赤い小馬
スタインベック作/龍口直太郎訳
目 次
一 贈り物
二 大山脈
三 約束
四 人々の指導者
解説
年譜
[#改ページ]
一 贈り物
夜明けごろ、ビリー・バックは使用人小屋から姿をあらわすと、しばらくポーチに立って空を見上げていた。彼は肩はばの広い、ワニ脚《あし》の小男で、両端のだらりとさがったアシカひげをたくわえ、角ばった手の掌《たなごころ》は肉付きがよく、ふくらんでいた。薄い灰色をした目は考え深げで、ステットソン帽〔カウボーイなどのかぶる、縁の広い、山の高い中折れ帽〕の下からはみ出した髪の毛は風雨にさらされて先端がとがっていた。ビリーはポーチに立ったとき、まだシャツのすそを|作業ズボン《ブルー・ジーン》の中にたくしこんでいた。ベルトの孔《あな》のわきのすり切れて光った場所が移動しているのを見ると、何年かの間にビリーの胴中がだんだん太ってきたことがわかるのだった。天候のぐあいを見とどけると、ビリーは鼻の孔の片方を人差し指でおさえ、反対側の孔からはげしく息を吐き出して手鼻をかんだ。それから、彼は納屋のところまで歩いていって、両手をゴシゴシこすり合わせた。彼は馬小屋の中の二頭の乗用馬にたえず静かに話しかけながら、櫛《くし》やブラシで手入れをした。その仕事が終わるか終わらぬうちに、母屋《おもや》のほうから三角鐘《トライアングル》〔鉄板を三角形に組んだ鐘で、アメリカの農場では食事の合図にたたく〕が鳴る音が聞こえてきた。ビリーはブラシに馬櫛を突きさして手すりの上に置くと、朝飯をたべに母屋のほうに出かけた。彼の行動はいかにも慎重であり、それでいて、いかにも時間のむだがなかったので、ティフリン夫人がまだ三角鐘を鳴らしている間に母屋《おもや》に着いていた。夫人は灰色髪の頭で彼のほうにうなずいて見せると、台所に引き上げていった。ビリー・バックはポーチの段々に腰をおろした。彼は作男だったので、自分がまっさきに食堂にはいるのは礼に反すると思ったからだ。家の中から、ティフリンの旦那《だんな》が足を入れようとしてブーツを踏み鳴らしている音が聞こえてきた。
三角鐘のジャンジャンいう高い調べを聞くと、ジョーディー少年は活動を開始した。彼はまだ十歳の少年にすぎなかったが、灰色がかった黄色い草のような髪の毛と、上品で恥ずかしそうな灰色の目を持ち、その口もとはものを考えるときいつも動くのがくせだった。三角鐘の音で彼はパッと目をさました。その耳ざわりな調べにさからおうなどという考えが浮かんだことなどなかったし、これまでさからったためしもなかった。それに彼の知っている人間でそれにさからった者はだれもいなかった。彼はもつれた髪を目から払いのけ、寝衣《ねまき》をサッと脱ぎすてた。そしてすぐさま、青いシャンブレー織りのシャツと仕事着《オーバーオール》に着がえた。夏の終わりごろだったので、もちろん靴のことなど気にしなかった。台所にはいると、彼は母親が流しの前から離れてストーヴのところへもどるまで待っていた。それから頭や顔を洗うと、ぬれた髪を指でうしろになでつけた。彼が流しのところから離れようとすると、母が向きなおってじろっと彼を見やった。ジョーディーは恥ずかしそうに顔をそむけた。
「近いうちおまえの髪を切ってやらなけりゃあね」と彼の母は言った。「朝ご飯がテーブルの上にのってますよ。さあ、早く席におつきなさい。さもないと、ビリーが中にはいれないでしょ」
ジョディーは長いテーブルの席についたが、そのテーブルはところどころ布目が見えるほど洗いざらした油布でおおわれていた。卵焼きが長円形の大皿の上に何列にもならんでいた。ジョーディーは三個分の卵を自分の皿に取り、そのあと、パリパリに焼いた厚ぼったいべーコンを三切れ取った。彼は卵の黄身《きみ》の一つについた血の斑点《はんてん》を注意深くはぎ取った。
ビリー・バックがドカドカと靴音をたててはいってきた。「そいつはたべたって毒にならねえだよ」とビリーは説明した。「オンドリがただしるしにあとに残すだけなんだからね」
それから、背の高い、きびしいジョーディーの父親がはいってきたが、ジョーディーは床《ゆか》の足音から察して、父がブーツをはいてきたにちがいないと思った。しかし、それをたしかめるため、彼はテーブルの下をのぞいてみた。父親はテーブルの上にさがっている石油ランプを消した。今やいくつかの窓から朝の光がたくさんさしこんでいたからだ。
ジョーディーは、父親とビリー・バックがどこへ馬で出かけるのかきかなかったが、自分もいっしょに行けたらいいがと思った。彼の父親は子供にたいしてスパルタ式の教育を行なっていた。ジョーディーはどんなことでも父親の命令には文句《もんく》なく服従していた。さて、カール・ティフリンは腰をおろすと、卵の大皿のほうに手をのばした。
「ビリー、雌牛は出かける用意ができてるのかね?」と父はたずねた。
「下の柵囲《さくがこ》いに入れてありますだ。あのぐれえなら、おいらひとりでもつれて行けますがね」とビリーは答えた。
「そりゃあ大丈夫つれて行けるだろうさ。しかしだね、人間には伴侶《つれ》ってもんが必要なんだよ。それに、おまえさんは喉がだいぶかわいてるようだしな」
カール・ティフリンもけさはめずらしく冗談をとばした。
ジョーディーの母親が戸口に顔を出した。「あなた、何時ごろおもどりですの?」
「そいつはちょっとわからんな。サリーナス〔カリフォルニア中部、サンフランシスコから汽車で数時間南下したあたりにある町〕で何人かの人間に会わなきゃならんからさ。まあ、暗くなるまでかかるかもしれんよ」
卵やコーヒーや大型の菓子パンはみるみるうちに姿を消した。ジョーディーは二人の男のあとについて家から出た。彼は二人が馬に乗り、六頭の年老いた乳牛を棚囲いから追い出し、丘を越え、サリーナスに向かって出発するのを、じっと眺めていた。彼らは老牛を屠殺場《とさつじょう》に売りに行くのであった。
二人が山の背のてっぺんをこえて姿を消すと、ジョーディーは家の裏手の丘にのぼっていった。犬どもがうれしさに背中をまるめ、ゾッとするほど歯をむき出し、家の角《かど》をまわってトコトコついてきた。ジョーディーはそいつらの頭を軽くたたいてやった……毛のふさふさした大きな尻尾と黄色い目を持ったダブルトリー・マット〔犬の名〕と、コヨーテを殺し、そのとき片方の耳を失ったシェパードのスマッシャー〔犬の名〕。スマッシャーの片方のいい耳はコリー犬の耳より高く突っ立っていたが、ビリー・バックは、そういうことはよく起こることだと言っていた。
二匹の犬は少年に会って気ちがいのようによろこんだあと、まるでそれが自分たちの仕事ででもあるかのように、鼻を地面すれすれにさげて先頭を走り、少年がついてくるかどうかをたしかめるため、ときたまうしろを振りかえるのだった。養鶏場の中をぬけて行くとき、ウズラがニワトリといっしょに餌《え》をたべているのが目についた。スマッシャーはニワトリをちょっぴり追いかけたが、それは羊の世話をする必要が起こった場合にそなえて、練習をつんでおくためなのであろう。ジョーディーは、グリーン・コーン〔スウィート・コーンとも言い、未熟の柔らかいままで料理用に使うトウモロコシ〕が自分の頭より高く伸びている広い野菜畑の間をずんずん進んでいった。雌牛にたべさせるカボチャはまだ青くて小さかった。彼はホウキスゲがならんで生えているほうに足を向けたが、そこでは冷たい清水が樋《とい》から流れ出て、まるい木の桶の中に落ちていた。少年は身をかがめると、緑のコケが生えた桶のふちに近いところの水を飲んだ。そのあたりの水がいちばん味がよかったのである。
それから少年は向きを変えてうしろを振りかえり、低い土地に建てられた農場……赤いゼラニウムにとりまかれた白塗りの家と、ビリー・バックがひとりで住んでいる、イトスギのかたわらに建てられた細長い使用人小屋を眺めた。ジョーディーには、そのイトスギの下にすえてある大きな黒い釜も見ることができた。そこは屠殺《とさつ》したブタに煮湯《にえゆ》をかける場所であった。今や太陽が山の背の上にのぼり、農家や納屋の白ペンキをギラギラと照らし、露にぬれた草をやわらかに輝かせていた。彼のうしろの高いホウキスゲの中では、小鳥たちが地面の上をかけまわり、枯葉の間で大きな音をたてていた。山腹ではリスがキーキーと甲高《かんだか》い声で鳴いていた。
ジョーディーは農場のいくつかの建物を次々に眺めていたが、何か一種不安な気持ちに……何かが変わって、何かを失って、何か新しいなじみのないものを手に入れるといった気持ちにおそわれた。山腹のあたりで、二羽の大きな黒いハゲタカが地上すれすれのところまで舞い降りてきて、その影がやつらの前方をスルスルとすばやくすべっていった。近所で何か動物が死んだのだろう。ジョーディーはきっとそうにちがいないと思った。それは雌牛かもしれないし、ウサギの死体かもしれない。ハゲタカときたら、どんなものでも見のがすはずがないのだ。ジョーディーは、すべてのまともなものがそうするように、この鳥を憎んでいたが、やつらは腐肉を片づけてくれるので、やたらにやっつけるわけにもいかなかった。
しばらくすると、少年はふたたび山をぶらぶら下りはじめた。犬どもはとっくのむかし少年のおともをあきらめ、自分たちの好きなことをするためやぶの中にはいっていた。彼は野菜畑の中をもどって行き、途中でちょっと立ち止まって、青いジャコウ瓜《うり》〔表面がメロンのように網目になったマクワウリ〕をかかとで蹴《け》ってくだいてみたが、それでも気分が晴れなかった。そんなことをするのがよくないぐらいは百も承知していた。彼はくだかれた瓜を人目からかくすためその上に足で泥をかけた。
家にもどると、母親は彼の荒れた手の上に身をかがめ、指や爪《つめ》をこまかくしらべた。彼を身ぎれいにして学校に送り出してもほとんど役にたたなかった。登校の途中であまりにもいろんなことが起こるからであった。彼女は息子の指にできた黒いひび割れを見て溜息をつき、それから本と弁当を持たすと、学校まで歩いて一マイルの道に送り出した。けさは息子の口もとがやけに動いているのに母親は気づいていた。
ジョーディーは学校に向けて出発したが、彼のポケットには路上に落ちていた白い石英《せきえい》のちっぽけなかけらがいっぱいつまっていた。彼はその小さな石ころを、路上で日向《ひなた》ぼっこをしている鳥やウサギめがけて投げつけるのであった。橋を渡った十字路のところで彼は二人の友だちに出会い、三人がいっしょにつれだって学校に向かったが、その途中、おたがいにおかしなかっこうで大またに歩いてみたり、ずいぶんバカげたまねをしたりし合った。学校は二週間前にはじまったばかりだったので、生徒たちの間にはまだ反抗の気分が残っていた。
ジョーディーが丘のてっぺんに達し、ふたたび農場を見おろしたときには、午後の四時になっていた。彼は乗用馬がもどっているかとさがしてみたが、柵囲いの中はからっぽだった。父はまだもどっていないのだ。それから、午後の雑用をするためゆっくりと下っていった。家にたどりつくと、母はポーチにすわって、靴下をかがっていた。
「台所におまえのドーナッツが二つ置いてあるからね」と母親が言った。ジョーディーはすべるように台所にはいって行き、やがて食べ残しのドーナッツの半分を手に持ち、口をいっぱいにしてもどって来た。母はその日、学校でどんなことを習ったかとたずねたが、ドーナッツをいっぱいにほおばった口から出てくる、はっきりしない返事を聞いていなかった。
「ねえ、ジョーディー」と彼女は息子の言葉をさえぎった。「こんばんは薪《まき》の箱をすっかりいっぱいにするようにしてちょうだいよ。ゆうべは薪をたがいちがいに入れたから、半分ぐらいしかはいっていなかったようね。それからさ、ジョーディー、メンドリのうちには卵をかくすのがいるらしいわ。それとも、犬が卵をたべているのかしら。ひとつ草の中をさがして、ニワトリの巣があるかどうか見てちょうだいね」
ジョーディーはまだ口をモグモグやりながら外に出て行き、仕事をはじめた。穀物を投げてやると、ウズラがニワトリといっしょにたべるため舞い降りてくるのが目にとまった。どういうわけか、彼の父はそのようにしてウズラがやってくるのを得意にしていた。彼は家の近くで鉄砲を射つのを絶対に許さなかった。ウズラが逃げてしまうのをおそれたからである。
薪箱がいっぱいになると、ジョーディーは口径〇・二二の自分のライフル銃を持ち出し、ホウキスゲのところにある冷い泉まで出かけていった。彼はふたたび水を飲み、それから、ありとあらゆるもの……岩とか、飛んでいる鳥とか、イトスギの下の大きな黒いブタの釜とかに向かって銃のねらいを定めたが、ほんとうには射たなかった。彼は弾薬を持っていなかったからであり、十二歳になるまではそれを持たしてもらえなかったのである。もし彼が家の方向にライフルを向けてねらうところなどみつかったら、父はもう一年弾薬をくれるのをのばしたことだろう。ジョーディーはこのことをよくおぼえていて、二度とふたたび銃を丘の下のほうに向けるようなことをしなかった。弾薬を手に入れるために二年待てば十分だった。そういえば、父親からの贈り物にはほとんどすべて条件がついていて、そのために贈り物の価値がいくぶんそこなわれるのであった。しかし、それもよいしつけではあった。
夕食は父の帰宅を待つために暗くなるまでのばされた。やがて、父がビリー・バックといっしょにもどってきたとき、ジョーディーは二人の吐く息に、おいしいブランデーのにおいをかぐことができた。内心、彼はそれをよろこんだ。父はブランデーのにおいをさせるときだと、ときたま彼に話しかけてくれたし、場合によると、父がまだ子供だった野性的な時代にやったことまで話してくれたからである。
夕食のあと、ジョーディーは囲炉裏《いろり》のそばにすわり、その内気な、しつけのよい目は部屋の隅のほうに注がれていたが、父が言わずにがまんしていることが何であるか話してくれるのを待っていた。ジョーディーは父が何かのニュースを町から持ち帰ったにちがいないと思っていたからである。しかし、彼は失望した。父がきびしい顔で彼のほうを指さしたからだ。
「ジョーディー、おまえは寝たほうがいいぜ。あしたの朝、わしはおまえに用があるんだからな」
それはそんな悪いことではなかった。ジョーディーはきまりきった仕事でさえなければ、どんなことでもするのが好きだった。彼は視線を床《ゆか》におとし、質問をする前に口をモグモグ動かした。「朝、何をするの、ブタを殺すの?」と彼は静かにきいた。
「気にすることはないよ、さっさと寝るんだな」
ドアがうしろ手にしめられたとき、ジョーディーは父とビリー・バックがクスクス笑っているのを聞き、きっとそれは何かの冗談だろうと思った。それから、そのあとベッドに横になって、となりの部屋のブツブツいうしゃべり声から意味のある言葉を聞き出そうとしているとき、父が「でも、ルース〔ティフリン夫人の名〕、わしはあれにそうたくさんは出さなかったんだよ」と抗弁するのがはっきり聞こえた。
ジョーディーの耳には、納屋のほうでホウホウ・フクロウがハツカネズミを追いかけている音や、果樹の大枝が家にコツコツ当たる音が聞こえた。どこかで雌牛が鳴いているなと思ったころ、彼は眠りについた。
朝、三角鐘《トライアングル》が鳴ると、ジョーディーはいつもよりさらにすばやく着がえをした。台所で、彼が顔を洗い、髪をかき上げていると、母がいらいらした口調で彼に話しかけた。「朝ご飯を十分たべてからでないと、出ていっちゃいけませんよ」
彼は食堂にはいり、長い白いテーブルにすわった。彼は大皿から湯気の立っているホットケーキを一枚取り、その上に卵焼きを二つならべ、その上にもう一枚のホットケーキをのせ、全体をフォークで押しつぶした。
父とビリー・バックがはいってきた。床の音からジョーディーには、彼らがどちらも底の平たい靴をはいていることがわかったが、念のため彼はテーブルの下をのぞいて見た。父はもう日がのぼっているので石油ランプを消した。父はきびしい、こわそうな顔つきをしていたが、ビリー・バックは全然ジョーディーのほうを見やらなかった。彼は少年の、内気な、もの問いたげな視線をさけ、トーストをまるまるコーヒーの中にひたした。
カール・ティフリンは、「朝飯《あさめし》がすんだら、おまえはわしらといっしょにくるんだ」と不機嫌に言った。
すると、ジョーディーは急にたべ物がうまくなくなってきた。暗い宿命みたいなものがせまってきたように感じたからだ。ビリーがソーサーを傾け、その中にこぼれたコーヒーを飲みほし、両手をブルージーンで拭くと、二人の男はテーブルから立ち上がり、朝の陽ざしの中につれ立って出て行き、ジョーディーもおそるおそる少し離れてそのあとに従った。彼は心が先走るのをおさえようとつとめ、完全に動かないように引き止めておこうとけんめいにこらえた。
「カール! その子に学校を休ませないようにしてちょうだいよ」と母がうしろから声をかけた。二人はブタを屠殺するとき使う馬具の横木〔馬具の引き皮を結びつける横木で、殺したブタをそれにさかさにつるして処理する〕が大枝からつるさがっているイトスギと、黒々とした鉄釜のわきをさっさと通りすぎた。してみると、ブタ殺しじゃないのだ。太陽が丘の上にのぼり、樹木や建物の長い黒ずんだ影を投げていた。二人は納屋に向かって近道をするため切り株の残っている畑を横切った。父が納屋の鍵をはずし、二人は中にはいっていった。彼らはここまで下ってくる途中、朝日に向かって歩いてきたので、納屋の中は対照的に夜みたいに暗く感じられ、干草や家畜のためにポカポカしていた。ジョーディーの父は唯一の箱型仕切りのほうにずんずん歩いていった。「こっちへおいで!」と父は命じた。ジョーディーにはぼつぼつまわりの物が見えてきた。彼は箱型仕切りの中をのぞくと、あわててうしろに引きさがった。
赤い小馬《ポニー》〔ポニーは成長しても小型なので「小馬」と訳し、馬の子である「子馬」(colt)と区別したい。ここで「小馬の子」としたのは pony colt を訳したもの〕の子が仕切りの中から彼のほうを見つめている。ピンと張った耳が前方に傾き、その目には反抗の光が宿っている。その毛皮はエアデール犬の毛のようにザラザラとして毛深く、そのたて髪は長くもつれている。ジョーディーはグッと喉《のど》がつまり、ハッと息が止まった。
「よく櫛《くし》ですいてやらずばなるまいよ」と父は言った。「もしおまえが餌《え》をやらなかったり、仕切りをよごれたままにしといたりという話を聞いたら、やっこさんをすぐに売りとばしちゃうからな」
ジョーディーは小馬の目をこれ以上見つめているのにたえられなくなった。彼はしばらく目を伏せて自分の手を眺めていたが、やがてとても恥ずかしそうに、「これ、ぼくの?」ときいた。だれも答えなかった。彼は片手を小馬のほうにのばした。その灰色の鼻が近づき、大きくフンフン言ったかと思うと、唇がグッと引きさがって、そのがんじょうな歯がジョーディーの指をかみしめた。小馬は頭をあちこち振りまわし、おかしさのあまり笑っているように見えた。ジョーディは傷ついた指をじっと見つめていた。
「うん、こいつちゃんとかめるようだな」と彼は誇らしげに言った。
二人の男はいくぶんホッとして笑い出した。カール・ティフリンは気まずくなったので、納屋から出ると、自分ひとりになるため山腹をのぼっていったが、ビリー・バックはあとに残った。ジョーディーとしてはビリー・バックに話しかけるほうが気楽だった。
「ぼくのかい?」と彼はもう一度たずねた。
ビリーの口調は職業的になった。「そうだとも! でも、坊やがこいつの面倒をよく見て、ちゃんとしつけをすればだがね。やり方はおいらが教えてやるだ。こいつはまだほんの子供だからな。当分は乗るわけにもいかんだろうよ」
ジョーディーは傷ついた手をもう一度さし出したが、こんどは赤い小馬も鼻面をなでさせてくれた。
「ニンジンを手に入れなきゃならんね」とジョーディーは言った。「ビリー、これ、どこで買ったの?」
「保安官の競売《きょうばい》で買ったのさ」とビリーは説明した。「サリーナスのある見世物が破産して、借金が残ったんだね。それで、保安官がその見世物の持ち物を売り払っていたんだよ」
小馬は鼻をグッと突き出し、すさんだ目の上にたれさがったたて髪を振りはらった。ジョーディーは鼻を軽くさすった。
「あのう……鞍《くら》はないんだね?」と彼は静かにきいた。
ビリー・バックは笑い出した。「おや、忘れていたわい。こっちに来てくんな」
馬具部屋にはいると、彼は赤いモロッコ皮の小さな鞍を上からおろした。「こいつはほんの見世物用の鞍でね」とビリー・バックはさもさげすむように言った。「やぶの中じゃ役に立たんが、安く売りに出てたもんだからな」
ジョーディーはその鞍も安心して眺める気になれなかったし、てんで口をきくこともできなかった。彼はピカピカした赤いなめし皮を指先でこすっていたが、長いことたってから、「でも、あれにのせるときれいに見えるね」と言った。このとき彼は、自分の知っているいちばん雄大な、いちばんきれいなものについて考えていた。「もしあれにまだ名前がついていなかったら、ぼくはあれをギャビラン・マウンテンズと呼びたいと思うね」と彼は言った。
ビリー・バックにはジョーディーの気持ちがわかった。「ずいぶん長たらしい名前だな。ただギャビランじゃいけないのかね? そいつは鷹《タカ》って意味なんだよ。やっこさんにはいい名前だろ」ビリーはうれしくなってきた。「もし坊やが尻尾の毛を集めといてくれたら、おいらがそのうち、毛綱《けづな》を作ってやれるかもしれんぜ。そいつは訓練用の端綱《はづな》〔調馬用に使う綱〕にも使えるだろうしな」
ジョーディーは箱型仕切りにもどりたかった。「ぼく、あの小馬を学校に連れていけると思う? ……みんなに見せるためにさ」
しかし、ビリーは首を横に振った。「あれはまだ端綱にもなれておらんでな。おいらたちがここへつれてくるのにだって、ちょっぴり時間がかかっただ。ほとんど引っぱるようにしてつれてきたんですわい。それにしても、坊やは学校に出かけたほうがよさそうだな」
「じゃあ、今日の午後、こいつを見せるため、みんなをつれてくるよ」
六人の男の子が、その日の午後、いつもの時刻より三十分も早く丘をこえてやって来た。彼らは頭をさげ、前腕を動かし、息をヒューヒューはずませながら一生けんめい走って来たのだ。家のわきをスーッと通りすぎ、納屋まで切り株畑を横切って行った。それから小馬にてれくさそうに対面したあと、みんなジョーディーのほうに視線を移したが、その目にはジョディーにたいする新しい称賛と新しい尊敬の念がひめられていた。この日まで、ジョーディーは仕事着《オーバーオール》に青いシャツを着た、ただの少年にすぎなかった……たいていの少年よりもおとなしく、ちょっぴり臆病者ではないかとさえ思われていたのだが。
ところが今や、それががらっと変わった。何千年ものむかしから伝わってきた、騎兵にたいする歩兵の称賛の念をみんなはそっくりそのまま感じたのである。馬に乗った男は歩いている男よりも肉体的にばかりでなく精神的にも大きい……そのことを彼らは本能的に知っていたのだ。ジョーディーが自分たちと平等の地位から奇跡的に引き上げられ、自分たちの上位に置かれたと思った。ギャビランは仕切りから頭を突き出し、彼らにたいして鼻をフンフンいわせた。
「おまえはどうしてこいつに乗らないんだい?」「なぜこいつの尻尾を市《いち》のときのようにリポンで編まないんだい?」「おまえはいつあれに乗るんだい?」少年たちは口々にそう叫んだ。
ジョーディーの意気は大いに上がった。彼自身も騎兵のえらさを感じたのだ。「あれはまだ小さすぎるんだよ。しばらくはだれにだって乗れやしないんだ。ぼくは長い端網《はづな》で訓練しようと思ってるんだぜ。ビリー・バックがやり方を教えてくれるんだってさ」
「でも、ちょっと引きまわすことぐらいできんのかい?」
「まだ端綱になれてもいないんだよ」とジョーディーは答えた。彼としては小馬を初めてつれ出すときは、完全に自分ひとりでいたかったのだ。「鞍を見に来いよ」
彼らは赤いモロッコ皮の鞍を見たとき一言もなかった。あまりのショックでなんとも言葉が出てこなかったのである。「やぶの中じゃあんまり役に立たないんだよ」とジョーディーは説明した。「でも、あいつの背中にのせるときれいに見えるだろうな。たぶんぼくはやぶにはいるときは裸《はだか》馬に乗ることになるだろう」
「鞍頭《くらがしら》〔牛を投なわでつかまえるときは、なわの手元を鞍頭にしばることになっている。人聞の腕力だけでは牛の力に抵抗できないからである〕がなかったら、どうやって雌牛に投げなわをかけるんだい?」
「たぶん毎日の仕事には別の鞍を買うことになるだろうな。お父ちゃんは家畜の仕事でぼくに手伝いをさせるかもしれないからね」
彼はみんなに赤い鞍にさわらせてやったり、手綱についた真鍮鎖《しんちゅうぐさり》の喉帯《のどおび》や、面繋《おもがい》と額帯《ひたいおび》の交差する両方のこめかみのところにつく大きな真鍮のボタンを見せてやったりした。すべてがあまりにもすばらしかった。しばらくして彼らは帰らなければならなかったが、それぞれの少年は、時機が来たら、その赤い小馬に乗せてもらうためにジョーディーにどんなわいろを使ってたらいいかと、心の中で自分の持ち物の中をあれこれとさぐってみたのである。
みんなが帰ってしまうと、ジョーディーはよろこんだ。彼は壁につるさがっている櫛とブラシを手に取り、箱型仕切りの境の横棒をおろし、用心深く中にはいった。小馬は目を輝かせ、いつでも足|蹴《げ》りできるようにと体をじりじりねじってかまえた。しかし、ジョーディーはいつもビリー・バックがするのを見ていたとおりに、小馬の肩に手を置き、アーチ型に曲がった高い首筋をなでてやりながら、低い声で「うん、うん、いい子だ」と話しかけた。小馬はだんだん緊張をゆるめていった。ジョーディーがせっせと櫛ですいたり、ブラシをかけたりしてやると、抜けた毛が仕切りの中に積み重なっていき、やがて小馬の毛皮に深紅のつやが出てきた。彼はひと仕事終える度ごとに、もっとうまくやってもよさそうなものを、と思った。彼はたて髪を編んで、いくつもの弁髪《べんぱつ》をつくり、前髪も編み上げ、そのあと、それをもう一度ほどくと、ふたたびブラシでまっすぐにとかした。
ジョーディーには母親が納屋にはいって来る音が聞こえなかった。彼女は初めはいってきたときには腹を立てていたが、小馬の姿と、小馬の面倒をけんめいに見ているジョーディーのようすを見ると、妙に誇らしい気持ちがこみあげてくるのを感じた。
「おまえ、薪《まき》の箱のことは忘れたのかい?」と母はやさしくきいた。「もうじき暗くなるけど、うちの中には薪が一本もないし、ニワトリもまだ餌《え》をもらっていなんだよ」
ジョーディーはあわてて手にした道具を持ち上げた。「お母ちゃん、ぼく忘れていたよ」
「じゃあ、これからはおまえの仕事のほうを先にするんだね。そうすれば、忘れたりはしないよ。これからはあたしがよく見張っていないと、おまえはいろんなことを忘れるだろうね」
「お母ちゃん、小馬のために畑のニンジンもらっていい?」
母親はその事についてちょっと考えてみなければならなかった。「そうね……まあ、仕方ないわ……大きな、がっちりしたのだけ取ってくるんならね」
「ニンジンをたべさせると、毛のつやがよくなるんだよ」と彼が言うと、母親はまたもや、妙な誇りがグッとこみ上げてくるのを感じた。
ジョーディーは、赤い小馬が来てからというもの、三角鐘《トライアングル》が鳴るのを待たずにベッドから抜け出すようになった。母が目をさます前からベッドからそっとはい出し、するっと昼の服に着かえ、ギャビランを見るためにそっと納屋まで降りて行くのであった。土地や、やぶや、家や、樹木がまるで写真のネガのように銀灰色と黒い色に塗りつぶされている、灰色に静まりかえった朝まだき、彼は眠っている石や眠っているイトスギのそばをすりぬけて納屋のほうに忍び足で歩いて行った。コヨーテのとどかない木の上にねぐらをつくって休んでいる七面鳥《しちめんちょう》がねむそうにクックッと鳴く。畑は灰色の霜のような光でほのかに輝き、朝露の中にウサギや野ネズミの足跡がくっきりと目についた。忠実な犬どもは自分たちの小さな小屋から体をこわばらせて出て来ると、戦う身構えをして喉の奥をグウグウうならせた。それから、ジョーディーのにおいをかぎつけると、彼らはこわばった尻尾を高く持ち上げ、挨拶するみたいにそれを左右に振るのだった……大きなふさふさした尻尾のダブルトリー・マットと、新米のシェパード犬スマッシャー。そのあと、また温い自分たちのベットにだらしなくもどって行った。
それはジョーディーにとってふしぎな時間であり、神秘的な旅であった……夢の延長といってもよかった。初め小馬を手に入れたころは、その旅の途中、ギャビランが仕切りの中にいないのではないか、いや、もっと悪いことに、そこにいたことなどなかったのではないか、と考えて自分を苦しめるのを好んだ。そればかりか、そのほかいろいろと自分自身で考え出した楽しい小さな苦痛を味わったのである。家ネズミが赤い鞍《くら》をかじってギザギザの孔をあけたとか、ハツカネズミがギャビランの尻尾をかじって、とうとうそれが筋のように細くなってしまったとか考えた。そこで、納屋に近づくとき、さいごにはかけ足になるのがつねだった。彼は納屋の戸の掛け金をはずして中にはいると、たとえどんなに静かに戸を開けても、ギャビランはいつでもきまって仕切りの横棒ごしに彼のほうをじっと見ているのであった。小馬は静かにいななき、前の片足を踏みならし、そして目の中にはカシワの薪の燃えがらのような赤い焔《ほのお》の大きな火花が光っているのであった。
ときおり、馬車馬をその日使うことになっていると、ビリー・バックが納屋に来ていて、馬具を取りつけたり、毛を櫛けずったりしているのだった。ビリーは彼のそばに立って、長いことギャビランを眺め、ジョーディーに馬についてのいろんなことを話してくれた。馬は自分の足をひどく気にするから、その心配を取りのぞいてやるために、いつも脚を持ち上げてやったり、ひづめやくるぶしを軽くたたいてやったりしなければならない、と話してきかせた。また、馬は話しかけられるのが好きだとも言った。だから、小馬にはいつでも話しかけ、どんなことをするにもそのわけを語ってやらなければならない。ビリーにしても、馬が自分に言われることをすべて理解できるかどうかはわからないが、しかしどの程度まで理解するかもわかったものじゃないのだ。馬というものは自分が好いている人間がいろんなことを説明してくれれば、絶対にさからって大騒ぎなどしないものである。
それについて、ビリーはいろいろと実例をあげることもできた。たとえば、ほとんど死にそうに疲れた馬が、目的地まであとほんのわずかだと聞かされて元気を回復したのを彼は知っていた。また、恐怖のために全身がしびれてしまった馬が、自分をおびえさせているものが何であるか乗手からきかされて、おそれからぬけ出した例も知っていた。
ビリー・バックは朝、そのようにしておしゃべりをしている間に、二、三本のムギワラをきちんと三インチぐらいの長さに切って、帽子のバンドに突きさしたものだった。そうしておくと、その日の間に、歯楊枝《はようじ》を使いたくなったり、ただ何かをかじってみたいと思ったりするとき、手をのばしてその一本を抜きとりさえすればよかったのである。
ジョーディーは注意深くビリー・バックの話に耳を傾けていた。ビリーが馬の扱いにかけては名手であることを彼ばかりか、その地方の者ならだれでも知っていたからだ。ビリー自身の馬は槌頭《つちあたま》をした、筋ばったインディアン小馬であったが、こいつは家畜の試合に出るとほとんどいつも一等賞を取っていた。ビリーは雄牛をなわにかけると、投げなわを鞍頭《くらがしら》に二重片結びにし、自分は馬から降りてしまう。すると、彼の馬はちょうど釣師が鉤《はり》にかけた魚を遊ばせるように、雄牛を遊ばせ、ついに雄牛が倒れるか参ってしまうまで綱をゆるめることをしないのであった。
毎朝、ジョーディーは小馬の毛に櫛やブラシをかけたあと、仕切りの横棒をおろしてやる。するとギャビランは彼のわきをサッと通りぬけ、納屋のわきを走りぬけて柵囲いの中にとびこんで行く。小馬は囲いの中をグルグルかけまわり、ときおり前方に跳躍《ちょうやく》すると、脚をまっすぐのばしたまま着地するのであった。彼はピンと張った耳を前方に倒し、白目が見えてくるほど目の玉をギョロギョロさせ、体全体をブルブルぶるわせ、まるでおびえたように見せかけてじっとその場に立っていた。やがて彼はハアハア鼻息を荒げて水槽《すいそう》のところまで歩いて行き、水の中に鼻の孔まで顔を突っこむのであった。それを見ると、ジョーディーは得意になった。それが馬のよしあしを判断する方法であることを知っていたからだ。だめな馬は水に唇をふれるだけであり、元気のある馬は鼻から口まですっかり水面下に没し、わずかに呼吸する余地しか残さないのであった。
それからジョーディーは立って小馬をじっと眺めていたが、これまでほかの馬については気のつかなかったいくつかの事柄が目にとまった……つやのあるすべすべした横腹の筋肉、こぶしを閉じるときのように屈折する腰のあたりの靱帯《じんたい》、赤い毛皮に日光が当たってできる輝きなど。
ジョーディーはこれまでずっと馬を見てきたので、あまり綿密に彼らを観察したことなどなかった。しかしこんどは、動く耳が何かを表現していることや、顔の表情にあらわれる変化などに気がついた。小馬は耳で話をした。小馬がいろんなものについてどのように感じるかは、耳の先の動く方向によって正確に知ることができた。ときには、それがピンと張って直立していることもあるし、またときには、張りがゆるんでだらんとたれさがることもあった。怒ったり恐れたりするときはうしろにそるし、心配したり好奇心を持ったりよろこんだりするときは前方に倒れる。それで、耳の正確な位置を見れば、そのとき彼がどのような感情を持っているかがわかるのである。
ビリー・バックは約束を守った。秋の初めに小馬の訓練がはじまった。最初は端綱の訓練だったが、それがそもそもの初めだったので、いちばんむずかしかった。ジョーディーはニンジンを一本手に持ち、だましたり、すかしたり、それをやると約束したりして綱を引っぱった。小馬は強く引っぱられるように感じると、荷物|運搬《うんぱん》のロバのように足をふんばって抵抗した。しかしまもなく端綱《はづな》になれた。ジョーディーは彼を農場じゅう引っぱりまわした。やがてだんだん綱を放す練習をしているうちに、とうとう彼がどこへ行っても、小馬は綱を引かないのに彼のあとをつけてくるようになった。
それからこんどは、長い端綱の訓練にはいった。それは前より根気のいる仕事だった。ジョーディーは長い端綱を握って円のまん中に立っている。彼がパチッと舌打ちをすると、小馬は長い端綱でおさえられながら、大きな円をえがいて歩きはじめる。彼がもう一度、舌をパチッと鳴らすと、子馬は速足《トロット》に移り、さらにもう一度パチッとやると駆足《ギャロップ》に変わるのである。グルグルとギャビランは疾走し、それをものすごく楽しむのだ。それから彼が「ドー」と叫ぶと、小馬はピタリと止まった。ギャピランがそれを完全にものにするまでに、さほど多くの時間はかからなかった。しかし、彼はいろいろの面で悪い小馬であった。ジョーディーのズボンにかみついたり、ジョーディーの足をふみつけたりした。ときたま、両方の耳をグッとうしろにそらし、少年にものすごい足蹴りをくらわすかまえをすることもあった。ギャビランはこうした悪いことをする度《たび》ごとに、ふたたびわれにかえると、自分自身をあざけり笑うように見えた。
ビリー・バックは夜、囲炉裏《いろり》の前で、毛綱をつくっていた。ジョーディーはかねてから袋の中に尻尾の毛を集めておいたが、今ビリーがそれで綱を編んでいるのをすわって眺めていた。ビリーは数本の毛をひねって糸をつくり、二本の糸をより合わせて紐《ひも》をつくり、数本の紐を編んで綱をつくっていた。こうしてでき上がった綱を、ビリーは足の下にふみつけて床の上をゴロゴロころがし、まるく固めるのであった。
長い端綱さばきはみるみる完成の域《いき》に近づいていった。ジョーディーの父親は小馬が止まって、歩き出し、速足《トロット》から駆足《ギャロップ》に移っていくさまをじっと眺めていて、少し心配になってきた。
「あいつは芸のうまい小馬になりそうだな」と父親は文句がましく言った。「わしは芸当する馬は気にくわんよ。馬に芸など仕込むてえと、馬の威厳てもんがまったくなくなっちまうぞ。だってさ、芸馬なんか役者みてえなもんで……威厳もなけりゃ、自分自身の性格もなくなってしまうだ」それから父はこうつけ加えた……「おまえはやっこさんを早く鞍《くら》になれさせたほうがよさそうだな」
ジョーディーは馬具部屋に走って行った。初めしばらくの間、彼は木挽台《こびきだい》の上に置いた鞍に乗って練習をした。鐙《あぶみ》の長さをなんべんも変えてみたが、なかなか適当な長さがつかめなかった。ときおり、ジョーディーは馬具部屋で木挽台にまたがり、首当てや曲がり棒や引き皮などをまわりにつるさげ、部屋の外へと乗り出した。ライフル銃まで鞍頭《くらがしら》に横たえて持参した。すると、畑がスイスイとうしろに飛びすぎて行くのが見え、駆足のひづめがパカパカと鳴るのが聞こえるのだった。
初めて小馬に鞍を置くのは、なかなかややこしい仕事であった。ギャビランは背中を弓なりに曲げ、後脚で立ち上がり、鞍帯をしめる前に鞍を振りおとしてしまった。そこで、なんどもなんどもそれを置きなおしたあげく、やっと小馬はそのままにしておいてくれた。それに、鞍帯をしめることもむずかしかった。ジョーディーは一日ごとに腹帯をかたくしめていき、やがて、小馬は鞍をまったく気にしないようになった。
それから、手鋼の問題があった。ギャビランが口に何かを入れられるのになれるまでは、〈はみ〉のかわりにカンゾウ〔豆科の多年草で、根と茎は薬に供する〕の茎をどのように使ったらよいか、ビリーが説明してくれた。
「もちろん、どんなことにだって強制的にならすこともできるがね」とビリーは言った。「しかしだな、もしそんなまねをすると、とてもいい馬になんかならんですわい。いつになってもちょっぴりおびえてるだろうし、自分から進んでこっちの言うことをきくなんてしねえだろうしさ」
小馬は初めて手綱をつけたとき、頭をあちこち振りまわし、舌を〈はみ〉にぶつけたので、口の両端から血がにじみ出てきた。すると、彼は面繋《おもがい》をまぐさ桶にこすりつけてはずそうとした。恐怖と反抗心のために、耳はグルグルと旋回し、目は赤くなった。ジョーディーはそのようすを見てよろこんだ。というのも、訓練をおとなしく受けるようだと、だらしのない馬にすぎないということを知っていたからだ。
ジョーディーは初めて小馬の鞍にまたがるときのことを考えて身ぶるいした。小馬はたぶん彼を投げおとすことであろう。だが、投げおとされること自体は別に不名誉ではなかった。不名誉となるのは、すぐ起き上がってふたたび乗ることをしない場合である。ときたま彼は、泥の上に倒れて泣き叫び、二度とふたたび馬上にまたがる気が起こらないことを夢見るのであった。そうした夢の恥ずかしさはその日の中ごろまでつづいた。
ギャビランはみるみる大きく成長した。すでに子馬らしい脚のひょろ長さはなくなっていたし、たて髪は前より長く黒くなってきた。たえず櫛けずったりブラシをかけたりしているため、彼の毛皮は赤褐色の漆《ラッカー》のようにすべすべ、つやつやしてきた。ジョーディーはひび割れができないように、ひづめに脂《あぶら》をぬり、入念に切りととのえた。
毛綱はほとんどでき上がっていた。ジョーディーの父は古い拍車《はくしゃ》をくれたが、それが子供の靴に合うように両側の縁金を内側に曲げ、革紐《かわひも》を切りつめ、鎖をちぢめてくれた。それからある日、カール・ティフリンはこう言った……
「おまえの小馬はわしの思ったよりはやく大きくなってきたよ。たぶん感謝祭〔十一月の最後の木曜日〕ごろには乗れるようになるだろうな。おまえは振りおとされずに乗っておられるかい?」
「さあ、わかんないな」とジョーディーは恥ずかしそうに答えた。感謝祭までには三週間しかなかった。彼はその日、雨が降らなければいいが、と思った。雨にあうと、赤い鞍にしみができるからであった。
ギャビランも今ではジョーディーをよく知って、好きになっていた。彼はジョーディーが切り株畑を横切ってくると、いななくし、牧場では主人が口笛を吹いて呼ぶと、走ってやってくるのだった。どんなときでも、きまって彼のためにニンジンが用意されていた。
ビリー・バックはくりかえしくりかえし、彼に乗馬の心得をさずけてくれた。「いいかね、坊や、馬に乗ったら、両方の膝《ひざ》をきつくしめておき、手は鞍《くら》から離しておくんですぜ。それから、たとえ投げおとされるようなことがあっても、それであきらめたりしちゃいけねえよ。どんなに上手な馬乗りでも、かならずその人を放り投げることのできる馬がいるもんですわい。馬のやつがうまくしてやったと感じる前に、あんたはもう一度馬にまたがってやるんだ。すると、もうすぐあんたを放り出したりしなくなるし、もうすぐ放り出すことなどできなくなるだよ。まあ、そんなふうにしてしつけていくんだな」
「その前に雨が降らないといいんだが」とジョーディーは言った。
「なぜだかね? ぬかるみに放り出されたくねえのかい?」
それも一つの理由だったが、もう一つの心配は、ギャビランがあわててはね上がろうとして、足をすべらし、彼の上に倒れて、彼の脚なり腰なりを折るかもしれないということだった。彼はそれまでそのような目にあった人を見てきたし、その人たちがまるで押しつぶされた虫けらみたいに地面の上で身をよじるありさまを見せつけられ、自分がそんな目にあうのがこわかったのである。
彼は左手に手綱を握り、右手に帽子を持つ方法は木挽台で練習をつんできた。もしこのようにして両手をふさいでおけば、自分が馬から落ちそうになっても、鞍頭《くらがしら》をつかむことなどできないだろう。もし鞍頭をつかんだりすればどのようなことが起こるか、彼は考えてみるのもいやだった。たぶん父もビリー・バックも、二度とふたたび自分に口をきいてくれないだろう。それほど彼らはそのことを恥ずかしく思うだろう。そのニュースはひろまって、母も恥ずかしく思うにちがいない。それに校庭では……それはあまりにも恐ろしく、考えてみることもできなかった。
ギャビランに鞍を置いたとき、彼は拍車に体重をかけてみたが、小馬の背中に片脚をかけることはしなかった。それは感謝祭の日まで禁じられていたからだ。
毎日の午後、彼は赤い鞍を小馬にのせて、鞍帯をきつくしめた。小馬は鞍帯をしめている間、腹を不自然なほど大きくふくらまし、それから皮帯を固定すると腹をへこますやり方をすでにおぼえていた。ときおり、ジョーディーは小馬をホウキスゲのところまでつれて行き、まるい緑色の桶《おけ》から水を飲ましてやり、またときには、切り株畑を通って丘の頂きまでつれて行くこともあった。その頂上からは、白いサリーナスの町や、広々とした平野の幾何学な模様の畑や、羊の群れに葉っぱを食いちぎられたカシワの木などを見ることができた。ときたま、ジョーディーと小馬はホウキスゲ帯《たい》を通りぬけて、狭い円形の空地に出てくることがあった。そこは隔離されたような別天地で、空と円く囲んだホウキスゲだけがむかしの生活から取り残されている感じだった。ギャビランはここまでやって来る旅が好きで、そのことを、頭をたいへん高く持ち上げたり、さも興味ありげに鼻の孔をふるわせたりすることで示した。遠征旅行からもどったときの少年と小馬は、かきわけていったホウキスゲの甘い香りを放つのであった。
時は感謝祭に向かってゆっくりと進んでいったが、冬は足早やにやって来た。雲は吹きよせられてくると、終日土地の上にたれこめ、丘の頂きをすれすれに流れて行き、夜になると、風がピューピュー吹き荒れた。一日じゅうカシワの枯葉が木からふるい落とされ、地面いちめんに広がったが、しかしカシワの木そのものにはなんの変化も見られなかった。
ジョーディーは感謝祭前には雨が降らないようにと願っていたが、それがとうとう降って来た。茶色の大地は黒ずんだ色に変わり、木々はチカチカ光ってきた。切り株の切り口がカビのために黒くなり、乾草の山は湿気にさらされているために灰色に変わり、屋根の上のコケは夏の間ずっとトカゲのように灰色をしていたのに、今や鮮かな黄緑色に変化してきた。一週間もつづいた雨の間、ジョーディーは小馬を湿気のあたらない仕切り部屋の中にとじこめておいたが、ただ、学校が終わったあと、ほんのしばらく、運動のためと、上の柵囲いの中の水槽《すいそう》で水を飲ませるために、小馬を引き出すようにした。ギャビランは一度もぬれることがなかった。
おしめりは小さな新しい草が生えてくるまでつづいた。ジョーディーは雨合羽《あまがっぱ》と短いゴム靴といういでたちで学校に歩いてかよった。ついにある朝、太陽がキラキラと照り出した。箱型仕切りの中で働いていたジョーディーは、ビリー・バックにこう言った……
「今日はたぶん、ぼくが学校に行ってる間、ギャビランを外の柵囲《さくがこ》いの中に入れっ放しにしといてもいいだろうね」
「陽のあたるところに出てるほうが、やっこさんのためによさそうだな」とビリーは賛成した。「どんな動物だって、おりの中にあんまり長くとじこめられるのは好かんようだわい。あんたのお父っつあんとおいらは、泉の枯葉を掃除するため山にのぼることになってるだ」ビリーはそう言ってうなずくと、例のムギワラを一本ぬき取って歯をほじった。
「でも、もし雨が降ってきたら……」とジョーディーは言いかけた。
「今日は降りそうもねえだ。雨さんもすっかり降りつくしてしまっただからな」ビリーは袖《そで》をまくり上げ、腕バンドをパチンと鳴らした。「たとえ雨になったとしても……ちょっぴりだったら、馬にはなんてこともあるめえよ」
「でも、ビリー、もし雨が降ってきたら、あの子を中に入れてくれるだろうね? ぼく、あれが風邪を引くのがこわいんだよ……乗れる時がやってきても、乗ることができないだろうからさ」
「そりゃ、もちろんさ! 雨に間にあうようにもどってきたら、おいらはあいつの番をしててやるとも。しかし、今日は雨なんか降らんね」
そこでジョーディーは、学校に出かけるとき、ギャビランを柵囲《さくがこ》いの中に置きざりにしていった。
いろいろの事柄についてビリー・バックの考えがまちがうということはなかった。まちがうはずかなかったのである。しかしその日にかぎって、彼の天候の予想がはずれてしまった。正午《ひる》すこし過ぎ、雲が丘をこえて押しよせてくると、雨が降り出したからである。ジョーディーは雨が校舎の屋根にポツリポツリとあたる音を聞いた。彼は人差し指を上げて外の便所に行く許可を取り、外に出たら小馬を中に入れるため、家までかけてもどろうと考えた。しかし、そんなことをしたら、学校でも家庭でもすぐさま罰をくらうだろう。そこで初めの計画を断念し、雨ぐらい馬にとってなんてこともない、とビリーが保証した言葉を思い出して自分をなぐさめた。やっと学校が終わったとき、彼は暗い雨の中を大急ぎで家路についた。道路の両側の土手からは泥水の小さなしぶきがさかんにはねかえってきた。雨は冷たい突風を受けてななめに渦《うず》をまいて降っていた。ジョーディーは砂利と泥のぬかるみの中をグシャグシャはねを上げながら、犬のように小走りにわが家に向かって。
山の背の頂きから、ギャビランが柵囲いの中にみじめそうに突っ立っているのが見えた。赤い毛皮はほとんど黒ずんでしまい、雨水がいく条《すじ》もたれ落ちていた。彼は尻を雨と風のほうに向け、頭をたれて立っていた。ジョーディーはいちもくさんにその場にかけつけ、それから納屋の戸をパッと押し開け、ぐしょぬれの小馬の前髪をつかんで中に引っぱりこんだ。そしてナンキン袋をみつけると、ずぶぬれの毛皮や脚やくるぶしをゴシゴシこすった。ギャビランはその間、じっとがまん強く立っていたが、まるで突風でもおそってくるみたいに、ときどきはげしく体をふるわせた。
ジョーディーはできるかぎり小馬の体の湿気を取り除くと、母屋までのぼって行き、お湯を納屋まで運んできて、その中に穀物をひたした。ギャビランはあまり空腹ではなかった。彼は熱い〈ぞうず〉〔フスマ、ヒキワリなどを湯にまぜだ家畜の飼料〕にちょっと口をつけてみただけで、あまり興味を示さず、まだときおり体をブルブルふるわせていた。彼のじめじめした背中から、ちょっぴり湯気が立ちのぼっていた。
ビリー・バックとカール・ティフリンが帰宅したのはほとんど暗くなってからであった。「雨が降りはじぬたのはわしらがベン・ハーチの店に立ちよったときだったが、それから午後ずっと止まなかったんでな」とカール・ティフリンは弁解した。ジョーディーが責めるような目付でビリー・バックを見やると、ビリーはうしろ暗い気持ちがした。
「雨なんか降らないとおまえは言ったじゃないか」と、ジョーディーは彼を責めた。
ビリーは目をそらした。「どうもこの季節の天気ときたら気まぐれでな」と彼は言ったが、その言訳ではちょっと不十分だった。彼には誤りをおかす権利がなかったし、自分でもそれをよく知っていたのだ。
「小馬はぬれちゃったよ、ぐっしょりね」
「すっかり拭きとってやっただかい?」
「ナンキン袋でゴシゴシやったあと、熱い穀物をたべさせてやったよ」
ビリーはそれはよかったと言わんばかりにうなずいて見せた。
「すこしはっかり雨にぬれたって、たいしたことないですわい」とビリーは保証するように言った。
それから、ジョーディーの父親も会話の仲間入りをしたが、そのあと少年にちょっぴりお説教をした。「馬ってもんは、抱っこちゃん犬たあ、わけがちがうんだぜ」と父は言った。カール・ティフリンは弱さとか病気とかが大きらいで、無気力というものにたいしてはげしい軽蔑《けいべつ》の念をいだいていた。ジョーディーの母親はテーブルの上に、ステーキをならべた大皿や、ふかしたジャガイモとカボチャを置いたが、そのため食堂の中は水蒸気がいっぱいになった。みんな食事のため席についた。カール・ティフリンは、過保護のために動物や人間がいくじなしになることについて、まだブツブツ文句を言っていた。
ビリー・バックは自分のおかしたあやまちについて気まりが悪くてしようがなかった。「坊ちゃん、あれに毛布をかけてやりましたかね?」と彼はたずねた。
「ううん。毛布がみつかんなかったんだよ。でも、背中にナンキン袋をいく枚もかけといたさ」
「じゃあ、食事がすんだら、いっしょに出かけていって、あったかにくるんでやることにしますだ」そう言うと、ビリーもいくらか気がらくになった。ジョーディーの父が囲炉裏《いろり》のそばに引き上げ、母が皿を洗っているとき、ビリーはカンテラをさがして、それに火をつけた。彼とジョーディーはぬかるみを納屋まで歩いていった。納屋の中は暗く、温かく、甘いにおいがした。馬どもはまだ夕食の乾草《ほしぐさ》をモグモグやっていた。
「坊や、カンテラを持っててな!」とビリーは頼んだ。それから、彼は小馬の脚にさわってみたり、横腹の熱をはかってみたりした。また、自分の頬ぺたを小馬の灰色の鼻面につけたり、まぶたをめくって目の玉のようすを見たり、唇を持ち上げて歯ぐきをしらべたり、耳の中に指を突っこんでみたりした。
「あんまり元気らしくないわい。ひとつマッサージでもしてやるべえかな」とビリーは言った。
それからビリーはナンキン袋をみつけてくると、小馬の脚をゴシゴシはげしくこすり、胸と〈きこう〉〔馬や犬の肩甲骨間の隆起〕を摩擦した。ギャビランはふしぎなくらい無気力だった。いくらゴシゴシやっても、じっとおとなしく受けているだけなのだ。やがて、ビリーは鞍置場から古い木綿の掛けぶとんを持ってきて、それを小馬の背中からかぶせ、首筋と胸のところを紐《ひも》でくくった。
「さあ、これであしたの朝にゃあ、なおっているべえよ」とビリーは言った。
ジョーディーが母屋にもどると、母が彼を見上げた。「あんた、おそくまで起きてんのね」と母は言った。彼女はこわばった手で息子のあごをおさえて、目の上にたれさがってもつれた髪の毛をかき上げてから、こう言った……「小馬のことは心配しないでいいよ。すぐよくなりますからね。ビリーは、このへんではどんな馬のお医者にも負けないくらい馬のことわかっているんだから」
ジョーディーは、母に自分の心配を見ぬくことができるとは思っていなかった。彼は母のそばからそっと離れると、囲炉裏の前に膝をついて、おなかを暖めた。体ぜんたいが焼けこげるほど暖まると、ベッドにはいったが、なかなか寝つかれなかった。ずいぶん長い時間、眠ったと思われたあと、目をさました。部屋の中は暗かったが、窓のところだけは夜明け前の薄明かりがただよっていた。彼は起き上がると仕事着をみつけ、ズボンをさがしたが、そのときとなりの部屋の時計が二時を打った。彼は服をわきに置いて、ベッドにもどった。もういちど目をさましたときには、もうすっかり明るくなっていた。三角鐘《トライアングル》が鳴るのを知らずに寝すごしたのは、こんどが初めてだった。彼はとび起きると、服をひっかけ、シャツのボタンをかけながら戸口から出て行った。母は彼のあとをちょっと見送ったが、それから静かに自分の仕事にもどった。彼女はもの思わしげな、やさしい眼差しをしていた。ときおり口元はほころんだが、目の表情はまったく変わらなかった。
ジョーディーは納屋のほうに走って行った。途中までくると、彼のおそれていた音が聞こえてきた……馬のゼイゼイ咳《せ》きこむ音。彼は全速力でかけ出した。納屋にはいると、ビリー・バックが小馬のそばにいた。ビリーはそのがんじょうな厚ぼったい手で小馬の脚をこすっていた。彼は目を上げて、明るく笑った。
「やっこさん、ちよっぴり風邪を引いたようだわい。二、三日のうちになおしてやるだね」
ジョーディーは小馬の顔を見つめた。目は半ば閉じ、唇はぼてぼてして乾いている。目の隅には目やにがかさぶたのようについており、両方の耳はだらんとわきにさがり、頭を低くたれている。ジョーディーが片手をさし出したが、小馬はそのほうに近よってこなかった。小馬はまたもや咳きこんだが、そのために体ぜんたいがしめつけられるみたいだった。薄い鼻水がすこしばかり鼻の孔から流れ出していた。
ジョーディーはビリー・バックのほうを振りかえった。「とてもひどいみたいだね、ビリー」
「今も言ったとおり、ちょっと風邪を引いただけさ」とビリーは言いはった。「坊やは朝飯たべて、学校に行ってきなされ。おいらがこいつの世話をしてやるだからな」
「だって、おまえには何か仕事があるかもしれんだろ。そうすると、こいつはおいてきぼりになるよ」
「いいや、そんなことはしねえだ。ぜんぜんおいてきぼりなんかにしねえだ。あしたは土曜日ですわ。だから、坊やは一日じゅう、こいつのそばについておられるがな」
ビリーは二度も少年の期待を裏切ったので、ひどく気がとがめていた。こんどこそどうあっても小馬をなおしてやらなけれは、と思った。ジョーディーは母屋までのぼって行くと、食卓の自分の席にいかにも気乗りのしないようすでついた。ベーコン・エッグが冷たくなり、脂《あぶら》っぽくなっていたが、彼はそんなことを気にとめず、いつもの分量だけたべた。彼は学校を休んでもいいかとさえきかなかった。母は彼のすんだ皿を片づけるとき、彼の髪をうしろにかき上げてくれた。
「小馬の世話はビリーがしてくれますよ」と母は息子に保証した。
彼は学校で終日ぼんやりふさぎこんでいた。どんな質問にも答えられなかったし、どのような言葉も読めなかった。それに、自分の小馬が病気だということを人に話すこともできなかった。もし話したりすると、気分がいっそう悪くなるからであった。やがて学校がおしまいになると、彼はおそるおそる家路についた。のろのろ歩いて、ほかの男の子たちに追いこされるままになっていた。自分ではこのままどこまでも歩きつづけ、農場に着かないでくれればいいが、と思った。
ビリーは約束どおり、納屋にいてくれたが、小馬の容体《ようたい》はいっそう悪くなっていた。今や目はほとんど閉ざされており、息は鼻の中の何か障害物にぶつかってヒーヒー音をたてていた。ほんのちょっぴり開いている目の部分には薄膜が張っていて、目が見えるかどうかさえ疑わしかった。ときたま、鼻水を通そうとして鼻を鳴らしたが、そのためかえって鼻が一段とつまるように思われた。ジョーディーは小馬の毛皮を見てがっくりした。毛がザラザラ、もじゃもじゃになり、以前の色つやをすっかり失ってしまったように見えた。ビルは静かに仕切りのかたわらに突っ立っていた。ジョーディーはきくのがいやだったが、どうしても知りたかった。「ねえ、ビリー、あの……この子は……よくなるの?」
ビリーは境の二本の横棒の間から手を差しこみ、小馬のあごの下をなでまわした。「ここにさわってごらん」彼はそう言って、ジョーディーの指をあごの下の大きなかたまりのところまでもっていった。「あれがもっと大きくなったら、おいらはそこを開くとしよう。そうすればよくなるだ」
ジョーディーはあわてて目をそらした。そのあごの下のかたまりについてはかねてから話を聞いていたからだ。「あの子はいったいどこが悪いの?」
ビリーは答えたくなかったが、答えないわけにいかなかった。三度もまちがいをおかすわけにはいかなかったからだ。「腺疫《せんえき》〔下あごのリンパ腺が化膿する馬の伝染病〕ですだ」と彼は短く答えた、「でも、それについては心配することねえだ。おいらがなおしてやるだから。ギャビランよりもっとひどくなったのでも、なおったのを見たことあるだよ。おいら、これからあれに吸入させるから、坊や手伝ってくだせえ」
「うん」とジョーディーはみじめな気持ちで答えた。彼はビリーのあとについて穀物部屋にはいり、彼が吸入袋の用意をするのを眺めていた。それは馬の耳にひっかける革紐のついた、キャンバスの長いかいば袋であった。ビリーはそれに三分の一ぐらいフスマをつめこみ、それから二《ふた》握りばかり乾燥したホップを加えた。その乾燥剤の上に、少量の石炭酸とテレピン油を注ぎかけた。
「あんたが、やかんいっぱいの熱湯を取りに家までかけていってる間、おいらはこいつをかきまぜておるからな」とビリーは言った。
ジョーディーが、煮えたったやかんを持ってもどってくると、ビリーは革紐をギャビランの頭にかけて、尾錠《びじょう》で止め、袋を鼻のまわりにきちんと取りつけた。それから、袋のわきの小さな孔《あな》から、やかんの湯を袋の中の混合物の上に注ぎかけた。もうもうとした強い蒸気が立ち上がると、小馬はハッと立ちのいたが、それから、スーッとするような煙が鼻の孔から肺臓へと浸入して行き、ツンとする蒸気のために、鼻の中の通路がだんだん開いてきた。小馬ははげしく呼吸をはじめた。四本の脚は悪寒《おかん》のためにふるえ、目はピリピリする煙にたいして閉じた。ビリーはさらに湯をつぎたし、蒸気を十五分間も立たせた。やがて、彼はやかんを下に置き、袋をギャビランの鼻からはずした。小馬は元気をとりもどしたように見え、呼吸がらくになり、目は今までより大きく見開かれた。
「あれでどんなに気分がよくなるかわかったろ」とビリーは言った。「さあ、もう一度、毛布でくるんでやるとするかな。たぶんやっこさんは朝までにほとんどなおってるだろうよ」
「ぼく、今晩、この子といっしょにいるよ」とジョーディーは言い出した。
「いいや、そんなことしてはいかんな。今晩はおいらが毛布をここへ持ってきて、乾草《ほしぐさ》の中に寝るから、坊やはあしたここにいて、必要になったら、吸入をさせてくだせえ」
二人が夕飯のため母屋に出かけたとき、夕闇がせまっていた。ジョーディーは、だれかほかの者がニワトリに餌《え》をやったり、薪《まき》の箱に薪をつめたりしたことにも気がつかなかった。彼は家のわきを通りすぎて暗いホウキスゲ帯のところまでのぼって行き、泉の水を飲んだ。清水はとても冷たかったので、口にピリッとしみ、体がブルッとふるえた。丘の上の空はまだ明るかった。一羽のタカが飛んでいるのが見えたが、とても高かったので、胸に夕陽を受け、火花のように輝いていた。二羽の黒鳥《ブラックバード》がタカを空の彼方へと追いかけていったが、敵を攻撃している二羽のほうもキラキラ光っていた。西の空には、またもや雨雲がやってくるところだった。
ジョーディーの父は家族一同が夕食をたべているとき一言もしゃべらなかったが、ビリー・バックが毛布を納屋に運んでいって、そこで寝てしまうと、カール・ティフリンは囲炉裏《いろり》にたくさん薪をくべて、いろんな話をしてくれた。裸体《はだか》で山野をかけまわり、馬のような尻尾と耳を持った気ちがい男の話だとか、鳥を捕るために木にとび上がったモロ・コーホーのウサギ・ネコの話だとかであった。父はまた、金の鉱脈を発見した有名なマックスウェル兄弟の話をむし返したが、兄弟はその跡をいかにも丹念に隠してしまったので、ほかの人にはふたたびそれをみつけることができなかったというのである。
ジョーディーは両手であごをかかえてすわり、口だけが神経質に動いていたが、父親は息子があまり注意深く耳をすましていないのにだんだん気がついてきた。
「おもしろくないのかね?」と父はたずねた。
ジョーディーはていねいに笑って、「いいえ、おもしろいです」と口先だけで答えた。そこで、父は腹が立ったし、気持ちも傷ついたので、もうそれ以上は話をしなかった。しばらくすると、ジョーディーはカンテラを手にして、納屋に降りていった。ビリー・バックは乾草の中に眠っていたし、小馬のほうは、呼吸が肺臓で多少ゼイゼイするほかはだいぶよくなったみたいだった。ジョーディーはしばらくそこにとどまり、ザラザラした赤い毛皮を指でなでていたが、それからカンテラを持って母屋に引き上げた。ベッドにもぐると、母が部屋にはいってきた。
「掛けるもの十分にあるの? 寒くなってきたからね」
「うん、大丈夫」
「ところで、今晩はよくお休みなさいね」彼女は出て行くのをためらっているごとく、おぼつかなげに立っていた。「小馬はもう大丈夫よ」
ジョーディーは疲れていた。彼はすぐに寝ついて、夜明けまで目をさまさなかった。三角鐘《トライアングル》が鳴り、ビリー・バックは、ジョーディーが家から出る前に納屋からもどってきた。
「あの子はどうなの?」と少年はきいた。
ビリーはいつも朝食をがつがつたべた。「だいぶいいね。おいら、けさ、あのかたまりを開くつもりでいるだ。そうすりゃ、すっかりよくなるべえよ」
朝食のあと、ビリーは針のように先のとがった最上のナイフを取り出した。彼はそのピカピカした刃を小さな砥石《といし》で長いことといだ。その切っ先と刃の切れ味を自分の親指のタコのできた腹でなんぺんもためし、さいごに上唇にあててためしてみた。
納屋に行く途中、ジョーディーは若草が伸びてきたこと、切り株が日《ひ》いちにちとくずれて、やたらと緑色の新芽を吹き出してきたことに気がついた。それは寒い陽ざしの輝く朝だった。
小馬を見た瞬間、少年は容体が悪化したことを知った。目は閉じられ、乾いた目やにで封印されていた。頭は鼻がワラの床にほとんどとどくほど低くたれさがっていた。息をするごとに小さな呻《うな》り声がともなったが、それも奥のほうから出てくる、じっとこらえた呻り声であった。
ビリーは力のぬけた小馬の頭を持ち上げ、ナイフの先をすばやく下あごに突きさした。ジョーディーは黄色い膿《うみ》が流れ出るのを見た。ビリーが傷口を弱い石炭酸液できれいに拭きとっている間、少年は小馬の頭をささえていた。
「さあ、これでやっこさんも気分がよくなるべえよ」とビリーは少年に言った。「あの黄色い毒のためにぐあいが悪かったんだからな」
ジョーディーはその言葉を信じられないような顔つきで、ビリー・バックを見つめた。「あの子はとても悪いよ」
ビリーはなんと言って答えたらよいのかわからず、長い間だまっていた。彼は気軽に、いや、大丈夫だと言ってのけようとしたが、やっと思いとどまった。「うん、だいぷ悪いだな」と、やがて彼は口を切った。「おいらはもっとひどくなったのがなおるのを見たこともあるだよ。もし肺炎にさえならなけりゃ、なんとか切りぬけさせられべえよ。あんたはやっこさんのそばについててくだせえ。もし悪くなったら、おいらを呼びにくればいいからな」
ビリーが去ってから長いこと、ジョーディーは小馬のそばに立って、耳のうしろのあたりをさすってやっていた。小馬はそうされても、元気だったときのように頭をピンピンはねたりしなかった。呼吸にともなう呻り声はだんだんうつろになってきた。
ダブルトリー・マットが大きな尻尾をこれ見よがしに振りながら納屋の中をのぞいた。ジョーディーはこの犬の元気さにあんまり腹が立ったので、土間にころがっていた固い黒土のかたまりをわざわざ拾って、それを投げつけた。ダブルトリー・マットはキャンキャン叫びながら逃げ出して行き、痛めた足をなめていた。
午前の半ばごろ、ビリー・バックは納屋にもどってきて、もう一度、吸入袋をつくった。少年はこんども前と同じように小馬が元気をとりもどすかどうかとじっと眺めていた。呼吸はすこしらくになったが、頭はもち上げなかった。
土曜日は長い一日だった。午後おそくなって、ジョーディーは母屋に出かけ、寝具を運んでくると、乾草《ほしぐさ》の中に寝場所をこしらえた。彼はそのための許可を願い出なかった。母親が自分を見るようすから判断して、今ならほとんどどんなことをしても許してくれるだろうと思ったからである。その晩、彼はカンテラに火をつけたまま、仕切り部屋の針金につるしておいた。すこしずつ間をおいて小馬の脚をマッサージするように、とビリーに言われていたからだ。
九時ごろ、風が急に吹き出して、納屋のまわりでピューピューうなった。小馬のことが心配だったが、ジョーディーはだんだん眠くなり、毛布の中にもぐって寝てしまった。しかし小馬の力ない呻り声が夢の中まではいりこんできた。やがて、眠りの中でものすごい物音が聞こえ、それがいつまでもつづいたので、とうとう彼は目をさました。風がはげしく納屋を吹きぬけていた。彼ははね起きると、仕切り部屋の前の通路のほうを見やった。納屋の戸は開いていて、小馬の姿は見えなかった。
彼はカンテラをつかむと、外の強風の中にとび出した。ギャビランが頭をさげ、弱々しく足を引きずりながら闇の中に消えてゆくのが見えたが、その脚はゆっくりと機械的に動いているにすぎなかった。ジョーディーが走りよって前髪をつかみ、うしろに引きもどすと、小馬はなんの抵抗もせず、そのまま引っぱられて自分の部屋にもどった。呻り声は高まり、はげしいヒーヒーという音が鼻から吐き出された。ジョーディーはもはや眠れなくなった。小馬の吐《は》くヒーヒーという息がだんだん高く、だんだん鋭くなってきた。
明け方、ビリー・バックがはいってきたとき、少年はうれしかった。ビリーはしばらくの間、小馬をじっと見つめていたが、まるでこれまで彼を見たことがないみたいなようすだった。彼は小馬の耳や横腹にさわってみた。
「ジョーディーさん、おいらはあんたが見たくないようなことをしなきゃなるまいと思うだ。あんたはちょっくら母屋のほうに行っててくだせえ」
ジョーディーは彼の前腕をはげしい勢いでつかんだ。「まさかあの子を射ち殺すんじゃないだろうね?」
ビリーは少年の手を軽くたたいた。「いいや。やっこさんに呼吸ができるよう、気管にちっちゃな孔《あな》をあけるだけなんでさ。鼻がすっかりつまっとるんでね。よくなったら、やっこさんがそこから息ができるように、その孔に小さな真鍮《しんちゅう》のボタンをはめてやるべえよ」
ジョーディーとしては、たとえ逃げ出したいと思ったにしても、そうすることができなかったであろう。赤い皮が切られるのを見るのはおそろしかったが、しかし、それが切られるのがわかっていて、それを見ないのは、もっとはるかにおそるベきことであった。「ぼくはここにいるよ」と彼はにがにがしく言った。「おまえ、どうしてもそうしなきゃならないの?」
「うん。どうしてもね。もしあんたがここにおるんだったら、やっこさんの頭をおさえててくだせえ……といっても、気分が悪くなんなければだがね」
りっぱなナイフがふたたび取り出され、またもや初めのときと同じように念入りにとがれた。ジョーディーが小馬の頭をもち上げ、喉《のど》をピンと張ってささえていると、ビリーは手さぐりで適当な場所をあちこちとさがした。ジョーディーは一度、キラキラ光るナイフの先が喉の中に消えて行くときすすり泣いた。小馬は弱々しくとび退《の》いたが、それからはげしく身をふるわしながら、じっと立っていた。血がドクドクと流れ出てきて、ナイフをつたい、ビリーの手を横切って、彼のシャツの袖の中に流れこんだ。狂いのない四角な手が肉の中にまるい孔を切り取り、その孔から息がパッと吹き出し、こまかな血しぶきをまき散らした。酸素がドッとはいりこむと、小馬はとつぜん力をとりもどした。彼はうしろ足で蹴とばし、立ち上がろうとした。しかし、ジョーディーが頭を下におさえつけ、一方、ビリーが新しい傷口を石炭酸でぬぐった。見事な外科手術だった。血の流れは止まり、空気が小さなブクブクという音を立てて規則正しく孔から出たりはいったりするようになった。
夜の風で運ばれてきた雨がポツリポツリと納屋の屋根に落ちはじめた。すると、朝食を知らせる三角鐘《トライアングル》が鳴った。
「おいらはここで待ってるから、坊や先に行ってたべておくんなせえ」とビリーが言った。「この孔がつまるといけねえから、どっちかが見ていなけりゃならんのでな」
ジョーディーはゆっくり納屋から出て行った。彼はあまりにもがっくりしていたので、夜中に納屋の戸が風で開き、小馬が外に出て行ったことをビリーに話す元気もなかった。彼はしめった灰色の朝の中に出て行き、母屋《おもや》までピシャピシャ水をはねかしながら歩いた。水たまりの中をわざわざ選んで歩くのが妙に楽しく思われたのだ。母は食べものの世話をしてくれたし、乾いた服も着せてくれたが、なにひとつ彼にきいたりはしなかった。彼が質問に答えられない気持ちでいることを知っているみたいだった。しかし、彼が納屋にもどろうとしたとき、鍋《なべ》いっぱいに湯気の立っているひきわりトウモロコシを持ってきてくれた。
「これをあの子におやり」
だが、ジョーディーはその鍋を受けとらなかった。「あの子はなんにもたべないよ」彼はそう言って、家からかけ出して行った。納屋にもどると、ビリーは棒の先に綿の玉を取りつける方法を教えてくれた。呼吸をする孔《あな》に粘液がつまったとき、それで掃除するのであった。
ジョーディーの父が納屋にはいってきて、二人といっしょに仕切り部屋の前に立った。やがて父は少年のほうに向きなおった。
「わしといっしょに来たほうがよくないかい? わしは馬車で丘を越えていくんだぜ」
ジョーディーは首を横に振った。
「おまえはこんなところから出て、いっしょに来たほうがいいぜ」と父親は言いはった。
ビリーは怒った顔で父のほうに振り向いた。「この子はほっといてください。あれはこの子の小馬なんですぞ」
カール・ティフリンはそれ以上何も言わないで立ち去った。彼の気持ちはひどく傷つけられたのである。
午前中ずっと、ジョーディーは傷口を開いたままにし、空気が自由に出たりはいったりできるように面倒を見てやった。正午ごろになると、小馬はものうげに横になり、鼻面を長く伸ばした。
ビリーがもどって来た。「もし坊やが今晩こいつといっしょにここに泊まるんだったら、ちょっと昼寝をしておいたはうがよかんべえよ」と彼は言った。ジョーディーはポカンとしたようすで納屋から出て行った。空は晴れて、くっきりとした淡青色にすんでいた。どこでもかしこでも、小鳥たちは湿った地面の表面に出てきた虫けらをせっせとついばんでいた。
ジョーディーはホウキスゲ帯のところまで歩いて行き、コケむす水桶《みずおけ》のはしに腰をおろした。彼は母屋や古い使用人小屋や黒ずんだイトスギの木を見おろした。そこは長い間なじんできた場所だったのに、今日は妙に変わったように見えた。もはやそれ自身ではなくて、いろいろ起こりつつある出来事を包む一つの枠《わく》にすぎないのであった。今や冷たい風が東のほうから吹きはじめていたが、それはこれからしばらくの間、雨が降らないことを意味していた。足元を見ると、新しい雑草が地面いっぱいに腕をひろげているのだった。泉のまわりの泥には、ウズラの足跡がたくさんついていた。
ダブルトリー・マットが野菜畑の中を気まり悪そうなようすで横向きにのぼってきた。ジョーディーはさっき土塊《つちくれ》を投げつけたことを思い出し、犬の首に腕をまわして、だだっぴろくて黒い鼻のあたまに接吻をしてやった。ダブルトリー・マットは何かおごそかなことが起こっているのを知っているかのように、じっとすわっていた。彼の太い尻尾は地面をバタバタと真剣にたたいていた。ジョーディーはマットの首筋から一匹のまるまるふくらんだダニをつまみとり、親指の爪の間でパチンとつぶして殺した。きたならしいものだったので、彼は両手を冷たい泉の水で洗い清めた。
風がたえまなくヒューヒューうなっているほかは、農場ぜんたいが静まりかえっていた。ジョーディーは、自分が昼食にもどらなくても、きっと母は気にしないだろうと思った。しばらくして、彼は納屋にもどっていった。マットは自分の小さな小屋にもぐりこみ、長い間、低くあわれっぽく鼻を鳴らしていた。
ビリー・ベックは仕切り部屋から立ち上がり、綿棒をわきに置いた。小馬はまだ横に寝たままで、喉の傷口から息がヒューヒュー出たりはいったりしていた。毛がカサカサに乾いて生気を失っているさまを見て、ついに少年も小馬に希望のないことをさとった。彼はこれまで、犬や雌牛の毛が生気を失ったのを見たことがあるが、それは絶望を意味するたしかなしるしであった。彼は箱の上にどっかりと腰をおろし、仕切り部屋の横棒を下にさげた。長い間、彼はピクピク動く傷口に視線を注いでいたが、そのうち、うとうととしてしまい、昼さがりの時は刻々とすぎていった。
夕暮のちょっと前、母がシチューを入れた深い皿を持ってきて、それを息子のためにそこに置いて、また立ち去った。ジョーディーはそれを少したべ、暗くなると、カンテラをつけて、小馬の頭のそばに置いた。傷口を監視し、そこがふさがらないように手当てができるようにである。それから、少年は寒い夜気に目をさまされるまでふたたび寝こんでしまった。
風は猛烈に吹きすさび、北からの冷気をはこんできた。ジョーディーは乾草《ほしぐさ》の中のベッドから毛布を一枚持ってきて、その中に体をくるんだ。ギャビランの息|遣《づか》いがやがて静かになった。喉の孔はおだやかに動いていた。何羽かのフクロウが乾草棚の中に飛び込んできて、キーキー叫びながら、ハツカネズミを追いまわした。少年は両手を頭の上に置いて眠りこんだ。その眠りの間にも、風がさらにつのってきたことに気がついた。納屋のあちこちをバタバタいわせている音が耳についたのである。
彼が目をさましたときには、もう明るくなっていた。納屋の戸はパッと開いたままだった。小馬は姿を消していた。彼はパッとはね起きると、朝の陽ざしの中にとび出していった。
小馬の足跡はいかにもはっきりとしていた。若草の上におりた霜のような朝露の間を引きずっていて、ひづめのつけた細い線につながれた疲れた足跡であった。その足跡は山の背までの中間ぐらいにあるホウキスゲ帯のほうに向かっていた。ジョーディーはかけ足に移ってそのあとをつけた。陽ざしが、ここかしこで地面から突き出ている尖《とが》った白い石英《せきえい》にあたってキラキラ光っていた。何も生えていない山道について進んで行くと、一つの影が彼の前をよぎった。見上げると、空高く黒々としたハゲタカの輪ができていて、ゆっくりと旋回するその輪はだんだんと下に降りてくるではないか。いかめしい鳥の群れはまもなく屋根の向こうに姿を消した。そこで、ジョーディーは恐慌《きょうこう》と憤りに追い立てられるように足を早めた。やがて山道はホウキスゲの中にはいり、背の高いホウキスゲのやぶの中を曲がりくねってつづいた。
山の背の頂上まで着くと、ジョーディーは息が切れ、立ち止まってハアハア息をついた。血が耳にのぼってズキズキうずいた。そのとき、彼は自分のさがしもとめていたものを見つけたのだ。目の下の、ホウキスゲに囲まれた狭い空地の一つに赤い小馬が横たわっていた。遠くからでも、彼の脚がゆっくりと、けいれんしながら動いているのが見えた。そして、彼のまわりには、ハゲタカが円をえがいて集まり、かならず来ると思っている死の瞬間を待ちかまえていた。
ジョーディーはとびはねるようにして前方に乗り出すと、丘を夢中でかけ降りた。ぬれた地面が彼の足音を消し、ホウキスゲが彼の姿を隠した。彼がそこに着いたときには、すべてが終わっていた。最初のハゲタカが小馬の頭にとまり、ちょうどそのくちばしをもち上げたところだったが、目の黒ずんだ液体がその先端からポタポタ滴《したた》っていた。少年はまるでネコのようにその円陣のまっただ中にとびこんでいった。黒い鳥の仲間は雲のように舞い上がったが、小馬の頭にとまっていた大きなやつだけは一歩おそかった。そいつが飛び上がろうとしてピョンピョン進んだとき、ジョーディーはその翼の先端をとっつかまえ、グイッと地上に引きずりおろした。その鳥はほとんど少年と同じくらい大きかった。つかまえられていないほうの翼がまるで棍棒《こんぼう》でも打ちおろすように少年の顔面をグシャリとたたいたが、彼はそれでもひるまずしがみついていた。大きな爪が彼の片脚をしめつけ、翼の湾曲《わんきょく》部が彼の頭を両側からバタバタたたいた。ジョーディーはあいているほうの手を動かして盲めっぽうにさぐっていたが、ついにもがいている鳥の首筋をさがしあてた。赤い目が彼の顔をのぞきこんでいたが、それは落ちつきはらった、恐れを知らぬ、獰猛《どうもう》なまなこだった。毛の禿げた頭を左右に振っていたが、やがてくちばしが開くと、一筋の腐った液体がパッと吐き出された。少年は片膝をもち上げると、大きな鳥の上にドッと倒れかかった。彼は片方の手で首根っこを地面に押しつけ、もう一方の手で尖《とが》った白い石英をつかんだ。最初の一撃でくちばしが斜めにくだけ、まっ黒い血がなめし皮のような口のゆがんだ両端からほとばしった。彼はもう一度たたきつけたが、こんどは的《まと》がはずれた。恐れを知らぬ赤い目がなおも少年をにらみつけていたが、いかにも非情な、不屈な、超然たる目つきであった。少年は再三、再四なぐりつけたが、とうとうハゲタカは息の根が止まり、その頭は赤い果肉《かにく》みたいになった。彼がなおも死んだ鳥をなぐりつづけていると、そこヘビリー・バックが現われて彼を引きはなし、全身のふるえをしずめようとしっかり彼を抱きしめた。
カール・ティフリンは赤いバンダナで少年の顔から血を拭いとった。今やジョーディーはぐったりとして、平静にもどっていた。父親は足の爪先でハゲタカを動かした。
「なあ、ジョーディー、このハゲタカが小馬を殺したんじゃないよ。おまえそれを知らんのかい?」
「知ってますよ」とジョーディーは力なく答えた。
怒ったのは、ビリー・バックだった。彼はジョーディーを両腕に抱き上げると、家路に向かいかけた。しかし、サッとカール・ティフリンのほうを振り向いた。
「もちろん、坊ちゃんは知ってますよ」とビリーははげしい口調で言った。「ちきしょうめ! その言葉をこの子がどう感じるかわからんのかい?」
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二 大山脈
真夏の午後、ジリジリする暑さの中で、少年ジョーディーは、何かすることがないかと農場のあちこちをものうげに眺めていた。彼はさっき、納屋に行ってきたのだが、そこで軒《のき》下のツバメの巣に石ころを投げつけ、とうとう小さな泥の家は一つ残らずこわれ、その内張《うちば》りになっていたワラや泥だらけの羽根が落ちてしまったのである。
それから、母屋ではネズミ捕りに、カビの生えたチーズの餌を仕掛けておいた。あのでか物の犬ダブルトリー・マットがそいつに引っかかって鼻面《はなづら》をパチンとやられるだろうと思ったからだ。といっても、ジョーディーは残忍性の衝動《しょうどう》にかられたというわけではなく、長い暑い午後にうんざりしていたからだった。
はたしてダブルトリー・マットはあのバカげた鼻をワナに突っこみ、パチンと一発くらい、キャンキャン悲鳴を上げ、鼻の孔のあたりを血だらけにし、びっこを引きながら引きあげていった。マットは体のどこをけがしても、きまってびっこを引くのであった。それはやっこさんが身につけた一つのくせであった。マットは若いころ一度、コヨーテのワナにかかったのだが、それから以後は、びっこを引くのがくせになり、小言をいわれてもそうすることがあった。
マットがキャンキャン泣くと、ジョーディーの母親は家の中から声をかけた……「ジョーディー! 犬をいじめるのはやめて、何かすることをおさがしなさい」
そのときジョーディーには意地悪の気分が起きていたので、マットに石を投げつけた。そのあと、ポーチからパチンコを持ち出し、鳥でも射ち殺してやろうとホウキスゲ帯《たい》のほうにのぼっていった。それは店で買った二本のゴム紐《ひも》のついた、りっぱなパチンコであったが、ジョーディーはこれまでたびたび鳥を射ったのに、一度も命中させたことがなかった。彼は、はだしの爪先で土を蹴りながら野菜畑をテクテクのぼって行った。その途中、彼は申し分のないパチンコ石をみつけた。まるくて、ちょっぴり平たくて、空中を遠くまで飛んで行くだけの重さがあった。それを飛び道具の革袋に仕込むと、少年はホウキスゲ帯に向かって行進をつづけた。彼は目をほそめ、口元をさかんに動かした。その午後、初めて彼はやる気を起こしたからである。ホウキスゲの陰に、何羽かの小鳥が枯葉の間をかきまわし、落ち着かなげに数フィート飛んではまたかきまわしたりしながら、餌をあさっていた。ジョーディーはパチンコのゴムをグーッとうしろに引き、用心深く前進した。一羽の小さなツグミが立ち止まると、彼のほうを眺め、飛び立とうと身をかがめた。ジョーディーは足を一歩一歩ゆっくりと運びながら、だんだん近くににじりよった。二十フィートぐらいのところまで接近すると、彼は注意深くパチンコをもち上げてねらいをつけた。石がピューッと飛んだ。ツグミはパッと飛び上がって、まともにその弾道の中にとびこんだ。小鳥は頭をくだかれて下に落ちた。ジョーディーはすぐにかけよって、それをひろい上げた。
「どうだ、とっつかまえたろ」と少年は言った。小鳥は死ぬと、生きていたときよりずっと小さく見えた。ジョーディーは腹の底にちょっと意地悪い痛みを感じた。そこで、小刀を取り出すと、小鳥の頭をチョン切った。それから、体を解剖し、翼をもぎ取り、さいごには小刻みにした小鳥をそっくりやぶの中に投げこんだ。彼は小鳥のこと、その命のことなど意に介しなかったが、しかし自分がそれを殺すところを見たら、大人たちがなんと言うか、わかっていた。彼らが下すであろうさばきの言葉を考えて、彼は恥ずかしくなった。彼はできるだけ早くすべてを忘れ、このことはだれにも言うまいと決心した。
この季節には、丘陵地帯は乾燥し、野草《やそう》は金色になっていたが、泉の樋《とい》が水桶《みずおけ》をみたし、桶から水があふれ出るあたりでは、細い緑の草が一筋の帯のようにのび、そこだけは深く、甘く、しっとりとうるおっていた。ジョーディーはコケむす桶から水を飲み、冷たい水で両手についた小鳥の血を洗いおとした。それから少年は草原に仰向《あおむ》けに寝っころがると、ゆでだんごそっくりの夏の雲を眺めた。片目をつぶって遠近法をくずしてしまうと、その雲を手の届くところまで引きおろしたので、彼は指を出してそれをなでてみることができた。また、彼はゆるやかな風がその雲を空の彼方へと押しやるのを助けようとしたが、どうも雲足が速くて彼の手に負えないように思われた。一つの、ぼってりとした雲をずうっと山のへりまで押しやり、グッと押しつけると、山の向こうに見えなくなった。ジョーディーは、その雲がそのとき何を見たであろうか、と思った。彼は大きな山脈をもっとよく見ようと起き上がった。山々はうしろへうしろへと積み重なって行くにしたがって、だんだんと黒ずみ、だんだんと野性的になり、やがて最後には峨々《がが》たる一つの峰となって西の空に高くそびえ立っていた。妙な、秘密の山々。彼はその山々についていかに知るところが少ないかと思った。
「その向こう側には何があるの?」と、彼はかつて父にきいたことがある。
「もっと山があるんだろうな、たぶん。なぜだい?」
「その山の向こうには?」
「もっと山があるさ。なぜだい?」
「山が次から次へとどこまでもあるの?」
「いや、そうじゃないよ。最後に  は海に出るんだね」
「でも、山の中には何があるの?」
「ただ崖《がけ》とやぶと岩と乾燥だけさ」
「お父ちゃん、そこへ行ったこと  ある?」
「ないよ」
「だれか行ったことある?」
「たぶん、いくらかの人間はね。崖やなんかあって危険なんだよ。なんでも、モンテレイ郡〔カリフォルニア州の中部海岸よりの郡で、サリーナスがその郡庁所在地であり、海岸に面してモンテレイの町がある〕の山地には、合衆国のどの地方よりもよけいに人間の踏みこまない土地があるってこと、なんかの本で読んだことがあるね」彼の父はこうしたことを誇りに思っているらしかった。
「それで、最後に海があるの?」
「うん、最後には海がね」
「でもさ」と少年はなかなか満足しなかった、「そこまでの間には? だれも知らないの?」
「そりゃあ、わずかな人は知ってるだろうさ。しかしだね、そんなとこには、手に入れるようなもんは、なんにもないんだ。水だってろくすっぽないし。ただ岩だとか崖だとかグリースウッド〔アメリカ西部に多いアカザと似た灌木〕とかだけさ。なぜそんなこときくのかい?」
「行ってみたら、おもしろいだろうね」
「何のためにだい? そこにはなんにもないぜ」
ジョーディーは、そこに何かが、知られていないだけに何かすばらしいものが、何か秘密で神秘的なものが、あるにちがいないと思った。たしかにそのとおりだ、と彼は内心で感じることができた。
「お母ちゃん、あの大きな山に何があるか知っている?」と彼は母にたずねた。
母は彼を見やり、それからおそろしい感じの山脈のほうに視線を移し、「たぶん、熊《くま》しかいないでしょ」と答えた。
「どんな熊?」
「そうね、何が見えるか見てやろうと山を越えていった熊よ」
ジョーディーは作男のビリー・バックに、古い町があの山の中に隠されているようなことはないか、とたずねてみたが、ビリーはジョーディーの父親と同じ意見であった。
「そんなこと、ありそうもねえぞな」とビリーは言った。「岩を食うことのできる人種がそこに住んでいるんでなけりゃ、たべるもんなんかなんにもあるめえ」
以上が、これまでジョーディーの手に入れた山の情報のすべてだったが、そのため彼にはその山脈が親しいもの、そして恐ろしいものに思われるのであった。彼はしばしば、何マイルとなく峰また峰がつづき、やがてその彼方に海があるということを考えてみた。その山々が朝日を受けてピンク色に見えるとき、自分を招いているのだと思い、そして夕暮れどき、太陽が山の向こうに没し、山々が紫色がかった絶望の色にそまるとき、ジョーディーはその山がこわくなった。そうなると、山々はいかにも非情で超然として見え、その動じることのない冷たさが、ある種の脅威《きょうい》に感じられるのであった。
少年はこんど頭を東方の山、ギャビラン山脈に向けた。それは山ひだに丘の牧畜農場を、そして山頂に松の林を持った明るい山々だった。そこには人々が住んでおり、その斜面ではメキシコ人にたいして戦いが行なわれたことがある。彼はもう一度、ちょっとの間、西方の大きな山脈を振りかえってみたが、それが東方の山々とあまりにもちがうので、ゾッと身ぶるいをした。眼下に見えるわが家は山麓の窪地《くぼち》にあって、陽《ひ》のあたる安全な場所であった。母屋は白い光で輝き、納屋は茶色をして暖かそうだった。すこし離れた丘にいる赤い雌牛たちは、草をたべながらゆっくり北のほうヘと進んでいた。使用人小屋のわきにそびえ立っているイトスギでさえも、いつもと変わらず、安全に見えた。ニワトリはすばやいワルツの足どりで農場の庭の地面をあちこち突っつきまわっていた。
それから、一つの動く人影がジョーディーの目を捕《とら》えた。一人の男がサリーナスから通じている道をゆっくり歩いて、今や山の端を越え、わが家のほうに向かっているのだった。ジョーディーも立ち上がると、同じようにわが家に向かって下りはじめた。もしだれかがやってくるのだったら、自分もそこにいて、その人を見たいと思ったからだ。少年が家に着いたころ、歩いている人間はまだ半分ぐらいしか道を下っておらず、やせた男だったが、肩のあたりはたいへんすらっとしていた。かかとが地面に触れるようすがいかにもギクシャクしているところからだけでも、彼が老人であるとジョーディーは思った。彼がだんだん近づいてきたとき、彼がブルー・ジーンのズボンをはき、同じ生地の上着をつけていることがわかった。足にはどた靴をはき、古い、縁《ふち》の広いカウボーイ帽をかぶっていた。片方の肩には、ごろごろいっぱい物のつまっているナンキン袋をかついでいた。
まもなく、老人は顔がはっきり見えるほど近くにトボトボ歩みよった。彼の顔は乾燥牛肉のように浅黒かった。浅黒い膚にたくわえられた青白い口ひげが口の上にかぶさっており、首筋のあたりにはみ出している髪の毛も白かった。顔面の皮膚は頭蓋骨《ずがいこつ》に向かって収縮し、肉よりも骨の輪郭をはっきりと示しており、そのため鼻とあごが尖《とが》ってもろそうに見えた。目は大きくて深く、黒ずんでおり、眼蓋《まぶた》がその上にキリッとおおいかぶさっていた。虹彩《こうさい》と瞳孔はひとつになって区別がつかず、まっ黒だったが、眼球は茶色をしていた。顔には全然しわが刻まれていなかった。
この老人は、シャツを着ないすべての男と同じように、喉元まで真鍮《しんちゅう》のボタンがついた青いデニムの上着を着ていた。両方の袖からは、桃《もも》の枝のように節くれ立ってゴツゴツした、いかにも頑丈で骨っぽい手首と手が出ていた。手の爪は平べったく、角ばって、ピカピカしていた。
老人は木戸のところに近づき、ジョーディーと対面すると、かついだ袋を下におろした。唇がかすかにふるえ、その間からやわらかい、淡々とした声が出てきた。
「あんたここに住んでるのかね?」
ジョーディーは面くらった。彼はふり向いて母屋のほうを見やり、それからさらに向きを変えて、父とビリー・バックがいる納屋のほうに目を移した。どちらの方向からも助けがやってきそうもないのを見てとると、少年は「うん」と答えた。
「わしはもどって来ただよ」と老人は言った。「わしの名前はジターノで、ここにもどって来ただ」
ジョーディーはこう言う老人を、とても自分ひとりでは応対できないと思った。彼はだしぬけに向きを変えると、助けをもとめて家の中にかけこみ、網戸《あみど》がうしろ手にガタンとしまった。母親は台所で、粉ふるいの、つまった孔《あな》をヘアピンで突っついていたが、あんまり一心になっていたのでわれ知らずに下唇をかみしめていた。
「おじいさんだよ」とジョーディーは興奮して叫んだ。「パイサーノ〔スペイン語で「百姓」くらいの意味〕のおじいさんで、もどって来たって言ってるよ」
母はふるいを下におろし、ヘアピンを流し板のうしろに突きさした。「こんどはどうしたって言うのさ?」と彼女は気ながにきいた。
「おじいさんが外に来てるんだ。出て見てよ」
「で、どんな用事なのかしら?」彼女はエプロンの紐《ひも》をほどき、指で髪の毛をなでつけた。
「ぼくにはわかんないね。あの人歩いて来たんだよ」
母は服のしわをのばすと、出て行ったが、ジョーディーもそのあとについて出た。ジターノはさっきのまま突っ立っていて、一歩も動いていなかった。
「ご用は何でしょうか?」とティフリン夫人はたずねた。ジターノは古い黒い帽子をぬぐと、それを自分の前に両手でささえた。それから、前と同じことをくりかえした……「わしはジターノで、もどってきましただ」
「もどって? どこへですの?」
ジターノのすらっとした全身が心持ち前に傾いた。彼の右手はまるく囲んだ丘と、斜面の畑と、山々を描き、ふたたび帽子のところにもどった。「農場《ランチョー》にもどったんですわい。わしはここで生まれ、わしのおやじもおんなじですだ」
「ここで?」と母はきいた。「ここはそんなに古い場所じゃありませんが」
「いいや、あっちですわ」彼は西方の峰を指さしながら言った。「あの向こう側の、もうなくなっちまった家ですだ」
それでやっと彼女にもわかった。「ああ、つまり、もう流れてなくなってしまったあの古い粘土《ねんど》造りの家なのね?」
「はい、|奥さん《セニョーラ》。あの農場が解散したとき、粘土の家にもう石灰を塗らなくなったんで、雨が洗い流しちまったんですわい」
ジョーディーの母はしばらく黙りこんで、妙な郷愁にひたっていたが、あわててそんな気分を追いはらった。「それで、ジターノさん、今この家にどんな用事がありますの?」
「わしは死ぬまでここにとどまっておりますだ」と老人は静かに言った。
「でも、この家ではよぶんな人など必要ありませんのよ」
「奥さん、わしにはもう力仕事はできねえだ。雌牛の乳をしぼったり、ニワトリにえさをやったり、ちっちゃな薪を切ったりするくらいで、それ以上はだめですだ。わしはここにとどまりますわい」彼は自分のかたわらの地面に置いた袋を指さした。「これがわしの荷物ですだ」
母親はジョーディーのほうに向きなおった。「あんた、納屋まで走って行って、お父ちゃんを呼んでいらっしゃい」
ジョーディーはかけ出して行き、やがてカール・ティフリンとビリー・バックをつれてもどってきた。老人は前と同じように立ってはいたが、こんどは体をらくにしていた。全身がだらんとゆるんで、無限の休息に移っていた。
「どうしたんだね? なんでジョーディーのやつ、あんなに興奮してるんだい?」とカール・ティフリンがたずねた。
ティフリン夫人は老人のほうを指さした。「この人がここにいたいと言ってますのよ。すこし仕事をしながらこの家にいたいんですって」
「だが、そうはいかんな。ここじゃ、もう人手はいらんから。見たところ、年もとりすぎてるしさ。してもらいたいことはみんなビリーがやってくれるよ」
二人はこれまで老人が目の前にいないみたいに、老人のことについて話し合っていたが、ふと、気がつくと、どちらもためらいがちにジターノのほうを見やり、しまったというような顔つきをした。
老人は咳《せき》ばらいをした。「わしは年をとって働けませんのだ。それで、生まれたとこにもどってきましただよ」
「おめえさんはここで生まれたんじゃねえぜ」とカールが皮肉っぽく言った。
「そりゃそうですわい。丘の向こうの粘土の家ですだ。あすこはあんたがここにくる前、ちゃんと一軒の農場《ランチョー》だったからな」
「すっかり洗い流されちまったあの泥の家で生まれたのかね?」
「さよう。わしもわしのおやじもね。それで、これからここの農場にずっといたいと思うだよ」
「おめえさんになんかいてもれえたくねえと言ってるじゃねえか」とカールは腹を立てて答えた。「わしは年寄りなどほしくねえだ。ここは大きな農場じゃねえ。だから、年寄りを置いて、食わせたり、医者の勘定を払ったりするだけの余裕なんかありゃしねえよ。おめえさんにだって、親類とか友だちとかはあるだろ。その人たちんとこへ行くんだな。赤の他人のとこへくるなあ、乞食するのとおんなじじゃねえか」
「だが、わしはここで生まれたんだよ」とジターノは頑固《がんこ》に言いはった。
カール・ティフリンもむごいまねはしたいと思わなかったが、そうせざるをえないという気持ちだった。「じゃあ、今晩はここでたべてもいいとするさ。古い使用人小屋の小さな部屋で寝るんだな。あしたの朝飯だけは出してやるが、そのあと、さっさと出てってもれえてえ。友だちんとこへでも行くんだな。他人さまに死水《しにみず》をとってもらおうなんて、押しがふてえぜ」
ジターノは黒い帽子をかぶり、ナンキン袋のほうに身をかがめた。「これがわしの荷物ですわい」
カールは向きを変えた。「さあ、行こう、ビリー、納屋の仕事を片づけちゃおうぜ。おい、ジョーディー、この人を小屋のちっちゃい部屋に案内してやるんだな」
父とビリーは納屋のほうへもどっていった。母は家の中にはいって行くとき、肩ごしに、「毛布はあとで持たしてやりますからね」と言った。
ジターノはもの問いたげにジョーディーを見やった。「ぼくが部屋に案内してやるよ」と少年は言った。
使用人小屋の小さな部屋には、トウモロコシの皮でつくったマットレスのついた簡易ベッドと、プリキのカンテラのはいったリンゴ箱と、背のついていない揺り椅子がそなえてあった。ジターノはナンキン袋を注意深く床の上におろすと、ベッドに腰をかけた。ジョーディーはすぐに出て行くのをためらって、部屋の中に恥ずかしそうに突っ立っていた。やがて、少年はこうたずねた……
「おじさんはあの大きな山から来たの?」
ジターノはゆっくりと頭を横に振った。「いいや、わしはサリーナス平野の南のほうで働いてたんだよ」
その日の午後に考えていたことがまだ少年の頭にこびりついていた。「おじさんはあの向こうの大きな山にはいってみたたことある?」
老人の黒ずんだ目はじっと一点を見つめ、その光は内側へ屈折して、ジターノの頭の中に生きていた昔の時代へと向かった。「一度だけね……ちっちゃなころ。わしはおやじといっしょに出かけたんだよ」
「ずうっと山の奥まで?」
「さよう」
「そこにはどんなものがあった?」とジョーディーは大きな声できいた。「人や家を見たの?」
「いいや」
「じゃあ、何があったの?」
ジターノの目は内面に向いたままだった。眉毛《まゆげ》の間には引きつったような小さなしわができた。
「ねえ、そこで何を見たの?」と少年はくりかえした。
「わからんね。おぼえちゃいないよ」
「ゾッとするような、乾ききったところだった?」
「おぼえちゃいないね」
ジョーディーは興奮のあまり、いつもの内気さを吹きとばした。「おじさんなんにもおぼえていないの?」
ジターノは何か言おうとして口を開き、頭の中で言葉をさがしている間、口は開いたままだった。「そこは静かだったと思うね……いいとこだったような気がするだ」
ジターノの目はその昔の時代に何かを見つけたようだった。目が急にやさしくなり、かすかな微笑が浮かんで、また消えていったからでみる。
「それからもう一度、山にもどったことないの?」とジョーディーはしつこくたずねた。
「ないね」
「行きたいと思わなかったの?」
しかし、ここでジターノの顔にはもうがまんできないといった表情が浮かんだ。「思わんね」と答えた口調には、その事についてはもう話したくないという意向を少年に伝えるようなひびきがあった。だが、少年は妙な魅力にしばられていて、ジターノのそばから離れたくなかった。彼の気恥ずかしさがもどってきた。
「おじさん、納屋に行って家畜を見たくない?」
ジターノは立ち上がると帽子をかぶり、いつでも少年のおともをするというばかりになった。
今やほとんど日が暮れかかっていた。二人が柵囲いの中の水槽《すいそう》のそばに立っていると、何頭かの馬が夕方の水を飲みに山腹からブラブラと囲いの中にはいってきた。ジターノはその大きな曲がった手をいちばん上の横木の上に置いていた。結局、五頭が降りてきて水を飲んだが、それがすむと、そのあたりにとどまって、泥をかんでみたり、柵のつやの出た横木にわき腹をこすりつけたりしていた。初めの馬たちが水を飲み終わってかなり時間がたったころ、一頭の老馬が丘の端をこえて姿をあらわし、骨の折れるような足どりで山腹を下ってきた。その馬は黄色っぽい長い歯を持ち、ひづめは〈すき〉のように平べったく尖《とが》っていて、肋骨《あばらぼね》と腰骨が皮膚の下に突き出ていた。馬は水槽のところまでヨチヨチ歩いてくると、そうぞうしい音を立てて水を吸いこむように飲んだ。
「あれはおいぼれのイースターだよ」とジョーディーは説明した。「お父ちゃんが手に入れた初めての馬なんだ。もう三十歳にもなってるんだよ」少年は何か返答をもとめるように老人の目を仰ぎ見た。
「もう役には立たんのだな」とジターノは言った。
ジョーディーの父とビリー・バックが納屋から出て、こちらに歩いてきた。「年をとりすぎて働けないんだ」とジターノはくりかえすように言った。「ただたべるだげで、もうじきくたばるんさ」
カール・ティフリンはあとの言葉を小耳にはさんだ。彼はジターノじいさんにたいする自分の冷酷な気持ちがいやでたまらなかったが、そう思うと、またもや意地悪い気持ちがあたまをもたげた。
「イースターを射ち殺さねえのは恥ずかしいみてえなもんさ」と父は言った。「ひと思いに殺してやりゃ、あんなに苦しんだり、リューマチになやまされたりせんですむだろうにな」父はこっそりジターノのほうを見やり、やっこさんがこのあてこすりに気がついたかどうかたしかめようとした。ところが、大きな骨ばった手はビクともせず、黒ずんだ目は老馬から離れもしなかった。「年をとったもんは、早く不幸から救い出してやったほうがいいんだ」とジョーディーの父は言葉をつづけた。「一発ズドンとでっかなやつをくらわせてやれば、たぶん脳天に一発ズシンとでっかな痛みをおぼえるだろうが、それでおしまい。体がこったり歯が痛んだりするよりゃあ、そのほうがましというもんさ」
ビリー・バックは口をはさんだ。「年寄りは一生涯働いたあと、ちょっぴり休息する権利を持っていますだ。たぶん、ただブラブラ歩いてもみてえでしょうしな」
カールはそのやせほそった馬をずっと見ていた。「あのイースターのやつがむかしどんなふうだったか、今じゃ想像もできめえよ」と彼は静かに言った。「首筋が長く、胸が厚く、すばらしい胴体をしていたんだな。やっこさんは横棒を五本ならべた木戸だって大またでとびこえることができたんだ。わしは十五のとき、やつに乗って平地のレースで優勝したんだぞ。もしそのつもりだったら、いつだってやっこさんを二百ドルで売ることもできたろうにさ。あいつがどんなにきれいな馬だったか、おめえにだってとても想像つくめえよ」そこまでほめてくると、彼は急に自分をおさえた。やさしい気持ちになることなど、とてもがまんがならなかったからだ。「だがしかし、今では射ち殺したほうがよさそうだな」と彼はしめくくった。
「いいや、休む権利を持ってますだよ」とビリー・バックは言いはった。
ジョーディーの父はちょっと冗談を言ってみたくなった。彼はジターノのほうに向きなおった。「もしだな、山腹にハム・エッグができるというのなら、おめえさんもそこに放牧してやるところだがな。しかし、うちの台所にはおめえさんを放牧するだけの余裕は、あいにくとねえんだよ」
父は母屋《おもや》のほうに引き上げながら、その事についてビリー・バックに笑いながら話した。「もしあの山腹にハム・エッグができるんだったら、わしらみんなにとってもありがてえこったがな」
ジョーディーには、父がジターノの中にどこか傷つける場所はないかとさぐっていることがわかっていた。彼自身もこれまでよくそのようにさぐりの針を突きさされたことがあったからだ。父は少年のどこを突けばこたえるか、すべての急所を心得ていたのだ。
「お父ちゃんは冗談《じょうだん》言ってるだけなんだよ」とジョーディーは老人をなぐさめた。「イースターを射ち殺すなんてこと、本気で言ったんじゃないさ。お父ちゃんはイースターが好きなんだもん。あれはお父ちゃんが初めて手に入れた馬なんだよ」
二人がそこに立っている間に、夕日が高い山のうしろに沈み、農場は静まりかえった。ジターノは夜のほうがくつろぐらしかった。彼は唇で妙なするどい音を立て、片方の手を柵の上に伸ばした。老馬のイースターが体をこわばらせて老人のほうに近づいてくると、ジターノはたて髪の下のやせた首筋をなでてやった。
「おじさんその馬好きなの?」とジョーディーはやさしくきいた。
「そうだとも……でも、こいつは役に立つまいよ」
三角鐘《トライアングル》が農場から鳴りひびいてきた。「夕飯だよ」とジョーディーは叫んだ。「さあ、夕飯たべに行こう」
母屋のほうに歩いてのぼって行くとき、ジターノの体が若者のようにすらっと伸びているのにジョーディーはふたたび気がついた。彼が年寄りであることは、動きがギクシャクしていること、かかとを引きずることでしかわからなかった。
七面鳥が何羽か重く羽ばたいて、使用人小屋のわきに生えているイトスギの下のほうの枝に飛び上がった。毛のなめらかな、太った飼いネコがネズミをくわえて道を横切ったが、ネズミがあまり大きいので、その尻尾が地面に引きずっていた。山腹のウズラはまだ水をもとめるはっきりした叫び声を上げていた。
ジョーディーとジターノは裏口の段々のところまで来たが、ティフリン夫人は網戸ごしに二人のほうを見やった。
「ジョーディー、さっさとおはいり。ジターノさん、あなたもお夕飯《ゆうはん》にはいってちょうだい」
カールとビリー・バックは、長い油布をかけたテーブルについて、すでにたべはじめていた。ジョーディーは椅子を動かさずに体をすべらすようにしてそこにすわったが、ジターノのほうは帽子を持ったままそこに立っていた。やがてカールは目を上げ、「まあ、まあ、すわれよ。出かける前に、腹はいっぱいにしといたほうがよさそうだな」と言った。カールはつい気がゆるんで、老人をこのままここにいつかせるようになるのをおそれ、絶対にこのようなことになってはならぬといつも自分に言いきかせていた。
ジターノは帽子を床に置くと、遠慮深く腰をおろした。彼はたべ物のほうに手を伸ばそうとしなかったので、カールが老人のほうにそれをまわしてやらなければならなかった。「さあ、腹いっぱいたべるんだな」ジターノは肉を小さく刻んだり、マッシュ・ポテトの小さなかたまりを皿の上にならべたりして、いかにもゆっくりとたべた。
前後の事情を考える、カール・ティフリンの心配はなかなかおさまらなかった。「このへんにはおめえさんの親類はだれもおらんのかね?」と彼はたずねた。
「義理の弟がモンテレイにおりますだ。それに、いとこも何人かそこにいますだが」とジターノはいくぶん誇らしそうに答えた。
「うん、そんなら、おめえさんはそこへ行って住めるってわけだな」
「でも、わしはここで生まれたんですわい」とジターノはおだやかに責めるような口調で言った。
ジョーディーの母はタピオカ〔カサバという植物の根茎からとった澱粉〕のプディンを入れた大きな鉢を抱えて台所からやってきた。カールはクスクス笑いながら細君に言った。「わしがこの男に何と言ったか、おまえに話したかね? もしハム・エッグが山腹にできるのだったら、おいぼれのイースターとおんなじように、この男も放牧してやるんだが、そう言ってやったんだよ」
ジターノはじっと自分の皿を見つめていた。
「この人がここにいられないのはお気のどくですわ」とティフリン夫人。
「さあ、またつまらんこと言い出すんじゃねえ」カールは不機嫌に言った。みんなが食事をおえると、カールとビリーとジョーディーは、しばらくすわってくつろぐため居間にうつったが、ジターノは「さよなら」も「ありがとう」も言わずに、台所を通りぬけると、裏の戸口から出て行った。ジョーディーはすわって、父のようすをそっと見まもっていた。父がどんなに意地悪な気持ちでいるか、彼にはよくわかっていた。
「このへんにはこうした老いぼれのパイサーノ人がどっさりおるわい」カールはビリー・バックに言った。「あの連中はとてもいい人間ですだ」とビリーは彼らを弁護した。「白人より、年をとってまで働けるし。やつらの一人で百五歳にもなった老人に会ったことがありますだが、それでも馬に乗ることができましただね。どんな白人でもジターノぐれえな年になると、二十マイルとか三十マイルとかはとても歩けませんでげすよ」
「そりゃあ、丈夫なこたあ確かだとも」とカールも同意した。「だが、おい、おまえもやっこさんの肩を持つ気なのかい? ビリー、よく聞けよ」と彼は説明をした、「わしはな、食わせるやつをほかにだれも雇わんでおいてよ、この農場をなんとかイタリア銀行の手に渡さんよう苦労しとるんだぞ。ビリー、おまえにだって、そのくれえのことわかっとるだろ」
「そりゃあ、よくわかってますだ。もしあんたさんが金持だったら、あんなふうにおっしゃらなかったでしょうとも」
「そのとおりだよ。それに、やっこさんには頼れる親類がいねえわけでもなさそうだしさ。義理の弟やいとこたちがすぐモンテレイにいるそうじゃねえか。それを、なんでこのわしがあの男の心配をする必要があるってえのかい?」
ジョーディーは静かにすわって耳をすましていたが、なんだかジターノのおだやかな声と、「でも、わしはここで生まれたんでさ」という、答えようもない言葉が聞こえてくるような気がした。ジターノは山のように神秘的だった。見わたすことのできるかぎり遠くまで山脈《やまなみ》がつづいていたが、しかし大空を背にしてそびえ立ったさいごの山脈のうしろには、大きな未知の国があった。そしてジターノは老人であったが、どんよりとした黒ずんだ眼を持っていた。その目のうしろには、何か未知のものがあった。彼はあんまり口をきかなかったので、その内側に、その目の奥に、何があるのか、おしはかってみることもできなかった。そう考えているうち、ジョーディーは自分の心が使用人小屋のほうへ抵抗しがたいほど引かれて行くのを感じた。彼は父がしゃべっている間に、そっと椅子から身をすべらすと、コソとの音も立てずに裏口から出て行った。
夜はまっ暗で、遠くの音がはっきり伝わってきた。材木運搬の馬のくびわにつけた鈴の音が、はるか丘をこえたところを走る郡道のあたりから聞こえてくるのだった。ジョーディーは暗い裏庭を横切って進んだ。小屋の小さな部屋の窓から一筋のあかりが見えた。夜がひっそりしていたので、彼は窓のところまで足音をしのばせて近づき、部屋の中をのぞいて見た。ジターノは揺り椅子に腰をかけ、窓のほうに背中を向けていた。彼の右腕が体の前をゆっくり前後に動いている。
ジョーディーは戸を押しあけて、中にとびこんでいった。ジターノはグイと身を起こすと、鹿皮をわしづかみにし、それを膝の上にのせていた物の上にかぶせようとした。しかし、皮はずり落ちた。ジョーディーはジターノの手に握られた物に圧倒されて、その場に立ちすくんだ……金色の籐《とう》の柄がついた細身の美しい剣であった。その刃は暗い光の細い線のように見えた。柄には孔があけられ、複雑な彫りものがほどこしてあった。
「それなあに?」と少年はきいた。
ジターノは責めるような目つきで少年をただ見つめていたが、やがて落ちた鹿皮をひろい上げると、美しい刃をそれでしっかりと包んだ。
ジョーディーは手をさし出した。「それ、見せてもらえない?」
ジターノの目は怒ったようにくすぶり、首を横に振った。
「それ、どこで手に入れたの? どこから来たの?」
こんどはジターノも、何か考えこむかのように思案深げに少年を見つめていた。「おやじにもらったんだよ」
「で、おやじさんはそれをどこで手に入れたの?」
ジターノは手に持った長い鹿皮の包みを見おろしていた。「そいつは知らん」
「おじさんに話してくれなかったの?」
「うん」
「おじさん、それでどうするの?」
ジターノはちょっとおどろいたようすだった。「どうもせんよ。ただ持ってるだけさ」
「もう一度見せてもらえない?」
老人はゆっくり包みをほどいて、ピカピカの刃を見せ、ちょっとランプの光をあてた。それから、ふたたび包んでしまった。「さあ、あんたはお帰り。わしは寝たくなったからな」老人はジョーディーが戸を閉めきらないうちにランプを吹き消した。
ジョーディーは母屋に向かって歩いて行く途中、これまでになかったほどはっきり決心したことが一つあった。それはあの剣のことについては絶対だれにも話してはならないということだ。もしそれについてだれかに話せば、それこそおそろしいことになるだろう。真理のもろい骨組をこわしてしまうからである。それは分割すればみじんにくだけてしまうかもしれない真理なのだ。
暗い裏庭を横切って行く途中、ジョーディーはビリー・バックとすれちがった。
「坊やがどこに行ったのかって、みんな不審に思っているだよ」とビリーが言った。
ジョーディーがコソコソと居間にはいって行くと、父親が呼び止めた。「おまえどこに行ってたんだい?」
「新しいワナにネズミがかかったかどうか、ちょっと見に行ってきたんだよ」
「もう寝る時間だぜ」と父は言った。
翌朝、ジョーディーがいちばん初めに朝食のテーブルについた。それから父がはいってきて、さいごはビリー・バックだった。ティフリン夫人は台所から顔を出した。
「ビリー、あの老人はどこにいるの?」と母がきいた。
「たぶん散歩にでも出たんだんべえ」とビリーは答えた。「おいらやっこさんの部屋をのぞいてみたんですが、そこにはおらんでしただ」
「おそらくモンテレイに朝早くたったんだろうぜ。道のりが長いからな」とカールは言った。
「いいや、あの人のナンキン袋が部屋に残ってますだ」とビリーは説明した。
朝食がすむと、ジョーディーは小屋まで下っていった。ハエが朝日の中でチカチカ飛びまわっていた。けさはとくべつ農場全体が静まりかえっているように思えた。だれも自分を見ていないことをたしかめると、ジョーディーは小さな部屋にはいり、ジターノの袋の中をしらべてみた。長い綿《めん》のズボン下の余分一着と、ブルー・ジーンの余分一着、それにすりきれた靴下三足がそこにはいっていただけで、ほかにはなんにもなかった。突き刺さるような孤独感が少年をおそった。彼はゆっくり母屋のほうに歩いてもどった。父はポーチに立って母に話しかけていた。
「どうやら老いぼれイースターのやつ、とうとう死んじまったらしいよ」と父は言った。「やっこさん、ほかの馬といっしょに水飲みに下ってこなかったからな」
午前中の半ばごろ、峰の牧場からジェス・テイラーが馬で降りてきた。
「おい、カール、まさかおめえさんはあの老いぼれ馬、売ったってわけじゃあるめえな?」
「うん、むろん、そんなこたあねえよ。どうしてだい?」
「じつはな」とジェスは説明した。「おらあ、けさ早く外に出ていたんだが、妙なものを見たんだよ。一人のじいさんが老いぼれ馬に乗って行くのを見かけたんだが、鞍も置かなきゃ、手綱《たづな》もなく、ただ一本の綱を使ってただけなんだな。しかも、やっこさんは全然道の上を通らず、やぶの中を突っ切ってまっすぐのぼっていっただ。何か鉄砲みたいなものを持ってたようだ。すくなくともやつの手に何か光るものが握られていたことはたしかだよ」
「そいつはジターノのじいさんだね」とカール・テーフリンは言った。「わしの鉄砲のどれかがなくなってるかどうか見てくべえ」父はしばらく家の中にはいっていた。「いいや、みんなそろってるわい。ところで、ジェス、やつはどっちのほうに向かっていたんだね?」
「そこなんだが、とてもおかしいんだな。やっこさんはまっすぐ大きい山脈のほうに向かっていっただよ」
カールは笑って言った。「やつらはいくら年をとっても、盗みだけはできると見えるな。きっとやつは、ただ老いぼれイースターを盗んだだけだろうさ」
「それで、カール、あんたはあいつを追っかけるつもりなんかい?」
「いいや、とんでもねえ、あの老いぼれ馬を埋める手数《てかず》がはぶけただけのことさ。それにしても、あの鉄砲はどこで手に入れたのかな? いったいあんな山奥になんの用があるんだろ?」
ジョーディーは野菜畑を通りぬけてホウキスゲ帯のほうにのぼって行った。彼はそびえ立つ山々をさぐるようなまなざしで眺めやった……峰また峰、峰また峰と、やがて大洋のあるところまでつづいていた。一瞬、思いなしか、いちばん遠い峰をはいのぼって行く黒い一つの斑点《はんてん》が見えた。少年はあの剣とジターノを思い出し、大きな山脈のことを考えた。あるあこがれの念がこみ上げてきて、それがいかにも痛烈だったので、彼はそれを胸から拭い去ってしまうためにワッと泣き出したくなった。少年はホウキスゲ帯のところにある、まるい水桶の近くの青草の中にゴロンと寝ころんだ。それから両方の腕を目の上に組んで、長い間そこに横たわっていたが、胸の中はなんとも名づけがたい悲しみにみたされていた。
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三 約束
ある春の昼下がり、ジョーディー少年はわが家に向かってホウキスゲにふちどられた道を堂々と行進していた。学校の弁当箱に使っている金色のラード罐《かん》に片膝をドカンドカンぶっつけて、りっぱな低音太鼓《ベース・ドラム》をたたいている気になり、一方、舌の先端を強く歯ぐきにたたきつけての|締め太鼓《スネア・ドラム》と、ときたまのトランペットの音をはさむのであった。しばらく前、学校からいかにもさっそうとくり出した部隊のほかの連中は、それぞれの家に向かって、あちこちの小さな谷間に曲がってはいったり、荷馬車道路に出たりしていた。そして今やジョーディーは、膝を高くもち上げ、足をふみならして、一見単独の行進をつづけているみたいに思われた。しかし彼の背後には、大きな旗と剣をかざし、黙々とおそろしい行進をつづけている、まぼろしの軍隊が従っていたのだ。
春のおとずれのため、その午後は緑と金色《こんじき》に輝いていた。カシワの大きく広がった枝の下には、若木が薄緑色に高く伸びており、山腹には牧草がなめらかな葉をしげらせていた。ホウキスゲは新芽を銀色に輝かせ、カシワの木は金色をおびた緑の帽子をかぶっていた。あたりの丘全体にものすごい緑の香気がたれこめていたので、平地の馬は狂ったようにかけまわり、それから急に立ち止まって、ふしぎそうに首をかしげるのであった。小羊ばかりか年をとった羊までが、だしぬけに空中に跳び上がり、脚をこわばらせて地面におりると、また、草をたべつづけた。若い子牛たちはぶきように角の突き合いをし、うしろにさがると、また角を突き合わせるのであった。
ジョーディーに率いられた灰色の、押しだまった軍隊が通りかかるとき、動物たちはしばらくたべたり遊んだりするのを止め、それが通りすぎるのをじっと見まもるのだった。とつぜん、ジョーディーは立ち止まった。灰色の軍隊も止まり、面くらっていらいらしていた。少年は両方の膝を地面についた。軍隊は長い落ちつかぬ列を組んだまましばらく立ち止まっていたが、やがてそっと悲しみの溜息をつくと、かすかな灰色の霧となって立ちのぼり、姿を消してしまった。ジョーディーはツノガマ〔角のようなトゲのあるトカゲで「ツノトカゲ」ともいわれ、アメリカ西部やメキシコに産する〕の角のはえた頭が道のほこりの下を動いて行くのをみとめたのだった。彼はよごれた手をさし出して、トゲが光輪のように出ているところをつかまえ、小さな動物がもがいている間しっかりとおさえていた。それから、ツノガマの体をひっくりかえすと、淡い金色の腹が見えた。少年がその喉と胸のあたりを人差し指でやさしくなでてやると、やがてツノガマは体の緊張をゆるめ、目を閉じ、ものうげに眠ってしまった。
ジョーディーは弁当箱を開け、初めての獲物を中におさめた。それから彼は心持ち膝をまげ、肩をかがめて前進をつづけた。はだしの足は万事心得たように音をたてず、右手には長い灰色のライフル銃をにぎっていた。道をふちどっているホウキスゲは、その中に意外にも灰色のトラや灰色のクマなどの新しい集団がひそんでいるらしく、ガサガサと不穏な動きを見せている。その日の狩りはたいへんな成功をおさめた。というのも、ジョーディーは郵便箱が柱のてっぺんに置かれている分れ道に着くまでに、さらに二匹のツノガマと、四匹の小さな草トカゲと、一匹の青ヘビと、十六匹の黄色い翼のバッタと、岩の下でみつけた一匹の茶色の、体のしめったサンショウ魚とをつかまえていたからだ。こうした種々雑多な生きものたちは、弁当箱のブリキ板を必死にひっかきまわしていた。
分れ道で、ライフル銃は蒸発し、トラやクマは山腹からとけて消え去った。そして、弁当箱の中の、しめって居心地のよくない動物たちですら存在しなくなった。というのは、郵便箱の上には小さな赤い金属の旗が立っていて、何か郵便物が中にはいっていることを示していたからである。ジョーディーは弁当箱を地面に置くと、郵便箱を開けた。そこにはモントゴメリー・ウォード〔シカゴの通信販売業者〕のカタログと『サリーナス・ウィークリー・ジャーナル』誌一部がはいっていた。
少年は郵便箱をガチャンとしめ、弁当箱をひろい上げ、山の背をひとつこえて、農場のある盆地へと下っていった。彼はかけ足で、納屋や、もう不用になった乾草塚《かんそうづか》や、使用人小屋や、イトスギのわきを通りすぎた。それから母屋の正面の網戸をバタンと閉めて中にはいると、「お母ちゃん、ねえ、お母ちゃん、カタログがきてるよ」と叫んだ。
ティフリン夫人は台所で、酸敗《さんばい》して固くなったミルクをスプーンで木綿の袋にすくい入れていた。彼女は仕事を下に置くと、蛇口の下で、両手をゆすいだ。「ジョーディー、わたしはこっちよ、台所よ」
少年は台所にかけこむと、弁当箱を流しの中にガチャンと放り出した。「さあ、持ってきてやったよ。お母ちゃん、カタログあけてもいい?」
ティフリン夫人はふたたびスプーンを取り上げ、カテージ・チーズの仕事にもどった。「でも、あんた、それをなくさないでね。お父ちゃんが見たいと思うかもしれないから」彼女はミルクのさいごに残ったものをかき集めて袋に入れた。「ああ、そうだった、ジョーディー、お父ちゃんがね、あんたが仕事にかかる前、あんたに会いたいんですってよ」彼女はチーズの袋にブンブン近よってきたハエを手で追いはらった。
ジョーディーはおどろいて新しいカタログを閉じ、「なあに、お母ちゃん?」ときいた。
「なぜあんたは人の言うこと聞いてないの? お父ちゃんがあんたに会いたいんだって」
少年はカタログをそっと流し台の上に置いた。「あのう……何かぼくのしたことでなの?」
母は笑い出した。「あんた、いつでも気がとがめているのね。いったい何をしたのさ?」
「ぼく……なんにもしなかったけどな」と彼はいかにも自信なげに答えた。しかし、彼には何も悪いことをしたおぼえがなかったし、そのうえ、どんな行為があとで罪と考えられるのか、知るよしもなかった。
母はいっぱいになった袋を釘につるしたが、そこなら汁がたれても、流しの中に落ちるようになっていた。「お父ちゃんはね、あんたが帰ってきたら会いたい、そうおっしゃっただけなのよ。きっと下の納屋のそばにいるんじゃない」
ジョーディーは向きなおると、裏口から出て行った。母が弁当箱をあけ、「あら、まあ!」と怒った叫び声を上げるのを聞くと、弁当箱に入れておいた動物のことを思い出して、「しまった」とつぶやき、納屋のほうへ一目散《いちもくさん》にかけ出した……しかし良心の上では、母屋のほうから彼を呼び止める怒りの声を聞かなかったことにしてである。
カール・ティフリンと作男のビリー・バックが下手の牧場の柵によりかかって立っていた。どちらも一方の足をいちばん下の横棒にのせ、両|肱《ひじ》をてっぺんの棒にもたせかけている。二人はゆっくりと、とりとめのないおしゃべりをしているところだった。牧場の中では、六頭ばかりの馬がおいしい草を満足そうにたべていた。雌馬のネリーが木戸のところまであとずさりして行き、そこの太い柱に臀部《でんぶ》をこすりつけている。
ジョーディーはもじもじしながら二人のほうに近づいていった。彼は自分がいかにも無邪気で無頓着であるような印象をあたえようと、片方の足を引きずって歩いた。大人たちのわきに着くと、彼も片足をいちばん下の横棒にのせ、両肱を二番目の棒にもたせかけ、牧場の中を同じように眺めた。二人の男は少年を横目でチラッと見やった。
「わしはおまえに会いたいと思ってたんだ」と、カールは子供や動物にたいして取っておきの、きびしい調子で言った。
「はい」とジョーディーはうしろぐらそうに答えた。
「おまえはあの小馬が死ぬ前、とてもよく面側を見たって、ここにいるビリーが言っとるじゃ」
どうやら罰をくらいそうな気配はなかったので、少年にはすこし勇気が出てきた。「はい、面倒見ました」
「ビリーに言わせると、おまえは馬をしんぼう強く世話するそうじゃな」
ジョーディーは作男にたいして急に温い友情を感じた。
ビリーが口をはさんだ。「坊ちゃんはあの小馬をおいらの知ってるだれにも負けんくれえよく訓練しましただ」
それから、カール・ティフリンはだんだん話の要点に近づいてきた。「もしおまえがもう一頭馬を持つことができたら、おまえはそいつのために一生けんめいやるだろうな?」
ジョーディーは身をふるわした。「はーい」
「じゃあ、いいかね。ビリーに言わせると、馬を上手に扱ういちばんいい方法は、子馬《コールト》を育てることだそうだぜ」
「いい方法はそれしかありませんだよ」とビリーが口を入れた。
「さて、いいかな、ジョーディー」とカールは言葉をつづけた。「あの峰の農場のジェス・テイラーがだな、いい種馬を持っておるんじゃが、種付けには五ドルもかかるんだ。わしはそのくらいの金なら出さんこともねえが、おまえは夏じゅう働いて、そいつを返さにゃならんのだぞ。どうだ、そうするつもりがあるかな?」
ジョーディーは内臓がちぢんでくるような感じがした。「はい」と彼は静かに言った。
「それで文句は言わんな? なにかをしろと言われても、その約束を忘れたりはせんな?」
「はい」
「まあ、そんならよろしい。あしたの朝、おまえはネリーを峰の農場までつれてって、種付けをしてもらうんだな。おまえはネリーが子馬を生むまでそいつの世話もせにゃならんぜ」
「はい」
「じゃあ、これからニワトリと薪《まき》の仕事をはじめたほうがいいぞ」
ジョーディーはその場からすりぬけたが、ビリー・バックのうしろを通りすぎるとき、あぶなく片手を伸ばしてブルー・ジーンをはいた彼の脚にさわるところだった。彼は自分が成長して偉くなったような気がして、ちょっぴり肩を振って歩いた。
彼はこれまでにないほど本気で仕事にとりくんだ。今晩は、えさを入れた罐《かん》をニワトリに向かっていっぺんにぶちまけるようなことをしなかった。そんなことをすると、ニワトリはそのえさにありつこうとして、おたがいの頭上をとびこえ、取り合いをしなければならなかったからだ。そこでこんどは、えさを全然みつけられないようなメンドリが出てこないように、彼は小麦をできるだけ広い範囲にわたってていねいにまき散らしてやったのである。それから家にもどると、ぬらぬらして、窒息しかかった爬虫類《はちゅうるい》その他の虫けらを自分たちの弁当箱にいっぱいつめる男の子にはあきれてものが言えないと、母親がこぼすのに耳を傾けたあと、彼はそのようなまねは二度とふたたびしません、と約束をした。
じっさい、ジョーディーとしては、そのようなパカげた事柄はすべて過去に属するものだと感じた。もうこれからはツノガマなど弁当箱に入れるほど幼稚ではなくなったのだ。また、あまりにもたくさんの薪を運びこんで、それをあまりにも高く積み上げたので、彼の母親はカシワ材の雪崩《なだれ》が起きるのではないかと心配しながら、そのわきを通りすぎるのだった。そうした仕事をすまし、さらに、何週間もかくれたままになっていた卵を拾い集めおわると、ジョーディーはふたたびイトスギや使用人小屋のわきを下って、牧場のほうに向かった。水飲み桶の下から彼のほうをのぞいている、太った、イボだらけのガマを見ても、彼はまったく気にもしなかった。
カール・ティフリンとビリー・バックの姿は見えなかったが、納屋のあちら側から聞こえてくる全属性のチリンチリンいう音から判断して、ビリーがちょうど乳しぼりをはじめたところにちがいないと思った。
ほかの馬たちは牧場の上のはしのほうへと草をたべながら進んでいったが、ネリーだけは依然として木戸の柱にいらだたしげに尻をすりつけていた。ジョーディーはゆっくりそのそばに近よって、「よし、よし、ネリー」と話しかけた。雌《めす》馬の耳はいたずらっぽくうしろにそりかえり、唇の間から黄色い歯をむき出していた。ネリーはこちらをふり向いたが、その目はどんよりとして狂おしかった。ジョーディーは柵のてっぺんによじのぼると、両足をだらんとたらして、まるで父親のような気持ちで雌馬を見おろしていた。
彼がそこに腰かけているうちに、夕暮れがだんだんせまってきた。コウモリや夜タカがチラチラと飛びかっている。ビリー・バックはミルクがいっぱいになったバケツをさげて母屋のほうに向かって行く途中、ジョーディーを見かけて立ち止まった。
「ずいぶん長いこと待たにゃならんわい」と彼はおだやかに言った。「とても待ちくたびれるだね」
「いいや、そんなことないよ、ビリー。いったいどのくらいかかんの?」
「まあ、一年近いだろうな」
「でも、ぼく待ちくたびれたりなんかしないよ」
母屋で三角鐘《トライアングル》がやかましく鳴った。ジョーディーは柵から降り、ビリー・バックとならんで夕食に出かけた。彼は片手をさし出してミルク・バケツの手をにぎり、それを運ぶのまで手伝った。
その翌朝、カール・ティフリンは五ドル紙幣を折りたたんで新聞紙に包み、それをジョーディーの仕事着の胸ポケットに入れてピンでとめた。ビリー・バックは雌馬ネリーに端綱《はづな》をつけて牧場から引き出した。
「さあ、気をつけてくだせえよ」と彼は注意した。「こいつがあんたにかみつかんように、ここんとこを短く持ってくだせえ。やっこさんは今、バカみたいに気ちがいじみてるからな」
ジョーディーは端綱の革紐をしっかりにぎり、峰の農場めざして丘をのぼりはじめたが、ネリーは彼のうしろでグイグイ引っぱったり、チョコチョコ走ったりして落ち着かなかった。道路わきの牧草の中では、野生カラスムギがちょうどさやから頭を出しかかっていた。暖い朝日が背中に照りつけてあんまり気分がよかったので、彼はもう子供ではなくなったはずなのに、ときたま本気でピョンピョンぎこちなくとびはねないわけにいかなかった。柵の上には、赤い肩章をキラキラさせた黒鳥がチッチッと乾いた呼び声を上げているし、ムクドリは水が流れるようにさえずり、新しく芽をふいたカシワの葉の間にかくれていたヤマバトは、じっと悲しみをこらえているみたいな声で鳴いている。野原では、草の頭の上に二股《ふたまた》に分かれた耳だけを出して、ウサギが日なたぼっこをしている。
一時間ばかりたえまなく坂道をのぼったあげく、ジョーディーは狭い道に曲がったが、それはもっとけわしい坂道を峰の牧場までつづいていた。やがて納屋の赤い屋根がカシワの木立の上に突き出ているのが見えてきたし、また、一匹の犬が農家のそばで無心に吠えているのが聞こえてきた。
とつぜん、ネリーはグイとうしろにさがって、あぶなく端綱をはずしそうになった。納屋の方向から、甲《かん》高いヒーヒーいう悲鳴と、木を引き裂く音と、男の叫ぶ声とが聞こえてきた。ネリーはあと脚で立ち上がり、ヒンヒンといなないた。ジョーディーが端綱をしめると、雌馬は歯をむいて彼にとびかかってきた。彼は綱をおとし、あわててやぶの中に逃げこんだ。高い悲鳴がふたたびカシワの木立のほうから聞こえてくると、ネリーはそれに答えた。大地を打つひづめの音もたからかに種馬が姿をあらわし、ちぎれた端綱を引きずりながら丘をまっしぐらに下ってきた。彼の目は熱っぽくきらめき、ツンと突き出た鼻の頭は炎のようにまっ赤だった。黒く、つやつやした毛皮は朝日を受けてピカピカ光っている。種馬はあまりにも速くやってきたので、雌馬のところに着いたとき立ち止まることができなかった。ネリーの耳はうしろにそりかえり、種馬が自分のそばを通りすぎるとき、ぐるっと体をまわし、足で蹴《け》とばした。種馬はクルッと旋回すると、うしろ脚で立ち上がった。彼は雌馬を前足のひづめでたたきつけ、その打撃をくらって雌馬がよろめくと、雄馬の歯は彼女の首筋を熊手のように引っかき、血をにじみ出させた。
すると、ネリーの気分がたちまち一変した。彼女はあだっぽく女性的になった。雄馬の弓なりの首筋に唇でかじりついた。ぐるっと体をねじりよせて自分の肩を彼の肩にすりつけた。ジョーディーはやぶの中に半ば身をかくして、そのようすをじっと見まもっていた。 とつぜん、うしろに、馬の足音が聞こえた。がしかし、振り向く前に、一本の手が彼の仕事着の皮帯をつかみ、彼をすっと地面から持ち上げた。ジェス・テイラーは少年を馬上の自分のとなりにすわらせた。
「ひょっとすると、あんたは殺されたかもしれんぞ」とジェスは言った。「サンドッグのやつ、ときどきひでえ悪魔になるからな。やっこさん、いまも端綱をぶった切りやがって、木戸をぶちぬいて走ってきただよ」
ジョーディーはおとなしくすわっていたが、急に思い出したように叫んだ……「あいつ雌馬を傷つけて殺しちゃうかもしれないよ。早く離してやって!」
ジェスはニヤニヤ笑った。「雌馬は大丈夫だろう。あんたは馬から降りて、しばらく家のほうに行ってたほうがよさそうだな。あそこに行きゃあ、パイぐらいもらえるかもしれんぜ」
しかし、ジョーディーは首を横に振った。「でも、あれはぼくの雌馬だし、子馬もぼくのものになるんだよ。子馬はぼくが育てることになってるんだもん」
ジェスはうなずいて見せた。「そうだとも、そいつはいいこったよ。カールもたまにゃ分別のあることをするんだな」
しばらくすると、危険は去った。ジェスはジョーディーを馬からおろし、それから種馬のちぎれた端綱をつかまえた。そして、ジェスが馬で先頭を行き、ジョーディーはネリーを引っぱってそのあとにつづいた。
ジョーディーがふたたびわが家に向かって出発したのは、父からあずかった五ドル紙幣を、ピンをはずしてジェスに渡し、パイを二切れたべてからであった。ネリーはおとなしく彼のあとについて歩いた。雌馬があまりにもおとなしかったので、ジョーディーは切り株をふみ台にしてその背中に乗り、そのままずっと家まで運んでもらった。
父が前貸ししてくれた五ドルのおかげで、ジョーディーは春のおわりから夏じゅうずっと奴隷のように働いた。乾草《ほしぐさ》が刈りたおされると、彼は|乾草掻き《レーキ》を馬にひかせた。またジャクソン・フォーク・タックル〔乾草を積みおろしする機械であろう〕をひっぱる馬の手綱を引いたり、梱包《こんぽう》人夫がくると、梱《こおり》に圧力をかける回転馬〔柄をかたくしめつけるため、ワイヤーを巻きつけ、馬が円を描いて動く〕を御《ぎょ》したりもした。そのうえ、カール・ティフリンは彼に乳しぼりを教え、一頭の雌牛の世話をさせたので、新しい仕事が朝に晩に加わったのである。
栗毛の雌馬ネリーは見るみる満ち足りたように変わった。黄色みをおびてきた山腹を歩きまわったり、らくな仕事をしたりしているとき、彼女の唇はいつも間の抜けたような笑いにゆがんでいた。彼女はまるでおきさきのような堂々とした落ち着きを見せて、悠々《ゆうゆう》と動くのであった。ほかの仲間といっしょに荷馬車につながれるときは、たゆむことなく無心に引っぱるのだった。ジョーディーは毎日、彼女に会いに行った。彼はこまかに彼女を観察していたが、変化は全然みとめられなかった。
ある日の午後、ビリー・バックは〈また〉のたくさんついた肥料用の〈くわ〉を納屋の壁にたてかけた。それからベルトをゆるめ、シャツのすそをたくしこみ、もういちどベルトをしめた。そのあと、帽子のバンドにさしてある短いワラを一本ぬきとり、口の端にくわえた。しかつめらしい大きな犬のダブルトリー・マットが地ネズミを掘り起こす手伝いをしていたジョーディーが、起き上がって腰を伸ばしていると、そこへ作男のビリーがブラブラ納屋から出てきた。
「丘を上がって、ネリーのようすを見てこようぜ」とビリーが話しかけた。
すぐさま、ジョーディーは彼のあとについた。ダブルトリー・マットは肩ごしに二人の男のうしろ姿を見送ったあと、こんどは本気で土を掘り上げ、ウンウンうなり声を上げ、さらに地ネズミがほとんどつかまったことを示すようなキャンキャンいう小さなするどい叫びを連発した。犬はもう一度肩ごしに人間のほうを見やったが、ジョーディーもビリーも、こちらのことにまったく興味を感じていないらしいのを見てとると、しぶしぶ穴からはい上がり、二人のあとを追って丘をのぼって行った。
野生のカラスムギが熟しかかっていた。どの頭も中の穀粒の重荷にたえられないように低くたれさがっている。草はすっかり乾いて、ジョーディーとビリーがその間をかき分けて進むとき、ガサガサ音をたてた。丘を半分ぐらいのぼると、ネリーと鉄灰色をした去勢馬のピートが、野生カラスムギの頭をムシャムシャたべているのが見えた。二人が近づくと、ネリーは彼らのほうを見やり、両耳をそらし、反抗的に頭を上下にヒョイヒョイ動かした。ビリーは雌馬のところまで歩いて行き、そのたて髪の下に手を入れ、首筋を軽くたたいた。すると、やがて耳をふたたび前にたおし、彼のシャツをやさしくかじるまねをした。
「こいつがほんとうに子馬を生むと思う?」とジョーディーはきいた。
ビリーは親指と人差し指で雌馬の眼蓋《まぶた》をひっくりかえして見た。それから下唇にさわり、黒い、なめし革のような乳首を指でいじくってみた。「子供を生んだって、おいらおどろかんね」という答がかえってきた。
「でも、これ、ちっとも変わってないね。もう三か月もたってんのに」
ビリーは指関節で雌馬の平べったいおでこをなでてやったが、その間、馬は満足そうにブウブウ鼻を鳴らしていた。「坊やは待ちくたびれるって、前にも言ったろ。何かしるしが見えてくるまでにはあと五か月もかかるだ。それに、子馬を生むまでにはこれからすくなくとも八か月はかかるね……来年の一月ごろになるかな」
ジョーディーは大きく溜息をついた。「ずいぶん長くかかるね」
「それから、あんたが乗れるようになるまで、あと二年ばかりはかかるよ」
ジョーディーは、「じゃあ、ぼく大人になっちゃうよ!」と絶望の叫び声を発した。
「そうとも、おじいさんになっちゃうべえね」とビリーはひやかした。
「子馬はどんな毛色だと思う?」
「まあ、そいつはわからんな。オスは黒で、メスは栗毛。すると、子馬は黒か、栗毛か、灰色か、まだらかだね。なんともわからんよ。ときによると、黒いメスが白い子馬を生むことだってあるだからね」
「でも、ぼくは黒いオスであってほしいな」
「しかし、オスだったら、去勢しなくちゃなるまいよ。あんたのお父っつあんは、あんたに種馬を持たしてはくれんだろうからな」
「いや、持たしてくれるかもしれんさ。ぼくにはその子が悪いことしないようにしつけることもできるからね」
ビリーが口をとがらすと、口の端にくわえていた短いワラが口の中央にころがり落ちた。「種馬ってもんは信用ができんのでね」と彼は非難するような口調で言った。「やつらときたら、たいてい戦闘的で、いろいろ困ったことをしでかすだよ。ときによると、変な気持ちになって、仕事をやろうとせんし、雌馬をいらだたせたり、去勢馬をこっぴどい目にあわせたりもするんでさ。きっとおやじさんはあんたに種馬を飼わせてくれんだろうな」
ネリーは枯れかかった草をかじりながら、ゆっくり去って行った。ジョーディーは草の茎からその実をすくうようにしてもぎ取ると、片手いっぱいになったものを空中に放り投げた。すると、先のとがった、羽毛のついた種子が、まるで投げ矢のようにひとつひとつ飛んでいった。「ねえ、ビリー、そのときのようす話してくれない? 雌牛が子を生むときみたいなの?」
「だいたいそんなとこだな。ただ、雌馬のほうがすこし神経質のようだよ。だから、ときによると、そばで手伝ってやらなけりゃならんでな。また、場合によって、うまく出ないとなると、仕方ねえから……」と言って、ビリーは次の言葉をのんでしまった。
「仕方ないからどうするの?」
「子馬を引きちぎって出してやるほかねえんだな……さもないと、親馬が死んでしまうだよ」
「でも、ビリー、今度はそんなふうにならんだろ?」
「そりゃあそうだ。これまでネリーはずっといい子馬を生んできたからな」
「そのとき、ぼくそこにいられるの? きっとぼくを呼んでくれるね? だって、ぼくの子馬なんだもん」
「いいとも、きっと呼んでやるだ。もちろんそうしてやるだよ」
「そのときのようすを話してよ」
「でも、坊やは雌牛が子を生むのを見たことあるだろ。あらましおんなじようなもんでさ。雌馬はウンウンうなり出し、体をグッと伸ばす。それから、お産が順調だったら、頭と前足が先に出てきて、前足のひづめが、ちょうど子牛がそうするように孔《あな》を蹴りあけるんだな。そこで、子馬は呼吸をはじめるってわけでさ。その場にいてやるのはいいことだね。というのも、もし足がうまく働かないと、袋を破ることができんし、そうなると子馬は窒息するかもしれんでな」
ジョーディーは草のたばで自分の脚をピシピシたたいた。「それじゃあ、ぼくたちはどうしてもそこにいてやらなけりゃいかんね」
「そうだとも、おいらはちゃんとそこにいてやるだよ」
二人は向きを変えると、納屋のほうに向かってゆっくり丘を下りはじめた。ジョーディーは言いたくなかったが、どうしても言わなげればならぬことに心をさいなまれていた。「ねえ、ビリー」彼は仕方なしにみじめな気持ちで口を切った、「子馬にはなんにも悪いことが起こらんようにしてくれるだろうね?」
ビリーには、少年が赤い小馬ギャビランのこと、それがどのようにして腺疫《せんえき》で死んだかということを考えているのがよくわかっていた。そしてまた、それまで自分はまちがったことがないのを、ところが今では失敗をおかす可能性のあることを、はっきりと知っていた。それがわかっていただけに、ビリーは自分自身にたいして前ほど自信が持てなくなっていた。
「さあ、なんとも言えねえでな」ビリーの口調はすこし荒っぽかった。「いろいろさまざまなことが起こるかもしれねえだが、そいつがみんなおいらの責任というわけじゃあねえ。おいらだって、そうなにもかもできるわけじゃねえからな」彼は自分の威信《いしん》が失われたのを残念に思い、すこしけちった言い方をした……「おいら自分で知ってることはなんでもするつもりだが、なんともはっきりとは約束しねえだよ。ネリーはいい雌馬で、これまでいい子馬を生んできただ。だから、こんどもきっとそうするはずだあね」
そう言って、彼はジョーディーと別れると、納屋のとなりの鞍《くら》部屋にはいっていった。すっかり気分が悪くなっていたからである。
ジョーディーは家の裏手のホウキスゲ帯《たい》までよく出かけて行った。さびた鉄のパイプが細い泉の流れを古い緑色の桶にはこんでいた。水があふれて地面にしみこむあたりには、一年じゅう青々とした草地ができていた。水は年がら年じゅうチョロチョロと静かに水桶《みずおけ》の中に落ちこんでいた。ここはジョーディーにとって一つの悪いの場所になっていたのだ。悪いことをして罰をくらうと、ひんやりとした緑の草やチョロチョロ歌う清水が彼をなぐさめてくれた。意地悪な気分になっても、ホウキスゲ帯までくると、胸をつき刺すような、にがにがしい気持がサッと晴れてしまうのだった。青草の中にすわって、サラサラと流れる水の音に耳をすましていると、きびしい一日が彼の心の中に打ち立てた障壁も、サッとくずれ去ってしまうのだ。
これに反して、使用人小屋のわきにそびえ立つ黒いイトスギの木は、水桶が心をなごませるのとは逆に、胸をムカムカさせるのだった。というのも、すべてのブタはおそかれ早かれ、屠殺《とさつ》されるためにここにつれてこられるからであった。ブタ殺しはキーキーいう悲鳴や、ほとばしる血しぶきのために魅力的なことではあったが、しかし、そのためジョーディーの心臓はあまりにもはげしい鼓動を打ち、ズキズキ痛んでくるのであった。ブタが三脚台のついた大きな鉄の釜の中で煮湯《にえゆ》をかけられ、その皮がけずり取られて体がまっ白になると、ジョーディーはどうしても泉の水桶のところに来て、心臓の鼓動がおさまるまで草の中にすわっていなければすまなかった。水桶と黒いイトスギは反対のものであり、敵《かたき》同士みたいであった。
ビリーが彼と別れ、腹立たしそうに去ってしまうと、ジョーディーは母屋のほうに向きを変えた。彼は歩きながら、ネリーのこと、小さな子馬のことを考えた。それから、とつぜん、自分が黒いイトスギの下の、ちょうどブタがつるされる横木の真下にきていることに気がついた。彼は枯草のような髪の毛をひたいから払いのけ、さっさとその場から立ち去った。ちょうどこの屠殺場《とさつじょう》で子馬のことを考えたのは、とくにビリーがあんなことを口にしたあげくであるだけに、不吉なことのように思われたのだ。そのろくでもない結びつきが何か悪い結果でも生み出すといけないので、少年は急ぎ足で母屋のわきを通りすぎ、ニワトリ小屋の前と野菜畑を通りぬけ、やっとホウキスゲ帯《たい》のところまでやってきた。
彼は緑の草の中に腰をおろした。水の音がチョロチョロと耳にひびいている。彼の視線は農場のいろいろの建物をこえて、穀物が豊かに黄色くみのって、まるみをおびた山腹へと移っていった。ネリーが丘の斜面で草をはんでいる姿も見えた。いつものように、水場にいると、時間や距離の観念が消えてなくなるのであった。ジョーディーの目には、脚の長い、毛の黒い子馬がネリーの横腹に頭をけりつけながら乳をねだっている姿が浮かんできた。それから、自分自身が大きくなった子馬に端綱の訓練をしているようすが浮かんだ。すると、たちまち、子馬は胸の厚い、海馬《シーホース》の首のように長い弓なりの首を持った、黒い炎のように長く突き出て波打つ尻尾を持った、みごとな動物に成長した。この馬はジョーディー以外の人間にはおそろしい動物である。校庭で男の子たちはそれに乗せてくれとたのむ。そこでジョーディーはニヤニヤしながら承諾する。ところが、彼らが乗るか乗らないうちに、黒い魔物は彼らを投げおとしてしまう。うん、そうだ、〈|黒い悪魔《ブラック・ディーモン》〉という名前にしよう! 一瞬、チョロチョロ流れる水と、緑の草と、日光とがもどってきたが、しかし、それからまた……
よるときによると、夜よなか、安全にベッドに寝ている農場の人間たちは、ものすごいひづめの音が通りすぎるのを耳にする。すると彼らは、「ディーモンに乗ったジョーディーだ。あいつはまた保安官の助太刀《すけだち》をしてるんだ」と言う。そして、それから……
サリーナス・ロデオの競技場では、金色のほこりがもうもうと立ちこめている。アナウンサーが輪なわ投げの試合がはじまることを知らせる。ジョーディーが黒馬を出発点の狭い通路に乗りつけてくると、ほかの競争者たちは肩をすぼめ、彼に先をゆずる。ジョーディーとディーモンは、どの二人組の輪なわ投げチームよりもはるかに早く雄牛に輪なわを投げかけて倒し、その首を締めつけることのできることがよく知れわたっていたからである。ジョーディーはもはや一人の少年ではなく、ディーモンはたんなる馬ではなくなっている。両者はいっしょになってひとりの輝かしい個人になっているのだ。そして、それから……
大統領から一通の手紙がきて、ワシントンで山賊を捕《とら》える援助をしてくれるようにとたのんでくる……ジョーディーは草の中に気持ちよく落ち着いていたし、ささやかな水の流れがコケむす桶の中にチョロチョロと落ちていた。
その年はゆっくりとした足どりですぎていった。ジョーディーはときどき自分の子馬はもう生まれてこないのだろうとあきらめることもあった。ネリーになんの変化も見られなかったからだ。カール・ティフリンはまだこの雌馬に軽い荷車をひかせたり、|乾草掻き《レーキ》をひっぱらせたり、乾草を納屋におさめるとき、ジャクソン・フォーク・タックルを動かさせたりしていた。
夏がすぎ、暖くギラギラした秋も去った。それから、狂ったような朝の風がうねるように地面をはいまわるようになり、空気が冷えびえとして、ウルシが赤くそまってきた。九月のある日の朝、朝飯をたべおえたとき、母がジョーディーを台所に呼びこんだ。彼女は乾燥|粗《あら》小麦粉をいっぱいつめたバケツの中に熱湯を注ぎこみ、それをかきまわしながら、湯気の立つねり粉をこしらえているところだった。
「お母ちゃん、なんの用?」とジョーディーはきいた。
「わたしが今これをつくってるのをよく見ているのよ。これからはひと朝ごとに、あんたがこの仕事をしなければならないからね」
「それで、それはなんなの?」
「そうね、ネリーにやる温い〈ぞうず〉よ。これをたべてると、あの子の体調が保てるのね」
ジョーディーは指の関節でおでこをこすった。「あの子、大丈夫なの?」と彼はおそるおそるたずねた。
ティフリン夫人はやかんを下におくと、木のこね棒で〈ぞうず〉をかきまわした。「もちろん、大丈夫よ。でも、これからは今までよりもっとよく面倒を見てやらないといけないわね。さあ、あの子にこの朝ご飯を持ってっておあげ!」
ジョーディーはバケツをつかむと、一目散にかけ出し、使用人小屋や納屋のわきを下っていったが、その間、重いバケツが膝をバタンバタンと打った。ネリーは水槽で水遊びをしているところであった。頭で波を起こし、それから頭をヒョイと持ち上げると、水がこぼれて地面に落ちるのであった。
ジョーディーは柵をこえると、湯気の立っている〈ぞうず〉入りのバケツを雌馬のかたわらにおいた。それから一歩うしろにしりぞいて、彼女のようすを眺めることにした。たしかにようすが変わってきた。お腹がふくらんできた。動くときは、足が地面にそっとふれるのだった。彼女は鼻面をバケツの中に埋めるように突っこみ、熱い朝飯をガツガツとたべた。たべおえて、バケツを鼻で押してちょっと地面にころがすと、彼女は静かにジョーディーのほうに歩みよってきて、頬《ほお》を彼の体にこすりつけた。
ビリー・バックは鞍部屋から出てきて、少年のほうにやってきた。「いよいよはじまると、はやいもんでね」
「そんなにいっぺんにはじまったの?」
「いいや、そうじゃねえ、坊やがしばらく見るのをやめていたからだな」ビリーは雌馬の頭を引っぱってジョーディーのほうに向けた。「こいつはやさしくもなってくるだ。あの目がどんなにやさしいか見てごらんなせえよ! 雌馬によっちゃあ、意地の悪くなるやつもいるだが、やさしくなるやつだと、なんでもかんでもが好きになるだね」
ネリーは頭をビリーのわきの下にすべりこませ、その首筋を、彼の腕と横腹の間にわたって上下にこすりつけた。「あんたもこれからこいつをうんとやさしく扱ってやったほうがよさそうに思うだね」
「これからどのくらいかかんの?」とジョーディーは息をはずませてきいた。
男は口の中で指折りかぞえた。「まあ、三月《みつき》ぐらいだな」と彼は声を出して答えた。「正確にはわからんがね。ときには十一か月きっかりのこともあれば、二週間早かったり、一か月おそかったりするが、それでもべつになんてこともねえだな」
ジョーディーは地面をしげしげと見つめた。「ねえ、ビリー」と彼は神経質に口を切った、「あれが生まれるとき、きっとぼくを呼んでくれるね? ぼくをその場にいさせてくれるね?」
ビリーはネリーの耳の先端を前歯でかんだ。「おやじさんは、そもそもの初めから坊やにやらせたいと言っているだ。馬の育て方をならうには、それしかやり方がねえだからな。だれもわきから、ああしろ、こうしろとは言えねえだよ。おいらのおやじが鞍毛布〔鞍の下にたたんで敷く小型のフェルト製バンドで、馬の鞍ずれを防ぐ役目をする〕のことでおいらにそうしたようにさ。おいらが坊やぐれえのとき、おやじはお役所の馬方をしておって、おいらはちょっぴり手伝いをしてただ。ある日、おいらは鞍毛布にしわを残しといて、馬の背中に鞍ずれをつくっただね。しかし、おやじはなんとも言わなかっただ。ところがだね、あくる朝、おいらに四十ポンドの西部鞍〔西部のカウボーイなどが使う、大型の、つくりの複雑な重い鞍〕を背負わせやがったのさ。おいらは馬を引っぱってったばかりか、その鞍をおんぶしてカンカン照りの下を、ろくでもねえ山をこえなけりゃなんなかっただよ。まったくおいらは死にそうな目にあっただが、それからってもんは、二度とふたたび毛布にしわを残すようなまねはしなくなっただね。いや、残しようにも、そいつができなくなっただな。なにしろそのとき以来、おいらは毛布をのせるときになると、どうしても背中に鞍の重みを感じてきただからさ」
ジョーディーは手を上に伸ばし、ネリーのたて髪をつかんだ。「ビリー、おまえはぼくにいろんなことについて、どうしたらいいか教えてくれるだろうね? たぶん、おまえは馬のことならなんでも知ってるんだろ?」
ビリーは笑い出した。「そりゃ、おいら自身が半分馬のようなもんだからな」と彼は答えた。「おふくろはおいらが生まれたとき死んじゃったし、おやじは山国の馬方で、いつもまわりに雌牛なんかいなかったから、おやじはたいてえ馬の乳をおいらに飲ませていたんでな」それから彼はまじめになって、「馬のほうだってそいつを知ってるだよ。そうだろ、ネリー?」と言った。
雌馬は首をまわして、一瞬、彼の目をまともにじっと見つめたが、これはふつうの馬がほとんどすることのない仕草なのである。ビリーは得意になり、今や自分にたいして自信がついてきた。そこですこし大きく出た。「なんとかあんたがりっぱな子馬を手に入れられるようにしてやるだ。だから、ひとつ、初めっからちゃんとやってもらおう。もしあんたがおいらの言うとおりしてくれたら、あんたはこの郡で最高の馬を持つことになるだんべえな」
それを聞いて、ジョーディーも心温り、誇らしく感じた。あんまり誇り高く感じたので、母屋にもどる途中、馬の達人がそうするように、両脚を弓形に開き、肩をゆすって歩いた。そして、こうささやいた……「どう、どう、ブラック・ディーモン! 腰を落ち着け、足を大地につけるんだ」
冬が急にやってきた。前ぶれの、はげしいにわか雨が二、三度きたかと思うと、それからは強い雨がおやみなく降りつづいた。まわりの丘陵は、雨にあたると麦ワラ色を失って黒々とした色に変わり、冬の奔流《ほんりゅう》が峡谷《きょうこく》をそうぞうしく流れ落ちてきた。マッシュルームやホコリダケがひょっこり頭を出し、クリスマス前に新しい草が芽を出しはじめた。
しかし、今年のクリスマスはジョーディーにとって中心的な日ではなかった。一月のある不定の日が軸《じく》となり、そのまわりを月日が回転しているみたいだった。雨季がはじまると、少年はネリーを仕切り部屋に入れ、毎朝温い食事をあたえ、櫛やブラシを忠実にかけてやるのだった。
雌馬の腹があまりにも大きくふくらんできたので、ジョーディーはあわててきた。「あの子はパッと大きく破裂しちゃうんじゃないかな」と彼はビリーに言った。
ビリーはその頑丈な四角ばった手をネリーのふくらんだ腰にあてた。「ここにさわってみなせえ」と彼は静かに言った。「動いてるのがわかるでねえか。もし双生児《ふたご》の子馬でもとび出したら、さぞあんたはびっくりするべえよ」
「まさか、おまえはそう考えてるんじゃないだろ?」とジョーディーは叫んだ。「ねえ、ビリー、双生児だなんて、思ってるんじゃないだろうね?」
「ええ、そうは思っちゃいねえだが、ときたまそういうことも起こるんでな」
一月の最初の二週間は雨がひっきりなしに降りつづいた。ジョーディーは学校のないとき、たいていネリーといっしょに仕切り部屋ですごした。子馬の動くのを感じるため、一日に二十回も、彼は雌馬の腹に手をあててみるのだった。ネリーは日ましにおとなしくなり、少年にたいしてやさしくなってきた。彼の体に鼻をこすりつけたり、彼が納屋にはいってくると、やさしくいなないたりするのであった。
ある日、カール・ティフリンがジョーディーといっしょに納屋にはいってきた。父は手入れのよく行きとどいた粟毛の毛皮を感心して眺め、あばら骨や肩にかけてのしっかりした肉付きを手でさわってみた。「おまえはいい仕事をしてきたな」と彼は息子に言った。そして、これは彼の知っている最高の賛辞であった。そのあと何時間も、ジョーディーは誇りに胸をふくらましていた。
一月の十五日になったが、まだ子馬は生まれなかった。そして二十日。ジョーディーは心配で胸がつかえてきた。「大丈夫なの?」と彼はビリーにたずねた。
「うん、大丈夫さ」
それから、もういちど、「大丈夫だってこと、たしかなのね?」ときいた。
ビリーは雌馬の首筋をなでてみた。雌馬は落ち着かなげに頭を振った。「ねえ、ジョーディーさん、前にも言ったとおり、いつも時がおんなじとはかぎらんでな。まあ、待つほかねえだよ」
一月が終わっても誕生が見られなかったので、ジョーディーの気が変になってきた。ネリーはお腹があんまり大きくなって、呼吸が困難になり、まるで頭が痛いみたいに両方の耳がくっついて、まっすぐ突っ立ってきた。ジョーディーの眠りは安らかさを失い、夢が混乱してきた。
二月二日の晩、彼は泣きながら目をさました。母親が彼に呼びかけた……「ジョーディー、おまえは夢を見ているのよ。目をさまして、もういちど眠りなおしなさいね」
しかし、ジョーディーの胸は恐怖とわびしさにみたされていた。彼は母親が眠りにもどるのを待ってしばらく静かにしていたが、それから起き上がると服をひっかけ、はだしで外にしのび出た。
夜はまっ暗でよどんでいた。すこし霧雨が降っていた。イトスギと使用人小屋がぼーっと見えたが、それもやがて霧の中に没してしまった。納屋の戸は開けるときギーときしる音をたてたが、今までは、昼間、そのようなことがなかったのだ。ジョーディーは棚のところに行って、カンテラとブリキのマッチ箱をみつけた。灯心に火をつけると、ワラのいちめんにちらばった長い通路を歩いてネリーの仕切り部屋まで行った。雌馬は立ち上がって、全身を左右にゆり動かしていた。ジョーディーは彼女に、「よし、ネリー、よしよし、ネリー」と呼びかけたが、彼女は体の動揺をやめもしなければ、振り向きもしなかった。彼が仕切りの中にふみこんで、肩にふれると、彼女は彼の手の下でブルブル身をふるわした。そのとき、仕切り部屋の真上の乾草棚からビリー・バックの声がかかった。
「ジョーディーさん、何をしてるだね?」
ジョーディーはハッと立ちのき、ビリーが乾草の中にしつらえた寝床のほうに悲しそうな視線を送った。「この子、大丈夫だと思う?」
「うん、大丈夫だと思うだ」
「ビリー、困ったことが起こらないようにしておくれよ、大丈夫だね?」
ビリーはうなるような口調で少年に言った……「きっとあんたを呼びに行くと言ったじゃねえか。おいらそのとおりにするだ。さあ、あんたはベッドにもどって、その雌馬をかまったりするのはやめるだね。やっこさんにはあんたのお節介《せっかい》を受けなくっても、することがけっこうたくさんあるだからよ」
ジョーディーはちぢみ上がった。ビリーがそんな調子でしゃべるのをこれまで聞いたためしがなかったからだ。「ぼく、ちょっと見てみようと思っただけだよ。目をさましたんでね」
それから、ビリーは気持ちをすこしやわらげた。「まあ、ベッドにもどってくれ。あんたに雌馬のお節介をしてもらいたくねえだよ。あんたにりっぱな子馬を渡してやると言っただろ。さあ、さっさとお帰り」
ジョーディーはゆっくり納屋から出て行った。カンテラは吹き消して棚にもどした。夜の闇と、ひんやりする霧が彼にぶつかり、すっぽり全身を包んだ。彼はビリーが口にしたことのすべてを、赤い小馬が死ぬ前にそうしたように信じたいと思った。弱いカンテラの炎でくらんでいた彼の目が暗闇になれるまでにはしばらくかかった。しめった地面で、はだしの足が冷えてきた。イトスギのところにくると、ねぐらについていた七面鳥がおどろいてすこしざわめいた。二匹の忠実な犬は自分たちの義務感にこたえてとび出してきた……コヨーテが木の下をうろついていると思い、吠え立てて追いはらおうとしたのである。
台所をこっそり通りぬけようとしたとき、ジョーディーは椅子にぶつかって、それをひっくりかえした。「だれだ? そこで何をしてるんだ?」とカールが寝室からどなった。
すると、ティフリン夫人が眠そうな声で、「あなた、どうしたの?」ときいた。
次の瞬間、カールがロウソクを手に持って寝室から出てきて、ジョーディーはベッドにもぐりこむ前にみつかってしまった。「おまえ、起きて何してるんだ?」
ジョーディーは恥ずかしそうに顔をそむけて、「ぼく、雌馬を見に行ってきたんだよ」と答えた。しばらくの間、父親の心の中では、目をさまされた憤《いきどお》りが、息子の行動を承認したい気持ちとたたかっていた。やがて、父はこう言った……「いいかね、この郡には子馬についてはビリーほどくわしい者は一人もいないんだぞ。この事はやつにまかしておくんだな」
すると、ジョーディーの口をついてとび出してきた言葉があった……「でも、赤い小馬は死んだよ……」
「そいつをやっこさんのせいにするんじゃないぞ」とカールはきびしく言った。「ビリーに助けられん馬なら、だれにだって助けられんよ」
「ねえ、あなた」とティフリン夫人が口を入れた、「あの子に足を洗わして寝かせてくださいよ。あした一日じゅう、眠たくて困りますから」
ジョーディーがはげしく肩をゆすぶられたのは、眠ろうとしてやっと目を閉じたばかりのときのように思われた。ビリー・バックが手にカンテラをさげて、彼のかたわらに立っていた。「起きなさい。大急ぎで」ビリーは向きなおると、あわてて部屋から出て行った。
ティフリン夫人が、「どうしたの? ビリー、あんたかね?」と叫んだ。
「はい、奥さん」
「ネリーが産気づいたの?」
「はい、そうです、奥さん」
「よろしい。じゃ、わたし起きてお湯をわかしましょうね、それが入り用になるかもしれないから」
ジョーディーはまたたくまに服を着がえたので、ビリーのブラブラゆれるカンテラが納屋の途中までしか行っていないころ、彼はもう裏口からとび出していた。山の頂きは夜明けの薄あかりにふちどられていたが、農場のある盆地まではまだ光がさしこんでいなかった。ジョーディーは気ちがいのようにカンテラを追いかけ、ビリーが納屋に着いたと同時に彼に追いついていた。ビリーはカンテラを仕切り部屋のわきの釘《くぎ》にかけると、ブルー・デニムの上着をぬいだ。彼が下に袖なしのシャツしか着ていないことが少年にわかった。
ネリーは体をコチコチにこわばらせて立っていたが、二人が見まもっているうちに、彼女はしゃがみこんでしまった。けいれんのために全身がねじれるみたいだった。けいれんが去った。しかし、それはすぐにまたはじまり、また去った。
ビリーは神経質に、「どっかおかしいぞ」とつぶやいた。彼の素手が見えなくなった。「こりゃあ、いけねえ。どうもおかしい」
けいれんがふたたびはじまったが、こんどはビリーが力いっぱいがんばり、彼の腕から肩にかけて力こぶが目についた。彼はハアハアはげしく息をはずませ、額は玉の汗がにじみ出てきた。ネリーは痛そうに悲鳴を上げた。ビリーはつぶやいた……「おかしいが、おいらには向きを変えられねえ。逆《さかさ》になってる。まったく逆になってるだ」
彼は狂おしい目つきでジョーディーのほうをにらんだ。それから、彼の指は注意深く念入りに診察を行なった。両方の頬がだんだんひきしまり、血の気を失って灰色になってきた。彼は仕切り部屋のうしろに立っているジョーディーのほうを、もの問いたげにまる一分間も眺めていた。それからビリーは馬糞《ばふん》窓〔馬糞を捨てる窓〕の下の棚に近づき、ぬれた右手で蹄鉄《ていてつ》ハンマーを取り上げた。
「ジョーディーさん、外に出てくだせえ」
少年はじっと立ったまま、活気のない目つきでビリーを見つめていた。
「出てくだせえよ、ほんとうに。手おくれになるといけねえだから」
ジョーディーは動こうともしなかった。そこで、ビリーはすばやくネリーの頭のところへ歩みよって、こう叫んだ……「あっちを向いて、ちくしょうめ、あっちをだよ」
こんどはジョーディーも命令にしたがった。彼の頭はわきに向いた。ビリーが仕切り部屋の中でしゃがれ声でささやいているのが聞こえた。それから、骨がバリバリとくだけるうつろな音がした。ネリーが鋭くクックッといった。ジョーディーが振り向くと、ちょうどハンマーが持ち上げられ、平べったいおでこにふたたび打ちおろされるところだった。それから、ネリーはドシンと横に倒れ、一瞬、ブルブルッとふるえた。
ビリーはふくらんだ腹にとびついたが、片手には大きなナイフが握られていた。彼は皮膚を持ち上げ、ナイフを突き刺した。それから、こわばった腹の皮をノコギリみたいにひいて、引き裂いた。あたりの空気は温い生きた内臓のムカムカするにおいにみたされた。ほかの馬たちは端綱《はづな》ぐさりを引っぱって、うしろ脚で立ち上がり、キーキーと悲鳴を上げたり足蹴りをしたりした。
ビリーはナイフを下におとした。彼はおそろしくギザギザに切りこまれた穴の中に両腕を突っこみ、大きな、白い、血の滴《したた》る包みを引っぱり出した。その袋に彼は歯で孔《あな》をあけた。その裂け目から、小さな黒い頭と、小さな、すべすべしてぬれた二つの耳が現われた。ゴロゴロと息が吸いこまれ、さらにもう一度吸いこまれた。ビリーは袋をはぎとると、ナイフをみつけて、紐《ひも》を切断した。しばらくの間、彼は小さな黒い子馬を腕に抱きかかえて眺めていた。それから、ゆっくりと歩を進め、ジョーディーの足元のワラの中にそれをねかせた。
ビリーの顔や腕や胸からは赤い血が滴りおちていた。彼の体はふるえ、歯はガタガタいっていた。声がつぶれ、喉《のど》の奥のほうでささやくように言った。「さあ、あんたの子馬だ。おいら約束したからな。ちゃんとそこにいるだよ。でも、おいら、どうしてもああしなけりゃなんなかっただ」そこで彼は言葉を切ると、肩ごしに仕切り部屋の中をのぞきこんだ。「行ってお湯とスポンジを持ってきてくれ」と彼はささやいた。「この子をちょうどおふくろがするように洗って、かわかしてやるんだ。えさは手でやらなきゃならんよ。しかし、おいらが約束したとおり、あんたの子馬を手に入れてやっただな」
ジョーディーはぬれて、ハアハアあえいでいる子馬をポカンと見つめていた。そいつはあごを伸ばして頭をもち上げようとした。そのうつろな目はネイビー・ブルーだった。
「このろくでなしめ!」とビリーは叫んだ。「今すぐ湯をとりに行ってくれ、すぐにだよ」
それから、ジョーディーは向きなおって、トコトコ納屋からかけ出すと、夜の明けかかった外に出て行った。彼は喉から腹にかけてチクチク痛むし、両脚はこわばって足どりが重かった。子馬が手にはいったのでよろこぼうとつとめたが、しかしビリー・バックの血だらけの顔と、何かにとりつかれたような疲れきった目が彼の前方の宙に浮かんでいたのだ。
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四 人々の指導者
土曜日の午後、作男《さくおとこ》のビリー・バックは前年の乾草塚の残りを熊手《くまで》でかきよせては、ちょっぴり熊手にのったものを鉄柵ごしに、あまりそんなものに興味を示さない数頭の牛に向けて放り投げてやった。空高く大砲の煙をパッパッと散らしたような小さな雲が、三月の風のために東のほうへと吹き送られていた。尾根の頂きのホウキスゲの間を吹き分けて行く風のヒューヒューという音は聞こえたが、農場の盆地まで吹きおろしてくる風の気配はまったくなかった。
ジョーディー少年はバターのついた厚いパン切れをかじりながら母屋から出てきた。彼はビリーが乾草塚のあとしまつをしているのを見た。ジョーディーは靴を引きずりながらドタンドタンとやってきたが、それはよい靴皮をいためるといましめられていた歩き方だった。黒いイトスギの木からは、少年がその下を通りすぎると、白いハトの群れが飛び立ち、木のまわりを一周して、またそこにもどってとまった。一匹のすこし大きくなった三毛《みけ》の子猫が、使用人小屋のポーチからとびおりると、こわばった脚でチョコチョコと通路を横断し、ぐるっと一回転して、またもとのところへとかけもどった。ジョーディーはその遊びの応援をしようと石ころを一つひろい上げたが、手おくれだった。猫は石を投げつける前にポーチの下にもぐりこんでしまったからだ。彼がその石をイトスギの中に投げこむと、白バトの群れはもういちど旋回飛行に飛び立った。使いつくした乾草塚のところに着くと、少年は有刺線《ゆうしせん》をめぐらした柵によりかかった。「もうそれでおしまいなの?」と彼はきいた。
中年の作男は丹念な熊手がきをやめ、熊手を地面に突きさした。それから、黒い帽子をぬぐと、髪の毛を手でなでつけた。「地面の湿気でぬれてねえのはもう残っちゃいねえだ」と彼は答えた。それから、帽子をかぶりなおすと、なめし皮のようにカサカサした手をこすり合わせた。
「きっとハツカネズミがたくさんいるだろうね」とジョーディーは言ってみた。
「どっさりな」とビリーは答えた。「まったくネズミだらけだろうよ」
「じゃあ、おまえの仕事がすっかりすんだら、ぼくが大人を呼んできて、ネズミ狩りができるだろうね?」
「そりゃ、たぶんできるだんべえ」とビリー・バック。彼は地面に近い、しめった乾草を熊手いっぱいもち上げると、それを空中に放り投げた。すると、たちまち三匹のハツカネズミがそこからとび出し、それから気ちがいのようにあわててふためいて、もう一度乾草の下にもぐりこんだ。
ジョーディーは満足の溜息をついた。このまるまるとして、すべすべした、傲慢不遜《ごうまんふそん》なハツカネズミどもの運命はきまった。八か月もの間、やつらはその乾草塚の中に住みついて、繁殖してきたんだ。猫からも、ワナからも、毒からも、ジョーディーからも、安全に守られてきたんだ。やつらは安全を保証されたおかげで、自己満足にひたり、横柄《おうへい》になり、でっぷり太ってきたのだ。ところが今や、災害の日がやってきた。やつらはあと一日も生きのびることができまい。
ビリーは農場をとりまく丘陵の頂上を見上げた。「でも坊やは、そうする前におやじさんにきいてみたほうがよさそうだな」と彼は忠告をした。
「うん、そうか。お父っつあんどこにいる? 今すぐきいてみよう」
「昼飯《ひるめし》のあと、峰の農場に馬で出かけなすっただがな。もうじき帰ってきなさるだよ」
ジョーディーは柵の柱にぐったりもたれかかった。「お父っつあん、そんなこと気にしないと思うけど」
ビリーは仕事にもどりながら、気味のわるい言い方をした……「しかし、どっちみちきいてみたほうがよかろうな。おやじさんがどんな人だかあんたにもわかってるはずじゃが」
たしかにジョーディーにもよくわかっていた。彼の父親のカール・ティフリンは、自分の農場で行なわれることにたいしては、その重要性のいかんを問わず、かならず自分が許可をあたえることにしていた。ジョーディーは柱によりかかった体をだんだん下にずりおろしていき、とうとう地面に腰をおとしてしまった。彼は風に吹き流されて行く煙の切れはしのような雲を見上げた。「ねえ、ビリー、雨が降りそうかい?」
「降るかもしれんね。雨につごうのいい風向きだが、ちょっと強さが足りねえようだな」
「でもさ、ぼくがあの〈ろくでもねえ〉ハツカネズミどもを殺してしまうまで降らないといいんだがね」彼はビリーが、今自分が使った、大人らしいバチあたりの言葉に気がついたかどうかたしかめようと肩ごしに見やった。ビリーはなにも言わずに仕事をつづけていた。
ジョーディーは振り返って、外の世界からの道路が下ってきている山腹に視線を送った。そこの丘は、弱い三月の陽ざしを浴びている。ホウキスゲの間に、銀アザミ、青ルピナス、数すくないケシなどが咲き出ている。丘を半分ほどのぼったあたりで、黒犬のダブルトリー・マットがリス穴をせっせと掘り起こしているのが見えた。やっこさんはしばらくカイでもこぐように足を前後に動かし、それからひと休みすると、こんどはあと脚の間にはさんで泥を蹴り出すのであった。彼は本気で穴を掘っていたが、それは彼が持っているにちがいないと思われる、どんな犬にしろ穴を掘ってリスをつかまえたためしがないという知恵を裏切るものである。
ジョーディーがそうして眺めている間、とつぜん、黒犬は体をシャンとこわばらせ、穴からあとずさりして出ると、道路が通っている尾根のわれ目のほうを見上げた。ジョーディーもそれにつられて視線を移した。一瞬、カール・ティフリンの馬上の姿が、色のうすれた空を背景に浮かび上がったが、すぐに彼は家のほうに向かって道を下りはじめた。彼は手に何か白いものを持っていた。少年はサッと立ち上がった。「手紙を持ってるんだよ!」とジョーディーは叫んで、農家に向かってトコトコ走り出した。たぶんその手紙は声を出して読まれるだろうし、彼としてはその場に居合わせたかったからだ。少年は父よりも先に母屋に到着して、中にかけこんだ。父が鞍《くら》をギシギシいわせて馬から降り、納屋に行くようにと馬の横腹をピシャリとたたく音が聞こえた。納屋に行けば、ビリーが鞍をおろし、馬を牧場に放してやることになっていた。
ジョーディーは台所にかけこんだ。「手紙がきたんだよ!」と彼は叫んだ。
母はインゲン豆を煮ていた鍋《なべ》から目を上げて、「だれが持ってるの?」とたずねた。「お父っつあんだよ。ぼく、お父っつあんが手に持ってるのを見たんだ」
そのとき、カールが大またで台所にはいってきたので、ジョーディーの母は、「あなた、その手紙だれからきたの?」ときいた。
父はたちまち顔をしかめた。「手紙がきたなんて、どうしておまえは知ったのかね?」
母は少年のほうに頭をさげた。「〈おしゃま〉のジョーディーが教えてくれたのよ」
ジョーディーは困惑した。
父はさもさげすむように息子を見おろした。「やつはだんだんおしゃまになってくるな」とカールは言った。「自分の頭のハエは追わんで、みんなのお節介ばかりやいておるんだ。なんにでも口を出しやがるんだよ」
ティフリン夫人はすこし心をやわらげた。「でもそれは、あの子にいそがしくしていられるようなものが十分にないからなのよ。それはそうと、いったいだれからのお手紙?」
カールはまだジョーディーにたいして顔をしかめていた。「やっこさん気をつけんと、目がまわるほどいそがしくこき使ってやるからな」彼は封をした手紙をさし出した。「たぶんおまえのおやじさんからだろ」
ティフリン夫人は髪からヘアピンを一本引きぬくと、折り返しをスルスルッとはがして手紙を開けた。母は分別くさそうに口をとがらして読みはじめた。ジョーディーは母の目が文句の上をすばやく左右に動くのを見ていた。「あら」と母は手紙の内容を伝えて言った、「おじいちゃんはしばらく泊まるつもりで土曜日に馬でくると言ってるわ。でも、今日が土曜でしょ。きっとこの手紙がおくれたのね」母は消し印を見た。「これはおととい出したのよ。きのう着いてていいはずだわ」彼女はもの問いたげに夫のほうを見上げ、それから怒ったように顔をくもらせた。「どうしてそんな顔なさるの? あの人、そうしじゅうくるわけじゃないでしょ」
カールは彼女の怒った顔から目をそらした。彼もたいていのときは妻にたいしてきびしい態度をとることができたが、ときたま妻がかんしゃくを起こしたりすると、彼には太刀打《たちう》ちができないのだった。
「あなたはどうしたというの?」彼女はふたたびきいた。
彼の説明の言葉のうちには、ジョーディー自身が使いそうな、わびる調子がふくまれていた。「ただ、あの人がしゃべるからなんだよ。ただ、むやみにしゃべくるんでな」カールはためらいがちに言った。
「それで、それがどうしたというの? あなたご自身だってしゃべるでしょ」
「そりゃ、わしだってしゃべることはしゃべるさ。しかしおまえのおやじさんときたら、ただ一つの事だけについてしゃべるんだな」
「インディアンのことだよ!」ジョーディーは興奮して口をはさんだ。「インディアンと大平原横断のことなんだ!」
カールはこわい顔で息子のほうに向きなおった。「おまえは出て行け、このおしゃまやろうめ! さあ、さっさと出て行くんだ!」
ジョーディーはみじめな気分で裏口から出ると、網戸をいかにも念入りにそうっと閉めた。台所の窓の下で、恥ずかしさにうつ向いた彼の目が、妙な形をした石にぶつかった。それがあまりにも魅力に富んだ石だったので、少年はそこにしゃがみこんで、それをひろい上げ、両手にのせると、裏をひっくりかえして眺めた。
開いた台所の窓から二人の声がはっきりと聞こえてきた。「まったくジョーディーの言うとおりだよ」父の声だった。「ただ、インディアンと大平原横断の話だけなんだな。たくさんの馬がつれ去られたって話を、それこそ一千回も聞かされたよ。じいさんはそれからそれとおしゃべりをつづけ、話す事柄がただの一言も変わりゃしねえんだ」
ティフリン夫人が答える番になると、その言葉の調子が今までとあんまり違っていたので、窓の外側のジョーディーは石をじっと眺めていた目を上げた。母の声はやさしく、言いわけがましくなっていた。ジョーディーには、母の表情がそうした調子に合わせてどのように変わるかわかっていた。母はおだやかに言った……「ねえ、あなた。それをこんなふうに見たらいかが? あれはわたしの父の生涯でいちばん大きな出来事だったのよ。あの人は幌馬車隊を率いて大平原を横切り、太平洋までつれていったのね。そしてそれがおわったとき、あの人の人生もおしまいになったのよ。それは大きな仕事だったんだけど、そう長くはつづかなかったのね」
「ねえ、いいこと!」と母はさらに言葉をつづけた。「あの人はそれをするために生まれてきたようなものなのね。だから、それをやりおえてしまうと、その事について考えたり、しゃべったりする以外に、あの人のすることはなんにもなくなったのよ。もしもっと進んで行く西部でもあったら、きっとあの人はそこへ出かけて行ったでしょうね。ご自分でそのとおりのことをわたしに話しくれたわ。しかし、さいごには大洋にぶつかったの。そこであの人は、自分が止まらなければならなくなったその海のほとりに住んでいるのね」
彼女はカールをとらえた……そのやさしい口調の中に、彼をとらえ、その中に彼を抱きこんでしまった。
「わしも見たことがあるよ」と彼は静かに言った。「あの人が海辺に下って行き、西のほう、はるか大海の彼方をじっと見すえているのをね」それから彼の声はすこしするどく変わった。「それからパシフィック・グローヴ〔モンテレイに近い太平洋岸の町〕の馬蹄《ホースシュー》クラブに上がってきて、インディアンどもが馬の群れをつれ去った話をみんなにするんだな」
彼女はふたたび彼をとらえようとした。「でもね、それがあの人にとってすべてなのよ。ですから、あなたもがまんして、あの人の話に耳を傾けてるようなふりをしてもよさそうなもんですわ」
カールはもどかしそうに目をそらした。「まあ、あんまりひどくなったら、わしはいつだって小屋におりてって、ビリーといっしょにいるからかまわんがね」と彼はいらだって言った。彼は家の中を通りぬけ、表のドアをバタンとうしろ手に閉めて出て行った。
ジョーディーは自分の仕事をするためかけ足でとび出した。彼はニワトリにえさをまいてやったが、それを追いかけたりはしなかった。あちこちの巣から卵も集めた。また、薪《まき》を家の中にはこび、箱の中にていねいにたがいちがいに積み上げたので、腕いっぱい抱えて二回持ちこんだだけで、箱があふれるみたいに見えた。
母はこのときまでにインゲンの料理をおわっていた。彼女は火をかき起こし、七面鳥の羽根でストーヴのふたを掃除した。ジョーディーは用心深く母親のほうを見つめて、まだ父にたいするうらみが残っているかどうかたしかめようとした。「おじいちゃんは今日くるの?」と少年はたずねた。
「手紙にはそう書いてあるのよ」
「ぼくおじいちゃんを出迎えに道の上までのぼってってもいい?」
ティフリン夫人はストーヴのふたをガチャンと閉めた。「そうしてやれば親切になるわね」と母は言った。「たぶんおじいちゃんも出迎えてもらいたいだろうしね」
「じゃあ、ぼくそうするよ」
家の外で、ジョーディーは強く口笛を吹いて犬たちを呼んだ。「さあ、丘にのぼるんだ」と彼は命令を下した。二匹の犬は尻尾を振りふり先頭を走った。路傍のホウキスゲはやわらかい新芽をふいていた。ジョーディーはその葉を何枚かもぎとると、両手でもんでいるうち、あたりの空気はツンとした野性的なにおいにみたされた。犬たちは急にドッと道路から飛び出し、ウサギを追ってキャンキャン吠え立てながらホウキスゲのやぶの中にもぐりこんだ。ジョーディーが犬の姿を見たのはそれがさいごだった。というのも、犬たちはウサギをつかまえそこなうと、家にもどってしまったからだ。
ジョーディーは尾根の頂上めざして山道をトボトボのぼって行った。道路が切りどおしになってついている狭い山の切れ目に着くと、午後の風があたって髪の毛をうしろになびかせ、シャツをヒラヒラ波立たせた。彼は下の小さな丘陵や峰を見おろし、さらにその先にひろがる広々とした緑のサリーナス平野を見はらした。はるか彼方の平地にサリーナスの白い町と、傾きかかった陽ざしの下に家々の窓がキラキラ光るのとが見えた。すぐ足元のカシワの木には、カラスが集まって何か会議を催していた。その木は、同時にカアカア叫ぶカラスで黒々と見えたからだ。
それからジョーディーの視線は、今自分が立っている峰の頂きから荷馬車道にそってだんだん下って行き、一つの丘のうしろにその道筋を見失ったが、反対側でもう一度それを見つけた。その遠い道筋に、粟毛の馬にのろのろと引かれた一台の荷車が見えた。だが、それもやがて丘のうしろに隠れた。ジョーディーは地面に腰をおろして、荷車がふたたび現われてくるはずの場所をじっと見まもっていた。風は丘の頂きでピューピューうなり、煙の玉のようなちぎれ雲が東のほうへと急いでいた。
それから、荷車が見えてきて止まった。黒い服を着た一人の男が座席から降りると、馬の頭のほうに歩いて行った。そんなに遠く離れていても、ジョーディーには、その男が、馬の頭が前のほうにたれさがってきたので止め手綱《たづな》〔馬の頭がさがるのを防ぐために、頬革と鞍とをつないでとりつけた綱〕のホックをはずしたことがわかった。馬は動き出し、男は馬とならんで歩き、ゆっくり坂をのぼりはじめた。ジョーディーは歓声を上げると、おじいちゃんのほうに向かって道をかけ下っていった。何匹ものリスが道からピョンピョン逃げ出し、一羽のヤブカッコウ〔アメリカの西部に住むカッコウの一種だが、地上を走るので「ロード・ランナー」とも呼ばれる〕が尻尾を振りふり稜線《りょうせん》を疾走し、やがてグライダーのように空中に飛び出した。
ジョーディーは一歩ごとに自分の影のまん中にとびこもうとした。足元の石をコロコロころがしながら彼は下っていった。小さな曲り角をかけ足でまわると、ちょっと離れた前方に、彼のおじいちゃんと荷車があった。そこで、少年はぶかっこうなかけ足を急にやめ、威厳をつけた並み足で接近していった。
馬はつまずきながらもコツコツと坂道をのぼって行き、老人はそのかたわらを歩いてのぼった。西に傾きかかった夕陽のために、彼らの大きな影は、うしろに黒々とちらついていた。おじいちゃんは黒ラシャの服を着て、キッドの深ゴム靴をはき、低い固いカラーに黒ネクタイをむすび、手には黒い前べりをたれたソフト帽を握っていた。白いあごひげは短く刈りこまれ、白い眉毛がまるで口ひげのように目の上におおいかぶさっていた。青い目はきびしさのうちにも陽気さをたたえていた。顔から姿全体にかけて、どこか花崗岩《かこうがん》を思わせるような威厳がただよっていて、体の動きのひとつひとつがありえないもののように思われた。老人はひとたび落ち着くと、石と化し、二度とふたたび動き出そうとは思えなかった。彼の足どりはゆっくりと確実だった。ひとたびふみ出せば、二度とあとにひくことができないようであり、ひとたびある方向に向かえば、進路は曲がることがなく、歩調は早まりもしないし、ゆるまりもしないようであった。
初めジョーディーが曲り角から姿をあらわしたとき、おじいちゃんは歓迎のために帽子をゆっくりと振り、「やあ、ジョーディーかい? わしを出迎えにきてくれたんだな?」と叫んだ。
ジョーディーは老人のそばをゆっくりと歩き、ときどき横を向いては自分の足どりを老人の足どりに合わせ、体をこわばらせ、かかとを心もち引きずった。「はい、そうです。おじいちゃんの手紙は今日やっと着いたんだよ」
「きのう着くはずじゃったんだがな。たしかにそのはずだったのにさ。みんな元気かね?」
「ええ、みんな元気です」それから少年はちょっとためらったあげく、恥ずかしそうに申し出た……「あしたハツカネズミ狩りにおじいちゃんもくる?」
「なに、ジョーディー、ハツカネズミ狩りだと?」おじいちゃんはクスクス笑い出した。「この節《せつ》の人間はハツカネズミの猟をするほど落ちぶれたのかね? このごろの人間が、あんまりたくましくねえことは知っとるが、まさかハツカネズミがやつらの獲物になるとは思わなかったな」
「いいえ、ちがうんです。それはただの遊びなんですよ。乾草塚がなくなったから、ぼくはそこからハツカネズミを追い出して犬にくれてやろうと思うんです」
きびしい、陽気な眼差しが少年に向けられた。「うん、そうか。すると、おまえたちはネズミをたべるんじゃないんだね。なんぼなんでも、まだそこまでは落ちぶれていまいよ」
ジョーディーは説明するように言った……「犬がそいつをたべるんです。でも、それはインディアン狩りとはだいぶちがうみたいですね」
「そうとも、あんまり似ちゃおらんな……しかし、あとになってだね、軍隊がインディアン狩りをしたり、その子供たちを射ったり、テント小屋を焼いたりし出すと、おまえたちのハツカネズミ狩りとあんまりちがわないみたいだったな」
二人は丘のてっぺんに着き、それから農場盆地に向かって下りはじめたが、そうなると、もう陽ざしは肩にもあたらなくなった。「おまえも大きくなったわい」と祖父は言った。「まあ一インチ近くは伸びたろう」
「もっとですよ」と言って、ジョーディーは得意な表情を見せた。「ドアにつけたしるしではかると、感謝祭のときからでも、一インチ以上伸びているんです」
おじいちゃんは喉にかかる太い声で言った。「たぶんおまえは水を飲みすぎて、背ばっかりヒョロ長く伸びたんだろうよ。まあ、頭ぶんぐらい伸びるまで待ってから、はっきりきめるとするかな」
ジョーディーはあわてて老人の顔をのぞきこみ、気持ちをそこねているかどうかたしかめようとしたが、そのするどい青い目には、こちらをやっつけたり罰したりしようとする意志も、こちらをつけ上がらせないようにおさえつけようとする光もみとめられなかった。「ぼくたちブタを殺してもいいんだよ」とジョーディーは申し出た。
「いや、とんでもない! わしはおまえにそんなことさせられんよ。おまえはわしの機嫌をとろうとしてるだけだろうが、今はそんなことする時機じゃねえし、そんなことおまえだって知っているはずだが」
「おじいちゃん、あのでっかい雄ブタのライリー知ってる?」
「うん。ライリーはよくおぼえてるよ」
「それでね、ライリーのやつ、あの同じ乾草塚に穴を食いあけたところ、上から乾草がごっそり落ちてきて、あいつ窒息《ちっそく》しちゃったんだよ」
「そうか、ブタってやつは、そうすることのできるときには、よくそうするもんなんだな」と祖父は言った。
「ライリーは雄ブタとしちゃあいいやつだったね。ぼくはときどきあいつに乗ったけど、ベつにいやがりもしなかったよ」
下の母屋《おもや》でドアがバタンと閉り、ジョーディーの母親がポーチに立って、歓迎のためにエプロンを振っているのが見えた。それから、カール・ティフリンが、おじいちゃんの到着に間に合うように家に着こうと、納屋のところからのぼってくるのも目にはいった。
このころまでには、夕陽は丘のかげに姿を没していた。母屋の煙突から立ちのぼった青い煙は、紫色に暮れかかってきた盆地の上に平べったいいくつかの層をなしてたなびいていた。吹きおろしてくる風のためにたたき落とされたちぎれ雲は、ものうげに空に浮かんでいた。
ビリー・バックは使用人小屋から出てくると、洗面器の石けん水を地面にぶちまけた。彼は週の半ばだというのに、ひげをそっていたのだ。それというのも、ビリーはおじいちゃんを尊敬していたからである。おじいちゃんのほうでも、ビリーは新しい世代の人間で軟弱《なんじゃく》化しない少数の者の一人だ、と言っていた。ビリーはもう中年になっていたが、おじいちゃんは彼をまだ子供のように思っていた。さて、ビリーも今、母屋のほうに向かって急いでいた。
ジョーディーと祖父が到着すると、三人は出迎えのため庭先の木戸の前で待っていた。
「やあ、お父さん、いらっしゃい。みんなお待ちしてました」とカールは言った。ティフリン夫人はおじいちゃんのあごひげの側面に接吻し、おじいちゃんが大きな手で彼女の肩をたたいている間、じっと立っていた。ビリーはムギワラのような色をした口ひげの奥でニヤニヤしながらも、おごそかに握手をかわした。「あなたさまの馬を厩《うまや》に入れますだ」
ビリーはそう言って、馬車を引っぱって行った。
おじいちゃんはビリーが去って行くのを見送っていたが、それからみんなのほうに向きなおり、これまで何十回でも言ってきたように、次のように言った……「あれはいい子ですわい。わしはあれのおやじさんミュール・テール・バックを知っておったよ。だが、どうしてみんながあれのおやじさんを〈ミュール・テール〉などと呼んだのか、わしにもわからんかったな……やっこさんが騾馬《ミュール》に荷を積んで運んでたことは知っとるがね」
ティフリン夫人は向きなおると、自分が先になって家の中にはいった。「お父さん、どのくらいお泊まりになるの? お手紙にはなんとも書いてなかったんですが」
「そうだな、よくわからんが、二週間ぐらいとは思っておったんだ。しかしだね、これまで自分が初めに予定したとおり長く泊まったことがないからね」
しばらくすると、一同は白い油布をかけたテーブルにすわって夕食をたべていた。ブリキの笠《かさ》がついたランプがテーブルの上にさがっていた。食堂の窓の外側では、大きな蛾《が》がガラスに体をぶっつけて静かにパタパタいわせていた。
おじいちゃんはビフテキをこまかに切って、ゆっくりかんでいた。「わしは腹がへっているんだよ。ここまで馬車に乗って出てくると、食欲が出たんだな。わしらが大平原を横断したときみたいによ。あのころは毎晩、とても腹がへったんで、肉の料理ができ上がるまで待てなかったんだな。わしなんか毎晩、野牛《バッファロー》の肉を五ポンドもたべられたよ」
「それもあっちこっち動きまわるためですだ」とビリーは口を入れた。「おいらのおやじは政府の運搬人をしておりましただが、おいらは子供の時分、おやじの手伝いをしてましただ。そのころ、おいらたち二人で、シカの腿《もも》肉をほとんど全部たいらげることができましただね」
「ビリー、わしはおまえのおやじさんを知っておったよ」とおじいちゃん。「なかなかりっぱな人だったわい。あの人を世間ではミュール・テール・バックと呼んでおったが、なぜそう呼んだのか、わしにはわからんね……あの人がラバに荷物を積んだことは知っておったが」
「そうでした。おやじはラバに荷物を積む仕事をしてましただ」とビリーが同意した。
おじいちゃんはナイフとフォークを下に置いて、テーブルのまわりを見まわした。「そういえば、あるときわしらが肉をきらして困ったのを思い出すね……」ここで彼の声は、奇妙な、低音の、歌をうたうような調子に……物語をするときに自然と出てくる一律《いちりつ》の調子に移っていった。「そこには野牛はもちろん、カモシカも、ウサギでさえ、おらなかったんだね。狩猟係りはコヨーテですら射ち止められなかったんだな。そうなると、指導者《リーダー》は警戒をしなけりゃならなかったんだ。わしは指導者だったもんで、目を大きく見開いて用心しておったな。なぜかわかるかね? つまりだね、みんなは腹がへってくると、牛車を引く雄牛を殺しはじめるからなんだよ。おまえたちにそんなごと信じられるかね? わしは牛車引きの牛をみんなたべつくした一団があったという話をよく聞いたもんさ。まん中の牛からたべはじめて、だんだん両端の牛にまで及ぶんだそうだ。さいごには二頭の先導牛をたべ、それから後牛《うしろうし》〔牛車を引くチームのしんがりで、車に直接つながれる牛〕までたいらげるってわけさ。そこで、一団の指導者は、みんながそんなまねをするのを防がなけりゃならなかったんだな」
窓ガラスにとっついていた大きい蛾《が》の一羽が、なんとかして部屋の中にはいってくると、天井からつるさがっている石油ランプのまわりを旋回しはじめた。ビリーは立ち上がって、それを両手でたたこうとした。カールは片手をカップ型にしてそいつをつかまえて握りつぶし、窓のところまで歩みよって、それを外に放り投げた。
「いま、わしの話したように」とおじいちゃんが言いかけると、カールはそれをさえぎった。「おじいちゃん、もっと肉を召し上がったほうがよさそうだな。わしらはみんなプディンの番にまわったところだからさ」
ジョーディーは母親の目に怒りのひらめきを見てとった。おじいちゃんはナイフとフォークをとり上げた。「たしかにわしもかなり腹ぺこのようだ。話はまたあとでつづけるとしよう」
夕食がすんで、家族の者やビリー・バックが別室の暖炉の前にすわると、ジョーディーはわくわくしながらおじいちゃんのようすを見まもっていた。彼にもわかっている、例のしるしが見えてきた。あごひげをたくわえた顔が前方に乗り出した。目はいつものきびしさを失い、物思わしげに炉火《ろび》の中をのぞきこんでいたし、大きなやせた両手の指は黒い膝の上に組み合わされていた。「ええと、いったいわしはあの話をみんなにしたことがあるかな……あの泥棒インディアンのパイウート族がわしらの馬を三十五頭もつれ去ったって話をさ?」
「したと思いますだ」とカールが口を入れた。「それはあんたたちがターホー地方にのぼって行くすぐ前のことじゃなかったですかな?」
おじいちゃんは自分の娘婿《むすめむこ》のほうにすばやく向きなおった。「そのとおり。じゃあ、その話は前にしたにちがいないよ」
「なんどもしましたね」カールは意地悪くそう言うと、細君の視線をさけた。しかし、自分に注がれる憤りの目を感じたので、「むろん、もう一度きかしていただきたいもんですがね」とつけ加えた。
おじいちゃんはふたたび炉火のほうに目をもどした。彼の指は組み合わされたりほどかれたりしていた。ジョーディーにも、おじいちゃんがどんな気持ちでいるか、どんなに心の内が打ちくだかれてうつろになっているか、よくわかるように思われた。ジョーディー自身もほかならぬ今日の午後、〈おしゃま〉と呼ばれなかったであろうか? 彼は勇気を出し、〈おしゃま〉と呼ばれてもかまわないと思った。「ねえ、インディアンのこと話してよ」と彼はやさしく言った。
祖父の目の色はふたたびきびしくなった。「男の子ってもんはいつだってインディアンのことききたがるものなんだ。そいつは大人にとっちゃひと仕事だったが、男の子にはおもしろい冒険談で、いつも聞きたがるものなんだな。ところで、いったいどの牛車にも長い鉄板を一枚持参するようにとわしが命じた話はしたことあったかね?」
ジョーディー以外の者はみんな黙っていた。「いいえ、話しませんでしたよ」と少年は言った。
「じゃあ話してやるが、インディアンが攻撃してくる場合、わしらはいつも牛車で円陣をつくり、車輪の間から戦ったもんさ。それで、もしどの車もライフルの銃眼がついた長い鉄板を持っていれば、牛車を円陣にならベ、車輪の外側にその鉄板を立てかけて身を守ることができたんだよ。そうすれば、人命を救うことになり、よぶんな鉄板をはこぶ労力のつぐないになるというもんさ。それ以前には、どんな団体もそんなまねをしたことがないし、なぜそんなことによけいな金を使うのかわからなかったやつもいたんだね。それで、やつらはあとで後悔することにもなったんだよ」
ジョーディーは母のほうを見やったが、その表情から、彼女が全然耳を傾けていないことを知った。カールは親指のタコをむしっており、ビリー・バックは一匹のクモが壁をのぼって行くのをじっと見つめていた。
おじいちゃんの口調はふたたび低音の物語調に移った。ジョーディーにもどんな言葉が出てくるかあらかじめわかっていた。物語は低い声でつづけられたが、攻撃のくだりではスピードが速くなり、傷ついた場面では悲しげな口調に変り、太平原で仲間を埋葬する段になると哀歌調をおびるのであった。ジョーディーは静かにすわって、おじいちゃんのようすを見まもっていた。きびしい青い目はどこか超然としていて、自分自身はその物語にあまり興味を感じていないみたいだった。
話がおわり、物語の辺境《フロンティア》さながらに沈黙が礼儀正しく保たれたあと、ビリー・バックは立ち上がってズボンをグイとたくし上げた。「おいらぼつぼつ休ましてもらいますかな」彼はそう言ったあと、おじいちゃんのほうに向きなおった。「おいらは小屋に、角《つの》製の火薬入れと雷管《らいかん》付きの弾《たま》をこめるピストルとを持ってきてますだ。あれをあなたさまにお見せしましたかな?」
おじいちゃんはゆっくりとうなずいて見せた。「うん、ビリー、見せてもらったと思うよ。あれはわしが人々の指揮をして大平原を横断したころ持ってたピストルを思い出させるものじゃの」ビリーはその短い話がおわるまで礼儀正しく直立していたが、それがすむと、「お休みなさい」と言って、家から出て行った。
そこで、カール・ティフリンは話題を変えようとした。「このへんとモンテレイとの間の地方はどんなようすですか? かなり乾燥してるという話ですが」
「うん、乾いておるな」とおじいちゃん。「ラグーナ・セカ〔沼の名〕には一滴の水もありゃしねえだ。しかしだな、八七年の旱魃《かんばつ》とくらべたら、ほんの子供だましといったところだわい。そのときは土地がすっかり粉みたいになったし、六一年にはコヨーテが全部死んでしまったよ。これでも今年は十五インチの雨が降ったからな」
「そりゃそうですが、その雨がみんな早く来すぎましたよ。このごろちょっぴり降ってくれたらありがてえんですがな」カールの視線はジョーディーの上に落ちた。「おい、おまえはもう寝たほうがいいんじゃないかい?」
ジョーディーはおとなしく立ち上がった。「お父っつあん、あの古い乾草塚のハツカネズミ、殺してもいい?」
「ハツカネズミ? ああ、いいとも、みんなやっつけちまうんだな。ビリーに言わせると、もういい乾草は残っていねえそうだから」
ジョーディーはおじいちゃんと満足そうな視線をひそかにかわした。「ぼく、あしたは一匹残らず殺しちゃうよ」と彼は約束した。
ジョーディーは床《とこ》にもぐると、インディアンや野牛のありえそうもない世界……もう永久に存在しなくなった世界……のことについて考えた。自分もそのような英雄的な時代に住むことができたらと思ったが、自分に英雄的な素質などないことはわかっていた。現在、生きている人間のうちには、たぶんビリー・バックを除いて、かつて行なわれたような事柄を行なうにふさわしい者はひとりもいないのだ。当時は、巨人の種族……今日では見かけることのない、恐れを知らぬ人間、固い節操のある人間、が住んでいた。ジョーディーは広々とした平原や、そこをムカデのように横断して行く幌馬車のことを思った。また、大型の白馬にまたがって人々を指揮しているおじいちゃんの姿を思い浮かべた。その偉大なまぼろしが彼の心をよぎって行進していったが、それもやがて地上を離れてどこかに消え去った。
それから、彼の心はしばらく農場にもどってきた。初めは空間と沈黙のつくり出す、にぶい、シューシューという音が耳についたが、やがて、外の犬小屋にいる犬の一匹がノミを掻《か》く音が、そしてひと掻きごとに犬のひじが床にバタバタぶつかる音が、聞こえてきた。それから、風がふたたび吹きよせてきて、黒いイトスギがうなり声を上げるのをうつらうつら聞いているうち、ジョーディーは眠りについた。
彼は朝食を知らせる三角鐘《トライアングル》が鳴る三十分前に起きた。彼が台所を通りぬけて行くとき、母は火をもえ上がらせるためにストーヴをガタガタさせていた。「けさ、あんたは早いんだね。どこへ行くのかい?」と母はきいた。
「いい棒っきれをさがしに行くの、ぼくたち、今日ハツカネズミを退治するんだよ」
「〈ぼくたち〉って、だれとだれのこと?」
「そりゃあ、おじいちゃんとぼくだよ」
「してみると、あんたはもうおじいちゃんを仲間に入れちゃったのね。あんたはいつだって、何か叱られる心配のあるときは、だれかを仲間にさそいこみたがるのよ」
「すぐもどってくるね。朝ご飯のあとすぐ仕事にかかれるように、いい棒っきれを用意しておきたいだけなんだ」
少年は網戸をうしろ手に閉めると、ひんやりとした青い朝の空気の中に出て行った。小鳥たちはそうぞうしく早朝の歌をうたい、農場に住みついている猫どもは、丘のほうから鈍角の頭を持つヘビみたいにのそりのそりと降りてきた。やつらはこれまで暗闇の中で地ネズミ狩りをしていたので、四匹とも地ネズミの肉で腹がいっぱいになっていたのに、裏口のところに半円形をえがいてすわりこみ、ニャーオ・ニャーオーとあわれっぽい声をはり上げてミルクをねだっていた。ダブルトリー・マットとスマッシャーは、ホウキスゲのへりをクンクンかぎまわり、いかにも格式ばって自分たちの義務を遂行していたが、ジョーディーが口笛を吹くと、グイと頭をもち上げ、尻尾を振った。彼らは体をくねらせ、あくびをしながら、少年のほうにかけ降りてきた。
ジョーディーは本気で彼らの頭を軽くたたいてやると、ガラクタが雨露にさらされているゴミ捨て場のほうに向かった。彼は古いホウキの柄《え》と、切り口一インチ平方の、短い木切れをさがし出した。そして、ポケットから靴紐を取り出し、ホウキの柄と木切れの両端をゆるくしばって〈からざお〉〔からざおは振ると棒の先端の木切れが回転するようにつくられ、ムギ打ちに使うものだが、中世ではこの仕掛けでつくられた一種の武器が使われた〕みたいなものをつくった。彼はこの新しい武器を空中でピューピュー振りまわし、実験的に地面をたたいてみたりした。その間、二匹の犬はわきに退《の》いて、心配そうにうめき声を上げていた。ジョーディーは向きを変えると、屠殺場を下見しておこうと、家のわきを通りすぎて古い乾草塚のほうへと足をはこぼうとした。ところが、家の裏口の段々にじっと腰をおろしていたビリー・バックに呼びとめられた。「坊や、もどったほうがよさそうだな。もう二、三分で朝飯だからね」
ジョーディーは進路を変えて、母屋のほうに向かった。彼はからざおを入口の段々に立てかけると、こう言った……「それ、ハツカネズミを追い出すために使うんだよ。きっとやつらはまるまると太っているね。今日、やつらの身の上にどんなことが起こるか知らないでいるんだろうな」
「そうよ、それにあんただって知らんし、おいらにしろ、また、ほかのだれにしろ、わかりっこありませんやね」とビリーは知恵者みたいなことを言った。
ジョーディーはこう言われてギョッとした。たしかにそれは真理であると思った。彼の想像はカチッとハツカネズミ狩りからそれていった。だがそのとき、母親が裏のポーチに出てきて三角鐘《トライアングル》を打ち鳴らしたので、すべての想念がもろくもくずれ去った。
おじいちゃんは、みんなが席についても、まだ姿をあらわさなかった。ビリーは空いた椅子に向かってうなずき、「あの人、大丈夫? 病気じゃないですな?」ときいた。
「おじいちゃんは支度に時間がかかるんですよ」とティフリン夫人は言った。「ほおひげに櫛《くし》を入れたり、靴をみがいたり、服にブラシをかけたりでね」
カールは、自分のマッシュに砂糖をふりかけた。「幌《ほろ》馬車隊を率いて大平原を横断したほどの人間は、自分の身だしなみにちょっくら気をつけにゃならんからな」
ティフリン夫人は夫のほうに向きなおった。「あなた、もうそれはやめて! お願いですからおやめになってね!」夫人の口調には懇願《こんがん》するというよりは脅迫《きょうはく》する感じが強かった。そしてその脅迫口調にはカールも腹が立った。
「だがね、いったいわしはこれから先なんべん、あの鉄板や三十五頭の馬の話を聞かにゃならんのかね? もうあんな時代はすぎ去ったんだ。なぜあの人はそいつを忘れられないのかな……すんじまったことなのに?」カールはそう語っている間に、ますます怒りがこみ上げてきて、声まで高まってきた。「なぜくりかえしくりかえし話さなきゃならねえのかな? あの人は大平原を横断したよ、たしかにさ! しかし、今はそれもみんなおわったんだ。だれだってそんなことについてくどくどした話など聞きたいなんて思わんよ」
台所にはいるドアが静かに閉った。テーブルについていた四人はギョッと体をこわばらせた。カールはマッシュのスプーンをテーブルの上に置くと、指であごをなでた。それから台所のドアが開いて、祖父が食堂にはいってきた。微笑をたたえた口元はひきしまり、目は半ば閉じていた。「おはよう」そう言って、彼は腰をおろし、マッシュの皿を見おろした。
カールも話を途中で止めるわけにはいかなかった。「あの……あなたはわしの言ったことお聞きになりましたか?」おじいちゃんはうなずくようにあごを軽く引いた。「お父っつあん、わしはなんであんなこと言ったのか自分でもわからんのですよ。本気で言ったわけじゃなく、冗談《じょうだん》のつもりだったんですわ」
ジョーディーは恥ずかしそうに母親のほうをちらっと見やったが、母が父のほうをにらみつけていること、母が息を殺していること、を見てとった。父がしているのはおそろしいことだ。そのようなことをしゃべって父は自分を八つ裂きにしているのだ。一度口に出したことを取り消すのはおそろしいことだが、恥ずかしそうにそれを取り消すのは、さらにずっとぐあいが悪かった。
おじいちゃんは横を向いた。「わしは物事をすべてよく解釈するようにつとめておるんだよ」と彼はおだやかに言った。「だから、怒ってなどおらん。おまえがなんと言おうとかまわんが、ひょっとすると、おまえの言うとおりかも知れんな。だから、これからはその点について気をつけるとしよう」
「いいえ、わしの言うとおりじゃありませんよ」とカール。「けさはどうも気分がよくねえもんで、あんなこと言ってしまったですが、どうも申しわけありません」
「なにもあやまることなんかねえよ、カール。年寄りってもんには、ときたまもののわからんこともあるでな。たぶんおまえの言うとおりだろう。横断はおわったんだ。今はもうおわったんだから、たぶん忘れるのがほんとうだろうよ」
カールはテーブルから立ち上がった。「わしはもう十分たべたから、仕事に出かけますわい。ビリー、おまえはここでゆっくりしてるんだな」彼は急ぎ足で食堂から出て行った。ビリーもたべものの残りをのみこむようにして、すぐそのあとについて出た。しかし、ジョーディーは自分の椅子から離れられなかった。
「おじいちゃん、何かもっと話をしてくれない?」とジョーディーはたのんだ。
「そりゃあ、話してもいいが、しかしだね、それはみんなが聞きたいと思ってることがはっきりしてるときにかぎるよ」
「ぼくは聞きたいんですよ」
「ああ、そう! もちろんおまえは聞きたいだろうが、しかしまだ子供だからな。そいつは大人にとっちゃ仕事だったんだが、その話を聞きたがるのは小さな男の子だけなんだよ」
ジョーディーは自分の席から立ち上がった。「おじいちゃん、ぼく外で待ってるからね。あのハツカネズミどもをやっつけるいい棒っきれをみつけたんだよ」
少年は老人がポーチに出てくるまで、木戸のところで待っていた。「これから降りてって、ハツカネズミを退治しようよ」とジョーディーは大きな声で呼びかけた。
「ジョーディー、わしはちょっと日向《ひなた》で休んでいようと思うんだ。おまえひとりでハツカネズミをやっつけておいで」
「おじいちゃん、よかったらぼくの棒を使ってもいいんだぜ」
「いや、わしはしばらくここにすわっておるよ」
ジョーディーはうら悲しそうにその場を立ち去り、古い乾草塚《かんそうづか》のほうに下って行った。彼はまるまると太った汁気《しるけ》たっぷりのハツカネズミのことを考えて、自分の熱意をかき立てようとした。からざおで地面をたたいてみた。二匹の犬は少年のまわりでクンクンあまえていたが、彼はどうしても一人で出かける気になれなかった。母屋にもどると、おじいちゃんがポーチにすわっていたが、その姿がちっぽけで、やせて、黒々として見えた。
ジョーディーはハツカネズミ狩りをあきらめて、老人の足元の段々に腰をおろした。
「もうもどったのかい? ハツカネズミは殺したかね?」
「いいえ、おじいちゃん。いつかほかの日にやっつけるよ」
朝のハエが地面すれすれにブンブンうなっており、アリが段々の前のあたりをあっちこっと走っている。ホウキスゲの強いにおいが丘のほうから流れてくる。ポーチの板は朝の陽ざしを受けて温まってきた。
ジョーディーには、おじいちゃんがいつ話をはじめたのかよくわからなかった。「こんな気分だったら、わしはここにおるべきじゃないよ」そう言って、彼は自分のがっちりした老人らしい手をじっと見つめた。「なんだか大平原横断、する値打ちのないことみたいに思えてきたんだ」彼の視線は山腹をだんだんのぼって行き、一羽のタカが枯枝に身じろぎもせずとまっているところでピタリと止まった。「わしはああいうむかし話をするが、なにも話そのものがわしの目的じゃないんだな。ただそんな話をするとき、みんながどんなふうに感じるか、それを知りたいだけなんだよ。
大事なのは、インディアンでも、冒険でも、また、この西部まで出かけてくることでさえもなかったんだよ。それはたくさんの人たち全部がまるで一匹の大きな這《は》いまわるけだものみたいになったことなんだな。そして、このわしがその頭《あたま》になったんだよ。そのけだものは西へ西へと進んで行った。個人個人はそれぞれ何か自分のものをもとめていたのだろうが、みんながいっしょになってできた大きなけだものは、ただ西へ進むことだけを望んでいたんだね。わしはその指導者だったが、しかしだね、たとえわしがそこにいなくっても、だれかほかの者が頭《あたま》になったことだろうよ。そいつにはどうしても頭が必要だったからな。
小さなやぶの下では、真昼でも陰が黒々としておったよ。さいごに山脈を見たとき、わしらはみんな泣いたね……それこそだれもかれもがさ。しかし、問題だったのは、この地に到着することじゃなくって、動くこと、西へ進むことだったんだな。
わしらはそこのアリが卵をはこぶように、この地まで生命をはこんできて、そこにそれをおろしたんだよ。そして、わしが指導者だったんだ。西へ進む動きは神さまのように偉大だったし、その西漸《せいぜん》運動のゆっくりした一歩一歩がだんだんに積みかさなって、けっきょく、大陸を横断することになったんだな。
それから、わしらは海のほとりまで下って行き、そこで事がすべておわったんだよ」
そこで彼は言葉を切り、ふちが赤くなるまで目をこすった。「わしとしては冒険談なんかより、そういうことを話したほうがよかったんだな」
ジョーディーが口を切ったとき、祖父はハッとして少年のほうを見おろした。「たぶんぼくだっていつかそのうちみんなの指導者になれるだろうね」
老人はニッコリ笑った。「もう進んで行く場所がないよ。前進をはばむ海があるんでね。自分たちの前進をはばんだ海を憎んでいる老人どもが、今でも海岸にずっとならんでおるんだな」
「船を使えば進んで行けるかもしれないね」
「でも、行く場所がないんだよ、ジョーディー。どこもみんな取られちゃってね。しかし、いちばん困るのはその事じゃないんだ……そう、その事じゃないんだな。それは西へ進む気持ちが人々の心から消えてなくなったことなんだよ。どうあっても西へ進もうなんて気はもうなくなっているんだ。それはすっかりおわっている。おまえの父親の言うとおりだ。すんだことなんだ」
彼は膝の上で指を組み、それをじっと見つめていた。
ジョーディーはとても悲しくなった。「おじいちゃん、レモネードほしかったら、ぼくがつくってあげるよ」
おじいちゃんはそれを断わろうとしたが、そのとき、ふとジョーディーの顔を見やった。「それもよかろう。うん、レモネードを一杯飲んでみるのもよかろうぜ」
ジョーディーが台所にかけこむと、そこでは母が朝食の食器を拭きおわるところだった。「おじいちゃんにレモネードをつくってあげるんだから、レモンを一つもらえる?」
母は息子の口まねをしてこう言った……「それから、あんたにもレモネードをつくるから、もう一つレモンもらえる?」
「ちがうよ、お母ちゃん、ぼくそんなものほしくないよ」
「ジョーディー、おまえ気分でも悪いんじゃない!」それから、とつぜん、彼女は口をつぐんだ。やがて、彼女は静かに言った……「冷蔵庫からレモンを一つお出し。さあ、わたしがしぼり器をおろしてやるからね」(完)
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解説
スタインベックの人と文学
〔はじめに〕
ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベックの三人は、ノーベル文学賞を受けたからそういうわけではないが、なんといっても二十世紀前半のアメリカ文学を代表する大作家であったばかりか、世界的な文豪でもあった。しかし、フォークナー、ヘミングウェイ、スタインベックの時代はすでに去ったという人がいる。たしかに今やアメリカ文学の世界には、トルーマン・カポーティー、ジェームズ・ボールドウィン、ジョン・アプダイク、ジョン・チーヴァー、ジェームズ・パーディー、J・D・サリンジャー、ノーマン・メイラー、ソール・ベロー、バーナード・マラマッド、フィリップ・ロス、ジョン・バース、ジョイス・キャロル・オーツなど、きらめく新星がぞくぞくと登場し、三つの巨星の影がすこしは薄くなったかに見える。
だがしかし、それは文学史上の問題であり、同時代性という感覚上、思想上の問題であって、文学自体の偉大性が、時代の推移と共にそうかんたんに変化するものでないことは、シェイクスピアやゲーテやドストイエフスキーなど思い出せば、なるほどと納得できるであろう。わがスタインベックにしても、人間の夢とその崩壊を描いた『二十日鼠《はつかねずみ》と人間』(一九三七)、社会環境に対決して闘う集団人間の生活を記録した『怒りのブドウ』(一九三九)、人間性のうちに生まれながらに植えつけられている悪魔性を追求して、善と悪の問題に深くメスを当てた『エデンの東』(一九五二)など、そしてそうした作品の幼芽とも見られる『ザ・ロング・ヴァレー』(一九三八)などは、時代の移り変わりを越えていつまでも残る作品といえるであろう。
〔生いたち〕
ジョン・スタインベックは、一九〇二年の二月二十七日、カリフォルニア中部の田舎町サリーナスに生まれ、一九六八年の十二月二十日にニューヨーク市で没した。享年六十六歳といえば、フォークナーの六十五歳、ヘミングウェイの六十二歳と比べてほんの少し長命であったにすぎない。
故郷の町サリーナスは、いわゆるサリーナス・ヴァレーの下流に近いところに臨む農産物の集散地であり、そこにジョンは根っからのカリフォルニア人として、また、西部開拓者の子孫として生まれた。彼の母方の祖父はアイルランドからサリーナス・ヴァレーのキング・シティー付近に移住してきたのであり、彼の父の祖先はドイツ系で、祖父の代にアメリカに渡り、初めニュージャージー州とフロリダ州に住んでいたが、一八七四年にカリフォルニア州に移ってきた。この人は初め製粉業をいとなんでいたが、後モンテレー郡の収入役を長年にわたってつとめた。母親のオリーヴ・ハミルトンは『エデンの東』に本名で登場するが、あちこちの小学校で先生をした経験がある。ジョンはそのような両親の間に生まれた四人の子供(姉のエスター、エリザベスと、妹のメーリーと)の中のただ一人の男の子であった。父親は息子が作家志望であることに同情的で、最低の生活費ぐらいは大人になるまで出してくれたが、母親はジョンがまともな職業に就くことを希望し、作家などになってもらいたいと思わなかった。しかし、彼が子供のころからマロリー、ミルトン、シェイクスピア、ダンテ、ゲーテ、ドストエフスキー、『聖書』などを読んだのは、教育者であった母のおかげであったと考えられている。とくにサー・トマスマロリーの『アーサー王の死』は愛読書の一つであったらしく、後年出世作『トーティーヤ平《だいら》』の下敷に使われることになった。もう一つ、形成期のこの作家に大きな滋養をあたえたのはバイブルの欽定《きんてい》版であって、『怒りのブドウ』や『エデンの東』などにたいして骨組を提供することになる。
〔サリーナス・ヴァレー〕
スタインベックという人は本質的に〈地方主義作家〉(Regionalism)と呼ぶべきであるが、そうした作家を生み出すにあずかって力あったのは、彼を育てた故郷の自然環境といってよい。つまり、カリフォルニア中部を南から北に向かって流れるサリーナス川の広々とした流域で、そこは全長百二十マイル、幅三十マイルに及ぶ大平野であり、東側には女性的な稜線を持つギャビラン山脈、西側、太平洋岸との間には峨々《がが》たるサンタ・ルーシア山脈がそびえている。『赤い小馬』の「大山脈」はこのサンタ・ルーシア山脈であり、赤い小馬の名前「ギャビラン」はジョーディー少年の好きな東側の山脈にちなんでづけられている。
スタインベックの重要な作品の大半は、この南北に伸びる「長い谷(ロング・ヴァレー)」とも呼ばれる平野と、その海への出口にあたるモンテレイ町およびその付近とに舞台がおかれていることを考えると、この小説家とサリーナス・ヴァレーとの結びつきがいかに重要であるかがわかるであろう。(サリーナス・ヴァレーとほぼ並行して東側にあるのが、サン・ウォーキン・ヴァレーで、ウィリアム・サロイアンの作品の背景となり、また『怒りのブドウ』にも舞台の一部を提供している)
〔エデンの園のテーマ〕
スタインベック文学の大きな特色の一つは、人間と動物(もしくは植物をも含めた大自然)との結合と交流であるといってもよいが、その大自然はほとんどサリーナス・ヴァレーとその周辺に存在するものである。「スタインベックの最上の作品では、人間と自然との関係が親密であり神秘的である。人間は自然と共にその周期《サイクル》と病気を持っている……スタインベックはサリーナス・ヴァレーから、彼の作品を通じて反覆される一つの深遠で原型的なテーマもしくはプロットを使うことを学んだのである」(F・W・ワット)
そのテーマとはエデンの園(ガーデン・オヴ・イードン)を発見して、そこにふたたびはいってみたいという人類最古の夢である。『怒りのブドウ』で、三〇年代の不況に苦しむオクラホマの農民《オーキーズ》たちがカリフォルニアに乳と蜜の流れる地をもとめたのも、『エデンの東』(イースト・オヴ・イードン)において、「アダム」がカリフォルニアに地上の楽園をもとめて東部コネティカットから移住したのも、『二十日鼠と人間』の中で、ジョージとレニーが山の彼方に、狭いながらも自分のものと呼べる土地を持ちたいとあこがれたのも、また小型ながら、「菊」や「純白の鶉《うずら》」の女主人公が庭《ガーデン》に女の夢を托しているのも、すべてこのテーマと見てさしつかえないと思う。
スタインベックが大人になって作品を書きはじめたころ、つまり、二〇年代のおわりごろには、かつては牧畜と果物・野菜栽培とを主としてエデンの園のごとく美しい田園だったサリーナス・ヴァレーも、しだいに機械化された大農場地帯に変わってきていたし、そのうえ二九年のニューヨーク株式市場大暴落にともなう大不況時代にもはいったので、ストライキなどの労働問題がはげしさを加えてきた。この作家のストライキ小説『勝敗の定まらぬ闘い』(一九三六)はいうまでもなく、大作『怒りのブドウ』にしても、短編「殴り込み」にしても、こうした労働争議と深いつながりを持っている。もしスタインベックがおそろしい現実に目をそむけ、エデンの園再発見の夢にのみうき身をやつしていたとすれば、それこそジェームズ・キャベルやロバート・ネイサンのようなファンタジー文学しか作り出さなかったであろう。彼には大自然の神秘性と人間の夢を感じとる詩人的な面と、現実の生活をあるがままに眺めるリアリストの面とが並存していたといってもよい。そうした二面性があったればこそ、『二十日鼠と人間』、『エデンの東』、『真珠』(一九四七)、「ジャニー・ベーア」などの作品が生まれてきたのだ。
〔ノン・テレオロジカル・シンキング〕
話がすこし逆流するようだが、スタインベックは高校時代には科学に興味を持ち、そこを出ると、サリーナス町の近くの甜菜《てんさい》工場の研究室で化学助手として働き、一九二〇年にスタンフォード大学に入学した。そこにはだいたい五年間ぐらい籍をおいたのだが、なにしろ農場の手伝い、道路工事の人夫、ペンキ屋と大工、再度の甜菜工場の助手などのアルバイトをしながらの、気ままな通学であったために、学士を取らずに退学した。しかし大学で好んで聴いたのは生物学の講義であり、それと、その後まもなく行なわれた生物学者エドワード・F・リケッツとの出会いが、この作家の人生観に大きな影響をあたえ、かつ、彼の文学に生物……とくに動物……を導入する大きな原因の一つとなった。
一九三〇年、彼は結婚すると(彼は二度離婚し、三度結婚している)、サリーナスに近い海岸の町パシフィック・グローヴに新居をかまえた。父親からわずかな仕送りを受けながら、貧しい生活を送っていたが、いよいよ本気で作家生活にはいった。彼がエド・リケッツに出会ったのはそこに移ってからである。リケッツはパシフィック・グローヴに隣接した海岸町のモンテレイに、小さな生物学実験所を持っていて、そこで生物学の実験教室を開いたり、陸上動物、海洋生物を販売したりしていた。短編小説「蛇」に出てくるフィリップス博士はリケッツをモデルにしている。また、『罐詰《かんづめ》工場通り』(一九四五)や、『楽しい木曜日』(一九五四)に登場する「ドック」もやはりエドを小説化したと見てよい。
素人博物学者のスタインベックほこの生物学者エド・リケッツと共に、一九四〇年の三月から四月にかけての六週間を、カリフォルニア湾(カリフォルニア半島とメキシコとの間の湾で「コルテス海」ともいう)沿岸の航海にすごした。海洋生物を採取したり、沿岸地方に住むメキシコ人を訪ねたりする、のんびりした航海であったが、二人はその翌年『コルテス海』(一九四一)と呼ぶ本を出した。その前半はリケッツの手に成る科学的記録と解説であるが、後半はスタインベックの書いた航海日誌、というよりは旅行日誌で、今日ではこれだけが『コルテス海の航海日誌』(一九五一)として別冊で刊行されている。その第十四章に non-teleological thinking という問題が取り上げられている。ちょっと哲学的なひびきを持った言葉であるが、要は、物事をあるがままに眺めようとする考え方で、宇宙のすべての現象には別に目的などないとする態度である。これに反するのが、いわゆる「目的論」(teleology)であって、すべての現象には目的があり、原因結果の法則が働いている、という考え方である。さらに言いかえれば、地上の出来事について「なぜ」(why)を追求しようとするのが「テレオロジカル・シンキング」であって、「なに」(what)と「いかに」(how)に目を向けようとするのが「ノン・テレオロジカル・シンキング」(非目的論的思考)なのである。
スタインベックは、作家として、物事なり人間なり自然なりを、あるがままに眺め、それがどんなもので、どのように存在し、どのように動くかを観察し、それを描き出すだけであって、そこから「あるべき姿」、「望ましい形」など描き出そうとはしないのである。「プロレタリア文学」というのは、旧い体制を破壊し、新しい体制を樹立しようとする目的意識をもって書かれるものであるから、「テレオロジカル」な文学である。この作家が「殴り込み」、『勝敗の定まらぬ闘い』、『怒りのブドウ』など、一見プロレタリア文学風の作品をいくつか書いているが、本質的にそれと異なっているというのも、こうした作者の考え方から出ているのだ。
スタインベックのこうした科学的客観性をねらう方法は、ちょっとヘミングウェイの「完全な客観性」を意図する方法と似ているが、後者の場合は、どちらかといえば描き方の問題でスタイルに属し、前者では、むしろ考え方、人生観のほうに関連していると思う。
だが、この小説家が、作品製作の過程において、自分の説くような方法を完全に達成したかどうか、それには多少の疑問がある。しかし、次のことだけはたしかに言えるであろう。すなわち、スタインベックは、自分と自分の扱う対象との間にある程度の距離をおき、かならずしも主人公に有利なように物語を展開したり、問題を提示してもそれを望ましいように解決したりしていないことである。もしセンチメンタルな、あるいは目的意識を持つ作家ならば、「遁走《とんそう》」の青年を殺させなかったであろうし、赤い小馬のギャビランも死なせなかったであろう。この意味で、彼の立場はリアリズムにもっとも近いものといえよう。
〔パイサーノ人〕
パイサーノ(paisano)という人種がスタインベックの作品によく登場する。たとえば短編「大山脈」に出てくる老農夫ジターノ、「遁走」の主人公ぺぺ・トルレスはパイサーノ人であり、出世作『トーティーヤ平』の主人公ダニーを初めとして主要人物すべてパイサーノ人である。その長編小説の冒頭に近いところで、作者はこの特殊な人種について次のように述べている……
「パイサーノとは何か? それはスペイン人、インディアン、メキシコ人、および雑多なコーカサス人(白人)の血がはいった混血人種である。彼らの祖先は過去百年から二百年にわたってカリフォルニアに住んできた。彼らはパイサーノ訛《なま》りで英語とスペイン語を話す」
パイサーノという言葉はスペイン語で、「農民」(peasant)の意味であり、彼ら自身は、自分たちが純血のスペイン人であると誇称しているが、実際はどうやらスタインベックの定義するような混血人種であるらしく、この問題を研究しているある学者は、これを「メキシコ人の血統を持つカリフォルニアの土着民」として分類している。(チャールズ・R・メツガー「Steinbeck's Mexican - Americans」)このメツガー氏はスタインベックの作品に登場するメキシコ系の人種を次のように分している。
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A メキシコに住むメキシコ人
B メキシコ系アメリカ人
b1 上カリフォルニアに移住してきたメキシコ移民
b2 メキシコ人の血統を持つカリフォルニアの土着民
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さて、スタインベックは、一九二九年から一九六二年の間に、二十冊におよぶ長編、短編、戯曲、シナリオを書いているが、そのうちの半数は、部分的もしくは全般的に、メキシコ系の人物を扱っている。そのうち、メキシコ人Aを扱っているのは『忘れられた村』(一九四一)『真珠』『サパータ万歳!』(一九五〇)の三作にすぎず、しかも『真珠』以外はシナリオであるのにたいし、あとの七作はメキシコ系アメリカ人Bを扱っている。その七つの作品というのは次のとおりであるが、その中で作者は六十名近いメキシコ系アメリカ人、とくにパイサーノ人b2の名をあげている。
『天の牧場』『知られざる神に』(一九三三)『トーティーヤ平』、『長い谷』、『罐詰工場通り』、『気まぐれバス』(一九四七)、『楽しい木曜日』
右のうち、パイサーノ人に全面的に脚光を浴びせたのが『トーティーヤ平《だいら》』であり、したがって彼らの生き方……その根底となるモラルがどんなものであるかを知るには、この作品を熟読してみるのがいちばん近道であろう。
話はすこし横道にそれるが、私がいわゆる「スタインベック・カントリー」を訪れたのは一九五八年の秋であったが、その節、モンテレイに住む日本人が、モンテレイ湾を囲む丘陵地帯を車で案内してくれた。丘の中腹あたりにある、平坦《へいたん》な公園にさしかかると、そこがスタインベックの「トーティーヤ・フラット」であると教えてくれた。だが、私にはどうも納得しかねたので、そのあたりにパイサーノ人の小屋などあったかと聞くと、なかったという返事。では、どこにあったのかとたたみかけると、海にむかつて左手の傾斜地だと答えた。私は、たぶん「トーティーヤ・フラット」はそのあたりにちがいない、とよけいな訂正をしたのだった。私の論拠は『トーティーヤ平』のまえがきの次の部分にある。
「彼はパイサーノ人であり、モンテレイ町の上方に位し、『トーティーヤ・フラット』と呼ばれているあの小高い地域に住んでいる……と言ってもそこはまったく平坦地ではないが」
スタインベックがパイサーノ人を扱う場合、ほとんど動物にたいするときのように同情的であることに注目したい。おそらく、彼らパイサーノ人は自分たちがおかれた生活環境にうまく順応し、それに融け込んで行く能力を持ち、アメリカ物質文明の本流に棹《さお》さして立身出世することなどに苦慮しない……そういうところを彼は好いたのであろう。だが、彼が好んでパイサーノを自分の作品に登場させるというのは、たんに気質の上で彼らに同感できたからというばかりでなく、パイサーノの生活を描くことによって、現代アメリカ文明を間接的に批判することにもなったからであろう。丘の山のおんぼろ小屋にでも、道路端の廃棄された鉄管の中にでも、平気で住むことのできるパイサーノの生き方は、ある程度、ビート族、ヒッピー族のそれにも通じるところがあって、今日もなお私たちの興味を引くところがある。
〔ヴァレーを脱出してニューヨークヘ〕
パイサーノ人たちは生存競争のはげしい現代文明とはまったく生活のぺースが合わなかったためか、モンテレイとその周辺からしだいに姿を消すようになり、スタインベックが生まれ故郷を去ってニューヨークヘ居を移す気になった原因の一つも、そのあたりにあったのではなかろうか。私がモンテレイを訪れた一九五八年に、さいごに残った一人のパイサーノ人が死んだという話をきいた。
一九二九年発表の『黄金の盃』を初めとして、『天の牧場』、『知られざる神に』はほとんど世間の注目を引かず、一九三五年の『トーティーヤ平』によって世に出た彼であった。これは次の『勝敗の定まらぬ闘い』と共に「カリフォルニア・ゴールド・メダル」という文学賞も受けたが、なんといってもスタインベックを一流作家の地位に押し上げたのは『二十日鼠と人間』(一九三七)であった。これは「ブック・オヴ・ザ・マンス・クラブ」の選定本となり、たちまち七万五千部を売りつくした。さらに、芝居の神さまジョージ・コーフマンの協力をえてそれが脚色されると、「ニューヨーク・ドラマ・クリティック・サークル賞」という戯曲方面では最高の文学賞を獲得し、ニューヨークの舞台でロングランをつづけたばかりか、あとでは映画化もされた。
しかし、スタインベックを世界的な大作家にしたのは、不況の三十年代の最後の年に出版された『怒りのブドウ』にほかならぬ。この大作は一九三九年にベストセラーのトップにおどり上がり、オリジナル版だけでも五十万部以上を売りつくしたばかりか、彼としては初めてピューリツァー賞を贈られたのである。また、ジョン・フォードの手によって映画化されて大成功を収めた。
一九三九年には第二次世界大戦がはじまり、ついで四一年にアメリカも参戦した。こうした戦時下においてスタインベックの行なった仕事は、アメリカ空軍に依頼されて『爆弾投下』(一九四二)という宣伝的な作品を出したこと、ノルウェイを舞台として、ナチスに人民がレジスタンスを行なう物語『月は沈みぬ』(一九四二)を書いたこと、四三年に、ニューヨークの『ヘラルド・トリビューン』紙の委嘱を受け、ヨーロッパにおける実戦の舞台で、特派員として働いたこと、などである。この記事は十五年もたってからやっと、『かつて戦争があった』(一九五八)と題して単行本にまとめられた。
一九四三年三月、彼は二度目の結婚をすると、長年住みなれたカリフォルニアをあとにしてニューヨークに移った。金はたくさんでき、二十二万ドルもの手切れ金を払って別れることのできた初めの細君と遠く離れたところに住みたかったからでもあろうが、すでにイワシの水揚げが望めなくなって罐詰工場も自動車部品工場などに変わり、パイサーノも少なくなったサリーナス・ヴァレーには彼の心を縛るものがなくなったからであろうか。(やがて四八年には、親友のエド・リケッツも自動車事故で亡くなった)
スタインベックはニューヨークに移ってから二年目に、マンハタンはイースト・サイドに褐色砂岩の家を二軒買い、そこで新妻と共に静かに一市民としての生活を送っていた。彼は後にもう一度結婚するが、彼のもうけた子供というのは、この二度目の細君との間に生まれたトムとジョンだけである。家のほうも、後になってニューヨークのロング・アイランドの海浜にもう一軒手に入れ、死ぬまでニューヨークに住みついて、すっかりニューヨーカーになったつもりだったようだ。映画の仕事でハリウッドに赴《おもむ》き、しばらくの時をすごしたことはあるが、初めての離婚以来、住むためにはいちどもカリフォルニアにはもどらなかった。このことは地方主義作家のスタイベックにとって、けっしてプラスにはならなかったようである。
したがって、彼は一種の根なし草みたいになり、故郷の土地を主たる舞台にして一九五二年に書き上げた大作『エデンの東』を除くと、ニューヨーク時代は小説家としては不毛に近い時期であったといってよい。四七年にはメキシコを舞台に、メキシコ人を登場させる『真珠』という、中編程度の寓話風の作品を発表し、同じ年に、カリフォルニアの海岸を舞台に、たまたまバスに乗り合わせた数人の男女の心理と行動を描写した『気まぐれバス』を出し、「ブック・オヴ・ザ・マンス・クラブ」の本に選ばれたが、あまり注目は引かなかった。また、同年、有名なカメラマンのロバート・キャパを同伴してソ連を訪問し、写真入りの『ロシア日記』(一九四八)を出版したが、ロシアで見物するものを制限されたためか、「ノン・テレオロジカル思考」の実を上げることもできず、ありふれた旅行記におわっている。ついでにキャパについて言えば、例の『怒りのブドウ』も、もともとオーキーズたちのカリフォルニア移住をキャパと共に取材したドキュメンタリーが素材になったものであり、また、キャパと共同でテレビ製作会社を設立しようとしたこともあった。キャパはその後、写真撮影の仕事でヴェトナムに出かけたが、そこで不幸な最期をとげた。スタインベックのほうは、マーロン・ブランドのために、メキシコの革命児サパータを主人公とする映画台本『サパータ万歳!』(一九五〇)を書くためにハリウッドに赴《おもむ》き、一九五〇年までそこに滞在した。同じ映画でも、ジェーン・マンスフィールドを使った『気まくれバス』はたいした人気を呼ばなかったが、ケイレブの役に、若者のアイドル、ジェームズ・ディーンを使ったエリア・カザン監督の『エデンの東』のほうは、アメリカだけにとどまらず世界的に大ヒットした。
作品のほうでは、『赤々と燃えて』(一九五〇)という第三の「ペレイ・ノヴェレット」(『二十日鼠と人間』、『月は沈みぬ』についで)を出版したが不評だったし、『楽しい木曜日』(一九五四)で舞台を故郷にもどそうとしたが、これも『罐詰工場通り』(一九四五)と大差がなった。そこで、パリに舞台を移して『ピピン四世の短い治世』(一九五七)という、「処女・聖カティ」タイプの諷刺文学に転じ、また長編小説として『われらが不満の冬』(一九六一)をニューヨークを舞台にして書き上げた。。なお、チャーリーという愛犬プードルをつれてのアメリカ国内旅行記『チャーリー同伴の旅』(一九六二)は気楽におもしろく読めよう。ほかに『アメリカとアメリカ人』(一九六六)という評論集もまとめられた。
この時期に、目ぼしい出来事が三つある。日本訪問、ノーベル文学賞受賞、ヴェトナム派遣である。一九五七年の九月、国際ペンクラブの第二十九回大会が東京で開かれたとき、スタインベックは、ジョン・ドス・パソス、ジョン・ハーシー、黒人作家ラルフ・エリソンなどと共に、アメリカ作家の代表として来朝した。主席代表は劇作家のエルマー・ライスであったが、アメリカ作家の中で、いや、来日した世界のすべての作家(イタリアのモラヴィアをも含めて)のうちで、いちばん日本のジャーナリストやカメラマンに追いかけられたのが、わがスタインベックであったことを私はこの目で見とどけた。ただし、出席者渇望のスピーチは風邪のためか、社交嫌いのためか、聞けずじまいだった。
一九六二年十月二十五日には、ノーベル文学賞を授けられ、十二月にストックホルムの授賞式に出席し、「作家の使命」という講演を行なった。
一九六六年の十二月、スタインベックはソ連詩人エフトシェンコの呼びかけにこたえ、夫人同伴でヴェトナムに渡り(特派員の資格で)、連日ヘリコプターに搭乗して前線を視察した。その従軍記は「アリシアヘの手紙」と題して『ニューズデイ』紙に連載された。なお、このとき、従軍中の次男ジョンに出会っている。
一九六八年十二月、スタインベックは心臓弁膜症のために死去した。
作品解説と鑑賞
スタインベックの唯一の短編集ともいうべき『長い谷』がまとめられて出版されたのは一九三八年の九月であった。(『天の牧場』のほうはおたがいに関連のある短編が集められていて完全な短編集とはいえない)しかし、その一部を形成している『赤い小馬』の初めの二編(「贈り物」と「大山脈」)はすでに五年前『北アメリカ評論』という雑誌に発表されており、また、それにもう二編(「約束」と「人々の指導者」)を加えたものが一九三七年に独立した単行本として署名入り限定版の形で出版されている。(それが普及版になったのは四十年代になってからだ)
そのような出版の歴史から見ても明らかなように、『赤い小馬』の初めの三つの部分を形成するものと、あとで加えられた「人々の指導者」は、いうならば四つのエピソードから成り立つ〈短い小説〉と考えるのが妥当であろう。舞台が同じ盆地の農場であるばかりか、登場人物もだいたい同一であり、その中心をなすのがジョーディー少年であるからだ。『ザ・ロング・ヴァレー』にはあと十一編の短編が収められているが、「処女・聖カティ」を除くと、いずれもカリフォルニア州のサリーナス・ヴァレーが舞台を提供し、その意味で『長い谷』というタイトルはそう悪くないと思われる。ここで一言《ひとこと》触れておきたいことがある。「ザ・ロング・ヴァレー」というのは、「ザ・ロング・サリーナス・ヴァレー」もしくは「ザ・サリーナス・ヴァレー」ともいわれ、カリフォルニア州の中部の太平洋側を南から北に向かって流れるサリーナス川の流域をさすのであって、その下流近くにスタインベックの生まれたサリーナス町があり、太平洋に注ぐところに、この作家の作品に多くの舞台を提供しているモンテレイ湾とモンテレイ町がある。この国の研究家の中には、これを「長い谷間」と訳出している人もいるようだが、ここは私たちの考える「谷間」や「渓谷」とはほど遠い、広々とした平野なのである。もちろん、はるか遠方には山脈(東にギャビラン、西にサンタ・ルーシア)が望見されるが、川の流域は、ミシシッピー・ヴァレーほどではないにしても坦々《たんたん》たる平野である。したがって「ザ・ロング・ヴァレー」は「長い平野」か、せいぜい「長い谷」といったところであろう。
もう一つ注意したいのは「小馬」である。「小馬」は英語の pony を訳したもので、「子馬」の colt と区別したい。「ポニー」のほうは成長しても小型の馬であるから「子馬」ではない。もちろんこのポニーにも親と子があるのだから、「小馬の子馬」という言い方もありうるわけであり、現にこの小説にも「赤い小馬の子」(A red pony colt)という表現が出てくる。おもしろいことに、この中編小説の第一部では「赤い小馬の子」が中心であり、第三部ではふつうの雌馬が生む「黒い子馬」(a black colt)が問題になっている。
『赤い小馬』(The Red Pony)は四つの部分から成り立っている。それぞれ独立した短編として読んでもさしつかえないが、中心人物であるジョーディー・ティフリン少年の成長の過程における四段階を刻むものとして読むと、さらに興味深いものがあると思われる。これは無邪気《イノセンス》(利己的な無知)から経験《エクスピーリエンス》(愛他的な知恵)への移行……一つの現実への|手引き《イニシエーション》……といってもよかろう。
第一挿話「贈り物」で、ジョーディーは父親から赤い小馬の子を贈られ、それを育てることを委《まか》される。一応は大人の扱いを受けたのであるが、作男のビリー・バックという助っ人《と》がいるのだから、まだ完全な独立をとげたわけではない。不幸にして、赤い小馬ギャビランは外で雨にぬれたのが原因で病気にかかり、山に逃げて死んでしまう。ビリーは馬の乳を飲み、馬と共に育った、申し分のない馬の専門家であるが、その手落ちのために小馬を死に追いやることになる。人間はどのような玄人《くろうと》でも完全無欠とはいえないし、すべての生物には死というものがある。少年はそういった現実に身をもってぶつかり、独りよがりの無邪気な世界から抜け出すのである。
この一編の圧巻は、なんといってもジョーディー少年が、自分の愛する赤い小馬の死体をくらうハゲタカ(ノスリ)と死にもの狂いの闘いを展開する場面であろう。もちろんハゲタカは腐肉を好んでくらう猛禽《もうきん》であり、彼らはギャビランが死んでから後、その肉をついばんだのであるが、少年としては、その事実を知っていようがいまいが、愛するものの敵としてハゲタカを攻撃するのは心理的に当然であり、それを理解したのは自然児ビリー・バックであり、それがわからなかったのは、自然の中に住みながら自然がわからない父親カールであった。
第二挿話「大山脈」になると、ジョーディー少年は大人の世界にだいぶ足をふみ入れる。まず残酷さが目立ってくる。第一部でも、彼は飼い犬のダブルトリー・マットに固い黒土のかたまりをぶつけてけがをさせるが、それは自分のかわいがっている小馬が死に瀕しているというのに、犬がバカに元気でいるのに腹を立てたからである。ところが、こんどはまったく罪のないツグミが無心に餌《えさ》をあさっているのを見て、パチンコで射ち殺す。これは大人たちがよく見せる無意味な残忍性というほかあるまい。さらに悪いことには、その小鳥の死体をやぶの中に投げこむ。大人にみつかるといけないので、罪の証拠をかくそうとする恐怖心からである。
この物語の中心的人物はジターノという名のパイサーノ人である。パイサーノ人というのはスペイン人とインディアンなどの混血人種で、善意の原始人として作者が好んで描く人間であり、「遁走」の主人公がそうであり、長編『トーティーヤ平』ではパイサーノ人の世界に焦点が合わされ、『罐詰工場通り』などにも登場する。
ジターノはかつてティフリン農場の近くに住んでいたのだが、よその土地に移って働いているうちに年をとり、余命いくばくもないとさとると、故郷の地にもどってくる。カールはこの老い朽ち、役に立たなくなった老人を冷遇するが、ジョーディーだけは自然そのもののような老人の話し相手になる。やがてジターノは、やはり不用になったカールの老馬にまたがって、大山脈の中に姿を消してしまう。シートンの『動物記』を読んで私たちがいちばんやりきれなく感じるのは若い頃王者として動物界に君臨した強い野獣が、老いて野たれ死にするありさまにぶつかるときである。この物語も、生物が老いて死への道をたどるこの世の悲しみをしみじみと描き出しているが、これも人生の現実にたいする一つのイニシエーションと受けとってよかろう、なお、ここでいう「大山脈」とは、サリーナス・ヴァレーの西側にきびしくそびえ立つサンタ・ルーシア山脈であることを付記しておく。
そういえば、第三挿話「約束」でネリーが種馬と出会う場面はおそろしく迫力に富んでいるが、ここで少年は生殖の秘密へとごく自然に導入されていく。性へのイニシエーションといえよう。
第四挿話「人々の指導者」ともなると、少年はだいぶ大人らしくなる。前の挿話で、めずらしくもビリーが腹立ちまぎれに使った「このろくでなしめ」というあくたいをジョーディーも大人になったつもりで使ってみるのがその一つの証拠といえよう。(「あのろくでもねえハツカネズミども」)
もう一つ、ほんのささやかな出来事ではあるが、少年が祖父のために、レモネードをつくってやるくだりがある。おじいちゃんは、若い者たちが、自分がそのむかし開拓者たちの指導者として大陸を横断し、カリフォルニアの海岸まで達した話を語ってもそれに耳を傾けないばかりか、開拓精神までも失ったことをなげき、さびしい気持ちになっていた。そのとき、少年はおじいちゃんの気を引き立ててやろうと、自分から買って出て、レモネードをこしらえてやる。それは自分のことばかりにかまけている少年時代から脱出して、他人のことにも思いやりを持つ大人の世界へと移行したことを示すシンボリカルなジェスチャーと解釈できないこともない。利己主義から愛他主義への移行によって、ジョーディーは精神的に大きな成長をとげたのである。
また、「たくさんの人たち全体がまるで一匹の大きな這いまわるけだものみたいになった」という集団人間の思想は、やがて『怒りのブドウ』という大作を生み出す地盤になるので、大いに注目すべきであろう。
『赤い小馬』全体を読んでだれでもおどろくことが一つある。スタインベックという作家が、他の小説家に比類を見ないほど動物を数多く登場させることと、その動物たちが、たんなる自然の背景になっているのではなく、人間と深い結びつきを持っており、場合によっては、彼ら自身が重要な登場人物にもなっていることである。たとえば、「贈り物」では赤い小馬ギャビランが、「約束」では雌馬ネリーと、それが生む黒い子馬が重要な登場者になっている。また、「大山脈」ではパイサーノのジターノと老馬のイースターがほとんど一体であり、「人々の指導者」の中心人物のおじいちゃんは、一人の開拓者というより、大きな開拓者集団というけだものの頭のごとき存在であることに気づくであろう。
もの好きな読者がいたら、『赤い小馬』全編に登場する動物(鳥や昆虫をも含めて)を採集してみたらいかが? 同じ作業を『二十日鼠と人間』や『怒りのブドウ』でもこころみると、そのようにあまたの動物を使うこの作者の意図がどこにあるか、それまでわかってくるかもしれない。
以上、『赤い小馬』についていろいろの角度から解説をこころみたが、さいごに「『赤い小馬』は、チャーミングで感動的な小型小説である」という批評家ジョーゼフ・フォンテンローズの言葉に私自身も共感していることをつけ加えておく。なお、この作品は一九四九年にレパブリック・テクニカラーで映画化された。ジョーディーをピーター・マイルズ、母親のティフリン夫人をマーナ・ロイ、ビリー・バックをロバート・ミッチャムが演じている。
[#改ページ]
代表作品解題
『トーティーヤ平』(Tortilla Flat 一九三五年)
作者がもっとも親近感を抱いていたパイサーノ族たちの、モンテレイ町とそれを囲む丘陵地帯にあるトーティーヤ平での、常識的にはグロテスクで、本質的には無邪気な生活ぶりを描き出したものである。スタインベックが愛読したマロリーの『アーサー王の死』が下敷になっていることはたしかで、マーク・トウェインの『アーサー王の宮廷に現われたヤンキー』(一八八九)と同じくアーサー王の伝説と封建時代へのパロディーでもあるが、『トーティーヤ平』のほうはアメリカの商業主義文明とモラルにたいする諷刺のほうに重みがかかっている。アーサー王に当たるのが、兵役からもどり、刑務所から脱獄してきたダニーで、彼をとりまく何人かのパイサーノ人が、円卓騎士というところ。彼らはつねにワインを飲み、飲むために盗みをし、酔っては女をくどいたりする。しかし、他人を搾取して財産を蓄積したりはしない。すべてが仲間同志の生活をいっしょに楽しむためである。
全部で十七のエピソードから成り立っているが、一例として第十三|挿話《そうわ》のテレジナ・コルテスの話を紹介しよう。彼女は十四歳で子どもを産みはじめ、十六歳で結婚し、子どもを二人もうけるが夫に逃げられる。物語の現在では、三十歳の彼女に九人目の子どもが生まれたばかり。貧しいわりに子どもたちは意外に健康だった。巡回の校医も「こんな健康な子どもを今まで見たこともない」とおどろく。彼らはトーティーヤのほかに、インゲン豆を常食としていたからだ。百姓たちが捨てた豆がらの山をもういちどふるい分けて、豆を集めていたのだ。ところが、その年は雨続きで豆が不作であり、それもできないで困っていると、ダニーの仲間の男が四人もやってくると、食糧倉庫から四つの豆袋を盗み出してきて、それをテレジナの家に置いて帰った。信心深い彼女は奇跡が起こったと大喜び。このころ、彼女は十人目の子どもをみごもったのに気がついたが、さて、その父親は四人の「円卓の騎士」のだれなのか自分でもわからなかった。しかし、エスさまの母君マリアさまだって、父なし子を生んだと思えば、そう苦にもならなかった。マリアさまだけはわかってくれると思ったからだ。
『二十日鼠と人間』(Of Mice and Men 一九三七年)
時間は三日間、場所はソリダッドに近いサリーナス川のほとりとその付近の農場、中心人物は移動労働者のジョージとレニー、こうした要素が水も洩らさぬ緊密な構成で組み立てられ、一つの農村悲劇というドラマを描き出している。おそらく、スタインベックの全作品中の、というより二十世紀世界文学のうちでも、『偉大なギャッツビー』などと並んだ屈指の小型傑作であろう。
薄バカのレニーはジャニー・ベーアと共にスタインベック文学の扱っているサブノーマルな人間傑作であるが、彼には、やわらかい、すべすべしたものに抵抗できない弱点がある。その弱点が二十日鼠や子犬にたいして発露しているかぎり問題はないのだが、自分が雇われている農場の若妻相手になり、しかも彼女を誤って殺すという結果になったからたまらない。やむなく、親友のジョージは自らの手でレニーを射殺する。
この小説も何かを告発しようとする意図で書かれたものではない(ノン・テレオロジカル)ので、作者のテーマがどこにあるか、いろいろの論がやかましい。男同士の異常な友情だという見方もあるし、タイトルの示すように「人間の状態についての寓話《パラブル》」だと断ずる人もいる。(フォンテンローズ)標題はロバート・バーンズの「二十日鼠と人間の、どんなにぬかりない計画でも、しばしば狂うことがある」という詩の一節から採ったものであるが、ジョージとレニーの場合にも、一応そのとおりのことが起こった。ジョージは農場から農場へと渡り歩いて働いているが、いつの日にかは、貯えた金で自分自分の小さな土地を買い、そこで独立した自由の生活を送りたいと願っている。エデンの園のテーマである。その夢をいつも崩すのは、薄ノロのレニーであるが、彼はこの重荷をけっして捨てようとしない。彼の夢を世間の常識人のように嘲笑せず、本気で受けとめてくれるのはレニーだけだからだ。レニーを見捨てられないのは、二人の間に結ばれているかもしれない、あやしい関係のためではなく、レニーが夢を信じてくれるからなのである。私はそう解釈したい。だからこそ、レニーを殺してしまうと、ジョージは完全な現実的人間にたちかえり、別の友人といっしょに町に酒を飲みに出かけることになるのだ。つまり、この小説は人生のはかなさを歎くエレジーというよりは、どんなしがない生活をしている人間にも夢というものがあり、それが生きがいになっている、ということを語っているように思われる。「『二十日鼠と人間』はこの世の中に暮すべての人間の夢と快楽の研究である」と作者自身が手紙の中で述べているのも参考になろう。
『怒りのブドウ』(The Grapes of Wrath 一九三九年)
量からいえば『エデンの東』に及ばないが、質の上ではそれ以上と見る人が多く、この作家の最高の作品といってよかろう。一九三九年の四月に出版されてから長い間ベストセラーをつづけ、四〇年にはピューリツァー賞を授けられ、後年ノーベル賞の選考に当たっても、大きな役割を演じた。
三〇年代は大不況の時代であったが、とくに南部オクラホマ州では、その後半、おそろしい砂嵐にいためつけられ、食いつめた農民たちは、生きのびるために西部カリフォルニアに二十五万ともいわれる大量移住をはじめた。作者自身もオクラホマを通りかかったとき、この移住農民の仲間に加わり、カリフォルニアに着くと、彼らといっしょに労働をして、その苦労を身をもって体験した。そうした直接経験をもとにして芸術作品に昇華させたものが、この『怒りのブドウ』という小説なのである。
見方によってはドキュメンタリーともとれるし、圧迫搾取される農民がストライキなど行なって資本家や資本家の犬どもと闘う姿にカメラが向けられているので、プロレタリア文学だと考える者もいる。しかし、宣伝《プロパガンダ》という目的のために書かれた素朴なルポルタージュでないことは、この人のノン・テレオロジカルな行き方からしても明らかである。
全体は三十章から成っており、そのうち十六章は中間章(interchapter)と呼ばれて、社会的、経済的、歴史的叙述の短章になっているが、残る十四章が全体の七分の五以上の量を占めて物語の本筋をはこぶ役割をつとめている。オクラホマの難民(オーキーズと呼ばれる)ジョード一家がオクラホマからニュー・メキシコ、アリゾナを経て、カリフォルニアのサン・ウォーキン・ヴァレーへと移動しつつ働く辛酸のあとを物語っている。とくに、一家の次男坊で刑務所を仮保釈で出てきたトムと、その友人で巡回説教師上がりのジム・ケイシーの二人……そして警官に追われる息子をかばう母親との三人……の行動には私たちの胸をうつものがある。
巻末に、トムの妹「シャロンのバラ」が、納屋でめぐり会った見ず知らずの中年男を抱いて乳を飲ませるシーンがあって印象的である。メロドラマ的だと非難も浴びているが、「すべての人間は偉大な大きな魂のひとかけらを持つにすぎない」というジム・ケイシーの思想と合わせて考えれば、そう不自然なラスト・シーンともいいきれない。これはスタインベックのグループメンの思想とも一致しているのだ。
題名は「共和国戦いの歌」の一句「怒りのブドウの貯えてある醸造所から足踏みつけて出かける」から採ったものだが、物語の骨組は旧約の「出エジプト記」を下敷にしているともいわれる。
『エデンの東』(East of Eden 一九五二年)
四部五十五章(オリジナル版で五二五ぺージ、『怒りのブドウ』は四六八ぺージ)の大部作で、なんといっても人間性の善と悪、愛と憎しみを掘り下げて追求した大型小説で、ホーソンの『緋文字』、メルヴィルの『モービー・ディック(白鯨)』、フォークナーの『響きと怒り』などと肩を並べるものと考えてよかろう。執筆にとりかかったのは一九四七年で、完成までに五年の歳月を投入した。初めは作者自身の家族の歴史を書くつもりで、サミュエル・ハミルトン一家の物語にしぼり、題名も『ザ・サリーナス・ヴァレー』であったが、途中からアダム・トラスク一家の事に興味の中心が移り、題名も『エデンの東』に変わった。この題名は旧約(「創世記」第四章第十六節)から採ったもので、弟殺しのカインが罪の烙印を押されて追放された場所を意味している。
サイラスの息子アダムは、初め東部コネティカットの農場に異母弟のチャールズと暮らしていたが、二人は性格が対照的で、けんかばかりしていた。やがてアダムはキャシーという悪女と結婚すると、エデンの園建設を夢見て、西の方カリフォルニアのサリーナス・ヴァレーにあるキング・シティーに移ってくる、(エデンの園のテーマがここにも感じられる)そこで、サリーナスに住むハミルトン一家と出会い、両家の交際がはじまる、やがてキャシーはケイレブとアーロンという男の双生児を産む、しかも、そのほんとの父親はアダムではなくて、弟のチャールズなのだ。キャシーは子どもを産むとまもなく、夫にコルト銃で傷を負わせ、家をとび出す。彼女はモンテレイの淫売宿にもぐり込み、やがて女将のフェイを毒殺して自分がその後釜にすわる。
双生児の兄弟は、父のアダムがその弟のチャールズとそうであったように、性格が合わず、おとなしいアーロンのほうがいつも父の気に入りであり、しかもアーロンには恋人のアブラまでできる。気性のはげしいケイレブは孤独に陥り、なんとかして父の愛情を手に入れようと、たまたま第一次世界大戦にアメリカが参戦して、インゲン豆の相場が高くなったのを知り、その売買に手を出して大儲けをすると、その収益一万五千ドルを感謝祭に父に贈る計画をたてる。しかし、父はそんな戦時利得の金などけがらわしいといって拒否する。そこでカッとなったケイレブは、父との約束をほごにしてアーロンを母のもとへつれてゆく。母のけがらわしい正体を見せつけられたアーロンは、絶望のあまり兵役に志願する。やがてキャシーも救われぬ自分を知って自殺をとげる。
ある日、アーロン戦死の報がとどくと、父はそのショックで脳溢血を起こす。ケイレブは死の床に横たわった父親のかたわらで、アーロンの死も父の病気も、けっきょくは自分の罪だといって許しを請うが、父からはなんの反応もない。しかし、そばにいた使用人の中国人|李《リー》が、ケイレブをさいごまで拒絶しないで祝福をあたえたらと頼むと、アダムの目は輝き「ティムシエル!」とつぶやいて目を閉じた。
この「ティムシェル」(Timshel)というさいごの言葉が『エデンの東』の秘密を解くカギになっているともいえよう。「ティムシェル」とはヘブライ語で Thou mayest(そうしてもいい)の意味であるが、「創世紀」第四章第七節の「汝は彼を治めん」は欽定訳では thou shalt rule over him となっている。これではヘブライ語の意味と開きがある。Shalt は約束であり命令であるが、mayest の中には、「選択の権利」が含まれている。つまり、神は人間に選択の自由をあたえている。以上が李の解釈であり、アダムもそれを知っていて、自分がこれまで愛を拒んできたケイレブにたいして、罪の許しを受けるチャンスをあたえたというわけである。
「創世記」のこの箇所は、かの有名な兄弟殺しのくだりを述べたところで、兄のカイン Cain が、神から愛される弟アベル Abel を、妬《ねた》んで殺すことになっている。
スタインベックが双生児の一人をケイレブ Caleb 、もう一人をアーロン Aron と呼んだのは、頭文字を聖書の兄と弟に合わせたからである。つまり、『エデンの東』は聖書の兄弟殺しのテーマを下敷としていることがわかる。なお、トラスク家の人間で善人に属するものはすべてAで、悪人はすべてCではじまる名前を持っていることに注意したい。
〔訳者紹介〕
龍口直太郎(たつのくち・なおたろう) 英米文学者。一九〇三年東京に生まれる。東京外語卒。日本ペンクラブ会員、日本モーム協会幹事、日本翻訳家協会理事。訳書J・ロンドン『野性の呼び声』、モーム『月と六ペンス』『お菓子とビール』『女ごころ』『劇場』、ヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』、スタインベック『月は沈みぬ』、カポーティー『ティファニーで朝食を』『冷血』他多数。
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年譜
一九〇二 二月二十七日、カリフォルニア州モンテレイ郡サリーナスに生まれる。姉二人、妹一人、男はジョン・アーンスト・スタインベック一人。父は同名で、祖父はグロース・スタインベックといわれ、ドイツの北ライン地方の出身。祖父の代にアメリカに移住して、一八七四年サリーナスの東北方ホリスターで製粉所を開いた。父はこの仕事をうけついだが、のちサリーナスに移り、モンテレイ郡役所の収入役を長年つとめた。母はオリーヴ・ハミルトン。独身時代にモンテレイ郡内各地で小学校教師をつとめた。母方の祖父はアイルランド出身で、一八五一年アメリカにわたり、南北戦争後モンテレイ郡のキングズ・シティー近くに農場を開いた。
一九一九(十七歳) サリーナス高等学校卒業。在学中は陸上競技やバスケットの選手をつとめ、上級学年ではクラス委員長をつとめた。学校の機関誌『エル・ギャビラン』に寄稿したこともある。
一九二〇(十八歳) スタンフォード大学に入学。英文学・生物学を学ぶが、通学したのは一九一九〜二〇、一九二二〜二三、一九二四〜二五と断続的で、休学中は工場、農場、商店、道路工事などで働いた。『スタンフォード・スペクテイター』誌に短編を二つ発表。
一九二五(二十三歳) スタンフォード大学を学士もとらずに退学。作家を志望してニューヨークヘ行く。新聞記者、各種の労働をするが志を果たさず。
一九二六(二十四歳) 水夫として働きながらカリフォルニアにもどり、ターホー湖畔の山荘番になり創作に励む。『スタンフォード文学』に風刺詩三編を発表。
一九二九(二十七歳) 『黄金の盃』出版。
一九三〇(二十八歳) キャロル・ヘニングと結婚し、パシフィック・グローヴに新居を構える。モンテレイ町の太平洋生物実験所の経営者エドワード・リケッツと知り合う。
一九三二(三十歳) 『天の牧場』出版。夏、ロサンジェルスに移り、冬、パシフィック・グローヴヘもどる。
一九三三(三十一歳) 『知られざる神に』出版。
一九三四(三十二歳)  二月に母オリーヴ死去。『ノース・アメリカン・レヴュー』誌四月号に発表した短編「殺人」でオー・ヘンリー賞受賞。
一九三五(三十三歳) 『トーティーヤ平』出版。出版人パスカル・コヴィチと知り合う。パラマウント社より同書の映画化権四千ドルを得る。カリフォルニア文学賞。
一九三六(三十四歳) 『勝敗の定まらぬ闘い』ふたたびカリフォルニア文学賞。ロス・ガトスに転居。五月に父死去。メキシコに遊ぶ。
一九三七(三十五歳) 『二十日鼠と人間』出版。七万五千部を売り、ベストセラーになる。戯曲化のため春ニューヨークに行く。五月、アイルランド、スウェーデン、ソ連をめぐり八月帰国。十一月からの上演は好評で、「ニューヨーク劇評家サークル賞」受賞。オクラホマ州より、難民オーキーズたちとともに西進、カリフォルニアに至る。
一九三八(三十六歳) 短編集『長い谷』出版。
一九三九(三十七歳) 『怒りのブドウ』出版。四月刊行後同年内に四十三万部が売れ、ベストセラーになる。
一九四〇(三十八歳) 『怒りのブドウ』でピューリツァー賞を受ける。三月十一日よりエド・リケッツとカリフォルニア湾へ海洋生物採集調査の航海に出て四月二十日にもどる。映画『怒りのブドウ』上映される。
一九四一(三十九歳) 『コルテス海』出版。
一九四二(四十歳) 『月は沈みぬ』出版。映画化権三〇万ドルを得る。ルポルタージュ『爆弾投下』出版。印税・映画化権二十五万ドルを空軍後援会の基金に寄付、キャロル・ヘニングと離婚。
一九四三(四十一歳) 七月より十月まで『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙特派員としてイギリス、北アフリカ、イタリア戦線をまわる。ダウィン・ヴァードンと結婚、ニューヨークヘ転居。
一九四四(四十二歳) 『罐詰工場通り』出版。長男トマス生まれる。
一九四五(四十三歳)「人々の指導者」を加えて、『赤い小馬』ヴァイキング社より再刊。
一九四六(四十四歳) 次男ジョン生まれる。
一九四七(四十五歳) 『気まぐれバス』、『真珠』出版。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙特派員としてソ連を訪れる。
一九四八(四十六歳) アメリカ芸術院会員に選ばれる。親友エドワード・リケッツを交通事故で失う。グウィン・ヴァードンと離婚。知己の写真家ロバート・キャパらと「ワード・ヴィデオ協会」を作りヴィデオ・テープの供給をもくろむ。
一九四九(四十七歳) 『赤い小馬』の映画台本を書き上映する。
一九五〇(四十八歳) 『赤々と燃える』出版。十二月エレイン・スコットと結婚。
一九五一(四十九歳) 『コルテス海航海日誌』を、エドワード・リケッツの回想記を付して出版。
一九五二(五十歳) 夫人同伴にて、イタリア、アイルランドを旅行。『エデンの東』出版。
一九五四(五十二歳) 『楽しい木曜日』出版。
一九五五(五十三歳) 『エデンの東』映画化、上映。
一九五七(五十五歳) 『ピピン四世の短い治世』出版。東京の第二十九回国際ペンクラブ大会に出席。
一九五八(五十六歳) 第二次大戦の従軍記『かつて戦争があった』出版。
一九六〇(五十八歳) 九月から十二月の間、キャンプカーを運転、アメリカを周遊。
一九六一(五十九歳) 『われらが不満の冬』出版。
一九六二(六十歳) さきの自動車旅行の記録『チャーリー同伴の旅』出版。十月アメリカ人として六人目のノーベル文学賞受賞。ストックホルムの受賞式に出席、作家の使命について講演する。
一九六三(六十一歳) 夫人同伴にてソ連再訪。
一九六五(六十三歳) ロングアイランドの『ニューズデイ』紙特派員としてヨーロッパ、中近東を訪れ、「アリシアヘの手紙」として同紙に報告をよせる。
一九六六(六十四歳) アメリカ空軍の北ヴェトナム爆撃を黙認したことでソ連の詩人に非難される。『ニューズデイ』紙で反論。十二月同紙特派員としてヴェトナム前線を視察。「アリシアヘの手紙」として『ニューズデイ』紙に見聞記をよせる。『アメリカとアメリカ人』出版。
一九六七(六十五歳) ソ連紙ふたたびスタインベックを非難。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙で反論。
一九六八(六十六歳) 十二月二十日、心臓弁膜症で死去。
一九七〇 『創作日誌……『エデンの東』書簡集』出版。