目次
赤と黒
第一部
第一章 小都会
第二章 町長
第三章 貧者の幸福
第四章 父と子
第五章 かけあい
第六章 倦怠《けんたい》
第七章 親和力
第八章 小さな出来事
第九章 田舎の一夜
第十章 大きな心、小さな富
第十一章 ある夜
第十二章 旅行
第十三章 網目の靴下《くつした》
第十四章 イギリス製の鋏《はさみ》
第十五章 鶏鳴
第十六章 あくる朝
第十七章 首席助役
第十八章 国王ヴェリエールに赴く
第十九章 物思いは悩みのもと
第二十章 匿名《とくめい》の手紙
第二十一章 主人との対話
第二十二章 一八三〇年の行動のしかた
第二十三章 役人の悲哀
第二十四章 首都
第二十五章 神学校
第二十六章 世間、または金持にないもの
第二十七章 人生のはじめての経験
第二十八章 聖体行列
第二十九章 はじめての昇進
第三十章 野心家
第二部
第一章 田舎の楽しみ
第二章 社交界へ乗り出す
第三章 第一歩
第四章 ラ・モール邸
第五章 感受性と信心深い貴婦人
第六章 言葉づかい
第七章 痛風の発作
第八章 どの勲章が目だつか?
第九章 舞踏会
第十章 王妃マルグリット
第十一章 娘の勢力
第十二章 ダントンになるか?
第十三章 陰謀
第十四章 乙女心
第十五章 陰謀か?
第十六章 午前一時
第十七章 古剣
第十八章 たえがたいひととき
第十九章 喜歌劇《オペラ・ブッファ》
第二十章 日本製の花《か》瓶《びん》
第二十一章 密書
第二十二章 討議
第二十三章 聖職者、森林、自由
第二十四章 ストラスブール
第二十五章 貞女のつとめ
第二十六章 道徳的な恋
第二十七章 教会における最高の地位
第二十八章 マノン・レスコー
第二十九章 倦怠《けんたい》
第三十章 喜歌劇座の桟《さ》敷《じき》
第三十一章 相手を恐れさせよ
第三十二章 虎《とら》
第三十三章 弱気地獄
第三十四章 才人
第三十五章 嵐《あらし》
第三十六章 悲しいいきさつ
第三十七章 天守閣
第三十八章 有力者
第三十九章 たくらみ
第四十章 平静
第四十一章 公判
第四十二章
第四十三章
第四十四章
第四十五章
赤と黒について
解説(小林正)
年譜(小林正)
出版者の序
この作品がちょうど発行されようとしていたときに、あの七月の大事件が起って、人々の関心を架空の物語などには不利な方向に向けてしまった。以下の原稿は一八二七年に書かれたとみてさしつかえない。
赤と黒
一八三〇年年代史
第一部
真実、苛《か》酷《こく》な真実。
ダントン
第一章 小都会
ましなやつらを
いくら集めてみても、
籠《かご》は陽気になりはしない。
ホッブス
小さなヴェリエールの町は、フランシュ = コンテでいちばん美しい町の一つに数えられよう。赤瓦《あかがわら》で、とがった屋根の、白い家々が、丘の中腹に建ちならび、生い茂った栗《くり》の木立が、丘の起伏どおりの線を描いている。昔スペイン人が築いた城の廃墟《はいきょ》の、数百尺下のあたりを、ドゥー川が流れている。
ヴェリエールの北側には高い山がそびえているが、これはジュラ山脈の支脈なのだ。ヴェラ山のぎざぎざした山頂は、十月にはいって寒さが訪れると、早くも雪におおわれる。山から落ちてくる滝川は、ヴェリエールをつらぬいて、ドゥー川に注いでいるが、これが多くの製材小屋の動力となっている。ごく素《そ》朴《ぼく》な工業だが、町民というよりはむしろ百姓に近い住民の大部分は、このおかげで一応楽な暮しをしている。しかし、この町を豊かにしたのは製材小屋ではない。一般に暮し向きがよくなったのは、ミュルーズ製といわれる更《さら》紗《さ》製造のおかげであり、このためにナポレオンの失脚以来、ヴェリエールではほとんど軒並に門構えが改築された。
町に足をふみいれると、いきなり、見たところものすごい形をしたやかましい機械のドスン、ドスンという音に、たまげてしまう。数多くの重い鉄槌《てっつい》が、滝川の水でまわる水車に持ち上げられては、落ちてきて、地響きをたてている。この鉄槌がそれぞれ作り出す釘《くぎ》は、日に、何千何万という数量なのだ。若々しいきれいな娘たちが、この大きな鉄槌の落ちてくるたびに、小さな鉄片をさし出すと、それがたちまち釘に変る。この仕事は、いかにも荒っぽく見えるので、フランスとスイスの国境にあるこの山岳地帯にはじめて足をふみいれた旅行者がいちばん驚くことなのだ。旅行者がヴェリエールにはいって、大通りを上っていく人々の耳をつんざく、このりっぱな製釘《せいてい》工場はだれのものかとたずねれば、土地のものは間のびのした田舎弁で「ありゃ《・・・》、町長さまのでがす《・・・・・・・・》」と答える。
このヴェリエールの大通りはドゥー川に沿い、その先は丘の頂上まで上り坂になっているが、旅行者がほんのしばらくでもこの大通りで足を休めるなら、必ず、せわしげな、いかにもえらそうな様子をした、背の高い男の姿を見かけるにちがいない。
その男の姿を見ると、だれもがあわてて帽子をとる。ごま塩頭に、グレーの服。いくつも勲章をもっている男で、額は広く、鷲鼻《わしばな》だが、まず整った顔だちといってよい。のみならず、ちょっと見ると、村長風の威厳に、ときとして五十近くの男が持ち合せている例の愛《あい》想《そ》のよさもあるように思える。だが、パリから来たものは、その自己満足と得意げな様子にすぐ反撥《はんぱつ》を覚える。どことなく融通のきかない能なしといった感じもする。それに、貸した金はきちんと取り立てるが、借りた金はできるだけ払いを延ばそうとするといったところが、せいぜいこの男の取《と》り柄《え》だということがわかる。
ヴェリエールの町長レーナル氏とは、そういった男なのだ。もったいぶった足どりで、街をよぎると、役場にはいり、旅行者の目から姿を消す。だが、旅行者がそのまま歩き続けて、しばらく上っていくと、かなりりっぱな構えの家を目にする。家のまわりの鉄格《てつごう》子《し》を通して、見事な庭が見える。その向うの地平線のかなたには、ブールゴーニュの丘が連なっている。まるで目の保養にはおあつらえむきといった感じである。この景色を見ると、そろそろあたりのこまごました金銭問題の臭気でやりきれなくなりかけていた旅行者も、そんなことを忘れてしまう。
この家はレーナルさんのものだ、と土地のものが教えてくれる。ヴェリエールの町長は、つい最近このりっぱな切り石造りの屋敷を建てたのだが、それも例の大製釘工場で儲《もう》けたおかげなのだ。噂《うわさ》では、町長の家はスペイン系の古い家柄《いえがら》で、ルイ十四世の征服のずっと前から、この土地に住みついていたのだといわれている。
一八一五年以来、この男は工業家であることを気はずかしく思っている。一八一五年のおかげで町長になったからなのだ。その見事な庭は段々畑のようになって、ドゥー川まで低まっているが、その庭のあちらこちらを支えている土手式の石垣《いしがき》もまた、レーナル氏が鉄の取引でうまく立ちまわったおかげでできたものである。
ライプツィッヒやフランクフルトやニュールンベルクといったドイツの工業都市の周辺にある、あの絵のような庭園が、フランスにもあると思ったら、大違いである。フランシュ = コンテでは、石垣を築き、石を積み上げて自分の地所を囲えば囲うほど、それだけよけいに隣近所から尊敬されるものと思っている。レーナル氏の庭にも、石垣がやたらに築いてあるが、今庭になっているのは、金にあかして、いくつかの小口の地所を買い占めた結果だというので、いっそう評判になっているのだ。早い話が、例の製材小屋だが、なにしろ、ドゥー河岸《がし》の妙な場所にあるので、ヴェリエールにやってくれば、すぐだれでも気がつくしろもので、屋根いっぱいにのさばった看板に、でっかい字で書かれたソレル《・・・》という名が目につくはずだが、これは六年前には、レーナル氏の庭の、現在四番目の土手式の石垣が築いてある場所にあったのだ。
いつも傲慢《ごうまん》な町長さんも、頑《がん》固《こ》一徹な百姓のソレル親《おや》爺《じ》を相手にしては、だいぶ手こずったのである。ルイ金貨をたんまりはずんで、やっと工場をほかへ移すことに同意してもらったのだ。製材小屋の動力になる公共《・・》用水のことでは、パリで顔がきくところから、それを利用して、レーナル氏はこの用水を迂《う》回《かい》させる許可を得た。この恩典は一八二*年の選挙のあとで手にいれた。
ソレルには、ドゥー川の五百歩ばかりさらに川下の岸沿いに、一アルパンに対して四アルパンの割で、土地を与えてやった。しかも、この場所はもみ《・・》板の取引にずっと便利なのに、ソレル翁《おう》(と、金持になってからは呼ばれている)は、隣のレーナル氏が土地所有欲《・・・・・》にかられて、うずうずしているのにつけこんで、六千フランの金をまきあげた。
この取引が、土地の思慮のある連中から、とかくの批判をうけたのはいうまでもない。あるとき、今から四年前の、ある日曜のことだったが、レーナル氏は町長のなりで教会から帰ってくると、遠目に、ソレル親爺の姿を見かけた。三人の息子にとりまかれて、こちらをじろじろ見ながら、薄笑いを浮べている。この薄笑いを見て、町長さんは一杯くわされたなと思った。それ以来、もっと安く交換できたものをと、始終、口惜《くや》しがっている。
ヴェリエールでみんなから尊敬されようと思ったら、石垣をたくさん築くことはむろんだが、それにしても、春になるとジュラの谷を通ってパリに出かけていく例の石《いし》工《く》たちが、イタリアからもってくる設計などを絶対に採用しないことが肝心である。不用意にもそんな新しがりをしでかそうものなら、一生危険《・・》人物《・・》という評判をとり、フランシュ = コンテの世論を支配する賢明で穏健な連中から、一生見はなされてしまう。
実際、この賢明な連中がこの土地ではおよそ始末の悪い専制政治《・・・・》を行なっている。パリというあの大きな共和国で暮したものにとって、小都会の生活がやりきれないのは、まさにこの不愉快な専制政治のためなのだ。のさばる世論、しかもなんという世論だ! これがアメリカ合衆国の場合と同じように、フランスの小都会でも愚劣《・・》なのだ。
第二章 町長
権力! たいしたものですよ。愚者の尊敬、子供たちの感嘆、金持連中の羨望《せんぼう》、賢者の軽蔑《けいべつ》。
バルナーヴ
レーナル氏が運よく行政手腕を買われたのは、ドゥー川から百尺ばかりの高さの、丘沿いの散歩道を、大きな石垣で補強《・・・・・》する必要が起ったからである。この散歩道は、絶好の場所を占めているおかげで、フランスでも有数の美しい眺《なが》めをもっている。だが、毎年、春になると、雨が道にあふれ出て、方々に穴ぼこができ、通れなくなってしまう。だれもがこの不便を痛感した結果、レーナル氏がのりだすことになり、高さ二十尺、長さ三、四十間の石垣《いしがき》を作って、行政家としての名を不朽にする機会を得たのである。
レーナル氏はこの石垣の胸壁のことで、三度もパリに出かけなければならなかった。二代前の内務大臣がヴェリエールの散歩道案に絶対反対を表明していたからである。この石垣の胸壁も今では地上四尺の高さをもっている。しかも、現大臣だろうが、元大臣だろうが、それがなんだといった様子で、目下、切り石だたみをしきつめているのだ。
わたくしは前の日見すててきたパリの舞踏会を偲《しの》びながら、この青味がかった美しい灰色の、大きな石垣にもたれて、いくたびドゥー川の谷に目を注いだかしれない。はるか向うの、左岸には、五つ六つの谷がうねうねと連なり、その底には、小さな流れがはっきりと見分けられる。それらはいくたびか滝となって、ドゥー川に落ちていく。この山間《やまあい》では太陽がやけつくような暑さだが、真上から照りつけられても、この高台では生い茂るプラタナスが、旅行者の夢想を守ってくれる。すくすくと伸びた木々の、青味がかった美しい緑は、町長さんがその大きな石垣の胸壁のうしろに造らせた埋立地のおかげなのだ。なにしろ、町会の反対を押し切って、この散歩道を六尺以上も拡《ひろ》げさせたのだ(町長さんは急進王党だし、わたくしは自由主義者だが、この点はほめておこう)。こうした次第で、町長さんやヴェリエール貧民収容所の有能な所長ヴァルノ氏は、この高台がサン = ジェルマン = アン = レーの堤に匹敵すると思っている。
わたくしとしてはこの「忠誠散歩道」に不満な点は一つしかない。この公式の名称を大理石板に彫ったのが、二十カ所近くもあり、そのおかげで、レーナル氏は勲章をまた一つもらった。で、わたくしがこの「忠誠散歩道」について不満とするのは、この勢いのいいプラタナスを元木近くまで刈りこませる当局の野蛮なやり口である。丈《たけ》を低く、丸坊《まるぼう》主《ず》にして、まるでありふれた野菜かなんぞのようにしてしまわないで、イギリスで見られるような、りっぱな姿にしてやるのがいちばんいいのだ。だが、町長さんの意志は絶対である。年に二回、町有の木立は無慈悲な切断手術を受ける。土地の自由主義者たちは、助任司祭のマスロン神父が刈りこんだ枝葉を手にいれる習慣になって以来、御用庭師の手入れのしかたが、とりわけひどくなったといっているが、まさかそれほどでもあるまい。
この若い助任司祭はシェラン神父と付近の二、三の司祭を監視するために数年前、ブザンソンから派遣されてきたのだ。ヴェリエールに引退していたイタリア遠征軍の軍《ぐん》医《い》正《せい》で、町長さんにいわせると、生前過激革命派でもありボナパルト派でもあった老人が、かつてこの美しい木立を定期的に刈りこむのはけしからんと、町長に談じこんだ。
「わたしは木陰が好きです」と、レーナル氏は、いささか威厳を示して答えた。レジヨン・ドヌール勲章佩用者《はいようしゃ》の軍医を相手にするときには、そのくらいの威厳が必要だと思ったのだ。「わたしの木立を刈りこませるのは、木陰をつくるためですし、それ以外の使い道が木にあるとは思いません。もっとも、役にたつくるみ《・・・》のように、儲けがある《・・・・・》というのなら別ですがね」
儲けがある《・・・・・》、これこそヴェリエールでは万事を決する重大な言葉なのだ。この言葉だけで、町民の大半が平生考えていることはいいつくされている。
儲けがある《・・・・・》、これがあれほど美しく思われたこの小都会で、万事を決する理由なのだ。他国《よそ》者《もの》は、この町をとりまいている爽《さわ》やかな深い谷の美しさに魅せられて、はじめは、町民が美《・》に関心をもっていると思ってしまう。なるほど、町民は土地の景色のことばかり口にするし、その美しさを大事にしているにはちがいない。だが、それは旅行者を引き寄せ、落す金で宿屋が儲《もう》け、また入市税というからくりで、町が儲かる《・・・・・》ことになるからなのだ。
ある秋の晴れた日に、レーナル氏は妻と腕を組んで、「忠誠散歩道」を散歩していた。もったいぶった夫の話しぶりに耳を傾けながらも、レーナル夫人の目は、三人の男の子の動作を、不安そうに追っている。上の子は十一ぐらいだろうか、しきりに胸壁のそばに寄っては、登りそうな様子をする。と、やさしい声がアドルフと呼ぶ。子供は冒険をあきらめる。レーナル夫人は三十ぐらいに見えるが、まだなかなか美しい。
「きっと後悔するにきまっているさ、あのパリから来たやさ男めは」と、レーナル氏は不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに、ふだんよりいっそう青ざめた頬《ほお》の色をして、いった。「わたしだって宮中に知合いがないわけじゃあるまいし……」
ところで、わたくしはこれから二百ページにわたって、田舎の話をしようと思ってはいるが、田舎者の会話というやつの、冗漫な、こすいかけひき《・・・・・・・》ぶりで読者諸君を悩ますような、むちゃなまねはしないつもりだ。
ヴェリエールの町長から毛ぎらいされた、このパリのやさ男というのは、ほかならぬアペール氏で、二日前にやってきて、ヴェリエールの監獄ならびに貧民収容所の中ばかりか、町長ほか土地の大地主たちが無報酬で管理している施療《せりょう》病院の中までも、まんまと見てしまったのである。
レーナル夫人はおどおどしながらいった。
「なにも、そのパリのおかたがあなたに迷惑をかけるわけではございませんのでしょう?あなたは誠心誠意、貧しい人たちのためを思って、働いていらっしゃるのですもの」
「どうせ、あらぬ噂《うわさ》をばらまき《・・・・》たいんで、やってきたにきまってる。いずれ、記事にして自由主義の新聞にのせるわけさ」
「あなたはそんな新聞をついぞお読みになったことはございませんわ」
「だが、そういう過激革命派の記事は噂になるもんだ。こっちだって、それは気になるからな、せっかく善いことをする《・・・・・・・》つもりでもできなくなる。わたしはあの司祭のやつを絶対大目には見ないぞ」
第三章 貧者の幸福
策士でない有《う》徳《とく》の司祭は村の神ともいうべきである。
フルーリ
ヴェリエールの司祭は八十歳の高齢だが、山の爽《さわ》やかな空気のおかげで、いたって健康、気力もしっかりしている。ご承知おき願いたいが、この司祭は、牢獄《ろうごく》でも施療《せりょう》病院でも、場合によっては貧民収容所でも、好きなときにこれらを見舞う権利をもっていた。アペール氏はパリからこの司祭あてに紹介状をもらってきたのだが、周到にも、朝の正六時に、この風変りな小都会にやってくるなり、さっそく司祭の門を叩《たた》いた。
貴族院議員で、この地方随一の大地主ラ・モール侯爵《こうしゃく》の紹介状を読んで、シェラン司祭は考えこんでしまった。
《わしは年寄りだし、この土地では好かれてもいる。このわしに向って、まさかたてもつくまい》と、司祭はやがて小声でつぶやいた。急にパリから来た紳士のほうへ向き直って、年に似合わず、目を輝かせ、多少の危険を冒しても、りっぱな行いなら喜んでやってのけようという、けなげな決意をほの見せながら、
「一緒にまいりましょう。だが、牢番の前や、とくに貧民収容所の監督者の前では、ごらんになることについて、いっさい批評はなさらないように」アペール氏は相手が正義の士だと見ぬいた。このりっぱな司祭のあとについて、監獄や病院や収容所を見まわり、しきりに質問を試みたが、どんなに不可解な返答を聞かされても、非難めいた言葉はすこしも口に出さなかった。
この視察は数時間続いた。司祭はアペール氏を昼食に誘ったが、アペール氏は手紙を書かなければなりませんからといって辞退した。じつはこれ以上このけなげな相棒に迷惑をかけたくなかったのだ。三時ごろ、二人は貧民収容所の視察を終えて、牢獄へ引き返した。見ると、入口のところに牢番がつっ立っている。背が六尺もある、がにまたの大男で、その下品な顔つきが恐れのためにふた目と見られぬほど醜くなっている。司祭の姿を目にすると、いきなりいった。
「もしもし、司祭さま、お連れのおかたはアペールさまではございませんか」
「それがどうした」
「それがその、昨日からきついご命令をいただいておりますもので。知事殿からのお使いで警官がまいりまして、どうやら夜通し馬を飛ばしてまいったものと思われますが、アペールさまを監獄にお通ししてはならぬとのことで……」
「ノワルー君、わたしのお連れした旅のおかたはたしかにアペールさんだ。だが、ご存じと思うが、このわたしは昼でも夜でも好きなときに、わたしの連れてきたいと思う人を連れてきて、監獄にはいってもよいのだ」
「そのとおりで、司祭さま」棒がこわさに、いやいやながらいうことをきくブルドッグのように、うなだれて、牢番は力のない声でいった。「でも、司祭さま、わたくしには妻子がございます。このことがおかみに知れたら、やめさせられてしまいます。このお役目だけが生命《いのち》の糧《かて》なのでございます」
「わたしにしても、お役目を離れるのはありがたくはないのだ」と、人のいい司祭は、どうやら情にほだされながら答えた。
「どういたしまして、司祭さまとわたくしでは、まるっきり違います!」と、牢番ははげしくいい返した。「だれもが存じておりますが、司祭さまは年収八百フランの、ごりっぱな土地をおもちではございませんか……」
ざっと、こういったことが、いろいろの形で歪《ゆが》められ、誇張されて伝えられ、二日このかた、田舎町ヴェリエールの住民の、憎《ぞう》悪《お》をかきたてていたのだ。現に、レーナル氏とその妻のあいだに起ったつまらぬいさかいも、これが原因なのだ。その朝、レーナル氏は貧民収容所長ヴァルノ氏を連れて、司祭の家を訪れ、はげしく不満の意を表明したのだ。シェラン司祭には後楯《うしろだて》がない。二人の言葉がどういう結果になるかはわかりすぎるほどわかっている。
「それでは、なんですな、八十歳のわたしは、この土地で免職になる司祭の三番目というわけですな。わたしはここに来て五十六年になる。町のものはほとんど、わたしの手で洗礼してあげたのだ。この町もわたしの来たときは、ほんの村にすぎなかった。毎日のように若い連中の結婚をとりもっているが、その祖《じ》父《い》さんたちもわたしの手で結婚している。ヴェリエールはわたしの家庭みたいなものだが、あの旅のおかたを見たとき、考えたのだ。《パリから来たこの人はなるほど自由主義者かもしれぬし、自由主義者は多すぎるにはちがいないが、この町の貧乏人や囚人になにも悪いことをするわけでもあるまい》」
レーナル氏の非難、とりわけ貧民収容所長ヴァルノ氏の非難はいよいよつのるばかりなので、老司祭は、声をふるわせて、叫んだ。
「よろしい、やめさせてもらいましょう。だが、わたしはこの土地を離れませんぞ。ご承知のように、わたしは四十八年前に、年収八百フランの畑を相続している。わたしはこの収入で暮していきます。わたしは自分の職を利用して金をためるようなことはしなかった、いいかな、このわたしは。おそらく、それだからこそ、職を取り上げられても、それほどあわてはしないのだ」
レーナル氏は妻と仲むつまじく暮していたが、妻がおどおどしながら「そのパリのおかたが囚人たちに迷惑をかけるわけではございませんのでしょ?」とくり返していったときは、レーナル氏も返答に困って、向っ腹をたてかけた。そのとき、妻があっと叫んだ。二番目の息子が、この高台の石垣《いしがき》の胸壁によじ登ったところだった。この石垣は向う側の葡《ぶ》萄畑《どうばたけ》から二十尺以上の高さがあるのに、その上を走りだしているではないか。息子をびっくりさせたら、落ちるかもしれないと思うと、レーナル夫人はこわくて、声もかけられなかった。子供は大《おお》手《て》柄《がら》のつもりではしゃいでいたが、やがて母親の顔を見ると、真っ青なので、散歩道に飛びおりて、母親のもとへ駆け寄った。子供はひどく叱《しか》られた。
この小さな出来事で、話向きが変った。
レーナル氏がいった。
「わたしはぜひともソレルに来てもらいたいんだ、例の製材小屋のせがれさ。子供もわたしらの手に負えなくなってきたから、あれに世話してもらおう。あれはもう若い司祭といってもいいくらいだし、ラテン語がよくできる。子供たちもできるようになるだろう。司祭の話じゃ、しっかりしとるということだからな。三百フランで食事つきとしよう。かねがね、あれの考え方の点では多少信用しかねていたがね。なにしろ、例の老軍《ぐん》医《い》正《せい》の秘蔵っ子ときてるからな。あのレジヨン・ドヌールの奴《やっこ》さんさ、身寄りだとかいって、ソレルの家の居候《いそうろう》に居すわったやつさ。あいつは要するに実際は自由主義者仲間のスパイだったかもしれない。山の空気が持病の喘息《ぜんそく》に効くなどといっていたが、わかるものか。ブオナ《・・・》パルテ《・・・》のイタリア遠征には幾度も従軍した男だし、そのうえかつては帝政問題のおりに反対の署名をしたという話だ。この自由主義者が息子のソレルにラテン語を教えたんだし、自分の持ってきた本を、どっさり残していったんだ。だからこそ、あの製材所のせがれを、うちの子供につけようなんて、考えてもみなかったのだが、司祭がいうのに――そうそう、あれと口論をして、一生仲たがいになってしまった前の日のことだ――ソレルは三年前から神学を勉強しているし、ゆくゆくは神学校にはいるつもりでいるんだそうだ。とすれば、あれは自由主義者じゃない、ラテン語学者さ」
レーナル氏は顔色をうかがうようにして、妻を見ながら、言葉を続けた。
「この話がまとまると、いろいろの意味でいいんだ。ヴァルノのやつ、馬車につけるのに、すばらしいノルマンディー産を二頭買いこんでひどく得意になっているが、まだ子供には家庭教師をつけてないからな」
「横取りしないともかぎりませんわ」
「じゃ、わたしの考えに賛成なんだね」と、レーナル氏は、いいところに気がついてくれたと思って、感謝の微笑を浮べながらいった。「さて、これで話はきまった」
「まあ! あなた、もうおきめになりましたの!」
「わたしはてきぱきやる性分だよ。司祭にも思いしらせてやったところだが。はっきりいうと、わたしたちのまわりは自由主義者どもばかりだよ。例の更《さら》紗《さ》商人どもがわたしをねたんでいることは確かだ。中には成金になったものも二、三いる。そこで、レーナルさまのお子さまが、おかかえの家庭教師《・・・・・・・・・》に連れられて、散歩にお出かけになる姿を、見せつけてやりたいんだ。そうすりゃ、みんなが一目《いちもく》おくよ。お祖父《じい》さんからよく聞かされたもんだが、お祖父さんには、若いころ、家庭教師がついていたそうだ。百エキュはかかろうが、体面を保つためには、これもやむをえぬ出費だと思わねばなるまい」
こう急に話がきまると、レーナル夫人は考えこんでしまった。夫人は背が高く、すらりとしていて、この山間《やまあい》でいわれているように、この地方きっての美人だった。飾りけがなく、身ごなしが若々しかった。パリ人から見れば、汚《けが》れをしらない、溌剌《はつらつ》とした、この素《そ》朴《ぼく》な美しさは、甘い肉感をそそるところがあるとさえいえたかもしれない。そんな点で男心を惹《ひ》きつけるのだと知ったら、レーナル夫人はさぞはずかしく思ったろう。おしゃれをするとか、気取るとかいったことは、一度も考えたことがない。金持の貧民収容所長ヴァルノ氏は、夫人にいい寄ってはねつけられたという噂《うわさ》で、それから夫人はとりわけ貞淑だと取《とり》沙《ざ》汰《た》されるようになった。それというのも、このヴァルノ氏が背の高い、体格のがっちりした、黒くて太い頬髭《ほおひげ》をはやした青年で、ずうずうしくてそうぞうしい男で、田舎では美男子とよばれる下劣な男だったからなのだ。
レーナル夫人は見かけはむら気の多い性格なのだが、ひどく内気なので、いつもせかせかしていて大声をたてるヴァルノ氏をとりわけ不愉快に思っていた。ヴェリエールで楽しみといわれていることがきらいなので、あの女は家柄を鼻にかけているのだという評判をたてられた。彼女にしてみれば、そんな気はないのだが、町の連中がだんだん寄りつかなくなるのを、ありがたいことだと思っていた。正直なところ、彼女は町の《・・》ご婦人連中からはばかな女だと思われている。夫に対して全然かけひきをしない女で、パリやブザンソン製の美しい帽子を買ってもらう、またとない機会を、みすみすとり逃がしているからなのだ。自分の家の見事な庭をひとりで散歩させてもらえさえすれば、夫人としてはなんの不服もなかった。
素朴な心の持主で、夫を批判したり、やりきれないと思ったりするほどの気持になったことは一度もない。自分で意識したことはないが、夫婦の間柄で自分たちほど円満な夫婦はあるまいと思っていた。とりわけ、子供たちの将来について話してくれるときのレーナル氏が好きだった。長男は軍人に、次男は裁判官に、三男は聖職者にするというのだ。要するに、夫人はレーナル氏を、自分の知っているどの男よりも、はるかにいいひとだと思っていた。
主婦の立場から見たこの判断はもっともだった。ヴェリエール町長は、伯父からうけついだ六つばかりの洒《しゃ》落《れ》を口にするので、才人だといわれ、とくに紳士だという評判だった。伯父のレーナル大尉というのは、大革命の前には、オルレアン公の歩兵連隊に勤務して、パリに出るたびに、公のサロンに出入りを許されていた。そこで、モンテッソン夫人や、有名なジャンリス夫人や、パレ = ロワイヤルの改築者デュクレ氏に出会った。レーナル氏が逸話を話すと、ふた言目にはこういう人物が出てくるのだった。しかし、こういう思い出話は骨がおれるので、だんだん面倒くさくなってきた。そこで、近ごろでは、よほどの場合でないと、オルレアン家に関する逸話は口にしない。それに、金の話のとき以外は、たいへん愛《あい》想《そ》がいいので、ヴェリエールでいちばん貴族的な人物だと目されていたのもむりはない。
第四章 父と子
それに、そうだとしても、
それがわたしのせいだろうか。
マキアヴェッリ
《まったく、家内のやつ、なかなか頭がいいぞ!》と、ヴェリエール町長は、翌朝六時に、ソレル親《おや》爺《じ》の製材小屋へおりていきながら、つぶやいた。《夫の体面もあるから、ああはいったものの、気がつかなかったわい。なるほど、ラテン語を天使のように知っているという、あの小《こ》坊《ぼう》主《ず》のソレルをこっちのものにしないと、貧民収容所長のやつ、なにしろすばしこい男だから、おれと同じ気を起して、横取りしないともかぎらない。そんなことになったら、さぞ得意になって、子供の家庭教師のことを吹聴《ふいちょう》することだろう!……だが、あの家庭教師はおれの家に来ても、坊主になるつもりかな?》
そんな疑問で気をとられていたとき、レーナル氏は遠くに、六尺近くもある百姓の姿を目にした。朝も暗いうちから精を出して、ドゥー川沿いの、曳《ひ》き舟道《ふねみち》に置いてある材木の寸法を取っているらしい。その百姓は町長さんが自分のほうへやってくるのを見て、あまりいい顔は見せなかった。材木が道をふさいでいるし、またそんなところに置くのが規則違反だったからである。
ほかならぬソレル親爺だった。息子のジュリヤンのことで、レーナル氏からとてつもないことを申し込まれて、ひどくびっくりしたが、それ以上に喜びもした。だが、相手の言葉を聞きながら、やはり、例の不満そうな、気がなさそうな浮かぬ顔をしていた。この山《やま》間《あい》の住民は、こうした表情でずるい考えをうまく隠すことを心得ている。スペインの統治下では奴《ど》隷《れい》だったから、いまだにエジプトの農奴のような顔つきが残っている。
はじめは、ソレルの返事も、そらで覚えているかぎりの、通りいっぺんの挨拶《あいさつ》を、ながながと暗誦《あんしょう》するだけだった。こうした無意味な言葉をくり返しながら、とってつけたような微笑を浮べているが、そのために、生来の腹黒い、いやむしろ悪賢い顔つきが、いっそう目だっている。一方、そのひまにも、この年老いた百姓は抜け目なく頭を働かせ、どうしてこんなりっぱな旦《だん》那《な》が、ろくでなしのせがれなどを引き取る気になったのか、その腹を見ぬこうとした。ソレル親爺はジュリヤンを目の敵《かたき》にしていた。そのジュリヤンに、レーナルさんは年に三百フランという、思いもよらぬお給金を出してくださるし、食事ばかりか着物までも向うもちだとおっしゃる。この着物という条件は、ソレル親爺がとっさに思いついてもちだしたのだが、この点もまたレーナル氏の承諾を得たのだった。
町長はこの要求に驚いた。《こんな申し出を聞いたら、飛び上がって喜ぶはずなのに、ソレルのやつめ、いっこううれしそうな顔をせん。ほかからも申し込んだやつがいるにちがいない。それに、ヴァルノのやつでなくて、だれがそんなまねをするものか》と、町長は思った。レーナル氏はソレルをせきたてて、その場できめてしまおうとしたが、そうはいかない。相手は狡猾《こうかつ》な年老いた百姓のことだから、頑《がん》としてこれに応じなかった。せがれに相談してみるというのだ。形式上ならともかく、まるで、田舎では、金持の父親が一文なしの息子に、それ以外にも相談ごとがあるといった調子なのである。
水力製材所とは小川のほとりの納屋《なや》なのだ。屋根は太い木の四本柱の上に乗せた木組で支えられている。納屋の中央の、高さ八、九尺あたりのところで、鋸《のこぎり》が上がったり下がったりしている。そのひまに、ごく簡単な装置で、材木がこの鋸のほうへ押し出されるようになっている。水流で回転する水車が、この二重の装置を動かすのだ。つまり、一方の装置は鋸を上下させ、もう一方は静かに材木を鋸のほうへ押し出し、鋸がこれをひき割って板にする。
製材小屋の手前で、ソレル親爺はもちまえの大声でジュリヤンを呼んだ。返事がない。見ると、大男の兄二人が、重い斧《おの》をふりあげて、鋸にかけるもみ《・・》の丸太を割っているばかり。一生懸命材木の上に引いた黒いすじどおりにたち割ろうとしている。斧をふりおろすごとに、大きな木片が飛び散る。二人には父親の声が聞えなかった。父親は納屋のほうへ行き、なかにはいって捜したが、いつも鋸のそばにすわっているはずのジュリヤンがいない。五、六尺上を見上げると、天井《てんじょう》の梁《はり》に馬乗りになっている。よく注意して仕掛の動きを見張っているどころか、本を読んでいるのだ。ソレル親爺にとって、これくらい癪《しゃく》にさわることはない。兄たちとはうって変って、力仕事には向かない、ジュリヤンのひ弱な身《から》体《だ》つきは大目にみるとしても、この読書癖というやつには我慢がならなかった。自分自身字が読めなかったのだ。
二、三度ジュリヤンと呼んでみたが、気がつかない。鋸の音のせいというよりは、夢中になって本を読んでいるので、父親の怖《おそ》ろしい声も耳にはいらないのだ。とうとう父親は年に似合わぬ身軽さで、鋸にかかっている材木の上に飛び乗り、その足で屋根を支えている横木の上に飛び上がった。いきなりひっぱたかれて、ジュリヤンの手にしていた本が、川のなかにふっ飛んだ。もう一つ、またしたたか頭にびんたをくらって、ジュリヤンはよろめいた。あやうく十四、五尺下の、動いている機械の槓桿《てこ》のあいだに転げ落ちて、おしつぶされようとしたのだが、父親の左手が、落ちかけたジュリヤンをひっつかんだ。
「怠けものめ! 鋸の番をしてると思ってりゃ、相変らずくだらぬ本などを読んでやがって! 晩に司祭さんの家へひまつぶしにいったときにでも読め! そいつは、お前の勝手だ」
ジュリヤンはひどく殴られて気が遠くなり、血だらけにはなったが、鋸のそばの、いつもの場所へ行った。目に涙を浮べている。身体の痛みというよりも、自分の大切な本を失《な》くしたためだった。
「おりてこい、畜生、話があるんだ」
相変らず機械の音がやかましくて、ジュリヤンにはこの命令が聞えなかった。父親は先におりていたので、機械の上に上り直すのを億劫《おっくう》がって、くるみ《・・・》を叩《たた》き落す長い竿《さお》を取りにいき、それでジュリヤンの肩をひっぱたいた。ジュリヤンがおりてくるが早いか、ソレル親爺はいきなりこづいて、家のほうへ追いたてた。《おれをどうしようっていうんだろう》とジュリヤンは思った。行きながら、自分の本が落ちた川をうらめしそうに見やった。それは本のなかでもいちばん大切にしていた『セント = ヘレナ日記』だった。
ジュリヤンは頬《ほお》を赤くし、目を伏せていた。一見、弱々しい、十八、九の、小《こ》柄《がら》の青年。整ってはいないが、品のある顔だちで、鷲鼻《わしばな》。大きな黒い目は、平静なときは思慮と情熱を示すが、今ははげしい憎《ぞう》悪《お》の色に燃えている。生えぎわのひどく低い、濃い栗色《くりいろ》の髪が、額を狭く見せ、怒ったときは顔を意地悪く見せる。顔だちは各人各様だとはいえ、これほどきわだった特徴のある顔はまたとあるまい。すらりとした格好のよい身体は、力というより身軽さを示すものだ。ごく小さいときから、ひどく沈んだ様子をし、人一倍色白なのを見て、父親は、育つまい、かりに育ったとしても家に厄介《やっかい》をかけるだろうと思っていた。ジュリヤンは家じゅうのものからばかにされていたので、兄たちや父親を憎んでいた。日曜に広場で遊ぶときは、殴られどおしだった。
その美しい顔に好意を寄せる娘たちが、いくらか出てきたとはいえ、それからまだ一年もたっていない。だれからも弱虫といってばかにされていたジュリヤンの大好きなのは、いつだったかプラタナスのことで町長に文句をいった例の老軍《ぐん》医《い》正《せい》だった。
この軍医正は、ときどきソレル親爺に息子の日当を払ったうえで、ジュリヤンにラテン語と歴史を教えてやった。歴史といっても、自分の知っている程度のこと、つまり一七九六年のイタリア遠征の話だった。死ぬときには、レジヨン・ドヌール勲章と恩給の未払いの分と三、四十冊の本をジュリヤンに残していった。その本のなかで、いちばん貴重なものが、町長さんの顔で流れを曲げられた例の公共用水《・・・・》のなかにふっとばされたのだ。
家にはいったと思うと、ジュリヤンは父親のたくましい腕で肩をつかまえられた。また殴られるものと覚悟してふるえていた。
「正直に返事をしろ」年老いた百姓の荒々しい声が、ジュリヤンの耳もとでがなりたてた。と同時に、子供が鉛の兵隊の向きを変えるように、その手がジュリヤンをぐるりと前向きにした。
涙をいっぱい浮べた黒い大きなジュリヤンの目が、老材木屋の意地悪そうな小さな灰色の目にぶつかった。ジュリヤンの心の底まで読みとろうとするかのようだった。
第五章 かけあい
時を稼《かせ》いで事態を建て直す。
エンニウス
「できるもんなら正直に返事してみろ! この本気違いめ《・・・・・》。どうしてレーナルの奥さんと知合いになったんだ。いつ口をきいたんだ?」
「一度だって口をきいたことはないよ。教会でお見かけした以外、ほかでなんか会うもんか」
「じゃ、じろじろ見たんだろ、ずうずうしいやつだ!」
「そんなことあるもんか! ぼくは教会じゃ神さまのほかにはなにも見てやしないじゃないか」と、ジュリヤンは偽善的な口調でつけ加えた。また殴られないようにするには、これに限ると思ったのだ。
「だが、これにはなにかわけがあるな」と、抜け目ない百姓はいい返し、ちょっと間を置いてから、「どうせ、なに聞いたってむだだ、この猫《ねこ》っかぶりめ! とにかく、お前の厄介《やっかい》払《ばら》いができるんだ。お前がいなくなりゃ、製材の仕事もずっとはかどる。司祭さんかなんかに取り入ったんだろう。うまい口を見つけてもらったもんだ。荷物をまとめろ。レーナルさんのとこへ連れてってやる。あそこの子供の家庭教師になるんだ」
「それでいくらもらえる?」
「食事と着物は向うもちで、三百フランの給金だ」
「召使になるのはごめんだ」
「ばかやろ! だれが召使になれといった?おれが自分のせがれを召使にしたがっているとでも思うのか?」
「でも、食事はだれと一緒?」
こういわれると、ソレル親《おや》爺《じ》も狼狽《ろうばい》した。話しているうちに、なにか言《こと》葉《ば》尻《じり》をとらえられそうな気がした。このジュリヤンには腹がたった。食いしんぼめといって、さんざん悪態をつき、ジュリヤンを残したまま、ほかの息子たちのところへ相談に行った。
しばらくしてジュリヤンはのぞいてみた。それぞれ、斧《おの》によりかかって相談をしている。ジュリヤンは長いあいだじっと見ていたが、なんのことか見当もつかないとわかると、見つけられないように、製材小屋の反対側へ行って、腰をおろした。なにしろ、自分の運命を変えてしまおうという、思いがけない知らせなのだ。ゆっくり考えてみようと思ったが、とうてい落ち着いて考えられない。レーナル氏のりっぱな屋敷はどんな具合だろうかと、そればかりを思い描いた。ジュリヤンは思った。《召使と一緒に食事をさせられるくらいなら、思いきってことわろう。親爺はむりやりに行けというだろうが、それなら死んだほうがましだ。十五フラン八スーの貯金がある。今夜逃げ出そう。間道伝いに行けば、警官につかまる心配もなく、二日がかりで、ブザンソンに出られる。そこで兵隊になろう。やむをえなけりゃ、スイスに渡ろう。だが、そうなると、出世の望みはなくなるし、野心もすてなければならない。結構な聖職について、好きなことをするわけにもいかなくなる》
召使と一緒に食事をするのがたまらないというのは、ジュリヤンには似合わしからぬことだった。出世のためなら、どんなにつらいことでもしかねない男だったから。だが、こうした嫌《けん》悪《お》感《かん》は、ルソーの『告白録』から教わったのだ。これこそジュリヤンの種本で、これによって社交界というものを想像していた。さらにナポレオン軍の戦況報告集と『セント = ヘレナ日記』が加わって、これらが彼の聖典となっていた。この三冊の本のためなら死んでもいいと思っている。これ以外のどんな本も信用しなかった。老軍《ぐん》医《い》正《せい》の言葉どおりに、ほかのどんな本でも、嘘《うそ》八百で、出世のために、くわせものどもが書いたのだと思っていた。
ジュリヤンは直情的である一方、あの驚くべき記憶力をもっていたが、これはえてして糞《くそ》暗記というものになりがちだ。ジュリヤンは自分の将来がシェラン老司祭にかかっているとよく知っていたので、ラテン語の『新約聖書』を全部暗記して、この司祭の心をつかんでしまったのだった。メーストル氏の『法王論』も覚えたが、両方ともいっこう信じてはいなかった。
まるでしめし合せたかのように、この日は、ソレルもその息子も、お互いに話し合うのを避けていた。夕方、ジュリヤンは司祭のもとへ神学を習いに出かけたが、さきほど父親が受けた奇妙な申し出のことについてふれるのはさし控えたほうがいいと判断した。《わなかもしれない、忘れてしまったような顔をしていたほうがよい》と、ジュリヤンは思った。
翌朝早く、レーナル氏はソレル親爺を呼びにやった。親爺は一、二時間待たせてから、やっとやってきて、さっそく門口で、しきりにいいわけをしながら、むやみと頭を下げた。そして、いろいろ文句をつけたすえ、息子が主人夫婦と一緒に食事をすること、ただお客のある日は、子供たちだけと別の部屋で食事をするということがわかった。町長さんがほんとうにあせっているのを知ると、ますます苦情をもちだしたくなる一方、驚きあきれながら、ますます警戒してかかり、息子の寝る部屋を見せていただきたいといった。大きな部屋で、そなえつけの家具もなかなか小ざっぱりしているが、早くも三人の子供のベッドが運びこまれているところだった。
この様子を見て、老いた百姓の頭にうまい考えが浮んだ。さっそく、落ち着きはらって息子のいただく着物を拝見したいと、申し出た。レーナル氏は机のひきだしを開けて、百フランを取り出した。
「この金で、息子さんを洋服屋のデュランの店へ行かせなさい。黒の三つぞろいを作らせるんだ」
「で、せがれがおひまをいただく場合でも、その黒服はそのままいただけますでしょうな?」と、すっかり丁寧な口のききかたを忘れてしまって、百姓がきいた。
「むろんだよ」
「それでは」と、ソレルはのろくさした調子で、「あとはもうひとつだけきめればよろしゅうございますな、せがれのいただくお給金のことで」
「なんだと!」と、レーナル氏は腹をたててどなった。「それは昨日からきまっている。
三百フラン出すといっているではないか。それでたくさんなはずだ。いや多すぎるくらいだ」
「たしかにそうおっしゃいましたし、そのとおりでございますが」と、ソレル親爺はますますゆっくりした口調になった。そして、フランシュ = コンテの百姓を知らないひとから見れば、驚くべき頭の働かせかたと思われようが、レーナル氏をまともにじっと見つめながら、つけ加えていった。
「ほかにももっといい口がありますので《・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
この言葉を聞くと、町長の顔色がさっと変った。しかし、落着きを取り戻《もど》した。そして、たっぷり二時間、一言も隙《すき》のない巧妙な会話が続けられたすえ、百姓のずるさが金持のずるさに打ち勝った。金持は生きるためにずるさを必要としないからだ。これからジュリヤンの新しい生活を規定することになる、数多くの条件が取りきめられた。給金は四百フランときめられたばかりでなく、毎月一日に先払いをしてもらうことになった。
「では三十五フラン渡すことにする」と、レーナル氏がいった。
「はしたが出ないように、町長さまのようなお金持で気前のいいおかたなら、三十六フランまで出していただけますでしょうな」と、百姓は猫なで声《・・・・》でいった。
「よろしい、だがいいかげんにしろ!」
今度こそは、町長も腹をたてて、きっぱりとした口調でいった。百姓はこれ以上つけ上がったらまずいと見てとった。すると、レーナル氏のほうが攻勢に転じた。ソレル親爺はなんとかして息子のかわりにもらおうとしたが、町長は最初のひと月分三十六フランを絶対に渡そうとはしなかった。レーナル氏はこの取りきめで自分の演じた役割を、家内に話してきかせなければなるまいと、ふと考えた。
「渡した百フランを返してもらおう」と、彼はふくれ面《つら》をしていった。「デュランの店には貸しがある。わたしが息子さんを連れていって、黒ラシャで仕立てさせる」
こう高圧的な態度に出られると、ソレルは用心深くもとに返って、例の丁寧な文句を並べはじめた。それが十五分も続いた。もうこれ以上は儲《もう》けられないと知って、やっと引きとった。帰りぎわの挨拶《あいさつ》はこうだった。
「せがれを御殿につかわしましょう」
町長さんを長にいただく連中が、ご機《き》嫌《げん》を取ろうと思うときは、町長さんの家を御殿と呼ぶのだ。
ソレルは工場に戻ると、息子を捜したが、見つからなかった。ジュリヤンはどんなことになるかわからないと警戒してかかり、真夜中に家を抜け出していた。本とレジヨン・ドヌール勲章を安全な場所に移しておこうと思い、全部をまとめてフーケという友人のもとに運びこんだ。この青年は薪《たきぎ》商人で、ヴェリエールが見おろせる高い山のなかに住んでいた。
ジュリヤンが家に戻ると、「この怠けものめ、どうせ、食《くい》扶《ぶ》持《ち》を払おうなんて殊勝な気持は持ち合せまいが、何年前貸ししてやってるかわからんのだぞ! ぼろでもまとめて、町長さんちへ行ってしまえ」と、親爺がどなった。
ジュリヤンは殴られないのに驚きながら、急いで出ていった。だが、かみなり親爺の目の届かないところまで来ると、さっそく足をゆるめた。教会へ立ち寄るほうが、自分の偽善に役だつだろうと思った。
諸君はこの言葉を意外に思うかもしれないが、だが、この百姓の息子の心はさまざまな経験を重ねたすえ、この大それた言葉に到達したのだ。
ほんの子供のころ、白い長マントをまとい、長い黒の房毛のついたかぶとをかぶった、第六連隊の竜騎兵《りゅうきへい》が、イタリア遠征から帰ってきて、父親の家の窓格《まどごう》子《し》に馬をつなぐのを見て以来、ジュリヤンは軍人生活に夢中になってしまった。そののち、老軍医正の聞かせてくれるロディ橋やアルコーレやリヴォリの戦いの話に聞きほれた。この老人が目を輝かして自分の十字勲章を眺《なが》めるのを見のがさなかった。
だが、ジュリヤンが十四になったとき、ヴェリエールに教会が一つ建てられはじめた。こんな小さな町としては壮麗とさえいえるものだった。とりわけ四本の大理石の柱がジュリヤンを驚嘆させた。柱はこの地方では有名になったが、それは、この柱のことから治安判事と若い助任司祭とがはげしく反目し合うことになったためだった。この助任司祭はブザンソンから派遣されたもので、修道会《コングレガシヨン》のスパイだという評判だった。治安判事はあやうくその地位を失いかけた。いやすくなくとも一般はそう見ていた。なにしろ、相手はほとんど二週間ごとにブザンソンへ行き、司教猊《げい》下《か》に会っているといわれる司祭だ、よせばいいのに、こんなものと悶着《もんちゃく》を起したのだからな、というのだ。
そうこうするうちに、家族が大勢いるこの治安判事は、不公平だと思われる判決をいくたびも下すようになった。いずれも『立憲新聞』を読んでいる町の連中に対する場合なのだ。思想穏健派が勝利をおさめたわけである。なるほど、たかが四、五フランのことなのだが、このちょっとした罰金を、ジュリヤンの名付け親の釘《くぎ》職人が払わされることになった。そこで、この男は腹をたててどなった。「まるっきり変ってしまいやがった! あの治安判事は二十年このかた正直者で通ってきた男なんだからな!」ジュリヤンの味方である老軍医正は、すでにこの世を去っていた。
ジュリヤンは、急にナポレオンの話をしなくなった。聖職につくつもりだと公言し、父親の製材小屋で、司祭から借りたラテン語の聖書を暗記している姿が、しじゅう見受けられるようになった。人のよい老司祭はジュリヤンがたちまち覚えてしまうのに驚嘆し、一晩じゅう神学を教えることもしばしばあった。ジュリヤンは司祭の前では敬虔《けいけん》な感情しか見せなかった。色白で、いかにもやさしそうな、娘のような顔の少年が、出世できないくらいなら、死んでもかまわないなどという、固い決意をいだいていようとは、だれが見ぬけたろう?
ジュリヤンにとっては、出世するとは、まずヴェリエールを離れることだった。ジュリヤンは故郷が大きらいだった。なにもかも、目にするものは、空想の翼をもぎとるものばかりだった。
ほんの子供のころから、ときどき思いつめることがあった。そうなると、いつかはパリの美しい女たちに紹介され、派手なふるまいをして、そういう女たちの注意をひくこともできようなどと、夢中になって空想に耽《ふけ》る。自分だってそういう女に愛されないとはかぎらない。ボナパルトにしたって、まだろくでもなかったころに、あのすばらしいボーアルネ夫人に愛されたではないか。財産もない無名の中尉ボナパルトは、剣で世界を征服したのだ。ずいぶん昔から、ジュリヤンはおそらく一時《いっとき》でも、そのことを思わずに過したことはない。そう考えると、自分では大きな不幸と思っていることについても心が慰められ、また喜んでいればいるで、ますます強い喜びを覚えるのだった。
教会の建立《こんりゅう》と治安判事の判決を見て、ジュリヤンははっと悟った。ある考えがひらめくと、数週間そのことで夢中になり、しまいにはすっかりそのとりこになってしまった。ものごとに熱中する人間はなにか新しいことを思いつくと、そのとりこになるのだが、ジュリヤンの場合がそうだった。
《ボナパルトの名が評判になったとき、フランスは外敵の侵入におびえていた。武勲は必要でもあり、流行でもあった。今日じゃ、四十歳の司祭が十万フラン、つまり、ナポレオン配下の有名な師団長たちの三倍にあたる給料を取っているわけだ。こういう司祭連中には助けてくれるものが必要なのだ。だからこそ、あの治安判事を見ろ。あれほど頭がよく、これまであれほど正直だったし、あんなに年をとっている男が、三十歳の若造の助任司祭のご機嫌をそこなうのがこわさに、あさましいふるまいをしているではないか。どうしても司祭になろう》
あるとき、ジュリヤンが神学を学びはじめて早くも二年たち、にわか信心も板についてきたころ、胸のなかで燃えている激情がふいに爆発して、思わず本音を吐いてしまった。シェラン司祭の家で催された司祭たちの晩餐《ばんさん》のおり、この善良な司祭がジュリヤンを、学問上の神童として紹介すると、ジュリヤンはうっかりナポレオンを熱烈にほめ上げてしまったのだ。ジュリヤンは右手を胸にしばりつけ、もみ《・・》の丸太を動かそうとして脱臼《だっきゅう》したのだと称し、ふた月のあいだそんな不自由な姿のままでいた。この体刑がすんではじめて、ジュリヤンは自分を許した。年は十九でも、見かけが弱そうで、せいぜい十七くらいにしか思えない、この青年が、いま、小さな包みをかかえて、ヴェリエールの壮麗な教会へはいっていく。
教会はうす暗く、人《ひと》気《け》がなかった。式があったらしく、教会の窓にはすべて暗赤色のカーテンがかかっている。太陽の光を受けて、これが目もくらむほど真っ赤に映え、この上もなく荘重で宗教的な印象を与える。ジュリヤンは身ぶるいした。教会のなかで、ひとりきりになったジュリヤンは、いちばんりっぱに見える椅子《いす》に腰をおろした。この椅子にはレーナル家の紋がついていた。
見ると、祈《き》祷台《とうだい》の上に、一枚の印刷した紙片が、読んでくれといわんばかりに拡《ひろ》げてある。読んでみると、
《ブザンソンにて……日、処刑されたルイ・ジャンレルの処刑ならびにその臨終の詳報》
と、書いてある。
紙はちぎれていた。裏はある行の最初の二字が読めた。それは第一歩《・・・》というのであった。
《だれがこの紙をこんなところに置いたのだろう?》と、ジュリヤンはいって、溜息《ためいき》をつきながら、《かわいそうなやつだな。この男のジャンレルという名と、おれのソレルとは語尾が同じだ……》とつけ加えていうと、その紙をもみくしゃにした。
教会を出ようとしたとき、聖水盤のそばを見て、血ではないかと思った。ふりまかれた聖水だった。窓にかかっている赤いカーテンが映って、血のように見えたのだ。
とにかく、ジュリヤンは内心びくっとしたのがはずかしく、心で叫んだ。
《おれは臆病者《おくびょうもの》なのか? 武器をとれ《・・・・・》》
この言葉は老軍医正が戦争の話のときにしじゅう口にしていたので、ジュリヤンは勇ましく感じていた。立ち上がると、レーナル氏の家のほうへ、すたすたと歩き出した。
決心はりっぱだったが、その家が間近に見え出すと、たちまちおじけづいてしまい、ど
うにもならなかった。鉄門は開いていた。いかめしい感じだが、はいっていかざるをえな
い。
ジュリヤンがこの家に来ることになって、心を悩ましたのは、当人だけではなかった。レーナル夫人は人一倍内気だったので、これからは見も知らぬ男が、役目とはいいながら、たえず自分と子供たちのあいだにはいることになると思うと、気が気でなかった。今までは自分の部屋に子供たちを寝かせていた。その日の朝、子供たちの小さなベッドが家庭教師にあてがわれる部屋に運ばれるのを見て、とめどもなく涙が出た。末っ子のスタニスラス = グザヴィエのベッドだけでも自分の部屋に戻してくれるようにと、夫に頼んではみたが、聞きいれられなかった。
レーナル夫人の場合は、女らしいデリケートな感情が極端にまで達している。下品で櫛《くし》もろくろく使わぬ男が、単にラテン語という野蛮な言葉を知っているだけで、自分の子供たちを叱《しか》ったり、鞭《むち》でひっぱたいたりするのだろうと思って、およそ不愉快な男の姿を想像していた。
第六章 倦怠《けんたい》
わたしにはもうわからない、わたしがなんだか、なにをしているのか。
モーツァルト(『フィガロ』)
男の見ていないところではいつもそうなのだが、レーナル夫人はしとやかながらも、元気よく、庭に面したサロンのガラス戸を開けて出たとき、ふと玄関の戸口のそばに若い百姓が立っているのに気づいた。まだ子供っぽいうえに、ひどく青白く、泣きやんだばかりといった顔である。まっ白なワイシャツを着て、粗《あら》い紫のラシャの、小ざっぱりした上着をかかえている。
この百姓の子供があまり色白で、かわいい目をしているので、多少ロマネスクなレーナル夫人は、はじめ、若い娘が男のなりをして、町長さんになにかお願いに来たのかもしれないと思った。玄関のところで立ちどまったまま、思いきって呼《よ》び鈴《りん》に手を伸ばすこともできないでいるらしい。いかにもあわれな姿でいじらしくなった。レーナル夫人は、家庭教師が来るというので気がめいっていたこともちょっと忘れて、近寄っていった。ジュリヤンは玄関のほうを向いていたから、夫人の近づく姿には気がつかなかった。すぐ耳もとでやさしい声がしたので、びくっとした。
「なにかご用、坊ちゃん?」
ジュリヤンは、さっと振り返ったが、レーナル夫人のいかにもあでやかなまなざしに打たれて、おじけづいた気持もいくらか忘れてしまった。やがて、相手の美しさに見とれて、なにもかも、なにをしに来たのかということさえ忘れてしまった。レーナル夫人はまた同じことをきいた。
「家庭教師として参りました、奥さま」
ジュリヤンはやっとそう答えたが、涙を流したのが照れくさくて、しきりに目をこすっていた。
レーナル夫人はびっくりしてしまった。くっつきすぎるほどの距離だったので、二人はお互いに見つめ合うことになった。ジュリヤンはこんなりっぱななりをしたひとを、ついぞ見たことはなく、とりわけ、こんな輝くばかりの肌色《はだいろ》をした女性からやさしく話しかけられたことはなかった。レーナル夫人はこの若い百姓の頬《ほお》に残っている大粒の涙を見つめていた。その頬もはじめはひどく蒼白《そうはく》だったのが、今度はすっかり赤くなっている。やがて夫人は、まるで娘のようにはしゃいで笑い出した。夫人はさきほどの自分自身がおかしくなったし、また自分がどんなに幸福だか計りしれないという気持だった。まあ、この子が家庭教師なの! ろくななりもしてない、薄汚ない坊さんがやってきて、子供たちを叱《しか》ったり、鞭《むち》でぶったりするものと思っていたのに!
やがて夫人がきいた。
「ほんとですの、あなた《ムッシュー》、ラテン語をご存じですの?」
この「あなた《ムッシュー》」という言葉はジュリヤンには、はなはだ意外だったので、ちょっと考えこんでから、おずおずと答えた。
「はい、奥さま」
レーナル夫人はすっかりうれしくなって、ついジュリヤンにいってしまった。
「あんまり子供たちを叱らないでしょうね?かわいそうですもの」
「わたくしが、叱るんですって? どうしてです?」と、ジュリヤンは驚いてきいた。
レーナル夫人はしばらく黙っていたが、感情の高まっていく口調で、またつけ加えてきいた。
「あの、あなた、子供たちにやさしくしてくださるでしょう? お約束してくださいますわね?」
二度まで本気で、こんなりっぱな身なりの婦人が、自分を「あなた」と呼んでくれたのだ。これはジュリヤンのまったく予期しないことだった。若者らしい空想はいろいろのことを思い描いてきたものの、自分がりっぱな軍服を着るようになるまでは、だれひとりとして身分の高い婦人が自分に口をきいてくれることはあるまいと思っていた。レーナル夫人のほうは、ジュリヤンの美しい色艶《いろつや》や、黒い大きな目や、かわいらしい髪にすっかりだまされてしまっていた。その髪は、頭を冷やそうと思って、さきほど広場の噴水の水盤につけたので、ふだんより縮れていた。レーナル夫人としては、このにくらしい家庭教師が、こわい顔をして、子供たちに当りちらすのではないかとひどく心配していたのに、小娘のようにおずおずしているので、うれしくて仕方がなかった。レーナル夫人のようなおとなしい心の持主にとっては、これまでの自分の不安と、今目にしているものとが相反しているだけで、これは大事件だった。やっと驚きから立ち直り、こうして、玄関口で、ほとんどワイシャツ姿の青年に、こんなにも間近で応対しているのに、ふと気がついた。
「はいりましょう」と、夫人はきまり悪そうにいった。
レーナル夫人はまじりけのない楽しさを、これほど深く味わったことが一度もなかった。やりきれないくらい心配したあげくに、これほど快いものを目にしたことはなかった。大事に育ててきた、かわいい子供たちも、これで、薄汚ない膨《ふく》れ面《つら》の司祭さんの手にかかることはあるまい。玄関にはいると、夫人はうしろからおずおずついてきたジュリヤンのほうを振り返った。このりっぱな家の様子にびっくりしているジュリヤンの姿は、レーナル夫人には、なおさらかわいらしく見えた。自分の目が信じられなかった。ことに、家庭教師は黒い服を着ているはずなのにという気がした。
「あの、ほんとですの、あなた、ラテン語がおできになるの?」と、夫人はまた立ちどまってきいた。そうに違いないと思うと、うれしくて仕方がないだけに、もし間違っていたらという心配も大きかったのだ。
夫人の言葉はジュリヤンの自尊心を傷つけた。さきほどからひたっていた楽しい気分は消えてしまった。
「はい、奥さま」と、ジュリヤンはことさら冷たい態度に出ようとしながらいった。「司祭さんと同じくらいラテン語ができます。ぼくのほうがよくできると、おっしゃることさえあるのです」
レーナル夫人はジュリヤンのひどく意地悪そうな顔つきに気がついた。ジュリヤンは二歩ばかり手前のところで、立ちどまっている。そこで、そばへ寄って、小声できいた。
「あの、はじめのうちは、子供たちを鞭でぶったりなさらないでしょうね? 勉強ができなくても」
こんな美しい婦人が、こんなにやさしく、ほとんど哀願するような口調でいうのだ。ジュリヤンはラテン語学者という体面など、たちまち忘れてしまった。レーナル夫人が間近に顔を寄せていたので、女の夏着の香りが鼻をついた。卑《いや》しい百姓にしてみれば、考えられないことだった。ジュリヤンは顔を真っ赤にして、溜息《ためいき》をつきながら、消えいりそうな声でいった。
「ご心配には及びません、奥さま、なにもかもおっしゃるとおりにいたしますから」
子供に関する不安がすっかり消え去って、はじめて、レーナル夫人はジュリヤンの顔がきわだって美しいのに打たれた。女にしたいような顔だちも、もじもじしている様子も、自分自身がひどく内気な女なので、すこしもおかしくはなかった。一般に美男といわれるには、男らしさが必要なのだが、そんな様子をしていたら、かえって夫人をこわがらせたにちがいない。
「おいくつですの? あなた」
「もうじき十九です」
それをきくと、レーナル夫人は安心しきって、
「うちの長男は十一ですの。お友達といってもいいくらいですわ。よくいいきかせてやってくださいね。一度主人があの子をぶとうとしたことがありますの。そしたら、一週間も病気をしましたわ、ほんのちょっとぶたれただけですのに」
ジュリヤンは考えた。《おれとはてんで違う。つい昨日も、おれは親《おや》爺《じ》にぶたれた。こういう金持連中はしあわせだなあ!》
レーナル夫人は早くも、この家庭教師の気持の、どんなわずかな反応をも見のがさないほどになっていた。この浮かぬ顔つきを気おくれと勘違いして、はげますように、
「お名前はなんとおっしゃるの? あなた」と、いかにもやさしい調子できいた。ジュリヤンはその声の魅力に惹《ひ》かれはしたものの、そうされるわけがわからなかった。
「ジュリヤン・ソレルと申します。生れてはじめて、よそのお宅へ伺ったものですから、こわいのです。かばっていただきたいし、はじめのうちは、いろいろの点で、大目に見ていただきたいのです。ぼくは学校に行ったことがありません。ひどく貧乏でしたから。話し相手といえば、レジヨン・ドヌールをもっていた身寄りの軍《ぐん》医《い》正《せい》と、司祭のシェランさんだけでした。司祭さんはぼくのことをほめてくださるはずです。兄たちからいつもぶたれてきました。兄たちがぼくの悪口をいっても、ほんとになさらないでください。なにか落度があっても、大目に見てください。悪意があってのことではないのですから」
ジュリヤンはしゃべりまくっているうちに、落着きを取り戻《もど》して、レーナル夫人をつくづくと眺《なが》めた。完全な美しさというものは、生れつきそなわっていて、とりわけ当人がそれを意識しない場合には、こういう効果を生むものなのだ。ジュリヤンは女の美しさについてはなかなかの目ききなのだが、このときなら、夫人がせいぜい二十《はたち》だと断言したにちがいない。ふと、夫人の手にキスしようという不敵な考えを起した。やがて自分の考えが空おそろしくなった。かと思うと、今度はこう思った。《おれは製材小屋からむりやりに連れてこられたばかりの卑しい職人だもの、この別嬪《べっぴん》め、おそらくおれを軽蔑《けいべつ》しているだろう。とすれば、その軽蔑の念をへらしてやる行為じゃないか。自分の役にたつ行為が実行できないようじゃ、おれは卑怯者《ひきょうもの》になる》ここ半年以来、日曜ごとに娘たちから美少年だといわれてきたので、多少その言葉に勇気を得たのかもしれない。ジュリヤンがこうして心で理屈をこねている一方、レーナル夫人のほうは、はじめ子供たちにどういうふうな態度で臨んだらよいかなどと、二言三言注意した。ジュリヤンはむりに自分の気持を抑えようとして、また真っ青になった。そこで、こわばった調子で、
「奥さま、けっしてお子さまがたをぶったりいたしません。神にかけてお誓いします」
そういいながら、思いきってレーナル夫人の手を取り、唇《くちびる》に近づけた。夫人はこのしぐさに驚いた。考えてみると、けしからぬ話だ。ひどく暑かったので、夫人はあらわな腕にショールをひっかけているだけだった。ジュリヤンがその手を唇に近づけたので、腕は丸出しになってしまった。しばらくして、夫人は自分自身を叱った。もっと早く腹をたてるべきだったと思ったのだ。
レーナル氏が話し声を聞きつけて、書斎から出てきた。町役場で結婚式に立ち合うときと同じような、威厳のある、いかにも温情にあふれた様子をして、ジュリヤンに、
「子供たちがお会いしないうちに、ぜひお話ししておきたい」
そういって、ジュリヤンを一室に招き入れ、ふたりきりにしておこうとする妻を引きとめた。戸を閉めると、レーナル氏はゆっくりと腰をおろした。
「司祭さんもあんたがりっぱな青年だといっておられたが、うちでは、みんなが、あんたに対して丁寧な態度をとるはずだ。それに、わたしの気にいれば、ゆくゆくは身のふりかたのお世話もしてあげたい。これからはご両親にも友達にも会わないでもらいたい。どうも柄《がら》が悪くて、うちの子供には向かんのでな。これは最初の月の分の、三十六フランだが、このうちびた一文でもお父さんには渡さないとはっきり約束してもらいたい」
今度のことで、例の老人のほうが自分より一枚上《うわ》手《て》だったので、レーナル氏はこれを根にもっていたのだ。
「ところで、先生《ムッシュー》、いや、その、わたしのいいつけで、うちではあんたのことを先生と呼ぶはずだし、あんたもりっぱな家庭に住みこむのが、いかに有利だかわかるはずだが、ところで、先生、あんたの背広姿を子供たちに見られるのはまずい。召使どもには見られたかね?」と、レーナル氏は妻にきいた。
「いいえ、あなた」と、夫人はひどく考えこんだ様子で答えた。
「それはよかった。これを着たまえ」と、レーナル氏はびっくりするジュリヤンに、自分のフロック・コートを渡しながらいった。「さあ、今度は服地屋のデュランの店へ行こう」
それから一時間あまりして、レーナル氏が黒ずくめの服を着た新しい家庭教師を連れて帰ってみると、レーナル夫人はさきほどの場所にすわったままだった。夫人はジュリヤンの姿をみてほっとし、その顔を眺めているうちに、おそれる気持も忘れてしまった。ジュリヤンは夫人のことなどまったく念頭になかった。運命や人間をなかなか信用しないジュリヤンではあったが、このときの気持は、まるで少年の気持でしかなかった。三時間前、教会でふるえていたときのことを思えば、それから何年も過ぎ去ったような感じがした。みると、レーナル夫人は冷たい顔をしている。ジュリヤンは、自分が大胆にも手にキスなどしたので怒っているのだろうと思った。だが、これまで着つけてきたのとはまるで違った服の肌ざわりから、得意な気持が抑えきれず、ひどくあがってしまい、あまりにうれしさを隠そうとするので、かえってその動作がどこかぎごちなく、ふつうの人と違っていた。レーナル夫人はびっくりして眺めるばかりだった。
「もうすこし落ち着きたまえ。でないと、子供たちや召使からばかにされるよ」と、レーナル氏がいった。
「新しい服が窮屈なのです。なにしろ、百姓ですから、背広しか着たことがありません。部屋に戻って休ませていただきます、よろしいでしょうか?」
「どうかね、今度手にいれた男は?」と、レーナル氏は妻にたずねた。
ほとんど本能的な心理作用で、おそらく自分でも気がつかなかったろうが、レーナル夫人は心にもないことをいった。
「あたしはあなたほど感心してませんわ、百姓の少年じゃありませんか。あんまりちやほやなさるとつけ上がって、ひと月もたたないうちに追い出さなくてはならなくなりますわ」
「それなら追い出すまでさ。百フランばかり損するだけで、レーナルさんのお子さんには家庭教師がついていると、ヴェリエールじゅうのものが思うようになるんだ。ジュリヤンに職人風《ふ》情《ぜい》のなりをさせておけば、こっちの目算どおりにはならない。追い出すときには、むろん、さっきの服地屋で仕立てさせた黒の三つぞろいは取り上げるさ。洋服屋で見つけて着せてやった、今の服だけやることにするんだ」
ジュリヤンが自分の部屋で過した時間は、レーナル夫人には一瞬のように思われた。子供たちは新しい家庭教師が来ると聞いていたので、母親にいろいろとうるさくきいた。ついにジュリヤンが姿を見せた。別人のようだった。重々しいというのではいいたりない、まさに重々しさの権《ごん》化《げ》だった。子供たちに紹介されて、話しはじめたときの、ジュリヤンの態度は、レーナル氏さえも驚かした。訓示をおえる段になると、
「みなさん、わたしはラテン語を教えに参ったのです。みなさんも暗誦《あんしょう》とはどういうことだかご存じですね。ここに聖書がありますが」といって、ジュリヤンは黒い表紙のポケット版の小さい本を見せながら、「これはとくにわが主イエス = キリストの物語で、新約聖書といわれている部分です。これからたびたび暗誦してもらいますが、まずわたしが暗誦してみます」
長男のアドルフが本を手にとった。
「どこでもいいから開いて、節の最初の言葉をいってください。われわれすべてのものの行いの規範である聖書を、やめろとおっしゃるまで暗誦してみせましょう」
アドルフが本を開いて、ひと言読んだ。すると、ジュリヤンはまるでフランス語でもしゃべるような調子で、そのページ全部をすらすらと暗誦した。レーナル氏は得意そうに妻を振り返った。子供たちは、両親がびっくりしているのを見て、目を丸くした。たまたまひとりの召使が客間の戸口へやってきた。ジュリヤンはラテン語をしゃべりつづけた。その召使ははじめ立ちつくしていたが、まもなく姿を消した。そのうち、夫人の小間使と料理女が戸口のそばへやってきた。それまでにアドルフはもう八カ所も本を開いていた。ジュリヤンは相変らずすらすらと暗誦している。
「まあ、かわいらしい小さな司祭さまだこと!」と、信心深い単純な娘の料理女がつい口に出してしまった。
レーナル氏は自尊心の手前、気が気でない。家庭教師を試すどころか、一生懸命記憶をたどって、いくつかラテン語の文句を思い出そうとしていた。やっと、ホラティウスの詩句を口にすることができた。ジュリヤンの知っているのは聖書のラテン語だけだった。そこで、眉《まゆ》をひそめながら、
「わたしはゆくゆく聖職に身を献《ささ》げるものです、そういう宗門外の詩人を読むことは許されないのです」
レーナル氏はホラティウスの詩と称するものをしきりに引用した。ホラティウスの詩がどういうものだか、子供たちに説明してきかせたが、子供たちのほうはすっかり感心してしまっていて、父親のいうことなどにろくろく耳をかそうともしないで、ジュリヤンを見つめていた。
召使たちが相変らず戸口のところに立っているのを見て、ジュリヤンはこの試しを続けたほうがよさそうだと思った。いちばん末の子に向って、
「スタニスラス = グザヴィエさんにも、聖書の一節をいってもらいましょう」
末子のスタニスラスが得意になって、ある一節のはじめの言葉をなんとか読むと、ジュリヤンはそのページ全部を暗誦した。まるでレーナル氏の勝利を裏付けするかのように、ジュリヤンが暗誦しているところへ、ノルマンディー産の駿馬《しゅんめ》の持主ヴァルノ氏と、郡長のシャルコ・ド・モージロン氏がはいってきた。この場面がジュリヤンに「先生」の肩書を与えることとなった。召使たちでさえ、そう呼ぶのを不満に思うものはなかった。
その夜、ヴェリエールじゅうのものが、この神童を見ようとして、レーナル氏邸に押し寄せた。ジュリヤンはだれに対しても、暗い顔をしてよそよそしくふるまった。評判はたちまちのうちに町じゅうにひろまったので、二、三日たつと、レーナル氏は横取りされはしまいかと心配になって、二カ年契約にしてくれないかといい出した。ジュリヤンはすげなく答えた。
「それはできません。暇を出すおつもりになれば、わたしのほうはいやでも出ていかなければなりません。わたしのほうだけしばられて、あなたのほうはなんにも義務を負わないわけです。そんな契約は不公平ですから、おことわりします」
ジュリヤンはうまく立ちまわったので、この屋敷へ来てひと月もたたないうちに、レーナル氏でさえジュリヤンに一目おくようになった。司祭はレーナル氏やヴァルノ氏と仲たがいしてしまっていたので、だれひとりとして、ジュリヤンが昔ナポレオンを崇拝していたことを、すっぱぬく気づかいはなかった。ナポレオンの話となると、ジュリヤンはいつも口にするのもけがらわしいという顔をするのだった。
第七章 親和力
相手の心にふれるといっても、これを傷つけないではすまないのだ。
ある近代人
子供たちはジュリヤンになついたが、彼のほうはすこしも愛情がもてなかった。彼はほかのことを考えていた。だだっ子どもがなにをしでかそうと、相手にしなかった。ジュリヤンは冷静で、曲ったことがきらいで、感情を表にあらわさなかったが、この家にはいって、いわば退屈を追い払うきっかけを作っただけに、みんなから愛されるし、りっぱな家庭教師だった。だが、心では上流社会に対して憎しみと嫌《けん》悪《お》をいだくばかりだった。この社会に迎えられたとはいっても、その食卓の末席をあてがわれただけのことで、おそらくそのことが憎しみと嫌悪の原因だったろう。ときに豪華な晩餐会《ばんさんかい》が催されることがあったが、そういうとき自分の周囲にいるものを唾《だ》棄《き》する気持が抑えがたいほどこみ上げてくる。とりわけ、サン = ルイの祭日に、ヴァルノ氏がレーナル氏邸で話をひとりじめにしているのを見て、ジュリヤンはあやうく本心をもらしかけた。子供たちを見にいくと称して、庭へ逃げ出し、はき出すようにしていった。《なんだってあんなに正直をほめあげるんだ! まるで人間の取《と》り柄《え》はそれだけしかないみたいだ。そのくせ、貧民収容所を管理するようになってから、自分の財産を二倍にも三倍にもふやしたにちがいないやつに、一目も二目もおきやがって! 見えすいたお追従《ついしょう》だ! どうせ、あいつは孤児の救済資金の上前《うわまえ》さえはねているにきまってらあ! ところが、その孤児たちの悲惨な状態は、ほかのものの場合よりはるかに侵してはならないはずじゃないか! この人でなしめ! 人でなしめ!おれだって、親兄弟家じゅうのものから憎まれて、まるで孤児みたいなものなのだ》
このサン = ルイの祭日の二、三日前、ジュリヤンは、日祷書《にっとうしょ》を暗誦《あんしょう》しながら、小さな森をひとりで散歩していた。「見晴らし台」と呼ばれるところで、例の「忠誠散歩道」が見おろせるのだ。ふと見ると、遠くから人《ひと》気《け》のない小道を通って、ふたりの兄がやってくる。ジュリヤンは避けようとしたが、そうはいかなかった。この無作法ものの職人どもは、弟のりっぱな黒服や、ひどく身ぎれいな様子や、自分らを軽蔑《けいべつ》しきっている顔つきを見ると、むらむらと嫉《しっ》妬《と》にかられて、ジュリヤンを血だらけになるまで殴りつけ、気絶させたままにして立ち去った。レーナル夫人がヴァルノ氏や郡長と一緒に散歩していて、たまたまこの小さな森に来合せた。ジュリヤンが地べたに倒れているのを見て、死んでいるものと思った。夫人があまりに驚いたので、ヴァルノ氏は嫉妬を感じた。
それはヴァルノ氏のとりこし苦労だった。ジュリヤンはレーナル夫人を美しいとは思っていたが、美しいだけに憎んでいた。もうすこしのところで、自分の境遇をあやまらせかけた第一の暗礁《あんしょう》だったからである。最初の日に、ついのぼせて、手にキスしてしまったことを忘れてもらおうと思い、できるだけ夫人と口をきかないようにしていた。
むろん、レーナル夫人の小間使のエリザは、まもなくこの若い家庭教師に恋心をいだき、夫人に向ってよくジュリヤンの話をした。エリザ嬢に恋されたおかげで、ジュリヤンは召使のひとりに怨《うら》まれる結果になった。ある日、ジュリヤンはこの男がエリザに「あんたはもう口もきいてくれないじゃないか、あの薄汚ない家庭教師がこの家に来てからは」といっているのを耳にした。ジュリヤンとしては、そんな侮辱をこうむるいわれはなかった。だが、美少年の本能から、前にもまして身だしなみに気をつけるようになった。ヴァルノ氏の憎しみもまた深くなった。若い神父のくせに、お洒《しゃ》落《れ》がすぎるではないか、と会うひとごとにいうのだった。法《ほう》衣《え》こそつけていなかったが、ジュリヤンは聖職者のなりをしていたのだ。
レーナル夫人は、ジュリヤンが、今までよりエリザとよく口をきいているのに気がついた。ジュリヤンのごく小さな衣裳《いしょう》戸《と》棚《だな》には入れるものがほとんどなく、それがふたりの話し合う原因だということがわかった。ジュリヤンはごくわずかな下着類しかもっていないので、しょっちゅう外に出して洗わせなければならない。そこで、このわずらわしい用事のために、エリザの手をかりていたのだ。考えてもみなかっただけに、ジュリヤンがそれほど貧しいのだと知って、夫人は心を動かされた。贈り物をしようかと思ったが、思いきってできない。こうして気持を抑えることが、ジュリヤンの夫人に与えた最初の苦しい思いだった。これまでは、ジュリヤンという名と、まったく精神的な清い感情とは同じ意味だったのだ。レーナル夫人はジュリヤンの貧しさを思うと、気にかかってならず、下着を贈る相談を夫にもちかけた。
「とんでもない考え違いだよ! 冗談じゃない! こっちとしてはあれにはなに一つ不満はなし、あれもよくやってくれるじゃないか、なんで贈り物をしようというんだ? そりゃ、怠けでもしたときには、鼻薬をかがせる必要もあろうが」
レーナル夫人はこういう考え方をはずかしいと思った。ジュリヤンが来る前だったら、そんなことは気にもとめなかったろう。この若い神父さんが、ごく質素ではあるが、ひどく身ぎれいにしているのを見るたびに、《かわいそうに、この子はどうしてやっていけるのかしら》と思わないではいられなかった。
ジュリヤンがおよそものをもっていないのに気を悪くするどころか、夫人は次第にこれに同情するようになった。
レーナル夫人は、会いたてのころ二週間ぐらいはばかではないかと思われるような田舎女のひとりなのだ。人生の経験は全然ないし、ひとと口をきく気などない。生れつきデリケートで、気位が高く、だれもがもっている幸福を求める本能から、たまたま下品な連中どもとつきあわなければならない環境におかれてはいるものの、多くの場合、そういう連中には目もくれもしない。
多少とも教育があったら、その飾りけのなさと頭の働きのよさが、人目についたかもしれない。だが、跡取り娘だというので、聖心《・・》会《・》の熱心な信奉者で、反イエズス会派のフランス人を憎んでいる修道女の手で育てられた。レーナル夫人はなかなか利口だったから、修道院でならったことなど、どれもこれも不合理だと思って、すぐに忘れてしまった。だが、そのかわりのものをつめこまなかったので、結局なにも覚えないでしまった。巨万の富の跡取り娘だというので、早くからちやほやされ、また生れつき信仰心が篤《あつ》かったから、まったく内面的な暮しかたをするようになってしまった。外面はこの上もなく謙譲で、自己を殺している。ヴェリエールの亭主《ていしゅ》どもが女《にょう》房連《ぼうれん》によく引合いに出すし、それがレーナル氏の自慢でもあったが、ほんとをいえば、夫人の気持は平生およそ高慢きわまる気質にもとづいているのだ。気位の点でよく引かれる王女でさえ、いかにもやさしそうで控え目に見えるこの女性よりは、まわりの貴族たちのふるまいに注意をはらっているといえよう。ところが、この女性は夫がなにをいおうとなにをしようと、まるで関心がなかった。ジュリヤンが来るまでは、ほんとうに気を使ったことといえば、子供のことだけなのだ。ブザンソンの聖心修道院にいたころ、神を崇《あが》めた以外にけっしてものを愛したことがないだけに、感情のすべてを、子供のちょっとした病気とか苦しみとか、その子供らしい喜びとかに打ちこんできた。
だれにも口外したことはないが、子供のひとりが急に熱でも出すと、まるでその子が死にでもしたかのような気持になる。結婚したてのころは、胸にしまっておけなくて、こうした種類の悩みを夫に打ち明けたりしたが、夫はこれに対していつもげびた高笑いをするか、肩をすぼめるかして、そのあとでは女のあさはかさについて、くだらない格言めいたことをいうのだった。こういう種類の冗談を、とりわけ子供の病気のことで聞かされると、レーナル夫人は胸をえぐられる思いがした。少女時代を送ったイエズス会派の修道院では、ちやほやされ、甘ったるいお世辞に慣らされてきた。ところが、今度はこんな目にあわされたのだ。痛手が彼女を作りあげた。気位が高いだけに、こうした種類の悩みは、親友のデルヴィル夫人にさえ、打ち明けなかった。男というものはどれもこれも、自分の夫や、ヴァルノさんや、郡長のシャルコ・ド・モージロンさんみたいなものだと思いこんだ。下品なこと、金銭や位階や勲章と関係のないことがらに対しては徹底的に無感覚なこと、自分に都合の悪い理屈を盲目的に憎むこと、こうしたことが、長靴《ながぐつ》をはいたり帽子をかぶったりするのと同様、男性にはあたりまえのことのように思えた。
レーナル夫人は長年、こうした金銭ずくの人間のあいだで暮してきたが、相変らずなじめなかった。
百姓の少年ジュリヤンが成功したのはこのためなのだ。レーナル夫人はこの高潔で気位の高い心に共鳴し、もの珍しさに惹《ひ》きいれられて、甘美な喜びを覚えた。まもなく、ジュリヤンが人一倍もの知らずなのも、もの知らずなだけにかわいいと思って、大目に見るようになり、粗野な態度も気にさわらなくなったし、その点は直させることもできた。ジュリヤンがごくありふれた話をしても、たとえば、犬が往来を横切ろうとして、走ってくる百姓の荷馬車にひかれたといった話のときでも、傾聴に値すると思った。このいたましい光景の話を聞くと、レーナル氏は例の調子でからからと笑い出したが、夫人はそのときジュリヤンが黒い三日月型の美しい眉《まゆ》をひそめるのを見てとった。心の寛《ひろ》さ、気高さ、思いやりは、この若い神父のうちにしか存在しないと、だんだん思うようになった。彼女はジュリヤンに対して、はじめて限りない共感を覚えたばかりか、こういう美徳がりっぱな人間の心に呼び起す讃《さん》美《び》の気持さえいだいた。
パリなら、ジュリヤンのレーナル夫人に対する立場はごく簡単に解決したことであろう。なにしろ、パリでは、恋愛は小説の子なのだから。若い家庭教師と内気な奥さまとは、小説を二、三冊も読めば、いやジムナーズ座の台詞《せりふ》を聞くだけで結構、自分たちの立場がはっきりわかったろう。小説が演じるべき役割を教えてくれたろうし、まねすべきお手本を見せてくれたにちがいない。それに、遅かれ早かれ、なんら喜びを感じなくても、あるいは渋々ながらでも、虚栄心から、このお手本に従わざるをえなかったであろう。
アヴェーロンやピレネの小都会だったら、暑い気候の土地だから、ごく小さな出来事でも決定的なものになったろう。ところが、この地方の、むしろ陰気な風土では、ひとりの貧しい青年、しかも神経質なところから、金で得られる享楽《きょうらく》を味わってみたいばっかりに、野心家となった一青年が、子供のことに気をとられて、小説に行為のお手本を求めようなどとは考えてもみない、心から貞淑な三十女を、毎日眺《なが》めているだけなのだ。田舎では、すべてがなかなか進まない、すべてが徐々にでき上がる。そのほうがずっと自然なのだ。
レーナル夫人は、この若い家庭教師の貧しさを思うと、涙ぐむことがよくあった。ある日、ジュリヤンは、夫人が、ほんとうに涙を流しているところを見つけた。
「おや、奥さま、なにかいやなことでもございましたか?」
「いいえ、あなた《モナミ》、子供たちを呼んでください。みんなで散歩しましょう」
夫人はジュリヤンの腕に手をかけ、気味が悪いくらい寄りかかってきた。レーナル夫人に「あなた《モナミ》」と呼ばれたのははじめてだった。
散歩が終りかけたとき、ジュリヤンは夫人がひどく顔を赤らめているのに気がついた。足どりをゆるめると、夫人はジュリヤンの顔を見ないようにしていった。
「お聞きになったでしょうが、あたしはブザンソンに住んでいる大金持の伯母の、たったひとりの跡取りなんですの。しょっちゅう贈り物をしてくれますわ。……子供たちもできるようになりましたし。……見違えるくらいですわ。……それで、お礼のしるしに、つまらないものなんですけれど、受け取っていただけないかしら。ほんの五、六ルイですの、下着をお作りになったらと思って。でも……」とつけ加えながら、ますます赤くなり、黙ってしまった。
「なんですか、奥さま?」
「こんなことは」と夫人はうつむいたままいいつづけた。「主人には話す必要はないと思いますの」
「わたくしはつまらぬ人間です、奥さま。しかし卑《いや》しい人間ではありません」ジュリヤンは足をとめて、怒りに燃えた目で、思いきり胸をそらせていい返した。「そこをよくお考えになっていただきたいのです。なに事にせよ、わたくしのお金のことで《・・・・・・・・・・・》、レーナルさんに隠しだてをするようなことがあったら、わたくしは召使にも劣るわけではありませんか」
レーナル夫人はうちのめされた思いだった。ジュリヤンは続けていった。
「こちらに参りましてから、町長さんは三十六フランを五度下さいました。わたくしはいつでも小遣帳を、レーナルさんばかりでなく、だれにでも、わたくしを目の敵《かたき》にしているヴァルノさんにだって見せることができるようにしてあります」
これほどまでにまくしたてられたので、レーナル夫人は血の気を失い、ふるえ出していた。どちらからも話のきっかけが見つからないうちに、散歩はすんでしまった。レーナル夫人に対して愛情をいだくことは、自尊心の強いジュリヤンには、ますます不可能になった。夫人のほうはジュリヤンに敬意をはらい、また感心もした。なにしろ、ジュリヤンから叱《しか》られたのだ。心にもなくジュリヤンを侮辱してしまったと思うと、その埋め合せのつもりで、できるだけ細かな心づかいをした。こうして、新たな態度でジュリヤンに臨むのが、一週間のあいだ、レーナル夫人には楽しかった。その結果、ジュリヤンの怒りもいくらか鎮《しず》まったが、彼としてはそこに特別な愛情といったようなものを認める気は全然なかった。
《金持連中なんて、ああしたものなのだ。ひとを侮辱しておきながら、そのあとで見えすいた好意のまねごとでもすれば、それで片がつくとでも思ってやがる!》
レーナル夫人はこのことで胸がいっぱいだったし、それにまたあまりにも正直すぎたので、話すまいとは決心していたものの、ジュリヤンに贈り物をしようとして、はねつけられたときのいきさつを、夫に打ち明けてしまった。レーナル氏はひどく腹をたてた。
「なんだって、召使《・・》風《ふ》情《ぜい》からことわられて、黙ってひきさがるやつがあるものか!」
レーナル夫人が召使風情という言葉を咎《とが》めると、
「亡《な》くなられたコンデ大公の言葉を使ったまでのことだ。新しい奥方に侍従たちを引き合せるとき、《この連中はみんなわたしたちの《・・・・・・・・・・・・・・》召使なのだ《・・・・・》》とおっしゃったではないか。読んであげたはずだが、この話はブザンヴァルの『回想録』に出てくる。身分の上下を心得ておくためには忘れてならないことなのだ。ここのうちに住み、給料をもらっている、貴族でないものは、みんなあなたの召使だ。わたしがジュリヤンと話をつけて、百フランを受け取らせてやる」
「まあ、あなた」と、レーナル夫人は身ぶるいしながらいった。「せめて召使たちの前では、そんなことなさらないで!」
「うむ、なるほど、あいつらがやきもちを焼くかもしれないからな」夫はそういって、いくら渡したものかと思案しながら、出ていった。
レーナル夫人は気も遠くなるほど胸が迫って、ぐったりと椅子《いす》に腰をおろした。《ジュリヤンを侮辱するにきまっているわ、それも、あたしがうっかりしゃべったばかりに!》彼女は夫に愛《あい》想《そ》をつかし、両手で顔を隠した。もうけっして打ち明けまいと、固く心に誓った。
それからまたジュリヤンに会ったとき、彼女はひどくふるえていた。胸がしめつけられたようで、一言もいいだせなかった。気まずい思いから、ジュリヤンの手を取って握りしめ、
「どう、あなた、主人のことで気を悪くなさったのじゃありません?」と、やっとの思いでいった。
「悪く思うはずはないじゃありませんか。百フランいただきましたよ」ジュリヤンは苦い微笑を浮べて答えた。
レーナル夫人はなにか決心しかねる様子で、ジュリヤンを見つめたが、
「腕をかしてくださいな」と、思いきった調子でいった。これまでジュリヤンのついぞ見たこともない調子だった。
彼女は大胆にも、自由主義者だという悪評を承知のうえで、ヴェリエールの本屋に出かけた。その店で、十ルイだけ本を見つくろって子供たちにあてがったが、彼女はそれらの本がジュリヤンの欲しがっている本だと知っていた。その本屋の店で、彼女は子供たちがめいめいあてがわれた本に、名前を書きこむようにした。レーナル夫人がこうした形で、ジュリヤンのために思いきった償いができて喜んでいるあいだに、ジュリヤンのほうは、この本屋にぎっしり本が並んでいるのを見て、びっくりしていた。これまで、一度もこんな世俗的な場所に足をふみいれたことはなかった。胸がどきどきした。レーナル夫人がどんな気持でいるのか考えてみようともせず、一介の若い神学生の身で、これらの本のうちの、せめて数冊でもいい、どうしたら手にいれることができようかと、一生懸命思いめぐらしていた。やっと、うまいことを考えついた。子供たちの作文の題材として、この地方出の有名な貴族の歴史を読ませなければならないと言葉巧みにもちかけたら、レーナル氏を納得させることができるかもしれない。ひと月、様子を見たあげく、この考えがうまくいきそうなのを知った。あまりうまくいきそうなので、それからしばらくして、レーナル氏と話している最中に、思いきってこれを口に出した。貴族の町長にしてみれば、ことのほかつらいふるまいなのだ。なにしろ、本屋から月ぎめで本を買えば、自由主義者の財産をふやしてやるようなものだからである。レーナル氏としても、長男が士官学校にでもはいれば、どうせ話題にのぼるいくつかの本はあるわけで、それがどんな本だか見せておいた《・・・・・・》ほうが賢明だとは思っている。だが、町長さんはそういうだけで、あくまでそれ以上積極的になろうとはしないのが、ジュリヤンにはわかった。これにはなにか秘密のわけがあるなとは思ったが、それを突きとめることはできなかった。
ある日、ジュリヤンがいった。
「レーナルといわれるような、りっぱな貴族の名が、本屋の汚《けが》らわしい帳簿にのるのは、どうにも具合が悪いとは思っていたのです」
レーナル氏の顔が明るくなった。ジュリヤンはますます謙遜《けんそん》した調子で、
「わたくしのようなつまらぬ神学生の場合でも、貸本屋の帳簿に名前ののっていることが、あとからばれたりしますと、やはり悪い評判をたてられましょう。自由主義者の連中は、わたくしが、とりわけ、汚らわしい本を借りたなどと、ありもしないことをいうかもしれません。そればかりか、わたくしの名前のところへ、そういう悪書の名前を書き足したりしないともかぎりません」
だが、ジュリヤンは本筋からそれはじめていた。町長の顔に、また当惑と不《ふ》機《き》嫌《げん》の色があらわれた。それを見て、ジュリヤンは黙りこんだ。《もうこっちのものだ》とジュリヤンは思った。
二、三日して、いちばん上の子が、レーナル氏のいる前で、『日日新聞』に広告の出ている本のことをジュリヤンにきいた。若い家庭教師がいった。
「過激革命派《ジャコバン》の連中にしてやられるようなことがあっては絶対いけませんが、一方わたくしはアドルフさんにお答えができなくてはいけないわけで、そうするには、お宅でいちばん身分の低いものの名で、本屋へ購読を申し込むのがよいと思います」
「ふむ、その考えは悪くない」と、レーナル氏は答えた。ひどく気にいったらしい。
待ちあぐんでいたことがうまく運びそうなのを見て、いかにもそうであるかのように、こういう表情をするものがいるが、ジュリヤンも、きまじめな、ほとんど悲しそうな表情をしていった。
「ただはっきりきめておかないといけませんが、小説類は一冊も召使の手に渡さぬようにすることです。こういう危険な本がお屋敷にはいろうものなら、奥さまづきの小間使たちはおろか、当の召使をも堕落させないともかぎりませんから」
「政治上のパンフレットを忘れておる」と、レーナル氏は高飛車に出ていった。子供たちの家庭教師が思いついた、この巧みな折衷案に感心したものの、その気持を隠そうとしたのだった。
このように、ジュリヤンの暮しは、小さなかけひきの連続から成り立っていたし、それがうまくいくか否《いな》かは、その気になればレーナル夫人の心のうちにわけなく読みとれたはずの、目だった好意などより、はるかに重大だった。
生れてこのかた、持ち続けてきた精神状態は、ヴェリエールの町長さんのところへ来ても、やはり同じだった。父親の製材小屋でも、ここでも、一緒に生活する連中を心から軽蔑していたし、またその連中から憎まれもした。郡長でも、ヴァルノ氏でも、この家の知合い連中が、目の前で起ったことがらについて話しているのを毎日聞きながら、こういう連中の考えかたが、およそ現実にそぐわないのがわかる。ジュリヤンからすればりっぱだと思われる行為が、まさに周囲の連中から非難の的になる。彼はいつも心のなかで《この人でなしめ!》とか《大ばかものめ!》といって、これをののしっていた。滑稽《こっけい》なことだが、これほど高慢ちきなくせに、みんなの話していることが、てんでわからない場合が、しばしばある。
これまで、心をわって話した相手といえば、老軍《ぐん》医《い》正《せい》だけだった。もっとも、この軍医正の知識も、せいぜいボナパルトのイタリア遠征と外科に関することだけだった。若くて気丈夫なジュリヤンは、とりわけ苦痛のひどい外科手術について、精《くわ》しい話をしてもらうのが好きで、《おれなら眉《まゆ》ひとつ動かさないぞ》と思うのだった。
一度、レーナル夫人が子供の教育と関係のない話をしようとしたことがある。すると、ジュリヤンは外科手術の話をしはじめた。彼女は青くなって、やめてくれといった。
ジュリヤンはそれ以外のことを知らなかった。したがって、レーナル夫人と一緒に暮しながら、ふたりきりになると、たちまちどうにもならぬ沈黙がふたりのあいだに起る。サロンでは、ジュリヤンがどんなにへりくだった態度をしていようとも、この家にやってくるだれに対しても、自分が知的にすぐれているのだといった様子が、その目のうちにうかがわれるのを、夫人は見のがさなかった。ちょっとでもふたりきりになると、ジュリヤンは明らかに照れくさそうな顔をする。彼女はそれが気になった。女の本能から、そういう当惑がけっして恋心から出たものでないとわかるからだった。
老軍医正が自分の目で見た上流社会の話をしてくれたため、ジュリヤンはこれにもとづいて一種の見方をしている。たまたまどこかで女とふたりきりになって、話がなくなると、まるでその沈黙が自分の落度のせいであるかのように思われて、屈辱をうけた気になる。こういう感じは、差向いだと、話にならぬくらいやりきれない。女とふたりきりのとき、男はなにをいうべきかということで、彼の頭は、ひどく大げさな、スペイン的な考えかたでいっぱいになり、おろおろしてしまって、とんでもない想像しかできない。心はわくわくしているのに、このおよそ屈辱的な沈黙から抜け出せないのだ。こういうわけで、レーナル夫人や子供たちと長いあいだ散歩しながらも、もちまえのきつい表情が、このたえられぬ苦しみのために、ますますきつくなるのだった。ジュリヤンはそういう自分がたまらなくいやだった。運悪くむりをして口をきくと、ばかばかしいことをついいってしまう。そのうえ、情けないことに、自分で自分の愚劣なことを承知し、それを誇張して考えている。だが、自分で気がつかないのは、自分の目の表情だった、ジュリヤンの目はじつに美しく、情熱的な心をあらわしているだけに、名優の目に似て、ときには意味のないことに、美しい意味をそえることがあった。レーナル夫人は、自分とふたりきりのときで、ジュリヤンが急にうまいことを口にしたりするのは、なにか思いがけない出来事に気をとられて、上手なお世辞をいおうなどという余裕のないときに限られていると気がついた。この家に来る連中は、彼女に新しい派手な思想を吹きこんで、彼女の気持をすさませるようなこともなかったから、彼女はジュリヤンがときおり見せる才気を無性に楽しく思った。
ナポレオンの失脚以来、礼儀作法などは田舎の風俗から徹底的に追放されてしまっている。人々は免職をおそれている。くえない連中は修道会に後楯《うしろだて》を求め、偽善が自由主義者の階級にまで見事にはびこっている。憂鬱《ゆううつ》はますますつのっていく。読書と農耕以外になんの楽しみがあろう?
レーナル夫人は信心深い伯母の莫大《ばくだい》な財産をつぎ、十六歳でりっぱな貴族と結婚し、生れてこのかた、およそ恋らしいものを経験したこともないし、目にしたこともなかった。せいぜい、ヴァルノ氏にいいよられたとき、自分の告解師で善良なシェラン司祭から、恋愛の話をしてもらった程度で、しかも、司祭がいかにもいやらしいもののように説明してくれたので、この言葉には、下劣きわまりない不品行というイメージしか浮んでこないのだった。たまたま目にふれた、ごくわずかな小説のなかで読んだような恋愛は、例外的なものか、本性にもとるものだと思っていた。こういう無知のおかげで、レーナル夫人は、幸福にひたりきって、ジュリヤンのことばかり思い続けながら、やましい気持などすこしも起さなかった。
第八章 小さな出来事
こうして、溜息《ためいき》は隠そうとすればなお深く、
盗み見はひそかなためになお甘く、
やましくないのに、なお頬《ほお》はくれない。
『ドン・ジュアン』第一編、第七四節
レーナル夫人は、生れつきの性格と現在の幸福のおかげで、天使のような楽しさを味わいながらも、小間使のエリザのことに思いが及ぶときだけは、その楽しさにもやや影がさすのだった。この娘はあるひとの財産を相続したので、シェラン司祭のもとに告解に行き、ジュリヤンと結婚するつもりだと打ち明けた。司祭は愛《まな》弟《で》子《し》の幸福を心から喜んだが、ジュリヤンがエリザ嬢の申込みを受ける立場でないと、はっきりいうのを聞いて、すっかり驚いてしまった。司祭は眉《まゆ》をひそめて、
「あんたはどんな気持でいるのかしらないが、気をつけないといけない。結構すぎる財産なのに、それもいらぬという気持が、ただ天職のことを考えての上なら、あんたの天職に対する気持は、わしとしても喜ばしいと思う。わしはヴェリエールの司祭になってから、五十六年にもなるのに、どうやら近いうちにやめさせられそうなのだ。これはわしにはつらいことだが、わしには八百フランの年収があるからいい。こんな細かなことまで打ち明けるのも、あんたが聖職についたところで、たいしたことは期待できないわけで、その点夢をもたないようにと思うからなのだ。権力のある連中に取り入ろうとでも思っているなら、あんたは永遠に救われないぞ。出世しようと思えばそれはできよう、だが、そのためには貧しいものを苦しめ、郡長や町長など有力者にこびへつらって、その道楽に迎合しなければならぬ。そういうふるまいは、世間でいう処世術というもので、俗世間の人間なら、そのために救われないというわけでもあるまい。だが、われわれ聖職者の場合は、二つに一つを選ばなければならぬ。現世で出世するか、天国でしあわせを得るか、その中間はないのだ。さあ、よく考えてみるがいい。三日たったら、もう一度来て、わしに最後の返事を聞かせてもらいたい。残念ながら、どうやら、あんたの性格の奥底には、なにか測りしれぬ情熱がひそんでいるようだ。それは、節制と、地上の利害からの解《げ》脱《だつ》という、聖職者にぜひとも必要な心構えではないようだ。あんたは頭の点では伸びるだろうが、ひと言いわせてもらうと、聖職について、救われるかどうか疑問なのだ」そういって、ひとのいい司祭は目に涙を浮べた。
ジュリヤンは感動したが、それをはずかしく思った。生れてはじめて、ひとに愛されているのを知って、彼はうれし涙にかきくれながらも、ヴェリエールの山手の森の奥へわけいって、その涙を隠そうとした。そして考えた。
《どうしておれはこうなんだろう? おれはあのひとのいいシェラン司祭のためなら、いくらでも生命《いのち》を投げ出す気でいる。だが、たったいま、おれはあの司祭に、おれが要するにばかものだときめつけられたんだ。おれがまっ先にだまさなくてはならないのは、あの司祭であるはずなのに、おれは腹のうちを見すかされてしまった。あのひとのいう隠れた情熱とは、出世しようというおれの気構えをいうんだ。あのひとはおれが聖職者には向かないと思っている。しかも、五十ルイの年収など問題にしないというところを見せたら、おれの信仰心とおれが聖職に向いていることを大いに買いかぶってくれると思っていたその矢先に、そういうんだからな》
ジュリヤンはさらに思い続けた。
《これからは、おれの性格のうちでも、試験ずみのものだけを、あてにすることにしよう。おれがいい気になって涙を流すような人間だとは、思いもよらなかったわい。要するにばかものだよときめつけるやつを、こっちから愛するなんて、考えてもみなかったわい》
三日たつうちには、口実を見つけておいたものの、それをはじめの日からもち出しておけばよかったのだ。その口実とは中傷という手だったが、かまうものか。ジュリヤンはひどくいいにくそうなふりをして、第三者を傷つけることになるので、その理由は述べないが、ある事情ではじめからこの結婚の話には乗り気でなかったと、司祭に打ち明けた。それはエリザの身持を非難することになる。シェラン司祭は、そういうジュリヤンの態度に、なにか世俗臭の強い煩悩《ぼんのう》を認めた。若い聖職者の心を動かすべき情熱とはまったく違っている。
「いいかな、聖職に向いていないのに、聖職者になるくらいなら、尊敬すべき教養あるりっぱな田舎紳士になるがいい」とまで、司祭はいった。
またしても訓戒されたわけだが、ジュリヤンはこれに対して、言葉の上ではりっぱにいい返した。信仰深い神学生が使いそうな言葉を使ったのだ。しかし、その言葉を口にするときの調子や、その目のうちに光る隠しきれぬ情熱が、シェラン司祭を驚かした。
ジュリヤンには全然見込みがないなどと、思いすごしてはいけない。狡猾《こうかつ》で用心深い偽善の言葉をりっぱに考えだしているし、年にしてはなかなかよくやっている。口ぶりや身ぶりの点になると、田舎者のあいだで育ち、りっぱなお手本を見る機会がなかったわけだ。やがて、紳士連中に接するようになると、たちまち言葉の点でも身ぶりの点でも、見違えるようになっていったのだ。
レーナル夫人は、小間使が新たに財産をもらいながら、いっこううれしそうでないのを見て驚いた。しきりに司祭のもとへ出かけては、涙を浮べて帰ってくる。そのうち、とうとうエリザが結婚の話をした。
レーナル夫人は病気になったような気がした。熱っぽくて夜も眠れなくなった。目の前に、小間使か、ジュリヤンがいないと、生きた心《ここ》地《ち》がしなかった。このふたりのこと、ふたりが所帯をもって幸福に暮す姿しか考えられなかった。五十ルイの年収で暮さなければならないような、ささやかな所帯のみすぼらしささえ、すばらしく楽しい色合をおびて見える。ジュリヤンなら、きっと、ヴェリエールから二里離れた、郡役所のあるブレーで、弁護士になれよう。それならときどき会えるかもしれない。
レーナル夫人は本気で気違いになるかもしれないと思った。夫にもそう打ち明けたし、とうとう病気になってしまった。その夜、小間使が給仕をしているとき、夫人はこの娘が泣いているのに気がついた。急に憎らしくなって、つい邪険な態度に出てしまい、あやまってはみたが、エリザはますます泣くばかりで、奥さまさえ聞いてくださるなら、どんなにみじめな思いをしているかお話ししましょうといった。
「話しておくれ」
「奥さま、あのひとはいやだと申すのでございます。意地悪なひとたちが、わたくしの悪口をいったらしく、あのひとはそれを真に受けているのです」
「だれがいやだといってるの?」レーナル夫人は息のつまる思いできき返した。
「まあ、奥さま、ジュリヤンさまにきまっておりますわ」と、小間使は泣きじゃくりながら、「司祭さまでも、あのひとの気持をひるがえさせることはおできにならなかったのでございます。司祭さまは、小間使をしていたからといって、堅気の娘をことわれるはずはないとおっしゃるのですけれど。ジュリヤンさまのお父さんだって、材木屋にすぎないじゃございませんか。あのひとにしても、奥さまのお屋敷に参るまでは、どんな暮しをしていたと申すのでございましょう?」
レーナル夫人はもう聞いてもいなかった。あまりのうれしさに、分別もなにもなくなりかけていた。ジュリヤンがきっぱりことわったのか、あとになって知恵を働かして思い直すような余地はないのか、彼女は何度も念をおしてきいた。
「あたしが、もう一度骨をおってみましょう。ジュリヤンさんに話してみます」と、彼女は小間使にいった。
翌日、昼食のあとで、一時間のあいだ、恋《こい》敵《がたき》の弁護をしながら、エリザの申込みも財産もてんで問題にされないのを見て、彼女はえもいわれぬ幸福感にひたった。
そのうちジュリヤンの返事にもだんだん堅苦しさがとれ、しまいにはレーナル夫人のもっともらしい忠告に、気のきいた受け答えをするようになった。彼女は、幾日も落胆が続いたあとだけに、胸にこみ上げてくる幸福の奔流にさからうことができず、ほんとうに気が遠くなってしまった。正気にかえって、自分の部屋に身を落ち着けると、彼女はみんなに出ていってもらった。われながら、ただ驚くばかりだった。
《あたしは、ジュリヤンに恋しているのかしら》ついに彼女はつぶやいた。
この発見も、ほかのときなら彼女を良心の呵責《かしゃく》と深い動揺のうちにつき落したであろうが、今の彼女には、それがまるでひとごとのような気がして、不思議な光景としか思えなかった。いましがた経験したいろいろのことで、心は疲れはて、情熱をいだこうにも、もはや感覚が失われてしまっていた。
レーナル夫人は仕事をしようと思ったが、深い眠りに落ちてしまった。目が覚めても、案外空おそろしい気はしなかった。あまりにうれしくて、なにごとも悪く解釈できなかったのだ。この善良な田舎女は、単純で純真なので、自分の心を苦しめてまで、なにか目先の変った感情や不幸に、わずかながらでも、ふれてみようなどとはしなかった。パリから遠く離れた土地の主婦のつとめといえば、むやみと仕事をすることだが、ジュリヤンが来るまでは、まったく仕事に追われどおしで、レーナル夫人は情熱のことを考えるにしても、われわれが宝くじについて思う程度のことにすぎなかった。だまされるにきまっている。そんな幸福を追いまわすのは愚かものだけだ。
夕食の鐘が鳴った。レーナル夫人は、子供を連れてくるジュリヤンの声を耳にして、真っ赤になった。恋を知っていくらかずるくなった彼女は、顔を赤くしたいいわけに、ひどく頭痛がするといってこぼした。
「女というのはみんなそうなんだな。いつも機械のどこかが故障してるものらしいな」と、レーナル氏は高笑いをしながら答えた。
こういう洒《しゃ》落《れ》には聞きなれていたものの、その声《こわ》音《ね》がレーナル夫人の気持を害した。気をまぎらせようとして、ジュリヤンの顔を眺《なが》めた。彼がどんな醜男《ぶおとこ》であったにせよ、このときはレーナル夫人の気にいったにちがいない。
レーナル氏は宮廷人のしきたりをまねすることばかり考えていたので、春のいい時候になると、さっそくヴェルジーに移った。これはガブリエルの悲恋物語で有名になった村である。古いゴチック式の教会の、美しい廃墟《はいきょ》から、数百歩ばかりのところに、レーナル氏は古い城をもっている。四つの塔があり、チュイルリー宮の庭園を模した庭には、いたるところにつげ《・・》の生垣《いけがき》があり、年に二度刈りこみをするマロニエの並木道がある。隣の畑にはりんご《・・・》が植わっていて、これが散歩場になっている。見事なくるみ《・・・》の木が八、九本、この果樹園のまわりに植わっていて、そのそびえ立つ梢《こずえ》は八十尺もあろうか。
レーナル氏は、妻がこれを見上げて感心するたびごとにいう。
「こんなくだらんくるみ《・・・》なんかなんだ! これ一本について、半アルパン収穫がへるんだ。木陰じゃ小麦は育たんからな」
田舎の眺めはレーナル夫人には珍しく思えた。われを忘れて見とれるほどだった。恋を覚えた彼女は、気がきくようにもなり、思いきった考えももつようになった。ヴェルジーに来た翌々日、レーナル氏が役場の仕事で町へ引き返すと、さっそく彼女は自分の金で人夫を雇いいれた。果樹園を抜けて大きなくる《・・》み《・》の下に出る砂《じゃ》利《り》の小道を造れば、朝からでも靴《くつ》をぬらさないで子供たちも散歩ができるだろうと、ジュリヤンがいったのだ。この案は、思いついてから二十四時間とたたないうちに実行された。レーナル夫人は、ジュリヤンと一緒に、人夫を指図しながら、一日じゅう楽しく過した。
ヴェリエールの町長は、町から帰ってみると、散歩道ができているので、びっくりしてしまった。レーナル夫人のほうも、夫が帰ってきたのを見て、びっくりした。夫の存在などとっくの昔に忘れていたのだ。自分に相談もしないで、こんな大がかりな模様変え《・・・・》をするとは、大胆にもほどがあると、それからふた月のあいだ、レーナル氏は苦々しげにくり返していった。だが、レーナル夫人が自分の金でやったことなので、いくらか気持はおさまった。
彼女は子供たちと一緒になって、果樹園を駆けまわり、蝶《ちょう》を追いかけたりして、暮していた。目の粗《あら》い紗《しゃ》の大きな袋をこしらえて、それで鱗翅類《・・・》を捕えるのだが、鱗《りん》翅《し》類《るい》こそいいつらの皮だ。こんな野蛮な呼び方をレーナル夫人に教えたのは、ジュリヤンなのだった。それというのも、レーナル夫人がブザンソンからゴダール氏の名著を取り寄せてくれたのがもとで、ジュリヤンはこの昆虫《こんちゅう》の奇妙な習性を彼女に教えたのだった。
蝶は、これもジュリヤンのこしらえた大きなボール紙の箱に、情け容赦もなく、ピンでとめられた。
やっと、レーナル夫人とジュリヤンのあいだに、話題ができたわけで、彼はもう沈黙の時間におちいる、あのたえられない苦痛をなめないですむようになった。
ふたりはたえずしゃべりつづけた。ごくたわいない話ばかりなのだが、それでいて、無性に楽しかった。この活気のある、いそがしい、賑《にぎ》やかな生活はみんなを喜ばしたが、仕事に追われどおしのエリザ嬢だけは別だった。「謝肉祭のとき、ヴェリエールで舞踏会が開かれたって、奥さまがこんなに念入りなお化粧をなさったことはついぞなかった、このごろは日に二度も三度もお召しかえになるわ」というのだった。
わたくしとしてはだれをえこひいきしようとも思わないので、はっきりいうが、たしかにレーナル夫人はすばらしい肌《はだ》をしているところから、腕や胸が人一倍むき出しになるような衣裳《いしょう》を作らせたのだ。姿もすらりとしているから、こういう服を着ると、ほれぼれするほど似合う。
そこで、ヴェリエールから晩餐《ばんさん》に招かれて、ヴェルジーにやってくる連中はよくいうのだった。
「奥さまはじつにお若くていらっしゃる《・・・・・・・・・・・・・》、こんなことはついぞありませんな」(これはこの土地特有のいいかたである)
諸君のうちには、ほんとにしないかたが多いだろうが、奇妙なことに、レーナル夫人がこんなにお洒落をするのも、べつにはっきりした目的があったからではない。それが楽しかっただけのことで、ただなんということもなく、子供やジュリヤンと蝶を追いまわすとき以外は、エリザを相手に服の着付に精を出すのだった。一度だけヴェリエールに出かけたのも、ミュルーズから届いたばかりの新型の夏服が買いたかったからなのだ。
彼女は親戚《しんせき》の若い女性を連れて、ヴェルジーへ帰ってきた。結婚以来、レーナル夫人は昔聖心《・・》修道院で同窓だったデルヴィル夫人と、いつの間にか親しくしていた。
デルヴィル夫人は親友の考えることが突拍子もないといってはよく笑い出し、「あたしひとりだったら、とてもそんなこと考えられませんわ」というのだった。こういう意表外の思いつきもパリでなら頓《とん》知《ち》と呼ばれたかもしれないが、レーナル夫人は夫を相手にしていると、まるでばかげた考えのような気がして、はずかしくなる。だが、デルヴィル夫人が来たので、勇気が出た。彼女もはじめは、おずおずしながら、自分の考えを口にするが、長いあいだふたりきりでいると、考えかたも調子づいてきて、長い朝のひとときがまたたく間に過ぎ、仲よし同士のこととて、はしゃぎきってしまう。ヴェルジーに滞在しているうちに、思慮のあるデルヴィル夫人は、従妹《いとこ》が前ほど明朗でなくなったが、ずっと幸福そうになったことに気がついた。
ジュリヤンのほうは、田舎で暮すようになってから、まるで子供のような生活にかえり、教え子たちと一緒になって、蝶を追いまわして、結構楽しんでいた。束縛とかけひきばかりの生活から、やっとひとりになれ、他人の目の届かないところで、そのうえ、本能的に、レーナル夫人をおそれることもなく、この上もなく美しい山々の懐《ふとこ》ろで、この年ごろ特有の、強烈な、生きる喜びにひたっていた。
デルヴィル夫人が来ると、ジュリヤンはすぐさま、これは自分の味方だと思った。さっそく、大きなくるみ《・・・》の木のもとに最近造った散歩道のはずれにある、景色のよい場所に連れていった。事実、その眺めはスイスやイタリアの湖《こ》畔《はん》に見られる、最もすばらしい景色にまさるとも劣らないものなのだ。そこから数歩行くと、急坂《きゅうはん》になり、これを登ると、まもなく大きな崖《がけ》に出る。川の上にのり出したような格好で、縁にはかし《・・》の木立がある。ジュリヤンは、幸福で自由な、そればかりでなく、この家の王者のような気持で、この切りたった岩壁の頂上に、ふたりの夫人を案内し、この壮観に眺めいるさまを見て楽しんだ。
「あたくしにはモーツァルトの音楽のような気がしますわ」と、デルヴィル夫人はいうのだった。
嫉《しっ》妬《と》深《ぶか》い兄たちや、横暴でいつも不《ふ》機《き》嫌《げん》な父がいるために、ヴェリエール近郊の田舎は、ジュリヤンの目には汚《けが》らわしく思われた。ヴェルジーでは、そういう苦々しい思い出が全然ない。生れてはじめて敵がいない立場におかれた。レーナル氏はよく町へ出かけたが、そういうときは思いきって読書をした。まもなく、花《か》瓶《びん》を倒してそのなかにランプを隠すほど気を使いながら、夜だけ本を読むことにしていたのもやめて、ゆっくり睡眠できるようになった。昼間は、子供たちの勉強の合間を見て、自分の行動の唯一《ゆいいつ》の規範でもあり愛惜の対象でもある例の本をもって、この岩陰にやってくる。ここへ来れば、幸福と陶酔と、失意のときの慰めとが一度に見《み》出《いだ》されるのだ。
ナポレオンが女について述べていることや、その治世時代に流行した小説の価値に関するいろいろの議論を読んで、このごろになってはじめて、その年ごろの青年ならだれでもとっくの昔に知っているはずのことがらが、わかるようになった。
酷暑が訪れた。家のごく近くにある大きな菩《ぼ》提樹《だいじゅ》のもとで、夕涼みをするならわしになった。そこはまっくらだった。ある夜、ジュリヤンは勢いこんでしゃべっていた。うまくしゃべる、しかも若い女を前にしてしゃべるという楽しさに、われを忘れてひたっていた。身ぶりをした拍子に、ジュリヤンはふとレーナル夫人の手にさわった。庭に出してあるペンキ塗りの木の椅子《いす》の背にのせていたのだ。
その手はすばやくひっこめられた。だが、ジュリヤンは、さわったとき、ひっこめさせないようにするのが、自分の義務《・・》だと思った。義務は果さなければならないし、それができなければ笑いものになる、というより劣等感におそわれると思うと、たちまち喜びもなにも心から消えうせた。
第九章 田舎の一夜
ゲラン氏筆『ディド』、美しい素描。
ストロンベック
その翌日、レーナル夫人と顔を合わせたとき、ジュリヤンは異様な目つきをしていた。これから戦わなければならない敵を前にでもしたかのように、彼女をにらみつけた。前夜とはうって変ったこのまなざしは、レーナル夫人を狼狽《ろうばい》させた。やさしくしたはずなのに、腹をたてている様子なのだ。彼女はジュリヤンから目をそらすことができなかった。
デルヴィル夫人がいるおかげで、ジュリヤンはあまりしゃべらないですみ、頭にあることを、それだけ深く考えてみることができた。その日一日、精神をきたえてくれる例の感銘深い本を読むことだけが彼の仕事だった。
子供たちの勉強をひどく早目に切り上げた。やがて、レーナル夫人の姿を目にして、名誉を守るべき立場にあることをはっきり自覚すると、今夜はどうあっても、握った手をひっこめさせないようにしなければならないと決心した。
陽《ひ》が沈んでいき、問題の時刻が迫ってきた。ジュリヤンの心臓は異様に高鳴った。夜になった。今夜はまっくらになりそうだと知って、胸の重荷を取りのぞかれたように、ほっとした。大きな雲がむし暑い風を受けて乱れ飛び、嵐《あらし》を呼ぶ空模様。ふたりの女は遅くまで散歩を続けた。その夜はふたりのふるまいが、ことごとにジュリヤンには妙な気がした。ふたりはこの天候を楽しんでいるのだ。デリケートな心をもつもののなかには、こういう天候になると、愛する喜びがますように思うものがいる。
やっと腰をおろした。レーナル夫人はジュリヤンの横に、デルヴィル夫人は親友のそばに。ジュリヤンはこれから決行しようとすることが気になって、なに一ついい出せなかった。会話ははずまない。
《決闘することにでもなったら、はじめはやっぱりこんなにふるえたり、情けない気持になるのだろうか?》と、ジュリヤンは考えた。なにしろ、自分のことでも他人のことでも、ひどく疑い深いので、自分の心境がわからないはずはない。
あまりの苦しさに、どんな危険でもこれよりはましだと思われた。なにか急に用事ができて、レーナル夫人がやむをえず庭を離れて、家に戻《もど》るような事態になってくれればいいと、いくたび思ったかしれない。自分の気持を抑えようとやきもきしているうちに、声《こわ》音《ね》がふだんとはひどく変ってきた。まもなく、レーナル夫人の声音もふるえをおびてきたが、ジュリヤンはそれに気がつかなかった。義務が気おくれと交える必死の果合《はたしあ》いはあまりにも苦しかったので、自分以外のものに目をくれる余裕がなかった。九時四十五分が屋敷の大時計で鳴りおえたが、まだなんらの行動にも出ていなかった。ジュリヤンは意気地なしの自分に愛《あい》想《そ》をつかしてつぶやいた。《十時が鳴りだすと同時に、やってのけよう。一日じゅう、今夜やろうときめていたじゃないか。でなけりゃ、部屋にひき返して、ピストルで頭をぶち抜くんだ》
ぎりぎりの期待と不安のひとときが過ぎる。その間、ジュリヤンは興奮のあまり我を忘れてしまった。いよいよ真上の大時計が十時を打ちはじめた。運命を決する鐘の音が、鳴るたびに、彼の胸に響きわたり、いわばつきさすような衝動を起した。
ついに、最後の鐘が十時を打ち終わろうとする前に、ジュリヤンはつと手を伸ばして、レーナル夫人の手を握った。夫人はすぐに手をひっこめた。彼は自分がなにをしているのかわからなくなって、またその手をとらえた。自分自身ひどく興奮していながら、彼は握った手が氷のように冷たいのに驚いた。ふるえる手に力をこめて、その手を握りしめた。相手はもう一度ふりほどこうとする気配を見せたが、とうとうその手は委《ゆだ》ねられたままになった。
ジュリヤンの心はうれしさにあふれた。レーナル夫人に恋しているからではなく、たえられない責《せめ》苦《く》がやっとすんだからである。デルヴィル夫人に感づかれないように、口をきかなくてはいけないと思った。大きくて、はりのある声が出た。これに反して、レーナル夫人の声ははげしい興奮を包みきれなかった。デルヴィル夫人は気分が悪くなったのかと思って、家に戻ったらと促した。ジュリヤンは危険を感じた。《レーナル夫人がサロンへ戻れば、昼間味わったような苦しい立場にまた立ち返ってしまう。なにしろほんのわずかのあいだこの手を握っただけだから、これでひとつ勝利を確保したとはいえない》
デルヴィル夫人がサロンへ戻ったらと再び促したとき、ジュリヤンは自分に委ねられていた手をぐっと握りしめた。
レーナル夫人は腰をあげかけていたが、すわり直して、消えいりそうな声で、
「たしかにすこし気分が悪いんですけれど、風に当っていたほうが気持がいいの」
この言葉でジュリヤンの幸福は確かなものとなり、このとき、それは絶頂に達した。彼はしゃべりまくり、自己を偽ることも忘れた。これに耳を傾けるふたりの女には、この上もなく好ましい青年のように思われた。だが、突然わいたこの雄弁には、まだ自信に欠けるところがあった。嵐になるらしく、吹きはじめた風にたえかねて、デルヴィル夫人がひとりで先にサロンへ引き上げはしまいかと、気が気でなかったからなのだ。そうなれば、レーナル夫人と差し向いで残ることになる。ほとんど偶然のおかげで、なんとか切り抜ける盲目的な勇気は出たものの、ごくなんでもない言葉でさえ、レーナル夫人に話しかけることは、とうてい自分の力ではできそうもないと思った。ほんのちょっと咎《とが》められても、参ってしまいそうだし、たった今手にいれた勝利も水の泡《あわ》になりそうな気がした。
さいわいなことに、その夜は、感動的で熱のこもった彼の話しぶりが、デルヴィル夫人のお気に召した。夫人はかねがね子供のように不器用で面白《おもしろ》味《み》のない人間だと思っていたのだ。レーナル夫人のほうは、ジュリヤンに手を預けたまま、考える気力もなく、息をしているばかりだった。この大きな菩《ぼ》提樹《だいじゅ》のもとで過した数時間は、彼女にとって幸福の一時期だった。この菩提樹はシャルル豪胆公が植えたものだと、この土地ではいい伝えられている。彼女は菩提樹の葉の茂みをわたる風の唸《うな》りと、下葉にぱらぱら降りはじめた雨の音に、うっとりとして、聞きいった。ジュリヤンは気がつかなかったが、気がついたら大いに自信を得たにちがいないことがある。ふたりの女の足もとにあった花《か》瓶《びん》が風でひっくり返り、デルヴィル夫人がこれを起そうとしたとき、レーナル夫人は手をかそうとして立ち上がったため、ジュリヤンから手をはなさなければならなかったが、すわり直したかと思うと、ためらわずに、まるでお互いに諒解《りょうかい》ずみのことでもあるかのように、その手をジュリヤンに返したのだ。
真夜中はとっくに過ぎていた。いよいよ庭から引きあげなければならなかった。お互いに別れた。レーナル夫人は恋する楽しさに酔いしれながら、まったくものを知らないところから、自分を咎める気持にならなかった、うれしくて寝つかれなかった。ジュリヤンは、その日一日心のなかで気おくれと自尊心が交わした戦いに疲れはてて、ぐっすり寝こんでしまった。
翌朝は五時に起された。レーナル夫人が知ったらひどいひとだと思ったろうが、ジュリヤンはろくろく夫人のことなど考えもしなかった、自分の義務を《・・・・・》、しかも英雄的な義務《・・・・・・・・・》を果したのだ。そう思うと、あふれるほどの幸福感におそわれ、部屋に鍵《かぎ》をかけて閉じこもり、興味を新たにして崇拝する英雄の武勲の話に読み耽《ふけ》った。
昼食の鐘が鳴ったときも、ナポレオンの遠征の戦報に読み耽っていて、昨夜おさめた勝利のことはすっかり忘れていた。サロンへおりていきながら、浮いた気持で、《愛していると、あの女にいってやらなくてはなるまい》とつぶやいた。
情のこもったまなざしに出会えるものとばかり思っていたジュリヤンは、そのかわりにレーナル氏の気むずかしい顔にぶつかった。二時間前にヴェリエールから戻ってきていたのだ。ジュリヤンが午前中ずっと子供をほったらかしにしておいたのを見て、不満の色を隠そうとはしなかった。このおさまりかえった男が、腹をたて、しかもそれを平気で表にあらわしてもいいと思っている姿くらい、醜いものはなかった。
夫の刺《とげ》を含んだ言葉の一つ一つが、レーナル夫人の胸を刺した。ジュリヤンのほうは、今しがた数時間のあいだ、目の前にくりひろげられた雄大な話がまだ頭にこびりついていて、陶然としてこれにひたっているので、はじめはレーナル氏から浴びせかけられる手ひどい言葉などに、耳を傾ける気にはならなかった。しまいに、かなりぶっきらぼうにいった。
「気分が悪かったんです」
ヴェリエールの町長ほど怒りっぽいものでなくても、こんな調子で返事をされたら、腹をたてたにちがいない。町長はいきなりジュリヤンを叩《たた》き出して仕返しをしようかという気を起したが、せいてはことをし損じるという自戒の格言を思い出して、やっと思いとどまった。
《この青二才め、おれのところへきて多少評判になったから、ヴァルノのやつが雇うかもしれない。それともエリザと結婚するか。いずれにしても、心の底じゃ、おれをばかにしやがるだろう》
レーナル氏はこうして賢明な反省をしてはみたものの、やはり立てつづけに、口汚ない言葉でどなりちらさずにはいられなかった。聞いているうちに、ジュリヤンも腹がたってきた。レーナル夫人はいまにも泣き出しそうだった。昼食が終ったかと思うと、さっそくレーナル夫人は散歩したいからといって、ジュリヤンの腕に手をかけ、親しげに寄りそった。レーナル夫人からなにをいわれても、ジュリヤンはつぶやくようにして、こう答えるだけだった。
「金持なんて《・・・・・》、あんなもんです《・・・・・・・》」
レーナル氏はふたりのすぐそばを歩いていた。その姿を見て、ジュリヤンの怒りがこみあげてきた。ふと、レーナル夫人が人目にたつほど自分の腕に寄りかかってくるのに気がついた。そうされると、ジュリヤンはいやな気がして、乱暴につきはなし、腕をふりほどいた。
さいわい、ジュリヤンがこうしてまたまた無礼なことをしでかしたのに、レーナル氏は気がつかなかった。見のがさなかったのは、デルヴィル夫人だけだった。レーナル夫人は泣き出していた。このとき、レーナル氏は、近道をして果樹園のはじを横切ろうとした百姓の小娘に、石を投げつけながら、これを追いかけはじめた。
「ジュリヤンさん、お願いですから、我慢してくださいね。だれだって機《き》嫌《げん》の悪いときがありますもの」と、デルヴィル夫人がすばやくいった。
ジュリヤンは、冷やかに、限りない軽蔑《けいべつ》をたたえた目で、相手を見返した。
このまなざしを見て、デルヴィル夫人は驚いた。それがなにを意味しているか、見ぬけたら、ますます驚いたにちがいない。残忍きわまる復讐《ふくしゅう》の、漠然《ばくぜん》とした可能性といったものを読みとることができたはずなのだ。ロベスピエールのような人間を生んだのも、おそらくこのような屈辱の瞬間であろう。
「ジュリヤンさんって、ずいぶんきついかたね。こわいわ」と、デルヴィル夫人は親友にそっとささやいた。
「怒るのもむりはないわ。子供たちが目に見えてできるようになったのも、あのひとのおかげですもの。ひと朝ぐらい相手をしなかったからって、どうこういうことないでしょ。ほんとに男のひとって、思いやりがないのね」
レーナル夫人が夫に対して一種の復讐心にかられたのは、これがはじめてである。金持に対するジュリヤンのはげしい憎《ぞう》悪《お》がいまにも爆発しかけた。さいわい、レーナル氏が庭師を呼び、一緒になって、果樹園を横切る近道をいばら《・・・》の束でふさぐ仕事にとりかかっていた。散歩がすむまで、ジュリヤンはやさしい言葉をかけられどおしだったが、それに対して一言も返事をしなかった。レーナル氏の姿が見えなくなると、さっそくふたりの女は疲れたといって、両方から彼の腕を求めたのだった。
おろおろして、頬《ほお》を赤らめながら、当惑しているふたりの女と、そのあいだに挾《はさ》まれたジュリヤンの、高飛車で蒼白《そうはく》な顔、陰気で思いつめた様子とは、奇妙なコントラストだった。彼は、この女たちも、いっさいのやさしい気持も軽蔑していた。
《なんだ! おれが学校を卒業するまでには、年に五百フランもかからないじゃないか! ほんとなら、こんな女などおっぽり出すところなんだぞ!》
こうした冷酷な気持のとりこになっているので、二人の女の思いやりのある言葉をろくろく聞こうともせず、また耳にしても、無意味で、ばかばかしく、頼りなく、つまり女々《・・》しい《・・》ものに思われ、不愉快でならなかった。
話がだれるのをおそれて、仕方なくしゃべっていると、レーナル夫人がたまたま、夫が帰ってきたのは、とうもろこし《・・・・・・》の藁《わら》のことで、小作人と取引するためだったといい、さらにつけ加えた。(この地方では、とうもろこし《・・・・・・》の藁を、ベッドの藁《わら》布《ぶ》団《とん》につめる)
「主人は戻ってきませんわ。植木屋と下男に手つだってもらって、家じゅうの藁布団をつめかえてしまうはずですから。今朝、二階の藁ベッドには全部とうもろこし《・・・・・・》の藁をつめましたから、今度は三階ですわ」
ジュリヤンは顔色を変えた。異様な表情をして、レーナル夫人を見つめたかと思うと、夫人をわきに連れ出して、どんどん足を早めた。デルヴィル夫人はあとを追わなかった。
「わたくしを助けてください」と、ジュリヤンはレーナル夫人にいった。「それができるのはあなただけです。なにしろ、わたくしは例の下男にひどく憎まれていますからね。隠さず申し上げてしまいますが、奥さま、わたくしは肖像画を一枚もっているのです。それをベッドの藁布団のなかに隠してあるのです」
これを聞くと、レーナル夫人のほうも蒼《あお》くなった。
「あなただけです、奥さま、今わたくしたちの部屋にはいれるのは。なにげないふりをして、窓ぎわにいちばん近い布団のすみに手をつっこんでみてください。黒いすべすべした、小さなボール紙の箱がありますから」
「そのなかに肖像画がはいっているのですね!」と、レーナル夫人はいったが、立っているのもやっとの思いだった。
ジュリヤンはそのがっかりした様子に気がつくと、それにつけこんでいった。
「もう一つお願いがあります、奥さま。どうかくれぐれもその肖像画をごらんにならないでください。秘密なんですから」
「秘密なんですって」おうむがえしに、レーナル夫人は絶えいりそうな声でいった。
だが、財産を鼻にかけ、金銭問題にしか関心をもたない連中のあいだで育てられたとはいえ、恋は早くもこの女に寛容の精神を芽生えさせていた。心はむざんに痛めつけられながらも、ひたすら献身的な態度に出て、頼まれごとを首尾よく果そうと、大事な点について、レーナル夫人はジュリヤンにいろいろきき、立ち去りながら、念をおした。
「じゃ、小さな円い箱ですね、すべすべした、黒いボール紙の」
「ええ、奥さま」と答えるジュリヤンの顔は、危険を前にした人間が見せるあの冷酷な顔だった。
彼女は、三階へ上っていったが、死地に赴くひとのように蒼白だった。あいにくなことに、もうすこしで気が遠くなりそうだった。ジュリヤンのためにどうしても果さなければならないと思うと、元気が出た。
「どうしてもその箱というのを手にいれなくては」とつぶやきながら、足を早めた。
ほかならぬジュリヤンの部屋で、下男に話しかけている夫の声が聞えた。さいわい、二人は子供たちの部屋のほうへ移った。彼女はマットレスをもちあげて、いきおいよく藁布団に手をつっこんだが、あまり力がはいりすぎて、指の皮をすりむいた。だが、ふだんならこんなちょっとした傷でもひどく痛がるのに、このけがは感じなかった。ほとんど同時に、すべすべしたボール紙の箱にさわったからである。その箱をつかむと、出ていった。
夫に見つかる心配がなくなったかと思うと、この箱が空おそろしくなって、今度こそほんとうに気が遠くなりかけた。
《ジュリヤンさんにはやっぱり恋人があったのだわ。この箱にそのひとの肖像画がはいっている!》
次の間の椅子《いす》に腰をおろしたレーナル夫人は、限りない嫉《しっ》妬《と》に胸をひきさかれる思いだった。人一倍無知なところが今度も役にたった。驚きが苦しみを和らげてくれた。ジュリヤンがあらわれた。礼もいわずに、黙ったまま箱をつかむと、自分の部屋に飛びこみ、火をつけて、即座にもやしてしまった。顔は蒼白で、茫然《ぼうぜん》としていた。危険に身をさらしたとはいえ、その危険の度合を大げさに考えていたのだ。
ジュリヤンは首をふりながらつぶやいた。
《王位簒奪者《さんだつしゃ》をあれほど目の敵《かたき》にしていると公言しておきながら、その男のところに、ナポレオンの肖像画が隠してあることがわかってみろ! レーナル氏にでも見つけられようものなら! なにしろこちこちの急進王党派で、おまけに今日はひどく機嫌が悪いときてるんだからな! それに不用意きわまる話だが、肖像画の裏の白いボール紙には、おれの手で二、三行書きこんであるんだ! それに、その文句といえば、それの度はずれな崇拝熱をまぎれもなくあらわしてるんだ。そればかりか、讃《さん》美《び》の言葉にゃ、いちいち日付がつけてある! 一昨日《おととい》のもあるじゃないか》
《おれの評判もなにもがたおちだ、一瞬にしてあとかたもなくなってしまうんだ!》ジュリヤンは箱が燃えるのを眺《なが》めながらつぶやいた。《ところが、その評判はおれの全財産だし、それだけで暮しているんだ。……しかも、それがなんという情けない暮しだ!》
それから一時間たつと、疲労と自分自身を憐《あわれ》む気持から、感傷的になっていた。レーナル夫人に出会うと、その手を取ってキスした。こんなに真心をこめてキスしたことは一度もなかった。彼女はうれしさに顔を赤らめたが、ほとんど同時に、嫉妬の怒りを覚えて、ジュリヤンをつきのけた。ジュリヤンはさきほど自尊心を傷つけられたところなので、この瞬間、愚かにもそれが見ぬけなかった。レーナル夫人をやっぱり金持の女だなと思っただけで、さげすむようにその手をはなして、立ち去った。庭に出て、もの思いに沈みながら散歩していたが、やがて苦い薄笑いが唇《くちびる》に浮んだ。
《おれはこうして、まるで自分の時間が勝手に使える人間みたいに、悠々《ゆうゆう》と散歩している! 子供たちの面倒もみないで! これじゃ、レーナルさんにどなられるのを待っているようなもんだし、どなられるのがあたりまえだ》彼は子供部屋に急いで行った。
とくに、かわいがっている末っ子が人なつっこく寄ってきた。それが胸をえぐるような苦悩をいくらか鎮《しず》めてくれた。
《この子はまだおれを軽蔑していない》と、ジュリヤンは考えた。だが、やがてこうして苦悩が鎮まるのは、またしても弱気を起したせいだとみずから苦々しく思った。《この子供たちがおれをかわいがるのは、昨日買ったばかりの猟犬をかわいがるのと同じなんだ》
第十章 大きな心、小さな富
しかし、いかに隠そうとしても、いかに闇《やみ》で包もうとしても、恋はなおあらわれる。
黒々とした空が、たけり狂う嵐《あらし》を告げるように。
『ドン・ジュアン』第一編、第七三節
レーナル氏は屋敷じゅうの部屋を見まわると、藁《わら》布《ぶ》団《とん》をかかえた下男たちを連れて子供部屋にもどってきた。この男の闖入《ちんにゅう》はジュリヤンにとって、花《か》瓶《びん》をあふれさせる一滴の水のようなものだった。
ふだんより蒼白《そうはく》で陰気な顔をしながら、ジュリヤンはつかつかと歩み寄った。レーナル氏は足をとめて、下男たちを振り返った。
「あなたは、お子さんがたがどんな家庭教師についても、わたくしについた場合と同じくらい、できるようになったろうとお思いなのですか? そうでないとおっしゃるなら」と、レーナル氏に口をきくひまも与えず、ジュリヤンは続けていった。「わたくしがほったらかしにしておくなどと、小言のいえるはずはないじゃありませんか」
おそれをなしたレーナル氏は、やっと落着きを取り戻《もど》すと、この百姓の少年のただならぬ口ぶりを見て、なにかうまい話をもちかけられたもので、出ていくつもりなのだなと判断した。ジュリヤンは話しているうちに、ますます腹がたってきた。
「あなたのお世話になんかならなくても暮していけます」
「どうも困るなあ、そうまくしたてられては」と、レーナル氏はいささか口ごもるような調子で答えた。下男たちがすぐそばで、ベッドを作っている。
「そんなことはどうだっていいです」と、ジュリヤンは我を忘れてどなった。「考えてもごらんなさい、あなたがどんなに口汚なくののしったか、しかも女のかたたちの前で!」
レーナル氏は、ジュリヤンがなにを要求しているか、わかりすぎるほどわかっていたし、応じるか応じまいかと苦しい思案をつづけていた。すると、ジュリヤンがほんとうにいきりたってどなった。
「お宅を出たって、行先《ゆきさき》はありますからね」
この言葉を聞くと、レーナル氏はヴァルノ氏の家に住みこんだジュリヤンの姿が目に浮んだ。「じゃ、よろしい」と、ついにレーナル氏はいって、溜息《ためいき》をついた。ひどく痛い手術を受けるために外科医でも呼ぶような調子で、「あんたの要求どおりにする。あさってが一日だから、あさってから月に五十フラン出そう」
ジュリヤンは吹き出しそうになった。あきれはてて、怒りもなにも消えてしまった。
《まだこいつを軽蔑《けいべつ》し足りなかったわい。こういう下劣きわまる人間ができる謝罪なんて、せいぜいこんなところなんだろう》
きょとんとしてこの口論を聞いていた子供たちは、庭へ走っていって、ジュリヤン先生は怒っていらっしゃるけれど、これからは月に五十フランもらうことになったよ、と母親に告げた。
ジュリヤンはレーナル氏などに目もくれないで、いつものように子供たちのあとを追いかけた。あとに残されたレーナル氏は、いまいましくて仕方がない。
《ヴァルノのやつのおかげで百六十八フラン損したわい。孤児配給機構のことで、どうしてもこっぴどくやっつけてやらなければいかん》
まもなく、ジュリヤンはまたレーナル氏の前にあらわれた。
「信仰上の問題で、シェランさんにお話ししたいことがあります。前もっておことわりしておきますが、数時間留守にいたします」
「うん、いいとも、ジュリヤンさん」レーナル氏は取ってつけたような笑いを浮べていった。「なんなら、今日一日じゅうでも、明日いっぱいでもかまわんよ。ヴェリエールに行くんなら、植木屋の馬に乗っていきたまえ」
《ヴァルノのところへ返事に行くんだな。このおれにはなんとも約束してくれんのか。まあいい、若いんだ、頭が冷えるまで待ってやろう》
ジュリヤンはさっそく屋敷を飛び出すと、ヴェルジーからヴェリエールへ抜ける大きな森のなかを登っていった。すぐにシェラン司祭のもとへ行くつもりはなかった。いやいやながらまた偽善家の芝居を打つ気などはさらになく、自分の心中をはっきり見きわめ、胸にわいた感情を検討してみたかったのだ。
森にはいって、人目にふれないところまで来たかと思うと、ジュリヤンはつぶやいた。《ひとつ勝ち取ったんだ。たしかにひとつ勝ち取ったんだ!》
そう思うと、自分の立場がなにからなにまですばらしく見え、気分がいくらか落ち着いてきた。《これでおれは月給五十フランをもらうことになってしまったが、レーナル氏もよっぽどこわかったとみえる。だが、なにがこわかったのだろう?》
一時間前は無性に腹をたててみたが、いったいあの男はしあわせで勢力があるのに、なにがこわかったのだろうと、いろいろ考えているうちに、ジュリヤンの気持は晴れ晴れしてきた。森のなかを歩いているうちに、しばらくそのすばらしい景色に魅せられかけた。その昔落ちてきた裸岩の巨塊が、森のまんなかの山よりにあった。ぶな《・・》の大木がその岩とほぼ同じ高さにまでそそり立ち、岩陰は、そのすぐそばが太陽に照りつけられて足をとめることもできないくらいなのに、ひんやりして心《ここ》地《ち》がよかった。
ジュリヤンはこの巨岩の陰でしばらく息をついてから、また登りはじめた。やがて、山《や》羊《ぎ》番《ばん》しか通らないような、あるかなきかの細道をたどって、大きな岩の上に出た。ここまで来れば、あらゆる人間と没交渉なのは間違いなかった。この地理的な位置が彼を微笑させた。それは精神的に到達しようと願っている位置を描いてみせてくれたからである。この高い山々の澄んだ空気が、心を晴れやかにしてくれたばかりか、喜びさえも起させてくれた。なるほど、ヴェリエールの町長は、相変らず地上のあらゆる金持や、高慢ちきの代表者のように思われたが、今しがた憎《ぞう》悪《お》にかられたことも、ひどく興奮してはいたものの、個人的な憎悪の問題でないような気がした。このままレーナル氏の姿を見ないですませるなら、一週間で、彼のことも、屋敷も、犬も、子供も、この家全体のことを忘れてしまったにちがいない。《どういうわけかしらんが、おれはあの男にとんでもない犠牲をはらわせてしまった、年に五十エキュ以上にもなるんだからな! そのほんのちょっと前に、危険この上ないことを切り抜けたところだったんだ。一日で二つの勝利というわけだ。二つ目のやつはつまらんことだが、そのわけが知りたいもんだ。だが、厄介《やっかい》な詮索《せんさく》は明日のことにしよう》
ジュリヤンはその巨岩の上につっ立って、八月の太陽に照りつけられる空を見つめた。岩の下方に見える野原で蝉《せみ》が鳴いている。鳴きやむと、あたりが静まりかえった。足下に、はるかかなたまで田野が見渡せた。はやぶさ《・・・・》だろうか、頭上の巨岩のあいだから飛び立って、ときおり、静かに大きな輪を描いているのが見られた。ジュリヤンの目は機械的に猛《もう》禽《きん》のあとを追った。彼は悠々《ゆうゆう》と力強く舞う姿にうたれ、その力を羨《うらや》み、その孤独を羨んだ。
それはナポレオンの運命だった。いつかはそれが彼の運命となるだろうか?
第十一章 ある夜
そうはいっても、ジュリアの冷たさのうちにはなお情があった。
その小さな手は、男の手から、やさしくおののきながら離れるときでも、軽く握りしめる。心をときめかす、やわらかな、
かすかな、かすかにすぎて、心に疑いを残すものがあった。
『ドン・ジュアン』第一編、第七一節
しかし、ヴェリエールに顔を出さないわけにはいかなかった。司祭の家を出たとき、うまい具合にヴァルノ氏と出会ったので、さっそく昇給したことを知らせた。
ヴェルジーに帰っても、ジュリヤンは暗くなるまで庭に出ていかなかった。その日は一日むやみと興奮することばかりが続いたので、心は疲れきっていた。《あのひとたちにどんな話をしたものだろう?》ジュリヤンは婦人たちのことを考えると、不安になって、そうつぶやいた。ふつう女はこまごましたことがらにばかり関心をもつもので、ジュリヤンは今、自分がまさにその程度のことしか考えていないという点には、すこしも気がつかなかった。ジュリヤンのいうことは、デルヴィル夫人にも、レーナル夫人にさえも、わからないことがよくあったし、彼のほうでもふたりのいうことの半分しか理解できなかった。それは、この若い野心家の心をかき乱す、情熱的な衝動の力と、その偉大さともいうべきものが、そうさせるのだ。この風変りな人間の心では、ほとんど毎日が嵐《あらし》だった。
その夜、庭に出たとき、ジュリヤンは美しい従姉妹《いとこ》同士の考えを聞いてやろうという気になっていた。ふたりはジュリヤンを待ちかねていた。彼はいつものとおり、レーナル夫人の隣にすわった。やがて闇《やみ》が濃くなった。ジュリヤンは、だいぶ前から、自分のそばの椅子《いす》の背に、白い手がのせられているのを知っていたので、これを握ろうとした。相手はすこしためらったが、気を悪くした様子で、ひっこめた。ジュリヤンはあきらめて、陽気に会話を続けるつもりでいると、レーナル氏のやってくる足音が聞えた。
ジュリヤンの耳の底には、その朝の口汚ない言葉がまだ残っていた。《この男の目の前で、女房《にょうぼう》の手を握るのも、こいつをばかにしてやることにならんかな? ふん、結構ずくめのご身分でおさまってやがる! よし、やるぞ、ひとをあんなに侮辱しやがったじゃないか》
そう思うと、ジュリヤンはもともとあまり落着きをもちあわせていないのだが、たちまち落着きを失ってしまった。いらいらしてきて、ほかのことはなにも考えられず、ただレーナル夫人が手を預けてくれるようにと願った。
レーナル氏はしきりに政治の話をして腹をたてている。ヴェリエールの二、三の実業家が、とうとう自分より金持になって、選挙で自分の邪魔をしようとしているというのだ。デルヴィル夫人はこれに耳を傾けていた。ジュリヤンはその話にいらいらして、自分の椅子をレーナル夫人の椅子に近寄せた。まっくらなので、なにひとつ気づかれなかった。彼は思いきって、服からむきだしになっている美しい腕の間近に手を出した。あがってしまって、なにがなんだかわからなくなり、美しい腕に頬《ほお》を寄せると、大胆にもその腕に唇《くちびる》を押しあてた。
レーナル夫人は身ぶるいした。夫はすぐそばにいるのだ。あわててジュリヤンに手をさし出すと同時に、すこし押しのけるようにした。レーナル氏が相変らず、金持になった身分の卑《いや》しい連中や、過激革命派を罵《ば》倒《とう》しつづけているひまに、ジュリヤンは委《ゆだ》ねられた手に、熱烈な、すくなくとも、レーナル夫人には熱烈なと思われるキスを浴びせた。ところが、気の毒にも、彼女のほうは、その日の昼間、自分では知らずに思いを寄せている当の相手が、ほかの女に恋している、ぬきさしならぬ証拠をつかんでしまっているのだ! ジュリヤンの留守のあいだは、たえられぬくらいみじめな思いで悩まされ、いろいろ反省させられたのだった。
《まあ、あたしがひとを愛するなんて! 恋心をいだくなんて! 人妻のあたしがひとに思いを寄せるだろうか? でも、あたしはついぞ夫に対してこんな空おそろしい気違いじみた気持を感じたことはなかった。ジュリヤンのことは、片時《かたとき》も忘れられないくらいなんだもの。でも、ほんとをいえば、あのひとはあたしを心から敬愛してくれる子供にすぎない! この気違いじみた気持も一時的なことだろう。だから、あたしがこの青年にどんな気持をもとうと主人の知ったことじゃない。ジュリヤンが相手なら空想的な話もできるけれど、主人にそんな話をしたら、退屈するにきまっている。主人のほうは自分の仕事のことを考えてるのだし、あたしはあのひとのものをとりあげて、ジュリヤンにあげるってことにはならないわ》
これまでに味わったことのない情念で、かき乱されてはいたものの、このうぶな魂の純潔は、すこしも偽善によって汚《けが》されることがなかった。間違ってはいたが、自分では気がつかなかった。それでもやはり、貞操の本能は不安を感じていた。ジュリヤンが庭にあらわれたとき、彼女を悩ましていたのは、そういう心の葛藤《かっとう》だったのだ。声が聞えたかと思うと、ほとんど同時に、自分のそばに、ジュリヤンがすわっていた。彼女は快い幸福感に心を奪われる思いがしたが、この幸福感は二週間以来彼女を魅惑してきた、というよりはむしろ驚かせてきたのだ。なにもかもが思いがけなかった。だが、しばらくして、《じゃ、ジュリヤンの顔を見さえすれば、悪いところもなにも忘れてしまうのだろうか?》と思うと、空おそろしくなった。彼女が手をひっこめたのは、このときなのだった。
はげしい情のこもった、しかしこれまで一度も受けたことがないようなキスを受けると、彼女はほかに恋人があるらしいということなど、たちまち忘れてしまった。まもなくジュリヤンが悪いのではないような気がしてきた。疑いから生れた胸をえぐるような苦悩は消え去り、ついぞ思ってもみなかった幸福が現実にあらわれた。彼女は恋に酔いしれて、むやみとはしゃいだ。この宵《よい》はだれにとっても楽しかったが、ヴェリエールの町長だけは別で、例の成上りの実業家連中のことが忘れられなかった。ジュリヤンは自分の因果な野心も、実現しがたい計画のことも、もはや念頭になかった。生れてはじめて、美の力に動かされていた。自分の性格とはあまりにもかけ離れた、とりとめもない甘美な夢想に我を忘れ、この上もなく美しく、いとおしい手を、やさしく握りしめながら、ジュリヤンはかすかな夜風にゆらぐ菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の葉のざわめきを、またドゥー川の水車小屋から聞えてくる犬の遠《とお》吠《ぼ》えを聞くともなく聞いていた。
しかし、この感動は快感であって、情熱ではなかった。部屋に戻《もど》ると、考えたのはただ一つの楽しみ、愛読書を再び手にとることだけだった。二十《はたち》のころは、世界ということと、その世界でどういう成果をあげるべきかということが、なにごとにもまさる関心事なのだ。
だが、やがてジュリヤンは本を伏せた。一生懸命ナポレオンの勝利のことを考えているうちに、自分の勝利にもなにか新しい点があるのに気がついた。《そうだ、おれは一つの戦いに勝ったが、それを利用すべきなんだ。あの高慢ちきな貴族が退却している最中に、鼻っ柱をへし折ってやらなければいけない。これこそナポレオン戦術そのものだ。友達のフーケに会いに行きたいから、三日の暇をくれといってやろう。いかんといったら、また罷《や》めるといっておどかしてやる。だが、折れて出るだろう》
レーナル夫人は眠れなかった。これまでの生活は生活でなかったような気がした。ジュリヤンから燃えるようなキスを手に浴びせられたときの感触を思い出して、そのうれしさが頭にこびりついてしまった。
ふと、姦通《かんつう》といういやな言葉が頭に浮んだ。下劣きわまる乱行《らんぎょう》と思うと、肉体的快楽ということに感じ取られるいやらしさが、どっと頭に浮んできた。ジュリヤンについても、恋する幸福についても、甘い清らかなイメージをいだいてきたのに、そうした思いが、このイメージを曇らせかけた。すると、未来が空おそろしい色合をおび、自分が軽蔑《けいべつ》すべき女に思えてきた。
たえられないひとときだった。魂のさまよう国は見知らぬ土地だった。昨夜は経験したことのない幸福を味わったが、今は急にこの上もない不幸に追いこまれてしまった。こういう苦しみがあろうとは、考えてもみなかっただけに、理性は失われた。ふと、ジュリヤンに恋をしそうだと、夫に打ち明けようかという気を起した。そうすれば、ジュリヤンのことをいってしまうわけだ。さいわい、彼女は、かつて、結婚の前日に、伯母からきかされた教えを思い出した。夫というものは結局主人なのだから、心のなかを打ち明けるのは危険だというのである。彼女は苦しさのあまりに身をもだえた。
彼女は矛盾した悩ましい思いのままにひきずりまわされた。愛されていないのではないかと不安になったり、いまわしい罪の思いにおびえて、明日にも、姦通の罪状を群衆に知らせる立札とともに、ヴェリエールの広場で、晒《さら》し台《だい》に晒されるのではないかと思ったりした。
レーナル夫人はまったくの世間知らずだった。どんなに頭が冷静で、理性を働かせてみたところで、神の目から見て罪があることと、公衆の前で口さがない連中の侮辱を浴びることとのあいだには、なんの区別もみとめることができなかったろう。
姦通ということや、自分では当然この罪にともなうと思っている限りない不名誉を、空おそろしく考える気持がすこしはおさまり、前のようにやましい気持でなく、ジュリヤンと楽しく暮すことに思い至ると、今度はジュリヤンに別の女があることに気がついて、たまらなくなるのだった。あの肖像画をとられるのをおそれたときの、あるいはそれを見られると女の迷惑になると思ったのかもしれないが、とにかくあのときの蒼白《そうはく》な顔が、まざまざと目に浮ぶ。あれほど冷静で気品のある顔に、恐怖の色を見たのははじめてだった。彼女のことでも、子供のことでも、あんなにむきになったことは一度もない。人間の心ではたえられなくなるほど、悩みはいよいよはげしさを増した。レーナル夫人は思わず声をたててしまった。それで、小間使が目を覚ました。急にベッドのそばに明りがあらわれた。見ると、エリザだった。
「おまえなの、あのひとの好きなのは?」と彼女は狂わしげに叫んだ。
小間使はひどく取り乱した女主人の姿に驚いて、さいわい、この突拍子もない言葉に気をとめなかった。レーナル夫人は不用意なことをいったと悟ると、「熱があるの、すこし熱に浮かされているようだから、そばにいておくれ」といった。めったなまねはできないと思うと、すっかり目が覚めて、前ほどつらくなくなった。半睡状態のために失われていた理性を取り戻した。小間使に見つめられたくないので、新聞を読んでくれといいつけた。『日日新聞』の長い記事を読むエリザの単調な響きを聞いているうちに、レーナル夫人は、今度ジュリヤンに会うときは、どこまでも冷静な態度に出ようと、殊勝な決心をした。
第十二章 旅行
パリには伊達《だて》者《しゃ》がいるが、田舎には気《き》骨《こつ》のある人間がいるかもしれない。
シエース
あくる朝の五時、レーナル夫人がまだ顔を出さないうちに、早くもジュリヤンはその夫から三日の暇をもらっていたが、意外にももう一度夫人に会いたくなった。あの美しい手を思いだしたのだ。庭に出たが、なかなかレーナル夫人は姿をあらわさなかった。だが、ジュリヤンが恋をしていたのなら、二階のかすかに開かれた鎧戸《よろいど》の陰の、ガラス窓に顔をあてている夫人に気がついたはずである。彼女はじっと見ていた。あれほど決心していたのに、とうとう、庭へ出ることにした。ふだんの蒼白《あおじろ》い顔にひどく赤味がさしている。ほんとにうぶなこの女性が、のぼせているのは明らかだ。いつもなら明朗そのもので、世の俗事を超越しているかに見える表情が、この天女のような顔に、限りない魅力をそえているのだが、自制と怒りの気持のために、それがすっかり変っていた。
ジュリヤンはうれしそうに迎えた。急いでひっかけてきたショールの下から、あの美しい腕がすけて見える。ジュリヤンは見とれた。その色つやは昨夜の懊悩《おうのう》でどんな刺激にも感じやすくなっている際なので、朝のすがすがしい空気が、ますますこれに輝きをそえているかのようだった。この地味で人の心をうつ美しさは、下層階級には見受けられない、深い思いをたたえている。ジュリヤンはこれまでついぞ感じたことのなかった自分の魂の一面を知る思いがした。むさぼるようなまなざしをこの美しさに注ぎながら、我を忘れて見とれているうちに、ジュリヤンは愛《あい》想《そ》よく迎えてくれるだろうと期待したことなど、まったく念頭になくなってしまった。だが、それだけに、相手がつとめて氷のような冷たさを示そうとしているのを知って驚いた。その冷たさのうちには、あまりつけあがるなという態度さえ、うかがえるような気がした。
喜びの微笑は口もとから消えた。自分が社会においてどんな地位を占めているか、とくに貴族でしかも巨万の富を相続した女の目にどう映っているかを思い出した。たちまち、彼の顔には傲慢《ごうまん》と、自分に対する怒りしか見られなくなった。わざわざ一時間以上も出発を遅らしたのに、こんな屈辱的な目にあわされるのかと思うと、口惜《くや》しくてならなかった。
《他人に腹をたてるなんて、ばかにきまってる。石が落ちるのは重いからだ。おれはいつまでたっても子供なのか? いったい、金をもらうからこそ、やつらに魂を売り渡すなんて、とんでもない習慣を、おれはいつから身につけたんだ? やつらからも、おれ自身からも、尊敬されたいと思うなら、貧乏だからこそ、やつらの金ともつきあうが、おれの心はやつらの傲慢なんざ寄せつけもしないんだ、住んでる世界がまるっきり違う、やつらのくだらぬ軽蔑《けいべつ》や好意などで左右されやしないんだ、というところを見せてやらなければいかん》
こうした気持が若い家庭教師の心に次から次へとわき起ってくるうちに、変りやすいその表情が、自尊心を傷つけられていきりたつ様子をおびてきた。レーナル夫人はそれを見て、すっかりあわてた。操《みさお》の固い冷たさで接するつもりだったのに、相手を気にする顔つきになり、しかも相手の急な変化にすっかり驚かされて、おろおろするところを見せてしまった。身体《からだ》の調子とか、天気について、毎朝取りかわす空々しい挨拶《あいさつ》は、お互いに種が切れてしまった。ジュリヤンは、恋心ですこしも判断力を乱されているわけではないので、彼女との仲など問題にしていないということを、レーナル夫人に思いしらせる手段を、たちまち思いついた。これから出かけようとする小旅行のことなど一言も口に出さず、挨拶をすると出ていった。
レーナル夫人が、その前の夜はあれほどやさしみのこもっていたまなざしに、気味悪いほどの傲慢さを読みとって、打ちのめされた思いで、彼が立ち去る姿を見送っていると、長男が庭の奥から走り寄り、キスしながらいった。
「今日はぼくたち、お休みだよ。ジュリヤン先生は旅行にいらっしゃるんだって」
これを聞くと、レーナル夫人は身の凍る思いがした。操を立てたから、こんなみじめなことになったのだが、気がくじけただけに、なおさらみじめだった。
この新しい事件が彼女の頭をすっかりとりこにした。おそろしい一夜を過したために、賢明な決心をしておきながら、今はそんなことどころではなかった。問題はもはやあの慕わしい恋人に抵抗することなどではなく、これを永遠に失うかもしれないということなのだ。
昼食には顔を出さなければならなかった。そのうえ、あいにくなことに、レーナル氏とデルヴィル夫人は、ジュリヤンが出かけたことばかりを話題にした。暇をくれといったときの、きっぱりした言葉つきに、どこかただならぬところがあったと、町長はいうのだ。
「あの百姓の小せがれめ、きっと、だれかから誘いをかけられたんだ。だが、そのだれかが、よしんばヴァルノにしたところで、大枚六百フランと聞いちゃ、ちょいとしりごみするにちがいない。なにしろ今じゃ年にそれだけ出さなくちゃならんのだからな。昨日は、ヴェリエールで、三日ばかり考えさせてくれと頼んだのだろう。だから、今朝は、おれに返事をしたくないもんで、先生、山へお出かけなすったわけさ。いまいましい野郎だ、職人のくせして、無礼なまねをしやがる、だが、こんなやつのご機《き》嫌《げん》をうかがわなけりゃならないなんて、情けないことになったもんだ!」
《ジュリヤンをどんなに傷つけたか、主人にはわかってない。でも、ジュリヤンが出ていくと思っている。あたしはどう考えたらいいのだろう? ああ! もう取返しがつかない!》と、レーナル夫人は考えた。
せめて思う存分泣いてみたいし、デルヴィル夫人にいろいろ受け答えするのはたまらないと思って、彼女はひどく頭痛がするといって、床についた。
「女ってやつは、ああなんだ。ややこしい機械で、いつもどこか故障している」冷やかし半分にそういいながら、レーナル氏は出ていった。
こうして、ふとしたきっかけからおちいった恋の苦しみに、レーナル夫人が身をさいなまれているとき、ジュリヤンのほうは、山の景色としてもとりわけ美しい眺《なが》めの道を、浮き浮きした気持でたどりつづけていた。ヴェルジーの北に連なる大きな山々を越えなければならなかった。ぶな《・・》の大きな森にはいると、次第に登り道になり、それがドゥー川の谷間の北にそびえる高山の斜面を、どこまでもうねうねと続いている。まもなくドゥー川の流れの南側を占める、やや低目の丘を越えると、その向うにブールゴーニュとボージョレの豊かな平野が見渡せた。この若い野心家の心はこうした美に無感覚ではあったとはいえ、ときおり立ちどまっては、このいかにも雄大な景色を眺めないではいられなかった。
やっと大きな山の頂に出た。親友の若い薪《たきぎ》商《しょう》フーケの住んでいる寂しい谷間に行くのに、間道を通ろうとすれば、どうしてもこの山頂の近くをまわらなければならなかった。ジュリヤンはこの親友にも、いやほかのどんな人間にも、急いで会いたいとは思っていなかった。この大きな山の頂にある裸岩のあいだに、猛禽《もうきん》のように身を隠していると、どんな人間が近づいてきても、遠くからすぐわかる。切り立ったような斜面の岩があった。その斜面のまんなかに、小さな洞窟《どうくつ》を見つけた。ジュリヤンは走っていって、この隠れ家に身をひそめた。《ここなら人間どもから害を加えられることもあるまい》と、彼は喜びに目を輝かしながらいった。ふと、思う存分考えていることを書いてみようという気を起した。ほかだとどこでも危険きわまりないからだ。四角な石を机がわりにした。すらすらと筆が走る。周囲のことなどまったく目にはいらない。やがて、陽《ひ》がはるかかなたのボージョレの山陰に沈んでいくのに気がついた。
《ここで夜を明かしてもよかろう。パンもあるし、自由なんだ《・・・・・》から》と、彼はつぶやいた。この大げさな言葉の響きに、心が躍った。偽善家であるために、フーケの家でさえ自由になれないのだ。肱《ひじ》を立て、頭をかかえて、夢想に耽《ふけ》り、自由の喜びに酔いしれながら、この洞窟にいると、生れて以来味わったことのないほど幸福な気がした。黄昏《たそがれ》の光が次々に消えていくのを、眺めるともなく眺めた。この広漠《こうばく》たる暗闇《くらやみ》のなかで、いつかはパリで出会うだろうと思うことがらを、しきりにあれやこれやと胸に描いてみた。まず浮ぶのは、これまで田舎で見た女とは比べものにならないほど美しく、また才知のすぐれた女の姿だった。その女を夢中になって愛し、相手からも愛される。すこしのあいだでも女のもとを離れることがあるとすれば、それはなにか輝かしい光栄に包まれて、ますます女に愛される資格を得るためにほかならない。
パリの社交界の、ほろにがい現実のなかで育った青年なら、たとえジュリヤンのような空想力をもっていたにせよ、物語がこの辺まで来れば、冷やかな皮肉で目覚めたにちがいない。偉大な行為も、これをなしとげようという望みとともに消え去って、「好きな女のそばを離れたら、日に二度や三度は浮《うわ》気《き》されると覚悟せよ」という、だれもが知っている格言がこれにかわることになるだろう。この若い百姓は、自分と英雄的行為のあいだに、機会だけが欠けているのだと思っていた。
日が暮れて、まっくらな夜となっていたのに、フーケの住む小屋へおりていくには、まだ二里も歩かなければならない。小さな洞窟を立ち去る前に、ジュリヤンは火をつけて、丁寧に書いたものをことごとく焼きすてた。
夜中の一時に門を叩《たた》いたのだから、フーケは驚いた。帳簿をつけている最中だった。背は高いが、かなり不格好で、顔だちが大柄《おおがら》でごつごつしていて、鼻のひどく大きな青年だった。気味の悪い容貌《ようぼう》だが、見かけによらず、人の善さが多分にうかがわれる。
「レーナルさんと喧《けん》嘩《か》でもしたのかい? こんな時間にひょっくりやってきたりして」
ジュリヤンは前の日のいきさつを話してきかせた。むろん、よけいなことはいわなかっ
た。
「おれのところに来たらどうだ。きみはレーナル氏や、ヴァルノ氏や、モージロン郡長や、シェラン司祭となじみなわけだ。こういう連中の悪賢いところはわかったろう。だから、きみは競売に顔出しできるよ。きみはおれより算数が上手だから、帳簿を頼む。おれは商売でうんと儲《もう》けるんだ。おれひとりじゃ、なにからなにまでできんし、相棒をこしらえても、そいつが悪いやつだったら、かなわんし、そんなこんなで、いい儲け仕事はあるんだが、いつも手を出さずにいるんだ。ついこのあいだ、まだひと月とたたないのだが、サン = タマンのミショーに六千フラン儲けさせてやったんだよ。六年ごし会ってなかったやつだがね、ひょっこりポンタルリエの売立てで、出っくわしたんだ。きみだって、その六千フラン、いやまあ三千は稼《かせ》げたんだ。なにしろ、あの日、おれと一緒にいてくれたら、おれはあの森林の伐採《ばっさい》に入札したろうし、みんなもすぐおれに譲ってくれただろうから。おれの相棒になってくれ」
この申し出に、ジュリヤンは気を悪くした。せっかくの夢をかきまわされたからなのだ。フーケはひとり暮しなので、ホメロスの英雄たちのように、ふたりで手料理をこしらえたのだが、その夜食をとりながらも、フーケはジュリヤンに帳簿を見せて、薪の取引がどんなに儲かるかということをしきりに説明した。フーケはジュリヤンの才知と性格をきわめて高く買っていた。
ジュリヤンはやっと、もみ《・・》の木の小さな寝室にひとりになって、考えた。《なるほど、ここにいれば数千フランは儲けられるし、それから、そのときのフランスを支配する傾向を見て、兵隊になるなり、聖職についたほうが、有利にはちがいない。小金がたまれば、小さな障害などはわけなく取り除くこともできよう。社交界の連中が問題にしていることがらについちゃ、おれはまるっきり知らんが、この山の中でフーケと暮して〔得意先をまわって〕いるうちに、すこしはわかってくるだろう。だが、フーケのやつは結婚する気がないくせに、しょっちゅう、孤独でやりきれんといっている。してみると、自分の商売に資本をつぎこんでもくれないようなものを相棒にしようというのは、一生自分のそばを離れないでいてくれる仲間が欲しいからにきまっている》
《おれは親友を裏切る気か?》と、ジュリヤンは腹だたしげに叫んだ。偽善と、いかなる同情心も起さぬことをもって、自己を生かす常套《じょうとう》手段と考えているこの男も、このときばかりは、自分を愛してくれるものを思う気持に、すこしでも欠けるところがあると考えるだけで、我慢がならなかった。
だが、ジュリヤンはふと救われた気になった。ことわる理由を見つけたのだ。《なんだと! 七、八年もみすみすむだにしようというのか! それじゃ二十八になってしまう。ボナパルトはその年にはりっぱな仕事をやりとげていたんだ。こんな薪の売立てにかけずりまわって、地道に小金を儲け、下っぱの悪党どものお気にいりになったところで、名をあげるための尊い情熱を、そのころまでもちつづけていられるとでも思うのか!》
そのあくる朝、ジュリヤンは、信仰の道にはいることを天職と心得ているから、申し出を受けるわけにはいかない、と落ち着きはらって答えた。フーケは共同経営の問題がきまったものと思っていたので、あっけにとられてしまった。
「いいかい、おれは共同でやろうっていっているんだぜ。なんなら、年に四千フランやることにしてもいいんだぜ。それでも、あのレーナルさんとこへ戻《もど》りたいのか! きみなんか、靴底《くつぞこ》の泥《どろ》同然の取扱いをうけてるんじゃないか! 二百ルイをためてみるがいい、そうすりゃ、だれも文句をいやしないよ、きみが神学校へはいったって。おれとしちゃ、そればかりか、この地方でいちばんいい司祭職を世話してやってもいい。なにしろ」と、声を落して、「おれは……さんや……さんのところへ薪をおさめているんだ。かし《・・》の一等品のとびきりを届けているのに、雑木の値段しか払ってもらわないんだ。だがな、これくらいうまい投資はないんだ」
なんといっても、ジュリヤンの天職をひるがえさせることはできなかった。とうとう、フーケも、こいつすこし頭が変なのではないかと思った。三日目の朝早く、ジュリヤンは親友のもとを去って、高い山の岩間で一日を過した。また例の小さな洞窟に行ってみたが、もう心の落着きは失われていた。親友の申し出がこれを奪ったのだった。ヘラクレスのように悪徳と美徳の板挾《いたばさ》みになったのではなく、安楽を保証された単調で平凡な生活と、青春の英雄的な夢との板挾みになったのだ。《結局おれはほんとにしっかりしているんじゃない》と、彼は思った。この不安こそ、彼をいちばん苦しめていたことなのだ。《おれは偉人になれるようなタイプじゃない。八年間パンを稼ぐのに過したら、あっといわせるようなことをしでかすための、あの崇高なエネルギーが失《な》くなりはしまいかなんて、心配してるんだからな》
第十三章 網目の靴下《くつした》
小説、それは道に沿って持ち歩く鏡である。
サン = レアル
ヴェルジーの古い教会の美しい廃墟《はいきょ》を目にしたとき、ジュリヤンは一昨日《おととい》から一度もレーナル夫人のことを考えなかったのに気がついた。《おととい出がけに、おれとあの女のあいだには、測りしれぬへだたりがあるのだということを思い知らされた。まるで職人のせがれ扱いにされた。前の晩、おれに手をまかせたことを後悔しているもんで、それを見せつけるつもりだったんだろう。……だが、ずいぶんきれいだ、あの手は! 惚《ほ》れ惚《ぼ》れする! あの女のまなざしときたら、じつに気品がある!》
フーケと一緒に金儲《かねもう》けができると思うと、ジュリヤンは比較的楽な気持で考えることができた。いらいらしたり、世間ていを気にして、自分の貧しさや生れの卑《いや》しさをことさら意識したりして、しょっちゅうひねくれた考えになることもなくなった。ひどい貧しさも、ジュリヤンが今でも富と称している安楽も、高い岬《みさき》に立っているような気で見ることができた。いわばこれを見下すような気持だった。自分の地位を哲学者として批判することなどは、とうていできなかったが、山にちょっとこもってからは、自分が変った《・・・》と感じるだけの洞察力《どうさつりょく》はもっていた。
レーナル夫人に望まれて、かいつまんで旅行の話をしていると、レーナル夫人が、聞きながらも、ひどく落ち着かない様子を見せるので驚いた。
フーケは結婚する気になって、いくたびも失恋したことがあった。ふたりはこの問題ばかりを取り上げて、長いあいだ思うところを述べ合った。ひどく簡単に幸福をつかんだと思ったら、かわいがられているのが自分だけでないのに気がついた、とフーケはいう。こうした話は、どれもこれも、ジュリヤンを驚かした。知らなかったことを、いろいろ教えられた。空想と猜《さい》疑《ぎ》心《しん》だけの孤独な生活を送っていたから、蒙《もう》をひらいてくれるはずのことには、全然接する機会がなかったのだ。
ジュリヤンの留守中、レーナル夫人にとっては、その日その日が、さまざまな、しかもたえがたい苦悩の連続で、彼女はほんとうに病気になってしまった。
デルヴィル夫人はジュリヤンが帰ったのを見て、彼女にいった。
「具合が悪いんでしょう、今夜庭に出るのだけはおやめなさいね。湿気でますます気持が悪くなるわ」
あまり身のまわりをかまわなさすぎると、いつもレーナル氏から叱《しか》られている親友が、網目の靴下に、パリから届いた小《こ》粋《いき》な小さい靴をはいたのを見て、デルヴィル夫人は驚いた。三日このかた、レーナル夫人の気晴らしといえば、いま流行の服地で夏服を裁って、大急ぎでエリザに仕立てさせることだった。ジュリヤンが帰ってからしばらくして、やっと仕上がると、レーナル夫人はさっそくこれを身につけた。デルヴィル夫人はもう疑う余地がないと思った。《このひと、恋をしてるのだわ、かわいそうに!》親友の病気のおかしな模様がいちいち思いあたるのだった。
レーナル夫人がジュリヤンに話しかけるのを見ていると、真っ赤な顔が蒼《あお》ざめていく。若い家庭教師の目をじっと見つめる夫人の目には、不安の色がはっきり浮んでいる。ジュリヤンが自分の考えを打ち明け、出ていくのか、このまま残るのか、はっきりさせるだろうと思って、レーナル夫人はそれを今か今かと待ちかねている。ジュリヤンはそのことについて全然ふれようともしない。そんなことは考えてもいないのだ。悩みぬいたすえに、レーナル夫人は、とうとう、思いきって、声をふるわせながらきいた。その声《こわ》音《ね》には、胸のうちがありありとうかがわれた。
「あなたは生徒たちをすてて、ほかへいらっしゃいますの?」
ジュリヤンはレーナル夫人のおずおずした声とまなざしに驚いた。《この女はおれに恋してるな。だが、どうせ一時の弱気なんだ、自尊心が許すはずはない。おれが出ていく心配がなくなりゃ、たちまちまた増長するにきまってる》相手と自分では立場が違うという考えが、ジュリヤンの頭を、稲妻《いなずま》のようにかすめた。彼はためらいがちに答えた。
「坊ちゃんがたはほんとにかわいらしいし、育ちもいい《・・・・・》のに、お別れするのは、たいへんつらいのですが、おそらくやむをえないことと思います。だれでも自分に対する義務がありますから」
育ちのいい《・・・・・》という言葉(これはジュリヤンがつい近ごろ覚えた貴族階級の用語のひとつなのだ)を口にしながら、彼は深い反感にかられた。
《この女から見れば、おれなどは育ちがよくないわけなんだ》
レーナル夫人はジュリヤンの言葉に耳を傾けながら、その才知と美《び》貌《ぼう》に感心し、出ていくかもしれないと暗にほのめかされて、胸をえぐられる思いがした。ジュリヤンの留守に、ヴェリエールからヴェルジーへ晩餐《ばんさん》に招かれてやってきた連中も、夫が運よく掘り出したこの神童のことを、われさきにとほめそやしたのだった。子供たちの勉強の進み具合が多少でもわかったからではない。聖書をほかならぬラテン語で暗誦《あんしょう》できるということが、ヴェリエールの連中を、おそらく百年後の語り草になるかもしれないほど、感心させたのだ。
ジュリヤンはだれとも口をきいたことがないから、そんなことは全然知らなかった。レーナル夫人にしても、多少なりとも落ち着いていたら、ジュリヤンが評判になっていると、お世辞ぐらいはいえたところで、そうすれば、ジュリヤンの自尊心は満たされたろうし、彼女の新しい服をすばらしいと思っていただけに、気がほぐれて、愛《あい》想《そ》よくふるまったにちがいない。レーナル夫人は、自分でもきれいな服が気にいったと思っているところへ、ジュリヤンから服のことをいわれたので、自分から庭を一まわりしようといいだしておきながら、まもなくもう歩けないといって、帰ったばかりのジュリヤンの腕にすがったが、元気になるどころか、腕にさわっただけで、全身の力が抜けてしまった。
夜だった。腰をおろしたと思うと、ジュリヤンはさっそく、前からの特権に乗じて、隣に腰かけた彼女の腕に思いきって唇《くちびる》をあて、その手を握った。フーケが情婦たちを相手にして大胆なふるまいに出たということばかりを考え、レーナル夫人のことなど考えていなかった。育ちのいい《・・・・・》という言葉が、まだ心にわだかまっていた。手を握り返されても、すこしもうれしくなかった。その夜はレーナル夫人が胸の思いを、わかりすぎるくらい、そぶりにあらわしているのに、ジュリヤンは得意になるどころか、いやありがたいとさえ思わず、美しさにも、しとやかさにも、若々しさにも感動しなかった。心の清らかさと、あらゆる憎しみの情を避けることが、おそらく青春を永続きさせるのだ。美しい女性も多くは顔から老《ふ》ける。
ジュリヤンは一晩じゅう憂鬱《ゆううつ》そうな顔をしていた。これまでは、因果な運命や、社交界に対してしか、腹をたてたことがなかったが、フーケから安楽を得る卑劣な手段をすすめられて以来、自分自身に対して腹をたてていた。ジュリヤンは自分の考えにすっかり気をとられていたので、ときたまふたりの女性にすこしは言葉をかけたものの、無意識のうちに、レーナル夫人の手をはなしてしまった。かわいそうに、レーナル夫人はこのふるまいに気が転倒し、自分の行末を見せられる思いがした。
ジュリヤンの愛情をつかみえたら、おそらく彼女の貞操はこれに抵抗する力をもつことになったろう。永久にジュリヤンを失うのではないかという危惧《きぐ》の念から、情熱にかられて、ジュリヤンがぼんやりして椅子《いす》の背にもたせかけたままでいる手を握ろうとした。このしぐさがこの若い野心家をはっとさせた。子供たちと一緒に食卓のはしにいるとき、いかにも保護者ぶった微笑を浮べて、自分をじろじろ眺《なが》めている、あの高慢ちきな貴族どもに、このしぐさを見せてやりたいという気がした。《この女はもうおれを軽蔑《けいべつ》できない。それなら、おれはこの女の美しさを感じてやるべきだ。この女をおれのものにするのがおれの義務だ》親友から正直な打明け話を聞かされるまでは、こんな考えが浮んだことはなかった。
急にそう決心すると、今度はふざけてやろうという気を起した。《どうしても、このふたりの女のうち、どっちかをものにしてやろう》考えてみると、デルヴィル夫人を口説いたほうがずっとおもしろいことになる。この夫人のほうが気にいったからではなく、この夫人が、あくまで学識を買われた家庭教師として、自分を見ており、はじめてレーナル夫人の前に出たときの、粗いラシャの上着をまるめて小《こ》脇《わき》にかかえた、製材小屋の職人としては見ていなかったからである。
ところが、レーナル夫人がいちばんかわいく思っているジュリヤンの姿は、耳のつけねまで真っ赤にして玄関の前にたたずみ、呼《よ》び鈴《りん》を押すことさえできないでいた、あの若い職人姿にほかならなかった。
自分の立場を考え直しているうちに、ジュリヤンはデルヴィル夫人を征服することは断念するべきだと悟った。レーナル夫人が自分に思いを寄せていることに気がついているらしいからである。いきおい、レーナル夫人に立ち戻《もど》らざるをえない。《この女の性格について、なにがわかっているというのだ? せいぜい次のことだけだ。旅行に出る前には、おれが手を握るとひっこめたのに、今じゃおれが手をひっこめると、向うから手を取って握りしめる。この女から受けた軽蔑をそっくりお返しするのに、またとない機会だ。これまでにどのくらい男を作ったか、わかるもんか! あるいは、あいびきするのが楽なもんで、おれに思いを寄せる気になったのかもしれない》
情けないことに、これこそ過度の文明の生む不幸なのである。教育などを受けると、青年は二十《はたち》で心のゆとりを失ってしまう。ところが、心のゆとりがなければ、恋愛は往々にしておよそわずらわしい義務にすぎなくなる。
ジュリヤンのつまらない虚栄心はなおも思いつづけた。《いずれ出世したときに、だれかから卑しい家庭教師の職についたではないかなどと咎《とが》めだてされても、恋のために身をおとしたんだと、いいわけができなくてはいかん。そうなると、ますます、この女をものにしておくことが、おれの義務になる》
ジュリヤンはもう一度レーナル夫人の手をはなしてから、また手を取って握りしめた。真夜中ごろになって、客間へ戻りしなに、レーナル夫人がそっとささやいた。
「あたしたちのところを出るおつもり、行っておしまいになるの?」
ジュリヤンは溜息《ためいき》をつきながらいった。
「出ていかないわけにはまいりません。あなたを夢中で恋しているからです。これは罪です。……たいへんな罪です、若い聖職者にとっては!」
レーナル夫人は彼の腕に寄りかかった。あまりぐったりと寄りかかったので、自分の頬《ほお》にジュリヤンの頬の熱さが感じられたほどだった。
ふたりの過した夜はまったく違っていた。レーナル夫人ははげしい心の快楽にのぼせあがっていた。早くから恋を知る浮気娘《うわきむすめ》は恋の悩みに慣れ、まことの恋をする年ごろには、新鮮な魅力を感じなくなる。レーナル夫人は一度も小説を読んだことがないので、今の幸福感はことごとく目新しく思えた。いやな現実も、不安な未来さえも、まったく彼女の心を凍らせることがなかった。十年後も現在と同様、幸福な自分の姿が思い浮ぶ。レーナル氏に貞節と従順を誓った身であることを考えると、二、三日前までは心をかき乱されたが、今はもうそんなことを思い浮べても、問題ではなく、うるさいお客のように追いはらってしまった。《ジュリヤンにはなにひとつ許すまい。これから先も、これまでのひと月と同じように暮していこう。お友達になってもらうのだわ》と、レーナル夫人は考えた。
第十四章 イギリス製の鋏《はさみ》
娘は十六、頬《ほお》はばら色、だが紅をつけていた。
ポリドーリ
ジュリヤンは、フーケの申し出のために、まったく幸福を奪われてしまった。どちらとも決心がつかなかったからである。
《なんたることだ! おれは胆《きも》っ玉《たま》が小さいのかもしれない。ナポレオンの軍隊にはいったところで、ろくな兵隊にはなれなかったろう。だが、せめて、ちょいとこの家の奥さんと関係でもすれば、当分気晴らしにはなるだろう》
ジュリヤンにとっては幸いなことだが、こんなつまらぬ二次的な事件のことでも、その本心は威勢のいい言葉とはつりあっていなかった。レーナル夫人があんまりきれいな服を着ているので、こわかった。この服はパリの前衛のように思えた。自尊心の手前、なにごとでもなりゆきにまかせることができず、その時の気分でことを運ぶことができなかった。フーケの打明け話と、ごくわずかながら聖書で得た恋愛に関する知識をもとにして、彼は、詳細きわまる作戦を立てた。自分ではそうではないと思いながらも、ひどく不安なので、その計画を書きとめた。
あくる朝、客間で、ほんのちょっとふたりきりになったとき、レーナル夫人がきいた。
「ジュリヤンのほかに別のお名前はありませんの?」
はなはだくすぐったい質問だが、ジュリヤンはどう答えていいかわからない。こういう場面は計画に予定されてなかった。作戦を立てるなどというばかなことをしなければ、ジュリヤンの鋭い才知は大いに役だったところなのだし、奇襲を受ければ、かえって、ますます機敏の才を発揮したはずなのである。
彼は不粋だった。しかも、みずからその不粋を大げさに考えた。レーナル夫人はそんなことにこだわらなかった。愛すべき純真さのせいだと思った。それに、あれほど才能がありながら、この青年になにが欠けているかといえば、まさに純真な態度だと、夫人は思っていた。
デルヴィル夫人はときどきいうのだった。
「あなたの若先生にはとても気が許せませんわ。いつもなにか考えていて、計算したうえでことをするような気がするわ。腹黒い人よ」
ジュリヤンはレーナル夫人に答えられなかったのがいまいましくて、ひどく屈辱感を覚
えた。《おれともあろうものが、こんな失敗をして、その償いをしないですませるか!》
みんなが別の部屋に移るときを狙《ねら》って、レーナル夫人にキスするのが自分の義務だと思っ
た。
ジュリヤンにとっても相手にとっても、これほど唐突な、これほど不愉快な、またこれほど不用意なことはない。ふたりはあやうく見つかるところだった。レーナル夫人は気でも違ったのかと思った。おびえたにはちがいないが、むしろ腹がたった。このばかなふるまいはヴァルノ氏を思い出させた。
《ふたりきりでいたら、どうなることだろう?》貞操感がまた頭をもちあげた。恋心が薄らいだからである。
そこで、いつでも子供のひとりが自分のそばにいるように気を配った。
その日一日が、ジュリヤンにとってはやりきれなかった。不器用ながらも、誘惑計画を実行に移すことばかり考えて、一日を過した。レーナル夫人を眺《なが》めるたびごとに、なぜという意味のまなざしを投げかけてみた。だが、彼もばかではないから、それでは相手によく思われるどころか、ますます悪い印象を与えるなとは気がついた。
レーナル夫人は、相手がひどく不器用なくせに、ひどく大胆なふるまいに出たのを見て、呆《あき》れていた。《利口なひとでも、恋をすると臆病《おくびょう》になるのだわ!》と思うと、いいしれぬうれしさを覚えた。《でも、このひとがあたしの恋敵《こいがたき》から一度も愛されたことがないなんてはずはない》
昼食がすんで、客間に戻《もど》るとレーナル夫人はブレーの郡長シャルコ・ド・モージロン氏の訪問を受けた。彼女は丈《たけ》の高い小さな刺繍《ししゅう》台《だい》で仕事を続けていた。デルヴィル夫人はそばにいた。ジュリヤンは、こういう場合にこそ、しかも真昼間、片足を伸ばして、レーナル夫人のきれいな足をおさえることが肝心なのだと思った。むろん、好色家の郡長の視線は、夫人の網目の靴下《くつした》とパリ製のきれいな靴に注がれている。
レーナル夫人はふるえあがってしまった。鋏も糸巻も取り落した。ジュリヤンのふるまいは、鋏が滑り落ちるのを見て、受けとめようとしたが、やりかたが不器用だったからそうなったのだとも思えた。さいわい、この小さなイギリス製の鉄鋏はこわれてしまったので、ジュリヤンがもっとそばにいてくれたらよかったのにと、しきりに残念がるふりをした。
「あたしより先に、落ちるのがわかったんでしょう? 受けとめられたはずよ。それどころか、あなたったら、力があまって、あたしの足を蹴《け》っとばしただけね」
こうして郡長はごまかせたが、デルヴィル夫人はごまかせなかった。《この美少年ったら、なんてばかなまねをするんだろう!》地方の都会の礼儀作法は、こうした種類の過ちを大目に見ないのだ。レーナル夫人は機会を見て、ジュリヤンにいった。
「めったなことはしないでください。命令ですよ」
ジュリヤンはまずいことをしたと思うと、自分ながらおもしろくなかった。この命令で《・・・》すよ《・・》という言葉に腹をたてたものかどうか、長いあいだとくと考えてみたが、ろくな結論は出てこない。《子供の教育のことなら、命《・》令ですよ《・・・・》でもいいだろうが、おれの求愛に応じる以上、立場は当然対等なわけだ。恋に上下はないはず……》そこで、対等ということについてのきまり文句を一生懸命思い出そうとした。デルヴィル夫人が数日前に教えてくれたコルネイユの詩句を腹だたしげに反芻《はんすう》した。
……恋は上下をなくしてはくれるが、
わざわざなくそうとするものではない。
ジュリヤンは、生れてこのかた、女などをもったこともないくせに、ドン・ジュアンのふりがしたくてたまらず、その日一日、とんでもないばかなことばかり考えていた。だが、ひとつだけ、まともなところがあった。自分にも、レーナル夫人にも、愛《あい》想《そ》をつかしてしまい、庭に出て、暗闇《くらやみ》のなかで、レーナル夫人のそばに腰をおろすのかと思うと、夜の迫るのがこわかったのだ。そこで、司祭に会いにヴェリエールに行ってくるからと、レーナル氏にいって、夕食をすますと出ていき、夜がふけるまで帰らなかった。
ヴェリエールに行ったときは、ちょうどシェラン司祭が引越しの最中だった。とうとう免職になって、マスロン助任司祭がその後釜《あとがま》にすわったところだった。ジュリヤンは人のいい司祭の手伝いをしているうちに、ふとフーケに手紙を書こうかと思った。自分は聖職につくことをやむにやまれぬ天命と思っているから、はじめは親切な申し出を受ける気にならなかったが、こういう不正な実例を目にすると、宗門にはいらないほうが自分の救いには得かもしれないというのである。
ヴェリエールの司祭の免職を利用して、抜け道を考えておき、気持の上でどうにもならぬ用心深さが英雄主義を打ち負かす場合には、商売に逆戻りできるようにしておこうという自分のずるさにわれながら感心した。
第十五章 鶏鳴
恋はラテン語ではアモールという。
そこで恋からモール(死)が生れる。
そして、その前には心のもだえ、
深い憂《うれ》い、涙、わな、大それた罪、悔恨。
『恋の格言』
ジュリヤンは自分勝手に腕前があるつもりでいたものの、ほんとに多少とも腕前があるなら、ヴェリエールに出かけたことがいかに効果的だったかを知って、その翌日得意になれたはずである。留守のあいだに、彼のへまなふるまいは忘れられてしまっていたのだ。この日になってもまだ、ジュリヤンの気持はさっぱりしなかった。夕方になると、とんでもないことを思いつき、ずうずうしいにもほどがあるが、それをレーナル夫人に伝えた。
庭に出て腰をおろすが早いか、十分暗くなるのも待たないで、レーナル夫人の耳もとに唇《くちびる》を寄せ、相手をひどく困らせるくらいは覚悟のうえで、ささやいた。
「奥さん、今夜二時に、お部屋へ参ります。ぜひお話ししたいのです」
ジュリヤンは自分からいい出しておきながら、承知されたらどうしようと思っていた。誘惑者の役割というのが、いかにもつらい。ほんとの気持をいえば、自分の部屋に二、三日引きこもって、この婦人たちには顔を合わせないようにしたいところだった。昨日の生意気なふるまいで、その前の日うまくいきそうだったことが、すっかりぶちこわしになったとはわかっていたが、どういう手段に訴えたらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。
ジュリヤンのずうずうしい失礼千万な言葉に対して、レーナル夫人は、すこしも誇張ではなく、本気で腹をたてて答えた。その短い返事に軽蔑《けいべつ》がこもっているように思われた。ごく低い声ではあったが、まあ《・・》、なんてこと《・・・・・》! という文句が聞きとれたのは確かだ。ジュリヤンは照れ隠しに、子供たちに話があるからといって、子供部屋に行った。戻《もど》ってくると、レーナル夫人からひどく離れて、デルヴィル夫人のわきに腰をおろした。こうして、自分から、夫人の手が握れないようにした。まじめな話になり、ジュリヤンはうまく調子を合わせたが、ときどき黙りこんでは、しきりに考えた。《三日前には、おれのものになりそうな、はっきりとした愛情のしるしを見せてくれたのだ! なんとかうまく工夫して、この女がもう一度ああいうそぶりを見せるように仕向けたいものだ!》
自分から問題をせっぱつまった立場におとしいれておいて、ジュリヤンはひどくあわてていた。だが、それがうまくいこうものなら、まったく当惑したにちがいない。
夜半に別れたとき、ジュリヤンは悲観的になってしまい、自分はデルヴィル夫人の軽蔑を買っているし、おそらくレーナル夫人もそんな気持だろうと思った。
はなはだおもしろくないし、ひどく侮辱された感じがして、ジュリヤンは眠れなかった。かけひきや作戦計画をすっぱり思いきり、子供のようにその日その日の幸福に甘んじて、レーナル夫人と一緒に漫然と暮すなどという気には、全然なれなかった。
知恵をしぼって、うまい計略を考え出してみても、すぐそのあとでばかばかしく思えてくる。要するに、ひどくみじめな気持でいた。そのとき、屋敷の大時計が二時を打った。
鶏鳴が聖ペテロを目覚めさせたように、この音がジュリヤンをはっとさせた。考えてみると、自分は今もっとも苦しい立場にある。例の失礼な申し出のことなど、申し出をしておきながら、そのあとでは考えてもいなかったのだ。なにしろこっぴどくはねつけられたのだったから。
《おれは二時にあの女の部屋へ行くといったのだ》と、ジュリヤンは起き上がりながら、つぶやいた。《おれは百姓の小せがれなんだから、世間知らずで下品かもしれん。デルヴィル夫人のおかげで、そいつは思い知らされた。だが、せめて意気地なしにはならんぞ》
ジュリヤンが自分の勇気を誇るのもむりはない。こんなにつらい無理強いを我とわが身に課したことは一度もなかったのだ。戸を開けたが、身体《からだ》がふるえて、膝頭《ひざがしら》に力がはいらず、壁に寄りかからないではいられなかった。
靴《くつ》ははいていなかった。レーナル氏の部屋の戸口まで行って耳をすますと、はっきり鼾《いびき》が聞える。彼はがっかりした。もう女の部屋に行かないですます口実はないわけだ。だが、弱った、どうしたものだろう? どうしようという計画は立ててない。立てたにしても、こんなにあわてていては、実行できなかったろう。
やっと、死を覚悟するよりもはるかに苦しい思いで、小さな廊下に出た。そのつき当りがレーナル夫人の部屋である。ふるえる手で戸を開けると、おそろしい音がした。
部屋は明るく、暖炉の下で豆ランプが燃えている。またまたこんな運の悪いことにぶつかろうとは思ってもいなかった。はいってくる姿を見て、レーナル夫人はベッドのそとへさっと飛びおり、「まあ、なんてひと!」と叫んだ。いささかばつが悪かった。ジュリヤンはくだらない作戦計画を忘れて、自然な態度にかえった。こんな美しい女性にきらわれたら、これ以上の不幸はあるまいと思った。彼は女の足下にひざまずいて、その膝を抱きしめ、相手に叱《しか》られても、黙ったままでいた。言葉があまりにひどいので、彼は急に泣き出した。
それから数時間して、レーナル夫人の部屋を出たときのジュリヤンは、小説ふうにいえば、思いの限りをとげたというわけだった。事実、彼は相手に恋心を起させ、また相手のそそるような魅力に、思いもよらぬ感銘を受けたからこそ、勝利をおさめることができたのであり、例の下手くそな腕前をどんなに発揮したところで、そこまではいかなかったはずなのだ。
だが、もっとも甘美な瞬間においてさえ、ジュリヤンは妙な自尊心にとらわれていて、あくまで女を征服することに慣れた男の役割を演じているつもりだった。つまり、途方もなく気を使って、自分のいいところを台なしにしていた。相手を夢中にさせておきながら、相手が後悔にかられてますます夢中になる姿には注意するどころか、義務《・・》の観念がたえず目の前にちらついていた。理想的なお手本どおりにふるまおうと思っているので、それにはずれたら、やりきれぬ後悔に責め立てられ、一生笑いものになりそうな気がした。要するに、ジュリヤンは非凡な人間であったために、自分の足下に置かれている幸福を味わうことができなかったのだ。十六歳の少女が、かわいい色つやをしているのに、わざわざ紅をつけて舞踏会に出かけるようなものである。
ジュリヤンの姿を見て、この上もなくおびえきったレーナル夫人は、今度はたえきれないほどの不安におそわれたのだった。ジュリヤンの涙と絶望が、彼女の心をはげしくかき乱した。
なにひとつ拒めなくなってさえ、彼女は心から憤《いきどお》りを感じて、ジュリヤンを突きのけたかと思うと、そのあとで相手の腕に身を投げかけた。そのふるまいにはなんの底意も見られなかった。取返しのつかない罪に落ちたと思いこみ、ジュリヤンに愛《あい》撫《ぶ》の限りをつくして、地獄の幻から逃れようとした。要するに、味わうことを心得ていたら、ジュリヤンの幸福には、なにひとつ欠けるところはなかったのだし、いま手にいれた女は燃えるような情愛さえさらけ出していたのだ。ジュリヤンが出ていってもなお、レーナル夫人ははげしい愛欲に思わず身をふるわせ、胸をえぐる後悔と戦いつづけた。
《なんだ! 幸福になるとか、愛されるとかいっても、あれだけのことか!》部屋に戻ったジュリヤンが、まず考えたのはそういうことだった。長いあいだ渇望《かつぼう》していたものを手にいれたとき、だれもが感じる、あの驚きと落ち着かない状態だった。心は相変らず欲《ほっ》しているのに、今はもう欲する対象がなくなっている。かといってまだ追憶するところまでには至っていない。閲兵式から帰ってきた兵隊のように、ジュリヤンは一生懸命自分の行動を、もう一度細かな点まで振り返ってみようとした。《おれは自分に対する義務になにひとつ背かなかったか? 自分の役割をうまく果したか?》
だが、どんな役割なのか? いつも女を相手に派手にふるまう男の役割。
第十六章 あくる朝
男はふりむき、唇《くちびる》を女の唇にあてがって
女の乱れた髪の毛のほつれを手でかきあげた。
『ドン・ジュアン』第一編、第一七〇節
さいわい、ジュリヤンは体面を保つことができたが、それというのも、レーナル夫人があまりにも感動して取り乱し、一瞬にしてこの男がこの世におけるすべてのものとなったため、その愚かなふるまいに気がつくどころではなかったからなのだ。
夜が白むのを見て、彼女はジュリヤンに引きとってくれと頼みながらも、
「まあ! 困ったわ、もし主人にもの音を聞かれたら、おしまいだわ」
ジュリヤンは気のきいた文句を考える余裕があったので、こんな文句を思い出した。
「命が惜しいのですか?」
「ええ、惜しくてたまらないわ、こうなってみれば! でも、あなたを知ったことを悔んでるわけではないのよ」
ジュリヤンは、わざと明るくなってから危険を冒して引き上げるのが、威厳のあるやりかただと思った。
経験を積んだ男に思われたいという愚かな考えから、自分のごく些《さ》細《さい》なふるまいにも注意を怠らなかったが、それが一度だけうまく役にたった。昼食でレーナル夫人とまた顔を合わせたときの、ジュリヤンのふるまいは慎重そのものだった。
夫人のほうは、耳のつけねまで赤くしないではジュリヤンに目を向けることができなかったが、また一方、ちょっとでも目をそらすと、生きた心地がしなかった。取り乱しているとは、自分でも気がつきながら、それを隠そうと思って、かえってますます取り乱してしまう。ジュリヤンは、たった一度、目を上げて夫人を見たきりだった。はじめは、レーナル夫人も相手の慎重さに感心した。やがて、一度視線を投げてくれたきりで、見返してくれないのを知って、ふと心配になった。《もう愛してはくれないのだろうか? あのひとに比べてあたしは年をとりすぎている。十も年上なんだもの》
食堂から庭に出るとき、彼女はジュリヤンの手を握った。この突拍子もない愛情のしるしに驚きながらも、相手を眺《なが》めるジュリヤンの目は愛欲で輝いていた。昼食のとき、ほんとうに美しいなと思いながら、目は伏せても、相手の魅力をひとつひとつ思い出していたからである。そのまなざしに、レーナル夫人はほっとした。不安がすっかり取り除かれたわけではないが、その不安が夫に対する自責の念をほとんど取り除いてくれた。
昼食のとき、当の主人はなにも気がつかなかったが、デルヴィル夫人のほうはそうでなかった。レーナル夫人が誘惑に負けそうだと思った。親友のこととなれば、思いきって積極的に出ざるをえない。そこで、レーナル夫人に向って、その日一日、その身に迫る危険をそれとなく、醜悪な姿で描いてみせた。
レーナル夫人は、ジュリヤンとふたりきりになるのが、待ち遠しくてならなかった。まだ自分を愛していてくれるのかどうか、きいてみたいのだ。いつもは気立てがやさしいのに、いくたびか親友に向って、つい、ああ、うるさいというそぶりをしかけた。
その夜、庭に出ると、デルヴィル夫人はうまく立ちまわって、レーナル夫人とジュリヤンのあいだに割りこんでしまった。せっかく、ジュリヤンの手を握り、それを唇にあてるうれしさを心楽しく思い描いていたのに、レーナル夫人は言葉ひとつかけられない。
邪魔されたので、ますます不安になった。ひどく後悔していることがあった。前の晩、ジュリヤンが自分の部屋にはいってきたとき、その無謀なふるまいをあまりきつく咎《とが》めすぎたので、今晩は来《こ》ないのではないかと心配だった。早目に庭から引き上げて、自分の部屋に閉じこもった。だが、待ちきれなくなって、ジュリヤンの部屋まで出かけていき、その扉《とびら》に耳を押しあてた。不安と愛欲に身をさいなまれながらも、思いきってはいっていけなかった。あまりにもあさましすぎるふるまいであるような気がした。そういうことが、田舎では、いつでも話の種にされるからである。
召使が全部寝てしまっているわけではない。用心から自分の部屋に引き返した。待つあいだの二時間は苦しみの二世紀だった。
だが、ジュリヤンはみずから義務と呼んでいるものにきわめて忠実だったから、自分でやろうときめたことは正確に実行した。
一時が鳴ると、部屋からそっと抜け出し、一家の主人がぐっすり寝こんでいるのを確かめたうえで、レーナル夫人の部屋にあらわれた。その日は女のもとで前の日より楽しく過した。演じるべき役割のことをそれほど考えなかったからである。見る目も聞く耳も、もてたのだ。レーナル夫人が自分の年のことをいったので、やや自信を得た。
「ほんとに! あなたより十も上なんですもの! どうしてあなたから愛してもらえるでしょう!」と、夫人はなんどもいったが、下心があったからではなく、そのことが頭にこびりついていたからである。
ジュリヤンには、それがどうしてつらいのかわからなかったが、うそではないと思った。そこで、もの笑いになりはしないかという恐れはほとんどすっかり忘れた。
自分の生れが卑《いや》しいから、不《ふ》釣合《つりあい》な恋人に思われはしないかというばかな気持も消えた。ジュリヤンが夢中になるのを見て、内気な夫人もだんだん安心し、すこしは幸福な気持を取り戻《もど》し、相手を判断する力も出てきた。ジュリヤンは前の日の密会を勝利には終らせたものの、借りものの態度のために、快楽は味わわなかった。さいわい、この日はほとんどそういう態度に出なかった。もし、ジュリヤンが役割を演じることばかりに気を取られていることに気がついたら、この情けない真相のために、彼女としても、いっさいの幸福を永遠に失ったところなのだ。年齢の不釣合のためにこんな情けない結果になるのだとしか考えられなかったろう。
レーナル夫人は恋愛の原理など一度も考えたことはなかったが、恋愛沙汰《ざた》が問題になると、財産の不釣合についで、年の違いということが、田舎では、もの笑いのきまり文句になっているのを知っていた。
二、三日のうちに、ジュリヤンは年ごろの情熱を取り戻して、まったく恋に夢中になってしまった。
《たしかにあの女は天使のような良い心をもっている。それに、あんなにきれいな女はまたとあるまい》
役割を演じるという考えは、ほとんどまったくすててしまった。うちとけた瞬間には、自分の不安をさらけ出しさえした。この打明け話をされると、夫人の情熱はその頂点に達した。《では、あたしが羨《うらや》ましいと思った恋《こい》敵《がたき》などなかったのだわ》と思うと、レーナル夫人はたまらなくうれしくなった。思いきって、あれほど大事にしていた肖像画はだれだったのかときいた。ジュリヤンは男の肖像画だと断言した。
レーナル夫人も、反省するだけの落着きが残っているときは、こんな幸福がこの世にあるのに、自分は考えてもみなかったと思うと、自分ながら驚き呆《あき》れるのだった。
《十年前なら、あたしもまだきれいだといわれていた。ああ! あのころ、ジュリヤンを知っていたなら!》
ジュリヤンはこれとはまったく別の気持だった。その恋はなんとしても野心から出ている。それは女を手にいれたという喜びだった。しかも、自分は不幸で軽蔑《けいべつ》されどおしのあわれな男なのに、相手はあんなに身分が高くて美しい女なのだ。ジュリヤンが自分の女の美しさを目にして、これに感嘆し夢中になる様子を見て、しまいにはレーナル夫人も年の違いをあまり気にしなくなった。もっと文化の進んだ地方の三十女なら、とうの昔に世の中のことを知っているが、もし、夫人が多少とも世の中のことを心得ていたら、もの珍しさと自尊心の満足だけを糧《かて》としているような恋愛が、いつまでつづくかを考えて、慄然《りつぜん》としたにちがいない。
野心を忘れた瞬間のジュリヤンは、レーナル夫人の帽子や服までも、うっとりと眺《なが》めるのだった。そうした持ちものの香を嗅《か》ぐ喜びに飽くことを知らなかった。鏡付の衣裳《いしょう》戸《と》棚《だな》を開けてみては、幾時間も立ちつくして、そのなかのものの美しさや、きちんと並んでいるのに見とれている。女は寄りそって、男の姿に見入る。ジュリヤンのほうは、結婚の前日、籠《かご》を一杯にして贈ってくるあの宝石類や装飾品を眺めている。
《こんなひとと結婚することもできたのだ!ほんとに燃えるような心をもっている! このひとと一緒に暮せたら、どんなに楽しいことだろう!》レーナル夫人はときどきそんなふうに思った。
ジュリヤンとしては、こうした女のおそるべき攻撃の武器を、これほど近よって見たことは一度もなかった。《パリにだって、これ以上の美しいものがあるはずはない!》そう思うと、自分の幸福になに一つ不足がないように見える。女が心からほめたり、夢中になったりするのを見ると、しばしばくだらない理論など忘れてしまう。ジュリヤンがなれそめのころ、滑稽《こっけい》なくらい堅苦しい態度を見せたのも、この理論のせいなのだ。偽善が習性となっているにもかかわらず、自分を愛してくれるこの貴婦人には、こまごました作法をなにひとつ知らないことを打ち明けるのが、ひどく楽しいと思うときもあった。女の占めている地位が自分を高めてくれるような気がした。レーナル夫人のほうも、こうして、こまごましたことがらを教えるのに、この上もなく甘美な精神的快感を覚えた。なにしろ、相手は才能豊かな青年で、みんなからいつかは大いに出世するだろうと思われている。郡長やヴァルノ氏でさえ、ほめずにはおかないのだ。そんなことから、レーナル夫人には、このふたりがそれほどばかでもないと思えてきた。だが、デルヴィル夫人は、同じようにほめるどころではなかった。どうやら見ぬいたものの、もう手おくれだし、文字どおり理性をなくした女に、分別くさい忠告をしたところで、うるさく思われるばかりだと見てとって、わけもいわずに、ヴェルジーを去っていった。レーナル夫人のほうも、わけをきくのは差し控えた。いくらか涙はこぼしたが、まもなく、自分の幸福がましたように思えた。デルヴィル夫人がいなくなったおかげで、レーナル夫人はほとんど一日じゅう恋人と差向いでいられることになった。
ジュリヤンも、あまり長いあいだひとりきりでいると、例のフーケのいまいましい申し出が、やっぱり気になってくるだけに、恋人と楽しく語り合うのを好んだ。こうした新生活のはじめのころは、人を愛したこともないし、愛されたこともないジュリヤンは、真心を見せるのがひどく楽しくて、これまで自分の生活の中核にほかならなかった野心について、レーナル夫人に打ち明けてしまおうかと思うことがときどきあった。どういうわけか、フーケの申し出に心を惹《ひ》かれるので、夫人に相談してもいいのじゃないかと思ったが、ある小さな事件が起ったため、せっかくの率直な気持も消えてしまった。
第十七章 首席助役
おお、この恋の春は、なんと
四月の日の変りやすい輝きに似ていることか!
いま陽《ひ》が照り輝くかと思えば、
早くもすべては雲におおわれる!
『ヴェロナの二紳士』
ある夕方、日の沈むころ、果樹園の奥に、人目を避けて、恋人のそばに腰をおろし、ジュリヤンは深いもの思いに耽《ふけ》っていた。《こんな甘いときがいつまでも続くだろうか?》なんらかの地位を得ることのむずかしさばかりが思いやられ、貧乏なために、少年の終りから青年時代のはじめまでを台なしにしてしまう、あの大きな不幸がやりきれなかった。
「実際、ナポレオンという男は、若いフランス人のために、神さまからつかわされた人間だったのです。だれがこの男のかわりになれましょう? わたしより金持ではあっても、またまともな教育を受けるくらいの金はなんとかなるとしても、二十歳になってだれかを買収して出世をするほどには金をもたない不幸な連中は、ナポレオンがいなければ、どうにも仕方がないのです。なんとしたところで」といって、深い溜息《ためいき》をつき、「この思い出はどうにもなりません、そのために、わたしたちは永遠に幸福にはなれないでしょう!」
彼はふと、レーナル夫人が眉《まゆ》をひそめるのに気がついた。冷たい軽蔑的《けいべつてき》な態度だった。そういう考えかたは召使にふさわしいと、彼女には思われた。自分は大金持だという気持で育っただけに、当然ジュリヤンもやはり金持だという気がした。ジュリヤンを愛する気持からいえば、自分の生命《いのち》など問題ではないし、金のことなどは考えるまでもないことだった。
ジュリヤンにそうした気持がわかろうはずはない。相手が眉をひそめたので、わが身に立ちかえった。なんとか言葉を濁すくらいの頭は働くので、自分のそばの青草の上に腰をおろしている貴婦人には、これは親友の薪《たきぎ》商人のところへ行ったとき耳にしたことで、自分はその受売りをしたまでのこと、不信心な連中の考えそうなことです、と言いわけした。
「じゃ、そんな人たちとつきあわないでね」と、レーナル夫人はいったものの、今まで愛情にあふれた表情だったのが、急に氷のような冷たい態度になっただけに、その冷たさがぬぐいきれなかった。
眉をひそめられて、というより、自分の迂《う》濶《かつ》さがいまいましくて、いい気になっていたジュリヤンは、まず夢を破られた。《この女は親切だし、気もやさしいし、おれにはぞっこん惚《ほ》れているが、敵側の陣営で育った女だ。りっぱな教育は受けたが、いい地位につくだけの金をもたない、しっかりした連中の階級、敵のやつらはこれがとりわけこわいにちがいない。対等の武器をもって戦える機会がおれたちに与えられたら、やつら貴族どもはどうなることだろう! たとえば、このおれがヴェリエールの町長になったらどうだ。むろん考えはりっぱだし、誠意のある町長になるさ。もっとも、レーナルさんだって、考えてみればそうだな。おれなら助任司祭のやつや、ヴァルノ氏を容赦するものか。やつらの悪事を徹底的に弾劾《だんがい》してやるぞ! そうなりゃ、ヴェリエールじゅうに正義が行きわたるさ! 邪魔なのはやつらの才能じゃない。やつらのやり口など、いつでも確信はありゃしないんだ》
ジュリヤンの幸福は、この日、もうすこしのところで永続きするものになりえたのだが、彼には思いきってぶちまける勇気がなかった。戦闘を開始すること、それも即座《・・》に開始する勇気をもつべきだった。レーナル夫人はジュリヤンの言葉に驚いたのだった。というのも、こういう下層階級の青年はあまりにも教育がありすぎるので、またロベスピエールのような人間があらわれるかもしれないと、社交界の連中に聞かされていたからである。レーナル夫人の冷たい態度はかなり続いたし、ジュリヤンにはそれが意識的なものに思われた。だが、実際は、いやな話で気を悪くしたあとから、間接的に不愉快なことを相手にいったのではないかという不安におそわれたためなのだ。うるさい連中がいなくて気楽なときは、あれほど澄んだ純真な顔をしているのに、今はその顔もこうしたみじめな気持を反映していた。
ジュリヤンは気ままに夢想などしていられなくなった。冷静になると、恋心も薄れ、レーナル夫人と会うのに、その部屋まで出かけていくのは、迂濶なふるまいだと思った。彼女に来てもらったほうがいい。家のなかをうろうろするところを、召使に見つけられても、彼女ならどんなことをしようと、いくらでも言いわけがたつはずである。
だが、こういうふうに取りきめても、やはり、具合の悪いことがある。ジュリヤンは神学生であるところから、とうてい本屋に頼むことのできない本を、フーケにもらったのだった。それをゆっくり開けるのは夜だけである。これまでにしても、女がやってくるのだったら、来《こ》なくて中断されないほうがありがたいと再三思ったにちがいないし、また果樹園でちょっと問題を起した前の夜も、女が来るかもしれないと思ったら、本など読んではいられなかったろう。
レーナル夫人のおかげで、本の読み方がまったく違ってきた。いろいろと、くだらないことがらで、思いきって夫人にきいてみた。社交界で育たなかった青年は、どんなに天分があると仮定してみても、そういうことがらを知らないと、さっぱりものごとがわからなくなってしまう。
人一倍世間知らずな女から恋愛を伝授されたということは幸福だった。ジュリヤンは、今日あるがままの社会を、じかに見ることができるようになった。昔の、二千年前の、いやほんの六十年前の、ヴォルテールやルイ十五世時代の社会の話で、頭を悩まされることがなかった。なんとしてもうれしかったのは、目の前のヴェールがとれて、ヴェリエールの情勢がようやくわかったことである。
前面に浮び上がってきたのは、二年このかた、ブザンソンの知事をめぐって、はなはだ複雑な陰謀が企てられていることである。この後楯《うしろだて》は、パリからの、しかもお歴々直筆の手紙なのである。モワロ氏という、この地方きっての信心家を、ヴェリエールの次席助役ではなく、首席にすえようということだった。
競争相手は大金持の工場経営者で、どうにかしてこれに次席助役の椅子《いす》をおっつけなければならない。
この土地の上流社会の連中がレーナル氏邸へ晩餐《ばんさん》に来るおりに、ふと耳にした遠まわしな言葉の意味を、ジュリヤンはやっと理解できた。この特権階級の仲間は首席助役の人選に深い関心をはらっていたが、ほかの連中、とりわけ自由主義者たちは、そんな人選が実現できるとも思っていなかった。これが重大な問題になってきたのは、だれもが知っているのだが、ヴェリエールの大通りが国道になったため、その東側を九尺以上もひっこめなければならなくなったからである。
ところで、ひっこめるとなれば、モワロ氏にはその対象になる家が三軒ある。そこで、モワロ氏が運よく首席助役になり、さらに万一レーナル氏が代議士に選出され、そのあとをおそって町長にでもなれば、目をつぶってくれるだろうし、自分らとしては国道にはみ出した家にちょっと目だたぬ程度の手を加えれば、百年はもたせることができよう。モワロ氏は信仰深いし、誠実だといわれているが、なにしろ子だくさんだから、ものわかりはい《・・・・・・・》いはずだ《・・・・》と見ているのだ。ひっこめなければならない家のなかで、九軒はヴェリエールでも屈指の財産家のものである。
ジュリヤンには、この陰謀が、フォントノワの戦いの歴史より、ずっと重大に見えた。もっとも、フォントノワという名はフーケから送ってもらった本ではじめて知ったのだった。司祭のもとへ夜通いはじめてから、五年このかた、ジュリヤンが不審に思ったことはいろいろあるが、神学生は慎みと謙譲とをまず旨《むね》としなければならないので、いつまでたっても質問することはできなかった。
ある日、レーナル夫人は、夫のかかりの従《じゅう》僕《ぼく》に用事を言いつけた。この男はジュリヤンとは敵《かたき》同士だった。
「でも、奥さま、今日は月の最後の金曜日でございますから」と、この男は妙な顔をして答えた。
「行っておいで」とレーナル夫人は言った。
ジュリヤンがきいた。
「あ、そうか、もと教会だったあのまぐさの倉庫に行くんですね。最近また教会になったということですね。でも、どうして行くんですか? いまだにわたしにはいっこうわからないんですが」
「あれはなかなか有益な制度なんですの、でも一風変ってるわ。女人禁制なので、あたしにわかっているのは、あそこではお互いに対等の話しかたをするってことだけ。かりに、あの召使がヴァルノさんに会うとしましょう。すると、あのうぬぼれやのおばかさんが、サン = ジャンからお前と呼ばれても腹をたてないで、同じ調子で答えるんですって。あそこでどんなことが行われているのか、どうしても知りたいとおっしゃるのなら、モージロンさんやヴァルノさんにきいてあげましょう。召使ひとりに対して二十フランずつ払っているのよ、いつかあのひとたちに首をはねられるような時代がきても大丈夫なように」
時は矢のように過ぎた。恋人の美しさを偲《しの》ぶと、暗い野心のことなど消えてしまう。お互いに反対の党派に属している以上、理屈っぽいいやな話をするわけにはいかない。それで、しらずしらずのうちに、女から与えられる幸福がまし、また女の支配する力が強まっていった。
利口すぎる子供がそばにいて、冷やかな分別くさいことしか話せないときは、ジュリヤンは、情熱に目を輝かせながらも、ひどく神妙な態度で、世間の噂《うわさ》をする夫人の言葉に耳を傾けた。道路や納入品のことで、巧妙な悪事が行われているといった話の最中で、しばしばレーナル夫人は、ふいに、狂ったのかと思われるほど、気持を取り乱すことがあった。ジュリヤンが、やむをえず、たしなめたりすると、彼女は子供たちに向ってするような、なれなれしいしぐさをする。ジュリヤンをまるでわが子のようにかわいがっているような錯覚におちいることがよくあるからだった。育ちのいい子なら、十五にもなればわかっているはずの、簡単なことがらについて、いちいち、たわいもない質問をするジュリヤンに、答えてやらなければならなかった。そうかと思うと、すぐそのあとでは、まるで先生のような気がして、ジュリヤンに感心する。その頭のよさは、彼女を空おそろしく思わせるほどで、この若い聖職者を見ていると、将来大人物になることが、日ごとにますますはっきり認められるような気になる。法王になった姿や、リシュリューのような宰相になった姿を思い描いてみるのだった。
「あなたがりっぱな身分になるまで、あたしは生きていられるかしら。大人物には地位が待っていてくれますわ。宮廷も宗教界も、大人物を必要としているのですから」と、レーナル夫人はジュリヤンにいうのだった。
第十八章 国王ヴェリエールに赴く
諸君は、もはや息も血も通わぬ民衆の屍《しかばね》のように、
すてられるだけの取《と》り柄《え》しかないのか?
聖クレマン礼拝堂における司教の演説
九月三日、夜の十時に、ひとりの警官が大通りを馬で駆け上ってきて、ヴェリエールの町じゅうの眠りを覚ました。***国王陛下が次の日曜においでになるという知らせをもたらしたのである。火曜日だった。県知事は警護隊の編成を許可した。つまり要求したのである。できるかぎり、はなやかにしなければならない。急使がヴェルジーに送られた。レーナル氏はその夜のうちに帰ってきた。町じゅうが騒いでいる。それぞれ抱負があった。ごくひまな連中は、国王がお着きになるところを見ようというので、バルコニーを借りたりしている。
だれが警護隊の指揮をとるか? レーナル氏は、ひっこめる家の問題をうまく処理できるかどうかは、モワロ氏が指揮をとるか否《いな》かにかかっていると、すぐさま見てとった。それで首席助役の椅子《いす》につく資格ができるかもしれない。モワロ氏の信心ぶりに文句のあろうはずはない。ほかのものとは比較にならないくらいだ。だが、これまで一度も馬に乗ったことがない。年は三十六だが、徹底した臆《おく》病者《びょうもの》で、馬から落ちることも、もの笑いになるのもこわかったのである。
町長は、朝の五時というのに、モワロ氏を呼びつけた。
「いいかな、まともな連中は、こぞって、あなたを例の地位の候補者にしているのですから、もうあなたがなったものとみなして、ご意見をおききしたいのです。始末の悪いことに、この町は工業が盛んで、自由主義の党派が百万長者になり、権力を握ろうとしているから、どんなことでも政争の具にしかねない。国王のため、王政制度のため、いやなによりもまずわが神聖な宗教のためを考えてみるべきです。そこで、どうです、警護隊の指揮をまかせうるのはだれでしょうな?」
馬に乗るのは考えてもぞっとするが、モワロ氏は殉教者になる思いで、結局この名誉ある役目を承知した。「なんとか大過なくやってみましょう」と彼は町長にいった。七年前、さる親王のご通過のおりに着た制服の、手入れをさせる時間が、やっとあるかないかといったところだった。
七時に、レーナル夫人はジュリヤンと子供たちを連れて、ヴェルジーから帰ってきた。客間は自由主義者仲間の婦人たちでいっぱいだった。党派の合同を説き、自分らの夫を警護隊の一員に加えてくれるよう、町長に取り計らってくれと、夫人に頼みに来たのだ。なかには、自分の夫が選にもれたら、悲嘆のあまり破産してしまうだろうなどというのもいた。レーナル夫人は、すぐさまこの連中を追い返した。ひどく忙しそうだった。
ジュリヤンは、なにか気がかりなことがあるなとは思ったが、教えてくれないので、意外な気がしたし、またそれにもまして腹がたった。ジュリヤンは苦々しげにつぶやいた。《そんなことだろうと思っていた。国王を自分の家に迎えるとなったら、ありがたきしあわせだというんで、恋心なんかすっ飛んでしまうのだ。このお祭り騒ぎで目がくらんでいる。自己の階級を意識して、のぼせ上がっているが、それが冷めれば、またおれを愛するというのだろう》
意外にも、ジュリヤンは、このために、ますます夫人を愛するようになった。
室内装飾の職人たちが入れかわり立ちかわり出入りしはじめた。ジュリヤンは長いあいだ夫人に言葉をかける機会を狙《ねら》ったが、なかなかない。ふと、ほかならぬジュリヤンの部屋から、服を一着もちだすところを見つけた。ふたりきりだった。ジュリヤンは話しかけようとした。彼女は耳をかそうともしないで、逃げてしまった。――《こんな女を愛するなんて、おれはまったくばかだな。亭主《ていしゅ》も亭主なら、この女も女で、やっぱり光栄にあずかろうとしてのぼせ上がっている》
いや夫人のほうが亭主よりのぼせ上がっていた。ジュリヤンを怒らせるのが心配で、絶対に打ち明けようとはしなかったが、夫人の切なる望みは、一日でもいいから、例の陰気な黒服を脱がせてみたいということだった。これほど純真な女にしては、まことに鮮やかな腕前であるが、彼女はまずモワロ氏を、ついで郡長のモージロン氏を説き伏せて、ジュリヤンを警護隊員に任命することを承知させた。しかも、五、六人の青年、いずれもきわめて裕福な工場主の息子で、そのうちふたりはすくなくとも信心家の模範だったのだが、こういう青年たちをさしおいてのことなのである。ヴァルノ氏は自分の馬車を町で評判の別嬪《べっぴん》たちに貸して、ノルマンディー産の駿馬《しゅんめ》をほめてもらうつもりでいたが、その持ち馬の一頭をとりわけ憎らしくてならないジュリヤンに貸すことを承知した。だが、警護隊員は、いずれも、七年前に晴れの衣裳《いしょう》として使われた、大佐の銀モール肩章《けんしょう》が二つついた、空色のりっぱな服を、自分のものであるにせよ、借着にせよ、とにかくもっていた。レーナル夫人はどうしても新調の服がほしいと思ったが、ブザンソンに使いをやって、制服や武器や帽子など、警護隊員に必要ないっさいのものをもってこさせるのに、四日しか残っていない。おかしなことに、夫人は、ジュリヤンの制服をヴェリエールで仕立てさせるのを無謀だと思っていた。彼女は、ジュリヤンばかりか、町じゅうのものをびっくりさせてやりたかったのだ。
警護隊員と町民をあおりたてる問題のけりがつくと、町長は大がかりな宗教上の儀式の世話をしなければならなかった。***国王はヴェリエールに立ち寄る以上、聖クレマンの名高い遺骨を参拝したいというご意向なのである。これは町から一里ばかり離れたブレー = ル = オーに安置されている。数多くの聖職者をかり集める必要があるが、それはことのほかむずかしく、うまく運ばない。新任のマスロン神父は、なんとしてもシェラン神父を列席させまいとした。レーナル氏は、それは無謀ではないかと注意してみたが、相手はききいれない。ラ・モール侯爵《こうしゃく》が、先祖代々、長いあいだこの地方の代官をつとめていたので、***国王の供奉《ぐぶ》を命じられていた。侯爵は三十年このかたシェラン神父と知合いだった。ヴェリエールに来れば、むろん神父の消息をたずねるだろうし、不遇だと知れば、できるだけ多くのお供を連れて、神父の隠居している小さな家まで会いに行くにきまっている。それでは面目丸つぶれだ!
「あの男がわたしたち聖職者の仲間に加わったら、わたしは当地でもブザンソンでも、いい恥さらしになります。あんなジャンセニストはごめんです!」とマスロン神父は答えた。
レーナル氏は言葉を返した。
「あなたがなんとおっしゃろうと、ヴェリエールの行政はわたしのすることです。ラ・モール侯爵に侮辱されるような立場にはなりたくない。あなたは侯爵をご存じない。宮廷ではおとなしくしているでしょうが、この町のような田舎に来ると、たちの悪い皮肉な冗談をいって、ひとをばかにし、みんなを困らせることばかり考えるのです。単におもしろ半分なのか、自由主義者どもの面前で、われわれを笑いものにしかねないひとなのです」
三日間話し合ったすえ、土曜から日曜にかけての夜になって、やっとマスロン神父の自尊心は、町長のおそれに屈服した。おそれが変じて強気となったからである。シェラン神父にはお世辞を連ねて手紙を書き、ご高齢ご健康にお差《さ》し支《つか》えがなければ、ブレー = ル = オーの遺骨の儀式にご参列くださるようにと頼まなければならなかった。シェラン神父は副助祭の資格で連れていくつもりだからといって、ジュリヤンのためにも招待状を求め、それを手にいれた。
日曜の朝になると、早くも近くの山々から数千の百姓たちが、ヴェリエールの通りへどっと押し寄せた。上天気だった。やっと、三時ごろになって、この群衆がざわめきだした。ヴェリエールから二里離れた岩山で、大きな狼火《のろし》が上がるのが見えたからである。これは、国王が当県に今はいられたことを知らせる合図だった。たちまちこの大事件の喜びを告げるかのように、方々の鐘が鳴り出し、町の所有する古いスペインの大砲がつづいて発射された。住民の半ばは屋根に上った。女はいずれもバルコニーに出ていた。警護隊が行進を起した。はなやかな制服に人々は感嘆の声をはなった。だれもがそれぞれ、自分の身寄りなり、友達なりを、そのなかに認めた。人々は、たえずびくびくして鞍《くら》の前輪をつかもうとする臆病なモワロ氏の姿を冷やかした。だが、あることに気がつくと、ほかのことはすっかり忘れてしまった。第九列の先頭の乗手は、すらりとした、すごい美少年だったが、それがだれだかはじめはわからなかった。まもなく、怒鳴るものがあるかと思えば、あっけにとられて固《かた》唾《ず》をのむものもあり、あきらかにだれもが衝撃を受けたらしい。ヴァルノ氏のノルマンディー産の馬にまたがったこの若者が、ソレルのせがれ、材木屋の息子だとわかったからである。町長を非難する声ばかりだった。とりわけ、自由主義者がそうだった。なんたることか! 坊《ぼう》主《ず》に化けたこの職人の小せがれめが、自分の子供の家庭教師だからというので、金持の工場主のだれそれさんをさしおいて、よくもあんな男を警護隊に加えることができたものだ!「どこの馬の骨だかわかったものではありません。こんな生意気な小僧っ子には、みなさんがたんと赤恥をかかせてやるのがいいのです」という銀行家の夫人もいた。「あいつは陰険なやつですし、サーベルをぶらさげてますぜ。油断はなりませんぞ、相手の顔に切りつけるぐらいのことはしかねませんからな」
貴族仲間はさらにはげしい言葉を用いた。貴婦人たちは、こんな無礼きわまるふるまいが、町長の一存でおこなわれるだろうかといい合った。町長が素姓の卑《いや》しさを軽蔑《けいべつ》している点は、一般に評判がよかったのである。
こうして、いろいろ話題になっているのに、ジュリヤンのほうは、このとき、世にも幸福な人間だった。生来大胆なだけに、この山間《やまあい》の町の大部分の青年たちよりも上手に、馬を乗りこなしていた。女たちの目つきから、自分が噂《うわさ》の種になっているのを見てとった。
肩章は新調しただけに、ほかのものとは光が違う。馬がたえず後脚で立ち上がる。彼は得意の絶頂だった。
彼は限りなく幸福だった。そのとき、ちょうど、古い城壁のそばを通りがかると、小さな大砲の音がして、馬が列外に飛び出した。さいわい落馬は免《まぬか》れた。その瞬間から彼は自分が英雄になった気がした。ナポレオンの伝令将校で、砲兵中隊に装填《そうてん》を命じているところだと想像してみた。
彼よりも幸福なひとがいた。はじめは町役場の窓から、ジュリヤンの通りがかるのを見ていたが、それから馬車に乗ると、急いで大《だい》迂《う》回《かい》をして、ちょうどジュリヤンの馬が列外に飛び出したところに行き合わせ、はっと胸をつかれた。今度はもうひとつの城門から、全速力で馬車を駆け抜けさせ、国王がご通過になる道筋に出て、おそれ多い砂ぼこりを浴びながら、警護隊の二十歩ばかりあとから、ついていくことができた。町長が恐懼《きょうく》して奉迎の辞を献《ささ》げると、沿道を埋めた百姓たちが、「国王万歳!」と叫んだ。それから一時間後に、すべての式辞を聞こしめされた国王が、町にはいろうとなさると、小さな大砲がふたたび立てつづけにとどろきはじめた。だが、このとき事件が起った。ひき起したのは、ライプツィッヒやモンミライユで手《て》柄《がら》をたてた砲手たちではなく、未来の首席助役モワロ氏だった。乗っていた馬が大通りにある、たったひとつのぬかるみへ、そっとモワロ氏を落したのだ。大騒ぎとなった。国王の馬車が通れるよう、モワロ氏を引っぱり上げなければならなかったからである。
陛下は、この日、真紅のとばりを張りめぐらした、新築のりっぱな教会の前で、お降りになった。ご昼食をなさると、ただちにまた馬車を召され、聖クレマンの有名な遺骨に参拝なさる予定だった。国王が教会におはいりになったと思うと、ジュリヤンはレーナル氏邸へ馬を飛ばした。帰ると、溜息《ためいき》をつきながら、そのりっぱな空色の服を脱ぎ、サーベルも肩章もはずし、すりきれたふだんの黒服に着かえた。馬に乗り直して、まもなく、すばらしく眺《なが》めの美しい丘の頂上にある、ブレー = ル = オーに着いた。《なにしろ感激的な事件だからな、百姓の数がふえるのもあたりまえだ。ヴェリエールじゃ身動きできないし、ここはここで、この古い修道院のまわりにいるのは一万じゃきかない》この修道院は大革命時代の蛮行で半ば廃墟《はいきょ》になったが、王政復古以来りっぱに復旧され、奇《き》蹟《せき》を口にするものが出てきた。ジュリヤンはシェラン神父と落ち合った。神父はジュリヤンを叱《しか》りつけてから、法《ほう》衣《え》と白い袈裟《けさ》とを渡した。ジュリヤンは大急ぎでそれを着ると、若いアグドの司教のもとへ行くシェラン神父のあとに従った。この司教はラ・モール氏の甥《おい》で、最近任命されたところで、国王に遺骨をお見せする役目を引き受けていた。ところが、この司教が姿をあらわさない。
聖職者たちはやきもきしながら、この古い修道院の薄暗いゴチック様式の回廊で、この指揮者を待っている。一七八九年以前は二十四名の司教会員をもって組織されていた、ブレー = ル = オー聖職者委員会を再現するために、二十四名の司祭が集められていた。司祭たちは、司教が若いのなんのとこぼしていたが、四十五分たつと、司祭頭《がしら》に司教猊《げい》下《か》の部屋に行ってもらい、まもなく国王がお着きになるから、内陣に出てもよいころですと知らせたほうがよかろうと考えた。シェラン神父が高齢なので司祭頭に選ばれた。ジュリヤンに腹をたててはいたものの、シェラン神父はついてこいと合図した。ジュリヤンはなかなか上手に白い袈裟を着こなしていた。聖職者仲間の特別な化粧法によるのだろうが、美しい捲《まき》毛《げ》の髪をぺったり撫《な》でつけている。だが、うっかりして、その長い法衣のひだの下から警護隊員の拍車がのぞいているのを忘れていたため、ますますシェラン神父を怒らせてしまった。
司教の部屋に行ってみると、きらびやかな仕着せを着た従僕《じゅうぼく》たちが、老神父に向って、猊下はお会いにならぬと無愛想に答えた。神父は由緒《ゆいしょ》あるブレー = ル = オーの聖職者委員会の司祭頭の資格で、いつでも祭典係の司教にはお会いできる特権をもっているのだと説明しようとしたが、問題にされない。
ジュリヤンは自尊心が強いから、この従僕どもの無礼な態度に腹をたてた。この古い修道院の共同寝室をかけまわって、扉《とびら》を片っぱしから押してみた。やっとごく小さな扉を開けることができた。その小部屋にはいると、黒服に金鎖を頸《くび》につけた、猊下の従僕たちが控えている。ジュリヤンのせわしげな様子に、この連中は司教から呼ばれたのかと思い、通してくれた。五、六歩進むと、ひどく暗いゴチック様式の大広間に出た。黒かし《・・》で張りつめられている。尖《とが》ったアーチ形の窓は、ただ一つを除いて、煉《れん》瓦《が》でふさいである。不《ふ》手《て》際《ぎわ》な仕事のままで、それが昔の見事な板張りとみすぼらしい対比を見せている。この広間はシャルル豪胆公が、一四七〇年ごろ、罪ほろぼしのために建てさせたもので、ブールゴーニュの好古家仲間のあいだでは、名を知られている。広々した両側の壁ぎわは、手のこんだ彫刻のある聖職者席になっている。そこには黙示録のあらゆる神秘的な情景が、さまざまな色の木で描かれている。
むきだしの煉瓦と、塗ってまもない真っ白な漆喰《しっくい》が目ざわりなだけに、この陰気な荘厳《そうごん》さが、ジュリヤンの心をうった。彼は無言のまま立ちどまった。見ると、広間の向うのはしの、明りのさしこむただ一つの窓の近くに、マホガニーの自在鏡がある。なにも被《かぶ》っていないが、紫衣にレースの白い袈裟をつけた若い男が、鏡の三歩ばかり手前に立っている。この家具がこんな場所にあるのは妙な感じで、おそらく町から運んできたのにちがいない。ジュリヤンは、この若い男がいらいらしているらしいと思った。鏡に向い、右手をあげて、まじめくさった顔で、祝福を与えている。
《これはなんのまねなのだろう? この若い神父は儀式の準備をしているのかな? おそらく司教の秘書だろう。……さっきの従僕どもみたいに生意気なやつだろうが。……なに、かまうもんか、あたってみよう》
彼は相変らずただ一つの窓のほうを見つめたまま、この若い男を眺めながら歩き出し、かなりゆっくりと、この広間を横切って、奥まで行った。若い男はゆっくりと、だがなんどもくり返して、すこしも休まず、祝福をくり返している。
近よるにつれて、その若い男の腹だたしげな様子がますますはっきりしてきた。豪華な、レースのついた白い袈裟を見て、ジュリヤンは思わず大きな鏡の数歩手前で足をとめた。
《話しかけるのがおれの義務だ》とは思ったが、この広間のりっぱなのに驚いていたし、どうせひどいことをいわれると思うと、はじめから気まずい思いがした。
若い男は鏡に映るジュリヤンの姿に気がつくと、振り返った。たちまち不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな顔が消えて、ひどくやさしい言葉つきで、
「どうです、やっとうまく直りましたか?」
ジュリヤンはあっけにとられてしまった。この若い男が振り返ったとき、ジュリヤンはその胸の十字架を見てわかったのだ。アグドの司教だった。《こんなに若いのか! おれよりせいぜい六つか七つしか上じゃない!……》
拍車のことがはずかしくなった。
「猊下、わたくしは聖職者委員会長シェラン神父のお使いで参りました」とジュリヤンはおずおずしながらいった。
「そうですか、あのかたのことは存じております、なかなか評判のよろしいおかたで」と、司教は丁寧に答えた。ジュリヤンはますます好感を覚えた。「いや、失礼しました。冠が届くはずになっていますので、もってこられたのかと思ったのです。パリで荷造りをうまくしなかったとみえて、上のところの銀糸織がひどくいたみましてね。あんまりみっともないと思ったもので」と情けなさそうな顔で、「ところが、まだもってきてくれないのです!」
「猊下、よろしければ、わたくしが冠をとってまいりましょう」
ジュリヤンの美しい目が効いた。
「お願いします」と、司教は愛《あい》想《そ》よく丁寧に答えた。「すぐいるのです。聖職者委員会のみなさんをお待たせして、恐縮に思っているのです」
ジュリヤンは広間の中央まで来ると、振り返ってみた。司教はまた祝福のまねをはじめていた。《なにしてるのだろう? きっと、これからおこなわれる儀式に必要な、宗教上の下準備にちがいない》従僕たちの控えている小部屋まで来た。見ると、冠はその連中が手にしている。みんなは、つい、ジュリヤンのけわしいまなざしに押されて、猊下の冠を渡した。
ジュリヤンはそれをもっていくことに誇りを感じた。広間を横切るときも、ゆっくり歩いた。うやうやしく冠を捧《ささ》げていく。司教は鏡の前で腰をおろしている。だが、ときどき、疲れているらしいのに、右手をあげて、相変らず祝福のまねをしている。ジュリヤンは冠をかぶるのを手伝った。司教は首を動かしてみた。
「うむ! これなら大丈夫でしょう」と、ジュリヤンのほうを向いて、満足げにいった。「すこし離れて見てくれませんか?」
そういって、司教は急ぎ足で部屋の中央まで行き、今度はゆっくりした足どりで鏡のほうへ戻《もど》ってきながら、また腹だたしげな様子に返って、まじめな顔で祝福のまねをはじめ
た。
ジュリヤンは驚いたまま、立ちつくしていた。なんのまねかと考えてはみたが、思い当らなかった。司教は立ちどまって、ジュリヤンのほうを見ると、たちまちそのきまじめな表情をすてて、
「どうですか、冠は? 似合いますか?」
「たいへんよくお似合いです、猊下」
「あみだではありませんか? そうだと、なんとなく間が抜けて見えますからね。といって、将校の帽子みたいに、目《ま》深《ぶか》にかぶるわけにもいきませんし」
「たいへんよくお似合いだと思います」
「***国王陛下は、身分の高い、しかも押し出しのりっぱな司教を見なれていらっしゃる。わたしはなにしろ年が若いので、あまり軽々しい様子は見せたくないのです」
そういって、司教はまた祝福のまねをしながら、歩きだした。
《間違いない。祝福を与える練習なのだ》やっとジュリヤンにはわかった。
しばらくすると、司教がいった。
「用意はできました。委員長と委員会のみなさんに、そうお伝えください」
やがて、シェラン神父は年長の司祭二人を従えて、見事な彫りのある大扉からはいってきた。ジュリヤンはさきほどこの扉には気がつかなかったのである。だが、今度はみんなの列のいちばんあとについてきたので、この扉のところでひしめきあう司祭たちの肩ごしに、司教の姿を眺めただけだった。
司教はゆっくり広間を横切った。しきいのところまで来ると、司祭たちは行列を作った。すこしごたごたしたが、やがて行列は讃《さん》歌《か》を唱えながら歩き出した。司教は、シェラン神父と、もうひとりのひどく年をとった司祭のあいだに挾《はさ》まれて、いちばんうしろから進んでいった。ジュリヤンはシェラン神父のつきそいとして、猊下のごくそばにうまくまぎれこんだ。ブレー = ル = オー修道院の長い廊下を渡っていくと、陽《ひ》は照りつけているのに、廊下は薄暗くて湿っぽかった。やがて回廊の柱の並んだところへ出た。ジュリヤンは儀式があまりにもりっぱなので、すっかり感心してしまった。司教の若さによびさまされた野心と、司教の繊細な感性と、ものやわらかな丁重さが、ジュリヤンの心をかわるがわるとらえた。あの丁重さは、機嫌のいいときのレーナル氏の丁重さとはまったく違ったものだった。《社会の上層に近づけば近づくほど、こういう気持のいい態度に接することができるのだ》と、ジュリヤンは思った。
横の入口から教会にはいると、突然ものすごい音が古い円天井《まるてんじょう》に響き渡った。ジュリヤンは天井がくずれたのかと思った。やっぱり小さな大砲の音だった。八頭の馬を走らせて大砲をひっぱってきたところだった。着いたかと思うと、ライプツィッヒの砲手たちは、たちまち発射準備を整え、目前にプロシャ軍でもいるつもりで、一分間に五発ずつ射《う》ちはじめたのだ。
だが、このすばらしい砲声も、もはやジュリヤンの心をうたなかった。ナポレオンのことも武勲のことも、もはや念頭になかった。《あんなに若くて、アグドの司教なのだ! だが、アグドってどこだろう? 収入はいくらになるのかな? 多分二、三十万フランだろう》
猊下の従僕たちが豪華な天蓋《てんがい》を支えながらあらわれた。シェラン神父がその柄《え》のひとつをもったが、実際それを支えたのはジュリヤンだった。司教はその下にはいった。年寄りになりすましたところは、じつに鮮やかだった。ジュリヤンはつくづく感心してしまった。《こうも器用にやれるものか!》
国王が入御《にゅうぎょ》された。さいわいにも、ジュリヤンはおそば近く拝することができた。司教は感動をこめて、奉迎の辞を述べたが、陛下に対する儀礼的な意味から、恐懼の気持をその言葉に盛ることを忘れなかった。
ブレー = ル = オーの式典をくり返して描写することはよそう。二週間のあいだ、県下のどの新聞もその記事で埋められたのである。ジュリヤンは、司教の演説から、国王がシャルル豪胆公の末裔《まつえい》であることを知った。
あとになってからのことだが、ジュリヤンは、この式典にかかった費用の清算をする役目を命じられた。ラ・モール氏が、甥を司教職につけたところから、費用の全額を負担して、甥に花をもたせてやったのだった。ブレー = ル = オーの式典だけで、三千八百フランかかった。
司教の演説とこれに対する国王のお言葉がすむと、陛下は天蓋の下にはいられ、ついで、祭壇のそばのクッションの上に、いかにも信心深いご様子でひざまずかれた。内陣の周囲は聖職者席で、しかもその聖職者席は床より二段高くなっている。ジュリヤンはその下段に腰をおろし、シェラン神父の足もとに控えていたが、その姿は、ちょうどローマのシスティーナ礼拝堂で、枢《すう》機《き》卿《けい》につきそうお裾《すそ》もちのようだった。讃美歌『主よ、なんじをた《テ・デウ》たえる《ム》』が歌われ、香はたちこめ、小銃と大砲がひっきりなしに射たれた。百姓たちは幸福に酔い、信仰の念を新たにした。このような銘記すべき事件は、急進革命派の新聞百号分の仕事をぶちこわしにするものである。
ジュリヤンは国王の六歩手前にいた。国王は一心に祈りを捧げておられた。ジュリヤンはそのときはじめて、才ばしった目つきの小男に気がついた。ほとんど刺繍《ししゅう》のない服を着ている。だが、その簡素な服の上から、青綬《コルドン・》章《ブルー》をかけているし、またほかの大勢の高官たちより、ずっと国王のおそば近くにいる。ほかの高官たちの服は、金の刺繍がやたらにほどこされていて、ジュリヤンの言葉を使えば、服地が見えないくらいだった。しばらくして、この小男がラ・モール氏だと教えられた。ジュリヤンにはその顔つきが、高慢であるばかりか不《ふ》遜《そん》であるとさえ思えた。
《この侯爵はあの感じのいい司教みたいに丁寧ではあるまい。まったく、聖職というものは人間を穏やかにするし、おとなしくするものだな! それはそうと、国王は遺骨の参拝に来《こ》られたわけだが、遺骨なんかないじゃないか。どこに聖クレマンがいるのだろう?》
隣にいた聖歌隊の少年が、尊いご遺骨はこの建物の上部の灯明の間《シャペル・アルダント》に安置されているのだと教えてくれた。
《灯明の間ってなんだろう?》
だが、ジュリヤンはこの言葉を説明してもらおうとはしなかった。ますます緊張して、あたりを見まわした。
君主が参拝されるおりには、司教会員は司教についていかないならわしになっていた。だが、アグドの司教は灯明の間のほうへ歩きだすとき、シェラン神父を呼んだ。ジュリヤンは思いきって、そのあとにつづいた。
長い階段を登りきると、扉の前に出た。ひどく小さな扉だが、そのゴチック様式の縁飾りは豪華な金泥《きんでい》で、前の日に塗られたばかりのように思われた。
扉の前には、ヴェリエールきっての名家に属する二十四人の処女が、一団となってひざまずいている。扉を開ける前に、司教は、これらの粒ぞろいの美女のまんなかでひざまずいた。司教が声高に祈りを捧げるあいだ、令嬢たちはその美しいレース、優雅な姿、いかにも若々しくてものやわらかな顔を飽かずに眺めていた。この光景に、ジュリヤンは、わずかに保っていた理性さえ失ってしまった。この瞬間なら、あの宗教裁判所のために、喜んで戦ったかもしれない。突然、扉が開いた。小さな礼拝堂は、まるで灯明で燃え上がっているように見えた。祭壇にあがっている蝋燭《ろうそく》は千本以上もあろうか、それが八列に並べられ、列のあいだに花束が置かれている。清純な香の妙《たえ》なる薫《かお》りが、この聖殿の入口から渦《うず》をまいて流れてくる。新しく金色に塗られたこの礼拝堂は、ごく小さいが、天井はひどく高かった。ジュリヤンは、高さが十五尺以上もある蝋燭が、祭壇に上がっているのに気がついた。処女たちは思わず感嘆の声をあげた。礼拝堂の小さな控え間には、この二十四人の処女と二人の司祭と、ジュリヤンだけしか、はいることを許されなかった。
まもなく、ラ・モール侯爵と侍従長だけを従えて、国王がおはいりになった。近《この》衛《え》兵《へい》さえ、外でひざまずいて、捧《ささ》げ銃《つつ》をしていた。
陛下は祈《き》祷台《とうだい》にひざまずかれたというよりは、むしろさっとひれ伏すようなしぐさをされた。そのときになってはじめて、ジュリヤンは金泥の扉にぴったり身を寄せながら、ひとりの処女の露《あら》わな腕の下から、聖クレマンの美しい像をのぞくことができた。若い古代のローマ兵士の服装をして、祭壇の下に隠されていた。頸筋に大きな傷口があり、そこから血がにじみ出ているように思われる。作者は実力以上の効果をあげているのだ。臨終の目だが、いかにも優美で、半ば閉じられている。生えかけの髭《ひげ》が美しい口もとを飾り、その口は半ば閉じられてはいるが、なお祈りを続けているように思われた。この姿を見て、ジュリヤンの隣にいる娘が、はらはらと涙を流した。その涙の一滴がジュリヤンの手に落ちた。
深い静寂に包まれている。これをやぶるものは、十里四方の村々からかすかに聞えてくる鐘の音ばかりだった。その静寂のうちに、アグドの司教は一瞬の祈りをすませると、国王に発言のお許しを乞《こ》うた。その短い演説はきわめて感動的で、終りの言葉は簡潔なだけに、いっそう効果をあげた。
「若い信徒のみなさん、ごらんになられたとおり、この地上で最も偉大な国王のおひとりが、あの全能にして、おそれ多き神の下僕《しもべ》の前に、ひざまずかれたのです。このことをけっしてお忘れにならないように。聖クレマンの今なお血のしたたるお傷を拝まれておわかりになったことと思いますが、この神の下僕らはこの世においては力も弱く、迫害を受け、殺害されました。しかし、天国に行って勝利を得たのです。若い信徒のみなさん、あなたがたは、いつまでも、今日のこの日を思い起して、不信心を憎んでくださるでしょうね?まことに偉大にして、まことにおそれ多き、まことに慈悲深きこの神に、いつまでも仕えなければいけません」
そういい終ると、司教は威厳を示しながら立ち上がった。
「誓ってくれますね?」と、司教は神の啓示を受けたように、片手をさしのべながらいっ
た。
「お誓いいたします」と、処女たちは涙にかきくれながら答えた。
「おそれ多い神の御名《みな》において、みなさんの誓いをお受けします」と、司教は朗々たる声でつけ加えた。これで式は終った。
国王でさえも涙を流された。ジュリヤンが冷静になって、ローマからブールゴーニュ家のフィリップ善良公に送られた聖クレマンの遺骨は、どこにあるのかときけるようになったのは、ずっとあとのことだった。遺骨はあの美しい蝋細《ろうざい》工《く》の顔のなかに安置してあると教えられた。
陛下は礼拝堂までお供してきた令嬢たちに、「不信心を憎み、永遠に神をたたえよ」という文字が刺繍されている赤いリボンをつけることを許された。
ラ・モール氏は百姓に一万本の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》をふるまった。その夜、ヴェリエールでは、自由主義者仲間は、王党派より百倍も提灯《ちょうちん》をつけていい理由を見つけた。ご出発に先立って、国王がモワロ氏を見舞われたからである。
第十九章 物思いは悩みのもと
日々の事件のおかしさがまことの恋の不幸を隠してくれる。
バルナーヴ
ラ・モール氏が使っていた部屋に、ふだんの家具類をいれ直しているとき、ジュリヤンはふと一枚の紙きれを見つけた。ひどく丈夫な紙で、四つに折ってある。表の下のところにはこう書いてあった。
「貴族院議員、勲五等、云々《うんぬん》、ラ・モール侯爵《こうしゃく》閣下」
悪筆の大きな字体で書かれた請願書だった。
「侯爵閣下
小生はこれまで神の教えをひたすら守ってまいりました。今だに忘れえぬあの呪《のろ》わしき九十三年の包囲の際には、リヨンにおいて、砲弾に身をさらしたのでございます。聖体拝受はいつもいたしておりますし、毎日曜には教区の教会のミサに通っております。今だに忘れえぬあの呪わしき九十三年の年でさえ、けっして復活祭のおつとめを欠かさなかったのでございます。大革命前は、召使を幾人か使っておりましたが、小生の料理女は、金曜ごとに精進《しょうじん》料理を作っております。小生は、ヴェリエールにおいて、大方の尊敬を受けておりますが、それもあるいは当然かとあえて思っております。お祭りの行列のおりは、司祭殿、町長殿と並んで、天蓋《てんがい》の下を歩きます。大祭のときには、大蝋燭《だいろうそく》を寄進いたします。以上のことにつきましては、パリの大蔵省に証書が残っております。なにとぞヴェリエール宝《たから》籤《くじ》事務所長の職をお与えくださいますよう、侯爵閣下にお願い申し上げる次第でございます。現所長は大病でございますうえに、選挙のおり、不正がございましたので、この職は早晩なんらかの形で必ず空席となるはずでございます、云々。ド・ショラン」
この請願書のはじには「ド・モワロ」と署名した添書《そえがき》があり、こういう書き出しだった。
「この請願をいたします善良な人物につきましては、作日《・・》お話し申し上げたとおりでございますが」云々。
《なるほど、ショランの間抜け野郎までが、取るべき道を教えてくれるわけか》と、ジュリヤンはつぶやいた。
***国王のヴェリエールご通過のあと一週間は、ありもしない噂《うわさ》や、ばかげた臆測《おくそく》や、滑稽《こっけい》な議論がひっきりなしにおこなわれ、国王も、アグドの司教も、ラ・モール侯爵も、一万本の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》も、気の毒なモワロの落馬のことも(モワロは勲章をあてにして、落馬してからひと月閉じこもっていたのだが)、次々に話題にされたが、それらの噂にもまして取《とり》沙汰《ざた》されたのは、材木屋のせがれジュリヤン・ソレルを警護隊員に抜擢《・・》したというはなはだけしからぬ不敬事件だった。この点については、朝夕カフェで、声をからして平等を唱えているくせに、富裕な更《さら》紗《さ》業者のいい分がふるっている。あの気位の高いレーナル夫人が、こんな不祥事をひき起したんだ。その理由かい? あの小《こ》坊《ぼう》主《ず》のソレルの、きれいな目と、つやつやした頬《ほ》っぺたを見りゃ、あとはいわなくてもわかるじゃないか。
ヴェルジーに帰ってまもなく、いちばん年下のスタニスラス = グザヴィエが熱を出した。レーナル夫人は急にはげしい後悔におそわれた。自分の恋に対する自責の念がこびりついて離れないのは、これがはじめてだった。自分がいかに大きな過ちを犯してしまったかが、まるで奇《き》蹟的《せきてき》に、はっきりわかったような気がした。信心深い性質ではあったが、これまでは、自分の犯した罪が神の目にどれほど大きく映るかなどということは、考えてもみなかった。
むかし、聖心修道院にいたころは、ひたすら神を愛していただけに、今となってはひたすら神をおそれた。その畏怖《いふ》の気持にはまったく理性的なところがないだけに、胸をかきむしる苦悩は、いっそうたえがたかった。ジュリヤンは、すこしでもいいきかせようとすると、それが相手の気を鎮《しず》めるどころか、いらだたせるばかりなのに気づいた。彼女はそれを地獄の言葉としか受け取らなかった。しかしジュリヤン自身も、小さなスタニスラスが大好きだったから、その病状の話でもするほうがずっとよかったのだ。まもなく病状は悪化した。そうなると、後悔に責められどおしで、彼女は眠ることさえできなくなった。頑《がん》固《こ》に黙りこんでしまって、口をきこうともしなくなった。もし口を開けば、それは自分の罪を神と世間のひとたちに告白することになったろう。
ふたりきりになると、ジュリヤンはいうのだった。
「お願いですから、だれにもおっしゃらないように。悩みが打ち明けたいなら、相手はわたしだけにしておいてください。まだわたしを愛していてくださるなら、ひとにはしゃべらないように。ひとにしゃべったところで、かわいいスタニスラスさんの熱がひくわけのものではありませんから」
だが、いくら慰めてみても、いっこうにききめはなかった。ジュリヤンにはわからなかったが、嫉《しっ》妬《と》深《ぶか》い神の怒りを鎮めるには、ジュリヤンを憎むか、子供を見殺しにするかのどちらかだと、レーナル夫人はきめこんでいた。恋人を憎むことなどできそうにもないと、自分でもわかっていたからこそ、彼女はこんなみじめな思いになったのだ。
ある日、彼女はジュリヤンにいった。
「あたしから離れてください。後生だから、この家を出ていって! あなたがここにいらっしゃれば、あの子はきっと死んでしまいます」
それから声を落して、つけ加えた。
「神さまの罰が当ったのです。神さまは正しいし、あたしは神さまの公平な裁きを、喜んでお受けします。おそろしい罪を犯しながら、後悔もしないで、よくも暮してこられたと思いますわ! それが神さまから見放された第一の証拠でしたし、あたしは二重の罰を受けなければならないのですわ」
ジュリヤンは深く心を打たれた。その言葉には偽善も誇張もなかった。《おれを愛していれば、自分の子供を殺すことになると思っている。それでいて、かわいそうに、自分の子供より、おれのほうがかわいいのだ。それだからこそ、後悔で寿命が縮む思いをしているのだ。そうに違いない。だからこそ、見上げた気持になれるのだ。だが、このおれが、どうしてこれほどまでに、恋心を起させることができたのだろう? おれはまったくの貧乏もので、ろくな育ち方をしてないし、まったくものは知らず、ときにはひどく下品なふるまいさえするのに》
ある夜、子供が重態におちいった。朝の二時ごろレーナル氏が様子を見にきた。子供は熱にうかされて真っ赤な顔をし、父親がわからないほどだった。突然、レーナル夫人が夫の足下に身を投げかけた。ジュリヤンはなにもかも打ち明けて、永久に取返しのつかない羽目になるなと思った。
さいわい、この妙なしぐさをうるさがって、
「もう、お休み! お休み!」といいながら、レーナル氏は出ていこうとした。
夫の前にひざまずいていた夫人はとりすがって叫んだ。
「いいえ、聞いてください。なにもかもほんとのことを申し上げます。この子が死んだら、あたしのせいなのです。あたしはこの子を産んでおきながら、その生命《いのち》を取り上げようとしているのです。天罰があたったのです。神さまから見れば、あたしは人殺しの罪を犯したことになるのです。あたしは進んで自分の身を滅ぼし、自分を辱《はずか》しめなくてはなりません。それだけの犠牲をはらえば、おそらく神さまのお怒りを鎮めることができるでしょう」
レーナル氏が頭の働く人間だったら、なにもかも見ぬいたはずである。
彼は自分の膝《ひざ》に取りすがる夫人を払いのけながら、
「なんでそんな小説じみたことを考えるんだ! そんなことは小説じみた考えさ! ジュリヤンさん、明け方になったら、医者を呼びにやってくれたまえ」
と、いいすてて、寝室へ引き取った。レーナル夫人は半ば気を失ってがくりとなったが、ジュリヤンが助け起そうとすると、痙攣的《けいれんてき》に身をふるわせながら、はらいのけた。
ジュリヤンは驚いてしまった。
《これが姦通《かんつう》というものなのか!……あの悪《あく》辣《らつ》な坊主どものいうことが、……正しいなんてことがあろうか? さんざん罪を犯しておきながら、やつらにほんとうの罪の道理を知る特権があるというのか? そんなむちゃな話があるものか!……》
レーナル氏が引き取ってから二十分ばかり、ジュリヤンは、愛する女が、子供の小さなベッドに頭をあてて、ほとんど意識を失ったまま、じっとしている姿を見守っていた。《これが、人なみすぐれた心がけをもちながら、おれに恋したばっかりに、不幸のどん底につき落された女の姿なのだ》
《時はどんどんたつ。この女のためにどうすればいいんだ? なんとか腹をきめなけりゃならない。この場合もうおれは問題じゃない。世間のやつらや、そのくだらない見せかけなどは、どうだっていい。この女のためにどうすればいいんだ? 離れるか? だが、それでは女ひとりをこの上ない苦悩の餌《え》食《じき》にさせることになる。あのでくのぼうの亭主《ていしゅ》などは役にたつどころか、かえって悪い効果を生むんだ。細かな気持なんかてんでわからないから、なにかきついことを口にしないともかぎらない。そうしたら、この女は逆上してしまって、窓から身を投げるかもしれない》
《おれがほっといたり、見張りを怠ったら、なにもかも打ち明けてしまうだろう。そうなったら、たいへんだ、いずれは女房《にょうぼう》も遺産を相続しようというのに、あの男のことだ、一騒動起すだろう。この女はなにもかも、あの食わせもののマスロン坊主に打ち明けるかもしれない。そうなると、坊主め、六歳の子供の病気を口実にして、この家に腰をすえることになるだろう。どうせ腹に一物《いちもつ》あるからな。女のほうにしてみりゃ、苦しんでるところだし、神を怖《おそ》れる気持があるから、男を知ったことなどすっかり忘れてしまい、あの坊主しか目にはいらなくなるんだ》
「あちらへ行ってくださいったら!」と、レーナル夫人が、ふいに目を開けていった。
ジュリヤンは答えた。
「わたしは自分の生命なんかいくらでも投げ出しますよ、こうすればあなたのためにいちばんいいのだってことがわかれば。これほどあなたを恋しく思ったことはありません。いや、たった今あなたの値打を知って、あなたに恋い焦《こが》れるようになったといったほうがいいでしょう。わたしのせいで苦しんでいらっしゃるのが、わかっていながら、あなたを離れたら、このわたしはどうなるんです? いや、わたしの苦しみなんぞ、どうでもいい。出ていくのはかまいません。しかし、わたしがいなくなったら、あなたを見守るものは、あなたとご主人の仲に立つものは、いなくなるわけですよ。そうしたら、あなたはなにもかも打ち明けてしまって、身を滅ぼすだけです。ご主人があなたにどんな侮辱を加えてこの家から追い出すか、考えてもごらんなさい。ヴェリエールじゅうのものが、ブザンソンじゅうのものが、この醜聞を口にするでしょう。あなたばかりが悪いことになり、あなたとしては、もう二度と、この汚名をそそぐことはできませんよ……」
「それこそ望むところですわ。あたしは苦しんだほうがいいわ」と、夫人は起き上がって叫んだ。
「でも、このいまわしい醜聞のおかげで、ご主人までが不幸におちいるんですよ!」
「だって、あたしは自分自身を辱しめるのだし、泥沼《どろぬま》に飛びこむわけですわ。そうすれば、きっとあの子が救えるわ。みんなの目の前に、こうして恥をさらすのが、きっと公《おおやけ》の悔い改めというんでしょう。あたしは弱い身です、あたしとして考えられるかぎりでは、それが神さまに捧《ささ》げることのできる最大の犠牲ではないかしら?……あたしがわが身を辱しめれば、きっと神さまもお認めくださって、あの子を返してくださるわ! ほかにもっとつらい犠牲があるなら教えてください、喜んでしますわ」
「わたしにも自分をこらしめさせてください。わたしにだって罪はある。トラピスト修道院にでもはいりましょうか? あの厳しい生活をすれば、あなたのおっしゃる神さまのお怒りを鎮めることができるでしょう。……ああ! ほんとに、スタニスラスさんの身がわりに、わたしが病気になれたら!……」
「まあ! あなたもあの子を愛してくださるのね」そういって、また立ち上がると、レーナル夫人はジュリヤンの腕に身を投げた。
と同時に、彼女はおびえたようにジュリヤンをつきのけた。
だが、再びひざまずくと、つけ加えていった。
「あなたのおっしゃったこと、信じます! 信じますわ! あなたは、たったひとりのお友達です! あなたがスタニスラスの父親だったら! それなら、あなたの子よりもあなたを愛したって、いまわしい罪にはならないのに」
「このままでいいですね? これからは姉さんを愛する弟のつもりになりますから。それだけが道理にかなった罪滅ぼしです。そうすれば神さまのお怒りも休まりましょう」
「じゃ、あたしは」と、夫人は立ち上がって、ジュリヤンの顔を両手で挾《はさ》み、すこし離れて、まともに見つめながら叫んだ。「じゃ、あたしはあなたを弟のように愛するんですって?弟のように愛するなんて、あたしにそんなことができるかしら?」
ジュリヤンは急に泣き出した。そして、彼女の足下に身を投げかけながら、
「おっしゃるとおりにします。どんなことでも、いいつけどおりにします。それだけがわたしにできることです。頭がどうかしてしまって、なにもわかりません。どう決心したらいいのかも、わからないのです。わたしが行ってしまえば、あなたはなにもかもご主人に打ち明けてしまい、身の破滅を招くにきまってますし、ひいてはご主人も破滅です。世間からうしろ指をさされて、どうして代議士になれましょう? わたしがこのままいれば、あなたはわたしのために子供が死ぬとお思いになるし、あなた自身苦しみで死ぬ思いをなさる。出ていったらどうなるか、試してみましょうか? なんなら一週間ばかりおそばを離れて、わたしたちふたりの罪を、わたしが負うことにしましょう。どこでもあなたのおっしゃるところへ引っこんで、その一週間を過します。たとえば、ブレー = ル = オーの修道院はどうでしょう。ただ、わたしの留守に、ご主人にはなにも打ち明けないと誓ってください。あなたがしゃべったら、もう二度とわたしは戻《もど》ってこられませんよ」
彼女は約束した。ジュリヤンは出かけたが、二日たつと呼び戻された。
「あなたがいないと、誓いが守れそうにないの。あなたがそばにいて、黙っていろと、目で命令してくださらないと、主人にしゃべってしまいそうです。こんなやりきれない生活をしてると、一時間が一日にも思えるのよ」
ついに神はこの不幸な母親を憐《あわれ》んだ。スタニスラスはすこしずつ危険状態を脱した。しかし、足下の薄氷は割れてしまった。彼女の理性は自分の罪業の深さを知ったが、もはや心の平静を取り戻すことはできなかった。悔恨が残った。その悔恨は、このような真心そのものの女性の場合に、当然とるべき姿をとった。その生活は天国と地獄になった。ジュリヤンの姿を目にしないときは地獄であり、ジュリヤンの足下にあるときは天国だった。恋の陶酔に思いきりひたりきったときでさえ、レーナル夫人はジュリヤンにいうのだった。「あたしはもう甘い考えなどもっていないわ。天罰を受けたの。もう取返しのつかない天罰だわ。あなたは若いし、あたしの誘惑に負けただけですもの、神さまも許してくださるでしょうが、あたしのほうは地獄落ちだわ。はっきりしたしるしがあるからわかるの。あたし、こわいわ。地獄を目にしてこわがらないひとがあるかしら? でも、ほんとは後悔なんかしてないの。犯せといわれれば、もう一度だってこの罪を犯すわ。でも、あたしが生きているうちから、子供を通じて天罰が下るようなことがなければ、それだけでも、あたしにはありがたすぎるくらいだわ」そうかと思うと、また別のときには「でも、あなただけは、あたしのかわいいジュリヤンだけは幸福でしょうね? あたし、愛しかたが足りなくはない?」などと、叫ぶこともあった。
とりわけ犠牲的な愛を求めるジュリヤンではあったが、その猜《さい》疑《ぎ》心《しん》も自尊心の悩みも、これほど大きな、まったく疑う余地のない犠牲を、たえず見せつけられては、くずれないではいなかった。彼はレーナル夫人を心から愛するようになった。《この女は貴族だし、おれは職人のせがれだが、それはどうでもいい。この女はおれに恋してるんだから。……おれはこの女を相手に、恋人の役目をやらされる召使とはわけがちがう》こうした不安がなくなると、ジュリヤンは恋に狂い、まったくの忘我の世界にひたるようになった。
自分の恋を疑うようなそぶりを、ジュリヤンが見せると、彼女は叫ぶのだった。
「ふたりだけで過せるのもわずかな月日のことだわ。せめてそのあいだだけでも、あなたをほんとうに幸福にしてあげたい。せかれる思いだわ。あたしはもう、あなたのものでなくなるかもしれないのですもの。あたしの身がわりに、天罰が子供たちの上に下されたりしたら、いくらあなたを愛するために生きるのだと思ってもだめだわ。あたしのせいで子供が死んだのだということは、どうしても忘れられないでしょうから。そんな打撃を受けたら、とても生きてはいかれないわ。生きようと思っても、だめですわ。気が狂ってしまいますもの」
「あなたはスタニスラスの熱病を引き受けたいといってくださったわね、そのお気持はほ
んとにありがたいわ。あたしだって、どんなにあなたの罪まで引き受けたいかしれないのよ!」
この大きな心の急変が、ジュリヤンと恋人を結びつけている感情の性質を一変した。その恋はもはや単に美《び》貌《ぼう》を讃《さん》美《び》する気持や、これをわがものとする誇りだけではなくなった。
ふたりの幸福は、それ以来今までとは比べものにならないほど高まり、身を焼く恋の炎はいよいよはげしくなった。ふたりは気も狂うばかりの陶酔を味わうのだった。ふたりの幸福は、はたのものには、いっそう大きくなったと思えたにちがいない。だが、レーナル夫人は、ジュリヤンからそれほど愛されていないのではないかということだけを心配していた、なれそめのころの、甘美な明朗さ、曇りのない無上の喜び、たわいない幸福は、もはや味わうことができなかった。ふたりの幸福は、ややもすると、罪の姿をとるようになった。
いかにも幸福で、一見いかにも穏やかそうなときでさえ、レーナル夫人は、急に痙攣的にジュリヤンの手を握りしめながら、叫び出すことがあった、「まあ! こわい! 地獄が見える。たまらない責《せめ》苦《く》だわ! 仕方がないわ、それだけのことをしたんですもの」彼女は壁にからむ蔦《つた》のように、男にしがみついて、抱きしめるのだった。
ジュリヤンは女のおびえる心を鎮めようとするが、どうにもならない。女はジュリヤンの手を取ってはキスを浴びせる。そして、再び暗い夢想にひたるのだ。《地獄だってあたしには救いだわ。まだこの世であのひとと幾日かは一緒に過せる。でも、子供を取られたら、生き地獄だわ。……でも、それだけ犠牲をはらえば、あたしの罪は許されるかもしれない。……ああ! 神さま! そんな犠牲をはらうくらいなら、あたしをお許しくださらなくてもいいのです。あのかわいい子供たちはあなたに背いたことなどありません。あたしだけが、ほんとにあたしだけが悪いのでございます。夫でもない男に恋しているのですから》
そうかと思うと、レーナル夫人が落着きを取り戻《もど》したように見えるときもあった。そういうときは、愛するものの生活をわが身の責任と考え、これを毒してはならないと思うのだった。
こういう恋と後悔と歓楽が交錯するうちに、ふたりにとっては、毎日が矢のような速さで過ぎていった。ジュリヤンは反省する習慣を失った。
エリザ嬢は、ちょっとした訴訟で出頭するために、ヴェリエールへ出かけた。ヴァルノ氏がジュリヤンにひどく腹をたてているのを知った。彼女もこの家庭教師を恨んでいて、よくヴァルノ氏に告げ口をしてきたが、ある日、
「旦《だん》那《な》さまにほんとうのことを申し上げたら、あたくしはどんなことになるかわかりませんわ。……旦那さまがたは大事な話になると、すぐぐるになっておしまいになるのですもの。……召使のほうは立つ瀬がありませんわ、打ち明けたお話をしても、話によっては、けっして許してはくださいませんもの」
こうしたきまり文句を並べられると、好奇心の強いヴァルノ氏は、待ちきれなくなって、うまく相手の話をはしょらせることはできたが、聞き出したところは、自尊心をひどく傷つけることがらだった。
あの女、この地方きっての美女、自分が六年間も手を変え品を変えて追いまわした女、それにそのことは不幸にしてだれひとり知らぬものはない。あの女には相手にされず、いくたび赤恥をかかされたかしれない。あの気位の高い女が、家庭教師に化けた職人の小せがれを情人にしたのか。しかも、収容所長殿、口惜《くや》しがるまいことか、レーナル夫人はその恋人に惚《ほ》れこんでいるのだ。
「それに」と、小間使は溜息《ためいき》をつきながら、つけ加えた。「ジュリヤンさまのほうは、なんの苦労もなく手にいれたのですわ。奥さまだからといって、いつもの冷たい態度を改めたわけじゃないんです」
エリザがはっきりした証拠をつかんだのは、田舎に来てからのことだが、この情事はずっと前から続いているのだと思っていた。
「きっとそのためですわ」と、彼女は口惜しそうにつけ加えた。「前にあのひとがあたくしと結婚するのをことわったのも。それなのに、あたくしはレーナルの奥さまに相談した
り、奥さまからあの家庭教師に話していただこうと思ってお願いしたりして、ばかでしたわ」
早くもその夜、レーナル氏は、町から、新聞と一緒に、一通の長い匿名《とくめい》の手紙を受け取った。それには自分の家庭の様子がいちいち精《くわ》しく書いてあった。ジュリヤンは、レーナル氏がその薄青い紙に書かれた手紙を読むと、真っ青になって、自分に憎々しげな視線を投げるのに気がついた。その夜ずっと、町長は思い悩んでいる様子だった。ジュリヤンはご機《き》嫌《げん》を取ろうとして、ブールゴーニュの名家の系図について説明を求めたりしたが、その甲斐《かい》はなかった。
第二十章 匿名《とくめい》の手紙
情痴の手綱をゆるめすぎるな。
どんなに固い誓いでも、情火にあっては藁《わら》にもひとしい。
『テンペスト』
真夜中ごろ、客間を引き上げるときを利用して、ジュリヤンは恋人にいった。
「今夜は会うのをやめましょう。ご主人は疑っていらっしゃるのです。溜息《ためいき》をつきながら読んでいらした長い手紙は、きっと密告の手紙ですよ」
ジュリヤンは部屋に鍵《かぎ》をかけて引きこもったからよかった。レーナル夫人は、あんなことをいうのは、自分に会わないための口実にすぎない、などという非常識なことを考えた。そうなると、もう分別もなにもなくなって、いつもの時刻に、ジュリヤンの部屋の入口までやってきた。廊下の物音を聞きつけて、ジュリヤンはすぐさまランプを吹き消した。だれかが一生懸命戸を開けようとしている。レーナル夫人だろうか、嫉《しっ》妬《と》に狂った夫だろうか?
その翌朝、夜が明けたと思うと、ジュリヤンに好意をもっている料理女が、一冊の本を届けてきた。表紙には、イタリア語でこう書いてあった。Guardate alla pagina 130.(一三〇ページを見よ)
ジュリヤンはこの無謀なふるまいにぎくりとしながら、一三〇ページを開いてみると、ピンで手紙がとめてある。涙でにじんだ、綴《つづ》りもでたらめな走り書だった。ふだんレーナル夫人の綴りはきわめて正しいので、ジュリヤンはこの些《さ》細《さい》な事実に感動し、空おそろしい無謀なやり口をいくらか忘れた。
「昨夜《ゆうべ》はお部屋にいれてくださらなかったのね? あなたの本心がどうしてもわからないと思うことが、ときどきあるのです。あなたの目つきがおそろしいの。あなたがこわいの。どうしよう? あなたは一度も愛してくださらなかったのじゃないかしら? それなら、主人があたしたちの恋に気がついて、あたしを子供から引き離し、どこか片田舎に一生閉じこめてくれたらいいと思うわ。それが神さまのご意志かもしれません。あたしはもうじき死んでしまいます。そうなったら、それはあなたが薄情だからです。
あたしを愛してくださらないの? あたしが気違いじみたことや、後悔ばかりするので、おいやになったの? ひどいひと! あたしがどうなってもいいの? それなら、いいことを教えてあげましょう。さあ、この手紙をヴェリエールじゅうに見せびらかしなさいな。ヴァルノさんだけに見せたほうがいいかもしれないわ。あのひとにいっておやりなさい。あたしがあなたに恋しているって。いいえ、そんな大それたことおっしゃらないで。あたしはあなたが好きだってこと、あなたにお会いした日から、はじめて生《いき》甲斐《がい》を感じたってこと、若いころ、どんなに夢中な気持のときだって、あなたのおかげで知ったような幸福は考えてもみなかったってこと、あたしの生《いの》命《ち》はあなたに捧《ささ》げてしまったし、今では魂も捧げているってことを、いっておやりなさい。あたしがそれ以上のものまで捧げていることは、あなたもご存じのはず。
でも、あんな男に、身を捧げるってことが、わかっているかしら? いっておやりなさい。あたしは意地悪なひとなんかちっともこわくないし、この世でたったひとつの不幸といえば、あたしが命の綱とも頼むただひとりのひとが心変りをすることだって。そうしたら、あのひと怒るわ。生命を失うことができたら、生命を犠牲として捧げることができたら、もう子供のことで心配しなくてもすむわ。そうしたらどんなに幸福でしょう!
匿名の手紙が来たとすれば、あのいけすかない男から来たにきまってますわ。なにしろ、あのがあがあ声で、馬に乗るのが得意だなんていったり、あきれたうぬぼれもので、しょっちゅう自分のことばかり吹聴《ふいちょう》して、六年間もあたしのことを追いまわしたんですもの。
匿名の手紙ってほんとかしら? 意地悪!あたし、そのことであなたと相談しようと思ったのよ。いいえ、いいえ、そうじゃないわ。あなたのなさったとおりでよかったのよ。これが最後かもしれないと思いながら、あなたを腕に抱きしめていたら、こうして今ひとりきりでいるときのように、冷静な気持でなんか、議論していられなかったでしょうから。これからはもう、あたしたちの幸福もそうたやすく味わえないでしょうね。そうしたら、お困りになるかしら? フーケさんからおもしろい本が届かない日は、でしょう? もう犠牲になる覚悟はできています。明日、匿名の手紙が来たにせよ、来《こ》ないにせよ、あたしも主人に、匿名の手紙を受け取ったといいます。そして、すぐにもあなたには十分な償いを考え、なにかもっともらしい口実を設けて、一刻も早く、あなたを親もとに帰してほしいと、いってやります。
悲しいけれど、あたしたち、半月か、もしかしたらひと月も会えなくなるかもしれないわ! でも、いいわ、あなただって苦しみたいんでしょ、そうさせてあげるわ。あたしと同じくらい苦しんでください。とにかく、それ以外にあの匿名の手紙の効きめを防ぐ方法はありませんわ。主人がああいう手紙を受け取ったのは、これがはじめてではありませんの、あたしのことでも。以前なら、あたし、問題にもしなかったのに!
あたしは、なんとかして、あの手紙がヴァルノさんから来たものだと、主人に思いこませるようにするつもりです。あのひとが手紙の主にちがいありませんわ。この家を出たら、かならずヴェリエールに行って、落ち着いてください。あたしはどうにかして、主人にあそこへ行って二週間ばかり滞在するようにさせます。主人とあたしの仲が、なんら不和になったわけではないと、ばかな連中に見せつけてやるわけです。ヴェリエールにお帰りになったら、だれとでも仲よくしてください、たとえ自由主義者の仲間とでも。あなたは、あの一派の奥さんたちのあいだで、人気者になるにちがいないわ。
ヴァルノさんと喧《けん》嘩《か》をしてはだめよ。いつだったか、いってらしたように、あのひとをおどかしたりしちゃ、だめよ。その反対に、できるだけ愛《あい》想《そ》よくするんですよ。大事なことは、ヴァルノさんのところなり、どこなりへ、家庭教師として住みこむことになりそうだと、ヴェリエールのひとたちに思いこませることですわ。
それだけは主人としても我慢できないはずです。たとえ、主人がやむをえず承知するとしても、とにかくあなたはヴェリエールに住んでいることになるし、あたしもときどきはお会いできるわ。子供たちはあんなにあなたになついているのですもの、あなたに会いに行きますわ。まあ、どうしよう! 子供たちがあなたをお慕いしているだけに、子供たちがよけいかわいい気がするのです。そういう気持、とっても心にとがめてるんですけど!結局はどういうことになるんでしょう?……そんな話じゃありませんわね。……とにかく、あなたのなさるべきことは、おわかりになったわね。あの下品な連中を相手にしても、穏やかな、丁寧な態度をとり、軽蔑《けいべつ》したような顔は見せないこと、くれぐれもお願いしますわ。あのひとたちの出方次第で、あたしたちの運命がきまるのですから。主人はあなたに対して世論《・・》の命じるとおりの態度をとるにきまっていますわ。
匿名の手紙はあなたに作っていただくわけよ。根気と鋏一梃《はさみいっちょう》の問題ですわ。本から、次のような文字を切り抜いて、あたしがお渡しする薄青い紙に、ゴム糊《のり》で貼《は》りつけてください。その紙はヴァルノさんからきたのよ。あなたの部屋は調べられるものと覚悟して、切り抜いたあとの本のページは燃やしてください。おあつらえむきの言葉が見つからなかったら、根気よく一字一字合わせて綴るのよ。手間がかかってはいけないと思って、匿名の手紙は短くしすぎたくらいだわ。あなたがもうあたしを愛していてくださらないとしたら、そんな気がしてならないのだけれど、あたしの手紙を長ったらしいとお思いになるでしょうね!
匿名の手紙
奥さん
あなたの密事は知れ渡っています。そういう噂《うわさ》をもみ消したいと思うひとたちはものがわかる連中です。わたしはまだあなたに多少の好意をもっていますから、忠告しますが、あの百姓の小せがれとはきっぱり手をお切りなさい。あなたが素直にそうなさるなら、ご主人は自分の受けた忠告にたぶらかされたのだと思うでしょうし、わたしもそう思いこませておきます。わたしがあなたの秘密を握っていることはお忘れないように。平気ではいられまい、このふしだら女。今となっては、わたしに泣きつく《・・・・》より道がないのだ。
この手紙にある言葉(これが収容所長の口癖だということが、おわかりになって?)を貼りおわったら、部屋から出てきてください。お会いできるようにしますから。
あたしは村のほうへ行って、不安そうな顔をして、帰ってきます。ほんとにひどく不安になりそうだわ。ほんとにまあ! あたしったら、なんて思いきったまねをしようというんでしょう。それというのも、あなたが匿名の手紙が来たらしい《・・・》とおっしゃったからよ。とにかく、あたしは困ったような顔をして、知らないひとから渡されたっていって、この匿名の手紙を主人に渡すわ。あなたは子供たちと一緒に森へ行く道のほうへ散歩に出かけてください。昼のお食事のときまで帰ってこないでね。
岩の上から、鳩《はと》小屋《ごや》の塔が見えるはずです。うまくいったら、その塔に白いハンカチをつけますわ。うまくいかなかったら、なにもつけません。
薄情なおかた、散歩にいらっしゃる前に、なんとかして、あたしを愛してるって、おっしゃってくださるかしら? どんなことになっても、これだけは確かなことよ。どうにも別れなければならなくなったら、あたしは一日も生き長らえてはいられません。まあ! なんて悪い母親でしょう! でも、そんな言葉を書いてみたって、無意味なのよ、いとしいジュリヤン。あたしにはそんな気がしないんですもの。今は、あなたのことしか考えられません。あなたから叱《しか》られたくないので、そんな言葉を書いてみたのよ。あなたを失いそうなのに、いまさら隠したってはじまらないわ。ええ、いいの、ひどい女と思われても、愛するひとの前では、嘘《うそ》がつきたくないの。これまでにずいぶん嘘をついてきたわけですもの。いいの、もうあなたが愛してくださらなくても、許してあげます。読み返しているひまがありません。あなたの腕に抱かれて、幸福な日々を過したんですもの、生命をすてることなんか、なんでもありませんわ。生命とひきかえですむなら、ありがたいわけですわ」
第二十一章 主人との対話
悲しいかな、女のもろさが原因なのです、わたくしたちのせいではありません。
こんなふうに生れついたので、こんなことになったのです。
『十二夜』
まるで子供のようにおもしろがって、ジュリヤンは、一時間のあいだ、言葉を拾い集めた。部屋から出たところで、教え子たちとその母親に出会った。彼女はなにくわぬ顔をして、平気で手紙を受け取った。ジュリヤンはその落ち着いた態度を空おそろしく思った。
「ゴム糊《のり》はよく乾いてますか?」と、彼女はジュリヤンにきいた。
《これが後悔であれほどのぼせあがっていた女だろうか? 今この女はどんなことをたくらんでいるのだろう?》自尊心の手前、そんなことはきけなかった。だが、おそらくこんなに彼女を好ましく思ったことは一度もなかったろう。
彼女は相変らず冷静そのもののような態度で続けた。
「これがうまくいかないと、あたしはなにもかも取り上げられてしまうわ。これをお預けしますから、どこか山の中に埋めてください。おそらく、いずれはこれがあたしの唯一《ゆいいつ》の財産になるかもしれませんから」
彼女は、金やいくつかのダイヤモンドがつまった、赤いモロッコ革の、グラスいれをジュリヤンに渡していった。
「さあ、行ってらっしゃい」
彼女は子供たちにキスした。末の子には二度もキスした。ジュリヤンはじっとしていた。彼女は足早に、ジュリヤンを見ようともしないで、立ち去った。
匿名《とくめい》の手紙を開いたときから、レーナル氏はたえられない苦悩におちいったのだった。あやうく一八一六年に決闘しかけたとき以来、これほど心をかき乱されたことはなかった。そのおりは、レーナル氏も、なかなかたいしたもので、弾《たま》にあたるかもしれないと思ったが、これほどみじめな気持ではなかった。彼はその手紙をあらゆる角度からしらべてみた。《これは女の筆跡ではなかろうか? とすれば、書いた女はだれか?》彼はヴェリエールで顔見知りの女性を、ひとりびとり思い浮べてみたが、あいつが怪しいと、はっきりきめつけることはできなかった。《だれか男がこの手紙を口述して書き取らせたのかな? その男はどいつだろう?》この場合も、やっぱり確信がもてなかった。顔見知りの連中のたいていのものから嫉《しっ》妬《と》され、おそらく憎まれているかもしれない。《家内に相談しなくてはならない》と、いつもの習慣から、そう思いながら、ふかぶかと腰をおろしていた肱掛《ひじかけ》椅子《いす》から立ち上がった。
立ち上がったかと思うと、《冗談じゃない!》と、額を叩《たた》きながらいった。《いちばん警戒してかからなければならないのは、家内じゃないか。目下は敵にまわっているのだ》そう思うと、腹がたって、涙がにじみ出てきた。田舎では薄情が処世術のすべてだが、その当然のむくいとして、このときレーナル氏がいちばん疑ってかかったふたりは、いちばん親しい友人だった。
《あのふたりのほかにも、十人ぐらいは友達がいるはずだ》その連中を思い浮べてみて、そのひとりびとりが、どのくらい慰めてくれるかを、おしはかってみた。《どいつもこいつも、おれのやりきれぬ災難を知ったら、手を打って喜ぶやつばかりだ》と、彼は無性に腹だたしくなって叫んだ。さいわい、彼は自分がひどく嫉妬されていると思いこんでいた。町の宏壮《こうそう》な本宅が、最近***国王をお泊めしたという、末代までの光栄に浴したばかりか、ヴェルジーの別荘もひどくりっぱに手入れしたからである。正面は白く塗られ、窓には美しい緑の鎧戸《よろいど》がつけられている。彼はこのりっぱなさまを思い浮べてみて、ちょっと気を慰められた。ほんとをいうと、この屋敷は三、四里さきからも見えるので、迷惑をこうむったのは、お屋敷などといわれながら、年を経てみすぼらしい灰色をさらしている付近の別荘である。
レーナル氏は、友人で教会の理事をしている男なら、涙を流して同情してくれそうだとは思ったが、この男は、なにかにつけて、すぐ涙を流すばかものだった。とはいうものの、この男だけが唯一の頼りだった。
《こんな不幸がまたとあるだろうか? まったくの孤立だ!》と、彼は腹だたしげに叫んだ。まことに憐《あわれ》むべき姿だった。
《おれがこんな不幸な目にあっているのに、相談相手になってくれる友達が、ひとりもいないなんてことがあろうか? おれは気が狂いそうになっているのだぞ! ああ! ファルコス! ああ! デュクロ!》と、彼は苦々しげに叫んだ。これは幼なじみのふたりの友の名前だったが、一八一四年以来、身分を鼻にかけ、自分のほうからふたりとつきあわなくなっていた。ふたりとも貴族ではなかったので、子供のときからの対等なつきあい方を改めようとしたのである。
ファルコスのほうは才気も度胸もある男で、ヴェリエールの紙問屋をしていたが、県庁所在地で印刷工場を買い取り、新聞の発行を企てた。修道会《コングレガシヨン》はこれをつぶそうとしてかかった。彼の新聞は発行停止となるし、印刷業者の鑑札は取り上げられてしまった。せっぱつまって、ファルコスは十年ぶりにはじめて、レーナル氏に手紙を出した。ヴェリエールの町長は、古代ローマ人の態度で返事をするべきだと思った。「大臣から諮《し》問《もん》を受けたとすれば、容赦なく地方の印刷業者を、ことごとく叩きつぶし、印刷業を煙草《たばこ》と同様、専売事業にすべきだ、と答えます」親友にあてたこの手紙は、当時ヴェリエールじゅうのものから賞讃《しょうさん》されたが、レーナル氏は今その文句を思い出してみて、いやな気がした。《これほどの地位と財産と勲章をもっているおれが、あとになって、それを後悔しようなどと、だれが考えたろう?》こうして、自分に対して無性に腹をたてたかと思うと、周囲のものが、いまいましくなったりして、レーナル氏はやりきれない一夜を過した。しかし、さいわいなことに、妻の様子をうかがおうという気は起さなかった。
《ルイーズには慣れきっている。あれはおれの仕事のことはなんでも知っている。たとえ、明日ほかの女と結婚できる立場になるとしても、あれのかわりになる女は見つかるまい》そう考えると、妻に罪はないのだというふうに思いたくなった。そういうふうに見れば、断固たる処置をとる必要もないし、そのほうが自分にとってはずっと好都合だった。無実の罪をきせられた女が、どんなに多いかしれないのだ!
だが、いらいらした足どりで、部屋の中を歩きだしながら、急に叫んだ。《そんなことができるものか! それじゃ、おれはまるでそこいらのくだらぬやつらか乞《こ》食《じき》なみじゃないか、家内が間男と一緒になって、ばかにするのを黙って見ていられるか! おれのおめでたさ加減が、ヴェリエールじゅうのものの物笑いにされてほっておけるか! シャルミエ(というのは妻に間男をされたというので評判の男なのだ)が、どんなことをいわれたか考えてみるがいい。あいつのことを口にするときは、だれだって薄笑いを浮べるじゃないか。あいつはりっぱな弁護士だが、だれもあれの弁舌の才など問題にしてやしない。ふん、シャルミエかい! ベルナールのシャルミエかい、とだれもがいう。あれに赤恥をかかせたのが、ベルナールなもんで、そんなふうに、みんなはベルナールという名前をつけて呼ぶんだ》
また、しばらくすると、こんなふうにも考える。《ありがたいことに、おれには娘がない。おれが子供の母親をどんなふうに罰しようと、子供の行く末に差し障りが起るわけのものではない。あの百姓の小せがれが、家内と一緒にいる現場をおさえて、ふたりもろとも殺してやることもできる。そうすれば、事件が悲劇となるだけに、笑いものにされないですむかもしれん》この考えは悪くない。彼は先の先まで考えてみた。《刑法はおれの味方だ。それに、どんなことになろうとも、修道会と友人の陪審員たちが、おれを助けてくれるだろう》あいくちを調べてみた。切れ味は確かだ。だが、血を見ると思うと、ぞっとした。
《あの生意気な家庭教師をぶん殴って追い出すこともできるのだ。だが、ヴェリエールばかりでなく、県全体にどんな評判が立つか、わかったものじゃない。ファルコスの新聞が発行停止をくらってからのこと、主幹が出獄したとき、おれのおかげで、あいつは六百フランの働き口にありつけなかったわけだ。なんでも、あの三文文士め、ぬけぬけとブザンソンにまた姿を見せたという話だ。あいつのことだから、要領よく、おれをこきおろしておきながら、おめおめ法廷に引っ張り出されるようなまねはするまい。いや、あいつを法廷に引っ張り出してみたところで、はじまらない!……ずうずうしいやつだから、自分のいったことはほんとうだと、思いこませるくらい、朝飯前なんだ。おれのように、名門の出で、りっぱに暮していると、庶民どもからは憎まれるものだ。あのおそろしいパリの新聞に書きたてられるかもしれない。やりきれん! なんという情けない話だ! 由緒《ゆいしょ》あるレーナルという家名が、汚《けが》らわしい嘲笑《ちょうしょう》の的にされるのか。……旅行に出るようなときは、名前を変えなければなるまい。とんでもない! おれの名誉でもあり、力でもある、この名が捨てられるか! そんなみじめな思いができるか!》
《家内を殺さないで、赤恥をかかせて追い出したとしても、ブザンソンにあれの伯母がいる。あっさりと財産を、まるまるあれにくれてしまうだろう。家内はパリへ行ってジュリヤンと暮す。それがヴェリエールに知れれば、おれはやっぱり間抜け亭主《ていしゅ》と思われるだろう》この不幸な男は、ふとランプの光が薄れたのを見て、夜が白みかけたのに気がついた。新鮮な空気でも吸おうと思って庭に出た。このときは、醜聞がひろまったら、ヴェリエールの友達が大喜びするだろうと考えて、醜聞は起すまいと心にきめかけていた。
庭を散歩するうちに、すこしは気が落ち着いた。《絶対に家内は手放さんぞ。あれにはいてもらわなくては困る》と叫んだ。妻がいなくなれば、家庭がどうなるだろうと思うと、ぞっとした。身寄りといえば、R……侯爵《こうしゃく》夫人だけで、それもばかで意地の悪い年寄りなのだ。
なかなか思慮のある考えが浮んだが、それを実行に移すとなると、よほどの度量が必要で、この哀れな男が持ち合せているわずかな度量では、とうてい間に合わない。《家内をこのまま置いておけば、おれのことだから、いつかは、気にくわぬことがあると、あれの過失を責めるだろう。あれは気位が高いから、喧《けん》嘩《か》になる。あれが伯母の財産を相続しないうちから、そんなことが起りそうだ。そうなると、おれはどんなにばかにされるかわからない! 家内は子供が好きだから、なにもかも子供たちのものになってしまう。そして、このおれはヴェリエールの物笑いの種にされる。なんだ、女房《にょうぼう》に仕返し一つできないのか! などといわれるだろう。疑いはそのままにしておいて、なんのせんさくもしないほうがよくはないか? そうすれば、おれは自縄《じじょう》自《じ》縛《ばく》だ。そうなってからは、家内に文句一ついえなくなる》
しばらくすると、またも傷つけられた自尊心が頭をもち上げた。ヴェリエールの「カジノ」といわれる「貴族クラブ」の玉突き場で、だれかおしゃべりな男が、玉突きをそっちのけにして、間男をされた亭主をさかなにしてからかうとしたら、どんなやり口の話が出るだろうかと、細かに思い浮べてみた。そういう冗談が、今の彼には、どのくらい残酷に思われたかしれない。
《家内が死んでくれたらいいのだ! そうすれば、おれも物笑いの種にならないですむ。妻に死なれた夫となれば、パリに行って、半年、第一等の社交界で暮せるんだ》このやもめ暮しも悪くないなという気がちょっとしたが、また真相をつきとめるにはどうしたらいいかということに考えが戻《もど》った。真夜中になって、みんなが寝静まったころ、ジュリヤンの部屋の扉《とびら》の前に、薄く糠《ぬか》をまいておこうか? あくる日の朝になれば、足跡が見つかるだろう。
《そんなやり口はなんの役にもたたん》無性に腹だたしくなって、ふいにそう叫んだ。《抜け目のないエリザのやつに気づかれてしまうだろうし、おれがやきもちを焼いてるということが、すぐ家じゅうに知れてしまう》
「カジノ」ではこんな噂《うわさ》も聞いた。ある亭主が、女房と間男の部屋の戸口に、まるで封印でもするように、ほんのちょっと蝋《ろう》をたらして、一本の髪の毛を貼《は》りつけて、自分の災難を確かめたというのである。
幾時間も思い迷ったすえに、自分の運命をはっきりさせるには、結局この方法が最上だと思われてきた。その方法を使うことにしようと思っていると、散歩道の曲り角で、死んでもらいたいと思った当の女と顔を合わせた。
彼女は村から帰ってきたところだった。ヴェルジーの教会へミサを聞きに行ったのである。冷静な哲学者から見れば、とても信じられないいい伝えなのだが、彼女の信じているところでは、今日使われているこの小さな教会は、ヴェルジーの領主の屋敷の礼拝堂だった。レーナル夫人は、この教会で祈りながら、時のたつのを見守っていると、そのことが頭にこびりついて離れなかった。夫が狩に行き、あやまってジュリヤンを殺したかのように見せかけ、その夜ジュリヤンの心臓を彼女に食べさせるといったことが、たえず頭に浮んできた。
《主人はあたしの話を聞いて、どう思うかしら? それによって、あたしの運命はきまるんだわ。こののるかそるかの十五分が過ぎれば、主人に話す機会はなくなってしまうだろう。あのひとは理性でものを考えるような賢いひとではない。とすれば、あたしの弱い理性の力をもってしても、あのひとがなにをするか、またなにをいうかを、見ぬくことができよう。あのひとがあたしたちふたりの運命をきめるのだし、またきめる力を持っているのだけれど。その運命はあたしがうまく立ちまわるかどうかにかかっている。なにしろ、この気まぐれやさん、無性に腹をたてているのだし、半ばはものの見境もつかなくなっているのだから、あたしのほうからその考えをうまく操縦するかどうかできまる。まあ、困ったわ! 腕前も冷静さも必要なときなのに、どうしたら、それが見つけられよう?》
彼女は庭にはいってきて、夫の姿を見たとき、まるで魔法の力でもかりたかのように、落着きを取り戻した。夫の乱れた髪や、服装が、昨夜眠らなかったことを物語っていたからだった。
彼女は、封が切ってあるが、たたんだままの手紙を夫に渡した。夫はそれを開こうともしないで、血走った目で妻をにらんでいる。
「こんないやらしいものを渡されたのです。人相のよくない男で、あなたと知合いで、お世話になったことがあるとかいってましたけれど、ちょうど、あたしが公証人の庭のうしろを通りがかったとき、その男から渡されたのです。あたし、お願いがあります。すぐにも親もとへ帰していただけませんか、あのジュリヤンさんを」レーナル夫人は大急ぎでこの名前を口にした。すこし早まったかもしれないが、どうせその名前を口に出さなければならないという、やりきれない気持から抜け出したかったのだ。
夫は自分の話を聞いて喜んでいるらしい。そのさまを見て、彼女はほっとした。自分をじっと見つめている夫のまなざしから、彼女はジュリヤンが見ぬいたとおりだったと思った。この切実な不幸に胸を痛めるどころか、彼女は考えた。《まだなんの経験もない若者なのに、なんという才能のあるひとだろう!ほんとに勘のいいひとだわ! いずれはどんなに出世するかわからない。でも、出世したら、あたしは忘れられてしまうわ》
こうして愛する男に感心しているうちに、取り乱した気持が、すっかりおさまった。
彼女は自分ながらうまくやったと思った。《ジュリヤンにふさわしいだけのことをしたのだわ》と、心のなかに甘い快感を味わいながら思った。
うっかりしたことはいえないという気持から、黙ったまま、レーナル氏は新たな匿名の手紙を調べてみた。読者諸君も思い出されるであろうが、青味がかった紙に活字を貼りつけてこしらえた手紙のことである。《あらゆる形でおれを愚《ぐ》弄《ろう》しやがる》レーナル氏は疲労にうちのめされる思いだった。
《また、調べてみなければならぬ新手の侮辱があらわれやがった! しかも、やっぱり家内のおかげだ!》彼は、あやうく、その妻に下劣きわまる悪口を浴びせかけるところだったが、ブザンソンで財産を相続する女だと思って、やっと思いとどまった。だが、なにかに当り散らさないではおさまらない。彼はこの二通目の匿名の手紙をもみくちゃにすると、大またで歩きはじめた。妻のそばにいられない気持だった。しばらくすると、妻のところへ戻ってきた。気持は前より落ち着いていた。
「ぐずぐずしないで、ジュリヤンをやめさせることにしてくださいな」と、レーナル夫人が、さっそくいった。「要するに、職人のせがれにすぎないじゃありませんか。いくらかお金をおやりになれば、文句はいわないでしょう。それに、あのひとは学問があるのですから、わけなく働き口は見つかりますよ。たとえば、ヴァルノさんのところでも、郡長のモージロンさんのところでも、お子さんがあるのですから。ですから、そうなさっても、べつに悪いことなんかありませんわ……」
「なんてことをいうんだ、あさはかなやつだな!」と、レーナル氏はおそろしい声でどなった。「女なんて思慮も分別もあったものじゃない。すこしはものの道理も考えてみたらどうだ? そんなことで、なにがわかる? いつも呑《のん》気《き》なことをいって、なんにもしやしない。せいぜい蝶々《ちょうちょう》を追っかけるぐらいで、なにかしたつもりになってるんだ。まったく頼りになりゃしない。そんな女を養わなければならないとは、情けない話だよ!……」
レーナル夫人はしゃべらせておいた。彼はたて続けにしゃべった。この土地の言葉でいえば、怒りをはき出していた《・・・・・・・・・・》のだ。
やがて、彼女はいった。
「あなた、あたしは誇りを傷つけられた女として、つまりいちばん大事なものを傷つけられた女として、お話ししているのですよ」
レーナル夫人はこの息づまる会話をしながらも、すこしも冷静な態度をくずさなかったが、この会話にこそ、ジュリヤンと一つ屋根の下で暮せるかどうかがかかっていたのだ。彼女は知恵をしぼって、夫の盲目的な怒りをうまくあやつろうとした。どんなに口汚なくののしられようとも、彼女はいっこうに平気だった。そんなことは耳にもはいらず、ジュリヤンのことばかりを考えていた。《あたしのやりかたに満足してくれるかしら?》
「あたしたちはずいぶん親切にしてあげたし、いろんなものをあげたりしましたわ。あの若い百姓には罪がないかもしれません。でも、あたしがはじめてこんな侮辱を受けたのも、あのひとがいるからにちがいないじゃありませんか。……あなた! あたしはこのいやらしい手紙を見たとき、決心しましたわ。あのひとか、あたしか、どちらかがこの家を出ていくようにしようって」
「あんたは騒ぎたてて、このわたしに恥をかかせたうえに、あんた自身まで赤恥がかきたいのか? それじゃ、ヴェリエールの連中に好《こう》餌《じ》を与えるようなもんだ」
「それはそうかもしれませんわ。あなたの行政手腕のおかげで、あなたも、あなたの家族も、この町も、こんなに裕福になったのですもの、みんなが嫉妬するわけですわ。……じゃ、あたしからいいます。ジュリヤンさんのほうから、あなたに休暇を願い出るようにさせ、あの山の薪《たきぎ》商人のところへ一月《ひとつき》ばかり行かせます。あの職人の息子にはうってつけの相手ですわ」
「あんたはひっこんでいなさい」と、レーナル氏はかなり落着きを取り戻していった。「とにかく、くれぐれもいっておくが、あれとは口をきかないでもらいたい。あんただと腹をたてるにきまっている。それじゃ、わたしとあれを仲たがいさせるようなものだ。あの若先生、怒りっぽいからな」
「てんで気がききませんわ。学問はできるかもしれませんし、それはあなたもよくおわかりのことでしょうが、結局はどこまでも百姓ですわ。あのひとがエリザと結婚するのをことわって以来、あたしは好意がもてなくなりましたわ。せっかく楽な暮しができたのに。それにことわる理由も、ときどき、こっそり、エリザがヴァルノさんに会いに行くからっていうのでしたわ」
「なんだ! ジュリヤンはあんたに、そんなことをいったのか!」と、レーナル氏は途方もなく眉《まゆ》毛《げ》をつり上げて、いった。
「いいえ、はっきりそういったわけではありません。相変らず自分は聖職につくべき身だからと、いうんですけれど、ああいう下層階級のものには、パンを得ることが第一の天職でしょう? エリザがこっそり会いにいっているのを知らないわけではないって、かなりはっきりした口っぷりでしたわ」
「それなのに、このわたしは知らずにいたのか!」と、レーナル氏は、また急に怒り出し、一言、一言をはき出すようにしていった。「わたしの家で、このわたしの知らないことが行われているのか!……で、エリザとヴァルノのあいだになにかあったのか?」
「まあ、それはむかしの話よ、あなた」と、レーナル夫人は笑い出しながらいった。「たぶん、なにも不都合なことなんかなかったんでしょう。ご親友のヴァルノさんは、ご自分とあたしのあいだに、ごくプラトニックな恋愛関係があるように、ヴェリエールのひとたちから思われて、まんざらでもない気でいたでしょう、あのころの話ですわ」
「わたしも、一度は、あんたたちの仲をそうではないかと思ったんだ」レーナル氏は、次々にいろいろな事実を知って、無性に腹がたち、額を叩きながら、どなった。「だが、あんたは、なにもいってくれなかったではないか」
「あの収容所長さんが、ちょっとうぬぼれ心を出したからって、仲のいい友達同士を仲たがいさせるまでもありませんもの。社交界の女のひとで、あのひとからかなり気のきいた、ちょいと艶《つや》っぽい手紙の二、三通ももらわなかったひとがいるでしょうか?」
「あんたにも手紙をよこしたのか?」
「あのかた、筆まめですからね」
「その手紙をすぐ見せなさい。見せるんだ!」そういって、レーナル氏は相手を見くだすようにぐいと胸を張った。
「まあ、お見せしないでおきますわ」と、彼女は気安さといってもいいほどの、しなを作って答えた。「いつか、あなたがもっと穏やかなときに、お見せしますわ」
「今すぐだといってるんだ!」と、レーナル氏は癇癪《かんしゃく》を起してどなったが、十二時間以来、こんな幸福な気持になったことはなかったのだ。
「誓ってくださいます? その手紙のことで、貧民収容所長さんとは、けっして喧嘩をなさらないって」と、レーナル夫人はひどく真顔になってきいた。
「喧嘩しようがしまいが、わたしはあいつの手から孤児たちを取り上げることができるのだ」と、相変らず不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔をして続けた。「いますぐその手紙を見せてもらおう。どこにあるんだ?」
「あたしの机のひきだしですわ。でも、絶対に、鍵《かぎ》はお渡ししませんよ」
「叩きこわしてやるさ」と、どなると、彼は妻の部屋のほうへ駆け出した。
事実、彼は鉄の串《くし》で、木《もく》目《め》のあるマホガニーの貴重な机をこわしてしまった。これはパリから取り寄せたもので、しみでも見つけたりすると、よく服の袖《そで》でこすったりしたものだった。
レーナル夫人は、鳩《はと》小屋《ごや》の階段を、百二十段も駆け登って、その小さな窓の鉄格《てつごう》子《し》に、白いハンカチのはしを結《ゆわ》えつけた。彼女は女のなかでもいちばん幸福な女だった。目に涙を浮べて、山の森のほうをじっと眺《なが》めていた。《きっと、あの生い茂ったぶな《・・》の木のもとで、ジュリヤンはこの幸福な合図を待っているのだわ》長いあいだ、耳をすませていたが、やがて、単調な蝉《せみ》の鳴き声や、小鳥のさえずりが、呪《のろ》わしくなった。《このうるさい音さえ聞えなかったら、あの大きな岩のところから、喜びの声がここまで届いてくるはずなのに》彼女は貪《むさぼ》るように広い山腹を眺めわたした。山腹をおおう樹々《きぎ》の梢《こずえ》が、草原かと思われるほど、一様に濃い緑を見せている。彼女はついほろりとしてつぶやいた。《なんとか合図の方法を考え出して、知らせてくれてもいいはずだわ。あのひとだって、あたしと同じくらいうれしいはずなのに》夫が捜しにきはしまいかと、ふと不安になったので、やっと彼女は鳩小屋から降りた。
夫はひどく癇癪をたてている。彼はヴァルノ氏のなんでもない文句に、いちいち目を通していたが、これほど興奮して読むべき性質のものではなかったのだ。
夫のどなっているあいだに、聞いてもらえそうなすきを見て、レーナル夫人はいった。
「またさっきのことなんですけれど、ジュリヤンさんには、旅行にでも出てもらったほうがいいと思います。ラテン語はできるかもしれませんが、結局は百姓にすぎませんわ。礼儀は知らないし、気はきかないし。毎日、自分では礼儀のつもりなんでしょうけれど、大げさで悪趣味なお世辞をいうんです。小説かなんかで丸暗記したんでしょう……」
「小説など絶対に読むものか」と、レーナル氏はどなった。「その点は確かめてある。わたしは一家の主人だ、自分の家の様子を知らずにいるとでも思ってるのか!」
「そうですか、あんな滑稽《こっけい》なお世辞を、どこかで読んだのではないとすると、自分で考え出したわけですのね。それじゃ、ますますいけませんわ。あの調子で、あたしのことをヴェリエールじゅうにしゃべりまわったかもしれませんわ。……それほどではないにしても」と、レーナル夫人はなにか思い当るふしがあるかのように、「あのひとは、エリザの前でも、ああいうしゃべりかたをしたでしょうし、それじゃ、まるでヴァルノさんの前でしゃべったのも同然ですわ」
「ううむ!」とどなって、レーナル氏は、これまでにないほど力いっぱい、テーブルを叩いた。部屋が揺らぐほどだった。「活字の匿名の手紙と、ヴァルノの手紙とは、同じ紙に書いてあるぞ!」
《やっと気がついたわ!……》と、レーナル夫人は思った。彼女はこの発見に打ちのめされたかのように見せかけ、言葉も返さずにそばを離れると、サロンの奥へ行き、長椅子に腰をおろした。
これで戦いには勝ったわけである。あとは、匿名の手紙の張本人と思われる男のところへ、談判に行かないように、レーナル氏を説きふせるのが一苦労だった。
「十分な証拠がないのに、ヴァルノさんに喧嘩を吹っかけるなんて、そんな下手なやりかたがあるもんですか。どうしてそれがおわかりにならないんです? あなたはねたまれていますけれど、それはだれのせいですの? あなたに腕がおありだからですわ。町のことは上手にきりまわしていらっしゃるし、屋敷には数奇《すき》をこらしていらっしゃるし、あたしは持参金をもってきたわけですし、とりわけ、あたしの伯母の莫大《ばくだい》な財産はあてにできるわけですし、もっとも世間では、あの遺産をひどく大げさに考えてはいますけれど、とにかくそんなわけで、あなたはヴェリエール第一等の名士になっていらっしゃるわけですわ」
「家柄《いえがら》のことを忘れているぞ」と、レーナル氏はやや微笑を見せていった。
「そう、あなたはこの地方でいちばん身分の高い貴族のひとりでしたわね」と、レーナル夫人はあわてて答えた。「王さまもご自分の思いどおりに、家柄を問題にされるのでしたら、あなたもおそらく貴族院議員になっていらっしゃるところですわ。こんな結構な身分ですのに、あなたは羨《うらや》ましがっているひとに、取《とり》沙《ざ》汰《た》されるような種をまこうとおっしゃるのですか?
匿名の手紙のことでヴァルノさんに談判なさるのは、ヴェリエールはおろか、ブザンソンまで、いえ、この地方全体に、あんな町人の小せがれを、レーナル家ともあろうものが、うっかり家にいれたりしたから、飼犬に手を咬《か》まれる目にあったのだ、ということを吹聴《ふいちょう》するようなものですわ。あなたが今お見つけになった手紙から、あたしがヴァルノさんの求愛にでも応じたという証拠が認められるとおっしゃるのなら、あたしを殺すべきでしょうし、また、そうされてもやむをえないと思います。けれども、ヴァルノさんに腹をおたてになるべきではありませんわ。考えてもごらんなさいな、隣近所のひとたちは、あなたがごりっぱなので、なんとか腹いせの口実はないかとねらっているのですわ。一八一六年のときは、あなたも例の逮捕のことにご関係なさったじゃありませんか。屋根から逃げたあの男は……」
「まったく、あんたはわたしに、敬意も、思いやりも、見せてくれないんだね」と、レーナル氏はそのことを思い出すと、すっかり苦りきって、どなった。「それに、わたしは貴族院議員にはなれなかったのだ!……」
「それなら、あたしだって」と、レーナル夫人は微笑しながらいい返した。「あたしはあなたよりお金持になるでしょうし、あなたには十二年もつれそってきましたもの、あたしにだっていわせていただく資格はあると思いますわ。ことに、今日の事件では。あたしよりジュリヤンさんのようなひとがお好きなら」といいながら、わざと口惜《くや》しそうな様子を見せて、「この冬は伯母のところへ行って過すつもりですわ」
この言葉のいいかたが効果的《・・・》だった。つとめて丁寧ないいかたをしながら、固い決意をあらわしていた。それがレーナル氏を決心させた。だが、田舎の習慣から、そのうえ長いあいだしゃべり続け、ありとあらゆる議論をむし返した。レーナル夫人はしゃべらせておいた。夫の口調には、まだ怒りが残っていたからである。二時間のくだらないおしゃべりで、一晩じゅう怒りの発作に苦しんでいた男は、とうとう疲れはててしまった。彼は、ヴァルノ氏や、ジュリヤンばかりか、エリザに対しても、とるべき態度について方針を立てた。
十二年間つれあいだったこの男の、まざまざとした不幸な姿を目にして、レーナル夫人はこのはげしいいい合いの途中で、一、二度同情の気持を起しかけた。だが、真の情熱は利己的である。それに、彼女は、夫が昨夜受け取った匿名の手紙のことを打ち明けてくれるかと、たえず待ちかまえていたのだが、夫はいい出さなかった。自分の運命を左右するこの男が、どんな考えを吹きこまれたのか、そこを突きとめないかぎり、レーナル夫人は安心できなかったのだ。田舎では、亭主というものは、世論の支配者だからである。フランスでは、日ましにその危険がすくなくはなってきているが、ぐちをこぼす亭主は物笑いの的となる。だが、その細君のほうは亭主から金をもらわなければ、十五スーの日雇い女になりさがるばかりか、まともな家では、尻《しり》ごみして、なかなかそういう女を雇ってくれない。
トルコの後宮の女は、一生懸命トルコ皇帝を愛したところで、皇帝は全能であり、いかに小細工を弄《ろう》したところで、皇帝の権力を奪う望みは全然ない。主君の復讐《ふくしゅう》はすさまじく、残忍だが、武断的で、気前がいい。短刀の一突きがすべてを解決する。十九世紀においては、夫が妻を殺すのに、世間の軽蔑《けいべつ》という短刀を使う。どこのサロンにも顔出しができないようにすればいいのである。
自分の部屋に戻《もど》ると、レーナル夫人はいまさらのように危険をしみじみと感じた。部屋が散らかっているのに気を悪くした。きれいな小箱は、どれもこれも、錠前がこわれているし、はめ木の床板も何枚かはがされている。《あたしはどんなひどい目にあわされたかもしれなかったのだわ! あれほど大事にしている、この着色した床を、こんなにしてしまったんだもの! 子供が濡《ぬ》れた靴《くつ》ではいってこようものなら、真っ赤になって怒るくせに。もう台なしだわ!》あまり簡単に勝利をおさめたことが気になっていたのに、この乱暴なふるまいを見ると、その気持もたちまち消えてしまった。
昼食の鐘が鳴るすこし前に、ジュリヤンが子供を連れて帰ってきた。食事がすんで、召使たちが引きとると、さっそく、レーナル夫人が、ひどく冷淡な態度でいった。
「二週間ばかり、ヴェリエールに行ってきたいと、おっしゃってましたわね。主人はお暇をあげてもいいそうです。いつでもお好きなときに、お出かけになってください。でも、子供たちが怠けるといけませんから、毎日作文をお送りして、直していただきます」
「むろん、休暇といっても、一週間以上は困る」と、レーナル氏はひどく不機嫌そうにつけ足していった。
ジュリヤンはその顔に、苦悩に責めたてられた男の不安の影を見た。
「まだ、腹がきまらないらしいですね」客間でほんのしばらくふたりきりになったとき、ジュリヤンは恋人にそういった。
レーナル夫人は、その朝からのいきさつを、手短かにジュリヤンに話した。
「精《くわ》しいことは今夜ね」と、彼女は笑いながらつけ加えた。
《女って悪党だな! いったい、なにが楽しくて、どんな本能から、男をだますのだろう!》と、ジュリヤンは思った。
「あなたは恋のために利口にもなったが、盲目にもなっていますね」と、ジュリヤンはやや冷淡にいった。「今日のあなたのやり口は見上げたものですが、今夜会おうと思うのは、無謀じゃありませんか? この家は敵だらけです。考えてもごらんなさい、わたしがエリザからどんなに憎まれているか」
「あたしはあなたからどんなにすげなくされていることかしら? あなたの憎まれかたといい勝負よ」
「すげないといわれても、わたしはあなたを危険におとしいれたのですから、あなたを救い出すべきです。ひょっとして、レーナルさんがエリザに話しでもしようものなら、エリザの一言で、なにもかも、ばれてしまうかもしれません。武器を手にして、わたしの部屋のそばに、隠れていないともかぎりませんよ……」
「まあ! 勇気さえないのね!」というレーナル夫人の態度は、貴族の娘らしく、尊大そのものだった。
「自分から自分の勇気をとやかくいうほど、成り下がりたくありません」と、ジュリヤンは冷やかに答えた。「それは卑怯《ひきょう》です。事実から判断してもらいましょう。だが」と、彼女の手を取りながら、「わたしがどんなにあなたを思っているか、このつらいお別れの前に、こうしてお暇乞《いとまご》いができるのを、どんなにうれしく思っているか、あなたはおわかりになりますまい」
第二十二章 一八三〇年の行動のしかた
言葉が人間に与えられたのは自分の考えを隠すためである。
マラグリダ神父
ヴェリエールに着くと、たちまち、ジュリヤンはレーナル夫人に対してひどい仕打ちをしたと後悔した。《あのひとが弱気からレーナルさんとのいい合いで負けたら、おれはあのひとを情けない女だと思って、軽蔑《けいべつ》したにちがいない! あのひとは外交官のように、うまく切り抜けたのに、おれは敵である負けた男のほうに同情している。おれのやり口には俗人なみのけちくさいところがある。おれの虚栄心が傷つけられたのも、レーナルさんが男だからだ! おれが光栄にもこのりっぱで厖大《ぼうだい》な、男という同業組合に属しているからなのだ。おれはばかものにすぎない》
シェラン神父が免職になって、司祭館邸を追い出されたとき、この地方でもっとも有力な自由主義者の連中は、争って住いを提供しようといったが、神父はことわってしまった。神父の借りた二部屋は、本でいっぱいだった。ジュリヤンは聖職者がどういうものかをヴェリエールの連中に見せつけてやろうと思い、父親のもとへもみ《・・》板を十二枚ばかり取りに行き、それを自分で背負って、わざわざ大通りを通って運んでいった。道具は昔の仲間から借り、まもなく書棚《しょだな》らしいものを作りあげてしまい、そこにシェラン神父の本を並べた。
「きみは世間なみの虚栄で堕落したものと思っていたのだ」と、老神父はうれし涙にかきくれながら、ジュリヤンにいった。「あの警護隊の派手な制服で、ずいぶん敵を作ったそうだが、あんなくだらないまねも、これでりっぱに償いができたわけだ」
レーナル氏は、自邸に寝泊りするようにと、ジュリヤンにいいつけておいた。なにがあったのか、だれも知らなかった。ヴェリエールに来て、三日目に、ジュリヤンは思い設けぬ名士の訪問を受けた。郡長のモージロン氏が、わざわざジュリヤンの部屋まで上がってきたのだ。たっぷり二時間、人間の腹黒さとか、公金の管理に当る人間が正直でないとか、この哀れなフランスが危険に瀕《ひん》している等々について、くだらないおしゃべりをしたり、くどくどと泣き言を並べたりしたすえに、やっと訪問の目的をもらした。二人はすでに階段の踊り場まで出てきたところだった。このお払い箱も同然の家庭教師が、いずれは有望な県知事の椅子《いす》につこうというこの郡長に敬意を見せて、これを送り出そうとしていたのだが、そのとき郡長がなんと思ったのか、ジュリヤンの身の上のことを心配しだし、金銭問題にこだわらない点がりっぱだとかなんとか、ほめはじめた。そのあげくに、モージロン氏は、まるで慈父のような態度で、ジュリヤンを腕に抱きしめながら、レーナル家を離れて、何人かの教育すべき《・・・・・》子供がいる官吏のところへ来《こ》ないかとすすめた。その官吏は、フィリップ王のように、子供を授けてくださったことより、ジュリヤンさんの近くに子供を生れさせてくださったことを、天に感謝するだろうというのである。家庭教師には年に八百フランの給料を出すが、月払いでない。モージロン氏がいうには、そんなのは貴族的でないから、年に四回、しかもいつも前払いにするとのことなのである。
今度はジュリヤンの番である。一時間半も我慢して、口をきく機会をねらっていたのだ。彼の答えは完璧《かんぺき》だった。とりわけ、まるで司教の教書のように長たらしかった。あらゆることをにおわせているようで、なに一つはっきりいってはいない。レーナル氏に対する尊敬も、ヴェリエールの町民に対する敬意も、名郡長に対する感謝も、同時に見《み》出《いだ》されるといえたろう。この郡長は自分より役者が一枚上なのに舌をまき、なにか確実なことを握ろうとしたが、甲斐《かい》がなかった。ジュリヤンは腕を磨《みが》くにはいい機会だとばかりに、おもしろがって、別の言葉でまた答えをやり直した。いかに雄弁な大臣でも、議員たちが目を覚ましそうな会議の終りごろをひとりじめにして、しゃべったところで、これほど内容に乏しいことを、これほど言葉を並べ立てて、いうことはできなかったであろう。モージロン氏が出ていくが早いか、ジュリヤンは腹をかかえて笑いだした。調子づいた自分の偽善ぶりにまかせて、彼は九ページにわたる手紙をレーナル氏に書き、聞いたばかりのことを残らず報告して、謙虚にも意見を求めた。《考えてみると、古狸《ふるだぬき》め、だれがおれを雇おうというのか、名前は出さなかったな! ヴァルノ氏だろう。おれがヴェリエールに追い払われたのを見て、匿名《とくめい》の手紙が効を奏したと思ったのだろう》
報告書を送ってしまうと、ジュリヤンは、ある晴れた秋の日の、朝六時に、獲《え》物《もの》のたくさんいる野原に出た猟師のような満足感にひたりながら、シェラン神父のもとへ相談に行った。しかし、この老司祭のもとに行きつかないうちに、ジュリヤンに喜びを与えようという神の思召《おぼしめ》しか、路上でヴァルノ氏にばったり出会った。ジュリヤンは心の悩みをヴァルノ氏に隠そうとはしなかった。自分のような一介の青年は、神様から授けられた天職に身も心も捧《ささ》げるべきところだが、この俗界では天職がすべてではない。主《しゅ》の葡《ぶ》萄《どう》の園でりっぱな働きをし、多くの博学な同僚にあまりはずかしくない程度になるためには、教育が必要であるし、ブザンソンの神学校で二年勉強しなければならないが、それには巨額の費用がかかる。したがって貯金する必要が生じたが、それには六百フランを月々食いつぶしていくより、四回に分けて八百フランをもらうほうがずっと楽である。一方、神のおかげで、レーナル家の子供たちの面倒を見ることになり、とりわけこの子供たちに特別な愛情を覚えるようになったからには、この子供たちをすてて、別の家の子供たちを教育するべきではないというのが神のご意志ではないだろうか?……
帝政時代の行動の機敏に取ってかわったこの種の弁舌の点では、完璧なまでに上達しすぎたため、ジュリヤンは、自分ながら、自分の言葉の響きに嫌《けん》悪《お》を感じた。
家に帰ると、りっぱな仕着せを着たヴァルノ氏の従僕《じゅうぼく》が待っていた。町じゅう捜しまわったのだそうで、その日の午《ご》餐《さん》の招待状を持ってきていた。
ジュリヤンはこの男のところへは一度も行ったことがない。つい二、三日前にも、警察沙汰《ざた》にならないようにして、この男を棒でぶちのめしてやる方法はないものかと、そればかり考えていたのだ。午餐は一時と書いてあったが、ジュリヤンは十二時半には貧民収容所長殿の書斎に顔出ししたほうが敬意を見せることになると思った。行ってみると、所長殿はいっぱい書類をひろげて、そのまんなかで、おさまりかえっている。黒々とした濃い頬髭《ほおひげ》、豊かな髪の毛、頭の上にやや曲げてかぶったトルコ帽、途方もなく大きなパイプ、刺繍《ししゅう》のあるスリッパ、胸の上にごてごてつけまわした太い金鎖、女にもてると思っている田舎の大金持のこうした七つ道具も、全然ジュリヤンを圧倒しなかった。彼はますます、どうしても棒でぶちのめしてやろうと考えるばかりだった。
彼はヴァルノ夫人にご紹介願いたいといったが、夫人はお化粧の最中で、会うことができなかった。そのかわりに、貧民収容所長殿の身仕度に立ち合うというありがたい羽目になった。やがて、ヴァルノ夫人の部屋に行くと、夫人は目に涙を浮べて、子供たちに引き合せた。この婦人はヴェリエールでもとりわけ有名な婦人のひとりだが、男のような大作りの顔だちをしていて、晴れの宴会だというので、紅をつけていた。しかも、席上では、母性愛をあますところなく発揮してみせた。
ジュリヤンはレーナル夫人を思った。猜《さい》疑《ぎ》心《しん》の強い彼は、対比によって呼び起されるといった種類の思い出にしか感じないのだ。だが、感じたとなれば、ほろりとするほど深く感動する。この気持は貧民収容所長の屋敷の内部を見るにつれて深まった。彼は案内された。すべてが見事で真新しい。家具の値段をいちいち聞かされた。だが、ジュリヤンは、どこか卑《いや》しい、盗んだ金の臭《にお》いのするものを感じた。だれもが、召使たちまでが、軽蔑されまいとして、体裁をとりつくろっているように思えた。
直接税収税官や、間接税事務官や、憲兵将校や、その他二、三の官吏が夫人同伴でやってきた。つづいて、数名の金持の自由主義者仲間が来た。食事の用意ができた。ジュリヤンはすでに相当不愉快になっていたところだが、ふと、食堂の壁の向う側には、かわいそうな連中が収容されているのだと思った。ジュリヤンをおどかそうとした、あの悪趣味な贅沢品《ぜいたくひん》にしたって、おそらくこの連中に配給する肉の上前をはねて《・・・・・・》、買い集めたにちがいない。
《あの連中は今ごろ腹をすかしているのだろう》と、ジュリヤンは考えた。喉《のど》がつまって、食べることも話すこともできなくなった。十五分もたつと、それどころの騒ぎではなくなった。ときどき、流行歌らしいものが聞えてきた。収容されている男のひとりが歌っているのだが、正直なところ、やや下品なものだった。ヴァルノ氏が、りっぱな仕着せを着た従僕に、目くばせをした。その従僕が姿を消すと、まもなく歌声は聞えなくなった。そのとき、給仕が、緑色のコップにライン葡萄酒を注《つ》いで、ジュリヤンにすすめた。しかも、ヴァルノ夫人が、この葡萄酒は製造元から直接取り寄せても、一本九フランするのだと、ご丁寧にも教えてくれた。ジュリヤンはその緑色のコップを手に取って、ヴァルノ氏にいった。
「もうあのいやな歌は歌わなくなりましたね」
「そりゃそうですとも、そのはずです」と、所長は得意そうにいった。「乞《こ》食《じき》どもを黙らせるようにいいつけましたからな」
この言葉はジュリヤンにはこたえすぎた。彼は自分の身分にふさわしいふるまいはできたが、まだ心構えはそこまでいっていなかった。偽善の修行をあれほど積んでいながら、彼は大粒の涙が頬を伝うのを感じた。
緑色のコップで涙を隠そうとしたが、ライン葡萄酒をぐっと飲みほすことは、とうていできなかった。《歌わせないようにする《・・・・・・・・・・》、か! なんということだ! だが、お前はそれを黙って見ているのか!》と、ジュリヤンはわれとわが身に向っていった。
さいわい、だれもジュリヤンの場違いな感傷に気がつかなかった。直接税収税官が、王党派の歌の音《おん》頭《ど》をとりはじめたところだった。声を合わせて歌うくり返し文句の騒々しさのなかで、ジュリヤンの良心がささやいた。《これがお前のありつこうという汚《けが》らわしい出世の境遇なんだ! それも、こんなふうにして、こんな連中とつきあわなくては、手にいれられないのだ! なるほど二万フランの地位は手にいれるだろうが、お前が肉をたらふく食っているあいだに、哀れな囚人が歌うのを禁止しなければならないのだ。その囚人のみじめな食《くい》扶《ぶ》持《ち》をごまかして儲《もう》けた金で、ご馳《ち》走《そう》をふるまうか。しかも、そのご馳走のあいだに、囚人のほうはますます不幸な思いをするのだぞ!――ナポレオンよ! あなたの時代は戦《いくさ》の危険を冒して出世することができた、さぞ楽しかったことだろう! それにひきかえ、卑怯《ひきょう》にも、不運な人間の苦しみをますますつのらせるようなまねをするとは!》
正直なところ、ジュリヤンがこの独白で見せた弱味からすれば、ジュリヤンを高く買うことはできない。大国の姿を徹底的に変革しようなどとうそぶきながら、かすり傷一つこうむるのもいやだという、例の黄色の手袋をした陰謀家の仲間いりをするぐらいが、いいところなのだ。
ジュリヤンはいやでも自分の役割に立ち返らざるをえなかった。こんな上流社会の午餐に招かれたのは、勝手な夢を見るためでも、黙りこんでいるためでもない。
ブザンソンとユゼスの学会の通信会員で、引退した更《さら》紗《さ》業者の男が、食卓の向う側から、ジュリヤンに話しかけ、新約聖書の研究でめざましい上達をなさったというもっぱらの噂《うわさ》だが、それはほんとうかときいた。
急にあたりがしんとなった。まるで魔法の力でもかりたかのように、この二つの学会の博学な会員の手から、ラテン語の新約聖書が出てきた。ジュリヤンの答えに応じて、あてもなく開いた個《か》所《しょ》のラテン語の半句が読み上げられた。ジュリヤンは暗誦《あんしょう》した。記憶は確かだった。この神業《かみわざ》は、宴会の終りに見られる騒ぎそのもののなかで、やんやとほめそやされた。ジュリヤンは婦人たちの取りのぼせた顔を眺《なが》めていた。悪くない女がかなりいる。喉自慢の収税官の夫人が彼の目にとまった。
「じつを申しますと、ご婦人がたの前で、こんなに長々とラテン語を使いますのは、恐縮のかぎりでございます」と、彼はその婦人を見つめながらいった。「リュビニョーさん(これは二つの学会の会員の名前だった)、どこでも結構ですから、ラテン文を読んでいただけないでしょうか。その先をラテン語の原文でお答えするかわりに、即席でフランス語に翻訳してお目にかけましょう」
この第二の試しで、彼の光栄はその絶頂に達した。
何人か金持の自由主義者仲間が居合せた。とはいうものの、給費のもらえそうな子供をかかえたしあわせな父親たちで、その給費をねらって最近の伝道以来急に宗旨変えをした連中である。こうした機敏なかけひきを見ても、レーナル氏はけっしてこの連中を自宅に招こうとしなかった。この先生たちは、ジュリヤンの噂をきいているばかりで、***国王臨幸の際にその馬上の姿を見ただけだったが、人一倍騒々しくジュリヤンをほめあげた。《このばかものどもは、いつになったら聖書の文句に聞き飽きるんだ? わかりもしないくせに》と、ジュリヤンは思った。だが、この連中は飽きるどころか、聖書の文体が風変りなので、おもしろがって笑いころげていた。ジュリヤンは飽きてしまった。
六時が鳴ると、ジュリヤンは神妙な顔をして立ち上がり、リゴリオの新しい神学の一章について話した。次の日、シェラン神父のところで暗誦するため、勉強しておかなければならなかったのである。「なにしろ、わたくしの職業はひとに学課を暗誦させたり、わたくし自身でも暗誦することなのでございますから」と、ジュリヤンは笑いながらつけ加えた。
みんなは大笑いもし、感心もした。そんなところがヴェリエールで通用する洒《しゃ》落《れ》なのだ。ジュリヤンはすでに立ち上がっていた。一同もつい作法を忘れて立ち上がった。これが天才の支配力というものである。ヴァルノ夫人が、なお十五分ばかり、ジュリヤンを引きとめた。子供たちが教理問答を暗誦するのを聞いてやらないわけにはいかなかった。その子供たちはおよそ滑稽《こっけい》な間違いをしたが、気がついたのはジュリヤンだけだった。それを指摘してやる気にはなれなかった。《宗教の根本原理さえまったく知らないんだ!》やっと挨拶《あいさつ》をして、これで抜け出せるかと思ったが、もうひとつ、ラ・フォンテーヌの寓《ぐう》話《わ》を我慢してきかなければならなかった。
「この作家はたいへん背徳的です」と、ジュリヤンはヴァルノ夫人にいった。「ジャン・シュアール殿をテーマとした寓話などは、とくに尊敬してしかるべきことを、大胆にも愚《ぐ》弄《ろう》しているものです。りっぱな注釈者たちははげしい非難を浴びせているのです」
ジュリヤンは引きとる前に、四つ五つ午餐の招待を受けた。「あの青年はこの県の名誉だ」と、ひどく上機嫌《じょうきげん》になった来客連中は、感心しながら、口々にいった。そればかりか、ジュリヤンがパリに出て勉強が続けられるように、町の財源から給費を出すことを、町会にはかろうではないかという話までになった。
食堂でこんな出まかせの話をわいわいしているひまに、ジュリヤンはさっさと正門まで出てきてしまった。「まったく、あさましいやつらだ! あさましいやつらだ!」と、ほっとして新鮮な空気を吸いながらも、低い声で、三、四度はき出すようにしていった。
レーナル家では、どんなに丁重に扱われようとも、その底に侮《ぶ》蔑的《べつてき》な薄笑いや、横柄《おうへい》な優越感があるのを見ぬいて、長いあいだ、あれほど腹をたてていたジュリヤンであるが、このときばかりはまったく貴族的な心境だった。はげしい相違を感じないではいられなかった。立ち去りながら、彼は考えた。《哀れな囚人たちの分け前をくすねたことは忘れてもやろうし、歌うのを禁じたことも忘れてやろう。それにしても、お客に葡萄酒をすすめながら、一本いくらだなどと、レーナル氏が一度でもいおうとしたことがあったろうか?それに、あのヴァルノ氏ときたら、しょっちゅう自分の地所をいちいち数えあげているくせに、家内がそばにでもいようものなら、自分の家のことも地所のことも、お前の《・・・》家だの、お前の《・・・》地所といわないでは、話ができないのだ》
《あの細君も細君で、きっと所有感がひと一倍強いらしい。さっきも宴会の最中に、給仕が足つきのコップをこわしたところ、一ダー《・・・》スそろいのものがはんぱになった《・・・・・・・・・・・・・・・》といって、ものすごい剣幕で叱《しか》りつけたじゃないか。給仕は給仕で、口答えの仕方がおよそひとをくっていたな》
《なんという仲間だ。やつらがくすねるものの半分をくれるといったって、おれはやつらと一緒に暮すのはごめんだ。いつかはおれは本性を暴露してしまうし、やつらを軽蔑している気持が顔色に出てしまうだろう》
しかし、レーナル夫人の言いつけどおりに、こうした種類のいくつかの宴会に顔を出さなければならなかった。ジュリヤンは流行児になった。だれも警護隊員の制服のことは咎《とが》めなかった。というよりも、あの無鉄砲なふるまいが、じつは成功の原因だった。まもなく、ヴェリエールでは、この博学な青年を手にいれる競争で、レーナル氏が勝つか、貧民収容所長が勝つかという噂《うわさ》で、もちきりになった。この両氏がマスロン氏とともに三頭政治を形成し、何年も前から、この町を勝手にきりまわしていた。町長はねたまれていたし、自由主義者仲間は町長に不平をもっていた。しかし、なんといっても、町長は貴族であるし、生れつき人の上に立つべき人間だが、これにひきかえて、ヴァルノ氏は父親から六百フランの年金さえ残してもらえなかった。そこで、少年のころは少年のころで、粗末な菜っ葉服を着ていたことを、だれひとり知らないものはなく、憐《あわれ》みの的にされても、これを甘受するより仕方がなく、今は今で、ノルマンディー産の馬や、金鎖や、パリ仕立ての服など、豪勢な暮しぶりが羨望《せんぼう》の的にされても仕方がなかったのである。
無数の新たな知合いのなかで、ジュリヤンはひとりだけ誠実な男を捜しあてたように思った。グロという幾何学者で、過激革命派と考えられていた。ジュリヤンは、自分自身にも嘘《うそ》と思われることしか口にしないと、みずからに誓っているから、このグロ氏に対してもやはり警戒心をすてることができなかった。ヴェルジーからは、かさばった作文の小包がいくつも届いた。しばしば父親に会いに行くようにといってきたので、いやいやながらその義務を果した。要するに、かなり評判を回復しかけていたが、ある朝、両手で目をふさがれて、びっくりして目をさました。
レーナル夫人だった。町まで出かけてきたのだが、子供たちが、連れてきたお気にいりの兎《うさぎ》にかまっているのを、そのまま残し、階段を駆け上がるようにして、子供たちより先に、ジュリヤンの部屋に上がってきたのだ。甘美な一瞬だったが、ごく短かった。子供たちが先生に見せようとして、兎を抱いてはいってきたときは、レーナル夫人は姿を消していた。ジュリヤンはみんなを愛《あい》想《そ》よく迎えた、兎さえも。家族に再会する思いだった。自分はこの子供たちを愛している。そう思うと、子供たちを相手にして、おしゃべりをするのが楽しかった。子供たちの声のやさしさにも、なんでもない動作が純真で上品なのにも驚いた。ヴェリエールの連中の、あらゆる卑しいふるまいや、不愉快な考えかたのまっただなかで、呼吸してきたジュリヤンは、そういうものから頭を洗い清めたいと思っていた。いつも失敗しはしまいかとおびえている。いつも贅沢と貧乏がとっくみあいをしている。午餐に呼ばれていけば、焼肉の話が、話し手の人柄《ひとがら》を疑いたくなるような、きき手にしてみればむしずの走るような内輪話に落ちていくのだった。
「あなたがた貴族のひとたちが気位の高いのもむりはありません」と、ジュリヤンはレーナル夫人にいい、我慢して出かけていった宴会のことを、こと細かに話してきかせた。
「じゃ、あなたは人気者なのね!」そういって、ヴァルノ夫人がジュリヤンを迎えるたびに紅をつけなければいけないと思っているのを考えると、レーナル夫人は声をたてて笑った。「あのかた、きっとあなたの気をひこうという下心があるのよ」
朝食は楽しかった。子供たちが一緒にいるのは、一見邪魔に思えたが、事実はふたりの幸福をますものだった。子供たちのほうは、いじらしくも、ジュリヤンに会えた喜びをどうあらわしたらよいか、わからないといった様子だった。召使たちは、ヴァルノ家の子供たちを教育して《・・・・》くれるなら、二百フラン増額しようと申し込んだものがあったということを、早くも子供たちに話してしまっていたのだ。
朝食の最中に、大病をしたためにまだ血色のよくないスタニスラス = グザヴィエが、ふいに、自分の使っているナイフとフォークや、湯呑《ゆの》みにしているコップは、いくらするのかと、母親にきいた。
「どうしてそんなことをきくの?」
「これを売って、そのお金をジュリヤン先生にあげるの。先生がぼくたちの家にいつまでもいてくださるようにしたいの。そうすればばかをみる《・・・・・》ことなんかないでしょう?」
ジュリヤンは涙を浮べて、子供を抱きしめた。母親もほんとうに泣き出していた。そのあいだに、ジュリヤンはスタニスラスを膝《ひざ》に抱きあげて、ばかをみる《・・・・・》なんて言葉を使ってはいけませんと、いいきかせ、そういう意味で使うと下男たちの言葉づかいになるからといった。レーナル夫人が喜んでいる姿を見て、ジュリヤンは具体的な例をあげて、ばかをみるというのはどういうことかを説明した。それが子供たちをおもしろがらせた。
「わかった。チーズを落っことして、おべっかものの狐《きつね》にとられた、間抜けな烏《からす》のことでしょう?」と、スタニスラスがいった。
レーナル夫人はうれしくてたまらず、子供たちにむやみとキスした。そのためにはどうしても、多少ジュリヤンにもたれかからなければならなかった。
突然、扉《とびら》が開いた。レーナル氏だった。その不満そうなけわしい顔つきは、みんなのなごやかな雰《ふん》囲《い》気《き》と異様な対比を見せた。その雰囲気も、彼があらわれたために、白けてしまった。レーナル夫人は色を失った。なに一つ否定できないと直観した。ジュリヤンが口を切って、大声で、スタニスラスが売りたいといった銀のコップのいきさつを町長さんに、話しはじめた。この話が相手に気持のよい話でないことは、はじめから承知していた。そもそも、レーナル氏は、銀《アルジャン》という言葉を聞いただけで、いつものくせから、眉《まゆ》をしかめるのだった。《金《アルジャン》という言葉を口にするのはきまって、おれの財布からいくらかまきあげようという前置きなんだ》というのが口癖なのである。
だが、この場合は単に金の問題だけではなかった。疑惑が深まったのだ。自分の留守に家族のものが楽しそうにしているというのは、人一倍敏感な虚栄心をもっている男にとっては、そのままではすませられない問題だった。ジュリヤンが教え子たちに、新しい言葉の意味について、いかにも上品で、機知に富んだ説明のしかたをしたといって、レーナル夫人がほめあげると、
「うん、そうだろうさ。わかってるよ。先生のおかげで、わたしは子供たちにきらわれることになるのだ。わたしより十倍も百倍も愛想よくして見せるのは、先生にはわけないことさ。だが、わたしはとにかく一家のあるじだ。今の世の中は、なにもかもが正統な《・・・》権威を目《め》の敵《かたき》にする傾向がある。フランスも情けない国になったものだ!」
レーナル夫人は、夫の態度にあらわれた微妙な変化に注意しようともしなかった。どうやら昼間一日はジュリヤンと一緒にいられそうだと見てとったのだ。町へ出ていろいろ買物をしなければならないといい、ぜひとも料《りょう》亭《てい》に行って食事がしたいといい張った。夫がなんといおうと、なにをしようと、頑《がん》としていい出したことはひっこめなかった。紳士淑女気取りの連中がちかごろ、ひどく楽しそうな顔をして口にする、料亭《・・》という言葉を聞いただけで、子供たちは手を打って喜んだ。
レーナル氏は、最初はいった衣裳店《いしょうてん》に妻を残して、二、三、訪問に出かけた。帰ってきた夫は、朝がたよりますます苦りきった顔をしている。彼としても、町じゅうが自分とジュリヤンの話でもちきりなのを、認めないではいられなかった。もっとも、だれひとりとして、町の噂話で彼の機嫌をそこねそうなことはもらしていなかった。町長さんがどこへ行っても聞かされたのは、ジュリヤンが六百フランでレーナル家に居残るだろうか、貧民収容所長さんが申し出た八百フランを承諾するだろうかという話ばかりだった。
しかも、この所長は集りの席でレーナル氏に出会ったところ、剣もほろろの《・・・・・・》挨拶の仕方をしたのだ。このやりかたはなかなか巧妙だった。田舎では軽率なふるまいはしない。感情を爆発させることがめったにないだけに、爆発させたら徹底的なのだ。
ヴァルノ氏は、パリから百里も離れたこの地方では、いわゆる洒落者《・・・》だった。ずうずうしくて無作法な人間のたぐいなのである。一八一五年以来、景気のよい暮しぶりで、この長所がますます強調された。彼はレーナル氏の指揮のもとに、いわばヴェリエールを支配していた。レーナル氏よりはるかに活動家で、なに事にも赤面しないし、なに事にも首をつっこむ。始終飛びまわっているか、手紙を書いているか、しゃべっている。恥をかいても忘れてしまうし、自分の意見などまるでない。こういった調子で、教会側の勢力家から見れば、町長に匹敵する信望をかちえてしまった。ヴァルノ氏は、土地の乾物屋に向っては「きみたちのうちでいちばんばかなやつをふたりよこせ」といい、法律家仲間に向っては「いちばん無学なやつをふたり教えてくれ」といい、開業医仲間に対しては「いちばん無能な薮《やぶ》医《い》者《しゃ》をふたり指名してくれ」という。こうして、それぞれの職業からいちばんずうずうしいのをかり集めたところで、「さあ、一緒に町を治めようじゃないか」という。ざっとこんな調子なのである。
こういう連中のやり口を、レーナル氏は苦々しく思っている。だが、無作法なヴァルノ氏はどんなことをされても平気なのだ。青二才のマスロン神父に公衆の面前でやっつけられたときでさえ、それを気にもかけなかった。
しかし、こうして羽振りのよい暮しはしているが、ヴァルノ氏は、みんなから痛いところをつかれるのも、やむをえないと思っているので、ときどき小出しに無礼な態度を見せて、自己の信用を確かめる必要があった。アペール氏の来訪で不安の種を植えつけられて以来、彼はますます活躍しはじめ、ブザンソンには三度も出かけた。便のあるたびごとに、いくつも手紙を書いた。そればかりか、日暮れに訪ねてくる得体の知れない男に、手紙を託すこともあった。老司祭のシェランを免職にしたのは、まずかったかもしれない。なにしろ、こんな復讐的《ふくしゅうてき》なふるまいをしたために、多くの信心深い貴婦人たちから、とんでもない悪党だと思われてしまったのだ。もっとも、このつとめぶりが買われて、フリレール副司教からひどく見こまれ、いろいろ奇妙なことを頼まれるようになった。彼の政略がこの段階まできていたとき、つい匿名の手紙を書く気になってしまったのである。そのうえ、細君がどうしてもジュリヤンを雇いたいといい出し、対抗意識から、どうしてもジュリヤンでなければ困るという始末、ヴァルノ氏は弱りきってしまった。
こうなっては、ヴァルノ氏としても、昔の盟友レーナル氏といよいよ一戦をまじえざるをえまいと覚悟していた。レーナル氏からどんなに悪《あ》しざまにののしられようとも、それは問題ではないが、レーナル氏はブザンソンへ手紙を出すかもしれないし、パリへさえ出しかねない。大臣の身寄りとか称する男が、いきなりヴェリエールにあらわれて、貧民収容所長の職務を取り上げてしまうかもしれない。ヴァルノ氏は自由主義者仲間に近づこうと考えた。ジュリヤンが暗誦した宴会に、その仲間の幾人かが招かれたのは、こうした含みがあったからなのだ。町長の反対派からは、強力な支持が得られよう。だが、選挙は急に行われることになるかもしれない。そうすれば、貧民収容所長の立場と、不明朗な投票とが両立しがたいことは、明白すぎるほど明白なことだ。レーナル夫人はこういう政略を早くも見ぬいていた。ジュリヤンの腕をかりて一軒一軒店を見て歩き、だんだん「忠誠散歩道」のほうへ上っていくあいだに、彼女はこうした話をジュリヤンにしてきかせた。二人は散歩道で、ヴェルジーにいたときと同じくらい静かな、数時間を過した。
そのとき、ヴァルノ氏は昔の親分であるレーナル氏に対して、積極的に図太い態度を見せ、なるべく決戦を避けようとしていた。この日は、このやり口が効を奏したが、町長はいよいよ不機嫌になった。
料亭《・・》にはいっていったときのレーナル氏くらい、あわれな心境におちいったものはあるまい。吝嗇《りんしょく》な根性が、およそ貪欲《どんよく》なあさましさを見せて、虚栄心と取っ組み合いをしていたのだ。これに反して、子供たちがこれほどうれしそうにはしゃぎまわったことはなかった。この対比が、とうとうレーナル氏を怒らせてしまった。
「どうやら、わたしは家のなかで余計者になったらしいな!」と、はいるなり、つとめて威厳のある口調をして、いった。
妻は返事するかわりに、夫を小《こ》脇《わき》へ呼んで、どうしてもジュリヤンを遠ざけてもらいたいといった。幸福な数時間を過したばかりのところなので、二週間前から思いめぐらしてきた行動計画を実行に移すに足るだけの、楽な気持と決意が出てきたのだ。哀れにも、町長の気持を完全にかき乱してしまったのは、金《・》銭《・》に対する自分の恋着ぶりが、町じゅう公然と笑いぐさになっているということである。ヴァルノ氏は泥棒《どろぼう》のように金ばなれがよかった。ところが、町長のほうは聖ヨセフ会や、マリア修道会や、聖体秘《ひ》蹟《せき》修道会等々が、最近行なった五、六回の募金の際に、派手というよりは、むしろ控え目にふるまったのである。
寄付金の高に応じて、募金係の修道会員が巧妙に整理した奉加帳によると、ヴェリエールおよびその近郊の田舎紳士のうちで、レーナル氏の名前が最後の行に書かれていることが、一度や二度ではなかった。自分は収入が《・・・》ないのだ《・・・・》などといってはいたが、そんなことは通用しない。聖職者もこういうことでは冗談を認めないのだ。
第二十三章 役人の悲哀
一年じゅう、ふんぞりかえっていられる楽しも、わずか十五分ばかりでも不快をたえしのばなければならないとすれば、ずいぶん高くつくというものだ。
カスティ
しかし、このくだらない男には、勝手にくだらない心配をさせておこう。下男根性の男を求めるべきだったのに、なぜ勇気のある男を家に雇いいれたのか? どうして奉公人の選びかたがわからないのか? 十九世紀においては、勢力のある貴族が勇気のある人間に出会えば、これを殺すか、追放するか、投獄するか、あるいは徹底的に侮辱を加えて、相手が愚かにもそれを苦にして死んでしまうようにしむけるのが定石だ。たまたま、この場合は、苦しんでいるのが、勇気のある人間のほうではないからいい。フランスの小都会でも、ニューヨークのような選挙制の政体の国でも、大きな不幸は、レーナル氏のような人間がこの世に存在するということを忘れてしまえない点である。人口二万の都会では、こういう連中が世論を作る。しかも、世論は立憲政体の国では手がつけられない。高潔で寛大な心をもつ男で、諸君の友人にもなれるような人間がいるとしよう。だが、この男が百里も離れたところに住んでいれば、諸君の住んでいる町の世論で諸君を判断するわけである。ところが、その世論というのは、たまたま貴族で金持で穏健派に生れついたばかものによって作られている。有能な人間こそ災難である!
昼飯がすむと、一同はヴェルジーに帰っていった。だが、その翌々日には、一家そろってヴェリエールに戻《もど》ってきた。
一時間とたたないうちに、ジュリヤンはレーナル夫人がなにか隠しているのに気がついて、びっくりしてしまった。夫と話しているとき、ジュリヤンが姿を見せると、急に話をやめて、まるでそばに来《こ》ないでくれといわんばかりのそぶりをした。ジュリヤンとしては、二度までそんなそぶりを見せてもらう必要はなかった。彼は冷淡で控え目な態度に出た。レーナル夫人はそれに気づいたが、理由をいおうとはしなかった。《おれの後釜《あとがま》を考えてるのかな? つい一昨日《おととい》は、あれほど打ちとけていたのに! だが、上流婦人はこんなふうな態度をとるものだそうだ。まるで王さまそっくりじゃないか。気にいられるといっても、大臣と同じことで、家に帰ってみると解任の手紙が来ている、といったところなのだ》
ジュリヤンは、自分が近づくと急に打ち切られた会話のなかで、ヴェリエール町有の大きな家のことが、しばしば問題になっていたのに、気がついた。それは古いが広くて便利な家で、教会のまん前の、町でもいちばん賑《にぎ》やかなところにあった。《あのうちとこの次の恋人とのあいだにどんな関係があるのだろう?》と、ジュリヤンは思った。やりきれなくなって、フランソワ一世の小《こ》粋《いき》な詩句をいくたびも口誦《くちずさ》んでみた。レーナル夫人に教わってから、まだひと月にもならないので、それが新しい詩のような気がした。あのときは、いくたびも誓い、いくたびも愛《あい》撫《ぶ》をくり返して、こんな詩句はみんな嘘《うそ》だといってくれたではないか!
女ごころと秋の空、
なんでお前があてになろ?
レーナル氏は駅馬車でブザンソンに出かけた。この旅行は二時間かかってきめられた。ひどく悩んでいるようだった。帰ると、灰色の紙にくるんだ大きな包みを、テーブルの上にほうり出した。
「これが例のばかばかしい一件さ」と、彼は妻にいった。
一時間たつと、ジュリヤンはビラ貼《は》りの男がこの大きな包みをもっていくのを目にした。彼は急いでそのあとをつけた。《最初の角を曲れば秘密がわかるだろう》
ビラ貼りの男が、大きな刷毛《はけ》で、ビラの裏をなすっているうしろで、ジュリヤンはもどかしげに、待っていた。ビラが貼られるが早いか、ジュリヤンは好奇のまなざしでそれを見た。レーナル氏とその妻の会話にしばしば出てきた、例の大きな古い家を、一般入札によって貸与するという詳細な告示だった。賃貸の落札は、翌日の二時、町役場の広場で、三本目の蝋燭《ろうそく》の消えるまでと書いてある。ジュリヤンはがっかりしてしまった。時間の余裕がなさすぎると思った。入札希望者にもれなく伝わる暇があるだろうか? だが、とにかく、三度場所を変えて、二週間前の日付になっているこのビラを、上から下まで読み返してみたが、彼にはなんのことやらわからなかった。
ジュリヤンはその貸家を見にいった。彼がやってくるのがわからなかったので、門番は近所の男と、意味ありげな話をしていた。
「まあね、骨折り損さ。マスロンさんはかならず三百フランで貸してもらえるといったんだ。ところが、町長さんはいやだというんだ。そこで、副司教のフリレールさんから司教館邸に呼びつけられたんだ」
ジュリヤンが来たので、ふたりは具合が悪いと見たらしく、それっきり、黙ってしまった。
むろん、ジュリヤンは賃借の入札を見に行った。薄暗い広間は群衆でいっぱいだった。だが、だれもが異様な目つきをして、お互いにじろじろ見合っていた《・・・・・・・・・・》。みんなが目を注いでいるテーブルを見ると、錫《すず》の皿《さら》に、三本の小さな蝋燭がともっている。入札立会人が「三百フラン《・・・・・》!」とどなっている。
「三百フランだって! あんまりむちゃだよ」と、ひとりの男が低い声で隣の男に言った。ジュリヤンはそのふたりのあいだに挾《はさ》まれていた。「あの家は八百フラン以上の価値はある。せりあげてやろう」
「天に向って唾《つば》するようなものだぞ。マスロンさんや、ヴァルノさんや、司教や、手ごわいフリレール副司教とその一党を敵にまわして、なにになるんだ?」
「三百二十フラン」と、もうひとりがどなりながらいった。
「ばかなやつだな!」と、隣の男がいい返した。「それに、見ろ、町長のスパイが来てるぞ」と、ジュリヤンを指差しながらいった。
ジュリヤンはこの言葉を聞きとがめて、きっとしてふりむいた。だが、ふたりのフランシュ = コンテ生れの男は、もうジュリヤンには目もくれなかった。相手が落ち着きはらっているので、ジュリヤンのほうも落着きを取り戻した。そのとき、最後の蝋燭が燃え尽きた。入札立会人の単調な声が、***県庁の課長サン = ジロー氏に九カ年期限、三百三十フランで、落札になったと知らせた。
町長が広間を出ていくと、たちまち、みんながしゃべり出した。
「グロジョがうっかり口を出したから、町に三十フラン儲《もう》けさせることになったんだ」と、ひとりがいった。
「だがな、サン = ジローさんだって、グロジョに仕返しはするぞ。ひどい目にあわされるさ」と、答えたものがいる。
「けしからん話だ! あの家には、おれなら八百フラン出したってよかったんだ。あれを工場にすりゃ、差引こちらの得になるところだったんだ」と、ジュリヤンの左隣にいた太った男がいった。
すると、若い自由主義者の工場主が言葉を返した。
「なに、サン = ジローさんは《修道会》の人間じゃないかね? 子供は四人とも奨学金をもらってないかね? かわいそうに! ヴェリエールの町が五百フランの増俸《ぞうほう》をしてやらなきゃなるまいが、それだけのことさ」
「だが、町長が黙って見てる手はないじゃないか! そりゃ、町長が急進王党派なのは結構だが、盗みはしないんだから」と、もうひとりの男がいった。
「盗み《ヴオレ》はしないって?」と、別の男がいった。「そうさ、《飛ぶ《ヴオレ》のは鳩《はと》》さ。これは結局町の大きな財源にくり入れられて、年末に分配されるってわけさ。おや、ソレルの小せがれが来てるな。行こうじゃないか」
ジュリヤンはすっかり腹をたてて帰った。見ると、レーナル夫人がひどく浮かぬ顔をしている。
「入札に行ってらしたのね?」
「ええ、あそこで、光栄にも町長さんのスパイということにされてしまったんです」
「主人もあたしのいうことをきいてくれたら、よそへ行っていたはずなのに」
このとき、レーナル氏が姿をあらわした。ひどく憂鬱《ゆううつ》そうな顔をしている。昼食のときは、みんな口をきかなかった。レーナル氏は、子供たちと一緒にヴェルジーへ来るようにと、ジュリヤンにいいつけた。道中はやりきれなかった。レーナル夫人は夫を慰めながらいった。
「こんなことにはお慣れにならなくてはいけませんわ」
その夜、みんなは無言のまま、暖炉のまわりに腰をおろしていた。ぶな《・・》の燃えはぜる音ばかりが気をまぎらわせた。どんなに円満な家庭でも、こういう気のめいるようなひとときがあるものだ。すると、子供のひとりがうれしそうに叫んだ。
「ベルが鳴った! ベルが鳴ったよ!」
「畜生! サン = ジローのやつかもしれない。お礼にかこつけて、うるさいことでもいいに来たのなら、いいたいことはこっちにあるんだ。あんまりばかにしてやがる。お礼がいいたけりゃ、ヴァルノのやつにいえばいいんだ。わたしのほうこそいい面《つら》の皮《かわ》だ。あの生意気な過激革命派の新聞が、この一件を嗅《か》ぎつけて、このわたしを九十五氏《ノナント・サンク》扱いしたら、かなわん」
このとき、大きな黒い頬髭《ほおひげ》の美男子が、召使に案内されて、はいってきた。
「町長さま、わたくしはジェロニモと申すものでございます。ナポリ大使館員ボーヴェジ従男爵《だんしゃく》から、出発の際に、あなたさまあての手紙をいただいてまいりました。これでございます」そういって、ジェロニモ氏は、晴やかな顔をして、レーナル夫人を見ながら、つけ加え、「つい九日前のことでございます。ボーヴェジ氏は奥さまのご親戚《しんせき》だそうで、わたくしも親しくしておりますが、このおかたから、奥さまがイタリア語をご存じだと伺いました」
この陽気なナポリ生れの男が、陰気な宵《よい》をひどく明るいものにした。レーナル夫人はぜひとも夜食を出したいといってきかず、そのために家じゅうが大騒ぎとなった。その日二度までも、耳のはたでスパイ呼ばわりされたジュリヤンの気持を、なんとかして引き立たせようと思ったのだ。ジェロニモ氏は有名な歌手で、育ちのよい人物だったが、それでいて、いかにも陽気な性質だった。この二つの素質は、今日のフランスではもうほとんど両立しなくなっている。彼は夜食のあとで、レーナル夫人と二重唱の小曲を歌った。いろいろおもしろい話もした。夜中の一時になって、ジュリヤンから寝に行きましょうとすすめられても、子供たちはいうことをきかなかった。
「もっとお話を続けて」と、長男がせがんだ。
「では、これはわたし自身の話なんですよ、坊ちゃん《シニョリーノ》」と、ジェロニモはまた話し出した。「今から八年前のこと、わたしは坊ちゃんと同じで、ナポリの国立音楽学校の若い生徒でした。坊ちゃんと同じくらいの年ごろだったという意味ですよ。でも、わたしは、残念ながら美しいヴェリエールの町の有名な町長さまの子供ではなかったのです」
この言葉を聞いて、レーナル氏は溜息《ためいき》をもらしながら、妻を見た。
「ツィンガレッリ先生は」と、この若い歌手はレッというところをわざと強く発音して、子供たちを吹き出させ、さらに続けた。「ツィンガレッリ先生はとてもこわい先生でしたよ。音楽学校ではだれからも好かれていませんが、先生のほうは、いつでも自分を慕っているというふうな態度を見せてもらいたいんですね。わたしはできるだけよそへ行って見ることにしていました。サン = カルリーノという小さな劇場に通ったものです。そこではまったくすばらしい音楽を聞かせてくれましたよ。けれども、困りましたな! 大衆席《パルテール》でも八スーするんですから、そのお金をどうしてかき集めたものでしょう? 大金ですからね」と、子供たちを見ながらいった。子供たちは笑い出した。「サン = カルリーノ劇場の支配人のジョヴァンノーネさんが、わたしの歌を聞いてくれましてね。わたしが十三のときでした。この子は掘出しものだぞ、といってくれましたよ。
『きみ、雇ってあげようかね?』と、その支配人がわたしのところへ来て、いうんです。
『いくら下さるんです?』
『月に四十ドゥカットだ』みなさん、百六十フランのことなんですよ。うれしかったの、なんのって!
『でも、あのこわいツィンガレッリ先生がよそに行かせてくれるでしょうか?』と、わたしはジョヴァンノーネさんにききました。
『Lascia《ラシア》 fare《ファーレ》 a《ア》 me《メ》.』」
「わたしにまかせておきなさいってことでしょう?」と、長男が叫んだ。
「そのとおりです、坊ちゃん。ジョヴァンノーネさんは、きみ《カーロ》、とにかく形だけでも契約はしておこうというんです。わたしがサインすると、三ドゥカットくれました。こんな大金は見たこともないのです。それから、わたしがどうしたらいいか、教えてくれました。
その次の日、わたしはこわいツィンガレッリ先生に、お目にかかりたいと申し込んだのです。年寄りの召使に案内されて、先生の部屋に行きますと、
『なんの用かね? このいたずらっ子め』と、ツィンガレッリ先生。
『先生《マエストロ》、ぼくが悪かったと思って、後悔しています。もうこれからは、鉄柵《てつさく》を乗り越えて、学校を出ていったりしません。一生懸命に勉強します』
『きみは、わしがこれまで聞いたことがないほど、美しい低音《バス》をもっているが、それをいためるのが心配でなかったら、二週間は監禁して、パンと水しかやらないところなのだ、このろくでなし』
『先生、ぼくは全校の模範生になります、credete《クレデテ》 a《ア》 me《メ》.。けれど、一つお許し願いたいんです。もしだれかやってきて、よそでぼくを歌わせたいといいましたら、おことわりになってください。お願いですから、そうさせるわけにはいかないと、おっしゃってください』
『きみのような悪たれ小僧を、だれが頼みに来るものか! きみがこの学校をやめるのを、わしが許すとでも思うか? わしをからかう気か! 出ていけ、出ていけ』と、先生はわたしのお尻《しり》を蹴飛《けと》ばさんばかりにしていい、『それとも、水とパンの覚悟をするか?』
それから一時間して、ジョヴァンノーネさんが、校長先生のところにやってきたのです。
『わたくしに儲けさせていただけないかと思って、お願いに上がったのです。ジェロニモを譲っていただけませんか。わたくしの劇場で歌わせ、この冬には娘と結婚させるつもりなのです』
『あんないたずらっ子を、どうしようというのかね? いかん、譲るわけにはいかない。それに、わしが承知したところで、あの子は絶対にこの学校をやめるはずはない。げんに、わしにそう誓ったばかりのところだ』
『本人の意志だけのことでしたら』と、ジョヴァンノーネさんは、真顔になって、わたしの契約書を、ポケットから取り出しながら、『carta《カルタ》 canta《カンタ》 ! このとおり、署名《サイン》があります』
いやもう、ツィンガレッリ先生、おこったのおこらないのって! むやみやたらと、ベルを鳴らし、『ジェロニモを学校から追い出せ』と、青筋を立ててどなったんです。といったわけで追い出されましたが、わたしのほうはおかしくておかしくて。その夜、わたしは数え唄《モルティプリコ》の詠唱《アリア》を歌いました。道化《プルチネッラ》が結婚しようと思って、新婚の世帯《しょたい》に必要なものを、一つ一つ指で数え上げるのですが、何回やっても勘定の途中で、わからなくなってしまうという歌なのです」
「じゃ、その歌を聞かせてくださいませんこと?」と、レーナル夫人がいった。
ジェロニモは歌った。みんなは涙が出るほど、笑いころげた。ジェロニモは、品のよい態度と愛嬌《あいきょう》と陽気さとで、家じゅうのものをひきつけたところで、二時になってやっと寝に行った。
その次の日、レーナル夫妻は、フランスの宮廷に顔出しするのに必要な手紙を、幾通も書いて渡した。
《こういう調子で、どこもかしこも、ぺてんばかりだ》と、ジュリヤンは思った。《あのジェロニモ氏は六万フランの報酬で、ロンドンへ行こうというのだ。抜け目のないサン = カルリーノ劇場の支配人に見《み》出《いだ》されなかったら、あの美声が認められもてはやされるのも、おそらくもう十年はかかったろう。……まったく、おれだってレーナルのような男になるより、ジェロニモみたいな男になりたい。あれは社交界じゃそう高く買われないだろうが、今日みたいな入札で、いやな思いをすることもないし、生活は朗らかだ》
意外なことが一つあった。ヴェリエールのレーナル邸で過したひとり暮しの数週間が、ジュリヤンにとって、幸福の一時期だったということである。不愉快な思いをしたり、暗い気分になるのは、自分のために催された宴会のときだけだった。ひとのいない屋敷では、だれにもわずらわされずに、読むことも、書くことも、考えることもできたではないか。さもしい人間の心の動きを観察するばかりでなく、そういう人間を偽善的な言動で欺《あざむ》くなどという、情けない必要に迫られて、しょっちゅう輝かしい夢想を破られることがなかったのだ。
《幸福なんて、こんな手近なところにあるものか?……そんな生活にかかる費用など知れたものだ。おれは勝手にエリザ嬢と結婚してもいいし、フーケの相棒になってもいいのだ。……とはいえ、旅行者はけわしい山を登りつめて、頂上で腰をおろすと、そこで一息つくのが、なによりの楽しみかもしれないが、いつまでも休んでいろといわれたら、幸福でいられようか?》
レーナル夫人の気持は、ぬきさしならぬところまで来ていた。話すまいと心に誓っておきながら、入札の一件を、すっかりジュリヤンに打ち明けてしまった。《どんなに誓ってみたところで、あのひとの前に出たら、なにもかも忘れてしまうのだわ》と彼女は考えた。
夫が危険におちいっているのを見たら、その生命《いのち》を救うためには、ためらうことなく、自分の生命を投げ出したろう。彼女は気高いロマネスクな心の持主で、高潔な行動がとれると知りながら、それをしないと、まるで罪でも犯したかのように、後悔の念におそわれるといった性質なのだ。しかし、急に夫をなくして、ジュリヤンと結婚できることになったら、どんなに幸福になれるだろうかと思うと、そんな自分の姿を追い払うことのできない、やりきれない日もあった。
ジュリヤンは、父親以上に、彼女の子供を愛している。きびしく叱《しか》りつけても、子供たちから慕われている。ジュリヤンと結婚すれば、木陰になつかしい思い出を秘めた、このヴェルジーを離れなければならないことは、レーナル夫人にもよくわかっていた。だが、パリに出て、子供たちには、みんなの賞讃《しょうさん》の的になっている今の教育を、そのまま受けさせて暮す自分の姿を思い描いてみた。自分の子供も、自分も、ジュリヤンも、みんなが幸福この上もない身の上になるような気がした。
この結婚の奇妙な効果こそ、十九世紀の所産なのだ! 恋愛から結婚にはいったとしても、結婚生活のやりきれなさが、この恋愛を確実に滅ぼしてしまう。しかも一方、働かないでいられるほどの金持の場合は、結婚がじきにあらゆる平穏な享楽《きょうらく》に対する深いやりきれなさをもたらすものだと、哲学者ならいうだろう。したがって、結婚して恋愛におちいらないようなのは、女のなかでも、情のない女ばかりである。
この哲学者の考察からして、わたくしはレーナル夫人を大目に見てやりたい。だが、ヴェリエールのものは大目に見なかった。当人は気がつかなかったが、町じゅうが、彼女の恋の醜聞でもちきりだった。この一大事件で、この年の秋は、だれもがいつもほど退屈しなかった。
またたく間に、秋が去り、冬のはじめも過ぎてしまった。ヴェルジーの森を引き上げるときが来た。ヴェリエールの上流社会は、いくら騒いでみても、レーナル氏がいっこうに感じないので、憤慨しはじめた。ふだん、しかつめらしい顔をしているだけに、こういう楽しい役目を果して、埋め合せをつけようとでもいうわけか、まじめに構えた連中が、一週間とたたないうちに、言葉こそごく控え目ながら、およそ深刻きわまる疑惑を植えつけた。
ヴァルノ氏は、大事をとって、エリザ嬢を人望のある貴族の家に住みこませておいた。女が五人もいる家だった。冬のあいだは口が見つからないかもしれないから、この家では町長さんのところでもらっていた給金の三分の二ぐらいで我慢することにした、と、エリザは称していた。この娘が、元のシェラン司祭のところへも、新任の司祭のところへも懺《ざん》悔《げ》に行き、両方に、ジュリヤンの色事を、こと細かに話そうといううまい考えを起した。
ジュリヤンは、ヴェリエールに帰った翌日、まだ朝の六時だというのに、シェラン神父から呼びつけられた。
「君からはなにも聞きたくない。頼むから、いや、命令するより仕方がないかもしれないが、なにもいわないでくれ。三日のうちにブザンソンの神学校へ行くか、それとも、親友のフーケはいつも君のためにすばらしい道を用意しているそうだから、そこへ行くか、どちらかにしなさい。わしはなにもかも見ぬいて、対策は考えておいたが、出ていってもらわねば困る、それに一年はヴェリエールに帰ってくるな」
ジュリヤンは答えなかった。考えてみれば、自分の父親でもないシェラン神父が、こんなにまで自分のことを心配してくれるのだ、そんなに心配されると、自分の体面は傷つくことになるだろうかどうかと反省してみた。
「明日の今ごろ、またお目にかかります」と、しまいに、ジュリヤンは神父にいった。
シェラン神父は、高飛車に出ればこんな若造なら負かすことができると考えて、しゃべりまくった。ジュリヤンはいかにも神妙そうな態度を取りつくろったまま、口をきこうとしなかった。
やっとそこを出ると、レーナル夫人に知らせようとして、駆けつけた。見ると、レーナル夫人は絶望しきった様子、夫からかなり思いきった話をされたところなのだ。元来、性格が弱いうえに、ブザンソンで遺産を相続するという目算があるので、レーナル氏は、妻にはまったく罪がないのだと思いこむことにして、ヴェリエールの連中が妙な目で見ていると妻に打ち明けたところだった。世間のやつらが間違っている。ねたんでいるやつらにそそのかされているのだ。しかし、とにかくどうしたらいいのか?
レーナル夫人はふと、ジュリヤンがヴァルノ氏の申し出を承諾して、ヴェリエールにとどまることもできようと、空《むな》しいことを考えてみた。しかし、もはや、去年の単純で内気な彼女ではない。因果な愛欲と後悔が目をひらいてくれたのだ。やがて、夫の話を聞きながらも、しばらくのあいだとはいえ、今となってはジュリヤンと別れるより道がないと、悲しい思いで、自分自身にいいきかせないではいられなかった。《あたしから離れれば、ジュリヤンは、また野心的なことを考え出すだろう。なに一つもってないひとなら、あたりまえの話だわ。それなのに、このあたしはこんなに金持なのだけれど、あたしの幸福にはなんの役にもたたないなんて、皮肉なことだわ! あのひとはあたしなんか忘れてしまうだろう。あんなに愛嬌があるんだもの、どうせだれかと恋仲になるにちがいない。ほんとに、情けない。……あたしは愚痴一ついえた義理ではない。神様は正しい。あたしには、罪に見きりをつける力がなかった。神様はあたしから分別をお取り上げになった。あたしさえ、その気になれば、たんまり金を使って、エリザを抱きこむことは、なんでもなかったのに。あたしはほんのちょっと考えてみればよかったのに、それもしないで、しょっちゅう恋に浮かされて、気違いじみたことばかり考えていた。もうおしまいだわ》
ジュリヤンが、レーナル夫人に出ていかなければならないという重大な知らせを伝えても、夫人は、なに一つわがままな反対をしなかった。ジュリヤンは胸をうたれた。彼女は明らかに泣くまいとしている。
「お互いにしっかりしなくちゃいけないわ」
彼女は髪の毛を一房切った。
「これからさきどうするか、わからないわ。でも、あたしが死ぬようなことがあっても、あたしの子供たちのことは、けっして忘れないと約束してくださいね。遠くにいらしても、そばにいらしても、あの子たちをりっぱな人間にしてやってください。また革命が起ったら、貴族はみんな殺されるわ。あの子たちの父も、おそらく国外に亡命するでしょう。屋根の上で殺されたあの百姓の一件があるんですもの。うちのものを見てやってくださいね。……握手してくださいな。さよなら、あなた! これが最後ですわ。こんな大きな犠牲をはらうんですもの、こせこせすることはないわ、あたし、世間の評判を取り戻す勇気が出ると思いますわ」
ジュリヤンは、泣きつかれるものと覚悟していたので、このあっさりした別れかたに、心を動かされた。
「いやです。こんなふうにお別れするのはいやです。そりゃ、出てはいきます。みんなが出ていけというのですし、あなた自身もそれを望んでいらっしゃるのですから。でも出ていって三日たったら、夜、あなたに会いに戻ってきます」
レーナル夫人は、自分の生活が一変したように思った。自分から会いに来る気を起したからには、やっぱりジュリヤンは愛してくれるのだ! たえられない苦悩が、これまで一度も味わったことのない強い喜びに変った。なんでも楽にできそうな気がしてきた。恋人にまた会えるという確信が、この別れぎわの、胸のはりさけるような思いを消してくれた。この瞬間から、レーナル夫人のふるまいも、顔つきも、気品と自信を取り戻し、見上げたものとなった。
まもなく、レーナル氏が帰ってきた。のぼせ上がっている。とうとう、ふた月前に受け取った匿名《とくめい》の手紙のことを、妻に打ち明けた。
「カジノへもっていって、あのヴァルノのやつの仕業だってことを、みんなに知らせてやるんだ。実際あいつが乞《こ》食《じき》同様だったのを拾い上げて、ヴェリエールで指おりの金持にしてやったのは、このわたしなのに。人前で辱《はずか》しめてやって、あいつと決闘をするつもりだ。いくらなんでも、ひどすぎる」
《まあ、あたしは未亡人になるかもしれない》と、レーナル夫人は考えたが、ほとんど同時に思い直した。《この決闘をやめさせることができるにきまっているのに、やめさせなかったら、あたしは夫殺しも同然だわ》
夫の虚栄心をこれほど上手にあやつったことはなかった。二時間足らずのうちに、夫がみずから見つけた理由を逆用して、今まで以上にヴァルノ氏に親しくするばかりか、エリザを雇い直すべきだというふうに思いこませた。レーナル夫人としては、勇を鼓して、自分にあらゆる苦汁《くじゅう》をなめさせたこの娘の顔を、再び見る決心をつけたのだ。もっとも、これはジュリヤンが思いついたことだった。
とにかく、レーナル氏は三、四度妻にたきつけられて、やっと自分から、金銭的にははなはだつらいのだが、次のような考えに到達した。なんとしても不愉快なのは、ジュリヤンが、ヴェリエールじゅうの噂《うわさ》がわき立っているさなかに、ヴァルノ氏の子供の家庭教師として、この町にそのままとどまるということだった。ジュリヤンの立場からすれば、むろん、貧民収容所長の申し出を受け入れるほうが、得にきまっている。それに反して、レーナル氏の体面からすれば、ジュリヤンがヴェリエールを去って、ブザンソンなり、ディジョンなりの神学校に行ってくれればありがたいわけなのである。だが、どうしたら、ジュリヤンをその気にさせることができよう?神学校の生活費はどうするか?
レーナル氏は、莫大《ばくだい》な出費をしなければならないと思うと、細君以上にしょげ返ってしまった。彼女としては、ジュリヤンと話し合っているので、度胸のある人間が生活に疲れて一服まんだらげ《・・・・・》のしびれ薬を呑《の》んだような心境だった。呑んだとなると、もはやバネ仕掛で動いているだけのことで、なに事にも興味がない。臨終のルイ十四世が「余が国王であったとき」といったのも、こんな状態にあったからなのだ。すばらしい言葉ではないか!
その次の日、朝早く、レーナル氏は一通の匿名の手紙を受け取った。およそ侮辱的な文体の手紙だった。一行一行、この上もなく下品な言葉だが、彼の立場をずばりといいあてた言葉がある。だれか下役でねたんでいるものが書いたらしい。この手紙から、またもヴァルノ氏と決闘する気を起した。やがて、ただちに決行しようという意気ごみから、ひとりで家を出ると、武器商のところへ行き、ピストルを買って、弾丸《たま》をこめさせた。
《たしかに、ナポレオン皇帝の武断政治が復活しようとも、おれはやましいと思うような、腹黒いまねは、ほんのちょっとでもしたことがない。せいぜい見て見ぬふりをしたぐらいのものだ。それにしたって、当然の処置だということを証拠だてる、まともな手紙が、何通でもおれの机にはいっている》
レーナル夫人は、夫が怒っていながら、冷静なのを見て、空おそろしくなった。あれほど一生懸命追い払おうとしていたのに、未亡人になるかもしれぬという執念がまたもあらわれた。彼女は夫とふたりきりで部屋に閉じこもった。数時間にわたって、ひるがえさせようとしたが、その甲斐《かい》はなかった。今度の匿名の手紙で、夫の腹はきまってしまっていた。やっと、彼女は、ヴァルノ氏にびんたをくらわす勇気を、ジュリヤンが神学校で必要とする一年間の学資として六百フランを出すという勇気に、ふり変えさせることができた。レーナル氏は、家庭教師を雇おうなどという、とんでもない考えを起した日のことを、幾度となくののしっているうちに、匿名の手紙のことは忘れてしまった。
妻にはいわなかったが、ある考えを思いついて、いくらか気持がおさまった。それは、うまく話をもちかけ、あの青年のロマネスクな考えかたにつけこんで、もっとすくない金額で承知させ、ヴァルノ氏の申し出をことわらせることができようというのだ。
貧民収容所長が公然と申し込んできた八百フランの職を、夫の体面を考えて犠牲にしてくれるのだから、その埋め合せを受け取ってもすこしもはずかしくないではないかということを、ジュリヤンに納得させるのは、レーナル夫人としては、夫の場合より、なおさら骨が折れた。
ジュリヤンは幾度もいい返した。
「でも、わたしははじめっから、ほんの一瞬間でも、あんな男の申し入れを承諾する気はなかったんです。あなたのおかげで、上品な生活にすっかり慣れてしまいましたから、ああいう下品な連中には、とても我慢できないのです」
残酷にも切迫した事情の、鉄の腕《かいな》の前には、ジュリヤンの意志も屈せずにはいられなかった。自尊心の手前、ヴェリエールの町長が出してくれる金を借りることにはするが、五年後には元利ともに返済すると書いた証文を渡そうかなどと、つまらないことを考えた。
レーナル夫人は、山のなかの、例の小さな洞窟《どうくつ》に、相変らず数千フランを隠してある。
彼女はジュリヤンが受け取らないだろうし、どなられるだろうとはわかっていながらも、おそるおそるその金を使ってもらえないだろうかといってみた。
「わたしたちの恋の思い出を、汚《けが》そうというつもりですか?」と、ジュリヤンはいった。
とうとう、ジュリヤンはヴェリエールを去った。レーナル氏は非常に喜んだ。いよいよレーナル氏から金を受け取らざるをえなくなったとき、ジュリヤンはこの犠牲があまりにも大きすぎると思った。彼はきっぱりことわった。レーナル氏は目に涙を浮べて、ジュリヤンの頸《くび》をかき抱いた。ジュリヤンが身分証明書を求めると、彼は感激のあまり、その品行を大いに賞《ほ》めようとしても、うまい文句が出てこないありさまだった。ジュリヤンは五ルイの貯金があったし、フーケからも、五ルイを借りるつもりだった。
ジュリヤンはすっかり感動していた。だが、あれほど恋の思い出の多いヴェリエールから一里も離れると、もはやブザンソンのような県の首都、大きな要塞《ようさい》都市を見る楽しみばかりを思いえがいていた。
この短い三日間の留守のあいだ、レーナル夫人ははげしい恋の幻想にたぶらかされていた。毎日がどうにか送れたのは、自分とぎりぎりの不幸のあいだに、ジュリヤンとの最後の密会が残されていたからなのだ。彼女は、それまでの時間を計り、一分一秒を数えていた。ついに、三日目の夜、しめし合せておいた合図が遠くから聞えた。あらゆる危険をおかして、ジュリヤンが目の前にあらわれた。
この瞬間から、彼女はこれが見おさめだということしか考えなかった。恋人の愛《あい》撫《ぶ》に答えるどころか、まるで生ける屍《しかばね》のようだった。むりに、恋しかったといおうとしても、どこか取ってつけたようで、ほとんど反対の気持をいっているように思えた。永遠の別れだという、いたましい思いが、片時も離れないのだ。猜《さい》疑《ぎ》心《しん》の強いジュリヤンはふと、もう忘れられたのかと思った。そうした怨《うら》み言《ごと》をいっても、彼女は黙って大粒の涙を流し、痙攣《けいれん》したように手を握りしめるばかりだった。
「だって、こんな調子で、あなたが信じられますか?」と、ジュリヤンは、恋人のこうした冷たい応じ方に対していった。「デルヴィル夫人にだって、ほんの顔見知りのひとにだって、くらべものにならないくらい親しげな様子を見せるじゃないですか」
レーナル夫人は石像のようになって、返事もできなかった。
「あたしみたいに不幸な女がいるはずはない。……このまま死んでしまいたい。……心臓が冷たくなっていくようですわ……」
それがジュリヤンの聞きえたいちばん長い返事だった。
夜が白み、いよいよ出ていかなければならなくなったとき、レーナル夫人の涙は、まったくかれ果ててしまった。ジュリヤンが綱を結んで窓のところにしばりつけるのを、黙ったまま、キス一つ返そうともせず、眺《なが》めていた。
「これであなたが望んでおられたとおりになりましたね。これからは良心の呵責《かしゃく》もなく暮せるわけです。お子さんがちょっと具合が悪いからといって、お墓にでもはいってしまったような気になることもないでしょう」
ジュリヤンはそんなことをいってみたが、むだだった。
「スタニスラスにキスしてやっていただけないのが残念ですわ」と、彼女は冷やかにいった。
ジュリヤンはこの生ける屍から、気のない抱擁を受けると、深く心を打たれてしまった。幾里も歩きつづけながら、そのことばかりが思い出された。心はめいるばかりだった。そして山を越すまでは、ヴェリエールの教会の鐘楼が見えるかぎり、いくたびも振り返って見た。
第二十四章 首都
喧騒《けんそう》なことといったら! それに忙しそうなひとばかりだ!
二十歳の青年の頭には、未来の夢がいくらでもある!
恋を忘れさせてくれるには、もってこいだ!
バルナーヴ
やっと、遠くの山の上に、黒い城壁を認めた。それがブザンソンの城砦《じょうさい》だった。ジュリヤンは溜息《ためいき》をつきながらいった。《このりっぱな軍都にやってきて、この町の防衛にあたる連隊にでも、少尉として入隊するのだったら、話はすっかり違っているところなのだ!》
ブザンソンは単にフランスでもいちばん美しい都会の一つであるばかりでなく、勇気のある人間や、才知のある人間がたくさんいる。だが、ジュリヤンは一介の田舎者にすぎず、りっぱな連中に近づくなんらの手だてももっていない。
フーケのもとで背広を借りてきたので、その背広姿で城砦の跳ね橋を渡った。一六七四年の包囲戦の歴史で頭がいっぱいだったので、神学校に閉じこもる前に、城壁や城砦を見ておこうと思った。二、三度、歩哨《ほしょう》につかまりかけた。彼がはいりこんだ地帯は、毎年、十二フランから十五フランぐらいで乾草《ほしくさ》を売るために、工兵隊が一般民衆の立入りを禁じているところだったのだ。
高い城壁や深い堀《ほり》やおそろしい格好の大砲などに、何時間か心を奪われているうちに、ふと、大通りの大きなカフェの前を通りがかった。感心して、立ちどまってしまった。途方もなく大きな、二つの扉《とびら》の上に、大きな字で書かれた、カフェという文字を、いくら読んでみても、自分の目が信じられなかった。気おくれするのをおさえて、思いきってはいっていった。見ると、奥行が十五間ないし二十間もある広間で、天井《てんじょう》の高さはすくなくとも二十尺はある。その日は、すべてに心を奪われた。
二組の玉突きが行われていた。ボーイたちが大声でゲームをとっている。突き手は、黒山のような見物人に囲まれて、台のまわりを、行ったり来たりしている。みんなの口から立ち上る煙草《たばこ》の煙が、まるで青い雲のように、あたりを包んでいる。その連中の背の高さ、円い肩、重々しいしぐさ、途方もなく大きな頬髭《ほおひげ》、着ている長いフロックコート、すべてがジュリヤンの注意をひいた。これら昔のビゾンティウムの毛なみのいい子孫たちは、どならなければ話ができないらしく、おそろしい戦士のような態度を見せている。ジュリヤンは立ちつくしたまま、見とれていた。ブザンソンのような大都会の、広さと華麗さを、つくづくと思ってみた。高慢な目つきをした、紳士のようなボーイのひとりに、思いきってコーヒーを一杯注文する気には、とうていなれなかった。なにしろ、どなるようにしてゲームを取っているのだ。
だが、カウンターにいる娘が、この田舎町の若者のかわいい顔だちに目をつけたのだった。若者はストーヴのそばで立ちどまって、小さな包みをかかえたまま、白いりっぱな石《せっ》膏《こう》の国王の胸像を眺《なが》めている。娘は背が高く、フランシュ = コンテ生れで、カフェを流行《はや》らせるにはうってつけの、格好のいい、身体《からだ》つきをしていた。さっきから、二度も、ジュリヤンにだけしか聞えないような声で、そっと、あなた《ムッシュー》! あなた《ムッシュー》! と呼んでいたのだ。ジュリヤンは、ひどくやさしそうな大きな青い目にぶつかると、自分に話しかけているのに気がついた。
つかつかと、まるで敵に向って突進するかのように、美しい娘のいるカウンターに近づいた。あまりいきおいがよすぎて、包みを取り落した。
パリの若い中学生は、十五歳で早くも、とりすました様子をしてカフェにはいっていく。かれらにはこの田舎者の姿など、どんなに哀れぽく見えるかしれない。だが、この少年たちは、十五歳でこれほどりっぱに仕込まれながら、十八歳になると、凡俗《・・》になりさがってしまう。田舎で見かける情熱を秘めた内気さは、ときとして乗りこえられると、思いきった行動のきっかけとなることがある。話しかけてくれた美しい娘に近づきながら、ジュリヤンは《あの娘にはほんとうのことをいってやろう》と考えた。気おくれにうちかって、勇気が出てきたのだ。
「ぼくは生れてはじめてブザンソンに出てきたのです。お金はお払いしますから、パンとコーヒー一杯ください」
娘はちょっと微笑してから、顔を赤らめた。玉突きをしている連中が、皮肉な目でこの美少年を見たり、からかったりしまいかと心配になったのだった。そうなると、おびえて、二度とこの店に来《こ》なくなるかもしれない。
「ここにおかけなさいな、あたしのそばの」と、大理石のテーブルを指さしながら、娘がいった。マホガニーの大きなカウンターが広間に突き出しているので、テーブルはほとんど隠れてしまっている。
娘はカウンターの外へ体を乗り出した。そのため、見事な腰まわり《ヒップ》が丸見えになった。ジュリヤンは見のがさなかった。まるで考えが変った。この美しい娘が目の前にコーヒー茶碗《ぢゃわん》と砂糖と朝食のパンを置いてくれたところだった。彼女はコーヒーを注《つ》いでもらうために、ボーイを呼んだものかどうかとためらっていた。ボーイが来れば、ジュリヤンとの差向いがおしまいになるのがわかっていたからである。
ジュリヤンは物思いに沈んで、この陽気なブロンドの美人と、しばしば心を高鳴らすある種の思い出とを比べ合せてみた。自分ははげしく愛されたことがあるのだと思うと、ほとんど気おくれも感じなくなった。美しい娘は、たちまち、ジュリヤンの目つきから察してしまった。
「こんなパイプの煙を吸ったら、咳《せき》が出るわ。明日の朝、八時までに朝御飯を食べにいらっしゃい。そのころだと、ほとんどあたしだけですから」
「お名前はなんていうんです?」と、ジュリヤンは、てれながらも、うれしくなって、愛《あい》想《そ》のいい微笑を浮べてきいた。
「アマンダ・ビネっていうの」
「一時間したら、これと同じぐらいの大きさの小さな包みを、あなたあてに送ってもいいですか?」
美しいアマンダは、ちょっと考えこんだ。
「あたし、見張りされてるの。お引受けしたら、面倒なことになるかもしれないわ。でも、カードにあたしの宛《あて》名《な》を書いてあげますから、あなたの包みの上にそれをつけて、あたしあてに思いきって送ってみてくださいな」
「ぼくはジュリヤン・ソレルっていうんです。ブザンソンには身寄りも知合いもないんです」
「あら、わかったわ」と、娘はうれしそうに言った。「法律学校にはいるんでしょう?」
「残念ですけど、そうじゃないんです。神学校へいれられるんです」
すっかり失望したアマンダの顔から明るさが消えた。彼女はボーイを呼んだ。呼ぶだけの勇気が出たのだ。ボーイはジュリヤンの顔も見ないで、コーヒーを注いだ。
アマンダはカウンターで代金の受取りをしている。ジュリヤンは、思いきって口をきいたので、得意になっていた。玉突き台の一つで口論が起った。玉突きをしている連中のどなり声や、いい返す声が、この広いホールに響きわたり、あまりのやかましさに、ジュリヤンはびっくりした。アマンダはなにか考えているらしく、目を伏せていた。
ふいに、ジュリヤンは落ち着きはらった調子でいった。
「よろしかったら、あなたの従弟《いとこ》だといいましょう」
どこか高飛車な口調が、アマンダの気にいった。《この子はただの若者じゃないわ》と、彼女は考えた。彼女はジュリヤンを見ないで、ひどく急いでいった。だれかがカウンターに近づいてきはしまいかと見まわしていたのだ。
「あたし、ディジョンの近くのジャンリス生れよ。あなたもジャンリス生れで、あたしの母の従弟だっていうといいわ」
「必ずそういいます」
「夏は、木曜日ごとに、五時ごろ、神学生さんたちがこの店の前を通るわ」
「ぼくのことをお忘れでなかったら、ぼくが通るとき、菫《すみれ》の花束を手にもっていてください」
アマンダはびっくりした顔つきで、ジュリヤンを見つめた。その目つきを見て、ジュリヤンの勇気は途方もなく増長した。しかし、真っ赤になっていった。
「あなたが好きで好きでたまらない気がします」
「もっと低い声で話してよ」と、娘はうろたえたようにしていった。
ジュリヤンはヴェルジーで見つけた『新エロイーズ』の端《は》本《ほん》のなかの文句を考えた。さいわい記憶がよみがえってきた。十分ばかり『新エロイーズ』をアマンダ嬢に暗誦《あんしょう》して聞かせたわけだ。娘はうっとりして聞きほれ、ジュリヤンは自分の大胆なふるまいにいい気になっていた。すると、急にフランシュ = コンテ生れの美人の顔が、氷のように冷たい表情になった。情夫の一人が戸口にあらわれたのだ。
男は口笛を吹き、肩をいからせながら、カウンターに近づき、ジュリヤンをじろりと見た。たちまち、いつも極端な考えになるジュリヤンは、決闘のことで頭がいっぱいになった。顔色を変え、コーヒー茶碗を押しやり、気構えを見せて、きっと相手をにらみ返した。この恋敵《こいがたき》がカウンターの上で、なれなれしく自分でグラスにブランデーを注ぎながら、うつ向き加減になったとき、アマンダはジュリヤンに目を伏せるようにと目くばせをした。ジュリヤンはおとなしくそのとおりにした。ほんのしばらくじっとしていたが、顔色は青ざめ、覚悟のほどを見せ、どういうことになるかと待ち設けていた。この一瞬のジュリヤンはまことに見上げた態度だった。恋敵はジュリヤンの目つきに驚いたのだったが、ブランデーのグラスを一息にあおると、アマンダになにか一言いって、大きなフロックコートの両脇《りょうわき》のポケットに両手を突っこみ、ふーっと息を吐き、ジュリヤンをじろじろ見ながら、玉突き台のほうへ行った。ジュリヤンは怒りにかられて立ち上がった。だが、どう出たら相手を侮辱できるのかわからなかった。その小さな包みを置くと、できるだけ体をゆすぶるようにして、玉突き台のほうへ歩いていった。《ブザンソンに着くなり決闘か、それじゃ聖職者の道もおじゃんになるぞ》と、慎重さがささやいたが、そんなことで、思いとどまりはしなかった。
「かまうもんか、無礼なやつを見のがしたとあっては、おれの顔が立たん」
アマンダはその勇気のほどを見てとった。それがどこか純真なふるまいと、なかなかいいコントラストだった。たちまち、アマンダはフロックコートの背の高い青年よりも、ジュリヤンのほうが好きになった。立ち上がると、だれか往来を通りがかる男でも目で追っているかのようなふりをしながら、すばやくジュリヤンと玉突き台のあいだに割りこんだ。
「あのひとを横目でじろじろ見ないでちょうだい。あたしの義兄よ」
「それがどうだっていうんです? 向うがにらんだんですもの」
「あたしを困らせたいの? そりゃ、あのひとは見たでしょうし、あなたに話しかけてくるかもしれないわ。あなたのこと、あたしの母の身寄りで、ジャンリスから出てきたって、いってやったんですもの。あのひともフランシュ = コンテ生れだけど、ブールゴーニュ街《かい》道《どう》は、ドールより先へ一度も行ったことがないの。だから、なにいったっていいわ、心配することないわ」
それでもジュリヤンはためらっていた。アマンダは急いでつけ加えた。カウンターづとめの女のことだから、頭は働く。出まかせをいうくらいのことはなんでもない。
「そりゃ、じろっと見たかもしれないけど、それはあなたのことだれかって、きいたときのことよ。あのひと田舎っぺえ《・・・・・》だからだれに対してもああなの。あんたを侮辱する気なんかありゃしなかったのよ」
ジュリヤンは、アマンダのいう義兄を目で追っている。男は二つの玉突き台の奥のほうでやっている玉突きの賭《か》け札《ふだ》を買っているところだった。太い声で、おどかしつけるようにして、「よし《・・》、おれもやるぞ《・・・・・・》!」とどなるのが、ジュリヤンにも聞えた。彼はアマンダ嬢のうしろをするりと抜けて、玉突き台のほうへ一歩行きかけた。すると、アマンダが腕をつかんで、
「先に勘定を払ってよ」といった。
《そりゃそうだ。おれが勘定もしないで出ていくかと思ってるのだな》アマンダはジュリヤンに劣らずあが《・・》ってしまい、ひどく赤い顔をしていた。できるだけゆっくり釣銭《つりせん》を渡しながら、低い声でくり返していった。
「すぐお店を出ていってちょうだい。でないと、あなたなんかきらいになってよ。でも、ほんとは好きなんですけど」
ジュリヤンは出てはいったが、ゆっくり出ていった。《おれのほうでも、あの下品な野郎に息を吹っかけて、にらみつけてやるのが、おれの義務じゃあるまいか?》と、彼はいくたびも考えた。決心がつかないので、大通りに出たものの、カフェの前で、一時間もぐずぐずしていた。相手が出てくるのを見張っていたが、男は出てこなかったので、ジュリヤンは立ち去った。
ブザンソンに着いてから、まだ二、三時間にしかならないのに、ジュリヤンは早くも後悔するようなことをしでかしてしまったのだ。老軍《ぐん》医《い》正《せい》はむかし痛風をこらえながらも、剣術の手ほどきをしてくれた。怒りを鎮《しず》めるのに役だつ知識といえば、それだけしかない。だが、相手の頬をひっぱたいて決闘を挑《いど》むのではなくて、別の形で腹をたてる方法を心得ていたら、こんな当惑も、問題ではなかったろう。かといって、取っ組み合いにでもなったら、相手は大男なのだから、ジュリヤンを叩《たた》きのめして、さっさと引き上げてしまったにちがいない。
《おれみたいな、保護者もなければ金もない、哀れな人間にとっては、神学校も、牢《ろう》屋《や》も、たいした違いはない。どこかの宿屋にこの背広を預けて、また黒服を着なければなるまい。いずれ、二、三時間は神学校を抜け出すこともできよう。そんなときには、この背広を着て、アマンダ嬢に会いに行ってもいいわけだ》理屈だけはりっぱだったが、どの宿屋の前を通っても、はいっていく気になれなかった。
やっと、アンバサダー・ホテルの前をもう一度通りがかったとき、彼の不安そうなまなざしが、太った女のひとの目とぶつかった。まだかなり若く、血色のよい、明るくて、朗らかな感じの女だった。
「よござんすとも、かわいらしい神父さん、その背広はお預かりしましょう。しょっちゅうブラシをかけさせておきますよ。この季節じゃ、毛織の服をそのままほっておくと、よくありませんからね」アンバサダー・ホテルの女将《おかみ》はそういって、鍵《かぎ》を手に取ると、自分からジュリヤンを部屋に案内し、残していくものの名前を書きとめておくようにとすすめた。
ジュリヤンが台所へおりてきたのを見て、太った女将がいった。
「まあ、そうしてらっしゃるところはごりっぱですわ、ソレル神父さん。じゃ、ご馳《ち》走《そう》を作ってあげましょう」そこで声を落して、「みなさんからは五十スーいただくんですけれど、あなたは二十スーにしておきます。あなたのへそくり《・・・・》は大事にしておかなければなりませんからね」
「ぼくは十ルイもってるんです」と、ジュリヤンはちょっと得意になっていった。
人のいい女将は驚いていい返した。
「まあ、だめですよ! そんなことを平気で口に出すもんじゃありませんよ。ブザンソンには悪い連中がたくさんいますからね。すぐちょろまかしてしまいますよ。カフェなんかには絶対にはいってはいけませんよ。悪い連中のたまりですからね」
「そうですね!」悪い連中という言葉を聞いて、ジュリヤンは考えこんだ。
「わたしのところ以外に行ってはだめですよ。わたしのところでコーヒーをいれてあげます。いつでも、ここなら、親切な女がいて、二十スーでご馳走を出してくれるってことを忘れないでね。さあ、テーブルにお着きなさい。わたしがお給仕してあげます」
「食べられそうにもないんです。胸がいっぱいです。なにしろ、ここから出ていくと、神学校にはいることになるんですから」
それでも、人のいい女将はジュリヤンのポケットに食べ物をつめこんだうえで、出ていかせた。とうとう、ジュリヤンはおそろしい場所に向って歩き出した。女将が戸口から道を教えてくれた。
第二十五章 神学校
八十三サンチームの昼食が三百三十六人前、三十八サンチームの夕食が三百三十六人前、飲める資格のあるものにはチョコレート。これで引き受けて、引き合うものかね?
ブザンソンのヴァルノ
遠くから門の扉《とびら》の上の、金色に塗られた鉄の十字架が見えた。彼はゆっくり近づいた。脚の力が抜けていくような気がした。《いよいよこの世の地獄に来たぞ。はいったら抜け出せないのだ》やっと決心して鐘を鳴らした。鐘の音がいかにも静かな場所らしく響きわたった。十分ばかりすると、黒服を着た、色つやの悪い男が出てきて開けてくれた。ジュリヤンはその男の顔を見たが、すぐ目を伏せた。この門番が奇妙な顔をしていたからである。飛び出た緑色の瞳《ひとみ》が、猫《ねこ》の瞳のように円い。瞼《まぶた》のふちが動かないのは、全然同情心を持ち合せていないことをあらわしている。薄い唇《くちびる》が、出っ歯の上に半円形を描いている。しかし、この容貌《ようぼう》は犯罪者の顔つきではなく、むしろ完全な無感動をあらわしている。それだけに、よけい青年には恐怖心を起させるものである。ジュリヤンがこの信心深そうな長い顔を一瞥《いちべつ》して、読み取ることのできた感情は、天国と関係のないようなことをいくら話しかけられても、深い軽蔑《けいべつ》を示すだろうということだけだった。
ジュリヤンはやっとの思いで目を上げ、胸をどきどきさせながらふるえ声で、神学校長のピラール神父にお会いしたいといった。黒服の男は一言も口をきかないで、ついてこいという合図をした。ふたりは、木の手すりのついた広い階段を、三階まで上っていった。階段はそり返っていて、壁と反対側のほうへすっかりかしいでいるし、いまにもこわれそうだった。小さな扉の上に、墓標の大きな白木の十字架を黒く塗ったのが、はりつけてある。扉は開けにくかったが、それを開けると、門番は、天井《てんじょう》の低い、薄暗い部屋に案内した。漆喰《しっくい》を塗った壁には、時代を経て黒ずんだ、大きな絵が二つ飾ってある。ジュリヤンはそこにひとり取り残された。めいるような気持で、心臓ばかりがはげしく鼓動した。思いきって泣けたら、せいせいしたにちがいない。死のような沈黙が、この家全体を支配していた。
十五分ばかり待たされ、それがまるで一日のように思われたが、やがて例の陰気な顔をした門番が、部屋の向う側の入口の閾《しきい》のところにまた姿を見せ、口をきこうともしないで、こっちへ来《こ》いという合図をした。前の部屋よりもっと大きな部屋に通された。ろくろく光のはいらない部屋だった。壁はやはり白く塗ってあるが、家具はなかった。ただ入口の近くの片隅《かたすみ》に、白木の寝台と、二脚の藁《わら》椅子《いす》と、クッションのないもみ《・・》板づくりの小さな肱掛《ひじかけ》椅子が一脚置いてあるのが、通るときに見られた。部屋の向う側の隅には、黄色くなった小さなガラス窓があり、汚れたままの花《か》瓶《びん》が二つ三つ置いてある。そのそばの机の前に、くたびれた法《ほう》衣《え》を着た男のすわっているのが目にはいった。腹をたてているような顔つきをして、四角な紙片の山を一枚ずつ手に取って、二、三なにか書きこんでは、机の上に並べている。ジュリヤンがはいってきたのに、気がつかなかったのだ。ジュリヤンを部屋のまんなかに残して、門番は戸を閉めて出ていった。ジュリヤンはそこにつったったままでいた。
こうして十分間が過ぎた。ぼろ服の男は相変らず書き続けている。感動と恐怖のあまり、ジュリヤンはいまにも倒れそうな気がした。哲学者なら、おそらく勘違いをして、これは、美しいものを愛するようにつくられた心に、醜いものが与える強烈な印象のせいである、といったにちがいない。
書き続けていた男が顔を上げた。ジュリヤンは、すこしたって、はじめてそれに気がついた。しかも、相手の顔を見てからも、まるでそのおそろしい視線に射すくめられてしまったかのように、やっぱり立ちつくしていた。目はくらんだが、相手の長い顔だけは、やっと見分けられた。死人のような青白い額を除くと、顔じゅうが赤いしみだらけだった。その赤い頬《ほお》と白い額のあいだに、小さな黒い両眼が光っている。どんな勇敢な人間でもふるえ上がらずにはいられないような目だ。広い額は撫《な》でつけたような、まっ黒な濃い髪で隈《くま》取《ど》られている。
「こっちへ来たらどうだ?」と、その男がしまいに、いらいらしていった。
ジュリヤンはよろよろして進み出たが、とうとう、これまでにないほど真っ青な顔をして、いまにも倒れそうになり、四角な紙片がいっぱいのっている、白木の小卓の三歩ほど手前で立ちどまった。
「もっとそばに寄らないか」と、その男がいった。
ジュリヤンは、なにかものにつかまろうとするかのように、手を伸ばしてさらに進み出た。
「名前は?」
「ジュリヤン・ソレルです」
「ずいぶん遅かったな」相手はまたもおそろしい目をして、ジュリヤンを見すえながらいった。
ジュリヤンはこのまなざしにたえられなかった。ものにつかまろうとするかのように、手を伸ばしたが、床の上にばったり倒れてしまった。
男が呼鈴《よびりん》を鳴らした。ジュリヤンは視力と身体《からだ》を動かす力を失っただけで、近づいて来る足音は聞きとることができた。
助け起されて、白木の小さな肱掛椅子にすわらせられた。おそろしい男が、門番に向っていっているのが聞えた。
「癲癇《てんかん》の発作で倒れたのにちがいない。こんなことになるだろうと思っていた」
ジュリヤンが目を開けられるようになったとき、赤ら顔の男は相変らず書き続けていた。門番は姿を消していた。《勇気を出さなくてはいかん。とりわけ、おれの感じていることを隠しておかなければいけない》はげしい吐き気を覚えた。《おれの身になにか事でも起ろうものなら、どう思われるかわかったものでない》やっと、男は書く手を休めて、ジュリヤンを横目で見ながら、
「わたしに答えられるかね?」
「はい」と、ジュリヤンは消えいりそうな声で答えた。
「そうか、それはよかった」
黒服の男は半ば立ち上がって、もみ《・・》の木の机をきしませながら、ひきだしを開くと、いらだたしそうに手紙を捜した。その手紙を見つけると、ゆっくりすわり直し、わずかに残っている気力をもぎとってしまうかのようなまなざしで、またジュリヤンを見すえた。
「きみのことはシェランさんから頼まれている。あのひとはこの司教管区ではいちばんりっぱな司祭だ。まさに有徳の士というべきひとだろう。三十年来わたしの親友だ」
「では、あなたさまがピラールさまでいらっしゃいますか」と、ジュリヤンはたえいりそうな声でいった。
「いかにも」と、神学校長は、不《ふ》機《き》嫌《げん》そうにジュリヤンを見つめながら答えた。
小さな目が輝きを増し、それに続いて口の両端の筋肉がひくひくした。獲《え》物《もの》を貪《むさぼ》り食う前に舌なめずりをする虎《とら》のような顔つきだった。
「シェランさんの手紙は短いが」と、ひとりごとをいうようにいった。「Intelligenti pauca.。今日《こんにち》では、どれほど短く書いても短かすぎることはないからな」
そういって、校長は読み上げた。
「当教区のジュリヤン・ソレルをご紹介します。二十年前に小生が洗礼を授けたものです。金持の材木屋の息子ですが、親からなに一つもらっていないのです。主《しゅ》の葡萄畑《ぶどうばたけ》でりっぱな働き手となりましょう。記憶力も知力も十分ありますし、反省力ももっています。その天職と称するものが永続的かどうか? 真心から出たものかどうか?」
「真心から出た《・・・・・・》、か!」と、ピラール神父は、びっくりした顔つきで、ジュリヤンを見つめながら、くり返していった。だが、早くもそのまなざしは、さきほどにくらべると、人間味が出てきている。「真心から出た《・・・・・・》、か!」低い声でくり返しながら、また先を読みつづけた。
「ジュリヤン・ソレルを給費生にしていただきたくお願いいたします。そのために試験があることと思いますが、当人は、給費生の資格に値するような成績をおさめるものと思います。小生から神学の手ほどきはしてあります。ボシュエ、アルノー、フルーリのあの伝統的な、すぐれた神学を教えておきました。万一、差し向けました当人がお気に召さない場合は、お送り返しくださるよう。よくご存じの貧民収容所長が、子供たちの家庭教師として、当人に八百フランを出そうと申しておりますから。――神さまのおかげにより、小生いたって平静な心境にあります。おそろしい痛手にも慣れてまいりました。Vale et me ama.」
ピラール神父は声を低めて署名を読みながら、シェランという言葉を溜息《ためいき》まじりに発音した。
「いたって平静な心境か! たしかに、有徳なひとだから、この報いはあたりまえだ。神よ、そのような時が来たならば、わたくしにも、この報いを得させたまえ!」
彼は天を仰いで十字を切った。神に祈る姿を見て、ジュリヤンは、この建物にはいって以来、心も凍るほどいだきつづけてきた深い恐怖が薄らぐのを感じた。
ピラール神父は最後に、意地悪い態度ではなかったが、厳しい調子でいった。
「この学校には、最も神聖な職を志望しているものが三百二十一人いる。シェランさんのようなかたから推薦されてきたのは七、八人にすぎない。だから、この三百二十一人中で、きみは九番目になるわけだ。だが、わたしが面倒を見るといっても、ひいきをしたり甘やかしたりはせぬ。悪徳におちいらないように、ほかの連中にもまして、きみには注意と厳しさをもって臨むことにする。その扉に鍵《かぎ》をかけてきなさい」
ジュリヤンはやっとの思いで歩いてみたが、さいわい倒れなかった。入口の扉の脇《わき》の小さな窓が、野原に面しているのに気がついた。彼は木立を眺《なが》めた。この景色を見て、古い友達にでも会ったように、心が晴れ晴れした。
「Loquerisne linguam latinam?(ラテン語が話せるかね?)」と、ピラール神父は、戻《もど》ってきたジュリヤンにきいた。
「Ita,pater optime.(はい、ごりっぱな神父さま)」と、ジュリヤンは、どうにか我にかえって、答えた。むろん、半時間このかた、このピラール神父くらい、およそごりっぱでない人間が、この世に存在しようとは思ってもいなかった。
話はラテン語で続けられた。校長の目のけわしさが柔らぎ、ジュリヤンもいくらか落着きを取り戻した。《まるで有徳そのもののような顔をしてるが、そんなことで威圧されてしまうなんて、おれもまったく意気地がないな! この男も、要するに、マスロンさんみたいなくわせものだろう》ジュリヤンは有金をほとんど長靴《ながぐつ》のなかに隠しておいてよかったと思った。
ピラール神父は神学についてジュリヤンを試してみたが、その博識には舌をまいた。とりわけ、聖書について質問してみて、ますます驚いた。だが、神父たちの教義に関して質問をはじめると、ジュリヤンが、聖ヒエロニムスや、聖アウグスティヌスや、聖ボナヴェントゥラや聖バジリオスなどの名前さえ、ほとんど知らないのに気がついた。
ピラール神父は考えた。《なるほど、わしはいつもシェランに対して非難していたところだが、これこそ、まさに、あの情けない新教思想的傾向なのだ。聖書については深い知識をもっている、だが深すぎる》
(きかれもしないのに、ジュリヤンは、創世記やモーゼの五書などが書かれた実際の《・・・》年代について、話したばかりだった)
ピラール神父は、さらに考えた。《こういうふうに聖書を際限なく批判していけば、個《・》人的解釈《・・・・》、つまりもっとも忌《い》むべき新教思想に立ち至るほかはない。しかも、そういう不謹慎な学識をもちながら、この傾向の補いとなりうるカトリックの神父たちについては、なにも知らないのだ》
しかし、法王の権威について、ジュリヤンに質問をしたところ、古いフランス教会派の格言が引合いに出されると思っていたのに、メーストル氏の著書を全巻暗誦《あんしょう》してみせたので、神学校長の驚きはたとえようもなかった。
《あのシェランというのは一風変っているな。ばかにさせるつもりで、こんな本を読ませたのかな?》と、ピラール神父は考えた。
ジュリヤンが本気でメーストル氏の教義を信じているのかどうか、見分けようとして、いろいろきいてみたが、甲斐《かい》はなかった。相手はもっぱら記憶力で答えるばかり。この辺から、ジュリヤンはまったくすばらしい返答ぶりになった。落着きを取り戻したのが自分でもわかったのだ。ひどく長い試験がすんだころ、ピラール神父の自分に対する厳しさも、うわべだけのものにすぎなくなったような気がした。事実、自分のあずかる神学生に対しては、厳格そのものの態度で臨むという、十五年来の方針がなければ、神学校長も、論理学の名において、ジュリヤンを抱擁したにちがいない。それほど、ジュリヤンの答えが明快・的確・簡潔だと思った。
《まことに大胆かつ健全な精神だ。しかし corpus debile(身体は弱い)》と彼は思った。
「さっきのようによく倒れたりするのかね?」と、校長は指で床をさしながら、フランス語でジュリヤンにきいた。
「生れてはじめてのことです。門番の顔を見てふるえ上がってしまったのです」と、ジュリヤンは子供のように顔を赤らめながら、つけ加えていった。
ピラール神父は笑いかけた。
「現世の虚飾を見なれたせいだ。きみは笑顔ばかりに接しているのだろうが、そんなものは嘘《うそ》の世界だ。きみ、真理は厳しいものだ。もっとも、われわれのこの世におけるつとめもまた、厳しいものではなかろうか? 空し《・・》いうわべの美しさに《・・・・・・・・・》、あまりにも感じやすい《・・・・・・・・・・》。きみの良心がそういう弱点におちいらないよう、つねに警戒しなければいけない」
ピラール神父はまたラテン語でしゃべりだした。それがひどく楽しいらしい。
「シェランさんのようなひとから紹介されてきたのでなかったら、わたしも俗界の空《むな》しい言葉で話すところだ。それに、きみはどうやらそんな言葉に慣れすぎたらしいな。きみの望んでいる全額給費は、そう簡単には認めがたいことなのだ、といいたいところだが、シェランさんも、五十六年間、伝道につくしてこられたのに、神学生ひとり分の給費さえ自由にならぬとあっては、あまりにも報いがすくないというものだ」
そういってから、ピラール神父は自分の同意なしには、どんな秘密結社にも、どんな秘密の修道会にも加わらないようにと、ジュリヤンにいいさとした。
「名誉にかけてお誓いします」と、ジュリヤンは、真心の限りを見せていった。
神学校長ははじめて微笑した。
「そういう言葉はここでは役にたたぬ。俗界の連中の空しい名誉を思わせるからな。いや、その名誉のために、だれもがどのくらい過失を犯しているかしれない、罪を犯すことさえあるのだ。聖ピオ五世の教書 Unam Ecclesiam第十七条によって、きみはわたしに服従すべき義務がある。わたしは聖職の上ではきみの上長なのだ。この学校では、わが最愛の子よ、聞くことはすなわち服従することだ。金はいくらもっているかね?」
《そうら、おいでなすったぞ。最愛の子だなんて、そのためか》と、ジュリヤンは思った。
「三十五フランございます、神父さま」
「その金の使い道をいちいちつけておきなさい。いずれ報告してもらうから」
この苦しい会見は三時間続いた。ジュリヤンは命ぜられて門番を呼んだ。
「ジュリヤン・ソレルを一〇三号室に案内しなさい」と、ピラール神父は門番にいった。
ジュリヤンには個室が与えられた。校長の特別の計らいだった。
「トランクをもっていってあげなさい」
ジュリヤンは下を見た。ちょうどまん前に自分のトランクがあるのに気がついた。三時間このかた目にしていたくせに、自分のものだとは知らずにいたのだ。
一〇三号室はいちばん上の階にある八尺四方の小部屋だった。ジュリヤンはその部屋にはいってみて、城壁に面しているのに気がついた。城壁越しに美しい平野が見渡せた。ドゥー川がその平野と町との境になっている。
《じつにいい眺めだなあ!》と、ジュリヤンは叫んだ。そうつぶやきながらも、ジュリヤンはその言葉があらわしているような実感を味わったわけではなかった。ブザンソンに着いてから、わずかな時間のあいだに、あまり印象の強烈なことばかりを経験したので、疲れきってしまっていたのだ。窓ぎわの、木の椅子に腰をおろした。この部屋の椅子といえば、それだけだった。腰をおろすなり、深い眠りに落ちた。夕食の鐘も、晩祷《ばんとう》の鐘も、耳にはいらなかった。ジュリヤンは忘れられてしまっていた。
その翌朝、暁の光で目をさましたとき、床の上に寝ているのに気がついた。
第二十六章 世間、または金持にないもの
おれは地上でひとりぼっちだ。だれもかまってくれはしない。出世をするやつらは、みんな面《つら》の皮が厚いし、冷酷な心をもっているが、おれにはあんなことはできない。
おれはつい親切をほどこす性質なので、やつらから目の敵《かたき》にされる。どうせそのうちにおれは飢え死するか、それとも、あんな冷酷なやつらを見るのがやりきれなくなって死んでしまうだろう。
ヤング
ジュリヤンはあわてて服にブラシをかけ、急いで降りていったが、間に合わなかった。助教師からひどく叱《しか》られた。ジュリヤンはいいわけがましいことはいわないで、両腕を胸に組んで、いかにも悔い改めたような様子をしていった。
「Peccavi,pater optime.(わたくしが悪うございました、神父さま)」
この出だしは大成功だった。神学生のなかでも、抜け目のない連中は、相手がこの道のしろうとではないと見てとった。休憩時間が来た。ジュリヤンはみんなの好奇の的にされた。だが、あくまでジュリヤンは控え目で黙っている。自分からきめた方針どおりに、彼は三百二十一名の仲間を敵と考えた。みんなのうちでも、いちばんこわいのは、ピラール神父だと思った。
二、三日すると、ジュリヤンは告解師を選ばなければならないことになった。名簿を渡された。
《ふん! このおれをなんだと思ってやがるんだ。話すということがどういう意味だか《・・・・・・・・・・・・・・・・》知らないとでも思っているのか?》そう思いながら、ジュリヤンはピラール神父を選んだ。
自分では気がつかなかったが、とんでもないことをしてしまったのだった。ヴェリエール生れの、ごく若い神学生で、最初の日から進んでジュリヤンに友情を示した男が、副校長のカスタネード神父を選んだほうが、賢明だったのに、と教えてくれた。
「カスタネードさんは、ピラール校長の敵なんだぜ。ピラール校長はジャンセニストじゃないかっていわれてるんだ」と、その小さな神学生がジュリヤンの耳もとに口を寄せて、つけ加えた。
自分では大いに慎重なつもりだったが、はいりたてのころにジュリヤンの取った行動は、告解師の選びかたにしてもそうだが、どれもこれも軽率だった。空想的な人間は自分勝手な判断におちいりやすいもので、ジュリヤンもその例にもれず、自分がこうと思うことを事実だときめてかかり、自分ではいっぱしの偽善者気取りでいた。そればかりではない。あきれはてたことには、こういう卑劣な手段で成功するのは、気がとがめるとさえ思っていた。
《だが、これがおれの唯一《ゆいいつ》の武器なんだ! 世が世なら、敵を前にして輝かしい手《て》柄《がら》を立てて、おれのパンを稼いだ《・・・・・・・・・》ところなのだ》
ジュリヤンは自分の行動に満足して、あたりを見まわした。どいつもこいつも、まるで有徳そのもののような顔をしている。
八、九人の神学生は行いすました生活をし、聖女テレサや、アペニン山脈のヴェルナ《・・・・》山上で聖痕《せいこん》を受けたときの聖フランシスのように、幻覚を見るのだった。しかし、それは秘密中の秘密とされ、仲間の連中は隠していた。幻覚を見るこれらの哀れな若者たちは、ほとんど病室にはいりっきりだった。また百人ばかりの連中は頑《がん》固《こ》な信仰心をもっているうえに、精力的な勉強ぶりを見せている。あまり勉強しすぎて病気になるほどなのだが、たいしたことを覚えるわけではなかった。二、三人がずば抜けた実力をもっている。なかでも、シャゼルというのがいた。だが、ジュリヤンはこの連中にも親しめず、相手のほうもジュリヤンを敬遠していた。
三百二十一人の神学生のなかで、ほかの連中といえば、一日じゅうラテン語をくり返していながら、その意味がろくにわかっていないといった、無教養な連中だった。そのほとんどが百姓のせがれで、畑を耕すよりは、ラテン語の片言でも唱えながらパンにありついたほうがましだと思っている。ジュリヤンがこの学校にはいった当初から、これならたやすく成功できるだろうと見込みをつけたのは、こういう観察にもとづいていたのだ。《どんなつとめでも利口な人間が必要なのだ。とにかくやらなければならない仕事があるんだから。ナポレオン時代なら、おれも軍曹《ぐんそう》にはなっていたところだが、この未来の司祭たちが相手なら、副司教といくか》
《こういう哀れなやつらは、子供のときから日雇い仕事をさせられ、この学校にはいるまでは凝乳《ぎょうにゅう》と黒パンで暮してきたのだ。家はあばらやだし、年に五、六度しか肉にありつけない。戦争を休息のときと考えていたローマの兵士たちみたいなものだ。この無知な百姓どもには神学校生活が極楽なのだ》
この連中のぼんやりした目から読み取れるのは、食事のあとの肉体的満足感と、食事を待っているときの肉体的な快楽にすぎなかった。問題はこういう連中のあいだで頭角をあらわすということである。ジュリヤン自身も知らなかったし、だれも教えてくれようとしなかったことがある。それは、神学校で教わるいろいろの講義や、教会史などの講義で首席になることが、かれら神学生から見れば、目立った《・・・・》罪悪にすぎないということである。ヴォルテール以来、いや両院制度の政治形態となって以来、これは要するに不信《・・》と個人的《・・・》解釈《・・》にほかならないし、民心に人を疑う《・・・・》悪習を植えつけることになるので、フランスのカトリック教会は書物こそ真の敵と悟ったらしいのである。教会側から見れば、心からの服従がすべてなのだ。たとえ宗教上の研究であろうとも、学問で名をなすことは、教会側から怪しまれるし、また怪しまれても仕方がない。すぐれた人間がシエースやグレゴワールのように、敵側へまわるのを、だれがくいとめられよう? そこで、おじけづいた教会側は、唯一の活路だとばかりに、法王にすがりついている。個人的解釈をやめさせる力があるのは、法王だけだし、法王庁の敬虔《けいけん》華麗な儀式によって、倦怠《けんたい》し病める上流社会人士の心に影響を及ぼしうるのは、法王よりほかにない。
ジュリヤンはこうしたさまざまな真相を、半ばは見ぬいた。神学校内でみんなの話しているところは、これを否定するように思えたが、ジュリヤンは深い憂鬱《ゆううつ》におそわれた。よく勉強はしたし、聖職者にきわめて必要なことがらは、たちまちのうちに覚えてしまったが、いずれもまったく虚偽としか思えないし、全然興味はもてなかった。だが、それ以外にすることがないと思ったのだ。
《おれは世の中から忘れられてしまったのか?》と、ジュリヤンは思った。ピラール神父がときどきディジョンの消印のある手紙を受け取っては、これを火にくべてしまっているのを知らなかった。その手紙はどう見ても悪いところのない文章なのだが、はげしい情熱が裏書きされていたのである。深い後悔がその恋心をおさえようとしているように思われた。《すくなくとも、あの青年の恋した女が不信心な女でなくてよかった》と、ピラール神父は考えた。
ある日、ピラール神父は、どうやら涙で半ばかき消されたらしい手紙を開いた。最後の別れを告げる手紙だった。ジュリヤンに向って、こういっている。「神さまのおかげで、わたくしはやっと、わたくしの過ちを憎めるようになりました。わたくしにこの過ちを犯させたひとを憎むのではありませんわ。そのひとは、これからもやはり、この世でわたくしのいちばん大事なひとに違いありませんもの。もう諦《あきら》めることにしましたの、あなた。ごらんのとおり、涙が出て仕方がありません。わたくしは子供たちの幸福を考えなければなりませんし、あなたもあれほどかわいがってくださった子供たちのことですもの、やっぱり子供たちが問題ですわ。正しい、けれどもおそろしい神さまが、母親の罪の報いを、あの子たちの上にお下しになることはもうありますまい。これでお別れします、ジュリヤンさま、ほかのひとを悪く思ったりなさらないように」
この手紙の終りはほとんど読めないくらいだった。ディジョンの宛《あて》名《な》が書いてあったが、けっして返事をよこさないように、返事をよこすにしても、せめて貞淑な妻に立ち戻《もど》った女が聞いても、顔を赤らめることがないような言葉づかいをしてほしいと書いてあった。
ジュリヤンの憂鬱は、賄方《まかないかた》が神学校で出す八十三サンチームの食事のひどい献立のせいもあって、健康にも影響してきたが、ある朝、フーケが、思いがけず、ジュリヤンの部屋に姿をあらわした。
「やっとはいれたんだ。どうこういうわけじゃないが、会おうと思ってね、これで五度もブザンソンに来たんだよ。いつも閉ってるんだ。ひとに頼んで、神学校の門で待ち伏せさせたんだが、どうしてきみは一度も出てこないんだ?」
「試練のつもりでそうしてるんだ」
「変っちゃったな。とにかく会えてよかった。五フラン銀貨を二枚やったんだ。はじめ来たときからやっておけばよかったものを、おれも間抜けだったわけさ」
ふたりの親友の会話はつきなかった。
「ときに、知ってるかい? きみの教え子の母親ってのが、ひどく神さまにこっちまってね」
と、フーケにいわれて、ジュリヤンは顔色を変えた。
だが、フーケは例の無頓着《むとんじゃく》さで話し続けた。情熱的なジュリヤンの心は、いいしれない衝撃を受けたのだが、フーケのほうは、いっこう気がつかずに、相手のいちばん大事な秘密をかき乱したわけだった。
「そうなんだよ、きみ、ものすごいんだ、その信心ぶりが。なんでも聖地めぐりをするんだってさ。だが、マスロン神父のやつ、一生の恥をかいたわけなんだ。あのシェランさんの様子をしょっちゅう探っていた男さ。なにしろ、レーナルの奥さんのほうで、マスロンなんか相手にしないんでね。奥さん、ディジョンだかブザンソンへ告解に行くそうだ」
「ブザンソンに来るんだって!」と、ジュリヤンは顔を真っ赤にしていった。
「ちょくちょく来るらしいんだ」と、フーケは、けげんな顔をして答えた。
「きみ、『立憲新聞』もってないかい?」
「なんだって?」と、フーケがきき返した。
「『立憲新聞』をもってるかって、きいてるんだ」と、ジュリヤンは落ち着きはらっていった。「ここじゃ一部三十スーで売れるからね」
「へえ! 神学校にも自由主義者がいるのか!」と、フーケは叫んだ。そして、マスロン神父の偽善的な声《こわ》音《ね》と柔和な調子のまねをしながら「哀れなるフランスよ!」と、つけ加えていった。
この訪問はジュリヤンに深い感銘を与えたはずなのであるが、その翌日には、あれほど子供だと思っていた例の小さなヴェリエール出の神学生にいわれた一言から、重大なことを発見したのだった。神学校にはいって以来、ジュリヤンはなにをやっても、へまのしどおしだったのだ。彼は苦々しげに自嘲《じちょう》した。
なるほど、日常の重要なふるまいは、巧妙にはちがいなかったが、細かな点に注意がいきとどかなかった。ところが、神学校の老練な連中はもっぱら細かな点をとやかくいう。したがって、ジュリヤンは早くも仲間のあいだで自由思想家《・・・・・》と思われていた。つまらないことで、のべつしっぽを出していたのである。
仲間のものから見れば、まぎれもなくジュリヤンはとんでもない悪徳にそまっているわけだった。つまり、権威《・・》と模範に盲従しようとしないで、自分で考え《・・・・・》、自分自身で判断し《・・・・・・・・》ている《・・・》というのだ。ピラール神父は全然助《すけ》太《だ》刀《ち》してくれない。告解聴聞室《ちょうもんしつ》以外で、ジュリヤンに言葉をかけてくれたことは一度もないし、その聴聞室でさえ、ピラール神父は自分から口をきくというより、聞き手になるほうだった。ジュリヤンとしては、カスタネード神父を選んでおいたら、事情はまったく違っていたに相違ない。
愚かな自分に気づいて以来、ジュリヤンは退屈しなくなった。彼は自分がどのくらいばかなまねをしたのか知りたいと思った。そのために、いままでは横柄《おうへい》にかまえて、あくまで沈黙を守り、同僚を寄せつけなかったのに、今度はすこしそういう態度をくずして見せた。すると、相手はたちまち報復手段に出た。ジュリヤンが親しくしようとすると、相手は軽《けい》蔑《べつ》をもって迎えたばかりか、嘲笑の的にさえした。神学校にはいって以来、一時間として、とりわけ休憩時間がそうだったが、いいにつけ、悪いにつけ、問題にされないことはなかったということに気がついた。それで敵の数をふやすか、それともほんとうに徳のそなわった神学生の、あるいはほかの連中よりはややましな神学生の好意をかちえるかのどちらかだったのだ。償うべき失敗は計りしれないほど大きく、また並大抵のことでは償えそうにもなかった。これ以後、ジュリヤンはたえず注意を怠らないようにした。これまでとまったく違った性格の人間として出直すわけである。
たとえば、目の動かしかたにしてからが、なかなか骨だった。こういう場所で、だれもが目を伏せているのも、むりはない。《ヴェリエールのころのおれときたら、まったく思い上がっていたものだ! おれは大人なみの生活をしているつもりでいたが、人生の下準備をしていただけのことだ。やっといま世間へ出たわけだ。おれは、こうして、ほんものの敵に取り囲まれている。これがおれの役割の終るまで続く世間の姿なのだ。片時も偽善の役割を忘れてはならんのか、いやまったく、難事中の難事だ! これに比べれば、ヘラクレスの力業《ちからわざ》などものの数でもない。近代のヘラクレスはシクストゥス五世だ。十五年も猫《ねこ》をかぶったおかげで、元気いっぱい傲慢《ごうまん》だった青年時代を知っている四十名の枢《すう》機《き》卿《けい》に、まんまと一杯くわせたのだからな》
《学問なんか、ここでは問題じゃないのだ!》と、ジュリヤンは口惜《くや》しそうにつぶやいた。《教義や宗教史などをいくら勉強してみたところで、一応、問題にしてくれるだけのことだ。そういうことでいろいろいっているのも、要するに、おれみたいなばかものを罠《わな》にひっかけるのが目的なんだ。ところが、このおれの取《と》り柄《え》といえば、学問の上達が早いこと、こういうくだらぬことがらを会得する才能だけなのだ。いったい、やつらは、ほんとうのところは、こういったことがらを値打どおりに評価しているのかな? おれと同じように見てるのかな? それなのに、おれはそれが得意だったのだから、間抜けな話だ。おれがいつも首席になるのは、ますますおれを根にもつ敵を作るのに役だっただけだ。シャゼルのやつは、おれより学問があるくせに、作文となると、なにかへまをわざとやらかして、席次が五十番になるようにする。あれが首席になったりすれば、よほどうっかりしていたということになる。ピラールさんが一言、たった一言いってくれたら、どんなに助かったかしれないのに!》
誤りを悟ると、ジュリヤンには、これまでひどく退屈だった週に五日の連祷《れんとう》とか聖心讃《サクレ・クールさん》美《び》歌《か》とかいう、長ったらしい苦行のつとめが、もっとも興味のある活動のときとなった。厳しく自己を反省し、とりわけ、自分の手腕を過信しないようにし、神学校の模範生のように、意義の深い《・・・・・》行い、つまりキリスト教徒の完成された姿をあらわすような行いを、一足飛びにやってのけようとは思わなかった。神学校では、半熟卵を食べるにも食べかたがある。信仰生活でどのくらい上達したかが、食べかたでわかるというのだ。
読者は薄笑いするかもしれないが、思い出していただきたい。ドリル神父が、ルイ十六世の宮廷付の、さる高貴な奥方の家へ食事に招かれたとき、卵一つを食べるのに、どんな大失態をしでかしたか。
ジュリヤンはまず non culpa の境地に達しようとした。この境地というのは、腕や目の動かしかたなど、ふるまいに世俗的なところはまったくないが、ひたすら、来世を思い、現世が空の空なること《・・・・・・・》を悟りすますといったところまでいっていない若い神学生の境地をさすのである。
ジュリヤンは廊下の壁に、炭で書いたこんな言葉をたえず見かけた。「永遠のこよなき喜び、あるいは地獄の永遠に煮えたぎる油のことを思えば、六十年の試練などものの数でない」彼はもうこういう言葉を軽蔑しなくなった。そういう言葉をたえず念頭に置いていないといけないと悟ったのだ。《おれは一生のあいだになにをするだろう? 信者に天国の座席券を売りつけるか。だが、どうしたらこの席が信者たちに見えるようになるだろう? おれの外観と俗人の外観が違うからなんだ》
数カ月のあいだ、片時も精進を怠らなかったが、やっぱりものを考える《・・・・・・》様子から抜けきれなかった。目の動かしかたや、口の結びかたが、たとえ殉教者になろうとも、すべてを信じ、すべてをたえようという絶対的信仰を示していないのだ。こうしたことで、およそ無教養な百姓どもに先を越されるのを見ると、ジュリヤンは口惜しくてならなかった。こういう連中がものを考える様子をしていないのには、十分理由があったわけである。
すべてを信じ、すべてを忍ぼうとする、熱烈で盲目的な信仰をもった顔は、イタリアの修道院でよく見かけるし、イル・グェルチーノが宗教画で、そういう顔の完全な典型を、われわれ俗人のために残してくれたが、ジュリヤンはこの容貌《ようぼう》に達しようとして、どのくらい苦心したかしれなかった。
大祝日には、神学生たちにシュークルートをそえたソーセージが出される。食卓でジュリヤンの隣にすわる連中は、ジュリヤンがこのまたとないご馳《ち》走《そう》に無関心なのを知った。ここがジュリヤンのもっとも悪い点なのだ。同僚たちは、これを唾棄《だき》すべきおよそ愚かな偽善のふるまいと見た。このためにジュリヤンは今までになく敵を作った。同僚はいいあった。「あの旦《だん》那《な》づらを見ろよ。高慢ちきな面《つら》をしやがって。シュークルートつきのソーセージだぜ、こんなすばらしい膳《・》があるかい。それなのに、ふふんってな顔をしてやがる。いやな野郎だ! 生意気だよ! ばち当りめ!」
ジュリヤンは、ときどき、がっかりして、溜息《ためいき》をつきながら思った。《なんてこった!おれの同僚はみんな百姓の小せがれで、無知な連中なんだが、無知なところが、やつらにはどのくらい得かしれないんだ。あいつらなら、神学校にはいってきたって、教師のほうじゃ、あいつらの頭から世俗的な考え方を叩《たた》き出してやるもなにもないわけだ。ところが、おれはそんな考え方をやたらにしょいこんで、やってきたんだ。どうやってみても、おれの顔にはそれが出る。やつらにはわかってしまうわけだ》
ジュリヤンは羨望《せんぼう》に似た気持で、注意深く、神学校にはいってくる百姓の小せがれのうちでも、とりわけ無教養な連中を観察した。粗末なあや織の上着を脱がされ、黒服を着せられる際に、彼らの身につけている教養といえば、フランシュ = コンテでいうところの、小《・》判《・》に対する限りない敬意だけなのだ。
これは現金《・・》という崇高な概念をあらわす、決定的な威勢のいい言いまわしなのである。
こういう神学生たちは、ヴォルテールの小説の主人公たちと同じで、ご馳走を食べるということが、なによりの幸福なのである。ジュリヤンは、だれもがほとんど例外なく、上《・》等な生地の《・・・・・》服を着ている人間に本能的な尊敬をはらっているのを知った。こういう感情をもっているからこそ、わが国の裁判所がおこなっているような、応分の裁き《・・・・・》を、名目どおりに、いや名目以下に評価しているのだ。「おえらがた《・・・・・》に楯《たて》ついたって、なんの得にもなりゃしない」これが彼らの仲間でよくいうことなのである。
このおえらがた《・・・・・》というのは、ジュラの谷間地方で使われる言葉で、金持をいうのである。したがって、だれよりもいちばん金持の《政府》を、彼らがどんなに尊敬しているか、想像できよう。
知事閣下という言葉を聞いただけで、尊敬のこもった微笑を浮べないのは、フランシュ = コンテの百姓から見れば、思慮の足りないふるまいなのだ。思慮の足りないふるまいをすれば、貧乏人はたちまち罰をこうむる。その日のパンにありつけなくなる。
ジュリヤンも、はじめのころは、軽蔑感で息がつまりそうな気がしたが、やがて憐《あわ》れに思うようになってきた。大部分の同僚の父親たちは、冬の夕方などに、あばら屋へ帰ってみると、パンも、栗《くり》も、じゃがいももないといった目にあうことがよくあった。《そういう連中にしてみれば、幸福な人間とは、第一にご馳走を食べたもの、その次にいい着物を着ている人間だと思うのも、あたりまえじゃないか。おれの同僚は自分の道を信じている。つまり聖職についているかぎり、ご馳走が食べられ、冬でも暖かい着物が着られる。いつまでもそんな幸福が続くと思っているのだ》
たまたまジュリヤンは、空想力豊かな、若い神学生が仲間にこういっているのを耳にした。
「ぼくだってシクストゥス五世のように、法王になれないともかぎらないよ。あの法王だってはじめは豚の番人だったからね」
すると、相手が答えた。
「イタリア人でなけりゃ法王になれないよ。だけれど、副司教や司教会員なら、きっとぼくたちの仲間から選ばれるかもしれないね。司教にさえなるのがいるかもしれない。シャロンの司教P……氏は桶《おけ》屋《や》の息子だぜ。ぼくの親父《おやじ》の商売と同じさ」
ある日、教義の授業の最中に、ジュリヤンはピラール神父から呼ばれた。ジュリヤンは肉体的にも精神的にも、この授業の雰《ふん》囲《い》気《き》をやむなく吸っていたところなので、大いに喜んで抜け出した。
校長に会ってみると、神学校にはじめて来た日にジュリヤンをふるえ上がらせたのと同じ態度で迎えられた。
「このトランプのカードに書いてあるのは、どういうことだ」と、校長はいいながら、ジュリヤンをにらみつけた。ジュリヤンはその目つきを見て、地の底に隠れたいと思ったほどだった。
ジュリヤンは読んでみた。
《アマンダ・ビネ、カフェ・ド・ラ・ジラフで、八時までに。ジャンリス生れで、あたしの母の従弟《いとこ》だということ》
ジュリヤンはたいへんなことになったと思った。カスタネード神父のスパイがこの宛名のカードを盗んだのだ。
ジュリヤンはピラール神父のおそろしい目つきにたえられず、その額のあたりに目をやりながら答えた。
「ここにまいりました日は、びくびくものでした。と申しますのも、シェランさまから、この土地はありとあらゆる密告と悪さがしょっちゅう行われていると、聞かされてまいりましたからで、友達同士のあいだでもスパイ行為や告げ口が盛んだそうで。これも、司祭の卵に、人生をありのまま見させ、現世とその虚飾を解《げ》脱《だつ》させようという、神さまの思召《おぼしめ》しかと存じます」
「このわたしにお談義を聞かせようっていうのか! この青二才のくわせものめ!」と、ピラール神父は青筋を立ててどなった。
ジュリヤンは平然として続けた。
「ヴェリエールでは、わたくしがねたましくなると、兄たちはよくわたくしをぶったものです……」
「そんなことじゃない! カードのことだ!」と、ピラール神父は我を忘れんばかりになってどなった。
ジュリヤンはいっこうひるむ様子も見せず、ぐずぐずと話を続けた。
「ブザンソンにまいりました日のことですが、お昼ごろだったと思います、お腹《なか》がすきましたので、とあるカフェにはいりました。こういう汚《けが》らわしい場所にはいるのは、いやでいやでたまらなかったのですが、宿屋で食事をするより、ここのほうが安上りだろうと思ったのです。その店の女主人らしい女の人が、わたくしを新米と見たのでしょう、同情してくれました。その女の人がこう申したのです。ブザンソンは悪者がうようよしているから、あなたのことが心配です。なにか面倒なことが起ったら、あたしのところへいらっしゃい。八時までにだれかをよこしなさい。神学校の守衛があなたのお使いをしてくれないようだったら、あなたはあたしの身寄りでジャンリス生れだといえばいいでしょう……」
「そうくどくどいわなくってもいい。ほんとかどうか、調べてみなけりゃわからん」と、ピラール神父は腰かけていられなくなって、部屋を行ったり来たりしながら、どなった。
「さあ、自分の部屋に行くのだ!」
校長はジュリヤンについていき、彼を押しこめると鍵《かぎ》をかけた。ジュリヤンはさっそくトランクを調べはじめた。その底に問題のカードを隠しておいたわけである。トランクのものは、なに一つなくなっていなかった。だが、鍵は肌《はだ》身《み》放さずもっていたのに、方々ひっかきまわしてある。ジュリヤンは考えた。《わけがわからずにいたとき、外出の許可を一度も利用しなかったのは、まったくさいわいだった。カスタネードさんは、親切にも、よく外出をすすめてくれたが、今になってみれば、その腹がわかる。おそらく、服でも着かえて、別嬪《べっぴん》のアマンダに会いにいくなんて、迂《う》濶《かつ》なまねをしていたら、申し開きがたたなかったところなのだ。だが、こういうやり口でうまく情報がつかめなくても、相手はただじゃすますまい、告げ口という手を使うにきまっている》
それから二時間たつと、校長に呼びつけられた。校長はさっきほどこわい顔をしていない。
「きみのいったことは嘘《うそ》じゃなかったが、そういう宛名をしまっておくとは不用意な話だ。それがどんなに重大なことだかわからないのか。困った子だな! おそらく、十年もたったら、そのために損をすることになるのだ」
第二十七章 人生のはじめての経験
現代はまさに神の掟《おきて》の箱だ! これに手をふれたら罰が当る。
ディドロ
ジュリヤンの一生のこの時期については、明確な事実をほとんど書かないことにさせていただく。作者の手もとにそういう事実がないわけではない。その反対ではあるが、ジュリヤンが神学校で目にしたことは、あまりにも暗すぎ、この作品でつとめて出そうとしている、やわらかな色調をこわしてしまうおそれがある。ある種の事柄《ことがら》に苦しめられている現代の人人は、それを思い出すたびにいやな気がして、ほかのどんな楽しみでも、たとえ物語を読もうという気持でさえもなくしてしまう。
ジュリヤンはいくら偽善的な態度をとろうとしても、うまくいかなかった。ときには嫌《いや》気《け》がさし、がっかりしてしまうことさえあった。しかも、こんなくだらない境遇におかれてさえ、うまくいかないのだ。はたからすこしでも助けてくれれば、気を取り直せたかもしれないし、乗り越えるべき困難がそれほど大きかったわけではない。だが、まるで大海のまっただなかに出た小舟のように、ひとりぼっちだった。《出世をしたところで、こんなさもしい連中と一生おつきあいさせられるのか! 食卓でベーコンいりオムレツをがつがつ食うのが楽しみだといった大食らいどもか、どんな悪事を犯しても平気でいられるカスタネード神父のようなやつばかりなのだ!あいつらは権力を握るだろうが、それにはどんなに高い代償を払わなければならないかしれないのだ!》
《人間の意志は強いとは、どんな本にも書いてある。だが、こういう嫌《けん》悪《お》の情を克服できるほど強いものか? 偉人たちの仕事は楽だった。どんなにおそろしい危険だろうと、りっぱに思えたわけなんだから。ところが、このおれを取り巻いているものの醜悪さ加減はどうだ! おれ以外に、だれが理解できよう?》
この時期がジュリヤンのもっともつらい試練のときだった。ブザンソン駐屯《ちゅうとん》のりっぱな連隊に志願してはいろうと思えば、それはわけのない話だった。ラテン語の先生になる気なら、それもできる。食っていくだけのことなら、たいしてかかりはしないんだ! だが、そうなったら、出世の見込みはない。自分の夢みているような未来はおしまいだ。それでは死ぬにひとしい。ジュリヤンの憂鬱《ゆううつ》な日々の一日について具体的に述べてみよう。
《おれはしょっちゅういい気になって、ほかの百姓の小せがれとは違うんだと勝手に思いこんできた! ところが、いろいろ経験してみて、違いが憎まれるもと《・・・・・・・・・》だということがわかった》と、ある朝、ジュリヤンは考えた。この偉大な真理は、とんでもない大失敗をしでかしたことから、やっとわかったのである。彼は一週間ばかり、行いすました生活をしているひとりの神学生に、一生懸命取り入ろうとしてみた。ある日、一緒に校庭を散歩しながら、その神学生の退屈きわまりない愚劣な話を、我慢して傾聴していた。急に空が荒れ模様になり、雷が鳴り出した。すると、聖者気取りの神学生が、荒々しくジュリヤンをつきのけて、叫んだ。
「いいかい。だれだって、この世じゃ、自分が第一だよ。ぼくはね、雷に打たれるのはいやだ。神さまはきみの上に雷をお落しにならないともかぎらない。きみはヴォルテールみたいな不信心者だからね」
ジュリヤンは怒りに歯を食いしばり、稲妻《いなずま》の走る空をにらみながら叫んだ。《嵐《あらし》の最中に寝こんでいるようなら、水に溺《おぼ》れるのもあたりまえだ! よし、ほかのにせ学者を捜してやろう》
カスタネード神父の、教会史の講義を告げる鐘が鳴った。
親父《おやじ》の苦しい労働や貧乏暮しにつくづく嫌気のさしている百姓の小せがれたちを前にして、カスタネード神父はこの日、みんなにあれほどおそろしがられている政府が、現実の合法的な権力を持ちうるのも、この地上における神の代理者の委任を受けているからなのである、と説いた。
「諸君は清浄な生活と服従によって、法王のご慈愛に報いるようにしなければならない。その御手のなかの一本の杖のごとく《・・・・・・・・・・・・・・・・》になってもらいたい。そうすれば、りっぱな地位を得て、いかなる制約も受けることなく、上長として命令することができる。それは終身の地位であり、政府が俸給《ほうきゅう》の三分の一を払い、残りの三分の二は、諸君が説教によって帰依《きえ》させた信徒が払ってくれるのだ」
講義が終って、校庭に出ると、カスタネード神父は足をとめ、まわりに集まっている神学生たちにいった。
「人よければ、地位よし、とは、まさに司祭の場合にあてはまるのだ。このわたし自身が実際に知っているのだが、山間《やまあい》の教区でも、町の多くの司祭よりずっと不時の収入の多いところがある。金も同じくらいはいるが、むろん、ふとった鶏だの、卵だの、新鮮なバターだの、そのほかいろんな役得にありつけるのだ。それに、そういう教区では、司祭はなんといってもいちばんえらいから、ご馳《ち》走《そう》にはかならず招かれるし、歓迎されるわけだ」
カスタネード神父が自分の部屋に引きとると、さっそく神学生たちは、いくつかのグループに分れた。ジュリヤンはそのどれにも加わらない。憎まれっ子みたいに仲間はずれなのである。どのグループでも、だれか神学生が、一銭銅貨を宙に投げているのが見られた。裏か表かをいい当てる遊びで、うまくいい当てれば、その学生はやがてどこか不時の収入の多い司祭職にありつけると、同僚たちははやしたてるわけである。
それから噂話《うわさばなし》がはじまった。どこそこの若いのが、聖職について一年にしかならないのに、ある老司祭の女中に、自分のところの兎《うさぎ》を贈ったために、助任司祭にしてもらうことができたし、それから二、三カ月すると、司祭が急に死んで、その結構な司祭職の後釜《あとがま》にすわったというのである。また、ある男は中風病みの老司祭の食卓に始終ついていて、ひな鶏《どり》の肉を上手に切ってやったおかげで、ひどく豊かな大きな村の司祭職のあとを、うまく手に入れたといった話である。
どんな職業についている青年でも同じだが、神学生も、なにかこう人の意表に出た風変りな小細工の効果を誇張して考えていたのだ。
《おれもああいう話になれなくてはいけない》と、ジュリヤンは思った。ソーセージや、結構な教区の話でなければ、教会の教義の世俗的なところが、話題になっていた。司教と知事のいざこざとか、町長と司祭のいざこざといったことである。ジュリヤンには、第二の神という概念が問題になってきた。もう一つの神よりずっとおそろしい、ずっと力の強い神だった。法王である。みんなは声をひそめて、ピラール神父に聞かれる心配がないと思うと、よく話し合うのだった。法王がフランスじゅうの知事や市町村長をみずから任命されないのは、フランス国王をローマ教会の長子となさって、任命権をおまかせになったからだ、というのである。
このころになって、ジュリヤンはメーストル氏の『法王論』を利用したら、みんなから尊敬されるだろうと考えた。事実、同僚のものを驚かしはしたが、これもやっぱり失敗だった。同輩たちのもっている意見を、同輩たちよりも上手にいってのけたのが、相手の気にさわったのだ。シェラン神父は、自分のことでも軽率だったように、ジュリヤンに対しても軽率だった。正しく推論し、空理空論におちいらないようにする習慣をつけてくれたところまではよかったが、この習慣は身分の低いものの場合は罪悪になるということを教えてくれなかった。りっぱな議論というものは他人の気をそこなうものだからである。
したがって、ジュリヤンの鮮やかな論法は、新たな罪悪を一つつけ加えたことになる。同輩たちはジュリヤンのことをいろいろ考えたあげく、彼を憎《ぞう》悪《お》する気持を一言で表現する、うまい言葉を発見した。マルティン《・・・・・》・ルター《・・・》というあだ名をつけたのである。とくに、ジュリヤンが得意になって悪魔的な論理をあやつる点でそうだと、いうのだった。
若い神学生仲間には、ジュリヤンよりも血色がよいし、彼よりも美少年だといえるものがかなりいた。しかし、ジュリヤンは白い手をしていたし、神経質なほど潔癖なある種の習慣をもっている。この長所は、たまたまジュリヤンの飛びこんだこの憂鬱な神学校では、長所にはならなかった。仲間の薄汚ない百姓どもは、ジュリヤンを身持のひどくだらしない男だときめつけた。この主人公がこうむったさまざまな不幸の話ばかりして、読者諸君をうんざりさせはしまいかと思っているが、たとえば、同輩のなかでいちばん腕っぷしの強い連中は、ジュリヤンをしじゅう殴ることにしようとした。ジュリヤンは仕方がなく、対抗上鉄のコンパスをもっていることにして、これを使うぞということを、そぶりで、相手に呑《の》みこませなければならなかった。そぶりなら、スパイに報告されても、言葉の場合ほどうまく利用されるはずがなかったからである。
第二十八章 聖体行列
だれの心も感動していた。四方八方、幕が張りめぐらされ、信徒の手できれいに砂のまかれた、ゴチック風の狭い街々に、神が天降《あまくだ》りされたようであった。
ヤング
ジュリヤンがいくら目だたぬようにし、ばかになろうとしてもだめだった。どうしても好意をもってくれない。あまりにも人と違いすぎていたのだ。《だが、あの先生がたは、みんな、とびきり利口な、選《え》り抜きの連中ばかりなのに、どうしておれの謙虚な態度が気に入らないのだろう?》進んですべてを信じ、すべてのことでだまされるつもりになっているジュリヤンを、そのまま受け取ってくれそうな先生が、ただひとりいた。それは大聖堂の式典係長のシャ = ベルナール神父だった。十五年このかた、司教会員になれるつもりで、当てにしてきたのだが、それまでということで、説教法をこの神学校で教えているのである。ジュリヤンも、ものがわからなかったころは、この講義でも、たいてい首席を占めてきた。そんなことから、シャ神父はジュリヤンに好意を寄せるようになり、講義がすむと、進んでジュリヤンの腕を取り、一緒に庭を散歩したりした。
《どういう気なのかな?》とジュリヤンは思った。シャ神父が何時間もたてつづけに、大聖堂所蔵の装飾品の話をしたりするので、ジュリヤンはあっけにとられていた。大聖堂には、喪服を除いても、金モールの祭服が十七着もある。リュバンプレ裁判長老夫人には大きな望みがかけられている。九十歳になるこの貴婦人は、すくなくとも七十年このかた、極上のリヨン織の布地に金糸の刺繍《ししゅう》をほどこした婚礼衣裳《いしょう》を、いくつか大事にしまっている。シャ神父は突然立ちどまって、目を見開きながらいうのだった。「きみ、いいかい、その布地ってのはしゃんと立ってるんだよ。そのくらい金糸が使ってあるわけだ。ブザンソンじゃ、もっぱらの評判だが、裁判長夫人の遺言で、十着以上も祭服が、この大聖堂の宝物《・・》に加わるのだそうだ。大祝日用にはおる外袍《がいほう》四、五着はむろんのことだ」それからシャ神父は声を落してつけ加えた。「これは立ち入った話だが、裁判長夫人は金めっきした見事な銀の燭台《しょくだい》を八基、われわれに残してくださるだろうと、わたしはにらんでいる。これはブールゴーニュのシャルル豪胆公がイタリアで買われた品物だと推定されている。夫人の先祖に豪胆公おきにいりの大臣がいるのでね」
《いったい、この人はやたらにこんな古着の話などもち出して、どうする気なんだろう?抜け目ない前置きが、もうずいぶん前から続いているのに、肝心の話は切り出さない。よっぽど、おれを警戒してるとみえる! ほかの連中よりは役者が一枚上《うわ》手《て》だ。ほかの連中の腹の底なら、二週間もあればすつかり見通せるんだ。なるほど、この人の野心が十五年も悩み続けてこられるわけだ》
ある夜、武術の稽《けい》古《こ》の最中に、ジュリヤンはピラール神父に呼ばれた。
「明日は Corpus Domini(聖体祭)の日だ。シャ = ベルナール神父が、きみに大聖堂の飾り付けを手伝ってもらいたいということだから、行って、あの人の指図を仰ぎなさい」
ピラール神父はジュリヤンを呼び返して、気持を察するかのようにいった。
「この機会に町じゅうを歩いてみたいなら、それもよかろう」
「Incedo per ignes.(わたくしには隠れた敵がいます)」
と、ジュリヤンは答えた。
その翌日、朝早くから、ジュリヤンは目を伏せたまま、大聖堂に出かけた。街々の様子や町にただよいはじめた活気を眺《なが》めるのは、気持がよかった。どこの軒先でも、行列を迎えるために、幕が張ってある。神学校で過した期間が、ほんの一瞬であったような気がした。ヴェルジーを思い、また美人のアマンダ・ビネのことを考えた。あのカフェはそう遠くはないから、ひょっくりあの娘に会えないともかぎらない。シャ = ベルナール神父の姿が遠くから見えた。自慢の大聖堂の入口に立っている。楽しそうな、いかにも開けっぴろげな顔の、太った男である。この日は意気揚々としていた。ジュリヤンの姿を目にすると、さっそく遠くから大きな声でいった。「待っていたよ、きみ。よく来てくれたね。今日の仕事はだいぶかかるし、骨が折れるかもしれんから、第一回目の朝飯で元気をつけるとしよう。二回目の朝飯は十時ごろ、大ミサのあいだに出るはずだ」
「わたくしを一時《いっとき》でもひとりにしないでください」と、ジュリヤンは真顔になっていった。そして、頭の上の大時計を指しながらつけ加えた。「わたくしが五時一分前に来たことを、どうかお忘れにならないでください」
「ふむ、神学校の意地悪仲間がこわいのか!あんな連中のことを気にするなんて、きみもよっぽどお人よしだね。道ばたの垣《かき》根《ね》に棘《いばら》があるからといって、道がそれだけ美しくないというわけにはならん。旅人はどんどん道を続けるもんだ。意地悪の棘なんざ、道ばたで待《ま》ち呆《ぼう》けをくわせとけばいい。とにかく、仕事だ、きみ、仕事だよ!」
シャ神父が骨の折れる仕事だといったのはほんとうだった。その前日、大聖堂では盛大な葬儀が行われたので、今日の準備はなに一つできていなかった。したがって、午前中に三つの内陣を形づくっているゴチック式の円柱を全部、三十尺の高さまで、赤い緞《どん》子《す》で、着物でも着せるように、包んでしまわなければならなかった。司教猊《げい》下《か》は、郵便馬車で、パリから四人の室内装飾師を呼び寄せておかれたが、この四人で全部を引き受けるわけにはいかなかった。それに、下手くそなブザンソンの業者仲間を助けてくれるどころか、ばかにしてかかるので、ますますうまくいかなかった。
ジュリヤンは自分で梯子《はしご》に登るより仕方がないと見てとった。身軽なのが大いに役にたった。ジュリヤンはブザンソンの業者を指揮することを引き受けた。シャ神父はジュリヤンが梯子から梯子へひょいひょいと乗り移るのを、感心して眺めていた。全部の円柱を緞子で包みおえると、今度は、主祭壇の真上の大きな天蓋《てんがい》の上に、途方もなく大きな羽根飾りを五つ、どうやってつけるかということになった。金泥《きんでい》の木製の豪華な冠飾は、イタリアの大理石でできた、八本の大きな螺旋状《らせんじょう》の円柱で支えられている。だが、聖櫃《せいひつ》の真上の天蓋の中央に行くには、古い木造の軒蛇腹《のきじゃばら》の上を渡らなければならない。その軒蛇腹も、腐っているかもしれないし、四十尺の高さなのだ。
このむずかしい足場を見ると、いままであれほど陽気に騒いでいたパリの装飾師も、しょげかえってしまった。下から眺めて、しきりにいいあってはいるが、登っていこうとしない。ジュリヤンは羽根飾りをつかむと、梯子をするする登っていった。天蓋の中央の、冠の形をした飾りのところに手《て》際《ぎわ》よくつけた。梯子からおりてくると、気のいいシャ = ベルナール神父が、彼を両腕に抱きしめ、大きな声でいった。
「Optime 。このことは司教猊下のお耳にいれておく」
十時の朝食はひどく賑《にぎ》やかだった。シャ神父には自分の大聖堂がこれほどりっぱに見えたことはなかった。
「なあ、きみ、わたしのお袋は、この尊い大聖堂で貸《かし》椅子屋《いすや》をしていたんだ。だから、わたしはこの大きな建物の中で育ったわけさ。ロベスピエールの恐怖政治で、商売はあがったり。だが、当時八歳だったが、もうわたしは内輪のミサのお勤めをしたのだ。ミサの日にはご馳《ち》走《そう》になるわけさ。わたしみたいにうまく祭服をたたむものはいなかった。金モールが切れたことなんか一度もない。ナポレオンが宗教を復活したんで、運よくわたしはこの尊い大聖堂で万事をきりまわすことになったのだ。年に五度、この大聖堂がこういうふうにりっぱに飾りたてられるのを、この目で見るわけだが、こんなすばらしくできたこともないし、緞子の布が今日みたいに、ぴったり円柱に張られたこともなかったのだ」
《いよいよ、秘密を打ち明けるぞ。自分の話をしはじめたからな。ぶちまけてるんだ》と、ジュリヤンは思った。だが、明らかに興奮しているのに、このひとの口からは、なに一つ、不用意な言葉は出なかった。《それにしても、ずいぶん働いて、満足しているんだろうし、上等な酒にも手をつけたのに。なんという人物だ! おれにはいいお手本だ! こいつには一本参った《・・・・・》》(こんな柄《がら》の悪い言葉も、老軍《ぐん》医《い》正《せい》から教わったのである)
大ミサの「聖なるかな《サンクトウス》」の鐘が鳴ると、ジュリヤンは白衣をはおって、司教のあとから荘厳《そうごん》な聖体行列に加わろうとした。
「泥棒《どろぼう》をどうするんだ、きみ、泥棒を!」と、シャ神父が叫んだ。「忘れちゃこまるね。行列が出ていけば、御《み》堂《どう》は空っぽになるじゃないか。きみとわたしで見張りをするんだ。円柱の下のところを巻いてる見事な飾り紐《ひも》があるだろう。あれが一、二間《けん》なくなるくらいですめば、いいほうだよ。あれもリュバンプレ夫人の寄進なんだ。曽《そう》祖《そ》父《ふ》に有名な伯爵《はくしゃく》がいるが、そのかたのものだったのだ」そういって、ジュリヤンの耳もとに口を寄せ、明らかに興奮した顔でつけ加えた。「それも金糸で、全然まぜものなしなのだぜ! きみには北側の見張りを頼む、外へ行ってはいかんよ。わたしは南側と中央信者席を受けもつ。告解聴《ちょう》聞室《もんしつ》に気をつけたまえ。あすこから狙《ねら》うんだ、泥棒の手先女どもがね。こっちが背をむけるすきを狙うんだよ」
ちょうどそういい終えたとき、十一時四十五分の鐘が鳴り、続いて鐘楼の鐘が聞えてきた。その音は響きわたった。こだまするようなこの荘厳な鐘の音に、ジュリヤンは感動した。彼の思いはもはや地上にはなかった。
香の匂《にお》いと、聖ヨハネのなりをした子供たちが聖体の前にまきちらした薔薇《ばら》の花びらの匂いで、ジュリヤンは興奮してしまった。
いつもなら、この荘重な鐘の音を聞いても、五十サンチームの日当をもらう二十人ほどの男に、おそらく十五、六人の信徒が手伝ってやっている仕事だ、くらいのことしか考えなかったろう。綱がすり減っているだろうとか、骨組が腐ってきたろうとか、鐘そのものが二百年に一度は落ちるという危険なものなのだとかいったことを思い浮べ、どうやったら鐘突きの男たちの手当てが減らせるか、たとえば、ローマ法王庁の会計から、免罪符とか、贖罪符《しょくざいふ》とかいったものを出してもらって、それで払えば、自分の懐《ふとこ》ろはいたまないではないか、などといった対応策を考え出したりしたところなのである。
しかるに、この日のジュリヤンは、そんな分別くさい反省をするどころか、この力強い響き豊かな鐘の音に感激して、空想の世界をさ迷っていた。これではけっしてりっぱな聖職者にも、偉大な行政官にもなれないだろう。こんなふうに感動する心をもっているものは、せいぜい芸術家になるのがいいところだ。ここに至って、ジュリヤンの思い上りが遺《い》憾《かん》なく暴露されたわけである。同輩の神学生のうちで、おそらく五十人ぐらいは、どんな垣根の裏側にも、民衆の憎《ぞう》悪《お》と過激革命思想が待ち伏せしていると知らされて、人生の現実に注意をはらっているから、鐘突き男たちの手当てのことしか考えなかったろう。また、バレーム流の頭で、民衆の感動の度合いが、鐘突き男たちに払う金額に値するかどうか、計算してみたにちがいない。たとえ、ジュリヤンがこの大聖堂の物質的な利害を考える気になったとしても、彼の空想力は目的を逸脱して、教会の費用を四十フラン節約する気で、二十五サンチームの出費を防ぐ機会を逃《のが》してしまったろう。
晴れ渡った日のブザンソンを、聖体行列がしずしずとねり歩き、方々の役所が相競って設けた派手な休憩所で立ちどまっている一方、大聖堂のほうはひっそりとしていた。薄暗がりと気持のよい冷気がただよっている。それに花や香がまだ匂っている。
細長い信者席の静寂と、いいしれぬ孤独感と、冷気とが、ジュリヤンの夢想をいやがうえにも甘美なものとした。シャ神父は建物の反対側を見張っているので、かき乱される心配はなかった。見張りを頼まれた北側をゆっくり歩きながらも、ジュリヤンの心はほとんど肉体を抜け出していた。告解聴聞室には二、三の信心深い婦人がいるだけなのを確かめておいたので、いっそう落ち着いていられた。見るともなしにただ視線を注いでいただけだった。
しかし、りっぱな身なりをしたふたりの婦人を目にすると、放心状態からやや立ち直った。ひとりは告解聴聞室のなかで、もうひとりはごくそばの祈《き》祷台《とうだい》の上にひざまずいている。彼は見るともなく眺めていた。だが、見張りの義務をなんとなく自覚したせいか、それともこのふたりの婦人の、気品のある、あっさりした身なりを美しいと思ったためか、その告解聴聞室には神父がいないことに気がついた。《変だな、あの美しい婦人たちが信心深いのなら、どこか休息所の祭壇の前で拝むはずだし、社交界のひとたちなら、バルコニーの最前列かなんか、いい場所に陣取れるはずだ。じつに格好のいい服だな! まったく品がいい!》そう思って、ジュリヤンはふたりを見ようとして、足をゆるめた。
静まりかえったなかなので、告解聴聞室でひざまずいていた婦人は、ジュリヤンの近づく足音を聞きつけて、ちょっと振り返った。と、急にあっとかすかな叫び声をあげて、気を失いかけた。
ひざまずいていたその婦人は、ぐったりしたかと思うと、あお向けに倒れた。そばにいた連れの婦人が、すばやく駆け寄って、抱きとめようとした。それと同時に、ジュリヤンは、あお向けに倒れた婦人の肩を目にした。見覚えのある大粒の高価な真珠の首飾りが、彼の目をとらえた。レーナル夫人の髪の毛だと知ると、ジュリヤンは我を忘れた。あのひとだ! 倒れさせまいとして、頭を支えているのは、デルヴィル夫人だった。ジュリヤンは無我夢中で駆け寄った。ジュリヤンが抱きとめなかったら、レーナル夫人もろとも、おそらく連れの婦人も倒れてしまったろう。レーナル夫人の顔は蒼白《そうはく》になり、まったく意識を失って、ジュリヤンの肩にぐったりと寄りかかっている。ジュリヤンはデルヴィル夫人と一緒になって、その美しい顔を藁《わら》椅子《いす》の背にもたせかけた。彼はひざまずいていた。
デルヴィル夫人は振り返って、ジュリヤンだと知ると、いかにも憎々しげに叫んだ。
「早くどいてください。あっちへ行ってください! このひとに顔を見られるようなことだけはしないで! あなたを見たら、それこそふるえ上がってしまいます。あなたを知る前は、どんなに幸福だったかしれないんです! あなたのやりかたはあんまりひどすぎます。早く、あっちへ行ってください。すこしは恥を知ってもいいでしょう」
あまりの剣幕に、ひどく気が弱くなっていた際なので、ジュリヤンはその場を離れた。《このひとはいつもおれを目の敵《かたき》にしていた》と、デルヴィル夫人のことを考えながら、彼はつぶやいた。
ちょうどそのとき、聖体行列の先頭にいる神父たちの、鼻にかかった歌声が、聖堂のなかに響いてきた。行列が帰ってきたのである。シャ = ベルナール神父は何度もジュリヤンを呼んだのだが、当人にはそうすぐには聞えなかった。シャ神父はとうとう自分からやってくると、まるで死人のようになって、柱の陰に隠れているジュリヤンの腕をつかまえた。司教に引き合せようと思ったのだ。
「気分が悪いのだね。働きすぎたからな」相手が真っ青な顔をして、ほとんど歩く気力もないのを見ると、シャ神父はそういって、腕を出し、寄りかからせた。「わたしのうしろに、聖水係の小さな腰かけがある。さあ、ここに来てかけるといい」ふたりはこのとき正面入口のそばまできていた。「わたしが隠しておいてあげるから。心配しなくてもいい。司教猊下がお通りになるまでには、まだゆうに二十分はある。元気を出すんだ。猊下がお通りになるときは、わたしがきみをかかえて立たしてあげる。なあに、年はとってもまだ丈夫だし、力はあるからね」
だが、司教が通りがかったとき、ジュリヤンがひどくふるえているのを見て、シャ神父は司教に引き合せるのを諦《あきら》めた。
「あまり悲観することはないよ。また機会を見つけてあげるから」
その夜、シャ神父は神学校の礼拝堂に五キロも蝋燭《ろうそく》を届けさせた。ジュリヤンが気をつけて手早く明りを消したので節約できたのだと、シャ神父はいったが、嘘《うそ》八百で、かわいそうにジュリヤン自身は、火の消えたようにまいっていたのだし、レーナル夫人を見てからは呆然《ぼうぜん》としていたのだ。
第二十九章 はじめての昇進
彼は自分の時代を知り、自分の地方を知った。それで、いまでは金持になっている。
『先駆者』紙
ジュリヤンは大聖堂の事件以来、深い物思いにふけったまま、なかなか気をとり直すことができなかったが、ある日の朝、厳格なピラール神父に呼ばれた。
「シャ = ベルナールさんが、きみのことをほめた手紙をよこしたがね。きみの行いについては、わたしもだいたい満足に思っている。きみは思いのほかひどく軽率で、そのうえそそっかしいところがある。だが、今までのところ心がけもいいし、それに、なかなか寛《ひろ》い気持ももっている。頭もずばぬけてよろしい。要するに、きみには見のがすことのできない閃《ひらめ》きがある。
わたしは十五年つとめてきたが、この学校を出ていくことになった。神学生には勝手なことをさせ、きみが告解のおり話してくれた例の秘密結社のことでも、これを保護するわけではなし、取り締ろうともしなかったが、これはわたしの手落ちだ。ここを出ていく前に、きみのためになにかしてあげたいと思う。きみの部屋で発見されたアマンダ・ビネの宛《あて》名《な》の密告問題がなかったら、ふた月も前にそうしてあげたところなのだ。きみを新約および旧約聖書の復習教師に任命する」
ジュリヤンは感激のあまり、その場にひざまずいて神に感謝をしようという気は起したものの、もっと切実なふるまいに出てしまった。ピラール神父に近づいて、その手を取ると、これを唇《くちびる》に押しあてたのである。
「なんてことをするのだ!」と、校長は不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔をして叫んだが、ジュリヤンのまなざしは、このふるまい以上のものをあらわしていた。
長年、人情の機微にふれる習慣を失った人がそうであるように、ピラール神父は呆《あき》れ顔《がお》でジュリヤンをまじまじと見つめた。見守るそのまなざしは、校長の心のうちをあばいてしまった。声《こわ》音《ね》が変った。
「ほんとは、わたしもきみが好きなのだ。いや、まったく、これはわたしの本意ではないのだが。わたしは公平でなければいけないし、だれに対しても愛憎をいだいてはいけない立場だ。きみの将来は困難が多いことだろう。きみのなかには、どこかこう俗人に反感を起させるものがある。嫉《しっ》妬《と》や中傷がきみにはつきまとうだろう。神のご意志でどこへ行ったにしても、きみは同僚からかならず憎しみの目をもって見られるだろう。同僚が好意をもっているようなふりをしたら、それはもっと確実にきみを裏切るためなのだ。それを防ぐ道はただ一つしかない。ひたすら神におすがりするということだ。神はきみの思い上りをこらすために、きみが憎まれるようにとお思いになったのだ。くれぐれも行いを清くするように、わたしの見たところでは、それ以外に救いの道はない。どんなことにも負けず、しっかりとまことの道を守り続けさえすれば、おそかれ早かれ、きみの敵どもは、かぶとを脱ぐことになる」
ジュリヤンはだいぶ前から好意の言葉を耳にしたことがなかった。したがって、その気弱さは大目に見てやるべきだ。彼は泣きくずれた。ピラール神父は両腕でジュリヤンを抱いた。この瞬間はふたりにとってまことに甘美なものだった。
ジュリヤンは喜びに我を忘れた。この昇進は、彼がはじめて手にいれたものだし、これには計りしれないほどの特典があった。片時もひとりきりになることができず、しょっちゅう、とにかく口うるさいし、多くは我慢のならぬ仲間と、つきあっていなければならない境遇に置かれて、幾月も過したものでなければ、この特典がどれほど大きいかはわかるまい。仲間のものがどなる声を聞いただけで、神経の細い人間なら、気持をかき乱されてしまう。この百姓どもは十分ものが食べられ、満足な着物が着られるようになった喜びを静かに味わうことができず、思いきりどなりたてて騒がないと、十分喜んだ気がしないのである。
いまでは、ジュリヤンも、ひとりで、ほかの神学生たちより一時間ばかりおくれて、食事をするようになった。庭の鍵《かぎ》ももらえたので、人《ひと》気《け》のない時間を見計らって散歩することができた。
前ほど憎まれていないのを知って、ジュリヤンは非常に意外な気がした。こんなことになるどころか、ますます憎まれるものと覚悟していたのである。だれからも話しかけてもらいたくないというあのひそかな望みは、あまりにはっきりしていて、このために多くの敵ができたのだが、いまでは、だれもこれを笑うべき傲慢《ごうまん》不《ふ》遜《そん》とは考えなくなった。周囲の無教養な連中の目には、それが自分の威厳を示す当然の感情と思えた。憎しみは目に見えて薄らいだ。とくに、ジュリヤンが教えることになったごく若い同輩のあいだで、そういうふうに思われたし、ジュリヤンもこの連中をよくかわいがってやった。だんだんジュリヤンの味方さえ出てきて、ジュリヤンをマルティン・ルターと呼ぶのは悪趣味だと見られるようになった。
だが、ジュリヤンの敵を、味方だといってもはじまらない。こういった事柄《ことがら》は醜いことなのだし、意図がはっきりしているだけにますます醜い。しかしながら、道徳の教師として民衆に与えられるのはこの連中しかないのだ。こういう連中がいなかったら、民衆はどうなるか? いつかは新聞が司祭にかわりうるだろうか?
ジュリヤンが新しい地位を得て以来、校長はわざと、だれもいないところではけっして話しかけないようにした。このやりかたは、校長にとっても、弟子にとっても、賢明なわけだったが、それはとりわけ試練《・・》を含んでいたのである。厳格なジャンセニストのピラール神父には、一貫した方針があった。有能な男と見たら、その男が欲《ほっ》するすべてのもの、企てるすべてのことの前に、障害物を置いてやるがいい。実際に有能ならば、その障害物をひっくり返すかよけて通るかするだろう。
ちょうど狩猟の季節だった。フーケはジュリヤンの親もとからだと称して、鹿《しか》と猪《いのしし》を一匹ずつ、神学校に送ろうという気を起した。獲《え》物《もの》は調理場と食堂のあいだの通路に置かれた。食事に来るとき、神学生たちは、どうしてもこれを見ないわけにはいかないし、大いに好奇心をそそられた。猪は死んでいたものの、若い神学生たちはこわがった。その牙《きば》にさわってみたりした。一週間この話でもちきりだった。
この贈り物のおかげで、ジュリヤンの家庭は、敬意をはらうべき階級に属するものとされ、これまでの嫉妬にはとどめが刺された。ジュリヤンは財産によって完全な優越者の地位を手にいれたわけである。シャゼルをはじめとして、秀才の神学生たちは、進んでジュリヤンとつきあうようになり、なぜ両親が財産家なのをいままで教えてくれなかったのか、そのためにあやうく金銭に対する敬意を失いかけたではないかと、苦情をいわんばかりの態度を見せた。
徴兵検査が行われたが、ジュリヤンは神学生の資格で、これを免除された。この事情を考えると、いいしれぬ感動を覚えた。《もう二十年前だったら、おれにも英雄的な生涯《しょうがい》がはじまったかもしれない時期なのだが、これでその機会も永遠になくなってしまった!》
ひとりで神学校の庭を散歩していた。すると、囲いの石垣《いしがき》を造っている石《いし》工《く》たち同士の話し声が聞えた。
「やれやれ! 行ってこなくちゃなるまい。また徴兵がはじまったでな」
「あのひと《・・・・》の時代にゃ、たいしたもんだったなあ! 石工が士官になれるし、将軍にもなれるなんてことが実際にあったんだからな」
「それがいまじゃ、まあ行って見てきな! 行くやつは乞《こ》食《じき》ばかりだ。食える《・・・》やつはみんな国に残ってらあ」
「生れがつまらねえと、いつまでたっても、うだつがあがらんってことさ」
「ところで、あの噂《うわさ》はほんとかね? あのひ《・・・》と《・》が死んだってのは」と、また別のが口を出した。
「金持にきまってるじゃないか、そんなことをいいふらすのは。やつらはあのひと《・・・・》がこわくてしかたがなかったからな」
「変ったもんだな、あのひと《・・・・》の時代にはまったく景気がよかったもんさ! それなのに、部下の元帥《げんすい》たちに裏切られたんだからなあ!実際ひでえやつらもあったもんだ!」
この会話がすこしはジュリヤンの心を慰めた。立ち去りながら、溜息《ためいき》をついては、くり返した。
くにたみの記憶に残るは
ただひとり、この王《きみ》ならん!
試験の時期になった。ジュリヤンはりっぱに答えた。シャゼルでさえ、その全知識を示そうとしているのがわかった。
第一日に、名うてのフリレール副司教から任命された試験官たちは、ピラール神父の秘蔵弟子だと聞かされているジュリヤン・ソレルの名を、いつも首席か、せいぜい二番として成績表に書きこまざるをえないのを見て、ひどく当惑した。神学校では賭《か》けがおこなわれていた。総合試験成績表でジュリヤンが首席になるだろうというのだ。首席になれば司教猊《げい》下《か》の食事に招かれるという光栄に浴せる。だが、初期ローマ教会の神父に関する試問が終りに近くなると、一人の狡猾《こうかつ》な試験官が、聖ヒエロニムスについて、また彼のキケロ礼《らい》讃《さん》について、ジュリヤンに質問をしたあとで、ホラティウスや、ウェルギリウスなど、宗門外の詩人の話をもち出した。同輩の知らないうちに、ジュリヤンはこうした作家の文章を、だいぶ暗記してしまっていた。得意になって答えるうち、つい調子に乗って場所柄を忘れ、試験官がしきりに求めるので、ホラティウスの短詩《オード》を暗誦《あんしょう》し、それを一生懸命注釈してみせた。こうして、二十分ほどジュリヤンが自分から罠《わな》にひっかかるままにさせておいたあげく、急に試験官は顔色を変えて、こういう宗門外の勉強に時間を浪費したばかりでなく、無益というより罪深い考えを覚えたことを、苦々しげに叱責《しっせき》した。
「わたくしは愚か者です、先生。おっしゃるとおりです」ジュリヤンは巧妙な策略にひっかかったことに気がつくと、謙虚にそう答えた。
試験官のこの計略は、神学校においてさえ卑劣だと思われた。だが、フリレール神父は、ブザンソンの修道会の網をきわめて巧妙にはりめぐらした抜け目のない人物だし、パリに報告書を送っては、裁判官や知事をはじめ、駐屯地《ちゅうとんち》の将官連までもふるえ上がらせている。そこで、神学校側の思惑などにおかまいなく、権勢をかさにきて、ジュリヤンの名前の横に一九八番と書きこんだ。こうして目の敵《かたき》にしてるジャンセニストのピラール神父に恥をかかせてやるのが痛快だったのだ。
十年このかた、彼の一大関心事は、ピラール神父から神学校長の職を奪うことにあった。ピラール神父は、ジュリヤンに対して示したと同じ行動方針を自分にも課し、誠実で、信心深く、策を弄《ろう》さず、義務に忠実だった。だが、神の虫のいどころが悪かったのか、怒りっぽい性分を授けられ、悪口や憎《ぞう》悪《お》には、ことのほか敏感だった。このはげしい気性の持主にとっては、受けた侮辱はいつまでも忘れられなかった。いくたび辞職しようと思ったかしれないのだが、神のご意志で与えられた地位である以上、そのままでいるほうがお役にたつわけだと思い、《わたしはイエズス会の教義や偶像崇拝がはびこるのをくいとめるのだ》と、考えていた。
試験期には、ふた月ばかり、ジュリヤンに話しかけたことがなかったが、試験成績を知らせる公式の手紙を受け取って、神学校の名誉と考えている生徒の名前の横に一九八番という番号を見たときは、校長も一週間病気になってしまった。この厳格な気性の校長にとって唯一《ゆいいつ》の慰めは、できるかぎりジュリヤンを監督しようということだった。ジュリヤンが怒りもせず、復讐《ふくしゅう》の計画もいだかず、落胆してもいないのを見て、校長はひそかに喜んだ。
数週間ののち、ジュリヤンは一通の手紙を受け取って、はっとした。パリの消印がある。《やっとレーナル夫人が約束を思い出してくれたのだ》と、ジュリヤンは考えた。差出人はポール・ソレルと署名し、親戚《しんせき》と称する男で、五百フランの為替《かわせ》を送ってきたのだ。ジュリヤンが今後ともラテンの大作家の研究をりっぱに続けていくなら、同額の金を毎年送ることにすると、書きそえてあった。
ジュリヤンは心を動かされた。《あのひとだ、あのひとの好意なのだ! おれを慰めようというつもりなんだ。だが、一言もやさしい言葉が書いてないのはどういうわけかな?》
ジュリヤンはこの手紙について思い違いをしていた。レーナル夫人は、親友のデルヴィル夫人にいいふくめられて、いまではすっかり悔い改めていた。ややもすると、我にもあらず、偶然のきっかけから、自分の生涯をくつがえしてしまった妙な男のことを思いがちだったが、手紙を書こうなどという気は起さなかった。
神学校の言葉づかいをすれば、この五百フランの送金という事実に奇《き》蹟《せき》を認めることができようし、神はほかならぬフリレール神父を使って、ジュリヤンにこの贈り物をしたともいえよう。
十二年前のことであるが、フリレール神父は、およそみすぼらしいスーツケース一つをもって、ブザンソンに着いた。噂によれば、そのなかに全財産がはいっていたということである。いまでは当県屈指の富裕な地主のひとりになっている。立身出世をしていくうちに、神父はある地所を半分買った。あとの半分は、遺産相続で、ラ・モール氏の手に落ちた。こうして、このふたりの人物のあいだにたいへんな訴訟沙汰《ざた》が起ったのである。
ラ・モール侯爵《こうしゃく》はパリで派手な暮しをしているし、また宮廷でいくつかの役目についているが、知事の任免権を握っているといわれる副司教を相手に、ブザンソンで争うのは危険だと感じた。予算面で許されるなんらかの名目でごまかして、五万フランの賜《し》金《きん》でも奏請し、このけちくさい五万フランの訴訟など、フリレール神父の勝手にさせてしまえばよいのに、そうはしないで、侯爵は腹をたてた。自分のほうに道理があると思いこんでいた。りっぱな理屈というものだ!
ところが、あえていわせていただければ、裁判官で、自分の息子なり、せめて身寄りのものなりを出世させてやりたいと思わないものがいるだろうか?
およそもののわからぬ連中でも思い知るだろうという腹で、フリレール神父は第一審の判決で勝訴になってから一週間たつと、司教猊下の馬車で、レジヨン・ドヌール勲章をわざわざ自分の弁護士のもとへ届けに行った。ラ・モール氏は相手方のやり口にいささか驚いて、自分の側の弁護士連が弱気になるのを察し、シェラン神父に相談したところ、ピラール神父を紹介してくれた。
侯爵とピラール神父の関係は、この物語のころにはすでに数年も続いていたのである。ピラール神父は、もちまえのひたむきな性格を、この事件に注ぎこんだ。たえず侯爵側の弁護士連と会って、訴因をくわしく調べ、それが正しいと見きわめると、絶大な権力をふるっている副司教を向うにまわして、堂々とラ・モール侯爵の運動員になった。副司教はこの不遜なふるまいに激昂《げっこう》した。それも、たかがジャンセニストのくせに! というわけである。
フリレール神父は腹心の者たちにいうのだった。「宮廷貴族なんてあんなものなのだ。自分じゃひどく顔がきくつもりでいるが、ラ・モール侯爵などは、ブザンソンにいる自分の代理人に、つまらん勲章一つでさえくれてやるわけでなし、どうせその男が免職になっても手のほどこしようがないだろう。それでいて、わたしのもらった手紙によると、あの貴族院議員は毎週欠かさず、いつの司法大臣のときでも、そのサロンへ、例の青綬章《コルドン・ブルー》をみせびらかしに行くのだそうだ」
いかにピラール神父が奔走しても、またラ・モール氏は司法大臣やとりわけその部下の連中とはいつでもごく親しくしているにもかかわらず、六年間も苦労してやりとげたことといえば、完全には敗訴にならなかったというだけのことだった。
侯爵もピラール神父もこの事件には打ちこんできた。そのためにピラール神父とたえず文通をしているうちに、侯爵は神父の人柄に惚《ほ》れこむようになった。社会的身分には格段の相違があったが、お互いに交わす手紙は、次第に友達同士の調子をおびてきた。ピラール神父は侯爵に、侮辱の受けどおしで、自分としては辞表を出さざるをえない立場に追いこまれたと書き送った。ジュリヤンに対して卑劣な(とピラール神父は見ている)策略を弄したのに腹をすえかねて、ピラール神父はジュリヤンに関するいきさつを打ち明けた。
大金持ではあったが、この大殿様はけっして吝嗇《りんしょく》ではなかった。いままでにも、訴訟のことで使った通信費を払おうとしたが、ピラール神父はそれさえ、どうしても受け取ってくれなかった。そこで、侯爵はその愛《まな》弟《で》子《し》に五百フランを送ろうといううまい考えを起したのである。
ラ・モール氏はわざわざ自分で筆をとって送金の手紙を書いた。それを書いてみると、ピラール神父のことにも考えが及んだ。
ある日、ピラール神父は、急用があるから、すぐにブザンソン郊外の宿屋まで出向いていただきたいという手短かに書かれた手紙を受け取った。行ってみると、ラ・モール氏の執事がきていた。
「侯爵さまから馬車でお迎えに上がるようにとことづかってまいりました。この手紙をお読みくださってから、四、五日して、パリへお発《た》ち願えればありがたいとのことでございます。お発ちになるまでの日取りをおっしゃっていただけますと、そのあいだを利用しまして、わたくしはフランシュ = コンテの、侯爵さまのご領地を一まわりいたしてこようと存じます。その上で、ご都合のおよろしい日に、パリまでお供をさせていただきます」
手紙は短かかった。
「田舎の煩《わずら》わしさをいっさいたちきって、パリへ静かな空気を吸いにおいでください。馬車をお迎えに出します。四日間、ご決意を待つよういいつけてあります。小生自身も、火曜までパリでお待ちしています。あなたのご承諾一つで、パリ近郊で最上の司祭職の一つをあなたのご名義で、引き受けておきます。あなたの未来の教区民中でいちばんの金持が、まだ拝《はい》眉《び》いたさぬうちから、ご想像以上にあなたに敬服しております。侯爵ラ・モールがそのひとです」
厳格なピラール神父は、自分でも気がつかないうちに、敵の巣窟《そうくつ》とはいえ、十五年間身命を捧《ささ》げてきた神学校を愛していた。神父からみれば、ラ・モール氏の手紙は、残酷とはいえ、必要な手術をほどこすために、外科医があらわれたようなものだった。免職は間違いないところだった。それから三日たって、神父は例の執事に会った。
二日二晩、神父は熱が出るほど迷い続けた。やっと、ラ・モール氏に返事を書き、司教猊下あてにも手紙をしたためた。それはやや冗長だが、宗門文体の傑作だった。これほど非の打ちどころのない、心からの敬意にあふれた文章は、まずもって見あたるまい。それでもなお、フリレール神父が上長に対面する際、苦境に立つようにという含みから、積り積った苦情の種を、いちいち取り上げ、とるに足らない卑劣な中傷にまで言及して、六年間黙ったままこらえてきたが、もはや猊下の管区を去らなければならない立場に追いこまれたと述べてあった。
薪《たきぎ》小屋の薪を盗まれたとか、飼犬が毒殺されたとか、等々。
この手紙を書きおえると、ジュリヤンを起しにやった。ジュリヤンはほかの神学生と同じで、夜の八時にはすでに床についていたわけである。
「司教のお屋敷はどこだか、わかっているね?」と、ピラール神父はりっぱなラテン語でいった。「この手紙を猊下に届けてもらいたい。ことわっておくが、わたしはきみを狼《おおかみ》の巣窟に送りこむわけだ。くれぐれも気を配ってもらいたい。返事に嘘《うそ》は禁物だが、訊問《じんもん》する相手は、おそらく、きみを困らせて喜ぶような連中だということは忘れないように。きみと別れる前に、こういう試練をさせてあげることができて、うれしいと思っている。隠すまでもないが、きみの届ける手紙とは、わたしの辞表なのだから」
ジュリヤンは立ちつくしている。ピラール神父を愛しているのだ。
《この誠実な校長がいなくなれば、聖心会《・・・》一派がおれの地位を奪うばかりか、おれを追い出さないともかぎらない》
と、用心深く、自分にいいきかせてみたが、それもむだだった。
自分のことなど考えていられなかった。弱ったことには、なにか礼儀にかなった言葉を一言述べたいと思ったが、どうしてもそれが思い浮ばなかった。
「どうした、きみ、出かけないのか?」
ジュリヤンはもじもじしながらいった。
「あの、なんでも、長いあいだ校長をなさっていらしたのに、先生はすこしも貯《たくわ》えをなさらなかったそうで。わたくしは六百フランもっております」
涙でそれ以上続けていえなかった。
「それも覚えておく《・・・・・・・・》。さあ、司教のところだ。だいぶおそいから」
と、前神学校長は冷やかにいった。
たまたま、この夜は、フリレール神父が代理で司教の客間に来ていた。司教猊下は知事のところへ晩餐《ばんさん》に呼ばれていた。したがって、ジュリヤンが手紙を渡した相手は、ほかならぬフリレール神父だったが、ジュリヤンは面識がなかったのだ。
副司教が大胆にも司教あての手紙をひらくのを見て、ジュリヤンは驚いてしまった。副司教のりっぱな顔は、やがて強い喜びをまじえた驚きの表情を見せ、ますます気むずかしい表情になった。副司教が読んでいるあいだ、ジュリヤンはそのりっぱな容貌《ようぼう》にうたれて、つくづくと観察することができた。どこか利口すぎる目鼻だちだが、それさえなければ、もっと重々しい顔になったろう。利口すぎるせいか、もし、この美貌の持主が、ちょっとでも気を配るのを忘れたら、腹黒さをさらけ出してしまいそうである。鼻がひどく高く、それだけがまっすぐな線を描いているだけに、横顔もはなはだ上品なのだが、その横顔が、残念ながら、狐《きつね》の顔とそっくりなのは否定できない。もっとも、ピラール神父の辞表を夢中で読んでいるらしい副司教の、しゃれたなりをしているところが、大いにジュリヤンの気にいった。ジュリヤンとしては、こんななりはこれまでどの聖職者にも見かけたことがなかったのだ。
フリレール神父がいかに特殊な才能をもっているかを、ジュリヤンが知ったのは、のちになってからのことである。フリレール神父は司教を喜ばせることを心得ていた。司教は、パリ暮しが板についた、愛《あい》想《そ》のよい老人で、ブザンソンをまるで島流しの土地のように思っている。ひどく目が悪くて、魚がことのほか好きだった。そこで、フリレール神父は猊下のお食べになる魚の骨を取ってあげるのだ。
辞表を読み返しているフリレール神父を、ジュリヤンは黙ったまま眺《なが》めていた。すると、ふいに大きな音がして扉《とびら》が開いた。りっぱな仕着せを着た従者が急ぎ足で通り過ぎた。ジュリヤンが入口のほうを振り向いたとたんに、十字架を胸につけた小《こ》柄《がら》の老人が目にはいった。彼はひれ伏した。司教は好意のある微笑を見せて、通りすぎた。美貌の副司教があとに続いた。客間にひとり取り残されたジュリヤンは、その部屋の敬虔《けいけん》で豪華なありさまをゆっくりと眺めた。
ブザンソンの司教は長いあいだの亡命できたえられたが、いまなお元気な才人で、七十五歳を過ぎているから、十年先のことなどいっこうに心配しなかった。
「通りがけに利口そうな目をした神学生を見かけたようだが、あれは何者かね?」と司教がきいた。「わたしの出しておいた規律だと、神学生はこの時刻には寝ているはずではないか」
「あの学生はすっかり目を覚ましております、猊下。たいへんな知らせをもってまいりました。猊下の管区内にただひとり残っておりますジャンセニストの辞表でございます。あの始末におえぬピラール神父も、やっと人の気持がわかったと見えます」
司教は笑いながら答えた。
「だが、あれに匹敵するかわりの男を見つけることが、あなたにできるかな。まあ、あの男の真価をとくとあなたにも知ってもらいたいから、明日はあの男を招いてご馳《ち》走《そう》するとしよう」
副司教は、後継者の選択について、二、三意見を耳にいれておきたいと思った。司教は仕事の話に興味がないらしかった。
「かわりのものをいれる前に、あの男がやめてどうするのか、きいてみよう。あの神学生を呼んでもらおう。子供はほんとうのことをいうものだから」
ジュリヤンは呼ばれた。《これからふたりの宗教裁判所の裁判官の前に引き出されるようなものだ》そう思うと、いままでになく勇気がわいてくるような気がした。
はいってみると、ほかならぬヴァルノ氏よりもりっぱな身なりをした大きな室付《へやつき》の従者が、ふたりで猊下のお召しかえを手伝っているところだった。司教はピラール神父の話をきり出す前に、ジュリヤンの勉強ぶりについてたずねておくほうがよいと思った。すこし教義の話をしてみて驚いた。まもなく古典文学に話が及んで、ウェルギリウスや、ホラティウスや、キケロが問題になった。《こういう名前のおかげで、おれは一九八番にされたのだ。これ以上損しっこない。派手にやってやろう》うまくいった。司教そのひとが、すぐれた古典学者なので、たいへん喜ばれた。
知事邸の晩餐会の席で、ちょうど評判の令嬢が来ていて『ラ・マドレーヌ』という詩を朗読したところだった。司教は文学の話をしはじめると、たちまち、ピラール神父のことも、仕事のことも忘れてしまって、この神学生を相手に、ホラティウスが金持だったか、貧乏だったかという問題について、議論を戦わした。司教は短詩をいくつも引用したが、ときどき記憶が怪しくなると、ジュリヤンが即座に謙遜《けんそん》しながら、全詩を暗誦してみせた。司教が感心したのは、ジュリヤンが会話の調子で話していることだった。神学校内のようすでも話すような具合で、ラテン語の詩句を二十行も三十行も暗誦するのだった。長いあいだウェルギリウスとキケロの話が出た。しまいにはさすがの司教も、この若い神学生をほめ上げずにはいられなくなった。
「これ以上りっぱな勉強をすることは不可能じゃ」
「猊下、神学校にはわたくしなどより、猊下のおほめの言葉にふさわしい学生が一九七人おるのでございます」
「それはどういうわけかな?」と、司教はこの数字にびっくりしてきいた。
「猊下の前で申し上げましたことには、公式の証拠がございます。
神学生の学年試験で、ちょうど、ただいま猊下のおほめにあずかりました問題について、答弁をいたしましたところ、一九八番になったのでございます」
「そうか、これがピラール神父の秘《ひ》蔵《ぞ》っ子《こ》ですな」と、司教はフリレール神父を見て、笑いながらいった。「これはうっかりしておったわい。だが、敵もやりおるな。ところで、きみ」と、ジュリヤンのほうを向いて、「寝ているところを起されて、ここへ来たのではないかな?」
「はい、猊下。これまでに神学校からひとりで外出しましたのは、聖体祭の日に、シャ = ベルナール先生のお手伝いとして大聖堂の飾りつけにまいったときだけでございます」
「Optime 。すると、なにかな、天蓋《てんがい》の上に羽根飾りをつけるので、たいへん勇気のあるところを見せたというのは、きみだったのか。あの羽根飾りには毎年ひやひやする。いつもだれかが生命《いのち》をなくしはしまいかと思ってな。きみはえらくなるだろう。だが、ここできみを飢え死にさせて、きみの輝かしい前途をぶちこわしにしたくはない」
そこで、司教がいいつけると、ビスケットとマラガ葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》が運ばれてきた。ジュリヤンは遠慮なく頂戴《ちょうだい》したが、フリレール神父のほうも遠慮はしなかった。上機嫌《じょうきげん》でうまそうに食べるのを、そばで見ているのが、司教の好みだと心得ていたからである。
司教はこんなふうにして宵《よい》を過せるのがいよいよ楽しくなって、ちょっと教会史の話をしかけてみると、ジュリヤンにはいっこう通じなかった。そこで、司教は、コンスタンティヌス時代の歴代の皇帝治下における、ローマ帝国の精神状態に話を変えた。異教時代の末期は、不安と疑惑の状態が続いたが、それはちょうど、十九世紀の、憂鬱《ゆううつ》で退屈した人々の心をむしばんでいるのと同じ状態だった。猊下は、ジュリヤンがタキトゥスの名前さえろくろく知らないのに気がついた。
ジュリヤンが、その作家は神学校の図書館にはございませんと、無邪気に答えるのを見て、司教はびっくりした。
「それはまことにありがたい」と、司教はうれしそうな顔をしていった。「これで助かったというものじゃ。きみのおかげで、まったく思いがけない愉快な一夕が過せたのだから、どんな形で感謝したものかと、さきほどから考えていたのじゃ。土地の神学校の生徒のうちに、きみのような学者がいようとは、思いもよらなかった。贈り物としては、教会の掟《おきて》にあまりふさわしいものではないが、タキトゥスをあげたいと思う」
司教は、豪華な装幀《そうてい》をした八巻ぞろいの本を持ってこさせ、みずから第一巻の表題の上に、ジュリヤン・ソレルに対する讃《さん》辞《じ》を書こうとした。司教はりっぱなラテン語が自慢なのである。しまいに、これまでの会話の調子とはうって変った、まじめな口調でいった。
「ところで、もしきみがおとなしくしていれ《・・・・・・・・・・・・・・》ば《・》、いつかはわたしの管区で、いちばんいい司祭職にありつける。それも、この司教館から百里とは離れぬ土地でな。だが、くれぐれもおとなしくする《・・・・・・・》ように」
ジュリヤンがもらった書物をかかえ、あっけにとられて、司教館を出たときは、ちょうど真夜中の鐘が鳴っていた。
猊下はピラール神父のことを一言もいわなかった。ジュリヤンはとりわけ、司教の丁重そのもののような態度に驚いていた。自然にそなわる威厳に加えて、これほど垢抜《あかぬ》けした物腰になれようとは考えられなかった。ジュリヤンは、いらいらしながら自分の帰りを待ちわびているピラール神父の、陰気な顔を再び見ると、なおさらそのコントラストを痛感した。
「Quid tibi dixerunt?(あのひとたちはきみになんといったかね?)」ピラール神父はジュリヤンの姿を目にすると、いきなりどなるような声で、そうきいた。
ジュリヤンは、司教の話をラテン語に翻訳するのに、いささかまごついた。
「フランス語でいいなさい。猊下のお言葉どおりにくり返せばいいのだ。一言もつけ加えたり、削ったりしないで」
と、前神学校長は、例の厳しい口調と、およそ不粋な態度でいった。
「風変りな贈り物だわい! 司教から若い神学生に贈るにしては」と、豪華な『タキトゥス著作集』をめくりながら、その金縁に威圧された様子でいった。
きわめて詳細な報告を聞き取ってから、部屋に引き取るようにと愛《まな》弟《で》子《し》にいったときは、二時が鳴っていた。
「いただいたタキトゥスの第一巻を置いていきなさい。司教猊下の讃辞が書いてある巻だ。このラテン語の一行が、この学校できみの避雷針になってくれるだろう、わたしがいなくなってから。
Erit tibi, fili mi, successor meus tanquam leo quマrens quem devoret.(なぜなら、汝《なんじ》にとって、わが子よ、わが後任者は怒れる獅子《しし》のごとく、食い殺そうとするであろうから)」
その翌朝、ジュリヤンは、同輩たちの話しかける態度が、どこかいつもと違っているのに気がついた。そこで、ますます控え目な態度に出た。《ピラール神父が辞表を出したせいだな。もう学校じゅうに知れわたっているし、おれは校長のお気にいりと思われているからな。おれを侮辱するつもりで、ああいうそぶりを見せるのにちがいない》しかし、どうもそんなふうには受け取れなかった。それどころか、共同寝室の廊下で、だれに出会っても、そのまなざしには憎しみの色が見られなかった。《これはどうしたことかな? おそらく罠《わな》だろう。それなら、こっちも抜かるまいぞ》とうとうヴェリエールから来た若い神学生が笑いながら言った。「Cornelii Taciti opera omnia(タキトゥス全集)」
この言葉を聞くと、みんなは先を争ってジュリヤンに祝詞をのべた。猊下から見事な贈り物をいただいたばかりでなく、光栄にも二時間にわたってお話しすることができたからというのだ。ごく細かなことまでが伝わっていた。このときから、羨望《せんぼう》は影をひそめ、だれもが卑屈なお世辞を使うようになった。つい前の日まで無礼きわまる態度を見せていたカスタネード神父でさえ、進んで腕をとり、食事にさそうありさまだった。
ジュリヤンの性格は変えるわけにはいかない。こういう卑《いや》しい連中の無礼な態度には、ずいぶん苦々しい思いをさせられたが、卑屈な態度に出られると、それにも胸糞《むなくそ》が悪くなるばかりで、すこしもうれしくはなかった。
正午ごろ、ピラール神父は厳しい訓示を残して、神学生たちと別れた。「諸君は現世の名声に憧《あこが》れ、社会的地位を求め、上に立つ喜びを望み、法律を侮《あなど》り、万人に対して無礼なふるまいをして、なお罰を免《まぬか》れるという喜びにひたりたいのか? それとも、永遠の救いを願うのか? 諸君のうちで最も学力の劣るものでも、目を開けて見さえすれば、この二つの道は見分けられるはずだ」
ピラール神父が出ていくと、イエズス聖心《・・・・・・》会《・》の信徒たちはすぐさま礼拝堂へ「主よ、た《テ・》たえまつる《デウム》」を誦しに行った。神学校ではだれひとりとして、前校長の訓示をまともには受け取らなかった。免職になったので機嫌が悪いのだ、と、口々にいいあっていた。金持の御用商人とあれほど関係の深い地位を、自分からすてたなどと、素直に考える神学生は、ひとりもいなかった。
ピラール神父はブザンソンでいちばんりっぱな旅館に泊った。ありもしない用事を口実に、そこで二日過すことにした。
司教からは晩餐に招かれていた。副司教のフリレール神父をからかう魂胆から、司教はピラール神父をつとめて引き立てるようにした。デザートのときに、パリから妙なニュースが伝わった。ピラール神父が首都から四里ばかり離れたN……という土地のすばらしい司祭職につくことになったというのである。人のいい司教は心から祝ってくれた。この問題でピラール神父がうまく立ちまわった《・・・・・・・・・》と思うと、司教は上機嫌になって、神父の才能を高く評価した。司教はラテン語でりっぱな証明書を書いて渡し、忠告めいたことをいいかけたフリレール神父をおさえつけてしまった。
その夜、猊下はリュバンプレ侯爵《こうしゃく》夫人邸へ行くと、またもピラール神父のことをほめ上げた。これはブザンソンの上流社会にとっては一大ニュースだった。この異例の好遇について、みんながあれこれと臆測《おくそく》した。早くもピラール神父が司教になるとみたのである。目先のきく連中は、ラ・モール氏が大臣になるものと思って、この日ばかりは、社交界でえらそうな顔をしているフリレール神父に冷笑を浴びせた。
その翌朝、ピラール神父が侯爵の訴訟を担当している判事たちのところへ請願に行こうとして、通りに出ると、あとからぞろぞろついてくるほどだし、商人は店先まで出てくる始末。ピラール神父が判事たちから丁重に迎えられたのは、これがはじめてだった。この厳格なジャンセニストは、目にするすべてのものに腹をたて、ラ・モール侯爵のために選んでおいた弁護士たちと、長いあいだ話し合ってから、パリに発《た》った。見送りに来た二、三の学校時代の親しい仲間が、馬車の紋章を見て感心した。ピラール神父はつい気を許して、十五年間も神学校の校長を勤めながら、わずかに五百二十フランの貯金をしたきりで、ブザンソンを去るのだと、いってしまった。仲間は涙を流してピラール神父を抱擁したが、発ってしまうと、「あの人のいい校長も、あんな嘘《うそ》をいわなければいいのに。それにあんまりばかばかしすぎるよ」といいあった。
金銭欲に目のくらんだ俗人には、とうてい理解できなかった。ピラール神父はひたすら自分の誠実さに頼っていたからこそ、六年のあいだ、マリー・アラコックやイエズス聖心会や、イエズス会や、司教を相手に、独力で戦う気概をもつことができたのだ。
第三十章 野心家
貴族はもはやただ一つ、公爵《・・》という称号があるのみ。侯爵《こうしゃく》なんてばかばかしい。公爵《・・》といえば人も振り向く。
『エディンバラ評論』
ピラール神父を迎えたラ・モール侯爵は、大殿様らしいつまらぬ気取りをすこしも見せなかった。ひどく丁重だが、知っているものから見れば、不《ふ》遜《そん》きわまりないそんな気取りは時間のむだになる。侯爵はいま重要な仕事に追われている関係上、暇つぶしなどしていられなかった。
半年このかた、侯爵は国王ならびに国民に、ある内閣を認めさせようと暗躍しているところで、その内閣を作るかわりに、褒《ほう》美《び》として公爵にしてもらおうというのである。
侯爵は、だいぶ前からブザンソンの弁護士に、フランシュ = コンテの訴訟のことで、明確な報告を求めていた。有名な弁護士であるとはいえ、この訴訟のことは自分でもよくわからない以上、どうして侯爵に説明できたろう?
ピラール神父から渡された小さな四角の紙片で、万事がわかった。
侯爵は五分とたたぬうちに、儀礼的な挨拶《あいさつ》や個人的な問題についての質問を片づけてから、いった。
「ところで、わたしは運が向いてきたらしく、小さなことだが、かなり重要な二つの問題に十分かかりあっている暇がないのです。つまり、家庭のことと事業のことです。家の財産については、だいたい気をつけていますが、これもふやすことができそうです。快楽のことも忘れてはいません。それに、これはすくなくともわたしにはなによりも大事なことでなければならないと思われますので」と、ピラール神父の目に驚きの表情が浮ぶのをいち早く見てとると、つけ加えていった。ピラール神父はもののわかる人ではあったが、老人がこうまであけすけに自分の快楽の話をするのを聞いて、たまげてしまった。
侯爵は続けた。
「働きのある人間はむろんパリにもいますが、六階住いの連中でしてね。わたしがこれはと思う男と関係をもつと、さっそく三階に引越してくるし、細君は客を呼ぶ日をきめる始末。そうなると、もう仕事はしないし、社交人になる、いや、社交人気取りをする以外に、なんの努力もしないわけです。パンに困らなくなると、それが唯一《ゆいいつ》の関心事になるのです。
はっきりいってわたしの訴訟事件については、それにそれぞれの訴訟のことでも、文字どおりに死んでくれる弁護士がいるにはちがいありません。一昨日《おととい》もそのひとりが胸の病で死んではいます。ところが、わたしの仕事一般のほうは、わたしにかわって手紙を書いてくれる以上、そのあいだくらいは自分の仕事のことを、多少は真剣に考えてもらいたいのですが、まったくの話が、三年このかた、そんな人は見つかるまいと思って、諦《あきら》めてしまったのです。もっとも、こんな話はほんの前置きにすぎません。
わたしはあなたを尊敬していますし、あえていいますと、はじめてお会いしたわけですが、あなたが好きなのです。わたしの秘書になってくれませんか。年俸《ねんぽう》八千フラン、その倍額でもいいのです。それでもわたしには損にならないのです、ほんとに。あとで気が合わなくなるかもしれませんから、そのときの用意に、あなたのりっぱな司祭職は取っておきます。そこはうけあいます」
ピラール神父はことわった。だが、話合いが終るころになると、侯爵が困りぬいているのを見て、ふと考えた。
「わたしは神学校にひとりのかわいそうな青年を残してきました。わたしの見るところでは、ひどく迫害されることになりましょう。あれがただの神学生にすぎないなら、いまごろは地下牢《・・・》にいれられているところです。
これまでのところ、この青年はラテン語と聖書しか知りませんが、いずれは布教か、魂の指導で、非常な才能を発揮することと思われます。将来どういうことをするかわかりませんが、聖《きよ》い情熱をもった青年で、大をなすだろうと思います。わたしはこの青年を司教におまかせするつもりでした。司教と申しても、人物や仕事について、多少ともあなたのような見方のできる人が司教として来《こ》られた場合のことでしたが」
「その青年はどこの出身ですか?」と、侯爵がたずねた。
「わたくしどもの地方の山間《やまあい》で、製材小屋を営んでいるもののせがれだという話ですが、わたしはむしろだれか金持の落しだねではないかと思います。五百フランの為替《かわせ》のはいった匿名《とくめい》だか偽名だかの手紙を受け取るのを見かけましたから」
「あ、ジュリヤン・ソレルですね」
「どうして名前をご存じなのですか?」と、ピラール神父は驚いてきいたが、きいたあとでみずから恥じいっている様子なので、侯爵は答えた。
「そのわけはいいますまい」
「では、この青年を秘書になさってはいかがでしょう。気概も分別もある青年です、つまり、ためしにお使いになってみるのも一法です」
「そうしましょう。だが、警視総監やなんかに抱きこまれて、わたしの家でスパイを働きそうなことはないでしょうな? その点だけが心配です」
ピラール神父が太鼓判を押したので、侯爵は千フラン札を一枚取り出し、
「これを旅費としてジュリヤン・ソレル君に送ってやって、来るようにいってください」
「なるほど、やはり、あなたもパリのおかたですから、わたくしども田舎者、とりわけイエズス会に対立する聖職者仲間がどんなに弾圧を加えられているか、ご存じないわけです。そう簡単にはジュリヤン・ソレルを発《た》たせてくれますまい。巧みな口実を設けて、病気だといってくるでしょうし、郵送中に手紙が紛失したのだろうなどといいかねません」
「近日中に大臣から司教あての手紙をもらいましょう」
「ご注意申し上げるのを忘れておりました。この青年は生れのごく卑《いや》しいものですが、気位が高く、自尊心を傷つけられたら、まったく役にたたなくなります。そうなると、分別もなにもなくなりますから」
「それは気にいった。息子の友達になってもらいましょう。それでいいですかな?」
しばらくして、ジュリヤンは見なれぬ筆跡の、シャロンの消印のある手紙を受け取った。なかにはブザンソンのある商人あての為替がはいっており、すぐパリに来るようにと書いてあった。手紙は仮名で署名してあるが、ひらいたとき、ジュリヤンははっとした。木の葉が一枚足もとに落ちたからである。それはピラール神父としめし合せておいた目印なのである。
一時間とたたぬうちに、ジュリヤンは司教館に呼ばれた。司教は慈父のような好意をもって迎えてくれた。ホラティウスを引用しながら、猊《げい》下《か》は、パリでジュリヤンを待っている幸運について、なかなか巧妙な讃《さん》辞《じ》を呈したが、お返しに、事情を説明してもらいたかったのだ。ジュリヤンはなにもいえなかった。そもそも、なにも知らなかったからである。猊下のほうはそういうジュリヤンにますます敬意をはらわれた。司教館付の神父のひとりが市長に手紙を書いた。市長は急いで、署名した旅券をみずから届けに来たが、旅行者の名前のところは空白にしてあった。
その夜、真夜中になる前に、ジュリヤンはフーケの家に着いた。慎重なフーケは、親友を待っている将来について、喜ぶというよりはむしろ、意外な顔を見せた。この自由主義者の味方はいった。
「きみは政府の一員にでもなるのがおちさ。新聞でたたかれるようなまねを、いやでもしでかすようになるぜ。スキャンダルから、きみの消息がわかるってわけさ。よく考えてみな、経済的にいっても、自分が主人になって、薪《たきぎ》のうまい商売で百ルイ儲《もう》けるほうが、たとえソロモン王の政府だろうと、政府なんかから四千フランもらうよりはましだぞ」
ジュリヤンはそんな話を聞いても、どうせ田舎町の人間のけちくさい根性だとしか見なかった。自分はやっと檜舞台《ひのきぶたい》に立とうとしているところだ。パリは、人一倍陰謀好きの偽善家だが、ブザンソンの司教や、アグドの司教のように、いんぎんな才人たちばかりがいるところだと、ジュリヤンは思っている。そのパリへ出る喜びから、ほかのことはいっさい目にはいらないのだ。そこで、親友には、ピラール神父から手紙をもらった以上、自分の勝手にはできないのだと、いうことにしておいた。
次の日の昼ごろ、ジュリヤンはヴェリエールに着いた。この世でいちばん幸福な男だった。レーナル夫人に再び会うつもりなのである。まず、最初の保護者の、親切なシェラン神父のところへ行った。シェラン神父は厳しい顔をして迎え、ジュリヤンの挨拶には答えないで、こういった。
「わたしになんの義理があるのだね? わたしと一緒に昼飯を食べなさい。そのあいだに別の馬を用意させるから、だれにも会わずに《・・・・・・・・》、ヴェリエールを出ていくがいい」
「お言葉を聞くことは服従することです」と、ジュリヤンはいかにも神学生らしく答えた。あとは神学と美しいラテン語の話題ばかりだった。
ジュリヤンは馬に乗って、一里ばかり行くと、森を見かけた。はいっていくところをだれにも見られる心配がないと見きわめてから、その森にわけ入った。日暮れになると、〔百姓にことづけて、近くの宿場に〕馬を送り返した。やがて、一軒の百姓家に行った。百姓は梯《はし》子《ご》を売ってくれるといい、その梯子をかついで、ヴェリエールの「忠誠散歩道」を見おろす小さな森のところまでついてくることも承知してくれた。
「あっしがお供してきたのは徴兵忌避の兄《あん》ちゃんか。……それとも密輸入業者だね」と、その百姓は別れぎわにいった。「なに、かまうもんか! 梯子はいい値に売れたし、あっしだって、これまでに〔密輸入の〕時計の部《・》分品《・・》を運ばなかったわけじゃねえんだ」
まっくらな夜だった。夜中の一時ごろ、ジュリヤンは梯子をかかえて、ヴェリエールの町にはいった。レーナル氏邸の庭を横切っている急流の川床へ、大急ぎで降りていった。この川は二つの石垣《いしがき》にはさまれて、十尺ほど下を流れている。ジュリヤンは梯子を使って難なく登った。《おれを見たら、番犬のやつ、どう出るかな? そいつが問題だ》番犬どもは吠《ほ》えだし、まっしぐらに突進してきた。だが、軽く口笛を吹くと、やってきてじゃれついた。
鉄門はどれも閉っていたが、段々畑のような土手を一つ一つ登っていくと、わけなくレーナル夫人の寝室の窓下に出た。その寝室の庭に面した側は、八、九尺の高さしかなかった。
鎧戸《よろいど》にはハート型の小さな覗《のぞ》きがあるが、これはジュリヤンもよく知っていた。残念ながら、この小窓からは内側の豆ランプの光がもれてこなかった。
《おやっ、レーナル夫人は今夜この部屋で寝てないのか! どこで寝てるんだろう? 犬を見かけたからには、みんなヴェリエールにいるはずだ。だが、あの部屋にはいっていったら、豆ランプはついてなくても、ほかならぬレーナルさんか、それともこっちの知らない男に出っくわさないともかぎらない。そんなことになったら、大騒ぎになる!》
このまま引き返すのがいちばん賢明である。しかし、諦めるのはいかにも癪《しゃく》だ。《ほかの男だったら、梯子をおっぽり出して、一目散に逃げ出そう。だがあのひとだったら、どんな迎えかたをするか? むろん、すっかり悔い改めて、深い信仰の道にはいっていることは間違いないところだが、やっぱりすこしはおれのことも思い出してくれるだろう。手紙をくれたくらいだもの》こう考えると、決心がついた。
胸をときめかせながらも、死ぬか、夫人に会うかの覚悟で、小石を拾って鎧戸に投げつけた。なんの返事もない。窓のそばに梯子をあてて、自分の手で鎧戸を、はじめはそっと、それから強く叩《たた》いてみた。《いくら暗くても、おれに発砲しようと思えばできるわけだ》そう思うと、この気違い沙汰《ざた》が勇気の見せ場のような気がした。
《この部屋には今夜はだれもいないのだな。そうでなければ、だれが寝ているにせよ、もう目を覚ましているところだ。だとすれば、そのひとをおそれる必要はない。ただ、ほかの部屋に寝ている連中のことがあるから、音をたてないようにしなければならない》
彼は梯子をおりると、その梯子を鎧戸の一つに立てかけ、登り直してハート型の小窓に手を差し入れた。さいわい、鎧戸を閉めたかけ金につけてある針金を、すぐさま見つけた。その針金を引っ張った。鎧戸のかけ金がはずれて、すぐに開けられるのを知ると、いい知れぬ喜びを感じた。《そろそろ開けて、おれの声を分らせなくては》首をつっこめる程度に開けて、低い声でくり返して、「わたしで《・・・・》すよ《・・》」といってみた。
耳をすませると、部屋のなかが静まり返っていることは確かだった。だが、暖炉のところには、消えかかった豆ランプさえ、全然置いてない。これはよほどさいさきの悪いしるしだった。
《鉄砲だ、あぶないぞ!》ちょっと考え直したが、やがて指先で、思いきってガラス戸を叩いた。返事がない。さらに強く叩いた。《たとえガラスを叩き割っても、やるところまではやるぞ》かなり強く叩くと、まっくらやみのなかで、どうやら白い影のようなものが部屋を横切るらしく思えた。今度こそ疑いの余地はなかった。ひどくゆっくりと近よってくる人影が見えた。急に、ジュリヤンがのぞきこんでいた窓ガラスに、相手が頬《ほお》をくっつけた。
彼はどきっとして、すこし身を引いた。まっくらな夜なので、こんなに近い距離から見ても、それがレーナル夫人だかどうだかは見分けがつかなかった。いきなり驚きの叫びをたてられはしまいかとおそれた。梯子の下を半円形に取り巻いて、犬どもがうろつきまわり、唸《うな》り声《ごえ》をたてているのが聞える。「わたしです」とかなり大きな声で何度もいってみたが、返事がない。白い亡霊は姿を消してしまった。「どうか開けてください。お話があるのです。つらくてたまらないんです!」そういって、ガラスが割れそうになるくらい叩いた。
低いきしむ音がして、窓のかけ金がはずされた。ジュリヤンは窓を押し開けて、ひらりと部屋に飛びこんだ。
白い亡霊は身を引きかけた。ジュリヤンはその腕をつかんだ。女だった。勇敢にやるのやらないのなどというどころではなくなった。《あのひとだったら、なんというだろう?》小さな叫び声から、レーナル夫人だとわかると、彼は我を忘れた。
両腕に抱きしめた。夫人は身をふるわせたが、押しのける力もないありさまだった。
「恥知らず! なんてことをなさるの!」声がひきつって、言葉も満足に出なかった。その声《こわ》音《ね》に、ジュリヤンは心からの怒りを見た。
「あれから一年と二カ月になるんですもの、我慢できなくなって、お目にかかりに来たんです」
「出ていって、すぐ出ていって! ほんとに、シェランさま、なぜ手紙を出してはいけなかったのでしょう? 出しておけば、こんなおそろしいことにはならなかったでしょうに」夫人は意外なほどの力で、ジュリヤンを突き放した。「あたしは罪を悔い改めています。神さまのおかげで、迷いからさめましたわ」と、とぎれとぎれの声でくり返した。「出ていって! さっさと行ってください!」
「一年と二カ月も、つらい思いをしたのです。あなたとお話をしないうちは絶対に出ていきません。これまでどんな暮しをなさったか、知りたい。わたしはほんとに思い続けてきたんですもの、そのくらい打ち明けてくださってもいいでしょう。……なにもかもおっしゃってください」
レーナル夫人は心ならずも、この高飛車ないいかたに心をうたれた。
ジュリヤンは夢中になって夫人を抱きしめ、ふりほどこうとしてもがく夫人を抑えつけていたが、このとき両腕の力をゆるめた。相手がゆるめたのを見て、夫人はほっとした。
「梯子を引き上げておきます。召使が物音で目をさまして、見まわりにでもきたら、たいへんなことになりますから」
「それより、出ていって。出ていってくださいな」と、相手はほんとうに腹をたてていった。「人のことなんか、どうでもいいのです。神さまが見ていらっしゃるからです。あなたがはずかしいまねをなされば、あたしは神さまの罰が当りますわ。以前はあなたを思ったこともありますけど、卑怯《ひきょう》ですわ、その気持につけいろうとなさるなんて。あたし、もうあなたのことなんか、思ってませんもの。おわかりになって、ジュリヤンさん」
ジュリヤンは音をたてないように、そろそろ梯子を引き上げた。
「ご主人はヴェリエールに来てるの?」ジュリヤンは相手の気を害するつもりで、そんな親しい口のききかたをしたのではない。つい昔の習慣が出たまでのことだ。
「後生だから、そんな口のききかたはなさらないで。さもないと主人を呼びますよ。どんなことになろうと、あなたを追い出してしまえばよかったのに、こうしているだけでも、たいへん悪いことですわ。でも、あなたをお気の毒だと思ったから」と、夫人は人一倍感じやすい相手であることを承知のうえで、わざと自尊心を傷つけるようなことをいった。
親しい口のききかたまで咎《とが》められ、愛情のきずなをあてにしてきたのに、それさえきっぱり断ち切るような態度に出られると、ジュリヤンのせつない恋心は、物狂わしいまでにあおりたてられた。
「なんですって! もう愛してくださらないなんて、そんなばかなことが!」思いにあふれたその声音は、とうてい冷やかに聞き流せなかった。
夫人は答えなかった。ジュリヤンは口惜《くや》し涙にむせんだ。
実際、口をきく気力さえなくなってしまった。
「わたしを愛してくれたひとは、たったひとりしかいない。それでは、もうそのひとからもすっかり忘れられてしまったのですね! これからさき、生きたところではじまらない!」男に出会いはしまいかというおそれが消えてしまうと、ジュリヤンの勇気は急にくじけた。恋心以外のなにもかもが消え去ってしまった。
彼は長いあいだ無言のまま泣き続けた。夫人の手を取ると、相手は引っこめようとして、無意識的に手をわなわなとふるわせたが、やがてそのままジュリヤンにまかせた。まっくらだった。ふたりはレーナル夫人のベッドのはしに並んで腰かけていた。
《一年二カ月前とは、なんという違いようだ!》そう思うと、ジュリヤンは胸が迫って、涙があふれ出た。《会わないでいると、人間の気持なんて、こうもあっさりと変ってしまうものか!》
「せめて、そののちどんな暮しをなさったか、聞かせてください」ジュリヤンは黙っているのがたまらなくなって、とぎれとぎれの涙声でいった。
「ええ、お話ししますとも」と、レーナル夫人はすげなくいった。そのいいかたにはどこかやさしみがなく、ジュリヤンを咎めているようだった。「あなたがお発ちになると、あたしのふしだらは町じゅうに知れわたってしまったのです。あなたがあんまり無分別なことをなさったからですわ。しばらくして、あたしが途方にくれているところへ、シェランさまが会いにきてくださいました。シェランさまはあたしに打ち明けさせようとなさいましたが、あたしはなかなか打ち明けませんでした。ある日、ふと、あたしが初の聖体拝受を受けたディジョンの教会に連れていこうとおっしゃいました。その教会で、ご自分から先にお話をはじめて……」レーナル夫人の言葉は涙でとぎれた。
「ほんとうにはずかしい思いをしましたわ!あたしはなにもかも打ち明けてしまいました。ご親切にも、シェランさまはお腹だちから責めたてたりなさらずに、あたしと一緒に悲しんでくださいました。そのころ、あたしは毎日あなたあてに手紙をお書きしていたのですけど、とてもお送りする気にはなれませんでした。大事にしまっておき、あんまりやるせない気持になると、部屋に閉じこもって、読み返したものです。
しまいに、シェランさまにお渡しすることを承知してしまいましたの。……そのうち、どうにか穏やかな書きかたをしたのを、いくつかあなたにお送りしたわけですけど、あなたはなんとも返事を下さいませんでしたわ」
「断然そんなことはない。神学校じゃ、ぼくはあなたから一通ももらわなかった」
「まあ、だれが横取りしたのかしら?」
「ぼくがどんなに苦しんでいたと思う? 大聖堂であなたの姿を見るまでは、まだあなたが生きてるかどうかさえ知らなかったんだ」
「神さまのお恵みによって、どんなにあたしが罪深いことをしていたか、わかったのです、神さまに対しても、子供たちに対しても、夫に対しても。夫は一度もあなたのようには愛してくれませんでしたけれど、あなたのようにって、あたしはあのころそう思っていたのですもの……」
ジュリヤンは夫人の腕にとびこんだ。下心があったわけではなく、無我夢中になったのである。だが、レーナル夫人は押しのけて、かなり落ち着いた調子で続けた。
「あのごりっぱなシェランさまから教えていただいたのです。あたしはいまの夫と結婚した以上、あたしの愛情のすべてを捧《ささ》げなければならない立場だし、あたしの知らなかった愛情、あなたとあんなことになるまでは一度も知らなかった愛情さえ、捧げなければならない立場だったのです。……あれほど大事にしていた手紙を思いきってお渡ししてからは、幸福とはいえないまでも、かなり穏やかな生活が送れました。その生活をかき乱さないでください。お友達になって。……いちばん仲のいいお友達になってください」ジュリヤンは夫人の手にキスを浴びせた。夫人はジュリヤンがなお泣きやまないのに気がつくと「泣かないで。そんなつらい思いをさせないで。……今度はあなたがどんな暮しをなさったのかおっしゃって」ジュリヤンは口がきけなかった。夫人はくり返していった。「あなたの神学校生活がどんなでしたか、ぜひお聞きしたいわ。それがすんだら、お帰りになってね」
なにをしゃべっているのか、自分でもよくわからないままに、ジュリヤンは、はじめのころ、いくたび陰謀や嫉《しっ》妬《と》の対象にされたかしれないこと、復習教師を命じられてからは、ずっと落ち着いた生活になったことなどを話し、さらにつけ加えていった。
「ちょうどそのころです、ほんとうに久しぶりに、今日になってみればはっきりわかるんですが、わたしをもう愛していないってこと、わたしなんかどうでもよくなってしまったってことを、多分わたしにわからせようと思ってそうなさったんでしょうが……」レーナル夫人はジュリヤンの手を握りしめた。「そのころ、あなたが五百フランのお金を送ってくださったわけです」
「絶対にそんなことありませんわ」
「パリの消印で、ポール・ソレルと署名してありましたよ。人目をごまかすためでしょう」
その手紙がだれから来たのかということで、しばらくいい争った。ふたりの気持が変った。レーナル夫人もジュリヤンも、いつの間にか、かた苦しい口のききかたを忘れてしまい、親しい間柄《あいだがら》の調子に戻《もど》っていた。お互いに顔は見えなかった。そのくらい闇《やみ》が濃かったが、声の調子がすべてをあらわしていた。ジュリヤンは夫人の腰に腕をまわした。危険きわまりないしぐさだった。夫人はジュリヤンの腕を押しのけようとしたが、ジュリヤンはなかなか巧妙に、興味の深そうな場面を話のなかにおりこんで、注意をそらせた。ジュリヤンの腕は忘れられたかのように、そのままの位置に置かれた。
五百フランの手紙がだれからきたのか、いろいろあて推量をしたのち、ジュリヤンはまた自分の暮しの話を続けた。過ぎ去った生活の話をしているうちに、少しは落着きを取り戻した。いまこうして夫人のそばにいることに比べれば、そんな話は興味がなかったのだ。どうやってこの訪問に結末をつけるか、ということだけで頭がいっぱいだった。「お帰りになるのよ」と、夫人は、話の合間に、そっけない口調で、相変らずいうのだった。
《追い返されたら、いい恥っさらしだ! それこそ一生悔恨で悩まされることになる。もう手紙なんかくれるものか。おれがこの土地にいつ戻ってこられるかもわかりゃしない!》そう思うと、たちまち、ジュリヤンの清らかな気持は消えてしまった。愛する女のそばに腰をおろし、あれほど楽しい思いをしたこの部屋で、その女を腕に抱きしめるようにし、濃い闇のなかとはいえ、さきほどから女が泣いていることは確かだし、胸の動きから察して啜《すす》り泣いていることがわかってみると、ジュリヤンは情けないことに、一個の冷静な策略家になってしまった。それはちょうど、神学校の校庭で、自分よりも腕力のある同輩のひとりから、たちの悪い冗談の的にされていたときと同じような、打算的で、冷静な気持だった。ジュリヤンは身上話を長々と続け、ヴェリエールを離れてからの、みじめな生活の話をした。レーナル夫人は思った。《そうすると、あたしのほうは忘れかけていたのに、このひとは、一年も会わないし、思い出のしるしとなるものは、ほとんどなに一つないのに、ヴェルジーで過した楽しい日々のことしか考えていなかったのだわ》夫人はますます啜り泣いた。ジュリヤンは自分の話が効果をあげたと見て、いよいよきめてを打つべきときがきたと思った。彼はいきなり、つい二日ばかり前にパリから受け取った手紙の話をもち出した。
「司教猊下にお暇乞《いとまご》いをしてきたんです」
「まあ、ブザンソンへお帰りになるのじゃありませんの! これっきり離れて行っておしまいになるの?」
「ええ、そうです」と、ジュリヤンはきっぱり答えた。「わたしがこれまでにいちばん愛していたひとにさえ忘れられたんですもの。もうこの土地もおさらばです。出ていったら二度と戻りません。パリへ行きます……」
「パリへ行くんですって!」と、レーナル夫人はつい大きな声をたててしまった。
夫人の声は涙にむせ、はげしい心のもだえをさらけ出している。こういう姿を見なくては、ジュリヤンには勇気が出なかった。のるかそるか、場合によってはぶちこわしになりかねない行動に出ようというところだったからである。それに、この嘆声を聞くまでは、見当もつかず、自分の言葉のききめがあったのかどうかもまったくわからなかった。もう躊躇《ちゅうちょ》しなかった。後悔したくないと思う気持から、完全に自分を抑えることができた。立ち上がりながら、冷やかにつけ加えていった。
「そうです、奥さん、これっきり、あなたともお別れです。どうかおしあわせで。さようなら」
ジュリヤンは、二、三歩窓のほうへ行き、早くも窓を開けかけた。レーナル夫人が駆け寄って、彼の腕に飛びこんだ。
こうして、三時間話し合ったすえ、ジュリヤンは最初の二時間のあいだ求めに求めていたものを手にいれた。もう少し早く、レーナル夫人の心に愛情が立ちもどり、良心の呵責《かしゃく》がなくなっていたら、またとない幸福が味わえたろう。このように技巧を弄《ろう》して手にいれたのでは、単なる快楽にすぎなかった。ジュリヤンは、夫人がいくら哀願しても、豆ランプをつけるといってきかなかった。
「じゃ、あなたの顔を見たという思い出が、なに一つ残らなくてもいい、というんですか? あなたのかわいい眼《め》は、きっと恋にうるんでいるはずだ、それも見せてもらえないんですね。このきれいな白い手も見られないんですね? ぼくはおそらくずっとお会いできないんですよ」
そういわれてみれば、涙にかきくれるばかりで、レーナル夫人としても、なに一つ拒みようがなかった。だが、暁の光に、ヴェリエールの東に見える山の、もみ《・・》の木の輪郭がくっきり描きだされはじめた。出ていくどころか、快楽に酔いしれたジュリヤンは、この部屋に一日じゅう隠れて過し、夜になってから発《た》ちたいといった。
「かまわないわ。またこんなことになってしまったんですもの。もう自分でも、自分にあきれてしまったの。これで一生不幸な目を見ることになるわ」そういって、夫人はジュリヤンをひしと胸にかき抱いた。「主人も昔とは違うの、疑い深くなって。あのことで、あたしからうまくごまかされたと思ってるの。だから、とてもあたしにつらく当るのよ。あのひとがちょっとでも物音を聞きつけたら、あたしはおしまいだわ。とんでもない女だってわけで、追い出されてしまうわ、たしかにそうにはちがいないけど」
「そりゃシェランさんのいいぐさだ。ぼくがつらい思いをして神学校に行くまでは、そんなふうにはおっしゃらなかったはずだ。あのころはぼくを愛していてくれたのに」
冷やかな調子でそういった甲斐《かい》があった。レーナル夫人は、夫がいるためにどんな危険な目にあうかしれないなどということも、たちまち忘れてしまい、ジュリヤンに自分の愛情を疑われたら、それどころではないという気持になった。日はぐんぐん昇り、部屋を明るく照らしはじめた。このかわいい女、この世でたったひとりの愛する女が、ほんの数時間前までは、おそろしい神をおそれる気持と、自分の義務に執着する気持にばかりとらわれていたのに、いまは自分の腕に抱かれ、自分の足下にひれ伏さんばかりの姿になっているのを見て、ジュリヤンの自尊心は心ゆくばかりの快感に満たされた。一年間も操《みさお》を守りつづけた結果、固められたはずの決心も、ジュリヤンの勇気の前にはひとたまりもなかったのだった。
やがて、家のなかから物音が聞えはじめた。うっかり忘れていたことに気がついて、レーナル夫人は気が気でなくなった。
「もうじき意地悪のエリザがこの部屋にはいってくるわ。あの大きな梯子をどうしましょう? どこに隠そうかしら? 納屋《なや》にもっていくことにするわ」と、夫人は急に陽気になってそう叫んだ。
「だって、下男の部屋を通らなくてはならないでしょう」と、ジュリヤンは驚いていった。
「廊下に梯子を出しておいて、下男を呼んで用をいいつけるわ」
「万一、下男が通りがかりに廊下の梯子に気がついたら、なんとかいいつくろうことも考えておかないと」
「ええ、あなた」といいながら、レーナル夫人はジュリヤンにキスした。「あたしのいないあいだに、エリザがはいってきたら、あなたもすぐさまベッドの下に隠れるようにしてね」
ジュリヤンは急に相手がはしゃぎだしたのに驚いた。《こんなふうに、実際危険が迫ってくると、おろおろするどころか、はしゃぎだすんだ。良心の呵責を忘れたからなんだな! まったくすばらしい女だ! こういう女の心を支配できるとは光栄至極というもんだ!》ジュリヤンはいいしれぬ喜びを覚えた。
レーナル夫人は梯子をかかえたが、明らかに彼女にとっては重すぎた。ジュリヤンは手を貸そうとして、そのほっそりした腰つきに見とれていると、どこからそんな力が出たのか、ふいに、彼女はひとりで梯子をつかんで、椅子《いす》かなんかのように楽々と持ち上げた。大急ぎで四階の廊下まで運ぶと、壁ぎわに寝かせた。下男を呼び、下男が服を着るのを待つあいだに、鳩《はと》小屋《ごや》に登った。五分たって、廊下に戻ってみると、もう梯子がなかった、どうなったのかしら? ジュリヤンが家のなかにいないのなら、これくらいの危険にあわてはしなかったろう。だが、この際、夫があの梯子を見つけたら、どんなひどい結果を引き起すかわからない。レーナル夫人はあちらこちら走りまわった。やっと、屋根裏で梯子を見つけた。下男が運んでくれたばかりか、隠してくれたのだ。だが、どういうわけでそうしたのか、合《が》点《てん》がいかない。前の彼女なら、こういうことになれば、おろおろしたところだ。
《かまわないわ、どんなことになろうとも。あと一昼夜だけのこと、ジュリヤンさえ発ってしまえば。そのころは、自分があさましくなって良心の呵責に悩むばかりなんだから》
夫人はなんとなく、どうせ身を絶つことになるのだという気がしていた。でも、そんなことは問題ではない! これっきり会えないと思って別れたジュリヤンが戻ってきたのだ。再び会えたのだし、あんなに苦労してわざわざ自分のところまで来てくれたのは、自分をほんとうに愛してくれる証拠だ!
夫人はジュリヤンに梯子の一件を物語ってから、
「梯子を見つけたなんて、下男が主人にいいつけたら、あたし、どう申し開きしようかしら?」彼女はしばらく考えこんだ。「でも、梯子を売ってくれたお百姓さんを見つけようとしたら、まる一日かかるわね」そういって、ジュリヤンの腕に飛びこむと、身をふるわせながら抱きしめ、「死にたいわ、このまま死んじゃいたい!」と叫んで、キスを浴びせかけ、「でも、あなたを飢え死にさせてはたいへんだわ」と、笑いながらいった。
「こっちへいらして。ひとまずデルヴィル夫人の部屋に隠しといてあげるわ。いつも鍵《かぎ》がかかってるの」彼女が廊下のはしまで行って見張っているあいだに、ジュリヤンは走りながら通り抜けた。「だれが叩いても、開けちゃだめよ」と、彼女は鍵をかけながらいった。「どっちみち、子供たちが遊びの最中にでも、いたずら半分に叩くくらいのことですから」
「お子さんたち、庭に来てもらえないかしら、この窓の下のところへ。お顔が見たいんです。話をさせてみてください」
「ええ、そうするわ」レーナル夫人は立ち去りながら、甲高い声でそういった。
まもなく、オレンジとビスケットとマラガ酒の壜《びん》をもって戻ってきた。パンを盗むことはできなかったのだ。
「ご主人はどうしてるんです?」
「お百姓さん相手に取引の見積りを書いてるわ」
だが、すでに八時が鳴ったあとで、家のなかがひどく騒々しくなってきた。レーナル夫人の姿が見えないとなれば、みんなが方々捜しまわるにきまっている。ジュリヤンと別れるよりしかたがなかった。まもなく、一杯のコーヒーをもって戻ってきた。およそ軽率なふるまいだが、彼女にしてみれば、ジュリヤンにひもじい思いをさせるのがたまらなかった。朝食がすむと、彼女は子供たちをうまく、デルヴィル夫人の部屋の窓下に連れてきた。ジュリヤンは、大きくなったと思った。だが、どの子も品のない顔つきになっている。というより、ジュリヤンの考えかたが変ったせいだろう。
レーナル夫人はジュリヤンの話をした。長男は昔の家庭教師のことを、なつかしげに思い出したが、下のふたりはほとんど覚えていなかった。
レーナル氏はその朝、外出しなかった。家のなかをたえず上ったり降りたりして、百姓たちと取引することに追われていた。とりいれたじゃが《・・・》薯《いも》を売り渡すところだったのである。昼食まで、レーナル夫人は、かくまっている男のところへ、ものを届けるひまがまったくなかった。昼食の鐘が鳴り、食事が用意されると、彼女は熱いスープの皿《さら》をごまかそうと思いついた。足音を忍ばせ、用心しながらスープの皿を運んで、ジュリヤンのいる部屋の近くまで来たとき、その朝梯子を隠した下男と、ばったり出くわしてしまった。下男のほうも足音を忍ばせ、まるできき耳をたてるようにして、廊下の向うからやってくるところだったのだ。おそらくジュリヤンが不用意にも足音をたてたのだろう。下男はきまり悪そうな顔をして立ち去った。レーナル夫人は勇敢にジュリヤンの部屋へはいっていった。下男と会ったと聞いて、ジュリヤンはぎくりとした。
「こわいのね。あたしは、どんな危険なことだって平気でできるわ。眉《まゆ》ひとつ動かしゃしないわ。心配なのはたったひとつ、あなたが行ってしまって、ひとりぼっちになるときよ」そういって、小走りに走り去った。
《まったく、見上げた心だ。ただひとつおそれている危険といえば、良心の呵責だけなのだ!》と、ジュリヤンは感激のあまり、そうつぶやいた。
やっと夜になった。レーナル氏はカジノに出かけた。
レーナル夫人はひどい偏頭痛がすると称して、自分の部屋に引き取ると、急いでエリザをさがらせてから、すぐにまた起き上がって、ジュリヤンの部屋を開けに行った。
ジュリヤンはほんとうに飢え死にしかけていた。レーナル夫人は台所へパンを捜しに行った。ジュリヤンは大きな叫び声を聞いた。レーナル夫人が戻ってきて、そのいきさつを話した。明りももたずに台所に行き、パンのしまってある食器棚《しょっきだな》に近づいて、手を伸ばすと、女の腕にさわった。ジュリヤンが聞いたのは、エリザのたてた叫び声だった。
「そんなところでなにしてたんです?」
「お菓子でもとろうとしてたんでしょ。じゃなければ、あたしたちのことをさぐってたんだわ」と、レーナル夫人はいっこうそんなことに頓着《とんちゃく》しない様子。「でも、さいわい、ペーストと大きなパンを見つけてきたわ」
「そこになにがはいってるの?」と、ジュリヤンは前掛のポケットを指さしながらきいた。
昼食のときから、そのポケットにパンをつめこんでおいたのを、レーナル夫人は忘れていたのだ。
ジュリヤンは情熱の限りを傾けて、レーナル夫人を腕にかき抱いた。このときほど、彼女が美しく見えたことはなかった。《パリに出たって、こんなりっぱな女のひとには会えないだろう》と、ジュリヤンは考えるともなく考えた。《こういう世話はしたことがないんだから、へまなことばかりしてるけれど、同時に、ほんとの勇気があるから、別の種類の危険、それもお話にならぬくらいおそろしい危険だけがこわいというわけなんだ》
ジュリヤンがうまそうに食べている一方、夫人はまじめな話をするのが空おそろしいので、ろくな食事もできないわね、などと冗談をいっていると、だれかが突然部屋の戸を開けようとして、力まかせにゆすぶった。レーナル氏だった。
「なんで鍵などかけたんだ?」とレーナル氏がどなった。
ジュリヤンは長椅子の下にもぐりこむのがやっとだった。レーナル氏ははいってくるなり、いった。
「なんだ! まだ着かえないのか。夕食をするのに、戸に鍵をかけとくやつがあるか」
ふだんの日なら、冷たい夫婦仲を遺憾なく発揮したこんな質問は、レーナル夫人を悲しませたところなのだ。だが、この場合は夫が身をかがめさえすれば、ジュリヤンは見つかってしまうのだから、それどころではなかった。レーナル氏は長椅子と向い合せの、いまのいままでジュリヤンが腰かけていた椅子にどっかり腰をおろしたからである。
偏頭痛という口実で、万事がうまくいった。今度は夫のほうが、カジノで玉突きに勝って、賭《か》け金《きん》をごっそりもらった話を長々としゃべり、「十九フランの総賭け金だからな!」などといったが、そのとき、ふたりから三歩ばかり離れたところの椅子に、ジュリヤンの帽子が置いてあるのに、レーナル夫人は気がついた。彼女はいよいよ落ち着きはらって、服を脱ぎはじめ、すきを見て、すばやく夫のうしろを通り抜けて、椅子の帽子の上に、服を投げかけた。
やっと、レーナル氏は出ていった。彼女はもう一度神学校生活の話をしてくれるようにといい、「昨日はあなたのおっしゃることなんか聞いてなかったんですもの。あなたが話してるあいだに、あたしのほうは、どうしたらあなたに出ていってもらえるかってことばかり考えてたの」
彼女は軽率そのものだった。ふたりは大きな声で話し合った。朝の二時ごろだったろう、はげしく戸を叩く音で、話の邪魔をされた。またレーナル氏だった。
「早く開けてくれ。家のなかに泥棒《どろぼう》がいるんだ。サン = ジャンが今朝梯子を見つけたんだ」
「なにもかもおしまいだわ」と叫んで、レーナル夫人はジュリヤンの腕に飛びこんだ。「あたしたちふたりとも殺されてしまうわ。泥棒のことなんか本気にしてるもんですか。あなたの腕に抱かれて死ぬわ。死んだって、生きているときよりずっと幸福だわ」彼女はどなっている夫に返事一つしなかった。ジュリヤンに思いかぎりのキスを浴びせた。
「スタニスラスのお母さんですよ、死んではいけない」と、ジュリヤンは命令するようなまなざしでいった。「ぼくは化粧部屋の窓から内庭に飛びおり、外庭のほうへ逃げていきます。犬はぼくを知ってます。ぼくの着物をまるめて、できるだけ早く、外庭に投げてください。それまで、ドアをこじあける気なら、ほっときなさい。くれぐれも白状しないように。絶対いけませんよ。確証をつかまれるより疑わせておいたほうがましだから」
「飛びおりたら、死んじまうわ!」それだけが彼女の返事でもあり、不安でもあった。
化粧部屋の窓までついていった。それからジュリヤンの着物を隠すだけの時間をかけ、やっとドアを開けた。夫はいきりたっていた。夫は物もいわずに寝室と化粧部屋を見まわすと、出ていった。ジュリヤンの着物が投げおろされた。ジュリヤンはそれをひっつかむと、ドゥー川を目がけて、ひた走りに庭を駆けおりた。
走る途中で、弾のかすめる音がしたかと思うと、銃声が聞えた。
《レーナルさんじゃあるまい。あのひとは下手くそだから、こううまくは狙《ねら》えるはずがない》犬どもが、ジュリヤンと一緒になって、声もたてずに、走ってきたが、二発目がどうやら一匹の肢《あし》に当ったらしい。悲しげな叫び声をたてはじめた。ジュリヤンは土手の石垣を飛び越えると、五十歩ばかり身をかがめて進み、再び、別の方向に逃げ出した。呼びかわす声が聞えた。自分の敵である下男が発砲する姿を、はっきりと見分けた。小作人のひとりも庭の反対側から、やたらに発砲した。だが、ジュリヤンはすでにドゥー川の岸にたどりつき、そこで着物を着た。
一時間後には、ヴェリエールから一里離れたジュネーヴ街道《かいどう》に出た。《嫌《けん》疑《ぎ》をかけられたにしても、追《おっ》手《て》はパリ街道のほうへ行くだろう》と、ジュリヤンは思った。
第二部
彼女は美しくない、紅をつけていないのだ。
サント = ブーヴ
第一章 田舎の楽しみ
田園よ、いつの日に汝《なんじ》を見るであろうか!
ウェルギリウス
「旦《だん》那《な》はパリ行きの郵便馬車をお待ちなのでしょうな」ジュリヤンがとある宿屋に立ち寄って朝食をとっていると、そこの主人がきいた。
「今日の便があればいいし、明日のでもいいんだがね」
ジュリヤンが気のない様子で返事をしているところへ、郵便馬車が着いた。空席が二つあった。
「なんだ、きみ、ファルコス君じゃないか」と、ジュネーヴ方面から来た乗客が、ジュリヤンと一緒に乗りこんだ乗客に話しかけた。
「リヨンあたりの、ローヌ河べりの、きれいな谷間かなんかに、腰を落ちつけたんじゃなかったんかい?」と、ファルコスがきいた。
「落ちつけるどころなもんか。逃げだしてきたところなんだ」
「なんだって! 逃げだしてきた? おい、サン = ジロー君、君子面《づら》しているくせに、なにか悪いことでもしでかしたのかい?」と、ファルコスが笑いながらきいた。
「うん、まあ、そういってもいいさ。田舎の暮しがやりきれなくなったから、逃げだしたんだよ。ぼくはね、きみが知っているとおり、すがすがしい森や、のどかな田舎が好きさ。きみにはよくロマネスクだなんて、きめつけられたが。ぼくは政治の話なんかぜったい聞きたくないと思っていたんだ。ところが、その政治のやつに追いだされたわけさ」
「いったい、きみは何党だい?」
「何党でもないさ。ところが、そこが失敗のもとなんだ。ぼくの政治観ってのはね、要するに、音楽や絵を愛することさ。いい本を読むってことは、ぼくにとっちゃ、一つの事件なんだ。ぼくもそろそろ四十四歳になる。あと何年生きられると思う? 十五年か、二十年か、せいぜい三十年だろう? ところが、あと三十年もたちゃ、大臣どもも多少は利口に立ちまわるようになるかもしれないが、人《ひと》柄《がら》の下劣な点じゃ、今日と変りっこないさ。イギリスの歴史を見れば、わが国の将来が見とおせるようなもんだ。相変らず、おのれの特権をのばそうとする国王は、なくならないだろうし、相変らず、田舎の金持連中は、代議士になろうという野心にかられ、ミラボーのやつ、うまいこと権勢にありついて、何十万フランもせしめやがったなんてことを思えば、夜もおちおち眠ってられないだろう。やつらはそんなことが自由主義で、人民を愛することだとうそぶくだろうさ。それに、相変らず、急進王党派の連中は、貴族院議員とか侍従になろうとして狂奔するだろう。なにしろ、国家という大船《おおぶね》じゃ、だれもが舵《かじ》をとりたがる、いい金になるからなあ。すると、ふつうの船客は、いつまでたっても、ほんの隅《すみ》っこの座席にさえありつけないってわけになるかな?」
「はっきりいえよ、きみのことはどうなんだい? きみみたいな、おとなしい人間のことだから、よっぽどおもしろい話があったにちがいないな。このあいだの選挙のことでかい、田舎から追いだされたのは?」
「ぼくの不幸は、もっと昔からのことが原因なんだ。四年前にゃ、四十歳で五十万フランの金をもっていたが、今じゃ年は四つふえて、金のほうはおそらく五万フラン減ることになるだろうと思うんだ。モンフルーリの屋敷を売ると、それくらい損するんだ。ローヌ河近くの、すばらしい場所なんだがね。
いわゆる十九世紀の文明ってやつが、むりやりにも演じさせる茶番のことだがね、パリで、ぼくは、あののべつ幕なしの茶番にうんざりしてしまったんだ。正直とか素直とかいうことに渇《かつ》えたわけさ。そこで、ローヌ河近くの山間《やまあい》に土地を買ったんだ。こんな美しい景色のところはまたとないぜ。
最初の半年は、村の助任司祭だの、近在の田舎紳士どもにちやほやされたよ。ぼくも連中を晩餐《ばんさん》に招いたりして、こういってやったのさ。『わたしがパリを離れたのは、政治の話をいっさい話したり聞いたりしたくないと思ったからなのです。ごらんのとおり、わたしは全然新聞をとっていません。郵便配達のもってくる手紙がすくなければすくないほど、わたしはありがたいと思っています』
これでは助任司祭もあてはずれというものさ。まもなく、いろんな身勝手な頼みや、面倒なことをむやみともちこまれてね。ぼくのほうじゃ、年に二、三百フラン、貧乏な連中にほどこそうと思ってるのに、それを、やれ聖ジョゼフ会だの、やれ聖母会だのといった宗教団体にまわしてくれというんだ。ことわると、なんだかんだと悪口をいわれる。そんなことに腹をたてたぼくもばかだったよ。朝など、山間の美しい景色でも眺《なが》めに行こうと思っても、出ればきまって何かいやなことに出っくわすから、ぼくの夢想も台なしにされるし、人間たちのことやその意地の悪さをいやでも思い知らされる。早い話が、豊年祈願祭の行列さ。あの歌はぼくも好きなんだが(おそらくギリシアのメロディーだろう)、あの行列のときでも、ぼくの畑は祝福してもらえないんだ。助任司祭によると、不信心者のもちものだからなんだそうだ。信心深い百姓の婆《ばあ》さんの牝《め》牛《うし》が死んだりすると、その婆さんのいいぐさがいいじゃないか、パリから来た哲学者先生で不信心者のぼくがもっている、池のそばにいるからなんだそうだ。それから一週間たつと、ぼくの池の魚は一匹残らず、石灰をのまされて、腹を見せて浮び上がっている始末だ。とにかく、ありとあらゆる形の不愉快なことばかりなんだ。治安判事は元来正直者なんだが、自分の地位を失いたくないもので、いつでもぼくに不利な判決を下す。田舎の平和なんざ、ぼくにとっちゃ、地獄だよ。ひとたび、ぼくが村の修道会の頭目の助任司祭から見放される一方、自由主義者の頭目の退役大尉からも後楯《うしろだて》になってもらえないと知ると、みんなはよってたかってぼくを踏んだり蹴《け》ったりさ。一年このかた食わせてやっていた石《いし》工《く》でさえもそうだし、車大工までがそうなんだ。この車大工などは、鋤《すき》を修繕させたところ、いいかげんごまかしゃがったのだが、大目に見ておいたやつなんだ。
後楯はほしいし、とにかく訴訟でも多少勝ちたいと思ったから、ぼくは自由主義者の仲間になった。ところが、きみのいったとおりで、例のいまいましい選挙ということになると、一票よこせというんだ……」
「見ず知らずのやつにかい?」
「いや、それどころか、知りすぎるほど知ってる男にさ。ことわったよ。それがとんでもない向う見ずなふるまいだったんだ! それからというもの、自由主義者までを敵にまわすことになったし、ぼくの立場はまったくやりきれなくなった。かりに、ぼくが女中を殺したとでもいって、あの助任司祭が訴える気にでもなったら、両方の党派から、十人でも二十人でも証人が出てきて、犯行を見届けたなどと証言しかねなかったろうと思うよ」
「きみは田舎暮しがしたいといいながら、隣近所の連中の望みをかなえてやろうともしないし、連中のおしゃべりを聞いてやることさえしないのか。とんでもない見当はずれだよ!……」
「だが、やっとその償いができるわけさ。モンフルーリの地所は売りに出したんだ。まかりまちがえば五万フランは損するが、ぼくはせいせいした気持さ。なにしろ、偽善だらけのやりきれぬ地獄から抜け出せるんだから。これから、孤独と田舎の平和を求めに行くんだ。フランスでもそれがまだ存在している場所がただ一つあるからね。シャン = ゼリゼ通りに面した五階のことさ。ところで、まだ、考慮中なんだが、ルール袋小路《ふくろこうじ》の界隈《かいわい》で、教区の教会に聖パンを寄進することがきっかけになって、また政治生活にはいるんじゃないかと思ってね」
「ボナパルトの時代だったら、そんな目にはあわなかったろうになあ」と、ファルコスは怒りと口惜《くや》しさに目を光らせながらいった。
「そりゃそうかもしれんが、きみのいうボナパルトは、どうしてあの地位のままでいられなかったんだい? ぼくが今日こんな目にあわされているのも、ボナパルトのせいなんだぜ」
ここまでくると、ジュリヤンは、ますます聞き耳をたてた。最初の一言から、ボナパルト党のファルコスがレーナル氏の幼ななじみで、一八一六年に同氏から絶交をいいわたされた男だし、哲学者ぶったサン = ジローが、町有家屋の入札の際、安値で落札させた……県庁の課長の兄弟にちがいないと見当をつけていたのだ。
「そうさ、そりゃ、みんなボナパルトのせいだぜ」と、サン = ジローは続けていった。「正直者で、およそ社会には無害な男が、四十歳で五十万フランをもって、田舎に落ち着き、平和に暮そうとしても、それができないんだ。ボナパルトのつくった坊《ぼう》主《ず》や貴族どもに追いだされるからさ」
「おい、ボナパルトの悪口はよしてくれ」と、ファルコスが大声をたてた。「ボナパルトの治世十三年間くらい、フランスが諸国民の尊敬をかちえたことはなかったんだぜ。あの時代は、なにをやったにしても、偉大なところがあったんだ」
「きみの好きな皇帝なんざ、どうなろうと知ったことじゃない」と、四十四歳の男がいい返した。「あれがえらかったのは戦場だけの話さ、それに、一八〇二年ごろ、経済の建て直しをやったときだけのことさ。それからのふるまいは、ありゃなんだい? 侍従をこさえたり、ひどく派手なまねをして、チュイルリー宮で謁見式《えっけんしき》をやったり、まるで王朝時代のばかさ加減のむし返しじゃないか。そりゃ多少手直ししてあるから、まだ一、二世紀はあれで通用したかもしれない。貴族や坊主どもは、旧王制に復帰しようとしたが、これを世間に売りこむには鉄腕がいる、やつらはそれをもってない」
「なるほど、印刷屋上りらしいいいぐさだよ!」
「だれがぼくをぼくの土地から追いだすんだい?」と、その印刷屋が怒って続けた。「ナポレオンがローマ法王と和親条約《コンコルダ》を結んで呼び返した坊主どもじゃないか。こんなやつらのことは、国家が医者や弁護士や天文学者を取り扱っているように扱えばよかったんだ。要するに、ただの市民なみに考えとけばよかったのさ。やつらがどんなやりくりをして生計をたてていくかなんてことは、気にかける必要はなかったんだ。きみのすきなボナパルトが、男爵《だんしゃく》だの伯爵だのをこさえていなかったら、今日、傲慢《ごうまん》な貴族どもが残っているはずはない。そうだとも、そんなものはもう時代遅れだよ。坊主どもの次が、田舎の小貴族どもだ。こいつらにはいちばん腹がたったよ、あいつらのおかげで、ぼくも自由主義者にならざるをえなかったんだ」
ふたりの会話は尽きなかった。こういう話題は、こののちまだ五十年は、フランスを支配することになろう。田舎暮しは不可能だと、サン = ジローが相変らずくり返しているので、ジュリヤンは、おそるおそる、レーナル氏の例をもちだしてみた。
「冗談じゃない、あんた、あんたもひとがよすぎるよ!」と、ファルコスが大声でいった。「あのひとは鉄敷《かなしき》になるまいとして鉄槌《てっつい》になったんだ、それもおそろしい鉄槌さ。もっとも、ヴァルノのやつにでしゃばられた格好だがね。あんたはあのくわせものをご存じですかい? あれこそ、まさに、くわせものというものだ。あんたのいうレーナルさんだって、そのうちに自分が免職になって、ヴァルノのやつが後釜《あとがま》にすわるのを見たら、なんというかわからんさ」
「自分で犯した悪事のことを思い知るがいいさ」と、サン = ジローが口をはさんだ。「なにかね、あんたはヴェリエールをご存じなんだね? それなら、いおう、ボナパルトなんざ、あの王朝趣味の古着もろとも、消えてうせるがいいんだ。あいつのおかげで、レーナルだの、シェランだのって連中が、幅をきかすようになったんだし、ひいては、ヴァルノやマスロンのやつらの天下になったんですよ」
こういう暗い政治の話はジュリヤンを驚かせ、官能的な思い出から立ち返らせた。
ジュリヤンは、はじめてパリを遠くから眺めても、ほとんど感動しなかった。自分の将来について、楽しい計画を立てようとしても、今の今までヴェリエールで過してきた二十四時間の思い出が、まざまざとよみがえってきて、それをかき乱した。愛するレーナル夫人の子供たちをけっして見すてまい、坊主どもがのさばりかえって、共和制をしいたり、貴族に迫害を加えるようなことになったら、万事を投げうってもあの子供たちを守ろうと、ジュリヤンは心に誓うのだった。
ヴェリエールに着いた夜、レーナル夫人の寝室の窓に梯子《はしご》を立てかけたとき、あの部屋に、ほかの男か、レーナル氏がいたとしたら、どういうことになったろう?
だが、一方、愛する女は本気になって自分を追いだそうとしたし、自分は暗闇《くらやみ》で女のそばにすわって、つもる思いを打ち明けたのだ。あの最初の二時間はどんなにうれしかったかしれない! ジュリヤンのような心の持主は、こうした思い出で一生つきまとわれるのだ。密会のあとのほうのことは、早くも、十四カ月前の、なれそめのころのことと、区別がつかなくなりはじめていた。
ジュリヤンは深い夢想から我にかえった。馬車が止ったのだ。ジャン = ジャック・ルソー街の、宿場の中庭にはいったところだった。
「マルメゾンに行きたいんだ」と、ジュリヤンは寄ってきた辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》の男に向っていった。
「こんな時刻にですか、旦那、どうなさるおつもりで?」
「よけいな口をきくな! やってくれ」
まことの情熱というものは、すべて自分のことしか考えない。だからこそ、パリでは情熱が滑稽《こっけい》きわまるものになるのだと思う。パリでは、隣人はいつも、他人が自分のことを大いに考えてくれるものと思っている。マルメゾンにおいてジュリヤンがいかに感激したかについて、お話しすることは差し控えよう。ジュリヤンは涙を流した。ほう! 今年になっていやな白い塀《へい》なんかめぐらして、あの公園を細かく区切ってしまったというのに、と諸君はいうだろう。そうなのだ、諸君。ジュリヤンにとっては、後世の人たちの場合と同じように、アルコーレも、セント = ヘレナも、マルメゾンも、なんら変りがなかったからなのだ。
その夜、ジュリヤンはずいぶんためらいはしたが、芝居小屋にはいってみた。はじめから堕落の場所ときめつけて妙な考えかたをしていたのだ。
警戒心が強すぎて、パリの現実を味わうことができなかった。自分の崇拝する英雄の残した記念建築物に感動するばかりだった。
《おれはとうとう陰謀と偽善のまっただなかに乗りこんだのだ! ここはフリレール神父の後楯になっている連中の天下なのだ》
三日目の夜になると、これからの生活に対する好奇心が抑えきれなくなって、ピラール神父のもとへ顔を出す前に、なにもかも見物しておこうという計画をすててしまった。神父は、ラ・モール邸で待っている生活がどんなものだか、冷やかな口調でジュリヤンに説明してきかせた。
「数カ月たってきみが役にたたないとわかれば、神学校に帰ってもらう。もっとも、正門から大手をふって帰れる。これからきみは侯爵家に住みこむわけだが、侯爵はフランス最大の貴族のひとりなのだ。黒い服を着ることになるが、喪中の人間の着るような服で、聖職者の服ではない。週に三回、神学校で神学の勉強をしてもらいたい。神学校へはわたしが紹介してあげる。毎日、正午には、侯爵の図書室に来て控えていること。侯爵としては、訴訟その他の事務のことで、きみに手紙を書いてもらうつもりでおられる。侯爵は手紙を受け取るたびに、返事すべきことがらを、余白にごく簡単に書いておかれる。二、三カ月もたてば、きみはそういう返事が書けるようになり、侯爵にお見せする手紙も、十二通のうち八、九通は、そのまま署名していただけるだろうと、わたしは申し上げておいた。夜は八時に、書斎を整頓《せいとん》し、十時には暇がもらえるわけだ」
「ことによると、だれか年をとった婦人とか、猫《ねこ》なで声の男が、途方もなく有利な条件をほのめかしたり、露骨に金をくれたりして、侯爵の受け取る手紙をこっそり見せてくれというかもしれないが……」と、ピラール神父は続けかけると、
「先生! そんなこと!」ジュリヤンは真っ赤になって叫んだ。
「変ってるな」と、ピラール神父は苦笑しながらいった。「きみのような貧乏者が、一年も神学校生活を送っておきながら、まだそんなふうに正義感から腹がたてられるのかね。きみもよっぽど盲《めくら》だったとみえるな!」
「血筋のしからしめるところかな?」と、ピラール神父はまるでひとり言でもいうかのように、口の中でつぶやくと、ジュリヤンを見つめながら、つけ加えた。「妙なことに、侯爵はきみを知っておられる。……どういうわけだか、わたしにはわからんのだが。侯爵は、とりあえず、百ルイの手当てを下さる。何をするにも気まぐれなおかたで、そこが侯爵の欠点なのだ。子供っぽい点じゃ、きみといい勝負だ。侯爵のお気に召したら、いずれは手当ても八千フランまであがるはずだ」
「だが、きみも十分察しがついていると思うが」と、神父はきびしい口ぶりになり、「侯爵はきみの美《び》貌《ぼう》に惚《ほ》れこんで、そんな大金を出してくださるわけではない。問題は役にたつかどうかということだ。わたしがきみの立場におかれたら、できるだけ口数はすくなくし、とりわけ、自分の知らないことには絶対口出ししないことにするところだ。
そうそう、きみのために調べておいたことがある。ラ・モール侯爵の家族のことを忘れていた。侯爵にはふたり子供がある。ひとりは娘で、ひとりは十九になる息子だ。その息子がとんでもない伊《だ》達《て》者《しゃ》で、変りものというか、正午になってもまだ自分が二時になにをするかわからないといったわけだ。才気もあれば、勇気もあり、スペイン遠征にも行ったことがある。どういうわけだか知らんが、侯爵はきみがこの若いノルベール伯爵と仲よしになってくれるものと思っておられる。わたしはきみがりっぱなラテン語学者だと申し上げておいたから、おそらく侯爵も、きみがキケロやウェルギリウスについて、きまり文句の二、三を息子に教えてくれるものと、思っておられるだろう。
わたしがきみだったら、この美青年に、うかうか、からかわれるようなすきは絶対に見せないがね。それに、皮肉なところがちょっと気になるが、なかなか丁寧なお世辞をいう。わたしなら、そうやすやすとは、そのお世辞に乗らぬつもりだ。
はっきりいっておくが、御曹《おんぞう》子《し》のラ・モール若伯爵は、まずきみをばかにしてかかるにちがいない。なにしろ、きみは一介の小市民にすぎないからな。伯爵の先祖は宮仕えをしていたもので、政治的な陰謀のために、一五七四年四月二十六日に、グレーヴ広場で、光栄にも斬首《ざんしゅ》の刑にあっているのだ。ところが、きみのほうはヴェリエールの材木屋の小せがれだし、おまけに伯爵の父から手当てをもらっている。この違いをよく考え、モレリの歴史大辞典でも見て、ラ・モール家の由来を調べておくがよい。侯爵邸の晩餐に呼ばれるとりまき連中は、だれでも、ときどきいわゆる婉曲《えんきょく》な形でこの由来のことをほのめかすからね。
ノルベール・ド・ラ・モール伯爵は軽騎兵中隊長で、未来の貴族院議員なのだ。からかわれても、よく気をつけて、それに答えるようにすることだね。あとでわたしのところへ愚痴をこぼしにくるようなまねはしないでもらいたい」
「わたくしを軽蔑《けいべつ》するような男には、返答をしてやるまでもないと思います」と、ジュリヤンは顔を真っ赤にしながらいった。
「いや、きみにはその軽蔑がどんなものだかわかってないのだ。いつもばか丁寧なお世辞の形をとっているからな。きみがばかなら、それにひっかかるかもしれない。また、きみが出世を望むなら、それにひっかかったようなふりをしなければならない」
「そういうことがたまらなくなって、もとの小部屋の一〇三号室に戻《もど》ったら、わたくしは恩知らずだということになるでしょうか?」
「むろん、侯爵のとりまき連中は、口をそろえてきみの悪口をいうだろうが、そのときは、わたしが顔を出そう。Adsum qui feci. 。このわたしがそういうふうにきめさせたのだと、いってあげる」
ジュリヤンは、ピラール神父の口ぶりに、悪意があるといってもよいくらい、きびしいところがあるのを見て、情けない気持になっていた。今の神父の答えも、その口ぶりですっかり台なしだった。
じつをいえば、ジュリヤンをかわいがっていると思うと、ピラール神父は、気が咎《とが》めてならなかったのだ。そこで、他人の身の上にこれほど深く立ちいりながらも、いわば宗教的なおそれを感じていたのである。
「それからまた、きみはラ・モール侯爵夫人にもお会いしなければならない」と、ピラール神父は相変らず不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに、まるでつらい義務でも果すかのような口ぶりでつけ加えた。「背は高く、金髪で、信心深く、気位は高い。丁寧なことこの上なく、おまけになんの取《と》り柄《え》もない婦人だ。貴族的偏見の持主として名高いショーヌ老公爵の娘だから、この貴婦人たるや、こうした身分の婦人たちの性格をつくっているものを、浮彫りにして、要約したようなものだ。そこで、十字軍に出征したものを先祖にもっていたということが、尊敬するただ一つの取り柄だなどと平気でいう。金などはずっとあとまわしの問題なのだ。驚いたかね? われわれはもう田舎にいるのではないのだ、きみ。
いずれはきみも、夫人のサロンで、大貴族の連中が、ひどく気やすそうな口ぶりで、王公の話をするのを目にするだろう。だが、ラ・モール夫人はそうでない、王公、とりわけ王公妃の名前を口にするときは、きまってうやうやしく声を落していうのだ。夫人の前では、スペイン王フェリーペ二世や、イギリス王ヘンリ八世のことを、残酷な王様だったなどといわないほうがいいね。この連中は国王《・・》だった、したがって、いつまでも万人に尊敬されるべき権利があるというわけさ。まして、きみやわたしのような生れの卑《いや》しい人間は、当然尊敬しなくてはならないというのだ。だが、一方」と、ピラール神父はつけ加えた。「われわれは聖職者だ。夫人もきみを聖職者と考えるだろうから、われわれというのだが、この聖職者という肩書があるから、夫人はわれわれを自分の救いに必要なしもべとみなしているのだ」
「先生、わたくしはパリにはそう長くいられそうにもありません」と、ジュリヤンはいった。
「それもよかろう。だが、いいかね、われわれのような聖職者にとっては、大貴族の伝手《つて》がないかぎり、出世できないのだ。すくなくとも、わたしから見ると、きみの性格には、はっきり口ではいえないなにかがある。そのために、きみは出世しなければ、迫害されることになるだろう。きみにとっては、中庸はないのだ。思い違いをしてはいけない。きみに言葉をかけても、きみが喜びはしないということは、はたの目にもわかるのだ。こういう社交的な国では、きみは尊敬をかちえることができなければ、不幸な目にあうにきまっている。
ラ・モール侯爵が気まぐれを起さなかったら、きみはブザンソンでどうなっていたかしれない。いずれは、侯爵がきみのためにどんな特別の取計らいをしているか、きみにもわかるときがくると思うが、きみも人情のわかる人間なら、侯爵とその家族のものに対して、終生変りない感謝の念をいだくはずだ。きみより学問があるのに、どのくらい多くの神父たちが、ミサ代十五スーと、ソルボンヌの神学論争でもらう十スーとで、何年も何年もパリで暮してきたかしれないのだ。……去年の冬、わたしはきみに、デュボワ枢《すう》機《き》卿《けい》という悪党の若いころの話をしたが、覚えているかね? きみはうぬぼれが強いが、まさか、あの男より才能があるなどとは思っていないだろうな?
早い話がこのわたしだ。平々凡々たる男さ。わたしは神学校長で一生を終えるつもりだった。大人げない話だが、この職にしがみついていたものさ。ところが、免職になりそうになると、こっちから辞表を出した。わたしにいくら財産があったと思うかね? 五百二十フランきっかりだ。友達はひとりもないし、知合いがせいぜい二、三人。一度も会ったことのないラ・モールさんが、わたしの窮境を救ってくださった。ラ・モールさんが一言口をきいてくださっただけで、わたしは司祭職にありつけた。教区民はいずれも裕福な連中で、下劣な悪習などにそまっていない。収入もこちらがはずかしくなるほど多い。わたしの仕事には不《ふ》釣合《つりあい》なくらいだ。わたしがこんなにくどくどしゃべったのも、もうすこしきみが慎重であってほしいと思うからなのだ。
もう一言、わたしはあいにく気短かでな。お互いに口をきかないようになるかもしれない。
侯爵夫人の横柄《おうへい》な態度や、息子のたちの悪い冗談のために、きみがこの屋敷にどうしてもいたたまれなくなったら、パリから三十里ばかり離れた、どこかの神学校へ行って学業を終えるがいい。南より北のほうがいいだろう。北のほうが文化も進んでいるし、不正もすくないから。それに」と、ピラール神父は声を落してつけ加えた。「正直なことをいうと、パリの新聞が近くにあると思えば、小ものの暴君どもも、めったなまねはできないからね。
もし、さいわいにして、お互いに仲よくつきあっていけるし、きみのほうで侯爵邸がいやだというのなら、わたしのところの助任司祭の職をきみにあげるし、司祭の職からあがる収入を、きみと折半することにしよう。わたしとしては、きみのために当然そうすべきだし、まして」と、ジュリヤンが礼をいおうとするのをおしとどめながら、「きみがブザンソンで意外な申し出をしてくれたことを思えば、なおさらのことだ。五百二十フランもっていたから、いいようなものの、無一文だったら、きみのおかげで助かったというところなのだ」
神父はいつもの冷酷な口ぶりではなくなっていた。なんとしたことか、ジュリヤンは目に涙のにじみ出るのを感じた。神父の腕に身を投げかけたくてたまらなかった。できるだけ男らしいところを見せながらも、こういわないではいられなかった。
「わたくしは生れたときから父親に憎まれてきました。それがわたくしの大きな不幸のひとつでした。けれども、これからは身の上を恨んだりしません。先生が父親になってくださったのですから」
「わかった、わかった」と、神父はてれくさそうにいった。それから、いかにも神学校長らしい文句をうまく考えつくと、「身の上などという言葉をけっして使ってはいけない。いつでも神の摂理といいなさい」
辻馬車は止った。御者は大きな門の青銅の金具をノックした。それが「ラ・モール侯爵邸」だった。それに、通行人にはっきりわかるように、この文字が門の上の黒大理石に刻まれている。
こういうきざ《・・》なところが、ジュリヤンの気にいらなかった。《こいつらは過激革命派をひどくこわがっている! どの垣《かき》根《ね》のうしろにも、ロベスピエールと刑場行きの荷車が見えるのだ。そんなときよく見かけるが、やつらの顔つきの滑稽なことったらない。それでいて、こんなふうに大きな門標などをつけてやがる。これじゃ、暴動でも起ったら、まるで暴徒に居所を教えて、略奪してくれというようなもんじゃないか》ジュリヤンはそんな気持をピラール神父に打ち明けた。
「しょうがない男だな! きみはやがてわたしの助任司祭になるぞ。なんという空おそろしいことを考えるんだ!」
「ごくあたりまえのことじゃないですか」と、ジュリヤンは答えた。
門番のいかめしい様子、とりわけ手入れの行き届いた中庭に、ジュリヤンは感心してしまった。美しい日の光に照らされていた。
「じつに見事な建物ですね」と、ジュリヤンはいった。
ところが、これはヴォルテールが死んだころ建てられた、フォーブール・サン = ジェルマンにある、ごくありふれた門構えの屋敷にすぎなかった。流行と美がこれほどちぐはぐだった時代はない。
第二章 社交界へ乗り出す
滑稽《こっけい》な、しかしなつかしい思い出。それは、十八歳のとき、ただひとり頼るひともなく、はじめて顔を出したサロンのことだ! 女に見られただけで、わたしはあわててしまった。相手の気にいろうと思えば思うほど、ますますぎごちなくなる。万事につけて、わたしは思い違いをしていた。理由もなく相手に自分の心を打ち明けるかと思うと、けわしい目でわたしを見たというので、相手の男を敵だと思ったりした。だが、そのころは、内気なためにたえられぬみじめな思いを重ねながらも、美しい日はほんとに美しかった!
カント
ジュリヤンは呆然《ぼうぜん》として、中庭のまんなかに立ちつくしていた。
すると、ピラール神父がいった。
「ちっとはしゃんとしたらどうだ? きみは空おそろしい考えをもったかと思うと、すぐまたまるで子供みたいになってしまう! ホラティウスの nil mirari(なにごとにも心を動かすことなかれ)は、どうしたんだ? 考えてみるがいい、あの従僕《じゅうぼく》仲間は、この屋敷にきみが住みこむことになったのを見てとると、なんとかして、きみをばかにしてかかろうとするのだよ。自分たちの仲間だのに、自分たちより上位にすわるとはけしからんと思うだろう。見かけはいかにも親切そうに、いろいろ忠告してくれたりして、勝手のわからぬきみの面倒をみてくれるだろうが、ほんとはきみにとんでもないへま《・・》をやらせようとしてかかるだろうよ」
「やれるならやってみるがいい」ジュリヤンは唇《くちびる》をかみながら、そういうと、例の警戒心を取り戻《もど》した。
侯爵《こうしゃく》の書斎へ行くまでに、ふたりは二階のサロンをいくつも通ったが、読者よ、諸君にはそれがりっぱだが陰気くさいサロンだと思われたにちがいない。このままあてがわれても、諸君はこんなところに住むのはごめんだといわれるだろう。これはあくびとくだらぬ議論の棲《すみ》家《か》なのである。ところが、このサロンがジュリヤンをますます感心させた。《こんなすばらしい屋敷に住んでいたら、どうして不幸なことがありえよう?》と思うのだった。
やっと、ふたりはこのりっぱな住いでいちばん醜い部屋まで来た。ろくに日もささない部屋だった。そこに、ひとりの痩《や》せた小男がいた。目は鋭く、金髪のかつらをつけている。神父はジュリヤンをかえりみて、ひきあわせた。それが侯爵だった。ジュリヤンには、これが侯爵だとは、なかなかのみこめなかった。そのくらい、丁寧な態度なのである。ブレー = ル = オーの修道院で、あれほど尊大なようすをしていた大貴族の面影《おもかげ》は、どこにもなかった。かつらの毛が多すぎるように思われた。そんな印象を受けたおかげで、ジュリヤンはすこしも気おくれしなかった。アンリ三世の親友の後裔《こうえい》にしては、かなり貧相な物腰をしているなと、はじめは思った。だが、まもなく、侯爵がほかならぬブザンソンの司教よりも、はるかに丁寧で、話し相手に好感を与える人物であることに気がついた。面接は三分とかからなかった。外へ出ると、神父がジュリヤンにいった。
「まるで絵でも描《か》いているときのように、侯爵をじろじろ見ていたな。わたしはあのひとたちの社会のいわゆる礼儀なるものをあまり心得てはおらんし、きみのほうがわたしなどよりじきに覚えてしまうだろうが、とにかく、あんなふうに平気でじろじろ相手を見るのは失礼だと思ったぞ」
ふたりはまた辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》に乗った。御者は大通りの近くで馬車を止めた。神父はジュリヤンを、大きなサロンの続いている店へ連れてはいった。ジュリヤンは家具らしいものがないのに気がついた。金色のすばらしい置時計を眺《なが》めながら、ひどくみだらなデザインだなと思っていると、ひどくいきななりをした紳士が、笑い顔で近寄ってきた。ジュリヤンは軽く会釈《えしゃく》をした。
すると、その紳士がにっこり笑って、ジュリヤンの肩に手をかけた。ジュリヤンはびくっとして、一歩うしろへとびさがり、真っ赤になって腹をたてた。きまじめなピラール神父も、これには涙の出るほど大笑いをした。その紳士は洋服屋だった。
「二日間はきみの自由にしてよい」そこを出ると、神父はそういった。「それからでないと、ラ・モール夫人にお目通りはできないのだ。ほかのものなら、きみを生娘《きむすめ》みたいに外へ出さないでおくだろう。なにしろ、きみとしてはこの新しいバビロンに出てきたてなのだからな。堕落するような人間なら、さっさと堕落してしまうがいい。そうすれば、わたしとしてもきみのことで、よけいな心配をしないでもすむことになる。あさっての朝、あの洋服屋が服を二着もってくるはずだ。仮縫いをしてくれる手《て》代《だい》には五フランやりなさい。それに、こういうパリっ子連中にはきみの訛《なま》りは聞かせないようにすることだ。きみが一言でもいったら、それにつけいって、きみをばかにしてかかるからな。連中はそういうことの名人なのだ。あさっての正午《ひる》に、わたしのところへ来なさい。……さあ、堕落するがいい。……そうだ、忘れていた。長靴《ながぐつ》とワイシャツと帽子を、この番地の店へ行って注文してきなさい」
ジュリヤンは番地の字を眺めた。神父がいった。
「侯爵の字だよ。侯爵は何事につけても、よく気のつくまめなかたで、ひとにいいつけるより、自分でやってしまうのがお好きなのだ。きみをそばに置くのも、きみのおかげでそういった手間が省けるからなのだ。あのかんの鋭いおかたがかいつまんでおっしゃることをのみこんで、うまく片づけるだけの才が、きみにあるかな? まあ、それはいずれわかろうが、気をつけることだね」
ジュリヤンは教えられた番地の職人の店へ、ものもいわずにはいっていった。どの店でも丁重に取り扱われたのに気がついた。靴屋などは帳簿に名前を書きこむさい、ジュリヤン・ド・ソレル様と貴族扱いにしたほどだった。
ペール = ラシェーズの墓地で、ひどく親切な、そのうえ自由主義者らしい口ぶりの紳士が、わざわざジュリヤンをネー元帥《げんすい》の墓に案内してくれた。ネー元帥の墓は、巧妙な政策から、碑銘を刻むことが許されていないのだ。ところで、この自由主義者は、目に涙を浮べて、ジュリヤンを腕にかきいだかんばかりにしたが、ジュリヤンはその男と別れてみたら、時計がなくなっていた。こういう苦い経験をしてから、その翌々日の正午に、ジュリヤンはピラール神父のもとに顔を出した。神父はジュリヤンをじろじろ眺めていたが、やがてきびしい顔をしていった。
「きみはどうやら気取り屋になりそうだな」正式の喪服のような黒服を着たジュリヤンは、ひどく若々しく見えた。なるほど、格好はよかったが、実直な神父自身は田舎者すぎて、ジュリヤンが相変らず肩をふって歩くくせから抜けきっていないのに、気がつかなかったのだ。こういう態度は田舎ではいき《・・》でもあり、えらそうにも見えるのである。ジュリヤンを見ると、そのいきな姿について、侯爵は神父とはまったく違った見方をしていった。
「ソレル君にダンスを習わせても、かまいませんか?」
ピラール神父はあっけにとられてしまったが、やがて、
「かまいません、ジュリヤンは神父ではありませんから」
侯爵は狭い忍びの階段を二段ずつ上って、自分から、ジュリヤンを、こぎれいな屋根裏部屋に案内した。部屋は屋敷内の広々とした庭園に面している。侯爵は、仕立屋でワイシャツを何枚買ったのかときいた。
「二枚です」と、ジュリヤンは、これほどの大貴族がこんな細かいことまで立ちいたってきくのに、いささかおそれをなして答えた。
「よろしい」と、侯爵はまじめな顔をしていったが、どこか命令するような、ぶっきらぼうな口ぶりなので、ジュリヤンは考えこんでしまった。「よろしい! もう二十二枚ワイシャツを買いたまえ。これはきみの手当の最初の四半期分だ」
屋根裏部屋からおりると、侯爵は年をとった男を呼び、「アルセーヌ、ソレルさんの世話をしてあげなさい」といった。まもなく、ジュリヤンはすばらしい図書室で、ひとりきりになった。楽しいひとときだった。感動しているところを、人からふいに見られたくないと思って、薄暗い片隅《かたすみ》に身を寄せた。そこから、本の背革の光るのをうっとりとして眺めた。《これをみんな読めるんだ。それに、ここにいるのがいやになるはずがあるものか。いまラ・モール侯爵がしてくれたことの百分の一のことをしても、レーナルさんだったら、貴族の面目が丸つぶれだと思ったにちがいない》
《さて、どんなものを写すのかな?》写しの仕事を終ると、ジュリヤンは思いきって本のそばに寄った。ヴォルテール全集を見つけると、喜びのあまり、気が狂いそうになった。急いで図書室のドアを開けにいった。そんなところをふいに見つけられたくなかったのだ。それから、ゆっくり八十巻の本をいちいち開いてみた。いずれも豪華な装幀《そうてい》で、ロンドン随一の製本師の手になる逸品だった。それほどのものでなくても、ジュリヤンは文句なく感心してしまったろう。
それから一時間たつと、侯爵がはいってきて写しに目を通したが、ジュリヤンが celaという語を cella と l 二つで書いているのに気がついて、びっくりしてしまった。《ピラール神父は学問があるなどといったが、あれはみんなでたらめにすぎなかったのか!》侯爵はすっかり失望したが、穏やかに、
「きみは字の綴《つづ》りに自信がないのかね?」
「はい、たしかにそうです」と、ジュリヤンは自分が不利になることなど、すこしも考えないで答えた。侯爵から親切にされると、レーナル氏の傲慢《ごうまん》な口ぶりが思い出されて、感激してしまったのである。
《フランシュ = コンテあたりの小《こ》坊《ぼう》主《ず》を使ってみても、時間のむだだ。わたしは確かな人間がぜひともほしかったのに!》と侯爵は思った。
「cela という字は l ひとつでいいんだよ。写しがすんだら、綴りに自信のない字は辞引にあたっておきたまえ」
六時に、侯爵はジュリヤンを呼んだが、長靴姿を見ると、いかにも困ったような表情をして、
「わたしが悪かった。いい忘れたのだが、毎日五時半には、礼服に着かえなくてはいけないよ」
ジュリヤンはさっぱりわからないので、侯爵を見つめていた。
「長靴下をはきたまえというのさ。きみが忘れていたら、アルセーヌに注意させよう。今日のところは、わたしから言いわけしておこう」
こういいおわると、ラ・モール氏はジュリヤンを、金色でまばゆいばかりのサロンへ案内した。こういう場合に、レーナル氏はきまって足を早め、戸口のところでは自分が先に通らないと承知しなかった。むかしの主人のこうしたつまらぬ虚栄心を思い出して、ジュリヤンは侯爵のあとについていったのだが、侯爵は痛風のために、そうされるのがことのほかつらいのだった。《いやはや! この男はおまけに気がきかないときてる》と侯爵は思った。侯爵は、ジュリヤンを、背の高い、威圧的な婦人にひきあわせた。それが侯爵夫人だった。ジュリヤンはその横柄《おうへい》なところが、サン = シャルル祭の晩餐《ばんさん》のおり見かけた、ヴェリエールの郡長モージロンの夫人に似ていると思った。サロンがあまりにも豪華なのに、いささか気をのまれて、ジュリヤンにはラ・モール氏のいっていることが耳にはいらなかった。侯爵夫人はろくろく見向きもしてくれなかった。何人かの客のうちに、若いアグドの司教を見《み》出《いだ》して、ジュリヤンはなんともいえないほどうれしく思った。数カ月前、ブレー = ル = オーの儀式のおり、言葉をかけてくれた例の司教である。この若い司教は、ジュリヤンがおずおずしながらも自分のほうをなつかしそうに見つめているので、うす気味悪く思っているらしい。だが、この田舎者がだれだか思い出そうともしなかった。
このサロンに集まった連中は、ジュリヤンから見ると、どこか陰気でぎごちないところがあるように思われた。パリでは小声で話し、つまらぬことを大げさにはいわないのである。
口ひげを生やし、ひどく色白の、ひどく背の高い美青年が、六時半ごろはいってきた。顔がばかに小さい。
「いつも遅れてくるのね」と、侯爵夫人がいいながらさし出した手に、その青年はキスした。
ジュリヤンはラ・モール伯爵だと気がついた。一目見て、感じのいい青年だと思った。
《ひとの気を害するような冗談をいって、この屋敷からおれを追いだそうというのが、はたしてこの男だろうか?》
ノルベール伯爵をしきりと観察しているうちに、ジュリヤンは伯爵が拍車のついた長靴姿をしているのに気がついた。《ところが、このおれは短靴をはかなければいけないのだ。たしかに、これは目下のものとして取り扱われているわけだ》一同は食卓についた。侯爵夫人がやや声をたてて、なにかたしなめているのが、ジュリヤンの耳にはいった。それとほとんど同時に、若い女性の姿が目にうつった。すばらしい金髪の、ひどく姿のよい女性が、ジュリヤンの真向いにすわったのである。ジュリヤンはいやな女だと思った。それにもかかわらず、注意して眺めているうちに、こんなきれいな目を見たことがないと思いはじめた。だが、その目はいかにも冷たい心をあらわしている。ジュリヤンはのちになって気づいたのだが、この目の表情は退屈からきたもので、じろじろあたりを観察しながらも、とりすましていなければいけないことを、はっと思い出すといったわけだったのである。《レーナル夫人だって、やっぱりきれいな目をしていたし、みんながお世辞をいっていたくらいだが、この女の目とは全然感じが違っていた》ジュリヤンはまだ世間に慣れていないので、マチルド嬢(と呼んでいるのが聞えた)の目がときどき光るのは、才気のひらめきのせいだということが見ぬけなかった。レーナル夫人の目が輝くのは、情熱に燃えるときか、なにかよくないふるまいの話でも聞いて、義憤にかられたときかの、どちらかだった。食事の終るころになって、ジュリヤンはラ・モール嬢のような目の美しさをいいあらわす言葉を見つけた。《きらきら輝いている》と思ったのである。しかし、マチルド嬢は母親に驚くほどよく似ている。ジュリヤンはその母親がますますきらいになってきていたから、令嬢を眺めないことにした。それにひきかえ、ノルベール伯爵はどこから見てもりっぱに思えた。ジュリヤンはすっかり惹《ひ》きつけられてしまったので、伯爵が自分より金持で家柄《いえがら》がいいからといって、嫉《しっ》妬《と》したり憎んだりする気持は起らなかった。
ジュリヤンは侯爵が退屈しているらしいと思った。
二番目の料理が出たころ、侯爵は息子にいった。
「ノルベール、ジュリヤン・ソレル君には親切にしてやってもらいたい。こんどわたしの参謀になってもらったのだが、一人前の男にしてやりたいと思っている。もししょう《・・・》(cella)できればね」
「これはわたしの秘書なんですが、cela と書くのに l を二つもつけるんですよ」と、侯爵は隣合せの男にいった。
みんながジュリヤンのほうを見た。ジュリヤンはノルベールに向って、やや目だちすぎるくらい頭を下げたが、そのまなざしにはみんなもだいたい好意をもった。
侯爵は、ジュリヤンがどういう教育を受けてきたかを話しておいたのだろう。会食者のひとりがホラティウスについてジュリヤンにくいさがってきたからである。《まさにこのホラティウスの話をしたからじゃないか、おれがブザンソンの司教の前でうまくやったのは。どうやらこの連中はこの作家のことしか知らないらしい》そう思うと、このときからジュリヤンはすっかり自信を取り戻した。ラ・モール嬢をけっして女とは思うまいと決心したばかりのところだけに、なおさら気持が楽になった。神学校以来、ジュリヤンは男に対してはどう出られても覚悟をきめているから、ちっとやそっとのことで相手にひけをとったりはしない。食堂の家具がこれほど豪華でなかったら、ジュリヤンは完全に落ち着けたところなのである。じつをいうと、鏡が二つあって、それぞれ高さが八尺もあり、ホラティウスの話をしながらも、ときどき鏡にうつる相手の姿が気になると、やっぱり気おくれを感じないではいられなかった。田舎者にしては、ジュリヤンの言葉はわりあいにはきはきしていた。美しい目をしているし、その目が、ものおじするときでも、うまく返事ができてうれしそうにするときでも、はにかみからいちだんと輝きをますのだ。ジュリヤンは好感をもたれた。こうした人物試験がかた苦しい晩餐に多少の興味をそえた。侯爵はジュリヤンの相手に、かまわずつっこんでやれと目くばせした。《この男がものを知っているものか》と侯爵は思ったのだ。
ジュリヤンは、その場その場で考えては答えているうちに、気おくれを忘れてしまった。才気を見せるところまではいかなかった。そんなことは、パリの言葉づかいをわきまえないものにとっては不可能である。だが、鮮やかとか当をえた答えぶりではないまでも、とにかく目新しい考えかたをして見せた。そこで、ジュリヤンがラテン語を十分ものにしていることは、一同の認めるところとなった。
ジュリヤンの相手は金石学アカデミーの会員で、これがたまたまラテン語を知っていた。ジュリヤンがりっぱな古典学者と知ると、もはやこれを赤面させる心配もないと思って、本気でいじめようとしはじめた。議論が熱してくると、ジュリヤンはとうとう食堂の豪華な装飾も忘れてしまい、ラテン詩人について、相手がどこでも読んだことのないような意見をはくほどになった。アカデミー会員も雅量を見せて、この若い秘書の顔をたてた。さいわい、議論はホラティウスが金持だったか貧乏だったかという問題に及んだ。モリエールやラ・フォンテーヌの友シャペルのように、楽しいことが好きな呑気《のんき》坊主で、気のむくままに詩を作るといった感じのいい男だったのか? それともバイロン卿《きょう》をなじったサウジーのように、国王の誕生日に頌詩《オード》をささげる、くだらない宮廷づきの桂冠《けいかん》詩人だったのか?アウグストゥス帝の時代と、ジョージ四世時代の社会状態が話題に上った。いずれの時代も貴族階級の全盛期であるが、ローマでは、貴族階級は単なる騎士にすぎないマエケナスに権力を奪われ、イギリスでは貴族階級はジョージ四世をヴェネツィア共和国の統領程度の地位に格下げしてしまったというのである。晩餐のはじまるころ退屈をもてあましていた侯爵も、この議論で、どうやら気分をひきたてられたらしい。
ジュリヤンは、サウジーだの、バイロン卿だの、ジョージ四世だのという、新しい時代の人名は、はじめて聞いたわけで、なんのことやら、さっぱりわからなかった。しかし、ローマ時代の史実が話題となり、ホラティウスやマルティアリスやタキトゥスなどの作品から、それを判断することができるとなると、そのたびごとに、ジュリヤンが断然光ってくることは、だれも見のがさなかった。ジュリヤンはブザンソンの司教と戦わした例の大論争の際に、この司教から教わった意見を、だいぶ借用して平気で述べたてた。これもまたなかなか評判がよかった。
みんなが詩人の話に飽きたころ、侯爵夫人がやっとジュリヤンのほうを見てくれた。夫が喜ぶものなら、なんにでも感心することにしているからである。「この若い神父は受答えが不器用ですが、その裏にはきっと学識がひそんでいるにちがいありませんな」と、侯爵夫人のそばに居合せたアカデミー会員は夫人にいった。ジュリヤンにもすこしは聞きとれた。こういうできあいの文句が、この家の女主人の頭にはうってつけだった。夫人はジュリヤンについてこの人物評を採用することにし、このアカデミー会員を晩餐に招いてよかったと思った。《このひとは主人を楽しませてくれる》
第三章 第一歩
きらめく光とおびただしい群衆に満ちた、この広大な谷間がわたしを眩惑《げんわく》する。だれひとりとして、わたしを知っているものはなく、みんながわたしよりすぐれている。わたしの頭はかき乱される。
弁護士レイナの詩
その翌日、朝早くから、ジュリヤンが図書室で手紙の写しをしていると、本の背で巧みに隠してある、小さな忍び戸から、マチルド嬢がはいってきた。ジュリヤンがうまい仕掛だと感心している一方、マチルド嬢はこんなところでジュリヤンに出会おうとは考えてもいなかったので、かなりまごついている様子だった。ジュリヤンは捲毛紙《カールペーパー》をつけた姿を見て、やさしみのない、高慢な、まるで男のような感じの女だと思った。ラ・モール嬢は、父親のいないときを見計らって、図書室から本を盗みだすこつ《・・》を心得ていた。ジュリヤンがいるので、その朝せっかくやってきたのがむだになってしまった。ヴォルテールの『バビロンの王女』の第二巻を取りに来ただけに、ますます具合が悪かった。この本は聖心会派の傑作である、こちこちの王党派的な宗教教育を補うにはうってつけではないか! かわいそうに、この娘はまだ十九歳だというのに、早くも、才気のぴりっときいた小説でないと興味がもてなくなっている。
ノルベール伯爵《はくしゃく》が、三時ごろ図書室に顔を出した。夜、政治論ができるようにと思って、いつも新聞を調べにくるのだが、ジュリヤンを見つけて大いに喜んだ。ジュリヤンの存在など忘れてしまっていたのである。伯爵はジュリヤンに対していかにもさばけたところを見せ、馬に乗らないかとさそった。
「父はぼくたちに晩餐《ばんさん》まで暇をくれますよ」
ジュリヤンはこのぼくたち《・・・・》という言葉の意味を悟ると、うまいことをいうなと思った。
「困ります、伯爵さま、高さ八十尺の木を伐《き》り倒して、角材にしたり板にするといったことでしたら、上手にやってのけられる自信はありますが、馬のほうは、これまでに六回と乗ったことがないのでございます」
「じゃ、こんどで七回目といきましょう」と、ノルベールが答えた。
じつをいうと、ジュリヤンは***国王がヴェリエールに来《こ》られたおりのことを思い出して、りっぱに乗りこなせるつもりだった。だが、ブーローニュの森から帰りがけに、バック街のまんまんなかで、急に馬車をよけようとして、馬から落ち、泥《どろ》まみれになった。服が二着あったので、よかった。晩餐のとき、侯爵がジュリヤンに言葉をかけようとして、散歩はどうだったかときいた。すると、ノルベールがあわてて、あたりさわりのない言葉で答えてくれた。
ジュリヤンがこれにつけ加えていった。
「伯爵さまは、わたくしにとても親切にしてくださいます。感謝いたしておりますし、身にしみてありがたいと思っております。わざわざいちばんおとなしい、いちばんきれいな馬を選んでくださいましたが、わたくしを馬にしばりつけておくわけにはまいらなかったわけで、そこまで気がおつきにならなかったために、わたくしは、橋のそばの、あの長細い通りのまんまんなかで馬からころげ落ちてしまったのでございます」
マチルド嬢は吹き出すまいとしたが、こらえられなかったばかりか、そのあとでは持ち前の無遠慮から、そのときのようすを精《くわ》しく話してくれといった。ジュリヤンはすこしも飾らずに、すらすらとありのままを述べた。自分では気がつかないで、聞き手の気をひいたわけである。
そこで、侯爵がアカデミー会員にいった。
「あの神父の卵は見込みがありますな。こんなときに、田舎者まるだしでいっこうこだわらないんですからね! こんなことにはお目にかかったこともないし、これからだってありませんぞ。おまけにご婦人がた《・・・・・》の前で自分のしくじりを話してきかせるのですからね!」
ジュリヤンの失敗談で聞き手はすっかりくつろいでしまった。そこで、晩餐の終りごろになって、みんなの話が別のことに移りかけると、マチルド嬢は兄を相手に、運の悪いこの出来事の模様についていろいろききはじめた。マチルドがいつまでも質問を続けているし、いくたびも自分と目を合わせることになったので、ジュリヤンは、きかれもしないのに、自分から進んでじかに返事をした。しまいに、三人は、まるで森の奥の村に住んでいる三人の若者みたいに、笑いだしてしまった。
あくる日、ジュリヤンは神学の講義に二つ出てから、二十通ばかりの手紙を写しに帰ってきた。見ると、図書室の自分の机の隣に、ひとりの青年が陣取っている。ひどくこったなりをしているが、顔だちは貧相で、ジュリヤンに嫉《しっ》妬《と》をしているような顔つきである。
侯爵がはいってきた。
「こんなところでなにをしているのだ、タンボー君」と、侯爵はきびしい口ぶりで、この新来者にきいた。
「じつはその……」と、青年は卑《いや》しい笑いを浮べながら答えた。
「きみ、じつはそのもなにもあるものか《・・・・・・・・・・・・・・》。そんなまねをしてもはじまらんぞ」
タンボー青年はひどく腹をたてて立ち上がると、姿を消した。これはラ・モール夫人の親友のアカデミー会員の甥《おい》で、文学志望だった。アカデミー会員に頼んでもらい、侯爵の秘書になれるはずだった。タンボーは離れた部屋で仕事をしていたが、ジュリヤンがお気にいりになったと知ると、その分け前にあずかろうとして、その日の朝、図書室へ自分の机をもちこんできたのである。
四時になると、ジュリヤンは多少ためらったが、思いきってノルベール伯爵の部屋へ顔を出した。伯爵は乗馬に出かけるところだったが、なにしろ丁重この上ない青年なので、ことわりきれなかった。
「そのうち調馬場へ通ってみたらどうです?二、三週間もして、ご一緒に乗れるようになったら、ぼくもうれしいですな」
「いろいろご親切にしていただいたお礼が申し上げたかったのです。ほんとうに」とひどく真顔になって、ジュリヤンはつけ加えた。「どんなにありがたく思っているかわからないのです。きのうは下手な乗りかたをしましたが、そのためにあなたの馬が怪我《けが》をしていないようでしたら、それに空いているのでしたら、この午後にでも乗せていただけたらと存じまして」
「じゃ、なんですよ、ソレル君、どんなひどい目にあっても知りませんよ。わたしは用心してできるだけおとめしたことにしてください。とにかく、もう四時ですから、ぐずぐずしてはいられません」
馬に乗ると、さっそくジュリヤンは若い伯爵にきいた。
「落ちないようにするには、どうしたらいいのですか?」
「いろんなことがありますよ」と、ノルベールは声をたてて笑いながら答えた。「早い話が、上体をぐっとうしろに引くことですね」
ジュリヤンは馬をかなり速歩《はやあし》にして進めた。ルイ十六世広場にさしかかった。すると、ノルベールがいった。
「ずいぶんむちゃだなあ! こんなに馬車が通ってるのに。そのうえ、御者も乱暴な連中ばかりじゃありませんか! ころげ落ちたが最後、馬車にひき殺されてしまいますよ。連中は急に馬をひきとめて、馬の口にけがをさせるようなまねはしませんから」
ノルベールはジュリヤンが落馬するのではないかと、いくたび思ったかしれなかったが、とにかく散歩は無事にすんだ。帰ると、さっそく伯爵は妹にいった。
「勇敢な馬乗りを紹介しよう」
晩餐のとき、伯爵はテーブルの端から向うの端にいた父に話しかけ、ジュリヤンの勇敢なふるまいには感心するといった。ジュリヤンのような馬の乗りかたでは、せいぜいそんなふうにほめるより道がなかった。若い伯爵はその朝、中庭で馬の手入れをしている召使連中が、落馬のことを種にして、ジュリヤンをくそみそにこきおろしているのを耳にしたのだった。
これほど親切にされながらも、ジュリヤンは、まもなく、この家族のなかで自分がまったく孤立しているのを感じはじめた。作法のすべてが奇妙に思われ、またことごとに間違いをしでかした。そういう失敗が従僕《じゅうぼく》どもを喜ばせた。
ピラール神父は自分の教区へ行ってしまった。《ジュリヤンが弱いあし《・・》なら、枯れてしまうがいい。勇気のある男なら、ひとりできりぬけていくだろう》と考えたのだった。
第四章 ラ・モール邸
彼はここでなにをしているのか?ここが気にいるだろうか? 気にいられると思っているのだろうか?
ロンサール
ラ・モール邸の上品なサロンでは、すべてのことが、ジュリヤンには珍しく思われたが、一方、ジュリヤンにわざわざ目を向けてくれる連中には、蒼白《あおじろ》い顔をして黒服を着ているこの青年が珍しく思われたのである。ラ・モール夫人は、特別な連中を晩餐《ばんさん》に招く日には、ジュリヤンを用事にやらせてはどうかと、夫の侯爵《こうしゃく》にいってみた。
「わたしはとことんまで試してみたいのだ。ピラール神父の話だと、わたしたちが身近に使う連中の自尊心を傷つけるのはいけないそうだ。手ごたえのあるものでなければ《・・・・・・・・・・・・・・》、頼り《・・》にならぬ《・・・・》とか、いろいろいわれたよ。顔を知られていないから、あの男が目ざわりになるだけだよ。それに、あれはおし《・・》でつんぼ《・・・》のような男だ」
《このサロンにやってくる連中の名前とその人がらについて一言書きとめておかないことには、どうも様子がのみこめない》と、ジュリヤンは思った。
ジュリヤンはまずこの家の知人を五、六名書きこんだ。ジュリヤンが気まぐれな侯爵にかわいがられているものと思って、なにかにつけてお世辞をいう連中である。いずれも、大なり小なり卑屈な、取るに足らないやつらだった。だが、今日、貴族階級のサロンで見かけるこうした連中の名誉のために、おことわりしておかなければならないが、だれに対しても見境なく卑屈な態度に出るのではない。侯爵からはどんなにあしらわれても黙っているが、ラ・モール夫人からひどいことをいわれたら、むかっ腹をたてたにちがいないようなものも、なかにはいるのである。
この家の主人夫婦の性格の奥には、あまりにも高慢と退屈がありすぎた。退屈まぎれにひとをばかにすることが、あたりまえと心得ているから、真の友達のできるはずがなかった。だが、雨の日とか、たまのことだが、退屈しきっているときとかをのぞけば、いつも丁重そのものだった。
ジュリヤンにまるで父親のような好意を示す、例の五、六人のおべっかものたちが、ラ・モール邸を見限ったとしたら、侯爵夫人は孤独の時をつくづくと味わわざるをえなかったであろう。ところが、この階級の婦人たちから見ると、孤独は我慢がならないのである。それは人気を失うこと《・・・・・・・》の象徴なのだ。
侯爵は妻に対してりっぱな夫であった。妻のサロンに十分客が集まるように気を使っていた。それは貴族院議員などではなかった。貴族院の新たな同僚は、友人として自分のうちに来てもらうほど身分は高くないし、子分として出入りを許してやるほどおもしろい連中とも思えなかった。
ジュリヤンがこういう内幕を知ったのは、ずっとあとのことである。政府の政策などは、市民階級の家庭では話題となっているが、侯爵くらいの階級の家庭では、よほど時局が切迫したときでもなければ、取りあげられない。
この退屈きわまる世紀でも、やはり、愉快に遊びたいという欲求は強いから、晩餐のときでさえ、侯爵がサロンをひきとるが早いか、みんなもさっと帰ってしまう。神とか、聖職者とか、国王とか、高官とか、宮廷の保護を受けている芸術家とか、すべて地位の定まったものを茶化さなければいい。ベランジェとか、反対派の新聞とか、ヴォルテールとか、ルソーとか、すべて多少率直にものをいいすぎる連中の肩をもったりしなければいい。とりわけ、絶対に政治のことをしゃべらなければ、あとはなんの議論をしようと自由なのである。
十万エキュの年金をもっていようと、青綬《コルドン・》章《ブルー》をもっていようと、こういうサロンの憲章に楯《たて》つくことはできない。ほんのすこしでも活溌《かっぱつ》な意見を述べたりすると、下品だといわれる。お上品で、いかにも丁重で、ひとの気を害さないようにつとめてはいるものの、だれの顔にも退屈の色が読みとれる。義理でやってくる若い連中も、うっかりしたことをいって、思想傾向を疑われたり、禁書を読んでいることがばれたりしてはという心配から、ロッシーニのこととか、天気のこととかについて、二、三洒《しゃ》落《れ》たことをいうと、あとは黙りこんでしまう。
ふつう話に景気をつけるのは、ラ・モール侯爵が亡命中に知り合ったふたりの子爵と五人の男爵だと、ジュリヤンは見てとった。この連中は六千ないし八千フランの年収があり、四人は『日日新聞』びいき、三人は『フランス新報』びいきだった。そのうちのひとりは、毎日、なにか宮中《シャトー》の逸話をもっていて、しゃべるたびに必ずすばらしい《・・・・・》という言葉を口にする。この男が五個の勲章をもっているのに反して、ほかの連中はだいたい三つしかもっていないのに、ジュリヤンは気がついた。
そのかわり、控えの間には、仕着せを着た十人の従僕《じゅうぼく》がいて、一晩じゅう、十五分おきに、アイスクリームかお茶が出る。それに、真夜中ごろになると、シャンパンつきで、一種の夜食が出た。
ジュリヤンが、ときどき最後まで居残るのも、このためである。もっとも、この豪華な金ぴかのサロンで、ふだん話されていることを、どうしてまじめに聞いていられるのか、いっこう合《が》点《てん》がいかなかった。ときどき、ジュリヤンは話し手の顔をつくづく眺《なが》めてみる。自分ながら自分のしゃべっていることをばかにしているのではないかと思う。《おれの暗記しているメーストル氏のほうが、どのくらいうまいことをいっているかしれないが、それでもやはり退屈きわまりないのに》
ジュリヤンだけが、この精神の窒息状態に気がついていたわけではない。あるものは、むやみとアイスクリームを食べたり、あるものは、その夜ほかへまわって「ラ・モール邸へいってきたのだがね、ロシアではなんでも、云々《うんぬん》」といえる楽しみがあるので、我慢していたのだ。
好意を見せてくれる連中のひとりから、ジュリヤンが教えてもらったところでは、それからまだ半年とたっていないのだが、ラ・モール夫人は、王政復古以来郡長だった気の毒なル・ブールギニョン男爵を、二十年あまりも出入りした褒《ほう》美《び》として、知事にしてやったのである。
この大事件がサロンの常連たちの熱意をますますかきたてた。それまでなら、ごくつまらぬことにも腹をたてたところなのだが、もうどんな目にあっても絶対に腹をたてなくなった。じかに失礼なふるまいに出ることはめったになかったが、侯爵夫妻が食卓で、そばの席にいる連中にとってはたえがたいような言葉を、ちょいちょい交わし合っているのを、ジュリヤンはこれまでにも耳にしたことがある。この貴族たちは陛下の御馬車に陪乗を仰《・・・・・・・・・・・》せつかった《・・・・・》人々の子孫でないかぎり、だれに対しても公然と心からの軽蔑《けいべつ》を見せる。十字《・・》軍《・》という言葉にだけは、このひとたちも尊敬のこもった厳粛な顔になるのを、ジュリヤンは知った。ふつうの尊敬など、いつもていのいいお愛《あい》想《そ》にすぎなかった。
この豪華と退屈のなかにいて、ジュリヤンが興味をもったのは、ラ・モール氏だけだった。ある日、侯爵が、あの気の毒なル・ブールギニョンの昇進には、自分などなんの力ぞえもできなかったのだといいはるのを聞いて、ジュリヤンは好意をもった。侯爵夫人に対する心づくしだったのである。ジュリヤンはピラール神父から真相を聞いていた。
ある朝、侯爵の図書室で、ピラール神父がジュリヤンと一緒に、相変らずけりのつかない、例のフリレールとの訴訟の一件を調べていたとき、ジュリヤンが突然いった。
「先生、毎日、侯爵夫人とご一緒に晩餐をいただくのも、やっぱりわたくしの義務なのでしょうか? それともわたくしに対する好意から出たことなのでしょうか?」
「このうえもない名誉だよ!」と、神父は腹をたてて答えた。「アカデミー会員のN……さんなどは、十五年来、ご機《き》嫌《げん》伺いに通いつめているが、甥《おい》のタンボー君に、そうした名誉を手にいれてやることができなかったじゃないか」
「わたくしにとっては、先生、それが仕事のうちで、いちばんつらいことなのです。神学校にいたときのほうが退屈しませんでした。ときどき侯爵のお嬢さんまでがあくびをしているのを見かけます。出入りするお客さんたちが、愛想がいいのには、慣れていらっしゃるはずですのに。わたくしは居眠りをしそうで、やりきれないのです。お願いですから、どこか安い宿屋にでも行って、四十スーで晩飯が食べられるように、お取計らいくださいませんでしょうか」
ピラール神父はまったくの成上りもので、大貴族と晩餐を共にすることは光栄の至りだと思っている。自分の気持を一生懸命ジュリヤンにわからせようとしていると、軽い物音がしたので、ふたりはふりむいた。ラ・モール嬢がきき耳をたてていたのを見て、ジュリヤンは顔を赤くした。彼女は本を取りにきて、すっかり聞いてしまい、ジュリヤンに多少の敬意をいだいた。《このひとは生れつきむやみと頭を下げるようなひとじゃない。このおいぼれの神父さんとはわけが違う。まあ、この神父さん、なんてみっともないんでしょう!》
晩餐のとき、ジュリヤンは思いきってラ・モール嬢の顔を見ることさえできなかったが、令嬢のほうは親切にも言葉をかけてくれた。この日は大勢の客が来ることになっているので、令嬢はジュリヤンにも居残っているようにとすすめた。パリの娘たちは年配の男があまり好きでない。それがなりふりをかまわない男なら、なおさらである。サロンに居残っているル・ブールギニョン氏の仲間たちは、光栄にもしょっちゅうラ・モール嬢にからかわれている。ジュリヤンは、たいして頭を働かせなくても、そのくらいのことには気がついていた。この日は、わざとそうしたのかどうかはわからないが、令嬢がこのいやな連中を気の毒なくらいやりこめた。
ほとんど毎夜、侯爵夫人の大きな肱掛《ひじかけ》椅子《いす》の陰で小さなグループをつくる連中がいるが、ラ・モール嬢はこの中心だった。集まるのはクロワズノワ侯爵、ケーリュス伯爵、リュス子爵その他、二、三の若い士官で、いずれもノルベールかその妹の友達だった。この連中は大きな青い長椅子に陣取る。この長椅子のはしに、派手なマチルドのすわっている椅子と向き合って、かなり低い小さな藁《わら》椅子にジュリヤンが黙りこくってすわっている。こんなつまらない場所を、取巻き連のだれもが羨《うらや》んでいた。ノルベールは、そういう立場のジュリヤンに、一晩じゅうに一、二度話しかけては、それとなく引き立ててやる。その日は、ラ・モール嬢から、ブザンソンの城塞《じょうさい》のある山はどのくらいの高さがあるのだろうかときかれた。その山がモンマルトルより高いのか低いのか、ジュリヤンにはまるっきりわからなかった。ジュリヤンはこの小さなグループの連中の話を聞いて、心から笑いだすことがよくあったが、この連中のいっているようなことを考え出すことなど、自分にはできないと思っていた。わかるにはわかっても、話すことのできない外国語のようなものだった。
マチルドの友達は、この日、この大きなサロンへやってくる連中に、たえず敵意を見せた。この家の常連が、よくわかっているだけに、まず槍玉《やりだま》にあがった。ジュリヤンがどれほど耳をすませて聞いたかは、いうまでもなかろう。話の内容からいっても、茶化しかたからいっても、すべてがジュリヤンには興味があった。
「あら! デクーリさんがいらしたわ。かつらをつけなくなったのね。才能を頼りにして知事になるおつもりなのかしら? おつむ《・・・》の禿《は》げたところを見せびらかして、深い考えでいっぱいだとでもおっしゃるつもりなのかしら?」
と、マチルドがいうと、クロワズノワ侯爵が言葉を受けていった。
「あれは世間のだれとも知合いですよ。わたしの伯父の枢《すう》機《き》卿《けい》のところにも来ます、ひとりびとりの友達に、何年ものあいだ、嘘《うそ》をつきっぱなしでいられるような男です。それでいて、二、三百人も友達があるんですからね。友情を育てるこつ《・・》を心得ているっていうんでしょうが、そこが取《と》り柄《え》なんです。ごらんになるとおりの人物で、冬の朝七時だというのに、もう泥《どろ》まみれの姿で、友達の玄関先にあらわれるんです。
ときどき仲たがいして、七、八通の絶交状を書いたりします。そうかと思うと、仲直りをして、友情にあふれた手紙を七、八通書く。とにかく、何も根にもっていない紳士として、率直にまごころを披《ひ》瀝《れき》するときは、いちばん光っていますね。頼みごとでもあると、この奥の手を使うんです。わたしの伯父の副司教のひとりに、王政復古以来のデクーリさんの生活ぶりを話してくれるひとがいますが、じつにおもしろいんです。いずれ連れてきましょう」
「ふん! そんな話は信用できないね、卑《いや》しい連中の商売上のひがみというものさ」と、ケーリュス伯爵がいった。
「デクーリさんは歴史に名を残すね。プラット神父や、タレーラン氏や、ポッツォ・ディ・ボルゴ氏と一緒に王政復古をやりとげたんですから」と、侯爵がいい返した。
ノルベールがいった。
「あの男は数百万の金を動かしたことがあるというのに、なんだって、こんなところへやってきて、ぼくの親父《おやじ》の皮肉が浴びたいんだろう。それも、よくずいぶんひどいことをいわれるんだ。親父ったら、あんたは友達をいくたび裏切ったかね、デクーリさん、なんて、このあいだも、テーブル越しに、大きな声できくんだ」
「でも、あのひとが裏切ったって、ほんとう? 裏切らないひとって、あるかしら?」と、マチルド嬢がいった。
すると、ケーリュス伯爵がノルベールに向って、
「ほう、きみんとこへは、あの札つきの自由主義者のサンクレール氏がやってくるんですか。いったい、なにしに来るんです? そばへ行って話しかけてみよう。なんとかしゃべらせてみる。ひどく才気があるって噂《うわさ》だからね」
「でも、きみのお母さんはどんな迎えかたをなさるかな? なにしろ、考えかたがひどく風変りで、太っ腹で、ものにとらわれないし……」
と、クロワズノワ氏がいいかけると、マチルド嬢が、
「ほら、ごらんなさい、ものにとらわれないおかたが、まるでひれ伏すようにして、デクーリさんにお辞儀をしたり手を握ったりしてるじゃありませんか。あの手をおしいただいて唇《くちびる》につけるんじゃないかと思ったわ」
「デクーリは思ったより政府筋と仲がいいにちがいない」と、クロワズノワ氏がいった。
「サンクレールがここにやってくるのは、アカデミーにはいるためなのさ。見たまえ、ぺこぺこL……男爵にお辞儀をしてるじゃないか、クロワズノワ君」
と、ノルベールがいうと、リュス氏がつけ加えた。
「ひざまずいたほうがまだましだよ」
「ソレル君、きみは頭がいいんだ。山国から出てきたばかりのところだからといって、あの大詩人みたいなお辞儀の仕方は、絶対にしないようにしたまえ、たとえ父なる神のみ前でもね」と、ノルベールがいった。
「あら、才人のお手本、バトン男爵さまのお《・》なり《・・》よ」
ちょうど、従僕が男爵の来訪を告げたばかりのところだったので、マチルド嬢がその口ぶりをちょっとまねて、そういった。
「お宅の召使たちまでがあの男をばかにしているようですね。棍棒《バトン》男爵とは、名前からしてふるって《・・・・》る!」
と、ケーリュス氏がいうと、マチルドが、
「でも、このあいだ、あのかた、おっしゃってましたわ。名前なんかどうだっていいですよ、肉汁《ブイヨン》公爵の名前にしたって、はじめて耳にしたとき、みんな、どんな感じがしたか考えてごらんなさい。わたしの場合だって、多少世間で聞きなれていないだけですよ、って」
ジュリヤンは長椅子のそばを離れた。ジュリヤンは、軽い冷やかしの、しゃれた味がまだわからないので、冗談を聞いても笑えない。冗談にもそれ相当の理由があるものと思いこんでいる。この若い仲間の話を聞いていると、なんでもけなそうというところしか感じられない。それが気にくわなかった。田舎者らしいといおうか、イギリス人的といおうか、とにかく謹厳なジュリヤンは、それをねたみのあらわれとさえ考えたが、むろん、それはジュリヤンの勘違いだった。
《ノルベール伯爵は、見たところ、自分の連隊長に二十行の手紙を書くにも、三度書き直したくらいだから、サンクレール氏の文章みたいなものが、一生に一ページでも書けたら、得意になるはずなんだが》
ジュリヤンは問題にされていないから、さいわい人目にもたたないで、次々にいくつかのグループのそばへ寄ってみることができた。遠くからバトン男爵を目で追いながら、どんなことをいうのかと聞き耳をたてていた。才気の手本といわれるこの男は、どこかそわそわした様子をしていたが、三つ四つ気のきいた文句を見つけると、どうにか落着きを取り戻《もど》したらしかった。こうした才気というものはひまのかかるものだと、ジュリヤンは思った。
男爵はふつうのしゃべりかたができない。それぞれ六行もあるような文句を、すくなくとも四ついわないと、才気のあるところが見せられないのだ。
「この男のは演説だ《・・・・・・・・》。しゃべっているのじゃ《・・・・・・・・・・》ない《・・》」と、だれかがジュリヤンのうしろでいった。ふりむいたとき、シャルヴェ伯爵の名を呼ぶのが聞えたので、ジュリヤンはうれしさで顔をほてらせた。伯爵は当代随一のきれ《・・》もの《・・》である。ジュリヤンはしばしば『セント = ヘレナ日記』や、ナポレオンの口述した史話で、この伯爵の名を見かけたのである。シャルヴェ伯爵は言葉がぶっきらぼうだったが、その辛辣《しんらつ》な言葉は、稲妻のように鋭く的確で、深味があった。伯爵がなにかの事件について話しだすと、たちまち議論が一歩前進する。事実をもちだすのだから、聞いていて小気味がいい。それに、政治のことになると、人をくった態度が徹底している。
「わたしはしばられるのがきらいです」と、伯爵は三つの星形大勲章をつけた男に話しかけている。明らかに相手をばかにしているのである。「今日も六週間前と同じ意見でいろ、などといわれては、かないません。そんなことになったら、わたしの意見はわたしの暴君になってしまうわけです」
伯爵を取り巻いていた四人のきまじめな青年が不平そうな顔をした。この連中は冗談がきらいなのである。伯爵はいいすぎたなと思った。さいわい、実直者のバラン氏の姿を見つけた。実直を装う偽善者《タルチュフ》なのである。伯爵はこのバラン氏を相手に話しはじめた。みんなが寄ってきた。どうやら、気の毒にも、バラン氏は伯爵にやりこめられようとしている。バラン氏は大いに道徳を説き、道徳的なふるまいをした結果、ひどい醜男《ぶおとこ》だったし、社交界へ顔を出したては口にいえないほど苦労をしたものの、金持の女と結婚することができた。その女が死んだ。また大金持の後妻を迎えたが、この夫人は全然社交界に顔を出さない。バラン氏は自分では恐縮していながら、年収六万フランがあり、取巻き連がいるのだ。シャルヴェ伯爵はこうした話を容赦なくしゃべりたてた。まもなく、ふたりのまわりには三十人ばかりのものが集まってきた。だれもが、当代のホープである例のきまじめな青年たちまでが、にやにやしていた。
《なぶりものになるのがわかっているのに、あの男はなぜラ・モール邸にやってくるのだろう?》そう思うと、ジュリヤンはピラール神父のそばへ行って、そのわけをきこうとした。
バラン氏はこそこそと出ていった。
「よし! これで親父をつけねらうスパイのひとりが出ていったわけだ。あとはちびでびっこのナピエだけだ」と、ノルベールがいった。
《これが謎《なぞ》をとく鍵《かぎ》かな? だが、それなら、なぜ侯爵はバラン氏を迎えいれるのだろう?》と、ジュリヤンは思った。
謹厳なピラール神父は、サロンの片隅《かたすみ》で、従僕が来客を知らせるたびに、それを聞いては、顔をしかめていた。
「まるで巣窟《そうくつ》も同じだ。来るものはどれもこれも背徳漢ばかりだ」と、神父はバジリオのようにいった。
謹厳なピラール神父は上流社会がどういうものだか知らなかったからである。だが、友人のジャンセニストたちを通じて、サロンに出入りするこの連中に関しては、なかなか正確な知識をもっていた。どの党派にも抜け目なく仕えるのを目的とする連中か、さもなければ悪いことをして築いた財産のおかげで顔出しできるようになった連中である。その夜、しばらくのあいだ、ピラール神父はジュリヤンの質問攻めにあっても、自分の思うとおり率直に答えていたが、やがて急に口をつぐんでしまった。みんなの悪口ばかりいいどおしなのにいや気がさし、そういう自分こそ罪深いものだと思ったからである。気むずかしく、ジャンセニストで、キリスト教の説く慈悲の義務を信じているだけに、神父の社交界における生活は、一つの戦いだった。
「あのピラール神父さんって、なんて顔してるんでしょう!」ジュリヤンがまた長椅子のところへ戻ってくると、ラ・モール嬢がそういった。
ジュリヤンは腹だたしく思ったが、令嬢のいうとおりである。ピラール神父は、むろん、このサロンきっての誠実な人間にはちがいないが、酒やけしたようなその顔が、良心の呵《か》責《しゃく》でこわばって、このとき二目と見られないほど醜かったのだ。ジュリヤンは思った。《この顔を見ても人相が信じられるなら信じるがいい。ピラール神父は細心なだけに、ごくつまらぬ罪の意識で自責の念にかられるときでも、あんなすごい顔になるのだ。それに反して、まぎれもないスパイの、あのナピエの顔には、どう見ても清らかで穏やかな幸福感しか感じられないではないか》もっとも、ピラール神父は自分の党派の精神からすれば大いに譲歩して、召使をひとり雇い、身なりもなかなかきちんとしていたのである。
ジュリヤンはサロンのただならぬ様子を見てとった。みんなの視線が、いっせいに戸口のほうへ注がれ、急に話が途絶えたからである。従僕が問題のトリー男爵の名を告げたところだった。最近の選挙のことで衆目の的となった人物である。ジュリヤンは乗り出していって、よく観察した。男爵はある選挙区を管理していたが、ある党派に投票された四角な用紙をごまかそうという妙案を考えついた。だが、その埋め合せをするために、自分に都合のいい名を書いた別の用紙を、次々にすりかえておいた。この一《いち》か八《ばち》かのペテンを幾人かの選挙人が見破ってしまい、さっそくトリー男爵につめよって、談判に及んだ。このとんでもない男は、この大事件のことで、いまだに青くなっている。たちの悪い連中が懲役などという言葉を口にしたからだった。ラ・モール氏は男爵にいい顔はしなかった。男爵は逃げだしていった。
「あの男がこんなに早く帰ったのは、コント《・・・》氏のところへ行くためですよ」と、伯爵《コント》のシャルヴェ氏がいったので、みんなは大笑いした。
黙りこんでいる何人かの大貴族と策士たちがいた。この策士たちの大部分は背徳漢だが、いずれも才人で、この夜は相ついでラ・モール氏(大臣になるというもっぱらの噂なのだ)のサロンにつめかけて来ていたのだった。このグループのなかで、初陣《ういじん》の小タンボーがさかんにしゃべっていた。まだ、ものの見方に鋭さはないが、そのかわり、見られるとおり、景気のいいことをいっている。
ジュリヤンがタンボーのグループのそばまでやってきたとき、タンボーはこんなことをしゃべっているところだった。
「なぜあの男を十年の禁《きん》錮《こ》にしなかったのですか? ああいう毒蛇《どくへび》のたぐいは、地《ち》下《か》牢《ろう》の奥に閉じこめてやるべきです。日の目を奪って死なせるようにするのです、さもないと、毒気が拡《ひろ》がって、ますます危険になります。千エキュの罰金を科したところで、なんにもならない。あの男が貧乏なら貧乏でいい、いやそれならなおさらのこと、党がかわりに払ってくれます。罰金五百フランと地下牢十年を科すべきだったのです」
《おやおや! いったい、その悪党っていうのは、だれなのだろう?》ジュリヤンは同僚のはげしい口調と、性急な身ぶりに感心しながら、そう思った。アカデミー会員の愛甥《あいせい》の、痩《や》せてひねこびた小さな顔が、このとき、いかにも醜かった。ジュリヤンはやがて、それが当代第一の大詩人のことだと知った。
《このひとでなしめ!》と、ジュリヤンは心で叫んだ。口に出かかったほどだった。義憤の涙が目頭ににじみ出た。
《この乞《こ》食《じき》野郎め! 覚えていろ!》
《だが、侯爵が幹部のひとりとして関係している党派の決死隊ってのは、こんなやつらのことだ! ところで、こいつはさかんにけなしているが、あの有名な詩人だって、身を売りさえすれば、勲章や閑職など、いくらでも集められたのだ! 身売りするったって、むろんくだらぬネルヴァル氏の内閣などにではない。さきごろ相ついで出た、いちおう誠実な大臣のうちのだれかに身売りしていたらというのだ》
ピラール神父が遠くからジュリヤンに合図をした。ラ・モール氏が神父に一言いったのである。だが、ちょうどそのとき目を伏せて、ある司教の愚痴を拝聴していたジュリヤンが、やっと解放されて、神父のところへ来てみると、神父はあの唾棄《だき》すべき小僧のタンボーにつかまっていた。この悪党の卵は、ジュリヤンがひいきにされるのはこの神父がいるからだと思って、憎んでいるにもかかわらず、ご機《き》嫌《げん》を取りに来ていたのだ。
「この根強き腐敗から《・・・・・・・・・》、いつになったら《・・・・・・・》、わ《・》れわれは死によって解放されるのか《・・・・・・・・・・・・・・・・》?」こんな聖書めいた調子のいい文句で、文士気取りのタンボーは、ちょうど、尊敬すべきホランド卿《きょう》の話をしていたのである。この男の取り柄は、現存の人物の伝記をよく知っていることで、イギリス新王の治世下で、多少とも勢力をふるいそうな人物を、一まわり手ぎわよく寸評したところだった。
ピラール神父は隣の部屋に行った。ジュリヤンもこれに続いた。
「おことわりしておくが、侯爵は三文文士がお好きでない。これだけは虫が好かないしろものなのだ。ラテン語を、できればギリシア語も勉強しなさい。それからエジプトやペルシアの歴史も。そうすれば、侯爵はきみを尊敬なさるし、学者として保護してくださる。だが、フランス語では一ページも書かないほうがいい、とりわけ、社交界でのきみの分に過ぎた、重要なことがらについては。そんなことをすれば、三文文士にされ、見限られてしまうことになる。きみは大貴族の屋敷に住んでいながら、カストリー公爵がダランベールやルソーについていった《あいつらはなんにでも理屈をつけたがるが、年収千エキュもないのだ》という言葉を、どうして知らないのかね?」
《なんでもわかってしまうのだな。ここも神学校も同じことだ》と、ジュリヤンは思った。彼はかなり熱烈な文章を八、九ページ書いておいたのである。それは、ジュリヤンの言葉を使えば、自分を人間にしてくれた老軍《ぐん》医《い》正《せい》に対する一種の追悼文だった。《でも、あの小さなノートはいつも鍵をかけてしまっておいたのに!》彼は自分の部屋に行って、その手記を焼きすてると、サロンへ戻ってきた。派手な悪党どもはすでに引きあげていて、星形大勲章をつけた連中ばかりが残っていた。召使がすっかり支度のできたテーブルを運んできたところで、そのまわりに、七、八人の高貴な婦人がたが集まっていた。きわめて信心深く、三十から三十五ぐらいの年ごろで、はなはだとりすました連中ばかりである。派手なフェルヴァック元帥《げんすい》夫人が、遅くなった言いわけをしながら、はいってきた。すでに真夜中を過ぎていた。侯爵夫人のそばに座を占めた元帥夫人を見て、ジュリヤンは深い感動を受けた。目もまなざしもレーナル夫人そっくりだったからである。
ラ・モール嬢のグループはまだ賑《にぎ》やかだった。令嬢は仲間と一緒になって、容赦なくタレール伯をからかっている最中だった。それは、諸国に戦争をさせるために軍資金を方々の国王に貸しつけて、財産をつくりあげたので有名な、辣腕《らつわん》のユダヤ人の一人息子だった。そのユダヤ人が最近死んで、息子には月収十万エキュと、残念ながら、あまりにも知れわたった家名を残していったわけである。こういう奇妙な立場に置かれれば、淡泊な性格か、それともよほどの強い意志が必要になるであろう。
ところが、不幸にして、伯爵はお人《ひと》好《よ》しにすぎず、取巻き連におだてあげられ、何事につけても、およそうぬぼれが強いのである。
ケーリュス氏の見たところでは、伯爵はみんなにたきつけられて、ラ・モール嬢に求婚する意志をもつようになったというのである。(そのラ・モール嬢には、やがて年収十万フランの公爵になるはずの、クロワズノワ侯爵がしきりに取り入っている)
「いや、意志をもっているからといって、非難するにはあたらないさ」と、ノルベールは軽蔑したようにいった。
おそらくこの気の毒なタレール伯爵にいちばん欠けているのは、意志をもつという能力だった。そういう性格の面からすれば、伯爵は国王になるにふさわしい人物だともいえたろう。しょっちゅうみんなに意見を求めながら、どの意見にも最後まで従う勇気がなかった。
あのひとの顔を見ているだけで、どこまでも楽しい気がしてくる、というのが、ラ・モール嬢の言いぐさだった。それは不安と失望の奇妙にまざり合った顔つきだった。だが、ときどき、尊大なそぶりときっぱりした態度が、はっきりとうかがわれる。それは、フランスでいちばんの金持が、とりわけ姿もかなりよく、まだ三十六歳になっていないとなれば、当然もつことになるのだ。そこで、あの男は内気な無礼者だよ、とクロワズノワ氏はいう。ケーリュス伯爵、ノルベール、それに口ひげを生やした二、三の青年が、当人には気取られないようにして、タレール伯爵を思う存分からかったあげく、一時が鳴るころになって、やっとこれを放免してやった。
「こんな天気でも、例の評判のアラブ種の馬を、門のところに待たせてあるのですか」
と、ノルベールがきくと、タレール氏が答えた。
「いいえ、新しく手にいれた、ずっと安い馬です。左の馬が五千フラン、右の馬はたった百ルイです。けれど、おことわりしておきますが、このほうは夜しか使わないことにしているのです。走りかたがもう一方のとそっくりなものですから」
ノルベールに注意されてみると、自分のようなものには馬道楽がふさわしいだけに、馬を雨に濡《ぬ》れさせるべきではないと、伯爵は思った。伯爵が出ていくと、まもなく、ほかの連中も伯爵のことを冷やかしながら帰っていった。
この連中が笑いながら階段をおりていくのを聞きながら、ジュリヤンは考えた。《これで、おれと全然反対の立場の連中を見ることができたわけだ! おれは二十ルイの年収もないのに、一時間に二十ルイも収入のある男と肩を並べたわけだし、その男のほうがばかにされたのだ。……こんな光景を見ると、羨《うらや》ましい気持なんて起らなくなる》
第五章 感受性と信心深い貴婦人
そこでは、ちょっと鋭い考えでも、無作法に見える。そ
のくらい、だれもが生気のない言葉に慣れている。ちょ
っと変った話をするものこそ、いい面《つら》の皮である!
フォーブラ
幾月かの試練がすんで、家令から三回目の四半期分の俸給《ぼうきゅう》を渡されるころには、ジュリヤンも次のような仕事をするようになっていた。ラ・モール氏はブルターニュとノルマンディーにある領地の管理を、ジュリヤンに任せたのだった。ジュリヤンはしょっちゅうこの地方に出かけた。また、自分が頭株になって、例のフリレール神父との訴訟に関係する通信も引き受けている。ピラール神父から仕込まれたのだった。
侯爵《こうしゃく》が自分のところへ来るあらゆる種類の書類の余白に、手短かなノートを走り書きにしておくと、ジュリヤンが返事の文章を書くのだが、ほとんど全部がそのまま署名してもらえる。
神学の学校では、教授たちは不熱心なジュリヤンを快く思わなかったが、それでも最優秀の生徒のひとりと見なしてはいたのである。野心に燃え、ひたむきな気持で、こうしたいろいろの仕事と取っ組んでいるうちに、ジュリヤンは田舎からもってきた生き生きした色つやを早くも失ってしまった。彼の蒼白《あおじろ》い顔は、若い神学生仲間から一つの長所と見られた。この神学生仲間のほうが、ブザンソンの連中ほど意地悪ではないし、また金をありがたがる気風もはるかにすくないと、ジュリヤンは思った。彼らはジュリヤンが胸をやられていると思っていた。彼は侯爵から馬を一頭もらっていた。
馬を乗りまわしているところを見つけられては困ると思って、ジュリヤンは医者からこういう運動をすすめられたのだと、前もっていっておいた。ピラール神父はジュリヤンを方々のジャンセニスト仲間のところへ連れていった。ジュリヤンはびっくりした。宗教という観念は、ジュリヤンの頭のなかでは、偽善とか金儲《かねもう》けのあて《・・》とかいった観念と固く結びついていたからである。敬虔《けいけん》で謹厳なひとたちで、収入のことなど念頭にないのを見て、彼は感心した。多くのジャンセニストがジュリヤンに好意を示し、忠告を与えてくれた。新しい世界が目の前に開かれた。彼はジャンセニストのところで、アルタミラ伯爵と知合いになった。背が六尺近くもあり、自国で死刑の宣告を受けた自由主義者で、しかも信心深い人物だった。深い信仰と自由に対する愛というこの奇妙な対比が、ジュリヤンの心を打った。
ジュリヤンと若い伯爵の関係は冷めてしまった。ノルベールは、自分の友達の冗談に、ジュリヤンがあまりにもむきになって答えすぎると思ったのだ。ジュリヤンは一、二度礼儀にはずれたふるまいをしたので、自分から、マチルド嬢には言葉をかけまいと心にきめた。ラ・モール邸では、だれからも相変らず丁重に扱われていたが、ジュリヤンは前ほど覚えがめでたくないのに気がついていた。田舎者らしい思慮から、ジュリヤンはこういう結果になったのを、新しかろう《・・・・・》、よかろう《・・・・》という俗な諺《ことわざ》で説明していた。
おそらく、最初のころより、多少はものの見とおしがつくようになっていたかもしれない。というよりは、洗練された都会趣味に対する陶酔から冷めたといえよう。
仕事がすむと、たちまちやりきれないほど退屈になる。上流社会特有の、まことにりっぱな、だがあまりにも節度のありすぎる、地位に従ってあまりに区別のはっきりしすぎている作法が、感覚をすりへらしてしまうからである。多少とも感じやすい心には、わざとらしさが鼻につく。
むろん、田舎の、卑俗で、洗練されない調子は、非難されもしようが、田舎では、返事をするにも、もうすこし熱がこもっている。ラ・モール邸では、ジュリヤンの自尊心が傷つけられたことなど、一度もないのである。だが、一日がすんでみると、泣きたくなることがしばしばあった。田舎では、カフェに行って、なにか事が起れば、カフェのボーイが気を使ってくれる。だが、その事件がなにか自尊心を傷つけるようなことがらだと、ボーイが同情してくれるのはいいが、同じことを十ぺんもくどくどいうので、こちらが閉口してしまうくらいだ。パリでは、隠れて笑うだけの気は配ってくれるが、いつまでたっても、こちらは他国《よそ》者《もの》なのである。
ジュリヤンがいわば笑いものにされるだけの身分のものだったら、ずいぶんもの笑いになるような小さな事件はあったのだが、それはいま述べないことにする。人なみはずれた感じやすさから、ジュリヤンは、お話にならないくらい、数多くのしくじりをやったのである。彼の道楽は、すべて用心からきている。ジュリヤンは毎日ピストルの練習をした。名だたる武術の師匠の愛《まな》弟《で》子《し》のひとりにまでなった。暇さえあれば、むかしのように読書するどころか、馬術教習所にかけつけて、よりによってあばれ馬を借りる。馬術教師と一緒に遠乗りに出かけると、ほとんどいつも、きまったように、ふり落された。
根気よく働くし、口数はすくないし、利口なので、侯爵はジュリヤンを重宝がって、だんだん、片づけるのが面倒だと思われる仕事は、全部任せるようになった。抜け目ない侯爵のこととて、政界に対する野心の片手間には、事業にも手を出していた。情報をたやすく入手できる立場にあるので、株の売買をやって成功した。家屋や森林も買いいれた。だが、すぐむかっ腹をたてる。数百ルイをくれてやるかと思うと、わずか数百フランのために訴訟を起す。気持のりっぱな金持というものは、事業に手を出すのが楽しいからなので、損得が問題なのではない。侯爵は、自分の金銭上の仕事全般にわたって、すぐわかるように、はっきりと整理してくれる参謀長がほしかったのである。
ラ・モール夫人は、ごく控え目な気性なのに、ときとしてジュリヤンをからかうことがあった。感じやすさからしでかす思いがけな《・・・・・》いふるまい《・・・・・》は、貴婦人の毛《け》嫌《ぎら》いするところである。まさに作法の正反対だからなのだ。二、三度、侯爵はジュリヤンをかばって、「お前のサロンでは滑稽《こっけい》だろうが、自分の事務室に戻《もど》れば見上げたものだよ」といったことがある。ジュリヤンはジュリヤンで侯爵夫人の秘密を握ったような気がした。ラ・ジューマート男爵の来訪が告げられると、たちまちなんでもないことにも陽気になるからだった。その男爵というのは、およそ無表情な、冷たい人物だった。小《こ》柄《がら》で、痩《や》せていて、醜男《ぶおとこ》だが、身なりはしゃれているし、しじゅう宮中で暮している。たいてい、どんなことについても口をきかない。これがこの男の考えかただった。ラ・モール夫人は、この男爵を娘の婿に迎えることができたら、生れてはじめて、深い喜びを味わったにちがいないのである。
第六章 言葉づかい
彼らの尊い使命は、民衆の日常生活の小事件を冷静に判断することである。小さな原因から、あるいは噂《うわさ》が遠くまで広まるうちに事件の内容が変ってしまうために、大きな怒りとならないように、彼らとしては賢明な対策を立てなければならない。
グラティウス
ジュリヤンは新米のくせに、自尊心の手前、けっしてものを尋ねたりしなかったが、それでもたいしたしくじりはやらなかった。ある日、俄《にわ》か雨《あめ》にあって、サン = トノレ街のあるカフェにかけこむと、上等なカストリーヌ地のフロックコートを着こんだ背の高い男が、ジュリヤンの暗いまなざしに驚いて、逆にジュリヤンをじろりと見返した。前にブザンソンでアマンダ嬢の情夫がしたのと同じ目つきである。
ジュリヤンははじめて受けた侮辱をおめおめ見のがしたのが、そののちも忘れられないで、しじゅう口惜《くや》しく思っていたくらいだから、こんな目つきで見られては我慢できなかった。そこで、彼は釈明を求めた。フロックコートの男はいきなり口汚なくののしりはじめた。カフェにいた連中がふたりを取りかこんだ。通りがかりのものも入口に立ちどまった。田舎者らしい用心深さから、ジュリヤンはいつも小型のピストルをしのばせていた。ぶるぶる手をふるわせながら、そのピストルをポケットのなかで握りしめた。だが、慎重にかまえ、合い間を見ては相手に向って、なんども「きみ《・・》、住所をいいたまえ《・・・・・・・・》。ぼくはき《・・・・》みを軽蔑する《・・・・・・》」と、くり返しただけだった。
ジュリヤンがあくまでこの文句をくり返しているのを見て、やじ馬たちもこれに同調してしまった。
「そうだ、そうだ! ひとりで勝手にしゃべっている手はない、自分の住所を教えてやったらどうだ」フロックコートの男は、教えてやれとあんまりいわれたので、ジュリヤンの鼻先に、名刺を五、六枚投げつけた。さいわい、一枚も顔に当らなかった。ジュリヤンは、相手が自分の身体《からだ》に手出しをするまでは、ピストルを使うまいときめていた。相手はときどき振り返っては、拳《げん》固《こ》をふりあげておどかすようなまねをし、悪口を浴びせかけながら、出ていった。
いつの間にか、ジュリヤンは汗びっしょりになっていた。《なんだ、人間の屑《くず》みたいな男にまで、おれはこんなにのぼせ上がってしまうのか! こんなに感じやすいなんて、だらしがなさすぎる、なんとかこいつを克服しなくてはいかん》と、ジュリヤンは口惜しげに呟《つぶや》いた。
介添人をだれに頼んだものだろう? 友達はひとりもいない。知合いは幾人もできたが、いずれも、六週間ばかりつきあうと、きまって向うからジュリヤンを離れていった。《おれは人づきあいがよくない。今度ばかりはひどい罰が当ったわけだ》やっと、九十六連隊にいた退役中尉のリエヴァンとかいう男を捜してみようという気を起した。よく一緒に剣術をやったことのあるつまらぬ男だが、正直にもののいえる相手だった。
「むろんきみの介添人にはなるが、一つ条件がある」と、リエヴァンがいった。「きみが相手に負傷させなかったら、その場ですぐ、ぼくと決闘するんだ」
「いいとも」ジュリヤンは喜んでそう答えた。ふたりは名刺に書かれた宛《あて》名《な》を頼りにして、フォーブール・サン = ジェルマン街の奥へ、C・ド・ボーヴォワジ氏をたずねていった。
朝の七時だった。取次を頼むときになって、ジュリヤンは、これは例のレーナル夫人の身寄りの青年ではないかと思った。かつてローマだかナポリの大使館につとめていて、歌手のジェロニモに紹介状を書いた男である。
ジュリヤンは背の高い従僕《じゅうぼく》に、前日投げつけられた名刺の一枚と、自分の名刺を渡した。
ジュリヤンと介添人は、たっぷり四十五分も待たされたあげく、やっとすばらしく瀟洒《しょうしゃ》な部屋に案内された。見ると、背の高い、人形のようななりをした青年がいる。目鼻だちはギリシア彫刻のように美しく、整ってはいるが、個性がない。頭がひどく小さく、髪はピラミッド型で、見事なブロンドだった。その髪の毛が念入りに縮らせてあり、乱れ毛一本ない。《このしゃれものめ、こんなふうに縮らせてもらうために、おれたちを待たせたんだな》と、九十六連隊づき中尉は思った。ごてごてした色の部屋着、朝のズボン、刺繍《ししゅう》のあるスリッパに至るまで、すべてが凝りに凝っている。顔だちは、気品があって無表情で、考えかたにそつがないというか、ろくに考えなどもちあわせていないということをあらわしている。つまり、愛《あい》想《そ》のいい人間の典型であり、思いがけないことや冗談が大きらいで、多分にもったいぶった男である。
乱暴にも名刺を顔に投げつけておきながら、こんなに長く待たせるとは、ますます侮辱した話だと、九十六連隊づき中尉にたきつけられて、ジュリヤンはボーヴォワジ氏の部屋につかつかとはいっていった。横柄《おうへい》に構えるつもりだったが、他方、できれば上品にふるまいたいとも思った。
ボーヴォワジ氏の、穏やかな態度、かた苦しい、尊大な、おさまりかえった様子、身のまわりのもののいかにも粋《いき》な点に、ジュリヤンはすっかり打たれて、たちまちのうちに、横柄に構えようと思った気持など、てんでどこかへ行ってしまった。前日相手にした男ではなかった。カフェで見た無作法な男のかわりに、こういう上品な人物に出っくわしたのであるから、ジュリヤンはあっけにとられて、口もきけなかった。彼は投げつけられた名刺の一枚をさし出した。
「これはわたしの名前ですが」と、伊達《だて》男《おとこ》は答えたが、朝の七時だというのに、ジュリヤンが黒服を着こんでいるのを見て、かなり軽《けい》蔑《べつ》の念をいだいたのだった。「しかし、わけがわかりませんな、まったく……」
このあとのいいかたに、ジュリヤンはまたいささか不快を感じた。
「わたくしはあなたと決闘しに参ったのです」といって、ジュリヤンは事件のいきさつを一気に説明した。
シャルル・ド・ボーヴォワジ氏は、じっくり考えてみたあげく、ジュリヤンの黒服の仕立を、かなり満足に思った。《これはストーブの仕立に間違いない。このチョッキも趣味がいいし、長靴《ながぐつ》もりっぱだ。だが、考えてみると、朝っぱらから黒服というのが妙だ!……このほうが弾よけになるとでも思ってるのだろう》と、従男爵《シュヴァリエ》のボーヴォワジ氏は、ジュリヤンの話を聞きながら考えた。
自分でそんなふうに見当をつけると、彼はもとのいかにも丁重な態度にたちかえり、ジュリヤンに対してほとんど対等の態度に出た。話合いは長びき、事態は微妙なことになってきた。だが、ジュリヤンとしては明白な事実を認めざるをえなかった。目の前にいる名門の青年は、その前日、自分をののしった無作法な男とは全然似ていなかったのである。
ジュリヤンはこのまま引き下がる気にはどうしてもなれないので、説明を長びかせ、ボーヴォワジ従男爵の自信たっぷりな顔を観察していた。ボーヴォワジ氏のほうは、ジュリヤンが自分を単にあなた《ムッシュー》と呼びすてにするのに憤慨して、みずから従男爵と名のって出たのだった。
ジュリヤンは相手の威厳に感服した。どこかうぬぼれが交っている。控え目ではあるが、それがたえずつきまとっているのだ。言葉を口に出すとき、妙な舌の動かしかたをするのには驚いた。……が、とにかく、こうしたことでは、喧《けん》嘩《か》をふっかけるほんのすこしの理由も見《み》出《いだ》すことができない。
この若い外交官が、いかにも丁重に、決闘をすることにしてはといいだすと、一時間前から股《また》を開き、両手を腿《もも》にあて、両肱《りょうひじ》を張ってすわっていた九十六連隊づきの退役中尉が、親友ソレル氏は、先方が自分の名刺を盗まれたからといって、その盗まれた当人にいわれのない喧嘩をしかけるような人間ではないと、はっきりいいきった。
ジュリヤンはすっかり不《ふ》機《き》嫌《げん》になって、外へ出たところだった。ボーヴォワジ従男爵の馬車が中庭の石段の前で待っている。たまたまジュリヤンが目を上げて御者を見ると、それが前日の男だった。
そうと知るなり、その長いモーニングのすそをひっぱり、御者台からひきずりおろして、めったやたらに鞭《むち》で殴りつけた。一瞬の早業だった。ふたりの従者が同輩を助けようとした。ジュリヤンは拳固をくらった。かと思うとたんに、小型のピストルの引金に手をかけ、相手を目がけて、ぶっ放した。相手は逃げてしまった。すべては一瞬の出来事だった。
ボーヴォワジ従男爵が、例の大貴族らしい口のききかたで、「どうした? どうした?」とくり返しながら、およそ滑稽《こっけい》きわまるほど威厳をとりつくろって、階段からおりてきた。ひどく好奇心にかられているのは明らかなのだが、外交官としての体面上、つっこんで関心を示すわけにはいかない。事の次第を知ると、外交官たるもの、ややひとを揶揄《やゆ》するような、冷然たる表情を、あくまで保っているべきところなのだが、この表情がくずれるほどまでに、またしても傲慢《ごうまん》なところが顔にあらわれた。
九十六連隊づき中尉は、ボーヴォワジ氏が決闘をしたがっていると、見てとった。そこで、彼のほうでも外交的に出て、自分の友達に先手を打たせて有利な立場にしてやろうと思って、「今度こそ、決闘の理由がある!」とどなった。「いかにも、そのとおり」と、外交官が応酬した。
「あの不心得者には暇を出す。ほかのものが御者になれ」と、彼は従者に命じた。馬車の入口が開かれた。従男爵はジュリヤンとその介添人に、どうしても乗っていただきたいといってきかなかった。ボーヴォワジ氏の友人を誘いに行くと、その友人が静かな場所を指定した。道々交わした会話はまことに気持がよかった。妙なのは外交官の部屋着姿だけだった。
《このひとたちはずいぶん身分が高いのに、ラ・モール氏の屋敷へ晩餐《ばんさん》に来る連中みたいに退屈ではない》と、ジュリヤンは思った。すぐそのあとから《うん、わかった。このひとたちは平気で無作法なこともするからだ》と考えた。その前の日上演されたバレーで、観客の目にとまった踊り子たちのことが話題に上った。相手のふたりは、ジュリヤンもその介添人の九十六連隊づき中尉も、まったく知らない、粋な逸話のことをほのめかした。ジュリヤンは知ったかぶりをするような、ばかなまねはしなかった。素直に知らないと白状した。このざっくばらんなところが従男爵の友人に好感をもたれた。そして、この逸話をこと細かに、しかもきわめて手ぎわよく話してくれた。
ジュリヤンがすっかり驚いてしまったことがひとつある。聖体祭の行列のために、往来のまんなかに仮祭壇が設けられているので、馬車がしばらく止められた。ふたりは平気でいろいろと冗談をとばした。ふたりの話によれば、この祭の司祭は大司教のせがれだということだった。公爵になりたがっているラ・モール侯爵《こうしゃく》邸では、絶対にそんな言葉を思いきって口にするものはなかったろう。
決闘は一瞬ですんだ。ジュリヤンは腕に一発弾を受けた。ハンカチでしばり、ブランディーでしめしてもらった。ボーヴォワジ従男爵はジュリヤンに向って、きわめて丁重に、お連れしたときの馬車でお送りさせていただきたいと頼んだ。ジュリヤンがラ・モール邸の名をいうと、若い外交官とその友人は目を見交わした。ジュリヤンの辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》も待っていたのだが、ジュリヤンは好人物の九十六連隊づき中尉としゃべるより、このふたりとしゃべったほうがずっとおもしろいと思った。
《なんだ! 決闘って、あれだけのことか!》と、ジュリヤンは思った。《あの御者にまた会えて、さいわいだった。カフェで侮辱を受けたままでいなければならなかったとしたら、どんなにみじめな思いをしていることだろう!》おもしろい会話がほとんど立てつづけに続いた。そこではじめて、ジュリヤンは、外交官の気取りもなかなかいいものだと思った。
《生れのいい連中の話だって、退屈なものとばかりはかぎらないわけだな! このふたりは聖体祭の行列を茶化して、そうとう露骨な逸話でも、まるで手に取るように、平気で細かなことまでしゃべっている。このふたりに欠けているのは、まさに政治に関する議論だけだが、この欠陥でさえ、上品な話しぶりと、じつにそのものずばりの表現で、十二分に埋め合せがつくというものだ》ジュリヤンはふたりに強い共感を覚えた。《このふたりにちょくちょく会えたら、どんなにいいかしれない!》
お互いに別れると、さっそくボーヴォワジ従男爵は、相手の身もと調べにかかった。結果は香《かんば》しくなかった。
彼は相手の素姓《すじょう》が知りたくてならなかった。訪ねていっても、はずかしくはない男なのか? 集めることのできたかぎりの情報では、どうにもありがたくないものばかりだった。
そこで、彼は介添人にいった。
「どうにもいかん! たかがラ・モール氏の秘書分際と、それもさ、ぼくの御者がぼくの名刺を盗んだからといって決闘したなんて、ひとに話せるかい」
「うむ、たしかに、これは物笑いの種になりかねないね」
その晩、さっそく、ボーヴォワジ従男爵とその友人は、このソレル氏というのが、むろんりっぱな青年ではあるが、ラ・モール侯爵の親友の私生児なのだと、あちらこちら吹聴《ふいちょう》してまわった。この事実は文句なく受け取られた。この噂《うわさ》ができあがると、若い外交官とその友人はわざわざ、二週間ばかり部屋に閉じこもっていたジュリヤンのもとへ幾度か見舞にきた。ジュリヤンは、生れてこのかたオペラ座には一度しか行ったことがないと正直に打ち明けた。
「そんな話ってありませんな。行くところといえば、あそこきりじゃないですか。外出できるようになったら、まず『オリー伯爵』を見にいらっしゃるべきですね」
オペラ座で、ボーヴォワジ従男爵はジュリヤンを、当時絶大な人気を博している名歌手ジェロニモに紹介した。
ジュリヤンは従男爵のご機嫌取りをしているくらいだといってもよかった。自尊心と妙な尊大さとうぬぼれのまざりあったこの青年に、ジュリヤンは惹《ひ》きつけられた。たとえば、従男爵は多少どもる癖がある。それは、どもる癖のある大貴族とたびたび会う機会があったからなのだ。なにしろ、相手は滑稽で愉快なところもあるし、一介の田舎者としては、なんとしても見習うべき、りっぱな礼儀作法も同時に心得ている人物である。ジュリヤンはこんな人物に一度もお目にかかったことがなかった。
オペラ座ではボーヴォワジ従男爵と一緒にいるジュリヤンの姿がしょっちゅう見かけられた。この関係から、ジュリヤンの名前がひきあいに出されるようになった。
ある日、ラ・モール氏がジュリヤンにいった。
「すると、なにかね、きみは、わたしの親友の、フランシュ = コンテにいる金持貴族の私生児ということになったわけだね」
ジュリヤンが、そんな噂を信じこませようとしたことは絶対にありませんと、いいわけして、
「ボーヴォワジさんは、材木屋のせがれなどと決闘したといわれたくなかったのです」
といいかけると、侯爵は言葉をさえぎって、
「わかっとる、わかっとるよ。今度はわたしがその噂に箔《はく》をつける番だし、そのほうが都合がいい。だが、ひとつ頼みがある。それも、ほんの三十分ばかり暇をさいてくれればいいのだ。毎晩、オペラ座に行ったときは、十一時半に、上流の連中が出てくるところを玄関でよく見てもらいたい。きみはどうやらまだ田舎くさいところがある。あれをなくさなくてはいけない。それに、顔だけでも、おえらがたを知っておいても悪くはないのだ。いずれ、そういうひとたちのところへ使いに行ってもらうかもしれないから。前売切符売場へ行って、きみの名前をいえばいい。いれてくれることになっているから」
第七章 痛風の発作
こうして、わたしは昇進したが、それは才能のおかげで
はなく、わたしの主人が痛風にかかっていたからなのだ。
ベルトロッティ
読者諸君は、侯爵《こうしゃく》のこうしたあけすけな、ほとんど友達に対するような話しかたに、おそらくびっくりされたことと思う。わたくしはいい忘れていたが、侯爵は痛風の発作で、六週間このかた家に閉じこもっていたのだ。
ラ・モール嬢とその母侯爵夫人は、イエールの、夫人の母のもとに行っていた。ノルベール伯爵は侯爵を見舞に来ても、ほんのすこしのあいだしかいない。お互いに仲はよかったのだが、話し合うことがないのだ。いきおい、ラ・モール氏はジュリヤンを相手にするより仕方がなかったが、なかなか考えがしっかりしているので驚いた。新聞を読ませてみた。この若い秘書はまもなくおもしろい記事が選べるようになった。侯爵の大きらいな新しい新聞があった。侯爵は絶対に読むものかと誓っておきながら、毎日その新聞の話をした。ジュリヤンは笑っていた。侯爵は現代に腹をたて、ティトゥス = リヴィウスなどをジュリヤンに読ませた。ラテン語の原典を即席で訳してもらうのが楽しかったのである。
ある日、侯爵は例の並はずれた丁重さでいった。ジュリヤンがしばしばやりきれなく思う調子である。
「ソレル君、青い燕《えん》尾《び》服《ふく》を、一着差し上げたいが、受け取っていただきたい。都合のいいときに、それを着て、わたしのところに来てくだされば、わたしはきみをショーヌ伯爵の弟、つまりわたしの親友の老公爵の息子さんとしてお迎えしよう」
ジュリヤンは、なんのことやらよくわからなかった。その晩、さっそく青い燕尾服を着て、訪ねていってみた。侯爵は対等の迎えかたをした。ジュリヤンは真の丁重さを感じとるにふさわしい心をもっていたが、その微妙な差異には見当がつかなかった。侯爵がこんな気まぐれを起す前だったら、ジュリヤンも現在以上の丁寧な扱いを受けることなど考えられないと、いいきったにちがいない。《なんというすばらしい才能をもったひとだろう!》と、ジュリヤンは思った。立ち上がって出ていこうとすると、侯爵は痛風で見送りできないのを許してもらいたいといった。
この妙な考えが、ジュリヤンには気になってしかたがなかった。《おれをからかっているのだろうか?》彼はピラール神父のもとへ意見を聞きに行った。神父は侯爵ほど丁重ではないから、ふんといって、てんで答えてくれもしないで、別の話ばかりした。あくる朝、ジュリヤンは黒服姿で、紙挾《かみばさ》みと、署名してもらう手紙をもって、侯爵のところに行くと、もとどおりの待遇を受けた。その夜、青い燕尾服姿で行くと、うって変った態度で、その前の夜とまったく同じような、丁重なあしらいを受けた。
「あなたは親切にも、それほどいやな顔も見せないで、こんな病気の老人の見舞に来てくださる。そこで、あなたの身の上話をごくくわしく、この老人に聞かせてくれませんか。それも、率直に、はっきりとおもしろおかしく聞かせるということだけを、念頭においていただきたいのです。なにしろ、楽しむことが肝心ですからね」と、侯爵は続けていった。「人生で生《い》き甲斐《がい》といえば、これだけですな。毎日、戦場でわたしの生命《いのち》を救うこともできませんし、毎日、わたしに百万フランの贈り物をしてくれるわけにもいかないでしょう。だが、もしリヴァロルがここに、このわたしの椅子《いす》のそばにいてくれたら、毎日一時間だけは痛みと退屈をまぎらわせてくれるでしょう。あのひとは、亡命中、ハンブルクで親しくしていたのです」
そういって、侯爵はジュリヤンに、リヴァロルの逸話を聞いても、四人集まらないとその洒《しゃ》落《れ》がわからないハンブルク市民のことを話してきかせた。
ラ・モール氏は、この若い神父しか相手がいないので、これを陽気にしてやりたいと思った。彼はジュリヤンの自尊心をあおりたてるようにした。ほんとのことをと望まれるままに、ジュリヤンはなにもかも話してしまおうという気になった。ただ、ある名前をいいだせば、侯爵の機《き》嫌《げん》をそこねることが明らかなので、その名前に対する自分の熱狂的な崇拝と、未来の司祭にはあまりふさわしくない徹底的な不信心、この二つのことだけは伏せておいた。ボーヴォワジ従男爵とのちょっとしたいきさつを、ちょうどうまく思いだした。サン = トノレのカフェで、口汚なくののしる御者とわたり合った話に、侯爵は涙の出るほど笑いころげた。雇い主と雇い人の仲が完全に打ちとけたのは、この時期だったのである。
ラ・モール氏はこの風変りな人物に興味をもった。はじめのころは、ジュリヤンの滑稽《こっけい》なところを大目に見て、これを気晴らしの種としていたが、まもなく、この青年の間違った考えかたをそれとなく直してやることのほうに力をいれだした。《ほかの田舎者なら、パリに出てくると、きまってなんにでも感心する。ところが、この男はなんでも憎んでいる。ほかの連中には気取りが多すぎるが、この男は気取りが足りなさすぎる。だから、ばかなやつらはこの男をばかだと思うのだ》と侯爵は考えていた。
冬のきびしい寒さで、痛風の発作は長びき、数カ月続いた。
《りっぱなスパニエル犬に夢中になるものだっているのだから、わたしがこの若い神父に惚《ほ》れこんだところで、そうはずかしいことでもあるまい。この男は変りものだ。それを息子なみに扱ったからといって、なにが不都合なのだ? この気まぐれが続くと、遺言で五百ルイのダイヤモンドを残してやらなければいけなくなるだろう》
侯爵はかばっている男のしっかりした気性を、いったんのみこんでしまうと、毎日なにか新たな仕事をおっつけるようになった。
この大殿様はよく、同じ問題で矛盾した決裁をすることがあった。ジュリヤンはそれを知って、おそれをなした。
こんなことでは、とんだ巻きぞえをくわないともかぎらない。それからは、ジュリヤンも、侯爵と仕事をするときには、かならず帳簿をもっていき、それに自分で決裁を書きこみ、侯爵に署名してもらうことにした。ジュリヤンは書記をひとり雇って、特別の帳簿に、それぞれの仕事に関する決裁を写させることにしていた。この帳簿にはあらゆる手紙の写しも取っておいた。
この思いつきも、はじめは滑稽しごくだし、ひどく煩《わずら》わしく思われた。だがふた月もたたないうちに、侯爵はそれが便利なのに気がついた。ジュリヤンは侯爵に、銀行員上りの書記をひとり雇ってはとすすめた。ジュリヤンが管理を任されている土地の総収入と総支出の勘定を、複式簿記の形で記入させるわけである。
この処置のおかげで、侯爵の目にも、自分の事業がはっきりしてきたので、ごまかしをやる名義人の助けをかりなくても、二、三の新たな投機に手出しができるようになった。
「三千フラン、きみの分として取っておきたまえ」と、ある日、彼は若い補佐役にいった。
「でも、わたくしのやり口をとやかくいわれるおそれがありますから」
「じゃ、どうしろというのかね?」と、侯爵はつむじを曲げて、いい返した。
「決算をしていただき、ご自身の手で帳簿にご記入くださいませんか? この決算でわたくしに三千フランをくださることになります。それに、こういう簿記のつけかたを思いつかれたのは、ピラール神父なのです」侯爵は、まるで執事のポワソン氏から決算報告を聞いているモンカード侯爵のような、うんざりした顔つきで、決裁を書いた。
夜になって、ジュリヤンが青い燕尾服姿であらわれると、仕事の話はけっして出なかった。侯爵の親切は、いつも自尊心の悩みをもち続けているジュリヤンにとっては、はなはだ心地よいものだったから、まもなく、しらずしらずのうちに、ジュリヤンもこの愛《あい》想《そ》のいい老人に一種の愛着をいだくようになった。パリでいうような意味で、感じやすかったからではないが、ジュリヤンとても情を解さない人間ではないし、また、老軍《ぐん》医《い》正《せい》が死んで以来、だれひとりこれほど親切に話しかけてくれるものがなかったからである。侯爵が如才なくこちらの自尊心を傷つけまいとして、気をつかってくれるのを見て、ジュリヤンは驚いたのだった。老軍医正がこんな心づかいを見せてくれたことはついぞなかった。やっと、そこがのみこめた。侯爵が青綬章《コルドン・ブルー》を自慢にしている以上に、老軍医正は自分の勲章が得意だったのである。侯爵の父親は大殿様だった。
ある日、黒服で事務上の面接をすませてから、ジュリヤンは上手に侯爵のお相手をした。侯爵は二時間も彼を引きとめたうえ、ちょうど名義人が取引所からもってきたばかりの紙幣の数枚を、ぜひとも取ってくれといった。
「侯爵さま、まことに失礼かとは存じますが、ひと言いわせていただけますでしょうか」
「いいたまえ」
「その贈り物はご辞退させていただけませんでしょうか? それは黒服の男に下さるべきものではございません。それでは、青服の男としてお許しいただいておりますふるまいが、すっかり台なしになってしまいますから」ジュリヤンはうやうやしく一礼すると、相手の顔も見ないで出ていった。
このやり口が侯爵をおもしろがらせた。その夜、ピラール神父にこの話をした。
「とうとうあなたに白状しなければならないのですがね、神父さん。わたしはジュリヤン君の素姓《すじょう》を知っているのです。それに、こんな打明け話をしたからといって、べつに秘密を守ってくださらなくてもいいのです」
《あの男の今朝の出かたには品がある、あの男を貴族にしてやろう》と、侯爵は考えた。
それからしばらくして、侯爵はやっと外出ができるようになった。
侯爵はジュリヤンにいった。
「ふた月ほどロンドンに行ってもらいたい。わたしの受け取る手紙は、覚え書をつけて、速達郵便かなんかの形で、きみの手もとに届ける。きみは返事を書き、どの手紙もその返事のなかにいれて送り返してくれたまえ。遅れたところで、せいぜい五日と見ているがね」
カレー街道《かいどう》を郵便馬車で旅行しながら、ジュリヤンは、わざわざ差しつかわされる、いわゆる用件というのがつまらないことなので、いっこうに合《が》点《てん》がいかなかった。
ジュリヤンがどれほどの憎しみと嫌《けん》悪《お》に近い気持をいだいて、イギリスの土地を踏んだかについては、述べないでおく。ご承知のとおり、ジュリヤンはボナパルトの狂信者である。どの士官を見ても、みんなサー・ハドソン・ローに思え、大貴族を見れば、みんな、セント = ヘレナの卑劣な待遇を命令し、その褒《ほう》美《び》として十年間大臣職にありついたバサースト卿《きょう》のような気がした。
ロンドンで、やっと彼はえらそうにして見せる手を覚えた。ロシアの青年貴族たちとつきあううちに、この連中が手ほどきしてくれ、こういうのだった。
「きみはよくできていますよ、ソレル君。お《・》よそ腹のなかとは似てもつかない《・・・・・・・・・・・・・・・》冷やかな顔を生れつきもっているんですから。ところがぼくたちときたら、一生懸命そういう顔つきをしようとしているんですよ」
コラゾフ公爵もいうのだった。
「きみにはきみの時代がわかってないんですね。相手が期待していることの裏をかけ《・・・・・・・・・・・・・・・・》。これこそ、断然、現代の唯一《ゆいいつ》の宗教です。常識はずれも気取りのまねもいけない。そんなことをすれば、相手はいつも常識はずれか気取りを期待することになるし、それでは今いった戒律は守れなくなりますからね」
ジュリヤンはある日、フィッツ = フォーク公爵のサロンで大いに面目をほどこした。この公爵はコラゾフ公爵とともにジュリヤンを晩餐《ばんさん》に招待してくれたのだ。みんなは一時間待っていた。二十人ばかりのものが待っているなかで、ジュリヤンのふるまった態度は、未《いま》だにロンドン大使館の若い書記官たちのあいだで引合いに出される。その顔つきはまったく見上げたものだったのだ。
ジュリヤンは、友人の伊《だ》達《て》者《しゃ》たちにどういわれようとも、例の有名なフィリップ・ヴェーンにはどうしても会おうと思った。これはロック以来イギリスの生んだ唯一の哲学者である。ヴェーンは獄中生活の第七年目をおえようとしていた。ジュリヤンは考えた。《この国では、貴族階級は笑ってすませないのだ。それに、ヴェーンは辱《はずか》しめられ、くそみそにいわれている》
ジュリヤンが会ってみると、ヴェーンは快活な男だった。貴族階級がやっきとなっているのは、ヴェーンにしてみれば、痛快だったのである。牢獄《ろうごく》を出ながら、ジュリヤンは思った。《おれがイギリスで出会った唯一の愉快な男だ》「専制君主にもっとも役だつ観念《・・・・・・・・・・・・・・》は神の観念である《・・・・・・・・》」と、ヴェーンはジュリヤンにいった。……
学説のほかの部分はシニック《・・・・》なものと考え、ここではふれないことにする。
帰国すると、
「きみはイギリスから、どんなおもしろい考えをもってきてくれたかね?」と、ラ・モール氏がきいた。……ジュリヤンは答えなかった。
「どんな考えをもってきてくれたのだ、おもしろいのか、おもしろくないのか?」と、侯爵ははげしく追及した。
「第一、どんなに賢いイギリス人でも、一日に一時間は理性を失うのです。自殺の悪魔におそわれるのですし、これがあの国の神さまなのです。
第二に、イギリスに上陸すると、才気も天才もその価値の四分の一を失います。
第三に、イギリスの景色くらい、美しい、すばらしい、感銘の深いものはありません」
「今度はわたしにいわせてもらおう」と、侯爵がいった。
「第一に、なぜきみはロシア大使の舞踏会へ行って、フランスには戦争を熱望している青年が三十万もいる、などといったのだ? そんなことをいって、国王がたに尽すことになるとでも思ってるのかね?」
ジュリヤンは答えた。
「えらい外交官たちと話をするときは、どうしていいのかわからないのです。なにしろ、あの連中は面倒くさい議論をはじめる癖があります。新聞に書いてあるような、ありきたりの文句ばかり並べていますと、ばかだと思われてしまいます。といって、なにかほんとうの新しいことでもいい出せば、相手はびっくりして、返事もできないありさまです。そして、あくる朝の七時には、大使館の一等書記官を通じて、穏やかならぬ言葉だといってよこすのです」
「うまいことをいうな」と、侯爵は笑いながらいった。「だが、とにかく、わたしは賭《か》けてもいいが、いかにきみが考え深い男でも、イギリスへなにしに行ったかは、察しがつかなかったろう」
「お言葉を返すようですが、わたくしは週に一度、フランス大使の晩餐会に出るために参ったわけで、その大使がまたおよそ丁重なおかたでした」
「この勲章をもらいに行ったんだよ。きみに黒い服を脱がせようとは思わないが、青い服を着た男と話すほうが楽しいので、それに慣れてしまったわけだ。あらためてなにか頼むかもしれないが、それまではこれだけを心得てもらいたい。この勲章を見るときは、きみはわたしの親友ショーヌ公爵の末子で、自分ではいっこう知らないで、半年前から外交官をつとめている男なのだ」そういって、ジュリヤンが感謝の言葉を述べようとするのをさえぎりながら、ひどく真顔になって、つけ加えた。「だが、いいかね、わたしはきみに今の身分から抜け出てもらいたいとは思っていない。そういうことは、雇う側にとっても、雇われる側にとっても、とにかく間違いでもあり、不幸でもあるのだ。きみがわたしの訴訟にあきるか、あるいはわたしのほうできみに用がなくなるかすれば、きみのために、わたしらの親友ピラール神父と同じくらい、りっぱな司祭職を世話してあげよう。だが、そ《・》れだけだよ《・・・・・》」と、侯爵は無愛想につけ加えた。
この勲章で、自尊心の強いジュリヤンも気が楽になった。前よりも口数が多くなった。会話がはずんでくると、だれもがつい口にしがちな言葉、考えてみると失礼とも思えるような言葉を聞いても、自分が侮辱され槍玉《やりだま》にあがっているとは、前ほど思わなくなった。
この勲章のおかげで、ジュリヤンは妙な訪問を受けた。内閣に受爵《じゅしゃく》の礼を述べ、打合せをするためにパリへ出てきた、男爵ヴァルノ氏の訪問だった。ヴァルノ氏はレーナル氏の後任として近々ヴェリエールの町長に任命されるはずだというのだった。
レーナル氏が過激革命派だということが最近になってわかったからだと、ヴァルノ氏がそれとなくいうのを聞いて、ジュリヤンは内心吹き出してしまった。やがて行われる再選挙で、新男爵は内閣側の候補者であり、圧倒的に急進王党派の多い県の大選挙区で、自由主義者の支持を受けているのがレーナル氏だというのが真相である。
ジュリヤンはレーナル夫人の消息を聞き出そうとしたが、そうはいかなかった。男爵はどうやらむかし恋敵《こいがたき》同士だったことを忘れてはいないらしく、話に乗ってはくれなかった。しまいに、彼は今度行われる選挙で、ジュリヤンの父が自分に選挙してくれるように取り計らってくれといった。ジュリヤンは手紙を出そうと約束した。
「ところで、従男爵《シュヴァリエ》さん、わたしをラ・モール侯爵に当然紹介してくださるでしょうな」
《なるほど、それが当然かも《・・・・・・・》しれないが、こんな悪党を!……》と、ジュリヤンは思った。
「じつを申しますと、わたくしはラ・モール邸ではほんの小僧っ子にすぎませんから、ご紹介するなんてことをお引き受けいたせるがらではありません」
ジュリヤンは侯爵になんでも隠さずに話していた。その夜、彼はヴァルノの野心のことや、一八一四年以来の言動について、侯爵に報告した。
すると、ラ・モール氏はひどく真顔になっていった。
「その新男爵を明日紹介してくれたまえ。そればかりでなく、わたしはあさっての晩餐に招待する。わが党の新任知事のひとりにしよう」
ジュリヤンは冷やかに答えた。
「それでは、貧民収容所長の職をわたしの父にお世話くださいませんでしょうか」
侯爵はまた明るい顔になっていった。
「いいとも、承知したよ。わたしはまたお説教を聞かされるのかと思った。きみもだいぶ人間ができてきたね」
ヴァルノ氏はジュリヤンに、ヴェリエールの宝くじ事務所長が死んだところだと話した。ジュリヤンはこの地位をショラン氏にあてがったらおもしろかろうと思った。例のばかな老人で、ジュリヤンは前にラ・モール氏の部屋で、この老人の請願書を拾ったことがあったわけである。ジュリヤンはその請願書の文句を覚えていて、それを暗誦《あんしょう》してみせると、侯爵は腹の底から大笑いをしながら、大蔵大臣あてにこの地位を奏請する手紙に署名をしてくれた。
ショラン氏が任命されてまもなく、ジュリヤンは、県選出の代議士たちが、有名な幾何学者グロ氏のために、この位を奏請していることを知った。殊勝なグロ氏は千四百フランの年収しかないのに、最近死んだ所長に扶養家族費として毎年六百フランを貸してやっていたのだ。
ジュリヤンはわれながら自分の処置にあきれてしまった。《こんなことはなんでもない。出世をしようとしたら、ほかにももっと不正なことをしでかさなければいけないのだし、そればかりか、口先ばかりの情味にあふれた言葉をはいて、隠しおおせるこつも覚えなけりゃならない。気の毒なグロ氏! あのひとこそ勲章をもらう資格があったのに、もらったのはこのおれだし、このおれはくれた政府の方針どおりに行動しなくてはならないのだ》
第八章 どの勲章が目だつか?
「お前の水を飲んでもおれの喉《のど》のかわきはとまらない」
と、喉のかわいた精霊がいった。「それでもこれはディアル・ベキールじゅうでいちばん冷たい井戸ですよ」
ぺッリコ
ある日、ジュリヤンは、セーヌ河のほとりの、美しいヴィルキエの領地から帰ってきた。これはラ・モール氏が大事にしている領地だった。有名なボニファス・ド・ラ・モールの所領はここだけだったからである。ジュリヤンが屋敷に帰ってみると、侯爵《こうしゃく》夫人と令嬢もイエールから着いたところだった。
ジュリヤンも今ではひとかどの伊《だ》達《て》者《しゃ》で、パリで暮すこつを心得ていた。彼はラ・モール嬢に対して、このうえもなく冷淡な態度に出た。令嬢がひどく愉快そうに、馬から落ちたときのいきさつを根掘り葉掘りきいたころのことなど、全然忘れてしまったかのようなふりをした。
ラ・モール嬢はジュリヤンが大人っぽくなり、蒼白《あおじろ》さがましたと思った。その身体《からだ》つきにも態度にも、もう田舎くさいところはすこしもなかった。話しぶりのほうはそうはいかなかった。まだきまじめすぎるところや、むきになるところが目だった。そういう理屈っぽい点はあったが、自尊心のおかげで、その話しぶりには卑屈なところは全然なかった。だが、まだあまりに多くのことがらを重大に考えすぎるところが見られる。もっとも、自分の主張を曲げない男だということはだれにもわかっていた。
ラ・モール嬢は勲章をジュリヤンにやったことを、冷やかしながら、父親にいった。
「あのひと、ものを軽く受け流せないのですわ、才気はあるんですけど。兄はあの勲章を一年半もお父さまにねだってましたわ。兄だってラ・モール家のひとりですのに!……」
「それはそうさ。だが、ジュリヤンはひとの意表に出るようなことをする。お前のいうラ・モール家の男は、ついぞそんなことをしてくれなかったよ」
レー公爵の来訪が告げられた。
マチルドはたまらなくあくびがしたくなった。父のサロンの古めかしい金ぴかの調度やむかしからの常連の顔が思い出されたからである。退屈このうえない生活を、またパリではじめることになるのかと、そのありさまを思い描いていた。そうはいうものの、イエールではパリがなつかしくて仕方がなかったのだ。
《でも、あたしは十九ですもの! 金縁本を出すような、能なしの文士さんたちは、みんないってるわ、幸福の年ごろだって》彼女は、プロヴァンス旅行をしているあいだに、サロンの飾りテーブルに重ねてあった、八、九冊の新詩集を眺《なが》めた。彼女はあいにくなことに、クロワズノワとか、ケーリュスとか、リュスとかいった男友達よりも才気があった。この連中がプロヴァンスの晴れた空や、詩や、南仏などについてはどんなことをいうか、はじめからすっかり見当がついていた。
測りしれない退屈と、さらに悪いことには、なんの喜びも見《み》出《いだ》すことができないという諦《あきら》めを色濃くたたえた、その美しいまなざしが、ジュリヤンの上にじっとそそがれた。すくなくとも、この男だけはかならずしもありふれた男ではなかった。
「ソレルさん」と、彼女は、はげしい、ぶっきらぼうな、すこしも女らしさのない声でいった。上流階級の若い女性に見られるもののいいかたである。「ソレルさん、今夜レーさんの舞踏会へおいでになる?」
「お嬢さま、わたくしはまだ公爵さまにはご紹介していただいてはおりません」(この言葉とこの肩書を口にしながら、自尊心の強いこの田舎者は、まるで口の皮をひっぱがされるかのような思いをしているらしい)
「あのおかたが兄に、あなたをお連れするように頼んだのですわ。あなたがいらっしゃってたら、ヴィルキエの領地のこと、くわしく聞かせていただけたところですのに。春になったら、あそこへ行こうかって話なの。あの別荘で暮せるかしら、あの付近がひとの噂《うわさ》するほど美しいところかしら、そんなことをお聞きしたいの。だって、評判倒れってことが多いでしょう!」
ジュリヤンは答えなかった。
「兄と一緒に舞踏会へいらっしゃいね」と、彼女はひどくすげない態度でつけ加えた。
ジュリヤンはうやうやしく一礼した。《すると、なにかい、舞踏会の最中でさえ、いちいち一家のもののおつとめをしなければならないのか。おれは事務員として雇われているはずではないか》彼は不《ふ》機《き》嫌《げん》になってきた。《おれがあの娘にいったことが、父親や母親や兄のもくろみの邪魔立てをする結果にならないともかぎらない! まったく、君主の宮廷そっくりだ。宮廷となれば、徹底的に無能ぶりを発揮しながら、しかも苦情をいわれるすきを、だれにも与えないようにしなければならない》
《あののっぽの娘はどうも不愉快だ!》と、ジュリヤンはラ・モール嬢の歩いていく姿を眺めながら思った。母親が数人の女友達に紹介しようと思って、令嬢を呼んだのだった。《あの娘はなんでもかんでも、流行の先端を行こうとしている。肩先からずり落ちそうな衣裳《いしょう》なんかつけてやがる。……旅行の前より蒼白い顔をしてる。……ブロンドも度がすぎらあ、色のない髪の毛も同然じゃないか! まるで日の光がすけて通るようだ。あのお辞儀の仕方といい、あのまなざしといい、なんて高慢ちきなんだろう! 女王さま気取りでいやがる!》
ラ・モール嬢は、サロンを出ていこうとしている兄を呼びとめたところだった。
ノルベール伯爵はジュリヤンのそばに来ると、
「ソレル君、レーさんの舞踏会のことですが、今夜十二時にどこできみと落ち合うことにしますか? じつは、きみを連れてくるようにと、公爵からとくに頼まれたんです」
「ご親切なお取りなし、まことにありがとうございます」と、ジュリヤンは頭を深く下げて、お辞儀をしながら答えた。
ノルベールは丁重であるばかりか、好意のある口調で話しかけてくれただけに、なんともこれには楯《たて》のつきようもない。そこで、その親切な言葉に対して答えた自分に向って、ジュリヤンの不《ふ》機《き》嫌《げん》が八つ当りすることになった。自分の返事が卑屈に思えたのだ。
その夜、舞踏会に行ってみて、ジュリヤンはレー公爵邸の豪華な構えに目を見はった。前庭には、金の星をちりばめた深紅のズックの大きなテントが張ってある。このうえもない瀟洒《しょうしゃ》なものである。そのテントの下の庭は、花ざかりのオレンジときょうちくとう《・・・・・・・》の林と化している。入念にも十分植《うえ》木《き》鉢《ばち》を埋めこんであるので、きょうちくとう《・・・・・・・》もオレンジも、まるで地面から生えているように見える。馬車の通る道には砂《じゃ》利《り》がしきつめてあった。
こうした配合が、田舎者のジュリヤンには、途方もなくすばらしいものに思えた。こんな豪華なものとは思いもよらなかった。たちまち、彼の頭はのぼせ上がり、不機嫌など吹っ飛んでしまった。舞踏会へ来る途中、馬車のなかで、ノルベールはうれしそうにしていたのに、ジュリヤンのほうはひどく浮かぬ顔をしていた。ところが、この前庭にはいったかと思うと、役割が逆になってしまった。
ノルベールは、これほど豪華な飾りつけを見ても、細かな点で行き届かないところばかりを気にした。ひとつびとつのものの費用を値ぶみしてみて、その総高がかさむにつれて、
これに嫉《しっ》妬《と》するかのような様子を見せ、不機嫌になっていくのに、ジュリヤンは気がついた。
ジュリヤンのほうはすっかり心を奪われ、見とれてしまい、興奮のあまり、気おくれを感じながら、みんなの踊っている第一のサロンまでやってきた。第二のサロンの入口では、ひとびとがひしめき合っている。あまりの人数なので、ジュリヤンは先に行くことができなかった。この第二のサロンの装飾は、グラナダのアルハンブラ宮をあらわしていた。
「この舞踏会の女王だね」と、口ひげを生やした青年がいった。その青年の肩先は、ジュリヤンの胸もとまで出張ってきていた。
「フールモン嬢は冬じゅういちばんの美人だったが、二番目に下がることを覚悟してるね。見たまえ、妙な顔をしてるじゃないか」と、隣の男が答えた。
「うむ、なるほど、すっかりヴェールをとりはずして、気をひこうとしてるね。ほら、見たまえ、あの四組踊り《コントルダンス》で、ひとりだけになるとき、いかにもあでやかな微笑を浮べるだろう。まったく、あれは神品だよ」
「ラ・モール嬢のほうは自分の勝利を十分承知しながら、そのうれしさを抑えようとしているらしいね。まるで話しかけてくる男の気をひきたくないといった様子だね」
「そのとおり! あれが誘惑の手というものさ」
ジュリヤンは、どうにかして、噂の魅惑的な女性をかいま見ようとしたが、だめだった。自分より背の高い七、八人の男が立ちはだかっていて、見られなかった。
「いかにも上品で控え目な態度だがね、それでいて、男に媚《こ》びているところが相当あるぜ」と、口ひげの青年がまたいった。
「それに、あの大きな青い目さ、思いを打ち明けそうになったところで、やんわり伏し目になるあたりは、なかなかたいしたもんだぜ」と、隣の男が答えた。
「なんだね、あの令嬢に比べると、美人のフールモンもありふれた女に見えるな」と、もうひとりの男がいった。
「あの控え目なところはこういう意味なんだ、《もしもあなたがあたしにふさわしいおかたなら、いくらでもやさしくしてあげますわ!》ってね」
「だが、あの気高いマチルドにふさわしい男ってのは、だれかな?」と、はじめの男がいう。「美男で、才気があって、姿がよくて、戦いでは勇者、年はせいぜい二十《はたち》くらいの、王子さまってところか」
「ロシア皇帝の隠し子ってのはどうだい?……この結婚のおかげで、どこかの君主にしてもらうのさ。それとも、早い話が、タレール伯爵はどうだい、馬子《まご》にも衣裳ってところだな……」
入口がすいたので、ジュリヤンははいることができた。《あの娘がこの洒《しゃ》落《れ》者《もの》どもの目に、それほどすばらしく映るのなら、研究してみる価値がある。この連中のいう美の典型とはどんなものだかわかろう》
目で捜していると、マチルドがこちらを見た。《義務がおれを呼んでいる》と、ジュリヤンはつぶやいたが、もう不機嫌さは口先ばかりのものにすぎなかった。好奇心から、ジュリヤンはいそいそと近づいていったが、肩先を丸出しにしたマチルドの衣裳にひきつけられただけに、足も軽かったわけで、じつをいうと、これは彼の自尊心の手前、はなはだ香《かんば》しからぬことだった。《あの美しさには若さがある》マチルドとジュリヤンのあいだには、五、六人の青年がいたが、そのなかには入口のところで話していた連中の顔も見られた。
「あなたはこの冬じゅうこちらにいらしたんでしょう。この舞踏会が今年のシーズンでいちばん美しいとはお思いになりませんこと?」
ジュリヤンは答えなかった。
「あのクーロンの四組舞踊《カドリーユ》、すばらしいと思いますわ。それに女のかたたちの踊りかたもすてきですわ」マチルドがむりやりにも返事をさせようとしている、相手の果報者はどんな男かと、若い連中は振り向いた。その返事のほうは、いっこう気乗りのしない調子。
「わたくしにはいいも悪いもわかりません、お嬢さま。なにしろ、毎日書きものばかりしておりますので、こんな豪華な舞踏会は、生れてはじめてなのです」
口ひげを生やした青年たちは腹をたてた。
「あなたは聖人ね、ソレルさん」と、相手はますます関心のほどを見せていった。「こんな舞踏会やお祭り騒ぎを、まるで哲学者みたいに眺めてらっしゃるのね、ジャン = ジャック・ルソーみたいに。こんな気違い沙汰《ざた》をごらんになっても、あきれるだけで、おもしろくはないんでしょう」
ひとつの言葉がジュリヤンの空想の翼をもぎとり、心から幻影を追い払ってしまった。その口もとに軽蔑《けいべつ》の色が浮んだ。どうやら多少誇張しすぎた感じだ。
「上流社会を批判しようなんて気を起したりするときのジャン = ジャック・ルソーは、ばかものとしか思えませんね。上流社会のことなんかわかってやしなかったのです。だから、成上りの召使のような根性で出入りしていたわけです」
「でも『社会契約論』を書いたじゃありませんか」と、マチルドは尊敬をまじえた口ぶりで答えた。
「口では共和制だの王権打倒だのと説いていますけれど、なにしろ成上りものですからね、公爵かなんかが晩餐《ばんさん》のあとで、散歩の道筋を変えて、自分の友達でも見送ってくれようものなら、もううれしくて有頂天になってしまう男ですよ」
「そうでしたわね、モンモランシーのリュクサンブール公爵が、コワンデとかいう人をパリへ送っていく話でしょう……」ラ・モール嬢は、もの知りなところをはじめて発揮することができたので、大満悦だった。自分から自分の学識に酔っている。フェレトリウス王の存在を発見したアカデミー会員といったところである。ジュリヤンは相変らず鋭い目をし、目もとを和らげなかった。マチルドはちょっといい気になっていたものの、相手の冷やかな態度を見て、すっかりあわててしまった。これまでは自分のほうがこうした印象を相手に与えていただけに、ますます意外な気がした。
このとき、クロワズノワ侯爵が、ラ・モール嬢のほうへいそいそとやってきた。ほんのそばまで来たが、人ごみをかきわけられないで、しばらくそのままでいた。邪魔者に苦笑しながら、マチルドのほうを眺めていた。若いルーヴレー侯爵夫人がそのそばにいた。マチルドの従姉《いとこ》だった。二週間ほど前に結婚したばかりの夫の腕に手をかけている。ルーヴレー侯爵のほうもひどく若い。いっさい公証人任せでとりきめた見合結婚をしてみると、相手がとびきりの美人だったというわけで、そういう男らしく、愚かしいばかりの愛妻ぶりを発揮している。ルーヴレー氏は高齢の伯父が死ぬと公爵になれるはずなのである。
クロワズノワ侯爵が人ごみを突っきれないままに、笑顔でマチルドを眺めている一方、マチルドのほうは空色の大きな目で、侯爵やそのそばにいる連中を見まわしていた。《このひとたちくらい、平凡なひとってありゃしないわ! このクロワズノワさんたら、あたしと結婚する気でいる。やさしくて丁寧なひとだし、ルーヴレーさんと同じで物腰は申し分なしというところだわ。でも、こちらで退屈してしまうわ。そうでさえなければ、ほんとに感じがいいひとたちなのだけれど。あのひともやっぱり舞踏会であたしのあとを追いかけまわすんだわ、量見の狭い、自己満足の様子たら、ありゃしない。そりゃ、結婚して一年もたったら、あたしの馬車も、馬も、衣裳も、パリから二十里離れたあたしの別荘も、みんな申し分なくりっぱな気がしてくるにはちがいない。たとえば、ロワヴィル伯爵夫人のような、成上り女をどのくらい口惜《くや》しがらせるかわからないわ。でもそれっきりの話だわ……》
マチルドは先を見越すと、やりきれない気がした。クロワズノワ侯爵がやっとマチルドのそばへやってきて、話しかけたが、マチルドは耳を傾けようともしないで、物思いに耽《ふけ》っていた。侯爵の話し声も、彼女の耳には、舞踏会のざわめきとまざり合って聞えるだけだった。うやうやしい態度は見せながらも、高慢で不満そうな顔つきをして離れていくジュリヤンの後姿を、マチルドは機械的に目で追っていた。ふと、うごめく雑踏を離れて片《かた》隅《すみ》にいるアルタミラ伯爵の姿を認めた。自国で死刑の宣告を受けた男で、読者諸君もすでにご存じなわけである。ルイ十四世時代に、伯爵の身寄りの女が、コンチ大公家のものと結婚している。そういう因縁から、修道会としてもあまり伯爵をきびしく監視するわけにはいかなかった。
《死刑の宣告くらいのものだわ、人間の見所は。これだけは金で買えないのだもの》と、マチルドは考えた。
《まあ! いま考えたのはなかなか気のきいたせりふだこと! みんなと話しているときに思いつけば、うけた《・・・》ところだのに、残念だわ!》マチルドはなかなか目が高かったから、会話のなかにでき合いの名句をさしはさむようなことはしなかった。しかし、うぬぼれもかなり強かったから、自分で得意にならないではいられなかった。彼女の顔に、退屈な様子にとってかわって幸福な表情があらわれた。相変らずしゃべり続けていたクロワズノワ侯爵は、どうやら調子がいいぞと思って、ますますしゃべりまくった。
《どんなつむじ曲りだって、あたしの名せりふには、文句のつけようがないわ》とマチルドは考え続けた。《とやかくいう人があったら、こういってあげるわ。男爵とか、子爵という肩書はお金で買えますわ。勲章ももらえます、兄だって、もらったばかりのところですが、なにをしたというんでしょう? 位も手にはいります。駐屯地《ちゅうとんち》で十年つとめるか、親類に陸軍大臣でもいれば、ノルベールみたいに中隊長になれますわ。巨万の富となると!……やっぱりこれはいちばんむずかしいし、したがっていちばん値打のあるものですけれど。まあ、なんだか変だわ! 本に書いてあることとはまったく逆ですもの。……そうだわ、財産なら、ロスチャイルド家の娘さんと結婚すればいいわ。
ほんとに、あたしのせりふは意味深長だわ。死刑の宣告だけは、なんとしてもお願い申して受けたいと思ったものがいないんですもの》
「アルタミラ伯爵をご存じ?」と、マチルドはクロワズノワ氏にきいた。
彼女は途方もない夢から覚めたような様子だった。それに、この質問は、かわいそうに、五分間も侯爵がしゃべり続けていたこととは、あまりにもかけ離れていたので、愛《あい》想《そ》のいい侯爵も、これには出鼻をくじかれてしまった。とはいえ、侯爵は才人でもあり、またそういう評判の男だったのだ。
《マチルドには風変りなところがある》と、侯爵は思った。《その点は困るが、この女と結婚すればりっぱな社会的地位にありつけるのだ! あのラ・モール侯爵はどういうふうにしているか知らないが、あらゆる党派の幹部とはつきあっているし、失脚する気づかいのない人物だ。それに、マチルドの風変りなところは天才として受け取られもしよう。家《いえ》柄《がら》がよくて、巨万の富があれば、天才は滑稽《こっけい》ではない。そういう場合はたいした取《と》り柄《え》なのだ! それに、その気にさえなれば、マチルドは、才気があるし、度胸もあるし、受け答えも上手ときているのだから、愛想のいいこと、このうえないわけだ……》二つのことを一度にうまくやってのけることはむずかしいので、侯爵は学課の暗誦《あんしょう》でもするように、まるで興味のなさそうな顔をして、マチルドに答えた。
「あの気の毒なアルタミラを知らないひとがいるものですか」そういって、伯爵が滑稽でばかげた陰謀に失敗したいきさつを話してきかせた。
「たしかにばかげてますわね!」と、マチルドはひとり言のようにいった。「でも、あのかたは行動なさったわ。あたしは、ぜひとも男らしいひとに会いたいの。あのかたを連れてきてくださいな」と、マチルドは気を悪くした侯爵にいった。
アルタミラ伯爵は、ラ・モール嬢の高慢で横柄《おうへい》ともいえる態度を、ことのほか礼讚《らいさん》している男のひとりだった。伯爵にいわせると、マチルドはパリでも有数の美人のひとりなのである。
「あの令嬢が女王になったら、すばらしいでしょうね!」と、伯爵はクロワズノワ氏にいってから、誘われるままに、クロワズノワ氏についてきた。
陰謀くらい柄の悪いものはないときめてかかる連中が、世の中にはすくなくない。過激革命派の臭《にお》いがするのだ。それに、失敗した過激革命派くらい、見苦しいものがあろうか?
マチルドのまなざしは、クロワズノワ氏と一緒に、アルタミラの自由主義を軽蔑しているかのようだったが、その話には喜んで耳を傾けていた。
《舞踏会と陰謀を企てた男、乙な取合せだわ》と、マチルドは考えた。彼女は黒い口ひげを生やしたこの男を見て、眠れる獅子《しし》の面影《おもかげ》があると思った。だが、まもなく、その考えかたには、一つの態度しかないと気がついた。実利《・・》、実利礼讚《・・・・》である。
自国に両院制度の政府を与えうるもの以外は、なに一つ自分の関心に値するものはない、若い伯爵はそう思っている。舞踏会でいちばんあでやかな女性であるマチルドをさっさと離れたのも、ペルーの将軍がはいってくるのを目にしたからだった。
不運なアルタミラは、ヨーロッパを見限って、いずれ南アメリカ諸国が強大になれば、ミラボーがこれらの諸国に送った自由を、ヨーロッパに返してくれるだろうと思うまでになっていたのだ。
口ひげを生やした若い連中が、渦《うず》を巻くようにして、マチルドに近づいた。彼女はアルタミラが自分の魅力にひきつけられなかったのを、はっきり悟り、行ってしまったのがおもしろくなかった。伯爵は黒い目を輝かすようにして、ペルーの将軍に話しかけているのだ。ラ・モール嬢は例の深刻な顔をして、フランスの青年連中を見まわしていた。この顔ばかりは、どんな競争相手でもまねのできないところである。《たとえどんなに都合のいい機会に恵まれたとしても、いったいこのうちのだれに、死刑の宣告を受けるようなまねができよう?》
この異様なまなざしは、頭の悪い連中を喜ばせはしたが、ほかの連中を不安にした。どんなに辛辣《しんらつ》な言葉が飛び出し、返事に困るような立場に追いこまれないともかぎらなかったからである。
《家柄が高ければ、いろいろ美点がそなわってくる。そういう美点がなければ、あたしにはたえられないだろう。ジュリヤンがいい例だわ》と、マチルドは考えた。《でも、家柄が高いと、死刑の宣告を招くような魂の美点も台なしになる》
このとき、だれかがそばでいった。
「あのアルタミラ伯爵っていうのは、サン・ナザロ = ピメンテル公の次男なのだ。一二六八年に首を斬《き》られたコンラーディンを助けようとしたのが、ピメンテル家のもので、これはナポリきっての名門の一つなのだ」
《まあ、あたしの金言のりっぱな証明になるわけだわ》と、マチルドは思った。《家柄が高ければ、気《き》骨《こつ》が失われる。気骨がなければ、死刑の宣告を受けるだけのことはできない!まあ、あたしったら、今夜はわけのわからないことばかり考えてるんだわ。あたしもふつうの女にすぎないんなら、そう、踊るほうがましだわ》彼女は、一時間も前からガロップを踊ってくれと、しきりにいっているクロワズノワ侯爵の願いを叶《かな》えてやった。屁《へ》理《り》屈《くつ》をこねて気がむしゃくしゃしてしまったのを紛らわそうとして、マチルドは思いきり魅力を発揮しようと思った。クロワズノワは有頂天になってしまった。
だが、踊りも、宮廷で評判の美男子の気をひこうという気持も、マチルドの気を紛らわせてはくれなかった。これ以上の成功は考えられなかった。彼女は舞踏会の女王だった。それはよくわかっていたが、すこしも楽しくはなかった。
《クロワズノワのようなひとと暮すことになったら、どんなに張合いのない生活を送ることになるかもしれない!》一時間たって、侯爵にもとの席へ連れもどしてもらいながらも、マチルドはそんなふうに思い続けていた。……そして悲しげに考え続けた。《あたしの喜びはどこにあるのだろう? 半年も留守をしたあとで、パリじゅうの女から羨《うらや》ましがられるような舞踏会に来てみても、喜びが見つからないのだから。そればかりか、舞踏会に集まったひとたちも、これ以上は望めないと思われるほどりっぱなひとたちなのだし、あたしはそのひとたちにちやほやされているのに。ここには、町民階級のものといえば、二、三の貴族院議員と、おそらくひとりふたり、ジュリヤンのようなひとが来ているだけだわ。それに》と、彼女はますます憂鬱《ゆううつ》になりながら考えた。《一方、運命の神さまはなに一つあたしに下さらなかったものはない。名声も富も若さも、ほんとになんでもそろっている、幸福だけを除いて。
あたしの取り柄といっても、みんなが一晩じゅうほめてくれたようなことは、いちばん怪しいものだわ、才気なら、あたしにもある。たしかにみんなをこわがらせているのだもの。あのひとたちときたら、まともな問題を論じはじめたところで、五分もたって、しどろもどろになって、やっとたどりつくところは、あたしが一時間前から何度もいっていることなのに、さも大発見でもしたかのように思っている。あたしは美しい。スタール夫人がなんとしてでも手にいれようとした、この美点をもっている。それなのに、あたしは退屈でたまらないし、これはどうにもしようがないことなのだわ。名前を変えて、クロワズノワ侯爵夫人になってみたところで、退屈しなくなるってわけのものではないし》
マチルドは泣きだしたいほどの気持になりながら考えた。《あら、あのひとは申し分のないひとじゃないかしら? 現代の教育が生んだ傑作だわ。あのひとに目を向ければ、かならず愛想のいいことをいってくれるし、それもなかなか気のきいたことなのですもの。親切だし。……それはそうと、あのソレルは変ってるわ》そう思うと、マチルドのまなざしは憂鬱な表情から腹だたしげな表情に変った。《話したいことがあるといっておいたのに、もう姿を見せようとさえしない!》
第九章 舞踏会
豪華な衣裳《いしょう》、まばゆい蝋燭《ろうそく》、香水の香り。多くのきれいな腕、美しい肩。花束、心を奪うロッシーニの歌、チチェリの絵! わたしは我を忘れる!
ユゼリの旅行記
ラ・モール侯爵《こうしゃく》夫人がいった。
「おもしろくなさそうね。でも、いいこと、舞踏会でそんな顔をしていると失礼ですよ」
マチルドは軽蔑《けいべつ》するかのように答えた。
「頭が痛いだけよ。ここ、とっても暑いんですもの」
ちょうどそのとき、ラ・モール嬢の言葉を裏書きするかのように、トリー老男爵が気分を悪くして倒れた。運び出すより仕方がなかった。卒中だという声も聞かれた。不愉快な出来事だった。
マチルドは見向きもしなかった。老人とか、陰気な話をするといわれている連中には、絶対に目をくれないというのが、マチルドの主義だった。
卒中の話を聞かされるのはたまらないので、彼女は踊った。卒中ではなかった。その証拠には、翌々日に男爵はまた姿を見せたのである。
《とにかくソレルさんは来てくれない》踊りおわると、マチルドはまたそう思った。目で捜しかけたとき、別のサロンにいる姿が見えた。驚いたことに、どうやら持ち前の無表情な冷たい様子を失っているらしい。イギリス人のような様子はなくなっていた。
《アルタミラ伯爵と話しているわ、例の死刑の宣告を受けたひとと! まあ、目が暗い情熱に燃えているわ。変装した王子さまのよう。まなざしがますます高慢になってきたわ》
ジュリヤンは相変らずアルタミラと話しながら、マチルドのいる席のほうに近づいてきた。彼女はじっと見つめながら、ジュリヤンの顔だちを観察し、光栄にも死刑の宣告を受けるに値するような気高い資質があるかどうか、読みとろうとした。
マチルドのそばを通りながら、
「たしかにダントンは傑物でした!」と、ジュリヤンはアルタミラ伯爵に話しかけていた。
《まあ! このひと、ダントンのような人物になるのかしら。でも、あんなに気品のある顔をしているのに。ダントンのほうはおそろしく醜男《ぶおとこ》で、たしか肉屋だったはずだわ》ジュリヤンはまだかなりそばにいたので、マチルドはとっさに呼びとめた。若い娘にしては突拍子もない質問をするという意識と誇りがあった。
「ダントンは肉屋じゃありませんでしたかしら?」
「なるほど、あるひとたちの目にはそう思えたでしょうが」と、ジュリヤンは答えたが、軽蔑の色を隠そうともせず、また、まなざしはアルタミラとの会話でまだ興奮していた。
「だが、家柄《いえがら》のお高いかたがたにはお気の毒ながら、ダントンはメリ = シュール = セーヌで弁護士をしていたのです、つまり、お嬢さま」と、意地悪そうに、「ここにおいでになる何人かの貴族院議員のかたがたと出だしは同じだったわけです。たしかに、ダントンは美《び》貌《ぼう》という観点からすれば、非常に損な立場で、はなはだ醜男でした」
終りのところは、いつになく、明らかにぶしつけな口調で、口早にいわれた。
ジュリヤンはやや上体をかがめて、誇りはもちながらも、謙虚な態度で、しばらく相手の返事を待った。《わたくしはお答えするために給料をいただいておりますし、そのお金で暮している人間です》といっているような態度だった。ジュリヤンは、目を上げて、マチルドを見ようとさえしなかった。マチルドのほうは、その美しい目を、いつになく見ひらいて、じっとジュリヤンを見つめていたが、様子はまるで奴《ど》隷《れい》のようだった。あまり沈黙が続いたので、とうとう、ジュリヤンは、召使が指図を受けようとして、主人を見るような調子で、マチルドを見た。その目は、相変らず妙なまなざしで見つめているマチルドの目と、まともにぶつかったが、ジュリヤンはわざとせかせかした態度でその場を離れた。
マチルドは考えこんでいたが、やっと我にかえってつぶやいた。《ジュリヤンはほんとうに美男子なのに、醜男をあんなにほめあげるなんて! 自分のことなんかちっとも省みないんだわ! ケーリュスやクロワズノワのようじゃない。お父さまは舞踏会でナポレオンのまねを上手になさるけど、あのソレルさんって、そのときのお父さまの様子にどこか似ている》彼女はダントンのことなど、すっかり忘れてしまった。《ほんとに、今夜は退屈だわ》マチルドは兄の腕をつかむと、兄が迷惑がるのもかまわず、むりやり会場を一まわりさせた。死刑の宣告を受けた男と、ジュリヤンのあとをつけて、ふたりの会話を聞いてやろうという気を起したのだ。
ものすごい人ごみだった。それでもなんとか、ふたりに追いつくことができた。アルタミラがマチルドのごくそばで、アイスクリームを取ろうとして盆のほうへ寄っていったところだった。彼は半ば身体《からだ》をジュリヤンのほうへ向けて、話しかけていたが、ふと見ると、刺繍《ししゅう》のある服の袖《そで》から、腕がのびて、自分のそばにあるアイスクリームを取ろうとしている。その刺繍に惹《ひ》きつけられたらしく、アルタミラはすっかり向き直って、その腕の持主を見た。と、たちまち、いかにも気品のある素直なその目に、軽いさげすみの色が浮んだ。
「見たまえ、あの男を」と、アルタミラは小声でジュリヤンにいった。「あれは***国の大使ダラチェリ公爵ですよ。今朝、あの男はわたしの身柄の引渡しを求めたのです、お国の外務大臣ネルヴァル氏に。ほら、あそこでホイストをやっている男ですよ。ネルヴァル氏はどうやらわたしを引き渡す気になっているようです。わたしの国からお国へ、一八一六年に陰謀を計ったものを二、三名渡しましたからね。国王に引き渡されたら、わたしは二十四時間後にはしばり首になります。それに、わたしをひっつかまえる《・・・・・・・》のは、あの口ひげを生やしたりっぱな紳士のうちのひとりでしょうよ」
「卑劣なやつらだ!」と、ジュリヤンは思わず半ば声をたててしまった。
マチルドはふたりの会話を一言も聞きもらさなかった。退屈は消し飛んでしまっていた。
「それほど卑劣でもありませんよ」と、アルタミラ伯爵は答えた。「じつは、わたしのことを引合いに出したのも、まざまざとした例で、あなたをびっくりさせようと思ったからです。見たまえ、ダラチェリ公爵を。しょっちゅう、金羊毛勲章に目をやってるじゃありませんか。あんなおもちゃを胸にぶらさげてるのが、うれしくてたまらないんですな。あの男などは要するに時代錯誤のいい例です、気の毒なものですよ。百年前には、金羊毛勲章も非常な名誉でしたが、そのころだったら、あの男の頭の上を素通りしてしまったことでしょう。今日じゃ、名門のあいだでも、あんなしろものをありがたがるのは、ダラチェリぐらいです。ところが、あの男は町じゅうの人間をしばり首にしてでも、あれを手にいれようとしたでしょうよ」
「そんなことまでして、手にいれたんですか?」と、ジュリヤンは不安げにきいた。
「かならずしもそうだとはいえませんがね」アルタミラは冷然と答えた。「おそらく、自由主義者といわれていた、自分の国の裕福な地主を三十人ぐらいは、川へほうりこませたでしょうね」
「なんたる人でなしだ!」と、ジュリヤンはまた声をたてた。
ラ・モール嬢は、すっかり興味をそそられて、首をかしげ、あまりにジュリヤンのそばに寄りすぎたので、その見事な髪が、ほとんどジュリヤンの肩にふれそうになった。
「あなたはまだお若い!」と、アルタミラは答えた。「前に申したとおり、プロヴァンスに、わたしの嫁いだ妹がいます。まだ美しいし、親切で気のやさしい女です。りっぱな主婦で、どんなつとめでも忠実に果しますし、信心深いが、こちこちの信者ではありません」
《なんの話をしようというのかしら》と、ラ・モール嬢は考えた。
「妹はしあわせなのです」と、アルタミラ伯爵は続けた。
「いや、一八一五年にはしあわせでした。当時わたしは妹のところに、つまりアンチーブの近くにある、妹の領地に身を隠していました。ところが、ネー元帥が処刑されたと聞くと、その妹が踊りだしたのです!」
「まさか、そんなことが!」ジュリヤンはうちのめされる思いでいった。
「それが党派根性というものです。十九世紀にはもう真の情熱はありません。だからこそ、フランスではみんながこんなに退屈しているのです。およそ残虐この上もないことが行われているのですが、〔卑劣なもので〕やむにやまれぬ残虐行為ではないのです」
「やりきれませんね!」と、ジュリヤンがいった。「罪を犯すくらいなら、せめて興味をもってやるべきです。それだけが犯罪のいいところです。そればかりか、そういう理由があってこそ、はじめて多少なりとも犯罪が弁護できるというものです」
ラ・モール嬢はすっかり慎みも忘れて、アルタミラとジュリヤンのあいだに割りこんだ形になっていた。兄のノルベールはいつも妹のいいなりになっているので、妹に腕をとられたまま、会場の別のほうを見たりして、体裁をとりつくろうために、こみ合って動けないようなふりをしていた。
アルタミラがいい続けた。
「おっしゃるとおりです。なにをするにしても、興味をもってしているわけではなし、思い出しもしないのです、罪を犯した場合だって。この舞踏会でも、人殺しの汚名をかぶせてもいいような男を、おそらく十人は指摘してみせますよ。その連中は自分らがそうだったことを忘れているし、世間も忘れてしまっているのです。
なかには、飼犬が脚を折っても涙を流して悲しむものがかなりいるのです。ペール = ラシェーズの墓地で、こういった連中の墓に花を献《ささ》げるとき、パリではなかなかうまい文句を使いますな、まるで勇敢な騎士の美徳を残らずそなえていたかのようなことをいうわけです。そして、アンリ四世時代に生きていた、かれらの曽《そう》祖《そ》父《ふ》の勲功までもち出すんですからね。まあ、ダラチェリ公爵がいかに奔走しても、わたしをしばり首にできないようなら、それに、わたしもこのパリで自分の財産が自由に使えるようになれば、あなたを晩《ばん》餐《さん》にお招きして、世の尊敬を受けていっこうやましいとも思っていない八、九人の殺し屋どもと、同席していただきますよ。
この晩餐では、あなたとわたしだけが、血に汚《けが》れていないわけです。だが、わたしは血にうえた過激革命派として軽蔑され、憎まれさえするかもしれませんし、あなたは上流社会にまぎれこんだ平民というだけで軽蔑されるでしょう」
「そのとおりですわ」と、ラ・モール嬢がいった。
アルタミラは驚いてラ・モール嬢を見つめた、ジュリヤンは目を向けようともしなかった。アルタミラ伯爵は続けた。
「こうなんですよ。わたしが指導した革命が成功しなかったというのも、ひとえに、三人の首をはねることと、わたしが鍵《かぎ》を握っている金庫にあった七、八百万の金を同志に分配することを、わたしが承知しなかったからなのです。国王は今でこそわたしをしばり首にしようとしてやっきとなっていますが、謀《む》反《ほん》を起す前は、わたしのことをきみ《・・》と親しく呼んでくれたもので、わたしがその三人の首をはね、例の金庫の金を分配していたら、わたしにみずから制定した大綬章《だいじゅしょう》をくれたところなのです。なにしろ、わたしはすくなくとも半ばは成功したでしょうし、わたしの国にもなんとか、憲法ができたにちがいないんですから。……世の中なんてこんなもんです。将棋の勝負と同じですよ」
ジュリヤンは目を輝かせながらいった。
「そのころはあなたも勝負のこつがおわかりではなかったが、今なら……」
「首をはねるだろうとおっしゃるんですね。それに、いつだったか、あなたは、わたしを穏和革命派《ジロンド》みたいにおっしゃっていたが、もうそんなまねはしないだろう、ってわけでしょう?……それに対するお答えは」とアルタミラは暗然としていった。「まあ、あなたが決闘で人間ひとりを殺してからのことにしましょう。そのほうが、首《くび》斬《き》り役人の手にかけて殺させるよりは、ずっときれいですがね」
「いや絶対に、目的のためには手段を選ばずです。もし、わたしがこんなつまらぬ人間でなく、多少なりとも権力を握っていたら、四人の生命《いのち》を助けるためには、三人をしばり首にさせます」
ジュリヤンの目は、燃えるような信念と、くだらない世間の批判に対する軽蔑とをあらわしていた。ふと、その目は、ごくそばにいたラ・モール嬢の目にぶつかったが、軽蔑は愛《あい》想《そ》のいいやさしさに変るどころか、ますます深まるように思われた。
ラ・モール嬢はすっかり腹をたててしまったが、もはやジュリヤンを度外視する力はなくなっていた。兄の手を引っぱると、口惜《くや》しそうにその場を離れた。
《ポンチでも飲んで、踊り狂ってみせるわ》と、マチルドは思った。《いちばんいい相手を選んで、どうしても人目にたつようにしよう。おや、いいところへ、札つきの無作法者のフェルヴァック伯爵がおいでになったわ》彼女は伯爵の誘いに応じて、一緒に踊った。《ふたりのうち、どちらが無作法だか、試してみよう。でも、このひとを思いきりからかうには、しゃべらせなくてはだめだわ》まもなく、四組踊り《コントルダンス》を踊っているほかの連中は、体裁上踊っているにすぎなくなった。みんなはマチルドの辛辣《しんらつ》な応答ぶりを、一言も聞きもらすまいとしていた。フェルヴァック氏はたじたじとなった。お愛想言葉しか見当らず、いい考えが浮んでこないので、渋い顔をしている。むしゃくしゃしたマチルドは、伯爵を遠慮会釈《えしゃく》もなくやっつけたので、相手はほんとうにおこりだしてしまった。彼女は夜明けまで踊りぬき、くたくたに疲れきってやっと引き上げた。だが、馬車に乗ると、わずかながらも、まだ気力が残っていて、それがなおさら彼女を悲しいみじめな思いにさせた。彼女はジュリヤンに軽蔑されたのに、ジュリヤンを軽蔑することができなかった。
ジュリヤンは幸福の絶頂にあった。しらずしらずのうちに、音楽や、花や、美女や、はなやかな雰《ふん》囲《い》気《き》に魅せられ、それにもまして、自分のためには名誉を、万人のためには自由を夢みる、われとわが空想の世界にひきいれられ、
「じつに豪華な舞踏会ですね! なに一つ欠けたものがない」と、ジュリヤンは伯爵にいった。
「思想が欠けていますよ」と、アルタミラが答えた。
その顔には軽蔑の色が浮んでいる。礼儀上、むりにもそれをおし隠そうとしていることが、はたの目にはわかるだけに、ますます苦々しさの加わった軽蔑の色なのである。
「そのとおりですね、伯爵。で、それもやっぱり陰謀を企てる思想のことでしょう?」
「わたしがここに招かれているのは、わたしの家柄のおかげなのです。だが、この国のサロンでは思想はきらわれています。思想は通俗喜劇の気のきいた台詞《せりふ》以上に出ないこと、それなら褒《ほう》美《び》をくれますよ。だが、思想のある人間が、どぎつい斬新《ざんしん》な機知をふりまわすと、シニックだといわれます。この国の裁判官でしょう、クーリエをシニックだときめつけたのは? クーリエも、ベランジェと同じように、投獄されたわけです。お国では、才気でちょっと目だったことをするものは、ことごとく修道会の手で軽犯罪裁判にかけられてしまう。それを上流社会が拍手喝采《かっさい》するというわけです。
それはお国の老衰した社会が、なによりもまず礼儀を重んじるからなのです。……あなたがたは戦争で勇気を見せるのがせいぜいです。ミュラーのような人間は出るでしょうが、ワシントンは出っこありません。虚栄のほかに、なにがありますか、フランスには? 思いつくままにしゃべる人間は、不用意な機知を弄《ろう》しがちです。そこで、その家の主人は顔に泥《どろ》を塗られたと思うのです」
ここまで話したとき、ジュリヤンを送ってきた伯爵の馬車が、ラ・モール邸の前で止った。ジュリヤンはこの陰謀の張本人に共鳴してしまった。明らかに深い確信からつい出たにちがいないが、アルタミラはジュリヤンに向って、たいへんなお世辞をいったのだ。「あなたにはフランス人の軽薄さがない。それにあなたは実利《・・》の原理を心得ておられる」たまたま、ちょうど、その前々日に、ジュリヤンはカジミール・ドラヴィーニュ氏の悲劇『マリノ・ファリエロ』を見たところだった。
《イスラエーレ・ベルトゥッチョは、あのヴェネツィアのどの貴族よりも気《き》骨《こつ》のある男ではなかったか?》と、平民反抗児ジュリヤンは考えた。《とはいっても、あの貴族たちはれっきとした貴族として、シャルルマーニュより一世紀前の七百年代にまでさかのぼれる家柄なのだ。それに反して、昨夜レー氏の舞踏会に来ていた貴族連中は、いちばん家柄がいいといっても、十三世紀までしかさかのぼれないし、それもやっとそこまでたどれる程度だ。ところが、家柄の点ではあれほどりっぱなヴェネツィアの貴族のうちで、だれがいるのだ? 今なお記憶に残っているのはイスラエーレ・ベルトゥッチョなのだ。
肩書なんて、社会の気まぐれから与えられるものだ。反乱一つで、あらゆる肩書なんぞはふっ飛んでしまう。そこで、死をどのように考えているか、その考えかた次第で、地位が一挙につかめるのだ。才気でさえ、その力を失ってしまう……
ヴァルノやレーナルのごとき人間がはびこる当世では、ダントンだってどうなっているかわからない。初審裁判所の検事代理にさえなれないかもしれない……
いや、そんなことはない。修道会に身売りしているだろうし、大臣になっているだろう。なんといっても、あの偉大なダントンだって、金をごまかしたのだからな。ミラボーも身を売ったのだ。ナポレオンはイタリアで数百万もごまかした。さもなけりゃ、ピシュグリュのように、貧乏から、手もなく、途中で挫《ざ》折《せつ》していたところだ。ラ・ファイエットだけは絶対に金をごまかさなかった。金をごまかすべきか? 身売りをすべきか?》この問題ではたとゆきづまった。そのあと、ジュリヤンは夜のあけるまで、フランス大革命史に読み耽《ふけ》った。
あくる日、図書室で手紙を書きながらも、ジュリヤンは相変らず、アルタミラ伯爵との話のことばかりを考えていた。長いあいだ、もの思いに耽ったあとで、つぶやいた。
《たしかに、あのスペインの自由主義者たちが、民衆と手を組んで罪を犯したのだったら、ああやすやすとは一掃されなかったろう。いずれも自尊心の強いおしゃべりの世間知らずだったのだ、……おれみたいに!》ジュリヤンは、はっとして目覚めたかのように、いきなりそう叫んだ。
《おれはいったいどんなむずかしい事業をなしとげたというのだ? それでいて、あわれな連中のことをとやかくいう権利があろうか? なんといっても、この連中は、一生に一度は思いきったことをし、行動に出はじめたんだからな。おれなんてのは、いってみれば、食卓を離れるとき、明日は飯を食わんぞ、それでも、今日のおれみたいに元気でぴんぴんしているはずだ、などと公言する男みたいなもんだ。大きな行動を敢行する途中で、どんな目にあうかわかったもんじゃないのだ……》この高遠な思索は、ふいにラ・モール嬢が図書室へはいってきたので、かき乱された。だが、負けたためしのなかったダントンやミラボーやカルノーらの偉大な性格に惚《ほ》れこんで、のぼせ上がっていたジュリヤンである。ラ・モール嬢に目はとめたものの、相手をそれと認めもしなければ、挨拶《あいさつ》もしないし、ろくろく見直そうとさえしなかった。やっと大きく見ひらかれた目がラ・モール嬢のいることに気がつくと、その目から光が消えた。ラ・モール嬢はそれを見ると、苦々しく思った。
ヴェリの『フランス史』を一冊取ってくれとジュリヤンに頼んだが、それでもだめだった。本はいちばん高い棚《たな》にあったので、ジュリヤンはやむをえず二本の梯子《はしご》のうちで大きなほうを取りにいった。梯子を近寄せて、本を取ると、ラ・モール嬢に渡したが、まだ相手のことが念頭にないのだ。梯子をもとのところへもっていくとき、考えごとをしていたために、書棚のガラス戸に肱《ひじ》をぶつけた。かけらが床に飛び散った音で、やっと目が覚めた。ジュリヤンはあわてて、ラ・モール嬢にわびた。愛想よくふるまおうとしたが、要するにそれはお愛想にすぎなかった。マチルドは、自分がジュリヤンを邪魔したことや、相手が自分に話しかけるよりも、自分が来るまで考えていたことを考え続けたいと思っていることを、はっきりと見てとった。彼女はジュリヤンを穴のあくほど見つめてから、ゆっくりと出ていった。ジュリヤンは出ていく後姿を見送っていた。昨夜の豪華なあで姿にひきかえ、今はうって変った質素ななりをしているので、つくづくと眺《なが》めた。顔つきまでが昨夜と今ではまるで違っている。レー公爵邸の舞踏会であれほど高慢な姿をしていたこの娘が、今はまるで哀願するばかりのまなざしをしていたのだ。ジュリヤンは思った。《まったく、あの黒い服はすらりとした身体つきをいっそう引き立たせる。まるで女王の風格だ。だが、なぜ喪服を着ているんだろう?》
《だれかに喪服のいわれでもきこうものなら、おれはまたへまをしでかすことになりそうだ》ジュリヤンは深い感激からすっかり覚めていた。《今朝書いた手紙を全部読み直さなくてはいかんな。うっかり字を飛ばしたり、ばかなことを書いたところがないともかぎらない》ことさら注意してはじめの手紙を読み返していると、ごくそばで、絹のドレスのきぬずれの音がした。すばやくふりむくと、ラ・モール嬢が、彼の机のごく近くまで来て、笑っている。また邪魔がはいったと思うと、ジュリヤンは腹をたてた。
マチルドのほうは、この青年にとって自分がまったくなんでもない存在なのだと、いやでも思いしらされたところだった。この笑いは、きまりの悪さをごまかすためで、そこはうまくいった。
「なにかひどくおもしろいことでもきっと考えていらっしゃるのね、ソレルさん。アルタミラ伯爵がパリに亡命なさったくらいですから、あの謀反の何か珍しい逸話でもあるんでしょう? どんな話なの? あたし、とても聞きたいわ。だれにもしゃべったりしません、誓ってもいいわ!」マチルドはそんな言葉をいい出しておいて、自分で驚いてしまった。なんたることか、目下のものに哀願するなんて! ますます具合が悪くなって、軽くふざけた調子でつけ加えた。
「どうなさったの、日ごろあんなに冷静なおかたが、まるでミケランジェロの予言者みたいに、霊感を受けたような顔をなさって」
この鋭いぶしつけな質問は、ジュリヤンの自尊心をはなはだしく傷つけた。またしても例の常軌を逸したジュリヤンに戻《もど》ってしまい、いきなり、
「ダントンが金をごまかしたのは、いいことだったでしょうか?」と、切り口上に出た。その調子はますます荒々しくなった。「ピエモンテやスペインの革命家は、民衆を犯罪のまきぞえにすべきだったでしょうか? 取り柄のない人間にまで軍隊における地位や勲章を見境もなく与えるべきだったでしょうか?そんな勲章をつけた連中は、国王が復位するのをおそれなかったでしょうか? トリノの国庫を略奪に任すべきだったでしょうか? つまり、お嬢さま」と、ものすごい顔をしてつめより、「地上から無知と犯罪を追い払おうとするものは、嵐《あらし》のように通りすぎ、まるで行きがかりに悪事を働くといった具合にふるまうべきでしょうか?」
マチルドはこわくなった。ジュリヤンのまなざしにたえきれず、二、三歩あとずさりをした。彼女はしばらく相手を見つめてから、自分がおそれたことをはずかしく思いながら、軽い足どりで図書室を出ていった。
第十章 王妃マルグリット
恋よ、そなたゆえ、わたしたちは喜びを見《み》出《いだ》そうとして、なんという狂態を演じたことだろう!
あるポルトガル修道女の手紙
ジュリヤンは手紙を読み直した。晩餐《ばんさん》の鐘が鳴ると、彼はつぶやいた。《あのパリ人形の目に、おれはずいぶん滑稽《こっけい》に思われたろうな。考えていることをほんとにいってしまうなんて、気違い沙汰《ざた》だ! だが、それほど気違いじみているわけでもあるまい。あの場合は、真実をいうほうが、おれらしかったのだ》
《だがまた、どうして、このおれに、あんな立ち入ったことをきいたんだろう? あの娘としては、そんなことをきくのは慎みが足りぬというものだ。行儀が悪い話だ。あれの父親から給料をもらっているからといって、ダントンをおれがどう思っているかなんてことは、なにもいう必要はないんだ》
食堂まで来て、ラ・モール嬢が喪の正装をしているのを見ると、自分の不《ふ》機《き》嫌《げん》な気持を忘れた。家じゅうでだれひとりとして黒い服を着ているものがないだけに、彼の目をひきつけたのである。
晩餐がすむと、その日一日じゅうつきまとっていた興奮の発作もすっかりおさまっていた。さいわい、ラテン語を知っている例のアカデミー会員が、この晩餐に呼ばれていた。ジュリヤンは考えた。《この男ならおれをばかにするようなこともあるまい、どうやらラ・モール嬢が喪服を着ているわけをきくのは、へまな話だとは思うが》
マチルドは妙な目つきでジュリヤンを眺《なが》めていた。《レーナル夫人が話してくれたけれど、これが都の女の媚《び》態《たい》というやつにちがいない》と、ジュリヤンは思った。《今朝はこの娘にいい顔を見せなかった。この娘のほうから話しかけてきたのに、その気まぐれの相手をしてやらなかった。それだけに、おれの値打は上がったわけだ。だが、相手の意地悪な気持は、おそらく、このままでおさまるはずはない。なにしろ、高慢ちきで、ひとをばかにしている女だから、あとになって復讐《ふくしゅう》するにちがいない。どんなまねをしようが平気だぞ。おれがなくしたあのひととは大違いだ! なんというかわいい純真なひとだったろう! ほんとに素直なひとだった! いわれる前からあのひとの考えることがわかったものだ。考えの浮んでくるのが見えるようだった。おれの敵は、あのひとの心のなかにいる、子供たちの死をおそれる気持だけだった。それも、もっともな話で、自然な愛情だ。悩まされどおしだったおれにさえ、好感のもてることだった。おれはばかだったな。パリのことばかり考えていたので、あの女のすばらしさがわからなかった》
《まったく、大違いだ! それに、ここにはなにがあるというのだ? うるおいのない高慢な虚栄心、あらゆる色合いの自尊心、それだけじゃないか》
一同は食卓を離れた。《おっと、あのアカデミー会員をとられないようにしなくちゃ》そう思って、ジュリヤンは、一同が庭のほうへ出かけたときに、近寄っていき、もの柔らかな、かしこまった様子をして、『エルナニ』の成功にやっきとなって憤慨しているアカデミー会員の肩をもった。
「お墨つきの追放令書がものをいう時代でしたらね……」
「あのころなら、あんなまねのできたはずはない」と、アカデミー会員はタルマもどきの身ぶりで叫んだ。
花の話が出たので、ジュリヤンはウェルギリウスの『農耕詩』の文句をいくつか引用し、アベ・ドリルの詩に匹敵するものはないといった。つまり、いろいろな形でアカデミー会員にお世辞を使ったわけである。そのあとで、いかにもなにげない口ぶりできいた。
「ラ・モール嬢は喪服なんかつけたりして、だれか伯父さんの遺産でももらったんでしょうか」
「これは驚いた! あなたはこの屋敷のものじゃありませんか」と、アカデミー会員は、はたと足をとめていった。「それでいて、あの娘さんの道楽をご存じないのですか。いや、たしかに、あんなまねをさせて黙っている母親もどうかしていますが、ここだけの話ですよ、この家のものは性格の点では、あまりしっかりしているほうじゃありませんな。そこで、マチルド嬢がうちじゅうのものにかわって、その方面を一手に引き受け、みんなを引きまわしているわけです。今日は四月三十日ですからな!」そういって、アカデミー会員は、いわくありげに、ジュリヤンを見つめながら、黙ってしまった。ジュリヤンも、そつなく、できるだけわかったようなふりをしながら微笑してみせた。
《いったい、うちじゅうのものを引きまわすことと、黒服を着ることと、四月三十日と、どんな関係があるのだろう? おれは自分で思っていたより、ずっと間抜けだったとみえる》
「じつを申しますと……」と、ジュリヤンはアカデミー会員にいいながら、目で問いかけた。
「庭を一まわりしましょう」どうやら粋《いき》な物語を長々ときかせる機会が来たと見て、アカデミー会員はすっかりいい気になり、「これは驚いた! ほんとにご存じないんですか、一五七四年四月三十日の出来事を?」
「どこで起ったのですか?」と、ジュリヤンはびっくりしてきいた。
「グレーヴ広場で」
ジュリヤンはびっくりしてしまったので、その言葉をきいても、まだぴんとこなかった。いかにもジュリヤンの性格にふさわしい、悲劇的な興味に対する好奇心と期待から、彼は目を輝かした。語り手にしてみれば、聞き手からこういう目つきをされるのがいちばんうれしいのである。アカデミー会員は、相手が初耳だと知って、大いに乗り気になり、一五七四年四月三十日、当代きっての美男子ボニファス・ド・ラ・モールと、その親友でピエモンテ出の貴族アンニバル・ド・ココナッソが、グレーヴ広場で斬首《ざんしゅ》の刑に処せられたいきさつを、長々とジュリヤンに物語ってきかせた。「ラ・モールは王妃マルグリット・ド・ナヴァールお気にいりの恋人だったのです。ところで、いいですか、ラ・モール嬢はマチ《・・》ルド《・・》 =マルグリット《・・・・・・》という名前なのですよ」と、アカデミー会員はつけ加えた。「ラ・モールはそれと同時にダランソン公爵《こうしゃく》の寵臣《ちょうしん》でもあり、またナヴァール王のちのアンリ四世、つまり愛人マルグリットの夫の親友でもあったのです。で、その年つまり一五七四年の謝《マル》肉祭最終日《ディ・グラ》に、ご臨終の迫ったお気の毒なシャルル九世とともに、宮廷はサン = ジェルマンに移っていたのです。太后カトリーヌ・ド・メディシスはラ・モールの親しい王子たちを宮廷に閉じこめ、まるで囚人扱いにしていたものですから、ラ・モールはこれを救い出そうとしたのです。そこで、サン = ジェルマンの城下まで二百騎を進めたのですが、ダランソン公爵のほうがおじけづいたために、ラ・モールは死刑執行人の手に渡ってしまったのです。
ところで、マチルド嬢が心をうたれたのは、これは令嬢自身が打ち明けてくれたことなのですが、今から七、八年前、令嬢が十二のときでしたな、なにしろ首ですからな、首ですよ!……」といって、アカデミー会員は空を見上げた。「この政治的大事件で令嬢が心をうたれたのは、王妃マルグリット・ド・ナヴァールが、グレーヴ広場の、とある家に隠れていて、勇敢にも使いをやって首《くび》斬《き》り役から愛人の首をもらい受けたということなのです。その次の晩、真夜中に、その首を手にして馬車に乗り、モンマルトルの丘のふもとにある礼拝堂へみずから葬《ほうむ》りに行ったということなのです」
「ほんとですか?」と、ジュリヤンは感動して思わず声をたてた。
「マチルド嬢はお兄さんを軽蔑《けいべつ》しています。なにしろ、ごらんのとおり、お兄さんのほうはそんな古い歴史上のいきさつなどてんで問題にしていませんし、四月三十日だからといって、喪服をつけやしません。このいわくつきの処刑以来、ココナッソに対するラ・モールの深い友情を偲《しの》ぶために、ラ・モール一家の男は、みんなアンニバルという名前をもつようになったのです。そのココナッソというのはイタリア人なので、アンニバルという名前だったわけです。それに」と、アカデミー会員は声を落してつけ加えた。「そのココナッソは、シャルル九世の言によると、一五七二年八月二十四日の、もっとも残虐な下手人のひとりだったそうです。だが、ソレル君、あなたはこの家のものと食卓をともにしているじゃありませんか。考えられませんな、そのあなたがこんなことを知らないとは」
「なるほど、それだから、晩餐のとき、ラ・モール嬢は二度も、お兄さんのことをアンニバルと呼んだんですね。聞き違いかと思いました」
「いや、非難ですよ。わけがわかりませんな、侯爵夫人がああいう気違いじみたふるまいを大目にみているわけが。……あんなどえらい《・・・・》娘の亭主《ていしゅ》になろうものなら、とんだ目にあいますぜ!」
この言葉に続いて、五つ六つ冷やかしの文句が口に出た。アカデミー会員が喜びとなれなれしさで目を輝かしているのを見て、ジュリヤンは不快に思った。《まるでおれたちは、夢中になって主人の陰口をたたいてる召使同士みたいなものだ。もっとも、このアカデミーの先生のことだ、驚くにはあたらないわけだ》
ある日、ジュリヤンはこの男がラ・モール侯爵夫人の前にひざまずいているところを、ふと目にした。田舎にいる甥《おい》のために、煙草《たばこ》税《ぜい》収入係の口を世話してくれと頼んでいたのである。その夜、前のエリザと同じで、ジュリヤンに気のあるラ・モール嬢がかりの小間使が教えてくれた。お嬢さまが喪服をつけているのは、人目をひくためではないというのである。この風変りなふるまいは、彼女の性格に根ざしている。彼女は例のラ・モールを心から愛しているのだ。当代随一の才気ある王妃から愛され、友達を自由にしてやろうとして生命《いのち》をすてた男。しかも友達とは第一親王とアンリ四世ではないか!
いかにも素直なレーナル夫人のふるまいに見慣れていたジュリヤンは、パリのどの女を見ても気取りが鼻につくのだった。それに、すこしでも気がめいってくると、そういう女たちには口をきく気になれなかった。ラ・モール嬢は例外だった。
ジュリヤンは、気品のある物腰にもとづく美しさを、情味が足りないのだとは思わなくなってきた。ラ・モール嬢と長いあいだ話しこむようになった。ラ・モール嬢も、ときどき晩餐のあとで、サロンの開け放した窓に沿って、ジュリヤンと庭を散歩したりした。ある日、彼女はドービニェの歴史とブラントームのものを読んでいるといった。ジュリヤンは思った。《風変りなものを読んでいるな。そのくせ、侯爵夫人はウォルター・スコットの小説を読んではいけないというんだ!》
ある日、ラ・モール嬢は、心から感心したらしく、うれしさに目を輝かせながら、アンリ三世時代のある若妻の逸話を、ジュリヤンに話してきかせた。レトワールの『回想録』で読んだばかりの話で、夫の浮《うわ》気《き》を知って、これを短刀で突き殺したというのである。
ジュリヤンの自尊心は大いにくすぐられた。まわりのものからあれほど一目おかれている女で、しかもアカデミー会員の話では、うちじゅうをきりまわしているという女が、友情に近い態度を見せて、話しかけてくれたからである。
だが、ジュリヤンはあとで考えた。《おれは勘違いしていた。あれはなれなれしさというものじゃない。おれは悲劇の聴き役にすぎない。先方は話したくてたまらないのだ。おれはこの屋敷ではもの知りだと思われている。よし、ブラントームも、ドービニェも、レトワールも読んでみるとしよう。ラ・モール嬢の話してくれる逸話のうちには、反駁《はんばく》できるようなこともあるだろう。こんな受け身の聴き役なんて役割はまっぴらだ》
高飛車でしかもひどく気楽な態度を見せるこの令嬢と話すのが、ジュリヤンにはだんだんおもしろくなってきた。彼は平民の反抗児という自分のいやな役割を忘れた。ラ・モール嬢をもの知りだとも思い、わけのわかる女だとも思うようになった。彼女が庭でいう意見と、サロンで口にする意見とは、まるで違っていた。ときどき、ジュリヤンに対して、感激してみせたり、率直に出たりするが、それは、あれほど横柄《おうへい》で冷やかなふだんのそぶりとは、まったくうって変っている。
ある日、ラ・モール嬢は、ひらめく考えと感激に目を輝かせながらいった。
「宗教戦争時代は、フランスの英雄時代だったのですわ。あのころは、だれもが自分の望んでいるものを手にいれようとし、自分の党派を勝たせるために戦っていたのですもの。あなたのお好きなナポレオンの時代のひとみたいに、勲章をもらおうなんて、さもしい気持はありませんでしたわ。利己主義的なところもけちくさいところもすくなかったと思いますわ、そうじゃありません? あたしはあの時代が好きですわ」
「それに、ボニファス・ド・ラ・モールはその時代の英雄でしたからね」
「すくなくとも、愛されてましたわ。あんなふうに愛されたらおそらく楽しいでしょうね。今生きている女のひとで、斬られた恋人の首に、平気で手をふれることのできるひとがいるでしょうか?」
ラ・モール夫人が娘を呼んだ。偽善は隠しておかなければ、役にたたない。ところが、見られるとおり、ジュリヤンはナポレオン崇拝の気持を、ラ・モール嬢に半ば打ち明けてしまっている。
《今いった点じゃ、あの連中はおれたちとは比べられないくらい有利なんだ!》と、庭にひとり残されたジュリヤンは考えた。《祖先の歴史のおかげで、あの連中は卑俗な感情から超然としていられる。それに、しょっちゅう食うことを考えていなくてもすむのだ! それにひきかえ、なんたるみじめな話だ!》と、ジュリヤンは苦々しげにつけ加えた。《おれなんかはこういう大きな問題について論じる資格などない。おれの生活は偽善の連続にすぎない。パンを買うための年収千フランがないからなのだ》
「なにを考えてらしたの?」と、マチルドが走りながら戻《もど》ってきて、きいた。
ジュリヤンは自嘲《じちょう》にあきあきしていた。自尊心から、自分の考えを率直に打ち明けた。こんな金持の女に自分の貧しさを話すのかと思うと、はずかしくてしかたがなかった。彼は誇りを見せて、自分はなにも求めてはいないのだということを、相手にはっきりわからせようとした。マチルドには、ジュリヤンがこれほど美しく思えたことはなかった。いつものジュリヤンには見られない、感じやすさと率直さが認められたからである。
それからひと月とたたないころのことだが、ジュリヤンはラ・モール邸の庭を、もの思いにふけりながら、散歩していた。だが、その顔には、片時も忘れない劣等感からくるけわしい表情や、学者ぶった横柄さは、もはや見られなかった。ラ・モール嬢をサロンの入口まで送っていったところだった。彼女は兄と駆けっこをして足を痛めたというのである。
《ずいぶん妙な格好をして、おれの腕にすがってきたものだ》と、ジュリヤンは考えた。《おれのうぬぼれか、それとも、ほんとにあの娘はおれに気があるのかな? おれが自尊心から苦しんでいることをぶちまけるときでも、ひどくやさしい態度で聞いてくれる! だれに対してもあんなに気位の高いところを見せる女だのに! サロンの連中はあの娘があんな顔つきをするのを見たら、きっと驚くだろう。たしかに、あれほどやさしい善良な様子は、だれに対しても見せたことがないんだ》
ジュリヤンはつとめて、この風変りな友情を誇張して考えまいとした。自分のほうから、この友情を、武装通商に似ているときめていた。毎日顔を合わせても、前日の親密に近い態度を取り戻すまでは、「今日は味方か敵か」とさぐり合うようなものだった。この横柄な娘に一度でも侮辱されてひっこんでいたら、なにもかもおしまいだということは、よくわかっていた。《仲たがいするくらいなら、はじめっから、おれの自尊心の正当な権利を守る態度に出たほうがいいのじゃないだろうか? おれが誇りをすこしでも忘れたら、すぐに軽蔑してかかってくるわけだ、そうなってから反撥《はんぱつ》してみたところではじまるまい》
不機嫌な日には、マチルドはしばしば、貴婦人のような態度でジュリヤンに臨もうとした。それもなかなかやり口がうまいのである。だが、ジュリヤンは容赦なくはねつけた。
ある日、ジュリヤンはいきなり言葉をさえぎっていった。「お嬢さまはお父さまの秘書に、なにかおいいつけになりたいことがおありなのでしょうか? おいいつけは拝聴し、つつしんでこれを果すのが秘書の役目でございますから。それに、秘書としましては、お嬢さまになにも申し上げることはないわけでございます。自分の思っていることをお嬢さまに申し上げるために、お給金をいただいているわけではございませんから」
こんな態度に出たり、こんな奇妙な疑いをもつようになると、ジュリヤンは、サロンにいても退屈を感じなくなった。いかにも豪華なサロンだが、だれもがなにかにつけて、びくびくしているし、どんな冗談でも無作法だとされているわけで、ジュリヤンはきまって退屈していたのである。
《あの娘がおれを愛しているとしたらおもしろいぞ。おれを愛していようがいまいが、とにかく、おれには女の親しい聴き役として、才気のある娘がいるんだ。この娘の前じゃ、うちじゅうのものがびくびくしてるじゃないか。それに、だれよりも、クロワズノワ侯爵がそうなんだ。ところが、この青年といえば、じつに丁重で、あたりはやわらかだし、正直者だし、生れといい、財産といい、なにもかも取り柄がそろっているのに。おれなんか、その取り柄のたったひとつでもあれば、気が楽になると思っているんだぞ! あの男はマチルドに惚《ほ》れている、どうせ結婚するんだろう。その契約をまとめるために、おれはラ・モールさんから、両方の公証人あてに、いくたび手紙を書かされたかしれない! それなのに、ペンを手にすりゃ、いかにも卑《いや》しい身分のおれだが、二時間後に、この庭にやってくれば、あれほど感じのいい青年の上に立つわけだ。なにしろ、好ききらいは、はっきりしていて、歯に衣《きぬ》をきせないからな。それに、あの娘にしてみれば、未来の夫だというので、侯爵が憎らしいのかもしれない。気位の高い娘だから、そんな気持にもなるだろう。それに、おれにあれほど好意を見せるのも、おれが身分の低い聴き役だからってわけさ》
《そんなことがあるものか。おれがどうかしているか、あの娘のほうでおれに気があるのかのどっちかだ。おれのほうがよそよそしく、かしこまった態度を見せれば見せるほど、あの娘のほうでおれを追い求めてくるではないか。それも、なにか下心があって、わざとそうしているのかもしれない。だが、おれがふいに姿を見せると、あの娘の目が生き生きしてくる。パリの女なんて、それくらい心にもない表情をすることをわきまえているのだろうか? かまうもんか! おれに気のあるそぶりを見せてくれるんだから、見せかけだろうと、楽しんでやれ。まったく美しい娘だ!そばで見ると、あの大きな青い目はなかなかいい、よくじっとおれを見つめたりするが、あのときの目がいい! 今年の春と昨年の春とでは、まったく違っている! あのころは、おれもみじめな暮しをしていたし、意地悪な、薄汚ない三百人の偽善者どものあいだで、気持が張りつめていただけに、なんとかもちこたえてきたんだ! おれだって、意地悪な点じゃ、あいつらと大差なかったんだ》
疑う気持になる日は、《あの娘はおれをからかってるのだ》と、ジュリヤンは思った。《兄貴としめし合せて、おれに一杯食わせるつもりなのだ。だが、あの娘は兄貴の意気地なさを頭っからばかにしているらしい! 兄は勇敢よ、でもそれだけのことだわって、いっている。兄貴は流行に楯《たて》をつこうなんて考えは、毛頭ないんだ。そこで、いつも、あの男の弁護をしなければならなくなるのはおれなんだ。十九歳の小娘じゃないか! あの年ごろで、そうきめたからといって、一日じゅう偽善の仮面をかぶり通していられるだろうか?》
《だが、一方、ラ・モール嬢が、あの大きな青い目で妙な目つきをしておれを見つめるときは、きっとノルベール伯爵は席をはずしてしまう。こいつは怪しいぞ。妹が屋敷の召使《・・》などに一目置くようだったら、怒るのが当然じゃないか。なにしろ、おれは召使なんだ、いつだったか、ショーヌ公爵がおれをそんなふうに呼んでいたからな》そのことを思い出すと、急に腹だたしくなって、ほかの感情を忘れてしまった。《あの公爵め、相当変っているから、古風な言葉づかいが好きなのかもしれない》
《とにかく、あの娘は美しい!》と、ジュリヤンは虎《とら》のような目つきで、考え続けた。《おれのものにしてやる。そして逃げ出すんだ。逃げるのを邪魔するやつがいたら、ただじゃすまないぞ!》
この考えがジュリヤンの頭にこびりついた。もうほかのことはなに一つ考えられなくなった。一日一日が一時間のように過ぎていった。
なにかまじめな仕事に専念しようとしても、たえず、なに一つとして身がはいらない。十五分もすると、はっとして我にかえる。胸は高鳴り、頭は乱れ、《あの娘はおれを愛しているのか》ということばかり考え続けているのだった。
第十一章 娘の勢力
たしかにあの女は美しい、だが、あの女の才気がこわい。
メリメ
ジュリヤンはマチルドの美しさを誇張して考え、また、マチルドに見られるこの一家特有の高慢さ(もっともジュリヤンに対してはそういう態度を忘れるのだ)をひどく気にしていたが、そのひまにサロンの模様を観察していたら、マチルドが周囲のものをおさえている理由を理解できたにちがいない。ラ・モール嬢の機《き》嫌《げん》をそこねようものなら、たちまちやっつけられてしまう。その冷やかしかたはきわめてつつましやかで、いかにも適切で、一見上品ではあるが、浴びせかけるころあいがじつに見事なので、相手はあとになって考えれば考えるほど、傷口はますますひろがってくる。やがて、自尊心を傷つけられた相手にとっては、それがやりきれないほどになる。一家のものが本心から望んでいるいろいろなことがらを、全然問題にしていないので、マチルドはいつも冷淡な女と思われていた。貴族階級のサロンというものは、どこそこのサロンからの帰りでね、などと口にするには楽しかろうが、それだけのものだ。礼儀などというものは、それだけでは、なんらかの値打があるとしても、最初のあいだのことにすぎない、ジュリヤンもこれを経験したわけである。最初は、心を奪われ、それに続いて最初の驚きを味わった。《礼儀なんてものは、無礼なふるまいに腹をたてないというだけのことなのだ》と、ジュリヤンは思った。マチルドはよく退屈を感じた。おそらくどこへ行っても退屈したにちがいない。それだからこそ、ことさら辛辣《しんらつ》な言葉を口にするのが、マチルドにとっては、気晴らしでもあり、真の楽しみでもあったのだ。
マチルドが、クロワズノワ侯爵《こうしゃく》やケーリュス伯爵や、そのほか二、三のとりわけ上流の貴公子たちに希望をもたせたのも、おそらく親戚《しんせき》の年寄りやアカデミー会員や、そのご機嫌をとっている五、六人の身分の低い連中より、いけにえとしてすこしはましなところがあるからだった。彼らは要するに新たな毒舌の対象にされたにすぎない。
作者はマチルドを愛しているだけに、こんなことまでいってしまうのは心苦しいのだが、彼女は、これらの貴公子のうちの数人から手紙をもらい、ときには返事も出していたのだ。だが、急いでつけ加えておこう。こういう女性は当代の風俗の例外である。貴族的な聖心会修道院で学んだ女性たちを評して、一般に慎みが足りないなどと非難することはできない。
ある日、クロワズノワ侯爵は、マチルドが前の日に書き送った手紙を返してよこした。かなり穏やかならざる手紙だったので、侯爵はこういうふうに慎重なところを見せておけば、大いに事がはかどるだろうと思ったのである。だが、マチルドとしては、不用意なふるまいがしたいばっかりに、手紙のやりとりをしていた。自分の運命を賭《か》けるのが楽しかったのである。マチルドは六週間、侯爵と口をきかなかった。
マチルドはこういう青年たちの手紙をおもしろがっていた。だが、彼女にいわせると、どれもこれも似たりよったりだった。相も変らず、はなはだ深刻で、いかにも憂いに満ちた情熱を表明しているのだ。
「あのひとたちはみんな、同じような申し分のない紳士で、パレスチナへ出かけかねない顔をしてるわ」と、マチルドは従姉《いとこ》にいうのだった。「このくらい味気ないものってあるかしら? 一生こんな手紙ばかりもらうことになるのよ! こういう手紙なんて、そのときどんな種類の仕事が流行するかによって、せいぜい二十年ごとにしか変らないものでしょうね。帝政時代にはもっと生気のある手紙だったと思うわ。あのころは、上流社会の青年たちも、みんな、ほんとうに《・・・・・》偉大なところのある行為を見るかするかだったんですもの。あたしの伯父のN***公爵もヴァグラムの戦いにいらしたのよ」
「サーベルをふりまわすのに頭がいるかしら? それに、あのひとたちはそんなことをしたら、しょっちゅうそんな話ばかりするにきまってるわ」と、マチルドの従姉のサント = エレディテがいった。
「いいわ! あたしにはそういう話が楽しいわ。ほんものの《・・・・・》戦争、兵隊が一万人も死んだというナポレオンの戦争に行けば、勇気のある証拠だわ。危険に身をさらすのは、魂を高め、退屈から魂を救うことになるわ。あたしを崇拝しているひとたちなんて、情けないことに、どうやらその退屈にひたりきっているらしいけれど、この退屈ってものは伝染するわ。あのひとたちのうちに、ひとりでも突拍子もないことをしでかそうという気を起すひとがいるかしら? みんな、あたしと結婚したがってる。結構な話だわ! あたしはお金持だし、お父さまはあたしのお婿さんを引き立てることでしょうから。ほんとに、お父さまがすこしは面白《おもしろ》味《み》のあるお婿さんを捜してくださるといいんだけれど!」
ごらんのとおり、マチルドはものの見かたが鋭いし、明快で、鮮やかだが、そのため言葉づかいに品がない。マチルドの一言が、礼儀正しい連中の目に、汚点として映ることがよくあった。マチルドがこれほどの人気ものでなかったら、口のききかたが派手すぎて女らしい淑《しと》やかさに欠けるなどと、みんなは陰口をきき合ったことだろう。
マチルドもマチルドで、ブーローニュの森に集まる美しい騎士たちに対して、ずいぶん点がから《・・》かったのである。恐怖といってはなまなましすぎる感情になるが、年ごろとしては珍しい嫌《けん》悪《お》の情をもって、マチルドは将来を眺《なが》めていたのだ。
マチルドとしては、なにを望むことができたろう? 財産、名門の家柄《いえがら》、才気、自他ともに認めている美《び》貌《ぼう》、めぐり合せとはいえ、すべてのものが一身に集まっていた。
フォーブール・サン = ジェルマンでいちばん羨《うらや》ましがられている跡取り娘が、ジュリヤンと散歩することに楽しみをいだきはじめたころの気持とは、ざっと以上のようなものだった。マチルドはジュリヤンの気位の高さに驚いた。この小市民の利口さに感心し、《モーリ神父のように司教になれるわ》と、思った。
やがて、マチルドは、自分の考えに対して、ジュリヤンが冗談でなく本気で楯《たて》をつくのを見て、心を惹《ひ》かれるようになった。そのことばかりを考えた。ジュリヤンとの会話を、こと細かに、親友の従姉に聞かせたが、そのときの模様をそっくり伝えることはどうしてもできないと思った。
ふいに彼女は悟った。《まあ、うれしい、あたしは恋している》と、ある日、いいしれぬ喜びに我を忘れて、彼女はつぶやいた。《あたしは恋している、あたしは恋している、まちがいない! あたしの年ごろで、若くて、美しくて、才気のある娘が、恋以外のどこに、強い感動を見つけることができよう? いくらその気になっても、クロワズノワや、ケーリュスや、その他大勢《・・・・・》なんかに恋心がもてるはずはない。あのひとたちは申し分ないし、申し分がなさすぎるのかもしれない。とにかく、あたしにはうんざりだわ》
マチルドは『マノン・レスコー』や『新エロイーズ』や『ポルトガル修道女の手紙』などで読んだ恋の描写を残らず思い浮べてみた。むろん、はげしい恋愛だけが問題なのだ。自分の年ごろの、自分ほどの家柄の娘にとっては、淡い恋愛などふさわしくないと思っていた。アンリ三世やバッソンピエール元帥《げんすい》時代のフランスに見られた、あの英雄的な感情にしか、恋愛の名を与えていなかった。そういう恋愛は障害に出会ってもだらしなくくずれたりするどころか、大きなことをなしとげさせた。《カトリーヌ・ド・メディシスやルイ十三世時代のような、宮廷らしい宮廷がないのは、あたしにとってはほんとうに残念だわ! あたしは、どんな大胆な、どんな偉大なことでもできる気がする。ルイ十三世のような、勇敢な王さまが、あたしの足もとにひざまずいてくださったら、どんなことでもしてあげたろう。トリー男爵がしょっちゅうおっしゃっているように、ヴァンデへお連れし、そこを本拠にして、ご自分の王国を再建なさるようにしてあげる。そうすれば、もう憲章もなくなるし。……ジュリヤンはあたしを助けてくれるだろう。ジュリヤンにはなにが足りないだろう? 名前と財産かしら。あのひとは名をあげるだろうし、財産もつくるにきまってるわ》
《クロワズノワにはなに一つ足りないものはない。でも一生、半ば急進王党で、半ば自由主義者の公爵で過すだけのことだろう。いつも極端を避ける、にえきらない人物、したが《・・・》ってどこへいっても二流の人物《・・・・・・・・・・・・・・》にすぎない》
《企てるときに極端《・・》でないような、偉大な行為ってあるかしら? いざなしとげられてみると、俗人にも可能だと思えてくるものなのだわ。たしかに、あたしの心を占めようとしているのは、そういう奇《き》蹟《せき》をすっかりそなえた恋愛だわ。胸を焼く炎で、それがわかる。神さまはあたしにこのお恵みを授けてくださってもよかったはず。これで神さまもあたしひとりの身にありとあらゆる取り柄を集めてくださったことが、むだにはならないだろう。あたしの幸福はあたしにふさわしいものになる。あたしの一日一日は、前の日となんの変りもなく平凡に過ぎていくこともなくなろう。社会的な身分からみて、あたしとはずいぶんかけ離れた地位の男を進んで愛するわけだから、それだけでも偉大だし大胆なことだわ。ところで、あのひとはいつまであたしにふさわしい男でいてくれるかしら? ちょっとでも弱味を見せたら、あたしはすぐさま見すててしまおう。あたしのような家柄の娘だもの、それに、騎士のような性格の持主だとみんなはいってくれるのだもの(それは父の言葉だった)、そのあたしがばかな女のようなふるまいができるものですか》
《クロワズノワ侯爵などを愛したら、それこそばかな女の役割を演じるようなものじゃないかしら? 従姉妹《いとこ》たちの幸福のやき直しをするようなものだわ。あたしはあんな幸福を心から軽蔑《けいべつ》してるわ。あの情けない侯爵がどういうか、あたしがそれになんと答えるか、はじめからわかっている。あくびをさせる恋愛なんてなんになろう? 尼さんになるのと同じことだわ。あたしも、一番年下の従妹と同じように、結婚契約書に署名することになるだろう。親戚の年寄り連中は、涙を流して喜んでくれるにちがいない。もっとも、前の日に、先方の公証人が契約書につけ加えた最後の条件で気を悪くしてないときの話だけれど》
第十二章 ダントンになるか?
不安の欲求《・・・・・》、これが私の伯母で美しいマルグリット・ド・ヴァロワの性格だった。伯母はやがてナヴァール王と結婚したが、この王は現にアンリ四世の名でフランスを治めている。賭《か》けるという気持、この愛すべき王女の性格の秘密はまさにそれである。十六歳のときから、兄弟たちと仲たがいしたり和解したりしたのもこのためである。ところで、娘はなにが賭けられよう? 娘のもっているいちばん貴重なもの、すなわち自分の評判、一生の尊敬。
シャルル九世の庶子、
ダングレーム公爵《こうしゃく》回想録
《ジュリヤンとあたしのあいだでは、契約書に署名することもないし、公証人もいない。すべてが英雄的で、すべてが偶然から生れる。あのひとは貴族ではないが、その点を除けば、マルグリット・ド・ヴァロワが、当時第一等の人物といわれた貴公子ラ・モールを愛したのと同じことだわ。宮廷の貴公子たちは穏健《・・》主義《・・》の信奉者で、ちょっと風変りな問題を考えただけでも、目の色を変えるけれど、それがこのあたしのせいだろうか? ギリシアとかアフリカにちょっと旅行するのが、あのひとたちにとっては、大胆きわまるふるまいで、それも隊《たい》伍《ご》を組まないでは歩けもしない。ひとりになると、たちまちこわくなる。ベドゥイン族の投《な》げ槍《やり》がこわいのならまだしも、もの笑いの種になるのがこわさに、気もそぞろになってしまう》
《それどころか、あたしのすきなジュリヤンは、ひとりでないと行動しようとしない。あのひとはほんとに特別の才能をもったひとだわ。他人をあてにしたり、助けてもらおうなんて気は全然ない! 他人なんか軽蔑《けいべつ》している。だからこそ、あたしはジュリヤンを軽蔑しないのだわ》
《いくら貧乏でも、ジュリヤンが貴族だったら、あたしの恋はばかげた話で、ありふれた、不《ふ》釣合《つりあい》な縁組ということになる。そんなのはごめんだわ。それじゃ、計りしれないほどの困難に打ち勝つこともないし、暗い不安な事件のいきがかりもないし、はげしい情熱の特徴ともいうべきものはなくなってしまうわ》
ラ・モール嬢はこうしたりっぱな理屈にばかり気をとられていたので、その翌日、クロワズノワ侯爵や兄に向って、うっかり、ジュリヤンのことをほめてしまった。あまりにほめすぎて、相手の気を害した。
兄は思わず声をたてていった。
「あの青年には気をつけたほうがいいね。エネルギーがありすぎるよ。また革命にでもなったら、ぼくたちをギロチンにかける男だぜ」
マチルドはこれに答えるかわりに、さっそく、兄やクロワズノワ侯爵がエネルギーをおそれているのを冷やかした。結局、それは思いがけないものに出会うことをおそれているからだし、思いがけないものに直面して当惑するのがこわいからなのだ。……
「相変らず、いつまでたっても、もの笑いになるのがこわいのね、あなたがたは。お気の毒さま、そんな化けものは一八一六年に死んでいますわ」
二つの政党のある国では、もはや、もの笑いの種などないと、ラ・モール氏はいっていた。
娘にはこの考えかたの意味がわかっていた。そこで、ジュリヤンの敵たちにいうのだった。
「それじゃ、あなたがたは一生びくびくしどおしで、過してしまうことになるわ。あとになってこういわれるでしょう。
それは狼《おおかみ》ではなく、その影にすぎなかった」
マチルドはやがてふたりのそばを離れた。兄の言葉を空おそろしく思い、ひどく不安になった。だが、翌日になると、それが最上のほめ言葉に思われてきた。
《エネルギーなんかすっかり影をひそめてしまった現代だから、あのひとのエネルギーをみんながこわがるのだわ。兄の言葉をあのひとに伝えよう。どんな返事をするかが楽しみだわ。でも、あのひとが目を輝かしているときを見計らうことにしよう。そのときなら、あのひとも嘘《うそ》がいえないんだから》
《あのひとはダントンになるわ!》と、長いあいだぼんやりともの思いに耽《ふけ》ったあとで、マチルドは考えた。《それでいいわ、また革命が起るかもしれないわ。そしたらクロワズノワや兄はどんな役割を演じるかしら? はじめからわかりきってるわ。崇高なあきらめ、英雄的な羊になって、一言もいわずに首をはねられるわけ。死ぬまぎわになってもやっぱり気になることといえば、品の悪い死にかたをしないかということだけ。あたしの好きなジュリヤンなら、すこしでも逃げ出す見込みがあれば、逮捕に来た過激革命派の男の頭を、ピストルでぶちぬくにちがいない。品が悪いなんてことは気にしやしないわ、あのひとなら》
この最後の言葉がマチルドを考えこませた。いやなことが思い出されて、すっかり大胆な気持が消えてしまった。この言葉が、ケーリュスやクロワズノワやリュスや兄の冗談を思い起させたのだ。この連中は口をそろえて、ジュリヤンの坊主くさいところ《・・・・・・・・》を槍玉にあげた。いかにも謙遜《けんそん》で猫《ねこ》っかぶりだというのである。
彼女は喜びに目を輝かせながら、急につぶやいた。《けれど、みんながあんなふうにしょっちゅう苦々しげに冗談をいうのは、お気の毒ながら、ジュリヤンがこの冬出会ったひとのうちでいちばんすぐれたひとだという証拠だわ。欠点や滑稽《こっけい》なところがあっても、いいじゃないの。あのひとには偉大なところがある。みんなはそれが気に食わないのだわ、もっとも、みんなふだんは人がいいし、寛大な気持をもっているのだけれど。たしかに、あのひとは貧乏だし、神父になるために勉強したにはちがいないが、みんなのほうは騎兵隊長で、勉強なんかしないですんだわけだし、そのほうが楽にきまっているわ》
《あのひとはいつも黒服を着ているし、坊さんくさい顔つきをしているけれど、お気の毒にも、そうしなければ飢え死しなければならないのだもの。だから、ずいぶん不利な立場だけれど、やっぱりあのひとの長所はみんなもおそれている。これはまったくはっきりしている。それに、坊さんくさい顔つきにしても、あたしたちがしばらくふたりきりでいれば、すぐ消えてしまう。それに、みんなのほうだって、なにか気のきいた思いがけない言葉を口にすると、まずジュリヤンをちらっと見るじゃないの。あたしはちゃんと知っているわ。それでいて、みんなは、ジュリヤンがきかれないかぎり、話しかけないってことを、百も承知している。あたしに対してだけだわ、ジュリヤンが口をきくのは。あたしが高潔な魂をもっていると思っているからよ。みんなが異説をもちだせば、それに対して答えはするが、それもお義理だけの話。すぐうやうやしい態度に戻《もど》ってしまう。あたしとなら、幾時間でも議論するし、あたしがすこしでも反対しているあいだは、自分の考えに自信がもてないんだわ。とにかく、この冬は、鉄砲玉騒ぎはなかったのだし、言葉でひとの注意をひくくらいのことしかできなかった。ところで、お父さまはりっぱなおかただし、うちの財産をずいぶんおふやしになるにちがいないけれど、ジュリヤンには敬意をはらっていらっしゃる。ほかのひとはみんなジュリヤンを目の敵《かたき》にしているが、だれひとりあのひとを軽蔑できない。お母さまの信心深いお友達は別として》
ケーリュス伯爵には馬道楽があった。いやそんなふりをしているのかもしれない。いつも馬小屋で暮し、そこで食事をすることがよくあった。この道楽に加えて、けっして笑わないという癖をもっているので、伯爵は友達のあいだでひどく畏《い》敬《けい》されている。この小グループの鷲《わし》だった。
その翌日、このグループがラ・モール夫人の長《なが》椅子《いす》のうしろに集まると、ジュリヤンが居合せなかったので、ケーリュス伯爵は、クロワズノワとノルベールの助太刀をえて、さっそく、ジュリヤンに熱をあげているマチルドを、さんざん攻撃した。それも、そういう話になったからではなく、ラ・モール嬢の姿を目にすると、いきなりはじめたのである。マチルドは計略をすぐさま見破り、おもしろいことになったと思った。
《みんな、ぐるになって、ひとりの天才を向うにまわす気ね。十ルイの収入さえなく、きかれないかぎりはこの連中に返事もできない立場なのよ。みんなは黒服姿のあのひとをおそれている。あのひとが肩章《けんしょう》でもつけたら、どういうことになるかしら?》
マチルドがこれほど鮮やかにふるまったことはなかった。攻撃がはじまると、さっそく、ケーリュスとその一派に、冗談まじりの皮肉を浴びせかけた。これらの派手な士官たちのはげしい嘲笑《ちょうしょう》の種がつきたところを見計らって、マチルドはケーリュス氏にいった。
「明日にでもフランシュ = コンテの山中の田舎紳士が、ジュリヤンは自分の隠し子だってことに気がついて、あのひとに家名と数千フランの金をくれるとしたら、どうでしょう? 六週間もたてば、あのひとはみなさんがたと同じように口ひげを生やしますわ。六カ月もたてば、みなさんがたと同じように軽騎兵の士官になりますわ。そうなれば、あのひとの性格が偉大なのも、笑いものにはされなくなるでしょう。おや、未来の公爵さま、あなたはあの古くさい下手な理屈をもちだすより仕方がなくなりますわね。宮廷の貴族は田舎の貴族より上だとおっしゃるのでしょう?でも、もしあたしがもっとやりこめたら、どうします? 意地悪く出て、ジュリヤンのお父さんをスペインの公爵としてみましょう。ナポレオン時代をブザンソンで捕虜として過し、良心の呵責《かしゃく》から、臨終の床でジュリヤンを認知したとしたら、あなたはぐうの音も出ないじゃありませんか」
いわれもないのに、名門の出だなどという仮定を立てるのは悪趣味だと、ケーリュス氏やクロワズノワ氏は思った。ふたりはせいぜいマチルドの議論をその程度にしか見なかった。
ノルベールは妹から抑えられているとはいえ、この言葉の意味があまりにもはっきりしすぎているので、気むずかしい顔つきになった。だが、それは正直なところ、ふだんの、人のよい笑顔にはいかにも不釣合だった。彼は思いきって二言三言いってみた。
「加減でもお悪いんじゃなくて、お兄さま」と、マチルドはちょっと真顔になって答えた。「冗談をいってるのに、お説教するなんて、よっぽど具合がお悪いのね。
お説教なんて、お兄さまが! 知事の椅子でもねらってらっしゃるの?」
マチルドはケーリュス伯爵の怒った顔つきも、ノルベールの不《ふ》機《き》嫌《げん》も、クロワズノワ氏の黙りこんだ失望の姿も、すぐに忘れてしまった。今しがた自分の魂をとらえたばかりの、容易ならない問題について、なんとか覚悟をしてかからなければならなかったからである。
《ジュリヤンはあたしに対して、かなり誠意を見せてくれる。あの年ごろで、財産もろくになく、あのひとみたいに驚くべき野心に悩まされていたら、女の友達がほしくなるでしょう。あたしはそういう友達かもしれないが、あのひとがあたしに愛情をもっているとは思えない。あのとおり大胆な性格なのだから、その気になれば愛の告白くらいできたはずだ》
この不安、この自分自身との問答が、このときから、たえずマチルドの心につきまとうようになった。また、そのために、ジュリヤンから話しかけられるたびごとに、自分に都合のいい新たな理屈を見つけ出すのだった。おかげでマチルドをあれほど悩ましがちだった退屈も、どこかへ行ってしまった。
やがては大臣ともなって、聖職者に森林を返してくれるかもしれない才人の娘として、マチルドは聖心会の修道院にいたころ、このうえもなくちやほやされた。こういう不幸はけっして償われるものではない。家柄とか財産とかいう、あらゆる有利な点がそろっているから、だれよりも幸福なはずだと、教えこまれてきた。これが王侯の退屈とその乱行の原因である。
マチルドもまた、こういう考えの因果な影響から免れることができなかった。どんなに頭がよくても、十やそこらで、修道院全体の、しかも一見いかにももっともなお世辞をいわれたら、これに乗せられずにはいられない。
ジュリヤンに恋しているときめたときから、マチルドは退屈しなくなった。毎日、彼女ははげしい恋愛をしようと決心したことを、自分ながらよいことだと思った。《この遊びには、ずいぶん危険がともなうかもしれない。結構なことだわ! どんなに結構なことだかしれないわ!》
《はげしい恋愛もしないで、十六から二十まで、人生の花といわれる時期を、退屈に悩みながら過してしまった。あたしは早くも自分のいちばん楽しい年月を失ったわけだわ。楽しみといえば、お母さまのお友達がわけのわからぬおしゃべりをするのを、聞かされるだけだった。あのかたたちだって、一七九二年にコブレンツでは、今ほど口やかましいことはおっしゃらなかったそうだけれど》
ジュリヤンが自分に長いあいだじっと注がれているマチルドのまなざしの意味を察しかねたのは、マチルドがこうした大きな不安に悩んでいるときなのだった。ノルベール伯爵の態度にはますます冷淡さが増し、ケーリュス、リュス、クロワズノワ諸氏の態度には、一段と横柄《おうへい》さが加わってきたことは、ジュリヤンにもわかったが、そんなことには慣れてしまっていた。ジュリヤンが夜会で身分不相応に派手なふるまいをしたあとでは、ときどきこういう不幸な目にあわされるのだった。マチルドが特別の好意を見せてくれるのでなかったら、それにまた、彼自身この夜の集まりに好奇心をいだいているのでなかったら、口ひげを生やしたこれらの派手な青年たちが、晩餐《ばんさん》のあとで、ラ・モール嬢のお供をして庭に出るとき、のこのこついていったりはしなかったろう。
《そうだ、もう認めまいとしても認めざるをえない》と、ジュリヤンは思った。《ラ・モール嬢は妙な目つきでおれを見つめる。だが、じっとおれに注がれるあの青い美しい目が、いかに気安さから見開かれていようとも、いつも、あのまなざしの奥には、探るような、冷やかな、意地の悪いところが読み取れる。あれが恋のまなざしだろうか? レーナル夫人のまなざしとは、なんという違いだろう!》
ある日、晩餐のあとで、ジュリヤンはラ・モール氏について書斎にはいったが、すぐに庭へ引き返してきた。用心もせずにマチルドのグループのところへ近づくと、大声でしゃべっているところだった。マチルドが兄をいじめていた。ジュリヤンは二度まで自分の名がはっきりと口にされるのを聞いた。彼が姿をあらわすと、急に黙りこんでしまった。みんなはこの沈黙を破ろうとはしたが、どうにもならなかった。ラ・モール嬢と兄とは、すっかり興奮していて、ほかの話題を見つけるどころではない。ケーリュス、クロワズノワ、リュスの諸氏のほかに、その友人がもうひとりいたが、いずれもジュリヤンの目には氷のように冷やかに思えた。彼は立ち去った。
第十三章 陰謀
とりとめもない話も、偶然のめぐり合いも、空想力の豊
かな男にとっては、胸に多少の情熱があるなら、明白この上ない証拠となりかわるものである。
シラー
その翌日、ジュリヤンはまた、ノルベールと妹が自分の話をしているところに行き合せた。彼がやってくると、昨日と同じように、死のような沈黙が生れた。彼の疑惑はもはやとめどがなくなった。《あの愛《あい》想《そ》のいい若者連中はおれをなぶりものにしようとたくらんだのかな? たしかに、ラ・モール嬢が一介の秘書などに恋をしかけるということより、そのほうがずっとありそうなことだし、自然な話だ。そもそも、あの連中に情熱なんてあるものか。ひとをかつぐのが、あの連中のお得意なのだ。おれが少々しゃべりかたがうまいもんで、嫉《しっ》妬《と》している。嫉妬するというのがまた、あの連中の弱点でもある。こう考えれば、なにもかも説明がつく。ラ・モール嬢は、おれに一目おいていることを、おれに納得させようとしているが、それはつまり、おれを見世物にして、自分の婚約者に見せようという魂胆からにすぎないのだ》
このやりきれない疑惑がジュリヤンの心境を一変させた。こう考えると、自分の心に恋が芽生えたことにも気がついたが、それを押し殺してしまうのはなんでもなかった。恋心とはいっても、それはマチルドの世にもまれな美《び》貌《ぼう》、というよりはむしろ女王のようなふるまいと、すばらしい衣裳《いしょう》に惹《ひ》かれているだけのことだった。この点では、ジュリヤンもやはり成上り者だった。利口な田舎者が、上流中の上流社会に出てきて、いちばん驚くのは、たしかに、社交界の美しい女であるらしい。ジュリヤンがこれまでもの思いに耽《ふけ》ったのは、マチルドの性格のせいではなかった。彼もばかではないから、こんな性格など自分にはわからぬものだとは承知していた。どうやら、ジュリヤンの目につくものは、外観だけにすぎなかったらしい。
たとえば、どんなことがあろうとも、マチルドは日曜にミサを欠かすようなことはなかった。いや、ほとんど毎日、母のお供をしてミサに出かけた。ラ・モール邸のサロンで、だれかが、不用意にも、場所柄を忘れて、国王とか教会の尊厳(ほんとにそうかどうかはとにかく)を、いくら遠まわしにとはいえ、冒涜《ぼうとく》するような言辞を弄《ろう》したとしたら、マチルドはたちまち氷のような態度になる。鋭いまなざしが、古い祖先の肖像画《しょうぞうが》に見られるような、冷然たる高慢な表情をおびるのだ。
だが、ジュリヤンは、ヴォルテールの本のなかでも、いちばん哲学的な本を、一、二冊、マチルドが自分の部屋にもっていったままでいるのをつきとめている。ジュリヤン自身も、装幀《そうてい》の見事な豪華版の幾冊かをよく盗み出していた。並んでいる本のあいだをすこしずつすかせて、もちだした本が抜けているのを隠しておいたのだが、やがて、ほかにもヴォルテールを読んでいるものがいることに気がついた。彼は神学校時代の狡猾《こうかつ》な方法を用い、ラ・モール嬢の興味をひきそうだと思う本に馬の毛のきれっぱしをのせておいた。それらの本は数週間も見えなくなるのだった。
ラ・モール氏は、出入りの本屋が回想録《・・・》といえばいかがわしい《・・・・・・》ものまでも片っぱしから届けてよこすのに腹をたてて、ジュリヤンに命じて、多少とも興味のある新刊書は全部買いととのえておくようにさせた。だが、害毒が家族のものにまで及んではいけないというので、侯爵《こうしゃく》自身の部屋にそなえつけてある小さな書棚《しょだな》にそれらの本を並べておくようにと、秘書はいいつけられていた。やがて、彼はこれらの新刊書がすこしでも国王や教会の威厳に反するようなものであると、たちまち見えなくなってしまうのを確かめた。むろん、読むのがノルベールであるはずはなかった。
ジュリヤンはこの実験の結果を大げさに考えて、ラ・モール嬢にマキアヴェッリ流の腹黒さを見た。この悪辣《あくらつ》と思いこんでいるところが、ジュリヤンには魅力に思えた。マチルドのもっている唯一《ゆいいつ》の精神的な魅力であるような気がした。偽善や道徳めいた話にあきあきしていた彼は、こんな極端な考えかたまでするようになっていた。
彼は恋心に惹かれたというより、みずから空想をかき立てていた。
ラ・モール嬢の優美な身体《からだ》つき、品のいい衣裳、白い手、美しい腕、disinvoltura のある動作を、一生懸命思い起してみてはじめて、ジュリヤンは自分が恋していることに気がついた。そうなると、その魅力をこの上もないものにしようとして、カトリーヌ・ド・メディシスのような女だと思ってみた。ジュリヤンが勝手にきめこんでいるマチルドの性格なら、どんな深刻さも、悪辣さもあてはまらないことはなかった。これこそ、かつて少年のジュリヤンが感心したマスロンとか、フリレールとか、カスタネードとかいった連中の理想だった。つまり、彼にとってはパリの理想だった。
パリ人の性格に、深刻さとか悪辣さがあると思うことくらい、滑稽《こっけい》なことがあろうか?
《あの三人組《・・・》はどうやらおれをばかにしているらしい》と、ジュリヤンは考えた。マチルドのまなざしに答えるジュリヤンのまなざしが、暗い冷やかな表情をおびたのに、早くも気がつかないようでは、ジュリヤンの性格をろくに知らないことになる。驚いたラ・モール嬢が、二、三度進んで好意のあかしを見せると、辛辣な皮肉ではねつけられた。
この令嬢は生れつき冷たい人間で、退屈しているし、才気に敏感なだけに、急に相手から妙な態度に出られると、刺激されて、もちまえのかっとなる性格から、のぼせ上がってしまった。だが、マチルドの性格には、自尊心も多分にある。自分の幸福のすべてを他人に左右させるという気持が芽生えると、暗い悲しみを覚えた。
ジュリヤンはパリに出て以来、すでにかなり目が肥えていたから、それが退屈に根ざす、興ざめの悲しみでないことを見分けた。マチルドは前のように、夜会とか芝居といった、あらゆる種類の娯楽を追い求めようとはしないで、むしろこれを避けるようになっていた。
フランス人の歌う音楽には、マチルドはやりきれないほど退屈していた。それにもかかわらず、オペラのはねるときに顔を出すのを義務と心得ているジュリヤンは、マチルドがしょっちゅうだれかに連れて来てもらっていることに、気がついた。いつもはどんな動作をするにも申し分のないほどの節度が見られたのに、どうやらそれも多少失われてきたように思われた。ときどき、男の友達に答える場合でも、あまりにきつすぎて相手を侮辱するような冗談を浴びせることがあった。クロワズノワ侯爵はきらわれているらしい。《相手がいくら金持だとはいえ、この娘をおっぽりだして帰ってしまえばいいのに、そうしないところをみると、この男もぞっこん金にほれこんでいるらしい》と、ジュリヤンは思った。彼のほうは、男の誇りを侮辱するような仕打ちに腹をたて、マチルドに対してますます冷淡に構えた。無礼な返事をすることさえよくあった。
マチルドの見せる好意にひっかかるまいとは決心しているものの、その好意に疑う余地がないと思われる日もあった。すると、ジュリヤンも目が肥えてきているから、相手を美しいと思い、ときどき当惑してしまうことがあった。
《こういう上流社会の若い連中は、要領もいいし、辛抱強いときている。経験の浅いおれは打ち負かされてしまうかもしれない。旅行に出よう、そしてこんなことにはけりをつけなくてはいけない》と、彼は思った。ちょうど、侯爵が下ラングドック地方にもっている小さな地所と家屋の管理を任せられたところだった。出かける必要があった。ラ・モール氏はしぶしぶ承知した。高遠な野心のことがらを別とすれば、ジュリヤンは侯爵にとって第二の自分になっていた。
《結局、あいつらはおれをやっつけることができなかったわけだ》と、ジュリヤンは出発の準備をしながら考えた。《ラ・モール嬢があの連中に浴びせる冗談は、本気からなのか、おれに信頼感を起させるためなのかはわからないが、とにかくおれにはおもしろかった》
《みんながしめし合せて材木屋の小せがれにかかってきたのでないとすれば、ラ・モール嬢の態度は説明がつかない。だが、クロワズノワにしたって、すくなくともおれと同じくらい、あの態度には合《が》点《てん》がいかないだろう。たとえば、昨日がそうだ。愉快な話だが、あの娘は本気になって腹をたて、貧乏で平民のおれとは逆に貴族で金持の青年を、不愉快な目にあわせた。これはおれに対する好意からなのだ。これはおれの勝利のうちでも最も輝かしい勝利だ。郵便馬車に乗って、ラングドックの平原をかけまわりながら、いい気持で思い出せるわい》
彼は旅行に出るのを秘密にしておいたが、マチルドは、彼が次の日にパリを発《た》ち、しかも長いあいだ留守になることを、当人以上によく知っていた。彼女は頭が割れるように痛い、サロンのむせ返る空気でますますひどくなるという口実をもちだした。そして、長いあいだ庭を散歩し、ノルベールや、クロワズノワ侯爵、ケーリュス、リュスなどラ・モール邸の晩餐《ばんさん》に来た何人かの青年たちに、辛辣きわまる皮肉を浴びせかけて、追い払ってしまった。彼女は妙な目つきでジュリヤンを見つめていた。
《この目つきはお芝居かもしれないが、どういうわけで、あんなせわしい息づかいやあんな取り乱しかたをするのだろう? ふん! このおれにそんなことがわかるはずはない。なにしろ、相手はパリでいちばんすばらしい、いちばん利口な女なのだ。おれはうっかりこのせわしい息づかいに動かされかけたが、どうせ、ひいきにしているレオンチーヌ・ファイにならってきたんだろう》
ふたりきりのままだった。目に見えて、話に身がはいらなくなってきた。《たしかに、ジュリヤンはあたしのことなんか、なんとも思ってやしない》マチルドはすっかりみじめな気持になって、そう思った。
ジュリヤンが引きとろうとすると、マチルドはその腕をぎゅっと握りしめた。
「今晩、お手紙を差し上げるわ」といったが、その声はすっかり変っていて、いつもの声音とは思えなかった。
この様子がたちまちジュリヤンの心を動かした。マチルドは言葉を続けた。
「お父さまはあなたのお仕事ぶりを感心していらっしゃるわ。明日お出かけになってはい《・》けません《・・・・》。なにか口実を見つけてください」そういい終ると、彼女は小走りに走り去った。
その身体つきはかわいらしかった。これ以上美しい足をした女がいようとは思えない。走り去る姿のよさにジュリヤンは見とれた。しかし、彼女の姿が完全に見えなくなったとき、ジュリヤンは今度はどういうことを考えたか、おわかりになるだろうか? 彼女がい《・》けません《・・・・》という言葉を口にしたときの、命令口調に腹をたてたのだ。ルイ十五世もやはり、臨終のとき、主治医がうっかり口にした、い《・》けません《・・・・》という言葉に激怒したといわれる。もっともルイ十五世は成上り者ではなかったわけである。
それから一時間して、従僕《じゅうぼく》がジュリヤンに一通の手紙を渡した。要するに、恋の告白だった。
《文章はあまりきざではない》ジュリヤンはつとめて文学的な批評を加えたりして、うれしさから、頬《ほお》がこわばり、思わず笑いたくなるのを抑えようとして、そうつぶやいた。
《おれもとうとう》と、突然、ジュリヤンははげしい感動をこらえかねて叫んだ。《あわれな百姓のおれが、貴婦人から恋の告白を受けたわけか!》
《おれの立場は悪くないぞ》と、できるかぎりうれしさを抑えながら、つけ加えた。《おれは自分の威厳を保つことができた。恋しているなどと、おれからはいいださなかった》彼は筆跡を調べはじめた。ラ・モール嬢の字体はなかなかきれいなイギリス風の字体だった。彼はうれしさをまぎらわすために、なにか別のことに気を使わないではいられなかったのだ。さもないと、そのうれしさに我を忘れそうだったからである。
「お発ちになるとお聞きして、お話ししないではいられなくなりました。……もうお目にかかれないのかと思うと、たまらない気持なのです」
まるで発見でもしたように、ジュリヤンの頭のなかである考えがひらめいた。調べかけた手紙もそっちのけとなり、うれしさがますますつのった。《おれはクロワズノワに勝ったのだ》と、彼は叫んだ。《くそまじめな話しかできないこのおれが! あいつはあんなに美男子なのに! 口ひげも生やしているし、粋《いき》な軍服を着ている。うまいときに、気のきいた、味な言葉をいつでも口にできる男なのだ》
ジュリヤンには、いい知れないほどの楽しいひとときだった。彼は幸福に酔《よ》い痴《し》れて、あてどもなく庭をさまよった。
やがて、事務室に上がっていき、ラ・モール侯爵にお目にかかりたいといって、とりついでもらった。侯爵はさいわい在宅だった。ノルマンディーから来た消印のある書類を二、三見せて、ノルマンディーの訴訟事件のために、やむをえずラングドック行きは延期せざるをえない理由を、わけなく説明してみせた。
「きみが出かけないのはありがたいよ」と、事務の話がすむと、侯爵はいった。「きみの《・・・》顔を見ていたいんでね《・・・・・・・・・・》」ジュリヤンは出てきたが、その言葉が、気にかかった。
《ところが、このおれはあのひとの娘を誘惑しようとしているのだ! クロワズノワ侯爵との結婚もおそらくできなくなるだろう。侯爵はこの結婚を未来の楽しみとしているのに。自分は公爵になれなくても、せめて自分の娘だけは、宮中で腰掛にすわれる公爵夫人の身分にしてやりたいと思っているのだ》ジュリヤンは、マチルドの手紙も、侯爵に延期を申し出たことも無視して、ラングドックへ出発しようかと思った。だが、この良心のひらめきもすぐに消えてしまった。
《おれはなんというおひとよしなのだ! 平民のおれが、こんな身分の高い家族を気の毒に思うのか! ショーヌ公爵から召使などと呼ばれるおれではないか! 侯爵はどんなことをして財産をふやしているというのだ。翌日政変がありそうだと宮中で聞こうものなら、公債を売りに出す男だ。ところが、このおれは無慈悲な神さまのおかげで、最下層の身分に落されたんだ。気高い心には恵まれたものの、年収千フランももらえない。つまり、パンにありつけないんだ、そうだ、まさにパン《・・・・・》にありつけないんだ《・・・・・・・・・》。そのおれが、目の前に楽しみを出されて、これを受けつけないというのか! しがない生活という、焼けつく砂《さ》漠《ばく》を苦労して横切る、このおれの前に、清水《しみず》があらわれて、喉《のど》のかわきをいやしてくれるというわけだ! そうとも、おれはそれほどばかじゃない。人生なんて、いってみれば、利己主義の砂漠じゃないか。だれもが自分本位さ》
そこで、ラ・モール夫人、とりわけその友達の貴婦人たちが自分に向ける、いかにも軽《けい》蔑《べつ》しきったまなざしを思い浮べた。
クロワズノワ侯爵に勝つという喜びが、目覚めた良心を完全に打ち負かした。
《あの男の怒った顔が見たいものだ! 今なら確実にお突きをくらわせることができるのだ》そう思って、彼は第二のお突きの構えをしてみた。《これまでは、卑怯《ひきょう》にもすこしばかりの勇気をやたらにふりまわすえせ学者にすぎなかった。この手紙をもらった以上、もう対等だぞ》
《そうだ》限りない喜びにひたりながら、ゆっくりとつぶやいた。《侯爵とおれの値打が秤《はかり》にかけられて、ジュラのしがない材木屋の小せがれが勝ったのだ》
《うんよし、返事の署名が見つかったぞ》と彼は叫んだ。《ラ・モールのお嬢さま、わたくしが身のほどを忘れるなどとお思いにならないでください。あなたは材木屋の小せがれのために、聖王ルイのお供をして十字軍に加わった、あの有名なギー・ド・クロワズノワの子孫を裏切ろうとしていらっしゃるのです。このことをご納得がいくまで、十分に思いしらせてあげます》
ジュリヤンはうれしさを抑えることができなかった。やむをえず庭へ降りていった。鍵《かぎ》をかけて閉じこもっていた自分の部屋は、あまりにも狭すぎて、息づまる思いがしたのだ。
《おれはジュラのしがない百姓なのだ》と、彼はしきりにくり返した。《いつもこのいやな黒服をまとっていなければならないのだ!まったくのところ、もう二十年早かったら、おれもあの連中と同じように軍服を着ていたところだ! あのころなら、おれみたいな男は殺されているか、三十六歳で将軍《・・・・・・・》になっていたのだ》手に握りしめている手紙が、彼に英雄のような姿勢と態度をとらせた。《今となっては、たしかに、黒服を着れば、四十歳で、ボーヴェの司教さまのように、十万フランの給料と青綬章《コルドン・ブルー》がもらえる》
《そうだ》と、彼はメフィストフェレスのような笑いを浮べながら、つぶやいた。《おれはやつらより利口なのだ。現代向きの制服を選ぶことを心得ているからな》そう思うと、自分の野心と聖職者の衣に対する執着がいよいよ深まるのを感じた。《おれより素姓《すじょう》が卑《いや》しいのに、勢力をふるった枢《すう》機《き》卿《けい》がいくらでもいるではないか! たとえば、おれと同郷人のグランヴェルがそうだ》
次第にジュリヤンの興奮はおさまった。用心深い気持が頭をもち上げた。自分の師匠のタルチュフのようにつぶやいた。その役割はそらで覚えているのだ。
ああいう言葉も、もっともらしい策略かもしれない。
………………………………………
わたしのあこがれ求めているあの女《・・・》が、
愛のしるしを、すこしなりとも、はっきり見せてくれ、
言葉に偽りのないことを明かしてくれないかぎりは、
いかに甘い言葉でも、うっかり心は許せない。
『タルチュフ』第四幕第五場
《タルチュフもまた女のために身を滅ぼした、なかなかの男だったのに。……おれの返事はだれかに見られるかもしれない。……それにはこういう手があるぞ》と、残忍な口調になるのを抑えながら、ゆっくりとつけ加えた。《書出しに、あのすばらしいマチルドの手紙のなかでいちばんはげしい文句を、そのまま使ってやろう》
《そうだ、だがクロワズノワ氏の従僕四人が、おれに飛びかかって、もとの手紙を奪いとるかもしれない》
《そんなことがあるものか、おれは十分武装しているし、それに、実験ずみだが、おれは従僕どもにピストルをぶっ放す癖がある》
《そうだ、あいつらのうちには勇敢なのがひとりいる。あいつなら、おれに飛びかかってくる。どうせナポレオン金貨百枚をもらう約束ができてるんだ。おれはこいつを殺すか負傷させるかだ。敵にとっては、それこそもっけのさいわい、待ってましたというところなんだ。おれは牢《ろう》屋《や》にぶちこまれても、しごく当然な話。軽罪裁判所に引っ立てられる。あくまで正義と公平にもとづく判決があって、おれはポワシーの監獄に送られ、フォンタン氏やマガロン氏のお仲間いりをするわけだ。そこで、四百人のごろつきどもと雑魚寝することになるが。……おれはそういう連中に多少は同情するだろう!》そう叫ぶと、彼は荒々しく立ち上がった。《ところが、やつらは第三階級の人間をつかまえたときに、同情心を起すものか!》ラ・モール氏に対する感謝の気持は、この言葉とともに消え失《う》せた。なんとしても、それまでは、心苦しくてしかたがなかったのだ。
《そうあわてないで、貴族のみなさん、そんなマキアヴェッリ流の小細工はわかっていますよ。神学校のマスロン神父やカスタネード神父だって、これほどうまくはやれなかったでしょうが。みなさんはわたしから挑戦状《・・・》をお取りあげになる。わたしはコルマールのカロン大佐の二の舞というわけですね》
《だが、ちょっとお待ちください、みなさん。わたしはこののっぴきならぬ手紙を小包に厳封して、ピラール神父に送り、預かってもらいます。あのひとは誠実なひとだし、ジャンセニストだ。だからこそ金銭などには目がくらまない。それはそうだが、手紙を開けてみるだろう。……この手紙はフーケのところへ送るとしよう》
正直なところ、ジュリヤンは凶暴な目つきをし、ものすごい形相になっていた。それは明らかに犯罪意識に燃えた顔だった。社会全体を向うにまわして戦う不幸な男の姿だった。
《武器をとれ《・・・・・》!》と、ジュリヤンは叫んで、屋敷の玄関の石段を一足とびに飛び降りた。街角の代書人の店先に姿をあらわした。相手はおそれをなした。《写してくれたまえ》と、ジュリヤンはいって、ラ・モール嬢の手紙を渡した。
代書人が写しているあいだに、ジュリヤンのほうもフーケに手紙を書き、大事なものだから保管してくれと頼んだ。《待てよ》と、ジュリヤンは書く手を止めて考えた。《郵便局の検閲係がわたしの手紙を開封して、みなさんのほしがっている手紙を、渡してしまうかもしれませんね。……そうはいきませんぞ、みなさん》彼は新教徒の本屋へ行って、大きな聖書を買い、その表紙のなかにマチルドの手紙をきわめて巧みに隠し、すっかり包装させた。その小包は、パリでは全然名前を知るよしもないフーケのもとで働いている職人あてに、乗合馬車で発送された。
そうしておいて、彼は喜び勇んでラ・モール邸に戻《もど》った。《今度はふたりのことだ《・・・・・・・・・・》》鍵をかけて部屋に閉じこもり、上着を脱ぎすてながら、そう叫ぶと、マチルドあてに書きだした。
《これはまたどうしたことでございます、お嬢さま、ラ・モール家のお嬢さまともあろうおかたが、お父上の従僕アルセーヌを通じて、ジュラのしがない材木屋の小せがれなどに、あまりにもおやさしいお手紙をお渡しになるとは。きっと正直者のわたくしをおからかいになるおつもりでございましょう……》そこで、さきほど受け取った手紙のなかから、いちばんはっきりした文句を書き写した。
ジュリヤンの手紙は、ボーヴォワジ従男爵の外交的慎重さにも匹敵するものだった。まだ十時にすぎなかった。ジュリヤンのようなしがない人間には、まったく味わったことのないことだが、彼は幸福と自信に酔いしれて、イタリア・オペラへ行った。友人のジェロニモの歌を聞いた。音楽がこれほどまでに彼を感激させたことはなかった。神になった気持だった。
第十四章 乙女心
どんなに思い悩んだことでしょう! いくたび眠れぬ夜を過したことでしょう! 神さま、あたくしはさげすまれる女になるのでしょうか? あのひとまでがあたくしを軽蔑《けいべつ》することになるでしょう。でも、あのひとは発《た》ってしまうのです。遠くへ行ってしまうのです。
アルフレッド・ド・ミュッセ
マチルドは手紙を書いたとき、心のなかで思い悩まなかったわけではない。ジュリヤンに好意をもちはじめた動機はどうあろうと、この好意は、物心ついてこのかた彼女の心を支配してきた自尊心を打ち負かしてしまった。この高慢で冷たい心が、はじめてはげしい感情のとりこになったのだ。しかし、自尊心は抑えられても、自尊心から生れた習慣まではすてきれなかった。ふた月にわたる心の争いと、はじめて覚えた感動が、マチルドの精神状態を、いわば、すっかり変えてしまった。
マチルドは幸福を捜しあてたような気がした。幸福の予感というものは、すぐれた知能をかねそなえた勇気のある人間に絶対的に力をふるうものだが、それは誇りや、あらゆる世間並の義務感と、長いあいだ戦わなければならなかった。ある日、マチルドは、まだ朝の七時だというのに、母の部屋にはいっていき、ヴィルキエに引きこもりたいから許してほしいといった。侯爵《こうしゃく》夫人はそれに答えようともしないで、もう一度お休みとすすめた。これが世間並の分別と、因習的な考えかたに対する考慮の、最後のあがきだった。
ケーリュスやリュスやクロワズノワのような連中が神聖視している考えかたを傷つけたり、これにさからったりすることをおそれる気持は、マチルドにはほとんどなかった。こういう連中が自分を理解してくれようとは思えなかった。馬車や地所を買うようなことだったら、この連中に相談したかもしれない。彼女が心からおそれていたのは、ジュリヤンが自分を不満に思っていないかということだった。
《あるいは、ジュリヤンもすぐれた人間の様子をしているだけのことではないかしら》
マチルドは気力のない人間が大きらいだった。自分を取り巻いている美青年たちに対する非難も、その点だけだった。この連中が、流行にはずれたものや、あるいは流行を追っているつもりでいっこう流行にかなっていないふるまいを、片っぱしから上品に冷やかせば冷やかすほど、マチルドにはますますくだらなく思えてくるのだった。
この連中は勇敢ではあるが、それだけのことだった。《それに、どんなときに勇敢だというの? 決闘のときね。でも、決闘は今では儀式にすぎないわ。なにもかも、はじめからわかっている。倒れたときに、どういわなければならないかということまで。芝生の上に横たわって、手を胸にあて、相手に対して寛大な許しの言葉を述べ、美人に一言残さなければならない。その美人も多くは架空の美人だし、さもなければ、疑いをかけられるのをおそれて、男の死んだ日に舞踏会に出かける女なのだわ》
《甲冑《かっちゅう》をきらめかせた騎兵中隊の先頭に立てば、だれだって、危険など問題ではなくなる。けれど、ひとりのときに、奇妙な、思いがけない、ほんとにいやな危険に出会ったら、どうだろう?》
《残念なことに、家柄からいっても、気概からいっても、りっぱな人物がいたのは、アンリ三世の宮廷なのだわ! ほんとに、もしジュリヤンがジャルナックなりモンコントゥールなりの戦役に従軍していたら、あたしはもうなんの心配もないのだけれど。あの時代はたくましさと力の時代だった。フランス人は人形ではなかった。戦いの日でも、ほとんどなんの屈託もない日みたいなものだった》
《あのころのひとたちの生活は、エジプトのミイラみたいに、だれの場合でも似通った、同じような棺《ひつぎ》に閉じこめられてはいなかった。たしかに、カトリーヌ・ド・メディシスの住んでいたソワソンの屋敷を出て、夜の十一時にひとりで帰ってくるには、今日アルジェあたりに出かけるより、ずっと多くの、ほんとの勇気が必要だったのだ。男の一生は冒険の連続だった。今では文明が冒険を追い払い、もはや思いがけないものはなくなってしまった。そんなものが考えかたにあらわれようものなら、どんなに痛烈にやっつけられることか。そんなものが出来事にでもあらわれようものなら、おそれおののくあまり、どんな卑《ひ》怯《きょう》なことでもやりかねない。恐怖からしたこととなれば、どんな気違いじみたふるまいをしようとも、大目に見られる。見下げ果てた退屈な時代だわ! もしボニファス・ド・ラ・モールが斬《き》られた首を墓石の下からもたげて、一七九三年に、自分の子孫が十七人も、羊のようにおめおめ捕えられて、二日ののちにギロチンにかけられたのをごらんになったら、なんとおっしゃったことだろう? 殺されるとわかっていても、手向いをして、すくなくとも過激革命派の分子を、ひとりやふたりを殺すなんてことは柄が悪いとされていた時代なのだから。ほんとに、フランスの英雄時代、ボニファス・ド・ラ・モールの時代だったら、ジュリヤンのほうが騎兵中隊長にはなっていたろうし、あたしの兄のほうはお行儀のいい若い神父さんになって、行いすました目つきをしながら、口で分別くさい話でもしていたことだろう》
数カ月前まで、マチルドは、ありふれた型をすこしでもはずれた人間にめぐりあえるなどという望みは諦《あきら》めていた。思いきって社交界の二、三の青年に手紙を書いたりして、それをせめてもの楽しみにしていた。こういう大胆なふるまいは、娘にふさわしくないし、はしたない所業なのである。クロワズノワ氏やその父のショーヌ公爵ならびに、婚約が破談になれば、そのわけを聞きたがるにちがいないショーヌ邸のひとびとが、これを知ったら、おそらくはマチルドをいたずら女と見かねない。そのころ、そういう手紙を書いた日は、マチルドも眠れなかった。もっとも、手紙とはいえ、返事を書いたにすぎなかったのである。
今度の場合は、愛していますと、思いきっていえたのだ。マチルドは自分のほうから先《・・・・・・・・》に《・》(なんという空おそろしい言葉だろう!)社会の最下層に属している男に手紙を書いたのだ。
この事情は、露見した場合、一生の恥辱となることは明らかである。母のもとに来る婦人たちのうちで、だれが彼女の肩をもってくれよう? その婦人たちに頼んでどんな文句をいってもらえば、方々のサロンで浴びせかけられるたえがたい軽蔑のほこ先を鈍らせることができるだろうか?
それに、口にするだけでも空おそろしいのに、手紙に書くとは! 書いてはならないこ《・・・・・・・・・》とがある《・・・・》、とナポレオンは、バイレンにおける降伏の知らせを聞いて叫んだ。しかも、ほかならぬジュリヤンが、この言葉を彼女に教えてくれたのだ! まるで、前もって教えさとしてくれたようなものだった。
だが、そんなことは問題ではなかった。マチルドの苦悩には、ほかの原因があった。社交界に大きな衝撃を与え、自分の階級を傷つける以上、軽蔑に満ちた、拭《ぬぐ》い去ることのできない汚点がつくことも忘れて、マチルドは、クロワズノワ、リュス、ケーリュスなどとはまったく別の種類の人間に手紙を書こうとしているのだ。
ジュリヤンの性格の深さ、おし測りがたい《・・・・・・・》ところ《・・・》は、ごく普通の交際をするだけでも、空おそろしいはずだった。しかるに、マチルドはこれを自分の愛人とし、おそらくは自分の支配者にしようとしていたのだ!
《あのひとがあたしをいくらでも自由にできるようになったら、どんなに得意になって勝手なことをいいだすかしれない。それならいいわ、あたしはメデのように、自分にいってきかせよう。「どんなに多くの危険のなかに置かれても、あたしにはやっぱりあたし《・・・》というものがある」》
ジュリヤンは貴族の血統などにはすこしも尊敬をはらっていない、とマチルドは思っていた。それどころか、おそらく、マチルドに対して、すこしの愛情ももっていないかもしれない。
このたえられない疑惑の最後のひとときに、女らしい自尊心が目覚めた。《あたしのような娘の運命は、なにもかも、ひとと違っていなくてはならない》と、マチルドはいらいらしながら叫んだ。すると、幼少のころから吹きこまれてきた自尊心が女の操《みさお》と戦いはじめた。ちょうど、このとき、ジュリヤンの旅行がすべてを急転させたのである。
(さいわい、こういう性格はきわめてまれである)
その夜、だいぶふけてから、ジュリヤンはいたずら気を起して、ひどく重いトランクを門番のところまでおろさせた。しかもラ・モール嬢の小間使に気のある下男を呼んでそれを運ばせた。《こんな手管を使っても、なんの効果もないかもしれない。しかし、うまくいけば、あの娘もおれが出発したと思うだろう》こんな冗談をしておいてから、ジュリヤンはすっかりいい気持になって眠ってしまった。マチルドはまんじりともしなかった。
あくる日、朝早く、人目にたたないようにして屋敷を抜け出たが、八時までには帰ってきた。
ジュリヤンが図書室にはいったかと思うと、ラ・モール嬢が戸口に姿をあらわした。ジュリヤンは返事を渡した。話しかけるのが自分の義務だと思った。すくなくとも、それがいちばん都合がいいわけだったが、ラ・モール嬢はこれに耳をかそうともしないで、出ていってしまった。ジュリヤンはほっとした。なにをしゃべっていいか、わからなかったからである。
《これがすべてノルベール伯爵としめし合せたいたずらでないとなると、あんな身分の高い娘が、おれにとんでもない恋心をいだく気を起したのは、明らかにおれの冷淡きわまるまなざしのせいだということになる。この大きなブロンドのお人形さんにうかうかひきずられて、こちらでも気を起したら、おれはいささか間抜けすぎるわけだ》こんな理屈をこねているうちに、ジュリヤンはこれまでにないほど冷静で打算的になった。
《これから起る戦争では、家柄の誇りがいわば小高い丘のようなもので、あの娘とおれのあいだに陣地を形づくるわけだ。こいつをおとしいれなくてはならない。パリに居残るなんて、まずいことをしたな。これがすべていたずらにすぎないとしたら、出発を延ばしたことは、おれの男を下げ、おれの立場を危険にさらすことになる。出かけたって、なんの危険もなかったわけだ。あいつらがおれをかついでいるなら、おれのほうからかついでやればよかった。あの娘がすこしでも本気でおれに好意をよせているのなら、その好意を百倍にもしてやれたところだ》
ラ・モール嬢の手紙は、ジュリヤンの虚栄心をひどく満足させたわけだった。そのために、いま当面していることがらを鼻であしらいながらも、出かけるほうが有利だということを、本気で考えようともしなかった。
自己の失敗をひどく気にするのが、ジュリヤンの性格のどうにもならない点なのだ。今度の失敗にすっかり気をくさらせ、この些《さ》細《さい》なつまずきに先立つあの嘘《うそ》のような勝利のことなど、ほとんど念頭になくなっていた。すると、九時ごろ、ラ・モール嬢が図書室の戸口に姿をあらわし、ジュリヤンに手紙を投げつけると、逃げ去った。
《どうやら書簡体の小説になりそうだな》と、ジュリヤンは手紙を拾い上げながら、つぶやいた。《敵は誘いの手に出たな。それなら、おれのほうは冷淡と徳義心で向ってやろう》
はっきりした返事が欲しいというのだったが、その高飛車ないいかたに、ジュリヤンは内心ますます愉快になってきた。彼はおもしろがって自分をかつごうとしている連中を、二ページにわたって、煙に巻いておいて、やはりからかうつもりから返事の終りのところで、次の朝出発することにきめたと知らせた。
この手紙を書きおえると、《庭を使って手紙を渡してやろう》と考え、庭に出た。ラ・モール嬢の部屋の窓を見上げていた。
その部屋は二階で、母親の部屋の隣だが、大きな中二階があった。
この二階というのがひどく高いので、ジュリヤンが手紙を手にして、菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の並木の下をうろついていても、ラ・モール嬢の部屋の窓からは見られなかった。きれいに刈りこんだ菩提樹が円天井《まるてんじょう》をつくって、視界をさえぎっているのだ。ジュリヤンは不《ふ》機《き》嫌《げん》になって、つぶやいた。《なんてことだ! また不用意なことをしてしまった! 向うがおれをかつぐ気でいるなら、手紙を手にしている姿を見せるなんて、わざわざ敵を有利にするだけじゃないか》
ノルベールの部屋はちょうど妹の部屋の上にあった。ジュリヤンが菩提樹の刈りこんだ枝でできている円天井から外へ出れば、伯爵とその仲間は、ジュリヤンの一挙一動をうかがうことができたのである。
ラ・モール嬢が窓ガラスのうしろに姿をあらわした。ジュリヤンがちらと手紙を見せると、彼女はうなずいた。ジュリヤンは急いで部屋に駆け上がった。大階段で、ばったり美しいマチルドと顔を合わせた。彼女は落ち着きはらって、目もとに笑いを浮べながら、ジュリヤンの手紙を受け取った。
《あのなつかしいレーナル夫人は、深い仲になって半年たっても、いざおれの手紙を受け取るとなれば、思いのこもったまなざしをしてくれたものだ! たしか、一度だって、目もとに笑いを浮べたりして、おれを見たことはない》
それから先のところは、自分でもそうはっきり考えてみたわけではない。つまらぬことにひかれるのが、はずかしかったのだろうか? 彼は思い続けた。《それにしても、なんという違いようだ! 朝の衣裳《いしょう》の上品なことといい、姿の上品なことといい。三十歩離れてラ・モール嬢を眺《なが》めても、目の肥えた男なら、この娘が社交界でどんな地位を占めているか察しがつくだろう。これこそ、まぎれもない取り柄というものだ》
そんなふうに冗談はいいながらも、ジュリヤンはまだ自分の気持を十分つかんでいなかった。レーナル夫人には、ジュリヤンのために犠牲にすべきクロワズノワ侯爵がいなかったのである。ジュリヤンの競争相手といえば、モージロン家のものが絶えたので、モージロンを名乗っている、例の下劣な郡長シャルコ氏だけだった。
五時に、ジュリヤンは三通目の手紙を受け取った。図書室の戸口から投げこまれたのだ。ラ・モール嬢はまたも逃げ去った。《いくらでも簡単に話し合えるのに、まったく手紙の好きな娘だな》と、ジュリヤンは笑いながら、つぶやいた。《敵はおれの手紙がほしいのだな、これは間違いない、しかも何通もほしいんだ!》今度の手紙は急いで開こうともしなかった。《また口先ばかりの美しい文句が並べてあるのだろう》と思ったが、読んでいくうちに顔が蒼《あお》ざめた。数行しか書いてないのだ。
《お話ししたいことがあるのです。今夜、お話ししなければなりません。夜中の一時が鳴ったら、庭に出てきてください。井戸のそばに園丁の大《おお》梯子《ばしご》がありますから、それを使ってください。あたしの部屋の窓に立てかけて、上ってきてください。月夜ですけれど、かまいませんわ》
第十五章 陰謀か?
大きな計画を立ててから、これを実行するまでの時間というものは、まったくやりきれないものだ! いくたびつまらぬ恐れにとらわれ、いくたび思いとどまろうとするかしれない! 生命《いのち》にかかわることなのだ。――それどころか、名誉にかかわることなのだ!
シラー
《たいへんなことになったぞ》と、ジュリヤンは考えた。《……それにいささかはっきりしすぎている》と、ちょっと考えてから、つけ加えた。《変な話だ! あの美しい令嬢も、図書室で、自由に、ありがたいことに、まったく自由に、おれと話ができるじゃないか。侯爵《こうしゃく》だって、おれから勘定書を突きつけられるのがいやさに、けっしてはいってこようとはしないんだ。どうも変だ! ここにはいってくるのは、ラ・モール氏とノルベール伯爵だけなのだが、ふたりとも、ほとんど一日じゅう家にいやしないのに。ふたりが屋敷に帰ってくる時間を知りたければ、わけないことなのに、あのすばらしいマチルド、王公が婿になっても見劣りがしないほどのマチルドが、このおれにとんでもないむちゃなまねをさせていいというのか!》
《わかりきってるさ、おれを破滅させるか、すくなくともおれをかつごうというのだろう。手はじめに、手紙でおれを破滅させようとした。ところが、おれの手紙には、すきがない。となれば、いいのがれのできぬ明白な現場をとらえるよりしかたがない。あの生意気な若殿連中め、おれまでをそんな間抜けか、うぬぼれものとでも思っているのか。冗談じゃない! 月がさえわたっているのに、高さが二十五尺もあろうという二階へ、梯子《はしご》をかけて上っていけるかい! 隣近所の屋敷からだって、おれの姿を見つけるひまがあるじゃないか。梯子を上っていくおれの格好は、滑稽《こっけい》だろうさ!》ジュリヤンは自分の部屋に戻《もど》ると、口笛を吹きながら、荷物をつくりはじめた。出かけよう、それに返事も出すまいと、決心していた。
だが、賢明にそうは決心したものの、心はいっこう落ち着かなかった。トランクのふたを閉めると、ふいに彼は思った。《もしかして、マチルドが本気だったら! そうなると、おれはマチルドの目から見れば、徹底的な卑《ひ》怯者《きょうもの》の役割を演じることになる。おれには家柄がない。だからこそ、このおれには、すぐれた取り柄が必要なのだ。それも、好都合な推測ではなく、はっきりした行為で十分証明ずみの、現金の取り柄が必要なのだ……》
十五分も考えこんだ。やがて、《そんなことはありえない、といってみたところで、はじまらない。あの娘の目には、おれはあくまで卑怯者として映るだろう。レー公爵の舞踏会では、みんなが、上流社会きっての派手な女性といっていたが、おれはそういう女性を失うばかりではない。公爵の息子でもあり、いずれは自分も公爵になろうというクロワズノワ侯爵を、おれのために犠牲にしてくれようというのに、こんなまたとない喜びさえ味わえなくなる。相手は、おれのもっていないあらゆる長所をそなえた好男子じゃないか。才気を見せるこつは心得ているし、家柄もよし、財産はあるし……》
《この後悔は一生おれにつきまとうぞ。あの女が惜しいのじゃない。女なら、いくらでもいる!
……だが、名誉は一つしかない!
と、老ドン・ディエーグもいっている。しかるに、これはどう見ても間違いない事実だが、今おれははじめて危険に直面しながら、その前で尻《しり》ごみしている。そうさ、はじめてのことだ、ボーヴォワジ氏との決闘は冗談にすぎなかったからな。あれとこれでは大違いだ。おれは召使に撃たれて致命傷を負うかもしれないが、それはたいした危険じゃない。問題は恥をかくかもしれないということだ》
《こいつは容易ならぬことになってきたぞ、おい大将》と、彼はガスコーニュ訛《なま》りの陽気な口ぶりでつけ加えた。《面子《・・》にかかわることなのだ。なんの因果か、おれみたいにどん底に突き落された、しがない人間にとっては、こんな機会はまたとあるまい。そりゃ、これからも女にもてることはあろうが、こんな上流階級の女が相手じゃあるまい……》
彼は長いあいだ考えこみながら、せわしげに歩きまわったり、ときどき、はたと足をとめたりした。その部屋にはリシュリユー枢《すう》機《き》卿《けい》のすばらしい大理石の胸像が置いてあった。それがなんとしてもジュリヤンの目をひいた。この胸像がきびしいまなざしで、彼を見つめているような気がした。まるで、フランス魂の持主なら、当然もっているべき大胆さが、ジュリヤンにないのを咎《とが》めているようだった。《偉大なリシュリユーよ、あなたの時代なら、わたしもためらったりしなかったろう》
しまいに、ジュリヤンは考えた。《最悪の場合を考えて、今度のことが、わなだとしよう。娘にしては、ずいぶんたちの悪い、ずいぶんきわどいやり口だ。おれが黙って引っこむような男でないことはわかっている。だから、おれを殺す必要があろう。一五七四年の、ボニファス・ド・ラ・モールの時代なら、それもよかったろう。だが、今日のラ・モールにそんなことはできっこない。この連中だって、もう昔とは同じじゃない。ラ・モール嬢はひどく羨《うらや》ましがられているんだ! 明日は、サロンというサロンが、この娘の醜聞でわきかえるだろう、それもいい気味だというわけだ》
《召使どもはお互い同士、おれが特別ひいきにされていることを、なんだかんだといっている。おれは知ってるぞ。この耳で聞いたんだ……》
《それに一方、あの娘の手紙がある!……やつらはおれが肌《はだ》身《み》はなさずもっている、とでも思いこんでるかもしれない。おれがあの娘の部屋にいるところをおそって、おれから手紙を奪いとろうとするだろう。相手はふたりか、三人か、四人か、知れたものじゃない。だが、そういう男をどこで見つけてくるのだ? パリのどこに、口の固い下っぱ野郎がいるというんだ? やつらには官憲がこわい。……そうさ! ケーリュスだの、クロワズノワだの、リュスだの、そういう連中ご自身がそうじゃないか。そのとき、やつらに取り巻かれて、おれが間抜け面づらをするところを見て、溜飲《りゅういん》をさげたいという寸法だろう。秘書殿、アベラールの二の舞にご用心!》
《ところで、みなさん、わたしはただではすませませんぞ、顔をねらって打ちますぞ、ファロサルスにおけるカエサルの兵士のように。……ところで手紙のことですがね、これは安全な場所にしまっておけるんです》
ジュリヤンは、あとから来た二通の手紙の写しをとり、図書室にあるヴォルテールの豪華版の一冊のなかに隠し、現物のほうは、自分で郵便局へもっていった。
帰ってくると、《おれはなんという気違い沙汰《ざた》をしようというのだ!》と、愕然《がくぜん》としながら、空おそろしくなってつぶやいた。十五分も、今夜の自分のふるまいをまともに見ないで過したのだ。
《だが、ことわったら、おれはあとになって自分を軽蔑《けいべつ》することになる。一生、このふるまいが自分に対する疑惑の大きな種となるだろう。おれには、そういう疑惑がいちばんつらい不幸なのだ。アマンダの情夫のことで、それは経験ずみじゃないか! はっきりした罪を犯したのなら、まだ楽に自分を許せる気がする。白状してしまえば、あとではくよくよ考えないだろう》
《なんということだ! おれはフランスでも有数の名門の男と張り合うことになるんだ。それなのに、おれのほうから進んで、かぶとを脱いでかかるのか! とにかく、行かないのは卑怯だ。この言葉で万事はきまる》と、ジュリヤンは立ち上がりながら叫んだ。《……それにあの娘はじつにきれいだし》
《もしこれが裏切り行為でないとすると、あの娘は、おれのために、なんという気違い沙汰をすることになるだろう!……もし、かつぐつもりなら、いいですか、みなさん、わたしの出かた次第で、冗談がほんものになりますぞ、かならずそうしてみせますぞ》
《だが、もし部屋にはいったとたんに、やつらがおれをおさえたとしたら、どうする? なにか巧妙な仕掛をしておかないともかぎらない!》
《決闘のようなものさ》と、彼は笑いながらいった。《剣術の先生がいったじゃないか、相手がどう突っこんでこようと、避ける手はあるさ。ところが、神さまはけりをつけさせようとして、ふたりのうちのどっちかが避けるのを忘れるようにという思召《おぼしめ》しなのだ。もっともやつらに返答するにはこいつがある》といって、ポケットからピストルを取り出し、発火できるようになっているのに、雷管をもう一度取り換えた。
まだ何時間も待たなければならなかった。することがないので、ジュリヤンはフーケに手紙を書いた。《同封の手紙は、もしものことがあるまで、ぼくの身になにか変ったことが起ったと聞くまでは、開かないでくれたまえ。そういうことになったら、いまお送りする手記の固有名詞を消して写しを八通つくり、マルセイユ、ボルドー、リヨン、ブリュッセルその他の新聞に送ってくれたまえ。十日たったら、この手記を印刷させて、最初の一部をラ・モール侯爵あてに送ってくれたまえ。二週間たったら、残りの全部を、ヴェリエールの町じゅうに、夜ばらまいてくれたまえ》
万一のことがあるまでフーケが開いてはならないという、この小さな覚え書は、物語の形で書かれた自己弁明で、ジュリヤンはできるだけラ・モール嬢に迷惑のかからないようにはしたが、とにかく自分の立場だけは、きわめてはっきりと書いておいた。
ジュリヤンがその小包を作りあげたとき、晩餐《ばんさん》の鐘が鳴った。その音に、彼の胸は高鳴った。頭はいま書いたばかりの話のことでいっぱいで、悲劇的な予感にとらわれてしまっていた。下男どもにつかまって縄《なわ》でしばられ、猿《さる》ぐつわ《・・・》をかまされて、地下室へ連れていかれる自分の姿を思い描いてみた。その地下室では下男が見張りをしている。もし相手が貴族の名誉にかけて、この事件を悲劇的に終らせようと思えば、全然痕跡《こんせき》を残さない毒薬で、万事けりをつけるのは、たやすいことなのだ。そして、病気で死んだといって、死体を部屋に運びこめばいい。
ジュリヤンは、まるで劇作家のように、自分の作った物語に感動してしまっていたので、食堂にはいったときは、ほんとうにおびえきっていた。りっぱな仕着せを着た例の従僕《じゅうぼく》たちをじろじろ眺《なが》めて、その顔色をうかがった。《今夜の陰謀に選ばれたのは、どいつとどいつだろう? この家には、アンリ三世の宮廷の思い出がはっきり残っているし、しょっちゅうそんなことばかり思い出しているから、侮辱されたと思ったら、同じ階級のだれよりも、思いきった仕打ちをするにちがいない》ジュリヤンはラ・モール嬢を見つめて、目の中に家族の連中の計画を読みとろうとした。彼女の顔は蒼《あお》ざめて、まさに中世時代の女のような顔だちをしている。こんな気高い様子を、彼は一度も見たことがない。じつに美しくて威圧的なのだ。彼はその姿に思わず恋心を覚えた。《Pallida morte futura》と、彼はつぶやいた。《あの顔の青白さは大それたたくらみの証拠だ》
晩餐がすむと、ジュリヤンは長いあいだ庭を散歩するようなふりをしたが、その甲斐《かい》もなく、ラ・モール嬢は姿をあらわさなかった。このとき、彼女と口がきけたら、どんなに心の重荷がとれたかしれなかったのである。
はっきりいってしまおう。ジュリヤンはこわかったのである。だが決行すると心にきめていたので、そんな気持に支配されてもはずかしいとは思わなかった。《いざというときになって、必要な勇気がありさえすれば、いまどんな気持でいようとかまやしない》そう思ってあたりの様子をさぐり、梯子の重さを調べてみた。
《おれはよくよくこの道具を使わなければならないめぐり合せと見える、ここでもヴェリエールでも!》と、ジュリヤンは笑いながらつぶやいた。《だがなんという違いだ! あのときは》と溜息《ためいき》をつき、《危険を冒すといっても相手の女の心を疑わなくてよかった。それに危険の点でもまるっきり違っていた!》
《たとえレーナル氏の庭で殺されていたにしても、おれの不名誉になるようなことはなかったのだ。死因不明として片づけてしまうことは、わけのないことだったにちがいない。ところが、今度は、ショーヌ邸、ケーリュス邸、レー邸など、方々のサロンで、つまりどこへ行ってもひどい噂《うわさ》をたてられるだろう。おれはいつまでも人でなしといわれることだろう》
《どうせ二、三年のあいだのことだ》と笑いながら、自嘲《じちょう》するようにつぶやいた。だが、そう思うと、やりきれなくなってきた。《ところで、このおれは、どんな申開きができるのだ? かりにフーケがおれの残した覚え書を印刷してくれるにしても、恥の上塗りになるばかりだ。なんたることだ! おれはある家に迎え入れられ、いい待遇を受け、ずいぶん親切にされながら、そのお返しに、その家の内幕をあばくようなパンフレットを印刷させようというのか! 婦人の名誉を傷つけようというのか! それくらいなら、だまされたほうがよっぽどいい!》
たえられない夜だった。
第十六章 午前一時
その庭はきわめて広く、数年前数《す》寄《き》をこらして作られたものだった。しかしその立木は百年以上たっていた。どこかひなびたところが感じられた。
マッシンジャー
ジュリヤンがフーケに、取消しの手紙を書こうとしていると、十一時が鳴った。彼は自分の部屋の入口の錠前をがちゃつかせて、部屋に閉じこもったように見せかけた。それから、足音を忍ばせて、家じゅう、とりわけ召使たちの住んでいる五階の様子を探りに出かけた。なにも変ったことはなかった。ラ・モール夫人の小間使のひとりが酒をふるまったらしく、召使たちはひどく陽気にポンチを飲んでいた。《こんなに騒いでいる連中が夜襲に加わるはずはない。もっと神妙にしているはずだ》
ついに彼は庭の暗い片すみに行って、身をひそめた。《もしこの屋敷の召使どもに知られないようにして事を運ぶつもりなら、おれをつかまえる役目を引き受けた連中は、庭の塀《へい》を乗り越えてくる手《て》筈《はず》になっているにちがいない》
《もしクロワズノワ氏が多少ともこの件で冷静でいるなら、おれが娘の部屋にはいってしまうまでにおれを捉《とら》えたほうが、自分の結婚しようと思っている娘にとって危険がすくない、と考えるはずだ》
彼はきわめて正確な軍事的偵察《ていさつ》を行なった。《おれの名誉にかかわることだ。もしなにかへまをしでかしたら、そこまでは考えなかった、などといってみたところで、おれ自身にとってはなんの言いわけにもならない》
空はやりきれないほど澄み渡っていた。十一時半ごろ月が上り、十二時半には庭に面した屋敷の側面を照らし出していた。
《あの女は頭がどうかしてる》と、ジュリヤンは思った。一時が鳴っても、ノルベール伯《はく》爵《しゃく》の部屋の窓には、まだ明りがついていた。ジュリヤンはこれまでこんなに恐怖を覚えたことはなかった。自分の企ての危険ばかりが目について、全然感激を覚えなかった。
大きな梯子《はしご》を取りに行き、相手に取消しのひまを与えようとして、五分待ってみた。一時五分になると、梯子をマチルドの部屋の窓に立てかけた。ピストルを手にして、襲撃されないのを意外に思いながら、静かに上っていった。窓に近づくと、窓は音もなく開いた。
「まあ、いらしたのね、あなた」と、マチルドはすっかり興奮していった。「一時間も前からあなたの様子をじっと見ていましたの」
ジュリヤンはひどくきまりが悪くて、どうふるまっていいかわからなかった。恋心など全然感じなかった。当惑しながらも、彼は思いきってしなければならないと考え、マチルドにキスしようとした。
「なにをなさるの!」と、マチルドは彼を押しのけながらいった。
はねつけられたのをさいわい、ジュリヤンは急いで自分のまわりを見まわした。月が照り渡っているので、ラ・モール嬢の部屋には黒々と影ができていた。《おれの目には見えないが、きっとこの部屋に隠れているものがあるにちがいない》と彼は考えた。
「上着の横のポケットになにをいれていらっしゃるの?」マチルドは話の種が見つかったので、ほっとして、そういった。彼女は異様な苦しみを味わっていた。生れのいい娘にしては、ごく自然な、慎みと気おくれの気持が、すっかり勢いを取り戻《もど》して、彼女を苦しめていたのである。
「どんな武器だって、ピストルだってもっています」と、ジュリヤンは答えた。彼のほうもまた、いうことが見つかったので、安心したのだった。
「梯子をはずさなくてはいけませんわ」と、マチルドがいった。
「とても大きいから、下のサロンか、中二階のガラスを割るかもしれません」
「ガラスなんか割ってはたいへんですわ」マチルドはふだんの会話の調子でいおうとしたが、うまくいかなかった。「いちばん上の横木に綱を結びつけて、梯子をおろしたらいいのじゃないかしら。あたしの部屋には、いつも綱がたくさん用意してあるわ」
《これが恋をしている女というものか!》とジュリヤンは考えた。《平気で愛しているなどといっているんだ! じつに落ち着きはらっているし、こんなに用意周到なところを見ると、たしかにおれはクロワズノワ氏に勝ったわけじゃない。おれはうかつにもそう思っていたが。おれはただあの男の後釜《あとがま》になるだけだ。だが、まあそんなことはどうでもいい、おれはこの娘を愛しているのだろうか? 侯爵は後釜ができたのを知って、大いに怒るかもしれないし、その後釜がおれだとわかれば、ますます憤慨することだろう。そういう意味では、おれは侯爵に勝ったわけだ。ゆうべ、カフェ・トルトーニで、おれを見て見ぬふりをしたときの、あの男の横柄《おうへい》な態度といったらなかった! そのあとで仕方がなくなっておれに挨拶《あいさつ》したが、そのときの意地悪な顔つきといったら!》
ジュリヤンは梯子のいちばんはしの横木に綱を結びつけると、バルコニーの外へ身体《からだ》を乗り出し、梯子が窓ガラスにさわらないようにして、静かにこれをおろした。《マチルドの部屋にだれかが隠れているとしたら、おれを殺すにはもってこいのときだ》と、ジュリヤンは思った。だが、あたりは相変らず静まり返っていた。
梯子が地面につくと、ジュリヤンはなんとかその梯子を、壁沿いの異国種の花壇の中に横たえることができた。
「お母さまは、なんておっしゃるかしら、きれいな草花がすっかり押しつぶされてしまったのを、ごらんになったら!……」とマチルドがいった。「綱をすてなければいけませんわ」と落ち着きはらってつけ加え、「綱がバルコンからたれさがっているのを見られたら、言いのがれができなくなるわ」
「じゃ、わたし、どうやって出ていく?」と、ジュリヤンはふざけた調子で植民地訛《なま》りをまねしていった。(この家の小間使のひとりにサン = ドミンゴ生れのものがいたのである)
「あなたは入口から出ていらっしゃればいいわ」マチルドは自分ながらうまい考えだと思って、そういった。
《ほんとにこのひとはあたしが愛のすべてを捧《ささ》げるにふさわしいひとだわ》
ジュリヤンが庭に綱を落してしまうと、マチルドはその腕を握りしめた。ジュリヤンは敵につかまったかと思って、匕首《あいくち》をぬきながら、きっとして振り返った。マチルドは窓の開く音を聞いたような気がしたのである。ふたりは息を殺してじっとしていた。月の光がふたりを照らし出していた。物音は二度と聞えなかった。もう不安は消えた。
すると、また気づまりな立場になった。ふたりともどうにもきまりが悪かった。ジュリヤンはドアの掛金が十分かかっているかどうか、調べてみた。ベッドの下をのぞこうと思ったが、そこまではできかねた。従僕《じゅうぼく》のひとりやふたりを、そこに隠しておかないともかぎらない。とうとう、あとになって手ぬかりを後悔するようではいけないと思って、のぞいてみた。
マチルドはすっかり気おくれがして、苦しさにたえかねていた。自分の立場が空おそろしかった。
「あたしの手紙をどうなさって?」やっと彼女はそういった。
《あの連中が聞き耳をたてているとしたら、裏をかいて戦いを避けるには絶好のチャンスだ!》とジュリヤンは思った。
「最初のは大形の新約聖書の中に隠して、ゆうべの郵便馬車で遠いところへ送ってしまいました」
彼はこういう細かなことまではっきりと話した。部屋にはマホガニーの大きな洋服箪《だん》笥《す》が二つあったが、そこまでは思いきって調べてみるわけにはいかなかったので、もしその中に人が隠れていたら、その連中にも聞いてもらおうと思ったのである。
「ほかの二通は郵便局に預けてありますが、最初のと同じところへ送ります」
「まあ、どうしてそんなに用心なさるの?」とマチルドはびっくりしていった。
《嘘《うそ》をつく必要もあるまい》と、ジュリヤンは思って、自分の疑いをすっかりぶちまけてしまった。
「だからあんな冷たいお手紙を下さったのね!」愛情のこもった口ぶりというよりは、むしろ気違いじみた調子で、マチルドはそう叫んだ。
ジュリヤンはこの微妙な点に気がつかなかった。マチルドのなれなれしい口ぶりで、彼はすっかり夢中になってしまった。すくなくとも疑いだけは消え去った。じつに美しく、いかにも犯しがたいところのあるこの娘を、彼は思いきって腕の中に抱きしめようとした。軽く押しのけられただけだった。
いつかブザンソンでアマンダ・ビネに対してしたように、ジュリヤンは記憶力に頼って、『新エロイーズ』の中でもいちばん美しい文句をいくつか暗誦《あんしょう》してみた。
「あなたは男らしいかたね」マチルドはたいしてジュリヤンの言葉に耳を傾けようともしないで答えた。「じつはあたしはあなたの勇気を試そうと思ったのよ。はじめいろいろ疑ってから、決心なさったのですって? あたしが考えていたより大胆なかたね」
マチルドはつとめて、なれなれしい口のききかたをしようとした。話していることがらの内容よりも、こういう一風変った話し方に気を取られているらしい。だが、そのなれなれしい口ぶりも全然情がこもっていないので、すこしもジュリヤンにはうれしくなかった。幸福な気持になれないので、意外な気がした。とうとう、そういう気持を感じようとして、理性に訴えてみた。高慢ちきで、ほめる場合でもなにかけち《・・》をつけないではいられないこの娘から、一目おかれているのだ、と思ってみた。こういうふうに理屈づけてみて、やっと自尊心の満足が得られた。
たしかに、それはレーナル夫人のもとでときどき味わった、あの心を奪われるような喜びではなかった。この最初のときのジュリヤンの気持には、なんら愛情はなかった。それはこの上もなく強い野心の満足感だった。それに、ジュリヤンはなんとしても野心家だったのである。彼はもう一度、相手を疑ってかかったことや、いろいろ用心してかかったことを話した。話しながら、自分の勝利をどう利用してやろうかとあれこれ考えた。
マチルドはまだひどくきまりが悪そうで、どうやら自分のふるまいを後悔しているらしかっただけに、話の種が見つかって、うれしそうにした。ふたりは今度どういうふうにして会おうかと話し合った。議論をしているあいだに、ジュリヤンはまたしても才気と勇気のあるところを見せることができて、大得意だった。なにしろ、まわりにいる連中は、なかなか物を見ぬく力をもっているし、あの生意気なタンボーも、おそらくスパイにちがいない。だが、マチルドとジュリヤンのほうも抜け目がなかった。
万事しめし合せるには、図書室で会うのがいちばん簡単な方法ではないか?
「わたしは屋敷じゅうどこへ顔を出しても怪しまれる心配はありません。ラ・モール夫人の部屋にさえ行けるのです」と、ジュリヤンは続けていった。令嬢の部屋に行くのには、どうしてもラ・モール夫人の部屋を通らなければならなかった。マチルドがやっぱり梯子から忍んでくるほうがいいと思うなら、それくらいの危険は喜んで冒してみせると、ジュリヤンはいうのだった。
ジュリヤンが話しているのを聞いているうちに、マチルドはその勝ち誇った顔つきが癪《しゃく》にさわってきた。《あたしの主人になってしまったのだわ》と彼女は思った。早くも後悔にとらわれていたのである。とんでもない気違い沙汰《ざた》をしでかしてしまったと思うと、マチルドの理性はたえられなかった。できることなら、自分もジュリヤンもこの世からなくしてしまいたいと思った。ときどき意志の力で後悔の気持を抑えてしまいたいと思うと、今度は気おくれと、たえられぬはずかしさから、ひどくみじめな気持になった。こんなやりきれない状態になろうとは、全然予期していなかったのである。
《でもこのひとに話しかけなければならないわ》と彼女はしまいに思った。《そうすべきものなのだから。恋人にはなにか口をきくものだわ》そこで義務を果すために、声の調子というよりは、使う言葉のほうにずっと愛情をこめて、この数日間に、ジュリヤンに対してどういう態度に出るつもりでいたかを物語った。
もしいわれたとおり、園丁の梯子を使って、大胆にも自分の部屋へやってきたら、すっかり身を任せようと思っていたのである。だが、こんな愛情のこもったことがらを、これほど冷やかな、これほど丁寧な口ぶりで話す人間があろうか? それまではこの密会はおよそ冷やかだったのである。まるで恋愛を目の敵《かたき》にしているようであった。軽はずみな娘にとってなんといういいこらしめであろう! これだけのひとときのために、自分の未来を台なしにする価値があろうか?
浅薄な観察者にとっては、はげしい憎《ぞう》悪《お》のあらわれと思われたかもしれないし、そのくらい、女が生れながらにしてもっている誇りというものは、これほど固い意志にさえなかなか屈しないものであるが、こうしてずいぶん思い悩んだあげく、マチルドはやっとジュリヤンに対してやさしい恋人の姿を見せた。
もっとも、ふたりが味わった陶酔には、いささか意識的《・・・》なところがあった。情熱的な恋愛が現実の姿であるというより、むしろまねるお手本だったのである。
ラ・モール嬢は自分自身に対しても、また恋人に対しても、一つの義務を果すような気持でいた。《かわいそうに、このひとはこんなに大胆なふるまいをしたんだもの、幸福にしてあげなければいけないわ。でなければ、あたしのほうが意気地なしということになる》だが、こんなやりきれない立場から逃れることができるなら、一生不幸な目にあってもいい、と思っていたにちがいないのだ。
こうして必死になって自分の気持を抑えようとはしていたが、言葉にはすこしもその気配を見せなかった。
ジュリヤンにとっては、この一夜を台なしにしてしまうような悔恨や自責の念は、すこしも起らなかったが、この一夜は幸福というよりは、むしろ奇妙な感じがしたのだった。実際、ヴェリエールで過した最後の二十四時間とは、なんという違いだろう!《このお上品なパリの流儀というのは、何もかも、恋愛までも台なしにしてしまったのだ》と彼は考えたが、これははなはだしく不当な考えかたというものである。
ラ・モール夫人のいる隣部屋から物音が聞えてきたので、早速マホガニーの大きな洋服箪笥の中に押しこめられたが、その中で突っ立ったまま、ジュリヤンはそんな反省をしていた。マチルドが母親についてミサに行き、女たちがまもなく部屋を出ていってしまうと、ジュリヤンは女たちが仕事を片づけに戻ってくる前に、なんなくそこを抜け出した。
彼は馬に乗って、パリの郊外の森のいちばんさびしい場所へ出かけた。幸福というよりは、むしろ意外な気持だった。幸福感にときどきおそわれたが、それは何か驚くべき手柄をたてて、総司令官から一挙に大佐に任命されたばかりの、若い少尉の幸福感のようなものだった。昨日まで自分より高いところにあったものがすべて、今は自分の横か、自分のずっと下にあるのだ。先に行くにつれて、ジュリヤンの幸福はだんだん大きくなった。
ジュリヤンの心には、なんら愛情らしいものはなかったが、それはマチルドのジュリヤンに対する態度のすべてが、義務を果すといった感じだったからである。この言葉がいかに奇妙に思われようとも、事実はそうなのである。その夜の出来事はなに一つとして、彼女にとって思いがけないものはなかった。もっとも、小説に書いてあるような、この上もない喜びのかわりに、みじめな思いと屈辱を感じたことは別だった。
《あたしは思い違いをしていたのかしら? あのひとに対して愛情をもっていないのだろうか》と、彼女はつぶやいた。
第十七章 古剣
今こそわたしはまじめになろう。――その時が来た。笑っても、まじめすぎるととられるし、悪徳を嘲《あざけ》っても、道徳から罪悪と呼ばれる時世なんだ。
『ドン・ジュアン』第十三編
マチルドは晩餐《ばんさん》に姿を見せなかった。夜はちょっとサロンに顔を出したが、ジュリヤンには目もくれなかった。このふるまいがジュリヤンには妙に思えた。《おれはこの連中のしきたりを知らないからな。ああいう態度をする理由も、いずれなんとか説明してくれるだろう》だが、強い好奇心にかられて、マチルドの表情を観察していた。すげない、意地悪な顔をしていると思わないではいられなかった。明らかに、前の晩本心とは思われないほど、はげしい幸福に酔いしれていたというか、むしろそんなふりをしていた女とはどうしても思えない。
次の日も、その次の日も、マチルドは相変らず冷淡で、ジュリヤンに目をくれようともしなければ、ジュリヤンがいるのに気がつきもしない様子だった。ジュリヤンははげしい不安にとらわれて、最初の日勝利感だけで夢中になってしまったことなど、すっかり忘れてしまった。《ひょっとしたら、女の貞操を思い出したのかもしれない》と考えてみたが、こんな言葉はあまりにも低俗で、気位の高いマチルドには似つかわしくない。
《ふだんは、宗教なんかまるで信じていないようだし、自分の階級のためには非常に必要なものだと思って、宗教を大事にしているのにすぎない》とジュリヤンは考えた。
《だが、単なる女らしい気持から、自分の犯した過ちをはげしく後悔しているのではなかろうか》ジュリヤンは自分がマチルドの最初の恋人だと思いこんでいた。ときにはこうも考えた。
《だが正直なところ、あの娘の態度には無邪気で、素直で、やさしいところなど、まったくない。マチルドがこんなに高慢な態度を見せたことはなかった。おれを軽蔑《けいべつ》しているのだろうか? おれの素姓《すじょう》が卑《いや》しいというだけで、おれに対してしたことを後悔するということも、あの娘ならありそうなことだ》
ジュリヤンが、本から得た知識や、ヴェリエールの思い出をもとにしてつくりあげた、勝手な考えにひたりながら、自分の愛人を幸福にすることができたら、自分のことなどはどうでもいいといった、情の細やかな女のことを、いい気になって思い浮べているあいだに、マチルドの虚栄心はジュリヤンを無性に憎んでいた。彼女は二カ月前から退屈しなくなり、また退屈を恐れなくなっていたから、ジュリヤンのほうではいっこうに気がつかなかったが、マチルドの目には、ジュリヤンの最大の魅力は失われていたのである。
《あたしは主人をもつことになってしまった!》と、やりきれないほど悲嘆にくれながら、ラ・モール嬢はつぶやいた。《あのひとは名誉心が強い、それはありがたいことだが、もしあたしがあのひとの虚栄心を傷つけてしまったら、あのひとは、その仕返しに、あたしたちがどんな仲だかばらしてしまうわ》マチルドは一度も恋人をもったことがなかった。一生のうち、こういう立場におかれたら、どんなに情のない人間でも、多少は甘い夢をいだくものだが、マチルドはおよそ苦々しい反省のとりこになっていた。
《あのひとはあたしをどこまでも支配する力をもっている。あたしをおどかして抑えてしまい、あたしが怒らせでもしようものなら、ひどい罰であたしをこらしめることができるのだもの》そう思うだけで、ラ・モール嬢はジュリヤンを軽蔑してかかろうという気になるのだった。勇気が彼女の性格の第一の特質だった。自分の全生命を一か八《ばち》か賭《か》けてみるという考えくらい、マチルドに多少のはげみを与えるものはなかったし、またたえずつきまとう根強い倦怠《けんたい》をいやしてくれるものはなかった。
三日目のこと、ラ・モール嬢があくまで自分を見ようとしないので、ジュリヤンは晩餐のあと、相手がいやがっているのを承知のうえで、玉突き部屋までついていった。
「じゃ、あなたは、あたしを支配する権利でも手にいれたと思っていらっしゃるのね」と、マチルドはこみあげる怒りをやっと抑えながらいった。「だって、そうじゃありませんか、あたしははっきりあたしの気持を見せているのに、それでも平気で、あなたはあたしに話しかけようとなさるんですもの。……あたしに向って平気でそんなまねをしたひとはだれもいないんですよ」
このふたりの恋人の対話くらいおもしろいものはなかった。気がつかないうちに、ふたりはお互いにおよそはげしい憎《ぞう》悪《お》の念をいだき合っていたのである。両方とも辛抱強いたちではなかったし、それに上流社会の習慣にそまっているので、やがてふたりは、はっきりと、永遠に絶交すると、宣言するまでに立ち至ってしまった。
「わたくしは誓ってあくまで秘密を守ります。そればかりか、今までとは様子が違うために、ひと目にたち、あなたの評判にさしさわりがあってはいけませんが、そうでないかぎり、あなたとはけっして口をききません」そういうと、ジュリヤンはうやうやしく会釈《えしゃく》をして、出ていった。
彼は自分の義務と思っていることを、たいして苦労もせずにやってのけた。自分がラ・モール嬢を強く愛しているなどとは思ってもいなかった。なるほど三日前、マホガニーの大きな洋服箪《だん》笥《す》のなかに隠されたときには、マチルドを愛していなかったにはちがいない。だが、マチルドと永遠に仲たがいをしてしまったと思ったときから、ジュリヤンの心はたちまち一変してしまったのだった。
記憶のよいジュリヤンには、あの夜の模様が、実際にはひどく冷やかなものであったにもかかわらず、ごく細かな点まで、やりきれないほど、はっきりと思い浮んできた。
永遠の絶交を宣言したその晩、ジュリヤンは自分がラ・モール嬢を愛していることを、自分ながら認めないではいられなくなり、もの狂わしい気持になった。
このことを知ると、これに続いて、心のはげしい格闘がはじまった。あらゆる感情がくつがえされてしまった。
二日たつと、ジュリヤンはクロワズノワ氏に対して、優越を感じるどころか、涙を流して抱きしめたい気持になった。
この不幸な気持に慣れると、すこしは分別が出てきた。ラングドックに出かけようと決心し、トランクをまとめて、馬車の宿駅へ行った。
郵便馬車の事務所まで来ると、ちょうど次の日のトゥールーズ行きの馬車に席が一つあいているといわれた。それを聞くと、彼はあやうく気絶しそうになったが、その席を予約して、ラ・モール邸に戻《もど》り、旅行のことを侯《こう》爵《しゃく》にことわっておこうとした。
ラ・モール氏は外出していた。ジュリヤンは気がぬけたようになって図書室にはいり、侯爵を待とうと思った。そこにラ・モール嬢がいるのを見て、彼ははっとした。
ジュリヤンの姿を見ると、マチルドは意地悪な態度に出た。その意地悪さはあくまではっきりしている。
みじめな自分に我を忘れ、思いもうけぬ出会いにとり乱して、ジュリヤンは、つい弱気から、心のこもった、およそやさしい口ぶりで、「すると、もうわたくしを愛してはくださらないのですか?」ときいた。
「あたしはだれかれの見境なく身を任せたと思うと、たまらない気持なんです」と、マチルドは自分自身に無性に腹をたてて、泣きながらいった。
「みさかいなく《・・・・・・》、とはなんです!」と、ジュリヤンは叫ぶと、図書室に骨董品《こっとうひん》として飾ってある中世時代の古い剣に飛びかかった。
ラ・モール嬢に言葉をかけたとき、絶頂だと思った苦しみが、彼女の流す口惜《くや》し涙《なみだ》を見ると、ますますつのった。ジュリヤンはこの女を殺すことができたら、自分はこの世の中でいちばん幸福な人間になれると思った。
ジュリヤンが古風な鞘《さや》から、抜きにくそうにして刃《やいば》を抜くのを見たとき、マチルドは味わったことのない感動を覚えて、敢然とジュリヤンのほうへ歩みよった。涙はもう乾いていた。
恩人のラ・モール侯爵の姿が、はっきりとジュリヤンの頭に浮んだ。《恩人の娘を殺すというのか! 空おそろしい話だ!》彼は剣を捨てようとして、ちょっと身を動かした。《きっとこの娘はこんな芝居気たっぷりなしぐさを見たら笑いだすにちがいない》そう考えたおかげで、すっかり落着きを取り戻すことができた。彼は古い剣の刃を珍しそうに、錆跡《さびあと》でも捜すかのように眺《なが》めてから、それを鞘におさめると、落ち着きはらって、金めっきした青銅の掛《か》け釘《くぎ》へかけ直した。
このしぐさはあとのところがひどくゆっくりしていたので、ゆうに一分かかった。ラ・モール嬢はあきれて眺めていた。《あたしは愛人から殺されかけたのだわ》と彼女は思った。
そう思うと、マチルドは、シャルル九世やアンリ三世の、この上もなくはなやかな時代にさかのぼったような気がした。
マチルドは、剣を元の場所に返したジュリヤンの前に立ちつくして、彼をじっと眺めていた。そのまなざしには、もはや憎しみの色はなかった。たしかに、このときのマチルドは、まことに魅惑的な姿をしていた。パリ人形らしいところはどこにもなかった。(ジュリヤンはパリの女をけなすときには、このパリ人形という言葉を使っていた)
《このひとのために、またなにか弱味を見せそうだわ》とマチルドは思った。《またよりが戻れば、あたしのほうはあれほど強い態度で口をきいたばかりだから、今度こそは、あのひとも、あたしの殿様気取り、主人気取りになるにちがいない》彼女は逃げだした。
《まったくなんという美しい女だ!》と、ジュリヤンは走り去る姿を眺めながらいった。《あの女が夢中になって、おれの腕に飛びこんできたときから、まだ一週間とはたってないのだ。……しかもあのひとときは二度と返ってこない! それもおれがばかなまねをしたからだ! しかも、あの女としては珍しいほど、積極的な態度を見せてくれたときに、おれにはそれがわからなかったんだ!……してみると、おれという人間は、生れつき、じつに平凡な、情けない性格の持主なんだ》
侯爵が顔を出した。ジュリヤンは急いで旅行に出ることを知らせた。
「どこへだね?」とラ・モール氏がきいた。
「ラングドックへです」
「それは困るね、きみにはもっと重要な任務を果してもらうつもりなのだ。旅行に出るにしてもそれは北のほうだ。……軍隊式な言葉で強くいえば、わたしはきみをこの屋敷に禁足しておく。二、三時間以上は絶対に留守をしないようにしてくれたまえ。いつきみに用事ができるかわからないからね」
ジュリヤンはお辞儀をすると、あっけにとられている侯爵をあとに残して、ひと言もいわずに引き取った。口をきく気力もなかった。自分の部屋に閉じこもって、やりきれない自分の運命を、徹底的に誇張して考えることができた。
《すると、おれはここから出ていくことさえできないのか! 侯爵は幾日おれをパリに引きとめておくか、わかったものではない! ほんとに、おれはどうなるだろう? それに相談できる友達はひとりもいない。ピラール神父に相談しかけても、いきなりやめろというだろうし、アルタミラ伯爵はなにか陰謀にでも荷担しろとすすめるだろう。だが、そのあいだにおれは気が狂ってしまうだろう。そんな気がする。おれは気が狂ってしまったんだ!
だれがおれを導いてくれるだろう? おれはどうなるのだ?》
第十八章 たえがたいひととき
しかも、彼女はわたしにそれを打ち明けるのだ! ごく細かな事情まで、手に取るように! わたしの目を見つめるその美しいまなざしは、ほかの男にいだいた恋心をあらわしている。
シラー
ラ・モール嬢はうっとりとして、殺されかけたときの幸福ばかりを思い浮べ、こんなことまで考えた。《あのひとはあたしの主人にふさわしい。あたしをすんでのことで殺しかけたのだもの。上流社会の美青年たちを何人寄せたところで、あんな情熱的な行動はできはしない》
《たしかに、あのひとが椅子《いす》の上に乗って、室内装飾人が工夫しておいた格好のいい位置に剣を戻《もど》したときの姿は、ほんとにすばらしかったわ! 考えてみると、あたしがあのひとを愛したのも、そんなにばかげたことではなかったのだわ》
このとき、よりを戻すなにか適当な方法が見つかったら、マチルドは喜んで、それに飛びついたにちがいない。ジュリヤンは鍵《かぎ》を二重にかけて、部屋に閉じこもったまま、およそはげしい絶望のとりこになっていた。気は転倒してしまい、マチルドの足下に身を投げ出そうとさえ考えた。ところが、もし、こんなふうに人目を避けて隠れていないで、庭なり屋敷のなかなりをうろつき、いつでも機会がつかめるようにしていたなら、おそらくは、このたえられない不幸を、一瞬にして、限りない幸福に変えることができたかもしれない。
しかし、なるほど才覚がないジュリヤンを非難することはできるが、そうした才覚をもっていたら、剣をひっつかむなどという、鮮やかなふるまいはできなかったろう。なにしろ、剣をつかんだ瞬間、ジュリヤンの姿は、ラ・モール嬢の目には、いかにもりりしく見えたのだ。ジュリヤンにとっては都合のいい、この気まぐれな気持は、その日一日じゅう続いた。マチルドはジュリヤンを愛したはかないひとときを、美しく思い描き、それをなつかしんでいたのである。
《ほんとに、あのひとに対する愛情は、あのひとからみれば、ありったけのピストルを上着の脇《わき》のポケットにしのばせて、梯子《はしご》を上ってきた夜中の一時から、朝の八時までしか続かなかったわけだわ。それから十五分もたつと、あたしはサント = ヴァレールでミサを聞きながら、あのひとはあたしの主人気取りになるだろう、あたしをおどしつけて、むりやり服従させようとするだろう、などと考えはじめていた》
晩餐《ばんさん》がすむと、ラ・モール嬢はジュリヤンを避けるどころか、彼に話しかけ、庭についてくるようにというそぶりを見せた。ジュリヤンは彼女のいうとおりにした。こんなふうに試されたことは一度もなかった。マチルドは、自分でもそれほど気がつかずに、ジュリヤンに対して恋心をまたもいだきはじめていた。ジュリヤンと並んで散歩するのが無性に楽しかった。その朝自分を殺そうとして剣をつかんだ彼の手を、珍しそうに眺《なが》めるのだった。
あのようなふるまいをしたあとでもあり、いろいろのいきさつがあってみれば、お互いに前のような調子で話し合うことはむりだった。
マチルドはだんだん、自分の心のうちを、ひどく打ちとけて、明かしはじめた。こういう種類の話をするのが、彼女には妙に楽しかった。しまいには、クロワズノワ氏やケーリュス氏に対して、一時淡い恋心をいだいたことまで話した。
「なんですって! ケーリュスさんにも!」と、ジュリヤンは叫んだ。すてられた恋人の苦い嫉《しっ》妬《と》が、この言葉にあふれていた。マチルドはそう思ったが、すこしも腹はたたなかった。
彼女は、むかしいだいた気持を、真に迫った口ぶりで、鮮やかに、こまごまと描いてみせ、ますますジュリヤンを悩ました。マチルドが目の前に思い浮ぶことがらを描いていることは、ジュリヤンにもわかった。マチルドが話しながら、今になって自分のほんとうの気持に気がつきはじめたのだと知って、ジュリヤンの胸はかきむしられた。
これ以上見苦しい嫉妬はまたとあるまい。
恋敵《こいがたき》が愛されているのではないかと思うだけでも、たしかにつらいことではあるが、まして、自分が恋いこがれている女の口から、恋敵にいだいているその恋心を、こまごまと打ち明けられるということは、けだし苦悩のきわみであろう。
ケーリュスやクロワズノワの仲間よりは、自分のほうが取り柄があると思いこんでいたジュリヤンの鼻っ柱は、このとき、完全にへし折られてしまっていた! この連中のごくつまらぬ取り柄まで誇張して考え、心底からの苦しみを思い知らされたのだ! どのくらい本気になって自分を軽蔑《けいべつ》していたかしれない!
マチルドがいかにもかわいく思われた。ジュリヤンの限りない讚《さん》美《び》の気持は、どんな言葉をもってしても、いいあらわすことはできない。マチルドと並んで散歩しながら、彼はこっそりと、その手を、その腕を、その女王のような様子を眺めるのだった。恋心と切ない思いにひきさかれて、「わたしの気持にもなってください」と叫びながら、今にもマチルドの足下にひざまずきそうだった。
《だが、だれよりもすぐれた、この美しい女、一度はおれを愛してくれたことのあるこの女が、やがておそらくはケーリュス氏を愛することになるのだ!》
ラ・モール嬢が本気で話していることは、ジュリヤンとしても疑えなかった。真心のこもった調子が、言葉にありありと、にじみ出ている。そればかりか、マチルドは、かつてケーリュス氏にいだいた恋心の話にばかり夢中になって、ときどき、現に愛しているかのような口吻《こうふん》さえもらした。ジュリヤンのみじめな気持は、ここに至ってその極に達した。明らかに、マチルドの口調には、愛情がこもっている。ジュリヤンには、それがはっきりわかるのだ。
彼の胸のうちは、鉛の煮え湯をのまされても、これほど苦しまなかったろう。ラ・モール嬢はジュリヤンを相手に話しているからこそ、かつてケーリュス氏やリュス氏に対して淡い恋心をいだいたことを思い起すのが、楽しくてしかたがなかったわけだが、かわいそうに、これほどまで不幸のどん底につき落された青年にしてみれば、どうしてそんなことまで見ぬけたろう?
ジュリヤンの苦悩は、なんとしてもいいあらわしえないものだった。つい二、三日前、相手の部屋へ忍びこむために、菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の並木道で、一時が鳴るのを待っていた、その同じ並木道で、相手がほかの男たちにいだいた恋の打明け話をこまごまと聞かされているのだ。人間であってみれば、これほどつらい立場にたえられるはずがない。
こうしたやりきれぬ親密さが、たっぷり一週間も続いた。マチルドは話しかける機会を進んで求めるようなそぶりを見せることもあり、避けようとしないという態度に出ることもあった。話題といえば、マチルドがほかの男たちにいだいた恋心の話で、ふたりとも、その話をむし返しては、なにか残酷な楽しみを味わっているようだった。マチルドは自分が書いた手紙の話をし、言葉のひとつびとつを思い出しては伝え、文句全部を暗誦《あんしょう》して聞かせたりした。あとの幾日かは、ジュリヤンをまじまじ眺めながら、意地悪い喜びにひたっているようだった。ジュリヤンの苦しむ姿に、マチルドははげしい快楽を覚えたのだ。
ご承知のように、ジュリヤンにはなんら人生の経験がない。小説さえ読んだことがなかった。もうすこし不器用でなく、自分の深く愛している娘、しかもこんな奇妙な打明け話をしている娘に向って、多少とも冷静に、「わたしはそういう紳士がたにはかないませんが、あなたが愛しているのはこのわたしですよ」といったら……
おそらく、マチルドは自分の気持を見ぬいてくれたことを喜んだにちがいない。すくなくとも、それが成功するかどうかは、ひとえに、ジュリヤンがこの考えを、いかに品よく表現するか、またいかにその時期を選ぶかにかかっていたといえよう。いずれにしても、そうすれば、マチルドの目には単調に映りかけていた立場から、うまく、しかも有利に抜け出すことができたところなのである。
「じゃ、もうわたしを愛してくださらないのですね、わたしはこんなに愛しているのに!」ある日、ジュリヤンは恋心とみじめな思いに我を忘れて、そういった。ジュリヤンとしては、これくらいばかな言いぐさはない。
ラ・モール嬢には自分の心境を打ち明けるのが楽しみだったわけだが、この一言でその楽しみも一瞬のうちにぶちこわされてしまった。マチルドは、あんないきさつがありながら、ジュリヤンが自分の話に腹をたてないのを、意外に思いはじめていたし、ジュリヤンがこんなばかなことをいったときは、もう自分に気がなくなったのかもしれないとさえ、考えかけていたのだ。《きっと、自尊心がこのひとの恋心を消してしまったのにちがいない。あたしがこのひとをさしおいて、ケーリュスやリュスやクロワズノワのようなひとたちのほうを高く買うのを見て、黙ってひっこんでいるようなひとじゃない。口では、あのひとたちにはとても太刀打ちできないとはいっているけれど。たしかに、このひとはもうあたしの足下にひざまずいたりはしまい!》
これまでに、ジュリヤンは、みじめな気持から、率直に、この連中の派手な長所を、たびたび本気になってほめていたし、また誇張していうことさえあった。こういう微妙な気持を、ラ・モール嬢が見のがすはずはない。意外には思いながらも、その原因は見ぬけなかった。なにしろ、ジュリヤンは狂熱的な魂の持主であるから、愛されているらしいと思う恋敵をほめたてて、相手の幸福を思いやっていたのである。
ジュリヤンの言葉はいかにも率直であるとはいえ、なんとしてもばかでうかつな話である。そのため、事情は一変してしまった。マチルドは自分が愛されていることを確かめると、ジュリヤンを完全に軽蔑してしまった。
マチルドはジュリヤンと散歩していたのだが、この間抜けな言葉を聞かされると、急に彼を離れてしまった。別れぎわのまなざしは、この上もない軽蔑の色をあらわしていた。サロンに戻ると、その夜はずっとジュリヤンを見ようともしなかった。その翌日になると、この軽蔑感でマチルドの胸はいっぱいだった。一週間のあいだ、あれほど楽しく思いながら、ジュリヤンを最上の親友とみなしてきたのに、そんな気持はもはやどこにもなかった。ジュリヤンの姿を見るのもいやだった。その気持は嫌《けん》悪《お》の情にまでなった。目の前にジュリヤンの姿を見ると、限りない軽蔑を覚えるのだった。
一週間このかた、マチルドがどんな気持でいるのか、ジュリヤンにはまったく見当がつかなかったが、軽蔑しているのだということは見分けがついた。彼はうまく立ちまわって、できるだけマチルドの前に姿を見せないようにしたし、けっして彼女のほうを見ようとしなかった。
だが、ジュリヤンはいわば自分から姿を見せるのを避けたとはいえ、それはたえがたい苦痛だったのである。そのために、自分の不幸がますますつのるような気がした。《人間の気力といっても、これ以上たえる力はあるまい》彼は屋根裏部屋の小窓にもたれて日を暮すのだった。鎧戸《よろいど》は注意して閉めておいたが、ラ・モール嬢が庭に出れば、すくなくともそこから、その姿をかいま見ることができた。
晩餐のあと、マチルドが、ケーリュスとかリュスとか、そのほかかつて彼女が淡い恋心をいだいたと称している連中と散歩しているのを見て、ジュリヤンはどんな思いをしたことだろう?
ジュリヤンはこんなはげしい不幸があろうとは思ってもみなかった。あやうく悲鳴をあげそうになった。あれほどしっかりしたジュリヤンの心も、とうとう、すっかりくつがえってしまった。
ラ・モール嬢に無関係なことは、ことごとく考えるのがいとわしくなった。ごく簡単な手紙でさえ書けなくなった。
「どうかしているね」と侯爵《こうしゃく》がいった。
ジュリヤンは心中を見やぶられるのをおそれて、病気だと称し、どうにか相手にそう思わせることができた。さいわい、侯爵は晩餐のときに、今度の旅行のことでジュリヤンをからかった。マチルドは旅行が長びくにちがいないと見てとった。ジュリヤンがマチルドを避けるようになってから、すでに幾日かたっていた。だが、例の派手な連中のほうも、かつてマチルドの愛をかちえた蒼白《あおじろ》い陰気なジュリヤンに欠けているものを残らずそなえていながら、もはやマチルドをもの思いから目覚めさせる力はなかった。
マチルドは思うのだった。《ふつうの娘なら、サロンでみんなの注目の的になっているこれらの青年たちのうちから、自分の好きなひとを選んだことだろう。けれど、俗人がつけた道をたどりながら、自分の考えをおし進めないってことが、天才の特長のひとつだわ》
《ジュリヤンに欠けているのは財産だけだが、それはあたしがもっているのだから、ジュリヤンのようなひとの妻になったら、あたしはたえず世間の注目の的となるだろうし、世の中から忘れられて暮すことはないだろう。従《い》姉妹《とこ》のように、しじゅう革命をおそれたりするもんですか。あのひとたちったら、民衆がこわいもので、馬車の走らせようが下手くそでも御者を叱《しか》ることもできないでいる。あたしはそうじゃない、必ず、なんらかの役割、それも大きな役割を演じてみせる。なにしろ、あたしの選んだひとは気概もあり、限りない野心をもっているんだもの。あのひとに欠けているのはなにかしら? お友達? お金?そんなものは、あたしがあげる》しかし、マチルドはジュリヤンを、こちらがその気になればいつでも愛してもらえる目下の者と考えていた。
第十九章 喜歌劇《オペラ・ブッファ》
おお、この恋の春は、なんと四月の日の変りやすい輝きに似ていることか!
いま陽《ひ》が照り輝くかと思えば、早くもすべては雲におおわれる!
シェイクスピア
マチルドは夢中になって、未来のこと、自分が演じたいと思う風変りな役割のことを考えているうちに、ジュリヤンを相手にしてしばしば試みた、あのぎすぎすした、抽象的な議論でさえが、なつかしくなりはじめた。そういう高尚《こうしょう》な思想に飽きると、ときには、ジュリヤンのそばで味わった幸福のひとときが、なつかしく思い出された。この思い出のほうは必ず後悔がつきまとったし、ときにはそのために打ちのめされる思いがした。
《あたしは身を過ったけれど、才能のある男のためだからこそ、女の道に背いたまでで、あたしのような娘にふさわしいことなのだわ。美しい口ひげや、りりしい馬上姿に惹《ひ》かれたなどとは、だれもいうまい。あたしが惹かれたのは、フランスの将来について、あのひとが深い考察をしているからだし、やがてあたしたちにふりかかってくる事件が、きっと一六八八年のイギリスの革命に似ているかもしれない、などという考えをもっているからなのだわ。あたしは誘惑された、あたしは弱い女ですもの》と、マチルドは後悔の念に答えるかのようにつぶやいた。《でも、あたしはすくなくとも、おぼこ娘みたいに、りっぱなうわべに目がくらんだわけではないわ》
《もし革命が起れば、ジュリヤン・ソレルがロランの役割を、あたしがロラン夫人の役割を演じないともかぎらない。あたしはこの役割のほうがスタール夫人の役割より好きだわ。ふしだらな品行は、いまの時代では障害となるだろう。でも、もちろん、あたしは二度と身を過って、ひとからとやかくいわれたりはしないわ。そんなことをしたら、はずかしくて生きてはいられないわ》
じつをいうと、マチルドの夢想は、いまお伝えしたような、まじめな考えのものばかりではなかった。
彼女はジュリヤンを眺《なが》めてみて、なんでもない動作にも、なかなか惹きつけるところがあると思った。
《たしかに、あのひとだって権利を主張できるのに、あたしはあのひとの主張したい気持をすっかりはぎとってしまった。
それに、あのひとが一週間前、あの愛の言葉をささやいたときの、あわれっぽい、思いのこもった様子からいっても、それははっきりしている。ほんとに、あれほど敬意と恋心にあふれた言葉に、腹をたてるなんて、あたしもよっぽどどうかしていたわ。あたしはあのひとの妻じゃないの。あの言葉はごく自然だったし、正直なところ、なかなかかわいかったわ。毎日の生活が退屈なあまり、あたしはあのひとが嫉《しっ》妬《と》している社交界の青年たちに淡い恋心を覚えたのだけれど、そんな話ばかりうんざりするほど、それもずいぶん残酷な態度で、あのひとにして聞かせたのに、あのひとはそれでもあたしを愛してくれたのだわ。あの連中なんか、あたしにとっては、なんでもないんだから、おそれるまでもないということを、あのひとに知ってもらえたら、いいんだけれど! あのひとにくらべたら、みんな同じような個性のない、なまっ白《ちろ》い連中なんだもの》
こんなことを考えながら、マチルドは自分のアルバムの上に、鉛筆でなんとはなしに線画を描《か》いていた。描きあげた横顔のひとつを見て、マチルドは驚くと同時に、いいしれぬうれしさを感じた。ジュリヤンにそっくりだったのである。《神さまのお声だわ! これこそ愛の奇《き》蹟《せき》にちがいない》と、マチルドは狂喜して叫んだ。《なんの気なしに、あのひとの似顔が描けたんだわ》
マチルドは急いで自分の部屋に閉じこもり、一生懸命、本気になって、ジュリヤンの似顔を描いてみたが、うまくいかなかった。いい加減に描いたさっきの似顔が、やっぱりいちばんよく似ていた。マチルドはうれしくなって、これこそ熱列な恋の明らかな証拠だと思った。
マチルドはそのアルバムをなかなか手放そうとしなかった。侯爵《こうしゃく》夫人がイタリア・オペラへ行くからといって、使いをよこしたので、やっと手放した。マチルドは、自分たちについてくるように、母親から誘ってもらおうと思って、ジュリヤンを見つけることばかり考えた。
ジュリヤンは姿を見せなかった。母娘《おやこ》の桟《さ》敷《じき》には、低級な連中ばかりが顔を出した。オペラの第一幕のあいだじゅう、マチルドは愛する男のことを思い続けた。情熱を傾けて恋い焦《こが》れていたのだ。だが、第二幕になって、いかにもチマローザらしいメロディーで、恋の格言が歌われると、それがマチルドの胸をさした。オペラのヒロインは「あのひとにはげしい思いを寄せるわが身をこらしめなければならない、あたしはあまりにもあのひとを愛しすぎている」と歌っていたのである。
この妙《たえ》なる詠唱を聞くと、たちまちこの世のありとあらゆるものが、マチルドの目の前から消えてしまった。話しかけられても、答えなかった。母親から叱《しか》られても、ろくろく母親を見返そうという気さえ起さなかった。恍惚《こうこつ》として聞きいっているうちに、数日来ジュリヤンがマチルドに対していだいている限りなくはげしい感情にも劣らないほど興奮し、情熱的な心境になってきた。恋の格言は自分の立場にぴったりあてはまるように思われ、この格言が歌われた個《か》所《しょ》の、崇高なほどの美しさにみちた詠唱が、ジュリヤンのことを直接に思い続けていないかぎり、たえずマチルドの頭にこびりついていた。音楽が好きなおかげで、マチルドはその夜、いつもレーナル夫人がジュリヤンのことを思うときと同じような心境になれた。なるほど、理性の恋はまことの恋より、才気の点ではすぐれているが、夢中になるのはひとときにすぎない。自分を知りすぎ、たえず自分を批判し、考えをかき乱すどころか、考えに考えたすえにできあがった恋だからである。
うちへ帰ると、ラ・モール夫人がなんといおうと、マチルドは熱があるといってきかなかった。そして夜がふけるまで、聞いたばかりの詠唱をピアノでくり返して弾いた。すっかり心を奪われたその有名な曲の歌詞を歌ってみた。
Devo punirmi, devo punirmi,
Se troppo amai,etc.
常軌を逸した一夜を過したあげく、マチルドは自分の恋心に打ち勝つことができたと思った。(残念ながら、このページのために、いろいろの意味で作者は損をすることになろう。心の冷たい人間は、作者を破《は》廉《れん》恥《ち》だときめつけるにちがいない。だが、作者としては、パリのサロンで派手にふるまっている若い令嬢たちのうちに、マチルドの品位を落すような、こういう気違い沙汰《ざた》をしでかしかねない令嬢が、ひとりくらいはいるだろうなどという、侮辱的な想像をするつもりはない。この人物はまったく想像の産物であり、しかもなお、あらゆる世紀を通じて十九世紀文明にとりわけすぐれた地位を保証すると思われる社会的慣習とは、まったくかけ離れた世界で想像されたのである。
この冬の舞踏会を飾った令嬢たちに、慎みが欠けているわけではない。
作者はまた、こういう令嬢たちが、すばらしい財産とか、馬とか、りっぱな土地とか、すべて社交界で好ましい地位を保証するものを、あまりに軽蔑《けいべつ》しすぎるといって、咎《とが》めだてすることもできないと思う。こうした有利な点に退屈だけを見《み》出《いだ》すどころではない。こうしたものは一般に、常に変らぬ渇望《かつぼう》の対象であり、胸に情熱がわくとすれば、それはこうしたものに対する情熱なのである。
ジュリヤンのような、才能に恵まれた青年たちの運命を左右するのもまた、恋愛ではない。彼らは一党派にしっかりとしがみついている。その党派がのし上がると、社会のあらゆる結構なものが、彼らの上に雨のごとく降り注ぐ。どの党派にも属さない学者こそ、いい面《つら》の皮《かわ》で、心もとないごくわずかな成功をかちえても、とやかくいわれ、有《う》徳《とく》の連中がその功を奪って、わがもの顔をする。ところで、諸君、小説とは大道に沿ってもち運ばれる鏡なのだ。諸君の目に青空を映して見せることもあれば、どろんこの道を映して見せることもある。すると、鏡を負《お》い篭《かご》にいれてもち歩く男は、背徳漢だと非難される! その男の鏡が泥《どろ》を映して見せれば、諸君は鏡を非難する! だが、それよりか、どろんこの大道を非難したまえ。いやむしろ、水が溜《たま》ってどろんこになるのをほっておく道路監督を非難するがよろしい。
さて、マチルドのような性格は、慎み深くもあり道徳的でもある今の時代にはありえないということがわかったわけであるから、この愛すべき娘の気違い沙汰について、物語を進めても、それほど諸君の機《き》嫌《げん》を損じることはあるまい)
その翌日は、一日じゅう、マチルドは自分の狂わしい情熱に打ち勝ったことを確かめようとして、その機会をうかがった。なにかにつけて、ジュリヤンの気にさわるようなことをしようというのが、大きな目的だった。だが、ひとつとして、相手の行動は見のがさなかった。
ジュリヤンはあまりにも落胆していたし、取り乱してもいたので、そんな複雑な情熱のからくりを見ぬけるはずはなかった。まして、それが自分にとって有利になっていることなどに、気づくどころではない。その犠牲になってしまったわけである。おそらく、彼としては、これほど大きな不幸をなめたことはあるまい。その行動はあまりにも理性を欠いていた。したがって、悲観主義の哲学者かなんかに、「形勢はきみにとって有利になってきたのだから、さっそく、それにつけこむようにしたまえ。パリで見かけるこういう理性的な恋愛では、同じ状態が二日以上続くなんてことはないからね」といわれたところで、ジュリヤンは、なんのことやら、のみこめなかったにちがいない。しかし、いくらのぼせているといっても、ジュリヤンには体面を重んじる気持がある。なにはおいても、慎重にふるまうことを義務と感じ、またその点は心得ていた。相手かまわず、相談をもちかけたり、自分の苦しみを打ち明けたりすることができれば、炎天の砂《さ》漠《ばく》を横ぎる不幸な男が、天から一滴の冷たい水をさずかるようなもので、どれだけありがたいかしれなかった。彼はそんな危険があると思った。立ちいってきかれたら、答えるかわりに、さめざめと泣きくずれるかもしれない。それをおそれて、彼は部屋に閉じこもった。
長いこと庭を散歩しているマチルドの姿が見受けられた。やっと相手が立ち去ると、彼はおりていき、マチルドが花を一輪つみとったばら《・・》の木に近よってみた。
暗い夜だった。ひとに見られるおそれもなく、思うさま自分の不幸な身を思いやった。ジュリヤンにしてみれば、ラ・モール嬢が、今しがたいかにも楽しそうに話し合っていた若い士官のだれかを愛していることは、明らかだった。彼女は自分を愛してくれたこともあるが、なんの取り柄もない自分を知ってしまったのだ。
《そりゃ、たしかに、おれにはなんの取り柄もない!》と、ジュリヤンはしみじみ思った。《要するに、おれはじつにくだらない、まったく低俗な、ほかの連中から見れば始末の悪い、おれ自身でも我慢のならない人間なのだ》彼は自分のあらゆる長所、これまでことのほか大事に思っていたところまでが、たまらないほどいやになった。しかも、こういうひっ《・・》くり返しの考えかた《・・・・・・・・・》から、彼独特の空想で人生を判断しようとした。すぐれた人間はこういう錯覚におちいりがちである。
いくたびも自殺しようという気持におそわれた。そう考えてみるだけでも、なかなか楽しいし、まるで心地よい休息のような気がした。砂漠で、喉《のど》をからし、暑さにまいりかけた、憐《あわ》れな男が、一杯の冷たい水にありつくようなものである。
《おれが死んだら、あの女はおれをますます軽蔑するだろう! どんな思い出を残すか、わかったもんじゃない!》と、彼は叫んだ。
こうした不幸のどん底までつき落されると、人間は勇気を出す以外に手はない。ジュリヤンには、押しの一手だと思うほどの才覚はなかった。だが、マチルドの部屋の窓を眺めやると、鎧戸《よろいど》越しに、明りを消すのが見られた。彼はそのなつかしい部屋を思い描いた。残念ながら、その部屋は一生にたった一度しか見られなかったのだ。彼の空想はそれから先へは進まなかった。
一時が鳴った。鐘の音を聞くと、とっさに《梯子《はしご》で上っていこう》と思った。
天才のひらめきだった。うまい理屈がつぎつぎと浮んだ。《これ以上不幸になるはずはない!》そう思って、梯子のところへかけつけてみると、梯子は園丁のしわざか、鎖でつないである。このとき、超人的な力でいきりたったジュリヤンは、小型のピストルの撃鉄を使って、梯子をつないである鎖の環《わ》をねじきってしまった。撃鉄はこわれた。またたく間に梯子をひっかつぐと、マチルドの部屋の窓へ立てかけた。
《腹をたてるだろうし、軽蔑の言葉を浴びせるだろうが、かまうものか! おれはあの女にキスしてやる。最後のキスだ。それから、おれの部屋にかけ戻《もど》って、自殺するんだ。……死ぬ前に、この唇《くちびる》をあの女の頬《ほっ》ぺたに押しつけてやるんだ!》
ジュリヤンは飛ぶようにして梯子をよじ上ると、鎧戸を叩《たた》いた。しばらくすると、マチルドが音を聞きつけて、鎧戸を開こうとしたが、梯子があるので開かない。ジュリヤンは、鎧戸を開けておくための鉄の鉤《かぎ》にかじりつき、いくたびもあやうく墜落しそうになりながら、梯子をはげしくゆすぶって、すこしその位置をずらした。マチルドはやっと鎧戸を開いた。
ジュリヤンは生きた心地もせず、部屋のなかへ飛びこんだ。
「やっぱりあなただったの!」といいながら、マチルドはジュリヤンの腕にかきいだかれた。
………………………………………………
ジュリヤンの幸福は、筆舌につくしがたいほど大きかった。マチルドの幸福もそれに劣らなかった。
彼女は自分に不利なことをいい、自分が悪かったと打ち明けてしまった。相手が息もできないほど、ジュリヤンを両腕に抱きしめながら、
「あたしって、手に負えない高慢ちきだわ、こらしめてちょうだい。あなたはあたしの主人、あたしはあなたの奴《ど》隷《れい》よ。それなのに、反抗しようとしたんですもの、あたし、ひざまずいてお許しをお願いしなくてはいけないわ」そういって、腕を放すと、ジュリヤンの足もとにくずおれ、幸福と恋心に酔いしれながら、いった。「ええ、あなたはあたしの主人だわ。いつまでもあたしを支配してちょうだい。あなたの奴隷が反抗しようとしたら、きびしくこらしめてくださいな」
そうかと思うと、ジュリヤンの腕から身をふりほどいて、蝋燭《ろうそく》に火をつけ、髪の毛の片がわをそっくり切り落そうとした。ジュリヤンは思いとどまらせるのにひと苦労した。
「あなたの召使だってことを忘れないでいたいのよ。もし因果な自尊心から、あたしがむちゃをはじめたら、この髪の毛を見せて、こういってくださればいいわ。いまさら愛情なんか問題じゃない。今きみがどんな感情をいだいていようと、そんなことはどうでもいい。きみは服従すると誓ったんだから、名誉にかけて服従したまえ、って」
だが、これほどまでにのぼせ上がって、限りない幸福に酔っている姿を描くのは、控えたほうが賢明だろう。
ジュリヤンにはその幸福感に劣らぬ自制の心があった。庭の向うの、はるかな東の方に見える家々の煙突のあたりが白みかけるのを見て、マチルドにいった。
「梯子で下りていかなくてはなりません。わたしが好んでこんな犠牲をはらうのも、あなたを思えばあたりまえのことです。人間としてこんなすばらしい幸福の数時間は、またと味わえないわけですけれど、それを諦《あきら》めるのです。あなたの評判を思えばこそ、こんな犠牲をはらうのです。わたしの気持を知っていただければ、どんなつらい思いをしているか、おわかりになるでしょう。わたしに対して、いつまでも、今のあなたでいてくださるでしょうか? だが、名誉が〔私に出ていくことを〕命じています。それで十分です。わたしたちがはじめて会ったときは、泥棒にだけ嫌《けん》疑《ぎ》がかかったわけではありませんよ。ラ・モールさんは庭に見張り所を作りましたし。……クロワズノワさんはスパイにとりかこまれています。あの男が毎夜どんなことをしているか、わかっているのです……」
ジュリヤンがそんなことを考えていたのかと思うと、マチルドは思わず声をたてて笑った。母親と小間使が目を覚ましてしまった。ドアの向うから、ふいに声がした。ジュリヤンはマチルドと顔を見合せた。マチルドは蒼《あお》くなって小間使を叱ったが、母親には声をかけようともしなかった。
「でも、あのひとたちが窓を開ける気にでもなったら、梯子が見つかってしまいますよ!」と、ジュリヤンがいった。
彼はもう一度マチルドを抱きしめてから、梯子に飛びつき、滑り落ちるようにしておりた。一瞬のうちに地面に足をつけた。
三秒後に梯子は菩《ぼ》提樹《だいじゅ》の並木の下に運ばれ、マチルドの体面は救われた。ジュリヤンは我にかえってみると、血だらけでほとんど裸だった。不用意に滑り下りたりしてけがをしたのだった。
幸福を味わいつくした今のジュリヤンは、満身これ勇気といった気持だった。二十人の男があらわれようとも、このときなら、またひとつ楽しみができたと思って、ひとりで立ち向ったにちがいない。さいわい、彼の武勇のほどを試す必要はなかった。梯子をもとの場所に寝かせると、つないであった鎖をかけ直した。マチルドの窓下の異国産の花壇に、梯子のあとが残っているのを、忘れずに消した。
暗がりでやわらかな土を手探りでならしながら、あとがきれいに消えたかどうか調べていると、なにか手の上にばさりと落ちた。マチルドが髪の片がわをそっくり切り落して、投げてよこしたのだった。
彼女は窓辺から、かなり高い声でいった。
「あなたの召使からのおくりものよ。永遠の服従のしるしなの。これからは理性的に考えないようにします。あたしの主人になって!」
ジュリヤンは感きわまって、もう一度梯子を使って、マチルドの部屋へ上っていこうとしかけた。やっとのことで理性的に抑えることができた。
庭から屋敷へ戻るのは容易ではなかった、うまく地下室のドアをこじあけることができた。うちのなかにはいると、今度はなるべく音をたてないようにして、自分の部屋のドアを叩きこわすよりしかたがなかった。あわてていたので、今しがたいち早く逃げ出してきた小部屋に、上着のポケットにいれてある鍵《かぎ》まで忘れてきてしまったのだ。《とんだ忘れものをしてしまったもんだ。うまくマチルドが気づいて、隠してくれればいいが!》
やがて、疲れが幸福に打ち勝ち、日の上るころには、ぐっすり寝こんでいた。
昼食の鐘が鳴るのを聞いて、やっと目を覚ますと、食堂へ出た。まもなくマチルドがはいってきた。あれほど尊敬の的になっている、こんなにも美しい娘の目が、愛に輝いている。それを見て、ジュリヤンはちょっと得意になった。だが、やがて用心深いジュリヤンは思わずどきっ《・・・》とした。
髪の毛をなでつけるひまがなかったからと言いわけはしていたが、髪の結いかたを見ると、前の晩自分のために切り落してくれたのが、どれほど大きな犠牲だったか、ジュリヤンにはすぐにわかったのだ。これほど美しい顔だちでもそこなわれることがあるとすれば、今のマチルドがまさにそういう姿だった。灰色がかったブロンドの、房々した髪の片がわが、そっくり、頸筋《くびすじ》から一センチあまりのところで切りとられていた。
昼食のあいだも、マチルドのすることなすことが、こうした最初の不用意なふるまいに劣らないものだった。まるで、自分がジュリヤンにうつつを抜かしているさまを、わざとみんなに知らせようとしているかに見えた。さいわい、この日、ラ・モール氏と侯爵夫人は、青綬章《コルドン・ブルー》の叙勲のことで夢中になっていた。その叙勲は近々におこなわれるはずだが、ショーヌ氏はその選にもれていたのである。食事のすむころ、マチルドはジュリヤンに話しかけているうちに、ついあたしの主人《・・・・・・》と呼んでしまった。ジュリヤンは耳のつけねまで真っ赤にした。
偶然にそうなったのか、ラ・モール夫人がわざとそうしたのか、マチルドはその日すこしの間もひとりきりになれなかった。それでも、夜、食堂からサロンへ移るとき、すきを見て、ジュリヤンにいった。
「こんなこと、あたしがいうと、口実だとお思いになるかしら? お母さまがさっきおきめになったんですけれど、夜はあたしの部屋へ小間使をひとり寝かせることになりましたの」
この日はまたたく間に過ぎた。ジュリヤンは幸福の絶頂にあった。その翌日、まだ朝の七時なのに、早くも、ラ・モール嬢が来てくれるかもしれないと思って、図書室に陣取った。彼女あてに、途方もない長い手紙を書いておいたのである。
それからだいぶ時間がたって、昼食のときに、やっとマチルドに会えた。その日は、ひどく念入りに髪を結っていた。なかなか手ぎわよく、髪を切ったところを隠してあった。一、二度ジュリヤンのほうを見たが、すまし返った、穏やかなまなざしで、もうあたしの《・・・・》主人《・・》などと呼ぶどころではなかった。
ジュリヤンは、驚きのあまり、息の根もとまる思いがした。……マチルドは、ジュリヤンに対してしたことを後悔しはじめていたのだ。
いろいろ反省したすえ、マチルドは、ジュリヤンがごくありふれた人間ではないにしても、それほど人並すぐれたわけではなし、自分から進んで血迷ったまねをしてみせたほど値打のある人間ではないと、きめつけてしまっていた。要するに、恋愛のことなどほとんど念頭になかった。この日は恋にあきあきしていた。
ジュリヤンのほうは、まるで十六歳の少年のように、心を痛めていた。はげしい疑い、驚き、絶望が、昼食のあいだ、かわるがわる彼の心を占めた。昼食はきりがないほど長く思われた。
失礼にならないようにしてやっと食卓を離れると、さっそくジュリヤンは駆けこむようにして馬小屋へ飛んでいき、自分で鞍《くら》をつけると、馬を無我夢中で走らせた。なにか弱味を見せて、面汚《つらよご》しなまねをしはしないかと思ったのだ。《身体《からだ》をうんと疲らせて、気持を殺してしまわなければいかん》と、ムードンの森を疾駆させながらつぶやいた。《おれがどんなことをしたんで、どんなことをいったんで、あんな仕打ちをされたのだろう?》
《今日はなにもしまい、なにもいうまい》と、屋敷へ戻りながら考えた。《心も身体も死んだようにすることだ。ジュリヤンはもう生きていない。まだ動いているのは、その屍《しかばね》なのだ》
第二十章 日本製の花《か》瓶《びん》
彼の心は、はじめのうちは、自分の不幸がどれほど大きいかわからない。感動しているというより、取り乱している。だが、落着きを取り戻《もど》すにつれて、自分の底知れぬ不運のほどを感じる。彼にとっては、人生のあらゆる楽しみはなくなってしまっている。絶望の鋭い刃《やいば》に心をひきさかれる思いがするばかり。だが、身体《からだ》の苦しみのことをいってもはじまらない。身体によってのみ感じられる苦しみで、この苦しみに比べられるものがあるだろうか?
ジャン・パウル
晩餐《ばんさん》の鐘が鳴った。ジュリヤンは急いで服を着かえた。サロンで、マチルドが、兄とクロワズノワ氏に、その夜シュレーヌのフェルヴァック元帥《げんすい》夫人邸に行かないようにと、しきりに頼みこんでいた。
このふたりに対して、これ以上愛嬌《あいきょう》を見せるのはむずかしいと思われるほどだった。晩餐がすむと、リュス氏、ケーリュス氏をはじめ、友達の多くが姿を見せた。どうやら、ラ・モール嬢は兄妹仲《きょうだいなか》を改めて見直す気になったばかりでなく、およそしかつめらしい礼儀作法までも重んじる気になったらしい。その夜は気持のよい夜だったのに、マチルドは庭に行きたくないといいはった。ラ・モール夫人のすわっている肱掛《ひじかけ》椅子《いす》のそばから離れないでくれというのだ。青い長椅子が、冬のときと同じで、仲間の中心だった。
マチルドは庭を目の敵《かたき》にしている。いや、すくなくとも、やりきれない気がした。ジュリヤンの思い出に結びついているからである。
不幸は頭を鈍らせる。ジュリヤンは愚かにも、例の小さな藁《わら》椅子《いす》のそばにいって、離れようとしなかった。かつて数々の輝かしい勝利を目撃してくれた椅子である。だが、いまはだれひとりジュリヤンに言葉をかけるわけでなく、またジュリヤンのいることなど、気にかけていない。というよりもっとひどい。ラ・モール嬢の友達で、長椅子のはしにすわっている連中は、ジュリヤンのごくそばにいながら、わざとジュリヤンに背を向けている。すくなくとも、ジュリヤンにはそう思えた。
《宮中で寵《ちょう》を失ったようなもんだ》と思って、彼は自分をあくまで軽蔑《けいべつ》してかかろうとしている連中を、しばらく観察しようとした。
リュス氏の伯父は国王側近の高官だった。したがって、この美男の士官は、相手を見つけるたびごとに、「伯父は七時にサン = クルーへ出かけたから、夜はあそこで泊るつもりなのだ」といった調子で、ひとの気をひく、変った話をきり出す。しかも、このちょっとしたことを、いかにも開けっぴろげた様子をしていうのだが、それをいつも口にするのだった。
ジュリヤンはのけものにされているだけに、けわしい目つきをして、クロワズノワ氏を観察しているうちに、不可解な原因が大きく作用するものだと、この感じのよい好青年が信じているのに気がついた。この青年は、やや重大な事件などが、単純で、ごく自然な原因に帰せられるのを見ると、深刻な顔をして、不《ふ》機《き》嫌《げん》になるほどだった。《この男はちっと頭が変だぞ。こういう性格は、コラゾフ公爵《こうしゃく》から聞いた、例のアレクサンドル皇帝の性格とよく似ている》パリに来てから最初の一年間は、なにしろ神学校を出たてのジュリヤンであるから、こうした感じのいい青年たちの、粋《いき》なところがひどく珍しく、それに目を奪われて、感心するばかりだった。この連中の本性が、やっとこのごろになって、ジュリヤンの目にも、はっきりつかめかけたのである。
《おれはここで情けない役割を演じているわけだ》と、彼はふと思った。となれば、目だたないようにして、例の小さな藁椅子から離れることが肝心である。なんとかうまい方法はないかと思った。ほかのことばかりに気をとられていた頭を、なにか新しいことにふりむけようとした。記憶力に頼るべき場合なのだが、正直なところ、ジュリヤンの記憶は、こういう種類の材料を豊富にもっていない。かわいそうに、彼はまだろくろく作法の心得がないので、立ち上がってサロンを出ていこうとしたとき、動作があまりにも不器用だったので、みんなの目にとまってしまった。いかにも憐《あわ》れな格好だった。一時間近くも身分の低い邪魔者の役割を演じていたわけで、こういう男を相手にすると、だれでも平気で自分の思っていることを顔にあらわすものである。
だが、恋敵《こいがたき》の連中に批評がましい観察を加えていただけに、彼は自分のみじめな立場を、それほど悲観的に考えないですんだ。自尊心を失うまいとして、前々日の出来事を思い出してみた。《あの連中がどんなにおれよりすぐれたところがあろうと、マチルドがおれに二度までもしてくれたようなことを、マチルドからされたことはないのだ》と、彼はひとりで庭に出ながら考えた。
ジュリヤンの知恵はそれ以上働かなかった。たまたま、この風変りな女のために、自分の幸福のすべてが完全に左右されることになってしまったのに、彼はこの女の性格をてんで理解していなかったのである。
あくる日は一日じゅう、自分と馬とを、へとへとになるまで疲れさせるだけで精いっぱいだった。その夜は、マチルドが相変らず陣取っている青い長椅子に寄りつこうともしなかった。ノルベール伯爵が、うちのなかで顔を合わせながら、見向きもしないのに気がついた。《平生《へいぜい》あんなに愛《あい》想《そ》のいい男なんだから、ずいぶんむりしてるな》
ジュリヤンとしては、眠れさえすれば、こんなありがたいことはなかったわけだが、身体は疲れているのに、あまりにも悩ましい思い出が頭にこびりつきはじめていた。パリ郊外の森をいくら馬で乗りまわしてみたところで、自分にだけ働きかけるばかりで、マチルドの心なり頭なりにはいっこうに働きかけるわけではない。それでは、自分の運命をどうにでもしてくれといって、偶然の手に任せるようなものだ。ところが、ジュリヤンにはそこを悟るほどの知恵が働かなかった。
自分の苦しみをどれだけ慰めてくれるかしれないと思われることがひとつあった。マチルドに話しかけることである。しかし、どんなことが思いきっていえるだろう?
ある朝七時ごろ、彼はそんなことをしきりに考えていた。すると、ふいにマチルドが図書室にはいってきた。
「わかってますわ、あなた、あたしに話がしたいんでしょう?」
「えっ、だれがそんなことをいったんです?」
「わかってますわ、どうだっていいでしょう、そんなこと。あなたが約束を破りさえすれば、あたしを破滅させることができてよ。そうね、破滅させようとすることだけはできてよ。でも、そんなことをほんとになさるとは思わないけれど、そういう危険があったって、あたし平気よ、自分の本心を偽るつもりはないわ。あたしはもうあなたが好きじゃありません。いいこと、あたしは自分の気違いじみた空想から血迷ったんですわ……」
このおそろしい一撃に、ジュリヤンは恋心とやるせなさに思わず我を忘れて、弁解しようとした。こんなばかげた話はない。相手の気にいらないからといって、その言いわけをする男がいるものか。だが、ジュリヤンには、もはや自分のふるまいを抑制する理性はなかった。盲目的な本能から、自分の運命がきまるのを遅らせようとした。口をきいているかぎり、まだ諦《あきら》めないでもいいという気がした。マチルドはジュリヤンの言葉など聞いてもいなかったし、言葉の音だけでいらいらしてきた。相手がずうずうしくも自分の言葉をさえぎったのに、あきれていた。
女の操《みさお》を汚《けが》した後悔と、自尊心を傷つけられた口惜《くや》しさで、この日の朝は、マチルドのほうも、みじめな思いをしていた。田舎者の小せがれの、神父の卵なんぞに、とやかくいわれる権利を与えてしまったと思うと、やりきれず、打ちのめされたような感じだった。身の不幸を誇張して考えるおりなどは、《従《じゅう》僕《ぼく》なんかと過ちを犯して後悔するようなものだわ》と、思ったりした。
大胆で高慢な性格の持主の場合には、自分に腹をたてるのと、他人に当り散らすのとは、紙一重のことである。無性にまくしたてるのが、こういう場合は痛快なのだ。
たちまち、マチルドは徹底的にジュリヤンを罵《ば》倒《とう》しつくそうという気になった。なにしろ才気はありあまるほどもっている。この才気を弄《ろう》して、相手の鼻っ柱をへし折り、これに容赦なく痛手を負わせるところは、じつに鮮やかな手ぎわなのである。
生れてはじめて、ジュリヤンは素直に、すぐれた女性がはげしい憎しみに燃えて、自分にくってかかるのを、聞いていた。このときは、相手にさからって自分を弁護する気が全然起らなかったばかりか、むしろ自分自身を軽蔑したくなったのである。マチルドは才気にまかせて、計算ずくのうえで、残酷きわまる罵倒の言葉を浴びせ、ジュリヤンのもっていそうなうぬぼれをことごとく打ちこわそうとした。それを聞きながら、ジュリヤンは相手のいうとおりだと思い、まだいい足りないくらいだという気がした。
マチルドのほうは、数日前に取りのぼせたのが自分のほうでありながら、こうして自分ばかりか、ジュリヤンまでもこらしめるのに、快い自尊心の満足を覚えたのだった。
いい気になって相手をこっぴどくやっつけてはいるものの、マチルドにしてみれば、そんな文句は今はじめて思いついたり、考えたりするまでもなかった。一週間このかた、心のなかで恋愛反対派の弁護士がいっていたことを、口に出してそのままいえばよかったからである。
言葉のひとつびとつが、たえられぬジュリヤンの苦悩をいやが上にも深めた。逃げだそうとすると、マチルドが高飛車に出て、ジュリヤンの腕を抑えた。
「気をつけてください、お声が高すぎます。隣部屋まで聞えるかもしれませんから」
すると、マチルドは昂然《こうぜん》としていい返した。
「平気よ! 盗み聞きしたなんて、あたしにいえる勇気のあるひとがいるもんですか。どうせ、あなたはけちくさいうぬぼれから、あたしのことを自分の都合のいいように考えていたんでしょうが、あたしはそういう癖を徹底的に直してあげます」
ジュリヤンはやっと図書室から逃れだすことができたが、すっかり度《ど》胆《ぎも》を抜かれてしまったので、それほどみじめな思いがしなかった。《ふん、そうか! あの女はもうおれが好きでないというんだな》と、自分の立場を自分にのみこませようとするかのように、声に出してなんどもつぶやいた。《どうやら、あの女は八、九日愛してくれたらしいが、おれのほうはあの女を一生思いきれないだろう》
《そんなことがあるものか! あの女がおれにとってなんでもなかったというのか! ほんの数日しかたっていないのに、おれの心にとってなんでもなかったなんて!》
マチルドは思いきり自尊心を満足させることができて、せいせいしたという気持だった。これで、完全に手を切ることができた! あんなにはげしいのぼせかたをしたのに、それをきれいに処理できたと思うと、いいしれぬ喜びを感じた。《これであの生意気なジュリヤンも、今度こそ思い知るだろう。あたしを支配する力なんかありゃしないし、これからだって支配できないってことが》彼女はそれがあまりにもうれしかったので、このときはもう恋心がなくなっていた。
ジュリヤンほどの情熱家でなければ、こんな無《む》惨《ざん》な、屈辱的な目にあわされたら、このうえ恋心などがもてるはずはない。ラ・モール嬢は片時も令嬢としての慎みを失うことなく、相手の気を害する言葉ばかり浴びせかけた。それに、相手が冷静になって考え直しても、いちいちもっともだと思われるほど、巧みに計算したうえでふるまったのだった。
まことに意外なくってかかりかたなので、ジュリヤンがまず結論として考えたのは、マチルドの自尊心にはとめどがないということだった。ふたりのあいだが、もう永久に割れてしまったのは確かだと思った。そのくせ、あくる日、昼食のときになって、マチルドの前に出ると、ぎごちない、おずおずした態度を見せた。こんな欠陥をひとから咎《とが》められたことは、これまでになかった。小さなことでも、大きなことでも、自分がなにをすべきか、またなにをしたいのか、はっきり自覚していたし、それを実行してもきた。
その日、昼食のあとで、ラ・モール夫人から本を取ってくれと頼まれた。危険思想の本だが、かなりまれなもので、その朝、教区の司祭がこっそりもってきてくれたものだった。ジュリヤンはその本を小テーブルの上から取ろうとして、うっかり、ひどく汚ない、青色の古い花瓶を落してしまった。
ラ・モール夫人は悲痛な叫び声をたてて、立ちあがると、そばに寄って大事な花瓶のかけらをつくづくと眺《なが》めながらいった。「これは日本の骨董品《こっとうひん》なのです。シェルの修道院長をしていた大伯母からいただいたのです。オランダ人が摂政《せっしょう》のドルレアン公に献上し、公爵がそれをお姫さまにお贈りになったのです……」
マチルドはこの青い花瓶を、ことのほか汚ならしいと思っていたので、こわれたのを見て内心大いに喜びながら、母親の動作を見守っていた。ジュリヤンは黙ったまま、そうあわてた様子を見せなかった。ラ・モール嬢がごくそばに来たのを見ると、
「この花瓶はもうこわれてしまって、元どおりにはなりません。かつてわたしの心を支配していた感情も、これと同じことです。そのために、いろいろ血迷ったまねをしましたが、どうかお許しください」
といって、彼はさっさと出ていった。
出ていくのを見て、ラ・モール夫人がいった。
「ほんとにまあ、ソレルさんというひとは、こんなことをしでかしておきながら、得意になって喜んでいるようね」
この言葉はマチルドの胸にぐっとこたえた。《たしかにそう、お母さまはぴったりいいあてたわけだわ。あのひとの今の気持はそのとおりなのだわ》ここに至ってはじめて、前の日にジュリヤンをやりこめたときの喜びが消えた。そして、つとめて平静を装いながら、つぶやいた。《そうだわ、なにもかもおしまいよ。あたしにはいい教訓になったわ。あたしは大それた、面目丸つぶれの過ちを犯してしまった! でも、そのおかげで、これからは一生賢く暮せよう》
《どうして、おれは、ほんとのことをいわなかったんだろう? あの気違い娘にいだいていた恋心が、どうして今もなお、おれを苦しめるのだろう?》と、ジュリヤンは思った。
この恋心は、ジュリヤンの思いどおりに消えるどころか、見る見るうちにつのってきた。《なるほど、あの女は常軌を逸しているにちがいないが、かわいいことに変りはない。あれほどきれいな女がまたとあろうか? とびきり粋な文明が見せうるかぎりの強い喜びといったらよかろう。それがどれもこれもラ・モール嬢の一身に集まっているといった感じだ》過ぎ去った幸福の思い出が、ジュリヤンの心をおそい、理性的な考えをたちまち打ち破ってしまった。
理性はこうした種類の思い出と争ってみてもはじまらない。理性をいかにきびしく働かせたところで、悩ましい思い出はますますかきたてられるばかりである。
古い日本製の花瓶がこわれて二十四時間後には、ジュリヤンはまさにおよそ不幸な人間のひとりとなっていた。
第二十一章 密書
なぜなら、わたくしがお話しすることはすべて、この目で見たからです。見そこないはあったかもしれませんが、あなたにお話しするのに、むろん、あなたをだましたりなどはいたしません。
作者への手紙
侯爵《こうしゃく》がジュリヤンを呼びつけた。ラ・モール氏は若返った感じで、目を輝かしていた。
「きみの記憶力のことなんだがね、すばらしい記憶力をもっているそうじゃないか! 四ページばかり暗記して、ロンドンへ行って、それを暗誦《あんしょう》できるかね? むろん、一言一句違《たが》えずにだよ……」
侯爵は不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに、その日の『日日新聞』をもみくちゃにしながら、ひどく真顔になりかけるのを、つとめて隠そうとしているが、隠しきれない。フリレールとの訴訟が問題になっているときでも、ジュリヤンの知るかぎりでは、侯爵がこんな様子を見せたことは一度もなかった。
ジュリヤンはすでにかなり世慣れていたので、相手が気軽な態度に出てきたら、そのまま乗せられたふりをするほうがいいと、見てとった。
「その『日日新聞』はたいしておもしろくないかもしれませんが、侯爵さまがお許しくださるのでしたら、明日の朝、そっくりそのまま暗誦してごらんにいれます」
「ほほう! 広告までもか?」
「きわめて正確に、一語も違えずに」
「約束できるかね?」と、侯爵は急に真剣な顔をしていった。
「はい、間違いがなければなどと思いさえしなければ、記憶が狂うことはありません」
「昨日、その点をきみにきいておこうと思って、忘れたもんでね。わたしはなにも、これから耳にすることをけっして口外するな、などときみに約束させるつもりはない。きみの性格はよくわかっているから、そんな失礼なまねはしない。わたしはきみを見込んだのだ。これからきみをあるサロンへ連れていくが、十二人集まるはずだ。きみには、いちいちみんなの発言をノートしてもらいたい。
いや、心配しなくてもいい。がやがやしゃべるわけではなく、それぞれが、かわるがわる話すのだ。順序があるわけではないが」と、侯爵はいつもの抜け目ない気軽な調子に返って、つけ加えた。「わたしたちが話しているあいだに、きみには二十ページばかり書いてもらおう。わたしと一緒に、ここへ戻《もど》ってきて、その二十ページ分を四ページに縮めるわけだ。この四ページを明日の朝暗誦してもらいたいので、『日日新聞』一号分のことじゃない。それからすぐ出発してもらう。楽しみで旅行をしている青年のようなふりをして、駅馬車で行く必要がある。だれの目にもとまらないようにするのが肝心だ。そこで、あるえらい人物にお目通りすることになるのだが、そうなったら、いっそううまく立ちまわってもらいたい。取り巻いている連中をごまかすわけだ。なにしろ、その人物の秘書のうちにも、召使のうちにも、わたしたちの敵方に買収されているのがいて、わたしたちの側の使者を待ち伏せて、途中で邪魔しようといっているにちがいはないから。
きみにはありきたりの紹介状を渡しておく。
閣下がきみのほうをごらんになったら、このわたしの時計を出してお見せするといい。旅行中はきみに貸しておく。今からもっていたまえ。いつ渡しても同じことだから。きみのを預かっておこう。
公爵ご自身で、きみがいうとおり、暗記していった四ページをお書取りになるだろう。
それがすんでから、それより早くてはいけない、いいかね、閣下がおたずねになったら、きみが今日列席する会議の模様をお話しするといい。
旅行中は退屈しないと思う。なにしろ、パリとその大臣のお屋敷とのあいだには、それこそソレル神父に一発お見舞しようと手ぐすねひいて待っている連中がいるんだから。撃たれてしまえば、きみの使命はおじゃんだし、わたしは待ちぼうけをくわされることになる。きみが死んだことは、こっちにはわかるはずがないからね。いかにきみが忠実だといっても、まさか死んだことまで知らせてよこすわけにはいくまい」
「すぐに服を一そろい買いに行ってきたまえ」と、侯爵は真顔になってつけ加えた。「二年前に流行した服を着るんだな。今夜はなりをかまわないほうがいい。だが、旅行中はその反対に、いつものとおりにするがいい。驚いたかね? 抜かりのないきみのことだ、察しはついたろう? そうなんだよ、きみ、きみは身分の高いかたがたのお説を拝聴することになるのだが、そのうちのひとりは情報をもらしかねない人間なのだ。きみが夜どこかいい宿屋に立ち寄って、食事でも注文しようものなら、きみに阿《あ》片《へん》くらいは盛りかねない」
「まっすぐ行かないで、三十里ばかりまわり道をしたほうがよろしいでしょう。ローマでございますね、行く先は……」
それをきくと、侯爵は、ブレー = ル = オー以来、ジュリヤンが見たこともないほど、不《ふ》遜《そん》で不機嫌な顔になった。
「そんなことはいずれ教えてあげる、きみにいってもいいと思う時期が来れば。わたしはいろいろきかれるのがきらいなのだ」
「いいえ、おききしたわけではありません、ほんとでございます」と、ジュリヤンは心からいった。「思っていることを口に出してしまったのです。頭のなかで、どれがいちばん安全な道順かなと考えておりましたもので」
「そうだね、どうやらきみは遠まわりしすぎたようだな。使いをするものは、まして、きみくらいの年齢では、ひとに信頼を強要するようなまねをしてはいけない。これはよく覚えておきたまえ」
ジュリヤンはやりこめられたわけであるし、彼のほうが悪かった。自尊心の手前、言いわけをしようと思ったが、うまく見つからなかった。ラ・モール氏が、さらにつけ加えた。
「わかったろうね、人間はなにかへまをやると、きまって悪気からではないというものだ」
それから一時間して、ジュリヤンは身分の卑《いや》しい風采《ふうさい》をして、侯爵の部屋に姿を見せた。古ぼけた服に、薄汚ない白のネクタイをつけ、どこから見てもえせ学者といった格好である。
その姿を見て、侯爵は吹き出した。これでやっと、ジュリヤンは面目を取り戻した。
《この青年がわたしを裏切るようなら、だれを信用したらいいのだ?》と、ラ・モール氏は考えた。《とはいっても、事を運ぶとなれば、だれかを信用しなくてはならない。わたしの息子にしても、息子と同じたちのりっぱな友達にしても、勇気や忠実さなら、人一倍もっている。戦わなければならないとなれば、玉座の前で生命《いのち》をすてるだろうし、なんでも心得てはいる。……だが、目下のところ役にはたたない。四ページ分を暗記して、跡をつけられずに、百里の道を行くなんてことは、あの連中のうちに、ひとりだってできるものはいまい。ノルベールも、先祖のひとたち並に、生命をすてることは心得ているだろうが、それは新兵にもできることだ……》
侯爵は深く考えこんでしまった。《それにまた生命をすてることなら》と、溜息《ためいき》をつきながら、《おそらくこのソレルだって、ノルベールと同様、りっぱにやってのけよう……》
「馬車に乗ろう」と、侯爵は煩《わずら》わしい考えを追い払おうとするかのようにいった。
「侯爵さま、この服の寸法を直してもらっているあいだに、今日の『日日新聞』の第一面を暗記しました」
侯爵は新聞を手に取った。ジュリヤンは一言も間違えずに暗誦した。その夜はなかなかの外交官ぶりを発揮して、侯爵はつぶやいた。《これはいいぞ、こうやってるあいだは、この青年もどこの街を通っているか気がつくまい》
ふたりは大きなサロンへ通された。見かけはかなり見すぼらしく、羽目板のところもあるし、緑のビロードを張ったところもある。サロンのまんなかに、仏頂面《ぶっちょうづら》をした従僕《じゅうぼく》が、大きな食卓を置いたところだった。あとから、大きな緑のテーブルかけがかけられ、これが事務机に早変りした。インクのしみだらけで、どこか役所のお古らしいテーブルかけだった。
この家の主人は大男で、その名前は一度もだれの口からも出なかった。ジュリヤンはその顔つきと弁舌の点から、食い道楽の男にちがいないと判断した。
侯爵の合図を見て、ジュリヤンはテーブルの末席に控えたままでいた。体裁をつくろうために、羽根ペンを削りはじめた。横目で数えてみると、話し手は七人いるが、いずれもうしろ姿しか見られなかった。そのうちのふたりは、ラ・モール氏に対等の言葉で話しているようだったが、あとの連中は、多かれ少なかれ、侯爵に敬意をはらっているらしい。
取次なしに、別の人物がはいってきた。《変だぞ、このサロンでは、けっしてお客の名を取り次がない。おれがいるんで、こんな用心をするのかな?》と、ジュリヤンは思った。一同は立ち上がって、新来の客を迎えた。すでにサロンへ来ていた連中のうちの三人と同様、その人物は最高勲章をつけている。一同はかなり低い声で話した。新来の客を判断しようとは思ったが、ジュリヤンはその顔だちや様子から察するよりしかたがなかった。背が低く、ずんぐりしていて、血色がいい。目は生き生きしているが、猪《いのしし》のような、獰猛《どうもう》な感じ以外には、なんの表情も見られなかった。
ほとんどこれに続いて、まったく様子の違った人物がはいってきたので、ジュリヤンの注意は強くそのほうにひきつけられた。背の高い、ひどく痩《や》せた男で、チョッキを三、四枚重ねて着ている。目もとはやさしく、態度は丁重だった。
《ブザンソンの老司教そっくりだ》と、ジュリヤンは思った。この男は明らかに宗教界の人物らしく、年はせいぜい五十から五十五歳のあいだで、このくらい柔和な態度はまたと求められまい。
若いアグドの司教があらわれた。一同のものを眺《なが》め渡して、ジュリヤンの上に視線がとまると、ひどく驚いたような顔をした。ブレー = ル = オーの儀式以来、一度もジュリヤンに言葉をかけたことがなかった。司教の驚いたようなまなざしを見て、ジュリヤンはどぎまぎした。いらだちも覚えた。《なんてことだ! だれかと知合いになると、きまっておれは不幸な目にあうのか? ここにいるえらい連中には、ついぞお目にかかったことがないから、ちっとも気づまりを感じないが、あの若い司教の目つきを見ると、ぞっとする! おれという人間は、よっぽど風変りで、損な性分の男とみえる》
黒ずくめの小男が、まもなくせわしげにはいってきて、ドアを開けるなり、しゃべり出した。黄色い顔をしていて、どうやらすこし頭がおかしいらしい。このとめどもないおしゃべり男があらわれると、たちまち一同は思い思いにグループを作ってしまった。明らかにうんざりするようなこの男の話を敬遠しようという腹なのだ。
一同は暖炉から離れて、ジュリヤンの控えているテーブルの下座のほうへやってきた。ジュリヤンはだんだん落ち着けなくなった。なんといっても、話しているのが耳にはいってくるわけだし、いくら世間知らずだとはいっても、みんなが平気でしゃべっている事柄の重大さが、わからないはずはなかったからである。それに、自分の目の前にいるのは、明らかにおえらがたであるし、いかに内容を秘密にしておきたがっているかは、いうまでもないことだった。
できるだけゆっくりしたつもりだったが、ジュリヤンはすでに二十本ばかりの羽根ペンを削ってしまっていた。いよいよこの手も種ぎれになりそうだ。ラ・モール氏の顔色をうかがって、なにか合図がありそうなものだと思ったが、その甲斐《かい》はなかった。侯爵はジュリヤンのことなど忘れてしまっていた。
ジュリヤンは羽根ペンを削りながら考えた。《おれのやっているのはばかげたことだ。だが、この連中はこんな平凡な顔をしていても、他人に頼まれるなり、自分から引き受けるなりして、こんな重大な仕事に関係している以上、ひどく神経質になっているにちがいない。ところが、おれの目つきときたら、情けないことに、どこか相手を探るような、無遠慮なところがあるから、きっとこの連中の気を害するだろう。かといって、あくまで目を伏せていれば、みんなの言葉を一生懸命書きとめていると思われるだろうし》
彼はすっかり当惑してしまった。すると、ただならぬ物音が聞えてきた。
第二十二章 討議
共和国――今日では、社会福祉のためにすべてを投げうとうとするものが、ひとりいると、これに対して、自分の享楽《きょうらく》や虚栄のことしか眼中にない人間が何千、何百万いるかしれない。パリでは、人格のためではなく、自家用の馬車をもっているから、尊敬を受けるのだ。
ナポレオン『日記』
従僕《じゅうぼく》が駆けこんできて、「***公爵《こうしゃく》さまでございます」と叫んだ。
「黙りなさい、実際、ばかなやつだな」といいながら、公爵がはいってきた。いかにももの慣れた、威厳のあるいいかたなので、ジュリヤンは、せいぜい従僕に対して腹をたてるのが、この大官の取り柄なのだろうと思った。ジュリヤンは目を上げたが、すぐまた伏せてしまった。今来た客がどれほどえらいか察しがついたので、うっかり目を注いだら失礼になりはしないかと思ったのである。
この公爵は五十代の男で、洒《しゃ》落《れ》者《もの》のような身なりをし、ばね仕掛の人形のような歩きかたをした。頭は小さいが、鼻は大きくて、細長い顔がぐっと前に突き出ている。これ以上、上品で無表情な顔をすることは、なかなかできるものではない。この人物が来たので、会議がはじまった。
ジュリヤンが人相を観察しているところを、いきなりラ・モール氏が中断して、「ソレル神父をご紹介します」といった。「驚くべき記憶力の持主で、つい一時間前に、光栄ある任務が与えられるかもしれないと申しましたところ、記憶力のほどを証拠だてようとして、『日日新聞』の第一面を暗記してしまいました」
「そうそう、あの気の毒なN……の海外ニュースですな」と、この家の主人がいい、いそいで新聞を取り上げると、威厳をつけようとしたため、かえって滑稽《こっけい》に思えるほどの様子で、「では、きみ、暗誦《あんしょう》してみてください」といった。
あたりは静まり返って、一同の目がジュリヤンに注がれた。鮮やかな暗誦ぶりだったので、二十行ばかりも話すと、「結構です」と公爵がいった。猪《いのしし》のような目つきの小男が席についた。この男が議長だった。席につくなり、ジュリヤンに向って、遊戯台を指し、自分のそばにもってくるようにと合図したからである。ジュリヤンは速記の材料をもって、そこに腰をすえた。数えてみると、十二人が緑のテーブルかけをかけたテーブルのまわりにすわっていた。
「ソレル君、隣の部屋で待っていてくれたまえ。あとで来てもらうから」と公爵がいった。
家の主人はひどく不安気に、「鎧戸《よろいど》が閉《しま》っていないのです」と、やや声を落して、隣の男にいった。――ジュリヤンに向っては、愚かにも、「窓からのぞいてはいけませんぞ」と大きな声でいった。――《いよいよこれで、おれは陰謀にまきこまれたらしい。さいわい、そのためにグレーヴ広場へ引き立てられるような陰謀とは違う。たとえ、危険があるとしても、これくらいのことは、いやこれ以上のことでも、侯爵のためなら、するのがあたりまえだ。おれの気違い沙汰《ざた》で、いずれは侯爵も悲嘆にくれることになるだろうから、その償いの機会が与えられるなら、ありがたい話じゃないか!》
自分の気違い沙汰や不幸な身を思いやりながらも、あたりの様子を忘れまいとして、眺《なが》めまわしてみた。このときになって、やっとジュリヤンは思い出した。彼は侯爵が従僕に通りの名前をいうのを耳にしなかった。また、侯爵は辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》を呼ばせたが、そんなことはこれまでに一度もなかったのである。
長いあいだ、ジュリヤンは取り残されたまま、思いに耽《ふけ》っていた。ジュリヤンのいるサロンは、幅の広い金モールのついた、赤いビロードで張りめぐらされていた。飾りテーブルの上に大きな象《ぞう》牙《げ》の十字架が置いてあり、暖炉の上の棚《たな》には、金ぶちの豪華な装幀《そうてい》をほどこした、メーストル氏の『法王論』がのっている。聞き耳をたてていると思われたくないので、その本を開いてみた。ときどき、隣部屋では話し声が高くなった。やっとドアを開いて、呼びいれられた。
「みなさん、これからは***公爵の御前で、話すのだということをお含みおきください」と、議長がいっていた。「このかたは」と、ジュリヤンを指しながら、「われわれの大義名分のために尽してくれる若い司察です。その驚くべき記憶力を働かせて、われわれのごく些《さ》細《さい》な議論までも容易に暗誦してみせることができるのです」
「あなたの番です」といって、議長は、チョッキを三、四枚着ている、いかにも柔和そうな顔の男を指した。ジュリヤンは、「チョッキのおかた」といったほうが、ふさわしいと思った。彼は紙を取ると、夢中になって書き綴《つづ》った。
(ここで作者は、一ページ分を点線でうめておこうかと思った。すると、出版者が、「それでは体裁が悪いし、こんなくだらぬ本で、体裁が悪かったら、かた《・・》なしですよ」というのである。そこで、作者はいい返した。
「政治なんて文学の首にくくりつけた石ころみたいなもので、半年もたたぬうちに文学を沈めてしまいますよ。おもしろい作り話のなかに政治をもちこむのは、音楽会の最中にピストルをぶっぱなすようなものです。耳をつんざくような音だが、印象は強くない。どの楽器の音とも調和しないわけです。政治の話などもちだしたら、読者の半分はかんかんになっておこるだろうし、残りの半分は退屈するにきまってます。その読者だって、朝の新聞でなら、政治の話もまたいちだんとおもしろいし、印象深くも思うでしょうが……」
今度は出版者がいい返した。
「あなたの作中人物が政治の話をしないようなら、もはや一八三〇年代のフランス人ではありませんな。それでは、これまでのご主張とは違って、あなたのご本は鏡ではなくなってしまいますよ……」)
ジュリヤンの記録は二十六ページに達した。次にのせるのは、ごく色あせたその抜萃《ばっすい》である。なにしろ、あまりばかばかしすぎて、どぎつくなったり、ほんとにしてもらえないようなことがあってはいけないから、例のとおり割愛しなければならなかったのである(『法廷新報』参照)。
柔和な顔をしたチョッキの男(おそらく司教だったにちがいない)は、しばしば微笑した。すると、たるんだまぶたにとりまかれている目が、異様な光をおびてきて、ふつうのときよりはっきりした表情になる。この人物に公爵(といっても、なんという公爵なんだろうと、ジュリヤンは思った)の御前で口を切らせたのは、いろいろ意見を述べさせ、次席検事のような役目をさせるつもりだったからにちがいない。しかし、ジュリヤンから見れば、司法官などがよく非難されるところだが、いっこうににえきらない話しぶりで、明確な結論を欠いているように思われた。議論の最中に、公爵はその点で注意をしたくらいである。
道徳と寛大主義の演説を、長々と試みてから、チョッキの男はいった。
「高貴なるイギリスは、一偉人、史上にその名をうたわれるピットに率いられ、四百億フランをつぎこんで、革命を防ぎとめてくれたのです。ここにおいでのかたがたのお許しを願って、いささか率直ながら、一つの悲しむべき意見を述べさせていただきます。ナポレオンのごとき男を相手にしては、しかも、とりわけ、これに抵抗するのが、わずかに善意をもつ人々の集まりでしかなかったときは、個々の人間を使う以外に断《だん》乎《こ》たる方法がなかったのですが、イギリスにはそこがあまりのみこめなかったのです……」
「いやはや、また暗殺の礼讚《らいさん》ですかい!」と、家の主人が不安そうにいった。
「あなたの感傷的なお説教はやめにしてもらいたいものですな」と、議長が腹だたしげに叫んだ。その猪のような目が、獰猛《どうもう》な色をおびてきらりと光り、「お続けください」と、彼はチョッキの男にいった。議長の頬《ほお》と額が真っ赤になった。報告者は続けていった。
「高貴なるイギリスも今日では疲弊しています。というのも、それぞれのイギリス人は、自分のパンの金を払う前に、過激革命派弾圧に費やされた四百億フランの利子を支払わなければならないからなのです。イギリスにはもはやピットはおりません……」
「ウェリントン公爵がいる」と、ひとりの軍人が、ひどくえらそうな顔をしていった。
「どうか、みなさん、お静かに」と議長が叫んだ。「このうえ議論をなさるおつもりなら、なにもソレルさんに来てもらうことはなかったではありませんか」
「あなたがいろいろと違った考えをおもちなことはわかっています」と、公爵は、横やりをいれたナポレオン麾下《きか》の元将軍をじろりと眺めながら、腹だたしげにいった。ジュリヤンは、この言葉がなにか個人的な事柄について、痛烈な皮肉をいってるのだなと察した。みんなは薄笑いを浮べた。裏切者の将軍は、どうやら憤懣《ふんまん》やるかたない様子である。
「もはやピットはいないのです」と、報告者は、聞き手に道理を説くのをあきらめたかのように、失望の色を見せていった。「たとえイギリスに新たなピットがあらわれたにしても、同じ手で二度と国民をだますことはできません……」
「だからボナパルトのような常勝将軍も、今後フランスには出ないわけです」と、例の軍人がまたも横やりをいれた。
今度は、議長も公爵も、あえて腹をたてようとはしなかった。もっとも、ジュリヤンはふたりの目の色を見て、大いに腹をたてたいところなのだなと思った。ふたりは目を伏せた。公爵は、わざとみんなに聞えるような溜《ため》息《いき》をつくだけで我慢した。
だが、報告者はすっかりつむじを曲げてしまった。
「いいかげんに切りあげてくれとおっしゃるわけですな」と、彼はいきりたっていった。ジュリヤンが人格のあらわれだと思っていた、例のにこやかな礼儀ある態度も、控え目な言葉づかいも、そっちのけにしてしまったのである。「いいかげんに切りあげてくれとおっしゃるのですな。わたしたちはずいぶん苦労して、どんなに長くなっても、どなたのお耳にもさわらないようにと思っていますのに、全然察していただけないのですね。それなら、みなさん、簡単に申します。
ごく卑俗ないいかたで申しますが、イギリスは大義名分のために使う金は、もはやびた一文ももっていないのです。ほかならぬピットがもう一度あらわれて、いかに知恵をしぼってみたところで、イギリスの小地主たちをだますことはできないでしょう。彼らにしてみれば、すぐ片のついた例のワーテルロー戦役だけでも、十億フラン使わせられたのを覚えてますからね。はっきりした言葉を使えとおっしゃるのですから、申します」と、報告者はますます激して、つけ加えた。「汝みず《・・・》からを助けよ《・・・・・・》。なぜなら、イギリスには、みなさんのために使う金は一ギニーすらないからです。それに、イギリスが金を出さなければ、オーストリアも、ロシアも、プロシアも、威勢がいいばかりで金のない国々ですから、フランスに対して、せいぜい一度か二度の戦争をしかけるのが関の山です。
過激革命派のために集まる若い兵士たちが、第一回目の戦いでは、あるいは第二回目の戦いでも、敗れるだろうということは、期待できるかもしれません。だが、第三回目の戦いでは、……と申すと、色眼鏡でものをごらんになるみなさんの目には、わたしが革命派のように映るかもしれませんが、第三回目の戦いでは、一七九四年のような兵士たちを相手にすることになりますぞ。これはもはや一七九二年のような、農民をかり集めた軍隊ではなかったのです」
ここで、三、四カ所から同時に横やりがはいった。議長がジュリヤンにいった。
「きみは隣の部屋へ行って、今まで書いた記録を清書してくれたまえ」彼は出ていったが、残念でならなかった。ふだんジュリヤンが考えている問題で、これからの見通しについて、報告者がちょうどこれをとりあげたところだったからである。
《おれに軽蔑《けいべつ》されるのを、おそれているのだな》とジュリヤンは思った。呼び戻《もど》されて、はいっていくと、ラ・モール氏がまじめくさった顔をして話していた。ふだんの侯爵を知っているジュリヤンには、おかしくてしかたがなかった。
「……そうです、みなさん、まさにこの不幸な国民にこそ、
これは神となるか、テーブルとなるか、それともたらいとなるか?
ということがいえるのです。
神となるだろう《・・・・・・・》! と、この寓《ぐう》話《わ》作者は叫ぶのです。みなさん、このまことに高貴な、まことに意味深長な言葉は、みなさんにあてはまるではありませんか。みなさん自身が行動を起すべきです。そうすれば、高貴なるフランスは、われわれの祖先が作りあげたような、またルイ十六世の生前にはなお見られたような姿と、ほとんど変りないフランスを再現することでしょう。
イギリス、いやすくなくともその高貴なる貴族たちは、われわれと同様、いまわしき過激革命思想を唾棄《だき》しています。イギリスの金がなければ、オーストリアも、ロシアも、プロシアも、せいぜい二、三回の戦いしか交えることができません。それくらいのことで、ありがたい占領軍の進駐を招来することができるでしょうか? わたしのいうのは、リシュリユー氏が一八一七年に、まったく愚かにも、みすみす棒にふってしまったような進駐のことです。わたしは望めないと思います」
ここでまた横やりがはいったが、一同のシ《・》ーッ《・・》という声で抑えられてしまった。横やりをいれたのは、相変らずナポレオン麾下の元将軍だった。青綬章《コルドン・ブルー》がほしさに、密書の作成者たちのあいだで認めてもらおうと思っていたのである。
「わたしは望めないと思います」と、ラ・モール氏は騒ぎが静まったのを見て続けた。侯爵はこのわたし《・・・》という言葉に力をいれた。その不《ふ》遜《そん》ないいかたが、ジュリヤンの気にいった。《芝居がうまいな》と思いながら、ジュリヤンは侯爵の言葉とほとんど同じ早さでペンを走らせた。この的を射た一言で、ラ・モール氏はこの裏切り将軍の数知れぬ武勲をふみにじってしまった。
「外国に頼るだけで、われわれは新たな軍事占領ができるというわけのものではありません」と、侯爵は、できるだけ穏やかな口調をして、いい続けた。「『グローブ』紙に激越な記事を書いている青年たちでもって、隊を指揮する三千や四千の青年将校はできましょうし、そのなかには、クレベールや、オッシュや、ジュールダンや、ピシュグリュのようなものがいるかもしれません。もっとも昔ほどのけなげな心がけはもっていないでしょうが」
「われわれはそういう人物に名誉を与えることをしなかった。その名を不朽にしてやるべきだったのです」と議長がいった。
「とにかく、フランスには二つの党派が必要なのです」と、ラ・モール氏が続けた。「二つの党派といっても、単に名目ばかりでなく、はっきりとした、完全に別の二つの党派のことです。そのいずれを粉砕すべきかをわきまえなくてはならない。一方には、新聞記者、選挙人、つまり世論があるわけです。いいかえれば青年と青年を讚美する一派です。この青年たちが、景気がよいだけで内容空疎な言葉に、うつつを抜かしているあいだは、われわれのほうには、予算を消費するという確実な利点があるのです」
ここで、またも横やりがはいった。
「言葉が気にくわないとおっしゃるなら、あなたは、いいですか、消費なさっているとはいいますまい」と、ラ・モール氏は、威厳と余裕のあるあっぱれな口ぶりで、横やりをいれた相手にやり返した。「あなたはむざむざと使っているのです、国家予算に計上されている四万フランと、国王のお手《て》許金《もときん》からお受取りになる八万フランとを。
ところで、やむをえませんから、わたしも思いきってあなたを例にとりましょう。あなたは、聖王ルイのお供をして十字軍に加わった、あなたの尊いご先祖がたと同様、この十二万フランでもって、すくなくとも一個連隊なり、一個中隊なり、いや中隊の半分でもよろしいから、われわれに提供してくださるべきでしょう。たとえ、それが五十人でもよろしい、喜んで戦い、大義名分のために、生死を省みず、身を献《ささ》げようという気構えの兵士を。ところが、あなたのもっておられるのは従僕ばかりで、それも、いざ反乱となれば、ほかならぬあなたをおどかしかねない連中ではありませんか。
みなさん、国王も、教会も、貴族も、各県に五百名の尽忠《・・》報国隊を作っておかないかぎり、明日には滅びるかもしれないのです。わたしは尽忠と申しましたが、勇猛果敢なフランス魂だけではたりない、ねばりのきくスペイン魂ももっていなくてはいけないのです。
この部隊の半分は、われわれの子弟や甥《おい》など、つまりきっすいの貴族で編成されていなくてはいけません。そのひとりびとりが手なずけておくべきものは、再び一八一五年が起ったら、さっそく三色の帽章をつけようとまちかまえているような、口うるさい小市民ではなく、カトリノーのような、単純で、裏のない、善良な農民なのです。貴族の子弟はそういう男を教化し、できればその乳兄弟《ちきょうだい》となるのがいいのです。われわれはそれぞれ収入の五分の一《・・・・》を割いて、県ごとに五百名の小尽忠報国隊を組織すべきです。それでこそはじめて外国軍の進駐が期待できるというものです。県ごとに味方の軍隊が五百名いるという確信がもてないかぎり、外国軍はけっしてディジョンまでさえ侵入してこないでしょう。
二万の貴族がいつでも武器をとって、フランスの門戸を開く用意をしていると、みなさんが表明しないかぎり、諸外国の国王はみなさんの言葉に耳を傾けないでしょう。そんなつとめはやりきれない、とみなさんはおっしゃるかもしれない。だが、みなさん、われわれの首はこの代償を払ってこそ、安全になるのです。言論の自由と、貴族としてのわれわれの生存とのあいだは、生命《いのち》がけの戦いなのです。工場主あるいは農民となるか、それとも武器をとるかです。臆病《おくびょう》であるのはかまいません。だが、愚かであってはいけません。目を開いてください。
隊伍を組め《・・・・・》! と、わたしは過激革命派の歌詞で申しましょう。そうすれば、高貴なるグスターフ・アドルフのような人物があらわれ、君主制度あやうしと見るや、ふるいたって、母国を離れること、三百里の地まではせきたり、グスターフが新教国の諸王に加勢したように、みなさんに加勢してくれるでしょう。みなさんは、なんら行動に出ることなく、ただ討論を続けようとなさるのですか? 五十年後には、もはやヨーロッパには共和国大統領があるばかりで、ただひとりの国王もなくなってしまうでしょう。そして、このR・O・Iという三字とともに、聖職者も、貴族も滅びてしまうのです。もはや見られるものは、薄汚ない大衆《・・》に媚《こ》びる候補者《・・・》ばかりとなるのです。
フランスには現在、みんなから知られ、愛されているような、信望のある将軍がいないし、軍隊は国王と教会を守るためにのみ組織されていて、古参兵はひとり残らず除隊になってしまっている。これに反して、プロシアなりオーストリアの連隊には、それぞれ砲火を浴びた下士官が五十名はいるなどと、みなさんはおっしゃるかもしれないが、そんな議論はなんの役にもたちません。
小市民階級に属する二十万の青年は、戦争を望んでいるのですぞ……」
「不愉快な事実はしばらくお預けにしてもらいたい」と、威厳のある人物が、高圧的な口ぶりでいった。明らかに聖職者階級でもきわめて位の高いものらしい。ラ・モール氏が腹もたてずに、愛《あい》想《そ》よく微笑を浮べたからである。これはジュリヤンにとっては大きな発見だった。
「不愉快な事実はしばらくお預けにして、意見をまとめておきましょう。壊疽《えそ》にかかって、片脚を切らなければならなくなった男が、外科医に向って、この脚は病菌に冒されていますが、まだひどく丈夫です。などといったら、おかしな話です。こんないいかたをして申し訳ないが、みなさん、高貴なる***公爵こそ、われわれの外科医なのです」
《いよいよ、重大な言葉が出たぞ。今夜おれが馬を飛ばすのは……のほうだな》とジュリヤンは思った。
第二十三章 聖職者、森林、自由
万物の基本原理は、自分を保存することであり、生きることである。毒にんじんの種を播《ま》いて、麦の穂が実るとでも思っているのか!
マキアヴェッリ
その威厳のある人物は、さらに言葉を続けた。事情に通じていることはだれの目にもわかった。この人物は、ものやわらかで、穏やかな弁舌をもって、次のような重大な事実を述べたが、ジュリヤンはその態度にすっかり惹《ひ》きつけられた。
「第一に、イギリスはわれわれのために使う金は一ギニーももっていない。節約とヒュームの思想が流行《はや》っている。聖者《・・》たちでさえ、われわれには金を出さないだろうし、ブルーム氏はわれわれのことをばかにするだろう。
第二に、イギリスの金がなければ、ヨーロッパの諸国王に、二回以上の出兵を求めることはできない。しかも、二回の出兵では小市民階級を制圧することはできないだろう。
第三に、フランス国内に武装した党派を結成すること。これができなければ、ヨーロッパの君主制度の国々は、この二回の出兵さえ思いきっておこなわないだろう。
第四の点は、動かしがたい事実として、あえてご披《ひ》露《ろう》いたすのですが、それはこういうことです。
聖職者階級なくして《・・・・・・・・・》、フランスに武装した《・・・・・・・・・》党派を結成することは不可能である《・・・・・・・・・・・・・・・・》。わたしはこのことを率直に申し上げます。というのは、これからそれを証明しようと思うからです。聖職者にすべてを与えなければなりません。
第一に、日夜自分のつとめに専念し、みなさんの国境から三百里も離れ、世の動乱を避けて、有能なるひとびとに導かれている……」
「ローマだ、ローマだ!」と家の主人が叫んだ……
「そうです、ローマ《・・・》です!」と、その枢《すう》機《き》卿《けい》は昂然《こうぜん》としていった。「あなたのお若いころには、大なり小なり、〔教会諷《ふう》刺《し》の〕うがった冗談が流行《はや》りましたが、それがどのようなものであれ、一八三〇年の今日、わたしはきっぱり申しましょう。聖職者だけが、ローマに導かれて、下層の民衆に呼びかけることができるのです。
五万の司祭は、上長から指示された日に、同じ言葉をくり返すのですし、民衆は、結局兵士を提供するのは民衆ですが、その民衆はおよそくだらぬ〔教会諷刺の〕歌などより、自分たちの司祭の声に動かされるでしょう……」(この人身攻撃はざわめきをひき起した)
「聖職者はあなたがたよりすぐれた才能をもっています」と、声を高めて、枢機卿は言葉をついだ。「フランスにおいて武装された党《・・・・・・・・・・・・・・》派をもつこと《・・・・・・》、この主要目的に向って、あなたがたはふみ出されたわけですが、その歩みはことごとくわれわれの手でなされたのです」ここでいろいろの事実があげられた。……八万の銃をヴァンデに送ったのはだれか?……等々。
「聖職者がその森林をもたないかぎり、なにひとつもっているとは申されません。戦争が起れば、大蔵大臣はさっそく、もはや司祭にあてた金しかないと、部下に通達します。正直なところ、フランスには信仰がない、フランスは戦争が好きなのです。フランスに戦争をあてがうものはだれでも、二重の人気を博します。なぜなら、戦争をすることは、俗ないいかたをすれば、イエズス会を飢えさせることだからです。戦争をすることは、うぬぼれの権《ごん》化《げ》みたいなフランス人を、外国の干渉の脅威から解放することだからです」
枢機卿の言葉は熱心に傾聴された。……彼は続けた。「ネルヴァル氏は内閣を去るべきであります。同氏の名はいたずらに刺激を与えるばかりです」
この言葉を聞くと、みんなはいっせいに立ち上がって、口々にしゃべりはじめた。《また追い出されるな》とジュリヤンは考えた。だが、ほかならぬ賢明な議長自身が、ジュリヤンの前だということも、またジュリヤンという存在も忘れてしまっていた。
一同の目はひとりの男を求めていた。ジュリヤンはその男に見覚えがあった。総理大臣ネルヴァル氏で、レー公爵《こうしゃく》の舞踏会でみかけたことがあった。
議会のニュースを伝える新聞なら、混乱は《・・・》その極に達した《・・・・・・・》、というところだろう。ゆうに十五分たって、やや静かになった。
すると、ネルヴァル氏が立ち上がって、使徒のような口ぶりで、妙な声を出していった。
「わたしは内閣に執着がないなどとは言明いたしません。みなさん、よくわかりました。わたしの名が、多くの穏健派を、われわれの敵方にまわし、過激革命派の力を倍加させることになるというのですね。それなら、わたしは喜んで退きましょうが、神の思召《おぼしめ》しは少数のものにしかわからないものです。だが」と、枢機卿をじっと見つめながら、つけ加えていった。「わたしにはひとつの使命があります。天はわたしにこう命じたのです。――汝《なんじ》は汝の首を処刑台に運べ、しからずんばフランス王政を復活し、議会をルイ十五世治下の高等法院《パルルマン》の程度に引き下げよ。そこで、みなさん、このことを、わたしはなしとげます《・・・・・・・・・・》」
ネルヴァル氏は口をつぐんで、腰をおろした。すると、あたりが静まり返った。
《なかなか芝居がうまいぞ》とジュリヤンは考えた。だが、それは思い違いだった。相変らずいつものように、相手の頭を買いかぶりすぎていた。ネルヴァル氏は、このような激越な夜の集まりの議論でのぼせてしまい、とりわけ真剣な討論ぶりにつられて、このときは本気で自分の使命なるものを信じていたのである。この男は勇気こそ大いにあったが、分別のほうはもちあわせていなかった。
わたしはなしとげます《・・・・・・・・・・》、という名《めい》台詞《せりふ》につづく沈黙の最中《さなか》に、真夜中の鐘が鳴った。ジュリヤンは置時計の音に、なにかしら威圧的で不吉なものを感じた。彼は感動していた。
やがて、また討論がはじまったが、いよいよ熱してきて、とりわけ、途方もなくむきだしな調子をおびてきた。《この連中はおれを毒殺させるかもしれない》とジュリヤンはときどき思った。《どうして平民の前でこんなことをいうのだろう?》
二時が鳴っても、まだ話が続いていた。家の主人はとっくの昔に眠りこんでいた。ラ・モール氏はやむをえず呼鈴《よびりん》を鳴らして、蝋燭《ろうそく》をとりかえさせた。宰相のネルヴァル氏は一時四十五分に引き取ったが、それまでに、自分の横にあった鏡で、いくたびもジュリヤンの顔をのぞきこんでいた。この人物の退出で、一同はほっとした様子になった。
蝋燭をとりかえているひまに、「あの男は国王になにを申し上げるか、わかったもんじゃない!」と、チョッキの男が、隣の男にそっとささやいた。「われわれをさんざんなぶりものにして、これから先のことをかきまわしてしまうかもしれませんよ。
ここに顔を出すなんて、あの男もよほどのうぬぼれものに相違ありませんな、それどころか、ずうずうしすぎますよ。大臣になる前にもそんなところがありましたが、大臣の椅《い》子《す》につくと、事情が一変するわけで、一個の人間の利害問題もすべて変ってしまうものです、あの男もそのくらいのことは悟ったはずなのですがね」
大臣が出ていくが早いか、ボナパルト麾下《きか》の将軍は目を閉じてしまった。それから自分の健康のことや傷の話をして、懐中時計を取り出して見て、出ていった。すると、チョッキの男がいった。
「きっとあの将軍は大臣のあとを追っかけていったのですよ。ここに居合せていたことの言いわけをして、われわれを引きまわしてやるとでもいうんでしょう」
召使たちが眠そうな目をしながら、蝋燭をとりかえてしまうと、さっそく議長がいった。
「みなさん、これから協議するとしましょう。もうお互いに相手を説き伏せようなどということはやめましょう。文書の内容について考えてみようではありませんか。四十八時間後には、外国の盟友の目にふれることになるのですから。閣僚の話が出ましたな。ネルヴァル氏が帰ってしまったわけですから、今ならいってもいいと思いますが、閣僚のことなど、どうでもいいではないですか。われわれの意のままになるんですから」
枢機卿は狡《ずる》そうな微笑を浮べて、これに同意した。
「われわれの立場を要約して申し上げることは、いとも簡単なことだと思います」と、盲目的信仰に燃えたぎる気持を抑えながら、アグドの司教がいった。それまで沈黙を守っていたのである。ジュリヤンはそのまなざしを観察していたが、はじめはやさしく穏やかだったまなざしが、最初の一時間の討議のあとでは、火のように燃え上がっていた。今やその心情がヴェスヴィアスの溶岩のようにあふれ出てきたのだ。
「一八〇六年から一八一四年までのあいだ、イギリスが犯した誤りはただ一つ、ナポレオン個人に対して、直接に行動を起さなかったことです。この男が公爵や侍従を作り、玉座を再興したのと同時に、神から委《ゆだ》ねられた使命は終ったのでした。もはや、葬《ほうむ》りさられる以外には、なんの取り柄もない男になってしまったのです。聖書は、どのようにして暴君の始末をつけるかを、いろいろの個《か》所《しょ》で教えてくれるのです。(ここでラテン語の文章がいくつか引用された)
今日、みなさん、葬りさるべきはもはや一個の人間ではありません。それはパリなのです。フランスじゅうがパリのまねをしています。県ごとに五百名のものを武装させたところで、なんになりましょう? 危険のともなう企てです、それではきりがありません。パリだけの問題に、フランスをまきぞえにしたところで、はじまりません。パリだけが、新聞やサロンをもって、害毒を流したのです。この新しいバビロンは滅びるがいいのです。
教会とパリは、手を切らなければいけません。この決裂は玉座の世俗的利益にさえなるのです。どうしてパリは、ボナパルトの支配下において、ものがいえなかったのでしょうか? その理由はサン = ロックの大砲にきいていただきたい……」
………………………………………………
ジュリヤンがラ・モール氏と一緒に外へ出たのは、夜明けの三時になってからのことである。
侯爵はきまり悪げな様子で、疲れきっていた。ジュリヤンに話しかける口ぶりに、哀願するようなところが見られた。こんなことはこれまでになかった。ジュリヤンは今しがた目《ま》のあたりに見たわけだが、つい熱中しすぎて見せた言動(これは侯爵の言葉だった)のことは、けっして口外しないと誓ってもらいたい、と侯爵がいった。「こちらの気違い青年どものことがぜひ知りたいといわれないかぎり、外国のわれわれの同志にも、この話はしないでもらいたい。あの青年連中には、国家がくつがえろうと、くつがえるまいと、どうでもいいのだ。枢機卿にでもなって、ローマへ逃げていけばいいのだから。ところが、われわれのほうは自分の別荘にでもいるところを、百姓どもに惨殺《ざんさつ》されることになるのだ」
ジュリヤンの書いた、二十六ページにものぼる大部な記録をもとにして、侯爵の作成した密書は、四時四十五分になってやっとでき上がった。侯爵がいった。
「へとへとに疲れたよ。疲れた証拠だよ、この密書の終りのほうを見てみたまえ、明瞭《めいりょう》さを欠いているからね。これまでに、こんな意に満たない仕事をしたことはない。さあ、きみ」と侯爵はつけ加えた。「二、三時間、寝てきたまえ。きみがかどわかされたりすると困るから、わたし自身が鍵《かぎ》をかけて、きみを閉じこめておくことにしよう」
その翌日、侯爵はジュリヤンを、パリからかなり離れた、寂しい別荘へ連れていった。そこには妙な連中が来ていた。ジュリヤンは聖職者だろうと見当をつけた。渡された旅券は仮名のものだったが、真の旅行の目的地が書きこんであった。ジュリヤンはあくまで知らないふりをしてきたが、やっとわかったのである。ジュリヤンはひとりきりで、馬車に乗った。
ジュリヤンがいくたびも密書を暗誦《あんしょう》して聞かせたので、侯爵はその記憶力の点ではなんら心配していなかったが、途中で邪魔されはしないかということが気がかりだった。
「くれぐれも、ひまつぶしに旅行をしている洒《しゃ》落《れ》者《もの》といった顔をすることだね」と、ジュリヤンがサロンを出ていくとき、侯爵が親しみをこめていった。「昨夜《ゆうべ》の会合でも、おそらく仲間を裏切るものが、ひとりならずまぎれこんでいたろうから」
あわただしい、ひどく憂鬱《ゆううつ》な旅行だった。侯爵の姿が見えなくなると、ジュリヤンは密書のことも、使命のことも忘れてしまい、マチルドから受けた侮辱のことばかりを考えはじめた。
メスを過ぎて数里先の、とある村まで来ると、宿場の主人がやってきて、馬がないといった。夜の十時だった。ジュリヤンはすっかり当惑してしまい、夜食を頼んだ。戸口の前を行ったり来たりしているうちに、そっと、なにげないふりをして、馬小屋のある中庭にはいってみた。馬は一頭も見当らなかった。
《それにしても、あの男の様子は変だったぞ。下品な目つきをして、おれをじろじろ見たりしていたからな》と、ジュリヤンはつぶやいた。
見られるとおり、彼はひとのいうことを、そのまま受け取れなくなりはじめていた。夜食がすんだら逃げだそうと考えた。それに、とにかく土地の事情を知っておこうと思って、自分の部屋を出ると、料理場へ行って火にあたろうとした。そこに例の有名な歌手ジェロニモがいるのを見て、彼は飛び上がらんばかりに喜んだ。
このナポリ歌手は、肱掛《ひじかけ》椅子《いす》を火のそばへもってこさせ、それに腰をおろすと、大声でぶつぶつこぼしながら、あっけにとられてまわりを取りまいている二十人ばかりのドイツの百姓など尻《しり》目《め》にかけて、自分ひとりでしゃべりまくった。
「この連中のおかげで、わたしはとんでもない目にあいましたよ」と、彼はどなるようにして、ジュリヤンにいった。「わたしは明日マインツで歌う約束がしてあるのです。七人の諸侯がわたしの歌を聞きに、集まっておられるのです。まあ、外へ出て風にでもあたりましょう」と、意味ありげな口ぶりでつけ加えた。
国道に出て百歩ばかり行き、ひとに聞かれる心配がなくなると、彼はジュリヤンにいった。
「あなたは事情をご存じですか? あの宿場の親《おや》爺《じ》は悪いやつですよ。散歩しながら、腕白小僧に二十スーやったら、なにもかも教えてくれましたがね。反対のほうの村はずれに、馬が十二頭以上もいるんですよ。飛脚かなんかに足どめをくわそうという魂胆なんです」
「ほんとですか?」と、ジュリヤンは白ばっくれていった。
相手の計略を見破るだけではすまない、脱けだすことが肝心だった。ジェロニモも相棒のジュリヤンも、そればかりはどうにもならなかった。とうとう、ジェロニモがいった。「夜の明けるのを待ちましょう。わたしたちを疑っているんですよ。おそらくあなたかわたしを、臭いとにらんでいるんです。明日の朝、上等の朝飯を注文しましょう。支度をしているあいだに、散歩に出かけて、そのまま脱けだし、馬を雇って、次の宿場まで行けばいいでしょう」
「だが、あなたのお荷物は?」とジュリヤンはきいた。ほかならぬジェロニモが、あるいは自分の邪魔をするためにつかわされたのかもしれないと思ったのである。夜食をとって、寝るより仕方がなかった。ジュリヤンはまだ寝いりばなだったが、ふたりの男が自分の部屋で、たいして気がねもしないで、話し合っている声を聞きつけて、はっとして目を覚ました。
宿屋の主人だとわかった。手にカンテラをもっている。光は、ジュリヤンが部屋に運ばせておいた、馬車の荷物箱に向けられている。宿場の主人のそばに、もうひとり男がいて、悠悠《ゆうゆう》と、開けた箱をかきまわしている。ジュリヤンにはその上着の袖口《そでぐち》しかわからなかったが、それは黒のごく狭い袖口だった。
《法《ほう》衣《え》だな》と思いながら、彼は枕《まくら》の下にいれておいた小型のピストルをそっとつかんだ。
「目を覚ます気づかいはありませんよ、司祭さま」と宿場の主人がいった。「こいつらに出した酒は、司祭さまご自身で調合なさったしろものでございますから」
「書類らしいものは、いっこうに見当らぬ」と司祭が答えた。「下着や、香水や、ポマードや、つまらんものばかりだ。道楽に夢中になっている伊達《だて》男《おとこ》なのだな。密使はむしろ、わざとナポリ訛《なま》りなど使っている、もうひとりの男だろう」
ふたりはジュリヤンに近づき、旅行服のポケットをさぐった。ジュリヤンは、このふたりを泥棒《どろぼう》扱いにして、よっぽど殺してやろうかと思った。あとでいざこざの起る心配は全然ない。ほんとに殺してやろうという気になった。だが、《そんなことをしたら、おれは大ばかものになる。使命が果せなくなるかもしれないじゃないか》と彼は思った。彼の服をごそごそ調べてみてから、「こいつは使者ではない」といいながら、司祭はそばを離れた。離れてよかった。
《ベッドのなかのおれの身体《からだ》にさわってみろ、ただではすまさんぞ! おれを匕首《あいくち》で刺さないともかぎらない。そんなことをさせておくものか》とジュリヤンは思っていたからである。
司祭が振り向いた。ジュリヤンは薄目を開けていた。ジュリヤンの驚いたことといったら!
相手はカスタネード神父だったのだ! 考えてみると、このふたりはかなり小声で話そうとはしていたが、ジュリヤンには、最初から、ひとりのほうの声に、聞き覚えがあるような気がしたのだった。ジュリヤンはむらむらとして、卑劣きわまる悪党のひとりを、この地上から葬り去ろうという衝動にかられた。
《だが、使命はどうするのだ!》と、思った。
司祭と連れの男は出ていった。それから十五分ばかりして、ジュリヤンは目を覚ましたふりをし、大声をたてて、家じゅうのものを起してしまった。
「毒を盛られたんだ、ああ、苦しい、苦しい!」と彼はわめきたてた。ジェロニモを助ける口実を捜していたのだ。行ってみると、ジェロニモは、ぶどう酒に盛られた阿《あ》片《へん》で、半ば仮死状態だった。
ジュリヤンはこんないたずらをされるかもしれないと思って、パリからもってきたチョコレートで夜食をしたのだった。出かけさせようと思って、ジェロニモをゆり起してみたが、どうにも手のほどこしようがなかった。歌手のジェロニモがいった。
「ナポリ王国をそっくりくれるといったって、いりませんよ。いまのわたしにはぐっすり眠るほうがいい」
「だが、七人の諸侯はどうするんです?」
「待たせておけばいいんです」
ジュリヤンはひとりで発《た》った。今度は事故もなく、大官のもとに着いた。午前中かかって謁見《えっけん》をお願いしてみたが、許されなかった。さいわい、四時ごろ、公爵が散歩に出ようとした。ジュリヤンは公爵が馬車にも乗らずに出かけたのを見ると、ほどこしを求めるふりをして、つかつかとそばへ寄っていった。この大官のごく近くまで来ると、ラ・モール侯爵の時計を取り出して、見せびらかすようなまねをした。「離れてついてきなさい《・・・・・・・・・・》」と、相手はジュリヤンに目をくれないでいった。
そこから四半里ほど行くと、公爵はふいに一軒の小さなカフェ《・・・》 = ハウス《・・・》にはいった。この最下等の宿屋の一室で、ジュリヤンは光栄にも、公爵に例の四ページを暗誦してみせたのである。暗誦しおえたかと思うと、「も《・》う一度《・・・》、もっとゆっくりやってもらいたい《・・・・・・・・・・・・・・・》」と、相手がいった。
公爵はメモをとった、「歩いて次の宿場ま《・・・・・・・・》で行きなさい《・・・・・・》。もちものや馬車はここへ置い《・・・・・・・・・・・・・》たまま行くがよい《・・・・・・・・》。なんとかしてストラスブ《・・・・・・・・・・・》ールへ行き《・・・・・》、この月の二十二日《・・・・・・・・》(その日は十日だった)の《・》、十二時半には《・・・・・・》、このカフェ《・・・・・》 = ハウスに来ているように《・・・・・・・・・・・》。あと三十分はこ《・・・・・・・》こから出てはいけない《・・・・・・・・・・》。口をきいてはいけま《・・・・・・・・・》せんぞ《・・・》!」
ジュリヤンの聞いた言葉は、これだけだった。これだけで、ジュリヤンはすっかり感心してしまった。《事務はこんなふうに片づけるものなのだ。この大政治家が、三日前のとりのぼせたおしゃべり仲間の話を聞いたら、なんというだろう!》
ジュリヤンは二日をかけて、ストラスブールへ行った。そこではべつに用事もなかろうという気がしたので、大まわりをしたのだった。《あのカスタネード神父のやつめ、おれに気がつきやがったら、みすみすおれの跡を見失うような男じゃない。……それに、おれを出し抜いて、この使命を失敗させることができたら、あの男にしてみれば、これにまさる楽しみはないんだ!》
北部国境一帯における、修道会警察組織の頭目カスタネード神父は、さいわいにしてジュリヤンに気がつかなかった。それに、ストラスブールのイエズス会士たちも、仕事熱心な連中だったが、ジュリヤンを監視しようなどとは、思いもしなかった。ジュリヤンのほうも、青いフロックコートに勲章をつけたりして、まるで身なりのことばかり気にしている、青年将校のようなふりをしていたのだ。
第二十四章 ストラスブール
魅惑よ! 汝《なんじ》は恋のもつ、やるせなさを感じるあらゆる力をもっている。だが、恋のもつ陶酔的な喜びや甘美な楽しみだけは汝の力の及ばないことだ。わたしは彼女の眠っている姿を見て「この女はすべてわたしのものだ、天使のような美しさも、ここちよいかよわさも。男心をそそるために神が慈悲深くもおつくりになったそのままの姿で、この女は今やわたしの手に委《ゆだ》ねられている」とはいいきることができなかった。
シラーの『抒情詩』
ジュリヤンはやむなくストラスブールで、一週間を過さなければならないことになると、輝かしい武勲や、祖国に尽すことなどを考えて、気をまぎらわせようとした。そもそも彼は恋しているのだろうか? 自分でもまったくわからない。だが、やるせない胸のうちには、彼の幸福をも、想像力をも絶対的に支配するマチルドの姿があった。絶望におちいるまいとして、ひたすら気力をふるいたたせる以外に道がなかった。ラ・モール嬢になんらかの関係をもたないようなことを考えるなどというまねは、とうていできなかった。かつて、レーナル夫人に恋心をそそられたときは、野心なり、たわいもない虚栄心の満足で、気がまぎれた。ところが、マチルドにはすべてを吸いとられてしまった。未来を思うと、ことごとにマチルドの姿があらわれた。
その未来を、どんな角度から眺《なが》めようと、成功は望めなかった。ヴェリエールでは、あれほど思い上がった、高慢そのものの男だったのに、今はまた滑稽《こっけい》なほど卑下しきった気持なのである。
三日前なら、喜んでカスタネード神父を殺しもしたろう。だが、ストラスブールに来てからは、子供に喧《けん》嘩《か》を吹っかけられても、相手のほうがもっともだと思ったにちがいない。これまでに出会った相手や、敵のことを思い返していると、いつも自分のほうが悪かったと思うようになっていた。
かつては、例の豊かな想像力を働かせて、未来に輝かしい成功の夢を描いたものだが、いまではその想像力がおそるべき敵となっていたからである。
旅先のまったく孤独な生活が、このやりきれぬ想像力のいきおいをいやがうえにもかきたてた。《友達があったら、どんなにありがたく思ったことだろう! だが、そもそもおれのために心を痛めてくれるものがいるだろうか? かりに、友達があったとしても、おれは名誉にかけて、あくまで沈黙を守るべきではなかろうか?》
彼はケールの郊外を、馬でひとり寂しく散歩した。それはライン河《か》畔《はん》の小さな町で、ドゼーとグーヴィヨン・サン = シールによって、不朽の名を残している。ドイツの百姓が、これら名将軍の武勇で有名になった小川や、街《かい》道《どう》や、ライン河中の小島などを教えてくれた。ジュリヤンは左手で馬の手綱をとり、サン = シール元帥《げんすい》の『回想録』を飾るりっぱな地図を、右手で拡《ひろ》げてもっていた。陽気な叫び声がしたので、顔を上げた。
コラゾフ公爵だった。数カ月前、上流社会のばかげた作法について手ほどきしてくれた、あのロンドンで知り合った男である。コラゾフ公爵は、その前日ストラスブールに着き、ケールへは一時間前に来たばかりなのだし、一七九六年のケール包囲戦のことなどこれまでに一行も読んだことがないくせに、相変らず例の秘術ぶりを発揮して、なんでもかんでもジュリヤンに説明してかかった。さきほどのドイツの百姓は、あっけにとられて、公爵を見つめていた。なにしろ、フランス語がかなりわかるので、公爵がいかに途方もない、でたらめをいっているかくらいは、わかったのだ。ジュリヤンは、この百姓とはまったく違ったことを考えていた。目を見張ってこの美青年を眺めていたが、それはいきな乗馬姿に感心したからだった。
《しあわせな男だな! ズボンがじつによく似合っている! 髪の刈りかたの垢《あか》ぬけしていることといったら! ほんとに、おれもこんなだったら、おそらく、あの女もおれを三日ばかりかわいがっておきながら、そのあとでああまで憎みはしなかったろう》
公爵はケール包囲戦と称する話をし終ると「トラピストの修道士みたいな顔をしてますね」と、ジュリヤンにいった。「ロンドンでは重々しくするのが肝心だとはいいましたがね、あなたのは行き過ぎですよ。ふさぎこんだ顔をするのが上品だとはいえません。つまらなそうな顔をするんですよ。ふさぎこんでいれば、なにか不満がある、なにかうまくいかなかったということになる。
それでは自分が負けだということを見せる《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》ようなものです《・・・・・・・》。その反対に、つまらなそうな顔をしてごらんなさい。そうすれば、あなたの気にいろうとして、うまくいかなかったもののほうが、負けだということになります。わかるでしょう、きみ、思い違いをすると、とんでもないことになるってことが」
ジュリヤンは、ぽかんと口を開いてふたりの話を聞いている百姓に、一エキュを投げてやった。
「それでいい、鮮やかなものだ、品のいい軽《けい》蔑《べつ》ぶりですな!」といって、公爵は馬をいきなり走らせた。ジュリヤンはいよいよあっけにとられて感心しながら、そのあとを追った。
《まったくおれがこんなふうだったら、あの女もおれを見限って、クロワズノワごときに鞍《くら》替《が》えしなかったのに!》理屈からいえば、公爵のばかばかしいやり口は気にさわるのだが、気にさわればさわるほど、そのやり口に感心できない自分が自嘲《じちょう》したくなり、そういうやり口のできない自分が、ますます情けなく思えた。これ以上の自己嫌《けん》悪《お》はありえない。
公爵はジュリヤンがひどくふさぎこんでいるのを見て、ストラスブールへ帰る途中で、「おやおや、きみ、有り金でもすってしまったんですか? それともかわいい女優かなんかに惚《ほ》れたんですか?」
ロシア人はフランス人の風俗をまねするが、いつでも五十年のひらきがある。彼らはいまルイ十五世の時代にいるのだ。
恋愛問題をこんなふうに茶化されると、ジュリヤンの目には涙が浮んだ。《こんな親切な男に、どうして相談しないのだ?》と、ジュリヤンはふと思った。
「そうなんです。ストラスブールでひどく好きな女ができたのはいいんですが、ふられてしまったのです。かわいい女で、隣の町に住んでいます。三日間は向うもかわいがってくれたのですが。それっきりで、お払い箱なのです。この心変りがどうにもやりきれないのです」
ジュリヤンは公爵に、仮名を使って、マチルドのふるまいや性格の話をした。
「そこまでで結構です」とコラゾフがいった。「あなたの医者を信頼していただくために、わたしがその打明け話のさきを続けてみましょう。この若い夫人の夫は、莫大《ばくだい》な財産をもっている。というよりも、むしろ、その夫人自身がこの土地きっての身分の高い貴族の出なんですな。当然なにかを鼻にかけているわけでしょう」
ジュリヤンはうなずいた。もはや口をきく元気もなかった。
「そうですか、それなら、ここに三種類の薬があります。かなり苦いが、さっそく服用してください。
第一に、毎日その夫人に会うこと。……なんという名前ですか?」
「デュボワ夫人です」
「変な名前ですな」と、公爵は吹き出しながらいった。「これは失礼、あなたにとってはそれでも大事な名前ですからな。毎日デュボワ夫人に会うことです。くれぐれも、その夫人の前で、冷淡な顔や、腹をたてた様子をして見せてはいけません。当世の鉄則を思い出してください。相手の期待の裏をかけ、です。夫人の情けにあずかる一週間前までの態度と、そっくりそのままの態度を見せるのです」
「ほんとに、それまでは心も穏やかだったのです。こちらが夫人を哀れに思っていたくらいです」と、ジュリヤンは悩ましげに叫んだ。
「飛んで火にいる夏の虫、ですな」と公爵は続けた。「古くからのたとえですがね。
第一に、毎日その夫人に会うこと。
第二に、その夫人とつきあっているほかの女にいい寄ること。だが、その相手に夢中になっているようなそぶりを見せてはいけませんよ、いいですか。はっきりいいますが、あなたの役割はむずかしいのですよ。お芝居をやるわけですが、芝居をやってるなと、かんづかれたら、おしまいですからね」
「相手はとても才気があるのに、わたしのほうはまるっきりないんです! もういけません」と、ジュリヤンは憂鬱《ゆううつ》そうにいった。
「そんなことがあるものですか。思ったより深く惚れているだけのことです。デュボワ夫人は自分のことしか頭にないんですよ。天からあまりにも高い身分とか、あまりにも莫大な金を授かった女は、だれでもそんなものです。その夫人はあなたを見ないで、自分ばかり見ているのです。二、三度あなたにとりのぼせたときは、むりに想像力を働かせて、あなたを自分が夢みていたような英雄だと思いこみ、ありのままのあなたを見ていたわけではないのです。……だが、これは驚いた、こんなことは恋愛第一課ですよ、ソレル君。あなたはまるで小学生なんですな?……
そうだ、この店へはいりましょう。ほら、気のきいた黒の襟飾《えりかざ》りがありますね。バーリントン街のジョン・アンダソン店製みたいですな。これをつけてみてくれませんか。そして、いま頸《くび》につけていらっしゃる、そんなやぼったい、黒の紐《ひも》みたいなやつはすてっちまうんですな」
ストラスブール第一の小間物屋の店先を出ると、公爵はまた話し続けた。
「ところで、どんなひとたちとつきあっているんです、そのデュボワ夫人は? いやまったく、変な名前ですな。怒らないでください、ソレル君。わたしにはおかしくて仕方がないんです。……で、だれにいい寄るつもりです?」
「貞女の標本みたいな顔をした女はどうです? おそろしく金持の靴下《くつした》商人の娘なんです。すばらしく目がきれいで、わたしはとても好きなんです。むろん、この土地では一流の身分なんですが、なにもかも結構ずくめなのに、ふとだれかの口から、商売や店の話が出たりすると、顔を真っ赤にしてどぎまぎするんです。あいにく、その父親というのが、ストラスブールでもとりわけ名を知られた商人のひとりだったものですから」
「すると、実業《・・》の話が出れば、そのあなたの愛人は、きっと、自分のことが気になって、あなたのことまでかまっていられませんな」と、公爵は笑いながらいった。「その滑稽なところが、もっけのさいわい、大いに役だちます。そのおかげで、あなたはその美しい眼《め》に血迷ったりする気づかいはありませんから。成功疑いなしです」
ジュリヤンは、ラ・モール邸へよくやってくるフェルヴァック元帥夫人のことを考えていたのである。元帥の死ぬ一年前に、元帥と結婚した外国生れの美人である。自分が実業《・・》家《・》の娘だということを忘れさせるのが、一生の願いらしく、また、パリで名を売るために、率先して風俗矯正《きょうせい》に乗り出したのだった。
ジュリヤンは心から公爵に感心してしまった。公爵のようなおどけたまねができるなら、なにをすてても惜しくないという気持だった。ふたりのあいだの話はつきなかった。コラゾフはうれしくて仕方がなかった。フランス人で、こんなに長いあいだ、自分の話を聞いてくれたことはなかったからである。《これで、やっとおれも、先生格のフランス人にものを教えて、聞いてもらえるまでになった!》公爵は大いに気をよくして、そう思った。
「すると、お互いにまったく同じ意見というわけですな」と、公爵はくどいようにくり返していった。
「デュボワ夫人の目の前で、ストラスブールの靴下商人の娘とかいう、その若い美人に話しかけるときは、恋心のこ《・》の字も顔にあらわさないこと。そのかわり、手紙では熱烈な文句を使うんです。よくできた恋文を読むことは、貞女気取りの女には、たとえようもない喜びなんです。ほっと一息というわけです。そういう女のはお芝居じゃありません。ほんとに自分の気持に従う気になるものです。ですから、毎日二通書くことです」
「とてもだめです!」と、ジュリヤンは、げっそりしていった。「そんな文句を三行も書くくらいなら、乳鉢《にゅうばち》ですりつぶされたほうがましです。わたしは生ける屍《しかばね》です。もうわたしなんか、見込みのない人間です。道ばたでのたれ死にするんですから、ほっておいてください」
「だれが文章を綴《つづ》れといいました? わたしの鞄《かばん》のなかには、恋文の写しが六冊もあるんです。どんな性格の女でも、それぞれに向いたのがあるんです。こちこちの貞女向きのもあります。覚えているでしょう、ロンドンから三里ほど離れたリッチモンド = ラ = テラス、あそこでカリスキーがイギリスじゅうでいちばん美人のクェーカー教徒の女にいい寄ったじゃないですか」
夜中の二時に公爵と別れたとき、ジュリヤンはやや気を取り直していた。
その翌日、公爵は筆耕を呼びにやった。それから二日たつと、ジュリヤンは、およそ操《みさお》の固い、およそ厄介《やっかい》な女にあてた番号いりの恋文を、五十三通受け取った。
「五十四通目はありませんよ」と、公爵はいった。「カリスキーはていよくはねつけられましたからね。でも、あなたにしてみれば、靴下商人の娘にきらわれたって、かまわないでしょう? あなたがつかもうとしているのは、もっぱらデュボワ夫人の心なんですから」
ふたりは毎日馬を乗りまわした。公爵はひどくジュリヤンが好きになった。急に好きになった気持を、どう示していいのかわからず、公爵はしまいに、自分の従妹《いとこ》のひとりで、モスクワの金持の跡取り娘を嫁にもらってくれないかといい出し、つけ加えていった。「結婚してくだされば、わたしの勢力と、あなたが今つけておられる勲章とで、あなたは二年のうちに大佐になれますよ」
「でも、この勲章はナポレオンからもらったのじゃありません、まるっきり違うしろものですよ」
「かまいませんよ。とにかく制定したのはナポレオンでしょう? いまでも、やっぱりヨーロッパでは断然最高の勲章ですよ」
ジュリヤンはもうすこしのところで承諾しかけたが、任務のことがあるので、例の大官のもとへ引き返した。コラゾフと別れるときに、手紙を書くと約束した。口頭で伝えた密書の返事を受け取ると、パリへ急いだ。だが、二日も続けてひとりにされてみると、フランスやマチルドを離れることが、死よりつらい責苦に思えた。《コラゾフのすすめてくれた何百万とやらの娘とは結婚しまい。だが、あの男の忠告には従おう》
《とにかく、誘惑するのがあの男の商売なのだ。いま三十歳だから、十五年このかた、そんなことばかり考えてきたわけだ。才気がないとはいえない。利口で抜け目がない。ああいう性格の男には、ものに熱中するとか、詩を解するとかいうことはできないのだ。検察官みたいな男だ。それだからこそ、ますます、あの男の考えに狂いはないのだ。
どうしてもやらなくてはいけない。フェルヴァック夫人にいい寄るとしよう。
おそらく、多少はうんざりさせられるだろうが、あの目だけを見てればいい。なにしろ、じつに美しい目だし、そのうえ、おれをいちばんかわいがってくれたひとの目にそっくりなのだから。
あの女は外国生れだ。目先の変った性格だ、観察してみるのもよかろう。
おれはどうかしているぞ。溺《おぼ》れかけている。友達の忠告をきくべきだ。おれ自身の考えなど、問題にしてはいかん》
第二十五章 貞女のつとめ
だが、この楽しみも、そんなに用心して、気がねしいしい味わうんでは、わたしにとっては、もう楽しみじゃない。
ローペ・デ・ベーガ
パリへ戻《もど》って、侯爵《こうしゃく》に書面を差し出すと、侯爵はひどくうろたえた様子だったが、その書斎を出るなり、ジュリヤンはアルタミラ伯爵のもとへ駆けつけた。この美男の外国人は、死刑の宣告を受けるという見所があるうえに、なかなかどっしりしていて、さいわいなことに信心家でもあった。この二つの取り柄と、なによりもまず、伯爵が名門であるということが、すっかりフェルヴァック夫人の気にいり、夫人は伯爵としじゅう顔を合わせていた。
ジュリヤンはまじめくさった顔をして、夫人に恋いこがれているのだと、伯爵に打ち明けた。すると、アルタミラは答えた。
「あのひとはじつに清らかな、操《みさお》の固いひとです。ただ、どこか偽善的で、大げさなところがあります。日によっては、あのひとの使う言葉のひとつびとつはわかるのですが、全体として、なにをいっているのだかわからないことがあるのです。あのひとのいうことを聞いていると、わたしはひとにいわれるほど、フランス語がわかっていないのじゃないかと、自分ながらよく思います。あのひとと近づきになれば、あなたの名もひとの口にのぼり、あなたも社交界で重みがつきましょう。とにかくブストスのところへ行ってみましょう」と、几帳面《きちょうめん》なアルタミラ伯爵はいった。「元《げん》帥《すい》夫人にいい寄ったことがあるひとですから」
ドン・ディエゴ・ブストスは、まるで事務所にいるときの弁護士みたいに、一言も口をきかず、長々と相手にいきさつを説明させた。修道士のような大柄の顔で、黒い口ひげを生やし、荘重そのもので、そのうえ、りっぱな炭焼党員《カルボナーロ》の志士だった。
「わかりました」と、彼はやっとジュリヤンにいった。「フェルヴァック夫人はいくたりか恋人をもったことがあるのか、もったことがないのか? またあなたにはなにか成功しそうな見込みがあるのですか? そこが問題です。つまりその、わたしの場合は失敗しましたから。今ではもうなんとも思っていませんが、こんなふうに考えています。あのひとはよくつむじを曲げます。それにこれからお話ししますが、根にもったら、なかなか忘れません。
見たところ、どうも例の胆汁質《たんじゅうしつ》とは思えません。胆汁質というのは、天才肌《はだ》のもので、あらゆる行為を、いわば情熱で光らせるようなものですからね。その反対で、オランダ人に見られるような、悠長《ゆうちょう》な粘液質だと思うんです。そのおかげで、あの夫人はまれに見る美《び》貌《ぼう》と、あんなに若々しい色艶《いろつや》を保っていられるのです」
ジュリヤンは、このスペイン人の気の長さと、徹底した粘液質ぶりにいらいらしてきた。思わず、嘆声をもらしたりした。
「まあ、お聞きください」と、ドン・ディエゴ・ブストスは重々しくいった。
「ごめんなさい、なにしろ furia francese なもんですから。一生懸命拝聴しています」とジュリヤンはいった。
「いま申したとおり、フェルヴァック元帥夫人は、憎しみの念がはげしいひとなのです。会ったことのない連中まで、容赦なくやりこめるのです。相手が弁護士だろうと、コレみたいな、小《こ》唄《うた》を作った三文文士だろうと。ご存じでしょう?
わたしゃ酔狂《マロット》で
マロットに惚《ほ》れた、云々《うんぬん》」
こうして、ジュリヤンはこの小唄の全曲を聞かされる羽目になった。スペイン人はいい気になって、フランス語で歌った。
このすばらしい小唄が、これほどいらいらした気持で聞かれたことはあるまい。歌が終ると、ドン・ディエゴ・ブストスは話を続けた。「元帥夫人は、例の小唄の作者を免職させてしまったんですよ。
ある日、酒場で恋人が……」
ジュリヤンはまた歌いだすのではないかと思って、ひやひやした。小唄の解説だけですんだ。確かに、それは罰当りな、みだらなものだった。ドン・ディエゴは続けた。
「元帥夫人がこの小唄に腹をたてたとき、わたしは注意したのです。あなたのような身分のおかたが、くだらない出版物をいちいちお読みになるものではありません、とね。いかに神信心やまじめな風潮がさかんになろうとも、やはりフランスではキャバレー文学はなくなりませんよ。この小唄作者はつまらん退役士官なのです。で、フェルヴァック夫人がこの男から千八百フランの職を取り上げさせたとき、わたしはいってやったのです、気をおつけなさい、あなたはあの三文詩人を、お得意の武器で攻撃なさったが、相手もお得意の詩で仕返しするかもしれません。貞女気質《かたぎ》を小唄にしますよ。金ぴかサロンの連中はあなたの味方をするでしょうが、冗談ずきの連中のあいだでは、その諷《ふう》刺《し》小唄が流行《はや》りますよ、とね。すると、元帥夫人はなんと答えたと思いますか? 主なるイエスさまのおんために、わたくしが殉教者の道をたどる姿が、パリじゅうのひとの目に映るでしょう。フランスでは珍しい光景になりますわ。一般のひとたちはりっぱなものを尊ぶすべを覚えるでしょう。わたくしの生涯《しょうがい》でいちばんすばらしい日となりますわ、というのです。そのときくらい、夫人の目が美しかったことはありません」
「確かにすばらしい目をしていますね」とジュリヤンは叫んだ。
「なるほど、あなたは恋していますな……」そういって、ドン・ディエゴ・ブストスは重々しく語をついだ。「それで、あの夫人はですな、とかく復讐《ふくしゅう》を好みがちな、胆汁質の性格ではないのです。それにもかかわらず、ひとを傷つけたがるのは、不幸だからなのです。どうも、わたしには、内面的《・・・》不幸のような気がしてなりません。自分の表看板にうんざりしている貞女じゃないですかね」
スペイン人は、黙ったまま、じっとジュリヤンを見つめた、たっぷり一分はかかった。また、重々しくつけ加えた。
「問題はひとえにその点にあるのです。したがって、あなたはこの点から、なんとか望みが割り出せませんかな。わたしは二年間、恋のとりこになって、あのひとに仕えたわけですが、その間そこのところをずいぶん考えてみたのです。恋に落ちたあなたの未来は、もっぱらこの大問題にかかっています。つまり、自分の表看板にうんざりしている貞女なのか、不幸だから意地が悪いのだろうか? という点です」
「それとも、ぼくがきみに何度もいったとおりのことじゃないかな?」と、アルタミラが、とうとう深い沈黙を破って、口をきいた。「要するに、フランスふうの虚栄心なのさ。父親が問題のラシャ商人だっていうことが忘れられないもんで、ただでさえ陰気で情のない性格を、不幸なものにしてるんだ。あのひとにとって幸福はひとつしかあるまい。トレードに住んで、告解師に、毎日まざまざとした地獄の姿を見せてもらって苦しむことさ」
ジュリヤンが帰りかけると、ドン・ディエゴがいよいよ神妙な顔をしていった。「アルタミラに聞いたところでは、あなたはわれわれの仲間だそうですね。いつかは、あなたも、われわれが自由を取り戻すのを手伝ってくださるでしょう。ですから、わたしも、あなたのお手伝いをしようと思います。たいして骨の折れる遊びでもありませんから。元帥夫人の言葉つきを知っておかれたほうがいいでしょう。ここに直筆の手紙が四通あります」
「写させていただきます、あとでお返しにあがります」と、ジュリヤンは元気よくいった。
「だが、わたしたちがお話ししたことは、あなたの口から、一言もひとにもらさないでください」
「けっしてもらしません、名誉にかけて!」と、ジュリヤンは力強く答えた。
「では神さまのお助けがありますように!」と、スペイン人はつけ加えてから、今度は口もきかずに、アルタミラとジュリヤンを、階段のところまで見送った。
この場面はジュリヤンをいくらか陽気にした。思わずひとり笑いをしそうになった。《これで、この信心深いアルタミラが、不義をやらかそうというおれの手つだいをすることになったわけだ》
ドン・ディエゴ・ブストスとまじめくさった話をしている最中でも、ジュリヤンはダリーグル邸の大時計が打つ鐘の音に注意していた。
晩餐《ばんさん》の時刻が近づいてきた。いよいよマチルドとまた顔を合わせることになる! 彼は家に帰ると、念入りに身なりを整えた。
《もうばかなまねをしてしまった》と、彼は階段をおりながら、つぶやいた。《文字どおり公爵の処方箋《しょほうせん》に従うとしよう》
部屋へ戻って、およそ粗末な旅行服に着かえ直した。
《今度は目つきが問題だ》と思った。五時半にしかなっていなかった。晩餐は六時なのだ。サロンへおりていく気を起した。サロンにはだれもいなかった。青い長《なが》椅子《いす》を見ると、胸が迫って、涙がにじみ出た。まもなく顔が燃えるようにほてってきた。《ばか! こう気が弱くてはいかん、こいつをなくさなくてはだめだ。おれの本心がばれてしまうじゃないか》と、彼は腹だたしげにつぶやいた。体裁を取りつくろおうとして新聞を手に取り、三、四度サロンと庭のあいだを行ったり来たりした。
かし《・・》の大木の陰にすっかり身を隠して、おそるおそる、やっとラ・モール嬢の部屋の窓を見上げてみた。窓はぴったり閉まっていた。頭がくらくらしかけたので、かし《・・》に寄りかかったまま、長いことじっとしていた。やがて、よろめきながら、園丁の梯子《はしご》を見にいった。
考えてみれば、かつて、今とはまったく違った事情のもとにねじ曲げた鎖の環《わ》は、直してもなかった。もの狂わしい衝動にかられて、それを唇《くちびる》に押しあてた。
サロンと庭のあいだを、長いあいださ迷い歩いたので、ジュリヤンはひどく疲れてしまった。第一歩はまずうまくいったと、彼ははっきり感じた。《これでぼんやりした目つきになったろうから、本心がばれることもなかろう!》だんだん、会食者がサロンに集まってきた。ドアの開くたびごとに、ジュリヤンはやりきれないほど胸騒ぎを覚えた。
一同は食卓についた。やっとラ・モール嬢が姿を見せた。相変らずいつもの癖で、遅れてきたのである。ジュリヤンを見ると、彼女は真っ赤になった。帰ってきたことを聞いていなかったのである。コラゾフ公爵の教えにしたがって、ジュリヤンはマチルドの手を眺《なが》めた。その手はふるえている。それを見ると、ジュリヤンのほうも、いいようのないほどとりのぼせてしまったが、さいわい、よそ目には、疲れているとしか見えなかった。
ラ・モール氏はジュリヤンをほめあげた。侯爵夫人も続いて言葉をかけ、お疲れさまといってくれた。ジュリヤンはたえず自分にいいきかせた。《ラ・モール嬢をあまりじろじろ見てはいけない。だが、見まいとするようなまねをしてもいけない。不幸になる一週間前とそっくりの態度をとることだ……》うまくいったと思ったので、そのままサロンに居残った。そこで、はじめて、一家の女主人に注意を向け、常連のひとたちに口をきかせ、話をはずませようと気を使った。
そのように愛《あい》想《そ》よくふるまっただけのことはあった。八時ごろ、フェルヴァック元帥夫人の来訪が取り次がれた。ジュリヤンはそっと脱け出し、念入りに身なりを整えて、まもなく戻ってきた。ラ・モール夫人はこの敬意のしるしを見て、ことのほか喜び、フェルヴァック夫人にジュリヤンの旅行のことを話して、満足の意をあらわした。ジュリヤンは元帥夫人のそばにすわって、自分の目がマチルドから見えないようにした。奥の手の規則に一から十まで従って、こういう位置にすわってみると、ジュリヤンの目には、フェルヴァック夫人が、圧倒されるほど美しく見えた。コラゾフ公爵からもらった五十三通の手紙の第一通目も、この気持を長々と述べることではじまっていた。
元帥夫人はこれから喜歌劇座《オペラ・ブッファ》に行くといった。ジュリヤンも駆けつけた。すると、ボーヴォワジ従男爵に出会った。従男爵はジュリヤンを侍従たちの桟《さ》敷《じき》へ連れていった。うまいことに、その隣が、フェルヴァック夫人の桟敷だった。ジュリヤンは片時も夫人から目をはなさなかった。屋敷へ帰ると、つぶやいた。《城攻めの日記をつけておかないといけないな。でないと、自分ながら攻撃の手順を忘れてしまうから》この退屈な問題について、二、三ページむりに書いてみた。すると、驚いたことに、ラ・モール嬢のことなど、ほとんど考えないですむようになった。
ジュリヤンが旅行しているあいだに、マチルドは、ジュリヤンのことなど、すっかり忘れてしまった。《要するにありふれた人間にすぎないわ。あのひとの名前はいつまでも、あたしの犯した生涯でいちばん大きな過ちを思い起させることだろう。思慮分別だの体面だのってことは凡俗の考えだけれど、本心からそうしたことに立ちかえらなくてはいけない。女がこれを忘れたら、なにもかも失ってしまう》マチルドは、だいぶ前から進められていた、クロワズノワ侯爵との婚約の取りきめに、やっと同意を与えるそぶりを見せた。侯爵はひどく喜んでいた。侯爵に向って、あなたはさぞ得意だろうが、マチルドがこんな気持になったのも、ほんとは諦《あきら》めからきているのだと、だれかがいったら、侯爵は大いに驚いたことだろう。
ジュリヤンの姿を見ると、マチルドの考えはすっかり変ってしまった。《たしかに、このひとこそあたしの夫だわ。本心から思慮分別という考えに立ち戻るというなら、あたしが結婚すべき相手は、明らかにこのひとだわ》
彼女はジュリヤンからうるさくつきまとわれ、やるせない顔を見せられるものとばかり思っていた。それに対する返事まで用意していた。晩餐がすめば、おそらくなんとか自分に話しかけようとするにちがいない、と思ったからである。それどころか、ジュリヤンはあくまでサロンにがんばっていて、庭のほうへは目もくれようとしなかった。だが、ジュリヤンはどれほど苦しい思いをしていたことか! 《すぐにどういうわけだか、きいてみたほうがいい》と思って、マチルドはひとりで庭へ出たが、ジュリヤンは姿をあらわさなかった。マチルドは戻ってきて、サロンのガラス戸の出入口のそばを行ったり来たりしてみた。なかをのぞくと、ジュリヤンはフェルヴァック夫人を相手に、ライン河《か》畔《はん》の丘の上にそびえ立ち、いかにもあたりの景色に調和した古城の廃墟《はいきょ》のありさまを、夢中になって話している。ある種のサロンで才気《・・》と呼ばれている、感傷的で派手な文句を、ジュリヤンもそろそろ使いこなせるようになっていた。
コラゾフ公爵がパリに来ていたら、大いに得意になったところであろう。この夜がまさに公爵の予言どおりになったからである。
これにつづく数日のあいだに、ジュリヤンがとった行動にも、公爵は賛意を示したにちがいない。
陰で政府を操っている連中が陰謀をたくらみ、数個の青綬章《コルドン・ブルー》を、自分らの思いどおりにわけようとしていたときで、フェルヴァック元帥夫人は、自分の大伯父を叙勲にあずからせようと熱望していた。ラ・モール侯爵も、自分の義父のために同じ望みをもっていた。ふたりは協力して奔走することになり、元帥夫人は毎日のようにラ・モール邸に顔を見せた。このほかならぬ夫人の口から、ジュリヤンは侯爵が近いうちに大臣になることを聞いた。たいした混乱をひき起さないでも、三年のうちに憲章を廃止する、きわめて巧妙な案を、侯爵は宮廷派《カマリリヤ》に進言したのである。
ラ・モール氏が大臣になれば、ジュリヤンも司教になれる見こみがある。だが、彼から見れば、こういう重大問題も、いわばヴェールにおおわれている感じだった。いくら想像してみても、ぼんやりと、まるで遠くのほうに見えるだけだった。たえられぬ不幸のために、気が転倒しているので、あらゆる人生の利害問題が、自分とラ・モール嬢との関係を通じてしか考えられなかった。五、六年も苦労してみたら、きっともう一度愛してくれるだろうと、見込みをつけていた。
見られるとおり、あれほど冷静だった頭が、完全に狂ってしまっていたのである。かつてジュリヤンを人並すぐれたものにしていた、あらゆる長所のうちで、残っているのは、多少の気の強さだけだった。コラゾフ公爵からしこまれた行動計画を、文字どおり忠実に守って、毎夜フェルヴァック夫人の椅子のごくそばにすわりはしたものの、なにひとついうべき言葉を見つけることができなかった。
マチルドに向っては、むりをしてでも、もう恋の傷などなおってしまったかのような顔をしなくてはならない。そのために、身も心も使いはたしてしまい、元帥夫人のそばにいても、まるでやっと息をしている人間のようだった。目までが、ひどい肉体的な苦痛を受けたときのように、まったく光を失ってしまっていた。
ラ・モール夫人のものの見方は、自分を公爵夫人にしてくれるかもしれない夫の意見の引写しにすぎなかったから、ここ数日来ジュリヤンの才能をほめあげていた。
第二十六章 道徳的な恋
また、いうまでもなく、アデラインは話しぶりに、いかにも冷静な、貴族らしい品があって、自然があらわそうとするいかなることでも、けっして中庸の線をこえることがない。ちょうどシナの大官がなにごとも美しいと思わず、すくなくとも、なにを見ても大いに気にいったというところまでは、態度にあらわさないようなものだ。
『ドン・ジュアン』第十三編、八四節
元帥《げんすい》夫人は思った。《この家のひとたちの、ものの見方には、すこし常軌を逸したところがある。こんな若い神父さんに、みんながのぼせあがったりして。たしかに、なかなかきれいな目はしているけれど、ひとのいうことを聞いているだけが能じゃない》
ジュリヤンのほうは、元帥夫人の物腰を見て、貴族的な落着き《・・・・・・・》の完全に近いお手本だと思った。どこまでも礼儀作法にかなっているばかりでなく、そのうえ、けっしてはげしい感動などにはとらわれないといったところが、はっきりとうかがわれる。思いがけない動作とか、自制力を失うようなことは、フェルヴァック夫人から見れば、ほとんど目下のものに対して威厳をなくすことと同じで、我慢がならなかったにちがいない。すこしでも心を動かされたようなそぶりを見せるということは、まるで一種の精神的狂乱《・・・・・》に思われたろうし、これは恥ずべきことであり、高い身分のものが保つべき品位を大いに害することだと考えるのだ。夫人の最大の楽しみは、国王の最近のご猟の話をすることだし、愛読書は『サン = シモン公の回想録』、それもとりわけ家系に関する部分だった。
ジュリヤンは、光線の具合で、どの位置がフェルヴァック夫人のもっているような美しさを引き立たせるかを心得ていた。そこで、あらかじめ、そういう場所に陣取りながら、用意周到にもマチルドの姿が見えないように、椅子《いす》の向きを変えておく。あくまで自分を避けようとするのに驚いて、マチルドは、ある日、青い長椅子を離れて、元帥夫人の肱掛《ひじかけ》椅《い》子《す》の隣にある、小さなテーブルのところへ来て、縫い仕事をはじめた。ジュリヤンは、フェルヴァック夫人の帽子の下から、かなり間近に、その姿を見た。そのまなざしが、自分の運命を左右しているのだと思うと、はじめは空おそろしかったが、やがて、いつもの無感動な態度を急にすてて、調子づいてしゃべりだした。
元帥夫人に話しかけてはいたが、むろん、マチルドの心に働きかけるのが目的だった。あまりに調子に乗りすぎたので、フェルヴァック夫人のほうでは、ジュリヤンのしゃべっていることが、わからなくなってしまった。
これがまずもって上首尾だった。もし、ジュリヤンが、これになお、ドイツ流の神秘主義や、深い信仰や、イエズス会の教義を匂《にお》わせるような文句を、二、三つけ加える気を起したら、元帥夫人は、いきなりジュリヤンを、当代を改革する使命を担《にな》った偉人の列にいれたであろう。
《フェルヴァック夫人などを相手に、ああしていつまでも、ひどく熱心に話しこむなんて、ずいぶん悪趣味だわ。それならいい、あのひとのいうことなんか、もう聞いてあげない》と思って、マチルドは、その夜はずっと、なかなかつらいことだったが、その決心を貫き通した。
真夜中になって、母親の手燭《てしょく》をもって、母親を寝室まで送っていくと、ラ・モール夫人が階段のところで立ちどまって、ジュリヤンのことをほめちぎった。マチルドはとうとう腹をたててしまった。どうしても眠れなかった。ふと、こんなことを考えてみて、やっと心がおさまった。《あたしが軽蔑《けいべつ》しているひとでも、元帥夫人の目には、ひどく取り柄のある人間に見えるのだわ》
ジュリヤンとしては、とにかく行動したわけで、すこしは気が晴れた。ふと、ロシア製の革の紙挾《かみばさ》みが目についた。コラゾフ公爵が贈ってくれた五十三通の恋文がはいっているのである。ジュリヤンは、第一通目の下欄に注がついているのを見た。はじめて会ってか《・・・・・・・・》ら一週間後に《・・・・・・》、一通目の手紙を出すこと《・・・・・・・・・・・》。
《遅れたぞ!》とジュリヤンは叫んだ。《フェルヴァック夫人を知ってから、もうだいぶたったからな》さっそくこの第一の恋文の写しにかかった。それは操《みさお》をほめたたえる文句を連ねた、退屈きわまる訓話のたぐいだった。ジュリヤンはさいわい二ページ目でそのまま眠りこんでしまった。
それから数時間たって、明るい日射《ひざ》しに、ふと目を覚ましてみると、机に寄りかかったまま居眠りしたことに気がついた。毎日の生活で、いちばんつらいのは、朝になって目を覚ますたびに、わが身の不幸を自覚する《・・・・》ときだった。その日は、半分笑いながら、手紙を写し取った。《こんな手紙を書く青年がいたなんて、考えられない!》九行にもわたる文章がいくつもあった。原文の下のほうに、鉛筆で書いてある注に気がついた。
これらの手紙は自分でもっていくこと《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。馬《・》に乗っていくこと《・・・・・・・・》、黒ネクタイ《・・・・・》、青いフロッ《・・・・・》クコート着用《・・・・・・》。思い悩む顔つきで手紙を渡す《・・・・・・・・・・・・・》こと《・・》。目には深い憂愁をたたえること《・・・・・・・・・・・・・・》。小間《・・》使などを見かけたら《・・・・・・・・・》、そっと目を拭うこと《・・・・・・・・・》。小間使に言葉をかけること《・・・・・・・・・・・・》。
万事そのとおり忠実に実行された。
《おれもずいぶん思いきったことをするわけだな》と、フェルヴァック邸を出ながら、ジュリヤンは思った。《だが、コラゾフには相すまない。あの有名な貞女に、つけ文をするとは! そのうち、こっぴどくやっつけられるだろうが、おれにとっては、またとない気晴らしなのだ。考えてみると、おれが乗り気でやれるお芝居といえば、これくらいのものだ。たしかに、このおれ《・・》などという、まったくやりきれぬしろものは、さんざんなぶられたほうが、おれにとっても痛快なのだ。気晴らしになると思えば、罪を犯してもいいくらいの気持だ》
ひと月このかた、ジュリヤンにとって、いちばん楽しいときは、馬小屋へ馬を返しに行くときだった。コラゾフからは、どんな口実があろうとも、くれぐれも、自分をすてた恋人を見たりしないようにと、いい渡されていた。だが、マチルドのほうは、聞きなれた馬の足音や、ジュリヤンが馬丁を呼ぶために、鞭《むち》で馬小屋の戸を叩《たた》くときの音にひかれて、ときどき窓のカーテンのうしろからのぞいてみたりした。モスリンの地がごく薄いので、それをすかして、ジュリヤンには相手の姿が見える。帽子のつばの下からそれとなく眺《なが》めると、相手の目にはぶつからずに、身体《からだ》だけを見ることができた。《こうやれば、あの娘はおれの目を見ることができないし、おれもあの娘を見ることにはならない》
その夜、フェルヴァック夫人は、ジュリヤンが朝あれほど憂いに沈んだ顔をして、門番に渡してきた、哲学的で、神秘的で、宗教的な、理屈っぽい手紙など、まるで受け取りもしなかったような顔をして、ジュリヤンに応対した。前の夜は、偶然にしゃべりまくる方法を発見したわけだった。そこで、マチルドの目が見えるようなすわりかたをした。マチルドのほうは、元帥夫人が来ると、さっそく青い長椅子を離れた。いつもの仲間をみすてたわけである。クロワズノワ氏は、この新たな気まぐれにあわてふためいたらしく、顔に悲痛な様子がありありと浮んだ。それを見ると、ジュリヤンの深いやるせなさも和らいだ。
この思いがけない事件のおかげで、ジュリヤンの話しぶりは水ぎわだった出来ばえをみせた。また、うぬぼれというものは、どんな尊い美徳の権《ごん》化《げ》ともいうべきひとの心のなかにでも忍びこむものであるから、元帥夫人は帰りの馬車に乗ると、こう思った。《ラ・モール夫人のおっしゃるとおり、この若い神父さんにはなかなか見どころがある。はじめのうちは、あたしの前に出ると、気おくれがしたのにちがいない。考えてみると、この家で顔を合わせる連中は、ほんとに軽薄なひとたちばかりだ。行いすましたひとといえば、年波のおかげでそうなったのだし、お年のせいでものに執着しなくなっただけのことだ。あの青年には、そうした違いがわかったにちがいない。手紙の文章はよくできているし、手紙のなかで、あたしに教え導いてもらいたいとはいっているものの、ほんとは、自分でもわからない気持から、そういっているのではなかろうか、そこが心配だ。
それにしても、こんなことがきっかけで、教えの道にはいった例は、どのくらいあるかしれない! あのひとの頼もしい点は、あのひとの文体が、これまでにあたしの目にふれた若いひとたちの文体と違っていることだ。あの若い司祭さんの文章には、ひとの心を動かす力や、ほんとうにまじめなところや、強い信念が見られる。これを認めないわけにはいかない。あのひとはきっと、マシヨンのような、心やさしい徳をそなえたひとになるだろう》
第二十七章 教会における最高の地位
奉仕! 才能! 長所! ふん! それより党派に加わるがいい。
テレマック
こうして、いずれはフランス教会における最高の地位を左右することになるこの婦人の頭のなかで、司教職という観念と、ジュリヤンという観念とが、はじめて結びついたのである。だが、こんなありがたい話をされても、ジュリヤンは、ろくろく心を動かされなかったろう。目下のところ、自分の現在の不幸と無関係なことがらなどを考える余裕はなかった。すべてが彼の不幸を深めるばかりだった。たとえば、自分の部屋を目にすることさえ、やりきれなくなってきていた。夜、手燭《てしょく》をもって部屋へ帰ってくると、家具のひとつびとつが、小さな飾りもののひとつびとつが、声をたてて、自分の不幸のなにか新たな事実を、まざまざと知らせてくれるような気がした。
その日は、久しぶりに元気よく部屋に帰ってくると、《日課があるぞ。二通目も、一通目と同様、退屈なものだと覚悟しなけりゃいかんだろう》とつぶやいた。
それはもっと退屈なものだった。写している文章があまりにもばかばかしいので、しまいには意味のことなど考えずに、行を追って引写しにした。
《ロンドンで、外交の先生に、ミュンスター条約の公式文書を筆記させられたが、この大げさな文章はあれどころのさわぎじゃない》
このときになってやっと、ジュリヤンはフェルヴァック夫人の手紙のことを思い出した。本物の手紙は、例の神妙な顔をしたドン・ディエゴ・ブストスに返すはずだったが、すっかり忘れていたのである。その手紙を捜し出してみたが、それはまさに、例のロシアの青年貴族の手紙と同様で、意のわからぬものだった。あいまいさは徹底していた。なにもかもいいつくしているようでもあり、なにもいっていないようでもあった。ジュリヤンは考えた。《風琴みたいな文章だ。虚無だとか、死だとか、無限だとかいったことについて、およそ高遠な思想を述べていながら、ほんとのところは、もの笑いになることばかりを無性におそれている気持が出ているだけじゃないか》
ここに要約してかかげたようなひとりごとは、二週間も続けてくり返された。黙示録の注釈みたいなものを引き写しながら、眠りこんでしまう。あくる日、憂いに沈んだ顔をして、手紙を届ける。マチルドの姿が見られるかもしれないと思いながら、馬小屋へ馬を返しに行く。仕事をする。夜、フェルヴァック夫人がラ・モール邸へ来《こ》ないときは、オペラへ出かける。これがジュリヤンの生活の単調な事件だった。フェルヴァック夫人が侯爵《こうしゃく》夫人のところへ来るときは、まだしも興味があった。そのときは、元帥《げんすい》夫人の帽子のふちに隠れて、マチルドの目をかいま見ることができた。すると、彼の言葉がはずむ。鮮やかで感傷的な文句が、ますます派手な、ますます優美な色合いをおびてくるのだった。
自分のいっていることが、マチルドにはばかばかしく映るだろうということはわかっていたが、優美な言いまわしをして、マチルドの気をひこうと思ったのである。《おれが心にもないことをいえばいうほど、この女の気にいるにちがいない》そう思うと、あきれかえるほどずうずうしく出て、ときにはものごとのありのままの姿を誇張して話した。元帥夫人に低俗だと思われないようにするには、単純で筋道の通った考えなど、口に出さないことがとりわけ肝心だと、ジュリヤンはすぐさま気がついたのだ。こうして、彼は取りいる必要のあるふたりの貴婦人の目を見て、うまくいったか、つまらなそうにしているかを読み取り、それによって、大げさな話をそのまま続けてみたり、はしょったりした。
要するに、ジュリヤンの生活は、毎日なにもしないで過していたころほど、みじめではなかった。
《ところで、おれは今、このやりきれぬお談義の、十五通目を写しているわけだ》と、彼はある夜考えた。《はじめの十四通は間違いなく元帥夫人の門番に渡してきた。光栄にも、そのうち、夫人の机のひきだしというひきだしを一杯にすることだろう。それなのに、夫人のおれに対する態度は、手紙を書かなかったときと、まったく同じだ。こんなことで、いったいどうなるのだ? おれだってうんざりしているんだが、おれがこうしつっこく手紙を出すんで、うんざりしているのだろうか? してみると、あのコラゾフの友人というロシア人で、リッチモンドのクェーカー教徒の美人に惚《ほ》れたというのは、そのころ、よほど始末に負えない男だったにちがいない。こんなしつっこいまねがよくできたもんだ》
ぼんくらな連中が、たまたま偉大な将軍の作戦ぶりを目撃したときと同じで、ジュリヤンには、このロシアの青年が美人のイギリス女の心をつかもうとして試みた攻撃ぶりが、てんで理解できなかった。はじめの四十通の手紙は、手紙を出すというぶしつけなふるまいを大目に見てもらうだけが目的だった。おそらくこの心やさしい婦人は退屈しているにちがいないから、毎日の生活より多少ともおもしろみのあるはずの手紙を受け取る習慣を、この婦人につけさせる必要があった。
ある朝、ジュリヤンは手紙を受け取った。フェルヴァック夫人の紋章だと知ると、いそいそとして封を切った。そんな気持には、数日前にはとうていなれなかったはずである。晩餐会《ばんさんかい》の招待状にすぎなかった。
さっそくコラゾフ公爵の教えにとびついた。ところが、簡単で要領を得てさえいればいいところなのに、ロシアの青年はドラ気取りで、軽薄な調子を出そうとしているのである。ジュリヤンは、元帥夫人の晩餐会に、どんな心構えで臨んだらよいのか、見当がつかなかった。
サロンは豪華そのもので、チュイルリー宮のディアーヌ広間のように金ぴかで、壁には油絵が飾ってあった。これらの絵には明らかに塗り直されたところが見られた。ジュリヤンはあとになって聞いたのだが、この家の女主人には題材がみだらに思われたので、絵の修正をさせたということだった。《なんという道徳的な時代だ《・・・・・・・》!》と彼は思った。
このサロンに、例の密書作成のときに顔を連ねていた人物のうちの三人が来ているのに気がついた。そのうちのひとりで、元帥夫人の伯父にあたる***司教猊《げい》下《か》は、聖職者任免権を握っているし、噂《うわさ》では、姪《めい》の頼みならなんでもいやといえない人物だということだった。《おれはまた途方もなく出世したものだ!》と、憂鬱《ゆううつ》そうに笑いを浮べながら、ジュリヤンはつぶやいた。《ところが、そんなことはまったくどうだっていいのだ! おれはいま名高い***司教と晩餐を共にしているわけなのに》
晩餐は平凡で、会話は我慢のならないものだった。《まるで、くだらない本の目次みたいだ。あらゆる人間の思想の大問題がれいれいしく取り上げられる。だが、三分も聞いてみるがいい。話し手の大げさな話しぶりとあきれるほどの無知ぶりと、どっちもどっちだと、つい考えざるをえなくなる》
読者諸君は、おそらくタンボーという文学青年のことをお忘れになったであろう。アカデミー会員の甥《おい》で、未来の教授で、卑劣な中傷で、ラ・モール邸のサロンに毒を盛るのを一手に引き受けているらしい男のことである。
この青年のおかげで、ジュリヤンははじめて、フェルヴァック夫人が自分の手紙には返事はくれないが、手紙を書くに至った気持のほうは大目に見てくれているのかもしれないと、考えついたのである。腹黒いタンボーは、ジュリヤンの人気を思うと、口惜《くや》しくてしかたがなかった。だが、一方、有能な人間でも、ばかな人間でも、同時に二つの場所を占めるわけにはいかない。したがって、未来の教授は考えた。《もしソレルのやつがあのりっぱなフェルヴァック夫人の恋人になれば、夫人はあいつを教会内でもかなり有利な地位につけるだろう。そうすれば、おれはラ・モール邸で、あいつに邪魔をされないですむ》
ピラール神父も、ジュリヤンがフェルヴァック邸で人気を博したのを聞いて、くどくどとお説教をした。この厳格なジャンセニストと、有徳の元帥夫人の、世直しを説く、王党的で、イエズス会派のサロンとのあいだには、宗派間の嫉妬《・・・・・・》があったのだ。
第二十八章 マノン・レスコー
ところで、ひとたび修道院長のばかさ加減を見ぬいてしまうと、彼は白いものを黒といい、黒いものを白といっても、たいていのときはうまくいくようになった。
リヒテンベルク
ロシア人の指示によると、とくに自戒すべきこととして、相手の女に手紙を出す場合、けっしてむきになって抗弁してはならないと、いうのだ。どんなにうまい口実があっても、夢中になって恋い焦《こが》れている男の役割から離れてはいけないし、手紙はいつでも、この仮定のもとに、出されなくてはいけない。
ある夜、オペラ座のフェルヴァック夫人の桟《さ》敷《じき》で、ジュリヤンは『マノン・レスコー』のバレーを、口をきわめてほめた。そんなほめかたをしたのも、要するにくだらないバレーだと思ったからなのである。
元帥《げんすい》夫人は、このバレーがアベ・プレヴォーの小説には、はるかに及ばないといった。
《ほほう! こんなに徳の高いひとが小説をほめるのか!》ジュリヤンは驚きもし、興味もそそられて、そう思った。フェルヴァック夫人は、週に二、三度、得意になって、作家をくそみそにやっつけていたのである。くだらない作品を書いて、残念ながら、そうでなくても色欲の過ちにおちいりがちな青年たちを堕落させようとしている、というのだ。
「こういう背徳的で危険な作品のうちで、『マノン・レスコー』は、なんでも、一流のものだということです」と、元帥夫人はつづけていった。「罪深い心をもった人間が、当然おちいる過ちや苦悩の姿が、なんでも、なかなか深味のある真実さをもって描かれているそうです。でも、あなたのお好きなボナパルトは、セント = ヘレナで、召使向きの小説だといったわけですね」
この言葉を耳にすると、ジュリヤンの心は急にひきしまった。《だれか元帥夫人におれの悪口をいったやつがいるな。おれがナポレオンに心酔していることをもらしたのだ。そんな話を聞けば、夫人だって気を悪くするさ。それで、ついおれに匂《にお》わせないではいられなくなったのだ》そうと知って、ジュリヤンはその晩じゅう愉快な気持になり、また快活にもふるまうことができた。オペラ座の玄関で、元帥夫人に別れを告げようとすると、夫人がいった。「忘れないでください、あたしを思ってくださるひとは、ボナパルトなんかを愛したりしてはいけません。あんなひとは、なにかの因果で、神さまの思召《おぼしめ》しから、フランスに授けられたやむをえない人間と、まあ、せいぜいそんなふうに思って、認めておく程度でいいのです。それに、あのひとは芸術の傑作が味わえるほどの、心のゆとりなどもっていませんでした」
《あたしを思ってくださるひとは《・・・・・・・・・・・・・・》、か!》とジュリヤンはくり返した。《これはなんの意味もないともいえるし、すべてを意味するとも考えられる。こういう言葉づかいの真意となると、われわれ田舎者の手に負えないな》そこでジュリヤンは、元帥夫人あての長たらしい手紙を写しながらも、レーナル夫人のことがしきりに思い出された。
「いったい、どうなさったの、あのお手紙はオペラ座からお帰りになって、ゆうべお書きになったと思うんですけれど、そのなかでロ《・》ンドン《・・・》とかリッチモンド《・・・・・・》とかおっしゃったりして」と、その次の日、夫人がいった。なにげないふりはしているが、そうでないことは見えすいている。
ジュリヤンはひどく弱ってしまった。まる写しにしただけで、自分でなにを書いているのかも考えていなかったから、もとの手紙にあるロンドン《・・・・》とかリッチモンド《・・・・・・》とかいう言葉を、パリ《・・》とかサン《・・》 = クルー《・・・》とかに書きかえるのを忘れてしまったらしい。二、三度言葉を口にしかけてみたが、しまいまでいいきれなかった。いまにも吹き出しそうで、笑いだしたらとめどもなく笑いころげそうな気がしたのである。やっと、言葉を捜しているうちに、うまいことを考えて、こういった。
「いちばん崇高で、いちばん大きな人間の関心事について議論しているうちに、興奮してしまい、お手紙を書いていながら、自分の心のほうがうっかりしてしまったものとみえます」
《相手の心に効いたらしいぞ。おかげで、今夜は帰ってからも退屈しないですむ》フェルヴァック邸を急いで出た。その夜、前の晩に写した手紙の原文を読み直していくうち、ロシアの青年が、ロンドンとか、リッチモンドとか、いっている、ぬきさしならぬ個《か》所《しょ》がすぐに見つかった。ジュリヤンはその手紙がほとんど恋文に近いのを知って、すっかり驚いてしまった。
ジュリヤンが相手の注意をひいたのは、話しぶりがいかにも軽薄に見えるのに反して、手紙のほうはまるで黙示録のように、荘重で深味があったからである。文章の息の長いところが、とりわけ元帥夫人の気にいった。《これはあの背徳漢のヴォルテールが流行《はや》らせた、きれぎれの文章ではない》ジュリヤンは自分の話しぶりから、あらゆる種類の良識的な批判を取り除こうとして、いろいろ苦心はしてみたものの、やはり反王政的で不信心な色合いは抜けきれず、それはフェルヴァック夫人も見のがさなかった。なにしろ、人一倍道徳家ではあるが、ややもすると一晩じゅうなに一つ気のきいたことが思い浮ばないような人物に取りまかれているので、夫人はなにか新しそうなことを聞かされると、ひどく動かされてしまう。だが、それと同時に、そういうことに腹をたてるのが自分の立場だと思っている。夫人はこの欠点を称して、当世《・・》の軽薄さのあとをとどめている《・・・・・・・・・・・・・・》といっていた。……
しかし、こういうサロンは、なにか請願することでもないかぎり、顔を出してもはじまらない。ジュリヤンの送っている興味のない生活の退屈さ加減は、おそらく読者も感じておられることだろう。これはわれわれが旅行中において出会う荒野のようなものである。
ジュリヤンの生活が、フェルヴァックの挿《そう》話《わ》ですっかり忙殺されている一方、ラ・モール嬢はジュリヤンのことを考えまいとして、よほど自分を抑えてかからなくてはならなかった。はげしい心の葛藤《かっとう》に責めさいなまれていた。ときどき、あんないやな青年なんか軽《けい》蔑《べつ》しているのだと思いながらも、いつの間にか彼の話にひきつけられていた。とりわけ驚いたのは、ジュリヤンの徹底した嘘《うそ》つきぶりである。元帥夫人に向っていうことは、ひとつとして、嘘でないことはない。いや、すくなくとも、日ごろのものの考え方とはおよそ違ったことをいう。マチルドにしてみれば、ほとんどどんな問題についても、ジュリヤンの考え方は、わかりすぎるほどわかっている。このマキアヴェリスムには、マチルドも感心してしまった。《ほんとにこのひとの底意はとてもわからないわ! 言葉づかいは同じでも、あのタンボーさんのような、ほら吹きのおばかさんや、ありふれた悪党とは全然わけが違う!》
ところが、ジュリヤンはどうにもやりきれない日々を送っていたのである。毎日元帥夫人のサロンへ顔を出すことくらい、つらいつとめはなかった。むりに役割を演じるわけだから、精も根もつき果ててしまう。しばしば、夜、フェルヴァック邸の広い中庭を横切るときなどは、気をふるいたたせ、自分にわけをいいきかせるようにして、やっと絶望の一歩手前でふみとどまっているというありさまだった。
《おれは神学校では、絶望を克服したではないか。ところが、あのころといえば、将来の見通しなど惨澹《さんたん》たるものだった。芽が出ようが出なかろうが、どういう立場になろうとも、この世でいちばん軽蔑すべき、いちばん唾棄《だき》すべき人間と顔をつき合せて、一生を暮さなければならないことは、目に見えていたわけだ。ところが、次の年の春には、わずか十一カ月しかたたないのに、同年配の青年たちのうちで、おれはおそらくいちばん幸福な人間になっていたのだ》
だが、たいていのときは、いくらりっぱな理屈をこねてみても、やりきれない現実に対しては、なんの効果もなかった。毎日、昼食と晩餐《ばんさん》のときには、マチルドと顔を合わせた。ラ・モール氏の口述で書き取る数多くの手紙から、マチルドとクロワズノワ氏の結婚が進んでいることを知っていた。この好青年は早くも日に二度、ラ・モール邸へ顔を出すようになっていた。すてられた恋人の嫉《しっ》妬《と》の目は、恋敵《こいがたき》の一挙一動を見のがすはずがなかった。
ラ・モール嬢が婚約者をもてなしたような気がすると、ジュリヤンは部屋に帰って、心のひかれる思いで、ピストルをじっと眺《なが》めないではいられなかった。
《おれなんかは、下着についている名前をとってしまい、パリから二十里も離れた、どこか人《ひと》気《け》のない森にでもはいりこんで、こんな情けない生涯《しょうがい》にけりをつけてしまったほうが、どれだけ利口だかしれない! どうせ、そんな土地なら、顔見知りはないのだから、おれが死んだって、二週間はわかるまい。それに、二週間もたてば、だれがおれのことなど思い出してくれよう!》
この考え方はなかなか賢明にはちがいない。だが、あくる日になって、マチルドの腕が、着物の袖口《そでぐち》と手袋のあいだから、ちらりと見えたりすると、それだけでもう、この青年哲学者は、やるせない思い出に、またひたってしまう。やるせないとはいっても、やはりこの世に未練をもたせる思い出なのだ。すると、ジュリヤンはこんな気になる。《よし、例のロシア人の作戦をあくまでやり通してみよう。どんな結果になるものか? 元帥夫人に対しては、むろん、五十三通を書き写したら、それ以上は書いたりしないさ。
マチルドに対しては、こんなつらい芝居を六週間続けてみても、いっこう怒りを和らげることはできないかもしれない。いや、ひょっとして、一時的にでも仲直りができるかもしれない。そんなことになったら、ほんとに、おれはうれしさに我を忘れてしまうだろう!》だが、それから先を考え続けることはできなかった。
長いこと物思いに耽《ふけ》ってから、また筋道立った考えに立ち戻《もど》ると、《というわけで、おれは一日だけの幸福をつかむことになるだろう。そのあとで、またつれない仕打ちがはじまる。残念ながら、おれにはあの女を喜ばせる腕がないんだから、それもむりはない。そうなるともう、おれには打つ手がない。おれはおしまいだ、永遠に浮ばれない。……
あんな性格の女に、どんな保証がしてもらえよう? まったく、芸のないおれのことだ、その答えはわかりきっているじゃないか。おれの態度はいつになっても垢《あか》ぬけしないだろうし、話しぶりは相変らず野暮ったくて、単調なことだろう。情けない話だ! どうしておれはこんな男なのだろう?》
第二十九章 倦怠《けんたい》
情熱に身を捧《ささ》げる、それはよかろう。だが、自分でも感じてもいない情熱に! あわれな十九世紀よ!
ジロデ
フェルヴァック夫人は、はじめジュリヤンの長い手紙を読んでも、べつにうれしいとは思わなかったが、そのうち、興味をもちはじめた。だが、一つ悩みの種があった。《ソレルさんが正式の神父でなくて、ほんとに残念だわ。そうなら、親しくしてあげてもいいのだけれど。あんな勲章をつけたり、まるでふつうのひとのような服を着たりしていては、どんなひどいことをいわれないともかぎらないし、なんともいい返しようがない》夫人は、そんなふうに考え続けるのをおそれたものの、《意地の悪いお友達が、あれはあたしの父方の従弟《いとこ》で、身分は低いし、国民軍づとめで勲章をもらった商人かなにかでしょう、などといい加減な推量をするかもしれないし、それどころか、そんなふうにいいふらさないともかぎらない》
ジュリヤンを知るまでは、フェルヴァック夫人にとってのいちばん大きな楽しみは、自分の名前のわきに、元帥夫人《・・・・》と書くことだった。やがて、病的で、なにかといえばすぐ腹をたてる、成上りものの虚栄心が、ジュリヤンに対して芽生えかけた関心と戦いはじめた。元帥夫人は心のなかで思った。
《あのひとを、パリの近くの、どこかの司教管区の副司教にしてあげることくらいは、なんでもない! でも、ただのソレル氏というのでは、それに、たかがラ・モール氏の秘書というのでは! どうにもならないわ》
はじめて、すべてをおそれる《・・・・・・・・》この女性が、自分の地位や社会的な優越からくる自負心とは無縁な問題に、心を動かされたわけである。年をとった門番は、ひどく憂鬱《ゆううつ》そうな顔をした例の美少年の手紙を届けるたびに、元帥夫人の顔から、いつもの元気のない不満そうな表情が消えるのに、気がついた。これまでなら、召使が姿をあらわすと、きまってわざと不満そうな表情をして見せたのである。
世《せ》間態《けんてい》ばかりを気にしながら、評判をかちえても、心の底ではほんとうの喜びを味わっているわけではない。元帥夫人はそういう退屈な生活をしていたわけである。ところが、ジュリヤンを思うようになってみると、それがやりきれなくなってきた。おかげで、夫人が前の夜、例の一風変った青年と一時間ばかり過しさえすれば、次の日は一日じゅう、小間使たちも小言をいわれないですむようになった。ジュリヤンの信用はだんだんましてきた。きわめて巧みに書かれた匿名《とくめい》の手紙が来ても、それでくずれるような信用ではなかった。いくら、小利口なタンボーが、リュス氏や、クロワズノワ氏や、ケーリュス氏に、相当手のこんだ中傷を、二、三提供してみたところで、またこの連中が悪口の真偽のほどを確かめもしないで、おもしろがっていいふらしてみたところで、甲斐《かい》はなかった。ただ、元帥夫人は、こういうさもしい手口をはねつけるほど利口ではなかったから、自分の疑いをマチルドに話し、いつもその答えを聞いて安心するといった調子だった。
ある日、手紙が来ていないかと三度きいてから、フェルヴァック夫人は急に、ジュリヤンに返事を出そうという気を起した、退屈が勝利を博したのだ。二通目の手紙のとき、元帥夫人は、ラ《・》・モール侯爵気付ソレル様《・・・・・・・・・・・》では、いかにも下品な宛《あて》名《な》で、自分の手で書くのは気がひけると思って、筆を置きかけた。
その夜、ひどくそっけない口調で、ジュリヤンにいった。「あなたの宛名を書いた封筒を届けてくださらないと、困りますわ」
《おやおや、おれは召使並の恋人役をさせられるのかい》と思って、彼はおもしろ半分に、侯爵の老僕《ろうぼく》アルセーヌのような、しかめ面《つら》をしながらお辞儀をした。
その夜さっそく封筒を届けた。すると、あくる日の朝早く、三通目の手紙を受け取った。はじめの五、六行と、終りのほうの二、三行を読んだ。細かい字でぎっしりつめて書いた四ページの手紙だった。
そのうち、夫人は、ほとんど毎日手紙を書くという、しおらしい習慣を身につけた。ジュリヤンはロシア人の手紙を、そっくりそのまま引き写して返事を書いた。ところで、大げさな文章の便利な点は次のとおりである。フェルヴァック夫人は、自分の手紙とまるで関係のない手紙を受け取っても、いっこう不審に思わなかった。
ジュリヤンの動静を探る役を進んで買って出た小利口者のタンボーが、手紙は全部封も切らないで、ジュリヤンの机のひきだしへ無造作につっこんであると、夫人に告げ口することができたら、夫人は大いに自尊心を傷つけられ、どれほど腹をたてたかわからない。
ある朝、門番が、図書室にいるジュリヤンに、元帥夫人の手紙をもっていくところだった。マチルドはたまたまこの男と出会いがしらに、手紙と、ジュリヤンの筆跡で書かれた宛名を目にした。門番が出てくるのといれ違いに、マチルドは図書室にはいっていった。手紙はまだ机のはしにのせてあった。ジュリヤンは、書きものが忙しくて、ひきだしへしまっておかなかったのである。
「こんなこと我慢できませんわ」と、マチルドはその手紙をひっつかむなり、叫んだ。「あたしのことをまるで忘れてしまってらっしゃるのね。でも、あたしはあなたの妻です。あなたの仕打ちはあんまりですわ」
そういうと、自分のふるまいの、あまりのはしたなさに、我ながら驚き、自尊心が頭をもちあげ、息づまる思いがした。急に泣きくずれた。やがて、ジュリヤンには、息の根がとまるのではないかと思われてきた。
思いがけないことだけに、面くらってしまい、この光景が自分にとって、どれほどすばらしい、どれほど幸福なものであるか、ジュリヤンにはよくわからなかった。彼はマチルドを助け起してすわらせた。マチルドはまるで彼の両腕に抱かれるままになっていた。
この様子に気がつくと、まずジュリヤンはいいしれぬ喜びを覚えた。だが、その次の瞬間、コラゾフのことが思い出された。《一言でもいったら、万事おしまいだ》
彼の腕はこわばった。それほど作戦上やむなく気持を抑えていることはつらかった。《このしなやかな美しい身体《からだ》を、おれの胸に抱きしめることさえしてはいけないのだ。そんなことをしたら、この女はおれを軽蔑《けいべつ》するだろうし、ひどい仕返しをするのだ。なんという手に負えない性格だ!》
そう考えて、マチルドの性格を呪《のろ》いながらも、この女が無性に恋しくなるばかりだった。まるで女王を腕に抱いている気がした。
ジュリヤンの冷やかな、情にほだされぬ態度が、マチルドの自尊心をいやが上にも苦しめ、彼女の胸はかきむしられる思いだった。いま相手が自分にどんな気持をいだいているのかを、相手の目の色から読み取るだけの余裕がもてるどころではなかった。思いきって相手をまともに見ることもできなかった。軽蔑のまなざしにぶつかるのがこわかった。
図書室の長《なが》椅子《いす》に腰をおろしたきり、身動きもせず、ジュリヤンには顔をそむけたまま、マチルドは自尊心と恋心から、限りなくはげしい苦悩に身もだえしていた。なんというあられもないまねをしでかしてしまったのだ!
《あたしのほうから慎みも忘れ、こんなまねまでして、いい出しておきながら、はねつけられるなんて! あんまり情けないわ! それもはねつけた男といえば》と、たえられぬほどの自尊心のうずきにさいなまれながら、つけ加えた。《あたしの父の召使にすぎないのだわ》
「これだけはもう我慢できません」と、マチルドはいきり立って叫んだ。
そして、あらあらしく立ち上がると、自分のすぐ前にある、ジュリヤンの机のひきだしを引き開けた。門番がもってきたばかりのとそっくりの手紙が十通ほど、封も切らずにはいっている。それを見ると、マチルドは恐怖に身も凍る思いで立ちすくんだ。どの宛名も、大なり小なり書体は変えてあるが、ジュリヤンの筆跡であることはすぐにわかった。マチルドは我を忘れて叫んだ。
「まあ! あなたはあのかたと親しくなさったうえに、軽蔑までなさっていらっしゃるのね。あなたには地位も身分もないじゃありませんか。それでいて、フェルヴァック元帥夫人を軽蔑できるのですか!」
だが、そのあとで、急にくずおれるようにして、ジュリヤンの膝《ひざ》にすがりつきながら、続けていった。「ごめんなさい、あなた。あたしを軽蔑なさりたいなら、いくらでも軽蔑なさってください。でも、あたしをかわいがって! あたしはもう、あなたの愛情なしでは生きていけません」
そういうと、すっかり気を失って、がっくりとなってしまった。
《やっと、この高慢ちきな女は、おれの足もとにひざまずいたわけだ!》とジュリヤンは思った。
第三十章 喜歌劇座の桟《さ》敷《じき》
黒雲の走る空がおそろしい嵐《あらし》を告げるように。
『ドン・ジュアン』第一編、七三節
このようなはげしい感動の姿を見せられて、ジュリヤンはうれしさを覚えるというより、びっくりしてしまった。マチルドにののしられてみて、ロシア人の計略がどんなに賢明なものであったかを思い知らされた。《なるべ《・・・》く口をきくな《・・・・・・》、なるべく行動に出るな《・・・・・・・・・・》、これが救われる唯一《ゆいいつ》の道だ》
ジュリヤンはマチルドを起き上がらせ、口もきかずに、もとの長《なが》椅子《いす》にすわらせた。また涙がマチルドの目にあふれ出てきた。
体裁が悪いので、彼女はフェルヴァック夫人の手紙を手に取ると、ゆっくりその封を切った。元帥夫人の筆跡だとわかると、はた目にも気がつくほど、わなわなと身をふるわせた。読み下すわけではなく、ただ手紙を一枚一枚めくっていた。多くの手紙は六ページもあった。
「せめて、返事だけはしてください」やっと、マチルドはいかにも哀願するような調子で、そういったが、ジュリヤンをまともに見る勇気はなかった。「ご承知のとおり、あたしは高慢な女です。あたしの身分のせいで、仕方がないのです。いえ、はっきりいってしまえば、あたしの性格のせいで、どうにもならないのです。ですから、フェルヴァック夫人に、あなたの心を横取りされてしまったのですわ。……この因果な恋のために、あたしはあらゆる犠牲をはらったわけですけれど、あのかたもあなたにそれだけのことをなさったのですか?」
これに対して、ジュリヤンはあくまで沈黙を守り続けただけだった。《どんな権利があって、この女は紳士が口にもできないようなぶしつけなことをきくんだろう?》
マチルドは手紙を読もうとしたが、涙に曇った目では、読めるはずがなかった。
ひと月このかた、マチルドはみじめな思いをしていた。だが、高慢な性格から、自分の気持を認めようとさえしなかった。まったくふとしたきっかけから、こんなふうに爆発してしまった。嫉《しっ》妬《と》と恋心が、ほんのわずかなあいだだけ、高慢な心に打ち勝ったのだ。彼女は長椅子に腰をおろし、ジュリヤンのごくそばにいた。ジュリヤンはその髪の毛と、雪のような頸筋《くびすじ》を眺《なが》めた。ふと、自分の取るべき態度をすっかり忘れてしまい、マチルドの腰に腕をまわして、自分の胸にかき抱かんばかりにした。
マチルドは力なげに顔を向けた。そのまなざしに、はげしい苦悩の色を見て、ジュリヤンは驚いた。ふだんの目の表情はどこにもなかったのである。
ジュリヤンは力が抜けるような気がした。それほど、自分に課したこととはいえ、勇気をふりしぼって行動に出ることは、なんとしてもつらかった。
《おれがおめおめひきずられて、この女にうつつを抜かすようになったら、この目はやがて世にも冷やかな軽蔑《けいべつ》の色しか浮べなくなるのだ》一方、マチルドのほうは、消えいるような声で、満足な言葉を口にする力もなく、いきり立つ自尊心にそそのかされてしでかした数々のふるまいを、心から後悔していると、くり返しくり返し、いっているところだった。
「わたしにだって自尊心はあります」とはいったが、ジュリヤンの声はひどく弱々しく、その顔色は気力のつきはてた様子を見せていた。
マチルドは急に男のほうへ向き直った。男の声を聞くだけでも、望めぬこととあきらめかけていただけに、うれしかった。このとき、マチルドは自分の高慢さを思い浮べたが、我ながらそれが憎らしく思えるばかりだった。自分がどれほどジュリヤンを愛しているか、また自分自身をどれほどいやな女だと思っているか、その明かしがたてられるなら、どんな突拍子もない、けたはずれのふるまいでも、喜んでしでかしたところなのだ。
「でも、おそらく、その自尊心のせいでしょう、あなたがすこしのあいだでも、わたしを認めてくださったのは」と、ジュリヤンは言葉を続けた。「それに、今わたしに一目おいてくださるのも、このわたしがいかにも男らしい、勇気のある、断《だん》乎《こ》とした態度を見せたからにきまっています。わたしは元帥夫人に愛情をいだくことだって、できるのです……」
マチルドはびくっとした。目が異様な光をおびた。自分に対して下されようとしている判決を聞こうという構えだった。ジュリヤンが、その心の動きを見のがすはずはない。勇気がくじけそうになった。
《ああ!》と、ジュリヤンは、口をついて出る、うつろな言葉のひびきを、自分と関係のない音でも聞いているような調子で、つぶやいた。《この蒼白《あおじろ》い頬《ほお》へきみの気づかぬように、思いきりキスができたらなあ!》
「元帥夫人に愛情をもつことだってできますよ」と、彼は続けていった。……が、その声はますます弱くなってきた。「しかし、もちろん、夫人がわたしに関心をいだいているという、決定的な証拠は全然ありません……」
マチルドは男を見つめた。ジュリヤンはそのまなざしをじっと見返したが、すくなくとも顔色には本心があらわれなかったと思った。心のすみずみまで恋心がしみわたる気がした。これほどまでに恋しいと思ったことは一度もない。彼のほうもマチルドに劣らず、もの狂わしい気になっていた。このとき、マチルドに、かけひきをするだけの落着きと勇気があったら、ジュリヤンはこんなつまらぬ芝居をおっぽり出して、マチルドの足下にひざまずいたところである。ジュリヤンは心で叫んだ。《ああ! コラゾフ! きみがここにいてくれたらなあ! ぼくの行動を指導してくれるきみのたった一言が、どんなにほしいかしれないんだ!》その間に、彼の声のほうはこういっていた。
「ほかの気持は全然ないにしても、感謝の気持だけで、わたしは元帥夫人に心を惹《ひ》かれるのです。夫人はわたしに対して寛大でした。わたしが軽蔑されているときに、わたしを慰めてくださったのです。……ある種の見せかけだけでは、どこまでも信用するというわけにはいきません。それは、なるほど、この上もなくうれしいものにはちがいありませんけれど、一方また、いつまで続くものやら、わかりませんからね」
「まあ! そんなこと!」とマチルドが叫んだ。
「そんなことって、じゃ、あなたはどんな保証をしてくださるんです?」と、ジュリヤンは鋭く、断乎とした口調でいい返した。外交的なかけひきの、慎重ないいかたを、ちょっと忘れたかのようだった。「今はどうやらこのわたしにもとの地位を返してくださるおつもりらしいが、その地位が二日以上続くという保証がどこにあるんです? どんな神さまがうけ合ってくれるんです?」
「あたしはこんなに愛しているのですし、それにあなたから愛されなくなったら、どんな不幸におちいるかしれません、それがりっぱな保証ですわ」といいながら、マチルドはジュリヤンの手を取って、そのほうへ向き直った。
はげしく身動きをしたために、肩掛がすこしはずれた。美しい肩がジュリヤンの目にふれた。やや乱れた髪が、甘美な思い出を呼び起した。……
我慢できなくなった。《うっかりしたことをいおうものなら、またしても絶望のうちにあの長い月日を過さなくてはならなくなる。レーナル夫人はなんとか理屈をつけて、自分の気持のままにふるまった。ところが、この上流社会の娘は、感動してもいいというりっぱな理由が見つからなければ、やすやすと心を動かされないのだ》
一瞬にしてこの真理に気づくと、彼はたちまち勇気を取り戻《もど》した。
マチルドに握りしめられている手を引っこめて、わざと敬意を見せるようにして、すこし離れた。男の勇気もこれ以上は出せるものでない。それから、長椅子の上に散らばっているフェルヴァック夫人の手紙を、丁寧にひとつびとつ拾い集め、この場合としては、いかにも残酷な、ひどく丁重な態度を見せて、つけ加えた。
「ラ・モールのお嬢さま、この問題については十分考えさせていただきます」ジュリヤンは足早にそばを離れ、図書室を出ていった。ドアを次々に閉める音が、マチルドに聞えた。
《まあ、この人でなし、平気なんだわ》と、マチルドは思った。……
《あたしったら、なんてことを! 人でなしだなんて! いいえ、あのひとは賢明で、慎重で、善良だわ。あたしのほうが悪いんだわ、考えられないくらい悪いんだわ》
この考えかたはしばらく続いた。マチルドはこの日ほとんど幸福といってもよかった。恋にひたっていたからである。この心は、かつて自尊心に、しかもあのような途方もない自尊心にそそのかされたことがなかったかのように思えた。
その夜、従僕《じゅうぼく》がフェルヴァック夫人の来訪を取り次いだとき、マチルドは身の毛がよだつほどぞっとした。従僕の声までが不吉に聞えた。とうてい元帥夫人の姿を見る気力はなかったので、あわててその場を離れた。ジュリヤンは、やっとかちえた勝利であってみれば、得意になる気もせず、自分のまなざしが心配で、ラ・モール邸の晩餐《ばんさん》には出なかった。
ジュリヤンの恋心と幸福感は、戦いの時期を遠ざかるにつれて、たちまちのうちに高まった。早くも自分のふるまいを咎《とが》める気になっていた。《どうしてあの女のいうとおりにしなかったのだろう? おれを愛してくれなくなったら! あの高慢な女なら、ふと気が変るかもしれない。それに、実際の話が、おれはあの女にひどい仕打ちをしたのだからな》
その夜、彼はどうしても喜歌劇座へ行って、フェルヴァック夫人の桟敷に顔出ししなければいけないと痛感した。夫人からくれぐれも来るようにと誘われたのだった。自分が顔を出したか、失礼にも顔出ししなかったかは、マチルドのことだから、知らないでいるはずはない。考えてみれば、いかにもそのとおりなのだが、宵《よい》の口は、社交場裡《り》に出かける気力がなかった。口をきいたら、自分の幸福の半ばが失われそうだった。
十時が鳴った。どうしても顔出しをせざるをえなかった。
さいわい、行ってみると、元帥夫人の桟敷は婦人連でいっぱいだった。ジュリヤンは戸口の近くに追いやられ、婦人連の帽子の陰にすっかり隠れてしまった。こんな立場におかれたので、恥をかかないですんだ。『秘密結婚』の、カロリーナの悲嘆をあらわす絶唱に、思わず泣きくずれてしまったからである。フェルヴァック夫人はその涙に気がついた。それが日ごろの、男らしい、しっかりした顔つきとは打って変っているので、成上りもの《・・・・・》の高慢さで、ずっと前から腐りきっていたこの貴婦人の心根を、感動させずにはおかなかった。わずかに残っている女らしい心づかいから、言葉をかける気になった。そこで、自分の声音を味わおうと思った。
「ラ・モール家のご婦人がたにお会いになって?」と、夫人はジュリヤンにきいた。「四階の桟敷にいらっしゃいますわ」ジュリヤンはたちまち、かなりぶしつけにも、桟敷の前に乗り出して、場内を見渡した。マチルドの姿が目にはいった。その目は涙で光っていた。
《だが、考えてみると、今日はラ・モール家の連中がオペラに来る日じゃない》とジュリヤンは考えた。《ひどく熱心な話だ!》
屋敷へ出入りするおべっかものの婦人が喜んで提供してくれた桟敷は、上のほうであまりよくない席だったが、それでもマチルドはむりやり母親にせがんで、喜歌劇座へ連れてきてもらった。ジュリヤンがその夜、元帥夫人と一緒に過すかどうかを、どうしても知りたかったのである。
第三十一章 相手を恐れさせよ
これこそ、きみたちの文明が生んだすばらしい奇《き》蹟《せき》というものだ!恋愛を、日常茶飯事にしてしまったのだから。
バルナーヴ
ジュリヤンはさっそくラ・モール夫人の桟《さ》敷《じき》にかけつけた。その目はまっ先に、涙をたたえたマチルドの目に出会った。彼女は人前もはばからずに泣いていた。そこには、桟敷を貸してくれた婦人と、その知合いの男たち、つまり身分の低い連中しかいなかった。マチルドは自分の手をジュリヤンの手に重ねた。母親に対する気がねなど、すっかり忘れたようだった。涙で息をつまらせながら、ジュリヤンにただ一言、「保証よ《・・・》!」といった。
《とにかく、口をきかないことだ》自分までひどく興奮してしまい、ジュリヤンは、四階の桟敷ではシャンデリアがまぶしいのでといって、手のひらでどうにか目を隠した。《口をきけば、おれが興奮しきっているのを感づかれてしまう。声の調子でばれてしまうだろう。それではまた、なにもかも終りになるかもしれない》
心の戦いは朝よりもずっと苦しかった。ジュリヤンの気持には興奮するだけの余裕があったからである。彼はマチルドが虚栄心にかられるのを恐れた。恋心と快楽に酔いしれながらも、けっして口はきくまいと思った。
作者の考えでは、これがジュリヤンの性格で、いちばんりっぱな点である。このように自分を抑えることのできる人間は、si fata sinant もっとえらくなれる。
ラ・モール嬢は、ジュリヤンを屋敷へ連れて帰るといってきかなかった。さいわい、ひどい雨降りだった。しかし、侯爵夫人は、ジュリヤンを自分と向いあわせに掛けさせると、ひっきりなしに話しかけ、娘と一言も口をきくすきを与えなかった。まるで侯爵夫人がジュリヤンの幸福をわざとはかってくれたかのようだった。興奮のあまり、すべてを失う心配がなくなると、ジュリヤンは思いきり感動にひたった。
あえていってしまうが、部屋へ帰ると、ジュリヤンはひざまずいて、コラゾフ公爵からもらった恋文に、キスの雨を降らせた。
《偉大なコラゾフ! みんな、きみのおかげだ!》と、ジュリヤンは気違いのようになって叫んだ。
やがて、いくらか落ち着いてきた。ジュリヤンは大戦争でなかば勝利をつかんだ将軍に、自分をくらべてみた。《味方の優勢は確かだ、目に見えている。だが明日はどうなる? 一瞬ですべてが失われることもあるのだ》
ジュリヤンは、夢中で、ナポレオンの『セ《・》ント《・・》 = ヘレナで口述された回想録《・・・・・・・・・・・・》』を開くと、たっぷり二時間のあいだ、読もうと努力した。ただ字が目にはいるだけだったが、それでもかまわず、がむしゃらに読んだ。この奇妙な読書のあいだに、頭と心が興奮してきて、なにか壮大きわまる事件の渦中《かちゅう》にあるような状態で、知らず知らずのうちに働き出していた。《あの女の心はレーナル夫人のとはだいぶ違う》だが、それ以上考えは進まなかった。
《相手を恐れさせよ《・・・・・・・・》》と、ジュリヤンは急に本を遠くへ投げ出して叫んだ。《恐れさせておくかぎり、敵はおれに服従する。そのあいだはおれを軽蔑《けいべつ》したりしないだろう》
うれしさに感きわまって、ジュリヤンは、小さな部屋の中を歩きまわった。ほんとうをいえば、それは恋の幸福というよりも、自尊心の満足のためだった。
《相手を恐れさせよ!》ジュリヤンは得意になってくり返したが、得意になるのももっともだった。《どんなにうれしいときでも、レーナル夫人は、おれの愛情が自分のよりすくないのじゃないかと心配していた。だが、こんどの場合は、おれの征服しようとしているのは悪魔だ。だから征服《・・》しなくてはならない》
あくる日、朝の八時にはマチルドが図書室へ来るだろうということはわかっていた。彼は九時にようやく姿をあらわした。恋しさでじっとしていられないほどだったが、理性で心を抑えた。おそらく片時といえども、こう自分にくり返さないことはなかったであろう。《あの女にいつも、このひとはあたしを愛しているかしら? という大きな疑問をいだかせておくこと。あの女はりっぱな身分だし、だれからもちやほやされているので、少々《・・》自信をもちすぎ《・・》ている》
マチルドは、蒼《あお》ざめた顔をして、おとなしく、長《なが》椅子《いす》に腰をおろしていたが、身動きひとつできないように見えた。ジュリヤンに手をさしのべて、
「ほんとうに、あなたのご機《き》嫌《げん》をそこねてしまいましたわね。怒っていらっしゃるのでしょう?……」
ジュリヤンは、これほど素直な調子で出られるとは思っていなかった。もうすこしで、本心をあらわしそうになった。
「保証がほしいとおっしゃるのね」しばらく待っても、ジュリヤンがなにもいい出さないので、マチルドがそういった。「ごもっともですわ。あたしを連れ出してください。ロンドンへ行きましょう。……あたしの一生は台なしになるでしょうし、操《みさお》を汚《けが》すことにはなりますけれど……」マチルドは、やっと勇気を出して、ジュリヤンから手をひっこめ、その手で目を隠した。慎みと、女らしい羞《はじ》らいとが、すっかりマチルドの心に戻《もど》ってきたのだ……「ええ、どうぞ、あたしの操を汚してちょうだい」溜息《ためいき》といっしょに、「それもひ《・》とつの保証《・・・・・》ですわ」
《昨日おれはしあわせだった。それもおれが自分を甘やかさない勇気をもったおかげなのだ》しばらく黙っていたが、感情を抑えつける力を取り戻すと、ジュリヤンは冷やかにいった。
「あなたの言葉どおりに、いったんロンドンへ出奔し、あなたの操が汚れてしまったら、まだわたしを愛してくださると、だれが保証できますか? 郵便馬車に乗ったとたんに、わたしと顔を合わせるのがいやにならないと、だれが保証できますか? わたしは、人でなしではありません。あなたを世間に出られなくしてしまえば、わたしの不幸がひとつますだけです。邪魔になるのは、世間でのあなたの地位ではなく、お気の毒ですが、あなたの性格なのです。いったい、一週間でも、続けてわたしを愛せると、ご自分に向ってうけ合うことができますか?」
《ほんとに! たった一週間でいい。一週間おれを愛してくれたら》と、ひそかにジュリヤンはつぶやいた、《おれはうれしさのあまり、気が狂ってしまうだろう。未来がなんだ! 生命《いのち》がなんだ! その気になれば、天にものぼるようなこのしあわせが、たった今からでもはじまるのだ。それもおれの気持しだいで》
ジュリヤンが考えこんでいるのを見て、マチルドは、
「じゃあ、あたしは、どうしても、あなたに愛していただく値打がないのね」といいながら、ジュリヤンの手をとった。
ジュリヤンはマチルドを抱きしめてキスした。が、そのとき、義務の鉄の腕《かいな》が彼の心をつかんだ。《おれがどんなに愛しているかを悟られたら、この女はおれのものではなくなる》腕をふりほどいたときには、早くも男らしい威厳を取り戻していた。
その日と、これに続く数日のあいだ、ジュリヤンは、自分のこの上ない喜びを、巧みにおし隠すことができた。ときには、マチルドを両腕に抱きしめる喜びさえも、きっぱりとあきらめた。
また、幸福のあまり、我を失い、用心深い心の忠告を、まるっきり忘れてしまうこともあった。
庭には、梯子《はしご》を隠すために作られたすいか《・・・》ずら《・・》の棚《たな》があった。ジュリヤンはよく立ち寄って、遠くからマチルドの窓の鎧戸《よろいど》を眺《なが》めては、女の心変りに泣いたものだった。並はずれて大きなかし《・・》の木がそばにあって、その幹がジュリヤンを、口さがない人々の目から隠してくれた。
マチルドと一緒に、ちょうどこの場所を通りがかったとき、ジュリヤンの心には、そのころの不幸が、まざまざとよみがえってきた。むかしの絶望と、今の幸福との開きが、彼のような性格にはあまりにもこたえすぎた。涙があふれ出た。マチルドの手を唇《くちびる》にあてて、ジュリヤンは、「ここでわたしはあなたのことを考えて暮したのです。ここで、わたしはあの鎧戸を眺めていました。それを開けるあなたのこの手が見たいばっかりに、何時間もその幸福な時間を待ち続けていたのです……」
ジュリヤンはすっかり気が弱くなっていた。想像ではとうてい考えつかないような、真に迫った色合で、そのころの深い絶望の姿を描いてみせた。短い感嘆の声が、ときおり、このたえられぬ苦しみにとってかわった現在の幸福を思い出させるのだった……
《しまった! おれはなにをいっているんだ》ジュリヤンはとつぜん我にかえった。《身の破滅だぞ》
あわてふためく彼には、早くもラ・モール嬢の目から、愛情の光が薄れたような気がした。錯覚だった。だが、ジュリヤンの顔色はみるみる変って、死人のように蒼ざめた。一瞬のうちに目の輝きが消えた。真心にあふれた愛情をさらけ出していた顔が、悪意さえまじえた、高慢な表情になった。
「まあ、どうなすったの、あなた?」と、マチルドは心配して、やさしくきいた。
「今のは嘘《うそ》です」と、ジュリヤンは不機嫌そうに答えた。「あなたに対して嘘をついたのです。それが心苦しいのです。しかし、あなたを尊敬しているので、嘘がつけないことは、神さまもご存じです。あなたは、わたしを愛し、心を献《ささ》げてくださる。だから、わたしは、気にいられようと思って、お世辞などいう必要はなかったのです」
「まあ! さっきから、すてきなことをおっしゃっていたのは、みんなお世辞でしたの?」
「ですから、わたしはひどく気がとがめているのです。前に、わたしを愛してはくれましたが、こちらはもてあましていた女がいるんです。さっきの文句は、この女のためにこしらえたのです。……これはわたしの性格の悪い点です。悪かったことを、すすんで認めます。どうか許してください」
苦い涙がマチルドの頬《ほお》を伝わった。
「なにか、ちょっとしたことが気にさわると、いやでもしばらくのあいだ、妄想《もうそう》がわいてくるのです。すると、始末の悪い記憶力が、はけ口を見つけ出すことになり、ついそれを悪用してしまうのです」
「すると、知らないまに、あたしはお気にさわることをしてしまったのかしら」と、マチルドは素直な調子でいった。いかにもかわいらしかった。
「わたしは覚えていますが、いつか、このす《・》いかずら《・・・・》のそばを通りがかったとき、あなたは花を一輪お摘みになりましたね。それをリュスさんが取り上げましたけれど、あなたはかまわずあげておしまいになった。わたしはすぐそばにいたのですよ」
「リュスさんが? そんなはずありませんわ」と、マチルドは、もちまえの尊大な調子でいった。「あたし、そんなふうなこと、けっして許しませんもの」
「でも、たしかに見たのです」ジュリヤンは、きつくいい返した。
「そう、おっしゃるとおりでしたわ」と、マチルドは悲しそうに目を伏せた。何カ月も前から、リュス氏にそんなふるまいをさせたことがないのを、はっきり覚えていたのである。
ジュリヤンは、いいしれぬ愛情のこもったまなざしで、マチルドを見つめた。《そうだ。やはり《・・・》おれを愛している》
その夜、マチルドは、ジュリヤンがフェルヴァック夫人に惹《ひ》かれているのを、笑いながらとがめた。《平民が成上りものの女を愛するなんて! ああいった心根の持主だけは、きっと、あたしのジュリヤンでも、夢中にさせることはできないわ》「あのおかたは、あなたをすっかり洒《しゃ》落《れ》者《もの》にしてしまったのね」と、マチルドは、ジュリヤンの髪をもてあそびながらいった。
マチルドから軽蔑されたと思いこんでいるあいだに、ジュリヤンは、パリでもいちばん身だしなみのいい紳士たちの仲間入りをしていたわけである。おまけに、ジュリヤンには、ほかの連中のもたない一つの長所があった。ひとたび身なりを整えてしまうと、もうそんなことなど考えなかったのである。
ひとつだけ、マチルドの気になることがあった。ジュリヤンは、相変らず、ロシア人の手紙を写しては、元帥夫人に送っていたのである。
第三十二章 虎《とら》
ああ、なぜこれでなくてはいけないのだ? ほかのものではいけないのか?
ボーマルシェ
あるイギリスの旅行家の話だが、この男は一匹の虎と仲よく暮していたそうだ。小さいときから育てあげ、かわいがっていたが、机の上には、弾丸《たま》をこめたピストルを忘れずに用意しておいたという。
ジュリヤンは、我を忘れて幸福に酔いしれることがあったが、それは自分の目の色から、マチルドにそれと気《け》どられる心配のないときに限られていた。ときどき、すげない言葉をかけるというつとめを、正確に果していた。
驚くほどやさしくされたり、身も心も任せきった態度を見せられたりして、自分を抑える力がなくなりかけると、ジュリヤンは、勇気をふるって、マチルドからぷいと離れるのだった。
マチルドは、はじめて恋をした。
これまではいつでも亀《かめ》の歩みのように、遅く思われていた生活が、いまでは矢のように過ぎていった。
しかし、自尊心はなんらかの形で、はけぐちを求めるものである。そこで、マチルドは、この恋のために、どんな危険がふりかかろうとも、いつでも大胆に身をさらそうと覚悟していた。ジュリヤンのほうが用心深かった。それに、危険が問題にされるときにかぎって、マチルドも、なかなかジュリヤンのいうとおりにはなろうとしない。いつもは、ジュリヤンに対して従順で、卑屈なくらいだったが、それだけに、身内といわず、召使といわず、家の中で自分と顔を合わせるひとに対しては、ますます傲慢《ごうまん》な態度に出た。
夜、サロンで、六十人もの人がいるなかで、マチルドはジュリヤンを呼びよせて、長いあいだ、ふたりきりで話したりした。
生意気なタンボーが、あるとき、ふたりのそばに腰をおろした。マチルドは、彼に図書室へ行って、一六八八年の革命のことが書いてあるスモーレットの本をもってきてくれと頼んだ。タンボーがぐずぐずしていると、マチルドは、「まあ、ひどくゆっくりしているのね」と皮肉まじりにいいそえたが、いかにも高慢ちきな、ばかにしきった口ぶりだったので、ジュリヤンは、胸のすく思いがした。
「あの小悪党の目つきを見ましたか?」と、ジュリヤンはいった。
「あのひとの伯父さんが、十年以上も、せっせとこのサロンに通いつめているのよ。さもなければ、すぐ追い出してしまうんですけど」
クロワズノワ氏やリュス氏などに対するマチルドのふるまいは、うわべこそそつがなかったが、ほんとうはやはり挑戦的《ちょうせんてき》だった。マチルドは、かつて、ジュリヤンに、いろいろ打明け話をしたことを、つくづく後悔していた。この連中に、好意のしるしを見せたとはいっても、ほとんど罪のない話だったのだが、それをジュリヤンにわざと大げさにしゃべってしまったので、いまさら取消しもできず、それだけに、よけいつらかった。
ずいぶん殊勝な決心はしてみたが、女の意地から、いつまでたっても、ジュリヤンにこういえないのだ。「クロワズノワさんが、大理石の机の上に手をのせようとして、あたしの手にちょっとさわったとき、悪いと思ってそれをひっこめなかったなんてこと、おもしろがってお話ししましたけど、それは、あなたが相手だったからなのよ」
今では、この連中のだれかから話しかけられて、ちょっとでも長びいたりすると、マチルドはいつも、ジュリヤンにききたいことがあるからといっては、それを口実に、ジュリヤンをそばにひきつけておくのだった。
マチルドは妊娠した。
彼女は喜んでジュリヤンに伝えた。
「これでもあたしをお疑いになるの? これがりっぱな保証じゃないこと? あたし、永久にあなたの妻ですわ」
この知らせは深くジュリヤンを感動させた。もうすこしで、行動の原則を忘れてしまいそうになった。《かわいそうに、この娘はおれのために、一生を台なしにしようとしている。どうしてわざと冷たい意地悪な仕打ちができよう?》マチルドがすこしでも苦しそうな様子をすると、きびしい分別の声が聞えるときでさえ、ジュリヤンは、つれない言葉をかける勇気が出なくなる。ジュリヤンの経験では、このつれない言葉こそ、ふたりの恋を長続きさせるためには、なくてならないものだったのだが。
「お父さまに手紙を書きますわ」と、ある日、マチルドはいった。「お父さまは、あたしにとっては、父親以上なの。お友達よ。そんなお父さまを、ちょっとのあいだでも、だましておこうとするのは、あたしたちのすることじゃありませんわ」
「えっ! なにをしようというんです?」と、ジュリヤンは、どきっとしていった。
「あたしの義務を果すのよ」といって、マチルドは、うれしそうに目を輝かした。
マチルドのほうが、恋人よりも度胸がすわっていた。
「でも、わたしは辱《はずか》しめられたうえ、叩《たた》き出されてしまいます!」
「それはお父さまの権利ですわ。権利は認めてあげなければ。あたしたちは腕を組んで、ひるひなかに、大門から出ていきましょうよ」
ジュリヤンは、胆《きも》をつぶして、一週間延ばしてくれるようにといった。
「いけません。名誉の問題ですもの。義務とわかったからには、実行しなければ。それも、今すぐに」
「じゃあ、延ばすことを、わたしが命令する。あなたの名誉のことは心配ない。わたしはあなたの夫なんですから。そういう思いきったやりかたをすれば、わたしたちふたりの立場はすっかり変ってしまいます。だから、わたしにも決定する権利はあるわけです。今日は火曜日です。来週の火曜日はレー公爵の招待日です。その晩、ラ・モール侯爵がお帰りになったとき、門番から、問題ののっぴきならぬ手紙を渡してもらいましょう。……お父さまは、あなたを公爵夫人にすることばかり、考えておいでなんです。そうにきまっています。どんなにお嘆きになるか、察してもごらんなさい!」
「どんな復讐《ふくしゅう》をなさるか察してみろと、おっしゃりたいんでしょう?」
「わたしとしては、自分の恩人をお気の毒には思うし、恩を仇《あだ》で返すのは、いかにもつらいにはちがいない。だが、わたしは相手がだれであろうと、こわくはないし、これからもこわがったりはしません」
マチルドはいうとおりにした。身重になったことを知らされてから、ジュリヤンがはっきりした口をきいたのは、これがはじめてだった。このときほどマチルドがかわいく思えたことはなかった。ジュリヤンの情にもろい一面が、マチルドがふだんとはちがう身体《からだ》であることを、いい口実にして、残酷な言葉をかけずにいたのである。ラ・モール氏に告白するのかと思うと、ジュリヤンは、どうにも落ち着けなかった。マチルドからひきはなされるのではないだろうか? 別れぎわに、どれほど悲しい思いをして、見送ってくれたところで、自分が去って、ひと月もたてば、はたして自分のことを考えていてくれるだろうか?
また、ラ・モール侯爵から、当然のことながら、叱責《しっせき》をこうむるだろうと思うと、このことも同様にたまらない気がした。
その晩、ジュリヤンは、マチルドに二番目のほうの心配を打ち明けた。そのあとで、恋しさのあまり、ついうっかりと、最初の心配までしゃべってしまった。
マチルドは顔色を変えた。
「あたしから、半年でも離れて暮すのが、ほんとうにつらいとおっしゃるの?」
「なによりもつらい。なんとしてもこの不幸にだけは、あいたくないんです」
マチルドははかりしれないほどの幸福感を覚えた。ジュリヤンは、熱心に役割をつとめてきたおかげで、ふたりのうちよけい愛しているのは自分のほうだと、マチルドに思いこませてしまっていたのである。
のっぴきならぬ火曜日がきた。侯爵は真夜中に、屋敷へ戻《もど》ると、一通の手紙を受け取った。だれもそばにいないときに、自分で開くようにと、上書きがしてあった。
「お父さま
わたくしたちの社会的なつながりは断たれてしまいました。残るものは、ただ血のつながりだけです。でも、お父さまは、夫についで、今もこれからも、わたくしにはだれにもまして大事なおかたです。涙が目にいっぱいになってまいりました。わたくしのために、どんなにつらい思いをなさることでしょう。でも、わたくしの恥が世間にもれないように、またお父さまも十分お考えになって処置をなさることができますようにと思ったものですから、いつかはしなければならないことですけれども、この告白をこれ以上延ばせなくなったのでございます。お父さまはいつもわたくしを、ことのほか、かわいがってくださいました。そのお気持から、わたくしにわずかでも年金をくださいますなら、夫と一緒に、どこでもお望みのところへ、たとえば、スイスにでもまいって暮します。夫の名前は世間ではほとんど知られていませんから、ヴェリエールの材木屋の嫁のソレル夫人が、お父さまの娘だとは、だれも気がつかないでしょう。このソレルという名前を書くのに、どんなに書きづらい思いをしたかしれません。ジュリヤンに対して、お父さまがどんなにお怒りになるか、とても心配です。一応ごもっともとは思いますけれど。お父さま、わたくし、公爵夫人にはなれませんわ。でも、あのひとが好きになったときから、そのことはよくわかっていました。わたくしのほうからあのひとが好きになったのですし、わたくしが誘いかけたのですもの。お父さまから、わたくしはあまりにも気位の高い心を受けつぎましたので、卑《いや》しいものや、卑しく見えるものには目をくれることができないのです。お父さまをお喜ばせしようと思って、クロワズノワさんのことも考えてはみたのですが、どうしても好きになれませんでした。なぜお父さまは、わたくしの目の届くところに、有能な実力のある人間をお置きになりましたの? 私がイエールから帰りましたとき、お父さまはおっしゃいましたわ。《わたしを楽しませてくれるのは、このソレルという若者だけだ》って。お気の毒にも、あのひとも、わたくしと同じくらい(でしょうかしら)、この手紙をお読みになるお父さまがどんなにお嘆きになるかと思って、苦しんでいます。お父さまが娘の父親としてお怒りになるのは、いたしかたがありません。でもどうか、お友達として、いつまでもわたくしをかわいがってくださいませ。
ジュリヤンは、いつもわたくしに敬意をはらってくれました。わたくしに対してときたま話しかけてくれたのは、ひとえに、お父さまに深く感謝していたからなのです。なにしろ、あのひとはもともと気位の高い性格で、自分とかけ離れた上流社会のひとたちに対しては、お義理にしか返事しないのです。ジュリヤンは社会的な身分の相違について、生れつき、ひどく感じやすいのです。お父さまをほんとうに親しいお友達と思って、顔を赤くしながら白状いたしますが、申すまでもなく、ほかのひとにはけっしてこんな告白はいたしませんけれど、いつでしたか、庭でジュリヤンの腕をにぎりしめたのは、このわたくしのほうなのです。
明日の今ごろになっても、お父さまはまだ、あのひとのことをお怒りになっていらっしゃるでしょうか? そんなはずはありませんわね。だって、わたくしの過ちは、もう取返しがつきませんもの。お望みでしたら、わたくしの口から、ジュリヤンがどんなにお父さまを尊敬し、ご恩に背いたことをどんなに遺《い》憾《かん》に思っておりますことか、そのはっきりした明かしをたててごらんにいれましょう。もう二度と、お父さまはあのひとにお会いにはなりますまい。わたくしは、あのひとのあとなら、どこへでもついていきます。それがあのひとの権利ですし、また、わたくしにとっても、それが義務なのですもの。それに、あのひとは生れる子の父親なのですから。もし、お父さまが生活費として六千フランくださるお気持でしたら、わたくしはありがたくちょうだいいたします。それが叶《かな》えられない場合には、ジュリヤンはブザンソンでラテン語と文学を教えて、生計を立てるつもりでおります。どんな低い身分からはじめるにせよ、あのひとはきっと出世するにちがいありません。あのひとといるかぎり、いつまでも世に埋もれている心配はありません。もし革命でも起れば、あのひとはきっと立役者になるでしょう。わたくしに求婚したひとたちのうちで、ひとりでもいるでしょうか、お父さまがそんなふうにおっしゃれる人物が? りっぱな領地はおもちですわ! でも、わたくし、ただそれだけのことで、あの方たちを尊敬すべきだとは思えませんわ。わたくしのジュリヤンは、もし百万のお金とお父さまのご援助があれば、今の政府の下でも高い地位に登れることでしょう……」
マチルドは、侯爵がすぐかっとなるたちだということを知っていたので、わざと手紙を八ページも書いておいた。
ジュリヤンは、ラ・モール氏がこの手紙を読んでいるあいだじゅう、考えていた。《どうしたらいいだろう? 第一に、おれはなにをすべきか? 第二に、なにをすれば得策か? おれは数えきれないくらい、あのひとには恩になっている。あのひとがいなかったら、おれはつまらない悪党、それも、ほかの連中から憎まれたり、迫害されたりする値打すらない小悪党にしかなれなかったろう。おかげで、おれは上流社会の人間になれた。おれのしなければならない《・・・・・・・・・》悪事は、第一に数がすくなくてすむし、第二にきれいごとで通る。これは金を百万くれた以上のことになる。おまけに、この勲章と、人並すぐれた外交官らしい風采《ふうさい》も、あのひとのたまものだ。
あのひとが筆をとって、おれになすべき処置を命ずるとしたら、なんと書くだろう?……》
ジュリヤンは、とつぜん、ラ・モール氏の、年とった部屋つきの従僕《じゅうぼく》の声に呼びさまされた。
「侯爵さまがお呼びです。今すぐに、なりはどうでもよいとのことで」
従僕は、ジュリヤンと並んで歩きながら、小声でいった。
「たいそう怒っていらっしゃいますから、気をおつけなさい」
第三十三章 弱気地獄
そのダイヤモンドをカットするとき、下手くそな宝石職人が、いちばんまばゆい光をいくらか減らしてしまった。中世には、いやそれどころか、リシュリユーの時代でも、まだフランス人は意志の力《・・・・》をもっていた。
ミラボー
ジュリヤンが行くと、侯爵《こうしゃく》は烈火のごとく怒っていた。たぶん生れてからはじめてのことだろう、この大殿様がこんな柄《がら》の悪い態度を見せたのは。口に浮ぶかぎりの悪口雑言を、見境もなくジュリヤンに投げつけた。ジュリヤンはびっくりし、じりじりしてきたが、感謝の気持はすこしもゆるがなかった。《気の毒にも、長年、心のそこで大切に育ててきたりっぱな計画が、ことごとく一瞬のうちにくずれ去ってしまうのだからなあ! とにかく、なんとか返事しなければなるまい。おれが黙っていると、よけい腹がたつだろうから》返事は、タルチュフの役割を思い出せばよかった。
「わたくしは天使ではありません《・・・・・・・・・・・・・・》、……お役にたつようにつとめもしましたし、また過分の待遇をしていただきました。……いつもありがたいと思っていましたが、わたくしはまだ二十二歳なのです。……このお屋敷で、わたくしを理解してくださいましたのは、侯爵さまと、ただあのおやさしいかただけでした……」
「この人でなしめが! おやさしいだと! なにがおやさしいだ! あれにやさしくされたと思ったら、さっそく出ていくべきだったのだ」
「出ていこうとは思いました。ですから、あのとき、ラングドックへやっていただきたいと申し上げたのです」
侯爵は怒り狂って歩きまわるうちに、くたびれてきた。あまりの苦しさにたえかねて、長《なが》椅子《いす》にどっかと腰をおろした。ジュリヤンの耳には、侯爵が小声でつぶやいているのが聞えた。《悪い男じゃないんだが》
「ええ、侯爵さまに対して、悪いことなどけっしていたしません」と、ジュリヤンは侯爵の前にひざまずいて叫んだが、そんなしぐさが、ひどくはずかしくなって、すぐさま立ち上がった。
侯爵は、すっかりとりのぼせていた。ジュリヤンのこのしぐさを見ると、また、辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》の御者でもいいそうな、聞き苦しい悪態をつきはじめた。これまで使ったこともない、ののしりの言葉なので、あるいはそれで、いくらか気が晴れてきたのかもしれない。
「なんということだ! わたしの娘が、ソレル夫人と呼ばれることになるのか! なんということだ! あれは公爵夫人にはなれないのか!」この二つの考えが、はっきり頭に浮ぶたびに、ラ・モール氏はたえきれぬ苦しみを、意志の力では抑えきれなくなるのだった。ジュリヤンはなぐられるのではないかと思った。
ときどき冷静に戻《もど》り、不幸にも慣れはじめると、侯爵はジュリヤンに、かなり筋の通った非難を浴びせた。
「出ていくべきだったのだ、きみ。……出ていくのがきみの義務だったのだ。……きみは見下げはてた男だ……」
ジュリヤンは机のそばに行って、こう書いた。
「だいぶ前から《・・・・・・》、生きているのが《・・・・・・・》、わたくし《・・・・》にはたえられませんでした《・・・・・・・・・・・・》。わたくしはそれ《・・・・・・・》に終止符を打ちます《・・・・・・・・・》。公爵さま《・・・・》、わたくしの《・・・・・》かぎりない感謝をお受けくださいませ《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。また《・・》お屋敷内で《・・・・・》、わたくしが身を絶ちますために《・・・・・・・・・・・・・・》、ご迷惑をおかけするかもしれませんが《・・・・・・・・・・・・・・・・・》、なに《・・》とぞお許しくださるようお願い申し上げます《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
「侯爵さま、どうかこの紙片をごらんくださいますよう。……わたくしをお手打ちになさるなり、召使に殺させるなり、なさってくださいませ。ちょうど午前一時です。これから、わたくしは、庭のつきあたりの塀《へい》のほうへ、ぶらぶら歩いてまいりますから」
「どこへでも行ってしまえ」と侯爵は、ジュリヤンの出ていくうしろから、どなった。
ジュリヤンは考えた。《待てよ。侯爵の従《じゅう》僕《ぼく》の手をわずらわさずに、おれが死んでみせたら、悪い気はしないだろうな。……自分で殺すかしら? それなら結構。気のすむようにしてもらおう。……いや、やはり、おれは人生に未練がある。……子供のためにも生きなければならない……》
子供のためという考えが、こんなにはっきりした形で、ジュリヤンの頭に浮んだのは、はじめてだった。散歩に出たとき、はじめは身の危険ばかりに気を取られたが、やがてこの考えにとりつかれてしまった。
考えてもみなかったこの関心事が、ジュリヤンを用心深い人間にした。《あの気短かなひとが相手では、どうあしらったものかな、だれかの忠告がいりそうだぞ。……すっかり分別をなくしているんだから、なにをやりだすかわからない。……フーケは離れていすぎる。それに、侯爵のようなひとの気持などは、理解できないだろう。
アルタミラ伯爵はどうかな。……いつまでも秘密を守ってくれるかどうか? 忠告を求めたにしても、それがために表沙《おもてざ》汰《た》になって、事態をますますもつれさせたらまずい。仕方がない! 残るところは、あの憂鬱《ゆううつ》なピラール神父だけじゃないか。……あのひとの心は、ジャンセニスムでこりかたまっている。……腹黒いイエズス会士のほうが、世間を知っているだけに、おれには好都合なのだが。……一言でもこの道ならぬ話を口に出しただけで、ピラール神父はおれをなぐるかもしれない》
タルチュフの精神が、助太刀にやってきた。《まあいいさ、あのひとのところへ告白に行こう》たっぷり二時間も歩きまわったすえ、庭の中でジュリヤンが固めた最後の決心は、そういうことだった。鉄砲でやみうちにされるかもしれないなどという考えは、もう消えていた。眠気がおそってきた。
あくる日の朝早く、ジュリヤンはパリから数里も離れたところへ出かけていき、厳格なジャンセニストの門を叩《たた》いた。ひどく意外だったが、ピラール神父は、ジュリヤンの告白をきいても、たいして驚かなかった。
「わたしは、たぶん、自分を責めなければならんのだ」神父は怒るよりも、心配から、自分にきかせるようにしていった。「わたしには、この恋のいきさつが、前からうすうすわかっていた。だが、きみが気の毒なので、つい同情して、娘の父親には黙っていたわけだ……」
「侯爵はどうなさるでしょうか?」ジュリヤンはせきこんでたずねた。
(このとき、ジュリヤンは神父に愛情を感じていた。口論でもするはめになったら、どんなにつらかったろう)
「三通りの手段が考えられますが、第一にラ・モールさんは、わたしを殺すことができます」ジュリヤンは、侯爵にあずけてきた自殺の手紙のことを話した。「第二に、ノルベールさんに決闘を申しこませて、わたしを射殺させることもできます」
「きみはその決闘を承知するのか?」神父はかっとなって立ち上がった。
「終りまでいわせてください。わたしはけっして、恩人の息子さんに銃先《つつさき》を向けたりはしません。第三に、わたしを遠くへやってしまう。もしも侯爵が、エディンバラへ行けとか、ニューヨークへ行け、とかおっしゃったら、わたしはそのとおりにします。そうなれば、ラ・モール嬢の身持は隠すことができるでしょう。ただ、我慢できないのは、わたしの子供が闇《やみ》にほうむられることです」
「たしかに、それだよ、あのひとだって、そういう大それたことをまず考えるだろう……」
パリでは、マチルドが絶望の淵《ふち》にあった。七時ごろ、父親に会った。父親はジュリヤンの手紙を見せた。マチルドは、ジュリヤンがいさぎよく死ぬ気になったのではないかと思うと、気が気でなかった。《あたしの許しも求めないで?》と思うと、マチルドは、腹だたしいほどたまらない気がした。
「あのひとが死んだら、あたしも死にます」と、マチルドは父親にいった。「あのひとが死んだら、それはお父さまの責任ですわ、……そうなれば、お父さまはきっとお喜びになるでしょう。……でも、あたしは、あのひとの霊にかけて誓いますけれど、まず喪に服して、それから公然とソレル未亡人《・・・・・・》を名乗ります。みんなに通知状を出します。そのおつもりでいてください、……気がくじけたり、ひるんだりするものですか」
マチルドの恋心はもの狂わしいまでにつのった。今度は、ラ・モール侯爵のほうがあっけにとられた。
侯爵は、事態を多少の理性をもって考えはじめた。昼食に、マチルドは姿も見せなかった。侯爵は、マチルドが母親になにもいわなかったのを知って、ほっと胸をなでおろした。それに、悪い気はしなかった。
ジュリヤンが馬からおりると、マチルドのところから小間使が呼びに来た。マチルドは、小間使が出ていくかいかないうちに、ジュリヤンの腕の中にとびこんだ。ジュリヤンはこの有頂天な様子を、たいしてありがたくも思わなかった。ジュリヤンは、ピラール神父と長時間話し合ったすえ、ひどく外交的になり、打算的な気持になって、帰ってきたのだ。いろいろと、打てそうな手段を考えているうちに、頭はすっかり冷静になってしまった。マチルドは、目に涙を浮べながら、自殺の書置きを見たと、ジュリヤンにいった。
「お父さまは考え直してくださるかもしれません。お願いですから、すぐにでも、ヴィルキエへ発《た》ってくださいな。もう一度、馬に乗って、みんなが食卓を離れないうちに、この家から出ていってください」
ジュリヤンが、いつまでも、けげんそうな、冷たい様子をしているので、マチルドはわっと泣き出した。
「あとはあたしに任せてちょうだい」と、マチルドは夢中になって、ジュリヤンを両腕に抱きしめながらいった。「あなたからいやいや離れるってことは、わかっているでしょう。どうかあたしの小間使の名あてで、手紙を書いてくださいね。上書きはほかのひとにしてもらって。あたし、幾冊も本ができるほど手紙をあげます。じゃ、行ってらっしゃい! 早く逃げて!」
この最後の言葉に、ジュリヤンは腹をたてたが、ともかくいわれるとおりにした。《情けない話だな、この連中ときたら、いちばん調子のいいときでさえ、おれの気を害するようなことをせずにはおかないんだから》
マチルドは、断《だん》乎《こ》として父親のいう穏便な《・・・》処置《・・》をことごとくはねつけた。自分がソレル夫人になり、スイスか、あるいはパリの父の屋敷かで、夫とつつましく暮すという根本条件をもとにしなければ、どんな相談にも応じないといい張った。子供を内密に分娩《ぶんべん》するという提案は、頭からはねつけた。
「そんなことをしたら、かえって、陰口をきかれることになり、名前に傷がつくことになりますわ。結婚してふた月たったら、あたしは夫といっしょに旅に出ます。子供がてきとうな時期に生れたようにとりつくろうのは、わけのないことです」
侯爵ははじめ、娘のきっぱりとした調子にいきり立ったが、しまいには、自分の考えに自信がなくなってきた。
情にひかされて、侯爵はいってしまった。
「さあ、ここに、一万フランの年金証書がある。これをお前のジュリヤンに送ってやるがいい。早いところ、わたしがとりかえせないようにさせなさい」
ジュリヤンは、マチルドの命令好きな性質を知っているので、いわれたとおり《・・・・・・・》にしようとして、なんにもならないとは思いながらも、四十里の道をやってきた。ヴィルキエに着いて小作人相手の勘定を始末していると、侯爵のこの親切な出かたがきっかけとなり、パリへ戻ることとなった。ピラール神父のところへ泊めてもらいに行った。神父は、ジュリヤンのいないあいだに、マチルドにはいちばん重宝な味方になっていた。侯爵から相談を受けるたびに、ピラール神父は、正式な結婚以外の、どんなやり方をしてみても、神の目には罪になると説いた。
「それに、さいわい、世の良識からしても、この場合は、神と同じことをおすすめすることになります。あのとおり、ラ・モール嬢はきついおかたですし、おそらく進んで秘密を守るおつもりはないでしょうから、その点は安心できません。思いきって、正式の結婚をお許しにならなければ、かえって、世間では、不《ふ》釣合《つりあい》な縁組を、いつまでもとやかくいうことでしょう。なにか曰《いわ》くがあるとか、ありそうだとか思わせないで、一思いになにもかもいっておしまいになることですな」
「なるほど」と侯爵は考えこんだ。「今の社会制度のもとでは、三日たってもこの結婚のことをぐずぐずいっていれば、低能な男のくだらぬくり言といわれる。政府の過激革命派弾圧騒ぎかなんかのどさくさを利用して、そっとうまくことを運んで、既成事実をつくってしまうべきかもしれませんな」
ラ・モール氏の二、三の友人も、ピラール神父と同じ意見だった。だれの目にも、マチルドのきっぱりした性格が大きな難関だったのである。だが、侯爵はりっぱな理屈がのみこめても、娘を公爵夫人にしようという望みは、なかなかあきらめきれなかった。
侯爵の若い時代には、あらゆる種類の術策や虚偽が、まださかんに行われていた。いくら考えてみても、次々とそんなことばかりが頭に浮んだ。やむをえずなりゆきに従うとか、法律を恐れるとかいうことは、侯爵のような身分の人間にとっては、ばかげた、不名誉なものに思われた。かわいい娘の行末については、十年このかた楽しい夢を思い描いてきたわけである。それがこの始末では、あまりにもむごい報いというものだ。
《こんなことをだれが予想できたろう? あれほど高慢で、あれほど高い理想をもち、わたし以上に家の名を誇りにしていた娘なのに! フランスでもとりわけりっぱな家柄から、望み手がいくらもあったというのに!
慎重な手段など、いくら考えてもだめなのだ。今の時代では、なにもかもいっしょくただ。われわれの行手には混沌《こんとん》がある》
第三十四章 才人
馬に乗って道を行きながら、知事は考えた。《おれだって大臣に、総理大臣に、公爵《こうしゃく》になれないことはない。おれならこういう具合に戦争をする。……こうして改革者どもを牢《ろう》屋《や》にぶちこんでやる》
『ル・グローブ』
どんな議論をもってきても、十年も続いた楽しい夢想の抜きがたい力を、うちやぶることには役だつまい。侯爵は腹をたててもしかたがないとは思ったが、やはり許すという決心がつかなかった。《ジュリヤンの奴《やつ》、事故で死んでくれたら》いくどかそんなことを考えもした。……こういうふうに、およそばかげた妄想《もうそう》をたくましくすることで、憂鬱《ゆううつ》な気持が慰められたのである。このために、ピラール神父の分別ある意見のききめも、すっかり薄れてしまった。こうして、話合いがいっこうはかどらないうちに、ひと月が過ぎた。
この家庭内の事件でも、政治問題の場合と同様に、侯爵はいろいろとりっぱな見通しを立てて、三日のあいだは熱中したのだった。熱中してみると、行動の方針というものがおもしろくなかった。方針というものは、いつでも、もっともな理屈の上に立っているからである。もっともなといっても、その理屈が、自分の好きな方針を支持してくれないかぎり、侯爵の気にはいらなかった。三日のあいだ、侯爵は、詩人のような興奮と熱意とをもって、事態にある程度の解決を与えようと努力するが、その翌日は、けろりと忘れてしまうのだった。
侯爵がぐずぐずしているので、ジュリヤンは、はじめ拍子ぬけがした。しかし、数週間たつと、ラ・モール氏がこの事件に、きまった方針をもっていないことが、うすうすわかりはじめた。
ラ・モール夫人をはじめ、一家のものは、ジュリヤンが地所の管理のため、田舎まわりをしていると思っていた。当人は、ピラール神父の司祭館に隠れて、ほとんど毎日、マチルドと会っていた。マチルドは、毎朝、父親のもとに行って、一時間ばかり過すのだったが、ときには数週間も続けて、おたがいの頭を悩ましている問題について、まるで話し合わないことがあった。
「わたしは、あの男がどこにいるか知りたくない」侯爵がある日いった。「この手紙を届けてくれ」マチルドは読んだ。
「ラングドックの地所からは、二万六百フランあがる。そのうち一万六百フランを娘に、一万フランをジュリヤン・ソレル氏に贈呈する。むろん、地所そのものも贈呈する。贈与証書を二通、別々に作り、明日わたしのところへもってくるよう、公証人に申しつけていただきたい。それで、われわれの関係はおしまいにする。まったく、こんなことになろうとは、思いもかけなかったのだ。
侯爵《・・》 ラ・モール」
「ほんとうにありがとうございます」マチルドは、うきうきとしていった。「あたしたち、アジャンとマルマンドのあいだにあるエーギュイヨンの別荘へ行って住みますわ。イタリアと同じくらい美しい土地だっていいますもの」
この贈与は、ジュリヤンを非常に驚かせた。彼はもうわれわれの知っている、きびしい、冷やかな人間ではなかった。まだ生れてもいないのに、子供の行末のことで頭がいっぱいだった。そこへ、思いがけず、こんな貧しい男にとってはかなりな額の財産が、ころがりこんだわけである。ジュリヤンはそのために野心家になってしまった。妻なり、自分なりに、三万六千フランの年収があることを思い描いてみた。一方、マチルドは、ひたすら夫を愛することで夢中だった。自尊心から、ジュリヤンを夫と呼んでいたわけである。マチルドの大きな、ただひとつの野心とは、自分の結婚を認知させることだった。運命をともにする相手としてすぐれた人間を選んだという思慮の深さを、毎日、みずから誇張して考えていた。彼女の頭の中には、明けても暮れても、個人の才能ということしかなかった。
ほとんどいつも離れているし、苦労は重なるし、恋を語り合うひまはないし、といったことが、前にジュリヤンの考え出した賢明な政策を、ますます効果のあるものにした。
マチルドは、今ではジュリヤンを心から愛するようになっているのに、その恋人とはごくたまにしか会えないので、じりじりしてきた。
ある日、マチルドは癇癪《かんしゃく》を起して、父親に手紙を書いた。『オセロー』の芝居のような調子の書出しだった。
「わたくしはラ・モール侯爵の令嬢として、社交界でいろいろと楽しいことのできる立場でしたが、そんな楽しみより、ジュリヤンのほうを愛したということは、わたくしの選択からおわかりのことと思います。ひとから尊敬されたり、小さな虚栄心を満足させたりする喜びは、わたくしにとって、なんの値打もありません。夫と離れて暮しはじめてから、もうじき六週間になります。お父さまには、これで十分敬意をお示ししたはずです。今度の木曜までに、わたくしはお父さまの家を出るつもりです。お父さまのおかげで、わたくしたちはお金持になりました。わたくしの秘密を知っているのは、あの尊敬すべきピラール神父さまだけです。あのかたのところへ参ります。結婚させていただいたら、式の一時間後には、二人でラングドックへ発《た》って、お父さまのお許しがなければ、二度とパリへは帰ってまいりません。ただ気にかかりますことは、こうしたいきさつから、わたくしやお父さまについて、ひどい噂《うわさ》がたつだろうということです。愚かな世間の取《とり》沙汰《ざた》から、気のいいノルベールがジュリヤンに喧《けん》嘩《か》をしかけたりしないでしょうか? わたくしにはあのひとのことがよくわかっていますが、そんな事態になったら、もうわたくしにはジュリヤンをひきとめる力はありません。あのひとの心の中に、平民の反撥的《はんぱつてき》な気持が生れることでしょう。お父さま! ひざまずいてお願いいたします。今度の木曜日に、ピラール神父の教会で、結婚式に立ち会ってくださいませ。悪意のある噂も、それで和らぐでしょうし、お父さまのひとり息子と、わたくしの夫の命が安全に守られることになります」云々《うんぬん》。
侯爵はこの手紙を読んで、はたと当惑した。いよいよ、どっちかにきめなければ《・・・・・・・・・・・》ならない。くだらない習慣とか、あたりまえの友達とかは、もう頼みにならなくなっていた。
この異常な立場に追いこまれてみると、若いころのいろいろな出来事で深く刻みつけられた、性格上の大きな特徴が、力をもりかえしてきた。亡命時代の不幸が、侯爵を想像力豊かな人間に仕上げた。二年のあいだ、巨万の富と、はなやかな宮廷生活を楽しんだが、その次に来たのが、一七九〇年である。侯爵は悲惨な亡命生活に投げこまれた。このきびしい試練が、二十二歳の魂を変えてしまった。じつをいうと、現在は富のまんなかでどっしりとかまえてはいるが、富に支配されているのではない。しかし、黄金による腐敗から侯爵の心を救った、ほかならぬ想像力が、娘をりっぱな肩書で飾ってみたいという、気違いじみた欲望をかきたてた。
今までに過ぎた六週間のあいだに、侯爵は、つい気まぐれから、ジュリヤンを金持にしようとした。貧乏は、ラ・モールを名乗る彼にしてみれば、恥ずべき、不名誉なことに思われた。娘の夫となる男の貧乏は、我慢できかねたのだ。そこで金を投げ出した。そのあくる日になると、想像力の方向が変った。ジュリヤンが、気前よく金を出した裏の意味を察し、名前を変えて、アメリカへ逃げ、マチルドに自分は死んだものと思ってくれと手紙を書く、そんな具合になりそうな気がした。ラ・モール氏は、この手紙が書かれたものとして、それが娘の性格にどんな効果を及ぼすか、思いめぐらしたりした。……
マチルドの現実の《・・・》手紙によって、そうした子供っぽい空想はやぶられた。この日、侯爵は長いあいだ、ジュリヤンを殺すか、行方不明にさせるか、などと考えたあげく、これにすばらしい出世の道をひらいてやろうと考えた。どこか自分の領地を与えて、その名を名乗らせる。貴族にしてやってどうして悪いのだ? 侯爵の義父にあたるショーヌ公爵は、ひとり息子がスペインで戦死してから、爵位をノルベールに譲りたいと、たびたびいっていたではないか。……
《ジュリヤンが人並すぐれた事務の才能に恵まれていることは否定できない。大胆でもあるし、ことによるとすばらしいひらめき《・・・・・・・・・》があるともいえよう。……だが、あの男の性格の底には、なにかしら空おそろしいところが感じられる。だれもがそう思っているらしいから、やはり現実に、なにかそういうところがあるのだろう。(現実的な点がつかみにくいだけに、老侯爵の想像力は、なおさらそれをおそろしいものに思い描いていた)
娘がいつか、(ここでは省略する手紙の中で)ひどくうまくそのことをいっていた。ジュリヤンは、どのサロンにも、どの党派にも加入しませんでした、とな。あの男は、わたしよりほかに、どんな後楯《うしろだて》も作らなかった。わたしが見すてたら、どうしようもないだろうに。……今の世間の情勢を知らないためかな?……実際に有効な出世の手づるは、サロンのほかにない、と、わたしは二、三度いってやったこともあるのだが。……
いや、あの男は、一分の時間もどんな機会もむだにしない、代言人みたいな、小器用で、ずるい精神はもっていない。……ルイ十一世ふうの性格じゃない。だが一方、寛容とはまったく反対の信条をもっているようだ。……どうもわからん。……自分の情熱をせきとめ《・・・・》る《・》ために、そんな信条をいつも自分にいいきかせているんだろうか?
ひとつだけは確かだ。侮辱にひどく感じやすい。あの男のそこのところだけはわかっている。
なるほど、あの男は、生れのよさをなんとも思っていないし、本能的にわれわれを尊敬しているわけではない。……けしからんことだが、とにかく、神学生連中がいちばんつらく思うのは、楽しみと金が欠乏することにちがいない。ところが、あの男はひととずいぶん違っている、なんとしても侮辱が我慢できないのだ》
娘の手紙にせきたてられて、ラ・モール氏は、態度をきめなければならないと思った。
《さて大切な問題はこういうことだ。ジュリヤンが大胆にも娘を口説くなどということをもくろんだのは、わたしがことのほか娘をかわいがっていることと、わたしに十万エキュの年金があることを知ってのうえではないのか?
マチルドはそうではないという。……いや、ジュリヤン君、その点についてはわたしはだまされないよ。
思いがけずに生れた、まことの恋か? 出世のためのさもしい魂胆か? マチルドはなかなかよく見通しがきく。この疑いがわたしに起ったら、わたしがジュリヤンを信用しなくなると、あらかじめ悟ったもので、あんなふうにいったのだ。自分がさきにジュリヤンを愛する気になったのだなどと。……
あんなに気位の高い娘が、我を忘れて、はっきり自分からいい寄ったりするだろうか?……夜、庭で男の腕を握ったなんて、考えただけでもぞっとする! もっと品のいいやりかたで、好意をもっていると伝える方法は、いくらでもあったろうに。
いいわけはやましい証拠《・・・・・・・・・・・》というやつだ。わたしはマチルドを信用しない……》
この日、侯爵の考えの進めかたは、いつもよりまとまっていた。しかし、習慣が勝った。侯爵は時をかせぐことにして、娘に手紙を書いた。屋敷のはしからはしへ、手紙を出すことが行われていたからである。ラ・モール氏は、マチルドと議論して、これにさからったりする気は起さなかった。あっさりとこちらが譲っておしまいにすることをおそれていた。
手紙
「これ以上、ばかなまねをするのはやめなさい。ここに、ジュリヤン・ソレル・ド・ラ・ヴェルネー従男爵に対する、軽騎兵中尉の辞令がある。あの男にどれほどつくしてやっているか、これでわかるだろう。わたしにさからわないでほしい。なにもきかないでもらいたい。二十四時間後には、ジュリヤンが、所属連隊のいるストラスブールへ行って入隊するように。取引銀行にあてた小切手をいれておく。いうとおりにしなさい」
マチルドの愛情と喜びは限りがなかった。この勝利を利用しようと思って、すぐに返事を書いた。
「ラ・ヴェルネー氏は、お父さまがあのひとのためにしてくださったことを知ったら、お父さまの足もとにひざまずいて、感謝することでしょう。でも、こんなにご親切にしてくださりながら、わたくしのことをお忘れになっていらっしゃいますわ。あなたの娘の名誉は、危険にさらされています。ひとつ軽はずみなことをすれば、二万エキュの年金でも償うことのできない汚点が、永遠に残るかもしれません、お父さまが、来月中に、ヴィルキエで結婚を正式に行うと約束してくださらなければ、この辞令をラ・ヴェルネー氏に送りません。この期間を過ぎたら、まもなく(どうかそんなことがないようにお願いします)、あなたの娘は、ラ・ヴェルネー夫人という名前でしか、世間に出られなくなります。お父さま、あのソレルという名前から救ってくださったことを、ほんとうに感謝いたします」云々。
返事は意外だった。
「いうとおりにしなさい。さもないと、なにもかも取り消すことにする。いくら向うみずでも、すこしは考えてみるがいい。わたしはまだおまえのジュリヤンの正体を知らない。おまえにもなおさらわかっていないのだ。あの男をストラスブールへ発たせ、私のいうとおりにさせなさい。二週間以内に、わたしの考えを知らせる」
この断《だん》乎《こ》とした返事はマチルドを驚かせた。《あたしがジュリヤンを知らない《・・・・・・・・・・・・・・》》この言葉が彼女をもの思いに沈ませた。それは、やがて限りなく楽しい空想に変った。マチルドはその空想をほんとうに信じた。《あたしのジュリヤンの精神は、サロンなどのけちな制服をつけていない。だからお父さまには、あのひとのえらいところがわからないのだわ。えらさを裏書きしているものが、かえって気にいらない。……
けれど、もしお父さまのちょっとした意地に従わないと、ことが表沙汰になるおそれがある。噂が立ったら、社交界でのあたしの地位が下がるし、ジュリヤンの目にあたしの魅力が今ほどではなくなるかもしれない。噂が立ってしまえば。……十年の貧乏暮し。どうせあたしは酔狂にも才能をみこんで、夫を選んでしまったのだから、はでな暮しをして見せてやらなければ、もの笑いになる。もしお父さまから離れて暮したら、あのお年では、あたしを忘れておしまいになるかもしれない。……ノルベールは、かわいらしい、利口なお嫁さんをもらうだろう。ルイ十四世が、年とってから、ブールゴーニュ公爵夫人にまるめられたためしもあるのだから……》
マチルドは服従することにきめた。だが、父の手紙をジュリヤンに見せることは差し控えた。あのはげしい気性では、どんなむちゃをはじめるか、わからなかった。
夜、マチルドから、軽騎兵中尉に任命されたときかされたとき、ジュリヤンの喜びはとめどなかった。ジュリヤンの一生かけての野心と、生れる子のためにいだいているはげしい愛情を考えれば、どんなにうれしかったか想像できよう。名前の変ったことにも、ジュリヤンはすっかり驚いた。《これで、おれの物語も一巻の終りだ。これまでになったのは、全部おれひとりの働きなのだ。おれは、この自尊心の権《ごん》化《げ》みたいな女に、おれを愛させることができた》と、マチルドを見ながらつけ加えた。《この娘の父親は、娘なしには生きられない。この娘はまた、おれなしには生きられないのだ》
第三十五章 嵐《あらし》
神さま、わたしに凡才をお恵みください!
ミラボー
ジュリヤンはすっかりそんなことに気をとられていたので、マチルドがはげしい愛情を見せても、いいかげんにあしらっていた。相変らず口もきかず、暗い顔をしている。だが、マチルドの目には、ジュリヤンがこんなにりっぱに、こんなに愛らしく映ったことはなかった。ジュリヤンが、なにかまた自尊心をとがらせて、ことをぶちこわさないかと、それだけが心配だった。
毎朝のように、ピラール神父が屋敷へ来るのを、マチルドは見かけた。神父の口裏から、ジュリヤンは、父の意向をいくぶんでも察しているのではなかったろうか? 侯爵《こうしゃく》が気まぐれを起して、ジュリヤンに自分で手紙を書いたのではなかろうか? でなければ、こんなしあわせな身分になったというのに、なぜむずかしい様子をしているのだろう? マチルドにはきく勇気がなかった。
勇気がなかった! マチルドに勇気が! このときからマチルドはジュリヤンに対して、漠然《ばくぜん》としたあるもの、おし測りがたいもの、自分ながら空おそろしい気持を感じるようになった。情に乏しいこの女の心が、パリの謳《おう》歌《か》する爛熟《らんじゅく》した文明で育った人間として、及ぶかぎりの、はげしい情熱を感じたのである。
あくる日の朝早く、ジュリヤンはピラール神父の司祭館に行った。駅馬が、隣の宿場で借りてきたぼろ車をひいて、庭にはいってきた。
「もうそんなひどい車に乗るまでもなかろう」謹厳な神父は、顔をしかめていった。「さあ、二万フランある。ラ・モール氏からきみにくださったものだ。年内に使ってしまえということだが、できるだけばかなまねは差し控えるようにとのことだ。(こんな大金を若者に与えるのは、罪を作らせるもとだとしか、神父には思えなかった)
それから、侯爵はこうおっしゃっていた。ジュリヤン・ド・ラ・ヴェルネー氏は、その金を自分の父親から受け取ったことにしておくように。べつに父親の名をいうにはあたらない。また、ラ・ヴェルネー氏は、子供のとき面倒を見てくれたヴェリエールの材木商ソレル氏に、なにか贈り物をしたほうがよかろう、とな。……この贈り物の件は、わたしが引き受けてもよい。ところで、やっと、あの大の偽善家フリレール神父と仲直りするように、ラ・モールさんを説き伏せたよ。あの神父の勢力はたしかにわたしらの手にあまるからな。あれはブザンソンを支配している男だ。そこで、きみが高貴な生れだと黙認させることも、仲直りの暗黙の条件に含めようと思っている」
ジュリヤンは、感激を抑えきれなくなって、神父にキスした。そして、また正体をあらわしたと思った。
「なんてまねをする!」といって、ピラール神父はジュリヤンを突きのけた。「なんで、そんな俗っぽい、そらぞらしいしぐさをするのだ。……ソレルとその息子たちのことだが、わたしの名で、年に五百フランずつ仕送りしてやることにしよう。あの連中がおとなしくしていてくれるかぎり、めいめいに払ってやるとしよう」
ジュリヤンは早くも冷やかで尊大な様子に戻《もど》っていた。礼をいうにも、あいまいな言葉を使って、言葉じりをとらえられないようにした。《おれが、おそろしいナポレオンにあの山国へ追放された、大貴族かなんかの落胤《らくいん》だなんてことがあるだろうか?》しだいにこの考えが、いかにもありそうなことのように思えてきた。……《父親を憎んでいるおれの気持がその証拠だ。……これで、おれはもう人でなしではなくなるわけだ!》
このひとりごとの数日後、陸軍の精鋭である第十五軽騎兵連隊は、ストラスブールの練兵場で、戦闘隊形をとっていた。ラ・ヴェルネー従男爵は、六千フランもしたアルザスの名馬にまたがっていた。彼は中尉として入隊したのだったが、名簿の上だけでは、聞いたこともないある連隊で少尉をつとめたことになっていた。
ジュリヤンの、ものに動じない様子、きびしい、どうかすると意地悪くさえ見える目、蒼白《あおじろ》い顔色、いつもかわらぬ冷静さなどは、最初の日から評判になった。非の打ちどころのない、いかにもあたりのやわらかな礼儀作法を心得ているし、ピストルや剣術の腕前もたいしたものだし、それをたいして気取りもせずに見せたので、彼のことを口に出して冷やかそうとする気配も、なりをひそめてしまった。五、六日はどっちつかずだったが、結局連隊内の世論は、ジュリヤンにはっきりと好意的になった。「この若者にはなにもかもそなわっている」と、からかい好きの老将校たちはいった。「ただ若さが足りないな」
ストラスブールから、ジュリヤンはもとのヴェリエール司祭のシェラン神父に手紙を書いた。この神父は、いまではすっかり老いこんでしまっていた。
「わたくしが、身寄りのもののおかげで、金持になったことのいきさつは、お聞き及びのことと思いますし、きっと喜んでいただけたことと思います。ここに五百フランございます。むかしのわたくしをお助けくださいましたように、いま貧乏で苦しんでいるひとたちを、むかしと同じように今もきっとお助けになっていらっしゃるにちがいないと存じますので、どうかそのひとたちに、わたくしの名前を出さないで、そっとわけてくださいますよう、お願いいたします」
ジュリヤンは、野心に酔っていたが、虚栄心に酔っていたのではなかった。しかし、外見を飾ることには、かなり気を使っていた。馬、制服、従僕《じゅうぼく》の仕着せなどは、イギリスの大貴族の几帳面《きちょうめん》さに比べても、ひけをとらないほど、きちんとしていた。特別にひきたててもらったおかげで中尉になったのだし、それもまだ二日たったかたたないかというのに、もうジュリヤンは、大将軍がみんなそうだったように、遅くとも三十歳で一軍を指揮するためには、二十三歳で中尉以上になっていなくてはならないと計算していた。名誉と生れる子供のことだけしか頭になかった。
ジュリヤンがほしいままな空想に耽《ふけ》っている最中に、ラ・モール邸から、とつぜん、若い下僕が手紙をもってやってきた。マチルドの手紙だった。
「なにもかもおしまいです。大急ぎで帰ってきてください。なにもかもすてて、仕方がなければ脱走してでも。お着きになったら、……街の……番地側の、庭の裏口のそばで、辻《つじ》馬《ば》車《しゃ》に乗ったまま、待っていてください。あたしが行ってお話しします。多分庭の中へはいっていただけるかもしれません。なにもかもおしまいになってしまったのです。もうどうにもならないのじゃないかしら。あたしを信じてくださいね。どんな逆境になっても、あたしはあなたのものです。負けたりはしません。あなたを愛していますわ」
数分のうちに、ジュリヤンは連隊長の許可をとり、ストラスブールを後にし、全速力で馬を飛ばした。メスまで来ると、たえきれぬ不安に心は乱れ、そのままでは旅を続けることができなくなった。ジュリヤンは郵便馬車に身を投じた。信じられないほどの速さで、指定の場所の、ラ・モール邸の庭の裏口のそばへ来た。門が開いた。すぐにマチルドが、恥も外聞も忘れて、ジュリヤンの腕の中に飛びこんだ。さいわい、まだ朝の五時で、人通りがなかった。
「なにもかもおしまいです。お父さまは、あたしの泣くのを見るのがいやなので、木曜の晩に出かけてしまったわ。どこへだか、だれにもわかってないの。これが手紙です。お読みになって」といって、マチルドはジュリヤンと一緒に、辻馬車に乗りこんだ。
「わたしはどんなことでも許そうと思っていた。だが、金をめあてにおまえを誘惑するようなまねだけは許せない。おまえには気の毒だが、それがおそろしい真相だったのだ。わたしは誓って、おまえとあの男との結婚に同意はできないと断言しておく。あの男が遠くフランスの国外へ、できればアメリカへ行って暮すのを承知するなら、一万フランの年金をあの男のために約束してやろう。この手紙を読むがいい。わたしが照会を求めたのに対して、よこした返事なのだ。あの恥知らずは、自分からわたしに、レーナル夫人へ手紙を出すように頼んだのだ。もうおまえがあの男のことに関して、なんと書いてこようと、わたしは一行も読まない。パリもおまえもいやになった。来たるべきことについては、できるだけ秘密に処置するよう命ずる。あの卑劣な男のことは、きっぱりと《・・・・・》諦《あきら》めなさい。そうすれば、わたしはまた、おまえの父親になるだろう」
「レーナル夫人の手紙はどこにある?」と、ジュリヤンは冷やかにきいた。
「ここにありますわ。でもあなたの心の用意ができてからお見せするつもりでしたの」
手紙
「信仰と道徳の神聖な掟《おきて》に背くわけにはまいりませんので、わたくしは、心ならずも、あなたさまがお求めの、つらいつとめをはたすのでございます。けっして間違うことのない神さまの掟に従い、わたくしはいま隣人をそこなわなければなりませんが、それも、いっそう大きな罪を防ぐためなのでございます。いかに苦しいこととは申しながら、義務と考えまして、この苦しみを抑えるべきなのでございましょう。あなたさまはあのかたについて、ありのままに述べよとのお申越しでございますが、あのかたの行状は、不可解なようにも、ときにまた、りっぱなようにさえ見えたことでございましょう。むりもございません。事実の一部分は、隠すなり、偽るなりしたほうがよいかとも考えたのでございます。思慮のあるふるまいという点から申せば、また信仰の上から申しても、そうすべきだったのかもしれません。けれども、お問合せのかたの行状は、実際、言葉ではいいつくせないほど、この上なく罪深いものでした。あのかたは貧乏で貪欲《どんよく》でしたから、完璧《かんぺき》な偽善の下に隠れ、ひとりの弱い不しあわせな女を誘惑して、地位を作り、出世をしようと計ったのでございます。これもつらいつとめの一部かと存じますが、さらに申しそえますならば、J……さまは、すこしも信仰の心をおもちにならないようでございます。正直なところ、あのひとはある家庭で成功しようと思うと、いつもその家庭でいちばん信用のある婦人を誘惑するという手を使うのだ、とわたくしは考えないではいられません。うわべはいかにも無欲そうでございますし、言葉は小説ふうの文句を使いながら、その陰で、あの方はその家のあるじと財産とを、どうにかして自分の思うままにしてしまおうと、そればかりをひたすら考えているのでございます。あのかたは、去ったあとに、不幸と永遠の悔いとを残すひとなのでございます」云々《うんぬん》。
長々と書き連ね、涙で消えかかったこの手紙は、まぎれもなく、レーナル夫人の筆跡だった。のみならず、ふだんよりも、いっそう念を入れて書いてあった。
「ラ・モールさんを責めることはできない」ジュリヤンは読みおえるといった。「おっしゃるとおりだし、慎重な措置だ。どこの父親が、こんな男に、かわいい娘をくれるものか! さようなら!」
ジュリヤンは辻馬車から飛びおりた。通りのはずれに止っている郵便馬車のほうへ走っていった。もはやマチルドなど眼中にないようだった。残されたマチルドは、二、三歩あとを追いかけた。だが、顔見知りの近所の商人たちが店先へ出てきて、こちらを見ているので、仕方なく、あわてて庭の中に駆け戻った。
ジュリヤンはヴェリエールへ向けて出発したのである。急ぎ旅の途中で、マチルドに手紙を書こうと思ったが、どうしても書けなかった。手が紙の上に、字の形にならぬ線を描《か》き連ねるばかりだった。
日曜日の朝、ジュリヤンはヴェリエールに着いた。土地の武器商の店にはいると、主人が、このたびはご出世なさったそうでと、しきりにお世辞をいった。土地では評判だったのである。
ジュリヤンはやっとのことで、ピストルが一そろい買いたいのだということを、のみこませた。店の主人は、いわれるままにピストルに弾をこめた。
三つの鐘《・・・・》が鳴っていた。この合図はフランスの田舎の村ではよく知られている。朝の鐘がいろいろ鳴ったあとで、いよいよミサがはじまるという知らせなのである。
ジュリヤンはヴェリエールの新しい教会へはいっていった。聖堂の窓は高く、いずれも真紅の窓かけでおおわれている。ジュリヤンは、レーナル夫人の腰かけの数歩うしろまで来た。夫人は一心にお祈りをしているらしい。あれほど愛してくれた女の姿だ。腕がわなわなとふるえて、しばらくジュリヤンは計画を実行に移せなかった。《おれにはできない》とジュリヤンはつぶやいた。《こんなありさまじゃ、とても撃てない》
このとき、ミサをつとめていた若い神父が、聖体を捧げる《・・・・・・》合図の鈴を鳴らした。レーナル夫人はうつ向いた。一瞬頭が肩かけのひだですっぽり隠れてしまった。夫人だという気がそれほどしなくなった。ねらって、ピストルのひきがねをひいた。弾はそれた。もう一発撃った。夫人はぱったり倒れた。
第三十六章 悲しいいきさつ
わたしが女々しいふるまいをするなどとは思わないでくれ。わたしは復讐《ふくしゅう》した。死に値することをしておきながら、こうしてここにいる。わたしの魂のために祈っていただきたい。
シラー
ジュリヤンはそのまま動かなかった。もうなにも見えなかった。いくらか我にかえってみると、信者たちが教会から逃げだしていくところだった。司祭も祭壇から消えてしまっている。声をあげて逃げる数人の女のあとから、ジュリヤンはゆっくりと歩きだした。ひとりの女が、ひとより早く逃げようとして、ジュリヤンを乱暴に突きとばした。ジュリヤンは倒れた。群衆がひっくり返していった椅《い》子《す》に足をとられたのである。起き上がろうとすると、頸筋《くびすじ》をつかまれるのを感じた。制服を着たひとりの憲兵が逮捕しに来たのだった。反射的に、ジュリヤンは小形のピストルに手をやろうとした。その腕をふたり目の憲兵がつかんだ。
ジュリヤンは牢獄《ろうごく》へ連れていかれた。一室にはいると、手錠をかけられて、たったひとり取り残された。扉《とびら》は二重に鍵《かぎ》をかけられた。万事が非常に手早く行われたし、ジュリヤンはまるで覚えがなかった。
《さあ、これでなにもかも終りだ》我にかえると、声に出していった。《二週間たつと断頭台か。……それともそれまでに自殺するか……》
それ以上は考えられなかった。頭がひどくしめつけられているような感じだった。だれかにつかまれているのかと思って、見まわしてみたが、しばらくすると、深い眠りにおちこんでしまった。
レーナル夫人の傷は致命傷ではなかった。第一弾は帽子に穴をあけ、夫人が振り向いたとき、第二弾が発射されたのである。弾は肩に命中したが、ふしぎにも肩の骨をくだいただけで、はねかえって、ゴチック式の柱にあたり、大きな石のかけらをそぎとった。
長い時間をかけて、痛む傷の手当をすますと、きまじめな外科医は、レーナル夫人にいった。「奥さんの生命《いのち》は、わたくしの生命と同様に、お受け合いいたします」それをきいて、夫人はひどく落胆してしまった。
ずっと前から、夫人はひたすら死を願っていたのである。現在の告解師に強制されて、ラ・モール氏に手紙を書いたために、たえまない不幸にさいなまれ続けてきたこの女性は、最後の力もなくしてしまっていた。不幸というのは、ジュリヤンがそばにいないことだった。夫人はそれを良心の呵責《・・・・・》と呼んでいた。夫人の選んだ告解師は、ディジョンから来たばかりで、徳の高い、熱心な若い神父だったが、そのことをはっきり見ぬいていた。
《このまま死ねたら、自殺したわけではないから、すこしも罪にならない。喜んで死ぬとはいっても、神さまは許してくださるだろう》だが、こうつけ加える勇気はなかった。《ジュリヤンの手にかかって死ねたら、こんなしあわせなことはない》
外科医や、おしよせた大勢の見舞客が行ってしまうと、夫人はすぐ小間使のエリザを呼び、顔を真っ赤にしながら、いった。
「牢番は思いやりのない男なの。あたしのご機《き》嫌《げん》をとるつもりで、あのひとにつらくあたるかもしれない。……そう思うと、とてもたまらないのよ。この小さな包みに何ルイかはいっているから、おまえが自分で来たというような顔をして、牢番に渡してくれない? ひどいことをしてはいけない、ご宗旨に背くからといってね。……それから、このお金をもらったことは、だれにも話さないようにってね……」
ジュリヤンが、ヴェリエールの牢番から人間味のあるあつかいを受けることができたのは、いま話したような事情によるのである。牢番は相変らずノワルー氏だった。アペール氏が来たとき、すっかりちぢみ上がったあの典型的な小役人である。
判事が牢獄へやって来た。ジュリヤンはいった。
「わたしは、計画的な殺人罪を犯したのです。これこれの武器商から、ピストルを買い、弾をこめさせました。刑法第一三四二条に明らかなとおり、これは死刑に該当します。覚悟はできています」
こういう返事の仕方をされたので、判事はびっくりして、いろいろ質問し、被告の返事の矛盾《・・》をつこうとした。ジュリヤンは笑いながらいった。
「お望みのとおりに、わたしは自分から有罪だといっているではありませんか? 大丈夫ですよ、あなたがねらっている獲《え》物《もの》は逃げやしません。お好きなように有罪の宣告ができるでしょう。わたしをひとりにしてください」
《面倒な仕事が一つ残っているな》と、ジュリヤンは考えた。《ラ・モール嬢に手紙を書かなくてはなるまい》
「復讐しました。残念ながら名前が新聞にのるでしょう。これで、この世からこっそりと抜け出せなくなりました。ふた月すれば、わたしは死にます。復讐は、あなたと別れている苦しみと同じように、つらい仕事でした。もうこれからは、わたしは手紙を書いたり、あなたの名前を口にしたりしません。あなたも、わたしのことはいっさい口にしないでください。たとえわたしの子供が相手でも。黙っていることだけが、わたしの名誉を守る道です。世間のひとにとっては、わたしはありふれた人殺しということになるでしょう。……この最後のときにあたって、真実をいわせてもらいます。あなたはわたしを忘れてしまうことになります。今度の破局については、だれにもいっさい話さないよう忠告しておきますが、あなたの性格に見られる、小説的な、あまりにも冒険好きな傾向は、この事件で、ここ数年のあいだは、芽を刈りとられてしまうだろうと思います。もともと、あなたは中世の英雄たちを相手に暮すようにできていたのです。その英雄たちのような、しっかりした性格を見せてもらいたい。やがて起ることは、内密に、名前に傷がつかないように始末することです。偽名を使いなさい。だれにも打明け話などしてはいけない。もしどうしても友達の助けがいるなら、ピラール神父に頼りなさい。
ほかのひとたち、とりわけリュスさんやケーリュスさんのような、あなたと同じ階級のひとたちには話さないこと。
わたしが死んで一年たったら、クロワズノワさんと結婚してください。お願いします、いやあなたの夫として、それを命令します。手紙をよこしてはいけない。くれても返事は出しません。イヤゴーほどたちは悪くないつもりだが、わたしもイヤゴーと同じことをいおうと思う。From this time forth I never will speak word.。
これからは口もきかなければ、便りもしません。この手紙がわたしのあなたにあげる最後の言葉であり、最後の愛情のしるしです。
J・S・」
この手紙を出してしまうと、ジュリヤンはやや落着きを取り戻《もど》し、はじめてひどくみじめな気持になった。野心から出たいろいろな希望が、《おれは死ぬんだ》という、重大な言葉によって、いやでも、ひとつびとつ、心からむしりとられざるをえなかったからである。死それ自体は、べつにおそろしい《・・・・・》とは思わなかった。これまでの一生は、要するに不幸に至る長い準備期間にすぎなかった。だが、この不幸は、あらゆる不幸のうちでも、最大といわれているものである。したがって、これが忘れられるはずはなかった。
《なんということだ! もしふた月先に剣術のひどく強い男と決闘することになっているとしたら、おれは、たえずくよくよ思いわずらったり、おそろしがったりするだろうか?》
ジュリヤンは、一時間以上もかかって、この点について自分の気持を見きわめようとした。
心の中が明らかになり、真相が牢獄の柱と同じように、はっきり目に見えてくると、今度は後悔について考えた!
《なぜ後悔することがあろう? おれはずいぶんひどい侮辱のされかたをした。そこで殺した。死に値するが、それだけだ。おれは人類に対して勘定のしめくくりをしたあとで、死んでいくのだ。やり残した義務もなければ、だれにも借りはない。おれの死に、なにかはずかしいところがあるとすれば、死ぬときの道具だけだ。ヴェリエールの町民どもの目には、それだけでも、いかにもおれが辱《はずか》しめを受けたように見えるだろうが、理性的に考えれば、これほどとるにたらないものはない!やつらからえらそうに思われる方法だってまだある。刑場へ行く途中で、見物人どもに金貨をばらまけばいい。黄金《・・》の思い出と一緒になって、おれのことがいつまでも消えずに、やつらの頭に残るだろう》
ものの一分もすると、この考えは、議論の余地がないほど明白なものに思われてきた。《おれはもう、この世でなにもすることはない》ジュリヤンはそうつぶやくと、深い眠りにおちた。
夜の九時ごろ、牢番が晩食を運んできて、ジュリヤンを起した。
「ヴェリエールじゃ、どんな噂《うわさ》をしているかね?」
「ジュリヤンさん、わたしはこの職に任命されるとき、裁判所の十字架の前で誓いを立てましたから、その手前、なにもご返事できません」
牢番は黙っていたが、出ていかなかった。この卑《いや》しい偽善ぶりを見ると、ジュリヤンはからかう気になった。《こいつは良心を売る代価として、五フランをほしがっているんだな。よし、せいぜいおあずけさせてやれ》
牢番は、食事がすみそうになっても、ジュリヤンがいっこう買収にかかろうとしないのを見て、取ってつけたような、愛《あい》想《そ》のいい態度で、
「ジュリヤンさん、わたしはあなたに好意をもっていますから、お話ししないではいられないのです。こんなことを申すと、あなたの弁護の役にたつかもしれないから、裁判のためにはならないんだそうですけれど。……ジュリヤンさんはいいかただから、さだめしお喜びになると思って申しますが、じつはレーナル夫人がよくなりましてな」
「なんだって! あのひとは死んだんじゃないのか!」と、ジュリヤンは我を忘れて叫んだ。
「なにもご存じじゃなかったんですか!」牢番は間の抜けた顔をしたが、やがて、いい金づるだと見て、欲深そうな顔になった。
「お医者にいくらかおあげになったほうがいいですな。法の掟《おきて》からいえば、お医者はなにもしゃべってはいけないわけだったのですが、あなたをお喜ばせしようと思ってわたしが行きましたら、すっかり話してくれましてね……」
「とにかく、傷は致命傷じゃなかったんだね?」と、ジュリヤンはじりじりしてきいた。「きっとそうか? 生命《いのち》にかけて誓うな?」
牢番は六尺豊かな大男だったが、おそれをなして、入口のほうへ身を引いた。ジュリヤンは、真相を知るには、まずいやり方をしたと悟った。すわりなおすと、ナポレオン金貨を一枚、ノワルー氏に投げてやった。
この男の話から、レーナル夫人の傷が致命傷でなかったことが、はっきりしてくるにつれて、涙がこみあげてきた。
「出ていってくれ!」だしぬけにどなりつけた。
牢番はおとなしく従った。扉が閉まるか閉まらないうちに、《ああ! あのひとは死ななかった!》ジュリヤンはひざまずき、あつい涙を流して、さめざめと泣いた。
この期《ご》に及んで、ジュリヤンは神を信じる気持になっていた。聖職者たちの偽善がなんだ! そんなことで、神という観念の真実性と崇高さは、すこしも失われはしない!
ここに至って、ようやく、ジュリヤンは犯した罪を後悔しはじめた。おりもおり、パリをたってヴェリエールに向ったとき以来おちいっていた肉体的興奮と半狂乱の状態が、偶然おさまった。おかげで、彼は絶望を避けることができた。
ジュリヤンの涙は、高潔な感情から出たものだった。自分の行くさきに死刑が待っていることは、すこしも疑わなかった。
《じゃ、あのひとは生きていてくれるだろう。……生きていて、おれのことを許し、おれを愛していてくれるのだ……》
あくる日、朝ずいぶん遅く、牢番はジュリヤンを起し、
「ジュリヤンさんというおかたは、よほど胆《きも》がすわっているとみえますな。二度来たんですが、どうにも起す気がしませんでしたよ。ここの司祭のマスロンさまが、この極上のぶどう酒を二本、あなたさまにあげてくれとのことでしたが」
「なんだ、あの悪党はまだこの土地にいるのか?」
「さようで」と牢番は声をおとした。「でも、あんまり大声をお出しになっちゃいけません。おためになりませんから」
ジュリヤンは愉快そうに笑った。
「今のおれに邪魔のできるのはきみだけさ。ちょっと、親切心や人間味を出すのを控えればいいんだからな……」と、いいかけたが、また横柄《おうへい》な態度になって、「さあ、たっぷり礼はやるぞ!」
そしてすぐさま、こういう口のききかたをしても、文句の出ないように、金貨を一枚投げだした。
ノワルー氏は、あらためて、できるだけくわしく、レーナル夫人について、知っているかぎりのことを話した。だが、エリザ嬢の来たことは黙っていた。
この男は、さもしい点でも、腹黒い点でも、徹底していた。ジュリヤンの頭を一つの考えがよぎった。《このかたわみたいな大男の稼《かせ》ぎは、この牢獄にあまり囚人がいないところからみれば、三、四百フランだろうな。おれを救い出してスイスへ連れていってくれれば、一万フランやってもいいが。……おれが本気でいっているのだとのみこませるのが骨だ》こんなげびた男と長いあいだ話合いをしなければならないのかと思うと、ジュリヤンはいやけがさした。ほかのことを考えることにした。
夜になると、もう手遅れだった。一台の郵便馬車が夜中にジュリヤンを連れ去った。道連れとなった憲兵たちは、大いにジュリヤンの気にいった。朝、ブザンソンの牢獄に着くと、先方の親切な計らいで、ゴチック式の天守閣のてっぺんにいれられた。ジュリヤンは十四世紀はじめの建築だと見てとり、優雅で、軽快なところに感心した。奥深い庭のはずれの、壁と壁とのあいだの、狭いすきまからは、すばらしい景色をのぞくことができた。
あくる日、訊問《じんもん》が行われたが、その後幾日ものあいだ、そっとしておかれた。気持は平静だった。この事件くらい簡単なものはないとしか思っていなかった。《おれは殺そうとした。だから殺されるべきだ》
ジュリヤンは、この理屈を、それ以上考えてみようともしなかった。裁判、ひとびとの前へ出る面倒、弁護、こうしたことは、ジュリヤンからみれば、みんなたいした厄介《やっかい》ごとではないし、その場になってから考えればすむ退屈な儀式としか思えなかった。死ぬときのことでさえも、たいして気にはならなかった。《まあ判決がすんでから考えればいいさ》生活はすこしも退屈ではなかった。あらゆることが、新しいかたちで眺《なが》められた。今は野心もない。ラ・モール嬢のことも、ごくたまにしか考えなかった。悔恨の気持が強く、レーナル夫人の面影がちょいちょいまぶたに浮ぶ。とりわけ、静まりかえった夜間がそうだった。この高い天守閣にいると、みさご《・・・》の鳴き声のほかには、この静寂をやぶるものはなかった!
ジュリヤンは、夫人に致命傷を与えなかったことを神に感謝した。《ふしぎなことだ!おれは、あのひとがラ・モール氏に手紙を書いたとき、将来の幸福を永久に破壊したと思っていた。ところが、手紙を出して二週間もたたないうちに、もうおれは、あのとき考えていたことなど、すっかり忘れてしまっている。……二、三千フランの年金があって、ヴェルジーのような山国でひっそりと暮せたらなあ。……あの時分、おれは幸福だった。……それなのに、その幸福がわかっていなかったとは!》
思わず椅子から飛び上がることもある。《もしレーナル夫人に致命傷をおわせていたら、おれは自殺してしまったろう……。この点は、はっきりさせる必要がある。さもないと自分がいやになってしまうぞ》
《自殺する! そいつは大問題だな。かわいそうな被告をこづきまわす、あの四角ばった判事連中、あいつらときたら、勲章をぶらさげるためなら、どんなりっぱな市民でもしばり首にしかねないのだ。……そういうやつらの魔手から逃れることができるし、地方新聞では雄弁だなどといわれているが、あいつらの下手くそなフランス語の悪口雑言も聞かずにすむというものだ……》
数日たつと、ジュリヤンは考えなおした。《どっちみち、あと五、六週間は生きていられるのだ。自殺! いかん、ナポレオンも生きぬいたではないか……》
《それに、生きているのは楽しい。ここは静かだし、いやな人間もいない》と、ジュリヤンは笑いながら、つけ加えた。そして、パリから取り寄せる本のリストを作りはじめた。
第三十七章 天守閣
友の墓。
スターン
廊下で大きな物音が聞えた。牢獄《ろうごく》に人が来る時間ではなかった。みさご《・・・》がけたたましく鳴いて飛び立った。扉《とびら》が開いた。そして、あのシェラン老司祭が、身体《からだ》をぶるぶるとふるわせながら、手に杖《つえ》をもったまま、ジュリヤンの腕に飛びこんできた。
「ああ! なんたることだ! まさか、おまえが。……いやこの人でなしめが! といわねばなるまい」
善良な老人はそれ以上一言も口がきけなかった。ジュリヤンは司祭が倒れるのではないかと思った。やむをえず、椅子《いす》のところへ連れていった。むかしあれほど元気だったのに、よる年波が、このひとのうえに、重くのしかかっていた。ジュリヤンには、もはや、このひとの亡霊があらわれたとしか思えなかった。
司祭は、一息つくと、「おととい、やっと、ストラスブールからくれた手紙と、ヴェリエールの貧乏人にやってくれという五百フランを受け取ってな。わたしはリヴリュの山の中の、甥《おい》のジャンのところに隠居しているので、手紙はそこへ届いた。ところが、きのう、事件が耳にはいったのだよ。……情けない! まさかこんなことになろうとは!」老人はもう泣いていなかった。頭がからっぽになっているようだった。ただ機械的につけ加えた。「あの五百フランがいるだろうと思ったから、ここへ持ってきた」
「わたしはお目にかかりたかっただけなんです!」と、ジュリヤンは感動して叫んだ。「金なら、まだ残りがあります」
まともな返事をきくことは、もうできなかった。ときどき司祭の目から涙がこぼれ、静かに頬《ほお》を伝って落ちた。司祭はジュリヤンをじっと見つめていた。ジュリヤンが自分の両手を取り、唇《くちびる》へもっていくのを、うつろなひとみで眺《なが》めていた。この顔も、かつては、いかにもいきいきとしていて、世にも崇高な感情を力強く浮べていた。その顔が、いつまでも無感覚な様子から抜け出さなかった。しばらくすると、百姓風の男が老司祭を迎えに来た。「疲れさせるといけませんでな」ジュリヤンはこれが甥だなと思った。この司祭の出現は、ジュリヤンをやりきれない気分におとしいれた。涙も出なかった。ただなにもかもがわびしく、取返しがつかないように思われ、胸の中で心臓が凍りつくような気がした。
犯行以来、ジュリヤンがいちばんせつない思いをしたのは、このときだった。ジュリヤンは、たった今、死を、それもいちばん醜い姿で見たわけである。心の偉大さとか、高潔さとかいう幻は、嵐《あらし》の前の雲のように、吹き飛ばされてしまった。
このやりきれない状態は数時間続いた。精神に毒をもられたあとでは、肉体的な療法や、シャンパン酒が必要である。だが、ジュリヤンは、そういうものの助けをかりたら、卑怯《ひきょう》になると思った。一日じゅう、いやな気持で、狭い天守閣の中を歩きまわっていた。その日の暮れがた、《おれはなんてばかだ!》と叫んだ。《おれが人並な死にかたができるのなら、あの気の毒な老人を見て、こんなやりきれない気持になるのもむりはない。だが、おれは若いさかりに急に死ぬわけだから、ああいういやな老衰におちいらなくてもすむんだ》
いくら理屈をつけても、今日の訪問のせいで、ジュリヤンは、小心な男のように、情にほだされ、したがって、みじめな心境になってしまった。
ジュリヤンの心のうちから、荒々しい、豪放なところは、影をひそめてしまった。古代ローマ人のような勇気が、消え失《う》せてしまった。死が、これまでよりずっと高いところにあり、そうたやすいことではないように思えてきた。
《こいつをおれの寒暖計にしよう。断頭台へ平気で上っていく勇気の水準からすると、今夜のおれは、十度下がっている。今朝なら、その勇気があったんだがな。しかし、かまうものか! 必要なときに勇気が戻《もど》ってきさえすればいい》この、寒暖計という考えは、ジュリヤンの気にいった。そのおかげで気持をまぎらわすことができた。
次の日、目を覚ますと、きのう一日の自分がはずかしくなった。《おれの幸福、おれの気持の平静さが、あぶなくなってきたぞ》検事総長に手紙を書き、いっさい面会謝絶にしてもらおうかと思った。《だが、フーケがいたっけ。もしフーケがブザンソンへわざわざやってきたりしたら、どんなにがっかりするだろう》
およそこのふた月というもの、フーケのことは忘れてしまっていた。《ストラスブールでは、おれはなんてばかだったんだろう! おれの考えは、せいぜい軍服のえりのことしか考えていなかったのだからな》フーケの思い出がしきりと浮んで、ますます感傷的な気持になった。そわそわと歩きまわった。《今のおれは、たしかに死の水準から、二十度も下まわっているぞ。……この弱気がこれ以上つのるくらいなら、自殺したほうがましだ。いやいや、おれがへぼ学者みたいな死にかたをしたら、マスロン神父やヴァルノなんぞが喜ぶことだろう!》
フーケが来た。この単純で善良な人物は、悲しみのあまり、おろおろしていた。彼のたったひとつの才覚、もしそんなものがあるとすれば、それは持ちものをすっかり売りはらって、牢番を買収し、ジュリヤンを救い出そうということだった。ジュリヤンに向って、ラヴァレット氏の脱獄の模様をながながと話した。
「そういわれるとつらいな。ラヴァレット氏は無実の罪だったが、ぼくは有罪なんだ。きみにはそういう気はないだろうが、ぼくはそんな話を聞くと、そこの違いを考えさせられるよ。……
だが、ほんとうかい? え? きみは、持ちものをすっかり売るつもりなのかい?」と、急にジュリヤンは、相手の真意をさぐるような、疑《うたぐ》り深い態度に返ってきいた。
フーケは、親友が自分のひたすら考えている案にようやく答えてくれたのを見て、大いに喜び、百フランぐらいの違いはともかくとして、自分の地所の一つ一つがどのくらいの金になるかを、こと細かに説明した。
《田舎の地主としては、なんという崇高な思いきったことだろう! 見るたびにこちらの顔が赤くなるような、あの倹約ぶり、しみったれともいいたいくらい、けちけちしてためたものを、おれのために犠牲にしようというのだ! おれがラ・モール邸で会った、『ルネ』を読んでいるりっぱな青年たちなら、だれもこんなばかげたまねはしないだろう。だが、ごく若いうちから遺産を相続して金持になり、金の値打のわからない連中なら別だが、ああしたパリっ子どものうちに、こんな犠牲のはらえるやつがいるか!》
フーケのしゃべるフランス語の間違いも、やぼな身ごなしも、もう眼中になかった。ジュリヤンは親友の腕の中へ飛びこんだ。田舎とパリを比べて、田舎がこのときほど尊敬のしるしを受けたことはない。フーケは、親友の目の中に感激の色を見て、すっかり喜び、ジュリヤンが脱獄を承知してくれたのだと思った。
この崇高なもの《・・・・・》に触れたおかげで、ジュリヤンは、シェラン神父の出現このかた失《な》くしてしまっていた元気を取り戻した。ジュリヤンはまだごく若かったが、思うに、これはよい苗木だった。年をとるにつれて、大部分の人間のように、情に厚い性質から悪賢い性質へと進むかわりに、ジュリヤンは、ますます情にほだされやすい善良な心の持主になったにちがいない。並はずれた疑い深さも、きっとそのうちにはなおったことだろう。……だが、こんなふうに、むなしい予言をしたところでなんになろう?
ジュリヤンはなるべくすくなくさせようとしたのだが、訊問《じんもん》は前よりひんぱんになった。ジュリヤンは答弁するたびに、事件を簡単にすませようとした。「わたくしは人を殺したのです。すくなくとも殺そうと思いました。それも計画的だったのです」毎日くり返してそういった。だが、判事はなによりも形式主義者だった。ジュリヤンがそう言明しても、訊問はいっこう簡単にならなかった。かえって、判事の自尊心は傷つけられた。ジュリヤンは知らなかったが、じつはひどい地下牢へ移されようとしていた。ところが、フーケが奔走したおかげで、やっと、階段を百八十上った、いまの小ぎれいな部屋に、そのままいられることになったのである。
フーケが、暖房用の薪《たきぎ》をおさめている大切な得意先に、フリレール神父があった。好人物の商人は、はぶりのいい副司教猊《げい》下《か》の前にまかり出た。フリレール氏は、ジュリヤンの長所や、むかし神学校につくしてくれた働きに感心しているから、判事たちにとりなしてやるつもりだといった。フーケはどんなに喜んだかしれない。親友を助ける希望がちらりと見えた心地がした。帰りぎわに、頭を床にすりつけんばかりにして、被告の釈放を祈願するため、十ルイの金をミサに使っていただきたいと、副司教猊下に嘆願した。
フーケは妙な思い違いをしていたのである。フリレール神父はヴァルノのような男ではなかった。受け取らなかったばかりか、暗にその金はしまっておくがよかろうと、この人のいい田舎者にのみこませようとした。思いきり露骨にいわないと、意味が通じないらしいのを見て、その金は気の毒な囚人たちにほどこしてやったらどうか、実際あの連中は、なにももっていないのだから、といった。
《あのジュリヤンという男は、妙な男だ。どうもやることのわけがわからない》と、フリレール神父は考えた。《しかし、わたしにとっては、わけがわからないなどということがあってはならない。……もしかすると、あれは殉教者にしたてあげられるかもしれんな。……とにかく、この事件のかんどころ《・・・・・》をつかむことだ。レーナル夫人というひとは、われわれをすこしも尊敬していないうえに、内心わたしをきらっているから、あの夫人をおどかす機会が見つかるかもしれない。……ことによると、この事件にからんで、ラ・モールさんともうまく仲直りするきっかけがつかめるかもしれない。ラ・モールさんはこの神学生にずいぶんご執心だからな》
例の訴訟についての示談は、数週間前に調印がすんでいた。ピラール神父は、ジュリヤンのふしぎな生れのことをいいふらしておいて、ブザンソンをあとにした。だが、ちょうどその日に、ヴェリエールの教会で、情けないことに、ジュリヤンがレーナル夫人を殺そうとしたのだった。
死ぬ日までに、ジュリヤンにとって不愉快なことといっては、ただ一つしか考えられなかった。父親の訪問である。検事総長に手紙を書いて、面会をいっさい禁じてもらおうかと、フーケに相談してみた。こんな場合に、父親と会うのがいやだなどといわれると、実直な俗人なだけに、薪商人のフーケは気を害した。
フーケには、あんなに大勢のひとが、この親友を毛《け》嫌《ぎら》いしているわけがわかるような気がした。だが、不幸な身の上のジュリヤンを思って、自分の気持をおし隠し、素《そっ》気《け》なくいった。
「いくら面会禁止となったところで、お父さんにはどっちみち適用されないね」
第三十八章 有力者
だが、あのふるまいにはどうもわけがありそうだ。姿はじつに上品だ! いったい、あの女はだれだろう?
シラー
あくる日、朝ひどく早く、天守閣の扉《とびら》が開いた。ジュリヤンはびくっとしてはね起きた。
《さあ、たいへんだ! 親父《おやじ》だぞ。いやなことになるだろう!》
そのとたんに、田舎娘のみなりをした女が、ジュリヤンの腕の中へ飛びこんできた。しばらくだれだか見分けがつかなかった。ラ・モール嬢だった。
「ひどいかた! 手紙をもらうまでは、どこにいるのかわからなかったわ。あなたが犯行っていっていることが、ヴェリエールへ来て、やっとわかったの。……りっぱな復讐《ふくしゅう》じゃないの。この胸で高鳴っている心臓の気高さがわかるわ」
はっきり意識していないまでも、ジュリヤンはラ・モール嬢を色眼鏡で見ていた。だが、さすがにこのときはひどく美しいと思った。こういう行動の仕方、もののいい方を見ては、高貴な、利害を超越した感情を、どうして認めないでいられよう? けちくさい俗な心の持主にはとうてい企てえないことだ。ジュリヤンはまたしても、王妃を愛しているような気持になった。しばらくすると、言葉づかいにも、気持にも、めったにないような気品を見せて、彼はいった。
「将来の見通しが、わたしの目にははっきりとついていたのです。わたしが死んだあと、あなたはクロワズノワさんと結婚してくれる。あのひとは未亡人とでも結婚するはずです。またその美しい未亡人は気高いが、いくらか小説的な心をもっている。そのひとにとっては、こんどの風変りな事件は、悲劇的で重大だったわけです。そこで、打撃を受けて、世間並の思慮という教えに改宗し、若い侯爵《こうしゃく》のまったく現実的な価値を理解する。あなたは、尊敬とか、財産とか、高い身分とかいう、人並の幸福に甘んじて、それで幸福に暮すことになるだろう、と思ったのです。……だが、マチルド、あなたがブザンソンへ来たことがかぎつけられたら、ラ・モールさんには致命傷になりますよ。そんなことになれば、わたしは自分が許せなくなる。なにしろ、さんざん悲しい思いをおさせしたのですからね。あのアカデミー会員なら、さっそく侯爵は《飼い犬に手を噛《か》まれた》のだなんていいますよ」
「まあ、あたしはこんなに冷たい理屈や、さきざきの心配を聞かされるなんて思っていなかったわ」ラ・モール嬢はいくらか気色ばんだ。「あたしの小間使は、あなたに負けないくらい気がつきます。自分の名前で旅券を取ってくれたので、あたしはミシュレ夫人として郵便馬車でかけつけたんですわ」
「で、ミシュレ夫人という名前で、こんなにたやすく、わたしのところへ来《こ》られたっていうのは?」
「あなたはやっぱりえらいひとね。あたしが目をつけただけあるわ。はじめ、判事の書記に百フランやったの。天守閣へはいることはできないなんていうものですから。だけれど、そのひとったら、謹厳そうな顔をしていながら、お金を受け取っても、まだぐずぐずして、故障をもちだすもんで、あたしからもっとまきあげようという魂胆かと思ったわ……」といって、彼女はいいさした。
「それで?」
「怒っちゃいやよ、ジュリヤン」と、キスしながら、「仕方がないから名前いってしまいましたの。書記ったら、あたしを、色男のジュリヤンに首ったけのパリのお針っ子だと思っていたらしいわ。……ほんとうにそのとおりの言葉でいったわ。あなたの妻だとはっきりいっておいたのですから、きっとあなたに毎日会う許可が取れるわ」
《正気の沙汰《さた》じゃない。おれにはそれを止めることができなかった。でも、どうせラ・モール氏は大殿様だから、若い大佐がこの美しい未亡人と結婚することになったって、世間は大目に見てくれるだろう。もうじきおれが死ねば、なにもかも償いはつくんだし》ジュリヤンはマチルドの愛《あい》撫《ぶ》に夢中で身をまかせた。それは、狂気というか、度胸のよさというか、まったく異様な愛情だった。マチルドは、本気で、一緒に自殺しようといいだした。
最初の興奮が冷め、ジュリヤンに会う喜びにも満ち足りると、マチルドは急にはげしい好奇心のとりこになった。恋人をしげしげと眺《なが》めて、想像していたよりもずっとすばらしいと思った。ボニファス・ド・ラ・モールが、もっと雄々しい姿で、生き返ったような気がした。
マチルドは、土地で一流の弁護士たちと会った。金をあまりむきだしに差し出すので、先方は気を悪くしたが、しまいには受け取った。
マチルドはすぐ、ブザンソンでいかがわしい大ばくちが打てるか打てないかは、フリレール神父次第だということに気がついた。
ミシュレ夫人などという、ひとの知らない名前では、はぶりのよい修道会員の前に出ようとしても、はじめは、なまやさしいことでなく、どうにもならなかった。だが、ジュリヤン・ソレル神父を慰めようと、恋に狂ってパリからブザンソンまでやってきた、美しい小間物屋の娘の評判は、町じゅうにひろまった。
マチルドは、ひとりで、乗物にも乗らず、ブザンソンの町じゅうを駆けまわった。素姓《すじょう》はわかるまいと思っていた。どっちみち、町の連中に強い印象を与えておくことは、自分のためにむだではないと考えていた。町の連中をそそのかして、刑場へひかれていくジュリヤンを途中で救い出すなどという、気違いじみた空想までした。ラ・モール嬢は、悩んでいる女にふさわしく、地味な身なりをしたつもりでいたが、そのじつ、かえって、みなの目をひきつける服装になってしまっていた。
ブザンソンじゅうの注目の的になったころ、マチルドは、一週間も頼み続けたあげく、フリレール神父に謁見《えっけん》を許された。
マチルドにどれほど勇気があったかしれないが、勢力のある修道会員と、用意周到な悪だくみという二つの観念は、彼女の頭のなかで結びつけられていたので、司教館の入口の呼鈴《よびりん》を鳴らしたときは、彼女も思わず身ぶるいした。首席副司教の住んでいる部屋へ行くために、階段を上るときも、足がすくむようだった。司教館のひっそりとした気配に、ぞっと寒《さむ》気《け》をもよおした。
《あたしが長《なが》椅子《いす》にかけると、長椅子があたしの両腕をつかむ。あたしは消えてしまう。そんなことになったら、小間使はどこへ行って、あたしを捜したらいいんだろう? 憲兵隊長だって手入れをはばかるだろうし。……この大きな町で、あたしはひとりぼっちなのだ!》
司教の部屋を一目見て、ラ・モール嬢は安心した。扉を開けたのは、気のきいた仕着せを着た従僕《じゅうぼく》だった。待たされたサロンは、こけおどしのぜいたくとは大違いで、パリでも一流の邸宅にしかないような、洗練された奥ゆかしい豪華なしつらえだった。
フリレール神父が、柔和な顔つきでやってくるのが見えたときには、陰惨な犯罪などという考えは、消え失《う》せてしまった。神父の美しい顔には、パリの社交界でひどくきらわれている、あの精力的で、やや荒々しい感じの美徳のかげさえ見当らなかった。ブザンソンを切りまわしているこの聖職者の、明るい微笑を浮べた顔だちは、上流社会の人間、学識ある高僧、敏腕な行政家のものであることを物語っている。マチルドは、パリにいるような気がした。
フリレール神父は、なんなく、マチルドに、自分の強敵ラ・モール侯爵の娘であることを白状させてしまった。
「あたくしは、じつはミシュレ夫人ではありません」と、マチルドは気位の高い態度を取り戻《もど》していった。「こう申しあげても、あたくしとしては困ることはありませんの。あたくしは、ラ・ヴェルネー氏を脱走させることができないかどうかと思って、ご相談にあがったのですから。第一、あのひとの罪は、一時の逆上にすぎないのです。撃たれたご婦人もお元気です。第二に、下役人を買収するのに、即金で五万フランお渡しできますし、お約束ならその倍額までいたします。最後に、あたくしとあたくしの家族は、ラ・ヴェルネー氏を救ってくださるかたに、感謝のしるしとして、どんなことでもいたしましょう」
フリレール神父は、ラ・ヴェルネーという名前に驚いたらしい。そこで、マチルドは、ジュリヤン・ソレル・ド・ラ・ヴェルネーあての陸軍大臣の手紙を出して見せた。
「お察しのとおり、あたくしの父が、あのひとの出世を取り計らったのです。あたくしは、あのひとと内々の結婚をいたしましたが、ラ・モール家の娘としてはすこし風変りな結婚でしたから、父はこの結婚が公表されるまえに、あのひとを高級士官にしようとしたのです」
マチルドは、この重大事をすこしずつ知るにつれて、フリレール神父の顔から、善良で快活な表情が、にわかに消え失せるのを見た。そのかわりに、底知れぬ腹黒さをまじえた狡《こう》猾《かつ》な表情が、顔にあらわれた。
フリレール神父は疑っていた。ゆっくりと、公文書を読み返した。
《この奇怪な打明け話を、どう利用したらいい? おれは今、とつぜん、有名なフェルヴァック元帥夫人の女友達と密接な関係ができた。フェルヴァック夫人といえば***司教猊《げい》下《か》の姪《めい》で、たいしたはぶりだ。あの司教猊下のお声がかりでなければ、フランスでは司教にはなれない。
遠い将来のことと思っていたものが、思いがけず、ころがりこんできたぞ。一生の望みがかなえられるかもしれない》
マチルドは、こんな奥まった部屋で、ふたりきりで話していたわけだった。相手の有力者の顔つきが、急に変ったのを見ると、ついおびえてしまった。しかし、じきに考え直した。《あたりまえじゃないの? 相手は思う存分権力と享楽《きょうらく》の生活にひたっている聖職者なんですもの。その冷たい利己主義に出会って、いっこう手ごたえがないかもしれないってことは、最悪の事態として予期していたはずじゃないかしら?》
フリレール神父は、思いがけず目の前にひらけた司教職への近道に眩惑《げんわく》される一方、マチルドの才気に舌を巻き、すこしのあいだ用心を忘れた。ラ・モール嬢は、相手が足もとにひれふさんばかりになり、野心に燃えて、身体《からだ》をふるわせているのを見て、
《すっかりわかったわ。フェルヴァック夫人の友達だというわけで、あたしはこのひとを意のままにできるのだわ》嫉《しっ》妬《と》の感情がうずきだすのを抑えながら、マチルドは、ジュリヤンが夫人と親しい仲であったことや、夫人の屋敷で、ほとんど毎日、***司教猊下に会っていたことまで話した。
「この県に在住する名士のなかから、三十六人の陪審員のリストを、四、五度続けてくじ引きで選ぶとしてもですな」と、副司教は、野心に目を輝かし、一語一語に力をいれながらいった。
「よほど運が悪くないかぎり、どのリストにも、八、九人の味方、しかもわたしたちの仲間でいちばん利口なひとたちがはいっていると考えてよろしいでしょう。ほとんどいつでも、わたしは過半数を得るはずです。かりに有罪にしようとするときは、それ以上集められましょう。まあ見ていらっしゃい、お嬢さん、わたしがどんなに簡単に、無罪にすることができるか……」
フリレール神父は、自分の声にはっとして、口をつぐんだ。仲間のうちでなければいえないことを、うっかり口外したのだ。
だが、今度はマチルドの虚をつくことになった。ジュリヤンの異常な事件で、ブザンソンの社交界がなによりも驚き、興味をそそられている点は、むかしジュリヤンがレーナル夫人からはげしく愛され、ジュリヤンもまた、長いあいだ夫人を愛していたということだと、マチルドに知らせたからである。その話を聞いて、相手がひどく落着きを失ったのを、フリレール神父はやすやすと見やぶった。
《これで五分五分だ! この大胆不敵な小娘をあやつる方法が見つかったぞ。そうはいくまいと思っていたが》フリレール神父の目の前で哀願せんばかりになっているだけに、気品と手ごわい様子が、この絶世の美人の魅力をいっそうひきたたせた。神父は落着きを取り戻し、容赦なく、相手の心臓を、短刀でぐさりとえぐった。
「ともかく」となにげない調子でいった。「なにしろ、むかしは夢中で愛していた女ですからな、ソレルさんが嫉妬に狂って、その女に二発もピストルのたまを浴びせたのだと聞かされても驚きませんな。あの婦人にはお楽しみがないどころではありません。最近も、ディジョンのマルキノとかいう神父と、しょっちゅう会っていたんですから。ジャンセニストだそうですが、ご多分にもれず、品行のよくない男でしてな」
フリレール神父は、この美しい娘の弱点を取っちめたうえ、楽しみながら、ねちねちとその心を苦しめた。
「なぜソレルさんは教会を選んだのでしょう?」と、いいながら、フリレール神父は、燃えるようなまなざしで、マチルドをじっと見つめた。「ちょうどそのとき、恋敵《こいがたき》がミサをあげていたからだとしか考えられません。あなたがかばっておられるしあわせなおひとが、ひどく頭がよくて、慎重なおかただということは、だれでも認めています。勝手を知ったレーナル氏の庭へしのびこむのは、造作もなかったでしょう。そこなら、まず確実に、見られもしないし、つかまりもしないし、疑われもしないで、自分の嫉妬している女を撃ち殺すことができたはずです」
この理屈は一見もっともしごくなので、マチルドはとうとうとりのぼせてしまった。この娘は高慢ではあったが、上流社会で人の心を忠実に描き出すものだと考えられている、冷やかな用心深さをいやというほどもっていた。それだけに、用心深さを無視するという幸福を、すぐに理解できるはずはなかった。ところが、情熱的な心をもったものには、これこそこの上もなく強烈な幸福なのだ。マチルドがこれまで暮してきたパリの上流社会では、情熱から用心深さをすててかかることなど、ごくたまにしか見られない。窓から身を投げるのは、六階住いの人間ときまっている。
フリレール神父は、自分の力にやっと自信が出た。そこで、マチルドに、ジュリヤンの有罪を論告する役目の検事局を、自分の思うままに動かせると(むろん出まかせだが)ほのめかした。
くじ引きで、公判の三十六人の陪審員が指名されたら、すくなくとも三十人に、自分から個人的に働きかけようともいった。
マチルドがこれほどフリレール神父に美しく思われなかったら、神父も、五、六回会ったあとでなければ、こんなにはっきりした口はきかなかったにちがいない。
第三十九章 たくらみ
カストル、一六七六年。――わたしの隣の家で、兄が妹を殺した。その貴族は、すでに、ほかの殺人罪を犯していた。父親は、ひそかに五百エキュを評定官にばらまいてその命を助けてやった。
ロック『フランス紀行』
司教館から出ると、マチルドは、さっそくフェルヴァック夫人に手紙を出した。自分の体面にかかわるかもしれないなどという気持から、ためらうことはなかった。フリレール神父にあてた、全文直筆の手紙を、***司教猊《げい》下《か》からもらってくれるようにと、恋敵《こいがたき》に頼みこんだのである。フェルヴァック夫人が自分で、ブザンソンへ駆けつけてきてほしいとさえ懇願した。嫉《しっ》妬《と》している、気位の高い女としては、あっぱれなふるまいだった。
フーケの忠告に従って、マチルドは用心深く、自分の奔走ぶりをジュリヤンにはすこしも話していなかった。そうでなくとも、マチルドがいることだけで、ジュリヤンは気持がかなり乱されていたのである。死が近づくにつれて、ジュリヤンはこれまでよりもいっそう誠実な人間になっていた。ラ・モール氏に対してばかりでなく、マチルドに対してまでも、良心の呵責《かしゃく》を感じていた。
《なんということだ! あの女がそばにいると、ときどきぼんやりしてしまうし、退屈になることさえある。あの女はおれのために一生を棒にふろうとしているのに、これがそのお返しなのか! いったい、おれは悪い人間なんだろうか?》野心に夢中なころだったら、こんな問題はてんでジュリヤンの気にもかからなかっただろう。その時分は、ただ出世しないことだけが恥辱のように思えたのである。
マチルドが、このごろでは、ジュリヤンに対して、並はずれな、気違いじみた愛情をいだきはじめただけに、ジュリヤンは、マチルドが来ると、よけい心苦しさを感じた。マチルドは、ジュリヤンを救うためにどんなとっぴな犠牲でもはらうつもりだと、ただそれだけしか話さないのである。
自分でも誇りとしている愛情、自尊心よりも強い愛情に、マチルドはすっかりのぼせあがっていた。人並はずれたふるまいをせずには、ちょっとの間も過したくないという気分だったのだろう。自分の身をあやうくするようなとっぴきわまる計画を、長々とジュリヤンに語るのだった。牢番《ろうばん》たちはたんまり金をもらっているので、牢獄のなかをマチルドの思うままにさせておいた。マチルドの着想は、自分の評判を犠牲にするというだけではすまなくなった。自分の立場が社会全体に知れわたったとしても、そんなことはなんでもなかった。疾駆する国王の馬車の前へ身体《からだ》を投げだし、ひざまずいてジュリヤンの助命をお願いする、幾度となくひき殺される危険を冒しても、国王のお目にとまるようにしたい、といったことは、マチルドの、とりのぼせて大胆になった頭が描き出す幻想のうちでは、ごく小さなほうだった。国王の側《そば》近くに仕えている友達の手引で、サン = クルー御苑《ぎょえん》の、立入り禁止の場所へでも、きっとはいれるだろうと思っていた。
ジュリヤンは、自分はこんなにまでつくしてもらう価値がないと思っていた。実際は、英雄的な行為にうんざりしていたのである。単純で素直な、むしろおどおどした愛情だったら、心を打たれもしたであろう。ところが、気位の高いマチルドの心には、反対に、いつも公衆とか、他人《・・》とかいう観念が必要なのだった。
恋人よりも生きながらえたくないと思い、恋人の生命《いのち》を気づかって、悩みぬいているさなかにも、マチルドは、はげしい愛情と気高い行為とで、世間をあっといわせようという欲望をひそかにいだいていた。
ジュリヤンは、この英雄的行為にすこしも心を動かされない自分が腹だたしかった。もしも、マチルドの気違いじみたふるまいを残らず知ったら、どういう気がしたろう。その気違いじみたふるまいで、献身的とはいいながら、いたって分別くさくて、見解の狭い、好人物のフーケは、さんざん悩まされていた。
フーケは、こういうマチルドの献身ぶりを、どうにも咎《とが》めようがなかった。なぜなら、フーケにしても、ジュリヤンを救うためには、全財産を投げうち、どんな大きな危険にも、身をさらそうと覚悟していたのだから。しかし、マチルドがまきちらす黄金の量には、肝をつぶした。フーケは金銭に対して、田舎者特有の畏《い》敬《けい》の気持をもっていたから、はじめのうちは、こうして使われる金の高を見て、圧倒されてしまった。
やがて、フーケは、ラ・モール嬢の計画がしょっちゅう変るのに気がついた。まったく気疲れのするこういう性格を非難するのに、ちょうどいい言葉を考えついて、ほっとした。《このお嬢さんは移り気《・・・》なのだ》この形容詞とあまのじゃく《・・・・・・》とはほんの紙一重だし、あま《・・》のじゃく《・・・・》とは田舎ではいちばんひどい悪口なのである。
《まったくふしぎだ》と、ある日、マチルドが牢獄から出ていったあとで、ジュリヤンはつぶやいた。《あんなはげしい愛情の相手になりながら、おれがこんなに無感動だとは!ふた月前には、好きでたまらなかったのに!なるほど、死が近づくと、なんにも興味がもてなくなるということは、本で読んだことがあるが、それにしても、自分を恩知らずだと思いながら、それを変えることができないのはやりきれない。いったい、おれはエゴイストなのだろうか?》ジュリヤンは、この点について、きびしく自分を責めた。
ジュリヤンの心の中では、野心が死んで、そのあとからもうひとつ別の情熱が生れていた。ジュリヤンは、それを、レーナル夫人を殺そうとしたことに対する後悔と呼んでいた。
事実、ジュリヤンは、無性にレーナル夫人が恋しかった。ひとりにされ、邪魔のはいる心配もなく、むかしヴェリエールやヴェルジーで過した楽しい日々の思い出に、心ゆくまでひたれるときは、異様なほど幸福な気がした。あまりにも早く過ぎ去ってしまったあのころの、どんなわずかな出来事にも、ジュリヤンはたまらないほどの魅力と新鮮さとを感じた。パリでちやほやされたことなど、けっして考えなかった。そんなことにはうんざりしていた。
日ましにつのっていくこの気持を、マチルドは嫉妬心から、いくぶん感づいた。自分の戦う相手は、ジュリヤンの孤独を愛する気持なのだとはっきり悟っていた。ときには、レーナル夫人の名を、空おそろしそうに、口に出してみたりした。すると、ジュリヤンは身ぶるいする。それ以来、マチルドの愛情は、とめども節度もなくなってしまった。
《あの人が死んだら、あたしもあとを追って死のう》心底からそう思った。《パリのサロンでは、あたしのような身分の娘が、死ぬにきまった愛人を、こんなに愛しているのを見たら、なんというだろう? こんな感情を見つけるには、英雄時代にまでさかのぼらなければならない。シャルル九世とアンリ三世の時代に、人々の心をときめかせたのは、こういう種類の恋愛だったのだ》
はげしい興奮に感きわまって、ジュリヤンの頭を胸に抱きしめている最中でも、マチルドは、《ほんとに! このかわいい首が落ちてしまうなんて!》とつぶやきながら、身ぶるいしたり、そうかと思うと、英雄的な感情でのぼせあがり、楽しい気持になりながら、《いいわ! あたしの唇《くちびる》も、このきれいな髪におしあててから二十四時間たたないうちに、冷たくなってしまうのだから》とつけ加えたりした。
こういう英雄的な感情と、強烈な官能のひとときの思い出が、マチルドにこびりついて離れなかった。自殺という考えは、それ自体なかなかひとの気を惹《ひ》くものだが、これまでは、マチルドの高慢な心には無縁なものだった。ところが、それがしのびこんできて、たちまち絶対的な力で、マチルドの心に巣くってしまった。《そうだわ。うちの先祖の血は冷めないで、あたしにまで伝わっている》と、マチルドは誇らしげにつぶやいた。
「あなたにひとつお願いがあるんだが」と、ある日恋人がいった。「あなたの子を、ヴェリエールへ里《さと》子《ご》に出してもらいたいんだ。乳母のことはレーナル夫人が気をつけてくれるだろうから」
「ずいぶんひどいことをおっしゃるのね」
といって、マチルドはさっと顔色を変えた。
「そうだったね、わたしが悪かった」ジュリヤンは空想から冷めて、マチルドを両腕に抱きしめた。
彼女の涙を拭《ぬぐ》ってやると、ジュリヤンはまたもとの考えをもち出したが、今度はずっと巧妙にふるまった。ジュリヤンは話しながらも、憂鬱《ゆううつ》な哲学的な調子を出した。もうじき幕がひかれようとしている未来のことを話した。
「ねえ、人生では、情熱なんてものは、偶然の出来事にはちがいないけれど、この出来事はすぐれた心の持主の場合にしか、起らないのだ。……わたしの子供など、ほんとうは死んでしまったほうが、名誉あるあなたの家にとっては都合がいいのだ。くだらぬ連中は、どうせそんなふうに勘ぐるだろう。なおざりにされるのが、不幸と汚辱から生れた子の宿命だろう。……これはべつにいつのことだとはいいたくないが、しょせん、そうなると覚悟はしているんだ。つまり、あなたはわたしの最後のすすめにいつかは従うだろうと思う。クロワズノワ侯爵と結婚するんだね」
「まあ、操《みさお》をすてたあたしが!」
「操をすてたって、あなたのような、りっぱな家柄のひとには、たいして問題にならない。あなたはやもめになる、それも気違い男のやもめになる、ただそれだけさ。もっと突っこんでいえば、わたしの犯行は金銭が動機ではないから、すこしも不名誉にはならない。たぶんその時分には、だれか哲学的な立法者が、同時代の人々の偏見をうちやぶり、死刑の廃止に成功しているかもしれない。すると、わたしに同情するひとも出てきて、たとえとして、こういうだろう。『ほら、ラ・モール嬢の最初の夫は、気違いだったが、悪い男でも凶悪漢でもなかった。あの男の首を斬《き》るなんて、不合理なことだった……』そうなれば、わたしに関する思い出は、不名誉なものではなくなる。すくなくとも、ある時期が過ぎればね。……あなたの社交界での地位、あなたの財産、それにいわしてもらえば、あなたの天分のおかげで、夫になるクロワズノワ氏も、ひとりではとうていおぼつかない役割を演じることができるだろう。あのひとのもっているのは、生れと勇気だけだ。一七二九年にはこうした点だけで申し分ない紳士になれたが、百年たった今では、時代錯誤で、せいぜいうぬぼれのたねにしかならない。フランスの青年たちの先頭に立つには、もっとほかのものが必要なのだ。
あなたは、夫を政党へ入れて、その政党へ、断《だん》乎《こ》とした大胆なあなたの性格の援助を与えるがいい。フロンドの乱のシュヴルーズ夫人や、ロングヴィル夫人の後継者になることができるかもしれない。……しかしそのころには、ねえ、マチルド、今あなたを燃えたたせている神聖な情熱は、いくぶん冷めているだろう」
それからなお、いろいろと前置きの言葉を並べたあとで、ジュリヤンはつけ加えた。「あえていわせてもらうが、十五年もすれば、わたしに愛情をいだいたことを、血迷い沙汰《ざた》だったと思うだろう。そりゃ大目に見ることはできようが、ともかく血迷い沙汰だからね」
ジュリヤンは、ふいに言葉を切って、もの思いに沈んだ。マチルドにとっては、まことに不愉快な考えに、彼はまた面と向ったのだ。《十五年たっても、レーナル夫人はおれの子どもをかわいがってくれるだろうが、あなたは忘れてしまうにちがいない》
第四十章 平静
今日わたしがおとなしくしているのは、あのころ気違いじみていたからだ。瞬間のことしか眺《なが》めない哲学者よ、きみの視野はなんと狭いことか! きみの目は、情熱のひそかないとなみを、追うことができないのだ。
W・ゲーテ
この日の会話は、訊問《じんもん》のために打ち切られた。それに続いて、弁護をひきうけた弁護士との打合せがあった。ぼんやりして、甘い夢想に耽《ふけ》っていられる生活で、これだけが文句なしにいやなひとときだった。
「殺人です。計画的な殺人です」と、ジュリヤンは、判事にも、弁護士にも、同じようにいった。そして、微笑を浮べては、「お気の毒ですが、みなさん、これではあなたがたの仕事がしごく簡単なものになってしまいますね」
このふたりからやっと解放されたとき、ジュリヤンは考えた。《つまり、おれは勇敢にちがいない。明らかにあのふたりよりは勇気があるわけだ。あいつらときたら、負けるにきまっているこの決闘のことを、いちばん大きな不幸だとも、おそろしいことの親玉《・・・・・・・・・・》だとも思っている。だが、おれは、いよいよその日になるまでは本気で考えたりしないぞ》
《それは、おれがもっと大きな不幸を、これまでに知っていたからだ》ジュリヤンはひとりで、理屈をならべた。《前にストラスブールへ旅行したときのこと、マチルドに捨てられたと思っていたときの苦しみは、たいした苦しみだった。……今のおれは、マチルドがうちとけた様子をしても、まるで興奮しないが、あのころは、それをあんなにはげしく求めていたんだからな!……じっさい、あのきれいな娘が慰めに来てくれるときよりも、ひとりでいるときのほうが、おれにはずっと楽しい……》
弁護士は、杓子定規《しゃくしじょうぎ》の、形式ばった男だった。ジュリヤンの頭がおかしいのだと思いこんで、世間のひとと同じように、ピストルを手にしたのは嫉《しっ》妬《と》が原因なのだと考えていた。ある日、ジュリヤンに向って、ほんとうか嘘《うそ》かはともかく、そう申し立てたほうが弁護にはすばらしく都合がいいのだがといって、納得させようとした。被告は、とたんに興奮して、すごいけんまくになった。
「生命《いのち》が惜しいなら」と、ジュリヤンはかっとなって叫んだ。「そんないやったらしい嘘は、二度といわないように気をつけたまえ」気の小さい弁護士は、一瞬殺されるのではないかと思った。
最後のときがどんどん迫ってくるので、弁護士は、弁論を用意した。ブザンソンと、県全体が、この有名な訴訟事件でもちきりだった。ジュリヤンはそんな事実を知らなかった。そうしたことを、けっして耳にいれてくれるなと、頼んでおいたのである。
その日も、フーケとマチルドが、ふたりの考えでは大いに意を強くしてもいいような世間の取《と》り沙汰《ざた》を、すこしはジュリヤンの耳にもいれておこうとした。すると、ジュリヤンは話がはじまったとたんに、やめてくれといった。
「ぼくに思いどおりの生活をさせといてくれ。きみたちのいろんな苦労や、こまごました現実の生活の話は、どっちみち、ぼくには不愉快だ。天上からひきずりおろされるような気がする。ひとにはめいめい、自分にふさわしい死にかたがある。ぼくも、ぼくの好きなようにしか死ぬことを考えたくはない。他人《・・》がなんだ。ぼくと他人《・・》との関係は、もうじきぷっつりと切れてしまうのだ。お願いだから、そんな連中のことは話さないでくれ。判事と弁護士に会うだけで、もうたくさんなんだから」
《まったく》とジュリヤンは心の中で思った。《空想しながら死ぬのが、おれの運命らしい。おれのように名もない人間は、二週間もすれば、忘れられてしまうにきまっているから、正直なところ、お芝居をするなんてばかげている。……
だが人生の終りがこんなに近くなってから、やっと生きることの楽しさがわかってきたとは、ふしぎな話だな》
ジュリヤンは、この最後の数日、マチルドがオランダから取り寄せてくれた最上級の葉巻をくゆらせながら、天守閣の上の狭い露台を散歩して過した。ジュリヤンの出現を、町じゅうの望遠鏡が待ちうけていることなどには、すこしも気がつかなかった。ジュリヤンの思いはヴェルジーの空にあった。彼はフーケに向って、レーナル夫人の話をけっしてしようとはしなかったが、この友達のほうから、二、三度、夫人がぐんぐんよくなっていることを、ジュリヤンに知らせた。その言葉はジュリヤンの胸の中で鳴りひびいた。
ジュリヤンの心が、ほとんどいつも、観念の世界をさまよっているあいだに、マチルドは、貴族的な心の持主にふさわしく、現実的な仕事に没頭していた。彼女の働きで、フェルヴァック夫人とフリレール神父とのあいだに直接取り交わされている書信は、ぐっとくだけた調子になり、司教職《・・・》というのっぴきならぬ言葉までが筆にのぼるほどになっていた。
聖職者の任免権を握っている例の司教は、姪《めい》の手紙の終りに添え書きしてきた。「この《・・》不幸なソレルは《・・・・・・・》、ただ軽率な男だというだけです《・・・・・・・・・・・・・・》。われわれにお返しくださればさいわいです《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
この数行を見ると、フリレール神父は、我を忘れたようになった。ジュリヤンの助命については、もはや疑わなかった。
公判の三十六人の陪審員がくじ引きできめられる前日、神父はマチルドにいった。
「過激革命派の法律で、こんなにたくさんの陪審員を作ることがきめられたのですが、家柄のいいひとたちの勢力を根こそぎ奪うのが、その実際の目的なのです。こんな法律がなければ、わたしは評決《・・》のことを左右できたのです。なにしろあのN……司祭さえ無罪にしてみせたんですからね」
あくる日、抽籤箱《ちゅうせんばこ》から出てきた名前のなかに、ブザンソンの五人の修道会員、ブザンソン以外の住人では、ヴァルノ氏、モワロ氏、ショラン氏などの名前を見つけたとき、フリレール神父は喜んで、マチルドにいった。「まずこの八人の陪審員には、たいこ判が押せます。はじめの五人は人形《・・》も同然です。ヴァルノはわたしの手先で、モワロはわたしがいっさい面倒を見てやった男です。ショランはなんにでもびくびくしている臆病者《おくびょうもの》ですし」
新聞で、県下に陪審員の名が知れわたると、レーナル夫人は、ブザンソンへ行きたいといい出した。レーナル氏は、すっかりおそれをなした。やっとの思いで夫人に承知させることができたのは、証人として喚問されるようないやな目にあわないために、ベッドから一歩も離れないということだけだった。「あんたには、わたしの立場がわかっていないんだ」と、ヴェリエールの前町長はいった。「わたしは今では、連中にいわせると、脱党派《・・・》の自由主義者ということになっているんだ。あのやくざなヴァルノや、フリレールさんが、検事総長や判事連を簡単にそそのかして、わたしにありとあらゆるいやがらせをするのは、目に見えているよ」
レーナル夫人は素直に夫のいいつけに従った。《もしもあたしが法廷へ出たら、復讐《ふくしゅう》を要求しているように見えるかもしれない》
告解師や夫に、あれほど軽率な行いはしないと約束してきたのに、レーナル夫人はブザンソンへ着くが早いか、三十六人の陪審員に、いちいち自筆の手紙を出した。
「公判の日には、わたくしはまいらないつもりでおります。わたくしがまいったために、ソレルさまが不利な立場におかれるといけませんから。この世の中で、わたくしが心の底から望んでおりますことは、ただソレルさまのお生命《いのち》が助かることなのでございます。ほんとうでございます。わたくしのために、罪のないかたがひとり死ぬことになったなどと考えたら、おそろしさにこれから一生苦しみましょうし、生命もちぢまることでございましょう。わたくしが生きておりますのに、どうしてあのかたを死刑にしなければならないのでしょうか?たしかに、社会には、ひとの生命を、とりわけジュリヤン・ソレルさまのようなひとの生命を、奪いとる権利はございません。ヴェリエールでは、だれでも、あのひとがときどき気が変になるのを知っていました。あのお気の毒な若いかたには、手ごわい敵がいるのでございます。けれども、たとえ敵ではあっても(ほんとにどんなにたくさんいるかしれないのでございます!)あのかたのすばらしい才能と、深い知識とを疑うひとはございますまい。それに、あなたさまがこれからお裁きになられるのは、常人ではないのでございます。一年半近くものあいだ、わたくしどもはみな、あのかたが敬虔《けいけん》で、つつましく、よく働くのを存じておりました。けれども、年に二、三回、憂鬱《ゆううつ》の発作におそわれると、それが昂《こう》じて、気が変になるのが例でした。ヴェリエールの町のひとは、だれでも、また、わたくしどもが時候のよいとき過しますヴェルジーでのご近所のかたがたや、わたくしども一家のものをはじめ、郡長さままでが、模範的なあのかたの敬虔さを認めてくださると思います。あのかたは、聖書を、一句残らずそらで覚えておいでです。信仰の薄いひとでしたら、なん年もかかって一生懸命に聖書を覚えたりするでしょうか? この手紙はわたくしの息子たちにもたせてお届けいたします。まだほんの子供でございますが、どうか息子たちにおたずねくださいませ。あのお気の毒な若いおかたのことを、なんでもお話し申し上げることでございましょう。その話で、あのかたを処刑することが、どんなにむごいことか、納得していただけると存じます。処刑などということになりますれば、わたくしは恨みがはれるどころか、きっと死んでしまいましょう。
あのひとの敵も、この事実にどう反対することができましょうか? わたくしの子供でさえ、自分たちの先生がときどき気が変になるのを認めていたのでございますが、たまたま、そういうおりに加えられたこの傷も、まるで危険なものではないのでございます。たとえば、わたくしは、まだふた月もたたないうちに、郵便馬車に乗って、ヴェリエールからブザンソンへ来るようになれました。もしあなたさまが、あの罪のないひとを、むごい法律の手から救うことに、すこしでもためらいをお感じになるのでしたら、わたくしはベッドを出て――ただ夫からいいつけられましたので、ベッドにいるのでございますが――あなたさまのおもとに、ひざまずきに参りましょう。
どうか、計画的に行なったという確証はないとおっしゃってくださいませ。そうすれば、罪のないものの血を流したなどと、この先、心にお咎《とが》めになることもないかと存じます」
第四十一章 公判
この地方では、この有名な訴訟事件を、いつまでも記憶していることだろう。被告への同情は興奮状態にまで達した。その犯行は、ひとを驚かしたとはいうものの、凶暴ではなかったからである。かりに凶暴だったとしたところで、その青年はじつに好男子だった! すばらしい出世をしたが、すぐそれがだめになってしまったことは、ますますひとの心を動かした。「処刑になるのでしょうか」と女たちは知合いの男にたずねたが、みると、真っ青な顔色をして、その返事を待っていた。
サント = ブーヴ
レーナル夫人とマチルドとが、おそれにおそれていた日が、とうとうやってきた。
ふだんとはがらりと変った町の様子が、ふたりのおそれをますます深めた。フーケのしっかりした心でさえ、興奮せずにはいられなかった。この地方一帯のひとが、この小説的な事件の公判を見ようとして、ブザンソンへ駆けつけていた。
幾日も前から、宿屋には空いた部屋がなくなっていた。裁判長は傍聴券の請求に責めたてられていた。町じゅうの貴婦人が公判を見たがっていた。通りでは、ジュリヤンの似顔を呼売りしているといったありさまだった。
この最後のときのために、マチルドは、***司教猊《げい》下《か》の、全文自筆の手紙をとっておいた。フランスの教会を支配し、司教の任免権を握っているこの司教猊下が、ジュリヤンの釈放を求める手紙を書いてくださったのだ。公判の前日、マチルドはこの手紙をもって、はぶりのいい副司教をたずねた。
会見が終って、マチルドが涙にかきくれながら出ていこうとすると、フリレール神父は、はじめて外交官的な慎重さをすて、ほとんど興奮の色さえ浮べて、こういった。「陪審員の答申については、たいこ判を押します。あなたのおかばいになっているかたの罪状が明白かどうか、とくに計画的であったかどうかを調べる役目の十二人のうち、六人までがわたしの味方で、わたしの出世を願っている連中です。わたしが司教職につけるかつけないかは、その連中の出かた次第だと、それとなくいっておきました。ヴァルノ男爵《だんしゃく》は、わたしがヴェリエールの町長にしてやった男で、部下のモワロとショランの両氏を、好きなように動かせます。なるほど、くじ引きの結果は、今度の事件のために、ふたりだけひどく思想の不穏な陪審員が出てきてしまったにはちがいありませんが、この連中も過激自由主義者とはいえ、大事な場合には、わたしのいうことをよくきいてくれます。で、今度も、ヴァルノ氏と同じ側へ投票するようにと、頼んでおきました。六番目の陪審員は、実業家で、たいへんな金持で、自由主義者のおしゃべり男です。わたしが聞いたところでは、陸軍省の御用商人になろうという下心があるそうですから、わたしの機《き》嫌《げん》をそこねるようなことはしますまい。わたしの意向はヴァルノに聞くように伝えておきました」
「ヴァルノさんって、どんなかたでしょうか?」と、マチルドは心配そうにきいた。
「あの男をご存じでしたら、必ずことがうまく運ぶとお思いになるはずです。ずうずうしい恥知らずな男で、柄《がら》の悪い多弁なやつですし、ばかな連中をひきまわすにはもってこいの男です。一八一四年にどん底から浮び上がったんですが、わたしはそのうち、あの男を知事にしてやるつもりです。もしほかの陪審員が自分のとおりに投票しなかったら、なぐるくらいなことはやりかねません」
マチルドはすこし安心した。
もうひとつの議論が、その夜、マチルドを待っていた。ジュリヤンは、どうせ結果はわかりきっているので、不愉快な場面を長びかせまいと思って、自分からは発言しまいときめていた。彼はマチルドにいった。
「弁護士がしゃべってくれるから、それでたくさんです。どうせ、敵意をもっている連中の前で、いつまでもいい見世物になるくらいがせきのやまだ。あの田舎者たちは、あなたのおかげでわたしがとんとん拍子に出世したことをおもしろく思っていないんです。だから、見ていてごらんなさい、わたしの処刑を望まないものは、あの中にひとりだっていやしないから。もっとも、わたしが刑場へひかれていくときには、涙だけはばかみたいに流すでしょうがね」
「そりゃ、たしかに、みんなはあなたのみじめな姿を見たがっているでしょうけれど、あたしには、それほど残酷なひとたちだとは思えないわ。あたしはブザンソンまでやってきたし、こんなに悲しんでいるでしょう、それが女のひとたちの同情をひいたのよ。あとは、あなたのきれいなお顔がものをいいます。もしあなたが判事の前で一言おっしゃったら、傍聴席じゅうがあなたの味方になりますわ」云々《うんぬん》。
あくる日の九時に、ジュリヤンが牢獄《ろうごく》からおりて、裁判所の大法廷へ行こうとすると、中庭は、大勢のひとでぎっしり埋まっていて、憲兵が道をつくるのもやっとだった。ジュリヤンは、ぐっすり眠ったので、気分も落ち着いていた。無慈悲な気持からではないまでも、とにかく自分の死刑の宣告に喝采《かっさい》しようとしているやじうまに対して、悟りきった憐憫《れんびん》以外に、なんの感慨も覚えなかった。ひとごみのまんなかに十五分以上もひきとめられていると、意外にも、自分の姿が民衆に、暖かい同情の気持を起させているのが、自然とわかってきた。不愉快な言葉は、一言も聞えてこなかった。《この田舎者たちは、思っていたほどひとが悪くないな》とジュリヤンは思った。
公判廷へはいると、ジュリヤンは、その建築の趣味がよいのに目を見はった。生粋《きっすい》のゴチック様式で、石を入念に刻んで作った美しい小円柱がたくさん並んでいた。ジュリヤンはまるでイギリスにいるような気がした。
じきに、ジュリヤンの注意は、被告席の正面で、判事や陪審員たちの席の上の三つのバルコンを埋めている、十四、五人の美しい婦人にすっかり惹《ひ》きつけられた。一般の傍聴席のほうをふりむいて見ると、階段席の上にぐるりと張り出している円形の桟《さ》敷《じき》は、女でいっぱいだった。大部分は若く、ジュリヤンにはひどく美しく見えた。みんな、同情に満ちた目を輝かせている。大法廷のほかの場所は、ものすごいひとだった。入口では、つかみあいがはじまるありさまで、守衛がなにをいっても静かにならなかった。
待ちかねていたひとたちは、ジュリヤンがあらわれて、すこし高くなった被告席に着くのを見ると、驚きと同情の声をあげた。
この日のジュリヤンは二十歳にも見えなかった。服装はしごく地味だったが、申し分のないほど品がよくて、髪と額とが美しかった。マチルドが自分からジュリヤンの身支度を買って出たのである。ジュリヤンは極度に蒼白《あおじろ》い顔色をしていた。被告席にすわるかすわらないうちに、四方八方からささやく声が聞えた。「まあ、なんて若いんでしょう……」「子供じゃないの……」「似顔よりずっといいわ……」
「被告」と右脇《みぎわき》にすわっている憲兵が声をかけた。「ほら、あのバルコンに六人の婦人がすわっているだろう」憲兵は陪審員が陣どっている階段席の上に突き出した、小さな桟敷を指さした。「あれが知事閣下夫人で、その横においでになるのはM***侯爵夫人だ。知事閣下夫人はきみがお気に召したらしい。さっき予審判事に話しているのを聞いたんだがね。それから、あれがデルヴィル夫人だ……」
「デルヴィル夫人!」と叫ぶと、ジュリヤンの顔はさっと赤くなった。《ここを出たら、あのひとはレーナル夫人に手紙を書くだろう》ジュリヤンは、レーナル夫人がブザンソンへ来ていることを知らなかった。
証人の供述はすぐにすんだ。次席検事の論告がはじまって、ふた言、み言いうと、ジュリヤンの真正面の、小さなバルコンにいる婦人たちのふたりが泣きだした。《デルヴィル夫人はあんなに情に溺《おぼ》れるひとじゃない》だが、夫人の顔がひどく赤くなっているのにジュリヤンは気がついた。
次席検事は、まずいフランス語で、犯行の残虐《ざんぎゃく》さについて、雄弁をふるっていた。デルヴィル夫人の隣の婦人たちが、はげしい不満の色を見せているのが、ジュリヤンの目にはいった。数名の陪審員が、知合いらしく、この婦人たちに話しかけては、安心させている様子だった。《とにかく、さいさきのいいしるしだな》と、ジュリヤンは思った。
それまで、ジュリヤンは、公判に来ているすべての連中に対して、頭から軽蔑《けいべつ》を感じていた。次席検事のくだらない弁論は、ますますこの嫌《けん》悪《お》をつのらせた。しかし、自分が明らかに同情の的になっているのを見て、次第に、ジュリヤンのかたくなな気持も、ほぐれてしまった。
弁護士の頼もしい顔つきが気にいった。「あっさり願います」と、弁護士が口をきろうとしたとき、ジュリヤンは小声でささやいた。
「どうせボシュエの借りものですよ、あの美辞麗句は。でも、あんなふうに攻撃されたんで、かえってあなたは有利になりましたよ」と弁護士はいった。事実、弁護士が話しはじめて、五分たつかたたないうちに、ほとんどの婦人がハンカチを手にしていた。弁護士はこれにいきおいづき、陪審員たちに向って、ずいぶん思いきったことをいった。ジュリヤンも身をふるわせた。もうすこしで涙が出そうになった。《畜生! これじゃ敵のやつらになんていわれるかわからんぞ》
こみあげてくる感動にあわや負けてしまいそうになったとき、さいわいにも、ヴァルノ男爵の横柄《おうへい》な目つきにぶつかった。
《あん畜生、目をぎらぎらさせてやがる。下《げ》司《す》野郎め、いい気持になっていることだろう! こんなはめになっただけでも、自分の犯行が呪《のろ》いたくなるくらいだ。レーナル夫人にどんなことをいうか、知れたもんじゃない!》
この考えが、ほかのすべての考えを消してしまった。やがて、ジュリヤンは、聴衆の拍手の音で我にかえった。弁護士は、弁論を終ったところだった。ジュリヤンは、握手をするのが礼儀だと気がついた。時がどんどんたってしまっていたのだ。
弁護士と被告に冷たい飲み物が運ばれた。そのときになってはじめて、ジュリヤンはある事実に心を打たれた。婦人はだれひとりとして、傍聴席を離れて食事をしにいこうとはしなかったのである。
「いや、お腹《なか》がすいたのなんのって! あなたは?」と弁護士がきいた。
「わたしもです」と、ジュリヤンは答えた。
「ほら、知事夫人も食事を運んできてもらったわけですよ」と、いいながら、弁護士は小さなバルコンを指さした。「しっかりなさい。万事うまくいっています」公判は再開された。
裁判長が事件の概略を述べていると、夜の十二時が鳴った。裁判長はやむをえず話を中断した。不安のただよう沈黙のなかを、大時計の鐘の音が法廷に響きわたった。
《おれの最後の日がはじまるのだ》と、ジュリヤンは考えた。まもなく、義務の観念が身《から》体《だ》じゅうに燃えあがるのを感じた。それまでは、感動を抑えて、一言も口をきくまいという決心を守ってきたのだ。裁判長からなにかつけたすことはないかときかれて、ジュリヤンは立ち上がった。真正面に、デルヴィル夫人の目が、あかりを受けてきらきらと輝いているように見えた。《泣いているんだろうか、ひょっとしたら?》とジュリヤンは思った。
「陪審員のみなさん、
死ぬまぎわになれば、軽蔑など問題ではなかろうと思っておりましたが、やはり軽蔑されるのはやりきれませんので、一言いわせていただきます。みなさん、わたくしは残念ながら、みなさんの階級に属する人間ではありません。ごらんのとおり、わたくしは自分の卑《いや》しい身分から抜け出そうとした、ひとりの百姓であります」
ジュリヤンはいちだんと声をはりあげた。
「わたくしは、みなさんのお情けを求めはいたしません。甘い考えなどはけっしてもってはおりません。わたくしは死ななければならないのです。それも自業自得であります。あらゆる敬意と尊敬を受けるにもっともふさわしい婦人の生命に、わたくしは危害を加えようとしました。レーナル夫人は、わたくしにとって、母親ともいうべきかたでした。わたくしの犯行は人道にもとるものであり、計画《・・》的《・》なものだったのです。陪審員のみなさん、したがって、わたくしは死刑に値します。しかし、かりにわたくしがこれほどの罪を犯さなかったにしても、わたくしの少年時代がどれほど同情に値するものだったかなどということは考慮しないで、わたくしを罪に落そうとするひとびとがいることを知っています。そうすることによって、卑しい階級に生れ、いわば貧困にいためつけられながらも、さいわいりっぱな教育を受け、金持のひとたちが得意になって社交界と呼んでいる世界へ、ずうずうしくもはいりこもうとする青年の一団を、徹底的に打ちのめしてしまおうというのです。
みなさん、わたくしの犯した罪とは、そういうものなのです。しかも、わたくしが自分と同じ階級のひとによって裁かれていないだけに、この罪は、よけいきびしく罰せられることでしょう。見わたしたところ、陪審員席には、小金をもった百姓らしきおかたはひとりもいないようです。どなたもみな、敵意を含んだ市民階級のかたがたばかりではありませんか……」
二十分も、ジュリヤンはこういった調子でしゃべり続けた。心の中にたまっていたものをすっかりはきだした。貴族階級の引立てにあずかろうという腹の次席検事は、座席から飛び上がった。ジュリヤンは、やや抽象的ないいかたで述べ立てたのだが、それでも婦人たちはみな泣きくずれた。デルヴィル夫人でさえも、目にハンカチをあてていた。申立てを終るに先立って、ジュリヤンはもう一度計画的犯行であること、それを後悔していること、かつて楽しかった時代にはレーナル夫人を尊敬し、母のように限りなく慕っていたことなどを述べた。……デルヴィル夫人は叫び声をあげて、気を失った。
陪審員たちが別室へ退出したとき、一時が鳴った。席を立った婦人はひとりもいなかった。目に涙をためている男もかなりいた。はじめのうちは、口々に話がはずんでいたが、陪審員の決定が長びいたので、聴衆も疲れてきて、しだいに静かになった。おごそかなひとときだった。灯火が薄暗くなってきた。ジュリヤンもすっかり疲れてしまったが、こんなに手間取るのは吉兆なのか悪い兆《きざ》しなのかと、そばでいいあっているのが聞えてくる。だれもが自分のために有利な判決を願っているのが、ありがたかった。陪審員はいつまでも戻《もど》ってこなかったが、法廷を出る婦人はひとりもいなかった。
二時が鳴ってまもなく、ざわめきが聞えて、陪審員室の小さなドアが開いた。ヴァルノ男爵が、おもおもしい、芝居がかった足どりで出てきた。そのあとから、残りの陪審員たちがついてきた。ヴァルノは咳《せき》ばらいをしたのち、魂と良心にかけて、陪審員は満場一致で、ジュリヤン・ソレルが殺人罪、それも計画的殺人罪を犯したことを認めると言明した。この答申は結果として死刑を意味する。ただちにその宣告が下された。ジュリヤンは自分の懐中時計を見た。ラヴァレット氏のことが頭に浮んだ。二時十五分すぎだった。《今日は金曜日だっけ》と思った。
《そうだ、しかし、おれに死刑を宣告したヴァルノにとっては、縁起のいい日だな。……監視がきびしいから、マチルドも、ラヴァレット夫人のまねをして、おれを助け出すことはできまい。……これで三日さきの今ごろは、あの大きな疑問《・・・・・》がわかるというわけだ》
このとき、叫び声が聞えて、ジュリヤンは現実の世界に呼び戻された。まわりでは女たちがしゃくりあげている。見ると、人々の顔は、いっせいに、ゴチック式の壁柱の上につくられた小さな特別傍聴席のほうを向いている。のちになって、ジュリヤンは、そこにマチルドが身をしのばせていたことを知った。それっきり叫び声は聞えなかったので、人々の目はまたジュリヤンに注がれた。憲兵がひとごみをかきわけて、ジュリヤンを連れていこうとしていたのである。
《悪党のヴァルノのやつに笑われないようにしよう》とジュリヤンは思った。《死刑を予想して答申をするのに、いかにも残念そうな、お追従《ついしょう》たっぷりの様子をしやがって! それにひきかえ、裁判長のほうは、長年裁判官をつとめているのに、おれに刑を宣告しながら涙をためていたんだ。レーナル夫人をはさんだ、むかしのさやあての恨みをはらすことができて、ヴァルノのやつ、どんなにうれしいかしれないだろう!……ところで、おれは夫人に会うことももうないだろう! なにもかもおしまいだ。……もう一度お互いに最後の別れをすることさえできない。そんな感じがする。……おれが自分の罪をどんなに悔んでいるか、あのひとにいえたら、こんなうれしいことはなかったろうに!
ただ、これだけいえたらいいのだ。わたしは、正しい裁きを受けたのです、と……》
第四十二章
牢獄《ろうごく》へ戻《もど》ると、ジュリヤンは、死刑囚の監房にいれられた。いつもはごく細かなことにまで気のつくジュリヤンが、天守閣へ連れていかれなかったことに、全然気がつかなかった。死ぬ前に、もし運よくレーナル夫人に会うことができたら、なんといおうかと、そればかり考えていた。夫人は、自分にみなまでいわせないだろう、だから、なんとかして最初の一言で、後悔の気持を十分伝えるようにしたいと思った。《あんなことをしたあとだからな、どうしたら、おれがあのひとだけを愛しているってことを、わかってもらえるか? なにしろおれの野心のためというか、マチルドを愛するためというか、それがもとであのひとを殺そうとしたのだから》
ベッドにはいると、敷布はあらい布地だった。ジュリヤンは気がついた。《なるほど、おれは死刑囚として、地下牢にいれられたんだな。あたりまえだ……》と思った。
《アルタミラ伯爵がおれに話したっけ。死刑の前の日に、ダントンは例のどら声でいったそうだ。「妙だな。首を斬る《ギヨチネ》という動詞の変化は、どの時称についてもいえるってわけのものでないぞ。おれは首を斬《き》られるだろう、おまえは首を斬られるだろう、とはいえても、おれは首を斬られた、とはいえないのだから」
そんなことはないさ、あの世があるとしたら。……いやいや、もしキリスト教徒の神さまに出会ったら、おれはおしまいだ。あの神さまは暴君だし、いかにも暴君らしく、復讐《ふくしゅう》のことしか考えていないのだから。聖書には残酷な刑罰の話ばかりが書いてある。おれはあんな神さまを愛したことは一度もない。またひとが心から神を愛しているなんてことを、一度だって本気にしたことさえないんだ。まったく無慈悲な神さまだ(ジュリヤンは聖書のいろいろな個《か》所《しょ》を思い出した)。きっとおれはひどい罰をこうむるだろう。……
だが、もしおれがフェヌロンの神さまに出会ったら! あの神さまはおれにいうかもしれない。「おまえは大いに愛したから、大いに許されるだろう」と。
おれは大いに愛したかな? そりゃ、むろん、レーナル夫人を愛したにはちがいないが、おれのしたことはひどかった。あの場合でも、ほかの場合でも、素《そ》朴《ぼく》なつつましい値打のものを、はなやかなもののためにすててしまった。
だが、なんてすばらしい出世の道がひらけていたことだろう! 戦争でもあれば軽騎兵大佐だ。平和のときは公使館付き書記官。それから大使。……事務などはじきに覚えたろうから。……万一無能だったところで、ラ・モール侯爵《こうしゃく》の婿殿とあれば、どんな競争相手でもこわくはない。いくらばかなことをしても、見のがしてくれるだろうし、かえって美点と思ってくれるだろう。敏腕家として、ウィーンとロンドンで豪奢《ごうしゃ》きわまる生活をして……》
《そうは問屋がおろしません、三日たてばギロチン台》
ジュリヤンは、こんな警句を考え出して、からからとうち笑った。《まったく、ひとの心にはふたりの人間が住んでいるものだな。どこのどいつに、こんな意地の悪い文句が考え出せたろう?》
《なるほど! 仰《おお》せのとおり、三日たてばギロチン台ですな》と、憎まれ口をきいた心の中の相手に答えた。《ショラン氏がマスロン神父と割勘で処刑見物に窓を借りるとする。ところで、その窓の借り賃のことですが、このごりっぱなおふたりのうち、どちらが相手をごまかすでしょうな?》
ロトルーの『ヴァンセスラス』の一節がふとジュリヤンの頭に浮んだ。
ラディスラス ……心の用意はできております。
王(ラディスラスの父)断頭台の用意もできている。行って首を差し出すがよい。
《見事な返事だ!》と思って、ジュリヤンは眠りにおちた。朝、だれかに、ぎゅっと抱きしめられたので、目を覚ました。
「なんだ、もうやるのか!」とつぶやきながら、ジュリヤンはこわい目をして相手を見た。首斬り役につかまれたと思ったのだ。
マチルドだった。《さいわい、おれのいったことはわからなかったらしい》そう思うと、すっかり落着きを取り戻した。見ると、マチルドは、半年も病みついていたかのように、やつれはてている。実際、これがマチルドとは思えないくらいだった。
「あのフリレールが卑怯《ひきょう》にも、裏切ったのよ」と手をわなわなとふるわせながらいった。あまりの怒りに涙も出なかった。
「きのう、わたしが発言したときは、りっぱだと思わなかった? その場で考えついたのだ、生れてはじめて! もっとも、あれが、はじめてで最後になるかもしれないけれども」
このとき、ジュリヤンは、上手なピアニストがピアノをひくときのように、落ち着きはらって、マチルドの性格をもてあそびながら、つけ加えていった。……「そりゃ、わたしにはりっぱな家柄《いえがら》という取《と》り柄《え》はないけれども、マチルドの気高い心が、その恋人を、自分の高さまでひきあげてくれたんだ。ボニファス・ド・ラ・モールも、裁判官の前でこれだけりっぱだったと思う?」
マチルドは、この日、六階住いの貧しい小娘のように、気取りがなくて、やさしかった。しかし、ジュリヤンからもっと素直な言葉をかけてもらうことはできなかった。ジュリヤンは、そのつもりではなかったが、マチルドからたびたびなめさせられた苦汁《くじゅう》のお返しをしていたのである。
《ナイルのみなもとはだれも知らない》とジュリヤンは思った。《この大河の王がただの小川の姿でいるところは、人の目にふれることがない。それと同じで、どんな人間の目にも、弱気なジュリヤンの姿を見せやしないぞ。それに、だいいち、ジュリヤンは弱い男ではない。ただ、おれの心はものに感じやすくできている。ごくありふれた言葉でも、心のこもった調子でいわれると、すぐおれの声はうるんでくるし、涙ぐんでしまう。情け知らずの連中が、こんな欠点を見て、どれだけおれを軽蔑《けいべつ》したかしれない。やつらはおれがお慈悲を求めているとでも思っていたのだ。それだけはどうしても我慢ができない。
話によれば、ダントンは断頭台に上るとき、妻を思い出して心が乱れたそうだ。だが、ダントンは青二才ばかりの国民をはげまして、敵がパリへ迫るのを防いだ。……このおれにだってどんなことがやれたかわからないのだが、それがわかっているのはおれだけだ。……ほかの連中からみれば、おれはせいぜい、ことによるとものになるかもしれない《・・・・・・・・・・・・・・・・・》といった男にすぎないのだ。
マチルドでなくて、レーナル夫人がここへ、この地下牢へ来てくれたとしたら、おれは自分に自信がもてただろうか? おれがあまり絶望したり後悔したりする姿を見せると、ヴァルノや、この土地の貴族どもは、死に対するあさましい恐怖だと思うことだろう。あいつらは弱虫なくせに、金のおかげで、誘惑におちいらずにすんでいるから、えらそうな面《つら》ができるのだ。モワロとか、ショランとかいったやつらは、おれに死刑を宣告しておいて、「ごらんなさい、材木屋のせがれに生れたりすると、あんなもんですよ。学問や世渡りはうまくできても、心根ばかりはねえ!……心根ばかりは、習おうたって習い覚えるわけにはいきませんよ」なんて、いったにちがいない。このかわいそうなマチルドにしたって、今は泣いているが、というよりは泣くことさえできないでいるが……》とジュリヤンはマチルドの泣きはらした目を見つめながらつぶやき、両腕に彼女を抱きしめた。心から悲しんでいる様子を見ると、ジュリヤンは三段論法を忘れてしまった。……《ひと晩じゅう泣いていたんだな。だが、いつか今日のことを思い出して、どんなにはずかしい思いをしないともかぎらない! ずっとむかし、若かったころ、平民の卑《いや》しい考えかたにかぶれて、気が変になったことがあるなどと、わが身を振り返ってみて、考えることだろう。……クロワズノワなんてやつは気が弱いから、マチルドと結婚するだろうし、またたしかにそのほうが利口だ。マチルドはあの男を、ひとかどの役者にしたてるだろう。つまり、
遠大な計画をいだく確固不抜の精神が
凡人の粗雑な精神に対してもつ権利
というものだ。
おやおや、おもしろいこともあるものだな! 死ぬときまってから、これまでに覚えた詩句が、みんな記憶によみがえってくる。これもおちぶれた証拠だろう……》
マチルドは消えいりそうな声で、「あのひとが隣の部屋へ来ているのよ」と何度もくり返していった。ジュリヤンはやっとその言葉に気をとめた。《声は弱っている。だが、例の高圧的な性格が、まだその調子にある。怒るまいと思って声を落しているのだ》
「だれが来ているの?」ジュリヤンはやさしくきいた。
「弁護士よ。控訴状《こうそじょう》にあなたの署名がほしいの」
「控訴なんかするものか」
「まあ、控訴しないんですって!」といって、マチルドは立ち上がった。目が怒りに燃えている。「どういうわけで?」
「どういうわけって、今なら、たいしてもの笑いにもならずに、死ぬ勇気がありそうだからさ。ふた月のあいだ、こんなじめじめした地下牢に閉じこめられていた日にゃ、今のような覚悟でいられるかどうかわからないからね。はじめからわかっている、坊《ぼう》主《ず》と会ったり、親《おや》父《じ》と会ったり。……こんないやなことはない。死んだほうがましだ」
思いがけない反対に出会うと、マチルドの性格の、高慢なところが、頭をもちあげた。マチルドは、ブザンソンの牢獄の地下牢が開くまでに、フリレール神父と会うことができなかった。その不満から、ジュリヤンに向って八つ当りした。マチルドは恋人を心から愛していた。たっぷり十五分ものあいだ、マチルドがジュリヤンの性格を呪《のろ》いながら、「こんなひとを好きになるんじゃなかった」などというのを聞いているうちに、ジュリヤンは、むかしラ・モール邸の図書室で、手ひどい悪口を自分に浴びせかけた、あの高慢な心がそっくりそのまま、また頭をもちあげているなと思った。ジュリヤンはいった。
「神さまは、きみの一家の名誉のために、きみを男に生れさせるべきだったよ」
《だが、おれはこのいやな場所で、あとふた月も暮すとしたら、ずいぶんばかな目を見るわけだ。特権階級の一味は、ありとあらゆる卑劣なことを考え出して、おれを侮辱してかかるにちがいない。その矢面《やおもて》に立って、たった一つの慰めといえば、ただこの気違い娘の呪いの言葉を聞かされるばかりなんだから。……だが、あさっての朝、おれは沈着と確かな腕とで聞えた男を相手に、決闘するわけだ。……まったく確かな腕の持主さ》と、メフィストフェレス的な心がいった。《けっして打ち損じたりしないんだから。
それならそれで、結構だ。(マチルドは相変らずしゃべり続けていた)。絶対に控訴なぞしないぞ》
こう決心がつくと、ジュリヤンはもの思いに耽《ふけ》りはじめた。……《朝六時に、いつものとおり配達夫が通りがかりに、新聞を届ける。レーナルさんが読んでしまうと、八時に、エリザが爪先《つまさき》立《だ》ちではいっていって、あのひとのベッドのうえに新聞を置く。しばらくすると、レーナル夫人が目を覚ます。読んでいるうちに、ふいに胸を突かれる。きれいな手がわなわなとふるえる。しまいにこういう文句が目にはいる。十時十分過ぎ《・・・・・・》、彼は絶命した《・・・・・・》。……
あつい涙を流すだろうな、あのひとのことだから。おれはあのひとを殺そうとしたが、なんにもならなかった。そんなことはすっかり忘れてしまうだろうから。おれが命を奪おうとした、ほかならぬあのひとだけが、心からおれの死を悲しんでくれるだろう。
いや、それでは話が逆だ!》まだたっぷり十五分間、マチルドはくってかかっていたが、ジュリヤンのほうはレーナル夫人のことばかり考え続けていた。マチルドの言葉に幾度か相づちを打ちながらも、そのつもりはないのに、ヴェリエールの寝室の思い出から心をそらすことができなかった。ジュリヤンの目には、オレンジ色のタフタ織の掛《かけ》布《ぶ》団《とん》の上にひろげられた、ブザンソンの新聞が浮んだ。白い手がわななきながらそれを握りしめている。レーナル夫人の泣きくずれる姿が目に映る。……美しい顔の上をつたって落ちる涙のあとを、ジュリヤンは目で追っている。
どうしてもジュリヤンを承知させることができないので、ラ・モール嬢は弁護士を呼んだ。さいわい、それは一七九六年のイタリア遠征軍の元大尉で、マニュエルの戦友だった。
弁護士は、形式的に囚人の翻意をうながした。ジュリヤンは、敬意をはらうつもりで、自分の考えをくわしく説明した。
「たしかに、そういう考え方もできますな」と、しまいにフェリックス・ヴァノー氏がいった。それが弁護士の名前だった。「しかしまだ控訴するには三日余裕がありますし、つとめですから、わたくしは毎日お伺いします。もしこの牢獄の下で、これからふた月のあいだに火山でも爆発したら、あなたは助かるわけです。それとも、病気で死ぬかもしれませんな」といいながら、ジュリヤンを見つめた。
ジュリヤンは弁護士の手を握った。「ありがとう。あなたはいいおかたですね。このことは忘れません」
マチルドがやっと弁護士と一緒に出ていったとき、ジュリヤンはマチルドよりも弁護士のほうに、ずっと親しみを感じた。
第四十三章
一時間たって、ぐっすり寝こんでいたジュリヤンは、手の上を涙がつたうような気がして、目を覚ました。《ああ、またマチルドだな》と、うつらうつらしながら考えた。《定石どおり、泣落しにやってきたんだな》これからまたお涙頂戴式《ちょうだいしき》の場面がはじまるのかと思うとうんざりして、ジュリヤンは目をあけなかった。妻のもとを逃げだすベルフェゴールの詩句が頭に浮んだ。
いつもと勝手の違う溜息《ためいき》が聞えた。目をあけると、レーナル夫人だった。
「ああ! 死ぬまえにもう一度会えたんですね。夢じゃないかしら?」と叫んで、ジュリヤンは夫人の足もとに身を投げた。だが、すぐ我にかえって、
「許してください。あなたから見れば、わたしはただの人殺しです」
「あなた。……あたし、控《こう》訴《そ》なさるようにと思って、お願いにまいりましたの。あなたがそのおつもりでないことは知っていますけれど……」嗚咽《おえつ》で息がつまって、夫人はものがいえなかった。
「どうかわたしを許してください」
「ええ、許せとおっしゃるのなら」レーナル夫人は立ち上がって、ジュリヤンの腕に飛びこんだ。「すぐに死刑の判決に控訴なさってくださいな」
ジュリヤンは夫人にキスの雨をふらせた。
「このふた月のあいだ、毎日会いに来てくれますか?」
「ええ、きっと。毎日、主人さえいけないといわなければ」
「じゃ、署名します!」とジュリヤンは叫んだ。「ほんとに、あなたは許してくださるんですって! とても考えられない!」
ジュリヤンは夫人を両腕にかき抱いた。夢中だった。夫人は軽い叫び声をたてた。
「なんでもないのよ。痛かっただけ」
「肩でしたね」と叫んで、ジュリヤンは涙にかきくれた。すこし身体《からだ》をはなすと、夫人の手を火のようなキスでおおった。「ヴェリエールのお部屋で最後にお会いしたとき、こんなことになろうとは思いもよらなかったのに」
「あたしだって、あのとき、ラ・モールさんにあんなはずかしい手紙を書こうなんて、思いもよらないことでしたわ」
「わたしは、ずっとあなたを愛していたんですよ。あなたしか愛さなかったんです」
「ほんとう?」と、今度はレーナル夫人が感激して声をたてた。彼女はひざまずいているジュリヤンの上にもたれかかった。長いあいだ、ふたりは声もたてずに泣いた。
ジュリヤンは、これまで一度もこんなひとときを味わったことはなかった。
ずいぶん時間がたって、やっと口がきけるようになると、レーナル夫人がきいた。
「で、あのお若いミシュレ夫人ってかたは、いいえ、ラ・モールのお嬢さまは? だって、あたし、この奇妙な恋物語を本気にしかけているんですもの!」
「一見ほんとに思えるだけです。あのひとはわたしの妻だけど、恋人じゃないんです」
お互いに幾度となく相手の話を途中でさえぎったりしたすえに、なんとか、めいめいの知らないことを話し合うことができた。ラ・モール氏にあてた手紙は、レーナル夫人の告解師をしている若い神父が文句をつくり、夫人はただそれを写しただけだった。
「信仰の道のおかげで、あたし、とんでもないことをしてしまったわ! それでも、あの手紙のいちばんひどいところは、手加減して書いたつもりよ……」
ジュリヤンの感激とうれしそうな様子は、夫人をすこしも恨んでいないことを物語っていた。ジュリヤンはこれほど夢中で愛したことはなかった。
「でもあたし、信仰はもっていると思うの」と、レーナル夫人は話を続けた。「心から神さまを信じていますわ。でも、同時にたいへんな罪を犯したと思っています。思っているどころか、わかりきったことですわ。あなたにピストルを二発撃たれたのに、ひと目会ってしまうとすぐ……」そこでまた、ジュリヤンは、夫人がさからうのもかまわず、キスを浴びせた。
「待ってちょうだい、あたし、あなたとよくお話がしたいの。忘れないうちに。……ひと目会ってしまうと、自分のつとめはみんな忘れてしまって、あなたが恋しくて、いえ、恋しいって言葉じゃ弱すぎるくらいですわ。あなたに対して、ただ神さまにしかもってはいけないような気持を感じてしまうの。尊敬と愛情と服従が交った気持よ。……ほんとうに、あなたに対してどんな気持をもっているのか、自分でもわからないわ。もしあなたが、牢番《ろうばん》を短刀で突きさせとおっしゃるなら、きっと考えているひまなんかないわ、すぐに罪を犯してしまうわ。お別れする前に、どうしてそうなのか説明してね。あたし、自分の心をはっきり知りたいんですの。なぜって、ふた月すれば別れるんでしょう。……でも、ほんとに、あたしたち別れるのかしら」こういってレーナル夫人は微笑を浮べた。
「さっきの言葉を取り消します」と、ジュリヤンは立ち上がりながら叫んだ。「毒でも、刃物でも、ピストルでも、炭火のガスでも、とにかくどんなやりかたにしろ、あなたがご自分の生命《いのち》を絶ったり傷つけたりしようとなさったら、わたしは死刑の宣告に控訴しませんから」
レーナル夫人の顔つきが急に変った。この上もなくはげしい愛情にかわって、深いもの思いの色が浮んだ。しばらくして、
「いますぐ、一緒に死んだら?」
「あの世になにがあるかわかるものですか。責《せめ》苦《く》があるかもしれないし、もしかしたらなんにもないかもしれない。まだふた月のあいだ、ふたりで楽しく過せるじゃありませんか? ふた月といえば、かなりの時間ですよ。これほど幸福なことは今までなかったと思います」
「今までになかったですって!」
「ありませんでしたとも」ジュリヤンは感激の色を見せて、そうくり返した。「わたしは自分に向っていうのと同じように、あなたに向って話しているんです。神にかけていいます。誇張などするものか」
夫人はおずおずした、さびしそうな微笑を浮べて、
「そんなふうにおっしゃると、命令されているみたいな気がしますわ」
「じゃ、誓ってください、わたしに対する愛情にかけて、直接、間接をとわず、どんな方法によっても自分の生命をちぢめたりはしないって。……それに」とつけ加えていった。
「わたしの子供のために生きなければならないんですよ。マチルドはクロワズノワ侯爵《こうしゃく》夫人になったら、じきに子供を従僕《じゅうぼく》まかせにしてしまうから」
「誓います」夫人はそっけなくいった。「でも、あたし、あなたがご自身で書いて署名した控訴状をいただいていきたいの。あたし自身で検事総長さまのところへお届けします」
「気をつけてください。そんなことをすると、あなたの身に傷がつきます」
「あなたに会いに牢獄へ来たんですもの。こんなふるまいをしてしまった以上、あたしは、ブザンソンをはじめ、フランシュ = コンテ一帯で、一生、噂《うわさ》の女になってしまいましたわ」と、夫人はうちしおれていった。「きびしい女の操《みさお》にはずれたことをしてしまったんですもの。……あたしにはもう名誉なんかありません。それもあなたのためを思うからですけど……」
その口ぶりがいかにも悲しげなので、ジュリヤンは、幸福感を新たにして、夫人にキスした。それはもう恋の陶酔ではなく、この上ない感謝のあらわれだった。はじめて、ジュリヤンは、夫人がどれだけ大きな犠牲をはらってくれたかが、わかったからである。
どこのご親切なひとかしれないが、夫人がジュリヤンを牢獄に訪れて、長いあいだ会っていると、レーナル氏に知らせたらしい。三日後に、氏は車をよこして、すぐヴェリエールへ帰ってもらいたいと、わざわざ夫人にいってきた。
このつらい別れを期として、ジュリヤンにとっては、縁起の悪い一日がはじまった。二、三時間たつと、ある神父が牢獄の門の前の通りに、朝からすわりこんでいると聞かされた。くわせものだが、ブザンソンのイエズス会仲間で売り出すことができなかったという神父である。雨がはげしく降っていた。だが、その男は、そこで殉教者を気取っている。ジュリヤンは気がめいっていたので、このばかげたふるまいがひどく神経にさわった。
その朝、ジュリヤンは、一度この男が訪ねてくるというのをことわったのだった。だが、男は、ジュリヤンに懺《ざん》悔《げ》をさせ、ジュリヤンからいろいろ打明け話を聞いたことにして、これをいいふらし、ブザンソンの若い婦人のあいだで名声を得ようと考えていたのだ。
男は大声で、これから昼も夜も牢獄の門口で過すのだといってわめいた。「あの背教者の心を動かすために、神さまがわたくしをつかわされたのです……」すると、とかく物見高い連中が、そのまわりに集まってきた。
「そうです、みなさん、わたくしは昼も夜もここで過し、幾日も幾晩もこうやっていることでしょう。聖霊のお告げがあったのです。わたくしは天から使命を授かっているのです。わたくしこそ、あの若いソレルの魂を救わなければならない人間です。みなさん、わたくしと一緒に祈ってください」云々《うんぬん》。
ジュリヤンは、噂のたねになったり、ひとの注意をひき起したりするのが、いやでいやでたまらなかった。うまく機会を見つけて、この世からそっと抜け出すことができないものかと思っていた。ただ、いくらか、レーナル夫人にもう一度会えるかもしれないという望みを、いだいていた。夫人のことを思うと、恋しさでいっぱいになるのだった。
牢獄の門は、いちばんひと通りの多い通りに面していた。どろまみれになって、この薄汚ない神父がひとびとに噂のたねをまきちらしているのかと思うと、ジュリヤンはたまらなかった。《それにきっと、しょっちゅうおれの名を口にしたりしているんだろう!》そう思うと、死ぬことよりもやりきれなかった。
ジュリヤンは、一時間おきに、二、三度、自分に忠実な鍵番《かぎばん》の男を呼んで、まだその神父が門口にいるかどうかを見させにやった。
「あのひとは、どろのなかに両膝《りょうひざ》をついています」と鍵番の男は、そのつど、返事をした。「大声で旦《だん》那《な》の魂のためにお祈りをあげてますよ……」《けしからんやつだ!》と、ジュリヤンは思った。このとき、事実、にぶいどよめきが聞えてきた。群衆がお祈りに唱和しているのだった。やりきれないことに、鍵番までが口をもごもごさせて、ラテン語の文句をくり返していた。「みんなこんなことをいいだしましたよ」と鍵番の男がいった。「あのありがたいおかたのお助けをことわるなんて、旦那もずいぶん情のこわいひとだって」
《おれの祖国よ! おまえはまだなんという野蛮な国なのだ!》と、ジュリヤンは腹だたしさから、我を忘れて叫んだ。鍵番の男が前にいることも忘れて、大きな声で考えていたことを口走った。
「あの男は新聞に書かれたがっているんだ。どうせ、望みどおりになるだろうさ」
《ああ、呪《のろ》われた田舎者どもよ! パリでなら、こんないやな目にあわないでもすむのに。山師の仕事でも、パリでなら、もっと気がきいている》
「そのありがたい坊《ぼう》主《ず》を通してくれ」と、ジュリヤンはとうとう鍵番の男に向っていった。汗が顔からだらだらと流れていた。鍵番は十字の印をきって、喜んで出ていった。
そのありがたい坊主は、ぞっとするほど醜い男だった。おまけにどろまみれだった。冷たい雨が降っているので、地下牢はなおさら暗く、じめじめしていた。坊主はジュリヤンにキスしようとした。話しているうちに、感動の色を浮べはじめた。いかにもさもしい偽善ぶりが見えすいていた。ジュリヤンとしては、このときほど腹のたったことはなかった。
坊主が来てから十五分もたつと、ジュリヤンはまるで意気地がなくなってしまった。はじめて死がおそろしく思われた。死刑執行の二日後に、自分の肉体が腐敗しているありさまなどが、頭に浮んだ。
今にも弱気をおもてにさらけ出すか、それとも、いっそ、この坊主におどりかかって、鎖でしめ殺してしまおうか、そんな気持になったときに、ふと思いついて、この男に四十フランのりっぱなミサを、その日さっそく自分のためにあげてくれと頼んだ。
まもなく正午だったので、坊主は退散した。
第四十四章
坊《ぼう》主《ず》が出ていくと、ジュリヤンははげしく泣いた。死ぬことを悲しんで泣いた。レーナル夫人がブザンソンにいたら、夫人に自分の弱い気持を打ち明けるだろうと、だんだん思いはじめていた。……
愛するこの夫人のいないことが、しきりに偲《しの》ばれた。ちょうどそのとき、マチルドの足音が聞えた。
《牢獄《ろうごく》でいちばんつらいことは、ドアを閉めっきりにできないことだな》マチルドの声を聞くと、ジュリヤンの気持はただいらいらするばかりだった。
マチルドの話によると、公判の日、ヴァルノ氏は知事の任命辞令をポケットにもっていたので、ずうずうしくもフリレール神父をかついで、ジュリヤンに思いどおりの宣告を下したのだった。
「フリレールさんもあたしにおっしゃったわ。『あなたのお好きなおかたはなにを考えて、あの成上り貴族ども《・・・・・・・》の、けちな虚栄心をかき立てたり、突っついたりしたんでしょうな!階級制度《・・・・》のことなんかどうして話したんです? あの連中に、どうふるまえば自分らの政治的利益になるかを教えてやったようなもんです。あのばかな連中は、そのことをすっかり忘れて、今にも泣きだしそうになっていたのです。階級の利害のことなんかをいわれたので、死刑を宣告するといういやな気持も、問題にならなくなってしまったんです。率直にいって、ソレルさんは世間というものをてんで知りませんな。もし、われわれが特赦を申請して助けることができなかったら、あれではまるで自殺《・・》みたいなものです……』って」
マチルドは、自分でもまだ考えてもみないことまでは、ジュリヤンにいうはずがなかったが、フリレール神父は、ジュリヤンを助けようがないのを見てとると、その後釜《あとがま》にすわることをねらったほうが、野心を実現するには役にたつと考えたのである。
ジュリヤンは、自分ではどうしようもないという腹だたしさともどかしさのあまり、ほとんど我を忘れていった。「わたしのためにミサを聞きに行ってください。しばらく、わたしを静かにしといてください」マチルドは、レーナル夫人が幾度もジュリヤンを訪れたことを知って、早くもひどく嫉《しっ》妬《と》していたし、また今しがた、夫人がこの町を離れたことも聞いたところだった。そこで、ジュリヤンの不《ふ》機《き》嫌《げん》の原因がこれだと思い、泣きくずれた。
マチルドは本心から悲しんでいた。ジュリヤンにもそれはわかったが、それだけに、ますますいらいらするばかりだった。とにかくなんとしてもひとりになりたかった。だが、どうすればひとりになれよう?
ジュリヤンの気持をほぐそうとして、いろいろ口説いてみたが、結局マチルドはジュリヤンをひとりにして、出ていった。ところが、ほとんどいれかわりに、フーケがあらわれた。
「ひとりでいたいんだ」と、ジュリヤンはこの忠実な親友にいった。……フーケがぐずぐずしているのを見ると、「特赦の申請をするための覚え書を作っているんだ。……それに。……お願いだから、死刑のことは話さないでくれ。もし当日、なにかいろいろ頼みたいことがあれば、ぼくのほうからいい出すから」
やっとひとりになったとき、ジュリヤンはさきほどよりも、もっと気がめいってしまい、意気地がなくなっていた。弱りきった心に残っていた最後の力も、ラ・モール嬢とフーケに、自分の心を隠そうとする努力で、すっかり使いはたされていた。
夕方近く、ある考えが浮んで気持が慰められた。《もし今朝、死があんなに醜く見えたとき、死刑執行をいいわたされたとしても、公衆の目を見れば《・・・・・・・・》、刺激されて《・・・・・》、体面のこと《・・・・・》を考えたにちがいない《・・・・・・・・・・》。おれの態度は、臆病《おくびょう》なうぬぼれ男がサロンへはいるときのように、きっとどこかしら、ぎごちなかったことだろう。あの田舎者どものうちに、もし目のあるやつがいたら、おれの気おくれを見ぬいたかもしれない。だが、だれもはっきりそれを見《・・・・・・・・》ぬけはしなかったろう《・・・・・・・・・・》》
ジュリヤンはそれでいくぶんみじめな気持から救われたような気がした。《いまのおれは、意気地なしだ》と歌を歌うようにして、くり返した。《だがだれにもわかりゃしないさ》
そのうえ、次の日は、さらに不愉快な出来事にぶつからなければならなかった。だいぶ前から、ジュリヤンの父親が訪ねてくるといっていた。その日、ジュリヤンが目を覚ますより早く、この白髪の老材木商は地下牢にあらわれた。
ジュリヤンは力が抜けるような気がした。不愉快きわまる小言は覚悟していた。おまけに、そのつらい気持をいっそうやりきれなくさせたことがある。その朝、ジュリヤンは、父を愛していないことに、良心の痛みをはげしく感じたのである。
《もののはずみで、おれたちふたりは、この地上でお互いに顔をつき合わすはめになったのだ》と、牢番の男が地下牢の中をすこし片づけているあいだに、ジュリヤンは考えた。《そして、お互いに、ありとあらゆる形で苦しめ合ってきた。おれがまさに死のうというときに、親父《おやじ》は最後のとどめをさしにやってきたのだ》
ふたりきりになるやいなや、老人は手きびしい小言をいいはじめた。
ジュリヤンは、涙をこらえることができなかった。《なんという情けない、弱虫なんだ!》と無性に腹をたててつぶやいた。《いたるところで、おれの勇気のないことを吹聴《ふいちょう》して歩くにちがいない。ヴァルノや、ヴェリエールでいばりくさっている愚劣な偽善者どもが、どんなに得意がることか! まったく、フランスでは、あいつらはたいしたもんだ。社会的な利益を自分たちでひとりじめにしているのだからな。今までは、おれはすくなくともこういうことができた。――なるほど、やつらは金を稼《かせ》ぐし、あらゆる名誉を一身に集めているにはちがいない。だが、おれは気高い心をもっているのだ、と。
だが、ここに、だれもが信用する証人がいるのだ。そして、おれが死ぬまぎわになって気がくじけたなどと、ヴェリエールじゅうに、大げさにふれまわるにちがいない! だれにでもわかりきったこの試練にあって、おれは意気地がなかったということになるのだ》
ジュリヤンは今にもまいりかけた。どうやって父親を追い払ったらいいか、わからなかった。自分の気持を偽って、目先のよくきくこの老人をうまくまるめこむなどということは、このときのジュリヤンの力ではとうていできなかった。
頭の中で、ジュリヤンはあらゆる手だてを一わたり考えてみた。
「小金をためたんですがね《・・・・・・・・・・・》!」ずばりといった。
この天才的な文句が、老人の相好《そうごう》を変え、ジュリヤンの立場を逆転させた。
「どう始末したもんでしょうか?」と、ジュリヤンはますます落ち着きはらって続けた。効果てきめんと見てとると、ジュリヤンはすっかりひけ目を忘れた。
老材木商は、この金を取り逃がすまいとして、必死の気持になっていた。どうやらジュリヤンがその一部を兄弟にやるつもりらしいと見た。老人は、長いあいだ、いきおいこんで、しゃべりまくった。ジュリヤンの気持に、からかおうという余裕が出た。
「よござんす! 遺言については神さまのお告げがあったんです。兄さんたちに千フランずつ、残りはお父さんにあげます」
「それは大いに結構だ、残りをもらうのはあたりまえだが、神さまが、おそれ多くも、おまえの心を動かしてくださった以上、おまえもりっぱなキリスト教徒として死にたいなら、負債は払わなければならんよ。おれがたてかえておいた、おまえの養育費や教育費のことがあるからな。忘れているらしいからいっておくが……」
《これが父親の愛情だというんだからな!》やっとひとりになったとき、ジュリヤンはやりきれない気持でくり返した。やがて牢番が来た。
「旦《だん》那《な》、身寄りのお年寄りが見えたあとでは、いつもここのお客さんがたに上等のシャンパン酒をひとびんもって来てあげるんですが。少々お高いのですが、一本六フランなんで。気分がさばさばしますぜ」
「コップを三つとってきてくれ」とジュリヤンは子供のようにはしゃいでいった。「廊下をぶらついている囚人をふたり、ここへ呼んでくれ」
牢番は、再犯でつかまって、また徒刑場へ戻《もど》っていくはずの、ふたりの懲役囚を連れてきた。ひどく陽気な悪党で、その狡猾《こうかつ》な点でも、勇気の点でも、度胸の点でも、じつに見上げたものだった。
「二十フランくださりゃ、あっしのしてきたことを精《くわ》しくお話ししますがね」とひとりがジュリヤンにいった。「乙な《・・》話ですぜ」
「でまかせだろう」
「どういたしまして。あっしが二十フランもらえば、ここにいる相棒にしてみれば妬《や》けるわけでさあ。だから、あっしが嘘《うそ》をつけば、ばらしてしまいまさあ」
その話は、胸くその悪くなるようなしろものだった。金がほしさの一念しかなくなった男の、度胸のほどが見られた。
ふたりが行ってしまうと、もう、もとのジュリヤンではなかった。自分自身への憤《いきどお》りは、すっかり消えてしまっていた。レーナル夫人が去って以来、すっかり気がくじけてしまっただけに、ますますたえがたくなっていた苦しみが、憂愁に変っていた。
《おれはだんだん外観にたぶらかされないようになるにつれて、パリのサロンも、おれの親父のような実直者の面《つら》をしたさもしい人間や、あの懲役囚のような狡猾な悪党でいっぱいだということが、わかってきたにちがいない。あの囚人たちにも一理はある。社交界の連中は、朝起きても、けっして『どうしたら夕飯を食えるか?』という切実な気持など起しはしない。それでいて、自分たちの誠実さを吹聴するんだ! 陪審員に選ばれれば、得々として、空腹で気が遠くなりかけたために銀の食器を一そろい盗んだ男に、刑を宣告したりなどするのだ。
ところが、宮廷のこととか、大臣職にありつけるかどうかということになると、社交界の紳士面をしたさもしい連中も、飯を食うためにあのふたりの囚人が犯したのとまったく同じ罪を犯すのだ。……
自然法《・・・》などというものは絶対にない。そんな言葉は古くさいたわごとで、せいぜいこのあいだおれを糾弾しやがった次席検事のいいそうなことだ。あの次席検事の先祖は、ルイ十四世時代に、財産没収のおかげで、金持になったのだ。法《・》というものは、これこれのことをすれば罰するぞといって、そういう行為を禁じる法規があって、はじめて存在するのだ。この法規ができる前は、自然なもの《・・・・・》といえば、ライオンの力、つまり、腹がへったり寒さにふるえたりするものの欲望、一言でいえば欲望《・・》があるきりだ。……そうだ、ひとから尊敬されている人間なんて、運よく現行犯をおさえられなかった悪党というだけのことだ。社会がおれにさしむけた糾弾者も、もとをただせば、不正で金持になったのだ。……おれは人殺しをした。刑をうけるのは自業自得だ。しかし、この行動一つをのぞけば、おれに刑の宣告をしたヴァルノのほうが、社会のためにはおれより百倍も実害がある》
ジュリヤンは、憂鬱《ゆううつ》そうに、しかし腹はたてないで、つけ加えた。《ところで、欲こそ深いが、おれの親父はあの連中のだれよりもましだ。親父はおれを一度も愛してくれなかった。おれはおれで、はずかしい死にかたをして、親父の顔をつぶすんだから徹底している。親父はあれほど金のなくなることをおそれているし、世間でいうけちんぼ《・・・・》、つまり人間の性悪さを誇張して考える性分だ。そのおかげで、おれが残してやれる三百か四百ルイの金が、親父にはすばらしい慰めと安心のたねになるのだ。日曜日など、晩飯のあとで、親父はその金を、ヴェリエールじゅうの羨《うらや》ましがっている連中に見せびらかすだろう。これだけ金になれば、ギロチンにかけられる息子をもつのも悪くないと、みなさん思うでしょうな? といった目つきをすることだろう》
こういう哲学は真実かもしれないが、人を死に追いやる性質のものだった。こうして、長い五日間が過ぎた。ジュリヤンはマチルドの嫉妬が昂《こう》じて、じりじりしているのを見て、親切なやさしい態度に出た。ある晩、ジュリヤンは本気で自殺することを考えた。レーナル夫人が行ってしまったために、深い悲しみにおそわれて、すっかり気が弱くなっていた。現実の生活でも、空想の中でも、もはやジュリヤンを楽しませるものは、なに一つなかった。運動不足のために、健康がそこなわれ、ドイツの若い学生のように、興奮しやすい、弱々しい性格になりかけていた。不幸な人間の心におそいかかるさまざまな妄想《もうそう》を、力強い一喝《いっかつ》で追い払ってしまう、あの男性的な気概がなくなってきた。
《おれは真実を愛した。……それはどこにある?……どこを見まわしても、偽善か、せいぜいいかさまばかり。どんなに徳を積んだ連中でも、どんなに偉い連中でもそうなのだ》彼は嫌《けん》悪《お》の情を唇《くちびる》に浮べた。……《人間はお互い同士信用できない。
***夫人は、憐《あわ》れなみなし子のために寄付金を集めたとき、ある公爵が十ルイ出してくれたとおれにいったが、嘘をつけ! それはまだしも、セント = ヘレナのナポレオンはどうだ!……ローマ王のための宣言なんぞは、まるっきりいかさまだ。
ああ! あれほどの人間が、しかも不幸にあって、自分の義務をきびしく反省しなければならないというのに、あんないかさまをやるほどあさましくなるとすれば、ほかの人間にいったいなにが期待できよう?
どこに真実がある? 宗教のうちにか。……なるほど》とこの上ない軽蔑《けいべつ》をこめた苦笑を浮べて、ジュリヤンはつけ加えた。《マスロンや、フリレールや、カスタネードの口先にあるというわけか。……むかしの使徒と同じように、いっこう酬《むく》いられるところのない神父のいる、ほんとうのキリスト教のうちになら、ことによればあるかもしれない。……だが聖パウロでさえ、命令したり、話したり、人の口にのぼったりする楽しみで、酬いられていたのだ。……
ああ! もしほんとうの宗教があったら。……ばかだな、おれは! ゴチックの大聖堂が、おごそかなステンド・グラスが、ありありと見える。おれの弱い心には、そのステンド・グラスの聖職者の姿が浮んでくる。……おれの心も、あの聖職者のいうことならわかるだろう、おれの心はそれを求めている! だが、実際目にするやつは、汚ない髪をしたうぬぼれ男にすぎない。……お洒《しゃ》落《れ》なところを別にすれば、ボーヴォワジ従男爵とでもいったところだ。
マシヨンやフェヌロンのような、ほんものの聖職者がいたら。……だが、マシヨンはデュボワを聖別したのだ。『サン = シモンの回想録』を読むと、フェヌロンのイメージも台なしだ。でも、とにかく、ほんものの聖職者がいたら。……やさしい心をもった人々が、この世でひとつの集合点をもつことになる。……そうすれば、おれたちは、ひとりぼっちではなくなる。……そのありがたい聖職者は、神さまのことを説いてくれるだろう。だが、どんな神さまだ? 残虐《ざんぎゃく》な暴君で、復讐心《ふくしゅうしん》にもえた聖書の神さまじゃない。……公平で、善良で、無限な、ヴォルテールの神さまだ……》
ジュリヤンは、そらで覚えている聖書から、いろいろなことを思い起すと、心が乱れた。……《だが、三人《・・》になるともういけない。「神」というたいへんな言葉を、聖職者どもがさんざん濫用《らんよう》したあとでは、どうして信じることができよう?
ひとりぼっちで生きる!……なんという苦しみだ!……
どうも頭がおかしくなって、考えがまともでないようだぞ》ジュリヤンは頭を叩《たた》いた。《おれは今、この地下牢に、ひとりぼっちでいる。だが、娑《しゃ》婆《ば》では、ひとりぼっちで生き《・・・・・・・・・》ていたわけ《・・・・・》じゃない。おれは義務《・・》という強力な観念をもっていた。正しいにせよ正しくないにせよ、おれが自分に課していた義務は、……たくましい木の幹のようなもので、おれは嵐《あらし》のあいだはこれにしがみついていた。おれはぐらつきもした。ゆり動かされもした。要するにおれもただの人間だった。……だが、吹き飛ばされたりはしなかった。
この地下牢の湿気のせいで、おれは孤独のことなどを考えるのだ。……
いや、偽善の悪口をいいながら、どうしてまだ自分の心を偽るのだ? おれが苦しんでいるのは、死刑や、地下牢や、湿気のせいではなく、レーナル夫人がいないせいだ。かりに、ヴェリエールで、あのひとと会うために、何週間もレーナル家の地下室に隠れていなければならなかったとすれば、おれは文句をいうだろうか?
同じ時代の人間の影響はあらそえないな》と、ジュリヤンは、苦笑を浮べながら声に出していった。《死のほんの一歩手前のところで、自分自身と話し合っていてさえ、まだうわべをつくろったりするんだから。……十九世紀だな!
……一人の猟師が森の中で鉄砲を撃つ。獲《え》物《もの》が倒れる。つかまえに飛んでいく。靴《くつ》が高さ二尺の蟻塚《ありづか》にぶつかって蟻の住家を壊し、蟻たちや卵を遠くへ蹴散《けち》らす。……この蟻の中の、どんなにえらい哲学者でも、けっして、この黒い巨大な、おそろしい物体がなんであるか、わからないだろう。なにしろ、この猟師の靴は、赤い火花とともに、ものすごい音がしたかと思うと、信じられない速さで、自分たちの住家に、とつぜん侵入してきたのだ。……
死も生も、永遠も、そんなものさ。それらを理解できるだけの大きな器官をもっているものには、ごく単純なことなのだ。……
かげろう《・・・・》は夏の暑いさかりに朝の九時に生れて、夕方の五時には死んでしまう。どうして夜という言葉が理解できよう?
あと五時間の生命《いのち》があれば、夜というものを見もし、理解もするだろうに。
おれも、二十三歳で死ぬ。レーナル夫人と暮すために、もう五年の生命があったらなあ》
そこで、ジュリヤンは、メフィストフェレスのように笑いだした。《こんな大問題を論ずるなんて狂気の沙汰《さた》だ!
第一、だれか聞き手でもいるかのようなつもりで、おれはうわべを飾っている。
第二に、あとごくわずかな日数しか生きていられないのに、おれは生きたり、愛したりすることを忘れている。残念ながら、レーナル夫人がいない。ブザンソンへあのひとをよこして、恥の上塗りをすることは、亭主《ていしゅ》がもう許すまい。
だから、おれはひとりぼっちなのだ。なにも、公平で、善良で、全能で、すこしも意地悪くなく、執念深くない神さまが、おいでにならないからではない。
ほんとに、もしそんな神さまがいたら。……やむをえぬ、おれはその足もとにひれ伏していうだろう。わたしは死に値することをしました。ですが、偉大なる神さま、善良で心のひろい神さま、わたしの愛するひとをお返しください!》
夜はだいぶふけてきた。一、二時間静かに眠ると、フーケがやってきた。
ジュリヤンは、心に曇りのないひとのように、自分が強くなり、覚悟ができたような気がした。
第四十五章
「ぼくはここへあのシャ = ベルナール神父を呼んだりするような、罪なまねはしたくないんだ」と、ジュリヤンはフーケにいった。「そのあと三日ぐらい、気の毒にも、飯が喉《のど》を通らないだろうから。それよりも、ジャンセニストをひとり見つけてくれよ。ピラール神父の知合いで、陰謀にまきこまれたりしないようなのを」
フーケは、ジュリヤンがこんなふうに、心を打ち明けてくれるのを待ちかねていた。ジュリヤンは、他方では世間の手前欠かすことができないいろいろな義理を型どおりすませた。告解師の選び方がまずかったにもかかわらず、フリレール神父のはからいで、地《ち》下《か》牢《ろう》の中でも修道会の庇護《ひご》を受けられるようになった。もうすこし、うまく立ちまわったら、逃げ出せたかもしれない。しかし、地下牢の悪い空気のせいで、ジュリヤンの頭はにぶってきた。それだけに、レーナル夫人が戻《もど》ってきてくれたときの喜びは、またひとしおだった。
「あたしの第一の義務は、あなたのためにつくすことだわ」と夫人はキスしながらいった。「ヴェリエールから逃げ出してきたのよ」
ジュリヤンは、夫人の前では、つまらない見栄《みえ》をすっかりすてて、弱った気持を洗いざらい打ち明けた。夫人はやさしく親切だった。
夕方、牢獄から出ると、夫人は、さっそく、ジュリヤンにつきまとっている神父を、伯母の家へ呼ばせた。神父は、ブザンソンの上流社会の若い女性のあいだで信用を博すことしか考えていなかった。そこで、夫人はなんなくこの神父を説き伏せて、ブレー = ル = オーの修道院へ、九日祈《き》祷《とう》をあげに行ってもらった。
ジュリヤンの愛情の、気違いじみたはげしさは、どんな言葉にもあらわしえないほどだった。
金の力で、また、伯母にあたる有名な金持の信者の勢力を利用したり濫用《らんよう》したりして、レーナル夫人は、ジュリヤンと毎日二回会う許可を得た。
このことをきいて、マチルドは嫉《しっ》妬《と》に気も狂わんばかりになった。フリレール神父は、いかに自分の勢力をもってしても、あらゆるしきたりを無視して、日に何度も恋人に会うように、取り計らうところまではできかねると述懐していたのである。マチルドは、レーナル夫人の挙動を細大もらさず知ろうとして、あとをつけさせた。フリレール神父は、あらんかぎりの知恵をしぼって、ジュリヤンがマチルドにはふさわしくない男だと説いた。
こういうふうに、苦しみに責めたてられながらも、マチルドはなおさらジュリヤンを恋しく思うようになった。ほとんど毎日、ジュリヤンとはげしい口げんかをした。
ジュリヤンは、自分のためにとんでもない気の毒な立場に追いこまれたこの哀れな娘を見ると、どんなことをしてでも、最後まで誠実に接しようと思ってはいた。しかし、レーナル夫人を思う狂わしい気持のほうが強かった。この恋敵《こいがたき》の訪問は潔白なものなのだと、下手な理由を並べて、いくらマチルドに説明しても、説き伏せられないことがある。そういうとき、ジュリヤンは思った。《もう芝居も大詰めに近づいた。これ以上うまく本心が隠せないのもやむをえまい》
ラ・モール嬢は、クロワズノワ侯爵《こうしゃく》が死んだという知らせを受け取った。例の大金持のタレール氏が、マチルドの失踪《しっそう》のことについて、気にさわる言葉をはいたので、クロワズノワ氏は、取り消してくれと頼みに行ったのである。タレール氏は、自分のところへ来た匿名《とくめい》の手紙を取り出して見せた。そこには、事実がこまごまと、じつに要領よく並べてあったので、気の毒にも、侯爵は真相に目をつぶるわけにはいかなくなった。
タレール氏は、うっかり気のきかぬ冗談をいった。クロワズノワ氏は、鬱憤《うっぷん》と傷ついた気持のやりばがなくなり、強硬に謝罪を要求した。百万長者は謝罪よりは決闘を選んだ。つまらないことから大事になって、パリでもっとも愛される値打のあるひとりの男が、二十四歳にもならずに死んだのである。
クロワズノワ氏が死んだことは、ジュリヤンの弱った心に、異様で、病的な印象を与えた。ジュリヤンはマチルドにいった。
「気の毒に、クロワズノワはわたしたちに対して、ほんとうにものわかりのいいりっぱな紳士でした。お母さまのサロンで、あなたが軽はずみなことをしたとき、わたしを憎んで、けんかをしかけたってよかったのです。軽蔑《けいべつ》に続く憎《ぞう》悪《お》の感情は、たいていの場合、じつにはげしいものですからね……」
クロワズノワ氏の死は、マチルドの将来に関するジュリヤンの考えを、すっかり変えてしまった。幾日も、マチルドに向って、リュス氏と結婚するべきだと説き立てた。
「あれは気の小さい男で、それほど悪賢くもない。今にきっと、あなたの求婚者仲間になるだろう。なくなったクロワズノワよりは、陰気で、執念深い野心家だが、親戚《しんせき》に公爵がいないから、ジュリヤン・ソレルの未亡人をもらうことに、文句はないはずだ」
「それに、その未亡人は、はげしい恋愛なんてものは、軽蔑しているんですからね」とマチルドはそっけなく答えた。「この半年のあいだ経験を積んだおかげで、自分の恋人が別な女を、それもふたりの不幸のもとになった女のほうを、愛していることが、わかったわけですものね」
「そんなことをいうもんじゃない。レーナル夫人がたずねてくるおかげで、わたしの特赦の仕事を引き受けているパリの弁護士は、奇想天外な弁護の材料ができるわけなのだ。女を殺そうとした男が、当の被害者から世話されているといった話を、言葉巧みに話してきかせるだろう。それが反響を生んで、いつかわたしは、なにかメロドラマの主人公にされてしまうさ」云々《うんぬん》。
胸はかきむしられても、やりばのない嫉妬や、いつまでも続く希望のない不幸、(かりにジュリヤンの生命《いのち》が救われたとしても、どうしてジュリヤンの気持を取り戻すことなど考えられよう?)こういう不実な恋人をますます恋しく思うわが身の情けなさ、やるせなさから、ラ・モール嬢は気がめいるばかりで、口もきかなくなった。察しのいいフリレール神父の心づかいを受けても、無骨なフーケの率直さに接しても、彼女の気持は晴れなかった。
ジュリヤンのほうは、マチルドの出現で邪魔されるときのほかは、恋にひたりきっていて、未来のことなど考えなかった。この恋心が昂《こう》じて、他を省みる余裕がなくなると、それがふしぎな反応をあらわし、周囲のことに気を使わないジュリヤンの楽しい陽気な気分が、レーナル夫人にまで移った。
「むかし、ヴェルジーの森の中を散歩したころは、いくらでも幸福になれたのです。それなのに、若気の至りから、はげしい野心にそそのかされて、わたしは空想の世界にひきずりこまれていたのです。あなたのきれいな腕は、わたしの唇《くちびる》のすぐそばにあったのに、それを胸に押しあてようともしないで、あなたを忘れて、未来のことを考えていたのです。途方もなくすばらしい出世の道を切りひらこうとして、どのくらい多くの闘いを交えなければならないかしれない立場だったのです。……もしあなたがこの牢獄へ会いに来てくださらなかったら、幸福がどんなものか、知らずに死ぬところでした」
二つの出来事が起って、この静かな生活がかき乱された。ジュリヤンの教誨師《きょうかいし》はジャンセニストでありながら、イエズス会の連中の術中におちいり、いつのまにかその手先になっていた。
ある日その教誨師がやって来て、いった。いまわしい自殺の罪におちいりたくないと思ったら、特赦のためにできるだけのことをしなければならない。ところで、聖職者たちはパリの司法省に顔がきくから、簡単な方法がある。派手に悔い改めをすることだ。……
「派手にですって! わかりましたよ、あなたもやっぱり伝道師のように、お芝居をやるんですね……」
ジャンセニストはまじめくさって言葉を続けた。「あなたはまだそのお年だし、神さまから美しい顔だちを授かっています。それに、あなたの犯行の動機はいまだによくわかっていませんし、ラ・モール嬢はあなたのために、骨身惜しまず、けなげな奔走をなさっています。そのうえ、被害者はあなたに対して驚くべき好意を寄せています。そんなこんなで、あなたは今やブザンソンの若い婦人のあいだで、人気者にしたてられているのです。婦人たちはあなたのためにすべてを忘れてしまっています。政治のことまでも。……
あなたが悔い改めれば、こうした婦人たちは心を動かされるでしょうし、深刻な印象を受けるでしょう。あなたは宗旨のために、たいへん役にたつことができるのです。こうした際に、こんなやり方をするのは、イエズス会の連中のしそうなことだ、などというくだらない理由から、わたしが二の足をふんでいられますか? 今度の場合は特殊で、たまたまイエズス会の貪欲《どんよく》な手はのびていないわけですが、二の足をふんでいれば、やっぱりやつらにしてやられてしまいます! そんなことをさせてはいけません。……あなたが改心し、ひとびとが涙を流せば、不信心なヴォルテールの書物が十度版を重ねてもたらした害毒などは、たちまち消されてしまうでしょう」
「わたしが自分を軽蔑するようになったら、なにが残るんです?」と、ジュリヤンは冷淡に答えた。「わたしは野心家でした。そういう自分を責めようとは思いません。そのころは、世の中のしきたりに従って行動していたのです。ところで、今はその日その日の生きかたをしています。けれども、あて推量でいえば、もしなにか卑怯《ひきょう》なまねをしたら、ひどくみじめな立場になってしまいそうです……」
ジュリヤンがいちだんと心を痛めたもうひとつの事件は、レーナル夫人の側から起った。夫人の知合いで、おせっかいな女かなんかが、素直で気の小さい夫人にたきつけたらしい。サン = クルーへ出かけて、シャルル十世の足下にひれ伏して哀願するべきだというのである。
レーナル夫人はいったん身を犠牲にして、ジュリヤンと別れたわけである。これほど苦しい思いをしたあとだから、ほかのときなら死ぬよりもつらいと思ったかもしれないが、今の場合は見世物になるくらいの不愉快はなんでもなかった。
「あたし、王さまのところへ行って、あなたがあたしの恋人だって堂々と申し上げるつもりよ。ひとの生命、それもあなたのようなかたの生命を救うためなら、ほかのことなんかかまっていられません。あなたがあたしを殺そうとしたのは、嫉妬からですって申し上げますわ。こんな場合に陪審員や王さまのお情けで生命が助かった若いひとたちの例は、いくらもあるんですもの!」
「もうあなたには会いません、牢屋のドアを閉めてもらいます」と、ジュリヤンは叫んだ。「お互いに世間のもの笑いになるようなふるまいは、けっしてしないと誓ってくださらなければ、きっとその次の日には、絶望のあまり自殺してしまいますよ。パリへ行こうなどという考えは、あなたから出たものじゃない。いったいだれです、そんな知恵をつけたおせっかいな女は?……
この短い一生も、あとわずかな日が残っているばかりです。楽しく過しましょう。人目を避けて、ふたりだけで暮しましょう。わたしの罪は、あまりにも明白です。ラ・モール嬢は、パリでは勢力があるのです。人間としてできるだけのことは、やってくれています。この田舎では、金持や身分のあるひとは、みんなわたしの敵です。そうした金持で、とりわけ穏健主義の連中は、人生をじつに安易なものだと考えているのですから、あなたが変に立ちまわると、その連中をますます怒らせてしまうわけです。……マスロンとか、ヴァルノとか、いやもっとましなたくさんの連中の笑いぐさにならないようにしましょう」
地下牢の悪い空気が、ジュリヤンには我慢ならなくなってきた。さいわい、死刑の執行がいい渡された日は、美しい太陽の光を浴びて、自然が若やいでいた。ジュリヤンも元気が出た。長いあいだ海に出ていた船乗りが、陸地を歩くときのように、大気を吸いながら足を運ぶことは、快い感覚だった。《さあ、申し分ない。勇気は十分ある》
斬《き》られようという瞬間ほど、ジュリヤンの頭が詩的になったことはなかった。かつてヴェルジーの森で過した楽しい日々の思い出が、あとからあとから、まざまざとよみがえってきた。
すべては簡単に、しきたりどおりに行われた。ジュリヤンの態度にも、なんら気取りが見られなかった。
前の晩、ジュリヤンはフーケにいっておいた。
「興奮しないかどうか、これは受け合えない。なにしろ、この地下牢ときたら、じつに汚なくて、じめじめしているんで、ときどき熱が出て、頭が変になるほどだから。だが、おじけづいたりするものか。蒼《あお》い顔だって絶対に見せやしない」
あらかじめフーケと申し合せて、最後の日の朝、マチルドとレーナル夫人を連れ出してもらうことにしておいた。
「同じ車で連れていってくれたまえ。郵便馬車の馬を、しょっちゅうすっ飛ばすようにしておいてくれ。あのふたりはお互いに抱き合うか、それとも徹底的に憎み合うだろう。どっちにしても、ふたりとも多少はたえがたい苦痛が忘れられるだろうから」
ジュリヤンはレーナル夫人に、生きながらえて、マチルドが産む子供を世話するという誓いを立てさせた。
またある日、フーケに向っていった。
「ことによると、われわれは、死んだあとでも感覚をもっているかもしれないよ。ぼくは、ヴェリエールを見おろす大きな山の中の、あの小さな洞穴《ほらあな》で眠りたいな。眠るというのがぴったりしている。まえに話したことがあるが、ぼくは夜あの洞穴に隠れて、フランスでもいちばん豊かな地方をはるかに見おろしながら、野心に胸をふくらましたものだった。あのころは、それがぼくの情熱だったんだが。……ともかく、あの洞穴がなつかしい。それに、あれはなんといっても哲学者の心をそそるような場所を占めている。……そうだ! ブザンソンの善良な修道会員たちは、なんでも金儲《かねもう》けのたねにするから、きみがうまくかけあえば、ぼくの死《し》骸《がい》を売ってくれるかもしれないよ……」
フーケはこの縁起でもない談判に成功した。その夜、自分の部屋で、ただひとり友達のなきがらのそばでお通夜《つや》をしていると、マチルドがはいってきたので、びっくりしてしまった。ブザンソンを十里も離れたところへ残してきてから、数時間とはたっていなかったのだ。マチルドはうつろなまなざしをしていた。
「ぜひあのひとに会わせて」
フーケは、口をきく元気も、立ち上がる気力もなかった。指で、床の上の大きな青い外《がい》套《とう》を指し示した。それにジュリヤンのなきがらが包まれていた。
マチルドはひざまずいた。ボニファス・ド・ラ・モールとマルグリット・ド・ナヴァールの思い出が、おそらくマチルドに、人間以上の勇気を与えたのだろう。ふるえる手で、外套を開いた。フーケは目をそむけた。
せわしく部屋を歩きまわるマチルドの足音が聞えた。マチルドは何本も蝋燭《ろうそく》をともした。フーケが勇気を出してマチルドを眺《なが》めると、マチルドは、真向いの、大理石の小さなテーブルに、ジュリヤンの首をのせ、その額にキスしていた。……
マチルドは、恋人が自分で選んだ墓場までついていった。柩《ひつぎ》は大勢の聖職者に守られて進んでいった。マチルドはひそかに、ただひとり、黒い布でおおわれた馬車に乗って、愛しぬいてきた男の首を膝《ひざ》に抱きながら運んだ。
真夜中に、一行がジュラの高い山の頂近くまで来ると、無数の蝋燭に照らし出された、例の小さな洞穴の中で、二十人の聖職者が死者をとむらう勤行《ごんぎょう》を行なった。葬列の道筋にあたる山間《やまあい》の小さな村々の住民が、この異様な葬式の珍しさにひかれて、あとからついてきた。
マチルドは長い喪服をつけて、その人々のなかにあらわれ、勤行がすむと、数千枚の五フラン貨幣をばらまかせた。
フーケとただふたりだけ残って、マチルドは恋人の首を自分の手で埋めたいといいはった。フーケは悲嘆のあまり、気も狂いそうだった。
マチルドはみずから高い費用をかけてイタリアで大理石を彫らせ、それでこの荒れはてた洞穴を飾った。
レーナル夫人は約束を忠実に守った。けっして自分の生命をちぢめようとはしなかった。だが、ジュリヤンが死んで三日目に、子供たちを抱きしめながらこの世を去った。
世論は自由《・・》を手にいれさせてはくれるが、一方世論が支配する世の中では、都合の悪いこともある。なんの関係もないこと、たとえば私生活にまで干渉する点である。アメリカやイギリスの憂鬱《ゆううつ》はこれに由来する。私生活に触れまいと思って、作者は、ヴェリエール《・・・・・・》という小さな架空の町をつくりだした。司教とか、陪審員とか、重罪裁判所とかが必要なときには、それらの舞台を、作者が一度も行ったことのないブザンソンにした。
TO THE HAPPY FEW
赤と黒について
一八三二年十月十八日|十一月三日
お望みによって、昨夜《ゆうべ》あなたにお話ししたことを、文章にしてお送りします。
フランスの地方の女性たちの主な仕事といえば、小説を読むことです。フランスの小都会では風紀はいたって清純です。みんなが自分の隣の女を監視していますが、けだしこれにまさる警察はありますまい。ちょっといけ《・・》る《・》女の住んでいる家に、男が六度も足を運んだりすると、必ず隣近所が大騒ぎをします。そして、この監視のきびしい警察が科する刑罰は恐るべきものなのです。人口二万に満たないフランスの都会に住んでいる女性が、不幸にして噂のたね《・・・・》になったりすると(これは地方の猫っかぶり《・・・・・・・・》が生みだしたきめて《・・・》の合い言葉なのです)その小都会で催される舞踏会のどれにも招かれなくなります。こうした公《おおやけ》の刑罰を受けると、その結果はすべてのひとびとの軽蔑《けいべつ》を買うことになります。この不届きな女性がなんらかの方法で舞踏会に顔を出しても、女性たちはわざと言葉をかけようとしません。この女性はたとえようもない辱《はずか》しめと軽蔑をこうむり、たえられない苦しみをなめることになります。ところで、フランス人は公然と表明された軽蔑《・・・・・・・・・・》だけは我慢できない性格なのです。したがって、毎年、恋のために隣近所の女のあいだで多少評判を落したこういう不幸な女性たちのうちには、自殺《・・》によって、もはやたえがたくなった人生に見きりをつけるものが出てきます。
それほど気が強くない女性は、せいぜい田舎に引っこむくらいのところですが、それ以後は一生、住んでいた小都会の謝肉祭の舞踏会にも、社交界にも、二度と顔を出しません。田舎では、ごく貧しい百姓たちでさえ、こういう女性たちを憐《あわ》れみの目で見ますし、いささか軽蔑します。夫たちは町の連中よりも寛大ですから、町のおしゃべり女たちや、こちこちの信心家の女たちがかつてふしだら女ときめつけた自分の妻のもとに行き、大いに敬意と愛情のしるしを見せたものです。これらの善良な夫たちは、妻を田舎から連れもどそうとし、また町の公共散歩場に妻を連れ出そうとしたのです。すると、たちまち、婦人たちはこぞって気の毒な仲間はずれの女が夫と散歩している側《そば》の散歩道を避けてしまったのです。散歩についてきたこの不幸な婦人の幼い子供たちまでが、あたりの連中のこういうそぶりに気づいて、母親に理由をたずねたのです。
ルイ十八世とシャルル十世の政治のおかげで、フランスの地方に生れた風習とはそうしたものなのです。ふたりの国王は――とくに前者がそうなのです、もっとも色事にはおよそ不向きでしたのに(色事に不適だといわれていました)――なかなか愛《あい》想《そ》がよくて、女性を愛し、女性を相手に話す術《すべ》を心得ていたのです。例のばかばかしい猫《ねこ》っかぶりが、このふたりの国王の時代にフランスを陰気くさい国にし、またそのおかげで、フランスは、大革命までの、自他ともに許していた陽気《・・》という肩書をもつ権利を失ったわけですが、このふたりの国王はそうした猫っかぶりとは、およそ縁のないお方だったのです。いってみれば、ナポレオンが独裁政治を守るためにこういうやりきれない猫っかぶりを作り出し、修道会《・・・》が地方の風習のなかにこれを深くうえつけたわけです。この修道会は至るところに密告者とスパイの網をはりました。その幹部連中は、フランスの各小都会のそれぞれの家で読まれる新聞の名を知ろうとし、事実その望みを達したのです。また、かれらはそれぞれの家へ毎日だれが訪ねてくるかを知ろうとし、事実それもつきとめました。しかも、こういうことはすべて、経費もなにもかけずに、もっぱら思想穏健な連中がみずから買って出たスパイ行為のおかげでできたのです。
『赤と黒』の作者スタンダール氏が描こうとしたフランスの新しい風俗とは、以上のようなものなのです。しかし、この作品の梗概《こうがい》を述べる前に、フランスの道徳的習慣、つまり一八〇六年から一八三二年にかけて確立されたようなフランスの風俗《・・》が生んだ、もう一つの結果を指摘しておくべきでしょう。相変らずマルモンテルのコントやジャンリス夫人の小説にフランス社会の姿を求めている外国人には、こうした風俗はまったく知られていないといえましょう。
フランスでは、なにからなにまですっかり変ってしまいました。大革命までの地方の小都会風俗の忠実な描写は、マルモンテルの気《・》取った《・・・》コントのなかではなく、『憂愁《ル・スプリーン》』と題するブザンヴァル男爵《だんしゃく》のしゃれた短い小説のなかにうかがうことができましょう。この小説を読めば一七八九年までは、フランスではどんなにおもしろおかしく暮していたかがわかるでしょう。もう一つ証拠があります。ナポレオンの伝記は、すべて、ヴァランス(ドーフィネ地方)駐屯《ちゅうとん》連隊の砲兵中尉だったころ、ナポレオンがこの町で送った愉快な生活の描写ではじまっています。この町には毎夜客を迎える家が三つか四つはありました。今日ではそういう面影《おもかげ》さえ残っていません。人口六千から八千の町では、すべてが陰気でとりすましています。そんな町では、外国人は、イギリスの場合と同じように、夜をもてあますのです。男たちは狩猟や農業に興味をもちはじめたので、かわいそうに、細君連中は、小説を書くことができないところから、小説を読んで気をまぎらわせている次第です。
というわけで、フランスでは、莫大《ばくだい》な数の小説が消費されているのです。地方の女性で、月に五、六冊読まないようなものはほとんどいません。多くの女性は十五冊から二十冊もの小説を読みます。したがって、二つか三つの貸本屋をもたないような小都会はないのです。そこでは一冊につき一日一スーで小説を貸し出しています。人気作家の作品だったりすると、貸本屋にとっては一日二スー、ときには三スーのみいりがあります。流行の挿《さし》絵《え》画家で、事実独創的な才能の持主であるトニー・ジョアノの挿絵がはいっていたりすると、それに新聞で書きたてられた《・・・・・・・》小説であったりすると、貸本屋はその小説の各巻を二冊に分けて、分冊をそれぞれ一日三スーで貸しつけます。しかしこうした成功をおさめるには、A5判の本であることが絶対必要です。
これからお話ししようとする作品は、光栄にも三スーのクラスにはいりました。おまけに、この本は四分冊にされたのです。
あらゆるフランス女性が小説を読んでいます。しかし、そのすべての女性が同じ程度の教育を受けているわけではありません。そこで、小間使《・・・》向きの小説(これは本屋がつくった言葉だと思いますが、こういった露骨ないいまわしを使うことをお許しください)と、サロン《・・・》向きの小説との区別が生れたのです。
小間使向きの小説は、一般に、ピゴロー氏により、B6判で印刷されています。この男はパリの本屋で、一八三一年の経済危機までに、地方の女性の紅涙をしぼって、五十万の富を築きました。というのは、B6判のピゴロー書房の小説は、小間使《・・・》向きの小説という呼び名でさげすまれてはいますが、なにしろ主人公はいつでも完全無欠、輝くばかりの美男、すらりとした《・・・・・・》姿で、出目《・・》の大きな眼《め》をしていますから、地方では、ルヴァヴァスール書店やゴスラン書房から出る、A5判の、文学的声価を求める作家の小説よりも、はるかに多く読まれているのです。
なかには、八十冊の小説を書いてパリで出版し、トゥールーズ、マルセイユ、バイヨンヌ、アジャンではだれもが口にするのに、パリではまったく無名であるような作家がいます。たとえば、『県知事殿』と題する小説をはじめ数多くの小説を書いた、ラ・モット = ランゴン男爵がそうです。ポール・ド・コック氏、ヴィクトル・デュカンジュ氏らも、もしその小説を戯曲やメロドラマに脚色しようと思いつかなかったら、ラ・モット = ランゴン男爵と同じように、パリでは無名の作家となっているでしょう。
パリやルーアン、それに南部より文化水準の高い北部フランスのいくつかの都会では、小間使《・・・》向きの小説は、絶対にサロンにははいりこみません。パリでは、小間使向き小説に出てくる、いつもきまって完全無欠な主人公や、不幸で純情で迫害される女性くらい、退屈なものはないのです。
なるほど、地方の女性も、ときには上流社会向きの小説を、つまりルヴァヴァスール書
店が出版したA5判の小説を読むことがありますが、たいてい、その本を完全には理解で
きません。そういう小説を楽しみで読むのではなく、むしろ義務をはたすつもりで読むの
です。
ウォルター・スコットとマンゾーニ氏だけは例外です。このふたりの大詩人の作品は、地方でもパリでも読まれてきました。ただし、次のような違いがあります。ウォルター・スコットの初期の作品は、あまりにもくどくて、いっこう生気のない細部描写ばかりなので、パリの読者はうんざりするのです。ところが、この細部描写が地方の読者にとっては魅力なのです。パリの読者は、マンゾーニ氏の一六二八年のミラノにおけるペストと《ウントリ》に関する細部描写には、いささかうんざりしたのですが、地方の読者はその反対で、これには戦慄《せんりつ》を感じたのです。
フランスではウォルター・スコット卿《きょう》の模倣作家が約二百人出ました。これらの作家の作品はいずれも読まれたばかりでなく、そのうちのいくつかは版を重ね、パリで読者をもつまでになりました。しかし、一、二年の後には、まったく忘れ去られてしまったのです。
小間使《・・・》向き小説では、事件がばかげていようと、主人公を引き立たせるために都合よく仕組まれていようと、つまり愚《ぐ》弄的《ろうてき》な意味でいわゆる《小説的《ロマネスク》》であろうと、それはいっこうかまわないのです。
地方の小市民階級の女性が作家に求めるのは、目を涙で曇らせてくれるような、異常な光景だけなのです。そのための手段などはど《・・・・・・》うであろうといっこうかまわないのです《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。これに反して、A5判の小説を読むパリのご婦人方は、異常な《・・・》事件のこととなると、ひどく手きびしいのです。主人公を引き立たせるために事件がうまく仕組まれているようなところがあると、彼女らはすぐさま本をほうり出し、そんな小説の作者をばかばかしく思うのです。
こうした二つの相反する要求《・・・・・・》があるので、地方の市民階級の女性の部屋でも、パリのサロンでも、ひとしく読まれるような小説を書くことは、たいへんむずかしいのです。
以上が小説に関する一八三〇年のフランス読者層の状態です。ウォルター・スコットの天才的技倆《ぎりょう》は中世を流行《はや》らせました。主人公のいる部屋の窓から見渡す景色の描写に二ページをさいたら、成功疑いなしというわけでした。さらにもう二ページ主人公の服装を描き、そのうえ二ページにわたって彼がすわっている肱掛《ひじかけ》椅子《いす》の形を述べる。スタンダール氏は、この中世趣味、十五世紀のゴチック趣《・・・・・》味《・》と服装にうんざりしたわけです。そこで、あえて一八三〇年に起った事件を物語り、ふたりの女主人公レーナル夫人とラ・モール嬢がどんな形の衣裳《いしょう》をつけていたかについては、読者に一言も語らなかったのです。ふたりの女主人公と申しましたが、従来のあらゆる規則に反して、この小説はふたりの女主人公がいるのです。
作者は思いきってそれ以上のことをしています。大胆にも、毎朝恋人を失いそうだと思《・・・・・・・・・・・・》う《・》のでなければ、恋人を愛することができないパリ女性の性格を描いたのです。
なにしろ、この都会には才気に満ちた人間ばかりがいますから、途方もない虚栄心がほとんど唯一《ゆいいつ》の情熱となってしまっているわけで、その結果は以上のようなことになっているのです。ほかのところでなら、恋する男ははげしい情熱を口にし、忠実を誓い、また相手の女性にこうしたりっぱな美点を実際に見せて、愛をかちえることができるかもしれません。だが、パリでは、男がいつまでも変らぬまごころを誓い、深く愛している《・・・・・・・》と相手に思わせれば思わせるほど、相手の女性の心では男を下げることになります。これこそドイツ人がけっして本気にしないことでしょう。しかし、私は、スタンダール氏がはたして忠実な描写をしたかどうか、かなり心配です。
ドイツ人の生活は瞑想的《・・・》で空想的《・・・》です。フランス人の生活は、すべてが虚栄と活動にあるのです。
スタンダール氏の本から得られる教訓は、ご婦人方にとって唾棄《だき》すべきものでしょうが、次のとおりです。
虚栄心が執念になってしまったとはいいませんが、すくなくもそれが片時も忘れられない感情となってしまった文明社会、こういう社会で愛されたいと思う青年諸君よ、その前夜最愛の恋人であった女性に対して、自分の心は今や離れようとしているのだと、品よく毎朝思いこませてやりたまえ。
この新しい行動方針は、いったん根をおろせば、恋の対話を一変させることでしょう。一般に、スタンダール氏のいわゆるこの行動方針が発見されるまでは、恋する男は相手の女性になにを話していいかわからず、退屈を感じはじめたりすると、やたらに燃ゆる思いのほどを述べたてて、自分から感動し《・・・》、幸福に酔いしれたりなどしたものです。スタンダール氏はそのおもしろい二冊の本をひっさげてあらわれ、あわれな恋人たちに、なんでもないと思っているそうした言葉こそ、彼らの《・・・》身の破滅になるのだ《・・・・・・・・・》ということを証明したのです。著者に従えば、男が恋する女性のもとで退屈を感じたなら(まことに道徳的で、まことに偽善的な、したがってまことに退屈なこの時代では、こういうことはどうしてもときどき起らざるをえないのですが)、いちばんいい方法は、退屈を隠さないだけでいいのです。それはたまたまそうなっただけのこと、間の悪い話というわけで、いくらでもあることなのです。こんなことはわがイタリアではきわめて当然と思われるでしょう。なにしろ、ふるまいや話しぶりが自然であること《・・・・・・・》、これがイタリアの理想美《・・・》とされているのですから。しかし、気取りやのフランスでは、これは大きな革新になるでしょう。
ふるまいや話しぶりが自然であること、これこそスタンダール氏がその小説の重要な場面で、たえず言及している理想美なのです。ルヴァヴァスール書店が流行を追って、この本の美しい表紙に印刷した図版からのみ判断すれば、恐るべき場面があることになります。女主人公のラ・モール嬢が斬首《ざんしゅ》されたばかりの恋人の頭を両手にもっているからです。しかし、ことここに至るまでに、この頭は多くの狂気の汰沙《さた》をしでかしたのです。それに、そういう狂気の沙汰は、読者を驚かせるものですが、あくまで自然な行動なのです。これこそスタンダール氏の真価なのです。
通俗小説の主人公がしでかす狂気の沙汰の場合は、効果的なのは最初の一回だけで、それは読者の度肝をぬくからです。しかし、それ以後の狂気の沙汰は実人生で見受けられるばか者たちの奇抜なふるまいのようなものです。こちらは待ち設ける。ところが、相手がしでかすことはなんでもない。陳腐なことなのです。この陳腐な趣味は、小間使向きに書かれたB6判小説の大きな危険です。けれども、この種の小説の作家にとって、もっけのさいわいともいうべきことは、パリのサロンで陳腐《・・》と思われることが、アルプスやピレネの山麓《さんろく》にある人口八千の小都会や、さらにまた、アメリカをはじめ外国では、おもしろい《・・・・・》わけなのです。じつに数千冊のフランス小説が外国に送られて消化されているのです。
道徳的な《・・・・》フランスというものは外国では知られていません。それだからこそ、スタンダール氏の小説に触れる前にいわなければならなかったのですが、イエズス会の一派や修道会の連中ならびに、一八一四年から一八三〇年に至るブルボン家の政府が作り上げた、もったいぶった、道徳的な、陰気なフランスくらい、一七一五年から一七八九年にかけてヨーロッパの手本とされた、陽気で、楽しくて、いささか放縦なフランスと似てもつかないものはないのです。こと小説に関するかぎり、現実をそのまま描くこと、他の本を模写《・・・・・・》しないことくらい、むずかしいことはありません。したがって、スタンダール氏以前にはだれひとりとして、この至って無愛想な風俗を進んで描写しようとした人はありません。無愛想とはいいましたが、それにもかかわらず、考えてみれば、ヨーロッパ諸国の人々は従順な精神の持主ですから、この風俗もやがてはナポリからセント = ペテルブルグにかけての地域を風《ふう》靡《び》することとなるでしょう。
ところで、われわれには思いもよらぬ一つの困難が外国にはあるのです。一八二九年(この小説が書かれた時代)の社会の図絵を描くにあたって、作者は小説の中で下劣な人物どもの似顔を描いたがために、この連中の気をそこねる危険にさらされたわけです。しかも、この下劣な人間どもは当時の全権を握っていたわけですから、作者を法廷に呼び出し、ポワシーの徒刑場に十三カ月もぶちこみ、マガロン氏やフォンタン氏のような目にあわせかねなかったのです。
この非常に興味ある小説の物語は次のとおりです。
ヴェリエールはフランシュ = コンテの最も美しい町の一つで、丘の斜面の、大きな栗《くり》林《ばやし》の中に作られたのです。フランスでもとくに美しい川の一つ、ドゥー川が丘の麓《ふもと》を南へ流れ、その丘の斜面にヴェリエールの町がひろがっています。北側はジュラ山脈の一峰を背負っています。赤瓦《あかがわら》の白い家々と製材所と釘《くぎ》を作るかわいい娘たちの、美しい寄合い世帯です。町並は清潔です。町の大部分は、ナポレオンが失脚し、フランスに商業が復活した時代、つまり一八一四年以後にできたので、きれいな町です。しかし、信心家の町なのです。町を牛耳《ぎゅうじ》っているのは、有《う》徳《とく》な聖職者である司祭と、一八一五年の修道会から任命された町長のレーナル氏と、助任司祭のマスロンです。このマスロンというのは、絶大な勢力を握った修道会が、司祭と町長を監視するために、一八二四年に派遣したのです。司祭も町長も、あまり自分らに心服していないと見てとったからです。
ヴェリエールは、この小説では、地方の都会の典型として作者が選んだ架空の町なのです。町長のレーナル氏は背の高い男です。大《おお》柄《がら》な目鼻だちで、どこから見ても守銭奴《ど》といった顔つきです。年は四十八から五十歳、いくつも勲章をもち、貴族の家柄をひどく鼻にかけ、とびきり金持の女性と結婚しました。町長がヴェリエールの大通りを通ると、百姓たちが尊敬の念をもってお辞儀するさまを作者は描いています。
八、九年このかた、レーナル氏がヴェリエールの全権を握っているのはごくあたりまえのことです。ごく誠実な司祭と、町長の次に、もうひとり見のがせない人物がいます。それは貧民収容所長のヴァルノ氏です。この地位から一万ないし一万二千の収入がありますが、彼がその地位を保っているのも、ひとえに修道会の忠犬の役をつとめているからで、修道会のお気にいりなのです。この全能の宗派の幹部の意向では、町長レーナル氏と司祭シェラン神父は、いかに王党派であるとはいえ、なにかおりがあったら、このふたりを、恥知らずのヴァルノ氏ならびに、狂信的な助任司祭のマスロン神父と交替させようとしているのです。
この小説の物語がはじまるころのヴァルノ氏は、レーナル氏に長年世話になりながら、そろそろ町長に嫉《しっ》妬《と》を起させはじめています。
どうかレーナル氏とヴァルノ氏という、このふたりの人物から寸時も眼《め》を離さないでください。このふたりの男は、一八二五年ごろのフランスにおける裕福な人間の半数の肖像です。レーナル氏は小都会の行政官ですし有力者なのです。ヴァルノ氏は、当時地方で見られたような背広のイエズス会士です。厚かましくて、活動家で、腹黒く、どんなことでも恥を知らず、イエズス会の会長のお気に召すのならどんな役目でもいとわないのです。そのかわり、この会長から将来を保証されているのです。この物語が進むにつれて、ヴァルノ氏はとんとん拍子で男爵になり代議士になるのです。つまり、なにしろ小都会の一市民にすぎず、父から譲られたのは菜っ葉服一着と年金六百フランだけというわけですから、たいへんな出世です。この物語のはじめで、修道会はすでにこの男をヴェリエールの貧民収容所長に任命しています。すでに馬車と数頭の馬をもち、ヴェリエールの思想穏健派の連中を会食に呼んだりしています。しかも出世をはかろうとする野心家どもは、気位の高い貴族のレーナル氏の会食よりも、ヴァルノ氏の会食のほうを喜びますので、レーナル氏ははなはだご機《き》嫌《げん》が斜めなのです。
最近ヴァルノ氏はノルマンディー産の駿馬《しゅんめ》を二頭買いましたし、近ごろパリから着いた新式の馬車は、レーナル氏の旧式な馬車を凌《りょう》駕《が》してしまったのです。そこで、レーナル氏は優位を取り戻《もど》そうとして、幼い三人の子供に家庭教師をつけようと考えます。この役目にジュリヤン・ソレルという、町の製材小屋の息子を選びます。ジュリヤンは劇の主人公ですが、それがどういう人物だか述べる必要があります。
ジュリヤンは虚弱で美《び》貌《ぼう》の青年で、黒い眼をし、感受性が非常に強いのです。斧《おの》をあやつる技《わざ》にかけては、兄たちや父親にかなわないので(父のソレルは製材小屋《・・・・》をもっています)、ジュリヤンは軽蔑《けいべつ》されています。兄たちや父親になぐられますので、かれらを憎んでいます。本が読めるのですが、この長所をもっているのは、家族の中でジュリヤンひとりです。ひとりの伯父が死んでJ = J・ルソーの『告白録』と『セント = ヘレナ日記』を残してくれました。ジュリヤンはこの二つの本をむさぼり読み、そのおかげで精神がきたえられます。家ではいつも拳《げん》固《こ》やあざけりの的となっているので、極度に感受性の強いジュリヤンは、たえず侮辱を受けているうちに、疑い深くなり、おこりっぽくなり、あらゆる幸福をむざむざ奪われていると思うと、これを羨《うらや》むようにさえなっているのです。とりわけ自尊心が強いのです。りっぱな屋敷と、財産と馬車と貴族の称号をもち、飾りボタン穴にいろいろの勲章をぶら下げたレーナル氏より、はるかに自尊心が強いのです。
善良なシェラン老司祭が、慈悲心からこのあわれな少年のジュリヤンにラテン語を教えました。製材の仕事をするには虚弱すぎると思ったのです。シェラン司祭はジュリヤンが物事に熱心で、強い感受性と旺盛《おうせい》な読書欲をもっているのを見て、神学校にやり、聖職者にしようと考えています。シェラン司祭がレーナル氏に、この青年はラテン語に精通しているというのです。その推薦で、ヴェリエール町長殿はそのジュリヤンを自宅に住みこませようとして、父親に交渉しはじめます。長々と談判させながら、その間に、フランスの田舎ではいざ金銭のこととなると、どのようにふるまうかということを示してから、スタンダール氏はレーナル氏のりっぱな屋敷に住みこんだジュリヤンの姿を見せます。ジュリヤンは町長の三人の子供の家庭教師になるのです。
ジュリヤンは、人間についても、社会についても、ひそかにシェラン司祭の知らぬ間に読んだルソーの『告白録』から得たこと以外は、なにも知らないのです。若いころのルソーとジュリヤンの境遇のあいだには、すくなからぬ類似点があります。それだからこそ、この本がジュリヤンの性格にはかり知れない影響を与えているのです。しかし、ジュリヤンはルソーや『セント = ヘレナ日記』の話をするようなまねはしません。シェラン司祭もレーナル町長も熱烈な王党派なので、ジュリヤンはナポレオンの名を口にするときでも、内心崇拝していながら、必ず侮辱的な形容詞をつけていうのです。
町の人の眼には、ジュリヤンの知識はただラテン語の旧約聖書だけだと思われているのです。ジュリヤンは聖書を暗記していて、だれにでも空で朗読してきかせます。望まれれば最後の節から始めて終りに第一節を読んだりします。
こういう才能は容易に評価できるものです。とにかくこれは否定できないものです。記憶力は軍人の勇気みたいなもので、ごまかしはききません。というわけで、はじめからジュリヤンはレーナル家で成功をおさめます。レーナル氏もジュリヤンに感心するし、その友人たちや屋敷の召使連中も感心します。ヴェリエール町長の虚栄心にとっては、まったくありがたい話です。町長が運よく自分の子供たちのためにこういう家庭教師を掘り出したというので、この小都会の連中はその話でもちきりです。そのうえ、痛快なのは、ヴァルノ氏がこの若い家庭教師のことで町長を羨み、あらゆる手段をつくしてジュリヤンを町長から奪い取ろうとすることです。
青年ジュリヤンは、まだひどく若い心の奥で、ひそかに町長の富のあさましさ《・・・・・》を深く感じているわけですが、このジュリヤンの性格が、小都会の成金のこういうさもしい権勢欲と、あさましい《・・・・・》富のあいだにあって、飾らぬ筆で、なかなか鮮やかに、迫真力をもって描かれています。作者はすこしもジュリヤンを小間使《・・・》向きの小説の主人公と同一視してはいません。作者はジュリヤンのあらゆる欠点を、良からぬ心の動きを残らずあばいています。第一にジュリヤンの心は利己的です。なぜなら、ジュリヤンはきわめて弱い《・・・・・・》し、虫けらから英雄に至るまで、あらゆる生物の第一の掟《おきて》は自己を守ること《・・・・・・・》にあるからです。ジュリヤンはまさに虐《しいた》げられた、世間知らずの、無知な、好奇心にもえた百姓のせがれですが、自尊心は強いのです。なぜなら、ジュリヤンは、高潔な心をもっていますし、自分でも意外なことに、金のためならなんでもしかねない富裕なレーナル氏の卑《いや》しさを軽蔑しているからです。ジュリヤンは敵に取り巻かれているのを知ります。毎日、彼の面前では自分の崇拝しているナポレオンが槍玉《やりだま》に上がっています。勇気ある若い百姓を中隊長にしたり、やがて将軍にしたからというのです。敬虔《けいけん》な若い聖職者の役割を演じるわけですから、ジュリヤンとしては、ナポレオンを大っぴらにやっつけざるをえないわけです。ジュリヤンの精神的な立場はたいへん苦しいのです。彼はだれをも愛していません。そして、毎日、レーナル氏や、ヴァルノ氏や、町長邸に脂《あぶら》ののった鶏の料理を食べに来るこの小都会のれっきとした王党派の名士連中を、ますます軽蔑しないではいられないのが、自分ながら意外なのです。
これまで話してきた人物は、如実《にょじつ》には描かれていますが、どうみても好きにはなれない人物です。ところが、一八〇〇年以来フランス全土に広まった、きわめて退屈な、猜《さい》疑《ぎ》心《しん》に満ちたこの新しい地方生活のおかげで、一種のかわいい性格の女性が生れたのです。このような女性は一七七五年から一七九〇年にかけての時代を風靡した陽気な風俗の中ではあらわれえなかったのです。レーナル夫人の話はまだしなかったわけですが、レーナル夫人は「地方」でよく見受けられるかわいい女性です。
地方では、町長の地位にあっても、疑い深い修道会に仕える人でさえも、隣人から告げ口されるのを恐れて、世間に戸を閉ざし、孤独な生活を送るのですが、そのおかげで、レーナル夫人のような女性は、自分が美しいかどうか教えてくれる人もないので、自分の美貌を知ることもなく、夫をこの世でいちばんすばらしい男だと思いこみ、おずおずと夫に仕え、心から愛を捧《ささ》げていると思い、従順で慎み深く、家事に没頭し、貞節で、つきあいを好まず、神をあがめ、いつもお祈りをしているのです。申すまでもなく、こういう女性の部屋着姿は優雅ですし、こういう女性はたいてい白い服を着て、花や森や、小川の流れや、鳥のさえずりや、親鳥がひよこを連れて走るさまを愛するのですし、かわいい女性で、身を飾ることもなく、悲しみに沈み、あるいは陽気にはしゃぐこともなく、たいてい恋愛を知らずに死んでいくのです。
そういうのがレーナル夫人の姿で、こういう女性は一七一五年に偉大なルイ十四世が他界してからフランス全土に広がり、その曽孫《そうそん》のルイ十六世が不幸な最期を遂げた一七九三年まで続いた淫猥《いんわい》な風俗の中では存在しえなかったのです。
高貴な魂をもったレーナル夫人は、レーナル氏の卑しい心根に嫌《けん》悪《お》を感じていました。しかし、彼女は金銭をすべてと考えているこれらの連中の前では、なにはともあれ、かれらに対する内心の軽蔑だけは表にあらわしませんでした。レーナル氏が食卓に招く友人たちが一目置いているのは、主人と同じように金銭だけなのです。政府からあてがわれる高い地位や十字勲章だけなのです。その勲章のおかげで、綬章《じゅしょう》を持たない隣人の前を、胸を張り、膝《ひざ》を曲げないで通ることだけなのです。レーナル夫人は、男とはみんな自分の夫のようなものだと思っていたのですが、ジュリヤンが来て六カ月たったころ、食卓の端で子供たちと一緒にすわっているこの蒼白《あおじろ》い顔の若い神父が、なによりもまず金銭を尊敬しているわけでないのに気づきはじめます。ところが、この神父はひどく貧しい。彼女は次第にジュリヤンをヴァルノ氏や夫と比較するようになります。給金四百フランの貧しい家庭教師であるジュリヤンは、三万フランの年金をもつレーナル氏より、金を儲《もう》けることにはずっと執着がないのです。だんだん、レーナル夫人の純真な心は、高潔で、誇り高く、自尊心の強いジュリヤンの心に共感を覚えるようになります。レーナル夫人は好んでジュリヤンのそばで仕事をする。だが、それも子供を愛する気持からだと自分では思っています。もう三十に近いのですが、彼女は恋愛がどんなものだかを知らない。恋愛を感じたことがないのです。小説もろくに読んでいません。現代小説は自由主義的な傾向をもっていますし、彼女は急進王党派だからなのです。夫にも増して心根の下劣なヴァルノ氏が、厚かましくも彼女に求愛したのですが、彼女はいけすかなく思っただけでした。
ジュリヤンの心は、この王党派の家で人々の語る言葉がいちいちかん《・・》にさわり、いらいらするし、怒りっぽくなっています。彼はレーナル夫人にすこしも好意をもっていません。
ある夏の夜、みんなが屋敷のすぐ近くの庭にある大きなマロニエの木の下で夕べを過していました。そのときレーナル夫人がふとジュリヤンの手に触れ、すぐに手を引っこめます。なにしろ、いらいらして怒りっぽくなっているのですから、ジュリヤンはこのしぐさを軽蔑のしるしだと見てとります。この手を握ってやるんだ、と彼は考えます。この手をおれに委《ゆだ》ねるようにさせなくてはいかん。そう考えながらもジュリヤンはこわいのです。彼はまだ十九歳ですし、なんといっても、若い女性の手を握ったことは一度もなかったからです。だが、ジュリヤンは強い魂の持主で、義務感は彼にとってすべてなのです。彼はこの信条を『セント = ヘレナ日記』から学んだのです。彼は自分にいい聞かせます。《もし真夜中になっても、こうしておれの横にすわっているこの若い女の手を取る決心がつかなかったら、明らかにおれは卑怯者《ひきょうもの》にすぎない。それなら室《へや》に帰って、頭にピストルをぶちこむのだ》
時計が真夜中を打つ。最後の勇気をふるって、――愛情から出たことではありません、この点によく注意してください――ジュリヤンは白い柔らかなその手を握ります。夫人はやっとのことで手を引っこめようとしますが、とうとう彼に委ねてしまいます。
この大事件があった夜、レーナル夫人はジュリヤンを愛しているのを知り、わが身を空おそろしく思います。翌日、彼女はサロンで出会ったジュリヤンにつらく当ります。ジュリヤンは考える。《製材小屋主のせがれだからというので、おれを軽蔑しているのだな。この尊大な貴婦人がおれを愛するようにしむけてみせる、それがおれの義務だ》。自尊心の強いジュリヤンのことです。誇り高い心は当然傷つけられますから、ジュリヤンにとっては最初愛情を感じることはできないのです。もし愛情を感じたら、初恋にはかならずつきものの気おくれから、彼は永久にレーナル夫人の、きわめて誠実な、まことの操《みさお》に打ち勝つことはできなかったでしょう。ところが、その反対で、まだすこしも愛を感じていなかったため、彼は一、二カ月たつと、今夜の二時にレーナル夫人の部屋に行くのだ、と考えるのです。彼は彼女にそう告げる。今は自分の愛を知り、そのために苦しんでいるものの、レーナル夫人はかわいそうにジュリヤンのこうした考えを聞かされて、空おそろしく思います。
ジュリヤンはただもうこわくて仕方がありません。だが、時計が二時を打つと、彼はレーナル夫人の部屋に上がっていきます。そこで、一方では勇気が、他方では愛情があったため、もしジュリヤンがほんとうに恋していたら起りえなかったはずの結果が生れます。とにかく、レーナル夫人は非常に美しいので、ジュリヤンはまもなく彼女に夢中になってしまいます。非常に信心深いところから、かわいそうに、夫人はおそろしい呵責《かしゃく》におそわれます。子供のひとりが病気になる。すると、彼女は神が自分の姦通《・・》を罰したもうたと思うのです。レーナル夫人は過ちを自分の眼にごまかそうとしないからです。一度はジュリヤンを家から遠ざけようとさえします。しかし、三日たつと我慢ができなくなり、彼を呼びもどすのです。
ところで、小さなヴェリエールの町では噂《うわさ》でもちきりです。ヴァルノ氏はレーナル氏に匿名《とくめい》の手紙を書きます。彼は妻に嫉《しっ》妬《と》する。恋心がレーナル夫人に入れ知恵をします。あれほど単純な女性がうまく立ちまわって、匿名の手紙の引き起した波紋をもみ消してしまうのです。ジュリヤンはこうした彼女に感心し、彼の恋心はますますかき立てられます。とうとう、おせっかいな友人がレーナル氏に、その町で取《と》り沙汰《ざた》していることを告げ口します。ジュリヤンはブザンソンの神学校に送られます。
この小説で風俗描写として注意すべき部分は、ジュリヤンが神学校に滞在するところです。校長のピラール神父は誠実そのもののような人です。しかし、ジャンセニストなのです。ブザンソンの副司教で修道会の長であるフリレール神父は、むりやり辞表を出させるようにピラール神父をしむけてしまいます。
ピラール神父はパリに出て、上院議員で青《コルドン》綬章《・ブルー》をもつラ・モール侯爵の世話を受けることになります。侯爵は粋《いき》な才人で、大革命以前からの大貴族です。一七九四年(恐怖政治の終り)にはじまったにすぎない変革のもとでは、新しい型の大貴族が出現するには、まだ月日が浅すぎたのです。この愛《あい》想《そ》のよいラ・モール氏は、警察に買収されない《・・・・・・》秘書をほしがっています。ピラール神父はジュリヤンを推薦します。ジュリヤンはパリに呼び寄せられます。こうして、彼はラ・モール侯爵邸の人となるのです。最初は皆が彼の不器用なふるまいをあざけります。ラ・モール氏とその息子のノルベール氏が彼をかばいます。
一年たつと、ジュリヤンはサロンに出てもそれほど不体裁なふるまいはしなくなっています。ラ・モール氏は怠けものです。ジュリヤンは氏のよろずや《・・・・》の役目をつとめます。ジュリヤンはときどきサロンに出て人々としゃべります。そして、なにしろ彼は自尊心の塊ですし、いやすくなくとも軽蔑を買いたくないと思っているのですから、公爵や上院議員やスパイがつめかけている金ぴかのサロンで人々の注意をひくことになります。ここのところでもまた、フォーブール・サン = ジェルマン街のサロンの真に迫った描写が見られるのです。大貴族たちはだいいちに怠けもので、仕事を最大の悪《・・・・》とみなし、他面においては過激革命派と九三年の共和国の復帰を恐れ、政治的節操に背きスパイとなった自由主義者たちを自分の身近に寄せ集めています。こうして、およそ高貴なもの、富の最大なるものが、およそ卑劣なもの、貧の最大なるものと手を握っているのです。これこそ一七八九年まではありえなかったことです。ここにおいて、スタンダール氏は再び時代の描写を行なっているのです。
これほど奇妙な客種の集まっているサロンで、十九歳のパリ娘、侯爵の令嬢ラ・モール嬢はひときわ光っています。この令嬢はいずれクロワズノワ侯爵と結婚することになっています。この侯爵はシャルル十世付近《この》衛《え》騎兵隊長で、六万フランの年金を持ち、いずれは公爵になるべき青年です。クロワズノワ氏はきわめて洗練された人で、なんの話をしていても、きっと話相手の気にいるようなことがいえる人なのです。つまり、フォーブール・サン = ジェルマン街の考えかたからすれば、彼は完璧《かんぺき》なのです。だが、ラ・モール嬢の眼にはつまらない人間に見えるのです。《この人の妻になったら退屈することだろう》と彼女は考えます。
この貴族街の五、六人の青年が、彼女にいつもくっついています。これらの青年はいずれも感じのいい物腰を身につけていますが、およそ頭の中は空っぽで、まして感情などは一かけらもありません。きわめておうようなこれらの青年は、お互い同士まったく似通っ《・・・・・・・》ている《・・・》のでなければ、それこそ身の破滅だと信じかねないのです。
それにくらべると、平民は思想が豊かですが、物腰に優雅な点が欠けています。チュイルリー宮からの帰りに、およそきらびやかな軍服を着てときどきサロンにあらわれるこの派手な青年たちは、質素な黒服を着たジュリヤンにあまりいい感情をもちません。これほど有利な立場にありながら、かれらはラ・モール嬢に退屈を感じさせるだけです。ジュリヤンはけっしてそうした彼女に口もきかないのです。
なにしろ生粋《きっすい》のパリ娘ですから、ラ・モール嬢はジュリヤンの気をひこうとします。彼女からみれば、父のお気にいりの秘書の控え目な態度は、まるで自分を軽蔑しているように思えるのです。自尊心から、軽蔑をおそれ《・・・・・・》る心《・・》から生れた態度にすぎないとは、彼女にはわからないのです。極端な虚栄心から、ラ・モール嬢はジュリヤンの平静な心を乱そうと一心になります。
自尊心から出たジュリヤンの行動は効を奏し、ラ・モール嬢はほんとうに怒ってしまいます。ここのところは実際に小説をくわしく読まなければなりません。一見なんでもないようでも、パリ娘の虚栄心にとっては決定的なものとなる言動のニュアンスを読みとるべきです。
とうとう、ラ・モール嬢、百万の持参金をもち、またそれにもまして、夫のおかげで宮廷の引立てを受けようというラ・モール嬢、あれほど美貌を誇り、あれほど評判の令嬢、王侯に嫁《とつ》ぐべき、既婚のレーナル夫人より数百倍も世間を知っているこの若い令嬢が、あろうことか、この気位の高いラ・モール嬢が、父の秘書、召使風《ふ》情《ぜい》を愛することになるのです!
なぜでしょう? それはジュリヤンが大いに自尊心のほどを見せて、偶然にもラ・モール嬢の虚栄心を害するに足るふるまいをしたからです。二、三度、冗談でなく本気で、彼はラ・モール嬢に置去りを食わせ《・・・・・・・》かけたのです。そこに、今日のパリの女性がいだく恋心の秘密があるのです。
冷淡という手段をもって、ジュリヤンはラ・モール嬢に手紙で愛を打ち明けさせることになる。
ラ・モール嬢が心を惹《ひ》かれたのは、ジュリヤンを天才と思い、現代のダントンだと思ったからです。一八二九年のフォーブール・サン = ジェルマン街の人々は革命をひどくおそれ、来たるべき革命も、一七九三年のような流血の惨事になるにちがいないと考えていたのです。革命というものは根絶すべき悪弊のひどさに正確に比例《・・・・・》するもので、悪弊がひどい場合にのみ流血の惨事になるわけですが、貴族街の人間はこのことを知らなかったのです。
ところが、一八二九年の悪弊はひどいものではなかったのです。ブルボン家の手で、ネー、ムートン = デュヴェルネ、ラベドワイエール、フォーシェ兄弟に続いて銃殺された将官の数は百五十にも達しないのです。
いずれにせよ、ラ・モール嬢は自分の属している階級のすべての人々と同様に、恐怖をいだいています。しかも、奇妙なことに、彼女がジュリヤンに一目置いたのも、彼が現代のダントンになるひとだと思うからなのです。ここでまた、この小説は一七八九年以前にはありえなかった事情を描いています。若い平民が大貴族の婦人の心を惹くとしても、……それは気持による以外にはありえなかったのです。
ラ・モール嬢の手紙に話をもどしましょう。その手紙を受け取ったとき、ジュリヤンは罠《わな》をかけられたのだと思います。彼は警戒します。《向うからこのあいびきを申しこんでおいて、その場でおれを殺そうというのだ》と彼は考えます。というのは、恋に狂ったラ・モール嬢はあいびきの申しこみまでしてしまったのです。ジュリヤンはさらに考えます。《おれを殺しておいて、やつらがこの手紙の原文をとりあげるのは明白だ。おれは夜中にラ・モール嬢の部屋に忍びこもうとした悪党、ばかものということになる。殿様がた、お手柔らかに願いますぜ》
ジュリヤンはラ・モール嬢の手紙をヴェリエールの一友人に送り、もし自分が暗殺されたと聞いたら、それを公表するようにと命じます。ジュリヤンは恩人の娘をそのようにして誘惑するのに、自責を感じます。しかし、彼は、その恩人がチュイルリー宮から国家の機密を握って帰り、間違いのない国債に投機《・・・・・・・・・・・》しようとする《・・・・・・》のを見たのです。彼はそれを詐《さ》欺《ぎ》行為だと思います。
彼は自分勝手にこの非行を楯《たて》にとり、さらに大きな非行を犯すのです。ジュリヤンは、ラ・モール嬢にいい寄っている青年貴族があいびきの場所にあてた彼女の部屋に集まり、ジュリヤンを嘲弄《ちょうろう》するか殺害しようとしていると思っているので、この青年貴族たちの刃《やいば》に、勇敢に立ち向うと考えるとすっかり得意になり、庭におり立ち、梯子《はしご》を手にして、屋敷の壁に立てかけ、窓からこの貴族で美貌の令嬢の部屋にはいりこんでしまったのです。
この夜の翌日、ラ・モール嬢はジュリヤンに身をまかせたのをはずかしく思います。ジュリヤンは絶望する。彼はほんとうに恋しているのです。田舎では、いつも思い描いていたパリの夢に目をくらまされて、やさしい純なレーナル夫人の真価を知ることができなかったのです。ラ・モール嬢は、ジュリヤンが十年間パリの情事と色香に思いをはせて描いてきたあらゆる夢想を武器として、彼に対することになります。
ラ・モール侯爵はマインツにいるある大使のもとに手紙を届けさせるために、ジュリヤンを派遣します。恋に狂ったジュリヤンは絶望の極におちいります。彼はあるきざな友人に会います。この友人はジュリヤンに、きみを軽蔑している女の仲間のだれかにいい寄れと平凡な忠告をするばかりではなく、もっと大事なことですが、その忠言に従う勇気《・・》をジュリヤンに与えるのです。このきざな男は面倒くさがりやで、男が篭絡《ろうらく》しようとする女にあてた手紙をいっぱい溜《た》めてもっているのです。この男がジュリヤンにその手紙一そろいを与えていいます。「この手紙を写すことですな。あなたを軽蔑している女の仲間のうちからだれかを選んで、その女にこれを送るのです。最後の手紙の写しを送るまで失望してはいけませんよ」
ジュリヤンは意志の力を強く働かせ、冷静を装うので、ラ・モール嬢は一度身体《からだ》をまかせた男がすこしも絶望の色を見せないのに憤慨します。それに、彼女は強い虚栄心をもっている。しかし自堕落な女ではありません。彼女は若いし、……それに気分屋ではない―― in francese io metterai una allusion.onestate la cosa ――ジュリヤンはなんといっても最初の恋人だったのです。彼女は再び彼を愛しはじめます。
ジュリヤンはさいわいにも冷淡を装い続けることができます。これは彼が真に意志の強い男である証拠です。これこそたしかに人間の心に課せられる試練の最も困難なものの一つでしょう。この英雄的なふるまいは、大勝利の栄冠をジュリヤンに与えます。二カ月のあいだ冷淡と軽蔑を装い続けたとき、ラ・モール嬢はジュリヤンに二度目のあいびきを申しこみます。しかし、ジュリヤンは彼女にいうのです。「私をお呼びになるのは傷ついた貴女《あなた》の虚栄心です。愛情などではありません」ラ・モール嬢は片がわの美しい金髪をばっさりジュリヤンのために切り落し、庭に出た彼に投げかけます。Asinus fricat se ipsum .
このパリの恋愛描写はまったく新しいものです。他の本には見られないものだろうと思います。この恋愛はレーナル夫人の、まことの、純真な、自意識のまじらない《・・・・・・・・・》恋愛とは好《よ》い対照をなすものです。それは心情の恋愛に対する頭脳の恋愛です。もっともこの対照はフランスではちょっと乙なものですが、こうした書きあらわしにくい微妙な恋愛が行われる土地から三百里も離れたところにいるわれわれのような人間の眼には、その面白《おもしろ》味《み》も大かた色あせて見えるわけです。
この記事もだいぶ長くなってきましたから、ジュリヤンとラ・モール嬢の恋愛に関するさまざまな事件は省略しましょう。上流社交界にくわしい読者なら、すぐに想像できるでしょう。要するに頭脳の恋愛なのです。
精神の進歩のおかげで、われわれはあえて天才でなくても、途方もない一大事件や一大行動を考えつくのです。たとえば、マキアヴェッリの知もマザランの才ももたぬポリニャック氏は、ある日目を覚まして、憲章をくつ《・・・・・》がえそう《・・・・》と思いつきます。大胆にも行動にとりかかるのですが、軍隊を集めてからでもなければ、裁判官を買収してからでもないといったふうで、成功に必要な手段をすこしも考慮しないのです。枢《すう》機《き》卿《けい》マザランだったら、必ずそういう手段を講じたでしょう。
パリの若干の若い女たちに見られる頭脳の《・・・》恋愛《・・》とは以上のようなものです。娘にできるおよそ思いきったことといえば、なんでしょう? この若いパリ娘の場合は、自分がはげしい情熱をもっていると思いこみたいばっかりに、それだけのために、全然愛していない男と駆落ちしようとするのです。
ジュリヤンの恋物語をここに書く余地はありませんが、最後にジュリヤンはこの令嬢と結婚することになり、そのおかげで大貴族になるのです。ここで再びレーナル夫人が出てきます。
ラ・モール侯爵は、お気にいりのジュリヤンがレーナル夫人の子供の家庭教師だったのを知っていますので、ただなんとなく、夫人にジュリヤンのことを問い合せようと考えます。ところでレーナル夫人は恋人と離れてから、世間並に新しい恋人をつくったりしなかったのです。この女性はいじらしくも、ほんとうにやさしい心根の持主なのです。彼女は神を愛そうとします。この世の恋を悔いているのです。ヴェリエールの若いイエズス会士がレーナル夫人の面倒を見ることになります。このイエズス会士は、製材小屋主の小せがれに対するラ・モール氏の令嬢の狂恋をあきらめさせたら氏の気にいることになり、出世は間違いなしと思います。彼は自分のいうとおりのことを、悔悟しているレーナル夫人に書かせます。ジュリヤンは金銭のことしか頭になく、女を手段に出世しようとしている男だという手紙なのです。ラ・モール氏は怒ってその手紙を娘のマチルドに渡します。マチルドはそれをジュリヤンに見せます。ジュリヤンは怒りに燃え、パリを発《た》ち、ミサの時間にヴェリエールに着き、教会にはいります。レーナル夫人の姿を目にすると、彼は間近から夫人を目がけてピストルを二発ぶっ放すのです。
ジュリヤンは投獄される。レーナル夫人は傷がなおると、今もなお愛している獄中のジュリヤンに会いに行き、公然と彼とのよりをもどして、男を救おうとします。ジュリヤンの死に先立つこのところは Asinus asinum fricat場面です。
ここで読者を驚かすことが一つあります。この小説は小説ではないのです。この小説に書かれたことはすべて、実際に一八二六年にレンヌの近くで起ったことなのです。ほかならぬこのレンヌで、その事件の主人公は、最初の恋人に向ってピストルを二発撃った後処刑されました。彼は前にその婦人の子供の家庭教師だったのですし、その婦人は彼が二度目の恋人で非常に富裕な娘と結婚するのを手紙で妨げたのです。スタンダール氏の小説に架空の事はなに一つないのです。
同氏の本は活気があり、多彩で興味と感動に満ちています。作者はやさしい素《そ》朴《ぼく》な恋愛を素直な文章で書き上げることができたのです。
作者は思いきってパリの恋愛を描いたのです。この作者以前にはだれひとりそんなことを試みたものはありません。まただれひとりとして、十九世紀はじめの三十年間にフランスを支配したさまざまな政府がフランス国民に与えた風俗を、幾分かでも丹念に描写した人はなかったのです。いつかは、この小説もウォルター・スコットの小説と同じように古い時代の絵巻物となることでしょう。
D・グルフォット・パペラ
以上は検事が述べた素材にすぎません。あなたはすでにこの公判の具体的な事柄《ことがら》を実際にご存じなのですから、こんどはあなたが「アントロジア」誌の読者に向って好意ある雄弁をふるって、この本はたいへんりっぱな本であること、あの不朽の名著『トム・ジョウンズ』と並んで図書室に置かれるべき本だということを説いていただきたいのです。要は長々と話してきかせることです。ただすこしきわどいと思える個《か》所《しょ》は特に加減してください。
訳注 この『赤と黒』評の草稿は、スタンダールから、フィレンツェの作家で親友のサルヴァニョリ伯に送られたものである。サルヴァニョリ伯は、フィレンツェで発行されていた文芸雑誌「アントロジア」で、この小説の書評をしたいと申し出たらしい。しかし、この文芸雑誌はまもなく廃刊となり、サルヴァニョリ伯はスタンダールから受け取ったこの書評をついに利用しなかったようである。この書評は手紙の体裁でサルヴァニョリ伯にあてられたものである。
解説
小林正
スタンダール 人と作品
スタンダールは本名をアンリ・ベールといい、一七八三年一月二十三日、東南フランスのドーフィネ地方の首都グルノーブルに生れた。
父はグルノーブル高等法院づとめの弁護士で、少年アンリはかなりめぐまれた家庭に育ったが、父は保守的な考えの、気むずかしい人間で、アンリの家庭教師にカトリックの神父を選んだ。感受性の強いアンリは、きびしいしつけをおしつける父を憎み、自由を禁じる偽善的な神父の教え方に反感をいだいた。宗教と偽善をけぎらいし、共和思想に味方するのちのスタンダールは、こうして少年のころにできあがった。
また、アンリのものの考え方を作りあげるのに、三人の人間が大きな影響をおよぼしている。その一人は母方の祖父アンリ・ガニョンで、この学者がアンリに十八世紀の思想家ヴォルテール流の、合理的な考え方をうえつけた。もう一人は母方の大叔母エリザベット・ガニョンで、この老嬢は理想はだの女性で、つねにコルネイユの『ル・シッド』のような、気高い心をもつことを、アンリに伝えた(これをスタンダールは「スペイン気質《かたぎ》」と言っている)。三番目は母の弟ロマン・ガニョンで、この叔父は前の二人とはまったく正反対の遊び人で、できるだけ楽しく人生をくらす方法を、アンリに教えた。この三人のそれぞれ個性のある考え方がまざり合って、のちのスタンダールの人生観を作りあげる。
少年アンリは七歳のときに母を失った。アンリは、早くも人間は孤独だという考えをもつようになり、いつも自分のことを反省する習慣を身につけることになる。
中等学校時代は、とくに数学が得意で優等生になり、理工科大学《エコール・ポリテクニック》(当時も今日でも理科系の最高学府)を受験するために、パリに出た。そのころのフランスはフランス大革命(一七八九年)直後で、国内は乱れ、ナポレオンが政権をとったばかりのときだった。アンリはすさんだパリの人々の生活を見て失望し、神経衰弱から受験をあきらめた。こうして、アンリの一生は、まったく違った方向をたどることになる。
アンリの親戚《しんせき》で、のちに陸軍次官にまで出世するピエール・ダリュのおかげで、アンリは軍人になり、ナポレオンのイタリア遠征軍に従って、北イタリアのミラノに入城する。一八〇〇年、アンリが十七歳のことである。青年アンリは、美しいイタリアの風土と、自由で情熱的なイタリアの女性に、すっかり魅せられてしまった。スタンダールのイタリア礼讚《らいさん》がここにはじまる。それに、スタンダールの小説に出てくる主人公たちは、いずれも、イタリア人のように、強いエネルギーをもつことになる。
まもなく、アンリは軍人をやめて、フランスにもどり、モリエールのような偉大な喜劇作家になろうと決心してパリに出、さかんに国立劇場に通って演劇を研究し、かなりの数の戯曲を書いたが、いずれも習作のまま未完となっている。笑いについての考察は、アンリを批評家にはしたものの、戯曲作家としては育てなかった。
そのうち、国立劇場の若い女優メラニー・ギルベールと知合いになり、この女優のあとを追ってマルセイユに行き、同棲《どうせい》するが、翌年これと別れ、思い直して、陸軍省にはいり、経理官としてナポレオン軍に従い、ドイツやオーストリアに行き、占領地の司政官の仕事にはげんだ。やがて、アンリ・ベールは国の政治の重要な相談をする参事院の書記官にまで出世した。
一八一二年、ナポレオンのロシア遠征軍に従って、モスクワに行くが、大火にあって、退却軍とともに、生命《いのち》からがら帰国した。一八一四年、ナポレオンの敗北とともに、アンリ・ベールも職を失った。彼はブルボン王家の支配するフランスにとどまることをいさぎよしとせず、かねてから熱愛していたイタリア女アンジェラ・ピエトラグルーアのいるミラノに、永住するつもりでおもむいた。翌年、イタリアの音楽評論家などの文章を大いに借用して、『ハイドン、モーツァルト、メタスタジオ伝』を出版した。
そのころ、イタリアでは、すでにロマン主義運動がおこっていた。アンリ・ベールはこの運動に共鳴し、これまでの伝統的な、古典主義文学観をすて、国々によって、また時代によって、文学や芸術の考え方が異なることを自覚し、美の相対性を提唱することになる。そういう考え方から『イタリア絵画史』(一八一七年)を発表した。『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』(一八一七年)は、イタリアの風土・民族・政治を論じた精彩のある紀行文である。この紀行文からスタンダールというペンネームを使うことになる。
アンジェラに裏切られたスタンダールは、ミラノの社交界の花形マチルデ・デンボフスキ(スタンダールはメチルドと呼んだ)を知って、これを情熱的に愛したが、相手はこれに答えてくれなかった。一方、自由主義者スタンダールは、当時北イタリアを支配していたオーストリア政府から、イタリア解放運動の秘密結社「炭焼党《カルボナーリ》」の一味ではないかと疑われ、国外退去をすすめられていた。
一八二一年、失恋の悲しみと、オーストリア政府の圧迫から、愛するミラノを去ってパリにもどり、一八三〇年まで、王政復古時代(ルイ十八世とシャルル十世の保守反動の時代)のパリで、文壇の放浪児として、文学者仲間とつきあい、社交生活を送る。生活の資をえるために、イギリスの雑誌に、パリの文壇の消息や、フランスの政治社会を痛烈に批判した記事を寄稿する。
ミラノ時代の恋愛の経験に基づいて、恋する人間の心理がどのような経過をたどるかを分析したのが『恋愛論』(一八二二年)である。また、ミラノ時代に身につけた新しい文学観に基づいて、ようやく古典主義とロマン主義の論争がはげしくなってきたフランスの文学界に与えたのが、『ラシーヌとシェイクスピア』(第一部、一八二三年、第二部、一八二五年)である。これはいわばフランスにおけるはじめてのロマン主義宣言として注目されたが、ヴィクトル・ユゴー一派のロマン主義は、スタンダールの主張とはかならずしも一致せず、スタンダールはロマン主義陣営の「コサック騎兵」にすぎなかった。
一八二七年に、四十四歳ではじめて、スタンダールは小説『アルマンス』を発表した。これは上流社会の一青年の心理を通じて、当時の社会を批判させた小説だが、性的不能という特殊なケースの青年を主人公にしているので、奇妙な小説というだけで、世間からは注目されなかった。一八三〇年、フランス小説史に新たな分野をもたらす『赤と黒』が発表された(後半参照)。
パリ滞在時代に、スタンダールは二つの恋愛を経験している。これはミラノ時代の恋愛経験とともに、スタンダールの小説のヒロインたちの創造に大きな影響を与えている。その一つは、クレマンチーヌ・キュリアル伯爵夫人との、一八二四年から一八二六年にわたる、はげしい現実的な壮年の恋愛であり、もう一つはイタリアの文学少女ジューリアとの奇妙な恋愛遊戯(後出)である。
一八三〇年の七月革命で、ルイ = フィリップを「国民の王」にいただくフランスは、自由主義の時代となった。スタンダールはローマ法王領駐在のフランス領事として、ローマ近くの小港チヴィタヴェッキアに滞在する。退屈な領事生活のあいだに、パリ滞在時代(一八二一年―一八三〇年)の思い出『エゴチスムの回想』(一八三二年執筆、中絶、死後一八九二年刊)および、幼少年時代の自叙伝『アンリ・ブリュラール伝』(一八三五年―一八三六年執筆、中絶、死後一八九〇年刊)を書き、またパリとフランスの地方都会を舞台とし、ルイ = フィリップ時代のフランスの、政治社会風俗を諷《ふう》刺《し》した未完の大規模な小説『リュシヤン・ルーヴェン』(一八三四年―一八三六年執筆、中絶、死後一八九四年刊)を書いた。
かねがねイタリアを礼讚してやまなかったスタンダールは、イタリアの中世やルネサンス時代の犯罪記録に興味をいだき、これを買いとったり筆写させたりしたうえで、フランス語に翻訳しはじめた。むろん、スタンダールは相当の加筆をしているが、このなかには創作に近い『カストロの尼』(一八三九年)のような中編もあるし、スタンダール独特のドン・ジュアン論のついた、直訳に近い『チェンチ一族』(一八三七年)のような短編もある。これら一連のイタリア犯罪記録ものが、のちに『イタリア年代記』(一八三七年以後、各種の版がある)といわれるものである。
スタンダールのイタリア礼讚はそれだけにとどまらなかった。時代を現代とし、専制君主の支配する小国パルマを舞台として、イタリア人のエネルギーを百パーセントに発揮する、直情の青年ファブリツィオ(ファブリス)や美少女クレリア、才人首相モスカや大胆不敵な美女サンセヴェリーナの活躍する『パルムの僧院』(一八三九年)は、スタンダールのイタリア礼讚の見事な結晶といえよう。スタンダールは一八三六年から一八三九年まで、休暇をえてパリにもどっていたが、その最後の年の暮に、わずか五十二日間でこの大作を書きあげた。
一八四二年、ふたたび休暇でパリに帰っていたとき、三月二十二日夕刻、パリの町なかで、卒中に倒れ、翌朝永眠した。五十九歳だった。
スタンダールは生存中はほとんど顧みられなかった。しかし、バルザックは、スタンダールが自分と性質の違う小説家であることを知りながらも、「一八三〇年の文学史は『結婚の生理学』(バルザックの小説)に始まり、『赤と黒』に終る」と述べ、ひそかにスタンダールの将来性を見ぬいていたし、バルザックの『パルムの僧院』評は、スタンダールの意図を十分つかんでいないとはいえ、とにかくこの小説を高く評価していた。二十世紀になってから、スタンダールはフランス文学史において、バルザックと肩を並べる大作家となったばかりでなく、世界文学史上でも、近代小説の代表的な作家として認められるようになった。
『赤と黒』について
〈『赤と黒』の時代的背景〉 スタンダールにとっては、ジュラのしがない材木屋のせがれ、これがまず第一に、本質的にジュリヤンの本性なのである。王政復古がこの男に、第三階級出身でも「三十六歳で将軍になれる」ような経歴を与えるかわりに、かけひきと色《いろ》恋《こい》沙汰《ざた》の道しか残しておかなかったこと、ジュリヤンが「保護者」のラ・モール氏について、「おれはこういう連中を多少憐《あわ》れみもしよう。……だが、彼らは第三階級の連中をつかまえたとき、この連中に同情なんかするものか!」といいきること、これこそスタンダールの小説が以前の小説と完全に違う所以《ゆえん》である。――これは『スタンダールの光』のなかで、アラゴンのいっている言葉であるが、『赤と黒』の一番重要な特性のひとつを見事に要約していると思う。『赤と黒』は単なる政治小説ではない。しかし、社会的にも年代《・・・・・・・》的にも限定された《・・・・・・・・》スタンダールという、一個の人間が小説の背後にいるというアラゴンの説、いいかえれば、『赤と黒』を歴史的レア《・・・・・》リスム《・・・》の実例と見るアラゴンの説は、十分傾聴に値する。『赤と黒』は、イエズス会と亡命貴族が作り上げた社会に対する痛烈な諷《ふう》刺《し》の書である。社会的にも年代的にも限定されるとは、一八一四年から一八三〇年までの、王政復古という反動の政治形態下の社会に生活することなのだ。
大革命前夜に生れた市民階級(スタンダールはそのひとり)は、少年期に大革命という異例の大《だい》波《は》瀾《らん》を経験し、多くは革命政府のもつ共和主義の理想に共鳴し、人権と自由を旗印とする革命軍に参加し、やがて擡頭《たいとう》したボナパルトとともに欧州の野を東奔西走することとなる。ボナパルトはまもなくナポレオン一世として帝政という権力政治をしくが、これはある意味で大革命の混乱を収拾するために必然的に出現した政治制度でもあった。それに、帝政とはいっても、大革命以前の君主専制政治とは本質的に異なっていた。それは一八〇四年に元老院が議決した「共和国政府《・・・・・》はフランス国民の皇帝《・・・・・・・・・・》という称号をもつ一皇帝に委《ゆだ》ねられる」という条文によってもわかるであろう。ナポレオンは外面的にはすくなくとも共和国形態を保持しようとした。また、この時代は階級のいかんを問わず、有能な人物には出世の道がひらかれ、「三十六歳で将軍になる」ことができた。
しかし、一八一四年、ひとたびナポレオン帝政が崩れると、事情は一変した。ルイ十八世がブルボン王朝正統の君主として、フラン《・・・》ス国王《・・・》(国民の王ではない)となり、神のめ《・・・》ぐみによって《・・・・・・》フランス国を統治し、憲章を国民に授与する《・・・・》ことになったのである。これとともに擡頭したのが、大革命を期して国外に亡命した貴族階級と聖職者階級である。国外において辛酸をなめつくしたこれらの両階級の、共和派およびボナパルト派に対する憎しみの念はとどまるところがなかった。王政復古初年の、急進王党によって企てられた「白色テロ」のために、どれだけ多くの進歩派ないしボナパルト派が虐殺《ぎゃくさつ》されたかしれない。また一八一四年の憲章は、王政復古の憲章とはいっても、自由主義的な議会政治を基礎とした憲章だった。急進王党は当時の首相リシュリユーの穏和政策にあきたらず、進駐軍の介入を謀《はか》って、進歩派の徹底的弾圧を企てる「密書」事件をひき起すに至った。スタンダールは『赤と黒』第二部、第二十一章以下三章にわたって、これをとりあげている。むろん、かれは単に一八一八年の急進王党の陰謀を描いたのではなく、これを一八三〇年に移して、革命をおそれる急進王党の血迷った狂気の沙汰として諷刺し、逆にフランス国民の尖鋭《せんえい》化《か》した自由思想を描こうとしたのである。
一八二四年、ルイ十八世のあとをついで、国王となったシャルル十世は極端な専制君主だった。ルイ十八世時代の微温政策でやや鳴りをひそめていた急進王党は、一挙に政権を手中におさめることとなる。とりわけ、イエズス会と称する修道会は、強大な勢力をもってフランス国を支配するようになった。しかし、ひとたび大革命を経験したフランス国民は、日ごとに加わる言論の弾圧と、選挙法の制限を、いつまでも甘受してはいなかった。一八三〇年七月、ついにパリ市民がたち上がり、七月革命に成功する。ルイ = フィリップは「フランス国民の王」として迎えられ、神のめぐみと、国民の総意《・・・・・》によって統治し、議会によって可決された《・・・・・》憲章を受諾し《・・・》、ここに「七月王政時代」が来る。
「密書」について前述した『赤と黒』第二部の三章は、ジュリヤンの物語においては挿《そう》話《わ》にすぎないし、前後となんの関係ももっていないにもかかわらず、王政復古時代の思想的背景をなすものであり、小説展開の中心となっている。しかも、スタンダールの共和思想は、この陰謀をことさら印象づけるため、ナポレオン時代の卑劣な将軍ブールモンをさえ、これに加わらせている。アラゴンは、この政治という骨組がなければ、スタンダールの過激共和思想、君主制度に対する彼の考え方、ヨーロッパに国王がいなくなる時代を見《み》透《とお》す彼の考え方がなければ、この小説は存在しないだろうとまで極言している。私としては『赤と黒』が単なる過激共和派の政治小説だというだけで、世界の最大小説の一つに数えられるとは思わないが、従来この面がごく簡単にしか言及されないのを見て、読者の注意を喚起したく思ったのである。
〈『赤と黒』の素材〉 現実に起った二つの犯罪事件、すなわちラファルグ事件とベルテ事件は、スタンダールが久しく前から礼讚《らいさん》してやまなかった見事な情熱の犯罪だった。ラファルグ事件というのは、南仏の一青年アドリヤン・ラファルグという建具屋が、一八二九年一月、浮《うわ》気《き》な情婦をまっ昼間射殺して自殺を企てたが、失敗し、公判の結果、死刑を免《まぬか》れて禁《きん》錮《こ》五年の刑に処せられたという、平凡な痴情沙汰なのである。だが、スタンダールは『ローマ漫歩』で、「法廷新報」所載のラファルグ訴訟記録を長々と引用したあとで、いっている。
「パリの社会の上層階級が、強い、しっかりした、物を感じる力を失いつつあるかに見える現在、情熱は小市民階級の青年たちのあいだで、おそるべきエネルギーを発揮している。その青年たちとは、ラファルグ氏のように、立派な教育を受けながら、貧しいためにやむなく働かざるをえず、窮乏に追いこまれている青年たちのことである。彼らは働かなければならないから、上流階級から課せられているような、いろいろのつまらぬ義務にはしばられないし、人生をひからびたものにする、上流階級特有の見方や感じ方にそまらないですみ、ものを強く感じるから意志の力を失っていない。おそらく、これからの偉大な人物はすべて、ラファルグ氏の属する階級から生れるであろう」
これが、スタンダールの描こうとしたジュリヤン・ソレルの根本的な姿である。そして、その具体的な事情が、一八二七年十二月二十八日―三十一日「法廷新報」に掲載されたベルテ公判記録だった。
一八二七年七月二十二日、スタンダールの出身地方であるドーフィネの、ブラングという小村の教会で、かじやのせがれの元神学生アントワーヌ・ベルテが、ミサの最中、ひざまずいていたミシュー・ド・ラ・トゥール夫人をピストルで狙《そ》撃《げき》し、これに重傷を負わせた。夫人は三十六歳で、スタンダールの尊敬していた法官ミシューの従兄弟《いとこ》にあたるものの妻だった。アントワーヌ・ベルテはすぐれた知性の持主で、村の司祭にかわいがられ、神学校にいれてもらったが、病弱のため学業をつづけることができず、退学し、ふたたび司祭の口ききで、ミシュー・ド・ラ・トゥール家の家庭教師として迎えられた。ミシュー夫人は評判のよい貞淑な妻だったが、病弱なベルテの境遇にあまり同情をよせすぎたものと思われる。ベルテの申立てによれば、かれは夫人の愛人になったとのことである。とにかく、同家にいたたまれなくなったベルテは、今度はグルノーブルの神学校にはいったが、やがて放校となり、父親の怒りにあって、自分の家からも追い出された。ベルテは自分の不幸の原因がミシュー夫人にあると思ったのか、このころはげしい非難の手紙を、夫人あてに書いている。だが、ミシュー氏はかつての家庭教師のために、コルドン家の家庭教師の口を世話してやった。ところが、この家庭で、コルドン嬢と関係したため、ベルテはまたも追い出された。ふたたび神学校にはいろうと運動したが、すべてはうまくいかなかった。これまで受けた召使同然の待遇を深く恨み、自分の不運をあくまでミシュー夫妻のせいだと考えたベルテは、「わたしはこのままの立場ではきっとなにか大事件をひき起すことになります」という、やぶれかぶれの手紙をミシュー夫人に送った。事実、その大事件をひき起してしまったのだ。アントワーヌ・ベルテは、一八二七年十二月の公判で、死刑の宣告を受け、翌年二月二十三日、グルノーブルの練兵場で処刑された。二十五歳だった。
ブラングをヴェリエールに、アントワーヌ・ベルテをジュリヤン・ソレルにおきかえ、これにベルテの場合と同じような女性を配すれば、そのまま『赤と黒』の筋書となる。『赤と黒』第一部にあたる部分についてはベルテ事件で十分だったが、第二部に使うべき、ベルテ事件の後半、つまりコルドン嬢に関する資料がほとんどなかった。マチルド・ド・ラ・モール嬢という異常な性格の女主人公は、スタンダールがかねてから夢想していたタイプの女性だったが、コルドン嬢にこれを求めることはできない。たまたま、ここに注目すべき事件が、スタンダールの身辺で起った。その一つは、シャルル十世の大臣の姪《めい》マリー・ド・ヌーヴィルのかけおちであり、これは当時の貴族階級にかなりの衝撃を与えた事件だった。マリー・ド・ヌーヴィルは、幼ななじみのエドゥワール・グラッセとロンドンにかけおちしたが、まもなくこの令嬢は実家に帰ると、もはやグラッセと口をきこうともせず、その切なる求婚もはねつけてしまったというのである。スタンダールは、親友メリメからこの話の真相を聞き、上流社会の気位の高い令嬢が、相手かまわず《・・・・・・》身を任せたことを後悔し、急に心変りして、相手に侮辱的な仕打ちを加えるといういきさつにひどく興味を覚えた。事件は一八三〇年一月のことだった。スタンダールは翌年一月十七日、親友マレストにあてて、つぎのように書いている。
「この結末(『赤と黒』の)を書きながら、なかなかいいと思いました。ぼくは敬愛する美少女メリー(マリー・ド・ヌーヴィルのこと)の性格を、たえず思い浮べていました。メリーがこんなふうにふるまわなかったかどうか、クララ(メリメのこと)にきいてみたまえ。モンモランシー〔のような名家〕の青年たちならびに、一家のものたちは、まったく意志の力《・・・・》を欠いているから、こういうお上品で、無気力な連中の場合に、平凡でない献身行為を期待するのは不可能です。……上流階級には気概がないという、この見かたから、逆に、ぼくは例外を作り出そう《・・・・・・・・》としたのです」
もう一つは前述のジューリアというトスカナ公使の養女とスタンダールの関係である。このジューリアの風変りな性格と行動が、さらにマチルド・ド・ラ・モールの性格に豊富な材料を提供している。
スタンダールがベルテ事件の記録を読んだ時期は明らかでないが、スタンダール自身所蔵の『ローマ漫歩』の覚え書に「一八二八年十月二十五―二十六日夜、マルセイユ(と思う)、『ジュリヤン』着想、のち一八三〇年五月、これを『赤と黒』と改題」と書かれている(同様の日付の覚え書がほかにもある)。ベルテ事件の発表された日付からすれば、一八二八年の着想は妥当と考えられるが、今日では一八二九年同月同日の着想というのが定説で、一八二八年というのはスタンダールの記憶の誤りであろうとされている。この推定はほぼ確実と思われる。なぜなら、一八二八年にスタンダールはマルセイユに立ち寄った形跡がないのに反し、一八二九年九月八日に南仏およびスペイン旅行に出かけ、故郷グルノーブルに立ち寄り、南下してマルセイユに至り、十二月二日、パリに戻《もど》っているからである。おそらく、グルノーブルでベルテ事件の話をくわしく聞いたか、マルセイユへ南下する途中で「法廷新報」を読んだかして、マルセイユでの一夜、天来の着想をえて着手、数週間で書きあげ、第二部は前に述べた事情から、ごく簡単に筋書を書いて、パリにもち帰ったものと思われる。パリに帰ると、ただちに加筆をしたらしい。一八三〇年一月に至って、第二部がいちじるしく増加されたと推定される事情は、マリー・ド・ヌーヴィル事件と、ジューリアとの恋愛事件に求めることができるが、ここでさらに重要なのは『赤と黒』の副題が「一八三〇年年代史」となっていることである。
イエズス会と亡命貴族を糾弾し、醸成されつつあった民衆の怒りをとらえようとする意図は、はじめから存在していたとしても、おそらく第一部が書かれたときには、スタンダールはそれほどはっきりした七月革命の到来を予見してはいなかったであろう。しかるに一八三〇年になると、事態は日を追って切迫してきた。一八三〇年の細部的事件として、二月二十五日初演のユゴーの『エルナニ』事件や、五月三日のバレー『マノン・レスコー』初演などが加筆されている以上、スタンダールは七月革命のごく間近で、相当の加筆をおこない、七月革命以後も部分的には訂正をほどこしたにちがいない。しかし、根本的修正は不可能だったろう。そこで、この小説は七月革命を起した民衆の思想を反映してはいるが、物語自体は七月革命が起らなかったかのように、王政復古下の社会を描いているのだ。『赤と黒』は七月革命を予想させる先まわりの小説ではあったが、革命に先を越されてしまった。とはいえ、スタンダールがこの小説のなかで攻撃している事物や思想は、七月革命が打倒したものであるには違いないし、この意味でこの小説は「一八三〇年年代史」ということができる。
執筆後半の事情は次のとおりである。一八三〇年の春には原稿が完成し、四月には出版契約をすませ、五月には『赤と黒』の題名を着想、同月十日には最初の校了部分が印刷所に渡され、同二十五日にはほぼ第一部が校了になっている。第二部については、七月二十五日から八月四日まで印刷が延期された。植字工が七月革命参加で仕事を休んだからである。スタンダールは七月革命の最中、オペラ座近くのホテルで『セント = ヘレナ日記』の所蔵本に、銃声を聞きながら革命の進展の模様をメモに取っていた。八月十一日には第二部第十三章を校正していたのであろう、その章末に、新政府下で知事の職を求めて失敗したことに関する原注がほどこされている(この注は久しくスタンダール研究家の間では謎《なぞ》となっていたものである)。結局『赤と黒』は前後半年にわたって印刷され、十一月、一八三一年の日付をもって出版された。
〈題名『赤と黒』の象徴するもの〉 スタンダールの親友ロマン・コロンは、当時色の名を表題にすることが流行《はや》っていたから、その流行に従って『赤と黒』としたのであろうと推定している。また、現代のスタンダール研究家のひとりピエール・マルチノは、この表題はルーレット盤の赤と黒を意味するものであるといい、その証拠として、当時英語で同名の作品が二つあり、そのいずれもがルーレットの賭《か》けをさしていることを指摘している。だが、一八三〇年五月になって『赤と黒』という表題に変ったことと、一八三〇年になって第二部を加筆しているうちに、「一八三〇年年代史」を描こうという政治的意図がいっそう明確になったことを考え合せれば、この表題にはコロンやマルチノが考えている以上の思想的象徴があるのではなかろうか。スタンダールと交友関係のあった批評家エミール・フォルグは、スタンダールの述懐として、ジュリヤンは帝政時代なら軍人になったろうが、王政復古下では野心のはけ口を聖職者の世界に求めるより仕方がなかったという意味だといっている。
スタンダール自身、後に『リュシヤン・ルーヴェン』を『深紅と黒』または『赤と白』と名づけようとした。深紅は槍《そう》騎《き》兵《へい》の軍服を、黒は参事院請願委員の制服をさし、これによってスタンダールはこの小説の主人公の身分を象徴させるつもりだった。『赤と白』については「《赤と黒》を思い出させるために《赤と白》とする。赤は共和主義者のリュシヤン、白は王党派のシャトレール夫人」という、はっきりした覚え書を残している。これからみると、フォルグの説はきわめて有力になるわけであり、『赤と黒』の場合の赤はナポレオン時代の栄光を、黒は聖職者の黒衣、すなわち修道会の野望を象徴することになる。やや意味をひろげて、元グルノーブル大学教授故アルマン・カラッシオのように、時代そのものを象徴しているとも考えられよう。すなわち、赤は大革命および帝政時代、野心に燃える青年にとっては、死をも省みず自己のエネルギーを大胆に発揮しうる行動の時代、雄渾《ゆうこん》な叙事詩の時代を意味し、黒は王政復古時代、なんの魅力もない退嬰的《たいえいてき》な時代、けちくさい策謀と猜《さい》疑《ぎ》心《しん》の横行する陰鬱《いんうつ》な時代を意味すると考えられるのである。
さらに、自由主義者と修道会の対立闘争であるという見方も、神学生が刃傷《にんじょう》沙汰《ざた》で黒衣を血で汚すことの象徴であると見る説もある。また、第一部第五章に見られるように、教会の赤いカーテンを映した血のような水滴を見て、ジュリヤンが人生への挑戦《ちょうせん》を決心するのを赤と見、同じ教会でピストルを放って悲劇的結末を招くのを黒と見るソヴェトのレイゾフ教授の新説もある(ローマ大学のトロンペオ教授もこれに近い説をもっていた)が、一般にはフォルグ説が強いようである。
しかし、『赤と白』という表題は、『赤と黒』の表題が論議の対象となったから思いつかれたのかもしれない。したがって、『赤と白』の思想的説明をフォルグ説の絶対的裏づけとすることはできない。
〈フランス小説史における『赤と黒』〉 フランスの小説は十八世紀にはいると、真実な恋愛の姿を追求したアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』(一七三一年)によって、冒険小説や理想派恋愛小説の域を脱《ぬ》け出すことになり、マリヴォー、ディドロ、ルソー、ラクロ等の小説上の試みが、小説にいっそうの飛躍を促す素地を作ったが、大革命によって小説の近代的自覚の道は中断された。十九世紀はじめはシャトーブリアンとスタールを先駆として起ったロマン主義思潮のもとに、自己を露呈する告白形式の小説、あるいは書簡体小説が続出し、また女流作家の変愛小説がもてはやされたが、それらの小説の多くは上流社会のできごとを取扱い、時代や社会を描こうなどという目的は全然もっていなかった。わずかに諷《ふう》刺《し》小説が人間の弱点をとりあげ、市民社会の風俗を描いていたが、それも読者を笑わせるのが目的であって、社会を鋭く批判したり、人間性を深く追求したりするまでには至っていなかった。
一方、ウォルター・スコット流の歴史小説も流行しはじめた。過去の再現のための、写実的手法には注目すべきものがあるが、小説は過去をよみがえらすことを目的とするものではない。小説は単なるフィクションではないし、自叙伝でもないし、回想録のたぐいでもない。小説家には、自分の生きている時代の社会の現実を忠実にとらえ、しかも、その現実の底にひそむ真実をつかむという使命があるはずだ。そういう真実を描くことこそ近代小説なのだ。スタンダールは、時代の思想の流れを忠実に反映することが小説家の使命であると自覚し、しかも、当時流行していた、ロマン派の冗漫ではなやかな文体によらないで、簡潔で的確な文体をもって仮借なき真実を追求しようとした。バルザックに、後に見られるような写実的社会描写の意識がない時代であったことを考えると、一八三〇年にあらわれた『赤と黒』はフランス小説史上、画期的な作品だったわけである。明確な階級対立の意識を描いたという点でも、変愛心理に科学的な分析をこころみたという点でも、『赤と黒』は現代小説への第一歩だった。
ギュスターヴ・ランソンは、「『赤と黒』は五百ページのうちに、フランス大革命が作り上げた社会の、もろもろの秘められた動機と、人心の本質について、〔バルザックの〕『人間喜劇』叢書《そうしょ》全四十巻に匹敵することを教えてくれる」といっている。
1 原注 実話。
2 原注 ルーブル美術館所蔵、アキタニア公フランソワ、鎧《よろい》を脱ぎ修道士の衣をまとう図、一一三〇号を見よ。
3 訳注 ナポレオンが一八〇一年、ローマ法王ピオ七世とのあいだに結んだ条約。この条約で、カトリック教会は政治的にはフランス政府に従属することになったが、そのかわり、国家は聖職者に給料を出すこと、教会に補助金を与えることなどの実質的利益をかちえた。一方、国家はカトリック教会を保護するかわりに、カトリック教会が精神的および財政的に謀《む》反《ほん》を企てる憂いを除くことが可能になった。しかし、王政復古とともに、宗教的勢力はイエズス会を中心とする修道会の形をとって強大となる。
4 原注 この原稿は一八三〇年七月二十五日に書かれ、八月四日に印刷された。〔刊行者注〕
5 原注 しゃべっているのは不満分子である――モリエールの『タルチュフ』における注。
6 ルイ・クーリエの諷《ふう》刺《し》文《ぶん》『匿名《とくめい》の手紙への返事』(一八二三年二月六日)参照。クーリエは侮辱に対して痛烈な応酬をこころみている。スタンダールは個人的にもクーリエを識《し》っていたし、その痛烈な皮肉を買っていた。クーリエは王政復古政府にたえず反抗を示して、時局諷刺の記事を寄稿したが、ボルドー公問題で一八二一年に発表した『単純な演説』で筆禍をこうむり、二カ月の禁《きん》錮《こ》と二百フランの罰金刑に処せられた。それがかえってクーリエを有名にした。
7 以下に語られていることは、正確な史実である。この陰謀がシャルル九世の後継者としての地位をダランソン公爵に確保させようとして企てられたにせよ、単にダランソン公爵とアンリ・ド・ナヴァールをカトリーヌ・ド・メディシスの手から解放しようとして企てられたにせよ、とにかく、陰謀荷担者がラ・モールの領主ジョゼフ・ド・ボニファス(一五三〇年ごろ生る)とアンニバル・ココナッソを首謀者にもち、いずれも逮捕され、一五七四年四月三十日にグレーヴ広場で処刑されたことは事実である。信用すべき伝説によれば、ラ・モールは王妃マルグリット・ド・ナヴァールの愛人であり、ココナッソはヌヴェール公爵夫人の愛人であったために、このふたりに対して国王側は強硬な態度を示したのだといわれる。また伝説によれば(この伝説は一六六〇年、アグリッパ・ドービニェの『サンシー殿の告白』にはじめて見られる)、これらふたりの貴婦人はそれぞれの愛人が斬首されたのち、それぞれ、愛人の首に防腐処置をほどこさせ、遺品とともに秘蔵したといわれる。また一説に、これらの貴婦人はみずから、モンマルトルの麓《ふもと》のサン = マルタン修道院へ埋葬に赴いたともいわれている。スタンダールはこの後者の伝説に従っているのである。
8 訳注(原注 Esprit per. pr. gui. 11. A. 30. ) この原注は、長らくスタンダール研究家のあいだで謎《なぞ》とされていたが、一九三二年に解明された。《Esprit perd pr伺ecture. Guizot. 11 ao柎 1830.》(才気のために知事のポストを失う。ギゾー。一八三〇年八月十一日)という意味なのである。スタンダールは事実、七月革命直後に、知事職をギゾーに懇請したのであった。おそらく、『赤と黒』のこの部分を校正していたとき、ギゾーがスタンダールの懇請を拒否したという知らせを受け取り、上述の覚え書をしたためたものと思われる。
9 訳注 第二部第二十一章以下の密書事件の挿《そう》話《わ》は、王政復古初期に起った急進王党派の実際の陰謀を材料としている。急進王党一派はアルトワ伯(のちのシャルル十世)にそそのかされ、あるいは伯爵の名をだしにして、一八一七年、オーストリア、イギリス、ロシアの元首にあてて、ヴィトロル起草の密書を送り、過激革命派と闘って、危機にある王権を護持すると称し、連合軍のフランス国土進駐期間を延期してもらいたいと要請した。翌一八一八年にはいわゆる《水辺の陰謀》といわれる陰謀が企てられた。あまりに自由主義的だと目されている閣僚をやめさせ、自由主義的色彩の強いルイ十八世の憲章に反対する閣僚をこれにかえようという陰謀だった。
10 訳注 おそらく食い道楽で有名な大柄のカンバセレスを指すものと思われる。カンバセレスは三統領政府時代の第二統領、帝政時代にはフリー・メイスンの有力なメンバーで、その邸宅ではしばしば重要な密議がおこなわれた。
11 訳注 一八一七年の陰謀や王政復古政府の政策で、最も積極的な役割を演じたラ・リュゼルヌ枢《すう》機《き》卿《けい》がモデルといわれる。一説(ジュール・マルサン)に、これはブザンソンの大司教ロアン猊《げい》下《か》のことではないかともいわれている。上品な物腰、修道会への忠誠ぶりから見て、この推測も可能である。
12 訳注 スタンダールが好んで用いた表現である。とりわけ『アルマンス』(第十四章末)『パルムの僧院』(第二十三章中ほど)その他で、同じ表現を用い、文学作品(物語)に政治をもち出すことが柄の悪いことだといってはいる。しかし、これはそのままスタンダールの考えだと見るべきではなく、政治をもち出すための弁明と解釈すべきである。まして『赤と黒』のここの個《か》所《しょ》は、政治諷《ふう》刺《し》が強烈であるために、当局にカムフラージュするための手段として、わざわざ《かっこ》にいれて付言しているのである。しかもスタンダールが《かっこ》内でものをいうのは「少数の幸福な人々」に言外の意をくんでもらうための手段であることを忘れてはならない。この点についてはアラゴンの独創的見解は注目に値する(邦訳『スタンダールの光』四五―五〇ページと注二三)。
13 訳注 元将軍とはブールモン将軍のことである。典型的な変節漢で、大革命時代には反革命軍に加わりながら、やがてナポレオンに重用され、しかも一方で王党派の陰謀にはことごとく荷担し、ポルトガルに逃れ、再びパリに戻ってナポレオンのもとで返り咲き、一八一四年にはルイ十八世の側に寝返り、百日天下でナポレオン側に与《くみ》しながら逃亡して、ルイ十八世と連合国側に寝返り、ワーテルローにおけるナポレオン敗北の一因を作り、王政復古時代にシャルル十世の治世となるや、急進王党派に加わり、閣僚になったのである(前掲『スタンダールの光』三六―三九ページ)。
14 訳注 ラ・フォンテーヌの寓話『彫像士とユピテルの彫像』 スタンダールは一八二九年三月に、『ニュー・マンスリー・マガジン』誌に寄稿し(『イギリスへの通信』、ディヴァン版、第三巻四六〇ページ参照)、次のようにいっている。「『彫像師とユピテルの彫像』というラ・フォンテーヌの寓《ぐう》話《わ》のなかで、大理石の塊を手にいれた彫刻家が、早速仕事にかかりながら、こう叫ぶ。《これは神となるか、テーブルとなるか、それともたらいとなるか?》同じような不確かさが、フランスの将来の運命についても存在する。十年後に、われわれはクロムウェルのような暴君をもつだろうか? ワシントンのような薄給の大統領をいただくけちんぼの政府をもつだろうか? それとも五人からなる執政官政府をいただく共和国をもつだろうか? こうした質問は、過激革命派と思われたくないために、一般にはあまり公然とは口に出さないが、云々《うんぬん》」(前掲『スタンダールの光』三三―三四ページ)。
15 訳注 「『赤と黒』について」で明記してあるとおり、ジュリヤンはマインツに行き、さる大使に会うのである。(前掲『スタンダールの光』四四ページ)
16 原注 過激革命派の男がしゃべっているのである。
17 原注 性的不能者。
年譜
一七八三年(天明三年)一月二十三日、マリ = アンリ・ベール(スタンダールの本名)、グルノーブル高等法院弁護士シェリュバン・ベールとアンリエット・ガニョンの長男としてグルノーブルに生れる。
一七九〇年(寛政二年)七歳 母(三十三歳)を失う。ときに、父は四十三歳、妹ポーリーヌは四歳、妹ゼナイードは二歳。
一七九六年(寛政八年)十三歳 十一月、新制エコール・サントラル(中央学校)に入学、図画、修辞学、とくに数学ですぐれた成績をとる。
一七九七年(寛政九年)十四歳 図画と数学で優等賞をもらう。グルノーブル巡業中の女優ヴィルジニー・キュブリー嬢に恋心をおぼえる。
一七九九年(寛政十一年)十六歳 九月、数学高等科一等賞をえて、エコール・サントラルを卒業。十月末、エコール・ポリテクニック(理工科大学)受験のためパリに出るが、神経衰弱のため受験せず。
一八〇〇年(寛政十二年)十七歳 陸軍省の高官で親戚《しんせき》のピエール・ダリュの口ききにより、陸軍省にはいり、ナポレオンのイタリア遠征軍に加わり、六月、ミラノに入城する。九月、少尉に仮任命、十月、竜騎兵《りゅうきへい》第六連隊づきとなる。ミラノで、はじめて女性を知り、ひそかに同僚の愛人アンジェラ・ピエトラグルーアに恋する。
一八〇二年(享和《きょうわ》二年)十九歳 一―四月、グルノーブル滞在、同郷の少女ヴィクトリーヌ・ムーニエに空想的な恋愛をする。七月、陸軍省に辞表を出し、劇作家を志して、さかんに劇場に出入りし、戯曲の習作を試み、英語、イタリア語、ギリシア語を学ぶ。コンディヤック、エルヴェシウス等の十八世紀哲学やイデオロジー(観念論)に心酔する。『随想録―フィロゾフィア・ノヴァ』を書く(―一八〇五)。
一八〇三年(享和三年)二十歳 戯曲『二人の男』執筆(―一八〇五)。
一八〇四年(文化元年)二十一歳 戯曲『ルテリエ』着想。年末、女優メラニー・ギルベールを知り、翌年、巡業に出た彼女とともにマルセイユに行き同棲《どうせい》、食料品店の番頭として働く。
一八〇六年(文化三年)二十三歳 メラニーとの同棲生活をうちきり、パリにもどる。十月、軍政長官となったピエール・ダリュのもとで、臨時の陸軍経理補佐官となる。この年、シェイクスピアを発見。
一八〇七年(文化四年)二十四歳 ブラウンシュヴァイク滞在。七月、正式の経理補佐官となる。ドイツの元司令官の娘ヴィルヘルミーネ・フォン・グリースハイム(通称ミナ)と恋愛遊戯にふける。
一八〇八年(文化五年)二十五歳 四月、祖母エリザベット・ガニョン死す。五月、妹ポーリーヌの結婚を祝う。
一八〇九年(文化六年)二十六歳 一―三月、パリで社交生活を送り、スペイン語を学び、ダンスのレッスンを受ける。ピエール・ダリュ伯爵夫人と親しくする。
一八一〇年(文化七年)二十七歳 ほとんどパリに滞在して社交生活を送る。八月、参事院書記官、帝室調度検査官に任命される。
一八一一年(文化八年)二十八歳 スタンダール生涯《しょうがい》の最良の年。オペラ女優アンジェリーヌ・ベレーテルと同棲し、派手な社交生活にあけくれる。ダリュ伯爵夫人に求愛して失敗。八月末、念願のイタリア旅行に出かけ、十一年ぶりにミラノでアンジェラ・ピエトラグルーアと再会する。イタリア各地を旅行し、十一月末、パリにもどる。年末、『イタリア絵画史』を書きはじめる(翌年七月までにノート十二冊)。
一八一二年(文化九年)二十九歳 ナポレオンのモスクワ遠征に参加、九月十五日、モスクワの大火にあい、退却するフランス軍のために糧食を徴発する。たずさえていった『イタリア絵画史』の草稿を、退却中に紛失する。
一八一三年(文化十年)三十歳 一月末、パリに帰り、ふたたび読書と観劇の生活をはじめ、『ルテリエ』を再執筆する。
一八一四年(文化十一年)三十一歳 三月六日、ナポレオン退位。四月、ブルボン王朝復活宣言に忠誠を誓い、退職による恩給年俸《ねんぽう》九百フランをもらう。就職運動ことごとく失敗し、ミラノ永住を考える。五―七月、『ハイドン、モーツァルト、メタスタジオ伝』を書く。八月、ミラノに行く(以後、一八二一年まで、ほとんどミラノ滞在)。
一八一五年(文化十二年)三十二歳 三月、ナポレオン、エルバ島脱出。六月、ワーテルローの会戦。アンジェラとの恋愛にうつつをぬかし、帰国しようとしない。七月末、パリ陥落を知る。
『ハイドン、モーツァルト、メタスタジオ伝』(一月、ルイ = アレクサンドル = セザール・ボンベの筆名で自費出版)
一八一七年(文化十四年)三十四歳 十一月、『ナポレオン伝』を起稿(翌年八月中絶、死後、一九三四年出版)。
『イタリア絵画史』(七月、M・B・A・Aの筆名で自費出版)
『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』(九月、「騎兵将校ド・スタンダール氏」の筆名で出版、以後スタンダールの筆名を使うことになる)
一八一八年(文政元年)三十五歳 三月、マチルデ・デンボフスキ夫人(スタンダールはメチルドと呼ぶ)を知る(「かなわぬ恋のはじめ」)。
一八一九年(文政二年)三十六歳 メチルドを追ってヴォルテルラに行き、彼女にたしなめられる。以後一八二一年まで悲恋つづく。十二月末、『恋愛論』着想(翌年六月までに大半を完成)。
一八二一年(文政四年)三十八歳 オーストリア政府から国外退去を命じられる。六月、ミラノを去り、パリに帰る(以後、一八三〇年までパリ滞在)。九―十一月、ロンドン旅行。
一八二二年(文政五年)三十九歳 文壇放浪児の生活がはじまり、文芸サロンに頻繁《ひんぱん》に出入りする。この年から一八二九年にかけてイギリス系の諸雑誌に反政府的な論調のパリ文壇消息、書評を寄稿する。七月末、イギリス劇団が来演、シェイクスピア劇に対するパリ観客の無理解を怒って、「パリス・マンスリー・リヴュー」誌に寄稿する(のち『ラシーヌとシェイクスピア』第一部第一章となる)。
『恋愛論』(八月刊)
一八二三年(文政六年)四十歳
『ラシーヌとシェイクスピア』第一部(三月刊)
『ロッシーニ伝』(十二月刊)
一八二五年(文政八年)四十二歳 五月、メチルド死す。
『ラシーヌとシェイクスピア』第二部(三月刊)
『実業家に対する新たな陰謀』(十二月刊)
一八二六年(文政九年)四十三歳 一―二月、『アルマンス』着想、執筆。二月、「ルヴュー・ブリタニック」誌に『一イタリア貴族の思い出』を発表。
一八二七年(文政十年)四十四歳 七月二十二日、アントワーヌ・ベルテ(ジュリアン・ソレルのモデル)、ブラングの教会でミシュー夫人を射殺未遂(十二月、公判、死刑を宣告される)。十二月末、「法廷新報」にベルテ事件公判記録掲載(おそらく翌々年、スタンダールはこれを読み、『赤と黒』を着想)。
『アルマンス』(八月刊)
一八二九年(文政十二年)四十六歳 十月二十五日夜半、マルセイユで『赤と黒』着想。十二月、「パリ評論」誌に『ヴァニーナ・ヴァニーニ』を発表。
『ローマ漫歩』(九月刊)
一八三〇年(天保《てんぽう》元年)四十七歳 一月、『ミナ・ド・ヴァンゲル』脱稿(死後、一八五三年、雑誌に発表)。一月十七日以降、『赤と黒』執筆。五月、「パリ評論」誌に『匣《はこ》と亡霊』を、六月、同誌に『媚《び》薬《やく》』を発表。七月二十七―二十九日、七月革命。八月、ルイ = フィリップ、「フランス国民の王」となり、七月王政政府成立。九月、トリエステ駐在フランス領事に任命され、赴任するが、オーストリア政府は許可状を与えない。赴任に先だち、十一月、トスカナ大公国公使の養女ジューリアに結婚を申し込み、断わられる。
『赤と黒』(十一月刊、一八三一年の日付)
一八三一年(天保二年)四十八歳 一月、『ユダヤ人』執筆(死後発表)。四月、ローマの近くの小港チヴィタヴェッキア駐在のフランス領事として改めて赴任(以後、死ぬまでこの職をつづけ、ローマと任地との間を往復する)。九―十月、『サン・フランチェスコ・ア・リパ』執筆(死後発表)。十二月末、コルネトでエトルリア古墳の発掘に専念する。
一八三二年(天保三年)四十九歳 六―七月、『エゴチスムの回想』執筆、中絶(死後、一八九二年出版)。九―十月、『ある社会的地位』執筆、中絶(死後出版)。十月十六日、ローマで『アンリ・ブリュラール伝』着想。この年、しばしば遺書を書く。
一八三三年(天保四年)五十歳 二月、『アンリ・ブリュラール伝』の冒頭を書く。十一月、ジュール・ゴーチエ夫人、スタンダールに『少尉』の原稿を送る(『リュシヤン・ルーヴェン』着想のきっかけ)。イタリアへ帰る途中、リヨン、アヴィニヨン間の船内で、ヴェネツィアに向うミュッセとジョルジュ・サンドに会う。この年からイタリア古文書をあさりはじめる。
一八三四年(天保五年)五十一歳 五月、ジュール・ゴーチエ夫人に『少尉』の読後感を送り、『リュシヤン・ルーヴェン』起稿(翌年四月末までこれに没頭)。十二月、サント = ブーヴあてに、イタリア古文書(十六、七世紀記録)の筆写権をえたと知らせる。このころからローマのチーニ伯爵夫妻に親しみ、伯爵夫人に恋心をいだきはじめる。元フランス領事の孫娘ヴィドー嬢との結婚話が出るが、実現しない。
一八三五年(天保六年)五十二歳 一月十五日、レジヨン・ドヌール勲章を授与される。二月、あまりにしばしば任地を離れるので、職務怠慢のかどで叱責《しっせき》される。四月、『リュシヤン・ルーヴェン』五冊分を書きあげ、月末、第三部を断念する(翌年加筆訂正、中絶、死後、一八九四年出版)。十一月末、『アンリ・ブリュラール伝』執筆。この年、十数通の遺書を書く。
一八三六年(天保七年)五十三歳 四月、『アンリ・ブリュラール伝』の決定的放棄(死後、一八九〇年出版)。十一月―翌年四月、『ナポレオン覚え書』執筆、中絶(死後、一八五四年出版)。この年も数通の遺書を書く。
一八三七年(天保八年)五十四歳 三月、『ヴィットリア・アッコランボーニ』を「両世界評論」誌に匿名《とくめい》で発表。四―五月、『ばら色と緑』執筆、中絶(死後、一九二八年出版)。七月、『チェンチ一族』を「両世界評論」誌に匿名で発表。同月、『一旅行家の覚え書』に着手、十二月までこれに没頭。
一八三八年(天保九年)五十五歳 三月、『一旅行家の覚え書』の一部を誌上に発表。三―七月、南仏、スイス、ドイツ、オランダ、ベルギー旅行(この間に、『一旅行家の覚え書』の続編を執筆)。四月、ツールーズで『ラミエル』着想。六月、『一旅行家の覚え書』の一部を誌上に発表。八月、『パリアノ公爵夫人』を「両世界評論」誌に、F・ド・ラジュヌヴェの筆名で発表。八月十六日、イタリア古文書『ファルネーゼ家隆盛の起源』をもとに短編小説を書こうと考える(『パルムの僧院』に発展)。九月三日、『パルムの僧院』着想。九月、『カストロの尼』第一部執筆。十一月四日―十二月二十六日、『パルムの僧院』執筆(口述)。
『一旅行家の覚え書』(六月刊)
一八三九年(天保十年)五十六歳 二―三月、『カストロの尼』を「両世界評論」誌に連載。三―四月、『修道女スコラスティカ』執筆。四月、『深情け』執筆、中絶(死後一九一二、三年誌上発表)。十―十二月、『ラミエル』執筆、中絶、以後死ぬまで多少加筆(死後一八八九年出版)。
『パルムの僧院』(四月刊)
『カストロの尼』(十二月刊、他に二編収録)
一八四〇年(天保十一年)五十七歳 一―五月、『ラミエル』加筆。九月二十五日号の「ルヴュー・パリジェンヌ」誌に、バルザックの『パルムの僧院』を激賞する批評が掲載される。九月二十八日、第三十二通目(最後)の遺書を書く。十月十五日、ローマでバルザックの批評を読み、感激して、翌日バルザックに感謝の手紙を書く。前年よりこの年にかけて、アーライン(チーニ公爵夫人のことか)に恋する。
『イタリア人の名画観』(コンスタンタンとの合作、八月刊)
一八四一年(天保十二年)五十八歳 三月、『ラミエル』加筆。四月十五日、卒中の第一回発作、失語症の症状。四―七月、しばしば医師の診断を受け、すでに死を予感。十月下旬、病気静養のため、休暇をえて任地チヴィタヴェッキアを発《た》ち、十一月上旬、パリに着く。
一八四二年(天保十三年)五十九歳 三月九日、ふたたび『ラミエル』の構想を練る。三月十五―二十一日、ふたたび『修道女スコラスティカ』を口述。三月二十一日、「両世界評論」誌に、向う一年間、中短編小説を一カ月おきに発表するという契約を結ぶ。三月二十二日朝、『修道女スコラスティカ』を口述(スタンダールの最後の作品、死後、一九〇九年、一部発表、一九二一年、完全な形で出版)。同日午後七時、ヌーヴ = デ = カピュシーヌ街、外務省の門前近くで、卒中に倒れ、宿舎にかつぎこまれる。三月二十三日、午前二時、意識が回復しないまま死亡。三月二十四日正午、アソンプシヨン聖堂で告別式ののち、モンマルトル墓地に埋葬される。五十九歳一カ月二十八日。
小林 正編