは例の本屋から予約購読するということで、これは一人の自由主義者の財産を殖《ふ》やすことになるのであった。しかしド・レナル氏は、長男が将来幼年学校にはいったとき、人の話に聞かされるような若干の著書について、あらかじめ|目で見た《ヽヽヽヽ》記憶を持たせておいたほうが賢明だということには異存がなかった。しかしジュリアンは町長さんがそれ以上積極的に出ようとはあくまでもしないのを見て取った。彼は裏にひそんだ理由をおぼろげに感じはしたが、しかしはっきりと見抜くことはできなかった。
ある日、ジュリアンは彼に言った。
「レナルというような立派な貴族の名前が本屋の小汚ない名簿の上に載るなどということは大変不都合なことだと、私も考えていました」ド・レナル氏の顔は明るくなった。ジュリアンは謙譲な態度で続けた。「貧しい神学生の身にとっても、いつかその名が貸本屋の名簿に載っていたなどということがもし見つかるようなことになりましたら、やっぱりはなはだ良からぬ心証を与えることになりますでしょうから。自由主義者の連中はきわめて汚らしい本を求めたといって私をとがめることでしょう。いやそれどころか、私の名の次にあの非倫な本の題名を書き添えないともかぎりませんもの」
けれどもジュリアンは横道にそれていった。町長の顔にまたも当惑と不機嫌があらわれて来るのを彼は見た。ジュリアンは沈黙した。〈こいつ、もうこっちのもんだ〉と彼は思った。
数日後、年上の子がジュリアンに、コチディエンヌ紙〔正統王党派の新聞。正統王党とはシャルル十世の血統を王位に擁立する一派〕に予告されてある本のことを、ド・レナル氏のいる前で質問した。若い教師は言った。
「ジャコバン党にすこしでも利益となるようなことを避け、しかもなお私がアドルフさんの質問に充分答えられるようにしようとすれば、お宅の使用人のなかで一番下のものの名で本屋に予約を取らせるのがいいと思います」
「それは悪くない考えだ」とド・レナル氏はもちろんひどく嬉しそうな様子で言った。
「それにしても」とジュリアンは、自分がいつも望んでいたことがいよいよ成功したのを見たとき、ある人々には非常によく似合う、あの厳粛なほとんど困ったような顔をして言った。「それにしても、その下男はどんなものでも小説は取ってはいけないということを、特に厳命しておかねばなりますまい。いちど家のなかにはいってしまったら、こういう危険な書物は奥様の女中や当の下男までも堕落させてしまうかもしれません」
「君は政治上のパンフレットを忘れている」とド・レナル氏は横柄《おうへい》な態度で言った。彼は自分の子供たちの家庭教師の考えた巧妙な手段に対する感嘆を隠したかったのだ。
ジュリアンの生活はこうした小さな駆け引きの連続から成っていた。そしてその駆け引きの成功は、ド・レナル夫人の心のなかに彼が読み取りさえすればよかった明らかな好意の感情よりも、はるかに彼の心を捉えていたのである。彼が生まれて今にいたるまで置かれていた精神的状態は、ヴェリエールの町長さんの家でもまた出て来た。ここでも父親の製材工場にいたときと同様、彼は自分と一緒に暮らしている人々をこのうえもなく軽蔑し、また彼らから憎まれていた。毎日毎日郡長やヴァルノ氏やその他この家の来客たちが、最近自分たちが目撃してきたことどもに触れていろいろと話す、その話のなかで、彼は彼らの考えがいかに現実とかけちがっているかということを見て取った。一つの行為が彼には感嘆すべきもののように思われる。ところが、それこそまさに周囲の人々の非難の的となるような行為にほかならないのである。彼が心のなかでひそかにそれに答える言葉はいつもきまっていた。〈何ていう人非人だ、でなければ、何ていう馬鹿野郎だ!〉これほどの傲慢さにもかかわらず一つ滑稽なことがあったが、それは彼らの話すことがらがまったく彼に理解し得ぬ場合がしばしばだったことである。
生まれてから彼が肚《はら》を打ち割って話をしたのはあの老軍医正に対してたけだった。彼の持っていたわずかばかりの知識といえば、ボナパルトのイタリア遠征に関するものか外科手術のことに限られていた。若い元気のよい彼は、最も苦痛の激しい手術の話を微に入り細を穿《うが》ってしてもらうのが好きだった。彼は思った。〈ぼくだったら眉毛一本動かないのに〉
ド・レナル夫人がはじめて子供の教育とは無関係な会話を彼としようとしたとき、彼は外科手術の話をはじめた。彼女は色を失ってやめてくれと頼んだ。
ジュリアンはそれ以外のことを知らなかった。こうしてド・レナル夫人と一緒に暮らしていると、二人だけになるが早いか、まことに奇妙な沈黙が彼らのあいだにわだかまってしまうのだった。サロンにいるときは、よしんば彼がいかほど卑下した態度を取っていようと、彼女は彼の目のなかに、自分のところへ来るすべての人よりも理智的にはたちまさっているような様子を見出した。彼女はほんのちょっとでも彼と二人だけになると、彼が目に見えて当惑しているのがわかった。彼女はそれを見て心配した。なぜなら、女の本能によって彼女は、この当惑が決して愛情から来たものでないと悟ったからである。
老軍医正が見て来たという上流社交界の話から何かある観念を得ていたジュリアンは、自分が女性と一緒にいる場所で話が途絶えると、まるでその沈黙が自分一人の過失からでもあるかのように、屈辱を感ずるのであった。ましてや女性と二人だけで差し向いになっている時にこう感ずることははるかに辛《つら》かった。彼の頭脳は男子たるものが何を話題とすべきかということについての極端に誇張された、まったくもってスペイン風の考え方でいっぱいになっていたので、女と二人だけになると、思い乱れている彼にはお話にならないような考えしか浮かばなかった。彼の心はひどく昂奮しているのに、そのくせこの最も不面目な沈黙から抜け出すことはできないのであった。それゆえに彼の厳《いか》めしい顔つきは、ド・レナル夫人や子供たちと一緒に長い散歩をしているあいだ、実に痛切な苦悩のためにますますひどくなった。彼はものすごく自分自身を軽蔑した。あいにく無理をして話をしようとすると、このうえなく馬鹿げたことを言ってしまう。惨めさの極《きわ》みというべきことに、彼はこの馬鹿らしさを自ら認めもし、しかもそれを誇張して考えたのだ。
しかし彼に認められなかったのは、自分の目の表情だった。この目はとても美しく、しかも非常に熱烈な魂を示していた。そのためこの目は、上手な俳優がするように、時として何の意味もないことにも美しい意味を与えることがあった。ド・レナル夫人は、彼が自分と二人だけのあいだは、なにか思いがけぬことが起こって注意をそらしたため上手にお世辞を使いこなそうという考えがなくなった時でなければ、彼が決して気の利いたことを言わないということに気がついた。家の常客たちから斬新《ざんしん》な才気|煥発《かんぱつ》な考えをいやというほど聞かされるようなことはなかったので、彼女はジュリアンの才気のひらめきを陶然として楽しむのであった。
ナポレオンの失脚以来ちょっとでも粋《いき》に見えることは、田舎の風習からきびしく追放された。免職がこわいからである。悪がしこい連中は修道会に手づるを求める。そして偽善の風は自由主義的な階級においてさえ急速にひろまった。倦怠はますます激しくなる。読むことと耕すことのほかに楽しみなどというものは残っていないのだ。
信心深い伯母の裕福な跡取りであるド・レナル夫人は、十六歳で立派な貴族と結婚したのだが、生まれてから今まで、ほんのすこしでも色恋らしいものなどまったく自ら味わいもしなかったし、見たこともなかった。彼女の懺悔聴聞僧《ざんげちょうもんそう》たる善良なシェラン司祭だけが、彼女に恋愛について話して聞かせたほとんどただ一人の人であったが、それもヴァルノ氏が彼女に求愛したことに触れての話で、彼女はそれから非常に忌《いま》わしい印象を受け、そのためにこの言葉は彼女にとって最も卑しい放蕩《ほうとう》のみしか意味しないようになった。偶然に彼女の目に触れたごく少数の小説のなかに見出したような恋愛は、彼女はこれを例外として、それどころかまったく不自然なものとして見ていた。この無知のおかげで、ド・レナル夫人は申し分なく幸福であり、絶えずジュリアンのことばかり考えながら、ごくちょっとした非難をさえ招くようなことはまったくなかったのである。
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第八章 小事件
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抑えようとすればこそなお深い溜息
人目をはばかればこそなお甘いひそかな一瞥《いちべつ》
過ちをおかしたわけでもないのに真っ赤に顔を染めていた。
(バイロン『ドン・ジュアン』第一章七十四節)
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レナル夫人はその本来の性質と現在の幸福のために天使のように和《なご》やかな気持になっていたが、小間使いのエリザのことを考えるとなると、その和やかさにも多少影がさすのであった。この女中はどこかで遺産を相続して、シェラン司祭のところへ懺悔に行き、ジュリアンと結婚したいという気持を告白してしまった。司祭は自分の愛弟子の幸福に心から喜んだ。しかしジュリアンが決然たる面持でエリザ嬢の申し出は自分には受けられないと言った時、彼の驚きは大きかった。
「自分の考えることによくよく気をつけるものだよ」と司祭は眉根にしわをよせながら言った。「わしは君の天職の自覚を祝福する。もし君があれだけの大きな財産に目をくれないということの理由がその自覚にのみあるとすればじゃ。わしがこのヴェリエールの司祭となってから五十六年になる。それなのにいろんな様子から見ると、わしは近々|罷免《ひめん》されるだろう。これはわしには悲しいことだ。それでもわしには八百リーヴルの年収がある。こんな細かなことを聞かせるのは、君が司祭の地位に期待するものについて錯覚を起こさないようにと思ってだよ。もし君に権勢のある連中に阿諛《あゆ》しようという考えがあるなら、永遠に救われぬことは請け合いじゃ。いかにも出世することはできよう。しかし、貧乏人たちを犠牲にし、郡長や町長や名望家のご機嫌を取り、彼らの煩悩《ぼんのう》に仕えねばなるまい。世間で処世術と呼ぶこういう行ないは、俗人ならば、救済とまったく相容れないものではないかもしれぬ。しかしわしらの身分では、二つに一つを選ばねばならんのじゃ。この世で幸福を得るかあの世で幸福を得るかなのじゃ。その中間はない。さあ帰って、よく考えてごらん。三日したら決定的な返事をしにまた来てもらおう。わしは君の性格の奥底に暗い熱情を見るような気がして心痛するのじゃ。それは、僧侶には不可欠である節制と現世的利益の完全な放棄を示すものではないとわしには思われる。もちろん君の才智は将来において成功するじゃろう。だが、あえてこう言わせてもらおう」と善良な司祭は目に涙をためて付言した。「君が僧職についた場合には、わしは君の救済のことを思うとからだが震えるほどじゃ」
ジュリアンは自分の感動を恥ずかしく思った。生まれてはじめて彼は自分が愛されていることを知った。彼は歓びに泣きながら、ヴェリエールを見おろす大きな森へ涙を隠しに行った。
〈なぜおれはこんな気持になったんだ?〉と、とうとう彼は独語した。〈あの親切なシェラン司祭のためなら百回だって自分の命を捧げてもいいと思う。だがあの人はさっき、おれが馬鹿者にすぎないということをおれに見せつけてくれたじゃないか。誰よりも特にあの人の目をくらましてやることこそおれには必要なんだ。それなのにあの人はおれを見抜いている。司祭がおれに言ったひそかな熱情とは、おれの出世しようという志のことだ。おれには僧になる資格がないと思っている。しかもそれは折も折、五十ルイの年収を棒に振ってやったのだから、あの人もおれの敬虔さと天職の自覚とをうんと高く評価してくれることになると思っていた矢先なのだ〉
〈これからは〉とジュリアンは続けて思った。〈自分の性格のなかではっきりとわかっている点だけしか、おれは信用すまい。おれが涙を流すことに楽しみを感ずるなどとは思いもよらなかった。おれが馬鹿にすぎないことをわざわざおれに証明してくれた男を愛するなどとは思いもよらなかった!〉
三日後にはジュリアンは遁辞《とんじ》を考え出したが、実は最初の日からこの遁辞を準備しておくべきだったのだ。この遁辞は中傷だった。しかしかまうことはない、彼は司祭に、だいぶ逡巡《しゅんじゅん》しながらも、第三者を傷つけることになるので説明はしかねるが、ある事情のためこの結婚計画は最初から思い止まらされていたと告白した。つまりエリザの操行を非難することだった。シェラン師は彼の態度のなかに、若い聖職者の心を燃やすべきはずのものとはだいぶ異なった、まったく俗界的なある激情を見出した。
「のう、君」と彼はまた言った。「君は天職を自覚せずに僧職になどなるより、学問があって人に尊敬されるような善良な田舎紳士になったがいい」
ジュリアンはこの新しい忠言に口先だけでは非常に上手に答えた。彼は熱心な神学校の生徒でも使いそうな言葉を思いついた。しかしその言葉を口に出すときの口調が、また隠しおおせずにその目に輝き出す激情が、シェラン師を警戒させた。
だからといって、ジュリアンにあまり見込みがないと思ってはならない。彼は狡猾《こうかつ》で抜け目のない偽善者の言葉をあやまたずに考え出したのだ。これはこの年輩としては拙《まず》くはない。口調や物腰のほうをいえば、彼は田舎者を相手に暮らしていたのであり、立派な手本を見る機会は奪われていたのである。のちになってあの貴紳《きしん》たちに近づく機会ができたときには、物腰の点でも言葉づかいの点でも彼は敬服すべきものとなったのだ。
ド・レナル夫人は、遺産相続という幸運が最近降って来たのに、自分の小間使いが前にくらべて別段楽しそうにもなっていないのを見て意外に思った。夫人は小間使いがひっきりなしに司祭のところへ通い、目に涙を溜めて帰って来るのを見た。ついにエリザは結婚のことを夫人に話した。ド・レナル夫人は病気になったような気がした。熱が出たようで眠ることができなかった。目の前に小間使いかジュリアンがいるときでなければ生きた心地もなかった。彼ら二人のこと、彼らが夫婦生活のうちに見出す幸福のことのほかは考えられなかった。五十ルイの年収で彼らが暮らすことになる小さな家の貧しい生活が、うっとりとするような色彩で彼女の眼前に浮かんで来るのだった。ジュリアンは、ヴェリエールから二里ほど離れた郡役所所在地のプレで立派に弁護士になることができよう。そうなったら彼女は時々彼に会えもしよう。
ド・レナル夫人は本気でもう気が狂ってしまうと思った。彼女は夫にもそう言い、とうとう病気になった。その晩彼女は小間使いが自分に給仕をしているときに、この娘が泣いているのに気がついた。彼女はこの瞬間、激しくエリザを憎んだ。つらく当りさえした。そしてすぐに赦《ゆる》してくれと言った。エリザの涙はいっそう激しくなった。もし奥様がおゆるしくださるなら自分の不幸を何もかもお話ししましょうとエリザは言った。
「お話し」とド・レナル夫人は答えた。
「それでは、奥様、あの人が私の申し込みを断るのです。意地の悪い人があの人に私のことを悪く言ったのでしょう、あの人はそれを信じているんですの」
「誰があなたの申し込みを断るんだって?」とド・レナル夫人は息も詰まりそうになって言った。
「誰がって、奥様、ジュリアンさんにきまっているじゃありませんの」と小間使いはすすり泣きながら答えた。「司祭様はあの人を説き伏せることができなかったのです。司祭様は小間使いだからという理由で真面目な娘を拒絶するべきではないとお考えですから。何といったって、ジュリアンさんのお父さんはただの木挽《こびき》大工ですわ。ジュリアンさん自身だって奥様のところへ来る前は何をして生活していたんでしょう」
ド・レナル夫人はもう何も聞いていなかった。極度の幸福のあまり彼女は理性的に頭をはたらかせることがほとんどできなくなっていたのだ。もはや考えをあらためる余地のないほどきっぱりとした態度でジュリアンが拒絶したのだということを、彼女は何度も何度も念を押して確かめた。
「私、もういちど最後の努力をしてみてあげましょう」と彼女は小間使いに言った。「私がジュリアンさんとお話ししてみましょう」
明くる日の昼食後、ド・レナル夫人は、自分の恋仇《こいがたき》のために弁じてやり、一時間にわたって彼がエリザと結婚してその財産の分け前にあずかることをあくまで拒み続けるのを見て、無上の快感を味わったのである。だんだんとジュリアンは杓子定規《しゃくしじょうぎ》な答えをやめて、最後にはド・レナル夫人のもっともらしい意見に気の利いた返事をするようになった。幾日も続いた絶望ののちに自分の心をひたす激流のような幸福感を彼女はせきとめることができなかった。彼女はもうまったく気が遠くなった。気を取りなおして自分の部屋に落ち着くと、彼女は誰もかも追い出してしまった。彼女は心の底から驚いてしまったのだ。
〈私はジュリアンに恋を感じているのかしら?〉と彼女はしまいに我が身に問うた。
この発見は、ほかの時だったならば、悔恨と深刻な煩悶《はんもん》のうちに彼女を投げ入れもしたろうが、今は彼女にとって奇妙な、だがいわば自分とは無関係に眺められるものにすぎなかった。今しがた感じたこと味わったことに疲れきった彼女の心は、自分に働きかけて来るさまざまの情熱に対する感受性をもはや失っていたのである。
ド・レナル夫人は働こうと思った。しかしぐっすりと眠りこんでしまった。目を覚ました時にも、当然そうあるべきほどの恐れを感じなかった。彼女はあまり幸福すぎて、何かを悪く解釈することができなかった。この善良な田舎女は素朴で純真であったので、感情とか不幸とかの何か目先の変わったニュアンスを感じてみるために自分の魂をことさらに苦しませたようなことは決してなかった。ジュリアンがやって来るまでは、パリから遠く離れた地方では善き主婦たるものの宿命になっている莫大な仕事にすっかりかかり切りになっていたので、ド・レナル夫人は情熱のことなど、まるでわれわれが富くじのことを考えるような風に考えていた。つまり、てきめんに人を騙《だま》すものであり、馬鹿者たちが求める幸福であると。
晩餐の鐘が鳴った。ド・レナル夫人は、子供たちを連れて来るジュリアンの声を聞くとひどく顔を赤らめた。恋をするようになってから少々要領よくなっていたので、顔を赤らめたわけを説明するため、彼女は猛烈な頭痛がすると訴えた。
「女っていうものはみんなこんなものさ」とド・レナル氏は馬鹿笑いしながら夫人に答えた。「この機械にゃ、いつもどこかしら修理しなけりゃならんところがあるのだ」
こういう種類の機智には慣れていたけれども、その声の調子にはド・レナル夫人は不愉快になった。気を紛らわそうとして彼女はジュリアンの顔立ちを眺めた。彼がどんな醜い男だったにしても、この瞬間には彼女の気に入ったことだろう。
宮廷人の風習の真似をしようと気をつかっていたド・レナル氏は、春の初めの晴れた日が続くとすぐヴェルジーに移った。これはガブリエルの悲劇的な恋愛事件〔中世の物語詩『ヴェルジーの奥方』の恋物語〕によって有名になっている村である。古いゴチック式の会堂の見るからに美しい廃墟から数百歩ばかりのところに、ド・レナル氏は、四つの塔と、チュイルリー宮のそれのような設計の庭園と、多くのツゲの生け垣に、一年に二度枝を落とされるマロニエの並木道とのある、古い館をもっていた。その隣のリンゴ樹の植わった畠が散歩場となっていた。八本から十本ばかりの素晴しい胡桃《くるみ》の樹が果樹園の突き当たりにあった。大きく拡がった群葉はおそらく二メートル四十センチはあろうほどの高さにそびえ立っていた。
妻がこの樹に感心するとド・レナル氏は言った。「あの忌々しい胡桃の木一本について、おれのほうでは半アルパンの作物を駄目にしてしまう。あれの蔭では麦がよく育たないんだ」
田園の眺めはド・レナル夫人には新鮮に見えた。彼女の感嘆の情は昂じて、やがて有頂天の歓びにまでなった。心を燃やす思いのために彼女は才智と果断さをあらわした。ヴェルジーへ到着した翌々日から、ド・レナル氏は役場の事務のために町へ帰っていたが、夫人は自分で金を出して人夫を雇った。ジュリアンが、砂利を敷いた道を胡桃の大木の下を通って果樹園のなかにめぐらせば、子供たちも露に靴を濡らす心配もなく朝早くから散歩することができるだろうという考えを夫人に吹きこんだのだ。この考えは思いついてから二十四時間もたたぬうちに実行された。ド・レナル夫人はジュリアンと一緒に人夫を指図しながら朗かに一日を過ごした。
ヴェリエール町長は町から帰って来ると、できあがっている通路を見てずいぶんびっくりした。彼が帰って来たことも同様ド・レナル夫人をびっくりさせた。彼女は彼の存在を忘れてしまっていたのだ。その後二カ月のあいだ彼は、自分に相談もせずにこんな重大な|模様変え《ヽヽヽヽ》をするなどとはあつかましいと腹立たしげに言っていた。しかしド・レナル夫人がこれを自費でやったということに、彼は少々慰められもしたのである。
彼女は子供たちと一緒に果樹園のなかを駈けまわったり蝶を追いかけたりして日々を過ごした。透きとおった寒冷紗《かんれいしゃ》で大きな網をこしらえて、それでこの可哀そうな鱗翅目《りんしもく》というやつをつかまえるのである。この野蛮な名はジュリアンがド・レナル夫人に教えたものであった。彼女はブザンソンからゴダール氏〔フランスの動物学者〕の大著を取り寄せておいたのだ。それを読んでジュリアンは、この気の毒な虫の奇妙な生態を彼女に話して聞かせるのだった。
これまたジュリアンがこしらえた大きなボール紙の箱のなかへ、皆は情容赦もなく蝶を針で刺して留めた。
とうとうド・レナル夫人とジュリアンとのあいだに会話の種ができた。彼はもはや、沈黙の続くとき味わうあの恐ろしい苦痛にさらされなくなった。
二人はひっきりなしに、しかもいつもはなはだ罪もないことを、この上ない興味をもって話し合った。この活発な、充実した、快活な生活は、たくさんの仕事に悩まされていたエリザのほか、皆から喜ばれた。〈謝肉祭でヴェリエールに舞踏会があるときだって、奥様がお召し物のことにこんなに気を使われることはなかったわ。毎日二度か三度服を替えられるんだもの〉とエリザは言っていた。
作者は何人にも媚びへつらわぬことを建前とするから、見事な肌をしていたド・レナル夫人が腕や胸をひどくあらわにするような服を作らせたことも否定すまい。彼女はとても美しいからだつきだったので、このような服の着方をすると、うっとりするほどよく似合った。
「今まであなたが|こんなにお若かった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことはありませんよ」とヴェリエールの友人たちはヴェルジーへ晩餐に来て彼女にそう言った。(これはこの国の言い方だったのである)
私たちにはあまり信ずることのできない奇妙なことだが、ド・レナル夫人はこれほど気を使いながら別段これという下心など持っていなかったのである。彼女はただそれが楽しかったのだ。子供たちやジュリアンと一緒に蝶を追いかけている以外の時間は、別に何ということもなしに、エリザと一緒に服を作るのに過ごした。ただ一度だけヴェリエールへ出かけたが、それはミュルーズから最近輸入された新しい服を買いたいという気持ちからだった。
彼女はヴェルジーへ、親戚の若い婦人を連れて帰った。結婚して以来ド・レナル夫人は、昔サクレ・クール修道院で友だちだったデルヴィル夫人と知らぬ間に旧交を温めていたのだ。
デルヴィル夫人は、この身内のものがとんでもないことを考えるといってずいぶん笑った。「私一人だったら、そんなことまったく考えてみもしないわ」と彼女は言うのだった。こういう突飛な考えはパリでは頓知《とんち》といわれるが、ド・レナル夫人は夫と一緒にいるとまるで馬鹿げたことのように思うのだった。しかしデルヴィル夫人がいるので彼女は勇気が出た。はじめは彼女はデルヴィル夫人におずおずした声音《こわね》で自分の考えたことを言った。長いあいだ二人きりでいるとド・レナル夫人の才智は活動して来た。そして長い淋しい午前も束の間のように過ぎ去り、この二人の友達はひどくはしゃいでいるのだった。ここに来てみて思慮の深いデルヴィル夫人は、この身内がだいぶ朗かさはなくなったがずっと幸福になっていることに気がついた。
ジュリアンのほうでは、蝶を追って駈けまわることが教え子たちと同じように楽しく、田舎に逗留するようになってから真の童心にかえって暮らした。あれほど窮屈に、巧妙な権謀術策《けんぼうじゅっさく》に気を取られて暮らしたのち、一人で、人々の目から遠ざかり、また本能的にド・レナル夫人をまったく畏《おそ》れぬようになって、彼はこの年頃では特に激しい生きることの喜びに身を任せていた。しかもここは、周囲を世にも美しい山々に取り囲まれていたのである。
デルヴィル夫人が到着する早々、ジュリアンには彼女が自分の味方のように思えた。彼は性急に、胡桃《くるみ》の大木の下の新しい通路のはずれから見える眺望を、彼女に見せようと思った。実際この眺望は、スイスやイタリアの湖水の呈する特に嘆賞すべき美観に比して、優らずとするも決して劣るものではなかった。そこから数歩のところではじまる急勾配の坂を登ると、すぐに、ほとんど川の上にまで突き出た樫《かし》の木立に縁《ふち》取られた大きな断崖に出る。ジュリアンが、幸福に自由に、いやそれのみかこの家の王者のような気持で、この二人の夫人を案内して来たのは、垂直に切り立ったこの岩の頂きだったのである。そして彼は、夫人たちがそこでこの秀麗な跳めに賛嘆するのを見て楽しんだのだった。
「私にはまるでモーツァルトの音楽のように思えます」とデルヴィル夫人は言った。
兄たちに嫉視《しっし》され、暴虐で癇癪《かんしゃく》もちの父親がいたために、ジュリアンにはヴェリエールの近郊の田園の美を見る目がなかった。ヴェルジーでは彼はそのような苦い思い出を見出すことはまったくなかった。生まれてはじめて彼は敵を見なかった。ド・レナル氏が町へ行くことはよくあったが、そういう時は彼は思い切って読書までした。やがて、夜に、しかも花瓶を倒してその奥にランプを隠すなどという気遣いまでして読書するかわりに、彼はゆっくりと眠ることができた。昼間、子供たちの授業の合間に、彼の行動の唯一の規範である彼の熱狂の対象である書物をたずさえてあの岩のところへ彼は来るのだった。そこへ行けば彼は幸福と法悦と、失意の時には慰藉とを、同時に見出した。
ナポレオンが女について言った言葉と、その時代に流行した小説の功罪についてのいろいろの議論が、このとき初めて、彼と同年輩の他の青年たちならばみなずっと前から抱いていたような考えを彼に抱かせた。
酷暑がやって来た。家から数歩離れた巨大な菩提樹《ぼだいじゅ》の下で宵の口を過ごすのが慣例となった。木蔭は闇が深かった。ある夜ジュリアンは夢中になって話していた。若い女性の前で上手に話すということの楽しさを彼はうっとりと味わっていたのだ。身振りをしたとき、
彼は庭に置くペンキ塗りの木の椅子の背にかかっていたド・レナル夫人の手にさわった。
その手は素早く引っ込められた。しかしジュリアンは、自分がそれにさわったとき引っ込ませないようにしてやることが、自分の義務だと思った。しとげねばならぬ義務のこと、またそれに成功しなかった場合の滑稽さ、というよりもむしろ劣等感を味わうことを考えると、たちまち楽しみは彼の心から消え去った。
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第九章 田園の一夜
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ゲラン氏のディドン、何と美しい素描だ!(ストロンベック)
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明くる日、ド・レナル夫人にまた会ったときの彼の眼差しは異様なものであった。彼は夫人を、これから自分が戦いを交えねばならない敵のように眺めた。前夜とは打って変わったこの眼差しが、ド・レナル夫人の度肝《どぎも》を抜いた。彼女は彼に対して親切にしてやっていたのだ。それなのに彼は怒っているように見えた。彼女は彼の目つきから目をそらすことができなかった。 デルヴィル夫人がいてくれるおかげで、ジュリアンはあまり口数を利かないで、頭のなかにある考えにいっそう専念することができた。この一日中彼の唯一の仕事といえば、彼の心を鍛えるあの霊感的な本を読んで自分の決意を強めることだった。
子供たちの授業をだいぶ端折《はしょ》ってしまって、やがてド・レナル夫人の姿を見て自分が勝利を得るため為さねばならぬことをすっかり思い出すと、彼は何としても今晩は夫人が甘んじて自分に手を握らせておくようにしてやらなければならぬと心にきめた。
日が沈み、決定的な瞬間が迫って来るにつれ、ジュリアンの心臓は異様に高鳴った。夜が来た。闇が深くなりそうなのを見て、ジュリアンは胸の上から大きな重石が取り除かれたような喜びを感じた。空には厚い雲がひどくむし暑い風に吹かれて飛び交い、嵐が来そうな気配だった。仲好しの二人の夫人はずいぶんおそくまで散歩していた。この日、彼女たちのすることはどれもこれもジュリアンには奇妙に思われた。彼女たちはこんな空模様を楽しんでいたのだ。繊細な心を持った人々にはこういう空模様の時に愛するということの喜びが増すように思われるのである。
とうとうみんなは坐った。ド・レナル夫人はジュリアンの横に、デルヴィル夫人は自分の友だちのすぐそばに。これからやってみなければならぬことに心を奪われて、ジュリアンには言うべき言葉が一つも思い浮かばなかった。話ははずまなくなった。
〈いつか決闘をしなければならんことになっても、その最初の決闘のとき、おれはこんなにぶるぶる震えてみじめな気持でいるだろうか?〉とジュリアンは心に思った。彼は自分に対しても他人に対してもあまりにも不信を抱いていたので、自分の心の状態をはっきりと意識せずにいるようなことはなかったのである。 このような激しい苦悶よりも、どんな危険でもむしろ危険のほうか好ましいように彼には思えた。何かの用事が起こってやむなくド・レナル夫人が庭を去って家へはいってしまえばいいのにと、幾度か彼は願ったことであろう! ジュリアンは無理矢理に自分の気持を抑えねばならなかったが、それがあまり激しかったので、彼の声はひどく変わってしまった。やがてド・レナル夫人の声もまた顫《ふる》えるようになったが、ジュリアンにはそんなことはいっこう気がつかなかった。義務と臆病な心との恐ろしい相剋があまりにも辛かったので、彼には自分以外のものを何一つ見ている余裕などなかった。館《やかた》の大時計で九時四十五分が鳴ったというのに、彼はまだ何一つ敢行し得ないでいた。ジュリアンはおのれの怯懦《きょうだ》に憤りながら心に思った。〈十時が打ったその瞬間に、今晩してやろうと今日一日みずから誓っていたあのことを決行するか、さもなければ自分の部屋に登って頭を射ち抜くかだ〉
期待と不安に満ちた最後の一瞬間を、過度の昂奮のあまりいわば無我夢中になって過ごすと、彼の頭の上にあった大時計が十時を打った。宿命的なその鐘の一つ一つの音は彼の胸のうちに響きわたり、肉体的な衝動のようなものをひきおこした。
ついに、十時の最後の鐘の音がまだ余韻を残している時に、彼は手を伸ばしてド・レナル夫人の手を取ったが、その手はたちまち引っ込められた。ジュリアンはもはや自分が何をするかということなどはよく考えもせずにもう一度その手を捉えた。彼自身だいぶ昂奮していたにもかかわらず、自分の取った手の氷のような冷たさに彼はぞっとした。彼はそれを痙攣《けいれん》的な力で握りしめた。相手は彼の手から自分の手を引き抜こうと最後の努力をした。しかし結局その手は彼の手のなかに留められた。
彼の心は幸福に満ちあふれた。ド・レナル夫人を愛していたからではない。むごたらしい苦悶がいま終ったからだ。デルヴィル夫人に何も気づかれないように、彼はいやでも話をしなければならぬと思った。彼の声はそのとき響きわたるように高く、しっかりしていた。反対にド・レナル夫人の声はひどく昂奮をあらわしていたので、デルヴィル夫人は彼女が病気だと思って家へはいろうと勧めたほどだった。ジュリアンは危険を感じた。〈もしド・レナル夫人が客間へ帰ったら、おれはまたまた今日一日過ごしたあのやりきれない状態に叩きこまれっちまう。おれはまだほんのしばらくしかこの手を握っていないんだから、まだまだこれをおれの勝ち得た成功のうちに数えるわけにはいかないぞ〉
デルヴィル夫人がサロンへ帰ろうともういちど言ったとき、ジュリアンは自分に委《ゆだ》ねられたその手を強く握りしめた。
ド・レナル夫人はもう立ち上っていたが、絶え入りそうな声でこう言いながらまた腰をおろした。
「私、ほんとに気分が悪いけれど、外の空気のほうが気持がいいわ」
この言葉は、この瞬間絶頂に達していた彼の幸福を確実なものにした。彼は体裁をつくろうことを忘れてしゃべった。耳を傾けている二人の夫人には彼がこの上なく愛すべき男のように見えた。しかし、突然このように雄弁になりながらも、それにはまだ多少元気が欠けていた。デルヴィル夫人が嵐の前に起こる風が吹き出したのに閉口して、一人だけでサロンに帰ろうとしないだろうかと、彼はひどく心配だったのである。そうすれば彼はド・レナル夫人と差し向いになる。彼はほとんど偶然にああいうふうに敢行するだけの盲目的な勇気を得たけれども、ごく簡単な一言でもド・レナル夫人に話しかけることはとてもできない相談だと感じた。彼女の叱責がどんなに軽いものであったにせよ、彼は圧倒されて、勝ち得たばかりの勝利も水の泡になってしまっただろう。
彼にとってさいわいなことに、この晩は、彼の力のこもった人を感動させるような話が、彼のことを子供のように無調法《ぶちょうほう》であまり面白くないと常々思いがちだったデルヴィル夫人から気に入られた。ド・レナル夫人のほうでは、ジュリアンの手のなかに自分の手を置いたまま、何も考えないでいた。彼女はじっとされるままになっていたのだ。
この国の口碑によればシャルル豪胆公〔十五世紀のブルゴーニュ公。好戦的で、数次国王と戦いを交えた〕が植えたという、その菩提樹の大木のもとで過ごした数刻は、彼女にとって幸福に満ちた期間だった。菩提樹の厚い葉群のなかで風が立てる唸《うな》り声や、いちばん下の簇葉《むらば》にまでぱらぱらと落ち始めたいくつかの雨滴の音に、彼女はうっとりと耳を傾けた。ジュリアンは、気づいたならばたしかに彼を安心させたと思われるある事情を見落としていた。デルヴィル夫人が風のために自分たちの足許にころがった花瓶を取り上げようとするためにド・レナル夫人は彼の手から自分の手を放して立ち上らねばならなかったのだが、また腰をおろすやほとんど何ということもなしに、いわば二人の間で申し合わせてあることのように、自分の手を彼に返したのである。
もう夜の十二時をだいぶ過ぎていた。とうとう庭を去らなければならなくなった。皆はわかれた。ド・レナル夫人は愛することの幸福に身も心もなく、世間知らずだったのでほとんどまったく自責することもなかった。幸福のために彼女は眠れなかった。ジュリアンは、今日一日じゅう心のなかで臆病さと自尊心とがせめぎあったため疲れ果てて、鉛のような眠りに落ちた。
翌日、彼は五時に起された。そしてもしド・レナル夫人がこれを知ったら残酷なことと思ったろうが、ほとんど彼は夫人のことなどに一顧だに与えなかった。彼は|自分の義務を《ヽヽヽヽヽヽ》、|しかも雄々しい義務を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》果たしたのだ。こういう感情によって幸福感に満たされて、彼は鍵をかけて自分の部屋に閉じこもり、まったく趣の変わった楽しみをもって彼の尊敬する英雄の武勲に読みふけった。
昼食の鐘が聞こえたときには、彼はナポレオン軍の戦報集を読みながら、昨晩の成功のことなどすっかり忘れていた。彼は客間へ降りて行くあいだに気軽な調子で独語した。〈あの女《ひと》に、ぼくはあなたを愛してますといってやらなくちゃ〉
あの情愛をたたえた眼差しを見いだすものと思っていたのに、ド・レナル氏の厳《いか》めしい顔を彼は見いだした。ド・レナル氏は二時間も前にヴェリエールから帰って来ていたのだが、ジュリアンが子供たちの世話もせずに午前中を過ごしたことに対する不満を隠しはしなかった。立腹していて、しかもその立腹をさらけ出すことができると自惚れているこのもったいぶった男ほど、醜悪なものはまたとなかった。
夫の辛辣《しんらつ》な一語々々がド・レナル夫人の心を貫いた。ジュリアンはといえば、彼は陶酔に溺れ、今さっき数時間にわたって眼前に彷彿《ほうふつ》と描かれていたあの偉大な事蹟のことがまだ頭のなかにいっぱいになっていたので、はじめのうちは低俗なことにまで頭を向けて、ド・レナル氏が自分に対していう手厳しいお談義などに耳をかそうとするまでの気にはなかなかなれなかった。彼はしまいにかなり乱暴に言った。
「私は気分が悪かったんです」
この返答の語調を聞けば、ヴェリエールの町長よりもずっと激しやすくない人でも感情を害しただろう。彼はジュリアンに何とか言い返してその場で追い出してしまおうといった考えも起こした。急《せ》いては事を仕損ずるという自分の金科玉条としている格言を思い出して、やっと彼は思いとどまった。
〈この若僧の馬鹿者め〉とじきに彼は心に思った。〈おれの家に来て、まあ評判といったものを立てやがったからな。ヴァルノのやつが自分のところへ雇うかもしれないし、でなければエリザと結婚するだろう。この二つの場合のいずれにしても、こいつはおれをせせら笑うことができるんだ〉
この反省は賢明であったにもかかわらず、ド・レナル氏はやはり口汚ない言葉をならべて不満を爆発させてしまったが、その言葉がだんだんジュリアンの癇《かん》を昂《たか》ぶらせた。ド・レナル夫人はもうすこしで泣き崩れるところだった。昼食が終ると早速、彼女はジュリアンに散歩をするか腕を組んでくれと頼んだ。彼女は親しげに彼にもたれかかった。ド・レナル夫人がどんなことを言おうとも、ジュリアンは低い声でこう答えることしかできなかった。
「|お金持なんてものはあんなものです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
ド・レナル氏は彼らのすぐそばを歩いていた。彼の存在がますますジュリアンを怒らさせた。彼はド・レナル夫人が目立つほど自分の腕にもたれかかっているのに不意に気がついた。この態度が彼を怒らせた。彼は激しく夫人を突きのけ、彼女の腕から離れた。
さいわいド・レナル氏はこの再度の無礼をまったく目に留めなかった。これに気がついたのがデルヴィル夫人だけだった。彼女は自分の友だちが涙にくれているのを見たのだ。ちょうどそのとき、百姓の小娘が通行禁止の道を通って果樹園の片隅を横切ったのを、ド・レナル氏は石を投げながら追いかけはじめた。
「ジュリアンさん、後生ですから落ち着いてください。人間には誰でも機嫌の悪いときがあるということをお考えになってちょうだい」とデルヴィル夫人はすばやく言った。
ジュリアンはこの上ない侮蔑《ぶべつ》をまざまざとあらわした目で冷たく彼女を見やった。
この眼差しがデルヴィル夫人を驚かせた。しかし、もし彼女がそれが真にあらわしているものが何であるかを看破したらなおいっそう慄然としたであろう。残忍きわまる復讐をしてやろうという漠然とした希望のようなものが、そこに読み取られたろうから。このような屈辱の瞬間こそ、明らかにロベスピエールのごとき輩《やから》をつくり出すものである。
「あなたのところのジュリアンはずいぶん乱暴なのね。私、あの人がこわいわ」とデルヴィル夫人は友だちにごく低い声でささやいた。
「怒るのも無理はないの」とこちらは答えた。「子供たちはあの人のおかげで驚くほど成績が上がったんだから、一度くらい午前中子供たちに話をしてやらなかったなんて、何でもないことなのよ。男の人ってとても気が荒いものだということね」
生まれてはじめてド・レナル夫人はいわば懲《こ》らしめてやりたいという欲望というようなものを夫に対して感じた。金持に対するジュリアンの極度の憎悪は爆発しそうになっていた。折よくド・レナル氏は庭番を呼んで、それと一緒に果樹園を横切る通行禁止の道を茨《いばら》の束でふさぐのに余念なかった。その後、散歩の間じゅうジュリアンはやさしい言葉をかけられていたが、それに一言も答えなかった。ド・レナル氏が立ち去るや、ただちに二人の夫人は疲れたからといってそれぞれ腕を組んでくれと彼に頼んだ。
この二人の女性の頬は極度の不安のために紅潮し、困惑の色につつまれていたので、そのあいだにはさまったジュリアンの気品の高い蒼白さと、陰鬱《いんうつ》な、だが決然たる顔つきとは異様な対照をなしていた。彼はこの婦人たちを軽蔑し、またあらゆるやさしい感情をも軽蔑した。
〈何だ! おれが学業を終えるのには、年五百フランの収入さえいらんのだ! そうなりゃ、こんな女なんぞ追い出してやらあ!〉そう彼は心に思った。
こういう無慈悲な考えにすっかり夢中になってしまって、ようやく彼が聞いてやるほんのわずかばかりのこの二人の夫人のねんごろな言葉も、彼には無意味な、馬鹿げた、柔弱な、要するに|女々しい《ヽヽヽヽ》ものと思われて不愉快だった。
会話をだらけさせまいとしてただ話をするためにだけ話しているうちに、ド・レナル夫人は、主人は自分の小作人の一人からトウモロコシの殻《から》を買うことにしたのでヴェリエールからやって来たのだなどということまでしゃべってしまった。(この国では、ベッドの藁《わら》布団にはトウモロコシの殻を詰めるのである)
「主人はもうこちらへは来ません」とド・レナル夫人は言った。「庭番や従僕と一緒にあの人は家じゅうの藁布団の詰め替えを仕上げることになっています。今朝のうちに二階じゅうのベッドに残らず殻を入れて、今では三階をやっていますの」
ジュリアンは真っ蒼になった。異様な態度でド・レナル夫人を見つめ、やがていくらか足を速めながら夫人をわきへ連れ出した。デルヴィル夫人は二人が離れて行くまま後に残った。
「ぼくの命を救ってください」とジュリアンはド・レナル夫人に言った。「あなただけしか、おできにならないのです。従僕がぼくを猛烈に憎んでいることはご存じでしょう。白状しなければなりませんが、奥様、ぼくは肖像を一つ持っているんです。ベッドの藁布団のなかへ、ぼくはそれを匿《かく》しておいたんです」
この言葉に今度はド・レナル夫人のほうが真っ蒼になった。
「いまぼくの部屋にはいれるのは、奥様、あなただけです。藁布団の一番窓に寄った隅をそれとなく捜してください。黒いすべすべした厚紙の小箱が見つかりますから」
「そのなかに肖像がはいっているの?」とド・レナル夫人はほとんど立っていることもできずに言った。
彼女のがっかりした様子はジュリアンの目についた。彼はそれにつけこんだ。
「それにもう一つ、奥様のご好意にすがらねばならないことがあるんです。どうぞその像をごらんにならないでください。ぼくの秘密なのです」
「それが秘密ですって!」とド・レナル夫人は消え入りそうな声で繰り返した。
しかし、自分の財産を鼻にかけ、金のことにばかり敏感な人々のあいだで育てられたとはいえ、愛するようになってから夫人の心には早くも寛大の情が生まれていた。むごたらしく心を傷つけられながら、きわめて素朴な誠意をあらわして、ド・レナル夫人は依頼の件を果たすために必要ないろいろなことをジュリアンに質《ただ》した。
「それでは、とてもすべすべした黒い厚紙の丸い小さな箱なのね」と彼女は立ち去りぎわに彼に言った。
「そうです」とジュリアンは、危険に際して男たちがするあの厳《いか》めしい顔つきで答えた。
彼女はまるで死地に赴《おもむ》くように蒼白になって館の三階へ登った。まことに惨めなことには彼女はもう気が遠くなりそうだった。しかしジュリアンのため尽力してやらなければならぬという目前の急務が彼女に力を取り戻させた。
〈何としてもその箱を手に入れなければ〉と彼女は足を速めながら自分に言って聞かせた。ちょうどジュリアンの部屋で夫が従僕に話している声が聞こえた。さいわい彼らは子供たちの部屋へ移った。彼女は藁布団を持ちあげて、指を擦《す》りむいたほど激しく手を藁のなかへ突っ込んだ。しかし、こういった種類のちょっとした痛みもひどく気にするたちだったのに、彼女は今その痛みを意識しなかった。なぜならほとんどそれと同時に厚紙の箱のなめらかな手触りを感じたからである。彼女は箱を掴《つか》んで逃げ出した。
夫に見つかりはしないかという不安から解放されるや否や、今度はこの箱がたまらなく憎らしくて彼女はいよいよほんとうに気が遠くなりかけた。
〈それではジュリアンは恋をしているのだ。そしてあたしは今、あの人が愛している女の肖像を手にしている!〉
二階の控えの間の椅子に腰をおろして、ド・レナル夫人は嫉妬のありとあらゆるやりきれぬ思いに悶《もだ》えていた。例の極端な世間知らずがこの時もまた彼女に役に立った。つまり驚きが苦痛を和げたのだ。ジュリアンはやって来て、礼もいわず一言も発せずに箱を掴んで自室へ駆けこみ、火を起こしてその場ですぐそれを焼いた。彼は蒼白で、打ちひしがれていた。彼は自分がいま冒してきた危険の大きさを誇張して考えた。
〈ナポレオンの肖像が〉と彼は頭を振りながらひとりごちた。〈纂奪《さんだつ》者(当時、王党派はナポレオンを簒奪者と呼んでいた)に対するあれほどの憎悪を売り物にしていた男の部屋で見つかる! しかも、あれほど急進王党《ユルトラ》であんなに腹を立てているド・レナル氏に見つかったら! しかも軽率の至りにもあの肖像の裏の白いボール紙に、おれの書いた数行の文句があるんだからな! それを読んだらおれの過激な崇拝を疑う余地などはまったくありゃしない! しかもその熱狂的な敬愛の文句には一々、日付まで書いてある! 一昨日書いたのだってあるんだ〉
〈おれの声望は失墜して一瞬にして消えてしまう!〉とジュリアンは箱が焼けるのを見ながら心に思った。〈しかもこの声望はおれの全財産なんだ。これがなければ飯が食えないのだ……だがそれにしても何たる生活だ、ああ!〉
一時間ほどすると、疲労と自分自身にいとおしさを感じたことで、彼の心は感傷的になっていた。ド・レナル夫人に出逢ったので、彼は彼女の手を取り、いまだかつてなかったほどの誠意をこめて接吻した。彼女は幸福のため顔を赤らめた。とほとんど同時に、彼女は嫉妬の怒りからジュリアンを突きのけた。ジュリアンの自尊心は今しがた傷つけられたばかりだったので、この瞬間、彼は盲目になっていた。彼はド・レナル夫人のなかに一人の金持の女しか見なかった。彼は蔑《さげす》むように夫人の手を放し、立ち去った。彼は庭のなかへ散歩しに行った。やがて苦い微笑が彼の唇のあたりにあらわれた。
〈おれは自分の時間を勝手に使える人間のように、おちついてこのように散歩している! 子供のことなんか考えない。これじゃド・レナル氏の侮辱的な言葉を自分から招いているようなものだ! 侮辱するのも当然だ〉彼は子供部屋へ駈けて行った。
彼が大変愛している一番小さい子のやさしい言葉が、彼のひりひりするような苦悩をいくらか鎮《しず》めてくれた。
〈この子はまだおれを軽蔑していない〉とジュリアンは考えた。しかしじきに彼は、このように苦痛が和らいだのは、またもや気が弱くなったせいだとしてみずから責めた。〈この子供たちは昨日買ってもらった猟犬の仔犬をかわいがるようにおれを愛するのだ〉
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第十章 偉大なる「心」と貧しき「富」
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しかし情熱はいかに闇に包まれて身を匿そうとも、
やはりあらわれ出る。あたかも最も暗い空が
最も激しい嵐を告げるように。
(バイロン『ドン・ジュアン』第一章七十三節)
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ド・レナル氏は部屋々々を残らずひとまわりして来て、藁布団を持った下男たちと一緒に子供部屋へはいって来た。この男が突然はいって来たことはジュリアンにとって、あたかも花瓶《かびん》から水をあふれ出させる最後の一滴のようなものだった。
平素よりも蒼白い陰鬱な顔をして、彼はド・レナル氏のほうへ駈けよった。ド・レナル氏は立ちどまって自分の下男たちのほうを見た。
「あなたはほかのどんな家庭教師をつけても、お子様がたが私についたのと同じほど進歩しただろうと思っていらっしゃるんですか?」とジュリアンは彼に言って、物を言う暇も与えずにさらにつづけた。「もしそう思わぬとおっしゃるんなら、私がお子様がたをなおざりにするなどとどうして非難なさるんです?」
ド・レナル氏は恐怖が去るや否や、この百姓の小伜《こせがれ》が異様な語気で口を利くのを見て、彼が何か有利な申し出を受けていてこの家を去ろうと思っているのだと結論した。ジュリアンの怒りはしゃべるにつれて増して行った。
「私はあなたに世話していただかなくとも生活できるんです」と彼は付け足した。
「君がそんなに激昂《げっこう》されるのは、私にははなはだ遺憾《いかん》です」とド・レナル氏は少々口ごもりながら答えた。下男たちは十歩ばかりのところでベッドを並べていた。
「そんなことを言っていただきたいんじゃありません」とジュリアンは我を忘れて言いかえした。「私に対しておっしゃったあの罵詈雑言《ばりぞうごん》を考えてごらんなさい、しかもご婦人の前で!」
ド・レナル氏はジュリアンの要求するものをあまり気を利かして理解しすぎた。彼の心は恐ろしい葛藤《かっとう》におちいった。ジュリアンはまったく狂憤に駆られてこんなことまで叫んでしまった。
「お宅から出てどこへ行ったらいいか、ぼくは心得ています」
この言葉を聞いてド・レナル氏はヴァルノ氏の家におさまったジュリアンをまざまざと思い描いた。
「よろしい」と彼はとうとう溜息をつきながら、一番苦痛の多い手術のために外科医を呼びに行く時にでもしそうな顔つきで言った。「君の要求に応じよう。あさってがちょうど朔日《ついたち》になるから、その日から月に五十フラン差し上げる」
ジュリアンは吹き出しそうになった。そして呆気《あっけ》に取られていた。怒りはすっかり消え去った。
〈おれはこれでもまだこの畜生を充分軽蔑していたわけじゃなかったんだ。こんな卑しい心の男がなし得る最大の陳謝といえば、まあこんなものなんだろう〉と彼は思った。
口をぽかんと開けてこの言い合いを聞いていた子供たちは、ジュリアンさんがとっても怒ったけれども、これから一月五十フランもらうことになったと、母親に教えるために庭へ駈けて行った。ジュリアンはド・レナル氏のほうを見もせずひどく腹を立てているままほったらかして、いつものように子供たちの跡を追って行った。
〈あのヴァルノの奴《やつ》のおかげで百六十八フランの損をした〉と町長はつぶやいた。〈何としてもあいつの棄児《すてご》収容所の支給品の請け負いについて、ちょっと手厳しく言ってやらなけりゃならん〉
しばらくのち、ジュリアンはふたたびド・レナル氏と向かい合っていた。
「私は信仰のことでシェラン師とお話しすることがあるのです。数時間ほど留守にすることを前もってお知らせ申し上げようと思いまして」
「ああ、ジュリアン君」とド・レナル氏はまったくもってそらぞらしい顔をして笑いながら言った。「君がお望みなら一日じゅうだって、いや明日いっぱいだってかまわんよ、ね、ヴェリエールへ行くのに庭番の馬に乗って行きたまえ」
〈こいつめ、ヴァルノのところへ返事に行きやがる〉とド・レナル氏は心に思った。〈おれには何も約束して行かないが、まあこの若僧の頭を冷まさせておかなけりゃ〉
ジュリアンは急いで家を出ると、ヴェルジーからヴェリエールへ抜けて行くことのできる大きな森へ登った。彼はあまり早くシェラン師のところへ着きたいとは思わなかったのだ。無理してまたもや偽善の一幕を演じようなどとは思いもよらぬこと、彼は森のなかで自分の心のなかをはっきりと見極め、自分の心を揺るがすいろいろの感情をつきとめてみたいと思ったのだ。〈おれは勝った〉と、森のなかにはいって人々の目から離れると早速彼は自分に言った。〈おれは一つの戦いに勝ったんだぞ!〉
この言葉は自分の立場を美しく彼の前に描き出し、彼の心にいくらかの平静を取り戻させてくれた。これでおれは月五十フランの給料をもらうことになった。ド・レナルさんはずいぶんこわかったのにちがいない。しかし何がこわかったんだ?〉
一時間前には憤怒《ふんぬ》に煮えくりかえる思いをしたその相手の、あの幸福で地位の高い男を、何が恐れさせたのだろうかと考えていると、ジュリアンの心はまたすっかり晴々として来た。歩いて行く自分のまわりの森の素晴らしい美しさが、一瞬ほとんど感ぜられるようにまでなった。昔落ちた裸の岩の巨大な砕片が、林の真ん中の山寄りにあった。大きなブナがその岩とほとんど同じ高さにそびえており、陽射しが暑いために立ちどまることもできないようなあたりからわずか三歩ばかりのところに、その岩の影はこよない涼しさを湛《たた》えていた。
ジュリアンはその大きな岩の蔭でしばらく息を休めてから、ふたたび登りはじめた。山羊の番人が通るだけのほとんど見分けのつかない狭い小径を行くと、やがて彼は一つの巨大な岩の上に立った。もう他の人間に見られる心配はなかった。からだの占めているこの位置が彼を微笑させた。その位置は、彼が精神的に達しようとして躍起《やっき》になっている位置をまざまざと描き出していたのだ。この高い山々の浄《きよ》らかな空気は彼の心に静けさを、歓喜すらをも伝えた。ヴェリエールの町長はいつも彼の目には地上のあらゆる富者、あらゆる増上慢な輩《やから》の代表的人物に見えた。しかしジュリアンは、先ほど自分をいきりたたせた憎悪のごときも、そのときの激昂がはなはだしかったにもかかわらずまったく人格とかかわりのあるものではないと感じた。もしド・レナル氏に会うのをやめてしまったら、彼は一週間もすればド・レナル氏も、その館も、その犬たちも、その子供たちも、またすべての家族をも忘れてしまったろう。〈どういうわけか知らないが、おれはあの男に最大の犠牲を無理に払わせてしまった。いやはや! 一年五十エキュ以上にもなるじゃないか。その一瞬前におれは最大の危険をまぬがれたのだ。一日のうちに二つの勝利だ。だが第二の勝利は怪我《けが》の功名だが、どうしてあんなことになったのか、理由を見つけなくちゃならん。だが面倒くさい詮索は明日にまわそう〉
ジュリアンは大きな岩の上に立って、八月の太陽に熱せられた空を眺めた。岩の下の原のなかで蝉《せみ》が鳴いていた。それが鳴きやむと彼の周囲は闃《げき》とした沈黙に閉ざされた。彼は足もとに二十里にわたってひろがる地域を見た。ときどき彼の頭上の大きな岩々から飛び立った隼《はやぶさ》か何かが、無言のうちに巨大な円を描くのを彼は見た。ジュリアンの目は思わず知らずその猛禽《もうきん》の跡を追った。その静かな、だが力強い動きは彼の心を打った。彼はその力を羨《うらや》んだ。彼はその孤高を羨んだ。それはナポレオンの運命だった。いつの日にかこれが彼の運命となるであろうか?
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第十一章 一夜
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しかしジュリアの非常な冷たさにもまだやさしみはあった。そうして慄《ふる》えながら静かに彼女の小さな手は彼の手から抜けて行ったが、その前に軽い握手を残して行った。身も慄えるような、柔らかな握手を。……あまり微かだったため心に疑いの念が萌《きざ》すほどの。……
(『ドン・ジュアン』第一章七十一節)
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それでもどうしてもヴェリエールへは顔を出さなければならなかった。司祭館から出ると、さいわい偶然にジュリアンはヴァルノ氏に逢った。彼は急いでヴァルノに給料が上がったことを話した。
ヴェルジーへ帰って、ジュリアンは日がとっぷりと暮れてからようやく庭へ降りた。彼の心はこの一日、無数の激しい感動を味わって来たために疲れきっていた。〈あの人たちに何て言おうかしら〉と、婦人方のことを思って不安になりながら彼は考えた。自分の心が、普通の女たちの心を占めているつまらぬ事どもとまったく同じようなことしか考えていないなどとは、彼にはとても思えなかった。しばしばジュリアンの言行は、デルヴィル夫人のみならずド・レナル夫人からさえも理解されなかった。そして彼のほうでも、彼女たちが自分に言うことのようやく半分しかわからなかった。この若い野心家の魂を震撼《しんかん》する情熱的な衝動の力、また、あえて言うならば、その偉大さはこういう結果を生んでいたのだ。この一風変わった人物にあっては、ほとんど毎日が嵐だったのである。
この晩、庭へ出るときジュリアンは、あの美しい親戚同志の女たちの考えることを無視すまいという気持になっていた。彼女たちは彼を待ち焦《こ》がれていた。彼はいつものようにド・レナル夫人の横にすわった。じきに闇は深くなった。彼はだいぶ前から自分のすぐそばの椅子の背にもたれているのが見えていた白い手を取ろうと思った。相手はちょっとためらったが、結局は怒っているような素振りでそっけなくその手を引っ込めてしまった。ジュリアンがもう同じことは二度とはせず、陽気に会話を続けてやろうというつもりになったところへ、こちらへやって来るド・レナル氏の声が聞こえた。
ジュリアンの耳には今朝のあの乱暴な言い草がまだ残っていた。〈金があるからっていうんで結構づくめの暮らしをしているこの男をからかってやるのに、今こいつの目の前で細君の手をおれのものにしちまうのも一つのやりかたじゃないか? そうだ、そうしてやろう。あいつからあれほどまでの軽蔑を浴びせられたこのおれが、そうしてやるんだ〉そう彼は心に思った。
元来ジュリアンの性格とは縁の遠い心の落ち着きは、今この瞬間からたちまちなくなってしまった。彼は不安を感じながら、ほかのことは何も考えることができずに、ド・レナル夫人が自分に手を委《ゆだ》ねてくれないものだろうかと、そればかり願った。
ド・レナル氏は憤慨しながら政治談をやっていた。ヴェリエールの二、三人の工業家が明らかに彼よりも金持になってしまって、選挙のとき彼を妨害しようとしているのだった。デルヴィル夫人はその話を聞いていた。ジュリアンはそんな談義にいらいらして、自分の椅子をド・レナル夫人の椅子に近づけた。闇に隠れてどんな動作も見えなかった。ジュリアンは思い切って自分の手を、服の袖からむき出しになっている綺麗な腕のすぐそばに置いた。うろたえて自分が何を考えているかもわからなかった。自分の頬をその綺麗な腕に近づけると、思い切って彼はそこに唇を押し当てた。
ド・レナル夫人はわなないた。夫が四歩ほどのところにいるのだ。彼女はあわてて自分の手をジュリアンに与えた。と同時にちょっと彼を押しやった。ド・レナル氏が金持に成り上がった下らぬ連中やジャコバンどもを罵《ののし》り続けているあいだに、ジュリアンは自分に委ねられた手を情熱的な、あるいは少くともド・レナル夫人にはそう思われたような接吻でおおった。けれども気の毒な彼女はこの宿命的な日に、自分ではっきりとそう認めないながらも熱愛している男がほかの女を愛しているという証拠を得てしまっていたのだ! ジュリアンがいないあいだ、ずっと彼女は極度の悲しみにとらわれていた。そしてその悲しみが彼女を反省させていたのである。
〈何ということだ! あたしが愛している〉と彼女は思った。〈あたしが恋をしているんだって? 夫のあるこのあたしが恋しているんだって? だけど〉と彼女は心に思うのだった。〈今あたしはジュリアンのことを思うまいとしても思わずにいられないほどの気ちがいじみた情熱を感じているが、こんな気ちがいじみた無気味な情熱は、いままで夫に対しては一度も感じたことはなかった。実はこの人は、あたしに対してあこがれを持っているほんの子供にすぎないのだ! あんな気ちがいじみた情熱は一時的なものだ。あたしがこの青年にどんな感情をいだこうと、うちの人にとってそれが何だろう? あたしがジュリアンと空想的なことばかり話しているのを聞いたって、レナルなら退屈してしまうだろう。あの人は自分の仕事のことを考えている。あたしがジュリアンに何かを与えても、それはあの人に与えるべきものを与えないのでは決してないのだ〉
いまだかつて味わったことのない情熱に迷わされているこの素朴な心の純潔さは、いかなる偽善によっても汚されはしなかった。彼女はそれとは知らずに惑わされていた。けれども貞操本能は脅《おびや》かされていた。ジュリアンが庭へあらわれたとき彼女の内心を動揺させていたのは、こういうような葛藤《かっとう》だったのである。彼女は彼の話し声を聞いた。ほとんど同時に彼が自分のわきに腰を掛けるのを見た。彼女の心はここ二週間来彼女を誘惑するというよりも彼女を驚かせていた、あの甘美な幸福感にいわば酔い痴《し》れた。すべてのことが彼女には思いがけなかった。けれども一瞬後には〈それではジュリアンがいさえすれば、ジュリアンのいろんな悪いところは見えなくなるんだろうか?〉と彼女は心に思った。彼女は恐ろしくなった。彼女が彼の手から自分の手を抜き取ったのはその時だったのである。
情熱にあふれた接吻、しかも彼女がいまだかつて受けたことのないようなそういう接吻の数々が、彼がおそらくはほかの女を愛しているのだということをたちまち彼女に忘れさせてしまった。やがて彼女の目には、彼が悪いことをしているとは映らなくなった。邪推から生じた刺すような苦悩がなくなり、かつて夢に見たことすらない幸福に見舞われると、彼女は恋の激情にとらわれ、物狂おしいほど愉快になった。この宵は、成り金工業家のことがどうしても忘れられないヴェリエールの町長は別にして、誰にとっても楽しかった。ジュリアンはもはやあの陰鬱な野望のことも、実行しがたい計画のことも考えなかった。生まれてはじめて彼は美の力に牽《ひ》かれていった。彼の性格には似合わしからぬとりとめのない甘美な夢想に耽《ふけ》って、非の打ちようのないほど美しく思われて好ましいあの手をやさしく握りしめながら、微かな夜風にさやぐ菩提樹の葉のそよぎや、遠くのほうで吠えているドゥー河の水車小屋の犬の吠え声を彼は聞くともなく聞いていた。
しかしこの感情は快楽ではあったが、情熱ではなかった。自分の部屋へ戻ると、彼は一つの楽しみ、自分の愛読書を開くという楽しみしか思わなかった。二十《はたち》という年では、世間というものと、その世間で自分がどのような成功をおさめるかということが他の一切を押しのけてしまう。しかしやがて彼は本を置いた。しきりにナポレオンの勝利のことばかり考えているうち、彼は自分の勝利のうちに何かある新しいものを認めたのだった。〈そうだ、おれは戦いに勝った〉と彼は心に思った。〈これを利用しなければならぬ。この横柄な貴族が退却しているあいだにその高慢の鼻を折ってやらねばならぬ。そうしてこそ、まったくナポレオンそのままと言えるのだ。友達のフーケに会いに行くため三日の休暇を要求してやろう。駄目だと言ったら、契約を破棄すると言ってやる。だがあいつは譲歩するだろう〉
ド・レナル夫人は目をつぶることができなかった。今までは生きていたなどというものではなかったように思われた。ジュリアンが自分の手を燃えるような接吻でおおうのを感じたあの幸福から、思いを逸《そ》らそうとしても逸らせなかった。
突然、姦通《かんつう》という恐ろしい言葉が心に浮かんだ。本能的な恋愛には最も卑しい淫蕩《いんとう》という観念がつきまとって厭《いと》わしく思われるが、そういう厭わしさのすべてがむらむらと彼女の頭のなかに浮かんできた。このような観念は、ジュリアンとジュリアンを愛する幸福とについて彼女の抱いていた、やさしいこよなく美しい心象を曇らせようとするのであった。未来は恐るべき色どりに塗りつぶされて来た。彼女には自分が見下げ果てた女に思われた。
この瞬間は恐ろしかった。彼女の心は未知の国に踏み入っていた。前夜、彼女はかつて感じたことのない幸福を味わったのであった。今、彼女は突然むごたらしい不幸に沈んでいた。彼女はこのような苦しみを思ってみたことさえなかった。この苦しみは彼女の理性を乱した。ジュリアンを愛するようにならないかと思って心配だと夫に告白してみようかと一瞬思った。けれどそれは彼のことを話してしまうことと同じだったろう。さいわい彼女は、かつて伯母から結婚の前日聞かされた訓戒をふと思い出した。それは、夫は結局のところ支配者であるから、それに向かって打ち明けをすることは危険だということだった。極度の苦悩に彼女は自分の手をねじ曲げていた。
さまざまの矛盾し合う悩ましい想念に、あてどなく彼女は引きずられていった。ある時は愛されていないのではないかと恐れ、ある時は翌日ヴェリエールの広場で賎民《せんみん》どもに自分の姦通を知らせる貼り札と一緒に台の上に載せられて晒《さら》し者にされねばならぬとでもいうように、恐ろしい罪悪の観念に責めさいなまれるのであった。
ド・レナル夫人はまったく人生の経験というものを持っていなかった。充分頭が冴《さ》えていて理性が完全に働いているときでさえ、神の目から見て罪ありとされることと、公衆の前で人々の喧々囂々《けんけんごうごう》たる侮蔑の言葉を浴びせられることとの間に、まったく区別をつけられなかったであろう。
姦通という観念や、彼女の考えではこの罪悪に伴って来る汚辱という恐ろしい観念が、多少彼女の心から去り、ジュリアンと一緒に前のように無邪気に暮らす楽しみを思うようになったとき、ジュリアンがほかの女を愛しているという身の毛のよだつような観念に彼女はとらわれた。例の肖像をなくしはしまいか、それを人に見られて相手の女にも迷惑をおよぼしはしまいかと倶《おそ》れたときの、彼の顔の蒼白さが、彼女の目にまざまざと思い出された。あのときはじめて彼女は、あれほどおちついたあれほど高貴な彼の顔の上に、恐怖の色を認めたのだった。彼女のためにも子供たちのためにも、彼が今まであれほど昂奮して見せたことはなかった。このような苦悩は増大して、もはやこれ以上は人間の心に堪え得ないまでの強烈な悲しみにまで達した。思わずド・レナル夫人は叫び声を挙げたが、その声に小間使いが目を覚ました。突然彼女は自分のベッドのそばが灯火で明るくなるのを見、そしてエリザを見た。
「あの人が愛しているのはあなたなの?」と彼女は狂乱して叫んだ。
小間使いは自分の主人がひどく取り乱しているのを見て驚いていたので、さいわいこの異様な言葉には少しも注意しなかった。ド・レナル夫人は自分の軽率をさとった。「あたし熱があるの。すこし熱に浮かされていたらしいわ」と彼女は小間使いに言った。「ここにいておくれ」自制しなければならないと思うとすっかり目が覚めたが、そうしてみるとそれほど悲しくもなかった。半睡状態のために失われていた理性の力がまた働き出した。まじまじと見つめる小間使いの眼差しを避けるため、彼女は新聞を読むように命じた。コチディエンヌ紙の長い記事を読む女中の声の単調な響きを聞きながら、ド・レナル夫人は、今度ジュリアンに会ったときにはあくまで冷淡にあしらおうという、貞節な決心を固めたのであった。
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第十二章 旅
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パリでは伊達《だて》者連中が見られるが、地方には気力のある人々がいることもある。(シエーヌ)
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あくる日、五時になるともうジュリアンは、ド・レナル夫人がまだ姿をあらわさぬ前に、その夫から三日の休暇をもらっていた。思いがけなくジュリアンはもう一度夫人に会いたいという欲望が自分の心にあるのを認めた。彼はあの綺麗な手のことを思っていたのだ。彼は庭へ降りた。ド・レナル夫人は長いあいだ来なかった。だが、もしジュリアンが心から彼女を愛していたのならば、二階の半ば閉ざされた鎧戸《よろいど》のうしろで窓ガラスに額を押しつけている彼女を認めたであろう。彼女は彼を眺めていたのである。とうとう彼女は決心にそむいて庭へ出ることに決めた。平生は蒼白い彼女の顔に真っ赤に血の色がさしていた。非常に素朴なこの女は明らかに昂奮していたのだ。自制と、いやそれのみか怒りの感情が、この神々しいまでの容貌にあれほどの魅力を与えている、いわばあらゆる人生の俗悪な利害を超脱したようないかにも物静かなあの表情を、見違えるほどにしていた。
ジュリアンはいそいそと彼女に近づいた。あわててひっかけて来たショールの隙からのぞいて見えるいかにも美しいあの腕に彼は見とれた。あの夜の苦悩によってどんな刺激にもいっそう感じやすくなっていた顔の色が、朝の空気の冷やかさのため、ますます艶《つや》やかに見えた。つつましいが人の心を打つ、そして下層階級のなかではまったく見出されないような深い思想に満ちた美しさは、ジュリアンにかつて自ら感じたことのなかった自分の心のある機能を自覚させてくれるように思えた。むさぼるような視線がとらえたさまざまの魅力に惚れ惚れとしてしまって、ジュリアンは親しみ深く迎えられるだろうと期待していたことなどはすっかり忘れていた。それだけにいっそう、相手が自分に示そうと努めている氷のような冷やかさに彼は驚かされ、しかもその冷やかさのかげには、自分を元の地位に戻そうとする下心すら見分けられるように思ったのである。
快い微笑は彼の唇から消えた。彼は自分が社会で占めている身分、特に富裕な貴族の女相続人の目に映った自分の身分を思ってみた。一瞬にして彼の相貌には、尊大さと自分自身に対する怒りのほかは見られなかった。こんな屈辱的なあしらいを受けるためにわざわざ一時間以上も出発を遅らしたことに激しい憤懣《ふんまん》を彼は感じた。
〈他人に対して怒るなんてのは馬鹿ばかりだ〉と彼は心に思った。〈石が落ちるのは重いからじゃないか。おれはいつまで子供でいるんだ? 金をもらったということだけであんな奴らに自分の魂まで渡してしまうなんていう大した習慣を、一体いつおれは身につけてしまったんだ? あいつらからも尊敬され、またおれ自身自分を尊敬できるようにしたいと思うんなら、奴らの富を相手に商売しているのはおれの内部の貧乏人にすぎず、おれの心は傲岸無礼なあいつらとは数千里も隔たって、片々たる彼らの毀誉褒貶《きよほうへん》とは何のかかわりもない高い高い圏にあるのだということを納得させてやらねばならん〉
これらの感情が若い家庭教師の心のなかに群がりひしめいているあいだ、変わりやすい彼の顔つきは自尊心を傷つけられた猛悪な表情を示していた。ド・レナル夫人はそれを見て狼狽《ろうばい》した。自分の応対を冷やかにしようと思ったのに、その貞節な冷やかさは、気遣わしげな表情に変わった。それも今見たばかりの急激な変化に驚かされてかきたてられた気遣いだった。朝ごとに交わされる、相手の健康を尋ねたりその日の空模様を話し合ったりする空虚な言葉は、双方で同時に種切れになってしまった。情熱によって判断を迷わされていないジュリアンは、ド・レナル夫人に自分が彼女との情誼《じょうぎ》など大して信じていはしないということを思い知らせる方法をたちまちのうちに思いついた。彼は自分がこれからする小旅行のことについては夫人に何も言わず、ただ挨拶して出て行つた。
彼女が昨晩はあれほどやさしかったその眼差しのなかに底知れぬ倨傲《きょごう》さを見出して悄然《しょうぜん》としながら彼の歩いて行く姿を見まもっていたとき、一番上の息子が庭の奥から駈けて来て彼女に抱きつきながらいった。
「ぼくたちお休みなんだよ、ジュリアンさんが旅行に行ったんだもの」
この言葉を聞くと、ド・レナル夫人は激しい悪寒《おかん》に襲われた。彼女はその貞操のために不幸になった。しかもその心の弱さのためにいっそう不幸になったのだ。
この新しい出来事は彼女の頭脳を完全に占領した。恐ろしい夜を過ごしたおかげでようやく固めたあの貞淑な決意など忘れ去るほど彼女は逆上した。もうあんなにやさしい恋人に逆らうかどうかなどではなく、永久に彼を失うか否かの間題だったのだ。
昼食に顔を出さねばならなかった。苦痛の極みというべきは、ド・レナル氏とデルヴィル夫人がジュリアンの出発のことばかり話すことだった。ヴェリエールの町長は、彼が休暇を求めたときのあの断乎たる語調に何か異常なものを認めていた。
「あの百姓の小倅は明らかに誰かから申し込みを受けているんだよ。しかし、よしそれがヴァルノ君であったにせよ、六百フランという金額にはちとばかりがっかりするにちがいない。今じゃもうそれだけ一年に出費しなければならんのだからね。昨日ヴェリエールで、あいつめ、三日ほど考慮させてくれと言って来たんだろう。それで今朝わしに返事をしなければならぬのがいやだから、あのちび先生、山のほうへ発ったんだ。あんな無礼な振る舞いをするしがない職人のことに気をつかわにゃならんとは、まったくひどいことになってしまったもんだ!」
〈自分がどれほどひどくジュリアンの心を傷つけたかということを知らぬ夫が、あの人がこの家から出るというのだもの、私はどう考えたらいいのだろう?〉そうド・レナル夫人は思った。〈ああ、もうおしまいだ!〉
せめて気兼ねなしに涙を流せるようにしたい、またデルヴィル夫人の質問に返事をしないですむようにしたいと思って、彼女は猛烈に頭が痛いと言って床についた。
「女どもってものはこんなものなのさ」とド・レナル氏はまた極《き》まり文句を言った。「この面倒な機械には、かならずどこかしら具合いの悪いところがあるんだ」そうからかいながら彼は立ち去った。
ド・レナル夫人がふとしたことから陥った情熱の酷《むご》たらしい責め苦にさいなまれているあいだに、ジュリアンは山岳地帝の風光のうちでも最も美しい眺めを周囲に見ながら、心楽しく旅を続けていた。彼はヴェルジーの北の大きな山脈を越えて行かねばならなかった。彼のたどる山路はブナの大きな森の間を爪先上がりに登りながら、ドゥー河の渓谷の北方を画する高い山の山腹に果てしなく九十九折《つづらお》りに続いていた。やがて旅人の目には、南方でドゥーの流れを遮《さえ》ぎるそれほど高くない丘陵を越えて、遠くブルゴーニュやボージョレの豊沃《ほうよく》な平野までが望まれた。よしんばこの若い野心家の心がこの種の美にいかほど無感覚であろうとも、時として足を停めてこのように広潤雄大な景観を眺めずにはいられなかった。
とうとう彼はその高山の頂上にたどりついた。この間道《かんどう》を通って彼の友である若い材木商のフーケの住んでいる寂寥《せきりょう》たる谷間に達するには、このあたりを通って行かねばならないのだった。ジュリアンは、フーケにせよまたそれ以外の人間にせよ、早く会いたいとは決して思っていなかった。この高い山の頂にそびえた裸岩のなかに猛禽《もうきん》のように身を隠していると、誰か人が近づいて来ればずっと遠くから認めることができた。その岩の一つの、ほとんど垂直になっていた斜面の中央に、彼は小さな洞窟を見出した。駈けて行って、すぐその隠れ場のなかに彼はもぐりこんだ。〈ここにいればどんな奴でもおれに危害を加えることはできない〉と彼は目を歓びに輝かせながら言った。自分の思想を書き記すという楽しみに耽《ふけ》ってみたいと彼は思った。これはほかの場所でならどこでも彼にとって非常に危険なことだったのである。四角な石が机のかわりになった。彼の筆は飛ぶように走った。周囲のものは何ひとつ彼の目にはいらなかった。とうとう日がボージョレの遠い山なみのうしろに沈むのに彼は気がついた。
〈なぜここで夜を過ごさないのだ?〉と彼は自分に言った。パンも持っているし、|おれは自由だ《ヽヽヽヽヽヽ》!〉この偉大な言葉の響きに彼の魂は高揚した。彼の偽善はフーケのところにいてすら彼を自由にさせてはくれなかったのだ。両手で頭を支えて、ジュリアンはこの洞窟のなかでさまざまの夢想と自由の喜びに胸を躍らせながら、生まれてからかつてないほど幸福だった。彼は黄昏《たそがれ》の光が次々にずっと消えて行くのを見るともなく見た。無限の闇につつまれて彼の心は、いつかパリへ出て自分が遭遇することをいろいろ空想しながら深い思いに耽った。まず思うのは、地方で逢うどんな女よりもはるかに美しく、いっそうすぐれた才分を持った一人の女性だった。その女と彼は相思相愛の仲になる。しばしのあいだ彼がその女と別れるにしても、それはますます名を挙げてますます深く愛せられる資格を得るためだった。
パリの交際社会の悲しい現実のなかで育った青年が、ジュリアンと同じ空想をしたとしても、自分の空想のこの箇所に来たならば、冷たい皮肉を感じて現実に返ってしまっただろう。〈恋人のそばを離れたら最後、日に二、三度そむかれることは必定〉というよく知られた格言を思い出して、数々の偉大な行為も、それを為しとげようという希望も跡形なく消えてしまう。この田舎者の青年には、自分が最も英雄的な行為をなし得ないのはそういう機会がないからだとしか考えられなかった。
しかし日は暮れて深い夜になっていた。しかも彼はフーケの住んでいる部落までまだ八キロも下って行かねばならなかったのだ。小さな洞窟を去る前に、ジュリアンは火を起こして自分の書いたものを残らず丹念に焼き棄てた。
真夜中の一時に戸を叩いて、彼はだいぶ友人を驚かした。フーケはちょうど帳簿をつけているところだった。この男は背の高い、だいぶ恰好の悪い、大まかでごつごつした顔立ちの、鼻の馬鹿でかい青年だった。しかしこの醜い見かけの下には非常な善良さが隠れていた。
「こんなに思いがけずにやって来るところを見ると、君は主人のド・レナルさんと喧嘩《けんか》したんだね?」
ジュリアンは前日の事件を彼に話した。もっとも自分に有利なように話したのだ。
「ぼくのところにいたまえ」とフーケは言った。「君はド・レナルさんやヴァルノさんやモジロン郡長やシェラン司祭を知っているんだね。だからああいった連中の性質の腹黒さを呑み込んでいるだろう。それなら競売に顔を出すこともできるというわけさ。君はぼくより算術ができる。ぼくの会計をやってもらおう。ぼくはこの商売でしこたま儲けているんだ。自分で何もかもやることはできないし、協同経営者にした奴がたまたま陰険な奴だったらと心配だし、いつもいつも素晴しい取り引きをやろうと思ってもできないでいるんだ。まだ一月もたってはいないが、ぼくはサン・タマンのミショーの奴に六千フラン儲《もう》けさせてやったよ。あいつにゃ六年も逢わないでいたんだが、偶然ポンタルリエの売り立てでぶつかったもんだからね、その六千フラン、少くとも三千フランを君が儲けられたはずだ。なぜなら、もしあの日に君がぼくと一緒にいたら、ぼくはあの森の伐採《ばっさい》に入札したろうし、そうすればじきにその伐採権はぼくのものになったろうからな。とにかくぼくの相棒になれよ」
この申し出にジュリアンは腹を立てた。それは彼の気ちがいじみた空想を傷つけたのだ。フーケは一人暮らしだったのでホメロスの描いた英雄たちのように彼らは二人して夕食をつくって、それを食べている間じゅう、フーケはジュリアンに自分の帳簿を見せ、この材木商売がどれほど利益を上げるかということを証明した。フーケはジュリアンの知識と性格を最も高く買っていたのだ。
とうとうジュリアンは自分に宛てられた樅《もみ》材で造った小部屋に一人だけになると、こう思った。
〈たしかにおれはここで数千フランを儲けることもできるし、それから、機をみてフランスで一番盛んになっている流行《はやり》を見たうえで、またあらためて僧職になるなり軍人になるなりすることも有利にできる。小金をためておけばちょっとした障害があってもうまく切り抜けることができよう。この山のなかで淋しく暮らしていれば、あのあらゆる社交界《サロン》の連中の心を占めているさまざまの事柄についてのおれの徹底的な無知を少しはあらためることもできるだろう。だがフーケは結婚することをあきらめている、孤独のために自分は不幸だとあいつは何度もおれに言った。あいつが自分の商売に出資するだけの金を持っていない人間を協同経営者にするとすれば、一生離れることのない仲間にしようと思ってだということは明白だ〉
〈おれは友達を裏切ろうとするのか?〉とジュリアンは不機嫌になって叫んだ。偽善と、他人に対する同情を一切持たぬことをもって、平生立身の手段としているこの人間が、今度は自分を愛してくれる友に対してほんのちょっとでも細かな心遣いを欠くことを考えてさえ耐えがたかったのだ。
しかし突然ジュリアンは気が楽になった。ことわる理由を思いついたのだ。〈おやおや! おれは七、八年も無駄に過ごそうというのか! そうすればおれは二十八歳になってしまう! だがこの年には、ボナパルトはすでにいくつかの偉業をしとげてしまっていたのだ! あんな材木の売り立てに通いながら、人知れずいくらかの小金をため、どこかの下っぱの悪党どものお気に召すようなことになったら、それをもってのみ世に名を挙げることのできる神聖な熱情を、おれがなお失わないでいると誰が言ってくれよう〉
明くる朝、協力者になるならぬの相談はもう片がついたと思っている人の好いフーケに、ジュリアンは、自分は聖職につこうという決心でいるので君の申し出を受けることはできぬと、いやに冷静に答えた。フーケは呆《あき》れかえってしまった。
「だが君は」と彼はジュリアンにむかって繰り返した。「ぼくが君を協同経営者にし、もしそのほうが君によければ年に四千フラン上げるのだということがわかっているのかい? それでも君は、君のことなど靴についた泥ぐらいにしか思っていないあのド・レナルさんのところへ帰ろうと思うのかい! 君が二百ルイも儲けたら、誰だって君が神学校へはいるのを妨げることはできないじゃないか! さらに言うならばだね、ぼくは責任をもって君にこの国の一番よい司祭職を手に入れさせてあげるよ。なぜなら」と、フーケは声を低くして付け加えた。「ぼくは薪を**氏や**氏や**氏の家へ届けているんだ。ぼくはこういう人たちに最上のオーク材を渡しているんだが、松材と同じ代しかもらっていない。しかし、これ以上有利な投資はないよ」
何としてもジュリアンの天職の自覚をひるがえさせることはできなかった。フーケはしまいには彼が少々気が変になっていると思った。三日目にはあの高い山の岩のあいだで一日を過ごすため、ジュリアンは明け方に友の家を出た。例の洞窟はまた見つかったが、心の平和はもはやなかった。友の申し出が彼から平和を奪ってしまったのだ。ヘラクレスのように悪と善とのあいだではなかったが、安楽を保証された凡庸《ぼんよう》な生活と青春のあらゆる英雄的な夢とのあいだに、彼は迷っていた。
〈それではおれには真の決断力がないのだ〉と彼は自分に言って聞かせた。これこそ明らかに彼を最も苦しめる疑問だったのだ。〈おれには偉人のような立派な素質はないのだ、八年間、糊口《ここう》の資《かて》を得るために働けば、非凡な事業を為さしめるあの卓絶した気力を失ってしまうなどと考えるようでは〉
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第十三章 透いた靴下
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小説、これは道に沿うて人が持って歩く鏡である。(サン・レアル)
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ジュリアンはヴェルジーの古い会堂の絵のように美しい遺構を見たとき、自分がド・レナル夫人のことを一昨日から一度も考えたことがなかったのに気がついた。〈先日出発するとき、あの女は二人のあいだをへだてている無限の距離をおれに思い出させてくれた。おれをまるで職人の倅《せがれ》なんぞのようにあしらった。明らかにあの女は、前日おれに手を委ねたことに対する後悔を、おれに見せつけようと思ったのだ……だが、あれは実に綺麗だな、あの手は! 何という魅力だ!何という気高さがあの女の目にあることだろう!〉
フーケと一緒になって運を開くことができそうだということが、ジュリアンの物の考え方にある気安さを与えた。彼の考えはもはや焦躁《しょうそう》や、世間の目に映った自分の貧しさとか身分の卑しさとかの意識にしょっちゅう毒されることはなかった。まるで高い岬の上に立っているように、極度の貧困をも彼が今なお富と呼んでいる安逸な生活をも批判し、いわばそれを見下すことができた。自分の境遇を哲学者として批判するなどとは彼には思いもよらなかった。しかしあの山地の小旅行ののち、自分が前とは|異なっている《ヽヽヽヽヽヽ》と感ずるだけの明敏さは彼にもあった。
ド・レナル夫人から求められて自分の旅行の話をしながら彼は、夫人がその短い話に耳を傾けつつ極度の不安を示しているのにびっくりした。
フーケは幾度か結婚する計画を立て、また失恋もしていた。二人の友の会話は、こういったことについての長い打ち明け話で満たされていたのである。フーケはあまりにも手軽に女をしとめたと思うと愛されているのが自分一人ではないことに気がついたこともあった。こういった話はみなジュリアンを驚かせた。彼は実際いろいろと新しいことを教えられたのである。空想と不信とから成る彼の孤独な生活が、彼の目を開かせたであろうあらゆる事から今まで彼を遠ざけていたのだ。
彼のいないあいだ、ド・レナル夫人にとってその日その日の生活は、種々様々の、だがどれもみな堪えがたい苦悩の連続にほかならなかった。彼女は本当に病気になった。
デルヴィル夫人はジュリアンが帰って来たのを見たとき彼女に言った。「何はともあれ今のように具合が悪くては今晩庭へ出ないようになさいね。湿った空気で病気がますます悪くなるわ」
衣裳《いしょう》が簡素すぎるといって始終ド・レナル氏から叱られていた自分の友だちが、透《す》いた靴下とパリから来たかわいらしい小さな短靴を履いたのを見て、デルヴィル夫人はおどろいた。三日前からド・レナル夫人の唯一の楽しみといえば、今とても流行《はや》っている綺麗な小さな布で夏着を裁ち、できるだけ急いでエリザに縫わせることだった。ジュリアンが到着してしばらくのちにこの服がようやく出来あがるや否や、ド・レナル夫人はすぐそれを身に着けた。彼女の友だちはこれを見ると、もはや疑う余地はなかった。〈この人は恋をしている、不幸な人!〉とデルヴィル夫人は思った。友だちの病気の様子が何から何まで奇妙だったことにも納得がいった。
彼女は友だちがジュリアンと話しているのを見た。ひどく真っ赤な顔が見るまに蒼白になった。若い家庭教師の目を凝視した彼女の目には、不安がありありとあらわれていた。ド・レナル夫人は、彼が今に事情を言ってこの家を出るとか留まるとか告げるだろうと、絶えず待ち受けていた。ジュリアンは、そんなことを考えてもいないので一言も言おうとは思っていなかった。恐ろしい内心の葛藤があった後、ついにド・レナル夫人はあらゆる情熱をはっきりとあらわしている慄《ふる》えるような声で思い切って彼に言った。
「あなたは教え子たちを棄てて、ほかのところへ行かれるんじゃありません?」
ジュリアンはド・レナル夫人のおずおずした声と目つきに心を打たれた。〈この女はおれを愛している〉と彼は思った。〈しかし自尊心が不甲斐《ふがい》なさを責めているこの一瞬が過ぎてしまって、おれが出て行く心配がなくなったら、たちまち持ち前の傲慢さを取り戻すんだ〉ジュリアンは一瞬にしてこの相互の立場を見て取ってしまった。彼は躊躇《ちゅうちょ》しながら答えた。
「あんなに愛らしいあんなに|生まれのいい《ヽヽヽヽヽヽ》お子様方とお別れすることになれば大変辛いでしょうが、多分そうしなければなりますまい。誰にもやはり自分に対する義務だってありますから」
この|あんなに生まれのいい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という言葉(これはジュリアンが近頃聞き知ったばかりの貴族の言葉の一つだった)を口に出しながら、彼は深い反感に燃え立った。
〈あの女の目から見れば、おれなんざ生まれがよくないんだ〉と彼は自分に言った。
ド・レナル夫人は彼の言葉に耳を傾けながら、彼の才分、彼の美貌を感嘆していた。出て行くかもしれないとほのめかされて胸も張り裂けるようだった。ジュリアンの不在中にヴェルジーへ晩餐に来たヴェリエールの友人たちは皆、まるで競い合うように、彼女の夫が運好く掘り出した驚くべき男のことで彼女にお世辞を言った。子供たちの力がついたということを理解したからではなかった。聖書を、しかもラテン語で暗記しているという事実が、およそ百年後まで語り草になるほどの感嘆の念をヴェリエールの住民たちに抱かせたのであった。
ジュリアンは誰とも話をしなかったので、こんなことがあるとはまったく知らなかった。ド・レナル夫人がもしちょっとでも冷静だったならば、彼が勝ち得た評判について祝辞を述べてやったろう。そうすればジュリアンの自尊心も満足して、彼女の新しい服が美しく思われていただけに、やさしく愛想よくしてやったろう。ド・レナル夫人は、自分でも満足している服のことをジュリアンが何とか言ってくれたことに、また満足して、庭をひとまわりして来ようと言った。やがて彼女は歩く力がないと白状した。彼女は旅から帰って来た彼の腕を取ったが、力が出て来るどころか、かえってこの腕にさわると力はすっかり抜けてしまうのだった。
夜だった。皆が坐ると、ジュリアンは以前の特権を行使して、大胆にも自分の隣にいる美しい女の腕へ唇を寄せ、その手を取った。彼はフーケがその情婦たちに対してした大胆な振る舞いを思い出していて、ド・レナル夫人のことなど思わなかった。|生まれのいい《ヽヽヽヽヽヽ》という言葉がまだ彼の心を圧していた。相手が彼の手を握りしめた。それも彼には何の楽しみをも感じさせなかった。いくつかのあまりにも明白なしるしによって心ならずもド・レナル夫人がこの夜洩らした感情を誇るとか、またそれに感謝するとかは思いもよらず、美貌にも、高雅さにも、瑞々《みずみず》しさにも彼はほとんど無感覚だった。魂の純潔とあらゆる怨恨の感情を持たぬこととが青春を長びかせるものなのだろう。たいていの美人ははじめ容貌から衰えていくものである。
ジュリアンはその一夜、最後までむっとしていた。これまで彼は自分をこんな身分に生んだ偶然と社会とに対してのみしか憤慨していなかった。ところがフーケから安楽な生活ができるようになるための賎しい手段を教えられて以来、彼は自分自身に対して腹を立てていた。時おり、婦人方にむかって二言三言言いはしたが、すっかり自分の考えに気を取られていたジュリアンは、とうとう何の気なしにド・レナル夫人の手を放してしまった。手を放されてこの哀れな婦人の心は動転した。彼女はそこに自分の運命の予兆を見た。
ジュリアンの情愛に確信が持てれば、おそらく彼女の貞操も彼に抵抗する力を持ち得たであろう。永久に彼を失いはしまいかと思って戦《おのの》きながら、情熱に思い乱れて彼女は、放心のままに椅子の背木にもたせておいたジュリアンの手をまた取りさえしたほどだった。
この動作が若い野心家を我にかえらせた。食卓で彼が子供たちと一緒に末席に坐っているとき、いかにも保護者然とした微笑を浮かべて自分のほうを見ているあの気位の高い貴族どもに、このことを見せつけてやりたいとまで彼は思った。〈この女はもうおれを軽蔑することはできない。そうなればおれもその美しさを感じてやらなければならん。おれは自分一人の力でこの女の恋人となったのだ〉そう彼は心に思った。友人からあの飾り気のない打ち明け話を聞く前ならば、このような考えは彼には浮かばなかったであろう。
彼が突然固めた決心は愉しい気ばらしとなった。彼は心に思った。〈おれはあの二人の女のうちどちらかを自分のものにしなければならん〉彼としてははるかにデルヴィル夫人のほうに言い寄ってみたい気がした。彼女のほうが面白いからではなく、彼女がいつも自分をその学識の故に尊敬されている教師として見て、自分がド・レナル夫人の前にあらわれたときのように畳《たた》んだ粗織《あらお》りの背広を腋の下にかかえた大工職人としては見ないからだった。
ド・レナル夫人が彼のことを最も魅力に富んだものとして思い描くのは、実にこの、白眼まで赤くなって家の戸口の前に佇《たたず》んだまま思い切って鈴も鳴らせないでいる、若い職人の姿だったのだ。
自分の立場を反省しつづけながらジュリアンは、おそらくはド・レナル夫人が自分に対して示している好意に気づいているらしいデルヴィル夫人を征服しようと考えるべきではないとさとった。やむなくド・レナル夫人のほうへ戻って、〈おれはあの女の性格について何を知っているんだ?〉とジュリアンは自問した。〈ただこれだけだ、つまり、旅行する前はおれがあの人の手を取るとあの人は引っ込めたが、今日はおれが自分の手を引っ込めるとあの人がおれの手をつかまえて握りしめる、ということだ。前にあの人がおれを軽蔑したことのお返しをしてやる好い機会だ。あの人が今まで何人恋人をつくったかわかるものか! ただ会うのが容易だというだけでおれを寵愛《ちょうあい》することにきめたんだ〉
何と、かくのごときが過度の文明の生む不幸なのである! 二十歳の青年の心がちょっとばかり教育があると、素直に物を考え、また感じるという自然さから天と地ほど隔たってしまう。この自然さなくしては、恋愛などは往々にして最も退屈な義務にすぎなくなってしまうのだ。
〈いつかおれが成功したとき〉とジュリアンの幼い虚栄心はなお続けた。〈誰かが家庭教師という卑しい役目をしたことを咎《とが》めたら、恋愛のためにその職についたのだと言ってやることもできるんだから、ますますもっておれはこの女を首尾よくものにしてしまわなければならんわけだ〉
ジュリアンはまたもや自分の手をド・レナル夫人の手から離したが、また取って握りしめた。真夜中ごろ皆がサロンへかえったとき、ド・レナル夫人は彼にささやいた。
「あなた、この家から出ておいでになるの、お立ちになるの?」
ジュリアンは溜息をついて答えた。
「実際、私は立たなければならないのです。情熱的にあなたを愛しているのですから。これは過ちです……若い僧侶の身には何たる過ちでしょう!」
ド・レナル夫人は彼の腕にもたれかかった。しかも自分の頬にジュリアンの頬の温みが感ぜられるほどぐったりともたれかかったのだ。
この二人の男女が別々に過ごした夜はそれぞれ趣を異にしていた。ド・レナル夫人は極度に昴奮した精神的な快感に浮かされていた。あまり早く恋をした自堕落な娘は愛の葛藤に馴れてしまって、真の情熱を経験すべき年頃には新鮮さという魅力を味わえない。ド・レナル夫人はかつて小説類を読んだことがなかったから、自分の幸福のあらゆるニュアンスが彼女には新奇なものに思えた。悲しい真実も、いや恐ろしい未来さえも、彼女を慄然たらしめはしなかった。十年後も今と同じほど幸福でいる自分の姿が目に浮かんだ。徳操とかド・レナル氏に契った貞操とかいうことを考えると、二、三日前はひどく心を乱されたものだが、今ではうるさい客のようにそんな観念は追い払われてしまうのだった。〈ジュリアンには何も許すまい〉とド・レナル夫人は言った。〈私たちは将来も、今まで一月暮らして来たのと同じように暮らそう。あの人はお友だちになるのだ〉
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第十四章 イギリスの鋏《はさみ》
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十六歳の娘は薔薇色の肌をしていた。それでも紅を塗っていた。(ポリドリ)
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ジュリアンのほうでは、フーケの申し出のために実際あらゆる幸福を奪われていた。彼にはどうにも決心がつかなかった。
〈ああ、おれはきっと意気地がないんだ。ナポレオン軍の兵隊になったって、つまらぬ兵隊にしかなれなかったろう。だがせめて〉と彼は付け加えた。〈この家の女主人とのくだらぬ密事《みそかごと》で当面気ばらしはできる〉
彼にとってはさいわいなことに、こんな末梢《まっしょう》的な事件においてすら、彼の真情はこんな倨傲《きょごう》な言葉とはうらはらなものだったのである。あんなに綺麗な服を着ていたので、彼はド・レナル夫人が恐ろしかった。こんな服は、彼にはパリ生活の序の口のように思われた。彼の自尊心は何ごとをも偶然の手にまかせたりそのときどきの思いつきに従ったりすることを望まなかった。フーケの打ち明け話と、聖書のなかに恋愛について書いてあったほんの僅《わず》かなこととをもとにして、彼ははなはだ綿密な作戦計画をつくった。自分でそうと認めはしなかったが大分取り乱していたので、彼はこの計画を書きとめておいた。
明くる朝、サロンで、ド・レナル夫人はしばらくのあいだ彼と二人きりになった。
「あなた、ジュリアンというほかに何か名前がないの?」と夫人は彼に訊いた。
こんなにまで耳ざわりのいい問いに対して、われわれの主人公は何と答えていいかわからなかった。こんな場合があるとは、彼の計画のなかでは予期されていなかった。この計画をつくるなどという馬鹿げた真似をしておかなければ、ジュリアンの鋭い才智はずいぶん役に立ったろうし、不意を打たれたことがかえって彼の思いつきをますます機敏なものにしただろう。
彼は無器用で、しかもその無器用さをみずから過大視していた。ド・レナル夫人はそんな無器用さなどすぐ大目に見てくれた。彼女はそこに愛すべき天真爛漫《てんしんらんまん》さの発露を見た。そしてその彼女から見て、平生あれほどの才分を持ったこの男に欠けていると思われたものは、ほかならぬ天真爛漫な態度だったのである。
「あなたのところのちび先生には私とても気が許せないわ」と、ときどきデルヴィル夫人は彼女に言っていた。「いつも何か考えているような様子をして、策略なしに何かすることはないように見えるわ。腹黒い人なのよ」
ジュリアンは、不幸にもド・レナル夫人に何と答えていいかわからなかったということに、深い屈辱を感じていた。
〈おれのような男なら、この失敗の埋め合わせをつけねばならん!〉そして一同が一つの部屋から別の部屋へ移る機会をとらえてド・レナル夫人に接吻をしてやるのが自分の義務だと彼は思った。
彼にとっても彼女にとってもこんなに突拍子な、こんな不愉快な、しかもこんなに軽率なことはない。すんでのところで二人は見つかるところだった。ド・レナル夫人は彼を気違いだと思った。彼女はぞっとした。何よりも腹が立った。この愚行はヴァルノ氏のことを彼女に思い出させた。
〈もしあの人と二人だけでいたら、どんなことになったろう!〉と彼女は思った。貞操がすっかり戻ってきた。愛情が曇《くも》ったからである。
彼女は子供たちの一人をいつも自分のそばに置いておくようにした。
この一日はジュリアンにとっては退屈だった。彼は自分の誘惑計画を無器用に実行に移しながらその一日を過ごした。彼はド・レナル夫人を見やるごとに、その目で問いかけていた。けれども彼はそれほど馬鹿ではなかったから、自分が愛想よくふるまうこと、いわんや相手の心を惹きつけるように振る舞うことには、まったく不成功だったと見て取った。
ド・レナル夫人は、彼があんなにまで無器用でしかもあんなにまであつかましいのを見て、その驚きから醒《さ》めきれなかった。〈頭のいい人なのに、恋のために臆病になっているのだ〉と彼女はしまいにそう思って、言うに言われぬ喜びを感じた。〈けれどあの人が一度も私の恋仇から愛されなかったなんてことがあり得ることかしら!〉
昼食のあとでド・レナル夫人は、ブレの郡長であるシャルコ・ド・モジロン氏の訪問を迎えるためにサロンヘかえった。彼女は非常に背の高い小さな刺繍《ししゅう》台の前で仕事をしていた。デルヴィル夫人がその横にいた。こんな状況で、しかも真昼間に、われわれの主人公は自分の長靴を突き出してド・レナル夫人の綺麗な足に押しつけて然るべきだと思ったのである。しかも夫人の履いている透いた靴下とパリ出来の綺麗な靴は、明らかに好き者の郡長の目を惹きつけていたに違いなかったのだ。
ド・レナル夫人は猛烈におびえあがった。鋏《はさみ》も毛糸玉も針も取り落してしまった。それでジュリアンのその動作は、鋏が滑り落ちるのを見て無器用ながらそれを受け止めようとしたのだと、思えば思えないでもなかった。うまい具合にこのイギリス鋼の小さな鋏は折れてしまった。そこでド・レナル夫人は、ジュリアンがもっと自分のそばにいればよかったのにとさんざんくやしがった。
「あなたは鋏の落ちるのを私より先にごらんになったんだから、受け止めてくださることもおできになったでしょうに、あんなに躍起《やっき》になってわたしのことをものすごく蹴飛ばすことしかできなかったのね」
こんなことは郡長をごまかすことはできたが、デルヴィル夫人はごまかせなかった。〈あの美少年は実に呆れたやり方をする!〉と彼女は思った。地方の首都の行儀作法では決してこの種の過ちは赦されなかった。ド・レナル夫人は折りを見てジュリアンに言った。
「慎重になさい。私が命令します」
ジュリアンは自分の無器用さを認めた。しゃくにさわった。彼は長いあいだ、この|私が命令します《ヽヽヽヽヽヽヽ》という言葉に怒るべきか否かをきめようとして自問自答をかさねた。こんなことを考えるほど彼は馬鹿だった。〈もし子供の教育に関する何かのことでだったら、あの人はおれに|私が命令します《ヽヽヽヽヽヽヽ》と言ったっていいだろう。しかしおれの愛情に応ずるんなら、平等《ヽヽ》ということを前提にしているんだ。平等なしに恋をすることはできない……〉そうして彼は夢中になって頭をひねって平等についてのありふれた文句をひねり出そうと努めた。彼は憤慨しながら、デルヴィル夫人に数日前教えてもらったコルネイユの詩句を繰り返して自分に言って聞かせた。
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……恋愛は平等を生む、
されど強いてこれを求めず
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生まれてから一度も情婦など持ったことのないくせにあくまでドン・ジュアンの役を演じようとするジュリアンは、この一日じゅう底知れぬほど馬鹿げたことばかりやっていた。彼の心に浮かんだことでまともなことといえば、ただ一つだけしかなかった。つまり自分のことにもド・レナル夫人のことにもうんざりしていたので、庭で闇につつまれて彼女の横へ腰をおろすべき夜が迫って来るのを見ると、畏怖《いふ》を感じたことであった。彼はド・レナル氏に、ヴェリエールへ司祭に会いに行くと言った。晩餐の後、彼は出発して、夜中になってようやく帰って来た。
ヴェリエールでは、ジュリアンが行くとシェラン師はちょうど引越しをしているところだった。シェラン師はとうとう罷免《ひめん》されたのだ。副司祭マスロンがそれに代わった。ジュリアンは善良な司祭の手伝いをした。そして、自分の聖職に就こうとの不動の決意がはじめ君の親切な申し出を受諾することを妨げたが、今こんな不正の例を見た以上、宗門にはいらないほうが自分の立身のためにはおそらく有利だろうと、フーケに手紙を書こうと思い立った。
ジュリアンは、ヴェリエールの司祭の罷免にかこつけ逃げ道をこしらえておき、自分の心のなかで情ない処世の才のほうが英雄的精神より優勢になった場合には、商売のほうへ帰れるようにしておこうという頭の働きを得意に思った。
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第十五章 鶏鳴
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恋は、ラテン語にてアモールという。
されば、恋よりモール〔死〕を生ず、
はたまた、それより前に、心を触む憂慮、
哀しみ、涙、欺瞞、大悪、また悔恨……
(恋の賦)
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もしジュリアンがそんないわれもないのに自分が持っていると自任しているその巧者さを、事実すこしでも持っていたならば、自分がヴェリエールへ行って来たことがどういう結果を招来しているかを翌日見て得意になり得ただろう。彼がいなかったことが、彼の無器用さを忘れさせたのだ。この日もまだ彼はかなり陰気だった。晩方、おかしな思いつきが浮かんだので、彼は無類の臆面《おくめん》のなさでそれをド・レナル夫人に伝えた。
皆が庭に出て腰をおろすや否や、充分暗くなるのも待たずジュリアンはド・レナル夫人の耳に口を寄せて、相手を恐るべき危地に陥れるのもかまわずこう言ったのである。
「奥様、今晩二時に、私はあなたのお部屋にうかがいます。お話し申し上げねばならないことがありますから」
ジュリアンは自分の願いが聴き容れられたらと思って慄《ふる》えていた。誘惑者という自分の演じなければならぬ役割が彼の心をものすごく悩ましていたので、もし彼が本来の性格のままに動くことができたならば、何日も何日も自室に引きこもってご婦人方にはもはや顔を合わさなかったろう。彼は、昨日の自分の悪達者《わるだっしゃ》なやり口のおかげでその前の日与えておいた好印象をすっかり台無しにしてしまっているということを認めていたので、実際何をどうしてよいのやらわからなかったのだ。
ド・レナル夫人は、ジュリアンがあえてしたこの無礼な予告に、まったく誇張ではなく心から憤激して答えた。彼はその短かい返事のうちに軽蔑を認めたように思った。ごく低い声でささやかれたこの返事の中には、まあ呆れたという言葉があったことは確かだ。子供たちに話があるという口実でジュリアンは子供部屋へ行ったが、帰って来るとド・レナル夫人とはずっと離れてデルヴィル夫人の横に坐った。こうして彼はド・レナル夫人の手を取るあらゆる可能性をみずから棄てた。会話は真面目な話だったが、ジュリアンは幾度か頭をひねって考え事をしていた間だけ黙っていたほかは、首尾よく切り抜けた。〈ド・レナル夫人に否応なしにはっきりとした愛情のあかしを立てさせるうまい手段が考え出せないものか〉と彼は心に思ったのである。〈三日前、おれはあの人はおれのものだと思ったが、あの時のようなはっきりした愛情のあかしを!〉
ジュリアンは自分の手でこの問題をほとんど絶望的なものにしてしまいながら、こんな状態にひどく戸惑いしていたのだった。とはいえ、もし成功したらこれ以上彼を狼狽させるものはなかったろう。
皆が真夜中になって別々になったとき、持ちまえの悲観主義《ペシミズム》のため、彼は自分がデルヴィル夫人から侮蔑を受けているのみか、ド・レナル夫人にだっておそらくは同じように思われていると思いこんでしまった。
非常に不機嫌になり強い屈辱を感じて、ジュリアンは一睡もしなかった。あらゆる駆けひき、あらゆる計画を放棄して、その日その日の幸福に子供のように満足しながら、ド・レナル夫人と一緒に一日一日を暮らしていこうと考えることなどは、とうてい彼にはできなかった。
上手な手口を考え出そうと彼は頭をひねった。だがすぐそんな手などは馬鹿らしいと思った。館の時計台で二時が鳴ったときには、てっとりばやく言えば彼はたいへん不幸だったのだ。
この響きは、さながら鶏鳴《けいめい》が聖ペテロを目覚ましたように、彼の目を覚まさせた。彼は自分がいま最も困難な事をなそうとしているのだと思った。彼はあの無礼な申し込みのことを、その申し込みをした瞬間からもはや考えていなかったのだ。この申し込みは先ほどあんなにひどいあしらいを受けたではないか!〈おれはあの人に二時に部屋へ行くと言った〉と彼は身を起こしながらつぶやいた。〈おれはいかにも百姓の倅然《せがれぜん》として無調法で無遠慮だったんだろうな。デルヴィル夫人がそのことは充分におれに思い知らせてくれた。だがすくなくともおれは意気地なしにはなるまい〉
ジュリアンが自分の勇気を誇るのは正しかった。かつて彼はこれ以上苦しい強制を自己に加えたことはなかったのである。扉を開けるとき、彼は膝の力が抜けて立てなくなるほどわなわな震えていたので、壁に寄りかからざるを得なかった。
彼は靴もはいていなかった。ド・レナル氏の扉のところへ行って耳をすませた。氏のいびきが聞こえた。彼はがっかりしてしまった。それではもう夫人の部屋へ行かないための口実がないのだ。だが、いったい全体、彼は何をしようというのだろう? 彼には何の計画もなかった。計画を持っていたにせよ、それを実行することをなし得ないほど自分が惑乱しているのがわかった。
ついに、死地に進んで行くときよりも数千倍も苦しみ悶《もだ》えながら、ド・レナル夫人の部屋に通ずる小廊下に彼は足を踏み入れた。わななく片手で、恐ろしい音を立てながら彼は扉を開けた。
あかりがあった。豆ランプがマントルピースの下で燃えていた。彼はまたしてもこんな不運にぶつかるとは予期していなかった。彼がはいって来るのを見ると、ド・レナル夫人はぱっとベッドから飛び出た。「呆れた人!」と彼女は叫んだ。一瞬、二人とも度を失っていた。ジュリアンは自分の無益な企図を忘れて、生地《きじ》のままの我にかえった。こんなに魅惑的な女性の寵を得られなければ最大の不幸だと思われたのだった。彼女の非難の言葉に答えて彼はただその足許に身を投げ、その膝をかき抱くばかりであった。彼女が非常に冷静な言い方をするので彼は涙にくれた。
数時間の後ジュリアンがド・レナル夫人の部屋を出た時には、小説の流儀で言うならば、彼はもはやこれ以上望むところとてなかったと言ってよかったろう。実際、彼が勝利を獲得したのは、自分が相手の心にかき起こした愛情と、相手の心をそそる魅力が思いがけぬ印象を与えたこととによるのであって、まことに拙劣な彼の手際をいかに揮《ふる》ってもこのような勝利には到り得なかったろう。
しかし、最も甘美な瞬間においてすら、奇怪な自尊心に動かされて、彼はなおも手慣れた女心の征服者の役を演じようと思った。つまり彼は、自分の持っている愛すべきところを台無しにしようとして、信ぜられぬほどの細心な努力をした。自分が相手に生ぜしめた熱狂や、またその熱狂をむしろさらに強烈なものにする相手の良心の呵責《かしゃく》に目をつけるどころか、彼の眼前には絶えず義務という観念がわだかまっていたのだ。自分の従おうと思っている理想的な範例からはずれたならば、恐ろしい悔恨に苦しみ、一生笑い草になるだろうと彼は恐れていたのだ。要するに、ジュリアンをして人並みすぐれた人間たらしめているまさしくそのものが、自分の足許にある幸福を彼が味わうことを妨げたのだ。これでは、美しい顔色をしていながら舞踏会へ行くためにその上になお紅を塗るなどという馬鹿な真似をする、十六歳の少女と異なるところはない。
ジュリアンの出現に死ぬほど怯《おび》えて、ド・レナル夫人は間もなく極めて激しい不安の虜《とりこ》となった。ジュリアンの涙と絶望は激しく彼女の心を乱した。
もはや彼に対して拒むべき何ものもなくなったときにさえ、心の底から憤って彼女はジュリアンを遠くへ突きのけ、さらにまた彼の胸に身を投げるのであった。こういった振る舞いには何らの下心などというものはなかった。彼女は決して赦されることのない呪いを受けたと思い、この上なく激しい愛撫の数々をジュリアンに浴びせながら、目に浮かぶ地獄の有様から身を隠そうとした。とにかくわれわれの主人公の幸福には何一つとして欠くるところはなかったのだ。もし彼がそれを味わう術《すべ》さえ知っていたならば、自分が攻め落としたこの女性の裡《うち》に、こちらの愛に応じて燃え上がる激しい官能さえもあったのである。ジュリアンが出ていっても、彼女の意にそむいて彼女を昂奮させる狂わしい愛情や、心を掻きむしる後悔との彼女の相剋《そうこく》は、いっこう終らなかった。
〈何ということだ! 幸福であるということ、愛されるということは、これだけのことなのか?〉これが自分の部屋へ帰ったジュリアンの最初に考えたことだった。長いあいだ希求していたものを獲得したばかりの心が陥る、あの驚きと不安な惑乱の状態に彼はいた。求めることに慣らされた心が、もはや求める対象を見出し得ないのに、まだ追憶をも持ち得ないのである。閲兵《えっぺい》から帰って来た兵士のように、ジュリアンは自分の行為のあらゆる細かな点まで仔細に反省してみようと一生懸命になっていた。〈おれは自分に対する義務に一つとして欠くるところなかったろうか? おれは立派に自分の役割を演じたろうか?〉
しかも、その役割たるや! 女どもを相手にみごとな腕を揮うのに慣れた男の役割だ。
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第十六章 翌日
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彼は唇を彼女の唇に寄せ、その手で彼女の乱れた髪のもつれをなおしてやった。
(『ドン・ジュアン』第一章一七〇節)
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ジュリアンの名誉にとってはさいわいなことに、ド・レナル夫人はあまりにも昂奮し、あまりにも驚愕《きょうがく》していたので、一瞬にして彼女にとってすべてのものとなってしまったこの男の愚かさに気がつきはしなかった。
夜が明けて来るのを見て、彼女はこう言って部屋に帰るように勧めた。
「まあ大変! もし主人が物音を聞きつけたら、あたしはおしまいだわ」
まだ芝居がかった文句を使うだけの余裕を持っていたジュリアンは、こんな文句を思いついて言った。
「あなたは命が惜しいのですか?」
「ああ、今はとても惜しいわ! けれどあなたを知ったことは悔やまないわよ」
ジュリアンは無謀にもことさら日が高く昇ってから自室に戻ることで、自分の偉さを見せることができると思った。
経験のある男らしく見せようという馬鹿げた考えで絶えず自分のほんの些細な動作にまで心を配っていたおかげで、一つだけうまく行ったことがあった。昼食でド・レナル夫人にまた顔を合わせたときの彼の振る舞いは、まったく見事な慎重さそのものであった。
彼女のほうでは、目まで赤くせずには彼のほうを見ることができなかった。しかも彼のほうを見ずには一刻も生きた心地がしなかった。彼女は自分が取り乱しているのに気がついた。それを隠そうとする努力のため、いっそうそれは激しくなるのだった。ジュリアンは一度だけしか目を上げて彼女のほうを見なかった。最初ド・レナル夫人は彼の慎重さに敬服した。やがてその一度きりの凝視が二度と繰り返されないのを見て、彼女は不安はとらわれた。〈あの人はもう私を愛していないんじゃないかしら〉と彼女は心に思った。〈ああ! 私はあの人にはお婆さんすぎる。あの人より十も年上なのだ〉
食堂から庭園へ移るときに彼女はジュリアンの手を握りしめた。こんなに異常な愛のしるしに驚きながら、彼は夫人を情熱的に打ち眺めた。なぜなら彼には昼食のとき彼女がほんとに綺麗に思われたからである。そして目を伏せながらも、彼はゆっくりと彼女の魅力を細かく味わい楽しんでいたのだ。今彼のこの目つきがド・レナル夫人を慰めた。その目つきは彼女からあらゆる不安を除いてくれはしなかった。しかし彼女の不安は、彼女が夫に対して感じている良心の呵責《かしゃく》をほとんどすべて取り除いてくれたのである。
昼食のとき、この夫は何も気がつかなかった。ところがデルヴィル夫人はそうではなかった。彼女はド・レナル夫人がもうすこしで屈服してしまうと思った。その日一日、率直な痛切な友情にうながされて、彼女は何かといってはド・レナル夫人が現在冒しているその危険を、身の毛のよだつような彩りでその眼前に描き出してやることを怠らなかった。
ド・レナル夫人はジュリアンと二人きりになりたいと熱望していた。彼女は彼にまだ自分を愛しているかと訊きたかったのだ。いつも変わらぬ淑《しと》やかな性格を持ちながら、夫人は何度も自分の友だちにむかって、彼女のいることがどんなに自分の邪魔になるかということを言ってしまいそうになった。
夜、庭へ出ると、デルヴィル夫人はうまく立ちまわってド・レナル夫人とジュリアンとのあいだに席を占めることができた。ジュリアンの手を握りしめ自分の唇へ持って行くという快楽の甘美な夢を描いていたド・レナル夫人は、彼に一言ことばをかけることさえできなかった。
こんな支障が彼女の焦躁をたかめた。彼女は悔恨にさいなまれていた。前の晩自分の部屋へやってきたという無謀な振る舞いを激しく叱りつけてやったので、ジュリアンが今晩来ないのではないかと、彼女はからだが震えるほど心配だった。彼女は早々に庭を去って自分の部屋に落ち着いた。しかし焦躁に堪えがたくなって、彼女はジュリアンの部屋の扉のところへ行って耳を押しつけた。不安と情熱に心をえぐられながらも、彼女は思い切ってなかにはいることは何としてもできなかった。こんな振る舞いは彼女には卑しいことの最たるものと思われた。こんな振る舞いは、地方でよく言われるある俚諺《りげん》の種になっているからである。
召使いたちはみんな寝ているわけではなかった。用心のために結局、自分の部屋へ帰らざるを得なかった。二時間の待つあいだは苦悶の打ち続く二世紀にひとしかった。
しかしジュリアンは、自ら義務と称しているものに対して非常に忠実であったため、自分で決めたことを着々と実行していくのに怠りはなかった。
一時が鳴ると彼は静かに部屋から抜け出し、この家の主人が熟睡しているのをたしかめて、ド・レナル夫人の部屋にあらわれた。この日、彼は愛人のそばでいっそうの幸福を味わった。演ずべき役割のことを前ほど始終考えなかったからである。物を見るべき目と声を聞くべき耳を今日の彼はそなえていた。ド・レナル夫人が自分の年齢のことで言ったことが、彼をいくらか安心させるのに役立った。
「ああ、あたし、あなたより十《とう》も年上なのに! どうしてあなたはあたしを愛することができたのでしょう?」そう彼女は、それを思うと苦しくなるというだけの理由で、何の下心もなく繰り返し言った。
ジュリアンはこういう不幸の意味がわからなかった。しかし彼にはそれが嘘ではないのは、わかった。そして彼は、物笑いになりはしまいかという恐れをほとんどまったく忘れた。
生まれが賎しいゆえに格の下の情人と見られているという愚かな考えも同様に消え失せた。ジュリアンの熱狂ぶりがその臆病な恋人を安堵《あんど》させるにつれて、彼女は少しばかりの幸福感と自分の情人を批判的に見る頭のはたらきとを取り戻した。さいわい彼にはこの日、昨晩の密会を一つの勝利とはなし得たが快楽とはなし得なかった、あの借り物の様子はまずないといってよかった。もし彼女が、彼がある役割を演じようとして気をつかっていることに気づいていたとすれば、この悲しい発見は永久に彼女から一切の幸福を奪ってしまったろう。そして彼女はそこに、双方の年齢の不釣合いによる痛ましい結果よりほか見なかったろう。
ド・レナル夫人は恋愛理論のことなどまったく考えたことなどなかったとしても、年齢の相違ということは、財産の相違に次いで、地方で人の恋愛を冷やかすときにかならず言われる有名な常套句《じょうとうく》の一つとなっていたのである。
わずか数日で、その年頃の持つあらゆる熱情に溺れたジュリアンは、無我夢中に恋い焦れてしまった。
〈あの人が天使のような魂の善良さを持っていることは、何としても認めなくちゃならん〉と彼は心に思った。〈それにあれ以上綺麗な人がいるものじゃない〉
彼は演ずべき役割という考えなどほとんどまったく忘れてしまった。気がゆるんだ瞬間に、彼は自分の不安を残らず告白した。この打ち明けは、彼が相手の心に掻きたてた熱情を絶頂にまでたかめた。
〈それではあたしには、この人に愛されたような恋仇などいないのだ〉と、ド・レナル夫人は恍惚《こうこつ》として自分の心に言ったのである。彼女は思いきって彼があんなにまで気にかけていた肖像のことを訊いてみた。ジュリアンはある男の肖象だったと断言した。
反省するだけの冷静さがド・レナル夫人に残っているときには、彼女はこのような幸福の存することと、また自分がかつてこういう幸福の存在を思ってもみなかったことにほとほと驚いてしまうのであった。
〈ああ〉と彼女は心に思った。〈十年も前、私がまだ綺麗だと思われもしただろうころに、ジュリアンを知ったのなら!〉
ジュリアンには夫人のこんな考えなどは思いもよらなかった。彼の愛はまだ野心からの愛だった。まことに不幸な、あれほど人に蔑《さげす》まれている貧乏人の自分が、かくまでに美しい女性をおのれのものにするという歓喜からの愛だった。彼の示す熱愛、愛人の魅惑を目にしての彼の熱狂、これが結局、年齢の相違ということについていくらか彼女を安心させてくれた。最も開けた国の三十歳の女ならばとっくに授かっているはずの世間智を、多少なりと彼女が持ち合わせていたならば、思いがけぬものへの喜びと自尊心の陶酔とのみを糧《かて》としているかに見える恋愛がどこまで続くかを考えて、慄然《りつぜん》としたであろう。
野望を忘れた瞬間には、ジュリアンは我を忘れてド・レナル夫人の帽子にまで、衣裳にまで感嘆した。彼は楽しげにその香りを嗅ぎ、飽きることがなかった。彼女の鏡のついた衣裳箪笥を開けて、そこにはいっているすべてのものの美しさや配列に見とれながら、彼はまるまる数時間もそうしていた。彼にもたれかかった愛人は彼を見まもっていた。彼は彼で、結婚の前日嫁入り仕度の品を入れる篭《かご》を満たすにも事欠かぬほどの、この装身具や小切れを見まもっていたのである。
〈わたしはこんな男と結婚することもできたのだ!〉と時おりド・レナル夫人は考えた。〈何という熱情的な心だろう! この人と一緒ならどんなに楽しい生活ができただろうか?〉
ジュリアンのほうでは、女性が男を攻めたてるこういう恐ろしい武器を、こんなにまで真近に見たことはかつてなかった。〈パリでだってこれ以上美しいものはなかろう!〉と彼はひとりごちた。そういうとき彼は自分の幸福に何らの不足もないと思った。愛人の心からの讃美や忘我の愛を感じると、この情交の最初のころあんなに堅苦しい、ほとんど滑稽な態度を取らしめたあの無益な理論を忘れることもよくあった。偽善を習慣としていたにもかかわらず、自分に熱中してくれているこの貴婦人に、細かい作法などずいぶん知らないものがあるということを告白するのが、非常に快く思われる時すらあった。愛人の身分が、彼を実際の彼以上に高めてくれるように思われた。ド・レナル夫人のほうでは、たくさんの細々したことをこうしてこの才気にあふれた、すべての人からいつか人並すぐれた人物になると思われている青年に教えてやることに、最も快い精神的な快楽を見出していた。郡長やヴァルノ氏でさえ彼に敬服せずにはいられなかったのである。そのためにこの連中は彼女の目から見てそれほど馬鹿ではなくなったように思われた。デルヴィル夫人はというと、彼女にはそれと同じ感情をあらわすことなど思いも寄らなかった。自分の看破し得たと信じる事実に絶望し、文字どおり分別を失ってしまった女の心に自分の賢明な忠告が厭わしく思われているのをさとると、彼女は出発の事情を特に説明もせず、また相手もことさらその説明を求めまいとしているので、そのままヴェルジーを去った。ド・レナル夫人はそのためいくらか泣きはした。だがじきに彼女には自分の至福が倍加されたように思われた。この出発のおかげで彼女は、ほとんど一日、自分の情人と差し向かいでいることになったのである。
ジュリアンは、あまり長いこと自分一人だけでいるとフーケのあの不快きわまる申し出が思い出されて腹が立つので、なおさら恋人との甘やかな逢瀬《おうせ》を楽しんだ。この新しい生活の最初の数日のうちには、かつて人を愛したこともなく、かつて人に愛されたこともない彼が、真情をもって人に接することに言うに言われぬ楽しさを感ずるあまり、これまで彼の生活の核心そのものであったあの野心を、もう少しでド・レナル夫人に告白しようとした時さえ幾度かあった。フーケの申し出によって掻き起こされた自分の奇妙な欲望のことを、できることなら彼女に相談してみたいと思った。だが、つまらぬ事件が彼をして率直たり得ないようにしむけた。
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第十七章 正助役
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おおこの愛の春は、四月の日の頼りない晴天とどんなに似ていることだろう。
いまは日の光のあらゆる美しさを示しながら、やがて雲はすべてを包みかくす。
(シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』)
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ある夕方、日の沈むころ、果樹園の奥で余計な人々から遠く離れて恋人のかたわらに坐った彼は、深い夢想に沈んでいた。〈こんなに楽しい時がいつまでも続くものだろうか?〉と彼は考えた。彼の心は、一つの地位に就くということの困難さばかりを思いわずらっていた。少年期の終るまで続き、さらにあまり豊かでなかった青年期のはじめの数年までも台なしにした、あの極度の不幸が、彼には怨《うら》めしかった。
「ああ!」と彼は叫んだ。「ナポレオンという人は実際フランスの青年のために神から遣《つか》わされた人でした! 彼に代わるものは誰でしょう? ぼくより金持であっても、立派な教育を受けるだけの小銭《こぜに》はどうにか持ってはいるが、二十歳になって誰かを自分の兵役の身代わりに買収して自分は何らかの道に進むようにするだけの金は持っていない不幸な人たちは、彼がいなかったらどうするでしょうか! 何としても」と彼は深い嘆息とともに付け加えた。「このいまいましい思い出に妨げられて、ぼくたちなんぞは永久に幸福になれない!」
彼は突然ド・レナル夫人が眉をひそめるのを見た。彼女はよそよそしい蔑《さげす》むような様子をした。こういう考え方は彼女には召使い風情《ふぜい》にふさわしいと思われたのだ。自分は非常に金持なのだといつも考えながら大きくなった彼女には、ジュリアンもまた同じく金持だということが当然のことのように思えた。彼女は彼を自分の命よりも数千倍も愛した。そして金のことなどはまったく眼中に置いていなかった。
ジュリアンはこのような考えを見破るどころではなかった。この眉をひそめたということが彼を現実に呼び戻した。さいわいこのとき彼には機転があったから、一流の文句をひねり出して、自分のすぐそばの緑草の上に坐っていたこの貴婦人に、いま自分が言った言葉は旅行中、友人の材木商人の家で何度も聞かされたことをそのまま繰り返したにすぎないと言ってやった。不信心な奴らの屁理屈《へりくつ》ですと彼は言った。
「それじゃ、もうそんな人たちとつきあわないでちょうだい」と、ド・レナル夫人はまだいくらかその冷やかな態度を残しながら言った。この態度は最も熱烈な愛情の表現のあとで急にあらわれて来たものだったのだ。
この眉《まゆ》をひそめられたこと、あるいはむしろ自分の軽率についての後悔が、ジュリアンの心を奪っていた幻影をはじめて傷つけた。彼は心に思った。〈この人は気は好いし、やさしい。おれに対する好意もはげしい。しかしこの人は敵方の陣営で育ったのだ。彼らは特に、立派な教育は受けているが、しかし金がなくて立身への道を進むことができない毅然《きぜん》たる人々の階級を恐れているにちがいないのだ。もしわれわれが対等の武器で戦うことを許されたら、こいつらは、この貴族連中は、いったいどうなるだろう! たとえばこのおれが、善意を持った誠実な……ド・レナル氏だって実際はそうなのだが……ヴェリエール町長となったとしてみろ! どれほどあの副司祭やヴァルノ氏やまた彼らの悪辣《あくらつ》さを難詰《なんきつ》してやるだろう! そうすりゃヴェリエールに正義が行なわれるぞ! やつらの才能なんぞはその場合おれの妨げにはなるまい。やつらなどはしょっちゅう暗中模索しているんだから〉
ジュリアンの幸福は、この日、もう少しで永続的なものとなりそうだった。われわれの主入公には思い切って肚《はら》の底を打ち割るということができなかった。自分の心と戦う、しかも即刻戦いを交えるという勇気を持たねばならなかったのだ。ド・レナル夫人はジュリアンの言葉に驚かされていたのである。なぜなら彼女の交際範囲の男たちは、特にあまり高すぎる教育を受けた下層階級のこういう青年たちがいるからこそ、ロペスピエールの再来もあり得ないことではないと、繰り返し言っていたからだ。ド・レナル夫人のよそよそしい態度はかなり長いあいだつづき、ジュリアンにはそれが特に目立つように思われた。これは、いやな話を聞いて嫌悪《けんお》を感じていたことに続いて、自分が不愉快なことを遠まわしに彼にほのめかしてしまったことについて危惧《きぐ》があったからである。この悲しみは、不快な人たちと離れて満足した気持でいるときにはあんなに純潔であんなに素朴に見える彼女の面差しに、ありありと反映していた。
ジュリアンはもはや安心して夢想に耽《ふけ》ることができなかった。冷静にはなったが愛情は揺らいできて、彼はド・レナル夫人に会いにその部屋へ行くのは慎重を欠くと気がついた。彼女が自分の部屋へ来るほうがいい。もし召使いに家のなかを走っているところを見られても、彼女ならば幾通りにも口実をつけてこのように走りまわる理由を説明できるのだから。
しかしこう決めることにもまたそれなりの不便があった。ジュリアンはフーケから、神学を学ぶものとしてはどうしても書店に注文することのできないでいた数冊の書物を受け取っていた。彼は夜でなければあえてその本を開かなかった。人に来られて読書を中絶されないほうがいいと思うことがよくあった。あの果樹園のなかでのちょっとした諍《いさか》いの前夜にも、彼女が来ると思えば彼には読書することがほとんどできなかっただろう。
ド・レナル夫人のおかげで彼は書物をまったく新しい仕方で理解できるようになっていた。よしんばいかなる天賦《てんぷ》の才を持っているとしても、上流社会の外で生まれた青年がそれを知らないためにたちまち理解力を失ってしまうようないろいろの細かな事柄について、彼は思い切って彼女に質問してみた。
これまた非常に無知な女性を先生とするこの恋愛の教育は、一つの幸運であった。ジュリアンはまっすぐに今日あるがままの社会を見ることができるようになった。過去の二千年も昔の社会状態や、あるいはわずか六十年前のヴォルテールやルイ十五世の時代の社会状態の話によって頭が混乱することはなかった。目の前から一つの幕が落ち、とうとうヴェリエールで起こっているいろいろの事柄の意味がわかったことは、彼にとって何ともいえない喜びだった。
その前景には、この二年間ブザンソンの知事の側近で企まれている複雑な陰謀があらわれてきた。この陰謀はパリから来た、しかも最も知名のお歴々のよこした手紙を拠《よ》りどころにしていた。つまりド・モワロ氏……これはこの地方で最も信仰のあつい男だった……を、ヴェリエールの町長の副助役ではなく、正助役にするということなのである。
彼の競争者には大金持の工場主がいたので、是非ともこれを副助役の地位に落さねばならない。この地方の上流社会の人々がド・レナル氏の家に正餐に来たとき耳にしたいろいろのほのめかしの意味を、ついにジュリアンは理解した。この特権階級の人々は、町のその他の人々、特に自由主義者たちがそんなことがあり得るとさえ夢にも思わなかった、この正助役の人選には深く心を悩ましていた。この人選が重大事になった理由といえば、誰もが知っているようにヴェリエールの大通りが国道となったので、その東側が二メートル七十センチも引っ込められねばならないことだった。
ところで、引っ込められねばならぬ側に三軒家を持っているド・モワロ氏が首尾よく正助役となり、やがてド・レナル氏が代議士に任命されたのちに町長となったならば、彼は見て見ぬふりをしてくれるだろうし、そうすれば人々は公道に突き出ている家に目に見えないほどのつまらない改修でもして、百年間もその場に居坐ることができようというわけだ。ド・モワロ氏は非常に敬虔であり、その誠実さも衆目の認めるところであったにもかかわらず、皆は彼が御《ぎょ》しやすい人間だと確信していた。彼が子沢山《こだくさん》だったからである。引っ込めねばならない家のなかで九軒までは、ヴェリエールで最上流の人々の所有になっていたのだ。
ジュリアンの目には、この策謀は、フーケから送って来た書物の一つではじめてその名を知ったフォントノワ(一七四五年、フランス対イギリス・オランダ戦争の古戦場)の合戦の物語などよりも、はるかに重大であるように思われた。夜、司祭の家に通いはじめたこの五年来、ジュリアンにはいろいろと不思議に思われることがあった。けれども謙抑《けんよく》と精神の自卑とは神学を学ぶものの第一の資格だったので、彼には常に質問をすることができなかったのだ。
ある日ド・レナル夫人が、ジュリアンの敵である夫の従僕に何かをいいつけた。
「ですが、奥様、今日は月の最終金躍日でございますんで」とその男はおかしな様子で答えた。
「それじゃお行き」とド・レナル夫人は言った。
「さあこれからあいつは、昔は教会で、最近また礼拝が行なわれているあの|まぐさ《ヽヽヽ》の倉庫へ出かけて行くんですよ」とジュリアンは言った。「しかしなぜあんなことをするんでしょう? これはぼくにはどうしても解くことのできなかった謎の一つです」
「あれはとてもあらたかな、けれどずいぶんと風変わりな教団なんですよ」とド・レナル夫人は答えた。「女人禁制なのよ。私の知っていることといえば、そこではみんながおたがいに呼びつけにするということだけなのよ。たとえば、あの召使いはこれからあすこでヴァルノさんと逢うでしょうけれど、あんなに横柄《おうへい》であんなに馬鹿なあの人がサン・ジャン(召使いの名)なんかに呼びつけにされてもまったく怒りもしないで、同じ調子で返事をするのよ。もしあなたがあすこですることを是非知りたいとおっしゃるのなら、私、ド・モジロンさんやヴァルノさんに細かいことを訊いてみますわ。私たちはいつか召使いたちから首を斬られたりすることがないように、召使い一人あたり二十フランもお金を払っているのです」
時間はたちまちのうちに過ぎていった。愛人の魅力を思い出すとジュリアンはその暗鬱《あんうつ》な野心を忘れた。二人はそれぞれたがいに対立する党派に属していたため、彼女には悲しいことや理屈ばったことを話してはならなかったが、そのために彼の気がつかないうちに彼女によって彼の得た幸福も彼女が彼に対して得た支配力もともに増した。
もう頭が働きすぎるほど働くようになっている子供たちがそばにいて、よそよそしい常識的な言葉しか使えぬようなときには、ジュリアンは愛情にきらめく目を彼女に注ぎながら、社会の動きを彼女が説明するのをまったくすなおに傾聴していた。道路工事とか納入品とかのことで何か巧妙な詐欺《さぎ》が行なわれたなどということを話している最中に、ド・レナル夫人が気も狂わんばかりに我を忘れてしまうこともよくあった。ジュリアンは彼女を叱ってやらねばならなかった。彼女は彼に対して、自分の子供たちに対してするのと同じように親しげなしぐさまであえてした。それは、彼をまるで自分の子供のように愛しているのだという錯覚を起こす日もあったからである。良家の子供ならば十五歳にもなれば知らないということのないような無数の単純な事柄について彼がする無邪気な質問に、絶えず彼女は答えてやらねばならなかったではないか。と思うとそのすぐあとで、彼女は彼を自分の先生のように思って敬服した。彼の天才が彼女には恐ろしいまでに思われた。この若い坊さんのうちに未来の偉人の姿が日に日にはっきりと認められて来るように彼女は思った。彼女には法皇となった彼の姿が見えた。リシュリューのような宰相となった彼の姿が見えた。
「あなたが名誉に包まれるのを見るまで、私は生きていられるかしら?」と彼女はジュリアンに言った。「偉い人にはもう地位がきまっているのです。王国も教会も偉大な人を要求してますもの」
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第十八章 ヴェリエールにおける王国
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諸君らは、魂ももたず、その脈管にはもはや血も通っていない民衆の屍《しかばね》のように、放り捨てられるだけのものなのか?
(聖クレマン会堂における司教の講話)
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九月三日の夜十時に、騎馬の憲兵が大通りをギャロップで登っていって、ヴェリエール全町民の眠りを覚ました。***王陛下がきたる日曜日にお着きになるという報告を持って来たのである。その日は火曜日だった。知事は儀仗隊《ぎじょうたい》の編成を許可した、ということはつまり要求したことになる。できるかぎり豪華にやらなければならなかった。急使がヴェルジーへ派遣された。ド・レナル氏は夜中に到着したが、町じゅうが沸《わ》き立っていた。誰もかれもそれぞれが何かを主張した。一番ひまな連中は王の入御を見物するため露台を賃貸していた。
誰が儀仗兵を指揮するか? ド・レナル氏はただちに、ひっこめなければならぬ家の件をうまく処理するためには、ド・モワロ氏にこの指揮を委ねることが肝要だと見て取った。このことが正助役の地位につけるための資格にならぬとも限らぬ。ド・モワロ氏の信心についてはまったく非の打ちようもなかった。この信心はまったく空前絶後のものであったが、しかし彼はまったく馬に乗ったことがなかった。三十六歳の男で、あらゆる点で臆病で、落馬することも嘲笑《ちょうしょう》を買うこともどちらも同じように恐れていた。
町長は朝の五時から彼を呼びにやった。
「このとおり私は、ちゃんとした人々がすべてあなたに就任していただこうと思っているあの職にすでにあなたが就いておられるものとして、ご意見をうかがうのです。この情ない町では工場が栄えていて、自由主義者どもは百万長者になっている。彼らは権力を渇望しておりますし、何事によらず自分らの武器として利用するでしょう。国王と、王国と、そして何よりもまず私たちの神聖な宗教《おしえ》のことを考えてご相談いたしましょう。誰に儀仗隊の指揮を委ねたらいいとあなたはお思いになりますかな?」
馬のことを考えると身の毛のよだつほど恐ろしかったのに、ド・モワロ氏は結局この栄誉をまるで殉教者のように引き受けた。
「私だって大過なくやってのけましょう」と彼は町長に言った。
七年前にある親王殿下のご通過のさい使った制服を、どうにか手入れさせる余裕があるだけだった。
七時にド・レナル夫人はジュリアンや子供と一緒にヴェルジーから帰って来た。帰ってみると、家のサロンには自由主義派の婦人たちが詰めかけていて諸党派の合同を説いていた。そして彼女のところへ来て自分たちの夫を儀仗隊の一員に加えるようにご主人に口をきいてくれと懇願するのだった。そのなかの一人は、自分の夫はもし選ばれなかったら悲しみのあまり破産するだろうと言っていた。ド・レナル夫人はこういった連中をたちまち一人のこらず追いかえしてしまった。
ジュリアンは、彼女が何のために昂奮しているかを自分に秘密にしたことに驚き、それ以上に不満に思った。〈こんなことになるとは前から思っていた〉と彼は苦々しく言った。〈あの人の愛情は、国王を自宅に迎えるという幸福の前にけしとんでしまうんだ。この騒動であの人の目は昏《くら》まされている。自分の階級のことで頭のなかをかき乱されないようになれば、あの人はまたおれを愛してくれるだろう〉
不思議なことに、彼はそれによっていっそう彼女を愛するようになった。
部屋飾りの職人たちが続々と家へやって来はじめた。彼は長いあいだ彼女に一言ことばをかける機会をうかがっていたが、その機会はなかった。とうとう彼は、彼女が自分の、つまりジュリアンの部屋から、彼の服を一着持って出て来るところを見つけた。二人だけだった。彼は話しかけようと思った。彼女は耳をかすことを拒んで逃げ出した。
〈あんな女を愛するなんて、おれは実際馬鹿だな。功名心のために亭主と同じくらい逆上している〉
いや彼女は夫以上に逆上しているのだ。彼女の最大の望みの一つは、腹立たせてはと思って一度もこれはジュリアンに打ち明けたことがなかったが、たった一日でもいいからジュリアンがあの陰気な黒い服を脱いだところを見たいということだったのだ。これほど天真な女性にしてはまことに感嘆すべき巧みさで、彼女はまずド・モワロ氏を、次いで郡長ド・モジロン氏を口説き落として、大金持の工場主の息子たちであり、そのうち少くとも二人までは人の手本となるほどの信仰を持っていた五、六人の青年を差し置いて、特にジュリアンを抜擢《ばってき》して儀仗隊員に任じることにさせたのだ。自分の無蓋四輪馬車《カレージュ》を町で一番美しい婦人たちに貸して、例の素晴らしいノルマンディ種の馬を誇示しようと思っていたヴァルノ氏も、自分の一番嫌いな男であるジュリアンにその馬のうち一頭を貸すことを承諾した。しかし、儀仗隊員はみな、自分で持っているにせよ借り物にせよ、あの七年前に輝やいた銀色の大佐の肩章のついた美しい空色の服を持っていた。ド・レナル夫人は新しい服がほしかった。ブザンソンに人をやって、制服やら剣やら帽子などの、儀仗隊員の身のまわりの一切のものを持って来させるために、四日の余裕しかなかった。一番愉快なことはジュリアンの服をヴェリエールでつくらせることを彼女が賢明なやりかたでないと思ったことだ。彼女は彼に、いや彼と町の人々とに、あっと言わせてやりたかったのだ。
儀仗隊と、町の人心の問題についての奔走が終ると、町長は大きな宗教儀式のことで頭を悩まさねばならなかった。***王はヴェリエールを通過するについて、町から程遠からぬブレ・ル・オーに納めてある有名な聖クレマンの遺物に是非とも詣《もう》でたいと望まれたのだ。多数の聖職者を集めたいという要望があったが、これはなかなかの難問題だった。新司祭マスロン師はどんなことがあってもシェラン師の参加は忌避《きひ》したいと思っていた。ド・レナル氏がそれは慎重を欠くことだと説明したが、無駄だった。長いあいだこの地方の総督をしていた先祖を持つド・ラ・モール侯爵が、***王に随行を命ぜられていた。
侯爵は三十年来シェラン氏と交際があった。ヴェリエールヘ到着すれば彼はきっとシェラン氏の消息を尋ねるだろう。そして、もし氏が更迭《こうてつ》されているのがわかったら、彼は堂々と自分に整えられるかぎりの供まわりの者どもを引き連れてシェラン氏のいる小さな家へ会いに行くような男だ。そんなことをされたら何という侮辱だ!
「もしあの男が私と一緒に僧侶衆に加わることになったら、この町でもブザンソンでも私の面目がつぶれますよ。何ということだ。あんなジャンセニストが!」とマロン師は答えた。
「あなたがこのことについて何とおっしゃろうと」とド・レナル氏はやりかえした。「私はヴェリエールの行政がド・ラ・モール侯爵閣下からけちをつけられるようなことにはさせません。あなたは侯爵のことをご存じないが、あの方は宮中にいるときは、まともに物事を考えられる。しかしこういう地方では、皮肉で人を馬鹿にした悪いいたずらをする方で、人を困らせようとばかりなさるのです。ただ面白いからというだけで、自由主義者どもの目の前でわれわれに赤恥をかかすようなことだってやりかねない」
三日間にわたる談合の末、土曜から日曜にかけての夜のうちに、マスロン師の自尊心は、不安のあまり毅然《きぜん》たる態度を取るようになってきた町長の前に屈した。そこでシェラン師に甘言を連ねた手紙を書いて、ご高齢とご病身のためお差し支えないかぎりプレ・ル・オーの聖物拝観の儀式にご参列願いたいと懇請しなければならなかった。シェラン師はジュリアンを副助祭として随伴させるつもりだからといって彼への招請状を求め、手に入れた。
日曜の朝から付近の山地からやって来た数千人の農民がヴェリエールの街路にごったがえしていた。快晴だった。やがて三時ごろこの群集が騒ぎ出した。ヴェリエールから八キロほど離れた岩の上に大きなかがり火が見えたのだ。この合図は国王が只今この県の領分内へはいられたことを告げるものだった。ただちにあらゆる鐘の音と、町に所属する古いスペイン製の大砲の連続発射とが鳴り響いて、この大きな事件についての町民の歓びを告げ知らせた。住民の半分は屋根に登った。婦人たちはみんな露台にいた。儀仗隊が行動を開始した。人々は燦然《さんぜん》たる制服に感嘆した。誰もみなそのなかに、自分の親戚や友だちがいるのを見た。ド・モワロ氏が怖気づいているのが皆の嘲笑を買った。彼はすぐ鞍橋《くらはし》をつかまえることができるようにいつも慎重に構えていたのだ。だがあることが目につくと、ほかのことはすべて忘られてしまった。九番目の隊列の騎者が、とてもすらりとした非常な美少年だったのである。はじめのうちは誰だかわからなかった。やがてある者は憤激の叫びを発し、ある者は驚愕のあまり口をつぐんで、皆の心に受けた衝撃が明らかになった。ヴァルノ氏のノルマンディ種の馬に跨《またが》ったこの青年が、大工の小倅のソレルとわかったのだ。人々はこぞって町長に対する非難の叫びをあげた。特に自由主義者のあいだで激しかった。何たることだ! あの僧侶のなりをした職人の倅が自分の子供たちの教師だというだけのことで、町長は裕福な工場主の誰それを差し置いて傍若無人にもあいつを儀仗隊員に指名したのか?
「あの方々はきっとこんな素姓も知れない横着な青二才に恥をかかしておやりになりますわ」と、一人の銀行家の細君が言った。隣にいた男が答えた。「あいつは陰険な奴でサーベルを持ってますからね、相手の顔に斬りつけるくらいの謀叛気《むほんぎ》はありますよ」
貴族階級の話はもっと物騒なものだった。貴婦人方は、こんな非常識きわまることが町長の一存で行なわれたものかと尋ねあっていた。それまで一般に人々は彼がジュリアンの生まれの悪いことを無視しているのを是認していたのだが。
自分がこれほどの取り沙汰の種にされているあいだ、ジュリアンはこの世で最も幸福な人間だった。生来大胆な彼は、この山国の町の青年たちの大部分よりも上手に馬を御していた。彼は婦人たちの目を見て、自分が話題にされていることを知った。
彼の肩章は新しいので、一番よく輝やいていた。彼の馬はひっきりなしに後脚で立ち上がった。彼は歓喜の絶頂にいた。
彼の幸福はもはや果てしがなかったが、そのうち古い堡塁《ほうるい》のそばを通るさい、軽砲の轟音に驚いて、馬が隊伍の外へ飛び出した。まったく偶然に彼は落馬しないですんだ。この瞬間から彼は英雄になったような気がした。彼はナポレオンの伝令将校だった。そして砲台を攻撃しているのだ。
彼よりいっそう幸福な人が一人いた。最初、彼女は町役場の窓から彼の通るのを見た。それからカレーシュに乗って急いで大きく迂回すると、ちょうど彼の馬が隊列の外へ彼を乗せて走り出るところに来合わせて彼女は慄然《りつぜん》とした。最後に彼女のカレーシュは別の市壁の門から最大速度で出て行って、王が通過するはずの道路に出ることに成功したので、尊貴の後塵を拝しながら二十歩ほどの距離をおいて儀仗隊について行くことができた。町長がうやうやしく陛下に祝辞を述べると、一万の良民たちは国王万歳を叫んだ。
一時間後、すべての奏上を聞き終えて王が町へはいろうとしたとき、軽砲がまたもや急速な射撃を始めた。しかし一つの椿事《ちんじ》が起こった。ライプチヒやモンミライユ(両方ともナポレオン軍と対仏連合軍の戦場となった)の合戦で実力を発揮した砲手たちにではなく、未来の正助役ド・モワロ氏の上に起こったのである。街道の上に一箇所だけあった泥濘《でいねい》の上に彼の馬がやんわりと彼をおっことしてくれたのだ。騒動が起こった。王の車が通れるように、彼をそこから引き出さねばならなかったからである。
陛下は、この日ありとあらゆる暗赤色の垂れ幕で飾られていた美しい新築の教会の前で、車から降りた。食事をした上ですぐにまた車に乗って、名高い聖クレマンの遺物に参拝することになっていた。王が教会に着御するや否やジュリアンは馬を飛ばしてド・レナル氏の家へ帰って、溜息をつきながら美しい空色の服やサーベルや肩章を脱ぎすて、擦《す》り切れた小さな黒服をまた着た。彼はまた馬に乗り、しばらくのちにはたいそう美しい丘陵の頂にあるブレ・ル・オーにいた。〈感激のためにあの百姓どもの数が増した〉とジュリアンは思った。〈ヴェリエールじゃ身動きもできないくらいだ。それにここでもこの古い僧院の周囲に一万以上集まっている〉僧院は大革命の蛮行のために半ば廃墟と化したが王政復古以来壮大に修復されて、今では奇蹟が行なわれているという噂が立ちはじめていた。ジュリアンはシェラン師に会ったが、師は彼をがみがみ叱りつけて、法服《スタース》と白衣《シュルブリ》をわたした。彼は手ばやくそれを着て、若いアグドの司教のもとへ伺候《しこう》するシェラン師にしたがった。これはド・ラ・モール侯爵の甥で最近任命されたのだが、王に遺物をお見せする役目を授かっていた。しかし司教は見つからなかった。
僧侶たちはいらいらしていた。彼らは古い僧院の薄暗いゴチック式の拱廊《きょうろう》で自分たちの長を待っていた。一七八九年(大革命勃発の年)以前には、二十四人の僧会員《シャノワーヌ》によって編成されていた昔のブレ・ル・オーの僧会《シャピートル》に模するため二十四人の司祭が集められていた。四十五分にわたって司教の若さを嘆いたあげく、司祭たちは、司祭長《ドワイアン》殿が司教猊下のもとへうかがって、王がもうじきお着きになるからそろそろ内陣のほうへ行く時刻だとお知らせするのがよかろうと考えた。シェラン師は高齢のため司祭長に推されていた。ジュリアンに対して怒っていたにもかかわらず、シェラン師は彼について来いという合図をした。ジュリアンはその白衣を非常にうまく着こなしていた。どういうふうにするのかわからぬが何かの特別の僧職者の化粧法を使って、彼は渦を巻いたその美しい頭髪をぺったりと撫《な》でつけていた。しかし、これがシェラン師の怒りをさらにかきたてたのだが、うっかりしたために彼の法服の長い襞《ひだ》の下に儀仗隊員の拍車が見えていた。
司教の部屋へ来ても、派手に着飾った従僕たちは老司祭にむかって、猊下は面会できないとやっと答えてくれるだけだった。ブレ・ル・オーの高貴な僧会の司祭長たる資格においては、いつなんどきたりと祭式を執り行なう司教のおそばに伺候する特権を与えられているのだと師が説明しようとしても、従僕たちは鼻であしらうだけだった。
ジュリアンの驕慢《きょうまん》な気質は、この仕着《しきせ》を着た従僕どもの横柄さにむかむかしてきた。彼は古い僧院の寝所《ドルワトール》をいちいち調べてみて、目にふれた扉をみな押して歩いた。ごく小さな扉が彼が押すと苦もなく開いて、彼は小房のなかで鎖を首にかけ黒服を着た猊下の侍者たちに囲まれてしまった。このお歴々は彼の急《せ》きこんだ様子を見て司教から召されたのだと思い、通してくれた。数歩行くと、黒いオークの羽目板を一面に張ったひどく薄暗い広大なゴチック式の部屋に出た。尖弓形《オジーク》の窓は一つだけ除いて煉瓦《れんが》で塞《ふさ》がれてあった。この石細工の粗雑さはまったくむきだしなので、木の細工の古めかしい荘厳さと惨めな対照をなしていた。ブルゴーニュの好古家たちのあいだでは有名なシャルル豪胆公が一四七〇年ごろ何かの罪障消滅のために造らせた広間の両面には、豊かに彫刻をほどこした木製の僧座《スタール》が備えつけられていた。そこにはさまざまの彩りの木に描かれた黙示録のあらゆる秘蹟が見られた。
裸の煉瓦とまだ真っ白な漆喰《しっくい》が見えるために害《そこな》われているが、この憂鬱な荘厳さはジュリアンの心を打った。彼は無言で立ちどまった。広間のむこうのつきあたりの、日が差しこんで来るただ一つの窓の近くに、彼はマホガニーの自在鏡を認めた。紫色の寛袍《かんぽう》にレースの白衣を着て、そのくせ頭には何もかぶっていない一人の青年が、鏡の前三歩のところに立っていた。この道具はこのような場所にはふさわしからぬように見えた。そして明らかに町からここへ運ばれて来たものらしい。ジュリアンは青年がいらいらした様子をしているのに気がついた。右の手で彼は荘重に鏡にむかっ祝祷《しゅくとう》を与えていた。
〈これはどういうわけだ?〉とジュリアンは考えた。〈これは、この若い司祭が行なう予備儀式なのだろうか? たぶん司教の秘書なんだろう……従僕どもみたいに横柄なんだろうな……何、かまうものか? やって見よう〉
彼は前へ出た。あくまであの一つだけの窓のほうを向いて、この青年に目を注ぎながら彼はかなりゆっくりと広間を縦に横切って行った。青年はあいかわらずゆっくりと、だが一瞬も休まず何度も何度も繰り返し祝祷を与えていた。
近づくにつれてその青年の腹立たしげな様子がますますよく見分けられた。レースで飾られた白衣の豪華さを見て、ジュリアンは物々しい鏡のまえ数歩のところで思わず立ちどまった。
〈話しかけるのがおれの義務だ〉と、とうとう彼は自分に言って聞かせたが、広間の美しさに彼は驚かされていたし、相手が自分に言うだろう厳しい言葉を先まわりして考えて彼は萎縮《いしゅく》していたのだ。
青年は姿見に映った彼の姿を見て振りかえると、たちまち腹立たしげな様子をなくしてこの上なく柔和な態度で彼に言った。
「どうです。やっとなおりましたか?」ジュリアンは唖然《あぜん》としていた。若者が自分のほうを向いたとき、ジュリアンはその胸にかかった十字架を見たのだ。アグドの司教だった。〈こんなに若くて〉とジュリアンは考えた。〈せいぜいおれより七つ八つ年上だというだけなのに!……〉
そう思うと彼は自分の拍車が恥ずかしかった。
「猊下《げいか》」と彼はおそるおそる答えた。「私は僧会の司祭長シェラン師のところから遣わされましたので」
「ああ、あの方のことは私もいろいろとお話をうけたまわっています」と司教は丁重な口調で言ったが、これはますますジュリアンの感激を増した。「でも、ご免ください、私はあなたを、司教冠《ミートル》を持って来た者と思いましたので。パリでした荷造りが下手だったのです。上の銀襴《ぎんらん》がものすごくいたんでしまいました。これでは大変見苦しく見えるでしょう」と若い司教は悲しげな顔をして言い添えた。「そればかりか、私はだいぶ待たされているのです」
「猊下がもしお許しくださいますなら、私が司教冠を取ってまいりましょう」
ジュリアンの美しい眼差しが効を奏した。
「では行ってください」と司教は快い丁重さをもって言った。「今すぐ冠が要るのです。僧会の方々をお待たせするのは辛いですから」
ジュリアンは広間の中央へ来ると司教のほうを振り向いて、また祝祷を与え始めた彼を見た。
〈あれはいったい何なのだろう?〉とジュリアンは自問した。〈たしかにこれから行なわれる儀式に必要な宗門の人の準備行為なのだろう〉侍者たちのいる小房へやってくると、彼らが司教冠を持っているのを彼は見た。この連中はジュリアンの権高い目つきに心ならずも屈服して、猊下の司教冠を彼に渡した。
彼はそれを持って行くのを誇らしく思った。広間を横切って彼はゆっくりと歩いて行った。うやうやしく彼は冠を捧持していた。司教はちょうど鏡の前に腰をかけていた。しかし時々右の手で、疲れているのになおも祝祷を与えていた。ジュリアンは手伝って冠をかぶらせた。司教は頭を振った。
「ああ、こんどはうまく据《す》わるでしょう」と満足した様子でジュリアンは言った。「ちょっと離れてくださいませんか」
そうして司教は大急ぎで部屋の中央へ行ってから、ゆっくりとした歩調で鏡のほうに近づきながら、またもや腹立たしげな様子をして荘重に祝祷を与えた。
ジュリアンは驚きのため凝然としていた。その意味を理解しなくてはという気持になったが、あえて理解しようとすることはしなかった。司教は立ちどまった。そしてたちまちその態度から荘重な様子をなくして彼をみつめながら尋ねた。
「私の冠をどうお思いになります。似合いますか?」
「大変お似合いです」
「うしろのほうへ行きすぎていませんか? そうするとちょっと馬鹿みたいなふうになりますからね。けれども将校の軍帽のように目深《まぶか》に引き下げてもいけない」
「私には大変具合よくなっていると思えますが」
「***王は誰の目から見ても非常に威厳のある、尊敬すべき僧侶衆を平生見馴れていらっしゃる。私は何よりこのように若いのですから、それだけにあまり軽々しい様子をしたくないのです」
そう言って司教はふたたび祝祷を与えながら歩き出した。これは明らかに祝祷を与える稽古をしているんだな〉とジュリアンは、とうとうわけがわかったので、そう言った。
しばらくして、「用意ができました。司祭長殿や僧会の方々にお知らせして来てください」と司教は言った。
やがてシェラン師が最年長の司祭を二人従えて、ジュリアンが今まで気づかないでいた見事な彫刻をほどこした非常に大きな扉からはいって来た。しかし今度はジュリアンはその身分柄、一番うしろにいたので、この扉へむかって群れをなして寄せて来る聖職者たちの肩越しにしか司教の姿を見ることができなかった。
司教はゆっくりと広間を横切った。彼が敷居のところまで行くと司祭たちは列をなした。わずかのあいだ混乱があったのち、行列は聖歌を咏《えい》じながら動き出した。司教は一番うしろからシュラン師と一人の高齢の司祭にはさまれて進んた。ジュリアンはシェラン師の随員として猊下の真近にまぎれこんだ。一行はブレ・ル・オーの僧院の長い通廊に沿って進んだ。日の光は燦々《さんさん》と輝いていたのに、この廊は薄暗くじめじめしていた。一行は拱廊《クロワートル》のポルチック〔広い廊下の天井が穹窿になり、柱でその天井を支えている部分〕に到着した。ジュリアンはかくまで美しい儀式に見とれて茫然としていた。司教の若年なのを見てよびさまされた野心と、この僧正(司教)の心ばえの細やかさ、高雅な丁重さが、彼の心を打った。こういう丁重さはド・レナル氏の丁重さ、いや氏が特に上機嫌でいる日の丁重さにくらべてさえ、まったく段ちがいだった。〈上流社会の最高の階級に近づけば近づくほど、こういう素晴らしい礼儀作法が見いだせるようになる〉とジュリアンは思った。
一同は脇の扉から教会のなかにはいった。突然すさまじい響きが古い穹窿《きゅうりゅう》に反響した。ジュリアンは穹窿が崩れ落ちると思った。これまたあの軽砲の射撃だったのだ。八頭の馬に全速力で牽《ひ》かれてきたこの軽砲が、今しがた到着したのだった。到着するや否やライプチヒの合戦に従軍した砲手たちの手で発射準備され、あたかも目の前にプロシア兵がいるもののように一分間に五発も射ち出されたのである。
しかしこの素晴らしい轟音もジュリアンにはもはや何の感動も与えなかった。彼はもはやナポレオンのことや武勲のことは考えていなかった。彼は心に思った。〈あんなに若くてアグドの司教になっているのだ! だがアグドとはどこだろう? どれくらいの収入があるかしら? たぶん二、三十万フランはあるんだろうな?〉
猊下の従僕が華麗な天蓋《てんがい》を持ってあらわれた。シェラン師がその支柱を一本取ったが、それを支えたのは実はジュリアンだった。司教はその下に位置した。実際司教は実にあざやかに年配者のように装っていた。〈器用な人には何でもやれるものだ!〉とジュリアンは思った。
王が入御された。ジュリアンはさいわい咫尺《しせき》の間にその姿を拝することができた。司教は力のある語調で王に挨拶を述べた。しかし陛下に対する非常に丁重な恐懼《きょうく》の色をいささか混えることを忘れなかった。
ブレ・ル・オーの式典の叙述をここに繰り返すのはやめよう。二週間というものこの県のあらゆる新聞はこれを叙述した記事で満たされていたからだ。ジュリアンは司教の説教から、王がシャルル豪胆公の血を引いていることを知った。
のちになって、この儀式の出費の計算書をしらべることがジュリアン役目に加えられた。甥《おい》を司教職に就かせたド・ラ・モール侯爵は、すべての費用を自分で負担するという雅量を甥に示そうとしたのである。ブレ・ル・オーの儀式だけで三千八百フランかかった。
司教の言葉に答辞を与えられてから陛下は天蓋の下に進まれ、やがて祭壇の近くの祝祷台の上に、非常に敬虔な様子でひざまずいた。内陣の周囲には僧座があり、敷石から二段ほど高くなっていた。ローマのシスティーナ教会の枢機卿《カルジナル》のそばに侍《はべ》っているコーダテールといったように、ジュリアンはこの一番上の段にいるシェラン師の足許に坐っていた。謝恩聖歌《テ・デウム》が歌われ、香烟《こうえん》は波のように揺れ、小銃と大砲の斉射は止むことなく続いた。農民たちは幸福と敬虔の心に酔っていた。このような一日があると、ジャコバン派の新聞が百号つづけてやっと挙げた成果もぶっつぶされてしまう。
ジュリアンは、真に帰依《きえ》の情をもって祈祷している国王から六歩ほどのところにいた。彼ははじめて、ほとんど刺繍のない服を着た才気走った目つきの小柄な男に気がついた。けれどもこの男は大変簡素なその服の上に青色綬章をつけていた。ジュリアンの言い方にしたがえば、服地の見えないほど金の刺繍のついた服を着た他の多くの貴人たちよりも、この男はずっと王のそば近くに侍っていた。しばらくして彼は、これがド・ラ・モール氏だと教えられた。彼はド・ラ・モール氏が尊大な、いや傲岸な顔さえしていると思った。〈この侯爵はあの綺麗な司教のように丁重ではあるまい〉と彼は思った。〈ああ、聖職の輝きは人を柔和にし、つつましくする。だが王は遺物を詣でるためおいでになったというのに、おれにはちっとも遺物は見えない。どこに聖クレマンの遺物はあるんだろう?〉
彼の隣にいた小柄な僧侶が尊い遺物は建物の上のほうの、|灯明の間《シャペル・アルダント》にあるのだと教えてくれた。
〈シャペル・アルダントとは何だろう?〉とジュリアンは心に思った。
しかし彼はこの言葉の説明を求めようとはしなかった。彼の注意はいっそう緊張した。
最高君主の参詣の場合には、礼式では僧会員が司教に随行しないことになっていた。しかしシャペル・アルダントのほうへ進みはじめながらアグドの猊下はシェラン師を呼んだ。ジュリアンはあえて師のあとに続いた。
長い階段を登ると、非常に小さな、だがそのゴチック式の框《かまち》が華麗な金色に塗られている扉のところへ出た。この塗りは昨日施したもののように見えた。
扉の前に、ヴェリエールの屈指の名家から出された二十四人の乙女たちがひざまずいて集まっていた。扉を開ける前に司教は一人残らず美しいこの乙女らのあいだに膝をついた。高い声で司教が祈祷を誦しているあいだ、乙女たちは彼の美しいレースや立派な優雅さや若々しくて柔和な容貌を嘆賞して飽かぬように見えた。この光景はわれわれの主人公にまだ残っていた理性をすっかり失わせてしまった。この瞬間にならば彼は異端糾問のためといえども確信をもって戦ったであろう。扉は突然ひらかれた。小さな礼拝堂は光に燃えているかのように見えた。あいだに花束を置いて八列に分けた千本以上の蝋燭《ろうそく》が、祭壇の上に見られた。まったくまじりもののない香の馥郁《ふくいく》たる匂いが渦をまいて聖所の扉から洩れていった。新しく金色に塗られたこの礼拝堂は大変小さかったが、天井はとても高かった。ジュリアンは四メートル五十センチ以上もの高さの大蝋燭が祭壇の上にあるのに気がついた。乙女らは感嘆の叫びをとどめえなかった。二十四人の乙女と二人の司祭とジュリアンのほかには、この礼拝堂の小さな廊にはいることは許されなかった。
やがて王がド・ラ・モール氏と侍従長だけをしたがえてはいってきた。警護の者さえひざまずいて武器を捧げたまま外にとどまっていた。
陛下は祈祷台に身を投げるというよりも、飛びつかれたように見えた。ジュリアンが金色に塗った扉にぴたりとへばりついたまま、一人の少女のあらわな腕のむこうに聖クレマンの美しい像を見たのは、この時だけだった。この彫像は祭壇の下に、若いローマの兵士の服装をして隠されていたのだ。首に大きな傷があって、血が流れているように見えた。芸術家は自分の力以上の腕をふるったのだ。瀕死《ひんし》の目はそれでもやさしみを湛えて半ば閉ざされていた。生えたばかりの髭《ひげ》が、半ば閉ざされながらなお祈っているように見えるやさしい口もとを飾っていた。これを見てジュリアンの隣にいた一人の乙女は熱い涙を流した。その涙の一滴がジュリアンの手に落ちた。
周囲四十キロ四方のあらゆる村々で打ち鳴らす遠い鐘の音のほかは乱すものとてない深い深い静寂のうちに、ほんのしばらくのあいだ祈祷を誦したのち、アグドの司教は王に発言の許しを乞うた。司教は非常に感動的な短かい説教を、簡潔な、だがそれだけに深い印象を与えることは確実な、このような言葉で結んだ。
「キリスト者の乙女らよ、あなた方はこの世で最も偉大な王の一人が全能にして畏怖すべき神の僕《しもべ》らの前にひざまずかれたのを見たことを、決して忘れてはいけません。これらの僕《しもべ》らは、いまだなお血を流している聖クレマンの傷があなた方に示しているように、この地上では力弱く、虐待され虐殺されはしましたが、天上では勝利を得るのです。キリスト者の娘らよ、あなた方は永久にこの日を記憶にとどめ、不信者を憎むでしょうね? かくも偉大にしてかくも畏怖すべく、しかもかくもやさしい神に、永久にあなた方は忠実に仕えるでしょうね?」
こう言って司教は威儀を正して立ち上った。
「それを私に誓いますか?」と彼は霊感を与えられたもののように腕を前に差し出しながら言った。
「誓います」と乙女らは涙にくれながら言った。
「私はあなたがたの誓いを受けます、畏怖すべき神の御名において!」と司教は鳴り響くような声をもって答えた。そうして儀式は終った。
王自身も泣いていた。ジュリアンが冷静にかえって、ローマからブルゴー二ュ公フィリップ善良公(シャルル豪胆王の父)に送られた聖者の遺骨がどこにあるのかと訊いたのは、だいぶ後になってからだった。遺骨はあの蝋製の愛らしい額のなかに納められているのだと教えられた。
陛下は礼拝堂に随行したあの令嬢たちに HAINE A L'IMPIE ADORATION PERPETUELLE(不信者を憎み、永久に神を崇《あが》む)という言葉を刺繍した赤いリボンをつけることを許された。
ド・ラ・モール氏は農民たちに一万本の葡萄酒を分配した。夜になってヴェリエールでは、自由主義者たちには王党の連中よりもはるかに煌々《こうこう》とイルミネイションを輝やかすべき理由ができた。王が出発の前にド・モワロ氏を見舞われたからである。
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第十九章 考えることが苦しみとなる
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日々の出来事の滑稽さが、諸君の目から恋愛の真の不幸を匿すのだ。(パルナーヴ)
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ド・ラ・モール氏の泊っていた部屋にまたいつもの家具を入れ直しているあいだに、ジュリアンは四つに折った非常に丈夫な一葉の紙片を見つけた。最初のページの下のほうにこう読まれた。
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〈フランス貴族院議員、最高勲章受勲者……ド・ラ・モール侯爵閣下 机下〉[#ここで字下げ終わり]
料理女の書くような、骨太の書体で書いた請願書だった。
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拝啓
私は生まれてから今にいたるまで堅固な道心を守っております。あの厭わしい思い出の残る一七九三年の攻囲に際しても、私はリオンにあって砲弾に身を曝《さら》しました〔この年、リオン市会は革命政府に反抗して多くの犠牲を出した〕。私はいつも聖体を拝受し、日曜ごとに教区の会堂のミサにまいります。あの厭わしい思い出の残ってる九三年にすら、私は過ぎ越しの祝いのおつとめを怠りはしませんでした。大革命以前には拙宅にも僕婢等がおりましたが、料理女には毎金曜日かならず肉断ちの食事をつくらせております。ヴェリエールでは一般の信望を集めておりますが、あえて申しますならば私にはその資格があると思います。式典の行列のあるときは天蓋の下へはいって司祭様や町長殿とならんで行進する身分であります。盛儀の行なわれるときには、自費であがなった大蝋燭を持ってまいります。これらすべてについては、パリの大蔵省にその証明書が保管されてあります。この私にヴェリエールの富くじ取り扱い所長の職をお与え下さいますよう、伏してお願い申し上げます。現任所長は重病ではありますし、しかも選挙にあたっては不正投票をも致しておりますゆえ、該《がい》取り扱い所は、いずれ何らかの次第によって欠員を生ずること必至であります。云々……ド・ショラン拝
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この請願書の余白には|ド《ヽ》・|モワロ《ヽヽヽ》と署名した添え書きがあって、次の一行で始まっていた。
〈この請願を致しております当人は真面目な人でございまして、すでに作《ヽ》日(昨日は hier とすべきところを yert と書き違えている)この人についてはお話し申し上げ……云々〉
〈こうやってあのショランみたいな低能でさえが、取るべき道をおれに教えてくれる〉とジュリアンは心に思った。***王のヴェリエールご通過から一週間というものは、嘘八百やら間抜けた註釈やら滑稽な議論やら何やらでわきたって、次々に国王、アグドの司教、ド・ラ・モール侯爵、一万本の葡萄酒、ド・モワロの惨めな墜落……彼は勲章をもらうのをあてにして落馬以来一カ月たってからでなければ家から出なかった……のことがその話題とされたものだが、それが終ってもなお続いたのは、大工の倅ジュリアン・ソレルを|破格に抜擢《ヽヽヽヽヽ》して儀仗隊に加えたというもってのほかの非常識行為に対しての非難だった。この問題については、朝に夕にカフェで声をからして平等を説いている裕福な更紗《さらさ》織りの製造業者の言い分にも耳をかす必要はあった。あの尊大な女、ド・レナル夫人がこのけしからぬことの張本人だ。理由は? 小ソレル師の美しい目と生き生きした頬がいくらでも説明しているよ。
ヴェルジーへ帰って間もなく、一番年下の子供のスタニスラス・グザヴィエが熱を出した。たちまちド・レナル夫人は恐ろしい悔恨にとらわれた。はじめて彼女は自分の恋愛を絶え間なしに心に咎《とが》め出したのである。彼女は自分がいかに重大な過ちにずるずると落ち込んでいったかということを、いわば奇蹟的に悟ったかに見えた。信仰深い性質の人だったにもかかわらず、このときまで彼女は神の目にうつった自分の罪の大きさに思い及んだことがなかったのである。
かつてサクレ・クール修道院にいたころは彼女は熱烈に神を愛した。今こうなってみると、彼女は同じくらい神を畏《おそ》れた。彼女の魂を引き裂く内面の軋礫《あつれき》は、その畏怖のうちに何ら理性的なものがなかっただけに、いっそう凄まじいものとなった。ジュリアンは、ほんのわずかでも筋道の通った話をしてやると彼女の心を鎮《しず》めるどころか、いっそう苛立たせることになるのを知った。彼女はその話のうちに地獄から語りかける言葉を聞いたのだ。けれどもジュリアン自身も小さいスタニスラスを非常に愛していたので、この子の病気のことを話しているほうが彼女にはよかった。病気はやがて重態になった。すると打ちつづく悔恨のためにド・レナル夫人は眠ることさえできなくなった。彼女はとりつく島もないような沈黙を固く守っていた。もし口を開くことがあったとすれば、それは神や人々に対して自分の罪を告白するためだったろう。
二人だけになるや否やジュリアンは彼女に言った。「くれぐれもお願いしておきますが、誰にもおっしゃらないでください。あなたの苦悩は私にだけしか打ち明けないでいてください。もしまだ私を愛していらっしゃるなら、誰にも言ってはいけません。あなたが言ったところで何もスタニスラスさんの熱がひくわけじゃありませんから」
しかし彼の慰撫《いぶ》は何の甲斐もなかった。ジュリアンを憎むか自分の息子を死なせるかしなければ容赦のない神の怒りをやわらげることができないという考えがド・レナル夫人の頭にこびりついているということなど、ジュリアンには知る由《よし》もなかった。彼女があんなに悲しんでいたのは、恋人を憎むことが自分にはできないと感じていたからだった。
「私から逃げてください」と彼女はある日ジュリアンに言った。「心からお願いしますわ、どうぞこの家を離れてください。あなたがいらっしゃるおかげで息子は死ぬのです」
「神様が私を罰せられるのです」と彼女は低い声で言い添えた。「神様は正しいのです。私は神の正義を敬《うやま》っています。恐ろしい罪を犯しながら、私は後悔もせずに暮らしてきたのだわ! これが神様から見放されていたことの第一のしるしです。私は二重に罰を受けねばならない」
ジュリアンは深く心を打たれた。彼はそこに何らの偽善も何らの誇張も認めなかった。この人はおれを愛するがために自分の息子を殺してしまうと思いこんでいる。それでいてこの不幸な女は息子よりもおれを愛しているのだ。こんなに良心の呵責《かしゃく》に悶えていては、そのために死んでしまうとしか思えない。これはたしかに偉大な感情だ。しかし、このおれが何でこのような愛情をかきたてることができたのだろう、こんなに貧乏で、ろくに教育も受けず、無知で、ときにはあんなに無作法な真似までするこのおれが〉
ある晩、子供の病状は最悪に陥った。夜中の二時ごろ、ド・レナル氏が様子を見に来た。子供は熱のため憔悴《しょうすい》しきって真っ赤になり、父親を見分けることもできなかった。突然、ド・レナル夫人は夫の足許に身を投げた。ジュリアンは彼女が何もかも言ってしまって、みずから一生の破滅を招こうとするのだと直感した。
さいわいこの奇怪な動作にド・レナル氏は閉口してしまった。
部屋を出ながら彼は「ではまた、ではまた」と言った。
「いいえ、聞いてちょうだい」と妻はその前にひざまずいて彼を引き留めようとしながら叫んだ。
「本当のことを残らず言いますから聞いてちょうだい。子供を殺すのは私なのです。あの子を生んだ私があの子の命を奪っているんです。神様が私をお罰しになるんだわ。神様の眼から見れば私は人殺しをしているんです。私は我と我が身をほろぼし、我が身をはずかしめなければならないのだわ、そういう犠牲をしたらおそらく主の御心をお鎮めできるかもしれない」
もしド・レナル氏が想像力に富んだ人だったなら、すべてを察したろう。
「何だ、小説じみたことを」と、膝を抱こうとする妻から身をはなしながら彼は叫んだ。「そんなことはみんな小説じみた考えさ! ジュリアン君、夜が明けたら医者を呼びに行かせてくれたまえ」そう言って彼は寝に行くため踵《きびす》をかえした。ド・レナル夫人は半ば失神して、助けようとするジュリアンを痙攣的な身振りで払いのけなから倒れるようにひざまずいた。
ジュリアンは愕然《がくぜん》としていた。
〈それではこれが姦通《かんつう》なんだな!〉と彼は心に思った。……〈あんな食わせ者の坊主どもが正しいことを言うなんて……あり得ることだろうか? 自分自身あんなにたくさんの罪業を犯している奴らが罪業とは何かについて知る特権があるのか? 何という奇怪なことだ……〉
ド・レナル氏が引き取ってから二十分というもの、子供の小さなベッドに頭をもたせながら凝然《ぎょうぜん》としてほとんど知覚を失っている愛する女を、ジュリアンは眺めていた。〈ここに一人の優れた天性をもった女が、おれを知ったがために絶大な不幸に沈んでいる〉と彼は自分の心に言った。
〈時の歩みは速い。この人のために何をしてあげることができるだろう? 肚《はら》をきめなくちゃならん。今はもはや自分のことなど問題じゃない。ほかの人間どもや彼らの俗悪な気取りがおれにとって何だ! おれはこの人のために何をすることかできるか?……この人から離れるか? しかしそうすればこの人をただ一人でこの上なく惨たらしい苦悩にとりつかれたままに打ち棄てておくことになる。あの木偶坊《でくのぼう》の亭主なんざ、この人のためになるより迷惑になるほうが多いのだ。ひどくがさつな男だから何か苛酷なことをこの人に言うだろう。そうすればこの人は気が狂って窓から身を投げないともかぎらない〉
〈おれがこの人をほうって行ったら、この人を見守ることをやめたら、何もかもあの男に言ってしまうだろう。そうしたら、いくらこの人のおかげで遺産が手にはいるにしたって、あいつめ、一騒動起こさないということはおそらくあるまい。それにまたこの人は、あの……ああ、何てことだ! あのマスロン師にだって一切合財《いっさいがっさい》言っちまわんともかぎらないのだ。あの坊主は六つの子供の病気にかこつけて、何かの下心をもってこの家に尻を落ちつけてしまおうとするだろう。何しろ苦しんで神を畏れているんだから、男というものがどういうものかということを全部忘れてしまって、この人の眼中にはあの司祭だけしかないことになる〉
「むこうへ行って!」と突然ド・レナル夫人は目を開いて彼に言った。
「どうしたら一番君の役に立てるかということを知るためになら、ぼくはいくらでも自分の命を投げ出すよ」とジュリアンは答えた。「いまだかつて君をこれほどいとしく思ったことはない。いやむしろぼくは今この瞬間から、君を愛するにふさわしいだけの熱烈な愛情で君を愛し始めるのだ。君と遠く離れ、しかも自分ゆえに君が不幸になったのだと意識しながら暮らしたら、いったいぼくはどうなってしまうだろう。だがぼくの苦しみなどは問題じゃないんだ。そうとも、ぼくは立ち去るよ。しかしもしぼくが君のそばを去ったら、ぼくが君を見まもっていることをやめ、君と君の主人とのあいだに立つことをやめたら、君は何もかも言っちまう。君は破滅しちまう。あの人から辱《はずかし》めを受けて家を追い出されることを考えてごらん。ヴェリエール全体が、いやブザンソンまでが、このスキャンダルで持ちきりになるよ。ありとあらゆる罪が君になすりつけられてしまう。この汚辱を払い落とすことは、金輪際《こんりんざい》できないだろう」
「それこそ私の求めるものなのだわ」と彼女は身を起こして立ち上がりながら叫んだ。「私は苦しみます。かまいません」
「しかしこの忌わしいスキャンダルでご主人をも不幸にすることになるんだよ!」
「でも私は自ら身を堕《おと》し、泥沼のなかに身を投ずるのだわ。そうすれば多分子供を救えるでしょう。このようにすべての人の面前で屈辱をこうむることが、おそらく公けの贖罪《しょくざい》というものでしょう。ふがいない私の考え得るかぎりでは、これが私が神に対して行なうことのできる最大の犠牲ではないかしら?……たぶん神様も私の屈辱をお受けになって、私から息子をお取りにならないでくださるでしょう。あなたがもっと辛《つら》い犠牲の仕方を教えてくれるなら、私それをやってみせるわ」
「ぼくにだって自分を罰させてほしい。ぼくにもやはり罪があるのだ。ぼくがトラピスト教団にはいったらいいと思うかい? あの教団の生活の厳しさが君の神様の心を和げるかもしれない……ああ、どうしてぼくはスタニスラスの病気を自分の身に引き受けることができないんだ……」
「ああ、あなた、あの子を愛しているのね、あなたも」と、立ち上がって彼の懐に身を投げながらド・レナル夫人は叫んだ。
と同時に、彼女は慄然として彼を突きのけた。
「わたし、あなたの言うことを信じてよ、あなたの言うことを信じてよ!」と彼女は、ふたたびひざまずきながら語を継いだ。「ああ、あなたは私のたった一人のお友だちだわ! なぜあなたがスタニスラスの父親でなかったんだろう! そうしたならばあなたの息子よりあなたのほうを愛することもおそろしい罪とはならなかったでしょうに」
「ぼくがこの家に留まることを許してくれるのかい、そうしてこれから先はただ姉としてしか君を愛さないということを許してくれるのか? それがただ一つの理性的な贖罪の道だ。そうすれば至高の神のお怒りを解くことができるかもしれない」
「そして私は」と彼女は立ち上がって、ジュリアンの頭を両手にはさみ、自分の顔からやや距離をおいてじっと見入りながら叫んだ。「そして私はあなたを弟のように愛するの? あなたを弟のように愛するなんてことが私にはできるかしら」
ジュリアンは涙にくれた。
「君のいいつけどおりにする」と彼は夫人の足もとに身を倒しながら言った。「どんな命令でも、ぼくは君のいいつけどおりにする。ぼくのやるべきことはもうそれだけしかない。ぼくの頭はもう何の見さかいもつかなくなってしまった。どんな決心をしていいのかさえわからない。君のそばを去ったら君はご主人に何もかも言ってしまう。君自身もご主人も一緒に身をほろぼしてしまう。そんな嘲笑を買ってしまったら、ご主人はもう代議士にもなれまい。もしぼくがこのまま留まれば、君はぼくがいるために子供が死んだのだと思って、死ぬほど苦しむだろう。ぼくが立ち去ったらどんな結果になるかを君は試してみようと思うかい?もしそう思うのなら、ぼくは一週間でも君のそばを離れて、ぼくらの犯した過ちのため自分で自分を罰しよう。君が行けというところに引き寵《こも》ってその一週間を過ごそう。たとえばブレ・ル・オーの僧院じゃどうだろう。けれどもご主人には何も告白しないとぼくに誓ってほしい。君が話しちまったらぼくはもう二度と戻って来られないんだということを思って見てください」
彼女は約束した。彼は出発した。が、二日すると呼びもどされた。
「あなたがいなくては誓いを守ることができないわ。いつもあなたがそばにいて黙っていろと目で言ってくれなけりゃ、私、主人に話してしまうでしょう。こんないやな生活をしていると一時間が一日のように思えるのよ」
とうとう天はこの不幸な母親に恵みを垂れた。だんだんにスタニスラスは危険を脱していった。しかし氷は割られてしまっていた。彼女の理性は罪業《ざいごう》の大きさを知ってしまうと、もはや平衡を取り戻すことはできなかった。悔恨が残った。そしてこの悔恨は、かくまで真摯《しんし》な心にあって当然生ずべき性質の、身を噛むような悔恨だった。彼女の生活は天国でありまた地獄だった。ジュリアンが見えないときには地獄であり、ジュリアンの足許に坐っているときは天国だった。
「私はもうどんな幻影も描きはしないわ」と、思いきって彼の愛情に身を任せきったときにすら、彼女は彼に言うのだった。「私は劫罰《ごうばつ》をくだされているのです。抗《あらが》うこともできない劫罰をくだされているのです。あなたはまだ若いし、私の誘惑に負けたのだから、神様もあなたは宥《ゆる》してくださるかもしれない。けれど私は劫罰をくだされているんだわ。ある確かなしるしから私はそれを知っているのよ。私、おそろしい。地獄を見ておそろしくない人がいるかしら? けれども心底では、私はまったく後悔なんかしていないわ。もし犯さねばならないとなれば、私もう一度あのあやまちを犯すでしょう。もし今この世で罰をくだされるのでなかったら、しかも私の罰が子供たちの身に降りかかるのではなかったら、果報というものだわ」
また別のとき、彼女はこう叫ぶのであった。
「けれどせめてあなたは、ねえジュリアン、あなたは幸福でしょうね? あなたは私の愛に不足がある?」
とりわけ犠牲的な情愛を要求するジュリアンの猜疑心《さいぎしん》も常に悩んでいる自尊心も、これほど大きな、これほど明白な犠牲が絶えず自分のために為されているのを見て、もう屈服せざるを得なかった。彼はド・レナル夫人を熱愛した。この人は貴族でおれは職人の倅だ、それなのにこの人はおれを愛している……おれはこの人のおそばで恋人の役を勤めている従僕などではないのだ〉その不安が去ると、ジュリアンは恋愛のあらゆる狂乱のなかヘ、いかにも彼らしい身を焦がすような動揺のなかへと溺れていった。
彼が自分の愛を疑っているのを見ると、彼女は叫ぶのだった。「少くとも私は、私たちが一緒に暮らすことのできるわずかのあいだだけは、あなたをほんとうに幸福にさせてあげるわよ! ぐずぐずしては駄目、ひょっとしたら明日はもう私はあなたのものでなくなっているかもしれない。もし神様が子供たちの身に禍《わざわい》をくだして私に打撃を与えようとなさったら、いくら私があなたを愛するためにだけ生きようと努めても、自分の恋のために子供たちを殺すのだと思うまいとしても、どうにもならないわ。私はそんな打撃を受けたら生きて行けないでしょう。生きようと思ったにせよ、生きられないわ。気が狂ってしまうでしょう。ああ、あなたがスタニスラスの激しい熱を自分で引き受けられたらと健気《けなげ》に言ってくれたように、私もあなたの罪業を自分で引き受けることができたら!」
この重大な精神的危機はジュリアンをその愛人に結びつけていた感情の性質を変えた。彼の愛情はもはや単に相手の美しさへの感嘆や、このような恋人を我が物としているという自負ではなくなった。
彼らの幸福はこれ以後いっそう高い性質のものとなり、心を焦がす情火はいっそう強烈になり、彼らは物狂おしい激情に溺れた。彼らの幸福を世の人が見たならば、いっそう大きくなったように思われたかもしれない。しかし、ド・レナル夫人の唯一の不安といえばジュリアンから充分愛せられていないのではないかということにすぎなかった。この恋の最初の時期のあの甘美な清朗さ、曇りのない至福、容易に得られる満足は、もはや彼らには見出し得なかった。彼らの幸福は時として罪の相貌をすら帯びていたのである。
最も楽しい、そして一見最も平静な瞬間に……「ああ、こわい! 地獄が見える」と、ド・レナル夫人は不意にジュリアンの手を痙攣《けいれん》的に握りしめながら叫ぶのだった。「なんてむごたらしい呵責! でもそれだけのことはしているんだからしようがないわ」彼女は生蔦《きづた》が壁にまといつくように彼にすがって抱きしめるのだった。
ジュリアンが彼女の動揺した心を鎮めようと試みても何にもならなかった。彼女は彼の手を取り、接吻でおおい、そしてまた暗鬱な夢想のうちに沈んで言うのだった。
「地獄も私にとっては一つの恩寵かもしれないわ。まだこの世で幾日かこの人と一緒に過ごすこともできるだろう。けれど、この世にいるあいだから地獄に落とされて、子供たちに死なれて……けれどそれだけの代償を払えば、たぶんこの罪は赦《ゆる》されるかもしれない……ああ、神様! そんな代償によって私に赦しをお与えくださるのなら、まったく与えないでくださいませ。あの可哀そうな子供たちは決してあなたに逆らったことなどございません。私が、私が、この私だけが罪人なのです。私は自分の夫ではない男を愛しているのです」
それからジュリアンは、ド・レナル夫人がしばらくのあいだ見たところ平静に復したようになるのを見た。彼女は罰を我が身に引き受けようと努め、愛する者の生活を損なうまいとした。
この愛と悔恨と快楽との交錯のさなかに、一日々々は彼らにとって稲妻のように迅速に過ぎ去っていった。ジュリアンは物事を熟慮する習慣を失った。
エリザはちょっとした訴訟のためにヴェリエールに行った。彼女はヴァルノ氏がジュリアンに対して大変腹を立てているのを知った。この家庭教師を恨んでいた彼女は、しきりにヴァルノ氏にジュリアンのことを話して聞かせた。
「本当のことを申し上げれば、あなたは私の身を破滅させておしまいになるでしょう……」と彼女はある日ヴァルノ氏に言った。「旦那様方は重大なことになると皆様でぐるになっておしまいになって……召使い風情《ふぜい》が何か告げ口するなどということはお許しにはなりませんもの……」
こういうきまり文句を、ヴァルノ氏はこらえきれない好奇心に唆《そそ》られて何とか切り上げさせたあげく、彼の自尊心にとっては最も屈辱的な事柄を聞かされた。
六年間というもの彼があれほど、しかも間が悪いことに誰しもの見ている前で公々然と、いろいろ心を配って言い寄った、この国で一番すぐれたあの女、自分を軽蔑してあんなに何度も赤面させたあの驕慢《きょうまん》な女が、家庭教師に化けた職人の倅を恋人にしたのだ。そして貧民収容所長殿の怨みを骨髄《こつずい》に徹せしめる事実は、あのド・レナル夫人がこの恋人を熱愛しているのである。
「それに」と小間使いは溜息をついて言ったのであった。「ジュリアンさんは奥様の心を征服するためにまったく苦労なんかしなかったのです。奥様に対してもいつもあの冷たい様子を改めはしませんでしたもの」
エリザは田舎に来てはじめてこれについての確信を得たのだが、しかし彼女はこの色事がずっと前からはまじっていたと信じていた。
「前にあの人が私と結婚するのを拒絶したのも、たしかにそのためなんです」と彼女は怨《うら》めしそうに言い添えた。「それなのに私、奥様のところへご相談に行って、先生に話をしてくださいってお願いしたりして、馬鹿だったらありゃしないわ!」
早くもその夕方、ド・レナル氏は町から新聞と一緒に匿名《とくめい》の長い手紙を受け取った。この手紙が彼に自分の家で起こっている一部始終をことこまかに教えてくれた。ジュリアンは彼が青味がかった紙に書かれたこの手紙を読みながら蒼白になり、毒を含んた視線を自分のほうへ投げるのに気がついた。その一夜、町長は心の激動から我にかえることができなかった。ジュリアンがブルゴーニュで最も名流のいくつかの家系の系譜について何やかや説明を請うて彼のご機嫌を取ろうとしたが、その甲斐はなかった。
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第二十章 匿名の手紙
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恋の手綱をあまり弛めすぎてはならぬ。いかに固い誓言も血気の炎にかかっては藁のように燃えてしまう。
(シェイクスピア『テンペスト』)
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真夜中ごろ一同がサロンを去ったとき、ジュリアンは機を見て愛人に言った。
「今晩は会うのをよしましょう。ご主人が疑っていますから。あの人が溜息をつきながら読んでいたあの長い手紙は匿名の手紙ですよ、ぼくはそう断言する」
さいわいジュリアンは自分の部屋に鍵をかけておいた。ド・レナル夫人は、この警告が自分に会うまいとする口実にすぎないのだという馬鹿げた考えを抱いた。彼女はまったく分別をなくしてしまって、いつもの時刻に彼の部屋の戸口のところへ来た。ジュリアンは廊下に物音がするのを聞いてとっさにランプを吹き消した。誰かが部屋の扉を開けようと骨を折っていた。ド・レナル夫人だったろうか、それとも嫉妬深い夫だったろうか?
明くる日の早朝に、ジュリアンに好意を持っていた料理女が一冊の本を持って来たが、その表紙に≪百三十ぺージを見よ≫というイタリア語の文字が書いてあるのを彼は見た。
ジュリアンはこの無謀さに慄然としたが、百三十ぺージを開けると、綴字法《オルトグラフィ》をまったく無視して涙ながらに大急ぎで書かれた次のような手紙をそこに見出した。平生ド・レナル夫人は非常に正しい綴りをしていた。彼はこんな些細なことに心を打たれ、あの恐ろしい無謀さのことをいくらか忘れた。
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あなたは昨晩私に会おうとしませんでしたね、あなたの心の奥底まで見て取ったことなど一度もないんだというような気になってしまう時が、私には間々《まま》あります。あなたの目つきは私を怯《おび》えさせる。私はあなたがこわい。ああ、あなたは一度も私を愛してくれなかったのじゃなくって? もしそうなら、夫が私たちの恋に気づいて、私を子供たちから引き離して田舎の牢獄みたいなところに永久に閉じこめてくれたほうがいいと思うわ。おそらく神様もそう思召《おぼしめ》していらっしゃるでしょう。私はじきに死ぬでしょう。ですがそれではあなたが血も涙もない人だということになるわ。
あなたは私を愛していないの? 私の逆上や私の悔恨がいやになったの? 不実な人。私を破滅させようというの? それなら簡単な方法を教えてあげます。この手紙を持って行ってヴェリエールじゅうの人に見せなさい、いえむしろ、ヴァルノさん一人に見せてごらんなさい。私があなたを愛しているとあの男に言ってごらんなさい。いいえ、そんな冒涜《ぼうとく》的なことを言っちゃいけない。私があなたを熱愛している、私にとって真の生活は、あなたに会った日からようやく始まったんだと言ってやりなさい。あなたのおかげで得たような幸福などは、若いころ夢中で浮かれていたときでさえゆめにも思ったことがない、私はあなたに生命を捧げてしまった、今私はあなたに魂を捧げている、そう言っておやりなさい。あなたは私がそれ以上のものまで捧げていることをご存じでしょう。
しかしあの男が、捧げるということがどんなことだかよく知っているかしら? そうだわ、あの男を怒らすためにこう言ってやって。私はもう意地の悪い連中などまったく眼中に入れない。だから私にとっては、私をこの世に繋《つな》ぎ留めていてくれるただ一人の人が心変わりをするのを見せられることのほかに、もう何ひとつ不幸などというものはないのだと、そう言ってやってちょうだい。私にとっては、命をなくしてしまえたら、命を犠牲にしてしまってもう子供のことで心配などしないですんだら、どんなに幸福だかわかりはしないわ!
疑う必要はありません。匿名の手紙が来たとすれば、あの厭味《いやみ》たらしい男からにきまっています。あの男ったら、六年ものあいだ、どら声を張り上げて自分がやった馬の曲乗りの話やら自分の馬鹿さ加減をさらけ出すような話やら、そればかりか自分の持っている長所を一つ残らず長々と数え立てるやらして、私を追い駈けまわしたのですよ。
でも本当に匿名の手紙が来ているの? 悪い人ね、そのことで私、あなたとお話ししようと思ってたのに。けれど駄目、やはりあなたがああしたのはよかった。おそらくはこれを最後と思いながらあなたを両腕で抱きしめていたら、自分一人でいるときのように冷静に事を論ずるなんて、到底できなかったでしょうから。これからは私たちの幸福は、もうこんなに容易には味わえないでしょう。そうなったらあなたご不満? そうね、フーケさんから何か面白い本でも届かなかったような日には、幸福を味わえないことをきっとあなたはご不満に思うわ。いちど犠牲に捧げてしまったこの身ですもの、明日、その匿名の手紙が来ていようといまいと、私自身も匿名の手紙を受け取ったと主人に言ってやるわ。そうして、すぐさまあなたがうまく退却できるように体裁のいい口実をつくってやって、早速親許へ返しなさいって言ってやります。
ああ、あなた、私たちは二週間か、ひょっとしたら一カ月別れることになってしまいます! かまわないわ、私はあなたの言ったことが正しかったことを確かめるんです。あなたも私と同じくらい苦しんでくださるでしょう。結局これが、その匿名の手紙が来たために起こる不祥事を予防する唯一の方法です。主人が匿名の手紙を受け取ったのは、しかも私のことでなのよ、これがはじめてじゃないの。ああ、私、昔はあれが来るたびにさんざん笑ってやったものだけど!
私がこんなことをする目的というのは、その手紙がヴァルノさんから来たという風に主人に思わせてやることなのです。私、あの男がその手紙を書いたのだということは疑いませんわ。あなたはこの家を出たら、かならずヴェリエールに行って滞在してちょうだい。私のほうでも、主人がヴェリエールで二週間ほど暮らして、私たち夫婦のあいだは何も疎《うと》ましくなっていはしないのだということを馬鹿な人たちに証明してやろうという考えを起こさせるように仕向けます。ヴェリエールへ行ってしまったら、自由主義者たちとでもかまわないから、仲好くするようにしなさい。例のご婦人連がみんなあなたと交際を求めようとするに違いないと、今から私にはわかっています。
ヴァルノさんといがみ合ったり、いつか言ったように耳に痛いことを言ったりしないでちょうだい。反対にあの人にはできるだけ愛想よくしなさい。何より肝心なことは、あなたがヴァルノさんの家になりほかの人の家になり、子供の教育のため召し抱えられるとヴェリエールの人々が思いこむことよ。
そうなれば主人は絶対に黙ってひっこみはしないわ。よしんば主人が諦めてしまったって、かまわないわ! すくなくともあなたはヴェリエールに住むことになるし、私も時々あなたに逢えますもの。子供たちだってあんなにあなたが好きなんだから、あなたに会いに行くでしょう。ほんとにこれはどうしたことでしょう。私は子供たちがあなたを好いているというので、なおさら子供たちがかわいくなるのよ。これはどれほど心苦しいか知れないわ! しまいにはいったいどんなことになってしまうやら?……途方に暮れてしまう……要するに、どういう風に振る舞うのかおわかりになったでしょうね。あの不作法な連中に対しては穏かに、丁重にしてやって、馬鹿にしたような顔をしないでよ、ひざまずいてお願いしますから。あの人たちの出方ひとつで私たちの運命は左右されるのですよ。主人はあなたのことに関しても世論の命ずるままに動くのだということを決して疑ってはなりません。
あなたが私のために、匿名《とくめい》の手紙をつくってくれるのよ。面倒は承知の上で鋏《はさみ》を取ってちょうだい。何かの本から次に書いてある言葉を切り取って、それをここに添えてあげた青みがかった紙の上に糊《のり》で貼りつけて下さい。この紙はヴァルノさんからもらったものよ。あなたの部屋が捜索されることを考えて、切り取った本のぺージは焼き棄ててね。もしできあがっている語が見つからなかったら、根気よく一字々々組み合せてつくってください。あなたの骨折りが少くてすむように、私がごく短かい匿名の手紙をつくっておいたのよ。ああ、もしあなたが私をもう愛してくれないんなら、私の書いたこれがあなたには冗長だと思われるだろうと、それが心配だわ。
匿名の手紙
奥様
あなたのみそかごとは一切|露顕《ろけん》しました。しかしまだ、こんなことはもみつぶしてしまったほうがいいと思う人たちが知っているだけです。あなたに対する最後の好意からお勧めしますが、あの百姓の小倅からすっかり手を切ってしまいなさい。もしあなたが賢明にそうなさるならば、ご主人も自分の受け取った警告が間違っていると思い、また人もご主人にそう思わせておくでしょう。私があなたの秘密を承知していることを思ってごらんなさい。おののき畏れるがいい、呆れた人だ。今はあなたは何としても私の目の前で|正しい《ヽヽヽ》|道を踏み行なわねば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なりません。
この言葉を(あなたはここに所長の口癖が出ているのがわかる?)貼り終って手紙ができたらすぐ家の外へ出なさい。そうしたら私のほうであなたに出逢うようにしますから。
私は村へ行って、そわそわした顔つきで帰って来ます。実際ひどくそわそわした顔をしているでしょうね。ああ神様! 私は何という思い切ったことをするんでしょう、しかもそれはみんなあなたが匿名の手紙が来たことを|嗅ぎつけたと思った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》からですよ。さてそれから動転したような顔をして、知らない人が渡していったのだと言ってその手紙を主人に見せてやりますわ。あなたは子供たちを連れて大きな森への道を散歩に行って、夕食の時間にならなければ帰って来てはいけませんよ。岩の上から鳩小屋の塔が見えるでしょう。もしこれが成功したら、私、あすこに白いハンカチを立てます。駄目だったら何もつけません。
その散歩に行く前に何とかして私を愛していると言ってくれるような真心を、まだあなたは持っている? 恩知らず! どんなことになろうとも、ただこの一事だけは信じていてください。もし決定的に別れねばならないことになったら、私は一日も生き延びることができないということです。ああ、悪い母親ね。……などと書いたところで、何の意味もない言葉だわ。胸に響いて来ないんですもの。今私はあなたのことしか考えられない。だから私はあなたから非難されてはと思ってこんな言葉を書いたのよ。あなたを失ってしまうかもしれないとわかっている今、隠しだてしたって何になりましょう? そうよ、私の心がたとえあなたには残酷に見えたって、熱愛する人の前で嘘をついたりはしないわ! 今まで私はいやというほど嘘をついてきたのよ。いいわ、あなたがもう私を愛してくれなくもても、私はあなたを許すわ。もうこの手紙を読みなおす余裕がありません。あなたの腕に抱かれて過ごしたあの幸福な幾日かのために命を捨てなければならないとしたって、私から見ればそんなことは物の数ではありません。いえ、それ以上の犠牲を払ってもいいということは、あなたもご存じです。[#ここで字下げ終わり]
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第二十一章 夫婦の対話
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ああ、それは私たちの心弱さのせいなのです、私たちのせいではありません。そうできているからこそ、そうなのですもの。(シェイクスピア『十二夜』)
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子供のように楽しみながらジュリアンは一時間ものあいだ言葉を拾い集めた。部屋から出ると彼は教え子たちとその母親に逢った。彼女は大胆にさり気ない様子で手紙を取ったが、ジュリアンはその沈着さに驚愕《きょうがく》した。
「糊《のり》はちゃんと乾いています?」と彼女は尋ねた。
〈これがあの悔恨に責められて気狂いのようになっていた女だろうか?〉と彼は思った。〈今どんなことを目論《もくろ》んでいるのだろう?〉あまりにも気位の高い彼には、そんなことを彼女に尋ねることはできなかった。しかしおそらくこれ以上彼女が好ましく思えたことは一度もなかったろう。
「もしこれがうまく行かなかったら」と彼女は同じように平然と言い添えた。「私、何もかも取り上げられてしまいますわ。これをお預けしますから山のなかのどこかに埋めてちょうだい。万一の場合には私の唯一の頼りになるのですから」
そう言って彼女は、金貨といくつかのダイヤモンドを詰めた赤いモロッコ革のグラス・ケースを彼にわたした。
「それじゃ行ってください」と彼女は言った。
彼女は子供たちに接吻してやった。持に一番下のには二回も。ジュリアンは身動きもしなかった。彼女は彼のほうを見もせず足速やに立ち去った。
あの匿名の手紙を開けて見た瞬間から、ド・レナル氏の生活はやりきれないものになっていた。彼は一八一六年にあわや決闘するところまでに行ったことがあったが、それ以来これほど動揺したことはなかった。これは認めてやらねばならぬが、そのとき彼は弾丸があたると考えても今ほど不幸な気持にはならなかったのである。彼はためつすがめつ手紙を調べてみた。〈これは女の書体じゃないかな?〉と彼は心に思った。〈とすれば、これを書いた女は誰だろう?〉彼は自分のつきあっているヴェリエールの女たちを、一人残らず頭のなかで検討してみた。しかし見当をつけることはできなかった。〈誰か男がこの手紙を口授したのかな? するとその男とは誰だろう?〉この点も同じように五里霧中だった。ほとんどすべての知人たちから彼は妬《ねた》まれ、いやおそらく反感を持たれていたのだ。〈家内と相談してみなけりゃ〉と、彼は習慣的にそう独り言を言って、打ちのめされたように腰をおろしていた肘《ひじ》掛け椅子から立ち上がった。
立ち上がるや否や、彼は頭を叩いて言った。〈とんでもない! あれこそ特に警戒しなければならんのだ。この際あの女はおれにとって敵なのだ〉そう思うと憤怒のあまり目に涙が浮かんできた。
冷酷な心を持つことがこの地方では処世上賢明だといわれる唯一のことであるが、まさにこの冷酷な心を持ったことの祟《たた》りで、現在ド・レナル氏の最も畏《おそ》れている二人の男は、彼の一番の親友だということになっていた。
〈あいつらのほかに、まだおそらく十人も友だちがいる〉そう思って彼は、その一人々々からどれくらいの慰めを与えられるかといちいち思いはかりながら、一応頭のなかで検討してみた。〈皆だ! こいつらはみんな!〉と彼は狂憤に駆られて叫んだ。〈おれの恐ろしい不幸を見れば、まったく欣喜雀躍《きんきじゃくやく》するという奴らだ!〉さいわい彼が自分は人から羨まれていると思っていたのは理由のないことではなかった。先だって***王がお泊りになって、末代までの面目をほどこした町にある宏荘な邸宅のほかに、非常に立派に整えられたヴェルジーの館《やかた》があった。ファサードは白く塗られ、窓には緑色の美しい鎧戸《よろいど》がついていた。彼はその壮麗さを思って一瞬、心を慰められた。事実、館は八キロか十六キロ離れたところからも見えた。おかげで時のたつままにみすぼらしい灰色になってしまっているこの一帯のあらゆる別荘ないし館なるものは、すっかり見ばえがしなくなった。
ド・レナル氏には、友人たちのあいだに一人だけ涙を流して自分に同情してくれるものと期待できる男がいた。それはこの教区の教会理事だったが、これはどんなことにでも涙を流す頭の足りない男だった。けれどもこの男が彼の頼りにできるただ一人の男だった。
〈おれの不幸に比較できるほどの不幸がまたとあるだろうか!〉と彼は煮《に》えくり返るような心で叫んだ。〈まったく孤独だ〉
〈あり得ることか!〉と、このまことに哀れむべき男は心に思うのであった。〈不幸な目にあったとき助言を求めることのできる友だちがおれには一人もないなんて、そんなことがあり得ることか! おれの頭はめちゃめちゃだ、実際自分でもそれがわかるのに! ああ、ファルコス! ああ、デュクロ!〉と彼は悲痛な気持で叫んだ。この二人は彼の幼な友だちであったが、一八一四年に彼が尊大ぶったので遠ざかってしまったのである。彼らは貴族ではなかった。だから彼は、子供のころからずっと続けて来た対等の態度をあらためようと思ったのだ。
彼らのうちの一人、ファルコスは才気ばしった、しっかりした男で、ヴェリエールの紙商人だったが、この県の首都で印刷所を買い取り、新聞社を設立しようとした。修道会はこの新聞をぶっつぶすことに決めた。彼の新聞は発行停止にされ、彼の印刷業許可書は取り上げられた。こういう惨憺《さんたん》たる状態で彼はド・レナル氏に十年ぶりではじめて手紙を書いてみた。ヴェリエールの町長は古代ローマ人のような簡潔な文体で返事をしてやらねばならぬと思った。「国の大臣より下問の栄を受けたとしても、小生は答えるでありましょう、『容赦なく地方の印刷所などぶっつぶしてしまいなさい、そうして煙草と同じように印刷業を国家の独占企業となさったがよろしい』と」
親友に寄せたこの手紙は、当時ヴェリエール全町民をして感嘆せしめたものであったが、ド・レナル氏は今ぞっとするような厭わしさでその手紙の文言を思い起こした。〈このような身分でいて、これほどの財産とこんな勲章を持っているおれが、いつかあのことを後悔するだろうなどと、誰が想像できたろう〉こうして、あるいは自分自身に、あるいは自分の周囲の人々に、激越な憤懣《ふんまん》を感じながら、彼は悶々の一夜を過ごした。しかしさいわい彼は妻を探ろうなどという考えは起こさなかった。
〈おれはルイーズにもう馴れてしまっている〉と彼は心に思った。〈あれはおれの仕事はみんな知っていてくれる。明日にも自由の身になって再婚してもいいということになったって、あれの代わりになる女を見つけることはできない〉そこで彼は、妻が潔白であると考えて満足することにした。こういう考え方をすれば男の意地を見せねばならぬということはなくなるし、ずっと彼には都合がよかった。故なくして中傷される女などはざらにいるではないか!
〈いやいや〉と彼は痙攣《けいれん》的な足どりで歩きながら、突然叫んだ。〈あれが情夫と一緒におれを馬鹿にするのを、まるで素寒貧《すかんぴん》か乞食ででもあるように甘んじて忍ぶというのか? ヴェリエールじゅうの人々がおれの優柔不断さをわいわい言ってもかまわないというのか? あのシャルミエ(これはこの国で周知の、細君に背かれた男だった)のことをみんな何と言った? あの男の名前を言うときにはみんなの口許に薄笑いが浮かんだものだ。立派な弁護士だったのに、あいつの弁舌の才のことを話題にするものがいるか? ああ、シャルミエか、ベルナールのシャルミエかとみんな言う。こんな風に恥辱を与えたその間男《まおとこ》の名前をつけてあの男のことを呼ぶのだ〉
しばらくしてド・レナル氏はまた言うのであった。〈ありがたいことに、おれには一人も娘がおらんから、これからどんな風に母親を罰してやろうと子供たちが身を固める妨げとはならん。あの百姓の倅《せがれ》が家内と一緒にいるところをとっつかまえて、二人とも殺してしまうこともできる。そうしたら、事件が悲愴なものになるから、たぶん滑稽には見えなくなるだろう〉この考えは彼の気に入った。彼は細かくいろいろと考えてみた。〈刑法はおれのほうに有利だ。それにどんなことになろうとも、修道会や陪審員になった友だち連がおれを救ってくれるだろう〉彼は猟刀をしらべてみた。これは非常に鋭かった。しかし血が流れることを思うと恐ろしかった。
〈あの無礼な家庭教師をさんざんひっぱたいてお払い箱にすることもできる。しかしそうしたらヴェリエールどころか県全体にまで、どういう醜聞がひろまるものか! ファルコスの新聞の発行禁止のあとで、あの編集長が牢屋から出て来たとき、おれが口を添えてあいつに六百フランの口をふいにさせてやった。あの|よた文書き《エクリヴァイユール》のやつ、またのめのめとブザンソンに姿をあらわしたそうだ。あいつなら法廷に引きずり出されることのないように巧妙におれの悪口を言い触らすかもしれない。法廷に引きずり出す!……そうしたってあの無礼者は、本当のことを言ったのだと、あれやこれやの手をつかって言いくるめっちまうだろう。生まれが良くっておれのように立派な地位にある者は、あらゆる平民どもから憎まれるのだ。そのうちにあの恐ろしいパリの新聞におれの名が出るだろう。ああ、どうしよう! 何という堕落だ! このレナルという旧い家名が嘲笑の泥沼へ沈められるのを見なければならんとは!……旅行でもするときには変名しなければならぬことになるだろう。何だって! おれの誉《ほま》れとなりおれの権威をなしているこの名を棄てるのか。何たる悲惨の極みだ!〉
〈家内を殺さないで、汚辱の烙印《らくいん》をおして家から追い出すとすると、あれの伯母がブザンソンにいるから、あの伯母が右から左へ全財産をあれにやってしまう。そうすりゃ家内はパリへ行ってジュリアンと一緒に暮らす。ヴェリエールでもそのことがわかっちまえば、おれはやはり間抜け男と思われるだろう〉この不幸な男は、そのときランプの光が薄らいだのを見て夜が明けそめたのに気がついた。彼はすこし新鮮な空気を吸おうとして庭へ行った。そのとき彼は、とりわけ、醜聞がひろまったらヴェリエールの自分のご親切な友人たちが無上に喜ぶだろうというあの考えから、決して醜聞などを立てさせないようにしようと大体|肚《はら》を決めていた。
庭を散歩すると彼は幾分か気が落ち着いた。〈いや、決しておれは家内を棄《す》てたりしない、あれはおれにとっては役に立ちすぎるほど役に立つ女なのだ〉と彼は叫んだ。妻がいない家の有様を想像して彼は慄然とした。親戚といっては、年を取っていて頭が足りなくて意地の悪いド・R……侯爵夫人しかいなかった。
非常に分別のある思いつきが浮かんで来た。だがこれを実行するには、この哀れな男の持っているわずかばかりのものなどでは及びもつかぬ、非常な意志の堅固さを必要とした。〈家内を手離さないとしても、いつかあれがおれをじらしたりしたらあれの過ちを非難してしまうようなことになるのは、自分でもよくわかっている。あれは気位が高い女だから、結局|仲違《なかたが》いしてしまう。それも、あれが伯母から相続する前にそんなことになっちまうだろう。そうすればどんなにおれは人から馬鹿にされるだろう! 女房は子供を愛しているから、何もかも結局子供たちの手には還って来ようが、おれは、このおれは、ヴェリエールじゅうのお笑い草だ。奴らは言うだろう。何だ、あいつは女房に腹いせすることさえできないのか、と! これは疑惑のままでとどめておいて何にも究明しないほうがよくはないかな? だがそうすると自縄自縛《じじょうじばく》で、そのあとではあれに文句を言うことはできなくなる〉
一瞬後にはまたしても傷つけられた虚栄心の虜《とりこ》となったド・レナル氏は、ヴェリエールのカジノまたの名≪貴族クラブ≫のビリヤード場で、どこかの口達者の男が賭け勝負の手を止めて、誰か細君に騙《だま》された亭主のことを話の種にして喜んでいるときに引き合いに出されるさまざまな手口を、わざわざ一つ残らず思い出してみるのであった。今この際このような冗談は、彼にとってどんなに残酷に思えたことであろう!
〈ああ、なぜおれの妻は死んでいなかったのだ! 死んでいればおれは物笑いにされることはなかったのに、何でおれは|やもめ《ヽヽヽ》でないんだ! そうすりゃおれは半年ほどパリへ行って最上流の社交界で暮らしてやるんだが!〉やもめ暮らしのことを考えて一瞬楽しさを感じはしたが、たまたま彼の空想はどういう方法で事の真相を確かめようかということに戻った。真夜中皆が寝てしまってから、ジュリアンの部屋の扉の前に薄く糠《ぬか》をまいておいたら、明くる朝、日の光で足跡を見ることができよう。
〈だがこの方法《て》は何にもならん〉と彼は突然|癇癪《かんしゃく》をたてて心で叫んだ。〈あのろくでなしのエリザのやつがそれを見つけたら、たちまち家中におれが悋気《りんき》を起こしているということが知れわたっちまう〉
これもまたカジノで聞かされた話であるが、ある夫が少しばかりの蝋《ろう》で一本の髪の毛を妻の部屋と色男の部屋の扉に封印のような具合に貼りつけておいて、自分の災難について確かなところを突きとめたということがあった。
だいぶ長いあいだ決心がつかぬまま思いわずらった末、自分の運命を明らかにするためのこの方法を使うのが何といっても一番よいように思えたので、ちょうどこの手を使ってやろうと考えていたときに、小径の曲がり角でいっそ死んでしまえと思ったその女に出逢った。
彼女は村から帰って来たのであった。ヴェルジーの教会へミサを聴聞に行っていたのである。今日人々が使用している小さな教会は昔はヴェルジー領主の館内の礼拝堂だったという言い伝えがあった。これは冷厳な|真理を愛する者《フィロゾーフ》の目から見れば、だいぶ当てにはならなかったが、しかし彼女はこれを信じていた。この考えが、その教会へ行って祈祷しようと思うときにはいつも、ド・レナル夫人の頭にこびりついて離れないのであった。彼女は絶えず、自分の夫が猟のとき何か偶然を装ってジュリアンを殺し、夜、彼の心臓を自分に食べさせるところを想像した。
〈私の運命は〉と彼女は思った。〈あの人が私の言うことを聞いてどう考えるかということに懸《か》かっている。運命を決するこの十五分を逸したら、おそらく二度とあの人に話をする機会はあるまい。あの人は理性的に物事を処理することのできる聡明な人間ではない。とすれば私は、この私の弱い理性の力で、あの人が何をするかどう言うかということを予想することもできよう。私たち二人の運命を決するのはあの人だろう。あの人にはそれだけの力がある。しかしその運命も私の腕いかんによるのだ、憤怒のあまり盲目になって、事の成りゆきを半分も見通すことができないでいるあの気まぐれな人の考えを、どう操縦するかという技術いかんによるのだ。ああ神様! 私には手腕と沈着さが必要だ。一体どうしたらそれを得られるだろう?〉
庭へはいって遠くから夫の姿を見たとたん、まるで魔法にかけられたように彼女は平静を取り戻した。乱れた髪の毛と衣服が、彼が前夜一睡もしなかったことを告げていた。彼女は夫に、開封されてはいるが、もとどおりに畳まれた手紙を渡した。彼はそれを開きもせず、狂ったような目つきで妻を見つめていた。
「汚らわしいったらありゃしない」と彼女は彼に言った。「私が公証人役場の庭の裏手を通っていたとき、あなたと知り合いで、ご恩を受けているとかいう人相の悪い男が、これを私に渡していったんです。どうしてもあなたに聞いていただきたいことがあります、あのジュリアンさんを親許へ帰してやっていただきたいのです、しかも今すぐに」ド・レナル夫人はおそらく少しばかり早まりすぎていたろうが、結局これを言ってしまわねばならぬという気持の辛さから解放されようとして、せきこんでこの言葉を言ってしまった。
自分の言ったことが夫の上にどういう効果を及ぼしているかを見て、彼女は激しい喜びを感じた。まじまじと自分の上に注がれる夫の視線を見て、彼女はジュリアンの洞察が正しかったことを悟った。現在目の前にあるこの不幸に苦しむどころか、かえって彼女はこう心に思った。〈何という天才なんだろう? まったく申し分のない頭の働きだわ! まだまったく経験もない若い男なのに。あの人なら将来どんなものにでもなれるわ。だけど、ああ、成功したらあの人は私のことなんか忘れてしまうセろう〉
束の間、自分の熱愛する男にこのような賛嘆の気持を感じているうちに、彼女はすっかり不安から立ち直った。
彼女はうまくやったと思った。〈私だってジュリアンにふさわしくないということはない〉と彼女は、甘いひそかな快感を感じながら自分に言った。
下手なことを言ってはと心配で、ド・レナル氏は一言も言わずに、青みがかった紙の上に印刷した語句を貼りつけてつくった二番目の例の匿名の手紙を調べていた。〈おれのことをあらゆる形で愚弄《ぐろう》しているのだ〉とド・レナル氏は心労に打ちひしがれて呟《つぶや》いた。
〈また調べてみなければならない新しい侮辱が出て来た、しかもいつも家内のことで!〉彼はあやうく聞くに堪えない罵詈雑言《ばりぞうごん》を妻に浴びせかけるところだった。だがブザンソンの遺産が手にはいることを考えて辛うじて思いとどまった。何かに当たり散らしてやりたくてたまらなくなって、彼はこの二番目の匿名の手紙をしわくちゃにし、大股に歩き始めた。妻から離れたかったのである。しばらくして彼は妻のそばへ戻って来たが、前よりは落ち着いていた。
「覚悟をきめてジュリアンにひまをやってしまわなければなりませんわ」と彼女はさっそく夫に言った。「あの人は何といっても職人の倅なんです。いくらかお金をやって償いはつければいいし、それにあの人には学問がありますから造作なくまた就職できます、たとえばヴァルノさんとかド・モジロン郡長とかの子供のいる家ヘ。ですからあなただってあの人にひどいことをするわけでは決してありませんし……」
「そんなことを言うからあなたは馬鹿だというのですよ」とド・レナル氏は恐ろしい声で怒鳴った。「女から思慮分別なんてものは期待できるもんか! あんた方は決してまともなことを考えようともしない。そんなことでどうして物事がわかる? のほほんとして怠けてばかりいるから、何かするといえば蝶を追っかけるぐらいのことだ。意気地なしだし。そんなものが家のなかにいるなんて情ないことだよ!……」
ド・レナル夫人が言いたいだけ言わせておいたので、彼は長いことしゃべった。|彼は怒りを移したのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……これはこの国の言葉である。
「あなた」と最後に彼女は答えた。「私は体面を汚された、つまり自分の持っている最も貴重なものを汚された女として申しているんですのよ」
ド・レナル夫人は、自分がまだジュリアンと同じ屋根の下で暮らすことができるか否かを左右するこの骨の折れる会話のはじめからしまいまで、終始一貫した沈着さを持していた。夫の盲目的な怒りを誘導するのに最も適切だと信ぜられる思いつきを、いろいろと彼女は捜した。彼が自分に向って言う侮辱的な言葉などには、彼女はいっこう平気だった。そんなものは聞いていなかった。彼女はそのときジュリアンのことを思っていたのだ。〈あの人は私に満足してくれるだろうか?〉
「あの百姓の小倅さんには、私たちはさんざん親切にしてやってずいぶんいろんなものだって上げたりしたものだけれど、あの人にだって罪はないのかもしれませんわ」と彼女はしまいに言った。「ですけど、あの人は何といったってやはり私が受けたこのはじめての侮辱の原因なのです……あなた! あの汚らわしい手紙を読んだとき、私はあの人か私か二人のうち一人がこの家を出るんだって心に誓ったんですのよ」
「あなたはそんな騒ぎを引き起こして私の、またあなた自身の体面を汚そうと思うのか? それじゃあ、あなたはヴェリエールの連中のためにお膳立をととのえてやるようなものです」
「それはそうですわ、あなたの何事につけても賢明な行政手腕のおかげで、あなたご自身もこの家もまたこの町も繁栄しているのを、誰もみんな妬《ねた》んでいます。……ようございますわ、私、それじゃジュリアンに勧めて、あの山の材木商人のところへ行って一月暮らすため休暇を求めさせるようにしますわ。あんなのがあの職人の子などにはふさわしい友だちなんですから」
「行動を慎んでもらいたい」と、ド・レナル氏はだいぶ平静を取り戻して答えた。「何よりも私の要求することは、あなたがあの男と話をしないことだ。話したらあなたは怒り出してしまって、あいつと私を喧嘩させてしまうだろう。あなたもあの若僧先生がどれほど怒りっぽいか知っているだろう」
「あの青年はまったく気が利きません」とド・レナル夫人は言った。「学問があることはあるんでしょう、それはあなたがよく知っておられます。けれど結局はほんとの田舎者なのです。私はあの人がエリザとの結婚を拒絶して以来、まったくあの人に好感を持てないんです。結婚すれば将来はかならずうまく行けたものなのに。しかもその口実というのが、時々エリザがこっそりとヴァルノさんのところへ行くからというんですのよ」
「え!」とド・レナル氏は猛烈に眉を逆立てながら言った。「何だって、ジュリアンがあなたにそんなことを言ったのか?」
「いいえ、はっきりとは言いませんでしたけど。あの人はいつも私には聖職への天命のことばかり言っていますけれども、ああいう身分の低い人たちの第一の天命とはパンを稼ぐことなのですよ。あの人は、自分がその密会のことを知らないではないということを、いいかげん私にほのめかしてくれました」
「それなのにおれは、このおれはそれを知らないでいたのだ!」とド・レナル氏はまた前とまったく同じに激昂しながら、一語々々力を入れて叫んだ。「私の家で私の知らんことが行なわれている……何だって!エリザとヴァルノのあいだに何かあったのか?」
「あら、それはもうだいぶ昔の話ですわ、あなた」とド・レナル夫人は笑いながら言った。「けれどおそらく何も悪いことなんかなかったんでしょう。だってあれは、あなたの立派なお友だちのヴァルノさんが、あの方と私とのあいだに全然プラトニックなちょっとした恋愛があるとヴェリエールの人たちから思われるのが満更いやでもなさそうな顔をしていた、あの頃のことですもの」
「わしも一瞬そうではないかと考えたことがある」とド・レナル氏は次から次へと新しい事実が発見されて来るのに激昴して頭を叩きながら言った。「けれどもあなたは、そんなことは何一つ私に言ってくれなかったじゃないか」
「けれどあの所長さんがちょっと虚栄心を見せたからって、二人のお友だちの仲を割《さ》いてしまわねばならなかったかしら? 社交界の女で、あの方から素晴らしく才気煥発《さいきかんぱつ》な、それどころか少しばかり艶っぽい手紙をもらわなかった人がありまして?」
「あいつ、あなたにも書いて来たのか?」
「あの方は筆まめです」
「今すぐその手紙を見せなさい。私の命令だ」と言ってド・レナル氏はそっくり返った。
「そういうことは慎しみますわ」と、ほとんど風馬牛と言っていいほどのやさしい調子の答えだった。「いつかあなたがもっとおとなしくおなりになったときにお見せしますわ」
「何を言うんだ、今すぐにです!」とド・レナル氏は、夢中に怒ってはいたが、今までの十二時間のあいだにくらべてはるかに幸福な気持で叫んだ。
「あなた私にお約束になる?」とド・レナル夫人はひどく勿体ぶって言った。「その手紙のことで決して収容所長さんと喧嘩しないと」
「喧嘩しようがしまいが、おれはあいつから捨て子を取り上げてしまうことができるんだ。しかし」と彼は激昂したまま続けた。「私は今すぐその手紙を見たいのだ。どこにある?」
「私の書き物机の抽斗《ひきだし》です、けれどもちろんあなたには鍵をお渡ししませんことよ」
「壊すことだってできるさ」と彼は妻の部屋へ向って駈け出しながら叫んだ。
実際、彼はその上に|しみ《ヽヽ》でもあるように思うと服の裾《すそ》でよく拭いていたほどの、パリから取り寄せた木目入りのマホガニーの高価な書き物机を鉄棒で壊してしまった。
ド・レナル夫人は鳩小屋の百二十段を駈け登り、小さな窓の格子の一つに白いハンカチのはしをゆわえつけた。彼女はこのときこの世で最も幸福な女だった。目に涙をたたえて彼女は山の大きな森のほうを眺めた。〈たしかにあの繁ったブナの樹蔭でジュリアンはこの吉報の合図を待ち望んでいるのだ〉と彼女は思った。長いあいだ彼女は耳をそばだてていた。やがて彼女は、単調な蝉《せみ》の鳴き声や鳥の声を呪わしく思った。〈こんな耳ざわりな音がなければ、あの大岩のところから発せられた歓びの叫びがここまで届いたろうに〉むさぼるような彼女の目は、木々の梢が織りだしている、草原のようにむらのない鬱蒼《うっそう》たる緑の広大な斜面を凝視した。〈どうしてあの人は、何かの合図をして自分もあなたと同じくらい幸福なのだとこちらへ知らせてよこすくらいの頭が働かないんだろう?〉と彼女は深い感情に動かされて思った。夫が自分を捜しに来はすまいかと不安になって来るまで、彼女は鳩小屋から降りなかった。
行ってみると夫は怒り狂っていた。彼はヴァルノ氏のつまらぬ文句に目を通していたのだが、この文句がこれほど興奮して読まれたことは滅多になかったろう。
夫のわめき散らす隙をねらって言葉をはさむことのできそうな機会をつかむと、「やはりまたこちらの考えをむしかえしますけど」とド・レナル夫人は言った。「ジュリアンを旅に出すのがよろしゅうございますわ。いくらラテン語には学才を持っていようと、所詮《しょせん》あれは気も利かず作法をわきまえないよくある田舎者なのですよ。自分では丁重なつもりで、何かの小説から暗記した大袈娑《おおげさ》で趣味のわるいお世辞を私に言いますけど……」
「あの男はそんなものは決して読まん」とド・レナル氏は叫んだ。「わしはちゃんと知っておる。あなたは、わしが盲目で自分の家のなかのことを知らないような家長だと思っているのか?」
「ようございます! もしもあの人があんな馬鹿げたお世辞を何かで読んだのではないとすれば、自分で思いついたのです。それならあの人にとってはいっそう悪いことです。ヴェリエールにいたとき人はそんな調子で私のことを話したんでしょう……それに、そこまで考えなくとも」とド・レナル夫人は何か思い当たったようなふりをして言った。「あの人はエリザの前でもそんな調子でしゃべったのでしょう。それならヴァルノさんの前でしゃべったのとほとんど同じですわ」
「ああ」とド・レナル氏は叫んで、およそこれまでにはなかったような猛烈な勢いで拳《こぶし》を固めてどんと叩いたので、テーブルも部屋も揺れ動いたほどだった。「印刷した匿名の手紙もヴァルノの手紙と同じ紙に書いてある」
〈とうとう!……〉ド・レナル夫人は思った。彼女はこの発見に打ちのめされたようなふりをして、ただの一言も言い添える勇気もなしに、ずっと離れた客間の奥の寝椅子《デイヴァン》へ行って腰をおろした。
戦いはこれからあとは、もうこちらのものだった。彼女はド・レナル氏があの匿名の手紙の筆者と見られる男のところへねじ込みに行くのを止めるために大骨を折らねばならなかった。
「充分の証拠もないのにヴァルノさんに喰ってかかるなどということは、およそとてつもないへまな真似だということがどうしてあなたにはわからないんでしょう? あなたは妬《ねた》まれていらっしゃるのよ、それは何のためでしょう? あなたの手腕のためなのですよ。あなたの賢明な管理、あなたの持っている趣好を凝らした建物、私が持ってきた持参金、それから特に私たちがあの親切な伯母様からいただけるものと思っていい遺産……あの遺産の額を世間は途方もなく大きなものと考えていますわね……そんなもののおかげであなたはヴェリエールの第一の人物となっていらっしゃるのです」
「あなたは家柄のことを忘れているよ」とド・レナル氏は少しばかり顔をほころばせながら言った。
「あなたはこの地方で屈指の名流貴族の一人でいらっしゃる」とド・レナル夫人は熱心に言葉を継いだ。「王様がお心のままになさることがおできになって、家柄にふさわしいだけのことをしてくださるものなら、あなたはたしかに貴族院などにおはいりになれますことよ。そういう堂々たるご身分でいらっしゃりながら、あなたは非難の種になるようなことを嫉視《しっし》している連中に見せてやろうとなさいますの?
あの匿名の手紙のことでヴァルノさんに談じこむなどということはとりもなおさず、ヴェリエールはおろかブザンソンに、この地方全体に、多分こちらの迂闊《うかつ》から|レナル家《ヽヽヽヽ》ほどの家柄と昵懇《じっこん》にすることを許してやったあのつまらない町人《ブルジョワ》(ヴァルノ氏は貴族ではない)が策動してこの家のものを侮辱したということを公表することですわ。あなたが先ほど奪い取られたあの手紙によって、私がヴァルノさんの愛にこたえたということが証明されたのなら、あなたは私をお殺しになるべきです。実際もしそうなら私はそれよりもっともっとひどい目にあわされても仕方がありません。けれど、あの方に怒ってしまってはいけませんわ。あなたの周囲の人たちはみなあなたに頭が上がらないので、何かの口実を見つけて腹いせしようとしているのを忘れないでください。たとえば、一八一六年にあなたが何かの検挙に協力なさったときのことを考えてごらんなさい。自分の家の屋根の上に逃げていたあの男は……」
「あなたは私に敬意も好意も持っていてくれないように思われる」と、ド・レナル氏はこういう思い出によって呼び起こされた苦い気持をそのまま示しながら叫んだ。「私は貴族院議員になれなかった……」
「ねえあなた」とド・レナル夫人は微笑を浮かべながら続けた。「私はいずれあなたより金持にはなるでしょうし、それに私はあなたの十二年来の伴侶ですししますから、こういったあらゆる資格によって、特に今日のような問題に関しては重大な発言権があるはずです。もしあなたが私を差し置いてジュリアンさんみたいな人のためをはかるのなら」と彼女は、反感を隠しおおせないような様子で付け加えた。「私はひと冬、伯母の家へ行って暮らすつもりです」
こういう言葉をてきめんだった。そこには丁重な態度にもかかわらず断乎たる決意も見られた。この言葉を聞いてド・レナル氏は肚《はら》をきめた。しかし田舎の習慣にしたがって彼はなお長いあいだしゃべりつづけ、またもとの議論を一つ残らず反覆《はんぷく》した。妻は言いたいだけ言わせておいた。彼の語気にはまだ怒りが含まれていた。無益な饒舌《じょうぜつ》を二時間も続けたので、一晩じゅう発作的な憤怒にさいなまれてきたこの男は、とうとう力尽きてしまった。彼はこれからヴァルノ氏やジュリアンや、のみならずエリザに対してまで、どういう行動を取るかという方針をきめてしまった。
この大変な一幕の演ぜられているあいだにド・レナル夫人は、十二年間自分の伴侶であったこの男の紛れのない不幸に対して、一度か二度、多少の同情を感じかけた。しかし真実の情熱は利己的なものである。その上に彼女は、彼が匿名の手紙を前日受け取ったと打ち明けるのを今か今かと待っていた。ところがいっこう打ち明けられない。身の安全をはかるためには、彼女の運命を左右する男にどのような考えが吹き込まれたのかということを知らねばならなかったのに、それがわからなかったのだ。なぜなら、田舎では亭主が世論を支配するものだからである。愚痴を言う亭主は嘲罵を浴びせかけられるが、しかし、この危険はフランスではだんだんうすらいで来ている。ところが細君のほうは、亭主から金をもらえないとすると、一日十五スーの日雇い稼ぎという身分に転落してしまう。しかも、親切な心を持った人でもこんな女を雇うことには躊躇《ちゅうちょ》するのである。
トルコの後宮のオダリスク(婢妾)は全力を傾けてスルタン(皇帝)を愛することができる。皇帝は全能であって、オダリスクはいくら細かな手管《てくだ》を弄したところで、彼の権力を掠《かす》めとるなどという望みは持てない。支配者の復讐は凄惨で血なまぐさいが、しかし武断的で気前がよい。短刀の一撃がすべてに結着を与える。十九世紀において夫が妻を殺すには、世間の冷嘲の一撃をもってする。社交界《サロン》からまったく締め出させてしまうのである。
自分の部屋へ帰ってみると、ド・レナル夫人の心にこれは危険だという気持が強くよびさまされた。彼女は自分の部屋が乱されているのに不快を感じた。彼女の持っている綺麗な手箱はすべて錠をこわされていたし、モザイクの床板はだいぶ剥《は》がされていた。〈もしものことがあったら、あの人は私をまったく容赦しなかっただろう!〉と彼女は心に思った。〈あれほどあの人の気に入っていたこの色づきのモザイク床をこんなにめちゃめちゃにしてしまった。子供たちが靴を濡らしてはいって来ると真っ赤になって怒ったものなのに。取り返しのつかないほどめちゃめちゃになっているわ!〉この乱暴|狼藉《ろうぜき》の痕を見ると、つい今先あまりにも手っ取りばやく勝利を得てしまったことを我ながらやましく思っていた気持もたちまちのうちに消えてしまった。
夕食の鐘が鳴る少しばかり前、ジュリアンは子供たちを連れて帰ってきた。食後、召使いたちが引きさがってしまうと、ド・レナル夫人はひどくそっけなく言った。
「あなたは二週間ほどヴェリエールへ行っていたいといつか私におっしゃいましたけど、主人もあなたにお暇《ひま》をあげようと言っています。いつでもご自分でいいとお思いになったときにおいでになってかまいません。けれど、子供たちが何もしないようではいけませんから、毎日作文を書かせて送らせます。それを直してやってください」
「もちろん」とド・レナル氏ははなはだ気むずかしげな調子で付け加えた。「一週間以上はお許しできないがね」
ジュリアンは彼の面上に、深刻な苦悩にさいなまれている男の不安を見出した。
「あの人はまだ決心がついていないんですね」と彼は、客間でほんのしばらくのあいだ二人だけになったとき愛人に言った。ド・レナル夫人は自分が午前からしたことを急いで話して聞かせた。
「くわしいことはまた今夜ね」と彼女は笑いながら付け加えた。
〈女というものの悪辣《あくらつ》さはどうだ!〉とジュリアンは考えた。〈何が楽しくて、どういう本能に促されて女どもはわれわれを騙《だま》すのだろう〉
「見たところあなたは、愛情によって聡明になっていると同時に盲目にもなっているようですよ」と彼はいくらかよそよそしく言った。「今日のあなたの振る舞いは敬服するに足りるものです。しかし、今晩会おうとするのは軽率ではないでしょうか? この家はぼくたちの敵だらけなのですよ。エリザがぼくに対して持っているむきになった憎悪を思ってもごらんなさい」
「その憎悪は、あなたが私にむきになって示す冷淡さと大変よく似ていますわ」
「よしんば冷淡であろうと、ぼくは自分であなたを窮地におとしいれた以上、そこからあなたを救い出さねばなりません。何かのことでド・レナルさんがエリザと話をしようものなら、あの女はひと言でご主人に一切合切教えてしまわぬともかぎらないのです。そうなればご主人は武器を持って、ぼくの部屋の近くに隠れているなどということもないとはいえませんし……」
「何ですって! あなたには勇気さえないのね!」とド・レナル夫人は貴族の娘らしい尊大さを遺憾なく示して言うのであった。
「ぼくは決して自分の勇気についてあげつらうほど自分を卑しくするようなことはしません」とジュリアンは冷たく言った。「そんなことは愚劣なことです。事実によって世評を仰ぎたい。しかし」と彼は夫人の手を取って言い添えた。「ぼくがどれほどあなたに愛着を感じているか、またこの堪えがたい別れの前にあなたにお暇《いとま》乞いができるのをどんなに嬉しく思っているか、あなたにはおわかりにならないのですね」
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第二十二章 一八三〇年の行動法
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言葉というものは、考えを匿すために人間に与えられたものである。(マラグリーダ神父)
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ヴェリエールに着くや否やジュリアンはド・レナル夫人に対して悪かったと後悔した。〈もしもあの人が意気地がなくてド・レナルさんとの言い合いに負けたら、おれは弱々しい女だと思ってあの人を軽蔑したろう。あの人は外交官のようにこの難局を切り抜けた。それなのにおれは自分の敵である負けたほうの男に同情している。おれの考えることのなかには俗物《ブルジョワ》的な下らなさがあるんだな。おれの虚栄心は傷つけられた。それというのはド・レナル氏が一人の男だからで、この男性という優れた大きな組合のなかにこのおれも末席を汚しているからなのさ。何としてもおれは馬鹿だ〉
シェラン師は免職されて司祭館から追い出されたとき、この国の最も有力な自由主義者たちから競って宿を提供されたのを断ってしまった。彼が借りた二つの部屋は蔵書でいっぱいになっていた。ジュリアンは、僧侶というものはどんなものかということをヴェリエールの人々に見せつけてやろうと思って、父親のところへ行って十数枚の樅《もみ》板をもらい、自分で背中にしょって大通りのはしからはしまで運んだ。昔の友達から道具を借りて、まもなく書架のようなものを造り、そのなかへ彼はシェラン師の蔵書を並べてやった。
「わしはおまえが俗世の虚栄の風に染まって堕落してしまったのだと思っていた」と、この老人は嬉し涙にくれながら彼に言った。「あんなけばけばしい儀仗隊の制服を着たため、おまえもだいぶ敵をつくったが、これでああいう児戯《じぎ》に類したことの償いもできたわけだ」
ド・レナル氏はジュリアンに自分の家に泊るように命じておいた。誰一人あんなことがあったなどとは夢にも思わなかった。こちらへ着いて三日目にジュリアンは、ほかならぬ郡長シャルコ・ド・モジロン氏が彼の部屋までやって来るのを見た。優に二時間ものあいだ索然たる会話をつづけ、人々の悪辣さ、公金の管理の任にある者の不誠実、この憐れむべきフランスの危難等々について大袈裟な悲憤慷慨《ひふんこうがい》があった末、やっとジュリアンはこの訪問の目的がおもてにあらわれて来たのに気がついた。このときはもう二人は階段の踊り場のところにいて、半分くびになりかけたこの哀れな家庭教師がいつか然るべき県の知事となるべき人を相応の敬意をもって送って来たところだったが、何を思ってか郡長はジュリアンの身の上のことを心配し、金銭問題についての彼のつつましさなどを賞讃する気になったのである。しまいにド・モジロン氏はこの上なく温情に充ちた態度で彼の腕を握り、ド・レナル氏から暇を取って教育すべき子供のある、ある官吏の家へ行かないかと勧めた。この官吏は、子供たちを授け給うたことよりもむしろジュリアン氏のような人のいる近くに子供たちを生まれさせてくださったことを、フィリップ王のように神に感謝しているというのである。ここの子供たちの家庭教師になれば年八百フランの給料をもらえ、それも月々にではなく(ド・モジロン氏の言うところではそんなことは上品ではないのだ)前金で四回に分けて支払ってくれるのだという。
今度は、一時間半も前から退屈しながら口を開く機会を待っていたジュリアンがしゃべり出す番だった。彼の返答はまったく申し分なく、ことに司教の廻章のように冗長だった。あらゆることをほのめかしていたにもかかわらず、何ひとつとしてはっきりと言ってはいなかった。ここにはド・レナル氏への敬意とヴェリエールの住民に対する尊敬と名声|赫々《かくかく》たる郡長への感謝とが同時に見出された。自分よりも相手がいっそう偽善家《ジェズイット》なのに気がついて驚いたこの郡長は、何かはっきりした言質をつかもうと試みたがその甲斐はなかった。有頂天になってしまったジュリアンはこの弁舌をふるう機会を逃さず、またはじめから別の言葉をつかって返答をはじめた。議員たちがさて居眠りの目を覚まそうといった様子をしている会譲の終りのころを狙って一席弁じようとする口だくみな大臣といえども、これ以上の言辞を弄《ろう》してこれ以上無意味なことを言ったことはかつてなかったろう。ド・モジロン氏が出て行くや否や、ジュリアンは気ちがいのように笑い出した。せっかく偽善的な気分になっているのを無為に過ごすまいと、彼はド・レナル氏に九ぺージもある手紙を書いて、どんなことを言われたかをいっさい報告し、辞を低くしてご意見を請うた。〈だがあの悪党は、その申し出をした人物の名をおれに言わなかったぞ! おそらくヴァルノ氏なんだろう。あの男はおれがヴェリエールへ追放されたのを自分の書いた匿名の手紙のせいだと思っているんだ〉
この手紙を発送するとジュリアンは、秋のある晴れた日の朝六時に獲物がたくさんいる平野へ向かって行く狩猟家のような満ち足りた気持で、シェラン師の意見を求めに家を出た。ところが善良な司祭の家に着く前に、彼に楽しみを与えてやろうという天の配剤でか、ヴァルノ氏にぶつかってしまった。彼はヴァルノ氏に向かって自分が心痛していることを少しもつつまず打ち明けた。自分のような貧しい青年には、天命から与えられた聖職への自覚に全心全霊を挙げて従わねばならぬ義務がある。しかしこの卑しい現世ではその自覚がすべてなのではない。主の葡萄《ぶどう》園で相応の働きをし、しかも学殖ある同僚たちの足許にも及ばないというようになるまいとすれば、教養が必要である。二年間をブザンソンの神学校で過ごさねばならないが、このあいだはなかなか金がかかる。それゆえ、どうしても貯金をすることが必要になるが、それには六百フランもらって月々食っていくよりも年四回払いで八百フランの手当をもらったほうがやりやすい。いっぽう、天意によってレナル家の子供たちと近しくなり、ことに彼らに対して特別の愛着を覚えるようになったのであるから、この子たちの教育を棄ててほかのほうへ行くことは穏当でないと神が自分に教えておられるようにも思われないだろうか……
ジュリアンは、帝政時代の行動の迅速《じんそく》さに取ってかわったこの種の雄弁にかけては、これほどまでの完成の域に達したのであるが、そのためしまいには自分で自分の言葉を聞いてうんざりしてしまった。
家へ帰ると堂々たる仕着《しきせ》を着たヴァルノ氏の侍僕が来ていたが、この男はその日の正餐の招待状を持って町じゅう彼を捜していたのだった。
ジュリアンは一度もこの男の家へ行ったことはなかった。つい二、三日前には、軽罪警察とかかりあいにならぬようにしてこの男を鞭で滅多打ちしてやる手だてはないものかということばかり彼は考えていたのである。正餐は一時に指定されていたにかかわらず、彼はそうしたほうが丁重だと思って、十二時半になると収容所長殿の書斎にまかり出た。所長はちょうど書類の山にかこまれて威張りくさっているところだった。彼の太く黒い頬髯《ほおひげ》、物すごくふさふさとした頭髪、頭のてっぺんにななめにかぶったギリシャ帽、馬鹿でかいパイプ、刺繍のついた上履、胸の上に縦横に交叉《こうさ》させた太い金鎖、これらすぺての、色男だと自任しているこの地方財政家の身ごしらえにも、ジュリアンはいっこう威圧されないどころか、この身ごしらえのためにいっそう鞭でぶんなぐらねばならぬと思った。
彼はヴァルノ夫人に拝顔の栄を賜わりたいと頼んだ。だが夫人はお召替え中で会うことができなかった。そのかわりに収容所長殿のお召替えの場に居ることができた。やがてヴァルノ夫人の部屋へ行くと、夫人は目に涙を浮かべながら子供たちを彼に引合わせた。このご婦人はヴェリエールで最も名望のある婦人の一人であったが、男のような大まかな顔にこの盛大な儀礼の席へ出るため紅をさして、ありったけの母性愛を麗々《れいれい》しくその顔の上に浮かべて見せるのだった。
ジュリアンはド・レナル夫人のことを思った。猜疑の強い彼は、対照《コントラスト》によって呼び起されるこの種の回想によってしかほとんど心を動かされなかったが、動かされたとなると涙ぐむまでに感動するのだった。このような気持は収容所長の家のなかを見るとますます強くなった。彼は案内されて家のなかを見てまわったが、ここでは何もかも立派で新しかった。それにいちいち家具の値段を教えてくれるのだが、ジュリアンはそこに何か賎しい、盗んだ金の匂いのするものを感じた。この家では使用人に到るまで誰もかれもが、軽蔑の色をあらわされないように挙措動作《きょそどうさ》に気を配っているような様子をしていた。
直接税収納官と間接税収納官と憲兵将校、そのほか二、三人の公吏が夫人同伴でやって来た。それにつづいて数人の裕福な自由主義者たちが来た。食事の用意が整ったことが知らされた。もうずいぶん機嫌を悪くしていたジュリアンは、この食堂の壁のむこうには哀れな収容者たちがいるのだと考え出した。この家の連中はおそらく彼らに配当する分の肉を|掠めて《ヽヽヽ》こういった悪趣味な贅沢品を全部買い、この贅沢品で彼の度胆を抜こうとしているのだ。
〈あの連中は今おそらく腹をすかせているのだろう〉そう自分の心にいい聞かせてみると、喉がつまり、食べることもほとんどしゃぺることもできなくなった。十五分もするともっとひどくなった。監禁されている者の一人が歌っている、しかも実をいえばちとばかり品の悪い俗謡の節々《ふしぶし》が、間をおいてとぎれとぎれに聞こえて来たのだ。ヴァルノ氏が堂々たる仕着せをきた侍僕たちの一人に目をやると、その男は立ち去り、やがて歌声はもう聞こえなくなった。そのとき、一人の侍僕が緑色のグラスに入れたライン葡萄酒をジュリアンに差し出した。そしてヴァルノ夫人はこの葡萄酒は地元直送で、一びん九フランもするのだとわざわざ教えてくれた。ジュリアンは緑色のグラスを手に持ったままヴァルノ氏に言った。
「もうあの下卑《げび》た歌をうたっていませんね」
「そりゃあ、あたりまえですよ、あの乞食どもに黙れと命じて来させたんですから」と所長は得々として答えた。
この言葉はジュリアンの耳にはあんまりひどすぎた。彼はその身分にふさわしい儀容をととのえてはいたが、心のほうはまだだった。あれほど偽善を事としていたにもかかわらず、彼は大きな涙が頬をつたって流れるのを感じた。
彼はその涙を緑色のグラスでかくそうとした。だがライン葡萄酒を飲みほすことはどうしてもできなかった。〈|歌うのを禁ずる《ヽヽヽヽヽヽヽ》!〉と彼は心に言った。〈ああ何ということだ! おまえはそれを黙って見ている!〉
さいわい彼の場所柄をわきまえない感動に気がついたものはいなかった。収税吏が音頭を取って王党派の歌をうたい、皆が騒々しくその|折り返し《ルフラン》を合唱しているあいだに、ジュリアンの良心はこう言っていた。〈将来おまえが達しようという汚らわしい富貴《ふうき》の身分とは、それではこれなんだな。そしておまえは、こういった状態で、これと同じような連中と一緒にでなければ、その身分を楽しむことができないのだ! おそらくおまえは年収二万フランの地位につけるかもしれん。しかしそうなれば、自分では腹いっぱい肉を食いながら哀れな囚人の歌を禁止しなければならないのだ。囚人の割り当てのわずかばかりの食費の鞘《さや》を取った金で、おまえは晩餐会をもよおすだろう。そしておまえが会食しているあいだ、囚人のほうはなおいっそう惨めな気持でいるのだ!……ああ、ナポレオン! あなたの時代に戦陣の危険を冒して栄達に励むのはどんなに楽しかったろう。それなのに卑劣にも惨めな人々の苦しみを増させるなどとは!〉
忌憚《きたん》なく言えば、ジュリアンがこの独白によって見せた弱点のために、私は彼をあまり高く買わないのだ。彼にはあの、大きな国の制度習慣を一切改革しようと口には唱えながら、ほんのちょっとしたかすり傷でもして後悔してはなどと思う、黄色の手袋をはめた(お洒落な)陰謀家連中の仲間にでもなるのがふさわしいのだろう。
ジュリアンは自分の演ずべき役割に手荒く呼びもどされた。彼がこのように上流の社会の正餐に招かれたのは、夢想にふけって沈黙を守っているためにではなかった。
今は隠退している更紗《さらさ》織りの製造業者で、ブザンソンとユゼスの両アカデミーの通信会員になっている男が、テーブル越しに彼に言葉をかけて、新約聖書についての彼の研究が驚くべき進歩をとげているという世上一般のうわさは本当ですかと尋ねた。
一座はしんと静まりかえった。不思議な偶然で一冊のラテン語の新約聖書がその博学な両アカデミー会員の手もとにあった。ジュリアンの返事に応じて、まぐれあたりにラテン語の一章が半分ぐらい読み上げられた。ジュリアンは朗誦した。彼の記憶は精確だった。そしてこの驚異は、会食の終りの騒々しい気分が遺憾なく発揮されてやんやと賞讃された。ジュリアンはご婦人方の上気した顔を眺めた。まずくないのもかなりいた。あの歌のうまい収税吏の細君が前から特にジュリアンの目をひいていた。
「こういうご婦人方の前でラテン語を長いことしゃべりますのは、実際おもはゆいことでございます」と彼はその細君のほうを見ながら言った。「さいわいリュビニョーさんが(これが例の両アカデミー会員であった)ラテン語でどこでもお好きなところを一章読んでくださいましたら、ラテン語の原文どおりにあとをつづけるかわりに即座にフランス語に訳してごらんにいれましょう」
この二番目の試験のおかげで、彼の名誉は絶頂に達した。
金持の自由主義者たちも幾人か列席していたが、彼らは奨学金を受けることもできるような子供たちを持った幸福な父親だったので、そのため最近の伝道があって以来、にわかに改宗したのであった。このように気のきいた政略を示したにもかかわらず、ド・レナル氏は決して彼らを自分の家に迎えようとはしなかった。だからこの実直な連中は、ジュリアンのことは評判を聞いて知っていただけで、その後***王の到着の日、馬上の彼を見たにすぎないのだが、今では一番騒々しく彼の事を褒《ほ》めそやしていた。〈いつになったらこの馬鹿者どもは全然わかりもしない聖書の文体を聞き飽きてくれるんだ?〉と彼は思った。しかし反対に、この文体は耳馴れないがために彼らには面白かったのだ。彼らはそれを聞いて笑った。しかしジュリアンは退屈になった。
六時が鳴るとジュリアンは勿体ぶって立ち上がり、翌日シェラン師の前で朗誦するために予習しておかなければならないリゴリオの新しい神学書の一章について話をした。「と申しますのは」と彼は愛想よく言い添えた。「私の職業は人に暗誦をさせ自分でも暗誦するということでございますから」
皆は大笑いした。そして褒めそやした。こんなのがヴェリエールで用いられる機智というものだったのだ。ジュリアンはもう立っていた。作法に反して一同も立ち上がった。天才の威力とはこのようなものである。ヴァルノ夫人はなお十五分も彼を引き留めた。どうしても彼は子供たちが教理問答《カテシスム》を暗誦するのを聞かないわけにはいかなかった。子供たちは滑稽きわまる間違いをおかしたが、それに気がついたのは彼だけだった。しかし彼にはそれを一々指摘しようという考えなど毛頭なかった。〈宗教の根本的な原理について何にも知らないじゃないか!〉と彼は思った。最後に彼はお辞儀をして、これで逃げ出すことができると思ったが、またラ・フォンテーヌの寓話を一つ切り抜けねばならなかった。
「この著者は実に不道徳でして」とジュリアンはヴァルノ夫人に言った。「ジャン・シュアール殿を諷《ふう》した何とかいう寓話のごときは、大胆にも最も尊ぶべきものを頭からひやかしております。それゆえ最もすぐれた註釈学者から激しい非難を浴びているのでございます」
退出する前にジュリアンは四つか五つの正餐の招待を受けた。〈あの青年はこの県の名誉になる〉と会食者たちはみな大変陽気になって異口同音に叫んだ。彼がパリへ出て勉学をつづけることができるように、町費から扶助金を出すことに決めようなどという話まで出て来た。
こんな無思慮な思いつきが食堂のなかに響きわたるほど喧々囂々《けんけんごうごう》と語られているあいだに、ジュリアンは足速やに正門のところにまで来かかっていた。新鮮な空気を呼吸する快さを感じながら、ジュリアンは低い声で〈ああ、畜生ども! 畜生ども〉と三、四回たて続けに叫んだ。
今まで長いこと、ド・レナル氏の家で自分に向かって言われるあらゆる丁重な言葉の奥に、軽蔑をふくんだ薄笑いや高慢に人を見下した態度を認めて腹を立てていたその彼が、今このときはまったく貴族的になっていた。彼は非常な相違を感ぜずにはいられなかった。立ち去りながら彼は心に思った。〈哀れな拘禁者たちから掠めた金でどうこうしているとか、その上さらに彼らの歌を差し止めるとかいうことは、しばらく措《お》くとしよう。ド・レナル氏が客に葡萄酒をすすめながら、一々これが一びんいくらいくらと値段を披露するなどという料簡を起こしたことがかつてあったか? そしてあのヴァルノ氏ときたら、しょっちゅう自分の地所をならべたてるが、細君がいるときには自分の家や地所などのことを話すのにかならず「|おまえ《ヽヽヽ》の家」「|おまえ《ヽヽヽ》の地所」というふうにしか言えないんだからな〉
見たところ物を所有することの楽しみにはなかなか敏感らしいこのご婦人は、先刻会食のあいだに、脚つきのグラスを壊して一ダースそろいの中の一組を半端にしたという下男に口汚くののしりわめいたのであった。しかもその下男はこの上ないほど無礼きわまる態度で返事をした。
〈そろいもそろって何というお歴々だ!〉とジュリアンは思った。〈奴らがおれに盗んだ金を半分くれると言ったって、おれはやつらと一緒に暮らそうとは思わない。いつかおれは本音を吐いてしまうからな。奴らに対して感ずる侮蔑をおもてに出すまいとすることはおれにはできまい〉
けれどもド・レナル夫人の命令にしたがって、この種の正餐にまだいくつか出席しなければならなかった。ジュリアンは売れっ子となった。儀仗隊に加わったことも大目に見られた。というよりも、あの無謀な振る舞いが彼の成功の真の原因だったのだ。やがてヴェリエールでは、この学殖の深い青年をめぐる争奪戦に誰が勝つか、ド・レナル氏かそれとも収容所長殿かということのみが、もっぱら問題となった。このご両人はマスロン師とともに数年来、町を専制的に支配している三頭領をなしていたのだ。町長は妬まれていたし、自由主義者たちは彼に不平があった。しかし、何といっても彼は貴族で人の頭に立つようにできていたのに反し、ヴァルノ氏は六百フランの年収も父親から譲られていなかった。それゆえ彼の場合には、若いころ彼が青リンゴ色の粗末な服を着ていたのは世間周知のことで、可哀そうにと思われていたのだが、そういう憐憫の情を、ノルマンディ種の馬や金鎖やパリから取り寄せた服や、その他現在の彼のありとあらゆる盛大な様子に対する羨望の念に、徐々に変えて行かねばならなかったわけである。
ジュリアンにとっては目新しいこの社会の波浪のなかで、一人の誠実な男を見出したように思った。グロという名の幾何学者でジャコバンとして聞こえていた。ジュリアンは自分自身に虚偽と思えることしか言わぬと心に誓っていたので、グロ氏についても猜疑《さいぎ》を解くことはできなかった。彼はヴェルジーから作文のはいった大きな小包を受け取った。たびたび父親にも会うように勧めて来たので、彼はこのいやな勤めにも従った。つまり手っ取りばやく言えば、彼もだいぶ声望を取り戻してきたのだが、そのころのある朝、誰かに両手で目をふさがれて驚いて彼は目を覚ました。
ド・レナル夫人だった。彼女は町へやって来て、子供たちが一緒に連れてきたお気に入りの兎のことに気を取られているのをそのままにして階段を一足飛びに駆けのぼり、子供たちよりちょっと前にジュリアンの部屋へやって来たのだった。この一瞬は言うに言われぬほど楽しかったが、とても短かかった。子供たちが敬愛する先生に見せようと思って兎を連れてやって来たときには、ド・レナル夫人は姿を消していた。ジュリアンは子供たちみんなに、いや兎にまで愛想よくしてやった。自分の家族に再会したような気がした。自分がこの子供たちを愛しており、彼らとおしゃべりをするのが楽しいことであるのを、このとき彼は痛感した。彼は子どもたちの声のやさしさや、そのちょっとした態度動作の素直さと品の好さに驚かされた。ちょうど彼は、ヴェリエールにおける彼の生活を取り巻いていた賤《いや》しいやり方や不愉快な考えから、自分の頭を浄めたいという欲求を感じていたのである。そこには常に、失敗すまいかという不安があり、奢侈《しゃし》と貧困が格闘していた。彼が正餐に招待された家の人々は自家の焼肉についてまで、彼ら自身の恥ともなり、聞くものには吐き気をもよおさせるような打ち明け話をして聞かせるのであった。
「あなたがた貴族の方が矜持《きょうじ》を高くしているのも当然ですね」と彼はド・レナル夫人に言って、いやいや列席した正餐のことを残らず話してやった。
「それではあなたは売れっ子なのね!」そう言って彼女は、ヴァルノ夫人がジュリアンの来ることになっている日にはいつも紅《べに》をさしておかねばならないと思っていると聞かされて朗かに笑った。
「あの方、きっとあなたの心を惑わそうとでも思っているんだわ」と彼女は付け足した。
昼食は楽しかった。子供たちがいることは邪魔になるように思われたが、実は相互の幸福感を高めていた。この気の毒な子供たちは、ジュリアンに再会した歓びをどうあらわしていいかわからなかった。召使いたちは、彼がヴァルノ家の子供たちを教育すると二百フランも余計にもらえるのだということを子供たちの耳に入れることを忘れなかったのだ。昼食の最中に、あの大病のあとでまだ顔色の冴えないスタニスラス・グザヴィエが、自分の銀の食器と今使っている湯呑《ゆのみ》がいくらになるかと薮《やぶ》から棒《ぼう》に母親に訊いた。
「なぜそんなことを聞くの!」
「ぼく、それを売ったお金をジュリアン先生にあげたいの、ぼくたちの家にいても|してやられた《ヽヽヽヽヽヽ》なんて言われないように」
ジュリアンは目に涙をためて彼を抱きしめた。母親は本当に泣き出していた。そのあいだにジュリアンはスタニスラスを膝の上にのせて、|してやられた《ヽヽヽヽヽヽ》などというのはそういう意味で使ったら下男風情の使う文句になるから、そんな言葉を使ってはならないと説明してやっていた。自分の言うことがド・レナル夫人を喜ばせているのを見て、子供たちに面白いような具体的な実例で、してやられたというのはどういうことかを説明しようと彼は努めた。
「わかった」とスタニスラスは言った。「チーズを落っことしてお世辞屋の狐に取られてしまった、馬鹿なカラスみたいなものなのね」
ド・レナル夫人は夢中になって喜んで子供たちに接吻を浴びせかけたが、そのためにはどうしても少しばかりジュリアンのからだにもたれかからないわけにはいかなかった。
そのとき突然、扉が開いた。ド・レナル氏だった。彼の険しい苦虫をかみつぶしたような顔は、彼の出現のために追い払われてしまったなごやかな団欒《だんらん》の気分と異様な対照をなしていた。ド・レナル夫人は色を失った。彼女は、これでは何一つ否定できないと思ったのだ。ジュリアンは口を切って、大きな声で町長殿にスタニスラスが銀の湯呑を売ろうと言った一件を話しはじめた。この話があまり歓迎されないだろうということは彼にははっきりとわかっていた。はじめド・レナル氏は金という言葉を聞いただけで習慣的に眉をひそめた。〈この金属のことが話に出るのは、いつもわしの財布からいくらかせびろうという前置きだ〉と彼は平生言っていたのである。
しかしここには金銭問題以上のものがあった。彼の疑念は増したのだ。自分のいない間に自分の家族が楽しそうにはしゃいでいるというのは、これほど傷つきやすい虚栄心によって動かされている人間にとっては穏かならぬことであった。ジュリアンが巧みな気の利いたやり方で教え子たちに新しい観念を教えた手際を、妻が彼にむかって激賞すると、
「そうとも! そうとも! わしは知っているよ、先生が子供たちにわしを嫌わせるのだ。わしに対してよりもこの子たちのほうにはるかに愛想よくしてやることは、いかにも先生にはたやすいことなのさ。結局わしは主人なんだからな。当世では誰もみな、合法的な権威に味噌《みそ》をつけようとしている。哀れなフランスだ!」
ド・レナル夫人は夫の自分に対する態度の機微《ニュアンス》にまで強いて細かく目をつけようなどとは毛頭しなかった。彼女はジュリアンと一緒に半日を過ごすことができそうなのを今見て取ったのである。彼女は町でたくさんの買い物をしなければならなかった。そこで何としてもキャバレ〔当時キャバレといわれていたのは当世風の小粋なレストランである〕で食事をとりたいときっぱりと言ってのけた。夫が何を言い何としようと、彼女はあくまで自分の思いつきを主張した。子供たちは|キャバレ《ヽヽヽヽ》という言葉を聞いただけで夢中になって喜んだ。この言葉は当今の上品ぶった方々が得々として口に出すものである。
ド・レナル氏は最初にはいった小間物店に妻をのこして二、三の訪問をしに行ったが、朝よりも陰鬱になって帰ってきた。自分とジュリアンのことが町全体の注視の的となっているのを、彼はしかと見届けてきたのであった、実を言えば、世間の噂のうちで彼の心を傷つけるような点は誰もまだ彼にほのめかしさえしていなかった。町長殿が人々の口から聞いてきたことは、もっぱらジュリアンが六百フランもらって彼の家にとどまるか、それとも収容所長殿の申し出た八百フランを受諾するかということだけであった。
その所長は、何かの集まりで偶然ド・レナル氏と顔を合わしたが、剣もほろろにあしらった。このやり方はまずいやり方とは言えなかった。地方では概して軽挙妄動などということはない。感動などというものはごく稀だが、たまにあったとすれば徹底的だ。
ヴァノル氏はパリから百里も離れた地方でなら、|めかし屋《ヽヽヽヽ》と呼ばれるような人間だった。つまり天性あつかましくて野卑な手合いであった。一八一五年以来とんとん拍子に出世して意気揚々と暮らしていたために、この立派な性質はますます強められた。彼はド・レナル氏の指揮下にあって、いわばヴェリエールを統治していた。だがずっと活動的で、何事につけても鉄面皮《てつめんぴ》で、どんなことにでも嘴《くちばし》をいれ、足まめに動きまわり、筆まめに手紙を書き、しゃべり、恥をかくなどということは念頭になく、個人的な主義主張などは一切持たなかったので、ついには宗門の権力者たちから、町長が与えられているのと同じほどの信任をかち得てしまった。ヴァルノ氏だったらまず、土地の乾物屋にむかって「君らのなかで一番頭の悪いのを二人よこせ」と言い、法律家にむかっては「一番無学な奴を二人指名してくれ」と言い、医師たちには「一番いかさまを二人選んでくれ」と言う……いわばこんな調子でやったろう。こうして各職業の最もあつかましい連中を集めてから、〈さあみんなで治《おさ》めよう〉というわけである。
こういう連中のやり口はド・レナル氏を憤慨させた。しかしヴァルノの輩《やから》の無恥厚顔はどんなことがあっても傷つけられるものではなかった。小坊主のマスロン師に人前で容赦なく虚言をあばかれたときでさえ平気な顔をしているほどだった。
しかし、このような隆盛のさなかにありながら、ヴァルノ氏は時々ちょっとした横車を押してみて、実際の過失を挙げて咎《とが》め立てされることから身を守らねばならなかった。彼にしても、自分に咎め立てをする権利は誰にでもあるということを充分感じてはいたのだ。アペール氏の来訪が彼の心に数々の不安の種を播《ま》いていったのちは、彼の活躍は倍加した。三度もブザンソンへ旅行し、便のあるごとに多くの手紙を書いた。それとは別に彼の家に寄っていった馴染みもない人たちに託して送りもした。たぶんシェラン老司祭を免職させたのは彼の過ちであったろう。それというのは、この復讐的な措置《そち》を講じたため、きわめて信心深い名門の婦人たちから極悪人と見られるようになったからである。その一方ではこういう忠勤をしたおかげで、彼は副司教のド・フリレール師の腹心の配下に加えられ、師から奇妙な依頼を受けることもあった。彼が匿名の手紙を書いてやろうという面白半分の気持にひきずられてしまったころは、彼の政略はこういう点にまで達していたのである。しかもまたまた面倒なことには、細君がジュリアンを家に入れたいと思っていると彼にむかって言明したのだ。彼女は虚栄心のあまりジュリアンのことに夢中になっていた。
こういう形勢となって、ヴァルノ氏は昔の同盟者であるド・レナル氏に一か八《ばち》かの決戦を挑むことは避けられないと予想した。ド・レナル氏は彼を厳しくやりこめることだろう。だが彼にはそんなことはまあどうでもよかった。しかしド・レナル氏はブザンソンのみならずパリへまで手紙を出すかもしれない。そうなると、何かの大臣の身内の者が不意にヴェリエールに姿をあらわして、貧民収容所長の職を取り上げてしまわぬともかぎらない。ヴァルノ氏は自由主義者たちに接近することを思いついた。ジュリアンが暗誦をやった例の正餐に、自由主義者たちがかなり招かれていたのはそれゆえであった。これによって町長に対抗する強力な支持が得られるはずだった。だが不意に選挙がはじまるかもしれないし、そうなったら収容所長の地位と野党への投票ということがまったく相容れぬことであるのはあまりにも明らかである。こういった政略をド・レナル夫人は見抜いていて、その話をジュリアンにして聞かせながら、彼の腕を借りて店から店へと歩いて行くうちに、だんだんに忠義通りのほうへやって来た。そこで二人はほとんどヴェルジーにいたときと同じくらいおちついた数時間を過ごしたのであった。
二人がこうしているあいだに、ヴァルノ氏は自分の昔の後援者に対して自分のほうでもことさらにふてぶてしい態度に出ることによって決戦を避けようとしていた。その日はこの方法は成功した。だが町長の不機嫌はそのためにますますひどくなった。
ド・レナル氏の虚栄心はみみっちい金銭欲の持つ最も貪欲《どんよく》な、最もけちくさい根性と争っていたが、そのため人が情ない気持になるといってもおよそこれ以上情ないということはありえないほどの気持ちで、キャバレの入口を跨《また》いだのであった。これに反して彼の子供たちは、およそこれ以上楽しく浮々していたことはかつてなかった。この対照が徹底的に彼の気を高ぶらせてしまった。
「見たところ、わしは家族のなかで余計者となってしまったらしいな!」と、はいって来るなり彼は努めて重々しい口調を装いながら言った。
返事をするかわりに妻は彼をわきへ引っぱって行って、どうしてもジュリアンを遠ざけねばならぬと言い聞かせた。今しがた幸福な数刻を過ごして来たために、二週間以来考えていた行動計画を実行するに必要なゆとりのある気持と毅然《きぜん》たる心構えを彼女は取り戻していたのであった。哀れなヴェリエールの町長は、自分の貨幣に対する執念が町じゅうで公々然と笑い話の種にされているのを知って、まったくもって狼狽してしまった。ヴァルノ氏は泥棒のように気前がよかった。ところが町長はというと、最近聖ジョゼフ会や聖母協会や聖餐協会等々のためにおこなわれた五つか六つの拠金に際して、彼のやり方は派手というより慎重なほうだった。
収入役の僧侶の手で献金額の多少によって整頓された名簿の上には、ヴェリエールやその近辺の田舎紳士どもにまじってド・レナル氏の名が最後の列に書かれていたことも一再ではなかった。私には収入がまったくないのだと言っても何にもならなかった。僧侶たちはこういったことを冗談としては受け取らない。
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第二十三章 公吏の悩み
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一年じゅう傲然と頭を上げていられるという楽しみは、しばらくの時間仕事に追われることによって充分相殺される。(カスチ)
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けれどもこんな下らない男には下らぬ心配事にかまけさせておくがいい。元来彼には下男根性の男が必要なのに何だって家のなかへ勇気のある人間など雇い入れたのだろう? 使用人を選ぶすべを知らないのだろうか? 十九世紀では普通、事はこういう具合に運ぶものである。つまり、権力があって貴顕《きけん》の身分にあるものがたまたま勇気ある人間に出会った場合には、相手を殺すか、追放するか、獄につなぐか、ないしは相手が愚かにも苦しみ悶えて死んでしまうほどの侮辱を加えるかといったふうに運ぶのだ。この場合にはどういうわけか、悩んでいるのはまだ勇気ある人間のほうではなかった。フランスの小都市やニューヨークのような選挙制のところで大きな不幸になることは、ド・レナル氏のごとき人物が世のなかにいることを忘れることができないということである。人口二万の都市の真ん中でこういった人たちが世論をつくっていて、しかもその世論というやつは、憲章によって自由を保証されている国では恐るべきものなのだ。天性高潔にして雅量ある男が君の友人であったとしても、もしその男が百里も離れたところに住んでいれば、彼は君のことを君のいる町の世論によって判断する。その世論は、運命のいたずらで貴族で裕福で穏健に生まれついた馬鹿者どもによってつくられているのである。卓越した人間こそ災難なのだ!
食事が終るとすぐに皆はヴェルジーへ向けて帰途についた。しかし翌々日になるともう家族一同はヴェリエールへ引きあげて来た。
一時間とたたないうちに、ジュリアンはド・レナル夫人が自分に何か隠しごとをしているのを発見して大変意外に思った。彼が姿をあらわすとすぐさま彼女は夫との会話を打ち切って、むこうへ行ってもらいたいとでもいうように見えた。ジュリアンは二度とそんな様子を自分に見せつけるような真似はさせなかった。彼は冷たく他人行儀になった。ド・レナル夫人はこれを見て取ったが、別に説明しようとはしなかった。〈おれの後釜《あとがま》を作ろうとでもいうのかしら?〉とジュリアンは思った。〈おとといはまだあんなに親しみ深かったのに! しかしこういう貴婦人たちのやり方はこんなものだという話だ。王様なんかがするのと同じさ、一人の大臣にかつてないほどご懇篤《こんとく》な言葉をかけておく、その大臣が家へかえって見ると免官の辞令が来ているといった具合だ〉
ジュリアンは自分が近づくと急にやんでしまうこの会話のなかで、町で一番商家の多い地域に教会に面して立っている、古いがしかし広々として便利なヴェリエールの町有の邸が、たびたび問題になっていることに気がついた。〈その家と新しい情人と何のかかわりがあるんだろう〉とジュリアンは心に思った。やるせない気持で彼はフランソワ一世の作になるこういう気の利いた詩句をくりかえし口ずさんだ。ド・レナル夫人から教えられてからまだ一月もたっていなかったので、この詩は彼には新しい趣を持っているように思われた。〈あのときは、幾度となく誓ったり愛撫したりして、こんな詩句は嘘なのだと言ってくれたものなのに!〉
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女心のはかなさを
たのむ心の愚かしさ
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ド・レナル氏は駅馬車でブザンソンへ出発した。この旅は二時間で決定された。彼はひどく心を痛ませているように見受けられた。帰って来ると彼は灰色の紙で包んだ、かさばった包みを机の上に投げ出した。
「こいつが例の馬鹿げた話のものさ」と彼は妻に言った。
一時間たってジュリアンはビラ貼り屋がそのかさばった包みを持って行くのを見た。彼は慌ててそのあとを追った。〈往来の最初の角で謎が解けるだろう〉
ビラ貼り屋が太い刷毛《はけ》でビラの裏側に糊を塗っているうしろで、彼はもどかしく待っていた。ビラが貼りつけられるや否や好奇心に駆られたジュリアンは、ド・レナル氏夫妻の会話のなかにちょいちょい出て来たあの大きな古い家を公開の入札によって賃貸することについての委細をきわめた告示をそこに見たのである。家賃の入札は明日二時、役場の広場で三つ目の蝋燭が消えると同時に、と書かれていた。ジュリアンはだいぶ当てがはずれた。猶予期間が少々短かすぎると彼は思った。〈これで希望者たち全員に達しが行きわたるだけの余裕があるだろうか?〉しかしとにかく二週間前の日付になっているこのビラは、それぞれ違った三カ所で上から下まで読みなおして見たのに、はっきりしたことは何も教えてくれなかった。
彼はその貸し家を見に行った。門番は彼が来たのが目にはいらなかったので、近所の男にむかっていわくありげな様子でこう言っていた。「やれやれ! こんなことをしたって何になるもんか。マスロンさんが三百フランでこの家を借りると町長に約束したんだ。それなのに町長が怒ってはねつけたから、副司教のド・フリレールさんの命令で司教邸へ呼びつけられたというわけさ」
ジュリアンが来たことはこの二人の仲間にはだいぶん迷惑だったらしく、彼らはそれ以上一言も言わなかった。ジュリアンはやはり家賃の入札を見に行った。照明の悪い広間には大勢の人が詰めかけていた。だがすべての人が変な風にたがいに相手をじろじろとみつめ合っていた。一同の目はテーブルの上に注がれていた。ジュリアンはテーブルの上に短かくなった蝋燭が三本、錫《すず》の皿に載せられて点《とも》されてあるのを目に留めた。廷吏が叫んだ。「三百フラン!」
「三百フランだってさ! そりゃあひどすぎる」と、一人の男が隣にいた男に声を低めて言った。ジュリアンはこの二人のあいだにいたのである。「あの家は八百フラン以上の値打ちはあるぜ、おれがせり上げてやろう」
「そんなことは天にむかって唾《つば》するようなもんさ。マスロン師やヴァルノ氏や司教や恐ろしい副司教や、そのほかの悪党一味を敵にして何の得になるんだ」
「三百二十フラン」とほかの男が叫んだ。
「馬鹿野郎!」と隣の男は言って、ジュリアンを指しながら、「あれはたしかに町長のまわし者だぜ」と付け加えた。
ジュリアンはこの言い草を咎《とが》めてやろうときっと振り向いたが、その二人のフランシュ・コンテ人はもう彼のことにまったくかまっていなかった。彼らが泰然自若としているのを見て彼のほうも泰然と構えられるようになった。ちょうどこのとき、最後の蝋燭の燃えさしが消え、廷史は間延びのした声で、例の家がむこう九カ年、年間三百三十フランで***県庁の課長ド・サン・ジロー氏に落札したと告げた。
町長が広間を出るとさっそく、何やかやと取り沙汰がはじまった。
「グロジョがつまらん真似をしたもんだから、町が三十フラン得《とく》したわけですね」と一人が言った。
「だがド・サン・ジローさんが仕返しをしますぜ。グロジョがひどい目にあわされますよ」と誰かが答える。
「何てけしからんことだ!」とジュリアンの左脇の太った男が言った。「あの家なら私は工場にするため八百フラン出したろう。それでもまだ安いほうだ」
「いやいや」と若い自由主義者の工場主が今の男に答えた。「ド・サン・ジローさんは修道会についているんでしょう。子供は四人奨学資金をもらっているじゃありませんか。気の毒な男ですよ! ヴェリエールの町で五百フランの増俸をしてやらねばならんことになりますね、それで話はおしまいですよ」
「それなのに町長は黙って見ているほかはなかったのか!」と三人目の男が口を入れた。「町長はユルトラだ、それは確かにそうだがね、しかしあいつは|盗み《ヴォレ》はしないよ」
「|盗ま《ヴォレ》ないって?」と別のが言葉をひきとって、「いや、|飛ぶ《ヴォレ》のは鳩(フランス語の voler という動詞には「飛ぶ」「盗む」の両義がある)さ。結局何もかも町の金庫のなかへかえって来て、年末にお歴々が分配することになるというからくりさ。だがあすこにソレルの倅がいる。さあ行こう」
ジュリアンはひどく腹を立てて帰って来た。するとド・レナル夫人がすっかりしょげている。
「入札から帰っていらっしゃったの?」と彼女は言った。
「ああ、あすこでかたじけなくも町長さんのまわし者だと思われて来ましたよ」
「あの人は私の言ったことを信じてくれたら、今ごろ旅行をしているはずなんだけど」
そう言ったとき、ちょうどド・レナル氏が姿をあらわした。彼ははなはだ沈鬱だった。食事のあいだ一言もしゃべらなかった。ド・レナル氏はジュリアンに、子供たちについてヴェルジーへ行くように命じた。旅は陰気だった。ド・レナル夫人は夫を慰めていた。
「あなた、あんなことにお慣れにならなければいけませんわ」
夕刻、みんなは黙然として暖炉を囲んで坐っていた。ブナの薪《たきぎ》の威勢よく燃える音を聞いて、わずかに心をまぎらわされるにすぎなかった。完全に気ごころの合った家族のなかにもたまたまあるような、憂鬱な一刻《いっとき》だった。そのとき子供たちの一人が喜ばしげに叫んだ。
「鈴が鳴っている! 鈴が鳴っている!」
「畜生! もしド・サン・ジローのやつがお礼にかこつけてうるさくおれにつきまおうというんなら、こちらだってその返報はしてやるぞ。あんまりひどい」と町長はわめいた。「あいつがお礼を言わにゃならんのはヴァルノのほうにだ。おれのほうはおかげで身が危うくなっているのだ。あのいまいましいジャコバンの新聞がこの一件を種にして、おれのことをノナント・サンク氏〔マルセイユの法官ド・メランドルのこと。自由主義者から憎まれていた〕にしてしまったらどうしよう」
太い黒い頬ひげをたくわえた非常に美貌の男がこのとき召使いに導かれてはいってきた。
「町長さん。私はシニョール・ジェロニモです。ナポリの大使館付き武官のシュヴァリエ・ド・ボーヴェジ氏から、出発の際あなたへといってお手紙をいただいてまいりました。これです。つい九日ほど前」とシニョール・ジェロニモは浮々した様子でド・レナル夫人のほうを見ながら付け加えた。
「奥様のお身内で私の知遇をいただいているシニョール・ド・ボーヴェジから奥様がイタリア語をご存じだとうかがいましたよ」
このナポリ人の上機嫌ぶりのおかげで陰鬱なこの宵が非常に浮々したものになった。ド・レナル夫人はどうしても彼に夜食をご馳走すると言ってきかなかった。夫人のおかげで家のなかに大騒動が起こった。今日一日のうちに二度も耳のはたでまわし者だと断定するのを聞かされてきたジュリアンに、彼女は何としてもそのことを忘れさせてやりたかったのだ。シニョール・ジェロニモは有名な歌手で、上流社会の人でありながら大変陽気だった。この二つの性質はフランスでは、はやほとんど相容れないものとなっている。彼は夜食がすんでからド・レナル夫人と一緒に短かい二重唱《ドウエッティーノ》を歌った。面白い話もして聞かせた。夜中の一時になってジュリアンがむこうへ行って寝ましょうとすすめたが、子供たちはきかなかった。
「もういちどその話を聞かせて」と一番上の子が言った。
「こんどは私の話ですよ」とシニョール・ジェロニモはまた口を切った。「八年前までは、私もあなた方と同じようにナポリの音楽学校の生徒でした。あなた方と同じようにというのは、あなた方と同じくらいの年だったという意味ですよ。不幸にして私はヴェリエールという美しい町の町長の子に生まれてはいなかったんですからね」
この言葉に、ド・レナル氏は溜息をついて妻のほうを眺めた。
若い歌手は、独特のアクセントをわざとすこしばかり強調して子供たちを吹き出させながら続けた。「シニョール・ツィンガレリはものすごく厳しい先生でした。この人は学校で愛されてはいないくせに、いつもみんなに自分を愛しているように振る舞ってもらいたがっているんです。私はできるかぎり外へ出ていました。サン・カルリーノという小さな芝居小屋へ行って素晴らしい音楽を聞いていたのですよ。しかしまあどうしたらいいでしょう! 平土間の入場料の八スーをどうやって掻き集めたもんでしょう? 莫大な金額ですからね」と彼は子供たちを見ながら言い、子供たちはすかさず笑った。「サン・カルリーノ座の頭取のシニョール・ジョヴァンノーネが、私の歌っているのを聞いてくれたことがあります。私が十六のときです。『この子は金になるぞ』とジョヴァンノーネさんは言いました。
『私のところではたらこうと思わないかね、君』とこの人は私のところへ来て言うのです。
『それでいくらくれるんです?』
『月四十デュカ』
ねえみなさん、これは百六十フランなんですよ。私は天にも昇る心地でした。私はジョヴァンノーネに言いました。
『だがどうしたらあの厳格なツィンガレリさんがぼくが外へ出るのを許してくれます?』
『Lascia fare a me.』
「私にやらせてごらんなさい、ということだよ!」と一番上の子が叫んだ。
「そのとおりですよ、若様。シニョール・ジョヴァンノーネは私に言うのです。『君《カーロ》、まず契約書に一筆』私は署名しました。すると三デュカくれるのです。こんな大金は私は今まで見たこともありませんでした。それから私にどうしたらいいか教えてくれました。翌日、私は恐ろしいシニョール・ツィンガレリに面会を求めました。年取った従僕が私を通してくれました。
『用事は何だ、悪者め!』とツィンガレリが言いますので、私は答えました。
『先生《マエストロ》、ぼくは悪いことばかりしていたのをいま後悔しているんです。もうこれからは決して鉄柵を乗り越えて学校から出て行ったりはしません。前より二倍も勉強します』
『おまえのバスはわしがこれまで聞いたうちで一番|美《い》い声だから、それを台無しにしてしまってはいかんと思ってようせんでおるのだが、もしそんな心配がなければわしはおまえを監禁して、二週間パンと水だけしかやらんようにするところだぞ、のらくら者めが』
『先生《マエストロ》、ぼくはこれから全校の模範になって見せます。Credete a me.(ぼくを信じてください)けれどぼくは先生に特別にお願いがあるんです。誰かが来てぼくに外で歌ってくれと言っても、ぼくのために断ってくださいませんか。おねがいですから、そんなことはさせられないと言ってやってください』
『誰がおまえみたいなならずものに頼みに来るというんだ。おまえが学校から出るのをわしが許すとでもいうのか? わしを嘲弄《ちょうろう》する気か? さがれさがれ!』と先生は私の、その、なにを蹴とばそうとしながら言うんです。『でなければ、ひからびたパンで監禁だぞ』って。
一時間たつとシニョール・ジョヴァンノーネが校長のところへやって来ました。
『一つ私の運が開けるようにしていただきたいんでして。ジェロニモを私のほうによこしてくれませんか。私の小屋で歌わせて、冬になったらうちの娘と結婚させようと思っていますのでね』
『あんなろくでなしをどうするつもりだね? わしはいやだ。そんなことはさせん。それによしわしが承諾したって、あの子が決して学校を去ろうとはするまい。つい今しがたわしに誓ったところだから』
『問題は当人の意志だけだとおっしゃるんなら』とジョヴァンノーネは勿体ぶってポケットから私の契約書をひっぱり出して言ったものです。『carta canta!(この通り)これがあの子の署名ですよ』
これを見るやツィンガレリは烈火のように怒って力いっぱい呼鈴の紐をひっぱって、『ジェロニモを学校から追い出せ!』と湯気を立てながらわめいたもんです。それで私は腹をかかえて笑いながら追い出されました。その晩、私はイル・モルティプリーコの歌をうたったのです、道化が結婚しようというんで世帯を持つのに必要な品物を指を折りながら数えてみるんだが、数えているうちに狂ってばかりいるという歌ですがね」
「あら、その歌を私たちのために歌ってくださいませんこと」とド・レナル夫人は言った。
ジェロニモは歌った。みなは笑いに笑って涙が出て来たくらい。シニョール・ジェロニモは愛想の好い態度や人づきの好さや陽気さで家族をうっとりさせたまま、夜中の二時になって寝室へさがった。
翌日、ド・レナル夫妻はフランスの宮廷で必要な紹介状を書いて彼にわたしてやった。
〈こういったふうに到るところに偽りがある〉とジュリアンは思った。〈あのシニョール・ジュロニモは六万フランの給料をもらってロンドンへ行くんだ。サン・カルリーノ座の頭取がああいう駆け引きしなかったら、あの男のすばらしい美声が認められ賞讃を博するのもおそらく十年ぐらいおくれたろう……もちろんおれには、ド・レナルのごとき輩《やから》となるよりむしろジェロニモのような男になるほうが好ましい。あの男は社会ではあれほど尊敬されてはいない。だが、今日あったような入札のため心を悩ませるということはない。それにあんな生活は陽気なものだ〉
一つジュリアンに意外に思われることがあった。ヴェリエールのド・レナル氏の家で一人さびしく暮らした数週間が、彼にとって幸福の期間だったことである。彼のために催された宴会に出席したとき以外に、嫌悪や暗い考えに悩まされたことはなかった。あの寂寥《せきりょう》たる家のなかでは、何人にもわずらわされずに読み書き考えることができたではないか。卑しい人の心の動きを観察する……しかも偽善的な駆け引きなり言葉なりをもって相手を欺くために観察していなければならぬという残酷な必要によって、華やかな夢想から引き戻されるということもあの家ではなかった。
〈幸福とはこんなにおれの身近にあるものなのか?……こんな生活をするための費用なら大したものじゃない。エリザさんと結婚するなりフーケの共同経営者になるなりすればいいのだ……だが急峻な山をよじ登ってきた旅人は絶頂で腰をおろして休息することに申し分のない楽しみを感ずる。しかしもしそこにいつまでも休んでいるように強制されたら、彼ははたして幸福であろうか?〉
ド・レナル夫人はいよいよ抜き差しならないことを考えるまでになっていた。決心を破って彼女は入札の一件を逐一ジュリアンに打ち明けてしまった。〈こうしてみると私がどんな決心をしていても、あの人の前ではみんな忘れてしまうのだ〉と彼女は考えた。
夫が危険に陥っているのを見たならば、彼女は躊躇なく夫の生命を救うため我が身を犠牲にしたであろう。彼女は、高邁《こうまい》な行ないをなすべき可能性を認めながらその行ないをなさなかった場合にはほとんど罪を犯したにもひとしい悔恨につきまとわれるような、高貴でロマネスクな心をもった人間の一人だった。それなのに、不意に寡婦になってジュリアンと結婚することができたならば味わい得るであろう極度の幸福を脳裡《のうり》に描いて、そんな観念を払拭し得ないような悲しい日々が彼女にはあるのだった。
ジュリアンは彼女の子供たちを実の父親よりはるかに愛していた。理非については厳しかったが、彼は子供たちから敬愛された。ジュリアンの妻となればこのヴェルジーを去らねばならないとは彼女もはっきり感じていた。この緑の木蔭をあれほど彼女はなつかしく思っていたのに。彼女は子供たちにはあらゆる人の感嘆の的となっている今の教育をつづけてやりながらパリで暮らす自分を想像してみた。子供たち、自分、ジュリアン、皆が皆申し分なく幸福だった。
結婚の奇怪な効果……これは十九世紀の生んだものだ! 夫婦生活の倦怠は、結婚に先立って恋愛があった場合、確実にその恋愛を消滅させる。また一方で、哲学者ならこう言うだろうが、働かないですむだけの資力を持った人々にあっては、結婚はあらゆる物静かな快楽に対する深い倦怠をもたらすものである。そして結婚が新しい恋愛の原因とならぬようなのは、女たちの中では木石のような心の持ち主にかぎられている。
こんな哲学者じみた考え方をしてみれば、私もド・レナル夫人を許す気になる。だがヴェリエールでは彼女は許されなかった。彼女のほうではそんなことは全然知らなかったが、町を挙げて彼女の情事の醜聞に夢中になっていたのである。この大事件のおかげでこの年の秋は町の人々はいつもより退屈することがすくなかった。秋と、冬の初めとが、矢のように過ぎ去った。もうヴェルジーの森から引き揚げねばならなかった。ヴェリエールの上流社会の連中は自分らの弾劾《だんがい》がド・レナル氏には馬の耳に念仏なのを見て腹を立てはじめた。一週間足らずのうちに数人の勿体ぶった連中が、日ごろ謹直にかまえていることの憂さ晴らしにこういった使命を果たして楽しんでやろうというわけで、きわめて穏やかな言葉を使ってだが、この上なく残酷な疑惑を彼に吹き込んだ。
慎重に事を運ぶヴァルノ氏は、貴族ではなはだ名望もあり、女が五人もいる家庭ヘエリザを住み込ませておいた。エリザは、この冬のあいだに口が見つからないかもしれないと思って、この家では町長さんのところでもらっていたものの約三分の二の給料しか要求しなかったと自分では言っていた。この娘はシェラン旧司祭と新司祭のところへ同時に懺悔《ざんげ》に行って、両方にジュリアンの情事の一部始終を話して聞かせようという素晴らしい考えを自分一人で実行してしまっていた。
ジュリアンは町へ到着した翌日、午前の六時からシェラン師に呼びよせられた。シェラン師は彼に言った。
「わしは君に何にも訊かない。おねがいだから、いや、必要とあらば君に命令するが、君のほうも何にも言わないでもらいたい。三日のうちにブザンソンの神学校へむけて出発するか、それとも君の友人のフーケのところへ行って滞在するか、是非ともどちらかしてほしいのだ。フーケはいつなんどきでも君の運が開けるように尽力する気でいるんだったね。わしは何もかも前もって見とおして然るべく手筈はしておいた。だが何よりも出発せねばならん。そうして一年たたなければヴェリエールに戻って来てはいけない」
ジュリアンはまったく返事をしなかった。彼は、所詮自分の父親でもないシェラン師からいろいろと配慮してもらうことは自分の体面を傷つけることだと考えるべきか否かと、心のなかで反省していたのだ。
「明日この時刻にまたお邪魔させていただきます」と、とうとう彼は司祭に言った。
シェラン師はこんなに年も行かない男など頭ごなしにやっつけることができるという考えでいろんなことをしゃべった。この上なく謙譲な態度と顔つきを装いながら、ジュリアンは口を閉ざして語らなかった。
やっと彼は外へ出て、ド・レナル夫人に知らせておこうと駈けつけてみると、夫人は絶望に陥っていた。夫から今しがたかなり率直な話を聞かされたところだったのだ。彼の生まれつきの性格の弱さはブザンソンの遺産をもらえる希望とあいまって、結局妻をまったく潔白なものと思うということにきめていたのであった。彼はヴェリエールの世論が妙なことになっていると妻に打ち明けた。世間は間違っている、嫉視《しっし》者の言葉に迷わされているのだ。だが結局、どうしたらいいか?
ド・レナル夫人は一瞬、ジュリアンがヴァルノ氏の申し込みを受諾してヴェリエールに留まることもできようと空しい望みをいだいた。しかし彼女はもう前年の単純で臆病な女ではなかった。彼女の宿命的な情熱、良心の呵責が、彼女の目を開かせていた。夫の話に耳をかしながら、やがて彼女はすくなくとも一時的の離別は避けられなくなったとはっきり見きわめがついて、悩ましい気持になった。
〈私から離れたらジュリアンはまた例の、何ひとつ財産のない人ならば当然持つような野心的なもくろみに没頭するだろう。そして私は、ああ、何ということだ! 私はこんなに金持なのだ! いや、自分の幸福に役立たないような金を持っている! あの人は私を忘れるだろう。あんなに愛想がいいのだから、女から愛され、自分でも愛するだろう。ああ、私は不幸だ……だが私に何を嘆くことができよう。神様は正しい。私は罪業をやめるという功徳をしなかったのだから、神様は私から分別を奪われたのだ。私さえその気になれば、エリザにお金をやってまるめこむこともできたのに。そんなことは私にとってはわけなくできることだったのだ。私はあのときほんの束の間でも考えてみるということをしなかったんだわ。狂おしい恋の思いに四六時中浮かされていたんだ。こんなことでは取り返しのつかないことになる〉
出発するという恐ろしい知らせをド・レナル夫人に聞かせたとき、ジュリアンはある一事に驚かされた。というのは、わがままな反対は全然聞かされなかったということである。彼女は明らかに涙を見せるまいと努めていた。
「私たちはしっかりしなければなりません」
彼女は髪の毛を一束切り取って彼に言った。
「私がこれからどうするかは自分でもわかりません。けれどもし私が死んだら、決して子供たちのことを忘れないと約束してちょうだい。遠くからにせよそばからにせよ、あの子たちを立派な人間にするように骨を折ってちょうだい。もしもまた革命が起こったら貴族たちはみんな首を斬られてしまうでしょう。あの子の父親も、例の百姓が屋根の上で殺されたというような事件もありましたから、たぶん亡命することになるでしょう。家のものたちを庇《かば》ってやってちょうだいね……握手しましょう。さようなら、あなた。これでお別れよ。こんな大きな犠牲をはらったんだから、私も元気を出して世間の評判を取り戻そうという気になれるといいけど」
ジュリアンは絶望を見せつけられるものと予想していた。この別離のあっけなさが彼の心を痛ませた。
「いやだ、ぼくはこんな風にしてあなたの別れの言葉を受けられない。いかにも出発はしましょう。あの人たちはそれを望んでいるし、あなたさえ望んでいらっしゃるんだから。ですが出発して三日したら、ぼくは、夜、あなたに会いに帰って来ますよ」
ド・レナル夫人の生活は一変した。彼のほうから再会しようと言いだすところを見ると、それではジュリアンはたしかに自分を愛しているのだ! 彼女のすさまじい苦悩は、かつて味わったことのないほどのはげしい歓喜の情にかわった。どんなことでも彼女にとっては容易なこととなった。愛人に再会できるとはっきりわかると、この最後のひとときから腸を断つような悲痛な思いはいっさい取り除かれてしまった。この瞬間からド・レナル夫人の動作も顔つきも、気高く毅然としたまったく非のうちどころのないものとなった。
ド・レナル氏は間もなく帰って来た。彼は我を忘れて激昂していた。彼はとうとう二カ月前に受け取った匿名の手紙のことを妻に話した。
「おれはこれをカジノに持って行って、あの汚らわしいヴァルノの奴が書いたのだということをみんなに見せつけてやろうと思う。あいつは乞食同然の身分でいたのをおれに引き上げられ、ヴェリエールで一番裕福な市民の仲間に入れてもらったんじゃないか。みなの見ている前でおれはあいつに恥をかかせ、そのあとで決闘してやる。これはあんまりひどすぎる」
〈ああ! 私、やもめになれるかもしれないわ!〉とド・レナル夫人は思った。だがほとんどそれと同時に彼女は自分に言い聞かせた。この決闘を妨げることがきっとできるのにそれをしなかったら、彼は夫を殺すことになる〉
このときほど彼女が巧みに夫の虚栄心をあしらったことは一度もなかった。二時間もたたぬうちに彼女は、しかもはじめから終りまで彼のほうで考え出したことを逆手に利用して、ヴァルノ氏とは今までよりもいっそう仲好くしなければならないのみか、エリザをまた雇い入れねばならぬことまで納得させた。あらゆる不幸の原因であるこの女中にまた顔を合わせる決心をするためには、ド・レナル夫人にとっても勇気が必要だったのだ。しかしこの考えはジュリアンの言ったものだった。
三、四回ああだこうだとたきつけられたあげく、やっと独力でド・レナル氏は、自分にとっても不愉快なことはジュリアンがヴェリエールじゅうの人気を沸きたたせた取り沙汰の種となりながらヴァルノ氏の子供たちの家庭教師となってこの町に落ち着くことだという考えに達したが、これは経済的にはずいぶん辛いことになるのである。ジュリアンにとっては貧民収容所長の申し込みを受諾することは明らかに利益である。ド・レナル氏の名誉のためにはそれに反してジュリアンがブザンソンなりディジョンなりの神学校に入学するためヴェリエールを去ることが肝要だった。しかし、どうして彼にそういう決心をさせるか? さらにまた、神学校にはいってから何で彼が生活するか?
ド・レナル氏は今すぐ金を出さねばならぬと見て取ると、妻よりも絶望してしまった。彼女はといえば、先ほどのあの会話が終ってからの彼女の気持は、果敢な心を持ちながら生活に倦《う》んでストラモニウム(麻薬の一種)を一服飲んでしまった男の気持に似ていた。つまり、いわばぜんまいだけで動かされているようなもので、もう何ものにも興味が持てなかった。こんな有様で瀕死のルイ十四世も、〈|朕が国王であったとき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》〉と言ってしまったのだろう。感嘆すべき言葉ではないか!
明くる日の早朝ド・レナル氏は一通の匿名の手紙を受け取った。今度のはこの上なく侮辱的な文体で書いてあった。現在彼がおかれている状態にちょうど当てはまるような無礼な言葉が各行にいくつか出て来るのである。これは身分の低い羨望者の手になるものだった。この手紙がヴァルノ氏と決闘しようという考えに彼を引き戻した。やがて勇気を奮い起こした彼は即時決行しようと考えるまでになった。一人だけで家を出て武器商へ行き、ピストルを買って装填させた。
〈よしんばナポレオン皇帝の時代のような厳格な施政がまたおこなわれたって、おれには心に咎めるようないんちきをして儲けた金なんぞは一銭もない。せいぜい人が悪いことをするのを見て見ぬ振りをしてやっただけだ。そうするのもやむを得なかったことを証明するような手紙がおれの机のなかにはいくらでもはいっている〉そう彼は心に思った。
ド・レナル夫人は夫の冷やかな怒りにおびやかされた。こんな怒りを見ると一生懸命追い払っていたのに、寡婦になるという不吉な考えがまた呼びおこされて来るのだった。彼女は夫と一緒に一室にとじこもった。数時間にわたって彼を説いてみたがその甲斐はなかった。新しい匿名の手紙を見て、彼はいよいよ覚悟をきめていた。やっと彼女はヴァルノ氏に平手打ちを食わせるという勇気を、神学校の寄宿費として一年間六百フランをジュリアンに提供するという決意に変えさせた。ド・レナル氏は家庭教師を家に雇おうなどという運の悪い考えを起こした日のことを幾度となく呪いつづけているうちに、匿名の手紙のことなどは忘れてしまった。
妻には言わなかったが、ある思いつきを得て彼はわずかに心を慰めた。この青年のロマネスクな考えをこちらのほうでうまく利用してもっと少ない金額でヴァルノ氏の申し出を拒絶するという約束をさせることもできようと彼は考えたのだ。
ド・レナル夫人は夫を説いたときよりもはるかに骨を折って、収容所長が公然と提供した八百フランの口をなげうって夫の希望に添うてくれた以上、その埋め合わせを受け取るのを恥じるには当たらないということをジュリアンに説明してやらねばならなかった。
「けれども」と、ジュリアンはどこまでも言い張るのだった。「ぼくはあんな申し出を受諾しようなどと思ったことなんかこれっぱかりもないんですよ。あなた方のおかげでぼくは品の好い生活に慣れすぎてしまった。ああいう連中の粗野な真似を見せつけられたらぼくは死んでしまいます」
だが容赦ない必要に迫られる身ではどうにもしようがなく、ジュリアンは意志をまげた。だが自尊心のあまり彼は、ヴェリエール町長の提供した金額を借金として受け取り、五年以内に利子をつけて返済するという証文をつくろうとそんな妄想まで描いたのである。
ド・レナル夫人はあいかわらず山の小さな洞穴に匿した数千フランを持っていた。
彼女はどうせ怒ってはねつけられるだろうとはわかりすぎるほどわかっていたので、ふるえながらこの金を彼に提供した。
「あなたはぼくたちの恋の思い出を厭わしいものにしようと思うのですか?」とジュリアンは答えた。
とうとうジュリアンはヴェリエールを立ち去った。ド・レナル氏はほんとうに幸福だった。氏から金を受け取らねばならぬという最後の瞬間に、ジュリアンはこんな犠牲を払わせるのはひどすぎると思ったのである。彼はきっぱりと断わった。ド・レナル氏は涙を浮かべて彼の首に飛びついてきた。ジュリアンが彼に素行優良の証明をしてくれというと、夢中になって喜んでいた彼には、ジュリアンの素行を称揚するのにふさわしい立派な言葉が見当らないほどだった。われわれの主人公には五ルイほど貯金があったし、さらにフーケから同額の金を借りるつもりだったのだ。彼は非常に感動していた。だが多くの愛のかたみを残してヴェリエールか四キロも行くと、もはや彼は首都を、ブザンソンのような大きな軍備都市を見ることができるという幸福のみしか思わなかった。
わずか三日のこの別離のあいだに、ド・レナル夫人は残酷きわまる恋の幻滅を感じていた。どうにかこうにかこの生活も堪えられるものとはなっていた。もう一度だけジュリアンと最後の逢い引きすることになっているのを考えて、彼女はようやく極度の不幸から免れているのだった。彼女はその逢い引きまでの時間を数え、分を数えた。とうとう三日目の夜、彼女は遠くから約束の合図を聞いた。数知れぬ危険を冒してジュリアンは彼女の前に姿を見せた。
この瞬間からというものは〈私がこの人を見るのはこれが最後だ〉という考えしか、もはや彼女の念頭にはなかった。愛人の熱した言葉に答えるどころか、彼女はほとんど生命のない屍《しかばね》も同然であった。強いてあなたを愛しますと言おうと努めても、ほとんどその反対のことを言おうとするかに見えるぎごちない態度となってしまうのだった。今生の別れというむごたらしい考えから彼女の心を逸《そ》らせ得るものは何一つなかった。疑い深いジュリアンは、もはや忘られたのだとまで一瞬思った。そんな含みを持った彼の皮肉な言葉も、声もなく流れ落ちる大きな涙の滴《しずく》とほとんど痙攣的な握手で迎えられるばかりであった。
「ですが一体どうしてあなたはぼくにあなたを信じろというのです?」とジュリアンは、愛人の冷たい抗議に対して答えた。「あなたはデルヴィル夫人にだって、ただ単に顔見知りだというだけの人にだって、こころからの親しみをこれよりももっともっとお見せになるでしょう」
ド・レナル夫人はまるで石にでもなったように、こう言うよりほかに答えるすべを知らなかった。
「これ以上に不幸だなんてことはあり得ないわ……死んでしまいたいわ……心臓が凍ってきたような感じがする……」
彼が夫人から聞き出せた一番長い返事というのがこれだった。
夜明けが近づいて出発しなければならなくなると、ド・レナル夫人の涙はすっかりとまった。彼女はジュリアンが結び目をつくった縄を窓にくくりつけているのを見ながら、一言も言わず、彼に接吻を返すことさえしなかった。ジュリアンがこう言ったのも無駄だった。
「とうとうこれでぼくたちも、あなたがあれほど願っていたようなところに行きついたわけです。これからはあなたも後悔することなしに暮らせるでしょう。子供さん方がほんのちょっとした病気をしても、もう死んでしまうなどと思わないですみます」
「あなたがスタニスラスに接吻してくだされないのが残念ですわ」と彼女は冷やかに言った。
最後にジュリアンは、この生ける屍のような女の熱のない抱擁に深く心を動かされた。数里の道を行くあいだ、彼はほかのことを考えられなかった。彼の心は悲痛な思いに満ちていた。山を越えるまでは、ヴェリエールの教会の鐘楼の見えるかぎり、彼は何度も振り返って眺めた。
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第二十四章 首都
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何たる騒音、何と多くの忙しげな人々、二十歳の青年の頭 には、いかに多くの未来の空想がひしめいていることか! 何とこれは、恋の思いを紛らわしてくれることだろう!(バルナーヴ)
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とうとう彼は遠い山の上に黒い城壁を認めた。それはブザンソンの城砦だった。彼は溜息をつきながら言った。〈このすばらしい軍備都市へ、この市を防衛する任にある連隊の少尉となるためにやって来たとでもいうのなら、おれにとっては何という相違だろう!〉
ブザンソンは単にフランス随一の美しい町というにとどまらず、気概にとみ、機知に富んだ人々も多いところである。しかしジュリアンは百姓の小倅にすぎず、優れた人々とちかづきになるすべはまったくなかった。
彼はフーケのところで平服を工面《くめん》していたので、それを着てポン・ルヴィ橋をわたった。一六七四年の包囲の歴史のことで頭がいっぱいになっていたジュリアンは、神学校にとじこめられる前に堡塁《ほるい》や城砦を見ようと思った。二、三度、彼はあやうく哨兵につかまるところだった。工兵隊が毎年十二ないし十五フランの株を売るために一般の立ち入りの禁止されている場所へ彼が立ち入ったからである。
城壁の高さ、壕の深さ、大砲の恐ろしい恰好に数時間も気を取られていたのち、彼はブルヴァールに面した大きなカフェの前を通りかかった。驚嘆のあまり彼は身動きせず立ちつくした。途方もなく大きな両の扉の上に太い文字で書かれたcafeという言葉を読んでも、真に受けられなかった。自分の目が信じられなかったのだ。臆する心を無理に抑えて思い切ってなかへはいって見ると、それは三十歩か四十歩ほどの奥行きのある細長い広間となっていて、天井はすくなくとも二丈はあるのだ。この日は何を見ても彼は恍惚とした。
ビリヤード台では二組勝負をしていた。ボーイがわめくように点を数えていた。勝負している連中は、見物人たちが取り巻いているビリヤード台のまわりを駈けまわっている。皆の口から吐き出される煙草の煙の波が青い雲のようになって彼らをつつんでいた。これらの人々の高い背丈、丸みがかった肩、重々しい歩き方、ばかに太い頬ひげ、身にまとっている長いフロックコート、何もかもがジュリアンの目をひいた。そのかみのビソンティウム(ブザンソンのラテン名)の高貴な子孫らは、怒鳴るような話し方しかしなかった。彼らはことさら猛々《たけだけ》しい武人のような様子をしていた。ジュリアンは身動きもせず見とれていた。ブザンソンのような大都市の巨大さと壮麗さが、彼の頭を奪っていた。ビリヤードの点をわめくように数えあげている尊大な目つきをしたお歴々の一人をつかまえて、コーヒーを一杯注文するなどという勇気はとうてい彼にはなかった。
しかしカウンターの小女《こおんな》が、ストーヴから三歩ほどのところに立ちどまって小さな包みをわきにかかえ、美しい白|石膏《せっこう》の国王の胸像を眺めているこの若い田舎者の魅力のある容貌に気がついていた。この小女はからだつきのいい大柄なフランシュ・コンテ娘で、カフェの看板娘にはいかにもふさわしいような服装をしていたが、ことさらジュリアンの耳にだけしか聞こえないような小さな声で、「ねえちょいと、ねえちょいと」ともう二回も言っていたのだ。ジュリアンは大変やさしい大きな青い目とぶつかって、自分に話しかけられているのだとさとった。
まるで敵にむかって行くように、彼は勢いよくカウンターの綺麗な娘のほうへ歩みよった。この威勢のよい動作のため包みが落ちた。
十五歳でもう上品な様子をしてカフェにはいるすべを心得ていたパリの若い中学生がこの田舎者を見たら、いかばかり憫笑《びんしょう》することであろう。しかし十五歳にしてこれだけ立派にしつけられているこういった子供たちは、十八歳になるともう俗流《ヽヽ》に堕してしまう。地方でしばしば見かけられる情熱を内に秘めた臆病さは、時としておのれに打ち克つこともある。そうした場合にはこれがかえって強い意志を生ぜしめるものとなるのだ。わざわざ自分に言葉をかけてくれたこの美しい娘に近づきながら、〈この人にはほんとうのことを打ち明けなければ〉とジュリアンは考えた。臆病さに打ち克ったがために彼は勇気が出て来たのだ。
「|奥さん《マダム》、ぼくは生まれてはじめてブザンソンへやって来たんですがね。パンとコーヒーをください。お金をはらいますから」
小女はちょっとほほえんでそれから顔を赤らめた。ビリヤードをしている連中から意地の悪い目で見られたり嘲弄されたりしないかと彼女はこの美青年のために気遣っていたのだ。そんなことをされたらこの青年は恐ろしくなってしまって、二度とここへ足踏みしなくなるだろう。
「ここにお掛けなさいな、あたしのそばに」と言って彼女は、広間に突き出たマホガニー製のとてつもなく大きなカウンターにほとんど隠されている大理石のテーブルを指した。
小女はカウンターの外へ身を乗り出した。そのためにすばらしい胴体がすっかり丸見えになった。ジュリアンはそれに目を留めた。彼の頭のなかは一変した。美少女は彼の前にコーヒー茶碗と砂糖と小さなパンを置いて行った。彼女はコーヒーを取り寄せるためにボーイを呼ぶのをためらっていた。ボーイが来ればジュリアンと差し向かいでいるのもおしまいになってしまうと思ったからである。
ジュリアンは思いに沈みながら、このブロンドの快活な美貌を今なおしばしば彼の心を悩ます、ある追憶の像と比較していた。自分がかつてあのような情熱の対象とされていたことを思うと、彼の臆病さはほとんどまったくなくなった。美しい娘は一瞬にしてこれをさとった。彼女はジュリアンの目を読んだのだ。
「パイプの煙であなた咳《せ》きこんでしまうわね。明日の朝八時前に朝御飯にいらっしゃい。そうしたら、あたし一人だけと言っていいくらいよ」
「あなたのお名前は?」とジュリアンはやさしいはにかみの色を浮かべて人なつっこくほほえみながら訊いた。
「アマンダ・ビネ」
「一時間ほどしてここにあるのと同じくらいの小さな荷物をあなたのところへ送ってはいけないかな?」
美しいアマンダはちょっと考えてから言った。
「あたし、見張られているのよ。あなたのお願いをきいたため、あたしが困ることにならないともかぎらないわ。でもあたし、今すぐこちらの宛名をカードに書いておくわ。それを荷物につけて、思い切ってあたしのところへ送ってちょうだい」
「ぼくはジュリアン・ソレルというんです」と彼は言った。「ブザンソンには親類も知人もいないんです」
「あら、わかったわ」と彼女は嬉しそうに言った。「法律学校にはいるためにおいでになったのね?」
「残念ながらちがうんですよ」とジュリアンは答えた。「神学校にやられて来たんです」
心の底から失望したらしい様子で、美しいアマンダの顔は曇ってしまった。彼女はボーイを呼んだ。そうとわかったので思い切ってボーイを呼ぶ気にもなったのだ。ボーイはジュリアンの顔も見ずにコーヒーをついだ。
アマンダはカウンターで金を受け取っていた。ジュリアンは思い切って言葉を交わしたことが得意だった。ビリヤード台の一つで口論が起こった。ビリヤードをしている連中のわめき声や相手の言葉を否定する声が、この途方もなく大きな広間に響きわたって大変な騒音を立てるのに、ジュリアンは驚いた。アマンダは何か考えこんで目を伏せていた。
突然、彼は平然とこう彼女に言った。「おいやでなかったら、ぼくはあなたの従兄弟《いとこ》ということにします」
このちょっとしたひとりよがりの態度がアマンダの気に入った。〈この人は身分の卑しい青年じゃないんだわ〉と彼女は思った。彼女は大変早口で彼に次のように言ったが、彼のほうへは目をやらなかった。誰かがカウンターのほうへやって来ないかとあたりを見まわしていたからである。
「あたしね、ディジョンの近くのジャンリスの生まれなのよ。だからあなたも同じようにジャンリスの生まれであたしの母のいとこだということにしてちょうだいね」
「かならずそう言いましょう」
「夏になると、木曜日にはいつも五時に神学校の学生さんたちがこのカフェの前を通りますわ」
「もしあなたがぼくのことを忘れないでいてくださるなら、ぼくが通るときに菫《すみれ》の花束を持っていてくれませんか」
アマンダは呆気にとられた様子で彼を見つめた。その目つきを見るとジュリアンの勇気は向こうみずな大胆さにかわったけれども、彼女にこう言ったときにはさすがに彼は真っ赤になった。
「ぼくは猛烈に激しい愛情をあなたに感じているような気がします」
「それならもっと小さな声で言ってちょうだい」と彼女は怖じ気がついて言った。
ジュリアンはヴェルジーで見つけた『新エロイーズ』〔ジャン・ジャック・ルソーの書簡体恋愛小説〕の端本のなかにあった文章をいくつか思い出そうとした。例の記憶力のおかげで、十分間にわたって彼は『新エロイーズ』を陶然として聞きほれているアマンダ嬢に朗誦してやった。彼は自分の勇敢さに嬉しくなっていたが、そのうち突然この美貌のフランシュ・コンテ娘がそっけない様子をした。彼女の恋人の一人がカフェの入口に姿をあらわしたのである。
その男は口笛を吹き、肩をゆすりながらカウンターに近づいた。そしてジュリアンをにらんだ。いつも極端なことばかり考えるジュリアンの頭のなかは、たちまちにして決闘のことでいっぱいになってしまった。彼はひどく青ざめ、茶碗を押しやって面上に断乎たる決意の色を見せ、この恋仇《こいがたき》を穴のあくほど見つめた。その恋仇が馴れ馴れしくカウンターの上で自分のコップにブランデーを一杯つぎながら顔を伏せているあいだに、アマンダは下を向けとジュリアンに目で言った。彼はその目くばせに従った。そして二分間というものは、蒼白な顔をして決意を固め、これからどんなことが起こるだろうかとそのことばかりに気を取られながら、身動きもせずに自分の席にじっとしていた。この瞬間、彼は実際立派に見えた。恋仇はジュリアンの目つきに驚いていた。一息にブランデーのコップを呑みほしてしまって、一言アマンダに言葉をかけると、両手を大きなフロックコートの脇のポケットに入れて、大きく息を吐きジュリアンをじろじろ眺めながらビリヤード台のほうへ歩いて行った。こちらのほうは憤怒のため前後を忘れて立ち上がった。だが彼は無礼な態度に出ようにもどんな風に切り出したらいいのか知らなかった。小さな荷物を置き、できるかぎりさりげない様子をして貧乏ゆすりしながら彼はビリヤード台のほうへ進んで行った。
〈だが、ブザンソンに到着する早々決闘なんかしたら、聖職に就くことなどはおじゃんになってしまう〉と、彼の思慮はそう言っていたがその甲斐はなかった。
〈かまうものか、無礼な真似をされて黙っていたなどとうしろ指をさされてはならんのだ〉
アマンダは彼の果敢さを見て取った。これは彼の態度動作の無邪気さとみごとな対照をなしていた。たちまち彼女は、フロックコートを着たあの図体の大きな若者よりもこちらのほうが好きになってしまった。彼女は立ち上がり、誰かが往来を通るのを目で追っているようなふりをしながら、すばやくジュリアンとビリヤード台のあいだに割り込んだ。
「あの人を横目で睨《にら》むのはやめてちょうだい、あたしの義兄《あに》なんですからね」
「かまうもんか、むこうのほうがぼくを睨んだんだ」
「それじゃあなたはあたしを困らせようというの?そりゃたしかにあの人はあなたを見たでしょうよ。それどころか多分、これからあなたのところへ来て話をしようとするかもしれないわ。あたしはあなたがうちのお母さんの身内でジャンリスから来たんだと言っておいたんですからね。あの人もフランシュ・コンテの人だけれどドールを越えてブルゴーニュ街道のほうへ行ったことは一度もないのよ。だからあなたは何を言ってもいいのよ、何にも心配することはないわ」
ジュリアンはまだぐずぐずしていた。彼女はカフェの勘定係らしい頭を働かせていくらでも虚言を思いつくので、すぐさまこう付け足した。
「たしかにあの人はあなたを見たでしょう。けれどそれはあたしにあなたのことを訊いたときだったのよ。あの男は誰に対しても礼儀知らずですけど、別にあなたに恥をかかせようと思ったわけじゃなかったのよ」
ジュリアンの目はこの義兄と称する男をつけ狙っていた。彼はその男が、二つのビリヤード台のうちの遠いほうので競技中の賭け金つきのゲームの番号札を買ったのを見た。威嚇《いかく》するような様子で「今度はおれだぞ!」と叫ぶ太い声がジュリアンの耳にはいった。彼は勢いよくアマンダのうしろから前へ出てビリヤード台にむかって一歩踏み出した。アマンダは彼の腕をつかまえた。
「こちらへ来て、まずお金をはらってちょうだい」と彼女は言った。
〈こいつはもっともだ〉とジュリアンは考えた。〈この女はおれが金をはらわないで出て行っちまうのが心配なんだな〉彼と同じくらいアマンダも動揺してひどく顔を赤らめていた。できるだけゆっくりと彼に釣り銭をわたしながら彼女は低い声で何度もこう言った。「今すぐこのカフェを出てちょうだい。でないとあたしもうあなたを愛さないことよ。あたし今とてもあなたを愛しているんだけど」
ジュリアンは出るには出たが、ゆっくりとした足取りだった。〈こんどはこちらがあの図々しい奴に息を吹きつけながら睨みつけてやるのが、おれの義務ではなかろうか?〉と彼はしきりに心のなかで思った。思いきりがつかずに、彼は一時間もカフェの前のブルヴァールから離れなかった。あの男が出て来ないかと彼は見張っていたのだ。男が姿をあらわさなかったのでジュリアンは立ち去った。
わずか数時間前にブザンソンについたばかりなのに、早くも彼には一つ後悔の種ができていた。老軍医はかつて神経痛をおして、少しばかり彼に剣術を教えてくれたことがあった。ジュリアンが怒ったときに実地に使えるのはこの技《わざ》のほかになかった。しかし、もし彼が相手に平手打ちなど加えずに腹を立てて見せるすべを知っていたとすれば、こんなことで当惑することなどはいっこうなかっただろう。そしてもし鉄拳をふるうようなことに立ちいたったら、図体の馬鹿でかい彼の恋仇は彼を叩きのめして姿を消してしまったろう。
〈かばってくれる者もいなけりゃ金も持っていないおれみたいな哀れな野郎には、神学校にはいるのも牢獄にはいるのもたいした変わりはあるまい。とにかくこの平服をどこかの宿屋に預けて、またあの黒い服を着なくちゃならない。いつか数時間の予定で神学校の外へ出ることができるようになったら、ちゃんと平服を着てアマンダ嬢に会えようというものだ〉この理窟は筋が立っていた。そのくせジュリアンはありとあらゆる宿屋の前を通りながら、なかへはいって行く勇気はどうしてもなかった。
とうとうホテル・デ・ザンバサドゥールの前をもういちど通りかかったとき、おどおどした彼の目が楽しげで陽気な顔をした血色のいい、まだかなり若い太った女の目と出逢った。彼はその女に近づいてわけを話した。
「よござんすよ、かわいらしいお坊さんね」とホテル・デ・ザンバサドゥールのおかみは答えた。「あなたの平服をおあずかりして、ちょいちょいほこりも払わせておきますわ。この時節じゃラシャの服に手をつけずほっといたらよくありませんものね」彼女は鍵を取って、置いて行くものを書きとめておきなさいと言いながら自分で彼を一室に案内した。
彼が台所へ降りて行くと、太った女は言った。「まあ素敵! そうするとほんとに何て立派なご様子でしょう。あたしあちらへ行って、あなたのためちょっとしたご馳走をつくらせて来ましょう。それに」と彼女は声を低めて言い添えた。「皆さんからは五十スーいただいているんですけど、あなたからは二十スーいただけば結構ですよ。あなたの少いお小遣いをうまくやりくりしなけりゃいけませんもの」
「ぼくは十ルイ持ってますよ」とジュリアンはすこし得意そうに答えた。
「まあそんなことを言って」と人の好いおかみは心配して言った。「そんな大きな声でおっしゃるもんじゃありませんよ。ブザンソンには悪い奴がたくさんいるんですからね。あっという間に盗まれてしまいますよ。特にカフェにおはいりにならないようにね。あすこには悪い奴らがうようよしているんですから」
「そうですか!」とカフェという言葉を聞いて考えこみながらジュリアンは言った。
「あたしのところのほかは決していらっしゃらないようになさいな。あたしがあなたのためコーヒーをいれさせますよ。ここに来ればかならず力になってくれる女と二十スーのご馳走とがあるんだということを思い出してくださいましな。ねえ、ちょっと悪くないでしょ、ほんとに。さあ食卓についてちょうだい。あたしが自分でお給仕しますわ」
「食べられそうもないんだ」とジュリアンは言った。「あんまり気が立ちすぎているんで。あなたのところを出たら神学校へ行くんだもの」
人の好い女は彼のポケットに食べ物を詰めこんでやってから、ようやく発たせた。とうとうジュリアンはあの恐るべき場所へむかって足を進めた。おかみは戸口から彼に道を教えてくれた。
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第二十五章 神学校
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八十三サンチームの夕食が三百三十六人分、三十八サンチームの夕食が三百三十六人分、飲む権利のあるものにはショコラを出す。すると、これを請け負っていったいどれくらいの儲けが出るんだ?(ブザンソンのヴァルノの輩)
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彼は遠くから門の上にある金色に塗った鉄の十字架を見た。ゆっくりと彼は近づいた。足の力が抜けたような感じだった。〈それじゃあれが例のこの世の地獄というやつなんだな、あのなかにはいったらおれは二度と外へ出ることはできないのだ〉とうとう思い切って彼は鐘を鳴らした。いかにもひっそりとした場所がらにふさわしく鐘の音は反響した。十分ほどすると顔色のわるい黒衣の男がやって来て扉をあけてくれた。ジュリアンはその男に目をやったがすぐに目を伏せた。この門番は異様な顔つきをしていた。その目の緑色の飛び出した瞳は猫のそれのように丸くなっていた。硬《こわ》ばったような瞼《まぶた》の形は、同情というものがこの男にはまったくあり得ないことを示していた。薄い唇は突き出た歯の上に半円をなしていた。けれどもこの顔つきには犯罪を思わせるものはなく、むしろ若いものにはそれ以上のはげしい恐怖を感ぜしめるあの完全な無感覚さを示していた。ジュリアンのあわただしい一瞥《いちべつ》がこの細長い敬虔な顔の上に見て取った唯一の感情は、それが天上のことに関するものでないかぎり、人から話しかけられるありとあらゆることがらに対して抱く衷心《ちゅうしん》からの軽侮の感情であった。
ジュリアンは無理に目を上げてみた。そして、胸の動悸のために震え声になりながら、神学校長のピラール師に面会したいと述べた。一言も言わずに黒衣の男は自分について来るように合図した。二人は木の欄干《らんかん》のついた広い階段を登って三階へ行ったが、その階段の一つ一つの段はそりかえってことごとく壁とは反対の側へ傾き、今にも崩れ落ちそうに見えた。白木《しらき》を黒く塗った墓標の十字架をいただいている一つの小さな扉をようやくのことであけると、門番は彼を天井が低くて薄暗い部屋に入れた。白く石灰を塗ったその壁には、時代がついてくろずんだ大きな絵が二幅飾ってあった。そこにジュリアンは一人でのこされた。途方にくれ、心臓ははげしくときめいていた。いっそ思い切って泣くことができたらまだしも心が楽だったろう。死のような沈黙がこの家屋のすみずみまでを領していた。
彼にはまる一日とも思えた十五分間がたつと、無気味な容貌のあの門番が、部屋のむこうのはしにある戸口の敷居のところにまた姿を見せて、ものも言わずにこちらへ来るように合図した。最初のよりももっと大きな、だがひどく採光のわるい一室に彼ははいった。壁はやはり白く塗ってあった。だがここには家具はなかった。ジュリアンはただ通りがかりに、白木のベッドと二脚の小さな藁《わら》椅子とクッションもない一脚の樅《もみ》板製の肘掛け椅子とを扉に近い片隅に見ただけだった。部屋のもう一方のはしには、よごれたままになっているいくつかの花瓶を置いた、黄色いガラスの小さな窓があって、そのそばで傷んだ僧衣《スターヌ》をまとった一人の男が机の前に坐っているのを彼は認めた。この男は怒っているらしい様子で、たくさんある小さな四角の紙を次々に取ってはそこに何か二言、三言書き込んで机の上にならべていた。男はジュリアンのいるのに気がつかなかった。ジュリアンのほうは、門番が彼をのこして扉をしめて出て行ってしまうと、そのまま部屋のなかほどに立って身動きもしないでいた。
こうして十分たった。粗衣をまとった男はあいかわらず書きつづけていた。感情の動揺と恐怖のあまり、ジュリアンはもうすこしで倒れそうな気がした。〈哲学者ならば、これは生来美を愛すべくできている魂に与えられた醜の強烈な印象である〉とでも言っただろう。おそらくそれは間違いだろうが。
書いていた男は頭を上げた。ジュリアンはちょっとしてからやっとそれに気がついた。のみならずそれを見てからもなお、自分がその的とされている凄まじい目つきに息も止まりそうで、依然として身動き一つしないでいた。ジュリアンの目はくらみ、死人のような蒼白《そうはく》さを見せている額を除いてはあますところなく赤い斑点におおわれた相手の細長い顔をようやく見分け得たにすぎなかった。この赤い両頬と白皙《はくせき》の額のあいだに、どんなに勇敢な人でもぎょっとするような黒い小さな両目が炯々《けいけい》とかがやいていた。この広い額は、撫でつけられた漆黒の濃い髪の毛で囲まれていた。
「もっとこちらへ寄って来ないかね、いやか?」と、とうとうこの男はじれったそうに言った。ジュリアンはおぼつかなげな足取りで前へ出た。だが結局、こんなことは生まれてから一度もなかったことだが、今にも倒れそうに蒼白となり、四角の紙がいっぱいおいてある白木の小机から三歩ばかりのところで立ちどまった。
「もっと寄りなさい」と男は言った。
ジュリアンは何かにつかまろうとするかのように片手を伸ばしながらなお進んだ。
「君の名は?」
「ジュリアン・ソレルです」
「だいぶ遅れて来たね」と相手はまたもや凄まじい視線を彼の上に注ぎながら言った。
ジュリアンはこの眼差しに堪えられなかった。つかまろうとするように片手を伸ばしながら、彼はそのままばったりと床の上に倒れた。
男は呼鈴を鳴らした。ジュリアンはまだ視力とからだを動かす力をなくしただけだったので、近づいて来る足音は聞こえた。
誰かが彼を引き起こして白木の小さな肘掛け椅子にかけさせた。恐ろしい男が門番に言っている声が彼には聞こえた。
「どうも癲癇《てんかん》で倒れたらしいな。まったくもって申し分なしだ」
ジュリアンが目をあけることができたときには、赤い顔の男はまた書き続けていた。門番の姿は見えなかった。〈勇気を出さねばならんぞ〉とジュリアンは心に思った。〈そして何よりもまず心に感じたことを隠さねばならん〉激しい吐き気を感じた。〈もしおれに何か起こったら、みんながおれのことをどう思うかわかったものじゃない〉やっと例の男は書く手を止めて、ジュリアンを横目で眺めながら、
「もう私の言うことに答えられるかね」と訊いた。
「はい」とジュリアンは力のない声で答えた。
「ああ、それはよかった」
黒衣の男は半ばからだを浮かして樅材の机の抽斗《ひきだし》を軋《きし》ませながらあけ、気短かそうに一通の手紙を捜した。手紙が見つかるとゆっくりと腰をおろし、わずかに残ったジュリアンの生気を奪ってしまうような顔つきでまたもや彼を見つめながら、
「君はシェランさんから私に推薦されて来た。あの人はこの司教区で一番立派な司祭だ。有徳な人間というものがあるものなら、あの人はまさしくそれだ。私には三十年来の友人だがな」
「ああ、それではあなたがピラール先生でいらっしゃいますか?」とジュリアンは絶え入りそうな声で言った。
「いかにも」と神学校長は不機嫌そうに彼を見つめながら答えた。
校長の小さな目の輝きは、口のはたの筋肉が痙攣的に動き出すにつれて増した。これはあたかも、獲物をむさぼり食う喜びを思って舌なめずりをしている虎の顔つきだった。
「シェランの手紙は短かいのだ」と彼はまるでひとり言を言っているような調子で言った。「Intelligenti pauca.(わかるものには短かい言葉で充分だ)。どんなに短かく書いても今の時代では短かすぎることはないからな」校長は大きな声で手紙を読み上げた。
「ここに当教区のジュリアン・ソレルを足下に差し向けますが、この者は小生が洗礼を授けてやがて二十年になります。富裕な木挽《こびき》大工の倅ですが、父親からは何の補助をも受けておりません。ジュリアンはかならずや主の葡萄畑で優れた働き手となるものと思われますが、記憶力、智力はともに遺憾なく、思慮にも富んでおります。しかしその天職の自覚が永続するか、またこの自覚が誠実なるかは疑問であります」
「誠実《ヽヽ》!」とピラール師は、怪訝《けげん》な面持でジュリアンを見すえながらくりかえした。しかしすでに師の眼差しには、前とくらべればいくらか人間的なものがないとは言えなかった。「誠実!」と彼は声を低めてもう一度言い、また読みはじめた。
「ジュリアン・ソレルには奨学金を下付願いたく、当人は所要の試験を受けてその資格あることを証明するでしょう。小生も彼にいささか神学を教えておきましたが、ボスュエ、アルノー、フルーリ等の、古くかつ有益な神学であります。もしこの者が貴意を得なかった場合には当方へおかえし下さい。貴下もよくご存じの貧民収容所長が家庭教師として八百フランの年俸を申し出ておりますから。……不肖は幸い神の冥護を得て心中安らかに暮らしております。おぞましい打撃にも慣れました。Vale et me ama.(「ご慈愛くださいますよう、また小生にも末長くご厚誼たまわりたく」の意。「敬具」にあたるラテン語)」
ピラール師は署名のところへ来ると声を鈍くし、溜息をつきながらシェランという名を言った。
「心中安らかか」と彼は言った。「あれほど有徳な仁なんだからそれくらいのむくいは受けていい。わたしにも事あるときにはそのような心を授けたまいますよう!」
彼は天を仰いで十字を切った。この神聖なしるしを見るとジュリアンは、この家にはいったときから彼の肌に粟《あわ》を生じさせていたあの深刻な恐怖が薄らぐのを感じた。
ついにピラール師は厳粛な、だが悪意のない口調で言った。
「ここには私のもとに最も神聖な身分をあこがれている三百二十一名のものがいる。だがシュラン師ほどの人から私に推薦されて来たのはわずか七、八人しかおらんのじゃ。それゆえ三百二十一名のなかで九番目となるわけだ。しかしわしの保護とは依怙贔屓《えこひいき》でも甘やかしでもない。いっそう注意し厳格にして不徳から守ってやることだ。扉を鍵でしめて来なさい」
ジュリアンは歩くのにだいぶ努力して、やっとのことで倒れないですんだ。入口の扉のわきにある小さな窓が畑のほうに開いているのに彼は気がついた。彼は木立を眺めた。この眺めはさながら故旧を認めたように彼には快く思われた。「Loquerisne linguam latinam?(君はラテン語を話せるかね)」とピラール氏は彼が戻って来ると言った。
「Ita, pater optime.(話せます、優れた師父よ)と、ジュリアンはいくらか平静に復して答えた。もちろん三十分前から彼は、ピラール師ほど優れている人間はこの世にいないだろうと思っていたのである。
会話はラテン語で続けられた。師の目の表情はやわらいだ。ジュリアンは少々冷静さを取り戻した。〈あんな有徳らしい見せかけに威圧されていたなんて、おれは何て意気地がないんだ! この男だって底を割ればマスロン師みたいな食わせ者にきまってるさ〉そう思ったジュリアンは有り金をほとんど全部靴のなかへ隠しておいたことを喜んだ。
ピラール師は神学についてジュリアンを試験してみて、その知識の該博なことに一驚を喫した。聖書について仔細に質問してみて、彼の驚嘆は増した。しかし教父たちの教理についての質問となると、ジュリアンが聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌス、聖ボナヴェントゥーラ、聖バジリウスなどの名前すらほとんど知らないのに彼は気がついた。〔中世のスコラ哲学以前の哲学は教父哲学といわれる。カトリックの教義はこれらの教父たちによって整えられた〕
〈実際これはたしかに、わしがいつもシェランに非難していたあの宿命的なプロテスタンチスムへの傾向だぞ。聖書についての深い、いや深すぎるほどの知識〉
(ジュリアンはこの問題については質問もされなかったのに、創世記やモーゼの五書などが書かれた|真の《ヽヽ》時期についてまでも、師に話してしまったのだ。)
〈聖書についてこのようにはてしもなく論議することはどういう結果をもたらすか?〉とピラール師は考えた。〈結局、個人解釈《ヽヽヽヽ》というやつだ。つまりこれは最も醜悪なプロテスタンチスムにほかならない。そしてこの不謹慎な学識のほかに、この傾向のつぐないとなるような教父たちについての学識は全然ないときている〉
しかし、内心古いガリカン教会〔ガリカン教会とはフランス独立教会の意味で、法王の教会に対するガリカン教会の自由を主張する思想をガリカニズムと称する。これに対して法王の絶対優位性を説くのがユルトラモンタニスムで、その代表的な論客はここに出てくるジョゼフ・ド・メストルであるが、この思想は王政復古時代、王党派や修道会から嘲笑を浴びせられた〕の箴言《しんげん》をもって答えるだろうと期待しながらジュリアンに法王の権威について訊いてみて、この青年からド・メストル氏の著書の全巻を暗誦されたときには校長の驚愕はもはやとめどないものとなった。
〈あのシェランも奇妙な男だ。こんな本のことを教えるなんて、つまりこんなものを真に受けちゃいけないと教えるためだったんだろうか?〉
ジュリアンがド・メストル氏の説を真面目に信じているのかどうか見てやろうと、いくら問いただしてみても甲斐はなかった。青年は記憶しているままに答えるだけだった。この時からジュリアンはすっかり気持がよくなって、本当に自分が落ち着いているのがわかった。非常に長い試問のあげく、ジュリアンにはピラール師の自分に対する厳格さがもはや単に見せかけだけのものにすぎぬように思われた。実際、十五年来自分の神学の弟子たちに対して努めて取ってきた厳しい威厳という根本的態度さえなくなったならば、校長は論理の名においてジュリアンを抱擁したであろう。それほど彼はジュリアンの返答のうちに、明快さと的確さと簡潔さを見出したのだ。
〈これこそ果断にしてかつ健全な頭脳というものだ〉と彼はひとりごちた。〈だが、corpus debile(からだは弱い)〉
「たびたびあんな風に倒れるのかね?」と彼は床を指さしながらフランス語で訊いた。
「生まれてはじめてです。門番の顔を見てぞっとしたものですから」とジュリアンは子供のように顔を赤らめながら付け足した。
ピラール師はほとんど微笑を浮かべかけた。
「それは俗世の浮華に狎《な》れたためじゃ。たしかに君も笑い顔ばかり見慣れていることじゃろうが、それこそまことの虚言の舞台にほかならぬ。真理は厳酷だよ、よいかな。さりとて、この地上におけるわしらの努力も同じく厳酷ではあるまいか? |外観のむなしい優美《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|さに対する度を過ごした感受性《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というあの弱点に、君の良心があくまで警戒をおこたらぬよう、注意が肝要じゃ」
「もし君が」とピラール師はあらわに喜色を見せながらラテン語に戻って言った。「もし君がシェラン師のような御仁から推挙されて来たのでなかったら、おそらく君の耳にはあまりに慣れすぎた俗界の空しい言葉(フランス語)をわしも用いたろう。ところで君が懇請している全額給費ということは、なかなかのことでは到底得られるものではない。だがシェラン師も五十六年間伝道のつとめにいそしまれたのに、一人分の神学校の給費さえ思うままにできないというのでは、あまりに報われるところが少ないと言わねばなるまい」
こう言ってからピラール師は、自分の同意を得ずにどんな結社にもまた秘密の修道会にも入会しないようにと注意した。
「名誉にかけて誓います」とジュリアンは誠実な人間の真情を披瀝《ひれき》して言った。
「その名誉という言葉はここではまったく通用しないのじゃ」と師は言った。「その言葉は、人を多くの過誤にみちびき、往々にして罪業にまでみちびく、俗世の人間のはかない名誉を思わせるからな。君は聖ピウス五世の『教会規定集成《ウナム・エクレシアム》』の勅書の第十七項にのっとって、わしに対して神聖な服従の義務があるのだ。わしは君の上級聖職者だからの。ここではな、いとも親しき我が子よ、聴くこと、すなわち従うことじゃ。金はいくら持っている?」
〈そらおいでなすった。そのために、いとも親しき我が子よなんて言ったんだ〉とジュリアンは心に思った。
「三十五フランでございます。師父よ」
「その金の用途をちゃんと書きとめておきなさい。わしに報告しなければならないことがある」
この辛い会見は三時間にわたった。ジュリアンは師の命を受けて門番を呼んだ。
「ジュリアン・ソレルを百三号の房に入れなさい」とピラール師はその男に言った。破格の処遇で校長はジュリアンに個室を与えたのだ。
「行李《こうり》を持って行っておやり」と彼は門番に言い添えた。
ジュリアンは視線を落として、すぐ自分の目の前に行李を認めた。三時間も前からこれに目をやっていたのに、それまで自分のものと見分けられないでいたのだ。
百三号の房に来てみると、それはこの家屋の最上階にある八尺四方の小房だった。ジュリアンはこの部屋が堡塁を見はらしているのに気がついた。堡塁のかなたには、ドゥー河によって町とへだてられている美しい平野が認められた。
〈何てすばらしい眺めだ!〉とジュリアンは叫んだ。そう自分にむかって言いながらも彼はこの言葉のあらわしているものを心に感じてはいなかったのだ。ブザンソンに来てまだほんのしばらくしかたっていないのに、そのあいだに味わったあんなに激烈な数々の感動のため、彼はまったく疲労|困憊《こんぱい》していたのであった。窓のそばの、房に一つしかない木の椅子に腰をおろして、じきに彼は深い眠りに沈んだ。夕食の鐘も礼拝の鐘も彼は聞かなかった。彼の来たことも忘られてしまっていた。
あくる朝、暁の光が彼の眠りを覚ましたとき、床の上に寝ている自分を彼は見出した。
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第二十六章 世間、あるいは金持に欠けているもの
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私はこの地上でひとりぼっちだ、私のことを考えてくれるものなぞ一人もいない。成功したというやつはみな、私には何としても持てそうもない図々しさと冷酷さをそなえている。彼らは私の気さくな親切さのゆえに私を憎んでいる。ああ、まもなく私は死んでしまうだろう、飢えからにせよ、またこのような冷酷な人間が世にいるという悲しみからにせよ。(ヤング)
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彼はあわてて服にブラシをかけて降りて行った。だが遅刻してしまった。助教師が彼を厳しく叱責した。弁解するかわりにジュリアンは胸の上で腕を組み合わせて、
「Peccavi, pater optime(私があやまちを犯したのです、優れたる師父よ)」と、慚愧《ざんき》に堪えない様子で言った。
こういう第一歩は大成功だった。神学生のあいだでも目はしの利く連中は、ここで顔を合わした男はこの道にかけては年季を入れた人間だということを見て取った。休憩時間になるとジュリアンは自分が一般の好奇心の的とされているのに気がついた。しかし彼は誰に対してももっぱら控えめで寡黙《かもく》だった。座右の銘としていた格言にしたがって、彼は三百二十一人の学友を敵と見なした。彼の目から見て最も危険なのはピラール師だった。
数日後ジュリアンは懺悔聴聞師を選ばねばならぬことになって、名簿を見せてもらった。
〈へえ、馬鹿々々しい、おれを何だと思っているんだ〉と彼は心に思った。〈おれが|しゃべるということ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の意味を解していないとでも思っているのか〉そうして彼はピラール師にきめた。
彼自身はそんなこととは夢にも思わなかったのに、こうきめたことは実は決定的だったのだ。最初の日から彼に友好的な態度を明らかにしていたヴェリエール生まれのまだごく若い一人の神学生が、副校長のカスタネード師を選んだほうがおそらくいっそう慎重な振る舞いだったろうと教えてくれた。
「カスタネード師はジャンセニスムの嫌疑をかけられているピラールさんと敵対しているのさ」と、若い神学生は彼の耳に口をよせて言い添えた。
自分は非常に慎重なのだと自負してはいたが、その実われわれの主人公の最初のころのやり口はこの懺悔聴聞師の選択と同じようにことごとく軽率であった。想像力の強い人間に特有の一人よがりな考え方に惑わされて、彼はおのれの意図するところを現にある事実と思い込み、いっぱしの偽善家と自負していたのである。こういう愚かさのあまり、このような怯懦《きょうだ》な手腕によって自分が成功をおさめているということを彼は恥ずかしく思うまでになっていたのである。
〈ああ、これだけがおれの唯一の武器なのだ! 別の時世だったら、おれも敵前で赫々《かくかく》たる軍功をたてて|口を糊する《ヽヽヽヽヽ》ことになったろうに〉そう彼は心に思っていた。
自分のやり方に一応満足して、ジュリアンは自分の周囲を見まわしてみた。いたるところに彼が見出したものは、まったくもって汚れのない徳行のよそおいであった。
八人から十人ほどの神学生は聖人のような暮らしをしていて、聖テレジアやアペニン山脈中のヴェルナ山の上で聖痕を受けたときの聖フランチェスコのように、幻影を見るというのだった。しかしこれは厳秘に付されていて、その友人たちもこのことは隠していた。こういう幻影を見る哀れな青年たちはほとんどひっきりなしに病室にはいっていた。そのほかの百人ばかりのものは堅固な信仰と倦《う》むことを知らぬ勤勉さを兼ねそなえていた。彼らは病気になるほどあくせく勉強したが、しかし大したことは学び得られなかった。二、三人が真の才分によって頭角をあらわしていたが、そのなかでもシャゼルという名前の男が断然他をぬきんでていた。けれどもジュリアンは自分が彼らから疎隔しているのを感じていたし、また彼らのほうでもジュリアンに対しては同様だった。
三百二十一人の神学生のうちその他のものは、日がな一日くりかえしくりかえし自分が口にしているラテン語の文句を理解しているとは請け合えぬほどの、まったく無知な連中から成っていた。ほとんど全部が百姓の倅で、土を耕すよりもいくつかのラテン語の文句を誦して糊口《ここう》の資《かて》を得たほうがいいという手合いだった。こういう観察を下したあげく、入学以来まだ日の浅いうちから、ジュリアンはたちまち成功をおさめられるという望みを持った。
〈どんな職務にでも頭の良い人間は必要なんだ。何といったってしなけりゃならない仕事はあるんだからな。ナポレオン軍にはいっていたら、おれは軍曹になっていたろう。将来この連中は司祭になるんだから、おれは副司教になるんだ〉と彼は心に思っていた。
さらに彼はこう思った。この情ない奴《やっこ》さんたちはみんな幼年時代から日雇い人夫をやっていて、ここに来るまでは凝乳と黒パンで暮らして来たんだ。あばら屋に住んで、年に五、六回しか肉を食わなかったんだろう。まるであの戦争を休息の期間のように考えていたローマの兵士みたいに、この無知な百姓どもは神学校の楽しさに有頂天になっているのだ〉
彼らのどんよりした瞳のなかに、ジュリアンは、食事ののちの飽満した肉体的欲求と、食前の今か今かと期待されている口腹の楽しみ以外のものを読み取ったことはなかった。こういった連中のあいだで彼は頭角をあらわさねばならなかったのだ。けれどもジュリアンの知らない、また人も彼に教えようとすることを慎《つつ》しんでいたあることがあった。それは、神学校で聴講する教義や教会史やその他のいろいろな講義で首席を占めるということは、彼らからは|名誉ある《ヽヽヽヽ》罪障と見られているということであった。ヴォルテール以来、また、詮ずるところそれ自体が不信《ヽヽ》と個人解釈《ヽヽヽヽ》そのものにほかならず、民衆の精神に|疑惑をいだく《ヽヽヽヽヽヽ》という有害な習慣を植えつける両院政治が行なわれて以来、フランス教会は書物が自分の真の敵であるということを了解したらしく見受けられる。教会から見れば恭順こそすべてである。学問において成功することは、それが宗教上の学問であってすら、教会にとっては胡乱《うろん》なことなのだ。またそれも当然だ。卓越した人間がシエースのごとくあるいはグレゴワールのごとく〔二人ともはじめ聖職にあったが、大革命に際して国民公会の議員になった〕敵方に走るのを誰かあって妨げ得ようか? 不安におののく教会は唯一の救命策として法王にすがるのだ。法王のみが個人解釈を無力化しようと試みうるのであり、その宮廷の儀式の敬虔な華麗さによって俗世の人々の倦み疲れ、病んだ精神に感化を及ぼし得るのだ。
神学校では言葉の上では誰でも否定しようと努めているこれらの多岐多様な真相がいくらかわかって来たとき、ジュリアンは深い憂鬱に沈んだ。彼は大いに勉強し、僧侶にとってははなはだ有益な、彼から見ればはなはだしく真実に反した、そして彼が何らの興味をも持っていない数々の事柄を学び知った。ほかには何もすることがないんだと彼は思っていた。
〈それじゃあ、おれは全世界から忘れられたのか?〉と彼は考えた。彼はピラール師が、ディジョンの消印のある数通の手紙を受け取って、焼き棄てたことを知らなかったのだ。この手紙の文体はきわめて穏当な体裁ではあったが、きわめて激しい情熱が全文を貫いていた。非常な良心の呵責がこの愛情と拮抗《きっこう》しているように見えた。〈まあいいだろう、あの青年が愛したのは少なくとも信仰のない女ではなかったのだから〉とピラール師は考えた。
ある日、ピラール師は涙でなかば文字の消えたように見える一通の手紙を開いてみたが、これは今生の別れを告げるものだった。手紙の主はジュリアンにむかって言っていた。
「とうとう私は天のご慈悲によって、私にあやまちを犯させたその人ではなく、私のあやまちそのものを憎むことができるようになりました。私にあやまちを犯させた人はこれから先も依然として私がこの世で最もいとしいと思う人なのですからね。私はもう思い切りました、ねえあなた。あなたにもおわかりのように、これは涙なしには済まされませんでした。私が責任をもって育てねばならぬ、そしてあなたもあんなにまで愛してくださった子供たちが救われること、それが何より大切なのです。公正な、だけど恐ろしい神様も、もはや母親の罰を子供たちの身にお降ろしになるようなことはありますまい。さようなら、ジュリアン、ほかの人たちに対していつも公正になさってちょうだいね」
この手紙の終わりのほうはほとんどまったく判読し得なかった。ディジョンの宛名が書いてあったが、そのくせ手紙の主は、ジュリアンが決して返事をよこさぬよう、また返事をするとしてもせめて貞操に立ち戻った女性が顔を赤くしないで読めるような言葉を使ってくれるように希望していた。
ジュリアンの憂鬱が、八十三サンチームの食事の請負人が神学校に差し入れている粗末な食物とあいまって、彼の健康に悪影響を及ぼしかけて来たころ、ある朝フーケが唐突に彼の部屋に姿をあらわした。
「やっと入れてもらえたよ。文句を言うわけじゃないが、ぼくは君に会うため五回もブザンソンに来たんだぜ。いつも門前払いを喰らわせられたよ。ぼくは学校の門のところに見張りまで出しておいたんだ。いったい君はどうして一度も外へ出ないのだ?」
「自分でそういう試練を我が身に課しているのさ」
「君もまったく変わったよ。やっとこれで君にまた会えたわけだ。五フランのエキュ銀貨二枚の鼻薬《びやく》が利いたわけだが、おかげで最初やって来たときからそれを出しておかなかったのはおれが馬鹿だったんだとはじめてわかったよ」
二人の会話ははてしもなかった。フーケがこう言ったときジュリアンは顔色を変えた。
「時に君は知っているかい? 君が教えていた子供の母親がものすごく信心深くなっちまったぜ」
そうして彼は例の気軽な態度で話をしたが、この態度は聞き手の熱情的な魂にはなはだ異常な衝撃を与えた。話しているほうはそんなこととは夢にも知らずに、相手が一番心にかけているものをえぐったのだ。
「ほんとだよ、君、ものすごく信心に熱中したものさ。霊地|詣《もう》でまでしているそうだ。だが、ずっとあの気の毒なシェラン師のお目付をしていたマスロン師はこれで一生恥ずかしく思うだろうが、ド・レナル夫人はあの人とは会おうとしないんだよ。懺悔するときにはディジョンかブザンソンヘ行くんだ」
「夫人がブザンソンに来るって」とジュリアンは顔じゅう真っ赤になって言った。
「だいぶちょいちょい来るぜ」とフーケは訝《いぶか》しそうな様子で答えた。
「君、今そこに『コンスチチュシオネル』紙を持っているかい?」
「何だって?」とフーケが問い返した。
「『コンスチチュシオネル紙』を持っているかと訊いているんだよ」とジュリアンはしごく落ち着いた声音で答えた。「ここじゃ一号三十スーで売れるんだ」
「なに! 神学校にさえ自由主義者がいるのか」とフーケは叫んだ。「哀れなフランスよ!」と彼はマスロン師の偽善的な声とやさしげな口調の真似をして付け加えた。
もしその翌日、ジュリアンにはあんなに子供のように見えた例の若い神学生が彼に言った言葉のおかげで彼が重大な発見をしなかったとしたら、この訪問はわれわれの主人公に深刻な感動を与えるものとなったであろう。神学校にはいってから、ジュリアンのしたことはまったくあやまった行動の連続にすぎなかったということがわかったのだ。彼は苦い心で自嘲した。
実際、彼の生活の重要な行為はそれぞれ巧みにおこなわれていた。だが彼は細かい点に気を使っていなかった。そして神学校での利口な連中は細かい点にばかり注意しているのである。だから彼は学友たちのあいだで早くもエスプリ・フォール(自由思想を抱く者)として通っていた。ごくちょっとした行為でいつも彼は馬脚をあらわしてしまったのだ。
学友たちの目から見れば、彼は途方もない悪習に染まっていると認められた。つまり彼は権威や規範に盲従するかわりに|自分で考え自分で判断した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。ピラール師は彼にとってこれまで何の助力ともならないでいた。師は懺悔所以外ではただの一度も彼に言葉をかけたことがなかった。懺悔所においてすら師は自分でしゃべるよりもむしろ聞くほうだった。この点ではカスタネード師を選んでおいたらだいぶ趣を異にしていただろう。
自分の愚かさを認めたその時から、彼はもう退屈などしなかった。彼はどの程度の失策をしているかを見きわめたいと思った。そのために彼は、学友たちをはねつけていた高慢な偏屈な沈黙を多少破った。人々はこのとき彼に復讐した。彼のほうから親しみを見せると軽侮をもって迎えられ、軽侮はさらに嘲罵《ちょうば》にまでなった。神学校に入学以来、とりわけ休憩時間には、一時間といえども彼にとって良かれ悪しかれの影響のなかったことはないということを今彼は思い知った。つまり、敵の数を殖やすか、あるいは心から徳操の高い、ないしはほかのものに比べて幾分か野卑なところの少ない学生の好意を得るかのどちらかだったのである。償いをつけねばならぬ失策は途方もないものであり、償いをつけるための努力ははなはだ至難だった。このとき以後、ジュリアンの注意は絶えず緊張していた。まったく一変した性格を見せねばならなかったのだ。
たとえば目の動かし方にしてからが、彼には非常に骨が折れた。この校内では誰もが目を伏せているということは理由なきに非《あら》ずだった。〈ヴェリエールじゃ、おれは何て思い上がっていたんだろう!〉と彼は心に思うのだった。〈おれは生活をしているつもりだった。だが単に生活の準備をしていたにすぎない。今やっとおれは世間に出て来たのだ。おれの人生における役割が終るまで、世間とはこういったものなんだろう。つまり、まぎれもない敵どもに四囲をかこまれているのだ。一分も休まず絶えずあんな偽善を続けて行くなんて、何というおそろしい困難さだ〉と彼はさらに思うのであった。〈ヘラクレスの偉業だってこの前に出れば色があせるだろう。近代のヘラクレスというべきは、十五年ものあいだずっと謙虚な態度をよそおって、その青年時代を通じて自分の激しやすさ高慢さを目のあたりに見て来た四十人の枢機《すうき》官に一杯喰わしたあのシクストゥス五世だ〉
〈それならば学問なんぞはここでは何にもならないんだ!〉と彼は心に思って口惜しくなった。〈教義や聖史その他で進歩しても、そんなことはうわべだけで重んぜられるにすぎぬ。そんなことについていろいろ言われる言葉などはすべて、おれみたいな無考えなものを罠《わな》にかけるのが狙いなんだ。なんてことだ! おれの唯一の取り柄といえば、進歩の速いこととあんな愚にもつかないことを会得するのがうまいということだけじゃないか。実際のところ奴らだってこんな愚にもつかないことはその真価どおりに見ているのじゃないかしら? おれと同じように判断しているんじゃあるまいか? それなのにおれは愚かにもそのことを自慢していたんだ! おれはいつも首席を占めているが、それが何の役に立ったかといえば、執拗な敵をこしらえただけじゃないか。シャゼルなんかはおれよか学問はあるくせにいつも試験答案のなかに馬鹿げたことをわざと書きこんで、おかげで五十番の席次へ落されている、やつがもし首席になったら、それはついうっかりしたためだ。ああ、もしピラールさんが一言、たった一言でも、おれにそのことを教えてくれたら、どんなに有難かったかわからない!〉
あやまちをさとったその瞬間から、彼には死ぬほど退屈と思われていた週に五回の祈祷とか聖心|頌歌《しょうか》とかその他いろいろの禁欲的な敬虔な長ったらしい勤行《ごんぎょう》も、彼の最も重大な行動の時となった。自己について厳しく反省し、特に自分の才能を過大視しないように努めて、ジュリアンは、他の学生の模範となる立派な学生のようにひっきりなしに|意味深長な行為《ヽヽヽヽヽヽヽ》、というのはつまりキリスト教がどういう点で完璧であるかを証明するような行為をおこなおうと性急な望みを抱くことをやめた。神学校では一つの半熟卵の食べ方にすら信仰生活の進歩のほどがあらわれるのである。
読者はこれを読んでおそらく微笑されるだろうが、それならばルイ十六世の宮廷の貴婦人の家に午餐に招かれたドリーユ師が、卵を食べるときどれほどの失敗をしたかを思い出していただきたい。
ジュリアンはまず non culpa(清浄潔白の境地)に達しようと努めた。つまりこれは、歩き方や腕とか目などの動かし方にはまったく俗界の人を思わせるようなものがなく、といってまた彼岸の生の観念やこの世の生の|まったき空無《ヽヽヽヽヽヽ》ということのみに囚われているようにも見えないという、若い神学生の精神状態のことである。
しょっちゅうジュリアンは廊下の壁に炭で書かれた次のような文句を見出した。〈永遠の歓喜か、永劫《えいごう》の地獄の焦熱《しょうねつ》かという問題に比すれば、六十年間の試練そも何ものぞ!〉彼はもはやこのような文句を軽蔑しなかった。〈この先おれは一生何をするんだ!〉と彼は心に思った。〈信者に天国の席を売るんだ。どうしておれを通してこの席が信者の目に見えるようになるのか? おれの外見が俗人のそれとはちがっているということによってだ〉
一瞬も休まず孜々《しし》として数カ月も努力してみたが、ジュリアンにはまだ|考える《ヽヽヽ》様子がぬけなかった。目や口の動かし方も、すべてを信じ、殉教してまでもすべてを堪え忍ぼうと覚悟した絶対的信仰を示すものではなかった。この種のことでは最も野卑な百姓どもに先を越されているのを見て、ジュリアンは切歯扼腕《せっしやくわん》した。しかし彼らが物を考えるような様子をしていなかったのも、当然そうあるべき理由があってのことだったのだ。
しばしばイタリアの僧院で見出されるような、そしてわれわれ俗人のためゲルチーノがいくつかの教会の絵のなかにその最も完全な典型を残して行ってくれた、すべてを信じすべてを忍ぼうと覚悟しているあの熱烈で盲目的な信仰の相貌を身につけるため、どれほど彼は苦労したかわからない。
大祭日には酢漬けキャベツつきのソーセージが神学生たちの食膳に供せられた。ジュリアンの席の近い連中は、彼がこんな嬉しいことに冷淡なのを見て取った。これこそ彼の最大の罪の一つだった。学友たちはそこに最も愚劣な偽善の憎むべきあらわれを見た。このとき以上に彼が反感が持たれたことはなかった。
「見ろよ、あの大将を。人を馬鹿にしやがって」と彼らは言った。「酢漬けキャベツつきのソーセージという一番上等の献立をまるっきり眼中におかないような様子をしやがる! ちぇ、横着な野郎だ! 威張りくさって! 罰《ばち》当たりめが!」
〈ああ、おれの学友のこの百姓の倅どもは全然ものを知らないが、その無知がご当人にとっては大変な利益になっているんだ〉そうジュリアンは意気|沮喪《そそう》して叫ぶこともあった。〈奴らが神学校にやって来ても、先生がやつらの頭からあの無数の恐ろしい世俗的な観念を追い払ってやる必要はまったくないのだ。おれなんざそれをここへ持ち込んでいて、何をしても顔つきからそれを嗅ぎつけられっちまう〉
ジュリアンは羨望に近いまでの注意力をもって、神学校へやって来る百姓の小倅どものなかでも一番野卑な連中を観察した。黒服に着替えさせるために粗織りの背広をぬがされるとき、彼らがその時まで受けて来た教育といえば、フランシュ・コンテでいうところの|乾いたまじり気のない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》お金に対する際限もない野放図な尊敬ということに尽きている。
これが現金という崇高な観念をあらわす神聖な堂々たる言い方なのだ。
ヴォルテールの小説の主人公たちと同様、これらの神学生たちにとって、幸福とはなかんずく立派なご馳走を食べるということにあるのだ。ジュリアンはまたほとんどすべての者が、|上等のラシャ《ヽヽヽヽヽヽ》の服を着ている人に対して先天的な敬意を抱いていることを見て取った。この感情は法廷がわれわれに与えるような公平な裁判の観念をまったくその値打ちどおりに、いやそれどころか値打ち以下に評価する。だから彼らは仲間同志でちょいちょいこう言っていた。「|gro《グロ》を相手どって訴訟をしたって何の得にもなりゃしないじゃないか」
この gro というのは、ジュラの渓谷地方で分限者を言いあらわす言葉である。これから推してありとあらゆるもののなかで最も富めるもの、すなわち政府に対する彼らの尊敬のほどをお察しねがいたい。
知事閣下の名を聞いただけでうやうやしく微笑を浮かべないということは、フランシュ・コンテの農民たちからは無謀な行ないと見なされている。ところで、貧乏人が無謀な振る舞いをした場合には、たちまちのうちに口すぎができなくなるということで罰がくだされるのだ。
はじめのうちは軽蔑の感情で息もつまりそうだったが、しまいにはジュリアンも憐れみを感ずるようになった。大部分の学友の父親たちは、冬の夕方自分のあばら屋へ帰って来てみるとパンもなければ粟も馬鈴薯もないというような目にたびたび遭っているのだった。〈それならば彼らから見て幸福な人とは、まず第一に立派なご馳走を食べて来た人、次には上等の服を持っている人だということになるのも、何も不思議なことじゃないじゃないか! おれの学友たちははっきりした天職の観念を持っている。つまり彼らは、聖職の身分というのはご馳走を食べ冬でも温かい服を着られるというあの幸福が長く続くことだと思っているのだ〉
たまたまジュリアンは、一人の想像力に富んだ若い神学生が仲間にこう言っているのを聞いた。
「どうしてぼくが、豚の番をしていたシクストゥス五世みたいに法王になれないわけがあろう?」
「イタリア人でなければ法王にはしてくれないさ」とその友は答えた。「だがぼくらのなかでうまい籤《くじ》を引きあてたやつが副司教や僧会員や、ひょっとすると司教にまでもなれるということは確かだ。シャロンの司教のP……さんなんざ、桶屋の倅だぜ。おれの親爺も同じ渡世をやっていたが」
ある日、教義の授業の最中にピラール師はジュリアンを呼びよせた。気の毒な青年はそれまで浸されていた肉体的精神的雰囲気のなかから脱け出すことができるのが無性に嬉しかった。
ジュリアンを迎えた校長先生の態度は、神学校に到着した日にあれほど彼を怯えさせたときと同じだった。
「このカードに書いてあることをわしに説明しなさい」と、校長は彼が生きた心地もしなくなるほどじっと見すえながら言った。
ジュリアンは読んた。「アマンダ・ビネ、カフェ・ド・ラ・ジラフに、八時前。ジャンリスの生まれで、私の母の従弟だということ」
ジュリアンは危険がはかり知れぬほど大きいのを知った。カスタネード師のスパイがこの書き付けを彼のところから盗み出していたのだ。
「こちらへ入校いたしました日」とジュリアンはピラール師の額を見つめながら答えた。師の凄まじい目つきが堪えられなかったからだ。「私は不安におののいていました。シェラン師がここはあらゆる種類の密告と悪意があふれているところだと教えてくださったからです。学友同志がたがいにさぐり合い告げ口し合うことがここでは奨励されていると聞きました。これも神の思し召しで、ありのままの人生を若い僧侶たちに見せてやり、現世と現世の虚飾に対する嫌悪の情を掻き立てようとのおはからいでございましょうが」
「君はわしにむかってそんな利《き》いた風なことを言うのか」とピラール師は激怒して言った。「けしからん小僧だ!」
「ヴェリエールでは」とジュリアンは冷静に語を継いだ。「私の兄たちは何かのことで私を妬んだときには殴りつけましたが……」
「本題にかえりなさい! 本題に!」とピラール師はほとんど我をわすれてわめいた。
「ブザンソンへ着きました日の正午ごろ、私は空腹を感じて一軒のカフェにはいりました。私の心はこのような不敬な場所に対する嫌厭《けんえん》の情でいっぱいだったのでございますが、このほうが宿屋でするよりも昼食が安くつくと思いましたので。その店の女主人と覚《おぼ》しい婦人が私の初心《うぶ》な様子を気の毒に思ってくれました。それで私にこう言ってくれたのです。『ブザンソンには悪い人たちがたくさんいます。私はあなたのことが心配なんですよ。何か困ったことが起こったら私のところへ言って来てちょうだい。八時前に人をよこしてくれてもいいわ。神学校の門番があなたの用事を引き受けてくれなかったら、あなたは私の身内でジャンリスの生まれだと言ってやりなさい……』と」
「君のその饒舌《じょうぜつ》が嘘かまことかこれからたしかめてやる」とピラール師は叫んだ。師はひとところにじっとしていることができないで部屋のなかを歩きまわっていたのだ。
「部屋へ帰るがいい!」師はジュリアンを送って行って鍵をかけて彼を閉じこめてしまった。ジュリアンのほうは早速、その底に例の因果なカードを大切にしまっておいた行李を調べはじめた。何一つなくなってはいなかったが、だいぶ掻きまわされていた。鍵が彼の肌身から離れたことは一度もなかったのだが。〈何にも気がつかないでいたあいだに一度も外出許可を受けなかったのは、実際なんという幸運だったろう。カスタネード師が親切らしくあんなにたびたび許可をやろうと言ってくれたのだが、その親切も今はのみこめた。おそらくおれは、だらしなく服を着かえて美しいアマンダに会いに行っちゃったろうからな。そうしたら破滅するところだった。そういったやり方であの情報を利用しようという望みも空しかったので、この情報を無駄にしてしまうまいと思って告げ口したんだな〉
二時間後に校長はまた彼を呼びよせた。
「君の言ったことは嘘じゃなかった」と校長は言ったが、目つきは前ほど厳しくなかった。「だがこんな書き付けを保存しておくなどとは、君にはそれがどれほど由々《ゆゆ》しいことかわからんだろうけれども、大変軽率なことなんだよ。呆れた子だ! 十年もたったら、そんなことのおかげでおそらくとんだ災難にあうぞ」
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第二十七章 人生の初体験
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現代とは、ああ、まさにこれ主の誓約の櫃《はこ》だ。これに触るるものに災いあれ!(ディドロ)
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ジュリアンの生涯のこの時期についてはごくわずかしかはっきりとした精確な事実を述べないことを読者はお許しくださるように。私がそういう事実を知らないからなのではない。いや、いくらでも知っているのだ。しかしおそらく彼が神学校で見聞したことは、この稿の中で作者が失うまいと努めている穏かな色調にはまるで合わない陰惨なものなのである。ある種の事柄に悩んでいる現代人は、そのことを思い出すたびに他のあらゆる楽しみ、一編のコントを読む楽しみまで麻痺させてしまうような激烈な嫌悪の情を禁じえない。
ジュリアンは偽善的な態度振る舞いをするようにと努めていたが、どうもうまく行かなかった。ときには彼はすっかり厭気がさして、まったく落胆してしまうことさえあった。彼は成功しなかった、しかもつまらない修業期間だというのに。外からごくわずかばかりの援助があれば、彼に勇気を取り戻させるには充分だったろう。克服せねばならぬ障害は大したものではなかったのだ。けれども彼は、大西洋のまんなかに見棄てられた小舟のように一人ぼっちだった。〈それにおれが成功したら、一生涯こんな下劣な仲間とつきあわねばならんのだ!〉そう彼は心に思っていた。〈晩餐のときにむさぼり食う豚の脂身入りのオムレツのことしか考えない意地きたなしや、どんな罪を犯しても大して恥じることのないカスタネード師みたいな輩だからな。奴らはいかにも高位|顕職《けんしょく》につくことはできよう。だがその場合どんな犠牲が払われるか。恐ろしいことだ!〉
〈人間の意志とは強力なものだ。いろんな本にそう書いてある。だがその意志だけでこれほどの嫌悪に打ち克つことができようか? これまで偉人となった人びとの努力などは楽なものであった。危険がいかに恐ろしいものであろうと、彼らはその危険を美しいものと見た。それなのに、今おれの周囲にあるものの醜悪さをおれのほかに誰一人として理解し得るものはないではないか!〉
この瞬間こそ彼の生涯で最も苦しいものだった。ブザンソンに駐屯する立派な連隊のどれかにはいることも、彼にはわけないことだったのだ! それにラテン語の教師にだってなれる。口を糊するためにならごくわずかなもので足りるのだ! しかしそうすれば、彼の空想を楽しますべき立身栄達の道も将来の希望もなくなってしまう。彼にとってそれは死ぬことだった。こういった惨めな日々のうちのある日の顛末《てんまつ》を次に語ろう。
〈おれはうぬぼれて、自分があの百姓の若僧どもとは違っていると思ってよく好い気持になったもんだ!まあいいさ、おれも|人と違っているのは憎しみのもと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを理解するだけ、世の中を渡って来たんだ〉
そう彼はある朝、心に思った。この大きな真理を、彼は最も苦い失敗の一つから今しがた教えられたところだったのだ。それまで一週間も、彼は聖賢《せいけん》ぶった暮らしをしている一人の学生のご機嫌を取ろうと骨を折ってきた。その日、その学生と一緒に校庭のなかを歩きまわりながら、立ったまま眠ってしまいそうな愚にもつかぬ話を彼はうやうやしく拝聴していたのである。突然、空模様が変わって嵐になり雷が鳴った。するとその有徳な学生は手荒に彼を押しのけながら怒鳴った。
「いいかい、この世じゃ誰だって我が身が一番大切なんだ。ぼくは雷に焼かれるのはいやだ。君なんかは神様が、不信心者でヴォルテールみたいな奴だというんで、雷を落されないともかぎらんぜ」
激怒に歯を喰いしばり目をみひらいて電光の縦横に走る空を仰ぎながら、ジュリアンは叫んだ。
〈嵐のあいだに居眠りしているような人間だったら、おれも一生浮かびあがる資格がない。よし、また別の衒学《げんがく》先生をとっつかまえてやろう〉
そのときカスタネード師の聖史の講義開始の鐘が鳴った。
自分の父親の苦しい労働や貧困がいやでいやでたまらないこの若い百姓たちに、この日カスタネード師は、彼らから見ればあれほど恐ろしい政府というものも、地上における神の名代(法王)の委託あってこそはじめてその真の合法的な権力を得ているのだということを教えた。
「君らの生活の清浄さと服従とをもって法王のご好意を受くるに価するようになりたまえ。その御手のうちなる一本の杖のごとくにならねばいかん。そうすれば君らも、あらゆる束縛から解放され、首長として人に命令をくだし得る堂々たる地位に、いずれ就くことができよう。この地位は終身のもので、政府からその俸給の三分の一を支払われ、君らの説教によって薫陶《くんとう》された信徒たちが残りの三分の二を支払うのだ」
講義を終えてからカスタネード師は校庭に立ちどまった。
「地位はその人の真価しだいという言葉は、司祭についてはぴったり当てはまる」と、自分のまわりに円陣をつくって集まった学生たちに彼は言った。「現にこの私が、町の司祭よりもたくさんの不時の収入が得られる山間の教区をいくつか知っている。金の収入は町と同じで、そのほかに肥えた食用鶏や卵や新鮮なバターやその他こまごまとした数え切れぬほどの楽しみがある。それにそこでは司祭は文句なしに最高人物で、ご馳走のときに招待され歓待されぬということは絶対にない……等々」
カスタネード師が自分の部屋へ上がって行ってしまうと、たちまち学生はいくつかのグループに分かれた。ジュリアンはどのグループにもいなかった。鼻つまみ者として取り残されていた。どのグループででも一人の学生が一スー銅貨をほうり上げているのを彼は見た。そしてその学生が裏か表かの遊戯でうまく言い当てると、その学友たちは彼がやがて不時の収入の多い立派な司祭職の一つにありつくだろうと断定するのであった。
それから逸話がはじまった。たとえば、どこそこの若い僧侶は叙任されて一年になるかならぬかなのに、年を取った司祭の下女に飼い馴らした兎を一匹贈呈したおかげで、首尾よく副司祭に申請され、その後数カ月で司祭が急に死んでしまったためその立派な司祭職を受け継ぐことになった。またしかじかの僧侶は中風にかかったある老司祭の食事にかならず侍《はべ》って、その司祭のために器用に若鶏の肉をけずってやり、そのためまんまととても豊かな町の司祭職の後継者に指名されることになった。
神学生たちも他のあらゆる職業の青年たちと同じように、何か風変わりなところがあって空想を唆《そそ》るようなこういった小細工の結果を過大視している。
〈おれもこういった会話に馴れなくちゃならん〉とジュリアンはひそかに思った。ソーセージや収入のいい司祭職の話でないときは、教理のなかで最も世俗的な部分が会話にのぼった。つまり司教と知事、町村長と司祭の優劣問題である。ジュリアンは第二の神という観念がここにあらわれて来るのを認めた。しかしこの神は第一の神よりもはるかに恐るべく、またはるかに強力であった。この第二の神とはすなわち法王であった。みんなはピラール師から聞かれているという心配がないときには、法王がフランスのあらゆる知事あらゆる市町村長を直接任命するという労を執られないのは、フランス国王を教会の長子と名づけてこの配慮を委任したからである、などと声を低めて話し合っていた。
ここらあたりでジュリアンは、ド・メストル氏の筆になる『法王論』を利用して衆望を勝ちうることができると思った。実際のところ彼は学友を驚嘆させはした。が、これはまた一つの災難だった。彼ら自身の意見とするところを彼らよりも上手に発表したので、快く思われなかったのだ。シェラン師は自分自身に対して思慮を欠いていたと同様ジュリアンについても思慮が足らなかった。いつも正しく条理を立てて考え無意味な言葉に惑わされぬ習慣をジュリアンに教えたあとで、あまり身分の高くない人間がこの習慣を持った場合、これは罪であるということを言ってやるのを忘れていたのだ。なぜならすべて正しい議論というものは人を怒らせるものだからである。
それゆえ弁が立つということがジュリアンにとって新しい罪であった。学友たちはいろいろ彼のことを考えて、彼に対して感じられる激しい嫌悪を一言にあらわすことがやっとできた。彼に≪マルティン・ルター≫という渾名《あだな》をつけたのである。「その理由はとくに、あいつがそのためにあれほど高慢になっているあの極道《ごくどう》な屁理屈さ」そう彼らは言っていた。
幾人かの若い神学生はジュリアンよりももっと溌剌《はつらつ》とした顔色をし、もっと美少年だとされてよかった。しかしジュリアンは白い手をしていたし、ある種の気むずかしい潔癖さの習慣をかくすことができなかった。だが運命が彼を投げこんだこの陰気な学校では、この長所は長所として通用しなかった。彼の周囲にいた不潔な百姓どもは、彼の道徳観念ははなはだ弛緩《しかん》しているとはっきり言った。私はこの小説の主人公の数知れぬ不運の物語で読者をうんざりさせないかと心配である。たとえば、彼の学友のなかでも一番屈強な連中は、ちょいちょい彼を殴ることにしようと思った。やむなく彼は鉄の定規を武器にして、実際使ったのではなかったが身振りでこれを使ってやるぞと相手に知らせざるを得なかったのである。身振りはスパイから報告されても、敵にとっては言葉ほど都合がよくはない。
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第二十八章 聖霊発出
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すべての人の心は感動させられた。神はおんみずから、一面|幔幕《まんまく》を張りめぐらし信徒の手によって砂利を敷き詰めた、ゴチック風の狭い街路に降り立たれ給うたかに見えた。(ヤング)
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ジュリアンはおのれを卑屈にし、愚かにしようとして徒《いたず》らに努めたが、人の気に入ることができなかった。あまり人と違いすぎていたのだ。〈とにかくこの教授たちというのは、みんな素晴らしく頭のいい選りすぐられた人なんだ。それなのにどうしておれの謙譲を歓迎してくれないんだろう?〉と彼は心に思った。彼が唯々《いい》としてすべてを信じすべてに騙《だま》されているように見せかけているのを、むしろ逆用しているように思われる人が一人だけいた。それは本寺院の掌典長シャ・ベルナール師で、彼は十五年も前から、この本寺院で僧会員《シャノワス》の地位につけるというようなことを人から言われていた。任命を待ちながら師は神学校で説教術を教えていた。まだ何もわからぬころには、この講義はジュリアンが平生首席を取るものの一つとなっていた。シャ師はそのため彼に好意を見せるようになった。そして講義を終えると師は自分のほうからジュリアンの腕を収って庭を散歩したりすることがあった。
〈一体どうするつもりなんだろう?〉とジュリアンは心に思った。本寺院の所有になる祭服のことをシャ師がまる数時間にわたって長々と話して聞かせるのには、ジュリアンもびっくりしてしまった。本寺院には喪の祭服を別にして十七着の飾り紐つきの僧袍《シャジューブル》があった。最近ではそれに加えて、年取ったド・リュバンプレ裁判長夫人の持ち物である式服に期待がかけられていた。九十歳になるこの夫人はすくなくとも七十年来、金糸で刺繍したリオン製の素晴らしい織物でつくった婚礼の式服を保存していたのである。
「想像してみたまえ、君」とシャ師はばったり歩みを止めて大きな目をみひらきながら言うのだった。「この布はほっといてもちゃんとまっすぐ立っているんだよ。それほど金がはいっているんだ。ブザンソンでは一般に信ぜられていることだが、裁判長夫人の遺言によって、本寺院の宝物は、大祭典用の四、五着の長袍《シャープ》は別にしても十着以上の僧袍《シャジューブル》が増えるだろう。わしはそれ以上のことを考えている」とシャ師は声を低めて付け足した。「裁判長夫人はわしたちに金メッキした銀の立派な燭台を八脚譲ってくださるだろうと思っていい理由があるのだ。この燭台はブルゴーニュ公シャルル豪胆公がイタリアで買い取ったものと推定されているが、夫人の祖先の一人が公のお気に入りの重臣だったのさ」
〈だがこの男はこんな古着の話ばっかりしてどうしようっていうんだろう?〉とジュリアンは考えた。〈この抜け目のない小手調べはもうずっと前から続いているのに、本物はちっとも出て来ない。よっぽどこの男はおれのことを疑っているに相違ないぞ! それにしてもほかの奴らよりはずっと抜け目がない。ほかの奴らなら二週間もすりゃあ肚《はら》の底で何を目当てにしているのか充分見わけられるんだから。この男の野心は十五年間も悩んで来ているんだ、そう思えば納得がいく!〉
ある夕方、武道の授業の最中にジュリアンはピラール師の部屋に呼ばれた。師は言った。
「明日は Corpus Domini(聖体節)だ。シャ・ベルナールさんが本寺院の装飾をするのに是非君に手を貸してもらいたいと言っておられる。行って指図に従いたまえ」
それからピラール師は彼を呼び戻して、同情のこもった様子で言った。
「この機会を利用して、回り道をして町のなかを歩いて来たいと思うなら、それもかまわんよ」
「Incedo per ignes.(私には隠れた敵があります)」とジュリアンは答えた。
明くる日早朝から、ジュリアンはうつむきながら本寺院へ出かけて行った。往来や、また町全体をおおいはじめた活動の光景を見るのが、彼にはこころよかった。ここかしこで人々は聖霊発出の行列のために家の表に幕を張っていた。神学校で過ごした期間が彼にはほんの束の間にすぎなかったように思われた。彼はヴェルジーや、またあの綺麗なアマンダ・ビネのことばかり思い耽《ふけ》った。あの娘のいるカフェも遠くはないのだから偶然顔を合わさないともかぎらなかった。彼は遠くからシャ・ベルナール師が師の愛する本寺院の門のところにいるのを認めた。楽しそうな顔つきであけっぴろげな様子をした太った男だった。この日彼は意気揚々としていた。……「待っていたんだよ、なあ君」と、遠くからジュリアンの姿を見るや彼は叫んだ。「よく来てくれた。今日の作業は長くかかるし骨が折れるのだ。まず最初の朝飯を食べて力をつけよう、二番目の朝飯は十時に大ミサのあいだに出るからね」
ジュリアンは厳粛な顔をして言った。「私はごくわずかの間でも一人だけにされたくないのです」それから彼は頭の上にある時計をさして言った。「私が五時一分前に着いたことをどうぞお見忘れなく」
「ははあ、神学校のあの性悪な小僧どもが君はこわいんだね! あの連中のことを気にかけるなんて君も実際気がいいよ。道ばたの垣のなかに刺《とげ》があるからというんで、その道の美しさが減ずることになるかね? 旅人はかまわず歩き続け、意地の悪い刺が獲物を待ちくたびれたままにほったらかしておくだろう。とにかく仕事にかかろう、さあ君、仕事にかかるんだ!」
シャ師が仕事が骨の折れるものだと言ったのはもっともだった。前日この寺院のなかで大きな葬儀が行なわれた。それゆえ何一つ今日の準備をしておくことができなかった。そこでこの午前中だけで三つの|脇の間《ネフ》を形づくっているあらゆるゴチック式の柱を九メートルもの高さにまで赤い緞子《どんす》でいわば着物を着せるようにおおわねばならなかったのである。司教|猊下《げいか》は郵便馬車でパリから四人の装飾職人を呼び寄せた。だがこの連中だけで何もかも間に合うというわけには行かなかった。しかも彼らはブザンソンのへたくそな同業者を励ますどころか、この同業者を馬鹿にしてますますその不手際さを増させるばかりだった。
ジュリアンは自分で梯子《はしご》に登らなければならないと見て取った。生来の身軽さがずいぶん役に立った。彼は町の装飾職人たちを宰領するのを受け持った。シャ師は大喜びで彼が梯子から梯子へと軽々と渡って行くのを眺めた。柱が残らず緞子《どんす》でおおわれてしまうと、主祭壇の上にある大きな天蓋の上に五個のばかに大きな飾り羽の束をつけることになった。金粉を塗った木製の豪華な冠飾が八本の大きなイタリア産の大理石の螺旋《らせん》形円柱で支えられている。しかし聖櫃《せいひつ》の上にある天蓋の中央に達するためには、ひょっとすると虫が喰っているかもしれない十二メートルもの高さのある古びた木製の蛇腹の上をつたって行かねばならなかった。
このむずかしい通路を見るとそれまで騒々しくはしゃいでいたパリの装飾職人たちも黙りこんでしまった。彼らは下から見上げてさかんに議論していたが登りはしなかった。ジュリアンは飾り羽の束をつかむと駆け足で梯子を登って、天蓋の中央にある冠の形をした装飾の上にそれを非常にうまくつけた。梯子から降りるとシャ・ベルナール師は腕をひろげて彼を抱きしめた。
「Optime(見事見事)」と人の好い僧侶は叫んだ。「このことは猊下《げいか》に申し上げることにしよう」
十時の朝食は非常に愉快だった。シャ師は自分の勤めている会堂がこんなに美しくなったのを一度も見たことがなかったのだ。
「なあ君」と彼はジュリアンに言った。「わしの母親はこの尊い聖堂の椅子貸し人をしておった。それでわしはこの大きな建物のなかで育てられたのだよ。ロベスピエールの恐怖政治のおかげでわしたちは落魄《らくはく》した。しかし当時わしはまだ八つだったのに、もう私宅の秘密のミサのおつとめをやったものだ。そしてそのミサの日には食事を出してもらえたのだ。わし以上に僧袍《シャジューブル》の畳み方をよく知っていたのは一人もいなかったし、飾り紐を切ってしまうようなへまをしたこともわしは一度もない。ナポレオンによる宗教再興以来さいわいわしはこの立派な本山ですべてを管掌することになった。一年に五回もわしはこの本山がこういう美しい装飾で飾られるのを見ている。しかしこれほど燦然《さんぜん》とかがやいて見えたことは今までになかった。緞子の布が今日ほどうまく柱にぴったりと張られたことは今まで一度もなかった」
〈とうとう肚《はら》の底を打ち明けるぞ〉とジュリアンは考えた。〈こいつめ、おれに自分のことを話し出した。そのうち本心をさらけ出すんだろう〉しかしこの男は明らかに感激しているのに、不用意なことは一言も言わなかった。〈ずいぶん働いたんだし、今は悦に入っているんだし、上等の葡萄酒もふんだんに飲んだというのになあ〉とジュリアンは心に思った。〈何という男だ! おれにとっては大した手本だぞ! この男のほうが一枚上手だ〉(これはあの老軍医から彼が教わった下品な言葉だった。)
大ミサの Sanctus(聖なるかな)を唱える時刻を告げる鐘が鳴ると、ジュリアンは白衣《スニルブリ》を着て壮麗な行列に加わって司教のあとに従おうとした。
「それじゃ泥棒をどうするんだ。君、泥棒を!」とシャ師は叫んだ。「君は泥棒のことは考えてないんだね。行列はこれから出発する。会堂のなかは人気がなくなってしまう。君と私とで見張りをするんだよ。柱の下部を包んでいるあの美しい飾り紐が一本なくなっただけですめばまだしも幸いさ。しかしあれもやはりド・リュバンプレ夫人の寄贈品なんだよ。夫人の曾祖父《そうそふ》である有名な伯爵から伝来のものなんだ。純金製なんだよ、君」と師は明らかに昂奮した様子で彼の耳にささやいた。「全然まがいものなしなんだ! 君には北の側廊の監視をお願いしよう。そこから出ないでくれたまえ。わしは南の側廊と中央の間の番をする。懺悔所に気をつけてくれたまえ。泥棒の手先の女なんかがあすこでわしたちがほかのほうを向いた機会をうかがっているんだからね」
彼がそれだけ言ってしまったときに十一時四十五分の鐘が鳴り、つづいてすぐ大鐘の鳴り響く音が聞こえた。大鐘は絶え間なく鳴った。引きも切らぬかくも荘厳なその響きにジュリアンは感きわまってしまった。彼の思いはもはやこの地上のものではなかった。
香の匂いや、聖ヨハネの扮装をした童児たちが聖餅台の前に撒《ま》いた薔薇の花びらは、彼の感激を完全なものにした。
この鐘のかくまで厳粛な響きといえども、普通ならばジュリアンに五十サンチームの賃銀で雇われた二十人ばかりの男がおそらくは十五人か二十人の信徒の手をかりてやった仕事といったようなことしか連想させなかったろう。普通ならば彼は、索《さく》や木組の損耗とか、この鐘自体が二百年ごとに一度落ちるとかいう物騒なものだとかいうことを考えたり、また、鐘つき人の賃銀を減額するか、あるいは何らかの贖宥《しょくゆう》もしくはその他の恩典で自分のふところとは関係なく教会の金庫から賃金を支払う手段を思案してみたりするところだったろう。
こんなこざかしい思案をするかわりに、この日の男性的な、絶え間ない鐘の音に感激したジュリアンの心は、無何有《むかう》の境をさまよっていた。こんなことでは彼は決して立派な僧侶にも身分の高い行政官にもなれないだろう。こんな風に感動する心はせいぜい芸術家を生み出すぐらいが関の山なのだ。ここにこそジュリアンのうぬぼれが最も明々白々にあらわれている。彼の同輩の神学生のなかには、垣のかげにはかならず民衆の憎悪と過激主義《ジャコビニスム》がひそんでいるといわれて、人生の現実に注意を怠らないでいるものがおそらく五十人ほどもいるだろうが、こういう連中ならば本寺院の大鐘の音を聞いても鐘つき人の賃銀のことしか思わなかったろう。彼らならばバレーム〔十七世紀のフランスの数学者〕のような天才をもって、一般民衆の感動の程度が鐘つき人に支払われる賃銀に相応するかどうかを検討しただろう。だがもしジュリアンが寺院の物質的利益を考えようとしたならば、彼の想像力は本来の目的を突っ走ってしまって、教会の財産から四十フランを節約しようと考えながら二十五サンチームの支出を避ける機会すら逸してしまっただろう。
こよなくうららかに晴れわたった空のもと、行列はブザンソンの町のなかをしずしずと練り歩き、ありとあらゆる官衙《かんが》公署が競って立てた豪華な休憩祭壇《ルボゾワール》前で幾度か立ち止まっている間に、教会は深い静謐《せいひつ》に閉ざされていた。ほの暗さと快い冷やかさとがそのなかにただよっていた。花々と香のかおりが立ちこめていた。
細長い|脇の間《ネフ》の静謐と深い寂寥と涼しさとが、ジュリアンの夢想をいっそうしんみりとしたものにした。シャ師はこの建物の別の側にいたのだから師に邪魔される心配は全然なかった。彼の魂は、監視を委ねられた北の側廊のなかをゆっくりとした足どりで歩きまわっているはかない肉体から、もうほとんど脱け出してしまっていた。懺悔所のなかに数人の敬虔な婦人だけしかいないと見きわめると、それだけ彼は心が落ち着いた。見るともなくぼんやりと彼は目をさまよわせていた。
けれどもこの放心状態はたいそう立派な衣裳を着た二人の婦人を見ていささか乱された。婦人の一人は懺悔所のなかに、もう一人は前の女のすぐそばの椅子の上にひざまずいていた。彼は漠然と眺めた。けれども、さだかならぬ義務感のせいだったろうか、またはこの婦人たちの上品な、だが簡素な衣服に感心したからだろうか、彼は目を凝らしてその懺悔所のなかに僧侶がいないことに気がついた。
〈あの美しい婦人たちがもし本当に信心深いのなら、どこかの休憩祭壇の前でひざまずけばいいのに、そうしないのはおかしいな〉とジュリアンは思った。〈それとも、もし上流社会の人なのなら、いくらでもどこかの露台の最前列の席を取れたはすなのに。だがあの服は何て仕立てがいいんだろう! 実際あでやかなもんだな!〉彼はその二人をよく見ようとして歩みをゆるめた。
懺悔所のなかでひざまずいていたほうの女が、この闃《げき》とした静寂のなかでジュリアンが立てた足音を聞いて、ちょっと頭をこちらに向けた。にわかに彼女は小さな叫び声を発して気を失った。
そのひざまずいていた婦人はまったく力が失せてうしろへ倒れた。すぐそばにいた連れの女が助けようとして駈け寄った。それと同時にジュリアンはうしろへ倒れた婦人の肩を見た。彼には見覚えのある縒《よ》り紐のように並べた上等の大粒の真珠の首飾りが目を打った。ド・レナル夫人の髪形を認めたとき、彼はどんな気持になったことか! それが彼女だったのだ。彼女の頭を支えて倒れ切ってしまわないようにしていた婦人はデルヴィル夫人だった。ジュリアンは我を忘れて突進した。もしジュリアンが二人を支えなかったならば、ド・レナル夫人の倒れようとする力にひきずられておそらくデルヴィル夫人も倒れたろう。彼はド・レナル夫人の顔が蒼白で感情をまったく奪われて力なく自分の肩の上にゆらいでいるのを見た。デルヴィル夫人に手伝って彼はこの魅力的な顔を一脚の藁《わら》椅子の背の上に置いた。彼はひざまずいていた。
デルヴィル夫人は振り向いて彼のことを見分けた。
「行ってください、あっちへ行ってください!」と彼女は、極度の憤怒を語調にあらわして彼に言った。「何よりもこの人があなたを見ないようにしなければいけません。あなたの姿を見たら、この人はそれこそぞっとするにちがいありません。あなたが来るまではあんなに幸福だったのに! あなたのやり口はあんまりひどすぎます。行ってください。すこしでもまだあなたが恥というものを知っていらっしゃるのなら、むこうへ行ってください」
この言い方は非常に高飛車《たかびしゃ》だったし、またこのとき彼の心は弱々しくなっていたので、彼は立ち去った。〈あの人はいつもおれを憎んでいた〉と彼はデルヴィル夫人のことを思いながらひとりごちた。
まさにこの時、行列の最前列にいる僧侶たちの鼻にかかった聖歌の声が教会のなかに響きわたった。行列がかえって来たのだ。シャ・ベルナール師は何度もジュリアンを呼んだが、はじめのうちジュリアンにはその声が聞こえなかった。とうとう師はジュリアンが一本の柱のうしろに半死半生でひそんでいるのを見つけてその腕をつかまえた。師は彼を司教に紹介しようと思ったのだ。
「君、気持が悪いんだね」と師は彼がひどく蒼白になってほとんど歩く力もないのを見て言った。「あんまり働きすぎたからだよ」そう言って師は彼に腕をかしてくれた。「来たまえ、わしの席のうしろのあの聖水を注ぐ役の坐る小さな腰掛けに坐るんだ。わしが君を隠してあげよう」二人はそのとき正面入口のわきにいた。「安心しなさい、まだ猊下《げいか》がおいでになるまでたっぷり二十分はある。できるだけ落ち着いてごらん。猊下がお通りになるときには、わしが君を立たせてあげる。わしだって年に似ず力は強いし頑健だからね」
しかし司教が通過したときジュリアンはひどく身ぶるいしていたので、シャ師は彼を司教に引き合わせることを諦めた。
「あんまり落胆してはいけない、そのうちまた機会を見つけてあげよう」と師は言った。その夜、彼は神学校の礼拝堂へ、ジュリアンの心づかいで手ばやく消してくれたために節約できたのだという名目で十斤の蝋燭《ろうそく》を持って行かせた。これは真っ赤な嘘だった。哀れな青年は自分自身が魂を消されてしまったみたいで、ド・レナル夫人を見てからというもの何か考えることなどは全然できなかったのである。
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第二十九章 最初の昇進
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彼は自分の生きている世紀を知り、自分の住んでいる県を知った。そして彼はいま富んでいる。(『先駆者』)
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ジュリアンは本寺院でのあの事件によって深い瞑想に沈ませられて、まだはっきり正気を取り戻していなかったが、そのころのある朝、厳格なピラール師から呼びつけられた。
「シャ・ベルナールさんが手紙をよこして君のことを褒《ほ》めていたよ。わしは君の行ない全体に一応満足している。君は表面はそう見えないが非常に思慮が浅く軽率だとさえ言える。けれどもこれまでのところ心だては善良だし、のみならず度量が広い。知能も優れている。全体としてわしは君のなかに看過すべからざる閃《ひらめ》きを認めておるのだ。
これまで十五年間働いて来たが、わしは近々この学校を去ることになる。わしの罪というのは神学生たちの自由意志を放任したことと、君がいつか告解所で話してくれた例の秘密の結社を保護もせず妨害もしなかったことじゃ。出発する前にわしは君のために何かしてあげたいと思う。アマンダ・ビネの書き付けが君の部屋で見つけられて密告されたりしなかったら、事実君にはそれだけの資格はあるんだから、二カ月も前にそうしてあげたはすだ。わしは君を新旧約聖書の復習教師に任命する」
ジュリアンは感謝の念のあまり前後を忘れて、ひざまずいて神に感謝しようと思うだけはたしかに思ったが、ついにいっそう真実な心の動きに従ってしまった。彼はピラール師に近づいてその手を取り自分の唇に持って行ったのだ。
「何だ、それは?」と校長は腹立たしげな様子で叫んだ、しかしジュリアンの目は動作以上に雄弁だった。
ピラール師は、長い年月のあいだ微妙な感情の動きに接する習慣を失った人のように、驚きながらまじまじと彼を注視した。この注視は校長の本心を洩らしていた。師の声は変わった。
「よしよし、のうおまえ、わしはいかにもおまえに心をひかれてはいる。それがわしの本意でないのは神様もご存じじゃ。わしは公平であらねばならず、何人に対しても憎悪や愛情を抱いてはならぬのじゃ。おまえの前途は多難じゃろう。おまえのなかに俗人の心を傷つけるような何ものかがあるのがわしにはわかる。嫉妬と讒謗《ざんぼう》がおまえにつきまとうだろう。神意によっておまえがどこに地位を得ようと、おまえの同僚はかならずや憎悪することなしにおまえを見ることはあるまい。よしんば彼らがおまえに好意を持つように見せかけても、それはもっと確実におまえを裏切ろうがためなのじゃ。これに対しての救いはただ一つしかない。神様にのみ縋《すが》るのじゃ。おまえのうぬぼれを罰するため神様はおまえがどうしても憎まれるようにおはからいになったのだから。行ないはあくまで清浄でなければならんよ。わしが見るとこれだけがおまえの救いの道なのじゃ。おまえが不退転《ふたいてん》の決意で真理に縋っているかぎり、早晩敵たちも降参することとなるじゃろう」
ジュリアンは絶えて久しいあいだ好意のある声を耳にすることがなかったのだから、彼の意気地なさは大目に見てやらねばならない。彼は涙にかきくれたのである。ピラール師は腕をひろげて彼を抱いた。この瞬間は二人にとってはまことに快いものであった。ジュリアンは歓喜のあまり取り乱していた。この昇進は彼がかち得た最初のものだった。それによって得られる利益は甚大《じんだい》であった。これを理解するためには、大部分は我慢のならないような、すくなくとも煩わしい同輩たちとじかに接触しながら、ほんのしばらくも自分一人になるということをせずにまるまる数カ月を過さねばならぬという羽目に追い込まれたことがなくてはならない。彼らのわめき声を聞いただけで、繊細にできた人の心を乱すには充分なのである。上等の食事を与えられ立派な服を着せられたこの土百姓たちのかまびすしい歓びは、声をかぎりにわめきちらさなければ、ほんとに喜んだことにも満足したことにもならないのである。
今ではジュリアンは、ほかの神学生たちより一時間おくれて一人だけで、あるいはほとんど一人といっていい状態で食事をすることができた。庭の鍵も持っていて、人気のないときにそこを散歩することができた。
ジュリアンは自分が前ほど憎まれていないことに気がついて大変驚いた。反対に憎悪がひとしおはげしくなるだろうと彼は予期していたのだ。人から話しかけられたくないというあのひそかな願いがあまりにはっきりとあらわれて、あれほど敵をつくることになったのだが、それがもはや滑稽な傲岸《ごうがん》さと思われなくなった。彼の周囲にいる野卑な連中の目には、これは彼の威厳にふさわしい正当な感情に映った。憎悪は目に見えて減退した。なかでも今度から教わる身となった、そして彼から大変丁重な扱いを受けた一番年の若い連中のあいだでは特にそうだった。だんだんに彼の味方さえもできてきた。彼をマルティン・ルターと呼ぶのは下品なこととされるようになった。
しかし、味方とか敵とか呼んだところで何になるだろう? これらすべては醜いことだったのだ。そしてその下心がはっきりしたものであるだけますます醜かった。とはいえこの連中こそ、民衆にとって唯一の道徳の教師なのである。こういう教師がいなかったならば民衆はどうなってしまうだろう? 新聞が将来、司祭に取ってかわるなどということが果たしてあり得ようか?
ジュリアンが新しい地位を与えられてから、校長は誰か人が聞いていないところでは決して彼と話をしないような様子をしていた。この振る舞いには、師たる身に対する、また弟子に対する、深い配慮がひそんでいた。しかしそこには何よりも試錬があった。峻厳なジャンセニストであるピラール師の不変不動の主義というのは、〈もし誰かある男が才能を持っているように見えるならば、その男の願いまた計画するすべてのことに障害を置いてみるがいい。もしその才能が真のものであるならば、彼はかならずや障害を打ち破るか、ないしはそれを避けるかの力があるだろう〉ということだったからである。
ちょうど狩猟の季節だった。フーケはふと思いついて、ジュリアンの親許からということにして学校に鹿と猪《いのしし》を一頭ずつ送った。死んだ獣は厩《くりや》と食堂とのあいだの廊下に横たえられた。そこで神学生たちは皆食事をしに来たときこれを見た。これは大変な好奇心の的《まと》となった。猪はまったく息が絶えていたのに一番年少の学生たちはまだこわがった。彼らはその長い牙にさわってみたりした。一週間というものは、このことばかりが話題にされていた。
この贈り物のおかげでジュリアンの家柄は尊敬すべき社会層に属するものと思われるようになり、これによって一般の嫉妬はとどめを刺されることになった。彼の優越は財産によって箔《はく》をつけられた。シャゼルやその他の誰も優秀な学生たちが進んで彼に好意を示し、彼が両親の財産のことを自分たちに教えてくれなかったので自分らはあやうく金銭に対して払うべき尊敬を欠くことになりそうだったと、愚痴まで聞かせまじき様子だった。
徴兵がはじまったが、ジュリアンは神学生の身分のため免除された。この事情が彼の心を深く動かした。〈二十年も前だったらば、おれにとっては英雄的な生活の門出となるべき瞬間が、今永久に過ぎ去ってしまった!〉
彼はただ一人で神学校の庭のなかを散歩していた。囲いの壁のところで仕事をしていた石工たちが仲間同志で話し合っているのが彼の耳に聞こえた。
「なあ、おい、行かなくちゃならねえぜ。また新しい徴兵が始まった」
「別の人《ナポレオン》の時世にゃまったくよかったよ! あの頃は石工だって士官にも将軍にもなれたからな、実際」
「まあしようがない、行って見て来るがいい。近ごろ行くのは乞食ばかりだ。いくらか溜《た》めている奴は国に残ってら」
「生まれつき惨めな奴はいつまでたっても惨めなのさ、それだけのこった」
「だがな、あの人が死んだって奴らの言うのはほんとなのかい?」ともう一人別の石工が口を入れた。
「そんなことを言うなあ金持連だってことよ! 奴らはあの人がまだこわいんだ」
「何て違いだ、あの時世にゃまったく景気がよかったよ! それなのにあの人は部下の元帥どもに寝返りを打たれたんだとよ! 裏切りやがったんだな!」
この会話がいくらかジュリアンの心を慰めた。立ち去りながら彼は嘆息とともに繰り返した。
「民衆がなおその記憶を失わないでいる唯一の王者」
試験の時期がやって来た。ジュリアンは見事な答弁ぶりをしてみせた。シャゼルすらがあらんかぎりの学識を発揮しようと努めているのを彼は見た。
最初の日、有名なド・フリレール副司教から任命された試験官たちは、ピラール師の秘蔵弟子とのうわさが聞こえているこのジュリアン・ソレルを彼らの成績表の首位かせいぜい次位に置かなければならぬので、心中はなはだ穏やかではなかった。神学校では、総合試験の成績表のなかでジュリアンが首位を占めるだろうという賭けがされていた。首位になれば、司教猊下の邸《やしき》で陪食の栄を賜わるのであった。しかし試問の終わりごろ、ちょうど教会教父について質問がなされていたが、一人の老獪《ろうかい》な試験官が聖ヒエロニムスと彼がキケロを殊に好んでいたことについて訊いたのち、ホラティウスやウェルギリウスやその他の異教の作家たちに話を持っていった。学友たちが知らぬうちにジュリアンはこれらの作家の多数の文章を暗記していた。それまでの成功のため調子に乗って場所柄を忘れ、また試験官の再三の質問に釣られて、彼は熱心にかなりの数のホラティウスの短詩を朗誦し註釈した。二十分ものあいだ彼がうまうまと罠《わな》にかかって来るのを見ていたあげく、試験官は突然容色を変じ、このような不敬虔な研究に時間を空費したこと、また無益な罪障深い思想を頭のなかに入れていることを辛辣《しんらつ》に非難した。「私は馬鹿者です。あなたのおっしゃることはごもっともです」巧妙な策略の虜《とりこ》となっていることを認めてジュリアンはそう謙虚な態度で言った。
試験官のこの詭計《きけい》は、神学校においてすら汚らわしいものと見られた。だがド・フリレール師はそんなことに僻易《へきえき》しなかった。ブザンソンの修道会の綱を巧妙に張りめぐらし、また、そのパリへの報告文書は法官といわず知事といわず駐屯軍の将官たちをも戦々兢々たらしめていた狡猾《こうかつ》なこの男は、その権勢を握った手でジュリアンの名の脇に一九八番という席次を書きこんだ。彼はこうして自分の仇敵たるジャンセニスト、ピラール師を完膚《かんぷ》なきまでに打ちのめすことが嬉しかった。
この十年来ド・フリレール師の心にかかっている大問題というのは、ピラール師から神学校長の職を奪うことだった。このピラール師はかつてジュリアンに教えたことのある行動の準則をみずからも固く守り、篤実で、敬虔で、術数を弄することなどなく、ひたすら自己の職務にのみ精勤であった。しかし怒ったときには生来の胆汁質《たんじゅうしつ》が出て来た。この気質はもともと誹謗や憎悪には非常に感じやすくできているものである。人からどんな侮辱を受けてもこの烈しい心は決してそれを見逃したりしなかった。辞職しようと思ったことは幾度となくあったが、しかし彼は神意によって自分の置かれた地位にあって決して役に立たないことはないとみずから思っていた。〈わしはジェズイット思想や偶像崇拝の拡大を阻止するのだ〉と彼は心に思っていた。
試験期になったときは、師がジュリアンと話をしないようになってから、おそらく二カ月にもなっていたろう。けれども競争試験の結果を知らせる公式の手紙を受け取って、自分が本校の名誉だと思っていたあの弟子の名のわきに一九八番と書かれてあるのを見ると、彼は一週間ほど病気になってしまった。この厳しい性格の人は、あらゆる手段をもってジュリアンの上に監視の目を注ぐことでわずかに心を慰めた。ジュリアンのうちに何らの怒りも復讐の計画も失意も見られないのを知って彼は心から悦んだ。
数週間たってジュリアンは一通の手紙を受け取ってはっとした。その手紙にはパリの消印が捺《お》してあったのだ。〈とうとう、ド・レナル夫人があの約束のことを思い出してくれたんだ〉と彼は思った。ポール・ソレルという署名の、彼の親戚だと自称する紳士が、五百フランの為替手形を送って来たのだった。その人は、もしジュリアンが立派な成果をあげながらなお優れたラテン作家の研究を続けるのならば、毎年同額の金を送ろうと書き添えて来た。
〈あの女《ひと》だ。あの女《ひと》の親切だ!〉と感きわまってジュリアンは心に思った。〈あの人はおれを慰めようとしてくれるのだ。しかしなぜ情愛のこもった言葉をただ一言だけでも書いて来てくれなかったんだろう?〉
この手紙についての彼の推測はあやまっていた。ド・レナル夫人は友のデルヴィル夫人に操縦されて、深い悔恨にまったくひたりきっていた。心ならずも彼女は、その人とめぐり会ったために自分の生活がすっかり転覆してしまった、あの一風変った人物のことをともすれば思い出した。しかしその男に手紙を書くことはかたくつつしんでいた。
この神学校の言葉で言うと、この五百フランの送金のなかにわれわれは一つの奇蹟を認め得るであろうし、また神がジュリアンにこの贈り物をするため、ほかならぬあのド・フリレール師を利用したとさえ言い得よう。
十二年前にド・フリレール師はごく小さな旅行|鞄《かばん》一つをぶらさげてブザンソンにやって来た。この鞄には、記録によると彼の全財産がはいっていたという。今では彼はこの県の最も富んだ地主の一人に数えられていた。隆盛の一途にむかう途中で彼はある地所の半分を買い取ったことがあったが、そのもう一方の部分が相続でド・ラ・モール侯爵の手に落ちた。そこでこの二人の人物のあいだに大変な訴訟事件が持ち上がってしまった。
パリで華々しい暮らしをしており、宮廷ではいくつかの要職についていたにもかかわらず、ド・ラ・モール侯爵は知事の任免までやるという噂のある副司教を相手にブザンソンで争うことは危いと思った。予算で許される範囲内のなにか適当な名目で五万フランほど賜金を請願することにして、こんな下らない五万フランの裁判沙汰などはド・フリレール氏に譲ってしまうことにすればいいのに、侯爵はほんとうに腹を立ててしまった。彼は自分のほうに理があると信じていた。大した理由が!
ところで、こんなことを言っていいかどうかわからないが、これから世間へ出してやらねばならぬような子供、あるいはすくなくともそういう従弟を持っていない裁判官がいるものだろうか?
どんな愚昧《ぐまい》な連中にも目を開かせてやるために、第一審に勝訴となって一週間ほどして、ド・フリレール師は司教猊下の四輪馬車に乗って自分の弁護士のところへみずからレジオン・ドヌール勲章を持って行ってやった。ド・ラ・モール氏は敵方のこの振る舞いを見て少々度胆を抜かれ、また自分の弁譲人が意気消沈しているのを感づくと、シェラン師に助言を求めた。師は侯爵をピラール師にひきあわせた。
この物語の進行している時期には、その交際はもう多年にわたって続いていた。ピラール師は持ち前の熱情的な性格で事にあたった。絶えず侯爵の弁護士たちに面会して侯爵の言い分を調べ、それが正しいとわかると全能の副司教をむこうにまわして公然とド・ラ・モール侯爵のために運動し始めた。副司教はこの無礼の仕打と、しかも取るに足りぬジャンセニストからのこの無礼な仕打ちに憤激した。
「自分じゃ大した権力を持っているようにうぬぼれているが、あんな宮廷貴族などというものがどんなものだか、まあ見てごらん」とド・フリレール師は側近の人々に言っていた。「ド・ラ・モール氏はブザンソンの自分の代理人にろくでもない勲章一つ送ってやりもしないでいるばかりか、その代理人が免職されるのも素知らぬ顔をしてほったらかしている。そのくせ私のところへ来た手紙に書いてあったことだが、あのご華族様は毎週かならず司法大臣のところへ行って、相手が誰であろうとおかまいなしに青綬勲章を見せびらかすんだそうだよ」
ピラール師の活躍にもかかわらず、またド・ラ・モール氏がいつも司法大臣と、また特にその役所の人々と非常に仲が好かったにもかかわらず、六年間頑張ったあげく彼がこれまでになし得たことといえば、この訴訟に負けてしまわなかったという程度のことにすぎなかった。
二人とも熱心にこの事件に当っていたが、侯爵はそのため絶えずピラール師と文通しているうちに、しまいに師の持っているような才智を好ましく思うようになった。社会的な地位の上では非常な距離があるにもかかわらず、次第に彼らの交通は親しみの色を帯びてきた。ピラール師は侯爵に、侮辱をかさねられて自分は否応なしに辞職を迫られていると言ってやった。師はジュリアンに対して卑しむべき策略が行なわれたと思い、それを憤るのあまりこの一件をも侯爵に書いてやった。
大金持ではあったが、この高位の貴人は決して吝嗇《りんしょく》ではなかった。訴訟のために使ったはずの郵便料の弁済さえ、何としてもピラール師に受け取らせることができなかった。そこで彼は師の愛弟子に五百フラン送ってやろうと思いついた。
ド・ラ・モール氏はみずから送り状を書く労をもいとわなかった。手紙を書いていると彼にはピラール師のことが思い出された。
ある日師は、緊急の用事のためブザンソン郊外のある旅宿へ即刻お越し願いたいという短かい書状を受け取った。そこへ行ってみるとド・ラ・モール氏の執事が来ていた。その男は彼に言った。
「侯爵様のご命令でお邸の無蓋四輪馬車《カレーシュ》をこちらへまわしました。侯爵様はこの書面をごらんのうえ四、五日うちにパリへむけてご出発くださるようにとおっしゃっていらっしゃいます。期日を定めてくださいましたならば、私はそれまでフランシュ・コンテにある侯爵様の地所を見まわりにまいります。その上でご都合のよろしい日にご一緒にパリへ出発させていただきたいと存じますが」
侯爵の手紙は簡単だった。
「田舎者のうるさい中傷など振り棄てて、パリへおいでになって静かな空気を吸われてはいかがですか。当方から車を差し向けますが、これにはあなたがご決心なさるまで四日間待機するように命じてあります。私は火曜まではパリでご来駕《らいが》をお待ち申しております。あなたからご承諾の一言さえいただければ、あなたのご名義でパリ近傍の最上の司祭職の一つを受諾することにします。将来あなたの教区民となるもののなかで最も富裕なものは、いまだご拝眉の機を得てはおりませんが、しかしあなたにはご想像もできないくらいあなたに心服しているものです。すなわち、かくいうド・ラ・モール侯爵自身なのです。」
自分で気がつかぬうちに、厳格なピラール師は敵方の者どもがたむろしているこの神学校を愛していた。十五年来、学校のことだけしか彼の念頭にはなかったのである。それゆえ、ド・ラ・モール氏の手紙は彼にとって、いわば残酷ではあるがしないではすまされぬ手術をすることになっている外科医が姿をあらわしたようなものだった。彼の免職は必至だった。彼は執事に三日後再会することを約した。
四十八時間というもの、彼は思い迷って決心がつかぬあまり熱を出したほどだった。とうとう彼はド・ラ・モール氏に返事を書き、また司教|猊下《げいか》に一通の書面をしたためた。これは僧侶の文体の傑作ともいうべきだったが、しかし少々長ったらしいものだった。これ以上抜かりのない、しかもこれ以上|真摯《しんし》な敬意のこもった文章を見出すことはむずかしかったろう。とはいえこの手紙の本来の意図は、ド・フリレール師がその保護者なる司教に対座したとき間の悪い思いをするようにということだったから、厳重に訴えるべき事柄はことごとく列挙して、六年間彼があきらめて隠忍しては来たがついに彼をしてこの司教区を去ることのやむなきに到らしめた低劣な迫害にまで及んでいた。
たとえば、彼の薪小屋から薪を盗んだとか、彼の飼い犬を毒殺したとか、その他さまざまのことである。
この手紙を書き終わると、もう八時だったので他のすべての学生と同様眠っているジュリアンを起こしにやった。
「君は司教邸を知っておるじゃろうな?」と彼は見事なラテン語の話法を使って言った。「この手紙を司教猊下のところへ持って行ってほしい。隠さず言うが、わしがこれから君をやるところは狼《おおかみ》どもの巣窟なのだよ。どこまでも油断してはいけない。返答するときにはまったく虚言をまじえてはいけない。しかし君に何かを尋ねる者はおそらく君を傷めつけることができれば心から満足に思うような連中だということを念頭に置いておかねばならぬ。わしはな、君から別れる前にこういう経験を君にさせてやることができるのを喜んでおるのじゃ。何ひとつつつまず言うが、君が持って行くその手紙はわしの辞表なのだよ」
ジュリアンは凝然としていた。彼はピラール師を愛していた。〈この廉直《れんちょく》な人が立ち去ったら、あの聖心派《サクレ・クール》の一派がおれに赤恥をかかせて、おそらくはおれを追い出すだろう〉と一応の思慮は働いたけれども、結局こんな言葉は無意味だった。
彼は自分のことなど考えていられなかった。彼が困惑していたのはある言葉のためだった。礼儀にもとらぬようにその文句を整えたかったのだが、実際そうするだけ頭が働かないのだった。
「おや、なぜ行かないのだね?」
ジュリアンはおずおずと答えた。「長いあいだこの学校の校長をしておられながら、全然お貯えをなさらなかったという話ですが、私は今六百フラン持っておりますので」
涙が流れてそれ以上言葉を続けることができなかった。
「そのことも頭に入れておこう」と前神学校長は冷淡に言った。「司教邸へ行きなさい、もうおそい」
たまたまこの夜はド・フリレール師が司教邸のサロンで執務中だった。猊下は知事邸へ晩餐に行っていた。それゆえジュリアンが手紙をわたしたのはド・フリレール師その人だった。だがジュリアンはこの人の顔を知らなかったのである。
ジュリアンはこの僧侶が司教宛ての書翰《しょかん》をあえて開封するのを見て驚いた。副司教の美しい顔にはやがて強い悦びのまじった驚きの色があらわれ、一段と威厳をそえて来た。彼が読んでいるうちに、その立派な顔立ちに感心していたジュリアンは、つくづくとその顔を観察する余裕を得た。その目鼻立ちのところどころにあらわれていて、もしこの美しい顔の持ち主がちょっとでも気をゆるめたならば化けの皮が剥《は》げて来そうにまで思える極度の狡猾さの感じがなかったとすれば、この顔はいっそうの威厳をそなえていたろう。非常に高い鼻は、この顔のなかでただ一つのまったく歪みのない線をつくっていたが、そのためにほかの点でははなはだ秀麗なその横顔が、可哀そうなことにまったくどうしようもないほど狐そっくりのご面相になっていた。これを除けば、ピラール師の辞表を一心に読み耽《ふけ》っているように見えるこの僧侶はなかなかお洒落な身なりをしていて、それが大変ジュリアンの気に入った。彼はほかの僧侶がこんな身なりをしているのを一度も見たことがなかったほどである。
後になってはじめてジュリアンはド・フリレール師の特殊な才幹を知った。生まれつきパリで暮らすようにできていて、このブザンソンを流謫《るたく》の地のように思っている愛すべき老人たる司教を、娯しますすべを知っていたのだ。この司教はひどく目が悪かった。そして魚が大変好きだった。ド・フリレール師は猊下の食膳に供された魚の骨を取って差し上げるのだった。
くりかえし辞表を読んでいる師にジュリアンが黙々と目を注いでいたとき、突然扉が大きな音をたてて開いた。豪奢な仕着せを着た一人の侍僕が足ばやにそこを通り過ぎた。ジュリアンが扉のほうへ振り向くか向かぬかに、胸に十字架を吊った小柄な老人が目についた。彼は平伏した。司教は彼に人の好さそうな微笑を送って通り過ぎた。あの美貌の僧侶はそのあとにしたがった。ジュリアンは一人サロンに残って、このサロンの敬虔な趣を失わぬ壮麗な有様をゆっくりと嘆賞することができた。
ブザンソンの司教は、長年の亡命生活の窮乏を味わって来たが、さりとてそのために曇らせられたことのない才智をそなえている人で、もう七十五歳を過ぎていたので、この先十年のうちにどんな事が起こるかということなどはあまり気にかけていなかった。
「先ほど通りがかりに会ったと思うが、あの怜悧《れいり》そうな目をした神学生は誰かの? わしの定めた規則では、この時刻には学生たちは臥せっておるはずではなかったかな?」と司教は言った。
「あの学生は寝ていられるどころではございませんとも、猊下。重大な報告を持ってまいったのでございます。つまり猊下の管区に残った最後のジャンセニストの辞表です。あの手に負えぬピラール師もやっと事の次第を呑み込んだようでございます」
「そうか」と司教は笑いながら言った。「だがわしは、あなたがあの男に匹敵するだけのものをその後任に据《す》えることができるか、心もとなく思うのじゃ。あの男の真価をあなたに見せてあげるため、わしは明日あの男を晩餐に呼ぶことにする」
副司教は後任者の人選について二言三言口をはさもうとしてみた。だが用向きの話にあまり乗り気でなかった僧正はこう言った。
「ほかのものを入れる前にまずあの男がどんな風に立退くかちょっと見てみよう。あの神学生を来させてごらん。真相は子供たちの口から語られるものじゃ」
ジュリアンは呼ばれた。〈これからおれは二人の審問官の前へ出るのだ〉と彼は考えた。このとき以上に彼が勇気|凛々《りんりん》たる気持になったことはかつてなかった。
彼がはいったときは、あのヴァルノ氏などよりもはるかに立派な身なりをした一人の堂々たる侍僕が、猊下の着替えのお手伝いをしていた。この司教はピラール師のことに話を持って行く前に、まずジュリアンにその学業のことを訊くべきだと思った。少しばかり教義のことを話してみて司教は驚いた。やがて古典学科《ユマニテ》のことに移って、ウェルギリウス、ホラティウス、キケロに到った。〈こういった名前のおかげでおれは一九八番にされたんだ〉とジュリアンは考えた。〈だが今は失うものとて何ひとつない。よし、思いきり派手にやってみよう〉彼は成功した。自ら卓抜な古典学者《ユマニスト》だった僧正はすっかり悦に入ってしまった。
知事邸の晩餐の席で、ちょうどその頃有名になっていた一人の娘がラ・マドレーヌの詩を朗誦した。そんなことから司教は文学談をはじめていた。そしてピラール師のことや用件などはたちまち忘却してしまって、この神学生を相手にホラティウスが金持だったか貧乏だったかという論議をはじめてしまった。司教はいくつかの短詩《オード》を引用したが、ときどき記憶があやしくなる。するとたちどころにジュリアンがつつましやかな態度でその短詩の全部を朗誦してくれた。僧正を感心させたのは、ジュリアンがまったく普通の会話の調子を失わないことだった。あたかも神学校で起こった出来事の話をするように、苦もなく二十か三十のラテン語の詩句を口にしたのだ。長いあいだウェルギリウスやキケロの話がつづいた。とうとう僧正はこの若年の神学生を賞讃せずにはおられなかった。
「これ以上の研鑽《けんさん》を積むことは不可能じゃ」
ジュリアンは答えた。「猊下、神学校には私などよりもずっとそのようなお褒めにあずかるにふさわしい者が百九十七名も控えております」
「それはどういう意味なのじゃ?」と僧正はこの数字に驚いて問い返した。
「私が猊下の御前で申し上げますことには公式の証拠があるのでございます。神学校の学年試験のさい、ただいま猊下からお褒《ほ》めにあずかりましたのとちょうど同じ問題について答えましたところ、私は百九十八番という番号をいただきましたので」
「ああ、これがピラール師の秘蔵弟子だったのじゃな」と司教は笑ってド・フリレール師のほうへ目をやりながら叫んだ。「これはまったく意表を衝《つ》かれたかたちじゃ。敵もさる者じゃよ。のう、君」と司教は今度はジュリアンのほうを向いて言い添えた。「ここへ来るため寝ているところを起こされたのだろうね?」
「さようでございます、猊下。私が神学校から一人で外へ出ましたのは、聖体節の日、シャ・ベルナール師が本寺院の装飾をなさるのをお手伝いするために行ったことがあるだけでございます」
「Optime(たいへん立派なものだった)」と司教は言った。「それでは天蓋の上に飾り羽の束をつけるとき大変勇敢な働きを見せたというのは君なのだね? あの飾り羽を見るとわしは毎年ぞっとするのじゃ。いつもあれのおかげで人命を失うようなことがありはしないかと心配する。実際、行く末君は大したものとなるよ。だがわしは、君を今ここで飢え死させて、行く行くは赫々《かくかく》たるものとなるにちがいない君の前途を絶やしてしまいたくない」
そうして司教の命令によってビスケットとマラガ酒が運ばれて来、ジュリアンはかたじけなくもそのもてなしを受けた。のみならずド・フリレール師も、司教は人が喜んでおいしそうに食べているのを見るのが好きだということを知っていたのでご馳走になった。
僧正はこの一夜がこんな風に終るのにますます上機嫌になって、しばらく宗門史の話をした。だが彼はジュリアンがいっこう理解できないでいるのを見て取った。僧正はコンスタンティヌス時代の諸皇帝の治下におけるローマ帝国の精神状態に話を移した。異教時代の終末は、十九世紀において、憂鬱な倦怠《けんたい》した精神を煩悶させているのと同じような不安と懐疑の状態を伴っていた。猊下はジュリアンがタキトゥスの名前すらほとんど知らないのに気づかれた。僧正が驚いたことには、ジュリアンはその作家のものは神学校の図書館にはございませんのでと無邪気に答えたものだ。
「そうだとすれば、わしはほんとに嬉しい」と司教は楽しそうに言った。「わしはいま困っていたのだが、君がそう言ってくれたおかげで救われた。君が一晩快く過ごさせてくれた……もっとも思いがけぬことでだが……から、そのお札をするすべはないものかと十分ほど前から考えていたのじゃ。わしの管轄《かんかつ》の神学校の学生でこんな学者がいようとは、わしも予期しておらなかった。この贈り物はだいぶ宗規からはずれるものとなるが、わしは君にタキトゥスの著作集を一つ差し上げよう」
僧正は素晴らしい装丁の八巻物を持って来させると、みずから筆を執ってその第一巻の見出しにジュリアン・ソレルのためのラテン語の献辞を書こうとした。司教は自分の立派なラテン語法を自慢していたのだった。最後に彼は、その他の会話のときとは打って変わった真面目な口調でこう言った。
「若者よ、もし|君がおとなしくしておる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なら、将来君は、この司教邸から百里ほどもないところに、わしの管区のなかでも最上の司祭職にありつくことになるだろう。だがそのためには|おとなしくして《ヽヽヽヽヽヽヽ》いなければならんよ」
夜の十二時の鐘が鳴ったとき、ジュリアンは頂戴した本を持って、意外の感に打たれながら司教邸を出た。
猊下は彼に一言もピラール師のことを言われなかった。ジュリアンは特に司教の極度の慇懃《いんぎん》さに驚いていた。あのように都雅《とが》な物腰がこれほど自然な品位ある態度に結びついている様子などは、彼の想像だにし得なかったことだった。じりじりしながら彼の帰るのを待ち兼ねていた陰鬱なピラール師に再会したとき、ジュリアンは何よりもその対照に心を打たれた。
「Quid tibi dixerunt?(何と言われて来た)」と師は、彼の姿を見るが早いか厳しい声で叫んだ。
ジュリアンは司教の談話をラテン語に翻訳するのに少々まごついた。
「フランス語で言いなさい、そして猊下ご自身のお言葉を、勝手に付け加えたりはしょったりしないでそのまま言ってごらん」前神学校長はいつもながらのやさしみのない口調と全然雅致のない物腰でそう言った。
その後、あの見るからに美しいタキトゥスの全集のぺージをめくりながら、「司教が若い神学生にする贈り物としては、何というおかしなものだ!」と言って、その書物の金縁を見てぞっとするような様子だった。
委細をきわめた報告を聞いてから、師がその愛弟子に自室に引き取る許可を与えたとき、ちょうど二時を打っていた。
「君のタキトゥスのうち司教猊下の献辞が書いてある第一巻をわしのところへ置いて行ってもらいたい」と彼は言った。「このラテン語の一行が、わしがここを立ってのち、この学校へ残った君の身の守りとなるじゃろう。Erit tibi, fili mi, successor meus tanquam leo quaerens quem devoret.(我が子よ、おまえにとって私の後継者は、餌食を求める怒れる獅子のようなものだろうから)」
翌日の朝ジュリアンは、自分に話しかける学友たちの態度に何か奇妙なものがあるのに気がついた。それゆえ彼はいっそう用心深くかまえた。〈これはピラール師の辞任のためだな。辞任のことはもう校内に知れわたっているし、おれはピラール師のお気に入りということになっているんだからな。ああいう態度のうちには侮辱が含まれているにちがいない〉だがその侮辱を見出すことはできなかった。寝所の廊下で出逢うすべての学生の目からは反対に憎悪の色が消えていたのだ。〈こいつはどうしたわけだ? たしかこれは罠だな。よし、こちらも気を引き緊《し》めてかからなけりゃ〉とうとうヴェリエール出身のあの若い神学生が笑いながら彼に言った。「Cornelii Taciti opera omnia(コルネリウス・タキトゥス全集)」と。
この言葉を聞きつけると誰も彼もが先を争って、単に彼が猊下から素晴らしい引出物を賜わったということばかりではなく、二時間にわたって光栄にも猊下のお話相手をつとめたということについてジュリアンに祝詞を述べた。きわめて些細なことまで知られていた。この瞬間から、もはや羨望などというものはなくなった。彼は卑屈な追従まで言われた。つい前日までは彼に対してこの上なく傲慢無礼な態度を取っていたカスタネード師すらもやって来て、彼の腕を取って昼食に誘った。ジュリアンの持って生まれた性格の悲しさで、これらの卑しい連中の傲慢無礼に彼はこれまでずいぶんと苦しい思いをして来たのに、今は彼らの卑屈さはただ嫌悪の感を覚えさせるだけで、喜びなどはいっこう味わえなかった。
正午ごろピラール師は、教え子たちにいつもながらの厳格な訓辞を与えて学校を去った。訓辞のなかで師はこう言った。「諸君らは現世の栄誉を求め、社会的優越を欲し、人を支配し、法を無視し、ありとあらゆるものを軽侮しても罰せられることはないというような喜びを望まれるか? ないしは永遠の救済を望まれるか? この二つの道を弁別するには、諸君のうち最も学業の芳《かんば》しからぬものといえども、ただ両目を開きさえすればよいのである」
彼が出て行くや否や、聖心会派《サクレ・クール・ド・ジェズュ》の信仰者たちは礼拝堂ヘ行って Te Deum(謝恩聖歌)をうたった。神学校では誰一人として前校長の訓示を真面目に取る者はいなかった。「あの人は免職されたんで腹を立ててんだぜ」という声が方々に聞こえた。金持の御用商人たちとあれほど交渉のある地位から自発的に辞職したということを信じ得るほど単純な学生は一人だっていなかったのである。
ピラール師はブザンソンで一番綺麗な旅館へ行って泊りこんだ。そしてありもしない用事にかこつけてここで二日ほど過ごすことにした。
司教は彼を晩餐に招いた。そしてド・フリレール副司教をからかってやるために、一生懸命彼に花を持たせようとした。デザートコースにはいってから、ピラール師に首府から十六キロほど離れたN……というところの極上の司祭職を与えるという不思譲な報知がパリから届いた。人の好い僧正は衷心《ちゅうしん》からこれを祝した。司教はこういったことを見て|うまく手を打った《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ものだと思い、上機嫌になってピラール師の手腕をきわめて高く買ったのであった。司教は立派なラテン語の証書を彼のため書いてやり、あえて御意見を申し立てようとするド・フリレール師の口を封じてしまった。
その夜、猊下はド・リュバンプレ侯爵夫人の邸へ行って彼のことを感嘆の情をもって話した。これはブザンソンの上流社会にとっては大したニュースだった。人々は夢中になってこの破格の寵遇について揣摩憶測《しまおくそく》の限りを尽くした。早くもピラール師が司教になるのだと思うものもいた。一番頭のよい連中はド・ラ・モール氏が大臣になるのだと思いこんで、ド・フリレール師が横柄な風をそこらじゅうで吹かすのを見てあえてせせら笑いさえした。
明くる朝は、ピラール師が侯爵方の法官のところへ話があって行くと、街なかで人がそのあとにたかってついて来るほどだし、商人は彼の姿を見に店の戸口のところへ出て来る。このときはじめて師は法官たちから慇懃《いんぎん》な態度で迎えられた。この厳格なジャンセニストはこういったことを見せつけられて憤慨して、自分でかつてド・ラ・モール侯爵のために選んでやった弁護士たちと長時間にわたって仕事をした上でパリにむかって出発した。四輪馬車のところまでついて来てそれについている紋章に感嘆している二、三人の学校での友人に、十五年にわたって神学校を主宰していたあげく今自分はわずか五百二十フランの貯金だけを身に携えてブザンソンを立ち去るのだと、師はうっかり口に出してしまった。友人たちは涙ながらに彼を抱擁したが、仲間同志ではこう言い合った。「立派な坊さんだが、あんな嘘なんか言わなくたってよかったろうに。あの嘘はどうもおかしすぎるよ」
金銭愛に目がくらんだ俗人などは、ピラール師が六年間もマリ・アラコック〔十七世紀フランスの聖女〕や聖心会やジェズイットや司教にまで単身立ち向かうに必要な力を、ただ自己の誠実のなかにのみ見出していたことを理解し得るようには、元来生まれついてはいなかったのである。
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第三十章 野心家
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貴族というのはただ一つあるだけだ。すなわち公爵の位である。侯爵は滑稽だ。公爵という言葉を聞くと人は振り返る。(『エディンバラ評論』)
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ド・ラ・モール侯爵は大貴族らしいあのせせこましい虚礼などはまったく打ち棄ててピラール師を迎えた。そんなものはいくら慇懃《いんぎん》であっても、それがどんなものかわかっている人にはむしろまったく無作法に思われるのである。そもそも侯爵は大変な仕事にすっかりかかりきりになっていたので、空費すべき時間などはすこしも持ちあわせていなかった。
半年前から彼は、王および国民に、ある内閣を承認せしめようと暗躍していた。この内閣がその尽力に対する感謝として彼を公爵にしてくれるということになっていたのだ。
侯爵はもう数年来、ブザンソンの雇いの弁護士にフランシュ・コンテの訴訟事件についての明瞭簡潔な報告書を送るように要求していたのだが、いまだに送って来てないのだった。いくら有名な弁護士だとて、自分自身でその訴訟事件を理解していなければ、侯爵に説明し得るはずがないではないか。
だがピラール師が彼に渡した小さな四角い紙を見ると、そこには一切のことが説明されていた。
「ねえあなた」と、五分もたたぬうちに一応定式どおりの挨拶と個人的ないろいろの質問を手早くかたづけてしまうと侯爵は師に言った。「ねえあなた。私はこうしていわゆる盛大な暮らしを営んでおりますが、時間がないために二つの些細な、だがかなり重要な事柄に真剣に頭を使うことができないでいます。つまり、家族のことと事務のことです。私は家の財産のことには大変心を用いておりますし、今より以上殖やすこともできます。それから快楽のことにも気を配っています。これは何よりも肝要なことですからね、少くとも私の見たところでは」と、ピラール師の目に驚きの色が浮かんだのを見て侯爵はそう付言した。いくら常識に富んだ人とはいえ、師は老人がこんなに率直に自分の快楽のことを言うのを見て呆れかえっていた。
「勤勉な人はたしかにパリにはいます」とこの大貴族は続けた。「だがそういった人はみんなみすぼらしい六階部屋で暮らしているのです。ところが私がその一人を雇うとするとたちまちそいつは三階に部屋を構えて、細君は招待日をきめたりする。おかげさまで仕事も精勤もあったものじゃない、ただ上流社会の人間と見せかけようというだけです。パンが得られたとなると、たちまちそれ以外のことは彼らにとって問題じゃなくなるんですな。
厳密に言って私の訴訟事件については、というより個々の訴訟一つ一つについては、私のために粉骨砕身してくれる弁護士たちもおります。現におととい、そのなかの一人が胸を病んで死んだほどですからな。しかし私の事務全般については、もうこの三年来、私のために筆記しながら自分のしている仕事のことをすこしは真面目に考えてくれるような男を見つけることはできないと、ほんとに私は諦めてしまっているのですよ。まあとにかく、こういったことは全部前置きにすぎないんですがね。
私はあなたを尊敬している。のみならず、あえてこう付言させていただきますが、はじめてお目にかかったばかりなのに私はあなたに好意を持っているのです。年八千フランの報酬あるいはその倍額を差し上げますから、私の秘書になっていただけますまいか? それだけ差し上げても、誓って申しますが、私のほうでは得になるのですよ。それに、いつか私たちの心が離れる時があるかもしれませんから、そのために私はあなたの立派な司祭職を取っておくように心がけることにします」
師は辞退した。しかし会話が終わりに近づいて、侯爵が本当に困っているのを見ると、師はあることを思いついた。
「私は神学校のなかに一人の気の毒な青年を残して来たので、もし私が思いすごしているのでなければ、この青年は学校でひどい虐待を受けることになりましょう。あれがただの修道士にすぎなかったら、もう地下牢に入れられてしまっているところでしょう。
これまでのところ、その青年はラテン語と聖書を知っているにすぎません。しかし彼が将来、説教にであれ人心の指導にであれ、卓抜な才能を発揮することはあり得ないことではありません。彼が何をしでかすか、それは私にもわかりません。しかしこの男はある霊感を持っています。大したものになれるでしょう。もし人物や仕事についていささかでもあなたと同じような見方をする司教が出て来ましたら、私はこの男をそういう司教に推挙しようと思っておりました」
「その青年はどういう生まれですか?」と侯爵は言った。
「私のいた国の山岳地方の木挽大工の倅だとかいう話ですが、私はむしろ誰か富豪の私生児だと思います。いつか五百フランの為替手形のはいった匿名だか偽名だかの手紙を受け取ったのを私は見たことがあります」
「ああ、それはジュリアン・ソレルですね」と侯爵は言った。
「どうしてその名をご存じなのです?」と師は驚いた。だが彼が自分でそんな質問をしたことを恥じて顔を赤らめていたので、
「そのことは申し上げますまい」と侯爵は答えた。
「結構です」と師はまた語を継いだ。「その男を試みにあなたの秘書にお使いになったらよろしゅうございましょう。気力もあり理智も優れた男で、要するに一度使ってごらんになるべき男です」
「もちろん使ってみましょう。ですが、その男は警視総監やその他のものから鼻薬を嗅がされて、私のところでスパイをつとめるような人間じゃないでしょうね? そればかりが私の懸念《けねん》となるところで、ほかに異議はありません」
ピラール師が保証をしてくれたので、侯爵は千フラン札を一枚取り出して言った。
「この旅費をジュリアン・ソレルに送って、こちらへ来させてください」
「なるほどあなたがパリ住いをしていらっしゃる方だということがそれでよくわかります」とピラール師は言った。「われわれ哀れな地方の者たちを、わけてもジェズイットの味方でない僧侶たちを押えつけている圧制がどんなものか、あなたはご存じない。あの連中はおめおめとジュリアン・ソレルを立たせようとはしますまい。狡猾きわまる口実を設けることもできるし、彼が病気だとか、郵送中手紙がなくなったとか、そのほかいろいろなことを言うことでしょう」
「それでは近日中に、大臣から司教に手紙を書かせることにします」
「もう一つご用心願うことを忘れていました。あの青年は素姓は卑しくとも高い気位を持っております。もしあなたがあれの自尊心を傷つけるようなことをなすったら、お役には全然立ちますまい。正気がなくなりますから」
「それは気に入った。では私の息子の学友ということにしましょう。それでいいでしょうか?」
その後しばらくしてジュリアンは見馴れない筆跡でシャロンの消印のついた手紙を受け取った。それにはブザンソンのある商人宛ての手形がはいっていて、遅滞なくパリへ出て来るように言って来た。手紙の署名は仮名だったが、開封したとき彼はぎくっとした。一枚の木の葉がそのなかからジュリアンの足許に落ちたのである。これはピラール師と申し合わせておいた合図だった。
それから一時間もたたぬうちにジュリアンは司教邸に呼ばれて、まったく慈父のようにやさしいもてなしを受けた。ホラティウスを引用しながら猊下《げいか》は、パリで彼を待っている輝かしい未来について非常に口巧みな祝辞を述べてくれたが、実はこれは相手がそれに対する感謝としてその事情を説明して聞かせるだろうと当てにしていたのである。ジュリアンは何も言えなかった。第一何も知らなかったからである。だが猊下は彼に対して非常に敬意を払われた。司教邸の下役の僧侶が市長に手紙を書くと、市長は大急ぎで自分で旅券を持って来た。その旅券は署名はしてあったが、旅行者の名前のところは空白のままにしてあった。
その夜の十二時になる前に、ジュリアンはフーケの家に着いた。分別くさい気性のフーケは、友を待ち受けているかに見える将来に魅せられるより、むしろ意外な思いをさせられた。
この自由党の選挙人は言った。「結局、政府のなかで何かの地位を得るくらいがおちだろうぜ。その地位につけば、何か新聞で|みそ《ヽヽ》をつけられるような仕事を否応なしにやらされるということになるだろう。君の恥になるようなことで、ぼくは君の動静を知ることになる。考えてみろよ。経済的に言ったって、自分で采配《さいはい》を振るって、ちゃんとした材木商売をやって百ルイ儲けたほうが、よしんばソロモン王の政府からであれおよそ政府などというものから四千フラン頂戴するのよりは得だぜ」
ジュリアンはこういう言葉のなかに田舎紳士の卑小な精神しか見なかった。いよいよ彼は大事業の行なわれる檜舞台《ひのきぶたい》を踏むことになったのだ。彼の想像によれば、パリは陰謀を好み非常に偽善的な、ブザンソンやアグドの司教と同じように慇懃《いんぎん》な才人どもの寄り集まっているところだが、そのパリへ行けるという幸福におおいかくされてほかのことなどは彼の目にはいらなかった。友人には、ピラール師の手紙のため自分で自由にどうこうすることができないのだという風に思わせた。
翌日の正午ごろ、彼はおよそこれ以上とはない幸福な気持でヴェリエールに到着した。ド・レナル夫人に会うつもりだったのである。彼はまず最初の保護者だった善良なシェラン師の家へ行った。彼が受けた応待は厳しかった。
「君はわしに何か義理があると思っているのか?」とシェラン師は、彼の挨拶に返事もせずに言った。「わしと一緒に昼飯を食べて行きなさい。そのあいだに人をやってほかの馬を借りて来させよう。そうしたら君はヴェリエールを立ち去るんだ、|誰にも会わずに《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
「聞くことはすなわち従うことです」とジュリアンは神学生らしい顔をして答えた。それっきり話は神学のこととラテン語のことばかりになってしまった。
彼は馬に乗って四キロほど行った。そうしてある森を見つけると、自分がそのなかへはいるのを見ているものがないのをたしかめて、馬をそのなかへ進めた。日暮れごろ彼は馬を返した。その後、彼はある百姓の家にはいって、その百姓に梯子《はしご》を一つ売ることと、それを持ってヴェリエールの≪忠義通り≫を見おろす小さな森までついて来ることを承諾させた。
百姓は彼と別れるとき言った。「おれは徴兵を逃げた奴か、それでなければ密輸入者に……。なに、かまうものか! 梯子の代はたっぷりもらったし、それにおれだってこれまでいくらか時計の部品を運んだりしたこともなかったわけじゃないんだからな」
墨を流したように暗い夜だった。午前一時ごろジュリアンは梯子を背負ってヴェリエールの町のなかへはいった。二つの壁に囲まれ三メートルほどの深さでド・レナル氏の壮麗な庭園を貫流している奔流の河床に、できるだけ早くジュリアンは降りた。梯子を使って彼はたやすく向う側へ登った。〈番犬たちがどんな風におれを迎えるかな〉と彼は思った。〈すべてはそれにかかっている〉犬たちは吠えて、まっしぐらに彼を目がけて駈けて来た。だが彼はそっと口笛を吹いた。すると犬はやって来て彼にじゃれついた。
鉄門は残らず閉まっていたけれども、次々にテラスを登って行くと、庭の側では地上から二十四、五メートルほどの高さしかないド・レナル夫人の寝室の窓の下に辿りつくのは彼にはたやすいことだった。
その窓の鎧戸《よろいど》にはハート形の小さな穴があって、ジュリアンはそれをよく知っていた。彼にとって非常に残念なことに、この小さな穴は室内の豆ランプの光で照らされていなかった。
〈さあ困った! 今夜この部屋にド・レナル夫人はいないんだ〉と彼は心に思った。〈どこにあの人は寝ているんだろう? 犬がいたんだから家族はヴェリエールにいるにちがいない。だが、豆ランプのついていないこの部屋にはいって行ったら、ド・レナル氏自身かそれとも別の知らない人間にぶつからんともかぎらん、そうなったら恐ろしい騒動だ!〉
一番賢明なのは引きかえすことだった。だがそう決心するのはジュリアンにはたまらなかった。〈もし知らない人だったら、梯子を置いて一目散に逃げ出すのだ。しかし、あの女《ひと》だったらどんな応待をするだろうか? あの人はいま悔恨と深い信仰心にひたっている、それはおれにも疑い得ない。だがついこのあいだあんな手紙をくれたんだから、とにかくまだおれについて何か思い出を持ってはいるんだ〉この理窟が彼に決意を固めさせた。
心臓はときめいていたが、しかし身をほろぼすか夫人に会うか二つに一つだと臍《ほぞ》を固めて、彼は小石をいくつか鎧戸に投げつけた。答えはなかった。彼は梯子を窓のわきにもたせ、自分で、はじめは静かに、のちにはやや強く、鎧戸を叩いた。〈どんなに暗くたって、おれにむかって鉄砲を放つことはできるんだ〉とジュリアンは考えた。こう考えると、今までは単なる気ちがいじみた計画にすぎなかったものが勇気の問題となってしまった。
〈この部屋は今晩は明いているんだ。でなければどんな人が中で寝ていようと、もう目を覚ましているはずだ。それならばこの部屋のなかにいるものに遠慮する必要はありゃしないわけだ。ほかの部屋に寝ている人たちに聞かれないようにしさえすりゃいいんだ〉
彼は降りて梯子を鎧戸の一つによせかけ、また登ってハート形の穴のなかへ手を入れてみると、さいわい鎧戸を閉ざしている鉤《かぎ》についた針金が、わりに簡単に見つかった。彼はその針金を引いた。この鎧戸に鍵がかかっていず、彼があけようとすると難なくあくのを知ったときの彼の喜びは、筆舌に尽くしがたいものだった。
〈すこしずつあけて、おれの声だとむこうにわからせてやらなければいかん〉彼は頭を入れられるだけ鎧戸をあけて低い声で「悪いものじゃありませんよ」と繰り返し何度か言った。
耳を澄ませて、この部屋が森閑としずまりかえったままなのをたしかめたが、暖炉のなかには、よし消えかかりではあれ、とにかくランプなどというものは全然なかった。これは悪い兆しだった。
〈鉄砲に用心しろ!〉彼は一瞬思いめぐらした。それから指で思い切って窓ガラスを叩いてみた。答えはない。もっと強く叩いた。〈ガラスを割らなけりゃならんとしてもあくまでもやりとげなくちゃ駄目だ〉ごく強く叩いたとき彼はその漆黒の闇のなかで、部屋を横切って来る白い影のようなものをかすかに見たような気がした。今度こそもう疑う余地はない。一つの影が非常にゆっくりとこちらへ進んで来るらしいのが見えたのだ。突然彼は自分が目を寄せている窓ガラスに片頬が押し当てられるのを見た。
彼はぎょっとした。そして少しばかり身を引いた。だが夜の闇は深く、わずかこれだけの距離なのにド・レナル夫人かどうかを見分けることができなかった。彼は相手が救いを求める叫びを発しはしないかと不安だった、犬どもが彼の登った梯子の脚のまわりをうろついて、うなるような声を出しているのが聞こえた。「ぼくですよ、悪いものじゃありません」と彼はかなり大きな声で繰り返した。答えはなかった。白いまぼろしは消え失せていた。「あけてください、是非お話ししたいんです、ぼくはほんとに不幸なんです!」そう言って彼は窓ガラスが壊れるほど叩いた。
きしむような小さな音がした。窓の扉の錠が開いた。彼はガラス窓を押しあけて身軽に室内へ飛びこんだ。
あのまぼろしはあとずさって行った。彼はその腕をつかまえた。女だった。彼のあらゆる勇気はいちどきに消え失せた。〈あの人だったら何と言うだろう?〉小さな叫び声をあげるのを聞いてこれがド・レナル夫人だと知ったとき彼の心はいかばかりであったろう。
彼は夫人を両腕に抱きしめた。彼女はわなないて、彼を突きのける力さえほとんどなかった。
「呆れた人! 何ということをなさるんです?」彼女の痙攣《けいれん》的な声では、この言葉をはっきり言うことさえなかなかできなかった。ジュリアンはそこにまったく嘘偽りのない憤怒を認めた。
「十四カ月もむごい別れの月日を暮らしてやっとあなたに会いに来たのです」
「出て行ってください。すぐここから立ち去ってください。ああ! シェラン様、なぜ私がこの人に手紙を書くのをおとめになったのですか? こんな恐ろしいことはしないように、前もって言っておくこともできたでしょうに」彼女はまことに驚くべき力でジュリアンを押しのけた。「私は罪を悔いているのです。神様のおかげで目が開けたんです。出て行ってちょうだい! 逃げてちょうだい!」と彼女はとぎれとぎれの声で何度もそう言った。
「十四カ月も不幸のうちに暮らしたんですから、あなたとお話ししないではぼくは絶対に出て行きませんよ。ぼくはあなたがこれまでどうしていらっしゃったか残らず知りたいのです。ああ、あれだけあなたを愛していたんだからそれくらい打ち明けていただく資格はぼくにもあるでしょう……何もかも知りたいのです」
ド・レナル夫人がいくら逆らおうとしてみても、この独断的な調子には彼女の心を支配するものがあった。
情熱的に彼女を抱きしめて脱れ出ようとする彼女の努力を抑えていたジュリアンは、このとき腕をゆるめて彼女を放した。それがド・レナル夫人をいくらか落ち着かせた。
「ぼくは梯子を引き上げてきます」と彼は言った。「誰か召使いが物音に目を覚まして見まわりに来たとき、あれがあったらこちらが危くなりますから」
「いや出て行って、反対にその梯子で出て行って」と相手は本気で怒りながら言った。「人のことなんか問題でないのです。あなたが私にどんな恐ろしい真似をして見せるか神様はごらんになって、私をお罰しになります。あなたは卑怯にも私が昔あなたに対して持った感情につけこむんです。ですが今はもう私はそんな感情を持ってませんわ。おわかりになって、ジュリアンさん?」
彼は音をたてないように非常にゆっくりと梯子を引き上げていた。
「君のご主人は町に行ってるの?」と彼は訊いた。これは彼女に逆らおうというわけではなく、古い習慣につられてついそう言ったのだ。
「お願いですから私にそんな言い方をしないでください。でなければ私は主人を呼びますよ。どんなことになろうとおかまいなしにあなたを追い出せばよかったのに、そうしなかったというだけで私はもう大変な罪を犯しているのです。そうまでしたらあなたがあまり可哀そうだと思って」彼の自尊心が非常に激しやすいということを知っていた彼女は、それを傷つけてやろうと思ってこう言った。
君《チュ》という親しい言葉づかいをするなと言ったことや、彼が今なお頼みにしていた、あれほどの愛情の縁《えにし》をにべもなく絶ち切ろうとする態度が、ジュリアンの恋の激情を狂気にまでしてしまった。
「何ですって! あなたがもうぼくを愛していないなんてあり得ることでしょうか?」彼は、冷静に聞くことのほとんどできないような真心からほとばしる声音で言った。
彼女は答えなかった。彼のほうは苦い涙を流していた。
実際、彼はもう口をきく気力さえなかったのだ。
「こうしてぼくはかつてぼくを愛してくれたたった一人の人からすっかり忘られてしまったのです。これ以上生きていて何になりましょう?」誰か男に逢いはしないかという不安がなくなってから彼の勇気はすっかり消えてしまっていた。愛情以外は何もかも彼の心から消え去っていた。
彼は長いあいだ何も言わずに泣いていた。彼は夫人の手を取った。彼女はその手を引っこめようとした。けれどもほとんど痙攣的な動作をちょっとしてから、彼女はその手を相手に委ねた。文目《あやめ》もわかぬ闇だった。二人はド・レナル夫人のベッドの上に腰をかけていた。
〈十四カ月前の様子とは何という相違だ!〉とジュリアンは思った。そう思うと涙はひとしお繁くなった。〈別れていればかならず人間のあらゆる感情は消えてしまうものだ〉
「あれからどんなことがあなたの身に起こったのか、話していただけませんか」とうとうジュリアンは自分の沈黙がやりきれなくなって涙にとだえがちな声でそう言った。
ド・レナル夫人は、ジュリアンに対して素気ない、非難がましい語調を響かせた冷酷な声で答えた。「あなたが出発なさったときには、もう私のあやまちは町じゅうに知られていたのです。あなたもずいぶんいろんな点で軽率な真似をなさいましたもの。その後しばらくして、私が絶望していたとき、あのご立派なシェラン師が私のところへお見えになりました。長いあいだあの方は私に告白をさせようとなさいましたが、私はしませんでした。ある日あの方は思い立って、私が初聖体を受けたあのディジョンの教会へ私を連れておいでになりました。その教会であの方が思い切ってはじめに口をお切りになり……」
ド・レナル夫人の言葉は涙のためとだえた。「何て恥ずかしかったことでしょう! 私は何もかも申し上げてしまったのです。あの方は大変ご親切でいらっしゃるから、激昂して私に身も世もない思いをさせるようなことはなさいませんでした。私と一緒に悩んでくださったんです。そのころ私は毎日あなたにお手紙を書いていたんですけど、思い切ってあなたにその手紙を出すことはできないでいました。注意深く隠しておいて、悲しくてたまらなくなったときには部屋に閉じこもって自分の書いたその手紙を読みかえし読みかえししていたのです。とうとうシェラン師のお言葉に折れて、私はその手紙をお渡ししました。……そのなかでも特に控えめな書き方をしてあったものは何通かあなたのほうへ送られています。あなたはそれにちっともご返事をくださいませんでしたわ」
「そんなことはない、誓って言うが、ぼくは神学校で一度も君から手紙を受け取ったことなんかないんだよ」
「あらどうしたことでしょう、だれかそれを横取りしたんでしょうか?」
「ぼくの苦しみを察しておくれ、本寺院で君を見るまでは、君がまだ生きているかどうかさえぼくにはわからなかったんだ」
「神様のお助けで、私は自分が神様ご自身に対して、私の子供たちに対して、夫に対して、どれほどの罪を犯しているかを悟ったのです。あの頃、あなたが私を愛してくださるとこちらで思いこんでいたときのようなあんな愛し方を、夫は一度も私にしてくれたことはありませんけど……」
ジュリアンは彼女のふところへ身を投げた。実際どうしようというつもりもなくただ我を忘れてしまったのだ。ド・レナル夫人は彼を押しやって、かなり毅然とした態度で言葉を続けた。
「私の味方になってくださったあの尊敬すべきシェラン師が、レナルの妻となっているかぎり、自分で意識しないような愛情であろうと、またあの不幸な恋愛によってはじめて経験したような愛情であろうと、私はすべての愛情を夫に捧げねばならないのだということを教えてくださいました……私にとってはあんなに大切だった手紙を思い切って渡してしまってからは、私の日々の生活も、幸福ではないまでも少くともかなり落ち着いているのです。その生活を乱さないでくたさい。私のお友だちになってちょうだい……一番よいお友だちに」ジュリアンは彼女の手を接吻でおおった。彼女は彼がまだ泣いているのに気づいた。「泣かないでね。私、とても辛くなりますわ……今度はあなたがどうしていらしたかお話ししてちょうだい」ジュリアンは口が利けなかった。「私あなたが神学校でどんな生活をしていらっしゃったか知りたいの」と彼女は繰り返した。「お話ししてから出て行ってくださいな」
自分が何を話しているのか意識もせずに、ジュリアンは最初に遭遇した奸策《かんさく》や数知れぬ嫉視《しっし》のこと、それから彼が復習教師に任命されて以来の、前よりは落ち着いた暮らしのことなどを話した。そうして彼は付け足した。
「その頃ですよ、長いあいだあなたから音信がないままに過ごして、……今日そのことは骨身にこたえて思い知らされたのですけど、あなたはもうぼくを愛していず、ぼくはあなたにとってどうなってもいい人間なのだということを、あのときあなたはああやってぼくに呑み込ませてやろうとなさったにちがいありませんけど……」ド・レナル夫人は彼の両手を握りしめた。「その頃ですよ、あなたが五百フランのお金をぼくに送ってくださったのは」
「そんなことないわ」とド・レナル夫人は言った。
「パリの消印のある手紙で、疑いがかからぬようにポール・ソレルと署名してありました」
その手紙を出したのは誰だろうかということでちょっとした言い合いが起こった。二人の心理状態は一転した。それとは知らぬ間にド・レナル夫人もジュリアンもそれまでの他人行儀の口の利き方をやめてしまっていた。昔のやさしい親しみのこもった調子を二人は取り戻していた。おたがいの顔は全然見えなかった。それほど闇は深かったのだ。しかし彼らの声はすべてを語っていた。ジュリアンは腕を恋人の腰にまわした。このしぐさはだいぶ危険だった。彼女はジュリアンの腕を押しのけようとした。だがこちらはなかなか抜け目なく、その瞬間に自分のしている話を興味のありそうな事柄へ向けて彼女の注意力を引きつけてしまった。腕はそのまま忘られてしまったように、置かれたままの位置に留まっていた。
五百フランを送って来た手紙の出所についていろいろと推測をたくましくしたあげく、ジュリアンはまた自分のことを話しはじめた。過ぎ去った生活のことなどは、自分が現にこの瞬間に味わっていることにひきくらべると今さら興味も持てなかったが、しかしその話をしているうちに、彼は多少おちついて来た。彼は一心になって、どういう風にこの訪問の結末をつけようかということばかり考えた。「出て行かなくちゃだめよ」という言葉が時どき邪慳《じゃけん》な口調で彼にささやかれた。
〈このままで、ていよく追っぱらわれたら、おれにとって何という恥辱だ! そのことを思い出したら一生後悔に苦しめられるようになるだろう。この人は今後決しておれに手紙をよこすまい。おれがいつこの国に帰って来られるかもわからないじゃないか!〉
こう心に思った瞬間から、ジュリアンの天にあるような心地はたちまちのうちに消えてしまった。熱愛する女のかたわらに坐りそのからだをほとんど両腕で抱きしめながら、かつてあれほどの幸福を味わったその部屋のなかで深い闇につつまれて、つい今先から女の涙を流している気配がはっきりとわかり、その胸の動きから彼女がすすり泣いているのを感づいていたのに、彼は不幸にも一個の冷やかな策士となったのだった。かつて神学校の校庭で自分よりずっと力の強い友だちの一人から悪辣《あくらつ》な嘲弄《ちょうろう》の的にされそうになっているのを自覚したときと、ほとんどまったく同じくらい打算的で冷やかな策士に。ジュリアンは長々と話を続けた。そしてヴェリエールを出発して以来送って来た不幸な生活について語った。
〈それじゃこの人は、別れて一年もたってほとんど追憶のよすがとなるようなものはまったくなかったのに、ヴェルジーで送った楽しい日々のことばかり考えていたんだわ。あたしのほうはこの人のことなど忘れていたのに〉
そう彼女は心に思い、彼女のすすり泣きはいっそう激しくなった。ジュリアンは自分の話がうまく成功したのを見て取った。いよいよ最後の手段を用いなければならないと彼は思った。不意に彼はパリから受け取った手紙のことに話を持って行った。
「ぼくは司教|猊下《げいか》にお暇《いとま》乞いをして来たんだ」
「何ですって、あなたはブザンソンへお帰りにならないの? もう永久に私たちから別れて行っておしまいになるの?」
「そうです」とジュリアンは決然とした語気で言った。「そうです、自分がこの世で一番愛した人からさえ忘れられたという思い出のある国なんかぼくは見棄てるんだ。この国を立ち去ってもう二度と帰って来ないんだ。ぼくはパリへ行くんだ……」
「あなた、パリへ行くの?」と、ド・レナル夫人はだいぶ高い声で叫んだ。
彼女の声はほとんど涙にむせんでいた。彼女がどれほど激しく煩悶しているかを、その声ははっきりとあらわしていた。自分の気持を引き立たせることがジュリアンには必要だった。彼は自分にとって不利な結果を招くかもしれないことをやってみようとしていたのだ。そして今の叫び声を聞くまでは、何も見えなかったので自分の言うことがどういう効果を生むかはまったくわからなかったのである。もはや彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。あとで後悔するのはいやだと思うと、彼はまったく自分の気持を自由に制御することができるようになった。立ち上がりながら彼は冷やかに付け加えた。
「ええ、奥さん、ぼくは永遠にあなたから別れて行ってしまうのです、幸福でいてください。ご機嫌よう」
彼は窓のほうへ数歩進んだ。早くも彼は窓をあけていた。ド・レナル夫人は彼のほうへまろびよって、その腕のなかへ身を投げた。
こうして三時間にわたる対話の末、初めの二時間のあいだあれほど熱情的に渇望していたものをジュリアンはついに獲得したのである。もう少し早くやさしい感情に立ちかえって、ド・レナル夫人の良心の呵責も消え失せていたとすれば、それはまったく至上至高の幸福であったろうに。こうして技巧を弄《ろう》して獲得されてしまうと、もはやそれは一つの快楽にすぎなかった。ジュリアンは恋人がそんなことをしないでくれと懇願するのに逆らって、是非とも豆ランプをつけると頑張った。
「それじゃ君は、君に会ったという思い出がすこしもぼくには残らないほうがいいと思っているのかい?いま君の愛らしい目のなかに輝いているに違いない愛情を、それでは結局ぼくは見ずに終ってしまうのか?あの綺麗な手の白さもそれではぼくには見られないのか? 今ここで君と別れれば、たぶん相当長いあいだ会えないということを考えてくれ!」
ド・レナル夫人はこう言われるとただ涙にかきくれてしまって、どうしてもそれを拒むことはできなかった。しかし暁明はすでにヴェリエールの東方にある山の上の樅《もみ》の木立の輸郭をくっきりと浮き出させ始めていた。出て行くどころか、ジュリアンは逸楽に酔いながら、この日一日夫人の部屋のなかに隠れていて、夜になってから出発させてくれと言った。
「ええかまいませんとも」と彼女は答えた。「こうしてまた同じ罪を犯してしまったのは運のつきだわ、おかげで私はもう自信がすっかりなくなってしまった。もうこの不幸から一生のがれられないわ」そう言って彼女は相手を自分の胸に抱きしめた。「主人はもう昔のようではないのよ、とても疑い深くなって。あの事件では私に手玉にとられたと思って、私に対してとても腹を立てて見せるのよ。もし主人がちょっとでも音を聞きつけたら、私は破滅だわ。|あばずれ《ヽヽヽヽ》だといって私を追い出してしまうでしょう。また実際、私もそんな女ですもの」
「ああ、まるっきりシェランさんの言い草だ。ぼくが神学校へ行ったときのあの辛い出発の前だったら、君はぼくにそんな言い方をしなかったろうよ。あの頃は君はぼくを愛していたが!」
この言葉をジュリアンは冷やかな口調で言ったが、その冷やかさの償いはすぐあらわれて来た。彼の恋人はたちまちのうちに、夫がいるために身に感ぜられる危険などを忘れ去って、ジュリアンが自分の愛情を疑っていはすまいかといういっそう重大な危険のほうに気を取られてしまったのだ。日は見る見るうちに昇って、明るく部屋を照らし出した。ジュリアンは、このあでやかな女、自分の愛するただ一人の女、そしてわずか数時間前には恐るべき神への畏怖と自分の義務への執着のほかは念頭になかった女が、自分の腕に抱かれ、ほとんど自分の足許近くに坐っているのをふたたび目のあたり見ることができたとき、ふたたび自尊心を満たされた喜びに酔い痴《し》れるほどだった。心ゆるぎなく一年のあいだ固めて来た彼女の決意も、彼の勇気の前にはついに崩れざるを得なかったのだ。
やがて家のなかで物音がしはじめた。ド・レナル夫人は今まで考えてみなかったあることを思い出して不安になった。
「あの意地のわるいエリザがやがてこの部屋にはいって来るのよ。あの大きな梯子をどうしましょう?」と彼女は恋人に言った。「どこに匿《かく》しましょう? そう、私が天井裏の物置へ持って行くわ!」そう彼女は不意に何か陽気そうに叫んだ。
「だがそれには下男の部屋を通らなくちゃならないぜ」とジュリアンは驚いて言った。
「梯子を廊下に置いといて、下男を呼んで何か用事をいいつけるのよ」
「だが下男が廊下の梯子の前を通って気がついたときのため、何か言いいわけを考えておかなくちゃ駄目だよ」
「そうね、あなた」とド・レナル夫人は言って彼に接吻した。「それじゃあなたのほうは、私のいないあいだにエリザがここへはいって来たら急いでこのベッドの下へ隠れることを考えておかなくちゃ駄目よ」
ジュリアンはこの突然の快活さに驚いた。〈こうして具体的な危険が事実目前に迫ると、この人はうろたえるどころか、後悔が忘られてしまうからかえって快活になるのだ! まったく優れた女だ! ああ、このような心を思いのままにするのは光栄だ!〉そう思うと、ジュリアンはしばらく恍惚としていた。
ド・レナル夫人は梯子に手をかけたが、梯子は明らかに彼女には重すぎた。ジュリアンは手伝いに行こうとした。彼がこの華奢《きゃしゃ》な、どう見ても力がありそうには思えないからだつきに見とれている間に、突然人手をかりずに彼女は梯子を握りしめて、まるで椅子を動かすような調子で持ち去ってしまった。彼女は急いで梯子を四階の廊下にはこんで、壁に沿って寝かせた。それから下男を呼んで、下男が服を着る暇を与えるために鳩小屋へ登った。五分後に彼女が廊下へ帰って来ると梯子はもうなくなっていた。梯子はどうなったのだろう? もしジュリアンが家の外へ出てしまっているとすれば、こんな危険などに彼女は動じなかったろう。しかし今、彼女の夫があの梯子を見たとしたら!そうなったらすさまじいことになりそうだった。ド・レナル夫人はあちこち駈けまわった。とうとう彼女は屋根裏で梯子を見つけたが、これは下男がそこへ運んで来て、しかもわざわざ匿しておいたのだった。奇怪だった。以前だったなら彼女は不安を感じたであろう。
〈今から二十四時間してジュリアンが出て行ってしまいさえすれば、どうなろうと私はかまいはしない。どうせその時は私は自分に愛想がつきて良心の呵責に悩むばかりなんだから〉
彼女は自分が死なねばならぬというようなことを漠然と考えた。だがそれが何だろう! もう永久に会うことはないと思っていた無惨な別離ののちに、彼は彼女の手に返された。彼女は彼に再会した。しかも彼女のところにまで辿り着くために彼がどれほどのことをして来たかを思えば、その愛情のほども証明されているではないか! 梯子の一件をジュリアンに話しながら、
「もし下男があの梯子を見つけたことを主人に話したら、主人に訊かれたとき、私、何て返事をしようかしら?」と彼女は言って、しばらく考えこんだ。「あなたにあの梯子を売った百姓をうちの人たちが捜し出すにしても、まる一日はかかるわね」そう言って彼女はジュリアンの腕のなかへ身を投げて、痙攣的な動作で彼を抱きしめながら、「ああ、こうして死にたいわ、こうして!」と叫んで接吻を浴びせかけるのだった。「けれどあなたが飢え死したら困るわ」そう彼女は笑いながら言った。
「いらっしゃい、まずあなたをデルヴィルさんの部屋にかくしてあげるわ。あの部屋はいつもずっと鍵をかけたまんまだから」彼女は廊下のはずれへ行って見張りをし、そのあいだにジュリアンは駈け足でそちらへ移った。「誰かが戸を叩いても開けないでね」と夫人は彼のはいったあとその部屋に鍵をかけながら言った。「そんなのはみんな子供たちが遊びながらいたずらにすることにきまっているから」
「子供たちが庭のこの窓の下に来るようにしてくれないか。ぼくはあの子たちを見るのが楽しみなんだ。物を言うようにしてほしい」
「ええそうしましょう」とド・レナル夫人は叫んで立ち去った。
ほどなく彼女はオレンジとビスケットとマラガ葡萄酒を一本持ってまたやって来た。パンを盗んで来ることはどうしてもできなかったのだ。
「ご主人はどうしているの?」とジュリアンは訊いた。
「百姓たちと一緒に取り引きの計画を紙に書いているの」
しかしもう八時は鳴ってしまっていた。家のなかが大分騒がしくなった。ド・レナル夫人の姿が見えなければ、家のものはそこらじゅう捜しまわるだろう。どうしても夫人は彼のそばから離れねばならなかった。やがて彼女は無謀にもコーヒーを一杯持ってまたやって来た。夫人は彼が空腹にさいなまれていはしないかと思うと、からだが慄《ふる》えるほどだったのだ。朝食のあとで彼女は首尾よく子供たちをデルヴィル夫人の部屋の窓の下へ誘い出すことができた。彼は子供たちがとても大きくなったと思った。しかし見た目には平凡な感じだった。でなければ彼自身の考えのほうが変わってしまっていたのだ。
ド・レナル夫人は子供たちにジュリアンのことを話してやった。年上の子の答えにはもとの家庭教師に対する好意と懐しさとがあった。けれども下の二人は彼のことをほとんどおぼえていなかった。
その朝、ド・レナル氏は外出しなかった。彼は自分のところの馬鈴薯の収穫を百姓に売るので、その取り引きに忙殺されて家のなかを絶えず上がったり降りたりしていた。昼食のときまで、ド・レナル夫人はあの囚人のためにほんのわずかの時間を割くこともできなかった。昼食の鐘が鳴り用意ができると、夫人は彼のために暖いスープを一皿盗んでやろうと思い立った。用心深くその皿を持って足音を立てないように彼のいる部屋の戸口へやって来ると、その朝梯子を隠したあの下男にぶつかってしまった。このときは下男のほうも足音を忍ばせ、聞き耳を立てるようにして、廊下をこちらへやって来たのだった。おそらくジュリアンがうっかり足音を立てて歩いたのだろう。下男は少々当惑げに立ち去った。ド・レナル夫人は大胆に部屋にはいった。ジュリアンはこの話を聞いて慄然とした。
「あなたはこわいのね」と夫人は言った。「私はこの世のありとあらゆる危険に眉毛一本動かさずに挑《いど》みかかって行くわ。私の恐れることはただ一つしかないの。それはつまり、あなたが出ていって、私が一人になる瞬間だけよ」そう言って彼女は走り去った。
ジュリアンは感激して自分の心に言った。〈ああ、あの高貴な心が恐れる唯一の危険とは、良心の呵責なのだ!〉
とうとう夜になった。ド・レナル氏はカジノヘ出かけた。
妻はあらかじめひどい偏頭痛がすると言っておいて、自分の部屋へ引き取ると急いでエリザをさがらせ、大急ぎでまた寝床から起き上がってジュリアンの部屋の扉をあけに行った。行ってみると実際ジュリアンは空腹のあまり死にそうだった。ド・レナル夫人はパンを取りに台所へ行った。しばらくしてジュリアンは高い叫び声を聞いた。ド・レナル夫人はやがて帰って来ると、灯のついていない台所へはいってパンのしまってある戸棚のほうに近づき手を延ばしたとき誰か女の腕にさわった、と話して聞かせた。それがエリザだったので、エリザのあげた叫び声をジュリアンは耳にしたのだった。
「台所で何をしていたんだい?」
「砂糖菓子でもつまんでいたのか、でなければ私たちのことを探っていたんだわ」とド・レナル夫人はそんなことにはまったく無頓着に言ってのけた。「だけどさいわい肉まんじゅうと大きなパンが一つずつ見つかったわ」
「それじゃあ、そこにあるのは何だい?」とジュリアンは彼女の前掛のポケットをさして言った。
ド・レナル夫人は、昼食のときからそのポケットにパンを詰めこんでいたことを忘れていたのだ。
ジュリアンは狂わしいまでの情熱に駆られて彼女を両腕に抱きしめた。彼の目に夫人がこれほど美しく思えたことは一度もなかった。〈パリへ行ったってこれ以上優れた性格を持った人に出逢うことはあるまい〉そう彼は漠然と思った。こういった種類のことにあまり経験のない女らしいぎごちなさはいくらでもあったが、しかしそれと同時に彼女には、全然種類のちがう別の意味で恐ろしい危険のみしかおそれない人間らしい真の勇気があった。
ジュリアンが大変な食欲をみせて夜食をたべているそばで、その恋人が食事があまり粗末すぎることに冗談を言っている……なぜなら彼女は真面目な話をするのがひどくこわかったのだ……あいだに、部屋の扉が不意にはげしく揺すぶられた。ド・レナル氏だった。
「なぜ鍵をかけっちまったのだ?」と氏は彼女にむかって叫んだ。ジュリアンは長椅子の下へもぐりこむのがやっとだった。
「何だ! あなたはまだちゃんと服を着たまんまじゃないか」とド・レナル氏は部屋へはいって来て言った。「夜食をしているのに、わざわざ扉の鍵をかけておいたのか」
いつもなら夫婦のあいだによくあるつっけんどんなこんな質問をされれば、ド・レナル夫人はおどおどしてしまったろうが、このとき彼女は夫がちょっと頭を下げさえすればジュリアンを見つけてしまうということを意識していただけだった。なぜならド・レナル氏は、つい先ほどまでジュリアンが坐っていた長椅子と向かい合わせの椅子にどっかと腰をおろしてしまったからである。
万事につけて偏頭痛が言い訳になった。やがて夫のほうが口を切って、カジノでビリヤードの賭け勝負をやって自分が勝ったといって「実際、十九フランの賭けだったんだぜ!」と彼は付け足したが……その勝負中のいろんな出来事をくだくだしく話しているあいだに、彼女は自分たちの前三歩ほどのところにある椅子の上にジュリアンの帽子が置いてあるのを目にとめた。彼女はいよいよ沈着になった。服を脱ぎはじめると、折りを見はからって夫の背後をすばやく通り抜けながら、自分の服を帽子ののっている椅子の上に投げた。
やっとド・レナル氏は出て行った。彼女はジュリアンに神学校の話をまたしてくれと頼んだ。「私、昨日はあなたの話を聞いていなかったのよ。あなたがしゃべっているあいだ、どうしたらあなたを追いかえす気になれるかということばかり考えていたんですもの」
彼女はまさに軽率そのものだった。二人は大きな声で話をした。そうして、もう午前二時になっていたろうか、彼らの話は扉を激しく叩く音で遮《さえぎ》られた。またもド・レナル氏だった。
「すぐ開けてくれないか、家のなかに泥棒がいるんだ! サン・ジャンが今朝、泥棒の梯子を見つけたんだ」
「もう何もかもおしまいだわ」と、ド・レナル夫人はジュリアンのなかに身を投げて叫んだ。「あの人、私たち二人とも殺してしまうわ。本気で泥棒がはいったと思っているんじゃないのよ。私、こうやってあなたの胸に抱かれて死ぬんだわ、死んだほうが幸福だわ」彼女は立腹している夫には一言も答えず、情熱的にジュリアンを抱擁した。
「スタニスラスの母親を救わなくてはいけない」と彼は命令的な目つきで言って聞かせた。「ぼくは小部屋の窓から中庭へ飛びおりて庭へ逃げる。犬はぼくの顔がわかっている。ぼくの服をまとめて、できるだけはやく庭へ投げおろしてくれ。それまで扉をぶちこわすなら、こわさせておくがいい。特に、決してほんとのことを打ち明けちゃいけないよ。そうしてはいけないとぼくがいうんだよ。疑うだけなら、真相をはっきり突きとめてしまうよりもまだましだ」
「あなた、飛び降りるとき死んじまうわ!」これが彼女の唯一の答えであり唯一の懸念であった。
彼女はジュリアンについて小部屋の窓へ行った。それから悠々と彼の服を隠すと、憤怒に煮えくりかえっていた夫のためようやく扉を開けてやった。夫は一言も言わず部屋と小部屋のなかに目をやって立ち去った。ジュリアンの服は投げおとされた。彼はそれをつかむと、ドゥー河よりの庭の下手のほうへ駈けて行った。
駈けながら彼は弾が風を切って飛ぶ音を聞き、それからすぐ銃声が一発するのを聞いた。
〈これはド・レナルさんじゃないな〉と彼は考えた。〈ド・レナルさんは下手だからこんな射ち方はできない〉犬たちは声をたてずに彼とならんで走っていた。一匹の犬が情けない声で鳴き出したところを見ると、二発目の弾がその犬の脚を射ち砕いたらしい。ジュリアンは一つのテラスの壁を飛びおりるとそれにかくれて五十歩ほど行き、それから方向を転じて逃げはじめた。呼びかわしている声が聞こえ、彼の敵の下男が一発放ったのがはっきり見えた。小作人が一人また庭の別のほうから発射した。しかしジュリアンはすでにドゥー河の岸に達していた。彼はそこで服を着た。
一時間ののち、彼はヴェリエールから四キロほど来て、ジュネーヴ街道の上にいた。〈もし疑いをかけたとしても、パリ街道のほうでおれを捜すだろう〉とジュリアンは考えた。(つづく)