パルムの僧院(下)
スタンダール作/大久保和郎訳
目 次
第二部
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
第二十一章
第二十二章
第二十三章
第二十四章
第二十五章
第二十六章
第二十七章
第二十八章
解説
あとがき
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おもな登場人物
ファブリツィオ・デル・ドンゴ……ミラノのデル・ドンゴ侯爵家の次男。サンセヴェリーナ公爵夫人の甥。ナポレオンに心酔し、ワーテルローの戦いに参加。そのため父親にも兄アスカニオにも疎まれる。逃亡のなかで芸人ジレッティを射したことで、パルマの獄に幽閉される。
サンセヴェリーナ公爵夫人……ファブリツィオの叔母。甥に宿命的な情熱をよせる。最初の夫ピオトラネーラ伯爵と死別したのち、老貴族サンセヴェリーナ公爵と形式的に結婚、パルマ公国の宰相モスカ伯爵の愛人として策謀渦まく宮廷に生きる。
モスカ伯爵……パルマ公国の宰相として実権を握り、宮廷政治を巧みに切りまわす政治家。サンセヴェリーナ公爵夫人を愛す。
クレリア・コンティ……パルマの獄の長官、ファビオ・コンティ将軍のひとり娘。幽閉されたファブリツィオを愛す。
ファビオ・コンティ将軍……クレリアの父。パルマの獄の長官。
エルネスト四世……パルマ公国の専制君主。パルマ大公。
ラヴェルシ侯爵夫人……パルマの宮廷で公爵夫人と対立する一派の頭領。
ラッシ……パルマ公国の検事総長。
ブラネス師……グリアンタの司祭。少年時代のファブリツィオの師。
ランドリアーニ大司教……パルマ公国の大司教。ファブリツィオをかばう。
ロドヴィーコ……ファブリツィオの忠実な従僕。
フェランテ・パッラ……詩人。センセヴェリーナ夫人を崇拝する。
ジレッティ……旅芸人一座の役者。
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第二部
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この共和制というやつは絶えずわめきたてて、われわれが最善の君主制すら享受できないようにするでしょう。
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第十四章
ファブリツィオがパルマの近くの村で恋を追いまわしていたあいだ、検察長官ラッシは彼がそんなに近くにいるとは知らず、ファブリツィオが自由主義者ででもあるかのようにこの事件の審理をつづけていた。つまり彼の無罪を証明する証人を見つけられないようなふりをした。というより、そんな証人が出て来るとおどしつけたのだ。そして一年近く非常にたくみな工作がおこなわれたあげく、ファブリツィオが最後にボローニャにもどってからおよそ二か月後のある金曜日、ラヴェルシ侯爵夫人は有頂天《うちょうてん》になって、一時間前にドンゴの息子に対して下された判決は明日大公の署名を得るために提出され、大公の裁可を受けられるだろうと、自分の家のサロンでおおっぴらに言った。数分後公爵夫人は敵の言ったこのことばを知った。(伯爵の手下はよほど馬鹿ものにちがいない)と彼女は思った。(今朝もまだ伯爵は、判決はこの一週間は下るまいと考えていた。もしかするとあの人は、私の若い副司教をパルマから遠ざけるのもまんざらではないと思ってるのかもしれない。けれどあの子は帰って来る、そしていつか大司教になる)公爵夫人は呼鈴を鳴らした。
「召使をみんな控《ひかえ》の間《ま》に集めておくれ」と彼女は侍僕に言った。「料理人もよ。それから衛戌《えいじゅ》司令官のところへ行って駅馬を四頭雇うのに必要な許可証をもらって来なさい。そして三十分以内にその馬を私の幌つき四輪馬車につないでおくのです」
家じゅうの女たちが総がかりで荷づくりにとりかかり、公爵夫人はあわただしく旅行服を着た。こうしたことはすべて伯爵には全然ことわらずにおこなわれたのだ。彼をちょっとからかつてやるのだと考えて彼女は大満悦だった。
集まった召使たちに彼女は言った。
「皆さん、私の甥《おい》は狂った男に対して大胆に自分の生命を守ったという理由で、もうじき欠席裁判で判決を受けるのだそうです。ジレッティのほうがあの子を殺そうとしたのです。あなたがたはみんな、ファブリツィオの性格がどれほどおだやかでおとなしいかをよくごぞんじでしょう。こんなひどいやりかたをされてはもちろん腹が立ちますから、私はフィレンツェに行きます。あなたがたには十年分のお給料を置いて行きます。困ったことがあったら私に手紙をよこしなさい。鐚《びた》一文でも私の手もとにあるかぎり何とかして上げますから」
公爵夫人は本当にそのように考えていたのだ。そして彼女が最後の言葉を言い終わると召使たちは涙にくれた。彼女の目も濡《ぬ》れていた。感動した声で彼女はつけくわえた。
「私とこの大司教区の主席副司教ファブリツィオ・デル・ドンコ猊下《げいか》のために神に祈ってください。あしたの朝になれば猊下は懲役刑か、こっちのほうがまだましだけれども、死刑を宣告されるのですから」
召使たちの涙はますます激しくなり、しかもだんだんと暴動めいた叫び声に変わって来た。公爵夫人は馬車に乗り、車を大公の宮殿にむかわせた。時ならぬ時刻にもかかわらず彼女は当直の侍従武官フォンタナ将軍を通じて謁見《えっけん》を願い出た。彼女は宮廷の正装をしていなかった。それを見てこの武官は唖然《あぜん》としてしまった。大公のほうはこの謁見の願いにちっとも驚かず、全然不快にも思わなかった。
(あの美しい目が涙を流すのを見られるぞ)と彼は手を揉《も》みながら思った。(赦《ゆる》しを乞《こ》いに来たんだ。とうとうあの高慢な美人が頭を下げようというのだ! あくまで独り立ちしているというようなあの小生意気な態度は、まったく鼻持ちならなかった! ちょっとでも気にさわることがあると、あなたのちっぽけなパルマなどよりもナポリやミラノのほうがずっと住み心地がよろしゅうございますと、あの雄弁な目つきで私にむかって言っているように見えた。実際私はナポリやミラノの支配者ではない。しかしとうとうあの偉そうな女も、自分の求めてやまないものをわしに求めて来るんだ、そいつはわしの胸先三寸できまることなんだからな。あの甥というのが来たことは何かわしにとって役に立つだろうと、いつもわしは思っていたが)
大公はこう考えてにやにやし、いろいろと楽しい予想をめぐらしながら広い書斎を歩きまわっていた。書斎の戸口にはフォンタナ将軍が銃を持った兵士のように固くなって突っ立っている。大公のぎらぎら光る目を見、公爵夫人の旅行服のことを思い出すと、将軍はこの君主国が崩壊するのではないかと思った。大公にこう言われたときには、彼の驚きはもはやとめどもなかった。
「公爵夫人に、十五分ばかりお待ちくださいと申し上げろ」
侍従武官たる将軍は閲兵式のときの一兵卒のようにまわれ右をした。大公はまたにやりと笑った。(あの誇りの高い公爵夫人が待たされるなんてことを、フォンタナは見慣れていないからな。あいつが驚いた顔で|十五分ほどお待ちを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という。それがやがてこの部屋で流れる感動的な涙を準備することとなるのだ)この十五分ばかりは大公にとっては何ともいえず楽しかった。彼はしっかりとした乱れのない足どりで歩きまわった。彼は支配《ヽヽ》していたのだ。(的確な言葉以外は決して口に出さぬように注意しなければならん。公爵夫人に対するこちらの感情がどうであろうと、相手がこの宮廷で最も高い位の貴婦人の一人だということを忘れてはならない。ルイ十四世は自分の娘の王女たちに何か不満なことがある場合、どんなしゃべり方をしたか?)そうして彼の目はこの偉大な王者の肖像に注がれた。
ここで愉快なのは、ファブリツィオに恩赦《おんしゃ》を与えるかどうか、与えるとすればどんな恩赦かを大公が考えてみようとしなかったことだ。二十分ほどして忠実なフォンタナがふたたび戸口にあらわれたが、何も言わない。
「サンセヴェリーナ公爵夫人をお通ししてよろしい」と大公は芝居がかった様子で叫んだ。
(愁嘆場がはじまるぞ)と彼は思い、そうした場面に備えるもののようにハンケチを引っぱり出した。
公爵夫人がこれほどきびきびしてこれほどきれいだったことは一度もなかった。軽くすばやく小刻みに運ぶその足がほとんど絨毯《じゅうたん》に触れぬほどなのを見て、気の毒な侍従武官はもうすこしですっかり理性を失ってしまうところだった。
「殿下に幾重《いくえ》にもお詫びを申し上げねばなりません」公爵夫人はいつもの軽快な明るい声で言った。「失礼とは知りながらこんな服装でまかりこしまして。けれども殿下はいつも御親切にしてくださいましたので、今回もお許しくださるのでないかと勝手に考えましたものですから」
大公の顔をとっくりと見て楽しもうとして公爵夫人はかなりゆっくりとしゃべった。彼女はひどく驚いているのに、まだ頭のもたげ方や腕の動かし方に尊大な様子を残していて、それがひどく魅力的だった。大公は雷に打たれたようだった。聞きづらいしどろもどろな声で時々低く、
「|何ですって《ヽヽヽヽヽ》! |何ですって《ヽヽヽヽヽ》!」と叫ぶのだが、はっきり聞き取れない。
公爵夫人はいかにもうやうやしげに、自分の挨拶が終わると相手が言葉を返すのを待っていた。それから彼女はつけくわえた。
「このような服装でまかりでまして大変失礼とは存じましたが」
だがそんなことを言いながら、からかうような彼女の目はあまりにもきらきらとかがやいていたので、大公は堪えられなかった。彼は天井を見た。これは彼が極度に狼狽しているときのしるしだった。
「|何ですって《ヽヽヽヽヽ》! |何ですって《ヽヽヽヽヽ》!」と彼はまた言った。
その後でさいわい言うべき言葉を思いついた。
「公爵夫人、まあお坐りください」
彼は自分で椅子をすすめた、しかもかなり気の利いた態度で。公爵夫人はこの鄭重《ていちょう》さに対しては無感覚ではいられず、その目の光もいくらかやわらいだ。
「|何ですって《ヽヽヽヽヽ》! |何ですって《ヽヽヽヽヽ》!」と大公はまだくりかえしながら椅子の上でもじもじしていた。この肘掛け椅子にはゆっくり坐っていられないといった様子だった。
「夜の涼しいうちに駅馬車で行こうと思いまして」と公爵夫人はつづけた。「かなり長いこと留守にすることになるかもしれませんので、五年のあいだいろいろと御親切にしていただきましたことについて殿下にお礼を言上《ごんじょう》した上でこの国を去りたいと考えましたものですから」
この言葉で大公はやっと理解した。顔色が変わった。この社交人には自分の予想が裏切られるのが一番辛いのだった。それから彼は、目の前にあるルイ十四世の肖像画にちょうどふさわしい尊大な態度を取った。(なかなかいいじゃないの、男らしくなったわ)と夫人は思った。
「で、その突然の出発の理由は何です?」と大公はかなりきっぱりした口調で言った。
「ずっと前から考えていたことでございますが、このたびモンシニョーレ・デル・ドンゴに対してちょっと言語道断な仕打ちがなされ、明日は死刑か懲役の判決が下されるということなので、出発を早めたわけでございます」
「そしてどの町へ行かれる?」
「ナポリヘでもと思っております」
そして立ち上がって、
「後はもう殿下にお暇《いとま》申し上げ、|かつての《ヽヽヽヽ》御厚情につつしんでお礼申し上げるだけでございます」
今度は彼女のほうが決然とした様子で言ったので、大公は今この瞬間をのがしては万事おしまいだと見て取った。出発の噂が立ってしまえばもう全然話のつけようがないとわかつていたのだ。彼女は何かやりだしたら後もどりするような女ではなかった。大公は彼女のあとを追った。
「しかし、公爵夫人、あなたもよくごぞんじのとおり」と、夫人の手を取りながら彼は言った。「私はずっとあなたが好きだった。しかもこの友情を別の名に変えることもあなた次第だったのです。殺人という事実があった、これは誰も否定できない。私はこの国の最も優れた裁判官にその審理をゆだねたのです……」
この言葉を聞くや公爵夫人はすっくと立ち上がった。敬意ばかりか優雅さすらも一瞬のうちに消え去った。あきらかにそこにいるのは非道な仕打ちに憤《いきどお》っている女、しかも相手の誠意のなさを知って相対している女だった。きわめて激しい怒り、そればかりか軽蔑をすら顔にあらわして、一語一語に力をこめて彼女は大公に言った。
「私は殿下の御所領から永久に去ります。あの検察長官ラッシやその他の、私の甥やそのほか多くの人々に死刑を宣告した汚らわしい人殺しどものことなどもう決して耳に入れたくないからです。殿下は人に瞞《だま》されていらっしゃらないときには礼儀正しく才智に満ちていらっしゃいますが、その殿下のおそばで私が過ごす最後の時間が苦い気持ちでいろどられないようにとおぼしめしくださいますならば、千エキュのお金か勲章一つで身売りをするあの汚らわしい裁判官のことなど私に思い出させたりなさいませんように、伏してお願い申し上げます」
この言葉をいう夫人の惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような、そして何よりも真率《しんそつ》な口調に大公は戦慄をおぼえた。一瞬彼は、もっとそのものずばりの非難を浴びて自分の威厳が傷つけられるのではないかと思ったが、全体として彼の感じたものは結局楽しい印象となった。彼は公爵夫人に感嘆した。彼女の全身がこのとき崇高な美に到達していた。(ああ、何て美しいんだ)と大公は思った。(こんなまたとない女にはすこしくらいのことは大目に見てやらねばならない、おそらくイタリア全土にもこれほどのは二人といないだろうからな……。いや、少々|上手《じょうず》な政略を用いたら、いつかこの女を自分の愛人《もの》にすることも不可能ではないかもしれん。あの人形のようなバルビ侯爵夫人とは大変な相違だ。そのくせバルビと来ては、私の臣民から毎年すくなくとも三十万は奪っているのだからな……。が、私の聞き違いではなかったかな? たしかにこの女は、「私の甥やそのほか多くの人々を死刑に」と言ったな)そう思うと怒りがこみあげて来て、しばらく沈黙した後に大公はその最高の地位にふさわしい傲然《ごうぜん》たる態度で言った。
「では、あなたが行かれないようにするにはどうすればいいのですか?」
「殿下にはおできにならないことです」きわめて痛烈な皮肉とむきだしの侮蔑の口調で公爵夫人は応酬した。
大公は怒りに我を忘れたが、絶対君主という職業柄の習慣のおかげで最初の衝動をおさえることができた。(この女をものにしなければならぬ。これは私の義務だ。その上で軽蔑で死なせてやらねばならん……。今この書斎から出て行かれたら、もう決してこの女に会うことはあるまい)しかし今のように怒りと憎悪に心を奪われていては、自分の義務とすることを果たし、しかも公爵夫人に即刻この宮廷を去るという気持ちをなくさせるような言葉をどうして見つけられよう?(同じしぐさや笑われるような行動はとるまいぞ)と彼は思い、公爵夫人と部屋の戸口のあいだに陣取った。そのときドアを軽くたたく音が聞こえた。
「誰だ、馬鹿め」と彼は声をかぎりにどなった。「こんなところへのこのこ出て来る奴は?」
気の毒なフォンタナ将軍がすっかり動顛《どうてん》した蒼白な顔を見せた。まるで死にかかつている人間のような様子で彼はもぞもぞとこう言った。
「モスカ伯爵がお目通りを願っておりますが」
「通せ」と大公は叫んだ。
そして伯爵が挨拶すると、
「いいか、サンセヴェリーナ公爵夫人が即刻パルマを去って、ナポリに住むとおっしゃるのだ。しかも私にいろいろ無態《むたい》なことを言われる」
「何ですって!」モスカは顔色を変えた。
「おや、貴公はこの計画のことは知らなかったのか?」
「まったく存じません。六時に夫人とお別れしたときは楽しそうで満足していらっしゃるようでしたが」
この言葉は大公に信じられぬような効果を与えた。まず彼はモスカをみつめた。ますます蒼白になるその顔は、モスカが真実を言っており、公爵夫人のこの暴挙には全然関係していないことを示していた。(となると)と大公は思った。(この女は永久に失われてしまう。楽しみも復讐もすべて一挙に飛び去ってしまう。ナポリに行ったら彼女は甥のファブリツィオと二人で、パルマの小君主の大きな怒りなどといった|皮肉な詩《エピグラム》でも作ることだろう)彼は公爵夫人をみつめた。最も激しい侮蔑と怒りが彼女の心のなかでせめぎあっていた。彼女の目はこのときモスカ伯爵に注がれており、その美しい口の何とも言えず繊細な線は痛烈きわまる軽侮をあらわしていた。この顔全体が(卑しい廷臣!)と言っていた。その様子をよく見てから大公は考えた。(そうなるとこの女をこちらに呼びもどす手だてもなくなってしまう。今この部屋を出て行かれたらもう決して私のものにはできまいし、そればかりかナポリで私の裁判官どものことを何と言うか知れたものではない……。そして天賦《てんぷ》のあの才智とすばらしい説得力で誰からも信じられてしまうだろう。おかげで私は、夜中に起きてベッドの下をのぞく滑稽な暴君という評判を立てられてしまうのだ……)そこで巧妙な策を弄《ろう》して、歩きまわって昂奮をしずめようとするようなふりをして、ふたたび大公は戸口の前に立った。伯爵は大公の右のほう三歩ばかりのところに、蒼白な引き歪《ゆが》んだような顔をして立っていたが、体があまり顫《ふる》えるので肘掛け椅子の背につかまらねばならなかった。その椅子は謁見《えっけん》のはじめに公爵夫人がかけていたものだが、大公がかっとなったはずみに押しやったのである。伯爵は恋に狂っていた。(夫人が行くならおれもついて行く。しかし彼女はおれがついて行くのを望むだろうか? そいつが問題だ)
大公の左のほうに公爵夫人は立ち、両腕を胸にしっかりと組んで、驚くべき不敵さで彼をみつめていた。今しがたまでその崇高な顔をいろどっていたあざやかな血色は消えて、顔じゅう真蒼《まっさお》になっている。
大公はほかの二人とは反対に赤い顔をしてそわそわしていた。上着の下に佩用《はいよう》している大綬章についた十字章を左手で痙攣《けいれん》的にいじくりまわし、右手で自分の顎を撫でている。
「どうしたらよかろう?」と彼は伯爵に言った。何事についても伯爵に相談する習慣にひきずられて無意識に訊《き》いたのだ。
「殿下、実は私にも全然わかりません」と答えた伯爵の顔は最後の息を引き取ろうとする人間のようだった。
これだけの言葉を口に出すのもやっとだったのだ。この声の調子は大公には慰めだったが、この慰めは傷つけられた彼の誇りがこの謁見のあいだに得た最初のものだった。そしてこのささやかな幸福が彼に、彼の自尊心をくすぐる文句を思いつかせてくれた。
「よろしい、この三人のなかでは私が一番理性的だ。ここでは私は自分の地位のことは一切抜きにしようと思う。|友人として《ヽヽヽヽヽ》これから話そう」
そうして彼は、幸福な時代のルイ十四世の真似をして、いかにも思いやり深そうな快い笑顔でつけくわえた。
「|友だち同志のあいだでしゃべるようにね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。公爵夫人、あなたにその穏やかならぬ決心を忘れていただくためにはどうしたらよろしいのですか?」
「実は私にも全然わかりません」と公爵夫人は深い溜息をついて答えた。「全然わかりません。ほとほとパルマがいやになってしまいましたの」
この言葉には皮肉な意図など毫《ごう》もなかった。心そのものが言葉に出たのだということはあきらかだった。
伯爵はさっと彼女のほうを向いた。廷臣としてこの言葉に不快を感じたのだ。それから彼は大公に哀願するような視線を送った。大公は非常な威厳と冷静さを保ってしばらく沈黙していたが、やがて伯爵にむかって、
「あなたの魅力的なお友だちはほんとに激昂していらっしゃるようだ。簡単な話だよ、自分の甥を|心から愛して《ヽヽヽヽヽヽ》いらっしゃるのだ」それから公爵夫人のほうを向いて、これ以上とはなく慇懃《いんぎん》な、だがまた喜劇のせりふを引用するときにして見せるような目つきでつけくわえた。「|この美しい目を喜ばせるためにはどうすればいいだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
公爵夫人はもう考えをめぐらしていた。ゆっくりした、しかし断固たる言い方で、最後通牒を言いわたすもののように彼女は考えた。
「殿下がよくお書きになるような優渥《ゆうあく》なお手紙を私にお書きくださいまし。自分には第一副司教ファブリツィオ・デル・ドンゴに罪ありと信じられないから、判決書が提出されても署名はせぬ、そしてこの不正な裁判は将来にわたってまったく無効であるとそこで言明あそばすのです」
「何、不正《ヽヽ》だと!」大公は満面朱を注ぎ、またもや怒りに駆られて叫んだ。
「それだけではございません!」と公爵夫人はローマ人のような誇らしさをもってやりかえした。
「今夜早速《ヽヽヽヽ》(と言って、掛け時計に目をやりながら)もう十一時十五分でこざいますが、今夜早速ラヴェルシ侯爵夫人に人をやって、今夜の夜会のはじめの頃サロンで話していたある裁判のことでさぞかし疲れたろうから、田舎に保養に行ってはとおすすめになるのでございます」
公は荒れ狂ったように書斎のなかを歩きまわっていた。
「こんな女がこれまでいたろうか?……」と彼は叫んだ。「私に対して敬意を欠いている」
公爵夫人は申し分のない淑《しと》やかさで答えた。
「これまで一度も私は殿下に対して敬意を欠いたことはございません。殿下は|友だち同志のあい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》|だでしゃべる《ヽヽヽヽヽヽ》ようにすると勿体なくもおっしゃってくださいました。とにかく私は、パルマにとどまりたいとはいささかも思っておりませんので」と、極度の軽蔑をこめて伯爵へ目をやりながら彼女はつけくわえた。この目つきを見て大公は決心した。これまで彼の言った言葉は何かを約束するもののように見えたが、彼の心は全然決まっていなかったのである。彼は言葉など問題にしていなかったのだ。
さらになおすこしばかり言葉のやりとりがあったが、結局モスカ伯爵は公爵夫人の願った優渥《ゆうあく》な手紙を書くように命じられた。彼は「この不正な裁判は将来にわたってまったく無効である」という一句をはぶいた。(判決書が提出されても署名しないと大公が約束するだけで充分だ)と彼は思った。それに署名しながら大公は目で伯爵に感謝した。
伯爵はひどい誤りをおかしたのだ。大公は疲れており、何にでも署名したろう。これでうまくこの場を切り抜けられると思っていたし、彼からすればこの件全体は帰するところ次の一事に左右されていたのである。(公爵夫人が行ってしまったら一週間もしないうちに私の宮廷は退屈なものになってしまうだろう)
伯爵は主君が日づけを変えて翌日のものにするのに気がついた。彼は掛け時計へ目をやったが、もう十二時近かった。日づけを直したことは几帳面さとよき支配とを衒《てら》おうとする気持ちのあらわれだとしか大臣は見なかった。ラヴェルシ夫人の追放には文句はなかった。大公は人々を追放するのがことのほか好きだったのだ。
「フォンタナ将軍」扉をちょっとあけて彼は叫んだ。
将軍があんまり驚いた好奇心満々の顔であらわれたので、大公と公爵夫人は愉快そうに目を見交わした。この目くばせで和睦《わぼく》が成った。
「フォンタナ将軍、柱廊で待っている私の馬車に乗ってラヴェルシ侯爵夫人のところへ行き、面会を求めるのだ。夫人が床についていたら、私からだと言うがいい。そして寝室へ通されたら間違いなく次のように言うのだ。『ラヴェルシ侯爵夫人、殿下はあなたが明朝八時前にヴェッレーヤの館にむかって出発なさるようにとおっしゃっておられます。いつパルマにお帰りになれるかはあらためて知らせがあります』とな」
大公は公爵夫人の目をさがしたが、夫人は彼が期待していたお礼の言葉も述べず、いやにうやうやしくお辞儀をして足早に出て行った。
「何という女だ!」と大公はモスカ伯爵をかえりみて言った。
伯爵のほうはラヴェルシ侯爵夫人の追放のおかげで大臣としての行動があらゆる点でやりやすくなるのに大満悦だったので、三十分たっぷり申し分のない廷臣らしい口を利《き》いた。彼は君主の自尊心を慰めようとし、ルイ十四世の逸話を蒐《あつ》めた本のなかにも自分が今未来の歴史家たちにその材料を提供して見せたのにまさるような一ぺージはないと大公が信じこんだのを見とどけてからやっと退出した。
公爵夫人は家に帰ると扉をしめ、誰をも、伯爵すらも通してはならぬと命じた。一人だけになって、今しがた演じられたあの場面をどのように考えるべきかを検討してみたかったのだ。彼女は行き当たりばったりに、ただその時その時の気の向くままに行動して来たのだ。しかもそのためにどんなことをしなければならぬ羽目《はめ》になっても、彼女は決然とそれをやってのけたろう。冷静にかえったときにも全然自分が悪かったとは思わなかったろうし、いわんや後悔などしなかったろう。こうした性格のおかげで彼女は三十六という年になってまだ宮廷一の美女でいられたのだ。
彼女は今、まるで長い旅から帰って来たもののように、パルマにはどんな楽しみがあるだろうかと考えていた。それほどまでに彼女は九時から十一時までのあいだこの国を永久に去ろうと固く思いつめていたのである。
(あの伯爵ったらかわいそうに、大公の前で私の出発を知ったとき、おかしな顔をして見せた……。愛すべき、ほんとにめずらしい心の持主なんだけど! あの人なら大臣をやめて私について来ただろう……。しかしまた、これまで丸五年間私はあの人から非難されるようなしくじりはやっていない。祭壇の前で結婚した人妻だって、自分の御主人様の前でこれだけのことを言えるものじゃない。あの人が偉《えら》ぶりもしないし衒気《げんき》もないことは認めなくちゃならない。裏切ってやりたいなんて気持ちは全然おこさせない。私の前ではいつも自分の権勢を恥ずかしく思っているように見える……。自分の御主君の前であの人は奇妙な顔をしていた。今ここにいたら接吻して上げたいくらいだわ……。けれど、地位を失った大臣の御機嫌を取るなんて仕事はどんなことがあっても私は引き受けない。死ななければ治らない病気、いや……死病みたいなものだもの。若くて大臣になるなんて何という不幸だろう! このことは手紙に書いてやらねばならない。これはあの人が大公と喧嘩してしまう前にはっきりと心得ておかねばならぬことの一つだ……。でも、私の立派な召使たちのことを忘れていた)
公爵夫人は鈴を鳴らした。女たちはまだ荷造りをしていた。馬車が門前にまわされ、荷が積みこまれていた。用事のない使用人たちはみな涙をうかべてこの馬車のまわりに集まっていた。重大なことがある場合に一人だけ公爵夫人の部屋にはいることのできるチェキーナがこれらのことを夫人に知らせたのだ。
「みんな上に来るように言っておくれ」と公爵夫人は言った。
すぐさま彼女は控の間に出た。
「甥に対する判決書に御主君様《ヽヽヽヽ》(このようにイタリアでは言うのである)が署名なさらないという約束がありました。出発は一応見合わせます。私の敵がこの決定を動かすだけの勢力を持っているかどうか見てやりましょう」
ちょっと静まりかえった後に召使たちは「奥方様万歳!」と叫び出し、夢中になって拍手した。公爵夫人はすでに隣室へ行っていたが、喝采《かっさい》を受けた女優のようにまた姿をあらわして、いかにも優雅に使用人たちに会釈し、「ありがとう、みなさん」と言った。
彼女がもう一言いったとすれば、このとき一人残らず宮殿襲撃に押しかけただろう。彼女は馭者の一人に合図した。これは以前密輸入をやっていたが、彼女に心服している男で、すぐ夫人について来た。
「おまえは裕福な百姓の服装をして、何とかしてパルマを出、セディオーラを雇ってできるだけ早くボローニャに行っておくれ。散歩しているようなふりをしてフィレンツェ門からボローニャにはいるのだよ。そしてペレグリーノ旅館に泊まっているファブリツィオに、チェキーナがこれからおまえに渡す包みをとどけるの。ファブリツィオは身をかくして、あちらではジュゼッペ・ボッシと名乗っています。軽はずみなことをしてあの子のことを知られてはいけませんよ。あの子を知っているようなふりをしないの。私の敵はおまえの後にスパイを放つかもしれないからね。ファブリツィオは数時間あるいは数日後におまえをこちらへもどすでしょう。特に帰るときには警戒を厳重にしてあの子のことを知られないようにするんですよ」
「ああ、ラヴェルシ侯爵夫人の手の者ですか!」と馭者は叫んだ。「奴らが相手ならこちらも手ぐすねひいてまさあ。奥さまがお望みとあればたちまち皆殺しにしてやるのですが」
「いつかそうするかもしれない! でも、どんなことがあっても私の命令なしには何もしないのよ」
公爵夫人がファブリツィオに送ろうと思ったのは大公の手紙の写しだった。夫人は彼を喜ばせたいという気持ちにさからえず、この手紙を書かせるにいたった一件についても一言書き添えた。この一言が十ページの手紙になった。彼女はもう一度馭者を呼びよせた。
「四時になって市門が開かなければ出発できないわね」
「大下水道を通って行くつもりでした。水は顎《あご》まであるでしょうが、通り抜けられましょう……」
「いいえ、私の一番忠実な使用人の一人に熱を出させるようなことは私はしたくありません。大司教|猊下《げいか》の家のものを誰か知っていて?」
「二番馭者が私の友だちで」
「これが司教様への手紙よ。猊下のお邸へ音を立てずに忍びこみ、侍僕のところへ通してもらいなさい。猊下をお起こししてはいけませんよ。猊下がもう寝室にはいっていらっしゃったら、お邸のなかで夜を過ごすのです。あの方はいつも夜が明けるとともにお起きになるから、明朝四時に私からと言って取次ぎを求め、大司教様に祝福をお願いして、ここにある包みをお渡しする。多分ボローニャあてのお手紙を下さるだろうから、それを頂いて来るのです」
公爵夫人は大公の書状そのものを大司教のところへ持って行かせようとしたのだ。この書状は第一副司教に関係のあるものだから大司教邸の文書室に保管していただきたいと彼女は頼んだ。甥の同僚である他の副司教や司教会員たちにも一見しておいてもらいたい、ただし厳重に秘密を守ってもらうが、というのである。
善良な町人を喜ばせそうな親しげな調子で、彼女はランドリアーニ猊下《げいか》あての手紙を書いた。署名はしかし三行にもわたっていた。ごく親密な文面につづいて、「サンセヴェリーナ公爵夫人アンジェリーナ=コルネリア=イゾラ・ヴァルセッラ・デル・ドンゴ」という言葉があったのだ。
(亡《な》き公爵と結婚して以来こうまで書いたことはなかったと思うけど)とつぶやいて彼女は笑った。(ああいう人たちはこうしたものでなければ動かせない。そして町人たちの目には漫画が美なんだから)寝る前に彼女は気の毒な伯爵あてにからかいの手紙を書かずにはいられなかった。|あなたが王公たちと交際するときの御参考として《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》はっきり申し上げるが、君寵《くんちょう》を失った大臣などというものを慰める力は自分にはないと思うと書いてやったのだ。「あなたは大公がこわいのです。大公に会えないようになったら、今度は私がこわくなるのではないかしら?」この手紙を彼女はその場ですぐとどけさせた。
大公はまた大公で、翌朝七時ごろ内務大臣ツルラ伯爵を呼びよせた。
「ファブリツィオ・デル・ドンゴなるものを逮捕するよう、あらためてすべての地方法務官に厳命してもらいたい。この男は不敵にもわが所領内に姿をあらわすかもしれぬという知らせもある。この逃亡者はボローニャにいて、われわれの法廷の追究をせせらわらっているらしい。この男の顔を知っている警吏を、第一にボローニャからパルマにいたる街道沿いのすべての村、第二にサッカのサンセヴェリーナ公爵夫人の城とカステルヌオーヴォの夫人の家の周辺、第三にモスカ伯爵の城の周囲に配するのだ。君主のこの命令が炯眼《けいがん》なモスカ伯爵に知られぬように、伯爵、抜け目なくやってくれるだろうな。何としてもこのファブリツィオ・デル・ドンゴなるものを逮捕してもらいたい」
この大臣が出て行くや否や、秘密の扉があいて検察長官ラッシが大公の部屋にはいって来た。彼は腰をかがめ、一歩ごとにお辞儀をしながら進んで来た。この悪党の顔つきは絵にかいてみたいほどだった。いかにもその汚らわしい役割にふさわしい。きょろきょろとすばやく動く目は、この男が自分の実力をよく承知していることを示す一方、ゆがめた口もとの傲然として自信ありげなところは、人の軽蔑などものともしないことを語っていた。
この人物はファブリツィオの運命にかなり大きな影響を持つことになるのだから、彼について一言ついやしてもいいだろう。背が高く、非常に頭のよさそうな美しい目をしていたが、顔は|あばた《ヽヽヽ》で台なしだった。才智はどうかといえぱ、たしかに彼には才智はあった。大いにあり、しかもきわめてするどい。法律の知識は申し分ないとされていたが、何より彼の得意とするのはその機略縦横なところだった。どんな方向から事件が起こって来ようとも、彼はやすやすと、しかもたちまちのうちに、完全に法律にもとづいて有害宣告なり無罪放免なりに持って行く方法を見つけ出す。何よりも彼は検事としての辣腕《らつわん》さにかけては第一人者だった。
この男をかかえていることで多くの大君主だちがパルマ大公を羨《うらや》んだほどだったが、この男の道楽といえば一つだけしかなかった。偉い人たちと立ち入った話をし、道化《どうけ》をつとめてかわいがられるということである。その権勢家が彼の言うこと、あるいは彼自身のことを笑おうと、彼の細君のことで聞き捨てならぬ冗談を言おうと、そんなことはどうだっていい。相手が笑い、なれなれしくあしらってくれさえすれば彼は満足なのである。時として大公はこの偉大な法官の威厳をどうしたら傷つけられるかわからなくなって、蹴っとばしたりした。蹴られたのが痛いと彼は泣き出す。しかし道化の本能は彼にあってはことのほか強く、この国のすべての司法官を集めて専制的に君臨している自分の家のサロンよりも、自分を愚弄《ぐろう》する大臣のサロンのほうを好んで毎日出かけるのだった。何よりこのラッシはある特別の地位を築いてしまっていた。それは、どんなに横柄《おうへい》な貴族といえども彼をはずかしめることはできないということである。毎日受ける侮辱に対する彼の復讐の仕方は、大公にそれをあらいざらい話すということだった。大公にむかってどんなことでも言えるという特権を彼は持っていたのである。それに対する答えがしばしば猛烈な平手打ちであることも事実だったが、彼は全然怒りはしなかった。この偉大な法官がそばにいると、機嫌の悪いときの大公には気ばらしになる。そこで大公は彼をいためつけて楽しむのだった。これでラッシが宮廷にはあつらえむきの人間、つまり名誉心もなければ癇癪《かんしゃく》もおこさない人間だということがわかるだろう。
「何よりも秘密を守ることだ」と、会釈もしてやらずに大公は叫んだ。誰に対してもあれほど礼儀正しい大公がこの男のことはまるっきりの下司下郎《げすげろう》のように扱っていた。「君の判決の日づけはいつになっている?」
「殿下、昨日《きのう》の朝になっております」
「署名した判事は何人だ?」
「五人全員で」
「刑は?」
「城砦禁錮二十年でございます、殿下が私におっしゃいましたとおり」
「死刑にしたら、反撥する向きもあったろう」と大公は独り言のように言った。「残念だな! あの女はどんなに驚いたろうか! しかし何といってもドンゴ家のものだからな。そしてこの名は、ほとんど相次いで位についた三人の大司教のおかげでパルマでは尊敬されている……。二十年の城砦禁錮といったな?」
「はい、殿下」あいかわらず立ったまま体を二つに折ってラッシ検察長官は答えた。「その前にまず、公開の場で殿下の御肖像の前にお詫びを申すことになっております。さらに、毎週金曜日と主な祭日の前夜はパンと水だけの食事でございます、|この者は世に聞こえたる不信の者なるにより《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というわけでして。将来のことを考え、もはや出世もかなわぬようにと考えてこうしたわけで」
「書くんだ」と大公は言った。
「『犯行当時当人は非常に若く、かつまた死んだジレッティの妻に対する情熱に逆上していたという、被告の母デル・ドンゴ侯爵夫人と叔母サンセヴェリーナ公爵夫人の伏しての嘆願を殿下はこころよくお聞き入れになり、このような殺人を憎まれるにもかかわらず、ファブリツィオ・デル・ドンゴに下された刑を十二年の城砦禁錮に減ずると仰せられた』署名するからこちらに」
大公は署名し、前日の日づけを書いた。それから判決書をラッシに返して言った。
「私の署名のすぐ下に書け。
『さらにサンセヴェリーナ公爵夫人が殿下の膝《ひざ》にすがって懇願《こんがん》したため、大公は被告が俗にファルネーゼ塔と呼ばれている方形の塔の屋上で毎週木曜日一時間の散歩をすることを許された』
これに署名しろ。そして何より黙っているんだよ、町でどんなことが言われようとも。禁錮二年などという刑に投票し、しかもそんな馬鹿げた意見に賛成の演説までしたカピターニ判事には、私が法規を読み直すように言っていたと伝えてくれ。もう一度言うが、黙っているんだぞ。さよなら」
ラッシ検察長官はいやにゆっくりと三度もお辞儀をしたが、大公は目もくれなかった。
これは午前七時のことだった。それから数時間後にはラヴェルシ侯爵夫人の追放のニュースは町やカフェにひろがり、皆が一斉にこの大事件のことを噂していた。侯爵夫人の追放は小都市と小宮廷の恐るべき敵である退屈というものを、しばらくのあいだパルマから追いはらってくれた。もう大臣になったつもりでいたファビオ・コンティ将軍は痛風の発作という口実をかまえて数日にわたって城砦から出なかった。豊かな町人たち、つづいて細民たちはこの事態を見て、大公はパルマの大司教職を|モンシニョーレ《ヽヽヽヽヽヽヽ》・デル・ドンゴに与えることに決めたのだと結論した。炯眼《けいがん》なカフェの政談家たちはそれどころか、現職大司教ランドリアーニ神父は仮病をつかって辞表を呈するように勧告されたとまで主張した。煙草農場の収益から莫大な年金が与えられるのは間違いないという。こうした風評は大司教の耳までとどき、大司教はこれにいたく不安をおぼえ、数日間われらの主人公を引き立てようとする彼の熱意もばったり冷《さ》めたほどだった。二月《ふたつき》たつとこの大ニュースはパリの新聞にさえ出た。ただ大司教になるのはサンセヴェリーナ公爵夫人の甥であるモスカ伯爵だという風に枉《ま》げられてはいたが。
ラヴェルシ侯爵夫人はヴェッレーヤの館で怒り狂っていた。彼女は自分の敵に対して侮辱の言葉を投げつけるだけで復讐したような気になっているふやけた女ではなかった。失寵《しっちょう》の翌日早くもリスカラ士爵ならびに三人の彼女の味方が彼女の命令で大公の前に罷《まか》り出て、夫人に会いに館に行く許しを求めた。殿下はこのお歴々をきわめて愛想よく迎えた。彼らがヴェッレーヤに来たことは侯爵夫人にとって大きな慰めだった。二週間とたたぬうちに彼女の館には三十人も集まっていたが、これらは皆自由党内閣ができたらポストを与えられる予定の連中だった。毎夜侯爵夫人は味方のなかでも消息通の連中とかならず協議した。
ある日パルマとボローニャからたくさん手紙を受け取ると、彼女は早くから自分の部屋へ引き取った。お気に入りの侍女がまず彼女の現在の恋人のバルディ伯爵を案内して来た。顔だけはすばらしいが、ごくつまらない青年である。その後で彼の前の恋人だったリスカラ士爵が来る。こちらは顔も心も黒い小男で、最初パルマの貴族学校で幾何の復習教師をやっていたが、今では参事官になってたくさん勲章をもらっていた。
「私はどんな書類も決して破棄しないといういい習慣を持っています」と侯爵夫人はこの二人に言った。「それで運がよかったわ。ここにあのサンセヴェリーナが何かの機会に私によこした手紙が九通あります。あなたがた二人はこれからジェノヴァに行って、あのヴェネツィアの大詩人と同じブラーティだったか、でなければドゥラーティという名の元公証人を懲役囚のなかから捜し出すんです。バルディ伯爵、私のデスクの前に坐ってこれから口述するのを筆記してくれない?
『ちょっと思いついたことがあるのでこの手紙を書きます。私はカステルヌオーヴォのそばの例の小屋に行きます。あなたが半日ほど私のところへ来てくれれば私としては大変嬉しいのですが。ああいうことになりましたから大して危険はないように思われます。天気は晴れ模様です。でもカステルヌオーヴォにはいる前に一休みしてください。街道に召使を一人出しておきます。召使たちはみんなあなたに夢中になっています。勿論この小旅行のあいだはボッシという名で通すこと。あなたは立派なカプチン会の修道士〔カプチン会は十六世紀に創立されたフランチェスコ派の系統の修道会。この修道士は質素な生活をし、大抵長い髯を生やしている〕みたいな髯《ひげ》を生《は》やしているそうね。パルマではいつも副司教らしい端正な顔をしていたのに』
リスカラ、わかった?」
「わかったとも。しかしジェノヴァ旅行は無用の贅沢だな。私はパルマである男を知っている。いかにもまだ懲役には行っていないが、かならずうまくやってのけられるよ。サンセヴェリーナの筆蹟をみごとに真似て見せるだろう」
この言葉を聞いてバルディ伯爵はその美しい目をかっとみひらいた。やっと呑《の》みこめたのだ。
「あなたはそのパルマの御仁《ごじん》のことをよく知っていて、出世させてやろうと思ってるんでしょうけれども、勿論相手のほうもあなたのことをよく知ってるわけね。その人の愛人なり聴罪師なり友だちなりがサンセヴェリーナ側に買収されることだってあり得るわ。このちょっとしたいたずらは数日先に延ばしても、決してあぶない真似はしないほうがいいと思うの。二人して虫も殺さぬ顔で二時間後に出発して、ジェノヴァでは誰にも会わず、大急ぎで帰って来なさい」
リスカラ士爵は笑いながら退散した。おどけた恰好《かっこう》で走りながら「それでは荷造りせにゃならぬ」とプルチネッラ〔イタリアの仮面喜劇の道化役〕よろしく鼻声で言っていた。バルディを夫人と二人だけにしてやろうと思ったのだ。五日たってリスカラは侯爵夫人のもとへ、かすり傷だらけのバルディ伯爵を連れもどした。六里ほど近道するために、伯爵に騾馬《らば》の背で山を越えさせたのだ。伯爵は今後もう何と言われても大旅行《ヽヽヽ》などしはせぬぞといきまいていた。バルディは侯爵夫人に、彼女が口述した手紙の写し三部と、リスカラが文案を作った同じ筆跡の手紙五、六通を渡した。後で利用できるかもしれないというのである。これらの手紙のうちの一つは、大公が夜になるとどんな恐怖に駆られるかとか、大公の愛人バルビ侯爵夫人が見るも無慙《むざん》に痩《や》せこけていて、彼女がちょっと腰をおろしただけでその安楽椅子のクッションにピンセット形の痕《あと》が残るとかという、まことに気の利いた冗談が書いてあった。どの手紙もサンセヴェリーナ夫人の手になるものとしか見えなかった。
「今はもう確実だけど」と侯爵夫人は言った。「あのファブリツィオは、ボローニャかその付近にいるのよ……」
「私はもう体が駄目だ」バルディ伯爵は夫人の言葉をさえぎって叫んだ。「その二度目の旅行はどうか免じていただきたい。でなければ、せめて何日か休んで健康をとりもどしたい」
「君のために弁じて上げよう」とリスカラは言い、立ち上がって侯爵夫人にこっそり何か言った。
「そう、いいわ、賛成よ」夫人は微笑して答えてから、
「安心しなさい、行かなくてもいいから」と、かなり軽蔑的な様子でバルディに言った。
「ありがとう」と叫んだバルディの語調は本当にありがたそうだった。
実際リスカラは一人で駅馬車に乗りこんだ。ボローニャに着いて二日になるかならぬかのうちに彼は、ファブリツィオと小さなマリエッタが四輪馬車に乗っているのを見かけた。(へへえ! われらの未来の大司教、すっかりいい気になってるな。こいつは公爵夫人に知らせねばならん、公爵夫人は大喜びするだろう)ファブリツィオの住所を知るにはそのあとをつけて行きさえすればよかった。翌朝ファブリツィオはジェノヴァで書かれた手紙を飛脚から受け取った。ちょっと短すぎると思ったが、それ以外には何も疑惑を抱かなかった。公爵夫人と伯爵に再会できると思うと嬉しくてたまらなくなり、ロドヴィーコが何と言おうとおかまいなしに駅馬を借りてギャロップで駈け出した。彼は全然知らなかったが、ちょっと離れてリスカラ士爵が後をつけていた。リスカラがパルマから六里ほどのカステルヌオーヴォの手前の駅に着いてみると、村の牢獄の前の広場にたくさん人が集まっている。駅で馬を替えているところを見つけられたわれらの主人公が、ツルラ伯爵が選んで派遣した二人の警吏によってその獄へ送られたところだったのだ。
リスカラ士爵の小さな目は喜びにかがやいた。この小さな村で起こったことの一部始終を模範的な根気のよさで調べてから、彼はラヴェルシ侯爵夫人に飛脚を送った。そうした上で、大変めずらしい教会を見物に行き、次いでこの土地にあると聞いて来たイル・パルミジャニーノ〔十六世紀のイタリア画家で、特に宗教画が多い〕の絵を捜すなどしてあちこちの通りを歩きまわるうちに、彼は法務官とぶつかった。法務官は参事官と見てあわてて敬意を表する。リスカラはさいわいあの謀叛人《むほんにん》を逮捕することができたというのに、どういうわけで即刻パルマの城砦に送らなかったのか不思議だという顔をして見せた。
「一昨日《おととい》あの男の味方の連中が多勢あの男を捜して、うまくこの大公領を通過させてやろうとしていたが、そいつらが憲兵とぶつからないといいのだが。この叛徒たちは馬に乗って十二、三人はいたからね」
Intelligenti pauca!(「頭のいい人間にはわずかな言葉で足りる」)と法務官は抜け目なさそうな顔をして叫んだ。
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第十五章
二時間後、哀れなファブリツィオは手錠をはめられ、それのみか自分の乗ったセディオーラに長い鎖でしばりつけられて、八人の憲兵に守られてパルマの城砦にむかって出発した。この憲兵たちは一行の通過する村々に配置されているほかの憲兵たちを残らず連れて帰るように命じられていた。法務官自身がこの重大な犯人に同行した。午後七時頃セディオーラはパルマじゅうのいたずら小僧どもと三十人の憲兵に守られて美しい散歩道を通過し、数か月前ファウスタが住んでいた小邸宅の前を通り、とうとう城砦の外門に着いた。ちょうどそのときファビオ・コンティ将軍とその娘は外へ出ようとしていた。長官の車はファブリツィオのしばりつけられていたセディオーラを通すために跳橋《はねばし》の手前で止まった。将軍はすぐ城砦のすべての門をしめろと叫び、何が起こったのかちょっと調べようとして入口の詰所へ急いだ。囚人が誰だかわかると彼はすくなからず驚いた。囚人のほうはこんなに長い道中セディオーラにしばりつけられていたのですっかり体が硬《こわ》ばってしまっている。四人の憲兵が引き起こして収檻の受付まで運んで行く。(それではあの有名なファブリツィオ・デル・ドンゴがわしの掌中にはいったわけだ)と虚栄心の強い長官は思った。(一年近くもパルマの上流社交界はこの男のことで持ち切りだったのだが!)
二十回も将軍は宮廷や公爵夫人の家やその他で彼に会っていたのだが、彼を知っているようなそぶりは見せなかった。自分に累《るい》が及ぶのを恐れたのだ。監獄書記にむかって将軍は叫んだ。
「カステルヌオーヴォの法務官から囚人の引き渡しを受けた旨《むね》の詳しい書類を作れ」
書記のバルボーネはただでさえすごい髯面《ひげづら》で軍人的な風采のため恐ろしく見える人物だったが、このときはふだんよりももっと偉そうな顔をして見せた。まるでドイツの看守みたいだった。自分の主人である将軍が陸軍大臣になるのを妨げているのはまず第一にサンセヴェリーナ公爵夫人だと信じているから、囚人に対していつもよりも横柄な態度を取ったのだ。囚人に対して voiという呼びかたで言葉をかけたが、それはイタリアでは召使に対する言葉づかいなのである。
「私は神聖なローマ教会の高級聖職者だ」とファブリツィオは毅然《きぜん》として言った。「しかもこの大司教区の副司教である。家柄だけからいっても敬意をはらわれてしかるべきだ」
「そんなことは知るもんか!」と書記はずけずけと言い返した。「そんなりっぱな肩書があるんなら、ちゃんとした書類を見せて証明するがいい」
ファブリツィオは書類など持っていないので、返事もしなかった。ファビオ・コンティ将軍は書記の横に立って書記の書くのを眺めていたが、囚人のほうへ目をやらなかった。この囚人はほんとにファブリツィオ・デル・ドンゴだと言わずにすましたかったからだ。
馬車のなかにいたクレリア・コンティの耳に、衛兵所のなかで突然恐ろしい騒ぎがするのが聞こえた。バルボーネ書記が囚人の人相|風体《ふうてい》を失敬な書き方で長々と記述しながら、ジレッティとの一件の際に受けた傷の数と状態を確認するため服をぬげと命じたのである。
ファブリツィオは苦笑して言った。
「それは駄目ですな。御命令に従うことは不可能だ、手錠が邪魔するのでね」
「何だと!」と将軍が何も知らなかったような顔をして叫んだ。「囚人は手錠をはめているのか! 城砦のなかで! それは規則に反する。特別の命令なしにはそんなことはできんのだ。手錠をはずしてやれ」
ファブリツィオは将軍を見た。(こいつはおかしな偽善者《ジェズュイット》だな! 一時間も前からおれがこの手錠でさんざん窮屈な思いをしているのを見ていたくせに、驚いたようなふりをしゃがる!)
手錠は憲兵がはずした。彼らはファブリツィオがサンセヴェリーナ公爵夫人の甥だということを知って、書記の粗暴さとは対照的ないやに礼儀正しい態度を急に示しはじめた。書記にはこれが気にさわったらしく、動こうともしないでいるファブリツィオにむかって言った。
「さあ、早くするんだ! ジレッティを殺したときに受けた傷を早く見せなさい」
ファブリツィオはさっと書記に飛びかかつて猛烈な平手打ちを加えたので、バルボーネは椅子から将軍の足の上にころげおちた。憲兵たちはファブリツィオの両腕をおさえたが、ファブリツィオはじっとしていた。将軍と将軍のそばにいた二人の憲兵が、顔からしたたか血を流している書記をあわてて引き起こした。すこし離れていた別の二人の憲兵が駈けて行って部屋の扉をしめた。囚人が逃走しようとするのではないかと思ったからである。指揮していた憲兵班長は、何といってもここが城砦の内部である以上、ファブリツィオが本格的な逃走を試みることはできぬはずだと考えた。けれども彼は混乱を防止するため、また憲兵としての本能からも、窓のそばに行った。開いてあるこの窓の真向かいに、しかも二歩ばかりのところに将軍の馬車は止まっていたのだ。クレリアは受付のなかで起こっている不愉快な場面を見たくなかったので奥のほうに身をひそめていたのだが、この騒ぎが聞こえるとそちらへ目をやった。
「どうしたの?」と彼女は班長に言った。
「若いファブリツィオ・デル・ドンゴがあの横柄《おうへい》なバルボーネを思いっきりひっぱたいたんです!」
「何ですって! 牢に引っぱって来られたのはデル・ドンゴさんなの?」
「そうですとも。あの若者は身分が高いから、こうやっていろいろと四角張った手続きをやっているんです。お嬢さまは知っていらっしゃるんだと私は思ってました」
クレリアはもはや馬車の扉から離れようとしなかった。机のまわりにいる憲兵たちがちょっとさがったとき彼女は囚人を見た。(コモ湖畔の街道ではじめてあの方に会ったとき、次にはこんな情けないことでお目にかかることになると誰が思ったろう?……お母さまの馬車に乗せようとして手をかしてくださった……。あのときすでに公爵夫人と御一緒だった! 二人の恋はあの頃もうはじまっていたのかしら?)
ラヴェルシ侯爵夫人とコンティ将軍に率いられた自由党のなかでは、ファブリツィオと公爵夫人とのあいだに恋愛関係があるのは疑いないと誰も信じているような顔をしていたことをここで読者に申し上げねばならぬ。彼らの大嫌いなモスカ伯爵は、瞞《だま》されているということでしょっちゅう冗談の種にされていた。
(それではあの方は捕われの身になってしまった、しかも敵の手中に! いくらモスカ伯爵が天使みたいな人だったところで、あの方が捕えられたのを知ったら大喜びするにちがいないんだから)
衛兵所のなかでどっと爆笑が起こった。
「イャコポ」と彼女はおちつかない声で班長に言った。「一体どうしたの?」
「将軍がどうしてバルボーネをなぐったのかと手厳しくお訊きになったんです。するとモンシニョーレ・ファブリツィオは『あいつは私を人殺しと呼んだ。それなら私をそう呼ぶだけの資格と、それを証明する書類を見せてもらいたい』とおっしゃったんで」
字の書ける獄吏がバルボーネと代わった。クレリアはバルボーネが出て来るのを見たが、醜怪な顔からどくどく流れる血をハンカチで拭《ふ》いている。彼は異教徒のように口ぎたなく罵《ののし》っていた。
「あのファブリツィオの野郎め!」と大きな声で彼は言った。「きっとこの手で殺してやるぞ。人を押しのけても死刑執行人の役はおれがやる……」
衛兵所の窓と将軍の馬車のあいだのところでたちどまって、彼はファブリツィオをにらんだ。罵り方はますますひどくなった。
「行け行け」と班長が言った。「お嬢さまの前でそんなに口ぎたなく言うものじゃない」
バルボーネは顔を上げて馬車のなかをのぞきこみ、彼の目はクレリアの目と合った。恐怖の叫びが彼女の口から洩れた。こんな残忍な表情をこれほど近くで見たことは一度もなかったのだ。(この男、ファブリツィオを殺すわ! ドン・チェーザレに言わなくちゃ)これは彼女の叔父で、町で最も尊敬されている聖職者の一人だった。兄であるコンティ将軍が牢獄の会計係と主任|教誨師《きょうかいし》の地位に彼をつけたのだ。
将軍は馬車にもどった。
「おまえは家に帰るか? でなければ宮殿の庭で多分長いこと待たねばならんが。この顛末を御主君に報告して来なくちゃならぬからな」
ファブリツィオは三人の憲兵に囲まれて衛兵所から出て来た。きめられた部屋に連れられて行くのだ。クレリアは馬車の扉越しに眺めており、囚人は彼女のすぐそばを通った。ちょうどそのとき彼女は父親の問いにこう答えていたところだった。「御一緒にまいります」
ファブリツィオはすぐそばで言われたこの言葉を聞いて目を上げ、その目は娘の視線と合った。何より彼は娘の憂愁の表情に驚かされた。(コモ湖のそばで出逢って以来、何て美しくなったことだろう! 何という深い思いをこめた表情だ!……公爵夫人(サンセヴェリー夫人)と比較されるのも当然だ。何という天使のような顔立ちだ!)血だらけの書記バルボーネはわざと馬車のそばにいたのだが、ファブリツィオを連れて行く憲兵を手真似で引き止めて、馬車のうしろをまわって将軍のいるほうの扉に行った。
「囚人は城砦のなかで暴力行為に及びましたから、規定第百五十七条によって三日間手錠をほどこすべきではないでしょうか?」
「うるさい!」と将軍は叫んだ。とにかくこの逮捕で彼にとって面倒なことが起こって来たのだ。彼としては公爵夫人をもモスカ伯爵をも窮地に追いつめないようにしなければならなかった。それにまた、伯爵はこの事件をどのように処理するだろうか? 結局のところジレッティ殺害などは些事にすぎなかった。陰謀があったればこそ、それが少々問題になったにすぎない。
この短いやりとりのあいだ、憲兵にかこまれたファブリツィオは堂々としていた。これ以上とはないまでに毅然《きぜん》とした、これ以上とはないまでに高貴な顔つきだった。上品で繊細な目鼻立ちと口もとにただよう蔑《さげす》むようなほほえみは、まわりにいる憲兵たちの下品な様子とはこころよい対照をなしていた。しかしそれらすべてはいわば彼の容貌の外的な部分をなしているにすぎなかった。彼はクレリアのこの世のものならぬ美しさに魅せられており、その目は心のなかの驚きをそっくりあらわしていた。彼女のほうは物思いに沈んで扉から頭をひっこめようともしなかった。彼は敬意をこめて軽くほほえみながら会釈《えしゃく》した。それからちょっと間《ま》を置いて、
「以前どこかの湖のそばで、憲兵と御一緒のときにお目にかかったことがあるように思いますが」
クレリアは顔を赤らめ、狼狽のあまり答えるべき言葉が思いうかばなかった。ファブリツィオが言葉をかけたとき、ちょうど彼女は(あんな下品な連中のまんなかで何と気品のある様子をしていらっしゃることだろう)と心のなかで言っていたのだ。深い同情、いや、胸のしめつけられるような感動とも言うべきものに沈んでいて、何か言葉を思いつくだけの機転がなくなっていたのだが、自分が黙っていたことに気がついてますます彼女の顔は赤くなった。ちょうどそのとき城砦の大門の閂《かんぬき》が乱暴に引き抜かれた。閣下の馬車はすくなくとも一分は待たされていたものと見える。この円天井の下ではその音は猛烈に響いたので、たといクレリアが答えるべき言葉をいくつか思いついたところでファブリツィオにはそれが聞こえなかっただろう。
馬車を挽《ひ》く馬は跳橋《はねばし》を過ぎるとすぐギャロップで走り出し、車のなかでクレリアは思った。(あの方には私はよっぽど滑稽に見えただろう!)それから急に、(いや、滑稽だけではない、私のことを心の卑しい人間と思われたろう。私があの方の挨拶にこたえなかったのは、あの方が囚人で私が長官の娘だからだとお考えになったろう)
こう考えることは、高貴な心を持ったこの娘にとっては絶望的なことだった。(私のやりかたはほんとうに卑しいものだったわ。はじめてお逢いしたときには、あのときもあの方の言われたように|憲兵と一緒《ヽヽヽヽヽ》だったけれど、私のほうが囚人だった、そしてあの方は私に親切にしてくださり、苦しい羽目《はめ》から救ってくださったんだから……。そうだわ、これはどうしても認めなくちゃならないが、私のやりかたは言語道断だ。下品でしかも恩知らずだった。ああ、おかわいそうに! 苦境に陥ったとなれば皆があの方に恩知らずな態度を取るだろう。あのときあの方は、「パルマにいらっしゃっても僕の名をおぼえていてくださるでしょうか?」とおっしゃった。今あの方は、どれほど私を軽蔑していらっしゃるだろう? 一言|鄭重《ていちょう》なことばを言うくらい簡単なことだったのに! そう、自分でも認めなくちゃならないけど、あの方に対する私の態度は残酷だった。あのとき、もしあの方が親切にお母さまの馬車に乗れとすすめてくださらなかったら、私は埃《ほこり》を浴びて歩いて憲兵について行くか、もっとひどければ、あの連中の馬の尻《しり》に乗って行かねばならなかったのだ。お父さまが捕えられ、私はひとりぼっちだったのだから! そうよ、私のやりかたは言語道断だわ。あのような方だから、どれほど強くそれをお感じになったことだろう! あんな高貴な容貌と私のやりかたとではまったく対照的ではないか! 下劣な敵にかこまれた英雄のように見えた! これで公爵夫人が夢中になっていらっしゃるのもわかる。恐ろしい結果をひきおこしかねない困難な事態のなかですらあんな様子なのだから、楽しい気持ちでいらっしゃるときにはどんな風にお見えになることだろう!)
城砦長官の馬車は宮殿の中庭に一時間半以上もとどまっていたのに、将軍が大公のもとから出て来たとき、クレリアは父があまり長く引き止められていたように思わなかった。
「殿下の御意向はどうでしたの?」とクレリアは訊いた。
「口では禁錮とおっしゃっていたが、目では死刑と言っておられた」
「死刑ですって! まあひどい!」とクレリアは叫んだ。
「おいおい、黙りなさい!」将軍はむっとして言った。「子どもの言うことに返事するなんておれも馬鹿だった!」
その頃ファブリツィオはファルネーゼ塔に通ずる三百八十段の階段を昇っていた。これは大きな塔の屋上に建てられた新しい牢獄で、非常に高いところにある。彼は自分の身の上に起こった大変化を一度も考えようとはしなかった。すくなくともはっきり考えようとはしなかったのだ。(何という目つきだ!)と彼は思った。(何といろいろなことをあの目はあらわしていたことか! 何という深い同情! まるでこう言っているようだった、人生は不幸の連続です! こんなことになってしまったからといってあまり悲しまないで! どうせこの世にいるかぎり人間は不幸になるようにできているのではないかしら? 馬があんなひどい音を立てて円天井の下を走って行ったときでさえ、あの美しい目はおれに注がれたままだったじゃないか!)
ファブリツィオは自分が不幸なことをすっかり忘れていた。
クレリアは父親についていくつかのサロンをまわった。夜もはじめのうちは誰もあの大罪人《ヽヽヽ》の逮捕のニュースをまだ知らなかった。二時間後にはもう廷臣たちはこの哀れな軽率な若者を大罪人と呼ぶようになったのだ。
この夜はクレリアの面上にいつもよりも活気が認められた。ところが、生気とか周囲のことに関心を持つこととかは、まさにこの美少女に最も欠けていたことだったのだ。彼女の美しさが公爵夫人のそれと比較される場合、競争相手の公爵夫人のほうが優位に立つのは何よりも、彼女の何ものにも心を動かされないようなこの様子、あらゆるものに超然としているようなその態度のためだったのだ。虚栄の国であるイギリスやフランスでは多分これと正反対の意見を人々は持っただろう。クレリア・コンティはグイード(グイード・レーニはイタリアのボローニャ画派の巨匠)の描いた美女たちにも比せられるような、まだ少々ほっそりしすぎた娘だった。正直に言うと、目鼻立ちの少々目立ちすぎるところ、たとえば唇がいかにも人の心を打つ魅力に溢れていたが少々厚すぎるところが、ギリシア的な美の条件に従えばこの顔の欠点とすることもできたろうが。
素直な魅力ときわめて高貴な心根のはっきり見えているこの顔の持つすばらしい特徴は、独特な美貌にもかかわらず全然ギリシアの彫刻の顔には似ていないということだったのだ。公爵夫人のほうには反対に、|普通の《ヽヽヽ》理想美が少々ありすぎた。そして本当のロンバルディア型のその顔はレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた美しいヘロディアスの肉感的な微笑と甘美な憂愁を思わせるのだった。公爵夫人が快活で才智と茶目っ気に溢れていて、こう言えるものなら会話の流れに乗って心に映じて来るすべてのものに情熱的に飛びつくのとちょうど反対に、クレリアのほうは自分の周囲のものを無視しているのか何かあらぬ幻影をなつかしんでいるのか、物静かでなかなか物事に心を動かさなかった。長いあいだ人々は彼女は結局信仰生活にはいるのだと信じていた。二十歳というのに舞踏会へ行きたがらない様子が見えた。父と一緒に舞踏会に出るのはまったく服従でしているだけ、父の大望の実現をさまたげぬためにしているだけだった。
(この国で一番美しい、一番貞淑な娘をさずかったというのに)と、俗っぽい心しかない将軍はしょっちゅう思うのだった。(それを自分の出世のために利用することはこれではまず不可能だ! おれの生活はあまりにも孤独だ。おれにはこの世にあの娘しかいない。ところがおれには社交界でおれを支えてくれ、いくつかのサロンをおれのために開いてくれる家が何としても必要なのだ。おれの才能や、とりわけ閣僚となる資格が当然の前提となって、その上であらゆる政治的議論がおこなわれるようなサロンだ。ところが、あんなに美しく、あんなにおとなしく、あんなに信心深い娘なのに、宮廷でちゃんとした地位を持っている青年がお世辞でも言おうとしようものならたちまち機嫌をそこねてしまう。その求婚者を追っぱらってしまうと、性格もちょっと明るくなり、別の候補者が出て来るまでは陽気にさえ見えるほどなのだ。宮廷一の美男のバルディ伯爵が名乗り出たが嫌われてしまった。この国で一番金持ちのクレッシェンツィ侯爵がつづいてあらわれたが、あの人は自分を不幸にすると彼女《あれ》は言っている)
また別のときには将軍は言うのだった。
(たしかに娘の目は公爵夫人の目よりきれいだ。時たまあの目はいつもより深い表情を示すこともあるが、そういうときはなおさらだ。しかしあのすばらしい表情も、いつ人がそれを見ることがあるか? サロンでして見せればもてはやされるだろうに、決してサロンでは見せない。いつもおれと二人だけで散歩するとき、たとえばどこかの醜い土百姓の不幸にあわれみをおぼえたときにしか見せないんだ。「今夜行くサロンのためにそのすばらしい目つきをすこし取っておけ」とおれは時々言ってやるんだが、一向にそんなことはしない。やっとおれと一緒に社交界に出て来てくれても、高貴で清らかなあの顔は受身の服従をあらわす愛想っ気《け》のない、だいぶ高慢な表情しか見せないと来ている)
ごらんのように将軍は適当な婿《むこ》を見つけるためならどんな奔走も厭《いと》わなかったのだが、彼の言っていることは事実だった。
廷臣たちは自分の心のなかをのぞいてみるということは決してないが、他のすべてのことには注意深い。公爵夫人がクレリアのそばによくたちどまって話をさせようとするのは、彼女が自分の心にかかる夢想を投げ捨てて何かに興味を持つようなふりをする気さえない日であることに彼らは気がついていた。クレリアの髪は灰色がかった金髪で、微妙な、しかし総じてすこし蒼《あお》すぎる肌色をした頬の上にやわらかな感じで引き立って見えた。ただ額の形だけは、注意深い観察者の目には、かくも高貴な外貌、卑俗な魅力をはるかに超えたその物腰が一切の卑俗なものに対する徹底した無関心から来ていることを語っていたはずだ。何かに対して興味が持てないのではなく、そもそも興味などというものがないのだ。父親が城砦の長官になって以来、クレリアは高い部屋のなかに住んで、幸福ではないまでもすくなくとも煩わしさからは解放されていた。大きな塔の前の広場にあるこの長官の邸宅に行くには、ものすごくたくさんの階段を昇って行かねばならないから、うるさい訪間者などはなかった。そしてクレリアはこういう実際的な理由から、修道院におけるような自由を味わっていたのだ。それはほとんど、ひところ彼女が宗教生活のなかで求めようかと思った理想的な幸福だった。自分の大切にしている孤独と心のうちのいろいろな思いとを、夫という肩書だけでこの内面生活のすべてをかきみだす権利を持つことになる若い男にゆだねるなどとは、考えただけでも彼女はぞっとするのだった。孤独によって幸福には到り得なくても、すくなくとも堪えがたいほど苦痛な感じは味わわないですむのだった。
ファブリツィオが城砦に連れて来られた日に、公爵夫人は内務大臣ツルラ伯爵の夜会でクレリアに逢った。皆が彼女たちのまわりに集まった。この夜はクレリアの美しさは公爵夫人のそれを凌《しの》いでいた。娘の目はあまりにも異様な、あまりにも意味深げな表情を示していて、ほとんど無遠慮と見えるほどだった。この目つきのなかには同情があり、また激しい憤《いきどお》りもあった。公爵夫人の陽気さや才走った考え方に時々クレリアは嫌悪に近いほどの苦痛を感じているように見えた。(恋人が、あんな高潔な心とあんな高貴な容貌を持ったあの青年が投獄されたと知ったならば、かわいそうに、あの方はどんなに叫んだり呻《うめ》いたりなさるだろうか! しかも殿さまの目つきは死刑を命じていたという! ああ、絶対権力などというものがイタリアを圧迫するのはいつになったらやむのだろう! 金次第で動く卑しい人の心! けれど私だって獄吏の娘なのだ! しかも私はファブリツィオの挨拶に答えなかったことで、そういう大変お上品な性格を見せつけたんだ! 以前あの人は私に親切にしてくれたというのに! 今頃あの人は監房でただ一人小さなランプと向かい合って私のことを何と考えているだろう?)こう考えると我慢ができなくなってクレリアは内務大臣のサロンの絢爛《けんらん》たる照明を嫌悪の目で見まわした。
花形となっているこの二人の美人をとりまいて、この二人の会話に何とか口をはさもうとしている廷臣たちは思っていた。(二人があんなに生き生きした、しかもあんなに親しげな様子でしゃべっていたことは一度もない。総理大臣に対する反感をなくそうといつも気をつかつている公爵夫人は、クレリアのために有利な華々しい結婚でも考えついたのだろうか?)このような推測の根拠は、これまで一度も宮廷では見られなかったような事情にあった。つまり、娘の目には美しい公爵夫人のそれよりも輝きが、いや、こう言えるならば情熱があったということである。公爵夫人のほうはこの孤独な娘のうちに見出したかつてない魅力に驚き、そしてこれは彼女の名誉のために言えることだが、それに陶然としていた。一時間ばかり彼女は、恋仇《こいがたき》を見て人が感ずることなどはまずめったにないような喜びをもって娘を眺めていた。(でも、一休どうしたんだろう?)と公爵夫人は思った。(クレリアがこれほど美しかったこと、そして言うなればこれほどいじらしかったことはなかった。心が語り出したとでもいうのかしら?……しかしそうだとすれば、勿論それは叶《かな》わぬ恋なのだ。今までになかったこの活気の底には暗い苦しみがあるもの……。でも、叶わぬ恋はおもてにあらわれぬものだ! 社交界で喝采を得て浮気男の心をとりもどそうというんだろうか?)そうして公爵夫人は周囲にいる青年たちを注意深く見まわした。特別な表情はどこにも見られなかった。あいかわらずの多かれ少かれ満足げな自惚《うぬぼれ》の表情だけだ。(とにかくここにはわけのわからないことがある)公爵夫人はどう考えてもわからないので腹立たしくなった。(モスカ伯爵はどこにいるのかしら、あの炯眼《けいがん》な人は? そう、間違いない、クレリアは熱心に私をみつめているのだ、私が何か今までなかった関心の対象にでもなったかのように。卑しい廷臣である父親から何か命令でもされたためなのかしら? あの高貴で若い心は金銭上の利害関係に動かされるほど堕落するはずはないと私は思っていたけれど。ファビオ・コンティ将軍は何か伯爵に重要な頼みでもあるのだろうか?)
十時ごろ公爵夫人の味方のものが一人近づいて、低い声で何かちょっと言った。彼女は真蒼になった。クレリアは夫人の手を取り、思い切り強く握りしめた。
「ありがとう。これでわかりましたわ……あなたは心の美しい方ね!」自分の心を抑えながら公爵夫人は言った。
わずかこれだけの言葉を言うのもやっとのことだった。この家の女主人が立ち上がって一番はしのサロンの扉まで送ってくれるのに対して彼女は笑顔を惜しまなかった。これほどまで礼をつくすのは最も高貴の女性に対してのみなのだが、今の立場では公爵夫人にとって残酷な見当違いのように思われた。それ故彼女はツルラ伯爵夫人に対してしきりに微笑をふりまきながら、どんなに努力してみても一言も言うことはできなかった。
社交界でも最もきらびやかな人々の群がるサロンのまんなかを公爵夫人が通り抜けて行くのを見ながら、クレリアの目は涙に溢れた。
(馬車のなかで一人だけになられたらあの気の毒な方はどうなるだろう? 御一緒にまいりましょうなどと私が言い出したら無躾《ぶしつけ》だろう! とてもその勇気はない……。でも、どこかひどい監房のなかに小さいランプを前にして坐っていらっしゃる気の毒な方にしてみれば、これほどまでに愛されているとわかったらどれほどの慰めになるだろう! 何という恐ろしい孤独にあの方は投げこまれていることか! そして私たちはといえば、こんな煌々《こうこう》としたサロンにいるのだ! ああ、たまらない! 一言だけでもあの方に伝える手段がないものかしら? でもそんなことをしたらお父さまを裏切ることになる。二つの党派のあいだにあってお父さまの立場は微妙なのだ! 公爵夫人の激しい憎悪にさらされたらお父さまはどうなるだろう? 国務の四分の三は自分の思うままにできる総理大臣の意志を動かしている公爵夫人の! また一方では、大公は城砦で起こることに始終関心を持っていらっしゃるし、こうした問題については冗談は許されない。恐怖のために残酷になっていらっしゃる……。いずれにしてもファブリツィオは(彼女はもうデル・ドンゴさまとは言わなかった)ずっと気の毒だ! 収入のいい地位を失うかもしれない危険なんてものではないんだから!……それに公爵夫人のことも!……恋とは何という恐ろしい情熱だろう!……ところが世間の嘘つきたちは幸福を生むもののように言っている!……今見たことを私は決して忘れないだろう。何という唐突な変わり方だったことか! あんなに美しくあんなに輝かしかった公爵夫人の目が、N……侯爵が運命の一言を言うとあんなに暗くあんなにどんよりとしてしまったではないか!……ファブリツィオはよっぽど愛される値打ちのある人なのだわ!……)
非常に深刻なこうした考え事にすっかり心を奪われていると、依然として周囲で言われている褒《ほ》め言葉など彼女にはいつもよりも一層不愉快なものに思えた。それから解放されようとして彼女は、タフタのカーテンで半ば蔽われている開かれた窓のそばに行った。この逃げ場所とでも言えるところまであつかましくついて来るものはいまいと思ったのだ。その窓は地面に植えられたオレンジの小さな茂みを見おろしていた。実は毎年冬になると、このオレンジの木は屋根で蔽わねばならなかったのだ。クレリアはその花の芳香をうっとりと嗅ぎ、この快感が多少彼女の心に平静をとりもどさせてくれるように思えた……。(あの方はとても気品のある態度をしていらっしゃった)と彼女は思った。(それにしても、あれほど優れた女性の心にあのような情熱をかきたてるとは!……あの方は大公のねんごろな思召《おぼしめし》をはねつけるという心意気をお見せになった。あの方さえその気になればこの国の王妃にだっておなりになれたのに……。お父さまのおっしゃるところでは、御主君の情熱は昂じて、自由な身になったらあの方と結婚なさりたいというほどまでになったとか!……ところがファブリツィオヘの愛情はもう随分長いことつづいているのだ! だって私がコモ湖のそばであの方たちに出逢ってからもう七年にもなるんだもの!……)ちょっと考えてから彼女は思った。(そうよ、七年前だわ。あのときですら私は強い印象を受けた、子供だったからいろんなことに気がつかなかったのに! あの二人の奥さまたちはどれほどファブリツィオをいつくしんでいるように見えたことか!……)
あれほど熱心に話しかけて来る青年たちのうち誰一人としてこの露台《バルコン》にはあえて近づこうとしないのに気がついてクレリアは嬉しかった。そのうちの一人、クレッシェンツィ侯爵は、こちらのほうへ数歩進んで来たが、ゲーム台のそばでたちどまってしまった。彼女は思った。(城砦の家の私の小さな窓は、あの家で影ができるただ一つの窓だが、せめてあの窓の下にこのようなきれいなオレンジの木が見られたら、私はいつもこうまで悲しいことばかり考えていないですむだろうに! ところが見えるものといってはファルネーゼ塔の巨大な切石だけなのだ……ああ(びくっとして彼女は叫んだ)、多分あの人はあそこに入れられたのだ! 早くドン・チェーザレに話せないものか! ドン・チェーザレなら父ほど厳しくはないだろう。父は城砦に帰ってもきっと何も言わないだろう。でもドン・チェーザレから何もかも聞くことができる……。私にはお金がある。オレンジの木を何本か買うこともできよう。鳥部屋の窓の下に植えれば、ファルネーゼ塔のあの大きな壁も見えなくなるだろう。あの壁のおかげで日の目を見られない人をひとり知っている今、どれほどあの壁が私にとって厭《いと》わしいものになるかわからない!……そうだ、私があの人を見たのはこれが三度目だ。一度は宮廷で、大公妃のお誕生日の舞踏会のときに。今日は三人の憲兵にかこまれ、あのいやらしいバルボーネが手錠をはめさせろとか言っていたとき。そしてあのコモ湖畔で逢ったとき……。あれからもう七年になる。あのときあの人はいかにもいたずらっ子らしい様子をしていた! どんな目つきであの人は憲兵どもをにらみつけたか、そしてお母さまと叔母さまは何という奇妙な目であの人を眺めていらっしゃったか! たしかにあの日あの方々のあいだには何か秘密が、何か特別なことがあったのだ。当時私はあの人が憲兵を恐れているのだと思ったものだが……)クレリアははっとした。(でも、何て私は無知だったのだろう! おそらくもうあのときから公爵夫人はあの人に関心を抱いていたのだ……。あの御婦人がたはあきらかに何か心配事を持っていらっしゃったが、それでも見知らぬこの私がそばにいることにしばらくしてちょっと慣れて来られたとき、あの人は冗談を言ってさんざん私たちを笑わせてくれた!……それなのに今日私は、あの人が私に言った言葉に答えることができなかった!……ああ、無知と臆病! この二つは何としばしば最も恐るべき陰険さによく似ていることか! しかも私はもう二十歳過ぎなのだ!……修道院入りを考えるのも当然だった! ほんとに私は隠遁生活にしか向かないのだ!『いかにも獄吏の娘らしい!』とあの人は思ったろう。あの人は私を軽蔑している。公爵夫人に手紙を書けるようになったら早速私の無礼を告げるだろう。そうすれば夫人は私のことを表裏《ひょうり》のある小娘だと思うだろう。今夜あの方は私があの方の不幸に対して心から同情してるものと思ったろうから)
クレリアは誰かが近づいて来るのに気がついた。どうもこの窓の鉄のバルコンで彼女と肩をならべようとしているらしい。よくないことだと思いながらも彼女は腹が立った。今邪魔のはいったこの夢想は楽しいものでなくはなかったのだ。(うるさい人が来た。追っぱらってやるから!)と彼女は思った。傲然たる目つきをしてふりかえると、それとわからぬほど小刻みな足どりでバルコンに近づいて来る大司教のおずおずした顔が見えた。(この聖人君子は作法を知らない)とクレリアは思った。(どうして私のような哀れな娘を悩ましに来るんだろう? 私の持っているものといえば心の安らかさだけなのに)彼女はうやうやしく会釈したが、顔つきは尊大だった。大司教は言った。
「あなたは恐ろしい噂をごぞんじかな?」
娘の目は早くも表情を一変させていた。しかし父親からくどいほどたたきこまれていた教訓にしたがって、彼女は何も知らぬふりをしてこう答えたが、目のほうはまったく別のことを言っていた。
「猊下《げいか》、私は何も聞いておりません」
「私の第一副司教ファブリツィオ・デル・ドンゴは、私と同様あのならず者ジレッティの死について責任があるわけですが、ジュゼッペ・ボッシという偽名でボローニャに住んでいるところを拉致《らち》されました。あなたの城砦に監禁されたのです。乗った馬車に|鎖でしばりつけられて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》城砦へ着きました。バルボーネという獄吏みたいな男が、これは自分の兄弟を殺したあげく恩赦を受けた男ですが、ファブリツィオに個人的な暴力をふるおうとしました。けれども私の若い友人は侮辱を忍ぶような人間ではありませんから、その汚らわしい敵を叩きのめしてしまいました。その結果手錠をはめられて地下六メートルの独房に押しこまれてしまったのです」
「手錠なんてことはありませんわ」
「ああ、あなたは何かごぞんじだな!」と大司教は叫んだ。老人の顔つきから深い失望の表情が消えた。「だが何はともあれ、誰かがこのバルコンに近づいて来て邪魔をすると困る。この司教の指環をあなたの手でドン・チェーザレに渡していただけると期待していいかの?」
娘は指環を受け取ったが、万一なくしでもしたらと思うとどこへ入れたらいいかわからなかった。
「親指にはめなさい」と大司教は言い、自分ではめてやった。「この指環を渡してくださると考えてよろしいか?」
「はい、猊下《げいか》」
「これから言うことを秘密にすると約束してくれますか? たとい私がお願いすることに応じられぬと思った場合でも?」
「はい」老人が急に暗い真剣な顔をするのを見て顫《ふる》えながらクレリアは答えた。「大司教さまがお命じになることでしたら、御自分にも私にも恥になるようなことであるはずはありませんもの」
「ドン・チェーザレに伝えてください、わしは自分の養子をあなたにあずけるのだと。あれをつかまえて来た警吏どもは、あれが祈祷書を持って来る時間も与えなかったというが、ドン・チェーザレが自分のを与えてやってほしい。叔父上が明日大司教邸へ使いをよこしてくれれば、ファブリツィオにやった本のかわりのものをわしがさしあげる。それからまた、今この美しい指にはめてある指環をデル・ドンゴ氏に渡すこともドン・チェーザレにお願いしたい」
大司教は娘を馬車まで送ろうとして、迎えに来たファビオ・コンティ将軍にさまたげられた。ちょっと言葉が交されたが、司教のほうはこのときはなかなか如才がなかった。新しい囚人のことなどおくびにも出さず、話をしているうちに、ある種の道徳的また政治的な金言を自然に口にのぼせるようにした。たとえば、宮廷生活においては最も高位の人物の生活をさえ長期にわたって決定してしまうような危機があるものだとか、政治的な疎隔というものは多くの場合それぞれの立場の対立の単なる結果にすぎないのだが、そうした疎隔を個人的憎悪《ヽヽヽヽヽ》に変えてしまうのははなはだしい軽率というものであろうとか。司教はまったく思いがけないファブリツィオの逮捕についての心痛で思わず少々昂奮しすぎて、こんなことまで言ってしまった。自分の得ている地位を守ることは勿論必要だが、相手が決して忘れぬようなある種のことまでやってのけて後々まで恐ろしい怨恨を買うなどというのは、まったく無用の軽率さである、と。
将軍は馬車のなかで娘と二人きりになると娘に言った。
「あれは脅迫というものだ……。おれのような人間にむかって脅迫などとは!」
二十分間にわたって父と娘のあいだに交わされた言葉はこれだけだった。
大司教の指環を受け取ったときのクレリアは、馬車に乗ったら大司教からのこのちょっとした依頼のことを父に告げようと心に誓ったのだった。しかし怒りをこめてこの脅迫《ヽヽ》という言葉が使われるのを見ると、彼女は父親がこれを阻止することは確実だと思ってしまった。左手でその指環をかくし、夢中になって握りしめた。内相邸から城砦へ帰るあいだじゅう、父に話さぬことは自分にとって罪だろうかと彼女は考えつづけた。彼女は非常に敬虔で非常に小心だった。いつもはごく静かな彼女の心臓はついぞない激しさでときめいていた。しかし、父親に駄目だと言わせないようなうまい言葉が見つからないうちに、門の上の城壁に配置された歩哨の誰何《すいか》の声が近づく馬車にむかって響いた。彼女は父親に駄目だと言われるのをそれほど恐れていたのである! 長官邸に通ずる三百六十段の階段を昇るときにもクレリアには何の思案もうかばなかった。
彼女は急いで叔父に話したが、叔父は彼女を叱り、そんなことをする気は全然ないと言った。
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第十六章
弟のドン・チェーザレを見るや否や将軍は叫んだ。
「どうだ、公爵夫人はおれのことをからかい、囚人を救い出すために十万エキュも投げ出すだろうて!」
しかしさしあたってわれわれはファブリツィオをパルマの城砦のてっぺんにある獄中に残しておかねばならない。監視は厳重で、今度会うときには彼も少々変わっているかもしれない。まず何よりもわれわれは宮廷を見ることにする。宮廷でのきわめて複雑なたくらみと、そして何よりも一人の不幸な女性の情熱が彼の運命を決定しようとしているのだ。ファブリツィオはファルネーゼ塔の監房へ通じる三百九十段の階段を昇ったが、この瞬間をあれほど恐れていたのに、自分の不幸のことを考える時間が全然ないことに気がついた。
ツルラ伯爵の夜会から帰宅すると公爵夫人は手真似で侍女たちをさがらせた。それから服もぬがずにベッドの上にくずおれて彼女は大声で叫んだ。
「ファブリツィオは敵の手中に陥っている、そして私のために毒を盛らされるかもしれない!」
このような状況判断の後、あまり理性的ではなく、その時その時の感情にいつも左右され、しかも自分でそうと認めていないものの、あの若い囚人に気が狂うほど恋している女性が陥った絶望の一時《いっとき》は、まったく筆舌につくせぬものだった。言葉にならぬ叫び、こみあげて来る激怒、痙攣的な動作がつづいたが、涙は流れなかった。こうしたところを見せまいとして彼女は侍女たちをさがらせたのだ。ひとりになったらよよと泣き伏してしまうだろうと彼女は思っていた。ところが大きな苦痛の第一の慰めである涙というものがまったく出て来ない。怒り、憤り、大公のほうが役者が上だったという気持ちがこの倨傲《きょごう》な心を完全に占領していたのだ。
(すっかり手玉に取られた!)と彼女はひっきりなしに叫んでいた。(私は侮辱され、それのみかファブリツィオの命はおびやかされている! しかも私は復讐できない! お待ちなさい、大公、私を殺すのはいい、あなたにはその力がある。でも、その後で私があなたの命をちょうだいしますよ。でも、ああかわいそうなファブリツィオ、そんなことをしてもあなたには何の役に立つだろう? 私がパルマを去ろうとしたあの日とは何という違いだ! あの日は私は自分が不幸だと思っていたのに……何という愚かさ! あのときは快適な生活の習慣をすべて打ち捨てようとしていたのだ。ああ、あのとき何も知らぬまま私は、自分の運命を決定してしまうような一つの事件を起こそうとしていたのだ。伯爵が俗っぽい廷臣のさもしい習慣で、大公が虚栄心から私に与えたあの宿命的な手紙のなかの|不正な裁判《ヽヽヽヽヽ》という言葉を抹殺しなかったとすれば、私たちは救われていただろうに。大公の愛しているパルマの町のことで大公の自尊心にうったえたのは、抜け目のないやりかたというよりも幸運だったにすぎない。そのことは認めなくちゃならない。あのとき私は行ってしまうと脅迫してやった、私は自由だったからだ! ああ、今の私はもう奴隷だ! 今私はこうしてこのきたならしい掃《は》きだめに釘づけにされ、ファブリツィオは城砦につながれている、多くの優れた人々にとって死の控え室だったあの城砦に! そしてもう私には、その巣から逃げ出すようなそぶりを見せてあの虎を抑えることはできないのだ!
大公は頭がいいから、私の心はあのきたならしい塔にしばりつけられていて、決して私があの塔から離れて行くことはないと感じているはずだ。こうなるとあの男の傷つけられた虚栄心はどんな奇想天外なことを思いつくかしれない。そこに一風変わった残酷さがあれば、大公の驚くべき虚栄心はますます刺戟されるばかりだろう。また以前のように気の抜けた口説《くぜつ》でもはじめて「あなたの奴隷の心を受けてください、でなければファブリツィオは死にます」などと言って来たら、そのときは昔のユーディット〔伝説中のユダヤの女性。ベツレヘムを包囲した敵将ホロフェルネスに貞操を犠牲にして近づき、その寝首をかいたことで有名〕と同じことをやってやる……。そうとも、でもそうなれば私は自殺すればすむのだけれども、ファブリツィオも殺されることになる。あの間抜けな世継ぎの公子と、汚らわしい死刑執行人ラッシは、私の共犯者としてファブリツィオを絞首するだろう)
公爵夫人は叫び声を上げた。どうしても抜け道の見出せないこのあれかこれかという難問に彼女の不幸な心は引き裂かれた。頭が混乱して、これ以外のことはどうしても起こり得ないように感じられる。十分ほど彼女は気が狂ったもののように悶《もだ》えていた。やっと疲労|困憊《こんぱい》のあまりしばらく眠りこんで、この恐ろしい状態からのがれられた。精も根もつきはてていた。数分後彼女ははっと目を覚まし、ベッドの上に体を起こした。自分の目の前で大公がファブリツィオの首を刎《は》ねさせようとしているように思えたのだ。何という血迷った目で公爵夫人はあたりを見まわしたことか! 大公もファブリツィオもそこにいないと知ってしまうと、またベッドにばったりと身を横たえた。もうすこしで失神するところだった。休もぐったりとしてしまって、ベッドの上で姿勢を変える力さえないように感じられた。
(神さま、このまま死ねたら!……いや、何という無気力さだ! 私がファブリツィオを不幸のままに置いて行くなんて! 私はどうかしている……。さあ、現実にもどらなくちゃ。自分から好んで落ちこんだようなこの恐るべき立場を冷静に考えてみよう。何という因果な迂闊《うかつ》さだ! 絶対君主の宮廷に来て生活するなんて! 自分の犠牲者の顔をすべて知っている暴君のところで! 彼らの目の一つ一つが暴君には自分の権力に対する挑戦のように見えるのだ。ああ、伯爵も私もミラノを去るときこのことがわかつていなかったのだ。私は楽しい宮廷の好ましいところばかり考えていた。ウジェーヌ公の華やかな時代よりは劣るとしても、それに類したもののことを!
自分の臣下のすべての顔を知っている専制君主の権威がどんなものかということなどは、遠くからではとても想像もつかない。専制主義の外形はほかの政府のそれと同じだ。たとえば裁判官もいる。しかしそれはみんなラッシの手合《てあい》だ。あんな人でなしは、大公の命令とあれば自分の父親を絞首することも当然と思う……それが自分の職務だなどと言うのだろう……。ラッシを誘惑するか! 何という惨めな私! 私には全然その手段はない。何をやればいい? 十万フランでも! この前|兇刃《きょうじん》がふるわれたとき、神はこの情けない国に対して怒っていたから大公にこの兇刃を免れさせたのだったが、あのとき大公は一万ツェッキーノを金貨で小箱に入れてあの男に送ったんだそうだ! それにまた、どれほどの金額ならあの男を誘惑できるだろうか? 人々の目のうちに軽蔑だけしか見て来なかったあのきたならしい心の男は、今そんなことをされれば畏怖を、それのみか敬意をすら見せられたといい気になる。あいつは警察大臣になるかもしれない。なれないはずがあるだろうか? そうなればこの国の住民の四分の三はあいつに卑しいお追従《ついしょう》を言い、あいつの前でびくびくするだろう、今あいつが君主の前でびくびくしているのと同じ卑屈さで。
この何ともやりきれない土地から逃げ出すわけに行かない以上、この土地でファブリツィオの力になれるようにしなければならない。ひとりだけで絶望の生活を送る! そんなことではファブリツィオのために何をしてやれるか? さあ、|前進するのだ《ヽヽヽヽヽヽ》、|不幸な女よ《ヽヽヽヽヽ》。自分の義務をはたすのだ。社交界に出て行き、もうファブリツィオのことなど念頭にないようなふりをするのだ……かわいい人、あなたを忘れたようなふりをするのよ!)
この一言で公爵夫人は涙にくれてしまった。やっと泣くことができたのだ。人間の弱さに一時間ほど浸《ひた》った後、自分の頭がはっきりしはじめたのに気がついて彼女は少々心を慰められた。(魔法の絨毯《じゅうたん》でも手に入れて、城砦からファブリツィオを救い出し、誰も追跡に来ない、たとえばパリのような幸福な国にあの子と一緒に逃げられたら。最初は、あの子の父親の執事がこっけいなほど几帳面に送って来る一万二千フランで暮らすんだ。私の財産の残りからだって十万フランはかきあつめられるだろう!)公爵夫人の空想はパルマから三百里離れた土地で送る生活を何とも言えぬ歓喜をもってこまごまと思い描いた。(パリでなら)と彼女は思った。(あの子も偽名で軍務につけるかもしれない……。あの勇敢なフランス兵の連隊に配属されたら、間もなく若いヴァルセッラは評判になるだろう。結局あの子も幸福になる)
こうした楽しいことを思い描いているとまたしても涙がうかんで来たが、今度のは快い涙だった。それでは幸福はどこかに存在するのだ! この心境は長くつづいた。気の毒なこの女性は恐ろしい現実を考えるのがたまらなかったのだ。とうとう暁の光が庭木の梢に白い線を引きはじめると、彼女は無理矢理に自分の心をおさえつけた。(数時間後には私は戦場に立つのだ。行動しなければならぬ。そしてもし何か気にさわるようなことがあったら、大公がファブリツィオに関係のあることを一言でも私に言ったりしたら、私には充分冷静を保っていられる自信はない。だから今ここで覚悟をきめなければならない。
もし私が国事犯ときめつけられたら、ラッシはこの邸にあるものをすべて押収《おうしゅう》させるだろう。今月の一日、伯爵と私は習慣どおり警察に悪用されそうな書類は全部焼き捨ててしまった。その伯爵は警察大臣なのだ。これがおもしろいところだ。私は多少値打ちがあるダイアモンドを三つ持っている。明日になったらグリアンタで昔私の船頭をしていたフルジェンツィオをジュネーヴにやって、あれを確実なところへ保管させることにする。いつかファブリツィオが脱走したら(神さま、私にお恵みを! と言って彼女は十字を切った)、あの途方もない卑怯者のデル・ドンゴ侯爵は、正統な君主から追跡されている男にパンを送るのは罪だと思うだろう。そうなってもファブリツィオにはすくなくとも私のダイアモンドがある。パンにはありつけるだろう。
伯爵とは手を切る……こんなことになった後であの人と二人きりになるなんてことは私には不可能だ。かわいそうな人! あの人は決して悪い人じゃない。ただ弱いのだ。あの俗っぽい心には私たちのような高貴さはない。かわいそうなファブリツィオ! どうしてあなたは今わずかの間でもここにいて、私たちの身の危険について相談に乗ってくれないの!
伯爵の細心すぎる慎重さは私の計画には邪魔になるだろう。それにまたあの人を私のまきぞえにして破滅させてはならない……。だって、あの暴君の虚栄心は私を投獄させずにはおかないだろうから。私は謀叛《むほん》をたくらんだことにされる……これ以上簡単に証明できることはないだろうから。もしあの城砦へ送られ、金をふんだんに使ってファブリツィオとほんの束の間でも話すことができたとすれば、二人でどれほど凛然《りんぜん》として死にむかって行けるだろう! しかしこんな馬鹿な考えはやめよう。ラッシはあの子に、毒を飲んで私と一緒に死ねと勧めるだろう。私が護送車に乗せられて街を通ればこのパルマの人々も憐れみを唆《そそ》られるかもしれない……。まあ、何てこと! あいかわらず小説めいたことを! でも仕方がない、ほんとにこんな悲しむべき境涯に陥ってしまった女には、このような心の乱れも許してやらねば! とにかくたしかなのは、大公は私を殺させようとはしまいということだ。しかし私を牢獄に投げこみ、獄にとどめておくことはいたって簡単だ。あの気の毒なL……の場合のように、私の邸のどこかにありとあらゆる怪しい書類を匿させておく。そうすれば、いわゆる証拠物件《ヽヽヽヽ》なるものがあるのだから、それほど悪党でもない三人の裁判官と、いんちきな証人が十数人もいれば充分だ。これで謀叛をたくらんだものとして私に死刑を宣告することができる。そしていとも仁慈深き大公におかせられては、かつて私が宮廷に迎えられる栄に浴したことにかんがみて、刑を十年の城砦禁錮に減じられるというわけだ。けれども私は、ラヴェルシ侯爵夫人やその他の敵どもにあんなにいろいろと馬鹿げたことを言われる原因となった激しい気性をつらぬこうとして、決然と毒を仰ぐ。すくなくとも世間は人がいいからそう信じるだろう。けれどもあのラッシが私の独房にやって来て、御親切にもストリキニーネかペルージャ〔ここの製薬業は今日もなお有名〕の阿片の小壜を大公からと言って渡してくれることは必定《ひつじょう》だ。
そうだ、伯爵とは公然と仲たがいしなければならない。あの人を私の破滅の道連れにしたくない、そんなことをしたら恥知らずだから。かわいそうにあの人はあんなに無邪気に私を愛してくれた! 恋をすることができるだけの心が本物の廷臣に残っていると考えたのが私の愚かさだったのだ。大公が私を投獄する何らかの口実を見つけるだろうということはまず疑いない。私がファブリツィオのことで世論を惑わしはしないかと大公は思うだろう。伯爵は名誉の人だ。いざとなったらたちまちあの人は、この宮廷の俗物どもが驚き呆《あき》れて狂気の沙汰と呼ぶようなことをやってのけるだろう。宮廷を去ってしまうだろう。あの手紙の一件のあった夜、私は大公の権威に楯《たて》をついた。虚栄心を傷つけられた大公は私に対して何をするかわからない。大公と生まれた男があの夜私が味わわせた苦い気持ちを忘れたりするだろうか? それに私と仲たがいしてしまえば伯爵は、ファブリツィオのために力になるのに都合のいい立場になる。しかし、もし私の決心を知って絶望に陥った伯爵が復讐しようとしたら?……とんでもない、そんな考えは決してあの人の頭にうかぶはずがない。あの人は大公のような心底まで卑しい心を持っていない。伯爵は泣きの涙で下劣な勅令《ちょくれい》に副署することはあろうが、名誉を知る人間だ。それにまた、何に対して復讐するのか? あの人の愛情をいささかも裏切ることなく五年間愛しつづけて来た私が、「伯爵、私はあなたを愛することができて幸福でした。ところがその炎も消えてしまいました。もうあなたを愛していません! でも私はあなたの心の底までよく知っていますし、深くあなたを尊敬しています。いつまでもあなたは私の最も親しいお友だちです」と言ったことに対して復讐するのか?
これほど正直な言い分に、紳士なら何と答えるだろう?
私は新しい恋人を作る。すくなくとも世間ではそう信じるだろう。その恋人に言ってやる。「結局のところ大公がファブリツィオの軽率を罰するのは正しいのよ。でも誕生日のお祝いの日にはきっと私たちの慈愛深い殿さまはあの子を釈放してくださるでしょう」これで半年は稼げる。策略で選ぶその恋人は、あの買収された裁判官、あの汚らわしい死刑執行人、あのラッシの奴《やつ》でなけりゃならない……。あの男は叙爵されるだろう。そして実際私はあの男を社交界にはいらせてやろう。許して、いとしいファブリツィオ! こんなにまでするのは私には堪えられないことだ。ああ、まだP伯爵やDの血が体じゅうにこびりついているあのけだものなど! あの男が近づいて来たら私は嫌悪のあまり卒倒するだろう。いや、それより私は短刀を取ってあの汚らわしい心臓に突き立ててやる。不可能なことをしろなどといってもはじまらない!
そうだ、何よりもファブリツィオのことを忘れるのだ! そして大公に対する怒りなどはすこしも見せず、私のいつもの陽気さを見せるのだ。あのきたならしい連中にはこれは余計好ましいものに見えるだろう。第一に、私が喜んであの連中の君主に服従しているように見えるだろうし、第二には、あの連中のことを馬鹿にするどころか、私は連中のほんのちょっとした長所を引き立たせるように心がけてやるのだから。たとえはツルラ伯爵が最近リヨンから飛脚を使って取り寄せて、今得意になっているあの帽子の白い羽根飾りがきれいだとお世辞を言ってやるのだ。
ラヴェルシ派のなかから恋人を選ぼうか……。伯爵が辞職したらあの派が与党になる。権力はそちらに移る。ファビオ・コンティは入閣するから、城砦の長官になるのはラヴェルシの味方の誰かだろう。けれども、上流社会人で才智の人であり、伯爵のそつのない仕事に慣れてしまっている大公が、あの牛のような男とどうして協力して行ける? 何しろあれは、公国の兵隊の軍服のボタンは七つにすべきか九つにすべきかという大問題に一生没頭して来た大馬鹿者なんだから。こういう手のつけられない馬鹿者どもは私をひどく妬《ねた》んでいる。そしてそこが、いとしいファブリツィオ、あなたにとって危険なところなのよ! こういう手のつけられない馬鹿者どもが私とあなたの運命を決定することになるのよ! だから伯爵が辞表を提出するのは許しておけない! たとい侮辱を受けようとも伯爵は内閣にとどまらなければ! 伯爵は辞表を出すことは総理大臣たるもののおこない得る最大の犠牲だといつも思っている。そして鏡を見て自分も年を取ったと思うたびに、私のためにこの犠牲をおこなおうと言ってくれる。だから決定的にあの人と仲たがいしてしまわねば。そうだ。辞職を思いとどまらせるには和解する以外にないという場合にだけ和解してやるのだ。勿論手を切るときにはできるだけやさしくしてあげよう。でも大公の手紙からいかにも廷臣らしく|不正な裁判《ヽヽヽヽヽ》という言葉を削ったときから、あの人を憎むまいとすれば数か月あの人に会わずに過ごすことが必要だと私は感じていた。あの決定的な夜には、私はあの人の才智など必要としていなかったのだ。あの人はただ私の言うとおりに書くべきだったんだ。私の意地でかちとったあの言葉を書きさえすればよかったんだ。卑しい廷臣の習慣のほうが強かったのだ。翌日あの人は私に、あんまり馬鹿げた手紙に大公に署名させるわけにはいかなかった、必要なのは特赦状《ヽヽヽ》だと言った。とんでもない、あんな連中を、|ファルネーゼ《ヽヽヽヽヽヽ》一門などというあの虚栄心と怨恨のかたまりみたいな連中を相手にするときには、取れるものは取らなくちゃならないのだ)
こう考えると公爵夫人の怒りはそっくりよみがえって来た。(大公は私を瞞《だま》した。しかもその卑劣さたるや!……あの男は何としても許せない。才人で、目はしも利《き》くし、筋道を立てた考え方もできる。ただ情念だけが卑しいのだ。伯爵と私には何度となく気がついていたことだけど、あの男の精神が俗っぽくなるのは自分が侮辱されたと思ったときだけだ。ところで、ファブリツィオの罪は政治とは無関係だ。この平和な国でも年に百回もあるつまらない殺人にすぎない。しかも伯爵は、綿密に情報をあつめてみたがファブリツィオは無罪だと私に断言したのだ。あのジレッティは決して勇気のない男ではない。国境がすぐそばだと思って、好かれている恋仇をかたづけてしまおうという気に急になったんだ)
公爵夫人はファブリツィオの有罪を信じられるかどうかと長いこと考えてみた。自分の甥ほどの身分の貴族にとって一人の無礼な大道芸人を殺したことがそれほど大きな罪になると思ったわけではないが、絶望に沈んでいる彼女にはファブリツィオのこの無罪を証明するために一戦交えねばならなくなるだろうと漠然と感じられて来た。(そんなことはない)ととうとう彼女は言った。(決定的な証拠がある。あの子も死んだピエトラネーラと同じで、ポケットというポケットにいつも武器を入れているのだが、あの日は粗末な単発銃しか持っていなかった。それも人夫から借りたものだ。
私は大公を憎む。私を瞞したからだ、それも最も卑劣なやりかたで。赦免《しゃめん》の手紙を与えた後で、あのかわいそうな子をボローニャで捕えさせるなど。でもこのお返しはしてやるから)
朝五時頃、この長い絶望の発作に疲れはてた公爵夫人は鈴を鳴らして侍女たちを呼んだ。侍女たちは叫び声をあげた。服を着、ダイアモンドをつけたまま、敷布と同じくらい蒼白な顔をして目をつぶっているベッドの上の夫人を見ると、死んで告別のためにベッドに横たえられているように見えたのだ。いま夫人が鈴を鳴らしたのだという記憶がなければ、彼女らは夫人が完全に失神していると思ったろう。めったに見られない涙が時々感覚を失った彼女の頬の上に走った。女たちは夫人の身振りで彼女が就寝したいのだということを悟った。
ツルラ伯爵の夜会の後、モスカ伯爵は二度公爵夫人の家を訪れた。そのたびに追い返されたので、伯爵は自分の一身上のことで彼女の意見を聞きたいのだと手紙を書いた。「あんな侮辱を受けてなおも地位にとどまるべきか?」というのだ。伯爵はつけくわえていた。「あの青年は無罪です。ですが、たとい有罪だったとしても、私にことわらずに逮捕していいものでしょうか? あの青年の公然たる保護者であるこの私に?」公爵夫人がこの手紙を見たのは翌日になってからだった。
伯爵は美徳などというものは持っていない。それどころか、自由主義者たちが美徳《ヽヽ》という言葉であらわしているもの(最大多数の幸福を求めること)などは彼には欺瞞としか見えなかったとつけくわえてもいい。自分は何よりもまずモスカ・デッラ・ロヴェーレ伯爵の幸福をはからねばならないと彼は思っていた。しかし辞職云々と言ったときには信義と誠実に溢れていたのだ。これまで一度も彼は公爵夫人に嘘をついたことはなかった。もっとも彼女のほうはこの手紙をいささかも問題にしなかった。彼女の決意、|ファブリツィオのことは忘れたふりをしよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というつらい決意は固まっていた。これだけの無理をした後では、ほかのことなどはすべてもうどうでもよかったのだ。
それまで十回もサンセヴェリーナ邸に足を運んでいた伯爵は、あくる日の正午頃、ようやく面会を許された。公爵夫人の様子を見て彼は仰天した……。(彼女も四十歳だ)と彼は思った。(昨日まではあんなに華やかであんなに若々しかったというのに!……クレリア・コンティと長々と話しているあいだ、あの娘と同じくらい若々しくもっと魅力的に見えたと誰もが言っていたが)
公爵夫人の声も口調もその外貌と同じくらい異様だった。その口調には情熱も人間的関心も怒りもまったくなく、伯爵は蒼白になった。それを聞くと彼は、つい数か月前臨終の床にあってすでに秘蹟を受けながら、なお彼と話をしようとした一人の友人の様子を思い出したのだ。
数分してから公爵夫人は口をきくことができた。彼をみつめたが、その目には光はなかった。
「伯爵、お別れしましよう」弱々しい、しかしはっきりした声で彼女は言った。やさしい声で言おうと彼女は努めていた。「お別れしましよう、別れなければなりません! この五年間あなたに対して私が非の打ちどころのない態度を取って来たことは神さまもごぞんじです。グリアンタの城で暮らせばどうしても免れられぬはずだった倦怠のかわりに、あなたは華やかな生活を私に与えてくださった。あなたがいらっしゃらなければ私は何年か早く老いこんでいたことでしょう……。私のほうでも、私の心がけていたのはただ一つ、あなたが幸福を得られるように努めることでした。私がこのようなフランスで言う友好的《ヽヽヽ》な別れ方をしようと申し上げるのは、あなたを愛していればこそですわ」
伯爵はわけがわからなかった。彼女は何度も同じことをくりかえさねばならなかった。伯爵は死人のように蒼白になり、彼女のベッドのそばに倒れるようにひざまずいて、恋の情熱に溺れた才人が心の底からの驚きの、次いで最も強烈な絶望のなかで思いつくかぎりのことをならべたてた。絶えず彼は辞表を出すとか恋人と一緒にパルマから遠く離れたところに行って身をひそめようとか言うのだった。とうとう彼女は半ば身を起こして、
「あなたは逃げ出すなんておっしゃるの、ファブリツィオはここにいるのに!」と叫んだ。
けれどもこのファブリツィオという名が苦い印象を与えたのに気がついて、しばらく言葉を切った後で伯爵の手を軽く握りながら彼女はつけたした。
「ねえあなた、三十歳を過ぎたらとても抱《いだ》けないと私には思われるあの情熱や熱狂をもってあなたを愛したとは私も言いますまい。私はもうとっくにそんな年齢を過ぎていますもの。人々はあなたに、私がファブリツィオを愛していると言ったかもしれない。そういう噂がこの陰険な宮廷に流れていることは私も知っていますから。(この|陰険な《ヽヽヽ》という言葉を口にするとき、この会話のなかではじめて彼女の目はきらめいた)神さまの前で、しかもファブリツィオの命にかけて私はあなたに誓うけれど、第三者の目が見るに堪えないようなことはどんなつまらないことでもあの子と私のあいだにはなかったのよ。まるっきり姉のようにあの子を愛しているのだとも私は言いますまい。言うならば本能的にあの子を愛しているんです。まるで自分でも意識していないような、ごく素朴な申し分のないあの勇気を愛しているのです。こういう感嘆のようなものをおぼえはじめたのは、あの子がワーテルローから帰って来たときだったと思います。十七歳になっていたくせにあの子はまだ子供だった。あの子の一番の気がかりは、自分はほんとに戦闘に参加したのかどうか、もし参加したとすれば、敵の砲兵陣地にむかっても隊列にむかっても進んで行かなかった自分が戦ったかと言えるかどうかということでした。この重大問題について二人で真剣に議論していたときです、私があの子のうちにある申し分のない魅力に気づきはじめたのは。あの子の高貴な魂が私にわかったのです。ほかの育ちのいい青年なら、あの子と同じ立場にあったらどれほどもっともらしい嘘をならべたてたろう! とにかく、あの子が幸福でなければ私も幸福になれないのです。あら、この言葉は私の心境をよくあらわしているわ。それが真実とは言えないとしても、すくなくとも私にわかつているのはそれだけなの」
この率直で親密な口調に励まされて伯爵は彼女の手に接吻しようとした。彼女はぞっとしたようにその手を引いた。
「もう終わりよ。私ももう三十七、老年にはいりかけているのです。すっかり気力もなくなったように感じるし、もしかするとお墓も近いかもしれない。死ぬときは恐ろしいといいますけれど、私は死を望んでいるような気がします。老年の最悪の徴候を私は感じているの。この恐ろしい不幸で心の火は消え、もう愛することはできない。伯爵、あなたも私には、昔いとしかった人の影としか見えないんです。さらに言えば、あなたとこんなことをお話ししているのもただ感謝の心からだけなんです」
「私はどうなるんだ?」と伯爵は彼女にむかってくりかえした。「私のほうはスカラ座であなたに会ったあの最初の頃よりももっと情熱的にあなたにひかれているというのに!」
「一つ打ち明けてしまいますけれど、恋を語るなんてことは私にはうんざりだし、はしたないことに思えるのです」彼女は笑顔を見せようとしたができなかった。「さあ、元気を出して! 才智の人、分別のある人、機に応じていくらでも頭の働く人になってちょうだい。世間の人たちの目には、あなたはイタリアがこの何百年かのあいだに生んだ一番抜け目のない人間、最も敏腕な政治家ではありませんか。私に対してもそうなってください」
伯爵は立ち上がり、沈黙のまましばらく歩きまわった。
「それは不可能だ」と彼はしまいに言った。「私はこれ以上とはなく激しい情熱に引き裂かれている、それなのにあなたは理性の声を聞けなどとおっしゃるのだ! 私にとってはもう理性なんてものは存在しない!」
「情熱なんて話はやめましょう、お願い」と彼女はそっけなく言った。
もう二時間も話していて彼女の声が何らかの表情を帯びたのはこれがはじめてだった。伯爵はみずから絶望していたのに彼女を慰めようとした。
「あの人は私を瞞《だま》したのです」伯爵がまだ希望は持てるとしてその理由を述べようとするのに全然答えようともせずに彼女は叫んだ。「|あの人は《ヽヽヽヽ》最も卑劣なやりかたで私を裏切ったのです!」
そして彼女の死人のような蒼白さは一瞬消えた。しかしこの激しい昂奮の瞬間ですら、腕を上げる力も彼女にないことに伯爵は気がついた。
(ああ、何ということだ!)と彼は考えた。(単に病気だけだとは考えられない。もし病気だとしたら、よほどひどい病気のはじまりだろう)そこで不安に堪えられなくなった伯爵は、この地方のみかイタリア全土でも第一流の医師である有名なラゾーリを呼んではと言った。
「それではあなたは、私の絶望がどれほどのものかを見も知らぬ人に知らせてやってもいいとおっしゃるんですか?……裏切り者としておっしゃっているの、それとも味方として?」
そして彼女は異様な目つきで彼をみつめた。
(もうおしまいだ)と彼は絶望にくれながら思った。(もうおれに愛情を抱いていない! そればかりか、おれをごく普通の名誉を重んずる人間の列にも加えていないんだ)
「実を言うと」と伯爵は急いでつけくわえた。「われわれを絶望させたこの逮捕について私は何よりそのくわしいいきさつを知ろうとしたんですが、奇妙なことに、はっきりしたことはまだ何もわかつていないんです。人をやって近くの駐在所の憲兵たちに訊かせてみたが、彼らは囚人がカステルヌオーヴォ街道からやって来るのを見、そのセディオーラについて行けという命令を受けたという。そこで私はすぐブルーノをやった。あの男の仕事熱心なことと忠実さはあなたもごぞんじでしょう。駐在所から駐在所へたぐって行ってファブリツィオがどこでどのようにして捕えられたか調べて来いと命令してあります」
ファブリツィオの名が口にされるのを聞くと公爵夫人の体にかすかな痙攣が走った。
口がきけるようになると彼女は伯爵に言った。
「ごめんなさい。その顛末《てんまつ》は私にも非常に興味があります。何もかも話してください、どんな些細なことでも私が充分理解できるように」
「では申しますが」伯爵は彼女の気持ちを多少なりとまぎらわせようとして気軽な様子で腰をおろしながら言った。「私はもう一人腹心のものをブルーノのところへやりたいと思っています。この者にはボローニャまで足を伸ばせと命じるのです。われわれの若い友人が捕えられたのは多分ボローニャでしょう。彼の最後の手紙の日づけはいつでしたか?」
「五日前の火曜日です」
「郵便局で開封されていましたか?」
「開いた跡は全然ありません。おことわりしなくちゃならないけど、ひどい紙に書いてあったんです。宛名《あてな》は女の文字で書いてあって、それも私の侍女の親戚の洗濯婆さんのものでした。その洗濯婆さんはこれは恋文だと思いこんでいるので、チェキーナは心づけをやらずにただ配達料だけ返してやったそうよ」
実務家らしい調子を完全にとりもどしていた伯爵は、公爵夫人と意見を交しながらボローニャでファブリツィオが捕えられた日がいつだったかをつきとめようとした。いつもはあれほど明敏なのに、このときになってはじめて彼は最初からこういう調子で出るべきだったのだと気がついたのである。こうした委細は不幸な夫人の興味をひき、多少彼女の心をまぎらすように思えた。恋していなかったら伯爵は部屋にはいるなり、こんな単純なことには気がついていたろう。早速忠実なブルーノに新しい命令を送るために帰ってくれと公爵夫人は彼に言った。たまたま大公が公爵夫人にあてた手紙に署名する以前にすでに判決が下されていたのかどうかということが問題になったので、夫人は飛びつくようにこの機会を捉えて伯爵に言った。
「あなたが書いて大公が署名したあの手紙から|不正な裁判《ヽヽヽヽヽ》という言葉を省《はぶ》いたことを私は咎《とが》めはしますまい。廷臣の本能があなたをおさえつけてしまったのですから。無意識のうちにあなたは、女友だちよりも主人の利益のほうを選んでしまったんです。あなたは私の言うとおりに行動して来てくださったわ、伯爵、それももう随分長いこと。でも自分の持って生まれた性質を変えることはあなたにはできない。大臣になるための立派な才能をお持ちだけど、またそれと同時にこの職業の本能も身につけていらっしゃる。不正《ヽヽ》という言葉を抹殺したことが私の破滅になったのです。けれどもあなたを咎めようなどという気持ちは私にはさらさらありません。それは本能の犯したあやまちで、意志のあやまちではありませんから」
調子を変え、前よりきめつけるように彼女はつけくわえた。「ファブリツィオがつかまったことを私がそれほど悲しんではいないこと、この国を去ろうなどという気持ちはいささかもないこと、大公には心からの敬意を抱いていることを忘れないでください。これをあなたの口から世間に言ってもらいたいのです。それから今度はあなたに申し上げたいのですけれど、今後の身の振り方は私は自分でつけるつもりですから、友好的に、つまり古くからの親しいお友だちとしてあなたと別れたいと思います。私が六十だと思ってください。私のなかの若い女はもう死んでしまいました。私には何ごとについても誇張して考えることはもうできないし、愛することもできません。けれど、あなたの運命をあやうくするようなことになったら、今以上私は不幸になるでしょう。今後私の計画のなかには、若い燕《つばめ》を持っているように見せかけるなどということもはいって来るかもしれませんが、あなたが悲しむのは私は見たくないのです。ファブリツィオの幸福にかけて誓ってもいいのですが(こう言った後で彼女は三十秒ほど絶句した)、私は一度もあなたを裏切ったことはありません、しかもこの五年間のあいだ。随分長い時間ですわ」と彼女は言い、ほほえもうとした。蒼白な頬は顫《ふる》えたが、口もとはほころばなかった。「さらに誓いますが、あなたを裏切ろうと企てたり、そんな気持ちを起こしたりしたこともありません。これだけわかつてくださったら、もうお帰りになってください」
伯爵は絶望にくれてサンセヴェリーナ邸を出た。公爵夫人が彼と別れようとはっきり思いきめているのはわかったが、彼のほうは今ほど狂わしいまでに恋しく思ったことはなかったのだ。こうしたことは私が何度となくくりかえさねぱならぬ事柄の一つだ。イタリア以外の国ではちょっと考えられぬことだからである。帰宅すると彼は六人もの男を別々にカステルヌオーヴォおよびボローニャヘの街道に走らせ、それぞれに手紙を託した。(しかしこれだけではすまない)と不幸な伯爵は思った。(大公はあの不運な青年を処刑させようなどという気まぐれを起こしかねない。それも、公爵夫人が例の因果な手紙の一件のとき大公に対してあんな物言いをしたことに復讐しようとして。公爵夫人が決して人の踏み越えてはならない限界を越えたように私は感じた。そして何とか事態をとりつくろおうとして私は、君主を拘束する唯一のものである|不正な裁判《ヽヽヽヽヽ》という言葉を抹殺するという途方もない失敗をやらかしたのだ……ふん、くだらない! ああいった連中は何かに拘束されるか? おそらくこれこそ私の生涯で最大のあやまちだったろう。私にとって重大なことになるかもしれないというのに、いいかげんにやってしまったのだ。よほど奮発《ふんぱつ》して上手《じょうず》にたちまわってこの迂闊な失敗の埋め合せをつけねばならない。しかし、多少体裁の悪い真似までして何の成果も得られなかったとすれば、あんな男などはほっぽり出してやる。高等政策の夢を見たりロンバルディア立憲王国の王になる計画を立てているあの男が、私に代わってどんなことをやれるか拝見しようじゃないか……。ファビオ・コンティなどは阿呆にすぎない。ラッシの才能などは権力者に嫌われた男の首を合法的にくくること以上に出ない)
ファブリツィオに対する処罰が単なる禁鋼以上のものになれば内閣を去ろうという決意がはつきりと固まってしまうと、伯爵はこう心に言った。(無考えにあの男の虚栄心を傷つけてしまったものだが、そのためにあの男が気まぐれを起こして私の幸福を奪おうとも、名誉のほうは残るだろう……。そういえば、大臣の地位など私は問題にしていないのだから、今朝《けさ》まではまだとても不可能だと思われたような行動にいくらでも出られるわけだ。たとえば、人間の力でできるかぎりのことをしてファブリツィオを脱走させることだってできる……。あっ、そうか!)と伯爵は独語をやめて叫び、思いがけぬ幸福を見たようにその目はかっとみひらかれた。(公爵夫人は一度も脱走ということは私に言わなかった。今度だけは正直なところを言わなかったのか? 仲たがいは私に大公を裏切ってほしいということだったのか? よし、やってやる!)
伯爵の目はいつもの皮肉な俊敏さをとりもどしていた。(あの愛すべきラッシ検察長官は、ヨーロッパでわが国の面《つら》よごしになるような判決を下すたびに主人から金をもらっている。だがまたあいつは、主人の秘密をあばいて私から金をもらうことを拒むような男ではない。あのけだものにも情婦と聴罪司祭がいる。しかし情婦のほうはおそろしく下司《げす》な女で、話をするわけには行かん。翌日には私に会ったことを近所の八百屋のかみさん連中に言いふらすだろう)伯爵はこの一筋の希望で生きかえって、辛くも大聖堂にむかって歩き出していた。自分の足取りの軽さにわれながら驚きながら彼は傷心を忘れて微笑した。(大臣をやめるというのはこういうことなんだ!)この大聖堂はイタリアの多くの聖堂と同様に通りから他の通りへの通路になっている。伯爵は大司教の部下の副司教の一人が本堂を横切ろうとしているのを遠くから認めた。
「ここでお目にかかったからお願いしたい。そうすれば痛風の私が大司教|猊下《げいか》のところまで昇って行くという大変な苦労を免れられますのでね。猊下が聖器室へ降りて来てくだされば大変ありがたいのです」
大司教はこの伝言を聞いて大喜びだった。ファブリツィオのことで大臣に言いたいことが山ほどあったのだ。しかし大臣はその山ほどあることというのが空しいおしゃべりにすぎぬことを見抜いて耳をかそうとしなかった。
「サン・パオロの助任司祭のドゥニャーニというのはどんな人間ですか?」
「料簡《りょうけん》は狭いが野心は大きい男です」と大司教は答えた。「図々《ずうずう》しいが、ものすごく貧之でしてな。われわれにもいろいろと欠点がありまして」
「これはこれは、猊下!」と大臣は叫んだ。「あなたの人物描写はタキトゥス〔ローマの政治家、歴史家。その著には優れた性格描写が見られる〕はだしですな」
そうして笑いながら彼は暇《いとま》を告げた。
官邸にもどるや否や彼はドゥニャーニ師を呼んだ。
「あなたは私の親しい友人ラッシ検察長官の良心をあずかっていらっしゃるそうだが、あの人は何か私に言うことがあるのではないかな?」
それ以上何も言わず挨拶もせずに彼はドゥニャーニを引き取らせた。
[#改ページ]
第十七章
伯爵はもう大臣ではないつもりでいた。(私の隠退はどうせ失寵《しっちょう》と見られるだろうが、さてその失寵の後でわれわれはどれくらい馬を持てるだろうかな)伯爵は自分の財産を調べてみた。大臣になったときには八万フラン持っていた。呆れかえったことに、現在の財産はしめて五十万フランにもなっていないのだ。(これじゃせいぜい年に二万フランの収入だ。私もよっぽど迂闊な人間だと思わねばならん! パルマの町人で私が十五万フランの年収を持っていると思わないものはいまい。しかも大公はこの問題にかけては普通の町人以上だ。私が惨めな暮らしをしているのを見たら、連中は私がうまく財産をかくしているのだと言うだろう。まったくさ)と彼は叫んだ。(あと三か月大臣をしていたらこの財産を二倍にして見せるのに)そう考えると、これで公爵夫人に手紙を書けると思い、この機会にとびついた。しかし今のような夫人との関係のなかで手紙を書くことを許してもらうために、数字と計算だけをならべたてた。「あなたとファブリツィオと私の三人でナポリで暮らすとしても、年収は二万フランしかありません。ファブリツィオと私で乗馬を一頭共用せねばなりますまい」大臣がこの手紙を発送したかしないかのうちにラッシ検察長官の来訪が告げられた。伯爵はほとんど無礼と言っていいほどの尊大さで彼を迎えた。
「どうして君は私が庇護している陰謀家をボローニャで捕えさせ、その上その男の首を斬ろうとするのかね? しかも私に何も言わずに! 私の後釜にすわるのが誰かぐらいは君も知っているんだろうね? コンティ将軍か、それとも君自身かね?」
ラッシは度胆《どぎも》をぬかれた。上流社会とはあまり交際がないので、伯爵が本気なのかどうかわからなかった。ひどく赤くなって、わけのわからない言葉をもぞもぞとつぶやいている。伯爵は彼をみつめ、その困惑ぶりを楽しんだ。突然ラッシは気をとりなおし、悪いことをしているところをアルマヴィヴァに見つけられたフィガロ〔『フィガロの結婚』の登場人物〕のような顔をして平然と叫んだ。
「いや、伯爵閣下、閣下にはざっくばらんに申し上げてしまいましょう。聴罪司祭に対してするようにあなたの質問すべてに答えましたら、私に何をくださいます?」
「サン・パオロ勲章〔パルマ国の勲章〕か金だね、それを与える口実を君のほうで作ってくれるならばだが」
「サン・パオロ勲章のほうがよろしゅうございます、貴族になれますから」
「何だって? 君はまだわれわれ哀れな貴族階級を多少とも尊重してくれるのかね?」
ラッシはその職業に特有のあつかましさをむきだしにして答えた。
「私が生まれつきの貴族だったとすれば、私が絞首させた連中の親類は私を憎みはしても、軽蔑はしないでしょうからね」
「それでは私は君を軽蔑から救ってやろう。そのかわり私の知らないことを教えてくれ。君はファブリツィオのことをどうするつもりなんだ?」
「実は大公も大変困っていらっしゃるのです。アルミーダ〔タッソーの『解放されたイェルサレム』に登場する妖女。その呪術で勇士リナルドを捕えて放さない〕の美しい目に惑わされて――少々どぎついこんな言葉を使って御容赦願いますが、実は殿さま御自身そうおっしゃいましたんで――、実は大公自身もこの目には少々心をひかれているのですが、この目にあなたが惑わされて大公をほったらかして行っておしまいになるのではないかと心配しておられます。ロンバルディアの政務をゆだねるにはあなたしかおりませんからね」そしてラッシは声を落としてつけくわえた。「それどころか、これはあなたにとってすばらしい好機ですよ。私がサン・パオロ勲牽をいただくくらいのことは当然です。もしあなたがファブリツィオ・デル・ドンゴの運命に口出ししない、あるいはすくなくともそれについては公の場でしか大公に話さないと言ってくだされば、大公は国家的報償として、六十万フラン相当の土地を自分の御料地のなかからあなたに与えられるか、もしくは三十万エキュの賜金を与えられるでしょう」
「私はそれ以上のものを期待していたよ。ファブリツィオのことに口出ししなければ、公爵夫人と仲たがいすることになるんだから」
「そこですよ、それもまた大公自身おっしゃっていることなんです。ここだけの話ですが、実は大公は公爵夫人にひどく腹を立てていらっしゃる。あなたがあの魅力的な貴婦人と仲たがいしたら、何しろあなたには御令室がいないんですから、その埋め合せに大公の従姉のイゾータ公女に求婚なさるんじゃないかと心配していらっしゃるんです。年よりとはいえ公女はまだ五十歳なのですから」
「図星《ずぼし》だね」と伯爵は叫んだ。「われわれの御主君はこの国で一番|炯眼《けいがん》でいらっしゃる」
伯爵はこの老公女と結婚しようなどという奇妙な考えなど一度も抱いたことはなかったのである。宮廷の儀式にほとほとうんざりしている人間にこれほどそぐわぬことはない。
彼は自分の肘掛け椅子のそばの小さなテーブルの大理石の上で煙草入れをもてあそびはじめた。ラッシはこの当惑の身ぶりを見て思いがけぬ幸運にありつけるかもしれないぞと思った。彼の目はかがやいた。
「お願いです、伯爵閣下」と彼は叫んだ。「六十万フランの土地なり賜金なりをお受けになる気持ちがおありでしたら、その口きき役には余人でなくこの私を選んでいただけませんか」そして声を落として、「私ならばかならず、賜金の額を増させるか、御料地のほかに相当の森林をつけくわえさせて見せます。とっつかまったあの青二才のことを大公にお話しになるとき、閣下が少々手加減しておだやかな言い方をなされば、国の報償として与えられる土地は公爵領となるかもしれません。くりかえして申し上げますが、大公は目下公爵夫人を目の仇《かたき》にしていますが、それでいて非常に当惑しているんですよ。何か私に打ち明けられない秘密な事情があるんじゃないかと私も時々思ったほどなんで。とにかく、ここで金のなる木が見つかるかもしれない。私は大公の最大の秘密をあなたに売る、しかも全然気兼ねなしに。と申しますのは、私はあなたの不倶戴天の敵と思われておりますから。結局のところ、大公は公爵夫人に対して腹を立てているとしても、一方ではまたわれわれすべてと同様に、ミラノに関する秘密の交渉をうまくやってのけられるのはあなたを措《お》いてないと信じていますからな。御主君の言葉をそっくりそのまま閣下に申し上げることをお許しくださいますか?」ラッシは熱っぽくなって来た。「言葉の配列というものにはしばしばある表情があって、言い変えたのではこの表情は決してわからんものですからね。あなたなら私以上にそこのところをおわかりになるはずです」
「何を言ってもかまわんよ」伯爵は気がなさそうな顔であいかわらず大理石のテーブルを金の煙草入れで叩きながら言った。「言ってくれれば感謝する」
「勲章とは別に世襲貴族の認可状をいただけませんか、そうしたら私としちゃもう思い残すことはありません。私が叙爵のことを大公に話せば大公はこう言われる。『おまえのような悪党を貴族に! 明日から私は店じまいしなければなるまい。パルマではもう誰も貴族になりたがらんだろうからな』さてまたミラノ問題にもどりますが、大公はつい二、三日前こう私におっしゃいました。『われわれのたくらみをさばいて行けるのはあのすれっからしだけだ。私があいつを追い出すとか、あいつが公爵夫人について行くとかしたら、私はいつか自由主義的な君主となりイタリア全土の尊信を受けるという望みを捨てねばなるまい』と」
この言葉を聞いて伯爵はほっと息をついた。(ファブリツィオは死なないですむ)と彼は思った。
生まれてから今までラッシは総理大臣というものと打ちとけた話をすることなどできなかった。彼は有頂天になっていた。この国では一切の卑しいもの下劣なものの同義語となっているこのラッシという名と、もうじき別れられると思ったのだ。下層民たちは狂犬のことを|ラッシ《ヽヽヽ》と言っている。つい先頃も仲間の一人に|ラッシ《ヽヽヽ》と呼ばれて兵隊たちが喧嘩をした。とにかく、この忌わしい名が何かの痛烈きわまる小歌に歌いこまれないで終わった週はなかった。彼の息子は十六歳の無邪気な学生だが、その名のためにカフェから追い出されるのだった。
彼が無思慮なことをしてしまったのは、その立場から来るこうした不愉快な事柄が心のなかでひりひりしていたからだ。
「私は土地を持っています」彼は自分の椅子を大臣の肘掛け椅子に近づけて言った。「その土地はリヴァというんですが、私はリヴァ男爵になりたいんです」
「結構じゃないか」と大臣は言った。
ラッシは我を忘れた。
「それでは、伯爵閣下、無躾《ぶしつけ》を承知の上で言いますが、あなたが望んでいらっしゃることは私にもわかつています。あなたはイゾー夕公女との結婚を熱望していらっしゃるが、これは高貴な野心だ。身内になってしまえば失寵の心配もない。大公は|もうこっちのもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だ。はっきり言って、大公はこのイゾータ公女との結婚には大反対です。しかしこの件は誰か抜け目のない人間に|充分報酬を与えて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》任せておけば、成功しないものではないと思いますよ」
「私は、親愛な男爵、成功の望みはないと思っていたよ。あらかじめ言っとくが、君が私の名をもってどんなことを言おうと私は一切認めないよ。しかしそのすばらしい結婚によっていよいよ私の望みもかなえられ、この国のなかで高い地位を与えられたら、今度は私のほうが三十万フラン君に提供するか、あるいは君がそんな金よりもいいと思う恩典が与えられるように大公におすすめしよう」
読者はこの会話を長ったらしいとお思いだろう。それでも作者は半分もちぢめているのである。会話はさらに二時間もつづいたのだ。ラッシは幸福に酔って伯爵の家を出た。伯爵のほうはファブリツィオを救えるという大きな希望を持ち、辞表を提出してやろうという決心をいよいよ固めていた。ラッシやコンティ将軍のような連中が権力の座につくことによって、自分の威信があらためて認められることが必要だと彼は思った。これで大公に復讐することができるかもしれないと思うと彼はぞくぞくするほど嬉しかった。(公爵夫人を追い出すことはできるだろうさ、しかし勿論、ロンバルディアの立憲君主になる望みは捨ててもらうぞ)と彼は叫んだ。
伯爵はよろこびに我を忘れて検察長官との会話を公爵夫人に報告に行った。ところが門は彼に対してとざされていた。門番は主人自身の口から与えられたこの命令を伯爵に言うことをためらった。伯爵は悲しい気持ちで官邸にひきかえした。今味わわされた惨めな気持ちのおかげで、大公の腹心との会話から得た喜びがすっかり曇らされてしまった。もはや何をする気にもなれずに伯爵は陰鬱に画廊のなかを歩きまわっていたが、十五分後に次のような文面の手紙を受け取った。
私たちはもはや単なるお友だちでしかないのですから、私に会いにいらっしゃるのは週に三度だけにしていただかねばなりません。たずねて来てくださるのは依然として私にはとても嬉しいことなのですが、二週間後にはその訪問も月に二回に減らしましょう。私を喜ばせたいとお思いなら、この私たちの仲たがいとでもいうべきものをそこらじゅうに言いふらしてください。以前私があなたに抱いた愛情にこたえてくださる気持ちがおありなら、新しい恋人を選んでください。私のほうもいろいろと気ばらしの計面を立てています。大いに社交界に出、できれば才気のある男を見つけて不幸を忘れさせてもらおうと思います。勿論お友だちとしてはあなたは私の、心のなかで依然として第一の位置をしめていらっしゃいますが、しかし私はもう、自分のすることがあなたの入れ智恵によるものだなどと言われたくないのです。特に私は、あなたが事を決するに当たって私から影響されることなどはもう全然ないのだということを人々に知ってもらいたいのです。要するに、伯爵、あなたはあいかわらず私の一番親しいお友だちですけれども、それ以外のものではないということです。もとのようになるなどとは決してお考えにならないでください。すべてはもう終わったのです。私の友情はいつまでも変わりません。
この手ひどいとどめの一撃に伯爵の勇気はくじけた。大公にあててすべての職務を辞するといういさぎよい手紙をしたため、これを宮殿にとどけていただきたいと言って公爵夫人のもとへ送った。その辞表は十文字に引き裂かれてただちに彼の手にもどって来た。余白に公爵夫人は書いていた。「いけません、断じて!」
哀れな大臣の絶望ぶりは筆舌につくしがたかった。絶えず彼は心のなかで言っていた。
(彼女が正しい、それは認める。|不正な裁判《ヽヽヽヽヽ》という言葉を私がはぶいたのがとんでもない不幸のもとだったんだ。そのためにひょっとするとファブリツィオは殺されるかもしれない。そしてあれが死ねば私も死ぬのだ)死ぬような苦しみをなめながら伯爵は、呼ばれないうちに君主の宮殿に行きたくなかったので、ラッシにサン・パオロ勲章を授与し世襲貴族にする旨の稟議《りんぎ》書を自分の手で書き、さらにこの処置を取るについての政治的理由を大公に説明する半ページほどの報告書をこれに添えた。この書頻の写しを二つ作って公爵夫人に送ることに彼は一種の憂鬱な喜びをおぼえた。
彼はあれこれと推測に耽った。自分の愛する女が今後どのような行動計画を立てるかと彼は考えてみた。
(彼女自身だって全然わかつてはいないんだ)と彼は思った。(けれどもただ一つだけは確実だ。どんなことがあっても彼女は、一度私に言ってしまった以上その決心に断じてそむくまいということだ)彼の不幸をいやが上にも強めたのは、どうしても公爵夫人が悪いとは思えぬことだった。(あの人が私を愛してくれたのは好意だったのだ。いかにも不本意のものではあったが、恐ろしい結果になるかもしれぬあやまちを私が犯したから、彼女は愛さなくなったのだ。文句を言う権利は全然ない)翌朝伯爵は公爵夫人がまた社交界に出はじめたことを知った。前夜彼女は客を迎える家ならどの家にも顔を出したのだ。(同じサロンで顔を合わしたらどんなことになったろう? どんなしゃべり方をするか? どんな風に言葉をかけるか? どうしたらしゃべらずにすまされるか?)
翌日は暗い一日だった。ファブリツィオが近々死刑に処せられるという噂がひろがり、市民たちは動揺していた。彼が名門の出であることを考えて大公は斬首に決定されたなどとまで言うものもいた。
(私が彼を殺すようなものだ。もうこれで公爵夫人に会いたいなどと言えた義理ではない)と伯爵は思った。この考え方はかなり単純明快だったが、それでも彼は三度も夫人の門前まで行かずにはいられなかった。実は見咎められぬようにと思って彼は歩いて行ったのだ。絶望のなかで彼は勇気をふるいおこして夫人に手紙を書きさえした。ラッシを二度も呼びつけたが、検察長官はあらわれなかった。(悪党め、おれを裏切ったな)と伯爵は思った。
その翌日、三つの大ニュースがパルマの上流社会のみならず町人たちをも色めき立たせた。ファブリツィオの死刑はもう絶対確実だった。ところがこのニュースのまことに奇怪な|おまけ《ヽヽヽ》として、公爵夫人があまり絶望にくれているらしくないというのだ。見たところ彼女は、あの若い恋人のことをそれほどひどく悲しんでいないようだった。ただし彼女はファブリツィオの逮捕と時を同じゅうしてかなり重い病気にかかっていたので、そのための顔色の悪さを実にたくみに利用していた。町人たちはこうした事実に、宮廷の高位の貴婦人らしい無情さを認めた。それでも体裁を考え、またファブリツィオ青年の霊をとむらうために、彼女はモスカ伯爵と手を切ったのだ。「何という不道徳なことだ!」とパルマのジャンセニストたち〔カトリックの一派で、厳格な良心的な態度で知られる〕は叫んだ。
しかし早くも公爵夫人は、これは信じられぬことだが、宮廷で指折りの美青年たちの甘い言葉に耳をかすそぶりを見せているらしい。いろいろ奇妙なことがあるなかでも、彼女がラヴェルシ夫人の現在の恋人であるバルディ伯爵と話しているとき非常に陽気だったことが人々の目についた。しかも彼がヴェッレーヤの城にしげしげと通うといってさんざん彼をからかったのだ。小市民や庶民はファブリツィオの死刑に憤慨していた。この気のいい連中はこれはモスカ伯爵の嫉妬のせいだと思っていたのである。宮廷人士たちもまた伯爵のことに大いに関心を持ったが、ただそれは彼を嘲笑するためだった。
前に言った三大ニュースの最後のものは事実ほかでもなくこの伯爵の辞任のことだった。五十六歳にもなりながら、ずっと前から自分を若い男に見かえていた無情な女に捨てられた悲しみのあまり大変立派な地位を捨てる滑稽な恋人のことを、誰もがみな嘲笑していたのである。大司教だけは、伯爵には彼の保護している若者の首を彼に一言のことわりもなく斬《き》ろうとしている国の総理大臣にとどまることなど体面からしてもできないのだと、その意を汲んでやるだけの頭脳を、というよりも心意気を持っていた。伯爵の辞任のニュースはファビオ・コンティ将軍の痛風を治してしまうという結果を生んだが、このことについてはまた後に、全市が挙げて処刑はいつおこなわれるかと言っているときに哀れなファブリツィオが城砦内でどんな風に過ごしていたかを語るときに述べるだろう。
次の日伯爵は、ボローニャ方面に派遣しておいた忠実な手先ブルーノに会った。この男が書斎にはいって来た瞬間、伯爵は胸が迫るような気がした。ほとんど公爵夫人と合意の上でこの男をボローニャにやったときには、自分はまだどんなに幸福だったかを思い出したのだ。ブルーノはボローニャでは何もつかめずに帰って来た。ロドヴィーコも見つからなかった。カステルヌオーヴォの地方法務官はロドヴィーコを村の牢獄につないでいたのだ。
「またすぐボローニャに行ってもらう」伯爵はブルーノに言った。「公爵夫人はいくら悲しくてもファブリツィオの不幸な事件の顛末《てんまつ》をどうしても知りたいと言うだろう。カステルヌオーヴォの駐在所の長をしている班長に頼んでみたまえ」
そこで話を中断して伯爵は叫んだ。
「いや、そうじゃない! 今すぐロンバルディァにむかって出発し、こちら側の情報員に金をふんだんにばらまくんだ。あの連中からできるだけわれわれを力づけるような報告を得るのが私の狙いだ」
ブルーノは与えられた使命の目的をはっきり理解して信用状を書きはじめた。伯爵が彼に最後の指示を与えているところへ、まったくそらぞらしい、しかしまことによく書けている手紙がとどいた。まるで友人が助力を求めて書いて来たような書きぶりなのだ。その友人とはほかならぬ大公だった。隠退したいとか何とかいう話を聞いたが、内閣を維持してくれるように友人たるモスカ伯爵に懇望《こんもう》するという。友情と祖国の危難にかけて頼むと言っていると同時に、主君として命令しているのである。大公はさらに、***国王がその国の青綬勲章を二つ自分に提供して来たから、その一つを自分で取り、もう一つは親愛なモスカ伯爵に送るとつけくわえていた。
「あの畜生、さんざんな目に遭わせやがって!」と、激怒した伯爵は唖然としているブルーノの前で叫んだ。「こんな偽善的な文句でおれを誘惑するつもりでいやがる。これまで何度となく、どこかの馬鹿者を罠《わな》にかけるために二人でこしらえたのと同じ文句で」
彼は贈られた勲章を拒絶し、苦労の多い大臣の仕事を長くつづけられるとは健康状態からして思えないと返事に書いてやった。伯爵は激怒していた。それからすぐラッシ検察長官の来訪が告げられたが、伯爵は彼を黒奴のように扱った。
「どうした、私が貴族にしてやったからといって、いやに横柄にふるまい出したじゃないか! なぜ昨日礼を言いに来なかったんだ? それが君の義務じゃなかったかね、無作法者め!」
ラッシはいくら侮辱されても超然としていた。こういう調子で毎日大公からあしらわれていたのだ。それでも男爵になりたかったから、如才なく弁解した。それくらいのことはわけはない。
「昨日は一日じゅう大公のおかげで机に釘づけにされましたんで。宮廷から出られなかったんです。殿下はいかにも検事向きの私のまずい字で大変な数の外交文書を写せとおっしゃるんです。それがまたあまりにも馬鹿げたあまりにも冗舌なものなんで、実際のところ私は、大公はただ私を引きつけておくために命じられたんだと思っています。五時頃になってようやく腹ぺこになって引き取ることができたんですが、そのとき大公はまっすぐ家に帰って宵のうちは外出してはならんとお命じになりました。実際、私のよく知っている大公御自身のスパイが二人、夜の十二時頃まで私の家のある通りを歩きまわっているのを見かけましてね。今朝になってもう大丈夫だと思うとすぐ馬車を呼んで、大聖堂の門前まで走らせたんです。ゆっくりと馬車から降りると、駈け足で教会を横切ってこちらへまかり越したわけです。閣下の御好意を得ることこそ現在私が最も念願していることでございますから」
「ふざけるのはよせ、私はそんなつまらぬ作り話に瞞《だま》されたりはしないよ! 一昨日《おととい》君はファブリツィオのことを私に話すまいとした。私は君の良心や秘密を守るという誓いは尊重してやった。もっとも君のような人間にとっては、そうした誓いなどはせいぜい逃げ口上にすぎまいがね。今日は真実を言ってもらおう。役者ジレッティの殺害者としてあの青年を死刑にするというあの馬鹿げた噂は一体何だね?」
「あの噂のことなら、私以上に閣下に説明できるものはおりませんよ。だって、殿さまの命令であの噂をひろめさせたのはこの私なんで。それに、今思い当たりましたが、昨日一日じゅう大公が私を引きとめておかれたのは、おそらくこの件を私があなたに知らせぬようにと思ってですな。大公は私のことを馬鹿だとは思っていませんから、私が勲章をあなたのところへ持って来て、胸につけてくださいとあなたにお願いするのではないかなんて疑うはずはありません」
「本題にもどれ!」と大臣は叫んだ。「余計な文句はやめろ」
「きっと大公はデル・ドンゴ氏に死刑の宣告を下したいのでしょうが、あなたも多分ごぞんじのように、実際には二十年の禁錮にするほかはありません。それも判決の翌日十二年の城砦禁錮に減刑し、金曜日毎にパンと水の食事、その他ちょっとした宗教的なおまけをつけるくらいで」
「その単なる禁錮の判決を知っているからこそ、近く処刑がおこなわれるという町にひろまっている噂に私はぎょっとしたのさ。君がうまくやってのけたパランツァ伯爵の死刑のことをおぼえているからね」
「あのときこそ私は勲章をもらうべきだったんですよ!」とラッシはいけしゃあしゃあとして叫んだ。「やれるときにはやっとくもんでさあね、当人も死を望んでいたんだし。あのとき私は馬鹿でしたよ。こうした経験をふまえて私はあえて今度私の二の舞をなさらんようにあなたに御忠告申し上げるんです」
この比較は、それを言われたほうの人間には話にならぬ悪趣味に思われた。ラッシを蹴っとばしてやりたいという気持ちを彼は抑えねばならなかった。
ラッシは法律家の論理とどんな侮辱にも動じない人間らしい完全な自信をもってつづけた。「第一、このデル・ドンゴなるものの処刑などということは問題になりません。大公だってその勇気はありますまい! 時代が変わっちまったんですから! それにまた私だって、貴族になりあなたのおかげで男爵にもなれそうだとあっては、もう手をかしはしませんよ。それに閣下も御承知のとおり、死刑執行人が命令を受け取るのは他の誰でもなくこの私からなんです。そして誓って申しますが、シュヴァリエ〔帯勲者のこと〕・ラッシは決してデル・ドンゴ氏に対してそんな命令を下しませんよ」
「それは賢明だね」伯爵は厳しい顔で相手を睨《ね》めまわしながら言った。
「けじめをつけておきましょう!」ラッシはにやにやしながら答えた。「私が責任を持つのは公式の死についてだけです。デル・ドンゴ氏が腹痛で死んだときには私のせいにしないでください! 大公は、どういうわけか知りませんが、あのサンセヴェリーナに対していたくお腹立ちで」三日前ならラッシも公爵夫人と言っただろうが、全市の人々と同じく、彼も総理大臣と彼女の仲たがいのことを知っていた。
伯爵はこんな男が公爵夫人のことを呼び捨てにするのに驚いた。彼がこれをどう感じたかは察するにあまりある。彼は憎悪に満ちた視線をラッシに投げた。それから心のなかで言った。(愛する人よ、あなたの命令に盲目的に従うことによってしか私は愛情を示せないのだ)
「実を言うと、公爵夫人のいろいろな気まぐれに私はそれほど強い関心を持っているわけではない」彼は検察長官に言った。「それにしても、あんなならず者のファブリツィオなどナポリにとどまって、ここに来てわれわれの邪魔などしなければよかったのに、そのファブリツィオを私に紹介したのは夫人だから、私は自分の在職中にあいつを死刑にしてもらいたくないのだ。あいつが獄から出たら一週間後に君を男爵にしてやると約束してやってもいいよ」
「それじゃあ、伯爵閣下、私は十二年たたなけりゃ男爵になれますまい。大公はかんかんになっていますし、公爵夫人に対する憎しみは大変なもので、それがおもてにあらわれないように苦労しているほどなんですよ」
「殿下はほんとにやさしい方なんだな! 総理大臣である私が公爵夫人の後ろ楯になることをやめてしまっているのだから、憎悪をかくす必要などすこしもないのに。ただ私は卑劣だとか、とりわけ嫉妬しているとかと非難されるのはいやだ。公爵夫人をこの国に呼んだのは私だ。そしてもしファブリツィオが獄中で死んだら、君は男爵になれないばかりか、もしかすると暗殺されるよ。だがこんなつまらん話はやめよう。実は私は自分の財産を勘定してみたんだ。年収二万フランあるかないかというところさ。これを当てにして私は大公に辞表を捧呈しようかと思っている。ナポリ王に召しかかえられる見込みがないでもないんだ。あの大都市は、現在私には必要だがこのパルマのようなちっぽけな町では得られない気ばらしを与えてくれるだろう。ただ君がイゾータ公女との結婚をうまく取りもってくれればこの国にとどまるがね……」
会話はこの方向にむかって際限もなくつづいた。ラッシが立ち上がったとき、伯爵はごく何げないような顔で言った。「君も知ってのように、ファブリツィオは私を瞞《だま》していたという噂があった。あれも公爵夫人の恋人の一人だったという意味でね。私は決してこの噂を認めない。それを打ち消すためにこの財布をファブリツィオに渡してもらいたい」
「ですが、伯爵」ラッシはおじけづき、財布を眺めながら言った。「これは大変な金額ですよ、規則では……」
「君にとっては大変な金額かもしれんがね」と伯爵はこれ以上とはない軽蔑の表情で言った。「君のような町人なら、獄中の友だちに金を送る場合十ツェキーノもやれば破産すると思うだろう。しかしこの私はファブリツィオがこの六千フランを受け取ることを|望む《ヽヽ》のだ。そして何より、大公にはこの金を送ったことが全然知られぬように」
怯《おび》え上がったラッシが口答えしようとするので、伯爵はじりじりして彼を押し出してドアをしめた。(ああいう奴らは横柄に出られないと権力というものがわからんのだ)そう言うとこの偉大な大臣は、作者にはちょっと報告しにくいような馬鹿げた振舞に出た。デスクに駈けよってそのなかから公爵夫人の細密画の肖像を取り出すと、熱烈な接吻でそれを蔽ったのである。(許してくれ、愛する人よ)と彼は叫んだ。(あなたのことをあんななれなれしい口調でしゃべったあの無礼者をこの手で窓からほうり出さなかったことを。しかし私があれほど隠忍自重したのは、あなたの命令に従うためなんだ! いずれ後でさんざん思い知らせてやる!)
肖像を相手に長い話をしてから、息も絶えなんばかりの気持ちでいたくせに、伯爵はふと馬鹿げたことをやってみようかと思いついて、子供のような熱心さでそれにとりかかった。大型勲章のべたべたついた礼服を出させて、年寄りのイゾータ公女訪問に出かけたのだ。これまで彼は正月元日にしか公女のもとに伺候したことはなかった。行ってみると公女は無数の犬にかこまれ、ごってりとめかしこみ、それどころか宮廷に出ようとするかのようにダイアモンドまでつけている。伯爵がお出かけのところをお邪魔したのではないかなどと言って見せると、殿下はパルマの公女たるものはいつでもこういう恰好をしていなければならないのだと大臣に答えた。不幸に陥って以来はじめて伯爵は愉快な気持ちになった。
(ここに来てよかった。早速今から思いのたけを打ち明けてやらねばならん)公女はこれほど才智を謳《うた》われた男、しかも総理大臣が自分のところに来てくれたので有頂天になっていた。この気の毒な老嬢はこうした訪問にはあまり慣れていなかったのだ。伯爵は単なる貴族と君主の一門に属するものとのあいだにはどこまで行っても大変な距離があるなどといった巧みな前置きからはじめた。
「一つ区別しておかねばなりません」と公女は言った。「たとえばフランス王の息女には王位につける見込みは全然ありません。けれどもパルマ公家では全然そんなことはないのですよ。だから私たちファルネーゼ家のものは外観についてもいつもある品位を保っていなければならないのです。ごらんのとおりつまらない公女にすぎないこの私だって、あなたがいつか私の総理大臣になるということはまったくあり得ませんと申し上げるわけには行かないのですよ」
この考えはまったく奇想天外なものだったので、哀れな伯爵はまたしてもすっかり楽しくなってしまった。
イゾー夕公女は総理大臣の情熱の告白を聞かされて真赤《まっか》になってしまったが、その公女のもとを退出した伯爵は宮殿の使丁の一人に逢った。大公が至急会いたいと言っているという。
「私は病気だ!」この大臣は主君をいじめてやれるのが嬉しくてたまらなかった。
(ああ、私をとことんまで追いつめておいて、それから今度は力を貸せとお言いか!)と彼は憤然として叫んだ。(しかし、大公、神から権力をさずかっただけでは、この世紀ではまだ不足だということを御承知おき願いたい。首尾よく専制君主になりおおせるには優れた才智と強固な意志が必要ですぞ)
この病人がぴんぴんしているのを見て呆れかえっている使丁を追いかえすと、伯爵はファビオ・コンティ将軍に対して一番影響力を持っている二人の宮廷人に会いに行ったらおもしろかろうと思った。何にもましてこの大臣を戦慄させ、彼の勇気を挫《くじ》いたのは、城砦長官がその個人的な敵だったある大尉をペルージャのacquetta〔アックェッタとは砒素を含む毒薬〕を使ってかたづけたと非難されていることだった。
一週間ほど前から公爵夫人が途方もない金額をばらまいて城砦から情報を得ようとしていることを伯爵は知っていた。しかし彼の考えでは成功の見込みはあまりなかった。皆がまだ警戒しすぎていたからだ。この不幸な女性のおこなった買収の試みを一々語ることはすまい。彼女は絶望していたが、ありとあらゆる種類のきわめて献身的な人々が彼女のために働いていた。それにしても小さな専制君主国の宮廷で何か一つ完全に遂行されることがあるとすれば、それは政治犯の監視ということなのだ。公爵夫人が金を使った結果といえば、いろんな階級に属する九人か十人ばかりの人間が城砦勤務を解かれたことにとどまった。
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第十八章
このようにして、囚人に対する心からの献身にもかかわらず公爵夫人と総理大臣が彼のためになし得たことはほんのわずかだった。大公は怒っているし、宮廷も民衆もファブリツィオのことでは頭に来ていて、彼が不幸に見舞われたのを痛快がっていた。ファブリツィオはこれまで幸福すぎたのだ。気前よく金を投じても公爵夫人は城砦攻略では一歩も踏み出せなかった。ラヴェルシ侯爵夫人かリスカラ士爵がファビオ・コンティ将軍に何か伝えて来ない日は一日もなかった。気の弱い将軍の後押しをしていたのだ。
すでに言ったように、投獄されたファブリツィオはまず長官邸に連れて来られた。これは前世紀にヴァンヴィテッリの設計によって建てられた洒落《しゃれ》た小さな建物で、巨大な円塔の屋上の、地上五十メートルのところにある。駱駝《らくだ》の瘤《こぶ》のように、巨大な塔の上にぬきんでているこの小邸宅の窓から、ファブリツィオは平野と、はるか遠くのアルプスを見た。城砦の下を見ると、かなり急流をなしているパルマ河の流れが町から四里ばかりのところで右折してポー河に注いでいる。緑の平原のまんなかに巨大な白い斑点のつらなりのように見えるこの河の左岸のかなたに、恍惚とした彼の目はイタリアの北にアルプスがめぐらしている巨大な障壁の一つ一つの峰をはっきりと認めた。今は八月だが、いつも雪をかぶっているその峰々はこの焼きつくような平野のさなかでも、いわば連想による涼しさといったものを感じさせてくれる。どんなこまかいところまでも目でたどることができるが、実はそれらの山はパルマの城砦から三十里以上も離れているのだ。長官の酒落た邸宅からのこの広々とした眺めは、南のほうではファルネーゼ塔にさえぎられているのだが、この塔のなかにファブリツィオの監房が大急ぎで用意されたのだった。こちらのほうの塔は、読者も御記憶だろうが、テセウスの息子ヒポリュトス〔テセウスはアテネの王、その息子ヒポリュトスは義母プァイドラの愛をしりぞけて殺された〕とは大違いで若い義母の甘い言葉を一向しりぞけなかったある世嗣《よつぎ》の公子のために、巨《おお》きな塔の屋上に立てられたものだった。不貞な公妃は数時間後に死んだ。公子のほうが自由を回復したのは、十七年後父が死んで位を継いだときだった。四十五分後にファブリツィオが連れて行かれたこのファルネーゼ塔は、外観はひどく醜悪で、大きな塔の屋上に十五メートルほどの高さに聳《そび》え、たくさん避雷針がついていた。自分の后《きさき》に腹を立て、四方から見えるこの塔を建てさせた大公は、奇妙なことに、これがずっと昔からあったのだと臣下に思わせようと考えた。|ファルネーゼ塔《ヽヽヽヽヽヽヽ》という名を与えたのはそれがためである。この塔の建築のことは口止めされたが、パルマの町のどこからも、また近郊の平野からも、この五角形の建物を形づくる石を石工たちが一つずつ積んで行くのがはっきりと見えた。塔が古いものであることを証明するために、そこにはいる幅六十センチ高さ百二十センチの扉の上に、名将アレッサンドロ・ファルネーゼがアンリ四世にパリから軍を引かせているところをあらわした立派な浅浮彫が飾られた。こんなすばらしい眺めを持つこのファルネーゼ塔の一階は、奥行すくなくとも四十歩、幅もそれに見合うくらいの広さで、ひどくずんぐりした円柱が林立していた。というのは、いやにだだっ広いこの部屋の高さは四・五メートル以上にならなかったからだ。ここは衛兵詰所になり、中央の円柱をめぐって螺旋形の階段があった。これはごく軽い鉄の小階段で、幅は六十センチ足らずだ。護送の獄吏たちの体重で震えるこの階段を昇ってファブリツィオは、高さ六メートル以上もある広い部屋々々に出た。この二階は立派だった。部屋々々はかつては生涯の花の盛りの十七年をそこで過ごした若い公子のためにきわめて豪奢にしつらえてあった。この区劃の一隅で新参の囚人は絢爛きわまる礼拝堂を見せられた。壁にも円天井にも黒い大理石が貼ってある。これまた黒く、しかもきわめて高雅な形の円柱が、黒い壁に接してではなく、それに沿って立ちならんでいる。壁は白い大理石の無数の髑髏《どくろ》で飾られているが、これはとてつもない大きさのもので、ぶっちがえた二本の骨の上にみごとに彫られて配されている。(こいつはたしかに、憎んだ相手を殺せぬ男の考えついたことだな)とファブリツィオは思った。(おれにこんなものを見せようってのは一休どんな魂胆なんだ!)
これまた一本の円柱に螺旋形にまきついているごく軽い鉄の階段がこの牢獄の三階に通じている。そしてまさにこの三階の高さ四・五メートルばかりの部屋で、ファビオ・コンティ将軍はこの一年間天才を発揮して見せていた。かつて公子の召使たちの住んでいたこの部屋々々は、大きな円塔の屋上の石から九メートル以上も高くなっているのだが、将軍の命令によってまずその部屋々々の窓に頑丈な格子がはめられた。建物の中央にある暗い廊下から、それぞれ窓が二つあるこれらの部屋にはいれる。ひどく狭いこの廊下でファブリツィオは、アーチをなした天井にまでとどいている大きな鉄格子の扉が三つ相接しているのを見た。こうしたみごとな工夫《くふう》を描いた平面図、断面図、立面図のおかげで、二年間にわたって将軍は毎週一度主君に拝謁することができたのである。これらの部屋の一つに入れられれば、謀叛人《むほんにん》も非人道的な扱いを受けたと世論に訴えることはできまい。それに第一、外部のものと連絡を取ることも不可能なら、身動き一つしても人に聞かれずにはいられないのだ。将軍はこの各室に、一メートルほどの高さの台のようになった厚い槲《かし》の板を置かせた。そしてこれこそ彼の第一の発明で、彼に警察大臣になる権利を与えるものだった。この台の上に板で囲った小屋みたいなものを作る。これは高さ三メートルほどで音がよく反響し、窓側の壁にしか接していない、残りの三方では、大きな切石で作られたこの牢獄の本来の壁と小屋の板囲いとのあいだが一メートルばかりの小さな廊下になっている。胡桃《くるみ》や槲や樅《もみ》の合板四枚でできたこの囲いは、鉄のボルトや無数の釘を使ってしっかりとつないである。
ファブリツィオが入れられたのは、一年前に作られたファビオ・コンティ将軍の傑作であるこうした部屋の一つで、従順《ヽヽ》という立派な名をつけられていた。彼は窓へ駈けよった。格子のついた窓から見える眺めはすばらしかった。地平は北西のほうの一角だけが、三階建の小綺麗な長官邸の張出し屋根で隠されていた。長官邸の一階は本部事務室になっている。まずファブリツィオの目は三階の窓の一つにひきつけられた。その窓にはきれいな鳥籠《とりかご》があって、ありとあらゆる種類の鳥が数えきれないほどいた。獄吏たちがまわりでばたばたしているのに、ファブリツィオは鳥たちのさえずるのを聞き、夕べの最後の光に別れを告げているのを見て楽しんだ。この鳥を飼っている窓は彼の房の窓の一つと六メートルくらいしか離れておらず、しかも二メートルほど下になっているので彼は小鳥を見おろすことになった。
その夜は月があった。ちょうどファブリツィオが獄房にはいったとき、月は右手のほうの地平線の、トレヴィーゾあたりのアルプス連峰の上にしずしずと昇って来た。まだ八時半で、西にあたる反対側の地平線では、モンテ・ヴィーゾや、ニースからモン・スニおよびトリーノの方角へ高まって行く他のアルプスの尖峰の輪郭を、黄いろみがかった赤色に輝く夕陽《せきよう》がくっきりと描き出していた。もう自分の不幸のことなどは念頭になく、ファブリツィオはこの崇高な眺めに感動し恍惚としていた。(それじゃあクレリア・コンティはこのすばらしい世界のなかに生きているんだな! あの考え深いまじめな心の持主は、人一倍この眺めを楽しんでいるにちがいない。ここはまるでパルマから百里も離れた淋しい山のなかみたいだ)心に語りかけて来るこの視界にみとれながら、そしてまたしばしば長官の小綺麗な邸宅にも目を注ぎながら二時間以上窓べで過ごしてから、突然ファブリツィオは叫んだ。(だが、これが牢獄なんだろうか? おれがあれほど恐れていたものがこれなのか?)一歩あるく毎に不愉快なこと、癪の種にぶつかるかわりに、われらの主人公は牢獄の快さに手もなく魅せられていたのだ。
突然ものすごい騒ぎのために彼の心は現実にひきもどされた。鳥籠《とりかご》みたいな、そして何よりもよく音の響くこの木の部屋が激しく揺れた。この上なく奇妙な音に犬の吠える声、低い鋭い叫びが加わった。(何だ! こんなに早く脱獄できるのか?)とファブリツィオは思った。一瞬後、彼は笑い出した。獄中でこんな風に笑ったものはかつてなかったような笑い方だった。将軍の命令で獄吏どもと一緒に英国種の犬が連れて来られていたのである。重要な囚人の監視に当たるひどく兇暴な犬で、ファブリツィオの房のまわりに抜かりなくめぐらしてあるあの廊下に夜とどめられることになっていた。犬も獄吏も獄房の本来の石の床《ゆか》と例の厚板とのあいだの一メートルの隙間に寝るのだから、厚板の上で囚人が一歩あるけばどうしても聞こえてしまう。
ところで、ファブリツィオが着いたときこの「従順」房は百匹ばかりの大鼠が巣くっていたのだが、それが四方八方へ逃げ出した。犬はフォックス・テリアの血が混じったスパニエルの一種で、一向に美しくはなかったが、そのかわりすこぶる敏捷なところを見せた。犬は木の房の下の石の床《ゆか》の上につながれていた。それなのに、鼠がすぐそばを通るのを感じるとおそろしくあばれまわり、とうとう首環から頭を抜いてしまった。そこで壮絶な戦争がはじまり、これ以上とはなく物悲しい夢想に耽っていたファブリツィオはその騒ぎで我にかえったのである。犬の歯から逃《のが》れることのできた鼠たちは木の部屋のなかへ逃げこみ、犬は彼らを追って石の床からファブリツィオの房までの六段の階段を昇って来た。今度はもっとすさまじい騒ぎがはじまった。ファブリツィオのはいっている小屋は土台から揺がされた。ファブリツィオは気が狂ったように笑い、笑いすぎて涙が出て来た。同じように笑いながら獄吏のグリッロは扉をしめた。鼠を追いかける犬は全然家具に妨げられなかった。監房はまったくがらんとしていたからだ。猟犬の跳ねまわるのを妨げるのは片隅にある鉄のストーブだけだった。犬が敵をことごとくやっつけてしまうと、ファブリツィオは犬を呼んで撫でてやり、うまく手なずけてしまった。(こうなりゃいつかおれがどこかの壁を飛び越えたりしても、こいつは吠えはすまい)巧みな方策のつもりだったが、そう思ったのも彼の独り合点にすぎなかった。彼の現在の精神状態では、この犬とたわむれることに幸福が感じられたのだ。自分でもよくわからない奇妙なことだったが、あるひそかな喜びが彼の心の底に忍びこんでいたのである。
犬と跳ねまわっていいかげん息を切らせてしまうと、ファブリツィオは獄吏に訊いた。
「君は何ていう名なの?」
「グリッロです。規則で許されていることなら何でも閣下のためにいたしましょう」
「実はね、親愛なグリッロ君、ジレッティという男が街道のまんなかで僕を殺そうとしたので、身を防ごうとして相手を殺してしまったんだ。必要とあればもう一度殺してやるよ。しかし君の厄介になっているあいだはやはり楽しく暮らしたい。上官の許可を得てサンセヴェリーナ邸から僕の下着を取りよせてもらえないか。ついでにネビウ・ダスティをたくさん買って来てくれ」
ネビウ・ダスティというのはピエモンテ地方で産するかなり上等な泡の立つ葡萄酒で、左利きのなかでも獄吏などを含めた階層の連中には特に好まれているものだ。ちょうどその獄吏たちが十人足らずで、二階の公子の部屋から持ち出したいやに金ぴかの古い家具をファブリツィオの木の部屋へ運びこんでいるところだった。この連中は皆、ネビウ・ダスティという言葉をありがたく頭のなかに刻みこんだ。どうしてみたところでファブリツィオが最初の夜を過ごすにはこの部屋の設備は惨めなものだった。しかし彼は、自分が面白くないのはただ上等のネビウが一本も置いてないことだというような顔をしていた。
「今度の奴《やつ》はお人よしらしいな……」と獄吏たちは引き揚げるとき言っていた。「後はただ一つ、奴に金を渡すのをうちのお偉方が見逃してくれりゃいいんだが」
一人になって大騒ぎの後の気持ちが少々しずまると、トレヴィーゾからモンテ・ヴィーゾまでのあの広大な地平や、蜿蜒《えんえん》たるアルプスの連嶺、雪をいただく尖峰、星々などを眺めながらファブリツィオは思った。(一体これがほんとに牢獄なんだろうか? しかもこれが獄中の第一夜とは! クレリア・コンティがこの高いところの孤独を楽しんでいるのがおれにもわかる。下界でわれわれをつけまわす卑小さ邪悪さなどははるか眼下にあるんだからな。この窓の下にいるあの鳥たちがあの人のものなら、おれはあの人を見ることができよう……。おれを見たら顔を赤らめるだろうか?)この大問題をあれこれ考えながらずっと夜もふけてから囚人は眠りについた。
獄中で過ごしたこの最初の夜は全然焦躁をおぼえなかったが、その翌日からファブリツィオは英国種のフォックスを話し相手にするほかなかった。獄吏のグリッロはあいかわらず目だけはまことに愛想よかったが、新しい命令が出たため口をきかなかったし、下着もネビウも持って来なかった。
目を覚ましたときにファブリツィオは思った。(クレリアに会えるかな? しかしあの鳥は彼女のものだろうか?)
鳥たちはさえずったり歌ったりしはじめた。そしてこの高いところで空中に聞こえるものはこれらの鳴き声だけだった。あたりを蔽うこの静寂はファブリツィオにとっては物珍しい快い感じだった。隣人となった小鳥たちが朝を迎えるとぎれとぎれのいかにも活溌なおしゃべりに、彼は陶然として耳を傾けた。(これが彼女の鳥なら、彼女はこの窓の下のあの部屋にちょっと顔を見せるだろう)
パルマの城砦はアルプス山脈の二合目あたりに面していわばその外壁のように立っているのだが、巨大なこの連嶺を眺めながらも彼の視線は、飼育室となっているあの非常に明るい色の部屋の中央にならべた、レモンの木とマホガニー材と金色の針金でできたあのみごとな鳥籠のほうへ絶えずもどって行った。これはファブリツィオには後になってわかったことだが、この部屋は邸宅の二階のなかで十一時から四時まで日陰になる唯一の部屋だった。ファルネーゼ塔のかげになっていたのだ。
(おれが期待しているあの天使のような考え深げな顔、おれを見たらちょっと赤くなるかもしれぬ顔ではなくて、彼女のかわりに鳥の世話をしろと言われて来た下品な女中か何かの肥った面《つら》があらわれたら、どんなに悲しいことだろう! しかしおれのほうにはクレリアが見えても、彼女のほうはおれに気づいてくれるだろうか? まったくの話、気づいてもらうには無作法な真似をしなければなるまい。おれは今こんな状態なんだから、特別大目に見てもらえるはずだ。それにまた、ここにいるのは彼女とおれだけなんだし、世間からは遠く離れているんだ! おれは囚人だ。つまりコンティ将軍やその仲間の下らぬ奴《やつ》らが目下《めした》のものと見ている人間だ……。しかし彼女はきわめて聡明な、いやもっと正しく言えば、伯爵も考えているようにきわめて高潔な人で、これも伯爵の言うところでは、父親の職業を軽蔑している。だからあのように憂鬱なんだ! 高貴な動機からの悲しみじゃないか! しかし何と言っても、おれは彼女にとってかならずしも見ず知らずの他人じゃない! 昨日の夜は何というつつましい上品さでおれに会釈してくれたことか! はっきりおぼえているが、コモ湖のそばで逢ったとき「いつかパルマに美しい絵を見に行きます。ファブリツィオ・デル・ドンコというこの僕の名をおぼえていてくださるでしょうか?」と言ってやった。忘れてしまったろうか? あのときはあんなに若かったんだ!)
(だがそれにしても)と、驚いて急に思考の流れを中断して彼は言った。(おれは怒ることを忘れている! おれは古代に例の見られるようなあの沈着豪胆な人間なんだろうか? 思ってもみなかったが、おれは勇士なんだろうか? どうしたんだろう! あれほど牢獄を恐れていたおれが、今そこにいるくせに、悲しむことを忘れている! まさに案ずるより生むはやすしというところだ。何とまあ、おれはこの投獄のことで悩むために、悩まねばならぬ理由を頭で考えねばならないのか。禁錮はブラネスが言ったように十年つづくか十か月つづくか知らないが。今まで知らなかったこんな場所に置かれたので驚いてしまって、当然味わうべき悲しみが味わえないんだろうか? おれの意志とはかかわりのない、あまり理屈に合わないこの上機嫌は、もしかすると、不意に消えてしまうのかもしれない。当然味わうべき暗い不幸な気持ちにあっという間にのめりこんでしまうのかもしれない。
いずれにしても、獄に入れられながら、悲しむためにはその理由を考えねばならぬというのはまことに驚くべきことだ! まったくの話、またさっきの仮定にもどるが、おれは大した人物なのかもしれんぞ)
ファブリツィオの夢想は城砦出入りの指物師《さしものし》によって中断された。この男は窓の日よけの寸法を取りに来たのだ。この獄房が使用されるのははじめてだったので、この肝心な補修をしておくことは忘れられていたのだ。
(それじゃ、あのすばらしい眺めを奪われるんだな)とファブリツィオは思い、この喪失を悲しもうとしてみた。
「何だ! あのきれいな鳥が見られなくなるのか!」と彼は指物師にむかって叫んだ。
「ああ、お嬢さまの鳥ですか! とてもかわいがっていらっしゃいますがね!」男は人のよさそうな顔で言った。「ほかのものと同様見えなくなってしまいますよ、何もかもおさらばですな」
指物師は獄吏たちと同様にしゃべることは固く禁じられていたのだが、この男は囚人の若さにあわれをおぼえたのだ。この大きな日よけは二つの窓の台にとりつけ、上にむかって斜めに張り出すようにするから、囚人には空しか見えなくなるはずだと男は教えてくれた。
「こいつは教訓でしてね、囚人が余計悲しんで心を入れかえたいという気持ちを強めさせるためなんですよ」そして指物師はつけくわえた。「将軍は獄房の窓ガラスをはずしてそのかわり窓に油紙を貼ることも思いついたんです」
ファブリツィオはこの話し方の警句めいたところが非常におもしろかった。こんなのはイタリアではまことにめずらしいのだ。
「退屈|凌《しの》ぎに小鳥が一羽ほしいんだがな。小鳥は大好きなんだ。クレリア・コンティさんの小間使から一羽買って来てくれないか」
「何ですって! そうはっきりと名前をおっしゃるとなると、あの方をごぞんじなんですか?」
「美人の誉《ほま》れ高いんだもの、噂を聞いていないものがいるもんか。しかし僕は宮廷で何度かお目にかかっているがね」
「お気の毒に、ここではほんとに退屈なさっていますよ。あすこで小鳥を相手に日を送っていらっしゃるんで。今朝みごとなオレンジの木をお買いになりましたが、その木はあの方の命令であなたの窓の下の塔の入口に置かれています。軒蛇腹《のきじゃばら》がなければごらんになれるでしょうがね」
この返事にはファブリツィオにとってまことに貴重な言葉が含まれていた。彼は相手が快く受け取れるようなやりかたを考えて指物師に何がしかの金を与えた。
「悪いことが二つ重なっちまうな」と男は言った。「閣下とおしゃべりをし、しかもお金をもらうんだから。あさって日よけのことでまた来ますが、そのとき小鳥を一羽ポケットに入れて来ますよ。もしそのとき誰かほかのものがいたら、取り逃がしたようなふりをします。できたら祈祷《きとう》書も持って来ましょう。お勤めができなくて困っていらっしゃるでしょうからね」
ひとりになるや否やファブリツィオは思った。(それではあの鳥は彼女のものだったんだ。だが二日後にはもう見られなくなる!)そう思うと彼の目は悲しみの色を帯びた。しかし、これは彼にとって何とも言えぬ喜びだったが、何度も視線を送りながら待ちに待ったあげく正午頃とうとうクレリアが小鳥の世話をしにやって来た。ファブリツィオは息をつめて身動き一つしなかった。窓の大きな格子にぴったり寄って立っていたのだ。彼女が自分のほうへ目を上げないことに気がついたが、しかし彼女の動作には誰かに見られているのを感じているもののようなぎごちなさがあった。かわいそうに彼女のほうは、前夜憲兵たちに衛兵所から連れ去られたとき囚人の口もとにただよっていたいかにも上品な微笑を、たとい忘れようと思っても忘れられなかったろう。
おそらく彼女は自分の立居振舞に精一杯気をくばっていたのだろうが、それでも鳥部屋の窓に近づいたときには目に見えて顔が赤くなった。窓の鉄格子にぴったりとはりついていたファブリツィオが最初に思いついたことは、その鉄格子を軽く手でたたくという子供じみた真似をすることだった。そうすればちょっと音がするだろう。しかしそんなデリカシーを欠いたやりかたは考えただけでもうんざりした。(そんなことをしたら、一週間小間使に鳥の世話をさせるように彼女がしても文句は言えない)こういうデリケートな考えはナポリやノヴァーラでは一度も頭にうかんだことはなかった。
熱い思いをこめて彼はクレリアを見守った。(きっと彼女は、この窓が真向かいにあるのに、この哀れな窓に一瞥もくれずに行ってしまうのだろう)しかし、こちらの位置が高いためにファブリツィオにはよく見通せる部屋の奥からもどって来るとき、クレリアは上目《うわめ》づかいに彼を見上げずにはいられなかった。それでたちまちファブリツィオは会釈してもいいのだと思ってしまった。(ここにいるのはあの人とおれだけではないか!)と彼は自分を励ますために言った。この会釈を見ると、娘はたちどまり、目を伏せた。それからごくゆっくりとその目を上げるのがファブリッィオには見えた。そしてあきらかに懸命に自制しながら彼女はいやにおごそかな、いやによそよそしい態度で囚人に会釈した。しかし彼女は目の表情を抑えることはできなかった。おそらく彼女自身知らなかったのだろうが、その目は一瞬この上なく激しい同情をあらわした。ファブリツィオは彼女が真赤になり、たちまち肩先まで薔薇色に染まるのを認めた。鳥部屋に来たとき暑さのために黒いレースの肩掛けをはずしていたからだ。思わずファブリツィオは目つきでこの会釈にこたえたが、そのため娘はますます狼狽してしまった。
(たとい一瞬でも今私が見ているようにこの人を見ることができたら、あの気の毒な夫人はどんなに嬉しいだろう)と、公爵夫人のことを思いながら彼女はつぶやいた。
ファブリツィオは彼女が立ち去るときにもう一度会釈できるのではないかというかすかな希望を抱いていた。ところが彼女は、もう一度挨拶されるのを避けるためにたくみな逃げ方をした。最後に戸口に一番近いところにいる鳥の世話をすることになっているかのように、鳥籠から鳥籠へとだんだんと移動して行ったのだ。そうしてとうとう出て行った。ファブリツィオは今彼女が姿を消した扉をじっとみつめていた。彼は別の人間になっていた。
このときから彼の考えることはただ一つ、たとえ長官邸に面している窓の前にあの忌わしい日よけがつけられたとしても、どうしたら彼女を見つづけられるかということであった。
その前夜、寝る前に彼は持っている金の大部分を、面倒でも大変な時間をかけて自分の部屋にある鼠穴のいくつかにかくしておいた。(今夜は時計をかくさなくちゃ。時計のぜんまいを使って辛抱づよくやれば木どころか鉄まで切れると聞いたことがあるじゃないか。だから日よけを切ることもできるはずだ)時計をかくす仕事はたっぷり二時間もかかったが、彼には全然長くは思われなかった。彼は目的を達成するいろんな方法や、自分にできる大工仕事のことを思った。(うまくやれば、日よけの板の窓台にのっかつているほうの部分を四角に切り取れるだろう。時に応じてそれをはずしたりはめたりすればいい。このちょっとした細工を見のがしてもらうために、グリッロにおれの持っているものをみんなやろう)
ファブリツィオの幸福のすべては、これ以後この仕事をやれるかどうかにかかっていた。彼はもうほかのことは全然考えなかった。(彼女を見ることさえできればおれは幸福だ……。いや、そうじゃない、おれが彼女を見ているのを彼女が見ることも必要だ)一晩じゅう彼の頭は大工仕事の工夫で一杯だったので、宮廷のこと、大公の怒りのことなどはおそらくただの一度も考えなかった。公爵夫人がどれほど悲しみに沈んでいるかということも考えなかったと作者は認めよう。もどかしい思いで翌日の来るのを待ったが、あの指物師は来なかった。多分この男は獄で自由主義者と見られていたのだろう。感じの悪い顔つきの別の男がまわされて来たが、ファブリツィオが頭を働かせてどんな愛想のいいことを言っても、この男はぶつぶつ言うだけで、一向はかばかしく行きそうもない。
公爵夫人はファブリツィオと連絡を取ろうとしていろいろの試みをおこなったが、そのいくつかはラヴェルシ侯爵夫人の多くのスパイに探知され、そしてファビオ・コンティ将軍はラヴェルシ夫人から毎日それを知らされて、怯《おび》え、自尊心を傷つけられていたのだ。八時聞毎に六人の衛兵が一階の柱のたくさんある大広間で交代する。その上長官は、廊下につづいている三つの鉄扉のそれぞれに当直の獄吏をつけることにし、しかも囚人にじかに接している唯一の獄吏であるグリッロは週に一度だけしかファルネーゼ塔から出られないことになった。これにはグリッロは非常に不満だった。彼の不機嫌はファブリツィオにはねかえったが、ファブリツィオのほうは賢明にも「ネビウ・ダスティをたくさん頼むよ」と言うだけにとどめ、金をやるのだった。
憤慨したグリッロは、囚人にやっと聞こえるくらいの声で激しく言った。
「実はね、そいつのおかげで苦労も忘れられるってのに、そいつをもらっちゃいけないというんですよ。ほんとはお断わりしなくちゃならないんだが、いただいておきます。ただし、この金は捨てたようなもんですぜ。私はあなたに何も言えませんから。いやはや、あなたはよっぽど重罪にちがいないや。あなたのおかげで城砦じゅうきりきり舞いですぜ。公爵夫人がいろいろ策動するおかげで私らの仲間がもう三人も馘《くび》になりましたよ」
(日よけは正午前にできるだろうか?)この大問題に長い午前中のあいだずっと、ファブリツィオは胸をどきどきさせていた。城砦の大時計の鳴らす十五分毎の鐘を彼は一つも聞きもらさなかった。とうとう十一時四十五分が鳴ったが、日よけはまだ来ていなかった。クレリアは小鳥の世話にやって来た。切羽《せっぱ》つまった必要からファブリツィオは一挙に大胆きわまる行動に出、もはや彼女を見られなくなるという危険は他のすべてを圧倒するように思えたので、クレリアを眺めながら彼は指で日よけを切るふりをして見せた。もっとも、囚人がやるとなればまったく不穏きわまるこの身ぶりを見るや、彼女はろくろく会釈もせずに引っこんでしまったが。
(何たることだ!)とファブリツィオは驚いて言った。(やむにやまれぬ必要からした身ぶりを馬鹿げたなれなれしさと取るほど彼女はわからずやなのか? たといそれが大きな板戸にふさがれていても、小鳥の世話をしながら時々獄房の窓へ目をやってくれるように頼みたかっただけなのに。彼女を見るために人間のできることなら何でもして見せるということをおれは彼女に知らせたかったんだ。ああ、この無遠慮な身ぶりのせいで彼女は明日は来てくれないんじゃなかろうか?)
ファブリツィオはこの不安のために眠れなかったが、まったくそのとおりになった。翌日、ファブリツィオの窓の前に二つの大きな日よけのとりつけが終わった三時になっても、クレリアはあらわれなかった。日よけの材料は巨《おお》きな塔の屋上から、窓の鉄格子に外から結びつけた縄や滑車を使って上げられた。実は自分の部屋の鎧戸のかげでクレリアは職人たちの働いているのを胸もふさぐ思いでみつめていたのである。ファブリツィオの恐ろしい不安も実によくわかっていたのだが、それでも自分の心に誓ったことは守り抜く気力を彼女は失わなかった。
クレリアは若くても自由主義を信奉していた。幼い頃から彼女は、父親の仲間たちのあいだで話される自由主義の議論をすべて本気で信じていたが、その父親は地位を得ることしか考えないのだった。彼女はそういう理由から、廷臣というものの持つ融通のきく性格を軽蔑し、ほとんど唾棄《だき》するようになった。結婚への嫌悪もそれがためなのである。ファブリツィオが来てから彼女は悔恨にさいなまれていた。(こうして私は卑怯にも、お父さまを裏切ろうとしている人々の仲間にはいろうとしている! あの人は戸を切るような身ぶりをした!……けれど)と、すぐに彼女は悲痛な心で思いかえした。(あの人はじきに死ぬのだと町じゅうで噂している! 明日がその運命の日かもしれない! この国を支配しているあの怪物どもが相手なら、どんなことだって起こり得る! もうじき閉じられるかもしれないあの目には、何というやさしみ、何という雄々しい平静さがあったことだろう! ああ、公爵夫人の不安はどれほどだろうか! だから夫人はすっかり絶望していらっしゃるということだ。私ならあの壮烈なシャルロット・コルデ〔フランス革命の巨頭の一人マラを浴室で刺殺し、断頭台で刑死した〕のように大公を刺し殺してやるんだが)
入獄三日目のこの日一日、ファブリツィオは怒りに悶えていたが、その理由はただ一つ、クレリアが見えなかったということだけだった。(どうせ怒られるんだったら、愛していると言ってやるんだった)ようやく彼はこのことに気づいたのだった。(おれが牢獄のことを考えず、ブラネスの預言は嘘だと思ったのは、何もおれが偉大な人間だからじゃない。そんな大した名誉はおれにはない。憲兵どもがおれを衛兵所から連れ出したときクレリアがおれに投げたあのやさしい同情の目つきを、思うまいとしてもおれは思ってしまうのだ。あの目つきがおれのこれまでの生活すべてを拭い去ってしまったんだ。あんな場所であんなにまでやさしい目と出逢えるなどと誰が思っただろう! それもバルボーネや長官将軍の顔を見てこちらの目が汚れていたときに。あの卑しい連中のあいだに青空があらわれたような気がした。美しいものを愛し、もう一度それを見ようと努めるのは当然だ。どうすればそうしないでいられる? そうだ、牢獄で何かといじめられながら、そんなつまらぬことにまったく超然としていられるのは、おれが偉大な人間だからでは全然ないんだ)ファブリツィオは頭のなかであらゆる可能性をざっと考えてみたあげく、釈放の可能性に思い至った。(きっと公爵夫人の友情はおれのために不可能なことをやりとげてくれるだろう。ところが、そうして自由を得たところでおれは口の先で公爵夫人に感謝するだけだろう。ここはいったん出たらまた帰って来られるところではない! いったん出獄したら、おたがいに違った社会に属しているのだから、もうほとんどクレリアには会えまい! それに、実際のところこの牢獄にいることがおれにとってそんなに辛いことか? クレリアが怒りをぶっつけて来ないでくれれば、これ以上何を望むことがあるか?)
美しい隣人に会えなかったこの日の夜、彼はすばらしいことを思いついた。獄にはいるときすべての囚人にくばられる珠数《じゅず》の鉄の十字架で日よけに穴をあけはじめ、しかもそれに成功したのだ。はじめる前に彼は思った。(こいつはもしかすると軽率なことかもしれん。指物師たちはおれの前で、明日は自分らのかわりにペンキ屋が来ると言ってやしなかったか? 窓の日よけに穴があいているのを見たらペンキ職人どもは何と言うだろう? だが軽率であろうとこれをしなければ、明日彼女を見ることができない。何! 自分の手落ちで一日あの人を見ないでいるのか! しかも彼女が腹を立てて去ったというのに!)
ファブリツィオの軽率なおこないは報われた。十五時間かかって仕事をしたあげく彼はクレリアを見た。しかもこの上もない幸運だが、彼に見られているとは全然思わなかったから、彼女は長いこと身じろぎもしないでこの大きな日よけに目を注いでいたのだ。彼はその目のなかにこれ以上とはなくやさしい同情を心ゆくまで読み取ることができた。終わり頃になると彼女はあきらかに鳥の世話などほったらかして、何分間もじっと窓を眺めているのだ。彼女の心は乱れに乱れていた。彼女は公爵夫人を思った。夫人の不幸はあれほど彼女に同情をもよおさせたのだったが、それなのに彼女は夫人を憎みはじめた。自分の全身を浸す深い憂愁が彼女にはまったく不可解だった。自分白身に腹を立てていた。彼女が来ているあいだ二度か三度ファブリツィオはたまらなくなって日よけをゆすぶろうとした。自分が見ていることをクレリアに知らせることができなければ自分は幸福ではないような気がした。(けれども、おれがこんなにやすやすと彼女を見ていることを知ったら、あんなに臆病で気もそぞろになっている彼女のことだ、きっとおれの視線から逃れて行ってしまうだろう)
翌日は彼はもっと幸福だった(どんな惨めなことからでも恋は幸福を生み出すのだ!)。彼女が悲しげに巨大な日よけをみつめているときに、彼は鉄の十字架であけた穴に小さな針金を通すことに成功し、それで彼女に合図した。あきらかに彼女はそれを理解した。すくなくとも「僕はここにいてあなたを見ています」と言おうとしているのだということは。
その後の数日はファブリツィオは幸福ではなかった。彼はばかでかい日よけを手ほどの大きさに切り取ろうと思った。必要とあれば切り取った板はもとにもどせるようにする。こうすれば見ることも見られることも、つまり、自分の心のなかの思いをすくなくとも合図によって語ることができる。ところが、時計のぜんまいに十字架でぎざぎざをつけて作ったまことに粗末な小さな鋸《のこぎり》の音にグリッロはひどく不安になって、彼の房にやってきて長いこと出て行かなかったのだ。ただし、意志を通わすことについての物質的困難が増大するにつれて、クレリアの厳しさがやわらいで来るように思えたことも事実である。例の小さな針金で合図して自分のいることを知らせようとしても、彼女が目を伏せたり鳥を見たりしているようなふりをもうしないことをファブリツィオははっきりと認めていた。きっかり十一時四十五分が鳴るときに彼女がかならず鳥部屋にあらわれるのを見て彼は嬉しかった。彼女のこのような几帳面さは自分のためではないかと彼は思い上がりかけていた。なぜか? そんな考えは理窟に合わぬように思われる。けれども恋というものは、第三者の目には見えないいろいろのニュアンスを見て取り、そこから無数の結論を引き出すものである。たとえば、クレリアは囚人の姿を見られなくなってからは、ほとんど鳥部屋にはいって来るなり彼の窓のほうを見上げるのだった。
この頃はパルマではファブリツィオが間もなく死刑になるということをだれも疑わず、彼女にとって暗い日々だった。それを知らないのは本人だけだったが、この恐ろしい考えはもはやクレリアの頭から去らなかった。だから、ファブリツィオに関心を持ちすぎることをどうして彼女は自分に咎《とが》め得たろう? もうじき彼は死ぬのだ! しかも自由のために! なぜならドンゴ家のものが大道芸人に剣をふるったからといって死刑に処するなどというのはあまりにも馬鹿げていたからだ。ただしこの愛すべき青年が別の女性に結ばれていることも事実だが! クレリアはほんとに惨めな気持ちだったが、自分が彼の運命に寄せている関心がどのような種類のものかをはっきり認めようとはしなかった。(もちろんあの人が刑場に引かれて行ったら私は僧院に逃げこんでやる。そして生涯あの宮廷社会などには出ない。ぞっとするほどいやだわ。礼儀正しい人殺したちじゃないの!)
ファブリツィオの下獄八日目に彼女は非常に恥ずかしい思いをした。陰鬱な思いに耽《ふけ》りながら彼女は囚人の窓をかくしている日よけをじっとみつめていた。この日は彼はまだ全然合図をよこして来なかった。日よけの一部が人間の手よりも大きい面積だけはずされた。彼は楽しそうな顔でクレリアを見やり、そして彼女は自分に挨拶しているファブリツィオの目を見た。この思いがけない試練に堪えられず、彼女はさっと小鳥のほうに向き直ってその世話をはじめた。しかしひどく体が顫《ふる》えて、鳥にやる水をこぼしてしまった。しかもファブリツィオははっきりとこの心の乱れを見ることができたのだ。彼女はこの状態に堪えられず、急いで逃げ出してしまった。
この瞬間はファブリツィオの生涯で問題なく最も楽しいものだった。今このとき釈放を言い出されたとしたら、どれほど躍起になって彼はそれを拒否したことであろう!
翌日は公爵夫人にとって堪えがたい絶望の日だった。町ではすべての人がファブリツィオもいよいよ最後だと信じていた。クレリアは、心にもない冷たさを彼に見せるなどというつまらぬ勇気などはなく、鳥部屋で一時間半も過ごし、彼の合図を一々見守り、すくなくともきわめて強烈な心からの関心を顔にあらわすことでしばしば彼に答えもした。時々そこを離れたのは彼に涙を見せまいとしてだった。彼女の女心はここで使われている言葉の舌足りなさを強く感じていた。本当に話すことができたとすれば、ファブリツィオが公爵夫人に抱いている感情の性質が実際どんなものであるかを、手を替え品を替えてつきとめてみようとすることもできたろうに! クレリアはもうほとんど自分の気持ちをごまかすことはできなかった。彼女はサンセヴェリーナ夫人に対して憎悪を抱いていた。
ある夜ファブリツィオは少々真剣に叔母のことを考えた。彼は驚いた、叔母の姿を思い描くのがむずかしかったのだ。叔母についての記憶がすっかり変わってしまっていた。今彼にとっては叔母は五十歳だった。
(ああ、愛しているなんて言わなかったのはほんとによかった!)どうして自分が叔母をあんなに綺麗だと思ったのかほとんど理解できないほどだった。その点から言えば、あのかわいいマリエッタのほうはそれほどひどく変わっているように思えなかった。それは、マリエッタヘの愛情では本当に心が動いたとは一度も彼は思ってみなかったのに対して、自分の心は完全に公爵夫人のものだとは何度となく思ったものだからだ。A……公爵夫人とマリエッタはいま彼には、その弱さと無邪気さだけが唯一の魅力となっている二羽の若い雌鳩《めばと》のように思われるに対して、クレリア・コンティの崇高な姿は彼の全心を占領して、空恐ろしいほどの気持ちさえひきおこすのだった。自分の生涯の幸福は今後どうしてもこの長官の娘のことを考慮に入れずには考えられない、自分をこの世で最も不幸な人間にするのも彼女の思いのままだということを痛いほど彼は感じていた。自分が彼女のそばで見出しているこの一種奇妙な甘美な生活が、自分の意志ではどうにもならぬようなひょんなことで突然打ち切られてしまうのではないかと、毎日彼はいたたまれない不安をおぼえた。けれどもクレリアはすでに彼の獄中の二か月間を至幅で満たしてくれたのだった。その頃ファビオ・コンティ将軍は週に二度大公にこう言っていたのである。
「名誉にかけて申し上げることができますが、囚人ファブリツィオ・デル・ドンゴはまったく話し相手もなく、眠っているときのほかはこれ以上とはない深い絶望に押しひしがれて日を送っております」
クレリアは日に二度か三度、時にはほんのわずかの間だったが、自分の小鳥を見に来た。ファブリツィオはこれほど彼女を愛していなかったら、自分も愛されていることがはっきりとわかったろう。けれども彼はこの点については恐ろしい疑惑にさいなまれていたのだ。クレリアは鳥部屋にピアノを持って来させた。楽器の音で自分の来ていることを知らせると同時に、窓の下を歩きまわっている哨兵の心をそちらへ引きつけるように鍵をたたきながら、彼女は目でファブリツィオの問いに答えるのだった。ただある一事については彼女は決して返事をせず、それどころか切羽つまると逃げ出してしまって、時には一日じゅう姿を見せなかった。それはファブリツィオの合図がある感情をあらわしているときだった。この感情の表白を理解しないですますことはむずかしかったが、この点については彼女は決して妥協しなかった。
こうして、随分小さな檻にきびしく閉じこめられていたにもかかわらず、ファブリツィオはすこぶる多忙な日々を送っていた。彼の日々はもっぱら「彼女はおれを愛しているのか?」というこの重大問題を解決するのにあてられていた。くりかえしくりかえし観察し、また絶えずその観察に疑いを抱いたあげくの結論はこうだった。(彼女の意識的なふるまいはすべてノンと言っているが、彼女の目に無意識にあらわれているものは、彼女がおれに友情を抱きはじめたことを打ち明けているように見える)
クレリアは告白などということは決してしないつもりでいた。ファブリツィオが何度も表明した願いを彼女がひどく怒ってはねつけたのはこの危険を避けるためだった。気の毒な囚人の用いる方法の惨めさにクレリアは同情をますますそそられたものと見える。彼はストーヴのなかで運よく見つけた炭のかけらで手に文字を書いて彼女と意志を通じさせようとしたのだ。一字々々文字を書いて言葉を綴《つづ》るつもりだった。この発見は、はっきりとしたことを言えるという点で会話をずっと豊かにしてくれたはずだ。彼の窓はクレリアの窓からおよそ八メートルほど離れていた。長官邸の前を歩きまわっている哨兵の頭の上で話を交わすことはあまりにも危険だった。ファブリツィオは自分が愛されているとは信じられなかった。多少色恋の経験があったら疑惑など残らなかったろうに。しかし彼はこれまで一度も女に心を奪われたことなどなかったのだ。しかしまた、彼が知ったら絶望にくれたはずのある秘密があったのだが、そんなことは彼は夢にも思わなかった。実は宮廷で一番金持ちであるクレッシェンツィ侯爵とクレリア・コンティの縁組が大きな問題となっていたのである。
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第十九章
ファビオ・コンティ将軍の野心は、総理大臣モスカ伯爵が在任中に苦境に陥り失脚しそうだと見ると、正気の沙汰ではないほど煽り立てられて、そのあまり彼は娘と猛烈な喧嘩をするまでになった。おまえがそろそろ誰かを選ぶ気になってくれないと自分の出世もおじゃんになってしまうと、間断なしに、しかも腹立たしげに彼は娘にくりかえすのだった。二十歳を過ぎたんだからもう身を固めるべき時だ、おまえが理由もなく強情を張っているおかげでこんな惨めな孤立状態に置かれているが、いつまでもこんな風にしていてはならぬ、云々……。
クレリアが鳥部屋に逃げて来るのは第一にこのひっきりなしの癇癪《かんしゃく》を避けるためだった。ここには大変登りにくい小さな木の階段を登らねば来られないが、長官の痛風はこの場合重大な障害となるのである。
この数週間クレリアの心はひどく動揺していた。自分が何を望んでいいのか我ながら全然わからず、父にはっきりと約束したのではなかったが、ずるずると約束したようなことになってしまっていた。一度怒り出したとき将軍は、おまえをパルマで一番陰気な修道院にやって退屈させてやることだってできるんだぞとどなったものだ。決心する気になるまでそこで悶々としているがいいというのだった。
「おまえも知ってのとおり、うちは大変古い家柄だが年収は六千フランにもならない。一方クレッシェンツィ侯爵の財産は年に十万エキュ以上にもなる。宮廷ではあの男がこの上なくおだやかな性格だと認めぬものはいない。大変な好男子だし、若いし、大公のおぼえもすこぶるめでたい。まったくの話、あの男の好意をはねつけるなんてのは始末に負えぬ気ちがいだよ。これが最初の拒絶ならまだわしも我慢しよう。ところがこれまで五回か六回、しかもこの宮廷で一番の良縁をおまえはことわっているのだぞ、まったくしようのない馬鹿娘だ。わしが休職給しかもらえんことになったら、一つ聞かせてもらいたいもんだが、いったいおまえはどうなる? 何度となく入閣の話もあったこのわしがどこかの三階にでも住むことになったら、わしの敵どもはどんなに凱歌をあげることか! 糞《くそ》! もういやだ、そういつまでもお人好しらしく構えてカッサンドロの役を勤めさせられてはおらんぞ。あのクレッシェンツィ侯爵がいやだというのなら、ちゃんとした理由をわしに挙げてみるがいい。あの男はおまえなんぞに惚れてくれ、持参金もないおまえと結婚して、三万フランの予贈財産をおまえに与えると、言っているんだ。これだけありゃ、せめてわしも家ぐらい見つけられる。筋の通った申し開きをして聞かせるか、そうでなけりゃ、畜生、二月後《ふたつきのち》に結婚するんだぞ!……」
このお談義のなかでただ一つクレリアをぎょっとさせたのは、修道院に入れるという嚇《おど》しだった。そうなれば城砦から遠ざけられる、しかもファブリツィオの命がまさに風前のともし火というときに。というのは、彼の死が間近いという噂は毎月々々くりかえして町にも宮廷にも流れていたからである。どう理屈をこねてみても、そのような危険をおかす決心は彼女にはつかなかった。ファブリツィオと別れる、しかも彼の生死を思って戦々兢々《せんせんきょうきょう》としているときに! そんなことは彼女には最大の不幸に思えた。すくなくとも最も直接的な不幸だった。
ということは、ファブリツィオから離れなければ彼女の心は幸福を得られそうだということではなかった。彼女はファブリツィオは公爵夫人に愛されていると信じており、彼女の心はすさまじい憎悪に引き裂かれていた。始終彼女は誰からも讃えられているあの女性の美点を思った。彼女はファブリツィオに対して極度に控え目な態度を取り、何か不謹慎なことを洩らしてはという不安から合図以外で話させぬようにして来たのだが、そうしたことがすべて相寄って、公爵夫人に対する彼の関係をいくらかでも解明する手だてを自分から奪っているように思えた。こうして彼女はファブリツィオの心のなかにライヴァルがいるのだという恐ろしい不幸を日に日にますます痛切に感じ、心のなかの真実を打ち明ける機会を彼に与えるという危険に直面する勇気は日に日に失われた。だがそれにしても、彼が本当の気持ちを打ち明けるのを聞ければと思うと何と楽しかったろう! 自分の生活を毒している恐ろしい疑惑を氷解させることができれば、クレリアにとって何という幸福だったろう!
ファブリツィオは浮気《うわき》だった。ナポリでは簡単に愛人を変えていたという評判だった。クレリアは司教会員となり宮廷に出入りするようになって以来良家の令嬢として慣しみを守らねばならず、決して自分から質問することはなかったが、注意深く人の話を聞いているうちに自分に次々に求婚して来る青年たちについての噂を知るようになったものだ。ところがファブリツィオと来ては、これらの青年たちすべてにくらべて一番情事において浮気なのである。彼はいま獄にいて、退屈している。彼は話しかけることのできるただ一人の女性に言い寄っているのだ。こんな簡単なことがあるだろうか? いや、こんな|ありふれた《ヽヽヽヽヽ》ことがあるだろうか? そしてこれがクレリアの悩みの種だったのだ。たとえファブリツィオはもはや公爵夫人を愛していないということを完全に打ち明けられて知ったところで、彼の言葉にどれほどの信用がおけたろうか? 彼の話が正直なものだと信じてすら、彼の感情がいつまでもつづくということにどれほどの信用をおけたろうか? そして最後に、これは彼女を本当に絶望させてしまうことだったが、ファブリツィオはすでに宗門のなかで相当の地位に昇っていなかったか? もうじき終身誓願を立てるのではないか? この種の職業のなかで最高の地位につくことになっているのではないか?(ほんのわずかでも良識が残っていたら私は逃げ出すべきではなかろうか?)と不幸なクレリアは思った。(遠い遠い修道院にでもとじこめてくださいとお父さまに懇願すべきではなかろうか? ところが、これこそ一番惨めなことだけど、まさにこの城砦から遠ざけられ修道院にとじこめられることへの不安が今の私の行動を決定しているのだ! この不安のために私は本心をかくし、クレッシェンツィ侯爵が公然と私の世話をやいたり親切にしたりするのをいかにも受け容れているかのような、醜い恥ずかしい嘘をつかねぱならないのだ)
クレリアの性格は心《しん》から理性的だった。生まれてから一度も彼女は無考えなことをしたと悔まねばならぬことはなかったのだが、今の場合の彼女の振舞いは狂気の沙汰だった。これをもって彼女の苦しみを察することができる!……彼女が自分をごまかさなかっただけにこの悩みは余計ひどかった。宮廷で最も美しい女性、多くの点でクレリアより立ち優っている女性に狂わしいまでに愛されている男に彼女は思いをかけていたのだ! そしてこの男自身、もし自由の身であったら真剣に誰かに思いをよせることなど不可能な男であるのに対して、彼女はといえば、これは彼女自身あまりにもはっきりと意識していることだったが、生涯に一度だけしか愛情を抱けぬ人間だった。
だからすさまじい悔恨に心を揺さぶられながら、クレリアは毎日鳥部屋に来るのだった。いわばいやいやながらここにやって来るのだが、そうすると彼女の不安は対象を変え、それほどひどいものではなくなり、悔恨はしばらくのあいだ消え失せた。何とも言えぬ胸のときめきをおぼえながら彼女は、窓を蔽う巨大な日よけに自分でつけた覗《のぞ》き窓のようなものをファブリツィオがあける時が来るのを待ち受けた。獄吏のグリッロが部屋にいて彼が恋人と合図で話すことを妨げることもしばしばだった。
ある夜十時頃、ファブリツィオは城砦のなかできわめて異様な物音がするのを聞いた。暗かったので彼は窓に身を伏せて覗き窓から頭をつきだし、「三百段」と呼ばれている大階段で少々大きな音がしているのをつきとめることができた。この大階段は円塔の内部の前庭から、長官邸と今彼自身のいるファルネーゼ塔とが立っている石づくりの広場へ通じているものだった。
その中ほどあたり、下から百八十段ほどのところで、階段は広い中庭を南から北へと突っ切っていた。そこにごく軽く狭い鉄の橋があって、そのまんなかに番人が配されている。この男は六時間毎に交代する。彼が警戒するこの橋を誰かが通るときには立ち上がって脇へ寄らねばならない。そしてこの橋は長官邸とファルネーゼ塔へ通ずる唯一のものなのだった。長官がいつも持っている鍵で|ばね《ヽヽ》を二回まわしさえすれば、この鉄橋は三十メートル以上も下の中庭へ落ちる。この簡単な手を打ってしまうと、城砦にはほかに全然階段はないし、そして毎夜十二時に先任下士官がすべての井戸の綱を長官のところへ持って来て、長官の部屋を通らなければはいれない小部屋にしまうから、誰も邸内の長官に近づくことはできず、またファルネーゼ塔に行くことも完全に不可能だった。ファブリツィオは城砦に着いた日にこのことをはっきり見て取っていた。それに、すべての獄吏と同様自分の獄のことを自慢するのが好きなグリッロも、何度となくこのことを説明していた。だから脱出できる見込みはまずなかった。けれども彼はブラネス師の金言をおぼえていた。
夫が妻を見張ろうと思うよりも恋する男が女のもとへ行こうと思うことのほうが多い。獄吏が扉を閉ざすことを考えるよりも囚人が脱走しようと思うことのほうが多い。だからどんな障害があろうとも恋する男と囚人は成功するはずだ。
この夜ファブリツィオは、昔あるダルマティア人の奴隷が橋の番人を中庭に突き落として脱走に成功したために「奴隷橋」と呼ばれているその鉄の橋を、多数の人間が通るのをはっきりと聞いた。
(連れ出しに来やがったな、多分おれを絞首の場に引き出すんだろう。だが混乱が起こらぬとも言えぬ。それにつけこんでやらなくちゃ)彼は、武器を取り、早くもあちこちの場所から金を取り出しかけたが、ふとその手を止めた。
(人間てものが面白い動物だってことはどうしても認めなくちゃならん! おれがこんな支度をしているのを誰かがこちらに見えぬところで見ていたら何と言うだろう? もしかするとおれは脱走しようとしているのではあるまいか? そんなことをしても、パルマにもどった翌日おれはどうなっているだろう? どんなことをしてでもクレリアのそばに帰ろうとするのじゃなかろうか? もし混乱が起こったら、それにつけこんで長官邸に忍びこんでやろう。もしかするとクレリアと話せるかもしれない。もしかするとどさくさにまぎれて彼女の手に接吻できるかもしれぬ。コンティ将軍は生まれつきひどく用心深く、しかも同じ程度に虚栄心も強いから、邸に五人も歩硝を立てている。建物の四隅に一人ずつと、玄関に一人だ。しかしさいわい今夜は真暗《まっくら》だ)
忍び足でファブリツィオは獄吏のグリッロと犬がどうしているか見に行った。獄吏は天井から四本の綱で牛の皮をつるし、まわりに粗末な網を張って、そのなかでぐっすりと眠っている。犬のフォックスは目を開き、立ち上がり、ゆっくりとファブリツィオのほうへやって来てじゃれついた。
われらの囚人は自分の板囲いへの六段の階段を身軽に昇った。ファルネーゼ塔の下、ちょうどその門の前でますます物音は激しくなり、グリッロが目をさますのではないかと考えたほどだ。あらゆる武器を身につけ、いつでも行動に出る構えをしていたファブリツィオは、今夜は乗るか反《そ》るかの冒険は免れられないと思っていたが、突然世にも美しい奏楽がはじまるのが聞こえた。将軍かその娘のためにセレナータを奏でているのだ。彼は気ちがいみたいに笑い出してしまった。(おれと来たら、もう短剣をふりまわすことを考えていたんだ! 囚人を救い出すには八十人も獄に人を入れなければならんが、そうした牢破りや暴動などよりも、セレナータのほうがずっと普通のことだというのに!)音楽はすばらしく、今まで数週間にわたって全然心を慰めるもののなかったファブリツィオには甘美なものに思われた。聞いているとほんとにしみじみとした涙が湧いて来た。恍惚として彼は、相手が聞いたら靡《なび》かずにはいられぬような言葉で意中の美しいクレリアをかきくどいた。しかしあくる日の正午彼の見たクレリアは暗い憂鬱に満ち、顔色は真蒼で、彼に向ける視線には時々非常な怒りの色が見られ、そのため彼はセレナータのことで質問するわけに行かないと思った。無躾《ぶしつけ》にならないかと心配だったのだ。
クレリアには悲しむ理由が大いにあった。クレッシェンツィ侯爵が彼女のためにセレナータを奏でさせたのだ。これほど公然たるやりかたは、いわば結婚の正式の予告だった。このセレナータの日までは、しかもその午後九時までは、クレリアはきわめて果敢に抵抗をつづけていたのだが、父親から今すぐ修道院にやるぞとおどかされて心弱くも屈服してしまったのだ。
(何ていうこと! あの人にもう会えないなんて!)と彼女は泣きながら叫んだ。理性がこうつけくわえても何にもならなかった。(私はもうあの人に会わない。あの男はとにかく私を不幸にするのだ。公爵夫人のあの恋人には会わない、ナポリで知られているだけでも十人も愛人を持ち、しかもそのすべてを裏切ったあの浮気な男には会わない。いま下されようとしている判決で殺されなかったとしたら宗門にはいることになるあの野心的な青年には会わない! あの人が城砦から出てからもなおあの人をみつめたりするのは私にとっては罪悪だし、またあの人の浮気な性質のおかげで私はそういう誘惑を感じないですむだろう。だって、あの人にとって一体私は何だろう? 獄中で毎日何時間か退屈をまぎらわすための口実にすぎないじゃないか)こういう風に彼のことを悪く言っているうちに、クレリアはふと収監手続きの部屋を出てファルネーゼ塔へ行くときファブリツィオがまわりの憲兵どもを見ながらうかべた微笑を思い出した。涙が目から溢れ出した。(ああ、あなたのためなら私はどんなことでもするわ! あなたのおかげで私が破滅することはわかつている。それは私の運命なんだ。今夜このやりきれないセレナータを聞くのは、私としてはみずから惨《むご》たらしい破滅を招くことなのだ。でも明日のお正午《ひる》にはあなたの目をまた見ることができる!)
この日クレリアは熱情的に愛しているこの若い囚人のためにあれほど大きな犠牲を払ったのであり、相手の欠点をことごとく知りながらファブリツィオのためにわが身を犠牲にしたのであったが、ファブリツィオが彼女の冷たさに絶望したのはまさにその翌日だったのだ。たとえ合図というまことに不便な言葉を用いてであれ彼がクレリアの心に強く働きかけたならば、きっとクレリアは涙をせきとめることができなかったろうし、クレリアが彼に抱いている思いのすべてをファブリツィオはとうとう聞けたはずだ。が、彼には図太《ずぶと》さが欠けていた。クレリアの心を傷つけないかと心配でならなかった。彼女はあまりにも厳しい罰を加えるかもしれない。換言すればファブリツィオには、自分の愛する女性から味わわされるような感情については全然経験がなかったのである。これは彼がそのほんのかすかな片鱗ですら味わったことのない感覚だった。あのセレナータの夜の後、彼がクレリアともとのように親しい友だちの仲になれるまでには一週間かかった。気の毒な娘は本心を洩らしてしまいはしないかという不安におののきながら厳しさをよそおった。そしてファブリツィオには彼女との仲が日に日に悪くなって行くように思えたものだ。
ファブリツィオはもう三月《みつき》も獄のなかで外界と何らの連絡もなく、それでいて不幸とも感じずに暮らして来たが、その頃のある日、午前中グリッロがあまり長居するので、ファブリツィオはどうして追っぱらっていいかわからずに絶望していた。十二時半が鳴ってしまってから、やっと彼は忌わしい日よけにつけた上下三十センチばかりの小さな二つの揚げ蓋をあけることができた。
クレリアはファブリツィオの窓に目を注ぎながら鳥部屋の窓ぎわに立っていた。顔はひきつり、きわめて激しい絶望をあらわしている。彼を見るや否や彼女はもう何もかもおしまいだという合図をした。ピアノに駈けより、当時はやっていたオペラの叙唱《レシタチーフ》を歌うふりをしながら次のように彼にむかって言ったが、窓の下を歩きまわっている哨兵たちに悟られないかという不安と絶望とのためにその言葉もとぎれとぎれだった。
「まあ、あなたはまだ生きていらっしゃるの? 何と神さまに感謝したらいいやら! バルボーネという、あなたがここにいらっしゃった日無礼を働いてあなたに罰せられたあの獄吏が、姿を消して城砦から出て行きました。それが一昨日《おととい》帰って来たのですが、昨日からあの男があなたの毒殺をはかっていると信じられるふしがあります。あなたの食事を作る城砦の特別の台所をうろうろしています。確かなことは何もわかりませんが、私の小間使は、あの恐ろしい顔の男が邸の台所に来るのはあなたの命を奪うためとしか思えないと言っています。あなたが一向出て来ないのでどれほど心配したことか、あなたが死んだと思ったほど。こちらから何か言うまではどんな食べ物にも手を触れないでください。どんな無理をしてでもすこしばかりチョコレートをとどけさせます。何はともあれ今夜九時に、さいわいにして紐《ひも》をお持ちでしたら、あるいは下着で帯みたいなものを作ることがおできでしたら、それを窓からオレンジの木へ垂らしてください。私がそれに縄をゆわえつけたら引き上げるのです。この縄を使ってパンとチョコレートをあなたにとどけましょう」
ファブリツィオは監房のストーヴのなかで見つけた炭のかけらを後生大事にしまっていた。クレリアの動揺をこれさいわいと、急いで彼は掌《てのひら》に次々に文字を書いた。それをつづけるとこういう言葉になった。
「あなたを愛しています。命が惜しいのはただあなたに会えるからです。何より紙と鉛筆をよこしてください」
ファブリツィオが期待したとおりに、彼がクレリアの顔に見て取ったあのすさまじい恐怖のために、娘は「愛しています」などという大胆な言葉を見ても会話を打ち切らなかった。ひどくむっとしたような顔をして見せただけだ。ファブリツィオは機転をきかしてつけくわえた。
「今日は風が強いので、あなたがせっかく歌で知らせてくださったこともほとんどわかりませんでした。ピアノの音が声を消すので。たとえば、今おっしゃった毒というのは何のことですか?」
この言葉を見て娘の顔には前とまったく同じ恐怖があらわれた。彼女は本のページを破って、そこにインキであわただしく大きな文字を書き出した。これまでしきりにこうして通信しようと持ちかけてことわられて来たその方法が、三か月たってようやく採用されたのを見て、ファブリツィオは欣喜雀躍した。みごとに成功したこのちょっとした計略をこのまま捨てる気にはなれなかった。彼は手紙が書きたくてたまらなかったので、クレリアが次々に文字を書いて見せてもその言葉がよくわからないようなふりばかりしていた。
彼女は鳥部屋を出て父親のところへ行かねばならなかった。父がここに自分を捜しに来ることを彼女は何よりも恐れていた。あの疑い深い気性だから、この鳥部屋の窓が囚人の窓の日よけのすぐそばにあることを喜ぶはずがなかった。クレリアすらも、つい今しがたファブリツィオが姿をあらわさぬことで死ぬような不安におちいっていたとき、小石を紙で包んであの日よけの上部に投げることだってできると考えたほどなのだ。たまたまそのときにファブリツィオの世話を命ぜられている獄吏が房にいなかったとすれば、これは確実な通信方法だった。
われらの主人公は急いで下着で帯のようなものを作った。夜、九時をすこしまわってから、窓の下にあるオレンジの植木箱を軽くたたく音がはっきりと聞こえた。彼は帯をおろし、非常に長い細引を引き上げた。この細引を使って彼はまずチョコレートを吊り上げ、次に、これは彼にとって何とも言えぬ喜びだったが、一巻《ひとまき》の紙と鉛筆を吊り上げた。もう一度細引をおろしたが、今度は何ももらえなかった。多分歩哨がオレンジの木のほうに来たのだろう。しかし彼は喜びに酔っていた。急いで綿々たる手紙をクレリアに書いた。書き終わるが早いか細引に結んでおろした。誰かそれを取りに来ないかと三時間も待ったが無駄だった。何度も引き上げて書き替えた。(今夜まだ毒殺なんていうことに心が動顛しているあいだにおれの手紙を読んでくれなかったら、明日の朝はもう手紙を受け取ることなどてんで問題にしないだろう)
実はクレリアはどうしても父親とともに町に行かねばならなかったのだ。ファブリツィオは十二時半頃将軍の馬車が帰って来るのを聞いて大体わかりかけた。馬の足音を彼は知っていたのだ。将軍が広場を通り歩哨たちが捧げ銃《つつ》をする音が聞こえてから数分後に、依然として腕にまきつけておいた細引が動くのを感じたときの彼の喜びはいかばかりだったか! 細引には重いものがゆわえてあり、引き上げろという合図に細引は二度引かれた。窓の下にあるいやに突き出した軒蛇腹のところを越してその重いものを引き上げるのはかなりの苦労だった。
引き上げるのにさんざん苦労したそれは、水が一杯はいっている水差しで、ショールでくるんであった。長いあいだ完全な孤独のなかで暮らしていた青年は有頂天になってこのショールを接吻で蔽った。しかし、何日も何日もいたずらに待ち望んだあげく、ピンでショールにとめた小さな紙片を見出したときの彼の感動を描くことはもはや諦めねばならない。
この水のほかは飲まず、チョコレートで暮らしてください。明日になったら何とかしてパンをとどけます。パンには四隅にインキで小さな十字を書いておきます。言うも恐ろしいことですが、何としても知っておいていただきたいのは、バルボーネがどうもあなたを毒殺しろという命令を受けているらしいということです。鉛筆で書いた手紙のなかで言ってよこされたようなことは私には不愉快だということに、どうしてあなたはお気づきにならなかったのでしょう? ですから私は、今私たちを脅している恐ろしい危険がなかったらあなたに手紙などは書かないはずです。先ほど公爵夫人にお目にかかりました。伯爵ともどもお元気ですが、夫人はひどくお痩せになりました。あのことについてはお書きにならないで。私を怒らせたいのですか?
この手紙の終わりに近い部分を書くにはクレリアにとって道徳的努力が必要だったのだ。宮廷の社交界では、サンセヴェリーナ夫人があの大した美男子でラヴェルシ侯爵夫人のもとの情人であるバルディ伯爵にいたく好意をよせたとのもっぱらの評判だった。確かなのは、この男が六年間にわたって彼の母親がわりをつとめ、彼を社交界に押し出してくれたこの侯爵夫人と、きわめてきたないやりかたで仲たがいしたということだった。
クレリアはこの短い手紙を大急ぎで書いたのだが、その後でもう一度書き直さねばならなかった。最初の書き方では、意地の悪い世間の連中が勘《かん》ぐっている公爵夫人の新しい情事のことが少々ほのめかされていたからだ。
(私は何て卑しいんだろう!)と彼女は叫んだ。(ファブリツィオにむかってファブリツィオの愛している女性の悪口を言うなんて!……)
翌朝、夜が明けるよりもずっと前にグリッロがファブリツィオの房にはいって来て、かなり重い包みを置くと何も言わずに立ち去った。この包みには四辺にペンで小さな十字を書いたかなり大きなパンがはいっていた。ファブリツィオはその十字に口を押しつけた。彼は恋していた。パンと一緒に二重にした紙を何枚も使って包んだ円筒状のものがあったが、そのなかにはツェキーノ金貨で六千フランはいっていた。最後にファブリツィオは真新しい綺麗な祈祷書を見出した。ようやく彼にも判《わか》り出した筆蹟でその余白に次のような言葉が書いてある。
毒《ヽ》! 水、葡萄酒、すべてに気をつけること。チョコレートで暮らすようにし、夕食は手をつけずに犬に食べさせること。警戒している様子を見せてはいけません。そうしたら敵は別の方法を考えるでしょうから。後生《ごしょう》ですから迂闊なこと、軽はずみなことはしないで!
ファブリツィオは急いでクレリアの身を危くするかもしれぬこれらのいとしい文字を破り棄て、それから祈祷書を何ページも破り取っていくつものアルファベットを作った。文字は一つずつ、炭を砕いて葡萄酒で溶いた墨ではっきりと書いた。十一時四十五分にクレリアが鳥部屋の窓からちょっと離れたところにあらわれたときには、これらのアルファベットはもう乾いていた。(残る大問題は、彼女にこれを使うことに同感させることだ)しかしさいわい彼女には、毒殺の企てについて若い囚人に言わねばならぬことが一杯あった。女中たちの飼っている犬がファブリツィオに出すはずの料理を食って死んでいた。クレリアはアルファベットを使うことに反対するどころか、自分のほうでもインキで書いた立派なものを用意していた。この方法でつづけられた会話は、はじめのうちはかなりやりにくかったが、すくなくとも一時間半はつづいた。つまり、クレリアが鳥部屋にいられるあいだじゅうつづいたのだ。二度か三度ファブリツィオが思い切って彼女に禁じられたことを言うと、彼女は返事をせず、しばらく小鳥のほうに行って世話をする。
ファブリツィオは、夜水を上げるときに彼女自身がインキで書いたアルファベットをとどけてもらうという約束を得た。そのほうがずっとよく見えるのだ。早速彼は長い手紙を書いたが、愛情に関することは、すくなくとも彼女の心を傷つけるような書き方では書かないようにした。このやりかたは成功した。彼女は手紙を受け取った。
あくる日アルファベットで会話したとき、クレリアは全然彼を非難しなかった。毒の危険が減ったことを彼女は知らせた。バルボーネは、長官邸の料理女たちに言い寄っていた男たちに襲われ、あわや殴り殺されるところだった。多分彼はもう台所にあらわれないだろう。彼のために父の持っている解毒剤《げどくざい》を盗み出すことまでしたとクレリアは打ち明け、それを送ってよこした。一番肝腎なことは、変な味がする食べ物は何でもすぐに捨ててしまうことだ。
クレリアはドン・チェーザレにいろいろと質問してみたが、ファブリツィオが受け取った六百ツェキーノの出処はどうしてもつきとめられなかった。いずれにしてもこれはすばらしい徴候だった。厳しさは緩和されているのだ。
この毒の一件のおかげで事態はファブリツィオの望む方向へ大いに進んだ。それでも恋の打ち明けめいたものはまだ全然聞き出せなかったが、クレリアときわめて打ちとけた仲になるという幸福はあった。毎朝、またしばしば夜も、アルファベットで長い会話が交わされた。毎夜九時にクレリアは長い手紙を受け取り、時には短い返事を与えた。新聞や何冊かの書物も送った。グリッロもすっかりまるめこまれて、毎日クレリアの小間使から渡されるパンと葡萄酒をファブリツィオのところへ持って来るまでになっていた。獄吏グリッロは、長官は若いモンシニョーレの毒殺をバルボーネに命じた連中とは意見を異にしているのだと結論し、大いに満足していたが、それは彼の仲間たちも同じだった。というのは、この牢獄のなかではモンシニョーレ・デル・ドンゴの顔をまっすぐ見さえすればお金をもらえるという諺《ことわざ》ができてしまっていたのだ。
ファブリツィオはひどく顔色が悪くなっていた。体を動かすことが全然ないので健康がそこなわれた。それを除けば今ほど幸福なことはなかった。クレリアとの会話の調子は親密で、時にはひどく陽気だった。クレリアの生活のなかで暗い予想や悔恨にさいなまれていないのは、彼と話をしている時だけだった。ある日彼女はうっかりこう言ってしまった。
「あなたのデリカシーには私は感心しています。私が長官の娘なので、あなたは決して自由をとりもどしたいなどということをおっしゃらないのね!」
「そんな馬鹿げた欲望などは抱かないようにしているからですよ。パルマに帰ってしまったら、どのようにしてあなたに会えます? 自分の思っていることのすべてをあなたに言うことができなかったら、生きて行くなんてことは僕には堪えられない……いや、かならずしも思っていることのすべてではない。あなたから言っていいことと悪いことをはっきりきめられていますから。とにかく、あなたがいくら意地が悪くても、毎日あなたに会えずに暮らすなんてことは、この牢獄などよりもっとひどい苦しみでしょう! 生まれてからこれほど幸福だったことはないんですから!……幸福が獄のなかで僕を待っていたなんて、おかしなことじゃありませんか?」
「それについてはいろいろとお話ししなければならぬことがあります」クレリアは急にひどくまじめな、ほとんど無気味なほどの顔になって答えた。
「何ですって!」と愕然としてファブリツィオは叫んだ。「ようやくあなたの心のなかにささやかな地位を占めることができ、しかもそれのみがこの世での僕の唯一の喜びだというのに、その地位を失うようなことになったのですか?」
「ええ、あなたは世間では立派な紳士として通っていらっしゃるけれど、私に対しては誠実を欠いていると思われてならないの。でもそのことについては今日はお話ししたくありません」
こう奇妙な具合にはじまったために会話はいろいろと行き悩み、話しているうちにどちらかが涙をうかべることもしばしはだった。
検察長官ラッシはあいかわらず改名することを切望していた。いま名乗っている名にほんとに厭気がさし、リヴァ男爵になりたかったのだ。モスカ伯爵のほうは、大公のロンバルディアの立憲君主たらんとする馬鹿げた期待を煽り立てると同様、この身を売った裁判官の男爵の爵位に対する熱望を強めるようにその手腕の一切を傾けていた。これがファブリツィオの死を遅らせるために彼が考え出すことのできた唯一の方法だったのだ。
大公はラッシに言った。
「二週間の絶望と二週間の希望、この方法を根気よくつづければあの高慢な女の鼻っ柱をへし折ることもできるだろう。この柔剛二手の使い分けでどんな悍馬《かんば》をも馴らすことができるのだ。この劇薬をたっぷり処方してやれ」
事実二週間置きにファブリツィオの死が間近いという噂があらためてパルマに流れ出すのだった。この風評は不幸な公爵夫人を絶望のどん底に沈めた。伯爵を自分の破滅のまきぞえにすまいという決心を守って、彼女は月に二回しか彼に会わなかった。しかしこの気の毒な男をそのように虐待する罰として、彼女自身にも暗澹たる絶望が絶えずめぐって来るのであった。モスカ伯爵が夫人に絶えずへばりついているあの大変な美男のバルディ伯爵に対する嫉妬を押えて、会えないときには公爵夫人に手紙を書き、未来のリヴァ男爵が熱心に集めて来るすべての情報を知らせてやっても駄目だった。公爵夫人が絶えず流れているファブリツィオについての恐ろしい噂に堪え得るためには、モスカのような才智もあり物わかりもいい人間と一緒に暮らす必要があったろう。無能なバルディが相手では夫人は自分の考えから逃れることができず、堪えがたい生活をさせられて、伯爵は希望を持つべき理由を夫人に伝えようとしてもどうしても伝えられないのだった。
気の利《き》いた口実をあれこれと挙げてこの大臣は、ロンバルディアの中心部サロンノの近くの友人の城に、ある記録文書をあずけることについての同意を大公から取りつけた。この文書は、ラヌッチョ・エルネスト四世の立憲君主への野望を裏付ける数々の策動が書き留められたものであった。
これらの非常に危険な書類のうち二十点以上は、大公自身の手になるものか大公の署名のあるものだった。そこで伯爵は、ファブリツィオの命にいよいよ危険が迫った場合には、一言で大公を葬り去ることのできるある強国へ、これらの書類を引き渡すと大公に告げるつもりでいた。
モスカ伯爵は未来のリヴァ男爵のことは心配していなかった。彼がこわかったのは毒殺だけだった。バルボーネの企ては彼に非常な不安を与え、彼は一見無茶と思われるような行動に出る肚《はら》をきめた。ある朝、彼は城砦の門に行き、ファビオ・コンティ将軍を呼んだ。将軍は門の上の稜堡《りょうほ》まで降りて来た。一緒に親しげに稜堡の上を散歩しながら、伯爵はやんわりと皮肉をきかせた礼儀正しい前置きの後でむきつけにこう言ってやった。
「もしファブリツィオが胡散《うさん》くさい死に方をしたら、私のやらせたことだとされるかもしれない。私は嫉妬深いということになる。私としてはこれは不愉快きわまることで、そんな馬鹿な話は私は許すまいと決心している。だから、もしファブリツィオが病死でもしたら、潔白を証明するために|私はこの手であなたを殺す《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これは覚悟しておいていただきたい」
ファビオ・コンティ将軍は男らしい返事をし、自分の勇敢なところを見せようとしたが、伯爵の目つきは彼の念頭から去らなかった。
それから数日後、まるで伯爵としめしあわせたかのように、検察長官ラッシがこんな男としてはまことにめずらしい軽はずみをしでかした。自分の名が世間で軽蔑の的とされ、下賎《げせん》な連中のあいだで諺にまでなっていることが、この名から逃れられるという希望が持てるようになってから彼には堪えられなくなってしまったのだ。彼はファビオ・コンティ将軍に、ファブリツィオを十二年の城砦禁錮に処する判決書の正式の写しを送った。法律によれば、これは本来ファブリツィオの入獄の翌日におこなわれていなければならぬはずだったのである。しかしこの隠密《おんみつ》処置の国パルマで前代未聞だったのは、司法部が君主のはっきりした命令なしにこのような挙に出たことだった。実際、判決書の正式な写しがいったん司法省から出てしまった以上、二週間毎に公爵夫人の恐怖をつのらせ、大公の言葉を借りればあの高慢な性格を屈服させるという希望をどうして保てよう? ファビオ・コンティ将軍はラッシ検察長官の公文書を受け取る前日に、書記バルボーネが夜少々おそくなって城砦へ帰ったところを袋叩きされたことを知った。これを聞いて将軍は、ファブリツィオをかたづけることがしかるべき筋ではもう問題とされなくなっているのだと結論した。そして、これのおかげでラッシはさしあたってこの無分別の報いを受けずにすんだのだが、将軍はその後はじめて大公から謁見をたまわったとき、送達されて来た判決書の正式の写しについては一言も大公に言わなかったのである。これより前に伯爵はバルボーネのあの|へま《ヽヽ》な試みは個人的な復讐を遂げようとするものにすぎないことを発見しており、気の毒な公爵夫人は安心することができた。そして伯爵はこの書記に、すでにお話しした袋叩きという形で警告を加えたわけなのである。
窮屈な檻のなかに百三十五日も監禁されていた後、ある木曜日、教誨師ドン・チェーザレが迎えに来て、ファルネーゼ塔の天守閣の上を散歩させてくれたことは、ファブリツィオにとって嬉しい驚きだった。ファブリツィオは天守閣に出て十分としないうちに、急に外の大気に当たったため気持ちが悪くなった。
このちょっとした事件を口実にして、ドン・チェーザレは毎日三十分の散歩を許した。これは愚かなことだった。こうして何度も散歩するおかげでわれらの主人公は間もなく体力をとりもどし、それを悪用することになる。
セレナータは何度もおこなわれた。几帳面な長官がこれを我慢したのは、これによってクレッシェンツィ侯爵と娘クレリアの仲がのっぴきならぬものになるからにすぎない。彼は娘の性格がこわかった。娘と自分とのあいだに触れ合う点が一つもないことを漠然と感じ、娘が何か向こう見ずなことをやらかしはしないかといつも恐れていた。修道院に逃げこむかもしれぬ、そうなったらお手挙げだった。それにまた将軍は、最も憎むべき自由主義者どもがとじこめられている一番深い地下牢にまでとどくかもしれぬこの音楽に、何らかの合図が含まれていはしないかと心配していた。楽士たちそのものがまた安心できない。そこでセレナータが終わるや否や、彼は城砦司令部の事務室に使われている長官邸の天井の低い広間に楽士たちをとじこめて鍵をかけてしまう。翌朝日が高く昇ってからでなければ扉は開かれない。長官自身が「奴隷橋」の上に立って目の前で身体検査をさせた上で釈放するのだが、その際も彼は何度となく、囚人のために用事を頼まれてやるような不将《ふらち》なことをしたものがいたらたちどころに縛り首にしてやるぞと念を押すことを忘れなかった。そして不興を買うことを恐れて彼がかならずそれを実行することはよくわかつていたので、クレッシェンツィ侯爵は獄中で一夜を過ごさねばならぬことに大いに腹を立てている楽士たちに三倍も報酬を払ってやらねばならないのだった。
公爵夫人はさんざん苦労したあげく、臆病なこの楽士たちの一人を口説《くど》き落として手紙を一通預けることに成功したにすぎなかったが、その手紙は長官に渡されてしまった。手紙はファブリツィオあてのものだったのである。彼が禁錮されてもう五か月以上になるのに、外部の友人たちは彼とほんのわずかの連絡も取ることができないと、不運を嘆いている手紙だ。
域砦にはいるなり買収されたその楽士はファビオ・コンティ将軍の膝にすがって、自分の知らないある聖職者からデル・ドンゴなる人物あての手紙を是非届けてくれとうるさく頼まれ、ことわることができなかったと打ち明けた。義務を守って急いで閣下の手にお渡ししに来たというのだ。
閣下は大喜びだった。公爵夫人が策謀に長《た》けていることを彼はよく知っており、瞞《だま》されることをひどく恐れていたのだ。ほくほくして将軍はこの手紙を大公に見せに行ったが、大公も大喜びだった。
「それでは、私の断固たるやりかたのおかげでとうとう復讐することができたのだな! あの傲慢な女がもう五か月も苦しんでいる! だが近いうちに処刑台を建てさせよう。あの女は逆上して、これはデル・ドンゴのためのものだと思うにちがいない」
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第二十章
ある夜の午前一時頃、ファブリツィオは窓ぎわに寝そべって日よけにあけた覗《のぞ》き戸から首を出し、星々やファルネーゼ塔の上から見える広大な地平線を眺めていた。彼の目はポー河下流やフェッラーラの方角の平野をさまよううちに、どこかの塔の上から出ているらしいごく小さな、しかしかなり鮮明な光を偶然見つけた。(あの光は平野からは見えるはずがない。塔が厚いから下からは見えない。どこか遠いところへ送る信号か何かだろう)突然彼はその光がごく短い間《ま》を置いて点滅していることに気がついた。(どこかの娘が隣り村にいる恋人と話しているんだな)数えると九回つづけて光があらわれる。(これはIだ)と彼は言った。実際Iはアルファベットの九番目の文字である。次いで休止してから、十四回光が見えた。(これはNだ) さらにまた休止の後に今度は一回だけ。(これはAだ。INAという言葉だな)
短い休止を置いてあらわれる光が次のような言葉となるのを知ったときの彼の喜びと驚きはいかばかりだったろう!
Ina pensa a te.
あきらかに「ジーナはあなたのことを思っている」だ。彼はすぐ自分のあけた覗《のぞ》き窓からランプを使って答えた。
ファブリツィオはあなたを愛している!
この通信は朝までつづいた。この夜は彼の獄中の百七十三番目の夜だったが、もう四か月も毎夜この信号が発せられているのだと彼は知らされた。しかしこれは誰もが見、理解することができる。そこで早速この最初の夜から省略法が取り決められた。非常に速く三度光が出れば公爵夫人を、四度ならば大公を、二度ならばモスカ伯爵を意味する。速く二度出てからゆっくりと二度出れば「脱獄」の意味だ。今後は昔の修道院式《アッラ・モナーカ》のアルファベットによることに話がきまったが、これは余計な人間どもに理解されぬように普通の文字の順位数を変え、任意な数にするものである。たとえばAは十、Bは三、つまりランプが三度点滅すればB、十度点滅すればAという風になる。しばらく光らなければ語と語の切れ目である。翌日の夜も午前一時から始めることに話をきめたが、その夜は公爵夫人が町から一キロも離れているその塔へやって来た。何度となくもう死んだものと思ったそのファブリツィオが送って来る信号を見ると彼女の目は涙に溢れた。彼女は自分でランプを使って彼に言った。「あなたを愛しています。勇気を出して、体を大切にして、希望を持つのよ! 監房のなかで体を鍛えなさい。腕の力が必要になるでしょうから」彼女は思った。(ファウスタの演奏会の日、あの子がボーイの服を着て私のサロンの戸口にあらわれたとき以来、私はあの子に会っていない。あのとき私たちがこんな運命になるとは誰が思ったろう!)
公爵夫人は大公の御慈悲でまもなく釈放されるだろうと信号を打たせた。それからまた自分で出ていろいろ愛情のこもったことを言ってやった。彼のそばから離れることが彼女にはできなかった! ファブリツィオのために尽くしたため夫人に用人《ようにん》として召し抱えられたロドヴィーコに諌《いさ》められてはじめて、彼女は夜もすでに明けかけたときになって信号を打ち切る気になった。誰か悪意ある人間に見|咎《とが》められぬともかぎらなかったのだ。もうじき釈放されると何度もくりかえして告げられてファブリツィオは深い憂鬱におちいってしまった。クレリアは翌日それに気づいて、ついうっかりその理由をきいてしまった。
「僕は公爵夫人にひどく怒られるようなことをしようとしているんです」
「だって、あなたがお断わりになるようなことをあの方があなたに要求なさるはずがあって?」きわめて強烈な好奇心に駆られてクレリアは叫んだ。
「僕にここを出ろというんだ。そんなことは僕は決して同意しない」
クレリアは返事ができなかった。彼をみつめてクレリアは涙にくれた。彼がそばに寄って彼女に言葉をかけることができたとすれば、おそらく彼女の真情の告白が得られたことだろう。この真情がわからぬからこそ、彼はしばしば深い絶望におちいっていたのだ。クレリアの愛のない生活などは自分にとってやりきれない苦しみか堪えがたい倦怠の連続以外のものであり得ないと彼は痛切に感じていた。恋を知る前には大切なものと思えたあの幸福をとりもどすために生きるなどというのは、もはやまったくつまらぬことのように思えた。イタリアではまだ自殺は流行《はや》っていなかったけれども、運命によってクレリアと引き離されたらそれも一つの解決方法だと思った。あくる日彼は非常に長い手紙を彼女からもらった。
真実を知っていただかねばなりません。あなたがここに来られて以来何度となく、あなたの最後の日が来たとパルマの人々は思いました。いかにもあなたの判決は十二年の城砦禁錮にすぎませんが、困ったことに、君主の憎悪が執念深くあなたをつけねらっていることを疑うわけには行きませんし、私も何度となく毒薬であなたの命がちぢめられるのではないかと心配したものです。ですから、ここから出る方法があれば|どんなものでも《ヽヽヽヽヽヽヽ》逃がしてはいけません。ごらんのとおり私はあなたのために最も神聖な義務にそむいているのです。本来私の口から言うべきではないことをこのように思い切って申し上げているのですが、このことから危険がどれほど迫っているかを判断してください。もしどうしてもそうする必要があるなら、もしほかに方法がなかったら、脱走してください。この城砦にいるかぎりいついかなる時に生命の危険にさらされるかわからないのです。目的を遂げるためには犯罪も厭《いと》わぬ党派が宮廷にあることを考えてください。そしてこの党派のすべての計画が一枚|上手《うわて》のモスカ伯爵のおかげで失敗して来たことがおわかりにならないのですか? ところが、今度は伯爵をパルマから追い出す確実な方法が見つかつています。それは公爵夫人を絶望させることです。そしてある若い囚人の死によって夫人を絶望させることができるのはあまりにも明白ではありませんか。この一言だけで、もう文句なしにあなたの立場がおわかりになるはずです。あなたは私に好意を抱いているとおっしゃってくださいますが、その感情が私たちのあいだで何らかの安定した形を取るには越えられない障害があるということをまず考えてください。あなたと私は青春時代に出逢い、不幸な時に救いの手を差し伸べ合ったということになるのでしょう。たまたま運命がこの苛酷な場所に私を置いて、あなたの苦しみをやわらげさせようとしたのでしょう。でも、もしあなたが、現在はもちろん今後も決して根拠があるはずのない錯覚に捉われて、これほど恐ろしい危険から命を救う機会をどんなものでも捕えようとなさらなかったとすれば、私は永久に自分を責めることになるでしょう。あなたといくらか好意のしるしを交わしてしまったのはとんでもない軽はずみでしたが、そのおかげで私は心の平安を失ってしまいました。アルファベットを使った私たちの子供っぽい遊戯のために、あなたがまつたく理由のない、しかもあなたにとって致命的なものになるかもしれない錯覚を抱かれたとしたら、自分を弁護するためにバルボーネの企てのことを持ち出してみても私は救われないでしょう。当面の危険からあなたを救い出すつもりで私自身あなたをはるかに恐ろしい危険に投げこんだということになります。そして私の無思慮なおこないのためにあなたが公爵夫人の忠告にさからうような気持ちを起こしたとすれば、この私のおこないは永久に許されぬものとなります。くりかえしあなたに申し上げねばならないのはこういうことなのです。逃げてください。私が命ずるのです……。
この手紙は大変長かった。たとえば今の文中の「私が命ずるのです」などというようなくだりなどは、恋するファブリツィオに一時《いっとき》甘い希望を味わわせてくれた。言葉づかいは著しく慎重であっても、底にある本心にはかなり愛情がこもっているもののように思えた。また別のときには、この種の恋の駈引きにはまったく無知なせいで、クレリアのこの手紙に単なる友情、いや、ごくありふれた同情しか見られぬような気がした。
それにまた、彼女が教えて来たことによってファブリツィオの意志は一瞬も変わらなかった。彼女が描いて見せる危険がまったく事実であるとしたところで、当面多少の危険を冒すことで毎日彼女に会うという幸福が買えれば、高すぎるということなどありはしない。もう一度ボローニャなりフィレンツェなりに逃げたとすれば、どんな生活を送ることになるか? というのは、城砦から脱走したとすれば、パルマで暮らす許しが得られるものと期待することさえできないからである。それにまた、たとえ大公が意見を変えて彼を釈放するにいたったところで(そんなことはまずあり得なかった、彼ファブリツィオはある強大な党派にとってモスカ伯爵追い落としの手段となってしまっているのだから)、両党派のあいだを隔てる憎悪によってクレリアと引き離されてパルマでどんな生活を送ることになるか? 多分月に一度か二度は偶然に同じサロンで一緒になるだろう。しかしそうなったとしてすら、一体彼女とどんな話ができるだろうか? 今毎日何時間にもわたって味わっているこの申し分のない親密さをどのようにしてとりもどせるだろうか? 今アルファベットで交わしている会話にくらべればサロンでの会話など何だろうか?(この無上の歓喜の生活と唯一の幸福の機会とを多少の危険をもって贖《あがな》わなければならないとしても、悪いことは何もないじゃないか。そしてこれによっておれの愛情のあかしを彼女に立てて見せるいささかの機会でも得られれば、これもまた幸福ではあるまいか?)
ファブリツィオはクレリアの手紙のなかに彼女に会見を求める機会しか見なかった。彼のすべての望みは絶えずこのことにのみ集中していたのだ。彼がクレリアと直接話したのは入獄のとき一度だけ、しかもほんの束の間にすぎなかった。それからもう二百日以上もたっている。
クレリアに会う簡単な方法を彼は思いついた。善良な神父ドン・チェーザレは木曜毎に昼のあいだ三十分ほどファルネーゼ塔の屋上を散歩することをファブリツィオに許していた。だがほかの日は、パルマや近郊のすべての住民に見られて長官の立場に重大な影響をおよぼさぬともかぎらないので、この散歩は日が暮れてからでなければできなかった。ファルネーゼ塔の屋上に登るためには、読者も多分御記憶の、白と黒の大理石で陰気くさく飾ったあの礼拝堂についている小さな鐘楼の階段しかない。グリッロがファブリツィオをこの礼拝堂に連れて行き、鐘楼の小さな階段をあけてやる。ファブリツィオについて行くのが彼の義務なのだが、夜気が冷え冷えとしはじめたので獄吏はファブリツィオを一人で登らせ、屋上に通ずるこの鐘楼に鍵をかけて彼をとじこめ、自分は部屋にもどって体をあたためるのだ。ところで、いつかクレリアが小間使を連れてこの黒大理石の礼拝堂に来るわけには行かないだろうか?
ファブリツィオがクレリアの手紙に答えて書いた長い手紙は始めから終わりまでこの会見が得られるように仕組んであった。さらに彼はきわめて正直に、まるで他人のことででもあるかのように、自分が城砦から離れまいと決意した理由を打ち明けていた。
「もう全然不自由のなくなったあのアルファベットを使って話をするという幸福を得るためならば、僕は喜んで千度でも死ぬ覚悟でいますが、あなたはパルマもしくはボローニャヘ、それどころかフィレンツェへ逃げるという欺瞞的な行為をしろとおっしゃるのです! 自分の足であなたから遠ざかつて行けとおっしゃるのです! いくら無理をしてもそんなことは不可能だということをおぼえておいてください。そうなるとあなたにここで約束したところで無駄でしょう。そんな約束は守れますまいから」
こうして会見を求めた結果クレリアは姿をあらわさなくなり、それも五日もつづいた。五日間彼女は、日よけにあけたあの小さな穴をファブリツィオが利用できないとわかっているときにしか鳥部屋に来なかったのだ。ファブリツィオは絶望した。こうして姿を見せないところから彼は、時々彼女の目つきを見て途方もない希望を抱かせられはしたが、実はクレリアが自分に感じているのは単なる友情以外の何ものでもないと結論した。彼は思った。(そうだとなれば命など問題じゃない。大公がおれを殺すというんならかえってありがたい。城砦を去らない理由がまた一つ出来た)こうして毎夜小さなランプによる信号に答えながら彼は何ともうとましい気持ちを感じていた。公爵夫人はロドヴィーコが毎朝持って来る信号簿のなかで、「僕は逃げたくない、ここで死にたい!」という異様な文句を読んだとき、彼が完全に正気をなくしてしまったのだと思った。
ファブリツィオにとって無慈悲きわまるものだったこの五日間のあいだ、クレリアは彼以上に不幸だったのだ。彼女はあることを思いついたのだが、この考えは高潔な心にとっては堪えがたいものだった。(私の義務は城砦から遠く離れた修道院に逃げこむことなのだ。ファブリツィオは私がここにいないことを知ったら、そして私はグリッロやその他すべての獄吏の口からそう知らせてやるつもりだが、そうなればあの人も脱獄を試みる気になるだろう)しかし修道院に行くということはファブリツィオに会うのを永久に思い切ることだった。それにしても、かつては彼を公爵夫人に結びつけていた感情が今はもうなくなってしまっていることをあれほどはっきりと彼が証明して見せているときに彼に会うのを断念するとは! これ以上心を打つ証拠を一人の青年が示すことができるだろうか? 七か月の長い幽囚によっていちじるしく健康を害されながら、彼は自由を回復することを拒んでいるのだ。廷臣たちの噂話がクレリアの目の前に描き出したファブリツィオのような浮気な人物ならば、一日でも早く城砦から出るために愛人など何人でも犠牲にしただろう。しかも、いつ毒薬によって命を奪われるかもしれぬような牢獄から脱出するためとあれば何をしでかすかわかったものか!
クレリアには勇気がなかった。修道院に身をひそめれば、同時にまたクレッシェンツィ侯爵と縁を切るごく自然な方法ともなったろうに、そうしなかったのは動かしようもない彼女のあやまちだった。このあやまちを犯してしまった以上、窓から窓へという形で彼女を見るだけの幸福を得るために自分の生命を恐るべき危険にさらしているこのきわめて愛すべき、天真で愛情のこまやかな青年にどのようにして抵抗し得たろう? 時々自己軽蔑に襲われながら五日間堪えがたい苦闘をつづけた後、クレリアはファブリツィオが黒大理石の礼拝堂で会ってくれと懇望して来た手紙に返事をする決心をした。実は彼女は拒絶したのだ、しかもかなり無情な言葉を使って。しかしこの瞬間から彼女の心の平静はまったく失われてしまい、絶えず彼女の想像力は毒を盛られて倒れようとしているファブリツィオの姿を彼女の眼前に描き出す。七、八回彼女は鳥部屋に行ったが、ファブリツィオがまだ生きていることを自分の目で確かめなければというやみがたい欲求を感じたのだ。
(あの人がまだ城砦にいるのも、モスカ伯爵を追い出すためにラヴェルシ一派があの人に対してたくらんでいるかもしれぬ恐るべき陰謀に身をさらしているのも、もとはといえばただ一つ、私に修道院に逃げこむ勇気がなかったからなのだ! 私が永久にここから去ったということがはっきりしてしまったら、あの人だってここにとどまる理由など全然なかったろうに)
ひどく臆病でしかもひどく気位の高いこの娘は、遂には断られるのを覚悟で獄吏グリッロに物を頼むことまでした。それどころか、自分の異様な振舞いについてこの男がどんな取り沙汰をしようとやむを得ないという気持ちで事に当たったのだ。恥を忍んで彼を呼びにやり、心に秘められたものをすっかりさらけ出してしまうような顫《ふる》え声で彼女は言った。近いうちにファブリツィオは自由の身になる。サンセヴェリーナ公爵夫人はそれを見込んでさかんに運動しているが、夫人のおこなった提案に対するファブリツィオの返事をただちに聞く必要がよくある。そこで自分としては、サンセヴェリーナ夫人から昼のうちに何度か受け取る知らせをファブリツィオに合図で伝えることができるように、ファブリツィオが窓をかくしている日よけに穴をあけるのを許してやってほしいのだ、と。
グリッロはにやりと笑い、おっしゃるとおりにいたしますと確約した。それ以上何も言わなかったことに対してクレリアは非常に感謝した。ここ数か月の事態をこの男がよく知っていることはあきらかだったのだ。
この獄吏が部屋から出て行くや否やクレリアは、緊急の場合にファブリツィオを呼ぶためにきめてあった信号を送った。そして今自分のしたことを全部彼に打ち明けた。
「あなたは毒を飲んで死にたいとおっしゃるのね」と彼女はつけくわえた。「私は近いうちに父から離れてどこか遠い修道院にでも逃げこむ勇気を持ちたいものだと思っています。これは私があなたのためにどうしてもしなければならないことなのです。そうすればあなたも、ここからあなたを救い出す計画が提案されたとき、もう反対なさらないと思いますから。あなたがここにいらっしゃるかぎり、私は恐ろしくて理性を失ってしまうことがよくあります。生まれてから今まで私は一度も人の不幸に手をかしたことはありませんが、私のせいであなたが死ぬことになるような気がするのです。まったく見ず知らずの人の場合でも、そんなことになったらば私は絶望してしまうでしょう。だから、いくら無茶なことを言って私をさんざん困らせていようと、とにかく、長いあいだ毎日会っているお友だちが、今この瞬間死の苦悶に襲われていると考えたとき、私がどんな気持ちになるかわかってくださるでしょう。時々あなたがまだ生きていらっしゃることをあなた自身の口から聞きたい気持ちになることもあるくらい。
この恐ろしい苦しみを逃れるために私は今しがた、拒絶するどころか私を裏切るかもしれぬ目下《めした》の者に恥を忍んで情けを乞うたのです。もっとも、あの男が父に私のことを言いつけてくれたら私は幸福かもしれません。すぐ修道院に行ってしまって、あなたの始末に負えない無分別に心ならずも手をかすようなことをもうしないですみますもの。でも、これは信じてちょうだい、こんなことは長つづきするものではありません。公爵夫人の指図に従いなさい。むごい方《かた》、あなたは御満足? この私が父を裏切るようにあなたにおすすめしているのよ! グリッロを呼んで何かやってください」
ファブリツィオは恋に夢中だったので、クレリアのどんな簡単な意志表示に逢っても不安にいたたまれなくなり、そのためこんな異様なことを言われても愛されているという確信は持てなかった。グリッロを呼んで彼はこれまでの親切に対して気前よく金をやった。今後のことについては、日よけの穴を利用することを許してくれた日には一ツェキーノ金貨を一枚やると約束したが、グリッロはこの条件に大満悦だった。
「正直なところを申し上げましょう、猊下《げいか》。毎日冷たい夕食を黙って食べていらっしゃるおつもりですか? 毒を避けるごく簡単な方法があるんです。しかしこいつは絶対秘密にしておいていただかにゃなりません。獄吏は見えるものすべてを見ていなくちゃならぬが、見えぬものを見ちゃならんとか何とか言いますからね。犬なら一匹どころか何匹でも私は手に入れられます。食べようというものは何でも御自分でそいつらに食わせてごらんになるんですな。葡萄酒のほうは私が自分のを差し上げますから、私の飲んだ壜にしか手を触れないことにするんです。しかし、閣下が私の身の破滅を図ろうとお思いなら、こうした委細をクレリアさまにお告げになりさえすりゃいいんです。女は所詮女ですからね。明日お嬢さんがあなたと喧嘩すりゃ、明後日には腹いせにこうした細工《さいく》を何から何までお父上に言ってしまいますよ。このお父上の無上の楽しみってのは、獄吏を縛り首にする口実を見つけることなんですがね。この城砦でバルボーネの次に一番意地の悪い人間かもしれませんて。そしてまさにそれだからあなたの立場は本当に危険なんですよ。毒薬の調合も心得てますよ、ほんとに。私が小犬を三匹か四匹飼おうなんて言ったらあの人は決して私を許しちゃおきません」
またセレナータがおこなわれた。今ではグリッロはファブリツィオの質問することには何でも答えた。それでも彼は口を慎しんでクレリア嬢を裏切るようなことは決してすまいと固く決心していた。彼の考えではこの令嬢はパルマ領第一の富豪クレッシェンツィ侯爵ともうじき結婚するところなのだが、牢獄の壁が許すかぎり愛すべきモンシニョーレ・デル・ドンゴとも恋をしているのだということになる。セレナータのことでファブリツィオの質問に答えているうちに、終わりのほうで彼はついうっかりこうつけくわえてしまった。
「あの人はもうじきお嬢さんと結婚するのだと思われていますよ」
この簡単な一言がファブリツィオにどんな影響を与えたかは察するにあまりある。その夜彼はランプの信号に対して、自分は病気だと答えただけだった。翌朝十時になるともうクレリアは鳥部屋にあらわれたが、彼は二人のあいだにこれまでなかったような四角張った礼儀正しさで、クレッシェンツィ侯爵を愛していること、もうじき彼と結婚することをどうしてあっさりと自分に言ってくれなかったのかとクレリアにきいた。
「そんなことはまるつきり事実ではありませんもの」とクレリアはいらだたしげに答えた。
その後で彼女の言った言葉がもっと曖昧だったことは事実である。ファブリツィオはそれを指摘して、これをいい機会にもう一度会見を求めた。自分の誠意を疑われたと知ったクレリアは、そんなことをしたら自分はグリッロに頭が上がらなくなってしまうと言いはしたものの、ほとんど即座に承諾を与えてしまった。その夜暗くなってから彼女は小間使を連れて黒大理石の礼拝堂にやって来た。彼女は中央の常夜燈のそばにたちどまった。小間使とグリッロは三十歩ほど離れた戸口のそばにひきさがった。クレリアはわなわな顫《ふる》えていたが、立派な文句を用意していた。後で困るような告白は決してすまいとしてそれを用意しておいたのだが、情熱の論理は圧倒的である。何としても真実を知りたいという気持ちのために、もはやつまらぬ用心をしていられなくなり、同時にまた愛するものへのつきつめた献身の情は相手の心を傷つけはしないかなどという不安を忘れさせてしまった。ファブリツィオは最初クレリアの美しさに目もくらむ思いだった。この八か月彼がこんなにまぢかに見たのは獄吏だけだったのだ。しかしクレッシェンツィ侯爵の名が出て来ると彼の激情はすっかりよみがえり、クレリアが慎重に考えて答えるのをはっきり見て取るとこの怒りはますます募った。クレリア自身も相手の疑いをはらすどころかますます強めていることを悟った。そう感じることは彼女にとっては堪え切れぬことだった。
目に涙をうかべながら怒ったように彼女は言った。
「私に自分の義務とするものをすべて踏みにじらせてあなたは幸福なのですか? 去年の八月三日までは、私の機嫌を取ろうとする男たちに対して私は疎《うと》ましさしか感じませんでした。廷臣というものの性格に私は限りのない、おそらく度を過ごした軽蔑を抱いていたし、この宮廷で幸福を感じている連中は私には全然気に入りませんでした。反対に、八月三日にこの城砦に連れて来られたある囚人には、独特な性質が見受けられたのです。最初は自覚していませんでしたが、私はありとあらゆる嫉妬の苦しみを嘗《な》めました。私もよく知っているあるすばらしい女性の魅力を思うと心臓を突き刺されるような思いでした。囚人はその女性に思いをよせていると考えていたし、今でもそう考えているからです。そのうち、私に結婚を申し込んで来ていたクレッシェンツィ侯爵がいよいようるさく迫って来ました。侯爵は大変なお金持ですが、うちには全然財産がありません。私は平然として侯爵の言うことをはねつけていたのですが、そのうち父が修道院などという恐ろしいことを言い出してしまいました。城砦を去ってしまえば、私としてはその運命に無関心でいられぬあの囚人の命を守って上げられなくなるとわかりました。自分の生命を脅かしている恐ろしい危険にこの人が今まで全然気づいていなかったのは、私がいろいろと気をつかっていたからこそなので、自分ながら上出来だったと思います。私は父を裏切ることも自分の秘密を洩らすことも決してしまいと心に誓っていました。ところがこの囚人をかばっている女性はすばらしく活動的で、智力も優れ、恐ろしい意志力を持っていて、脱獄の方法をいろいろ囚人に言ったらしいと私は睨《にら》んでいますが、囚人はそれをはねつけ、私から離れるのがいやだから城砦を去ることを拒むのだと私に信じこませようとします。このとき私は大きなあやまちを犯しました。五日間私は苦しみましたが、実はすぐ城砦を去って修道院に逃げこむべきだったんです。そうすればクレッシェンツィ侯爵と手を切るのも簡単なことだったでしょうに。私は城砦を去る勇気がなかったため、もう名誉も失ってしまった。軽薄な男に心を寄せてしまったんですから。この男のナポリでの行状を私は知っています。この人が性格を改めたと信じる理由があるでしょうか? 厳しい牢獄にとじこめられると、この人は自分の会えるただ一人の女に言い寄りました。その女は彼にとっては退屈しのぎにすぎなかったんです。少々面倒なことをしなければその女と話ができなかったので、この気ばらしはうわべだけ情熱を装いました。この囚人は勇敢だということで世間に知られていたので、愛しているつもりの娘に会いつづけるためにかなり大きな危険に身をさらすことによって、自分の愛情が単なる一時《いっとき》の好意以上のものだと証明できると思っているのです。でも、大都会へ出てふたたび社交界のさまざまな誘惑にとりまかれてしまったら、またたちまち元の杢阿彌《もくあみ》に、つまり放蕩や漁色にうつつをぬかす社交人にかえってしまうでしょう。そして牢獄で一緒に暮らした哀れな女は、この浮気者に忘れられ、そんな男に心を打ち明けてしまったことを死ぬほど後悔しながら、修道院のなかで生涯を終わることになるのでしょう」
この歴史的大演説は、ここではただその大筋を御紹介したにすぎないのだが、読者もお察しのとおり何度となくファブリツィオにさえぎられた。彼は狂おしいまでに恋しており、それ故クレリアに会うまでは恋愛など一度もしたことはないし、自分の運命はひたすら彼女のためにのみ生きることだと本気で思いこんでいたのである。
彼がこれに対してどんな立派なことを言ったかは読者も多分お察しであろうが、そのとき小間使がクレリアに、今十一時半が鳴ったから、将軍がいつ帰館するかわからないと警告した。別れは堪えがたかった。
「あなたにお目にかかるのはおそらくこれが最後でしょう」とクレリアは囚人に言った。「ラヴェルシ一味の利益になるとわかりきっているような措置《そち》が取られて、あなたが浮気ではないことが残酷な形で証明されることになるかもしれませんもの」
クレリアは涙にむせび、しかもそれを小間使の、そして特に獄吏グリッロの目から隠すことができない恥ずかしさに身も世もあらぬ思いでファブリツィオと別れた。将軍が今夜は夜会に行くと予告することでもあれば別だが、もう一度会って話すことなどは考えられなかった。ファブリツィオが投獄され、しかもこの投獄が廷臣たちの好奇心をかきたてるようになってから、将軍は痛風の発作がほとんどひっきりなしに起こっていることにするのが賢明だと思ったので、高等政策の必要上やむなく町へ出かける場合にも、馬車に乗りこむときになってしばしば出かけるべきかどうかと迷うくらいだったのだ。
大理石の礼拝堂でのあの夜以来、ファブリツィオはずっと喜びに我を忘れて暮らした。いかにもまだ重大な障害が彼の幸福を阻《はば》んでいるように見えた。しかしとにかく、自分の心をすっかり奪ってしまった神々しいまでの女性に愛されているという、この思い設けぬ至高の喜びを彼は得たのだ。
その会見から三日目の日、ランプの信号はずっと早く、大体午後十二時頃はじまった。それが終わった瞬間、ファブリツィオはもうすこしで大きな鉛の玉で頭を割られるところだった。玉は窓の日よけの上部へ投げつけられ、窓ガラスがわりの紙を破って監房のなかに落ちたのだ。
この玉はいやに大きいのに、その体積から予想されるほど重くはなかった。ファブリツィオは簡単にそれを開くことができたが、中には公爵夫人の手紙がはいっていた。抜かりなく大司教の御機嫌を取っていた夫人は、彼の仲介で城砦守備隊の兵士の一人を抱きこんだのだ。石投げのうまいこの男は長官邸の四隅と入口に配置された歩哨を瞞《だま》すか、あるいは彼らとうまく話をつけたのだろう。
綱で脱出しなければなりません。奇妙なことを言い出しましたが、そう言いながら私は顫《ふる》えているのです。これを言おうか言うまいかと私は丸二か月も迷いましたが、その筋の動きは今後日に日に悪くなるでしょうし、最悪の事態も考えられないではありません。ところで、今すぐそちらからランプの信号を出して、この危険な手紙を受け取ったことを知らせてください。アッラ・モナーカでPBGつまり四、十二、二とやるのです。その信号を見るまで私は生きた心地もないでしょう。私は塔に来ています。こちらからNO、つまり七、五と答えます。答を見たら何も信号をしないでよろしい。私の手紙をよく理解するように努めてください。
ファブリツィオは急いで命令に従い、きめられた信号を送ると、すぐ予告どおりの答が返って来た。それから彼は手紙を読みつづけた。
最悪の事態も考えられないではありません。これは、私が一番信頼している三人の人が、どんなに私にとって辛いものでも真実を言うと福音書にかけて誓ってくれたあげく、私にむかって言明したことなのです。一人はフェッラーラで密告すると言った外科医を、抜き身の短刀を持って飛びかかってやるぞと嚇《おど》した人。二番目はあなたがベルジラーテから帰ったとき、痩《や》せぎすの立派な馬を綱で挽いて森のなかを歌をうたいながらやって来た侍僕をピストルで射殺したほうが何としても賢明だったとあなたに言った人。三番目はあなたの知らない人ですが、私が親しくしている追剥《おいはぎ》で、およそこの上なく実行力があり、あなたと同じくらい勇気もある人です。あなたがどうすべきかを言ってくれと私がこの人に頼んだのは何よりもそのためなのです。今後なお十一年四か月も大いにその可能性のある毒殺を恐れて絶えずびくびくしながら暮らすよりも、首の骨を折る危険を冒したほうがいいと三人とも言ってくれましたが、それぞれ私がほかの二人にも相談したことは知らなかったのです。
一か月間あなたは獄房のなかで結び目をつけた綱をつたって昇ったり降りたりする練習をしなければなりません。それから、祭日に城砦の守備隊にふるまい酒が出たときに、この大事を決行するのです。白鳥の羽根ぐらいの太さの絹と麻の縄を三本とどけますが、一本は二十五メートルの長さで、あなたの房の窓からオレンジの木の植込みまでの十メートルを降りるためのもの、第二は九十メートルで、これは重いから大分厄介ですが、大塔の壁の高さに当たる五十メートルを降りるため、そして第三のは九メートルで、城壁を降りるのに使うのです。私はここのところずっと東側の、つまりフェッラーラの側の大きな壁を調べています。ここでは地震のため生じた亀裂を控え壁でふさいでありますが、その控え壁は斜面をなしています。例の追剥《おいはぎ》は、こちら側ならばその控え壁の斜面に身をすべらせて、少々の擦《す》り傷のほかはたいした困難もなく降りられることは請合いだと言ってくれます。垂直になっているところは一番下で八メートルばかりしかありません。この面は一番警戒が手薄です。
ところでこの追剥はこれまで三回も脱獄したことがあって、あなたのような階級の人を憎悪しているけれども、あなたも知り合いになれば好きになるでしょう。さて、あなたと同じく身軽で機敏なこの追剥は、あらゆる点を考えて、自分ならば西側から、あなたのよく知っているファウスタの住んでいた小邸にちょうど面した側から降りるほうがいいと言っています。そちらのほうを選ぶ理由は、壁の傾斜はほんのわずかだけれども、ほとんど上から下まで草木が茂っていることだそうです。小指ほどの太さの枝があちこちにあって、気をつけないと擦り傷を作るおそれは大いにありますが、そのかわりつかまるには非常に具合がいいのです。今朝も私はその西側を上等の望遠鏡で眺めてみました。ちょうどいいのは、二、三年前に屋上の手すりに据えた新しい石のちょうど下のところです。この石のちょうど真下に、まず六メートルばかりのむきだしの面があります。ここはごくゆっくりと降りなければなりません(こんな恐ろしいことを書きながら私の胸が顫《ふる》えているのがあなたにもわかるでしょうね。でも勇気というものは、それがどんなに恐ろしいものであれ小さなほうの苦難を選ぶ能力のことです)。このむきだしの面を越えると二十数メートルはひどく茂った藪になり、鳥が飛んでいるのが見えます。その次の九メートルほどの面は草と|あらせいとう《ヽヽヽヽヽヽ》と蕁《いら》草類しかはえていない。さらに地面へ近づくと六メートルほどの藪、そして最後の八〜九メートルは最近|粗塗《あらぬ》りしたばかりです。
私がこちら側を選ぶのは、屋上の手すりに据えた新しい石の真下の庭園に、兵隊が建てた木造の小屋があるからです。城砦勤務の工兵大尉はその兵隊に命じてこれを取り壊させようとしていますが、高さ五メートルばかりで、屋根は藁ぶき、しかもその屋根は城砦の大壁にくっついています。万一事故でもあったらこの屋根が衝撃をやわらげてくれるでしょう。ここまで来てしまえば、そこはもう警戒も手薄な城壁の内部です。そこで妨げられたら、ピストルを射って数分間頑張りなさい。あなたのフェッラーラの友だちと、もう一人の勇敢な男、私が追剥と呼んでいる男は梯子《はしご》を持っていますから、大して高くもないこの城壁を躊躇《ちゅうちょ》なくよじのぼってあなたを助けに駈けつけるでしょう。
城壁は高さが七メートルしかなく、傾斜もごくゆるやかです。私は武装した男たちをたくさん連れてこの最後の壁の下に行っています。
これと同じやりかたで、あと五、六通の手紙をとどけられると思います。おたがいに誤解がないように、言葉を変えて同じことを何度もくりかえして書くことにします。「侍僕を射殺したら」と言ったあの人は、何といってもこの上なくいい人で、今は非常に後悔していますが、この人はあなたが腕一本折るくらいのところですむだろうと考えています。これを言いながら私がどんな気持ちだかあなたは察してくれるでしょうね。この種の冒険にはもっと経験に富んでいる追剥は、何よりもあわてずに、ごくゆっくりと降りれば、擦り傷ぐらいのところで自由になれるだろうとの考えです。綱を手に入れることが大問題です。私もこの大計画にとりつかれて以来の二週間というもの、もっぱらそのことばかり考えています。
「脱出したくない!」というのは、あなたがこれまでに言ったただ一つの分別を欠いたことですが、こんな狂気の沙汰には私は返事をしません。侍僕を射殺したらと言った人は、退屈のあまりあなたの頭がおかしくなったんだと叫びました。隠さずに言えば、危険は非常に迫っており、逃亡の日が早められるのではないかと私たちは思っています。この危険を知らせるときには、
「城に火がついた!」とつづけて何度も信号します。あなたのほうは「僕の本は焼けたか?」と答えてください。
この手紙にはなお五、六ページもこまかいことが書かれていた。非常に薄い紙に虫眼鏡で見なければならぬような文字で書いてある。
(こいつは大したもんだ、実によく考えてある)とファブリツィオは思った。(伯爵と公爵夫人には永久に感謝しなければならん。おれがこわがっているんだとあの人たちは思うだろうが、おれは脱出などしない。呼吸する空気すらないような流竄《るざん》の境遇に飛びこむために、無上の幸福を味わえる場所から逃げ出すものなどいるだろうか? フィレンツェに行って一月《ひとつき》もしたらおれはどうなるだろうか? 変装をしてこの城砦のあたりをうろつき、ある人の眼差《まなざし》をさがしもとめるだろう!)
あくる日ファブリツィオは恐怖を味わった。十一時頃窓ぎわですばらしい景色を眺めながら、クレリアに会える幸福な一時《いっとき》を待っていると、グリッロが息を切らして監房に飛びこんで来た。
「早く、早く! ベッドに横になって病気のふりをしてください! 裁判官が三人上って来ます! 訊問しようというんです。よく考えてから答えてくださいよ。奴らはあなたを|丸めこむ《ヽヽヽヽ》ために来たんですから」
こう言いながらグリッロは日よけの小窓をしめ、ファブリツィオをベッドに押しやり、二、三枚のマントを彼の体の上に投げかけた。
「ひどく悪いのだと言って、あまり口をきかないでください。何より質問をくりかえさせて、考える時間を作るんですよ」
三人の裁判官がはいって来た。ファブリツィオはその下品な顔つきを見て、(徒刑場から逃げ出して来た三人というところだな、裁判官なんてものじゃない)と思った。彼らは黒い長い法官服を着ていた。重々しく挨拶すると、部屋にあった三つの椅子に一言もいわずに腰をおろす。
一番年上のが言った。
「ファブリツィオ・デル・ドンゴさん、辛いことですが、私たちはあなたに対して悲しい勤めをはたしに来たのです。ロンバルド=ヴェネツィア王国副大膳頭、大十字章|佩勲《はいくん》者……であられるお父上デル・ドンゴ侯爵閣下の御逝去をお知らせしにまいりました」
ファブリツィオは涙にくれた。裁判官はつづけた。
「お母上デル・ドンゴ侯爵夫人は書状をもってこれを知らせて来られました。ところが事実のほかに不穏当なお考えも書き添えられていますので、昨日の決定によって裁判所は書状の抜粋のみをあなたにお伝えすることにいたしました。今から書記ボナ氏がその抜粋を読み上げます」
この朗読が終わると、裁判官は寝たままのファブリツィオに近づき、母の手紙のうち今その写しを朗読した個所だけ読ませた。ファブリツィオは「不当な投獄、罪でもない事柄に対する苛酷な罰」という言葉を読み、裁判官たちがどういう理由でここに来たかを悟った。それにまた、誠意のない裁判官に対する軽蔑から、次の言葉以外は彼は何も言わなかった。
「私は病気なのです。体がだるくてたまりませんので、失礼ですが起きられないのです」
裁判官が出て行くとファブリツィオはまた泣いた。それから彼は自問した。(おれは偽善者なんだろうか? 全然父を愛していなかったつもりなんだが)
この日とそれにつづく数日、クレリアは大変悲しかった。何度も彼を呼び出したが何か言う元気はほとんどなかった。最初の会見後五日目の朝、宵のうちに大理石の礼拝堂へ行くと彼女は告げた。
「ほんのわずかしかお話しできません」と、はいるなり彼女は言った。
ひどく体が顫《ふる》えて、小間使によりかからねばならぬほどだった。その小間使を礼拝堂の入口へしりぞけてから、ほとんど聞き取れぬような声で彼女はつづけた。
「名誉にかけて誓ってください、公爵夫人のいいつけに従い、夫人の命じた日に、夫人の指示したやりかたで脱走を試みると。でなければ明朝私は修道院へ逃げこみます。そして今から誓っておきますが、もう一生あなたに言葉をかけません」
ファブリツィオは黙然としていた。
「約束してください」とクレリアは目に涙をたたえ、我を忘れるほど昂奮して言った。「あなたのおかげで私は堪えがたい生活を送っているのです。私のためにあなたはここにいらっしゃいますが、明日にもあなたの命はなくなるかもしれないのです」
こう言ったとたんクレリアはすっかり力が抜けてしまって、以前囚われの公子のためにこの礼拝堂の中央に置いてあった大きな肘掛け椅子で体を支えねばならなかった。もうすこしで気が遠くなるところだったのだ。
「何を約束するのです?」とファブリツィオは打ちひしがれた顔で言った。
「ごぞんじのくせに」
「それなら僕は、それと承知の上で恐ろしい不幸に身を投じ、僕がこの世で愛している一切のものから遠く離れて生きることにすると誓いましょう」
「もっと具体的な約束をしてください」
「公爵夫人のいいつけに従い、夫人が望む日に夫人が望むやりかたで逃げると誓います。そうしてあなたから遠く離れてしまったら僕はどうなるでしょうか?」
「どんなことが起ころうとも脱走すると誓ってください」
「何ですって! 僕がいなくなったらすぐクレッシェンツィ侯爵と結婚すると決めたのですか?」
「まあ、一体あなたは私をどんな人間だとお思いなの?……とにかく誓ってください。そうしてくださらなければ、私はもう一瞬も心の安まることはないでしょう」
「それでは、サンセヴェリーナ夫人の命令する日にここから脱出すると誓います、それまでにどんなことが起ころうとも」
この誓いを聞いてしまうと、クレリアはすっかり力が抜けてしまい、ファブリツィオに礼を言ってからすぐ出て行かねばならなかった。
「あなたがあくまでもここにいると頑張るなら、明朝私がここから逃げ出す準備はすっかりできていたのです。今ここでお目にかかるのが最後でしょう。私は聖母にその誓いを立ててしまったのです。こうなったら、自分の部屋から出られるようになり次第、手すりの新しい石の下のあの恐ろしい壁面を調べに行ってみます」
翌日彼が見たクレリアはひどく蒼い顔をしていて、彼は激しい不安をおぼえた。彼女は鳥部屋の窓から言った。
「甘い考えは持たないことにしましようね。私たちが親しくすることは罪なのですから、不幸が私たちを襲うにちがいないと私は思っています。逃げようとしているときに見つかって、最悪の事態にはならないまでも、一切の希望が絶たれてしまうでしょう。それでも、人間の思慮が命ずるかぎりのことはやらねばならないし、そうなればどんなことでも試みなければなりません。大塔の外へ降りるには六十メートル以上の長さの丈夫な綱が必要です。公爵夫人の計画を知ってから私もいろいろ心がけてみましたが、全部つないで十五メートルばかりになる綱しか手に入れることができませんでした。長官の業務命令で城砦内にある綱はすべて焼き捨てられ、井戸の縄さえ毎夜取りはずすのです、水なんか軽いのに、それを上げるとき切れることがよくあるほど弱い縄なのですけど。でも、私を赦《ゆる》してくださるように神さまに祈ってください、私は父を裏切り、不孝にも父に最大の悲しみを与えるように努力しているのですもの。私のために神さまに祈ってください。もし命をまっとうすることができたら、いついかなるときにも神の栄光のためにその命を捧げると誓いを立ててください。
一つ思いついたことがあるのですが、一週間後私はクレッシェンツィ侯爵の妹さんの一人の結婚式に参列するため城砦から出ます。ちゃんとその夜帰って来ますが、何とかしてできるだけおそく帰るようにします。そうすればバルボーネだってあまりやかましく私を調べることはしないでしょう。公爵の妹のこの結婚式には宮廷の一番えらい御婦人方もいらっしゃるし、多分サンセヴェリーナ夫人もおいででしょう。そこで是非お願いするのですが、その御婦人方の誰かから綱を私に渡すようにはからってください。固く巻いて、あまりかさばらぬように、できるだけ小さな包みにするのです。命を的《まと》にしてでも、どんな危険な方法を用いてでも、いいえ、自分の義務にそむいてでも、この包みはかならず城砦のなかに持ちこんで見せます。父がこのことを知ったら私はもう二度とあなたに会えないでしょう。けれど、どんな運命になろうとも、あなたを救うことに力をかすことができたとすれば私は妹としての愛情という枠のなかで幸福に思うでしょう」
その夜のうちにファブリツィオはランプによる通信で、必要なだけ綱を城砦に持ちこむ唯一の機会があるということを公爵夫人に知らせた。しかし彼は伯爵に対してすらこのことは秘密にしておいてくれと頼んだ。これは異様に思えた。
(どうかしてるわ)と公爵夫人は思った。(牢獄にはいっているうちに性格が変わったんだわ。何もかも悲劇的に考えてしまう)翌日例の石投げの名人の投げこんだ鉛の玉は、最大の危険が迫っているという知らせを囚人にもたらした。綱を持ち込むことを引き受けてくれる人はまさに文字どおり命の恩人ということになると書いてある。ファブリツィオは急いでこの知らせをクレリアに伝えた。鉛の玉はまた西側の壁面の非常に正確な見取図をもファブリツィオのもとへとどけた。彼は大塔の上からこの壁を伝わって稜堡の内部に降りることになっていたのだ。城壁の高さは八メートルしかないし、警戒もまず手薄だから、ここから逃げ出すことはかなり容易なのである。見取図の裏にきれいな細字でみごとな十四行詩《ソネット》が書いてある。高貴な心を持った一人の人間がファブリツィオに逃亡をすすめ、さらになお十一年も幽囚のうちにあって心を卑しくし肉体を衰えさせてはならないと言っているのである。
ここで一つ語っておかねばならぬことがある。これは公爵夫人が意を決してファブリツィオにこんな危険な逃走をすすめた事情をある程度説明することにもなるから、われわれはしばらくこの大胆な計画の物語を中断しなければならない。
政権についていない党派がすべてそうであるように、ラヴェルシ派の結束はそれほど固くはなかった。リスカラ士爵は検察長官ラッシをひどく嫌っていた。彼のおかげで重大な裁判に敗れたと言うのだが、実際これはリスカラのほうが悪かったのである。このリスカラから大公は、ファブリツィオに対する判決の写しが正式に城砦長官に送られていると知らせる匿名の手紙を受け取った。党の指導者としては遣手《やりて》のラヴェルシ侯爵夫人はこの二心《ふたごころ》あるやりかたにひどく腹を立て、自分の味方であるはずの検察長官に警告した。モスカが政権にあるかぎりこの男が大臣モスカから何かを引き出そうとするのは当然だと彼女は思ったのだ。ラッシは何度か蹴っとばされるくらいですむだろうと考えて平気で宮殿に出かけて行った。大公は有能な法律顧問なしではすまされない、ところがラッシはある裁判官と弁護士とを自由主義者として追放してしまったのだが、この国で彼に取ってかわることができるのはこの二人だけだったのだ。
激昂した大公は彼を罵倒し、殴ろうとして詰め寄った。
「いや、実はこれは書記の不注意でございまして」とラッシはまったくおちつきはらって答えた。「このことは法律で定められておりますが、本来デル・ドンゴを城砦に入れた翌日にしておくべきことだったのです。仕事熱心な書記は失念したと思って、単なる手続き問題として私にその送達状に署名させたのでございましょう」
「そんな下手《へた》な嘘を私に信じさせるつもりか」と大公は激怒してどなった。「それよりあの悪党のモスカに買収されたのだと白状するがいい。そのためにあいつはきさまに勲章をやったんだな。ばかな、今度は殴られるくらいではすまないぞ。裁判にかけ、赤恥をかかして馘《くび》にしてやる」
「そうおっしゃるならどうぞ裁判にかけてごらんなさいまし!」とラッシは自信をもって答えた(これが大公の心をしずめる確実な方法だということを彼は知っていたのだ)。「法律が私の味方でございます。そして法律をごまかそうにも、殿下には第二のラッシはおりません。私を馘《くび》にしたりはなさいませんよ。時々殿下は御気性からして峻厳におなりになることがございますから。そういうとき殿下は血に飢えていらっしゃいますが、しかしそれと同時に何としても分別あるイタリア人の尊敬を失いたくないとお思いになります。この尊敬は殿下の御野心の実現のための|不可欠の条件《シネ・クワ・ノン》でございますから。結局、御気性のおもむくまま峻厳におなりになろうとすると、早速私をお呼びもどしになりますでしょう。そしていつものように私が、臆病でまずまず廉直な裁判官どもをあやつって、殿下のお心を満足させるような法律にかなった判決をくださせることになりましょう。御領内で誰か私ほどお役に立てる人間をお見つけください!」
そう言うとラッシは逃げ出した。定規《じょうぎ》で一つなぐられたのと、五つか六つ蹴っとばされるだけですんだ。宮殿から出るとリヴァの領地に向けて出発した。大公が腹立ちまぎれに刺客を差し向けたりしてはかなわないと思ったのだが、二週間もたたぬうちに使者が来て首府へ呼びもどされることも信じて疑わなかった。田舎にいるあいだはもっぱらモスカ伯爵との確実な通信方法を作り上げることに努めた。男爵の肩書に夢中になって恋いこがれていたが、大公はかつては崇高だったあの貴族の位なるものを今なお大事に考えているから、自分には決して与えてくれまいと想像した。一方伯爵のほうは自分の家柄を非常に誇っていて、紀元一四〇〇年以前からの爵位によってその実を示されていない貴族の位など尊重していなかったのだ。
検察長官のこの予測は間違っていなかった。領地に来て一週間するかしないかのうちに、たまたま立ち寄った大公と親しいある人が、すぐにパルマに帰るようにすすめたのだ。大公は笑って彼を迎え、それからすこぶる真剣な顔になって、これから打ち明けることについては秘密を守ると福音書にかけて誓わせた。ラッシが大まじめで誓うと、大公は憎しみに燃える目で、ファブリツィオ・デル・ドンゴが生きているかぎり自分はこの国の支配者ではないと叫んだ。
「私は公爵夫人を追い出すことも、あの女がここにいるのも我慢することができない。あの女の目つきが私に挑戦し、居たたまれない気持ちになる」
大公に長々と説明させておいてから、今度はラッシのほうが非常に困ったというふりをして叫んだ。
「もちろん殿下の御命令には従いますが、しかし事はおそろしく厄介でございますよ。ジレッティの殺害ぐらいのことでドンゴ家の一員を死刑に処するのはいかがかと思われますし。城砦禁錮十二年にまでしたことすらすでに大変な強引さでしたので。その上私は、公爵夫人がサングイーニャの発掘のとき働いていた三人の百姓を見つけ出したのではないかと思っています。あの悪漢ジレッティがデル・ドンゴを襲ったとき溝の外にいたやつらですが」
「ではその証人どもはどこにいるのか?」と大公はいらだって言った。
「ピエモンテに隠されているんではないかと思います。殿下のお命を奪おうとする陰謀でもなければ……」
「その方法には危険がある。実際そういうことをやろうという気持ちを起こさせるからな」
「けれども」とラッシは無邪気そうな顔をして、「私が正式に使える手はこれだけでして」
「まだ毒という手もある……」
「ですが、誰が盛るのです? あの阿呆のコンティですか?」
「しかし、あいつにはこれがはじめてだということではないそうだが……」
「それならあの男を怒らせなければなりません。それにまた、あの大尉をかたづけたときにはあの男は三十にもなっていませんでしたし、恋をしていましたし、今よりもずっと臆病ではありませんでした。たしかに国政のためにはどんなことでもしなければなりませんが。突然の御下問ですので、君命を実行するものとして今さしあたって考えられるのは、牢獄の書記のバルボーネと申す男だけでございます。デル・ドンゴの入獄の日に張り倒された男ですが」
大公が気楽に話せるようになってしまうと話合いは長々とつづいた。最後に彼は検察長官に三日の猶予を与えた。ラッシは二か月ほしかったのだが。翌日彼は千ツェキーノの秘密の特別手当をもらった。三日間彼は考えた。四日目になって彼はもとの考えにもどった。これは彼には自明のものと思えた。
(おれに対して約束を守る気があるのはモスカ伯爵だけだ。おれを男爵にしたところで、伯爵は自分の重く見ているものをおれにくれるわけじゃないからな。第二に、伯爵に知らせれば、その報酬を大体もらってしまっている悪事を実行しないですむことになるかもしれん。第三に、前にシュヴァリエ・ラッシが侮辱的な殴打を受けたことに対して仕返しができるわけだ)
次の夜、彼は大公との話合いの逐一を伯爵に知らせた。
伯爵はこっそりと公爵夫人を口説《くど》いていた。いかにも依然として月に一度か二度しか彼女の家には行かなかったが、ほとんど毎週、彼がファブリツィオの話をする機会を作り出したときには、公爵夫人はチェキーナを連れて夜おそくなってから伯爵家の庭に来てしばらく時を過ごす。彼女は忠実な馭者をすら瞞していた。馭者は夫人が伯爵家の隣の家を訪問しているものと思いこんでいたのだ。
伯爵が検察長官から恐ろしいことを打ち明けられると、ただちに公爵夫人に定められた信号を送ったことは想像にかたくあるまい。真夜中だったにかかわらず、夫人はチェキーナを介して伯爵にすぐ自分のうちに来てくれと頼んだ。伯爵は恋をしている男らしく見かけだけでも親密そうにふるまえるのに有頂天になっていたけれども、公爵夫人に何もかも言ってしまうことはためらった。夫人が悲しみのあまり気が狂ってしまいはしないかと心配だったのだ。
宿命的な知らせをやわらげるために曖昧な言葉をいろいろさがしたが、やはり結局何もかも夫人に言ってしまった。夫人が聞かせろと言う秘密を守りとおすことは彼にはできなかったのだ。この九か月来非常な不幸が夫人の熱情的な魂に重大な影響を及ぼしていた。この不幸は夫人の魂を強めていた。公爵夫人は泣きくずれもしなければ泣き言をならべもしなかった。
翌日の夜、彼女はファブリツィオに大きな危険を知らせる信号を発した。
「|城に火がついた《ヽヽヽヽヽヽヽ》」彼は間違いなく答えた。
「|僕の本は焼けたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
その夜のうちに夫人は鉛の玉に入れた手紙を彼にとどけることに成功した。それから一週間後、クレッシェンツィ侯爵の妹の結婚式が挙行された。この席上で公爵夫人は途轍《とてつ》もない失敗をやらかすのだが、そのことはいずれその場になってお話ししよう。
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第二十一章
この不幸の時期の一年近くも前に、公爵夫人はある一風変わった人物に出逢った。この国の言葉でいえばルーナに憑《つ》かれていた〔「気がふさぐ」とか「憂鬱にとらわれる」という意〕ある日、彼女は夕方ふと思い立って、コロルノの向こうの、ポー河を見おろす丘の上にあるサッカの館《やかた》へ出かけた。彼女はこの土地を美しくするのが楽しみだった。丘の頂を蔽って館に接している広い林が彼女は好きだったのだ。ちょうど彼女はこの林のなかの景色のいいあたりに小道をつけさせていた。
「美しい公爵夫人、山賊に引きさらわれてしまいますよ」とある日、大公は彼女に言った。「あなたが散歩するとわかっているんだから、誰も来ないはずはありません」
大公は伯爵へちらっと目をやった。伯爵の嫉妬心をそそろうと思ったのだ。
「殿下、林を散歩しているときはちっともこわくありません」公爵夫人は無邪気な顔で答えた。「自分は誰にも悪いことをしていない、私を憎むものなどいるはずがないと考えて安心しておりますの」
この言い種《ぐさ》は図々しいものと思われた。無礼至極なこの国の自由主義者どもの吐く罵詈雑言《ばりぞうごん》を思わせたのだ。
問題の散歩の日、森のなかを遠くから自分のあとをつけて来るひどく身なりの悪い男を認めて、公爵夫人は大公の言葉を思い起こした。散歩をつづけながら公爵夫人が不意にある角を曲がると、その未知の男がすぐそばにいたので彼女は恐怖をおぼえた。咄嗟《とっさ》に彼女は城のすぐそばの花壇に残して来た猟番を呼んだ。見知らぬ男はすばやく彼女に近づいて足もとにひざまずいた。若くて非常な好男子だが、おそろしくひどい身なりをしている。着ているものはところどころ一尺も破れているが、目は熱烈な魂にしかない炎を放っていた。
「私は死刑を宣告されている医師フェランチ・パッラです。五人の子供とともに飢えて死にそうなのです」
男がものすごく痩《や》せているのに公爵夫人は気がついていた。しかしその目はまことに美しく、いかにも愛情に我を忘れているように見えたので、悪事を働く人間とは夫人には思えなくなった。(パラージは大聖堂に今度飾った『沙漠の聖ヨハネ』にこんな目を与えればよかったのに)と彼女は思った。聖ヨハネのことを思ったのはフェランチのおそろしい痩せ方のためだった。公爵夫人は財布のなかにあったツェキーノ金貨三枚を与え、今庭師に勘定を払って来たのでこんな涙金しか上げられないと詫びた。フェランチは心から感謝した。
「いや、昔は私も町に住み、優雅な女性たちに会っていたのです。市民の義務を果たしたために死刑の宣告を受けて以来、森のなかに住んでいます。あなたの後をつけていたのは、施し物を求めるためでも盗むためでもありません。この世のものならぬ美しさに呪縛《じゅばく》された蛮人のように後をつけたのです。美しい白い手など見られなくなってもうどれくらいになりますことか!」
「どうか立ってください」と公爵夫人は言った。彼はあいかわらずひざまずいていたのだ。
「このままでいることを許してください。こうしていると、現在自分は盗みをしようとしているのではないとはっきりわかって気がしずまるのです。と申しますのは、実は本来の職業に従事するのを妨げられて以来、食うために盗みをしているのですから。しかし今この瞬間には、私は至上の美を崇《あが》めている普通の人間にすぎません」
公爵夫人はこの男は少々狂っていると悟ったが、全然こわくはなかった。この男の目から彼が熱烈で善良な魂を持っていることがわかったし、大体彼女は異様な人相というものを嫌ってはいなかったのだ。
「で、私は医者で、パルマの薬屋サラジーネの細君に熱くなっていました。この男は私たちの一緒のところを見つけ、女を追い出しました。三人の子供も一緒に追い出しましたが、当然ながらこの子供たちは自分のものではなく、私のものだと思ったからです。その後また二人子供ができました。母親と五人の子供はここから一里ほどの森のなかに、私が自分の手で建てた小屋みたいなもののなかで極貧の暮らしをしています。私は憲兵の目を逃れなければなりませんし、哀れな女房は私と別れようとしませんのでね。私は死刑の判決を受けましたが、それも当然です。謀叛をたくらんだのですから。私は大公を憎悪しています。あれは暴君です。金がなかったので私は逃亡はしませんでした。しかし私の不幸はそれっぱかりのものではないんです。本来なら千度も自殺すべきだったでしょう。五人の子供を生んでくれ、しかも私のために身をあやまった不幸な女を私はもう愛していないのです。けれど私が自殺したら、五人の子供とその母親はそれこそほんとに飢え死にするでしょう」
この男の語り方は誠実だった。
「でも、どんな風にして暮らしていらっしゃるの?」と、胸を打たれた公爵夫人は言った。
「母親は糸をつむいでいます。上の娘は自由主義者の農場で羊の番をして食わせてもらっています。この私はピァチェンツァからジェノヴァヘの街道で追剥《おいはぎ》をやっています」
「盗みとあなたの自由主義思想とをあなたはどうやって調和させていらっしゃるんです?」
「盗んだ人間の名を書いておきます。そしていつか多少金ができたら、盗んだ金額を彼らに返してやります。私のような護民官〔ローマの共和政時代の、平民の権利の擁護に当たる官職〕は危険を冒さねばなりませんから、この仕事で月に百フラン取る権利はあると私は思っています。しかし、私は年に千二百フラン以上は取らぬことにしております。いや、間違いました。それよりほんのすこし多く盗んでいます。それで私の作品の印刷代を出すことにしていますので」
「どんな作品?」
「『……はいつか議会と予算を持てるか?』というやつです」
「何ですって!」公爵夫人は驚いた。「この世紀最大の詩人、あの有名なフェランテ・パッラというのはあなたですか!」
「有名かもしれません、あるいは。しかしひどく不幸であることは確実です」
「でもあなたほどの才能の方が生きるために盗みをしなければならないとは!」
「私に何がしかの才能があるのはもしかするとそのためかもしれませんよ。これまで名をなしたわが国の著述家はすべて、自分らがくつがえそうとする政府か宗門《しゅうもん》から金をもらっている人間でした。ところが私は、第一に、命を賭けています。第二に、盗もうとするとき私がどんな反省に駆られるかお考えになってみてください! 自分は正しいかと私は自問します。護民官という職は、実際に月に百フラン取っていいだけの貢献を世のため人のためにおこなっているか? 私の持っているものは二枚のシャツと、ごらんのとおりの上着と、いくつかの粗末な武器だけで、いずれは絞首台上の露と消えるにきまっている。私利私欲はないとあえて私は信じています。この宿命的な恋をしなかったら私は幸福だったでしょう。この恋のために私は、私の子供たちの母親のそばにいても不幸しか感じないのです。貧しさはたまらなく醜悪なものです。私は美しい服や白い手が好きなのですが……」
彼は公爵夫人の手をみつめたが、その目つきを見て夫人は恐怖に襲われた。
「さようなら。パルマで何かあなたのお役に立つことができますかしら?」
「時々次のようなことを考えてみてください。あの男の仕事は、人々の心を目覚まし、君主政治が与えるあのまったく物質的な見せかけの幸福のなかで人々が眠りこむのを妨げることだ。彼が同国人のためにおこなっている勤めは月に百フランの報酬に価しないだろうか?……と。私の不幸は恋をしていることです」と彼は非常におだやかに言った。「そしてもうかれこれ二年ばかり私の心はあなたのことで一杯なのです。しかし、今までは私はあなたに恐怖を感じさせないようにしてお姿を眺めていただけでした」
そうして彼は信じられないような速さで逃げ出したが、公爵夫人はそれを見て驚き、また安心した。(あれでは憲兵も容易なことではつかまえられない。ほんとに気ちがいなんだ)
「あの男は気ちがいですよ」と召使たちも彼女に言った。「あの男が奥さまをお慕いしていることはずっと前から私ども存じておりました。奥さまがこちらにおいでのときには、あの男は森のなかの一番高いところをうろついていますし、奥さまがお帰りになるや否やかならず、奥さまの足を止められた場所にやって来て腰をおろすのです。奥さまの花束から落ちた花を注意深く拾って、きたない帽子にいつまでもつけています」
「それなのに、そんな気ちがい沙汰のことを一度も私に話してくれなかったのね」と公爵夫人はほとんど咎《とが》めるような口調で言った。
「奥さまがモスカ閣下にお言いつけにならないかと思いましたので。あの気の毒なフェランテはほんとに好人物なのでございます! 誰に対しても悪いことをしたことはありませんし、死刑を宣告されたのは私たちのナポレオン皇帝を愛しているからなのでして」
彼女はこの遭遇のことは一言も大臣に言わなかったが、これまで四年間一度も彼に対して秘密を作ったことなどなかったので、何か言いかけては言葉がつまってしまうことが何度もあった。彼女は金を持ってサッカに引き返したが、フェランテは全然姿を見せなかった。二週間後また行ってみた。フェランテは森のなかをはねまわりながら百歩ほどの距離を置いてしばらく彼女の後をつけてから、隼《はやぶさ》のようにすばやく駈けよって来て、最初のときのように彼女の前にひざまずいた。
「二週間前はどこにいらっしゃったの?」
「ノヴィの向こうの山のなかへ、ミラノで油を売って帰って来る騾馬挽《らばひ》きたちを|ゆする《ヽヽヽ》ために行っていました」
「この財布を受け取ってください」
フェランテは財布の口をあけ、ツェキーノ金貨を一枚取り出してそれに接吻し、胸にしまい、財布を彼女に返した。
「この財布を返すくせに、盗みをするのですか!」
「もちろんです。これが私のやりかたなので。百フラン以上は私は決して持たぬことにしていますが、今私の子供の母親は八十フラン、私は二十五フラン持っています。五フランほど違反しているわけで、今縛り首にされたら私は後悔しなければなりますまい。この金貨をいただいたのは、あなたのお金だから、そして私があなたを愛しているからなのです」
ごく単純なこの言葉をいう彼の口調は実に気持ちがよかった。(ほんとに恋しているのだ)と公爵夫人は思った。
この日は彼はまったく取り乱しているように見えた。自分はパルマのある人々に六百フランほど貸しがあるのだが、それだけあれば小屋の修繕もできる、小屋では哀れな子供たちが風邪をひいているのだと彼は言った。
「それではその六百フランを私が前貸ししましよう」公爵夫人はすっかり胸を打たれて言った。
「しかしそうしたら、私は公人なのですから、反対派のやつらは私を中傷し、私が身を売ったなどと言えるではありませんか?」
公爵夫人は感動して、当分のあいだパルマの市中で懲悪の仕事をおこなわず、そして何よりも、彼が心ひそかに下しているという死刑宣告を決して実行に移さないと誓ってくれるならば、パルマのなかで隠れ場所を提供しようと言った。
「しかし、私が軽はずみをして縛り首になる羽目になったら、民衆を毒するあの悪党どもは皆長生きするでしょう。そうなったらその責任は誰にありますか? 天国で私を迎えたとき私の父は何と言うでしょうか?」とフェランテは厳粛な顔で言った。
公爵夫人は小さな子供たちのことを力説した。湿気のために死病にとりつかれないともかぎらないと言うのだ。彼はとうとうパルマの隠れ家の件を諒承した。
サンセヴェリーナ公爵は結婚後パルマではわずか半日過ごしただけだったが、このとき彼は夫人に、サンセヴェリーナ邸の南の隅にあるまことに奇妙な密室を見せた。中世に建てられた前面の壁は厚さ二・四メートルもある。その壁の内側に穴を掘り、こうして一つの密室ができている。高さは六メートルもあるが、幅は六十センチしかない。ジーギスムント皇帝のパルマ包囲の際に作られた有名な十二世紀の工作物で、後にサンセヴェリーナ邸の構内に取り入れられた、すべての旅行記に引用されているあのすばらしい貯水池はこの密室のすぐ横にあった。
この密室には、まんなか辺に鉄の軸のはいっている大きな石を動かしてはいる。公爵夫人はフェランテの物狂いや子供たちの境遇にひどく心を打たれていたし、子供たちに何かやると言ってもフェランテが決して高価なものを受け取ろうとしなかったので、相当の期間この密室を彼が使うことを許したのだった。一か月後夫人はあいかわらずサッカの森で彼に会ったが、このときは彼は少々おちついていて、自作のソネットを一つ朗誦して聞かせた。これは彼女にはこの二百年間にイタリアで作られた最も美しい詩に優るとも劣らぬものに思われた。
フェランテはその後何度か夫人に会う許しを得た。しかし彼の恋情はいよいよ募り、うるさいまでになった。公爵夫人はこの情熱も一縷の希望が見えて来たと思われるときにすべての恋が辿るのと同じ道を辿っていることに気がついた。夫人は彼を森に追い返し、自分に言葉をかけることを禁じた。彼は非常に柔順にその場で命令に従った。ファブリツィオが逮捕されたときにはこんな事態になっていたのである。三日後の暮れ方一人のカプチノ僧がサンセヴェリーナ邸門前にあらわれた。奥さまに重大な秘密をお伝えしなければならぬと言う。彼女はひどく不幸な気持ちでいたので男を家に入れた。それはフェランテだった。
「また新しく不正なことがこの地でおこなわれましたので、護民官としてこれを調査しなければなりません」とこの恋に狂った男は言った。「しかしまた、一私人として行動する場合には、私がサンセヴェリーナ公爵夫人に捧げ得るものはこの命だけです。その命をここに持ってまいりました」
盗賊でしかも狂人である男からこれほど心からの献身を示されて、公爵夫人は非常に感動した。北イタリア最大の詩人とされているこの男と彼女は長いあいだ話をし、さんざん涙を流した。(これこそ私の心を理解してくれる男だ)と彼女は思った。翌日彼は召使に身をやつし仕着《しきせ》を着て今度もアヴェ・マリアの時刻〔「アヴェ・マリア」ではじまる祈祷を捧げる時刻〕にあらわれた。
「私はパルマから離れませんでした。恐ろしいことを聞きましたが、これは私の口からは申し上げられません。しかし私はここにおります。あなたが拒んでいらっしゃることがどういうことか、お考えになってください! あなたの前にいるのは宮廷にいる人形ではありません、一人の男なのです!」
この言葉をいかにもそれにふさわしい決然たる様子で言いながら彼はひざまずいていた。
「昨日私はこう思いました。(あの方はおれの前で泣いてくださった、だから多少不幸な気持ちも薄れているはずだ)と」
「でも、どんな危険があなたを取り巻いているかを考えてごらんなさい。この町のなかで逮捕されるかもしれませんよ!」
「護民官はこう申すでしょう。義務が命じているときに生命などが何でしょうか? そしてまた、恋に焦れるようになってからもはや美徳には何の情熱も持てなくなったことを苦しんでいる不幸な男はこうつけくわえます。公爵夫人、勇敢なファブリツィオは死ぬかもしれません。あなたに身を捧げているもう一人の勇敢な男をしりぞけないでください! ここには鉄の肉体と、あなたの御不興を買うこと以外何も恐れない心があります」
「まだ自分の感情などのことをおっしゃるんでしたら、もう決してあなたをこの家にお入れしませんわ」
公爵夫人はこの夜フェランテに、彼の子供たちのためにすこしばかり年金を用意するつもりだと言おうと思っていたのだが、そんなことを言ったらそのまま出て行って自殺しはしないかと不安だった。
彼が出て行くや否や夫人は不吉な予感に襲われて思った。(私だって死ぬかもしれない。そしてかわいそうなファブリツィオを真に男と言えるような男に委ねることができれば、死んだほうがいい、それも今すぐ!)
ある考えが不意に公爵夫人の心を捉え、彼女は紙を一枚取って、自分の知っているわずかばかりの法律用語をまじえて次のようにしたためた。自分はフェランテ・パッラ氏から、毎年千五百フランの終身年金をサラジーネ夫人と五人の子供に支払う条件で二万五千フランを借用したことを認めるというのである。さらに夫人は書き添えた。「なおまた、フェランテ・パッラが医師として私の甥ファブリツィオ・デル・ドンゴの世話をし、かつまたこの甥の兄としてふるまうことを条件として、彼の子供の一人々々に三百フランの終身年金を遺贈する。以上のことを同氏にお願いする」これに署名し、日づけは一年前にし、封をした。
二日してフェランテはまた姿をあらわした。ファブリツィオの処刑が近いという噂で全市が沸《わ》いている時だった。この悲しい儀式がおこなわれるのは城砦のなかだろうか、それとも町の散歩道の並木の下だろうか? 処刑台が立てられているかどうかを見ようとして町人たちが何人かその夜城砦の門前まで出かけた。この様子を見てフェランテはぎょっとしたのだった。彼が会ったとき公爵夫人は涙にくれ、話すこともできない。手で会釈し、椅子を示しただけだった。フェランテはこの日はカプチノ僧に変装していたが堂々としていた。腰をかけるかわりにひざまずいて、小声で敬虔に神に祈った。公爵夫人がちょっとおちついたように見えたとき、彼は今までの姿勢のままちょっと祈りをやめて次のように言った。
「あらためてこの命を捧げます」
「自分のおっしゃっていることがどういうことか考えてごらんなさい」と公爵夫人は叫んだ。嗚咽《おえつ》の後のその血走った目は、感動よりも怒りのほうが強いことを語っていた。
「ファブリツィオの運命を阻止するため、あるいは彼の仇《あだ》を討つため、命を捧げるというのです」
「喜んであなたに命を捧げてもらうような場合もあるかもしれません」と公爵夫人は答えた。
夫人は厳しい目で注意深く彼をみつめた。彼の目には喜びの光がひらめいた。さっと立ち上がって彼は両腕を差し上げた。公爵夫人は胡桃《くるみ》材の大きな箪笥にかくしておいた書類を取りに行った。
「読んでください」と彼女はフェランテに言った。
それは前に述べた彼の子供たちへの贈与のことだった。
嗚咽《おえつ》のためフェランテは終わりまで読むことができなかった。彼はまたひざまずいた。
「その紙を返して」と公爵夫人は言い、そして彼の前で蝋燭《ろうそく》の火で燃やしてしまった。
「あなたが捕えられて処刑されるとき、私の名が出て来てはなりません。あなたは殺されるかもしれないんですから」
「暴君を傷つけて死ぬのは私の喜びですが、あなたのために死ぬのはもっと大きな喜びです。このことをはっきり御理解いただけたら、お金のことをいろいろおっしゃるのはやめてください。そんなことを言われると不当な疑いをかけられているような気がします」
「あなたが危険ならば私も危険にまきこまれるかもしれません、そして私の後にはファブリツィオも。私の心を引き裂いた男をひと思いに殺すのではなく、毒殺することを私が要求するのは、あなたの勇気を疑うからではなく、それがためなのです。これは私にとって重要なことなのですが、同じ理由で私はどんなことをしてでも命をまっとうするようにあなたに命じます」
「忠実に、正確に、慎重に実行します。私の復讐が、公爵夫人、あなたの復讐とかさなるものと私は予想しています。たといそうではなかったとしても、やはり私は忠実に正確に慎重に実行することでしょうが。成功しないかもしれませんけれども男として全力をつくして見せます」
「ファブリツィオを殺す人間を毒殺するのですよ」
「そうだろうと思っていました。この二十七か月惨憺たる放浪の生活を送りながら、何度となく私も自分のためにそういったことを考えたものです」
「私が共犯者だとわかって刑に処せられる場合」と公爵夫人は誇らしげに言った。「私があなたを誘惑したなどと非難されるようなことがあってもらいたくない。復讐の時が来るまで私に会おうとしてはいけません。私が合図を発しないうちにあの男を殺すのではありません。たとえば今すぐあの男が死んだら、私にとって好都合どころか、迷惑なのです。多分殺すのは何か月も先のことになるでしょうが、しかし殺すことははっきり決まっています。毒で殺すことを私は要求するので、弾丸を喰《くら》わすくらいなら生かしておいたほうがましなのです。そしてあなたに説明したくないいろいろの理由で、あなたが命をまっとうすることを私は要求します」
フェランテは公爵夫人が自分と話しているときに見せたこの高飛車な口調に魅せられた。彼の目は深い喜びにかがやいた。先にも言ったように彼はおそろしく痩せていた。しかし若い頃は非常に美男だったことは今でもわかるし、彼自身は昔と変わらぬつもりでいた。(こんなことを考えるおれはどうかしているのかな)と彼は思った。(いつかおれがこの献身の証拠を見せたとき、公爵夫人はおれをこの世で最も幸福な人間にしてくれるつもりなんだろうか? そして、実際のところ、その可能性がないとはいえないじゃないか。おれだってあのモスカ伯爵などという土偶《でく》に劣りはしないじゃないか。伯爵はいざという時にも夫人のために何もしてやれず、モンシニョーレ・ファブリツィオを脱走させることすらできなかったじゃないか)
公爵夫人はあいかわらず高飛車な口調でつづけた。
「私は明日にもあの男の死を望むかもしれません。この屋敷の一隅の、あなたが時々お使いになった密室のすぐそばにある大きな貯水池をあなたはごぞんじでしょう。あの水を全部街路に流し出す秘密の方法があるのですよ。いいですか、それが私の復讐の合図です。サンセヴェリーナ邸の大貯水池がやぶれたら、パルマにいれば見ることができるし、森に住んでいたら噂に聞くでしょう。そうしたらただちに決行してください、ただし毒を使うのですよ。そして何よりも、できるだけ生命の危険を避けるようにして。私がこれに一枚加わっていることが決して誰にもわからないように」
「言葉など何の役にも立ちません」フェランテは抑えきれない感激をもって答えた。「どういう方法を用いるかはもう決めてあります。あの男が生きているかぎりあなたにお目にかかれない以上、あの男の生命は私にとってますます厭《いと》わしいものになりました。貯水池の決潰《けっかい》の合図を町で待ちましよう」
彼はいきなり頭を下げ、立ち去ろうとした。公爵夫人は歩み去る彼を見送った。
隣の部屋にはいった彼を夫人は呼びもどした。
「フェランテ! すばらしい人!」と夫人は叫んだ。
引き止められるのを今か今かと待っていたかのように彼はもどって来た。このときの彼の顔はすばらしかった。
「あなたのお子さんたちは?」
「子供たちは私よりも豊かになるでしょう。おそらく多少の年金をあなたから授かるでしょうから」
公爵夫人はオリーヴ材でできた大きなケースのようなものを彼に渡しながら言った。
「さあ、これが私に残っているダイアモンドの全部です。五万フランの値打ちはあります」
「ああ、私を侮辱なさるんですか!……」とフェランテは嫌悪の色を見せて言い、その顔つきは一変した。
「決行まではあなたにお目にかからないのよ。取ってください、是非とも」と公爵夫人は昂然として言い、フェランテはそれに圧倒された。
ケースをポケットに入れて彼は出て行った。
扉をしめたのは彼だった。そのときまた公爵夫人が呼んだ。不安そうな様子で彼は引き返した。公爵夫人はサロンのまんなかに立っていた。夫人は彼の腕のなかに身を投げた。一瞬後にはフェランチは幸福のあまり気が遠くなりそうだった。公爵夫人は彼の抱擁から抜け出し、目で扉を示した。
(あれは私を理解してくれたただ一人の男だ。ファブリツィオだって私の言葉を聞くことができたとすれば同じように行動しただろう)
公爵夫人の性格には二つのものがあった。一度しようと思ったことはいつまでもあきらめなかった。いったん決めてしまったことをまたむしかえして考えるようなことは全然なかった。このことについては夫人は前夫の愛すべきピエトラネーラ将軍の言葉を引き合いに出した。「自分自身に対する何たる無礼さだ! これを決めたときより今のほうが頭がよくなっているなどとどうして考えられよう!」
この時からある種の陽気さが公爵夫人の性格にまたあらわれて来た。この運命を賭けた決意をするまでは、何か考えるたびに、何か新しいことを見るたびに、彼女は大公にはかなわないという気持ちを味わい、自分の弱さ、自分の人のよさを痛感していた。彼女に言わせれば大公は卑劣にも彼女を瞞《だま》したのであり、モスカ伯爵はたとい悪意はなかったとしても、その廷臣根性の結果として大公に力をかしたのであった。復讐を決意するや否や彼女は自分の力を感じ、何を考えるにつけても幸福な気持ちがした。イタリア人が復讐することに見いだす背徳的な幸福感は、この国民の想像力から来るのだと私は思う。他の国の人々は厳密に言えば相手を赦《ゆる》すのではなく、忘れてしまうのである。
公爵夫人が次にパッラに会ったのは、ファブリツィオの獄中生活も終わりに近くなってからだった。多分もう読者も察しておられるだろうが、脱走という考えを吹きこんだのはパッラだった。サッカから二里ほどの森のなかに、高さ三十メートル以上もある半ば崩れた中世の塔がある。彼は公爵夫人ともう一度逃走のことを話し合う前に、ロドヴィーコに信頼のできる連中を連れてこの塔のそばへ一連の梯子《はしご》を持って行かせてほしいと頼んだ。公爵夫人の前で彼は梯子を使って塔に登り、結び目をつけた普通の綱で降りて見せた。三度この実験をくりかえし、それからあらためて自分の考えを説明した。一週間後ロドヴィーコも結び目をつけた綱でこの古塔から降りてみたいと言った。公爵夫人がファブリツィオにこの考えを伝えたのはその時である。
この計画は囚人の死をもたらすかもしれなかったから、それを決行するまでの何日かは、フェランテがそばにいてくれないかぎり公爵夫人は一瞬も安心していられなかった。この男の勇気が彼女の勇気をふるいたたせるのだ。しかしこの奇妙なつきあいのことを伯爵に話すわけに行かないのは当然だった。伯爵が気を悪くするのではないかと心配したのではない。彼に反対されたら悲しいだろうし、不安も増すだろうと思ったのだ。あんな札《ふだ》つきの狂人を、しかも死刑を宣告されている男を相談役に選ぶなどとは何ごとだ、と。そして公爵夫人は自分自身に言い聞かせた。(しかも、後でまたどんな変わったことをしでかすかもしれない男だ!)伯爵が大公とラッシとの会談のことを公爵夫人に知らせに来たとき、たまたまフェランテは夫人のサロンにいた。そして伯爵が出て行ってしまってから、公爵夫人はフェランテが即刻恐るべき計画の実行にとりかかるというのを引き止めるためにさんざん苦労しなければならなかった!
「今では私は強いのです!」とこの狂人は叫ぶ。「この行動の正当性についてもう疑っておりませんから!」
「でも、後でかならず皆の憤激がたかまってファブリツィオは殺されてしまうでしょう!」
「しかしそうなればもう降りるという危険を冒させないですみます。降りることは不可能ではありません、それどころか容易です。ただあの青年には経験がないだけです」
クレッシェンツィ侯爵の妹の結婚式がおこなわれた。このときもよおされた祝宴の席上で公爵夫人はクレリアに会い、上流社会の目敏《めざと》い連中の疑いを招かずに彼女と話すことができた。息抜きに二人でちょっと庭に出たときに公爵夫人自身が綱の包みをクレリアに渡した。麻と絹を半々に混ぜて丹念に綯《な》い、結び目をつけたこの綱は、非常に細く、しかもしなやかさは充分だった。ロドヴィーコがその強さを実験してみたが、どの部分でも四百キロの重量に堪えて切れる心配はない。固く締めつけて、四つ折り判の本ほどの形のいくつかの包みにしてある。クレリアはひったくるようにしてそれを取ると、この包みをファルネーゼ塔にとどけるためには人間の力でなし得るかぎりのことをすると公爵夫人に約束した。
「でも、あなたの内気さが私には心配です。それにまた」と公爵夫人は遠慮がちにつけくわえた。「見も知らぬ人のためにどうしてこうまで心配してくださいますの?」
「デル・ドンゴさんは不幸でいらっしゃいます。私の手であの方をお救いするとお約束申し上げます」
しかし公爵夫人は、二十歳の娘ではそんなに頭が働くはずはないと思っていたから、ほかにもいろいろ手を打っておいたのだが、そのことを長官の娘に言うことはしなかった。これは当然考えられることだが、この長官はクレッシェンツィ侯爵令妹の結婚を祝う宴会には出席していた。強力な麻酔剤を飲ませることができたら、最初人々は卒中の発作だと思うかもしれない、と夫人は思った。そうなれば城砦に帰るのに馬車に乗せずに、この宴会のもよおされている屋敷にたまたまあった轎《かご》を使うほうがいいと思わせることも、ちょっとうまくやればできるはずだ。宴会のために雇われた使用人に変装した味方のものどももそこに来ている。この連中がどさくさのなかで、病人をあの高い邸宅までお運びしましょうと親切に申し出る。ロドヴィーコの手下のこの連中は大量の綱を服の下にたくみにかくして運ぶのである。ファブリツィオの逃走のことを本気で考えるようになってから公爵夫人が本当に分別を失っていたことがこれでわかる。この愛する人間の危険ということは彼女の心には堪えがたかったし、そして何よりも長くつづきすぎた。後に見るように、用心のあまりもうすこしでこの逃亡を失敗させるところだったほどなのだ。すべては彼女が評価したとおりに実行されたが、ただ一つの例外は麻酔剤の効果が強すぎたことだった。将軍は卒中の発作を起こしたのだと、誰もが、その道の人々すらが信じた。
さいわい、絶望にくれたクレリアは公爵夫人のこんな犯罪的な試みなどは全然疑ってもみなかった。半死半生の将軍をのせた轎が城砦にはいったときは上を下への騒ぎで、ロドヴィーコとその手下は何の困難もなく中にはいった。「奴隷橋」でおこなわれた検査も形ばかりのものだった。将軍をベッドまで運んでしまうと、彼らは使用人の食堂へ案内され、そこで召使たちから手厚いもてなしを受けた。この食事は朝方近くなってやっと終わったが、その後で家のものは、この牢獄の慣例によって彼らは夜の明けるまで邸内の天井の低い部屋に監禁されることになると説明した。朝になったら長官の副官が釈放してくれるという。
この男たちはしかるべき手段を講じて自分の運んで来た綱をロドヴィーコに渡すことができたが、ロドヴィーコはクレリアの目をほんのちょっとひきつけるだけのことにさんざん苦労しなければならなかった。とうとう、彼女がある部屋から別の部屋へ行こうとするときに、彼は二階のサロンの一つの暗い隅に綱の包みが置いてあるのを見せることができた。クレリアはこの異常な事態に非常に驚いた。たちまち彼女は恐ろしい疑惑をおぼえた。
「あなたは誰です?」と彼女はロドヴィーコに言った。
ところがこの男の返事が曖昧なので、彼女はつけくわえた。
「あなたを逮捕させなければなりません。あなたかあなたの手下が父に毒を盛ったのでしょう!……あなたが使った毒がどんなものか今すぐ言ってください、そうすれば城砦づきの医者に適当なお薬を飲ませてもらえます。今すぐおっしゃい。でなければあなたもあなたの共犯者も決してこの城砦から出られませんよ!」
「お嬢さま、御心配には及びません」ロドヴィーコは申し分ないほどやさしく鄭重に答えた。「全然毒なんてものじゃございませんので。切羽《せっぱ》つまってつい将軍に阿片チンキを飲ませてしまったのですが、この悪事をいいつかっていた召使が数滴余計にコップに落としてしまったらしいのです。これは私どもとしては一生の不覚でございますが、さいわいにしていかなる種類の危険もないとお信じくださってよろしゅうございます。長官閣下には誤って阿片を多量にお飲みになった場合の治療をほどこせばいいのでございます。くりかえして申し上げますが、この悪事を命じられた侍僕は、バルボーネがファブリツィオ猊下の毒殺を図《はか》ったときのように、本物の毒を使用したのでは決してありません。ファブリツィオ猊下が危険な目に遭わせられたことに対して仕返しをしようなどという意図はこちらには全然ありませんでしたし。あの粗忽《そこつ》な侍僕には阿片のはいっている小壜しかあずけませんでした。このことは誓って申し上げます! しかし申すまでもございませんが、正式に訊問を受けましたら私はすべてを否定いたします。
それにまた、お嬢さまが阿片だの毒だのということをお洩らしになりましたら、その相手が誰であれ、たといあの御立派なドン・チェーザレであっても、ファブリツィオはお嬢さまの手で殺されたことになります。お嬢さまのおかげで逃亡計画がすべて台なしになることになります。猊下を毒殺しようとした奴がただの阿片など使わなかったことは、お嬢さまのほうが私などよりもよくごぞんじでいらっしゃいましょう。またこの悪事を命じた人間は一か月の猶予《ゆうよ》しか与えず、しかもその残酷な命令が与えられてすでに一週間もたっていることもごぞんじでいらっしゃいましょう。ですから、お嬢さまが私を逮捕させるとか、ドン・チェーザレなり他の誰なりに一言お洩らしになるとかするだけで、私どもの全計画は一か月以上も遅れてしまうのでございます。お嬢さま御自身がファブリツィオ猊下を殺すことになると私が申すのも当然でございましょう」
クレリアはロドヴィーコの異様な平静さに恐怖をおぼえた。
(こうして私はお父さまに毒を盛った男と普通に話をしている、しかもこの男は私に対して礼儀正しい言葉づかいをしている! こんな悪事にひきこまれてしまったのも愛情のためだ!……)
悔恨のあまり彼女はほとんど口をきく力もなかった。彼女はロドヴィーコに言った。
「あなたをこのサロンに閉じこめて鍵をかけます。一走りお医者さんのところへ行って、阿片を飲まされたにすぎないと言っておきます。あ、そうだ! 私がどうしてそれを知ったかをどんな風にお医者さんに言ったものかしら? でも、すぐ帰って来てあなたを出して上げます」
戸口まで行ってから駈けもどって来てクレリアはきいた。
「それにしても、ファブリツィオはこの阿片のことを何か知っていたの?」
「とんでもございません、お嬢さま。知っていらっしゃったら同意なさらなかったでしょう。それに、必要もないのに打ち明けたりして何になります? 私どもは細心周到に行動しております。ほっとけば三週間のうちに毒殺されてしまう猊下のお命を救うことが問題なのでございます。毒殺の命令は、大抵の場合その意志にさからうことのできないある人が下したのです。お嬢さまには何もかも申し上げてしまいますが、この件を委ねられたのはあの恐るべきラッシ検察長官だということでございますよ」
クレリアは恐怖に駆られて逃げ出した。彼女はドン・チェーザレの心底からの誠実さを信じていたので、多少の用心はしながらも、将軍が盛られたのは阿片以外のものではないと思い切って言ってしまった。返事も質問もせずにドン・チェーザレは医者のところへ駈けて行った。
クレリアは阿片のことをもっといろいろきいてみるつもりでロドヴィーコをとじこめておいたサロンにもどった。彼はもういなかった。うまく逃げてしまったのだ。テーブルの上に金貨が一杯はいっている財布と、いろいろな種類の毒がはいっている小さな箱が置いてあった。この毒を見て彼女はぞっとした。(お父さまに飲ませたのは阿片だけだったかどうかわからないじゃないの。公爵夫人がバルボーネの計画に対して復讐しようとしなかったかどうかもわからないし)
(何ということだ!)と彼女は叫んだ。(私はお父さまの毒殺者と関係を持ってしまった! しかも彼らを脱出させたのだ! もしかするとあの男は、問いつめれば阿片以外のことも白状したかもしれない!)
そう言うや否やクレリアは涙にくれてばったりとひざまずき、熱心に聖母に祈った。
そのあいだに城砦の医者は、問題の毒は阿片にすぎないというドン・チェーザレからの知らせにすっかり驚きながらしかるべき薬を与えたので、最も危険な徴候は間もなく消え去った。夜が明けかけたころ将軍は少々意識をとりもどした。正気にかえったことを示す彼の最初の行為は、城砦副司令の大佐をさんざん罵ることだった。この大佐は将軍が意識を失っていたあいだ、ごく決まりきった命令をいくつか独断で発してしまったのだ。
長官は次に台所係の下女にむかってものすごく向かっ腹を立てたが、この下女はスープを運んで来たとき卒中という言葉を使ってしまったのである。
「わしが卒中になる年だというのか?」と彼はどなった。「そんな噂を流して喜んでいるのはよくよくわしを敵視しているやつらだけだ。それにまた、わしが刺賂《しらく》を受けたとでもいうのか? いくら中傷にしても卒中などとはひどすぎる!」
ファブリツィオは脱走の準備に没頭していたので、半死半生の長官が運ばれて来たとき城砦じゅうに起こった異様な騒ぎが何なのか全然わからなかった。最初彼は自分に対する判決が変更されて自分を処刑しに来たのではないかと思った。ところが誰も監房に来ないので、クレリアの計画が露顕《ろけん》し、彼女の持っていたものと思われる綱が城砦へ帰るなり取り上げられ、脱走計画はもはや不可能になってしまったのだと思った。翌日の明け方、彼の全然知らない男が房にはいって来て、一言もいわずに果物の籠《かご》を一つ置いて行った。果物の下に次のような手紙がかくしてあった。
今度の事件で私はたまらない悔恨にさいなまれております。さいわい私の同意したことではありませんでしたが、私の思いついたことがきっかけで起こったことですから。聖母さまのお力で父の命が救われましたら、もう決して父の命令を拒むことはしませんと私は聖母さまに誓いを立てました。父が要求し次第侯爵と結婚して、あなたにはもう決してお目にかからないつもりです。けれども、やりかけたことをしとげるのは私の義務だと存じます。次の日曜日、あなたをミサに連れて行くように私が要求しますから(心の準備のことをお考えください。困難な行動のなかであなたは命を落とすかもしれないのです)、そのミサから帰ったとき、監房へもどるのはできるだけ遅らせてください。予定の行動に必要なものを監房に置いておきます。あなたがなくなったら私はどんなに悲しいでしょう! あなたは私があなたの死に手をかしたと非難なさることがおできになって? 公爵夫人御自身がラヴェルシ派が勝つだろうと何度私におっしゃったかわかりません。あの連中は大公にひどいことをさせてモスカ伯爵と決裂させ、大公をがんじがらめにしようとしているのです。公爵夫人は涙にくれながら、もうこの方法しかないのだと私に断言なさいました。何かやってみなければあなたは死ぬのです。私はもうあなたに目を向けることもできません。そういう誓いを立てたのですから。けれども日曜の夕方には黒ずくめの服を着ていつもの窓に出ます。それが、次の夜には微力の私でできるかぎりの準備がしてあるという合図です。十一時以後、もしかすると十二時か午前一時になってしまうかもしれませんが、小さなランプを私の窓に出します。それが決行の時です。あなたの守護聖人に御加護を祈って、お手もとにある僧服を着て行動をはじめてください。
さようなら、ファブリツィオ、あなたが恐ろしい危険を冒しているあいだ私は祈っています。本当に、この上なく苦い涙にくれながら。あなたが死ねば私も生きてはいません。まあ、何ていうことを言っているのでしょう! けれど、あなたが成功なさったら私は永久にあなたにお目にかかりません。日曜日のミサの後、あなたの監房にお金と毒薬と綱があるはずです。それはあなたを情熱的に愛している、しかもこの策によるほかはないのだと三度もくりかえして私に言ったあの恐ろしい女性がとどけて来たものです。神と聖母があなたをお助けくださいますように!
ファビオ・コンティは自分の囚人どものうちの一人が逃げ出すことをいつも夢に見ているような、いつも戦々兢々《せんせんきょうきょう》としている哀れな獄吏だった。城砦じゅうの人々から蛇蝎《だかつ》視されている。しかし不幸というものはすべての人間に同じことを考えさせるものだ。高さ一メートル、幅一メートル、奥行二・四メートルの、立っていることも坐っていることもできない地下牢につながれているものたちをも含めて、不幸な囚人たちはみな長官が危険を脱したと知ったとき金を出し合って謝恩聖歌《テ・デウム》を歌ってもらうことを思いついた。この不幸な連中のうちの二、三人はファビオ・コンティのためにソネットまで作った。ああ、不幸がこの人々に与えた影響はいかに深かったか! 彼らを非難するものは、高さ一メートルの地下牢に入れられ、一日八オンスのパン、しかも金曜日には断食《ヽヽ》で一年暮らすという目に遭ってみるとよい。
クレリアは礼拝堂に祈りに行くときのほかは父親の部屋から出なかったが、長官がお祝いは日曜にならなければやらないと言っていると告げた。その日曜の朝ファブリツィオはミサとテ・デウムに加わった。夜は花火が上げられ、城の天井の低い広間では長官が許していた量の四倍もの葡萄酒が兵士たちにくばられた。それどころか匿名《とくめい》の人が火酒の樽をいくつもとどけてくれ、兵士たちはその底を抜いた。酔っぱらった兵士たちは気前がよくなって、邸宅のまわりで立哨中の五人の兵隊が勤務のおかげで|わり《ヽヽ》を食わされているのはかわいそうだと言い出した。彼らが哨舎に帰って来るたびに内通している召使が葡萄酒を飲ませた。十二時から夜明けまで立哨した連中も誰かから火酒を一杯ふるまわれ、しかも相手はいつも壜を哨舎のそばに忘れて行くのだった(これはその後の裁判のときにあきらかにされた)
騒ぎはクレリアが考えていたよりも長くつづき、一週間も前に鳥部屋に面していないほうの窓の格子二本を切り取っておいたファブリツィオが日よけをはずしはじめたときはもう一時になっていた。長官邸を警備している歩哨のほとんど頭上で彼は仕事をしていたが、歩哨たちには何も聞こえなかった。五十メートルというあの恐るべき高さを降りるのに必要な特別長い綱にだけは彼は新しく結び目を作っておいたが、この綱を肩から脇下へ背負った。ひどく嵩《かさ》があるので邪魔になって仕方がない。結び目のため締まりがなくなって、体から五十センチも突き出している。(こいつは厄介きわまる)とファブリツィオは思った。
どうにかこうにかこの綱を始末してしまうと、ファブリツィオは監房の窓から長官邸の立っている広場までの十メートルを降りるのに使うつもりの綱を取った。それにしても、いくら酔っているとはいえ歩哨たちのちょうど頭の上に降りて行くわけには行かなかったから、前に言ったように監房のもう一つの窓、大きな衛兵所のようなものの屋根に面しているほうの窓から外へ出た。病人の気まぐれでファビオ・コンティ将軍は口がきけるようになるや否や、百年前から見捨てられていたこの昔の衛兵所に二百人の兵隊を詰めさせた。毒殺しようとしたあげく今度は寝ているところを暗殺しようとしているのだと将軍は言い、この二百人の兵隊は彼を守ることになっていたのだ。この思いがけない措置《そち》がクレリアの心にどんな印象を与えたかは察せられよう。この敬虔な娘は自分がどれほどまでに父親を、それも自分の愛している囚人のためにあやうく毒殺されるばかりだった父親を裏切ったかを痛感していた。彼女は思いがけずこの二百人の兵隊がやって来たことに、これ以上は深入りするな、ファブリツィオに自由を与えてはならないという神意を見る思いがした。
しかしパルマでは誰もが囚人の死はまぢかだと言っていた。シニョーラ・ジューリア・クレッシェンツィの結婚を祝ってもよおされた宴会の席上でもこの悲しい話題が持ち出されていた。役者風情に剣をふるってつい殺してしまったなどというようなつまらぬことのために、ファブリツィオほどの家柄の人間が、首相の庇護《ひご》もあるというのに九か月たっても釈放されないとなれば、この事件には政治がからんでいるのだ。となると、これ以上ファブリツィオのことを心配しても無駄だ。そう人々は言っていた。広場で彼を殺すのが権力にとって都合が悪ければ、彼は間もなく病死するだろう。ファビオ・コンティ将軍の城砦に呼ばれたある錠前職人は、ファブリツィオのことをもうずっと前にかたづけられたものとして扱い、政治的理由でその死のことは伏せられているのだと言った。この男の言葉でクレリアは決意した。
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第二十二章
昼のあいだファブリツィオは深刻な面白くもない反省につきまとわれていたが、決行の瞬間の近づくのを告げる時計の音が鳴るにつれて元気がよみがえって来るのを感じた。公爵夫人は、外の大気に急に当たると驚くだろう、獄から出るが早いか歩けなくなるかもしれないと書いて来た。そんな場合には、五十メートルの壁から落ちるよりも捕えられるほうがいいというのだ。(不幸にしてそんなことになったら、手すりに体をよせて横になり、一時間ほど眠ろう)とファブリツィオは思った。(そうしてまたやりなおすんだ。クレリアに誓ってしまった以上、自分の食べるパンの味のことをしょっちゅうあれこれと考えていなければならないのにくらべれば、どんなに高くても城壁の上から落ちたほうがましだ。毒を盛られて死ぬとなれば、息を引き取るまでにどれほど凄《すさ》まじい苦しみを味わわされるだろう! ファビオ・コンティは手段を選んだりすまい、城砦の鼠を殺すのに使う砒素《ひそ》を盛るだろう)
十二時頃、時々ポー河から岸に舞い上がって来るあの厚い白い霧がまず市街を蔽い、つづいて城砦前の広場と、そのまんなかに城砦の大きな塔の立っている稜堡との上にひろがった。屋上の手すりからは、五十メートルの壁の下に兵隊が作った庭園をとりまいている小さなアカシアの木はもう見えないようにファブリツィオには思われた。(こいつはお誂《あつら》え向きだ)と彼は思った。
十二時半が鳴ってから間もなく鳥部屋の窓に小さなランプの合図があらわれた。ファブリツィオはいつでも動き出せるようにしていた。十字を切り、邸宅のある屋上までの十メートルを降りるのに使う短いほうの綱をベッドに結びつけた。前に言った二百人の応援の兵隊が咋夜から来ている衛兵所の屋根までは何の困難もなく降りることができた。ところがあいにくこの兵士たちは、もう十二時四十五分だというのにまだ眠っていなかった。凹んだ大きな瓦の屋根を忍び足で歩いていると、兵隊どもが屋根の上に悪魔がいる、鉄砲でしとめてやらなくちゃならんと言っているのが聞こえる。あるものがそんなことを考えるのは大変な不信仰だと言い、別のものが鉄砲を射って何もしとめられなかったら長官は必要ないのに部隊を騒がせたといってみんなを牢に叩きこむだろうと言う。この大変な議論のおかげでファブリツィオは屋根の上をできるだけ速く歩こうとし、そのためますますひどく音を立てた。実際のところ、綱にぶらさがって窓の前を降りるとき、屋根が張り出していたため一・五メートル窓から離れていたのが幸運で、どの窓からも銃剣がいっぱい突き出されていたのである。無鉄砲なことばかりやるファブリツィオのことだから、悪魔の役を演じてやろうと思って金貸を一つかみこの兵士たちに投げつけてやったと言う人々もいる。確実なことは、彼が自分の監房の床の上に金貨をばらまき、さらにファルネーゼ塔から手すりに行くまでのあいだの屋上にもばらまいて、追跡にかかるかもしれない兵隊の気をそらそうとしたことである。
城砦の屋上まで来ると、いつもなら十五分|毎《ごと》に「部署周辺異常なし」と叫んでいるはずの歩哨たちのまんなかに出たが、それからファブリツィオは西側の手すりのほうにむかい、新しい石をさがした。
これはとても信じられぬように思えるし、一つの町の住民全体がその後の成行きの証人となっているのでなければ実際そんなことは信じられないのだが、手すりに沿って配置されている哨兵はファブリツィオを見もしなければ捕えもしなかった。実を言えば、例の霧が上昇しはじめたのだ。ファブリツィオは自分が城砦の屋上に出たとき、霧はすでにファルネーゼ塔の半ばまで蔽っていたように思うと言っている。だがこの霧は濃くなく、彼は哨兵をはっきりと認めた。その何人かは歩きまわっていた。なお彼は、何か超自然的な力に促されて、かなり近い距離に立っている二人の哨兵のあいだに大胆に陣取ったのだと言っている。背負っている大きな綱を彼はおちついてはずした。綱は二個所ほど縺《もつ》れていて、それをほどいて手すりの上にひろげるのにひどく手間取った。四方で兵士たちがしゃべっているのが聞こえ、近づいて来るのがいたら短刀で殺してやろうと彼は決意を固めていた。「全然動揺してはいなかった。何か儀式でもしているような気がした」と彼は言っている。
ようやくほどいた綱を、水はけのために手すりにあけた穴に結びつけ、その手すりの上に登って熱心に神に祈り、それから騎士道時代の勇士のように一瞬クレリアに思いを馳せた。(九か月前にここにはいったときの軽薄で放埒《ほうらつ》なファブリツィオと今のおれはどれほど違っていることだろう!)と彼は思った。遂に彼はこの驚くべき高さを降りはじめた。機械的に動いていたと彼は言う。賭《かけ》をして、白昼友だちの前で降りて見せる、それと同じだったというのだ。中程で突然腕の力が抜けたような気がした。一瞬綱を放したのではないかとさえ思う。だがすぐにまた綱をつかんだ。たぶん茨の上をすべり、茨につかまって止まり、擦り傷を作ったのだろうと彼は言う。時々肩と肩とのあいだに猛烈な痛みを感じ、その痛みは息が止まるほど激しくなった。波のように体が揺れて始末に負えない。しょっちゅう茨へ叩きつけられる。かなり大きな鳥が何羽も目をさまし、飛び立ちざま彼にぶつかって行く。最初のうちは自分の後を追って同じコースで城壁を降りて来る奴らにつかまったのかと思い、抵抗しようと身構えた。両手を血だらけにしたほかは大して故障もなくようやく大きな塔の下までたどりついた。塔の中ほどからは傾斜をなしているので非常に助かったと彼は言っている。壁に身をすりつけて降りたが、石のあいだに生《は》えている植物がよく体を支えてくれた。兵隊の庭園まで降りてみると、そこはちょうど一本のアカシアの木の上だったが、上から見て高さ二メートルと思っていたその木が実は六メートルもあった。たまたまそこに眠りこんでいた酔っぱらいは彼のことを泥棒と思った。この木から落ちてファブリツィオは左腕を脱臼しかけた。外壁のほうへ逃げようとしたが、彼の言うところでは足がふにゃふにゃになっているような気がした。全然力がなくなっていた。危険があったのに彼は腰をおろして、残っていた火酒をすこし飲んだ。数分間眠りこんでしまい、自分がどこにいるかもわからなかった。目が覚めたとき、監房にいるのにどうして木が見えるのか不思議に思った。やっと恐ろしい真実が記憶によみがえった。すぐに彼は外壁のほうへむかって行き、大きな階段で外壁に昇った。ごく近くにいた歩哨は哨舎のなかで鼾《いびき》をかいている。大砲が一門草のなかにころがっている。三本目の綱をそれにゆわえつけたが、あいにく少々短すぎたので、彼はどろどろの溝のなかに落ちた。水は一尺もあったろうか。身を起こしてあたりの様子をさぐろうとしているとき二人の男につかまえられ、一瞬恐怖をおぼえた。だがすぐ耳のそばで低く言う声が聞こえた。
「ああ、モンシニョーレ! モンシニョーレ!」
男たちが公爵夫人の手のものだということを漠然と感じたかと思うと、彼はすっかり意識を失ってしまった。しばらくして彼は声を立てずに非常に足速に歩いている男たちに運ばれているのを感じた。やがて男たちは停止し、彼は非常な不安をおぼえた。しかし口をきく気力も目を開く気力もなかった。誰かが抱きしめるのを感じた。公爵夫人の服にこもる香りだとふと思った。この香りで彼は息を吹きかえした。目をあけた。やっとこう言うことができた。
「ああ、あなたか!」
それからまた彼はすっかり意識を失った。
忠実なブルーノは伯爵に心を寄せている警官の一分隊とともに二百歩ほどのところに控えていた。伯爵自身も公爵夫人の待っている場所から目と見の先の小さな家のなかに隠れていた。必要とあれば親友である何人かの退職将校とともに剣を抜くことも彼はためらわなかったろう。彼は非常な危険にさらされているらしいファブリツィオの命を救う義務が自分にあると思っていた。君主に馬鹿《ヽヽ》なことを書かすまいという馬鹿《ヽヽ》な思いやりを彼が示さなかったら、ファブリツィオは大公署名の特赦状を得ていたはずなのだ。
十二時から公爵夫人は完全武装した男たちに囲まれて、城砦の外壁の前を息すらひそめて歩きまわっていたのだ。一つのところにじっとしていることができなかった。追跡して来る奴らからファブリツィオを救い出すために自分もたたかわねばなるまいと彼女は思っていた。この熱っぽい想像力は、ここでくわしく述べるとすれば長すぎるが、いろいろと用心して手を打っていた。しかもそれがみな信じられないほど無茶なものだったのだ。この夜何か変わったことが起こった場合に闘うつもりで待機していたものの数は八十人以上と見られた。さいわいフェランテとロドヴィーコがすべてを指揮していたし、警察大臣も敵ではなかった。だがその伯爵自身、公爵夫人の秘密を洩らしたものは一人もいなかったし、大臣としての自分は何もこの件について知らなかったと認めた。
ファブリツィオを見るなり公爵夫人はまったく正気を失ってしまった。痙攣的に腕に抱きしめる、それから自分が血だらけになっているのを見て絶望にくれる。血はファブリツィオの手についているものだった。彼女はファブリツィオが重傷を負っているものと思った。召使の一人の手をかりて繃帯《ほうたい》をするために上着をぬがせようとしたとき、さいわいそこに居合わせたロドヴィーコが市門の近くの庭園のなかにかくしてあった小さな馬車の一つに公爵夫人とファブリツィオを有無《うむ》を言わさずのせてしまい、馬車はサッカ付近でポー河を渡るべく全速力で走り出した。フェランテは充分武装した二十人とともに後衛をつとめ、追手を食い止めると命にかけて誓った。伯爵がたった一人で城砦の付近から歩いて引き揚げたのは、それから二時間以上もして、何の異変も起こらないのを見とどけてからだった。(これでおれも大逆罪を犯してやった!)彼は喜びに酔っていた。
ロドヴィーコの名案で、公爵夫人の家に出入りする若い外科医が一台の馬車に乗せられていたが、この外科医はファブリツィオとそっくりの体つきをしていた。
「ボローニャのほうへ逃げてください」とロドヴィーコは外科医に言った。「せいぜい無器用にやって、なるべくつかまるようにしてください。つかまったら、きかれたことにはつかえつかえ返事をして、最後に自分はファブリツィオ・デル・ドンゴだと白状するんです。何よりも時間を稼いでください。念入りに無器用にふるまってくださいよ。一か月の入牢ですむでしょうが、奥さまは五十ツェキーノお礼するでしょう」
「奥さまのためなら金のことなど考えるものですか」
外科医は出発し、数時間後につかまった。ファビオ・コンティ将軍とラッシがこれを喜んだのも滑稽だった。ラッシはファブリツィオの危険がなくなれば待望の男爵の位も水の泡になると見たのだった。
脱走は午前六時頃になってようやく城砦内に知れわたり、大公に報告されたのは十時になっていた。公爵夫人はファブリツィオの深い眠りを致命的な昏睡だと思い、そのため三度も車を止めさせたのだが、家来どもの熱心さのおかげで四時が鳴っているときにポー河を小舟で渡ることができた。左岸には宿駅がある。全速力でさらに二里行き、それから旅券を調べるために一時間引き止められた。公爵夫人は自分とファブリツィオのためにあらゆる種類の旅券を用意していたのだが、この日は気が変だったから、オーストリア警察の役人にナポレオン金貨を十枚もやり、涙にくれながらその役人の手を握るなどという所行に及んだ。役人は肝をつぶして検査をやりなおした。駅馬車を雇う。夫人が法外に金を払うので、外国人はすべてうさんくさく見られるこの国では、いたるところで疑惑をかきたてた。ロドヴィーコがこのときも助けに出た。公爵夫人はパルマ国首相の子息である若いモスカ伯爵の熱がつづくので悲しみに取り乱していらっしゃる、パヴィアの医者の診察を受けるために連れて行くところなのだと彼は言った。
ポー河を越えて十里も行ってからやっと囚人はすっかり目を覚ましたが、片方の肩が脱臼し、擦り傷だらけになっていた。公爵夫人があいかわらず変わった振舞いをするので、夕食に立ち寄った村の宿屋の主人はこれは帝室の高貴な方だと思いこみ、しかるべき敬意を表さねばならぬと思っていたところ、ロドヴィーコから馬鹿騒ぎなどしたら公女はかならずおまえを牢屋にぶちこむぞと注意された。
午後六時頃ようやくピエモンテ領についた。ここではじめてファブリツィオの身の安全は保たれた。街道筋から離れた小さな村に彼は運ばれ、手に繃帯《ほうたい》が捲かれ、なお数時間彼は眠った。
この村で公爵夫人は、道徳の見地から見て恐るべきものであるのみか、その後生涯にわたって彼女の心の平安を妨げかねないある行動に出たのである。ファブリツィオの脱走の数週間前、ファブリツィオのために城前の中庭に処刑台が立てられているのではないかとパルマの連中がみな城砦の門前に押しかけて行った日に、公爵夫人は用人となっていたロドヴィーコに、すでにお話しした十二世紀の工作物である例の有名なサンセヴェリーナ邸の貯水池の底の石の一つを、きわめてたくみに匿してある小さな鉄の枠からはずす秘密を教えたのであった。ファブリツィオがこの小さな村のトラットリア〔食堂〕で眠っているあいだに、公爵夫人はロドヴィーコを呼びよせた。ロドヴィーコは夫人が発狂したものと思った。夫人が彼に投げた視線はそれほどまでに異様だったのだ。
「私から数千フランもらえるものとあなたは期待しているのでしょうが、それは駄目ですよ。私はあなたという人を知っています。あなたは詩人です。上げたお金などすぐ使い果たしてしまうでしょう。カザル・マッジョーレから一里ほどのリッチャルダの小さな土地をあなたに上げます」
ロドヴィーコは有頂天になって彼女の足もとに身を投げ、自分がモンシニョーレ・ファブリツィオを救うのに協力したのは金が目当てではないと誠意をこめた口調で言明した。奥さまの第三馭者として一度モンシニョーレの御用をつとめて以来、自分はいつもあの方に特別の愛情を抱いているというのだ。ほんとに侠気の持主だったこの男は、こんな身分の高い貴婦人のところでもういいかげん長居をしてしまったと思うと、辞し去ろうとした。しかし夫人はぎらぎらと目を光らせながら彼に言った。
「待ちなさい」
何も言わずにこの料理屋の部屋のなかを歩きまわりながら夫人は時々奇妙きわまる目つきでロドヴィーコをみつめていた。この異様な振舞いが一向終わりそうもないので、ロドヴィーコは自分のほうから主人に何か言わねばならぬと思った。
「奥さまからはすでに御過分のものをいただいております。手前のような貧しい人間には想像もつかぬほどのもの、手前のいたしました仕事には勿体《もったい》なさすぎるほどのものでございます。ですからリッチャルダの土地を平然としてお受けするわけにはまいりません。失礼ながらこの土地は奥さまにお返し申し上げ、そのかわり四百フランの年金を賜《たま》わるようお願い申し上げます」
「私が一度口に出した計画を放棄したというような話を、あなたはこれまで何度聞いたことがありますか?」と言った公爵夫人の口調には、きわめて陰鬱で尊大なものがあった。
これを言ってから夫人はなお数分歩きまわった。それから急に足を止めると彼女は叫んだ。
「ファブリツィオの命が救われたのは偶然です、あれがあの小娘の心を捉えることができたからです! 愛されるような人間でなかったらあれは死んだでしょう。あなたはそうではないと言えますか?」と、目に暗い怒りをたぎらせながらロドヴィーコに歩みよって彼女は言った。
ロドヴィーコは数歩あとずさり、本当に気が狂ったと思った。そのためリッチャルダの土地のことが心配でたまらなくなった。
「どうです?」と言った公爵夫人の口調は、今度は前と一変してきわめておだやかできわめて快活だった。「私は私のサッカの領地の人たちに長いこと忘れられないような、とびきり愉快な一日を経験させて上げたいの。サッカに帰ってくれませんか? 何か異存があって? 危険があると思いますか?」
「大したことはございません。手前がモンシニョーレ・ファブリツィオのお供をしていたとは、サッカの住民は一人も言いますまい。それにまた、思い切って申し上げてしまいますが、リッチャルダの|手前の《ヽヽヽ》地所を早く見たくてたまりません。自分が地主になるなんてどうも奇妙な感じでございまして!」
「あなたの陽気なのが私は好き。リッチャルダの小作人はこ三、四年小作料を払っていないわ。貸しになっている分の半分は小作人に、そして未納金の残りの半分はあなたに上げます。ただ一つ条件があるのよ。あなたはサッカに行き、明後日は私の守護聖女のお祭りの日だと言うんです。そして向こうに着いた翌日の夜、私の城にできるだけ華やかにイルミネーションをほどこすのです。お金も手間も惜しまないでね。これは私の生涯の最大の幸福なんだということを忘れないで。ずっと前から私はこのイルミネーションの準備をしておいたのです。三か月以上も前から城の穴倉に、この崇高なお祭りに役立ちそうなものは何もかも集めておいたのよ。豪華な花火を打ち上げるのに必要な各種の火薬も庭番にあずけてあるから、ポー河を見はらすテラスで打ち上げさせて。穴倉には葡萄酒の大樽が八十九もあるから、うちの庭園に葡萄酒の泉を八十九作るのよ。翌日一本でも手のつけていない壜があったら、あなたはファブリツィオを愛していないんだと私は言いますよ。葡萄酒の泉やイルミネーションや花火がちゃんとできたら、用心深く姿を消しなさい。パルマの人たちはこういったどんちき騒ぎを無礼なことだと思うかもしれないし、またそれが私の狙いなんですから」
「かもしれませんどころか、確実でございますよ。モンシニョーレに対する判決に署名したラッシ検察長官が狂ったように怒ることも請合いでございますが。それどころか……」とロドヴィーコはおずおずとつけくわえた。「リッチャルダの未納金の半分を下さるよりも手前をもっと喜ばせてくださるお気持ちがおありでしたら、あのラッシにちょっといたずらしてやることをお許しいただきたいもんで……」
「あなたはいい人だわ!」と公爵夫人は有頂天になって叫んだ。「けれどもラッシに手を出すことは厳禁します。後で公衆の前で縛り首にさせてやろうと思っているの。あなたはサッカでつかまらないように気をつけなさい。あなたを失ったら万事が台なしになってしまうんだから」
「手前がでございますか! 奥さまの守護聖女のお祭りをすると申し上げました以上、警察が邪魔しようとし三十人の憲兵を送って来ようと、村のまんなかにある赤い十字架のところまで来ないうちに一人のこらず馬から引きずりおろしてやると誓ってもよろしゅうございます。いや、思い切ったことをやりますからね、サッカの連中は。みんな大した密輸業者で、奥さまを崇拝していますから」
「最後に」と公爵夫人は妙に無造作な言い方で言った。「サッカの正直な領民たちにはお酒をふるまうかわり、パルマの住民は水に漬《つ》からせてやりたいのよ。私の城をイルミネーションで飾るその夜、うちの厩舎《きゅうしゃ》の一番いい馬に乗ってパルマの私の屋敷に走らせ、貯水池を開いてちょうだい」
「ああ、そりゃあまったくすばらしい考えで!」ロドヴィーコは狂ったようにげらげら笑いながら叫んだ。「サッカの気のいい連中には酒を、パルマの町人どもには水を、ですか。あのさもしい野郎ども、モンシニョーレ・ファブリツィオがあの気の毒なL……さんのように毒殺されるものとすっかり信じこんでやがったんですからね」
ロドヴィーコの喜びはとどまるところがなかった。公爵夫人は彼の馬鹿笑いを愉快そうに見ていた。彼はひっきりなしにくりかえしていた。
「サッカの連中には酒を、パルマの連中には水を、か! 二十年ばかり前うっかりあの貯水池を乾《ほ》したときには、パルマのいくつかの通りでは三十センチも水が出たことは多分奥さまのほうがよくごぞんじでしょう」
「だから、パルマの連中には水を、なのよ」と公爵夫人は笑いながら答えた。「ファブリツィオの首が斬られるとなったら城砦の前の散歩場は弥次馬で一杯になったでしょう……。皆あの子のことを大罪人《ヽヽヽ》と呼んでいますからね……。けれど何よりもまず、上手にやってのけるのよ。その洪水があなたのしわざだとか、私が命令したのだとかいうことが誰にも知られないように。ファブリツィオにも、いや伯爵すらにも、この無茶な悪ふざけのことを知られたくないの……。けれどサッカの貧乏人たちのことを忘れていたわ。私の執事に手紙を書いてください、署名するから。私の守誕聖女の祭りのためにサッカの貧しい人々に百ツェキーノくばること、そしてイルミネーションと花火と葡萄酒の件については万事あなたの指図に従うこと、特に翌日うちの穴倉に手つかずの壜が一本も残らぬようにすること、そう言ってやるのです」
「奥さまの執事が困ることは一つだけです。つまり、奥さまが五年前にあの城の持主におなりになってから、サッカには貧乏人など十人と残っていないってことで」
「パルマの連中には水を!」と公爵夫人は歌った。「あなたはこの悪ふざけをどういう風にしてやるつもり?」
「計画はちゃんとできています。九時頃サッカを出れば、馬は十時半にはカザル・マッジョーレとリッチャルダの|私の《ヽヽ》土地にむかう街道沿いの宿屋トレ・ガナーシェ〔「三つの顎《あご》」の意〕に着きます。十一時にはお屋敷のなかの手前の部屋にはいり、十一時十五分には大罪人の健康を祝して飲むには多すぎるほどの水をパルマの連中にふるまってやりましょう。十分後にボローニャ街道を通って市から出ます。モンシニョーレの勇気と奥さまのお智恵のおかげで面目を失ったあの城砦に通りがかりに最敬礼してやりましょう。郊外では私のよく知っている小道を辿ってリッチャルダへ乗りこみます」
ロドヴィーコは公爵夫人へ目をやり、ぎょっとした。彼女は六歩ほど先の裸の壁に目を据えているのだが、どう見てもその目つきは恐ろしいものだった。(ああ、おれの土地ももう駄目だな。やはりほんとに気が狂っておいでだ!)とロドヴィーコは考えた。公爵夫人は彼を見、彼の考えていることを察した。
「ああ、大詩人ロドヴィーコさん、あなたは贈与証書がほしいのね。紙を取って来てください」
ロドヴィーコはすぐさま命令に従った。そして公爵夫人は一年前の日づけで長い借用証書をみずから書き、金八万フランをロドヴィーコ・サン・ミケーリから借用し、その担保としてリッチャルダの土地を彼に与えたと明記した。十二か月後になっても公爵夫人がその八万フランをロドヴィーコに返済していなければ、リッチャルダの土地は彼の所有となるというのだった。
(自分の財産として残っているもののおよそ三分の一を忠僕に与える、これはいいことだわ)と彼女は思った。
「ああ、そうそう」と公爵夫人はロドヴィーコに言った。貯水池のいたずらの後で、カザル・マッジョーレでのんびりしているのは二日だけにしてもらいます。売却を有効なものとするために、これは一年以上も前の取引だったということにしなさい。ベルジラーテで私たちと一緒になるんです、これはできるだけ早くね。多分ファブリツィオはイギリスに行くでしょう。あなたについて行ってもらいます」
翌日の早朝には公爵夫人とファブリツィオはベルジラーテにいた。
二人はこのすばらしい村におちついた。しかしこの美しい湖畔で公爵夫人は極度の悲しみを味わわされることになった。ファブリツィオがすっかり変わってしまっていたのだ。逃亡の後でほとんど昏睡といえるような眠りからよみがえったばかりの頃から、公爵夫人は何か異常なことが彼の内部で起こったことに気がついていた。彼が非常に気をつかって隠している深い感情はかなり奇妙なものだった。それは実はこういうことにほかならなかった。彼は牢獄から出たことに絶望していたのである。彼はこの自分の悲しみの原因を打ち明けることはさしひかえていた。それを言えば、彼としては答えたくない質問を誘い出しただろう。
「何ですって!」公爵夫人は驚いて言った。「飢えに倒れまいとすれば、牢獄の賄《まかな》いで作ったひどい料理でも食べなければならなかったでしょうが、そのときのたまらない気持ち、何か変な味がしないか、今自分は毒を食べているのではないかというその気持ちが、あなたにはいやではないの?」
「僕は、兵隊ならこう考えるだろうというような考え方で死を考えていたんだ」とファブリツィオは答えた。「あり得るものだが、うまくやれば避けることのできるものとして」
こういうわけで、公爵夫人にとってこれは何という不安、何という苦しみだったことか! 風変わりで活溌で偏屈なこの愛する人間が、これ以後ずっと深い夢想に沈んでいるところばかり見せつけられたのだ。この世で一番親しくしている女性に腹蔵なくすべてを話す楽しみよりも彼は孤独のほうを好んだのだ。公爵夫人に対してはいつもやさしく慇懃《いんぎん》で感謝の気持ちを抱いていたし、前と同じく彼女のためなら何度でも命を投げ出したろう。しかし彼の心は別のところへ行っていた。あのすばらしい湖の上を四里も五里も舟で行くあいだ一言も言葉を交わさないことがよくあった。会話は今では熱のない考えを交換することしかできなかったが、第三者の目には楽しげに見えたかもしれない。しかし二人は、とりわけ公爵夫人は、彼らを離れ離れにしたあのジレッティとの宿命的な決闘の前にはどんな会話がおこなわれていたかをまだおぼえていた。ファブリツィオは恐ろしい牢獄での九か月の生活を公爵夫人に話さねばならぬはずだったが、この獄中生活についてはほんの短い舌足らずの言葉しか言えないのだった。
(いずれ早晩こうなるはずだったんだわ)と公爵夫人は暗澹たる思いをもってつぶやいた。(心痛のあまり私が老いこんだのか、それともこの子は本当に恋しているのだ。私などこの子の心のなかで二番目の位置しか占めていない)およそこれ以上のものとてないこの悲しみに誇りを傷つけられ、打ちひしがれて、公爵夫人はこう思うことも時にあった。(もしフェランテが完全に気が狂ってしまっているか勇気がなくなってたとしたら、かえって私は今のように不幸でなかったかもしれない)この時からこの悔恨に似た気持ちは、公爵夫人が自分の性格について抱く自信をすら傷つけてしまった。苦い気持ちで彼女は思った。(こうして私は自分の下した決断を後悔している。これではもう私はドンゴ家のものといえない)
(これも神さまの思召しなのだ)と彼女は思い直した。(ファブリツィオは恋している。そしてあの子が恋してはいけないという権利など私にはないじゃないか。本当の愛の言葉など一度も私たちのあいだに交わされていないのだから)
まことにもっともなこの考えのおかげで彼女は一睡もできなくなった。すばらしい復讐の機会が見えて来たのに彼女が身も心も老い衰えてしまったことは、パルマにいたときよりもこのべルジラーテにいるときのほうが百倍も不幸だったことであきらかだった。ファブリツィオの異様な夢想の原因となっている人物については、疑いの余地はほとんどなかった。あれほど敬虔な娘クレリア・コンティが城砦守備隊を酔わせることに同意した以上、彼女は父親を裏切ったのだ。ところがファブリツィオは決してクレリアのことに触れない! 公爵夫人は絶望にくれて自分の胸をたたきながら思うのだった。(しかし守備隊の連中が酔っていなかったとすれば、私の考えた工夫も配慮もすべて役に立たなかったのだ。だからファブリツィオを救ったのはあの娘だ!)
あの夜の顛末をくわしくファブリツィオから聞き出すのに、公爵夫人はさんざん苦労しなければならなかった。(あの夜のことは、昔ならば私たちのあいだでしょっちゅう持ち出される話題となったろうに!)と夫人は思う。(あの幸福な時期だったら、私の持ち出したほんのちょっとした話題について、あの子は一日じゅう、しかも絶えず新しい感興を湧かせて快活にしゃべりつづけたろう)
どんなことが起こるかもわからないので、公爵夫人はファブリツィオをマッジョーレ湖のはずれのスイス領の町ロカルノの港に住まわせた。毎日彼を連れ出して湖上に長時間舟をうかべる。ところが、ある時彼女がファブリツィオの部屋まではいって行ってみると、ミラノかパルマから取り寄せたパルマの町の風景が部屋じゅうに貼ってあるのだった。本来なら彼が怖毛《おぞけ》をふるうはずの町である。彼の小さなサロンはアトリエに変わり、水彩画の道具で足の踏み場もなく、夫人が行ったとき彼はファルネーゼ塔と長官邸の三枚目の絵を仕上げているところだった。
彼女はむっとした様子で言った。
「後はもう、あなたを毒殺することばかり考えていたあの愛すべき長官の肖像を思い出してかきさえすればいいわけね。そういえば、勝手に逃げ出して城砦の面目をつぶしたことを長官に詫びる手紙を出すべきだわ」
かわいそうに彼女は自分の言っていることがまったく真実であるとは思っていなかったのだ。安全なところに来るや否やファブリツィオがまず考えたのは、申し分なく礼儀正しい、しかもある意味ではまことに滑稽な手紙をファビオ・コンティ将軍に書くことだった。獄の下役の誰かが自分に毒を盛ることを命じられていると信ずべきふしがあったという理由を挙げて、彼は逃げ出したことを将軍に詑びたのだ。何を書くかなどということは彼には問題でなかった。ファブリツィオはこの手紙がクレリアの目に触れることを期待していたのであり、書きながら彼の顔は涙に蔽われていた。まことに愉快な文句で彼はこの手紙を結んだ。自由になってみると、ファルネーゼ塔のあの小さな監房をなつかしく思うことがよくあるとまで彼は書いたのだ。これこそ彼の手紙の第一の趣意であり、クレリアはこれを理解してくれるだろうと彼は期待していたのだ。筆のはずみに乗って、また誰かに読んでもらえないかという望みもあって、ファブリツィオは神学書を何冊か貸してくれた善良な教誨師ドン・チェーザレにも礼状を書いた。数日後ファブリツィオは、ロカルノの小さな本屋の主人をミラノに行かせ、有名な愛書家レイナの友であるこの主人に、自分がドン・チェーザレから借りた本の一番豪華な版を買わせた。善良な教誨師はこの豪華版とともに立派な手紙を受け取った。哀れな囚人の身では許さるべきことかもしれぬが、苛々《いらいら》したときに本の余白に馬鹿げた覚書を書きこんでしまった、それ故、心からの感謝をもって送るこの本をかわりにあなたの書庫におさめていただきたいという手紙だった。
聖ヒエロニムスの二つ折本の余白にとめどなく書き散らしたものを、ただの覚書などと呼ぶのはいい気なものである。この本を善良な教誨師に返して代りに別の本を貸してもらうつもりで、彼は毎日この本の余白に獄中で起こることすべてを日記として綿密にしたためておいたのである。大きな事件といえば|神聖な愛《ヽヽヽヽ》(この神聖なという言葉は書くことを憚る別の言葉の代りに使われていたのだ)の法悦にほかならなかった。あるときはこの神聖な愛は囚人を深い絶望におとしいれ、また別のときには空中から聞こえて来た声が何がしかの希望をよみがえらせ、幸福に陶酔させてくれた。さいわいこれらすべては葡萄酒とチョコレートと煤《すす》で作った獄中のインキで書かれていたから、ドン・チェーザレはこの聖ヒエロニムスの本を書庫にもどすときほんの一瞥を加えたにすぎなかった。もし余白をずっと読んで行ったら、ある日囚人が毒を盛られたと思い、この世で最も愛するものからわずか四十歩足らずのところで死ねる身を幸福と思ったことを知ったはずである。けれどもこの善良な教誨師とはちがう人の目が、彼が逃走した後でこの書きこみを読んだのであった。「愛するもののそばで死ぬ」というこの美しい想念はさまざまな形で表現されていたが、その後に一篇のソネットが書いてあった。詩にはこうあった。恐ろしい苦悶ののちに、二十三年間宿っていたこの儚《はか》ない肉体を去った魂は、たとえ浮世のしがらみを脱し、恐るべき審判によって罪の赦《ゆる》しを得ようとも、ただちに天に昇って天使らの合唱に加わろうとはすまい。生きて世にあったときよりも死んだ後に幸福を得、長いあいだ呻吟した牢獄からほんの数歩あゆんで、この世で最も愛したものと結ばれるだろう。こうして自分は地上に楽園を見いだすだろう、と最後の行は歌っていた。
パルマの城砦ではファブリツィオのことはもっぱら最も神聖な義務にそむいた卑しむべき裏切り者とのみ言われていたけれども、普良な聖職者ドン・チェーザレは未知の人間が送って来た美しい本を見て大満悦だった。というのは、ファブリツィオは自分の名が書いてあれば憤然として突き返されるのではないかと思って、用心して発送後数日してからでなければ手紙を書かなかったのである。ドン・チェーザレはこのことを兄には話さなかった。ファブリツィオの名を聞くだけで兄は怒り狂うのである。しかしファブリツィオの逃走後、ドン・チェーザレは愛すべき姪と以前のように仲よくなっていた。以前ラテン語をすこしばかり教えたことがあったから、彼は自分の受け取った美しい書物を姪に見せた。これこそ今旅の空にいる男の望んだことだったのだ。たちまちクレリアは真赤になった。ファブリツィオの筆跡だとわかったのだ。ごく細長い黄色い紙片が栞《しおり》がわりに本のあちこちにはさまれていた。われわれの人生を満たす平凡な金銭的利害や卑俗な物の考え方の味もそっけもない冷たさのなかで、真の情熱の命じた行為がその効果を発揮しないことはやはり何としても稀である。憐れみ深い神がそのような行動をみちびいてくれるかのように、クレリアはこの本能とこの世でかけがえのないただ一人の人への思いにみちびかれて、聖ヒエロニムスの古い版と今度叔父の受け取ったものとを比較させてもらいたいと言った。ヒエロニムスの古い版の余白に今しがた紹介したソネットや、彼女に対して抱く愛情の日々の記録を見いだしたとき、ファブリツィオがいなくなったために暗澹たる思いに沈んでいた彼女がどんな喜びをおぼえたかは言葉につくせるものでない。
その日から彼女はソネットを暗記してしまった。自分の部屋の窓によりかかり、その日よけに小さな穴があらわれるのをあれほどしばしば眺めた、今は人気もないあの窓に面して、彼女はこのソネットを歌った。日よけは取りはずされ、法廷の机の上に持ち出されて、今ラッシが予審に当たっている滑稽な裁判の証拠物件とされている。ファブリツィオは脱走の罪、検察長官自身が笑いながら言っているところでは、「寛仁な大公の仁慈を逃れた罪」を問われていたのだ!
クレリアは自分の行動の一つ一つに激しい良心の呵責を感じていた。そして不幸になって以来その呵責はますます激しくなった。将軍が毒殺みたいな目に遭ったときに立て、それ以後毎月くりかえしていた「もう決してファブリツィオに会わない」という誓いを思い出して、彼女は自分自身に対する非難をいささかなりともやわらげようと努めた。
父親はファブリツィオの脱走のために病気になっていた。のみならず、大公が腹立ちまぎれにファルネーゼ塔の獄吏すべてを馘《くび》にし、市の監獄に囚人として送りこんだとき、彼はあやうく職を失うところだったのである。将軍が救われたのは一つにはモスカ伯爵の斡旋のおかげであって、伯爵は彼が宮廷のいろいろのサークルのなかで実際に敵として暗躍するよりも、城砦のてっぺんにとじこめられているほうがましだと思ったのである。
本当に病気になったファビオ・コンティ将軍が失寵するのではないかとやきもきしていた二週間のあいだに、クレリアはファブリツィオに予告しておいたあの犠牲を勇気をふるって実行したのであった。あのお祭り騒ぎの日、それはつまり読者もたぶん御記憶のように囚人の脱走の日であるが、この日彼女は賢明にも病気になっていた。翌日も病気だった。要するに彼女は非常にたくみにふるまったので、ファブリツィオの監視を特に命じられていたグリッロを除いては誰も彼女の内通を疑うものはおらず、そしてグリッロは口をつぐんでいた。
しかしこの方面での不安がなくなったかと思うと、クレリアは当然の良心の呵責に一層むごたらしくさいなまれだした。(父親を裏切った娘の罪を軽くしてくれる事情なんてこの世にあるだろうか?)
ほとんど一日じゅう礼拝堂で涙にくれて過ごしたあげくのある夜、彼女は叔父のドン・チェーザレに父のところに一緒に行ってくれと頼んだ。何かといえばあの憎んでもあきたらぬ裏切り者ファブリツィオに対する呪詛《じゅそ》の言葉をまきちらすだけに、父の怒りの発作は余計彼女を怯《おび》えさせたのである。
父親の前に出ると、彼女は勇気を出してこう言った。自分が依然としてクレッシェンツィ侯爵の求婚を拒んでいるのは侯爵に対して全然好意が感じられず、この結婚で幸福は得られないとはっきりわかっているからです、と。これを聞くと将軍は激怒しはじめ、クレリアは言葉をつぐのにだいぶ苦労した。それから彼女は、父が侯爵の莫大な財産に心をひかれて、結婚しろという命令を自分に与えねばならぬと思うなら、自分はそれに従うつもりだとつけくわえた。将軍はまったく予期していなかったこの結論に非常に驚いた。それもやがては喜びに変わった。「あの悪党のファブリツィオのけしからんやりくちのおかげで職を失うことになっても、これで三階の部屋住いなどという惨めな思いをしなくてもすむ」と彼は弟に言った。
モスカ伯爵はぬかりなく不良少年《ヽヽヽヽ》ファブリツィオの脱走に心底から憤慨しているようなふりをし、機会ある毎に大公の御仁慈を逃れたまことに野卑なこの青年の下司《げす》っぽいやりくちについてラッシの言った文句をくりかえしていた。この気のきいた文句は上流社会では通用したが、庶民は受け容れなかった。それなりの良識を持っている彼らはファブリツィオのことを大罪人とは思いながらも、あんなに高い壁から降りようとするにはよほどの決意が必要だったろうと感嘆していた。宮廷では誰一人この勇気に感嘆するものはいなかった。警察はこの失態ですっかり恥をかいたが、公爵夫人のばらまいた金で籠絡《ろうらく》された二十人ほどの兵士の一隊が、それぞれ十三メートルの長さの梯子四本を一まとめに縛りつけてファブリツィオに渡したのだという事実を公式に発表した。何しろ公爵夫人は大変恩知らずの女で、人々はその名を口にするときには誰でも溜息をつくほどなのだ。ファブリツィオは綱を垂らし、梯子に結びつけたその綱を引っ張って自分のところまで梯子を引き上げたのだから、大したことをやったわけではない。軽率なことで知られた何人かの自由主義者、中でも大公から直接金をもらっていた医師C……などは、この残忍な警察はあの恩知らずのファブリツィオの脱走の便宜をはかった兵士八人を銃殺にするという乱暴な真似をしたと、自分の身の危険を承知で言っていた。そこでファブリツィオは、その軽率なふるまいで八人の兵士の死を招いたとして正真正銘の自由主義者からまでも非難された。こうして卑小な専制主義は世論の価値を無にしてしまうのである。
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第二十三章
この一般の憤激のさなかでランドリアーニ大司教だけは自分の若い友人にあくまで忠実だった。いかなる裁判においても、不在者の弁明を聞くために一方の耳からだけはすべての先入見を拭い去っておかねばならぬという法律の準則を、大公妃の御前でさえ彼はくりかえした。
ファブリツィオの脱走の翌日、何人かの人々はあまり優れたものとはいえないソネットを受け取ったが、これはこの脱走を今世紀の最も目覚ましい行為として讃え、ファブリツィオを翼をひろげて地上に降りて来た天使にたとえていた。翌々日の夜はパルマじゅうの人々が一つのきわめて優れたソネットを口ずさんでいた。それは綱をすべりおりながらこれまでの生涯のいろいろな事件について考えるファブリツィオの独白になっていた。このソネットはそのなかの特にすばらしい二行によってファブリツィオの人気を高めた。識者はみなフェランテ・パッラの文体をそこに見た。
だが、ここでは私にも叙事詩的文体が必要だろう。サッカの城をイルミネーションで飾るなどというあの恐るべき無礼な振舞いを知ったとき、信心深い連中をたちまちにして押し流した憤りの奔流を描くのに、どこから絵具を借りて来たらいいだろうか? 異口同音に公爵夫人に対する非難の声が上がった。正真正銘の自由主義者すらも、これは方々の監獄に拘禁されている哀れな嫌疑者たちを乱暴に危険にさらすことであり、無用に君主の怒りを煽ることだと思った。モスカ伯爵は公爵夫人の旧友たちの為すべきことは一つしかない、それは夫人を忘れることだと言明した。つまり非難の合唱に加わらぬものはなかったのだ。外国人がこの町に立ち寄ったら輿論《よろん》の激しさに驚かされただろう。
しかし復讐の楽しさというものを理解することのできるこの国では、サッカのイルミネーションと六千人以上の農民のため庭園でもよおしたすばらしい祝宴は大当りを取った。パルマでは誰もが、公爵夫人は千ツェキーノも領地の農民にくばらせたと言っていた。まことに間の抜けたことに、このすばらしい夜の宴が催されて一同が酔っぱらうということがあってから三十六時間も後に警察は三十人の憲兵をこの小さな村へ派遣したが、彼らが少々こっぴどい目に遭わされたのもこれで納得が行った。投石で迎えられた憲兵たちは逃げ出し、馬から落ちた二人はポー河に投げこまれたのである。
サンセヴェリーナ邸の大貯水池の決潰のほうはほとんど気づかれないですんだ。夜のうちにいくつかの通りに程度の差はあれ水が出たのだが、翌日人々は雨が降ったのだというくらいにしか考えなかった。ロドヴィーコは泥棒がはいったのだと思われるように屋敷の窓ガラスを何枚か割っておいた。
小さな梯子まで見つかった。モスカ伯爵だけはこれは自分の愛人のやりくちだと悟った。
ファブリツィオは帰れるようになり次第、すぐパルマに帰ろうと堅く決意していた。彼はロドヴィーコをやって長い手紙を大司教にとどけさせたが、この忠僕は尊敬すべき高僧が若い被保護者にあてたラテン文の手紙をパヴィアの西にあるピエモンテ領の最初の村サンナツァーロまで持って来て投函した。こまかなことを一つ言い添えておくが、これもおそらく他の多くのことと同様、警戒などというものが必要ではない国では余計なことと思われるだろう。ファブリツィオ・デル・ドンゴという名は全然書かれていなかったのである。彼あての手紙はすべてスイス領のロカルノもしくはピエモンテ領のベルジラーテに住むロドヴィーコ・サン・ミケーリの宛名になっていた。封筒は粗末な紙だし、封印の押し方はぞんざいだし、宛名はひどく読みにくく、料理女が書きそうな注意書が添えてある。すべて発信地はナポリとされ、実際よりも六日前の日づけになっていた。
パヴィアのそばのピエモンテ領の村サンナツァーロからロドヴィーコは大急ぎでパルマにもどった。彼はある用事をいいつかっていたのだが、ファブリツィオはこれをきわめて重大視していた。それはほかでもなく、ペトラルカのあるソネットを刷りこんだ絹のハンケチをクレリア・コンティにとどけることだった。実はこのソネットのなかでは一つの語が変えられていたのである。クレリアは自分こそ最も幸福な人間だと言っているクレッシェンツィ侯爵の感謝の手紙を受け取ってから二日後に、自分の机の上にこのソネットを見いだしたのだが、絶えず募る思慕のこのしるしが彼女の心にどのような印象を与えたかは言うには及ぶまい。
ロドヴィーコは城砦内のその後の成行きについて、できるだけくわしい情報を得て来ることになっていた。クレッシェンツィ侯爵との結婚が今では既定の事実になっているようだという悲しい知らせをファブリツィオに伝えたのはロドヴィーコだった。侯爵がクレリアのために城砦内で饗宴をもよおさぬ日はほとんど一日もない。結婚がおこなわれるという決定的な証拠は、これはイタリア北部の金持連中の常例だが、非常な富豪であり従って甚だ吝嗇《りんしょく》である侯爵が大がかりな準備をしているということだった。しかもその相手は持参金もない娘なのである。この国のすべての人間が誰でもまずまっさきにそれを考えるのが虚栄心の強いファビオ・コンティ将軍の心を甚しく傷つけ、最近将軍が三十万フラン以上の土地を買ったことは事実である。しかもこの土地の代金を無一文の彼が現金で支払ったが、これはどうも侯爵のふところから出たとしか思えない。将軍はこの土地は結婚祝いとして娘にやるのだと言明していた。しかし登記その他の一万二千フラン以上にも上る費用は、きわめて論理的な人間であるクレッシェンツィ侯爵には馬鹿げた出費と思えた。侯爵のほうではボローニャの有名な画家パラージの意匠による、非常に目を楽しますような華麗な色彩の壁掛けをリヨンで作らせていた。これらの壁掛けの一つ一つは、人も知るとおり紀元九八五年のローマ執政官だった有名なクレセンティウスの流れを引くクレッシェンツィ家の紋章の一部をそれぞれ内容としており、侯爵邸の一階の十七のサロンを飾ることになっていた。パルマに送り届けられた壁掛け、掛け時計、シャンデリアは三十五万フラン以上の価格のものだった。すでにあるもののほかにさらに買いこんだ新しい鏡だけでも二十万フランに上った。あのすばらしいコレッジヨ以後にこの国の生んだ偉大な画家イル・パルミジャニーノの意匠になる二つのサロンを除いて、二階と三階のすべての部屋は今フィレンツェ、ローマ、ミラノの有名な絵かきたちが占領し、フレスコ画で飾っているところだった。スウェーデンの大彫刻家フォーケルベルク、ローマのテネラーニ、ミラノのマルケージが一年も前から、真の偉人だったあのクレセンティウスの勲功をそれぞれあらわす十点の浅浮彫にとりかかっていた。天井も大部分フレスコでクレセンティウスの生涯に関することが描かれていた。すべての人の嘆賞したのはミラノ人アイエスの描いた天井画で、ここにはクレセンティウスがエリュシオンの園〔ギリシャ神話で、勇士英傑の霊があつまるところ〕でフランチェスコ・スフォルツァ、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、ロベルト王、護民官コラ・ディ・リェンツォ、マキアヴェッリ、ダンテ〔すべてイタリアの歴史を飾った偉人たち〕、その他中世の偉人たちに迎えられているところを描いていた。
こうした豪奢な事どもはパルマの貴族と市民の注意を独占的にひきつけてしまい、またロドヴィーコがカザル・マッジョーレの税関吏に口述して書かせた二十ぺージ以上もある長い手紙に素朴な感嘆の念をもって書かれているのを読んだわれらの主人公の胸を抉《えぐ》った。
(それなのにおれはこんなに貧乏なのだ)とファブリツィオは思った。(全部ひっくるめて年に四千フランにしかならない! おれがクレリア・コンティに恋するなんてまったく身の程を知らぬ話だ。あの人のためならこんな夢のようなことだっておこなわれるのだから)
この長い手紙の一節だけはロドヴィーコ自身の下手糞《へたくそ》な字で書いてあったが、そこで彼は、人目を忍ぶ身になりさがっている元の獄吏、あの哀れなグリッロに夜出逢ったことを主人に報じていた。この男は一度投獄され、その後釈放されたのである。彼が一ツェキーノ恵んでくれと言ったので、ロドヴィーコは公爵夫人からと言って四ツェキーノやったという。最近釈放された元の獄吏どもは十二人ほどになるが、彼らの後釜にすわった新しい獄吏たちに獄外でもし出逢えたら、匕首《あいくち》の大盤振舞い(trattamento di cortellate)をしてやろうと待ちかまえていた。グリッロはほとんど毎日城砦でセレナータがおこなわれるとか、クレリア・コンティ嬢はひどく蒼い顔をしていて、よく病気になるとか、そういった種類のことをいろいろと話した。この奇妙な言葉のおかげでロドヴィーコはロカルノヘもどるようやつぎばやに命令を受けた。そこで彼は帰ったが、直接彼の口から聞いたいろいろの事実はファブリツィオにとってはさらにいっそう憂鬱なものだった。
気の毒な公爵夫人に対してファブリツィオがどんなにやさしくしたかは察せられよう。夫人の前でクレリア・コンティの名を口に出すことはどんなことがあってもしたくなかった。公爵夫人はパルマを嫌っていた。ところがファブリツィオにとっては、この町を思い出させてくれるものはすべてこよなく美しく、しかも感動をかきたてるのだった。
公爵夫人は復讐のことを決して忘れなかった。ジレッティの死というあのつまらぬ事件までは彼女はあれほど幸福だったのだ! そして今は何という境遇であろう! 彼女はある恐ろしい事件を待ち望みながら生きていたが、以前フェランテとその打ち合せをするときには、いつか復讐ができると知らせればファブリツィオがどれほど喜ぶだろうかと考えていた彼女が、その事件については一言も彼に言うまいとしていた。
ファブリツィオと公爵夫人の対話がどの程度楽しいものだったかは、これで多少察しもつくだろう。陰鬱な沈黙がほとんどいつも二人のあいだにわだかまっていたのだ。こうした関係の楽しさを増させようとして、夫人はいとしすぎるほどいとしいこの甥にちょっといたずらをしてやりたいという気持ちを抑えかねた。伯爵はほとんど毎日夫人に手紙を書いて来た。二人が愛し合っていた頃のように飛脚を使って手紙を送るらしく、手紙にはいつもスイスのどこか小さな町の切手が貼ってある。あまりあからさまに愛情について語らず、愉快な手紙を作るようにこの気の毒な男は腐心していた。ところが受け取ったほうは気のない目で走り読みすればいいほうなのだ。自分にとってもっと大切な人の冷やかさに胸を抉《えぐ》られているというのに、恋人とみなされているにすぎない男の忠実さなどが何になるだろう?
二か月のあいだに公爵夫人は一回しか伯爵に返事を出さなかったし、それも大公妃のほうに探《さぐ》りを入れて、あの花火の一件のような無礼なことをしたにもかかわらず、公爵夫人の手紙をこころよく受け取ってもらえるかどうかを当たってみてくれというものだった。夫人の手紙は、適当と判断すれば伯爵の手で捧呈してもらいたいと言う。それは、最近空席になった大公妃の侍従の地位をクレッシェンツィ侯爵に与えてほしいというもので、結婚の祝いとしてこれを願っているのであった。この公爵夫人の手紙は傑作だった。きわめて心のこもった尊敬の情を実にたくみに表現していて、宮廷風のこの文体のなかには、どれほど遠まわしにであっても大公妃の心にさからうような言葉は一つも見られなかった。だからこれに対する返事は、夫人がいないのが悲しくてたまらないという心からの友情のこもったものだった。
大公妃は書いていた。
息子と私は、あなたがあんなに急にお発《た》ちになって以来、多少なりと楽しいと思うような夜は一度も過ごしたことはありません。ところであなたは、この公家の官職任命に私が発言権を持てるようになったのはほかならぬあなたのためだということをもう忘れていらっしゃるのですか? あなたがお望みになったということだけで私にとっては充分ですのに、まるでそうではないかのように侯爵に地位を与える理由をわざわざ説明しなければならないとお思いなのですか? 私に何らかの力がありましたら侯爵はその地位を得られるでしょう。そしてまた、私の愛すべき公爵夫人のためには、私の心のなかにいつも一つの地位が、それも最高の地位が取ってあります。私の息子もまったくこれと同じことを言っております。ただこれは、二十一歳の青年のいう言葉としては少々度が過ぎているかもしれません。あの子はベルジラーテのそばのオルタ渓谷の鉱物標本をあなたに送っていただきたいと言っております。お手紙は度々いただきたいと思いますが、宛先《あてさき》は伯爵のところで結構です。伯爵はあいかわらずあなたを憎んでいますが、そういう感情を抱いているからこそ私は伯爵に好意を持ちます。大司教も依然としてあなたに忠実です。私たちは皆いつかあなたにお目にかかれるものと期待しています。また是非そうならなければならないのだということを忘れないでください。私の女官長ギスレーリ侯爵夫人が近くこの世を去ろうとしています。この気の毒な人は今まで私をいろいろと苦しめましたが、今度は変な時に世を去られてまた私は迷惑します。侯爵夫人が病気になったので私はある人の名をよく考えます。以前はこの人が侯爵夫人の地位についてくれたらどんなによいかと思ったものです。ただしそれも、この人が自由を犠牲にすることを承諾してくださったならばのことでしたが、この人は私たちから逃げて行かれ、それと同時にあらゆる喜びを私の小さな宮廷から奪ってしまわれたのでした。…云々。
こういうわけで、公爵夫人はファブリツィオを絶望させる結婚を自分の力の及ぶかぎり早めようと努めているのだと意識しながら、毎日ファブリツィオに会っていたのである。また二人は時々一緒に湖上を四時間も五時間も舟で行きながら、一言も言葉を交わさぬこともあった。ファブリツィオのほうはいつも申し分なく親切だった。けれども頭では別のことを考えており、素朴で単純な彼には言うべきことなど考え出せなかった。公爵夫人はそういう彼を見、それが苦しくてたまらなかった。
言い忘れていたが、ベルジラーテいうその名〔湖の美しい曲がり角を見るの意〕にそむかぬ美しい村のなかで公爵夫人は家を一軒買っていた。この家のサロンのフランス窓から夫人はじかに舟に乗ることができた。ごくありふれた、漕ぎ手が四人ですむ舟を彼女は買ったのだが、舟夫《かこ》は十二人も雇い、それもベルジラーテの周辺の村々から一人ずつ選んでいた。三度目か四度目に注意深く選んだこの男たちを全部率いて湖のまんなかに出たとき、彼女は櫂《かい》を止めさせて言った。
「私はあなたたちはみんな友だちだと思っていますから、一つ秘密を打ち明けようと思います。私の甥ファブリツィオは脱獄したのです。もしかすると中立地帯であるこの湖の上であろうとおかまいなしに卑劣な手段であの子を捕えようとするものがいるかもしれません。いつも注意を怠らず、耳にはいることは何もかも私に知らせてください。あなたがたには夜昼問わず私の部屋にはいって来ることを許します」
舟夫《かこ》たちは熱誠をもって彼女の言葉に答えた。だが彼女はファブリツィオが捕えられるなどということはあり得ないと考えていた。こうした配慮はすべて彼女自身のためのものだったのだ。サンセヴェリーナ邸の貯水池を開けという宿命的な命令を下すまでは、彼女もそんな配慮をしようなどとは思ってもみなかったろう。
油断のない彼女はまたファブリツィオのためにロカルノの舟着き場に部屋を借りておいた。毎日彼が夫人に会いに来るか、あるいは彼女自身がスイス領に行った。絶えずこうして差し向かいでいるのがどの程度楽しかったかは次の一事でも判断できよう。デル・ドンゴ侯爵夫人と二人の娘が二度彼らに会いに来たが、この他人の来ていることが彼らにとって嬉しかったのだ。いくら血のつながりはあっても、最もわれわれの心にかかっていることをまったく関知せず、年に一度しか会わないような人物ならば、他人と呼んでもさしつかえないはずである。
ある夜公爵夫人は侯爵夫人とその二人の娘とともにロカルノのファブリツィオの部屋に来ていた。この地方の司祭長と司祭がこの貴婦人方に敬意を表しに来た。ある商社と関係があって非常に情報に通じている司祭長がふと思いついて言った。
「パルマ大公がなくなりましたよ!」
公爵夫人は真蒼《まっさお》になった。ようやくのことで心をはげまして彼女は言った。
「詳報はありましたか?」
「いいえ。ニュースはただなくなったと言っているだけですが、なくなったことは確実です」
公爵夫人はファブリツィオをみつめた。(こんなことをやったのもこの子のためだ)と彼女は思った。(千倍も悪いことだってやったろう。それなのにこの子は私の前で無関心な顔をして、ほかの女のことを考えているのだ!)この恐ろしい考えに堪えることは公爵夫人の力に余った。彼女は深い失神に陥った。皆が急いで彼女を助けようとした。しかし我に返った公爵夫人は、ファブリツィオが司祭長や司祭ほども動きまわっていないことに気がついた。いつものように彼は夢想していた。
(あの子はパルマに帰ろうと考えているんだ)と公爵夫人は思った。(そしてたぶん、クレリアと侯爵の結婚を破談にさせようと。いや、そんなことはさせないから)それから二人の聖職者のいることを思い出して彼女はあわてて言った。
「いろいろと中傷されましたが、あの方は偉大な君主でした! 私たちにとっては大変な損失ですわ!」
二人の聖職者は暇《いとま》を告げた。そして公爵夫人は一人になるために、これから床につくと言った。
(慎重にふるまうなら、おそらく一月《ひとつき》か二月《ふたつき》してからパルマに帰ることにしなければなるまい。でもそんな辛抱強さは私にはありそうもない。ここでは私は悩みがありすぎる。ファブリツィオのあの絶え間のない夢想、あの沈黙は、私としては黙って見ていられないものだ。あの子と二人きりでこの魅力的な湖の上を漕ぎまわっていながら退屈するなんて誰が予想したろう、しかもあの子の仇を討つために当人に言えないほどのことまで私はやったのに! あんなのを見せつけられたら死なんて何でもない。ナポリから帰って来たファブリツィオを迎えたときパルマの屋敷で味わったあの有頂天の幸福と喜びの代償を今私は払わされているんだ。私が一言いっていたらすべては終わったろう。そしておそらく私と結びつけられてしまってファブリツィオはあのクレリアのことなど思わなかったろう。しかしその一言に私はたまらない抵抗をおぼえたのだ。今ではクレリアが私に勝った。そんなことはあたりまえじゃないか。クレリアは二十歳だ。そして私はといえば、気苦労のおかげで昔の俤《おもかげ》はなく、病気で、倍も年上なんだ!……死んじまったほうがいい、|けり《ヽヽ》をつけねばならない! 四十歳の女なんてものは、若いときに愛してくれた男にとってしか魅力も何もないものなのだ! 今はもう虚栄心の満足しか私には考えられない。そんなことで生きて行く価値があるだろうか? だからなおさらパルマに行って楽しみを味わわねばならない。事と次第では私は殺されるかもしれない。だからどうだというのだ、どこが悪いのだ? 目覚ましい死に方をしてやる。そしてこときれる前に、そう、その時になってはじめてファブリツィオに言ってやろう、恩知らず! あなたのためにあれをしたのよ、と!……そうだ、私のわずかの余生のあいだにすることがあるとすれば、それはパルマにしかない。パルマで大貴婦人としてふるまってやろう。以前ラヴェルシ夫人をくやしがらせたあのような処遇を今でもありがたく思えるようだったら、どんなに幸福だろう! あの頃は、自分の幸福を知るためには人々の羨望の目を見さえすればよかったのだ……。私の虚栄心にも一つの幸福は残されている。おそらく伯爵だけは例外だが、私の心の息の根を止めてしまった事件がどんなものだか誰も知るまい……。私はファブリツィオを愛している。あの子の出世のためにはどんなことでもしよう。しかしあの子がクレリアの結婚を破談にさせ、結局自分がクレリアと結婚するようなことがあってはならない……。いや、そんなことはさせない!)
公爵夫人の陰鬱な独白がここまで来たとき、家のなかで大きな物音がした。
(いいわ! 私を逮捕に来たのね。フェランテがむざむざつかまって、白状したのだろう。むしろそのほうがいい! これでやるべきことができたのだから。奴らを相手に自分の命を守らなければならないのだ。けれど何よりもつかまってはならない)
公爵夫人はろくろく身じまいもせずに庭園の奥へ逃げ出した。小さな壁を乗り越えて平野のほうへ逃げようかと早くも考えたほどだ。だが誰かが部屋にはいって来るのが見えた。伯爵の腹心の部下ブルーノだとわかった。小間使と二人だけだった。彼女はフランス窓に近づいた。ブルーノは自分の蒙った負傷のことを小間使に話していた。公爵夫人は自分の部屋にかえり、ブルーノはほとんど彼女の足もとに身を投げるようにして、こんな妙な時刻に着いたことを伯爵に言わないでくれと嘆願した。
「大公がなくなるや否や」と彼はさらに言った。「伯爵閣下はあらゆる宿駅に、パルマ領の領民には決して馬を提供してはならぬという命令をお下しになりました。そのため私はポー河まで伯爵家の馬でまいりましたのです。ところが舟から上がったところで馬車が転覆し、めちゃめちゃにこわれてしまいました。私もひどい打撲傷を負って、本来馬で来なければならなかったのに馬に乗れなかったのでございます」
「そうだったの。いま午前三時ね。十二時に着いたということにしておきましょう。あなたのほうも間違わないでよ」
「いつもながら奥さまの御親切に恐縮いたします」
文学作品のなかに政治を持ちこむことは音楽会の最中にピストルをぶっぱなすようなもので、無作法なことだが、これに関心を向けずにすますことはできない。
これからお話しするのはまことに陋劣《ろうれつ》な、いくつかの理由からして触れないでおきたい事柄である。しかし作者としては、人間の心のなかで演ぜられる以上われわれの領分に属する出来事はどうしても語らないわけには行かない。
「でも、まあほんとうに、あの偉大な大公はどんな風にしておなくなりになったの?」と公爵夫人はブルーノに言った。
「大公はサッカから二里ほどの、ポー河沿いの沼地へ渡り鳥の猟に行っておられましたが、草叢《くさむら》にかくれていた穴に落ちられたのです。汗がひどく出て、悪寒《おかん》をおぼえられました。一軒の孤立した家に運ばれたのですが、そこで数時間後におなくなりになりました。カテナ氏やボローネ氏もなくなったと言ってる人もおりますし、この事故はお立ち寄りになった農家の鍋《なべ》が緑青《ろくしょう》だらけだったためだとも言われています。この百姓の家で昼食をしたためられたのです。最後に、あの言いたい放題のことを言いたてる熱狂家ども、過激派《ジャコバン》の連中は毒などということを申しております。宮廷の使丁をつとめている私の友だちのトトも、医術に造詣が深いらしいある百姓の懇切な手当がなかったら死んでしまったはずでございます。この百姓は大変奇妙な薬を飲ませましたんで。けれども今はもう大公のなくなったことなどは話題になりません。実際あの方は残忍な人間でしたんで。私が出発しましたとき、ラッシ検察長官を殴り殺すと言って民衆が集まっていました。また囚人たちを脱出させるために城砦の門に火をつけに行くとも言っておりました。しかしそうなるとファビオ・コンティ将軍が大砲をぶっぱなすと言うものもあります。城砦の砲手たちは火薬に水をかけてしまい、同胞を虐殺するのはいやだと言っているというものもいます。しかしそれよりはるかにおもしろいのはこういうことです。サンドラーロの外科医が私の腕の手当をしていたときパルマから一人の男がやって来ましたが、この男の言うところでは、民衆は悪名高いあの城砦書記のバルボーネを町で見つけて殴り殺し、それから城砦に一番近い散歩場に運んでそこの立木に吊《つる》したそうでございます。民衆は宮殿の庭園にあるあの立派な大公の像をぶちこわしに押しかけようとしましたが、伯爵さまは近衛兵の一大隊に命じて像の前に配置させ、庭園のなかにはいったものは一人として生きて出られないぞと民衆に警告させましたので、彼らは恐れをなしました。けれども奇妙なのは、これはもと憲兵だったというそのパルマから来た男が私に何度もくりかえしたことでございますが、伯爵さまが近衛軍指揮官P……将軍に足蹴《あしげ》を加え、肩章をむしりとってから二名の銃手に命じて庭園の外へ送り出させたそうでございます」
「いかにも私の伯爵らしいわ」わずか一分前には予想もしなかった喜びに浮き立って公爵夫人は叫んだ。「私たちの大公妃を侮辱するようなことはあの人は決して見逃しはしないでしょう。それにP……将軍といえば、正統の君主に対する献身の情から決して簒奪《さんだつ》者〔保守派の立場からナポレオンのことを言う〕に仕えようとしなかったけれど、伯爵はそんな斟酌《しんしゃく》はしないからスペイン戦役にはずっと従軍なさった。そのため宮廷ではしばしば非難を受けたものです」
公爵夫人は伯爵の手紙を開いたが、読むのをやめては何度となくブルーノに質問した。
手紙はまことに愉快なものだった。伯爵はきわめて沈痛な言葉を用いていたが、極度の喜びが一語一語に溢れ出していた。大公の死がどんなものかについてくわしく述べることは避けて、次のような言葉で手紙を結んでいた。
私のなつかしい天使さん、あなたはすぐこちらへ帰ろうとするでしょうね! しかし大公妃が私の考えでは今日か明日手紙を出すだろうから、それまで一日か二日待ったほうがいいと思います。あなたの出発は大胆だったが、同様にあなたの帰還は堂々たるものでなければなりません。あなたのそばにいる大罪人のことは、この国の各地域から呼ばれた十二人の裁判官に裁かせるつもりでいます。しかしこの怪物にしかるべき罰を加えさせるためには、まず最初の判決文を反故《ほご》にしてしまわねばなりません。ただし、そんな判決文があったとすればですが。
伯爵は筆をあらためてつづけていた。
これは別の話ですが、私は先ほど近衛の二個大隊に実包をくばらせました。ここで一戦を交えて、自由主義者どもがずっと前から私に与えてくれた「残虐漢」という渾名《あだな》にそむかぬよう最善をつくそうというわけです。P……将軍というあの老いぼれの|でくのぼう《ヽヽヽヽヽ》は兵営のなかで、半ば叛乱状態におちいっている民衆と交渉すべきだなどとたわけたことを言いました。この手紙は往来の上で書いています。これから宮殿へ行くところですが、この宮殿には何ぴとも私の屍体を乗り越えなければはいれないでしょう。さようなら! 死ぬときにも私は|やはり《ヽヽヽ》あなたを熱愛しているでしょう、生きていたときと同様に! リヨンのD……にあなたの名義であずけてある三十万フランを受け取ることを忘れないでください。
今あのラッシの奴が鬘《かつら》もつけずに死んだように真蒼になってやって来ました。この顔はあなたには想像もつかないでしょう! 民衆は何としても奴を絞首したがっている。これはとんでもない間違いで、本当は八つ裂きにすべきなんです。奴は私の屋敷へ逃げこみ、それから通りへ私を追って来ました。私はこの男をどうしたものかと迷っている……大公の宮殿へは連れて行きたくない。そんなことをしたら宮殿のほうで暴動が爆発するにきまっている。F……も私が彼を愛していることをこれでわかってくれるだろうが、私がラッシに言った最初の言葉はこうでした。
「デル・ドンゴ氏に対する判決文と、君が持っているその写しの全部が私には必要だ。そしてこの暴動の原因になったあの不正な裁判官どものすべてに、実際存在しなかったこの判決文のことを一言でも口に出したらみんな縛り首にしてやると私が言っていたと伝えておけ。君、君も縛り首だよ」と。ファブリツィオの名で私は擲弾《てきだん》兵の一個中隊を大司教のところへ派遣しました。さようなら! 私の屋敷は焼かれ、私の持っているあなたの魅力的な肖像もなくなってしまうだろう。私は宮殿に駈けつけ、例によって馬鹿な真似をしているあの恥知らずのP……将軍を馘《くび》にしてやります。以前には故大公にへつらっていたように、今度はあさましく民衆にへつらっているのですから。こういう将官どもは皆すっかり怯え上がっています。これから私が総司令官になるでしょう。
公爵夫人は意地悪をしてすぐファブリツィオを起こしにやらなかった。彼女は伯爵に対して急に讃嘆の気持ちが湧き上がるのを感じたが、この気持ちは恋によく似ていた。(いろいろ考えてみると、私はあの人と結婚しなくちゃならない)彼女はすぐ伯爵に手紙を書き、召使の一人を出発させた。この夜は夫人には不幸になっている時間などなかった。
あくる日の正午頃、彼女は十人の漕ぎ手が乗って湖の上を疾走して来る舟を見た。ファブリツィオと彼女は間もなくパルマ大公家の仕着《しきせ》を着ている一人の男を認めた。事実それは大公の飛脚の一人で、その男は上陸する前に、
「暴動は鎮圧されました!」と公爵夫人にむかって叫んだ。
この飛脚は伯爵の手紙数通と、大公妃のすばらしい手紙と、夫人をサン・ジョヴァンニ公爵夫人に叙し、前大公妃の女官長に任命する大公ラヌッチヨ・エルネスト五世の羊皮紙にしたためた辞令を公爵夫人に渡した。鉱物学に造詣が深いが、夫人から馬鹿だと思われていたこの若い大公は、ちょっとした手紙を添えるだけの頭を持っていた。だがその手紙の終わりのほうには恋心があらわれていた。手紙の書き出しは次のようなものだった。
公爵夫人、伯爵は私に満足していると言ってくれます。事実私は伯爵とならんで数発の銃火を浴び、銃弾は私の馬に命中しました。こんなつまらぬことで皆が大騒ぎしているのを見ると、本当の戦争に加わってみたいという熱望をおぼえますが、自分の臣下を相手の戦争では困ります。伯爵には何から何まで世話になりました。戦争をしたこともない将軍たちはまるで兎のように臆病な振舞いをし、そのうち二人か三人はボローニャへ逃げたと思います。悲しむべき大事件によって権力が私の手にはいって以来、あなたを私の母の女官長に任命するこの辞令ほど私にとってこころよい辞令に署名したことはありません。母も私も、昔ペトラルカのものだったとすくなくとも言い伝えられているサン・ジョヴァンニのパラッツェット〔ルネサンス前期の大詩人ペトラルカは事実しばらくパルマに住んだ〕からの美しい眺めに、いつかあなたが感嘆しておられたことをおぼえております。母はこの小さな土地をあなたに贈ろうと思いました。私のほうはあなたに何を差し上げていいかわかりませんし、すでにあなたのものであるものをあなたに提供するわけにも行きませんから、あなたをこの国の公爵夫人にします。サンセヴェリーナというのはローマの称号であることをごぞんじなほどあなたが博識でいらっしゃるかどうか私は存じませんが。われわれの尊敬すべき大司教には先日この国の大綬章を差し上げましたが、この方は七十歳の人間にはまことに稀な毅然たるところを見せられました。追放された貴婦人方はみな呼びもどしましたが、あなたはお腹立ちにならないでしょうね。今後は署名の前にかならず「あなたの親愛なる」という言葉を書かねばならぬと言われました。あなたに書くときのほかは真実性を欠くこんな言葉を濫発させられるのは心外です。
|あなたの親愛なる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 ラヌッチヨ・エルネスト
この言葉づかいを見て公爵夫人が最高の寵遇を受けることになると思わないものがいたろうか? けれども二時間後に受け取った伯爵の別の手紙のなかには非常に奇妙なところがあった。伯爵ははっきりと説明してはいないが、パルマヘの帰還は数日遅らせ、体の具合がひどく悪いのだと大公妃に手紙を書くようにと助言しているのだ。公爵夫人とファブリツィオはそれにもかかわらず夕食後すぐパルマにむかって出発した。公爵夫人の目的は、ただしこれは彼女自身意識していたのではなかったが、クレッシェンツィ侯爵の結婚を急がせることだった。ファブリツィオはファブリツィオで有頂大の喜びに酔いしれながら旅をしたが、この喜び方は叔母には滑稽なものに思えた。彼はもうじきクレリアに会えると期待していたのだ。結婚を解消させる方法がほかになかったら、たとえ彼女の意志にそむいても彼女を誘拐するつもりだった。
公爵夫人とその甥の旅はまことに陽気だった。パルマの手前の駅でファブリツィオはしばらく馬車を止め、聖職者の服にあらためた。いつもは服喪中の俗人のような服を着ていたのである。彼が公爵夫人の部屋にもどると、
「伯爵の手紙には何かうさんくさい不可解なところがあると思うのよ」と夫人は彼に言った。「私の言うことを信じてもらえるなら、ここで数時間過ごしてちょうだい。あの偉大な大臣と話をしたら早速あなたに飛脚をよこすから」
ファブリツィオは堪えがたい思いでこの理にかなった意見に従った。伯爵が公爵夫人を迎えたときは十五歳の少年にもふさわしい有頂天ぶりだった。夫人のことを自分の妻と呼んでいるのだ。長いこと彼は政治のことなど語ろうとしなかったが、ようやく辛気《しんき》臭い議論がはじまった。
「ファブリツィオが公然と乗り込んで来ないようにしたのはよかったのだ。こちらはいま反動の最中なんだ。大公が司法大臣という形で私の同僚にしてしまったのが誰だか、まあ一つ当ててみてごらんなさい! ラッシですよ。あの大事件の日私が乞食扱いしてやったラッシなんだ。実際あいつは乞食ですからね。ところで、ことわっておきますが、今まで起こったことはすべてここでは抹殺されています。こちらの新聞を見ればわかるだろうが、バルボーネなる城砦書記は馬車から落っこちて死んだことになっている。庭園の大公の像を襲ったときに私が銃殺させた六十何名かのごろつきは、今もぴんぴんしていて、ただ旅行しているにすぎない。内務大臣ツルラ伯爵はみずからこの不幸な英雄たちの家を一軒々々訪れて、その家族あるいは友だちに十五ツェキーノずつ渡し、故人は旅行中だと言えと命令した。殺されたなどと言おうものなら牢屋だぞとおどしつけてね。私自身の所管の外務省からも一人、ミラノとトリーノの新聞記者たちへの工作に出され、|この不幸な事件《ヽヽヽヽヽヽヽ》について語らせないようにしています。この不幸な事件というのが今では慣用語になっているんでしてね。この男がさらにパリとロンドンまで足を伸ばし、わが国の騒乱についてのすべての噂をあらゆる新聞で半ば公式的に否定することになっています。もう一人の工作者がボローニャおよびフィレンツェヘむかった。私は馬鹿々々しいと肩をすくめて見せてやりましたがね。
しかしこの年になっておかしなことは、近衛の兵士たちに話しかけたりP……将軍の肩章をむしりとったりするときにちょっと熱狂的な気分になったことです。この瞬間には私は大公のために躊躇なく命を投げ出したでしょう。そんなのは馬鹿な死に方だということを今では私も認める。今となれば大公は、いかにも善良な青年ではあるが、私を病死させるためなら百エキュぐらい出すでしょう。まだ私の辞表を求めることまではしませんが、二人で話すことはできるだけすくなくしている。そして私のほうは、ファブリツィオの投獄後ずっと故大公に対してしていたように、大量のこまかい報告を書面で送っているんです。ところで、ファブリツィオに対する判決文を私はまだ反故《ほご》にしていない。その理由は簡単で、あのラッシの悪党が私に判決文を渡さなかったからです。だからあの子が正式にここへ乗りこまないようにしたのは大変よかった。判決は依然有効ですからね。といって、ラッシが今日われわれの甥ファブリツィオを逮捕するなどという大胆な真似をするとは私は考えないが、二週間後になればそうするかもしれない。もしファブリツィオがどうあっても町へ帰りたいというんなら、私の家に泊まればいい」
「でも、どうしてそんなことになったの?」と公爵夫人は驚いて叫んだ。
「私が独裁者、救国者のようにふるまっている、そして大公を子供みたいに引きまわそうと思っていると大公に思い込ませたものがいるんだ。それどころか、大公のことを言うとき私が(あの子《ヽ》)という禁句を使った、と。それは事実かもしれない、あの日私は昂奮していましたから。たとえば、私はあの人は偉人だと思った、生まれてはじめて聞いた銃声のなかであまり恐怖を感じていなかったからです。決して才智も欠けていないし、それどころか父君よりも上品です。とにかく、これは何度くりかえしてもくりかえしすぎることにならないが、心根は誠実で善良なのです。ところがこの真摯で若々しい心は、何か悪ふざけがなされたなどという話を聞くとたちまちきゅっとちぢまってしまって、そういうことを見抜くために自分自身よほど陰険でなければならんなどと思いこむ。これまでどんな教育を受けて来たか考えてごらんなさい!……」
「閣下はいつかその人が主君になるのだと考えて、才智ある人間をそばにつけておくべきだったのですわ」
「第一にコンディヤック師の前例があります。コンディヤックは前任者フェリーノ侯爵に呼ばれて来たんだが、教え子を馬鹿者どもの王に仕立てたにすぎない。この王は祭礼の行列に加わったりしたが、一七九六年にはボナパルト将軍と交渉することができなかったのですからね。ボナパルトは彼の所領を三倍にもひろげてくれたかもしれないのに。第二に、私は十年間大臣の位にとどまれるとは決して思わなかった。すべての幻想を失った今、といってもそれはこの一か月のことですがね、私が救ってやったこのてんやわんやの国をほったらかして行く前に百万ほど稼いでやりたいと私は思っている。私がいなければパルマが二か月で共和国になっていたろう、詩人フェランテ・パッラを独裁者にいただいてね」
この言葉を聞いて公爵夫人の顔は赤くなった。伯爵は何も知らなかったのだ。
「この国は十八世紀の普通の君主制に舞いもどるでしょう、聴罪師と情人の国に。結局のところ大公が愛しているのは鉱物学と、おそらくあなただけでしょう。私は最近彼の侍僕の兄弟を九か月の勤務だけで大尉にしてやったんだが、大公が即位して以来この侍僕は、あなたの横顔が金貨に刻まれることになるのだからあなたはほかの君主より幸福でなければならんと大公に吹きこんでいたんです。こいつはすばらしいことだが、その後で退屈がやって来た。
今ではこの退屈をまぎらしてくれる幕僚が必要だ。ところで、ナポリなりパリなりで安穏《あんのん》に暮らすため私たちに必要な例の百万フランをくれると言われたって、私は大公のこの退屈をまぎらす道具にされて、毎日四時間か五時間殿下のお相手をする気はない。それにまた、私のほうが大公よりも頭がいいから、一月《ひとつき》もすれば大公は私のことを怪物のように思うでしょう。
故大公は根性曲がりで嫉《そね》み深かったが、実戦に出て部隊を指揮したことがあり、おかげでちゃんとしたところもあった。あの人には大公たるの器量が見られたし、私もよかれあしかれ大臣でいられた。この無邪気でほんとに善良な息子のほうは誠実の士だから、この人と一緒では私はどうしても策士でなければならん。これでは私も宮廷でも下《げ》の下《げ》の下女風情と競り合わねばならない。それもてんでこちらのほうが負けです。私のほうは注意しなければならぬいろんなこまかなことを無視するでしょうからね。
これまであの人は、三日つづけて一つの意志を持ちとおすことなど絶対にできなかった。もし財産のある何がし侯爵などという身分に生まれていたとすれば、この若い大公は宮廷で最も尊敬すべき人間の一人、ルイ十六世のような人物だったろう。しかしあんな信心深い素朴さでは、周囲をとりまく巧妙な術策にどのようにして抵抗して行けますか? だからあなたの敵ラヴェルシのサロンはかつてなかったほど勢力をふるっている。このサロンの連中は、民衆にむかって発砲させ、自分の主君だった大公の像を侮辱させるくらいなら必要とあれば三千人を殺戮《さつりく》しようと決意していたこの私が、実は熱狂的な自由主義者であり、憲法に調印させようとしているのがわかったとか、そういった種類の愚にもつかぬことをいろいろと言っている。こういう共和主義的言辞であの気ちがいどもはわれわれが最も優れた君主制を享受することを妨げるのですよ……。とにかく、私の敵どもが私をその党首の位置にまつりあげてくれた現在の自由党のなかで、大公に悪く言われていない唯一の人物は、夫人、あなたなんですよ。大司教は依然として申し分なく誠実な人なんだが、私があの|不幸な日《ヽヽヽヽ》にしたことについて道理にかなった物の言い方をしたがために御不興を蒙ってしまいました。
暴動が起こったことが真実とされていた頃にはその日はまだ|不幸な日《ヽヽヽヽ》とは呼ばれていなかったが、その日の翌日大公は大司教にむかって、あなたが私と結婚して爵位が落ちるようなことがないように、私を公爵にするなどと言っていたそうです。今は私は、今度は伯爵になるのは故大公の秘密を売ったときに私が貴族にしてやったあのラッシの奴だと思っている。こんな昇進などがおこなわれたら私こそいい面の皮ですよ」
「そうなれば気の毒に大公自身も泥にまみれてしまうでしょう」
「そうかもしれない。しかし何と言っても彼は主君ですからね。この肩書があれば二週間足らずで嘲笑を拭い去ってしまえます。だから、公爵夫人、西洋双六の|でん《ヽヽ》で行こうじゃありませんか。|降りちまいましょう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「でも私たち、あまり豊かにはなれないわね」
「結局のところ、あなたにしても私にしても贅沢《ぜいたく》は必要としていない。ナポリでサン・カルロ座の桟敷と馬が一頭あれば私はもう大満足ですよ。あなたや私の地位を決定するものは贅沢の多いすくないじゃない。この国の才人たちがあなたのところへお茶を飲みに来て楽しめるか楽しめないかですよ」
「でも、今後はあなたにそうしてもらいたいと思いますけれど、あの|不幸な日《ヽヽヽヽ》にもしあなたが超然たる態度を取っていたとしたら、どういうことになったでしょうね?」
「軍隊は民衆と手を結び、三日ほど虐殺や火事がつづき(というのは、共和制が馬鹿げた話でなくなるにはこの国では百年かかるでしょうから)、次いで二週間ほど掠奪がおこなわれ、最後に外国の提供した二、三個連隊によって鎮圧されるでしょう。フェランテ・パッラは例によって勇気|凛凛《りんりん》として猛り立ちながら民衆のただなかにいた。おそらく彼と肚《はら》を合わせて行動している味方が十数人いたのでしょう。こうなりゃラッシはすばらしい謀叛に仕立て上げて見せますよ。確実なことは、ものすごいぼろぼろの服を着ていながらパッラがふんだんに金貨をばらまいていたということです」
こうしたニュースに驚嘆しながら公爵夫人は急いで大公妃にお礼を言上しに行った。
彼女が部屋にはいろうとしたとき、化粧係の女官が小さな金の鍵を彼女に渡した。これは帯にぶらさげるもので、宮殿内の大公妃に属する区域では最高の権威を示すものである。クララ・パオリーナは急いで皆の者を部屋からさがらせた。そして友だちと二人だけになっても、しばらくのあいだはあまりはっきりとした意見を述べまいとする。公爵夫人はこれがどういうことなのかあまりよくわからず、ごく控え目な返事しかしなかった。しまいに大公妃は泣き出して、公爵夫人の腕のなかに身を投げて叫んだ。
「私の受難の時代がまたはじまります。息子は父親よりももっと私を虐待するでしょう!」
「そんなことは私がさせません」と公爵夫人は語気を強めて答えた。「しかし何よりも、妃殿下には私の感謝と深い敬意をお受けくださるようお願い申し上げねばなりません」
「それはどういうことです?」と、不安に襲われ、辞職されるのではないかと惧《おそ》れながら大公妃は叫んだ。
「あのマントルピースの上に陶器製の人形がございますが、人形のぶるぶる顫《ふる》えているあの顎《あご》を右へ私がまわしますときには、歯に衣《きぬ》をきせずに物を言うことをお許しくださいまし」
「ただそれだけのことですか、公爵夫人」と叫んでクララ・パオリーナは立ち上がり、みずから陶器人形のところへ駈けて行って顎をまわした。「それじゃあ何でも思ったように話してください」と言った大公妃の声は魅力的だった。
「殿下、殿下は事態をよくごらんになりましたでしょう。殿下も私も非常な危険にさらされております。ファブリツィオに対する判決も全然取り消されてはおりません。ですから、私をかたづけ殿下を侮辱しようという気を起こせばあの子はまた牢に入れられるでしょう。私たちの立場はこれまでなかったほど悪くなっているのでございます。私自身のことを申しますと、私は伯爵と結婚し、二人でナポリかパリに居を定めるつもりです。最近伯爵は恩知らずな真似をされて、もうすっかり国務に厭気がさしており、妃殿下のおんためということがございませんでしたら私も、大公がよほど莫大な金額を下さるのでもないかぎりこんな難局のなかにとどまるように伯爵に勧めるわけにはまいりません。あえて言わせていただきますと、伯爵は国務を見るようになったとき十三万フラン持っていましたが、現在二万フランの年収があるかないかなのでございます。もうずっと前から私は自分の財産のことを考えるようにと伯爵に申してまいりましたが、あの人は聞きませんでした。私の留守のあいだ伯爵は公国の徴税請負人どもに喧嘩を吹っかけましたが、この連中はぺてん師だったのでございます。伯爵がこの連中の後釜に加えた別のぺてん師どもは、伯爵に八十万フラン持って来たそうでございます」
「何ですって!」と大公妃は驚いて叫んだ。「まあ、何ということでしょう! 実に不愉快な!」
公爵夫人はきわめて冷静に答えた。
「陶製人形の鼻を左へまわさねばなりませんでしょうか?」
「いいえ、とんでもない。でも伯爵のような方がそんな種類の金儲けを考えたなどということが私には不愉快で」
「そういう盗みをしなかったために、伯爵はすべての正直な人々から軽蔑されたのです」
「まあ、そんなことがあり得るでしょうか?」
「私の親しくしているクレッシェンツィ侯爵は三、四十万フランの年収がありますが、この人を除いてこの国では誰もが盗みを働いております。それにしても、いかに大きな功績を挙げたところでそれに対して感謝されるのは一月《ひとつき》にも満たないような国で、どうして盗みを働かずにいられましょうか? そうなれば、お金以外にしっかり手ごたえのあるもの、失寵の後にも頼りになるものはないではございませんか。失礼ながら恐ろしい真実をこれからお耳に入れようと存じますが」
「かまいませんよ、私は」と大公妃は深い溜息とともに言った。「それでもやはり私にとってはおそろしく不愉快なことです」
「それでは申し上げます。御令息の大公は申し分なく正直なお方でいらっしゃいますが、お父君よりはるかにあなたを不幸になさるかもしれません。故大公はまずまず人並みの意志の強さを持っていらっしゃいました。現在の御主君は三日つづけて同じことを望まれるかどうか疑わしいほどでこざいます。ですからあの方のことで心配せずにすましたいと思えば、しょっちゅうあの方と一緒にいて、ほかの人間とは話をさせないようにしなければなりません。この事実は容易に見て取ることができますから、ラッシとラヴェルシ侯爵夫人という如才のない二人が率いている新しい極右政党は、大公に寵妾をお持たせするようにこれから努めますでしょう。この寵妾は一財産作ることも、いくつかの下っぱの地位を斡旋することも詐されるでしょうが、党に対しては主君の意志が常に変わらぬようにするという責任を負わねばならないでしょう。
私としましては、殿下の宮廷で安心してお勤めしていられるためには、ラッシが追放されやっつけられることが必要でございます。さらにファブリツィオができるだけ誠実な裁判官によって裁かれることを私は望みます。その裁判官諸公が私の希望するとおりファブリツィオは無罪だと認めてくれれば、将来その地位を継ぐものとしてファブリツィオを大司教補佐とすることを大司教に許すことは当然でございましょう。これに失敗しましたら、伯爵と私は隠退いたします。そこで、おいとま申し上げるに当たって次のようなことを殿下に申し上げておきたいと存じます。ラッシを許さないこと、御子息の領国から決して出ないこと。おそばにいらっしゃいましたらあの善良な御子息は殿下にあまりひどいことはなさらないでしょうから」
「あなたのお考えは充分注意して聞いておりましたが」と大公妃は微笑して答えた。「それでは私が自分で息子に寵妾を見つけてやらねばならないのですか?」
「そうではございません。まず第一に、殿下のサロンでなければあの方が楽しめぬようにしてごらんくださいまし」
会話はこの調子で際限もなくつづき、無邪気で聡明な大公妃は目から鱗が落ちる思いがした。
公爵夫人の飛脚がファブリツィオに、隠密になら町にはいってもいいと知らせに行った。彼に気づいた人はほとんどいなかった。彼は城砦の入り口の真向かいの、散歩道の並木の下の焼栗売りの木造の小屋のなかで百姓に身をやつして暮らした。
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第二十四章
公爵夫人は宮殿で楽しい夜会をもよおしたが、この宮殿でこれほどのにぎやかさが見られたことはかつてなかった。この冬ほど彼女が愛想がよかったこともかつてなかった。しかも彼女は極度の危険のなかで生きていたのである。しかしまた、この危機的な期間のあいだは彼女がファブリツィオの異様な変わり方をある程度以上に不幸な気持ちで考えることはまずなかった。若い大公は母のもよおす愉快な夜会に非常に早くからやって来た。母親はいつも大公に言う。
「さあ、行って政務を見なさい。諾否の返事を待っている報告書が二十通以上もあなたのデスクの上にたまっているにちがいありません。私はあなたに代わって自分が統治するためにあなたをぐうたらな国王にしたとヨーロッパじゅうから非難されたくないのですよ」
この意見はあいにくと、一番具合の悪いとき、つまり殿下がはにかみを乗り越えて、ジェスチュア遊びに仲間入りしたときに言われるのだ。この遊びは彼には非常に楽しかったのである。週に二度野遊びがおこなわれ、新君主に人民の人気があつまるようにという口実で大公妃は市民階級の選り抜きの美人たちをこれに参加させた。この陽気な宮廷の中心人物となっていた大公妃は、例外なく町人ラッシの栄達を非常な羨望の目で見ているこの町人の美女たちが、この大臣のやってのけた無数の悪事の一つでも大公に言いつけはすまいかと思っていた。実は大公はいろいろ子供っぽい考えを持っていたが、その中に一つ|道徳的な《ヽヽヽヽ》内閣を持つということがあったのである。
ラッシは自分の敵である公爵夫人の切りまわしている大公妃の宮廷のこうした華やかな夜会が自分にとってどれほど危険なものかを感づかないほど鈍感ではなかった。彼はこれまでファブリツィオに対する法律上全然文句のない判決文をモスカ伯爵に渡そうとしなかった。だから公爵夫人と彼のうちどちらかが宮廷から消えねばならなかった。
今ではそんなものはなかったとするのが上品なことだとされているあの暴動の日、民衆に金をばらまいたものがいた。ラッシはまずそこに手をつけた。いつもよりももっと悪い身なりをして彼は町の最も貧乏な家々にはいりこみ、貧しい住人たちと何時間にもわたって規則的に話し合った。この労苦は充分報われた。こういう風にして二週間ほど暮らしたあげく彼は、フェランテ・パッラが暴動の隠れた首謀者であり、それのみかいかにも大詩人にふさわしく生涯を通じて貧乏だったこの男がジェノヴァでダイアモンドを十個ばかり売り払ったという確証を得たのだ。
とりわけ問題になったのは、事実四万フラン以上の値打があるという高価な石で、これは大公の死の十日前に、金が必要だとかいう理由で三万五千フランで手放されているのである。
この発見によって司法大臣が味わった有頂天の喜びようは筆舌につくせない。毎日大公妃の宮廷で自分が物笑いの種とされていることに彼は気がついていたし、大公は何度か彼と政務を論じながら若者らしい無邪気さをまるだしにして彼を笑い飛ばしたものだ。ラッシが妙に平民的な習慣を持っていたことは認めねばならない。たとえば、議論に興が乗ると彼は両脚を組み、靴を手で持つ。ますます興が募ると、赤い木綿のハンカチを片方の脚の上にひろげる、などといった始末だ。大公は町人階級の最上の美人の一人がして見せたいたずらで大笑いしたことがあったが、実は自分の脚がとても形がいいことをよく承知の上でこの美人は、司法大臣のこの優雅な身振りの真似をして見せたのであった。
ラッシは特別の謁見を願い出て大公に言った。
「お父君がどのような理由でなくなったかをはっきりと知るために、殿下は十万フランお出しになりますでしょうか? それだけ出しますれば、犯人がいたとすれば当局はその犯人を検挙することもできましょうが」
大公の答がきっぱりしたものでないはずはなかった。
それからしばらくしてチェキーナが公爵夫人に、御主人のダイアモンドを金細工師に調べさせてくれれば莫大な金額を提供すると言われたと告げた。チェキーナは憤然として拒絶したという。公爵夫人は拒絶したことを叱った。それから一週間後、チェキーナはこれを見せろと言われてダイアモンドを受け取った。このダイアモンドを見せる日に、モスカ伯爵はパルマの金細工師の一人々々に信用できる部下を二人張りこませたが、真夜中ごろ伯爵は公爵夫人のところへ来て、物ずきなその金細工師はほかならぬラッシの兄弟だったと告げた。夫人はこの夜は非常に陽気だったが(宮殿でコンメディア・デッラルテが演じられたのだ、これは劇の筋書だけが舞台裏に貼り出されていて、せりふは登場人物めいめいが即興的に考えて言うものである)、ある役を演じた公爵夫人は芝居のなかでバルディ伯爵を恋人にしたのだ。これはラヴェルシ侯爵夫人の昔の情人で、ラヴェルシ夫人もこれに出演していた。パルマ領内で一番内気な人間だが、大変な美青年で、しかもきわめて愛情深い心の持主である大公は、バルディ伯爵の役柄を研究していて、今度上演するときには自分がそれを演じたいと思っていた。
「あまり時間がないの」と公爵夫人は伯爵に言った。「第二幕の第一場に出るんです。衛兵の間に行きましょう」
その部屋の、一人残らず興味をかきたてられて総理大臣と女官長の話に耳をそばだてている二十名もの衛兵のまんなかで、公爵夫人は笑いながら愛人に言った。
「私が用もないのに秘密を口にするとあなたはいつも小言をおっしゃるわね。エルネスト五世が即位できたのは私のおかげですよ。ファブリツィオのために復讐するつもりだったんです。当時私は今よりもずっとあの子を愛していたのよ、ただしいつもごく無邪気な愛し方だけれど。無邪気といってもあなたがあまり信じてくれないことはよくわかっているけれども、そんなことは大したことではないわ。だってあなたは私が罪を犯しても愛してくださいますもの。ところで、これは本当の犯罪なの。私はフェランテ・パッラというとても面白い気ちがいみたいな人物に自分のダイヤを全部与えたばかりか、接吻までしてやったのよ、ファブリツィオを毒殺しようとした男を殺させるために。どこに悪いところがあって?」
「ははあ、騒動を起こすための金はそこから出ていたのか!」と、伯爵は少々度肝を抜かれて言った。「しかしそんなことを衛兵の間で私に言うなんて!」
「急いでいるからよ。それに、もうラッシは手がかりをつかんでいるわ。実は私は暴動などということは一度も言わなかったのよ。過激派《ジャコバン》なんて大嫌いですからね。よく考えてみて、芝居の後であなたの意見をおっしゃってちょうだい」
「今すぐ言いますよ、大公に恋心を起こさせなければならない……。が、もちろん節度は失わないようにしてです、せめて!」
公爵夫人は出番だといって呼ばれ、出て行った。
数日後公爵夫人は、彼女自身の昔の侍女の署名のある大きな奇妙な手紙を郵便で受け取った。宮廷でお勤めさせていただきたいと言っていたが、公爵夫人は一目で筆跡も文章もその女のものではないとわかった。次のぺージを読もうとして用箋を開くと、古い本から破り取った紙に包んでたたんだ、すばらしい小さな聖母像が夫人の足もとに落ちた。その像にちらっと目をやってから公爵夫人はふるい印刷された文面を数行読んだ。彼女の目はかがやいた。そこにはこういう言葉があった。
護民官は月に百フラン以上受け取りませんでした。残りの金を使って、利己主義でこりかたまっている魂のなかに神聖な炎をかきたてようとしました。狐が私の後を追っています。私が最も愛する人に最後の面会をしようとしないのはそのためなのです。私は自分に言いました。あの人は共和制を愛していない、あの人は優雅さや美しさと同じく才智でもおれより優れているのに、と。それにまた、共和主義者なしでどうして共和国を作れましょう? これは私の間違いでしょうか? 半年後には私は顕微鏡を手にして徒歩でアメリカの小さな町々を歩きまわり、私の心のなかであなたと競り合っている唯一のものであるこの共和制という恋人をなお愛さねばならぬかどうかを検討してみるでしょう。男爵夫人、この手紙をお受け取りになり、そしてまた他の汚らわしい目があなたより前にこれを読んでいなかったとすれば、私がはじめてあなたに思い切って言葉をかけた場所から二十歩ほどのところに植わっている秦皮《とねりこ》の若木を一本、人をやって折らせてください。そうしたら私は、私が幸福だったころ一度あなたが目を止められた庭の大きな柘植《つげ》の木の下に小さな箱を埋めさせます。そのなかには私のような思想を持った人々に対する非難を招くような物がはいっているでしょう。もちろん私は、狐が私の後をつけておらず、あの天使のような方にまで爪を伸ばすおそれがなかったとすれば、手紙を書くことなどは慎んだでしょう。二週間後にあの柘植を見ること。
(あの人の註文に応じる印刷屋がいるんだから、やがてあの人のソネット集が出るだろう。そのなかで私は何という名で呼ばれているだろうか!)と夫人は思った。
公爵夫人はコケットリーから一つ試してみたくなった。一週間彼女は健康をそこね、宮廷の楽しい夜会は中断された。大公妃は息子に対する恐怖のあまり夫が死んだばかりの頃いろいろ心にもないことをさせられたのを怨みに思い、この一週間は故大公の埋葬されている教会に隣接する修道院に行って過ごした。こうして夜会が中断されたおかげで大公はすっかり手持ち無沙汰になってしまい、司法大臣の信用はすっかり落ちてしまった。公爵夫人が宮廷を去るか、そうでないまでも彼女が宮廷に喜びをひろめることをやめると、どんな退屈に見舞われるかということがエルネスト五世にはよくわかった。夜会がまたはじまり、大公はますますコンメディア・デッラルテに興味を示した。彼は何か一つ役を演じてみたかったが、この希望を公言する勇気がなかった。ある夜彼はひどく顔を赤らめて公爵夫人に言った。
「私だって出演してもいいじゃないか」
「私どもはみな殿下の御命令には従います。殿下がお命じくださいますなら芝居の筋書をしかるべく作らせましょう。殿下の役が引き立つ場面はすべて私がお相手をつとめます。そして最初のうちは誰も少々へどもどするものでございますから、殿下が私のほうをちょっと御注視くださいましたら、言うべきせりふをお教えいたしましょう」
万事は上々に取り決められた。ひどく内気な大公も自分が内気なことを恥ずかしく思ったほどだ。この生まれつきの内気さを傷つけないように公爵夫人がいろいろと配慮してくれたことは、若い君主に深い感銘を与えた。
初舞台の日には芝居はいつもよりも三十分早くはじまり、皆が舞台となっている広間に移ったときにはサロンには八、九人の年輩の婦人しか残らなかった。こういう顔ぶれでは大公はほとんど気おくれも感じないし、それにまたミュンヘンで本物の君主主義のもとで躾《しつ》けられて来たこの御婦人方はしょっちゅう拍手した。女官長の権威に物を言わせて公爵夫人は、一般の廷臣が舞台の広間にはいって来る扉に鍵をかけてしまった。文学的《ヽヽヽ》な才能もあれば美貌でもある大公は、はじめの数場面をみごとにやってのけた。公爵夫人が目で教えたり小声で言ったりするせりふを彼は要領よくしゃべって見せた。数すくない観客が力一杯拍手をはじめたときに公爵夫人がちょっと合図した。と、正面の扉が開かれ、舞台のある広間はたちまちのうちに宮廷の美女たちで埋まった。彼女たちは大公がなかなか魅力的な顔をし、いかにも幸福そうにしているのを見て拍手しはじめた。大公は嬉しさに顔を赤らめた。彼は公爵夫人に恋する男の役を演じていたのだ。大公にせりふを教えるどころか、やがて夫人は場面を早く切り上げるように仕向けねばならなくなった。しばしば相手方が閉口してしまうような熱をこめて大公は恋を語るのだ。彼のせりふは五分もつづく。公爵夫人にはもはや前年のようなまばゆいばかりの美貌はなかった。ファブリツィオの投獄、いやそれ以上に、陰気くさく寡黙になったファブリツィオを相手にしてのマッジョーレ湖畔の滞在のため、美しいジーナは十《とお》も老《ふ》けてしまっていた。顔立ちもやつれ、才智は増したが若さは衰えていた。
最初のころのような快活さはもはやほんの稀にしかこの顔立ちは示さなかった。しかし舞台の上では、紅《べに》だのその他さまざまの舞台芸術の手段だので身をよそおうと、彼女はまだ宮廷第一の美女だった。大公の唱える情熱的な長いせりふを聞いて廷臣たちははっとした。皆がこの夜言っていた。
「これが新治世のバルビ夫人だ」と。
伯爵は、心中おだやかでなかった。芝居が終わると公爵夫人は皆の前で大公に言った。
「殿下はお上手すぎます。三十八歳の女に恋をしていらっしゃると皆は言い出しますでしょう。そうなると伯爵との結婚も流れてしまいます。ですから私は、たとえばラヴェルシ侯爵夫人のような年輩の婦人に対してされるように口を利くとお約束くださらぬかぎり、今後もう殿下とはお芝居をいたしません」
同じ芝居が三度もくりかえされた。大公は幸福に酔いしれていた。しかしある夜、彼はひどく屈託ありげに見えた。
「私がひどく思い違いしているのでないかぎり、ラッシは私たちに対して何かたくらんでおります」と公爵夫人は大公妃に言った。「明日また芝居をするようにおっしゃったらいかがでございましょう。大公はうまく演じられず、そして絶望のあまり何か殿下におっしゃるかもしれません」
事実大公の演技はひどいものだった。ほとんど声が聞こえないし、どこでせりふを切ったらいいのかわからない。第一幕の終わりではもう泣き出しそうになっていた。公爵夫人はそばにいたが、ひややかな顔で身動きもしない。大公は楽屋で束の間、夫人と二人だけになると扉をしめに行った。
「二幕と三幕はどうしても演じられない。お追従で拍手されるのは絶対にいやだ。今夜の拍手には私は胸を抉《えぐ》られるような気がする。教えてください、どうすればいいんです?」
「私が舞台に進み出て、殿下に、それから観衆に深々とお辞儀します、本物の芝居の座頭がするように。そして、レリオの役を演じていた役者が急に気分が悪くなったので、芝居は何曲か音楽をやっておしまいにすると申しましょう。ルスカ伯爵とギゾルフィの娘さんは、こんな立派な方々の前できんきん声を聞かせることができるので大満悦でしよう」
大公は公爵夫人の手を取り、夢中になって接吻した。
「どうしてあなたは男でないのだろう、立派な助言をしてくださるだろうに。ラッシが私の机の上に、父の暗殺者なるものについての供述書を百八十二通も置いて行ったのです。供述のほかに二百ページ以上の告発状もある。これらすべてを読まねばならない。その上、これについて伯爵には何も言わないと約束してしまったのだ。こうなればどうしても罰を下さねばならぬという結果になる。すでにラッシは、私が非常に感服しているあの大詩人フェランテ・パッラをフランスのアンチーブのそばで引っ捕えて来させるようにと言っている。ポンセという名でそこにいるそうです」
「殿下が自由主義者を一人絞首させたその日から、ラッシは鉄の鎖で内閣に結ばれてしまいますし、それこそあの男の何より望んでいることなのでございます。しかしそうなれば、殿下は散歩なさるとき二時間前に予告なさることなどはもうおできにならないでしょう。今殿下の胸から洩れた苦痛の叫びのことは大公妃にも伯爵にも申しますまい。しかし私は誓いを立てて大公妃には決して秘密を持てないことになっておりますので、今私に対してお洩らしになったことを殿下御自身からお母上におおせくださいますなら私は嬉しゅうございます」
芝居に|とちった《ヽヽヽヽ》悲しみに怏々《おうおう》としていた君主はこの思いつきに心を慰められた。
「よろしい、それでは母に伝えて来てください。私は母の居間へ行きます」
大公は楽屋を出、舞台へ通ずるサロンを横切り、ついて来る侍従長と当直の武官を厳しい顔で追い払った。大公妃のほうはあわただしく芝居の部屋を出た。居間にはいると女官長は母親と息子にうやうやしくお辞儀をして引き取った。宮廷がざわめきたったことは言うまでもない。こうしたことこそ宮廷の面白いところなのだ。一時間後大公自身が居間の戸口に出て来て公爵夫人を呼んだ。大公妃は泣いており、息子の顔つきは一変していた。
(気弱な人間が腹を立て、誰かにむかって鬱憤をはらす口実をさがしているのだ)と女官長は思った。はじめ母と子は先を争って委細を公爵夫人に語ろうとしたが、夫人は返事をせず、どんな考えも口に出さぬように気をつけていた。このやりきれぬ二時間のあいだ、退屈な芝居の三人の俳優はそれぞれの役割から出ようとしなかった。大公はラッシが彼の机の上に置いて行った二つの大きな書類入れを自分で取りに行った。母の居間から出ると廷臣一同が待ちかまえている。
「行きなさい、私の邪魔をしないでほしい!」と、これまで一度もなかったようなひどく無作法な口調で彼は叫んだ。
大公は自分が二つの書類入れを持っているところを見られたくなかった。大公というものは何も持ってはならないのだ。廷臣たちはあっという間に姿を消した。大公がもどって来たときには蝋燭を消している数人の侍僕しかもういなかった。彼はその侍僕たちをも、愚かにも仕事熱心なために残っていた当直の武官のフォンタナ将軍をも憤然として追い出した。
「今夜は皆が私を怒らせようとしている」と、居間に帰ると大公は不機嫌に公爵夫人に言った。
彼は夫人が才智に富んでいると思っていたので、彼女が自分の意見を開陳しまいとあきらかに意地を張っていることに憤慨していた。夫人のほうは、はっきりと意見を求められないかぎり何も言うまいと決意していたのだ。さらにたっぷり三十分もたってから、自分の威厳ということにこだわっていた大公はようやく意を決して夫人に言った。
「公爵夫人、あなたは何もおっしゃらないが」
「私は大公妃にお仕えするためにここにおります。私の前で言われたことはできるだけ早く忘れてしまわねばなりません」
「いや、公爵夫人」と大公は真赤になって言った。「意見を言うように私は命令します」
「罪を罰するのは、それがくりかえされないためでございます。故大公は毒殺されたのでございましょうか? そのこと自体大変疑わしいのです。事実だとすれば、過激派に毒殺されたのでしょうか? それこそラッシが証明しようとしていることでございます。なぜならば、そうなれば彼は殿下にとって永久に必要な手先となりますから。その場合には、御治世をはじめられたばかりの殿下は今後何度も、この夜のような経験をなさることになりましょう。殿下の臣民はみな、殿下は善良な性格の方だと申しておりますし、それはまったく事実でございます。自由主義者を絞首させるようなことがないかぎり、このような声望はつづきますでしょうし、もちろん誰一人として殿下に毒を盛ろうなどとは思いますまい」
「あなたの結論ははっきりしています」と大公妃は不機嫌に叫んだ。「私の夫の暗殺者をあなたは罰したくないのですね!」
「外見上、私はその人々と心からの友情を結んでいるからでございます」
公爵夫人は大公の目を見て、自分に何かの行動指針を無理にでも選ばせようという点では彼もその母親とまったく同意見であることを悟った。二人の女性のあいだには辛辣なやり取りがかなりの速さで交わされ、そのあげく公爵夫人は自分はもう一言もいわないと断言し、事実そのとおり口を閉ざしてしまった。しかし大公は母親と長いこと話し合ってからまた夫人に意見を言えと命じた。
「決して申し上げないと先ほど申したではありませんか!」
「これじゃまるっきり子供みたいだ」」と大公は叫んだ。
「お願いです、公爵夫人、おっしゃってください」と大公妃は威厳をもって言った。
「それはどうか御免こうむらせていただきます。けれども殿下は」と公爵夫人は大公のほうにむかつて、「フランス語を立派に読みこなされます。私たちの昂奮をしずめるため、ラ・フォンテーヌの寓話を一つ私たちに読んでくださいませんか」
大公妃はこの|私たち《ヽヽヽ》という言葉ははなはだ無礼だと思ったが、女官長がきわめて冷静に書棚に行ってラ・フォンテーヌの『寓話集』を持って来たときには、驚きと興味しか見せなかった。夫人はしばらくページをめくって、それから本を差し出しながら大公に言った。
「この寓話を全部《ヽヽ》お読みくださいますよう」
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庭づくりと殿さま
小金をためた百姓どん
庭づくりが道楽で
なかなかきれいな庭園と
それにつらなる菜園の持主。
生垣《いけがき》めぐらすその地所には
酢模《すかんぽ》や萵苣《ちしゃ》がみごとに伸びて
マルゴの誕生日の花束には事欠かぬ。
スペイン・ジャスミンはなくても麝香草はいっぱい。
さてこの楽園を荒らすのは一匹の兎、
恐れながらと百姓どん御領主さまへと訴える。
にっくき獣《けもの》め、朝な夕な
庭を食い荒して罠など尻目
石を投げ棒ふりまわしても涼しい顔。
「魔法つかいでさあね」
「魔法使が何だ、
たとい魔性《ましょう》なりとわが犬ミローは
いくら逃げまわっても牙にかけて見しょうぞ。
わが命にかけて退治して見せん」と殿のおことば。
「いつのことで?」
「されば早速明日にも」と
話きまって殿さま郎党率いて御出陣。
「腹がへっては戦はできぬ、おまえの鶏、肉はうまいか」
腹を満たして猟人一同
てんやわんやでお支度召される、
ラッパ・角笛耳をつんざき
お百姓どん胆がつぶれる。
それはまだしも野菜畑は
見るも無慙《むざん》なていたらく。
花壇菜園どこかへ消えて
苣玉葱《ちしゃたまねぎ》もどこへやら、
スープの実すらあればこそ。
「こりゃ殿さまのお遊びだ」と
嘆いてみてもはじまらぬ。
犬と人の狼籍は一時間でも
国じゅうの兎が百年かけるより
荒らし方はまだひどい。
さて小国の殿様方よ、揉め事はどうかお内輪で。
王威に訴えるなどは愚の骨頂《こっちょう》
戦争に王さまを引っぱりこむな
領地に王さまを引き入れ召さるな。
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この朗読のあと長い沈黙がつづいた。大公は自分で本をもとにもどしに行ってから部屋のなかを歩きまわっていた。
「さあ、それでは話してくださるわね」と大公妃は言った。
「いいえ、大臣に任じてくださらぬかぎり駄目でございます。ここでいろいろ申し上げましたら、女官長の職を棒に振りかねません」
たっぷり十五分もまた沈黙がつづいた。しまいに大公妃はルイ十三世の母マリ・ド・メディシスがかつて演じた役割を思い出した。それまで毎日女官長はバザン氏の名著『ルイ十三世の歴史』を朗読係の侍女に読ませていたのである。大公妃はひどく腹を立てていたけれど、公爵夫人が宮廷を去ることも大いにあり得ることだし、そうなれば彼女の恐れてやまぬラッシがリシュリューの真似をして、息子をそそのかして自分を追放させるかもしれぬと考えた。このとき大公妃は女官長をはずかしめることができるならどんなことでもしただろう。しかしそれはできぬ相談だった。大公妃は立ち上がり、少々不自然な微笑をうかべて公爵夫人の手を握り、こう言った。
「さあ、公爵夫人、友情のあかしとして何か言ってください」
「それではごく簡単に申し上げましょう。あの腹黒いラッシの集めた書類を残らずその暖炉で燃やしてしまい、そしてラッシには燃やしたなどと一言もいわないことです」
それから声を落として親しげに大公妃の耳にささやいた。
「ラッシはリシュリューになるかもしれません!」
「いや、とんでもない! この書類は私にとって八万フラン以上にもついたんだ!」と大公は腹を立てて叫んだ。
公爵夫人は決然として言い返した。
「殿下、卑しい素姓の悪党をお使いになるからそのように高くつくのです。百万フラン棒に振ろうと、御治世の最後の六年間お父君に枕を高くして眠らせなかった卑しい素姓の悪者どもなどを信用遊ばされぬほうがよろしゅうございます」
この|卑しい素姓《ヽヽヽヽヽ》という言葉は大公妃にはいたく気に入った。彼女は伯爵とその愛人がもっぱら理智のみを専重しすぎると思っていたのだ。理智などというものは常に過激思想《ジャコビニスム》の親戚みたいなものではないか。
大公妃はあれこれと思いをめぐらし、しばらく深い沈黙がつづくうちに、城の時計が三時を打った。大公妃は立ち上がり、息子に深く頭を下げてこう言った。
「これ以上議論をつづけることは私の健康が許しません。|卑しい素姓《ヽヽヽヽヽ》の大臣などはもう決して作らぬことです。憚《はばか》りながら私には、諜報費としてあなたに出させたお金の半分をラッシが着服しているという疑いを拭いきれませんよ」
大公妃は燭台から蝋燭を二本取って、火が消えないようにして暖炉のなかに立てた。それから息子のほうに行って彼女はつづけた。
「ラ・フォンテーヌの寓話は、夫の仇を討ちたいという当然の願いを私の心から追い出してしまいました。この|書きもの《ヽヽヽヽ》を焼くことを許してくださいますか?」
大公は身じろぎもしなかった。
(ほんとに間の抜けた顔をしている)と公爵夫人は思った。(伯爵が言ったのは正しかった。故大公ならば決断を下すのに朝の三時まで人を待たしておくことはしなかったろう)
大公妃はずっと立ちつづけたまま言った。
「あのつまらぬ検事は、嘘で固めた、しかも昇進目あてででっち上げたこんな反故《ほご》のために、この国の最高位のものが二人も徹夜したと知ったら随分得意になるでしょうね」
大公は狂ったように書類入れの一つに飛びかかり、その中身を煖炉のなかにぶちまけた。紙がかさばったので二本の蝋燭はもうすこしで消えるところだった。部屋に煙がたちこめた。大公妃は息子の目を見て、水差しをひっつかんで八万フランかかったこの書類を救い出そうという気持ちが動いているのを悟った。
「なぜ窓をあけないんです!」と彼女は腹立たしげに公爵夫人に叫んだ。
公爵夫人は急いで窓をあけた。たちまち紙はすべてぱっと燃え上がった。煖炉のなかで大きな音がし、間もなく火がまわったことはあきらかになった。
大公は金銭に関することなら、何につけてもこせこせしていた。彼は宮殿が炎上し、中にあるすべての富が烏有《うゆう》に帰したような気がした。窓に駈けより、おろおろした声で衛兵を呼んだ。兵隊が大公の声を聞いてどやどやと中庭に駈けこんで来ると、大公は煖炉のそばにもどった。煖炉は実際恐ろしくなるほどの音を立てて開いた窓から空気を吸いこんでいた。彼はやきもきし、罵り、逆上したもののように部屋のなかを二度か三度まわり、そうして遂に駈け出して行った。
大公妃と女官長は向かい合って一語も発しないまま立っていた。
(また怒りがぶりかえすのだろうか?)と公爵夫人は思った。(しかし何と言ってもこちらの勝ちだ)そして何か言われたら思い切り図太く答えてやろうと覚悟していたときに、ふとあることに思い当たった。もう一つの書類入れがそのままになっているのを見たのだ。(いや、勝負はまだ半分だ!)彼女はかなり冷やかな顔で大公妃に言った。
「残りの紙は私が焼きましょうか?」
「どこで焼くのです?」と大公妃は不機嫌に言った。
「サロンの煖炉で。一枚ずつ投げこめば危険はございません」
公爵夫人は書類の詰まった書類入れを小脇にかかえ、一本の蝋燭を取って隣のサロンに行った。この書類入れには供述書がはいっているのをゆっくりと確かめた上で、そのうち五つか六つを肩掛けのなかに入れ、残りは入念に燃やして、大公妃に暇《いとま》も告げずに姿を消してしまった。
(まったく失礼なことをしてしまった)と彼女は笑いながら言った。(でも大公妃は痛手の癒えぬ未亡人を気取って、私を絞首台で殺させかねないところだったもの)
公爵夫人の馬車の音を聞きながら大公妃は公爵夫人に対して煮えくりかえるような怒りをおぼえた。
妙な時刻だったにもかかわらず公爵夫人は伯爵を呼びよせた。彼は城の火事に駈けつけていたが、間もなく万事おさまったという知らせを持ってやって来た。
「あの大公はほんとに勇敢なところを示したので、私もさかんに褒めてやりましたよ」
「この供述書を急いで調べてちょうだい。そしてできるだけ早く焼き捨てましょう」
伯爵はそれを読んで顔色を変えた。
「なるほど、大分真実に迫っている。この記録は非常にうまくできている。フェランテ・パッラについての手がかりも完全につかんでいる。もし彼がしゃべったら私たちはとんだ目に遭いますよ」
「でも、しゃべりはしませんわ」と公爵夫人は叫んだ。「信義を守る男です、あの男は。焼きましょう。焼きましょう」
「焼くのはまだだ。十四、五人の危険な証人の名を控えさせてください。ラッシがまた調べようとしたら、思い切ってこの連中を匿してしまいましょう」
「おことわりしておきますが、大公は今夜の一件については司法大臣に何も言わないと約束したんですよ」
「臆病だし、喧嘩になるのがこわいからその約束は守るでしょう」
「ところで、あなた、今夜のことで私たちの結婚は随分早められたわね。持参金として刑事訴訟記録などというものをあなたのところに持ちこむ気はなかったのに。しかも、ほかの男に対する好意から私の犯した犯罪についての記録を」
伯爵は恋をしていた。夫人の手を取って彼は感嘆の声を上げた。目に涙をうかべていた。
「帰る前に、大公妃に対してどんな態度を取るべきか言ってくださらない? 私はもうくたくたなの。一時間舞台でお芝居をやり、それから居間で五時間お芝居をしたんですもの」
「大公妃がちょっと辛辣なことを言ったのは気の弱さにすぎないんだが、それに対しては物も言わずに出て来たことで充分腹いせしたわけです。明日はまた今朝と同じ態度に出なさい。ラッシの奴はまだ投獄も追放もされていないし、ファブリツィオに対する判決文はまだ破棄されていないんですから。
あなたは大公妃に一つの決断を要求したのだが、そういうことをされると大公、いや総理大臣ですらかならず腹を立てるものだ。とにかくあなたはあの人の女官長、つまり女中なんです。弱い人間にはかならずある揺れ戻しで、三日もすればラッシがこれまでなかったほどちやほやされるだろう。奴は誰かを絞首させようとするだろう。大公をまきぞえにしてしまわないかぎりあいつは全然安心できませんからね。
今夜の火事で負傷者が一人出た。この男は洋服屋で、実際のところ非常な勇気を示しました。明日私は大公を誘って、私と腕を組んで洋服屋を見舞に行かせるつもりです。私は充分武装して周囲に目をくばって行くつもりですがね。それにこの若い大公はまだ憎まれていない。私としては大公に町を散歩する習慣をつけさせてやりたい。これはラッシヘのあてつけですよ。奴はきっと私の後釜にすわるだろうが、こんな無鉄砲なことは許せやしませんからね。洋服屋から帰るときに父君の像の前を通らせてやる。馬鹿な彫像師が着せたローマ風の袴が投石で|かけ《ヽヽ》ているのに大公は気づくでしょう。それを見て、(過激派《ジャコバン》を絞首させたりするとこんな目に遭うんだ)と自分で反省しなかったら、あの大公もよほど抜けているということになる。それに対して私はこう答えてやりましょう。『一万人絞首するか、一人も絞首しないかです、サン・バルテルミの事件はフランスの新教徒を絶滅したのです』と。
明日私が散歩に出る前に、大公に面会を求めてこうお言いなさい。『昨夜私は殿下の大臣の役をつとめ、御助言を申し上げました。そして殿下の御命令によって大公妃の御不興を買いました。その埋合せをつけていただかねばなりません』と。金をねだられるのだと思って大公は顔をしかめるでしょう。できるだけ長いことその憂鬱な考えにひたらせておくのです。それからこう言ってやる。『お願いでございます、ファブリツィオが御領内の最も尊敬されている裁判官十二人によって|対審の形式で《ヽヽヽヽヽヽ》(ということはファブリツィオ自身も出席するということです)裁かれるようにしてくださいまし』と。そしてただちに、あなたのその美しい手で書いた短い勅令《ちょくれい》に署名を求めるのです。勅令のほうはこれから私が口授します。最初の判決は破棄されるという一条はもちろん入れますよ。これについては難点は一つしかない。しかしあなたがてきぱきと事を運んだら大公はそんなことに思いいたらないでしょう。『ファブリツィオが城砦に自首しなくちゃならない』と大公は言うかもしれん。それに対してはこう答えなさい。『市の牢獄に自首します』と(ごぞんじのとおり市の獄は私の管下だ。毎夜|甥御《おいご》さんはあなたに会いに行きますよ)。『いや、彼の脱獄のおかげで私の城砦の名誉は傷つけられた。形式だけでも彼が以前いた監房に帰ってもらいたいのだ』と大公が言ったら、あなたのほうは『いいえ、駄目です。そんなことをしたら私の敵ラッシの思うままにされてしまいますから』と答えるのです。そうして、あなたのお手のもののあの女らしい殺し文句を使って、ラッシの心を飜えさせるためなら今夜の焚書《ヽヽ》のことを言いつけることだってできると仄《ほの》めかしてやるんですな。それでも相手が頑張ったら、二週間ほどサッカの城に行って来ると言いなさい。
これからファブリツィオを呼んで、また入獄という結果にならぬともかぎらぬこのいきさつについて相談しなさい。取越し皆労をすれば、ファブリツィオが入獄中に待ち切れなくなったラッシが私を毒殺したとすれば、ファブリツィオは危険な目に遭うかもしれない。しかしまあそんなことはないでしょう。ごぞんじのとおり私はフランスの料理人を雇っているが、これはおよそ陽気な男で、酒落ばかり言っている。ところで、酒落と暗殺とは両立しないものですからね。ファブリツィオにはすでに言っておいたが、彼の勇敢な働きの証人はすべて見つけてある。もちろんジレッティのほうが彼を殺そうとしたんだ。この証人のことをあなたに話しておかなかったのは、あなたを驚かせようと思ったからなんです。しかしこの計画は失敗しました。大公は署名しようとしないんだ。私はファブリツィオに、かならず宗門の高い地位につけて上げるが、敵対する連中がローマの教皇庁で殺人だの何だのって言い出したら私も苦労するだろうと言っておきました。
厳粛をきわめた裁きを受けなければ、一生ジレッティの名がファブリツィオには不愉快なものとしてついてまわることはあなたにもわかるでしょう。自分が無罪だと確信があるというのに、裁きを受けないのはひどい臆病というものでしょう。それにまた、たとい有罪だったとしても私が無罪にさせますよ。私が話してやったとき、あの血の気の多い青年は私に皆まで言わせず、官公吏名簿を持ち出した。そして二人で最も清廉で最も学識のある裁判官を十二人選んだのです。名簿ができると、そのなかの六人の名を消して、かわりに私の個人的な敵である六人の法律家を挙げようとしたが、敵は二人しか見つからないので、ラッシに心服している四人の悪党を加えましたがね」
伯爵のこの提案に公爵夫人は恐ろしく不安になったが、それも理由のないことではない。結局彼女も理性に従い、判事を任命する勅書を大臣の口述で書いた。
伯爵は午前六時まで彼女のそばを離れなかった。彼女は眠ろうとしてみたが、とても眠れない。九時に彼女はファブリツィオと一緒に食事をしたが、彼女の見るところファブリツィオは裁きを受けることを熱望しているらしかった。十時に大公妃のところに行ったが、大公妃は一向に顔を見せない。十一時に朝の引見をしている大公に会い、大公は全然文句を言わずに勅令に署名した。侯爵夫人は勅令を伯爵に送り、床についた。
この朝大公の署名した勅令にその大公の前で伯爵が副署させたときの、ラッシの憤懣ぶりを語ったら多分おもしろいだろう。しかし事件は次々に起こってわれわれを追い立てる。
伯爵は各裁判官の長所短所を論じ、何人かの名を替えることを提案した。しかし読者はおそらくこのような裁判の細部だの、同じくまたこうした宮廷の陰謀などにはもう少々退屈しておられるだろう。とにかくここから次のような教訓が出て来る。宮廷に近づく人間は、もし幸福ならばその幸福を失いかねないし、いずれにしても一人の侍女の策謀によってその前途を決定される、と。
他方また共和国アメリカでは、一日じゅう本気で町の小商人《こあきんど》どもの御機嫌を取り結び、彼らと同じくらい馬鹿にならねばならぬ。しかもアメリカにはオペラがない。
公爵夫人は夕方起き出すと、一瞬激しい不安を感じた。ファブリツィオが見当たらないのだ。とうとう真夜中ごろ、宮廷で芝居が演じられているときに彼の手紙を受け取った。伯爵の管轄下にある|市の監獄に《ヽヽヽヽヽ》自首して出ずに、城砦の昔の監房に帰って行ったのだ、クレリアの身近で暮らせるという幸福に酔いしれて。
(私が署名させたあの忌わしい書類のおかげであの子は殺されてしまう! 男ってものは名誉のことを言い出すと気ちがいだ! 絶対主義政権のなかで、ラッシみたいな男が司法大臣になっている国のなかで名誉なんてものを考える必要がどこにある! 大公はあの特別法廷の召集の勅書とまったく同じくらい簡単に特赦状にも署名してくれたろうから、何のかんのと言わず特赦状をもらうことにすべきだった。結局のところ、ファブリツィオほどの家柄のものがジレッティのような大道芸人を剣を手にして自分で殺したなどといって少々非難されたところで、一体何だというのだ!)
ファブリツィオの手紙を受け取るや否や公爵夫人は伯爵の家に駈けつけたが、伯爵は真蒼な顔をしていた。
「困りましたな! あの坊ちゃんのことでは私は|へま《ヽヽ》ばかりしている。そしてまたあなたは私を怨むだろう。昨夜市の監獄の獄吏を私が呼びよせたことは証明することだってできますよ。あそこに行っていれば甥御《おいご》さんは毎日あなたの家にお茶を飲みに行けるはずだったんだ。恐ろしいのは、毒殺のおそれがある、ラッシが毒を盛るかもしれないなどと、あなたなり私なりが大公に言うわけに行かないことです。そんな疑いは大公には不道徳きわまることと思われるでしょうからね。けれども、あなたが要求するなら私は宮殿に伺候してもいいと思っています。しかしどんな返事が与えられるかはもうわかっていますよ。いや、もっと言いましょうか。実は私は、自分自身のためなら決して取らないようなある方法をあなたに提案したい。この国で権力を握って以来私はただ一人の人間も殺したことはない。しかもあなたもごぞんじのようにその方面では私はひどく初心《うぶ》で、時々日暮れ時などに、自分がスペインで少々軽率に銃殺させてしまったあの二人のスパイのことをまだ思い出すほどなんです。ところでだ、あのラッシの奴を私がかたづけてしまいましょうか? あいつのおかげでファブリツィオが直面している危険は絶大なものだ。それによって奴は私を追っぱらう確実な手段を握っているわけです」
この提案は公爵夫人には非常に気に入ったが、彼女は賛成しなかった。
「二人で隠退した後、ナポリの美しい空の下であなたにふさぎこまれるなんて私はいやですわ」
「けれども、私たちにはふさぎこむほうを取る以外に方法はないと思うんですがね。ファブリツィオが病気で死んだらあなたはどうなります、私自身どうなります?」
この計画に関して議論はますます白熱したが、公爵夫人は次のような言葉でこれを打ち切った。
「ラッシが命拾いしたのは、私がファブリツィオよりもあなたのほうを愛していたおかげだということになるわ。いいえ、私はこれから二人で過ごす老後の生活の夜の時間を台なしにしたくはありません」
公爵夫人は城砦に駈けつけた。ファビオ・コンティ将軍は軍の法規のはっきりした条文を夫人につきつけて見せることができて大満悦だった。大公の署名のある命令書なしには何ぴとも国事犯監獄にはいることはできないというのである。
「だってクレッシェンツィ侯爵と楽士たちは毎日城砦に来ているじゃありませんか」
「私が彼らのために大公の命令書をいただいてあるからです」
気の毒な公爵夫人は自分がどこまで不幸なのかをまだ知りつくしていなかったのだ。ファビオ・コンティ将軍はファブリツィオの脱獄によって自分自身の顔に泥を塗られたと思っていた。ファブリツィオが城砦にやって来たとき、将軍は彼を入れてはならなかったのだ。それについては何の命令も受けていなかったからである。(しかし天がこいつをわしのところへ送ってくれたのだ)と彼は思った。(わしの名誉を回復し、軍人としての経歴に傷をつけかねない世間の嘲笑を免れさせてくれるために。どうあってもこの機会を逃してはならない。どうせこの男は無罪とされるだろうから、復讐するならほんの数日の余裕しかない)
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第二十五章
われらの主人公の帰って来たことはクレリアを絶望におとしいれた。敬虔で自分自身に対して誠実なこの哀れな娘は、ファブリツィオから離れては決して自分に幸幅はないという事実に目を蔽うことはできなかった。しかし彼女は父が毒殺みたいな目に遭ったとき、父のために身を犠牲にしてクレッシェンツィ侯爵と結婚すると聖母に誓いを立てていた。二度とファブリツィオに会わないと誓いを立てていた。すでに彼女は、脱獄の前夜ファブリツィオにあてて書いた手紙のなかでつい自分の本心を打ち明けてしまったことで身を切られるような後悔に責められていたのだ。暗澹たる心で飼鳥の舞うのを眺めているうち、かつてファブリツィオが自分をみつめていたあの窓のほうへ習慣的に愛情のこもった目を上げて、やさしい敬意をこめて自分に会釈するその彼をふたたびそこに認めたときの、この陰鬱な心のうちをどのように描いたものだろう。
これは天が自分を罰するために見せた幻影だと彼女は思った。やがて恐ろしい現実が彼女の理性の前にあらわれて来た。(また逮捕されたのだ、もうおしまいだ!)脱獄の後、城砦内でどんなことが言われていたかを彼女は思い出した。一番下っぱの獄吏でさえ一生拭えぬ辱しめを受けたと思いこんでいたのだ。クレリアはファブリツィオをみつめた。心ならずもその視線には、彼女を絶望におとしいれている情熱がはっきりとあらわれていた。
彼女はファブリツィオにむかってこう言っているように見えた。
(私のために用意されているあの豪華な邸宅のなかで私が幸福を見いだせるとあなたは思っていらっしゃるの? あなたは私たちと同じくらい貧しいのだと父は耳に胼胝《たこ》ができるほどくりかえしました。でも、ああ、その貧しさなら私はどんなに喜んで分ち合えるでしょう! でも、ああ、私たちは決して会ってはならないのよ)
クレリアはもうアルファベットを使う元気もなかった。ファブリツィオを見ているうちに彼女は気が遠くなって、窓のそばの椅子の上に倒れた。頭は窓の台にのっていた。最後まで彼を見ようとしていたので、その顔はファブリツィオのほうを向いており、ファブリツィオにははっきりと見えた。しばらくして目を開くと、彼女が最初に見ようとしたのはファブリツィオだった。彼女は相手の目のなかに涙を見た。しかしこの涙は極度の幸福のためだった。自分がいなかったのに彼女が自分を忘れていないことを彼は知った。哀れな若い二人はしばらくのあいだ魅せられたようにたがいにみつめあっていた。まるでギターで弾き語りしているような調子でファブリツィオは即興的な文句を歌い出した。自分が獄にもどって来たのはあなたに再会するためだ、もうじき裁判がおこなわれるという意味の文句だった。
この言葉を聞くとクレリアは女としての義務を思い出したらしい。さっと立ち上がり、目を蔽い、自分はもう決してあなたに会ってはならないのだということをきわめて激しい身ぶりで彼に告げようとした。自分はそれを聖母に約束していたのだが、今はついうっかりして彼を見たのだ、と。ファブリツィオがなおも愛情を表明しようとするので、クレリアは憤然とし、もう決して彼を見まいと、心に誓いながら逃げ出した。というのは、「私の目はもう二度とファブリツィオを見ません」というはっきりとした言葉で彼女は聖母に誓いを立てていたからだ。彼女はそれを小さな紙に書き、叔父のチェーザレはミサの奉献のときに彼女が祭壇でその紙を焼くのを許してくれた。
だがこうした誓約にもかかわらず、ファブリツィオがファルネーゼ塔に帰って来ると、クレリアはすっかり以前と同じ行動をするようになってしまった。いつもは彼女は自分の部屋で一日じゅう一人ぽっちで暮らしていた。ファブリツィオを見たことでかきたてられた思いがけぬ心の動揺がしずまるや否や、彼女は邸宅のなかを歩きまわりはじめ、そしていわば下々《しもじも》の連中と旧交をあたためはじめた。台所で働いているひどくおしゃべりな老婆が曰くありげな顔で彼女に言った。
「今度はファブリツィオの殿さまも城砦から出られませんよ」
「城壁を越えて逃げ出すような悪いことはもうなさらないでしょう」とクレリアは言った。「無罪になったら大手を振って門から出て行かれるわ」
「足のほうを前にしてでなければ〔担架で死人を運び出すときには、足のほうを前にする〕あの方は城砦を出られないと申しているんでございますよ。またそう申す理由もあるんで」
クレリアは真蒼になったが、これは老婆の目につき、老姿はぴたりとおしゃべりをやめた。長官の娘の前でこんなことを言うのは軽はずみだったと老婆は思った。長官の娘としてはファブリツィオは病死したと誰に対しても言わねばならないのだ。自分の部屋にもどるときクレリアは獄医に逢った。これはまあ気の小さな正直な男だが、ファブリツィオが病気だとおろおろした顔で彼女に言った。クレリアはほとんど立っていられなかった。叔父の善良なドン・チェーザレ師をそこらじゅうさがしまわって、やっと礼拝所で熱心に祈っているのを見つけた。彼も取り乱した顔つきをしていた。晩餐のベルが鳴った。食卓でも兄弟は一言も言葉を交わさなかった。食事の終わる頃になってやっと将軍はひどく辛辣な言葉をいくつか弟に放った。弟は召使のほうへ目をやり、召使は退出した。
「将軍」とドン・チェーザレは長官に言った。「おことわりしておきますが、私はこの城砦を去ります。辞表を提出しますよ」
「結構、大変結構だ! わしに嫌疑をかけさせるためか!……で、おうかがいしたいが、その理由は?」
「私の良心です」
「ふん、おまえは坊主にすぎん! 名誉というものがどういうものか全然わかっていない」
(ファブリツィオは死んだのだ)とクレリアは思った。(夕食に毒を盛ったか、あるいは明日毒を盛るのだ)彼女は鳥部屋に駈けつけた。ピアノの伴奏で歌うつもりだった。(後で告解をしよう。一人の人間の命を救うために誓いを破ったことは許してもらえるだろう)鳥部屋に着いて、あの日よけのかわりに鉄格子に板がはめられているのを見たときの彼女の驚愕はいかばかりだったろうか! 思い乱れながら彼女は、歌うというよりも叫ぶような言葉で囚人に警告を与えようとしてみた。何らの答もなかった。死のような沈黙がすでにファルネーゼ塔を蔽っていた。(もうおしまいだ)と彼女は思った。我を忘れて下に降りたが、わずかばかりのお金とダイアモンドの小さなイアリングを取りに引き返した。食器棚に入れてある晩餐の残りのパンをも通りがかりに持ち出した。(まだ命があったら、私の義務はあの人を救うことだ)彼女は塔の入口にむかって昂然として進んだ。その入口は開かれていた。階下の列柱の間に八人の兵士が配されたばかりだった。彼女は大胆にこの兵士たちへ目をやった。クレリアは彼らを指揮しているはずの軍曹に言葉をかけるつもりでいたが、その男はいなかった。一本の柱に螺旋形にまきついている小さな階段にクレリアは駈けこんだ。兵士たちはすっかりあっけにとられた様子で彼女を見送ったが、彼女のレースの肩掛けと帽子を見たせいか何も言おうとしなかった。二階には誰もいなかった。三階へ来てみると、読者は御記憶かもしれないが、ファブリツィオの房へ通じている三つの鉄格子の扉でふさがれた廊下の入口に、彼女の知らない看守がいた。看守はぎょっとした顔で言った。
「まだ食事をしていません」
「そんなことはわかっています」とクレリアは高飛車に言った。
男は彼女を引き止めようとしなかった。二十歩ほど先の、ファブリツィオの房に通ずる最初の六段の階段にもう一人高齢の真赤な顔をした看守が腰かけていて、きっぱりと彼女にこう言った。
「お嬢さま、長官の命令をお持ちですか?」
「私を知らないのですか?」
クレリアはこのとき超自然的な力に動かされており、我を忘れていた。(私は自分の夫を救うのだ)と彼女は心に言った。
老看守が「ですが私は職務上……」などと叫んでいるあいだにクレリアはさっと六段を駈け上った。扉に飛びつく。大きな鍵がかかっている。その鍵をまわすのに全身の力が必要だった。ちょうどこのときほろ酔いの老看守が彼女の服の裾をつかんだ。彼女はさっと部屋にはいり、服がやぶれるのもかまわず扉をしめ、看守が後を追ってはいろうと押して来るので、手もとにあった掛金をかけた。部屋のなかを見ると、ファブリツィオが食事をのせたいやに小さなテーブルの前に坐っている。そのテーブルに駈けよってひっくりかえし、ファブリツィオの腕をつかんで言った。
「食べた?」
この親しい言い方がファブリツィオを恍惚とさせた。不安のあまりクレリアははじめて女のつつしみを忘れ、恋する心を見せたのだ。
ファブリツィオはこの命取りの食事をはじめようとしていたところだった。彼はクレリアを両腕に抱き取って接吻で蔽った。(この夕食には毒がはいっているんだな。まだ手をつけてないと言ったら、また信仰心がのさばり出してクレリアは逃げ出すだろう。反対におれが死にかけていると見たら、ずっとおれのそばにいることを承知してくれるだろう。彼女はいやでたまらない結婚を解消する方法を何としても見つけたいと思っているのだが、偶然がそれをわれわれに提供してくれた。獄吏どもは集まって扉を叩きやぶるだろう。こうなりゃ大変な醜聞で、クレッシェンツィ侯爵は多分恐れをなし、結婚は破談だろう)
こうした考えをめぐらしていたためにちょっと沈黙しているうちにもファブリツィオは、早くもクレリアが彼の抱擁から抜け出ようとしているのを感じた。
「苦痛はまだ全然感じないんだが、間もなくあなたの足もとに打ち倒されるだろう。臨終をみとってくれたまえ」と彼は言った。
「おお、私のたった一人のお友だち! 私あなたと一緒に死ぬわ」
彼女は痙攣的に衝《つ》き動かされるように彼を両腕に抱きしめた。
彼女はあまりにも美しく、服は乱れ、情熱に狂っていたので、ファブリツィオはほとんど意図もしなかった行動につい出てしまった。それに対する抵抗は全然なかった。
この上ない幸福につづく情熱と大らかな気持ちとの高まりのなかで彼はうっかり彼女に言ってしまった。
「僕たちの幸福のはじまりをつまらない嘘で汚してはならない。君の勇気がなかったら今頃僕は屍体になっているか、凄まじい苦痛に悶えているところだ。だが、実は君がはいって来たとき僕は食事をはじめようとしていたところで、皿には全然手をつけていなかったんだ」
クレリアの目にすでに怒りの色があらわれているのを見て、それを拭い去ろうとしてファブリツィオはいろいろと恐ろしい場面を描いて見せた。相反する二つの激しい感情に引き裂かれながら彼女はファブリツィオをみつめ、それから彼のふところのなかに飛びこんだ。廊下で大きな音がしていた。三つの鉄扉《てっぴ》を乱暴にあけたりしめたりしている。わめくようにしゃべっている。
「ああ、武器があったら!」とファブリツィオは叫んだ。「ここに入れてもらうときに取り上げられたのだ。きっと奴らは僕にとどめを刺そうとして来たのだ! さようなら、クレリア、この死が幸福へのきっかけになった以上、僕はこの死を喜んで迎える」
クレリアは彼に接吻し、象牙の柄のついた小さな短刀を彼に渡した。刃の長さはほとんどナイフぐらいしかない。
「むざむざ殺されないで」と彼女は言った。「最後の瞬間まで身を守るのよ。叔父の神父は勇気も節操もある人だから、物音を聞いたらあなたを助けてくれるわ。私があの連中に話しに行きます」
こう言うなり彼女は扉のほうへ駈け寄った。
扉の掛金に手をかけ、顔をファブリツィオのほうへ向けて彼女は昂奮して言った。
「殺されなかったら、食べ物に手をつけるよりむしろ餓死しなさい。このパンをいつも持っているのよ」
音は近づいた。ファブリツィオは彼女の胴をつかみ、扉のそばに身構えると、猛然とその扉をあけて六段の木の階段へ飛び出した。彼は象牙の柄の小さな短刀を握っており、大公の武官フォンタナ将軍のチョッキをもうすこしで突き刺すところだった。将軍は怯え上がって叫びながらさっとあとずさった。
「私はあなたを救いに来たんですよ、デル・ドンゴさん」
ファブリツィオは階段を引き返して部屋のなかにむかって言った。
「フォンタナが僕を救いに来た」
それから木の階段の上にいる将軍のところへもどると、冷静に彼にむかって釈明した。いきなり怒り出してしまったことを彼は長々と詫びた。
「私を毒殺しようとしたんです。私の前にあるあの夕食には毒が盛られています。それと悟って手をつけなかったが、正直なところこんなやりかたには腹が立ちましたよ。あなたが上がって来る音を聞いて、短剣でとどめを刺しに来たのだと思ったんです……。閣下、誰もこの監房にはいらぬように命じてくださいませんか。毒を取り除いてしまうでしょうから。大公には何もかも知っていただかねばなりません」
将軍は蒼白になり茫然自失して、ファブリツィオの求めた命令を自分について来た上級の獄吏たちに伝えた。この連中は毒を見破られたと聞くと周章狼狽して急いで降りて行った。おもてむきはこんな狭い階段で大公の武官の邪魔をしてはと思って先に降りて行ったように見えたが、実際は早く逃げ出して姿をくらましたかったのだ。フォンタナ将軍にとってこれは大きな驚きだったが、ファブリツィオは一階の柱にまきつけられた鉄の小階段で十五分たっぷりもぐずぐずしていた。クレリアが二階に身をひそめる時間を稼ごうとしたのだ。
実は公爵夫人がいろいろと狂わしい奔走のあげく、ようやくフォンタナ将軍を城砦に派遣することにしてもらったのである。彼女がこれに成功したのは偶然にすぎない。彼女自身と同じくらい不安になっているモスカ伯爵と別れて彼女は宮殿に駈けつけた。エネルギーというものを俗悪なものと見てこれに著しい嫌悪を抱いている大公妃は彼女が狂ったと思い、彼女のために何か普通ではない手を打ってくれるような気持ちは全然ないとしか見えなかった。公爵夫人は身も世もなく熱い涙にくれ、ひっきりなしにこう言うほかになすところを知らなかった。
「でも、大公妃さま、十五分もすればファブリツィオは毒殺されています!」
大公妃がおちつきはらっているのを見て、公爵夫人は苦痛のあまり正気を失った。個人の良心を認める北方の宗教で育てられた女性ならば決して免れられないあの道徳的反省というものを彼女は全然しなかった。(私が最初に毒を使ったのだから、自分も毒で身を滅ぼすのだ)などとは思わない。イタリアでは情念に駆られているときにこの種の反省をするのは、パリで同様な場合に駄酒落を飛ばすのと同じくごく下らぬ人間のすることだと見られる。
絶望にくれた公爵夫人はこの日出仕しているクレッシェンツィ侯爵が控えているサロンに思い切ってはいって行った。公爵夫人がパルマに帰ったとき、彼は夫人がいなければとても望めるはずのなかった侍従の地位を得たことについて心から彼女に礼を言った。夫人のためなら犬馬の労も厭《いと》わないとまで彼は言ったものだ。公爵夫人は次のような言葉で彼に話しかけた。
「ラッシは城砦にいるファブリツィオを毒殺させようとしています。チョコレートと水の壜をお渡ししますから、それをポケットに入れて城砦へ行ってください。ファビオ・コンティ将軍にむかって、この水とチョコレートを自分でファブリツィオに渡すことを許してくれなければ娘さんとのことは破談にするとあなたが言ってくだされば、私の命は救われるのです」
侯爵は顔色を変えた。彼の顔つきはこの言葉によって勇み立つどころか、まことにもって味気ない困惑の色をうかべた。パルマのように道徳的で、これほど偉大な大公の君臨している……等々の町で、そんな恐ろしい犯罪がおこなわれるとは信じられないと言う。しかもそういう月並な文句をいやにゆっくりと言うのだ。要するに公爵夫人が見いだしたのは、正直な、しかしおよそこの上なく無気力で行動への決断を下し得ない男にすぎなかった。いきりたった公爵夫人の叫び声で中断されながら同じような文句をくどくどとくりかえしたあげく、彼はすばらしいことを思いついた。侍従としておこなっている宣誓の手前、反政府的な策動に加わるわけには行かないというのだ。
時間が矢のように過ぎて行くのを感じている公爵夫人の不安と絶望は想像にかたくあるまい。
「でもせめて長官に会ってください。ファブリッィオを殺したら地獄までその人間の後を追って行くと私が言っていると言ってやってください!……」
絶望が公爵夫人の生まれつきの雄弁に油を注いだが、こうした熱気は侯爵をますます怯えさせ、その逡巡を増大させるだけだった。一時間の後には彼は最初のときよりも行動に出る気持ちをなくしていた。
ぎりぎりの絶望にまで追いつめられたこの不幸な女は、これほど金持の婿にむかっては長官も何一つ拒否できないと思って、しまいに彼の足もとにひざまずくことまでした。そうなるとクレッシェンツィ侯爵は今までにもまして臆病になるように見えた。こんな異様な場面を見ると、それと知らずにとんでもないことにまきこまれてしまったのではないかと彼自身不安なのだ。だが奇妙なことが起こった。根が善人の侯爵は、こんなに美しい、しかも何より権勢家の女が涙にくれて自分の足もとにこのような恰好でいることに心を動かされた。
(おれ自身だっていくら身分が高くいくら金持だろうと、いつか共和派の人間の膝にすがることがあるかもしれないのだ!)と彼は思った。侯爵は泣き出した。結局、公爵夫人が女官長という資格で彼を大公妃のところへ連れて行き、小さな籠を一つファブリツィオに渡すことについての許可を大公妃からもらうことにすると話がきまった。籠に何がはいっているかは彼は知らぬと言うことにする。
その前夜、公爵夫人がファブリツィオの城砦に行くなどという気ちがい沙汰を知る前のことだが、宮廷ではコンメディア・デッラルテが演じられた。そしていつも公爵夫人相手の恋人の役を独占していた大公は、夫人に愛を語るとき滑稽に見えるまでに情熱的だった。ただし、イタリアで情熱に悩む男とか大公とかというものが滑稽と見られるとすればの話だが!
大変内気なくせに色恋に関することとなるといつも大まじめに考えてしまう大公は、城の廊下の一つで公爵夫人に出逢った。夫人はすっかり困惑しているクレッシェンツィ侯爵を大公妃のところへ引っぱって行くところだった。絶望のあまり女官長は上気した美しさを見せていたが、大公はそれに驚かされ、すっかり心を奪われて、生まれてはじめて果断なところを見せた。猛烈に高飛車な身ぶりで彼は侯爵を追い返し、まったく紋切り型の愛の口説を公爵夫人にむかってはじめた。大公はおそらくずっと前からこの文句を考えておいたのだろう。なかなか理窟にかなっているところもあった。
「私のような地位にあるものとしては外聞もありますから、あなたと結婚するという最高の幸福にはあずかれません。だから私は、あなたの書面による許可なしには決してほかのものと結婚しないと聖体にかけて誓います。もちろん」と彼はつけくわえた。「このためあなたが非常に愛すべき才人である総理大臣と結婚できなくなるということはよくわかっています。しかし何と言ってもあの人は五十六歳ですが、私のほうはまだ二十二歳です。愛情と関係のない利点などを持ち出せばあなたを侮辱し、あなたにはねつけられてもやむを得ないということになりましょう。しかしこの宮廷で金銭に執着するものはすべて、伯爵があなたに対する愛情のあかしにあなたに自分の全財産をまかせたことを感嘆をこめて噂している。この点で伯爵の真似ができれば私はしあわせです。あなたは私よりも上手に私の財産を使ってくださるでしょう。毎年内閣が宮内長官に渡す金はすべてあなたが自由にしてください。そうなれば毎月私の使う金額は、公爵夫人、あなたがきめることになるのです」
公爵夫人はこんなこまかな話はくだくだしいと思った。ファブリツィオの危険が彼女の心を抉《えぐ》っていたのだ。彼女は叫んだ。
「ですが、殿下はごぞんじないのですか、今この瞬間にファブリツィオが城砦で毒殺されかかっていることを! あの子を救ってください! すべて信じますから」
この言い方はまったく拙劣だった。毒という一言だけで、この哀れな道徳的な大公がこの会話のなかで示していた気安さ、誠実さのすべてが一瞬のうちに消えてしまった。もはや取り返しのつけようもないときになってはじめて公爵夫人はこの拙劣さに気がついた。彼女の絶望はますます深まった、これ以上の絶望などはあり得ないと思っていたのに。(毒なんてことを言い出さなかったらファブリツィオを釈放することに同意してくれたろう。おお、ファブリツィオ、それでは馬鹿げたことをやってあなたを無慙に苦しめるのが私の運命だったのか!)
大公にまた先ほどのような情熱的な言葉を語らせるためには時間をかけてコケットリーをふりまかねばならなかった。しかし大公はもう疑い深くなってしまっていた。しゃべっているのは頭だけで、心のほうは冷え切ってしまっていた。第一に毒ということがあるが、さらにまた、毒というものが恐ろしいのと同じ程度に不愉快な別の考えがうかぶ。(この国で毒を盛るとは、しかも私に何も言わないで! それではラッシはヨーロッパ諸国の前で私を辱しめようとするのだ! 来月パリで新聞にどんなことが書き立てられるか知れたものじゃない!)
突然この臆病な青年の心の声は黙《もだ》し、ある考えが頭にひらめいた。
「公爵夫人! 私があなたにひかれていることはおわかりでしょう。毒のことをあれこれ考えられても、そんなことは事実無根です。私はそう思いたい。しかしそうおっしゃられるといろいろと考えさせられもする。あなたに対する情熱、私がこれまでに味わった唯一の情熱をも一瞬忘れそうになる。私は自分が人に愛される人間でないことは知っています。私は恋い焦れている子供にすぎない。けれど、とにかく私を試してみてください」
こう言いながら大公はかなり熱して来た。
「ファブリツィオを救ってください、そうすれば私はすべてを信じます! 私は子を思う母親のように不安に取り乱しているのかもしれません。けれど今すぐファブリツィオを迎えに誰かを城砦にやり、あの子を私に会わせてください。まだ生きていたら、宮殿から市の監獄へ送ってください。殿下が要求されればあの子は何か月でも市の監獄にとどまるでしょう、裁判の日まで」
これほど簡単なことに一言で同意を与えるどころか、大公が暗い顔をしたのを見て公爵夫人は絶望した。大公は真赤になり、公爵夫人をみつめ、やがて目を伏せるとその頬は蒼白になった。妙なときに毒のことなど言い出されて、彼は自分の父親やフェリーぺ二世ならば考えそうなことを思いついたのだ。しかしそれを口に出す勇気はなかった。
「公爵夫人」とうとう彼は無理をして、まことに愛想っ気のない口調で言った。「あなたは私のことを子供扱いして、それどころかまったく魅力のない人間として軽蔑していられる。よろしい! これから私は恐ろしいことをあなたに言いましょう。ただしこれは今しがたあなたに対する深い真剣な情熱から思いついたことです。もし毒などということをいささかなりも信じることができたらすでに私は手を打っていたはずだ。そうするのが私の義務だから。しかし私には今のあなたの要求のうちに偏見からの空想しか見ることができない。しかも、こんなことを言っては失礼かもしれないが、この空想がどれほどまでひろがっているのか私にはわからないのだ。君主の地位についてようやく三か月にしかならない私に、あなたは大臣たちに諮《はか》らずに行動することを要求なさる! 私のいつもの行動方式に大きな例外を作れとおっしゃる。正直なところ、私はこの行動方式をきわめて合理的なものと思っているのですよ。今ここで絶対君主なのは、公爵夫人、あなただ。私にとってすべてであるある事をあなたは今|叶《かな》えてくださるように見える。しかし一時間たって、その毒という空想が、その悪夢が消えてしまったら、私がそばにいるだけでもあなたは不快に思い、私を疎んじられるだろう。だから私はどうしても誓約がほしい。誓ってください、公爵夫人、ファブリツィオが無事にあなたの手もとにかえったら、私の愛情が望み得る至上の幸福を三か月以内に私に与えてくださる、と。あなたの生涯の一時間を私に与えてくださることであなたは一生私を幸福にしてくれるのです。あなたはすっかり私のものになるのです」
ちょうどこのとき城の時計は二時を打った。(ああ、もう手おくれかもしれない)と公爵夫人は思った。
「誓います」と彼女は血迷った目をして叫んだ。
たちまち大公は別人のようになった。武官控え室のある廻廊のはしへ彼は走った。
「フォンタナ将軍、全速力で城砦へ馬を飛ばし、デル・ドンゴ氏が監置されている房へできるだけ早く駈け上がり、ここへ連れて来てくれ。二十分、いや、できたら十五分後に是非彼と話したいのだ」
大公を追って来た公爵夫人は叫んだ。
「ああ、将軍、一分間のことで私の生死が決定されるかもしれないんです。多分虚報でしょうが、ファブリツィオが毒殺されるかもしれないのです。声のとどくところまで行ったらすぐ食べるなと叫んでください。食卓に手をつけていたら吐かせてください。私がそうしろと言ったのだと言ってください。必要とあれば腕力も使ってください。すぐ後から私が行くと言ってやってください。一生恩に着ます」
「公爵夫人、馬の準備はできていますし、私は馬術にはたくみだということになっています。全速力で飛ばせますから、あなたよりも八分は先に城砦に着いているでしょう」
「公爵夫人、その八分のうち四分は私のために割《さ》いてください」と大公は叫んだ。
武官は立ち去った。彼は馬に乗るほかに能のない人間だった。将軍が扉をしめるや否や、果断なところもあるらしい若い大公は公爵夫人の手を握った。
「公爵夫人」と彼は情熱をこめて言った。「私と一緒に礼拝堂に来てくださいませんか」
生まれてはじめて度を失った公爵夫人は一言もいわずに彼の後について行った。大公と彼女は宮殿の長い廻廊をはしからはしまで駈けて行った。礼拝堂は向こうのはしにあったからだ。礼拝堂にはいると大公は、祭壇に対してとも公爵夫人に対してともつかずにひざまずいた。彼は情熱的に言った。
「誓いをくりかえしてください。あなたが正直な人だったとすれば、またこの大公という因果な身分に愛想をつかさなかったとすれば、こうして誓ったがために私に与えねばならぬものを、私のこの愛情に対する憐れみから与えてくださったはずです」
「ファブリツィオが元気なところを見られれば、あの子が一週間後にも生きていたら、そして殿下があの子をランドリアーニ大司教の後任となるべき補佐に任命してくださるなら、一切の名誉、女としての一切の操を私はみずから踏みにじって、殿下のものになります」
「しかし、|愛する人《ヽヽヽヽ》」と、おずおずした不安と愛情との混じった滑稽な様子で大公は言った。「何かよくわからないが、私の幸福を台なしにしそうな罠か何かがあるような気がする。そんなことになれば私は死んでしまいます。もし大司教が宗門内での何かの理由を挙げて反対し、そのため何年にもわたって決着がつかないとしたら、一体私はどうなりますか? 私が誠心誠意でやっていることはおわかりでしょう。あなたは私に対してつまらぬ偽善者めいた真似をやるのですか?」
「いいえ、私も誠心誠意です。ファブリツィオが救われ、殿下のその権力をもってあの子を司教補佐にし未来の大司教にしてくだされば、私は操を捨ててあなたのものになります。
大司教|猊下《げいか》が一週間以内に提出する請願書の余白に可《ヽ》を書き入れることを約束してくださいまし」
「白紙に署名だけしておきます。私も私の国もあなたの支配に任せます」幸福に顔を赤らめ、本当に我を忘れて大公は叫んだ。
彼はもう一度誓いを求めた。ひどく昂奮し、そのために生まれつきの小心さをすっかり忘れ、彼ら二人だけしかいないこの礼拝堂のなかで低い声で公爵夫人にいろいろのことを言ったが、三日前に同じことを言っていたら公爵夫人の彼についての考えは変わっていただろう。だが彼女の心では、ファブリツィオの身があやういという絶望の気持ちが無理矢理に約束をさせられたという嫌悪感を押しのけてしまっていた。
公爵夫人は自分の今したことに動顛《どうてん》していた。自分が言った言葉のやりきれぬ苦さを彼女が充分感じていなかったのは、フォンタナ将軍が手おくれにならぬうちに城砦に着いたろうかということに心が集中していたからだった。
この子供の狂わしいほど愛情のこもった言葉から解放され、少々話題を変えようとして、この礼拝堂の主祭壇にあるイル・パルミジャニーノの有名な絵を彼女は褒めた。
「あれをあなたのところへお送りするのをどうぞ許してください」
「いただきますわ。でも、ファブリツィオを迎えに行かせてくださいませんか」
血迷った目つきで彼女は馭者に馬をギャロップで走らせるように命じた。城砦の濠にかかった橋の上で、城砦から歩いて出て来るフォンタナ将軍とファブリツィオに会った。
「食べた?」
「いや、奇蹟的に」
公爵夫人はファブリツィオの首にかじりつき、失神した。失神は一時間もつづき、最初は死ぬのではないかと、次いで発狂するのではないかと疑われた。
ファビオ・コンティ長官はフォンタナ将軍を見たとき怒りのあまり蒼白になった。長官が大公の命令をいやにぐずぐずと実行するので、公爵夫人が今度大公の愛妾になるのだと予想していた武官はとうとう怒ってしまった。長官はファブリツィオの病気が二、三日つづくようにしてやろうと思っていた。(宮廷人であるこの将軍は、あの無礼な男が苦痛に悶えるのをこれから見るわけだ。脱獄などしたのだからいい気味だ)と長官は思った。
ファビオ・コンティはこうした思いに耽りながら、ファルネーゼ塔の一階の衛兵所で足を止め、急いで兵隊たちをそこから追い出した。これから演じられる場面を人に見られたくなかったのだ。五分後、ファブリツィオがしゃべっているのを聞き、ぴんぴんして獄中のことをフォンタナ将軍に話して聞かせているのを見て茫然自失した。彼は姿を消した。
ファブリツィオは大公との会見のあいだ申し分のないジェントルマンとしてふるまった。第一に彼はつまらないことに怯えている子供のように見られたくなかった。大公は具合はどうかと親切にきいた。
「飢え死にしそうでございます、殿下、さいわい昼食も夕食もいたしませんでしたので」
大公にお礼を申し上げてから、彼は市の監獄に行く前に大司教に会いに行く許可を求めた。毒ということが公爵夫人の空想の描いた幻では決してなかったと幼稚な頭で考えつくと、大公は異常なまでに蒼白になっていた。この残酷なことに気を取られて、はじめのうち彼は、ファブリツィオが大司教に会わせてくれと頼んでいるのに答えなかった。それから彼はうっかりしていたことの償いに、大いに愛想よくしなければならぬと考えた。
「一人で出て行っても結構です。この国の首府は全然護衛なしに歩いてください。十時か十一時ごろ監獄に行ってくださればいい。長く獄にとどまることはないだろうと私は思っています」
彼の生涯で最も記念すべきこの晴れの日の翌日、大公は自分が小ナポレオンになったようなつもりだった。この偉人がその宮廷の何人かの美女からねんごろにされたということを大公は何かで読んでいた。女にもてることでナポレオンと同じだとなると、今度は銃火を浴びながらナポレオンのようにふるまったことを思い出した。公爵夫人に対して一歩も引かぬ態度を取ったことで今なお彼は大満悦だった。困難なことをなしとげたという意識が二週間で彼を別人のようにした。高邁《こうまい》な物の考え方が理解できるようになり、多少気骨もできてきた。
この日まず彼は一か月も前から彼のデスクの上にあったラッシを伯爵にする認可状を焼き捨てた。ファビオ・コンティ将軍を解任し、その後任者ランゲ大佐に毒薬についての真相を糾明するように命じた。実直なポーランド生まれの軍人ランゲは獄吏たちをおどしつけ、次のように大公に報告した。デル・ドンゴ氏の昼食に毒を盛ろうとしたが、しかしそうなるとあまりにも多くの人間が秘密を知ってしまうことになる。夕食のときのほうがうまく手筈がととのった。だからフォンタナ将軍が来なかったらデル・ドンゴ氏の命はなかったろう、と。大公は仰天した。しかし実際彼は恋にのぼせあがっていたから、(それでは事実私がデル・ドンゴ氏の命を救ったことになるだから、公爵夫人も約束をたがえるようなことはよもやしまい)と言えるのは彼にとって一つの慰めだった。さらにまたこういうことも考えた。(私の仕事は想像していたよりもむずかしい。公爵夫人がきわめて聡明だということは誰もが認めるが、ここで政治と私の愛情とはうまく合致する。夫人が私の総理大臣になると言ってくれたらこんなすばらしいことはないんだが)
その夜、大公ははじめて知った不愉快きわまるいろいろの事柄に腹が立って、芝居に加わろうとしなかった。
彼は公爵夫人に言った。
「あなたが私の心を支配するのと同様私の国を統治すると言ってくれれば、これに過ぎる喜びは私にはないんだが。まず手始めに、私が今日一日何をしたかを申し上げましょう」
そうして彼はすべてをきわめてこまやかに話した。ラッシを伯爵にする認可状を焼いたこと、ランゲの任命、毒殺に関する彼の報告、等々。
「統治するにはどうも経験が足りないと思う。伯爵は冗談を言って私を辱しめる。閣議の席上ですら私に恥をかかせるし、社交界でもひどいことを言っている。これはあなたもその事実を確かめることができるでしょうが、好きなようにあやつることのできる子供だと私のことを言っているのです。大公だからといって、公爵夫人、人間であることには変わりはありませんよ。こういったことを聞くと腹が立つ。モスカさんがあることないこと言いふらしても真実と思われないように、ラッシというあの危険な悪党を大臣にしなければならぬと私は言われた。そこへ持って来てあのコンティ将軍などは、ラッシがまだ大変な勢力を持っているものと思いこんで、あなたの甥御《おいご》さんを殺せとそそのかしたのはラッシかラヴェルシだということをいまだに白状し得ないでいる。私としてはてっとりばやくファビオ・コンティ将軍を法廷に引っぱり出してやりたいところだ。将軍が毒殺計画の犯人だったかどうか、裁判官ならわかるでしょうから」
「でも、殿下、裁判官がおりますかしら?」
「何ですって!」と大公は驚いた。
「荘重な顔をして町なかを歩いている学識ある法律家を殿下はお持ちです。ただこの連中はいつも、殿下の宮廷を牛耳っている党派の気に入るような裁きをするでしょう」
若い大公が憤慨して、聡明さよりも無邪気さを示しているような文句をならべているあいだに、公爵夫人はこう自問していた。(コンティに恥をかかせておくのが私に好都合だろうか? もちろんそんなことはない。そうなればあの男の娘とあの平凡な正直者クレッシェンツィ侯爵との結婚が不可能になる)
この問題について公爵夫人と大公のあいだで長々と問答がつづけられた。大公は感嘆に目もくらんでしまった。クレリア・コンティとクレッシェンツィ侯爵との結婚に免じて毒殺の計画のことは大目に見てやるが、それにはこの結婚が条件であることを大公が厳しく前長官に申し渡しておく。しかし公爵夫人の助言によって大公は娘の結婚のときまで将軍を追放するというのだ。公爵夫人はもはや男女の情をもってはファブリツィオを愛していないつもりだったが、クレリア・コンティと侯爵の結婚は今なお非常に強く希望していた。そうなればファブリツィオの憂悶もだんだんと消えて行くのではないかという漠然とした期待がそこにあったのだ。
幸福で有頂天の大公はこの夜、ラッシ大臣をも、面皮を引っ剥《ぱ》いで罷免してやろうと思った。公爵夫人は笑いながら言った。
「ナポレオンの言葉をごぞんじでいらっしゃいますか? 高い地位にあり、世人の注目の的となっている人間は、乱暴なことをしでかしてはならないと言っております。けれど今夜はもう遅すぎます。また明日ということにいたしましょう」
夫人は伯爵と相談する時間を作ろうとしたのだ。その夜の話合いのことはすべて詳細にわたって伯爵に話したが、ただ大公が彼女にとって頭痛の種である、あの約束のことをしきりにほのめかしたことだけは言わなかった。もうこれほど必要欠かせぬ存在になってしまったのだから、大公にむかって「私をそんな屈辱的な目に遭わそうとあくまで乱暴に言い募られるのでしたら、私はお許しいたしません、明日にも私はこの国を去ります」と言ってやりさえすれば、いつまでも延期させることができるだろうと公爵夫人は自惚《うぬぼ》れていたのだ。
ラッシの処遇について公爵夫人から相談を受けた伯爵は、はなはだ賢人らしい態度を示した。ファビオ・コンティ将軍とラッシはピエモンテに旅行することになった。
ファブリツィオの裁判については奇妙な困難が生じた。裁判官たちは満場一致で、しかも第一回公判のときに彼を無罪放免しようとした。裁判がせめて一週間つづき、裁判官たちがすべての証人の証言を聴取するようにさせるため、伯爵は脅迫を用いねばならなかった。(こうした連中はいつも変わらない)と彼は思った。
無罪放免の翌日、ファブリツィオ・デル・ドンゴはとうとう善良なランドリアーニ大司教の副司教の地位を与えられた。その同じ日大公は、ファブリツィオを将来の大司教となるべき大司教補佐に任命するのに必要な公文書に署名し、二月《ふたつき》足らず後に彼は実際その地位についた。
誰もが公爵夫人に甥の荘重な様子をほめた。実は彼は絶望していたのである。彼が釈放され、ファビオ・コンティ将軍の罷免および追放と公爵夫人の寵遇という事態になった日の翌日、クレリアは伯母のコンタリーニ伯爵夫人のもとへ身を寄せてしまった。これは非常に裕福で、高齢で、自分の健康のこと以外には関心のない人だった。クレリアは会おうと思えばファブリツィオに会えたろう。しかしかつての彼女の約束を知り、そして今の彼女の振舞いを見た人ならば、恋人の身の危険が去るとともに彼女の愛情も消えたのだと考えたかもしれない。ファブリツィオはできるだけ繁々とコンタリーニ邸の前を目立たぬように通っただけではなく、さんざん苦労したあげく、その邸宅の二階の窓に面した部屋を借りることにも成功した。一度クレリアは行列が通るのを見ようとして何の気なしに窓によりかかり、たちまち恐怖に打たれたように引っ込んだことがあった。貧しい労働者のような黒い服を着たファブリツィオが、あのファルネーゼ塔の監房のときと同様、ガラス戸のかわりに油紙を貼ったあばら屋の窓の一つから自分をみつめているのに気づいたのだ。世間の噂では公爵夫人の差し金によるとされている父親の失寵の後、自分を避けているクレリアを説得できればとファブリツィオは思っていた。しかし彼女がこのように疎ましくするには別の理由もあることを彼は知っており、彼の憂鬱を紛らしてくれるものは何もなかった。
無罪放免になったことも、生まれてはじめて就くことになった立派な職務も、社交界における自分の高い地位も、聖職者たちや司教管区のすべての信心家たちがしきりに御機嫌を取ることも、彼にはいっこう嬉しくはなかった。サンセヴェリーナ邸内にある彼の快適な部屋も、もはや彼にとって満足できるものではなかった。公爵夫人は屋敷の三階全体と二階のサロン二間を彼に明け渡さねばならなかったが、彼女はそれに大満悦だった。二つのサロンは若い大司教補佐の御機嫌をうかがおうとして自分の番を待っている連中でいつも一杯だったのだ。将来は大司教の後を継ぐという一項は、この国で驚くべき反響をよびおこした。かつては哀れな|ぼんくら《ヽヽヽヽ》な廷臣どものあいだにあれほどの物議をかもした彼の性格の毅然たるところが、今ではすべてファブリツィオの美徳とされるのだった。
こうした栄誉に全然関心が持てず、この豪奢な部屋で仕着《しきせ》を着た十人の侍僕にかしずかれているほうがファルネーゼ塔の木の監房のなかで醜悪な獄吏にとりまかれ四六時中生命の不安を感じているよりもはるかに不幸だということは、ファブリツィオにとって大きな哲学的教訓であった。母親と今はV……公爵夫人となっている妹が彼が栄耀《えよう》に包まれているところを見ようとしてパルマにやって来て、その深い沈鬱さに驚いた。デル・ドンゴ侯爵夫人は今ではおよそ小説的なところのない女性になっていたくせに、この様子を見て非常に不安をかきたてられ、ファルネーゼ塔のなかで何か遅効性の毒を飲まされたのだと思ってしまった。極度に控え目な人だったにもかかわらず、彼女は尋常でないこのふさぎ方について何か言わねばならぬと思ったが、ファブリツィオはただ涙で答えただけだった。
輝かしい地位についた結果として無数の特典が与えられたことも、彼をますます不機嫌にするほかに何の効果もなかった。最も卑しい利己心に毒された虚栄心の強い兄はほとんど公式の慶祝の手紙をよこし、その手紙には家名にふさわしい馬と馬車をととのえるようにといって五万フランの為替が添えられていた。ファブリツィオは不幸な結婚をしている下の妹にこの金を送った。
モスカ伯爵は昔パルマ大司教ファブリツィオがラテン語であらわしたヴァルセッラ・デル・ドンゴ一門の系譜の立派なイタリア語訳を作らせた。ラテン語原文を併記して豪華な印刷にし、挿絵はパリでみごとな石版にして転載した。公爵夫人はファブリツィオの肖像画を昔の大司教の肖像画と向き合わせに入れたいと言っていた。この翻訳はファブリツィオが第一回の入獄のときにした仕事として出版された。しかしわれらの主人公の心からはすべてが消え失せていた、人間にはごく自然な虚栄心すらも。自分のものとされたこの作品を彼は一ぺージも読まなかった。社交界での立場からして豪華な装幀の一部を大公に献呈するのが義務だった。大公はもうすこしのところでむごたらしい死にざまをさせられるところだった彼に償いをしなければならぬと思い、公式に自分の寝室に入ることを許したが、この特権を有するものは「閣下」と呼ばれることになるのである。
[#改ページ]
第二十六章
ファブリツィオが深い悲しみから多少とも逃れられるのは、読者も御承知のようにクレリアが身をよせているコンタリーニ邸の向かいにある部屋の窓の、油紙を取ってそのかわりに入れたガラスのかげにかくれて過ごす束の間のあいだだけだった。たまに彼女に会うたびに、彼は彼女のいちじるしい変わり方に深く悲しまされた。この変わり方は彼には最も悪いしるしのように思われた。あのあやまちがあってからクレリアの顔つきは本当に驚くべき高貴で謹厳な性格を帯びて来た。もう五十にもなったみたいだった。この異常な変化のうちにファブリツィオは何らかの堅い決意の反映を見た。(もう二度とおれに会うまいという聖母に立てた誓いを守らなければと、一日じゅう絶えず自分を励ましているのだ)
ファブリツィオはクレリアの不幸の一部しか察していなかった。完全に失寵してしまった父が自分のクレッシェンツィ侯爵との結婚の日にならなければパルマに帰り宮廷に顔を出す(それができなければ彼は生きていられないのだ)わけに行かないことを彼女は知っており、自分はこの結婚を望んでいると父に手紙を書いてやった。将軍は当時トリーノに身をかくし、失意に悶々としていたのである。実はこの大決心の反動としてクレリアは十《とお》も老けてしまったのだ。
ファブリツィオがコンタリーニ邸の向かいの窓にいることに、彼女はちゃんと気がついていた。しかし運悪く彼を見てしまったのは一度だけだった。すこしでも彼に似た顔つきや体つきを見かけると彼女はすぐ目をつぶってしまった。深い信仰と聖母の助けを信じる心とが彼女の唯一の頼りだった。自分の父に敬意を持てないことは悲しみだったし、未来の夫の性格はまったく平凡で、上流社会の物の感じ方以上のものは望めぬように思えた。結局彼女は、二度と会ってはならない、しかし彼女に対して権利を持っている男を熱愛していたのだ。こうした運命全体が彼女には不幸の最たるものと思われたが、事実そう思うのも当然だったろう。こんな有様では、結婚の後はパルマから二百里も離れたところで暮らさねばならなかったろう。
ファブリツィオはクレリアが心からつつましやかな人間であることを知っていた。噂になるような異常な行動をして、彼女がそれを知ったならば不快に思うことは火を見るよりもあきらかだということもわかっていた。にもかかわらず、あまりの憂鬱と、自分を見るといつもそらされるクレリアの視線とに堪えられず、思い切って彼はクレリアの伯母コンタリーニ夫人の召使を二人ほど抱き込もうとしてみた。ある日の暮れ方、小金を持った田舎者といった服装で彼は屋敷の門前にあらわれた。買収した召使の一人がそこで彼を待っていた。彼はトリーノから来たもので、クレリアあての父親の手紙を持っていると言った。召使はその口上を伝えてから、屋敷の二階の広い控えの間に彼を通した。ファブリツィオはこの部屋で、彼の生涯でおそらく最も不安に満ちた十五分を過ごした。クレリアにはねつけられたら、もはや彼には心の平静さを得る望みはまったくないのだ。
(こんな高い地位についてしまったためにうるさい仕事を背負わされてまったくやりきれない。いっそすっぱりとおさらばして、教会から悪い聖職者を一人減らしてやろう。偽名でどこかの僧院に身をひそめるんだ)
とうとう召使がやって来て、クレリア・コンティさまがお会いになると言っていると告げた。われらの主人公はすっかり勇気をなくしてしまった。三階への階段を昇るとき彼は不安のあまり倒れそうになった。
クレリアは一本だけ蝋燭を立てた小さな机の前に坐っていた。変装の下にファブリツィオを認めるや否や彼女は逃げ出し、サロンの奥へ行って姿をかくした。
「私の魂の救いを、こんなことをして妨げようとなさるのですか」と、両手で顔をかくしながら彼女は叫んだ。「父が毒のために死にそうになったとき、もう二度とあなたに会わないと私が聖母に誓いを立てたことをあなたはごぞんじじゃありませんか。この誓いにそむいたのは一度だけ、あなたを死から免れさせるのが私の義務だと心から信じた、私の生涯で最も不幸なあの日だけでした。不自然な、おそらく罪深い口実をかまえてあなたの話を聞く気になっただけでも、もう大変なことなのです」
この最後の言葉はファブリツィオにとってあまりにも意外だったので、それを喜べるようになるまで何秒かかかった。どれほど激しい怒りに遭うかわからない、クレリアは逃げ出すかもしれないと彼は思っていたのだ。やっと我にかえると彼は一本しかない蝋燭を消した。クレリアが自分にどうしろと言っているのかはわかっているつもりだったが、サロンの奥のほうへ進むとき彼は体じゅう顫《ふる》えていた。彼女はそこの長椅子のうしろに逃げこんでいたのである。手に接吻したら彼女を怒らせることになるかどうかもわからなかった。彼女のほうは愛情に打ち顫えており、彼の腕のなかに飛びこんで来た。
「ファブリツィオ、どうしてこんなに長いこと来てくれなかったの! ほんのちょっとのあいだしかお話しできないわ。こんなことは大きな罪でしょうから。それに、あなたに会わないと誓ったとき、もちろん私はあなたとお話しもしないと誓ったつもりだったのよ。でも、かわいそうな父が復讐しようとしたことに対して、どうしてあなたはああまで猛烈に腹を立てたのでしょう? だって結局のところ、あなたの脱走に都合がいいようにというので最初に毒殺されかかったのは父のほうじゃありませんか。あなたを救うために自分の名を傷つけそうなことをあれほどまでしたこの私のために、あなただって何かしてくれてもよかったじゃないの。それだけじゃない、あなたは今はもう聖職者になってしまっている。たとえ私があの厭らしい侯爵を遠ざける手段を見つけたとしても、あなたは私と結婚することはできないでしょう。それにまた、あの行列の夜、どうしてあんな明るいところで私を見ようとしたの? あんなことは私が聖母に立てた誓いをあまりにもはっきりと無視することじゃないの」
ファブリツィオは驚きと幸福に我を忘れて彼女を両腕に抱きしめた。
これほどおたがいに言うことがたくさんあるのだから、そう簡単に話が終わるはずはなかった。ファブリツィオは彼女の父親の追放をめぐる真相をくわしく話した。公爵夫人は全然それに関係していない、その理由は簡単で、毒殺の計画がコンティ将軍の考えたものだなどとは夫人は一瞬も考えなかったからだ。夫人はいつも、これはモスカ伯爵を追い出そうとするラヴェルシ一派の細工だと考えていた。この実際にあった事実を長々と説明されてクレリアは非常に幸福になった。ファブリツィオの身内のものを憎まねばならぬのが彼女には悲しかったのだ。今はもう彼女は公爵夫人を嫉妬の目で見ていなかった。
この夜生まれた幸福は数日しかつづかなかった。
善良なドン・チェーザレがトリーノからやって来た。そして生まれつき正直な人間らしい大胆さで、あえて公爵夫人に会いに行った。これから打ち明けることを決して悪用しないと約束してくれと頼んでから、間違った名誉心に惑わされた兄はファブリツィオの脱走が自分に対する挑戦であり、世間から相手にされなくなったと思いこんで、復讐しなければならぬと思ったのだと彼は打ち明けた。
ドン・チェーザレは二分間もしゃべらぬうちに勝利をおさめた。彼の非の打ちどころのない高潔さがこうしたことをあまり見馴れていない公爵夫人の心を打った。目新しさのために彼は夫人の気に入った。
「将軍のお嬢さんとクレッシェンツィ侯爵の結婚を急がせなさい。お約束しますが、そうすれば私ができるだけのことをして将軍がまるで旅から帰って来たとでもいう風に迎えられるようにします。私が将軍を晩餐にお招きします。それで御満足? それははじめのうちは冷たい仕打ちもあるでしょうし、将軍も城砦長官の地位を性急に求めてはいけません。でも私が侯爵に好意を持っていることはごぞんじでしょう。そして侯爵の義父になる方にいつまでも怨みを抱きはしません」
この言葉に励まされてドン・チェーザレは姪のところへ行き、絶望にくれている父親の生死を掌中に握っているのはおまえなのだと言ってやった。もう何か月もこの父はどこの宮廷にも顔を出していなかったのだ。
クレリアはトリーノの近くのある村に偽名を使って身をひそめている父親に会いに行こうと思った。彼はパルマの宮廷が自分を裁判に付するためにトリーノの宮廷に自分の身柄の引き渡しを求めるものと想像していたのである。彼女が会ってみると父は病気で半狂人であった。その夜のうちに彼女は永久の別れを告げる手紙をファブリツィオに書いた。この手紙を受け取ると、愛人とまったく同じような性格を身につけてしまっていたファブリツィオは、パルマから十里も離れた山のなかにあるヴェッレーヤの修道院に行ってとじこもった。クレリアは十ページにも及ぶ手紙を彼に書いた。彼女はあなたの同意なしには自分は決して侯爵と結婚しないと誓っていたのだが、今彼女はこの同意を彼に求め、そしてファブリツィオはヴェッレーヤの隠栖《いんせい》の場所からこの上なく純粋な友情のこもった手紙を書いて同意を与えたのであった。
実を言えばその友情はクレリアを怒らせたのだが、この手紙を受け取ると彼女は自分で結婚の日取りをきめた。その祝宴はその冬のパルマの宮廷の華やかさにさらに一層の輝きを加えるものだった。
ラヌッチヨ・エルネスト五世は本心は吝嗇《りんしょく》だった。しかし彼は恋に狂っており、公爵夫人を宮廷にしばりつけてしまいたいと思っていた。彼は母に莫大な金額を受け取ってほしいと言い、それで宴会をもよおしてくれと頼んだ。女官長はこうして殖えた財源をみごとに活用して見せた。この冬パルマでもよおされた数々の宴会は、その善良さが、長く人々の記憶に残っているイタリア副王、あの愛すべきウジェーヌ大公のミラノ宮廷の全盛時代を偲ばせた。
大司教補佐の職務はファブリツィオをパルマに呼びもどした。しかし彼は、保護者ランドリアーニ大司教が無理矢理に彼に住まわせた大司教邸のなかの小さな部屋に、これからもなお信仰上の理由から引きこもると言明した。そして彼はただ一人の召使を連れてそこへとじこもってしまった。こうして彼は宮廷の華やかな宴会に一度も出なかったが、そのために彼はパルマと彼の将来の大司教管区で大いに聖人ともてはやされることになった。希望のない深い悲しみ以外には何の動機もないこの隠遁の思いがけぬ結果として、今までいつも彼を愛して来、事実彼を自分の補佐にすることまで考えた善良な大司教が彼に対して多少嫉妬をおぼえるようになった。大司教は、これがイタリアでは習慣なのだが、宮廷の宴会にはすべて出席しなければならぬと当然ながら思っていた。そのときには彼は大聖堂の聖歌隊席に出るときと大体同じ正装を着る。宮殿の列柱のある控えの間に集まった何百人という使用人たちはかならず起立して猊下《げいか》に祝福をお願いし、彼はこころよくたちどまって祝福を与えてやるのだった。そういうおごそかに静まりかえったときにランドリアーニ猊下は誰かが次のように言うのを聞いたのである。
「大司教さまは舞踏会においでになるが、モンシニョーレ・デル・ドンゴは決して部屋から出られない!」
このときから、ファブリツィオがこれまで大司教のもとで得ていた非常な寵遇は終わった。だがもう彼は自分の翼で飛ぶことができた。こうした彼の行動はすべてクレリアの結婚によって味わわされた絶望のもたらしたものにすぎなかったのに、ひたすら至高の信仰心の結果と見られ、信心家たちはまるで教化善導の本を読むように、まったく途方もない虚栄心がのぞいているあの系譜の翻訳を読んでいた。本屋は彼の肖像の石版刷りを作ったが、これは数日のうちに売り切れた。買ったのはとりわけ庶民だった。版画師は無知から、本来なら司教にしかないはずで、補佐などがつけてはならぬような装飾をいくつかファブリツィオの肖像にほどこした。
大司教はこの肖像を見、その怒りはもはやとめどないものになった。彼はファブリツィオを呼びつけ、厳しい小言をいったが、激情に駆られてその言葉は時としてひどく品のないものになった。読者も想像されるようにファブリツィオは何の苦もなく、このような場合にフェヌロンがふるまったようにふるまうことができた。大司教の言葉におよそこれ以上とはない恭順《きょうじゅん》と敬意をもって耳を傾けたのだ。そして大司教が言葉を切ったとき、彼は自分の最初の入獄のあいだにモスカ伯爵の命令でなされたこの系譜の翻訳のいきさつを述べた。これは世俗的な目的のために公刊されたもので、こんなことは自分のような身分のものにはあまりふさわしいことではないようにいつも思っていた。肖像のことについて言えば、第一版と同様第二版にも自分はまったく関係していない。本屋が大司教邸に隠栖《いんせい》している自分にこの第二版を二十四部ほど送って来たから、召使をやってもう一部買わせた。そうしてはじめてこの肖像画が一フラン半で売られているのを知ったから二十四部分の代金として百フラン送ったのだ、と。
ほかにもいろいろと悩みの種を持っている彼がきわめておだやかな言い方で述べたにもかかわらず、こうした申し開きを聞くと大司教は逆上するまでに怒りを募らせた。彼はファブリツィオを偽善者として非難することまでした。
(いくら才智があっても卑しい生まれの人間はこんなものなんだ!)とファブリツィオは思った。
このとき彼にはもっと深刻な悩みがあった。それは是非ともサンセヴェリーナ邸のもとの部屋にもどって来るか、せめて時々会いに来てもらいたいという叔母の手紙のことだった。サンセヴェリーナ邸に行けばどうしても、クレッシェンツィ侯爵が結婚式の際にもよおす盛大な宴会のことを聞かねばならない。ところが、そうした話を醜態を演じることなしに聞いていられるかどうか彼には自信がなかったのだ。
結婚式がおこなわれる丸一週間も前から、自分の召使と自分に関係のある大司教邸の使用人に決して自分に言葉をかけるなと命じた上で、彼は完全な無言の行《ぎょう》にはいってしまった。
モンシニョーレ・ランドリアーニは彼がまた気取った真似をしたことを聞いて、いつもより繁々とファブリツィオを呼びよせ、いやに長々と話をしようとした。それどころか彼は、大司教は自分らの特権を犯そうとしたと主張する田舎の何人かの司教会員と談判する仕事までファブリツィオに命じた。ファブリツィオはまったく別のことしか考えていない人間らしい完全に無関心な態度でこうしたことを受け取った。(僧院に行ったほうがおれにはいい。ヴェッレーヤの岩山のなかにいたほうが苦しまないだろう)
彼は叔母に会いに行った、叔母に接吻しながら涙をとどめることができなかった。彼女はファブリツィオがすっかり変わってしまったと思った。ひどく痩せてしまったために余計大きく見える目は、まるで顔から飛び出しているように見えた。彼自身も普通の聖職者の擦り切れた黒服を着てひどく弱々しく不幸そうに見える。そのため最初の一目だけで公爵夫人のほうもまた涙をおさえることができなかった。しかしその一瞬後、この美青年の外貌がこうまで変わってしまったのはクレリアの結婚のためだと考えると、夫人は大司教とほとんど同じほど激しい心のたかぶりをおぼえたが、ただ彼女のほうがうまくそれをかくした。彼女はクレッシェンツィ侯爵のもよおした楽しい祝宴のなかで人目をひいたいくつかの逸話を長々と話して聞かせるような無情な真似をした。ファブリツィオは答えなかったが、彼の目はひきつっていくらか閉ざされ、はじめはこれ以上蒼くなることは不可能と思われた顔色がさらになお蒼白になった。こうした苦しみのうずくときにはその蒼白さは緑色がかって来るのだった。
モスカ伯爵が不意にやって来た。そこで見たことは彼にはとても信じられぬように思えたが、ようやくこれによって彼がいつもファブリツィオに感じていた嫉妬は癒《いや》された。この如才のない男はきわめて婉曲な巧みな言葉を使ってファブリツィオに世俗的な事柄への関心を多少よみがえらせようと努めた。伯爵はこれまでずっと彼に対し、非常な敬意と充分な好意を抱いていた。もはや嫉妬心によって妨げられなかったので、この好意は今ほとんど献身的なものにまでなっていたのだ。(実際これほどまでの出世をするためには随分高い代償を払わねばならなかったんだ)と、彼の不幸を思い返しながら伯爵は思った。大公が公爵夫人に送って来たイル・パルミジャニーノの絵を見せるという口実で、伯爵はファブリツィオをちょっと離れたところへ連れ出した。
「さあ、君、男として話し合おうじゃありませんか。私が何か君の力になることができますか? 私から質問したりはしないから安心していてください。だが何と言っても金は役に立つんじゃありませんか、権力は? 話してごらんなさい、何でもします。手紙のほうがよければ手紙をよこしなさい」
ファブリツィオは心をこめて伯爵に接吻し、絵のことを話した。
「君のやりかたは巧妙きわまる政略の傑作だな」 伯爵はいつもの軽い会話の調子にかえって言った。「いかにも慎重にふるまっているから、大公は君を尊敬するし、民衆は君を崇拝している。その擦り切れた黒服のおかげでモンシニョーレ・ランドリアーニは夜もおちおち眠れない。私もまあこうしたことには慣れているが、今のそのやりかたに磨きをかけるにはどうしたらいいかと言われても、全然助言などできないと断言します。二十五歳で社交界へ初登場して、君はもう申し分のないところまで行ってしまっている。宮廷では皆がしきりに君の噂をしています。その年では類のないような尊敬を受けている理由が何だか知っていますか? その擦り切れた黒服ですよ。君もごぞんじのように、公爵夫人と私はポー河の近くの林のなかの、あの美しい丘の上にあるペトラルカの旧居を所有している。君も嫉視する連中のけちくさい厭がらせにうんざりすることがあったら、ペトラルカの後継ぎになることもできようと私は思ったのですがね。ペトラルカの名声で君の名声もますます引き立つというものだ」
伯爵はこの隠者のような顔に微笑を呼び出そうと苦心|惨憺《さんたん》したが、成功しなかった。ファブリツィオの変わり方が目立ったのは、つい先頃まで彼の顔に欠点があったとすれば、それは時々突拍子もなしに肉感的で陽気な表情をうかべることだったからだ。
伯爵は引き揚げる前に、今度の土曜日は大公妃の誕生日だから、この日は隠栖《いんせい》中とはいえ宮廷に顔を出さなければ気取っていると思われるだろうと言っておくことを忘れなかった。この言葉はファブリツィオにとって短刀の一撃のようなものだった。(いやはや、何のためにおれはこの屋敷へ来たんだろう!)と彼は考えた。宮廷で逢うかもしれぬ人のことを考えると彼は戦慄をおぼえずにはいなかった。このことを思うとほかのことはもう考えられなかった。サロンの扉が開かれるちょうどそのときに宮廷に着くようにする以外に手はないと彼は思った。
事実モンシニョーレ・デル・ドンゴの名は大夜会のときに最初に来着を知らされた名前の一つだった。そして大公妃はこの上なく鄭重に彼を迎えた。ファブリツィオの目は大時計に注がれていた。サロンにはいってからちょうど二十分になったところで辞去しようとして立ち上がったが、そのとき大公が母と一緒にはいって来た。しばらく大公の御機嫌をうかがってからファブリツィオがたくみに戸口に近づいたとき、宮廷でよくあるつまらぬ出来事が起こって彼を引き留めた。
実はこれは女官長がうまく仕組んだことだった。当直の侍従が彼の後を追って来て、大公のウィストのお相手に彼が指名されたと伝えたのである。パルマではこれは、大司教補佐などが社交界で占めている地位ではとても望めぬ非常な名誉だった。ウィストをすることは大司教にとってすら格別の名誉だったのである。侍従の言葉を聞いてファブリツィオは胸を抉《えぐ》られたように感じた。人前で争うことなどは大嫌いだったにもかかわらず、もうすこしで彼は急に目まいがしはじめたのでとことわりに行くところだった。しかしそうなるとまたいろいろと質問されたり同情の言葉をいわれたりすることになり、そのほうがウィストをすることよりも煩わしいと思い直した。この日は彼はしゃべることがいやでたまらなかったのだ。
さいわい大公妃の御機嫌をうかがいに来たお偉方のなかにはフランシスコ修道会の会長がいた。フォンタナやデュヴォワザン〔フォンタナ神父はイタリア生まれの学僧、デュヴォワザンはフランスのナントの司教〕に劣らぬ学識あるこの修道士は、サロンの奥まった隅に席を占めていた。ファブリツィオは入口の扉が見えないようにしてこの人の前に立ち、神学の話をした。しかしクレッシェンツィ侯爵夫妻の名を披露する声が聞こえて来るのはどうすることもできない。予期に反してファブリツィオは激しい怒りがこみあげて来るのを感じた。
(もしおれがボルソ・ヴァルセッラ〔これは初代スフォルツァに仕えた将軍の一人〕だったら、あの|のろまな《ヽヽヽヽ》侯爵に一突きくれてやるところだ。それも、あの幸福だった日にクレリアがくれた象牙の柄の小さな短刀で。そしておれのいる前にあの夫人と一緒にあらわれるような面当てがましいことをしていいかどうか教えてやるのだが!)
彼の顔つきがひどく変わったので会長が言った。
「閣下はお気分が悪いのですか?」
「ひどい頭痛がして……この光がたまらないのです……ここに残っているのはただ、大公のウィストのお相手に指名されたからで」
この言葉を聞くと、もともと町人の会長はすっかり面喰らってしまい、どうしたらいいかわからぬままファブリツィオにむかってしきりにお辞儀をしはじめたが、ファブリツィオのほうもまた会長とはまったく別の意味で当惑し、奇妙なほどべらべらとしゃべり出した。うしろのほうがしんと静まりかえるのがわかったが、ふりむきたくはなかった。突然ヴァイオリンの弓が譜面台をたたき、器楽がはじまり、そして有名なP……夫人が昔大変評判だったチマローザの有名なアリア「あのやさしい瞳!」を歌った。
最初の何小節かにはファブリツィオは堪えられたが、やがて彼の怒りは失せ、たまらなく泣き出したくなって来た。(何てことだ!)と彼は思った。(何という醜態だ! しかもこの黒い服で!)彼はことわっておいたほうが賢明だと思った。
「こういうひどい頭痛があるときに、今のように無理に抑えていると、しまいに涙が溢れ出して来るのです。私たちのような身分のものがこんなことでは悪口を言われかねませんが。ですから、あなたを見ながら泣いてもよろしいでしょうね。そしてあまり心配なさらないでください」
「カタンツァラの私たちの管区長も同じ病気にかかっています」と会長は言った。
そして小声で長々しい話をはじめた。
その管区長の夕食のことにまで及ぶ長話の滑稽さはファブリツィオの微笑を誘ったが、こんなことは彼には久しくなかったことだった。だが間もなく彼は会長の話を聞くのをやめた。P……夫人はすばらしい楽才をもってペルゴレージのアリアを歌っていた(大公妃は時代おくれの音楽が好きだった)。ファブリツィオから三歩ほどのところで小さな音がした。この夜はじめてファブリツィオは視線を動かした。いま床《ゆか》の上でちょっと軋《きし》ったその肘掛け椅子に坐っていたのはクレッシェンツィ侯爵夫人だった。涙に溢れたその目は、これもまた同じくらい惨憺たる有様のファブリツィオの目と真向《まっこう》からぶつかった。ファブリツィオはなおも数秒彼女をみつめていた。ダイヤモンドで飾られたこの顔を見るのははじめてだった。しかし彼の視線は怒りと軽蔑を示していた。それから彼は(おれの目はもう永久におまえを見ることはあるまい)と心のなかで言いながら会長のほうに向き直ってこう言った。
「病気がますますひどくなって来ました」
実際ファブリツィオは三十分以上も熱い涙を流した。折よく、これはイタリアでは普通そうなのだが、ものすごい音を出すモーツァルトの交響曲の演奏がはじまって、彼の涙を乾かしてくれた。
彼はよく誘惑に堪えて、クレッシェンツィ侯爵夫人のほうへ目をやらなかった。けれどもP……夫人がまた歌い出し、泣いたことで気が楽になったファブリツィオはようやく平静な心にかえった。そうすると人生がこれまでとは違った光のもとに見えて来た。(彼女のことを簡単に忘れられるものだろうか? そんなことが可能だろうか?)と彼は思った。そして彼はこういう考えにたどりついた。(これまでの二か月以上に不幸になることがあり得るだろうか? この苦悶をこれ以上激しくするものがあり得ないのなら、どうして彼女を見ることの楽しみに逆らおうとするのだ? 彼女は自分の立てた誓いを忘れた。軽薄だ。しかし女はすべて軽薄ではないだろうか? 彼女のこの世のものと思えぬほどの美しさを誰が否定できよう? あの目つきを見るとおれは恍惚とさせられるが、最高の美人とされている女でさえ強いて見ようと思わねば見られぬおれなのだ! そうだ、どうして恍惚とさせられていないんだ? すくなくとも一瞬の心の安らぎは得られように)
ファブリツィオは人間のことなら多少知っていたが、情熱というものの経験は全然なかった。もしあったとすれば、いま身を委ねようとしている一瞬の喜びが、この二か月自分がクレリアを忘れようとしてつづけて来た努力を水の泡にしてしまうぞと自分に言い聞かせたであろうが。
この哀れな女は夫に強いられて宴会に来たにすぎなかった。それでも彼女は三十分もしたら体の具合を口実にして引き揚げようと思っていた。ところが侯爵は、到着する馬車がまだたくさんあるときに、帰宅するといって馬車を出させたりするのはまったく無作法なことであり、大公妃のもよおした宴会に対する遠まわしの批判と取られるおそれすらあると彼女に説明した。
「私は侍従として、皆が退出してしまうまでサロンにとどまって大公妃の御用をつとめねばならない」と侯爵はつけくわえた。「使用人たちに命令を伝えねばならぬことがあるかもしれない、いやきっとあるはずだ。奴らはほんとに不注意だからね! それなのにあなたは、この名誉ある仕事を大公妃づきの侍者|風情《ふぜい》に横取りされてもいいというのですか?」
クレリアはあきらめた。彼女はファブリツィオがいることをまだ知らずにいた。彼がこの宴会に来ていないとまだ思っていた。ところが、演奏がはじまろうとするとき大公妃は婦人方に着席を許したが、こうしたことには一向に敏捷ではないクレリアは大公妃のそばのいい席を全部人に取られてしまったので、広間の奥の、ファブリツィオが身をかくしている遠い隅のほうまで行って椅子をさがさねばならなかった。ようやく椅子をさがしあてたとき、こんな場所では奇妙に見えるフランシスコ派修道会長の服が彼女の目をひいたが、会長と話しているただの黒服を着たほっそりした男のことは最初彼女は注意しなかった。けれどもあるひそかな感情に動かされて彼女はその男に目を注いだ。(ここでは誰もが制服かふんだんに刺繍のついた服を着ている。あんなに質素な黒服を着ているあの青年は何ものだろう?)彼女は注意をこらしてみつめていたが、そのとき一人の婦人が来て坐ろうとして椅子を動かした。ファブリツィオはふりむいた。彼女には誰だかわからなかった。それほど彼は変わっていたのだ。最初彼女は思った。(あの人に似た人がいる。お兄さんだろう。でも、お兄さんというのはあの人よりいくつか年上だとばかり思っていたが、この人は四十台だ)突然口の動きで彼だということがわかった。(まあ、かわいそうに、どんなに苦しんだろう!)と彼女は思った。そして彼女は苦痛におしひしがれてうつむいた。誓いを守るためではない。彼女の心は同情に揺り動かされた。(九か月間の獄中生活の後でも、こんな様子は全然していなかった!)もはや彼女はファブリツィオへ目を向けなかった。ただ、はっきりと彼のほうへ目をやらなくても、彼の動作はすべて彼女には見えていた。
演奏の後で彼女は、玉座から数歩のところに据えられた大公のゲーム用の机にファブリツィオが近づくのを見た。
しかしクレッシェンツィ侯爵は、自分の妻が玉座からひどく遠いところへ追いやられているのを見てひどく腹を立てていた。夜会のあいだじゅう侯爵は、大公妃から三つ目の椅子にいる、彼が金を貸してある男の細君にむかって、自分の妻と席を取り換えてくれないかと一生懸命くどいていた。当然のことながらその気の毒な婦人がうんと言わないので、彼は債務を負っている亭主のほうをさがしに行き、亭主は細君をしぶしぶながら承服させた。こうしてようやく交換の話がまとまって、侯爵は妻を呼びに行った。
「あなたはいつまでたってもつつましすぎる。どうしてそんなに目を伏せて歩くのです? そんなことでは町人の女と思われてしまう。こんなところにいるのがわれながら不思議千万だと自分でも思い、また誰もがこんな場所で見かけるのは不思議だと思うような女と。あの気まぐれな女官長のやりかたと来たらいつもこうなのだ! それでいて過激思想《ジャコビニスム》の拡大を阻もうなどと言っているんだから! あなたの夫は大公妃の宮廷で男性としては第一の地位にあるのだということを考えなくちゃいけない。しかも、たとい共和主義者が宮廷のみか貴族階級を廃することに成功したとしてすら、あなたの夫はこの国で最も富裕な人間なのだ。この考えがまだ充分あなたの頭にはいっていない」
侯爵が妻に坐らせた椅子は、大公のゲーム用の机からわずか六歩ばかりしかなかった。彼女にはファブリツィオの横顔しか見えなかったが、ひどく痩せているように思われ、また以前は何事につけても一家言なしにはすまさなかった彼が、この世に起こるすべてのことにまったく超然としているように思われて、彼女はしまいに次のような恐ろしい結論を下さざるを得なかった。ファブリツィオはすっかり変わったのだ、自分のことなど忘れてしまったのだ、あんなに痩せているのは、信仰心の命ずるまま厳しい断食をおこなっているからだ、と。周囲の人々すべての話していることからも、この悲しい考えは確認された。大司教補佐の名は誰の口にも上った。彼の得た非常な寵遇の理由を人々は考えていた。あんなに若いくせに大公のゲームのお相手を許されるなどとは! 殿下にむかって切り札をつきつけるときですら、鄭重で無関心な、傲慢な態度でカードを投げているのに人々は感嘆した。
年取った廷臣たちは叫んだ。
「まったく信じられんことだ。叔母に対する寵遇を見て、あの男はすっかり頭がおかしくなってしまったのだ……が、ありがたいことに、こんなことは長くはつづかないだろう。御主君は人がああいう偉そうな態度をするのを好まれないからね」
公爵夫人は大公に近づいた。畏《おそ》れ多いとしてゲーム用のテーブルからかなりの距離のところに控えていた廷臣たちには、大公の話は偶然に一言二言聞こえるくらいでしかなかったが、ファブリツィオが真赤になるのは気がついた。(叔母があの無関心らしい横柄な態度を叱ったのだろう)と彼らは思った。実はファブリツィオはクレリアの声を聞いたのだ。舞踏場のなかを一まわりして来た公爵夫人が侍従長の妻に言葉をかけ、クレリアがそれに返事をしたのである。
そのうちファブリツィオはウィストの席順を変えることになった。そうするとちょうどクレリアと向かい合うことになり、何度となく彼女の姿を眺めて楽しんだ。かわいそうに侯爵夫人は彼に見られていることを意識し、すっかり取り乱してしまった。どんな誓いを自分が立てたかを忘れたことも何度かあった。ファブリツィオの心のなかを何とか読み取ろうとして彼女はファブリツィオをじっとみつめたのだ。
大公のゲームが終わると婦人方は夜食の間に移るために立ち上がった。ちょっと混雑があった。ファブリツィオは気がついてみるとクレリアのすぐそばにいた。彼の決意はまだいささかもゆるがなかったが、ふと彼女が服につけているごくかすかな香水の匂いに気がついた。この感覚は彼が自分に誓っていたことのすべてをくつがえした。彼女に近づいて、かつてマジョーレ湖から絹のハンケチに刷りこんで送ったあのペトラルカのソネットの二行を、まるで独り言のように低い声で口ずさんだ。
「世の人が私を不幸と思っていたとき、私の幸せはいかばかりだったろう。今は私の身の上はすっかり変わってしまった!」
(いや、この人は決して私を忘れてはいない)とクレリアは再びに我を忘れて思った。(この美しい心は決して浮気ではないのだ!)
愛することを教えてくれた美しい目よ、
私の心は決して変わることはあるまい。
クレリアはペトラルカのこの二行を何度も自分自身にむかってくりかえしさえした。
大公妃は夜食の後ですぐ引き揚げた。大公は部屋まで母について行き、その後まったく宴会の部屋に姿をあらわさなかった。このことが知れるや否や、みなは一どきに帰ろうとした。控えの間はてんやわんやの騒ぎだった。クレリアはたまたまファブリツィオのすぐそばにいたが、彼の顔立ちにあらわれている深い不幸のしるしに彼女は同情をおぼえた。
「過去のことは忘れましょう」と彼女はファブリツィオに言った。「これを友情《ヽヽ》のかたみに持っていてください」
こう言いながら彼女はファブリツィオが取れるところに自分の扇を置いた。
ファブリツィオの目にはすべてが一変した。一瞬のうちに彼は別人になった。翌日早々彼は隠遁は終わったと言明してサンセヴェリーナ邸の豪華な部屋にかえった。大司教は大公からゲームの相手にされるという寵遇を受けて、この新しい聖人はすっかりのぼせあがったのだと思いもし、言いもした。公爵夫人は彼がクレリアと和解したのを見て取った。このことを思うと、例の宿命的な約束を思い出すたびに味わう不幸な気持ちが余計堪えがたくなって、とうとう彼女はしばらくこの地を離れる決心を固めた。人々は彼女の常軌を逸した行動に舌をまいた。何と、彼女に与えられている寵遇がまったく際限もないように見えるときに宮廷から離れるとは! ファブリツィオと公爵夫人とのあいだに愛情など全然ないのを知って以来幸福この上ない伯爵は彼女にこう言った。
「今度の大公は道徳の権化《ごんげ》みたいな人だが、私はあの人のことを|あの子《ヽヽヽ》と呼んでしまいました。いつか大公は私を許してくれるだろうか? ほんとに大公との友好をとりもどす方法は私の見るところ一つしかない。離れていることです。これから私は申し分なく愛想よくうやうやしくふるまい、その後で病気になって、賜暇《しか》をお願いする。あなたもいけないとは言わないでしょうね。ファブリツィオのことはもう心配ないのだから。しかし」と彼は笑いながらつけくわえた。「あなたは、公爵夫人という最高の称号をそれよりずっと下のものに変えるという、大変な犠牲を払ってくれるでしょうね? ちょっとしたいたずらだが、私はこちらのほうの政務を始末に負えぬほど引っかきまわしておいてやる。私の管轄のいろんな省によく働くものが四、五人いたのだが、フランス語の新聞を読むという理由で二月《ふたつき》前に年金づきで退職させておいた。その後任に入れてやったのは途方もない愚物です。
私たちが行ってしまったら大公は窮地におちいるでしょう。その結果、ラッシの性格を非常に嫌っているにもかかわらず、あの男を呼びもどさねばならないんじゃないかと私は思う。そこで私としては私の運命を握っている暴君の命令を待つだけです。その命令が来たらわが友ラッシに友情をこめた手紙を書いて、君の真価が近々正しく認められるのではないかと思う理由があると言ってやるのですよ」
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第二十七章
この真剣な会話がおこなわれたのはファブリツィオがサンセヴェリーナ邸に帰った翌日のことである。公爵夫人はファブリツィオのあらゆる行為に溢れ出る喜びにまだ打ちのめされていた。(ではあの信心屋の小娘は私を瞞《だま》したんだ!)と彼女は思った。(わずか三か月も恋人に逆らい切れなかったんだ)
結局すべては上首尾に終わると見通しがついてしまうと、あれほど臆病者の若い大公にも恋をする勇気が出て来た。彼はサンセヴェリーナ邸でおこなわれている出発の準備のことを少々知っていた。しかも貴婦人というものの貞操をあまり信用していないフランス人の侍僕のおかげで、彼は公爵夫人に対して思い切った態度に出る気になった。エルネスト五世は大公妃や宮廷の分別ある人たちすべてから非難されるような行動に出た。民衆はこれを見て公爵夫人が受けている驚くべき寵遇がいよいよ決定的なものになったのを知った。大公は彼女に会うためにその屋敷を訪れたのだ。
彼は真剣な口調でこう言ったが、この口調は夫人には厭《いと》わしいものに思われた。
「あなたは行ってしまうのですね。私を裏切り、誓いを破るのですね! 私がファブリツィオに特赦を与えることを十分遅らせたら、ファブリツィオは死んでいたはずだというのに。しかもあなたは私をいつまでも不幸なままにしている! あなたの誓いがなかったら私は決してこのようにあなたを愛する勇気など持てなかったろうに! それではあなたには信義というものがないんですか!」
「とっくり考えてみてくださいまし、殿下。これまでの四か月のあいだほどの幸福な時期が殿下の生涯にございましたか? 君主としての名誉、またあえて私はこう申しますが、愛すべき男性としての幸福が、これほどまでに大きくなったことはこれまで一度もありません。こういう契約を結んだらいかがでしょう。もしこの契約に同意してくださるなら、ほんの束の間、それも恐怖に迫られてした誓いによって殿下に身をまかせるのではなく、生涯を通じていついかなるときも殿下の幸福のために身を捧げましょう。これまでの四か月とまったく同じようにいたしますし、そのうち好意のあげくに愛情が生まれるかもしれません。そうならないとどうして言えましょう」
「よろしい!」と大公は有頂天になって言った。「それでは別の役を選んでください、それ以上のものになってください、私と私の国を支配してください、私の総理大臣になってください。この身分のものが従わねばならぬつまらぬ慣例の許すような形で結婚しようではありませんか。近いところにその例がある。ナポリ王が最近パルターナ公爵夫人と結婚したのだ。私が言えるのはせいぜいこのような結婚をしようということです。私がもう子供ではなく、何もかも充分考えてあるということを証明するために、おもしろくもない政治的なことをつけくわえておきましょう。何も恩きせがましく言うつもりはないが、この結婚によって私は私の一族の最後の君主となり、自分の目の黒いうちに私の位の継承権が諸強国によって勝手に論議されるという悲しみを味わわねばならないわけだ。この不愉快な現実を私は歓迎する。そのおかげで私は、私の敬意と情熱をあなたにむかって証明することがまたできるわけだから」
公爵夫人は一瞬も思い惑いはしなかった。大公にはほとほと厭気がさし、伯爵ほど愛すべき人間はいないように思えた。伯爵よりもいいと思われる人間はこの世に一人だけしかいないのだ。しかも彼女は伯爵に対しては支配権を持っていた。だが、大公はその身分にものをいわせて、いつかは彼女を意に従わせるだろう。それにまた、大公は浮気心を起こして別に愛人をつくるかもしれない。年齢の差を考えれば、数年のうちにそれも当然だということになりそうだ。
退屈するにきまっていると考えただけで最初から万事は決定していた。けれども公爵夫人は愛想よくしたいと思ったから、よく考えさせてほしいと頼んだ。
彼女が拒絶を包むのに用いたほとんど情のこもったと言えるほどの言いまわしやいかにも愛想のいい言葉は、ここに書くには長すぎる。大公は怒り出した。すべての幸福が指のあいだから漏《も》れて行くのがわかったのだ。公爵夫人が宮廷を去ったらどういうことになるだろう? それにまた、はねつけられるとなれば何という屈辱だ!(とにかく、この失敗を話してやったらあのフランス人の侍僕は何と言うだろう?)
公爵夫人はたくみに大公の心をしずめ、すこしずつ話を本題にひきもどした。
「あの因果な、自分を軽蔑しなければならぬように思えて私にとっては厭《いと》わしい約束の実行を決して急《せ》かさないとおっしゃってくださるなら、私は一生この宮廷にとどまりますし、この宮廷はいつまでも今年の冬の宮廷と同じでしょう。夜昼問わず私は殿下の男性としての幸福と君主としての栄光のために努めましょう。もし殿下があの誓いに従うことを即刻要求されれば、私のこれからの生涯に汚点を残すことになりましょう。私はただちにこの国を去ってもう二度と帰ってはまいりません。私が名誉を失う日が、殿下が私にお会いになる最後の日となりましょう」
しかし臆病者らしく大公はしつっこかった。その上、男性としてまた君主としての彼の自尊心は結婚を拒まれたことに怒りをおぼえていた。この結婚を承諾させるために乗り越えなければならぬ障害を彼はすべて予想していたが、あえてそれに打ち克とうと彼は決意していたのだ。
三時間にわたって双方から同じ議論がむしかえされ、しばしば激しい言葉もまじえられた。大公は叫んだ。
「それではあなたは、あなたに信義が欠けていると私に思わせたいのですか? ファビオ・コンティ将軍がファブリツィオに毒を盛った日、私がこんなに長いことぐずぐずしていたとすれば、今頃あなたはパルマのどこかの教会に彼の墓を建てているところだったろう」
「とんでもない、パルマなどではありません、こんな毒殺者の国なんか」
「それならお発ちなさい、公爵夫人」と大公は憤然として言った。「私の軽蔑を背負って行くがいい」
立ち去ろうとする彼にむかって公爵夫人は低い声で言った。
「よろしゅうございます、それなら午後十時にここにおいでくださいまし、決して人に知られぬように。でもこの取引では殿下のほうが損をなさいますよ。お目にかかるのもそれっきりとなりましょうから。そうでなければ私は、この過激派《ジャコバン》の世紀に絶対君主として望み得る最大限の幸福を殿下が得られるように生涯かけて努めましたものを。それに私がいなくなったら、この宮廷がどうなるかお考えになってください。もともと味気なくこすっからいこの宮廷の雰囲気を、私ならどんなにしてでも追い払って見せますが」
「そういうあなたのほうは、パルマの后《きさき》の位を拒んでいるではありませんか。いや后以上の地位だ。なぜならあなたは政略で結婚させられた愛されぬ后にはならなかったはずだ。私の心は完全にあなたに捧げられている。あなたは私と私の政府の絶対的な支配者になっていたはずなのだ」
「そうかもしれません。でもそうすればお母君様から、きたない策謀をする女として軽蔑されても文句は言えなかったでしょう」
「そうなれば私は年金を与えて母を追放したことでしょうよ」
こうした辛辣なやり取りがまだ四十五分ほどもつづいた。繊細な心の持主である大公は自分の権利に物を言わす決心もつきかねたし、公爵夫人が立ち去るのを見送る決心もつかなかった。どんなやりかたでもいいが、とにかく緒戦に勝ちさえすれば、いったん離れても女はもどって来るものだと彼は言われたことがあった。
憤慨した公爵夫人に追い出された彼は、十時三分前に戦々兢々として惨めな気持ちでまたやって来た。十時半に公爵夫人は馬車に乗ってボローニャにむかって出発した。大公の領土を出るや否や彼女は伯爵にあてて手紙を書いた。
犠牲はおこなわれました。一月《ひとつき》ほどは私に陽気になれとおっしゃらないでください。私はもうファブリツィオには会いません。ボローニャであなたをお待ちし、いつでもあなたのお望みのときにモスカ伯爵夫人になります。ただ一つだけお願いします。いま立ち去ったこの国にもどれとは、今後決しておっしゃらないでください。それから十五万フランではなくせいぜい三万か四万フランの年金しか得られないことをお忘れなく。これまで愚かな連中はみな口をあんぐりあけてあなたに見とれていましたが、今度はあなたも何段か下がって彼らのつまらない考えを理解してやらなければ、もはや尊敬されないことになるでしょう。「身から出た錆《さび》だよ、ジョルジュ・ダンダン!」〔モリエールの喜劇『ジョルジュ・ダンダン』のなかの有名なせりふ〕というところ。
一週間後、伯爵の先祖の墓があるペルージャの教会で結婚式はおこなわれた。大公は絶望にくれた。それまでに公爵夫人は大公から三度か四度手紙を受け取ったが、いつも封も切らずに封筒のまま大公に送り返していた。エルネスト五世は伯爵に巨額の手当金を与え、ファブリツィオにはパルマ国の大綬章を与えた。
「あの人の餞別のなかでとりわけ私の気に入ったのはそれでしたよ」と伯爵は新しいモスカ・デッラ・ロヴェーレ伯爵夫人に言った。「私たちはこの上ない親友として別れました。あの人はスペインの大綬章をくれたし、それだけで大綬章と同じ値打ちのあるダイアモンドもくれた。私を公爵にしたいが、それはあなたをパルマに呼びもどす手だてとして取っておきたいとも言った。そういうわけで、これは夫としては光栄な役目ですが、あなたにこう言ってくれと私は頼まれているのです。たとい一月《ひとつき》でもあなたがパルマにお帰りくださるなら、あなたの選んだ名で私は公爵になり、あなたはすばらしい領地を持つことになる、と」
虫酸《むしず》がはしるような思いで公爵夫人はこれをことわった。
宮廷の舞踏会で演じられたかなり決定的と思われるようなあの場面の後、クレリアは束の間彼女の心にもよみがえったらしいあの愛情を忘れ去ったかのように見えた。この上なく激しい良心の呵責がこの貞淑で信仰深い心を捉えてしまっていた。ファブリツィオにはこれがよくわかったので、いくら希望を抱こうと努めても暗い惨めな思いが何としても彼の心を占めてしまうのだった。けれども今度はクレリアの結婚のときのように惨めな気持ちに引かれて隠遁しようとはしなかった。
伯爵は|自分の甥《ヽヽヽヽ》に、宮廷で起こることをくわしく書いてよこしてくれと頼んでいたし、伯爵からどれほど恩を受けているかがわかりはじめたファブリツィオは、誠実にこの使命を果たそうと心に誓っていた。
市民たちや廷臣たちと同じくファブリツィオも、伯爵が内閣に復帰しよう、しかもこれまで一度も持たなかったほどの権力を得て復帰しようと画策していることを疑わなかった。伯爵の予想は間もなく的中した。彼が去って六週間もしないうちにラッシは総理大臣に、ファビオ・コンティは陸軍大臣になり、伯爵がほとんど|から《ヽヽ》にしておいた牢獄はふたたび一杯になった。大公はこの連中を政権につけることで公爵夫人に復讐したつもりだった。彼は恋に狂っており、特にモスカ伯爵を恋仇として憎んでいた。
ファブリツィオにもいろいろと仕事があった。七十二歳のランドリアーニ猊下《げいか》はひどく衰弱してしまって屋敷からほとんど出ないので、その職務のほとんどすべてを大司教補佐がつとめねばならなかった。
良心の呵責にうちひしがれ、聴罪司祭におどしつけられたクレッシェンツィ侯爵夫人は、ファブリツィオの視線を逃れるための誂え向きの方法を見つけた。初産《ういざん》の臨月が近づいているという口実をかまえて、彼女は自分の屋敷にとじこもった。しかしこの屋敷には広い庭があった。ファブリツィオはうまくそこに忍びこみ、クレリアが一番好んでいる通路に花束を置いたが、この花束は彼のファルネーゼ塔における幽囚の生活の終わりごろ、毎夜彼女がとどけてくれたものと同じように、一つの言葉となるように配置してあった。
侯爵夫人はこのやりかたに腹を立てた。彼女の心はある時には良心の呵責に、ある時には情熱に動かされていた。何か月ものあいだ彼女はただの一度も屋敷の庭に降りようとしなかった。庭へ目をやることさえ彼女には気が咎《とが》めた。
ファブリツィオは彼女にはもう永久に会えないと思いはじめ、絶望が彼の心をも捉えはじめた。自分の生きている世界がほとほとおぞましくなり、モスカ伯爵は内閣を離れては心の平和を得られないのだと心ひそかに確信していなかったとすれば、彼は大司教邸内の自分の小さな部屋にひきこもってしまっただろう。職務を執行するときのほかはまったく人間の声を聞かず、ひたすら自分一人の物思いに耽って暮らせたら彼としては気が楽だったろう。
(けれどもモスカ夫妻のためには、おれ以外の人間では用がつとまらない)と彼は自分に言い聞かせた。
大公は依然として彼を優遇し、そのため彼はこの宮廷で最高の地位を得ていたが、この寵遇は大半彼自身の力で得たものだった。ファブリツィオの極度のつつましさは、人間の生活を満たしている気取りやけちくさい情念に対する、嫌悪にまでたかまる無関心から来ているのだったが、このつつましさが若い大公の虚栄心を刺激した。ファブリツィオは叔母と同じくらい頭がいいと大公はよく言っていた。無邪気な大公はそれなりに真実を半ば見抜いていた。それは、ファブリツィオのような気持ちで大公に接するものは一人もいなかったということである。
最も俗っぽい廷臣の目にもはっきりしていたのは、ファブリツィオのかちえた尊敬は単なる大司教補佐にふさわしいものではなく、大司教その人に大公が示す敬意をも凌駕《りょうが》していることだった。ファブリツィオは伯爵にあてて、ラッシ、ファビオ・コンティ、ツルラといった大臣やそれと同じ程度の力倆しか持たぬ連中のおかげでこの国の政治がどれほどひっかきまわされているかを見て取るだけの頭を大公が持っているとすれば、そのときには、大公が自尊心をあまり傷つけられずに伯爵に声をかける仲介の労をとりましょうと書いてやった。
彼はモスカ伯爵夫人に言ってやった。
ある才人がやんごとなき身分の方について言った|あの子《ヽヽヽ》という因果な言葉を記憶にとどめていなければ、このやんごとなき身分の方は、「早く帰って来てこの乞食どもを自分のそばから追い払ってくれ」とすでに叫んでいたでしょう。その才人の妻がほんのちょっとした働きかけをする気になったら、今日にでも伯爵は大喜びで呼びもどされるでしょう。しかし実《み》が熟すまで待つ気があれば伯爵はもっと堂々と帰れましょう。とにかく大公妃のサロンでは、みな退屈し切っています。このサロンで楽しめるのはラッシの狂態くらいのもので、この男は自分が伯爵になって以来、貴族気ちがいになってしまいました。八代前からの貴族であることを証明し得ないものは大公妃の夜会に出席することを|遠慮すべし《ヽヽヽヽヽ》(こう勅書《ちょくしょ》に書いてあるのです)という厳しい命令が最近出ました。朝、大廻廊にはいって、御主君がミサに行かれるところに立ち会う資格のあるものは、この特権を維持できますが、新参のものは八代の貴族たることを証明しなければなりません。そこで人々は、これでラッシが|家系なく心ない《サン・カルチェ》人物であることがよくわかると言っています。
このような手紙が郵便で出されなかったことは言うまでもあるまい。モスカ伯爵夫人はナポリから返事をよこした。
私たちは木曜毎に音楽会をもよおし、日曜毎におしゃべりをしています。私たちのサロンは身動きもできないほど一杯になります。伯爵は発掘に夢中で、月に千フランもつぎこみ、最近アブルッツィの山のなかから人夫を呼びました。この連中の日給は二十三スーですむのです。是非私たちに会いに来てください。これでもう二十回以上も同じことを言っているのですよ、恩知らずさん。
ファブリツィオは会いに行く気がなかった。毎日伯爵なり伯爵夫人なりに手紙を書くことだけでも、ほとんど堪えがたい苦役《くえき》に思われた。丸一年も過ぎながら一度もクレッシェンツィ侯爵夫人に言葉をかけることができなかったのを思えば、それも無理もないだろう。どうにかして連絡することはできないものかと働きかけてみるのだが、いつもにべもなくはねつけられてしまった。人生に倦《う》んだファブリツィオが職務の執行のときと宮廷に出たときを除いていつも守っている沈黙は、清浄潔白なおこないと相まって、彼を異常なまでの崇敬の対象に仕立ててしまった。そこで彼はとうとう叔母のすすめに従う決心をした。彼女はこう書いて来たのだ。
大公があなたに対して非常な崇敬の念を抱いているとなると、間もなく失寵におちいるものと覚悟しなければなりません。大公はあなたを無視するようなそぶりを見せはじめ、やがて廷臣どもがそれにならって恐ろしい軽蔑を示すでしょう。こうした小専制君主はどんなに誠実な人間であっても、流行というもののように変わりやすいのです。しかもその理由はいつも同じ、倦怠です。君主の気まぐれに対抗するには、説教によるしかないでしょう。詩を作るときにはあなたはみごとに即興して見せるじゃないの! 三十分ほど宗教について話してごらんなさい。最初のうちは異端の考えを語るでしょうが、学識のある口の固い神学者を雇って、あなたの説教に立ち会わせ、あやまちを指摘させるのです。次の日そのあやまちを直せばいいでしょう。
叶《かな》わぬ恋に悩むものにとっては、注意力や行動を必要とすることはすべてやりきれない苦役となる。しかしファブリツィオは、もし自分が民衆の信望を得れば、いつか叔母や伯爵のために役立てられるかもしれないと自分に言い聞かせた。伯爵に対する彼の尊敬は、仕事によって人間の邪悪さを知るにつれて日に日に増した。彼は説教をする決心をしたが、その痩《や》せた体と擦り切れた服のせいもあって、彼の成功は前代|未聞《みもん》だった。彼の講話のなかには深い悲しみの余韻が感じられ、それが端正な容貌と、宮廷で非常な寵を得ているという噂と相まってすべての女の心を奪った。女たちは彼がナポレオン軍の最も勇敢な中隊長の一人だったなどという話まで作り出した。間もなくこの馬鹿げた話を疑うものはいなくなった。彼が説教することになっている教会の席を取らせておくものもいた。貧乏人たちはひと儲けしようとして朝の五時からその教会に坐りこんだ。
成功があまり大きかったためにファブリツィオはふとあることを思いついたが、この考えによって彼の心は一変してしまった。単なる好奇心からでもクレッシェンツィ侯爵夫人がいつか自分の説教を聞きに来はしないだろうかと考えたのだ。不意に聴衆は彼の弁舌の才がいっそうの輝きを加えたのに気がついて魅了された。昂奮したときには彼は、どんな老練な雄弁家も怯えるほどの大胆な比喩さえ使った。時には我を忘れて情熱的な霊感に身をまかせ、聴衆はすべて涙にくれた。しかし彼が目をこらして、説教壇に向けられている多くの顔のなかから一つの顔を捜し出そうとしても無駄だった。その顔が見られたら、彼にとってはどれほど大きな事件だったことか。
(しかしさいわいにしていつかそんなことになったら、おれは気が遠くなるか、全然口がきけなくなってしまうだろう)と彼は思った。この後のほうの場合にそなえて、彼は感動と情熱のこもった祈祷文のようなものを作っておき、それをいつも説教壇の腰掛の上に置いていた。侯爵夫人の姿が見えて一言も頭にうかばぬようになったらこの文章を読み出すつもりだった。
ある日彼は侯爵の使用人のなかの彼に買収されている連中から、翌日大劇場にクレッシェンツィ家専用の桟敷を準備しておけという命令が出たことを知らされた。侯爵夫人が劇場などにあらわれなくなってから一年もたっていたが、人気をさらっているテノール歌手がいて毎夜劇場は満員だと聞いて、彼女は習慣にそむいて腰を上げる気になったのだ。ファブリツィオが最初に感じたのは非常な喜びだった。(やっと一晩ゆっくりと彼女を見られる! ひどく顔色が悪いという噂だが)そして彼はあの魅力的な顔が内心の葛藤《かっとう》のためにほとんど血色を失っているところを思い描いた。
腹心のロドヴィーコは彼自身言うところの御主人の気ちがい沙汰に呆れかえりながら、だいぶ苦労はしたものの、侯爵夫人の桟敷とほとんど向かい合った四列目の桟敷を取ることができた。ある考えがファブリツィオの心にうかんだ。(おれの説教を聞きに来る気を起こさせてやろう。よく見ることができるようにごく小さい教会を選ぶのだ)
ファブリツィオは普通三時に説教した。侯爵夫人が劇場へ行く予定の日の朝、彼は職務のため一日じゅう大司教邸にいなければならぬからこの日は特別にサンタ・マリア・デッラ・ヴィジタツィオーネの小会堂で午後八時半から説教をおこなうと触れさせた。この教会はちょうどクレッシェンツィ邸の一翼と向き合っている。ロドヴィーコは自分の名でヴィジタツィオーネ会堂の修道女たちに莫大な量の蝋燭を寄進して、会堂のなかを昼のように明るくしてくれと頼んだ。近衛擲弾兵《このえてきだんへい》一個中隊を彼は動員し、盗難を防ぐために着剣した銃を持った歩哨が各礼拝堂の前に配置された。
説教は八時半からということになっていたのに、二時には会堂はすっかり満員になっていて、クレッシェンツィ邸の高雅な建物がそびえているひっそりとした通りはものすごい喧騒で蔽われていた。ファブリツィオは|慈悲の聖母《ヽヽヽヽヽ》を讃えて、たとえ罪あるものであろうとも不幸な人間に対しては寛大な心の人は慈悲を抱かねばならぬが、その慈悲について説教すると予告させておいた。
できるだけ注意深く変装してファブリツィオは、まだ全然あかりのついていない開場の時刻に劇場の自分の桟敷にはいった。芝居は八時頃はじまったが、それから数分して彼はそれを味わったことのない人間には決してわからないようなあの喜びを得た。クレッシェンツィ家の桟敷の扉があくのが見えて、しばらくして侯爵夫人がはいって来た。扇をもらったあの日以来、こんなにはっきりと彼女を見たことはなかった。ファブリツィオは喜びのあまり息が止まるのではないかと思った。異常なまでの感動をおぼえてこう思った。(おれはもう死ぬかもしれない! こんな悲しい人生を閉じるにはすばらしい死に方じゃないか! もしかするとこの桟敷のなかで倒れるかもしれない。ヴィジタツィオーネ会堂に集まっている信者たちはおれが姿をあらわすのを見ず、明日になって、未来の大司教はオペラ座の桟敷で正気を失っていたことを知るだろう、しかも召使に変装し、仕着《しきせ》を着て! おれの声望もそれまでだ! だが声望などというものがおれにとって何になる!)
けれども八時四十五分頃になってファブリツィオは強いて自分の心を励まし、四列目の桟敷を出た。仕着のような服を脱いでもっとちゃんとしたものに着換える予定の場所に歩いて行くのは、彼にとって大変な努力だった。ようやく九時頃になって彼はヴィジタツィオーネ会堂に着いたが、蒼白で気息|奄々《えんえん》たる有様で、大司教補佐|猊下《げいか》は今夜は説教することができないという噂が会堂のなかにひろがったほどだった。彼は奥の応接室に身をかくしたが、そこで修道女たちがどれほど甲斐甲斐しく彼を看護したかは想像にあまりある。この御婦人方はひどくおしゃべりだった。ファブリツィオはしばらく一人にさせてくれと言い、それから急いで説教壇に上った。
腹心のものの一人が三時頃、会堂は一杯になっているが一番低い階級のものばかりで、おそらく煌々《こうこう》とした照明にひきつけられて来たらしいと告げていた。ところが説教壇に上ってみると、すべての椅子が着飾った青年男女や最高の貴顕たちに占められているのを見て嬉しい驚きをおぼえた。
説教は二言三言謝罪の言葉ではじまったが、その言葉は低く押えた感嘆の叫びで迎えられた。次いで彼は、おんみずからこの世で多くの苦しみをなめられた|慈悲の聖母《ヽヽヽヽヽ》にそれにふさわしい敬意をあらわすためには不幸な人間を憐れまねばならぬとして、その不幸な人間とはどういうものかを熱情をこめて描き出した。彼自身非常に感動していた。時々、小さな会堂なのに隅々まで声が通るように物を言うことが不可能なまでになる。すべての女性の目に、それのみか多数の男性の目にも、彼自身が憐れまれねばならぬ不幸な人間と映じた。それほど蒼白になっていたのだ。
謝罪の言葉で説教をはじめて数分すると、人々は彼がいつもとは調子が違っていることに気がついた。この夜の彼にはいつもよりももっと深い、もっとしみじみとした悲しみが見られた。一度などは彼の目に涙があった。たちまち聴衆のなかに一斉に騒々しい啜《すす》り泣きの声があがり、そのため説教は完全に中断されてしまった。
これ以後も説教は十回も中断された。感嘆の叫びがあるかと思えば涙にむせぶこともある。「ああ、聖母さま!」とか「おお、神さま!」というような叫びがしょっちゅうしていた。感動はこの貴顕の聴衆のなかに逆らいがたい力でひろがっていて、叫び声を上げることを恥じるものはいず、感動に引きずりこまれた人々を見ても周囲のものは滑稽と思わなかったのだ。
説教の半ばで休息するのが習慣になっているが、そのときファブリツィオは、劇場にはもう誰一人残っていないと聞かされた。ただ一人だけ桟敷に残っている貴婦人がいたが、それはクレッシェンツィ侯爵夫人だったという。この休息のあいだに会堂のなかで急に騒がしい音がした。信者たちが大司教補佐の像を作ることを議決していたのだ。後半の彼の成功は、もうまったく正気の沙汰でない、しかも非宗教的な性質のものになっており、キリスト教的な痛悔などは全然なく、まったく世俗的な感嘆の叫びばかり多かったので、彼は説教壇から降りるときに聴衆を少々たしなめねばならぬと思ったほどだった。それから皆は一斉に、何か奇妙な四角張った様子で退場した。そして通りまで出ると熱狂的に拍手し、口々に叫びはじめた。
E vviva del Dongo!〔デル・ドンゴ万歳〕
ファブリツィオはあわただしく時計を引っぱり出して見、オルガン席から修道院の内部に通ずる狭い通路の明り取り窓になっている格子のはまった小窓へ急いだ。通りを埋めている無数の異様な群衆に敬意を表して、クレッシェンツィ家の門衛は中世に建てられたこの屋敷の正面の壁から突き出したあの鉄の鉤手《かぎて》に十数本の松明《たいまつ》をつけておいた。それから数分して、叫び声がまだやまないうちに、ファブリツィオが不安な気持ちで待っていたことが起こった。劇場から帰って来る侯爵夫人の馬車が通りにあらわれたのだ。馭者は車を止めねばならなかった。小刻みに進み、しかもさんざんわめきちらした上で、馬車はやっと門に着いた。
不幸な心はいつもそうなのだが、侯爵夫人はすばらしい音楽に感動させられた。しかし劇場がすっかり閑散とした理由を知ったときには、それ以上に心を打たれたのであった。第二幕のまんなかごろ、すばらしいテノール歌手は舞台に出ていたが、平土間の連中すら突然席を立って、僥倖《ぎょうこう》をたのんでヴィジタツィオーネの会堂にもぐりこんでみようとして出て行ったのだ。侯爵夫人は自宅の門の前で群衆に馬車を止められて涙にくれた。(私の選択は間違っていなかったんだ!)と彼女は思った。
しかしまさにこの感動の一瞬のためにこそ彼女は、侯爵や彼ら一家の友人たちがしきりにすすめるのにも頑として耳をかさなかった。この人たちには彼女がこれほど驚くべき説教師を見に行こうとしない理由がまったくわからなかった。「とにかくあの人はイタリア第一のテノール歌手にも勝ったんだから!」と皆は言っていた。(あの人に会ったら私はおしまいだ)と侯爵夫人は心のなかで言った。
ファブリツィオの才能は日に日に輝かしさを増すように見えたが、彼がクレッシェンツィ邸の隣のあの同じ小会堂でなお何度か説教をおこなってもクレリアの姿は全然見られなかった。それどころか彼女は、自分の庭にいられなくしたばかりか、今度はこのひっそりとした通りをかきみだしに来た彼の気障《きざ》っぽいやり口にしまいに腹を立てたほどだった。
自分の話に聞き入っている女たちの顔を見まわしながら、ファブリツィオはかなり前から栗色の髪をした非常にきれいな顔に気づいていた。その目は炎を放つように輝いている。説教がはじまっていくらもたたないうちに、この美しい目は涙をたたえてしまう。ファブリツィオは自分で長ったらしく退屈だと思えるようなことを言わねばならぬときには、その若々しさで彼の心を楽しませてくれるこの顔に好んで視線を注いだ。この娘はアンネッタ・マリーニという名だということを彼は知った。数か月前に死んだパルマの最も裕福なラシャ商人のただ一人の跡取り娘だという。
間もなくラシャ商人の娘アンネッタ・マリーニの名がすべての人の口に上るようになった。彼女はファブリツィオにのぼせあがってしまったのだ。有名な説教がはじまった頃、彼女と司法大臣の長男ジャコモ・ラッシとの縁談はきまっていた。彼女はこの男を憎からず思っていたのだ。ところが二度ほどモンシニョーレ・ファブリツィオの説教を聞くや否や、彼女はもう結婚する気はないと言明した。そしてこの突飛な心変わりの理由を聞かれると、ある男に夢中になっていながらほかの男と結婚するのはまじめな娘のすべきことではないと答えた。そのある男というのが誰かと家族は詮索したが、最初のうちは見当もつかなかった。
しかしアンネッタが説教を聞いて熱い涙を流していることから真相が割れて来た。母と伯父たちからモンシニョーレ・ファブリツィオに恋しているのかと聞かれると、真実が見破られた以上自分は嘘をつくような卑しい真似はしないと敢然と言い切った。さらに彼女は、自分の熱愛している男と結婚できる見込みは全然ないが、コンティーノ(小伯爵)・ラッシの滑稽な顔を見せつけられることだけはもういやだと言ったものだ。市民階級の人々すべての羨望の的になっている人物の息子がこのように嘲笑されたことは、わずか二日のうちに町じゅうの話題になった。アンネッタ・マリーニの返事は痛快に思われ、皆がこの文句を言った。よそと同様にクレッシェンツィ家でもこのことは話題になった。
自分の家のサロンでは、クレリアはこのような話題に触れることをつつしんだ。だが小間使にいろいろ質問し、次の日曜には自邸の礼拝堂でミサを聴いてから、小間使を自分の馬車に乗せてマリーニ嬢の教区にもう一度ミサを聞きに出かけた。そこには町じゅうの色男が彼女と同じ理由で集まって来ていた。この連中は門の前に立っているのだ。やがて彼らのあいだにざわめきが起こって、侯爵夫人は例のマリーニ嬢が教会にはいったことがわかった。侯爵夫人の占めていた位置は彼女を見るには絶好だった。敬虔だったにもかかわらず、夫人はほとんどミサに注意を払わなかった。クレリアはこの町人の美少女には何かちょっと気の強そうなところがあると思った。彼女に言わせれば、せいぜいのところこれは結婚して何年にもなる女にふさわしいものだった。それにしても娘は小柄ながら体つきはすばらしく、その目は、これはロンバルディアでよく言うことだが、自分の見ているものと話をしているように見えた。侯爵夫人はミサが終わらぬうちに逃げ出した。
その翌日早々、クレッシェンツィ家に毎晩やって来る友人たちがアンネッタ・マリーニの新しい奇行のことを話した。娘が何か無分別をやらかしはしないかと心配した母親はあまり彼女に金を持たせなかったが、アンネッタは父親からもらったすばらしいダイアモンドを、当時クレッシェンツィ家のサロンを飾るためにパルマに来ていた有名なアイエスのところへ持って行き、デル・ドンゴ様の肖像をかいてくださいと頼んだという。しかも聖職者の服ではなく、ただの黒服の肖像を所望したのだ。ところで、その前日アンネッタの母親は娘の部屋のなかで、ここ二十年来パルマで作られた最も美しい金の額縁におさめられたファブリツィオ・デル・ドンゴのすばらしい肖像を見て驚きもし、それ以上に憤慨もしたというのである。
[#改ページ]
第二十八章
事件に追われて作者は、パルマの宮廷にうようよして、これまで述べて来たような事件について馬鹿げた論評を加えているあの廷臣たちの滑稽な種族のことを粗描する暇がなかった。この国で年収三千か四千フランばかりの小貴族が大公の|朝の引見《ヽヽヽヽ》に黒靴下をはいて伺候するためには、まず第一にヴォルテールとルソーを一度も読んだことがないという条件が必要だったが、この条件を満たすことはそうむずかしくはない。次に、御主君の風邪のこととか、最近ザクセンからとどいた鉱物標木の箱のこととかを感きわまった面持ちでしゃべることができなければならない。さらにその上、一年じゅう一日もミサをかかさず、二、三人の偉い坊さんを親友のうちに数えることができれば、大公は毎年一度、正月一日の二週間前か二週間後かに言葉をかけてくださる。こうなると教区のなかで羽振《はぶり》もよくなり、わずかばかりの地所に課された年に百フランの税を払うのが遅れても徴税人からあまりいじめられないですむ。
ゴンゾ氏〔イタリア語で「間抜け」の意〕はこういう種類の哀れな男だった。大した貴族の家柄の出で、多少財産もある上に、クレッシェンツィ侯爵の勢力にすがって年に千百五十フランになる立派な地位についていた。自分の家で夕食することもできたのだが、彼には一つ道楽があった。時々彼にむかって次のように言ってくれる偉い人物のサロンにいるときしか、彼はのんびりして幸福な気持ちでいられないのである。
「黙れ、ゴンゾ、君は馬鹿だよ」
もっともその人物は癇癪《かんしゃく》を立てたからこう言っているにすぎない。なぜならゴンゾは彼にそういう偉い人物などよりも、まず大抵は頭がよかったからだ。彼はどんなことについても話したし、なかなか洒落《しゃれ》た話し方をした。のみならずその家の主人の顔色一つで自分の意見を変えることも厭《いと》わなかった。実を言えば、自分の利益になることについては実に如才なかったくせに、自分の考えなどは全然持っていなかったのだ。そして大公が風邪をひいていないときは、サロンにはいろうとするときになってもじもじしてしまうことも時々ある。
パルマでゴンゾが名声を馳《は》せたのは、少々傷んだ黒い飾り羽のついているみごとな三角帽のおかげで、燕尾服のときにさえ彼はこの帽子をかぶっていた。頭にのせるにせよ手に持つにせよ、とにかく彼がこの飾り羽を身につけているときの有様と来たら見物《みもの》だった。これこそまさに才能であり、勿体ぶりの見本だった。彼は本当に心配そうに侯爵夫人の小犬の健康についてうかがいをたてたし、クレッシェンツィ邸が火事にでもなろうものなら、金襴を張ったあの美しい肘掛け椅子の一つを生命の危険を冒してでも救い出したろう。何しろこれらの椅子はもう何年ものあいだ、たまに彼がちょっと腰をおろしたときに、その黒絹のズボンを載せてくれたのだったから。
七、八人のこうしたたぐいの人物が毎夜七時にクレッシェンツィ侯爵夫人のサロンにやって来た。腰をかける否や、銀モールがやたらについた薄黄色の豪奢な仕着《しきせ》に赤いチョッキまで着て綺羅を飾った従僕がやって来て、この貧相な連中の帽子とステッキを受け取る。それからすぐ侍僕が銀線の脚のついたいやに小さな茶碗を持って来る。剣を下げてフランス風の立派な礼服を着た給仕頭が三十分置きにアイスクリームを持って来る。
このみすばらしい御機嫌取りどもが来てから三十分ほどすると、五、六人の将校が大声で話しながらやって来る。いかにも軍人らしい様子をして、兵隊の上着のボタンをいくつにすれば軍司令官は勝てるかなどということをいつも議論している。このサロンでフランスの新聞を引用したりするのは賢明でなかったろう。たとえばスペインで自由主義者が五十人銃殺されたというようなきわめて愉快なニュースだったところで、それを話したらその人間がフランスの新聞を読んだという事実はどうしても動かせない。こうした連中の老獪さの最大の成果は、十年毎に年金の額を百五十フランずつ上げてもらうことだった。このようにして大公は貴族階級と、農民や町人を支配する喜びを分ちあっていたのだ。
クレッシェンツィ家のサロンの文句なしの主役といえばフォスカリーニ士爵だった。まったく誠実な人物で、そのためあらゆる支配者のもとですこしずつ入獄していた。彼はナポレオンの提出した登録法を否決するという史上稀な行動に出たナポリの下院の議員だった。フォスカリーニ士爵は侯爵の母親と二十年にわたって親しくしていたので、この家では依然として勢力があった。いつもおもしろい話をして聞かせるが、彼の炯眼《けいがん》は何事も見逃さなかった。心の底でやましさを感じている若い侯爵夫人は彼の前ではびくびくしていた。
ゴンゾは年に一度か二度暴言を吐いて泣かせてくれる大貴族がほんとに好きでたまらなかったから、そういう貴族のために何かちょっとしたことをしようといつも心がけていた。そして極度の貧しさにがんじがらめになっていなかったとすれば、時には彼も成功しただろう。ある程度までは目はしもきいたし、厚かましさのほうは大したものだったからである。
ゴンゾはこうした人間だから、クレッシェンツィ侯爵夫人をかなり軽蔑していた。というのも、夫人が今まで一度も彼に無礼な言葉を投げたことがなかったからだ。しかし何と言っても彼女は、大公妃つき侍従であり、月に一度か二度は「黙れ、ゴンゾ、おまえは馬鹿だよ」と言ってくれるあの有名なクレッシェンツィ侯爵の妻だった。
アンネッタ・マリーニの噂が出ると、かならず侯爵夫人が束の間夢想から醒めることに彼は気がついた。十一時になると夫人はお茶を淹《い》れ、そこにいる連中の一人々々の名を呼んでそれをすすめるのだが、それまで彼女は何事にも関心を示さぬ夢想状態に沈んでいるのが常だったのである。その後自分の部屋にもどる間際に彼女はしばらく陽気になる。この時刻を選んで彼女のために諷刺詩が朗読されることになっていたのだ。
イタリアではすばらしい諷刺詩が作られる。これはまだ多少生命を保っている唯一のジャンルなのだ。実際これは全然検閲の対象などにはならない。そしてクレッシェンツィ家に集まる御機嫌取りどもはいつもこう言って自分の作ったソネットを披露するのだ。
「侯爵夫人、まことに下手糞《へたくそ》なソネットで恐縮ですが、朗読してもよろしゅうございますか?」
そしてそのソネットが人々を笑わせ、二度か三度朗読がくりかえされると、かならず将校の一人がこう叫ぶ。
「警察大臣はこんな言語道断なものを作る連中を、縛り首にでもしてやるように心がけねばならんですなあ」
反対にブルジョワの社交界はこうしたソネットにすっかり感服して歓迎し、代訴人の書記どもがその写しを作って売ったりした。
侯爵夫人の示す好奇心の性格からしてゴンゾは、皆が夫人の前でマリーニ嬢の美貌をすこし褒めすぎたのだと思った。しかもこの娘は百万もの財産があるから、それを夫人は妬《ねた》んでいるのだ、と。しょっちゅう微笑をうかべ、貴族でないものに対しては徹底的に厚かましさを発揮して到るところに入りこむゴンゾは、早速その翌日、まず年に一度か二度大公に「ゴンゾ、さよなら」と言われたときにしかしないような一種独特な手つきで羽のついた帽子を持って侯爵夫人のサロンにやって来た。
彼はうやうやしく侯爵夫人にむかってお辞儀してから、彼のほうへすすめられた肘掛け椅子に坐ろうとしなかった。円く坐った一座のまんなかに立って彼はどなった。
「私はデル・ドンゴ猊下《げいか》の肖像を見て来ました」
クレリアは度胆を抜かれ、すわっていた肘掛け椅子の腕に思わずもたれかかった。彼女は胸のなかにたぎりたつものを抑えようとしたが、間もなくサロンから逃げ出さねばならなかった。
「まったくの話、ゴンゾ君、君は世にも稀な|へま《ヽヽ》をやらかしたね」と、四つ目のアイスクリームを食べ終えようとしていた将校の一人が偉そうな顔をして叫んだ。「ナポレオン軍の最も勇敢な大佐の一人だったあの大司教補佐が、かつて侯爵夫人の父上に対して許すべからざるいたずらをしたことをどうして君は知らないんだ? コンティ将軍が長官をしていた城砦から、まるで|ステッカータ《ヽヽヽヽヽヽ》〔パルマ第一の教会〕から出て行くような調子で逃げ出してしまったんだぜ」
「大尉さん、私はまったく物を知らぬ人間です。一日じゅう|へま《ヽヽ》ばかりやらかしている哀れな馬鹿者です」
この受け答えはいかにもイタリア人の趣味にかなっていたのでみな笑い出し、威勢のいい将校のほうが面目をつぶした。侯爵夫人は間もなくもどって来た。彼女は今度は覚悟を決めていたし、すばらしいものだという噂のあのファブリツィオの肖像を自分の目で見られはしないかというかすかな希望を抱かぬでもなかったのだ。彼女は作者であるアイエスの才能を褒め立てた。無意識のうちに彼女はゴンゾに魅力的な微笑を送り、ゴンゾは将校のほうへ皮肉な顔をして視線を送った。ほかの取巻き連もみな同じことをして喜びはじめたので、この将校はゴンゾに対して猛烈な憎悪を感じながら逃げ出した。ゴンゾは勝ち誇っていた。その夜辞去するときに彼は翌日の正餐に招かれた。
翌日、正餐が終わって召使が退出してから、
「もう一つ珍談があるんですよ!」とゴンゾは叫んだ。「何と、われらの大司教補佐はマリーニの小娘に惚れこんじまったのです!……」
こんな途轍もない言葉を聞かされたとき、クレリアの心がどんなに瞬ぎ立ったかは想像にかたくあるまい。侯爵すら動揺した。
「いや、ゴンゾ、例によって寝言みたいなことを言い出したな! それに、あちらは光栄にも殿下のウィストのお相手を十一回もつとめた人物だ、もうすこし口を慎しまなくちゃいかん!」
「ですがね、侯爵」ゴンゾはこのたぐいの人間らしい露骨さで答えた。「誓ってもよろしゅうございますが、あの人はマリーニの小娘のお相手をつとめる気だって充分ありますぜ。しかしこのいきさつがあなたのお気に入らないというのならそれで結構です。敬愛する侯爵のお心にさからうまいと何より念じている私としては、もうこんなことはなかったことにいたしましょう」
正餐の後ではいつも、侯爵はひと寝入りしに行く。ところがこの日は彼はそうする気がなかった。ゴンゾのほうはこれ以上一言でもマリーニの小娘のことを言うくらいなら舌を噛み切ったほうがよかった。そのくせしょっちゅう、あの町娘の恋の話をまたはじめるのではないかと侯爵に期待させるような具合にして別の話をはじめる。このゴンゾという男は、相手が首を長くして待っている言葉を言うのを引き延ばして喜んでいるという、あのイタリア人気質を高度に持っていたのだ。かわいそうに侯爵は好奇心に矢も楯もたまらなくなって、自分のほうから水を向けねばならなくなった。彼はゴンゾに、君と一緒に食事すると楽しいからいつもの二倍も食べるなどと言った。ゴンゾのほうは知らぬ顔をして、先代大公の愛人バルビ侯爵夫人の集めたすばらしい絵画コレクションのことを話し出した。(よし、とうとうマリーニの娘が註文した肖像のことを話し出すんだな!)と侯爵は思った。だがゴンゾにはそんな気持ちは一向になかった。五時が鳴った。それを聞いて侯爵ははなはだ不機嫌になった。彼は昼寝を終えてから五時半に馬車に乗って遊歩場《コルソ》へ出かける習慣だったのだ。
「まったく君は馬鹿なことばかり言ってるな」と彼は口ぎたなく言った。「君のおかげで大公妃より遅れてコルソへ行くことになってしまう。私は大公妃の侍従だし、大公妃は何か私にお命じになることがあるかもしれないんだぞ。さあ、ぐずぐずするな。大司教補佐|猊下《げいか》の恋物語とやらを手短かに話してみたらどうだ、もし話せるんだったらな」
しかしゴンゾは自分を正餐に招いてくれた侯爵夫人のほうにその話を取って置きたかった。そこで彼は|ぐすぐずしないで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ごく手短かに御所望の話をしてやった。眠りかけていた侯爵は急いで昼寝しに行った。気の毒な侯爵夫人にはゴンゾは打って変わった態度に出た。夫人はこれほど富裕な身になりながらも若さと素朴さを全然失わなかったから、侯爵がゴンゾに乱暴な物の言い方をしたことのつぐないをしてやらねばならぬと思った。こうしてちやほやされるとこの男は持ち前の雄弁をとりもどし、夫人にむかって微に入り細を穿《うが》って話したが、これは彼にとって喜びでもあれば義務とも感じられたのだ。
アンネッタ・マリーニは説教のときに席を取ってくれたものに一席あたり一ツェキーノまで払うという。二人の伯母と、父親の出納《すいとう》係をつとめていた男を連れてやって来る。前日から取らしておくこの席は大抵説教壇のほぼ正面の、少々主祭壇に寄ったあたりのところに選んであった。大司教補佐がよく祭壇のほうを向くことに娘は気づいていたのだ。ところで、このことは大衆も気づいていたのだが、若い説教師のあの表情豊かな目があの人目に立つ美貌の持主である跡取り娘に陶然として注がれることは|稀ではなかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》。しかもその際、何がしかの心が動いていることはたしかだ。というのは、彼女に目を注ぐや否や彼の説教は学問的になるのである。引用がやたらに多くなり、心から湧いて来るあの感動がなくなってしまう。御婦人方はほとんどたちまちのうちに興味を失ってしまって、マリーニを睨んで悪口を言い出す。
こういう奇妙な一部始終をクレリアは三度もくりかえして話させた。三度目になると彼女はすっかり考えこんでしまった。ファブリツィオに会わなくなってからちょうど十四か月になると彼女は考えた。(ファブリツィオを見るのではなく、有名な説教師の話を聞くために一時間ほど教会に行くのがそんなに悪いことかしら? それに、説教壇から遠い席を取って、教会にはいったときに一度と、説教が終わったときに一度しかファブリツィオを見まい……。そうだ、私はファブリツィオを見に行くのじゃない、すばらしい説教師を聞きに行くんだ!)
こうしてあれこれと考えめぐらしながらも侯爵夫人は良心の呵責を感じた。この十四か月のあいだ彼女の行状は立派なものだったのに!(とにかく)と、自分の気持ちを多少しずめようとして彼女は自分に言った。(今夜最初に来た女の人がモンシニョーレ・デル・ドンゴの説教を聞きに行ったと言ったら私も行こう。その人が行ってなかったら私もやめよう)
こう心を決めてしまうと侯爵夫人はこう言ってゴンゾを喜ばしてやった。
「大司教補佐がいつ、どの教会で説教するか聞いといていただけません? 今夜あなたが外出なさる前に、もしかすると何かお願いすることがあるかもしれません」
ゴンゾがコルソへ出かけて行くや否やクレリアは屋敷の庭へ風に当たりに行った。もう十か月も庭に出たことがなかったが、彼女はそんなことは問題にしなかった。彼女は生き生きし、昂奮していた。血色もよかった。夜になって退屈な連中が一人また一人とサロンにはいって来るたびに彼女の胸ははずんだ。とうとうゴンゾの来訪が告げられた。彼は一瞥のもとに自分がこれから一週間はなくてすまされぬ人間になるのだと悟った。(侯爵夫人はマリーニの小娘に嫉妬している。まったくの話、こいつはおもしろい喜劇だ。侯爵夫人が主役、アンネッタが腰元役、モンシニョーレ・デル・ドンゴが二枚目をつとめる芝居だからな! いやまったく、木戸銭二フランでも高すぎはしない)
喜びに有頂天になって、その夜はずっと彼はすべての人の話に口出しし、まったく突拍子もないような逸話を話してまわった(たとえば、前日フランス人の旅行者から聞いたばかりの、有名な女優とペキニー侯爵の話)。侯爵夫人のほうもまたじっと坐っていることができなかった。サロンのなかを歩きまわり、サロンの隣の画廊に行った。侯爵はこの画廊に二万フラン以上もする絵しか入れていない。この夜それらの絵はあまりにもはっきりとした言葉をもって彼女に語りかけて来るので、侯爵夫人の心は感動のあまり疲れてしまった。そのうち扉が観音開きに開かれるのが聞こえ、彼女はサロンへ駈けつけた。それはラヴェルシ侯爵夫人だった! しかしクレリアはきまり文句の挨拶を言いながら、自分の声が今にも消えるのではないかという感じがした。侯爵夫人は「評判の説教師のことをどうお思いになります?」という質問が最初は全然聞き取れず、クレリアにもう一度言ってもらったほどだ。
「私はいかにもあの有名なモスカ伯爵夫人の甥にふさわしい、つまらない策謀家だと思っていたのですけれど、先日ヴィジタツィオーネ会堂で私たちを前に置いてお説教をしたときにはほんとに立派だったので、私も今は憎しみなど全然なくなって、これまで聞いたなかで一番雄弁な人だと思っています」
「それでは一度あの人の説教をお聞きになったことがありますのね?」とクレリアは喜びのあまり顫《ふる》えながら言った。
「まあ、何ですって」と侯爵夫人は笑いながら言った。「私の言ったことを聞いていらっしゃらなかったの? どんなことがあってもあの説教は聞き洩らしませんよ。噂ではあの人は胸を病んでいて、もうじき説教もできなくなるそうです」
侯爵夫人が出て行くや否やクレリアはゴンゾを画廊に呼んだ。
「大好評のあの説教師の話を聞いてみようと今のところ思っています。今度の説教はいつですか?」
「来週の月曜、つまり三日後でこざいます。まるであなたさまのお考えになったことを察したみたいに、ヴィジタツィオーネ会堂に来て説教します」
まだ話は終わっていなかったが、クレリアはもうしゃべろうにも声が出なかった。一言もいわずに彼女は画廊のなかを五、六回ぐるぐるまわった。ゴンゾはつぶやいた。(そら、復讐してやろうという気持ちが動き出したんだ。そもそも脱獄するなんていう無礼な真似がよくできたものだ、特にファビオ・コンティ将軍のような英雄が長官だというのに!)
それから彼はそれとなく皮肉をまじえてつけくわえた。
「それにしても早くいらっしゃらなければ。あの人は胸をやられています。ランボ博士の口からあの人は一年ともたないということを聞きました。陰険なやりかたで城砦から逃げ出して法を無視したための天罰でございますよ」
侯爵夫人は画廊の長椅子に腰をおろし、ゴンゾにも掛けるように合図した。しばらくしてから彼女は金貨を数枚入れておいた小さな財布をゴンゾに渡した。
「席を四つ取っておいてください」
「手前も奥さまのお供に加えていただけるのでございますか?」
「もちろんです。席は五つにしてください……。説教壇に近いところでなければなどとは申しません。すばらしい別嬪だというマリーニ嬢を見てみたいのよ」
その月曜の説教の日までの三日間、侯爵夫人は何にも手がつかなかった。ゴンゾにとってはこれほど高位の貴婦人のお供をして人前に出ることはこの上ない名誉だったから、麗々しく彼はフランス仕立ての燕尾服を着て剣をつるした。それだけではない、屋敷に近いのをさいわい侯爵夫人用の金塗りの豪華な肘掛け椅子まで会堂に運ばせたが、これは町人たちからは言語道断の不遜《ふそん》と見られた。この肘掛け椅子を、しかもそれがちょうど説教壇の正面に据えられているのを見たとき公爵夫人がどうなったかは想像にかたくあるまい。クレリアは困惑の極、目を伏せてばかでかい肘掛け椅子の隅に身をちぢめ、彼女が穴があったらはいりたいと思ったほどの図々しさでゴンゾが指差して見せたマリーニの娘のほうへ目をやる勇気すらなかった。貴族でないものはすべてこの御機嫌取りの目には存在しないも同然だったのだ。
ファブリツィオが説教壇にあらわれた。ひどく痩せ、ひどく蒼白で、|憔悴し切って《ヽヽヽヽヽヽ》いるのを見て、クレリアの目にはたちまち涙が溢れた。ファブリツィオは二言三言話したかと思うと、急に声が出なくなったかのように絶句した。何か言いかけようとしたが駄目だった。横を向いて彼は何か書いた紙を取った。
「皆さん」と彼は言った。「皆さんからどれほど同情されてもおかしくない不幸な一人の魂が、私の声を借りて、命あるかぎりつづく苦しみが終わるように祈ってくれと皆さんにお願いしているのです」
ファブリツィオは紙に書いてあることをごくゆっくりと読んで行った。しかしその声調のあまりの悲痛さにゴンゾをも含めて人々はみな泣き出した。(これならすくなくとも私のことに皆は気づくまい)と侯爵夫人は涙にくれながら思った。
書かれた紙を読みながらファブリツィオは、自分が信者たちにその男のために祈ってやってくれと頼んだ不幸な人間の状態について二、三の考えがうかんだ。間もなくいろいろな想念が群れをなして押し寄せて来た。聴衆に語りかけているようなふりをしながら、彼はもっぱら侯爵夫人にむかって語っていたのだ。いつもよりすこし早く彼は説教をやめた。どんなに努力しようと涙はますます激しくなって、人が理解できるように話せないほどになってしまったのだ。目ききの連中はこの説教は一風変わっているが、その悲痛さの点ではすくなくとも照明のまばゆい中でおこなわれた例の有名な説教に劣らぬと思った。
クレリアはどうかといえば、ファブリツィオの読み上げた祈りの最初の十行ほどを聞くや否や、十四か月も彼に会わなかったのは恐ろしい罪だったと思った。家に帰ると、ファブリツィオのことを思う存分考えられるように彼女はベッドにはいった。明くる朝、かなり早いうちにファブリツィオは次のような手紙を受け取った。
あなたの名誉心を信頼します。しゃべりまわる心配のない壮士《ヽヽ》を四人ほど選んで、明日ステッカータ教会で夜十二時の鐘が鳴るとき、サン・パオロ通り十二番地という表札の出ている小さな門のそばにいてください。襲われるかもしれないことをお忘れなく。一人ではいらっしゃらないでください。
熱愛する筆蹟を認めてファブリツィオはひざまずき、涙にくれた。
「十四か月と一週間後に、とうとう!」と彼は叫んだ。「説教とはおさらばだ」
この日ファブリツィオとクレリアの心がどのような狂わしい思いに襲われたかを一々述べるのはくだくだしすぎるだろう。手紙に書いてあった小さな門とはクレッシェンツィ邸のオレンジ園の門にほかならなかったが、昼のうち十回もファブリツィオはそれを見に行った。武器を身につけて、ただ一人で十二時すこし前に急ぎ足で彼はその門のそばへ行ったが、よくおぼえている声がごく低くこう言うのを聞いて彼は言い知れぬ喜びをおぼえた。
「ここからはいって、なつかしい人」
ファブリツィオは用心しながら中にはいった。事実そこはオレンジ園だったが、目の前に地上一メートルたらずの堅固な格子のついた高い窓があった。闇は深かったが、その窓で何か音がするのが先ほど聞こえていた。そして彼が手を伸ばして格子だと納得したとき、その隙間から一つの手が出て彼の手を取り、唇に持って行って接吻するのを感じた。
「私よ」となつかしい声が言った。「あなたを愛していると言いに来たの。それに、私の言うとおりにしてくれるかどうか聞きたかったのよ」
ファブリツィオが何と答えたか、どれほど喜びまた驚いたかは言うまでもあるまい。最初の感激がしずまってからクレリアは言った。
「御承知のように、私は聖母に決してあなたを見ないという誓いを立てました。この深い闇のなかであなたを迎えたのはそのためです。白日のもとであなたを見ねばならぬとおっしゃるなら、あなたとの仲は永久におしまいだということを心得ておいていただきたいの。しかし何よりも、アンネッタ・マリーニの前では説教をしないでほしいんです。それから、肘掛け椅子を神聖な会堂へ持ちこむなどという馬鹿な真似をしたのは私だなんて思わないでちょうだい」
「僕の天使、もう誰の前でも説教なんかしないよ。いつか君を見ることができるという希望があればこそ僕は説教をして来たんだ」
「そんな風に言わないで。私のほうはもうあなたを見ることができないのだということを忘れないでちょうだい」
ここでわれわれは、その間のことに一言も触れず一足飛びに三年進んでしまうことをお許し願わねばならぬ。
物語が再開するころは、モスカ伯爵はもうずっと前に今までにもまして権勢を誇る総理大臣としてパルマに返り咲いていた。
無上な幸福のこの三年間の後、ファブリツィオの心は愛情からある気まぐれを起こしたが、そのために万事は一変してしまった。侯爵夫人には二つになるかわいい男の子がいて、この|サンドリーノ《ヽヽヽヽヽヽ》という子は母親の喜びとなっていた。子供はいつも彼女のそばにいるか、クレッシェンツィ侯爵の膝の上にいた。これに反してファブリツィオはほとんどまったくこの子を見ることがなかった。彼はこの子が別の父親になつくのを好まなかった。はっきり物心がついてしまわぬうちにこの子をさらってしまうことを彼は思いついた。
愛人に会えない長い昼の時間のあいだ、侯爵夫人を慰めてくれるのはサンドリーノのいることだった。実は、アルプスの北では奇妙に思えるようなことをここで言わねばならないが、あやまちを犯しながら夫人は依然として自分の誓いに忠実だったのだ。おそらく読者も御記憶だろうが、ファブリツィオを|決して見ないと《ヽヽヽヽヽヽヽ》彼女は聖母に約束した。まさにそういう言葉で誓ったのだ。それ故夫人は夜しか彼を迎えず、彼女の部屋には決してあかりはなかった。
けれど毎夜、彼は愛人に迎えられた。そしてこれこそ感嘆すべきことだが、好奇心と倦怠にさいなまれる宮廷のただなかにあって、ファブリツィオがきわめて周到に手を打っていたおかげで、ロンバルディアで言うこのamicizia〔イタリア語で「友情」。スタンダールはその『恋愛論』のなかで、イタリア人は「恋愛」という言葉をめったに使わず、そのかわりに「アミチーツィア」と言うと書いている〕に感づくものは全然なかった。この愛はきわめて強烈だったから喧嘩が起こらぬはずはなかった。クレリアは非常に嫉妬心が強かったが、争いの起こるのはほとんどいつもそれとは別の理由からだった。ファブリツィオが一度何かの儀式につけこんで侯爵夫人と同席し、夫人を眺めようとしたことがあったが、彼女は口実を構えて早々に立ち去り、その後長いあいだ愛人を遠ざけていた。
パルマの宮廷の人々は、美貌の点でも優れた才気の点でもこれほど他にぬきんでている女性に浮いた話一つないことに驚いていた。彼女に情熱を燃やしていろいろと無分別をしでかすものもいたので、しばしばファブリツィオも嫉妬をおぼえた。
善良なランドリアーニ大司教はずっと前に死んでいた。ファブリツィオの敬虔さ、一点非の打ちどころもない品行、雄弁のために、大司教のことなどは忘れ去られてしまった。ファブリツィオの兄も死に、一家の全財産は彼の手に帰した。この時以後、彼は毎年パルマ大司教の職から上がる十数万フランの金を管区の助祭や司祭たちに分けてやった。
ファブリツィオの送っていた生活ほど人々から当然の尊敬を受け、世を益し人を益する生活は考えられなかったろう。そんな中で、例の愛情からの気まぐれのためすべてはかきみだされてしまったのだ。
ある日彼はクレリアに言った。
「あなたの立てた誓いは尊重するが、これは僕にとって生涯の不幸だ。昼間会ってくれないんだから。おかげで僕は仕事のほかに何の気ばらしもなしにいつも一人で暮らさなくちゃならない。しかもその仕事がいま僕にはないんだ。毎日こんな風に厳格に陰鬱に長い時間を過ごしているうちに、ふとあることを思いついた。これを考えると苦しくてやりきれないんだが、この十か月何としてもこのことが念頭から離れない。それは、僕の息子は僕を愛すまい、僕の名を聞くことが一度もないんだから、ということだ。クレッシェンツィ邸の何不足ない贅沢三昧のなかで育てられながら、あの子は僕の顔などほとんど知らない。たまにあの子を見ると僕はあの子の母親のことを考える。僕には見ることのできないあの清らかな美貌をあの子は思い出させてくれる。そしてあの子のほうは僕がむずかしい顔をしていると思うだろう。子供にとってはそれは悲しげな顔というのと同じだ」
「まあ」と侯爵夫人は言った。「そんな話を聞くとこわくなるけれど、一体どうしろというの?」
「子供をとりもどしたいというのさ。一緒に暮らし、毎日あの子を見たい、あの子がだんだん僕を愛するようになり、僕のほうも心ゆくまであの子を愛してみたいのさ。この世にまたとないような宿命で、僕は大抵の人間が味わっているあの幸福を味わえず、最も愛するものと一緒に暮らすこともできないのだから、せめて君を偲《しの》ぶよすがとなり、ある程度君のかわりになってくれるものを自分の手もとに置きたいのだ。仕事も人づきあいもこの強いられた孤独生活のなかでは重荷だ。バルボーネのおかげで牢屋に入れられたのはさいわいだったが、君も知っているようにあれ以来野心などというものは僕にとってはいつも無意味な言葉でしかなかった。そして、君から遠く離れて憂愁にとざされている僕には、魂に触れて来ないものはすべて馬鹿げているとしか思えないんだ」
愛人の悲嘆を聞いて、クレリアの心に激しい苦痛が溢れたことは理解にかたくあるまい。ファブリツィオの言うことがそれなりに正しいと感じられただけに彼女の悲しみも深かった。誓いを破るべきではなかろうかと彼女は思いさえした。そうしたら社交界のほかの人々と同じく、彼にも昼間会ってやることができるし、彼女が貞淑だという世評はもう牢固たるものになっているから悪口を言われる心配もない。多額の寄進をすれば誓いを解いてもらえるかもしれないと彼女は思った。しかしまた、そんなあまりにも世俗的なやりかたでは自分の良心は安まるまいし、またこのような罪を犯したことを神は怒って罰するかもしれないとも感じた。
しかし一方で、彼女がファブリツィオのきわめて当然の希望をかなえてやり、彼女のよく知っている愛情に溢れた心、彼女の立てたまことに奇妙な誓いのために異常なまでに苦しみ悶えているこの心をもはや悲しますまいとしても、こっそりどこかへやったことが発覚しないようにしてイタリア最高の大貴族の一粒種を誘拐することが果して可能だろうか。クレッシェンツィ侯爵は金に糸目をつけまいし、先頭に立って捜索するだろう。そして早晩、誘拐のことは世間に知れてしまうだろう。この危険を避ける方法は一つしかなかった。子供を遠くへ、たとえばエディンバラなりパリなりへやることである。しかしこの決心をすることは母親の愛情には無理だった。もう一つの方法はファブリツィオの言い出したもので、実際それより合理的だったが、途方に暮れた母親の目には何か不吉な、ほとんど恐ろしいほどのものだった。仮病を使えばいいとファブリツィオは言うのだ。だんだんと病気が悪化して、クレッシェンツィ侯爵の留守のあいだに死んでしまったことにするという段取りだった。
クレリアは嫌悪をおぼえ、それが恐怖にまでたかまり、喧嘩別れになったが、それも長くつづくはずはなかった。
クレリアは神を畏《おそ》れぬ真似をすべきではないと言った。これほど愛されているこの子も罪の果実であり、天の怒りを誘うようなことをまたすれば、かならずや神はこの子をお取り上げになるだろうと言った。ファブリツィオはまた自分の奇妙な運命のことを言い出した。彼はクレリアに言った。
「たまたま僧職についたため、そしてまたあなたに対する愛のため僕は永久に孤独を守らなければならない。僕の同僚の大部分がしているように、親密な社交の楽しみを味わうこともできない。君が闇のなかでしか会ってくれないからだ。おかげで僕の人生のなかで君と一緒に過ごせる時間は、いわば断片的な瞬間になってしまっているんだ」
二人はさんざん涙を流した。クレリアは病気になった。しかし彼女はファブリツィオを愛していたから、彼の求める恐ろしい犠牲をいつまでも拒んでいることはできなかった。表向きサンドリーノは病気だということになった。侯爵は急いで、きわめて名の通った医師たちを呼んだ。このときからクレリアは予想もしなかった大変な窮地に陥った。医師たちの処方する薬を熱愛する子供に決して飲ませないようにしなければならなかったのだが、これは容易なことではなかった。
健康のため必要とする以上にベッドに縛りつけられていた子供はほんとに病気になった。この病気の原因を医者に何と言ったらいいか? 同じように大切だが相反する二つのものに板ばさみになって、クレリアは理性を失いそうだった。快復したということにして、あれほど長いことかかって苦労した仮病の成果を投げ捨ててしまうべきか? ファブリツィオはファブリツィオで、自分の愛人の心に無理な負担をかけることも、自分の計画を放棄することも忍び得なかった。何とかして毎夜病気の子供のところへ忍んで行ったが、そのためまた厄介なことになった。侯爵夫人は息子の看病に来、ファブリツィオは時々蝋燭の光で彼女を見ねばならぬことになったが、哀れなクレリアの狂った心にはこれはサンドリーノの死を予告する恐ろしい罪のように思えた。それを守ることがあきらかに悪い結果をもたらす場合にもあくまで誓いを守るべきか否かについて相談を受けた有名な決疑論者〔宗教上の良心の問題について是非を決定する神学者〕たちが、神に対して誓約をおこなったものが空しい感覚の喜びのためではなく、あきらかな悪を避けるためにそれを守り通すまいとしたのであるかぎり、誓いを破るのは罪とみなされないと答えてくれたことも何にもならなかった。侯爵夫人は依然として絶望していたし、ファブリツィオは自分の気まぐれな思いつきのためにクレリアと自分の息子が今にも死ぬことになるのだと思った。
彼は親友モスカ伯爵に救いを求めた。今はもう年老いた大臣となっていた伯爵は、それまでほとんど知らなかったこの愛のいきさつに感動した。
「侯爵がすくなくとも五、六日いなくなるようにしてあげましょう。いつがいい?」
それからしばらくしてファブリツィオは伯爵のところへ行き、侯爵の留守のあいだに事を運ぶ手筈がととのったことを告げた。
二日後、マントヴァ付近の領地から馬でもどる途中、侯爵は個人的な復讐のために雇われたらしい悪党どもに拉致《らち》された。全然痛い目には遭わせず、彼らは侯爵を小舟に乗せ、三日がかりでポー河を下り、かつてファブリツィオが有名なジレッティ事件の後で歩いたのと同じ旅路をたどった。四日目に悪党どもは身ぐるみ剥《は》いで金も金目のものも一つも残さぬようにしてから、侯爵をポー河の無人島に置き去りにした。侯爵はパルマの自邸にもどるのにまる二日かかった。帰ってみると屋敷は黒幕を引きまわし、みなが悲嘆にくれている。
この拉致は実に巧妙におこなわれたが、まことに痛ましい結果を生んだ。サンドリーノはひそかに宏壮な家に運ばれ、侯爵夫人はほとんど毎日会いに来たのだが、数か月後に彼は死んだ。クレリアは聖母に立てた誓いを破ったがために当然の報いを受けたのだと思った。サンドリーノの病気のあいだ、彼女は何度も明るいところでファブリツィオに会ったのだ。それどころか白昼、愛情に我を忘れてしまったことも二度まであるのだ! 彼女はあれほどいつくしんだ息子の死後数か月しか生きなかったが、愛人の腕に抱かれて死ぬ喜びは味わった。
ファブリツィオは自殺しようとするにはあまりにも愛情が深かったし信仰心もありすぎた。彼はあの世でクレリアに再会したいと望んでいたが、聡明な彼はこの世で償わねばならぬことがたくさんあるのを感じずにはいられなかった。
クレリアの死の数日後、彼はいくつかの書類に署名して、使用人の一人々々に千フランの年金を与え、自分自身にも同額の年金を残した。およそ年収十万フランに相当する土地をモスカ伯爵夫人に、同額のものを母のデル・ドンゴ侯爵夫人に、そして父の遺産の残りを不幸な結婚をした妹に贈った。明くる日、大司教職およびエルネスト五世の寵遇と総理大臣の友情によって次々に与えられた地位からの辞表をしかるべき筋に差し出して、彼はサッカから二里ほどのポー河に近い森のなかにあるパルマの僧院に隠退した。
モスカ伯爵夫人はかつて夫がふたたび首相となることに大いに賛意を表したが、彼女自身エルネスト五世の領国にもどることは決していさぎよしとしなかった。彼女はヴィニャーノに自分の宮廷を持っていた。ここはカザル・マッジョーレから四分の一里ほど離れたポー河左岸、したがってオーストリア領にある。伯爵が彼女のために建てさせたこの壮麗な邸宅で、彼女は毎週木曜日にパルマの上流社交界の一同を迎え、また毎日たくさんの友だちがやって来た。ファブリツィオは一日も欠かさずヴィニャーノに来た。要するに伯爵夫人は表向きはどこから見ても幸福だったのだ。けれども彼女は熱愛するファブリツィオの死後、ごくわずかのあいだしか生きていなかった。ファブリツィオは僧院で一年過ごしただけだったのである。
パルマの牢獄は|から《ヽヽ》になり、モスカ伯爵は巨万の富を積み、エルネスト五世は臣下から慕われ、彼らはその統治を代々のトスカナ大公のそれに比較した。
TO THE HAPPY FEW. (完)
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解説
『パルムの僧院』について
〔三号雑誌〕
一八四〇年七月、小説家オノレ・ド・バルザックは独力で雑誌「ルヴュ・パリジェンヌ」を創刊した。実はこの雑誌は九月発行の第三号であえなくつぶれるのだが、この薄命の雑誌のことをここで持ち出したのは、「いまだかつて作家が他の作家に書いてもらったことのないような驚くべき評論」とスタンダールが感激したバルザックの「ベール氏についての研究」がほかならぬその最終号に掲載されているからである。
自分を捨児《すてご》になぞらえるほど不遇をかこっていた晩年のスタンダールのこの感激は、われわれには充分理解できる。この論文は邦訳すれば目の子|勘定《かんじょう》でおよそ百五十枚ほどにもなる長さだが、フランス文壇に今をときめく流行作家がこれだけの紙数とそれに相応する労力をついやして自分の作品を論じてくれたことだけでも、落莫《らくばく》たる思いに堪えかねていた病身の文人領事にとっては大きな救いだったろう。しかもバルザックはこの長大な論文の各所で、ほとんど最高級の讃辞をもって『パルムの僧院』とその作者を称揚しているのである。
〔現代の『君主論』〕
「ベール氏は一章ごとに崇高さがほとばしり出る本を作った。壮大な主題を|見つける《ヽヽヽヽ》ことなどまずないような年齢で、しかもきわめて才智に富んだ本をすでに二十冊ばかり書いた後で、氏は真に優れた人々によってのみしかその真価を認められないような作品を生み出した。要するに彼は、『現代君主論』を、マキアヴェッリが十九世紀のイタリアから追放されたならば書いたと思われるような小説を書いたのである」
バルザックその人の文学的性格からして、この評言がスタンダールヘの最高の讃辞だったことはあきらかである。同時にこの評言は、『人間喜劇』の作者がこの小説を何よりも政治小説の傑作と見ていたことを証明している。そのことは、紙数の半ば以上を『パルムの僧院』の梗概《こうがい》を紹介することにあてているこの記事全体を読みすすむにつれてますますはっきりして来る。今引用した文章のすこし後で彼は次のように書く。「私は|文学の魔法のランプ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とでもいったものがあると信じている。ショワズール氏、ポチョムキン氏、メッテルニヒ氏(ショワズールはフランス革命前の最大の政治家、ポチョムキンは女帝エカテリーナ二世の寵臣、メッテルニヒはオーストリアの辣腕政治家)ほどの力を持った天才を登場させること、そのような人物を創造すること、その人物の行動そのものによって創造力を実証すること、その人物にふさわしい、しかもその人物の能力が発揮されるような環境のなかでその人物を動かすこと、このようなことをあえてするということは人間の為し得ることではなく、妖精か魔法使いの仕事である」――「べール氏はイタリアの小宮廷と一外交官を描くことからはじめて、結局『君主』の典型と首相の典型を描くにいたった」
この見方はもちろん梗概の紹介でも保たれていて、ファブリツィオの従軍やブラネス師との関係、クレリアとの苦しい恋の経緯や脱獄などにはほとんどバルザックの筆は触れず、たとえば公爵夫人と大公、大公とモスカ、公爵夫人とパッラの劇的な炎をはらんだやりとりなどがこのんで長々と紹介されているのである。こうして最後の数ページにいたってバルザックはこの傑作の「あやまち」の指摘にとりかかるが、この批判にこそバルザックという作家の小説観、その資質と好みがはっきりと打ち出されている。
〔バルザックの見おとしたもの〕
バルザックはこの長篇に「方法」の欠如を咎《とが》める。たとえばスタンダールは事件を時間の経過にしたがって直叙するが、バルザックはこれにあきたらず、小説をワーテルロー会戦の描写からはじめて、それ以前の部分は負傷してフランドルの村で寝ているファブリツィオの回想として彼の口から語らせるか、もしくはファブリツィオについての物語として語ることにすべきだという。なぜなら「デル・ドンゴ父子だのミラノの委細だのは本題ではない。ドラマはパルマにあり、主要人物は大公父子、モスカ、ラッシ、公爵夫人、パッラ・フェランテ、ロドヴィーコ、クレリア・コンティ、その父、ラヴェルシ、ジレッティ、マリエッタである」
この主要人物の列挙のなかにファブリツィオの名が見えないのは、彼がこの小説全篇の主人公であることは自明な前提であるからかもしれないが、しかしバルザックがこの夢想的で透明な美青年に一顧だに与える価値をも認めなかったことは、今の引用文のわずか一ぺージ先であきらかになっている。「ローマ教会の緋衣《ひい》をまとい、頭に司教の冠をいただいたファブリツィオがクレリアを愛し、そしてこの恋のことをわれわれに物語るとなれば、それはこの青年の生涯をこの本の主題にしようとすることだ。しかしファブリツィオの生涯を描こうとするのであったら、この本の題名を『ファブリツィオ、(副題)十九世紀のイタリア人』とすべきだった。そのためにはファブリツィオは、大公父子、サンセヴェリーナ、モスカ、パッラ・フェランテのような典型的で詩的な人物に劣っていてはならなかったろう。ファブリツィオは当代のイタリア青年を代表していなければならなかったろう。この青年をドラマの主人公にするならば、作者は彼に偉大な思想を与え、彼をとりまく天才たちを眼下に見下させるだけの感情を与えねばならぬはずだった。それが彼には欠けているのだ。……この点からすればファブリツィオの役割には練り直しが必要であろう。カトリック教の精神は神の手で彼をパルマの僧院へ押しやり、またこの精神は時どき神の促しをもって彼を苦しめるべきだろう。だがそうなればブラネス師はその役割をはたすことができない。占星術を研究しながら教会の言う意味での聖者であることは不可能だからである」
スタンダールはこの記事を読んで早速感謝と敬意に満ちた手紙を十六歳年下のバルザックに送ったが、現在この手紙の下書が三通残されている。その下書の一つで彼はきわめて遠慮がちに、しかしはっきりと言い切っている。「書かれているのはファブリツィオの生涯ではありませんか」――まさにそのとおりであって、三度この小説を読みかえしたというバルザックが見落していたのは、反動時代のイタリアの天地を身軽に飛びまわる自然児ファブリツィオ・デル・ドンゴが作者にとって持つ意義だったのだ。
〔政治小説ということ〕
バルザックの批評を手がかりとして鑑賞に入って行く予定だったが、その所論の紹介だけでかなり手間取ってしまった。先を急がねばならないが、次の二つのことはどうしてもここでつけくわえておかねばならない。
一つは、言うまでもないことながら、ある作家が他の作家の作品を充分に理解しなかったことは、かならずしもその作家のデメリットとはならぬということである。作家の犯す誤解や作家のいだく偏見はその資質や性向に根本的に規定されており、とりもなおさずそれは彼の発想や文学観と緊密に結びついている。いわんやスタンダールとバルザックという強烈で大きな二つの個性は、その存在によって草創期の十九世紀写実主義に明確な二つの型を刻みこんだのであった。バルザックはファブリツィオに偉大な思想や深い感情や宗教的|葛藤《かっとう》を認めず、その時代と社会を代表する典型性も見なかったから、この青年には大きな長篇小説の主人公たる資格はないと断じたが、それはバルザックにとって一人一人の登場人物は何らかの問題をはらむもの、それ自体すでに一つのドラマをはらむ存在だったからである。そしてこの基本的な観点があればこそ、彼はあの広大で劇的な小説的宇宙を創造したのであった。
次に政治小説《ヽヽヽヽ》ということ。これも言うまでもないことながら、一般的に言ってスタンダール、バルザックの時代の写実主義においては、作家が写実という建前《たてまえ》に忠実であるかぎり、政治というものがその作品のなかでかなりの役割を占めるのは当然だった。歴史は伝奇であってロマン派の領分に属し、写実家の関心は彼の生きる時代と社会を認識し再現することに向けられたからである。もう一つ、これもまた一般論として言えば、長篇処女作『アルマンス』から未完の長篇遺稿『ラミエル』にいたるまで、スタンダールのロマンのすべてが例外なく政治小説と名づけられ得るものだったことも事実である。さてそうなると、これらの政治小説の系列のなかで『パルムの僧院』の占める位置はどのようなものであろうか?
たしかにここではナポレオン没落後の神聖同盟体制下の北イタリアにおける政治的状況は的確に捉えられているし、また専制的な小君主を戴く宮廷政治の駈引《かけひき》は実にみごとに活写されていて、バルザックの「現代の君主論」という評言も充分にうなずける(ただしこれはわれわれがごく普通にマキアヴェリスティックという言葉を使う場合と同じ意味合いであって、『君主論』そのものは政治学的にはわれわれの慣用語の「マキアヴェリズム」と少々離れた場所にある)。にもかかわらず私には、この作品はスタンダールの諸長篇のなかで政治性の最も薄いものだと思われる。『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは復古王政下で、『リュシアン・ルーヴェン』の主人公は七月王政下で、それぞれきわめて政治的に行動する。このことはかならずしも、ジュリアンが政界の大立物の懐刀《ふところがたな》として活躍することや、リュシアンが内相秘書官として選挙キャンペーンをおこなうことを指すのではない。貧しい木挽大工《こびきだいく》の伜ジュリアンは社会に復讐しようとして、財界を支配する大銀行家の御曹子リュシアンは自力で一廉《ひとかど》のものになれることを証明しようとして、それぞれ主体的に社会にたちむかっており、つまりは政治的に行動することを余儀なくされているのである。こうしてこの二作にあっては、政治的人間と、あるいは彼の前に立ちふさがりあるいは彼を容赦なく呑みこむ政治的状況との絡《から》み合いとして、最もこの作家の身についた手法によって「政治」は描き出されている。ところで、「われらの主人公」ファブリツィオ・デル・ドンゴはこの物語のはじめで、祖国イタリアを解放してくれたナポレオンヘの熱狂からこの英雄の鷲の旗のもとへ参じようとする。まさに幼い炭焼党員《カルボナーロ》の、リゾルジメントの先駆者の颯爽たる門出であるが、間もなくこの夢想家少年は戦場で見るべからざるものを見てしまう。それ以後彼は政治に関係しない。このファブリツィオの政治離脱は作者スタンダール自身の政治からの全面的な撤退作戦だったのである。
(これと関連してごく簡単にスタンダールの政治的傾向を述べておこう。スタンダールが政治的に進歩的な考え方の持主だったとする一般の見解には何ら反対すべき理由はないが、この進歩主義という言葉に今日まつわりついているさまざまの付随的観念は洗い流しておく必要がある。すべての優れた文学者がそうであるように、彼もまた一つのイデオロギーの一筋縄では行かない作家である。革命の子だった彼、ナポレオン崇拝者と目された彼は、実は冷静な目で皇帝と帝政を批判しているし、モボクラシーには嫌悪を示した。彼の政治思想の足跡を綿密にたどったH・F・アンベールの大著『自由の変貌』にしたがえば、政治に対する彼の態度はむしろ現実主義的とか改良主義的とかという言葉で形容されるべきもの――つまり、現代の若きラディカリストたちからは「ナンセンス!」という全称否定を投げつけられる当のもの――だった。ことわっておくが、このことは私が先程比喩的に彼の「政治からの撤退作戦」と言ったものとはまったく関係がない。意識的に、さらには実践的に政治に踏みこもうとすれば――つまりアンガジュマンをおこなうとすれば――彼はますます現実主義へ、穏歩漸進主義へむかったろうと思われる)
〔われらの主人公〕
話をもとにもどそう。さきに私はファブリツィオの政治離脱と言ったが、実はそもそもこの青年には見るべき政治思想など、はじめからなかったのだ。宗教を政治の道具としか見なかったナポレオンに感激する彼は、一方ではイェスイタ会士の教育を無条件に信じている素直な生徒だったのである。しかもこのイェスイタ会の優等生は、パリの自由主義的新聞を読むためには三里の道を遠しとしない。さらにこの自由主義新聞の愛読者は、専制君主すら顔負けするほどの激烈な絶対主義をほかならぬその専制君主の前で開陳する。神への感謝を忘れたことを痛悔する敬虔なこの青年は、叔母の愛人の権勢のおかげで教会の高位につくことが沽聖《こせい》の罪にひとしいことに思いおよばない。「暇なときには彼の心は、想像力がいつでも生み出してくれるいろいろの小説的《ロマネスク》な状況から生ずる感覚を陶然として味わうのだった。時間をかけて根気よく物事の真の特性をみつめ、その上でその原因を見抜くなどということは彼には縁遠かった。現実は彼には平板できたならしく見えた」と書いた作者は、さらに自分の意見をつけくわえている。
「私は人が現実をみつめることを好まないことは理解できるが、しかしそれならばそれについて論議すべきではない。無知なくせに生半可な知識をいろいろ持ち出して異議を唱えたりすることは特にすべきではない」まさにそのとおり、ファブリツィオは自分の見ていないもののことは決してあげつらわない。しかしその反面、見ねばならぬものを見たかどうかということ、おこなわねばならぬことをおこなったかどうかということについてはくどいほど彼は良心的だった。ワーテルローの戦場で彼の心を捉えてはなさないのは、自分がほんとうに戦争をしているのかどうかという疑問である。この本能的な廉直さ、自己を持することの固さがあったればこそ、あの明敏で老獪で酒脱な政治と人生の達人モスカすら「すべてを上から見おろしているから、すべてはこの男の目には単純なのだ。何ということだ、このような敵とどのように闘ったらいいのか?」と嘆ぜざるを得なかったのだ。
スタンダールはバルザックヘの手紙の下書の一つで
「ファブリツィオをわれらの主人公と呼んでいいでしょうか?」と言っている。しかし小説のなかでこの無知で無自覚で無思想な夢想家はサンセヴェリーナはもちろんモスカの心をも征服し、感覚と本能のおもむくままに自由に自在にふるまいながらすべての登場人物を引きずって行くではないか。すべては彼を中心にして転廻して行く。まさに彼は「われらの主人公」なのである。
〔白鳥の歌〕
こうしてわれらの主人公は、その存在そのものがいわば「生の価値」となっているような理想化された像を形づくっている。こうしたイメージをどこからスタンダールは得て来たのか? 悪党的で直情的な生き方、自己の幸福を追求することについての誠実さ、これはくりかえしスタンダールがイタリア人に讃美している美徳《ヴィルトウ》である。感覚の力こそフランス人の「頭脳」を嫌うスタンダールにとって最大のvirtu(力=徳)なのだ。だから、十七歳のアンリ・ベールを魅了し、その後生涯にわたって彼を引きつけてやまなかったあのイタリアにしかこの主人公は生まれ得なかった。「彼《ファブリツィオ》はスタンダールが情婦イタリアに生ませた空想の子である」というジャン・プレヴォの言はまことに言い得て妙である。つまりこの小説は、イタリアのvirtuを体現したファブリツィオの青春の讃歌であるとともに、ある意味では作者のイタリアにおける青春への挽歌でもあったのだ。
この主人公については、もう一つ言っておきたい。スタンダールは十八世紀啓蒙主義の衣鉢《いはつ》を十九世紀において引継ぐ文学者であるとしばしば言われるが、その啓蒙主義の文人たちは好んで「|善良な野蛮人《ボン・ソヴァージュ》」という主題を用いた。未開の国から文明のヨーロッパに連れて来られた野蛮人がその曇りのない自然な目、人間に生来そなわった「|正しい判断力《ボン・サンス》」の目で見た文明社会の不条理や悪習に驚くという設定によって、これらの啓蒙文人たちは旧体制下の社会への痛烈な批判を放ったのである。まさにそれと同じく、ファブリツィオというこの自然児、この「野蛮人《ソヴァージュ》」を主人公にしたて、彼を政争や陰謀の渦中に投ずることでこの小説は、単に反動期イタリアの一小君主国のそれではもちろんなく、作者が生きて来たその時代の社会全般への徹底した批判になり得ている。けれどもスタンダールには啓蒙主義者たちのあのオプティミズムはもはやなかった。彼はすでに多くのものを見、多くのことに傷ついている人間だし、死の迫るのも感じていた。死の寸前での幸福、静かな諦念――この小説の結びは晩年のスタンダールの一つの切実な希求をのぞかせている。多くのものを見て来た目と、この希求と、そして輝かしかった青春の回想とが一体となってこの青春の讃歌となり、彼の心と肉体の奥から噴《ふ》き上った。――これが二か月足らずでこの長大な小説を完成させた彼の即興の秘密を解く鍵である。そしてまたそれがこの讃歌を彼の最後の絶唱に、彼の「白鳥の歌」にしているのである。
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代表作品解題
スタンダールの創作は、ごく初期の劇の試作を除けば五篇の長篇小説と十数篇の短篇小説(長篇短篇とも未完成のものを含む)であって、バルザックなどとは比較にならぬほど寡作《かさく》である。しかし年譜を見ればわかるように、彼の筆は評論や伝記から時事的な政治論や紀行文にいたるまできわめて多くの領域にわたる。ここでそのいくつかを拾《ひろ》ってみれば、独剤的な『モーツァルト伝』や『イタリア絵画史』、不思議なほどわが国では人気がある『恋愛論』、型破りな自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』、紀行『ローマ散策』などは、スタンダール愛好者には絶対に無視し得ぬものである。けれどもここでは紙数の都合もあって、もっぱら彼の長篇小説のみを紹介することにする。これらの長篇によってスタンダールの魅力を知った読者は進んで彼の他の作品にも関心を抱くことになるだろう。
〔アルマンス〕(一八二七年)
スタンダールの小説としての処女作である。実はこの小説の成立についてはちょっとしたいきさつがある。当時社交界で有名だったデュラ公爵夫人は性的不能者を主人公とした小説『オリヴィエ』を書いたが、その時代としては大胆すぎるこの作品を公刊するにはいたらず、原稿を回覧する程度にとどめていた。ところがスタンダールの友人だった小説家ラトゥーシュがこれに目をつけ、無署名で同名の小説を書き、デュラ夫人のもののように見せかけた。スタンダールはこの小説についてイギリスの雑誌「ニュー・マンスリ・リヴュー」に書評を書き、やがてみずから同じ主題によって小説を書くことを思い立って一八二六年一月からこの執筆にとりかかった。
十字軍以来の名家であるマリヴェール侯爵家の一人息子オクターヴは理工科大学出身、感受性の強い知的で誠実な二十歳の美青年である。時々憂鬱に沈み、狂人じみた行動に出るが、不遇な遠縁の娘アルマンス・ド・ゾイロフにはやさしい友情を示す。大革命中貴族が蒙った損害を補償する法案が議会を通過すると、莫大な賠償金を受くべきオクターヴは社交界でちやほやされるようになる。うわべだけ親しくしていたある伯爵夫人をめぐる三角関係から決闘をし、重傷を負った彼は、もはや命はないものと思ってはじめてアルマンスに恋を打ち明ける。意に反して彼は回復する。貧しいが心のやさしい娘に好意をよせていたオクターヴの母親は二人を結婚させようとする。オクターヴは煩悶し、いよいよ自分の秘密を娘に告白しようとするが、金銭欲からこの結婚を妨げようと画策していたオクターヴの伯父が娘の意向を疑わせるような手紙を彼につかませる。アルマンスの愛を信じられぬまま結婚式を挙げたオクターヴは、新妻を残してギリシア救援軍に参加すべく船に乗り、ギリシアの地が水平線に見えて来たときに毒を仰ぐ。
オクターヴが性的不能者であるということは作品中のどこにも明示されていない。不能という「ケース」を追究しようとしたと見るよりも、むしろ不可能な恋を設定するために、またおそらくオクターヴが属する貴族階級の無力を象徴するために、このケースを利用したと見るべきだろう。出版社はこの小説に「一八二七年におけるパリのあるサロンの場景」という副題をつけたが、たしかにこの作品はその時代的条件と社会的状況にぴったりとはまっている。処女作らしい未熟さはあるが(それにしても作者はこのときとうに四十歳を越えていたのだ)、すでにスタンダールはここで彼の諸長篇を通ずる基本的な主題を定めている。不適応者の思想行動を通じての社会批判という主題である。
〔赤と黒〕(一八三〇年)
あまりにも有名な小説である。今さら紹介におよぶ必要はあるまいが、スタンダールの創作活動のなかで、この作品はどのような位置を占めるのであろうか?
『アルマンス』の主人公オクターヴ・ド・マリヴェールは行動を阻《はば》まれた不適応者だった。行動的な不適応者の典型が『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルである。作者はそのような人間の型を、社会的に無力化し精神的に衰弱した王政復古時代のフランス貴族階級のなかに見ることができなかった。ところがここにべルテ事件なるものが起こって、下層階級の人々にこそ真のエネルギー――犯罪をも恐れぬエネルギーが存在することを彼に痛感させた。この事件は『赤と黒』制作の直接の動機となっているものであるから、ここで簡単にその経緯を述べておかねばならない。
一八二七年十二月、グルノーブル裁判所はアントワーヌ・ベルテという若い元神学生に計画的殺人行為の罪で死刑の宣告を下した。ベルテは貧しい鍛治屋の伜で、土地の司祭にその才を買われて神学校にはいるが、病弱のために学業をつづけられず、同じ司祭の紹介でブラングという小村の地主ミシュー家の家庭教師となった。ところが彼は貞淑なミシュー夫人と恋におちいり、この家を出なければならなくなる。神学校で勉学をつづけようとしたが放校され、今度はミシュー家の世話でコルドン家の家庭教師となったが、ふたたびそこの令嬢と問題を起こして追われる。絶望したベルテは自分の不幸はすべてミシュー夫妻によるものだと思い込み、一八二七年七月二十二日、ブラングの村の教会でミサがおこなわれているときに参列のミシュー夫人にピストルを放ち重傷を負わせたのである。
現実にあったこの事件の経過のうち、後半のコルドン家をパリの大貴族の家に変えれば、これはただちに『赤と黒』の荒筋に変わる。現実の事件や書物中の事件から自分の作品の骨格を作り出すのはスタンダールの常套手段だった。しかしその骨格に――『恋愛論』の有名な比喩を借りればこの「ザルツブルクの小枝」に彼の創作力が加えた美しい結晶はまったく独自のものである。処女作の後三年を経て、ここではじめてスタンダールという作家は確実に、しかも豊かに自分の小説的世界を築き上げた。無論それは単に技法的な円熟ということだけではない。たとえば例の恋愛の「結晶化作用」というものの精緻な解析にしても、知的な行動者による社会批判というモメントにしても、またきわめて人間的な彼の理神論的形而上学にしても、ここではじめて豊かな波瀾に富んだ小説構成に組みこまれながら明確に打ち出されているのだ。(ついでに言うと、この小説の題名の「赤」は軍服の色を、「黒」は聖職者の服の色を暗示するというのが一般の見方である。もうすこし早く生まれていたならば主人公ジュリアンはナポレオン軍の赤い軍服を着ることができたろう。王政復古時代の反動的な社会にあって貧しい彼が立身するためには黒い僧衣を着るほかはなかった。この小説も「一八三〇年年代記」という副題がつけられているが、この恋愛小説の大傑作は同時にまた、王政復古期のフランス社会の正確な絵図にもなっているのである)
〔リュシアン・ルーヴェン〕(一八三四〜五年執筆)
卑賤の生まれのジュリアン・ソレルは反抗児たらざるを得なかった。これは王政復古時代のような旧時代の遺制にしがみついている社会の中で、豊かな資質と優れた智力にめぐまれた貧しい青年が負わねばならぬ当然の運命だった。こうして彼は悲劇的人物となり、それ故あらゆる意味で「ヒーロー」と呼ばれる充分な資格を持つ。それならば富裕な家に生まれ、社会とたたかうことを強いられていない青年の場合は?――ここに七月王政(ルイ・フィリップ王朝)下のフランス財界を牛耳る大銀行家の一人息子リュシアン・ルーヴェンが登場する。
小説『リュシアン・ルーヴェン』は未完成で終わったが、書き上げられた部分だけでも『赤と黒』や『パルムの僧院』をはるかに凌《しの》ぐ分量に達している。一八三三年秋、休暇中の彼はパリで親しくしていたジュール・ゴーチエ夫人から小説『中尉』の草稿を渡され、批評を求められた。チヴィタ・ヴェッキアに帰任した彼は、翌年五月約束どおり批評を書き送るとともに、これを書きあらためて自分の小説に仕立てようと思い立った。この執筆は約一年つづいたが、結局彼はこの計画を放棄してしまうのである。
共和主義者の暴動に加わったために理工科大学《エコール・ポリテクニック》から追われたリュシアンは、北仏ナンシーの連隊づき少尉として赴任する。軍隊生活になじめぬ彼は間もなく、七月王政に反対する正統王朝派の貴族たちの社交界に近づき、大貴族の未亡人である美しいシャストレール夫人と恋する。これを快く思わぬ陰謀家の医者が一芝居打って二人の仲を割き、リュシアンは恋人に裏切られたと信じてパリに逃げ帰る。ここまでが第一部である。第二部では舞台はパリに移る。父親の命令で彼は内相秘書官となる。主人公のこの立場を利用して作者はここで当時の政界のいろいろな事件を裏側から描いて見せる。父ルーヴェン氏は息子を社交界へ押し出すために、大ブルジョワの妻グランデ夫人とつきあえと命ずる。ルーヴェン氏の後押しで夫を大臣にしたいと念じている夫人は最初は打算からリュシアンを迎えるが、最後に本心からの愛情を彼に示す。彼はナンシーの恋人のことが忘れられず、行先を告げずに出発する。ルーヴェン氏が急死し、氏の銀行は潰れ、彼は外交官として外国へむかう。
物質的には何ら不自由のない運命の寵児のようなリュシアンは、倫理的な潔癖さと近代人らしい自意識に制せられていつも決定的な行動に踏み切れずにいる。この点では彼は『アルマンス』のオクターヴと似ている。自分の内部にある矛盾に足を取られ、内省に悩むことを宿命としているこの二人は、スタンダールその人の性格の一面を物語るものであろう。しかしリュシアンの場合この内省は、同時代の多くのロマン主義的作品中の人物に見られるようなとめどもない感傷をまったくともなっていない。彼は合理主義者、共和主義者であり、社交界や政治の舞台でむずかしい駈引をかなり手際《てぎわ》よくやってのけられる才人なのである。だがそれにしても、スタンダールは年とともにこのような自意識や内省から自由になった、生命そのもののように溌刺とした人間像を描きたくなったのだろう。まずファブリツィオ・デル・ドンゴが、次いで風のように自由な野性の女ラミエルが登場しなければならない。
〔ラミエル〕(一八三九〜四一年執筆)
未完とはいえ『リュシアン・ルーヴェン』は第二部までは一応きちんと仕上げられている。しかしこの最後の長篇『ラミエル』は、数々の興味ある場面を含みながら、思い切った筋の展開を暗示したところで中断している。死期の迫った彼が、ある新境地を開こうとしてとりかかった作品だけにこの中断はよけい惜しまれる。
この作品の新しさはまず第一に、彼の長篇小説ではじめて女性が主人公となっていることである(短篇ではむしろ女性を主人公とするほうが多かったのだが)。主人公ラミエルは、ノルマンディ地方の小村の教会下役で典型的な俗物のオートマール夫婦が孤児院から引き取った娘で、村に館《やかた》を持つミオサンス公爵夫人に仕える。ミオサンス夫人の息子で理工科大学の学生フェドールが彼女に恋するが、娘は自由自在にこの気の弱い青年を翻弄したあげくパリに出、それ以後一種の高等娼婦的な生活を送る。この奔放な生活を描いているところで小説は中絶し、後はいくつかの草案が残っているにすぎない。しかしスタンダールは死の二週間前にもなおこの小説の構想を練り直しているのである。
一八三九年の秋、彼がこの小説を起稿したときには、『パルムの僧院』に加えられた観念的にすぎるという一般の批評をかなり強く意識していた。だから彼はこの小説では外面的具体的な描写に特に注意を払おうと心がけたし、また後にはさらに喜劇的な効果をも狙おうとした。いわば喜劇的な風俗小説的性格を彼は意識的にこの作品に持ちこもうとしたのである。私自身かなり以前この小説を訳していたとき、この辛気《しんき》くさい作業の最中で思わず吹き出してしまった記憶がある。しかし何と言ってもこの作品の最大の魅力は自然力の権化《ごんげ》のような天衣無縫な美女ラミエルの姿である。スタンダールを愛してやまなかった哲学者アランが「自由な情熱というものを主人公とする『イーリアス』」とこの小説を評したことは、結局デッサンの寄せ集めに終わってタブローをなすにはいたらなかったこの未完の作品の価値を充分に証明している。
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あとがき
『赤と黒』と『パルムの僧院』のどちらを選ぶかと哲学者アランは問い、みずから答を出している。「後に読んだほうを」と。
惚れこんだ作家の作品は、たとえそれが失敗作であっても何らかの意味で興味もしくは共感を呼ばずにはおかない(ただしアランは、なぜスタンダールが『アルマンス』のようなものを書いたかわからないと言っているが)。いわんや『赤と黒』と『パルムの僧院』というこの二つの傑作を品定めすることなどは私にはまったく不可能である。ただごく個人的な好みから言えば、現在の私には『パルムの僧院』のほうに心をひかれる。現在の……と言うのは、これが「後に訳したほう」だからではない。身のほどもわきまえずに私が『赤と黒』を訳したのはもう二十年以上も昔のことだが、それ以来のその二十年の歳月がいつの間にか私の好みをそのように変えさせてしまったのである。若い読者たちのあいだでは『赤と黒』を取る人のほうが多いかもしれない。それはそれで充分納得の行くことである。
スタンダールは若い人に愛される作家であって、年を経るにつれて人々は彼から遠ざかるというようなことをしたり顔で私に言った人がいた。私の意見はまったくちがう。『赤と黒』と『パルムの僧院』はよく似た作品であると言えるが、またこの二作のあいだには一個の宇宙があるとも言えるのである。十七歳の少年はジュリアンに魅せられ、四十七歳の中年は絶望のなかで節を屈しないスタンダールに惚れこむ。この作家はそういう意味で、たとえばわが漱石に似ている。俗な言い方をすれば、まさに生涯の伴侶という種類の作家なのである。
昭和四十六年一月 (訳者)