怒りの葡萄
スタインベック/大久保康雄
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
第二十一章
第二十二章
第二十三章
第二十四章
第二十五章
第二十六章
第二十七章
第二十八章
第二十九章
第三十章
解説(大久保康雄)
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怒りの葡萄
第一章
オクラホマの、赤茶けた土地と、灰色の土地の一部に、最後の雨が、やわらかに降ってきた。それは傷あとだらけの大地を切りくずすことはしなかった。鋤《すき》が、あちこちの小川のあとを縦横に掘り起していった。この最後の雨は、たちまち玉蜀黍《とうもろこし》を生長させ、雑草の群落と青草を道の両側のあちこちに芽生えさせたので、灰色の土地と暗褐色《あんかっしょく》の土地は緑色の絨毯《じゅうたん》の下に姿を消しはじめた。五月の終りになると、空はうす青くなり、春のあいだ長いこと空高くに綿のようにかかっていた雲は、どこかへ姿を消してしまっていた。くる日も、くる日も、太陽は育ちゆく玉蜀黍の上に照りつけ、しまいには一筋の褐色のものが、銃剣のような緑の葉の一枚一枚をふちどりはじめた。雲が、あらわれてはすぎてゆき、すると、しばらくのあいだは、もう顔を出そうとしなかった。雑草の群れは、身を守るために、ますます緑色を増し、そして、もうそれ以上繁殖しなくなる。大地の表面は、うすい堅い殻《から》をつくり、そして空が青くなっていったのと同じように、大地もまた色がうすれて、赤い土地は桃色に、灰色の土地は白っぽくなっていった。
流水によってつくられた涸《か》れ溝《みぞ》に、土くれが、乾いた小さな流れのように流れこむ。地鼠《じねずみ》と蟻地獄《ありじごく》が、小さな土崩れをつくりはじめる。そして、きびしい太陽が日一日と照りつけるにつれて、若い玉蜀黍の葉は、次第に堅さをうしなって、うなだれはじめ、はじめは彎曲《わんきょく》していたのが、やがて強い葉脈の中心部が弱くなるにつれて、どの葉も、下にたれさがる。やがて六月、太陽は、さらにきびしく照りつける。玉蜀黍の葉の褐色の筋は、ますます大きくなって、中央部の葉脈のほうへ忍びよってゆく。雑草はすり切れて、根もとのほうに後退し、大気はうすくなり、空はさらに青くなる。そして日ごと大地も色つやをうしなってゆく。
農耕用の馬が進み、車輪が大地をかみ砕き、馬の蹄《ひづめ》が地面をたたく道路では、土の殻が砕けて、土埃《つちぼこり》ができあがる。動くものはすべて、その土埃を空に巻きあげる――歩いている人間は腰のあたりまでうすい土煙をあげるし、荷馬車は垣根《かきね》のてっぺんまで埃を巻きあげ、そして自動車は背後に埃の雲を巻き起す。土埃は、なかなかもとどおりにはしずまらない。
六月が半ばをすぎると大きな雲が南のテキサスとメキシコ湾から動いてくる。高く重い雲、雨をはらんだ雲だ。野良《のら》にいる男たちは、雲を見あげて、その匂《にお》いをかぎ、唾《つば》で濡《ぬ》らした指をあげて風の方向《むき》を探った。馬は、雲が動いているあいだは興奮して落ちつかなかった。雨をはらんだ雲は、ほんのわずか、|おしめり《ヽヽヽヽ》を落してから、急ぎ足で他の土地へ行ってしまった。そのあと、空はふたたび青くなり、太陽が照りつけた。雨滴が落ちたあとには、土埃のなかに、小さな噴火口ができ、玉蜀黍には、きれいな水しぶきがかかっている。そして、ただそれだけのことだ。
雨雲のあとには、風が静かに吹き、その雲をさらに北のほうに追いやった。そして、乾きはじめた玉蜀黍は、さやさやと音をたてた。一日すぎると風は力を増し、突風に調子を乱されることもなく、ひっきりなしに吹きつづけた。道路から吹きあげられる土埃は、けばだったように舞いあがってはひろがってゆき、畑の縁の雑草にふりかかり、すこしばかり畑の上に落ちた。やがて風は強く激しくなり、雨でしめった玉蜀黍畑の土にさえ作用しはじめる。空は入りまじる土埃のために、すこしずつ暗くなり、風は大地の上をさぐって、埃を浮かせては運び去ってゆく。風は、さらに強まる。雨にしめった土は割れて、土埃が畑から舞いあがり、ゆったりと立ちのぼる煙のように、灰色の羽毛のようなものを大空に漂わせる。玉蜀黍は、唐竿《からざお》のように風をたたき、乾いた、あわただしい音を立てる。もっと細かな土埃は、もういまでは、大地に帰ることもなく、暗くたそがれる空へと消えてゆく。
風はますます強まり、石の下に吹きこみ、わらや落葉を空に巻きあげ、小さな土くれまで巻きあげた。畑を横ぎるときには、それがはっきりと見えた。大気も空も暗くなり、そのあいだから太陽が赤く輝いた。そして空中には生々しい草の匂いがした。夜になると、風は、ますます早く大地を駆けぬけ、玉蜀黍の小さな根のあいだを、たくみにほじくり、玉蜀黍は、衰弱した葉をたてにして風と戦うが、ついにその根は、てこのような風の力に引きぬかれて、茎という茎が、みなぐったりと横ざまに地面に向って倒れ、風の方向をさし示した。
夜が明ける。だが昼はこない。灰色の空に赤い太陽があらわれる。黄昏《たそがれ》のような、ぼんやりとした光を投げかける、鈍い、赤い円球だ。そして時がたつにつれて、いつしか黄昏は夜の闇《やみ》に戻《もど》り、風は、倒れた玉蜀黍の上で、悲しげな、哀れな声で叫んでいる。
男も女も家のなかで寄りそい、外へ出るときには鼻にハンカチをかぶせ、目を痛めぬように塵《ちり》よけ眼鏡をかける。
ふたたび夜がくるが、それは黒い夜だ。というのは星の光も土埃をつらぬいて地上に達することができず、窓の明りも、それぞれの中庭の外まではひろがらないからだ。いまや土埃は空気と等分にまざりあい、埃と空気との乳状液のようになっていた。家々の戸は固く閉ざされ、扉《とびら》や窓の隙間《すきま》には布屑《ぬのくず》が詰めこまれていたが、それでも土埃は、空気のなかに目に見えぬほど稀薄《きはく》になって入りこみ、椅子《いす》やテーブルや料理|皿《ざら》の上に花粉のようにたまった。人々は肩から埃を払いおとした。埃の細い筋が扉の敷居にできた。
夜中になって風は過ぎ去り、あとに静かな夜を残していった。土埃に満ちた大気は、霧よりももっと完全に物音を封じこめてしまった。人々は、寝台に横たわったまま、風がやんだのを聞いた。彼らは、風が吹き抜けていったとき目をさまし、じっと身を横たえたまま、静寂に耳を傾けた。やがて雄鶏《おんどり》が鳴いたが、その鳴き声は、沈んだ調子に聞えた。人々は寝床のなかで落ちつきなく身を動かして、朝のくるのを待ち望んでいた。土埃がしずまって大気が澄むまでには長い時間がかかるのを人々は知っているのである。朝になると土埃は霧のように漂い、太陽は爛熟《らんじゅく》した新しい血のように赤かった。一日じゅう、ふるいにでも掛けられたように、土埃が空から降った。そして、つぎの日も降りつづいた。それは、なだらかな毛布のように地上をおおった。玉蜀黍の上につもり、柵《さく》の杭《くい》の頂につもり、柵の針金につもった。屋根に降りしき、雑草や木々をおおった。
人々は家々から出て、熱い刺すような大気の匂いをかぎ、鼻をふさいだ。子供たちも家から出てきたが、雨のあといつもやるように走ったり叫んだりはしなかった。男たちは畑の柵のそばに立って、荒れ果てた玉蜀黍を見おろした。玉蜀黍は急速に乾燥しはじめ、ほんのわずかな緑が、土埃のうすい層のなかにほの見えているにすぎなかった。男たちは黙りこんだまま、あまり動きまわらなかった。女たちが家のなかから出てきて男たちのそばに立った――こんどこそ男たちの気力が挫《くじ》けるのではないかと、それを探るために。女たちは、そっと男たちの顔を探った。ほかのだいじなものが、すこしでも残っているかぎり、玉蜀黍など、どうなってしまってもかまわないからだ。子供たちは、その近くに立って、はだしの爪先《つまさき》で土埃のなかに絵を描いた。子供たちもまた全身の感覚を集めて、男たちや女たちの元気が挫けるかどうかを知ろうとしていたのである。子供たちは、男たちや女たちの顔をうかがい、それから爪先で土埃のなかに、たんねんに線を描いた。馬が水桶《みずおけ》のところへやってきて、水に鼻面《はなづら》をつけて水面の土埃をかきわけた。しばらくたつと、見まもっていた男たちの顔は、ぼんやりとした、とまどったような表情が消え、きびしい、怒りをこめた抵抗の表情をおびていった。それで女たちは、もう大丈夫だと知り、元気が挫けはしなかったことをさとった。それから彼女らはたずねる。どうすればいいの? 男たちは答える。わからねえ。しかし、それで万事よいのだ。女たちは、これで万事大丈夫だと知っていたし、これを見まもっている子供たちも、大丈夫なのだと知っていた。女たちも子供たちも、どんな不幸だって、男たちさえしゃんとしているなら、けっして耐えられないほど大きくはないということを心の奥の深いところで知っているのだ。女たちは仕事をしに家へ戻り、子供たちは遊びはじめた。ただし最初は、こわごわと。時がたつにつれて太陽の色がうすれてきた。太陽は土埃におおわれた大地に照りつけた。男たちは自分の家の入口に坐《すわ》って、小さな棒切れや小石をもった手を忙《せわ》しげに動かしていた。男たちは静かに坐っていた――考えながら――あれこれ思いめぐらしながら。
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第二章
大きな赤い運送トラックが道ばたの小さな食堂の前にとまっていた。垂直の排気管が、低くつぶやくような音を立て、ほとんど目に見えないほどの鋼色《はがねいろ》の煙の靄《もや》が、その口のあたりから漂っていた。赤いペンキが光っている新しいトラックで、横腹には十二インチ大の文字で――オクラホマ・シティ運送会社と書いてあった。二重タイヤも新しく、真鍮《しんちゅう》の南京《ナンキン》錠が、大きな後部の掛け金から、ぴんと突き出ていた。網戸をつけた食堂のなかではラジオが鳴っていた。誰《だれ》も聞いていないとき低くしておくあの調子で、静かにダンス音楽が聞えてきた。小さな換気扇が、入口の上の丸い穴のなかで音もなくまわっていた。蠅《はえ》が扉《とびら》や窓の網戸にぶつかりながら興奮したように飛びまわっていた。食堂のなかには、一人の男――トラックの運転手が、腰掛けに坐って、カウンターに両肘《りょうひじ》をつき、飲みかけのコーヒーごしに、やせた貧相なウェイトレスをながめていた。彼は、こんな道ばたの食堂でよく使われる、小生意気な、だるそうな言葉つきで女に話しかけた。「やつには三カ月ばかり前に出あったぜ。やつは手術をしたんだ。何か切りとってしまったのさ。何だか忘れたよ」すると女が――「あたしがあの人に会ってから、一週間くらいしかたっていないように思えるけど、そのときは元気そうだったわよ。あの人、酔ってないときは、なかなかいい人ね」ときどき蠅が低いうなりを立てて網戸にぶつかった。コーヒー沸しが湯気を吹き出すと、ウェイトレスは、ふりかえりもしないで、うしろに手を伸ばしてスイッチを切った。
外では、国道の端を歩いていた一人の男が、道を横ぎってトラックに近づいた。ゆっくりとその前に歩みよると、ぴかぴか光るフェンダーに手をついて、風よけガラスに貼《は》りつけてある『便乗おことわり』という貼紙《はりがみ》を見あげた。一瞬、そのまま歩き去りそうに見えたが、そうはせずに、食堂の反対側のステップに腰をおろした。年齢は三十以上ではない。目は濃い暗褐色《あんかっしょく》で、白眼《しろめ》が、かすかに褐色をおびている。頬骨《ほおぼね》は高くて広い。頬には強く深い皺《しわ》が刻まれていて、口の両脇《りょうわき》で曲線を描いている。上唇《うわくちびる》が長く、そして出っ歯なので、唇は、それをおおうために前へ伸びている。というのも、この男は、唇をぎゅっと締めているからである。手は頑丈《がんじょう》で、幅の広い指と小さな蛤貝《はまぐり》ほども厚く盛りあがった爪《つめ》がある。親指と人差し指のあいだと、指のつけ根のふくらみのところには、胼胝《たこ》ができて光っている。
男の着ている服は新しかった――何もかも安物の新品だ。鼠色《ねずみいろ》の鳥打帽にいたっては、じつに新しすぎて、庇《ひさし》がまだこわばっていて、ボタンがついているほどで、鳥打帽が、いろんなふうに――たとえば、ものを運ぶ袋とかタオルとかハンカチなどの代りに――使われたあとでよく見うけるような型崩れやふくらみは、どこにもなかった。服は安物の鼠色のあらい生地で、ほんのおろしたてらしく、ズボンにも、ちゃんと折り目がついていた。青いシャンブレー織りのワイシャツは糊《のり》でつっぱって、すべすべしていた。上着が大きすぎ、ズボンが短かすぎるのも、背の高い大男だからだろう。上着の肩のパッドが両腕のほうにたれ下がっているのだが、それでも袖《そで》が短かすぎ、上着の前が腹のあたりでだぶついていた。新品の鞣皮《なめしがわ》の靴《くつ》をはいているが、それは『軍隊底』と呼ばれているたぐいのもので、鋲《びょう》をうち、踵《かかと》がすりへらないように馬蹄《ばてい》みたいな半円形の鉄輪が打ちつけてあった。男はステップに坐りこみ、鳥打帽を脱ぐと、それで顔をふいた。それからまた帽子をかぶり、庇をぐいと引っぱって型崩しの手はじめをやらかした。ふと足のことが気になった。かがんで靴紐《くつひも》をほどいた。しかし、もう一度結ぶことはしなかった。頭のあたりで、ディーゼル・エンジンの排気管が、青い煙をせわしなく吹きだしながら静かな音を立てていた。
食堂のなかでは、ラジオの音楽がとまって、男の声がラウドスピーカーから聞えはじめた。しかしウェイトレスは、スイッチを切ろうともしなかった。というのも、音楽がすでにおしまいになったのを、彼女は気づかなかったからである。退屈した彼女の指は、耳のうしろに小さなできものを一つ探り当てていたのだ。彼女は、運転手に気づかれずに、カウンターのうしろの鏡で、そのできものを見ようとした。それで、ちょっと髪の毛の乱れを直すようなふりをした。トラックの運転手が言った。「ショーニー市で、すごいダンス・パーティーがあってな。誰かが殺されたとかいう話だぜ。おめえ、何か聞かなかったかい?」「ううん」とウェイトレスは言った。そして耳のうしろのできものを愛撫《あいぶ》するように撫《な》でた。
外では、坐っていた男が立ちあがって、トラックのエンジンのおおい越しに、ちょっと食堂のほうを見まもった。それから改めてステップに腰を落ちつけた。わきのポケットから煙草《たばこ》の袋と煙草紙の束をとり出し、ゆっくりと、申しぶんのないほど上手に煙草を巻くと、それを調べて、皺を伸ばした。最後に、それに火をつけ、燃えているマッチを足下の土埃《つちぼこり》のなかに押しこんだ。昼近くなったので、太陽がトラックの影に食いこんできた。
食堂ではトラックの運転手が勘定を払い、つり銭の五セント玉二つをスロット・マシンに投げこんだ。円筒がぐるぐる回転したが、何も当らなかった。「こいつは、はじめっから当らねえようにつくってあるんだな」と彼はウェイトレスに言った。
彼女が答えた。「ほんの二時間ほど前にひとり、大当りをとった人がいたわ。三百八十ドルも、もうけたわ。あんたは、いつごろ戻《もど》ってくるの?」
彼は網戸をすこしあけたまま、「一週間か十日ぐらいだ」と言った。「タルサまでひとっ走りしてこなければならねえし、それに、いつも予定どおりには戻れねえからな」
彼女は、つっけんどんに言った。「蠅を入れないでおくれよ。出るかはいるか、早くどちらかにしてちょうだい」
「あばよ」と彼は言って、ドアを押して外へ出た。網戸が背後でばたんとしまった。彼は日光のなかに立ってチューインガムの包み紙をむいた。がっちりとした男で、肩幅も広く、胴まわりも太かった。顔は赤く、青い目は、いつも目を細めて強い光線を見ているので細く長くなっていた。軍隊ズボンと、編上げ靴をはいていた。口のさきにガムを棒のようにかざして持ちながら、彼は網戸ごしに呼びかけた。「とにかく、おれに聞かせたくねえようなことは、するんじゃねえぜ」ウェイトレスは背後の鏡のほうを向いていた。何かぶつぶつ口のなかで返事した。トラックの運転手は、ガムを、一|噛《か》みごとに顎《あご》と唇を大きくあけて、ゆっくりと噛みしめた。大きな赤塗りのトラックへ歩いていくあいだ、口のなかでガムを丸めたり、舌の下でころがしたりした。
ヒッチハイクしようとしていた男は立ちあがって窓ごしに彼を見た。「おれを乗っけてってくれねえかね、運転手さん?」
運転手は、一瞬、食堂のほうに、すばやく目を走らせた。
「窓に貼りつけてある|便乗おことわり《ヽヽヽヽヽヽヽ》って貼紙、見なかったのかい?」
「そりゃ――見たともよ。だけど、どこかの金持野郎が貼紙をつけさせたところで、男ってものは、ときには善人になることがあるもんだぜ」
運転手は、ゆっくりとトラックへ乗りこみながら、この返事を、どうしたらいいかと思案した。いまもしことわれば自分は善人でないことになるばかりか、ずっと無理にもこの貼紙を持ちまわらされて、仲間づきあいすら許されないことになる。もし、この便乗者を乗せてやれば、自動的にいい男になるわけだし、どんな金持野郎にもこづきまわされることのない男になれるわけだ。|わな《ヽヽ》にかけられかかっているとはわかっていたが、しかし、どうやってこの|わな《ヽヽ》を抜けだしたらよいか、見当がつかなかった。それに、彼は、いい男になりたかった。彼は、ちらと食堂のほうを見やった。「あの角をまがるまでステップにしゃがんでいなよ」と彼は言った。
ヒッチハイカーは、さっと身をかがめて姿を隠すとドアの握りにしがみついた。エンジンが一瞬うなりを立てたかと思うと、ギヤがかかって、大きなトラックは、第一ギヤ、第二ギヤ、第三ギヤと入れ替え、やがて、かん高い悲しげな加速の音とともに第四のギヤに入れ替えて走りだした。しがみついている男の下で、ハイウェーが目まぐるしく、おぼろげに飛びすぎて行った。道路の最初のカーブまで一マイルほど走ってトラックは速力をゆるめた。便乗者は立ちあがって、そっとドアを開けて座席にすべりこんだ。運転手は目を細めて彼を見やったが、まるで考えや印象が顎の動きによってよりわけられ整理されてから、やっと頭のなかにしまいこまれるかのように、ガムを噛んでいた。彼の目は、まず鳥打帽からはじまり、新しい服から新しい靴へと移っていった。便乗者は背を座席に落ちつけて楽な姿勢になると、鳥打帽をとった。そして汗ばんだ額と顎を、それでぬぐった。「ありがとうよ」と彼は言った。「|あんよ《ヽヽヽ》のやつが、すっかり、へたばっちまったもんでね」
「靴が新品だからな」と運転手は言った。その声には、目と同じように、ひそかな、あてこするようなひびきがあった。「新しい靴で遠道するもんじゃねえぜ――こんな暑い陽気によ」
便乗者は、埃をかぶった黄色い靴を見おろした。「ほかに靴を持ってねえのでな」と彼は言った。「ほかに、はく靴がねえとすりゃ、こいつをはくより仕方がねえやな」
運転手は慎重に前方をうかがい、すこしばかりトラックの速力を増した。「遠くまで行くのかい?」
「なあに、足さえへたばらなきゃ、歩いて行くところだったよ」
運転手の質問には、微妙に、ためすような調子があった。質問で網をひろげ、|わな《ヽヽ》をかけようとしているかのようであった。「仕事をさがしてるのかい?」と彼はたずねた。
「いや、おやじが畑を持ってるんだ。四十エーカーばかりね。小作づくりだけんど、そこに昔っから住みついてるんだ」
運転手は道路沿いの畑を意味ありげに見やった。そこには玉蜀黍《とうもろこし》が横ざまになぎ倒され、土埃がその上に高くつもっていた。小さなフリント玉蜀黍が、埃にまみれて地面からつき出ていた。運転手は、ひとりごとのように言った。
「四十エーカーばかりの小作づくりで、まだ土埃もかぶらず、トラクターに追いだされもしなかったのかい?」
「近ごろのことは聞いてねえよ」と便乗者は言った。
「長いあいだ住みついているということだが」と運転手は言った。蜂《はち》が一匹、運転台に飛びこみ、風よけガラスのそばで羽音をたてた。運転手が手を伸ばして、そっと気流のなかへ追いだしたので、蜂は風に乗って、たちまち窓から飛んで行った。「小作人は、このごろじゃ、どんどんいなくなってるんだぜ」と彼は言った。「トラクター一台で十家族は追いだされてしまうんだ。そのトラクターが、いたるところにきてやがるんだ。そして小作人を追いだしちまうんだ。おめえのおやじさんのとこでは、どうやって持ちこたえてるんだい?」舌と顎が、それまで忘れていたガムをひっくりかえしたり噛んだりして、忙《せわ》しく動きはじめた。口をあけるたびに、舌がガムをひっくりかえしているのが見えた。
「いや、近ごろ音信《たより》を聞いてねえのでな。おれは、まるっきり手紙を書く男じゃねえし、おやじのほうだってそうだしな」そして彼は、急いでつけ加えた。「しかし、書こうと思えば、二人とも書けるんだぜ」
「働きに出てたのか?」ふたたび、何げなく、こっそりと探りを入れるような調子だった。彼は畑のほう、うすくかがやいている大気をながめわたし、じゃまにならぬように頬の内側にガムを丸めこむと、窓から唾《つば》を吐いた。
「そうだよ」と便乗者は言った。
「おれもそうだろうと思ったよ。おれは、おめえの手を見たんだ。つるはしか斧《おの》か大ハンマーでも、ふりまわしていた手だ。それで手がそんなに胼胝《たこ》光りがしてるんだ。おれは、そういうことにゃ、何でもすぐに気がつくんだ。それが自慢でね」
便乗者は相手を見つめた。トラックのタイヤが路上で鳴りつづけていた。「もっと何か知りてえのか? そんなら話すぜ。いいかげんな当てずっぽうはやめてもらいてえ」
「まあ、怒るなよ。おれは別に、うるさくききただそうというわけじゃねえんだ」
「何でも話してやるぜ。別に隠しだてする気はねえんだから」
「まあ、怒るなよ、おれはただ、いろんなことに気をひかれるたちなんだ。暇つぶしにね」
「おれは何でもいうぜ。名前はジョードっていうんだ。トム・ジョードさ。おやじは老トム・ジョードだ」彼の目は陰鬱《いんうつ》な色をおびて運転手を見つめた。
「怒っちゃいけねえっていうのに。別にどうこういう意味はねえんだから」
「おれだって別に悪気があるわけじゃねえさ」とジョードは言った。「おれはただ、誰にも迷惑をかけねえで暮していこうと思ってるだけなんだ」彼は言葉を切って、乾いた畑や熱気の漂うかなたに、おぼつかなげに立っている枯れた木立ちを見やった。わきのポケットから、煙草と巻紙をとり出すと、風の当らない両膝《りょうひざ》のあいだで、煙草を巻いた。
運転手は、牛のようにリズミカルに、たんねんに、ガムを噛みつづけた。彼は、いまのやりとりの強い語気が消え去り忘れられるのを待っていたのだ。とうとう、その場の空気が、もう一度やわらいだとき、彼は言った。「トラックの運転をやったものでねえと、これがどんな仕事か想像もつかねえだろう。持主は途中で人を乗っけるのを、とてもいやがるんだ。だから、ここに坐って、ただすっ飛ばしていなきゃならねえんだ。くびになるような冒険をしようとでも思わねえかぎり、おれがいまおめえにしたようなことはやれねえんだ」
「よくわかってるよ」ジョードは言った。
「トラックを運転しながら、ずいぶん妙なことをする連中を、おれはたくさん知ってるぜ。いつも詩をつくってるやつがいたっけ。時間つぶしにね」彼はジョードが興味を感じているか、それともびっくりしているかを見ようとして、そっと視線を投げた。ジョードは黙って、道路に沿ってはるか前方をながめていた。白い道路は、波のように、やわらかにうねっていた。運転手は、とうとう言葉をつづけた。「おれは、その男が書いた詩を一つおぼえてる。やつと、もう二人の男とが世界中を、飲んで騒いだり、人にいっぱい食わせたりしながら、歩きまわる詩だった。残念だが、どんな文句だったか、おぼえてねえ。なにしろ、その男ときたら、キリストさまだってどんな意味かわからぬような言葉を使いやがるんでね。なかに、こんな文句があったっけ。『そこでひとりのニガー(黒人)を見つけた。そいつは象のプラボシスや鯨《くじら》のファンガー(一物)よりもビガーな(大きな)トリガー(性器)をもっていやがった』プラボシスってのは鼻みたいなもののことさ。象だったら鼻ってわけだ。その男は辞書をひいて、おれに見せてくれたがね。やつは一年じゅう辞書を持ち歩いてたもんだ。車をとめてパイとコーヒーをやってるときでも、やつは、そいつをのぞきこんでいるんだ」彼は、一人で長談議をしていることに気がついて言葉をとめた。その目は同乗者にそそがれていた。ジョードは黙ったままだった。運転手は、いらいらして、むりに相手を会話に引きこもうとした。「そんな大げさな言い方をするやつに、おめえ、会ったことはねえだろう?」
「説教師がいるだ」とジョードは言った。
「普通のやつが、あまり大げさな言い方をするのを聞くと、腹が立つもんだ。もちろん、説教師なら文句はねえさ。とにかく説教師に文句をつけるやつはいねえからな。ところが、その男はおもしろいやつだったよ。いくらやつが大げさなことを言っても、ふしぎに気にならねえんだ。やつは、ただ楽しみでやってるんだ。何も目当てがあってのことじゃねえんだ」運転手は、ふたたび自信をとり戻した。すくなくともジョードが耳を傾けていることがわかったからである。彼は大型トラックを走らせて猛烈な勢いでカーブを切った。タイヤがきしった。
「さっきも言ったように」と彼はつづけた。「トラックを運転する人間は、ときどき妙なことをするもんだ。そうしねえことには、どうにもならねえんだ。ここにただじっと坐って、車の下を道が走り抜けてゆくのを見てるだけじゃ、頭が変になっちまうからね。ある男が言ってたっけが、トラックの運ちゃんは、年じゅう何か食ってるっていうんだ――道ばたのハンバーグ食堂で年じゅう食ってばかりいるっていうんだ」
「たしかに道路に住みついてるようなもんだな」ジョードが相づちをうった。
「たしかに車はとめるさ。だけど、食うためじゃねえんだ。腹なんか、ちっとも減ってやしない。ただ、車を走らせるのがいやになってしまうだけなんだ――どうにもそれがたまらねえんだ。ハンバーグ食堂というのは、車をとめることのできる、ただ一つの場所なんだ。そして、車をとめりゃ、カウンターの向うにいる娘っ子とばか話をするために、何か注文しなければならねえことになる。それでコーヒーとパイを注文するってわけだ。まあ言ってみれば気休めみてえなもんさ」彼はガムをゆっくりと噛み、舌でころがした。
「つらい仕事なんだな」無感動にジョードは言った。
運転手は、皮肉を言われているのかと、すばやく彼を見やった。「まったく楽な仕事じゃねえよ」彼は、そっけなく言った。「ただここに坐ったまま八時間、ときには十時間でも十四時間でも、時間をつぶせばいいんだから、楽なように見えるけどね。しかしね、道路ってやつは始末におえねえもんだぜ。何かやらなくちゃいられねえんだ。歌うやつもいるし、口笛を吹くやつもいる。会社では、ラジオをつけてくれねえんだ。ウイスキーのパイント壜《びん》を持ちこむやつも、すこしはいるが、そういう連中は長つづきしねえな」彼は最後の言葉を気どって言った。「おれは仕事がすむまでは酒は一滴も飲まねえことにしてるんだ」
「ほんとうか?」ジョードがたずねた。
「ほんとうさ! 人間は出世しなくちゃいけねえからな。そうなんだ、おれは通信教育ってやつを受けようと思ってるんだ。機械工学ってやつさ。簡単なんだ。ほんのわずかな課目を家で勉強するだけなんだ。やろうかと思ってるんだ。そうすれば、トラックを走らせなくてもすむんだ。ほかの連中にトラックを運転しろと言いつける側にまわるわけだからね」
ジョードは上着のポケットからウイスキーの壜をとり出した。「ほんとうに一杯やりたくねえのか?」彼の声はからかっていた。
「いや、ぜんぜんいらねえよ。さわりたくもねえ。年がら年じゅう飲んでばかりいたら、おれのやろうとしている勉強なんか、できっこねえもの」
ジョードは酒壜の栓《せん》を抜いて、すばやく二口ばかり飲むと、また栓をしめてポケットにしまった。ウイスキーの刺激的な熱いかおりが運転台にひろがった。「おめえは、すごくまじめなんだな」ジョードは言った。「どうしたんだい――好きな女の子でもいるのか?」
「もちろん、いるさ。とにかくおれは出世したいんだ。おれは、ずっと長いこと自分の心を訓練してきたんだ」
ウイスキーはジョードの気持をほぐしたらしい。彼は、もう一本|煙草《たばこ》を巻いて火をつけた。「おれは、この先、うんと出世してやろうとは思わねえな」と彼は言った。
運転手は急いで言葉をつづけた。「おれには酒屋の勘定なんかいらねえ」と彼は言った。「おれはいつも心を訓練してるんだ。おれは、二年前にそういう方針をきめたんだ」彼はハンドルを右手で軽くたたいた。「たとえば道で一人の男とすれ違ったとする、おれは、その男を見て、通りすぎてしまってから、その男のようすを、すっかり思いだそうとするんだ。服や靴《くつ》や帽子の種類、歩き方、背丈の高さ、体重、傷あとがあったかどうか。それが相当うまくおぼえられるんだ。その人間の絵を、そらでかけるほど頭のなかに思いだすことができるんだ。ときどき専門の指紋鑑定家になる勉強をしたほうがいいと考えることがあるくらいだ。人間って案外よく記憶できるもんだね」
ジョードは、すばやく酒壜から、ぐいと一杯飲みほした。そして、ほぐれかかった煙草から最後の一服を吸いこみ、それから胼胝《たこ》のできた親指と人差し指で火のついている吸殻《すいがら》をもみつぶした。吸殻をくしゃくしゃにつぶして、窓の外へ出して、軽やかな風がそれを指から奪い去るのにまかせた。大きなタイヤは舗道の上で高い音を立てていた。前方の道路を見つめているジョードの濃い静かな目が、何か楽しんでいた。運転手は待ちかまえながら、落ちつかないふうに、相手を見やった。とうとうジョードの長い上唇《うわくちびる》が歯の上でめくれ、声も立てずにくすくすと笑った。胸が、その笑いとともに波うった。「おめえは、そこまでたどりつくのに、ずいぶん長くかかったもんだな、兄弟」
運転手は見返さなかった。「どこまでたどりつくのにだい? 何のことを言ってるんだ?」
ジョードの唇は、ちょっとのあいだ、その長い歯の上に、きつくはりついた。彼は犬みたいに、まんなかから左右へ、二度唇をなめた。声が荒っぽくなった。「どんな意味か、わかってるだろう。おれが最初ここへ乗りこんできたとき、おめえは、とっくりとおれを調べたじゃねえか。おれはちゃんと見てたぜ」
運転手は、まっすぐ前方を見ていた。ハンドルをあまり固く握ったので、手のひらの肉がふくれあがり、甲が青白くなった。
「おれがどこからきたか、知ってるんだろう」運転手は黙っていた。「どうなんだい?」ジョードは答えをうながした。
「うん――そりゃ、まあ、そうだ。いや――その、たぶん――知ってるかもしれねえってことさ。しかし、そんなことは、おれの知ったことじゃねえ。おれは自分のことだけしか気にしねえ男だ。おれにとっては、そんなこと、すこしもどうってことはねえよ」いまや言葉が、あわをくったように飛び出してきた。「おれは他人のことには鼻をつっこまねえ男だ」そして不意に彼は口を閉じて、待ちかまえた。ハンドルを握った手は、まだ血の気がなかった。|ばった《ヽヽヽ》が窓から飛びこんできて計器盤の上にとまった。そこへ落ちつくと、曲った後足《あとあし》で羽をこすりはじめた。ジョードは手を伸ばして、固い頭蓋《ずがい》めいたその頭を指で押しつぶした。そして窓の外の風の流れのなかに投げこんだ。ジョードは指先からつぶれた虫のかけらを払い落しながら、ふたたびくすりと笑った。「おめえ、思いちがいしてるんじゃねえか」と彼は言った。「おれは別にこのことをかくすつもりはねえ。お察しのとおり、おれはマカレスターにいたんだ。四年ほどくらいこんでね。たしかに、この服は、おれが出所するとき、向うさんがくれたものさ。そんなこと、誰《だれ》に知られようと、おれは、ちっともかまやしねえ。それに、おれは、おやじのところへ行くんだから、仕事にありつくために嘘《うそ》をつく必要もねえのさ」
運転手は言った。「ふん――そんなことはおれの知ったこっちゃねえ。おれは、せんさく好きな人間じゃねえしな」
「まったくそうじゃねえようだな」ジョードは言った。「だけど、おめえのそのでっけえ鼻は、おめえの顔の八マイルぐらい先までつき出ていたぜ。まるで野菜畑の羊みてえに、そのでっかい鼻で、おれを探りまわしていたじゃねえか」
運転手の顔がこわばった。「おめえは、まるでおれを誤解してる――」彼は弱々しく言いはじめた。
ジョードは笑った。「おめえは、いい男だよ。おれを乗っけてくれたもんな。ふん、くそっ! おれは、りっぱに刑期をつとめあげてきたんだぜ。文句があるかっていうんだ。おれが、何の罪で四年もつとめてきたか、それを知りてえんだろう? そうだろう?」
「そんなことは、おれの知ったことじゃねえよ」
「この雌牛みてえな車を走らせるほか、何もかも、おめえの知ったこっちゃねえっていうんだな、それだけしか気になることはねえってわけだな。だけど、おめえがいちばんずるけてるのは、その仕事じゃねえのか。おい、見な、あそこで道路がのぼりになってるだろう?」
「うん」
「おれはあそこでおりるぜ。きっとおめえは、おれが何をしでかしたか、それが知りたくて、うずうずしてるんだろう。わかってるよ。おれは人をがっかりさせるような男じゃねえ」エンジンの、かん高い響きが鈍った。タイヤの歌が調子を落した。ジョードは酒壜をとり出して、また一口飲んだ。トラックは、惰性のまま走って、一筋の埃《ほこり》っぽい道がハイウェーから直角に延びているところまできてとまった。ジョードは外へ出て運転台の窓のそばに立った。垂直の排気管が、ほとんど目に見えないほど青い煙を吹き出していた。ジョードは運転手のほうに身をもたせかけた。「殺人罪だよ」彼は口早に言った。「こいつはすこし大げさな言葉だな――人殺しをしたってことさ。七年の刑よ。おとなしくしてたもんだから、四年で出てきたというわけさ」
運転手の目は記憶に残そうとしてジョードの顔をながめまわした。「おれは、なにもこっちからききはしなかったぜ」と彼は言った。「おれは自分のことでいっぱいなんだ」
「おれのことを、テクソーラへ行くまで食堂へ寄るたんびにしゃべりまくったってかまわねえぜ」彼は微笑した。「あばよ、兄弟。おめえは親切だったよ。だけど、いいかい、ちょっとでも刑務所の門をくぐってくりゃ、こいつは調べられてるなってことが、すぐにかぎつけられるんだ。おめえは、おれに向って口をあけたとたんに、本心をさらけ出してしまったというわけよ」彼は金属製のドアを平手でたたいた。「乗っけてくれてありがとうよ」と彼は言った。「あばよ」彼は向うをむくと土埃の道を歩いて行った。
ちょっとのあいだ運転手はそのうしろ姿を見つめていた。そして、それから声をかけた。「元気でな!」ジョードは、ふりかえりもせずに手をふった。やがて、エンジンがうなったかと思うと、ギヤのかかる音が聞えて、大きな赤塗りのトラックは、ごとごとと重たげに走り去った。
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第三章
コンクリートの国道は、両側を、もつれ、いたんだ、乾いた雑草のむしろに縁どられていた。草の先には、犬の毛にくっつこうとする燕麦《からすむぎ》の穂先や、馬のけづめの毛にとりつこうと待ちかまえている雀《すずめ》の鉄砲や、羊の毛にしがみつこうとする|うまごやし《ヽヽヽヽヽ》などが、いっぱいくっついていた。眠っている生命は、散らばされるのを待ちかまえて、種子という種子に、散らばるための道具――風に乗って、ねじれながら飛ぶ投げ槍《やり》や、パラシュートや、小さなとげのついた槍や弾丸を身につけ、どれもが、動物や、風や、男のズボンの折返しや、女のスカートの|へり《ヽヽ》などを待ち受けていた。まだ受け身の構えだが、活動の道具を身につけており、じっとしているが、それぞれ運動の本源をいだいていた。
陽光が草を照らして、それを暖め、草の下では虫どもが動いていた。蟻《あり》と蟻地獄は、虫を捕える|わな《ヽヽ》をしかけるために動き、|ばった《ヽヽヽ》は空中にとび立っては、一瞬、その黄色い羽をきらめかした。草鞋虫《わらじむし》は、たくさんの、しなやかな足で、小さな鎧鼠《よろいねずみ》のように、せかせかと歩きまわった。道ばたの草の上では、一匹の土亀《つちがめ》が、あてどもなく向きを変えては、高い丸屋根のような甲羅《こうら》をひきずりながら這《は》いまわっていた。堅い足と黄色い爪《つめ》をつけた足首が、実際には歩くというのではなく、甲羅を持ちあげたり、ひきずったりしながら、草のあいだを、のろのろと動いて行った。大麦の穂が、その甲羅をすべって落ち、|うまごやし《ヽヽヽヽヽ》の毬《いが》が、落ちかかっては地上にころがった。角のようにとがった口を半ば開き、獰猛《どうもう》でおどけた目が、人間の爪のような狭い額の下から、まっすぐ前方を見つめていた。踏みつけた長い足あとをうしろに残しながら通りすぎると、ハイウェーの土手をなしている丘が、目の前にそびえ立っていた。ちょっとのあいだ、彼は頭を高く伸ばして立ちどまった。目をまばたき、上と下を見まわした。しまいに土手をのぼりはじめた。爪のついた前足が前に伸びた。しかしとどかない。後足が、ぐいと甲羅をけりあげた。甲羅が草や砂利にきしんだ。土手が、いよいよ険しくなるにつれて、土亀の努力は、ますます狂気じみてきた。甲羅を持ちあげながら、後押し役の後足が、ぴんとつっぱってはすべり、角のような頭が首の伸びるかぎり前方に突きだされた。すこしずつ甲羅は土手をずりあがり、ついに真正面からその行進をはばむ胸壁にぶち当った。それは道路の肩、四インチほどの高さのコンクリートの壁だ。まるでそれだけ独立して動くもののように、後足が甲羅を壁に押しつけた。首が伸びて、壁をこえてセメントの平坦《へいたん》な広原をのぞき見た。いま彼の手は、壁の頂にかかり、ぐいと力をこめて持ちあげた。甲羅が、そろそろとあがってきて、その先端が壁の上にのっかった。すこしのあいだ、亀は休息した。赤蟻が、甲羅のなか、内側のやわらかな皮膚のなかに、もぐりこんだ。すると不意に頭と足を、さっと引っこめて、よろいを着た|しっぽ《ヽヽヽ》を、横ざまにぴしゃりとしめた。赤蟻は、体と足のあいだにはさまって、つぶされてしまった。そして、野麦の穂が一つ、前足で甲羅のなかにはさみこまれていた。長いあいだ、亀はじっとしていたが、やがて首が伸び、年老いた、おどけた、ふきげんそうな目が、あたりを見まわし、足としっぽが出てきた。後足が象の足のように伸びて仕事にとりかかった。甲羅がかしいだが、この角度では、前足は平らなセメントの平原にはとどかない。それでもなお、ますます高く後足は甲羅を押しあげ、ついに平均のとれるところまであがると、前部がかしぎ、前足が舗道をひっかいて、もうあがりついていた。だが野麦の穂は、前足のまわりに茎をくっつけたままだ。
こうなると行進は楽だ。四つ足が全部動き、甲羅が左右に揺れながら進んで行く。四十前後の婦人の運転するセダンが一台近づいてきた。亀を見つけると、ハイウェーをはずれるほど右によけた。車輪がすごい音をたててきしり、土埃の雲が巻き起った。二つの車輪が、一瞬はねあがったかと思うと、また元に戻《もど》った。車は横すべりにハイウェーに戻って走りはじめたが、しかし前よりも速度を落していた。亀は、それまで甲羅のなかに引っこんでいたのだが、しかしいまは、先を急いでいた。ハイウェーは燃えるように熱いからだ。
するとこんどは一台の小型トラックがやってきた。トラックが近づくと、運転手は、亀を見つけ、ひいてやれとばかり車を寄せてきた。前の車輪が甲羅の端にぶち当り、おはじきのように亀をぶっとばし、銀貨のようにくるくる回転させて、ハイウェーの外にころがした。トラックは右側のもとのコースに戻った。仰向けにひっくりかえって、亀は長いあいだ、じっと甲羅のなかに縮こまっていた。しかし、ついに足が虚空にもがき、体を起す手がかりを求めはじめた。前足が石英のかけらをつかまえた。すこしずつ甲羅が引っぱられて、よいしょとばかり起きあがって、元どおりの姿勢になった。野麦の穂が落ちて、槍先のようにとがった種子が三つ、地面につき刺さった。そして亀が土手を這いおりるにつれて、甲羅がその種子の上に土をかぶせた。亀は、埃っぽい道に入って、甲羅で、埃のなかに波型の浅いみぞを掘りながら、引きずるように歩いて行った。年老いた、おどけた目が前方を見つめ、角のようにとがった口は、すこし開いていた。黄色い爪が、埃のなかで、ちょっとすべった。
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第四章
ジョードは、トラックが遠ざかり、ギヤが次のギヤへ移って速力を増し、地面をたたくタイヤのゴムの鼓動が聞えたとき、立ちどまってうしろをふりかえり、トラックの姿が消えるまで見まもっていた。見えなくなってからも、彼は、なお遠くの方を見つめ、青い大気のかがやきを見まもっていた。もの思いに沈みながらポケットからパイント壜《びん》をとり出すと、金属製の栓《せん》をまわしてはずし、味わうようにウイスキーをすすった。舌を壜の口に入れてなめ、それから唇《くちびる》のまわりをなめて、風味がちょっとでも逃げぬようにしてのみこんだ。彼は、ためすように口ずさんだ。「そこでおいらはニガーを見つけた――」しかし、それだけしか彼には思いだせなかった。やがて彼は、くるりと向きをかえて、畑を横ぎって直角に交叉《こうさ》している埃《ほこり》っぽい道に向った。太陽は熱く、こまかく降りおちた土埃をかきたてるほどの風もなかった。道には、土埃が車のわだちにすべりこんでたまったみぞが、いくつかついていた。ジョードが二、三歩、歩きはじめると、粉のような土埃が新しい黄色い靴のさきにわき起り、その黄色い色も、灰色の埃の下にかくれてしまった。
彼は、かがんで靴紐《くつひも》をほどき、最初は片方、つぎにもう片方の靴を脱いだ。そして気持よさそうに湿った足を熱い乾いた埃のなかで動かした。すると、土埃の小さな雲が足の指のあいだから吹きだし、足の皮が乾いて堅くなった。彼は上着を脱いで、それに靴を丸めこみ、包みをわきの下にかかえこんだ。そして、とうとう彼は、前方に埃をけあげ、背後に低く地面にたれさがる埃の雲を残しながら道を歩きだした。
道の右側には、柳の木の杭《くい》に二条の有刺鉄線を張った柵《さく》がついていた。杭は、ねじれていて、枝がくっついたままだ。枝のまたが適当な高さのところでは、針金が、そのまたのところに張ってあるが、またのないところでは、有刺鉄線は、さびた荷づくり用の針金で柱にしばりつけてあった。柵の向うには玉蜀黍《とうもろこし》が風と暑熱と日照りのためにたたきのめされていた。そして、葉と茎とが接続しているコップ型のところは、埃でいっぱいだった。
ジョードは、背後に埃の雲を引きながら歩みつづけた。すこし前方に、丸屋根のような土亀《つちがめ》の甲羅《こうら》が見えた。ぎごちなく、ひきつったように足を動かしながら、土埃のなかを、のろのろと這《は》って行く。ジョードは立ちどまってそれを見つめた。彼の影が、亀の上に落ちた。すると、たちまち頭と足が甲羅のなかへ引っこめられ、短く太いしっぽが甲羅のなかへ横ざまにはりついた。ジョードは、亀をつかみあげてひっくり返した。背中は、土埃と同様、茶がかった灰色をしているが、甲羅の裏側は、クリームがかった黄色で、きれいで、すべすべしていた。ジョードは、服の包みを小脇《こわき》に高くかかえ直して、すべすべした甲羅の裏側を指でなでて押してみた。背中よりも、やわらかだ。堅い老いぼれ頭が出てきて押している指を見ようとした。四つの足が、やたらにもがいた。亀はジョードの手に小便をひっかけ、むなしく空中であばれていた。ジョードは、亀を、もとどおりにひっくり返してから、靴といっしょに上着のなかへくるみこんだ。脇の下で、そいつが押したり、もがいたり、あばれたりしているのが感じられた。こんどは、踵《かかと》を、細かな埃のなかに、すこし引きずるようにして、前よりも早く歩いて行った。
前方の道ばたに、一本のひょろ長い、埃にまみれた柳の木が、まだらな影を投げていた。ジョードは、その木を遠くから見ることができた。貧弱な枝が、ゆるい曲線をえがいて道の上にたれさがり、葉のかたまりが、まるで、羽毛の抜けかかっている鶏のように、ぼろぼろにむしれてけばだっていた。ジョードはいま汗をかいていた。青いシャツは背中と脇の下が、しみになっていた。彼は帽子の庇《ひさし》をまんなかから二つに折り曲げ、もはやどう見ても新品とは思えぬほどボール紙の裏うちをこわしてしまった。彼の足どりは、遠くの柳の木陰に向って、さらに早く、熱心になった。柳のところへ行けば木陰があることがわかっていたのだ。もう太陽は中天をすぎているから、すくなくとも幹が投げかける一筋の濃い陰があるはずだった。太陽は、いま彼の襟首《えりくび》に照りつけ、すこしばかり頭痛を感じさせた。木の根もとのほうは見えなかった。というのは、その柳は平地よりも長いあいだ水をふくんでいる小さな湿地帯に生えているからだ。彼は太陽を背に足を早めた。やがてくだり坂を降りはじめた。用心深く、ゆっくり降りた。なぜなら、濃い一筋の木陰は、すでに誰《だれ》かに占領されていたからだ。一人の男が、木の幹によりかかって、地面に腰をおろしていた。足を組み、はだしの片足を、自分の頭ほどの高さに伸ばしていた。ジョードの近づく足音が、その男には聞えなかった。彼は、『そうさ、あれがおれの恋人さ』という曲を、のんびりと口笛で吹いていたからである。伸ばした足がテンポに合わせて、ゆっくりと上下に揺れた。ダンスのテンポではなかった。やがて口笛をやめると、のんびりした細いテノールでうたった。
そうとも、あれがおれの救世主さ、
イエスさまこそ おれの救世主、
イエスさまこそ いまはおれの救世主だ。
何のかんのと言ったって、
悪魔は救世主じゃない、
イエスさまこそ いまはおれの救世主さ。
ジョードが、毛がむしりとられているような、まばらな葉のつくる木陰へはいりこんで行くと、ようやくその男は足音を聞きつけて歌をやめ、首をまわした。長い顔だ。骨ばっていて、皮膚がぴんと張り、セロリの茎のように筋ばった強靭《きょうじん》な首の上に、その顔はのっかっていた。目玉は、ぎょろりとして突きでており、瞼《まぶた》が、それをおおって張りだしていた。瞼は赤かった。頬《ほお》は褐色《かっしょく》で、てかてか光っており、髭《ひげ》はなく、口は――おどけているといってもいいし、肉感的であるといってもよかった。鼻はとがって骨ばっており、皮膚がぴんと張っているので、鼻ばしらが白く見えるほどだった。顔には汗ひとつかいていなかった。いや、広い青白い額にさえ汗はなかった。おそろしく高い額で、|こめかみ《ヽヽヽヽ》には細かな青い静脈の筋が、いくつも走っていた。顔の半分が目から上にあった。こわい灰色の髪の毛は、手でかきあげたように、額からうしろへ乱雑になでつけてあった。服装についていうなら、仕事着と青シャツ姿であった。そばの地面に、真鍮《しんちゅう》ボタンのついたデニムの上着と、ポークパイ帽のように折り目をつけた、しみだらけの、よごれた茶色の帽子がおいてあった。埃だらけのズックのゴム底靴が、落されたところに、ならんでころがっていた。
男は長いことジョードをながめていた。光がその茶色の目の奥深くまでしみ通ったように見え、その目が、黒目の奥で小さな金色の斑点《はんてん》を浮き上がらせていた。緊張した首の筋肉の塊《かたまり》がそそり立っていた。
ジョードは、まだらな木陰のなかに静かに立っていた。鳥打帽を脱いで、汗にぬれた顔をそれでふくと、帽子と、丸めた上着とを地面に投げだした。
木陰にいた男は、組んだ足をほどき、爪先《つまさき》で土をほじくった。
ジョードが言った。「いやはや。道ときたひにゃ、ひでえ熱さだぜ」
腰をおろしている男は、いぶかしげに彼を見つめた。「おや、おまえさんはトム・ジョードじゃねえか――トムじいさんとこの息子の」
「そうだよ」とジョードは言った。「そのとおりだ。これから家へ帰るところさ」
「おまえさんは、わしをおぼえてねえだろうな」と、その男は言った。微笑すると、厚ぼったい唇いっぱいに大きな馬のような歯が見えた。「うん、とてもおぼえちゃいねえだろうて。わしが聖霊を授けてやったころのおまえさんは、小さな女の子のおさげを引っぱるのに忙しかったでな。おさげを引っこ抜くことにばかり夢中になっていたから、おまえさんは、おぼえてねえだろうが、こっちはおぼえてるよ。おさげを引っぱったというので、おまえさんたちは二人いっしょに洗礼を受けさせられたじゃねえか。すぐに、灌漑《かんがい》用の掘割りで、わしが二人いっしょに洗礼をほどこしてやったっけ。まるで夫婦猫みたいに、おまえさんたちは、喧嘩《けんか》したり、わめいたりしたものさ」
ジョードは深い目つきで彼を見まもった。それから笑いだした。「そうか、おめえさんは説教師さんだね。そうだ、説教師だ。おれは、ほんの一時間ほど前に、ふとおめえさんのことを思いだして、ある男に話したばかりだぜ」
「昔は説教師だった」男はまじめな態度で言った。「ジム・ケーシー牧師――『火の芝』会派の牧師だった。キリストの御名《みな》をたたえて大声をはりあげてたもんだ。そして、灌漑用の掘割りには、罪を悔い改めた罪人《つみびと》たちが、たくさんはいりすぎて、その半分がおぼれかけるほど繁昌《はんじょう》したもんだ。だが、それも昔のことさ」彼は、溜息《ためいき》をついた。「いまはただのジム・ケーシーだ。もう神さまのお召しを受けることもねえ。罪深い考えを、うんともってるだでな――もっとも、その考えのほうが、わしには、まっとうなように思えるだがね」
ジョードが言った。「ものを考えはじめると、いろんな考えをもつようになるもんだ。たしかにおれは、おめえさんをおぼえてるよ。おめえさんは、よくすばらしい集会を開いたじゃねえか。一度なんか、ぶらぶら歩きまわりながら、ものすごい声をはりあげて、一説教やらかしたことがあったっけ。うちのおふくろは、おめえさんを、誰よりも好きだった。それから、うちのばあさんは、おめえさんには聖霊がいっぱいとりついていると言ってたっけ」ジョードは、丸めた上着を探ってポケットを見つけ、パイント壜を取り出した。亀が足を動かした。彼はそれをぎゅっと包みこんだ。彼は、ふたをはずして壜をさしだした。
「一杯どうだね?」
ケーシーは壜を受けとると、思い深げにそれをながめた。「わしはもう、ろくすっぽ説教はやらねえだ。このごろの人間には、もうあまり霊はいねえし、もっと悪いことに、わしのなかにも霊がいなくなっちまった。むろん、ときどきは霊が動きだして、わしも、集会を開いてどなることもある。人々が食べものを供えてくれるときには、恩寵《おんちょう》をあたえてやることもあるが、しかしわしの心は、そんなことにはねえんだ。ただみんなが、それをわしの役目だと思ってるから、やるだけのことでな」
ジョードは、もう一度、帽子で顔をぬぐった。「おめえさんは信心深いから、それで一杯やるわけにゃいかねえというのかい?」と彼はたずねた。
ケーシーは、はじめていま酒壜を見たという格好だった。彼は壜を傾けて、三口ほど大きく飲みこんだ。「うまい酒だな」と彼は言った。
「そりゃそうさ」とジョードは言った。「工場でつくった酒だもの。一ドルもしたんだぜ」
ケーシーは壜を返すまえに、もう一口飲んだ。「まったくだ!」と彼は言った。「まったくだよ!」
ジョードは彼から壜を受けとった。そして礼儀上、壜の口を袖《そで》でふいたりせずに飲んだ。彼は、しゃがみこんで、丸めた上着に壜を立てかけた。地面に思いついたことを書きつけるために小枝を一本見つけた。落葉を払いのけて、地面の埃をならして四角な枠《わく》をつくった。それから小さな円を描いたり角を描いたりした。「おめえさんとは長いこと会わなかっただな」と彼は言った。
「誰もわしと会ったものはいねえ」説教師は言った。「わしは、一人っきりになって、坐《すわ》って考えてたんだ。霊は、わしのなかに、ちゃんとついてるだが、しかしそれは昔と同じものじゃねえだ。わしは、いろんなことに確信がもてなくなってるだ」彼は背中を木にずりあげて坐った。骨ばった手が栗鼠《りす》のように仕事着のポケットを探って、黒い、食いちぎられた噛《か》み煙草《たばこ》をとり出した。注意深く、わらくずや灰色のポケットくずを払いのけてから、片端をかじって、その一噛みの煙草を頬の内側におさめた。煙草をさしだされたとき、ジョードは手にした枝を振って、いらないとことわった。亀が、丸めた上着をつっぱっていた。ケーシーは、もぞもぞ動いている上着を見つめた。「何を入れてるんだね――鶏かい? 窒息させちまうぜ」
ジョードは上着を、さらにきつく丸めこんだ。「亀だよ」と彼は言った。「道で拾ったんだ。老いぼれのブルドーザーさ。ちっちゃい弟に持ってってやろうと思ってね。子供ってやつは亀が好きだでね」
説教師は、ゆっくりうなずいた。「どんな子供も一度は亀を飼うもんだ。しかし、亀を長いこと飼っとくことはむずかしいぜ。亀というやつは、逃げだそう逃げだそうとして、いつかしまいには逃げだしてしまうもんだ――どこかへな。ちょうどわしみたいさ。わしは、手もとにあるりっぱな福音書を、ただ手にとるだけでは満足しねえで、あれこれつっついたり、調べたりして、とうとうぼろぼろにしてしまった。いまのわしは、ときどき霊がつくこともあるんだが、説教することが、何もなくなってしまった。人々を導けという神の声を聞くことがあっても、どこへ導いていったらいいか、わからねえんだ」
「ぐるぐる引きずりまわせばいいやね」とジョードは言った。「灌漑用の掘割りにほうりこんじまえばいいだ。みんなに、自分と同じように考えねえと地獄で焼かれるって言ってやんなよ。おめえさんは、いったい何のために、みんなをどこかへ導いてやろうなんて考えるだね? ただ導いてやるだけでいいじゃねえか」まっすぐな幹の影が、地面に長く伸びていた。ジョードは、ほっとした気持で、その木陰にはいりこみ、ふたたび膝《ひざ》をついて地面を平らにならし、棒切れで、いたずら書きするところをつくった。毛の厚い黄色いシェパードが一匹、道を走ってきた。頭をさげ、舌を出して、よだれをたらしていた。しっぽを力なく巻いて、激しくあえいでいた。ジョードは犬に口笛を吹いた。しかし犬は、ちょっと頭をさげただけで、どこか思い定めた目的地に向って足早に走り去った。「どっかへ行く途中だな」とジョードは、ちょっと中っ腹になって言った。「たぶん家《うち》へ行くんだろう」
説教師は自分の問題から離れられなかった。「どこかへ行く途中だって?」と彼はくりかえした。「そのとおりだ。どこかへ行く途中なんだ。ところが、わしはどうだ――わしは自分がどこへ行こうとしているのかもわからねえのだ。まあ、聞いてくれ――わしだって、昔は、みんなを飛びあがらせたり、思い思いにしゃべらせたり、ぶっ倒れて気が遠くなるまで神の恩寵を叫ばせたりしたものだ。それにわしは、つれ出すために洗礼を受けさせたこともある。つれ出して、そのあと――わしが何をしたか知ってるかね? 娘っ子を草っ原へつれこんでからに、いっしょに寝たもんだ。きまってそれをやらかしたんだ。そして、それからわしは、悪いことをしたと感じて、祈りに祈ったが、どうにもならねえ。つぎのときになる。みんなもわしも聖霊に満ちているんだが、そのあと、またわしは同じことをやらかすんだ。わしは思ったよ、わしはもう望みがない、わしは、しようのない偽善者なんだとね。わしは、けっして偽善者になんぞなるつもりじゃなかったのだがね」
ジョードは微笑した。長い歯が上下に開き、彼は、唇をなめた。「女を押しころがす楽しみのある集会ほどおもしろいものはありゃしねえ」と彼は言った。「おれも、やったことがあるだ」
ケーシーは興奮して、前へのりだした。「それでな」と彼は叫ぶように言った。「万事そういったあんばいだってことに気がついたんで、わしは考えはじめたんだ」彼は節くれだった骨ばった太い手を、たたくような格好で上下に動かした。「わしは、こんなふうに考えるようになったんだ――『わしはいま神の恩寵について説教している。そして、ここにいる連中は、熱心に神の恩寵を受けて飛びあがったり叫んだりしている。ところで、みんなは、娘っ子と寝るのは悪魔のしわざだと言っている。だが娘っ子ってものは、恩寵を受ければ受けるほど、よけい草っ原へ行きたがるもんだ』とな。そこでわしは、娘っ子が、あんなに鼻や耳から吹きだすほど聖霊に満ちあふれているときに、くそったれめが、(おっと、つい罰当りなことを言ってしまってすまねえ)いったいぜんたい、なんだって悪魔の野郎が、彼女の中にはいりこむことができるのだろう、と考えるようになったんだ。おまえさんだって、そういうときだけは、いかな悪魔だって忍びこめねえと思うだろう。ところが、実際は、ちゃんともぐりこみゃがるんだ」彼の目は興奮にかがやいていた。彼は、ほっぺたをちょっと動かしてから、埃のなかへ唾《つば》を吐いた。唾の塊は、埃のなかを、ころころところがって、埃を吸いとり、しまいには、まるい、小さな乾いた玉になった。説教師は片手をひろげて本でも読むかのように、手のひらをながめた。「わしは」と彼は低い声で話しつづけた。「わしは、みんなの魂を、この手に握っていた――責任があるし、自分の責任を感じてもいた――それでいて、いつもわしは、娘っ子の一人と寝ていたんだ」彼はジョードを見やった。その顔は頼りなげに見えた。その表情は助けを求めていた。
ジョードは、埃のなかに女の体を入念に描いた。乳房、臀部《でんぶ》、骨盤。「おれは説教師になんぞなったことはねえが」と彼は言った。「手にいれられるときにゃ、なんでも絶対のがしっこなかった。それに、そいつを手にいれたときに、ひどくうれしかったということ以外、何も考えたことがねえだ」
「だけど、それはおまえさんが説教師ではなかったからさ」ケーシーはそう主張した。「おまえさんにとっては、女の子は、ただの女の子さ。おまえさんには、何の意味もなかったんだ。だが、わしにとっては女たちは聖なる器《うつわ》だった。わしは女の子たちの魂を救ってやっていたのだ。それなのに、その責任を全部背負っていながら、わしは女たちに、聖霊をわきたたせておいてからに、それから草っ原へつれ出したんだ」
「おれも説教師になってりゃよかったのかもしれねえな」とジョードは言った。彼は、煙草と巻紙をとり出して、煙草を一本巻いた。それに火をつけて煙ごしに説教師を見た。「おれは長いこと女の子と寝たことがねえだ」と彼は言った。「おめえさんに追いつくにゃ馬力をかけなくちゃならねえようだて」
ケーシーはつづけた。「わしは、それですっかり悩んじまって、しまいには、まるっきり眠れなくなった。説教に出かけようとするときには、『誓ってこんどこそやらねえぞ』と自分で言ったもんだが、そう言ってる口の下から、またやるだろうってことが、ちゃんと自分にわかっていたんだ」
「おまえさんは、かみさんを持たなくちゃいけなかったんだ」とジョードは言った。「一度、説教師とそのかみさんとが、うちへ泊ったことがあっただ。エホバ教徒で、二階に寝ていただ。うちの裏庭で集りを開いてな。おれたち子供は、いつも耳をすましていたもんだった。説教師のかみさんは、毎晩、集りのあと、おそろしくいじめられていたもんだ」
「そいつは、いいことを聞かしてくれた」ケーシーは言った。「いつもわしは、そんなことをするのは、わしだけだと思っていたんだ。最後には、あんまり苦しくなったので、わしは説教をやめて、一人で草っ原へ行って、そのことを、いろいろと考えてみた」彼は足を組合せて乾いて埃《ほこり》だらけの足指のあいだをかいた。「わしはこう自分に言ってきかせた。『何をいったいわしは悩んでいるんだ? 女の子と寝ることをか?』そしてわしは答えた。『そうじゃねえ。罪の意識のせいなんだ』するとまた、わしは言いだすんだ。『いったい、人間が罪を犯さねえ証拠を見せなくちゃならねえときに、そしてキリストさまの信仰に満ち満ちていなければならねえときに、なぜ人間はズボンのボタンを探るようなことをしたくなるんだろう?』とね」あたかもそっと一語一語をそこにおきならべるとでもいったふうに彼は、二本の指で掌《てのひら》を軽くたたいた。「わしは答えた。『たぶんそれは罪ではねえのだろう。たぶん誰《だれ》だってそんなふうにするのだろう。たぶんわしたちは、何も意味がねえのに、わが身をむちうってきたのだろう』とな。そしてわしは、女信者たちが三フィートもある、とげのついた針金の綱で自分の体をぶったたく習慣を持つようになったことを考えた。そして、ひょっとすると、あの女たちは自分で自分を痛めつけるのが好きなのかもしれねえ、このわしも自分を痛めつけるのが好きなのかもしれねえとも考えた。さて、そんなことを考えながら、わしは一本の木の下に横になっていた。そして、まもなく眠りこんでしまった。夜になって目をさましたときには暗くなっていた。近くでコヨーテのやつが、さかんに吠《ほ》えていた。自分でも知らねえうちに、わしは声に出して、こう言っていた。『ちきしょうめ! 罪なんて、どこにもありゃしねえんだ。善なんてものも、ありゃしねえ。あるのは、ただ人間がやることだけだ。みんな、もとをただせば同じことをやってるんだ。人間のやることには、いいこともあるし、よくねえこともあるが、そんなことは人間のとやかくいうこっちゃねえんだ』」彼は口をとじ、言葉をならべていた掌から目をあげた。
ジョードは彼に笑いかけていた。しかしジョードの目は鋭く、興味をひかれていた。「よく考えたもんだ」と彼は言った。「よくそこまでつきとめたもんだ」
ケーシーは、ふたたびしゃべりはじめた。その声は苦痛と混乱に高まっていた。「わしは言った。『この神のお召し、この霊というのは、いったい何だ?』そしてわしは答えるんだ。『それは愛だ。わしはときどき胸が破けるほど人間を愛することがある』わしは言った。『おまえはキリストを愛してはいねえのか?』そこで、わしは考えに考えぬいたあげく、しまいにこう言ったもんだ。『いや、わしはキリストなんて名前の人は誰も知らねえ。わしは、キリストについての話は、たくさん知っているが、わしが愛しているのは人間だけだ。ときどき胸が破れるほど人間を愛するし、人間を幸福にしてやりてえと思う。だから、わしは、みんなを幸福にするだろうと思うことを説教してきたんだ』そして、それから――ああ、わしは、ずいぶんおしゃべりをしてしまったな。たぶん、おまえさんは、わしが、きたねえ言葉を使うんで驚いただろう。だけど、わしにとっては、もうきたねえ言葉じゃねえんだよ。みんなが使っている言葉だし、悪い意味は、すこしもねえんだ。とにかく、もう一つだけ、わしが考えたことを話しておこう。こいつは、説教師がしゃべるにしては、まるで不信心きわまることなんだが、わしは、そう考えて信じているもんだから、もう説教師になってるわけにはいかなくなったんだ」
「何だね、それは?」とジョードがきいた。
ケーシーは恥ずかしげに彼を見やった。「もしおまえさんの気にさわっても、とがめだてはしねえでくれよ」
「おれは鼻でもぶんなぐられねえかぎり、どんなことだってとがめだてはしねえよ」ジョードは言った。「で、何を考えただね?」
「わしは聖霊とキリストの道のことを考えたんだ。わしは考えた。『なぜ聖霊ってものを神とかキリストに引っかけなきゃならねえのか?』わしは考えた。『わしたちが愛するのは、すべての男たちと、すべての女たちだ。たぶん、それが聖霊というものにちげえねえ――つまり人間の形をした聖霊だ――すべての人間が聖霊なんだ。たぶん、人間ぜんたいが一つの大きな魂をもっていて、一人一人がその魂の一部分なんだろう』そう考えながら坐ってると、突然――わしには、それがわかったんだ。心の奥深いところで、それがほんとうだとわかった。いまでもそう思ってるんだ」
ジョードは、説教師の目のなかにある、むきだしの正直さに、まともには目を合わせられないとでもいったふうに、地面に目を落した。
「そんなことを考えていたんじゃ、とても説教師はつとまらねえだな」と彼は言った。「そんな考えを持ってたら、この土地から追いだされてしまうぜ。飛びあがったり、わめいたり、この土地の連中は、それが好きなんだ。すっかりいい気持になってしまうんだ。おれんとこのばあさんがわめきだしたとなったら、しばりつけておくこともできなかったくらいだ。うちのばあさんときたら、一人前の若い坊さんだって拳骨《げんこつ》ではり倒したくらいだからね」
ケーシーは、じっと彼を見つめた。「おまえさんに、たずねたいことがあるんだが」と彼は言った。「わしをいつも苦しめてきたことなんだ」
「話してみなよ。場合によっちゃ、おれだってしゃべることがあるぜ」
「その」――説教師は――ゆっくりと言った。「いまここにいるおまえさんは、わしが神の栄光を受けて説教して歩いていたときに洗礼を施してやった人間だ。あのころは、わしも、やたらとキリストの名を口にしてたもんだ。おまえさんは、女の子のおさげの髪を引っぱるのに気をとられて、おぼえちゃいねえだろうがね」
「おぼえてる」とジョードは言った。「あれはスージー・リトルだった。あの子は、あの翌年には、おれの指に噛みつきゃがった」
「それで、あの洗礼は、何かおまえさんに役に立ったかね? おまえさんの生き方が前よりよくなったかね?」
ジョードは考えた。「ううん、何も特別には感じなかったようだな」
「それで――そのために何か悪いことがあったかね? よく考えてみなよ」
ジョードは酒壜《さかびん》をとりあげて、ぐいと一口あおった。「いいとか悪いとか、そんなものは、何もなかったな。ただおもしろかっただけさ」彼は酒壜を説教師に渡した。
説教師は、溜息をつき、酒を飲み、ウイスキーがへっているのをながめ、それからもう一口ちょっぴり飲んだ。「そいつは結構だ」と彼は言った。「わしは、うっかりあんなことをやって、誰かを傷つけたりはしなかったかと、それを心配してたんだ」
ジョードは自分の上着のほうを見やり、亀《かめ》を見つけた。亀は上着から抜けだして、さっきジョードに見つかったとき行こうとしていた方向に急いで逃げだそうとしていた。ジョードは、ちょっとのあいだ、それを見ていたが、やがてゆっくりと腰をあげて、亀をつかまえ、ふたたび上着のなかへ包みこんだ。「子供たちに、何も土産物《みやげ》がねえんだ」と彼は言った。「この老いぼれ亀だけしかね」
「妙なことだが」と説教師は言った。「さっき、おまえさんがここへきたとき、わしはちょうど、おやじさんのトム・ジョードのことを考えてたんだ。訪ねてみようかと思ってな。あの男は不信心者だと、わしは昔は考えていたもんだ。おやじさんは元気かね?」
「どうだか知らねえな。おれは四年も家を留守にしていただでね」
「おまえさんに手紙を出さなかったのかい?」
ジョードは困った。「なあに、うちのおやじは、せがれに手紙を書くような人間じゃねえだ。書くために書くってことをしねえだよ。名前のサインは、誰にも負けねえほどうまくて、よく鉛筆をなめてたもんだがね。だけど手紙は、まるっきり書いたことがねえだ。おやじは、よく言ってたよ、口でうまく言えねえようなことは、鉛筆で書く値打もねえんだとね」
「旅に出ていたのかね?」ケーシーがたずねた。
ジョードは疑わしげに彼を見やった。「おれの噂《うわさ》を聞かなかったのかい? 新聞にはみんな出てただがな」
「いんや――まるで聞いてねえ。どうしたんだね?」彼は片足を引きよせて、もう一方の足の上に組合せると、前よりも低く木にもたれた。午後は足早にすぎつつあり、太陽には熟した色合いが生れていた。
ジョードは愉快げに言った。「どうせのこったから、いま言っちまったほうが、さっぱりしていいかもしれねえな。だけど、もしおめえさんが、いまでも説教をやってるんなら、おれは言わねえぜ。おれのために祈られたりしちゃ、かなわねえからな」彼は酒壜の残りを飲みほした。そして、それを投げ捨てた。平たい茶色の壜が、埃の上を軽々とすべっていった。「おれは、この四年間マカレスターにいただ」
ケーシーは、くるりと彼のほうを向いた。眉《まゆ》がぐっとさがったので、広い前額部が、ことさら広くなったように思われた。「そのことは、しゃべりたくねえんじゃねえのか、ん? わしは何も聞きたくはねえぜ。たとえ、おまえさんが、何か悪いことをやったとしても――」
「場合によっちゃ、もう一度、同じことをやるかもしれねえぜ――もう一度な」とジョードは言った。「おれは、喧嘩《けんか》で人を一人殺しただ。二人ともダンスで酔っぱらっていた。やつがナイフで刺しやがったので、おれは、そばにころがってたシャベルで、やつを殺しちまったんだ。頭をぶっつぶしてやったのさ」
ケーシーの眉が、もとのとおり水平になった。「それで、おまえさんは、何にも心に恥じることはねえんだね?」
「そうとも」とジョードは言った。「恥じてなんざいねえさ。相手がナイフでおれを刺したというんで、七年くらっただけよ。四年で出てきたんだ――仮釈放というやつでな」
「それでおまえさんは四年間も家《うち》のものの消息を聞かなかったのだね?」
「いんや、聞いたよ。二年前に、おふくろがはがきくれただし、去年のクリスマスには、ばあさんがクリスマス・カードを送ってくれただからね。ふんっ、監房のなかの仲間のやつらが大笑いしたもんだ! 木が一本書いてあって、それに雪みてえに見える、ぴかぴかしたものが、くっついてるだ。そして、こんな詩が書いてあっただよ。
クリスマスおめでとう、かわいい子よ
やさしいイエスさま、やさしいイエスさま、
このクリスマスツリーの下に
おまえにおくる贈りもの
きっとばあさんは、そいつを読みもしなかったんだと思うよ。いずれ行商人からでも買ったんだろうけんど、めくらめっぽう、いちばんぴかぴかしたやつを選んだものにちげえねえ。監房の仲間は、まったく、くたばるほど笑いこけやがった。それからあとは、『やさしいイエスさま』って、おれを呼ぶようになっただ。ばあさんにしたら、ちっともおかしがらせるつもりじゃなかったんだ。ただ、えらくきれいなカードだったもんで、わざわざ読んだりしなかっただけのことでね。ばあさんは、おれがくらいこんだ年に眼鏡をなくしたしな。たぶん、あれからずっと眼鏡は見《め》っからなかったんだろう」
「マカレスターでは、どんな待遇だったかね?」とケーシーはたずねた。
「うん、悪くはなかったぜ。時間どおりにめしを食わしてくれるし、清潔な服を着せてくれるし、風呂《ふろ》を浴びるところだってあるし、なかなかいいところもあっただよ。女を抱けねえのが、えらくつらかったがね」だしぬけに彼は笑った。「仮釈放になったやつがいたけんど」と彼は言った。「一カ月もしたら、仮釈放の誓いを破って、また舞い戻《もど》ってきやがった。なぜ誓いを破ったんだと一人の男がきいたら、『ちえっ、くそっ』って、やつはいうだよ。『うちのおやじのところにゃ、何も便利なものがねえ。電灯はねえし、シャワーもねえ。本は一冊もねえし、食いものはひでえときてる』そこで、すこしばかり便利なものがあって、ちゃんとめしの食えるところへ戻ってきたんだって、やつはいうのさ。このつぎは、何をしようかと考えなきゃならねえ、しゃばの暮しは、寂しくなるんだとさ。それで、やつは車を一台盗んで、また逆戻りしてきたってわけさ」ジョードは、煙草《たばこ》をとり出した。そして紙とじから茶色の紙を一枚口で引きはがして、巻き煙草を巻いた。
「やつのいうことは、ほんとうだったよ」と彼は言った。「ゆうべ、今夜はどこで眠ろうかと考えたら、おれも、寂しくなったものな。そして、おれの使ってた寝棚《ねだな》のことを思い出すと、監房にいる仲間のやつらは、いまごろ何しているだろうかなんて考えたもんだ。おれは、二、三人のやつらといっしょに弦楽のバンドをつくってただ。なかなかいいバンドだったぜ。これならラジオに出られるなんて言ったやつもいるくらいでね。それなのに、けさなんか、何時に起きたらいいかわからねえ始末さ。けさも、ただ横になってベルが鳴るのを待ってたようなありさまなんだ」
ケーシーは、くつくつと笑った。「人間って、何でも慣れだな。製材所のやかましい音だって、なつかしくなることがあるからな」
黄ばんだ、埃っぽい午後の光が、大地を金色に染めた。玉蜀黍《とうもろこし》の茎が金色に見えた。一群の燕《つばめ》が、どこかの水たまりに向って頭上ひくくかすめて行った。ジョードの上着のなかの亀が、脱出へのあらたな戦いを開始した。ジョードは帽子の庇《ひさし》を折りまげた。それは、いまでは鴉《からす》のくちばしのような長く突き出た曲線を見せていた。「そろそろ出かけるかな」と彼は言った。「日に照りつけられるのはたまらねえだが、もうそんなにひどくはねえようだ」
ケーシーは元気を回復した。「わしはもう何年もおやじさんのトムに会ってねえ」と彼は言った。「いつか会いに行きてえと思ってたところだ。わしは長えこと、おまえさんの家の者にイエスの教えを説いたもんだが、一文の献金も受けてねえし、すこしばかりの食いもののほかは、何ももらってはいねえだ」
「いっしょにきなよ」とジョードは言った。「おやじはよろこぶぜ。おやじは、いつもおまえさんは説教師にしちゃよく食うって言ってたぜ」彼は、丸めた上着を拾いあげ、靴《くつ》と亀を、きちんと小さくくくりつけた。
ケーシーは散らばったズック靴をかきよせて、それに裸の足をつっこんだ。「わしには、おまえさんほどの自信はねえよ」と彼は言った。「土埃のなかに針金かガラスでもありはしねえかと、わしは、いつもびくびくしてるんだ。足の指をけがするほど、わしのきらいなことはねえんだ」
二人は木陰の端で、ややためらった。それから、向う岸へ泳ぎつこうと急いでいる二人の泳ぎ手のように、黄色い陽光のなかへと飛びこんで行った。最初二、三歩ほど足早に歩くと、二人は、歩みをゆるめて、静かな、考えにとりつかれたような足どりになった。玉蜀黍の茎が、いまでは道ばたに灰色の影を投げかけ、熱い土埃のむんむんするような匂《にお》いが空中にみなぎっていた。玉蜀黍の畑が終ると、濃い緑の綿の木が、それにとって代った。埃のうすい膜を通して濃い緑の葉が見え、できかかっているさやが見えた。ふぞろいな綿の木で、水を吸いあげた低いところには葉が茂っているが、高いところには、まばらにしかなかった。綿は太陽とたたかっているのだ。遠方の地平線のあたりは、焦《こ》げ茶色にかすんでいた。埃の道が、高く低くうねりながら二人のゆくてに伸びていた。流れに沿って柳の並木が西の方をさえぎり、北西には休閑地があって、いまは、まばらな叢林《そうりん》に戻りかけていた。しかし焦げるような埃の匂いが空中にみなぎっていて、空気は乾いており、鼻の粘液は、かさかさに乾き、目はひからびまいとして絶えず涙をたたえていた。
ケーシーが言った。「土埃がたつようになるまでは、玉蜀黍のできは、すごくよかったんだぜ。あいつは、まったく作物荒しだ」
「毎年毎年」とジョードは言った。「おれはおぼえてるだが、毎年毎年、いい収穫だと思ってると、しかしそいつがそうなったためしがねえ。うちのじいさんが言ってたけんど、この土地も最初のうち五回ぐらい耕すあいだはよかったそうだ。まだ野草が生えてた時分はね」
道は急に小さな丘をくだって、また別のうねうねした丘をのぼりはじめた。
ケーシーが言った。「おやじさんの家は、ここから一マイルとはねえはずだ。あの三つめの丘を越えたとこじゃなかったかね?」
「そうだよ」とジョードは言った。「誰《だれ》かに盗まれなきゃね。前におやじが盗んだみてえによ」
「あの家は、おやじさんが盗んだものかい?」
「そうだよ。ここから東へ一マイル半ばかりのところで、あれを手に入れて引っぱってきただ。そこには、ある家族が住んでただが、引っ越しちまったんだ。うちのじいさんとおやじと兄貴のノアは、その家を全部持ってきたかっただが、動きゃしねえだ。それで一部分だけにしただ。だもんで、あの家は、片端のところが、妙ちきりんな格好になってるだ。三人で、その家を二つに切って、十二頭の馬と二頭の驢馬《ろば》に引かせて引っぱってきただ。おやじは、残った半分を、もう一度とりに行って、あとでくっつけるつもりだった。ところが、三人がそこへ行きつかねえさきに、ウィンク・マンレーのやつが息子たちをつれてやってきて、残りの半分を盗んでいっちまっただ。おやじもじいさんも、すっかり腹をたててしまったが、すこしたつと、おやじたちはウィンクといっしょに飲んで、そのことを話しあって、尻《しり》の割れるほど笑ったもんだ。ウィンクのやつは言ったもんだ。やつの家は、いまさかりがきてるだ、だから、もしこっちの家を引っぱっていって種づけしたら、きっと、おんぼろ小屋の子供が一腹《ひとはら》できるかもしれねえって。ウィンクは、飲むと、愉快なじいさんだったよ。そのあとやつと、うちのじいさんやおやじは友達になったんだ。それからは、何とか言っちゃ、よくいっしょに飲んでたもんだ」
「おまえさんとこのおやじさんは、いい人だよ」とケーシーはうなずいた。彼らは涸《か》れ谷《だに》の底地に向って、埃にまみれながら、どんどんくだって行き、それからのぼり道にかかって歩をゆるめた。ケーシーは、袖《そで》で額をふき、ふたたび平べったい帽子をかぶった。「まったく」と彼はくりかえした。「おやじさんは、いい人だったよ。不信心者にしては、たいした男さ。ときどき、わしは集会で、聖霊が、ほんのちょっぴりおやじさんにとっつくのを見たことがあるが、そのときには十フィートから十二フィートも飛びあがったもんだ。まったくのところ、トムのおやじさんに聖霊がとっついたときには、突っころばされたり踏みつぶされたりしねえよう逃げまわらなきゃならねえほどだった。厩《うまや》のなかの種馬みてえにはねたもんだ」
彼らは、つぎの起伏の頂上に出た。道は流水でできた古い溝《みぞ》のほうへ急にくだっていた。不格好な、むきだしの、でこぼこの水路で、出水の爪《つめ》あとが両側から食いこんでいた。石がすこしばかり川にころがっていた。ジョードは裸足《はだし》のまま小股《こまた》に歩いて渡った。「おまえさんは、うちのおやじの話をしてるが」と彼は言った。「たぶんジョン伯父がポークのところで洗礼を受けたときのことは知らねえだろうな。いやはや、この伯父ときたら、ものすごく飛んだり、はねたりしたもんだ。ピアノくれえ高い灌木《かんぼく》の茂みを飛び越した。飛び越えたと思うと、またこっちへ飛び戻って、まるで月に向って吠《ほ》える狼《おおかみ》みたいにわめいたもんだ。うちのおやじは、これを見て、伯父は、この近在でいちばんすげえキリストとびだと考えただ。それでおやじは、ジョン伯父が飛んだ茂みの二倍ほども大きい茂みを選んで、まるでこわれた壜の上に寝かされた雌豚みてえにわめきながら、その茂みのほうに駆けだしたかと思うと、うまくそいつを飛び越えたが、しかし右の足を折っちまった。それで霊が、おやじから離れちまった。説教師が、折れた足がくっつくようにとお祈りをあげてやろうとしたけんど、おやじは、いや、そんなものはいらねえ、おれは医者に見てもらうことにきめてるだと言って、ことわっただ。なあに、医者なんて一人もいやしねえだがね。それでも旅まわりの歯医者がいたもんだから、それが足を継いでくれただよ。説教師も骨がくっつくようにといって祈ってはくれたけんどね」
二人は、溝を越えて向うの小さな丘を登って行った。いまでは太陽も傾きかけていて、熱の衝撃も、いくらかうすれていた。大気は暑かったが、つらぬくような光線は、その力を減じていた。
針金を渡したねじれた柵《さく》が、まだ道路の両側につづいていた。右側には一本の針金の柵が綿花畑を横ぎって延びていた。埃っぽい緑の綿は、どちらを見ても同じで、いずれも土埃にまみれ、乾いて、暗緑色になっていた。
ジョードは境界線の柵を指さした。「ほら、あそこが、うちの境界線だ。ほんとうは、柵なんか、ぜんぜんいらねえだが、ちょうど針金を持ってたもんで、おやじが、なんとなく使いたくなったのさ。こうすりゃ四十エーカーが四十エーカーだけの気分になるというんでね。もしジョン伯父が、ある晩、巻いた針金を六つも馬車に積んでやってこなかったら、柵なんぞ絶対につくりゃしなかったろうがね。伯父は、子豚と引換えに、その針金を、おやじにくれたんだ。伯父が、その針金をどこで手に入れたのか、そいつはとうとう誰にもわからずじまいだったよ」二人は、のぼりにかかったので足をゆるめた。深いやわらかな埃のなかに足を動かして、その足に大地を感じていた。ジョードの目は心の奥の記憶をたどっていた。彼は、一人で笑っているようであった。「ジョン伯父ってのは、変った人でね」と彼は言った。「その子豚を始末したときがそうだったよ」彼は、くすくす笑って、歩きつづけた。
ジム・ケーシーは辛抱強く待っていた。話のあとがつづかないからだ。ケーシーは、話が出てくるのを、たっぷり時間をかけて待った。
「それで、その子豚をどうしたんだい?」と、とうとう彼は、すこしいらだちながら、うながした。
「なに? うん、そうか、伯父は、その子豚を、すぐその場で殺しちまって、おふくろにストーブの火をおこさせたもんだ。肉をぶつ切りにして鍋《なべ》のなかへつっこみ、|あばら《ヽヽヽ》骨と足は、むし焼き釜《がま》のなかへ入れた。ぶつ切り肉を食ってるあいだに、|あばら《ヽヽヽ》骨が焼きあがる。|あばら《ヽヽヽ》骨を食ってるあいだに、こんどは足の肉が焼きあがる。伯父は、やがて足の肉に食らいついた。大きな肉の塊《かたまり》を切りとって、口へ押しこむんだ。おれたち子供は、よだれをたらしながら、そのまわりをうろついていた。伯父は、おれたちにも、すこしばかり分けてくれただよ。だけど、おやじには一っきれもやろうとしねえだ。やがて、あんまり食いすぎたもんだで、伯父のやつめ、げろはいて眠っちまった。その眠ってるあいだに、おれたち子供とおやじとで、残ってる足の肉を、みんな平らげっちまった。さて、朝になってジョン伯父は目をさますと、もう一本の足を釜のなかへ放りこんだもんだ。そこで、おやじは言った。『おい、ジョン、おめえは、その豚公を、まるまる一匹食っちまうつもりか?』すると伯父は言ったもんだ。『そのつもりだよ、トム。だけど、わしは、豚は食いたくてしょうがねえんだが、食っちまわねえうちに肉がいたみはしねえかと、それが心配なんだ。どうだい、おめえも一皿《ひとさら》食って、きのうの針金を二巻きだけ、こっちへ返してくれねえか』さて、ここさ。おやじも、それほどばかじゃねえや。知らんふりでジョン伯父に食わせるわ食わせるわ、すっかり豚がいやになるほど食わせちまった。伯父が帰るころには、半分ぐれえ食い残しちまった。おやじはジョン伯父に言っただよ。『残りは塩づけにしたらどうだね』だが、ジョンは、そんなことをする人間じゃねえ。なぜって、いったん豚が食いたいとなったら、伯父は、丸ごと一匹食いたがるほうだし、食っちまうと、もう豚なんぞ見るのもいやになっちまうたちなんだ。そこで伯父が帰ってから、おやじは残りのやつを塩づけにしたってわけよ」
ケーシーは言った。「わしがまだ説教する気分になってたら、わしは、その話から教訓をひき出して、一席おまえさんにぶつところだが、しかし、わしはもうそんなことはやらねえよ。いったい伯父さんは、何のためにそんなことをやったと思うかね?」
「さあね」とジョードは言った。「ただ豚肉が食いたかっただけだろうて。考えただけでも、おれは腹がぐうぐういうだよ。おれは四年間に、たった四きれの焼き豚しきゃ食わなかっただからな――毎年クリスマスに一きれずつよ」
ケーシーは巧みにほのめかした。「たぶん、おやじさんは、聖書の放蕩《ほうとう》息子を迎えるみたいに、太らせた雌牛を殺してくれるだろうよ」
ジョードは、せせら笑った。「おまえさんは、おやじを知らねえだ。鶏を一羽殺すときに、ぎゃーぎゃー騒ぐのは、たいがいおやじのほうで、鶏じゃねえんだぜ。おやじは、いつまでたっても、だめなんだ。いつもクリスマス用に豚を一匹とっておくだが、九月になると、豚のやつ、きまって鼓脹《こちょう》症か何かで、死んじまうだ。だから食べられねえということになるだ。ジョン伯父となると、豚肉がほしいときには、ちゃんと豚肉を食ったもんだ。たらふく食ったもんだよ」
二人は丘のまるい頂に登った。そしてジョード家のあるあたりを見おろした。ジョードは立ちどまった。「様子が変だぞ」と彼は言った。「あの家を見てくれ。なんだか変だ。誰もいねえじゃねえか」二人は立ちどまり、小さくより集まっているいくつかの建物を見つめた。
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第五章
地主たちが、土地を見にやってきた。それよりも、地主たちの代理人のほうが、もっとしばしばやってきた。彼らは箱型の自動車でやってきて、乾いた大地に指をつけてみた。ときには土質を検査するために地面に大きな|きり《ヽヽ》を打ちこんだ。小作人たちは、箱型の車が畑に沿って走ってくると、日の照りつける前庭から、不安げにそれを見まもった。しまいに地主の代理人たちは農家の前庭に車を乗りつけてきて、車のなかに坐ったまま、窓ごしに話しかけた。小作人たちは、しばらくのあいだ車のそばに立っているが、やがて膝《ひざ》をついてしゃがみこむと、小枝を拾って土埃《つちぼこり》のなかに、いたずら書きを書いた。
開いた戸口では女たちが立ったまま外を見ていた。その背後には、子供たち――玉蜀黍《とうもろこし》頭の子供たちが、大きく目をみはり、はだしの足を重ね合せて、足指を動かしていた。女や子供たちは、自分のところの男たちが地主の代理人と話し合っているのを見まもっていた。みんな、何も言わなかった。
地主の代理人のうちには親切なのもいた。自分のやらねばならぬことを嫌悪《けんお》しているからだ。怒っている者もいた。残酷な自分の行為を嫌悪しているからだ。また冷淡なのもいた。冷淡でなければ地主にはなれぬと、ずっと前からさとっているからだ。そして、彼らはすべて、自分自身よりも大きな何かに巻きこまれていた。ある者は自分たちを駆りたてる算数を憎み、ある者は恐れ、そしてある者は算数を崇拝した。なぜなら、それは、もの思いや感情からの避難所を用意してくれるからだ。銀行か金融会社かが地主である場合には、その代理人はこういうのであった。銀行《ヽヽ》が――あるいは会社《ヽヽ》が――必要としているのだ――ほしがっているのだ――強要しているのだ――手に入れなければならないのだ――と。まるで銀行や会社が、思想や感情をもった怪物で、彼らを|わな《ヽヽ》におとしいれたかのように。自分たちは、銀行や会社のやることに責任をとったりはしないだろう。なぜなら、自分たちは人間であり、奴隷《どれい》であり、一方、銀行は機械であり同時にまた主人でもあるからだ。地主の代理人のなかには、そのような冷酷で強力な主人たちの奴隷である自分を、すこしばかり誇りにしている者もいた。地主の代理人は車のなかに坐って説明した。土地がやせているのは、わかっているだろう。おまえたちが、長いこと、すっかり引っかきまわしちまったからね。いや、まったくの話さ。
しゃがんでいる小作人たちは、うなずき、考えこみ、そして埃のなかにいたずら書きを書く。そりゃ、わかっていますだよ。まったくのところ、そのとおりでさあ。ただ、土埃さえ飛んでくれさえしなけりゃ、ただ表土がしっかり落ちついていてくれさえしたら、こんなに悪くはねえかもしれねえだが。
地主の代理人は要点に向って話を進めていった――みんなも土地が年ごと貧しくなってゆくのは知っているだろう。綿花が土地をどんなにするか、わかっているだろう。綿花は土地から生命を奪い、養分をすっかり吸いとってしまうんだ。
しゃがんでいる連中はうなずいた――知ってるだ。知れきったことですだ。作物を輪作することさえできたら、もう一度、土地にたっぷり養分を返すこともできるだが。
そうだ、しかし、それはもう遅すぎるのだ。そして地主の代理人たちは、彼らよりも強大な怪物の仕事と考えとを説明した。誰《だれ》でも食べて税金を払っていくことさえできれば、土地をもっていられるんだ。人間なら、できるんだ。
そうさ、それはできますだよ。作物が不作になって銀行から金を借りなければならなくなるまではな。
しかし――いいかね、銀行や会社は、そういうことができないんだ。なぜって、ああいう生きものは空気を呼吸するわけではないし、豚の脇肉《わきにく》を食うわけでもないからだ。あの連中は利益を呼吸しているんだ。金にくっついた利鞘《りざや》を食っているんだ。そいつを食えなくなったら、やつらは死んでしまうんだ。ちょうどおまえたちが空気や脇肉がなくなると死んでしまうようにな。悲しいことだが、そのとおりなんだ。まったくそのとおりなんだよ。
しゃがんでいる男たちは理解しようとして目をあげた。おれたちは、なんとかこのままやっていくわけにゃいかねえだかね? たぶん来年は豊年になるだ。来年は、綿花が、えらくできるかもしれねえですだ。それに、こんなに戦争があるだから――どれだけ綿花が高値をよぶかしれたもんじゃねえ。綿花から火薬をつくるということじゃねえか。それから軍服もよ。でっけえ戦争が、いくつかありゃ、綿花の値は天井知らずというもんだ。ことによると、来年はいいかもしれねえ。彼らは問いかけるように目をあげた。
それが当てにはできないのでね。銀行は――この怪物は、いつも、しょっちゅう利益を食っていなければならないのだからね。待てないんだ。死んじまうんだ。税金は、つぎつぎととられるしね。この怪物は、太るのをやめると死んでしまうのだよ。いつまでも同じ大きさにとどまっているわけにはいかないのだ。
やわらかな指が車の窓の縁をたたきはじめ、いかつい指が、落ちつきなくいたずら書きをしていた小枝をぎゅっと握りしめる。日の照りつける小作人の家の戸口では、女たちが溜息《ためいき》をつく。それから足を移しかえ、重ねなおして、足指を動かす。犬が鼻を鳴らしながら地主の自動車に近づいてきて、四つの車輪に一つ一つ小便をひっかけてゆく。鶏は、ひなたの土埃のなかにうずくまって、羽を震わせ、皮膚まで砂をすりつけて、体を洗っている。小さな豚小屋では、豚どもが、残飯の泥《どろ》だらけの汁《しる》に鼻をつっこんで、ものほしげに、ぶうぶう鼻を鳴らしている。
うずくまっている男たちは、ふたたび目を落した。わしらに、どうしろっていうだね?これ以上作物のとりまえをすくなくするわけにはいかねえだ――半分飢えかけてるだ。子供たちは年じゅう腹をへらしてるし、着る物も裂けてぼろぼろで、何もねえといっていいくらいだ。近所の者が同じ様子でなかったら恥ずかしくて「お祈りの集会」にだって行かれやしねえ始末だよ。
そこで、ついに地主の代理人は要点にふれてきた。小作制度では、もうこれ以上やっていけないんだ。トラクターに乗った人間一人で十二家族あるいは十四家族分の仕事ができるんだ。そいつに賃金を払って、収穫はみんなこっちでとるんだ。そうしないことには、仕方がないんだ。こんなことは、こちらとしてもやりたくないんだがね。しかし、この怪物は病気にかかっているんだ。何かぐあいの悪いことが起ったらしいんだ。
だけんど、そんなことをしたら綿花で土地がくたばっちまいますだ。
わかってるよ。わしたちは、土地がくたばってしまわないうちに、急いで綿花を収穫してしまわなければならないんだ。それから土地を売りに出すんだ。東部には小さな土地でも手にいれたがってる家族が、たくさんいるからね。
小作人たちは、びっくりして顔をあげた。それじゃ、おれたちはどうなるだ? おれたちは、どうやって食っていくだ?
おまえたちには、この土地から出て行ってもらわなければならないだろうな。トラクターの鍬《くわ》が、この前庭を通ることになるからね。
いまや、うずくまっていた男たちは怒りに満ちて立ちあがった。じいさまたちが、この土地を開拓しただ。じいさまたちはインディアンをやっつけて追い払わなければならなかっただ。おやじは、ここで生れた。おやじは雑草や蛇《へび》とたたかった。それから、凶作の年がやってきたので、ちっとばかり金を借りた。それから、おれたちがここで生れた。そこのあの戸口のなかでよ――おれたちの子供らも、ここで生れた。それで、おやじは金を借りなきゃならなくなったというわけだ。そのときにゃ、銀行が、ここの地主になってただが、おれたちは、ここにがんばっていて、おれたちが育てたものを、すこしばかり手に入れてきただ。
わしらだって、それはわかっているよ――非常によくわかっている。しかし、これは、わしらじゃないんだ。銀行なんだ。銀行は人間とちがうんだ。それに、五万エーカーも土地を持っている地主も、やっぱり人間じゃない。あれは怪物なんだ。
そうともさ、と小作人たちは叫んだ。だけど、これはおれたちの土地だ。おれたちが土地割りして開墾した土地なんだ。おれたちは、ここで生れ、ここで殺され、ここで死ぬだ。役にたたねえ土地だとしても、やっぱりこれはおれたちの物だ。そうとも、これだけでも、りっぱにおれたちの物になる理由があるだ――この土地で生れて、この土地を耕して、この土地の上で死ぬだもの。それが所有権というものじゃねえのか。所有権というもんは、番号のついた証書なんかじゃねえだ。
気の毒だよ。しかし、それはわしらじゃないんだ。あの怪物なんだ。銀行は人間じゃないんだよ。
そうかもしれねえ。だけど銀行だって、人間が集まってできたもんじゃねえのか。
いや、おまえたちは、そこが間違っているんだ。――そこが大間違いなんだよ。銀行ってのは、何か人間とは別のものなんだ。銀行のなかで働いている者が、みんな銀行のやることを憎んでいるんだ。それでも銀行は、それをやってのけるんだ。銀行は人間以上のものなんだよ。まったくの話がね。あれは怪物だよ。たしかに人間がつくったものではあるが、しかし人間は、そいつを押えることはできないんだ。
小作人たちは叫んだ。この土地をまもるためにじいさまはインディアンを殺しただ。おやじは蛇を殺しただ。たぶんおれたちは銀行《バンク》を殺すことができるだろう――こいつはインディアンや蛇よりも悪辣《あくらつ》だ。おれたちは、この土地をまもるためにたたかわなきゃならねえ。おやじやじいさまがたたかったように。
そこで、こんどは地主の代理人が怒りだした。おまえたちは、立ちのかなければならんのだぞ。
だけど、ここはおれたちの土地だ、と小作人たちは叫んだ。おれたちは――
そうじゃない。銀行、あの怪物の持物なんだ。おまえたちは立ちのかなければならんのだ。
鉄砲を持ちだすだぞ。インディアンがきたときじいさまたちがやったようによ。そしたらどうするだ?
ふん――まず保安官《シェリフ》を呼ぶな。それから軍隊だ。もし、無理にここにがんばっていようとするなら、おまえたちは盗みを働いていることになるんだ。人を殺してまで、ここにがんばろうとすれば、殺人罪になる。怪物は人間じゃない。しかし、そいつは、自分のやりたいことを人間にやらせることができるんだぞ。
だけど、おれたちが出て行くとしても、いったいどこへ行けばいいだ? どうやって行けばいいだ? おれたちは金なんぞ持ってやしねえだぜ。
わしたちも気の毒だと思うよ、と地主の代理人は言った。銀行や五万エーカーの地主には、責任はないんだ。おまえたちの住んでいる土地は、おまえたちの物ではないんだからね。この州から出て行けば、まあ秋にでもなったら綿摘みの仕事があるんじゃないかね。ことによると政府の救済を受けることができるかもしれない。西のカリフォルニアへでも行ったらどうかね? あそこには、仕事はあるし、それに一年じゅう寒さ知らずだ。まったく、どこへ手を伸ばしてもオレンジを摘むことができるんだ。まったくあそこは、年じゅう、何か仕事になる作物ができる土地だよ。あそこへ行ったらどうかね? そして地主の代理人は車にエンジンをかけて走り去った。
小作人たちは、ふたたび膝をついてうずくまり、棒切れで土埃の上にいたずら書きをし、考えあぐね、いぶかった。日やけした顔は暗く、陽光にいためられた目が光った。女たちは、おずおずと戸口から男たちのほうへ近づいて行った。子供たちは、いつでも逃げだせるように、用心ぶかく構えて、女たちのうしろから、そろそろとついて行った。年かさの少年たちはおとなのそばにうずくまった。そうすれば彼らもおとなになったような気がするからだ。しばらくして女たちがたずねた、あの人は、どうしろっていうのかね?
男たちは、ちょっと目をあげたが、その目には苦痛のあとがあった。おれたちは立ちのかなきゃならねえだ。トラクターと管理人がやってくるだよ。工場みてえによ。
どこへ行くんだね? と女たちはきく。
わからねえ。おれたちにゃ、わからねえだよ。
すると女たちは、急いで、子供たちを追いたてながら、静かに家のなかへ戻《もど》って行った。彼女たちは知っているのだ。男というものは、あまりに傷つけられ、当惑させられると、自分の愛している者に対してすらも、たち向ってくるものだということを。彼女たちは、埃のなかにいたずら書きをしながら思案している男たちを、そっとそのままにしておいた。
やがて、しばらくすると、小作人たちは、あたりを見まわすことだろう――十年前に据《す》えつけられた、鵞鳥《がちょう》の首みたいに曲った把手《とって》と、口に鉄の花模様のついたポンプを、千羽もの鶏を料理した包丁台を、小屋のなかにころがっている鋤《すき》を、そして、その上の垂木《たるき》にかかっている特許品の秣槽《かいばおけ》を。
子供たちは、家のなかで女たちのまわりに群がっていた。これからどうするの、おっ母? おいら、どこへ行くんだい?
女たちは答えた。わからないんだよ、まだ。外へ行って遊んでおいで。でも、お父っさんとこへ近よるんじゃないよ。そばへよると、ぶんなぐられるかもしれないからね。そして女たちは仕事にかかるのだが、しかし、たえず彼女たちは、土埃のなかにしゃがんでいる男たち――当惑し思案している男たちを見まもっていた。
いくつかのトラクターが、いくつかの道路を越えて、畑に乗りこんできた。昆虫《こんちゅう》のように動きまわり、昆虫のように信じがたい力を持った巨大な生きものだ。それは地面を這《は》いまわり、その上でころげ、足あとを残して進んで行った。動いていないときは、ぶつぶつ音をたてているディーゼル・エンジンのトラクターだ。動きだすときには轟音《ごうおん》をひびかせ、それから、しだいに重い、うなるような音に沈下してゆく。土埃を巻きあげ、そのなかに鼻づらをつっこみ、まっすぐに土地をつっ走り、土地を横ぎり、垣根《かきね》を突き抜け、前庭を通りぬけ、直線的に涸《か》れた溝《みぞ》を出たりはいったりする獅子《しし》っ鼻《ぱな》の怪物だ。地面の上を走るのではなく、自分の路線の上を走って行くのだ。丘も水流も垣根も家も無視して。
鉄の座席に坐っている男は、まるで人間のようには見えない――手袋をはめ、塵《ちり》よけ眼鏡をかけ、鼻と口にはゴムの塵よけマスクをしているその男は――怪物の一部、座席に坐っているロボットにすぎない。シリンダーの轟音が、この農村一帯にひびきわたり、大気と大地が一つになり、そこで大気と大地は共鳴して、つぶやくように鼓動する。運転手は、その怪物を統御することができない――それは、まっすぐに土地をつっ走り、十二の農場を通りぬけて、またまっすぐに戻ってくる。スイッチの一ひねりで、トラクターの向きを変えることはできるが、しかし運転手の手は、いささかもこれを動かすことはできない。なぜなら、このトラクターをつくった怪物、このトラクターを送ってよこした怪物は、何かの魔術で、運転手の手のなか、脳髄《のうずい》と筋肉のなかにはいりこんで、彼に、塵よけ眼鏡をかけ、マスクをかけ――彼の精神に塵よけ眼鏡をかけ、彼の言葉にマスクをかけ、彼の知覚力に塵よけ眼鏡をかけ、彼の抗議にマスクをかけているからだ。彼には、あるがままの土地は見えない。あるがままの土地の匂《にお》いはかげない。足も、土くれを踏むことはないし、大地の暖かみと力を感じることもない。彼は鉄の座席に坐って鉄のペダルを踏む。彼は伸びてゆく自分の力を励ますこともできないし、自分の力を鍛えたり、しかりつけたり、鼓舞したりすることもできない。そして、そのために彼は、自分自身を励ますこともできないし、自分自身を鍛えたり、しかりつけたり、鼓舞したりすることもできないのだ。彼は土地を知ることも、持つことも、信じることも、たよりにすることもない。一粒の落ちた種が芽を出さなくても、それは彼にとっては何でもない。かりに若々しい生長ざかりの作物が旱魃《かんばつ》でしぼんでも、豪雨に押し流されても、それはトラクターにとってと同様、運転手にとっては、何でもないことなのだ。
銀行が土地を愛していないのと同じように、彼は土地を愛していない。彼はトラクターを――その機械化された外貌《がいぼう》を、その大波のような力を、爆音を立てるシリンダーのうなりを自慢することはできる。しかしそれは彼のトラクターではない。トラクターの背後には、ぴかぴか光る円盤鋤《えんばんすき》が回転しており、大地をその刃で切り刻む――耕しているのではなく、外科手術だ。切り刻まれた土を右のほうに押しやると、たちまち第二の円盤鋤の列が、それを切り刻んで左のほうに押しやる――切り刻んでゆく刃は、刻まれた土にみがかれて、きらきら光っている。そして、円盤鋤の列の背後に引きずられている|まぐわ《ヽヽヽ》が、鉄の歯で梳《す》くので、小さな土くれが砕けて、土地はなめらかになってゆく。|まぐわ《ヽヽヽ》のうしろには長い種まき機械がついている――鋳物《いもの》板の上に勃起《ぼっき》した十二の彎曲《わんきょく》した鉄の陰茎、歯車装置によってひき起される興奮の射精、規則正しく強姦《ごうかん》し、情熱もなく強姦をつづけてゆく。運転手は鉄の座席に坐って、自分の意志とは無関係なそのまっすぐな線を誇り、自分が所有しても愛してもいないそのトラクターを誇り、自分で制御できぬその力を誇る。そして作物が生長し、収穫されるときまで、誰一人熱い土くれを指で砕いてみる者もいないし、土を指先でふるいにかけてみる者もいない。誰一人種子に触れる者もいないし、生長を心待ちする者もいない。人々は、自分が育てたのでないものを食い、そのパンとは、何の関係ももたない。土地は鉄の下で実を結び、鉄の下で、しだいに死んでゆく。なぜなら、その土地は、愛されることもなければ憎まれることもなく、祈りも呪《のろ》いも受けていないからだ。
正午になると、トラクターの運転手は、ときどき小作人の家のあたりに車をとめて弁当を食べる。蝋引《ろうび》きの紙に包んだサンドイッチ、白いパン、ピクルス、チーズ、肉缶《かん》、それにエンジンの部品みたいに商標がついているパイなど。彼は、うまくなさそうに食べた。まだ立ちのかずにいる小作人たちは、彼を見に出てきて、塵よけの眼鏡がはずされ、ゴムのマスクがはずされて、目のまわりに白い輪が残り、口と鼻のまわりに大きな白い輪が残っているのを、不思議そうにながめる。トラクターの排気管は白い煙を吐きつづけている。というのも、燃料がごく安いので、新しくエンジンをかけなおすよりも、かけっぱなしにしておいたほうが、ずっと得だからだ。もの珍しげに子供たちが近くへ集まってきた。目をみはりながら油で揚げた練り粉のパンをかじっているぼろ着の子供たちだ。彼らは、ものほしそうにサンドイッチの包みが開かれるのを見まもり、空腹に鋭くなった彼らの鼻は、ピクルスや、チーズや、肉缶の匂いをかぐ。彼らは運転手に話しかけることはしなかった。運転手の手が食物を口に運ぶのを見まもっているだけだ。彼らの目は、運転手の顎《あご》の動きは見ていず、サンドイッチをもった手を追っていた。しばらくすると、まだ立ちのくことができずにいる小作人がやってきて、トラクターの陰にしゃがみこんだ。
「あれ、おめえはジョー・デービスんとこの伜《せがれ》じゃねえだか!」
「そうだよ」と運転手はいう。
「うん、そんなら、おめえは、なんでこんな仕事をやってるだ――土地の者にさからってよ」
「一日三ドルのためさ。おれは、めしにありつくために、こそこそ這いずりまわるのが、すっかりいやになっちまったんだ――それだって年じゅうめしにありつけねえ始末でよ。おれにゃ女房《にょうぼう》も餓鬼《がき》もいる。食わなきゃならねえんだ。一日三ドル、それも毎日はいってくるんだ」
「そいつは結構だ」と小作人はいう。「しかし、おめえがもらう一日三ドルのために、十五も二十もの家族が、まるっきり食えねえことになるだぞ。ほとんど百人近くの人間が、おめえの一日三ドルのために、立ちのきをくらって路頭に迷わなきゃならねえのだぞ。そいつはあまり結構なことじゃあるめえが?」
すると運転手はいう。「そんなことは考えちゃいられねえよ。自分の餓鬼のことを考えなきゃならねえもの。一日三ドル、それが毎日はいってくるんだ。時勢が変りかけているんだぜ。おめえにゃ、わからねえのかい。土地で暮していくには、二千とか五千とか一万エーカーとかいう土地とトラクターを一台持っていなくちゃならねえんだ。耕地はもう、おれたちのような貧乏人のためのもんじゃねえんだ。まさか、フォード自動車を自分でつくれねえからとか、自分が電話会社でねえからといって、文句をいうわけにもいかねえじゃねえか。作物ってやつも、いまでは、そんなもんなんだ。どうにもなりゃしねえよ。おめえも、どっかで一日三ドルの口でも見つけたほうがいいぜ。それよりほかに手はねえんだ」
小作人は思案する。「そいつはおかしいじゃねえか。人間が小さな土地を持っていりゃ、その土地は、その人間のもの、その人間の一部、その人間みてえなもんだ。人間が、ほんとうにその土地を持ってりゃ、その上を歩くこともできるし、そこを使うこともできるだ。そして、そこがうまくいかねえときにゃ悲しむし、雨でも降りゃ、うれしくなるってわけだ。そして、その土地は、その人間と同じものになって、それを持ってるというだけで、その人間は実際よりも大きなものになるだ。よしんばそれがうまくいかねえにしても、その土地を持ってることで大きな人間になれるだ。土地ってものは、そうしたもんだよ」
そして小作人は、なおも考えつづける。「しかし、土地を自分のものにしているくせに、そのなかに指をつっこんでみる暇もねえし、その上を歩く暇もねえということになると――そうしたら土地のほうが、人間の主人になってしまうだ。人間は自分のやりてえこともやれねえし、自分のしたいことを考えることもできなくなってしまうだ。土地のほうが主人で、人間よりも強くなるだ。そして人間は、大きくはならずに、ちっぽけなものになってしまうだ。ただ土地だけがでっかくて――人間は自分の土地の下男になってしまうだ。こいつもやっぱり本当のことだぞ」
運転手は、商標のついたパイをむしゃむしゃ食べて、堅い外皮を投げ捨てる。「時勢が変ったのが、わからねえのかな。そんなことを考えてたって、子供らを食わすことはできねえ。一日三ドルかせいで、子供らを食わしてやんなよ。他人の子供のことなんぞ気にやまねえで、自分の子供のことを考えるこった。おめえが、そんなふうにしゃべりまわってるという評判がたつと、一日三ドルの口にありつけなくなるぜ。おえら方はな、一日三ドルの仕事以外のことを考えるやつにゃ、一日三ドルをよこしたがらねえものなんだ」
「おめえのその一日三ドルで、百人近くもの人間が路頭に迷ってるだぞ。おれたちは、どこへ行きゃいいだ?」
「それで思いだしたが」と運転手はいう。「おめえたちも、すぐ立ちのいたほうがいいぜ。昼飯がすんだら、おめえんとこの前庭をつっきることになってるだでな」
「おめえは、けさ、井戸を埋めちまやがっただな」
「わかってるよ。畝《うね》を、まっすぐにしなきゃならなかったんだ。だけど、昼飯がすんだら、おめえんとこの前庭をつっきることになるぜ。畝を、まっすぐにしなきゃならねえからな。それに――そうだ、おめえは、うちのおやじのジョー・デービスを知ってるから特別に話してやるんだが、おれは、こんな命令を受けてるんだ。立ちのかねえ家族がいた場合――おれが運転をまちがえたりして――あんまり家の近くへ行きすぎて、そいつにちょっとでも傷をつけたりしたときにゃ、おれは、二ドルばかり、よけいにもらえることになってるんだ。それに、おれんとこのいちばん下の餓鬼は、まだ靴《くつ》を一足も買ったことがねえんだ」
「おれは自分の手で家を建てただ。古釘《ふるくぎ》をたたき伸ばして屋根板をぶちつけただ。垂木は荷造り用の針金で縦桁《たてげた》に縛りつけただ。これは、おれのものだ。おれが建てただ。ぶっつぶせるもんなら、やってみるがいい――おれはライフル銃をもって窓んとこにがんばっているからな。おめえが、すこしでも近よりすぎたら、兎《うさぎ》みてえにぶち殺してやるだ」
「おれのせいじゃねえんだぜ。おれは、どうにもしようがねえんだ。そいつをやらなかったら、おれはくびになっちまうんだ。それに、いいかい――もしおめえが、おれを殺したとしたら、おめえは、即座に縛り首になるわけだが、おめえが縛り首になる前に、別の男が、このトラクターに乗っかってやってきて、おめえの家をぶっつぶしちまうだろう。おめえは殺す相手を間違えてるんだ」
「それじゃ」と小作人はいう。「おめえに命令したやつは、誰《だれ》なんだ? おれは、そいつをつかまえるだ。そいつをぶっ殺してくれるだ」
「それは考えちがいというもんだ。その男は銀行から言いつけられただけなんだ。銀行が、『あの連中を、すっかり追っ払え、それがおまえの仕事だ』と言って命令したんだ」
「よし、銀行にゃ頭取がいるはずだ。重役会ってものがあるはずだ。おれはライフル銃にうんと弾丸《たま》を詰めこんで銀行へ乗りこんでやる」
運転手はいう。「仲間の話だと、銀行は東部から命令を受けてるんだそうだ。こんな命令だとさ、『その土地から利益をあげろ。さもないと銀行を閉鎖するぞ』」
「それじゃいったい、どこまでいったら、けじめがつくだ? 誰を撃ったらいいだ? おいらを飢えさせてるやつを殺《や》っつけねえかぎり、おれは飢え死にするつもりはねえだ」
「おれは知らねえ。たぶんぶち殺すような相手は、誰もいねえんだろうよ。どうもこいつは人間のやっていることじゃねえようだで。ひょっとすると、おめえが言ったように土地がこういうことをやってるのかもしれねえな。とにかくおれは、おれの受けている命令をおめえに教えてやっただけさ」
「ようく考えてみなくちゃなんねえだ」と小作人はいう。「みんな考えてみなくちゃなんねえだ。なんとかこれをやめさせる方法があるはずだ。これは雷や地震じゃねえだからな。人間のつくった悪いものがあるとすりゃ、そいつは変えることができるはずだ」
小作人は戸口に坐り、運転手はエンジンの音をとどろかせてトラクターを動かしはじめた。トラクターのすぎたあとは、うねり、まがり、|まぐわ《ヽヽヽ》は土を砕き、種まき機械の陰茎は地面のなかにすべりこんだ。前庭をつっきってトラクターは走った。すると、堅く踏みならされた地面は種まきの終った畑と変った。トラクターは、ふたたびそこをつっきる。えぐられてない地面は、もう幅十フィートくらいしかない。やがて、もう一度彼は戻ってくる。鉄の防御板が家の一角にくいこみ、壁をパン屑《くず》のようにくずす。そして、その小さな家を根こそぎもぎりとる。家は横ざまに倒れて、甲虫《かぶとむし》のようにつぶれる。運転手は、塵よけの眼鏡をつけゴムのマスクで鼻と口をおおっていた。トラクターは、まっすぐ一直線に切り刻みつづけ、大気と大地は、そのとどろきに震動した。小作人は、ライフル銃を手にしたまま、そのうしろ姿を見つめていた。女房は、そばにいた。そして、その背後には静まりかえった子供たちがいた。彼らは皆トラクターのうしろ姿を見つめていた。
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第六章
牧師のケーシーとトムの息子は、丘の上に立ってジョード家の土地を見おろしていた。ペンキも塗ってない小さな家は、片すみが押しつぶされていた。土台から押し出されているので片方に傾いてしまい、正面の鎧窓《よろいまど》は、地平線よりもはるかに高い天の一角をさしていた。柵はなくなっているし、前庭には綿花が家のすぐそばまで生えていた。綿花はまた納屋《なや》のあたりにも生えていた。その横に別棟《べつむね》の小屋があって、綿花がそのすぐそばまで生えていた。前庭の、子供たちのはだしの足や足踏みする馬の蹄《ひづめ》や幅の広い荷車の車輪に堅く踏みならされたあたりは、いまは耕され掘り返されて、濃い緑の、埃《ほこり》っぽい綿花が生えていた。トムの息子は長いあいだ目をこらして、乾いた馬の水槽《みずおけ》のそばの貧弱な柳や、ポンプのあったコンクリートの土台を、見つめていた。「なんてこった!」と彼は、しまいに言った。「地獄がここに口をあけたものにちげえねえ。あそこにゃ誰《だれ》も住んでいねえぜ」とうとう彼は急いで丘をおりた。ケーシーがあとにつづいた。彼は小さな納屋をのぞきこんだ。人の気配はなく、床には、すこしばかりの敷きわらが散らばっていた。片すみの騾馬《らば》小屋が目についた。のぞきこむと、床にかさこそ音がして二十日鼠《はつかねずみ》の一族が、わらの下にかくれた。ジョードは農具がはいっている差しかけの小屋の入口で足をとめた。農具は一つもなかった――こわれた鍬《くわ》のさきが一つ、片すみには干し草をたばねる針金の、もつれた一|塊《かたま》り、干し草集めの熊手《くまで》からとれた鉄の輪の片っぽ、鼠に食い破られた騾馬の首あて、埃と油のこびりついた平たい一ガロン入りの石油|缶《かん》、釘《くぎ》にかかっている破れた作業衣。「何にも残ってやしねえ」とジョードは言った。「うちにゃ、なかなか上等な農具があったんだ。何にも残ってやしねえだ」
ケーシーが言った。「わしがまだ説教師なら、神の御手《みて》が打ちたもうたとでもいうところだろうて。だけど、いまのわしは、いったい、何が起ったのか、さっぱりわからねえ。しばらくここを離れていたからね。何にも聞いてねえだ」
二人はコンクリートの井戸のほうに歩きだした。そこへ行くために綿花のあいだを抜けて行った。綿には、さやがつきかけていて、畑は耕されていた。
「うちじゃ、けっしてここへは植えやしなかった」とジョードは言った。「いつも、ここは、あけといたんだ。これじゃ綿を踏みつけないことにゃ馬を入れることもできやしねえじゃねえか」二人は、乾いた馬の水槽《すいそう》のところで立ちどまった。水槽の下にきまって生えるはずの雑草はなく、古い厚い槽《おけ》の板は、乾いて、ひび割れていた。井戸|蓋《ぶた》の上にはポンプをささえるボルトがつき出ていたが、らせん溝《こう》は、さびつき、ねじは、なくなっていた。ジョードは井戸のなかをのぞきこみ、唾《つば》をはいて耳をすました。つぎには土くれを落しこんで耳をすました。「こいつは、とてもいい井戸だったのに」と彼は言った。「まるで水の音が聞えねえ」彼は家のほうへは行きたくないようであった。井戸のなかへ、つぎつぎと土くれを落した。「たぶん、みんな死んじまったんだろう」と彼は言った。「だけど、誰かおれに知らせてくれそうなもんだ。何かおれに知らせる方法があったはずだ」
「家のなかに手紙か何か残してあるかもしれねえ。みんなは、おまえさんが出てくることを知っていたのかね?」
「どうだかな」とジョードは答えた。「いや、知らねえだろうな。おれ自身、一週間前までは知らなかったくらいだからね」
「家のなかを見てみよう。まるっきり押しひしがれてるぜ。何かで|どかん《ヽヽヽ》とやられたものにちがいない」
二人は、倒れかかっている家のほうにゆっくりと歩いて行った。ベランダの屋根の支柱が二本引っぱずされているので、屋根は片方にかしいでいた。そして家の角は、めりこんでいた。へし折られた材木がごちゃごちゃに散らばっているあいだから、すみの部屋が見えた。入口のドアは内側に向って開いていた。そして、その入口のドアについている低くて丈夫な扉《とびら》は、革の蝶番《ちょうつがい》にぶらさがって外側に向ってあけっぱなしになっていた。
ジョードは十二インチ角の角材の踏段のところで立ちどまった。「玄関の階段は、ここだった」と彼は言った。「だが、みんないなくなっちまった――おふくろは死んだんだ」彼は入口のドアについている低い扉を指さした。「おふくろが、どっかにいるとしたら、あの扉は、閉っていて留め金がかけてあるはずだ。おふくろは、それだけは、いつも忘れたことがなかった――あの扉が、いつも閉っているように気をつけていただ」彼の目がうるんだ。「豚のやつがジェーコブズの家にはいりこんで赤ん坊を食っちまってからというものはね。ミリー・ジェーコブズは、そのとき、ちょうど納屋へ行ってただ。ミリーが戻《もど》ってきたとき、まだ豚のやつは赤ん坊を食ってる最中だった。ミリー・ジェーコブズは、妊娠していたもんだから、すっかり頭へ血がのぼっちまった。それっきり、どうしても直らなかった。ずっと気がふれたままさ。それで、うちのおふくろは教えられたわけだ。おふくろは、自分が家のなかにいるときのほかは、ぜったいにあの豚よけの扉を開けさせなかったもんだ。けっして忘れなかった。そうだ。やっぱりみんな行っちまったんだ――そうでなけりゃ死んじまったんだ」彼はこわれたベランダにのぼって行って、台所をのぞきこんだ。窓はこわされており、投げこまれた石ころが床にころがっていた。床と壁は、ドアと逆のほうへ、ぐいと傾いて、吹きこんだ土埃が床板の上に積っていた。ジョードは、こわれたガラスや小石などを指さした。「子供たちだ」と彼は言った。「やつらは、窓をぶちこわすためなら、二十マイルくらい平気で出かけてくるだでな。おれも、子供のころにゃ、よくやったもんだ。どの家が空家《あきや》か、やつらは、じつによく知ってるだ。家族が立ちのいてしまうと、やつらがまずやるのは、それなんだ」台所は、がらんとして、家具もなくなっていた。ストーブもなく、壁にあいている、丸いストーブの煙突用の穴から光がさしこんでいた。流しの棚《たな》には、古い栓抜《せんぬ》きが一つと木の柄《え》のとれたこわれたフォークがのっていた。ジョードは、そっと部屋のなかへはいりこんだ。床が、体の重みできしんだ。フィラデルフィア・レジャー紙の古新聞がページも黄ばんで、めくれたまま、壁ぎわの床の上に落ちていた。ジョードは寝室をのぞきこんだ――ベッドもなく椅子《いす》もなかった。何もなかった。壁には、「赤い翼」と呼ばれていたインディアン娘の色つきの写真がはってあった。ベッドの鉄脚が壁にもたせかけてあり、片すみには女のボタンどめの靴《くつ》がころがっていた。爪先《つまさき》は、そりかえり、甲の部分は破けていた。ジョードは、それを拾いあげてながめた。「これはおぼえてる」と彼は言った。「おふくろの靴だ。すっかりすり減ってるな。おふくろは、この靴が好きだった。何年もはいてたもんだ。やっぱり家の連中は行っちまっただ――何もかも持って行っちまっただ」
日は傾いて、いまは、かしいだ、うしろの窓からさしこみ、こわれたガラスの縁に輝いていた。ついにジョードは身を返してそこを出て、ベランダを横ぎった。その端に腰をおろし、はだしの足を十二インチ角の角材の踏段にのせた。夕方の光が畑を照らし、綿の木が地上に長い影を投げかけ、羽毛が抜けかわりかけているような柳の木が長い影を投げかけていた。
ケーシーはジョードのそばに坐った。「うちのものは、おまえさんに手紙をくれなかったのかね?」と彼はたずねた。
「うん。さっきも言ったように、うちの連中は手紙を書くような人間じゃねえだ。おやじは、書けば書けるだが、書こうとしねえだ。書きたがらねえだよ。ペンを持つと身ぶるいがするっていうだ。カタログの注文なら、誰にも負けねえくらい書けるんだけど、手紙となると、よっぽどのことがねえかぎり書こうとはしなかっただ」二人は遠くを見つめながら、ならんで腰をおろしていた。ジョードは、丸めた上着を、そばのベランダの上においた。自由になった手で、煙草《たばこ》を一本巻き、それを伸ばして火をつけた。そして深く吸いこんで鼻から吐きだした。「何か、ただごとじゃねえだ」と彼は言った。「何だか、はっきりとはわからねえが、ひどく悪いことが起ったんじゃねえかという気がするだ。この家が押し倒されて、家の者が、みんないなくなっちまったんだぜ」
ケーシーは言った。「すぐあの向うに、灌漑《かんがい》用の掘割りがあったっけ。わしが洗礼を施したところだ。おまえさんは意地悪じゃなかったが、きかんぼだったな。まるでブルドッグみたいに、あのちっちゃな女の子の|おさげ《ヽヽヽ》にしがみついてな。おまえさんと、あの子をいっしょに、神の聖《きよ》き御名《みな》のもとに洗礼を施してやったもんだが、そのときでも、まだおまえさんは、|おさげ《ヽヽヽ》にしがみついていたもんだ。おやじさんのトムが、『やつを水んなかへもぐらせちまえ』っていうもんだから、わしは、おまえさんの頭を水のなかへ押しこんだもんだ。とうとう、しまいにゃ、おまえさんも、|あぶく《ヽヽヽ》を出しながら、|おさげ《ヽヽヽ》を離したっけ。おまえさんは意地悪じゃなかったが、きかんぼだったな。きかんぼの子供ってものは、ときどき、えらく活発に精神を動かして、おとなになるもんだ」
やせこけた灰色の猫《ねこ》が、納屋から忍びでて、綿の木のなかをベランダの端まで歩いてきた。音もたてずにベランダへ飛びあがって、腹を床にこすりつけるようにして男たちのほうへ近づいてきた。二人の間の背後のところまでくると、そこへ坐りこんだ。しっぽが、ぺたりと床についたまま、まっすぐに伸び、しっぽの先の一インチほどが、ぴたぴた床を打っていた。猫は坐りこんで、二人の男がながめている遠くのほうを、自分もながめやった。
ジョードは、ちらと猫に目をやった。「おや! 見なよ、こいつを。残っているやつがいたぜ」彼は手を伸ばした。しかし猫は、手のとどかぬところまで飛びすさって、そこに坐りこみ、前足をあげて足の裏をながめた。ジョードは、それを見つめた。彼は、不思議そうな顔をした。「何が起ったかわかっただよ」と彼は叫んだ。「この猫を見たら、悪いことの正体がわかっただ」
「わしには、悪いことがたくさんあったように思えるがね」
「いや、その悪いことは、この家だけのことじゃねえんだ。この猫が、どうして近所の人――たとえばランスのところへでも移っていかねえだ? 何で、誰一人、この家から、いくらかでも床板を引っぱがしていかねえだ?この三、四カ月のあいだ、誰もこの家には住んでねえのに、床板一つ盗んだやつが一人もいねえというのは、おかしいじゃねえか。納屋の厚板は上等だし、家にも上等の厚板が、うんとあるだ。窓わくもある――ところが、誰一人、とっていかねえ。こいつは、ふつうじゃねえだよ。そこんとこが、おれにゃ気がかりだ。どうにも、そこのところが、なっとくいかねえだよ」
「それで結局おまえさんは、何がわかっただね?」ケーシーは下に手を伸ばしてズック靴をはずし、長い足指を踏段の上で動かした。
「よくわからねえだ。どうも、おれにゃ、近所の連中が誰もいねえように思えるだよ。もし、いるんなら、こんなに手ごろな板材が、そのままここに残ってるわけがねえだ。うん、まったくそうだ! アルバート・ランスが、家族をつれて、子供も犬も、みんないっしょに、ある年のクリスマスにオクラホマ市へ行ったことがあるだ。アルバートのいとこの家を訪ねるつもりだったのさ。ところが、この近所の連中は、アルバートが何も言わずに引っ越してしまったものと思いこんじまった――借金でもしたか、それとも、どこかの女に責めたてられたんだろうと思いこんじまっただ。一週間後にアルバートが帰ってきたときには、やつの家には、何一つも残っちゃいなかった――ストーブはなくなってるし、ベッドはなくなってる、窓わくはなくなってる、それから家の南側の板材が八フィートもはがされてしまってるもんだから、家のなかが、すっかり見通しになるような始末だった。やつが馬車で家へ帰ってきたときには、ちょうどミューリー・グレーブズがドアと井戸ポンプを持ってゆくところだった。アルバートは近所じゅうを駆けまわってがらくた道具をとり戻すのに二週間もかかったもんだ」
ケーシーは気持よさそうに足の指をかいた。「それで、誰も文句を言わなかったのかね? みんながらくたを返しちゃったのかね?」
「そうともよ。やつらは盗んだわけじゃねえだからね。アルバートが捨てていったものと思ったから持ってっちまっただけなんだ。アルバートは、みんなとり戻しただよ――ただし、インディアンの絵がついているビロードのやわらかい寝椅子の枕《まくら》だけは別だがね。アルバートは、おれんとこのじいさんがとったっていうだ。うちのじいさんにはインディアンの血がまじってる、だから、あの絵をほしがるんだっていうのさ。うん、たしかに、うちのじいさんがとっただよ。だけど、それについている絵なんぞ、まるっきりじいさんにゃ用はなかっただ。じいさんは、ただ、その枕が好きだったんだ。じいさんは、よくそれを持ち歩いていて、坐ろうとするときにゃ、きまって、それをしいて坐ったもんだ。アルバートには絶対に返そうとしなかっただ。じいさんは、こういうんだ。『もしアルバートが、この枕を、そんなにほしいんだったら、自分でとりにきて、持ってったらいいだ。だけど、もしくるんなら、撃ち合いのつもりでくるがいいだ。もしやつが、この枕に手をかけやがったら、わしは、やつのあの臭い頭をふっ飛ばしてやるだ』それでアルバートは、とうとうあきらめちまって、じいさんに、その枕を贈りものにしただ。その枕からじいさんは、いろいろと、おかしなことを思いつくようになった。まず鶏の羽根を集めはじめただ。全部羽根だけを詰めてベッドをつくるっていうだ。しかし、とうとう羽根入りのベッドは、できずじまいだったよ。あるとき、おやじが家の下にいるスカンクに腹を立てて、厚さ二インチ、幅四インチの角材で、ひっぱたいたもんだ。だもんで、家じゅうの者が逃げだしちまってよ、おふくろが、じいさんの羽根を、すっかり燃やして、やっと、みんなが家のなかへはいれるようにしただ」彼は笑った。「じいさんは、頑固《がんこ》な、じいさんだったよ。でんと、あの枕の上に坐りこんで、こういうのさ。『アルバートのやつにとりにこさせるがいい。やつがきたら、とっつかまえてズボン下みたいにしぼりあげてやるだ』」
猫が二人のあいだに、そっと近づいてきた。しっぽをぺたりとつけ、ときどき、ひげをぴくぴくと動かした。太陽は地平線へと低く落ち、埃っぽい大気は赤と金色をおびていた。猫は、いぶかしげに灰色の手を伸ばしてジョードの上着をつっついた。彼はそのほうを見返った。「やあ、亀《かめ》のことを忘れてたよ。いつまでも包みこんでおくつもりじゃなかった」彼は包みをほどいて土亀をとり出し縁の下へ押しやった。すると、すぐに亀は這《は》いだしてきて、最初からそうだったように、南西の方向に向って歩きだした。猫が、それに飛びかかった。のびた亀の頭をたたき、動いている足を、ひっかいた。年老いた、頑丈な、おどけた頭が、ひっこめられ、太いしっぽが甲羅《こうら》の下にぴたりと張りついて、猫が待ちくたびれて離れてしまうと、亀は、ふたたび南西の方角に向って歩きだした。
若いトム・ジョードと説教師は、亀が歩いて行くのを見まもっていた――足をくねらせ、重そうな、高い丸屋根のような甲羅を持ちあげながら、南西の方角へ歩いて行く。猫は、しばらく、そのあとからつけて行った。しかし、十二ヤードと進まぬうちに、猫は強く張った弓のように背を伸ばしてあくびをした。そして、坐っている男たちのほうへ、そっと戻ってきた。
「いったいあの亀のやつは、どこへ行くんだろうな?」ジョードは言った。「生れてから何度となく亀を見てきただが、やつらは、いつも、どこかへ行く途中だ。いつも、どこかへたどりつこうとしてるみたいだ」灰色の猫は、ふたたび二人の男のあいだのうしろに坐りこんだ。ゆっくりと、まばたきをした。肩のあたりの皮膚が、蚤《のみ》でもいるらしく、ぴくりと前のほうに動いて、それから、ゆっくりと元へもどった。猫は片足をもちあげて、そこを調べると、ためすように爪を出したり引っこめたりし、それから、うす桃色の舌で、やわらかい足の裏をなめた。赤い太陽が地平線にふれて、水母《くらげ》のようにひろがった。その上の空は、前にもまして、さらに明るく、さらに生き生きとして見えた。ジョードは上着をほどいて新品の黄色い靴をとり出し、手で、埃《ほこり》だらけの足をはたいてから、その靴をはいた。
説教師は、畑の向うを見つめながら言った。「誰《だれ》かやってくるぜ。ほら! あそこだよ、綿花畑のなかを通ってな」
ジョードはケーシーの指さすほうをながめた。「歩いてくるだな」と彼は言った。「埃を蹴《け》たててるんで姿がよく見えねえ。ここへくるなんて、いったい誰だろう?」二人は夕方の光のなかを近づいてくるその人影を見まもった。その人間のあげる土埃が沈みゆく太陽の光で赤く染まった。「男だぜ」とジョードが言った。男はしだいに近づいてきた。その男が納屋《なや》の前を通りすぎたとき、ジョードは言った。「何だ、あの男なら知ってるだぞ。おめえさんも知ってるはずだ――あれはミューリー・グレーブズだ」そして彼は呼びかけた。「おい、ミューリー ひさしぶりだな」
近づいてきた男は、呼び声にびっくりして、立ちどまった。それから足早に近よってきた。やせていて、どちらかといえば、むしろ小柄《こがら》なほうだ。身のこなしはこせこせしていて、敏捷《びんしょう》だった。手に鉄砲袋を一つさげていた。青いジーンズのズボンは、膝《ひざ》と尻《しり》のあたりが色あせていて、古ぼけた黒の背広を着ているが、その上着も、よごれて、しみだらけで、袖《そで》は、うしろの肩のつけ根が破れているし、肘《ひじ》のところがすり切れて、ぼろぼろの穴があいていた。黒の帽子も上着に劣らず汚れていて、半分ちぎれそうになっているバンドが、歩くにつれて上下にぱたぱたとひるがえった。ミューリーの顔は、なめらかで、皺《しわ》はなかった。口は、きつくしまって小さく、小さな目は、半ば睨《にら》みつけるようであり、半ば怒っているようで、まるで、いたずら小僧のような、たけだけしい表情をしていた。
「おめえさんもミューリーを覚えてるだろう?」ジョードは、やわらかく説教師に言った。
「誰だい?」進んできた男が呼びかけた。ジョードは答えなかった。ミューリーは近づいてきた。ずっとそばまできて、やっと顔を見わけた。「ありゃ、こいつは驚いた」と彼は言った。「トミー・ジョードでねえだか。いつ出てきただ、トミー?」
「二日前さ」とジョードは言った。「車をつかまえては便乗してきたもんだから、少々暇がかかっちまっただ。しかも、帰ってみたら、このざまだで。おれの家の者は、どこにいるんだい、ミューリー? 何でまた家が押しつぶされちまったんだい? 何で前庭に綿が植えてあるんだい?」
「やれやれ、おれが来合せてよかっただな」ミューリーは言った。「なぜって、トムおやじは、えらく心配してただものな。おめえんとこの連中が立ちのきのしたくをしていたとき、おれは、そこの台所に坐ってただ。おれはトムに言ってやっただよ、神かけておれはここを離れやしねえ、とね。おれはそう言っただ。するとトムは言ったよ。『おれはトミーのことが気がかりだ。もしあいつが帰ってきたとき、ここに誰もいなかったら、どうするだ。あいつは、なんと考えるだろう?』『なぜ手紙を書いてやらねえだ?』と、おれがいうと、トムはいうだ。『そりゃ、書くかもしれねえだ。手紙のことは、おれも考えてみるつもりだ。しかし、もしかして、おれが書かなかったときにゃ、おめえがまだこのへんにうろうろしてるんなら、トミーに気をつけていてくれよ』『おれはいるさ』と、おれは答えた。『おれは地獄が凍っちまうまで、ここにいるだ。どんなやつだって、グレーブズという名の人間を、この土地から追いだすことはできねえだ』実際、おれを追いだすことはできねえだよ」
ジョードは、いらだたしそうに言った。「うちの連中は、どこにいるだ? おめえが、うちの連中に|けんつく《ヽヽヽヽ》食わせた話は、あとで聞くだ。うちの連中は、どこにいるんだい?」
「それがさ、銀行がこの土地をトラクターで引っかきはじめたとき、おめえんとこのものは、あくまでここにがんばるつもりだった。おめえのじいさまなんざ、鉄砲もって、ここんとこにつっ立ってからに、あのトラクターのヘッドライトをふっ飛ばしちまったもんだ。だけど、そいつは平気な顔で向ってきやがっただ。じいさまにしても運転している男を殺したくはなかっただ。運転していたのはウィリー・フィーリーだったもんな。ウィリーのほうでも、それを心得てやがって、どんどん進んできてからに、この家をぶっつぶして、犬が鼠《ねずみ》をふりまわすみてえに、この家をふりまわしやがった。それで、トムおやじの体から何かが抜け落ちちまった。言ってみりゃ、ふぬけになっちまっただ。それからというものは、さっぱり、元のようじゃなくなっちまっただ」
「うちの連中は、どこにいるだよ?」ジョードは腹だたしげに言った。
「いま言おうとしているところだて。おめえの伯父さんのジョンの馬車で三回ほど行ったりきたりしただよ。炊事用ストーブもポンプもベッドも、みんな運んで行っただ。あの様子は見せたかったな。子供たちとじいさまとばあさまが、みんなベッドの頭板にもたれて坐って、おめえの兄貴のノアが、煙草をふかしながら荷車のわきから、気どった身ぶりで唾《つば》を飛ばしてたっけ」ジョードが口を開いてしゃべりかけるとミューリーが急いで言った。「みんなジョン伯父のとこにいるだよ」
「そうか! みんなジョン伯父のとこにいるのか。それで、そこで、何してるだ? なあ、ミューリー、もうちょっとだから辛抱して、この話に身を入れてくれ。ちょっとだけ身を入れてくれよ。そしたら、すぐおめえの好きなようにしゃべらせてやるだ。みんなは、そこで、何してるだ?」
「みんな綿花を摘んでるだよ。子供やじいさままで加わってな。金をためて、それで西部へ出かけようってわけだ。車を一台買って、暮しの楽な西部へ出かけようって肚《はら》なんだ。このあたりにゃもう何もねえだでな。綿摘みの仕事にしても一エーカーすっかりやって五十セントにしかならねえだ。それでも、みんな頭をさげて仕事をとりっくらしているようなありさまだでな」
「それじゃ連中はまだ出発してねえだな?」
「まだだよ」とミューリーは言った。「おれの知ってるかぎりじゃ、まだだ。おれが最後にみんなのことを聞いたのは、四日前、おめえの兄貴のノアが野兎《のうさぎ》を撃ちに出かけるのに出あったときだ。ノアは、みんなは二週間以内に出かけるつもりだと言ってただ。ジョンが立ちのきの通知をくらったんだそうだ。おめえは、八マイルばかり歩いてジョンのとこへ行けばいいだ。おめえの家の連中が、まるで冬ごもりの野鼠みてえにジョンの家で重なり合ってごろごろしてるだよ」
「よし、わかった」とジョードは言った。「さあ、もうおめえの好きなことをしゃべってもいいぜ。おめえは、ちっとも変っちゃいねえだな、ミューリー。北西のほうの話がしたいときにゃ、鼻をぴたりと南東の方角に向けてるもんな」
ミューリーは、激しい調子で言った。「おめえも、ちっとも変ってねえだ。生意気なことばかりいう小僧だったが、いまでもやっぱり生意気小僧だ。まさか、おれの暮し方にまで、よけいなおせっかいをするつもりじゃねえだろうな?」
ジョードは、にやりと笑った。「いや、そんなつもりはねえよ。たとえおめえが、こわれたガラスの山に頭をつっこみたがっていたところで誰もとめるものはいやしねえよ。ミューリー、おめえ、ここにいる説教師を知ってるだろう? ケーシー牧師だよ」
「知ってるとも。よくおぼえてるだよ」ケーシーは立ちあがった。二人は握手した。
「またお目にかかれて、うれしいだ」とミューリーは言った。「このへんでは長いこと見かけなかっただな」
「いろんなことを考えるために、ここを離れていたでな」とケーシーは言った。「ところで、ここでは、何が起ったんだね? 何でやつらは、みんなを土地から追いだすんだね?」
ミューリーの口が、きつくしまって、上唇《うわくちびる》の中央の小さな嘴《くちばし》のような突起が、下唇の上につき出た。彼は顔をしかめた。「ちきしょうめ」と彼は言った。「あのうすぎたねえちきしょうどもめ。言っとくだがな、おめえさんたち、おれはここに踏みとどまるだぞ。やつらだって、おれを追っぱらうことはできねえだ。おっぽりだしたら、また戻《もど》ってくるだ。もし、おれを土の下へ眠らせたら、おとなしくなるとでも思うんなら、そんときには、おれは、やつらを二、三人道づれにしてやるだ」彼は上着の横のポケットにはいっている重たいものをたたいてみせた。「おれは立ちのかねえだ。おれのおやじは、五十年前に、ここへきただ。おれは立ちのかねえ」
ジョードが言った。「みんなを追いだしたって、どういうことなんだ?」
「そのことよ! やつらは、あれこれと、うまいことしゃべりゃがった。おめえも知ってるだろう、ここ幾年かが、どんなにひでえ年だったか。砂あらしが押しよせてきて、何もかもだめにしやがったもんだで、蟻《あり》の尻《けつ》の穴をふさぐほどの収穫もなかっただ。誰もかれも食料品屋に借金がたまっちまった。どんなぐあいだったか、おめえにも察しがつくだろう。ところが、土地を持ってるやつらは、こういうだよ。『もう小作人をおいとく余裕がなくなった』そしてまたいうだ。『小作人のとりまえは、おれたちにとって、どうにもやりくりのつかねえぎりぎりの利益なんだ』そしてまた、こうもぬかしただ。『おれたちの土地を全部一つにしたところで、土地の利益なんて、ほとんどありはしねえ』だもんで、やつらは小作人を、みんなトラクターで追いだしてしまっただよ。残ったのは、おれだけさ。だが、くそっ、おれは行かねえだぞ。トミー、おめえは、おれを知ってるだろう。生れてからずっと、おれを知っていただな」
「そのとおりだよ」とジョードは言った。「生れてからずっと知ってるだ」
「それでよ、おれがばかでねえことは、おめえも知ってるはずだ。この土地が、たいして役にたたねえのは、おれも知ってるだ。牧場にでもすりゃ別だが、いままでも、たいして役にたったためしはねえだ。ほんとうは耕地にする土地じゃねえだ。それに、これまで綿花を植えつけてきただで、土地はもうくたばりかけてるだ。もしやつらが出て行けなんてぬかしさえしなけりゃ、たぶんおれは、いまごろはカリフォルニアへでも行って、好きなときに、葡萄《ぶどう》食ったりオレンジをもいだりしているところだよ。だけど、あのちきしょうどもは、おれに出て行けとぬかしゃがった――人間、そんなことを言われちゃ、出て行けるもんじゃねえや」
「そうだとも」とジョードは言った。「うちのおやじだって、そんなに簡単に出て行ったなんて、合点《がてん》がいかねえだ。じいさまが、誰も殺さなかったというのも合点がいかねえ。いままで、うちのじいさまに、こうしろなんて指図したやつは、一人もいなかっただもんな。ばあさまだって、手軽にこづきまわせるような女じゃねえだ。おれは、ばあさまが、何か文句を言ったというんで、缶詰《かんづめ》の行商人を生きた鶏をふりまわしてぶったたいたのを見たことがあるだ。ばあさまは片手に鶏をつかみ、片手に斧《おの》を握って、鶏の首をはねようとしていただ。ばあさまは、斧で行商人をやっつけるつもりだったんだが、どっちの手がどっちだか忘れちまって、鶏のほうでぶんなぐっちまったのさ。その鶏は、もう食うことさえできなくなってたぜ。ばあさまの手に残ったのは、足二本だけだったもんな。じいさまは笑って、そいつの尻をつけ根からひっぱがしちまっただよ。おれんとこの連中が、そう簡単に出て行くはずはねえだ」
「それがさ、やってきた男ってのが、うまいことばかりぬかしゃがっただ。『おまえさんたちには立ちのいてもらわなきゃならない。それは、わしのせいじゃないんだ』『じゃ』と、おれは言ってやっただよ。『誰のせいなんだ? おれが出かけて行って、その野郎のきんたまをぶちぬいてやるだ』『それはショーニー|土 地 家 畜 会 社《ランド・アンド・キャトル・カンパニー》だ。わしはただ命令を受けているだけなんだ』『そのショーニー・ランド・アンド・キャトル会社ってのは、誰のことなんだ?』『誰のことでもないよ。会社なんだ』ひとをばかにしてやがるじゃねえか。向っていく相手が、誰もいねえってわけよ。たいていのもんは、喧嘩《けんか》の相手をさがすのに、くたびれちまっただ――だが、おれはちがうぜ。おれは、どいつもこいつも全部に腹をたてているだ。おれは出て行かねえだ」
大きな赤い雫《しずく》のような太陽が地平線にたゆたっていたが、やがて、|したたり《ヽヽヽヽ》落ちるように見えなくなった。それが消えたあたりの空が一面に明るくなって、血染めのぼろ布のようなちぎれ雲が、太陽の沈んだあたりに漂っていた。暮色が東の地平線から忍びよるように空をおおい、暗闇《くらやみ》が東のほうから大地に這いよってきた。夕べの星が宵闇《よいやみ》のなかにぴかりときらめいた。灰色の猫は開いている納屋に向ってこっそりと歩いて行き、影のようになかへ消えた。
ジョードは言った。「さてと、おれたち、今夜はジョン伯父のところまで八マイルも歩きたくはねえだな。足がまいっちまっただ。どうだい、おめえのとこへ行っちゃいけねえかね、ミューリー? それなら一マイルたらずだもんな」
「そいつはまずいだ」ミューリーは困惑した様子だ。「女房《にょうぼう》も子供も女房の兄弟も、みんなカリフォルニアへ行っちまっただ。何も食う物がなくなったもんだでな。連中は、おれほど向っ腹をたてなかったもんで、みんなで行っちまっただよ。ここには、もうまるで食う物がねえだ」
説教師は、いらいらと身を動かした。「おまえさんも行かなくちゃいけなかったな。家族の者をちりぢりにしちゃいけねえだよ」
「おれは行けなかっただ」ミューリー・グレーブズは言った。「どういうわけか、行くことができなかっただ」
「ちきしょうめ、腹がへりゃがった」とジョードは言った。「この四年間というもの、おれは、きちんと時間時間に食ってきただ。胃袋が大げさに悲鳴をあげてやがる。おめえは、何を食うつもりだい、ミューリー? 晩めしは、どうしてるだ?」
ミューリーは恥ずかしそうに言った。「しばらくのあいだは、ときどき蛙《かえる》や栗鼠《りす》やマーモットを食ってただよ。そうするよりほかに、どうしようもなかっただ。だけど、いまじゃ、水の涸《か》れた川の藪《やぶ》のなかの獣の通り道に針金の|わな《ヽヽ》をかけてるだよ。兎がかかるし、ときにゃ雷鳥がかかるだ。スカンクもかかるし洗熊《あらいぐま》もかかるだよ」彼は手を伸ばして、袋を持ちあげた。そして、それをベランダの上にあけた。白尾の兎が二匹と野兎が一匹落ちた。やわらかくて、毛のふさふさした体が、ぐにゃりところがった。
「こいつはすげえや」ジョードは言った。「殺したての肉を食うなんて四年ぶりだぜ」
ケーシーが白尾の兎を一匹拾いあげて手にぶらさげた。「わしらにも分けてくれるかね、ミューリー・グレーブズ?」と彼はたずねた。
ミューリーは困ってもじもじした。「ことわるわけにもいかねえだろうな」彼は自分の言葉の薄情な調子に気がついて口を閉じた。「その、おれは、そんなつもりで言ったんじゃねえだよ。そういう意味じゃねえだ。おれが言ったのは」――彼は、どもった――「おれのいう意味は、一人の人間が食う物を持ってて、もう一人の人間が腹ぺこだというときにゃ、そのときにゃ、自分勝手なことはいえねえってことなんだ。たとえば、このおれが自分の兎を持っていって、どこかへ行って食っちまったとしたら、どうなるだ? わかるだろう?」
「わかったよ」とケーシーは言った。「よくわかったよ。トム、ミューリーは話がわかるよ。ミューリーは、何か手に持ってる、しかも、そいつは、やつにはすこし大きすぎる、おれにも大きすぎる、そういうわけさ」
トムは手をすり合せた。「誰かナイフを持ってねえか? さあ、このかわいそうな耳長族をやっつけようじゃねえか。さあ、やっつけようぜ」
ミューリーがズボンのポケットを探って、角《つの》の柄《え》のついた大きなポケット・ナイフをとり出した。トム・ジョードは、それを受けとって、刃を開いて匂《にお》いをかいだ。刃先を土のなかへ幾度も突き刺しては、その匂いをかぎ、ズボンのもものあたりで、それをぬぐうと、こんどは親指で切れ味をためしてみた。
ミューリーは、うしろのポケットから水のはいった一クォート壜《びん》をとり出してベランダにおいた。「この水は大事に使ってくれよ」と彼は言った。「これだけしか残ってねえだでね。ここの井戸は埋められちまったしね」
トムは、兎をとりあげた。「誰か行って納屋から荷造り用の針金を持ってきてくれ。それから家のなかから、こわれた厚板をとってきて、火をつくらなくちゃいけねえ」彼は死んだ兎を見つめた。「兎くらい料理のしやすいものは、ちょっとねえぜ」と彼は言った。そして、背中の皮をつまみあげて、それを切り裂き、その穴に指をつっこんで皮をはいだ。皮は靴下のようにめくれ落ちて、体は首のところまでひんめくられ、足は爪《つめ》のところまですっぽりとはぎとられた。ジョードは、もう一度ナイフをとり上げて、頭と足とを切り離した。皮を下におき、肉を肋骨《ろっこつ》にそって縦に裂き、臓物を皮の上にふり落して、その汚物を綿畑のなかに投げ捨てた。すると、きれいな筋肉を見せている小さな肉体は、すっかり料理を待つばかりになった。ジョードは股《もも》を切り落し、肉づきのいい背中を二つに裂いた。ジョードが二番目の兎にとりかかったとき、ケーシーが、もつれた荷造り用の針金を手にして戻ってきた。「さあ、火を起して、杭《くい》をすこしばかり立ててくれ」とジョードが言った。「ちきしょうめ、こいつを見てると腹がぐうぐう鳴りやがる!」彼は残った兎の臓物をとって肉を切りとり、それを針金につるした。ミューリーとケーシーは、こわれた家のすみから割れた板を引きはがしてきて、火を燃やしはじめた。そして針金をささえるために両側の地面に杭を一本ずつ打ちこんだ。
ミューリーがジョードのところへ戻ってきた。「兎に腫物《できもの》ができてねえかどうか気をつけて調べてみてくれよ」と彼は言った。「腫物のついた兎の肉は食いたくねえだでな」彼は小さな布の袋をポケットからとり出してベランダにおいた。
ジョードは言った。「兎のほうは、きれいさっぱり剥《は》いじまったぜ――おや、おめえ、塩まで持ってんのかい? こうなると、おめえのポケットのなかには、皿《さら》が五、六枚にテント一枚くらいはしまってありそうだな」彼は手に塩を盛って、針金につるしてある兎肉に、それをふりかけた。
火は、はねあがって、家に、さまざまな影を投げかけ、乾いた木が割れてはじけた。空は、いまでは、ほとんど暗くなっていて、星が鋭く光っていた。灰色の猫《ねこ》が納屋から出てきて、鳴きながら火のほうに近づいてきたが、火のそばに近づいたかと思うと、くるりと身を転じて地面に落ちた兎の臓物の小さな山のほうへ、まっすぐに進んで行った。猫は噛《か》んではのみこんだ。臓物が口の端にたれさがった。
ケーシーは火のそばの地面に坐り、折れた板ぎれをくべていた。炎が板を燃やしつくすと、すぐに長いやつを押しこんだ。夕方の蝙蝠《こうもり》が、焚火《たきび》の明りのなかに飛びこんできては、消えていった。猫は、うしろのほうにうずくまり、唇《くちびる》をなめ、顔と頬《ほお》ひげを洗った。
ジョードが、兎の肉を刺した針金を両手に持って火に近づいた。「さあ、ミューリー、片端を持ってくれ。そっちの端を、その杭に巻きつけるんだ。よし! それでいい。さあ、ぐっと引っぱるんだ。ほんとうは火が燃え落ちるまで待たなきゃいけねえだが、おれにゃ待てねえや」彼は針金を引っぱった。それから棒きれを見つけて針金ぞいに肉片をすべらせ、よく火にあたるようにした。炎が肉のまわりをなめ、その表面を堅くし、光らせた。
ジョードは火のそばに坐った。そして棒きれで、兎の肉を動かしたり、ひっくり返したりして、針金にくっつかぬようにした。「こいつは本物のパーティーだて」と彼は言った。「塩もミューリーがもっているだし、水と兎もある。これでミューリーがポケットに玉蜀黍《とうもろこし》の挽割《ひきわ》りつぼでも持ってたら、いうことはねえだがな」
ミューリーは火の向うから言った。「おめえさんたちは、おれがこんな暮し方をしてて、気がふれたんだとは考えねえかい?」
「気がふれただって? そんなことはねえさ」とジョードが言った。「もしおめえが気がふれてるんなら、誰にでも気がふれてもらいてえようなもんだ」
ミューリーは話しつづけた。「それがさ、変な話だが、やつらが、おれに、ここを出て行けと言ったときから、何かが、おれの心に起りはじめただ。まず最初、おれは町へ出かけて行って、あのやつらを一まとめにぶち殺してやりたくなっただ。そのうちに、うちの家族どもは、みんな西部へ行っちまっただ。おれは、このへんをうろつきはじめただ。ただ、うろつきまわるだけで、遠くへ行ったことは一度もねえだ。そして、いきあたりばったりに寝るだ。今夜は、ここで寝るつもりだった。だから、ここへきたんだ。おれは、いつも自分に言いきかせてるだよ。『おれはいろいろと世話をしてるんだ。そうすりゃ、みんなが戻ってきたときに万事ぐあいがいいだろう』ってな。しかし、そいつは本当のところ嘘《うそ》だってことは自分でも知ってるだ。世話するようなものは、何もねえだものな。みんなも二度と戻ってはきやしねえものな。おれはただ、墓場の老いぼれ幽霊みてえに、うろつきまわっているだけなのさ」
「人間ってものは、一つ場所に住みなれると、なかなか離れられねえもんだよ」ケーシーが言った。「人間ってものは、一つの考え方になれてしまうと、なかなかそれを捨てることはできねえもんだ。わしはもう説教師じゃねえが、それでいて、年じゅう自分が祈っているのに気がつくだよ。自分が何をやっているのか、そんなことは考えもしねえでな」
ジョードは針金の上の肉片をひっくり返した。もう汁《しる》がたれていて、その一滴一滴が、火のなかに落ちると、ぱっと強い炎をはじきだした。なめらかな肉の表面がよじれて、うすい褐色《かっしょく》に変りはじめた。「この匂いをかいでみなよ」とジョードが言った。「顔をよせて、かいでみなよ!」
ミューリーは、しゃべりつづけた。「墓場の老いぼれ幽霊みてえに、おれは、昔いろんなことがあったところを、うろつきまわってみただ。おれの四十エーカー畑のそばに、そんな場所が一つあるだ。涸《か》れ溝《みぞ》のなかに藪《やぶ》が生えてるだ。おれが生れて初めて娘っ子と寝たのは、そこだった。おれの十四のときで、雄鹿《おじか》みてえに足をふみ鳴らしたり、いきりたったり、鼻を鳴らしたり、まるで、さかりのついた雄山羊《おやぎ》みてえに荒っぽかっただ。それで、おれはそこへ、もう一度行って、地面に寝てみただが、すると、何もかも昔起ったことが目に見えるだよ。それから納屋《なや》の横のところに、昔おやじが雄牛に突かれて死んだ場所があるだ。その土のなかにゃ、いまでも、おやじの血が、ちゃんとあるだよ。きっとあるにちげえねえだ。誰もそれを洗い流しはしなかったでな。それでおれは、おやじの血がまざっているその土に手をあててみただよ」彼は落ちつかなげに口をとじた。「おめえさんたち、おれが気がふれてると思うだかね?」
ジョードは肉をひっくり返した。その目は、うつろだった。ケーシーは、足を引きつけて、火に見入っていた。男たちから十五フィートほどうしろには、満腹した猫が坐っていた。長い灰色の尾を、きちんと前足のまわりにたたみこんでいた。大きな梟《ふくろう》が頭上を飛びながら、かん高い声で鳴いた。焚火の光が、その白い腹と、ひろげた翼とを照らした。
「いんや」とケーシーが言った。「おめえさんは、一人ぼっちで寂しいんだ――だけど気がふれちゃいねえよ」
ミューリーのひきしまったちいさな顔はこわばっていた。「おれは、おやじの血がまだ沁《し》みこんでいる地面に、じかに自分の手をあててみただ。そしたら、胸に穴をあけられたおやじの姿が見えただ。そして、あのときと同じように、おやじが、おれの体にもたれかかって、ぶるぶる身震いするのが感じられただ。おやじが、ちょっとうしろのほうへ倒れかかるようにして腕と足を伸ばしたのが見えただ。それから、おやじの目が傷のためにかすんできたのが見えたかと思うと、やがておやじは、じっと動かなくなり、それから――上を見あげているその目が澄んでくるのが見えただ。そして、小さな子供だったおれは、そこに坐ってて、泣きもしなきゃ、何にもせず、ただ坐っているだけだっただ」彼は、強く頭を振った。ジョードは肉を幾度もひっくり返していた。「それから、おれはジョーが生れた部屋へも行ってみただ。ベッドはねえけんど、間違いなくその部屋だった。あのことは、みなほんとうだっただ。何もかも昔起った場所にちゃんとあっただよ。ジョーは、あそこで生れただ。やつは大きなしゃっくりをやったかと思うと、それから一マイルさきまで聞えるような産声《うぶごえ》をあげただ。それで、ばあさまが、そばに立ってて言ったもんだ。『えらい子だで。えらい子だで』と、何度も何度もな。そして、あんまり得意になって、ばあさまは、その晩コップを三つも割っちまった」
ジョードは咳《せき》ばらいした。「そろそろ食いはじめたほうがいいと思うだがね」
「うんとよく焼きなよ、よく焦《こ》げるまで、黒くなるくらいまで焼きなよ」いらだたしげにミューリーは言った。「おれはしゃべりてえだ。これまで、ろくすっぽ、誰《だれ》とも話なんぞしたことがねえだでな。かりに、おれが気がふれてるんなら、気がふれてるだけのこった。それでちっともかまわねえだ。夜中に近所の家々をうろつく墓場の老いぼれ幽霊みてえなもんよ。ピーターズの家も、ジェーコブズの家も、ランスの家も、ジョードの家も、行ってみると、みんな真っ暗で、みじめな、見すぼらしい箱みたいに立ってるだけだが、以前はそこで、りっぱなパーティーやダンスがあったもんだ。お祈りの集会もあったし、神の恵みをたたえて叫びわめいたこともあっただ。婚礼もみんな、その家のなかで行われただ。そう思うと、おれは町へ出かけて行って、やつらをぶち殺したくなるだよ。なぜって、トラクターで土地の者を追いだして、やつらは、何を手に入れたというだ。『ぎりぎりいっぱいの利益』を守るために、何を見つけたというだ。地べたの上で死にかけていたおやじと、すごい産声をあげたジョーと、夜、藪のなかで雄山羊みてえにさかりのついていたこのおれが、ここにはいるだ。たしかに土地はよくねえだ。それは誰でも知ってるだ。ここ何年ちゅうもの、誰も収穫をあげてねえだものな。だのに、あいつら机に坐ってるちくしょうどもは、やつらの利益のために、おれたちを二つにちょん切ってしまいやがっただ。ほんとに二つにちょん切っちまっただ。おれたちの住んでるところは、おれたちと同じものなんだ。引越し荷物を積みあげた車に乗って、寂しい旅をしている人間なんて、どっか欠けた人間でしかねえだ。もう生きちゃいねえのさ。あのちくしょうどもが殺しちまっただ」そして彼は、うすい唇をまだ動かし、胸もまだあえがせながら、口をつぐんだ。坐ったまま彼は火の明りで自分の手を見つめた。「おれは――おれは長いこと、誰ともおしゃべりをしなかっただ」彼は、やわらかな調子で弁解するように言った。「ただ墓場の老いぼれ幽霊みてえにこっそり歩きまわっていただ」
ケーシーは長い板を火のなかへ押しこんだ。炎が、そのまわりをなめ、また肉のほうにはねあがった。冷たい夜の空気が木材を締めつけて、家が音を立てて軋《きし》った。ケーシーは静かに言った。
「わしは旅に出た連中と会わなきゃならねえだ。会わなきゃならねえような気がするだ。あの連中には、説教なんかじゃ、とてもあたえられねえような救いが必要なんだ。まっとうな暮しができねえときには天国の希望も何もあったもんじゃねえ。みんな自分の心が沈みこんで悲しんでいるときには聖霊も何もあったもんじゃねえだよ。連中には助けが必要なんだ。死ぬ用意をする前に、まず生きなきゃならねえだ」
ジョードが、じれったげに叫んだ。「さあ、早いとこ食わねえと、肉が、料理した二十日鼠《はつかねずみ》みてえに、小さく縮こまっちまうぜ! ほら、こいつを見てみなよ。この匂《にお》いをかいでみなよ」彼は、やにわに立ちあがって、針金につながった兎の肉を火の当らないところまですべらせた。そしてミューリーのナイフをとって、肉きれを、ごしごし針金から切り離した。「さあ、これは説教師の分だ」と彼は言った。
「わしはもう説教師なんかじゃねえと言ったじゃねえか」
「それじゃ、これはこの人の分だ」彼はもう一きれ切った。
「さあ、ミューリー、これはおめえの分だ。ただし、あんまりおめえがくよくよしすぎて食えねえのなら話は別だがな。こいつは|野 兎《ジャック・ラビット》だ。ブルドッグより手ごわいやつだぜ」彼は坐りなおして、長い歯で肉に噛《か》みつき、大きな肉片を噛みちぎって顎《あご》を動かした。「どうだい! この|しこしこ《ヽヽヽヽ》いう音は」そして彼は、すさまじい勢いで、もう一きれ噛みちぎった。
ミューリーは、まだ自分の肉を見まもりながら坐っていた。「たぶん、おれは、あんなふうにおしゃべりをしちゃいけなかったのかもしれねえだな」と彼は言った。「たぶん、あんなことは頭のなかにしまっておかなくちゃいけねえことかもしれねえだな」
ケーシーは目をあげた。兎の肉を口いっぱい頬《ほお》ばっていた。噛むと、筋ばった咽喉《のど》が、飲みくだすたびに、ぴくぴく動いた。「いや、しゃべらなきゃいけねえよ」と彼は言った。「悲しがっている人間は、ときどきその悲しみを口から吐きだしたほうがいいだ。人を殺したいと思ってる人間は、思いきりその人殺しのことをしゃべっちまうと、殺人をやらずにすむことがあるもんだ。おまえさんは、間違っちゃいねえよ。殺さなくてすむなら、誰も殺しちゃいけねえだ」そして彼は、もう一噛み、兎の肉に噛みついた。ジョードは骨を火のなかへ投げこみ、立ちあがって、針金から、さらに肉片を切りとった。ミューリーも、いまは、ゆっくりと食べていた。その神経質な小さな目は、仲間の一人から別の一人へと動いていた。ジョードは顔をゆがめて獣のように食った。脂《あぶら》が丸く口のまわりについた。
長いあいだミューリーは、ほとんどおびえたように彼をながめていた。やがて肉を持った手をおろして、「トミー」と呼びかけた。
ジョードは彼を見あげたが、肉を噛むのをやめはしなかった。「何だ?」口をいっぱいにしたまま彼は言った。
「トミー、おれが人殺しのことなどしゃべったんで、おめえ、怒ってんじゃねえだろうな? 腹をたててるんじゃねえだろうな?」
「いんや」とトムは言った。「腹なんぞたててやしねえよ。あれは偶然、ああなっただけのことだもん」
「誰だって、あれはおめえが悪かったんでねえことは知ってるだよ」とミューリーは言った。「ターンブルのおやじは、おめえが出てきたら、やっつけるつもりだ、と言ってただよ。誰だって、息子を殺すようなやつは、ほっとくことはできねえ、と言ってただ。もっとも、近所の連中が寄ってたかって説き伏せちまったけどね」
「おれは酔っぱらってただ」とジョードは、やわらかに言った。「ダンスで酔っぱらってただ。どんなふうにはじまっただか、おれにもわからねえだよ。そのとき、あのナイフが、おれに突き刺さるのを感じて、おれは、はっと酔いがさめたってわけよ。そして気がついてみると、ハーブのやつがナイフを握って、もう一度おれのほうに向ってくるだ。ちょうど学校の校舎の壁にシャベルが立てかけてあったんで、おれは、そいつをひっつかんで、やつの頭をたたき割ったんだ。おれは、何もハーブのやつにゃ何の恨みもあったわけじゃねえだ。あいつは、いいやつだった。子供じぶんから、やつは、おれの妹のローザシャーンを追いまわしてただ。そうとも、おれはハーブが好きだっただ」
「うん、みんなでそういうことを言って聞かせて、とうとう、やつのおやじをなだめちまっただ。人のいうところだと、ターンブルおやじには、ハットフィールドの血が母方から流れてるんだそうだ。それで、あのおやじは、その血に恥じねえ生き方をしなくちゃならねえんだそうだ。おれにゃ、そんなことは、よくわからねえだがね。あのおやじも家族たちも半年前にカリフォルニアへ行っちまっただよ」
ジョードは最後の兎の肉を針金からはずして、みんなに分けた。彼も、いまでは落ちついて、前よりもゆっくりと食っていた。まんべんなく噛んで、口のまわりの脂を袖口《そでぐち》でぬぐった。半ば閉じたその黒い目は、消えかかる火を見つめながら、思案にふけっていた。「みんな西へ行くだな」と彼は言った。「おれは仮釈放の誓いをまもらなくちゃならねえだ。この州から出ることはできねえだ」
「仮釈放の誓いだと?」とミューリーが言った。「おれも、どこかでそういうことを聞いたことがあるだが、どんなぐあいのもんかね?」
「おれは早く出てきたんだ。三年早くね。出るとき、いろいろとやらなくちゃならねえことを約束するだよ。それをまもらねえと、また送り返されるだ。ときどき居場所を届けなくちゃならねえだよ」
「マカレスターの扱いは、どうだったかね? おれの女房《にょうぼう》のいとこがマカレスターへ入ってただが、ひでえ扱いだったそうだぜ」
「そんなに悪くなかっただよ」とジョードは言った。「ほかのところと同じさ。こっちが騒いだりすりゃ、向うもひどく扱うがね。看守に睨《にら》まれなきゃ、結構うまくやっていけるだよ。睨まれると、ひどくいじめられるだがね。おれは、うまくやっただよ。ほかの連中を見習って自分のことしか気にかけなかったでな。おれは、字がうまくなったぜ。それに鳥なんかの絵をかくこともな。ただ字を書くだけじゃねえんだ。おれが鳥を一筆でさっとかいてみせたら、家《うち》のおやじは、きっと腹をたてるだろうな。おやじは、おれがそんなことをやるのを見たら腹をたてるにきまってるだ。そんな道楽じみたことは、えらくきらいだからな。おやじは字を書くことさえ好かねえだ。びくついちまうらしいだ。人が字を書くのを見るたびに、おやじは、なんとなく気の抜けたような顔をしてたもんだ」
「おめえをぶったり、たたいたりするようなことはしなかっただかね?」
「しなかったよ。おれは、自分のことばかり気をつけてただからね。そりゃもちろん、四年間も、毎日毎日、同じことをやってたら、いいかげんいやになっちまうさ。もし自分が恥ずかしいと思うようなことをやったのなら、そのことを考えることもできるだがな。だけど、くそっ、もしおれが、いままたハーブ・ターンブルにナイフで突き刺されそうになったとしたら、おれは、もう一度やつの頭をシャベルでたたきつぶしてやるぜ」
「誰だってそうするだ」ミューリーが言った。説教師は、じっと火を見つめていた。その広い額が、濃くなってゆく闇《やみ》のなかで白く浮きだしていた。小さな炎の照り返しが、ぱっと彼の長い首を照らしだした。膝《ひざ》を抱いて握りしめている手が、しきりと指の関節を引っぱっていた。
ジョードは最後の骨を火のなかに投げこみ、指をなめてから、その指をズボンにこすりつけた。立ちあがって、ベランダから水のはいった壜《びん》を持ってくると、ほんの一口飲んでから、壜をまわし、ふたたび腰をおろした。彼は言葉をつづけた。「おれが、えらく頭を悩ましたことは、それに何の意味もねえってことだった。雷に牛を殺されたり、洪水《こうずい》が起ったりするときにゃ、別にその意味を考えるやつはねえだろう。それは自然にそうなることだもんな。だが何人かの人間が人をつかまえて四年間も閉じこめるとしたら、こいつは、何か意味があるにちげえねえ。人間は、いろんなことを考えるようにできてるはずだて。やつらは、おれをあそこに閉じこめて四年間も寝さしてくれ、めしを食わしてくれただ。そういうことをするのは、二度と人殺しなんぞする気を起さねえように、おれを改心させるか、または、二度とあんなことをやるのが恐ろしくなるように罰をくわせるか、どっちかでなくちゃならねえはずだ」――彼は、ちょっと口をつぐんだ――「ところで、もしハーブか誰かが、またおれに向ってきたら、おれはもう一度あれと同じことをやっちまうだろう。自分がいま何をしてるか考えることもできねえうちに、やっちまうだろう。とくに酔っぱらってるときにはね。そういう、自分でも意味のわからねえことが、おれをいちばん悩ますだよ」
ミューリーが口をはさんだ。「裁判官は、おめえだけが悪いんじゃねえというんで軽い刑にしたと言ってたぜ」
ジョードは言った。「マカレスターに、こんな男がはいってた――終身刑のやつだったが、こいつは、年じゅう勉強してるんだ。刑務所長の秘書役だったよ――所長の手紙とかそんなものを代筆してやがった。とても頭のいいやつで、法律とか何とか、そんなものばかり読んでるんだ。そこで、おれは一度、そのことでやつに話しかけたことがあった。あんまりたくさんものを読んでやがるからさ。すると、やつはいうんだ。本を読んだって、ちっともためにゃならねえ。昔の刑務所のことから、いまの刑務所のことまで、いろんなものを、うんと読んでみたが、読む前よりも、読んだあとのほうが、ますますわからなくなってきたっていうんだ。刑務所って制度は、ずっと昔にはじまったもんで、いまさら廃止するわけにゃいかねえらしいし、こいつを変更させるだけの知恵のあるやつもいねえんだそうだ。だから、刑務所のことをわかろうとして本を読むことなんか絶対よしたほうがいいって言ってたよ。なぜって、第一に、ますますわからなくなるばかりだし、第二に、お役所勤めの役人を尊敬したくなくなるからだというんだ」
「いまだって、おれはやつらを、ちっとも尊敬してやしねえぜ」とミューリーは言った。「おれたちのもってる、たった一つの政府ってのは、『ぎりぎりいっぱいの利益』ってやつだけさ。おれにゃ、どうにもわからねえことが一つあるだ。それはウィリー・フィーリーのことだ――トラクターを運転して、自分の土地の人間が耕していた土地で下まわりのボスになろうとしてやがるあの男さ。こいつが、おれにゃわからねえだよ。そりゃ、どっかほかの土地からやってきて、ろくに事情も知らねえというんなら、まあ、わからねえこともねえだが、しかしウィリーは、この土地の人間だぜ。どうも筋が通らねえから、おれは、やつのところへ行って、わけをきいてやっただよ。そしたら、たちまち腹をたてやがってな。『おれにゃ子供が二人もある』だと、こういうだ。『女房もいるし女房のおふくろもいる。みんな食わなくっちゃならねえだ』そして、ますます怒りやがってよ。『おれが、まず第一に考えなきゃならねえのは、自分の家族のことだ』というだ。『ほかのやつが、どうなったって、そいつは、おれの知ったことじゃねえ』そういうだよ。やつも、心のなかでは恥じてるもんだから、それで、ますます腹をたてたんだろうて」
ジム・ケーシーは消えかける火を見つめていた。その目は前よりもいっそう大きく見開かれ、頸部《けいぶ》の筋肉は、ますます太くもりあがった。だしぬけに彼は叫んだ。「わかったぞ! 人間に、いくらかでも霊があるとしたら、おれにだってあるはずだ。そのことが、いきなりぱっとわかっただ」彼は飛びあがって、頭を振りながら、あちこち歩きまわった。「わしは、むかし野外教会を持ってた。そして一晩に五百人もの人を集めたもんだ。おまえさんたちがまだわしを知る前のことだ」彼は立ちどまって二人に向きあった。「この土地で――納屋のなかや家の外で、わしが説教したとき、わしが一度も喜捨を受けなかったことは知ってるだな?」
「ほんとだ、おめえさんは一度も受けとったことがなかっただ」とミューリーが言った。「このあたりの人たちときたら、おめえさんに金をやらねえことに、すっかりなれちまったもんだで、ほかの説教師がきて帽子をまわしたときにゃ、ちっとばかり腹を立てたもんだ。まったくそうだよ」
「わしは食べるものはもらった」とケーシーは言った。「ズボンがすり切れたときにゃズボンをもらったこともあるし、靴《くつ》の底がすり減ってしまったときにゃ靴をもらったこともある。だが、野外教会を持ってたときにゃ、そんなふうじゃなかっただ。ときには十ドルも二十ドルももらったもんだ。だけど、そんなことをしていても、ちっとも楽しくはなかっただ。それで、わしは、それをやめにしただ。その後しばらくのあいだ、わしは楽しかった。わしはいま霊をつかまえたような気がするだ。口でうまくいえそうもねえだがな。いや、口で説明するつもりはねえだ――とにかく説教師の役目がまだあるとわかっただよ。どうやら、わしはもう一度説教することができそうだ。土地をなくし、落ちつく家もなく、旅に出て寂しがってる人たち。あの人たちは、どんなものにしろ住む家を持たなくちゃならねえだ。たぶん――」彼は火の上に身をかがめた。頸部の数知れぬ筋肉が浮彫りになってあらわれた。炎の明りが目の奥深くはいりこみ、そのなかに赤い|ほむら《ヽヽヽ》をひらめかせた。まるで耳をすましているかのような張りつめた表情で立ったまま火を見つめていた。そして、それまで、いろいろな考えをとりあげたり、こねまわしたり、投げ捨てたりするのに、さかんに活躍していたその手が、じっと静かになったと思うと、たちまちポケットのなかに這《は》いこんでいった。蝙蝠《こうもり》が、鈍い火の光をかすめて羽ばたいた。夜鷹《よたか》の、やわらかな湿っぽいつぶやき声が畑の向うから聞えた。
トムは、そっとポケットに手を入れて、煙草《たばこ》をとり出した。そして、ゆっくりと巻紙に巻いた。巻きながら、その煙草ごしに残り火を見つめた。彼は説教師の言ったことをぜんぜん無視していた。まるで、詮索《せんさく》してはならぬ私事ででもあるかのように。彼は言った。「寝棚《ねだな》の上で、毎晩おれは、こんど家へ戻《もど》ったらどんなふうになってるだろうかと考えたもんだ。ことによるとじいさまかばあさまかが死んでるかもしれねえ。ことによると新しい子供が何人か生れてるかもしれねえと思ってた。おやじも、もう昔ほど頑固《がんこ》ではなくなってるだろう。おふくろは、いくらか椅子《いす》にもたれることが多くなって、ローザシャーンに代りをやらせてるだろう、なんて考えてた。家の様子が、もとのとおりではあるまいとは考えてただが、まさかこうとは思わなかっただ。まあ、今夜は、ここで寝るとして、夜が明けたらジョン伯父のとこへ出かけることにしよう。とにかくおれはそうするよ。ケーシー、おめえさんも、いっしょにくるかね?」
説教師は、まだ残り火を見つめて立っていた。彼は、ゆっくりと言った。「うん、わしもいっしょに行くよ。そして、おまえさんとこの家族が旅に出るときには、わしもいっしょに行くだ。みんなが旅をするところなら、どこへだっていっしょに行くだよ」
「みんなはよろこぶぜ」とジョードが言った。「うちのおふくろは、いつもおめえさんがごひいきだった。信頼できる説教師だと言ってたもんだ。ローザシャーンは、あのときは、まだほんの子供だった」彼はふり向いた。「ミューリー、おめえも、おれたちといっしょに出かけねえか?」ミューリーは、さっき彼らがやってきた方向を見まもっていた。「いっしょにきたらどうだい?」とジョードはくりかえした。
「うん? いや、おれは、どこへも行かねえだ。どこへも立ちのかねえだよ。ほら、向うに、上がったり下がったりしてる明りが見えるだろう? あれは、おそらく、このあたり一帯の綿花畑の管理人にちげえねえだ。おれたちの焚火《たきび》を見つけたらしいぜ」
トムは、そのほうを見た。明りが丘を越えて近よってくる。「おれたちは別に悪いことをしてるんじゃねえ」と彼は言った。「このままここに坐っていようや。別に何もしてるわけじゃねえだしよ」
ミューリーは大きな声で笑った。「それだて! おれたちは、ただここに坐ってるだけで、何かをやってることになるだよ。つまり不法侵入ってことになるだ。ここにいちゃいけねえのさ。やつらは、この二カ月間、おれをつかまえようとしてただ。さあ、いいかい。もし、あの車がこっちへくるようだったら、おれたちは綿花畑へもぐりこんで、体を伏せてるだ。そんなに遠くまで行く必要はねえさ。勝手におれたちをさがさせればいいだ。綿花の列を一つずつ見てまわらなくちゃならねえだからな。こっちは、ただ頭を伏せてりゃ、それでいいのさ」
ジョードは主張した。「おめえは、いったい、どうしたというんだい、ミューリー? おめえは、こそこそ逃げかくれするような人間じゃなかったはずだぜ。おめえは意地っぱりな男だったはずだぜ」
ミューリーは接近してくる明りを見まもった。「そのとおりだて」と彼は言った。「昔は狼《おおかみ》みてえに意地っぱりだっただ。そして、いまのおれは鼬《いたち》みてえにずるがしこくなってるだよ。何かを狩り立ててるときにゃ猟人《かりゅうど》だ。強いもんだ。誰だって猟人をやっつけることはできねえだ。だが、いったん狩り立てられる側にまわると――そうはいかねえだ。何かが、どうかなっちまうだ。もう強かねえだ。獰猛《どうもう》にはなるかもしれねえだが、しかし強くはねえだよ。おれはもう、これまで長いこと狩り立てられてるだ。もう狩り立てるほうの側じゃねえだ。そりゃ闇のなかで、一人くらいは鉄砲でやっつけることができるかもしれねえだが、もう柵《さく》の杭《くい》でぶったたくようなことはしねえだよ。そんなことやったところで、おめえにしろ、おれにしろ、ためにゃならねえだ。いまはまったく、そのとおりなんだ」
「それじゃ、おめえは出てってかくれるがいいだ」とジョードは言った。「おれとケーシーを、ここへ残しておいて、あの野郎どもに一言しゃべらせてくれ」明りは、もう近くまできていた。光は、さっと空におどりあがっては消え、そして、ふたたびおどりあがった。三人の男は、それを見まもっていた。
ミューリーが言った。「追われてると、もう一つ別のことがあるだ。いろんな危険なことについて考えるようになるだよ。追うほうの側だったら、そんなことは考えやしねえし、だから、びくつきもしねえがな。さっきおれに言ったように、おめえは、もし面倒なことに巻きこまれると、またマカレスターへ送り返されて、刑期をつとめさせられるんじゃねえのか」
「そうだよ」とジョードは言った。「たしかにあすこのやつが、そうおれに言っただ。だけど、ただここの地面に坐って休んだり眠ったりするだけなら――そんなことなら、何のいざこざも起りっこねえじゃねえか。何も悪いことをしてることにならねえじゃねえか。酔っぱらってるわけでもねえし、一騒ぎやらかしてるわけでもねえんだもん」
ミューリーは笑った。「すぐに、わかるだ。おめえが、そのままここに坐っててみな。あの車がやってくるだ。たぶんウィリー・フィーリーだろう。いまじゃ、やつは保安官補なんだ。『ここへ侵入して、何してるだ?』そうやつはいうだ。おめえは前からウィリーがろくでもねえ野郎だと知ってるだから、おめえはいうだろう。『それがおめえに、何の関係があるだ?』するとウィリーは腹をたてていうにちげえねえ。『さあ、出て行け。さもないと、逮捕するぞ』ところが、おめえは、やつが腹をたててびくついているからといって、フィーリーなんかに、こづきまわされるつもりはねえ。やつはからいばりで腹をたててるだから、あとに引けなくなる。おめえのほうも意地になって、どうでも押し通しちまうことになるだ――それよりは、畑のなかに寝ころんで、やつらにさがさせたほうが、ずっと気が楽というもんだぜ。それにおもしろいじゃねえか。なぜって、やつらは腹を立てるだけで、何もできねえし、こっちは、やつらを、うんと笑ってやれるだもんな。ところが、もしおめえがウィリーかほかの管理人の野郎と口でもきいてみな、おめえは、きっとやつらに拳骨《げんこつ》をくわしちまうだろう。そして、やつらは、おめえをひっつかめえて、また三年間マカレスターへ送りこむってことになるだ」
「おめえのいうことは、もっともだ」とジョードは言った。「一言だって間違いはねえだ。だけど、くそっ、おれは追い立てられたくはねえだ! かまわねえからウィリーに一発くらわしてやりてえだよ」
「やつは拳銃《けんじゅう》を持ってるだぞ」とミューリーは言った。「やつは保安官補だから、それを使うかもしれねえ。そうなれば、やつが、おめえを殺すか、おめえが、やつの銃をふんだくって、やつを殺すか、どっちかということになるだ。さあ、行こうぜ、トミー。いま言ったように、あそこに寝ころんでりゃ、おれたちのほうが、やつらをからかってるんだということが、すぐ納得できるだ。こんなことは、自分が納得できりゃ、結局それですんじまうことじゃねえか」強い光が、いま斜めに空中へと投射された。そしてエンジンの低いうなりさえ聞くことができた。「さあ、行こう、トミー。遠くへ行く必要はねえだよ。十四、五ほど畝《うね》を越しさえすりゃ、やつらのやることが見物できるだ」
トムは立ちあがった。「ちえっ、おめえのいうとおりだて」と彼は言った。「どうころんでも、おれのほうにゃ勝ち目はねえや」
「じゃ、行こう、こっちだ」ミューリーは家のまわりをまわって畑のなかに出ると五十ヤードほど進んだ。「ここでいい」と彼は言った。「さあ、腹んばいになるだ。やつらが探照灯を照らしはじめたら、ただ、ちょっと頭を伏せればいいだ。ほんのおちゃらかしさ」三人の男たちは、ながながと体を伸ばして肘《ひじ》を立てた。ミューリーは飛びあがって家のほうへ走って行った。と、すぐに戻ってきて、上着と靴の包みを投げだした。
「やつらは仕返しのつもりで、こいつを持ってっちまうかもしれねえだ」と彼は言った。明りは丘の頂にのぼり、家を照らしおろした。
ジョードがたずねた。「やつらは、懐中電灯を持ってここへ出てきて、おれたちをさがすんじゃねえのか? 棒でも持ってくりゃよかったな」
ミューリーは、くすりと笑った。「いや、やつらは、そんなことはしねえだよ。さっきも言っただろう、おれは鼬みたいにずるがしこいって。ウィリーのやつ、ある晩、一度出てきたことがあっただよ。それで、おれは、やつのうしろから柵の杭でぶんなぐってやっただ。あっさり、たたきのめしてやっただよ。やつは、あとで、五人の男に襲われたなんて言ってたそうだ」
車は家のところに乗りつけられ、探照灯が点じられた。「伏せるだ」とミューリーが言った。冷たい白い光が、さっと彼らの頭上を走って縦横に畑に流れた。かくれている男たちには、人の動きは、何も見えなかったが、やがて車のドアの閉る音が聞え、話し声が聞えた。「明りのなかにはいるのを用心してるだよ」とミューリーはささやいた。「一度か二度、おれはヘッドライトめがけて鉄砲をぶっ放してやったことがあるだでな。だもんで、ウィリーのやつ、用心深くなってるだ。やつめ、今夜は、誰《だれ》かほかのやつを連れてるぜ」彼らは木材を踏みつける足音を聞いた。それから家の内部で懐中電灯が光るのが見えた。
「家のなかへ一発ぶちこんでやろうか?」とミューリーがささやいた。「やつらにゃ、どこから飛んできたかわかりゃしねえだ。ちっとは、やつらも、ものを考えるようになるだろうて」
「まったくだ。やってみなよ」とジョードは言った。
「やっちゃいけねえだ」ケーシーがささやいた。「何の益もねえだ。無益というもんだ。わしらは、何か意味のあることをやるように考えなくちゃいけねえだ」
引っかくような音が家の近くからひびいてきた。「焚火を消してやがるだ」とミューリーがささやいた。「足で土砂をけこんでるだ」車のドアが、ばたんと鳴った。ヘッドライトが、ぐるりとまわって、ふたたび道路のほうを照らした。「さあ、伏せるだ!」とミューリーが言った。彼らは頭をさげた。探照灯が頭上を横ぎり、綿花畑の上を左右に流れた。それから車は、走りだして、すべるように遠ざかり、丘を登って、見えなくなった。
ミューリーは身を起して坐った。「ウィリーは、いつもああいうぐあいに、もう一度照らしてみるだよ。あんまり何度もやるもんだで、こっちは、うまくやつの調子に合わせりゃいいだ。それでも、やつはまだ、うまい手を使ってると思ってやがるだ」
ケーシーが言った。「ことによるとやつらは、誰かを、あの家のなかへ残して行ったかもしれねえ。わしたちが戻って行ったら、とっつかまえようという魂胆でな」
「もしかするとな。おめえたちは、ここで待ってな。そういう手は、おれのほうがよく知ってるだから」ミューリーは、そっと歩きだした。彼の行く方向から、ざくざくと土を踏む音だけが聞えた。待っている二人は、彼の動きに耳をすました。しかし彼の所在は、もうわからなかった。しばらくすると彼が家のほうから声をかけてきた。「誰も残ってやしねえぜ。戻ってこいよ」ケーシーとジョードは、ごそごそと立ちあがって、黒い大きな塊《かたまり》のように見える家のほうへ戻って行った。ミューリーは、焚火にかぶせた土砂が煙をあげているあたりにいた。「やつらが、誰かを残していくとは、最初から、おれは思っていなかっただよ」彼は誇らしげに言った。「おれがウィリーのやつをぶんなぐったり、車のヘッドライトに二、三度撃ちこんでやったりしたもんだで、やつらは、ひどくびくついてるだ。やつらにゃ、誰のしたことか、はっきりわからねえし、おれは、つかまるようなどじはふまねえしな。おれは、どこでも家の近くじゃ、けっして寝ねえことにしてるだ。もし、いっしょにくる気があるんなら、うまい寝場所を教えてやるぜ。誰も、おめえたちの体にけつまずくようなことのねえ場所をな」
「つれてってくれ」とジョードは言った。「くっついて行くだよ。おれも、おやじの土地でかくれまわろうとは夢にも思わなかったぜ」
ミューリーは畑を横ぎって歩きだした。ジョードとケーシーが、あとにつづいた。彼らは綿花の茎をけとばしながら進んだ。「おめえたちも、いまに、いろんなことから身をかくさなくちゃならねえようになるだ」とミューリーが言った。彼らは一列になって畑を進んで行った。掘割りのところまでくると、難なくその底にすべり降りた。
「なんだ、おれは知ってるぜ」とジョードが叫んだ。「土手の洞穴《ほらあな》だろう?」
「そのとおりだよ。どうしてわかっただね?」
「おれが掘ったんだ」とジョードは言った。「おれと兄貴のノアで掘ったのさ。金《きん》をさがすんだとか言ってやったんだが、なあに、どこの子供もやるように、ただ穴を掘っただけさ」掘割りの両側の土手は、いまでは彼らの頭よりも高くなった。「もうすぐなはずだがな」とジョードは言った。「おれの記憶じゃ、もっと近いように思えるだが」
ミューリーは言った。「おれが穴を草でかくしちまってるだよ。誰にも見つけられねえようにな」掘割りの底は平らになった。足の下は砂だ。
ジョードは、きれいな砂の上に坐りこんだ。
「おれは洞穴なんかで寝ねえぜ」と彼は言った。「ここで寝るだ」彼は上着をまるめて頭の下にあてがった。
ミューリーは、かぶせてある草をどけて、洞穴のなかに這いこんだ。「おれは、ここが好きだ」と彼は言った。「誰もおれに何もできねえような気がするだでな」
ジム・ケーシーはジョードのそばの砂の上に腰をおろした。
「すこし眠れよ」とジョードが言った。「夜が明けたら、ジョン伯父のとこへ出かけるだからな」
「わしは眠らねえよ」とケーシーは言った。「考えることが、うんとあるだでな」彼は膝《ひざ》を立てて両手で足を抱きしめ、頭を仰向けて鋭く輝く星を見つめていた。ジョードは、あくびをすると、片手を曲げて頭の下にあてた。二人は黙っていた。しだいに地面や縦穴や横穴や草むらのなかの秘めやかな生命が、ふたたびその営みを開始した――地鼠《じねずみ》は動きまわり、兎《うさぎ》が緑の草を求めて忍びより、二十日鼠は土くれの上を走り、翼のある生物は餌《えさ》を求めて頭上を音もなく飛びかった。
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第七章
町や、町はずれ、野原や、空地《あきち》には、中古車の置き場、解体屋の廃車置き場、誇大な看板をかけたガレージなどがあった。――中古車、優秀中古車。特価提供車、トレーラー三台。二十七年型フォード、新品同様。車体検査ずみ、保証つき自動車。ラジオ無料サービス。ガソリン百ガロン無料サービス。縦覧自由。中古車。修理費不要。
敷地と、椅子《いす》と机を一そろいおけるだけの店。それに紳士録が一冊置いてあるだけ。片すみを折って、ペーパー・クリップでとめた契約書の束と、それから、きちんと積み重ねた未使用の契約書の綴《つづ》り。万年筆――インクをいっぱい入れて使えるようにしておけ。ペンが動かなくては契約をとりそこねるぞ。
向うにいるあの連中は買いやしないぜ。どこの店でも見かける手あいだ。ひやかしさ。暇つぶしに見てまわっているんだ。一台だって買う気はないよ。手間かけるだけ損さ。一分だって、つき合うんじゃないぜ。あそこにいる、あの二人を見ろ――それじゃない、子供づれのほうだよ、あいつらを車へ乗っけてやれ。最初は二百ドルとふっかけて、それからだんだん落していくんだ。百二十五ドルなら、いけそうだ。うんとゆさぶるんだ。ぼろ車を押しつけてやれ。うんとふっかけろ さんざん手間をかけやがったからな。
経営者は、みんな袖《そで》をまくりあげている。きちんとした身なりの、熱心なセールスマンは、死にものぐるいの小さな目で、相手の弱みをねらっている。
あの女の顔を見な。もしあの女が買う気になったら、亭主《ていしゅ》のほうは、いくらでも丸められるぜ。あのキャデラックから、はじめるんだ。そうすりゃ、だんだん落していって、あの二十六年型ビュイックにもってくことができるというもんだ。ビュイックからはじめたりすると、フォードに落ちつくにきまってる。さあ、腕まくりして、仕事にかかるんだ。これは、いつまでもつづく商売じゃないんだぜ。連中に、あのナッシュを見せてやれ。そのあいだに、おれは、あの二十五年型ダッジのタイヤに空気を入れて、空気もれを直しておくからな。こっちの用意ができたら讃《さん》美歌《びか》でもうたって合図するよ。
結局、大事なのは、車が走るということじゃありませんか。ちゃらんぽらんは申しませんよ。たしかに座席はいたんでいます。ですが座席のクッションが車を走らせるってわけのもんではないでしょう。
ずらりとならんだ車の群れ。前を向いた鼻づら。さびついた鼻づら、破れたタイヤ。ぎっちりとならんでいる車の列。
いかがです、ひとつ乗ってごらんになりませんか? ええ、もちろん無料ですよ。さあ一つ列から引きだしてみましょう。
お客に気の毒だと思わせるんだ。こっちがうんと手間暇かけたように思わせるんだ。手間をかけてるってことを忘れさせちゃだめだぜ。たいてい、みんな気のいい連中なんだ。こっちに迷惑をかけることをいやがっているんだ。こっちが当惑しているようにしむけるんだ。それから車をたたきつけてやるんだ。
ずらりとならんだ車、背が高くて汚ないT型フォード、がたがたのハンドル、すり切れたバンド類。ビュイック、ナッシュ、デ・ソート。
さようで。二十二年型ダッジですよ。ダッジのうちでは、飛びきり上等のやつで。けっして傷《いた》んでいやしません。低圧ですよ。高圧ですと、はじめしばらくは調子がいいんですが、金属のほうが、そう長持ちしないという欠点がありますんで。プリマス、ロックニー、スター。
あれ、あのアパスンは、どこから手に入れたんだい――アーカンソーからか。それからチャーマーズとチャンドラーは――ずいぶん長いこと製造中止になっているしろものだぜ。おれたちは車を売ってるんじゃないぜ――動くがらくたを売ってるんだ。えいっ、くそっ、ぼろ車を手に入れなくちゃならねえ。二十五ドルか三十ドルどまりのやつがほしいもんだ。そいつを五十ドルから七十五ドルで売るんだ。ぼろい儲《もう》けだぜ。新車なんかじゃ、いくら歩合がもらえるというんだ。ぼろ車を手に入れるんだ。右から左に売ってみせるぜ。二百五十ドル以上なんて、とんでもねえ話だ。ジム、あそこの舗道に立ってるじいさんを呼びこんでみな。甘そうな面《つら》つきをしてるじゃねえか。あのアパスンを売りつけてみなよ。おい、あのアパスンは、どこへ行った? 売れちまったって? ぼろ車をまたすこし買いこまねえと、売る物がなくなっちまうぜ。
旗、紅白の旗、白と青の旗、舗道の縁石に、ずらりとならんでいる旗。中古車。優秀中古車。
今日の特価品を――あの台の上に陳列しておくんだ。そいつは売るんじゃないぞ。お客を集めるおとりなんだ。あの特価品を、あの値段で売った日にゃ、一文だって儲かりゃしないぜ。これは売約済みで、と、そういうんだ。引渡しをする前に、うちの店のバッテリーは、はずしとくんだぜ。代りに、あの役に立たなくなった電池をくっつけておくんだ。ちえっ、七十五セントで、何が買えるっていうんだい? 腕まくりしな――はりきるんだ。この商売は長つづきしやしないんだ。ぼろ車をたくさん持ってたら、半年もすりゃ遊んで暮せる身分になるんだが。
いいか、ジム、あのシボレーの尻《けつ》のとこに妙な音がするんだ。こわれた壜《びん》みたいな音がしやがる。おがくずを二クォートばかり詰めこんでおくんだ。ギヤにも、いくらか入れとくんだな。あのレモン色の車は、三十五ドルで売らなきゃならねえんだ。あの野郎め、おれをごまかして、あれを売りつけやがったんだ。おれは十ドルとつけたんだ、すると、やつは十五ドルまで引きあげやがった。それから、ちきしょうめ、部品をごっそり抜き取っちまいやがった。ええっ、くそっ! 五百台もぼろ車を持っていたらな。こんな商売は長つづきするもんじゃねえからな。そのタイヤが気に入らねえって? そいつはまだ一万マイルは走れると言ってやんな。一ドル半、値を引くんだ。
柵《さく》のそばには、さびたがらくたの山だ。その背後には破損した部品の列。フェンダー、油で黒くなった部品、地面にころがっているシリンダーブロック、そのシリンダーのあいだから|あかざ《ヽヽヽ》が葉を出している。蛇《へび》のようにくねり重なったブレーキ桿《かん》、排気管。グリース、ガソリン。
ひび割れのない点火プラグなんかあるわけがないじゃないか。もし百ドル以下で五十台ばかりトレーラーが手にはいったら、すごく儲かるんだがな。いったい、あいつは、なんだってうろうろしてやがるんだい? トレーラーは売るさ。だからって、そいつの家まで押してってやるわけにゃいかねえぜ。そうとも! 家まで押してってやることはねえさ。その車は、きっと「マンスリー」にのせるんだな。あいつは真実買う気がなさそうなのかい! それじゃ、やめちまえ。腹のきまってない連中に、かかずらってる暇はないんだ。そのグレアムの右の前輪をはずしな。修繕あとの見えるほうを下に向けるんだ。ほかのところは結構上等に見えるよ。踏板も何もかも、すっかりそろってるぜ。
そうですとも! あの車はまだ五万は走れますよ。オイルが、うんとはいってますからね。さよなら。ごきげんよう。
車をさがしていらっしゃるんで? どんなのがおよろしいでしょう? お気に召したのがありますか? 咽喉《のど》がかわきますな。いかがで、ちょっと一杯だけやりましょうか。奥さまが、あのラ・サールをごらんになっているあいだに、さあ、ちょっと一杯。ラ・サールなんか、どうかと思いますね。ベアリングが、すりきれてますからね、ガソリンも、うんと食いますしね。リンカーン二十四年型になさいよ。これこそ、ほんとうの自動車というものです。永久に走りますよ。トラックにつくり変えることもできますしね。
さびた金属の上の暑い太陽。地面にしみた油。とまどいながら、車を一台手に入れようと、迷いこんでくる人たち。
足をふきな。その車によりかかるんじゃねえ。埃《ほこり》だらけじゃねえか。どうだね、一台買わないかね? 値段は、どれくらいだね? おい、子供たちから目を放すでねえぞ。この車は、どれぐらいするんだね? きいてみよう。きくのはただだからな。きいたってかまわねえだろう? 七十五ドル以上は一文も出せねえだ。そうでねえとカリフォルニアまで行くのに困っちまうだ。
えいっ、ぼろ車を百台ばかり手に入れることができたらなあ。走ろうと走るまいと、そんなこと構やしねえさ。
円筒形に高く積みあげられたタイヤ、中古の、いたんだタイヤ。ソーセージみたいにぶらさがっているチューブ、赤いチューブ、鼠色《ねずみいろ》のチューブ。
パンク用のゴムですって? ラジエーターの掃除器ですって? 発火促進剤《スパーク・インテンシファイヤ》ですって?この小さな粒を、ガソリン・タンクに入れれば、一ガロンについて十マイルはよけいに走れるというもんでさあ。ちょいと、こいつを塗ってみることですな――五十セントで新品同様にきれいになりますぜ。ワイパー、ファン・ベルト、ギャスケット? たぶんバルブがやられてるんでしょうな。新しいバルブにとりかえることですな。たった五セント銅貨一つじゃないですか。
さあ、ジョー。うまく連中を丸めこんで、こっちへ連れてきな。おれがうまく話をまとめてやるからな。ただじゃ帰しゃしねえってことよ。ひやかしのけちんぼを連れこむんじゃねえぜ。おれがやりたいのは商売なんだからな。ほいきた。さあ、いらっしゃい。いい出ものがありますぜ。そうですとも! 八十ドルなら買いごろですぜ。
おいら、五十ドル以上は出せねえだよ。外にいるあの人は五十ドルだと言ったぜ。
五十ドル。五十ドルですって? やつは頭へきてるんでさ。あんな小型のやつでさえ七十八ドル五十セントで仕入れたんですぜ。ジョー、しようのねえとんちきだな、おめえは。おれたちを文なしにするつもりか? あの男はくびにしなくちゃいけねえ。六十ドルというんなら、まだ話はわかるんですがね。ようござんすか、あんた、こっちは一日じゅう暇な人間じゃねえんですぜ。商売人ではあるが、ごまかしはできねえたちの人間でさあ。何か交換するものをもっていなさるかね?
騾馬《らば》二頭なら代りに手放してもいいだ。
騾馬だって? おい、ジョー、聞いたかい? この人は騾馬と交換してえんだとよ。いまは機械の時代だってことを、おまえさんは聞いちゃいねえのかね? 騾馬なんて、いまじゃ、皮で膠《にかわ》をつくるぐれえの役にしかたたねえんだぜ。
りっぱな大きな騾馬だぜ――五歳のと七歳のとな。じゃ、ほかのところを当ってみるだ。
ほかへ当ってみるって? こっちの忙しいときにはいってきて、さんざんこっちの時間を使わせておいて、そのまま出て行くっていうのかね! ジョー、相手がひやかし客だってことがわからねえのか。
おれは、ひやかしでねえだよ。ほんとうに車がほしいだ。カリフォルニアへ行かなければならねえだでな。車を手に入れなくちゃならねえだ。
あっしは、人間がおめでたくできてるんでさ。ジョーに言わせると、あっしはおめでたい人間なんだそうだ。あんまり、馬鹿《ばか》正直にばかりしてると、いまに飢え死にするって、よく言われてるんですよ。だから、こうしようじゃないかね。――その騾馬を一頭五ドルで買おう。犬の餌《えさ》にするんだ。
騾馬を犬の餌になんぞしたくねえだ。
じゃ、十ドルならいいだろう。それとも七ドルか。こうしようじゃないか。おまえさんの騾馬を二十ドルで買おうじゃないか。荷車もつくんだろうね? それで五十ドル払ってもらってさ、あとの残りは月に十ドルずつ送るってことで契約書にサインしてくれないか。
だが、おまえさんは八十ドルで売ると言ったじゃねえか。
おまえさんは日歩《ひぶ》とか保険料とかいうものを、まるっきり知らねえようだね。それで、ちっとばかり値が高くなるんだ。四、五カ月で払いきって自分のものにできるんだぜ。さあ、ここに名前をサインしてくれりゃ、それでいいんだ。あとは万事こっちで手配するよ。
だけど、どうもおれにゃ、よくのみこめねえだが――
なあ、よく聞いておくんなさいよ。こっちは正直に腹を割って話をして、おまえさんのために、すっかり手間暇をかけちまったんだ。おまえさんと話しているあいだに、三つくらいは契約がとれたんだ。自分でもいやんなるよ。そう、うん、そこにサインして。それで結構。ジョー、このお客さんに、タンクにいっぱいガソリンを入れてあげな。ガソリンは無料サービスだよ。
やれやれ、ジョー、ひどくてこずったな!あのぼろ車は、いくらで仕入れたんだっけ?三十ドル――いや、三十五ドルだったかな? おれは、あの騾馬を二頭手に入れたぜ。あの二頭で、七十五ドルつかめなかったら、おれは商売人じゃないよ。それに現金五十ドルと、四十ドルあと払いの契約書を手に入れた。そりゃ、あの連中が、全部が全部、正直な人間じゃねえことくらい知ってるさ。だが、そのうち幾人ぐらいきちんと契約をまもるか、それを知ったら驚くぜ。一人の男なんか、こっちがあきらめちまってから二年もたつというのに百ドル送ってよこしたもんだ。いまの男も、かならず送ってくるよ。ああ、五百台ばかりぼろ車が手にはいったらなあ!
腕まくりしな、ジョー。出て行って、連中を丸めこんで、こっちへ送りこんでくるんだ。さっきの商売じゃ、おめえだって二十ドルかせいだんだ。おめえも、なかなかいい腕だぜ。
午後の太陽のなかにたれている旗。本日の特価品。二十九年型フォード小型トラック、すばらしい走りぐあい。
五十ドルで、何を買うつもりですかね――ゼファーですかい?
座席のクッションからはみだしている馬の毛。つぶれたのをハンマーでたたきなおしたフェンダー。はずれてぶらさがっているバンパー。フェンダーのさきとラジエーター・キャップに、それぞれ一つずつと、後尾に三つ、小さな色彩電灯をつけた流行のフォードのロードスター型。泥《どろ》よけとチェンジ・レバーについている大きな賽《さい》の目模様、タイヤのカバーには、コーラと名づけられた美しい娘の絵が描《か》いてある。埃だらけの風よけガラスに午後の陽光が照りつけている。
やれやれ、外へ行って食事する時間もなかったぜ。ジョー、小僧にハンバーグ買ってきてもらってくれないか。
古エンジンの、どもりがちな唸《うな》り。
あそこで阿呆面《あほうづら》をしたのがクライスラーを見てるぜ。やつがズボンのポケットに金を入れてるかどうか、探ってみな。こういう農場の若いやつのなかにゃ、油断のならねえのがいるからな。丸めこんで、こっちへ送ってよこしな、ジョー。おめえも、なかなか腕がいいじゃねえか。
さよう、そりゃたしかに売りましたよ。保証ですって? こっちは、それが間違いなく自動車だということは保証したけどね、そいつのお守《も》りをすることまで保証したおぼえはないね。いいですかい、おまえさん――おまえさんは車を買ったんですぜ。それなのに、いまおまえさんは文句を言ってる。こっちは、おまえさんが支払わなくても、ちっともかまいやしないんだぜ。おまえさんとの契約書は、ここにはないんだからね。あれは金融会社のほうへまわしてあるんだ。おまえさんからとりたてるのは金融会社で、おれたちじゃないんだ。こっちには契約書なんか保管してやしないよ。何? 乱暴するんなら警官を呼ぶぜ。いや、タイヤをすりかえるなんて、そんなこと、するもんかね。ジョー、こいつを追っぱらってしまえ。車を買って、いまになってから文句を言ってやがるんだ。もしおれがステーキを買って、半分食ってから、そいつを返すと言ったら、どうなると思うんだ。こっちは商売をやってるんで、慈善事業をやってるんじゃねえんだ。そんなやつってあるかい。なあ、ジョー。おい――あそこを見な! 大鹿《おおじか》の歯の記章をつけてるぜ。さあ、走って行くんだ。三十六年型ポンティアックを見せてやれ。そうだよ。
四角な鼻づら、丸い鼻づら、さびた鼻づら、平たい鼻づら、そして、流線型の長い曲線と流線型の前の平らなガラス板。本日の特価品。厚いクッションのついた大型車――簡単にトラックに変えられます。さびたアクセルのさきに強い午後の陽光が照りつけている二輪のトレーラー。中古車、優秀中古車。無傷、よく走ります。オイル注入無用。
あれ、あの車を見ろ! よく手入れしたもんだな。
キャデラック、ラ・サール、ビュイック、プリマス、パッカード、シボレー、フォード、ポンティアック。幾列にもならんで午後の日にきらめくヘッドライト。優秀中古車。
丸めこむんだ、ジョー。ああ、千台ばかりぼろ車があったらなあ! あの連中を、うまく誘いこみなよ。おれがうまく契約させちまうからな。
カリフォルニアへ行くんですかい? そんなら、こいつがちょうどいいでしょう。がたついているように見えるが、まだ何千マイル走ったって平気でさ。
ぎっしり並んでいる車の列。優秀中古車。特価品。新品同様、よく走ります。
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第八章
空は星と星のあいだでほの白み、色あせた、おそい三日月は、おぼつかなげにうすかった。トム・ジョードと説教師は、車の轍《わだち》と、トラックのめりこんだ跡だらけの道を足早に歩いて綿花畑のなかを横ぎって行った。ただ不釣合《ふつりあい》に広い空だけが暁の近いことを知らせているだけで、西のほうには地平線も見えず、東に一筋の線が見えるだけであった。二人の男は黙って歩いていた。足が空中にけあげる砂埃《すなぼこり》の匂《にお》いをかいだ。
「おまえさん、本当に道は知ってるんだろうね?」ケーシーが言った。「夜が明けちまっても、まだどこかをうろついているんじゃ、かなわねえからな」
綿花畑には、目ざめたばかりの生命が、騒がしく動きはじめていた――地面に餌《えさ》を求める朝の小鳥の、すばしこい羽ばたき、眠りを妨げられた兎《うさぎ》どもが土の上を走りまわる音など。土埃を踏みつける男たちの静かな足音と、靴底《くつぞこ》に踏み砕かれる土くれの軋《きし》むような音が、暁のひそかな騒音のなかに、きわだってひびいた。
トムが言った。「おれは目をつぶったって、まっすぐあそこまで行けるだよ。おれが道を間違えるのは、あのことを考えるときくれえのもんだ。あのことさえ忘れてりゃ、ちゃんと向うへ着いちまうだ。おれは、このあたりで生れたんだぜ。子供の時分にゃ、この近所を駆けまわったもんだ。あそこに木が一本あるだろう――ほら、見ろよ、どうにか見えるだろう。昔、あの木に、おれのおやじが、死んだコヨーテをぶらさげたことがあるだ。いつまでも、すっかり溶けたようになるまでぶらさがってて、それから落っこちたんだが、体が、からからにひからびちまってたっけ。おふくろが、何か料理をしててくれるといいんだがな。腹ぺこだよ」
「わしもさ」とケーシーが言った。「噛《か》み煙草《たばこ》を、すこしどうだね? ちっとは腹のへり方がちがうぜ。こんなに途方もなく早く出てこねえほうがよかったな。明るくなってからのほうがよかったよ」彼は、煙草を一噛み噛みとるために立ちどまった。「いい気持で眠っていたのにな」
「あのふうてん野郎のミューリーのせいだて」とトムは言った。「あいつのために、おれは、すっかりいらいらしてしまったぜ。やつは、おれを起していうだ。『さようなら、トム。おれは行くぜ。行かなきゃならねえところがあるだ』そして、またいうだ。『おめえたちも出かけたほうがいいだぞ。そうすりゃ、明るくならねえうちに、この土地から出られるだでな』やつは、あんな暮しをしてるもんだから、地鼠《じねずみ》みてえに、びくびくした人間になりかけてるだ。まるでインディアンに追っかけられてるように、びくついていやがったぜ。やつは気が変なんじゃねえかな?」
「さあ、どうだかな。きのうの夜、わしたちが焚火《たきび》をしたとき、車がやってきたのを見ただろう。家がつぶされたのも見ただろう。何かひどいことが、このあたりでは起ってるらしいな。もちろんミューリーのやつは気違いさ。コヨーテみてえに這《は》いまわっていりゃ、気違いになるのも、あたりめえだよ。やつは、いまに、誰《だれ》かを殺して警察と犬に狩り立てられるようなことになるぜ。それが、おれにゃ予言者みたいに、はっきりわかるだ。やつは、ますます悪くなっていくよ。わしたちといっしょにくるのをいやがったというんだね?」
「そうなんだ」とジョードは言った。「おれの感じでは、やつはもう人に会うのがこわくなってるらしいだ。おれたちに会いに出てきたのが不思議なくれえだよ。日の出までにゃジョン伯父のところへつけるだな」
しばらくのあいだ、二人は黙って歩いた。帰りおくれた梟《ふくろう》の群れが、昼の光からかくれようと、納屋《なや》や木の穴や、水槽《タンク》小屋に向って飛んで行った。東の空が明るさを増し、綿花畑と白む大地とが見えはじめてきた。「いったいジョン伯父のところじゃ、どうやってみんなで寝てるんだろうな。あそこにゃ、部屋が一つと、差しかけ小屋の料理場と、ほんのちっちゃな納屋があるっきりなんだぜ。さぞ大混雑していることだろうて」
説教師は言った。「ジョンは家族持ちじゃなかったようにおぼえているだがな。ジョンは、一人ぼっちじゃなかったのかい? あの人のことは、よくおぼえてねえだが」
「世界でいちばんさびしい人間だよ」とジョードは言った。「それに、すこし気違いじみた老人だよ――ミューリーに似たところがあって、ときには、もっとひどいだ。いたるところで伯父の姿を見かけたもんさ――ショーニーで酔っぱらっていたり、二十マイルもはなれた後家さんのところをたずねたり、夜ランタンをつけて自分の土地で働いていたり。気違いじみてるんだ。誰も伯父は長生きしねえだろうと思ってたんだ。あんなさびしい人間は長生きしねえもんだからね。ところがジョン伯父は、おやじよりも年上なんだぜ。それだのに、年ごとに手ごわく頑固《がんこ》になってくだ。じいさまより頑固だぜ」
「ほら、光がさしてきた」と説教師は言った。「まるで銀みてえだ。ジョンは、まるっきり家族を持ったことがなかったのかい?」
「うん、いや、持ったことがあるだ。うん、その話をすりゃ、伯父がどんな人間かわかるというもんだ――いまみてえな人間になった理由がな。おやじから聞いた話だけんど、ジョン伯父には若い女房《にょうぼう》がいたんだ。結婚して四カ月たった。女房は、妊娠してたんだが、ある晩、腹痛《はらいた》を起したもんだから、こう言ったもんだ。『おまえさん、お医者さんを呼んできておくれ』とな。するとジョンは、そこに坐ってたっけが、やがてこう言ったそうだ。『ただの腹痛だよ。よけい食べすぎたんだ。痛み止めを一服飲みな。あんまり何でもつめこむから腹痛を起したりするだ』つぎの日の昼ごろ、女房は気が変になって、夕方の四時ごろ死んじまっただ」
「何だったんだね?」ケーシーはたずねた。「何か食べたものにあたったのかね?」
「いんや、何かが腹の中で破裂しただけさ――盲――盲腸とかなんとかいうやつだ。そこでジョン伯父だが、伯父はいつも、のんきな男だったが、そのことを、ひどく気にしちまって、罪だと思いこんでしまってからに、長いこと、誰とも、ひとことも口をきかなかった。何も目にはいらねえみてえに、ただそこらを歩きまわっては、祈ったりしていただ。そういう状態から抜けだすまでに二年もかかっただよ。ところが、そのあとが、おかしくなっちまって、ちょっと気がふれたみてえになっただよ。えらく厄介《やっかい》な人間になっちまっただ。おれたち子供が回虫をわかしたり、腹痛を起したりすると、きまってジョン伯父は医者を連れてくるだ。おやじも、しまいにゃ、もうやめてくれって言いだす始末よ。子供なんて、年じゅう腹痛を起すものだからな。伯父は、女房が死んだのは自分のせいだと思いこんでるだ。おかしな人間さ。それからは、誰に対しても、その償いをしてるだ――子供に、ものをやったり、誰かの家の玄関のところへ食い物の袋をおいてきたりしてね。自分の持ってるものを、みんな人にやっちまうだ。それでもまだ伯父は、あんまり幸せじゃなかっただよ。ときどき夜なかに一人で歩きまわったりしてね。だけど、伯父は、いい百姓だぜ。畑は、いつもきちんと手入れしてたしな」
「かわいそうな人だな」と説教師は言った。「かわいそうな、寂しい人だ。細君が死んだときには、よく教会へ行ったかい?」
「いや、行かなかったよ。人なかへは、けっして近づかなかっただ。一人ぼっちでいたがってただよ。子供たちは、みんなこの伯父には夢中だった。ときどき伯父は夜になってたずねてくることがあっただが、すると、おれたち子供には、伯父がきたということが、かならずわかるんだ。なぜって、伯父は家へくるときにゃ、きまって子供たちのベッドのそばに一つ一つガムをおいてってくれるからさ。おれたちは、伯父をイエス・キリストさまだと思ってたもんだ」
説教師は頭をたれたまま歩いていた。返事をしなかった。近づきつつある朝の光が彼の額を輝かせているように見え、両脇《りょうわき》で振られている二つの手が、その光のなかに出たりはいったりした。
ふたたびトムも黙った。あまりにも内密のことをしゃべりすぎたので恥じているかのようであった。彼は足を早めた。説教師もそれに歩調を合わせた。いまでは灰色の前方が、すこし見えるようになった。一匹の蛇《へび》が、体をくねらせながら、綿花畑の畝《うね》から道路へと、ゆっくり這いだしてきた。トムは、そのほんのちょっと手前で立ちどまり、じっと蛇を見た。「鼠蛇だ」と彼は言った。「そっとしといてやろう」二人は蛇のそばをまわって、さらに歩きつづけた。かすかな色が東の空に染めだされたかと思うと、ほとんど間髪を入れず、ひそやかな暁の光が大地に忍びよってきた。綿花畑の緑があらわれはじめ、大地は薄茶色だ。男たちの顔からは灰色がかったかがやきが消えた。ジョードの顔は、しだいに明るさを増す光に黒ずんでくるように思われた。
「この時刻は、いい気持だな」ジョードが、低い声で言った。「子供だったころ、おれは、いつも、いまごろの時刻に起きては、一人で歩きまわったもんだ。向うにいるのは、あれは何だい?」
一団の雄犬どもが、一匹の雌犬に敬意を表して、道で委員会を開いていた。雄犬は五匹だ。シェパードの雑種、コリーの雑種、それから自由な社交生活のために血統があいまいになったやつなど、五匹の雄犬が、雌犬に熱烈な気持を表明している最中だった。どの犬も、順番に、上品に、匂いをかいでは、ぎごちない足どりで綿の木のところまで歩いて行き、もったいぶって片足をもちあげて小便をひっかけると、ふたたび戻《もど》ってきて、匂いをかいだ。ジョードと説教師は立ちどまってながめていた。すると、突然ジョードが、うれしそうに笑った。「何だ!」と彼は言った。「ちきしょうめ!」犬どもは、かたまって首の毛を逆立てると、いっせいに、うなりをあげて足を踏んばり、その一匹一匹が、ほかの犬からの挑戦《ちょうせん》を待ちうけて、体をこわばらせて立っていた。やがて一匹の犬が雌犬に乗っかった。それで、もはや手が出せなくなって、ほかの犬どもは、あきらめてしまい、それを興味深げに見まもった。舌を出し、舌のさきからよだれをたらしながら。二人の男は歩きつづけた。「ちきしょうめ!」とジョードは言った。「あの乗っかってるやつは、うちのフラッシュらしいだ。死んだとばかり思ってたのに。こい、フラッシュ!」彼は、ふたたび笑った。「ちえっ、見向きもしねえや。もっとも、おれだって、あんなときにゃ、誰に呼ばれたって、見向きもしねえだろうけんどな。あれを見て、ウィリー・フィーリーの若いころの話を思いだしたよ。ウィリーは、恥ずかしがりやだった。おそろしく、恥ずかしがりゃがった。ところが、ある日、やつは雌牛《ヘイファ》をグレーブズんとこの雄牛のところへ連れてったもんだ。みんな留守で、エルシー・グレーブズだけが家にいた。エルシーは、まるっきり恥ずかしがってなんぞいねえだ。ウィリーのやつ、立ったきり、赤くなって、口もきけなくなっちまった。するとエルシーが言ったもんだ。『あんたが何の用できたのか知ってるわ。雄牛は納屋の裏に出してあるわ』それから、二人で雌牛をそこへ連れていって、ウィリーとエルシーは柵《さく》の上に腰かけて見てたわけだ。すると、たちまちウィリーのやつ、ひどく落ちつかなくなってきた。エルシーはウィリーのほうをながめて、知らんふりして話しかけたもんだ。『どうしたの、ウィリー?』ってな。ウィリーのやつは、もう興奮しきっちまって、柵に、ちゃんと腰かけていることもできなくなっちまった。『ちきしょう!』と、やつは言った。『ちきしょう、ああ、やりてえ!』するとエルシーが言ったもんだ。『やんなさいよ、ウィリー、あれはあんたの雌牛よ』」
説教師は静かに笑った。「なんだな」と彼は言った。「もう説教師じゃねえってことは、まったく気持のいいもんだな。昔、わしがここにいるころにゃ、誰もそんな話をしてくれなかったし、かりに、してくれても、わしは笑うこともできなかった。それに、きたねえ言葉を使うこともできなかった。いまじゃ、好きなときに好きなだけ、きたねえ言葉を使えるだ。好きなときに、きたねえ言葉を使えるってのは、いい気持のもんだて」
赤味が東の地平線からひろがって、地上では小鳥どもが鋭くさえずりはじめた。
「ほら!」とジョードが言った。「真っ正面だ。あれがジョン伯父んとこの水槽《タンク》だ。風車はまだ見えねえが、水槽は見えるだ。空に浮き出ているのが見えるだろう?」彼は歩調を早めた。
「あそこに家族がみんないるのかな」大きな水槽が丘の上に立っていた。ジョードは、急いだので、膝《ひざ》のあたりまで砂埃の雲を巻きあげた。「ほんとに、おふくろは――」いまでは水槽の足が見え、ペンキも塗らぬ荒削りの四角い小さな箱のような家も、低い屋根をのせてうずくまっている納屋も見えた。煙が家のブリキの煙突から立ちのぼっていた。庭には、紙屑《かみくず》や、積み重ねられた家具類や、風車の翼とモーター、寝台、椅子《いす》類、テーブルなどが散らばっていた。「あれ、驚いたな。旅に出る用意をしてるだぞ!」とジョードは言った。一台のトラックが庭においてあった。側板の高いトラックだ。だが変ったトラックだった。というのは、前の部分はセダンでありながら、屋根がまんなかあたりから切りとられていて、荷物用の床が、はめこんであるのだ。近づくにつれて、二人は庭からひびいてくる物音を聞くことができた。そして、まぶしい太陽が地平線を離れてトラックを照らしたとき、一人の男の姿と、その男が振りあげ振りおろすハンマーのきらめきが見えた。陽光が家の窓々にきらりと輝いた。地面にいる二羽の赤い雛鶏《ひなどり》が、反映する光を受けて、炎のように燃えあがった。
「声をかけるんじゃねえぜ」とトムが言った。「そっと忍びよってびっくりさせてやろう」そして、ひどく足早に歩きはじめたので、砂埃が腰のあたりまで巻きあがった。やがて彼は綿花畑のはずれに出た。いまでは、もう彼らは庭のなかにはいっていた。地面は堅く、光るように踏みつけられていて、埃にまみれた雑草が、すこしばかり生えていた。ジョードは、まるで、先へ進むのを恐れるかのように、足どりをゆるめた。説教師は、彼を見まもりながら、自分もその足どりに合わせて、ゆっくりと歩を運んだ。トムは、のろのろと歩いて、とまどったようにトラックのほうへにじりよって行った。トラックはハドソンのスーパー・シックスのセダン車で、屋根を鉄切り刃で二つに切り裂いてあった。父親のトム・ジョードが、トラックの荷物台に立って、側板の横木を釘《くぎ》で打ちつけていた。白髪《しらが》まじりのひげが生えている顔を、横木の近くによせて低くかがめ、二インチ釘の束が、口からつき出ていた。彼は釘を一本立てては、ハンマーで激しくたたきこんだ。家のなかからは、ストーブの蓋《ふた》を手荒くしめる音と子供の泣き声が聞えた。ジョードはトラックの床板のところへ行って、それによりかかった。父親は、ジョードのほうを見やったが、彼とは気がつかなかった。父親は、もう一つ釘を立てて、それを打ちこんだ。一群の鳩《はと》が水槽《タンク》小屋の屋根から飛びたって、幾度か上空に輪を描いてから、ふたたび、もとのところへ舞いもどり、端のほうへ気どって歩いてきて、あたりを見まわした。虹色《にじいろ》の翼をつけた白い鳩と、青い鳩と、鼠色の鳩だ。
ジョードはトラックの側板のいちばん下の横木に指をかけた。トラックの上にいる年老いた白髪まじりの人を見あげた。舌で厚い唇《くちびる》をなめて、低い声で言った。「お父っさん」
「何か用かい?」トムおやじは、釘をいっぱいくわえた口をもぐもぐさせて言った。父親は黒いよごれた前べりのたれたソフト帽をかぶり、青い仕事用のシャツを着て、その上にボタンなしのチョッキをひっかけていた。ジーンズのズボンを締めているのは、幅の広い馬具皮バンドで、大きな四角い真鍮《しんちゅう》のバックルがついており、皮も金具も、長い年月使われたのでてかてかに光っていた。靴《くつ》は、長いあいだ太陽と雨と土埃《つちぼこり》にさらされて、ひび割れており、靴底は照りと雨と砂塵《さじん》のために、そり返って船の形になっていた。シャツの袖《そで》が、きっちりと二の腕にくいこんで、ふくれあがった力強い筋肉が、それをおさえていた。腹と尻《しり》は、やせていて、足は短く、太く、たくましい。こわいごま塩ひげが四角くとりかこんでいるその顔は、たくましい顎《あご》のところまで、えぐったようにこけていた。顎は、ぐいと突き出ていて、黒い、こわい、不精ひげが、その顎を、ひときわ大きく見せていた。ひげは、顎の先では、まだそれほど白くなっていず、突き出た顎の形に、いっそう重みと力をあたえていた。頬《ほお》ひげのない頬骨のあたりは、皮膚が海泡石《かいほうせき》のパイプのように褐色《かっしょく》で、絶えず目をすぼめてものを見るので、目尻に放射状の皺《しわ》がよっていた。目は褐色、ブラックコーヒーの色だ。ものを見るときには、頭を前に突き出すようにした。そのかがやく濃褐色の目の視力が弱くなっているからだ。太い釘が突き出ている唇は、うすくて赤かった。
彼は、いまにも釘を打ちこもうとして、ハンマーを頭上にふりあげ、仕事の邪魔をされたのを怒るような顔つきで、トラックによりかかっているトムを見た。すると、やがてその顎は、ぐいと前方に突き出され、目がトムの顔を見た。それから、ようやく彼の頭は、自分の見ているものを理解しはじめた。ハンマーが、そろりと小脇におろされた。左手で口にふくんだ釘をとった。ついで、あたかも自分自身に向ってこの事実を言いきかせるような調子で、いぶかしそうに言った。「トミーでねえか」そして、さらに、なおも自分に言いきかせるように、「トミーが帰ってきただ」と言った。口が、ふたたび開くと、不安の表情が目にあらわれた。「トミー」と彼は言った。「おめえ、脱獄してきたんじゃねえだろうな? 身をかくさなくちゃならねえんじゃあるめえな?」彼は緊張して答えを待った。
「大丈夫だよ」とトムは言った。「仮釈放なんだ。自由の身になったんだ。証明書も持ってるだ」彼はトラックの横木を握りしめて上を見あげた。
父親は床の上にそっとハンマーをおき、釘をポケットにしまった。側板をまたいで、すんなりと地面へおり立った。しかし、いったん息子のそばへ行くと、彼は当惑して、よそよそしい顔つきになった。「トミー」と彼は言った。「わしたちは、これからカリフォルニアへ行くだ。おめえには手紙を書いて知らせようと思っておっただ」そして彼は信じかねるといったふうに言葉をつづけた。「ところが、おめえは帰ってきおった。おめえも、わしたちといっしょに行けるだな。いっしょにな!」コーヒー沸しの蓋をしめる音が家のなかから聞えた。父親は肩ごしに、そのほうを見やった。「みんなをおどかしてやろう」と彼は言った。目が興奮にかがやいた。「おっ母は、もう一生おめえには会えねえのではねえかというんで、がっかりしとっただ。誰かが死んだときみてえに、ひっそりとした目つきをしてるだ。カリフォルニアへは行きたくねえような気持になりかけてるだよ。行ったら、もうおめえに会えねえのではねえかと、それを気にしてな」コーヒー沸しの蓋が、ふたたび家のなかで音を立てた。「みんなをおどかしてやろう」と父親はくりかえした。「おめえが、よそへなんぞ行っていたんじゃねえみてえにして、はいって行こう。おっ母が、何というか、見てやるだよ」とうとう彼はトムの体にさわった。臆病《おくびょう》げに息子の肩に手をおいて、すぐにその手を引っこめた。彼はジム・ケーシーを見た。
トムが言った。「説教師だよ。おぼえてるだろう? おれといっしょにきたんだ」
「やっぱり監獄にはいっていたのかね?」
「いや、道で出あったんだ。これまで、このあたりから離れていたんだ」
父親は、もったいぶって握手した。「よくきてくれただね」
ケーシーは言った。「ここへくることができて、わしもうれしいだよ。息子が家に帰るのを見るのは、たいした見ものだからね。まったく、すばらしい見ものだて」
「家へだと?」と父親は言った。
「いんや、家のもんのところへでさ」と説教師は急いで言いなおした。「わしたちは、ゆうべ、よその地所で寝ただよ」
父親の顎が、ぐいと前に突き出た。ちらと道路のほうを見やった。それからトムのほうに向きなおった。「どんなふうにやっつけてやるかな」と彼は興奮したように言いはじめた。「わしが先にはいっていって、『誰《だれ》かが朝食をすこしばかりほしいと言ってるだ』とでも言ってやるか。それとも、おめえがはいっていって、おふくろがおめえを見つけるまで黙って立ってるってのは、どうだ? そいつはどうだい?」彼の顔は興奮にかがやいた。
「おふくろを、あまりびっくりさせねえようにしようよ」とトムは言った。「おびえさせるようなことは、やめにしたほうがいいだ」
二匹のすらりとしたシェパードが愉快そうに走ってきた。そして二人の見知らぬ人間の匂《にお》いをかぎつけると、用心深く見まもりながら、あとずさりした。尾を、そろそろとためすように振っていたが、その目と鼻は、すばやく悪意や危険を感じとろうとしていた。一匹は、逃げる構えをしたまま首を伸ばしながら、すこしずつにじりよってきて、トムの匂いをかぎ、鼻を鳴らした。それから、あとずさって、父親が何か合図するのをうかがっていた。もう一匹の若い犬のほうは、それほど勇敢ではなかった。恥をかかずにこの場の注意をはずせそうな相手はいないかと見まわしていたが、一羽の赤い雌鶏《めんどり》がちょこちょこ通りすぎるのを見つけると、それに飛びかかっていった。憤慨した雌鶏のけたたましい叫び声が起り、雌鶏は赤い羽根をふくらますと、切り株のような翼を羽ばたかせて勢いをつけながら走り去った。犬は、得意そうに男たちを見返し、それから、埃のなかに体を横たえると、尾で満足げに地面をたたいていた。
「さあ」と父親は言った。「さあ、はいって行こう。おめえを見るときのおっ母の顔は、きっと見ものだぞ。さあ、行くだ。もうすぐおっ母は、朝食だと言ってどなりたてるだ。だいぶ前に塩づけの豚肉をフライパンのなかに投げこむ音を聞いただからね」彼は、細かい土埃におおわれた庭を横ぎって先に立って行った。この家にはベランダがなく、いきなり踏段をあがると、すぐにもうドアであった。ドアのそばに物を割る台があるが、その表面は長年使ったので、ささくれてはいるが、筵《むしろ》のようにやわらかだった。壁板の木目は、やわらかい土埃の侵食を受けて、高く浮き出ていた。柳の薪《まき》の燃える匂いが、あたりに漂い、三人の男がドアに近づくにつれて、豚の脇肉をいためる匂いや、背の高い褐色のパンの焼ける匂い、ポットのなかで沸《たぎ》るコーヒーの鋭い匂いが、漂ってきた。父親は開いたままの玄関口にあがり、そのずんぐりした低い体で入口をふさいで立ちどまった。彼は言った。「おっ母、向うの道から二人ほど旅の人がやってきて、一口何か食べさしてもらいてえと言ってるだよ」
トムは母親の声を聞いた。聞きおぼえのある、気持のよい、静かで落ちついた声、親しげで、たかぶらぬ声だった。「入れてやんなさいよ。食べるものは、たくさんつくっただからね。手を洗うように言っとくれ。パンは、もうできてるだからね。いまはちょうど脇肉をとり出してるところだよ」そして沸きたつ油のはねる音がストーブから聞えてきた。
父親は、なかへはいって玄関口から体をどけた。トムは母親のほうをのぞき見た。母親はフライパンから、縮れあがった豚の肉切れをとり出しているところだった。パン焼きの口が開いていて、背の高い褐色のパンのはいった大鍋《おおなべ》が、とり出されるのを待っていた。母親はドアの外を見た。だが、太陽がトムの背後になっているので、母親は、ただ黒い姿が明るい黄色い陽光にくまどられているのを認めただけだった。母親は愛想《あいそ》よくうなずいた。
「おはいり」と母親は言った。「けさはパンをたくさんつくっておいて、ほんとによかったよ」
トムは立ったまま部屋のなかをのぞいていた。母親は、がっちりした体つきだが、ふとってはいなかった――子供を産んだり働いたりで、ずんぐりしているのだ。灰色地の、ゆるやかなマザー・ハバードを着ていた。そのガウンには、かつては花の色模様が染めだされていたのだが、しかしいまでは、色は洗濯《せんたく》のために消えてしまって、小さな花模様は地の色よりもすこし明るい程度の灰色になってしまっていた。ドレスは、かかとのところまでたれさがっており、頑丈《がんじょう》で、ぶあつい裸の足が、すばやく、きびきびと床の上を動いて行った。うすい鉄灰色の髪の毛は、頭のうしろにこぢんまりとたばねてあった。丈夫そうな、そばかすだらけの腕は、肘《ひじ》のところまでむきだしにされ、手は、丸々と美しく、まるでふとった少女の手のようにふっくらと優雅だった。母親は外の日ざしのなかを透かし見た。肉づきのいい顔は、柔弱な感じはなく、ひきしまっていて、親切げであった。榛色《はしばみいろ》の目は、すべての悲しい出来事を経験してきたように見え、苦痛と苦悩の階段を一歩ずつのぼりつめて、ついに高い静かな超人的な理解の世界にたどりついたように見えた。彼女は、家族の城砦《じょうさい》、何者にも奪われることのない堅固な拠《よ》りどころとしての自分の地位を、よく理解し、受けいれ、歓迎しているようであった。彼女が苦痛や恐怖を認めなければ、父親も子供たちも苦痛や恐怖を知ることなくすんだ。だから彼女は、長いこと、つねに自分の心のなかで苦痛も恐怖も否定しつづけてきた。そしてまた、うれしいことが起ったときには、家族たちは、いつも、それが彼女にとってもうれしいものかどうかをうかがうようになっていたので、彼女は、たいして愉快でない材料からでさえ笑いをつくりあげる習慣になっていた。しかし、よろこびよりもすばらしいのは落ちつきであった。ゆるがぬ落ちつきというものは、頼りになるものである。そして、家庭における大きなつつましやかな位置から、彼女は威厳と清潔で静かな美とを身につけていた。慰め手という位置にある結果、その手は、確実さと落ちつきと平静さとを生長させ、調停者としての位置にいる結果、彼女は、ものを判断する場合、女神のような超然として誤りのない判断力を身につけていた。ひとたび自分が動揺してしまえば、家族もまた動揺してしまうこと、もし彼女が心から投げやりになり絶望してしまったなら、家族は崩壊し、働こうとする家族の意志は消え去ってしまうことを、彼女は、よく知っているようであった。
彼女は日の光のさす庭のほうに目を放ち、一人の男の黒い姿を見やった。父親は興奮に身を震わせながら、すぐそばに立っていた。「おはいりよ」と彼女は叫んだ。「さあ、おまえさん、さっさとおはいりよ」するとトムは、すこし恥ずかしげに敷居をまたいだ。
彼女は、機嫌《きげん》よくフライパンから目をあげた。やがて彼女の手が、そろりと脇のほうにおりていくと、フォークが木の床に音を立てて落ちた。彼女の目は大きく見開かれ、瞳孔《どうこう》がひろがった。開いた口から重々しく息がもれた。彼女は目を閉じた。「ありがてえことだ」と彼女は言った。「まあ、なんてありがてえことだろう!」すると、突然彼女の顔は不安げに曇った。「トミー、おまえは追われているんじゃねえだろうね? 脱獄してきたんじゃねえだろうね?」
「違うよ、おっ母さん。仮釈放になったんだ。ここに証明書を持ってるよ」彼は胸に手を当てた。
彼女は、すっと、音もなく、はだしの足で彼のほうに近づいてきた。顔が驚きにあふれていた。彼女の小さな手が彼の腕にふれ、たくましい筋肉をためすように探った。それから、指が、まるで盲人がするように、彼の頬に伸びていった。そして、彼女のよろこびは、ほとんど悲しみに近かった。トムは下唇を噛《か》みしめた。彼女の目は、いぶかるように、彼のくいしばった唇のあたりにさまよっていき、そして、細い血が一筋、歯の上ににじみ出て、唇をつたうのを認めた。それで彼女は気づいた。自制心をとり戻《もど》した。手が下に落ちた。息が激しい勢いではき出された。「まあ!」と彼女は叫んだ。「わたしたちは、あぶなく、おまえをそのままにして出かけて行くところだった。そして、行っちまったら、いったいどうやって、おまえがわたしたちをさがすだろうかと、それを心配してたんだよ」
彼女はフォークを拾いあげると、沸騰《ふっとう》している脂《あぶら》をかきまわして、いためて黒っぽくなった豚肉をとり出した。そしてコーヒー沸しをストーブのうしろに据《す》えた。
父親のトムは、くすりと笑った。「うまくかつがれたじゃねえか、え、おっ母? おめえをかついでやろうというんで、わしたちで相談しただ。そして、うまくやっただ。まるで、おめえは、ぶったたかれた羊みたいに、ただつっ立ってたじゃねえか。じいさまにも見せたかっただよ。誰かに眉間《みけん》を大槌《おおづち》でなぐりつけられでもしたみてえだったぞ。じいさまは、きっと大笑いに笑って、また腰を抜かしちまったにちげえねえだ――いつぞやアルが陸軍のでっかい飛行船を鉄砲で撃つのを見たときみてえにな。トミー、いつだったか、半マイルもあるような、でっかい飛行船が飛んできただ。するとアルのやつ、三〇口径の猟銃を持ちだして、それにぶっ放したもんだ。それでじいさまがどなっただ。『まだ羽根も生えそろわねえようなひよっこなんぞ撃つんじゃねえぞ、アル。ちゃんと一人前の鳥が飛んでくるまで待つんだ』それからじいさまは、あんまりひどく笑ったもんで、とうとう腰を抜かしちまっただ」
母親は笑いだした。そしてブリキ皿《ざら》の山を棚《たな》から取りおろした。
トムがたずねた。「じいさまは、どこにいるだ? あの|かみなり《ヽヽヽヽ》さまにゃ、まだ会ってねえぜ」
母親は台所のテーブルに皿をおき、茶碗《ちゃわん》をそのそばに重ねておいた。そして、こっそりと打ち明けるように言った。「なあに、ばあさまといっしょに納屋《なや》で眠ってるだよ。二人とも、夜あまり眠れなかったようだからね。なにしろ子供たちにつまずいてころんでばかりいただからね」
父親が口を出した。「まったくだ、毎晩、じいさまは腹をたててるだよ。ウィンフィールドにつまずくと、ウィンフィールドがわめくだ。それでじいさまは、腹をたててズボンをぬらしちまうだ。それでまたじいさまは、ますます自分で腹をたてて、そのうちに家じゅうのものががんがん騒ぎだしちまうだ」彼の言葉は、くすくす笑いのあいだを、どもりがちにつづいた。「まったく、ここの暮しはにぎやかなこったぜ。いつかの晩など、みんながわめいたり罵《ののし》ったりしていると、おめえの弟のアルがな、やつもいまじゃ、へらず口ばかりたたく生意気な小僧になってるだが、やつが言ったもんだで。『ちえっ、じいさま、そんなら出かけていって海賊にでもなったらどうだい?』これにゃじいさまも、えらく腹をたてちまって、鉄砲を取りにいったもんだ。だから、アルのやつは、その晩は畑で寝なきゃならなかっただよ。だが、いまはじいさまもばあさまも納屋で眠ってるだよ」
母親が言った。「じいさまたちは、気が向いたときに、目をさまして起きだしてくるだよ。お父っさん、ひとっ走りしてトミーが帰ってきたことを知らせてやんなさいよ。じいさまはトミーがお気に入りなんだから」
「もちろんさ」と父親は言った。「もっと前に知らせなきゃいけなかっただ」彼は戸口から外へ出て庭を横ぎって行った。両手を高くふりまわしていた。
トムは父親のうしろ姿を見まもっていた。すると母親が声をかけた。母親はコーヒーをついでいた。息子のほうを見もせずに、「トミー」と彼女は、ためらいがちに、おずおずと言いだした。
「何だい?」彼も母親の調子が伝染《うつ》って、ひどく内気になっていた。奇妙な当惑した気持だった。たがいに相手が恥ずかしがっていると知っていて、それを知っていることが、二人をさらに恥ずかしくさせるのであった。
「トミー、おまえにきいておきたいことがあるんだがね――おまえは、心が煮えくりかえっていやしねえだろうね?」
「煮えくりかえってるって、おっ母さん?」
「おまえは、えらく腹をたてているんじゃねえだろうね? 誰も憎んでやしねえだろうね? 刑務所のなかでは、誰も、おまえを気違いにするほど怒らせはしなかっただろうね?」
彼は横目で母親を、そっと観察した。彼の目は、どうして母親がそんなことを知りたがるのだろうといぶかっていた。「いんや」と彼は言った。「ちょっとのあいだは、そんなこともあっただが、だけどおれは、ほかのやつらみてえにそいつを自慢にしねえだからね。おれは、あまり物事を気にしねえたちなんだ。どうしただね、おっ母さん?」
いま母親は、じっと彼を見つめていた。もっとよく聞きとろうとするかのように口をあけ、もっとよく知ろうとして目をこらしていた。その顔は、いつも言葉の裏にかくされている真の答えを探ろうとしていた。彼女は、しどろもどろに言った。「わたしは、『無法者のフロイド』という若者を知ってた。あの子の母親を知ってたんだよ。とてもいい家族だった。いい子は、みんなそうだけど、あの子も、なかなかいたずらが激しかった」彼女は口を休めた。それから言葉が、いちどきに吹き出てきた。「わたしは、こんなことがよくあるものかどうかは知らないよ――でも、このことだけは知ってるよ。あの子が、ちょいとした悪いことをすると、みんなが、あの子をいじめた。あの子をひっつかまえていじめたもんだから、あの子は、すっかり頭へきてしまって、つぎにまた悪いことをした。それは気違いじみたことだった。それで、またみんなは、あの子を痛めつけた。しばらくすると、もうあの子は、腹をたてた乱暴者になってしまった。警察が、ならず者を撃つように、あの子に鉄砲を撃ちかけると、あの子も撃ち返した。それから、みんなが山犬でも狩り立てるみたいに、あの子を追いまわすし、あの子はあの子で噛みついたりうなったりして、狼《おおかみ》みたいに性悪《しょうわる》になった。気が狂うほど逆上していたんだよ。もう若者でも人間でもなくて、性悪と逆上の塊《かたまり》が歩いてるようなものだった。でも、あの子を知ってる人たちは、ひどいことはしなかった。あの子も、その人たちには乱暴しなかった。とうとうしまいに、みんなはあの子を追いつめて殺してしまった。あの子の悪いことを、どんなふうに新聞に書いてあったって、そんなこと、ちっとも問題じゃないよ。ほんとうのことは、いま言ったようなことだったんだからね」母親は言葉をとめ、乾いた唇をなめた。顔ぜんたいにせつなく答えを求める表情があった。「教えておくれよ、トミー。あそこでは、そんなにひどくおまえを痛めつけたかい? おまえを、そんなにまでひどく腹をたてさせたかい?」
トムの厚い唇は、きつく引きしまった。彼は自分の大きな平たい手を見おろした。「いんや」と彼は言った。「おれは、ちがうよ」彼は言葉をとめ、割れた爪《つめ》をながめた。それは、はまぐりの貝殻《かいがら》のように盛りあがっていた。「騒動が起きたときは、いつもおれはそれに巻きこまれねえようにしていただ。おれは、それほど腹をたてちゃいねえだよ」
彼女は、溜息《ためいき》をついた。「なんてしあわせなこった!」と息の下から言った。
彼は急いで顔をあげた。「おっ母さん、やつらが、おれたちの家《うち》に、どんなことをしたかを見たときにゃ、おれは――」
彼女は息子に近づいた。すぐそばに立った。そして熱をこめて言った。「トミー、けっしておまえ一人でやつらと喧嘩《けんか》しに行ったりしちゃいけないよ。結局、山犬みたいに追いつめられるのが落ちだからね。トミー、わたしはよく考えたり夢みたりいぶかったりするようになったんだけどね。人の話だと、わたしたちみたいに追いだされた者が、十万人もいるんだそうだよ。もし、みんながみんな、いっせいに怒りだしたら、ねえ、トミー――やつらだって、こっちを誰一人追いつめたりしないにちがいないけど――」彼女は言葉を切った。
トミーは、母親を見ながら、瞼《まぶた》を落した。やがてまつ毛のあいだから、ちらと小さなかがやきが見えるだけになった。「大勢の人が、そんなふうに考えてるのかい?」と彼はたずねた。
「どうかね。みんな、ただもうぼんやりしちまって、半分眠ったみたいに歩いてるんだよ」
戸外から、庭の向うから、聞きなれた、しわがれ声が聞えてきた。「神よ、勝利を、たァたァえまつれ、神よ、勝利を、たァたァえまつれ」
トムはふり向いて、にこりと笑った。「おっ母さん、とうとうばあさまは、おれの帰ったのを聞きつけたらしいだな」と彼は言った。「おっ母さんが、こんなふうになったの、おれは、はじめて見ただ」
母親の顔は、きつくなり、目は冷たくなった。「わたしは、はじめて自分の家をつぶされたんだよ」と彼女は言った。「自分の家族が道っぱたへほうりだされたなんてことも生れてはじめてだよ。物を売るなんて目にあったのも、はじめてさ――何もかも売らなきゃならないなんて――。さあ、みんながやってきたよ」彼女はストーブのほうに戻り、大きな鍋にはいっている丸くふくれあがったパンを二つのブリキ皿の上におろした。そして肉汁をつくるために、なみなみとした脂のなかへメリケン粉をふりかけた。手が粉で白くなった。ちょっとのあいだトムは母親を見まもり、それから戸口のほうへ行った。
庭を横ぎって四人の人たちがやってきた。じいさまが先頭だった。やせて、ぼろを着た、せっかちな老人で、跳ねるように足早で、右足――それは関節がだめになっているほうの足だ――をかばうような歩き方をしていた。歩きながら、ズボンのボタンをはめようとしているのだが、老いた手はボタンを見つけるのに難渋しているようであった。というのは、いちばん上のボタンを二番目のボタン穴にはめてしまい、それで全部がちぐはぐになってしまったからだ。黒い、ぼろぼろのズボンをはき、破れた青シャツを着ていたが、シャツは、すっかり開けっぴろげで、その下に、これもボタンがはずれたままの長い鼠色《ねずみいろ》の下着がのぞいていた。ふさふさと白い毛の生えた、やせた白い胸が見えていた。じいさまは、ズボンのボタンをとめるのをあきらめ、それをあけっぱなしにしたまま、こんどは下着のボタンをまさぐりはじめたが、やがて、何もかもあきらめてしまって、茶色のズボンつりを、ぐいと引っぱりあげた。顔は、やせていて癇《かん》が強そうであり、興奮した子供の目のような、小さな、いたずらっぽい、明るい目がついていた。つむじ曲りで、不満げで、いたずらっぽい笑い顔であった。じいさまは、喧嘩もすれば議論もするし、猥談《わいだん》が好きだった。年じゅう色話ばかりしていて、興奮した子供みたいに意地悪で、残酷で、短気で、体ぜんたいに楽しみが満ちあふれているようであった。酒さえあれば飲みすぎるし、食べものがあれば食べすぎるし、そして年じゅう、しゃべりすぎているといったぐあいだった。
そのあとからばあさまが、びっこを引き引きついてきた。この婆《ばあ》さんは、亭主《ていしゅ》に劣らず性悪だというだけでいままで生きてきたのであった。たくましく強烈な信心によって屈せず生きてきたのであるが、その狂信ぶりは、じいさまにも劣らず肉欲的で野蛮なものだった。あるとき、お祈りの集会のあとで、ばあさまは、神がかりの言葉を口に唱えながら、猟銃を二発、亭主に向けて発射し、じいさまの片方の尻《しり》の先を、ほとんどそぎ取るばかりにしたことがあるが、それ以来、じいさまは、ばあさまを尊敬するようになり、子供が甲虫《かぶとむし》をいじめるように女房《にょうぼう》をいじめるようなことはしなくなった。歩きながらばあさまは、着ている粗リンネルのだぶだぶの服を膝《ひざ》のところまでたくしあげて、例のかん高い戦闘の叫びをあげていた。「神よ、勝利を、たァたァえまつれ」
じいさまとばあさまは、たがいに競走するようにして広い庭を横ぎってきた。この二人は、どんなことにも争い、争うことを必要とし、争うことを愛していたのだ。
二人の背後から、ゆっくりと同じ調子で、しかし遅れもせずに、父親とノアがついてきた――長男のノアは、背が高くて、一風変っていて、歩いているとき、いつも、静かな、びっくりしたような顔に、いぶかるような表情を見せていた。彼は生れてこのかた、一度も怒ったことがなかった。怒っている人間を、常人が狂人を見るときのように、不思議そうに、また不安そうにながめるのであった。ノアは動作がのろかった。ほとんど口をきかなかった。あまりもっさりしているので、彼を知らぬ人は、しばしば白痴かと思った。しかし彼は、ばかではなかった。変っているだけなのだ。彼は、うぬぼれというものを、ほとんど持っていなかった。性の欲求も、まるでなかった。奇妙なリズムで働いては眠る毎日をくりかえすのであるが、しかも十分彼はそのリズムに満足していたのである。非常に家族の者を好いているが、けっしてそれを表面には出さなかった。外見から観察した場合には、ノアは、理由ははっきり指摘できぬが、頭脳か、体か、足か、どこか正常でないところがあるような印象を人にあたえた。しかし、どこが異常なのかは、誰《だれ》にもわからなかった。父親は、なぜノアが変っているかを自分だけは知っていると、一人ぎめしていたが、しかし父親は、そのことを恥じて、誰にも話さなかった。それはノアが生れた晩のことであった。父親は、一人で家にいて、女房が股《また》をひろげはじめたのに仰天し、泣きわめくばかりの情けない女となり果てた女房に怖気《おじけ》づき、憂慮と心労のために逆上してしまった。そこで、その強い指を鉗子《ピンセット》代りにして、自分の手で赤ん坊を引っぱり出して、ねじってしまった。遅れて産婆《さんば》が駆けつけてきたとき、赤ん坊の頭は引っぱられて奇妙な格好になり、首は伸びて、体がねじれていた。産婆は、赤ん坊の頭を押し戻し、両手で、体の格好を直した。しかし父親は、たえずそのことを恥じていた。そして他の誰によりもノアにはやさしくした。目と目のあいだが、ひどく離れ、長い、もろそうな顎《あご》のついているノアの大きな顔のなかに、父親は赤ん坊のねじれひねられた頭蓋骨《ずがいこつ》を見るような気がしたのだ。ノアは、頼まれたことなら、何でもやってのけた。読み書きもできた。仕事もできるし計算もできた。しかし、何事にも無関心なように見えた。人々がほしがったり必要としたりするものに対する無関心が、つねに彼の内部には残っているようであった。彼は奇妙な沈黙の家に住み、そこから静かな目を通して外界をながめやっていたのだ。彼は、どの世界にも異邦人であった。しかし孤独ではなかった。
四人は庭を横ぎってやってきた。じいさまが、いばった口調でどなった。「あいつは、どこにいるだ? えい、くそっ、やつは、どこにいるだよ?」そしてじいさまの指はズボンのボタンをまさぐっては、またそれを忘れてポケットのなかにさまよいこむのであった。やがて彼はトムが戸口に立っているのを見つけた。じいさまは立ちどまった。そして、ほかの者を押しとどめた。彼の小さな目は、いたずらっぽく光っていた。「見ろや」と彼は言った。「前科者だて。ジョード家のもんで監獄にほうりこまれるようなやつは、ここしばらくいなかっただ」彼の考えは、一足飛びに、はねあがった。「やつを監獄にぶちこむ権利なんぞありゃしねえだぞ。やつは、わしだってやるにちげえねえようなことをやったまでだ。あん畜生どもに、そんな権利はねえだぞ」彼の考えは、さらにはねあがった。「それなのに、あのターンブルじじいのスカンクめは、おめえが出てきたら撃ち殺すなんてほざきおった。やつめ、自分にはハットフィールドの血が流れとるなどと言いおった。だからわしは、こうことづけしてやったんじゃ。『ジョード家の人間には、うっかり手を出すな。ことによるとわしにはマッコイの血が流れとるかもしれねえからな』とな。それから、こうもいうてやったぞ。『おめえの鉄砲で、ちょっとでもトミーの近くをねらってみろ、わしが、その鉄砲をひっつかんで、おめえの尻の穴につっこんでやるだから』とな」
ばあさまは、会話には加わらず、だしぬけに声をあげた。「神よ、勝利を、たァたァえまつれ」
じいさまは近づいてきてトムの胸を平手でたたいた。目が愛情と誇りに笑っていた。「どうした、トミー?」
「元気だよ」とトムは言った。「じいさまは、どうだい?」
「元気いっぱいじゃ」とじいさまは言った。ふたたび彼の考えは躍りあがった。「さっきもいうたように、ジョード家の人間を監獄に入れておくようなことは、させはしねえだ。わしはいうとったんじゃ。『きっとトミーのやつは監獄を飛びだして帰ってくるだ。まるで雄牛が囲いの柵《さく》を破って飛びだすみてえにな』ちゃんとそのとおり、おめえは、飛びだしてきたじゃねえか。おい、そこをどいてくれ。わしは腹がへったよ」彼は人々を押しのけて家のなかへはいり、坐りこんで、皿に豚肉と大きなパンを二つのせ、その上に一面に肉汁をふりかけた。そして、みんながなかへはいりきらぬうちに、早くもじいさまは口いっぱいにほおばっていた。
トムは愛情のこもった顔でじいさまのほうに笑いかけた。「まったく元気がいいだな」と彼は言った。じいさまの口は、いっぱいすぎて片言もしゃべれないほどだったが、それでも老人は不敵な小さな目を微笑させ、猛烈にうなずいてみせた。
ばあさまは得意げに言った。「こんなに意地の悪い、口の悪い人は、めったにいやしないよ。ありがたいことに、こんな人間は悪魔といっしょに地獄へ行くにきまってるだがね。トラックを運転したいんだとさ!」彼女は軽蔑《けいべつ》した口調で言った。「なあに、そんなことさせやしないけどね」
じいさまは、むせかえった。口のなかのものが、膝の上に、しぶきとなって飛び散った。老人は弱々しく咳《せ》きこんだ。
ばあさまはトムに微笑した。「まったくだらしがないね、じいさまは」彼女は賢明ぶった口調で言った。
ノアは戸口に立ってトムと向きあっていた。間隔が開いている両眼は、あたりを見まわしているようであった。顔には表情はほとんどなかった。トムが言った。「どうだい、ノア?」「元気だよ」とノアは言った。「おめえは、どうだい?」それだけだった。しかしそれは気持よかった。
母親は肉汁の鉢《はち》から蠅《はえ》を追い立てた。「みんなが坐るだけの広さはないけれど」彼女は言った。「めいめいお皿をとって、どこでも坐れるところに坐っておくれ。庭でもどこでもさ」
突然トムが言った。「おや! 説教師は、どこへ行ったんだろう? いまここにいたんだけどな。どこへ行ったんだろう?」
父親が言った。「さっき、わしも会っただが、どこかへ行っちまったぜ」
するとばあさまが金切り声をあげた。「説教師だって? 説教師を連れてきたのかい?早くここへ連れといでよ。お祈りしてもらうんだから」ばあさまはじいさまを指さした。「この人には遅すぎるけどね――もう食べちゃったんだから。さあ、その説教師を連れといでよ」
トムはポーチへ出た。「おい、ジム! ジム・ケーシー!」と彼は呼んでから歩いて庭へ出た。
「やあ、ケーシー!」説教師の顔が水槽《タンク》の下からあらわれた。起きあがると、立って庭のほうへ歩きだした。トムがたずねた。「何してただ? かくれていたのか?」
「いんや、ただね、家族が家族の一人を迎えるときに他人が首をつっこむもんじゃねえからさ。わしは、ただ坐って考えてただけだよ」
「なかへはいって食べろよ」とトムは言った。「ばあさまがお祈りしてもらいたいとよ」
「だけど、わしはもう説教師じゃねえだでな」とケーシーはしぶった。
「さあ、はいんなよ。お祈りしてやってくれよ。かまうことはねえやな、ばあさまはお祈りが好きなんだからよ」
二人は、いっしょに台所へはいった。
母親が静かに言った。「よくきておくんなすっただね」
そして父親が言った。
「ほんとによくきておくんなすっただ。さあ、すこしばかり朝食を食べておくんなさい」
「お祈りが先だよ」とばあさまがわめきたてた。「お祈りが先だよ」
じいさまは、力をいれて目をこらしたすえ、やっとケーシーを思いだした。「おお、あの説教師さんかい」と彼は言った。「うむ、この人ならいいや。この人なら、会ったときから、わしは気に入ってただ」――そう言って、実になれなれしい様子で目で挨拶《あいさつ》を送ったので、ばあさまは、じいさまが何かしゃべったものと思いこんだ。「お黙り、この罪つくりの助平じじい!」
ケーシーは神経質に指で髪をかいた。「言っときたいんだけど、わしはもう説教師じゃねえんですよ。もし、わしがここにいるのがよろこばれて、親切で寛大な人たちの感謝になるんなら、それだけでいいんなら――それだけでいいんなら――そんなふうなお祈りをやりますがね。だけど、わしはもう説教師じゃねえんですよ」
「そういうお祈りをしておくれ」とばあさまが言った。「わたしたちがカリフォルニアへ行くことについて、何か一言入れてね」説教師は頭をたれた。ほかのものも頭をたれた。母親は両手を腹の上に組んで頭をさげた。ばあさまは、あまり低く頭をさげたので、鼻がもうすこしでパンと肉汁の皿にくっつきそうになった。トムは、壁によりかかって、手に皿を持ちながら、ぎごちなく頭をさげた。じいさまは片方の意地の悪い陽気な目で説教師を見はることができるように横向きに頭をさげた。説教師の顔には、祈る人の表情はなく、考える人の表情があった。その声の調子には、祈願ではなく、探究のひびきがあった。
「わしは考えてた」と彼は言った。「山のなかをさまよいながら、考えてただ。ちょうどキリストが、さまざまの悩みから道を見つけようと荒野に出かけて行ったときのようにな」
「神よ、たァたァえまつれ!」とばあさまが言った。説教師は、びっくりして祖母のほうに、ちらと目をやった。
「キリストも、いろんな悩みごとに、すっかり困りきってしまって、何もよい考えが浮んでこず、しまいには、いったいこんなことをしていて、何の役にたつのか、悩んだり考えたりして、何の役にたつのか、と思うようになっただ。疲れたんだよ。すっかり疲れちまったんだ。魂までが、へとへとになっちまっただ。それで、とうとう、どうにでもなれ、といったような結論をつけちまってからに、荒野に出て行っただ」
「アーメン」ばあさまが、かん高い声で言った。実に長い年月、彼女はお祈りの句切りに合わせて、これを応唱したものであるが、彼女が語られている言葉に耳を傾け、それをすばらしいと思うことがなくなってから、もうかなり年月がたっていた。
「わしは自分がキリストみたいだと言ってるわけじゃねえ」と、説教師はつづけた。「しかし、わしもキリストと同じように疲れきってしまい、キリストと同じように、わけがわからなくなっちまって、キリストと同じように、キャンプの道具も持たねえで荒野へ行っただ。夜になれば、わしは仰向けに寝て星をながめ、朝になると、坐りなおして太陽ののぼるのを見まもった。真昼のころは丘に立って、この乾燥した、うねうねした土地を見わたした。夕暮れには太陽の沈むのを見た。ときたま、以前よくやったようにお祈りをした。ただわしには、何に向ってお祈りをしているのか、何のためにお祈りをしているのかも、わからなかった。そこに丘があり、そこにわしがおる。わしと丘とは、もはや二つのものではなかった。わしらは一つになっていた。そして、その一つであることが神聖だったのだ」
「ハレルヤ」とばあさまは言った。彼女は、体を前後にすこしゆすぶって信仰の陶酔感をつかもうとしていた。
「そして、わしは考えはじめた。いや、それは単に考えるなんてもんじゃなくて、もっと深いものだった。わしは知ったんだ。わしらは一つになっているとき神聖なんだ。人類は一つのものになったとき神聖なんだ、とね。そして一人でも、みじめな、けちな人間が、あばれだして、自分勝手なことをやらかし、けとばしたり、引きずりまわしたり、喧嘩《けんか》したりするようなことになると、それはもう神聖ではなくなるだ。しかし、みんながいっしょに働いて、一人の人間と、もう一人の人間というんじゃなくて、まあ、言ってみりゃ、一人が大きな全体に結ばれるということになると――それは正しいことで、神聖なんだ。さて、それからわしは、自分が言っている神聖とは、どういうことか、その意味すら知らねえことに気づいただ」彼は口を休めた。しかし、みんなの頭は、さがったままだった。というのは、彼らは結びの「アーメン」の合図がないうちは頭をあげないものと犬のように訓練されていたからである。「わしが以前よくやったようなお祈りの言葉は、いまはとても言えねえだよ。わしはこの朝食の神聖さをよろこんでるだ。わしは、ここに愛があることをよろこんでるだ。それだけだよ」みんなの頭は、さがったままだった。説教師は、あたりを見まわした。「わしはみんなの朝食を冷たくしてしまったようだ」と彼は言った。そこで、はじめて彼は思いだし、「アーメン」と言うと、やっと一同の頭はあがった。
「アーメン」とばあさまが言った。そして早くも朝食のほうにかがみこみ、老いて歯のなくなった歯ぐきで、ふやけたパンをかじりはじめた。トムは手早く食べた。父親は口をいっぱいにした。食べものがなくなり、コーヒーを飲み終るまで、誰もひとこともしゃべらなかった。ただ、食べものを噛《か》む音と舌に移すときにコーヒーをさます音だけだった。母親は説教師の食べる様子を見まもった。彼女の目は、物問いたげな、探るような、思案してみては、何かを理解しているような目の色だった。あたかも彼が、もはや人間ではなく、突然一つの精霊と化してしまったかのように、地下からひびいてくる声ででもあるかのように彼を見まもっていた。
男たちは食べ終ると、めいめい皿を下におき、コーヒーを飲みほした。それから男たち――父親と説教師とノアとじいさまとトム――は外へ出て、散らばった家具や木製の寝台架や風車の機械や古鋤《ふるすき》などを避けて、トラックのほうへ歩いて行った。トラックのところまでくると、そのそばに立ちどまった。そして新しい松材でつくったトラックの側板に手をふれてみた。
トムは蓋《ふた》をあけて油だらけの大きなエンジンをのぞいた。父親がそばへよってきて言った。「こいつは買う前におめえの弟のアルが調べてくれただよ。大丈夫だと、やつは言ってたぜ」
「やつに、何がわかるもんか。生意気ざかりの小僧っ子じゃねえか」とトムは言った。
「やつは会社で働いてただよ。去年トラックの運転手をしてただ。なかなかよう知っとるだぞ。生意気な小僧だが、よう知っとるだ。アルのやつは、ブリキ仕事とエンジンの仕事は、ようできるだよ」
トムがたずねた。「やつは、いまどこにいるだね?」
「それだて」と父親は言った。「やつは、|さかり《ヽヽヽ》がつきゃがって、ここらじゅうの女の子の尻《しり》を追いまわしてるだよ。やみくもに女の子の尻ばかり追いまわしてるだ。生意気盛りの十六の小僧っ子だが、きんたまが、さかんにそそのかすもんだで、もう女の子とエンジンのこと以外、なに一つ考えてやしねえだ。まったくしようのねえ生意気な小僧さ。ここもう一週間も帰ってきてねえだよ」
じいさまは、胸のあたりをまさぐり、青シャツのボタンを、どうやらうまく下着のボタン穴にはめてしまっていた。彼の指は、どうも様子が変だとは感じていたが、それをさがしだすような厄介《やっかい》なことはしなかった。彼の指は下のほうに伸びてズボンの隠しボタンの複雑なしくみを探りはじめていた。「わしなんざ、もっとひどかったもんじゃ」と老人は愉快そうに言った。「わしは、ずいぶんと悪《わる》じゃったよ。ならずものと言われても仕方なかっただ。そうじゃ、あのサリソーで野外集会があったときにゃ、わしはちょうど、いまのアルよりすこし年上の若者じゃった。やつなんざ、ほんの小生意気な、かぼちゃ小僧じゃが、わしは、もうすこしませとった。わしらは、その集会に出かけて行ったもんじゃ。五百家族も集まってきて、年ごろの娘たちも、たくさんいたもんじゃ」
「いまでも、ならずものに見えるだよ、じいさま」とトムが言った。
「うん、まあ、そうかしれんて。だけども、いまじゃ若いころの元気は、からっきしねえだよ。好きなときにオレンジがもげるカリフォルニアへ、早いとこ、連れてってもらいてえもんだ。それとも葡萄《ぶどう》かな。わしは、まだ生れてから一度も堪能《たんのう》しなかったものが一つあるだ。うんとでっかい葡萄を一ふさ、丸ごともぎとって、そいつを顔に押しつけて、思いきり汁《しる》を顎《あご》からたらしてみてえだよ」
トムがたずねた。「ジョン伯父は、どこにいるだね? ローザシャーンは、どこにいるだね? ルーシーやウィンフィールドは、どこにいるだね? 誰もまだ、あの連中のことを聞かせてくれなかったぜ」
父親が言った。「誰もわしに聞きゃしなかったでな。ジョンは荷物を売りにサリソーへ行っただよ――ポンプや道具や鶏や、それから、わしらがここへ持ってきたものを、みんな持ってな。ルーシーとウィンフィールドを連れてっただよ。夜が明ける前に出てっただ」
「変だな、おれはぜんぜん会わなかったぜ」とトムは言った。
「うん、おめえは国道のほうからおりてきたんだろう? ジョンは裏道をとって行ったのさ。カウリントンを通ってな。それからローザシャーンだが、あれはコニーの家族たちといっしょに住んでるだよ。うん、そうだ、おめえはまだローザシャーンがコニー・リバースと結婚したことさえ知らなかったんだな。コニー……おぼえてるだろうが。いい若者だて。それにローザシャーンは、あと四、五カ月すりゃ赤ん坊が生れるだ。ちょうどいま腹がふくらんでるところだ。元気そうだて」
「へえ!」とトムは言った。「ローザシャーンは、まだほんの子供だったじゃねえか。それがもう赤ん坊を生むっていうのかい。四年間もいねえと、まったくいろんなことが起るだな。お父っさん、西部へは、いつ出発するつもりだい?」
「うん、まずこういったものを持ってって売り払わなきゃなんねえだ。アルが、夜遊びから戻《もど》ってきたら、やつがトラックを運転してって売り払ってくるだろうし、そうすれば、たぶん、あしたかあさっては出発できると思ってたところだ。わしらは、たいして金を持ってねえ。ところが、人の話だと、カリフォルニアまでは二千マイルもあるってことだ。早く出かければ出かけるほど、それだけ確実に向うへ行きつけるというもんだ。金というやつは一分ごとにこぼれ落ちていきゃがるだでな。おめえは、いくら持ってるのか?」
「二ドルしかねえだよ。どうやって金をつくっただい?」
「うん」と父親は言った。「家にあったものを、みんな売っちまっただよ。それから家じゅうの者が綿摘みの仕事をやっただ。じいさままでがな」
「そうとも、わしもやったよ」とじいさまが言った。
「それをみんな合わせて――二百ドルになっただ。このトラックに七十五ドル払っただ。そして、わしとアルとで、こいつを半分に切って、この後部をつくりあげたのさ。アルがバルブをみがくことになってるだが、やつは、よたって歩くのに忙しくて、まだやってねえだ。出発するときにゃ、たぶん、わしらの金は百五十ドルぐれえになってるだろうて。このトラックについてる傷だらけの古タイヤじゃ、とても遠くまではもたねえだで、予備の中古タイヤを二つばかり買っただよ。いずれ途中で、いろんなものを買って行かなきゃなるめえと思うだ」
斜めにさしこむ強烈な太陽が、突き刺すような光線を放っていた。トラックの荷台の影が、地面に幾本もの棒状の列をつくっていた。トラックは焼けたオイルと油布《ゆふ》とペンキの匂《にお》いがした。数羽の雛鶏《ひなどり》が庭を離れて道具小屋の陰へはいって行った。豚小屋では豚どもが、うすい影が落ちかかっている柵のすぐそばに、あえぎながら横たわって、ときおり、やかましく鼻を鳴らした。二匹の犬は、トラックの下の赤い土埃《つちぼこり》のなかに寝そべってあえいでおり、よだれをたらした舌は埃だらけであった。父親は帽子を目深《まぶか》に引きおろし、膝をついてうずくまった。そして、まるでそれが考えたり観察したりするときの自然な姿勢ででもあるかのように、探るようにトムをながめた。新しいが、すこしいたみはじめた鳥打帽を、背広を、新しい靴を。
「おめえは、その服を買うんで金を使ったのか?」と父親はたずねた。「そんな服を着てると、かえってじゃまっけだぞ」
「こいつはもらっただよ」とトムは言った。「刑務所から出るときにくれただ」彼は鳥打帽を脱いで、いくらか讃嘆《さんたん》めいた表情でそれをながめ、それから額をそれでふき、あみだにかぶって、庇《ひさし》を引っぱった。
父親が言った。「なかなかしゃれたふうな靴をくれたもんじゃねえか」
「そうさ」とジョードはうなずく、「おしゃれにゃいいだが、暑い日に歩きまわったりする靴じゃねえだ」彼は父親のそばにしゃがみこんだ。
ノアが、もっそりと言った。「あの側板を、みんなちゃんとはめこんでしまうと、この荷物みんな積めるぜ。積みこんでさえおけば、アルが戻ってきたときに――」
「おれだって運転できるぜ、もしおめえが、そのことを言ってるんなら」とトムが言った。「おれはマカレスターでトラックを運転してたんだ」
「そいつは都合がいい」と父親は言った。それから彼の目は道路のほうをじっと見つめた。「わしの目に狂いがなけりゃ、ちょうどいま若い生意気小僧が、しっぽを巻いて戻ってきたようだぜ」と彼は言った。「すっかりくたびれたという格好だて」
トムと説教師は道路を見あげた。すると、だらしのない格好のアルが、見られているのを意識して、肩をそびやかし、雄鶏《おんどり》がときをつくる前にするように、もったいぶって、体をゆすりながら庭へはいってきた。いかにも気どった様子で歩いてきて、すぐそばまできたのに、まだトムに気がつかなかった。しかし、トムに気がつくと、その思いあがったような表情が一変した。讃美と尊敬の色が、その目にかがやき、そびやかした肩が、がくんとさがった。踵《かかと》の高い長靴を見せるために、わざわざ裾《すそ》を八インチも折りかえした、|のり《ヽヽ》のきいたジーンズのズボンも、銅の飾りをはめこんだ三インチ幅のベルトも、青いワイシャツにつけた赤い腕輪や、いきに横っちょにかぶったステットソン帽でさえ、兄貴の格には歯が立たなかったのだ。なぜなら兄貴は人を殺《ばら》しているからだ。そして、誰一人それを忘れていないからだ。アルは、自分の兄が人を殺したからというので、同じ年ごろの若者たちのあいだに、一種の讃嘆をさえ巻き起したことを知っていた。サリソーでは、自分を指さして、こんなことを言っているのを耳にしたことがあった。「あれがアル・ジョードだぜ。やつの兄貴がシャベルで人を殺したんだ」
そして、いまアルは、おずおず近づきながら、兄貴が、想像したほどいばりもしなければ、すごみをきかしてもいないことに気がついた。アルは兄の暗い思案深げな目と、刑務所で身につけた落ちつきと、看守に向って反抗も阿諛《あゆ》も示さぬようにならされた、なめらかな、けわしい顔を見た。すると、たちまちアルは一変した。無意識のうちに、アルは自分を兄に似せた。その整った顔は思案深げになり、肩はほぐれてさがった。彼はトムが以前はどんなふうだったかおぼえていなかった。
トムは言った。「よう、まるで空豆みたいにどんどん大きくなっちまったじゃねえか。これじゃ道で会ってもわからねえくらいだ」
アルは、トムが握手しようとしたら、すぐにさし出そうと手を用意しながら、てれくさそうに、にやりと笑った。トムが手を出した。アルの手がとび出していって、それを握った。二人の間には愛情が流れた。「みんなの話だと、おめえはトラックのことをよく知ってるそうだな」とトムは言った。
そしてアルは、兄が得意がったりするのを好かぬと感じて言った。「ろくに知りゃしねえよ」
父親が言った。「あちこちぐれてやがっただな。すっかりへたばったという顔つきをしてるぞ。おめえ、この荷物をサリソーまで持ってって売ってこなきゃならねえだぞ」
アルは兄のトムを見やった。「いっしょに乗らねえかい?」と、できるだけ、何げないふうをよそおって言った。
「いや、おれはだめだ」とトムは言った。「おれは、うちで手伝いをするだ。おれたち――みんなで出発するんだからな」
アルは、ききたい質問をおさえようとつとめた。「兄さんは、|だつ《ヽヽ》――|だつごく《ヽヽヽヽ》してきたのかい、刑務所から?」
「いんや」とトムは言った。「仮釈放になったのさ」
「ふうん」そしてアルは、すこしばかりがっかりした。
[#改ページ]
第九章
小さな家々では、小作人たちが、自分の持物や父親や祖父の持物をより分けていた。西へ行く旅に必要な品物を選ぶのである。男たちは冷淡になっていた。なぜなら過去がだめになってしまったからだ。しかし女たちは、これからの日々、過去が、どんなに自分たちに叫びかけてくれるかを、よく知っていた。男たちは納屋《なや》や物置小屋へはいって行った。
あの鋤《すき》、あの|まぐわ《ヽヽヽ》。戦争中に、芥子《からし》を植えたのを、おぼえてるか? それからグァユールという名のゴムの木を、おれたちに植えさせたがっていた男がいたっけが、あれをおぼえてるか? 金持になれ、そうやつは言ったぜ。その道具類を運んできてくれ――それでも売れば、いくらかの金になるだろう。その鋤は十八ドルだ、それに運賃だ――安いもんじゃねえか。
馬具、荷車、種まき機、鋤の束。外へ運びだしてくれ。みんな積むんだ。荷馬車へ積みこむんだ。町へ持ってくんだ。できるだけの値で、みんな売っちまうだ。ついでに馬も車も売るだ。もう役に立ちはしねえだから。
上等の鋤が五十セントじゃ、ひでえだよ。その種まき機は三十八ドルもしただぞ。二ドルじゃ、ひどすぎるだ。だけど引きずって帰るわけにゃいかねえし――仕方がねえ、売るだよ、恨みもいっしょにつけてな。井戸ポンプと馬具も引きとってくれ。端綱《はづな》も曲り棒も曳革《ひきがわ》も引きとってくれ。ガラスの下に赤いばらの模様のついてる、この小さな飾り石も、引きとってくれ。そいつは、あの栗毛《くりげ》の馬と引替えに買ったもんだ。やつが駆けるとき、どんなふうに足をあげたか、おぼえてるか?
前庭はがらくたの山だ。
手鋤はもう売れねえからな。金具の目方だけで五十セントってところだな。円盤鋤とトラクター、いまは、こいつでなくちゃだめなんだ。
じゃ、持ってきな――がらくたを全部な――そして、おれに五ドル渡してくれ。おめえさんは、ただのがらくたを買ってるんじゃねえぜ。がらくたになった命を買ってるだ。それに、もう一つ――いまにわかるだが――恨みも買ってるだ。おめえさん自身の子供らの足の下を掘っくりかえす鋤を買ってるだ。おめえさんを救うはずだった腕や心を買ってるだ。四ドルじゃねえだ。五ドルだぞ。引きずって持って帰るわけにもいかねえだ――しようがねえ、四ドルで引きとってくれ。だが、注意しとくがな、おめえさんは自分の子供らの足の下を掘っくりかえす鋤を買ってるんだぜ。おめえさんにゃ、わからねえだろう。わかりっこねえだ。さあ、四ドルで引きとってくれ。この馬と荷馬車で、いくら出すだ? あの見事な栗毛の馬は、ちゃんとそろってるだぜ。色もそろってるし、歩き方も、一つ一つそろってるだ。早駆けするときにゃ――張りきった膝《ひざ》や尻《しり》までが、一秒の狂いもなく、ぴたりと呼吸が合うだ。朝になりゃ光が当って、栗毛色に輝くだ。おれたちの匂《にお》いをかごうとして鼻を動かしながら、柵《さく》ごしにこっちを見て、尖《とが》った耳が、おれたちの足音を聞こうとして、くるくるまわるだ。それに、あの黒い前髪を見るがいいだ! おれは女の子を一人持ってるだ。その子は、たてがみや前髪を編んでやるのが好きで、よく小さな赤いリボンをつけてやるだよ。そうしてやりたくなるような馬なんだ。ただ、それだけのことさ。その女の子と、向うにいるあの右側の馬のことではおもしろい話があるだ。話せば、きっとおめえさんは笑いだすことだろうて。右側の馬は八歳、左側のは十歳だが、いっしょに働くところを見たら、まるで双生児《ふたご》の子馬みてえだぜ。ほら、あの歯を見てくれ。まるで丈夫だ。肺も強いしな。足は、すっきりしてて傷もねえ。いくらだい? 十ドルだって?両方でか? それに馬車は――ちえっ、なんてこった! おれのほうで先に犬の餌《えさ》に撃ち殺したほうがましだ。ええっ、持ってけ! 早いとこ、引きとってくれ。おめえさんは前髪を編んでいるちっちゃな娘っ子を買ってるだぞ。自分の頭のリボンをはずして、蝶《ちょう》リボンをつくってやって、爪先《つまさき》立ちして、頭を仰向けて自分の頬《ほお》を馬のやわらかな鼻づらにこすりつけてる娘っ子を買ってるだ。おめえさんは、長い労働の年月を、お天道《てんと》さまの下での苦労を買ってるんだぜ。口にゃいえねえ悲しみを買ってるんだ。だけど、気をつけなよ、おめえさん。このがらくたの山と、この美しい馬にゃ、割増金がついてるだからな――一握りの恨みの気持がな。こいつが、いつかはおめえさんの家の中で育って花を咲かせるだ。おれたちは、おめえさんを救うことだってできただ。しかし、おめえさんは、値ぎり倒しただ。だから、いまにおめえさんも値ぎり倒されて、おれたちは、誰《だれ》もおめえさんを救ってやらなくなるだ。
そして小作人たちは、ポケットに両手をつっこみ、帽子の庇《ひさし》を引きさげて、歩いて帰って行った。一パイントのウイスキーを買って、酒の刺激を、より強烈に、めちゃくちゃにするために、ぐい飲みするものもいた。しかし彼らは笑いもせず、踊りもしなかった。歌おうともせず、ギターも取りあげなかった。両手をポケットにつっこんで、頭をたれ、靴《くつ》で赤い土埃《つちぼこり》をあげながら歩いて農場へ帰った。
たぶんおれたちは、もう一度、やり直すことができるだろう、あの新しい豊かな土地で――果実のみのるカリフォルニアで。はじめからやり直すのだ。
だけど、はじめからやり直すなんて、できっこねえだよ。やり直しができるのは赤ん坊だけさ。おめえさんや、おれ――いや、おれたちは、みんなもう走りだしてるだ。いまのこの怒りと、たくさんの思い出、それがおれたちなんだ。この土地、この赤い土地が、おれたちなんだ。それから、洪水《こうずい》の年や砂嵐《すなあらし》の年や旱魃《かんばつ》の年が、おれたちなんだ。もう一度やり直すことなんて、できやしねえだ。その恨みは、あの屑屋《くずや》に売っちまっただ――たしかに、やつは、それを買い取っただが、それでもまだ、おれたちにゃ恨みが残ってるだ。それから、地主の代理人が、おれたちに立ちのけと言ったときにゃ、それがおれたちだったし、トラクターが、おれたちの家を押しつぶしたときにゃ、それも死ぬまでおれたちなんだ。カリフォルニアへ行こうが、どこへ行こうが、おれたちは、みんなが、ひとりひとり、傷ついた心の行列を指揮しながら、おれたちの恨みとともに行進する軍楽隊の隊長なんだ。そして、いつの日か――怒りの軍隊は、いっせいに同じ道を進軍するにちげえねえだ。みんながいっしょになって歩いて行けば、そこから恐ろしい力が生れるにちげえねえだ。
小作人たちは、畑のなかを家に向って、土埃に足を引きずって歩いて行った。
売れる物は、何でも、ストーブも寝台架も椅子《いす》もテーブルも、部屋のすみにおく小さな食器|棚《だな》も、桶《おけ》やタンクも、みな売り払われてしまっても、まだあとに家財が山のように残っていた。女たちは、そのなかに坐りこんで、いろんなものをひっくりかえしては、あちこちとながめまわした。写真類、四角な鏡、ほら、ここに花瓶《ヽヽ》がある。
さあ、いいか、持って行けるものと持ってけねえものとの区別くらい、もうわかっただろう。おれたちは野宿することになるだ――料理や洗濯《せんたく》に使う鍋《なべ》をいくつかと、わら布団《ぶとん》と、羽根布団と、ランタンとバケツと、それにキャンバス布を一枚だ。そいつはテント代りに使うだ。この石油|缶《かん》、これは、何に使うか知ってるか? ストーブ代りにするだ。それから衣類――着物類は全部持ってくだぞ。それから――ライフル銃かって? ライフル銃なしでじゃ出て行けっこねえやな。靴や着物や食物もなくなり、それに希望すらなくなったときでも、おれたちにゃライフル銃だけは残ってるだ。じいさまが、この土地へきたとき――もう話したっけかな――じいさまが持ってたのは胡椒《こしょう》と塩とライフル銃一|挺《ちょう》だけだった。ほかには、何も持ってなかっただ。これは持ってくだよ。それに水を入れる壜《びん》もだ。それで、ちょうどいいかげんだ。トレーラーの側板を立てるだ。子供たちはトレーラーに、ばあさまはわら布団の上に坐らせるだ。道具類は、シャベルと鋸《のこぎり》とスパナとやっとこだ。それに斧《おの》もな。その斧は四十年も使ってきただ。ほら、こんなにいたんでるだ。それに、もちろんロープもだ。あとのもの? おいてくだよ――でなきゃ燃やしてしまうだ。
子供たちがやってきた。
なんだい、そんなきたないぼろ人形、もしメアリがその人形を持ってくんなら、おれだってインディアンの弓を持ってくよ。損しちゃうもの。それから、この丸い棒も――おれと同じくらい背が高いよ。この棒は入り用になるかもしれないもの。この棒は、おれ、とても長いあいだ持ってたんだもの――ひと月も、いや、一年も。どうしても持ってくよ。カリフォルニアって、どんなとこなの?
女たちはもう運命のきまっているいろいろな品物のなかに坐って、あちこちの品物をひっくりかえしては手にとって見た。
この本、これはうちのお父っさんが持ってた本だわ。お父っさんは本が好きだったわ。『|天 路 歴 程《ピルグリムズ・プログレス》』――いつもこれを読んでたわ。お父っさんの名前は、このなかからとったのよ。それからお父っさんのパイプ――まだ、こんなによくにおうわ。それから、この絵――天使の絵よ。わたしは、はじめの三人の子を生むまでは、こればかり見てたもんだけど――でも、たいして美しい子なんか生れなかったよ。ねえ、この陶器の犬、持ってってはいけないかね? サディおばさんがセント・ルイスの共進会で買ったものよ。ほら、ちゃんとここにそう書いてあるわ。だめね、持って行かないほうがよさそうね。この手紙は兄が死ぬ前の日に書いたものだわ。まあ、この時代おくれの帽子、こんなに羽根飾りがついてて――とうとうかぶらずじまいだったわ。だめだよ、のせる場所がないんだから。
生きる生命がなくて、どうして人間は生きていけるのだろう? 過去をなくしちまって、どうして現在の自分が自分だとわかるだろう? でも、だめだ。現在を残していこう。燃やしてしまおう。
彼女たちは、坐って、現在をながめ、記憶のなかに焼きつけた。ドアの外に、どんな土地があるかわからないなんて、どんな気持だろう? 夜なかに目がさめて、そのことを知ったら――あの柳の木が、もうそこにないのだと|知ったら《ヽヽヽヽ》、どんな気持だろう? あの柳の木を抜きにして生きていけるかしら? だめだわ、そんなことできないわ。あの柳の木は、わたしなんだもの。そこにあるそのわら布団の上での苦痛――あの恐ろしかった苦痛――それがわたしなんだもの。
そして子供たちは――もしサムがあのインディアンの弓と長い丸い棒を持ってくんなら、あたしだって、どうでも二つ持ってくわ。一つは、あのやわらかい枕《まくら》よ。あれは、あたしのだもの。
突然彼らは、いらだちはじめた。さあ、早く出発しなきゃならねえ。待っちゃいられねえだ。待ってるわけにゃいかねえだ。そして彼らは、いろんなものを庭に積みあげ、それに火をつけた。彼らは立って、それらが燃えるのを見まもった。それから、大急ぎで車に荷を積みあげて走り去った。土埃のなかへ走りこんで行った。土埃は、荷物を積みこんだ車が走り去ったあとも、長いあいだ空中に漂っていた。
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第十章
トラックが重い道具類や寝台やスプリングや、その他、売れそうな家財道具を全部積みこんで走り去ったとき、トムは、そこらあたりをぶらつきまわった。納屋《なや》へ行き、つぎには、がらんとした厩《うまや》に立ちより、それから道具置き場の差しかけ小屋へはいって行って、とり残されたがらくたをけとばしたり、こわれた刈取機の歯を爪先《つまさき》でころがしたりした。彼は自分の記憶にある場所をまわって歩いた――つばめが巣をつくっている赤土の土手。豚小屋の向うにある柳の木。二頭の小豚が、囲いのなかで鼻を鳴らして呼びかけてきた。黒い豚どもは、気持よさそうに、ひなたぼっこをしていた。さて、ここで遍歴を終り、彼は日陰のできはじめた戸口の踏段へ歩いて行って腰をおろした。背後の台所では母親が動きまわっていた。バケツのなかで子供たちの着物を洗っていた。そばかすだらけの、頑丈《がんじょう》な腕が、石鹸《せっけん》の泡《あわ》を肘《ひじ》からたらしていた。トムが坐りこむと、母親は洗濯《せんたく》の手を休めた。そして、長いこと彼を見まもっていた。そして、彼が頭をまわして暑い太陽の光を見つめると、彼の後頭部を見まもった。それから洗濯の仕事にもどった。
母親は言った。「トム、カリフォルニアへ行ったら、何もかもよくなってくれるといいんだがね」
彼は、ふり向いて母親を見やった。「何でよくならねえと考えるんだい?」と彼はたずねた。
「さあ――別に何ということもないけどさ。ただ、なんだか、あんまり話がうますぎるみたいなんでね。あたしは広告のビラを見たけどね、向うでは、仕事がうんとあるとか、賃金が高いとか書いてあったよ。それに、あたしは新聞で、向うでは葡萄《ぶどう》やオレンジや桃を採取するのに、たくさんの人手をほしがっているってことも読んだことがある。なんていい仕事だろうね、トム、桃を摘むなんてね。たとえ一つも食べさせてくれなくても、たぶんちっちゃな、しなびたやつの一つくらいは、ときには、こっそり食べられるだろうしね。それに木の下はいいよ。日陰で働くのはね。あたしは、あんまり話がうますぎてこわくなったんだよ。信用できないのさ。あたしは、あんまりうまい話には、何かあまりうまくないものがあるような気がして、こわくなるんだよ」
トムは言った。「『汝《なんじ》の信を鳥の高きにあげることなかれ、されば地の虫とともに這《は》うこともなからん』」
「そのとおりだと思うよ。それは、聖書にある言葉だろう?」
「そうだと思うよ」と彼は言った。「おれときたら、『バーバラ・ウォースの勝利』って本を読んでからというもの、聖書の言葉を正しく思いだすことができなくなっちまっただよ」
母親は軽くくすりと笑い、洗濯物をバケツのなかでゆすいだ。それから作業衣やシャツをしぼった。二の腕の筋肉がもりあがった。「おまえのお父っさんのお父っさんはね、年じゅう聖書の言葉を引き合いに出したもんだよ。しかも、すっかりほかの本とごちゃまぜにしてね。よくいっしょくたにしたのは『マイルス博士の暦』という本だった。その暦に書いてある一句一句を、いつも大声で読んでたもんだよ――眠れない人とか、背中が痛む人とか、そんな人たちからきた手紙をね。そして、そのあと、みんなにお説教するのさ。そして、こういうんだよ。『これは聖書にある話だ』って。おまえのお父っさんとジョン伯父とは、よく大笑いしては、じいさまを困らしたもんだよ」彼女は、しぼった衣類を薪《まき》のようにテーブルに積みあげた。「あたしたちの行くところは、二千マイルもあるってことじゃないか。どれくらい遠いか、わかるかい、トム? あたしは地図で見たけど、絵はがきに書いてあるような大きな山があって、あたしたちは、ちょうどそのまんなかを通って行くんだよ。あんなに遠くまで行くのに、いったい、どれくらい日数がかかるもんだろうね、トミー?」
「さあね」と彼は言った。「二週間か、運がよければ十日ぐらいかな。なあ、おっ母さん、心配するのはよしなよ。おれが刑務所にはいってたときのことでも、すこし話そうか。あそこじゃ、自分がいつ出所できるかなんてことは考えちゃいられねえだよ。そんなことを考えたら気が狂っちまうだ。だから、その日その日のことだけ考えるようにするだ。それから、つぎの日のこと、それから土曜日の野球試合のこと。そうするのが大事なんだ。古手の連中は、みんなそうしてるだよ。新入りの若いやつは、監房の扉《とびら》に頭をぶっつけたりするようなことになるだ。出るときがくるまで、なんて長いあいだ待つのだろうなんて考えたりするからさ。おっ母さんも、そういうふうにしたらどうかな。ただその日その日のことを考えるだけにするのさ」
「それはいい方法だね」と母親は言った。そしてストーブから熱い湯をバケツに満たした。よごれた衣類を、そのなかに投げこんで、それを石鹸水で、こすりはじめた。「それはいい方法だよ。だけど、あたしは、カリフォルニアが、どんなにいいところだろうと考えてみたいんだよ。一年じゅう、ちっとも寒くないし、いたるところに果物があって、人々は、とてもいいところに住んでて、オレンジの木のあいだに、小さな白い家があって。どうだろうね――もし、あたしたちが、みんな仕事にありついて、みんな働けるようになったらの話だけど――たぶんあたしたちも、そんな小さな白い家が持てるんじゃないかね。そして、小さな子供たちは木からオレンジをもぎとったりしてさ。うれしくて、我慢できなくなって、きっと大声でわめきだすことだろうね」
トムは母親が働くのを見まもった。彼の目は微笑していた。「おっ母さんは、そんなふうに考えて、それで気を引きたててたんだね。おれは、カリフォルニア生れの男と知合いになったけど、やつは、そんなふうには話さなかったぜ。やつの話し方で、こいつはよっぽど遠いところからきた人間だとわかったけどね。やつのいうところによると、このごろでは、あそこらでも、とてもたくさんの人間が仕事をさがしてるってことだぜ。そして果物を摘む家族たちは、きたねえ古ぼけたキャンプに住んでて、食うのがやっとだってことだよ。賃金は、とても安いし、第一、賃金をもらうのが容易じゃねえそうだ」
一つの影が彼女の顔をよぎった。「そんなことはないよ」と彼女は言った。「お父っさんが黄色い紙に印刷してある広告ビラをもらったんだけど、それには、とっても人手をほしがってると書いてあったよ。もしそこに仕事がたくさんないんなら、そんなめんどうなことをするはずがないじゃないか。そんな広告を出すにしたって、ずいぶんお金がかかるんだからね。何のために、そんな嘘《うそ》をつくの? 嘘をつくのに、たくさんの費用をかけるかね?」
トムは頭を振った。「わからねえよ、おっ母さん。なぜそんなことをしたか、おいらにゃ考えつかねえことだ。たぶん――」彼は赤い大地に照りつけている暑い太陽に目をやった。
「たぶん、何さ?」
「たぶん、いいところなんだろうよ。おっ母さんが言ったようにな。じいさまは、どこにいるだね? 説教師は、どこだね?」
母親は両腕に洗濯物を山ほどかかえて、家から出ようとしていた。トムは母親を通すために道をあけた。「説教師は、そこらを歩いてくるって言ってたよ。じいさまは、家のなかで眠ってるだ。じいさまは、ときどき、ここへやってきては横になるんだよ」彼女は物干しの針金綱のところへ歩いて行き、色あせた青ズボンや青シャツや長い鼠色《ねずみいろ》の下着類を針金にかけて干しはじめた。
トムは背後に引きずるような足音を聞いた。ふりかえって、なかをのぞいた。じいさまが寝室から出てくるところだった。朝のときと同様、老人はズボンのボタンを手さぐりしていた。「話し声が耳についたぞ」と老人は言った。「ちきしょうめ、年寄りを寝かしておきたがらねえだ。おめえたち、ろくでなしどもが、耳のうしろを乾かすようになったら、年寄りを眠らせるくらいのことはおぼえることだろうがよ」激しく動く老人の指は、二つだけうまくはまっていた股《また》ボタンを弾《はじ》きあけてしまった。それから、その手は、いまはもう、何をしようとしていたのかを忘れてしまって、なかへはいりこんで、満足げに睾丸《こうがん》の下を掻《か》いた。母親がぬれた手をしてはいってきた。手のひらは、湯と石鹸のために、皺《しわ》ができ、ふやけていた。
「じいさまは眠ってるものとばかり思ってただよ。さあ、ボタンをかけてあげるだ」じいさまは|ごね《ヽヽ》たが、母親は、それを押えつけて、下着のボタンをはめ、シャツとズボンのボタンをはめてやった。
「じいさま、笑われるだよ」そう言ってじいさまを放してやった。
老人は怒ったふうに唾《つば》を吐いた。「他人にボタンをかけてもらうなんて、まったく、いい――いいご身分になったもんじゃ。わしは自分のボタンは自分でかけさせてもらいたいんじゃ」
母親は、からかって言った。「カリフォルニアでは、服のボタンをかけないでは歩かせないんだよ」
「歩かせねえと? よし! じゃ、わしが、こらしめてやるだ。やつらが、このわしに、戸外ではどうするかを教えるつもりだというのか? わしは、その気になったら、きんたまをぶらぶらさせて歩きまわってやるだぞ」
母親は言った。「じいさまの言葉は、毎年悪くなるばかりだよ。わざと、これ見よがしにやるんだからね」
老人は、|ごましお《ヽヽヽヽ》の顎《あご》を突き出した。そして、すばしこい、意地の悪そうな、陽気な目で母親を見やった。「さあて」と彼は言った。「わしらはまもなく出発するんじゃ。あっちにゃ葡萄があるだ。きっと道っ端《ぱた》にぶらさがっていることじゃろう。わしが、何をするつもりか、わかるか? わしはな、洗濯|桶《おけ》いっぱい葡萄を摘むだ。そして、そのなかにはいって、ぎゅうぎゅう押しつぶしてからに、ズボンのなかへ葡萄の汁《しる》を流しこんでやるんじゃ」
トムは笑った。「まったくのところ、じいさまが二百歳まで生きたところで、じいさまをおとなしくさせることはできねえだろう」と彼は言った。「それじゃ、じいさまも、すっかり行く気になってるだね、じいさま?」
老人は箱を引っぱり出して、その上に重々しく腰かけた。「そうともよ」と老人は言った。「それも、もうごく近いうちにだ。わしの兄貴は、四十年前に、あそこへ出かけてっただ。その後さっぱり音《おと》沙汰《さた》がないわい。こすっからいけちな男じゃったよ。誰《だれ》にも好かれんやつじゃった。わしの単発式のコルト銃を持って家出してしもうたんじゃ。もし、わしがこんど、やつのせがれに出会うたら、やつのせがれがカリフォルニアにいればの話じゃが、わしは、あのコルト銃を請求してやるつもりじゃ。だが、もしやつに子供がいるとしたら、きっとやつは、その子供を他人に預けちまって、誰かほかの人間がその子を育てているにちげえねえ。まったくの話、わしはよろこんであそこへ行くんじゃ。まるでわしは新しい人間になるような気がしとるんじゃ。さっそく果物摘みの仕事にとりかかるんじゃ」
母親は、うなずいた。「じいさまは本気なんだよ」と彼女は言った。「三カ月前、まだ腰骨をはずすまでは、ほんとうに働いてたんだからね」
「そのとおりじゃて」とじいさまは言った。
トムは戸口の踏段に坐ったまま外に目をやった。「やあ、納屋の裏っ側をまわって説教師がやってくるだ」
母親が言った。「あの人が、けさやってくれたお祈りだがね、あんなおかしなお祈りは、あたし、はじめて聞いたよ。まるでお祈りなんてものじゃないみたいだった。ただの話みたいだったけど、でも調子は、なんとなくお祈りらしかったね」
「あれは変った人間だよ」とトムが言った。「いつも変なことばかりしゃべってるだ。なんだかひとりごとを言ってるようなんだ。ちっとも他人にわかってもらおうとはしねえだよ」
「あの人の目つきをよく見てごらん」と母親は言った。「清められた人間の目だよ。よくいう物を見通すという目の色だよ。ほんとうにあの人は清められた人間みたいだ。そして、頭をたれて歩いたり、じっと地面を見つめたりしてるだ。ああいう人こそ清められた人間というんだよ」そして母親は黙った。というのはケーシーが戸口の近くまできていたからだ。
「そんなに歩きまわってると日射病になるだぜ」とトムが言った。
ケーシーは言った。「うん、そうだな――そうかもしれねえな」彼は、だしぬけに彼らに向って訴えはじめた。母親とじいさまとトムに向って。「わしは西部へ行かなきゃならねえだ。どうでも行かなきゃならねえだ。あんたがたの家族といっしょに行かしてくれねえだかね」そして彼は、自分の言ったことにとまどった格好で、そこに棒立ちになった。
母親はトムのほうを向いてトムが口を開くのを待った。なぜならトムは男だったからだ。しかしトムは口を開かなかった。彼女は、トムの権利を尊重して黙っていたが、やがて言った。
「まあ、おまえさんが、いっしょに行ってくれたら、わたしたちは大よろこびですよ。もちろん、いますぐわたしにゃ何ともいえないけれど。お父っさんの話だと、今夜みんなで相談して出発のことをきめるということだから、男たちがみんな集まるまでは、はっきりしたことはいえないけどね。ジョンとお父っさんとノアとトムとじいさまとアルとコニーと、これだけ集まったら、すぐ相談しますだよ。でも、もし余裕さえあったら、みんなは、よろこんで、おまえさんにきてもらうことになると思いますよ」
説教師は溜息《ためいき》をついた。「どっちみち、わしは行きますだ」と彼は言った。「何かが起りはじめてるだ。わしは丘へあがって見てきただが、どの家も、みんなからっぽだ。そして道にも人気《ひとけ》がねえし、このあたりいったいが、からっぽになってるだ。わしはもう、ここにぐずぐずしてはいられねえだ。みんなの行くところへ、わしも行かなきゃならねえだ。わしも畑で働くだよ。そうすれば、わしも幸福になれるだ」
「もう説教はやらねえつもりかい?」とトムがたずねた。
「説教はしねえよ」
「そして洗礼を施すことも、やらないつもりかね?」と母親はたずねた。
「洗礼もしねえつもりだ。畑で働くつもりだ、緑の畑でね――そして、みんなのそばにいるつもりだ。何もみんなに教えようなんてつもりはねえだ。教わるつもりだよ。なぜみんなが草のなかを歩くかを教わり、みんなが話すことを聞き、みんなが歌うのを聞くだ。子供たちが玉蜀黍粥《とうもろこしがゆ》をすする音を聞くだ。夫婦が夜なかにわら布団《ぶとん》を押しつける音を聞くだ。みんなといっしょに食べて教わるつもりですだ」彼の目はぬれてかがやいた。「草のなかに寝て、わしを受けいれてくれる人と心を開いてつき合うだ。悪態をついたり、罰当りなことを言ったりして、みんなが話す言葉の詩に耳を傾けるだ。みんなそういうことが聖なることなんだ。これこそわしの理解したかったことなんだ。こうしたことが、みんな善《よ》きことなんだ」
母親が言った。「アーメン」
説教師は戸口のそばにある薪割り台の上につつましく坐った。「わしみてえな、ほんとにひとりぼっちの人間は、いったい何をしたらいいですだ?」
トムは気がねらしく咳《せき》をした。「もう説教をしなくなった人間にしては――」と彼は言いはじめた。
「そりゃ、わしはおしゃべりだ」とケーシーは言った。「それは変えられねえだよ。しかし、わしは説教してるんじゃねえだ。説教というのは人に何かを教えることだ。わしは、みんなにたずねてるんだ。それは説教じゃねえだろうが?」
「さあね」とトムは言った。「説教ってのは、言ってみれば声の調子だろう。説教ってものは、言ってみれば、ものを見る見方だろう。説教ってものは、お説教をされたために、誰かが、おめえさんを殺したくなったようなときでも、その人に親切にしてやることなんだ。去年のクリスマスに、マカレスターで、救世軍がやってきて、おれたちに、いいことをしてくれただ。三時間まるまるコルネットの吹奏を聞かしてくれただ。おれたちは、そこに坐って聞いてたもんだ。やつらは、おれたちに、やさしくしてくれただよ。しかし、もし、おれたちのうちで一人でも、そこを出て行こうとしたなら、おれたちは、きっとさびしくなったにちげえねえだ。それが説教ってもんさ。すっかりまいりこんでしまってて、説教してもらっても、おめえさんにキスすることもできねえようなやつにも、やさしくしてやる――それが説教ってもんだ。たしかに、おめえさんは説教師じゃねえだよ。だけど、このあたりでコルネットを吹くのは、よしたほうがいいだぜ」
母親はストーブに薪をいくつか投げこんだ。「おまえさんにも一口さしあげようね。たいしたご馳走《ちそう》はないけど」
じいさまは箱を外へ持ち出して、その上に坐り、壁によりかかった。トムとケーシーは家の壁に背をもたせた。午後の日影は、家から遠のいていった。
午後も遅くなって、土埃《つちぼこり》のなかを、がたがた揺れながらトラックは戻《もど》ってきた。荷台に、埃が層をなしてかぶっており、エンジン・フードも埃をかぶり、ヘッドライトは赤い埃の粉でぼやけていた。トラックが戻ってきたとき、太陽は沈みかけていた。そして大地は、その沈みゆく光で真っ赤だった。アルはハンドルにかがみこんで坐っていた。腕自慢らしく、誇らしげに、真剣な顔つきをしていた。そして父親とジョン伯父は、家族の長らしく、運転手の横の名誉の席に坐っていた。他の連中は、トラックの荷台に立ち、横木につかまって乗っていた。よごれて、興奮した顔つきの、十二歳のルーシーと十歳のウィンフィールドは、目は疲れているが興奮の色を見せ、指や口の端は、町で父親からねだった甘草飴《かんぞうあめ》で、べとついていて黒かった。ルーシーは、膝《ひざ》の下まである桃色のモスリンの本物のドレスを着て、若い女の子らしく少々すましていた。しかしウィンフィールドは、まだほんの鼻たれ小僧、納屋《なや》の裏手で物思いにふける少年といったところで、煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》を拾ってふかす常習犯であった。ルーシーが、ふくらむ乳房の力と責任と威厳とを感じているのに、ウィンフィールドは、いたずら小僧らしく、乱暴で、まるで小牛のようであった。そのそばに、横木へ軽くつかまって、『シャロンのバラ』が立っていた。彼女は爪先《つまさき》を、すこし浮かして、体の平均をとり、道路の揺れを膝と腿とで受けとめていた。というのも『シャロンのバラ』は妊娠していて用心深くなっていたからだ。編んで頭のまわりに巻きつけた髪の毛は、うすいブロンドの冠のようであった。その丸い、やわらかな顔、数カ月前までは肉感的で魅力に富んでいたその顔は、すでに妊婦の|とりで《ヽヽヽ》を築きあげ、自己満足の微笑と、すべてを知りきった円満な表情を見せていた。そして肉づきのよい体は――丸く、やわらかな乳房と腹、かつては挑《いど》むように、ゆったりと揺れて、見るものに、たたいたり撫《な》でたりしたくなる気持を起させた、むっちりとした腰と尻《しり》――その体全体が、おっとりと、落ちついたものになっていた。彼女の思考と行動のすべては、お腹《なか》のなかの赤ん坊に向けられていた。彼女は赤ん坊のために、爪先を立てて、体の平均をとっていたのだ。彼女にとっては世界そのものが妊娠しているのであった。彼女は生殖と母性という点からのみ、ものを考えていた。この豊満で情熱的なはねっかえり娘と結婚した十九歳の夫コニーは、いまだに彼女の変化に驚き|とまどって《ヽヽヽヽヽ》いた。なぜなら、くすくす笑いをおし殺して、噛《か》んだり引っかいたりして、最後には泣き声に終る、あの寝床での痴戯の喧嘩《けんか》が、もはや、ぴったりとなくなってしまったからである。その代りに、とり乱したりはしない、用心深い、賢明な女、彼に向って、恥ずかしげに、しかしじつに落ちついて微笑する女が、そこにいた。コニーは『シャロンのバラ』を誇りとし、恐れてもいた。機会があると、彼は手を彼女にまわすか、身をよせるかして、自分の体が彼女の腰や肩にふれるようにした。彼は、こうすることによって、ことによると断たれようとしているのかもしれない二人のあいだを、つなぎとめているように感じるのであった。彼は、とがった顔をした、やせた、テキサス生れの若者だった。そのうす青い目は、ときには危険な、ときには親切な、ときにはおびえた色を見せた。彼は熱心な、よい働き手であり、よい夫になりそうだった。酒も相当飲んだが、しかし飲みすぎはしなかった。強《し》いられれば、喧嘩の相手にもなるが、しかし、それを自慢するようなことはなかった。人の集りでは静かに坐っているが、それでいて影がうすいこともなく、ちゃんと存在を認められていた。
もしジョン伯父が五十歳という年齢ではなく、またそれゆえに自然と認められた一家の支配者の一人でもなかったら、彼は、運転手の横の名誉の席に坐ることを好まなかったであろう。むしろ『シャロンのバラ』を、そこに坐らせたいと思ったことだろう。だが、それは不可能なことだった。なぜなら彼女は若いし、女であったからだ。しかしジョン伯父は落ちつきなく坐っていた。その寂しく、ものにつかれたような目は、不安そうで、やせた強靭《きょうじん》な体は、くつろいだ姿勢ではなかった。ほとんどいつも、孤独の垣《かき》が、人々から、そして世間的な欲望から、ジョン伯父を切り離していたのである。彼は、ほんのすこししか食べず、酒はぜんぜん飲まなかった。そして独身だった。しかし底のほうで、彼の欲望は、ふくれあがってゆき、ときにそれは爆発した。すると彼は、ほしがっていた食べ物を病気になるほど猛烈に食べ、あるいは真っ赤な、うるんだ目をして、体を痙攣《けいれん》させる中毒患者になるまでジャマイカ・ジンジャー酒かウイスキーを飲み――またはサリソーの淫売《いんばい》女を相手に、めちゃくちゃに情欲をもやした。人の話だと、彼は一度ショーニーへ出かけて行って、三人の淫売女を一つベッドに寝かせ、反応を示さぬ肉体を相手に、一時間ものあいだ猛烈にまじわったということだ。しかし、その欲望の一つが満たされると、彼は、ふたたびもの悲しくなり、恥じ、孤独になった。人々から身をかくし、いろいろな贈りものをすることで、すべての人に自分の償いをしようとするのであった。そういうときには、家々に、そっとはいって行っては、子供たちの枕《まくら》の下にチューインガムを入れておいたり、それから無料で薪《まき》を切ってやったりした。そして自分の持っているものを、何でも人にやってしまった――鞍《くら》でも、馬でも、新しい靴《くつ》でも。そういうときには、誰一人彼と言葉をかわすことはできなかった。彼は逃げて行ってしまうからだ。たとえ面と向い合っても、自分自身のなかに引きこもり、おびえた目つきで相手をそっと見るだけだったからだ。女房《にょうぼう》の死と、それにつづく数カ月の孤独の生活が、彼に罪と恥の極印《ごくいん》を押しつけ、彼の上に消しがたい孤独感を残していたのである。
しかし、それでも彼には逃れられないことが、いくつかあった。一家の支配者の一人である以上、彼は家族を指導しなければならなかった。だからこそ、いま運転手の横の名誉の席に坐らなければならなかったのである。
埃っぽい道を家に向って走りながら、三人の男は黙ってガムをかんでいた。アルはハンドルの上にかがみこんで、目は道路と計器盤とを交互に見ていた。小刻みに揺れる電流計の針を見つめ、油圧計と温度計を見やった。彼の頭は、車の欠点や、怪しげな点を見分けようとしていたのである。彼は後部でオイルがなくなったために起るかもしれぬうなりに耳をすまし、それから上下するタペットの音に耳を傾けた。手をチェンジ・レバーにおいたまま、それを通してギヤの回転を感じとった。またブレーキを引いたままクラッチをゆるめては、クラッチ盤がかみ合うかどうかをためしてみた。彼は、ときには色気づいた若者であったかもしれないが、しかし、この仕事、このトラックを走らせ管理することは彼の責任なのだ。もし何か故障でもあれば、それは彼の失策であった。そして、誰も、何とも言わなくても、誰もが、そしてアルがいちばんよく、それはアルの責任だと考えるにきまっているのだ。だから彼は、車の感触を探り、それを見張り、耳を傾けるのである。彼の顔は真剣で責任感にあふれていた。そして、誰もみな彼と彼の責任とを尊敬していた。父親でさえ、家長でありながら、スパナを握って、アルの指示に従うにちがいないのだ。
トラックに乗っているものは、みな疲れていた。ルーシーとウィンフィールドは、目まぐるしい動きや、あまりに多くの人の顔を見たために疲れ、甘草飴を奪いっこするので疲れ、またジョン伯父が彼らのポケットにそっとガムをすべりこませてくれたその興奮で疲れていた。
運転台にいる男たちも、疲れて、腹がたって、悲しみに沈んでいた。というのは、農場から持って行ったいっさいがっさい全部ひっくるめて――たった十八ドルにしかならなかったからだ――馬、荷馬車、農具類、そして家じゅうの家具。十八ドル。彼らは買い手とたたかい、口論した。しかし、買い手の関心が弱まったように見え、買い手が、こんなものは、いくら安くてもほしくないと言いだしたとき、彼らは敗北した。そして降伏し、向うのいうことを信じ、先方が最初につけた値段よりも二ドルも安い代金を受けとった。そして、いま彼らは無気味な、おびえた気持だった。なぜなら彼らは、彼らの知らない組織にぶち当り、それに打ちのめされたからである。彼らは、あの二頭の馬と荷馬車が、もっと値打のあることを知っていた。買い手の男が、それをもっと高い値で他へ売るだろうということもわかっていた。しかし、どうしたらいいかわからなかった。商売というものは、彼らにとっては謎《なぞ》だった。
アルは道路から計器盤へと、せわしなく目を走らせながら言った。「あの野郎は土地のもんじゃねえぜ。土地のもんみたいな言葉つきじゃなかったもの。服だって、ちがってただよ」
すると父親が説明した。「わしは金物屋へ行ったとき、そこにいた知合いの連中と話をしただがな。連中は、こんなことをいうとったよ。ちょうどいま、どこからか人間がはいりこんできて、わしたちが土地を出て行くので売らなければならねえものを買いあさってるってことだ。連中の話だと、そういう野郎どもは、たしかに一もうけしてるってことだ。だけど、わしらは、どうにも手のつけようがねえだでな。トミーがいっしょに行きゃよかったかもしれねえだな。トミーなら、もっとうまく掛け合ったかもしれねえだで」
ジョンが言った。「しかし、あの野郎は、まるっきり何もほしがらなかったぜ。まさか、こっちだって、品物を持ち帰るわけにゃいかねえだしな」
「わしの知合いの連中は、そのことも言ってただよ」と父親は言った。「買い手の連中は、いつでも、そんなことをいうんだそうだ。その手で、わしらをおどかすだよ。こっちは、ああいう交渉ごとは、どうやっていいのか、さっぱりわからねえしな。おっ母は、がっかりするだろうな。きっと怒って、がっかりすることだろうて」
アルが言った。「お父っさん、おれたち、いつ出発するつもりだい?」
「さあな。みんなで今夜、相談してからきめるだよ。まったくのところ、トムが帰ってきて、ほんとによかっただよ。これで、えらく元気が出ただ。トムは、いいやつだでな」
アルが言った。「お父っさん、どっかのやつがトムのことを話してたけど、トムは仮釈放になったんだって言ってたよ。そして、それはね、トムがこの州から外へ出ちゃいけねえってことなんだってさ。もし出たら、警察でつかまえて、また三年間、刑務所へ入れとくんだって言ってたよ」
父親は、びっくりした顔になった。「そんなことを言ってたか? その男たちは、何でも知ってるような連中だったかい? ただ勝手なだぼらを吹いてたんじゃねえのかい?」
「どうだかな」とアルは言った。「その人たちは、ただしゃべってただけだし、おれも、トムがおれの兄貴だなんてことは言わなかっただ。おれは、ただ立って聞いてただけなんだ」
父親は言った。「そいつがほんとうでねえといいだがな。トムは、みんなに必要な人間だでな。わしからトムにきいてみよう。わしらは、警察に追いまわされなくても、めんどうなことが、いっぱいあるだ。そいつがほんとうでねえといいだがな。こいつは、みんなで、はっきり話し合わなくちゃいけねえだ」
ジョン伯父が言った。「トムなら知ってるだよ」
彼らは沈黙し、トラックは、揺れ進んだ。エンジンが、やかましく小さな騒音を立てつづけ、ブレーキロッドが、がたがた音を立てた。車輪からは、きしるような音が聞え、細い蒸気の流れがラジエーター・キャップの上部の小穴からもれた。トラックは背後に高く渦巻《うずま》く赤い土埃の柱を巻きあげた。最後の小さな丘をのぼりきったとき、太陽は、まだ地平線に半分だけ顔を見せていた。そして彼らが家の前にとまったとき、太陽は姿を消していった。停車すると、ブレーキが大きくきしった。その音がアルの頭に、このようなことを刻みつけた――ちえっ、ライニングがすりきれてやがるぞ。
ルーシーとウィンフィールドは叫びながら側板を乗り越えて地上に飛びおりた。彼らは叫んだ。「トムはどこにいるの? トムはどこにいるの?」やがて、扉《とびら》のそばに立っているトムを見つけた。すると彼らは、もじもじして立ちどまった。そして、そろそろと彼のところへ歩いて行って、恥ずかしそうに彼を見あげた。
そしてトムが、「やあ、おまえたち、元気かい?」と声をかけると、彼らは低い声で答えた。「お帰んなさい、トム。元気だよ」そして彼らは離れて立って、人を殺して刑務所へはいっていた、このすごい兄さんの顔を、そっと見まもっていた。鶏小屋のなかで刑務所遊びをやったとき、誰もが囚人になりたがったことを思いだしながら。
コニー・リバースは、背の高いトラックの後部の扉をはずして降り立ち、『シャロンのバラ』を地面に助けおろした。彼女は、その助けを、おっとりと受けいれ、すこし愚かしげに口の両端をまげて、独特の分別ありげな自己満足の微笑をたたえた。
トムが言った。「やあ、ローザシャーンじゃねえか。おめえが、みんなといっしょにくるとは知らなかったぜ」
「あたしたち、歩いてたのよ」と彼女は言った。「そしたら、あのトラックが通りかかって、乗せてくれたの」それから彼女は言った。「こちらはコニー、あたしの夫よ」それをいうとき、なかなか彼女は堂々と落ちついていた。
二人は握手した。相手をおしはかり、たがいに目のなかを深く見つめ合いながら手を握った。そして、その瞬間、どちらも満足していた。トムが言った。「おめえんとこも、だいぶよろしくやってるらしいな」
彼女は目を伏せた。「知らないくせに、まだ何も」
「おふくろが話してくれただよ。いつごろだい?」
「あら、まだそんなに近いことじゃないわ! この冬になってからよ」
トムは笑った。「オレンジ畑にとりかこまれて生むってわけか。オレンジの木がまわりに植わっている白い家のなかでさ」
『シャロンのバラ』は両手で自分の腹部にさわった。
「何もわかっていないくせに」と彼女は言い、満足そうな微笑を浮べて家のなかへはいって行った。その夕暮れは暑かった。沈んだ太陽の光が、まだ西の地平線から空へひろがっていた。何の合図もないのに家族たちはトラックのそばに集まった。そして、会議が、家族会議が議事にはいった。
淡くおおっている夕暮れの光が赤い大地を透明に見せ、そのために大地の厚さが深まって見えた。一つの石、一本の柱、一つの建物が、白昼の光を受けているときよりも、さらに深みを増し、さらにくっきりとしてきた。そして、それらのものが奇妙に昼間よりも個性的に見えた――柱は、それが立っている大地や、その向うにある玉蜀黍《とうもろこし》畑から浮きだして、いかにも柱らしい姿を見せていた。植物も、ただの作物の集りではなくて、一本一本が個性を持ち、裸になった柳の木も、他のすべての柳の木から独立して立って、それ自身の姿を示していた。大地は夕暮れに一つの光を添えていた。西に面している灰色の、ペンキのはげた家の玄関は、月光のそれに似た輝きを示していた。戸口の前の庭にとまっている灰色の埃《ほこり》だらけのトラックは、この光の複式幻灯のような、のんびりした遠近のなかに、魔法にでもかかったように浮びあがっていた。
人々もまた夕暮れのなかでは姿が変ってしまい、ぼんやりとした映像となって、まるで無意識の世界の一部にでもはいりこんだもののように見えた。彼らは、ほんの微弱にしか考えることのできない衝動に従い、その目は内部に向ってしずまり、夕暮れのなかでかがやき、埃だらけの顔のなかで光っていた。
家族たちは、最も大切な場所、トラックのそばに集まった。家も死に、畑も死んでいた。しかし、このトラックは生きているものであり、生命の源泉であった。ラジエーター・スクリーンは、ひん曲って傷だらけになり、どの可動部分の摩滅した先端にも、埃っぽいオイルの粒がつまっており、ハブ・キャップがとれてしまって代りに赤い埃のキャップがかぶさっている、この古ぼけたハドソン――これが新しい炉辺、家族の生活の中心だったのだ――半分は乗用車で半分は高く側板をとりつけた、ぶざまなトラックのこれが。
父親は、トラックを見ながら、それを一まわりした。そして、埃のなかにしゃがみこんで、地面にいたずら書きをする棒切れを一本見つけた。片足を地面に平たくおき、その足裏に片方の足を乗せてすこし倒した。だから片膝《かたひざ》がすこし高くなった。左の前腕を低いほうの左の膝におき、右の肘《ひじ》を右膝につけ、右手で顎《あご》をささえていた。父親は、手で顎をささえてトラックをながめながら、そこにうずくまっていた。すると、ジョン伯父がやってきて、そのそばにうずくまった。二人の目は憂《うれ》わしげであった。じいさまが家から出てきて、二人がいっしょにしゃがんでいるのを見ると、よたよたと歩いてきて、二人と真向いのトラックのステップに腰かけた。これで中核はできたわけである。トムとコニーとノアが歩いてきて、うずくまった。じいさまを中心にして、その輪は半円を描いた。つぎに母親が家から出てきた。ばあさまも、いっしょだ。そのうしろから『シャロンのバラ』が、つつましく歩いてきた。彼女らは、うずくまった男たちのうしろに場所をとり、立ったままで両手を腰にあてた。そして子供たち、ルーシーとウィンフィールドは、ぴょんぴょんはねてきて女たちのそばに立った。子供たちは足の指で赤い埃のなかをかきまわしたが、音は立てなかった。説教師だけが、そこに出ていなかった。彼は遠慮をして家の裏手の地面に坐りこんでいたのだ。彼は、善良な説教師であり、人々の気持をよく知っていたのだ。
夕暮れの光は、やわらかさを増した。しばらくのあいだ、家族たちは、坐ったり立ったりして黙っていた。やがて父親が、誰にともなく、一同に向って報告した。「売りに行った品物は、ほんの安値にしか売れなかっただ。向うのやつは、こっちが待てねえと知って、足もとを見やがっただよ。たった十八ドルにしかならなかっただ」
母親は辛抱できかねるように身動きした。しかし、じっと自分をおさえた。
長男のノアがたずねた。「みんな合わせて、おれたちの持ち金は、結局いくらあるだね?」
父親は、埃のなかに数字を書き、ちょっとひとりごとをつぶやいた。「百五十四ドルだ」と、彼は言った。「だけど、アルがいうことにゃ、もっといいタイヤを買わなくちゃならねえということだ。このタイヤじゃ、もたねえそうだ」
この集りで、アルは、はじめて相談に加わったのであった。これまでは、いつも女たちといっしょに、うしろのほうに立っていたのである。いま彼は、重々しく報告を述べた。「この車は古くて、程度が悪いんだ」彼は重々しく言った。「おれは、買うまえに、すっかり点検してみたんだ。販売人の野郎は、こんな安い掘出し物はねえなんて言ってたけど、おれは、ごまかされなかった。差動装置のなかに指をつっこんでみたけど、おがくずはなかったし、ギヤ・ボックスをあけてみたけど、ここにも、おがくずははいってなかった。クラッチもためしてみたし、車をまわして角度をためしてもみた。車体の下へもぐってみたけど、車体がゆがんでるというようなこともぜんぜんなかった。転覆させたことなんて一度もなかったんじゃねえかと思う。バッテリーのなかに、ひびのはいった電池が一つあったんで、売り場の人に、いいのと取り替えさせた。タイヤは、ちっとも値打がねえんだけど、サイズは、ぐあいがいいんだ。取り替えやすいんだよ。この車は雄牛みたいな走り方をするけど、あまりオイルを食わねえだ。なぜこの車を買ったかっていえば、これはよく使われる車だからなんだよ。解体屋へ行けば、これと同じハドソンは山とあるし、だから部品が安く買えるってわけだ。同じ金で、もっとでっかい、もっとりっぱそうな車も買えたけど、それだと部品が、なかなか手に入れにくいだよ。それに、とても高いしね。だから、おれは、これがいいだろうと思ったんだ」最後の言葉で彼は家族に許可を求めたわけである。彼は、しゃべるのをやめ、みんなの意見を待った。
名目上では、じいさまが、まだ家長だった。しかし彼は、もはや一家を統率してはいなかった。彼の位置は名誉的なものであり、一つの慣習の問題であった。しかし彼は最初に意見を述べる権利を持っており、その年老いた頭脳が、どんな愚かなことを言いだそうと、それは問題ではなかった。うずくまっている男たちや、立っている女たちは、老人が口を開くのを待ちうけた。
「なかなかよくやっただよ、アル」とじいさまは言った。「わしも、昔は、おまえみたいに、よたって歩いたもんじゃ。狼《おおかみ》みたいに、うろつきまわったもんじゃ。だけども、いったん仕事があるとなると、ちゃんとやってのけたもんじゃよ。おまえも、りっぱな一人前の人間になったもんだ」彼は祝福をあたえるような調子で言葉を切った。アルはうれしくて、すこし赤くなった。
父親が言った。「まあ、よくやったとわしも思うだよ。これが馬のことででもあったら、わしらにしてもアルに責任をもたせやしねえだがな。ともかくここじゃアルしか自動車のことがわからねえだでな」
トムが言った。「おれも、いくらか知ってるぜ。マカレスターで、すこし動かしたからな。アルのいうことに間違いはねえだ。なかなかよくやっただよ」いまやアルは、そのほめ言葉に真っ赤になった。トムは話しつづけた。「聞いてもらいてえんだがね――なあに――あの説教師のことなんだが――あの人が、おれたちといっしょに行きてえと言ってるだ」そして彼は黙った。その言葉が、みんなの心にのしかかった。人々は黙っていた。「あれは、いい人間だぜ」とトムはつけ加えた。「おれたちは長いこと、やつを知ってるだ。ときどき妙なことを言いだすけんど、しかし筋の通ったことをいうだ」そして彼は、その提案を家族の決定に一任した。
光は、しだいにうすれていった。母親は、みんなのところを離れて家のなかへはいった。するとストーブのがちゃがちゃいう音が家のなかからひびいてきた。すぐに彼女は思案中の会議の席へ戻《もど》ってきた。
じいさまが言った。「二つの考え方があったもんじゃ。説教師なんてものは悪運のしるしだと考える人間もいたもんじゃ」
トムが言った。「あの人は、もう自分は説教師じゃねえって言ってるぜ」
じいさまは、ゆっくりと手を振った。「一度説教師になったものは、いつまでたっても説教師じゃよ。それだけは、どうにも変えられるもんじゃねえだ。また、説教師といっしょにいるのは、とても結構な幸運のしるしだと考える人間も、なかにはいたもんじゃ。もし誰《だれ》かが死んだら、説教師が、おとむらいをしてくれるし、結婚式をやらなくちゃならなかったり、もうとっくに結婚式をやらなくちゃならねえのに、まだやってなかったり、そんなときにゃ、ちゃんと説教師がやってくれるだでな。赤ん坊が生れたら、同じ屋根の下に洗礼を施してくれる人間がいるというわけじゃ。わしはいつも世のなかには説教師が多すぎるというとったもんじゃよ。選びださなくちゃならねえほど多すぎるとな。わしは、あの男が好きじゃ。あれは、かた苦しくねえだでな」
父親は棒切れを地面に突きさした。そして指でそれをまわしたので、そこに小さな穴があいた。
「説教師が幸運のしるしかどうか、あの男がいい人間かどうかの問題は別にして、もう一つ問題があるだよ」と父親は言った。「よく考えなくちゃならねえだ。よく考えるなんて、悲しいことだがな。その、人数だが、じいさまとばあさま――これで二人だ。わしとジョンとおっ母――これで五人。それからノアとトミーとアル――これで八人。ローザシャーンとコニーで十人。それにルーシーとウィンフィールドを合わせりゃ十二人だ。犬だって、いまさらどうすることもできねえだで、連れて行かなくちゃなるめえ。あんないい犬を撃ち殺すわけにもいかねえし、くれてやる相手なんて、どこにもいやしねえだでな。そこで、これを加えると十四ということになるだ」
「残ってる鶏と二頭の豚を数からはずしてもな」とノアが言った。
父親は言った。「豚は途中で食えるように塩づけにするつもりだ。いずれ肉類がいるだでな。だから塩だけは手放せねえだよ。それで、みんなが乗れるかどうかと思ってるだ。そこへ説教師も乗っけてくということになるとな。それに、余分の人間に食べさせることができるかどうかって問題もあるだ」頭をめぐらさずに彼はたずねた。「大丈夫かな、おっ母?」
母親は咳《せき》ばらいした。「大丈夫かどうかって問題じゃないよ。やるつもりがあるかどうかの問題だよ」彼女は、きっぱりと言った。「『できる』かどうかなんて言ったら、あたしたちにゃ、何もできやしないよ。カリフォルニアへ行くことだって、何をすることだって、できやしないよ。だけど、『しよう』ということだったら、なあに、あたしたちは、しようと思ったことは、するだけだよ。そして、『しよう』ということについてなら、あたしたちが昔、東部にいたときからも、またここへきてからも、ジョード家の人間でもハズレット家の人間でも、一度だって、誰かに食事や宿や、道で車などを頼まれたとき、ことわろうとしたことはなかっただよ。そりゃジョード家にだって、性悪な人間もいたけれど、それほどひどいやつは、一人だっていやしなかったよ」
父親が言葉をさしはさんだ。「だけど、もしほんとうに乗っける余地がねえとすると?」彼は首をひねって母親を見あげた。彼は恥じていた。母親の言葉の調子が彼を恥ずかしくさせたのだ。「もし家のもん全部がトラックに乗りきれねえとしたら?」
「いまだって余裕なんかありゃしないよ」と母親は言った。「六人くらいしか乗れそうもないところへ十二人も行こうっていうんだからね。一人くらいふえたって、たいした変りはないさ。それに、強くて健康な男というものは、いつだって世話はやけないしね。豚を二頭と百ドル以上のお金を持ってるというのに、一人の人間を食べさせられるかどうかと心配するなんて――」母親は言葉をとめた。父親は、もとの姿勢にもどった。彼の心は、このむちのために、なまなましく傷ついていた。
ばあさまが言った。「説教師ってもんは、いっしょにいてくれると、ありがたいもんだよ。あの人は、けさ、ありがたいお祈りをあげてくれたでねえか」
父親は、別の意見があるかどうかと一同の顔を見まわした。それから言った。「トミー、あの男を呼んだらどうだい? いっしょに行くとしたら、ここにいてもらったほうが都合がいいだでな」
トムは立ちあがって、「ケーシー――おーい、ケーシー!」と呼びながら家のほうへ歩いていった。
こもったような声が、家の背後からひびいてきた。トムが角をまわってみると、説教師は、坐って壁にもたれ、明るい空に輝きだした宵《よい》の明星《みょうじょう》を見あげていた。「呼んだかい?」とケーシーはたずねた。
「うん。おめえさんが、おれたちといっしょに行くんなら、いっしょに、あそこで仲間に加わって、相談に乗ってもらわなくちゃならねえというわけさ」
ケーシーは立ちあがった。彼は家族会議のしきたりを知っていた。そして彼は、自分がこの家族に受けいれられていることを知っていた。事実、彼の位置は高いのだ。なぜなら、ジョン伯父がわきへどいて、自分と父親のあいだに説教師の場所をつくってくれたほどなのだから。ケーシーは、トラックのステップに坐ったじいさまと向い合いに、みんなと同じようにうずくまった。
母親は、ふたたび家のなかへはいっていった。灯火の笠《かさ》をふく、きしるような音が聞えて、黄色い光が暗い台所にぱっと流れた。大鍋《おおなべ》の蓋《ふた》を持ちあげると、豚の脇肉《わきにく》と、ビートの煮える匂《にお》いが、戸口から流れでた。みんなは母親が暗い庭を横ぎって戻ってくるのを待っていた。母親は一家のなかでも有力な相談相手だったからだ。
父親が言った。「さて、いつ出発するかをきめなくちゃならねえだ。早ければ早いほどいいだ。行く前に、やらなくちゃならねえことといったら、あの豚を殺して塩づけにするのと、荷物をまとめることだ。いまとなっては、早ければ早いほどいいだ」
ノアが賛成した。「急いでやれば、明日じゅうには用意できるだ。だから、あさっての夜明けには出発できるだよ」
ジョン伯父が反対した。「昼の日中に肉を冷やすことはできねえだよ。豚を殺すにゃ悪い時期だて。冷やさねえと肉がぐにゃぐにゃになるでな」
「じゃ、今夜やっちまおう。今夜なら、いくらかは冷えるぜ。かなりのところまで冷えるだよ。夕食をすませたら、やっつけよう。塩はあるだかね?」
母親が言った。「あるとも。たくさんあるだよ。それに樽《たる》も、いいのが二つあるよ」
「じゃ、やっちまおうじゃねえか」とトムが言った。
じいさまは、立ちあがる手がかりになるものをつかもうと、あたりを手さぐりしはじめた。「暗くなってきたな」と老人は言った。「わしは腹がへったよ。わしは、カリフォルニアへ行ったら、年じゅう葡萄《ぶどう》の大きな房を手からはなさねえで、かぶりついてやるだ」老人は立ちあがった。そして男たちも身を起した。
ルーシーとウィンフィールドは、埃のなかを興奮して狂ったようにはねまわった。ルーシーは、しゃがれ声でウィンフィールドにささやいた。「豚を殺してカリフォルニアへ行くのよ。豚を殺して、そして行くのよ――両方いっしょにやるのよ」
ウィンフィールドは、すっかり夢中になっていた。指を咽喉《のど》にあてて恐ろしい表情をつくり、弱々しく悲鳴をあげながら、ふらふらと歩きまわった。「おれは老いぼれ豚だぞ。ほら! 老いぼれ豚だぞ。この血を見ろよ、ルーシー!」彼は足をよろめかせて地面に倒れ、手と足を弱々しくばたつかせて見せた。
しかしルーシーは年上だ。いまというときの重大さを知っていた。そして、「カリフォルニアへ行くんだわ」と彼女はまた言った。これが自分にとって生れてはじめての重大な時期であることを知っていた。
大人たちは、深い夕闇《ゆうやみ》のなかを、明りのついた台所のほうへ歩いて行った。母親はブリキ皿《ざら》に野菜と豚の脇肉をのせて一同に配った。しかし自分は、食べる前に、大きな丸い洗濯桶《せんたくおけ》をストーブの上にかけて、火をうんと燃やした。バケツで水を運んできて桶をいっぱいにした。そして桶のまわりに、水を張ったバケツを、いくつか並べた。台所は、暖かい湿地のようになった。一同は急いで食べた。そして、お湯が沸くまで、戸口の階段のところへ出て行った。彼らは、宵闇と、台所の灯火が戸外の地面に投げかけている四角い光を見つめていた。その光のまんなかに、背を丸めたじいさまの影が落ちていた。ノアは、しきりにわらで歯をほじくった。母親と『シャロンのバラ』は皿を洗っては、それをテーブルの上に積みあげた。
そして、しばらくすると、いきなり家族たちは活動をはじめた。父親は立ちあがって、もう一つの灯火をつけた。ノアは、台所の箱から、刃のそり返った肉切り包丁を取りだし、それを、すり減った砥石《といし》でといだ。そして物切り台の上に、やすりをおき、その横に包丁をおいた。父親は、どれも長さ三フィートほどの二本の丈夫な棒を持ちだしてきた。そして、斧《おの》でその両端をとがらせ、二重にした強いロープで棒のなかほどをしばりつけた。
彼はぐちった。「あの馬具の柄《え》を売るんじゃなかったよ――しかも一つ残らずな」
鍋のなかの水は湯気をあげて沸きたった。
ノアがたずねた。「この湯を、あっちへ持って行くかい? それとも豚をこっちへ運んでくるかね?」
「豚を運んでくるだ」と父親が言った。「豚なら、おめえだって、湯を運ぶときみたいに、こぼしたり、やけどしたりはしねえだろうからな。湯加減はどうだい?」
「ちょうどいいよ」と母親が言った。
「よしきた。ノア、おめえとトムとアルは、いっしょにこい。灯火《あかり》は、わしが持って行くだ。あっちで殺してから、ここへ運んでこよう」
ノアが包丁を取り、アルは斧を取った。そして四人の男たちは提灯《ちょうちん》で足もとを照らしながら、豚小屋のほうへ歩いて行った。ルーシーとウィンフィールドが片足で飛びはねて、あとからついて行った。豚小屋へつくと、父親は提灯をかかげて、柵《さく》の上に身を乗りだした。眠たげな二頭の若い豚が、疑わしげに鼻を鳴らしながら、もぞもぞと起きあがった。ジョン伯父と説教師が手伝いにやってきた。
「さあ、よし」と父親が言った。「刺し殺すだ。それから、家へ持ってって、ぶらさげて血をすっかり出しちまってから、熱湯をかけるだ」ノアとトムが柵を乗り越えた。二人は手早く、うまいぐあいに殺した。トムが斧の頭で二度なぐりつけた。するとノアが、倒れた豚にのしかかって、彎曲《わんきょく》した包丁で大動脈を見つけて切り、どくどくと血を出した。それから悲鳴をあげる豚をかついで柵を乗り越えた。説教師とジョン伯父が、一頭の後足《あとあし》を引っぱって行き、トムとノアが、もう一頭を引きずって行った。父親は提灯を持ってついてきた。黒い血の跡が二筋、埃のなかに残った。
家につくと、ノアが後足の腱《けん》と骨のあいだに包丁を入れた。とがった棒を足と足のあいだにさしこんで、豚の胴体は、家の軒につき出ている厚さ二インチ、幅四インチ角の垂木《たるき》につりさげられた。つぎに男たちは煮えたぎった湯を運んできて、黒い死体に浴びせかけた。ノアが、それを頭から尻《しり》まで切り裂いて、臓物を地面にふり落した。父親が胴体を開いて空気にさらすために、棒を、あと二本とがらせているあいだに、トムは強いブラシを持ち、母親は鈍いナイフを持って、皮から、あら毛をこすり落した。アルはバケツを持ってきて臓物をそのなかにほうりこみ、家から離れたところへ投げすてた。二匹の猫が大声で鳴きながら彼のあとについて行き、さらにそのあとから犬が、猫に向って軽くうなりながら、彼のあとを追って行った。
父親は戸口の階段に坐って、灯火に照らされてぶらさがっている豚を見やった。もう毛を落す仕事もすみ、ただ幾滴かの血が胴体から地面の黒い血だまりへしたたり落ちていた。父親は立ちあがって豚のところへ行き、手でそれにさわってみた。それから、ふたたび腰をおろした。じいさまとばあさまは納屋《なや》へ眠りに行った。じいさまは手にろうそく灯を持っていた。他の家族たちは、戸口のあたりに静かに坐っていた。コニーとアルとトムは背を家の壁にもたせかけて地べたに坐り、ジョン伯父は箱に、父親は扉《とびら》の入口に腰をおろしていた。ただ母親と『シャロンのバラ』だけが、まだ動きまわっていた。ルーシーとウィンフィールドは、もう眠くなって、懸命に眠気とたたかっていた。外の暗闇のなかで眠たげに口喧嘩《くちげんか》をしながら。ノアと説教師は、ならんで家に面して坐っていた。父親は気がかりそうに頭をこすり、帽子をとって、髪のあいだに指をさしこんだ。「あすの朝早く、あの豚を塩づけにしよう。それからトラックへ荷物を積んじまおう。ベッドは別だ。そして、あさっては出発だ。あすのしたくは全部やっても一日仕事にもならねえだ」と彼は落ちつかなげに言った。
トムが口を入れた。「おれたちは、何かする仕事はねえかと、きっと一日じゅう、うろつきまわることになるぜ」一同は落ちつかなげに身動きした。「やろうと思えば、明日の夜明けまでにゃ片づけて出発できるぜ」とトムは提案した。父親は膝《ひざ》を手でこすった。すると、何かせわしない気分が一同のあいだにひろがった。
ノアが言った。「いますぐあの肉を漬《つ》けたって、いたむこともねえだろう。とにかく切っておこうぜ。そうすれば早く冷えるだもんな」
ためらいをたち切ってしまったのはジョン伯父であった。「何でぐずぐずしてるだ? わしは、こんなことは、早いとこ片づけてしまいてえだ。どうせ出かけるときまってるのなら、とっとと出かけようじゃねえか」
その急激な反動は、すぐ一同のあいだにひろがっていった。「出かけようや。途中で眠ればいいじゃねえか」そして、あわただしい気分が、みんなの心のなかに這《は》いこんでいった。
父親が言った。「人の話だと二千マイルあるってことだ。こいつは、たいへんな道のりだぞ。それをわしらは行かなきゃならねえだ。ノア、おめえとわしは、あの肉を切っちまおう。あとのもので荷物を全部トラックに積みこめばいいだ」
母親が戸口から顔を出した。「こんな暗いなかで仕事をして、忘れ物でもあったら、どうするだね?」
「明るくなってから、見まわればいいだよ」とノアが言った。みんなは、そのあと、まだ静かに腰をおろして、そのことを考えていた。しかし、その瞬間ノアが立ちあがった。そして、弓形にそっている包丁を、すり減った小さな砥石でとぎはじめた。「おっ母さん」と彼は言った。「そのテーブルを片づけてくれよ」そして彼は一頭の豚に近づき、背骨の片脇を一すじ切りさき、肋骨《ろっこつ》をはずして肉をはがしはじめた。
父親は興奮したように立ちあがった。「荷物を一まとめにしなきゃならねえだ」と彼は言った。「さあ、やろうぜ、みんな」
いざ出発ということにきまったので、せわしい気分が、みんなに伝わっていった。ノアは豚肉の塊《かたまり》を台所に運んで、それを塩づけ用に小さく四角に切った。母親が粗塩《あらしお》をそれにこすりつけ、樽のなかへ、一きれずつ、それぞれくっつき合わぬように注意深く並べていった。ノアは脇肉を切り、ついで足肉を切った。母親は火に薪《まき》をくべた。そして、ノアが肋骨や背骨や足骨から、取れるかぎりの肉を切り取ると、彼女は、それを道中でしゃぶれるように、窯《かま》のなかへ入れてあぶった。
庭のなかや納屋では、ランタンの丸い光が、いくつか動きまわっていた。そして男たちは、持って行くものを一まとめに運び出しては、トラックのそばに積みあげた。『シャロンのバラ』は家族の衣類を全部持ちだした――仕事着、厚底の靴《くつ》、ゴム長靴、すり切れた晴れ着、セーターと羊皮の上着。そして彼女は、これらの衣類を木箱のなかにぎっしりとつめこみ、箱のなかにはいって足で踏みつけた。それからプリント地のドレスとショール、黒い木綿の靴下と子供たちの服――小さな仕事着や安物のプリント地のドレス――などを取りだしてきて、箱に入れて足で踏みつけた。
トムは道具小屋へ行って、使うために残しておいた道具類を持ちだした――手鋸《てのこ》、スパナ一組、金槌《かなづち》、大小の釘《くぎ》が入っている箱、やっとこ一組、平やすりと丸やすりなど。
『シャロンのバラ』は大きな防水布を持ちだしてトラックのうしろにひろげた。そして、マットを、二人用のを三つと一人用のを一つ、苦労して戸口から運びだし、それを防水布の上におき、その上に、すりきれた毛布を一かかえ運んできて、全部を防水布で包みこんだ。
母親とノアは、忙しく豚の死骸《しがい》を処分していた。焼ける豚の骨の匂いがストーブから漂ってきた。子供たちは夜がふけたので仕事をほうりだしてしまった。ウィンフィールドは扉の外の埃《ほこり》のなかに体を丸めていた。ルーシーは、さっきまで箱の上で肉切りを見まもっていたが、いまは壁に頭をもたせかけて、気持よさそうに眠っていた。唇《くちびる》をすこし開いて歯を見せていた。
トムは道具類を積み終え、ランタンを持って台所へはいってきた。説教師が、あとからついてきた。「こりゃ、すげえや」とトムは言った。「あの肉の匂いはどうだ。骨の焼ける音が聞えるじゃねえか」
母親は樽のなかに肉切れを積み重ね、塩をその周囲と上からふりまき、それに、つぎの肉切れを重ねて、その上をたたいた。彼女はトムを見あげ、そしてちょっと微笑した。しかし、その目は真剣で疲れていた。「豚の骨は朝食のときまでそっとしといておくれよ」
説教師が母親のそばに立った。「わしにその肉の塩づけをやらせてくれねえだか」と彼は言った。「わしにだってやれるだよ。あんたは、ほかにも仕事があるだでな」
彼女は手をとめて妙な顔で彼をながめた。まるで彼が変なことを言いだしたとでもいうふうに。母親の手には塩がこわばりつき、生の豚肉から出る汁《しる》で桃色になっていた。「これは女の仕事だよ」しまいに彼女は言った。
「それだって仕事は仕事でさあ」と説教師は答えた。「いまは、男の仕事か女の仕事かと区分けするほど余裕はねえだよ。あんたにゃ、まだほかに仕事があるだ。その塩づけは、わしにまかせるがいいだ」
それでも、まだすこしのあいだ、彼女は、じっと彼を見つめていた。それからバケツの水を金盥《かなだらい》に入れて、手を洗った。説教師は肉切れを取りあげ、彼女が見まもっている前で、塩をはたいた。そして彼女がしたように樽のなかへそれを重ねた。彼が一|かわ《ヽヽ》おいてその上に注意深く塩をふりかけてたたき終ると、はじめて彼女は満足した様子を示した。彼女は、ひび割れてふやけた手を乾かした。
トムが言った。「おっ母、この部屋からは、何を運び出すだね?」
彼女は、すばやくあたりを見まわした。「そのバケツだよ」と彼女は言った。「それと食べるのに使うものは全部――お皿にコップ類、スプーンやナイフやフォーク、みんな、その引出しへ入れて、引出しごと持ってっておくれ。その大きなフライパンと、大きなシチュー鍋と、コーヒー沸しもね。冷えたら、その窯から灰をかき出しておくれ。それは、とても火持ちがいいんだよ。この洗濯桶も持ってきたいね。でも、おく場所がねえだろうね。洗い物はバケツですることにしよう。細かな物は持ってっても役に立たねえだよ。大きな鍋なら、すこしのものでも煮ることができるけれど、小さな鍋で、たくさんのものを煮ることはできねえからね。そのパン焼き鍋も全部持ってっておくれ。一つずつ小さいのから重ねられるよ」彼女は立ったまま台所を見まわした。「いまあたしが言ったものだけは忘れずにみんな持ってっておくれよ、トム。あとは、あたしが始末するからね。胡椒《こしょう》と塩とナツメッグの大缶《おおかん》と、それにおろしと、あたしはいちばんしまいに、これだけ運ぶからね」彼女はランタンを取りあげ、ゆっくりと寝室へはいって行った。彼女の裸の足は、床に何の物音も立てなかった。
説教師が言った。「おっ母は疲れてるようだ」
「女って、いつも疲れてるもんだよ」とトムは言った。「いつもそんなふうなんだ。たまの集会《あつまり》のときのほかはね」
「うん、だけど、そんな疲れ方じゃねえぜ。ほんものの疲れだ。まるで病気の疲れみてえだ」
母親は、ちょうど戸口のところを通りかけていた。そして彼の言葉を耳にした。徐々に彼女のゆるんだ顔が引きしまった。顔の皺《しわ》が、その逞《たくま》しく肉のしまった顔から消えた。目が鋭くなり、肩がしゃんとなった。彼女は、何もなくなった寝室を、ちらとながめた。紙屑《かみくず》のほかは何も残っていなかった。床にあったマットもなくなっていた。箪笥《たんす》は売ってしまった。床には折れた櫛《くし》と、からの粉白粉《こなおしろい》の缶と、そして幾匹かの二十日鼠《はつかねずみ》が残っているだけであった。彼女は椅子《いす》の代用に使っていた箱のうしろに手を伸ばして、古びてよごれ、角の割れた貴重品箱を取りだした。腰をおろして、その箱を開いた。なかには手紙類、切抜きの束、写真、一組のイヤリング、小さな金の結婚指輪、お下げ髪のように編んで端に金の輪のついている時計鎖などが、はいっていた。指で手紙類にさわってみた。それを、そっと撫《な》でた。そして、トムの裁判記事がのっている新聞の切抜きを、そっと引きのばした。長いあいだ、彼女は、じっとそれに見入りながら箱を持っていた。彼女の指が手紙類をかきまわした。それから、またちゃんと元どおりにそろえた。彼女は考えにふけり、追憶にひたりながら下唇を噛《か》んだ。やがて、ついに心をきめた。指輪、時計鎖、イヤリングなどを取りだし、紙束の下を探って金の腕輪を一つさがしだした。一つの封筒から手紙を抜きだし、この貴重品類を空封筒に入れ、封筒を折って、それを服のポケットにおさめた。それから、丁寧に、静かに、箱を閉じ、指でそっとその上を撫でた。彼女の唇が、すこし開いた。それから立ちあがり、ランタンをとって、台所へ戻《もど》った。ストーブの蓋《ふた》をあげ、燃える石炭のあいだに、そっと箱をおいた。たちまち熱が、まわりの紙を褐色《かっしょく》にし、炎が箱のまわりをなめた。彼女は蓋を元に戻した。すぐに火は、かすかな音を立てて箱の上に燃えはじめた。
暗い庭のなかでは、父親とアルがランタンの光の下でトラックに荷を積みこんでいた。底のほうには道具類をおいた。ただし何か故障の場合にはすぐ取りだせるようにあんばいした。つぎに衣類の箱や麻袋に入れた台所道具を積んだ――箱に入れたナイフや皿類も、そこへ積みこんだ。それから後部に一ガロン入りのバケツを結びつけた。この荷物全部を、できるだけ平らに積んだ。そして箱と箱の隙間《すきま》には毛布を詰めた。それから、平均に平らになるように、その上にマットをおいた。最後に大きな防水布をその上にひろげ、アルが端のほうへ二フィート間隔に穴をあけ、細い紐《ひも》を通して、それをトラックの側板にしばりつけた。「もし雨が降ったら」と彼は言った。「これを上の横木に結べばいい。そして、その下にはいってればぬれずにすむわけだ。前の席は、はじめからぬれねえから大丈夫だ」
父親がほめた。「そいつはいい考えだ」
「そればかりじゃねえだ」とアルは言った。「うまく長い板が見つかったら、そいつを横に渡そうと思うだ。そうして、その上から防水布をかぶせて屋根にすれば、日にもあたらねえですむだからね」
父親は、それに同意した。「そいつは、いい考えだ。なんで、もっと早く、そいつを考えつかなかっただ?」
「暇がなかっただよ」
「暇がなかっただと? おい、アル、だって、おめえは、この地方一帯をうろつきまわるだけの暇があったじゃねえか。この二週間ばかり、いったい、どこをうろついてただ」
「男ってものは、自分の故郷を離れるときにゃ、いろいろとやることがあるもんだて」とアルが言った。それから彼は、いくらか自信をなくしたらしく、「お父っさん」と言った。「お父っさんは、よろこんで出かけるのかい?」
「うん? ああ――もちろんさ。すくなくとも――そうよ。ここじゃ、わしら、えらい目にあっただもんな。向うへ行きゃ、きっとこことはちがうだ――仕事も、うんとあるだ。それに、何でもみな、うまくいくだし、小さな白い家へ落ちつけるというもんだ。まわりにはオレンジの木があってよ」
「あたり一面、みんなオレンジなのかい?」
「そりゃ、どこも一面というわけじゃあるめえさ。しかし、そこらにいっぱいあるだよ」
夜明けの最初のうす明りが空に漂いはじめた。そして仕事は終った――豚肉の樽《たる》もできたし、鶏籠《とりかご》も屋根にのせるばかりになっていた。母親は窯《かま》を開けて焼いた豚の骨を取りだした。茶色に縮れていて、かじりとる肉が、たくさんくっついていた。ルーシーは半ば目がさめそうになって、箱からずり落ち、ふたたび眠りこんだ。しかしおとなたちは戸口にたたずんだ。すこし寒さに震えながら、ぱりぱりした豚肉をかじった。
「じいさまとばあさまを起さなきゃなるめえ」とトムが言った。「明るくなってきたでな」
母親が言った。「起したくないよ。ほんとに起すときがくるまではね。じいさまたちには眠りが必要なんだ。ルーシーやウィンフィールドも、ほとんど寝《やす》まなかったようだしね」
「なあに、道路へ出てから、いくらでも眠れるだよ」と父親が言った。「荷物の上でだって、いい気持で、よく眠れるさ」
突然犬どもが埃のなかから立ちあがって耳をたてた。そして、つぎには唸《うな》りながら闇《やみ》のなかへ走りこんだ。「どうしたんだい、いったい?」と父親が言った。と、すぐに彼らの耳へ、吠《ほ》える犬どもをなだめる声が聞え、吠え声は、やや鎮《しず》まった。それから足音、そして一人の男が近づいてきた。ミューリー・グレーブズだ。帽子を目深にかぶっていた。
彼は、おずおずと近づいてきた。「みなさん、おはよう」と彼は言った。
「やあ、ミューリー」父親は手にしていた豚の膝骨《ひざぼね》を振った。「こっちへはいって、すこしばかり豚肉をやんなよ」
「うん、いや」とミューリーは言った。「おいら、腹へってねえだよ」
「まあ食べなよ、ミューリー。食べなよ、さあ!」そして父親は家のなかにはいって行って肉のついた肋骨《ろっこつ》を持ってきた。
「おいら、おめえさんがたのものを食べるためにきたんじゃねえだ」と彼は言った。「このあたりを歩いてるうちに、おめえさんがたは、どんなあんばいだかと、ちょっとそれが気になったもんだからね。それに、ひとこと、お別れでも言おうかと思ってね」
「もうすこししたら出発するところだよ」と父親が言った。「もう一時間遅くきたら、わしたちと会えなかったぜ。すっかり積んじまっただよ――ほら、な」
「なるほど、すっかり積んじまっただな」ミューリーは荷物を積んだトラックを見あげた。「おいらも、ときどき出かけて行って家族を見つけてえと思うことがあるだよ」
母親がきいた。「カリフォルニアから何か便りでもあったかね?」
「いんや」とミューリーは言った。「何も便りを聞かねえだ。だけど、おいらのほうでも郵便局へは顔を出さねえだからね。いずれ行ってみなくちゃなるめえと思ってるだ」
父親が言った。「アル、行ってじいさまとばあさまを起してきな。早くきて食べるようにと言ってな。もうすこししたら出発するだから」そしてアルが納屋《なや》のほうに歩きだすと、「ミューリー、おめえも、わしらの仲間にはいっていっしょに行かねえだかね? なんとか、おめえの坐る場所くらい、つくるぜ」
ミューリーは肋骨の端から肉を一かじりかじり取って、それを噛んだ。「ときどき、おいらも、そうしようかと考えるだよ。でも、自分でも、おいらはそうはしねえだろうと知ってるだ」と、彼は言った。「死ぬときまで墓場の老いぼれ幽霊みたいに逃げかくれするだろうってことを、おいら、自分でよく知ってるだよ」
ノアが言った。「ミューリー、あんたはいまに畑のなかで、のたれ死ぬことになるだぜ」
「知ってるだよ。それも考えただ。ときには、寂しい気のするときもあるし、またときによって、それもいいじゃねえかとも思えるし、ときには、それがいいことだという気もするだよ。まあ、どっちだって変りはねえだがね。しかし、もしおいらの家族と会うようなことがあったら――実は、それを頼みにここへきたわけだが――もしカリフォルニアで、おいらの家族の誰《だれ》かに会ったら、おいらが丈夫でいると伝えてくんなよ。元気でやってるとね。おいらが、こんなふうに暮してるなんてことは言わねえでくれ。こう言ってくれ、おいらも金ができしだい、すぐそっちへ行くとな」
母親がきいた。「ほんとにあんたは、そうするつもりなのかい?」
「いんや」とミューリーは小さな声で言った。「いんや、そんなつもりはねえだよ。おいらは立ちのけねえだ。いまは、どうでもここにがんばらなくちゃならねえだ。もっと以前だったら出かけちまったかもしれねえだけどね。だけど、いまはちがうだ。人間ってものは考えるようになるだ。知るようになるだ。おいらは、けっして行かねえつもりだよ」
暁の光は、いま、ややその強さを増してきた。それはランタンの光をほの白くした。じいさまが片足を引きずりながら、アルといっしょに出てきた。「じいさまは眠ってなかっただよ」とアルが言った。「納屋のなかで坐ってただ。なんだか、どっか悪いみてえだったぜ」
じいさまの眼《め》は、澱《よど》んでいて、例の意地悪げな光が、まったく影をひそめていた。「わしは、どうもしてやしねえだ」と彼は言った。「ただわしは行かねえつもりだ」
「行かねえって?」と父親が問いかえした。「行かねえって、どういうつもりだかね? ほれ、もうこのとおり荷物も積んじまっただぜ。行かなきゃなんねえだよ。わしらにゃ、もういるところなんぞねえだでね」
「おめえもここにいろとは言ってやしねえだ」とじいさまは言った。「おめえは、いくらでも行くがいいだ。わしじゃよ――わしが、とどまるんじゃ。ゆうべほとんど一晩じゅう考えただ。ここは、わしの故国《くに》じゃ。わしはここの人間じゃ。だから、向うにゃ人間の寝るところもないほどオレンジや葡萄があるにしても、わしは、いやじゃ。行かねえだよ。この土地は、よくねえ土地だ。でも、これはわしの故国《くに》じゃ。わしは、いやじゃよ。おめえたちは、みんな行くがええだ。わしは、この自分の土地にとどまるんじゃ」
彼らはじいさまのまわりに集まった。父親が言った。「とどまることができねえんだよ、じいさま。ここの土地はトラクターの下になっちまうだ。誰が、おめえさんに料理つくってくれるだ? どうやって暮すだ? ここにゃ住むことはできねえだよ。世話してくれるものもいねえだで、じいさまは飢え死んじまうだ」
じいさまは叫んだ。「何をいうだ。そりゃ、わしは老いぼれさ。だが、まだ自分の世話ぐらいできるだぞ。このミューリーは、どうやって暮してるだ? わしだって、ミューリーに負けねえくらいのことはできるだ。わしは行かねえぞ。おめえたちが怒ったって、仕方がねえだ。もしそうしてえのなら、ばあさまも連れて行くがええだ。だが、わしを連れて行くのはやめにしてくれ。わしの言いてえのは、それだけだ」
父親は思いあまったように言った。「なあ、じいさま、ようく聞いてくんなよ。ちょっとでいいから聞いてくんなよ」
「聞かねえだよ。わしがしようと思うことは、もう言っちまっただからな」
トムが父親の肩に手をかけた。「お父っさん、家へはいってくんねえだか。ちょっと話すことがあるだ」
そして、二人で家のほうに歩いて行きながら、彼は声をかけた。「おっ母――ちょっときてくれねえだか」
台所には灯火が一つ燃えていた。そして豚の骨が皿《さら》にまだうずたかく積みあげられていた。
トムが言った。「ちょっと聞いてもらいてえだ。じいさまが行かないと言いだす気持、おれには、よくわかるだ。だけど、ここにとどまっていられるもんじゃねえ。それはわかりきってるだ」
「そうだとも、とどまれっこねえだよ」と父親も言った。
「それでだ、いいだかね、もしおれたちがじいさまをとっつかまえて、しばりあげたりすれば、けがをさせねえともかぎらねえだし、じいさまは腹をたてすぎて自分でけがするかもしれねえだ。といって、いまじいさまを説き伏せることもできねえだ。だからこの際、じいさまを酔いつぶしちまったら、うまくいくと思うだ。ウイスキー持ってるだかね?」
「いんや」と父親が言った。「この家のなかには、ウイスキーなんて一滴もねえだ。それにジョンも持ってねえだ。飲まねえときのジョンときたら、まるっきり酒に縁がねえだでな」
母親が言った。「トム、たしかウィンフィールドが耳痛《みみいた》を起したときに使った鎮静液が壜《びん》に半分くらいあるはずだよ。あれじゃ役にたたないかね? 耳痛がひどいとき、いつもウィンフィールドを眠らせるのに使ったのだよ」
「役だつかもしれねえな」とトムが言った。「おっ母、そいつを出してくんなよ。とにかく、ためしにやってみるだ」
「屑籠《くずかご》へ捨てちまったけど」と母親が言った。そして灯火を取りあげて出て行った。すぐに右の手に黒い薬液が半分はいっている壜を持って戻ってきた。
トムは、それを手に取って味をためした。「悪くねえ味だて」と彼は言った。「ブラック・コーヒーを一杯つくってくんなよ。甘くて強いやつを。なんだって――スプーン一杯だって? いや、もっとうんと入れたほうがいいだ。大さじ二杯入れるだ」
母親はストーブをあけてコーヒー沸しをなかへ入れ、火のそばへおいた。それから水とコーヒーをそのなかへ計りこんだ。
「じいさまに空缶《あきかん》で飲ませなくちゃならないよ」と彼女は言った。「コップはみんな包んじまったからね」
トムと父親は外へ出て行った。「人間は誰でも自分のやりてえと思うことをいう権利があるんじゃ。おや、誰があばら肉を食っちまったんじゃ?」じいさまが言った。
「おれたちが食ったんだよ」とトムが言った。「おっ母が、いま、じいさまにコーヒーと豚肉を用意してるだ」
老人は家のなかにはいって行き、コーヒーを飲み、豚肉を食べた。明るんでゆく暁の戸外にいる人々は、戸口から静かにじいさまを見まもっていた。じいさまは、あくびをして、大きく伸びをした。そして彼らの目には、じいさまがテーブルに両腕をのせて、それに頭をのせ、眠りこんでゆくのが見えた。
「じいさまは、いつも疲れてるだ」とトムが言った。「そっとしとこう」
いまや彼らの用意は整った。ばあさまは、とまどいし、あきれたように言った。「なんだね、これは、まあ。こんな朝早くから、何をやってるだね?」しかし、ばあさまは、ちゃんと服も着ているし、ものわかりもよかった。ルーシーとウィンフィールドが目をさました。しかし疲れと半ば夢心地とで静かだった。光が地上を足早におおいはじめた。そして家族たちが動くのをやめた。出発のために動く最初の動作をためらう気持で、ぼんやり立っていた。いま出発のときはきているのだが、彼らは恐れていた――祖父が恐れたのと同じような恐れを感じていた。彼らは小屋が光を背にくっきりと浮き出てゆくのを見た。灯火の光がうすれて、黄色い光の輪を失ってゆくのを見た。星は、すこしずつ西の空で消えてゆく。それでも、まだ家族たちは、夢遊病者のように、ぼんやりと立っていた。目は遠くへと見開かれ、細かなものは見ず、ただあたりの暁を、一帯の土地を、この田舎の起伏のすべてを、一どきに見まもっていた。
ただミューリー・グレーブズだけは落ちつきなく動きまわり、側板のあいだからトラックのなかをのぞいたり、トラックの背後にかかっている予備のタイヤを指でたたいたりしていた。そして、ついに彼はトムのほうに近づいてきた。「おめえは州境を越す気か?」と彼は言った。「仮釈放の誓約を破るつもりか?」
トムは、自分の麻痺《まひ》状態を、はっと、ふりはらった。「おや、おい、もう日の出が近いぞ」と彼は大声で言った。「出かけなくちゃならねえぜ」他の連中も麻痺状態から抜けだし、トラックのほうに動きだした。
「行こう」トムが言った。「じいさまを乗せるだ」父親とジョン伯父とトムとアルが、じいさまが眠っている台所へはいって行った。じいさまは頭を腕にのせて眠っていた。テーブルの上には乾きかかったコーヒーの流れが一筋ついていた。彼らはじいさまの腋《わき》の下に手を入れ、脚を持ちあげた。じいさまは酔いどれのように、ぶつぶつと悪態をついた。戸口から出ると、彼らはじいさまの体を高く担《かつ》ぎあげた。そしてトラックまでくると、トムとアルがよじのぼり、前かがみになって、じいさまの腋の下に手を入れて、そっと引きあげた。そして荷物の上に寝かした。アルが防水布をほどいた。そして、みんなでじいさまをその下に入れ、重みがかからないように、そのそばへ箱を一つおいてから、上へ防水布をかぶせた。
「あの支柱を取りつけなくちゃ」とアルが言った。「今夜、車がとまったら、やることにしよう」
じいさまは何かつぶやき、目をさまそうと力なくもがいた。そして、すっかり寝場所へ落ちつかされると、ふたたび深い眠りに落ちてしまった。
父親が言った。「おっ母、おめえとばあさまは、しばらくアルといっしょに前へ乗んな。いずれみんなで交替して行くだで、とにかく最初はその順でやろう」二人は運転席にはいった。ついで、あとのものが荷物の上によじのぼった。コニーと『シャロンのバラ』、父親とジョン伯父、ルーシーとウィンフィールド、トムと説教師。ノアは地面に立ってトラックの上に坐っている人間の大荷物を見あげていた。
アルはスプリングの下をのぞきながら、車のまわりを調べて歩いた。「おどろいたな」と彼は言った。「このスプリングは、てんでしなわねえだ。下に突っかいを入れといてよかったよ」
ノアが言った。「お父っさん、犬どもはどうするだ?」
「ほんとだ。犬を忘れてたよ」と父親が言った。彼は鋭く口笛を吹いた。すると一匹がはねながら駆けこんできた。しかし一匹だけしかこなかった。ノアが、そいつをつかまえて上にほうりあげた。荷の上で、犬は、体をかたくして、高さに震えながら坐った。「ほかの二匹は残して行くしかねえだな」父親が声をかけた。「ミューリー、あとの犬どものめんどうをみてやってくれねえだか。飢え死になんぞしねえようにな」
「いいとも」とミューリーは言った。「ちょうどおれも犬を二匹ほど飼いてえと思ってたとこだ。いいとも! めんどうみるだよ」
「鶏もな」と父親は言った。
アルが運転席にはいった。スターターが小さくうなってとぎれ、またうなった。それから六気筒の空転するうなりがすると後尾に青い煙を吹きだした。「あばよ、ミューリー」とアルが言った。
そして家族たちが声をかけた。「さよなら、ミューリー」
アルが第一ギヤを入れてクラッチを離した。トラックは身をふるわせ、庭を横切って動きだした。第二ギヤを入れた。彼らは小さな丘を這《は》いあがった。赤い砂塵《さじん》が、まわりに巻き起った。
「ちえっ、なんてえ荷物だい!」とアルが言った。「この旅は、とても早くは行けそうもねえや」
母親は、うしろを見ようとした。しかし荷物の山で背後は見えなかった。彼女は頭をしゃんと立て、埃《ほこり》だらけの道が伸びている前方を見つめた。大きな疲れが、その目に宿っていた。
荷物の上にいる人たちは、ふりかえる必要がなかった。彼らは、家を、納屋を、そして、まだ煙突から立ちのぼっている細い煙を見た。太陽の最初の光に赤らんでゆく窓を見た。ミューリーが戸口の庭にぽつんと立ってこちらを見ているのが見えた。やがて丘が、それらの風景を遮断《しゃだん》した。綿花畑が道路のまわりに並んでいた。そしてトラックは土埃のなかを国道のほうへ、西のほうへと、のろのろと這って行った。
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第十一章
家々は、うつろなまま、地面の上にとり残された。そして土地も、その結果、うつろなものとなった。ただブリキ張りのトラクター小屋だけが、銀色にかがやいており、そしてそれらは、金属とガソリンと油、輝く円盤鋤《えんばんすき》などで活気づけられていた。どのトラクターも、さまざまな輝きをもっていた。なぜならトラクターには昼も夜もなかったし、トラクターと円盤鋤は、闇《やみ》のなかでも大地を掘り起し、そして、ぴかぴか光るからだ。馬が仕事をやめて納屋《なや》にはいると、そこには生命と活力が漂った。鼻息があり温かみがあった。脚は、わらの上を踏み、顎《あご》は干し草をはみ、そして耳と目は生きていた。納屋のなかには、生命の温《ぬく》み、生命の熱と匂《にお》いがあった。しかしトラクターのモーターがとまったとき、それは精練される以前のすがたである鉄鉱石とまったく同様、死んだものでしかなかった。ちょうど生命を保つ熱が死体から去るようにエンジンの熱が消え去るのだ。それからブリキ張りの扉《とびら》がしめられる。そしてトラクターの運転手は、町まで、たぶん二十マイルも、車を走らせて帰る。それでもう彼は、数週間か数カ月のあいだ、戻《もど》ってくる必要がない。なぜならトラクターは死んでいるからだ。そして、それは楽な能率的な仕事だった。あまりに楽なので、仕事の持つ驚異の気持が抜け去ってしまった。あまりに能率的なので、土地のもつ、また土地の働きがもつ驚異など消えてしまうのだ。そして、そのような驚異の心とともに、深い理解や親しみの心も消えてゆくのである。そしてトラクター運転手の心には、そんな理解も親しみもない人間にだけ湧《わ》く軽蔑《けいべつ》心が生れる。燐酸塩《りんさんえん》は土地ではない。硝酸塩も土地ではない――そして綿花のなかの繊維の長さも土地ではないからだ。炭素は人間ではない。塩も水もカルシウムも人間ではない。人間とは、それらの総合だ。いや、それ以上の何かだ。それ以上なのだ。そして土地は、その分析結果以上の何かだ。化学体以上の何かである人間、大地を歩き、鍬《くわ》の先を石につき当てたり、つき出ている岩層を平らにするために両手を痛めたり、昼食を食うために地にひざまずいたりする人間――彼を成立せしめている諸要素以上のものであるその人間は、土地がその分析結果以上のものであることを知っている。しかし機械の人、土地の上に生命のないトラクターを運転する人間は、それを知りもせねば愛しもせず、ただ化学だけしか理解しない――そして彼は、土地に対しても、自分自身に対してすら、軽蔑的である。ブリキ張りのドアが閉じられると、彼は家に帰る。そして彼の家は土地とは別ものなのだ。
空家の扉が、ばたんと開き、風のなかで前後に揺れる。小さな子供たちの一隊が町からやってきて窓ガラスを破る。そして残骸《ざんがい》のなかを何か宝物はないかとさがして歩く。そこに半分刃の欠けたナイフがある。こいつはすごく上等だぞ。それから――まるで鼠《ねずみ》が死んだみたいな匂いだな。ほら、見ろよ、ホワイティのやつ、壁に、こんないたずら書きをしてやがる。やつは、これと同じようなことを学校の便所にも書いて、先生に洗わされたんだぜ。
家族たちが、ここを離れ、そして最初の日の夕暮れがきたとき、うろついていた猫《ねこ》どもが畑から戻ってきて、ポーチのところで鳴き声をあげた。そして誰《だれ》も出てこないので、戸口を抜け、鳴きながら空いた部屋を通り抜けて行った。それから、ふたたび畑のなかへはいって行った。その後は野良猫になってしまって、地鼠や畑鼠を追いまわし、昼間は溝《どぶ》のなかで眠るようになる。夜がくると、蝙蝠《こうもり》どもが、光を恐れ戸口のところで一度とまってから、家々のなかに飛びこみ、空いた部屋部屋を飛びまわる。そして、すこしたつと、昼のあいだだけ暗い部屋の片すみにとまっている。羽を高く折り、棟木《むなぎ》から逆さまにぶらさがっているのだ。やがて、蝙蝠どもの糞《ふん》の匂いが部屋のなかに漂いはじめる。
そして二十日鼠が動きまわって、部屋のすみっこだの、箱のなかだの、台所の引出しの奥だのに雑草の実を貯《たくわ》える。鼬《いたち》が二十日鼠を捕えにやってくる。褐色《かっしょく》の梟《ふくろう》が叫びながら飛びこんできては、また出て行く。
すると小さな驟雨《しゅうう》がくる。雑草が、昔ならけっして生えることを許されなかったであろう戸口の踏石の前に生え出す。草はポーチの板敷のあいだから生長する。家々は、からっぽだ。そして、からっぽの家は急速に崩れ落ちる。壁板には錆《さ》びた釘《くぎ》のところから割れ目が走る。土埃が床を埋める。そして、それを乱すのは、ただ二十日鼠と鼬と猫の足あとだけだ。夜になると、風が一枚の屋根板を揺さぶり、地面に吹き落す。つぎの風が、前の屋根板があけた穴からもぐりこんできて、こんどは三枚ほど引きはがしてしまう。つぎの風は十二枚はぎ取る。真昼の太陽が穴から下へ照りつけ、きらめく明るい円を床の上に投げる。夜になると野良猫どもが畑から這《は》いこんでくる。しかし彼らはもう戸口のところで鳴かない。まるで月を横ぎる雲の影のように、二十日鼠を追って部屋部屋を動きまわる。そして風のある夜は戸口がばたんばたん音を立てる。ぼろのカーテンが破れた窓のそばではためく。
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第十二章
第六十六号国道は移住幹線道路である。第六十六号――内陸を横断する長いコンクリートのこの道は、地図で見ると、上下にゆるやかにくねって、ミシシッピーからベイカーズフィールド市にいたるが――赤い土地と灰色の土地を越え、山脈へとよじのぼり、分水嶺をよぎって、日の照りつける恐るべき砂漠《さばく》にくだり、さらに砂漠を越えて、ふたたび山脈にはいり、そして豊饒《ほうじょう》なカリフォルニアの渓谷へとはいってゆく。
第六十六号は逃亡する人たちの道である。土埃《つちぼこり》と荒廃の土地から、咆哮《ほうこう》するトラクターと衰微する所有権から、南からゆっくりと侵入してくる砂漠から、テキサス州から吠《ほ》え立ててくる嵐《あらし》から、土地に何の豊かさももたらさず、かえってそこにあるわずかな財産を奪う洪水《こうずい》から、避難する人たちの道だ。こうしたすべてのものから人々は逃げだしてくるのだ。そして彼らは第六十六号国道へと、小さな枝道から、馬車道や轍《わだち》だらけの田舎道から、集まってくる。第六十六号国道はマザー・ロード(母なる道)だ。逃亡の道路だ。
東隣のアーカンソー州からは六十四号道路がクラークスビル、オーザーク、ヴァン・ビューレン、フォート・スミスへと通じている。そこがアーカンソーの末端だ。そしてオクラホマ州の州都オクラホマ市へと、すべての道路が集まってくる。北東のタルサ市からは六十六号がくだってくる。南東のマカレスター市からは二百七十号がのぼってくる。南ウィチタ・フォールズ、北イーニッド市からは八十一号がのぼってくる。エドモンド、マクロード、パーセルの各地、それからオクラホマ市にはいり、六十六号道路を西へ行くと、やがてエル・リーノとクリントンである。さらに六十六号を西へ進む。ハイドロ、エルク・シティ、それからテキソーラ、そしてここがオクラホマ州の末端だ。六十六号は、やがてテキサス州のパンハンドルを横ぎり、シャムロック、マクリーン、コーンウェーをすぎてアマリーロ市に行く。黄塵の町である。それからテキサス州の北部をわずかにかすめてウィルドラード、ヴェガ、ボイシの町をすぎる。ここでテキサス州は終りだ。トーカムキャリ、サンタ・ローザとすぎ、やがてニュー・メキシコの山岳地帯を横ぎってアルバカーキに達し、ここで北のサンタ・フェからくだる道路と合している。それからリオ・グランデの渓谷をくだってロス・ルーナスへ、そして、ふたたび六十六号国道を西へ進むとギャラップ市、そしてそこがニュー・メキシコ州の州境である。
ここへくると高い山々がそびえ立っている。アリゾナ州の高い山岳地帯にあるホルブルック、ウィンズロー、フラグスタッフの町々。やがて巨大な波のうねりのように起伏する広大な高原。アシュフォーク、キングマンの町々。そして、ふたたび岩石の山々。ここでは飲用水を山から運んでこなければならず、それを買わなければならない。やがてこのアリゾナ州の陽光にふやけたような荒れた山々から出ると、岸に緑の葦《あし》が生えているコロラド渓谷へ出る。アリゾナ州は、ここで終る。この河を一つ越えるとカリフォルニアだ。そして、まず小ぎれいな町を一つすぎる。ニードルズである。この町は、川に沿っている。しかし、この川とは、ここですぐにそっけなく別れてしまう。ニードルズから北上し、荒涼たる地帯を越えると、そこは砂漠だ。第六十六号国道は、この恐ろしい砂漠を横断する。そこには、はるかなかなたにきらめく光と、耐えがたいほど遠くに浮ぶ黒い中央山脈の影があるばかりである。だが、ついにバーストーへ着く。さらに砂漠を越えて行くと、ついに、またしても山々がそそり立ちはじめる。緑濃い山々。そして第六十六号は、そのあいだを縫って進む。やがて不意に一つの峠《とうげ》にさしかかる。そこに立つと、眼下に美しい渓谷を、そして果樹園と葡萄園《ぶどうえん》と小さな家々を見おろし、はるか向うに一つの都市を望む。そして、ああ、ついに、この長い道中も、やっと終りになるのだ。
逃亡する人々は第六十六号国道へと流れこむ。ときには単独の車で、ときには一隊となって。一日じゅう彼らは、道路をゆっくりと走る。そして夜になると水の近くに泊る。昼間は古ぼけてうめくラジエーターが、幾本もの蒸気の煙を空へふきあげる。ゆるんだコネクティング・ロッドが悲鳴をあげ、あえぐ。そして、トラックや荷を積みすぎた乗用車を運転して行く男たちは、心配げに、その音に耳を傾ける。町と町との距離は、どれくらいあるんだろう? 町と町とのあいだが心配なのだ。もし何かが故障したら――ああ、もしどこかが故障したら、おれたちは、その場でキャンプして、ジムが町まで歩いて行って部品を買って帰ってくるまで待ってなければならねえのだ――ところで食糧は、どれくらいあったっけ?
モーターの調子を聞きのがすでねえぞ。車輪の調子もな。自分の耳と、ハンドルにかけた自分の手とで感じとるだ。チェンジ・レバーにあてた自分の手のひらで感じとるだ。床板を踏む自分の足で感じとるだ。全感覚を使って、あえいでるこのぼろ自動車の調子を感じとるだ。なぜといって、調子の変化ひとつ、リズムの変り方ひとつだって、何かの徴候かもしれねえからだ――ここが悪いのかな? あの音は――あれはタペットだて。なに一つこわすでねえぞ。タペットが鳴るのなんぞ、ちっともかまやしねえだ。だが車が走ってるときに鳴るあの重くるしい音は――耳じゃ聞えねえだよ――なんとなく感じられるだけさ。たぶんオイルが、どこかで、つっかえてるんだろう。それともベアリングがだめになりはじめてるのかな。やれやれ、ベアリングだとしたら、どうしたらいいだ? 持ち金が、すぐにふっとんじまうぜ。
それに、いったいきょうは、何でこんなにエンジンが焼けるだ? ここは坂道でも何でもねえのによ。見てみよう。あれ、くそっ、ファン・ベルトが切れてやがる! さあ、このロープを切ってベルトをつくるだ。ええと、どれくらいの長さだい――うん、それくらいだ。おれが端を撚《よ》り合せるだでな。さあ、そっと走らせなよ――そっとな。町へ着くまではよ。あのロープのベルトは長持ちしねえだからな。
ああ、この古ぼけたキャブレターが破裂しねえうちに、なんとかオレンジのなるカリフォルニアへ着きてえもんだ。カリフォルニアへ行けさえすりゃな。
それに、タイヤもだ――ゴムが二枚もすり切れちまってるぜ。こいつは、たった四重層のタイヤだで。石にぶっつけてパンクさえしなきゃ、あと百マイルは走れるだにな。どうするだ? ――百マイルか、それとも、このチューブをだめにするか? どっちにするだ? 百マイルのほうか。だけど、こいつは、ようく考えなきゃならねえこったぜ。このチューブは修繕のつぎ当てだらけだでな。このまま行くと、たちまちパンクしちまうかもしれねえだぞ。どうだい、当てゴムをあてたら? ひょっとすると、あと五百マイルくらい、もつかもしれねえぞ。だめになるまで行こうや。
タイヤを一つ買わなくちゃならねえな。だけど、くそっ、やつら、古タイヤに、えらく吹っかけやがるだでな。人の足もとをみやがるだよ。おれたちが旅をつづけなくちゃならねえことを知ってやがるだ。こっちが待てねえことを知ってやがるだ。だもんだから、値段をつりあげるだ。
買わねえんなら、買わなくてもいいんですぜ。わしは保養のために商売してるんじゃないからね。わしはここでタイヤを売ってるんだ。ただ同様でやるわけにゃいかないよ。おまえさんがたが、どうなろうと、わしにゃ、どうしようもないよ。自分の頭の蠅《はえ》を追わなきゃならないからね。
つぎの町まで、どれくらいあるだね?
きのうは、おまえさんたちみたいな人間を乗っけた車を四十二台も見かけたよ。いったい、おまえさんたちは、どこからくるのかね? みんなどこへ行こうというのかね?
なんしろカリフォルニアってのは大きな州だでな。
なあに、そんなに大きくはねえぜ。合衆国全体だって、そんなに大きかねえだ。余裕があるほど大きくはねえさ。おまえさんやわしや、おまえさんの家族やわしの家族たち、貧乏人や金持が、みんな一つの国で暮せるほどの余裕はねえだ。盗人《ぬすっと》や正直者、腹のへった者や腹の肥《ふと》った者を、みんないっしょに住まわせられるほどの余裕はな。もとの土地へ戻ったほうがいいんじゃねえか?
この国は自由の国だで。誰だって行きてえところへ行けるだ。
それは、おまえさんの|考え《ヽヽ》だ! カリフォルニアの州境には監視人がいるのを知ってるかい? ロサンゼルスからやってきた警官さ――おまえさんたちみてえな連中を押しとどめて追いかえしちまうんだ。ちゃんとした土地を買う金がないやつには、きてもらいたくねえというんだ。それに、運転免許証を持ってるか、どれ見せてみな、と言って、そいつを取りあげて破いちまうんだ。そして、運転免許証がなければはいっちゃいけねえってぬかしゃがるだ。
ここは自由の国だぞ。
まあ、自由かどうか、やってみなよ。連中はいうぜ、おまえたちは払いができる範囲内でだけ自由なんだ、とな。
カリフォルニアじゃ賃金が高いそうだぞ。ほら、このビラにそう書いてあるだ。
あほくさい! わしは引っかえしてきた連中に会ってるんだ。おまえさんたちは、誰かに、だまされてるんだ。おまえさんは、そのタイヤ、ほしいのかね、ほしくないのかね?
買っていかなきゃならねえだよ。だけど、買うと、おれたちの金は、えらく|へず《ヽヽ》られちまうだでな。もうあんまり残っちゃいねえだ。
わしは慈善品をならべておくわけじゃないんだ。ぜにを出して買ってってもらいたいな。
買っていかなきゃならねえだろうな。ちょっと調べさしてくれ。なかをあけて、チューブを見せてくれ――ちきしょうめ、チューブは大丈夫だと言ったじゃねえか。まるで破れかかってるだぞ。
そんなことはねえはずだがな。ふうん――こいつは変だ! どうしてこれに気がつかなかったかな。
この野郎、気がついてたくせに。おめえは、こんな破れチューブに四ドルも吹っかけやがっただな。いっそ、おめえをなぐりたおしてやりてえだ。
まあ、そう怒るなよ。気がつかなかったんだからさ。じゃ――こうしたらどうだい。三ドル半で、こいつを売ってやろうじゃないか。
勝手にしやがれ! つぎの町まで行ってみるだ。
だけど、あのタイヤで行けるかね?
やってみなきゃならねえだよ。こんな野郎に十セントだってやるよりは、あぶなくてもやってみるだ。
商売人ってやつを、おめえは、どう思うかね? まったく、やつが言ったように、やつらは保養がてら商売してるんじゃねえだ。商売《ビジネス》って、ああいうもんなんだ。おめえは、どういうものだと考えてただ? やつらは、いくらでもふんだくるだ――ほら、あそこの道ばたにある看板を見なよ。「サービス・クラブ」――火曜はホテル・コルマドで午餐《ごさん》会、みなさんを歓迎。あれがサービス・クラブってやつさ。ところで、こんな話があるぜ。ある男が、そういうサービス・クラブへ行ってよ、そこの会員の商売人連中の前で言ったとさ。わしが子供のとき、親父《おやじ》がわしに、つながれた雌牛を渡して、こう言っただ。こいつを連れてってサービスしてやんな。そこでわしはサービスしてやっただ。さて、それ以来というもの、わしは、商売人がサービスのことを話してるのを聞くたびに、こんどは誰が絞り取られるんだろうと考えるようになっただよ。――商売してる人間は、嘘《うそ》をついて、ごまかさなくちゃ、仕事にならねえだよ。それを別の言葉で言ってるだけさ。そこが要点だて。たとえば、こっちがタイヤを盗めば泥棒《どろぼう》だ。だが向うでは、破れタイヤで、こっちの四ドルを盗もうとするだ。そして、それを商売人は、りっぱな商売だと言ってるだ。
後部席のダニーが水一杯ほしいとよ。
待ってくんろ。ここには水がねえだでな。
聞いてみなよ――あれは、うしろのか? わからねえな。フレームから音の信号だぜ。
ギャスケットが一つだめになってる。さきへ行かなきゃならねえっていうのに。うなり工合を聞いてくれ。どこかキャンプするいい場所を見つけよう。エンジン・フードを、はずしてみるさ。だけど、食糧がなくなってきたぜ。金もなくなってきただ。これでガソリン買う金がなくなったら、どうするだ?
後部席のダニーが水がほしいとよ。子供連中は咽喉《のど》がかわいてるだ。
あのギャスケットの音を聞きなよ。
あれ! ちきしょう! チューブとケーシングが、みんなパンクしやがった。直さなくちゃなんねえだ。そのケーシングは当てゴム用にとっておくだ。そいつを切って弱い場所にはりつければいいだよ。
道ばたにとまった車の群れ、はずされたエンジン、継ぎはぎだらけのタイヤ。
傷ついたもののように、あえぎ、苦闘し、びっこを引きながら第六十六号国道を行く自動車。暑すぎる気温、ゆるむ接続部、ゆるむベアリング、がたつく車体。
ダニーが水がほしいとよ。
第六十六号国道を逃亡する人たち。コンクリート道路は太陽の下で鏡のように光っている。遠くのほうは熱気で道路に水たまりがあるような錯覚を起させる。
ダニーが水をほしいってよ。
しかし待たなければならない。かわいそうな小さな子供。暑いのだ。つぎのサービス・ステーションまで。|サービス《ヽヽヽヽ》・ステーションか、あの野郎が言ったっけ。
道路の上にひしめく二十五万の人々。いたんで蒸気をもらしている五万台の古車。道ばたにおいてある、こわれ車、捨てられた車。ああ、あれはどうして、あんなふうになっただ? あの車の家族は、どうしただ? 歩いて行っただかね? どこにいるだかな? よく勇気が出たもんだて。よくそんな決心したもんだて。
とても信じられねえ話があるだ。だけど、ほんとにあった話だ。しかも、滑稽《こっけい》な、うれしい話だて。十二人の家族があっただ。土地から追いだされた。連中は車を持ってなかった。そこで古自動車でトレーラーをつくって、荷物をすっかり積みこんだ。そいつを第六十六号国道の道ばたへ引っぱってきて待ってただ。すると、すぐにセダンが一台やってきて、それを引っぱってくれた。家族の五人はセダンに、あとの七人はトレーラーに乗っかった。それに犬一匹もな。こうして連中はカリフォルニアまで二跳《ふたと》びで行っちまったとさ。引っぱってくれた人が、食事まで、みんなにふるまってくれたそうだ。ほんとの話だぜ。だけど、よくそんな勇気が出たもんじゃねえか。それに信頼心もよ。そういう信頼心は、なかなか出てこねえものだぜ。
背後にある恐怖から逃亡する人々――彼らには奇妙なことが起る。あるものは、あまりに苛烈《かれつ》であり、あるものは、あまりに美しい。美しいもののために信頼が永久に消えず、消えてもまた燃えあがるのだ。
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第十三章
荷物を山と積みこんだ古ハドソンは、サリソーの国道で、きしり、うなり、そして西へ方向を転じた。太陽の光は目がくらむようだ。しかしコンクリート道路へ出ると、アルはスピードが出せるようになった。なぜなら、平べったくなったスプリングでも、ここなら、もう危険ではないからだ。サリソーからゴアまでは二十一マイルである。そして、このハドソンは時速三十五マイルで走っていた。ゴアからワーナーまでは十四マイル、ワーナーからチェコタまで十四マイル、チェコタから大きくとんでヘンリエッタまで――三十四マイルだ。しかし、ここはやっとたどりついた本物の町である。ヘンリエッタからキャッスルまで十四マイル。太陽は頭上にかがやき、赤色の畑は、中天にある太陽に焼かれて大気に陽炎《かげろう》をわきたたせている。
アルは、ハンドルを握り、顔を緊張させ、全身で車に気を配り、そのせわしない目は、絶えず道路から計器盤へと走っていた。アルはエンジンと一体になっていたのだ。全神経をとぎすまして、車の弱点、故障の因《もと》となりかねぬ小さな鈍い音や、きしりの音、かすれた音や連続音を聞きとろうとしていた。彼は、その車の魂となっていたのだ。
ばあさまはアルのそばの座席に腰をおろし、半ば居眠りをし、眠りながら低い悲鳴をあげ、目をあけて前方をのぞき、それから、ふたたび眠った。ばあさまのそばにいる母親は、片肘《かたひじ》を窓から出しており、皮膚が激しい日ざしに赤らんでいた。しかし、母親の目は焦点がなかった。道路も畑もガソリン・スタンドも小さな食堂小屋も見ていなかった。彼女はハドソンが走りすぎる折りも、そうしたものに目を向けなかったのだ。
アルは破れた座席の上で尻《しり》を動かし、ハンドルを握りなおした。彼は溜息《ためいき》をついた。「やかましい音がするな。でも、この車は大丈夫だと思うよ。ただし、こんな重い荷物をのっけたまま坂を登るんだと、どうなるかわかんねえけどね。おっ母、カリフォルニアまで行くあいだに丘はあるだかね?」
母親は、そろりと頭をまわした。目に生気が戻《もど》ってきた。「丘はあるようだよ」と彼女は言った。「あたしだって、よくは知らないけどね。なんだか丘があるように聞いてるだよ。それに山だってあるそうだよ、大きな山がね」
ばあさまは眠りながら長い悲鳴じみた息を吸いこんだ。
アルが言った。「どうしても登るんだとすると、どうも成功しそうもねえだな。荷物をすこし捨てなきゃならねえだよ。あの説教師、連れてこねえほうがよかっただな」
「向うへ着くまでに、あの説教師を連れてきたのが、ありがたく思われてくるだよ」と母親は言った。「あの説教師は、あたしたちの助けになるんだよ」彼女は、ふたたび照り輝く道路を見た。
アルは片手でハンドルを取り、片手を震えるチェンジ・レバーにあてた。彼は、どうもうまく話せないのだ。彼の口は、声になる前に、その言葉をこっそりと形づくってみるのであった。「おっ母――」彼女は、ゆっくりと顔を向けた。頭が、自動車の動きで、すこしうしろへ揺れた。「おっ母、おっ母は行くのがこわいだかね? 新しい土地へ行くの、こわいだかね?」
母親の目は、考え深く、やわらかくなった。「すこしね」と彼女は言った。「でも、そんなにひどくこわがってるわけでもねえだよ。あたしは、ここに坐って待ってるのさ。何かあたしがやらなければならないことが起きたときは――あたしはこわがらずにやるだよ――」
「おれたちの行くところが、どんなふうなところだろうと考えたことがあるだかね? そこが、おれたちの考えたほど、いいところじゃねえと考えても、こわくならねえだかね?」
「うんにゃ」と彼女は急いで言った。「うんにゃ、こわくならねえだよ。そんな暇はねえだ。あたしには、そんな時間はねえだよ。あんまり――あんまり、せわしなさすぎるだでね。あたしたちには、これから先、いろんな暮しが待ってるだろうよ。でも、それがくるときは、たった一つずつしかやってこやしねえだ。いろんな暮しを、いっぺんに取りこもうとしても、それはあまりにたくさんすぎて、どうにもなるもんじゃねえだ。おまえは、先のことを考えて暮さなければいけねえだよ。若いんだからね。だけど――あたしには、この道路だけが、いまの暮しさ。それに、もうすぐみんながまた豚の肉を食べたがると考えるだけだよ」母親の顔は引きしまった。「あたしにできるのは、それだけさ。それ以上のことはできねえだよ。もしあたしが、それ以上のことをしたら、ほかの人たちが、みんなまごついちまうにきまってるだ。みんなは、そのことを考えて、あたしを頼りにしてるだからね」
祖母は高い声であくびをし、目を開いた。そして荒々しくまわりを見まわした。「わたしは外に出たいよ」と祖母は言った。
「こんどの藪《やぶ》のところでな」とアルが言った。「向うに一つ見えてるだよ」
「藪なんぞあってもなくても、わたしゃ外に出たいよ。出たいと言ってるだ」そして、ばあさまは、哀れっぽい声を出しはじめた。「わたしゃ外に出たいよ。わたしゃ外に出たいよ」
アルはスピードを増した。そして低い藪のところまできて急に停車した。母親がドアを押し開き、半分引っぱるようにばあさまを道路へおろして藪のなかへ連れて行った。そして、しゃがむときに倒れないように、祖母の体をささえていてやった。
トラックの荷の上では、ほかの連中も動きだした。彼らの顔は、そこから身をかくすわけにはいかぬ陽光に日やけして、てかてか光っていた。トムとケーシーとノアとジョン伯父が、のっそりと降りた。ルーシーとウィンフィールドは側板をはねおりて藪のなかに駆けこんだ。コニーは、やさしく『シャロンのバラ』を助けおろした。防水布の下では、じいさまが目をさまして、頭をもたげた。しかし彼の目は酔ったようで、濡《ぬ》れており、まだ無感覚らしい。ぼんやりと彼は他の人々を見まもった。しかしその目には何もはっきり映じてはいないようだ。
トムが祖父に呼びかけた。「じいさま、降りてえかね?」
老人の目が、ぼんやりと彼に向けられた。「いんや」と彼は言った。一瞬、老人の目に鋭さがよみがえった。「わしは行かんぞ。本当に行かん。ミューリーと同じように踏みとどまるんじゃ」それから彼は、ふたたび、ぼんやりとなってしまった。母親が、道ばたの傾斜から国道へと祖母を助けあげて戻ってきた。
「トム」と母親は言った。「骨のはいってるあのお鍋《なべ》をとっておくれ――うしろの防水布の下だよ。あたしたち、何か食べなきゃね」トムは鍋を取りだして、それを一同にまわした。家族たちは道ばたに立ったまま豚の骨から硬《こわ》ばった肉を噛《か》みとった。
「これを持ってきて、よかっただな」と父親が言った。「こいつ、硬くなって、飲みこむのに骨が折れるだ。水はどこだい?」
「おまえさんのとこへあげておかなかっただかね」と母親がきき返した。「あたしはガロン壜《びん》をつくっておいたんだけど」
父親は横から這《は》いあがって防水布の下をさがした。「ここにはねえぜ。忘れてきたにちげえねえ」
咽喉《のど》の渇《かわ》きが、たちまち伝染した。ウィンフィールドがねだった。「水がほしいよ。おれ、水がほしいだ」男たちは唇《くちびる》をなめた。急に咽喉の渇きを感じたのだ。そして小さな恐怖が生れた。
アルは、その恐怖が成長してゆくのを感じた。「こんどぶつかったサービス・ステーションで水をもらうことにしよう。それにガソリンもいるだしな」
家族の者は、トラックの両横から、あわてて上にのぼった。母親は祖母を助けあげて、自分もそばに乗った。アルがモーターをスタートさせ、彼らは前へ進んだ。
キャッスルからパデンまで二十五マイル、太陽は天頂をすぎ、傾きはじめた。ラジエーター・キャップが上下におどりだし、蒸気が噴きだしてきた。パデンに近づくと道ばたに小屋があり、その前に二本のガソリン・ポンプがあった。そして柵《さく》のそばに水道の蛇口《じゃぐち》とホースがあった。アルは、そこへ乗り入れ、ハドソンをホースのほうに向けた。車がとまると、顔も腕も赤らんだ、がっちりした男が、ガソリン・ポンプの背後の椅子《いす》から立ちあがり、こちらのほうへ歩いてきた。彼は茶色のコールテンのズボンをつけ、それにサスペンダーとポロシャツという姿だ。頭には銀色に塗ったボール紙製の日よけヘルメットをかぶっていた。汗が鼻と目の下に玉になっていて、首の皺《しわ》のところでは一筋の流れになっていた。残忍な、きびしい顔つきで、トラックに歩みよった。
「おまえさんがた、何か買うつもりかね、ガソリンか何かをよ?」と彼はきいた。
アルはすでに外へ出ていて、指の先で蒸気の出るラジエーター・キャップをまわそうとしていた。彼はキャップがはずれたときに噴き出る蒸気を用心して頭をうしろへそらしていた。「すこしばかりガソリンが入り用なんだ」
「金はちっとは持ってるのかい?」
「もちろんさ。おれたちを乞食《こじき》だとでも考えてるのか?」
残忍そうな様子が、この太った男の態度から消えた。「うん、そんならいいさ。さあ、勝手に水を使ってもいいぜ」そして彼は急いでつけ加えた。「道路は人と車でいっぱいさ。そいつらがはいってきやがってよ、水を使って、便所をよごして、さてそれから、何か盗んだあげくが、何も買わずに出て行ってしまうんだ。買う金なんぞ、まるで持ってねえんだ。それでいて、車を動かすんだから一ガロンくれなんてぬかしやがる」
トムは怒ったふうに地上へ飛びおり、太った男に近づいた。「おれたちは、ちゃんと支払いはするだ。おまえさんに物乞いなんかしやしねえよ」
「こっちもさせないよ」太った男は、すぐと言った。汗が彼の短袖のポロシャツににじみ出てきた。
「さあ、自由に水を使ってくれ。お望みなら便所も使っていいぜ」
ウィンフィールドは、早くもホースをつかんでいた。彼はホースの端から水を飲み、それから頭と顔に注ぎかけ、雫《しずく》をたらしていた。「冷たくねえや」と彼は言った。
「どうも、この地方がどうなることやら、さっぱりわけがわからん」と太った男は言葉をつづけた。彼の不満は、もう別のほうに移っており、もはやジョード家の者に話しかけているのでもなく、また彼らのことを話題にしてもいなかった。「五十台も六十台もの車が毎日通る。どれもこれも子供や家財を積んで西へ向っている。みんな、どこへ行くのかね? みんな何をしに行くのかね?」
「おれたちと同じことをしに行くのさ」とトムが言った。「どこかへ住みに行くのさ。なんとか暮そうとしてよ。それだけのことさ」
「どうも、この地方が、どうなっていくことやら、さっぱりわけがわからんよ。さっぱりわからん。おれだって、ここでなんとか暮そうとしてるんだ。あのでっかい新しい車が、ここにとまると思うかね? とんでもねえ。やつらは、みんな、町に新しくできた黄色いペンキを塗った大会社のスタンドへ行っちまうのさ。こんなところにゃ、とまりっこないよ。ここにとまるのは、たいてい一文なしの連中だけさ」
アルはラジエーター・キャップをはずした。すると、なかの蒸気に押されて、それが空中に吹っとんだ。そして、沸騰《ふっとう》するうつろな音がラジエーターからもれた。トラックの上では、おき忘れられた犬が、臆病《おくびょう》げに荷物の端に這いよってきて、咽喉を小さく鳴らしながら、水のほうをながめた。ジョン伯父がのぼって行って首輪をつかんでおろしてやった。すこしのあいだ犬は硬ばった足つきでよろめいた。それから蛇口の下の水たまりへと水を飲みに行った。国道では、いくつもの車が熱気に光りながらうなりすぎた。それらの疾走が巻き起す暑い風がサービス・ステーションの庭へと流れてきた。アルはホースでラジエーターに水を満たした。「何もおれは金持連中と商売しようとしてるわけじゃねえ」太った男は話しつづけた。「ただ商売をやっていこうとしてるだけなんだ。ところが、ここで車をとめる連中ときたら、ガソリンをくれと言って、そのガソリン代に品物をおいていくんだ。奥の部屋へ行けば、連中が交換だと言っておいてったものがたくさんあるから、なんなら見せてやるぜ――ベッドだの、子もり車だの、平鍋だの、ある家族は、子供の持ってた人形で一ガロンと交換していった。こっちは、そんなもの、どうしようもないよ――屑屋《くずや》でも開くかね。そうそう、一人の男など、靴《くつ》をやるからガソリンくれなんて言ったっけ。もしおれが、そんなふうな境涯《きょうがい》の男だとしたら、きっとおれは――」彼は母親をちらと見やり、言葉をとめた。
ジム・ケーシーは、さきほど頭に水をかけて、雫がまだその高い額を流れ落ちていた。筋ばった首筋が濡れ、シャツが濡れていた。彼はトムのそばへ歩いてきた。「それは連中が悪いせいではねえだよ」と彼は言った。「おまえさんだって、自分が寝ていたベッドを売ってガソリン買ったら、どんな気持するだかね?」
「おれもそれが連中が悪いせいではねえとは知ってるさ。話してみると、誰《だれ》もみんな、それ相当の理由《わけ》があって移って行くんだ。だけど、この地方はいったいどうなっていくのかね? みんなもう暮しが立たなくなってるんだ。畑をつくって暮すことはできなくなってるんだ。きくがね、この地方は、どうなっていくのかね? おれにゃ、どうも考えられねえんだ。誰にきいても、みんな答えられねえんだ。自分の靴を売って百マイル先までつっ走る者もいるんだからね。どうもおれにゃわからねえよ」彼は銀色の帽子をぬぎ、手のひらで顔を拭《ぬぐ》った。トムも帽子をぬぎ手のひらで額を拭った。それからホースのところへ行き、帽子をすっかり濡らし、それをしぼって、ふたたび頭にのせた。母親は側板のあいだからブリキのコップを取りだした。そして水を祖母と祖父のところへ持って行った。母親は側板の上に立ち、じいさまにコップを渡した。するとじいさまは唇をしめし、それから頭を振って、もう飲もうとはしなかった。老いた両眼が、母親のほうを苦痛ととまどいの色で見あげた。が、すぐと老人の知覚はうすれていくようであった。
アルはモーターをスタートさせ、トラックをガソリン・ポンプのところまで後退させた。「入れてくれよ。約七ガロンはいるんだ」とアルは言った。「六ガロンつめてくんな。そうすりゃ一滴もこぼれずにすむだからね」
太った男はホースをタンクのなかにつっこんだ。「そうなんだ」と彼は言った。「おれにゃ、さっぱりどうも、この地方がどうなるのやら、わけがわからねえのさ。細かなことも何も、まるでな」
ケーシーが言った。「わしは田舎のほうをずっと歩きまわっただ。誰もがそうたずねるだ。おれたちはどうなるだろう、とな。わしは何もどうもならねえと思うだ。いつも道路の上さ。いつも動いてるのさ。何でみんなは、それを考えねえのかな? 連中は、みんないま動いてるだ。誰も動いてるだ。わしらは、それがなぜだか知ってるだ。どうしてだかも知ってるだ。そうしねえわけにはいかねえから動いてるだ。それが、みんながいつも動いてる理由《わけ》なんだ。何か、いまあるものより、すこしはましなものがほしくて、動いてるだ。そして、そうするのが連中にとっちゃ、ただ一つの道なんだ。それがほしくなり、必要になると、みんな出かけて行ってとろうというわけさ。そして傷つけられるもんだで、みんなやみくもに戦おうということになるだ。わしは、この田舎を歩きまわって、みんなから、いまおまえさんが言ったみてえなことを聞いただよ」
太った男はガソリンを注入した。計器針がポンプ盤の上を回転し、その数量を示した。「そうよ。だが、いったいどうなるんだい?その点が知りたいんだ」
トムが、いらだたしげに口を入れた。「まあ、おまえさんにゃ一生わからねえだろうよ。ケーシーが説明してやってるのに、おまえさんは、ただ同じことをくりかえしてたずねてるだ。前にも、おまえさんみてえな人を見たことがあるぜ。おまえさんは、何も聞いてるんじゃねえのさ。ただ歌みてえなものをうたってるだけなんだ。『おれたちはいったいどうなるんだろう?』と言ってな。それでも別に、その答えを知りてえわけじゃねえだ。いま田舎は動いてるだ。崩れかかってるだ。この一帯じゃ百姓が死んでいくだ。たぶんおまえさんだって、もうすぐ死ぬこったろうて。だけど、おまえさんは何も知りたくはねえのさ。おれは、おまえさんみてえな人間を、うんと知ってるだ。何もはっきり知りたがらねえで、ただ自分を眠らせようとして歌をうたってるだ――『おれたちはいったいどうなるんだろう』と言ってな」彼はガソリン・ポンプを見やった。錆《さ》びて古ぼけていた。そして、その向うの小屋は古材で建てたらしく、まえに打った釘《くぎ》の跡が、ペンキの下からのぞいて見えた。そのペンキは、町の大会社経営のスタンドをまねようとして、派手な黄色で塗りたてたのだが、しかし、それは古い釘穴や古材木のひび割れをかくすことはできず、新しく塗りかえられてもいなかった。|真 似《イミテーション》は失敗だったのだ。そして経営者の彼も、それが失敗だったと知っているのだ。その小屋の開いた扉《とびら》の内部にトムは油の樽《たる》を見つけた。たった二つしかなかった。それに菓子台があった。その上には、古びた菓子や、かびて茶色になりかかっている甘草飴《かんぞうあめ》や、煙草《たばこ》などがあった。また、こわれた椅子や錆び穴のあいた金網戸なども見えた。そして砂利も敷いてない散らかった庭があり、その向うに暑熱で死にかけている玉蜀黍《とうもろこし》畑があった。家のまわりは、中古タイヤ、屑タイヤの小さな山だった。そして彼は、はじめて、太った男のズボンが安物で洗いざらしなのを、そして彼のポロシャツが安物で帽子が紙製なのを見てとった。彼は言った。「おれはおまえさんに毒づいたわけじゃねえだよ。暑さのせいだで。おまえさんも、あんまり稼《かせ》げねえほうだね。おまえさん自身も、やがてすぐ道路へ出るようになるだろうて。トラクターが押しのけるわけじゃねえ。やるのは町の小ぎれいな黄色いスタンドさ。みんな動きだすだよ」彼は遠慮がちに言った。「そして、おまえさんも動きだすだよ、おやじさん」
太った男のポンプを押す手が鈍った。そしてトムが話し終るころには完全にとまってしまった。彼は心配げにトムを見た。「どうしてわかるんだね?」と彼はたよりなげにきいた。「どうして、おれたちが荷物をまとめて西へ行く話をやってることがわかるんだい?」
ケーシーが答えた。「誰もかれもそうだからさ」と彼は言った。「このわしはね、悪魔は敵だと考えて、長いこと悪魔と戦ってきただ。ところが、この地方は、悪魔よりも悪いもんにとりつかれてるだ。しかも、そいつは、ばらばらにぶった切るまでは離れねえ代物《しろもの》だ。おまえさんは、あのでっかい毒《どく》蜥蜴《とかげ》がくらいついたところを見たことがあるだかね? くらいついたら最後、二つにぶった切っても、まだ頭はぶらさがってるだ。首のところからちょん切っても頭は離れねえだ。離すにはスクリュー・ドライバーを頭にぶちこんで、ばらばらにするほかはねえだよ。そして、ぶらさがってるうちに、毒が、やつの歯であけた穴から流れこんでくるだ」彼は言葉をとめ、そばのトムをちらと見た。
太った男は前方を、じっと、おぼつかなげに見つめた。彼の手はポンプの握りをゆっくりと動かしはじめた。「どうなることやら、さっぱりわからねえ」彼は、ぼんやりとつぶやいた。
水道ホースのところでは、コニーと『シャロンのバラ』が、いっしょに立って何か秘密げに話しあっていた。コニーはブリキのコップを洗い、手を水にあててみて、もう一度コップに水を満たした。『シャロンのバラ』は走り去る車の群れを見まもった。コニーはコップを彼女にさしだした。「この水は冷たくはねえけど、でも渇きはとまるぜ」と彼は言った。
彼女はコニーを見やり、そっと微笑した。彼女は、いま自分が妊娠しているということで秘密の塊《かたまり》みたいになっているのだ。何か意味ありげな秘密と小さな沈黙。彼女は自分自身でこっそりと楽しんでいるのであった。そして、たいして問題にもならぬことで、しきりに不平を言いたてた。また、つまらないことでも、すぐにコニーの助けを求めた。二人とも自分たちが他愛もないことをやっているのを知っていた。コニーもまた彼女のことで楽しんでおり、そして彼女が妊娠しているという驚きでいっぱいだった。彼は好んで、自分が妻のもつ秘密に加わっていると考えたがった。彼女が、恥ずかしげに微笑すると、彼もまた、恥ずかしげに微笑した。そして二人は、たがいに信頼をささやきかわした。世界が二人の周囲を隙間《すきま》なくとりかこんでいた。そして二人は、その中心にいたのだ。いや、むしろ『シャロンのバラ』がまんなかにいて、そのまわりをコニーが小さな円周を描いてまわっていたのである。二人のいうことは何でもみな秘密の一種であった。
彼女は目を国道から転じた。「あたし、そんなに咽喉渇いてないのよ」彼女はとりすまして言った。「でも、あたし、|飲まなければ《ヽヽヽヽヽヽ》いけないわね」
そして彼はうなずいた。なぜなら彼は妻の意味するものを知っているからだ。彼女はコップをとり、うがいして吐きだし、それから生ぬるい水を一杯のんだ。「もう一杯どうだい?」と彼がきいた。
「ほんの半分ね」そこで彼はコップに半分だけ満たした。そして、それを彼女に渡した。一台のリンカーン・ゼファが銀色の背の低い姿で疾走して行った。彼女はみんなのいるほうに目を向けた。彼らはトラックのそばにかたまっていた。安堵《あんど》したように彼女は言った。「あそこへ行って、いっしょに話したら?」
コニーは溜息《ためいき》をついた。「うん――あとでね」二人とも、その言葉の意味をさとっていた。「もしカリフォルニアで仕事がうんとあったら自分の車を買おうよ。だけど、あんなのは」――と彼は消えていくゼファを指さした――「あんなのは家を買うのと同じくらいするんだ。それだったら、いっそ家を買うだよ」
「あたし、家と、|それに《ヽヽヽ》あんなのも一台ほしいわ」と彼女は言った。「でも、もちろん家が先ね。なぜって」――そして彼らは二人とも彼女のいう意味をよく知っていた。彼らは妊娠というものに、ひどく興奮していたのだ。
「気分はどうだい?」と彼はたずねた。
「疲れたわ。日が熱いとこで乗ると疲れるわ」
「我慢しなくちゃね。そうでないとカリフォルニアへ行けねえもの」
「そうね」と彼女は言った。
犬が、そのへんをうろつきまわっていた。トラックの後尾をかぎ、もう一度ホースの下の水たまりのところまで小走りに走って行って泥《どろ》だらけの水を飲んだ。それから鼻を地面に向けて耳をたれ、そこを離れた。道ばたの雑草のなかをかぎまわり、舗装道路のほうに歩いて行った。頭をあげて向うをながめ、それから道を横ぎりはじめた。『シャロンのバラ』がかん高い悲鳴をあげた。大きな速い車が、そばを疾走して行った。タイヤがきしった。犬はたよりなく逃げようとし、悲鳴とともに道のまんなかでぶつかり、車の下敷きになった。大きな車は一瞬ちょっと速力をゆるめた。いくつかの顔が、うしろをふり向いた。それから車は、ふたたび速力を増して走り去った。犬は、血の塊となって、内臓をはみ出させ、弱々しく足で道路を蹴っていた。『シャロンのバラ』の目が大きく見ひらかれた。「ねえ、体に|さわら《ヽヽヽ》ないかしら?」彼女は訴えた。「体に悪いことないかしら?」
コニーは腕を彼女にまわした。「こっちへきて坐んなよ」と彼は言った。「大丈夫さ」
「でも、あたし、体に|さわった《ヽヽヽヽ》ように思うわ。あたし、悲鳴をあげたとき、お腹が動くのが感じられたのよ」
「こっちへきて坐んなよ。大丈夫さ。|さわりゃ《ヽヽヽヽ》しねえよ」彼はトラックの、犬とは反対側のほうへ彼女を連れて行き、踏台に腰かけさせた。
トムとジョン伯父が、めちゃめちゃにされた犬のほうへ歩いて行った。いま最後のふるえが、つぶれた体から消えていくところだった。トムは犬の足をつかんで道路の端へ引っぱっていった。ジョン伯父は、まるでそれが自分の過ちででもあったかのように、苦しげな顔をしていた。「つないでおけばよかった」と彼は言った。
父親は、ほんの一瞬、犬を見おろした。それから、その場を離れた。「さあ、ここを出ようぜ」と彼は言った。「どうせ、やつをどうやって養ったらいいか、それで頭を悩ましてたところだて。まあ、仕方がねえさ」
太った男がトラックの背後から出てきた。「やあ、かわいそうなことをしたな」と彼は言った。「国道の近くじゃ犬はとても長生きしねえよ。おれんとこでも、一年に三匹も、ひかれた。もう飼いなさんなよ、一匹もな」そして彼は言った。「おまえさんがた、あとは心配しなくてもいいぜ。おれがめんどうみてやるよ。あっちの玉蜀黍畑に埋めてやるよ」
母親は踏板に坐ってまだふるえている『シャロンのバラ』のそばへ行った。「ローザシャーン、おまえ、大丈夫かい?」と彼女はきいた。「気持がよくないんじゃねえかい?」
「あたし、あれ見ちまったのよ」
「おまえが叫んだの聞いたよ」と母親は言った。「さあ、もっとしっかりするだ」
「あれ、あたしの体に|さわった《ヽヽヽヽ》かしら?」
「|さわら《ヽヽヽ》ねえさ」と母親は言った。「もしおまえが、自分で苦しんだり後悔したりして、勝手にもがいたりすると、それこそ|さわる《ヽヽヽ》かもしれねえだ。さあ、立って、ばあさまの世話を手伝っておくれ。ちっとは赤ん坊のこと忘れることだ。赤ん坊は結構自分一人でやってくだよ」
「ばあさまは、どこにいるの?」と『シャロンのバラ』はたずねた。
「知らないよ。どこか、そのへんにいるだろう。トイレかもしれない」
娘はトイレのほうへ歩いて行った。そして、すぐに祖母を助けながら出てきた。「トイレで眠りこんじまったのよ」と『シャロンのバラ』は言った。
祖母は、にっこり笑った。「あそこはいいところだよ」と祖母は言った。「専売特許のトイレなんだよ。そして水がいつも流れてるだ。わたしゃ、あそこが好きだよ」彼女は満足げに言った。「起されなければ、いいお昼寝ができたのに」
「あそこは、眠るのには、いいところじゃないのよ」と『シャロンのバラ』は言った。そして祖母を車へ助けあげた。祖母は機嫌《きげん》よく座席におさまった。「そりゃ、あそこは、パーティーには、いいところじゃないさ。でも、いいところにゃ、いいところだよ」と祖母は言った。
トムが言った。「さあ、行こうぜ。まだこれから相当がんばらなきゃならねえだで」
父親は鋭く口笛を吹いた。「子供たちは、どこへ行っただ?」彼は、指を口にふくんで、もう一度鳴らした。
すると子供たちが玉蜀黍畑から飛びだしてきた。ルーシーが先頭、ウィンフィールドがあとにつづいた。「卵よ!」ルーシーが叫んだ。「あたし、やわらかい卵とったのよ」彼女は近くまで駆けてきた。すぐうしろからウィンフィールドがつづいた。「ほら!」十二ほどの、やわらかな灰色の卵が、彼女のよごれた手のなかにあった。そして手を上にさしあげたとき、彼女の目は、ふと道ばたの死んだ犬に落ちた。「あら!」と彼女は言った。ルーシーとウィンフィールドは、こわごわ犬のほうに近づいた。そして、そっと見つめた。
父親が二人を呼んだ。「おいで。おい、こないとおいてっちゃうぞ」
二人は、真剣な顔でこちらを向いてトラックのところへ歩いてきた。ルーシーは、もう一度、手のなかの灰色の蛇《へび》の卵を見た。それから、それを投げすてた。二人はトラックの横をのぼった。
「あれの目、開いたまんまよ」ルーシーが、声をひそめて言った。
しかしウィンフィールドは、その情景をさらにいろどった。彼はものおじもせずに言った。「やつの腸《はらわた》が、そこらじゅうに散らばってたぜ――そこら一面に」――彼は、ちょっと口をつぐんだ――「そこら――じゅうに――散らばってただ」それから彼は、あわてて駆けより、トラックの側板から下に向けて吐いた。もう一度坐りなおしたとき、彼の目は濡《ぬ》れており、鼻汁《はなじる》がたれていた。「豚を殺すのとはちがうだな」と彼は言いわけめいた調子で言った。
アルはハドソンのふたを上にあげてガソリンの高さを調べた。前の座席の床から一ガロン缶《かん》を持ちだし、安ものの黒いガソリンをパイプのなかに注《つ》ぎこんでから、もう一度高さを調べた。
トムがそばへきた。「おれが、ちっとばかり走らせようか」
「おれは疲れてねえだよ」とアルは言った。
「だけど、おめえはきのうの晩、眠らなかっただろう。おれはけさ、よく眠っただ。上にあがれよ。おれがやるだ」
「じゃ、そうしよう」と、しぶしぶアルは言った。「だけど、オイル・ゲージを、いつもよく見張ってなくちゃいけねえぜ。ゆっくり走らせろよ。おれは、ずっと、オイルが足りなくなるのを心配して注意してただ。ときどきその計器の針をのぞいてくれ。針が流出量のほうへはねたら不足してるだからね。ゆっくり走らせろよ、トム。この車は積みすぎてるだからな」
トムは笑った。「気をつけて行くよ」と彼は言った。「安心して休みな」
家族は、ふたたびトラックの上にのぼった。母親は祖母の横に坐った。トムが運転台に坐りモーターをかけた。
「たしかにこいつはがたついてやがる」と彼は言った。そしてギヤを入れ国道へと走りだした。
モーターは順調にうなりつづけた。太陽は前方の空に落ちはじめていた。祖母は気持よく眠っている。母親でさえ、頭を前に落して、うつらうつらしていた。トムは鳥打帽を前に引きさげて、まぶしい太陽をさえぎった。
パデンからミーカーまでは十三マイルだ。ミーカーからハラァまでは十四マイル、それからオクラホマ市であるが――ここは大都会だ。トムは、まっすぐに乗り入れた。母親は目をさまして、車が市街を通って行くあいだ、町並みを見ていた。そして家族たちは、トラックの頂上から、商店を、大きな家を、事務所《オフィス》ビルディングを、ながめた。すると、やがてビルディングが前よりも小さくなり、商店も小さな建物が並びはじめた。破損車置き場、ホット・ドッグ売店、郊外のダンスホール。
ルーシーとウィンフィールドは、それらを、みんな見た。二人は、その巨大さや、その奇妙さにまごついた。目にうつるりっぱな服装の人たちに驚いた。彼らは、そのことについては、たがいに何も言わなかった。あとでは――二人も話しあうだろう。しかし、いまは、まだ何も言わなかった。彼らは町のなかに、町のはずれに、油井《ゆせい》の掘鑿塔《デリック》を見た――黒い油井掘鑿塔。そして空気には油とガスの匂《にお》いがあった。しかし彼らは感嘆の叫びはあげなかった。それは、あまりに大きく、あまりに珍しく、二人をおびえさせたのだ。
街路に、『シャロンのバラ』とコニーは、明るい背広姿の男を見た。白い靴をはき、平たい麦わら帽をかぶっていた。彼女はコニーの腕をこづいて、目でその男をさし示した。それからコニーと『シャロンのバラ』は、たがいにそっと、くすくす笑った。その笑いは、二人を、すっかりいい気持にした。二人は口をおおって笑った。とてもいい気持になったので、二人は、もう一度笑えるような人間はいないかとさがした。ルーシーとウィンフィールドは、コニーたちがくすくす笑っているのを見つけた。それがひどくおもしろそうだったので、二人もやってみる気になった――しかし彼らにはできなかった。くすくす笑いが出てこないのだ。しかし、コニーと『シャロンのバラ』は、笑いを吹きだすまいと、息をとめて赤くなっていた。笑いがあまりひどいので、たがいに顔を見あわせただけで、たちまちまた吹きだしそうになった。
郊外は、広々とひろがっていた。トムは、こみあっている交通のなかを、ゆっくりと注意深く車を走らせた。そして、やがて彼らは、ふたたび第六十六号国道に出た――大いなる西方への道だ。そして太陽は道路の走る方向に沈みかけていた。埃《ほこり》だらけの風よけガラスが明るくかがやいた。トムは鳥打帽を目の上までぐいと引きさげた。あまり深くさげたので、前方を見るのに、すこし頭をうしろへそらさなければならなかった。ばあさまは眠りつづけていた。その閉じた瞼《まぶた》に日の光が当っていた。そして額の血管は青かった。頬《ほお》に見える明るい血管は葡萄酒《ぶどうしゅ》色であり、顔にある昔からの褐色《かっしょく》のしみが、いっそう濃く浮きだしていた。
トムが言った。「おれたちは、この道路の上にとまって夜を明かすだよ」
母親は、それまで長いあいだ黙りこんでいた。「日が沈む前に、どこか車をとめるところを見つけておくれ」と彼女は言った。「豚を煮てから、すこしパンをつくらなくちゃならねえからね。暇がかかるだよ」
「ほんとだ」とトムが同意した。「どうせひとっ走りでやれる旅じゃねえだ。のんびりやるより仕方がねえや」
オクラホマ市からベサニーまでは十四マイルである。
トムが言った。「おれも、日の沈む前に車をとめたほうがいいと思うだよ。アルは屋根をつくらにゃならねえだしな。そうしねえと、上にいるもんは太陽で焼け死んじまうだ」
母親は、ふたたび居眠りしていた。頭が急に、はっと上へあがった。「夕食のしたくをしなくちゃね」と彼女は言った。それから、また言った。「トム、お父っさんから聞いたんだけど、おまえは州境を越すと――」
彼は長いこと黙っていてから答えた。「え? それがなんだってんだい、おっ母?」
「あのね、あたしはこわいんだよ。州境を越えると、おまえは逃亡したことになるんだろう。きっと警察につかまえられるよ」
トムは沈みゆく太陽の光を避けるため、目の前に片手をかざした。「心配してくれなくてもいいだよ」と彼は言った。「その点は、よく考えただ。仮釈放になってる連中は、たくさんいるだ。その連中だって、年じゅう、やはり動いてるだ。もしおれが西部で何かやらかしてつかまれば、そのときには警察では、おれの写真と指紋をワシントンへ送って調べるにちげえねえ。そうすりゃ、おれは逆戻《ぎゃくもど》りだ。だけど、こっちが何も犯罪なんか起さなけりゃ、警察だって何もしやしねえだよ」
「でも、あたしはそれが心配なんだよ。ときどきおまえは罪になることをやらかすし、そのくせおまえは自分では、それが悪いことだと知りもしねえだからね。たぶんカリフォルニアには、あたしたちが聞いたこともねえようなことで罪になることがあると思うだ。だから、自分ではなんでもねえと思ってやっても、カリフォルニアではなんでもなくねえかもしれねえだよ」
「それなら、おれが仮釈放でなくったって同じことだて」と彼は言った。「ただ、つかまった場合、おれは他の連中よりも長い刑期をくうだけさ。さあ、心配はやめにしなよ」と彼は言った。「おっ母が心配ごとを考えださなくても、おれたちには、やたらと心配ごとがあるだからよ」
「心配せずにゃいられねえだよ」と母親は言った。「おまえが州境を越えたら、そのときはもう罪を一つ犯したことになるだもんな」
「そのほうが、サリソーあたりにひっついてて飢え死にするより、まだましだて」と彼は言った。「さあ、車をとめるところでもさがすだ」
ベサニーの町を通りぬけて町はずれに出た。地下排水渠《はいすいきょ》が道路の下を横ぎっているあたりの道ばたに、一台の古ぼけた幌型《ほろがた》自動車が国道からはずれて停車しており、そのそばに小さなテントが張ってあって、テントを突きぬけて立っているストーブ煙突から煙が立ちのぼっていた。トムは、そのほうを指さした。「あそこで誰かキャンプしてるだ。やっぱり見たとおりのいい場所らしいだな」彼はスピードを落し、道ばたによせて車をとめた。その古い幌型自動車は、フードがあがっていて、中年の男がモーターを見おろして立っていた。安い麦わらのソンブレロをかぶり、青いシャツに黒い水玉模様のチョッキを着ていた。仕事ズボンは泥でこわばり、てかてか光っていた。顔は、やせており、頬の線が、ぐいと深くそげ落ちているので、頬骨と顎《あご》が鋭くつき出ていた。彼はジョード家のトラックを見あげた。その目は困惑し、腹だたしげであった。
トムが窓から身を乗りだした。「ここで一晩あかすのは法律で禁じられてるだかね?」
その男は、ただトラックだけしか見ていなかったらしい。いま彼の目はトムのほうに見すえられた。
「さあね」と男は言った。「わしらは、これ以上先へ行けねえから、ここへとまっただけのことでね」
「ここにゃ水はあるだかね?」
男は一マイル先にあるサービス・ステーションの小屋を指さした。「あそこにあるだよ。バケツに一杯くらいは分けてくれるだ」
トムはためらった。「どうかね、おれたちも、このへんにキャンプしてかまわねえだかね?」
やせた男は、とまどった様子だ。「わしのもってる土地じゃねえだでな」と彼は言った。「わしはただ、ここにとまっただけだて。このぼろ車の野郎が、先へ進まなくなっちまったもんだでな」
トムは言った。「とにかく、おまえさんが先に、ここを占領しただ。おまえさんは、隣人をもちてえか、もちたくねえか、それをいう権利があるってもんだ」
友好を示すこの訴えは即座に効果をあらわした。やせた顔が微笑にほころびた。「やあ、それはもちろんさ。さあ、道路からはずれて、こっちへくるがいいだ。仲間は大歓迎だて」そして彼は呼んだ。「セリー、おれたちといっしょに一晩すごそうって人ができたぜ。出てきて、挨拶《あいさつ》しなよ。セリーはぐあいがよくねえだよ」と彼はつけ加えた。テントの垂幕《たれまく》が開いて、しなびた女が出てきた――乾いた落葉のように皺《しわ》だらけの顔、その顔のなかで燃えているかと思われる目、まるで恐怖の井戸からのぞいているような黒い目だった。小柄《こがら》で、ふるえていた。テントの垂幕によりかかって、まっすぐに立った。垂幕をつかんでいるその手は、まるで皺だらけの皮膚におおわれた骸骨《がいこつ》であった。
口を開くと、彼女の声は美しい低音で、やわらかく落ちついており、それでいて、ひびきのよい強さをもっていた。「ようこそと伝えておくれ」と彼女は言った。「ほんとにようこそと、そう伝えておくれよ」
トムは道路からはずれてトラックを畑のなかに乗りいれ、幌型自動車とならべた。みんながトラックから飛びおりた。ルーシーとウィンフィールドは、あわてすぎて、釘《くぎ》を足にさして悲鳴をあげた。母親は急いで仕事にとりかかった。トラックの背後から三ガロン入りのバケツをほどき、騒いでいる子供たちに近づいた。「さあ、おまえたち二人で行って水を運んでおいで――あそこだから、行儀よく頼むんだよ。こういうだ。『どうぞ水を一杯わけておくんなさい』そして『ありがとう』とね。二人して運んでおいで。こぼすんじゃねえだよ。それから、もし薪《まき》になるようなものが落ちてたら、それも拾ってきておくれ」
子供たちは小屋のほうへ歩き去った。
テントのそばでは何か当惑するようなことがあったらしい。そして隣づきあいは手間どっているようであった。父親が言った。「おまえさんがたはオクラホマの人間じゃねえだね?」
その車の近くに立っていたアルが、自動車の許可板を見た。「カンザス州だ」と彼は言った。
やせた男は言った。「ガリーナといってもいいかもしれねえだな。まあ、その近所だて。名はウィルソン――アイビー・ウィルソンっていうだ」
「わしらはジョードといいますだ」と父親は言った。「サリソーのすぐ近くの生れだよ」
「よろしく」とアイビー・ウィルソンは言った。「セリー、こちらはジョード家の人たちだよ」
「わしは、おまえさんがたがオクラホマの人間じゃねえと、すぐわかっただよ。妙な話し方をするだでな――そりゃ、ちっともかまわねえだがね」
「みんなちがった言葉をしゃべるだでね」とアイビーは言った。「アーカンソー生れは、またちがった言葉でしゃべるし、オクラホマ生れはオクラホマ生れで、また変った言葉を使うだ。一度マサチューセッツ生れの女に会ったことがあるだが、これはまた、どこの誰《だれ》ともちがう話し方だった。言ってることが、何が何やら、ちっともわからなかっただよ」
ノアとジョン伯父と説教師は、トラックから荷物をおろしはじめた。じいさまを助けおろして地面に坐らせた。老人は、ぐんにゃりと坐りこみ、じっと前方に目をすえていた。
「加減でも悪いのかい、じいさま?」とノアがたずねた。
「そのとおりじゃよ」と弱々しげに祖父は言った。「おそろしく気分が悪いだ」
セリー・ウィルソンが、ゆっくりと、慎重に老人のところへ近づいてきた。「わたしたちのテントへはいんなすったら?」と彼女はすすめた。「わたしたちのマットで横になって休みなさいよ」
彼女のやわらかな声にひかれて老人は目をあげた。
「さあ、おいで」と彼女は言った。「すこし休みなさいよ。向うまで、わたしたちが手を貸して、連れてってあげるよ」
だしぬけにじいさまは泣きはじめた。顎がふるえ、唇《くちびる》が口のまわりで引きつった。老人は激しくむせび泣いた。母親が祖父のところへ走ってきて両腕を体にまわした。背をそらして老人をそっと立ちあがらせ、ほとんど持ちあげるようにしてテントまで連れて行った。
ジョン伯父が言った。「じいさまは、よっぽどひどい病気にちげえねえだぞ。あんなことは一度もなかっただでな。じいさまが泣きわめくなんて生れてから一度も見たことがなかっただ」彼はトラックに飛びのってマットを投げおろした。
母親はテントから出てきてケーシーのところへ行った。「あんたはよく病人のそばについていたことがあんなさるだね」と彼女は言った。「じいさまは病気ですだ。行ってめんどうみてやっておくんなさい」
ケーシーは静かにテントのほうへ歩いて行き、なかへはいった。二人用のマットが地面にしいてあり、毛布がきちんとのべてあった。そして小さなブリキのストーブが、鉄の足にささえられて立っており、なかの火が、ゆらめきながら燃えていた。水のはいったバケツが一個、食糧用の木箱が一つ、そしてテーブル用の箱と、あるのはそれだけだった。沈みゆく太陽の光がテントの幕を通してうす赤くさしこんでいた。セリー・ウィルソンは、マットのそばの地面にひざまずいていた。祖父は仰向けに横たわっていた。老人の目は見ひらかれ、上を見つめていた。頬には血がのぼっていた。老人は苦しげに呼吸した。
ケーシーは皺だらけの老いた手首を握った。「疲れたようだね、おじいさん」と彼は言った。上を見つめていた目が、彼のほうへ動いた。しかし彼を見つけなかった。唇は言葉を出そうとするが声にならなかった。ケーシーは脈にさわってみた。それから手首を落し、手を老人の額に当てた。一つの闘争が、いまこの老人の体内では開始されていた。脚が小きざみに動き、両手がふるえていた。老人は一連の言葉にならぬ音をしゃべった。老人の顔は、とがった白い頬髯《ほおひげ》の下で赤らんだ。
セリー・ウィルソンは、やわらかくケーシーに言った。「どこが悪いのかわかりますだかね?」
彼は彼女の皺だらけの顔と燃える目とを見あげた。「あんたには?」
「ええ――わかるように思いますだ」
「何だね?」ケーシーがきいた。
「まちがってるかもしれねえだ。言わねえほうがいいだ」
ケーシーは引きつっている赤い顔を見返った。
「あんたのいうのは――たぶん――中風になったというんじゃねえだかね?」
「そう言おうと思ってたですだよ」とセリーは言った。「前に三度も見てるだでね」
外からキャンプをつくる物音が聞えてきた。木を割る音、鍋《なべ》類のがちゃがちゃいう音。母親が垂幕の隙間《すきま》からのぞいた。「ばあさまが、なかへはいりたがっているだけど、かまわねえだかね?」
説教師は言った。「はいれねえと大騒ぎするだでな」
「じいさまはなんともねえだかね?」と母親がたずねた。
ケーシーは、ゆっくりと頭を振った。母親は、ちらと、血がその下で脈うっている苦しげな老いた顔を見やった。母親が外へ出ると、その声が聞えてきた。「大丈夫だよ、ばあさま。じいさまは、ただちょっと休んでるだけだってさ」
祖母が怒りっぽく返事した。「わたしゃ会いてえだよ。じいさまは、ごまかしの悪党だでね。おまえさんなどに気《け》どらせやしねえだよ」そして垂幕をあげて小走りにはいってきた。そしてマットのそばから老人を見おろした。「おまえさん、どうしただね?」と祖母はたずねた。ふたたび老人の目は、その声のほうを探った。老人の唇がゆがんだ。「じいさんは機嫌《きげん》が悪いだよ」と祖母は言った。「ほんとに、じいさんは、ごまかしの名人だでね。けさだって、きたくねえもんだから、そっと逃げだそうとしただ。それから腰の痛みがはじまったってわけさ」祖母は軽蔑《けいべつ》したように言った。「じいさんはただ機嫌が悪いだけだよ。前にだって、誰とも話したがらねえようなことが、よくあっただ」
ケーシーが、やさしく言った。「じいさんは機嫌が悪いんじゃねえだよ、おばあさん、病気なんだよ」
「そうかい」祖母は、ふたたび老人を見おろした。「うんと悪いだかね?」
「とっても悪いだよ、おばあさん」
一瞬、彼女は決しかねてためらった。「じゃ」と祖母は口早に言った。「祈ったらいいだに。おまえさんは説教師じゃねえだか」
ケーシーの強い指は、あわてて祖父の手首を探り、それを握った。「このあいだも言っただろう、おばあさん。もうわしは説教師じゃねえだよ」
「とにかく祈りな」と老婆《ろうば》は命じた。「おまえさんはお祈りをそらでみんなおぼえてるだろう」
「できねえだよ」とケーシーは言った。「何に祈っていいか、誰に祈っていいか、わしにはわからねえだ」
祖母の目は、あちこちとさまよい、セリーの上に落ちた。「祈らねえのかね」祖母は言った。「うちのルーシーがかわいい泥棒《どろぼう》だったころ、わしが、どんなお祈りをしたか、話さなかったっけかね。わたしゃ、こう言って祈っただよ。『いまわたしを眠りにつかせておくんなさい。神さま、わたしの魂を守っておくんなさい。そして、ルーシーがあそこへ行ったとき食器|棚《だな》に何もありませんように、それからかわいそうな犬の食べるものが何か残っていますように、アーメン』まあ、こんなふうにやらかしただよ」テントと太陽のあいだを歩く誰かの影が天幕に映って消えた。
じいさまは苦闘しているようだった――彼の筋肉は、どれもみな、よじれていた。そして突然、何かに打たれたように、ぴくりと動いた。老人は静かに横たわり、呼吸がとまった。ケーシーは老人の顔を見おろし、それが黒ずんだ紫色に変ってゆくのに気づいた。セリーはケーシーの肩に手をおいた。そして、ささやいた。「舌が、舌が、舌が」
ケーシーはうなずいた。「おばあさんの前に立ってておくんなさい」彼は固く締めつけた老人の顎《あご》を引きはなし、咽喉《のど》に指を入れて舌をつかんだ。舌を引きあげると、ぜいぜいいう呼吸がよみがえった。そして、むせぶような呼吸が咽喉に吸いこまれた。ケーシーは地面に小枝を見つけ、それで舌を下に押えつけた。とぎれがちの呼吸が音をたてて出たりはいったりした。
祖母は鶏のようにあたりを跳びまわった。「お祈りをしておくれ」と祖母は言った。「祈っておくれよ、おまえさん、本当にさ、祈っておくれ」セリーは祖母をなだめようとした。「お祈りったら、このわからずや!」祖母は叫んだ。
ケーシーは、ちょっと祖母を見あげた。あえぐ呼吸は、ますます大きくなり、とぎれがちになった。「天にましますわれらの神よ、願わくは御名《みな》をあがめさせたまえ」
「|み栄えあれ《ヽヽヽヽヽ》!」と祖母は声をあげた。
「御国《みくに》をきたらしめたまえ、御心を天におけるごとく――地にも――行わしめたまえ」
「アーメン」
長い、あえぐような呼吸が開いた口からもれた。ついで泣くような吐く息。
「われらに日常の糧《かて》を――きょうもあたえたまえ――われら罪を犯すものを――」呼吸はとまっていた。ケーシーはじいさまの目を見おろした。その両眼は澄んで深く透徹していた。そして、そこには、すべてを知りつくしたような平和な表情があった。
「ハレルヤ」と祖母は言った。「さあ、つづけて唱えておくれ」
「アーメン」とケーシーは言った。
祖母は、それから静かになった。テントの外でも、すべての騒音がやんでいた。車が一台、国道を疾駆し去った。ケーシーはまだマットのそばにひざまずいていた。外の人たちは耳をすまし、死にゆく音のなかに緊張して静かに立っていた。セリーは祖母の手をとって外へつれ出した。すると祖母は、威厳を保って身を動かし、頭を高くもたげた。そして家族たちのほうへ歩いて行った。家族たちに向って、まっすぐに頭を向けていた。セリーが祖母を地面にしいたマットのところへつれて行って、その上に坐らせた。祖母は、誇り高く真正面を見つめていた。祖母はいまや立役者なのだ。テントは静まり返っていた。とうとうケーシーがテントの垂幕を両手で開いて出てきた。
父親が、そっとたずねた。「何だったのかね?」
「卒中だよ」とケーシーが言った。「すごく急激にきた卒中だ」
生活は、ふたたび動きだした。太陽は地平線にふれ、そのふちで平たくなった。国道の向うから、横腹の赤い巨大な貨物自動車の長い列がやってきた。そして地面に小さな震動を起して、轟然《ごうぜん》と通りすぎた。つき出た排気管がディーゼル・エンジンから出る青い煙を吐きだした。どのトラックも一人が運転し、助手のほうは天井についた高い寝棚で眠っていた。しかし、このトラックの群れは、けっしてとまらなかった。彼らは昼も夜もとどろきつづけ、大地は彼らの重々しい行進の下でふるえた。
家族は一つの単位となった。父親は地面にうずくまった。彼のそばにはジョン伯父がいた。いまは父親が一家の家長になったのだ。
母親は彼の背後に立った。ノアとトムとアルは、しゃがんだ。説教師は腰をおろし、つぎに肘《ひじ》をついて身をかしげた。コニーと『シャロンのバラ』は離れたところを歩いていた。ルーシーとウィンフィールドは、いま二人のあいだにさげた水のはいったバケツをがちゃつかせながら戻《もど》ってきて、変事を感じとった。彼らは足どりをゆるめ、バケツを下へおろし、そっと母親のそばへ歩いて行った。
ばあさまは誇り高く、冷たい顔つきで坐っていた。一同が集まり、誰も祖母の顔を見なくなるまで、そのままでいた。それから横になり、腕に顔を伏せた。赤い太陽は沈み、地上に夕ばえの光を残した。人々の顔は夕暮れのなかでかがやき、瞳《ひとみ》は空を反映して赤く光った。夕ばえは、光りうるすべてのものを照りかえした。
父親が言った。「ウィルソンさんのテントのなかで息を引きとっただ」
ジョン伯父がうなずいた。「あの人がテントを貸してくれただ」
「りっぱで親切な人たちだて」父親が小さく言った。
ウィルソンは自分の車のそばに立っていた。セリーはマットのほうへ歩いて行って祖母のそばに坐った。しかしセリーは、注意深く、老婆にはふれなかった。
父親が呼びかけた。「ウィルソンさん!」その人は、近くまで歩いてきて、うずくまった。するとセリーがきて、彼のそばに立った。父親が言った。「わしたち一同、お二人に感謝しますだ」
「お手伝いできて、うれしいですだよ」とウィルソンは言った。
「わしたちはお礼を言わなくちゃならねえだ」父親が言った。
「人が死ぬってのに、お礼も何もねえだよ」とウィルソンがいうと、セリーも、それに応じて言った。「礼をいう必要なんかねえだとも」
アルが言った。「わしは、あんたの車を直してあげるだ――わしとトムとでやりますだよ」そしてアルは、自分が家族の負担を果せるというので誇らしげな顔つきになった。
「助けてもらえたら、ありがてえだな」ウィルソンは、相手の負担が軽くなるこの申し出を受けいれた。
父親が言った。「これからどうするかを考えなくちゃならねえだ。法律ってものがあるだでよ。死亡届けを出さなくちゃならねえだ。ところが、そいつをやると、葬儀費用として四十ドルとられるだ。さもないとじいさまは貧民救済所へ送られちまうだ」
ジョン伯父が口をはさんだ。「わしらの身内にゃ貧民扱いされたものは、一人もいねえだ」
トムが言った。「どうやら、そういうことも、すこし勉強しなくちゃならねえらしいな。土地から追いだされたのだって、これまでに一度もなかったことだしね」
「わしらは、ちゃんとやってきただ」と父親が言った。「文句を言われる筋合は一つもねえだ。金の払えねえものは、何一つとらなかっただし、他人の慈善なんかも一つも受けなかっただ。トムが、めんどうを起したときだって、ちゃんと頭をあげていられただ。トムは、ただ、誰もがやることをやっただけだでな」
「で、どう始末するだかね?」とジョン伯父がきいた。
「法律どおりに届けると、やつらはじいさまを引きとりにくるだろう。わしらの持ち金は、たった百五十ドルだ。やつらはじいさまを埋めるのに四十ドルとるだ。すると、わしらはカリフォルニアへは行けねえことになるだ――それともじいさまを貧民として埋めてもらうかだ」男たちは落ちつかなげに身動きした。そして膝《ひざ》もとの地面が暗くなっているのに見入った。
父親が静かに言った。「じいさまは、じいさまの父親を自分の手で埋めただ。りっぱにやってのけただよ。自分のシャベルで、りっぱに墓を掘っただ。当時は人間が自分の息子に埋められる権利をもってたし、息子は自分の父親を埋める権利をもってただ」
「いまじゃ法律は別の方法でやれと言ってるだ」とジョン伯父が言った。
「ときには法律なんぞ、まるっきり守られねえこともあるさ」と父親が言った。「とにかく、そう几帳面《きちょうめん》にはやれねえだよ。そんな場合が、たくさんあるだ。フロイドが釈放されて、またあばれだしたとき、法律は、わしらに彼を見はなせと言った――しかし誰もやつを見はなしはしなかっただ。誰だって法律をまげなくちゃならねえときがあるだ。わしがいま言おうとしてるのは、わしには自分の父親を埋める権利があるということだ。誰か意見があるかい?」
説教師が肘を伸ばして身をもたげた。「法律は不変のものじゃねえだ」と彼は言った。「やらなければならねえことは、やってもいいだよ。おまえさんは、おまえさんのやらねばならねえことをやる権利があるだ」
父親はジョン伯父のほうを向いた。「これは、おまえさんの権利でもあるだぞ、ジョン。何か反対の意見でもあるだかね?」
「何もねえだ」とジョン伯父は言った。「ただ、じいさまを夜なかにかくすということがな。じいさまのやり口は、いつでも正々堂々、正面切ったやりかただったでな」
父親は恥じるように言った。「じいさまがやったようにはできねえだよ。この持ち金がなくならねえうちにカリフォルニアへ着かねばならねえだでな」
トムが口を入れた。「よく工事をしてる連中が死体を掘りだしちまうことがあるだぜ。すると警察じゃ誰に殺されたんだなんて騒ぎだすだよ。警察というのは生きてる者より死んだ者ばかり気にやむところさ。やつらは、この死人が誰で、どうして死んだか、血眼になってさがしまわるだ。だから、何か書いて壜《びん》のなかへ入れて、それをじいさまといっしょに埋めるといいと思うだ。これは何という人間で、どうして死んだとか、なぜここに埋めたとか、そんなことを書いてね」
父親はそれに同意してうなずいた。「そいつはいい。りっぱな字で書いてな。じいさまだって自分の名前がそこにあれば、そんなに寂しかねえだろう。ただ何もねえで地面の下に埋められたものほどはな。ほかに何かいうことはねえだか?」一同は黙っていた。
父親は頭を母親のほうに転じた。「おまえ、じいさまをちゃんとしてくれねえだか」
「よござんすよ」と母親は言った。「だけど夕食のしたくは誰がするだね?」
セリー・ウィルソンが言った。「わたしがやるだよ。あんたはさっそくはじめるがいいだ。わたしと、あんたんとこの大きな娘さんとでやりますだ」
「まあ、ほんとにすみませんね」と母親が言った。「ノア、おまえは樽《たる》から豚肉のいいところを出してきておくれ。まだそんなに塩がきいてないけど、もう十分食べられるだから」
「うちにはポテトが半袋あるだよ」とセリーが言った。
母親が言った。「五十セント銀貨を二つおくんなさい」
父親はポケットを探って銀貨を渡した。母親は壜を見つけ、それに水を満たして、テントにはいって行った。そこはもうほとんど暗かった。セリーがはいってきて蝋燭《ろうそく》をともし、箱の上にまっすぐに立て、それから外へ出て行った。ちょっとのあいだ、母親は老人の顔を見おろしていた。それから悲しげに自分のエプロンの端を切りさき、老人の顎をしばった。つぎに祖父の足をまっすぐに伸ばし、両手を折りまげて胸の上においた。両瞼《りょうまぶた》を撫《な》でおろし、その上に銀貨を一つずつのせた。老人のシャツのボタンをかけ顔を洗ってやった。
セリーがのぞきこんで言った。「何か手伝いましょうかね?」
母親は、ゆっくりと顔をあげた。「はいっておくんなさい」と言った。「ちょっと話がありますだ」
「あんたは、いい娘さんを持ってなさるだね」セリーが言った。「ちゃんとポテトを料理しなさる。何か手伝いましょうかね?」
「あたしは、じいさまを、すっかり洗ってあげるつもりだったけど」と彼女は言った。「でも、じいさまは、ほかに着るものがねえですだ。それに、あんたの掛け布をよごしてしまっただよ。死人の匂《にお》いは、なかなか掛け布からとれねえものでね。うちの犬が、あたしの母親の死んだマットのところでうなったりふるえたりしたのを見たことがありますだ。それも死んで二年もたってからですだ。あんたの掛け布で包ませてもらえねえだろうかね。代りをさしあげますだ。お返しする掛け布は持ってますだから」
セリーが言った。「そんなこというもんじゃねえですよ。わたしたち、よろこんでお力添えしますだ。わたしは、ちっとも、そんなふうに感じてねえだし、まだ当分困りはしねえだから――誰にでも必要なんですよ――力を貸しあうということはね」
母親はうなずいた。「そうですだ」母親は祖父の顔をゆっくりとながめた。頬髯《ほおひげ》だらけで顎をしばられた顔、蝋燭の光でかがやいている銀色の目。「もとの顔みたいじゃねえですよ。包んだほうがいいでしょうね」
「おばあさんは、とてもしっかりしていなすった」
「なにしろばあさまは年が年ですだでね」と母親が言った。「たぶんばあさまは、どんなことになったのかさえ知らねえのですよ。たぶん、もっと先になるまではね。何が起ったのだかわからねえでしょう。でも、うちの家族は辛抱することを誇りにしていますだ。あたしの父親は、よく言ってましただよ。『誰だって泣きごとは言える。それを言わねえのが男なんだ』とね。あたしたちは、いつでも辛抱しよう辛抱しようと心がけてますだよ」母親は祖父の足と肩のまわりを丁寧に掛け布で包んだ。掛け布の端を持って頭に頭巾《ずきん》のようにかぶせ、それからそれを顔の上に引きおろした。セリーが大きな安全ピンを五、六本渡した。母親は掛け布を長い包みみたいにして丁寧にしっかりととめた。そして、しまいに立ちあがった。
「それほど悪いお葬《とむら》いじゃねえですだ」と母親は言った。「見おくる牧師さんはいるし、家族もみんなまわりにいるだし」突然、母親は、すこしよろめいた。セリーが近づいて母親を落ちつかせた。「寝不足だもんで――」と彼女は恥ずかしげに言った。「いいえ、もう大丈夫ですだ。あたしたち、出発の用意で、とても忙しかったもんだで」
「外の空気に当ったほうがいいだ」セリーが言った。
「ええ、すっかり疲れただよ」セリーが蝋燭を吹き消し、二人は外へ出た。
明るい火が小さな穴の底で燃えていた。トムが棒と針金でつくった鍋掛《なべか》けには、二つの鍋がかかっていて、盛んに煮えたっていた。そして勢いのよい蒸気が蓋《ふた》の下から吹きあがっていた。『シャロンのバラ』は火の熱のとどかぬあたりの地面にひざまずいていた。手に長い匙《さじ》を持っていた。彼女は母親がテントから出てくるのを見ると、立ちあがって近づいた。
「おっ母さん」彼女は言った。「ききたいことがあるの」
「また心配になっただかね」と母親は言った。「まあまあ、おまえ、悲しい出来事なしに九カ月すごすわけにゃ、とてもいかねえだよ」
「でも、それが――赤ちゃんに|さわら《ヽヽヽ》ないかしら?」
母親は言った。「よくいうじゃないかね、『悲しみのなかから生れた子は幸福な子だ』って。そうですだね、ウィルソンさん?」
「そんなようなことを、わたしも聞いたことがありますだ」とセリーは言った。「それから、こんなことも聞いてますだ。『あんまり陽気なところから生れた子は陰気な子になる』って」
「あたしの気持は、何にでもびくついてるのよ」と『シャロンのバラ』は言った。
「まあ、あたしたちは誰だっておもしろがってびくつくものはいないさ」と母親は言った。「おまえはお鍋だけに気をつけていてくれれば、それでいいだよ」
火の光がとどく端のほうに男たちが集まっていた。道具としてはシャベルと鶴嘴《つるはし》を持っていた。父親が地面にしるしをつけた――長さ八フィート、幅三フィート。仕事は交替で進められた。父親が鶴嘴で土を掘ると、つぎはジョン伯父がそれをすくい出した。アルが掘るとトムがすくい、ノアが掘ってコニーがすくい出す。穴は、たちまち深くなった。仕事は、すこしもその速度を落さなかったからだ。土の塊《かたまり》が穴のなかから勢いよく飛びだした。長方形の穴がトムの肩ほども深くなったとき、彼はたずねた。「どれくらい深くするだね、お父っさん?」
「うんと深くするだ。あと二フィートは必要だて。トム、おまえは出ろ、そして紙にあれを書いてくれ」
トムは穴から這《は》いあがり、ノアが代った。トムは火の番をしている母親のところへ行った。「うちにゃ紙とペンがあっただかね、おっ母?」
母親は、ゆっくりと頭を振った。「いいえ、それだけは持ってこなかっただよ」母親はセリーのほうを見た。そこで、この小柄《こがら》な女は急いで自分のテントへ歩いて行った。そして聖書と半かけの鉛筆を持って戻ってきた。「さあ」と彼女は言った。「ここの最初のページは真っ白ですだ。これに書いて破いたらいいですだよ」彼女は聖書と鉛筆をトムに渡した。
トムは焚火《たきび》の光のなかに坐って、考えをまとめようとして目を細めた。そして最後に、ゆっくりと、慎重に、最初の白いページへ、大きな、はっきりした字を書きつけた。――「ここにいるのはウィリアム・ジェームズ・ジョードといって卒中でなくなった老人である。彼の家族が老人を埋めた。なぜなら彼らは葬式に払う金を持たなかったからである。誰も彼を殺したのではない。ただ卒中で彼は死んだのである」彼は手をとめた。「おっ母、聞いてくんな」彼は、ゆっくりと母親に読んで聞かせた。
「うん、とてもりっぱに聞えるだよ」と母親は言った。「どうだね、聖書から何か言葉を抜けねえだかね。そうすれば言葉が信心深くなるだが。聖書をあけて、そのなかから何か抜きだして言ってみてごらんよ」
「短くなくちゃ困るだよ」トムが言った。「もうあまり書くところが残ってねえだから」
セリーが言った。「神よ彼の魂にめぐみをたれたまえ――こういうのはどうだね?」
「だめだな」トムが言った。「それだとなんだかじいさまが首でもくくられたみてえな感じがするだて。何かほかのを写そうや」彼は聖書のページをくって読み、唇《くちびる》をぶつぶつ動かし、声に出さずに言葉を口にした。「やあ、ここに短くていいのがある」彼は言った。「わが主よ、請う、斯《か》くしたもうなかれ」
「まるで何の意味もありゃしねえだ」と母親が言った。「書くからには、何か意味がなくちゃね」
セリーが言った。「詩篇《しへん》を開いてごらんよ。もっと先よ。詩篇からだと、いつも何かいい文句がとれるだから」
トムはページをくり、詩篇をながめた。「ここに、こんなのがあるだ」と彼は言った。「こいつはなかなかいいぞ。それに、とても宗教的だ。『その咎《とが》を許され、その罪をおおわれしものは福《さいわい》なり』こいつはどうだな」
「それはとってもいいだ」母親が言った。「それを書きなよ」
トムは、注意してそれを書いた。母親は果汁《かじゅう》の壜をゆすいでふいた。トムは紙を壜に入れ、それから壜の蓋を固くまわしてしめた。「これは説教師が書くものだったかもしれねえだな」と彼は言った。
母親が言った。「いんや、説教師は身内じゃねえだから」母親は壜をトムから受けとり、暗いテントのなかへはいって行った。じいさまの掛け布をはずして、果汁の壜を、やせた冷たい両手の下にすべりこませ、ふたたび、しっかりと聖霊を閉じた。それから火のところへ戻った。
男たちは墓穴から出てきた。顔が汗で光っていた。「さあ、これでよし」父親が言った。父親とジョンとノアとアルが、テントへはいって行った。そして、ピンでとめてある長い包みを、みんなでさげて出てきた。それを墓へ運んだ。父親が穴のなかへ飛びおり、その包みを両腕に受け、そっと下におろした。ジョン伯父が手をさしだして父親を穴から引きあげた。父親がたずねた。「ばあさまは、どうしてるだね?」
「あたしが見てくるだ」と母親が言った。そしてマットのところへ歩いて行き、ちょっとのあいだ老婆《ろうば》を見おろした。それから墓へ戻った。「眠ってるだよ」と母親は言った。「きっと、あとでばあさまは、あたしを怒るでしょうよ。でも、いまあたしは起したくねえだ。ばあさまは疲れてるだからね」
父親が言った。「説教師はどこへ行っただ? 説教師がいなくちゃだめじゃねえか」
トムが言った。「さっき道路を歩いてるのを見たが、あの人はもうお祈りはしたくねえらしいだよ」
「祈りたくねえって?」
「そうなんだ」とトムが言った。「あの人はもう説教師じゃねえだ。それで、自分が説教師でもねえのに説教師みたいにふるまって、みんなをだますのはよくねえことだと思ってるだ。きっと、誰《だれ》にも頼まれないように、わざと離れちまったんじゃねえかな」
ケーシーは、静かにそばまできていた。そして彼はトムのいうことを聞いた。「わしは逃げて行ったんじゃねえだよ」と彼は言った。「わしは、あんたがたの手助けをしてえだ。といって、あんたがたをだましはしねえけんどな」
父親が言った。「ちょっくらお祈りをしてくれねえだかね。うちの家族は誰もお祈りぬきで埋められたことはねえだで」
「祈るだよ」と説教師は言った。
コニーが『シャロンのバラ』を墓のほうへ連れてきた。彼女は気が進まないようであった。「こなくちゃだめだよ」とコニーが言った。「行かねえなんて礼儀にはずれるだ。ほんの簡単なことじゃねえか」
焚火の光が、集まった人々の上に落ち、彼らの顔と目を照らし、彼らの黒っぽい服の上で、ほんのりと明るんだ。いま人々は帽子を脱いだ。光が人々の上にゆらめき踊った。
ケーシーが言った。「簡単なものにするだ」彼は頭をたれた。人々はそれに従った。ケーシーは厳粛に言った。
「ここにいるこの老いたる人は、まさに一つの生命《いのち》を生き、それを終えて死んだだ。わしは彼が善人だったか悪人だったか知らねえだ。しかしそれは、どちらにせよ大きな問題ではねえだ。彼は生きていた、そのことが大きなことなのだ。いま彼は死んでる。しかし、それはたいした問題ではねえだ。いつか、ある男が詩を読むのを聞いたことがあるだ。彼は言った。『生きとし生けるものはみな聖なり』はじめわしは考えた。しかしすぐに、それが言葉以上の意味をもってることを知っただ。だからわしは死んだもののために祈ろうとはしねえ。死んだものはそれでいいだ。彼は、なすべきことをもってる。しかもそれは彼の前にちゃんとおかれてるだ。だから彼は、それをするのに迷うことがねえだ。しかしわしたち、わしたちは、なすべき仕事があるだ。そして、それをするには千もの道があり、わしたちは、どの道を選べばいいかわからねえでいるだ。そして、もしわしが祈るとするならば、それは、どの道を進めばよいかわからねえでいる人たちのために祈るだ。ここにいるおじいさんは安楽な、まっすぐな道をめぐまれてるだ。いま、わしたちは彼に土をかけてやり、彼を彼のなすべき仕事につかせてあげるだ」
彼は頭をあげた。
父親が言った。「アーメン」そして他の人々もつぶやいた。「アーメン」
それから父親がシャベルを取って、それに土を半ば入れ、黒い穴の上に静かにばらまいた。そしてシャベルをジョン伯父に渡した。ジョンはシャベル一杯の土を落した。シャベルは順々に人々の手に渡った。みんながそれぞれ土を落し終えると、父親は、やわらかな土の山をくずし、急いで穴を埋めた。女たちは火のところへ戻って夕食の出来ぐあいを調べた。ルーシーとウィンフィールドは心を奪われて墓の仕事を見まもっていた。
ルーシーが重々しく言った。「じいさまは、あの下にいるのよ」ウィンフィールドは、こわごわとした目で彼女を見あげた。それから火のほうへ駆けて行き、地べたに坐りこんで、一人で泣いた。
父親は穴を半分ほど埋めた。そして彼が息をはずませて立っているあいだにジョン伯父が代って全部埋め終えた。ジョンが土を盛りあげはじめたとき、トムがこれをとめた。「待ってくれ」とトムは言った。「墓の形にすると、おれたちが行ってから、すぐに警察で掘りかえして見るにちげえねえ。かくさなくちゃいけねえだ。地面を平らにして、その上に干し草をまいておくだ。そうするより仕方ねえだ」
父親が言った。「そいつは考えなかっただな。だけど墓を盛りあげねえでおくのはよくねえことだぞ」
「仕方ねえだよ」トムが言った。「やつらは、すぐに掘りだしちまうだぜ。そうすると、おれたちは法律を破ったことになるだ。おれが法律を破ったらどういうことになるか、そいつはわかってるだろうが」
「なるほど」と父親が言った。「そいつを忘れてたよ」彼はジョンからシャベルを取り、墓を平らにした。「冬になると、こりゃ、へこむだぞ」と彼は言った。
「仕方ねえだよ」とトムが言った。「冬までには、おれたちは遠くへ行ってるだ。よくたたいてくんろよ、その上にわらをまいとくだから」
豚肉とポテトができあがると、一同は火のまわりに坐って食べた。火を見つめながら、静かだった。ウィルソンは、肉を噛《か》みちぎりながら、満足げに溜息《ためいき》をもらし、「豚肉はうめえ」と言った。
「その」と父親が説明した。「わしらは子豚を二頭もってただが、考えてみると、食うよりほかにしようがなかっただよ。ほかに手がねえだでな。わしらが移動旅行になれてきたら、うちのおっ母がパンもこさえるだ。そうすりゃ、さだめしいい気持だろうて。田舎の景色をながめながらトラックに豚の塩づけ二樽積んで走るのはな。おまえさんがたは旅に出てから、どれくらいになるだかね?」
ウィルソンは舌で歯にくっついた肉の滓《かす》をなめて噛みくだした。「わしらは運がよくなかっただよ」と彼は言った。「もう家を出てから三週間になるだ」
「へえ、そりゃ大変だ。わしらは十日かそれ以内にはカリフォルニアへ着くつもりだぜ」
アルが口を入れた。「わかんねえだよ、お父っさん。あの大荷物じゃ、ひょっとすると向うへ着けねえだぜ。これから先に山でもあったらね」
彼らは火のまわりで黙りこんだ。顔をうつむけ、髪と額には焚火の光が映っていた。焚火の小さな円光の上空には、夏の星々が、うっすらと光っていた。そして日中の暑熱が次第に消えていった。火の向うのマットの上で祖母が子犬のように小さく鼻を鳴らした。みんなの頭が祖母のほうに向いた。
母親が言った。「ローザシャーン、いい子だからばあさまのそばに寝てやっておくれ。誰かそばにいてほしいんだよ。もうばあさまにもわかりかけてきたらしいだからね」
『シャロンのバラ』は立ちあがり、マットのほうへ歩いて行って老婆のそばに横になった。すると彼女の低いつぶやきが焚火のほうに流れてきた。『シャロンのバラ』と祖母が、マットの上でささやいているのだ。
ノアが言った。「妙なことだけんど――じいさまが死んでも、おらあ、前とちっとも変ったふうに感じねえだ。以前と同じで、ちっとも悲しくならねえだ」
「同じものなのだよ」ケーシーが言った。「じいさんと古いあの土地、これはまったく同じものなんだ」
アルが言った。「おれは実際きまりが悪かったな。じいさまときたら、好き放題のことばかりしゃべっててよ。葡萄汁《ぶどうじる》をしぼって頭の上からぶっかけるんだとか、葡萄汁でひげを洗うんだとか、そんなことばかり言ってただ」
ケーシーが言った。「あの人は、いつもふざけたことばかり口にしてただ。わしは、あの人はそれを知っていてやったのだと思うだ。じいさんは今夜死んだんじゃねえだよ。あの土地からつれ出されたときに死んだだ」
「ほんとに死んでたのかね?」と父親が言った。
「いや、それはちがうさ、もちろん。じいさんは呼吸《いき》をしとったものな」ケーシーはつづける。「しかし老人は死んでいたんだ。老人はあの土地そのものだし、それを自分でも知ってただ」
ジョン伯父が言った。「おまえさんはじいさまが死ぬと知ってただかね?」
「うん」とケーシーは言った。「わしは知っとっただよ」
ジョンは彼を見つめた。その顔には恐怖があらわれた。「それで、おまえさんは、そのことを誰にも話さなかっただかね?」
「話して何のたしになるだかね?」ケーシーがききかえした。
「わしら――わしら、何かしてやれたかもしれねえだで」
「何を?」
「さあ、何だかわかんねえけど、でも――」
「いや」とケーシーが言った。「何もしてやることはできなかったさ。おまえさんの道は定まっていたし、そしてじいさんは、そのなかに加わっていなかっただ。あの人は、まるっきり苦しまなかっただ。けさ出立するときに苦しんだだけでな。老人は、あの土地にくっついてただ。そこを離れられなかっただよ」
ジョン伯父は深い溜息をもらした。
ウィルソンが言った。「わしらは兄貴のウィルを残してきただ」みんなの頭が彼のほうに向いた。「兄貴とわしは、ならんで四十エーカーの土地を持ってただ。わしが弟でね。二人とも車の運転ができねえだ。わしらは持ち物を全部売りはらっただ。ウィル――兄貴は車を買いこんだ。すると販売店じゃ、どうやって動かすのか教えるのに小僧っ子をよこしただよ。それで、わしらが出発する前の日の午後、ウィルとミニー伯母は練習に行っただ。ウィルは、道の曲り角へきたもんだから、どなっただよ。『とまれ、あと戻りだ』だけんど、そんときはもう柵《さく》を破っちまっていただ。それでウィルは、『とまれ、ちきしょうめ』とどなってからに、力まかせにアクセルを踏んだもんだで、溝《みぞ》のなかに落っこっちまっただよ。さあ、困った。もう何も売るものはねえし車もねえ。しかも、そいつが、ちきしょうっ、自分でやらかした失敗ときてやがる。ウィルは、すっかり腹をたてちまって、どうしてもわしらといっしょにこねえだよ。ただ罵《ののし》ったりどなり散らしたりばかりしていてね」
「それで、兄さんは、どうするつもりなのかね?」
「さあね。腹がたちすぎてて、考えるどころじゃねえだ。それに、わしらは待てなかっただ。旅の金は八十五ドルしかなかったでね。腰を落ちつけていて金を減らすわけにゃいかなかっただ。もっとも、どっちみち、すっかり使っちまっただけんどよ。百マイルも走らねえうちに後尾の歯車の歯が欠けちまっただ。こいつを直すのに三十ドルかかっただ。それから今度はタイヤを買わなくちゃならなかった。それから点火プラグが割れた。そのうえセリーが病気になった。十日間ほど、とまってただよ。そして、いままた、このやくざ車め、こわれっちまっただ。金のほうが心細くなってるというのにさ。いつになったらカリフォルニアへ着けるものやら見当がつかねえだよ。わしが車を直せりゃいいだが、車のことときたら、わしは何も知らねえだで」
アルが、さも重大そうにたずねた。「どこが悪いだね?」
「それが、つまり走らねえのさ。動きだして、すこし行くと、とまっちまうだ。そして、すぐにまた動きだす。それから、車が走りだしそうになると、もうモーターがとぎれちまうだ」
「ちょっと動いてから、すぐにとぎれるのかい?」
「そうなんだ。そして、いくらガソリンをやっても、ちっとも走りつづけねえだよ。ますます悪くなるだ。いまじゃ、まるっきり動かなくなっちまっただ」
アルは、もうすっかり得意で、おとなぶって言った。「おれの考えじゃ、ガソリン管がつまったんじゃねえかと思うだな。それを吹きだすようにしてやるだよ」
そして父親も得意だった。「こいつは車についちゃ、いい腕をもってるだ」と父親は言った。
「手を貸してもらえたら、本当にありがてえだよ。まったくだて。何も直すことができねえとなると、人間、まるで――子供にでもなったみてえな、みじめな気分になっちまうもんだでな。カリフォルニアへ行ったら、わしはいい車を買うつもりだ。ぶっこわれねえやつをね」
父親が言った。「いつになったら着けるだかよ。行くまでにゃ、いろいろと厄介《やっかい》なことが起るだろうて」
「本当だ。だけんど、それだけのことはあるだよ」とウィルソンが言った。「そうだとも。わしは広告ビラで見たけんど、向うじゃ、えらく果実摘みの人手をほしがってるだ。とてもいい賃金でな。そうとも、それがどんなぐあいのもんか、ちょっと考えてみなせえ。あんな涼しい木陰で果実を摘んで、ときにゃ一かじりやらかしてよ。そうとも、わしらが、どんなに食ったところで、向うじゃ文句なんぞ言わねえさ。うんとありすぎるだもの。それに、あんなに賃金が高えだから、自分でも小さな土地を持てるようになって、現金を稼《かせ》ぐこともできるようになるだ。そうさ、まったく、二年もすりゃ、きっと誰だって自分の土地を持てるようになるだよ」
父親が言った。「わしらも、そんなビラを見ただよ。一枚、ここにも持ってるだ」彼は財布をとり出し、折りたたんだオレンジ色のビラを出して見せた。黒い活字で、こう書いてあった。『カリフォルニアで豆摘み人募集。四季を通じ賃金よし。豆摘み人を八百人募集』
ウィルソンは、それを不思議そうにながめた。「おや、そいつは、わしが見たやつと同じもんだぞ。すっかり同じだ。どうだろう――向うじゃ、もう八百人とっちまっただろうかね?」
父親が言った。「これはカリフォルニアのほんの一部だ。あそこは、おまえさん、アメリカでも二番目に大きな州だて。たとえ、その八百人がいっぱいになったとしても、ほかに土地は、いくらもあるだよ。とにかく、わしは果実摘みをやるだ。おまえさんが言ったように、木陰の下で、果実を摘むだよ――そうとも、子供だって、これならやりたがるだぞ」
突然アルが立ちあがって、ウィルソンの幌型《ほろがた》自動車のほうへ歩いて行った。そして、ちょっと内部をのぞきこみ、それから戻ってきて腰をおろした。
「今晩は直せねえだろう?」とウィルソンが言った。
「うん、あすの朝、直すだよ」
トムは弟を注意深く見まもっていた。「おれもおめえと同じようなことを考えてただよ」と彼は言った。
ノアがたずねた。「二人とも、何の話をしてるだね?」
トムとアルは黙りこくって、たがいに相手が言いだすのを待っていた。「トム、話しなよ」と、しまいにアルが言った。
「うん、ひょっとすると、役にたたねえ考えかもしれねえし、アルの考えてるのとは、ちがうかもしれねえけんど、まあ、とにかく、こんなことなんだ。つまり、おれたちのほうは人間が多すぎるけんど、ウィルソンさんのほうは、そうじゃねえ。もし、おれたちのほうの何人かがウィルソンさんたちの車に乗り、そっちのほうの軽い荷物をいくらかうちのトラックへ乗っけることができれば、おれたちの車はスプリングをこわさずにすむだし、丘だって登れるというわけだ。おれとアルは二人とも車のことは知ってるだ。だから、向うの車を走らせることができるだ。両方がいっしょになって旅ができたら、どっちにも都合がいいことになるだ」
ウィルソンは飛びあがった。「やあ、まったくだて。わしらは、よろこんでそうするだよ。ありがてえこった。セリー、いまの話、聞いたかい?」
「とてもいいことね」とセリーが言った。「でも、あんたがたの重荷にならないかしら?」
「いや、とんでもねえ」と父親が言った。「重荷になんぞならねえだよ。かえって助かるというもんだ」
ウィルソンは落ちつかなげに坐りなおした。「さあ、どうだかな」
「どうしただね? そうしたくねえだかね?」
「いんや、その――わしのとこにゃ、あと三十ドルほどしか残ってねえだし、おまえさんがたの重荷にゃなりたくねえだよ」
母親が言った。「重荷になんぞなりはしねえですよ。おたがいに助けあっていけば、みんなカリフォルニアへ行けますだ。それにセリー・ウィルソンさんは、じいさまのことで、あたしたちを助けてくれただしね」そして彼女は口をつぐんだ。この関係は、いうまでもなく明らかなことだからだ。
アルが叫んだ。「あの車なら楽に六人は運べるだ。だから、おれが運転して、ローザシャーンとコニーとばあさまを乗せるだ。それから、あのかさばる軽い荷物をおろして、そいつをトラックに乗っけよう。そして、ちょいちょいそいつを売っぱらいながら行けばいいだ」彼は声高にしゃべった。心配の重荷がとれたからである。
彼らは小心そうに微笑して地面を見つめた。父親は埃《ほこり》の地面に指先で何か書いた。彼は言った。「うちのおっ母はオレンジの植わってる白い家が気に入ってるだ。うちにあったカレンダーに大きな写真があって、そいつを見て知ってるだよ」
セリーが言った。「もしわたしがまた病気になったら、あんたがたは、かまわずに先へ行って、向うへ着いておくんなさいよ。わたしたちは、あんたがたの重荷になるのは心苦しいですだ」
母親はセリーを注意深く見まもった。そして、いまはじめて、その病苦に悩んだ目や苦痛にさいなまれてしぼんだ顔に気づいた思いだった。母親は言った。「あたしたちは、あんたがたを、おしまいまで世話しますだよ。あんたは、人助けというものは、求められないからといって、せずにはいられねえものだと、自分でもそう言ったじゃねえですかね」
セリーは焚火《たきび》で自分の皺《しわ》だらけの両手を見つめた。「今夜は、いくらか眠らなくちゃ」彼女は立ちあがった。
「じいさま――まるでじいさまが死んで一年もたったみたいだ」と母親が言った。
家族は、大儀そうにあくびをし、のろのろと寝場所へ歩きだした。母親はブリキ皿《ざら》をちょっと振って粉袋で油気をこすり落した。火が消え星がかがやきだした。国道には、ほとんど乗用車は通らなくなった。しかし運送トラックが、ときどきとどろきすぎ、地面に小さな地震を起した。窪地《くぼち》にある自動車二台は、星明りの下で、ほとんど見えぬほどだった。道路の向うのガソリン・スタンドにつながれている犬が吠《ほ》えたてた。家族たちは静かになり、眠っていた。野鼠《のねずみ》は大胆になって、マットのあいだを走りまわった。セリー・ウィルソンだけが、目ざめていた。大空を見つめ、苦痛に負けまいと、体を、しゃんと引きしめていた。
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第十四章
西部の土地は、いまはじまりつつある変化におびえていた。西部諸州は、雷と嵐《あらし》の前の馬のようにおびえていた。大地主たちは、その変化の性質はわからぬながら、おびえている変化を感じとっていた。大地主たちは、目の前のものを、強化される行政管理を、成長しつつある労働者の団結を攻撃した。新しい税金を、新しい企画を攻撃した――こうした事態が結果であって原因でないことを知らずに。それは結果であって原因ではないのだ。結果であって、けっして原因ではないのだ。原因は、もっと深いところにあり、そして簡単なことだ――原因は百万倍にふえた一人の胃の腑《ふ》のなかの飢え、百万倍にふえた一個の精神のなかの飢え、よろこびと、いくらかの安定に対する飢え。百万倍にふえた、成長し、働き、創造したいと熱望する筋肉と心なのだ。最後の明白にして決定的な人間の機能――働きたくてうずく筋肉、単に一つの要求以上のものを創《つく》りだそうとしてうずく精神――これが人間なのだ。壁をつくり、家を建て、ダムを建設し、そしてその壁や家やダムのなかに人間自身の何かをおくこと、そして壁や家やダムのもつ何かを人間自身とり入れること、その建設から、たくましい筋肉をかちとり、その構想から明確な線と形とを引きだすこと、人間とは、そういうものなのだ。なぜなら人間は、宇宙におけるさまざまな組織体、非組織体のどれともちがって自己の創造したものを乗り越え、自分の思考の枠《わく》を踏み越え、自分のなしとげたものの前方に立ちあらわれるものであるからだ。人間については、こういうことがいえるかもしれない――学説が変り、そして崩壊するときにも、学派や思想、それからまた、国民的、宗教的、経済的思想の狭く暗い横道が成長しては解体するときにも、人間は、いたましく、ときには誤りをおかしながらも、つまずきながら前進する。一歩前に踏みだして、あるいはすべってあとずさりするかもしれないが、しかし、それは、ほんの半歩だけで、けっして完全に一歩後退することはないのだ。これはたしかなことだし、誰《だれ》でもそのことは身にしみて知っているはずである。このことは、爆弾が黒い機上から市場に落下するとき、捕虜たちが豚のように刺し殺されるとき、押しつぶされた死体が埃《ほこり》のなかで汚ならしくひからびるときに、わかるかもしれぬ。あるいは、つぎのような方法で知ってもよいわけだ。もしも一歩が踏みだされていないならば、もしもつまずきながらも前進しようという意欲が生きていなかったならば、爆弾だって落ちはしないし、咽喉《のど》を掻《か》き切られることもないであろう。爆撃手が生きていて、しかも爆弾を落さなくなったときをこそ恐れるがよい――なぜなら、爆弾の一つ一つは、精神がまだ死んでいないことの証拠であるからだ。そして、大地主たちが生きていて、しかもストライキが停止されているときをこそ恐れるがよい――なぜなら、小さな、敗北にまみれたストライキも、それは前進の一歩が踏みだされていることの証拠であるからだ。そこで、つぎのようなことがわかるだろう――すなわち人間自身が一つの思想のために苦しみもせず死にもしない、そのような時期を恐れよ、ということだ、なぜなら、この一つの特質こそ、人間自体の基礎となるものであり、そして、この一つの特質こそ、宇宙において他とはっきりと区別される人間にほかならないからだ。
西部の諸州は、はじまりつつある変化におびえていた。テキサスとオクラホマ、カンザスとアーカンソー、ニュー・メキシコ、アリゾナ、カリフォルニア。土地を追われた一つの家族。父親が銀行から金を借りたので、いまやその銀行が土地を要求しているのだ。土地会社――銀行が土地を持っているときには銀行がそれである――が土地に望むものは、家族たちではなくてトラクターなのだ。トラクターとは悪いものなのか? 長い畝《うね》を耕すこの機械力はまちがったものなのか? もしこのトラクターがおれたちのものだったら、それはいいものにちがいない――おれ一人のものではなくて、おれたちのものであるならば。もしおれたちのトラクターが、おれたちの土地の長い畝を耕すのなら、それはいいものにちがいない。おれ一人の土地ではなくて、おれたちの土地ならば。おれたちは、この土地が自分のものであったときにそれを愛したように、そのトラクターを愛することができるだろう。ところが、このトラクターは二つのことをやらかす――土地を引っくりかえし、そしておれたちを土地から追いだしてしまうのだ。このトラクターは戦車《タンク》とほとんど変りがない。二つとも、人々を追いたて、おびやかし、傷つける。おれたちは、この点を考えなくちゃならない。
一人の男、一つの家族が土地から追われる――この錆《さ》びた車で西へと国道をきしりながら進む。おれは土地をなくしちまった。たった一台のトラクターが、おれの土地を取りあげたのだ。おれは、一人ぼっちで途方にくれている。夜になって、一つの家族が道路下にキャンプすると、他の家族が、そこへ車をとめて、ここに二つのテントができあがる。二人の男が、しゃがみこみ、女や子供たちは耳を傾ける。変化を憎み革命を恐れる人たちよ、ここに一つの中心点があるのだ。このうずくまった二人の男たちを引きはなしておくがよい。この二人を、たがいに憎ませ、恐れさせ、疑いあうようにするがよい。ここに、きみたちの恐れるものの芽があるのだ。芽とは接合子だ。なぜなら、ここでは、「おれは自分の土地をなくした」という言葉が一つの変化を受けているからだ。細胞は分裂し、その分裂から、きみたちの憎んでいるもの――「おれたちは|おれたち《ヽヽヽヽ》の土地をなくしたんだ」という言葉――が芽生えてくるからだ。危険はここにある。なぜなら二人の男は、一人のときのように孤独でもないし途方にくれてもいないからだ。そして、この最初の「おれたち」からは、さらに危険なものが成長する。「おれは、すこしばかり食いものを持っている」に加えて「おれは、なにも食うものを持っていない」ということだ。もしこの足し算の答えが、「おれたちにはほとんど食いものがないんだ」となるならば、事態は進行軌道に乗ったのであり、運動はその方向をつかんだのである。いまや、ほんのわずかでも掛け算がおこなわれるならば、この土地、このトラクターは、おれたちのものだ。土手にうずくまっている二人の男、小さな火、たった一つきりの鍋《なべ》のなかで煮えている豚の脇肉《わきにく》、黙って石のような目をしている女たち。その背後で、頭では理解できぬ言葉を魂で聞こうとしている子供たち。夜が近づく。赤ん坊は風邪をひいている。さあ、この毛布をかけな。純毛だぞ。うちのおふくろが使ってた毛布だ――持ってって赤ん坊にかけてやんな。これこそ爆撃すべきもの、これこそ発端――「おれ」から「おれたち」へのはじまりなのだ。
もしきみたち、人間が本来もっていなくてはならぬものを、すでにもっているきみたちが、原因と結果を識別し、ペイン、マルクス、ジェファーソン、レーニンは結果であって原因ではないと知ることができるならば、あるいはきみたちは生き残ることができるかもしれない。しかし、そのことは、きみたちには、とうていわからないだろう。なぜなら、ものを所有するということの特質が、きみたちを永久に「わたし」のなかに凍結させ、そして永久にきみたちを「われわれ」から切りはなしてしまうからだ。
西部の諸州は、はじまりつつある変化におびえていた。窮乏は思想への刺激剤であり、思想は行動への刺激剤である。五十万もの人間が地方を渡って移動しつつあり、さらに百万もの人間が落ちつきなく移動の準備をしており、そして、さらに一千万もの人間が最初のおびえを感じはじめているのだ。
そしてトラクターは人気《ひとけ》のなくなった土地で無数の畝をすき返しているのである。
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第十五章
第六十六号国道に沿ってハンバーグ・スタンド――アルとスージーの店――カールの軽食堂――ジョーとミニーの店――ウィル食堂。板と丸太の小屋だ。正面にガソリン・ポンプが二台、スクリーン・ドア、長いカウンター、腰掛け、それから足をのせる横木。ドアの近くにスロット・マシンが三台おいてあって、三本の棒が落す五セント白銅貨の富をガラスごしに見せびらかしている。そして、そのそばには五セントで鳴りだすジューク・ボックス。まるでパイみたいにつみあげたレコードが、いまにも回転盤の上に飛びだしてダンス・ミュージックを演奏しようと待ちかまえている――「ティ・ピー・ティ・ピー・ティン」「おぼえててくれてうれしいわ」ビング・クロスビー、ベニー・グッドマン。カウンターの片端にはガラスのケース――咳《せき》どめドロップ、|眠気ざまし《ヽヽヽヽヽ》、|居眠りよけ《ヽヽヽヽヽ》などと呼ばれる硫酸カフェイン剤、キャンデー、巻《まき》煙草《たばこ》、安全カミソリの刃、アスピリン、臭素性炭酸水、アルカリ性炭酸水。壁にはポスターが飾ってあって、水着の女たち――大きな乳房、ほっそりした腰、蝋《ろう》のように白い顔の金髪の女たちが、白い水着を身につけ、手にコカコーラの瓶《びん》を持ってほほえんでいる――コカコーラのすばらしい味をおためしください。長いカウンター、塩、胡椒《こしょう》、辛子《からし》の瓶、紙ナプキン。カウンターのうしろにはビールの樽口《たるくち》があり、奥のほうには、ぴかぴか光って湯気を吐きだしているコーヒー沸しがあり、コーヒーの熱度を示すガラスの計器がついている。それから、パイのはいった網籠《あみかご》と四つずつピラミッド型に積みあげたオレンジ。そして、これも体裁よく積みあげたコーン・フレークの「ポスト・トースティーズ」の小さな山。
きらきら光る雲母《うんも》をちりばめたカードに、いろんな標語が書いてある――「お母さんの味のするパイ」「掛売りは敵をつくります。現金払いで仲よしになりましょう」「ご婦人もお煙草をどうぞ。ただし吸殻《すいがら》にご注意」「お食事は当店で。そして愛情は奥さまへ、お忘れなく」
「IITYWYBAD?」
向うの端には料理用の皿《さら》、シチュー鍋《なべ》、それから切られるばかりになっている馬鈴薯《じゃがいも》、鍋焼き肉、ロースト・ビーフ、灰色のロースト・ポーク。
カウンターの向うにいる中年女のミニー、スージー、またはメエ。髪の毛をカールし、汗ばんだ顔に紅と白粉《おしろい》をつけている。おとなしい低い声で注文を受けては、孔雀《くじゃく》の鳴き声のような、かん高い声で、それをコックに知らせる。まるく円を描くようにカウンターをふき、大きなぴかぴか光るコーヒー沸しをみがく。コックはジョーかカールかアルだ。暑苦しそうに白い上着にエプロンをかけ、白いコック帽の下の白い額に玉の汗をにじませている。むっつりしていて、めったに口をきかない。新しい客がはいってくるたびに、ちょっとそっちのほうを見る。鉄板をふき、ひょいとハンバーグをひっくりかえす。おだやかにメエの注文をくりかえしては鉄板をこすり、油布でそれをふく。むっつりと黙りこくったままだ。
メエは接待係である。ほほえみ、いらいらし、いまにもヒステリーを起しそうだ。ほほえみながらも目はどこかにそれている――しかし相手がトラックの運転手だと話はちがってくる。この店の上得意はトラックの運転手たちなのだ。トラックのとまるところ、かならず客がある。トラックの運転手らをばかにはできない。彼女たちは知っている。彼らが店をささえてくれるのだ。彼女たちは知っている。出がらしのコーヒーでも出したが最後、彼らは、そんな店は見向きもしなくなる。愛想《あいそ》よくもてなせば、またやってくるのだ。メエは、トラックの運転手たちには、精いっぱい、本気でほほえみかける。すこしそり身になり、胸のふくらみが持ちあがるように両腕をあげて髪をととのえ、挨拶《あいさつ》を言って、すばらしいことや、すばらしいときのこと、すばらしい冗談をほのめかす。アルは、けっして口をきかない。接客係ではないからだ。冗談を小耳にはさんで、ちょっとにやりとするときもあるが、声を立てて笑うようなことはしない。メエの声の快活なひびきに、ときどき顔をあげることはあっても、やがてまた、へらで鉄板をこすり、まわりの鉄の溝《みぞ》に脂《あぶら》をこすり落す。じゅうじゅう音を立てているハンバーグを、へらで押えつけ、横に半分に切った丸パンを鉄板の上にのせてあぶり、暖める。鉄板の上に散らばった玉ねぎをかき集めて肉の上に積みあげ、へらで押しこむ。パンの半分を肉の上にのせ、残りの半分に溶かしたバターを塗りつけて、味を添えるためにその上にピクルスをうすくひろげる。パンを肉に押しつけながら、薄い肉の塊《かたまり》の下に、へらをすべりこませて、そのままくるりとひっくり返し、その上にバターを塗ったほうのパンをのせ、できあがったハンバーグを小さい皿の上にぽんとのせる。そのサンドイッチのそばに、イノンド風味のピクルスをすこしと黒いオリーブの実を二つ添える。アルは、その皿を、まるで鉄輪のようにカウンターの上にすべらせる。そして、へらで鉄板をこすっては、むっつりとシチュー鍋を見る。
車が何台も第六十六号国道を走りすぎる。ナンバー・プレート。マサチューセッツ、テネシー、ロードアイランド、ニューヨーク、バーモント、オハイオ。西に向って。六十五マイルで飛ばして行くすばらしい車。
あそこにコードが一台行くぜ。まるで棺桶《かんおけ》に車をくっつけたみたいじゃねえか。
しかし、どうだい、みんなすごく飛ばして行くぜ!
あのラ・サールはどうだ。おれは、あれだな。欲はいわねえ。ラ・サールで結構だ。
いばるつもりならキャデラックなんか問題じゃねえさ。ちっとばかり図体が大きくて、すこしばかり速いってだけの代物《しろもん》さ。
おれはゼファーだな。たいした代物じゃねえが、見てくれはいいし、スピードも出るぜ。おれはゼファーだ。
なあ、おい、おめえは笑うかもしれねえが――おれはビュイックがいい。あいつはなかなかいいぜ。
だけど、おめえ、あれはゼファー級の値段で、しかも、あんまり馬力はねえんだぞ。
なあに、構やしねえよ。おれはヘンリー・フォードの製品は、どれもこれもいやなんだ。あいつは虫が好かねえ。昔からそうなんだ。兄貴が、やつの工場で働いてるが、やつの話を聞いてみるがいいや。
とにかくゼファーは馬力があるよ。
大型車が国道を走って行く。暑さにあてられてぐったりしている婦人たち。彼女たちは小さな核にすぎない。そのまわりを無数の装飾品がとりまいている。クリーム、肌《はだ》をなめらかにする軟膏《なんこう》類、小瓶にはいった染色剤――黒、ピンク、赤、白、緑、銀色――髪の毛、目、唇《くちびる》、爪《つめ》、眉毛《まゆげ》、まつ毛、瞼《まぶた》の色を変えるためだ。通じをよくするための油類、種子、丸薬など。性交を安全な、無味乾燥な、不毛なものにするための洗滌器《せんじょうき》、丸薬、粉薬、液薬、ゼリーなどの瓶類。さて、それがすんだら、おつぎは衣装品である。なんというわずらわしさ。
目のまわりには疲労の皺《しわ》、口から下にかけては不満の皺、乳房は小さなハンモックのなかにずっしりとたれさがり、腹と腿《もも》はゴムのわくでしめつけられている。そして、口はあえぎ、目は不機嫌《ふきげん》そうで、太陽と風と大地を嫌悪《けんお》し、食物と倦怠《けんたい》に腹を立て、めったに彼女らを美しくしてはくれず、つねに老《ふ》けこませる時を憎む。
彼女らのそばには背の低い太鼓腹の男たちがいる。明るい色の背広を着こんで、パナマ帽をかぶっている。途方にくれたような、心配そうな、落ちつきのない目をした、身ぎれいな、血色のいい男たちだ。定石どおりにことが運ばないので気をもみ、安全を渇望《かつぼう》しながら、しかも安全が地上から消えてゆくのを感じとっている。上着の襟《えり》には彼らが出入りする会やクラブのバッジがついている。そういうクラブへ出かけて行っては、同じように不安をいだく男たちが大勢いるのに安心して、彼らは自分に言いきかせる――商売というものは高尚《こうしょう》なもので、自分でも百も承知しているような、奇妙な、体裁をつくろった窃盗行為ではないことを。商売人というものは、その愚かしさについて数多くの記録が残されているにもかかわらず、聡明《そうめい》な人間であり、のっぴきならぬ事業の諸原則があるにもかかわらず、親切で、情け深い人間であることを。そして彼らの生活は、自分たちがちゃんと知っているような、うすっぺらで、退屈な日課のくりかえしではなく、豊かなものであることを。それから、彼らがもはや恐れなくてもいいようなときが近づきつつあることを。
この一組の男女はカリフォルニアへ行くところなのだ。カリフォルニアへ行って、ベバリー・ウィルシャー・ホテルのロビーに腰をおろし、彼らが羨望《せんぼう》してやまない人々が通りすぎるのを見まもり、山々を――山々をだ、よろしいか――そして、大きな木々を見ようというのである。男は、その落ちつかぬ目で、女は太陽が肌をかさかさにしてしまいはせぬかと気をもみながら。太平洋を見に行こうというのだが、十万ドル賭《か》けてもいいが、男はきっとこういうにちがいないのだ。「思ったほど大きくはないな」そして女は、浜べに戯《たわむ》れる、ぴちぴちした若い肉体を、うらやむにちがいない。ほんとうは、また家へ引きかえしてくるためにカリフォルニアへ出かけるわけなのだ。帰ってから、「誰それさんがトロカデーロであたしたちの隣のテーブルにいたわよ。ほんとに器量のわるい人だったけれど、それでも着るものはすばらしいのを着ていたわ」というために。それから、男は、「わしは、あちらで、れっきとした実業家たちに会って話をしたんだがね、連中は、いまホワイト・ハウスにいるあの男を追いだしてしまわないかぎり、どうにもならないというとったよ」とか、あるいは、「消息通に聞いたのだがね――あの女は梅毒だっていうじゃないか。ほら、あのワーナーの映画に出てる女さ。人の話では、体を売って映画界にはいったんだそうだ。あの女としたら望みのものを手に入れたというわけさ」などというために。しかし、不安そうな目は、けっして落ちつくことがなく、とがらした口もとは、けっしてほころびることがない。その大型車が六十マイルで飛ばして行くのである。
あたし、冷たい飲物がほしいわ。
そうかい。向うの店に何かあるだろう。車をとめてみるかね?
あの店は清潔かしら?
この返鄙《へんぴ》な片田舎じゃ、あんなもんだろうて。
壜詰《びんづめ》のソーダ水なら大丈夫かもしれないわね。
大きな車が、ぎいっと音を立てて停止する。不安そうな顔つきの、太った男が妻を助けおろす。
メエは、彼らがはいってくるのをちらと見て、目をそらす。アルは鉄板から顔をあげ、またうつむく。メエにはわかっているのだ。彼らが、五セントのソーダ水を飲んで、よく冷えてないと文句をいうにきまっていることが。女は紙ナプキンを六枚使って、それを床に散らばすだろう。男はむせかえり、それをメエのせいにしようとするだろう。女は、まるで腐りかけた肉をかぐように鼻をくんくんいわせ、それから二人で店を出て行って、こんどは会う人ごとに、西部の人間は無愛想だと言いふらすにきまっている。だから、メエは、アルと二人きりになると、彼らのことをあだ名で呼ぶのである。|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》というのがそのあだ名だ。
トラックの運転手。こいつはたちのいいお客さんだ。
あら、大きなトラックがやってくるわ。とまってくれるといいんだけれど。あの|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》どもが残して行った、いやな後味を吹きとばしてくれるといいんだけれど。あたしがアルバカーキのホテルで働いてたときのことだけどね、アル、あの連中は、すごく物を盗むのよ――何でも手当りしだいに持ってってしまうのよ。大きな車に乗ってくるやつほど、よけい盗むわ――タオルでも、銀の食器でも、石鹸《せっけん》入れでも。どれくらい盗んだか、見当がつかないわ。
するとアルが気むずかしげにいう。あいつらは、どこで、あんなでっかい車を手に入れると思うのかね。生れたときから持ってるとでも思っているのかい。おめえなんか、いつまでたっても何も手に入れることはできやしねえよ。
輸送用トラック、運転手とその助手。ここで車をとめて、コーヒーでも一杯やろうか。おれはこの店を知ってるんだ。
時間はどうなんだい?
なあに、時間はまだだいぶあるよ。
それじゃ、とめよう。こういうところには、気っぷのいい海千山千の愉快なのがいるもんだ。それにコーヒーもいいしな。
トラックがとまる。カーキ色の乗馬ズボン、皮の長靴《ながぐつ》、短い上着、それに、ぴかぴか光る、ひさしのついた軍帽といったいでたちの二人の男。スクリーン・ドアが――ばたんと音を立てる。
やあ、どうだい、メエ。
あら、まあ、浮気者《うわきもの》のビッグ・ビルじゃないの。いつこの道路へ戻《もど》ってきたのさ。
一週間前さ。
もう一人の男はジューク・ボックスに五セント白銅貨を入れて、レコードがひとりでに飛びだし、その下に回転盤がせりあがってくるのを見まもっている。ビング・クロスビーの声――黄金の声だ。
「思い出を残してくれてありがとう。海べで日にやけたときのあの思い出を――おまえは頭痛《ヘデイク》の種だったが、けっして退屈《ボア》じゃなかった――」するとトラックの運転手がメエに聞えよがしにうたう。おまえは鱈《ハドック》みたいな女だったが、けっして淫売《ホア》じゃなかったね。
メエが笑う。あんたの友達は何ていうの、ビル。この路線は、はじめてじゃないの?
もう一人の男はスロット・マシンに五セント白銅貨を一つ入れて五セント玉を四枚もうけ、そいつをまた入れる。それからカウンターのほうへ歩いて行く。
ところで、何にするの?
そうだな、コーヒーを一杯くれ。パイは、どんなのがあるんだい?
バナナ・クリームに、パイナップル・クリーム、チョコレート・クリームに――それからアップル・パイ。
アップル・パイがいい。待てよ――あのでっかい、厚ぼったいやつは何だい?
メエは、それを取りだして、匂《にお》いをかいでみる。バナナ・クリームよ。
そいつを一きれ切ってくれ。でかいやつをな。
スロット・マシンのところにいた男がいう。みんなで二つだぜ。
二つね。近ごろ、何か新しい特種を読まない、ビル?
そうさな、こういうのがあるぜ。
おい、ご婦人の前だ、気をつけろよ。
なあに、こいつは、そんなひでえもんじゃねえよ。小さな餓鬼が学校へ遅刻してきたんで、先生がきいた。「どうして遅刻したの?」するとその餓鬼がいうには、「若い雌牛を連れて行ったんです――種つけに」「そんなこと、お父さんにしてもらえなかったのかね?」と先生がいうと、餓鬼めのいうことには――「そりゃ、お父ちゃんにだってできるよ。だけど、お父ちゃんは雄牛みたいに上手にゃできないもん」
メエが、けたたましく笑う。粗野な、かん高い笑い声だ。爼板《まないた》の上で注意深く玉ねぎを刻んでいたアルが、顔をあげてほほえみ、それからまたうつむく。トラックの運転手たち、たちのいいお客さんだ。めいめい二十五セントずつメエにおいていってくれる。パイとコーヒーに十五セント、それからメエに十セントだ。それに、この連中は、けっして彼女をものにしようなどとはしない。
腰掛けにならんで坐る。スプーンがコーヒー茶碗《ぢゃわん》からのぞいている。挨拶《あいさつ》をかわす。そしてアルは鉄板をこすり落しながら話に耳を傾ける。しかし、自分からは何も言わない。ビング・クロスビーの声がやむ。回転盤が下にさがり、レコードが、さっと一揺れして、元の場所に戻る。紫色の光が消える。この装置全体を動かしていた五セント白銅貨、クロスビーに歌をうたわせ、オーケストラに曲を演奏させていた白銅貨が接触点から落ちて受け皿にころがりこむ。この白銅貨は、普通の貨幣とちがって、実際に一つの役目を果し、物理的に一つの反応に関与しているのだ。
蒸気がコーヒー沸しの弁から吹きでる。製氷機のコンプレッサーが、しばらくのあいだ、しゅっしゅっと音を立てていたが、それもやがてとまる。すみっこの扇風機が、ゆるやかに首を振り、部屋じゅうに生暖かいそよ風を吹きおくる。ハイウェーを、第六十六号国道の上を、何台もの車がさっと走りすぎる。
ちょっと前にマサチューセッツの車が一台とまったわよ、とメエが言った。
ビッグ・ビルはコップの縁を握った。スプーンが人差し指と中指の間からつき出た。彼は熱いのをさますためにコーヒーといっしょに空気を吸いこむ。「まあ、六十六号へ出てみなよ。国じゅうから車がやってくるぜ。みんな西へ行くんだ。こんなにたくさんの車は、これまで見たことがねえ。なかには、いい車も走っているけどな」
「おれたちは、けさ事故を一件見たぜ」と彼の相棒が言った。「でっかい車だった。大型のキャデラックで、特別製の、すばらしいやつだった。低くて、クリーム色で、特別製なんだ。こいつがトラックにぶつかったんだ。ラジエーターが、もろに運転していたやつのほうに折り重なってしまった。九十マイルは出してたにちげえねえ。ハンドルが、まともにその男に突きささって、まるで鉤針《かぎばり》にひっかかった蛙《かえる》みてえにもがいてやがった。いい車だったな。すげえ車だったよ。ああなっちまってはピーナツ代にもなりゃしねえがね。その野郎は、一人で運転してやがったよ」
アルが仕事の手を休めて顔をあげた。「それで、トラックはやられなかったのかい?」
「いやもう、ひでえもんさ。トラックなんてもんじゃなかったよ。よくあるおんぼろ車でさ。ストーブだの、鍋《なべ》だの、わら布団《ぶとん》だの、子供だの、鶏だのを、いっぱい積みこんでいてね。もちろん西へ行く途中だったのさ。いま話した野郎が、九十マイルで、おれたちのそばへ出てきやがった――後輪に馬力をかけて、おれたちを追い越そうとしたんだが、そのとき向うから車が一台やってきたもんだから、あわててハンドルを切って前へ割りこんだ。それで、そのトラックにぶち当っちまったというわけさ。まるで、ぐでんぐでんに酔っぱらったみてえに飛ばしてやがったよ。まったく、あたり一面に寝具やら、鶏やら、子供やらが飛び散ってな。子供が一人死んだよ。あんなものすごい騒ぎは、まったく見たことがねえ。おれたちは車をとめたが、トラックを運転していたおやじは、そこにつっ立って、死んだ子供を、ぼんやり見ているだけなんだ。そのおやじからは一言もききだすことができなかったよ。ただもうぼんやりしてるんだ。まったく、この道は、西部へ行くそういう家族たちでいっぱいなんだ。あんなにたくさんの人間は見たことがねえよ。それも、だんだんひどくなってくるんだ。いったいやつらは、どこからやってくるんだろうな?」
「それに、みんなどこへ行くのかしら?」とメエが言った。「ときどきここへガソリンを買いにくるけど、ほかの品は、ほとんど何も買わないのよ。あの連中は物を盗むって、みんな言ってるけど、あたしたちのところじゃ、何もそこいらにおいてないし、あの人たちに盗まれたことなんて一度もないわ」
ビッグ・ビルは、パイをむしゃむしゃやりながら網戸をはめた窓をすかして道路のほうを見やった。「店のものを、みんなしまっといたほうがいいぜ。噂《うわさ》をすれば影だ、その連中がやってくるようだ」
一九二六年型のナッシュのセダンが、のろのろと国道からそれて、こちらへ近づいてきた。後部の座席には、ほとんど天井にとどくほど袋や鍋やフライパンなどが積みあげられ、その上に天井にへばりつくようにして二人の少年が乗っていた。車の屋根には、わら布団が一枚と、たたんだテントが積んであり、テントの支柱はステップにしばりつけてあった。車はガソリン・ポンプのそばでとまった。黒い髪の、とがった顔つきの男が、のっそり車からおりた。すると、二人の少年が積み荷の上からすべりおりて、地面にとんと立った。
メエはカウンターをまわって戸口に立った。男は灰色のウールのズボンをはき、青いシャツを着ていたが、背中と脇《わき》の下は汗で濃紺色に黒ずんでいた。少年たちは仕事着のほかは何一つ身につけていなかった。それも、ぼろぼろで、つぎはぎだらけの仕事着だ。髪の毛は明るい色で、短く刈りこまれていたから、毛が頭の上で全体につっ立っていた。顔は、埃《ほこり》にまみれて縞模様《しまもよう》がついていた。彼らは、ホースの下のぬかるみのところへ、まっすぐに歩いて行って、足の指を泥《どろ》んこのなかへもぐりこませた。
男がたずねた。「ねえさん、水をすこしもらえねえだかね?」
当惑の表情がメエの顔をかすめた。「いいわよ、どうぞ」彼女は肩ごしに低い声でアルに言った。「大丈夫、ホースはあたしが見てるから」彼女が見ている前で、男は、ゆっくりラジエーター・キャップをはずし、なかにホースをつっこんだ。
車のなかにいた女――亜麻《あま》色の髪の女が言った。「ここでわけてもらえるかどうか聞いてみておくれよ」
男はホースをはずして、キャップを、もとどおりにしめた。子供たちが彼からホースを受けとって、その先を上に向け、いかにも咽喉《のど》がかわいたといったふうに水を飲んだ。男は黒い、よごれた帽子をとって、妙におどおどしながらスクリーン・ドアの前に立った。「ねえさん、なんとかパンを一つわけてもらうわけにはいかねえだかね?」
メエが言った。「ここは食料品店じゃないんだよ。パンはサンドイッチをつくるためにおいてあるんだからね」
「そりゃそうでしょうがね、ねえさん」彼の卑屈さは格別だった。「おれたちはパンがどうしても必要なんですだ。それに、このさきしばらくは店らしい店もねえということだし」
「パンを売ってしまうと、うちで使うパンがなくなってしまうよ」メエの口調は、ためらいがちだった。
「おれたちは腹をすかしていますだ」と男が言った。
「じゃ、どうしてサンドイッチを買わないのさ。おいしいサンドイッチがあるよ。ハンバーグのね」
「そりゃ、そうしてえのは山々ですがな、ねえさん。だけんど、おらたちは、それができねえですよ。十セントで、みんなの分をまにあわさなくちゃならねえのでね」それから彼は、きまり悪そうに言った。「なにしろ、ほんのすこししか持合せがねえだで」
メエが言った。「十セントじゃパン一本も買えやしないよ。うちじゃ十五セントのパンしかおいてないんだからね」
彼女の背後からアルがどなった。「メエ、パンを売ってやんなよ」
「でも、パンのトラックがくるまでに、パンが品切れになってしまうわ」
「それじゃ、品切れにしとけばいいさ。ちきしょうめ」とアルが言った。それから彼は、たったいまかきまぜていたポテト・サラダを、しぶい顔つきで見おろした。
メエは、むっちりした肩をすぼめ、さも困ったと訴えるようにトラックの運転手たちのほうを見やった。
彼女がスクリーン・ドアを開け、それを押えていてやると、男は、汗臭い匂いをぷんぷんさせながら、はいってきた。子供たちが、そのうしろから、そろそろとはいってきて、まっすぐキャンデーのケースのほうへ行き、じっと、なかを見つめた――ほしくてたまらないといったふうでもなく、希望も、いや、それどころか何の欲望ももたず、ただ、この世には、こんなものもあるのかといった一種の驚きの目で。二人は体の大きさも同じくらいで、顔も似ていた。一人が、埃だらけのくるぶしを、片方の足の爪《つめ》でひっかいた。もう一人のほうが低い声で何かささやいた。それから、二人は腕をきゅっと伸ばしたので、仕事着のポケットにつっこんだ手を固く握りしめているのが、青い生地を通して、はっきりと見えた。
メエが引出しをあけて、蝋紙《ろうがみ》に包んだ長いパンを一つ取りだした。「十五セントのパンよ」
男は帽子を頭のうしろにずらした。相変らず、へりくだった物腰で彼は言った。「どうだかね――このパンを十セント分だけ切って、わけてもらうわけにはいきますめえか?」
アルが、どなるように言った。「ちえっ、メエ、そのパンをくれてやんなよ」
男がアルのほうを向いた。「いんや、おれたちはパンを十セント分だけわけていただきてえんでさ。おれたちはカリフォルニアへ行きつくために、おめえさん、おっそろしく細かく算盤《そろばん》をはじいてるだでな」
メエが、あきらめたように言った。「十セントでこれを売ってあげるわ」
「それじゃ、ここのものを盗んだことになるだよ、ねえさん」
「いいんだよ――アルが持ってけって言ってるんだから」彼女は蝋紙に包んだパンをカウンターごしに押しやった。男は底の深い革の財布をズボンの尻《しり》ポケットからとり出し、紐《ひも》をほどいて開けた。銀貨や、手垢《てあか》だらけの札が、ぎっしりつまっていた。
「こんなにけちけちして、おかしいと思うかもしれねえだが」と彼は弁解がましく言った。「これからまだ千マイルもあるだでな。それに、うまく向うまで行きつけるかどうかもわからねえだで」彼は人差し指で、財布のなかを探り、十セント玉を一つ探り当てると、指をつっこんで、それをつまみあげた。カウンターの上においてみると、一セント玉が一枚くっついていた。彼が、その一セントを、財布に戻そうとしかけたとき、彼の目はキャンデーのカウンターの前で凍りついたようになっている子供たちにとまった。彼は、ゆっくりと子供たちのほうへ歩いて行った。ケースのなかの大きな、長い、縞模様のついた薄荷《はっか》入りの飴《あめ》を指さした。「ねえさん、あれは一セント・キャンデーだかね?」
メエが、そこへ行ってなかをのぞきこんだ。「どれさ?」
「あそこの、あの縞のやつだよ」
子供たちは彼女の顔を見あげて息をのみこんだ。口をなかば開き、半裸の体が、しゃちこばっていた。
「あ――あれ。あれはちがうわ――あれは二つで一セントよ」
「それじゃ二つもらうだよ、ねえさん」彼は一セント銅貨を大事そうにカウンターの上においた。子供たちは、のみこんでいた息を、ほっと吐きだした。メエは大きい棒菓子をさしだした。
「さあ、もらいな」と男が言った。
子供たちは、おそるおそる手をさしだして、めいめい一本ずつ取り、それをぶらさげたまま、見ようともしなかった。しかし、彼らは、たがいに顔を見あわせ、口の端に、きまり悪そうな、ぎごちない微笑を浮べていた。
「ありがとうよ、ねえさん」男はパンをとりあげてドアの外へ出て行った。子供たちは、赤い縞の棒菓子を、しっかりと股《もも》に押しつけながら、体をかたくして、そのうしろにつづいた。まるで縞《しま》栗鼠《りす》のように前の座席を飛び越えて積み荷の上にはねあがり、これもまた縞栗鼠のようにこそこそと身をかくした。
男が乗りこんで車を始動させた。すると旧式のナッシュは、ぶるぶるとエンジンの音をとどろかせ、青い油臭い煙の雲を残して国道によじ登り、西のほうへ走り去った。
レストランのなかから、トラックの運転手とメエとアルが、彼らのうしろ姿を見送った。
ビッグ・ビルが、くるりとふり向いた。「あれは二本一セントの菓子じゃねえだろう?」と彼は言った。
「それがどうしたのさ」とメエが強い口調で言った。
「あれは一本五セントの菓子だ」とビルが言った。
「ぼつぼつ出かけなくちゃなるめえ」と、もう一人の男が言った。「だいぶ道草をくっちまったからな」彼らはポケットに手をつっこんだ。ビルがカウンターの上に銀貨を一つおいた。すると、もう一人の男は、それを見て、もう一度ポケットに手をつっこみ、銀貨を一枚おいた。彼らは、さっと身をひるがえして、ドアのほうへ歩いて行った。
「あばよ」とビルが言った。
メエが声をかけた。「ねえ、ちょっとお待ちよ。おつりを持ってきなよ」
「なに言ってるんだ」とビルが言った。スクリーン・ドアが、ばたんとしまった。
メエは、二人が大型トラックに乗りこみ、トラックが低速ギヤでのろのろ動いて行くのを見ていた。そしてギヤがぎいっと鳴って高速の位置に切りかえられるのを聞いた。
「アル――」と彼女は低い声で言った。
アルはハンバーグをぺたぺたうすくたたいて蝋紙の間につみ重ねていた手を休めて顔をあげた。「なんだい?」
「ちょいとごらんよ」彼女はコップのそばの銀貨を指さした――半ドル銀貨が二枚おいてあった。アルは、そばへきてそれを見て、それからまた自分の仕事に戻った。
「トラックの運転手にかぎるわ」とメエが、ぼんやりと言った。「それなのに、あのろくでなしどもときたら」
蠅《はえ》が、こつんこつんと網戸にぶつかっては、ぶうーんと飛んで行った。コンプレッサーが、しばらくしゅっしゅっと音を立てていたが、やがてとまった。第六十六号国道では、トラックや、美しい流線型の車や、おんぼろ自動車が、びゅんびゅん通りすぎた。メエは皿《さら》をおろして、パイの屑《くず》をバケツのなかにかき落した。濡《ぬ》れ布巾《ぶきん》を見つけて、カウンターを、まるく円を描いてふいていった。彼女の目は国道に向けられていた。生活がうなりをあげて通りすぎる国道に。
アルはエプロンで手をふき、鉄板の上の壁にピンでとめてある紙を見た。その紙には、縦に三列に、しるしが書きこんであった。アルはいちばん長い列を数えた。カウンターに沿ってレジスターのところまで行き、「現金」のボタンを押してベルを鳴らし、ひとつかみの五セント白銅貨を取りだした。
「何をしているの?」とメエがたずねた。
「三号がもうじき当りになるんだ」とアルは言った。彼は三番目のスロット・マシンのところへ行って、五セント玉を、つぎつぎに放りこんだ。回転輪が五回まわったところで、例の三本の棒がせりあがってきて、賭《か》け金が、ざらざらと受け皿のなかにこぼれ落ちた。アルは、出てきた白銅貨をわしづかみにして、カウンターのうしろに戻り、それを引出しにほうりこんで、レジスターを、がちゃんと閉めた。それから、もとの場所に戻り、さっきの列に×点をつけた。「三号は、ほかのやつより成績がいいようだ」と彼は言った。「場所を変えたほうがいいかもしれねえ」彼は鍋の蓋《ふた》をとって、とろとろ煮えているシチューを、ゆっくりかきまわした。
「あの人たちはカリフォルニアで何をやるのかしら?」とメエが言った。
「誰《だれ》のことだい?」
「さっきはいってきたあの人たちさ」
「そんなこと知るもんか」とアルが言った。
「向うへ行っても仕事があるかしら?」
「そんなことが、どうしておれにわかるんだい」とアルが言った。
彼女は国道沿いに東のほうを見やった。「あら、輸送トラックがくるわ。二人だわ。ここでとまるかしら? とまってくれるといいんだけど」そして、巨大なトラックが重そうに国道から降りてきて停車すると、メエは布巾をひっつかんで、カウンターを端から端までふいた。それから、きらきら光っているコーヒー沸しを、ひとふきふたふきしてから、コーヒー沸しの下の石油の炎を大きくした。アルは一握りの小さな|かぶら《ヽヽヽ》を取りだして皮をむきはじめた。ドアがあいて二人の制服を着たトラックの運転手がはいってきた。メエの顔がはしゃいだ。
「やあ、ねえちゃん!」
「ねえちゃんなんていやだわ」とメエが言った。彼らは笑い、メエも笑った。「何にするの?」
「うん、コーヒーを一杯くれ。パイは、どんなのがあるんだい?」
「パイナップル・クリームにバナナ・クリーム、それからチョコレート・クリームにアップル・パイよ」
「アップル・パイをくれ。いや、ちょっと待てよ――あのでっかい厚ぼったいやつは何だい?」
メエは、そのパイを取りあげて、匂《にお》いをかいだ。
「パイナップル・クリームよ」
「それじゃ、そいつを一きれ切ってくれないか」
何台もの車が、びゅんびゅんうなりをあげて第六十六号国道を走りすぎた。
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第十六章
ジョード一家とウィルソン一家は一団となって西に向い、のろのろと進んで行った――エル・リーノ、ブリッジポート、クリントン、エルク・シティ、セア、テキソーラ、そしてここが州境である。オクラホマ州は背後に去った。そしてその日、二台の車はテキサスのパンハンドル地帯を越えて、先へ先へと進んでいた。シャムロックとアランリード、グルームとヤーネル。夕方になってアマリーロの町を通りぬけた。あまりに長い時間走りすぎたので、夕暮れが迫るころキャンプした。彼らは疲れ、埃《ほこり》だらけで、暑かった。ばあさまは幾度か暑さにひきつけを起した。そして車がとまったときは、ひどく弱っていた。
その夜アルは柵《さく》の横木を一本盗んできた。そして、それをトラックの上に渡して梁《はり》をつくり、両端をしばった。その夜、彼らは、何も食べず、ただ朝食から持ち越した冷えて堅いビスケットを食べただけだった。マットの上にころがり、着のみ着のままで眠った。ウィルソン夫婦はテントさえ張らなかった。
ジョード家のものもウィルソン夫婦も、パンハンドル――かつての洪水《こうずい》の跡で、でこぼこだらけの、うねる灰色の土地――を、追われるように横断した。オクラホマ州を出てテキサス州を横ぎるときも追われる気持だった。土亀《つちがめ》が埃のなかを這《は》い、太陽が大地を照りつけた。そして夜になると暑熱は空へのぼり、大地がそれ自身の内部から暑熱の波を沸きたたせた。
二日のあいだ、家族たちは追われる気分ですごした。しかし三日めになると、土地は彼らにとってあまりにも広大にすぎ、彼らは自然と新しい生活技術を会得しはじめた。国道は彼らの住居となり、動いてゆくことが何かを表現するための手段になった。すこしずつ彼らは新生活になじんでいった。まっさきにルーシーとウィンフィールドがなじみ、つぎにアル、つぎにコニーと『シャロンのバラ』、そして最後に年長の人々という順序で。土地は、巨大な静止せる大波涛《だいはとう》の群れに似た起伏をつづけていた。ウィルドラード、そしてヴェガ、そしてボイジー、そしてグレンリオの町々。これでテキサス州は終りだ。こんどはニュー・メキシコ、そして山々だ。はるか遠く、空に迫って山々が聳《そび》えたっていた。車輪はきしり、エンジンは熱し、蒸気がラジエーターの蓋《ふた》のまわりから噴きだした。彼らはペーコス河へと這いおりた。そしてサンタ・ローザを横ぎった。そして、さらに二十マイル走りつづけた。
アル・ジョードが幌型《ほろがた》自動車を運転し、母親がその隣に坐り、そしてその横に『シャロンのバラ』が席を占めていた。前方に例のトラックが進んでいた。熱い大気が大地の上に沸きかえり、山々は熱気でふるえていた。アルは、げんなりと運転していた。座席にもたれかかり、まるいハンドルの横桿《おうかん》に手を軽くかけていた。灰色の帽子が、おそろしく気どった形につぶしあげられたまま、片目の上に、のめるような格好でのっかっていた。運転しながら彼はときたま横を向いて窓から唾《つば》をはいた。
母親は、彼のそばで、さっきから膝《ひざ》に両手を折り、疲労をこらえようと懸命になっていた。彼女は、ゆったりと坐り、車の動揺が体や頭をゆするのにまかせていた。そして目を細めて前方の山々を見た。『シャロンのバラ』は車の動揺に心を奪われていた。力を入れて足を床につっぱり、右肘《みぎひじ》をドアにかけていた。顔は動揺をこらえる引きしまった表情であり、首筋をこわばらせているので、頭がぎくしゃくと揺れた。彼女は全身を堅い容器のように宙へ浮かして、車の衝撃から胎児をまもろうとしていたのだ。彼女は母親のほうに頭を向けた。
「おっ母さん」と彼女は言った。母親の目は生気をとり戻《もど》し、『シャロンのバラ』のほうへ注意深く向けられた。母親の目は娘の引きしまった、疲れた、丸い顔をながめ、そして微笑した。
「おっ母さん」と娘が言った。「向うへ着いたら、みんな果物《フルーツ》を摘んで田舎に住むんでしょう? そうね?」
母親は、すこし皮肉に言った。「まだ向うへ着いてやしないじゃないかね」なお彼女は言った。「あっちが、どんなぐあいのものか、誰《だれ》にもわからないんだよ。まず行って様子を見なくちゃね」
「あたしとコニーは、もう田舎に住みたくないの」と娘は言った。「あたしたち、何をしようかって、すっかり計画たててるの」
瞬間、小さな憂《うれ》いの色が母親の顔をかすめた。「あたしたちといっしょに住まないつもりなのかい――家族《ファミリー》といっしょにさ?」と彼女は問いかえした。
「あたしたち、そのことで相談したのよ、あたしとコニーとで。おっ母さん、あたしたちは町に住むつもりよ」彼女は興奮したようにつづけた。「コニーは商店か工場へ勤めるつもりなの。そして家へ帰ったら勉強するのよ。たぶんラジオかなんかをね。そうすれば、そのほうの専門家になれて、いまに自分のお店を持てるようになるわ。そして、あたしたちは、ときどき映画へ行くの。それから、コニーがいうんだけど、赤ちゃんが生れるときには|お医者《ヽヽヽ》を呼ぶこともできるし、それに生れるときがはっきりすれば病院へ行くこともできるんだって。それからあたしたちは、車を、小さな車を持つの。そして彼は夜、勉強をしたあとで――とてもすてきなんだけど、『西部恋愛《ウエスタン・ラブ》ストーリー』誌のなかから一ページ切りとって、通信教育をとりよせるために送るのよ。送るのは全部無料よ。ちゃんと、その切りぬきに書いてあったわ。あたし見たのよ。それから、ええと、そう――向うでは、その教習課目を受けると、仕事も世話してくれるんですって――ラジオのように――とてもいい、きれいな仕事よ。それに将来性もあるわ。そして、あたしたちは町に住んで、行きたいときに映画にも行けるし、それから――そうね、あたしは電気アイロン買うつもりだし、赤ちゃんには、みんな新しい着物を着せるわ。コニーが、みんな新しいのだって言ってたわ――真っ白で、それに――ほら、カタログで赤ちゃん用とあったの見たでしょう、あんなのよ。たぶん最初のうちは、コニーが勉強しているあいだは、そんなに楽じゃないわね。でも――そうだわ、赤ちゃんが生れるころには、たぶんコニーも、すっかり勉強を終えてるだろうから、あたしたち、ちょっとした住宅くらい持つことができるわ。もちろん、べつに贅沢《ぜいたく》なところなんかいらないわ。ただ赤ちゃんに気持いいところがほしいのよ――」彼女の顔は興奮でかがやいた。「それに、あたし考えたの――家じゅうみんないっしょに町で暮せるようになると思うわ。そしてコニーが自分のお店を持つようになったら――たぶんアルは彼の下で働けることよ」
母親は娘の紅潮した顔からずっと目を放さなかった。その話が発展し、つづくのを見まもっていたのだ。
「あたしたちは、おまえを行かせたくないよ」と母親は言った。「家族が離ればなれになるなんて、よくねえだ」
アルが不平な声をあげた。「おれがコニーの下で働くんだって? コニーが、おれの下で働くことにしたらどうだい? コニーは、自分だけが夜勉強できる人間だと思ってるのかい?」
母親は突然、これがまるで夢物語なのだとさとったらしい。ふたたび頭を前方に向け、くつろいだ姿勢になった。だが、小さな微笑が、目のまわりに残っていた。「ばあさまは、きょうは、どんなぐあいかね?」と母親は言った。
アルはハンドルを握りながら緊張した。小さなひびきがエンジンのなかで起っているのだ。速力を増すと、そのひびきも大きくなった。彼は速力をゆるめて耳をすました。つぎに、ちょっとのあいだ速力を出して耳をすました。小さなひびきは金属的な騒音になっていた。アルは警笛を鳴らしてから道ばたに車をとめた。前のトラックが停車し、ゆっくりと後退してきた。車が三台、西へ向ってそばを走りすぎた。どの車も警笛を鳴らした。最後の車の運転手は身を乗りだしてどなった。「こんなところにとめるやつがあるかい!」
トムは、車をそっと後退させた。それから外へ降りて幌型のほうへ歩いてきた。荷物を積みあげたトラックの後尾から、いくつかの顔が見おろしていた。アルはエンジンを低く落し、その鈍いモーターの音に耳をすました。トムがきいた。「どうしたんだい、アル?」
アルはモーターを強めた。「聞いてみなよ」カタカタいう音が、いまではさらに大きくなっていた。
トムは耳を澄ました。「エンジンを落して遅くしてみな」と彼は言った。そして、フードをあけ、頭をなかへつっこんだ。「さあ、強めてみな」彼は、ちょっとのあいだ聞いていて、それからフードを閉めた。「うん、アル、こいつはやっぱりおめえのいうとおりらしいな」と彼は言った。
「コネクティング・ロッドのベアリングだろう?」
「それらしい」とトムが言った。
「うんとオイルをくれといたんだけどな」とアルがこぼした。
「まあ、それでもちょっと足りなかったんだろう。まるで猿《さる》のしっぽみたいにかわいてるぜ。さてと、こいつをはずすよりほか、しようがねえようだ。いいかい、おれが先に走って平らなところにとめるから、おめえは、ゆっくり走らせてこい。パンを脱《はず》しちまわねえように用心しろよ」
ウィルソンがたずねた。「調子が悪いのかね?」
「えらく悪いだよ」トムが言った。そして彼はトラックのところへ歩いて戻り、ゆっくりと前進した。
アルが説明した。「どうして、あいつがはずれたのか、さっぱりわからねえだ。あんなにうんとオイルをさしておいたのに」アルは責任が自分にあると知っていた。彼は自分の失敗を感じた。
母親が言った。「それはおまえの失敗じゃないよ。おまえは、ちゃんとよくやったんだからね」それから彼女は、やや臆病《おくびょう》げにたずねた。「とても悪いのかい?」
「うん、まあね。あいつは、元どおりにはくっつけられそうもねえな。新しいコン・ロッドを買うか、いまのに当《あ》て金《がね》をつけるかしなきゃならねえだよ」彼は深い溜息をもらした。「トムがいてくれて、ほんとによかったよ。おれはベアリングのこととなると、ぜんぜんだめなんだ。トムが前にやった経験があるといいんだけどな」
大きい赤い広告板が前方の道ばたに立っており、それが巨大な細長い影を投げていた。トムはトラックを道路からはずし、浅い道ばたの窪地《くぼち》を横ぎり、日陰のなかへはいってとめた。そして車をおりて、アルがくるのを待った。
「さあ、そっとやんなよ」彼は声をかけた。「そっとこいよ。さもないとスプリングまで折っちまうぜ」
アルの顔は怒って赤くなった。彼はモーターをとめた。
「ちえっ! くそっ」と彼はどなった。「おれがベアリングを焼き切っちまったわけじゃねえぜ! おれがスプリングまで折るかもしれねえなんて、なんてこというんだい」
トムは、にやりと笑った。「まあ落ちつけ」と彼は言った。「別に本気で言ったんじゃねえだ。この窪みへ、そっとおろしなよ」
アルは、ぶつぶつ言いながら幌型自動車をすこしずつ落してゆき、それから反対側にあがった。
「おれがベアリングを焼き切ったなんて誰にも思わせねえでくれよ」エンジンはいま大きな騒音を立てた。アルは日陰に車をとめ、モーターを切った。
トムはフードをあげて、突っぱりをかった。「冷えるまでは、はじめることもできねえだ」と彼は言った。家族のものは車からおり、幌型自動車のまわりに群がった。
父親がたずねた。「どれほど悪いんかい?」そして彼は尻《しり》をついて地べたに坐った。
トムはアルのほうを向いた。「おめえ、ここを前に直したことあるのか?」
「いんや」とアルが言った。「一度もねえだよ。パンをはずしたことはあるけんど」
トムが言った。「さてと、まずパンをはずしちまって、ロッドを取らなきゃならねえだ。それから新しい部品を買って、みがいて削って合わせるだ。一日がかりの仕事だて。部品を買うのに、さっき通った町まで戻らなくちゃなんねえ。サンタ・ローザまでね。アルバカーキは、まだ七十五マイルも先だでな――ちえっ、あしたは日曜ときてやがる! あしたは何も買えねえだぞ」家族の人々は黙って立っていた。ルーシーは、そっと近づき、こわれた部品を見ようと、開いたフードのなかをのぞいた。トムが静かな声でつづけた。「あしたは日曜と。月曜日に部品を買うことになるだから、たぶんこれじゃ火曜日より前には直らねえだな。手早くやれる道具を持ってねえだでな。大仕事なんだよ」禿鷹《はげたか》の影が地上を横ぎって流れた。そして家族たちは皆その流れゆく黒い鳥をふりあおいだ。
父親が言った。「わしの心配してるのは、金を使いきっちまってからに、向うへ着けなくなるんじゃねえかということだて。わしらは、みんな居食いしてるだし、ガソリンも買わにゃならねえだしな。もし金を使いきっちまったら、もうどうしようもなくなるだ」
ウィルソンが言った。「どうもわしが悪いせいだて。このがらくた車めが、いつもめんどうを起すだからな。お宅の人たちは、わしらに、ほんとによくしてくれただ。あんたがたは荷物をまとめて先へおいでなせえ。わしとセリーは残って、なんとか方法を見つけますだ。あんたがたの旅行を引きのばすつもりはねえだで」
父親が、ゆっくりと言った。「わしら、そんなことする気はねえだよ。わしらは、もうほとんど親戚《しんせき》づきあいだて。うちのじいさま、あのじいさまは、あんたのテントで死んだんだもんな」
セリーが疲れたように言った。「あたしたちは荷《に》厄介《やっかい》になるだけだよ。荷厄介にね」
トムは、ゆっくりと煙草《たばこ》を巻いた。それを調べ、火をつけた。型のくずれた鳥打帽子を脱ぎ、それで顔をふいた。「こうしたらどうだね?」と彼は言った。「たぶん、誰も好まねえだろうけど、とにかくおれの考えはだね。家族《うち》のものがカリフォルニアへ近づけば、それだけ金が稼《かせ》げるのも早くなるわけだ。この、こっちの車は、あの車より二倍の速力がある。それでおれは、こう考えただよ。あのトラックから、すこし荷をおろしたら、みんな、おれと説教師だけ残して、トラックで先へ行くだ。おれとケーシーは、ここに残って車を直して、それから走るだ。昼も夜も走りつづけて、追いつくだよ。ひょっと道路では会えねえにしても、それでもまあ、向うでみんな働いてることになるだからね。もしそっちが故障したら、道ばたにキャンプして、おれたちが追いつくのを待ってればいいだ。どっちにしろ悪いことはねえだよ。もしみんなが、ちゃんと行きつけたら、そうよ、もう働いてるわけだで、暮しは楽になってるだよ。ケーシーがこの車の修理にゃ手を貸してくれるだろうから、おれたちは、あとからすぐに飛んで行くだ」
集まった家族は考えた。ジョン伯父は父親のそばにしゃがんだ。
アルが言った。「そのコン・ロッドを入れるの、おれが手伝わなくても大丈夫かい?」
「だっておめえは、こんなことは一度もやったことがねえって言ったじゃねえか」
「そのとおりさ」とアルは同意した。「兄貴に必要なのは頑丈《がんじょう》な手なんだ。説教師は残りたくないんじゃねえかな」
「じゃ――誰でもいいさ――おれはかまわねえぜ」とトムは言った。
父親は乾いた土を人差し指でほじくっていた。「わしはトムの考えが正しいように思うだ」と彼は言った。「わしら全部がここにとどまってたところで、何の役にも立たねえだからな。暗くなるまでにゃ、もう五十か百マイルは進めるだで」
「でも、どうやってトムは、あたしたちを見つけるの?」と母親が心配そうにたずねた。
「こっちも、同じ道路を行くんだもの」とトムが言った。「六十六号をずっとね。これから行くとベイカーズフィールドって町に出る。おれは地図で見て知ってるんだ。そこへ、まっすぐに行ってくんなよ」
「それはいいさ。だけど、あたしたちがカリフォルニアへ着いて、この道路からそれて、どこか別の道へはいっちまったら――?」
「その心配は無用だて」とトムは母親を安心させるように言った。「カリフォルニアは世界全体じゃねえだ」
「地図で見ると、とても大きいよ」と母親が言った。
父親は意見を求めて発言した。「ジョン、行きたくねえ理由でもあるのか?」
「いんや」とジョンは言った。
「ウィルソンさん、そいつはおめえさんの車だ。それで、うちの伜《せがれ》がそいつを直してから持ってくってことなんだが、何かいうことねえだかね?」
「何もねえだよ」とウィルソンは言った。「おまえさんがたは、もうこれまで、わしらに十分親切にしてくれただ。だから、おまえさんの息子さんを信用しねえわけはねえだよ」
「みんな働いて、すこしは金をためていられるかもしれねえだよ。もしおれたちが途中で追いつかねえとしてもな」トムが言った。「ところが、もし家族がみんなここにエンコしてるとしたら、このあたりにゃ水もねえし、この車は動かせねえし、どうしようもねえだ。もしみんなが向うへ着いて働いてるとしたら、そうよ、金は稼げるし、住む家も見つけられるかもしれねえだ。どうだい、ケーシー、おれといっしょに残って手伝ってくれるかね?」
「わしは、おまえさんとこの家族にとっていちばん都合のいいことをしたいよ」とケーシーは言った。「わしを仲間に入れてくれ、車に乗っけてきてくれただものな。わしは何でもやるだ」
「ここに残ると、仰向けに寝て顔を油だらけにしちまうぜ、それでもかまわねえかい?」とトムが言った。
「わしには、いっそそれが似合いのようだて」
父親が言った。「じゃ、その考えどおりにやるとして、そろそろ出発したほうがいいだろうて。たぶん、泊るまでにゃ、あと百マイルは稼げそうだからな」
母親が父親の前に立った。「あたしは行かないよ」
「なんだって? 行かねえだと? 行かなくちゃいけねえだよ。おまえは家族のめんどうみなくちゃならねえだもの」父親は、この反抗にびっくりしていた。
母親は幌型《ほろがた》の車にあがり後部座席の床に手を伸ばした。そしてジャッキのハンドルを持ちだし、もちいいようにぶらさげた。「あたしは行かないよ」と彼女は言った。
「まあ、聞きなよ、おまえは行かなくちゃいけねえだ。わしらは決心しちまっただから」
すると、いま母親の口は堅く引きしまった。彼女は低い声で言った。「もしどうでもあたしを行かせようとするなら、あたしをぶちのめすよりほかはねえだ」母親はハンドルを、また軽く動かした。「そしたら、あたしは、おまえさんに恥をかかすだよ、お父っさん。あたしは、ぶったたかれても、泣いてあやまったりはしねえだよ。あたしは、おまえさんとやり合うだ。おまえさんだって、あたしをぶちのめせるかどうかわからねえだよ。もしあたしを無理やり連れてったら、あたしはきっと待ってるだ。おまえさんが向うを向いたときとか、眠りこんだときとかをね。そしてバケツで、おまえさんをぶちのめすだ。神さまに誓って、きっとあたしはやってやるだよ」
父親は、しようがないといったふうに一同を見まわした。「おっ母は生意気だな」と父親は言った。「わしはこんな生意気な女は、はじめて見ただよ」ルーシーが、かん高い声で笑った。
ジャッキのハンドルは、相手ほしげに母親の手のなかで前後に揺れていた。「さあ、やってみなよ」と母親は言った。「おまえさんは決心したんだろう。さあ、あたしをぶちのめしなよ。やってごらんよ。でも、あたしゃ行かないよ。かりにあたしが行くとしたら、おまえさんはもう眠れなくなるだよ。いいかい、あたしは待って、待って、待ちぬいて、しまいに、おまえさんがとろっとでも眠ったら、そんなとき薪《まき》ざっぽうで、おまえさんをぶちのめしてやるだ」
「なんてまあ生意気なことをぬかしゃがるだ」と父親はつぶやいた。「それもいい年をしてよ」
集まっているものは、皆この反乱を見まもっていた。目をみはって父親が暴れだすのを待っていた。父親の開いた手のひらが拳固《げんこ》に固まるのを見ようと待っていた。しかし父親の怒りは高まらなかった。彼の両手は下にぶらりとたれさがったままだった。そして、たちまち一同は母親が勝ったのだとさとった。母親もまたそれを知った。
トムが言った。「おっ母、何でそんなに怒ってるんだい? 何でそんなことをするんだい? とにかく、どうしたというんだい? おれたちと一喧嘩《ひとけんか》ぶちたくなったんかい?」
母親の顔はやわらいだ。しかし、その目は、まだきつかった。「おまえはよく考えてから言ったんだろうけど」母親は言った。「この世で、あたしたちに残されたものって、何があるだかね? 何もねえだ。ただ、あたしたちだけさ。ただ家族があるきりだよ。あたしたちは土地を離れてきた。じいさまは、もう土の下へはいっちまった。そしていま、おまえは家族をばらばらにして――」
トムが叫んだ。「おっ母、おれたちは、すぐみんなに追いつくはずになってるだよ。おれたちは、勝手なところへ行こうなんてしてるわけじゃねえだ」
母親はハンドルを振った。「もしあたしたちがキャンプして、そこをおまえたちが知らずに通りすぎちまったら、どうするだ? もしあたしたちが、どんどん先へ行くとしても、どこへ伝言を残しておけるというだ? おまえたちにしても、あたしたちの居所を、どうやって知るだ?」と彼女は言った。「あたしたちは楽な旅じゃねえだ。ばあさまは病気してるだ。あのトラックの上で死にそうになってるだ。すっかり疲れきってるだ。これから先も、あたしたちは、けっして楽な旅じゃねえだよ」
ジョン伯父が言った。「しかし、わしらは、なんとか金を取れるようになるさ。ちっとばかりためこめるかもしれねえ。あとの連中が着くころまでにはな」
全家族の目が、ふたたび母親のほうに移った。彼女は原動力なのだ。彼女は、これまでずっと、すべての統制の源だったのだ。「お金を稼《かせ》いだって、何にもなりゃしないよ」と彼女は言った。「あたしたちに大切なのは、家族が離ればなれにならねえこと、狼《おおかみ》に襲われたときの牛の群れみてえに、ぴったりくっついてることなんだよ。あたしたちみんなが、いっしょにいるなら、みんな丈夫なら、あたしは、何も恐れねえだ。あたしは、みんなが離ればなれになるのがいやなのさ。ここにいるウィルソンさん夫婦も、あたしたちといっしょだし、説教師も、やっぱりいっしょにいるだ。この人たちが離れて行きたいというんなら、そのときは、あたしは、何も口出しできねえだ。だけど、うちの家族が離れるっていうんなら、あたしは、この鉄棒で大暴れするつもりだよ」彼女の口調は冷静で動揺がなかった。
トムが説きふせるように言った。「おっ母、おれたちは、ここでキャンプはできねえだよ。ここにゃ水がねえだ。日陰だって、ろくにねえ。ばあさまには日陰がなくちゃなんねえだ」
「じゃ、いいよ」と母親は言った。「先へ行こうよ。先へ行って最初に水と日陰の見つかったところで、泊ることにしよう。そして――トラックが戻《もど》ってきて、おまえを町へ乗せて行き、部品を買ってから戻ることにすればいい。おまえは日向《ひなた》を一人で歩いて行く必要はないよ。あたしも、おまえを一人で出したくねえだ。おまえが、一人のときに、何かはじまって、誰《だれ》もおまえを助けるものがそばにいねえと困るだからね」
トムは歯で唇《くちびる》をかみ、それから、唇を開いた。そして両手を、しようがないといったふうにひろげ、体の両脇《りょうわき》へ、ばたんと落した。「お父っさん」と彼は言った。「お父っさんが、そっちからおっ母に飛びかかり、おれがこっちから飛びかかって、残りのものが、みんなその上に折り重なり、それにばあさまが上から飛びおりたら、なんとかおっ母を押えちまえるだろうて。もっとも、その前に、こっちは二、三人、あのジャッキのハンドルで、ぶち殺されちまうだろうけんどな。お父っさんが頭をぶち割られたくねえんだとすると、どうやらおっ母はがんばり通しちまったらしいだな。驚いたね、人間、いちど腹をきめたとなると、こんな大家族をこづきまわせるだからな! おっ母の勝ちだよ、おっ母。誰かをけがさせねえうちに、そのハンドルを放しなよ」
母親は驚いて手にした鉄棒を見た。彼女の手はふるえた。彼女は、その武器を地上に落した。トムが、ひどく丁寧に、それを拾いあげて車のなかに返した。彼は言った。「お父っさん、やっとこれで落ちついただ。アル、おめえは、みんなを乗せてってキャンプさせてから、ここへそのトラックを戻してきてくれ。おれは説教師と二人でオイル・パンをはずすだ。そのあとで、もしできたら、サンタ・ローザへコン・ロッドを買いに行こう。たぶん買えるだろう。きょうは土曜日の晩だからな。さあ、乗った。仕事にかかろうぜ。トラックから自在スパナと|やっとこ《ヽヽヽヽ》をとってくれ」彼は車の下に手を伸ばして油だらけのオイル・パンにさわってみた。
「あ、そうだ。缶《かん》をとってくれ。その古バケツでいいだ。油を受けるだ。節約しなくちゃならねえだでな」アルがバケツを渡した。トムはそれを車の下に据《す》え、|やっとこ《ヽヽヽヽ》の鋏《はさみ》を使ってオイル・パンの蓋《ふた》をゆるめた。指で蓋をまわしているあいだに、黒い油が彼の腕を伝わり落ち、やがて黒い流れがバケツのなかへ音もなく流れ落ちた。バケツが半分ほど油で満ちるころには、アルはトラックに一同を乗せ終っていた。トムは、早くも油のついた顔で、車輪のあいだから外をのぞいた。「早く戻ってこいよ!」と叫んだ。そして、トラックが浅い窪地をゆっくり横ぎって去って行くころには、パンのボルトをゆるめていた。ギャスケットを平均にはがせるように、トムは、どのボルトも一ねじずつ、ひねった。
説教師が車輪のそばにひざまずいた。「わしは何をやるだね?」
「何もねえだよ、いまはまだね。もうじき油が出きってしまって、おれがこのボルトをみんなはずしちまうから、そうしたら、パンの取りはずしを手伝ってくれ」彼は車の下でのたくり動きながら、スパナでボルトをゆるめ指でまわした。パンが下へ落下しないように、ボルトを、どれも最後の一まわしのところでまわさずに、そのままにしておいた。「この下にいると地面はまだ熱いぜ」とトムは言った。そして、それから、「ケーシー、おまえさん、この二、三日、えらくしずまりかえってるじゃねえだか。まったくよ! おれがはじめておまえさんに会ったときにゃ、半時間も立てつづけにしゃべりまくったぜ。ところが、この二日間に、十語とはしゃべってねえだ。どうしただ? 腹のたつことでもあるのか?」
ケーシーは腹んばいになって身を伸ばし、車の下をながめた。まばらなひげのある顎《あご》を片手の甲にのせていた。帽子はうしろに押しやられ、首のうしろがかくれていた。
「一生涯《いっしょうがい》説教師で暮そうと思ってたころ、もう十分しゃべったでな」と彼は言った。
「そうさ、だけど、そのあとだって、ちっとは話をしたじゃねえか」
「わしは、すっかりとまどってるだよ」とケーシーは言った。「説教してまわっているころにゃ、わしはそれにさえ気がつかなかった。そんなことより、野っ原で寝ることにばかり夢中だった。もしわしが、これ以上もう説教しねえつもりなら、わしは結婚しなくちゃならねえだよ。ああ、トミー、わしはまったく女好きに生れついてるだよ」
「おれもさ」とトムは言った。「そうともよ、おれがマカレスターから出た日、おれは煙草をふかして歩いてただ。そして、女に――淫売女《いんばいおんな》にぶつかっただ。まるで、兎《うさぎ》みてえな女よ。それからどうなったかは、誰にも話したくねえだな。どんなことがおっぱじまったか、そいつは話せねえだよ」
ケーシーは笑った。「何がおっぱじまったか、わしにはわかるだ。わしも一度、荒野へ精進に行って、出てきたときにゃ、それと同じことをおっぱじめたもんな」
「ちきしょうめ、そのとおりさ!」とトムは言った。「だけど、とにかくおれは金を使わなかったぜ。それでいて、その女を可愛《かわい》がってやっただよ。自分でも気が狂ったと思ったな。金をやらなくちゃいけなかっただが、そんときおれは五ドルしかもってねえのさ。やつも金なんぞいらねえって言ったっけ。さあ、ここへ這《は》いこんで、ボルトをとってくれ。おれがたたいてゆるめるから、そしたら、そのボルトをまわしてとってくれ。おれはこっちをとるから。そして、そっとオイル・パンをはずすだ。ギャスケットに用心してくれよ。いいかい。一枚のままで、はがすんだぜ。ほら、この古いダッジのエンジンは四気筒しかねえだ。おれは一つずつはずすだ。このメーン・ベアリング、まるでメロンほどもあるぜ。さあ――そうっとおろした――押えてくれよ。ギャスケットのくっついているところをはがしてくれ――そっとだぜ。そらっ」油だらけのパンが二人のあいだの地上におろされた。すこしばかりの油が、まだ窪《くぼ》みに残っていた。トムは前のほうの窪みに手を伸ばして、いくつかに折れたバビットをとり出した。
「ほら、このとおりだ」と彼は言った。そして指の先でバビットを引っくりかえした。「シャフトがあがってるだ。うしろのほうをさがしてクランクをとってくれ。そして、おれがいいというまで、そいつをまわしてくれ」
ケーシーは立ちあがり、クランクを見つけて、それをさしこんだ。「いいかい?」
「さあ、まわした――ゆっくりと――もうちょい――もうちょい――それでいい」
ケーシーはひざまずき、ふたたび下をのぞきこんだ。トムはシャフトについたコネクティング・ロッドを、がたがたいわせた。「やっぱり、これだ」
「それがどうしてだめになっただね?」ケーシーがきく。
「そんなこと、わからねえや。このぼろ車は十三年も走ってるだ。距離計に、もう六万マイルは走ってると出てるだ。六万ってのは十六万ってことだ。それに運転したやつが、距離計の数を何度もとに戻したか、そいつもわからねえだ。熱くなって――誰かが油を不足させちまったんだろう――そしてすり切れちまったのさ」彼はカッター・ピンを引きぬいた。そして、スパナをベアリング・ボルトに当てた。ぐいと力をこめた。スパナがすべった。手の甲に細長い傷がついた。トムはそれを見やった――血が傷口から流れだし、油とぶつかり、パンのなかに、したたり落ちた。
「いけねえことをしただな」ケーシーは言った。「わしが代りにやろう。その手をしばったらどうだ?」
「くそっ、いいさ! おれは車を直してると、きっとけがするだ。もうやっちまっただから、これからはやる心配ねえだよ」彼は、ふたたびスパナを当てた。「三段スパナがあればいいんだがな」と言い、スパナを手のひらでたたいてボルトをゆるめた。それをはずし、パン・ボルトと並べてオイル・パンの上におき、その横にカッター・ピンもおいた。つぎにベアリング・ボルトをゆるめ、ピストンを引っぱりだした。そしてパンのなかにピストンとコネクティング・ロッドをおいた。「これでいい。ちくしょうめ!」彼は車の下から這いだし、いっしょにパンを引きずりだした。麻袋のきれで手をぬぐい、傷口を調べた。「恐ろしく血が出やがる」と彼は言った。「だけど、こいつはとめられるだよ」彼は地面に放尿し、濡《ぬ》れた泥《どろ》を一つかみ取りあげて傷口に塗りつけた。すると、すぐに血がにじみ出た。それからとまった。「血をとめるのにゃ、これにかぎるだ」と彼は言った。
「蜘蛛《くも》の巣をまとめて、そいつを上に張っても、やっぱりきくだよ」とケーシーが言った。
「知ってるだ。だけど、このへんにゃ蜘蛛の巣はねえだ。小便なら、どこででもやれるだ」トムは車の踏板に腰かけて、こわれたベアリングを調べた。「さあ、これで二十五年型ダッジを見つけて中古のコン・ロッドとシムが買えれば、どうやら直せるというもんだ。アルのやつ、よっぽど遠くまで行ったにちげえねえだな」
広告板の影が、いまでは六フィートに伸びていた。ケーシーは踏板に腰かけて西のほうを見た。「わしら、もうすぐ山へはいるだな」と彼は言った。それから、すこし黙っていて、また言った。「トム!」
「何だい?」
「トム、わしは、ずっと道路の車を見てただよ。わしらが追い越したのや、わしらを追い越したのをね。わしは、ずっと考えてただ」
「どんなことをだい?」
「トム、あの、わしらと同様の何百って家族たちは、みんなどれも西へ行くだよ。わしは見てただ。一つだって東へ行くのはねえ――何百って家族がね。おまえさんは気がつかなかったかね?」
「ああ、気がついてたよ」
「まったく――あれは――まるで――あれは、まるで戦場からの避難者みてえだ。まるでこの地方全体が、いっぺんに動いてるみてえだ」
「そうだ」トムが言った。「地方全体が動いてるだよ。おれたちも、やっぱり動いてるだ」
「それで――もしこの家族たちが、どれもこれも――もしあの連中が向うへ行って仕事にあぶれるとしたら、どうなるだ?」
「よせやい!」とトムが叫んだ。「そんなことが、おれにわかるもんか! おれはいま、片方の足の前に、つぎの足を出してるだけのことなんだぜ。マカレスターにいたときにゃ四年間もそれがやれなかっただ。ただ監房のなかを歩いて、出れば食堂まで行ってまた戻るだけでな。ああ、娑婆《しゃば》へ出たら、ちっとはちがうことがあるかと思ってたのに! あそこじゃ、何一つ考えられなかっただ。そいつを除けば、結構のんきに暮せただ。ところが、いまもまた、何にも考えられやしねえ」彼はケーシーのほうを向いた。「このベアリングがだめになっただ。おれたちは、これがそうなろうとは知らなかっただ。だから、おれたちは何も心配しなかった。ところが、いまこれがこわれた。そこで直そうというわけだ。そして、まったくのところ、これからもずっと、この調子でやっていくのさ! おれは心配しねえつもりだ。できもしねえしな。ここに、ほら、鉄の棒とバビットがあるだ。見えるだろう? これさ、見えるだろう? いま、おれの頭にあるのは、このくだらねえものだけだよ。アルのやつ、いったいどこまで行ったんだろうな」
ケーシーが言った。「いや、トム、いいかい。いんや、言ってもしようがねえだ! とても口じゃあらわせねえだて」
トムは手にのせた泥の塊《かたまり》をはがして地面に投げすてた。傷の|ふち《ヽヽ》には泥がこびりついていた。彼は説教師のほうを、ちらと見やった。「おまえさんは説教したくなってるんだろう?」とトムは言った。「じゃ、やんなよ。おれは説教が好きさ。看守のやつが、いつも説教をやったもんだ。別に何もひでえことはしなかっただが、そいつで結構おれたちをへたばらしたもんさ。おまえさんのしゃべりてえことって何だい?」
ケーシーは長い節だらけの指の背をつまんだ。「いまは、いろんなことが起ってるだし、人々は、いろんなことをやってるだ。人々は片足の前に別の足を出してるだ。おまえさんがいうようにな。それに連中は自分たちがどんなところへ行くのか、そんなこと考えもしねえだ。おまえさんがいうようにな――だけど連中は、みんな同じ方角をさして進んでる。みんな同じだ。そして耳をすますと、動いていくのが聞えるだ。こっそり動く音が、ざわめきが、そして――そして落ちつかぬ音が。聞えるだろう! 動いてる人たちがぜんぜん気がつかずにいることが起りかけてるだ。こんなに大勢の人間が西へ出かけて行くことから、何かが起ろうとしているだ――人々が畑をほっぽりだして出かけて行くそのことからな。地方一帯を変えるようなことが起りかけてるだよ」
トムは言った。「だけど、おれはやっぱり片足を別の足の前に出すだけだて」
「そうよな、だけど、柵《さく》がおまえさんの前にあらわれたときにゃ、おまえさんはその柵をよじのぼらなけりゃならねえだろう?」
「のぼらなきゃならねえだな。柵があったら、そうするだよ」とトムは言った。
ケーシーは溜息《ためいき》をついた。「そいつがいちばんいい道だて。わしも賛成するだよ。しかし別の種類の柵もあるだぞ。わしみたいに、まだ目の前に立ってもいねえ柵をよじのぼる人間もあるだ――どうにも、そうしなくちゃいられねえ人間がな」
「ありゃアルがきたんじゃねえかな?」トムが言った。
「うん、そうらしいて」
トムは立ちあがり、南京《ナンキン》袋の布切れにコネクティング・ロッドとベアリングの折れたのを二つ包みこんだ。
「これと同じやつを手に入れてえもんだて」と彼は言った。
トラックは道ばたにとまった。アルが窓から身を乗りだした。
トムが言った。「ずいぶん時間がかかっただな。どれくれえ向うまで行っただ?」
アルは溜息をついた。「コン・ロッドはずしたかい?」
「うん」トムは袋を開いて見せた。「ベアリングが折れてただ」
「じゃ、おれの失敗じゃなかっただな」とアルが言った。
「そうじゃねえさ。おまえ、どこまでみんなを連れてっただ?」
「大騒ぎしただよ」とアルは言った。「ばあさまがどなりだしただ。そしたら、それでこんどはローザシャーンが怒って、これもすこしわめきはじめただ。頭をマットの下につっこんでわめくだよ。だけどばあさまときたら、寝たまんま大口あいて、まるで、さかりのついた犬みてえに吠《ほ》えるだ。なんだかばあさまは、すっかりもう何もわからなくなっちまったらしいだ。まるで赤ん坊みてえさ。誰にしゃべるんでもなし、誰もわからねえらしいだ。まるでじいさまと話してでもいるみたいに、しゃべりまくってるだ」
「みんなを、どこへおいてきただ?」とトムが促した。
「それがよ。おれたちはキャンプが一つ張ってあるところへ行っただよ。木の陰もあるし水もあるところさ。そこは、ただ停車するだけで、一日半ドルとりゃがるだ。だけど、みんな、とても疲れて、がっくりしてただで、そこにとまっただ。おっ母が、とまろうっていうだ、ばあさまが、あんまり疲れきってるもんだからね。ウィルソンさんのテントを立てて、うちのは防水布でつくっただよ。おれは、ばあさまは気が変になったんじゃねえかと思うだ」
トムは傾いた太陽を見た。「ケーシー」と彼は言った。「誰かこの車のとこにいなくちゃ困るだ。誰もいねえと丸裸にされちまうだでな。おまえさん、いてくれるかい?」
「もちろん、いるだよ」
アルが座席から紙袋をとり出した。「このパンと肉、おっ母が、おまえさんがたにあげろって。それに水の壜《びん》も一つ持ってきただよ」
「あの人は、誰のことも忘れねえだね」とケーシーが言った。
トムはアルのそばに坐った。「じゃ」と彼は言った。「おれたち、できるだけ早く帰ってくるだ。だけど、どれくらい時間がかかるか、皆目わからねえだよ」
「わしはここにいるよ」
「じゃ頼むぜ。自分で自分に説教なんかはじめなさんなよ。アル、行こう」トラックは午後も遅い日のなかへ動きだした。「あいつは、いい男だよ」とトムは言った。「いつもいろんなことを考えてるだ」
「だけど、そんなこと――誰だって説教師だったら、そうするだろうじゃねえか。お父っさんは、あそこが、ただ木の下にキャンプするだけで五十セントとるというんで、すっかり腹をたててるだよ。お父っさんは、このごろ、ものわかりが悪くなっただね。ただ坐って罵《ののし》ってるだ。こんどは、やつらは空気をタンクにつめて売るだろうなんて言ってたぜ。でも、おっ母は木の陰がほしいっていうだ。ばあさまがあんなだからね」トラックは道路をがたがたと進んだ。いまは荷を積んでないので、あらゆる部分が騒音をたててぶつかった。荷台の側板、切りとられた車体。車は、ぐんぐん軽く走った。アルが時速三十八マイルまで速力をあげると、エンジンは重々しくひびき、燃焼した青い煙が床板を通って漂った。「すこし速力ゆるめろよ」とトムが言った。「ハブ・キャップのまんなかまで焼ききっちまうぜ。ばあさまは、どうしてそうなんだい?」
「わからねえな。この二日ばかり、ばあさまは、ぼんやりしてて、誰にも話しかけなかっただろう。おぼえてねえかい? ところが、いまのばあさまときたら、やたらにわめいたりしゃべったりしてるだ。じいさまを相手にしてな。じいさまにくってかかったりするだよ。おじけたりもするだ。まるでじいさまが目の前に坐ってて、以前みたいにばあさまを指さしながら笑ってるのが目に見えるらしいだ。ばあさまにはじいさまがそこに坐っているように見えるらしいだよ。じいさま相手に悪態をついてばかりいるのさ。そうそう、お父っさんが、兄さんに渡せと言って、おれに二十ドルくれただよ。どれくらいかかるかわからねえからと言って。おっ母が、きょうみてえにお父っさんに刃向ったこと、前にもあったかい?」
「いんや、おれのおぼえてるかぎりじゃ、なかっただな。おれも、まったくいいときに仮釈放になったもんさ。おれは家へ帰ったら、怠けて、朝寝して、たらふく食ってやろうと思ってただ。ダンスに出かけたり、女の子をとっつかまえに行ったりしようと思ってただ――それがいまじゃ、どれ一つだってやれやしねえ」
アルが言った。「忘れてたよ、おっ母に、いろんな言づけ頼まれてたんだっけ。こう言ってたぜ。酒は飲むな、口論はけっしてやるな、それから、誰とも喧嘩《けんか》するなって。おっ母はトムが送りかえされるようなことがあったら大変だと、それをこわがってるだ」
「おっ母は、おれが心配の種をやらなくても、心配ごとが、うんとあるだからな」とトムが言った。
「だけど、ビール二本ぐらいは飲んだっていいだろう? だめかい? おれは無性にビールが飲みてえだ」
「どうかな」とトムは言った。「おれたちがビールを買ったりしたら、おやじは、きっと青筋たてて怒るぜ」
「ところがね、トム、おれは六ドル持ってるだ。だから二杯ずつ飲んで、それから女遊びに行けるぜ。誰もおれが六ドル持ってることを知らねえだ。おれたちはこれでうんと遊べるぜ」
「その金は、とっときな」トムが言った。「コーストへ行ったら、おれとおまえで、その金をつかって、うんと大騒ぎしようや。そんときにゃ、たぶんおれたちも働いてるだろうから――」彼は座席で身をよじった。「おれは、おめえが女遊びをするなんて思わなかったぞ。おめえはただ口先だけでえらがってるのかと思ってたよ」
「ちえっ、でも、このあたりにゃ、知ってる女はいねえからな。もし、自由に女とつきあえるんだったら、おれは結婚するぜ。カリフォルニアへ行ったら、おれは底抜けに楽しむだ」
「できたら、そうしてえもんだ」トムが言った。
「兄さん、ひどく自信がねえだね」
「そうさ、まるっきり自信がねえだ」
「あの男を殺してから――一度も――一度も、そのことを夢にみたことはねえかい? それで悩まされたことはねえかい?」
「ねえな」
「じゃ、そのことは一度も考えなかったのかい?」
「そりゃ、やつが死んだのは気の毒だと思ったさ」
「自分を責める気持にゃならねえかい?」
「いんや、おれは刑期をすませただ。自分のつとめを果しただ」
「あそこは――おそろしくひどいとこかい――どうなんだい?」
トムは、すこしいらいらして言った。「いいかい、アル、おれは刑期をつとめたんだぜ。いまはもうすぎたことなんだ。おれは、そいつをくりかえしたくねえだよ。向うに川があるだ、それに町があるだ、そして、おれはコン・ロッドを買おうとしてる。ほかのことなんかくそくらえさ」
「おっ母は、とてもトムを愛してるだね」とアルは言った。「トムが行っちまったとき、おっ母は、えらく嘆いたぜ。自分一人で我慢してただ。咽喉《のど》の奥で泣くようにしてたっけ。だけど、おっ母が、どんな気持か、誰にもわかっただよ」
トムは鳥打帽を目の上へぐいと引きさげた。「さあ、いいかい、アル、何か別の話をしようじゃねえか」
「だって、おれは、ただ、おっ母がどんなだったかを話しただけじゃねえか」
「わかってるだ――わかってるだよ。しかし――おれはあまり気が進まねえだ。おれとしたら、ただ――すぐ目の前にあることだけを、やっていてえだよ」
アルは心を傷つけられたふうに、ちょっと沈黙した。「おれはただ話をしようと思ってただけさ」しばらくしてから彼は言った。
トムは弟を見やった。アルは目を前方に向けていた。光を点じたトラックが、やかましくゆれながら進んで行った。トムの大きな唇《くちびる》が歯を見せた。彼は低い声で笑った。「おまえの気持はわかってるだよ、アル。どうもおれは、すこし気短かすぎたかもしれねえだ。その話は、いつかしてやるだよ。そりゃね、そりゃ、おめえとしたら知りてえだろうさ。興味があるもんな。だけど、変な考えかもしれねえけど、おれはすこしばかりのあいだ、そいつを忘れていてえだ。たぶん、そう急には、そんなふうにはいかねえだろうけんどな。いまのところ、おれは、あそこのことを考えると、すっかりいやな憂鬱《ゆううつ》な気持になるだ。いいかい、アル、一つだけ言おう――監獄ってとこはな、人間をすこしずつ気ちがいにさせていく場所なんだ。わかるかい? みんな狂っていくだ。そして、そういうやつらの様子を見たり聞いたりしてると、たちまち、自分が気ちがいになってるのか、なっていねえのか、自分でもわからなくなっちまうだ。誰《だれ》かが夜なかに叫び声を出したりするときにゃ、それが自分の出した声じゃねえかと考えたりするだ――そして、ときにゃそのとおりなんだ」
アルは言った。「うん、おれはもうそのことはきかねえことにするだよ、トム」
「三十日なら、なんともねえだ」とトムは言った。「百八十日なら、なんともねえだ。だけど一年を越えると――どうかわからねえだ。あそこには、ほかのどこにもねえ何かがあるだ。何か頭を狂わせるようなものがあるだ。人間を閉じこめるって考えにゃ、何か頭を変にするものがあるだ。くそっ、あんなもの地獄へ落ちろだ! おれは、あのことはしゃべりたくねえだよ。見ろや、太陽が窓にこんなに光ってるぜ」
トラックはサービス・ステーションの地帯に乗りこんだ。すると、道路の右側に廃車置き場があった――高い有刺鉄線をめぐらした柵にかこまれた一エーカーほどの空地《あきち》だ。前にブリキの車庫、戸口には中古タイヤが山と積まれていて、値段がついていた。車庫の背後に、小さな丸太小屋が、屑鉄《くずてつ》と屑材とブリキで建てられていた。壁の窓には自動車の風防ガラスがはめこまれていた。草の生えた空地には毀《こわ》れ物がおいてあった。ひんまがった車、潰《つぶ》された自動車の頭部、車輪がなくなったまま横倒しになった傷だらけの車。地面においてあったり小屋に立てかけてあったりするエンジン類は、みな錆《さび》だらけだ。屑物類の巨大な堆積《たいせき》――フェンダーやトラックの側板、車輪と車軸――空地一帯に衰微と黴《かび》と錆の気配が漂っていた――ねじくれた鉄類、半分中身がなくなったエンジン、捨てられた部品の山。
アルは車庫の前の油じみた地面にトラックをとめた。トムは外へ出て暗い戸口からなかをのぞいた。「誰もいねえ」と彼は言い、それから声をかけた。「誰かいねえかね?」
「ここに二十五年型ダッジがあるといいんだがな」
車庫の背後で、ドアが、ばたんと鳴った。化物じみた男が暗い車庫を通ってやってきた。やせて汚れた油だらけの皮膚が、筋ばった筋肉にまつわりついていた。片目がなくて、へこんだ、むきだしの眼窩《がんか》が、見えるほうの目玉が動くたびに、ぶるぶるふるえた。ズボンとシャツは古油でごわつき、光り、手はひび割れ、傷だらけだ。そして、厚い、つき出た下唇が、不機嫌《ふきげん》そうにたれさがっていた。
トムがきいた。「あんたが主人《ボス》かね?」
片目がこちらを睨《にら》みつけた。「おれはボスの下で働いてる人間だよ」彼は無愛想に言った。「何の用だい?」
「二十五年型ダッジのぶっこわれたのはねえかね? コン・ロッドがほしいだが」
「どうだかな。ボスがいれば、すぐわかるだろうけど――ここにゃいねえんだ。家へ帰っちまったんだ」
「なかへはいって見ていいかね?」
男は手ばなをかみ、その手をズボンでこすった。
「おめえさんは、このへんのものかい?」
「東部からきたんだ――西へ行くところさ」
「じゃ見てみな。よかったら、この場所を焼きはらっちまってくれ」
「おめえさんは、ひどくボスを好きでねえらしいな」
男は、ひょろひょろと近づいてきた。片目が燃えていた。「大きらいだよ」と彼は低く言った。「あんな野郎、大きらいだ! いま家へ行ってらあ。自分の家へ帰りやがった」彼の言葉は、どもりがちになった。「野郎ときたら――野郎ときたら、人をじらして、からかってばかりいやがるんだ。あの野郎は――ちくしょうめ、十九になる娘がいるんだ。きれいな娘よ。おれに、こうぬかしゃがるんだ。『おまえ、どうだい、うちの娘と結婚したら?』そんなことを、このおれに、しゃあしゃあとぬかしゃがる。今夜もよ――こうぬかすんだ。『ダンスがあるんだ、どうだ、いっしょに行かねえか?』おれにだぜ、やつはこのおれに、そうぬかしゃがったんだ」涙が彼の両眼に浮んだ。そして涙は赤い眼窩のすみからこぼれ落ちた。「いつか、きっと――いつかおれは、ポケットに鋏《はさみ》を入れておくつもりだ。やつは、そんなことをいうとき、きっとおれの目を見やがるんだ。そしたら、おれはきっと、鋏で、やつの頭を首からちょん切ってやる。鼻や目や耳を一つずつ切りとってから、首をはねてやる」彼は憤りで喘《あえ》いだ。「鼻や目や耳を一つずつ切りとって、それから首をちょん切ってやるんだ」
太陽は山々の向うに姿を消した。アルは空地にある毀れ車の群れに目をやった。「あそこに、ほら、トム! あそこに二十五年型か二十六年型らしいのがあるぜ」
トムは片目の男に向きあった。「見てもかまわねえかい?」
「うん、かまわねえとも! 好きなものを持って行きな」
彼らは廃物になった自動車のあいだを縫って歩き、平べったいタイヤで立っている一台の錆びついたセダンに近づいた。
「たしかに二十五年型だ」アルが叫んだ。「このオイル・パンをはずしてもいいかね?」
トムは膝《ひざ》をついて車をのぞいた。「オイル・パンはもうはずされてるぜ。コン・ロッドも一つとられてらあ。一つはなくなったらしいな」彼は車の下へ這《は》いこんだ。「アル、クランクを入れてまわしてみてくれ」彼はシャフトについたロッドをはずしにかかった。「すっかり油でねばついちまってるだ」アルがクランクをゆっくりとまわした。「そっとやってくれ」とトムが叫んだ。彼は地面から木片を拾いあげ、ベアリングとベアリング・ボルトから油の塊《かたまり》をかき落した。
「しっかりはまってるのかい?」アルがたずねた。
「うん、ちょっとゆるいがね、だけど、わるくねえぜ」
「それで、減りぐあいはどうだい?」
「シムも、うんとついてるだ。みんながみんなわるくなってるわけじゃねえ。うん、大丈夫だ。さあ、ゆっくりまわしてくれ。下にまわすだ、そうっとな――よし、そこだ! トラックへ走ってって道具を持ってこい」
片目の男が言った。「おれが道具箱を貸してやろう」彼は錆び車のあいだを出て行き、すぐにブリキの道具箱を持って戻《もど》ってきた。トムはソケット・スパナをさがしだしてアルに渡した。
「おまえがはずしな。シムをなくすなよ。ボルトを散らかさねえでな。カッター・ピンの場所をさがしな。さあ急いだ。日が暮れかかってるんだぜ」
アルは車の下に這いこんだ。「おれたちもソケット・スパナが一組いるだな」と彼は言った。「自在スパナじゃ引っかかりが頼りねえだ」
「手伝いがいるようだったら、どなれよ」とトムが言った。
片目の男は、ぼんやりとそばに立っていた。「何か手伝うぜ」と彼は言った。「あの野郎がどうしたか知ってるかい? やつめ、おれんとこへきやがるんだ。白ズボンをはいてな。そして、ぬかしゃがった。『こいよ、おれのヨットへ行こうじゃないか』ちくしょうめ、おれは、いつかきっとやつをぶちのめしてやる!」彼は太い溜息《ためいき》をついた。「おれは目をなくしてから、一度も女と外出《そとで》したことがねえんだ。ところがやつは、そんなふうなことばかりぬかしゃがるんだ」そして大きな涙が鼻のそばの埃《ほこり》に痕《あと》をつけた。
トムは我慢しかねたように言った。「そんなら、なぜおまえさんは出て行かねえんだい? ここにゃ誰もおまえさんを見張ってるものはいねえだろう」
「そりゃ、口でいうのはやさしいさ。だが、いざやるとなると、そう簡単にゃいかねえよ――片目の男にはな」
トムは彼のほうを向いた。「なあ、いいかい、おまえさん。おまえさんは、なるほど穴のあいた目を持ってる。おまえさんは汚ねえし、そして臭い。だけど、おまえさんは、それを自分から進んでやってるんだ。好きなんだよ。自分で自分をかわいそうがってるんだ。もちろんその穴ぼこ眼《まなこ》でうろついたんじゃ、女はつかめねえさ。何かをそこへかぶせて、顔を洗いなよ。鉄棒で誰かをなぐることなんかねえやな」
「実際のところ、片目の男ってものは、つらいことがあるんだぜ」男は言った。「ほかの連中がやるようには、何ごともできねえ。ものが、どれくらい遠くにあるかわからねえんだ。何でも、ただ平たく見えるだけなんだ」
トムは言った。「おまえさんはごまかしてるだよ。そうだ、おれは以前、片足の淫売《いんばい》を知ってた。その女は横町で二十五セントしかとらなかったとでも思うかい? とんでもねえ! あべこべに半ドルだけ割増しをとってたぜ。こういうんだ、『あんた、片足の女と寝たことあって? ないでしょう?』そしていうんだ。『いいわよ』とね。『あんたはここで特製品と寝るのよ。だからあんた、半ドルだけよけいに払わなきゃだめよ』それで結構、やつは客を見つけるんだ。そして男のほうは、とてもいいことをしたという気になって出てくるだ。やつは、あたしは運がいいと言ってたぜ。それから、おれは一人せむしを知ってるだ。おれが――前にいたところでな。やつは同僚に、ここを撫《な》でると運が開けるといって背中を撫でさせて、それで食ってただ。ところがおまえさんは、たった片目をなくしただけじゃねえか」
その男は、もぞもぞと言った。「だけど、なあ、自分が誰か相手を見るとするね、そうすると向うは目をそむけるんだ。そりゃ、いやなもんだぜ」
「じゃ、そこをかくしなよ。なんだい、そんなもの。おまえさんは、雌の驢馬《ろば》みたいに、それにくっついてるんだ。自分をかわいそうがるのが好きなのさ。何も悩むことなんかねえやな。おまえさんも白ズボンを買いなよ。このままだと、おまえさんは、きっと酔っぱらって寝床のなかで泣くだろうて。アル、手伝いはいらねえか?」
「いんや」アルは言った。「ベアリングはゆるめたよ。いまピストンを取ろうとしてるとこだ」
「けがするなよ」トムが言った。
片目の男は、そっと言った。「どうだろう――誰か――おれを好くやつがいるだろうか?」
「ああ、もちろんさ」トムが言った。「片目になってから、やることが大人びてきたと、そう言って吹聴《ふいちょう》しなよ」
「おめえさんがたは、どこへ行こうとしてるんだい?」
「カリフォルニアさ。家族全部でな。あっちで仕事を見つけるつもりだ」
「それで、おれみたいな男でも口があるだろうかね? 目にこんな穴がある男でもよ」
「なくってさ。おめえさんは手足が悪いってわけじゃねえもの」
「じゃ――おれも、おめえさんがたといっしょに乗っけてってくれないかね?」
「残念だがだめだ。おれたちはまるでいっぱいで動きがとれねえんだ。おめえさんは、なんとか別の方法で行きなよ。ここにある毀れ車を一台直して自分で出かけたらどうだい?」
「たぶん、そうするよ、きっとな」片目の男は言った。
金属のぶつかる音がした。「とれたよ」アルが叫んだ。
「よし、持って出ろ。ちょっと見せてくれ」アルはピストンとコネクティング・ロッドとベアリングの半分を彼に手渡した。
トムはバビットの表面をこすり、腹をながめた。「よさそうに見えるぜ」と彼は言った。「おい、こりゃ、灯火《あかり》さえあれば、今夜じゅうに直せそうだぜ」
「なあ、トム」とアルが言った。「おれは考えてただ。おれたち、ピストン・リングの締め具を持ってねえだよ。あのリングをはめるのは大仕事だぜ。とくに下のほうのはね」
トムが言った。「それさ、人から聞いただが、上等の真鍮《しんちゅう》の針金をリングのまわりに巻けば落ちねえそうだぜ」
「そうだね。だけど、その針金を、どうやってはずすだい?」
「はずすことはねえさ。なかで溶けちまって、何も故障はねえだよ」
「銅線のほうが、もっといいだろうな」
「あれは弱すぎるだ」とトムは言った。彼は片目の男のほうを向いた。「上等の真鍮の針金はあるだかね?」
「さあ、どうかな。たしか、どこかに針金巻があったっけが。どこか片目の男がやる眼帯を売ってるところ知らねえかね?」
「知らねえな」トムが言った。「その針金があるんならさがしてみようぜ」
車庫で彼らは箱のなかをさがしまわり、とうとう針金巻を見つけだした。トムはロッドを万力にかけ、注意深く針金をピストン・リングに巻いた。溝《みぞ》のなかへ深く巻きこんだ。そして針金のよじれたところは平たくたたき延ばした。それからピストンをまわして針金を万遍なくたたき、ピストンの表面をなめらかにした。彼は指で上下に撫で、リングと針金が、どこも平らになっているのをたしかめた。車庫のなかは暗くなっていた。片目の男は懐中電灯をもち出して、彼らの仕事を照らしてくれた。
「さあ、これでいい!」とトムは言った。「なあ、――その電灯、いくらで譲ってくれるだね?」
「これは、そんなによくねえよ。新しい電池を入れるのに十五セントかかった。売るとすれば――そうだな、三十五セントだな」
「いいとも。それに、このコン・ロッドとピストンは、いくらだい?」
片目の男は手首で額をこすった。すると、埃の筋が一つ白くはがれた。「さあ、どうも、おれにゃわからねえな。親方がここにいたら、やつは部品表をもち出して、新品だとしたら、どのくらいするかを見つけて、おめえさんがたが働いてるあいだに、おめえさんがたが、どんなにこれをほしがっているかを見当つけるし、どれくらいの金をもっていそうかも当りをつけてからに、それからやつは、きっと――そうだな、部品表に八ドルと出てるとすると――やつだったら、五ドルは吹っかけるだろう。もしおまえさんが大声でどなりつければ、三ドルくらいにまけるかもしれねえ。おまえさんは、おれのでたらめだというかもしれねえけど、やつは、けだものなんだ。おめえさんの足元を見て吹っかけるにきまってるんだ。一度なんぞ、リング・ギヤ一つで車一台ぶんの金をふんだくったのを見たよ」
「そうかね。だけど、おれには、これを、いくらでくれるんだい?」
「一ドルくらいでいいだろう」
「よしきた。それにこのソケット・スパナを二十五セントで買うぜ。これがあると二倍は仕事が楽だからな」彼は銀貨を手渡した。「ありがとうよ。その穴ぼこまなこをかくしておきなよ」
トムとアルはトラックに乗った。すっかり暗かった。アルはモーターをスタートさせ、ライトをつけた。「あばよ」トムが呼びかけた。「カリフォルニアで会おうぜ」彼らは国道を横ぎって車をまわし、もとの方向に向った。
片目の男は彼らが行くのを見まもっていた。それから車庫を通って裏の丸太小屋へはいった。なかは暗かった。彼は手さぐりで床の上のマットに近づき、その上に身を伸ばし、寝床のなかで泣いた。国道を疾走する車のひびきは彼の孤独の壁をますます厚くするばかりであった。
トムが言った。「こんなにうまくこれが買えて、今晩じゅうに車を直せるようになるなんて、夢にも思わなかっただな」
「これでちゃんと直せるだ」とアルが言った。「でも、おれにゃ、できねえだ。おれがやると、あまりきつくしめすぎて焼き切っちまうか、ゆるく入れすぎて飛びでてしまうかもしれねえだよ」
「おれがやってみるよ」トムが言った。「もしまたはずれたら、そのときはそのときのことさ。心配することはねえだよ」
アルは夜の薄闇《うすやみ》をうかがった。車のライトは、闇のなかを平凡に照らしていた。前方に、うろつく猫《ねこ》がいて、その目がライトの反射で青く光った。「トムはあの男に本当のことを言っただね」アルが言った。「やつがどうしたらいいかを、ちゃんと言ってやっただ」
「ばかな話さ。あんなこと人にきくんだもの。やつは片目しかないことで自分を甘やかしているだけさ。何でもかんでも、その目のせいにしてね。やつは怠け者だよ。ろくでなしだよ。たぶんやつも、それが誰の目にもわかっちまったと気がついたら、目がさめるだろうて」
アルが言った。「トム、あのベアリングは、おれが焼き切ったんでもなんでもなかったんだね?」
トムはすこし黙っていて、それから言った。「おめえに一つ注意するけどね。アル、おめえはまだ乳臭いばかなところがあるぜ。誰かが、おめえを責めやしねえかと、そのことばかり恐《こわ》がってるだ。おれはよく知ってるよ。若いときにゃ、えらく張りきって、いつでも、いっぱしの男でいてえもんさ。だけど、ばかくせえことだ。アル、相手がおめえに飛びかかってこないときにゃ、こっちも、のんびりあけっ放しにしとくだ。それがいいんだ」
アルは答えなかった。彼は正面を向いていた。トラックは道路をがたがたとゆれ進んだ。一匹の猫が道ばたから飛びだした。アルがそれをはね飛ばすつもりでハンドルを切った。しかし猫は車輪からそれて草叢《くさむら》のなかへ飛びこんだ。
「もうちょっとだったな」とアルは言った。「トム、コニーがそのうち夜勉強するつもりだっていうのを聞いたかい? おれも夜学で勉強しようかと思ってるだ。たとえばラジオかテレビかディーゼル・エンジンをね。そのほうで、うまくやれるかもしれねえと思うだ」
「かもしれねえだな」トムが言った。「第一に、その課目がどんなものか、そいつをよく見きわめなよ。それから自分が本当に勉強する気かどうかをたしかめるのが大事だ。マカレスターでも通信教育を受けた男が幾人かいただよ。しかし、誰一人しまいまでやったものはいなかっただ。みんな、あきちまって、ほっぽらかしちまうだ」
「しまった、食べものを持ってくるの、忘れちまったよ」
「いいさ、おっ母が、うんと届けてよこしただ。説教師一人じゃ食べきれねえだろう。すこし残すだよ。ああ、いつになったらカリフォルニアへ着けるこったか」
「ほんとに、いつになるかわからねえだね。ただすこしずつ進んで行くだけだて」
彼らは黙りこんだ。闇がおりた。星が鋭く白い。
ケーシーはダッジの後部座席から出て、道ばたに自動車を迎えた。「おまえさんがたが、こんなに早く戻るとは思わなかっただよ」と彼は言った。
トムは床の上の袋布地に包んだ部品をかき集めた。「運がよかっただ」彼は言った。「懐中電灯も手に入れたぜ。いますぐ直しにかかるだ」
「夕食食うのを忘れてるぜ」とケーシーが言った。
「直し終えたら食うだよ。さあ、アル、車をすこし道からはずして、電灯を照らしていてくれ」
彼はまっすぐにダッジに近づき、仰向けに下へもぐりこんだ。アルは腹ばいになってもぐりこみ、懐中電灯をさし向けた。「おれの目のほうじゃねえだ。そこだ、上に向けて」トムはピストンをシリンダーにはめこんだ。ぐいとひねってまわした。真鍮の針金が、ちょっとシリンダーの壁にひっかかった。彼は、ぐいと押して、リングを入れた。「ゆるくてぐあいがいいだ。そうでねえとコンプレッションでピストンがとまっちまうところだ。これならうまく動くだろうて」
「その針金がリングにからまねえといいだがね」アルが言った。
「うん、そいつはよくたたいてあるから大丈夫だ。ほどけねえだろう。たぶん針金は溶けて、まわりの壁に真鍮の板みてえにくっつくと思うよ」
「そいつが壁を傷つけるようなことはねえかい?」
トムは笑った。「よせやい。壁は大丈夫さ。あそこは地鼠《じねずみ》の穴みてえに油をたっぷり吸いこんでるもの。ちっとばかりのことじゃ傷なんかつきっこねえだよ」彼はロッドをシャフトに取りつけ、下の半分をためした。「いくらかシムを入れたほうがいい」彼は言った。「ケーシー」
「うん?」
「おれはいまベアリングをもちあげてるだ。クランクのところへ行って、おれが声をかけたらまわしてくれねえか」彼はボルトを締めた。「さあ、そうっとまわしてくれ!」そして、でこぼこになったシャフトがまわると、彼はそれにベアリングをとりつけた。
「シムが多すぎる」とトムは言った。「待った、ケーシー」彼はボルトをはずし、両端からうすいシムを除き、ボルトをもとへ戻した。「もう一度やってみてくれ、ケーシー」そして彼は、ふたたびロッドを入れた。「こいつ、まだすこしゆるいだ。これ以上シムを取ると、締めすぎることになるかな。まあ、やってみよう」ふたたび彼はボルトをはずして、うすいシムをとりのけた。
「さあ、やってみてくれ、ケーシー」
「いいらしいだな」アルが言った。
トムが言った。「まわすのにきつすぎねえかい、ケーシー?」
「いや、そうは思われねえよ」
「じゃ、うまくはまったってわけだ。本当にそうだとうまいぞ。バビットは道具なしにゃみがけねえだからな。このソケット・スパナは、まったく役に立ったぜ」
アルが言った。「あそこの親方のやつ、このサイズのスパナをさがすとき、見つからねえもんで、おそろしく怒るだろうな」
「それはやつが運がわるいだけのことさ」とトムが言った。「おれたちは盗みはしなかったぜ」彼はカッター・ピンをたたきこみ、向うへ出た端を折りまげた。「さて、これでよしと。さあ、ケーシー、電灯を持っててくれ、おれとアルでパンをつけるだから」
ケーシーは膝をつき、懐中電灯をさしだした。光線を手の動くほうに向けると、二人はギャスケットを平たく一面にたたき、パン・ボルトを穴に当てた。二人の男は、力をこめてパンをもちあげ、端のボルトをはめ、ついで他のボルトをはめていった。そして、全部はめ終えたとき、トムは、そのどれもが、ギャスケットに平均に当るように、すこしずつ、きつく締めていった。
「まず、これでいいだろう」とトムが言った。彼はオイル・タップを締め、注意深くパンを見あげ、電灯をとって地面を照らした。「これでついただ。さあ、油をもとに戻そう」
彼らは車の下から這いだしてバケツの油をクランク・ケースに入れた。トムはギャスケットがもれるかどうかを調べた。
「これでよし。アル、エンジンをかけてみな」と彼は言った。アルは車へはいってスターターを踏んだ。うなり声をあげてモーターがかかった。青い煙が排気管から噴きだした。「スロットルをしぼれ!」とトムが叫んだ。「油が熱くなってあの針金を溶かしちまうだ。すこし落してくれ」そしてモーターが調子を変えると、彼は注意深く耳をすました。「アクセルをとめて空転させてみな」彼は、ふたたび耳をすます。「いいよ、アル。スイッチを切ってくれ。どうやら直ったようだ。あの豚肉はどこにあるだ?」
「トムは機械を直すのがうめえだな」とアルが言った。
「そりゃそうさ。おれは一年間、店で働いたんだぜ。さあ、最初の二百マイルだけは、ゆっくり丁寧に走らせて行こう。うまく機械が動きだすようにな」
彼らは油だらけの手を雑草の束でふき、最後にズボンでこすった。そして煮た豚肉をむさぼり食い、壜《びん》から水を飲んだ。「飢え死にしそうだったよ」とアルが言った。「これからどうするだ、キャンプに帰るのか?」
「どうするかな」とトムが言った。「たぶん向うじゃ、おれたちが行くと、割増しの半ドルを払えというだろう。行って、家のもんに話そう――ちゃんと修繕したってな。それから、もし向うが、おれたちに割増しを要求したら――いっそ先へ進もう。家のもんは知りたがってるだ。おっ母が、さっきとめてくれて、ほんとによかっただな。アル、その懐中電灯で、そこらを見な。何にも忘れものはねえかどうか。そのソケット・スパナをなかへ入れておけよ。また必要になるかもしれねえだぜ」
アルは懐中電灯で地面を調べた。「何もねえだよ」
「じゃ、いい。おれがこの車を運転しよう。おめえは、あのトラックを動かしな」トムはエンジンをかけた。説教師が車のなかにはいった。トムはエンジンを低速にしたまま、ゆっくりと動かした。アルがトラックに乗ってそれに従った。低速ギヤのまま、トムは道ばたの窪地《くぼち》を横ぎり、道路へ這《は》いのぼった。彼は言った。「この型のダッジは低速ギヤだったら家だって引っぱれるだ。たしかにこの車は馬力があるだよ。おれたちにとっては、ありがてえことさ――あのベアリングが、うまく慣れてくれるといいだが」
国道に出ると、ダッジは、ゆっくりと進んだ。十二ボルトのヘッドライトが舗装道路に黄ばんだ丸い光の輪を投げた。
ケーシーはトムのほうを向いた。「おまえさんが車を直せるなんて不思議だな。ちょいとなかへはいって、即座に直しちまうだ。わしにはまるでだめだよ、おまえさんがあれを直すのを見てても、やっぱりわからねえだ」
「子供のときから扱ってなくちゃだめさ」トムが言った。「知ってるだけじゃだめなんだ。それ以上のことだよ。いまの子供らは、何も考えもしねえで車体をばらばらにできるだぜ」
野兎《のうさぎ》が光のなかに飛びこんだ。一とびごとに、大きな耳をふるわせ、軽やかに前方へはねて行った。ときどき兎は道路から外へ出ようとした。しかし闇の壁が彼をなかへ押しかえした。ずっと前方に、明るいヘッドライトがあらわれ、こちらを照らした。兎はとまどい、おじけづいた。それから方向を変えて、ダッジのややうす明るい光のほうに突進した。兎が車輪の下にはいったとき、小さな、やわらかい衝撃が感じられた。向うからきた自動車が横をかすめすぎた。
「たしかにやつを轢《ひ》いたようだ」ケーシーが言った。
トムは言った。「轢くのが好きだというやつもいるだが、おれはいつもすこしぞっとするだ。車は調子いいようだ。リングも、いまは慣れたらしい。そんなにひどく煙を出さねえもんな」
「おまえさんは見事に直しただよ」とケーシーが言った。
小さな木造の家がキャンプ地に立っていた。そしてその家のポーチにはガソリン灯がしゅっしゅっと燃え、大きな円を描いて白いかがやきを投げていた。五つか六つのテントが近くに張られ、車がテントのそばにおいてあった。夜の食事支度は終っていた。しかしキャンプ・ファイヤーの焚火《たきび》は、まだキャンプ場のそばの地面に燃えていた。一かたまりの人たちが灯火の燃えているポーチに集まっていた。彼らの顔は、ちかちかする白光の下で、たくましく筋ばって見えた。灯火の光は彼らの帽子の黒い影を額や目に投げかけ、そのため顎《あご》が、ばかにつき出ているように見えた。人々は踏段に坐っていた。あるものは地面に立ち、肘《ひじ》をポーチの床にもたせかけていた。家の持主である骨ばった陰気な男が、ポーチの椅子《いす》に腰かけていた。彼は壁に椅子の背をもたせ、指で膝《ひざ》をたたいていた。家のなかには石油ランプが燃えていた。しかしその弱い光はガソリン灯の激しい白光に力をうしなっていた。人のかたまりが持主をとりかこんでいた。
トムはダッジを道ばたに乗りつけてとめた。アルはトラックに乗ったまま門口を通りぬけた。
「車をなかに入れる必要はねえだ」とトムは言った。彼は外へ出て、門を抜け、灯火の白い光のほうへ歩いて行った。
持主は椅子の前足を床に落し、前へかがみこんだ。「あんたがたは、ここでキャンプしたいのかい?」
「いや」とトムは言った。「おれたちの家族がここにいるだ。やあ、お父っさん」
父親は、いちばん下の踏段に腰かけていた。父親は言った。「一週間もかかると思っていたのに、もう修繕できたのかい?」
「すごく運がよかっただ」トムが言った。「暗くならねえうちに部品が買えたでな。もう夜が明けたら、さっそく出発できるだよ」
「そいつはうまくいっただな」父親が言った。「おっ母が心配してたぞ。ばあさまは調子が狂ってるだよ」
「うん、アルに聞いただ。いまは、いくらかよくなってるのかい?」
「まあ、とにかく眠ってはいるだ」
持主が言った。「もしあんたがたが、ここに車をとめてキャンプするんなら、半ドルかかるよ。ここはキャンプの場所と水と薪《まき》がある。それから、誰《だれ》もじゃましないしな」
「なんてこった」トムが言った。「おれたちは道ばたの窪地で寝られるだよ、まるっきりロハでね」
持主は指で自分の膝をたたいた。「警察が夜は見まわるぞ。見つかると、えらい目にあうぞ。この州では、戸外で寝るのは法律にふれるんだ。浮浪罪になるんだ」
「おめえさんに半ドル払えば浮浪人じゃねえってわけかい、そうなんだね?」
「そのとおりだ」
トムの目は腹だたしげに光った。「だけど、その警察のもんが、おめえさんの義理の兄弟ってわけでもなかろうが?」
持主は前に乗りだした。「いや、そうじゃないさ。だが、わしらこの地方のものが、おめえさんらのような乞食《こじき》に説教される時代も、まだきておらんぞ」
「おめえさんが、おれたちから半ドルとる理由はねえだよ。それに、いつ、おれたちは乞食になっただ? おれたちは、何も物乞いなんぞしやしねえぜ。おれたちはみんな乞食だというのか、え? そんなら、ここに寝ころんで休むからといって、おめえさんから金をせびられるいわれはねえだぜ」
ポーチにいる男たちは堅くなり、身動きもせず、しずまった。彼らの顔からは表情がうせた。目は、帽子の陰にかくれながら、そっと持主のほうを見あげていた。
父親が怒り声で言った。「トム、やめろ」
「もちろん、やめるだよ」
まわりの男たちは、踏段に坐ったり、ポーチによりかかったりしたまま、静かだった。彼らの目は、ガソリン灯のきつい光の下で光った。そのいくつもの顔は、強い光の下でこわばっていた。そして彼らは非常に静かだった。ただ、その目だけが、話し手から話し手へと動いた。顔は表情がなく静かだった。甲虫《かぶとむし》が灯火にぶつかって自分で自分を傷つけ、闇《やみ》のなかに落ちた。
テントの一つで子供がぐずっていた。女のやわらかい声が、それをなだめていた。やがてそれが低い歌声になった。
「夜はやさしいイエスさま。よくお眠りな、お眠りな。イエスさまが夜のなかから見ていらっしゃる。おお、お眠りな、お眠りな」
灯火がポーチの上空で、しゅっと音を立てた。持主は開襟《かいきん》シャツのVのあたりを掻《か》いた。一束の白い胸毛が見えた。彼は気を配った。めんどうな情勢だ。彼は、まわりの男たちの様子をうかがい、彼らの表情をうかがった。彼らは、なんの動きも見せなかった。
トムは長いこと黙っていた。その黒い目が、ゆっくりと持主を見あげた。「おれは、何もめんどうを起したくはねえだ」と彼は言った。「乞食なんて呼ばれるのが我慢できねえだけさ。おれは、びくつきゃしねえぜ」彼は低い声で言った。「おれは、おめえさんにだって、警察の人間にだって、この手で立ち向ってみせるだ――この手で、何だってやるだ。だけど、そんなことしたって、何の役にも立たねえだ」
男たちは身動きした。体の位置を動かした。彼らの光る目は、そろそろと、持主の口のほうへ動いた。彼らの目は持主の唇《くちびる》が動くのを見まもっていた。彼は確信を得た。彼は自分が勝ったと感じた。しかし金がとれるかどうかわかるほど、はっきりしてはいなかった。「おまえさんは半ドルもってないのか?」彼はきいた。
「いや、もってるさ。だが、そいつは入り用なんだ。ただ眠るだけに、それを使うわけにゃいかねえだよ」
「そりゃ、わしらは、みんな食っていかなくちゃならんからな」
「そのとおりさ」とトムは言った。「ただおれは、誰からも金をふんだくられねえで暮せるような方法があればいいと思うだ」
男たちは、ふたたび身動きした。父親が言った。「わしらは、あす早く、さっさと動きだすだ。ねえ、だんな、わしらは金を出しただ。この男は、わしの家族の一人だ。ここへ泊っちゃいけねえだかね? わしらは金をだしただぜ」
「車一台に半ドルだ」持主は言った。
「でも、この男は車をもっちゃいねえだ。車は道ばたに出してあるだ」
「だが車でやってきた」持主は言った。「誰も彼も、車だけあそこへおいて、歩いてはいってきおってからに、わしの地所をただで使おうとする」
トムが言った。「おれたちは道路の先のほうへ行くだよ。朝になったら会おうぜ。こっちでお父っさんたちを見張ってるだよ。アルをここへ残して、ジョン伯父に、おれたちといっしょにきてもらえば――」彼は持主のほうを見た。「それでいいだろう?」
持主は、いささかの譲歩をふくめて、すぐ決断した。「はいってきて金を払ったと同じ数の人間が残るんなら――文句はないよ」
トムは煙草《たばこ》袋を取りだした。袋は、いまでは、ぐにゃぐにゃとうす汚れた小袋になっており、底に湿った煙草|滓《かす》がすこしあるきりだった。彼は細い煙草を巻き、袋をはじき捨てた。「おれたちは、すぐ出かけるだよ」と彼は言った。
父親はなんとなく一同に向って話しかけた。「家族が、土地をはなれて立ちのくのは、つらいこった。わしらみたいに、自分の土地を持ってたもんは、なおさらだて。わしらは宿なしじゃねえだ。トラクターに追われるまでは、ちゃんと農地を持ってた人間だで」
やせた若者――日にやけて黄ばんだ眉毛《まゆげ》をした男が、ゆっくり頭をまわしてこっちを見た。「自作かい?」と彼はたずねた。
「そうともよ。歩合の自作農さ。ずっと土地を持ってやってただ」
若い男の顔は、ふたたび前方を向いた。「おいらと同じだ」と彼は言った。
「まあ、この移動が、そんなに長いことじゃねえんで助かるだよ」父親が言った。「わしらは西へ行って一仕事やって、水のある肥えた畑地を手に入れるだ」
ポーチの端のあたりにぼろ着の男が立っていた。その黒い上着は、ひどく裂けてたれさがっていた。膝が、その太織り木綿の布地を突きぬけていた。顔は、埃《ほこり》で黒く、汗の流れたところだけ筋を残していた。彼は頭を父親のほうに向けた。「おまえさんは、たんまりと金を持ってるにちげえねえだな」
「いんや、わしら、まるで持ってねえだよ」父親が言った。「しかし、向うへ行けば仕事がうんとあるだし、それに、わしらは、みんな働き手だで。いい賃金とって、そいつをまとめようってわけさ。そうすりゃ、なんとかやれるだろうて」
ぼろ着の男は父親が話してるあいだ彼を見つめていた。それから笑った。その笑いは、しまいにヒステリックな、高調子の、くっくっとこみあげてくる笑いになった。そこにいた一同の顔が、その男のほうを向いた。こみあげてくる笑いは、どうしようもなくなり、とうとう彼は咳《せ》きこみはじめた。彼が、やっと笑いをおさめたときには、目は赤くなり、涙が出ていた。「おめえさんは向うへ行くつもりかい――へっ、ばかばかしい!」笑いが、またはじまった。「おめえさんは、あそこへ行って稼《かせ》ぐっていうのかい――いい賃金だって? へっ、ばかばかしい!」彼は、言葉をとめ、からかうような調子で言った。「オレンジを摘むってわけかい? 桃でも摘むつもりかい?」
父親は、きびしい口調になった。「わしらは向うにある仕事をするだ。向うじゃ、働く仕事は、なんぼでもあるだで」ぼろ着の男は息をつめて笑った。
トムは、いらだたしげに、そのほうを向いた。「いったい、なんでそれが、そんなにおかしいだ?」
ぼろ着の男は口を閉じてポーチの板を陰気そうに見つめた。「おめえさんがたは、みんなカリフォルニアへ行くだね? そうだろう?」
「さっき、そう言ったじゃねえか」と父親が言った。「おめえさんは、わしのいうことを、何も信用しねえだな」
ぼろの男は、のろのろと言った。「おれは――おれは帰り道なのさ。あそこにいたんだよ」
人々の顔が急に彼のほうを向いた。男たちは体を堅くした。灯火のしゅっという音が弱まった。持主は椅子の前足をポーチにおろして立ちあがり、灯火を直した。すると灯火を直したので、その音が、ふたたび鋭く、高くなった。彼は椅子へ戻《もど》った。しかし前のようにうしろへ椅子をかしげなかった。ぼろ着の男は一同の顔のほうを向いた。「おれは飢え死にするために帰るだよ。いっぺんに飢え死んだほうが、まだましだて」
父親が言った。「おめえさんは何のことを言ってるだ? わしは広告でも賃金がいいということを見たし、ついこのあいだ、向うでは果実摘みの人手が入り用だと新聞で読んだばかりだぜ」
ぼろ着の男は、父親のほうを向いた。「おめえさんは帰って行くところがあるのかね、家のほうによ?」
「いんや」父親が言った。「立ちのいてきたのだよ。トラクターに家を押しのけられちまっただ」
「じゃ、帰るにも帰れねえだね?」
「もちろん、そうだよ」
「そんなら、おめえさんを苦しめるのは、よそう」とぼろ着の男は言った。
「もちろん、おめえさんは、わしを苦しめることはできねえさ。わしは人手入用という広告ビラを持ってるだ。もし向うで人手が必要でねえとすれば、そんなまねはしねえだよ。そんな広告ビラつくるにゃ金がかかるだものな。人手を必要としねえんなら、そんなことするはずがねえじゃねえか」
「おれは、おめえさんを苦しめたくねえだ」
父親が怒って言った。「おめえさんは、もういい加減わしをばかにしくさって、いまになって口をつぐむこともあるめえ。わしの広告ビラには人手がいると書いてあるだ。おめえさんは笑いとばしてからに、人手なんざいらねえという。さあ、どっちが嘘《うそ》つきなんだ?」
ぼろ着の男は父親の怒った目を見おろした。そして悪かったという表情をした。「ビラが正しいだよ」と彼は言った。「向うでは人手をほしがってるだ」
「そんなら、なぜおめえさんは、笑ったりしてからに、わしらを変な気にさせるだね?」
「なぜって、おめえさんは向うがどんな人間をほしがってるか知らねえからさ」
「どういう意味だね、そりゃ?」
ぼろ着の男は、心をきめたようだ。「いいかい」と彼は言った。「おめえさんのビラにゃ何人ほしいと書いてあるだ」
「八百人よ。それも、ほんの小さな土地でよ」
「オレンジ色のビラだろう?」
「うん――そうだ」
「雇い主の名前が書いてあるだろう――労働契約者、何とか何とか、とな。書いてねえかい?」
父親はポケットに手を入れて、折りたたんだ広告ビラを取りだした。「そのとおりだて。どうしておめえさんは知ってるだね?」
「いいかい」とその男は言った。「そいつは、何の意味もねえだ。その男は八百人の人間をほしがってる。それで、その広告を五千枚も印刷しただ。だから、たぶん二万人の人間が、それを見たことになるだろうて。それで、ざっと、二、三千の家族が、そのビラを見たために動きはじめただ。心配ごとで気ちがいみてえになった人間たちがよ」
「しかし、そんなばかなことねえだぞ!」と父親は叫んだ。
「いつかおめえさんが、そのビラを配った男に会えばわかるこった。おめえさんは、そのうち、やつに会うだろうよ。あるいは、やつに使われてる男にね。おめえさんたちは、ほかの五十もの家族たちといっしょに道ばたでキャンプしてる。するとやつが、おめえさんたちのテントをのぞいて、まだ食糧が残ってるかどうかを見るだ。そして、何もなくなってると、やつはいうだよ。『仕事ほしいか?』それで、おめえさんが、『ほしいですとも、だんな。もし何か仕事口をくだすったら、本当にありがてえですがね』っていうと、やつはいうだろう。『使ってやろう』それでおめえさんがいう。『いつからはじめますかね?』すると、やつは、どこそこへいつまでにこいという。それから、やつは、ほかの人間のところへまわって行く。おそらく、やつが必要なのは、二百人だろう。だもんで、やつは、五百人の人間に話してあるくだ。するとその人間が、また別の人間に話す。それで、おめえさんがその場所へ行ってみると、そこに千人もの人間がいるということになるだ。そこに名前ののってる男がいうだ。『一時間二十五セントだ』それでまあ半分くらいのものは出て行っちまうだろう。それでも、まだ五百人だけ、おそろしく腹がへってて、賃金代りにパンをくれさえすれば、それだけで働こうという連中が残るだ。そこで、その男はみんなに、桃を採取するとか――綿を摘むとか、そういう契約をさせるわけだ。わかったかい? やつは人間を多く集めれば――とくに腹をへらしたやつを集めれば、それだけ賃金を低くできるわけなんだ。それに、やつは、なるだけ子持ちの人間を使うだ。なぜって――ちくしょうっ、おれは、おめえさんを苦しませたくねえと言ったんだっけな」一同の顔が、彼を冷やかに見つめる。彼らの目は彼のことばを検討する。ぼろ着の男は気づまりになってきた。「おれは、おめえさんたちを苦しめたくねえと言っただ。それなのに、もうそいつをやりはじめてるだ。おめえさんがたは先へ行くところだて。戻って行くところじゃねえだ」沈黙がポーチに漂った。灯火が、しゅっと音をたてた。一匹の光る蛾《が》が灯火のまわりをぐるぐる飛んだ。ぼろ着の男は気がねしながら話をつづけた。「その、仕事をもってる男に、おめえさんが会ったとき、どういえばいいか、そいつを一言おれに言わせてくれ。きくがいいだよ。やつに、いくら払うかときくことだ。払う金額を紙に書いてくれといって頼むことだ。そいつを頼むだよ。本当だよ。もしそれをやらねえと、いっぱいくわされるだぜ」
持主は、ぼろ着の汚ない男を、もっとよく見ようと、椅子から前に乗りだした。そして胸の灰色の胸毛を掻《か》いた。彼は冷たく言った。「おまえは、このあたりの騒動起しの一人じゃないだろうな? 煽動屋《せんどうや》の一人じゃないだろうな?」
すると、ぼろ着の男は叫んだ。「とんでもねえ!」
「そんなのが、やたらにいるんだ」と持主は言った。「このへんをうろつきまわって騒ぎを起すんだ。みんなを怒らせてな。みんなをだまくらかしてな。そういうのが、うんといるんだ。もうそろそろ、やつらを数珠《じゅず》つなぎにするときがくるぜ。騒動を起すやつらを、みんな一どきにな。わしたちは、やつらを国から追いだそうと思ってるんだ。人間は働きたいと思うもんだ。結構じゃないか。働きたくないやつは――そんなやつは、くそくらえだ。何も、そんなやつに騒動を起させることはないんだ」
ぼろ着の男は向き直った。「おれは、おめえさんがたに話したかったのさ」と彼は言った。「一年がかりで、やっとおれが知ったことをな。二人の子供を死なせ、女房《にょうぼう》を死なせて、やっと知ったことをな。だけど、おれにゃ、よく話せねえだ。もっと前に、それに気がつきゃよかっただが。それをおれに教えてくれるものもいなかっただ。どうもうまく話せねえだ。小さなやつらが腹ひっこませて骨と皮ばかりで子犬みてえにふるえて泣きながらテントに寝てることとか、おれが仕事をさがして走りまわったこととか――金のためじゃねえぜ、賃金のためじゃねえんだぜ!」彼は、どなりだした。「ちくしょう、くそっ、ほんの小麦粉一握りとラード一|匙《さじ》のためなんだ。すると、それから検屍官《けんしかん》がきやがった。『この子供は心臓|麻痺《まひ》で死んだ』そうぬかしゃがっただ。そう書類に書きこんだだよ。ふるえていたっけ、あの子供らはよ。からっぽの腹を豚の膀胱《ふくろ》みてえにつき出しながらな」
人々は静かだった。どの口もすこし開いていた。男たちは浅く呼吸《いき》をした。そして見まもった。
ぼろ着の男は一同を見まわし、それからくるりと背を向けて足早に闇のなかへ歩み去った。闇が彼をのみこんだ。しかし彼の引きずる足音は、彼が去ったあとも、長いこと聞えていた。道路を行く足音だ。すると一台の車が国道をやってきた。その光が、道路を向うへ足を引きずって行く彼の姿を照らしだした。頭を低くたれ、黒い上着のポケットに両手をつっこんでいた。
男たちは落ちつかなくなった。一人が言った。「さてと――遅くなっただな。寝なくちゃならねえ」
持主が言った。「たぶん、あいつは宿なし乞食だろう。このごろ、街道にゃ、やたらと宿なしがいるんだ」それから彼は口をつぐみ、ふたたび椅子をうしろの壁にもたせかけ、咽喉《のど》を指でいじった。
トムが言った。「おれは、ちょっとおっ母に会ってくるだ。それから出かけよう」ジョード家の男たちは歩きだした。
父親が言った。「やつの言ったことは本当かな――あの男の言ったことよ」
説教師が答えた。「本当のことを言ってたんだと思うだよ。あの男にとっては本当のことをね。別に何もこしらえごとはしてなかったぜ」
「おれたちはどうだい?」トムがきいた。「あれは、おれたちにとっても本当のことか?」
「どうだかな」ケーシーが言った。
「どうだかな」父親が言った。
彼らは防水布を綱に引っかけてつくったテントのところまで歩いてきた。なかは暗く静かだった。彼らが近づくと、灰色のかたまりが入口の近くで動き、それが人間の大きさになった。母親が彼らを出迎えた。
「みんな眠ってるよ」と母親は言った。「ばあさまも、やっと眠りこんだだ」それから母親は、トムがいるのに気づいた。「まあ、どうしてここへきたの?」彼女は心配げに返事を求めた。「おまえ、何かめんどうを起したんじゃないだろうね?」
「車を修繕したのさ」トムが言った。「みんなさえよければ、いつでも出発できるだよ」
「なんてありがたいこったろう」母親が言った。「あたしは早く行きたくて、やきもきしてるだよ。豊かで青々としたところへ行きたくてね。早く行きたいよ」
父親が咳《せき》ばらいした。「さっき一人の男が言ってただが――」
トムが父親の腕をつかんでぐいと引いた。「やつの話はおかしいぜ」トムは言った。「途中にもたくさんの人がいるって言ってたな」
母親は闇のなかに彼らをすかし見た。テントのなかでルーシーが咳ばらいした。そして眠りながら鼻を鳴らした。
「あたし、あれたちを洗ってやっただよ」母親が言った。「はじめて、すっかり洗ってやれるだけの水があったのでね。おまえさんたちも洗えるようにバケツを出しといたよ。道路にいると、何でも汚れちまうだからね」
「みんな、なかかい?」父親がたずねた。
「ええ、ただコニーとローザシャーンはいないよ。二人とも外へ眠りに行ったよ。テントの下は暑すぎるって」
父親は不平がましく言った。「ローザシャーンのやつ、このごろ、おそろしくびくついて、めそめそしてやがる」
「初産《ういざん》だもの」と母親が言った。「あれとコニーは、それですっかり夢中なのさ。あんただって同じことをしたんだよ」
「おれたちは行くだ」とトムが言った。「道路をすこし先のほうへ行ってるだよ。こっちが見つけそこねると困るから、そっちでも、おれたちのいるところを気をつけてくれや。早く出発しなよ」
「アルは残るんだろう?」
「ああ、やつを残してジョン伯父がおれたちといっしょに行くだ。お休み、おっ母」
彼らは眠っているキャンプのあいだを歩いた。あるテントの前では、かぼそくゆれる火が燃えていた。そして女が早い朝食に備えてつくった鍋《なべ》を見まもっていた。煮える豆の匂《にお》いが、強く、うまそうだった。
「おいしそうな料理ですな」トムが、通りすがりに挨拶《あいさつ》がわりに言った。
女は微笑した。「まだ煮えてないんでね。煮えればご馳走《ちそう》するんだけど」
「ありがとうよ」トムが言った。彼とケーシーとジョン伯父はポーチのそばまで歩いてきた。持主は、まだ椅子に坐っていた。そして灯火《あかり》がしゅっと音を立てて輝いていた。三人がすぎるのを見て彼は頭をめぐらした。「灯火が燃えつきてしまいそうだぜ」とトムが言った。
「うん、どっちみち、もう閉める時間だ」
「どうやら、もう半ドル野郎が道路からころがりこんでくることもねえだろうて」トムが言った。
椅子のあしが床を打った。「つべこべいうのはやめろ。おめえをおぼえてるぞ。おめえは、このあたりの騒動起しの一人だろう」
「そのとおりさ」とトムが言った。「おれは過激派《ボルシェヴィキ》だ」
「おめえみたいなやつが、このあたりにゃ、まったく多すぎるて」
トムは門を出ながら笑い、そしてダッジに乗りこんだ。彼は土くれを拾いあげ、光に向って投げた。土が家に当るのが聞え、持主が椅子から飛びあがって闇をのぞくのが見えた。トムは車を動かして道路に出た。そして彼は回転するモーターにじっと耳を傾け衝動《ショック》に気を配った。道路は、自動車の弱いヘッドライトの向うに、ぼんやりと伸びていた。
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第十七章
移住する人々の車が、道路下から巨大な横断国道へと這《は》いあがる。そして彼らは移住の道を「西」へととる。日中《ひなか》は甲虫《かぶとむし》のように西へたどり進む。そして夜が彼らを包むと、彼らは|ねぐら《ヽヽヽ》へ、水に近いところへ甲虫のようにかたまり合う。誰《だれ》もが、寂しく、とまどっていた。みな、悲しみと憂《うれ》いと敗残の地からきたのだ。そしてみな新しい未知の土地へ行くところなのだ。しぜん彼らは、いっしょにかたまり合うようになる――いっしょに話をかわす。生活を、食物を分けあう。彼らが新しい土地で望むさまざまのことを分けあう。かくして、こんなふうなことが起る。一つの家族が泉の近くにキャンプする。別の家族が、泉と仲間を求めて、そこにキャンプする。そして、すでに二つの家族がその場を開拓して、よいところだと発見しているので、しぜん第三の家族が、そこにとどまる。そして太陽が沈んでしまうころには、およそ二十の家族と二十の車が、そこにたむろする。
夕方になると、一つの奇妙なことが起る――二十の家族が一家族になる。子供たちは、みんなの子供たちになる。家をうしなったことが全体の|うしない《ヽヽヽヽ》になる。そして西部に託す金色の夢が一つの夢になる。そこで、こうしたことも起るだろう。ある子供が病気になる。すると二十家族の、百人の心に、苦しい気持を起させる――一つのテントに起った出産は百人の人間を静かにさせ、一晩じゅうびくつかせ、そして朝になると百人の人間を出産のよろこびで満たす。前の夜にはとまどい恐れていた家族が、新しい赤ん坊への|贈り物《プレゼント》をさがしたりする。夕方になると、火のまわりに坐って、二十家族が一つになる。彼らはキャンプ地の一部となる。夕方と夜との一部となっていく。ギターが毛布からとり出されてかき鳴らされる――そして歌、すべての人々のためのものである歌が、夜のなかでうたわれる。男たちが歌をうたい、女たちがメロディーを口ずさむ。
そこに必要なものは、何でも備えて、毎晩、一つの世界がつくられる。――友情が生れ、敵ができる。いばりくさったもの、おじけづいているもの、静かな人たち、謙遜《けんそん》な人たち、親切な人たちなどが、より集まってつくる世界。毎夜、一つの世界をつくる諸関係が形成される。そして毎朝、その世界はサーカスのようにとり片づけられる。
最初のうち、形成されては崩れさる世界のなかで、家族たちは臆病《おくびょう》だった。しかし次第に、いくつもの世界をつくるその技術が、彼らの技術になった。リーダーがあらわれる。つぎには法律がつくられる。掟《おきて》が生れてくる。そして、そのような世界は西へ動くにつれて、ますます完全な、前よりもいっそう完備したものとなっていく。なぜなら、それを建てる人たちは、次第にその建て方に習熟していくからだ。
家族の群れは、いかなる権利がまもられねばならぬかを学ぶ――テント内の私事をまもる権利、過去を心の奥底に深く押しこめておく権利、話したり耳をかしたりする権利、援助を拒絶し、または受けいれる権利、援助を申しいで、または引っこめる権利、息子が守護し娘が守護される権利、飢えたものは食いものを提供される権利、妊娠者と病人はすべて他の諸権利に優越する権利。
そして家族たちは、誰に話されたでもなく、いかなる権利が恐ろしいものであり破壊されねばならぬものであるかを学ぶ――他人の私事に介入する権利、キャンプが眠っているのに騒ぎたてたりする権利、誘惑と強姦《ごうかん》の権利、姦通と盗みと殺人の権利。こうした諸権利は、おしつぶされる。なぜなら、この小さな世界は、そんな権利が活動したら、一晩とて存在しえないからだ。
そして、いくつもの世界が西へ進むにつれて、誰一人家族にそれと布告したわけでもないのに、規則は法律になる。キャンプの近くを汚すことは法律違反である。飲用水を汚すことは、いかなる理由があっても法律違反である。腹のへったもののそばでご馳走《ちそう》を食べるのは、これも法律違反である。ただし自分たちのものを、腹のへったものに分ちあたえるのなら問題はない。
そして法律には刑罰がつきものである――ただし罰は、ただ二つしかない――すばやく片をつける血なまぐさい闘争か追放かだ。そして最悪の刑罰は追放である。というのは、ひとたび法律を破ったとなると、彼の名前と顔は、たちまち知れわたり、どこの世界にもはいれなくなってしまうからだ。どんな遠いところでつくられた世界でもだめだ。
この世界のなかでは、社会的行動は、一定した、きびしいものとなる。だから、人々は必要な場合には「お早う」と言わなければならぬ。また男が自分の女をもつには、彼女といっしょに住み、彼女の子供の父となり、妻子を保護しなければならない。男は、今夜はこの女と、翌晩はあの女と、ということは許されない。なぜなら、そのようなことは、その世界を危険にするからだ。
家族は西に向って動く。世界をつくりあげる技術が進歩したので、人々は自分たちの世界のなかにいれば安全でいられる。形式も一定してきたので、その規則内にいる家族は、その範囲内なら安全だとさとるようになる。
その世界には政治が成長していく。リーダーが生れ、年長者が指導する。賢い人は、彼の知恵がどこのキャンプでも役にたつことを発見する。愚かなものは、その世界にはいっても自分の愚かさを直すわけにはいかないと知る。一種の保障制度のようなものが、こうして夜を重ねるうちに、発達する。食糧を有するものは飢えたものに食べさせる。かくして彼は、彼自身が今後飢える場合を保障するわけだ。そして赤ん坊が死ねば、銀貨が一山、入口の幕の前につみ重ねられる。なぜなら赤ん坊は、ねんごろに埋められなければならないからだ。まことに赤ん坊とて一つの生命にほかならないのである。老人は費用をかけずに密葬してもいいが、赤ん坊はそうはできない。
一つの世界をつくるには、一定の具体的条件が必要である――水、川の堤、小川、泉、あるいは見張りの番のいない水道口でもいい。そしてテントを張るだけの平たい土地、火をつくるための小藪《こやぶ》か林が必要である。もし近くに屑物《くずもの》の捨て場でもあれば、これにこしたことはない。というのは、そんなところだと、いろいろ便利な品が見つかるからだ――ストーブの蓋《ふた》とか、火を囲うのに使う曲ったフェンダーとか、料理に使ったり食器にしたりする空缶《あきかん》とか。
そして、いくつもの世界が夕方になると建てられる。国道からはいってくる人々は、彼らのテントと、彼らの心と、彼らの頭脳とで、これらの世界を形成するのである。
朝がくると、テントは取りはずされる。防水布は折りたたまれ、テントの支柱は車の踏板に沿ってしばりつけられる。ベッドは車上の元の場所におかれ、鍋《なべ》類も、おさまるところへおさまる。そして家族たちが西へ進むにつれて、夕方に家《ホーム》を建て、朝の光とともにそれをとりこわす技術が固まってくる。だから、たたまれたテントは一つの場所にきちんとおさめられることになり、料理鍋の類《たぐい》は一定の箱を占有するようになる。車が西へ進むにつれて、家族のものは、めいめい自分に適当な地位を自覚していき、自分の義務に積極的になる。したがって、各自、老いも若きも、自分の位置を車中の一カ所に据《す》えることになる。だから、疲れた暑い夕方、車がキャンプ地にとまると、めいめいが各自の義務をもっているので、指図もなしに、その義務を遂行する――子供たちは薪《まき》を集め、水を運ぶ。男たちはテントを張りベッドを運びこむ。女たちは夕食を料理し、家族の給仕をする。これらのことが命令なしに行われる。家族たち、かつて昼間は農場を境界とし夜は家を外部との境界とする一集団であった彼らは、いまやその境界を変更する。長くて暑い光のなかを、彼らは黙って車に乗り、ゆっくりと西へ動いて行く。しかし夜になると、そこに見つけた一団の人々のなかに溶けこむのだ。
かくして彼らは、彼らの社会生活を変化させる――この全宇宙で人間だけが変えうる独得の方法で変えたのである。彼らは、もはや農夫ではない。移住者だ。そして、かつては畑に向っていた思考も、計画も、長く見つめる沈黙の習慣も、いまや道路へ、遠方へ、「西」へと向いている。幾エーカーかの土地に頭も心もしばりつけられていた人たちが、いまや細いコンクリート道路に果てしない旅をつづけているのである。そして彼らの考えごとや心配ごとは、もはや雨のことでもなければ、風や砂嵐《すなあらし》のことでもなく、作物の出来のことでもなくなっている。目はタイヤを見まもる。男は、がたつくモーターの音に耳をそば立てる。そして頭は、油やガソリンのこと、空気と道路にはさまれてすり減っていくゴムのことで、いっぱいだ。かくて一個のギヤの故障が悲劇となるのである。かくて、夕方、飲める水、火の上にある肉が、あこがれとなるのである。かくて進んで旅をつづけうる健康、旅をつづけうる力、旅をつづけうる精神が、必要なのである。意志は、前方、西の方に向っている。そして恐怖、かつては旱魃《かんばつ》や洪水《こうずい》を対象としたそれが、いまは、西へと進む旅の行く手をはばむもののすべてにまつわりついているのだ。
キャンプは手なれた型どおりのものになる――毎日、ほんの短かな旅が重ねられていく。
不安が道路にいるいくつかの家族の上にのしかかる。そこで彼らは、日に夜をついで走る。とまっても、そのまま車のなかで眠る。そして道路から飛びたち、人々との社会的な動きから飛びたって「西」へと疾駆する。こうしたことが非常に強く彼らを駆りたてるのだ。だから彼らは顔を西に向け、道路を西へ、がたつくエンジンを鞭《むち》うつようにして走って行くのだ。
しかし、たいていの家族は変化し、急速に新しい生活に慣れてくる。そして太陽が沈むころ――それは泊る場所を見つける時刻だ。
すると――向うに、いくつかのテントが見える。
車は道路をはずれてとまる。よそのものが先にそこへきているのだから、一定の礼儀が必要である。そこで、男、家族の長が、車から身を乗りだす。
わしらも、ここへ泊って眠ってもいいだかね?
やあ、いいとも、遠慮なくどうぞ。どこの州からきなすっただね?
アーカンソーからやってきただよ。
あの向うの四番めのテントにアーカンソーの人たちがいるぜ。
そうかね。
そして重大なる質問だ。水はどうかね?
まあ、そんなにいい味じゃねえが、ふんだんにあるだよ。
やあ、ありがとう。
わしに礼をいうにゃ当らねえやな。
しかし礼儀は必要なのだ。車はいちばん端のテントまでゆれ進んで行ってとまる。すると車から、疲れた人々がおりてきて、こわばった体を伸ばす。それから新しいテントがひろげられる。子供たちは水くみに行き、年かさの少年は粗朶《そだ》や薪を切る。火が起り、夕食の煮ものか揚げものが、その上にかけられる。先にきていた住人がやってくる。たがいに出身州をうち明けあう。すると、友達が、ときには親戚《しんせき》が見つけだされることもある。
オクラホマかい、え? 何ていう郡だね?
チェロキーだよ。
やあ、あそこにゃ、おれの親類がいるぜ。アレンていう家《うち》、知らねえかね? アレンの家のものはチェロキーのいたるところに散らばってるだ。ウィリース家を知ってるかね?
知ってるとも。
そしてここに一つの新しい結びつきが形づくられる。夕暮れがくる。しかし闇《やみ》がおりる前に、新しい家族は、そのキャンプ地の一員になっている。一つのことばが、すべての家族に伝わるのだ。あの連中は、うちの知合いの家族だよ――いい家族だて。
わしは昔っからアレン家の連中とは知合いさ。シモン・アレンな、親父《おやじ》のシモンさ、やつは最初の女房《にょうぼう》といざこざ起してな。細君は、すこしばかりチェロキー・インディアンの血が混ざっていてね。いい女だよ、ちょうど――ちょうど黒い子馬みてえによ。
まったくそのとおりだ。それに息子のシモン、やつはルドルフ家の娘と結婚したんじゃなかったかな? たしかそうおぼえてるが。二人はエニッドへ行って住んでるだが――うまくやってるらしいて。
アレン家の人間では、あいつらだけ成功しただ。ガレージまでもってるだよ。
水が運ばれ、薪が切られると、子供たちは、恥ずかしげに、そっとテントのあいだを歩く。そして彼らは親交を結ぶ身振りを巧みに演じる。一人の子供が、他の少年のそばに立ちどまり、石を見つめ、その一つを拾いあげ、熱心にそれを検査する。唾《つば》をはきかけ、きれいにこすって、それを調べるふりをし、一方の子が、何だい、それ? と言葉をかけてくれるまで、それをくりかえす。
すると何気ないふりで答える。何でもないさ、ただの石だよ。
じゃ、何で、そんなに一生懸命見てるんだい?
このなかに金《きん》を見つけたんだ。
どうしてわかったんだい? 金は金色じゃないぜ。石のなかに混ざってるときには黒いんだ。
そんなこと、誰だって知ってる。
きっとそれ、偽《にせ》の金だぞ。おめえはそれを金だと一人ぎめしてるんだ。
そんなことないよ。だって、うちのお父っさんは、とってもたくさん金を見つけたんだ。そして、おいらにも見分け方を教えてくれたんだ。
大きな金の塊《かたまり》を見つけたいもんだな。
おい! おれ、きっとチョコレートくらいの大きさのやつを見つけてみせるよ。
おれは、きっとかどうかわかんないな。だけど、見つけようとは思ってるよ。
おれだってさ。泉のほうへ行こうや。
若い娘たちは、相手を見いだして、恥ずかしげに自分の評判や目的などを自慢しあう。女たちは火のそばで働く。家族たちの腹を満たそうと仕事を急ぐ――豚肉、といっても、それは彼らに相当の金があるときのことだが、豚肉とポテトと玉葱《たまねぎ》。天火で焼いたビスケットまたは玉蜀黍《とうもろこし》パン、そしてその上に、たっぷりと肉汁をかける。脇肉《わきにく》と小間切れ肉、そして黒くて苦い煮たてた茶を入れたブリキ・コップ。金が心細いときはドーナッツと蜜《みつ》だ。ぱりぱりに揚げたドーナッツに蜜をかける。
金がたんまりあるか、金について愚かな家族は、缶詰《かんづめ》の豆だの、缶詰の桃だの、パン屋で売るパンだの菓子《ケーキ》などを食べる。しかし彼らは、かくれて、テントのなかで食う。そんなりっぱなものを、おおっぴらに食べることは、よくないからだ。それでさえ、ドーナッツを食べている子供たちは、温かい豆の匂《にお》いをかぎつけ、ぐずったり、ねだったりするのである。
夕食が終ると、皿《さら》類を洗ってふく。闇がきている。そして男たちは、しゃがみこんで話しだす。
彼らは、残してきた土地のことを話す。どうなることやらわからねえだ、などという。田舎はだめになっただ。
だけど、またもとに戻《もど》るだろうよ、ただわしらは、もうそこにはいねえだろうがね。
たぶん、と彼らは考える。たぶん、わしらは、何か自分でもわからねえことで罪を犯したものらしいて。
やつがよ、役所のやつがさ、わしに言っただよ、この土地には溝《みぞ》をつけた、ってな。役所のやつがさ、やつが言っただよ、もしおまえが土地の起伏を横ぎって耕していたら、溝なんぞつけやしなかっただろうってね。けっしてそんなことをしようとはしなかっただろう、っていうだ。ところが新しい管理人は地形を横ぎって耕さなかった。それで四マイルものあいだ、何かまわず、やみくもに溝をつけちまったんだと、そういうのさ。
そして彼らは低い声で、自分たちの家のことを語りあう――風車の下に小さなクール・ハウスがあってな。牛乳からクリームをとるのに、いつも使ったもんだよ。それに西瓜《すいか》を冷やしたりしただ。日盛りで、まるで雌牛みてえに、暑くなったときにゃ、そこへ行くのさ。するとその涼しさは、ちょうど――うん、ちょうどいいぐあいの涼しさだったよ。そこで西瓜を割るんだ。冷たくって歯が痛くなるほどさ。タンクから水をしたたらしておくからね。
彼らは自分たちの悲しい出来事を語りあう――チャーリーという弟がいただ。玉蜀黍みてえに黄色い髪をした、もう一人前の男だったよ。アコーディオンをひくのがうまかった。ある日、やつは|まぐわ《ヽヽヽ》を馬に引かせて畝《うね》をならしていった。がらがら蛇《へび》が音を立てたもんで馬のやつ急に騒ぎたった。それで|まぐわ《ヽヽヽ》が、チャーリーの上にひっくりかえり、釘《くぎ》がやつの胸や腹につき刺さっちまった。そいつをまた馬どもが引きゃがったもんだから、その顔といったら――えらい目にあったもんさ!
彼らは未来について語りあう――向うは、どんなところだかな?
まあ、写真で見ると、えらくいいところのようだぜ。おれが見たのは、暖かで豊かなところでよ、胡桃《くるみ》の木と果実《フルーツ》の灌木《かんぼく》があって、そのすぐうしろに、馬の肩骨から尻《しり》ほどの近さに雪をかぶった高い山があるんさ。なかなかいいながめだったぜ。
もし仕事にありつけたら、すばらしいもんだぜ。冬もまるで寒くねえだからな。子供は学校へ行くに凍えなくてもすむだよ。おれはこんどは子供をちゃんと学校に行かせるつもりだよ。そりゃ、おれだって読めはするさ。だけど、年じゅう読んでるものみてえに、それが楽しみってほどにゃいかねえだ。
そして、一人の男がギターをテントの前に持ちだす。そして箱の上に腰をおろしてひく。人々は彼のほうへゆっくりと動きだす。彼のほうに引きよせられていく。たいていのものはギターなら和音を合わせてひけるものだ。しかし、どうやらこの男は爪《つま》びきがやっとの口らしい。さて、そこではじまる――深い和音がひびき、そしてまたひびく。メロディーが小さな足音のように走る。太くて堅い指が弦の桁《けた》を走る。その男がひいていると、人々は、そろそろと彼のほうに集まってきて、しまいに人の輪ができあがる。それから彼は、『十セントの綿と四十セントの肉』をうたう。円陣が彼とともに低くうたう。男は、つぎに、『娘さん、何であんたは髪を切るの?』をうたう。円陣がうたう。つぎに彼は、あの歌『おれはテキサスあとにして』を嘆くような調子でうたう。それはスペイン人がはいってくる以前よくうたわれていた気味の悪い歌、当時インディアンの言葉でうたわれた歌だ。
そしていま人々は、一つのものに、一つの単位に結合される。だから人々の心は闇のなかで内部へ向うのである。その思考は別の時代にさまよう。彼らの悲しみは、休息に、眠りに似ている。彼は、『マカレスター・ブルース』をうたう。そしてつぎには、ほかの人々に、いまの埋めあわせをするために、『イエスはわれらを近くに呼びたもう』をうたう。子供たちは音楽に眠気を誘われ、テントへ寝に行く。そして歌は彼らの夢のなかにはいってくる。
しばらくするとギターを持った男は立ちあがってあくびをする。おやすみ、みなさん、と彼はいう。
そこで彼らはつぶやく。おやすみ。
誰も皆、自分もギターがひけたらいいなと思う。まったくそれはすばらしいものだからだ。それから人々はベッドへおもむく。そしてキャンプは静かになる。梟《ふくろう》が上空を飛びまわる。コヨーテが遠くで吠《ほ》えたてる。そしてキャンプのなかへは、何か一口食べものを見つけようと、スカンクがはいってくる――よちよち歩きの高慢ちきなスカンク。こいつは、何ものも恐れない。
夜がすぎる。暁の最初のほの明りとともに、女たちがテントから出てくる。火を起し、コーヒーを火の上にかける。すると男たちが出てきて、暁のなかで小声に話しあう。
コロラド河を渡るあたりな、あそこにゃ砂漠《さばく》があるそうだぜ。砂漠にゃ気をつけなよ。あそこで長びいたりしねえようにな。水をたくさん持ってきなよ、あそこで長びいたときの用意にな。おれは夜も車を走らせるつもりよ。
おれもさ。えらく金が減ってくるだでな。
家族は急いで食べる。そして皿類は洗われ、ぬぐわれる。テントが引きおろされる。出発のあわただしさが起る。太陽がのぼったときには、キャンプ地は、がらんとしている。そしてキャンプ地は、新しい夜、新しい世界への準備を整えるのだ。
しかし国道の上では移住者の群れが甲虫《かぶとむし》のように這《は》い進む。そして前方には細いコンクリートの道路が幾マイルにもわたって伸びている。
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第十八章
ジョード家の一族は、ゆっくりと西へ進んだ。ニュー・メキシコの山々を越え、高地の頂や丘陵をすぎ、アリゾナの高原地帯に登った。そして谷間を通してペインテッド砂漠《さばく》を見おろした。州境監視人に車をとめられた。
「どこへ行くんだ?」
「カリフォルニアへ」とトムが答えた。
「このアリゾナ州には、どれくらいの期間いるのかね?」
「できるだけ早く横ぎっちまうつもりだよ」
「何か植物は持ってるか?」
「何も持ってねえだ」
「一応、持物を調べさしてもらうよ」
「本当に何も植物なんぞ持ってやしねえだよ」
監視人は風よけガラスに白い貼紙《はりがみ》をはりつけた。
「よろしい。さあ、行った。ただし、どんどん行きなよ」
「もちろん、そのつもりさ」
彼らは坂道を這《は》いあがる。低い、よじれた木が斜面をおおっている。ホルブルック、ジョセフ・シティ、ウィンスローをすぎる。すると、やがて背丈の高い木があらわれはじめる。車は蒸気をはき斜面を喘ぎ登る。そこがフラッグスタッフである。そして、そこが頂上でもある。フラッグスタッフから巨大な台地へと降りて行く。道路は遠く前方に消えている。水が次第に乏しくなる。水は金を出して買わねばならなくなる。一ガロン五セント、十セント、十五セント。太陽はかわいた岩だらけの州《くに》を照りつける。そして前方には、突兀《とっこつ》荒涼たる峰々、アリゾナ州の西の壁が、そびえ立っている。そして、いま彼らは、太陽と渇《かわ》きとから逃げだそうとしているのだ。彼らは一晩じゅう走る。そして、その晩、山岳地帯へはいる。夜のなかを、ごつごつした岩山へ這い登る。暗いヘッドライトが、道路をはさむ灰色の石壁を照らしだす。闇《やみ》のなかで頂上を通過し、真夜中をすぎてからくだりにかかる。オートマンの砕けた岩屑《いわくず》のあいだを通る。そして明るい光がさしてきたとき、眼下にコロラド河を見おろす。トポックまで走って、橋のそばでとまる。監視人が風よけガラスにはりつけた貼紙を洗いおとす。ついで橋を渡って荒れた岩の荒野へ進む。ひどく疲れ、朝の太陽が暑かったが、車をとめた。
父親が呼びかけた。「さあ、きたぞ――わしらはカリフォルニアにいるだ!」父親は、ぼんやりと太陽の下に照り輝く荒れた岩々をながめ、河を越えてアリゾナ州の恐るべき岩壁をながめた。
「まだ砂漠があるだぜ」とトムが言った。「水を仕入れて、休息しなけりゃ」
道路は河に沿って走っていた。そして、焼けたモーターがニードル市にはいったときには、午前の日も、すっかり高くなっていた。そこでは河の流れが葦《あし》のあいだをなめらかに流れていた。
ジョード家とウィルソン家の車は河岸へ進んで行った。彼らは車のなかに坐って、美しい水の流れ去って行くさまをながめた。緑色の葦が、流れのなかでゆっくりとゆれていた。河岸には、ちょっとしたキャンプ地があった。水ぎわに十一のテントがあり、地面には沼草が生えていた。トムがトラックの窓から体を乗りだした。「ここにしばらくとまっててもかまわねえだかね?」
バケツのなかで衣服をこすっていた頑丈《がんじょう》そうな女が、こちらを見あげた。「ここは、あたしたちの所有地じゃないよ。よかったら車をとめなね。何か文句いうのはお巡《まわ》りの役だよ」そして彼女は太陽の下で洗濯《せんたく》をつづけた。
二つの車は沼草のある空地にとまった。テントがおろされた。ウィルソン家のテントが立てられ、ジョード家の防水布が綱の上に張りのばされた。
ウィンフィールドとルーシーは、そっと柳の木のあいだを葦の生えたほうへ歩いて行った。ルーシーが、低い感動した声で言った。「カリフォルニアだわ。ここはカリフォルニアなのよ。あたしたち、ほんとうにもうきたんだわ!」
ウィンフィールドは太藺草《ふとい》を一本折って、茎をはぎ、白い筋を口のなかへ入れて噛《か》んだ。二人は水のなかへはいって行って静かに立った。水は、二人の足のふくらはぎのあたりを流れた。
「まだ、これから砂漠があるのよ」ルーシーが言った。
「砂漠って、どんなところかな?」
「知らないわ。いちど写真で砂漠っての見たことがあるけど。そこらじゅうに骨が散らばっているのよ」
「人の骨?」
「それもあるわ、きっと。でも、たいていは牛の骨よ」
「おれたち、それを見に行くんだね?」
「たぶんね。でもわからないわ。夜のうちに通りすぎるかもしれないもの。トムがそう言ってたわよ。もし昼間なんか行こうもんなら焼け死んじまうって」
「冷たくっていい気持だな」ウィンフィールドが言った。そして足指を流れの底の砂のなかへつっこんだ。
やがて母親の呼ぶ声が聞えた。「ルーシー! ウィンフィール、戻《もど》っておいで」彼らは身を返して葦と柳のあいだを、そろそろと歩いて戻った。
他のいくつかのテントは静かだった。車がはいってきたとき、ちょっとのあいだ、すこしばかりの頭が入口の幕からつき出されたが、それもすぐに引っこんでしまった。いま、家族のテントができあがって、みんないっしょになった。
トムが言った。「おれは行って水浴びをやってくるだ。これだけはやらなくちゃ――寝る前にな。ばあさまは、どんなぐあいだな?」
「それがわからねえだよ」と父親が言った。「起しても目がさめてねえみてえなんだ」彼はテントのほうに頭をさしのばした。哀れっぽい、ぶつぶついう声が防水布の下から聞えた。母親が急いで、なかにはいって行った。
「ばあさまは目がさめただよ。大丈夫だて」とノアが言った。「トラックの上じゃ一晩じゅううめいてたようだ。すっかりわからなくなっちまってるだよ」
トムが言った。「まったくな! ばあさまは、すっかり疲れきっちまっただ。すこしたっぷり休ませねえと、もう保《も》たねえだろうて。すっかり疲れきってるだ。誰《だれ》か、おれといっしょにくるかい? おれはこれから一浴びして日陰で寝るだ――たっぷり一日な」彼は歩きだした。他の男たちが、あとにつづいた。柳の木のあいだで衣服を脱ぎ、水のなかへはいって行って、坐りこんだ。長いあいだ彼らは、砂のなかに踵《かかと》を埋めて体をささえながら坐っていた。頭だけが水のなかから出ていた。
「うう、こいつはいいや」とアルが言った。そして河底から一握りの砂をつかみあげ、それを体にこすりつけた。彼らは水のなかに身を横たえて「針《ニードル》」と呼ばれている鋭い峰々を、そしてアリゾナの白い岩山をながめた。
「わしら、あそこを通ってきただな」と父親が驚いたふうに言った。
ジョン伯父は頭を水のなかにじゃぶんとつけた。「うん、とうとうやってきただ。ここがカリフォルニアか。さほど景気よさそうにも見えねえだな」
「まだ砂漠を越さなきゃなんねえだよ」とトムが言った。「しかも、その砂漠はかなり手ごわいという話だぜ」
ノアがたずねた。「今夜突破するつもりかい?」
「どうするかな、お父っさん?」とトムがきく。
「さてよ、どうしたもんかな。わしらも、すこしは休んだほうがよかねえかね。とくにばあさまはな。しかし、一方、わしは、なるべく早く横断して、向うで仕事にかかりてえだよ。もうあと四十ドルくらいしか金が残ってねえだ。みんなが働いて、すこしでも金がはいるようになると、わしも安心なんだが」
めいめい水のなかに坐って流れの力を感じていた。説教師は首と手首のところまで白く、顔と手は褐色《かっしょく》に日やけしていて、胸もともV字型に褐色だった。彼らは砂の上に身を伸ばした。
ノアが大儀そうに言った。「ここにこうしていてえだな。いつまでも、こうやっていてえだ。腹もへらなきゃ悲しくもならねえでよ。一生涯《いっしょうがい》こんなふうにして、水のなかで寝ているのさ。泥《どろ》んなかの種豚みたいに怠けてな」
トムが、河やニードルの下流ごしに突兀たる峰々をながめながら言った。「こんなすげえ山、おれは、はじめて見たぜ。ここは人殺しの国だて。ここらが、この地方の背骨に当るところなんだ。よっぽど一生懸命、岩にかじりつかねえことにゃ、人並みの暮しはできそうもねえぜ。おれの見た写真では、平らで緑の国でよ、おっ母が言ったように、白い小さな家があっただ。おっ母は、あんな白い家をもとうと決心してるだ。だが、どうも、あんなところはねえと思わなくちゃならねえようだて。写真じゃたしかに見ただがよ」
父親が言った。「まあ、カリフォルニアへ着くまで待ちなよ。そしたら、すてきな国が見られるってもんだ」
「よせやい、お父っさん! ここはもうカリフォルニアだぜ」
作業ズボンと青シャツ姿の二人の男が、柳のあいだをやってきて、裸の男たちのほうをながめ、こちらへ声をかけた。「泳ぎぐあいはどうだな?」
「さあね」とトムが言った。「まだ誰も泳いでみねえだ。だけど、ここにこうやってるのも、ひどくいい気持だて」
「はいって浴びてもかまわねえかい?」
「これは、おれたちの河じゃねえだ。さあ、はいってきなよ」
二人はズボンをずり落し、シャツを脱いで、水にはいった。埃《ほこり》が彼らの脛《すね》までかぶさっていた。足は艶《つや》がわるく、汗でふやけていた。彼らは大儀そうに水につかり、落ちつかなげに脇腹《わきばら》を洗った。日やけしており、二人は父子《おやこ》だった。父と子は水でぶるぶると顔をゆすいだ。
父親が、丁寧にたずねた。「西へ行くだかね?」
「いんや、あそこからきたのさ。家に帰るとこだよ。あそこじゃ、とても暮していけねえだ」
「家はどこだかね?」トムがたずねた。
「パンハンドル地帯さ。パンパの近くのものだよ」
父親がたずねた。「あそこじゃ暮していけねえだかね?」
「だめだね。だけど、すくなくとも飢え死にするくらいのことなら、あっしの知合いのものといっしょに、できただがね。あっしらをきらう連中のなかで飢えたくはねえだでね」
父親が言った。「その、おまえさんは、実は、そんなふうなことを話す二人目の人なんだて。何で、やつらは、おまえさんをきらうだね?」
「さあね」と、その男は言った。そして水を手にすくいあげ、顔をこすって、ぶるぶると鼻を鳴らした。埃に汚れた水が髪から伝わり落ちて首筋を流れた。
「わしはその点を、もうすこし詳しく聞きてえだよ」と父親が言った。
「おれもさ」とトムがつづいて言った。「なぜ西部の人間は、おまえさんをきらうだね?」
その男はトムを鋭く見た。「おまえさんがたは、これから西へ行くだね?」
「その途中さ」
「おまえさんがたは、カリフォルニアははじめてかね?」
「うん、そうだよ」
「じゃ、あっしのいうことなんざ信じなさんな。自分で行って見なせえ」
「そうするだよ」とトムが言った。「だけど、誰だって、自分がこれからやろうとすることを、前もって知りたがるもんだて」
「では、もしおまえさんが本当に知りてえのなら、たしかにあっしは、その質問に対して、すこしは参考になることもいえる人間だよ。この州は、いいところだ。しかし、ずっと以前に、もう盗まれちまってるだよ。砂漠を越えるとベイカーズフィールドのあたりから、あの州にはいるだ。たぶん、あんな美しいところは、はじめて見るだろうて――一面に果樹園で、葡萄《ぶどう》があって、はじめてお目にかかる美しい国だよ。それから三十フィート下に水の出るりっぱな平地を通るだ。その土地は休閑地でほうってあるだ。だけど、おまえさんは、その一っかけらももつことはできねえだ。そいつは『土地家畜会社』のものだでな。もしやつらが、その土地を使いたくねえとすると、土地なんざほうりっぱなしさ。おまえさんが、そこへ行って、すこしばかりの玉蜀黍《とうもろこし》でも植えたりしようもんなら、牢屋《ろうや》へぶちこまれてしまうだ!」
「いい土地だと言っただね? それでやつらは、それを使わねえのかい?」
「そのとおりさ。いい土地なんだ。しかもやつらは使わねえだよ! まったく、ちっとは腹がたつというもんじゃねえか。だけど、おまえさんがたは、まだ何も実際を知ってねえだからな。向うの人たちは、こんな目つきをするだよ。やつらが、おめえさんを見る。その顔はこういうだよ。『こっちはおめえを好かねえんだ。おい、この畜生野郎』警察の下っぱになると、こっちをこづきまわすだ。道ばたにキャンプするだろう。そうすると、やつらがきて追いたてるだ。おまえさんも、いまに、あの連中が、どんなにこっちをきらってるか、やつらのあの顔つきで、さとることだろうて。それから――一つ、話しとこう。やつらが、こっちをきらうのは、こわいからなんだ。腹のへったものは、なんとしてでも食物をとらなきゃいられねえということを、やつらは知ってるだ。土地を遊ばせとくのは罪なことで、誰かが手を加えるほうがいいということも知ってるだよ。なんてえこった!おまえさんがたは、まだオーキーと呼ばれたことはねえだてな」
トムが言った。「オーキーって何だい?」
「オーキーってのはな、以前はオクラホマからきた人間のことをさしたもんさ。いまでは汚ねえ畜生野郎という意味だよ。オーキーというのは乞食《こじき》野郎ってことさ。そのことばだけなら、何の意味もねえだが、それをやつらが使うその使い方で、そうなるだ。だけど、あっしは、何もうまくいえねえだよ。おまえさんが、あそこへ行って、実際に見ることさ。話に聞くと、あそこにゃ、あっしらのようなものが三十万人もいるってことだ――豚みてえに暮してるとさ。なぜって、カリフォルニアにあるものは、みんなもう誰かの所有になっちまっているからさ。何一つ残っちゃいねえだ。しかも、それをもってる人間ときたら、世界じゅうの人間を殺したってかまわねえから手放すまいとしてるような連中だ。それに、やつらはこわがってるだ。それで、ますます気ちがいじみてくるだよ。まあ、行ってみなせえ。いろいろときいてみなさるがいいだ。生れてはじめて見るいちばん美しい国さ。でも、やつらは、おまえさんがたに親切じゃねえだよ、あの土地の人間はね。やつらは、すっかり怖気《おじけ》づいて、心配しちまっていて、おたがい同士だって親切じゃなくなってるだでね」
トムは水のなかを見おろした。そして踵《かかと》を砂のなかにつっこんだ。「もし仕事が見つかって金を貯《た》めたら、いくらか土地をもつことができるだかね?」
年をとったほうの男は笑って、息子を見かえった。すると黙りがちの息子は、ほとんど勝利を誇るかのように、にっこり笑った。男は言った。「ちゃんと落ちついた仕事なんて、ありっこねえだよ。毎日、夕食を稼《かせ》ぐのがやっとさ。それも意地悪な顔してこっちをにらんでるやつを相手にして稼ぐんだ。綿花を摘む、そうすれば、量目《はかり》がちゃんと正直かどうかたしかめなくちゃならねえ。なかにゃ正直なのもあるが、そうでねえのもあるでな。だけど、一度そんな目にあうと、どの天秤《てんびん》もまがってると考えるようになるだよ。どの天秤が正直だか、わかりゃしねえものな。それでも、いずれにせよ、こっちにゃ、どうともする方法がねえだがね」
父親が、ゆっくりとたずねた。「それじゃ――それじゃ、あそこは、まるっきりいいことはねえってわけだね?」
「それは、ながめるにゃいいところさ。だけど、その一っかけらももつことはできねえだ。黄色いオレンジの茂みがある――するとそこには、鉄砲もった男がいて、こっちが一つでもとろうとしようもんなら、すぐぶち殺されてしまうだ。海岸の近くに新聞社をもってる男がいるだが、そいつなんか百万エーカーももってて――」
ケーシーが、ふっと顔をあげた。「百万エーカーだって? いったい、その男は、百万エーカーももってて、どうするつもりだかね?」
「知らねえだ。ただもってるだけさ。ちっとばかり家畜を放し飼いしてるだ。どこにも番人をつけて、人がはいらねえようにしてあるだよ。防弾ガラスの車を乗りまわしててね。あっしは、その男の写真を見たことがあるだ。太った、ぶよぶよした男で、意地悪そうな目と、尻《しり》の穴みてえな口つきの野郎だよ。死にゃしねえかとこわがっているのさ。百万エーカーももってるくせに、死ぬことばかりこわがってるだ」
ケーシーが答えを求めて言った。「まったくのところ、その男は百万エーカーももってて、どうしようってのかね? 何のために百万エーカーほしがっただかね?」
老人は、白ばんだ皺《しわ》だらけの両手を水の上に出し、左右にひろげた。そして下唇《したくちびる》をつっぱらせ、頭を片方の肩にかしげた。「わからねえだな」と彼は言った。「おおかた気ちがいだろうて。気ちがいにちげえねえだよ。やつの写真見ただがね、気ちがいみてえな顔つきだった。気が狂って、意地わるなんだ」
「その男は死ぬのをこわがってると言っただね?」ケーシーが反問する。
「そう聞いてるだよ」
「神に召されるのをこわがってるわけかね?」
「さあね。ただこわがってるんだろうて」
「その男は、何が好きなんだろう?」と父親が言った。「そういう人間には、何もおもしろいものなんぞねえにちげえねえ」
「じいさまはこわがっていなかった」とトムが言った。「じいさまは、何かおもしろいことをするときにゃ、もうすこしで殺されるというところまで、やったもんな。じいさまが、ほかの連中といっしょにナバホと喧嘩《けんか》したときも、そうだった。じいさまたちは、まったく生きいきと暮しただ。それでも地鼠《じねずみ》にかすめとられるような油断はしなかっただ」
ケーシーが言った。「それが本当の生き方だろうて。うんとおもしろいことをやって、それで何にもびくつかねえ人間がね。ところが、意地悪で、一人ぼっちで、老いぼれて、落胆した男は――そんな人間は死ぬのを恐れるだ!」
父親がたずねた。「百万エーカーももってて、何で落胆することがあるだね?」
説教師は微笑した。そして考えこむ顔になった。浮んでいる水泡《あぶく》を手ではね飛ばした。
「もしその男が、自分を金持だと感じたいために百万エーカーほしかったのなら、わしの考えじゃ、そいつは自分の心のなかが、えらく貧しいだで、それでそんなものがほしくなったんだと思うだ。だけど、心が貧しいとすると、たとえ百万エーカーあったところで、豊かには感じねえだよ。それで、何も豊かに感じられねえもんだから、落胆しちまうのさ――ウィルソンさんのおかみさんが、じいさまの死場所としてテントを貸してくれたときみてえな、あんな豊かさは、けっしてもてやしねえだよ。わしは説教しようと思ってるんじゃねえだ。だけど、わしの経験だと、プレイリー・ドッグみてえに年じゅうものをかき集めるのに忙しい人間で落胆しねえものなんて一人だっていやしねえだよ」彼は、にこりと笑った。「説教みたいに聞えるだかね、どうだね?」
太陽はいま、すさまじく照りつけていた。父親が言った。「水のなかにはいったほうがいいぜ。これじゃ焼け死んでしまわあ」そして彼は体をかしげ、やわらかに流れる水に首のまわりまで浸した。「うんと熱心に働いても、やっぱり土地は買えねえだかね?」父親がきいた。
その男は、坐りなおして父親に顔を向けた。「いいかね、おまえさん。あっしは、何もかも知ってるわけじゃねえだよ。おまえさんが、あっちへ行って、ちゃんとした仕事を見つけるとするだ。そうすると、あっしは嘘《うそ》つきということになるだ。また一方、おまえさんが、まるっきり仕事にありつけねえとするだ。そうすると、あっしは、おまえさんに忠告しなかったことになるだよ。あっしにいえるのは、ずいぶんたくさんの人がみじめだということだけさ」彼は水に体を横たえた。「一人の人間で何もかもわかるってわけにゃいかねえだて」と彼は言った。
父親は頭をまわしてジョン伯父を見た。「あんたは前からろくにものをいわねえ人間だったが」と父親は言った。「しかし、それにしても、あんたは、わしらが家を出て以来、二度と口を開かなかったぜ。あんたは、このことについちゃ、どう考えるだね?」
ジョン伯父は顔をしかめた。「わしは、そんなこと、何も考えねえだよ。わしらは、あそこへ行くんだろうが。そうじゃねえのかい? いまこうやってしゃべったからって、別にわしらが行かなくなるってわけのもんじゃなかろう。行きつくときにゃ、行きつくだよ。仕事が見つかったときにゃ、わしらは働くだ。仕事が見つからねえときにゃ、降参するさ。ここでいま、あれこれしゃべったところで、何の足しにもならねえし、どうともならんこったろうが」
トムは仰向けに寝て、口に水をふくんだ。そして、それを空中に吹きあげた。彼は笑った。
「ジョン伯父は、ろくにゃしゃべらねえけんど、しゃべるときは筋が通ってるだな。まったく筋が通ってるだ。お父っさん、今夜出かけようか?」
「そうするか。早く越えちまったほうがいいだろうて」
「さてと、おれは藪《やぶ》へはいって一眠りするだ」トムは立ちあがって砂の岸を歩いて行った。そして濡《ぬ》れた体に服をつけ、その服の暑さに顔をしかめた。他のものも彼に従った。
水のなかでは、老人と彼の息子とが、ジョード家の連中が去って行くのを見まもっていた。すると息子のほうが言った。「やれやれ、半年もしたら、あの人たちも帰ってくることだろうて」
父親は目尻《めじり》を人差し指でぬぐった。「おれは、あんなこというんじゃなかったよ」と彼は言った。「人間というものは、いつも利口ぶりたいものでな、知らんものにはしゃべって聞かせたくなるだよ」
「でも、お父っさん、あれは向うできいてきたんだもの」
「うん、それは知ってるさ。しかし、あの人が言ったように、どっちみち、あの人たちは行く気なんだ。おれが話したことなんて、何の足しにもなりゃせんのさ。まだ知りもしねえことを教えて、あの人たちをみじめにさせただけだったよ」
トムは柳の木のあいだを歩いて行き、日陰になった場所に寝ころんだ。すると、ノアが、うしろからついてきた。
「ここで一眠りするぜ」とトムが言った。
「トム!」
「うん?」
「トム、おれはもう先へ行かねえぜ」
トムは坐りなおした。「なんだって?」
「トム、おれはこの水のあるところから離れねえつもりだ。この河の下流のほうへ歩いて行くだ」
「そんなばかな」とトムが言った。
「方針をきめただよ。おれは魚をとるだ。りっぱな河のそばにいりゃ、飢え死にすることはねえだよ」
トムが言った。「家のものは、どうするだ? おっ母のことを考えてみなよ」
「仕方がねえだ。おれはこの水から離れられねえだ」ノアの、間隔の開いた二つの目は、半ば閉じられていた。「トム、おまえにゃわかるだろう。家のものは、みんなおれによくしてくれてるだ。だけど、みんなは本当はおれを好いてねえだ」
「気が狂ってるみてえだぜ」
「いや、そうじゃねえ。自分がどうなるのか、おれは知ってるだよ。みんなが悲しむのも知ってるだ。だけど――とにかく、おれは先へ行かねえだ。トム――おまえからおっ母に話してくれ」
「いいかい、よく聞きなよ」トムが言いはじめた。
「いんや、そんなことむだだて。おれはいまあの水のなかにいただ。もうおれは、あの水から離れねえだ。さあ、そろそろ行くだよ、トム――河の下のほうへな、おれは魚やなんかをとるだ。あそこから離れられねえだ。どうしてもよ」彼は柳の茂った下から這《は》いだした。
「おまえから、おっ母に話してくれよ、トム」彼は歩きだした。
トムは彼を河の堤まで追った。「聞きなよ、ばかだな――」
「聞いたってむだだよ」ノアが言った。「おれは悲しいだ。でも仕方ねえだよ。おれは、どうあっても行くだ」彼はくるりと背を向けて河岸ぞいに下流のほうへ歩いて行った。トムは、あとを追おうとした。それから立ちどまった。彼はノアが藪のなかに消えて行くのを、そして、ふたたび河の岸に沿って姿をあらわしたのを見た。彼はノアが河ぞいに小さくなっていくのを見、そして、とうとう柳の木のあいだに姿を消すのを見まもっていた。トムは鳥打帽を脱いで頭をかいた。彼は、もとの柳の下に戻《もど》り一眠りしようと横になった。
防水布が張ってある下で、ばあさまはマットの上に寝ていた。母親がそばに坐っていた。空気は、ひどく暑かった。蠅《はえ》がテントの陰でうなっていた。祖母は長いピンクのカーテンをかぶり、裸で寝ていた。そして、その年老いた頭を絶えず左右に動かして、つぶやいたり、むせたりしていた。母親は、そばの地面に坐り、ボール紙を手にして蠅のくるのを追い、暑い空気の流れを年老いた顔に送った。『シャロンのバラ』が、その反対側に坐り、母親を見まもっていた。
祖母は命令する調子で声をかけた。「ウィル! ウィル! ここへおいで、ウィル」祖母は目を開き、あたりを鋭く見まわした。「ここへおいでと言っとくれ」と老婆《ろうば》は言った。「あたしは、あれを捕えるんだ。髪の毛をむしってやるよ」老女は目を閉じて頭をふたたび前後に揺すり、何やらつぶやいた。母親はボール紙で煽《あお》いだ。
『シャロンのバラ』は祖母の顔を情けなそうに見やった。そして、そっと言った。「ばあさまは、とても工合がわるいのね」
母親は目をあげて娘の顔を見た。母親の目は忍耐強い色を見せていた。しかし顔には疲れのあとがあらわれていた。母親は空気を煽ぎつづけた。そのボール紙の一片が蠅を追いたてた。「若いときにはね、ローザシャーン、目の前のことが、ひとりでに起ってくるみたいに思えるもんだよ。そりゃ、寂しいことだよ。ええ、わかってるだよ、あたしにもおぼえがあるだからね、ローザシャーン」母親の口は娘の名をいとしんでいた。「おまえは赤ん坊を産もうとしてるだね、ローザシャーン、それが、なんだかぽつんと遠くにあるみたいにおまえには思えるだろう。それが、おまえの心を苦しめるだ。その苦しみは、ひとりぼっちの苦しみなんだ。このテントが世のなかでひとりぼっちなんだものね、ローザシャーン」母親は、ちょっとボール紙を振って、うなる蠅を追った。大きな光る蠅がテントを二回まわり、かがやく日光のなかへ飛んで行った。母親は、言葉をつづけた。「だけど、やがてそれが変る時期があるだ。そして、その時期がくると、死ぬことは多くの死のなかの一つにすぎないし、生れることも多くの誕生のなかの一つにすぎなくなって、死ぬのも生れるのも、同じことの二つの面になるだよ。すると、それからは、何もかも、そんなに離ればなれではなくなるだ。それからは、悩みも、それほど苦しい悩みじゃなくなるだ。なぜといって、それはもう、ぽつんと離れた悩みじゃないからさ。ねえ、ローザシャーン。おまえにわかるように話せたらいいんだけど、あたしにゃ、うまく話せねえだよ」彼女の声は、やわらかく、愛情に満ちていたので、涙が『シャロンのバラ』の目に浮んだ。涙は目から流れでて、彼女の目を見えなくした。
「これでばあさまを煽いであげな」母親はそう言ってボール紙を娘に渡した。「そうできればいいんだけど、あたしには、おまえにわかるように話すことができないんだよ」
祖母は、眉《まゆ》を目のほうに寄せて顔をしかめながら、悲鳴に似た声をあげた。「ウィル!おまえ、汚ないね! おまえったら、いつもきれいにしないんだね」祖母の小さなしなびた爪《つめ》が、上へあがって頬《ほお》をかいた。赤蟻《あかあり》がカーテンの布を走って老女の首にある皮膚のたるんだ皺にもぐりこんだ。母親が急いで手を伸ばして、それをつまみ出した。親指と人差し指のあいだで押しつぶし、その指を服にこすりつけた。
『シャロンのバラ』はボール紙の扇で煽いでいた。彼女は母親を見あげた。「ばあさまは――」彼女のことばは咽喉《のど》でとまった。
「足をふきなよ、ウィル――この泥《どろ》ん子《こ》小僧め!」祖母が叫んだ。
母親が言った。「どうかしらね。ばあさまを、もっと暑くないところへ連れて行けたら、もしかしたら――でも、わからないよ。ローザシャーン、自分のことは心配しなくてもいいんだよ。目の前にあることを、ちゃんと一つずつやっていくことだて」
破れた黒い服を着た大柄《おおがら》な女がテントのなかをのぞいた。彼女の目は、かすんでいて、焦点が、はっきりしていなかった。顎《あご》のところは皮膚がたるんで幾重にも折れ重なっていた。唇《くちびる》にしまりがなかった。上唇は歯の上にカーテンのようにたれているし、下唇はそれ自身の重みで外側にたるみだし、下歯の歯ぐきを見せていた。「こんにちは、おかみさん」と彼女は言った。「こんにちは。おお、神よ、栄えあれ」
母親は、そのほうをふり向いた。「こんにちは」と彼女は言った。
女は身をかがめてテントにはいり、頭をさげて祖母をのぞきこんだ。「あたしたち、お宅に神に召される魂があるって聞いたもんだからね。おお、神よ、栄えあれ!」
母親の顔は引きしまり、目が鋭くなった。「ばあさまは疲れているんだ。それだけだよ」と母親は言った。「道路暮しと暑さで疲れきってしまっただ。疲れただけだよ。ちょっと休みをとれば、すぐよくなるだ」
女は、匂《にお》いをかぐのかと思われるほど、祖母の顔のほうに身をかがめた。それから母親のほうに向きなおり、すばやくうなずいた。すると彼女の唇は、揺れ、顎がふるえた。「一つの魂がイエスのもとに近づこうとしてるだ」と彼女は言った。
母親が叫んだ。「そうじゃねえだ!」
女は、今度はゆっくりと、うなずいた。そして、ふくらんだ手を祖母の額にあてた。母親は、それを払いのけようと手を伸ばし、それから急いでその手を押えた。「いいえ、あんた、そうだよ」と女は言った。「あたしたちのテントには、エホバの証人の信徒が六人いるだよ。あの人たちを呼んで、みんなで祈祷会《きとうかい》を開いたほうがいいだ――祈祷と恩寵《おんちょう》の会をね。エホバの証人の信徒だよ、みんなね。六人、あたしも入れてね。行ってみんなを集めてくるだ」
母親は体をかたくした。「いいえ――やめて」と彼女は言った。「いいえ、ばあさまは、ただ疲れてるだけだ。ばあさまは、そんな祈祷会なんぞ、ありがたがらねえだよ」
女は言った。「神の恩寵をありがたがらねえって? イエスさまの甘いお息をありがたく思えねえって? おまえさんは、なんてことをいうだね」
母親が言った。「そう、ここではだめだ。ばあさまは疲れすぎてるだからね」
女は腹だたしげに母親を見やった。「おかみさん、あんたは信者ではないんかね?」
「あたしたちも、エホバの証人の信徒だよ」母親が言った。「だけど、ばあさまは疲れてるだし、それに一晩じゅう車で走ってきたんでね。あたしたち、あんたがたにめんどうをかけたくねえだから」
「ちっともめんどうなことはねえだよ。たとえ、めんどうだとしても、あたしたちは、御空《みそら》の天使のもとへ羽ばたいていく魂のために、よろこんで祈ってやるだよ」
母親は膝《ひざ》をついて半身を起した。「あんたに感謝するだ」と彼女は冷やかに言った。「でも、あたしたちは、このテントではお祈りの会は開きたくねえだ」
女は長いこと彼女を見ていた。「でも、シスターの一人をお祈りもせずに旅立たせるわけにゃいかねえだ。あたしたちは自分のテントで祈祷会を開くだ。そして、あんたの頑固な心を許してあげるだ」
母親は、ふたたび腰をおろして祖母のほうに顔を向けた。彼女の顔は、まだ引きしまって、きびしかった。「ばあさまは疲れてるだ」と彼女は言った。「ただ疲れてるだけだ」祖母は頭を前後に揺すり、息の下で、何かをつぶやいた。
女は体をかたくしてテントから出て行った。母親は老婆の顔を見おろしつづけていた。
『シャロンのバラ』はボール紙で煽《あお》ぎ、暑い空気を流した。彼女は言った。「おっ母さん!」
「え?」
「どうしてあの人たちに祈祷会をさせなかったの?」
「どうしてだかね」と母親は言った。「エホバの証人の信者たちは、いい人たちさ。あの人たちは吠《ほ》えたり飛びあがったりするんだよ。どうしてことわったのかねえ。何か、あのとき、そんな感じになったのさ。とても我慢できないと感じたんだよ。何もかもどうにでもなれって気がしたのさ」
すこし向うのほうから祈祷会をはじめる音が聞え、ついで戒告の詠唱が聞えてきた。歌の文句ははっきりせず、ただ調子だけがわかった。声は、高くなり低くなり、そして調子があがるごとに高まっていった。それに応じる声が、そのあいだにはさまった。やがて戒告は勝利の調子にまで高まっていき、怒りに似たうなりがその声にまじった。それは、ふくれあがり、そしてやんだ。うなり声が、それに応じた。いま次第に戒告の文句は短くなり命令のように鋭くなった。それに応じる声は嘆きの調子をおびてきた。リズムが早まった。男性と女性の声が、さきほどから一つの調子に溶け合っていた。しかし、いまこたえる声のなかから、一つの女の声が高まった。それは、むせび泣き、なまなましく、激しく、まるで獣の叫びに似た高調子になった。すると、もっと深い女の声が、そのそばからあがった。吠えるような声だ。そして男の声が狼《おおかみ》の咆哮《ほうこう》となって幾音階も飛躍して高まっていった。戒告はやんだ。ただ、たけだけしいうなり声だけが、そのテントから聞え、大地を踏むどすんどすんという音が聞えてきた。母親は身ぶるいした。『シャロンのバラ』の呼吸は喘《あえ》ぎ、せつなくなった。うなり声のコーラスは、あまりに長くつづき、まるで肺が破れるかと思われた。
母親が言った。「いらいらさせるだね。何だかあたしは我慢できないよ」
いま、その高い声はヒステリックな状態になり、まるでハイエナの雄叫《おたけ》びであった。踏みしめる音は、さらにやかましくなった。いくつもの声がひび割れ、砕け、やがて合唱《コーラス》全体が、むせび泣きと嘆きの低調に静まり、手をたたく音と地面を踏む音、そして、むせび泣きの声は、小さな泣き声、食器|皿《ざら》の前で子犬どもがやるような泣き声に変った。
『シャロンのバラ』は神経質になって小さな声で泣いた。祖母は、かけてあるカーテンを足でけとばした。足は灰色で、しみのついた棒のようだ。そして祖母は向うの泣き声に合わせて、泣き声を出した。母親がカーテンの布を、元のところへ引きあげた。やがて祖母は深く溜息《ためいき》をついた。呼吸は落ちついて安らかなものとなり、閉じた瞼《まぶた》は、ぴくぴく動くのをとめた。老婆は深い眠りに落ち、半分開いた口からは、いびきがもれた。向うの泣き声は、次第に低く、さらに低くなっていき、やがて、ついに聞えなくなった。
『シャロンのバラ』は母親を見あげた。彼女の目は、涙でぼやけていた。「きいたわね」と彼女は言った。「あのお祈り、ばあさまに、とてもよくきいたんだわ。こんなによく眠ってるんですもの」
母親は頭をたれた。彼女は恥じた。「あたしは、あんないい人たちに悪いことをしたようだ。ばあさまはよく眠ってるだ」
「もしおっ母さんが罪を犯したんなら、あの説教師に懺悔《ざんげ》したらどう?」
「そうしよう――でも、あの人は妙な男だね。なんだか、あたしが、あの人たちにここへくるなと言っちまったのは、あの人のせいのような気がするだ。あの説教師――あの人は考えてるらしいだ、人間がやることはすべて正しいことなんだとね」母親は自分の両手を見た。それから彼女は言った。「ローザシャーン、あたしたち、すこし眠らなきゃね。もし今夜たつんだとすると、眠っとかなくちゃいけねえだよ」彼女はマットのそばの地面に体を伸ばした。
『シャロンのバラ』は、たずねた。「ばあさまを煽ぐのはどうするの?」
「いまは眠ってるだからね。あんたも横になっておやすみ」
「コニーは、どこにいるのかしら?」と娘は不平をこぼした。「あの人ったら、さっきから、このへんにいないのよ」
母親が言った。「静かに! すこしおやすみよ」
「おっ母さん、コニーは夜学で勉強して、何かになるんだって」
「ああ、いつか聞いただよ。さあ、すこしお休み」
娘は祖母のマットのわきに横たわった。「コニーは新しい計画を立てたのよ。あの人ったら、年じゅう考えてるのよ。電気のことを勉強してしまったら、自分のお店をもつつもりなの。それから、あたしたちが、何を持つつもりか、おっ母さん、わかる?」
「何だい?」
「氷――ほしいだけいつも氷がちゃんとあるようにするの。冷蔵庫をもつつもりなのよ。そしてそれを、いつもいっぱいにしとくの。氷さえあれば何も腐らないものね」
「コニーは、いつも考えてるだね」と母親はくすくす笑った。「さあ、ちょっと休んだほうがいいよ」
『シャロンのバラ』は目を閉じた。母親は、仰向けになって両手を頭の下においた。そして祖母の寝息に、それから娘の呼吸に耳をすました。自分の額から蠅《はえ》を追うので片手を動かした。キャンプは目もくらむ熱気のなかにしずまりかえっていた。むれた草の――|こおろぎ《ヽヽヽヽ》の――ざわめきや、蠅のうなり声も、沈黙に近いような調子であった。母親は深く溜息をつき、それからあくびをして目を閉じた。うつらうつらしながら、彼女は足音の近づいてくるのを聞いた。男の声が彼女の眠りをさました。
「誰《だれ》だ、ここにいるのは?」
母親は急いで坐りなおした。日やけした顔の男が、かがみこんで、なかをのぞいた。長靴《ながぐつ》にカーキ色のズボン、肩章《けんしょう》のついたカーキ色のシャツをつけていた。革バンドには拳銃吊《けんじゅうつ》りがさがっており、胸に大きな銀星のバッジがついていた。ひしゃげた軍隊帽が、あみだにのっかっていた。彼は手でテントをたたいた。張りつめた防水布が太鼓のように鳴った。
「誰だ、ここにいるのは?」男は、もう一度答えをうながした。
母親がききかえした。「何か用かね?」
「何の用できたと思うんだい? 誰がここにいるのか知りたいのさ」
「ここには、たった三人しかいねえだ。あたしと、ばあさまと、あたしの娘と」
「男たちは、どこだ?」
「みんな体を洗いに行っただよ。あたしたち一晩じゅう走ってたもんでね」
「どこからきたんだ?」
「サリソーの近在ですだ。オクラホマ州だよ」
「ふん、おまえたちは、ここには泊れないよ」
「あたしたち、今夜ここを立って砂漠《さばく》を渡るだ」
「ふん、そうしたほうがいいな。もしあすも、このあたりにいると、逮捕するぜ。おまえたちにここに住みついてもらいたくないんだ」
母親の顔は怒りで黒ずんだ。彼女は、ゆっくりと立ちあがった。料理道具を入れた箱のほうに身をかがめ、フライパンをとりあげた。
「だんな」と彼女は言った。「あんたは金ボタンとピストルを持っていなさるけどね、あたしたちの国じゃ、あんたみたいな人間は、そんなたいそうな声でものを言わねえだよ」彼女はフライパンを持って彼のほうに近づいた。彼は拳銃帯をゆるめた。「さあ、やんな」と彼女は言った。「女をおどかしな。うちの男たちが、ここにいなくてしあわせさ。みんなは、あんたを八つ裂きにしちまうだよ。あたしの国じゃ、警察だって、言葉にゃ気をつけるだからね」
男は、二歩ほどあとずさりした。「だけど、おまえはもう自分の国にいるんじゃないぞ。カリフォルニアにいるんだぜ。おまえたちやくざなオーキーに住みついてもらいたくないんだ」
母親の踏みだす足がとまった。彼女は、とまどった顔つきになった。「オーキーだって?」と彼女は低い声で言った。「オーキー?」
「そうさ、オーキーだよ! もしおまえたちが、あすもここにいたら、ぶちこんでやるからな」彼は背を向け、つぎのテントへ歩いて行き、手で防水布をたたいた。「誰だ、ここにいるのは?」男は、どなった。
母親は、そろそろとテントの下へ引きかえした。フライパンを道具箱の上においた。ゆっくりと腕をおろした。『シャロンのバラ』は、そっと母親を見まもった。そして母が心のなかでたたかっている様子をその顔に見てとると、『シャロンのバラ』は目を閉じて眠ったふりをした。
午後の太陽は低くなった。しかし暑さは、すこしもおさまる様子もなかった。トムは柳の下で目をさました。口がかわき、体は汗で濡《ぬ》れ、頭は寝足りぬ不満を感じていた。彼は、よろよろと立ちあがり、水のほうへ歩いて行った。服を脱いで、流れのなかへはいって行った。たちまち水が彼のまわりを包みこんだ。咽喉《のど》の渇《かわ》きは消えた。彼は浅瀬に横たわって体を浮かせた。肘《ひじ》を砂に埋めて体をささえ、水面につき出ている自分の足指を見やった。
すべっこい皮膚の小さな少年が、葦《あし》のあいだを動物のように這《は》ってきて着物を脱いだ。そして、|じゃこう《ヽヽヽヽ》鼠《ねずみ》のように身をくねらせて水のなかにはいり、|じゃこう《ヽヽヽヽ》鼠のように水面から目と鼻だけ出して泳いだ。それから不意にトムの頭を見つけ、トムが彼を見まもっているのに気づいた。彼は遊びをやめて坐った。
トムが言った。「やあ、坊や」
「こんちは」
「|じゃこう《ヽヽヽヽ》鼠のまねをしてるみてえだな」
「うん、そうなんだ」彼は岸のほうへ次第ににじりよった――何気なく動いた。と思うと、ふいとはねあがり、服を胸にかき集めて柳の木のあいだに消え去った。
トムは静かに笑った。すると自分の名が声高く呼ばれているのを聞いた。「トム、どこだい、トムや!」彼は水のなかに坐り、歯のあいだで口笛を鳴らした。尻《しり》あがりに鳴る鋭い口笛だ。柳がふるえた。ルーシーが立って彼のほうを見た。
「おっ母さんがおいでって」彼女は言った。「おっ母さんが、すぐきてくれって言ってるよ」
「よしきた」彼は立ちあがり、水のなかを岸のほうへ歩きだした――ルーシーは驚きと興味を示して彼の裸体を見やった。
トムは、彼女の視線の方向を認めて言った。「さあ、走んな、それ!」そしてルーシーは走った。トムは、彼女が走りながら、かん高くウィンフィールドを呼んでいる声を耳にした。彼は熱い服を冷たい濡れた体にまとい、柳のあいだをテントのほうへ、ゆっくりと歩いて行った。
母親は、さっきからかわいた柳の枝が燃えるのを見つめていた。鍋《なべ》には湯が沸いていた。彼女はトムを認め、安心したような表情になった。
「どうしたんだい、おっ母?」と彼はたずねた。
「あたしは心配だったのさ」と彼女は言った。「いまここへ警官がきてね。ここにいてはいけねえっていうだよ。あたしは、その男がおまえに話しかけやしないかと心配してただ。あの男が、おまえに口をきいたら、おまえは、きっとなぐりつけやしないかと、それが心配だったんだ」
トムは言った。「おれが、何で警官をなぐりつけるだね?」
母親は微笑した。「なあに――警官のやつ、とてもえばった口をきくからさ――あたしでさえ、もうすこしでなぐりつけるところだった」
トムは母親の腕をつかみ、ゆるく彼女を揺さぶった。そして笑った。なおも笑いながら、彼は地面に坐った。「驚いたな、おっ母。昔の、おとなしいときのおっ母とは、ちがっちまっただね。何でそんなに怒ったんだい?」
母親は真剣な顔になった。「さあ、わからないよ、トム」
「最初はジャッキのハンドルで、おれたちをしかりつけたし、こんどはお巡《まわ》りをなぐりつけようとしただからな」彼は低く笑った。そして手を伸ばして母親の素足をやさしくたたいた。
「まったく、すげえ山猫《やまねこ》ばあさんだよ」と彼は言った。
「トム」
「うん?」
母親は長いことためらった。「トム、その警官だがね――その男は、あたしたちのこと、こう呼んだよ――オーキーって。こういうのさ、『おまえたちやくざなオーキーに住みついてもらいたくないんだ』って」
トムは母親を観察した。彼はまだ、その手を彼女の素足にのせていた。「さっき会った男が、おれたちにも話しただよ」と彼は言った。「ここの人間が、その言葉を、どんな意味に使うかってことを話してくれたっけ」彼は考えこんだ。「おっ母、おれを悪い人間だと思うかい? あんなぐあいに閉じこめとかなきゃならないかい?」
「いんや」と母親は言った。「おまえは、つとめてきただ――そうともさ。何でそんなことをあたしにきくのさ?」
「さあ、別にどうってわけでもないけどね。おれだったら、そのお巡りを、やっつけちまっただろうな」
母親はおもしろそうに微笑した。「いっそ、あたしのほうが、おまえに、いまのようなことをきいたほうがよさそうだね。フライパンでなぐりつけてやろうとしたんだからね」
「おっ母、どうしておれたちに、ここにいちゃいけないっていうんだい?」
「ただ、やくざなオーキーに住みついてもらいたくないって、そういうだけさ。こんなことも言っただよ、あすもここにいたら、ぶちこんでやるって」
「だけど、おれたちは、お巡りに、こづきまわされたことなんてないぜ」
「あたしも、そう言ってやったのさ」と母親は言った。「そしたらいうんだよ、おまえたちはもう自分の国にいるんじゃない、カリフォルニアにいるんだ。だから、こっちのしたいようにするって」
トムは落ちつかなげに言った。「おっ母、話すことがあるだ。ノアだけどね――ノアは河下《かわしも》へ行っちまっただよ。おれたちといっしょに行かねえだよ」
母親はトムのいうことが、しばらくのあいだ理解できなかった。「なぜ?」彼女は低くたずねた。
「さあね。おれは行かなくちゃならねえって言ってただよ。河にいるんだってさ。おっ母にゃ、おれから言ってくれって言ってただ」
「どうやって食べていく気だろう?」と母親はトムの答えを促した。
「知らねえだ。魚を取るんだって言ってたけどね」
母親は長いあいだ黙っていた。「家族が、ちりぢりになってくだ」と彼女は言った。「わからねえだ。あたしは、もう考えられねえだよ。とても考えられねえだ。もう手に負えねえだよ」
トムが、まごついて言った。「ノアは大丈夫だよ、おっ母。だけど、あれも変なやつだな」
母親は呆《ほう》けたような目を河に向けた。「あたしにゃ、もう考えられなくなっただ」
トムは、並んだテントの向うを見やった。するとルーシーとウィンフィールドが、テントの前に立って、なかの誰かと、しかつめらしく会話をかわしていた。ルーシーは手でスカートをひねっており、ウィンフィールドのほうは足の指で地面をほじくっていた。トムが呼んだ。「おい、ルーシー!」彼女は目をあげ、トムを認めて、こちらへ小走りに近づいてきた。ウィンフィールドが、うしろからついてきた。彼女がそばへくると、トムは言った。「みんなのところへ行ってきてくれ。あの柳の下で眠ってるだ。呼んでくるだ。それから、ウィンフィール、おまえはウィルソンさんのとこへ行って、これからすぐ出発したいと言ってこい」子供たちは踵《きびす》をめぐらして消えて行った。
トムが言った。「おっ母、ばあさまは、どんなぐあいだい?」
「ああ、きょうは眠ってるだよ。たぶん、すこしはよくなってるんだろう。まだ眠ってるものね」
「そりゃいい。豚肉は、どれくらい残ってるだい?」
「たくさんはねえだよ。樽《たる》に四分の一くらい」
「じゃ、それと、ほかの樽とに、水を入れなくちゃならねえだ。水を持ってかねえと困るだからね」彼の耳に柳の下の男たちを呼ぶルーシーのかん高い声が聞えた。
母親は柳の枝を火のなかにつっこみ、黒い鍋の下で、ぱちぱちと音をさせた。彼女は言った。「どうか神さま、あたしたちが、いくらか休息をとれますように。どうか神さま、どこかよいところで横になれますように」
太陽は西の裸の丘へ沈んだ。火にかかった鍋が威勢よく沸きたった。母親は防水布の下へ行き、馬鈴薯《じゃがいも》をエプロンいっぱい運んできて、それを煮えたつ湯のなかへ落した。「どうか神さま、着物を洗わせてくださいますように。あたしたち、こんなに汚なくなったことって、生れてはじめてだよ。馬鈴薯を煮る前に洗うことさえしなくなっちまっただ。どうしてだろうね? どうやら心がすっかりあたしたちから抜けだしちまったらしいだよ」
男たちが一列になって柳のあいだから出てきた。目にはまだ眠気がいっぱい残っていた。顔は赤くて、昼間の眠りのために、むくんでいた。
父親が言った。「どうしただ?」
「これから出かけるだよ」とトムが言った。「お巡りが行けって言っただ。移動するよりほかねえだろうて。早いとこ出発すれば、うまく通過できると思うだ。おれたちの行くところまでは三百マイルぐれえだからね」
父親が言った。「今夜は休息かと思ってたにな」
「いや、そうじゃねえだ。行かなくちゃならねえだよ、お父っさん」とトムが言った。「ノアは行かねえだ。やつは河を下のほうへ歩いてっちまっただ」
「行かねえって? いったい、どうしただ?」そして、それから父親は自分を責めた。「わしのせいだて」彼は、みじめに言った。「あの子のことは、みんなわしのせいだ」
「いんや」
「わしはもう、このことは話したくねえだ」と父親は言った。「わしにゃ、どうにもできねえだ――わしのせいだて」
「さあ、出かけなくちゃ」トムが言った。
ウィルソンが別れの言葉を言いに近づいてきた。「わしたちは行かねえだよ、みなさん」と彼は言った。「セリーが、へたばっちまったでね。休息をとらなくちゃいけねえだ。このままで砂漠を横ぎったら死んじまうだでね」
一同は、その言葉に沈黙した。やがてトムが言った。「お巡りは、もしあすもここにいたらぶちこむって、そう言ったそうだ」
ウィルソンは頭をふった。彼の目は心痛で光っていた。血の気のないのが、日やけした皮膚の下にうかがわれた。
「そうしなくちゃならねえのなら、そうするがいいだよ。セリーは行けねえだ。もしやつらが、わしらを監獄にぶちこむんなら、そうさ、やつらは、わしらを監獄にぶちこまなくちゃならねえのだろうよ。わしは女房《にょうぼう》を休息させて丈夫にしなくちゃならねえだ」
父親が言った。「どうだね、わしらも待って、いっしょに行くようにしたら?」
「いや」とウィルソンは言った。「おまえさんがたは、ずっとわしらに親切にしてくだすっただ。よくしてくれただ。しかし、ここに留まってちゃいけねえだよ。おまえさんがたは行って仕事を見つけなくちゃいけねえだ。おまえさんがたを引きとめておくわけにゃいかねえだよ」
父親が興奮したように言った。「でも、おまえさんは、何も持っとらんじゃねえだか?」
ウィルソンは微笑した。「おまえさんがたが、わしらを拾ってくれたときも、わしらは何一つ持ってなかっただ。そいつは、おまえさんがたが心配しなくてもいいことだて。わしに意地を張らせるでねえだよ。おまえさんがたは行かなくちゃならねえだからね。行かねえと、わしは意地を張って怒りだすだよ」
母親は防水布の下に父親を招き入れ、そっと彼に話した。
ウィルソンはケーシーのほうを向いた。「セリーが、あんたに会ってもらいたいというとるだが」
「いいとも」と説教師は言った。そして、ウィルソンのテント――小さなうす白いテントへ歩いて行き、垂幕《たれまく》をわきにのけて、はいって行った。内部は、ほの暗くて暑かった。マットが地面に敷かれ、道具類が、けさおろされたまま、あちこちに散らばっていた。セリーは目を大きくあけて光らせ、マットに横たわっていた。彼は、そこに立って彼女を見おろした。大きな頭をまげたので、彼の首の筋ばった筋肉が両側にぐいとせり出した。彼は帽子をとって手に持った。
彼女が言った。「うちの人が、これ以上先へは行けねえって言いましただか?」
「そう言いましただよ」
彼女の低い、美しい声が、さらにつづいた。「あたしは、いっしょに行きたかった。向うへ行くまで、あたしが生きていられないのは、わかっていたけんど。でも、そうすれば、ともかくうちの人は砂漠を渡れますだでね。だけど、あの人は行きたがらねえ。あの人にはわからねえだ。またなんとかうまくいくと思ってるだ。わからずやだでね」
「あの人は行かねえって言ってましただよ」
「そうでしょうとも。あの人は頑固《がんこ》ですだからね。あたしは、あんたにお祈りをしていただきてえと思ってお呼びしましただ」
「わしは説教師じゃねえだで」彼は、そっと言った。「わしのお祈りはうまくねえですよ」
彼女は、唇《くちびる》をしめした。「あの老人がなくなったとき、あたしは、あそこにいただ。あのとき、あんたは祈っただ」
「あれはお祈りでも何でもなかっただ」
「いいえ、お祈りだった」と彼女は言った。
「あれは説教師のやる祈祷《きとう》でも何でもねえですよ」
「あれは、とてもいいお祈りだった。あたしにも一つやっていただきてえんですがね」
「何と祈っていいかわからねえですよ」
彼女は、すこしのあいだ目を閉じた。それから、ふたたび開いた。「それじゃ自分に向って祈っておくんなさい。何も言葉を使わないで。それで結構ですだ」
「わしは神さまをもたねえのでね」と彼は言った。
「あんたは神さまをもってますだよ。それが、どんな顔をしておられるのか、あんたにはわからなくても、それが神さまであることには変りはねえですだ」説教師は頭をさげた。彼女は感謝したふうに彼を見まもった。そして彼がふたたび頭をあげたとき彼女は安堵した様子に見えた。「それでいいですだ」と彼女は言った。「これがほしかったですだ、そば近くにいてくれて――祈ってくださることが」
彼は自分の目をさまそうとするかのように頭を振った。
「どうもわしには、何でこんなことするんか、わからねえですよ」
すると彼女が答えた。「いや――あんたは知ってますだ。知ってますだよ」
「わかりますだ」と彼は言った。「わかりますだがね。どうも理解できねえですよ。たぶんあんたは、五、六日休んでから、やってくることになると思うだが――」
彼女は頭を右から左へゆっくりと振った。「あたしは体じゅうが痛いところでいっぱいですだ。何でだか自分でも知ってるだよ。でも、うちの人には話したくねえだ。とても悲しむにちげえねえだでね。それに知ったところで、どうなることでもねえだし。たぶん、夜のうちに、あの人が眠ってるときに――あの人が起きて気がついたとしたら、そんなにも心を痛めねえだろうからね」
「あんたは、わしがここにいたほうがいいですだかね?」
「いいえ」と彼女は言った。「いいえ。小さな娘だったころ、あたしはよく歌をうたっただ。近所の人は、よく、あたしがジェニー・リンドみてえにうたうなんて言ってくれたもんですだ。あたしがうたってると近所の人たちが、いつも聞きにきただ。そして――あの人たちが立っていて――あたしがうたってると、あたしとあの人たちとは、考えられねえくらい一体になってしまうだ。うたっているあたしと、そのとき、まわりに立っている人たちほど、あんなにぴったりいっしょになれた人たちは、そんなにたくさんいねえと思うだ。劇場でうたおうかと思ったこともあっただ。でも、けっしてそうはしなかっただ。それで満足してただよ。劇場には、あたしとあの人たちのあいだにあったようなものは何もねえだもんね。それで――だからあたしは、あんたに祈ってもらいたかっただ。あのぴったりした心を味わいたかっただ、もう一度ね。うたうことと祈ることは同じことですだ。ほんとに同じことですだ。あんたにあたしのうたうの聞かせたかっただよ」
彼は、彼女を、その目を、見おろした。「さよなら」と彼は言った。
彼女は頭を前後にゆっくりと振り、唇をきつく閉じた。説教師はうす暗いテントから明るい光のなかへ出て行った。
男たちは荷物を積んでいた。ジョン伯父がいちばん上にあがり、他の男たちは荷物を彼に渡した。彼は念入りに、表面が平たくなるように積んだ。母親が樽に四分の一ほどはいった塩づけの豚肉を鍋のなかへあけた。トムとアルは二つの小樽を河へ持って行って洗った。そして、それを車の踏板にしばりつけ、バケツで水を運んできて、それを満たした。それから蓋《ふた》に厚い布をしばりつけて水がもれないようにした。ただテントと祖母のマットだけが積み残された。
トムが言った。「これだけ荷物をのっけると、この古トラックはエンジンを焼き切っちまうだで、よっぽど水をうんと持って行かなくちゃいけねえだ」
母親は、ゆでた馬鈴薯《じゃがいも》を取りのけ、テントから袋の布を持ちだして、その上にのせ、そばへ豚肉の鍋をおいた。家族は立ったまま食べた。足を動かし、熱い馬鈴薯を冷えさせるために右手から左手へところがしながら。
母親はウィルソンのテントへ行き、十分間ほどそこにいてから出てきた。「もう行く時間だね」と彼女は言った。
男たちは防水布の下へはいった。祖母は口を大きくあけて、まだ眠っていた。彼らは祖母をマットごとそっと持ちあげてトラックの上へ乗せた。祖母は眠りながら皺《しわ》だらけの足を縮め、顔をしかめた。しかし目をさまさなかった。
ジョン伯父と父親は防水布を上の横棒に結びつけて、荷物の上に、小さな、ぴんと張ったテントをこしらえ、側板にしばりつけた。準備はできた。父親は財布をとり出し、まるまった紙幣を二枚とり出した。そしてウィルソンのところへ行って、それをさしだした。「これを取っていただきてえんでさ、それと――」彼は豚肉と馬鈴薯を指さした。「あれをな」
ウィルソンは頭をたれ、激しく首を振った。「わしはもらわねえだ」と彼は言った。「おまえさんがたにしても、たくさん持ってるわけじゃねえだし」
「あそこまで行くに十分なだけはあるだよ」と父親が言った。「何も残しとかなくてもいいだ。わしらはすぐ働くだからね」
「わしは、もらわねえだ」とウィルソンは言った。「むりにくれようとすれば、わしのほうは意地を張るだよ」
母親は二枚の紙幣を父親からとった。そして、それをきちんと折り、地面において、その上に豚肉の鍋をのせた。「ここにおいとけばいいでしょうが」と彼女は言った。「もしあんたがほしくなければ、誰かが持ってきますだよ」
ウィルソンは、なおも頭をさげたまま、身をひるがえしてテントのほうへ歩いて行った。そして、なかへはいった。入口の幕が、その背後に落ちた。
すこしのあいだ家族たちは待った。それから、「さあ、出発しなくちゃならねえだ」とトムが言った。「もう四時近くになるぜ、きっと」
家族のものはトラックにのぼった。母親は荷物の上の祖母の横に坐った。トムとアルと父親は運転席に、そしてウィンフィールドは父親の膝《ひざ》にのった。コニーと『シャロンのバラ』は運転台の背後に巣をつくった。説教師とジョン伯父とルーシーは荷物の重なったあいだにいた。
父親が声をかけた。「さよなら、ウィルソンさん、ウィルソンさんのおかみさん」テントからは、何の返事もなかった。トムはエンジンをかけ、トラックは、ゆれ動いた。ニードル市に通じる荒れた道路の上へ這いあがったとき、母親が、うしろをふりかえった。ウィルソンがテントの前に立ち、こちらを見つめていた。彼の手には帽子があった。太陽が彼の顔に落ちた。母親が彼に向って手を振った。しかし彼は答えなかった。
トムはトラックをセカンド・ギヤにして、スプリングをいたわりながら走った。ニードルへくると、彼はガソリン・スタンドに車を乗り入れ、疲れたタイヤの空気のぐあいを点検し、うしろについている予備タイヤのぐあいを調べた。そしてガソリン・タンクを満たし、五ガロン入りのガソリン缶《かん》二つと二ガロン入りの油缶一つを買った。ラジエーターに水を入れ、地図を借りて、それを調べた。
白い制服を着たガソリン・スタンドの男は、料金が支払われるまでは落ちつかぬ様子だった。彼は言った。「おまえさんがたは本当にやらかす度胸があるのかね?」
トムは地図から目をあげた。「どういう意味だい?」
「こんなぼろ車で横断しようということだよ」
「おまえさんは横断したことがあるのかい?」
「そりゃ幾度もあるさ。だけど、こんなぼろ車でやったことはないね」
トムは言った。「もし故障したら、だれかが助けてくれるだろうて」
「まあ、たぶんそうだろうな。しかし夜は、みんな泊るのをこわがってるからな。おれだったら横断はやりたくねえな。おれなんぞより、もっと図太い度胸がいるわけだて」
トムは歯を見せて笑った。「ほかにどうにもしようがねえ場合にゃ、別に度胸もくそもねえだよ。さてと、ありがとうよ。さあ、行こうか」そして彼はトラックに乗り、走りだした。
白い制服の男は助手が紙幣束《さつたば》を数えている鉄製の建物のほうへはいって行った。「ああ、なんて気の強い面《つら》つきをした男だろう!」
「オーキーのことかい? あの連中は、みんな気の強い顔つきをしてるよ」
「おれは、あんなぼろ車で行こうなんて、とても考えられねえな」
「おまえやおれは頭があるからさ。あのオーキーどもときたひにゃ、頭もなきゃ感情もねえからね。やつらは人間じゃないよ。人間は、あんなふうにゃ暮せやしない。人間ってものは、あいつらみたいに、あんなみじめで、汚ない生活に我慢できるもんじゃないよ。あいつらは、ゴリラとたいしてちがいがないんだ」
「まったくのところ、ハドソンなんて車で砂漠《さばく》を渡らないでいられるのは、ありがたいしあわせというもんだ。あの車は、まるで機織《はたお》り機械みたいな音をたててたぜ」
片方の男は紙幣束に目を落した。大きな汗の玉が彼の指先からころがりだしてピンクの紙幣の上に落ちた。
「あいつらは、何も心配しないんだ。おそろしく鈍感なもんだから、何が危険だかわからないんだよ。それに、やつらは自分の持ってるものよりほかに、いいものがあろうとは思ってもみないんだ。なにもあいつらのことなんか心配してやることはないじゃないか」
「心配なんかしてやしないさ。ただ、あれがおれだったら、あんなまねはしたくねえと考えただけよ」
「それはおまえが、もっといいことを知ってるからだよ。やつらは、いまのまま以上にいいことなんて知らないんだ」そして彼は袖《そで》でピンクの紙幣にある汗の玉をぬぐいとった。
トラックは道路に戻《もど》り、もろい崩れた岩々のあいだを通って長い丘を登った。エンジンが、すぐに熱したので、トムは、車をゆっくりと、のんきに走らせた。長い斜面を登って行った。荒廃した国のなかを左右に曲折しながら進むのだが、この白色と灰色に燃える国には、生物の影は、何一つなかった。一度トムは、エンジンを冷やすために、数分間停車した。それから旅をつづけた。太陽がまだ沈まぬうちに、峠の上まできた。そして砂漠を見おろした――遠くに黒々とそびえる山脈、そして灰色の砂漠に輝いている黄色い太陽。ほんの一つまみの死にかけているような小藪《こやぶ》、サルビアと|あかざ《ヽヽヽ》の藪が、くっきりした影を砂や岩の上に投げていた。照り輝く太陽は、はるかの上空にあった。トムは、全体を展望しようと手を目の上にかざした。やがて頂上を過ぎ、エンジンを冷却させるために、エンジンをとめたままくだりにかかった。長い坂を砂漠の底まで走りくだった。ファンがラジエーターの水を冷やそうと回転した。運転席では、トムとアルと父親、そして父親の膝にはウィンフィールド、この四人が、照り輝きながら傾いていく太陽を見やった。彼らの目は無表情だった。褐色《かっしょく》の顔は汗で濡《ぬ》れていた。燃える大地、そして黒い灰燼《かいじん》のような丘が平らな遠方に盛りあがり、それが沈みいく太陽の赤らんだ光の下で、すさまじい様相を強めていた。
アルが言った。「うへっ、なんてえところだい。歩いて横断したら、どんなことになるだろう」
「やった人もいるんだぜ」とトムが言った。「たくさんの人が、それをやっただ――その人たちにできたんだから、おれたちにだってできるだよ」
「うんと人間が死んだことだろうな」とアルが言った。
「まあ、おれたちだって、まったく無傷ではすまねえだろうて」
アルは、しばらくのあいだ黙っていた。赤らんだ砂漠が背後へかすめすぎた。「もうおれたちはウィルソンさんたちと会うことはねえだろうかね?」とアルが言った。
トムは目をオイル計のほうにちらと落した。「もう間もなく誰もウィルソンのおかみさんには会えなくなるって感じがするだ。そんな感じがするだよ」
ウィンフィールドが言った。「お父っさん、おいら、外へ出たいよ」
トムは彼のほうを見た。「今夜、本格的に走りだす前に、みんなを一度外へ出したほうがいいかもしれねえな」彼は車の速力を落し、停車させた。ウィンフィールドは飛びだして行って道ばたに放尿した。トムは外へ身を乗りだした。「ほかの人はどうだい?」
「わしらの水は、ここへとっとくだよ」とジョン伯父が答えた。
父親が言った。「ウィンフィールド、おまえは上にあがるだ。わしの上に腰かけてたんで、足がすっかりしびれちまったわい」小さな少年は作業衣の股《また》ボタンをかけ、従順にうしろの側板を這いあがり、四つんばいになって祖母のマットの横を通り、ルーシーのほうへにじりよった。
トラックは夕暮れのなかへと動きつづけた。太陽は荒れた地平線にかかり、砂漠を赤く染めた。
ルーシーが言った。「あそこに落ちついていられなかったの?」
「おいら、いやだったんだ。ここみたいにいい場所じゃないんだよ。寝ころがれないんだもん」
「じゃ、あたしのじゃましないでね。ごそごそしたり、しゃべったりしないでよ」とルーシーは言った。「あたしは寝るんだからね。そして、こんど目がさめたら、あたしたちは、もうあそこにいるのよ。トムがそう言ったわ! きれいな国を見るの、きっと楽しいわよ」
太陽は沈んで、空に巨大な残光を残した。そして防水布の下は、ひどく暗くなった。そこは両端に光をもっている長い洞穴《どうけつ》だった――コニーと『シャロンのバラ』は運転席の後部にもたれかかっていた。テントをはためかせてはいってくる暑い風が彼らの後頭部に当った。防水布が彼らの頭上ではためき、音を立てた。彼らは低い声で話しあっていた。ばたばたと鳴る防水布の音がするので、誰にも二人の話は聞えなかった。コニーがしゃべるときには、顔をねじむけて彼女の耳に言葉を送った。彼女も同じことを彼に向ってした。彼女は言った。
「なんだか、あたしたち、移動が毎日の商売で、そのほかは、何もしてないみたいね。あたし、すっかり飽きたわ」
彼は顔を彼女の耳に向けた。「明け方になったらね。いまいっしょでないといやかい?」薄闇《うすやみ》のなかで彼の手は前に動き彼女の尻を撫《な》でた。
彼女が言った。「やめて。そんなことをすると、あたし、変な気になるわ。そんなことしないでよ」そして彼女はコニーの反応を見ようと顔を向けた。
「いいじゃないか――みんなが眠ったら」
「そうね」と彼女は言った。「でも、みんなが眠るまで待つのよ。あんたが、そんなことをすると、あたし、気が変になって、声をだすことよ。そしたら、みんなも眠らないわよ」
「おれは我慢できねえだ」とコニーが言った。
「わかってるわ。あたしだってそうよ。さあ、向うへ着いたときのことでも話しましょうよ――それから、あたしが変な気分になる前に、すこし離れててちょうだい」
彼は、すこし体をずらせた。「うん、おれはすぐに夜の勉強をはじめるぜ」と彼は言った。彼女は深い溜息《ためいき》をついた。「あのことがのってる雑誌を大急ぎでさがして、クーポンを切りぬいて送るんだ、すぐに」
「どれくらいだと思う?」
「どれくらいって、何が?」
「あんたがたくさんお金とれるようになって、あたしたちが氷をもつようになるまで、どれくらいかかると思うの?」
「さあね」と彼は重々しく言った。「本当のところ、正確にゃいえねえだな。しかし、勉強ってものはクリスマス前までには、ちゃんと終ってるもんだよ」
「あんたが勉強を終ったら、あたしたち、すぐに氷や、いろんなものがもてるわね、きっと」
彼は、くすくす笑った。「いまはこんなに暑いけど」と彼は言った。「クリスマスごろになったら、氷なんていりゃしねえじゃないか」
彼女も笑った。「そのとおりだわ。でもあたし、いつでも氷って好きよ。さあ、よしてよ。変な気になるじゃないの」
夕暮れは夜の闇へと移っていく。砂漠の星々が、やわらかな空にあらわれる。空を照らす明りも光線もなく、星は刺すように鋭く、空は一面に暗黒だった。そして暑気は変化した。太陽が上にあるときには、上から照りつける激しい暑さだった。しかしいま暑さは下から、大地からのぼってくるのだ。その熱気は、むし暑くて息がつまるようであった。トラックのライトが点じられた。それは国道のほんのすこし前方と、道路の両側に筋となって見える砂漠とを照らしだした。ときどき、生きものの目が前方のライトのなかで光った。しかし、どの動物も光のなかに姿をあらわすことはしなかった。いま防水布の下は真の闇だった。ジョン伯父と説教師はトラックのまんなかにうずくまり、片肘《かたひじ》を立てた楽な姿勢で、後部の三角の空間を見つめていた。二人の目には外側に面して坐っている母親とばあさまの黒い二つのかたまりが見えた。彼らは母親がときたま身動きし、その腕が外の空を背景に黒く動くのを見ることができた。
ジョン伯父は説教師に話しかけた。「ケーシー」と彼は言った。「おまえさんは、何をしたらいいかを知ってる人間のはずだったな」
「何をするって、どんなことかね?」
「さあな」とジョン伯父が言った。
ケーシーが言った。「それじゃ、わしにわかりっこねえじゃねえか」
「でも、おまえさんは説教師だったんじゃねえか」
「いいかい、ジョン、誰も彼も、わしが説教師だったということで、わしをからかうだがね。説教師だって、ただの人間でしきゃねえだよ」
「そうさな。だけど――|ある種類《ヽヽヽヽ》の人間だて。そうでなきゃ説教師にはならねえもの。わしは、おまえさんにききてえんだが――その、誰か一人の人間が、その家族に悪い運をもたらすということがあるだかね?」
「わからねえな」とケーシーが言った。「知らねえだよ」
「その――いいかい――わしは結婚しただ――りっぱな、いい娘だった。それで、ある晩女房は腹が痛くなっただ。それで、こう言っただ。『あんた、お医者を呼んでおくれ』とな。そこで、わしは言っただ。『何だ、おまえは食いすぎただけさ』」ジョン伯父は、手をケーシーの膝《ひざ》におき、闇のなかでケーシーのほうをうかがい見た。「女房は、わしを|悲しい顔《ヽヽヽヽ》で見ただよ。そして一晩じゅう、うめいてただ。そして翌日の午後に死んじまっただ」
説教師は、何か口のなかでつぶやいた。「わかるだろう?」とジョンはつづけた。「わしは女房を殺したんだ。それ以来というもの、わしは一生懸命、それを償おうとしてきただ――おもに子供に向ってな。そして、わしはいい人間になろうとつとめただ。でも、だめだて。わしは酔っぱらうだし、それに気が荒くなるだしな」
「誰《だれ》でもそうなるだよ」とケーシーは言った。「わしだってなるだ」
「そうさ。でも、おまえさんは、わしみたいに罪を負っちゃいねえだ」
ケーシーは、やさしく言った。「もちろんわしだって罪をもってるだよ。誰だってもってるだ。それに罪というものは、なかなかに、たしかめにくいものだて。何事につけても自信のある人間で、おまけに罪をもたねえとたしかに信じている男がいたら――そしたら、そんなちくしょうめは、もしわしが神さまだったら、尻《しり》をけっとばして天国から落っことしてやるだ! わしは、そんな人間にゃ我慢がならねえだ!」
ジョン伯父が言った。「わしは、家族たちに悪い運をもちこんだと感じてるだよ。それで、わしが出て行ったら、みんなのものに運が向くだろうと思うだ。わしは、このままじゃ気持が安まらねえだ」
ケーシーは急いで言った。「わしは、このことだけは知ってるだよ――人間は、自分がやらねばならねえことをやっていくしかねえということをな。わしには、何もわからねえだ。何ともいえねえだ。家族が幸運だか悪運だかなんて考えたこともねえだ。ただ、この世のなかで一つだけ、わしにたしかなことは、誰も他人の生活をつっつきまわす権利はねえということだ。誰も、すべてを自分でやらなくちゃならねえだ。場合によっては助けるのもいいだ。しかし、どうしろなんて言わねえことだて」
ジョン伯父は落胆したように言った。「それじゃ、おまえさんにはわからねえってわけかい?」
「わからねえだ」
「どうだろう、女房をあんなふうに死なしたことは罪悪だと思うかね?」
「まあ」とケーシーは言った。「誰がやったにしろ、それはまちがいだったわけだ。しかし、もしもあんたがそれを罪悪だと考えるなら――そうすればそれは罪悪だよ。人間ってやつは、自分の罪を勝手につくりだすもんだでな」
「わしは、この問題を、なんとか片づけなくちゃならねえだ」ジョン伯父は言った。そして、うしろへ体を倒し、足を縮めて横になった。
トラックは暑い地上を動き進んだ。時間がすぎて行った。ルーシーとウィンフィールドは眠りこんだ。コニーは、荷物から毛布を抜きだして、自分と『シャロンのバラ』の上にかけた。そして暑いなかで彼らは、たがいに体をもみ合った。そして息を押えた。しばらくたつとコニーは毛布をはぎとった。穴をくぐってくる暑い風も、彼らの濡れた体には涼しく感じられた。
トラックの後部では、母親が祖母のマットのそばに横たわっていた。母親は目で見ることはできなかったが、祖母の苦闘する肉体と苦闘する心を感じることができた。喘《あえ》ぐ呼吸も耳にはいった。母親は、くりかえし言った。「大丈夫よ。じきよくなるだ」そして彼女は強く言った。「わかってるだね? 家族《みんな》は、ここを横断しなくちゃならねえだ。わかってるだね?」
ジョン伯父が声をかけた。「大丈夫か?」
すこしあいだをおいてから彼女は答えた。「大丈夫だよ。あたし、すこし眠りこんだらしいだ」そして、しばらくすると祖母は静まった。母親は、そのそばに身をかたくして横たわった。
夜の時間がすぎて行った。闇がトラックの前方にひろがった。ときどき他の車が彼らを追い越して西へ向って走り去って行った。またときには、巨大なトラックが西からあらわれて、東へとどろきすぎた。星々は西の地平線へと緩慢な滝となって流れ落ちた。真夜中近くになって、検問所のあるダゲットへ着いた。そこでは、道路に照明が当っていて、文字が明るく浮きだしていた。
『右へ寄って停車』役人たちは事務室のなかでぶらぶらしていた。しかし、トムが車をとめると、外へ出てきて、長い軒の下に立った。一人の役人がナンバーを書きうつし、フードをあげた。
トムがたずねた。「ここは何ですかね?」
「農作物検問所だ。おまえさんの荷物を検査しなくちゃならない。何か野菜か種子《たね》をもってるかね?」
「いんや」とトムが言った。
「とにかく荷物を調べなくちゃならん。荷をおろすんだ」
そのとき母親がトラックから重々しくおりてきた。彼女の顔はふくらみ、目はきびしい色をしていた。
「あのね、だんな。あたしたちには病気の年寄りがいるんですよ。お医者に連れて行かなくちゃならねえですよ。大急ぎでね」
「そうかい。とにかくわれわれは一応調べなくちゃならんのだよ」
「本当に何も持ってませんよ!」母親が叫んだ。「誓いますだ。それに老婆《ろうば》が、ひどくわるいだ」
「あんた自身だって、そんなに元気そうな顔でもないね」と役人が言った。
母親はトラックの後部へ行き、たいへんな力をこめて自分の体を上に引きあげた。「ほら、見てくだせえ」と彼女は言った。
役人は懐中電灯の光を老いしなびた顔に向けた。
「まったく、そのとおりだて」と彼は言った。「あんたは誓うかね、種子も果物も野菜も持たぬ、玉蜀黍《とうもろこし》もオレンジも持たぬと」
「持ってませんよ。誓いますとも!」
「それじゃ、行っていい。医者ならバーストーまで行けばある。ほんの八マイルだ。さあ、行け」
トムは車に乗りこみ、出発した。
役人は同僚のほうを向いた。「わしにゃ、とてもやれなかったよ」
「あるいは偽《にせ》病人だったかもしれんぜ」と同僚が言った。
「いや、絶対ちがう! あの年寄りの顔を見りゃわかるさ。偽物じゃなかったよ」
トムはバーストーへと速力を増した。そして、その小さな町にはいると車をとめ、外へ出て、トラックをまわって後部へ歩いて行った。母親が体を乗りだした。「大丈夫だよ」と彼女は言った。
「あんなところに長居したら横断できねえと思ったもんだから、ああ言っただよ」
「そうかい! でもばあさまは、どんなぐあいだい?」
「なんともないよ――大丈夫だよ。やんなよ。横断しなくちゃならねえんだろう?」トムは頭を振って戻って行った。「アル」と彼は言った。「車にガソリンを補給しよう。そのあとで、おまえがすこし運転してくれ」彼は車を終夜営業のガソリン・スタンドにとめ、タンクとラジエーターをいっぱいにして、クランク・ケースに油を入れた。アルがハンドルの前にすべりこみ、父親をまんなかにして、トムが外側へ坐った。彼らは闇のなかへと走りこんだ。バーストーの近くの小さな丘陵は彼らの背後になった。
トムが言った。「いったい、おっ母は、どうしたんだろうな? まるで耳のなかへ虱《しらみ》が飛びこんだ犬みてえにあわててるだ。荷物の検査なんか、そんなに長くかかりゃしないのによ。それに、さっきはばあさまが病気だというかと思うと、いまは大丈夫だっていうだし。おっ母は、どうしたというのかな。いつものようじゃねえぜ。旅の疲れで頭がおかしくなったのかもしれねえだな」
父親が言った。「おっ母は娘のころとすっかり同じようになってるだよ。そのころのあれときたら、えらく気が荒かったでな。何もこわがらなかったぜ。わしは、子供がたくさんできたり、仕事したりすれば、そんなものはなくなると思ってたけんど、どうやら、そうじゃねえらしいて。まったくよ! おっ母が、あそこでジャッキの鉄棒を持ったときにゃ、本当のところ、わしは、そいつをもぎとる役目なんか引きうけたくなかっただよ」
「おっ母は、何を考えてるのかわからねえだな」トムが言った。「たぶん疲れきっちまったんだろうて」
アルが言った。「通過してしまうまで、泣かれたりうなられたりされちゃ困るぜ。おれは、このやくざ車に気持を集中しなくちゃならねえだから」
トムが言った。「とにかく、おまえは、りっぱに運転してるだよ。この車じゃ、ほとんど故障らしいものも起さねえだものな」
一晩じゅう彼らは暑い闇に耐えて進んだ。幾匹もの野兎《のうさぎ》が光のなかに飛びこみ、長い跳躍をやりながら消え去った。そして、モハーベの町の灯《ひ》が前方に見えだすころ、背後に暁が訪れた。その暁は西のほうにある高い山脈を示していた。彼らはモハーベで水と油を補給し、山へと這《は》いあがって行った。暁が彼らの周囲をとり巻いた。
トムが言った。「やれやれ、砂漠《さばく》はすぎたぜ。お父っさん、アル、どうだい? 砂漠はすぎたぜ!」
「おれは、へたばりすぎて、そんなこと、どうでもいいだ」とアルが言った。
「おれが運転しようか?」
「いや、もうすこし待ってくれ」
朝の光のなかでテハチャピの山地を通りぬけた。太陽が背後からのぼった。それから――だしぬけに彼らは眼下に大きな渓谷を見た。アルがブレーキを踏んで道路のまんなかに停車した。そして、「こいつは驚いた! 見ろや!」と言った。葡萄《ぶどう》園、果樹園、緑の美しい大きな平たい渓谷、列をなしてならぶ木々、そして農場の家々だ。
父親が言った。「こいつはすげえや!」遠くの都会、果樹園のなかにある小さな町々、そして渓谷を金色に染めている朝の太陽。一台の車が背後で警笛を鳴らした。アルは道路の端に車をもって行って停車した。「ひとつ景色をながめようや」朝のなかに金色の穀物畑、そして柳の列、立ち並ぶユーカリの木々。
父親は溜息《ためいき》をもらした。「こんな景色、生れてはじめてだて」桃の木と胡桃《くるみ》の林、オレンジの濃い緑色の茂み。木々のあいだの赤い屋根、納屋《なや》――豊かそうな納屋。アルは外へ出て両足を伸ばした。
彼は呼びかけた。「おっ母――きて見なよ。とうとう着いただよ!」
ルーシーとウィンフィールドは車からはねおりた。それから彼らは、じっと立ちつくしていた。この巨大な渓谷を前にして、おじけ、黙りこみ、とまどっているようだった。遠くは靄《もや》にかすんでいた。そして土地は遠くへ行くにつれて、ますます平坦《へいたん》になっていた。風車が太陽にきらめいた。その回転する翼は、はるかに遠く、小さな反射信号灯のようであった。ルーシーとウィンフィールドは、その風景を見た。ルーシーがささやいた。「カリフォルニアよ」
ウィンフィールドは唇《くちびる》を動かして、何か言葉を声に出さずに言い、それから、「果物があるんだ」と大きな声で言った。
ケーシーとジョン伯父、コニーと『シャロンのバラ』がおりてきた。彼らは黙って立った。『シャロンのバラ』は髪の毛を撫《な》でつけはじめていたが、渓谷の風景を見ると、彼女の手は、そろりと体のわきに落ちた。
トムが言った。「おっ母は、どこにいるだ? おっ母に見せてえだな。おっ母! ここへおいでよ、おっ母」母親は、そろそろと、ぎごちなく、後部の側板から下へおりてきた。トムは母親を見た。「おや、おっ母、病気なのかい?」彼女の顔はこわばり、パテのような顔色だった。目は、すっかり落ちくぼんでいて、目の縁が疲労で赤らんでいた。足が地面にふれると、彼女は身をささえるためにトラックの側板につかまった。
彼女の声は、しわがれていた。「おまえ、横断したって言っただね?」
トムは大きな渓谷を指さした。「見ろよ!」
彼女は頭をめぐらした。口がすこし開いた。彼女の指は咽喉《のど》へのぼっていき、皮膚をすこしよせ集めて、そっとつねった。「まあ、ありがたい!」と彼女は言った。「家族ぐるみで越しただね」両の膝頭《ひざがしら》がまがった。彼女は自動車の踏板の上に腰かけた。
「病気になったのかい、おっ母?」
「いんや、ただ疲れただけさ」
「まるっきり眠らなかったのかい?」
「うん」
「ばあさまがわるかったのかい?」
母親は自分の手を見おろした。膝の上に疲れた恋人たちのように重なっていた。「まだ、もうすこし先へ行ってから話したかっただよ。みんな、何もかも――うまくいくというわけにゃいかねえもんだ」
父親が言った。「それじゃ、ばあさまがわるいだな」
母親は目をあげ、渓谷のほうを見やった。「ばあさまは死んだだよ」
一同は彼女を見た。誰もが――そして父親がきいた。「いつ?」
「きのうの晩、あそこでとめられる前に」
「それだもんで、おまえは、やつらに検査させたくなかっただな?」
「横断できなくなるかと心配したんだよ」と彼女は言った。「あたしはばあさまに、仕方がねえのだと話して聞かせただ。家族《うち》は横断しなくちゃならねえのだとね。あたしは話して聞かせただよ、ばあさまが死ぬときにね。砂漠では、とまれないんだとね。子供たちがいるだし――それにローザシャーンの赤ん坊がいるだし。あたしは話して聞かせただよ」彼女は両手をあげ、すこしのあいだ顔をおおった。「ばあさまは、すてきな青い土地に埋められるだ」と母親は静かに言った。「まわりに木のある、いい土地に。ばあさまはカリフォルニアで静かに休むだよ」
家族たちは母親を、なんてしっかりしてるのだろうと驚きながらも見まもった。
トムが言った。「驚いたな。じゃ、死んだばあさまと一晩じゅういっしょにいただね」
「みんなは横断しなくちゃならなかったんだもの」と母親は、がっかりしたように言った。
トムは母の肩に手をおこうと近よった。
「あたしにさわらないでおくれ」と母親は言った。「おまえにさわられたら、がっかりしちまうだから。それでおしまいになっちまうだよ」
父親が言った。「さあ、進まなくちゃならねえだ。くだりにかからなくちゃならねえだ」
母親は彼を見あげた。「あたし、前に坐れないかね。もうあそこへは戻りたくねえだよ。疲れちまっただ。あたしは、とても疲れちまっただよ」
彼らは荷物の上に這いのぼった。長い、こわばった姿が掛け布に包まれ、頭まで包まれていたが、彼らはそれを避けた。自分たちの場所へ行き、そこから目をそらそうとつとめた――鼻にちがいない布の盛りあがっているところから、そして顎《あご》の先にちがいない斜めに突きでたところから――彼らは目をそむけようとつとめた。しかし、そうはできなかった。ルーシーとウィンフィールドは、できるだけ離れた車の前部の片すみへ這って行き、そこから掛け布に包まれた祖母の姿を見ていた。
ルーシーがささやいた。「あれがばあさまよ、死んでるのよ」
ウィンフィールドは、重々しくうなずいた。「ばあさまは、ちっとも呼吸《いき》をしてないんだ。ほんとに死んでるんだ」
そして『シャロンのバラ』は、そっとコニーに言った。「ばあさまが死んだのは、ちょうどあたしたちが――」
「どうしてそんなことがわかるだ?」と彼は彼女をなだめた。
母親に席をあけるためアルが荷物の上にのぼった。アルは後悔していたので、かえってすこし威勢のいい様子を見せた。彼はケーシーとジョン伯父のあいだにしゃがみこんだ。
「まあ、ばあさまは年寄りだったもんな。寿命だったんだろうよ」とアルは言った。
「誰だって一度は死ななくちゃならねえだ」ケーシーとジョン伯父は無表情に彼のほうへ目を転じ、まるで彼が妙なことをしゃべる獣だとでもいうふうに彼を見やった。「なあ、そうだろう?」とアルが返事を催促した。二人は目をそむけ、アルは憂鬱《ゆううつ》に見すてられた状態にとり残された。
ケーシーが驚いた口調で言った。「一晩じゅう、おっ母は一人でいただ」そして彼は言った。「ジョン、実にたいへんな愛の心をもった女がいるもんだね――わしは恐ろしくなるだよ。ここのおっ母のことを考えると、自分がいかにもいじけた卑屈な人間に思えてくるだ」
ジョンがきく。「あれは罪だったかね? おまえさんが罪と呼ぶものが、あそこに、ちっとはありゃしなかったかね?」
ケーシーは、びっくりして彼のほうを向いた。「罪だって? いんや、あれには罪の一かけらだってなかっただよ」
「わしは罪と関係のねえことは一つもやれぬ人間だて」とジョン伯父は言った。そして長く包まれた死体を見やった。
トムと母親と父親は運転台に坐った。トムはブレーキをはずし、トラックを惰性のまま走らせた。重いトラックは動きだし、うなり、きしり、飛びあがって丘をくだった。太陽は背後にあった。前方には金色と緑の渓谷だ。母親は頭をゆっくりと左右に振った。「きれいだね」と彼女は言った。「じいさまたちにも見せたかっただね」
「わしもそう思うだよ」と父親が言った。
トムはハンドルを手のひらでたたいた。「二人とも年をとりすぎてただ」と彼は言った。
「ここにいたとしても、何も見やしなかっただろうて。じいさまは若いときに見たインディアンと荒野をなつかしがるだろうし、ばあさまは自分が最初に住んだ家のことを思いだすだろう。二人とも年をとりすぎてただよ。本当にここを見るのはルーシーとウィンフィールドだて」
父親が言った。「トミーのやつ、すっかり一人前になったみてえな口のきき方をするじゃねえか。説教師に似たしゃべり方だて」
母親が悲しげに微笑した。「そうだよ。トミーは、すっかり一人前になって、あたしでも、ときどきは手に負えなくなっちまっただよ」
車は山をはねおりて行く。まがったり、くねったり、ときには渓谷を見うしない、するとまた見えだしたりした。熱い緑色の匂《にお》いと、やにっこいサルビアとターウィードの匂いをまぜ合せた渓谷の熱い空気が、彼らを出迎えた。|こおろぎ《ヽヽヽヽ》が道ばたで鳴く。がらがら蛇《へび》が道路を横ぎって這《は》う。トムがそれを車輪に引っかけて、ずたずたにし、くねる死体をおきざりにして走った。
トムが言った。「検屍官《けんしかん》のところへ行かなくちゃなるめえな。どこにいるのか知らねえけんど。ばあさまをちゃんと埋めなきゃね。金は、どれだけ残ってるだね、お父っさん?」
「四十ドルぐらいだ」と父親が言った。
トムは笑った。「やれやれ、すっからかんになりかけてるわけだね。これでおれたちも素っ裸になるだな」彼は、すこしのあいだ、くすくすと笑った。それから彼の顔は、すばやく前方に向いた。彼は鳥打帽の庇《ひさし》を目の上に引っぱった。トラックは、その山を、大きな渓谷に向って走りおりた。
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第十九章
昔カリフォルニアはメキシコの領土で、土地はメキシコ人のものだった。ところがぼろを着て目を血走らせたアメリカ人が、この土地へ流れこんだ。土地に飢えた彼らは、やみくもに土地をわがものにした。サターの土地を盗み、ゲレロの土地を盗み、メキシコ人を泣き寝入りさせ、ぎゅうぎゅう痛めつけ、おどしたり騒いだりしたのが、この気ちがいじみた、がつがつした男たちなのだ。
こうして盗んだ土地を、彼らは鉄砲でまもった。家や納屋《なや》を建て、土地を掘りかえして作物を植えた。そして、こうすることが所有することであり、所有することが所有権であった。
メキシコ人は弱いうえに腹もすかしてはいなかった。土地をほしがるアメリカ人ほど無我夢中でほしいと思うものは、彼らには、この世で何一つなかったから、とても抵抗できたものではなかった。
やがて、ときがたつと、こうした居直り居住者は、いつのまにか居直り居住者ではなくなり、りっぱな地主になった。彼らの子供が成人して、これらの土地の上で子供を生んだ。すると例のがつがつした、命がけの、身を噛《か》むような、引きさかれるような土地への渇望《かつぼう》も消えてなくなった。水があり、大地があり、その上に青空があり、草が萌《も》え、根がはびこる。これらのものを申し分なくわがものとしてみれば、それらがそこにあることさえ心にとめずにすごすようになった。種子があり、風車が翼で空を切っていれば、肥えた畑や、それを鋤《す》きかえす農具への、うずくような欲望もなくなった。暗いうちに起きでて、眠たげな小鳥の最初のさえずりを聞くこともなければ、大切な畑へ出て行くために、暁の光のさしてくるのを待つあいだ、外面《とのも》を吹き渡る朝風の音を聞くこともなくなった。そうしたことがなくなった代りに、作物をドルで勘定したり、元利合計して土地の値ぶみをしたり、まだ植えつけもはじまらぬうちに収穫物を売買したりするようになった。そうなると、不作も旱魃《かんばつ》も洪水《こうずい》も、もはや生きているうちに経験する小さな部分的な死ではなくて、単に金銭上の損をするだけのことになった。彼らの愛情のすべては金銭のためやせ細り、彼らのかつての猛々《たけだけ》しさも利害の打算のなかで消えていって、しまいには、もう百姓らしいところさえもなくなり、作物を売る小商人《こあきんど》、ものを売らなければ、ものをつくれない町工場の親方同然になった。やがて商売《あきない》のへたな百姓は商売のうまい連中に土地を奪われていった。どれほど土地を愛し、作物を育てることがじょうずな百姓でも、商人として腕がよくないかぎり生きのびられなかった。かくて時のたつにつれて、商売人が農場を所有するようになり、農場のかまえは大きくなったが、農家の数は減っていった。
こうして農業は大企業となり、農場主は知らぬあいだにローマ貴族のまねをするようになった。彼らは、奴隷《どれい》という名では呼ばなかったが、奴隷を輸入した。――中国人、日本人、メキシコ人、フィリピン人など。やつらは米と豆を食って暮してるんだぜ、と企業家たちは言った。欲がないんだ。高い賃金を払ったって、どうしていいかわかりゃせんのだよ。そうさ、やつらの暮しぶりを見るがいい。食いものを見るがいい。もし、やつらが変なことをやりだしたら、国外へ追っ払っちまうだけさ。
そして絶えず農場の規模は大きくなり、農場主の数はすくなくなっていった。いまではもうこの土地には情けないほど少数の自作農しか見られなくなった。移民の農奴たちは、たたかれ、おどかされ、くたくたにされて、あるものは本国へ帰り、あるものは気持が荒《すさ》んで、人殺しをするか、国外へ放逐されるかした。そして農場は、ますます大きくなり、農場主は、ますます少数になっていった。
また、作物も変った。果樹園が穀物畑にとって代り、世界じゅうを養う野菜の畑が窪地《くぼち》の底までひろがった――レタス、カリフラワー、朝鮮薊《あざみ》、馬鈴薯《じゃがいも》――みな腰をまげてとりいれる作物ばかりだ。鋏《はさみ》や鋤《すき》や熊手《くまで》を使うには立ったままでいいが、レタスの畝道《うねみち》を行くには這《は》って通らなければならないし、綿花畑では背中を折りかがめて細長い袋を引っぱって歩くし、カリフラワーの畑を横ぎるときには懺悔《ざんげ》告解《こっかい》をするときのように膝《ひざ》で歩かなければならない。
やがて農場の持主は農場で働かぬようになった。彼らは帳簿や書類の上で農業を営んだ。彼らは土を忘れ、土の香と土の感触とを忘れ、忘れないのは彼らがその土地を所有していること、土地によって儲《もう》けたり損したりすることだけになってしまった。農場のあるものは、あまり大きくなりすぎて、一人の人間の頭脳で考えることさえできなくなり、収支や損益の筋道をわからせるためにたくさんの帳簿係を、土壌の試験をしたり施肥をしたりするために化学技師を、そして腰を折りまげた男たちが肉体条件の許すかぎりすばやく畝道を動きまわるのを監督するためには麦わら帽の管理人を、それぞれ必要とするようになった。すると、こうした百姓たちは、いよいよ本物の商人になり、商店を経営した。彼は労働者に賃金を払い、そして彼らに食糧を売りつけて、払った金をとり戻《もど》した。だから、しばらくすると彼は、ぜんぜん金を払わずに、帳簿をつくるめんどうを省くようになった。これらの農場は信用貸しで食糧を提供した。労働者は働いて食っているにはちがいないが、仕事がすんでみると、会社に金を借りていることに気がつく。そして地主はもうすこしも農場の仕事をしないばかりでなく、自分の所有する農場を見たこともない地主さえすくなくない。
すると一方、土地をうしなった農民は西へ西へと引きよせられた――カンザスから、オクラホマから、テキサスから、ニュー・メキシコから、さらにネバダからもアーカンソーからも、家族、近隣、群れをなして、トラクターに埃《ほこり》をあびせかけられ、追われてきた。家財をつんだ車が隊列を組んで、家をうしない、土地に飢えて、二万、五万、十万、二十万と、山を越えて、河の流れのように、腹をすかせて、せかせかと、蟻《あり》の群れのようにせかせかと、何によらず、運ぶ仕事、押す仕事、引っぱる仕事、摘んだり切ったりする仕事、およそ仕事と名がつけば、何でもする気で、食えさえすれば、どんな重荷も負うつもりで、押しよせてきた。子供たちは腹をへらしてるだ。おれたちは住むところがねえだ。働くため、食うため、何よりもまず土地を手に入れるために、蟻の群れのように押しよせてきたのだ。
おれたちは外国人じゃねえ。それ以前にはアイルランド人だったものもいるし、スコットランド人だったものもいるし、イギリス人だったものもいるし、ドイツ人だったものもいるが、七代前からのアメリカ人なんだ。先祖の一人は独立戦争に出たし、南北戦争に出たものも、たくさんいる――北軍にも南軍にも。だからアメリカ人なんだ。
彼らは飢えていたから、がむしゃらだった。住いを求めてきた彼らが得たのは憎悪《ぞうお》だけだった。オーキー、オクラホマのやつら――農場主たちは、自分たちはおとなしいが、やつらは乱暴だし、自分たちは満腹しているが、オーキーは空腹だということを知っているから、彼らをきらった。また、おそらく農場主たちは、人間が、がむしゃらで空腹で武器を持っているときには、おとなしい連中から土地を掠《かす》めとるのはわけもないことだという話を、祖父たちから聞いてもいただろう。地主たちは彼らをきらった。また町でも、商店主たちは、彼らをきらった――ものを買う金を持っていないからだ。金を持たぬくらい商人どもの軽蔑《けいべつ》を買う近道はなく、彼らは、その正反対でありさえすれば、下へもおかないのだ。町の人々、小銀行なども、彼らによっては、何の利益も得られないから、彼らをきらった。彼らは無一物なのだ。また労働者もオーキーをきらった――腹をすかした連中は働かなくては困るのだし、働かなくては困る連中には雇い主は自動的に安い賃金しか支払わなかった。そうなれば、誰《だれ》も皆それ以上の賃金がとれなくなるからだ。
こうして土地をうしなった移住民が、二十五万人、三十万人と、カリフォルニアへ流れこんだ。彼らの背後では新しいトラクターが耕地の上を走り、小作人たちは、いやおうなしに追いだされた。新しい波、土地と家を奪われた、気の荒い、一途《いちず》な、物騒な連中の新しい波が、あとからあとから押しよせてきた。
カリフォルニアの住民たちは、富の蓄積、社会的成功、娯楽、贅沢品《ぜいたくひん》、珍しい抵当物件など、さまざまなものをほしがっているのに対して、これらの新しい野蛮人どもは、土地と食糧と――たったこの二つのものしかほしがらなかったし、しかも、この二つのものは、彼らにとっては一つのものだった。またカリフォルニア人の欲望は漠然《ばくぜん》として説明しにくいのに対して、オクラホマ人のほしいものは道ばたにころがっているから、はっきり目に見えて、いっそうほしくてたまらなかった――溝《みぞ》を掘って水を引きたい上等な耕地、青々と草の生えた野原、ためしに手で砕いてみたくなる大地、匂《にお》いをかいでみる草、しゃぶってみると鋭い甘味が咽喉《のど》のなかへ流れこむ作物の茎。遊んでいる耕地を見れば、すぐそれとわかるから、百姓は、背を丸くして手を伸ばせば、キャベツだの、黄金の穂を実らせる玉蜀黍《とうもろこし》だの、人参《にんじん》だの、|かぶら《ヽヽヽ》だのを、土のなかからとり出してみせられるような気がしてくるのである。
住むに家なく、土地に飢えた男は、妻を隣の席に、やせた子供たちを、うしろの席に坐らせて街道に車を走らせていると、いたるところに、食糧は生みだせるが儲けにはならぬ休耕地が目につき、遊んでいる土地、使用されぬ畑というものが、やせた子供たちに対する憎むべき罪悪だとわかってくる。こういう男が街道を行くと、どの畑もみな彼を誘惑して、これらの畑を手に入れ、子供たちには成育するための力を、妻には、いささかの慰めを、そこに生みだしたいという渇望に駆られる。誘惑は、行けども行けども眼前にある。畑は彼を刺激する。よい水の流れている会社の掘割りも彼を刺激する。
また、南へくると、たわわに実る金色のオレンジ、濃緑の木に鈴なりになった小さな金色のオレンジを彼は見る。銃を肩に木の間を巡邏《じゅんら》している番人が、やせた子供に一粒のオレンジをもいでやる親はないかと見張っている。値が安ければ、みすみす腐らせてしまうオレンジを。
彼は古自動車で町へはいって行く。仕事はないかと農場から農場へ駆けまわる。今夜はどこで寝るだ?
ふん、河岸にフーバビルがある。あすこにゃオーキーがいっぱいいるぜ。
彼は古自動車をフーバビルへ走らせる。どこの町はずれにもフーバビルが一つはあるから、二度とききかえしたりはしない。
そのぼろ町は水に近いところにある。住居《すまい》はテントだ。草を屋根にふいた紙の家だ。いわば大きなぼろの山だ。男は家族づれで乗りいれて、フーバビルの市民になる――どこでも、こういう町はフーバビルと呼ばれている。男は、なるべく水に近いところへ自分のテントを張る。もしテントを持っていなければ、市の塵《ごみ》捨て場へ行ってボール紙を持ち帰り、皺《しわ》のよった紙で家を建てる。雨季になると、家は溶けて流れてしまう。フーバビルの住人になって、田舎を駆けずりまわって仕事をさがしているうちに、わずかばかりの持ち金は仕事さがしのガソリン代に消えてしまう。日が暮れると、男たちは集まって話をする。車座にあぐらをかいて、見てきた土地のことを話しあう。
ここから西のほうに三万エーカーの耕地があるだよ。ほんとにあるだ、ちくしょうめ、たった五エーカーでも、こちとらに使わせてくれたら、どうなると思うだ。まったくよ、何一つ食うものにこと欠かねえやな。
おまえ、ひとつ気のついてねえことがあるぜ。あすこの農場はみな、野菜もつくってなければ、鶏や豚も一匹だって飼ってねえだ。一つのものしかつくってねえだ――綿花とか、梨《なし》とか、レタスとかよ。そうかと思うと、鶏ばかり飼ってるところもあるだ。軒先の前庭でつくれるようなものまで、やつらは店から買ってるだ。
ちくしょう、せめて雌雄一頭ずつ豚がいたら、どうなると思うだ!
へん、気の毒ながら、おめえにゃ豚は飼えねえよ、飼えるときがくる気づかいはねえだ。
おれたちは、何をしたらいいんだろう? こんなことじゃ、餓鬼めら、育たねえぜ。
キャンプ地のなかを、ささやき声が渡っていくこともある――シャフターに仕事があるぜ。すると夜のうちに車に荷物がつみこまれ国道は車でいっぱいになる――仕事へのゴールド・ラッシュだ。シャフターには人が集まりすぎて、求職者が五倍にもなる。仕事へのゴールド・ラッシュ。気ちがいのように仕事を求めて、夜のあいだに出かけて行くのだ。その行く道には、誘惑が、食うものを生みだすことのできる畑が、横たわっている。
あれには持主がある。おれたちのじゃねえだ。
なあに、ことによったら、おれたちも、ちょっぴりぐれえ畑をもてるかもしれねえだ。ことによったらちょっぴりぐれえはな。ほら、あすこにある――あの畑さ。いまは朝鮮朝顔ばかり生えてやがる。ちくしょうめ、あの小さな畑でだって、おれの一家を養えるくらいの馬鈴薯《じゃがいも》はとれるだがな!
あれは、おれたちのじゃねえだ。朝鮮朝顔を生やしておかなきゃいけねえのさ。
ときどき、一人の男がやってみることもある。土地に這いこんで、すこしばかり草をとり耕し、盗人《ぬすっと》のように、大地から、わずかばかりの富を盗もうとするのだ。雑草のなかにかくされた秘密の花園。一包みの人参の種子、すこしばかりの|かぶら《ヽヽヽ》。馬鈴薯の種いもを植えて、日が暮れてから、盗んだ大地を鋤《す》くためにこっそりと這いこんで行く。
ぐるりには草を残しておけよ――おれたちのしていることを、誰にも見られねえようにな。まんなかへんにも、大きな背丈の高い雑草を残しておきなよ。
日が暮れてからの秘密の農耕、水は錆《さ》びた缶《かん》に入れて運ぶ。
すると、ある日、保安官補が――ふむ、おまえたちは、何をしていると思っとるのだ?
何も悪いことはしちゃいねえだよ。
おれは目をつけてたんだ。ここはおまえの土地じゃない。不法立ち入りだぞ。
この土地は耕作してねえだし、わしは、何の傷もこの土地につけるわけじゃねえだ。
ふてえ居直り百姓だな、おまえは。もうしばらくすると、この土地はおれのものだなんて考えるようになるだろう。うぬ、こっぴどい目にあわせてやる。かってに自分の土地だと思ってるがいい。さあ、出てうせろ。
そして、小さな緑の人参の芽は蹴《け》りかえされ、|かぶら《ヽヽヽ》は踏みにじられる。また朝鮮朝顔がはびこるのだ。しかし警官のいうことは正しい。作物ができる――すると、所有権が生じるのだ。除草をし、人参は食ってしまう――誰だって、自分が耕して食物をそこから得れば、その土地のために喧嘩《けんか》でも何でもするだろう。早く追いだすことだ。いまに、土地は自分のものだと思うようになるだろう。朝鮮朝顔の茂ったなかの、わずかばかりの耕地のために、やつは生命《いのち》がけで闘うだろう。
おれたちが|かぶら《ヽヽヽ》を蹴りかえしたときのあの野郎の面《つら》を、おまえ見たかい。だって、おまえ、あの野郎は、ひとの顔さえ見たら、ぶち殺しそうな面をしてたぜ。ああいうやつらを、うろうろさせねえようにしておかねえと、しまいにゃ田舎の土地は、みんなやつらのものになってしまうだぜ。みんなやつらのものによ。
よそものども、よその国のやつらのものにな。
そうともよ、しゃべる言葉は同じでも、やつらは、こちとらと同じ人間じゃねえだ。やつらの暮しぶりを見るがいい。おれたちが、やつらみてえなことをして暮していられるかどうか、考えてもみろ。へん、とんでもねえ!
毎晩、坐りこんで、話しこむ。なかで興奮した男がいう――おれたちは二十八人も集まって、何で一カ所ぐれえの土地がとれねえことがあるだ? 鉄砲があるじゃねえか。土地をぶんどっておいて、「おん出せるもんなら、おん出してみろ」とやってやるだ。どうしてそれをやらねえだ?
やったって鼠《ねずみ》みてえに撃ち殺されるだけだよ。
ふん、殺されるのと、ここにいるのと、おめえら、どっちがいいだ? 墓へはいるのと、麻袋ばかりの小屋で暮すのと? いま死ぬのと、二年先に栄養失調になって死ぬのと、子供らのために、おめえ、どっちがいいと思うだ? ここ一週間、おれんとこでは、毎日どんなものを食ってたか、知ってるかい? 刺草《いらくさ》の煮たのに、練り粉の揚げものだぜ。練り粉を揚げるためのうどん粉を、どこで手に入れたか知ってるか? 貨車の床を掃いて掻《か》き集めただよ。
キャンプ地のなかでしゃべっていると、驢馬《ろば》みたいに太った保安官ども、肥えた臀《しり》に革紐《かわひも》でつるした短銃をぶらんぶらんさせた男どもが、えばりくさってキャンプのなかを歩きまわる――野郎どもに、すこし|やき《ヽヽ》を入れて考えさせてやれ。ごそごそ這い出さねえようにしねえと、何をやりだすか、わかりゃしねえぞ。だって、あいつらまるで南部の黒人みてえに、物騒なやつどもばかりだ。もしやつらが、みんないっしょに暴れだしたら、とても手におえねえぜ!
[#この行1字下げ]〔引用文) ローレンスビルでは、保安官補が一人の居直り百姓に立退《たちの》きを命じたところ、居直り百姓が反抗したため、実力を行使せざるをえなかった。すると居直り百姓の十一歳になる男の子が二二口径のライフル銃でその保安官を射殺した。
がらがら蛇《へび》め! やつらを相手にするときにゃ、冒険は禁物だ。もしぐずぐず言ったら、のっけからぶっ放してやれ。子供でさえ警官を殺すくらいだもの、大人は、どんなことをするか見当もつかん。大切なことは、やつらよりも頑固《がんこ》に強圧的にやることだ。手荒く扱うんだ。おどしつけてやるんだ。
おどしてもこわがらなかったらどうするんだ? 居直って、撃ちかえしてきたらどうするんだ? ああいうやつらは子供のころから銃を扱いつけてるんだ。銃は、やつらの体の延長みたいなもんだ。こわがらなかったらどうするんだ? いつかやつらが隊を組んで、まるでランゴバルド人がイタリアでやったように、ドイツ人がゴールで、トルコ人がビザンチウムでやったように、この土地へ進軍してきたらどうなるんだい? やつらもまた土地に飢えているうえに、物騒な武器を持った野獣の群れだから、軍隊をさし向けても押えられないぜ。虐殺《ぎゃくさつ》しても、武力でおどかしても、押えられないぜ。自分の胃袋が飢えにしめつけられているばかりでなく、みじめな女どもたちの腹までひもじがらせている親を、おどかしぐらいでまいらせることができるもんか。こわがらせることなんぞ、できやしないよ――他のすべての恐怖よりもすさまじい恐怖を知っているやつらなんだ。
フーバビルでは、百姓たちが話しあっている。おいらのじいさまはインディアンから土地をぶんどったんだ。
だがな、そういうことはよくねえだ。ここでみんなの話しあってることはよくねえだ。おめえたちの話しあってることは、これはおめえ泥棒《どろぼう》だぜ。おいらは盗人《ぬすっと》じゃねえだ。
おめえは、ゆうベ、よその家の玄関から、牛乳の壜《びん》を一本、盗んだじゃねえか。前にも銅線を盗んで、それを売って肉を買ったじゃねえか。
うん、だが、餓鬼らが腹をすかせてたでね。
だからってよ。それだって泥棒だぜ。
フェアフィールの牧場な、あれが、どうしてやつのものになったか、おめえ、知ってるか。話して聞かせようか。あすこは全部、公有地でな、誰でも手に入れることができただよ。フェアフィールというじいさんは、サン・フランシスコへ行って裁判を受けただが、三百人のごろつきを養ってただ。そのごろつきどもが、土地をぶんどったのさ。フェアフィールってじいさんは、その連中に飯を食わせたり酒を飲ませたりしといて、その土地がたしかに連中のものだとわかると、やつらから土地をとりあげちまっただ。じいさんは、いつも言ってたもんだ。あの土地は一エーカーについて、安ウイスキー一パイントずつ、もとでがおろしてあるんだとな。ああいうのも、おめえは泥棒じゃねえっていうのか?
ふむ、いいことじゃねえだが、そのじいさんは、監獄へは行かなかっただな。
行かねえとも。そのために監獄へなんぞ行きゃしなかっただよ。それからまた、荷馬車にボートをつんでって、ボートで行ったんだから土地は水の下だなんて報告した男――あいつだって監獄へなんぞ行きゃしねえぜ。それから国会の議員や州会の議員に賄賂《わいろ》を使ったやつらだって、監獄へなんぞ行きゃしねえだ。
州内いたるところのフーバビルで、こんなおしゃべりが、かわされていた。
さて、つぎには手入れがある。武装した警官隊が、居直り居住者たちのキャンプ地を急襲する。出て行け。衛生局の命令だ。このキャンプ地は衛生上有害なのだ。
どこへ行けばいいだ?
そんなことは、われわれの知ったことじゃない。われわれは、おまえたちをここから追いだせという命令を受けているんだ。三十分以内に、このキャンプを焼きはらうぞ。
この先にチフス患者がいるだ。おまえさんがたは、チフス菌をそこらじゅうに撒《ま》き散らしてえのか?
われわれは、おまえたちをここから追いだすように命じられているんだ。さあ出ろ。三十分以内にこのキャンプを焼きはらうぞ。
三十分たつと、紙の家や草屋根の小屋を焼く煙が空にあがり、人々は、他のフーバビルを求めて、自動車で国道を走る。
そしてカンザスでもアーカンソーでも、オクラホマ、テキサス、ニュー・メキシコでも、トラクターが侵入してきて、小作人たちを追いだしていた。
カリフォルニアへ、三十万人、いやもっと多くが、移ってきた。そしてカリフォルニアでは、引っぱる仕事、押す仕事、運ぶ仕事、とにかく仕事を手に入れようとして血眼《ちまなこ》になった人々が、道路いっぱいに、蟻《あり》の群れのように走りまわっていた。一人分の荷揚げ仕事があれば、その荷を運ぶために五組の腕がさしのべられたし、一人の胃袋にはいる食物が手にはいれば、五つの口が、そのためにあけられていた。
一方、騒動が起れば土地をうしなわねばならぬ大地主たち、歴史に目があいてきた大地主たちは、歴史を読み、「財産があまりに少数者の手に蓄積されると、それは奪い去られる」という大きな事実を知るようになった。そして、これと相表裏する事実――「人民の大多数が飢えと寒さに迫られるとき、彼らは暴力によって彼らの欲するものを奪いとる」また、あらゆる歴史を通じて、かぼそい悲鳴をあげている事実――「抑圧は、単に抑圧されるものを強くし団結させる役割しか果さぬ」――大地主たちは、歴史のこの三つの叫び声に耳をかさなかった。土地は、ますます少数者の手に落ちていき、土地を追われたものの数は、ますます増大し、大地主のすることなすことが抑圧の方向へと進んだ。金は武器を買うため、大所有地を保護する毒ガスのために費やされ、反乱のささやきを踏み消すために、人々のつぶやきをききださせようとスパイが八方に放たれた。変動しつつある経済状態は無視され、その変化に対する計画も無視された。反抗の原因が進行しているのに、反抗を弾圧する手段ばかり考えられていた。
人間を失業させるトラクター、荷物を運搬する環状線、生産する機械、それらはすべて増加する一方だった。すると、あとからあとからと、いっそう多くの家族が、大農場からパン屑《くず》なりと掠《かす》めとろうと、道ばたの土地に渇望《かつぼう》の目を向けながら国道をうろついていた。大地主たちは自衛のために組合をつくり、人民を威嚇《いかく》する方法、殺す方法、催涙ガスを吸わせる方法を相談するために会合した。そして、つねに彼らは、一人の指導者を恐れていた――三十万人――もし彼らが、一人の指導者の下で動きだしたら――それこそおしまいだ。飢え、虐《しいた》げられた三十万人。もし彼らに自覚が生れたら、世界じゅうの毒ガスもライフル銃も、彼らを阻止することはできないだろう。そこで、土地の所有によって、人間以上にもなり人間以下にもなった大地主たちは、まっしぐらに破滅に向って進み、結局は自滅のほかはないあらゆる手段をとることになった。どんな工作も、どんな暴力も、どんなフーバビル襲撃も、ぼろキャンプ地のなかをいばりくさって歩きまわるどんな警官も、破滅の日を、すこしばかり先へ伸ばしつつも、その日のくることの絶対的な確実性を強めていった。男たちはしゃがみこんでいた。とげとげしい顔、飢えにやせ、飢えとたたかうためにけわしくなった顔、不機嫌《ふきげん》な目つき、こわばった顎《あご》。そして豊かな土地が彼らをとり巻いているのだ。
あの四つめのテントの子供の話を聞いたか?
いんや、いま帰ったばかりで。
うむ、その子はな、眠ったまんまで泣いたりもがいたりしてたそうだ。親たちは、きっと虫のせいだろうと思って、毒消しを飲ませた。そしたら死んじまっただ。黒舌病とかいう病気だとよ。滋養になるものをちっとも食わねえとかかるんだとさ。
かわいそうに。
ほんとによ、だが親たちは、その子を埋葬してやることができねえだよ。村の共同墓地へ行かなきゃなんねえだ。
ふむ、みじめなこった。
そして人々の手はポケットへつっこまれ、小銭がとり出される。テントの前に銀貨の小さな山ができる。
おれたちはみんないい人間だ。おれたちはみんな心がやさしいんだ。神よ、いつの日か心やさしい人間が、みんな貧乏でなくなりますように。神よ、いつの日か、子供たちが食えるようになりますように。
そして地主の組合は、いつの日か、この祈りがやむときがあるのを知った。
そして、それは破滅の日なのだ。
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第二十章
家族たちは、荷物の上に乗っていた。子供たちとコニーと『シャロンのバラ』と説教師とは、小さくなって体を堅くしていた。ベイカーズフィールドの検屍官《けんしかん》事務所の前で、そこへはいって行った両親とジョン伯父を待って、暑い日向《ひなた》に、さっきから坐《すわ》っていたのだ。やがて籠《かご》をとり出すと、細長い包みをトラックからおろした。検屍がおこなわれ、死因が明らかにされ、死亡証明書に署名がすむまで、彼らは日に照らされて坐っていた。
アルとトムは、往来をぶらぶら歩いて、商店の窓をのぞきこんだり、歩道を歩いて行く見なれぬ人々の姿をながめたりしていた。
やっと、父親、母親、それからジョン伯父の三人が出てきた。彼らは、うち沈み、黙りこくっていた。ジョン伯父が荷物の上へのぼってきた。父親と母親とは座席に腰かけた。トムとアルは引っかえしてきて、トムはハンドルの下にもぐりこんだ。何か指示があるだろうと思って、だまってそこに腰をおろした。父親は、まっすぐ正面をにらんで、黒い帽子を、目深《まぶか》にかぶっていた。母親は指で口の端をこすり、目は、ぐったりと死んだように、ぼんやり遠くをながめていた。
父親は深い溜息《ためいき》をもらした。「ほかにどうすることもできなかったでな」と言った。
「わかってるだよ」母親が言った。「だけど、ばあさまは、ちゃんとしたお葬《とむら》いをしてもらいたかっただろうね。いつもそう言ってたもの」
トムは顔を横向けて、両親のほうを見た。「村へ行くのかい?」ときいた。
「そうだよ」父親は、ふと現実に戻《もど》ろうとするかのように、急に首をふった。「金が足りなかったもんだでな。そうしてやれなかっただよ」それから母親のほうを向いて言った。「わるく思うなよ、な。いくら骨折っても、どうやってみても、できなかったでな。防腐処置をすることもできなかっただし、お棺もなければ、牧師さまも呼べず、一坪の墓地もねえ始末だ。おれたちの持ち金の十倍もなければ、そうはできねえだよ。それでも、まあ、できるだけのことをしたわけだて」
「わかってるよ」母親は言った。「わたしゃ、ただばあさまが、りっぱなお葬いのことを始終考えてたってことが、頭からはなれねえだけのことさ。忘れなくちゃいけねえだね」そして深い溜息をついて口の端をこすった。「あそこの人は、とてもいい人だったね。ばかにいばっていたけど、でも、とてもいい人だよ」
「そうだな」父親が言った。「ちっともわけへだてなしに話してくれただ。いい人だよ」
母親は髪の毛をうしろへかきあげた。口もとがぎゅっとしまった。「さあ、行かなきゃ。寝るところをさがしに行かなきゃ。仕事を見つけて落ちつかなきゃ。小さい連中の腹をすかせておいても仕方がねえだからね。ばあさまは、そんなやりかたはしたことがなかっただ。いつだって、お葬いのときはご馳走《ちそう》を食べたものだよ」
「どこへ行くんだい?」トムがきいた。
父親は帽子の庇《ひさし》をあげて髪をかきむしった。「キャンプだよ」と彼は言った。「ちっとばかり残った銭を、仕事が見つかるまでは使い果すわけにゃいかねえだ。田舎のほうへ行こうぜ」
トムが車を動かし、町を通って、田舎へ向って行った。すると橋のそばに、テントや仮小屋がかたまっているのが見えた。トムが言った。「ここで車をとめよう。どんなことをやってるだか、仕事がどこにあるだか、きいてみよう」急な泥濘《でいねい》の坂道をくだってキャンプ地の端に車をとめた。
キャンプには、何の秩序もなかった。小さな鼠色《ねずみいろ》のテントや、仮小屋や、自動車が、乱雑に、そのへんに散らばっていた。とっつきの家など、話にならぬほどひどかった。南側の壁は錆《さ》びたベコベコの鉄板が三枚、東側の壁には二枚の板のあいだに四角な黴《かび》くさい絨毯《じゅうたん》がさしこんであり、北側の壁は、半分は屋根紙、半分はぼろぼろの防水布だ。そして西側の壁は六枚の南京《ナンキン》袋でできているといった始末だ。この四角い箱の上に、けずりもせぬ柳の枝を組んだのへ草を積みあげて――屋根が葺《ふ》いてあるのではなく、ただ小山のように積みあげてあるだけだ。南京袋の壁のところにある入口には、家財道具が、はみ出していた。五ガロン入りの灯油の缶《かん》が、ストーブがわりであった。錆《さび》だらけの煙突が端にさしこんであって、缶は横倒しになっていた。洗濯《せんたく》缶が一つ壁ぎわに押しつけてある。そのまわりに、箱がいくつか、かためておいてある。腰かけるための箱、食卓のかわりにする箱。T型フォードのセダン車が一台と、二輪車のトレーラーとが、この仮小屋のわきにおいてあり、そしてこの家の周囲には、だらけた絶望の感じがたれこめていた。
その隣には小さなテントがあった。雨風によごれて鼠色になってはいるが、これは小ぎれいで、うまく組み立ててあった。テントの前に、いくつかの箱が片よせておいてあった。入口の垂布《たれぬの》のなかからストーブの煙突が出ており、テントの前の塵芥《ごみ》は、きれいに掃除されて、水が撒《ま》いてあった。A型のロードスターが一台に小さな自家製のベッドを運ぶトレーラーがテントのわきにおいてあった。
つぎは大きな、ぼろぼろのテントで、ずたずたに破れた布を針金でくくってあった。垂布が、かかげてあり、なかには四枚の広いわら布団《ぶとん》が地面に敷いてあった。壁につりならべた衣類は、ピンクの木綿のドレスと、仕事着が数着だ。テント、仮小屋の数は四十戸で、その住居のわきには、きまって自動車がおいてあった。家並みのずっと向うに、数人の子供が立って、新しく着いたトラックを見つめていたが、やがて近づいてきた。仕事着に裸足《はだし》の男の子たちで、髪の毛は、埃《ほこり》で白くなっていた。
トムはトラックをとめ、父親の顔を見た。「あんまりきれいなとこじゃねえだな。どこかよそへ行くかい?」
「ここがどんなとこだかわかるまでは、どこへも行くわけにゃいかねえだよ」と父親は言った。「仕事のことをきかなきゃなんねえだ」
トムはドアをあけて外へ出た。家族のものは、みな荷物の上からおりて、もの珍しげにキャンプの様子を見まわしていた。ルーシーとウィンフィールドとは、街道での習慣で、バケツをおろし、水辺の柳の木立のほうへ歩いて行った。すると、並んでいた子供たちの行列がわれて、二人のあとを追った。
とっつきの小屋の入口の垂布が開いて、女が一人顔を出した。半白の髪の毛を紐《ひも》でたばね、よごれた花模様のマザー・ハバードを着ていた。顔は、しなびて元気がなく、くぼんだ目の下には深い黒っぽいたるみがあり、口もとは、ゆるんで、しまりがなかった。
父親が言った。「わしどもも、どっかへ宿をとらせてもらえねえだかね?」
女の首は小屋のなかへ引っこんだ。しばらく静かだったが、やがて垂布をかきわけて、シャツ姿の顎《あご》ひげをはやした男が外へ出てきた。女は、そのうしろからのぞいていたが、表へは出てこなかった。
ひげ男は言った。「やあ、こんにちは」そして落ちつきのない黒い目で家族の一人一人を、とびかかるようにながめ、それからトラックや家財道具まで見まわした。
父親が言った。「いまお宅のおかみさんに、どっかへわしらの荷物をおろしてもいいだろうかってきいたとこなんだがね」
顎ひげの男は、じっと父親の顔を見つめ、まるで、何か非常に賢いことを言われたので、よく考えてみねばならぬといったような顔をした。「ここへ宿をとろうっていうのかい?」
「そうなんだ。誰《だれ》かここの地主でもいて、キャンプする前に会っとかなきゃならねえようなことでもあるだかね?」
ひげ男は、片目をつぶるように細めて、父親の様子を観察した。「ここにキャンプしてえというんだね?」
父親は、癇癪《かんしゃく》が起ってきた。半白髪の女が、麻袋の小屋のなかからのぞいていた。「わしのいうことを、おまえさん、どう思いなさるのかね?」父親は言った。
「そうよな。ここにキャンプしてえと思ったら、キャンプしたらいいだ。わしは、おまえさんの邪魔はしねえだよ」
トムは笑った。「やっとわかったらしいや」
父親は腹だちをおさえて言った。「わしはただここの地主がいるかどうかきいたまでだよ。地代は払うのかね?」
ひげ男は顎をつき出して、「地主って誰だい?」と、きき返してきた。
父親は、そっぽを向いて「勝手にしやがれ」と言った。女の首はテントのなかへ引っこんだ。
ひげ男は恐ろしい剣幕で進みよってきて、「地主って誰なんだ?」と問いかけた。「誰が、ここからおれたちを追いだすだ? 聞かしてくれ!」
トムは父親の前に立ちふさがった。「おまえさん、ぐっすり一眠りしたほうがいいだよ」ひげ男は、あんぐりと口をあき、よごれた指を下の歯茎に押しつけた。しばらく、抜け目のない、考え深い目つきでトムの顔をながめていたが、やがて、くるりと背を向けて、女のあとから小屋のなかへ引っこんでしまった。
トムは父親のほうを向いた。「いったいどういうことだね?」
父親は肩をすくめた。ずっとキャンプ地のなかを見渡した。一つのテントの前に、古いビュイックが一台おいてあり、シリンダー・ヘッドがはずしてあった。若い男がバルブをみがいていて、前後に道具をまげる動作をくりかえしながら、顔をあげて、こちらのジョード家のトラックを見た。彼がひとりで笑っているのが見えた。ひげ男の姿が消えると、若い男は仕事をやめて、ぶらぶら近づいてきた。
「こんちは」と言いながら、青い目が、おもしろそうに光っていた。「市長《ヽヽ》さんに会いなすっただね」
「あの野郎、いったいどうしたというんだい?」トムが問いかけた。
若い男は、くすくす笑った。「なあに、おめえやおれと同じように頭が変になっているだけさ。ことによると、おれよりもすこしばかり頭が変かもしれねえな」
父親が言った。「わしは、ここへ宿をとってもいいかってきいただけなんだがな」
若い男は、油のついた手をズボンでふきながら言った。「いいともさ。かまうもんかね。おまえさんがた、いま着いたのかい?」
「そうだよ」とトムが言った。「けさこの町へはいってきただ」
「これまでフーバビルにいたことはねえのかい?」
「フーバビルって、どこだい」
「ここがそれさ」
「そうか」とトムが言った。「そんなら、いまはいってきたところさ」
ウィンフィールドとルーシーとが、水を入れたバケツを両方からぶらさげて戻ってきた。
母親が言った。「さあ、テントをつくろうよ。あたしはへとへとだよ。どうやら、これでみんな休めそうだね」父親とジョン伯父は、防水布やベッドをおろすためにトラックへ這《は》いあがった。
トムは若い男のそばに近づき、彼といっしょに、いままで彼が働いていた車のほうへ行った。バルブみがきの把手《とって》が、裸にされた車台の上においてあり、バルブみがきの粉を入れた小さな黄色い缶は真空|槽《そう》の上に押しこんであった。トムがきいた。「あのひげおやじは、いったいどうしたっていうんだい?」
若い男は把手をとりあげ、前後にひねりながら、バルブをみがく仕事にとりかかった。「市長《ヽヽ》さんかい? 何だかわかるもんか。ことによったら警官恐怖症かもしれねえな」
「警官恐怖症って何のことだい?」
「きっと、あんまり警察のやつらにきりきり舞いさせられたんで、まだ目がまわってるんだろうよ」
トムがきいた。「何だってやつらは、あんなおやじをきりきり舞いさせるだい?」
若い男は仕事の手をとめて、トムの目に見入った。
「何でだか、そんなこと知るもんか」と彼は言った。「おまえは、いまきたばかりだ。たぶんこれから土地のこともわかってくるだろうよ。ああいうやつもいれば、こういうやつもいる。だが、まあ、しばらくここに住んでてみねえ、保安官補の野郎が、どのくらい早くおまえのことを小突きまわしにかかるか、すぐにわかるだ」彼はバルブを一つ持ちあげ、バルブ床にみがき粉を塗りつけた。
「だって、何のために、そんなばかなことをするだ?」
「知らねえよ。おれたちに投票をさせたくねえためだというやつもいるだ。こうやって、おれたちが始終あっちこっち動いてれば、投票はできねえからな。また、おれたちが救済資金を受けられねえようにするためだというやつもいるだ。一カ所に住みつくと組織ができるからだと言ってるやつもある。おれにゃ、なぜだかわからねえだ。わかるのは、おれたちがたえず車に乗ってることだけよ。まあ、見てなよ、そのうちにわかるだ」
「おれたちは乞食《こじき》じゃねえだ」トムは言いはった。「仕事をさがしてるだ。どんな仕事だってやるんだ」
若い男は、把手をバルブの小さな穴にとりつけるあいだ、黙っていた。そして、驚いた顔をしてトムのほうを見た。「仕事をさがしてるって? じゃ、やっぱり仕事をさがしてるんだな。それでおまえ、ほかのやつらは、何をさがしてると思うだ? ダイヤモンドか? おれがこの驢馬《ろば》に石炭かけの最後の一粒までのっけて、何をさがして歩いてると思うだ?」彼は前後に把手をひねった。
陰惨なテントを、屑《くず》ばかりの荷物を、古ぼけた自動車を、日にほしてある小波《さざなみ》のようなわら布団を、人々が煮炊《にた》きをする黒い缶が窪地《くぼち》に落ちているのを、トムは、ながめまわした。彼は静かにきいた。
「みんな仕事がねえのかい?」
「知らねえだ。きっとそうだろう。いまはこの土地には、何も作物がとれねえだよ。葡萄《ぶどう》摘みは、まだ先のことだし、綿花摘みも、まだ先だて。おれんとこも、これから引っ越しさ。もうじき、このバルブをみがき終えたら、女房《にょうぼう》と餓鬼どもをつれて出かけるだ。北のほうへ行くと仕事があるって話をきいただ。だから北へ向けて出かけるだよ。サリーナスあたりまで行くだ」
トムはジョン伯父と父親と説教師とがテント柱に防水布をかけ、母親が、なかで膝《ひざ》をついて地面に敷くわら布団の埃を払っているのを見た。子供たちが、おとなしくまわりに突っ立って、新しく住みつこうとしている家族を見物していた。裸足《はだし》で、よごれた顔をした、おとなしい子供たちだ。トムは言った。「故郷《くに》のほうで、広告ビラを撒《ま》いてったやつがいただよ――オレンジ色のビラさ。ここじゃ畑の作物採取に、うんと人手がいるって書いてあった」
若い男は笑った。「なんでも、おれたちみてえな百姓が、三十万人も、こっちにいるそうだぜ。ところが、どの家族も、そのビラってやつを見てるだ」
「そうだな。だが、もし人手がいらねえものなら、なんだってそんな余計な手数をかけるんだろう?」
「すこし頭を使えよ。なぜおまえは頭を使わねえんだい?」
「うむ。だが、おれはほんとのことを知りてえだ」
「いいかい」若い男は言った。「まずおまえが人にやらせる仕事を一つもってるとする。そして、仕事をほしがってるのは、一人きりだとする。すると、おまえは、その男に、いうなりの賃金を払わなきゃなるめえ。ところが、これが百人いるとしてみねえ」彼は道具を下においた。目は、けわしくなり声も鋭くなった。「その仕事を求める男が百人いるとしてみねえ。その男たちに子供があって、その子供らが腹をすかせてるとしてみねえ。十セント貨一枚で、子供らに玉蜀黍粥《とうもろこしがゆ》一杯食わせられるとしてみねえ。白銅《ニッケル》一枚ありさえすりゃ、すくなくとも、何かしら子供に買ってやれるとしてみねえ。そこで百人の男をやとう。やつらに一枚の白銅貨を出してやるとする――百人の男は、その白銅貨のために殺しあいの喧嘩《けんか》をするだろう。このあいだまで働いてた仕事で、おれが、いくらとってたか知ってるかい? 一時間十五セントだぜ。十時間働いて一ドル五十セントだ。しかも、そこでは泊ることはできねえだ。そこまで行くのにゃガソリンを燃やさなきゃならねえんだ」彼は憤怒《ふんぬ》に息をはずませ、憎悪《ぞうお》で目は燃えていた。「だから、やつらは広告ビラをくばるのさ。畑仕事に一時間十五セント払って、残りを貯《た》めとけば、ビラなんぞ、いくらでも刷れるだろうて」
トムは言った。「そいつはひでえ」
若い男は鋭く笑った。「まあ、しばらくここにいてみねえ。もし、すこしでもいいことがあったら、教えてもらいてえだ」
「だって仕事があるじゃねえか」トムはまだ強情に言った。「なんといったって、これだけいろんなものができてるじゃねえか。働き手がなかったら困るだろうが。果樹園、葡萄園、野菜畑、おいら、みんな見てきたぜ」
自動車のそばのテントのなかで、子供の泣き声がした。若い男はテントのなかへはいって行った。防水布ごしに、やさしい声で、あやすのがきこえた。トムは把手をとりあげ、バルブの穴にあてがい、前後に手を動かして、それをみがいた。子供の泣き声がやんだ。若い男は出てきて、トムを見た。「おまえ、やれるだな。うめえもんだ。いまに、やらなきゃならなくなるだ」
「おれの言ったことはどうなんだい?」トムは話をもとへ戻した。「おいら、みんな育ってるのを見てきただ」
若い男はしゃがみこんだ。「話してやろうか」おだやかに彼は言った。「おれは、ばかばかしく大きな桃畑で働いたことがあるだ。そこでは一年じゅう九人の男を使ってるだが」彼は、話をよくのみこませようと思って言葉をきった。「桃が実ったときには、二週間ほど、三千人の人手がいるだ。どうしてもそれだけ雇わねえと桃が腐っちまうだ。それで、やつらは、どうすると思うかね? そこらじゅうに広告ビラを撒くのさ。入用なのは三千人だが、六千人の男が集まるだ。やつらは、払いたいだけの賃金で、その男たちを雇うだ。やつらのいう賃金ではいやだといえば、勝手にしろだ。そいつの代りに働こうと待ちかまえてるやつが千人もいるだからね。そこで、採るわ、採るわ、たちまちすんじまう。このへん一帯は桃の産地だで、みんな、いちどきに熟すだ。おまえが、もいでるあいだに、ほかのも、みんなもがれてるだよ。このへん一帯、ほかにゃ何も仕事はねえだ。それがすんでしまえば、農場主は、誰《だれ》にもここにいてもらいたくねえ。三千人みんなよ。仕事は終った。おれたちは、泥棒するかもしれねえ、酔っぱらうかもしれねえ、どんちゃん騒ぎをするかもしれねえ。それにおれたちは、柄《がら》がよくねえ。古テントなぞに住んでやがる。だから、おれたちが、このへんにいちゃ困るんだ。そこでやつらは、おれたちを追っぱらうだ。おれたちを引っ越させるだ。まあ、ざっとこういうわけさ」
ジョード一家のテントのほうをながめると、トムの母親が、くたびれきった重い物腰で、木屑を燃やして火を起し、鍋《なべ》を炎の上にかけているのが見えた。まわりに立っていた子供たちは、さらに近よってきた。大きく開いた静かな目が、母親の手の動きを一つ逃さず見まもっていた。腰のまがった老人が一人、穴熊《あなぐま》のように一つのテントから出てきて、のろのろと近づいていき、歩きながら、しきりに鼻をぴくぴくさせていた。腰に腕をまわし、子供たちの仲間入りをして、母親のすることをながめていた。ルーシーとウィンフィールドは、母親のそばに立って、見なれぬ人々に敵意を見せて、にらんでいた。
トムは腹をたてて言った。「桃は、ちょうどいま採取する時期じゃねえのか? 熟したときによ」
「そうともよ」
「だからさ。みんながいっしょになって、『腐らせっちまえ』と言ったらどうなんだ。すぐに賃金はあがるじゃねえか」
若い男はバルブから目をはなして、からかうようにトムの顔を見た。「なるほど、おめえ、何か考えやがっただな。ものは自分の頭で考えていうこった」
「おいら、くたびれてるだ」とトムは言った。「一晩じゅう車を走らせてきたでな。議論はやりたくねえだ。それに、くたびれきってるから、議論するのも容易じゃねえだ。おれをからかっちゃいけねえだよ。おれはおまえさんにきいてるんだ」
若い男は、にやりと笑った。「おいら、からかうつもりはねえよ。おめえは、この土地へきたことがねえだ。みんな、そのことは考えるだよ。桃畑の連中だって、やっぱり考えただ。いいかい、百姓たちが一つにかたまるときにゃ指導者ちゅうものがいるだよ――また、いなきゃならねえだ――みんなに話してきかせる男がな。そこでだ、この男が、ちょっと口を開いたとたんに、やつらは、そいつをつかまえて監獄へたたきこんじまうだ。それからまた他の指導者がとびだすと、そいつを、また監獄へたたきこむだ」
トムは言った。「ふん、監獄へはいれば、とにかく食うだけは食えらあ」
「だけど、その男の子供たちは食えねえだ。誰がおまえ、監獄へはいって子供らを飢え死にさせてえと思うかよ」
「そうだな」トムは、のろのろと言った。「そうだな」
「それにまだ、こういうことがあるだ。ブラックリストのこときいたことがあるかい?」
「何だい、それは?」
「つまりよ、おれたちみんなに団結しろっていえば、それでいいのさ。どうなると思う。やつらは、おまえの写真をとって、そこらじゅうにくばるだ。するともう、どこへ行っても、おまえは仕事にありつくことはできねえ。それから、おまえに子供があれば――」
トムは帽子を脱いで両手のなかで握りしめた。「じゃ、何でも見つかった仕事をやらなきゃ飢え死ぬってわけだ。もしきゃんきゃん吠《ほ》え立てれば、それでもやっぱり飢え死にするってわけだ」
若い男は手で大きく円を描いた。すると、そのなかに、ぼろのテントも、錆《さ》びた自動車も、みんなはいってしまった。
トムが、もう一度母親のほうを見ると、彼女は腰をおろして、馬鈴薯《じゃがいも》の泥《どろ》を落していた。子供たちは、ますます近くへよってきた。彼は言った。「おれは、そんな仕事はやらねえだ。おれの家の人間は羊じゃねえだ。誰でもかまわねえ、けっとばしてやるだ」
「警官みてえにか?」
「誰みてえだってかまわねえさ」
「おまえは頭がどうかしてるだ」と若い男は言った。「やつらは、すぐにおまえをつまみ出しちまうだぞ。おまえには名前もなけりゃ財産もねえだ。鼻や口にかわいた血糊《ちのり》くっつけて溝《どぶ》のなかで死んでるのを見つけられるのが落ちだ。新聞に短い記事がのるだ――何と書かれるか知ってるか? 『浮浪人の死体が発見された』それっきりさ。そういう短い記事を、やがてたくさん見かけるようになるだよ。『浮浪人の死体が発見された』ってね」
トムは言った。「そんときにゃ、おれみてえな浮浪人の死体のそばに、誰かほかのやつの死体も見つかるだろうて」
「おまえはどうかしてるぜ」と若い男は言った。「そんなことしたって、何にもいいことはねえやな」
「それで、おまえさんは、どうするつもりなんだ?」彼は、油で筋のついた相手の顔を見つめた。すると若い男の目には幕がおろされた。
「何もしねえよ。おまえは、どこからきただ?」
「おれたちか? オクラホマのサリソーの近在だ」
「いまきたのか」
「きょうきたばかりだ」
「このへんに長くいるつもりか?」
「わからねえ。働けるところなら、どこにだっているだよ。なぜだい?」
「何でもねえ」そしてまた幕がおろされた。
「さあ、もう寝なきゃならねえ」とトムが言った。「あすは仕事さがしに出かけるだ」
「まあ、やってみな」
トムは男に別れてジョード家のテントのほうへ行った。
若い男はバルブ塗剤の缶《かん》をとりあげ、そのなかへ指をつっこみながら、「おい!」と声をかけた。
トムはふり向いた。「何か用か?」
「話があるだ」彼は塗剤をくっつけた指で招いた。「ちょっと話してえことがあるだ。あまりごたごたをさがして歩くんじゃねえ。さっきのあの警官恐怖症が、どんなふうだったか、おぼえてるか?」
「あすこのテントのおやじかい?」
「そうだよ――唖《おし》みてえだろう――気がつかねえか?」
「あのおやじが、どうしたというだね?」
「いいか、警官がはいってきたら――しょっちゅうはいってくるだからな、おまえも、あんなふうになるだ。唖にさ――何も知らねえ。何もわからねえ。警官は、そういうのが好きなんだ。手出しするんじゃねえぜ。自殺するのと同じだからな。警官恐怖症になんなよ」
「生意気な警官の野郎に踏んづけられても、何もするなっていうのか」
「そうよ。よくききなよ。おいら、今夜おまえのとこへ行くだよ。ことによったら、おいらがまちがってるのかもしれねえ。このへんにゃ、いつでも密偵《いぬ》がうろついてるだ。おいらは、あぶねえことを言ってるだ。それに、おいらにゃ子供もあるしよ。だが、おいら、おまえんとこへ行くぜ。だから、もし警官に会ったら、おまえは唖のオーキーになるんだ。わかったな?」
「もし、何かやるっていうんなら、唖になってもいいだよ」とトムが言った。
「心配するな。おれたちは、何かやるだが、ただ目立たねえようにしてるだ。子供って、すぐにまいっちまうだでな。二日か三日で子供は餓死するだ」彼はまた仕事にとりかかった。バルブ床に塗剤を塗り、手を激しく前後に把手《とって》の上で動かした。その顔は唖のように愚かしく見えた。
トムは、ぶらぶら自分のテントへ戻《もど》って行った。「警官恐怖症か」と息の下で言った。
父親とジョン伯父とは、かわいた柳の枝をかかえてキャンプのほうへ戻ってきて、どさりと火のそばへそれをおろし、地面にあぐらをかいた。「薪《まき》をたくさん拾ってきてやったぜ」と父親は言った。「薪をとるにゃ、よっぽど歩かにゃなんねえだ」彼は、円陣をつくって見つめている子供たちのほうを見あげた。「あれまあ、これはどうしたってこった!」と彼は言った。「おまえら、どこからきただ?」子供たちは、気恥ずかしそうに、めいめい自分の足を見た。
「料理の匂《にお》いをかいできたんだよ」と母親が言った。「ウィンフィールや、足もとからどいておくれよ」と、少年をそばから押しのけた。「シチューをすこしこさえなきゃ」と母親は言った。「故郷《くに》を出てから、まともに料理したものを、まだ一度も食べてねえだものね。お父っさん、あっちのほうに店があるだから、行って肉をすこし買ってきておくれ。おいしいシチューをこさえるだからね」
父親は立って、出かけて行った。
アルは車のフードを持ちあげて、油だらけのエンジンを見ていた。トムが近づくと彼は顔をあげた。
「まるで禿鷹《はげたか》みてえにうれしそうな顔をしてるだな」とアルが言った。
「春雨の中の|ひきがえる《ヽヽヽヽヽ》みてえに陽気だて」とトムが言った。
「エンジンを見てくれよ」とアルは指さした。「調子がいいだろう」
トムは、のぞきこんで言った。「おれの目にも、どこもわるくねえように見えるだ」
「どこもわるくねえって? 冗談じゃねえや、とびきり上等じゃねえか。油なんぞ一滴も出してやしねえぜ」点火プラグを抜いて人差し指を穴のなかへつっこんだ。「いくらかかたまってるが、よくかわいてるだよ」
トムが言った。「おめえ、ほんとにうまくねじあけただな。おれにそれを言わせたかったのかい?」
「いや、おれがへまをやったんで破裂しちまったのかと思って、途中ずっとびくびくしてただよ」
「なあに、うまくやっただよ。ちゃんと元どおりにしとくがいいだ。あしたは仕事さがしに出かけるだから」
「車は動くだ」とアルは言った。「それだけは心配しなくていいだ」彼はポケット・ナイフをとり出し、点火プラグのさきを掻《か》いた。
トムがテントのわきをまわって歩いて行くと、ケーシーが地面に坐って、まじめくさった顔で裸足《はだし》の片方を見ていた。トムは、どたりと彼のそばに腰をおろした。「動くかい?」
「何が?」とケーシーがきく。
「おまえさんの足の指がさ」
「何だ。わしはここで考えごとをしてただけだよ」
「だから、おまえさんは、いつもくよくよしねえんだな」とトムが言った。
ケーシーは足の親指を上へ、二番めの指を下へ動かして、静かにほほえんだ。「考えごとにもならねえのに、ものを考えるってのは、辛《つれ》えもんだな」
「しばらくおまえさんの話もきかなかっただな」とトムは言った。「しじゅう考えごとをしてるのかい?」
「うん、しょっちゅう考えてるだよ」
トムは布製の帽子を脱いだ。もうすっかりよごれて、廃物同様になり、庇《ひさし》は鳥の嘴《くちばし》のように尖《とが》っていた。彼は内側の汗とりの帯《バンド》を引っくりかえして、細長くたたんだ新聞紙のはさんだのをとり出した。
「あんまり汗が出て縮んじまっただ」と彼は言った。そしてケーシーの動く足指を見た。「おまえさん、ちょっと考えごとをやめて、おれの話をきいてくれるだかね?」
ケーシーは茎のような首の上にのせている頭を、こちらへ向けた。
「いつだってきくだよ。わしは、そのために考えごとをするんだでな。人の話を聞いてると、すぐにわしには、みんなの気持の動き方がきこえてくるだ。気持は、いつも動いてるだ。わしはそれをきいて、その動きを感じるだよ。みんな屋根裏の小鳥みたいに翼をばたばたさせてるだ。埃《ほこり》のたまった窓の上で外へ出ようとして翼を破れるほどばたつかせてるだ」
トムは目をまるくしてケーシーを見ていたが、やがてこんどは二十フィート先の鼠色《ねずみいろ》のテントを見た。洗濯《せんたく》された綾織《あやお》りズボンとシャツと上着がテントに張った綱にぶらさがって干してあった。彼はやさしく言った。「おれが話そうと思ってたのも、そのことだて。ところがおまえさんはもう知ってるだな」
「知ってるだよ」ケーシーはうなずいた。「武装してねえ軍隊がいるだ」彼は首をたれ、ひろげた手で、ゆっくりと額から髪のなかまで撫《な》であげた。「途中ずうっと、わしは見てきただ」と彼は言った。「どこで泊ったときでも、それが見えただよ。みんな脇肉《わきにく》をほしがって、がつがつしてるけんど、肉が手にはいったときには、もう食う力がなくなってるだ。それで、あんまり腹がへって、たまらなくなると、お祈りをしてくれと、わしに頼むだ。だから、わしもときにはお祈りをしただ」折りまげた両膝《りょうひざ》を手でかかえこむようにして彼は言葉をつづけた。「お祈りをすれば、それが相手を楽にするのだろうと、わしはいつも思っただ。お祈りをすると、心配や苦労が、みんな蠅取紙《はえとりがみ》にくっつく蠅みてえに、そのお祈りにくっついて、そのお祈りが心配や苦労を背負《しょ》って、すうっとはなれていくだ。だが、それ以上の働きはしねえだ」
トムは言った。「お祈りしたって脇肉が手にはいるもんじゃねえ。豚の肉を手に入れるには子豚が必要だて」
「そうだ」とケーシーは言った。「全能の神さまだって賃金をあげてくれやしねえだよ。ここにいる連中だって、お上品な暮しをしていて、自分たちの子供もお上品に育ててえと思っとるだ。年齢《とし》をとったら、戸口にゆっくり腰でもおろして、太陽の沈むところをながめてえと思っとるだ。若いやつはダンスをしたり歌をうたったり、女の子といっしょに寝てえと思っとるだ。食って、飲んで、働きてえと思っとるだ。つまり、何だよ――くたくたに足腰を動かして、くたびれてえのさ。ばかな! わしは、何をしゃべってるんだろう?」
「何だかな」とトムは言った。「だけどおもしろくきいてたぜ。考えごとをしてても、おまえさんは、仕事にとっついて、むずかしい呪文《じゅもん》を考えるのをやめることできるだかね?おれたちは仕事にとっつかなきゃならねえだ。金は、あらかたなくなっちまっただ。おやじはばあさまの墓に立てるペンキ塗りの板をつくらせるのに、五ドル払っただよ。もういくらも残っちゃいねえだ」
やせた茶色の雑種犬が一匹、テントのまわりを、鼻をくんくんさせながら、やってきた。犬は、おどおどして、逃げ腰だった。地面に鼻をつけてかぎながらきたので、二人の人間がいるのに気がつかず、顔をあげて二人を見つけると、ぴょんと横にとびのいて、耳を上に向け、身を守ろうとするかのように骨っぽい尻尾《しっぽ》を巻きあげて逃げ去った。二人の目のとどかぬところへ逃げようとして、テントのまわりを、まごまごしながら去って行く犬を、ケーシーは見送った。彼は溜息《ためいき》をして言った。「わしは、何ひとつ役にたたねえだ。自分にも、他の誰にもな。一人で出て行っちまおうかと考えてただ。わしは、ごくつぶしだ。みなのいる場所をふさげてるだ。それでいて、みんなに、何もしてやれねえだ。何かしっかりした仕事がめっかったら、いままで養ってもらったお返しができるかもしれねえだが」
トムは口を開いて、下顎《したあご》を前へつき出し、かわいた芥子菜《からしな》の茎で下歯をたたいた。目は、このキャンプ地の鼠色のテントや、雑草とブリキと紙でできた小屋の家並みを、じっと見つめていた。「ダーラム(煙草《たばこ》)が一袋ほしいだな」と彼は言った。「もう、ずいぶん長いこと煙草を吸わねえだ。マカレスターにいた時分にゃ、煙草も手にはいっただがな。あそこへまた戻りてえくらいだ」彼は、また歯をたたいてから、急に説教師のほうを向いた。「監獄へはいったことがあるかい?」
「いんや」とケーシーは言った。「一度もねえだ」
「まだここを離れちゃいけねえだよ」とトムが言った。「まだいけねえだ」
「すこしでも早くさがしに行けば――すこしでも早く仕事にかかれるだな」
トムは薄目で相手の様子をながめながら、また鳥打帽をかぶった。「なあ」と彼は言った。「ここは牧師がよくいうような乳と蜜《みつ》の流れる国じゃねえだ。ここにあるものは、もっと下劣なものだ。土地のやつらは、おれたち西へ移ってきたもののことを、ひどくこわがってやがる。だから逆におれたちをこわがらせようと思って警官なんぞよこしゃがるだ」
「うん」とケーシーは言った。「知ってるよ。監獄にいたことがあるかなんて、何でそんなことをきくだね?」
トムは口ごもりながら言った。「監獄にはいってると――人間は、こう、何というか――勘が鋭くなるだよ。大勢で、いっしょに話をさせてくれねえだから――二人きりで話すことはあるだが、大勢かたまることはねえだ。だから勘が鋭くなるだ。何か事件がもちあがりそうなときには――誰かが騒動を起してモップの柄《え》か何かで看守をやっつけようと思ったりしてると――それが、ちゃんとわかっちまうだ。そして、脱走だの暴動だのがはじまるってときには、けっして、口に出していう必要はねえだ。ちゃんと勘でわかるだ。わかるだろう?」
「うむ」
「まあ、ここにいてくれよ」とトムは言った。「とにかくあしたまではいてくんなよ。何かおっぱじまるだから。さっき、この道の向うのほうにいる若造と話をしただがね。そいつは、まるで山犬みてえにすばしこくて、利口なやつなんだ。すこしばかり利口すぎるだよ。自分のやることをちゃんとのみこんでいて、人におせっかいもしねえかわり、自分も人からおせっかいをされねえで、愉快に暮してえと思ってる罪のねえ気持のいいやつなんだ――鶏《とり》小屋《ごや》がすぐ近くにあったっけ」
ケーシーは、じっと相手の顔を見つめて、何か問いかけそうにしたが、無言で口をとじた。足の指を、ゆっくりと動かし、それを自分でよく見るために膝《ひざ》を伸ばして足を前へ出した。「いいだ」と彼は言った。「いますぐは行かねえだ」
トムが言った。「たくさんの百姓が――おだやかな人のいい百姓が、何も知らねえような顔つきをしてるときにゃ、何かおっぱじまるだ」
「わしはここにいるよ」とケーシーが言った。
「あしたはトラックで仕事をさがしに行くだ」
「そうだ!」ケーシーは言って、足の指を上下に動かし、沈痛な顔で、それをながめた。トムは肘枕《ひじまくら》をして目をとじた。テントのなかで、『シャロンのバラ』が何かつぶやくのにコニーが答えているのがきこえた。
防水布が暗い影を地上に投げ、その両端に楔形《くさびがた》の光がくっきりと見えた。『シャロンのバラ』は、わら布団《ぶとん》の上に横になり、そばにコニーがうずくまっていた。「おっ母さんの手伝いしなきゃいけないんだけど」と『シャロンのバラ』が言った。「何か手伝おうと思って、そのへんを動きまわると、すぐ追っぱらわれちゃうのよ」
コニーは不機嫌《ふきげん》な目つきをしていた。「こんなふうになると思ったら、おいらは、こなかっただよ。故郷《くに》にいたときに、毎晩トラクターの講習を受けといたら、三ドルの仕事にありつけただ。一日に三ドルあれば、楽に暮せるだし、映画にだって毎晩行けるだ」
『シャロンのバラ』は心配そうな顔をした。「あんたは夜ラジオの勉強をするつもりだったんじゃないの?」と彼女は言った。そして相手がなかなか返事をしないので、「そうでしょう?」と問いつめた。
「うん、そうさ。もうじき、おれは一本立ちになるだ。すこし金を稼《かせ》いだらな」
彼女は膝をついて身を起した。「あきらめちゃ、だめよ!」
「あきらめやしねえさ――大丈夫だよ。でも――こんなとこで暮すようになるとは、おいら、思わなかっただよ」
女は、きびしい目をした。「やらなきゃだめよ」と、静かに言った。
「やるさ。やるとも。わかってるよ。早く一本立ちにならなきゃ。すこしでも貯金してね。故郷《くに》に残って、トラクターの講習を受けたほうが、よかったかもしれねえな。一日に三ドルもらうほかに、臨時の手当だってあるだ」『シャロンのバラ』の目は値ぶみをしていた。コニーがその顔を見ると彼女の目が計算し値ぶみをしているのが見えた。「でも、おいらは勉強するだ」と彼は言った。
「すぐに一本立ちになるだよ」女がはげしく言った。「赤ん坊が生れる前に、家をもたなきゃならないわ。テントじゃ赤ん坊が生れるのに困るもの」
「そうだとも」と彼は言った。「すぐに、おいら一本立ちになるだよ」彼はテントの外へ出て、焚火《たきび》の上へかがみこんでいる母親の姿を見おろした。『シャロンのバラ』は仰向けになって、テントの天井を見あげた。それから、親指を轡《くつわ》のように口へ押しこみ、音を立てないようにして泣いた。
母親は火のそばにひざまずいて、シチュー鍋《なべ》の下の炎を弱めないように小枝をくべていた。炎は燃えあがっては弱くなり、燃えあがっては弱くなった。十五人もの子供たちが、あいかわらず黙って見物していた。そして、煮えるシチューのにおいが彼らの鼻をおそうと、鼻がみなすこしばかりねじれた。夕日が、埃《ほこり》で黄色っぽくなった髪の毛を照らしていた。子供たちは、そこにいることを気恥ずかしく思っていたが、それでも動かなかった。母親は、ものほしそうな円陣の内側に立っている小さな女の子に静かに話しかけた。他の子供たちよりも、いくらか年上だった。片足で立って、あげた片足の裸足《はだし》の裏で脛《すね》のうしろをこすっていた。両腕をうしろで組みあわせていた。小さな灰色の目で、まじまじと母親の顔を見まもっていた。
「おばさん、なんなら薪を折ってあげてもいいわよ」と、女の子はほのめかした。
母親は火から顔をあげた。「お食べと言ってもらいたいのかい?」
「そうよ、おばさん」女の子は、しっかりした声で言った。
母親が鍋の下へ小枝をすべりこませると、炎は、ぱちぱちと音を立てた。「朝食を食べてないのかい?」
「そうよ、おばさん。このへんじゃ、みんな仕事がないのよ。うちのお父っさんは何か品物を売って、それでガソリン買って、よそへ行こうと思ってるの」
母親は顔をあげた。「この子たち、みんな朝食を食べてないのかい?」
輪になった子供たちは、神経質にいどころを変え、煮えている鍋から目をそらせた。小さな男の子が誇り顔に言った。「おれは食べただ――おれと弟とは食べただよ――そいから、あの子たちも、二人とも食べただ。おれ、見てただもの。おれたち、うんと食べたよ。今晩、南のほうへ行くだ」
母親は微笑した。「じゃ、おまえはお腹《なか》すいてないね。ここには、みんなにあげられるほどたくさんはねえだからね」
男の子は唇《くちびる》をつき出した。「おれたちは、うんと食べただ」と言って、彼は走りだし、テントのなかへ、もぐりこんだ。母親は、そのうしろ姿を、あまり長く見ていたので、年かさの女の子に注意された。
「おばさん、火が消えそうだよ。あたいが燃やしてあげようか」
ルーシーとウィンフィールドは、同じ円陣のなかに立って、立場相応の冷淡さと自信とを見せてふるまっていた。二人とも超然とし、同時に執着していた。ルーシーは冷たい怒りの目を年かさの女の子に向けていた。そして、地面に腰をおろして、母親のために小枝を折りはじめた。
母親は鍋の蓋《ふた》をあげ、棒でシチューをかきまわした。
「おまえさんたちのなかに、お腹のすいてない子がいるなんて、ほんとにうれしいだよ。とにかくあの男の子は、すいてないようだね」
女の子は冷笑した。「あら、あの子が! あの子は、からいばりしてんのよ。えらそうなこと言って。晩めしも食べてないときに――あの子がどんなほらを吹くか、わかる? ゆうべも外へ出てきて、鶏を食べるんだなんていうのよ。ねえ、それであたいが、あの子の家《うち》で食べてるとこのぞいてみたら、やっぱりよその家と同じで、練った粉を油で揚げたものだったわ」
「まあ!」と言って、母親は、さっきの男の子がはいって行ったテントのほうをながめた。それから女の子のほうを見かえった。「あんた、カリフォルニアへきてから、どのくらいになるの?」ときいた。
「そうね、半年ぐらいよ。しばらく国営キャンプにいて、それから北のほうへ行ったの。そいで帰ってきてみたら、キャンプはいっぱいだったの。ほんとにあそこは暮しよかったわ」
「それは、どこなの?」母親がきいた。そして彼女はルーシーの手から薪をとって自分で火にくべた。ルーシーは憎らしそうに年かさの少女をにらんだ。
「ウィードパッチの近くよ。上等な洗面所やお風呂《ふろ》があって、盥《たらい》でお洗濯《せんたく》ができたし、水もたくさんあったわ。とてもいい飲める水よ。夜になると、みんなで音楽をやって、土曜日の晩はダンスの会をしたの。ああ、ほんとに、あんないい場所ってないわ。子供たちの遊び場もあるし、トイレには紙もあるの。小さな栓を押すと、トイレのなかに水がいっぱいになるし、勝手なときにおまわりがテントのなかをのぞきにきたりもしないし、キャンプの世話をする人も、とても丁寧で、たずねてきて話をするときだって、ちっともからいばりなんかしないわ。あたい、またあそこに住みたいわ」
母親は言った。「そんな話、あたしゃ、きいたことがねえだ。ほんとにあたしも洗濯盥が使えたらねえ」
女の子は熱心にしゃべりつづけた。「そりゃすてきよ。熱いお湯がパイプのなかにあるから、シャワーの下へはいると、とても温かいのよ。あんなとこ、見たことないわ」
母親が言った。「満員なんだって?」
「そうよ。この前うちで頼んだときは満員だったわ」
「ずいぶんお金がかかるんだろうね?」と母親が言った。
「そりゃ、かかるわ。でも、お金がなければ、働かせてくれるのよ――週に二時間くらい。お洗濯だの塵芥《ごみ》捨てだの、そんな仕事よ。そいで夜は音楽をきいたり、みんなでお話をしたり、お湯はパイプのなかから出るし。あんないいとこ、どこにもないわ」
母親が言った。「ほんとに、そんなところへ行きたいもんだね」
ルーシーは、とうとう我慢ができなくなった。彼女は憤然と口を出した。「うちのばあさまはトラックの上で死んだのよ」女の子は、何ごとかと彼女のほうを見た。「そうよ、死んじゃったのよ」ルーシーは言った。「それで検屍官《けんしかん》がばあさまをつれてっちゃったのよ」彼女は、きっと口をとじ、小さな薪の山を突きくずした。
ウィンフィールドは、この大胆な攻撃に、どきりとした。「トラックの上でだぜ」彼は口まねした。「検屍官がばあさまを大きな籠《かご》に入れたんだ」
母親が言った。「二人とも静かにおし。静かにしないんなら、あっちへ行かせるよ」彼女は火に薪をくべた。
軒づたいにアルはバルブみがきを見に行った。「もうあらかたすんだようだね」
「あとまだ二つあるだよ」
「このキャンプには女の子いるかい?」
「おいらは女房もちだて」と若い男が言った。「女の子と遊ぶひまはねえだ」
「おいらは、女の子と遊ぶひまなら、いつだってあるだ」とアルは言った。「ほかにゃ、何をするひまもねえだがね」
「おめえも、もっと腹がへると、考えが変るだよ」
アルは笑った。「そうかもしれねえ。だが、いまんとこ、この考えに変りはねえだな」
「さっき、おいらと話をした男も、おめえといっしょかい?」
「そうだよ! おいらの兄貴のトムだ。あいつをからかわねえほうがいいだぜ。人を殺したことがあるだでな」
「ほんとか? 何でだ?」
「喧嘩《けんか》よ。トムにナイフを突きさしたやつがあるだ。そこでトムは、野郎にシャベルをぶっくらわしただよ」
「そうかい。それで裁判はどうなっただ?」
「喧嘩だもの、もちろん釈放されたさ」とアルが言った。
「喧嘩好きのようには見えねえがな」
「そうさ、そんな男じゃねえもの。――トムは人に勝手なことをさせとくような男じゃねえだ」アルはひどく得意だった。「トムは、おとなしいだ。だけど――気をつけなよ!」
「ふむ――おいら、話をしてみたが、性悪《しょうわる》な人間じゃねえようだて」
「そうだとも。腹をたてるまでは、まるでパイみてえに素直だが、腹をたてたとなると――そんときは気をつけなよ」若い男は最後のバルブをみがきにかかった。「バルブを元どおりシリンダーの上にのっける手伝いをしようか?」
「うん、ひまなら頼むぜ」
「すこし眠りてえだが」とアルは言った。「だが、ちくしょう、解体《ほど》いた車を見ると、おいら、手を出さずにゃいられねえだ。すぐ手を出したくなるだよ」
「ああ、手伝ってくれると大助かりだよ」と若い男は言った。「おいらはフロイド・ノールズっていうだ」
「おいら、アル・ジョードだ」
「おめえさんに会えてうれしいだよ」
「おいらもさ」とアルが言った。「同じギャスケットを使うのかい?」
「そうするほかはねえだ」とフロイドが言った。
アルはポケット・ナイフをとり出して穴をけずった。
「ちくしょう」と彼は言った。「エンジンの中身ほど好きなものはねえだよ」
「女の子はどうだい?」
「うん、女の子もだ! ロールスをいっぺんばらばらにして、組み立ててみてえもんだな。おいら一度十六気筒のキャデラックのエンジン・フードのなかをのぞいて見たことがあるが、ちくしょう、あんなすげえのは生れてから見たことがねえだ! サリソーでよ――その十六気筒が、あすこのレストランの前にとまってたんで、おいら、フードをあけて見ただ。すると、一人の男が出てきて、『おい、おめえ、何してるんだ』って言いやがる。『ちょっと見てるだけだよ。すばらしい車だな!』って言ったら、野郎、黙って、そこにつっ立ってやがった。きっとやつは、あの車のなかを、まだ見たことがなかっただ。麦わら帽子をかぶった金持野郎だった。縞《しま》のシャツを着て、眼鏡かけてたよ。二人とも、何も言わずに、ただ見てただ。よっぽどたってから、そいつがいうだ。『どうだ、運転してみないか?』って」
フロイドが言った。「ふん、ばか野郎め!」
「まったくよ――『どうだ、運転してみないか?』――ところがよ、おいら、綾織《あやお》りズボンの仕事着ときてる――泥《どろ》だらけよ。だから、言っただ。『車がよごれるぜ』『乗れよ!』相手がいうだ。『一まわりしてみるがいい』よしきた。そこで座席へ腰をおろして、そのあたりを八回ほどまわっただよ。ほんとうの話だぜ」
「よかったかい?」とフロイドがきいた。
「ああ、ちくしょうめ!」とアルが言った。「あの車を、ばらばらにさせてくれさえしたら、へん――おいら、何も――何もいらねえや」
フロイドは腕を動かすのをゆるめた。最後のバルブをバルブ受けから持ちあげて、それをながめた。「おめえは車庫の番人になればいいだ」と彼は言った。「どうせ十六気筒なんぞ運転する身分にゃなれやしねえだもの」彼は把手《とって》を踏板の上におき、鑢《やすり》を手にとってバルブの滓《かす》を削りにかかった。ずんぐりした女が二人、帽子なしの裸足《はだし》で、乳白色の水をバケツに入れ、二人でさげて通りすぎた。バケツの重さによろよろしながら、二人とも地面から目をはなさずに歩いて行った。午後の日は半分落ちかかった。
アルが言った。「おめえは、何にもあまり好きじゃねえようだな」
フロイドは、ますますはげしく鑢を使った。「おれは、この土地へきて六カ月になるだ」と彼は言った。「そのあいだ、この州を、あっちこっちと駆けずりまわって、自分と女房《にょうぼう》と子供らとが肉や馬鈴薯《じゃがいも》にありつけるようにと、せっせと働きもしたし、飛びまわりもしただ。まるで野兎《のうさぎ》みてえに走りまわってな――それでも食わせられねえだ。何をやってみても思うように食えねえ。おれは、くたびれちまっただ。それだけの話よ。眠る間もなく動きまわるのにくたびれちまったのさ。どうすればいいか、皆目わからねえだ」
「大の男が、ちゃんとした仕事にありつけねえというのか?」とアルがきいた。
「だめだ。ちゃんとした仕事なんか、ありはしねえだ」鑢でバルブの滓を削りとり、油のついたぼろ布で鈍い金属板をふいた。
古ぼけた幌《ほろ》自動車がキャンプのなかへはいってきた。四人の男が乗っていて、四人とも日やけした荒っぽい顔をしていた。車は、ゆっくりとキャンプを通り抜けた。フロイドが声をかけた。「何かいいことがあったかい?」
車はとまった。運転していた男が言った。「ずいぶんあっちこっち歩いちまっただよ。このへんの土地にゃ、一人分の仕事だってありゃしねえだ。よそへ行くより仕方ねえだな」
「どこへ?」アルが言った。
「わかるもんか。もうこの土地じゃ、あたりつくしちまったからよ」彼はクラッチを入れて、ゆっくりとキャンプを出て行った。
アルはそれを見送った。「一人ずつでさがしたほうがいいんじゃねえのかな。一つだけ仕事があれば、一人がそれにありつけるだもの」
フロイドは鑢をおいて苦笑した。「おめえにゃ、まだわかっちゃいねえだ」と彼は言った。「田舎をまわって歩くにゃガソリンがいるだ。ガソリンは一ガロン十五セントだ。あの四人は四台の車を使うわけにゃいかねえだ。そこで、一人一人が銀貨一枚ずつ出し合ってガソリンを買ってるだ。そういうことも、おぼえとかなきゃだめだぜ」
「アル!」
アルが見ると、ウィンフィールドが、そばに、しかつめらしく立っていた。「アル、おっ母がシチューを皿《さら》に盛るところだ。早くきて食べろって」
アルはズボンで手をふいた。「きょうはまだ食事前なんだ」と彼はフロイドに言った。
「食ってから、またきて手伝うからな」
「わざわざきてくれなくてもいいだぜ」
「いんや、おいら、やるだよ」彼はウィンフィールドのあとからジョード家のキャンプのほうへ行った。
そこには人だかりがしていた。見知らぬ子供たちが、シチュー鍋《なべ》のそばに立っており、あまり近くへよってきているので、母親が働くのに肘《ひじ》が子供らにさわるほどだった。トムとジョン伯父は母親のそばに立っていた。
母親は情けなさそうに言った。「あたしは、どうしたらいいんだろう。家のものに食べさせなきゃならないのに、ここにいる子供たちに、どうすればいいんだろう?」子供たちは頑固《がんこ》に立ちふさがって、彼女の顔を見ていた。その顔は無表情で、けわしく、目は機械的に鍋から彼女の持っているブリキ皿へと動いていた。目は鍋から皿へと動く匙《さじ》のあとを追い、彼女が湯気の立つ皿をとりあげてジョン伯父に手渡すと、子供らの目も、それにつれて上にあがった。ジョン伯父が匙をシチューのなかへつっこむと、皿の上にあった目も、それといっしょに上にあがった。馬鈴薯《じゃがいも》の一片がジョンの口のなかへはいると、匙の上にあった目も、彼の顔まで移って、彼がどんな反応を示すかを見まもった。おいしいかしら? おじさんは、あれ、好きなのかしら?
ジョン伯父は、はじめてその目に気がついたらしい。彼は、ゆっくりと噛《か》んだ。「おまえ、ここでこれ食べろや」彼はトムに言った。「おれは腹へってねえだ」
「きょうまだ何も食ってねえじゃねえか」トムが言った。
「そりゃそうだが、腹が痛えだ。食いたくねえだよ」
トムは、おだやかに言った。「その皿を、テントのなかへ持ってって、あっちで食べなよ」
「食いたくねえだよ」ジョンは言い張った。「テントのなかだって、こいつらに見えるだでな」
トムは子供たちに向って言った。「もうよしな。よして、あっちへ行きなよ」並んだ目がシチューをはなれて、けげんそうに彼の顔の上でとまった。「もうよして、あっちへ行きな。おまえたちのしていることは、いいことじゃねえだぞ。おまえたちに分けてやれるほどはねえだからな」
母親はブリキの皿にシチューを盛り分けて、そのわずかばかりのシチューの皿を、地面の上においた。「あたしにゃ、あっちへ行けとはいえねえだ。みんな、お皿を持って、テントのなかへはいっておくれ。あたしは残ったのをこの子たちに食べさせるから。さあ、このお皿を『シャロンのバラ』のとこへ持ってっておくれ」彼女は子供たちのほうに、ほほえみかけた。「さあ、おまえたち、みんなめいめい、何か平たいものを持っておいで。残ったのを入れてあげるから。だけど喧嘩をしちゃいけねえだよ」子供の群れは死人のように押し黙って、たちまち散らばった。木ぎれをさがすものもあれば、めいめいのテントへ匙をとりに戻《もど》るものもあった。母親が盛りつけを終らぬうちに、みな黙々と狼《おおかみ》のように戻ってきた。母親は首をふった。「あたしゃ、どうすればいいんだろうね。うちの子供たちのものをとるわけにはいかねえだし。うちの子供たちには食べさせなきゃ。ルーシーにも、ウィンフィールドにも、アルにも」彼女は、はげしい声で叫んだ。「みんな自分のお皿を持ってっておくれ。早く、さあ。早くテントのなかへはいっておくれ」彼女は詫《わ》びるように待っている子供たちに言った。「たくさんはねえだよ」彼女は、つつましやかに言った。「ここでお鍋をすっかりからにするからね。みんなして、すこしずつ味をみておくれ。でも、たんとはないんだよ」彼女は口ごもった。「仕方がないのさ。おまえたちにあげないわけにゃいかないもの」鍋を持ちあげて地面においた。「お待ちよ。まだ熱いからね」と言って、あとを見ないように急いでテントのなかへはいってしまった。家族のものは、めいめい皿を持って地面に坐っていた。外では子供たちが木ぎれや錆《さ》びたブリキぎれで鍋の底をかきまわしている音がきこえた。子供たちが小山のようにかたまって鍋を視界からかくしていた。彼らは、ものも言わず、争いも口論もせず、一人残らず、もの静かに熱中し、ぎごちなくかぶりついていた。母親は見ないように、わざと背を向けていた。
「あれ以上どうすることもできなかった」と母親は言った。「あたしたちで食べるだけしかなかったもの」鍋の底を引っかく音がして、それから子供らの小山は崩れ、みな立ち去った跡に、底まできれいになった鍋が地面に残っていた。母親はからの皿をながめた。「みんな腹いっぱい食べたことがねえんだね」
父親は立ちあがってテントの外へ出た。説教師は、一人微笑しながら、両手を頭のうしろで組んで、ごろりと仰向けに寝た。アルが立ちあがった。「車の手入れを手伝ってやらなきゃ」
母親は皿を集めて外へ洗いに出た。「ルーシー」と彼女は呼んだ。「ウィンフィール、はやくバケツに水を一杯くんできておくれ」彼女が二人にバケツを渡すと、二人は川のほうへ歩いて行った。
頑丈《がんじょう》な、肩幅のひろい女が一人、歩みよってきた。衣服には、埃がついて縞《しま》ができ、自動車の油の汚点《しみ》がついていた。権高《けんだか》に顎をつんと高くあげて、すこしはなれたところに立って、憎々しそうに母親のほうを見ていた。とうとう女は近づいて、「こんにちは」と冷たい声で言った。
「こんにちは」と母親は言って、ついていた膝《ひざ》を起し、箱を一つ前へ押しやった。「おかけなさい」
女は近くへよってきた。「いえ、かけなくてもよござんす」
母親は、何事かと女の顔を見た。「何かご用ですか?」
女は腰に両手をあてがった。「あんたは自分の子供の世話だけやいて、うちの子供のめんどうなんぞみてくれないほうがありがたいだがね」
母親は目をまるくした。「あたしは、別に何にも――」と言いかけた。
女は苦い顔をして言った。「うちの子が、シチューのにおいをさせて帰ってきただよ。あんたが食べさせたんだって、子供が言ってたよ。シチューぐらいこしらえたからって、いばったり自慢したりしてもらいたくないよ。あんなことしてくれちゃ困るだよ。そんなことさえしてくれなければ、何もうるさいことなんかないのにさ。帰ってきて、子供が、あたしにいうじゃないか。『うちじゃ、なぜシチューこさえないの?』って」女の声は怒りでふるえていた。
母親は、そばへ行った。「おかけなさいな」と彼女は言った。「ちょっと腰をかけて話しましょうよ」
「いえ、あたしはかけないよ。あたしは、うちの連中に食べさせようとしてたんだ。そこへ、おまえさんがシチューを持ってやってきたりするから――」
「まあ、かけておくんなさいよ」母親は言った。「うちだって、仕事が見つかるまでは、当分シチューなんて食べられそうもねえだよ。まあ、かりに、おまえさんがシチューをこしらえてるときに、子供たちが、ものほしそうにぐるりをとり巻いたら、そんなときは、おまえさん、どうしなさるかね? うちらだって、たんとはつくりゃしねえだ。でも、あの子たちが、ああやって見てたら、おまえさんだって、わけてやらずにゃいられまいて」
女の両手が腰から落ちた。しばらく、その目は探るように母親を見ていたが、やがて、くるりと向うをむいて、足早に去って行き、一つのテントのなかへはいって、垂布をおろしてしまった。母親は、そのうしろ姿を、じっと見つめていたが、やがてまたブリキの皿のそばに膝をついた。
アルが急ぎ足に近づいてきた。「トム」と彼は叫んだ。「おっ母、トムは、なかにいるかい?」
トムが首を出した。「何か用か?」
「いっしょにきてくれよ」アルが興奮して言った。
二人は、いっしょに歩きだした。「どうしただ?」とトムがきいた。
「すぐにわかるだよ。ちょっと待ってくれ」彼はトムを解体した車のそばへつれて行った。「この人はフロイド・ノールズっていうんだ」
「うん、さっきおれも話をしただよ。どうだい?」
「いま組み立ててるところさ」フロイドが言った。
トムは機械の上を指で撫《な》でまわした。「おまえは、何をそんなにそわそわしてるだ、アル?」
「フロイドが、いま話してくれただ。話してやってくれよ、フロイド」
フロイドが言った。「言わねえほうがいいのかもしれねえけんど、しかし――うん、話そう。ある男がきて、北のほうへ行けば働き口があるっていうだ」
「北のほうだって?」
「うん――サンタ・クララ渓谷ってとこだ。ずっと北のほうだ」
「ほんとか? どんな仕事だい?」
「李《すもも》の採取だ。それから梨《なし》畑や缶詰《かんづめ》工場の仕事もある。なんでも、もうすぐはじまるそうだ」
「どのくらいはなれてるんだい」
「さあ、よくわかんねえな。二百マイルくらいあるかもしれねえな」
「おそろしく遠いだな」トムは言った。「そこまで出かけて行けば仕事があるってことが、どうしてわかるだね?」
「それよ、はっきりは、わからねえさ」フロイドは言った。「だが、この土地にゃ何もねえだ。その男のいうことには、兄貴から手紙がきたんで、これから出かけるところだっていうのさ。やつは、誰にもいうな、人が集まりすぎるから、なんて言ってただよ。夜のうちに出かけなくちゃなんねえだ。その土地へ行って仕事の順番の行列にはいんなくちゃなんねえだ」
トムは相手の顔をまじまじと見た。「なぜ、こっそり抜けだすんだ?」
「それよ、誰も彼もその土地へ行っちまったら、誰も仕事にありつけやしねえじゃねえか」
「おそろしく遠いところだな」とトムは言った。
フロイドは不快そうな声になった。「おいら、おまえに教えてやっただけだぜ。何も行かなきゃならねえとは言いやしねえだ。おまえの弟が手伝ってくれただから、内密におまえに教えてやったんだ」
「ほんとにこの土地には仕事はねえのかい?」
「いいかい、おいらは、三週間も、この土地を駆けずりまわってよ、これっぱかしの仕事も見つからなかったんだぜ。おまえも、さがしまわってガソリンを使い果したけりゃ、そうしてみねえな。おいらは、おまえに頼んでるわけじゃねえだ。行くやつが多けりゃ、それだけおいらの割がわるくなるってもんだ」
トムは言った。「何もおれだって、けちをつけるわけじゃねえだよ。ただ、あんまり遠いだでな。それに、おれたちは、この土地で仕事をさがして、家を借りて住みつきてえと思ってるだで」
フロイドは我慢強く言った。「おまえたちは、この土地へきたばかりだ。いてみなければわからねえことが、いろいろとあるだ。おいらに話をさせれば、それだけおまえたちの得になるというもんだ。おいらに話を聞かなけりゃ、辛《つら》い思いをして自分で知るより仕方がねえだ。ここに住みつきてえと思ったって、住みつくような仕事がねえだから、だめだよ。また、住みつきてえと思っても、おまえたちの胃の腑《ふ》が承知しねえだ。まあ――はっきり言えば、そういうことになるだよ」
「ともかく、いっぺん仕事をさがしてからにしてえもんだ」トムは不安そうに言った。
セダン車が一台、キャンプ地へはいってきて、すぐ隣のテントの前でとまった。仕事着に青シャツの男が、なかから出てきた。フロイドが声をかけた。「何かいいことがあったかい?」
「このへん一帯、綿花摘みがはじまるまでは一っかけらの仕事もねえだ」言いすてて男はぼろのテントのなかへはいった。
「わかったかい?」とフロイドが言った。
「うん、わかっただ。だが二百マイルとはな。ちくしょうめ!」
「まあ、当分は落ちつき場所はねえだぜ。いっそ腹をきめたほうがいいんじゃねえか」
「行ったほうがいいぜ」とアルが言った。
「このへんじゃ、いつになったら仕事がはじまるだね?」
「うむ、一月もすれば綿摘みがはじまるだろう。もし金がたんとあるなら、綿摘みのときまで待っていられるというもんだ」
トムが言った。「おっ母は動きたがらねえぜ。すっかりくたびれてるだでな」
フロイドは肩をすくめた。「おいらは、おまえたちを北へ行けって、むりに押しやるわけじゃねえ。好きなようにしなよ。ただ、おれのきいた話をきかせてやったまでさ」彼は踏板の上から油じみたギャスケットをとって、注意深く機械の上にそれをあてがい、上から押した。「さて」と彼はアルに言った。「手を貸してくれるんなら、エンジンのシリンダー・ヘッドを頼むぜ」
二人が重いエンジンのシリンダー・ヘッドを機械の上に静かにかぶせて、平らにおろすのを、トムはながめていた。「相談しなきゃなんねえ」と彼は言った。
フロイドは言った。「おまえのうちの人以外は、誰《だれ》にも言ってもらいたくねえだな。おまえたちだけだぜ。おまえの弟が、ここで手伝ってくれなかったら、おいら、おまえにも話す気はなかっただでな」
トムは言った。「うん、おれたちに、この話をしてくれたおまえの親切は、ありがたく思うだよ。よく考えてみなきゃならねえだ。ことによると、行くことになるかもしれねえだ」
アルは言った。「ほかの連中が行っても行かなくても、おれは行こうかと思ってるだ」
「うちのもんと別れてか?」とトムがきいた。
「そうさ。おれは仕事着に銭《ぜに》をいっぱいじゃらつかせて帰ってくるだ」
「おっ母は、そんなことはよろこばねえぜ」とトムが言った。「それにお父っさんだって、やっぱりそんなことはよろこびゃしねえだ」
フロイドはねじ釘《くぎ》を固定し、指でできるかぎりまわした。
「おれも女房《にょうぼう》や家族といっしょに出てきただよ」と彼は言った。「故郷《くに》にいたころは、別れ別れになることなんて考えたくなかっただ。そんなことは考えたくなかっただよ。だが、北のほうでは、みんないっしょにいただが、おいらがこの土地へきたら、うちの連中は、どっかへ移ってってしまっただ。だから、いまじゃ、どこにいるだか、神さまだけがご存じさ。それ以来ずっとさがしたりたずねたりはしてるだがね」彼はシリンダー・ヘッドのボルトにスパナをあてがい、平らにまわしていった。一本のボルトについて一度ずつまわし、たんねんにそれをつづけた。
トムは車のわきに腰をおろして、テントの列を横目で見ていた。テントとテントのあいだに、すこしばかりの刈り株が大地に踏みつけられて残っていた。「だめだ」と彼は言った。「おっ母は、おめえの行くのをよろこばねえだ」
「だけど、おれは、一人だったら、いっそ仕事が見つけやすいように思えるだよ」
「そりゃ、そうかもしれねえさ。だが、おっ母は、そんなこと、てんからいやだっていうぜ」
絶望した男たちを乗せて、二台の車が、キャンプ地へはいってきた。フロイドは目をあげたが、いいことがあったかとはきかなかった。埃《ほこり》まみれの男たちの顔は、悲しげで、反抗的だった。日はもう沈みかけていて、黄色い日ざしがフーバビルとその背後の柳の木立の上に落ちていた。子供たちは、またテントの外へ出て、キャンプのなかをうろつきはじめた。女たちもテントから出て、小さな炊事の火を燃やしはじめた。男たちは、あちこちにかたまって、地面にあぐらをかき、話をしていた。
新しいシボレーのクーペが一台、国道をまがって、キャンプのほうへ進んできた。車はキャンプの中央へきてとまった。トムが言った。「あれは、誰だい? ここの人間じゃねえぜ」
フロイドが言った。「知らねえな――たぶん警察のやつらだろう」
車の扉《とびら》が開き、一人の男が出てきて車のわきに立った。つれの男は座席から動かなかった。あぐらをかいていた男たちも、みな新しくきた男のほうを見て、会話はとだえた。火を燃やしている女たちも、こっそりと、そのぴかぴか光る車のほうを盗み見ていた。子供たちは、たくみに迂回《うかい》して車に近づき、長い曲線をつくって遠巻きにした。
フロイドはスパナを下においた。トムは立ちあがった。アルは両手をズボンでふいた。三人は、ぶらぶらとシボレーのほうへ歩みよった。車から出た男は、カーキ色のズボンとフランネルのシャツを着て、縁の平たいステットソンの帽子をかぶっていた。シャツのポケットには、万年筆と黄色い鉛筆の小さな垣根《かきね》の内側に、一束の書類が押しこんであった。尻《しり》のポケットからは、金属の表紙をつけた手帳がはみ出していた。彼が車座になっている一組のそばへよって行ったので、男たちは疑わしそうに黙って相手を見あげた。じっと顔を見たまま、誰も動こうとしなかった。見あげるのにも、頭をあげないから、眼球だけがあがって、その下に白目が見えた。トムとアルとフロイドとは、何げなく近づいて行った。
男が言った。「おまえたちは、仕事がほしいのかい?」それでも男たちは疑わしげに無言で見あげていた。キャンプじゅうの男が近くへ集まってきた。
あぐらをかいた男の一人が、しまいに口を開いた。「そりゃほしいだよ。どこかに仕事があるんかね?」
「トゥーレリ郡《カウンティ》だ。果実摘みの時期が、はじまるんだ。摘み手をたくさんほしがっている」
フロイドが口を出した。「おまえさんが雇い入れをやってるのかね?」
「うむ、おれは農地を請負ってるんだ」
男たちは、もうぎっしり一つにかたまっていた。仕事着を着た一人の男は、黒い帽子をとって、指で黒い長い髪をかきあげた。「いくら出すだね?」と、その男がきいた。
「うむ、まだはっきりは言えねえが、三十セントぐらいだろう」
「なぜ、言えねえだね? おまえさんが請負ったんだろう」
「そりゃそうだが」とカーキ色の男は言った。「だが果実の値段によってきまるんでね。もうすこし増すかもしれんし、もうすこし減るかもしれん」
フロイドが前のほうへ出てきた。彼は、おだやかに言った。「おいらは行くだよ、だんな。おまえさんは請負人だから免許証をもってるはずだ。その免許証さえ見せてくれるなら、そしてそのうえで、おれたちが働きに行けるように、場所と日どりと、いくら払うということとをきめて、おまえさんがサインしてくれるんなら、おれたちは、みんな行くぜ」
請負人は顔をしかめて、そのほうをふり返った。
「おまえは、おれの商売のやり方を、おれに講釈するつもりか」
フロイドが言った。「おれたちが、おまえさんのために働くんだとしたら、おれたちにとっても商売だものな」
「そうかい。だが、どうするこうするってことまで、おれに教えるにゃおよばねえぜ。おれは働き手がほしいと言ってるんだ」
フロイドは腹をたてて言った。「おまえさんは、幾人ほしいとも、いくら払うとも言わなかったぜ」
「ちえっ。おれにもまだわからないんだ」
「それを知らねえんじゃ、おまえさんにゃ人を雇う権利はねえだ」
「おれは自分の好きなように商売をやる権利がある。もしおまえたちが、ここで車の上にあぐらをかいていたいんなら、それもいいさ。おれはトゥーレリ郡へ行く人間をほかへさがしに行くだけだ。人手は、いくらでもいるんだ」
フロイドは集まっている男たちのほうを向き直った。彼らはもう立ちあがっていて、二人の話し手を、かわるがわる静かにながめていた。フロイドが言った。「二度も、おいらは、この手でしくじったんだ。この人は千人の人手しかほしくねえのに五千人も集めるだ。そうなりゃ一時間十五セントしか払わねえだろう。そして、おれたち貧乏人は、食えなくなると困るだで、十五セントでも承知するほかはねえだろう。この人が人を雇いてえんなら、雇ってもいいから、ちゃんと書類をつくって、いくら払うかを、はっきり教えてくれなくちゃいけねえだ。免許証を見せろと要求しなくちゃいけねえだ。免許証なしで人を雇う契約をすることは許されてねえだ」
請負人はシボレーのほうに向って、「ジョー!」と呼んだ。つれの男が、顔を出してのぞいてから、ドアをあけて出てきた。乗馬ズボンをつけ、拍車のついた長靴《ながぐつ》をはいていた。重い拳銃《けんじゅう》サックが、腰に巻いた弾薬帯の上にたれていた。褐色《かっしょく》のシャツの上に保安官補の星の印をつけていた。彼は重々しく歩いてきた。顔に薄笑いを見せていた。
「何か用か?」拳銃サックが尻の上で前後にゆれた。
「この野郎を見たことがあるか、ジョー?」
保安官補がきいた。「どの野郎だい?」
「こいつだ」請負人がフロイドを指さした。
「こいつが、何をしたんだ?」保安官補はフロイドの顔を見て微笑した。
「赤みてえなことをしゃべって、ごたごたを起させようと煽動《アジ》ってやがるんだ」
「ふうむ」保安官補は、ゆっくりと横へまわって、フロイドの横顔を見た。フロイドの顔に、すこしずつ血の気がさしてきた。
「みんなわかったか?」フロイドは叫んだ。「もしこの野郎がまっとうな人間なら警察のやつなんかつれて歩くはずがねえだ」
「前に見たことがありゃしねえか?」請負人は、しつこく言った。
「ふむ、見たことがあるようだ。先週、あの中古自動車の置き場へ踏みこんだとき、どうもこの野郎が、あの近辺をうろついてたような気がする。そうだ! たしかにあれと同じ野郎だ」急に微笑が顔から消えた。
「あの車に乗るんだ」そう言って彼は拳銃の台尻《だいじり》をおおっている革蓋のフックをはずした。
トムが言った。「この男は何もしやしねえじゃねえか」
保安官補は、くるりと向きなおった。「おめえもいっしょに行きてえんなら、もう一言何か言ってみろ。あの置き場をうろついてた野郎は二人いたんだ」
「おれは先週は、まだこの州にはいってもいなかったぜ」
「ふん、おめえは、どこかほかの土地で捜査されてたんだろう。口をつぐんでろ」
請負人は百姓たちのほうに向きなおった。「おまえたちは、こんな赤の野郎の話なんぞきくことはねえぜ。こいつは煽動《せんどう》屋だ――おまえたちを、ごたごたのなかへ引っぱりこもうとしてるんだ。ところで、おれは、おまえたちをみんなトゥーレリ郡で使ってやれるんだがな」
百姓たちは答えなかった。
保安官補は百姓たちのほうをふりかえった。「行ったほうがいいかもしれねえぜ」薄笑いが、その顔に戻ってきていた。「衛生局では、このキャンプをとり払わなきゃならねえと言っている。それに、このなかに赤の野郎が入ってるということが評判になると――なあ、迷惑するやつが出るかもしれねえぜ。おまえたちが、みんなトゥーレリへ引っ越すってのは、いい考えかもしれねえぜ。この土地には仕事なんぞ、ありゃしねえんだ。これはただ、親切ずくで、おまえたちに教えてやるんだぜ。もし、おまえたちが立ちのかなきゃ、鶴嘴《つるはし》を持ったやつらを大勢つれてくるようなことになるかもしれねえ」
請負人が言った。「さっきも言ったとおり、おれは人手がほしいんだ。おまえたちが働きたくねえんなら――ふん、そりゃ、おまえたちの勝手だが」
フロイドは保安官補のそばに堅くなって立っていた。フロイドの両の親指は革帯の上にかかっていた。トムは彼のほうを盗み見て、すぐに地面に目を落した。
「話はこれだけだ」と請負人が言った。「トゥーレリ郡では人手がほしいんだ。仕事はたくさんある」
トムは、そっと顔をあげ、フロイドの手を見た。手首の筋が、皮膚の下でふくれあがっているのが見えた。トムの両手も自然にあがり、彼の親指も革帯にかかった。
「よし、これだけだ。あすの朝になれば、一人残らず、ここを立ちのいてもらわなくちゃならん」
請負人はシボレーに乗りこんだ。
「ところで、おめえは」と保安官補がフロイドに言った。「おめえは、あの車に乗るんだ」彼は大きな手を伸ばして、フロイドの左腕をとらえた。フロイドは、それをふり放すと同時に、くるりと体をまわした。拳《こぶし》が相手の大きな顔にたたきつけられたかと思うと、彼は立ち並んだテントの前を走りだしていた。保安官補がよろめいたところへ、トムが、ひょいと片足を出してつんのめらせた。保安官補は、どさりと倒れて、ころがりながら、拳銃を手さぐりした。フロイドの姿はテントの列のなかを見えがくれして逃げまわっていた。保安官補は地面にころがったまま拳銃を発射した。一つのテントの前にいた女が、悲鳴をあげて、関節が吹っとんでしまった手を見つめた。指が手のひらに紐《ひも》のようにたれ、破れた肉は白っぽく、血の気がなかった。テントの列のずっと先にフロイドが柳の並木のほうへ全速力で走る姿が見えた。地面に尻餅《しりもち》をついたまま、保安官補は、ふたたび拳銃をあげてねらった。その那刹《せつな》、男たちの群れのなかから、説教師のケーシーが進み出た。彼は保安官補の襟首《えりくび》をけりつけ、大男が意識をうしなってぐったりしているすきに、うしろへ戻《もど》ってたたずんでいた。
シボレーのモーターは、うなりをあげ、砂塵《さじん》を巻きあげて走り去った。国道へ出ると、まっしぐらに飛んで行った。テントの前で、女はまだうち砕かれた手を見つめていた。小さな血のしたたりが、傷からにじみ出てきた。ヒステリックなしゃくり笑いが、女の咽喉《のど》にこみあげ、泣き笑いが、一息ごとに大きく高くひびいた。
保安官補は口をあけ、顔を地面に押しつけたまま、横倒しになっていた。
トムは彼の拳銃を拾いあげ、弾倉を抜きだして草むらに投げこみ、弾丸のはいっている薬莢《やっきょう》を抜きとった。「こんな野郎は銃なんかもつ資格はねえだ」と彼は言い、自動拳銃を地面に投げだした。
手を傷つけた女のまわりに人々が集まった。すると女のヒステリーは強まり、その笑い声には悲鳴に似たものが加わった。
ケーシーはトムのところへ近づいてきた。――「おまえさんは逃げなきゃいけねえだ」と彼は言った。「柳の木のなかへかくれて待ってな。わしがけとばしたのは、野郎め気がつかなかっただが、おまえが足をつき出したのは見てるだからな」
「おれは行きたくねえだ」とトムは言った。
ケーシーは頭を近づけ、ささやき声で言った。「指紋をとられるだぞ。おまえは仮釈放の宣誓を破っただ。送り返されるだよ」
トムは静かに息を吸いこんだ。「ちくしょう! そいつを忘れてたよ」
「早く行きな」ケーシーは言った。「やつが息をふきかえす前によ」
「こいつの拳銃を持って行きてえな」とトムが言った。
「だめだ。おいてきな。戻ってきても大丈夫となったら、わしが四度、高く口笛を吹くだ」
トムは、何げなく歩いて行ったが、人々の群れからはなれるが早いか、足を早めて河岸の柳の木のあいだに姿を消した。
アルは倒れた保安官補のそばへ歩みよった。「どうだい」彼は感服したように言った。「うまく引っくりかえしたもんだて!」
人々の群れはまだ意識をうしなった男を見つづけていた。早くも遠くのほうで警笛が鳴り、高まった音が落ちて消えると、ふたたび鳴りだし、そしてそのときには、かなり近くなっていた。たちまち男たちは緊張した。すこしのあいだ、足を踏みちがえて立っていたが、やがて、ちりぢりに、めいめいのテントへはいって行った。アルと説教師だけが残った。
ケーシーはアルに向って言った。
「あっちへ行きなよ。行くんだ――テントへ。おまえは何も知らねえんだ」
「うん。おまえさんは、どうなんだい?」
ケーシーは相手を見て、にやりと笑った。「誰かが罪をかぶんなくちゃなんねえだ。わしにゃ子供もねえだ。やつらは、ただわしを監獄にぶちこむだけだ。わしはただ坐っているだけさ」
アルが言った。「だって、何もおまえさんが――」
「さあ、行くだ」ケーシーが鋭く言った。「おまえは、かかりあうんじゃねえ」
アルは、むっとした。「おめえさんの指図《さしず》は受けねえだ」
ケーシーは、やさしく言った。「もしおまえがこの騒ぎにかかりあうと、家じゅうが、みんな困ることになるだ。わしは、おまえのことを心配するんじゃねえ。おまえのおっ母やお父っさんが困るのを心配するだ。ことによるとトムはマカレスターへ送り返されるかもしれねえだ」
アルは、ちょっと考えた。「わかったよ」と彼は言った。「だが、おまえさんも、ずいぶんばかだと思うな」
「ばかだとも」とケーシーは言った。「きまってらあな」
警笛は幾度も鳴りひびき、そのたびに近づいてきた。ケーシーは保安官補のそばに膝《ひざ》をついて、男を仰向けにころがした。男はうなり声をたて、目をぱちぱちさせて見開こうとした。ケーシーは男の唇《くちびる》の泥《どろ》をぬぐってやった。どの家族も、もうみなテントにはいり、垂布はさがっていた。夕日が、あたりを赤く染め、鼠色《ねずみいろ》のテントもブロンズ色になった。
タイヤが国道で軋《きし》り、無蓋車《むがいしゃ》が、いっさんにキャンプ地のなかへ走りこんできた。ライフル銃をもった四人の男が、ぞろぞろと降り立った。ケーシーは立って、彼らのほうへ歩みよった。
「いったいここで何が起ったんだ?」
ケーシーが言った。「わしが、そこにいるおまえさんがたの仲間をなぐり倒しただよ」
銃をもった男の一人が保安官補のところへ行った。彼はもう気がついて弱々しく起きあがろうとしていた。
「何があったんだ?」
「なあに」ケーシーが言った。「こいつが荒っぽいことをしかけたから、わしがなぐりつけたのさ。するとこいつは拳銃をぶっぱなして――あっちのほうにいた女を射《う》ちゃがった。だからわしは、またぶんなぐってやっただ」
「ふむ、はじめおまえは何をしたんだ?」
「わしが口返答したのさ」とケーシーは言った。
「あの車に乗れ」
「いいとも」ケーシーは言い、うしろの座席へのぼって腰をおろした。二人の男が手をかしてやって傷ついた男を立たせた。彼は首にそっとさわってみた。ケーシーが言った。「向うのテントで、一人の女の人が、こいつの誤射のために血を出して死にそうになってるだぜ」
「そのほうは、あとで調べる。マイク、おまえをなぐったのは、この男か?」
気をうしなった男は、まだ気分わるそうにケーシーを見た。「こいつじゃねえようだ」
「わしだよ、まちがいねえだ」とケーシーが言った。「おまえはまちがった人間に向っていっただ」
マイクは、のろのろと首をふった。「おまえは、おれに手向った真犯人らしくねえぜ。ああ、ちくしょう、気持がわるくなった」
ケーシーは言った。「わしは、何もめんどうかけずに行くだで、あの女の傷がどんなだか調べてやってくだせえよ」
「その女は、どこにいるんだ?」
「あすこのテントだよ」
保安官の隊長は、銃を手にもって、そのテントのほうへ行った。そしてテントの外から声をかけ、それから、なかへはいって行った。すぐに出て、引きかえしてきた。それから、すこし自慢そうに言った。「まったく四五口径ってやつは、ひどいことをするぜ、血止めの手当がしてあったよ。医者をよこすことにしよう」
二人の保安官がケーシーの両側に腰をかけた。隊長は警笛を鳴らした。キャンプは、ひっそりしていた。垂布はたれたままで、人々はみなテントのなかにいた。エンジンが鳴りだし、車は、ぐるりと回転してキャンプ地を出て行った。二人に警護されて、ケーシーは大いばりで腰をおろしていた。頭をそらせ、紐《ひも》のような首の筋肉がぴんと張っていた。唇には、ほのかに微笑が浮び、顔には勝利者のような奇妙な表情が浮んでいた。
保安官が行ってしまうと、人々はテントから出てきた。日はもう沈んで、なごやかな夕暮れの青い光がキャンプにさしていた。東のほうの山々は、まだ落日で黄色かった。女たちは、消えてしまった火のそばへ戻った。男たちは、ふたたび車座に腰をおろして、静かに話し合った。
アルはジョード家の防水布の下から這《は》い出して、トムに口笛で合図するため、柳の並木のほうへ歩いて行った。母親が出てきて、小枝で小さい火を燃やした。
「なあ、お父っさん」と彼女は言った。「あんまり食いたくねえだね。あんなにおそく食べただからね」
父親とジョン伯父はテントの近くにいて、母親が馬鈴薯《じゃがいも》の皮をむいたり、細かく刻んで油をべっとり入れたフライパンに並べたりするのを見ていた。父親が言った。
「いったい説教師のやつは、なんであんなことをしただかな?」
ルーシーとウィンフィールドは、近くへ這いより、うずくまって、大人たちの話に耳を傾けた。
ジョン伯父は、錆《さ》びた長い古釘《ふるくぎ》で、地面を深く引っかいていた。「やつは罪ってものを知ってるだ。わしが罪のことをきいたら、話してくれただよ。だが、やつの話が本当かどうか、わしにゃわからねえだ。やつは、自分が罪を犯したと思ったら罪を犯したのだって、そう言ってただよ」ジョン伯父は、疲れた、悲しげな目色をしていた。「わしは、ずっとうしろめたい暮しをしてきただ」と彼は言った。「わしは、誰《だれ》にも言わねえようなことを、いろいろとやらかしてきただよ」
母親が火から顔をこっちへ向けて言った。「ジョン、誰にもいうじゃねえだよ。神さまにだけ話すだ。おまえさんの罪を他の人たちの重荷にしてはいけねえだ。それは信心深い人間のすることじゃねえだよ」
「罪がおれを食い破るだ」とジョンが言った。
「それでも、ひとに言っちゃいけねえだ。川のそばへ行って、頭を水に突っこんで流れのなかで小さな声でいうがいいだ」
父親は、ゆっくり母親の言葉にうなずいた。「おまえのいうとおりだ」と彼は言った。「ひとに話せば胸が軽くなるだが、それじゃ罪を外へひろめるだけのことだでな」
ジョン伯父は、夕日で金色になった山々のほうを見あげた。すると山々は、彼の目のなかに反射を返した。「わしは外へ出してしまいてえだが、それができねえ。罪がわしの腸《はらわた》を噛《か》んでやがるだ」
彼のうしろで、『シャロンのバラ』がテントから出てくるのが、ぼんやりと見えた。「コニーはどこ?」と彼女はいらだたしそうにきいた。「さっきからコニーが見えないのよ。どこへ行ったんだろう?」
「あたしも見なかったよ」と母親が言った。「もし姿を見たら、おまえがさがしてるって言ってやるよ」
「あたし、気分がわるいのよ。コニーは、そばにいてくれなくちゃいけないのに」
母親は、娘のはれぼったい顔を見あげた。「おまえ、泣いてたのかい?」と母親は言った。
涙が新しく『シャロンのバラ』の目から流れ出た。
母親は、きびしい口調で、言葉をつづけた。「おまえ、気をしっかりさせてなくちゃ、だめだよ。あたしたちは大勢の家族なんだからね。気をしっかりさせなくちゃ、だめだよ。さあ、ここへきて、馬鈴薯《じゃがいも》の皮でもむいておくれ。おまえは一人で悲しがってるんだ」
娘はテントのなかへ引きかえそうとした。母親の厳格な目を避けていたかったのだが、みんなに強《し》いられて、のろのろと火のほうへ近づいた。「コニーが行っちゃうなんて、ひどいわ」彼女は言ったが、涙はもう出なかった。
「おまえは働かなくちゃいけないよ」と母親は言った。「テントのなかに坐ってると、一人で悲しくばかりなるんだよ。これまでは、おまえのめんどうをみてやる暇がなかったけれど、これからは、あたしがついててあげるだ。さあ、このナイフをもって、馬鈴薯の皮をむいておくれ」
娘は、ひざまずいて、母親の言いつけどおりにした。はげしい声で彼女は言った。「いまに見ておいで、コニー、うんと言ってやるから」
母親は静かにほほえんだ。「コニーにぶたれても知らないよ。おまえが、めそめそ泣きまわって自分だけいい子になろうとするから、ぶたれるんだよ。おまえのほうがわるくて、コニーがぶったんなら、あたしはあの子をほめてやるだよ」娘の目は恨めしさに燃えたったが、何も言わなかった。
ジョン伯父は大きな親指の腹で錆び釘を深く地中へ押しこんだ。「わしは言わなきゃならねえだ」と彼は言った。
父親が言った。「うむ、じゃ言いなよ。ばかばかしいこった! おまえさん、誰を殺しただ?」
ジョン伯父は青い仕事着の時計入れポケットに親指をつっこみ、たたんだ汚ならしい紙幣をとり出した。彼は、それをひろげて見せた。「五ドル紙幣だ」と彼は言った。
「盗んだのかい?」と父親がきいた。
「いんや、もってたんだ。とりのけておいたんだ」
「おまえさんのものじゃなかったのか?」
「そうだよ。だがわしにゃ、これをとっとく権利はねえだ」
「そんなこと、たいした罪だとは思わないけどね」と母親が言った。「おまえさんのものなんだもの」
ジョン伯父は、のろのろと言った。「しまっておいただけじゃねえだ。おれは酒を飲もうと思ってとっといただ。いまに、酒を飲まずにゃいられなくなるときがあると、わかってただ。腹のなかが、ずきずきしてくると、飲まずにゃいられなくなるでな。まだそのときはこねえと思ってただ。そしたら――説教師がトムを助けるために身代りになったじゃねえだか」
父親は上下に首を動かしてうなずきうなずき、また首をあげて話をきいた。ルーシーが、子犬のように、肘《ひじ》で這いながら近づいてくると、ウィンフィールドも、そのあとから這いよってきた。『シャロンのバラ』は、ナイフの先で馬鈴薯の深い芽をほじくった。黄昏《たそがれ》の光が濃くなり、いっそう青くなった。
母親が、鋭い、あけすけな調子で言った。「あたしにゃ、説教師がトムを助けたからといって、なんでおまえさんが酔っぱらわなきゃならねえのか、わかんねえだ」
ジョンは悲しそうに言った。「わしにゃ説明できねえだ。ただひどく苦しくてならねえだよ。説教師が、あんまりあっさりとやっちまったでな。あっさり出て行って、『おれがやったんだ』そう言っちまっただ。それで、やつらは説教師をつれてっただ。だからわしは酔っぱらうだよ」
父親は、まだうなずいていた。「わしにゃ、なぜそれをおまえさんが言わずにいられねえのか、それがわからねえだ」と彼は言った。「わしだったら、ただ黙って外へ出て、飲まずにいられねえもんなら飲むだけだて」
「いつかわしも、何かをやって、わしの魂から大きな罪をとりのけるときがくるといいだが」ジョン伯父は悲しそうに言った。「わしは、しくじっちまった。わしは飛びついていかなかった。そして――もうその時はすぎちまっただ。おい!」と彼は言った。「金があるだろう、わしに二ドルくんなよ」
父親は気の進まぬ顔でポケットに手をのばし、皮の財布を出した。「酒を飲むのに七ドルもいるめえが。シャンペンを飲むわけでもあるめえしよ」
ジョン伯父は自分の持っている紙幣をさしだした。「これをおまえがとって、わしに二ドルくんなよ。二ドルありゃ、いい気持に酔っぱらえるだ。むだづかいの罪は犯したくねえだ。わしは自分のもってるものを使うんだ。いつだってそうだて」
父親は、よごれた紙幣を受けとって、ジョン伯父に一ドル銀貨を二枚渡した。「さあ、持ってきな」と彼は言った。「人間、しなくちゃいられねえことは、しなくちゃいられねえもんだ。誰だってそれに文句のいえるやつはねえだよ」
ジョン伯父は銀貨を受けとった。「おまえ、腹をたてたんじゃあるめえな? おれが飲まずにいられねえことがわかってくれるだか?」
「そうよな、わかるだよ」と父親が言った。「おまえさんだって、自分がしなくちゃならねえことはわかってるだろうて」
「今夜は、ほかのことではすごせねえだ」と彼は言った。そして母親に向って言った。「あすの晩にしたほうがいいとは言わねえのかい?」
母親は顔をあげなかった。「言わないよ」とやさしく言った。「言わないから――行っといでな」
彼は立ちあがって、気抜けしたように、夕闇《ゆうやみ》のなかへ出て行った。コンクリートの国道へ出て、舗道を渡って食料品屋の前へ行った。網戸の前で帽子を脱ぎ、埃《ほこり》のなかへそれを落し、自分から卑下するように、それを踵《かかと》で踏みにじった。そして、その黒い帽子を、泥《どろ》まみれの破れ帽子を、そこへ残したまま店にはいり、針金の網のなかにウイスキーの壜《びん》の並んでいる棚《たな》のほうへ進んで行った。
父親と母親と子供たちとは、ジョン伯父の歩いて行くうしろ姿を見送っていた。『シャロンのバラ』は、恨めしげに馬鈴薯《じゃがいも》の上に目を落していた。
「かわいそうなジョン」と母親は言った。「あたしは、ことによったら、どうにかなるのかなと――いいえ――どうにもなるはずはねえだ。あんなに思いつめた人を、あたしは見たことがねえだ」
ルーシーは、埃のなかに横むきに寝そべっていた。頭をウィンフィールドの頭に近づけて、彼の耳を自分の口のところへ引っぱった。そして、ささやいた。「わしは酔っぱらってくるだ」ウィンフィールドは、うなり声をあげ、しっかりと口をつぐんだ。二人の子供は、息をつめて、そっと這って行った。くすくす笑いだしたくなるのをこらえるので、二人とも顔を真っ赤にしていた。二人はテントの向う側まで這って行ってから、はね起き、きゃあきゃあ叫びながらテントをはなれて走って行った。柳の木立まで走って行って姿をかくすと、二人は大声をあげて笑った。ルーシーは目をよせて、体をぐにゃぐにゃにし、よろけながら千鳥足で歩き、舌をべろんと出した。「わしは酔っぱらっちゃったぞ」と彼女は言った。
「いいかい」とウィンフィールドが叫んだ。「見なよ、おいらを見なよ、おいらジョン伯父だぜ」彼は胸をばたばたさせ、ふうふう言って、目がくらむまで、くるくるまわった。
「ちがうわよ」とルーシーが言った。「こうやるのよ。こうやるんだわ。あたいがジョン伯父よ。わしは酔っぱらったぞ」
アルとトムとは、静かに柳の並木の下を歩いてくると、子供たち二人が狂気のようによろよろ歩いているのに出会った。夕闇はもう濃かった。トムは足をとめて、のぞいて見た。「あれ、ルーシーとウィンフィールドじゃねえか。あいつら、何をばかなことをしてやがるんだろう?」二人は近づいた。
「おまえら気でも狂ったのか?」とトムが言った。
子供らは、ふざけるのをやめて、きまりわるそうな顔をした。「ちょっとふざけてただけだよ」とルーシーが言った。
「気ちがいみたいなふざけかただな」とアルが言った。
ルーシーは、ふくれた。「もっと気ちがいみたいなことがたくさんあるわ」
アルは歩いて行って、トムに向って言った。「ルーシーは、だいぶ生意気になってきたぜ。もうかなり前からだ。もうそうなる年ごろだけど」
ルーシーは兄の背中に顔をしかめてみせ、人差し指で口をつき出し、舌の先から、つばを飛ばし、あらんかぎりのことをして相手を怒らせようとしたが、アルはふり返って見ようともしなかった。彼女は、もう一度ウィンフィールドと遊びをやりなおそうと思ったが、もうおもしろくなくなってしまった。二人とも、それがわかっていた。
「水のところまで行って頭をつっこもうよ」とウィンフィールドが提案した。二人は柳の木立のあいだを歩いて行った。二人ともアルに腹をたてていた。
アルとトムは、夕闇のなかを静かに歩いた。トムが言った。「ケーシーは、あんなことをしてくれなきゃいいだ。もっとも、前から考えてたことかもしれねえだな。あいつは、ちっとも家《うち》のために役にたたねえって、おれによく言ってたからな。あいつも、おかしなやつさ。なあ、アル。年がら年じゅう考えてばかりいるだ」
「牧師だからだろう」とアルは言った。「頭のなかが考えることでいっぱいなんだ」
「おまえ、コニーはどこへ行ったと思うだ?」
「稼《かせ》ぎに行ったんだと思うな」
「ふむ、よっぽど遠くへ行きゃがっただな」
二人はテントのあいだを布壁に沿って歩いて行った。フロイドのテントのところへくると、なごやかな笑い声がして、二人の足をとめた。垂布の近くまで行って、二人は、うずくまった。フロイドが防水布をすこしあげた。「おめえたち、出かけるのかい?」
トムが言った。「どうだかわからねえ。出かけたほうがいいと思うかい?」
フロイドは苦笑いした。「おめえ、あのお巡《まわ》りが言ったことをきいただろうが。出て行かなきゃ焼き払われて追いだされるんだぜ。あの野郎が仕返しにこねえつもりで引きあげたと思うんなら、おめえらは、ばかだ。町のごろつきどもが今晩やってきて火をつけておれたちを追いだすだぜ」
「じゃ、出かけたほうがよさそうだな」とトムは言った。
「おめえは、どこへ行くだ?」
「さっき言ったじゃねえか、北のほうへよ」
アルが言った。「おい、この近所にある国営キャンプのことを人からきいただが、それはどこにあるだ?」
「いや、あれならもう満員だと思うよ」
「そうか。場所はどこなんだ」
「第九十九号道路を南へ十二、三マイル行ってから、東へまがってウィードパッチまで行くだ。あすこなら近《ちけ》えや。だが、きっと満員だぜ」
「いいとこだってな」とアルが言った。
「そりゃいいとも。いいとこだよ。おれたちを犬扱いしねえで人間並みに扱ってくれるからな。保安官もいねえしな。だが満員だぜ」
トムが言った。「あのお巡りの野郎、なぜあんなに意地のわるいことをしやがるのか、それがおれにゃわからねえだ。まるで何かめんどうを起したがってるみてえだ。まるで、めんどうを起すために人をつっついてるみてえだて」
フロイドが言った。「ここのことはよく知らねえだが、おれは北のほうで、あいつらの仲間の一人と知合いになっただよ。いいやつだった。保安官補ってのは人をつかまえねえと困るんだって言ってたぜ。保安官は、ぶちこんだ男一人について日に七十五セントずつもらって、二十五セントで養ってるだ。囚人がいねえと儲《もう》けにならねえのさ。そいつの話だと、一週間のあいだ一人もつかまえなかったら、誰かを引っぱってくるか辞職するかしろって、保安官に言われるんだそうだ。そいつも、いまごろはなんとかして人を引っぱろうと思って歩きまわってることだろうて」
「おれたちも出かけなきゃならねえだ」とトムが言った。「じゃ、あばよ、フロイド」
「あばよ。いずれまた会えるだろう。会いてえもんだ」
「あばよ」とアルも言った。二人は暗い鼠色《ねずみいろ》のテントのあいだを抜けて、ジョード家のテントへ戻った。
馬鈴薯《じゃがいも》のフライパンが焚火《たきび》の上で音を立てていた。母親は匙《さじ》で厚く切った馬鈴薯をとりわけた。父親は近くに腰をおろし、膝《ひざ》を抱いていた。『シャロンのバラ』が、防水布の下に坐っていた。
「まあ、トムかい!」母親が叫んだ。「ああ、よかった」
「おれたち、ここを出なきゃならねえだぜ」とトムが言った。
「こんどはまた、どうしたというだね?」
「だってよ、フロイドの話じゃ、やつらは今晩、このキャンプに焼討ちをかけるだとよ」
「何のためにだい?」父親がきいた。「おれたちは何もしやしねえだによ」
「何もしねえだ。保安官を一人ぶんなぐっただけよ」とトムが言った。
「あれは、おれたちがやったんじゃねえ」
「あの保安官の口ぶりだと、やつらは、おれたちを追いだしてえのさ」
『シャロンのバラ』がきいた。「コニーを見かけなかった?」
「うん」とアルが言った。「とっとと河上のほうへ行ったぜ。南のほうへ行ったらしいな」
「じゃ――どっかへ行っちゃったの?」
「どうだか」
母親は娘に向って言った。「ローザシャーン、おまえたちは、変な話をしたり、変なことをしたりしてただね。コニーは、おまえに、なんて言ったの?」
『シャロンのバラ』は不機嫌《ふきげん》に言った。「故郷《くに》に残ってトラクターの講習を受けてたらよかったって言ってたわ」
みな黙っていた。『シャロンのバラ』の焚火を見つめる目が、火の光で、ぎらぎら光った。馬鈴薯がフライパンのなかでシュッシュッと鋭い音を立てた。娘は鼻をすすり、手の甲で鼻をこすった。
父親が言った。「コニーのやつも困りもんだったよ。ずっと前から、おれにゃわかっていただ。ちっとも腹ができてねえくせに、背のびばかりしてやがっただ」
『シャロンのバラ』は立って、テントのなかへはいった。わら布団《ぶとん》の上に横になり、腹ばいになって、折りまげた腕のなかへ頭をうずめた。
「つれ戻《もど》したところで、いいことねえだろうて」とアルが言った。
父親は答えた。「だめさ。甲斐性《かいしょう》のねえ野郎は、この家《うち》にゃ用はねえだ」
母親は『シャロンのバラ』が布団に寝そべっているテントのなかをのぞきこんだ。母親は言った。「しいっ、そんなこと言いなさんなよ」
「いんや、あの野郎はだめだて」父親は、しつこく言った。「何にもしねえくせに、しょっちゅう、ああしてえ、こうしてえと、そんなことばかり言ってやがる。あいつがいるあいだは、おれも、何も言おうとは思わなかっただが、いまはやつも飛びだしゃがったで――」
「しいっ!」母親が低い声で言った。
「何をいうだ。どうしておれが黙らなきゃならねえだ。あいつは飛びだしちまったんじゃねえか」
母親が匙で馬鈴薯を裏返すと、脂《あぶら》が煮えて、じゅっと泡《あわ》を出した。彼女は焚火に小枝をくべた。その炎でテントが明るく照らしだされた。「ローザシャーンは赤ん坊がおなかにいるんだよ。そしてその赤ん坊にゃ半分はコニーの血がはいってるんだよ。みんながその父親をだめだと言っちまったんじゃ、赤ん坊にだってよくねえだよ」
「うそを言ってるよりはましさ」と父親が言った。
「いいえ、よくないよ」母親はさえぎった。「父親は死んだってことにしておくだよ。もしコニーが死んだ人なら、おまえさんだって、コニーの悪口は言わねえだろうからね」
トムが割ってはいった。「おい、いったいこりゃ何の話だい? コニーが飛びだしちまったことが、いいかわるいか、そんなこと、おれたちにゃ、わかりゃしねえだ。そんな話をしてる暇はねえだよ。おれたちは早く飯を食って出かけなきゃならねえだ」
「出かける? だって、あたしたちは、きたばかりじゃないか」母親は焚火の明るさで、彼のいる暗いほうをすかして見た。
トムは用心ぶかく説明した。「おっ母、保安官のやつらが、今晩ここへ焼討ちをかけにくるだよ。ところで、おっ母も知ってるとおり、おれたちは焼討ちをかけられるのをぼんやり立って見てる人間じゃねえだし、お父っさんだって、ジョン伯父だって、そんな人間じゃねえだ。おれたちは出てって一|喧嘩《けんか》おっぱじめるだろう。ところがおれは、あいにくと、つかまえられて調べられたら困るだ。昼間も、説教師が飛びこんでこなかったら、おれはそんな目にあうところだったんだ」
母親は熱い脂のなかで、馬鈴薯のフライを裏返していた。そのとき彼女は心をきめた。「さ!」彼女は叫んだ。「これを食べようよ。急いで出かけなきゃ」彼女はブリキの皿《さら》をとり出した。
父親が言った。「ジョンはどうするだ?」
「ジョン伯父は、どこへ行っただい?」とトムがきいた。
父親と母親は、ちょっと黙っていたが、やがて父親が言った。「飲みに出かけただ」
「とんでもねえ!」とトムは言った。「なんてえときに出かけやがっただ! どこへ行っただい?」
「知らねえな」と父親が言った。
トムは立ちあがった。「いいか」と彼は言った。「みんなこれを食っちまったら荷物を積むだぞ。おれはジョン伯父をさがしに行ってくるだ。たぶん道路の向う側の食料品屋にいるんだろう」
トムは急いで出て行った。小さな焚火が、テントや仮小屋の前で燃え、その光が、みすぼらしい男や、女や、うずくまった子供たちの顔を照らしていた。いくつかのテントでは石油ランプの光が防水布をすかしてともっており、人々の影を大きく防水布に映していた。
トムは、埃っぽい道を歩いて行って、コンクリートの国道を渡り、小さな食料品屋へ行った。網戸の前に立って、なかをのぞきこんだ。食料品屋のおやじは、もじゃもじゃの口ひげをつけ、うるんだ目をした白髪の小男で、カウンターにもたれて新聞を読んでいた。やせた腕をあらわに出し、長い白いエプロンをかけていた。その周囲や背後には缶詰《かんづめ》の山やピラミッドや壁ができていた。トムがはいって行くと、おやじは顔をあげ、まるで銃のねらいをつけるように目を細めた。
「今晩は」と、おやじは言った。「何か切れたのかね?」
「伯父貴に切れちまったんだ」とトムが言った。「いや、伯父貴のほうから切らしたのかな」
白髪の男は、めんくらうと同時に心配そうな顔をした。彼は静かに小鼻に手をふれて、かゆいのをとめるために、ぶるぶると動かした。「おまえさんがたは、しじゅう誰かをさがしてるみたいだな」と彼は言った。「一日に十度も誰かはいってきては、『これこれの名前の、こんなふうな姿《なり》をした男を見かけたら、家族のものは北のほうへ行ったと伝えてくれ』なんていうだ。しじゅう、そんなことばかりだて」
トムは笑った。「ふん、もしコニーって名の、はなったれ小僧の、ちょっと山犬みてえな野郎を見かけたら、地獄へ行けって言ってやってくれ。おれたちは南へ行っちまったからとな。だが、いまおれがさがしてるのは、そいつじゃねえだ。年のころは六十ぐらい、黒ズボンをはいた、白髪《しらが》頭のおっさんが、ここでウイスキーを飲んでいきゃしなかったかい?」
白髪の男の目は明るくなった。「そのおっさんなら、たしかに飲んでったぜ。わしは、あんなのは見たことがねえだ。店の前へ立って、帽子を落して、その上を踏んづけてはいってきただよ。ほら、わしは、その帽子を、ここに持ってるだ」彼はカウンターの下から泥まみれの破れた帽子を持ちだした。
トムは、おやじから、それを受けとった。「うん、伯父貴のだ、まちがいねえ」
「それでよ、おまえさん、その男は二パイントばかりウイスキーを飲んだが、一言もものを言わねえのさ。やっこさん、コルクを抜いて壜《びん》をかしげるだ。わしは、ここで酒を飲ませる許可はとってねえだよ。だから言ってやった。『ちょっと、ここで飲んじゃ困るよ。外で飲んでくれよ』ところが、おまえさん!その男は、すたこらと扉《とびら》の外へ出て行ったかと思うと、わしは賭《か》けてもいいが、壜がからっぽになるまでに四度とは壜をかしげなかったぜ。壜をほうり投げて、ドアによりかかった。だるそうな目つきになってね、『だんな、ありがとよ』そう言って行っちまっただよ。生れてから、あんな酒飲みは、まだ見たことがねえだ」
「行っちまったって? どっちへ? おれはつかまえなきゃならねえだ」
「うん、運よく、おまえさんに教えてあげられるってもんだがね。わしは、あんな酒飲み見たことがねえから、それでうしろ姿を見送ってたんだ。やっこさん、北のほうへ行ったよ。すると、そこへ車がきて、ぱっと照らしつけたもんだから、こんどは河岸のほうへ行っただ。すこし足がふらふらしはじめてたよ。あとの一パイントも、そのときは栓《せん》を抜いていた。まだ遠くは行くめえよ――あの歩きっぷりじゃな」
トムが言った。「ありがとう。おれはさがしださなきゃならねえだ」
「この帽子、持ってくかね?」
「そうだ! そうだった! 帽子がねえと、伯父貴、困るからな。やあ、ありがとう」
「あの男、どうかしたのかい?」白髪の男はきいた。「酒を飲んでも、ちっとも楽しそうじゃなかったぜ」
「うん、すこし、なんだ――機嫌《きげん》がわるいだ。まあ、お休み。そいで、もしコニーというひょっとこ野郎を見かけたら、おれたちは南へ行ったと言ってくんな」
「たくさんの人から、見張っていて言づけしてくれと頼まれるんで、とてもみんなおぼえちゃいられねえよ」
「あんまり外ばかり見ててもしようがねえだな」とトムが言った。彼はジョン伯父の泥《どろ》まみれの黒帽子を持って、網戸の外へ出た。コンクリート道路を渡り、その縁を歩いて行った。眼下の窪地《くぼち》に、フーバビルがあった。小さな焚火《たきび》が、ちらちらと燃え、テントのなかの灯《ひ》が見えた。キャンプ地のどこかで、ギターが、ゆるい調べをかき鳴らしていた。何の区切りもなくつづく練習曲だ。トムは立ちどまって物音に耳をすましてから、のろのろと道路に沿って歩いて行き、五、六歩行っては、また立ちどまって耳をすました。四分の一マイルほど行くと、やっと、ききたいと思っていた音がきこえた。岸の堤の下で、太い、高低のない濁《だ》み声《ごえ》で、歌をうたっているのだ。トムは、もっとよくきこうと思って、頭をもたげた。
すると、濁み声がうたっていた。「わが心、イエスさまにささげまつれば、イエスさま、われを受けいれたもう。わが魂、イエスさまにささげまつれば、イエスさまこそ、わが故郷《ふるさと》」歌は、だんだん尾を引いて、つぶやき声に変り、やがてやんだ。トムは急いで堤をおり、歌声のほうへ近づいた。ちょっと立ちどまって耳をすました。するとこんどは、すぐ近くで声がした。さっきと同じ高低のない調子はずれの歌声だ。「ああ、マギーが死んだ晩、マギーは、わしを枕《まくら》もとへ呼んで、赤いフランネルの股引《ももひ》きをくれたっけ。膝のところがふくらんで――」
トムは用心しながら近よった。地面に腰をおろしている黒い人影が見えたので、彼は近くへ忍びよって坐った。ジョン伯父が壜を傾けたので、酒は壜の口から、ごぼごぼとこぼれた。
トムが静かに言った。「ちょっと待った!おれはどのへんから飲めばいいんだい?」
ジョン伯父はふり向いた。「誰だ?」
「もうおれを忘れちまったのかい? おれが一杯飲むあいだに、伯父貴は四杯も飲んじまったぜ」
「うんにゃ、トム。わしをからかうでねえだ。わしは、ずっとここに一人でいただ。おまえは、ここにいなかったぞ」
「そうよ。だけど、いまはたしかにここにいるぜ。おれにも一口くれたらどうだい?」
ジョン伯父が壜を持ちあげると、酒はまたこぼれた。壜をふってみた。「からだ。もうねえだ」と伯父は言った。「わしは死んじまいてえよ。とても死にてえだ。ほんのちょっぴりでいいから死にてえ。死なずにゃいられねえだ。眠るようにな。ちょっぴり死にてえだよ。あんまりくたびれたでな。くたびれただ。ことによると――もうこれっきり起きねえだぞ」声が、いびきに変った。「冠をかぶるだ――黄金の冠をな」
トムが言った。「おい、きいてくれよ、伯父貴。おれたちは引っ越すんだ。来てくれよ、そして荷物の上でぐっすり寝てくれよ」
ジョンは首をふった。「うんにゃ、行ってくれ。わしは行かねえだ。ここで休んでくだ。戻ったって、仕方がねえだ。誰の役にもたたねえだ。まじめな人間のなかで、よごれたズロースみてえに自分の罪を引きずって歩くだけだて。うんにゃ、わしは行かねえだ」
「来なよ。伯父貴が行かねえと、おれたちも行けねえだからよ」
「行きなよ、さっさと。わしはだめだ。わしはだめだ。罪を引きずって、みんなの面《つら》よごしになるだけだて」
「もう伯父貴は罪なんか負っちゃいねえだよ」
ジョンは頭を近づけ小ずるげに片目をつぶってみせた。星明りにぼんやりと見えるその顔をトムは見た。「誰もわしの罪は知らねえだ。イエスさまだけしか知らねえ。イエスさまは知ってるだ」
トムはひざまずいた。手をジョン伯父の額にあててみると、熱く、かわいていた。ジョンは、うるさそうにその手をふり払った。
「来てくれよ」トムは哀願した。「さあ、来てくれよ、ジョン伯父」
「行かねえだよ。くたびれてるだ。わしはここで寝てくだ、ここでな」
トムは、ずいと近づいた。拳《こぶし》をジョン伯父の顎《あご》のさきにあてがった。二度ばかり、すこしはなれて小さな練習の打撃を試みながら、肩でぐんと腕を動かし、見事な突きを顎にくらわせた。ジョンの顎は上へ突きあげられ、体は仰向けに倒れて、すぐ起き直ろうとした。しかしトムは彼の上に膝をついておおいかぶさった。ジョンが片方の肘をあげるところを、トムは、もう一度なぐりつけた。ジョン伯父は静かに地面に横たわった。
トムは立ちあがって、身をかがめ、ぐんなりとなった伯父の体を持ちあげ、肩にかつぎあげた。力の抜けた体の重みで、彼はよろめいた。ジョンのたらした両手が、ゆっくりと河岸を這いあがって国道のほうへ歩いていくトムの背中をたたいた。一度、自動車がきて、ぐんにゃりした男の体を肩に背負っているトムの姿を照らしだした。車は、ちょっと徐行したが、すぐうなりを立てて行ってしまった。
フーバビルへ戻ってきたとき、トムは息を切らしていた。道路をくだって、ジョード家のトラックのところまできた。ジョンは気がつきかけて、弱々しくもがいた。トムは、やさしく地面におろした。
彼の留守のあいだに、キャンプは片づいていた。アルはトラックの上で荷物に縄《なわ》をかけていた。防水布が荷物の上にかぶせられて、しばるばかりになっていた。
アルが言った。「ずいぶん早かっただな」
トムは弁解した。「戻ってきてもらうために、ちっとばかりなぐらなくちゃならなかっただ、気の毒だけんど」
「けがはしてないかい?」母親がきいた。
「してねえはずだて。もう気がつきかかってるよ」
ジョン伯父は、地面に、弱々しく苦しそうにしていた。喘《あえ》ぎながら発作的に吐いた。
母親は言った。「おまえの分の馬鈴薯《じゃがいも》、残しといたよ、トム」
トムは、くすりと笑った。「いまはとても食う気がしねえだ」
父親が叫んだ。「よし、アル、防水布をかけろ」
トラックは荷造りができ、用意が整った。ジョン伯父は眠ってしまった。トムとアルとでかつぎあげて、荷物の上へ伯父を引っぱりあげていると、ウィンフィールドがトラックのうしろで吐く音をまねし、ルーシーは手を口にあてて悲鳴が洩《も》れるのを押えていた。
「用意ができたぞ」と父親が言った。
トムがきいた。「ローザシャーンは、どこにいるだ?」
「あすこにいるよ」と母親が言った。「おいで、ローザシャーン、出かけるだ」
娘は胸に顎をうずめて、じっと坐っていた。トムは彼女のそばへ行った。「さあ、来な」と彼は言った。
「あたしは行かないわ」彼女は頭をあげなかった。
「行かなくちゃいけねえだよ」
「あたしはコニーに会いたい。コニーが帰るまでは行かないわ」
三台の車がキャンプ地を出て、道路を国道のほうへのぼって行った。テントや人間を乗せた古い車だ。がちゃがちゃ音を立てながら国道へ出て走り去る車のおぼろなライトが道路を照らした。
トムが言った。「コニーは、あとから、おれたちをさがしあててくるだよ。上の食料品屋に、おれたちの行先を言いおいてきたでな。あとからさがしあててくるだ」
母親もきて彼のそばに立った。「おいで、ローザシャーン。おいでね、いい子だから」彼女はやさしく言った。
「あたし、待っていたいの」
「あたしたちは待てないんだよ」母親は腰をかがめて、彼女の腕をとって助け起した。
「コニーはあとからさがしてくるだ」トムは言った。「心配しなくてもいいだ。さがしてくるだからな」彼らは娘の両脇《りょうわき》に添って歩いた。
「ことによると、勉強する本をとりに行ったのかもしれないわ」と『シャロンのバラ』は言った。「ことによると、あたしたちをびっくりさせようと思ってるのかもしれないわ」
母親は言った。「ほんとに、ことによると、あの子はそんなこともしかねねえだからね」二人は彼女をトラックのところまでつれてきて、荷物の上に乗せた。彼女は防水布の下へもぐりこんで、暗い洞穴《ほらあな》のなかにかくれた。
そのとき、草小屋のなかから、例のひげ男が、おそるおそるトラックのほうへ近づいてきた。「おめえさんら、何か使えそうなものをおいてってくれねえだかね?」男は、ついに声をかけた。
父親は答えた。「何も思いつかねえだな。何もおいてくようなものはねえだよ」
トムはきいた。「おめえは出かけねえのか?」
しばらくのあいだ、ひげ男は彼の顔を見つめていた。「うんにゃ」と、ついに彼は答えた。「それでも、おめえ、焼討ちされて、追いだされるだぜ」
落ちつきのない目が地面に落ちた。「知ってるだよ。前にもやられたことがあるだで」
「ふうん、じゃ、なぜ出てかねえだ」
びくびくした目が、ちょっと見あげてから、また下へ落ち、消えかかった焚火の明りが赤く反射した。「わからねえだ。片づけるのに暇がかかるだでな」
「焼かれたら何も残らねえぜ」
「知ってるだよ。おめえは、使えるようなものは、何もおいてかねえのかい?」
「きれいに片づけちまっただよ」と父親が言った。ひげ男は、ぼんやりと立ち去った。「あいつ、いったいどうしたってんだろう?」父親がきいた。
「警察ぼけだとさ」とトムが言った。「警官恐怖症ってやつだとさ。あんまり頭をなぐられたもんでね」
第二の小隊商が、キャンプ地をはなれて、道路をのぼり、去って行った。
「行くだ、お父っさん。行くだよ。いいかい、お父っさん。お父っさんとおれとアルが前の席に乗るだ。おっ母は荷物の上に乗ればいい。いんや、おっ母は、まんなかに乗るだ。アル――」トムは座席の下に手を伸ばして、大きなスパナをとり出した――
「アル、おまえは、うしろへ乗れ。これを持ってくだ。何かあったときの用心だ。もし誰《だれ》かが這《は》いあがろうとしやがったら、こいつをくらわせるだ」
アルはスパナを受けとって、うしろの板を這いあがり、それを手に持って、あぐらをかいた。トムは座席の下から鉄のジャック・ハンドルを引きだし、それをブレーキの下の床の上においた。「これでよし」と彼は言った。「まんなかへ乗んなよ、おっ母」
父親が言った。「おれは何も手に持つものがねえだな」
「手を伸ばしてジャック・ハンドルをとればいいだよ」とトムが言った。「そんな必要がねえように、神さまにお願えしてえだな」彼はスターターに足をかけクランクをまわした。エンジンは一度鳴ってやみ、また鳴った。トムはライトをつけ、速力を落してキャンプの外へ出た。暗いライトが神経質に道路を示した。車は国道へ這いあがって南へ向った。トムが言った。「人間ちゅうものは気が変になるときがあるもんだな」
母親が口を出した。「トムや――おまえは、あたしに言っただね――あんなことはしねえと約束しただ。約束しただぞ」
「わかってるよ、おっ母。おれは仮釈放の身なんだ。だが、あの保安官補の野郎――警官で、尻《しり》のふとってねえ野郎を見たことがあるかい? きまってその尻をふりたてて、ピストルをぶらぶらさせてやがるだ。おっ母、やつらが法律でやってくるもんなら、おれだって承知できるだよ。だが、法律じゃねえだ。やつらは、おれたちの精神に向ってやってきやがるだよ。おれたちを、まるでひっぱたかれた雌犬みてえに縮こまらせ、這いつくばらせようとするだ。やつらは、おれたちをめちゃくちゃにしようとしやがるだ。だって、ちくしょう、おっ母、やつらは、人間がちゃんとした暮しをしようと思ったら、どうでもお巡《まわ》りをなぐりつけるよりほか仕方がねえような場合に、やってきやがるだ。やつらは、おれたちの暮しをぶちこわすために、やってきやがるだ」
母親が言った。「おまえは約束しただよ、トム。あの小生意気なフロイドという若者のやったことだって、それさ。あたしゃ、あの子のおふくろを知ってるだがね。やつらは、あの子をやっつけただよ」
「おれは一生懸命つとめてるだよ、おっ母。正直な話、つとめてるだ。おれが、ひっぱたかれた雌犬みてえに這いつくばったほうがいいのかい、下っ腹を地面に押っつけてよ、ええ、おっ母?」
「あたしゃ、お祈りしてるだよ。おまえは、かかわりをもたねえようにしなくちゃいけねえだよ、トム。一家が、ばらばらになりかけてるだ。おまえは、かかわりをもたねえようにしてくれなくちゃいけねえだ」
「一生懸命そうするだよ、おっ母。だが、あの出《で》っ尻《ちり》のお巡りが、おれに向ってくるときにゃ、辛抱するのが大仕事だぜ。法律なら話は別さ。だけど、キャンプを焼き払うってのは法律じゃねえだ」
車は、がたがたと走った。前方に赤い灯が国道をふさいでならんでいた。
「待ちぶせだな」とトムは言った。彼は車の速力を落して停車した。すると、たちまち一団の男たちが、トラックのまわりに集まってきた。鶴嘴《つるはし》や猟銃で武装していた。みな鉄兜《てつかぶと》を、なかにはアメリカ在郷軍人会の帽子をかぶっているものもいた。一人の男が窓にもたれていた。ウイスキーの匂《にお》いが、ぷんとにおってきた。
「おまえら、どこへ行くつもりだ?」彼は赤い顔を、トムの顔の前につき出した。
トムは身をこわばらせた。手は、そっと床を這って、ジャック・ハンドルを探った。母親が、その腕を捕え、力をこめて押えつけた。トムが言った。「ええと――」そのとき彼の声は卑屈な泣きだしそうな声になった。
「この土地のことは、わしら、よく知らねえですだ」と彼は言った。「トゥーレリってところに仕事があるってきいたもんだから」
「ふん、だめだぜ、おまえら、方向をまちがえてるぞ。この町にゃオーキーは一人もはいれないんだ」
トムは肩も腕も硬《こわ》ばり、ふるえが全身をつきぬけた。母親が彼の腕にからみついた。トラックの前には武装した男たちがとり巻いていた。なかには軍人らしく見せるためか、短上着の軍服を着て、サム・ブラウン式ベルトをしめているものもあった。
トムは、かすれた声で言った。「じゃ、どっちへ行けばいいですだね、だんな?」
「反対のほうに向けて北へ行くんだ。綿摘みの季節まで戻《もど》ってくるんじゃないぞ」
トムは、体じゅうをふるわせていた。「へえ」と彼は言った。そして自動車をくるりと一回転させた。いままできた道を引きかえして行った。母親は腕をほどき、やさしく彼をたたいた。トムは、息のつまりそうな咽《むせ》び泣きをこらえようとした。
「気にするじゃねえだ」と母親は言った。「気にするじゃねえだよ」
トムは窓の外へ洟《はな》をかみ、袖《そで》でぬぐった。「くそ野郎どもが――」
「よくやっただ」と母親がやさしく言った。「ほんとに、よくやっておくれだ」
トムは泥《どろ》の多い横道へ切れ、百ヤードほど行ってライトを消しエンジンを切った。そしてジャック・ハンドルを持って車から出た。
「どこへ行くんだい?」母親がきいた。
「ちょっと様子を見てくるだよ。おれたちは北へは行かねえだ」赤いカンテラは国道をのぼって行った。トムは彼らが泥道の角を通りすぎて、なお北へ行くのを見送った。すこしたつと叫び声や悲鳴がきこえ、フーバビルの方角から、ぱっと火花があがるのが見えた。火花は大きくひろがり、遠くからぱちぱちとはぜる音がきこえてきた。トムは、またトラックに乗りこんだ。車を返して、ライトをつけずに泥道を走りあがった。国道へ出ると、彼はまた南をさして進み、ライトをつけた。
母親が、びくびくしながらきいた。「どこへ行くんだい、トム?」
「南だよ」と彼は言った。「野郎どもにあと戻りさせられるわけにゃいかねえだ。そうとも。この町を通らなきゃ、向うへは行けねえだよ」
「そりゃそうだが、おれたちはいったい、どこへ行くだ?」父親が、はじめて口をきいた。「おれは、それがききてえだ」
「国営キャンプってやつをさがすだよ」とトムが言った。「そこにゃ警官はいねえということだ。おっ母――おれは、やつらにゃ会いたくねえだ。殺しちまいそうで、おっかねえだ」
「わけはねえだよ、トムや」母親は彼をなだめた。「わけはねえだよ、トミーや。おまえは一度うまくやっただもの、こんどだって、うまくやれるだよ」
「うん、だけど、だんだんおれは我慢ができなくなるだぜ」
「わけはねえだよ」彼女は言った。「辛抱しなきゃいけねえだ。だって、トム――あたしたちは、みんながいなくなっても生きつづける人間なんだもの。だって、トムや、あたしたちは生きつづけるんだもの。やつらが、あたしたちを根絶やしにできるもんかね。だって、あたしたちは人民だもの――生きつづけるんだもの」
「おれたちは、始終ひっぱたかれてるだよ」
「わかってるよ」母親は咽喉《のど》の奥で笑った。「だから丈夫なのかもしれないよ。金持は出世して死んじまうと、その子供たちが、だめなもんだから、それで死に絶えるのさ。だけど、あたしたちはね、トム、あとからあとから生れてくるだよ。ちっともこわがることはねえだよ、トム。世の中は変りかけてるだからね」
「どうしておっ母にそれがわかるんだい?」
「どうしてだか知らないけど」
町へはいったので、トムは本通りを避けて横丁へ切れこんだ。街灯の光で彼は母親の顔を見た。母親の顔は、おだやかで、目には不思議な――永遠につながる彫像の目のようなものが見えた。トムは右手を伸ばして母親の肩にふれた。ふれずにいられなかった。しばらくして彼は手を引っこめた。
「おれは、生れてはじめて、おっ母が、こんなにしゃべるのをきいただよ」と彼は言った。
「あたしだって、こんなに言いたいことがあったのは、これまでになかっただよ」と彼女は言った。
彼は横丁を抜けて、町を出はずれ、それからまたあと戻りした。四つ角に「第九十九号」という標識が出ていた。彼はそれを南へまがった。
「ふん、とにかくやつらに北へ押しもどされはしなかっただぞ」と彼は言った。「たとえ正しいことをやるために這いつくばらなきゃならねえとしても、それでもおれたちは行きてえところへ行くだ」
薄暗いライトが、ひろい真っ黒な国道を、おぼろに照らしつづけた。
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第二十一章
移動し、住みかを求めている人々は、いまでは移住民である。猫《ねこ》の額ほどの土地を耕していた人々、四十エーカーの耕地の上で生きては死んでいった人々、四十エーカーの土地の産み出すものを食い、そこで飢えてきた人々は、いまや全西部を、彷徨《ほうこう》する場所としてもったのだ。そして彼らは仕事を求めて右往左往した。国道には農民の川ができ、溝《みぞ》の岸には農民の列ができた。彼らのうしろから、さらに多くのものがなだれこみつつあった。大国道は移動する人々の川になった。中西部と南西部には、工業の発達とともに変化しなかった単純な農民、機械で耕作せず、自家用の機械の威力も危険も知らぬ農民が住んでいた。彼らは大産業の矛盾のなかで育っていなかった。彼らの感覚は、いまもなお産業生活の愚かしさについて敏感だった。
そこへ、突然機械が彼らを駆逐し、彼らは国道に群がった。この大移動が彼らを変質させた。国道、道ばたのキャンプ、飢餓への恐怖と飢餓そのもの、それらが彼らを変質させた。子供たちに夕食を食わせられないことが彼らを変質させ、絶え間ない移動が彼らを変質させた。彼らは移住民であった。それからまた、敵意が彼らを変質させ、彼らを結びつけ、彼らを団結させた――小さな都市が一団となり、武装して、まるで侵略者を駆逐するように人々を駆り立てる敵意、居直り百姓は鶴嘴《つるはし》で、勤め人や商店主は猟銃で、自分たちと同じ国の人間を追いだして土地を守ろうとする敵意。
西部では、これらの移住民が国道に増加してくると、恐慌《きょうこう》が起った。資産のあるものは、その資産のために恐怖にとらわれた。かつて飢えたことのない人々が飢えた人間の目を見た。何ひとつ、ひどい不自由をしたことのない人々が、移住民の目のなかに欲望の炎を見た。そして、町の人々、おだやかな近郊の人々は、自分を防衛するために寄り集まった。彼らは、自分たちのほうが善で、移住民のほうが悪だと、むりにも自分自身に言いきかせた――喧嘩《けんか》をするとき、誰《だれ》でも自分に言いきかせるように。彼らは言った。あのオーキーときたら汚なくて無学文盲だ。やつらは頽廃《たいはい》している。色気ちがいだ。オーキーどもは泥棒《どろぼう》だ。やつらは、何でも盗む。やつらには所有権の観念がないんだ。
そして、この最後のことは本当だった。なぜなら、財産を持たぬ人間は、所有の悩みを知らないからだ。また防衛する側の人々は言った。やつらは伝染病をもってくる。やつらは不潔だ。われわれは、やつらを学校へ入れてやることはできない。やつらは他国者だ。われわれの子弟が、やつらといっしょに歩いたりしたら、どんな気持かね?
土地の人々は、自分を鞭《むち》うって残虐《ざんぎゃく》になった。つぎに彼らは団体をつくり、武装した――棍棒《こんぼう》や、催涙ガスや、小銃で武装した。おれたちの国は、おれたちのものだ。おれたちはオーキーどもに、勝手なことをさせてはおけない。ところが、武装した人々は、その土地の持主ではなかったのだ。持主だと思いこんでいるだけだ。夜、教練をする勤め人たちは、何も持っていなかったし、小さな商店主は、引出しに借金をもっているだけだ。だが、借金でさえ、何ものかではあったし、勤めも、何ものかではあった。勤め人は考える。おれは一週十五ドルとっている。あのオーキーのやつらが週十二ドルで働くと言ったら、どういうことになるのだ? また小商人は考える。借金のないやつと、どうして競争できるだろう?
そして移住民は川をなして国道を流れ、彼らの飢えは、その目に見ることができ、彼らの欠乏は、その目に読むことができた。彼らには理屈もなければ組織もなく、数の多いことと困っていること以外には、何もなかった。一人分の仕事があれば、十人がそれのために争った――賃金を引きさげるために争った。もし、あいつが三十セントで働くんなら、おれは二十五セントで働くぜ。
もし、あいつが二十五セントでやるってんなら、おれは二十セントでやる。
いんや、おれだ。おれは腹がへってるだ。十五セントで働くだよ。食い物のために働くだ。餓鬼らだ。餓鬼らの面《つら》を見てくれ。腫物《できもの》ができて走りまわることすらできねえだ。風で落ちた果実《フルーツ》でもやってくれねえか。それだけで元気がつくんだ。おれかい。おれは小さな肉の一きれのためでも働くぜ。
そしてこれは都合がよかった。賃金がどんどん下がり、果実の値段はそのままだったからだ。大地主はよろこんで、ますます多くの人間をはいりこませるために広告ビラをまいた。すると賃金は下がり、果実の値段はそのままだ。そして間もなく、また農奴が生れるだろう。
そこでこんどは、大地主や会社は新しい方式を工夫した。大地主は缶詰《かんづめ》工場を買収した。そして桃や梨《なし》が熟すると、果実の値段を生産価格以下に切り下げた。そして缶詰工場主としての彼は、その果実に対して、安い値段で地主としての自分に代価を支払い、缶詰品の価格を高くして、その儲《もう》けをせしめた。すると缶詰工場を持たぬ小農場主は、農場をうしない、それらの農場は、大農場主や銀行や、同じく缶詰工場を所有している会社のものになってしまった。時がたつにつれ、農場の数は減っていった。小農場主は、しばらくは都会へ移住した。そして、やがて信用も、友達も、親類も、みなうしなってしまった。そのうちに彼らも国道へ出て行った。道路には、仕事のために、大鴉《おおがらす》のように、人殺しのように、血眼《ちまなこ》になった人々が群がっていた。
会社や銀行も、自分たちの破滅のために働いていることに気づいていなかった。畑には果実が実り、道路には飢えた人々が動いていた。穀倉は満ち、しかも貧しい人の子供たちは佝僂《くる》病となり、紅斑病《こうはんびょう》の小膿疱《しょうのうほう》が脇腹《わきばら》にふくれた。大会社は、飢えと怒りとのあいだには、かぼそい一線しかないことを知らなかった。そして、賃金となって出ていくべき金は、催涙ガスに、小銃に、代理人やスパイに、ブラックリストに、練兵に費やされた。国道では人々が蟻《あり》のように動いて職を求め、金を求めていた。そして憤怒が発酵しはじめていた。
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第二十二章
ウィードパッチのキャンプをさがして、トム・ジョードが、ある田舎道へさしかかったのは、その夜もおそくなってからだった。ろくに灯火も見えぬ田舎だった。うしろのほうの空が明るんでいるのだけが、ベイカーズフィールドの方角を示していた。トラックが、のろのろと走って行くと、鼠《ねずみ》を追う猫《ねこ》が、その前を道から逃げて行った。曲り角に、白い木造の建物がすこしかたまっているところがあった。
母親は座席で眠っていたし、父親は、ずっと黙りこくっていた。
トムが言った。「どこにあるんだか、さっぱりわからねえだ。夜明けまで待って、誰《だれ》かにきいたほうがいいだろうて」彼は歩道の標識の前で車をとめた。すると、そこに別の車が一台とまっていた。トムは体を乗りだして声をかけた。
「おい、でっかいキャンプはどこにあるだか知ってるだかね?」
「まっすぐ向うだ」
トムは四つ角をつっきって反対側の道路を進んだ。数百ヤード行って車をとめた。高い針金の垣根《かきね》が道路に面していて、ひろい門のあるドライブ・ウェーが切れこんでいた。門をはいって、すこし行ったところに、窓に灯《ひ》の見える小さな家があった。トムは、そこをはいって行った。トラックが、まるごと空中にはねあがり、またどしんと地に落ちた。
「ちくしょう!」トムは言った。「こんな瘤《こぶ》たんがあるとは、ちっとも知らなかったぜ」
夜警が、ポーチで立ちあがり、車のほうへ歩いてきた。彼は横から車によりかかって、「あまり勢いよくぶつけたからだよ」と言った。「このつぎにはそっとやるんだな」
「いったい、あれは何だね?」
夜警は笑った。「なあに、子供がたくさんここで遊ぶんでね。ここでは徐行するようにいうんだが、誰でもよく忘れるんだ。ところが、一度あの瘤にどかんとぶつかると、誰でも忘れないよ」
「なんだ、そうかい。何もこわさなきゃいいだが。ときに――おれたちのはいれる場所はねえかね」
「一つならキャンプがある。家族は何人だい?」
トムは指で数えた。「おれに、おやじに、おっ母に、アルに、ローザシャーンに、ジョン伯父に、ルーシーに、ウィンフィールドと。あとの二人は子供だ」
「よし、おいてやれるだろう。キャンプ道具はあるのか?」
「大きな防水布と寝台があるだ」
夜警は車の踏板の上に乗った。「あの列の端までやって、それから右へまがるんだ。おまえさんたちは衛生班の四号へはいれるよ」
「それは何だい?」
「トイレとシャワーと洗濯器《せんたくき》のことさ――」
母親が質問した。「洗濯器が――水が流れてんですかね」
「そうとも」
「まあ! ありがたい」と母親が言った。
トムは黒々とテントの立ち並んだ長い列の前に車を進めた。衛生班の建物には、薄暗い灯火がともっていた。「ここでとめるんだ」と夜警が言った。「ここはいいぜ。ちょうど、ここにいた家族が引っ越したばかりなんだ」
トムは車をとめた。「そこかね?」
「そうだよ。さて、わしが書類をつくるあいだに、ほかの人たちに荷物をほどかせるんだな。そして寝ちまうんだ。キャンプ委員が、朝になったら、おまえさんのキャンプを訪ねて入所手続きをとってくれるよ」
トムは伏し目になった。「警察かい?」ときいた。
夜警は笑った。「警察じゃないよ。ここにはここの警備員がいるんだ。ここにいるものが、みんなで自分たちの警官を選挙するのさ。さあ、こっちへきな」
アルがトラックからおりて前へ歩いてきた。「ここで泊れるのかい?」
「うん」とトムが言った。「おれは事務所へ行くから、おまえとお父っさんで荷物をおろしてくれ」
「なるべく静かにやってくれよ」と夜警が言った。「大勢の家族が眠ってるんだから」
トムは夜警について暗いなかを歩き、事務所の階段をのぼって、古机と椅子《いす》のおいてある小さな部屋へはいった。夜警は机に腰をおろし、用紙をとりだした。
「名前は?」
「トム・ジョード」
「あの人がおまえのお父っさんか?」
「そうだ」
「お父っさんの名前は?」
「やっぱりトム・ジョードだ」
質問はつづいた。どこからきたか、この州へはいって幾日になるか、どんな仕事をしたか。夜警は顔をあげた。
「わしは別に根ほり葉ほりききたいわけじゃないがね。この書類をつくらなきゃならないのでな」
「いいともさ」とトムが言った。
「それでと――金は持ってるかね?」
「すこしなら持ってるだ」
「不自由してないのか?」
「ちっとばかりな。なぜだね?」
「なにね、キャンプ代が週に一ドルかかるんだが、働いて払ってもいいんだ――塵芥《ごみ》を運んだり、キャンプの掃除をしたり、まあ、そんなことでね」
「働いて払うだよ」とトムが言った。
「あす、委員会の人が、おまえさんに会って、キャンプの使い方を話してくれ、規則も教えてくれるよ」
トムが言った。「あの――それは何だね?何の委員会なんだい?」
夜警は椅子にゆったりともたれた。「とてもよくできた組織だよ。衛生班は五つあるんだ。各班ごとに中央委員を一人選ぶ。その委員会が規則をつくるんだ。委員会のいうとおりにやっていくんだ」
「そいつらが無理を言ったら、どうなるだね?」とトムが言った。
「うむ、おまえたちが投票で委員をきめることができるのと同じように、簡単に投票で委員をやめさせることもできるんだ。委員会は、これまでりっぱにやってきている。どんなことをやったか、話してやろうか――ホーリー・ローラーの説教師たちが、説教をしたり募金を集めたりして、いつも人々のあとを追いかけまわすことは知ってるだろう? ところで、あの説教師たちが、このキャンプで説教をしようとしたんだ。年配の連中には説教をききたがるものが多かった。それで中央委員会で問題になった。委員会は会議を開いて、こういうふうにきめたんだ。いいかね、『説教師はこのキャンプ内で説教してもよろしい。しかしなんぴともこのキャンプ内で献金をうけることは許されない』それで年配の連中には、ちょっとさびしいことになった。それっきり説教師がはいってこなくなったのでね」
トムは笑った。それからきいた。「つまり、このキャンプを管理してる連中は、ふつうの人間――ここにキャンプしてる人間だというんだね?」
「そのとおり。しかもうまくいってるんだ」
「お巡《まわ》りの話が、さっき出たけんど――」
「中央委員会が秩序を保ったり規則をきめたりする。それから婦人の委員会もある。委員が、おまえさんのおっ母さんを訪ねるだろう。婦人連が、子供たちの世話もするし、衛生施設のめんどうもみるんだ。もしおまえのおっ母さんが働いているんでなければ、働いてる婦人たちの子供の世話をすることになるだろう。おっ母さんが働くときには――他の婦人がやってくれる。縫い物もできるし、看護婦がきて、やり方も教えてくれる。まあ、何ごともそんなぐあいにやるんだ」
「そうすると、ここは警察のやつはいねえってことになるだね?」
「いないよ、おまえさん。逮捕状がなくては警官は一人もはいれないことになってるんだ」
「なるほど、たとえば、誰か、たちのわるいまねをするとか、酔っぱらったり喧嘩《けんか》したりするとかすると、そんときは、どうなるだね?」
夜警は鉛筆を吸取紙に突き刺した。「それは、最初のときは中央委員会が本人に注意する。二度めのときは本式に警告する。三度めには、そいつをキャンプから追いだしてしまう」
「なんてこったい。おれにゃ信じられねえくらいだぜ! 今晩、保安官補や小さな兵隊帽をかぶった野郎どもが、河岸のキャンプを焼き払ったというによ」
「やつらは、ここへははいってこないよ」と夜警は言った。「夜は、ときどき若いやつらが柵《さく》のまわりを巡視するんだ。とくにダンスのある晩にはな」
「ダンスの晩だって! ちくしょうめ」
「毎土曜日の晩、この郡《カウンティ》でいちばん上等のダンス・パーティーがあるんだ」
「ふうん、あきれたな! なぜ、こういうところが、もっとほかにねえんだろう?」
夜警は苦い顔をした。「それは自分で考えてみることだな。じゃ、行って、すこし休んだほうがいい」
「おやすみ」とトムは言った。「おっ母は、こういうところをよろこぶだろうて。長いこと人間並みの扱いを受けずにきたでな」
「おやすみ」と夜警が言った。「すこし眠るといい。このキャンプは朝が早いからね」
トムはテントの並んだ道を歩いて行った。目が星明りになれてきた。テントの列がまっすぐで、テントのまわりに塵芥《じんかい》がすこしもないことがわかった。道も、すっかり掃いて、水までまいてあった。テントのなかから、眠っている人々のいびきがきこえた。キャンプ全体が小さな寝息をたてていた。トムは、ゆっくりと歩いた。衛生班の四号の近くまでくると、彼はもの珍しそうに、そこをながめた。ペンキも塗ってない低い粗末な建物だ。両側が吹き抜けになった屋根の下に洗濯器が並んでいた。ジョード家のトラックが、その近くにあるのが見えたので、彼は静かにそこへ行った。防水布が地面に立ててあり、キャンプは静かだった。彼が近づくと、トラックの陰から一つの人影が動きだして、彼のほうへきた。
母親が小声で言った。「おまえかい、トム?」
「そうだよ」
「しっ!」と彼女は言った。「みんな眠ってるんだよ。すっかりくたびれてるのさ」
「おっ母も眠らなきゃいけねえだな」とトムは言った。
「いや、あたしはおまえに会いたかったのさ。うまくいったかい?」
「上等だて」とトムが言った。「おれから話をするのはよすだよ。朝になったら、ここの人が話してくれるだ。おっ母は気に入るだろうて」
母親は、ささやいた。「お湯が出るんだってさ」
「うん、もう寝なよ。ゆうべも、いつおっ母が寝たか知らねえだ」
彼女は哀願するように言った。「あたしに話さないことって、どんなことさ?」
「おれは言わねえだよ。寝なくちゃだめだよ」
急に母親は娘のようになった。「おまえの話さないことって、どんなことだろうと考えはじめたら、どうして眠られるもんかね?」
「うん、眠れねえだろうな」とトムは答えた。「朝になったら、まっ先に、よそ行きの着物を着て、それから――そいつは、そのときにわかるだ」
「そんなふうに気にかかることがあっちゃ、あたしは眠れやしないよ」
「眠らなきゃだめだよ」トムは、うれしそうなふくみ笑いをした。「とにかく寝なよ」
「おやすみ」彼女は、やさしく言った。そして、体を折りかがめて、暗い防水布の下へもぐった。
トムはトラックの後尾の板を乗り越えて這《は》いあがった。木の床の上に仰向けに横になり、両手を組んで枕《まくら》にし、腕を両方の耳に押しつけた。夜気が冷えてきた。トムは上着の胸のボタンをかけ、また仰向けになった。星は澄んで、頭の上に鋭く光っていた。
目をさましたときは、まだ暗かった。小さな、かちかちと何かが打ちあうような音が、眠りから彼を呼びさましたのだ。耳をすますと、また鉄の上で鉄が軋《きし》るような音がきこえた。トムは、ぎごちなく身動きをして、朝の冷気にふるえた。キャンプはまだ眠っていた。トムは立ってトラックの横腹ごしに外を見た。東の山々は青黒く、見ているうちに曙光《しょこう》がほのかに山の陰からのぼりそめて、山の輪郭をあざやかな紅色に染め、そして上のほうへいくほど、いっそう寒々と暗く黒っぽくなり、それが西の地平線に近い夜の闇《やみ》に溶けこんでいた。下の平野では、大地は暁のラベンダー・グレー色だ。
鉄のぶつかる音が、またひびいた。トムは地面よりもほんのすこし黒っぽさの薄いテントの列を見渡した。一つのテントのそばに、古い鉄ストーブがあり、その割れ目からオレンジ色の炎のちらつくのが見えた。灰色の煙が煙突から吐きだされていた。
トムはトラックの側板の上に乗り、地面へ降りた。そして、ゆっくりとストーブのほうへ行った。見ると、若い女がストーブの側《そば》で働いていた。女は赤ん坊を腕に抱いており、赤ん坊は女のシャツの胸の下で乳を飲んでいた。若い女は、火をつっついたり、錆《さ》びついたストーブの蓋《ふた》を動かして空気を通したり、竃《かまど》の扉《とびら》を開いたり、いろんなことをしていた。そのあいだ、ずっと赤ん坊は乳を吸い、母親はたくみに腕から胸へと移し替えていた。赤ん坊は、女の炊事にとっても、その動作の敏捷《びんしょう》さにも、すこしもじゃまになっていなかった。ストーブの割れ目にちらつくオレンジ色の炎は、テントにちらちらとまたたくような光を投げていた。
トムは、さらに近づいた。フライにしているベーコンと、焼いているパンの匂《にお》いをかいだ。東のほうから曙光が足早にひろがってきた。トムはストーブのそばへきて、手をさし伸ばした。若い女は彼を見てうなずいた。すると彼女は二つの編んだお下げの髪をはねあげた。「お早う」と女は言い、鍋《なべ》のなかのベーコンを裏返した。
テントの垂布《たれぬの》が引きあげられて、若い男が、そしてそのあとから年寄りの男が、出てきた。二人とも、新調の青い太織り木綿のズボンと、ぴかぴかする真鍮《しんちゅう》ボタンをつけた厚ぼったい太織り木綿の上着を着ていた。二人とも細面《ほそおもて》の鋭い顔だちで、よく似ていた。若い男は黒っぽく短い顎《あご》ひげを生やし、老《ふ》けたほうは白い短い顎ひげをつけていた。頭と顔を濡《ぬ》らし、髪の毛から滴《しずく》がたれていた。水滴は彼らの剛《こわ》いひげにもたれていた。頬《ほお》も濡れて光っていた。二人は、ならんで立って、東の空の朝やけを静かに見ていた。いっしょにあくびをしながら、山の縁を染める曙光をながめていた。それから、ふりかえってトムを見た。
「お早う」年とったほうが言ったが、その顔つきは親しげでもなく、よそよそしくもなかった。
「お早う」とトムは答えた。
すると、「お早う」と若い男も言った。
水は、だんだん二人の顔の上でかわいていった。彼らはストーブの前へきて、手を温めた。
若い女は働きつづけていた。一度、彼女は赤ん坊を下におき、お下げの髪をうしろで紐《ひも》で結んだ。お下げにした二つの髪の束が、彼女が動くにつれて、ぶつかったりゆれたりした。女は大きな荷箱の上にブリキ皿《ざら》のコップをおき、ブリキ皿やナイフやフォークを並べた。それから深い脂《あぶら》のなかからベーコンをしゃくってブリキ皿の上にのせた。ベーコンが焼けてきて動いたり縮んだりした。女は錆びついた竃の扉を開き、大きなビスケットをいっぱい入れた四角い鍋をとり出した。
ビスケットの香りが、あたりに漂うと、男たちは二人とも深い息をしてそれを吸った。若い男が小声で、「うまそうだな!」と言った。
そのとき老人が、トムに言った。「朝食はすんだかね?」
「うん、いや、まだだ。おれんとこの家のやつらは、あすこにいるだ。まだ起きねえだよ。眠りが足りねえだでな」
「そうかい。それじゃ、わしらといっしょにやんなせえ。たくさんあるだから――ありがてえことにな」
「うん、ありがとう」とトムは言った。「あんまりいい匂いがするだで、いやとは言えねえだよ」
「いい匂いだろう?」若い男が言った。「こんないい匂い、かいだことがあるかい?」三人は荷箱のところへ歩いて行って、そのまわりに、あぐらをかいた。
「このへんで仕事をしてるのかい?」若い男がきいた。
「そのつもりなんだが」とトムが答えた。「ゆうべここへはいったばかりなんだ。まださがす暇もねえのさ」
「おれたちは十二日分の仕事にありついただよ」と若い男が言った。
ストーブのわきで働いている若い女が言った。「新しい着物までこしらえたんだよ」二人の男は、二人とも、めいめいのこわばった青い服を見おろし、ちょっと気恥ずかしそうに微笑した。女は、ベーコンと例の茶色のビスケットを皿に並べて、ベーコンの汁《しる》の鉢《はち》とコーヒー沸しをおき、それから自分も箱のわきへ坐りこんだ。赤ん坊は、まだ乳を飲みながら、女のシャツの胸の下で頭を持ちあげた。
みんなめいめい自分の皿に盛り、ベーコンの肉汁をビスケットにかけ、コーヒーに砂糖を入れた。
老人は、口いっぱいに頬《ほお》ばり、噛《か》みに噛んでからのみこみ、のみくだした。「こいつはうめえ!」そう言って、また口いっぱいに頬ばった。
若い男が言った。「十二日のあいだ、たっぷり食ってきただよ。十二日間、一食も欠かしたことがねえだ――誰もがよ。働いて、賃金とって、食っただ」彼は、もう一度手を出して、まるで無我夢中で、もう一度皿に盛りわけた。みんな火傷《やけど》しそうなコーヒーを飲み、滓《かす》を地面に捨てて、またコーヒーをついだ。
もう朝の光には色がついており、赤い光になった。父と子は食べやめた。二人は東のほうに向いていたから、顔が曙光に照らされた。山の影と、それを越えてくる朝やけの光とが、彼らの目に映っていた。やがて彼らは、コーヒーの滓をコップから地面に捨てて、いっしょに立ちあがった。
「もう行かなくちゃならねえだ」と老人が言った。
若いほうがトムに向って言った。「なあ、おい、おれたちは鉛管《パイプ》工事をやってるんだが、いっしょにくる気があるんなら、ことによると、おめえも仕事にありつけるかもしれねえぜ」
トムが言った。「うん、そいつはすまねえだな。それから朝食も、ほんとにありがとうよ」
「おまえさんに会えてうれしいよ」と老人が言った。「もしその気があるんなら、おめえも働けるように、おれたちで骨折ってみてやるぜ」
「そりゃもう、ぜひ頼みてえだよ」とトムが言った。「ちょっと待ってくれや、家のやつらに話してくるだから」彼は急いでジョード家のテントへ行き、かがんでなかをのぞいた。防水布の下の薄暗がりのなかに、眠っている人々の、かたまりのような姿が見えた。だが、このとき小さな身動きが掛け布のなかに起った。ルーシーが、蛇《へび》のように身をくねらせて出てきた。髪の毛が目の上までかぶさり、彼女は注意ぶかく這いだして、立ちあがった。灰色の目は眠りのおかげで澄み、静かだった。いたずらっぽい目つきは、そこにはなかった。トムはテントから離れて、彼女についてくるようにと合図した。ふりかえると、彼女は彼を見あげていた。
「へえ、おめえも大きくなっただな」と彼は言った。
彼女は急にきまりわるそうに目をそらせた。「よくききなよ」とトムは言った。「誰も起しちゃいけねえだ。だが、誰か起きたら、おれは仕事がうまく見つかりそうなので出かけて行ったと、そういうだ。朝食は近所の人といっしょに食ったと、そうおっ母に言ってくれ。わかったな」
ルーシーはうなずき、首を横へ向けた。彼女の目は子供の目だった。「みんなを起すんじゃねえぜ」とトムは注意した。そして、急いで新しい友人たちのところへ引きかえした。ルーシーは注意ぶかくそっと衛生班に近より、あけ放しの入口から、なかをのぞきこんだ。
トムが戻《もど》ってくると、二人の男が待っていた。若い女は、わら布団《ぶとん》を一枚ひっぱり出して、赤ん坊をそこへ寝かせて皿を洗っていた。
トムが言った。「家のやつらに、おれの居場所を教えておこうと思っただが、まだ目をさましてねえだ」
三人はテントの町を歩いて行った。
キャンプは、もう活気を示しはじめていた。たきつけた火のそばで、女たちは肉を切ったり、朝のパンにする粉をこねたりしていた。男たちはテントや自動車のあたりを動きまわっていた。空は、もうばら色になった。事務所の前では、やせた老人が丁寧に地面を掃いていた。熊手《くまで》を丁寧に引っぱるので、掃き跡が、まっすぐに深くついていた。
「早いね、とっさん」通りがかりに若いほうが声をかけた。
「あいよ、キャンプ代を稼《かせ》がにゃなんねえだでな」
「キャンプ代か、へっ!」若いほうの男は言った。「この前の土曜の晩、あのおっさん、酔っぱらっちまってね。一晩じゅうテントで歌をうたってただよ。その罰として委員会が仕事をやらせるようにしただ」
彼らは、すべすべした道路の端を歩いて行った。道ばたには胡桃《くるみ》の並木が植えてあった。太陽が山の端からその梢《こずえ》を照らしていた。
トムが言った。「妙なこったて。おまえさんがたにご馳走《ちそう》になったというのに、おれはまだ自分の名も言ってねえだし――またおまえさんがたも名前を教えてくれねえだ。おれはトム・ジョードというだよ」
老人は彼の顔を見てから、ちょっと微笑した。「おまえさんは、この土地へきて、まだ長くねえだな?」
「そうともよ! たった二日にしかならねえだ」
「そう思っただよ。妙なこったが、おまえさんも、自分の名前を名のる習慣はやめにするだな。なにしろ人間が、ばかばかしく多いだでな。まったく人間だらけだで。ところで、――わしはティモシー・ウォーレス、ここにいるのが伜《せがれ》のウィルキー」
「おまえさんがたと知合いになれてうれしいだよ」とトムが言った。「こっちへきてから長いのかい?」
「十カ月だ」とウィルキーが言った。「去年の洪水《こうずい》から、ずっときてるだ。まったくよ!辛《つれ》え思いをしたぜ! あぶなく飢え死にするところだったよ」彼らの足音が、すべすべした道路の上で鳴った。トラックに満載された男たちが通りすぎたが、誰もみなじっと考えこんでいた。誰もみなトラックの床に自分を釘《くぎ》づけにしたようにして、しかめっ顔をうつむけていた。
「ガス会社の仕事に行くだよ」とティモシーが言った。「いい稼ぎになるらしいぜ」
「おれも家のトラックを持ってくればこられただが」とトムが言った。
「いんや」ティモシーは身をかがめて、青い胡桃を一粒、拾いあげた。親指でそれを試してみて、垣根の針金の下にとまっている黒鳥《ブラックバード》に投げてやった。小鳥は飛びたち、胡桃はその下の空を泳いだ。小鳥は、それからまた針金の上に舞い戻ってきて、その光る黒い翼を嘴《くちばし》でなでつけていた。
トムがきいた。「おまえさんら、車は持たねえのかい?」
二人のウォーレスは返事をしなかった。トムが顔を見ると、二人とも恥じているらしいのがわかった。
ウィルキーが言った。「おれたちの働く場所は、この道をほんの一マイルほど行ったところだて」
ティモシーが腹だたしそうに言った。「そうよ、わしらは車を持たねえだ。売っちまっただよ。売らずにゃいられなかっただ。食いものやら何やらで、銭《ぜに》はなくなる、仕事はねえ、そこへ毎週毎週、車を買う男がまわってくるだもの。腹がへってたら、誰でも、つい売っちまうだろうじゃねえか。それも、うんと腹がへってるときにゃ、やつら、いくらも払ってくれやしねえだ。おれたちは、えらく腹がへってただ。おれたちの車の代に、やつめ、十ドルよこしゃがっただ」彼は道路に唾《つば》を吐いた。
ウィルキーが静かに言った。「おれは先週ベイカーズフィールドへ行っただ。そして、おれたちが売った車を見かけただよ――車置き場に――ちゃんと使えるように修理して――おいてあっただ。七十五ドルの正札がついてただよ」
「売らずにゃいられなかっただ」とティモシーが言った。「やつらに、わしたちの車を盗ませるか、わしたちが、やつらから何かを盗むか、二つに一つだっただ。わしたちはまだ盗みをしなきゃならねえほどじゃなかっただが、ちくしょう、苦しかっただもんな!」
トムが言った。「おれたちも故郷《くに》を出る前には、こっちへくれば仕事はたくさんあるときかされてただ。百姓の出稼ぎを歓迎するという広告ビラを見てよ」
「そうだて」とティモシーが言った。「わしたちも、見ただよ。ところが仕事はたいしてありゃしねえ。賃金は下がる一方だ。わしなんざ、ただどうして食っていくか、そのことを考えるだけで、くたびれちまっただよ」
「でも、いまは仕事があるだね」とトムが言った。
「うん、だが、それも長くはつづかねえだ。雇い主がいい人でな。ちょっとした農場があって、そこでその人もいっしょに働いてるだよ。だがな、あいにくなもんで――長くはつづかねえだ」
トムが言った。「なぜおまえさんたちは、おれの世話をするだね? おれは率直にいうだが、何でおまえさんたちは自分で自分の咽喉《のど》をしめるようなことをするだね?」
ティモシーは静かに首をふった。「わからねえ。別に、なんてえわけもねえんだろうて。わしらは、二人とも帽子買いてえと思っただが、買えめえな、きっと。あの右へまがったところが農場さ。いい仕事だぜ。一時間三十セントとれるだ。雇い主は気持のいい親切な男だよ」
三人は国道をまがって小さな野菜畑を抜け、砂利道をくだって行った。立木のうしろまでくると、小さな白塗りの農家と、数本の木立と、納屋《なや》が一つあるところへ出た。納屋のうしろには葡萄園《ぶどうえん》と綿花畑とがあった。三人の男が、この家の前を通りかかると、網戸が鳴って、背丈の低い日やけした男が裏階段を降りてきた。男は紙製の日よけ帽をかぶり、裏庭を横ぎりながら袖《そで》をまくりあげた。濃い日やけした眉《まゆ》が、不機嫌《ふきげん》に皺《しわ》をよせていた。頬は牛肉色に赤く日にやけていた。
「お早う、トーマスさん」ティモシーが言った。
「お早う」男は、いらいらと答えた。
ティモシーが言った。「ここにいるのはトム・ジョードって男だがね。ひょっとしたら、この男のこと、あんたに心配してもらえるかと思ったで」
トーマスは、しかめっ面《つら》をトムに向けた。それから短く笑ったが、眉根はまだしかめたままだった。「いいとも! 雇ってやるだ。誰でも雇うだぜ。百人でも雇うかもしれねえだ」
「わしら、ただちょっと、その――」ティモシーが言いわけするように言いだした。
トーマスは、それをさえぎった。「いいだ。わしも考えてたところだて」彼は、くるりと向き直って正面から三人と顔をあわせた。「わしは、おまえたちに話すことがあるだ。いままで一時間に三十セントずつ払ってきた――そうだったな?」
「へえ、そのとおりでさ、トーマスさん――だが――」
「そして、わしは三十セント分の仕事をしてもらってきた」彼は肥えた頑丈《がんじょう》な両手を組みあわせた。
「わしらも毎日一生懸命に働いてきたつもりだ」
「とにかく、けさは一時間二十五セントでやってもらうぜ。承知ならよし、さもなきゃやめてもらうだ」彼の顔の赤みが怒りのために濃くなった。
ティモシーが言った。「わしら、一生懸命働いてきただがな。あんたも自分でそう言いなすっただ」
「わかっとるだ。だが、わしはもう自分の雇い人を自分で雇えなくなったらしいだ」彼は息をのんだ。「いいか」と彼は言った。「わしはここに六十五エーカーの土地を持ってる。農業組合のことをきいたことがあるかね?」
「へえ、きいてるだ」
「うむ、わしも組合員だ。ゆうべ組合の会合があった。ところで、おまえたちは、誰が農業組合をやってるか、知ってるか? 教えてやろう。西部銀行だ。あの銀行が、この渓谷地帯の大半の土地を持ってるし、持たない土地は貸付証書で持ってるだ。昨夜《ゆうべ》、銀行から出ている組合員が、わしにいうだ。『あんたは一時間三十セント払ってるね。二十五セントにきり下げたほうがいいぜ』わしは答えた。『わしはいい働き手を手に入れただ。三十セントの値うちがあるだよ』すると、その男がいうだ。『それとこれとは話がちがうだ。賃金はいま二十五セントだ。もしあんたが三十セント払うとすると、それはただ動揺をひき起すだけだ。それはそうと』と、やつがいうだ。『あんたは来年も、いつものとおり収穫担保の貸付金が入用なんだろう?』とな」トーマスは言葉をきった。荒い息が彼の唇《くちびる》からもれた。「わかるかね? 相場は二十五セントなんだ――だから、それで我慢してくれ」
「わしらは一生懸命やっただがね」ティモシーは情けなさそうに言った。
「まだわかってくれねえのか。銀行さんは二千人から雇ってるだし、わしは三人だ。わしは金を借りてるだ。だから、もしおまえたちのほうで、何かうまい考えがあるなら、それに従うだよ! やつらにはかなわねえだ!」
ティモシーは首をふった。「わしは、どうしていいだか、わかんねえだよ」
「ここで待っててくれ」トーマスは急ぎ足に家のほうへ行った。扉が彼の背後でしまった。まもなく彼は戻ってきたが、手に新聞を持っていた。「これを見たか? ここだ。読んできかせよう――『市民、赤の煽動《せんどう》を憤り、無断居住者たちのキャンプを焼きはらう。昨夜、一隊の市民は、当地の無断居住者のキャンプで行われている煽動行為に激昂《げきこう》し、テントを焼きはらい、煽動者にその地域から退去するよう警告した』」
トムが言いかけた。「あの、おれは――」とたんに彼は口をつぐんで黙った。
トーマスは、丁寧に新聞をたたみポケットに入れた。彼はまた平静をとり戻した。彼は、おだやかに言った。「この連中は組合が行かせたんだ。いまわしは、このことをもらしてしまった。もし、やつらが、わしのしゃべったことをかぎだしたら、わしも来年は農場を持てなくなるだろう」
「わしは何と言っていいか、わかんねえだよ」とティモシーが言った。「だが、もし、やつらが煽動者なら、やつらが、なぜあばれたか、わかるだ」
トーマスが言った。「わしは長いこと様子を見てた。賃金のきり下げをやる前には、かならず赤の煽動者が出る。かならずだ。ばからしい。やつらは、わしを|わな《ヽヽ》にかけおったんだ。ところで、おまえたちは、どうするかね? 二十五セントで働くかね?」
ティモシーは地面を見ながら、「わしは働くだよ」と言った。
「おれもだ」とウィルキーが言った。
トムが言った。「わしは、何かにぶつかったような気がするだ。もちろん、わしも働くだ。働かねえじゃいられねえだ」
トーマスは尻《しり》のポケットから絞りのハンカチをとり出し、口と顎《あご》とをふいた。「これが、いつまでつづくか、わしにはわからん。これから、おまえたちのとる金で、おまえたちが、どうやって家族を養っていけるか、それもわしにはわからん」
「働いているかぎりは養えるだよ」とウィルキーは言った。「問題は仕事がねえときでさ」
トーマスは時計を見た。「よし、外へ出て溝《みぞ》を掘ろう。とにかく――」と彼は言った。「教えといてやろう。おまえたちは、あの国営キャンプにいるんだろう?」
ティモシーは堅くなって言った。「へえ、そうですだ」
「それで、おまえたちは、毎土曜日の晩、ダンスをやるだろう?」
ウィルキーが微笑した。「やるだ」
「じゃ、今度の土曜日の晩を用心するがいい」
急にティモシーは、しゃんと体を起した。彼はトーマスに近よった。「そりゃどういうことだね? わしは、あすこの中央委員だて、きいとかなくちゃなんねえだ」
トーマスは心配そうな顔をした。「けっして、おれがしゃべったというんじゃねえぞ」
「何かね?」ティモシーがきいた。
「うむ、組合は国営キャンプを好かねえだ。あそこへは警官を入れることができねえ。おまえらは自分たちで規則をつくるってことだな。また逮捕状がなければ人を捕えることもできねえ。ところが、もし大きな喧嘩や発砲事件でもあれば――警官隊が押しいってキャンプから人間を追っぱらうこともできるわけだ」
ティモシーの様子は、すっかり変っていた。肩を張り、目は冷たくなっていた。「そりゃ、どういうことだね?」
「けっして、どこできいたか、いうんじゃねえぞ」トーマスは不安そうに言った。「土曜日の晩には喧嘩があるはずだ。そして警官隊が押しいる用意をしてるはずだ」
トムがきいた。「だって、何のためだね?あすこの連中は、誰のじゃまもしねえだに」
「そのわけを言ってきかそう」トーマスが言った。「あのキャンプにいる連中は、人間らしく扱われることになれかけてる。だから、あの連中が無断居住者のキャンプへ戻《もど》ったときには、扱いにくくなるにちがいない」彼は、また顔をふいた。「さあ、もう仕事に出よう。やれやれ、わしは自分の農場で、こんな話をするんじゃなかった。だが、わしは、おまえたち百姓が好きなんだて」
ティモシーは彼の前へ進み出て、骨ばった、やせた手をつき出した。トーマスは、それを握った。
「誰にきいたか、誰にも言わねえだ。わしらは、あんたに礼を言いますだ。喧嘩は絶対に起さねえだよ」
「仕事に行ってくれ」とトーマスは言った。「一時間二十五セントだぜ」
「二十五セントもらいますだよ」とウィルキーが言った。「だんなからならね」
トーマスは家のほうへ歩きだした。「わしはちょっと出かける」と彼は言った。「仕事をはじめててくれ」網戸が彼のうしろでしまった。
三人の男は、小さな白塗りの納屋の前を通り、畑のへりに沿って外へ出た。細長い溝のところへきた。溝のわきに幾本もコンクリートの管がならんでいた。
「ここがおれたちの仕事場だ」とウィルキーが言った。
父親のほうが納屋をあけて、二本の鶴嘴《つるはし》と三本のシャベルをトムに手渡した。そして言った。「これがおまえの色女だ」
トムは鶴嘴を持ちあげた。「すごくいい感じだぜ! うれしがってくれりゃいいんだが!」
「十一時ごろまで待つことだな」ウィルキーが、からかった。「そのころには、どのくらいうれしがってるか、わかるってもんだ」
彼らは溝の端まで歩いて行った。トムは上着を脱いで、泥《どろ》の山の上にそれをおいた。帽子の庇《ひさし》をあげ、壕《ごう》の中へはいった。それから手に唾《つば》をつけた。鶴嘴が空にあがって、ふりおろされた。トムは低くうなった。鶴嘴は、あがっては落ちた。うなり声は、それが地中に食いこんで土をくずすときに出た。
ウィルキーが言った。「お父っさん、おれたちは一級品の掘り男を見つけたわけだぜ。この男は、あの小さな掘り道具と、とうとう夫婦になっちまっただよ」
トムが言った。「おれは年季をいれたでな。(うん!)そうさ、ほんとうにそうなんだ。(うん!)永年苦労してら。(うん!)この手ざわりがすきなんだ。(うん!)」
目の前の土がくずれていった。太陽は、もう果樹園をすっかり照らして、葡萄の葉も蔓草《つるくさ》の上で金と緑に光っていた。六フィート進んで、トムは、わきへどいて額をぬぐった。ウィルキーが彼のあとからきた。シャベルがあがっては落ち、泥は長く伸びていく溝の側《そば》にうずたかくはねあげられた。
「おれも、ここの中央委員会の話をきいただが」とトムは言った。「じゃ、おじさんはその一人なんだね?」
「そうだよ、おまえさん」とティモシーが答えた。「これは責任があるだでな。みんなのことだで。わしら一生懸命やってるだよ。キャンプの人たちも、みんな一生懸命やってるだ。大農場主のやつら、それほどまでにわしらを苦しめなくてもいいと思うだがな。そうまでしなくてもよ」
トムはまた溝のところへ戻った。ウィルキーと並んで立った。
「ダンスの晩の喧嘩ってのは、(うん!)さっきだんなが話してたのは、何のことだい?(うん!)何のために、やつら、そんなことするだね?」
ティモシーはウィルキーのうしろからはいってきた。ティモシーのシャベルは、溝の底を斜めに削り、パイプを通せるようにならした。「わしらを追っぱらうつもりのようだな」とティモシーは言った。「わしらが団結するのがこわいのだよ、きっとな。また、やつらの考えるとおりかもしれねえだ。ここのキャンプは一つの組織だでな。みんな、自分たちのことを、自分たちで気をつけてるだ。このへんじゃいちばんの楽隊ももってるだ。腹のへった人たちのために、ちっとばかり商店から掛けで買えるようにもなってるだ。五ドルが限度だけんど――それだけの食糧は、おまえだって買えるだよ。キャンプは、それでりっぱにやっていけるだ。わしらは法律にふれるようなめんどうは一つも起したことはねえだ。きっと大地主どもは、それがこわいんだろうて。わしらを監獄へぶちこむことができねえもんだから――なあ、それで、やつら恐ろしいだよ。わしらが自分で自分をおさめることができたら、ほかのこともやらかすかもしれねえと考えてるだ」
トムは溝から出て、目の汗をふいた。「さっきの新聞にベイカーズフィールドの北のほうの煽動者のことが書いてあっただが、きいただろう?」
「うん」とウィルキーが言った。「やつら、始終あんなことをやりゃがるだ」
「ところが、おれは、あすこにいただ。煽動するやつらなんて、あすこにゃ、一人もいやしねえぜ。やつらが赤だというだけのことなんだ。いったい、この赤ってのは、何だね?」
ティモシーは溝の底に小さな盛り土をつくった。太陽が彼の白い剛《こわ》いひげを光らせた。「赤って、どんなものか、それを知りたがってる百姓は大勢いるだ」彼は笑った。「わしらんとこの若いもんが見てきただが」彼はうずたかく積まれた土を、やさしくシャベルでたたいた。「ハインズって名の男がいるだよ――三万エーカーばかりの桃畑と葡萄畑を持ってて――缶詰《かんづめ》工場と葡萄酒の醸造所を持ってるだ。その男が始終『赤のならずもの』の話ばかりしてやがっただ。『ふてえ赤の野郎どもが、この国を破滅に追いこんでるんだ』と言ってね。それからまた、『おれたちは、この国から赤の畜生どもを、たたき出さなきゃいけねえ』なんて言ってな。うむ、そこへ西部へきたばかりの若え男がいて、そいつが、ある日のこと、やつの話をきいてた。そして頭をかきながら、こう言ったもんだ。『ハインズさん、おいらこの土地へきて、まだいくらにもならねえだが、その赤ってのは、何ですかい?』そこで、ハインズが言ったもんだよ。『赤ってのは、わしらが二十五セント払ってるときに、三十セントよこせという、くそったれ野郎のことさ!』すると、その若い男は、しきりに考えてたっけが、また頭をかいて、言ったもんさ。『なるほどね、まったくのところ、ハインズさん、おいらは、くそったれ野郎じゃねえけんど、それが赤ってもんだとしても――おいらも一時間三十セントほしいだな。誰だって、みんなほしいだ。へっ、ハインズさん、それじゃ、おれたちは、みんな赤なんだて』」ティモシーはシャベルを溝の底に沿って動かしていった。するとシャベルに切断された堅い土の面が陽光に光った。
トムは笑った。「じゃ、おれもそうだて」彼の鶴嘴は弓なりに空を切ってふりおろされ、地面がその下で割れた。汗が額をころがって鼻のわきを流れ落ち、首にも汗が光っていた。「ちくしょう!」と彼は言った。「鶴嘴って、いい道具だぜ。(うん!)これで喧嘩さえしなけりゃな。(うん!)人間と鶴嘴と(うん!)いっしょに働くだ(うん!)」
並んで三人の男は働き、溝は、すこしずつ伸びていって、朝の時刻の進むにつれ、太陽は彼らの上に暑く照りつけた。
トムが行ってしまったあと、ルーシーは、しばらく衛生班の入口から、なかをのぞきこんでいた。ウィンフィールドに自慢してみせるときのほかは、彼女は、あまり強くなかった。コンクリートの床に、一歩、裸足《はだし》の片足をのせてみて、すぐにそれを引っこめた。テントの列の向うのほうで、一人の女がテントから出てきて、ブリキのキャンプ用ストーブで火をおこしていた。ルーシーは、そのほうへ二、三歩あるきかけたが、やはりその場を離れられなかった。ジョード家のテントの入口に歩みより、なかをのぞいた。片側の地面の上にジョン伯父が寝ていて、口をあけ、いびきといっしょに咽喉《のど》から泡《あぶく》を出していた。母親と父親とは、いい気持そうに、頭まですっぽり毛布をかぶって、光線をよけていた。アルはジョン伯父の向うに寝ており、腕を目の上にのせていた。テントの手前に近く、『シャロンのバラ』とウィンフィールドとがいた。ウィンフィールドのわきに、ルーシーの寝ていた場所があった。彼女の目はウィンフィールドの亜麻色の頭の上にとまった。見ているうちに、少年は目をあけて、彼女を見つめた。厳粛な目の色だ。ルーシーは、唇に指をあて、片方の手で手招きした。ウィンフィールドは目を動かして、『シャロンのバラ』のほうを見た。彼女のピンク色の頬《ほお》が彼のすぐ近くにあり、彼女の口は、すこし開いていた。ウィンフィールドは注意深く毛布をゆるめて、すべり出た。用心しながらテントを這いだして、ルーシーのところへきた。「いつから起きてたの?」と彼はささやいた。
少女は慎重な注意を払って、弟を外へつれだし、安全なところまできてから言った。「あたし、ちっとも眠ってないのよ。一晩じゅう起きてたのよ」
「そんなことないや」とウィンフィールドが言った。「姉ちゃんの嘘《うそ》つき」
「いいわよ」と姉は言った。「あたしを嘘つきだというんなら、あたしの見たこと、何にも話してあげないから。男が短刀で殺されたことも、熊《くま》がきて、ちっちゃな子をさらってったことも、何にも話してあげないから」
「熊なんぞくるもんか」ウィンフィールドは不安そうに言った。彼は髪の毛を指でかきあげ、仕事着を股《もも》のところで引きおろした。
「いいわよ――熊なんか出やしなかったわよ」彼女は、からかうように言った。それから言った。「まるでカタログにあるような、お皿《さら》と同じものでできた白いものも、一つもなかったわよ」
ウィンフィールドは、まじめな顔で彼女を見ていた。彼は衛生班のほうを指さして、「あすこにかい?」ときいた。
「あたいは大嘘つきよ」とルーシーが言った。「いろんなことを、おまえに話してやったって、あたいには、一文の得にもならないわ」
「見に行こうよ」とウィンフィールドが言った。
「あたいはもう行ってきちゃったわ」とルーシーが言った。「あたいは、もうあすこで、坐ってもみたわ。あのなかで、おしっこもしたわ」
「どっちも嘘だい」とウィンフィールドが言った。
彼らは衛生班の建物へ行った。今度はルーシーは恐れなかった。大胆に彼女は先に立って建物のなかへはいって行った。大きな部屋の片側に便器が並び、便器の前には、それぞれ扉《とびら》がついており、仕切りがついていた。陶器は、てかてかと白かった。手洗い所が他の側に並んでいて、第三の壁のところには四つのシャワーがあった。
「ほら」とルーシーが言った。「これが便器よ。あたい、こんなのをカタログで見たことがあるわ」子供たちは便器の一つに近づいた。ルーシーは急にふざけたくなり、スカートをまくって腰かけた。「あたい、ここへきたって、さっき言ったでしょう」彼女は言った。そして、それを証明するように、壺《つぼ》のなかで水音がした。
ウィンフィールドは、きまりがわるかった。彼は水洗の栓《せん》をひねった。ごうっと水音がした。ルーシーは空中に飛びあがり、飛びのいた。彼女とウィンフィールドは、部屋の中央に立って、便器をながめていた。水の音は、そのなかで、まだつづいていた。
「おまえがやったのよ」とルーシーが言った。「おまえがやってこわしちまったんだわ。あたい見てたわよ」
「おれ、やらねえよ。ほんとに、おれがしたんじゃねえよ」
「あたい見てたわ」とルーシーが言った。「おまえには上等なものは使わせられないわ」
ウィンフィールドは顔を伏せた。彼はルーシーを見あげて、目にいっぱい涙をためていた。顎《あご》がふるえた。するとルーシーは、たちまち後悔した。
「心配しなくてもいいのよ」と彼女は言った。「告げ口なんかしないから。はじめっからこわれてたようなふりをしてればいいわ」彼女は弟を従えて建物の外へ出た。
そのころには太陽は山の端に顔を出していて、五棟《いつむね》の衛生班の|なまこ《ヽヽヽ》板の屋根を照らし、鼠色のテントとテントとのあいだの掃き清められた通路を照らしていた。キャンプも目をさましかけていた。石油の缶やブリキでできたキャンプ・ストーブには火がおきていた。煙の匂いが空中に漂った。テントの垂布を開いて、人々は通りへ出ていた。ジョード家のテントの前では、母親が通りをあちこちながめていた。彼女は子供たちを見ると、そのほうへきた。
「心配したよ」と母親が言った。「おまえたちが、どこへ行ったのかと思ってさ」
「ちょっと見に行っただけよ」とルーシーが言った。
「それで、トムは、どこにいるの? あの子に会ったかい!」
ルーシーは急にえらくなった。「ええ、おっ母さん。トムはね、あたしを起してね、母ちゃんにいえって言ったの」彼女は自分のえらさをはっきりさせるために一息ついた。
「ふうん――なんて?」と母親がきいた。
「母ちゃんに、こう言えって――」彼女はまた一区切りつけて、ウィンフィールドが自分の立場を理解したかどうかを見ようとした。
母親は手をあげ、その手の甲をルーシーのほうに向けた。「なんて言ったのさ?」
「トムは仕事があったのよ」とルーシーは早口に言った。「仕事に出かけたのよ」母親のあげた手を彼女は心配そうに見た。その手がまた落ちて、それからルーシーのほうへ伸びた。母親は急に、痙攣《けいれん》的にルーシーの肩を抱きしめ、それから手をゆるめた。
ルーシーは、照れて地面に目を落し、そして話題を変えた。「あすこに便器があるわ」と彼女は言った。「白い便器が」
「おまえ、あすこへ行ったのかい?」母親がきいた。
「ウィンフィールドと二人で」と彼女は言い、それから、卑怯《ひきょう》にもつけ加えた。「ウィンフィールドね、この子、便器をこわしちまったのよ」
ウィンフィールドは真っ赤になった。彼はルーシーを睨《にら》みつけた。「姉ちゃんは、あすこでおしっこしたよ」彼は憎々しく言った。
母親は心配した。「おまえたち、何をしたんだい? あたしにお見せ」彼女は子供たちを押しやって戸口へ行き、なかへはいった。「何をやらかしたの?」
ルーシーが指さした。「それがシャーッ、シュッ、シュッって音をたてたのよ。いまはとまってるわ」
「おまえのやったことを、やってみせてごらん」と母親が要求した。
ウィンフィールドは、しぶしぶ便器のところへ行った。「おれ、そんなに強く押しゃしなかったんだよ」と彼は言った。「ちょっと、ここんとこを持っただけなんだ。そしたら――」
シャーッと、また水が出た。彼は飛びのいた。
母親は頭をのけぞらして笑った。ルーシーとウィンフィールドは、恨めしそうに母親を見ていた。
「これは、そういうものなんだよ」と母親は言った。「あたしは前に見たことがあるだ。すんだときに、あれを押すんだよ」
無知のための恥ずかしさは、子供たちには大きすぎた。彼らは扉の外へ出て、道を歩きながら、大勢の家族が朝食を食べているところをながめて通った。
母親は扉の外で彼らを見ていた。それから部屋のなかを見まわした。シャワー室へ行き、なかをのぞいた。洗面所へ行き、白い陶器を撫《な》でまわした。すこし水を出して、流れてくる水に指をつけ、水が熱くなると、あわてて手を引っこめた。しばらく洗面器を見ていてから、栓をしめ、こんどは熱いほうからすこしと、冷水の口からすこしと洗面器に入れた。それから、その温い湯で手を洗い、顔を洗った。指で髪の毛をかきあげていると、うしろのコンクリートの床に足音がした。母親はふりむいた。年配の男が、本心からびっくりした表情で彼女を見ながら立っていた。
彼は鋭く言った。「おまえさん、どうしてここへはいってきたんだい?」
母親は息をのみ、そして湯が顎からたれて服を濡《ぬ》らしているのを感じた。「あたし、知らなかっただよ」と詫《わ》びるように彼女は言った。「ここの水は、誰が使ってもいいんだと思ったもんだから」
老人は彼女に向って顔をしかめた。「ここは男性用だよ」と、きびしく言った。そして扉へ歩いて行って、そこにある標示を指さした――『男性用』「ほら、な」と彼は言った。「あのとおりだよ。おまえさん、あれを見なかったのかい?」
「ええ」母親は恥じて言った。「ちっとも気がつかなかっただ。あたしが使ってもいいところはないんですかね?」
男の怒りは、やわらいだ。「おまえさん、きたばかりだね?」彼は前よりも親切にきいた。
「ゆうべ夜中についただ!」と母親が言った。
「では、まだ委員会に話をしとらんのかね?」
「何の委員会かね?」
「何のって、婦人委員会さ」
「ええ、まだですだ」
男は誇らしげに言った。「委員会が、さっそくおまえさんを訪ねて、ちゃんとめんどうをみてくれるだ。わしらは、きたばかりの人たちには親切に世話してあげるだでな。ところで、おまえさん、女のトイレへ行きたければ、この建物の反対側へ行きさえすればいいだ。あっち側がおまえさんがたのだ」
母親は不安そうに言った。「いま言った婦人委員会ってのは――あたしたちのテントへくるんかね?」
彼はうなずいた。「さっそく行くだろうて」
「どうもありがとう」と母親は言った。急いで出て、なかば走るようにテントへ戻った。
「お父っさん」と彼女は呼んだ。「ジョン、起きなよ! おまえも、アル。起きて、早く顔を洗いな」眠そうな目が、驚いて、いっせいに彼女を見た。「おまえたち、みんなだよ」と母親は叫んだ。「みんな起きて、顔を洗うだよ。そして髪をとかすだ」
ジョン伯父は青い顔をして、気分がわるそうだった。顎には赤い血|痣《あざ》ができていた。
父親がきいた。「いったい、どうしたというだ?」
「委員会だて」母親は叫んだ。「委員会がくるだよ。婦人委員会が訪ねてくるだよ。早く起きて、顔を洗っておくれ。あたしたちが高いびきで眠っているあいだに、トムは外へ働きに出かけただよ。さあ、起きなよ」
一同、眠そうにテントの外へ出た。ジョン伯父は、すこしよろめいた。顔が苦しそうだった。
「あの建物へ行って洗っておいで」と母親は命令した。「朝食をすまして委員会を待つしたくをしなきゃ」彼女はキャンプの空地にすこしばかり積んである薪《まき》をとりに行った。そして火をおこし、炊事用の道具をとり出した。「玉蜀黍《とうもろこし》パンだよ」と彼女は、ひとりごとを言った。「玉蜀黍パンと肉汁だ。手っとり早くていい。早くしなきゃ」彼女は、ひとりごとを言いつづけ、ルーシーとウィンフィールドは、けげんそうに、そばに立っていた。
朝の炊事の煙が、キャンプのいたるところにあがって、そこでもここでも低い話し声がきこえた。
『シャロンのバラ』が、寝乱れ姿で、眠そうな目をしてテントから這い出した。玉蜀黍の粉を手づかみではかっていた母親は、ふりむいて娘を見た。そして娘の皺《しわ》だらけのよごれた衣服と櫛《くし》のはいっていない乱れた髪に目をとめた。「おまえも、きれいにしなきゃいけねえだよ」彼女は元気よく言った。「すぐに行って、きちんとしといで。洗った服を着なよ。あたしが洗っておいてやっただよ。髪をとかして、目脂《めやに》もとって」母親は興奮していた。
『シャロンのバラ』は不機嫌に言った。「あたし、気分がわるいの。コニーがきてくれるといいんだけど。コニーがいないと、何をする気持にもなれないわ」
母親は彼女のほうへすっかり向き直った。黄色い玉蜀黍粉が手にも手首にもくっついていた。
「ローザシャーンや」彼女はきびしく言った。「おまえ、しっかりしなよ。あんまり気を腐らせすぎるだ。婦人委員会が、ここへくるだからね。よその人たちがここへきたときに、家のもんが機嫌をわるくしてちゃいけねえだからね」
「でも、あたし、気分がわるいのよ」
母親は彼女のほうへ歩みより、粉だらけの手を出した。
「しっかりおし」と母親が言った。「自分の気持を自分だけで押えつけなければならないときだってあるんだよ」
「あたし、吐きそうなの」と『シャロンのバラ』は泣き声で訴えた。
「じゃ、行って吐いてきな。もちろん、何にも出やしないよ。誰でもそうなんだよ。それを越すと、気持がよくなるだ。おまえも足を洗って靴をはいといで」彼女は自分の仕事に戻った。「そして髪も結うだ」と彼女は言った。
脂《あぶら》を入れたフライパンが、火の上ではね、母親が匙《さじ》で玉蜀黍を落すと、脂がはぜて音をたてた。彼女は鍋《なべ》のなかで脂に小麦粉をまぜ、水と塩とを加えて、肉汁をかきまぜた。コーヒーがガロン缶のなかで沸騰《ふっとう》しはじめ、そこからコーヒーの香りが立ちのぼった。
父親が衛生班から戻ってきたので、母親は批評するようにそのほうを見あげた。父親は言った。「おまえ、トムが仕事にありついたと言っただな」
「ええ。あたしたちの起きる前に出かけちまっただよ。それはそうと、あの箱のなかをさがして、洗った仕事着とシャツに着替えておくれ。それから、お父っさん、あたしゃ、えらく忙しいだからね。おまえさん、ルーシーとウィンフィールドの耳を掃除してやっておくれな。あすこに熱いお湯があるだよ。やってくれるかい? 耳のなかを、きれいにこすって、それから首もね。真っ赤に光るようにしてやっておくれ」
「おまえが、そんなにはしゃぐの、見たことがねえぜ」と父親が言った。
母親が叫んだ。「きょうこそ家じゅうが、ちゃんと上品にならなくちゃいけねえだよ。旅をしてきたで、あたしたちにゃ、そうする暇もなかっただ。ところが、いまはそれができるだ。よごれた仕事着は、テントのなかへ投げこんでおいておくれ。あたしが洗っておくだからね」
父親はテントにはいり、まもなく薄青色の洗濯した仕事着とシャツとを着て出てきた。そして、もの悲しそうに、びっくりしている子供たちを衛生班へつれて行った。
母親がうしろから叫んだ。「ようく耳のなかをこすってやっておくれよ」
ジョン伯父が男性用の戸口へきて外を見た。それから引きかえして、長いあいだ便器の上に坐りこみ、痛む頭を両手でかかえていた。
母親がフライパンの上にできあがった茶色の玉蜀黍パンをとり出し、二度めの練り粉を匙で脂のなかへ落していると、ふと、そばの地面に人影が落ちた。彼女は肩ごしに顔をふりむけた。白ずくめの服を着た小男が、うしろに立っていた――細面《ほそおもて》で、こげ茶色で皺《しわ》のよった顔、明るい目の男だ。棒杭《ぼうくい》みたいにやせていた。白い清潔な服は縁がすり切れていた。男は母親に向って微笑した。
「お早う」と言った。
母親は男の白服を見ると、猜疑《さいぎ》で顔を固くした。
「お早う」と彼女は言った。
「ジョードさんとこのおかみさんだね」
「はい」
「わしはジム・ローリーというもんで、キャンプの管理人だよ。何かぐあいのわるいことでもないかと思って、ちょっと寄ってみたんだ。不自由してるものはないかね?」
母親は疑わしそうに相手を観察した。「いえ、何にも」と彼女は答えた。
ローリーが言った。「おまえさんがたが、ゆうべここへ着いたときは、わしは寝とった。場所があってよかったね」彼の声は温かかった。
母親は、あっさりと言った。「いいとこですよ。何よりあの洗濯器がねえ」
「婦人連が洗濯にかかるまで待ってくださいよ。もうじきだから。あんなにぎやかな騒ぎは、おまえさんもきいたことがないだろう。まるで寄合いみたいさ。きのうの婦人連の話をきいたかね、ジョードのおかみさん? 合唱してるのさ。讃美歌《さんびか》をうたいながら、手を休めないで、ごしごしやるんだ。ちょっとした聞きものだったぜ。ほんとにさ」
猜疑は母親の顔から抜けかかっていた。「きっとよかったでしょうね? おまえさんが、ここの親方《ボス》ですかね」
「いんや」と彼は言った。「みんながわしに仕事をさせなくしちまってね。なにしろ、みんなでキャンプはきれいにするし、ちゃんと秩序だてるし、何でもやるんだ。こんな人たち、わしゃ見たことがないよ。集会所で裁縫もやってるし、それから玩具《おもちゃ》もこしらえてる。こんな人たち、見たことがないよ」
母親は自分のよごれた衣裳《いしょう》を見おろした。「あたしらは、まだ清潔にしてなくて」と彼女は言った。「旅をすると清潔にしちゃいられねえもんだから」
「まったくだよ。わしもおぼえがある」と彼は言った。そして鼻をうごめかした。「はて――いい匂《にお》いだね。お宅のコーヒーかい?」
母親は、にっこりした。「いい匂いでしょう? 外で沸かしてると、いつもいい匂いがしますだよ」そして彼女は自慢するように言った。「おまえさんに、もしあたしたちといっしょに朝食を食べてもらえたら、とてもうれしいですがね」
男は焚火《たきび》のそばへきて、地面にあぐらをかいた。それで母親の最後の抵抗も弱ってしまった。
「あんまりおいしいものもないけど、食べてもらえるとうれしいんですがね」
小男は彼女の顔を見て笑った。「わしは朝食はもうすんだがね。あのコーヒーを一杯だけほしい。あんまりいい香りだから」
「それはそれは――お安いご用ですだ」
「急がないでくださいよ」
母親はガロン缶からコーヒーをブリキのコップに一杯ついだ。そして言った。「家じゃまだ砂糖買ってねえんですよ。きょうは買うつもりだけど。おまえさん、砂糖がお好きだとすると、おいしくないかもしれないね」
「わしは砂糖はいらないよ」と相手は言った。「コーヒーの味をそこねるからね」
「そうかね、あたしはすこし砂糖がほしいけど」と母親は言った。彼女は、この男が、どうしてこんなにすぐに親密になったのか、そのわけを知ろうと思って、近々と彼の顔をながめた。その顔に底意をさがしてみたが、親しみのほかには、何も見つからなかった。そして彼の白い上着の縁のすり切れたのを見て、ますます安心した。
彼はコーヒーをすすった。「たぶん婦人連が、けさおまえさんに会いにくるよ」
「あたしたちは、まだきれいにしてねえだから」と母親は言った。「もうすこし、したくができるまで、きてもらっちゃ困りますだよ」
「しかし婦人たちは、事情をよく知ってるよ」管理人は言った。「みんなも同じようにしてきたんだからね。かまわないさ。ここの委員会がいいのは、みんながそういう苦労を知ってるからなんだ」彼はコーヒーを飲み終えて立ちあがった。「さて、わしはまだ行くところがある。何でも困ることがあったら事務所へきなさいよ。わしは、いつでもあすこにいるから。結構なコーヒーだった。ご馳走《ちそう》さん」彼はコップをほかのといっしょに箱の上におき、手をふってテントの町を歩いて行った。歩きながら人々と話をしている彼の声を母親はきいた。
母親は頭をさげ、泣きたくなってくる気持と戦った。
父親が子供たちをつれて戻《もど》ってきた。耳をこすられた痛さで、子供たちの目は、まだうるんでいた。二人とも、おとなしくなり、つやつやときれいになっていた。ウィンフィールドの鼻の日にやけた皮がむけてしまっていた。「ほれ」と父親が言った。「あんまりよごれて、皮が二重になってただよ。おとなしく立たせとくのに、もうすこしでひっぱたくとこだったよ」
母親は二人の様子を鑑定して、「上等だよ」と言った。「さあ、玉蜀黍パンと肉汁を、おあがり。早くあと片づけをして、テントも蔓草《つるくさ》しとかなきゃならねえだから」
父親は子供たちの皿と自分の皿に盛りわけた。「トムのやつ、どこで仕事にありついただかな?」
「わからないね」
「うむ、やつにできることなら、おれたちにもできるだ」
アルが興奮してテントへきた。「なんてえ家だい」と彼は言った。彼は自分でさっさと食べ、コーヒーをついだ。「ひとりの野郎なんか、何をしてたと思うかい? トレーラーの家を建ててやがるんだ。すぐそこのテントの裏でね。ベッドもあれば、ストーブでも何でもあるだ。ちゃんと、なかで住めるんだ。まったく、ありゃいい暮しかただて――車をとめたところが、住むところなんだもんな」
母親が言った。「あたしは、一軒、小さな家があったほうがいいだよ。なるたけ早く小さな家を持ちたいもんだね」
父親が言った。「アルや――飯を食ったら、おれとおまえとジョン伯父とで、トラックに乗って仕事をさがしに行こうぜ」
「うん、行こう」とアルが言った。「もしそんな仕事があれば、おれはガレージで働きてえだな。おれのほんとうにやりてえ仕事だよ。それで一台、安物の古フォードを持つだ。黄色いペンキを塗って乗りまわすのさ。かわいい女の子が道ばたに立って見てらあ。そしたら大きなウィンクをしてやるさ。かわいいだろうな」
父親はきびしい顔をした。「雄猫《おすねこ》みてえなまねをする前に、何か仕事を見つけたらどうだ」
ジョン伯父がトイレから出て、のろのろと近くまできた。母親が、その顔を見て、眉《まゆ》をひそめた。
「まだ顔を洗わねえだね――」言いかけて、彼の様子が苦しげで、弱っていて、もの悲しげなことに気がついた。「テントへはいって、お休みな」と彼女は言った。「おまえさんは病気なんだよ」
ジョンは首をふった。「いんや」と彼は言った。「おれは罪を犯しただから、罰を受けにゃならねえだ」せつない顔で腰をおろし、自分のコップにコーヒーをついだ。
母親は最後の玉蜀黍パンをフライパンからとり出した。そして気軽に、「キャンプの管理人がきてコーヒーを飲んでったよ」と言った。
父親が、のろのろと顔をあげた。「そうかい。こんなに早くから、何の用できただ?」
「ほんの時間つぶしさ」母親は陽気に言ってのけた。「ちょっと一休みして、コーヒー一杯飲んで行っただけのことさ。ふだん、いいコーヒーを飲まねえから、うちのがよく匂ったって言ってただよ」
「何の用できただ?」父親がまたきいた。
「用はなかったよ。どんなふうかと、あたしたちの様子を見にきてくれたのさ」
「そんなこと、おれは信じねえだ」と父親が言った。「たぶん、こっそり何かかぎだしにきやがったんだ」
「そうじゃねえだよ!」母親は腹をたてて叫んだ。「何かかぎだしにきたんなら、あたしには、すぐわかるだよ」
父親はコーヒーの滓《かす》を地面に捨てた。
「おまえさん、それはやめなくちゃいけないよ。ここは清潔な場所なんだから」
「そんなに清潔な人間だったら、こんなところに住めるか」父親は不快そうに言った。「早くしろ、アル。仕事をさがしに出かけるだ」
アルは手で口をふいた。「もういいだ」と彼は言った。
父親はジョン伯父に向って言った。「おまえさんもくるかね?」
「うん、行くだ」
「気分がわるそうだぜ」
「あまりよくねえ。だが行くだよ」
アルはトラックに乗りこんだ。「ガソリンを買わなきゃなんねえだ」と彼は言った。エンジンをかけた。父親とジョン伯父とが隣りへ乗りこんだ。すると車は通りを出て行った。
母親は、あとを見送った。それから、バケツをもって、衛生班の吹き抜けになっている屋根の下を洗濯器のところへ行った。バケツに湯を一杯いれてキャンプへ戻ってきた。それで皿を洗っているところへ『シャロンのバラ』が戻ってきた。
「おまえの分をお皿に盛っておいたよ」と母親が言った。そのあとで彼女は近くから娘を見た。娘は髪を濡《ぬ》らして、とかしていたし、皮膚も、つやつやとピンク色をしていた。白い花模様のある青いドレスに着替えていた。足には婚礼のときの踵《かかと》のある靴をはいている。母親にじっと見られて、娘は顔をあかくした。「お風呂《ふろ》にはいったね」と母親が言った。
『シャロンのバラ』は、しわがれた声で言った。「あたしがあすこにいると、女の人がきて、お湯を使ったのよ。おっ母さん、使い方知ってる? 小さな厩《うまや》みたいなところへはいって、ハンドルをまわすのよ。そうするとお湯が、どうっと上から降ってくるの――お湯でも水でも、自分の好きなほうが使えるのよ――だから、あたしもやってみたの!」
「あたしもやりに行くよ!」母親は叫んだ。「ここの用をすませたら、すぐ行くだ。おまえ、やり方を教えておくれ」
「あたし、これから毎日浴びるわ」と娘は言った。「そいで、その女の人――あたしの体を見て、赤ちゃんのことがわかったもんだから――何て言ったと思う? 毎週、看護婦さんがくるからって教えてくれたのよ。看護婦さんに会えば、赤ちゃんを丈夫にするには、どうすればいいか、ちゃんと教えてくれるんだって。ここの女の人は、みんなそうしてるんだって。だから、あたしもそうするわ」あとからあとからと言葉がつづいた。「それからね――知ってる? 先週、ここで赤ちゃんが生れて、キャンプじゅうでお祝いをしたんだって。みんなが着物や、赤ちゃんに必要な品物をくれ――乳母車までくれたんだってよ――柳細工の。新しくはなかったけれど、すっかり赤く塗り直したから、まるで新品同様だったそうよ。それから、みんなで赤ちゃんの名前もつけてくれるし、お菓子もこしらえてくれるんだってさ。すてきねえ?」苦しそうに息をしながら、彼女は、おしゃべりをやめた。
母親が言った。「ありがたいこった。あたしたちも、やっと自分たちと同じ人間のところへきたわけだよ。あたしはお風呂を使いに行くだよ」
「ほんとに、あれはとてもいいわよ」と娘は言った。
母親はブリキの皿《さら》をふいて片づけた。そして言った。
「あたしたちは、ジョード家の人間だよ。あたしたちは、誰にも頭をさげねえだ。うちのじいさまのおじいさんは、独立戦争に参加しただ。借金ができるまで、あたしたちは農場もちだった。そこへ――あのやつらだ。やつらが、あたしたちを苦しめただよ。やつらがくるたんびに、あたしは、みんなが何か鞭《むち》ででもぶたれてるような気がしたもんだ。それからニードルでは、あの警官だ。あいつが、あたしを苦しめた。あたしを卑屈な気持にしただ。あたしに恥ずかしい思いをさせただ。でも、いまは恥ずかしくねえだ。ここの人たちは、あたしたちと同じ仲間だ――同じ仲間なんだ。それから、あの管理人、あの人は、ここへきて、坐って、コーヒー飲んで、『ジョードのおかみさん、こうですよ、ジョードのおかみさん、ああですよ』それから、『どんなぐあいかね、ジョードのおかみさん?』そう言ってくれたんだよ」彼女は言葉を切って嘆息した。「ほんとに、あたしは、やっとまた人間らしい気持になっただ」彼女は最後の皿を片づけた。テントのなかへはいって行き、箱の底をかきまわして、靴《くつ》と洗った衣裳とをさがしだした。イヤリングを包んだ小さな紙包みも見つけた。『シャロンのバラ』の前を通りながら彼女は言った。「婦人委員がきたら、あたしはすぐ戻ってくるからと言っておくれ」彼女は衛生班の向う側へ姿を消した。
『シャロンのバラ』は箱の上にぐったりと腰をおろして、婚礼の靴をながめた。黒いエナメル皮で、黒いリボンが縫いつけてあった。彼女は爪先《つまさき》を指でふき、その指をスカートの裏側でふいた。身をかがめると、大きくなったお腹《なか》に圧迫が加わった。それから、まっすぐに体を起し、指先で、体にさわってみた。さわってみながら、彼女は、ちょっとほほえんだ。
道を、背の低い女が、よごれものを林檎《りんご》箱に入れ、洗濯《せんたく》場に向って歩いてきた。顔は日やけした焦茶色《こげちゃいろ》で、目は黒く、きつかった。綿袋の布でつくった大きなエプロンを綾織《あやお》り木綿の服の上にかけ、男物の茶色の外出用の靴をはいていた。彼女は『シャロンのバラ』が体をさすっているのを見、また娘の顔にうかんでいる微笑を見た。
「やっぱりそうだったね」と彼女は叫び、うれしそうに笑った。「赤ちゃん、どっちだと思うかね?」
『シャロンのバラ』は赤い顔になり、目を伏せたが、またその目をそっとあげて、相手の小さく光る黒い目とぶつかった。「わからないわ」と彼女は小さな声で言った。
女は林檎箱を地においた。「元気よくあばれてるらしいね」と彼女は言い、まるで幸福な雌鶏《めんどり》のように、けたたましく笑った。「あんた、どっちがほしいの?」
「さあ、わからないわ――男かしら。そうね、男の子だわ」
「あんた、ここへきたばかりだね?」
「ゆうべ――遅くなってからよ」
「ずっといるつもりかい?」
「わからないわ。仕事が見つかれば、ずっといると思うわ」
女の顔に影がさして小さい黒い目がたけだけしくなった。「仕事が見つかったら……。みんなそればかり言ってるだ」
「兄は、けさもう仕事にありついたのよ」
「そうかい。へえ! 運がいいのかもしれないね。だけど気をつけなきゃいけないよ。幸福なんかあてにできねえだ」彼女は娘に近よった。「人間は、たった一種類の幸福しかもてないものなんだ。それ以上はだめさ。あんた、いい娘さんね」彼女は、きびしく言った。「いい娘さんだよ。もし罪をつくるようなことがあったら――そのためにも赤ちゃんに気をつけたほうがいいよ」彼女は『シャロンのバラ』の前に腰をおろした。「このキャンプのなかじゃ、いやらしいことばかりやってるんだよ」彼女は陰気に言った。「毎週、土曜日の晩、みんなでダンスをするんだよ。それもスクエア・ダンスだけじゃないのさ。なかには、ひっついて抱きあって踊ってるやつもいるんだよ! あたしは見たんだ」
『シャロンのバラ』は警戒しながら言った。「あたしも好きよ、ダンスは――スクエア・ダンスなら」そして彼女は上品らしくつけ加えた。「ほかのは踊ったことないわ」
茶色の女は陰気にうなずいた。「ところが、そいつをやるやつもいるんだよ。神さまは、けっして、そういうもんをお許しになっちゃいねえだ。あんたも許されてるなどと思っちゃだめだよ」
「ええ」と娘は小声で答えた。
女は茶色の皺《しわ》だらけの片手を『シャロンのバラ』の膝《ひざ》にのせた。さわられて、娘はしりごみした。
「ちょっとあんたに注意しとくけどね。ここには心から深くイエスさまを愛している人は、すこししか残ってないんだよ。土曜日の晩ごとに、音楽がはじまって、讃美歌をやらなきゃならねえときに、みんな、くるくる踊りだすのさ。ええ、そうなんだよ、踊りだすんだよ。あたしは見てるんだ。近よりはしないけど。そして、あたしの身内のものにも近よらせはしないけど。ひっついたり抱きあったりしてるのさ。ほんとだよ」印象を強めるために言葉を切って、また気味のわるいささやき声で言った。「もっとひどいこともやるよ。芝居をやるんだ」あとずさって、こういう打明け話を『シャロンのバラ』が、どんなふうに受けとるかを見ようとして、頭をそらして相手を見た。
「役者が?」娘は、せつなげに言った。
「いいえ!」彼女は爆発した。「役者なもんか。ああいう、もう救いのない人間じゃないんだ。あたしたちの仲間がやるんだよ。しかも何も知らない子供たちまで入れてさ。そして、ありもしないことを、まことしやかにやってるんだよ。あたしは近よらなかったけどね。何をやったか、ちゃんときいて知ってんのさ。悪魔がこのキャンプのなかを横行してるんだよ」
『シャロンのバラ』は、目と口を開いて、一心にきいていた。「いつか学校で、キリストさまの子供劇をやったことがあるわ――クリスマスに」
「あの――あたしはわるいとかいいとか言ってるんじゃないんだよ。キリストさまの子供劇をやるのは、そりゃ結構さ。でも――ね、あたしはなんでも杓子定規《しゃくしじょうぎ》式に考えたり言ったりするつもりはないよ。でも、ここでやってるのはキリストさまの子供劇なんかじゃないんだよ。ここでやってるのは罪悪と堕落と悪魔の芝居なんだ。それを、まるで悪魔じゃないみたいに、大いばりで歩いたり、行列したり、おしゃべりしたりしてるんだからね。そして踊ったりひっついたり抱きあったりしてるんだからね」
『シャロンのバラ』は嘆息した。
「そして、それも、わずかな人数じゃないんだよ」茶色の女の話はつづいた。「そんなことになれば、信仰の深い、おとなしい人たちが怒るのは、あたりまえだよ。そして、そういう罪深い連中が、神さまに何の迷惑もかけないと思ったら大まちがいだよ。それどころか、神さまは、そのような罪を一つ一つお書きになって、罪を犯すたびに筋をお引きになるから、その筋が一本また一本とふえていくわけなんだ。神さまもごらんになってるし、あたしも見てるだ。神さまはもう二人の人間を追っぱらっておしまいになったのよ」
『シャロンのバラ』は息をはずませた。「もう?」
茶色の女の声は強く、高くなった。「あたしは見てたんだよ。ちょうど、あんたのように、赤ちゃんをみごもってる娘でね。その娘が、芝居をしたり、抱きあって踊ったりしたんだよ。そしたら」――声がかすれ、薄気味わるくなった――「すっかりやせて、皮ばかりになって、そして――その赤ちゃん、流産しちゃったんだよ。死んで出たのさ」
「まあ!」娘は真っ青になった。
「死んで、血だらけでね。もちろん、それっきり、その娘と口をきく人はいなくなって、とうとう出てってしまったよ。罪ってものは、罪にひっかからないとわからないものなんだね。それから、もう一人、同じことをやった娘がいるけど、その娘も骨と皮ばかりになって、そして――どうなったと思う? ある晩、その娘はいなくなったのさ。二日たって戻ってきたよ。人を訪ねたのだと言ってね。ところが、赤ちゃんがもうおなかにないのさ。あたしがこれを、どうにらんだか、わかるかね――あの管理人が、娘をつれて行って、流産させてしまったんだと、あたしはにらんでるよ。あの男は罪を信じないんだよ。自分から、あたしにそう言ったことがあるだ。罪とは腹がへるってことだ、罪とは寒いってことだ、そういうんだよ。わしは――あの男が、あたしに言ったとおりにいうとね――わしは、そういうもののなかに神を認めることはできない、そういうのさ。娘たちがやせるのは食べものが十分ではないからだって。だからね、あたしはあの男をきめつけてやったのさ」彼女は立って、うしろへさがった。鋭い目だ。骨ばった人差し指を『シャロンのバラ』の顔に向ってつき出した。「『下がれ』そう言ってやったよ。言ってやったともさ。『悪魔がこのキャンプを荒しまわってるのを、あたしは知ってるだ。いまあたしは誰が悪魔であるかを知った。下がれ、サタンめ!』そう言ってやったのさ。そしたら、どうだろう、あの男、退散したじゃないか! ぶるぶるふるえながら、こそこそ逃げてったよ。『どうぞ、どうぞみんなを不幸にしないでくだせえ』って、やつがいうから、あたしは言いかえしてやった。『不幸に? みんなの霊魂はどうなるっていうの? あの死んだ赤ん坊や、芝居をしたために破滅ときまった哀れな罪人たちは、どうなるっていうの?』そしたら、あの男は、ただあたしの顔を見て、気持のわるい苦笑いをして、行っちまったよ。あの男は、神さまの本当の証《あかし》を立てる人間に出会ったってわけさ。あたしは言ってやったんだよ、『あたしはイエスさまに代ってなりゆきを見ててやる。おまえにしても、他の罪人どもにしても、とてもごまかせはしないよ』ってね」彼女は、よごれもののはいった箱をとりあげた。「あんたも気をつけるんだよ。あたしは注意してあげるんだ。そのお腹のかわいそうな赤ちゃんのことを考えて、罪をつくらないように気をつけるんだよ」そして女は、巨人のように傲然《ごうぜん》と去って行った。その目は美徳にかがやいていた。
『シャロンのバラ』は、あとを見送り、それから頭をかかえて、腕のなかで子犬のように泣いた。やさしい声が、そばできこえた。恥ずかしく思って、彼女は顔をあげた。それは小男の白服の管理人だった。「心配するんじゃない」と彼は言った。「気にすることはないよ」
彼女の目は涙で見えなかった。「でも、あたし、やっちまったんですもの」彼女は泣いた。「あたし、抱きあってダンスをしちゃったんです。あの人には言わなかったけれど。サリソーでやったんです、コニーと」
「心配することはないよ」と彼は言った。
「あの人、あたしの赤ちゃんが流産するっていうんです」
「あの女のことは、わしも知ってる。わしは、あの女には、ちょっと気をつけているんだ。いい人だが、みんなを不幸にするよ」
『シャロンのバラ』は鼻をすすった。「げんにこのキャンプでも、二人も女の人が赤ちゃんをなくしたって言ってたわ」
管理人は彼女の正面に腰をおろした。「いいかね」と彼は言った。「よくききなよ。わしもそれは知ってる。二人とも、お腹をへらしすぎ、疲れすぎていたんだ。また働きすぎでもあった。しかもトラックにがたがたゆられた。二人は病気になった。当人たちの罪じゃないよ」
「でもあの女の人は――」
「心配することはない。あの女は、ごたごたを起すのが好きなんだ」
「でもあの人は、あんたを悪魔だって言ったわ」
「それも知ってるよ。あの人が、みんなをみじめったらしくするのを、わしが承知しないもんだから、それでそんなことをいうのさ」彼は娘の肩をたたいた。「心配するんじゃない。あの女にゃわからないんだ」
そして彼は足早に行ってしまった。
『シャロンのバラ』は、あとを見送った。管理人のやせた肩が、歩くたびにぎくぎく動いた。そのやせたうしろ姿を、まだ見送っているとき、母親が戻《もど》ってきた。きれいな色つやになり、髪は濡らして櫛《くし》でとかし、きちんとたばねてあった。模様のあるドレスを着て、古びてひびのはいった靴をはいていた。そして小さなイヤリングが耳にさがっていた。
「すましてきただよ」と彼女は言った。「あすこに立って、お湯を、体じゅうに浴びてきただ。あそこにいた女の人の話では、使いたかったら毎日使ってもいいんだそうだ。それで、婦人委員会の人たちは、まだこないのかい?」
「うう、うん!」と娘が言った。
「それでおまえも、そこに坐ったままで、何にもキャンプを片づけなかったというわけかい」言いながら母親はブリキの皿を重ねた。「きちんとしておかなきゃ」と彼女は言った。「さあ、立ちな。動きなよ! あの袋を持ってきて、ちょっと地面を掃いておくれ」彼女は食器を拾い集め、鍋《なべ》類を箱に、箱をテントにしまった。「ベッドを、きちんと直しな」と彼女は命令した。「ほんとに、あたし、あんな気持のいい湯は、はじめてだよ」
『シャロンのバラ』は、気がなさそうに命じられたとおり動いた。「コニーは、きょう戻るかしら?」
「戻るかもしれないし、戻らないかもしれないね。なんともいえないだよ」
「あの人、たしかに、どこへくればいいかを知ってるのかしら?」
「知ってるともさ」
「おっ母さん――まさか――焼討ちされたときに、あの人、殺されたんじゃないわね?」
「あの男は大丈夫さ」母親は自信をもって言った。「あの男は、どこでも行きたいところへ行ける人間だからね――兎《うさぎ》みたいにすばしこくて、狐《きつね》みたいにうまく逃げるだよ」
「あたし、あの人に早くきてもらいたいわ」
「くるときがくれば、きっとくるだよ」
「おっ母さん――」
「あたしはおまえに働いてもらいたいんだよ」
「踊ったり芝居をしたりするのは罪なのかしら? そんなことをすれば赤ちゃんが流産しちゃうのかしら?」
母親は用事の手をとめて、両手を腰にあてがった。「はて、おまえは何の話をしてるだ? 芝居なんぞ、おまえは、したことがないじゃないか」
「でも、ここの人たちが芝居をしたことがあるんだって。そしたら、一人の娘が赤ちゃんを流産しちゃったんだってよ――死んで――血だらけになって、まるで神の審《さば》きを受けたように」
母親は彼女を見つめた。「誰《だれ》が言っただね?」
「通りかかった女の人よ。そしたら、あの白服を着た小男の人が通りかかって、それはちがうって言ってたわ」
母親は眉《まゆ》をひそめて、「ローザシャーンや」と言った。「自分で自分をつっつくのはやめるだ。おまえは自分で自分をいじめてるだけだ。そして、あげくの果ては泣きだしてしまうだ。おまえに、どんなことが起きるか、あたしは知らないよ。あたしたちの家では、そんなことは、いっぺんもなかっただ。みんな泣かずに、自分の身に起ることを黙って受けとった。そんなつまらないことを考えさせたのも、きっとコニーだろう。あの男は背のびをしてただけの子供だよ」そして彼女は、きびしく言った。「ローザシャーン、おまえは、ちゃんとした一人前の人間なんだよ。一人前の人間は、ほかにもたくさんいるんだし、おまえは、おまえ相応の場所にいればいいだ。世間には、自分で罪ってものをこしらえあげ、あげくの果てには、自分たちが神さまの目から見れば生意気な、卑《いや》しい、つまらぬものだと思いこむようになる、そういう人たちがいることを、あたしは知ってるだ」
「でも、おっ母さん」
「いいえ、いまは黙って働くことだ。おまえは神さまのことをひどく苦にするほど、それほどえらくもなければ卑しくもねえだよ。だから、おまえがそうやって自分をこづきまわすのをやめないんなら、あたしは、おまえのお尻《しり》をぶってやるよ」彼女は灰を焚火《たきび》穴へ掃き落し、その縁の小石を払った。彼女は委員会の連中がくるのを見た。「さあ、仕事をしな」と彼女は言った。「婦人たちが見えたよ。さあ働いておくれ。あたしが自慢できるようにね」彼女は、それっきりそのほうを見なかったが、委員たちが近づくのを意識していた。
それが委員会の連中であることは疑う余地がなかった。一人は、きれいに身じまいして、一張羅《いっちょうら》のドレスを着こみ、紐《ひも》のような髪の、鉄縁眼鏡をかけた、やせた女、一人は、白髪の縮れた、小さなかわいい口をした、小柄《こがら》で頑丈《がんじょう》そうな女、一人は、足も腰も大きく、胸も大きく、馬車馬のように筋骨たくましく、強そうで自信たっぷりな、マンモスのような大女――この三人だった。
母親は三人が到着するときまで、どうやら背中を向けおおせた。三人が立ちどまり、くるりと向きをかえて一列に並んだ。すると例の大女がふとい声を出した。「お早う。ジョード家のおかみさんですね?」
母親は、まるで不意討ちを食ったような顔をして、ふりむいた。「おや、はい――はい、どうしてあたしの名前をご存じなんですか?」
「わたしたちは委員会のものです」と大女が言った。「衛生班四号の婦人委員会ですよ。お名前は事務所でききました」
母親は、あわてた。「家はまだ、ちっとも片づいてなくて。みなさんにきていただいて、うれしく思いますだ。ちょっとお掛けになってくだせえ。コーヒーをいれますだ」
小柄なほうの委員が言った。「あたしたちの名前を言いなよ、ジェシー。ジョードのおかみさんに、あたしたちの名前を名のるんだよ。ジェシーが議長なんでね」と彼女が説明した。
ジェシーは、しかつめらしく言った。「おかみさん、こちらがアニー・リトルフィールドとエラ・サマーズです。それからわたしがジェシー・ビリット」
「あんたがたとお近づきになれてうれしゅうござんすだ」母親が言った。「どうぞ掛けてくだせえ。といっても、ここにゃ掛けるものがねえだね」と、つけ加えた。「でも、コーヒーでもおいれするだ」
「あ、いいえ」アニーが形式ばって言った。「どうぞおかまいにならないで。わたしたち、ちょっと様子を見にお訪ねしただけだから。それに、おまえさんがたに気楽にしてもらおうと思ってね」
ジェシー・ビリットが、きびしく言った。「アニー、わたしが議長なのを忘れないでおくれよ」
「あら! そうだっけ。そうだっけ。でも、来週はわたしの番だよ」
「そうさ。でも、そんなら来週まで待っておくれ。議長は毎週交代なんでね」と彼女は母親に説明した。
「まあコーヒーを一杯いかがで?」母親が情けなそうにきいた。
「ええ、ありがとう、結構よ」ジェシーが議長らしく一同に代って言った。「はじめに、おまえさんを衛生班へ案内して、それから、よかったら婦人クラブへ入会の手続きをとって、おまえさんの役目をきめるだ。もちろん入会しなくちゃならないってわけじゃないけどね」
「それは――それはお金がたくさんかかるんですかね?」
「お金なんかかからないよ。仕事をするだけさ。そいで、みんなから顔を知られると、いずれおまえさんも、この委員会に選挙されることもあるというもんさ」とアニーが口をはさんだ。「ここにいるジェシーはね、キャンプ全体の委員会にも出るんだよ。拡大委員会の委員なのさ」
ジェシーは鼻を高くして微笑した。「満場一致で選挙されたんでね」と彼女が言った。「それはそうと、おかみさん、そろそろキャンプのやり方を教えといたほうがよさそうだね」
母親が言った。「ここにいるのは、娘のローザシャーンっていいますだよ」
「こんにちは」三人が言った。
「あとで、おまえさんもいっしょにきなさるがいい」
巨大なジェシーが話しだした。彼女の態度は威厳と好意に満ちていた。彼女の演説は何度めかのおさらいのようであった。
「わたしたちが、おまえさんがたの家のことに、おせっかいすると思ってくれては困るだよ、ジョードのおかみさん。このキャンプには、みんなしていっしょに使うものが仰山《ぎょうさん》あるだからね。だから、わたしたちは、自分たちで規則をつくったのさ。さあ、それじゃ班へいっしょに行こうか。あすこの品物は、みんながいっしょに使うんだから、みんなが大切にしなくてはなんねえだ」一同ぞろぞろと洗濯器のおいてある吹き抜けの場所へ行った。二十個あるうち、八個が使用中で、女たちがしゃがみこんで衣類をごしごしやっていた。清潔なコンクリートの床の上に、絞りあげられた衣類が山と積んであった。「それで、ここにある洗濯器は、いつでも好きなときに使えるだ」とジェシーが言った。「ただ気をつけることは、あとをきれいにしておくことだけだよ」
洗濯をしていた女たちは、興味をもって顔をあげた。ジェシーが大声で言った。「こちらはジョード家のおかみさんとローザシャーンだよ。新しくはいってきた人たちだよ」みんな声をそろえて母親にあいさつし、母親は、ぴょこんと小さなお辞儀をして、「お目にかかれてうれしいですだ」と言った。
ジェシーは委員たちを引きつれてトイレとシャワー室へはいった。
「ここへは、さっきもうきただよ」と母親が言った。「お風呂《ふろ》まで使わせてもらっただ」
「そのためにあるんだからね」とジェシーが言った。「ここも規則は同じだよ。あとをきれいにしておかなくちゃいけねえだ。毎週、新しい委員ができて、一日に一度、ふき掃除をやるだよ。おまえさんも、その委員になるかもしれないよ。石鹸《せっけん》は自分のを持ってくること」
「石鹸を買わなくちゃ」と母親が言った。「みんな使ってしまったで」
ジェシーの声は敬虔《けいけん》といえるほど丁寧になった。
「おまえさん、こういうのを使ったことが、あんなさるかね?」ときいて、彼女は便器を指さした。
「はい、さっそく、けさ」
ジェシーは嘆息した。「そんなら結構」
エラ・サマーズが言った。「つい先週――」
ジェシーが、きびしくこれをさえぎった。「サマーズのおかみさん――わたしが話すよ」
エラは譲歩した。「そうかい。じゃ、どうぞ」
ジェシーが言った。「先週おまえさんが議長だったときには、おまえさんが何でもやった。だけど今週は、わたしに任せておいてもらいたいものだね」
「じゃ、あの人のしたことを、おまえさんから話しなね」
「あいよ」ジェシーが言った。「人さまのことをおしゃべりするのは、この委員会のすることじゃないから、名前は出したくないんだけど。先週はいってきた、あるおかみさんが、まだ委員会と話をしないうちに、ここへはいって、便器のなかへ、亭主《ていしゅ》のズボンをつっこんじゃったんだよ。そうしていうことには、『これは低すぎるよ、大きさも足りない。かがむと背中がくたびれちまうだ』と、こうなんだ。『なんで、もうすこし高くつくらなかったんだろうかね』だってさ」委員会は優越感に満ちた微笑をかわした。
エラが口を出した。「そして、『一度にたくさんはいれられないんだねえ』とも言ったよ」エラは、ジェシーのきびしい一睨《ひとにら》みにしょげかえった。
ジェシーが言った。「トイレット・ペーパーのことでもめんどうが起きてね。規則では、ここから紙を持ちだせないことになってるんだよ」彼女は鋭く舌打ちした。「トイレット・ペーパーのために、キャンプじゅうの喧嘩《けんか》になっちまったのさ」そこで、ちょっと口をつぐんだが、やがて、彼女は告白した。「四班が、どこよりもよけいに使うんだよ。誰かが盗んでいくのさ。そこで問題が婦人会の総会にもち出された。『四号の婦人用では使用が多すぎる』というんで総会にもち出されちゃったんだよ」
母親は息もつかずに、話にききいっていた。「盗むって――何のために?」
「それがね」とジェシーが言った。「前にも一度、騒ぎがあったのさ。前のときは三人の小さな女の子が、あれでお人形をつくってたんだよ。うん、そのときはつかまえたよ。でも、こんどのはわからないんだ。一巻きおいたかと思うと、もうなくなるんだ。とうとう総会にもち出された。一人がいうには、巻紙が一まわりするたびに鳴るように小さな鈴をつければいい、そうすれば、みんながどのくらい使うか、わかるだろうって」彼女は首をふった。「わたしには、どうもわからないね。今週いっぱい、わたしは心配しつづけたんだよ。四班のトイレから、誰かがトイレット・ペーパーを盗んでいくんだ」
入口のほうから泣き声がきこえた。「ビリットのおかみさん」委員会はふりむいた。「ビリットのおかみさん、あたし、いまのお話、ききましたよ」真っ赤な顔に汗を出した女が戸口に立っていた。「あたしは総会へ出られなかったですよ、ビリットのおかみさん。出られなかっただ。みんなから笑われたり何かされると思ってね」
「おまえさん、何の話をしてるの?」ジェシーが前へ出た。
「ええ、あの、あたしんとこ――たぶん――それは家《うち》のものなんです。でも盗んだんじゃねえですだよ、ビリットのおかみさん」
ジェシーが女のほうへ進んで行くと、狼狽《ろうばい》した告白者の顔には汗の粒がふき出した。「どうにも仕方がなかったんだよ、ビリットのおかみさん」
「とにかく、おまえさんの話をきかせなね」ジェシーが言った。「ここの班は、あの紙のことで恥をかいたんだよ」
「今週じゅう、ずっと、ビリットのおかみさん、どうにも仕方がなかったですよ、家には五人の子供がおるでしょうが」
「子供たちが紙をどうしたの?」ジェシーは恐ろしい声できいた。
「使ってただけなんです。ほんとです。使ってただけなんですよ」
「そんな権利はないよ! 四、五枚あればたくさんなはずだからね。いったい、どうしたっていうの?」
告白者は羊のような声で言った。「下痢《くだ》したんですよ。五人が五人とも。お金に困ったんです。青い葡萄《ぶどう》を食べたもんで、五人とも、ひどい下痢にかかっちまったんです。十分おきにくだるんです」彼女は子供たちを弁護して言った。「でも盗んだんじゃねえです」
ジェシーは嘆息して、「話してくれればいいのに」と言った。「話さなきゃだめじゃないか。おまえさんが話してくれないから、この四班が恥をかいたんだよ。誰だって腹をくだすことはあるんだから」
弱々しい声で女は泣いて訴えた。「あたしは子供たちが青葡萄を食べるのをとめることができなかったですだよ。それからずっとわるくなる一方なんです」
エラ・サマーズが、たまらなくなって口走った。「救済だて。この人は救済を受けるのが当然だ」
「エラ・サマーズ」ジェシーが言った。「もうこれっきり言わないからね、わたしが議長だよ」彼女は、小柄の、みじめな女のほうへ向き直った。「お金に困ってるんだね、ジョイスのおかみさん?」
彼女は恥じ入って下を向いた。「ええ、でも、仕事さえあれば、いつでも」
「ねえ、おまえさん、頭をあげなさいよ」ジェシーが言った。「何もおまえさんはわるいことをしたんじゃないんだよ。おまえさん、さっさとウィードパッチの店へ行って、何か食料品をとっておいでな。このキャンプは、あすこに二十ドルの信用勘定があるんだからね。おまえさんは五ドル分だけは品物をとってくることができるんだよ。それを仕事にありついたときに中央委員会へ返しておくれな。ジョイスのおかみさん、おまえさんだって、それは知ってるはずじゃないか」彼女は、おごそかに言った。「それなのに、なんでおまえさんは、娘たちを腹ぺこにさせちまったんだい?」
「あたしんとこじゃ慈善を受けたことはねえだ」
「これは慈善じゃないよ、おまえさんも知ってるはずじゃないか」ジェシーは怒った。「わたしたちは、そんなものは締めだしちゃったんだ。ここのキャンプには慈善なんてものはないんだよ。わたしたちだって慈善は受けないよ。だから早く出かけて行って、何か食料品をとっておいでな。そいで伝票をわたしんとこへ持っておいで」
ジョイスのおかみさんは、おずおずと言った。「もしか、お金が払えなかったら? もう家じゃ、ずいぶん長いこと仕事がなかったで」
「払えるときに払えばいいんだよ。払えなかったら、それはわたしらの知ったことでもないし、おまえさんの知ったことでもないのさ。ある人は、ここを出て、二カ月たってからお金を送ってきたよ。ここのキャンプでは、娘たちをひもじがらせておく権利はないんだよ」
ジョイスのおかみさんは怖気《おじけ》づいていた。「はい」と彼女は言った。
「娘たちにチーズをとってきておやり」ジェシーは命令した。「下痢にはきくよ」
「はい」そしてジョイスのおかみさんは扉《とびら》の外へ走り出た。
ジェシーは腹をたてたまま委員会のほうに向き直った。
「あの人は、あんな頑固なことをいう権利はないよ。仲間のあいだで、そんな権利はないよ」
アニー・リトルフィールドが言った。「あの人は、まだここにそんなに長くいないからね。知らなかったのかもしれないよ。前に慈善を受けたことがあるのかもしれないね。いいえ――」アニーは言った。「まあ、あたしを黙らせないでおくれ、ジェシー。あたしだって発言する権利があるよ」彼女は、なかば母親に向って言った。「もし一度でも慈善を受けると、そのつらさは一生消えないもんだよ。ここでやってるのは慈善じゃないけど、でも、一度でも慈善を受けたら、一生忘れるもんじゃない。きっとジェシーは一度も慈善を受けたことがないんだよ」
「ああ、わたしはないよ」とジェシーが言った。
「ところが、あたしは受けたんだよ」アニーが言った。「去年の冬さ。あのときは家じゅう餓死しかかっていた――あたしとお父っさんと小さい連中とね。おまけに雨が降ってた。救世軍へ行けって、人に言われたんだよ」彼女の目は、たけだけしくなった。「あたしたちは、お腹をすかしてた――やつらは、あたしたちに食べものをくれるのに、あたしたちを這《は》いつくばらせやがっただ。やつらは、あたしたちの人格を奪いとっただ。あいつら――あたしは、あいつらが憎いだよ! だから――ことによるとジョイスのおかみさんも慈善を受けたのかもしれないよ。ここのは慈善とはちがうってことを知らなかったのかもしれない。ジョードのおかみさん、このキャンプでは、誰にも、あんなふうに強情を張ることは許されてないんだよ。あたしたちは、どんなものでも他の人にくれてやるということは、誰にも許さないんだ。キャンプへ寄付することはできるけどね。だから、キャンプから、それをくばるんだよ。あたしたちは慈善は受けたくないからね!」彼女の声は激烈で、しわがれていた。「あたしは、あいつらが憎いよ」と彼女は言った。「これまで、あたしは自分の亭主が他人に頭をさげるのを見たことはなかった。だけど、あいつらは――あの救世軍のやつらは、それを、うちの人にやらせやがっただ」
ジェシーはうなずいた。「わかったよ」彼女はやさしく言った。「よくわかったよ。それじゃジョードのおかみさんを案内しようか」
母親が言った。「すみませんね」
「裁縫室へ行こう」アニーが言いだした。「ミシンが二台あるんだよ。みんな刺し子縫いをしたりドレスをつくったりしてるだよ。あそこで仕事するのは、おまえさんだって、きっと気に入るだよ」
委員会が母親を訪ねたとき、ルーシーとウィンフィールドは、気づかれぬうちに人目につかぬところへかくれた。
「なぜ行って話をきかないんだい?」ウィンフィールドがきいた。
ルーシーは彼の腕を握った。「きくもんか」と彼女は言った。「あのくそたれ婆《ばばあ》たちのために、あたしたちは顔を洗わされたんじゃないか。あたしは、あいつらといっしょにいるのはいやだよ」
ウィンフィールドが言った。「姉ちゃんは、便器のことでおれを言いつけたね。おれ、姉ちゃんが、あのおばさんたちのことを何て言ったか、言いつけてやるぞ」
恐怖の影がルーシーの顔にさした。「だめよ。ほんとは、おまえがこわさなかったことを知ってたから、わざと言いつけたんだよ」
「嘘《うそ》だい」とウィンフィールドは言った。
ルーシーが言った。「見てまわろうよ」二人はテントの町を散歩して、わざとぐずぐずしながら、一軒ずつのぞきこんでいった。班の端に、平らな場所があって、クローケーのコートができていた。五、六人の子供が、真剣にゲームをやっていた。テントの前に、一人の年配の女がベンチに腰をかけて、ながめていた。ルーシーとウィンフィールドは、急に駆けだした。「遊ばして」とルーシーが叫んだ。「あたしたちも入れてよ」
子供たちは顔をあげた。おさげの女の子が、「このつぎから入れてあげるわ」と言った。
「いまやりたいのよ」ルーシーが叫んだ。
「いまはだめよ、つぎの勝負がはじまるときでないと」
ルーシーは意地わるくコートのなかへはいって行った。「あたし、やろうっと」おさげの少女は自分のスティックを、しっかり握りしめた。ルーシーは彼女に飛びかかり、平手で打ったり押したりして、スティックをもぎとってしまった。「やると言ったら、やるんだわ」と彼女は勝ち誇って言った。
年配の女は立って、コートのなかへはいってきた。ルーシーは乱暴に走りまわり、両手にしっかりスティックを握っていた。女が言った。「あの娘《こ》を遊ばせておやり――おまえが先週ラルフを遊ばしてやったように」
子供たちは地面にスティックをおいて、黙ってコートから出て行った。そして遠くに立って、無表情な目つきで、こちらをながめていた。ルーシーは彼らの行くのを見送っていた。それから彼女は球《たま》をうって、そのあとから走った。「おいでよ、ウィンフィール、スティックをとりなよ」と彼女は呼んだ。そのとき彼女はびっくりした。ウィンフィールドが、見物している子供たちにまじって、同じ無表情な目つきで彼女をながめているのだ。挑戦的に彼女はまた球をうった。大きな埃《ほこり》をけたてた。彼女は楽しんでいるふりをした。子供たちは立って見物していた。ルーシーは二つの球を並べ、両方とも打ち、見物の目に背を向け、それからふりかえった。急に彼女はスティックを手にしたまま彼らのほうへ進んで行った。「ゲームをしようよ」と彼女は言った。彼らは、彼女が近づくと、黙ってあとずさりした。ちょっとのあいだ、彼女は子供たちを見つめていたが、すぐにスティックを投げだして、泣きながらわが家へ走り戻った。子供たちはコートへ引きかえした。
おさげの少女がウィンフィールドに言った。「つぎのときに入れてあげるわね」
見物の女が注意をあたえた。「あの子が戻ってきて、おとなしくするときには、入れておやりよ。おまえもいけなかったよ、エミー」ゲームはつづき、ジョード家のテントではルーシーが、みじめに泣きくずれていた。
トラックは色づきはじめている桃の果樹園をすぎ、薄緑の房をつけた葡萄園をすぎ、半ば枝を道にかざしかけている胡桃《くるみ》の並木のつづいている美しい道路に沿って走った。農場の入口へくると、そのたびにアルは速力をゆるめたが、どの入口にも、「人手不用、立入りを禁ず」という立札があった。
アルが言った。「お父っさん、あの果物が摘めるころになれば、仕事があるにきまってるんだがな。おかしなところだ――向うから頼んでくるまでは仕事がねえって書いてやがる」彼は、ゆっくりと車を進めた。
父親が言った。「何だったら、ともかくはいりこんで行ってみたらどうだい。どこかに仕事があるかどうかきけるかもしれねえぜ。やってみようや」
青い仕事着に青シャツの男が、道路の縁を歩いていた。アルが、その男のそばで車をとめ、「ちょっと、おまえさん」と声をかけた。「どっか仕事のあるところを知らねえかね?」
男は立ちどまって苦笑した。その口には前歯が欠けていた。「ねえな」と彼は言った。「おまえたちのほうは、どうだい? おいら、もう一週間も歩きづめだが、一つも出っくわさねえだ」
「あの国営キャンプにいるのかい?」とアルがきいた。
「そうだよ」
「じゃ、きなよ。うしろへ乗んな。みんなでさがそうじゃねえか」男は側板を越えて這いあがり、床に降りた。
父親が言った。「わしの勘では、仕事がめっかりそうな気は一つもしねえだ。それでもさがさなくちゃいられねえだ。どこでさがしたらいいかさえわからねえだよ」
「キャンプの人たちと話をしたらいいんかもしれねえな」とアルが言った。「気分はどうだい、ジョン伯父?」
「痛えよ」ジョン伯父が言った。「体じゅう痛えだ。それでもわしは、こずにゃいられなかっただ。家のもんに罰を受けさせたくはねえだでな。わしはどこかへ行っちまったほうがいいだ」
父親はジョンの膝《ひざ》に手をおいた。「なあ」と彼は言った。「どこへも行くんじゃねえぜ。うちの家族が、だんだん減ってくだ――じいさまとばあさまは死ぬし、コニーの野郎も――飛びだしちまうし、説教師までが――牢《ろう》へはいっちまっただ」
「おれは、また説教師に会えそうな気がするだぜ」とジョンが言った。
アルはチェンジ・レバーの握りに手をふれた。「伯父貴はぐあいがわるいだ。だから勘なんぞ働かねえだよ」と彼は言った。「そんなこたあ、どうでもいいや。帰って相談しようじゃねえか。そして、どこに仕事があるか、そいつを調べようじゃねえか。これじゃ、まるで水のなかでスカンクを追っかけてるようなもんだぜ」彼はトラックをとめ、窓から体を乗りだして、うしろへ声をかけた。「おい、ききなよ! おれたちはキャンプへ帰って、どこに仕事があるか調べてみることにしたぜ。こんなふうにしてガソリン使ったってはじまらねえだでな」
男はトラックの横から身を乗りだした。「おいらもそのほうがいいだ」と言った。「おいら、もうすっかりくたびれちまっただ。おまけに何も食ってねえだで」
アルは道路の中央に車をやって方向を変えた。
父親が言った。「おっ母は、さぞ怒るだろうな。おまけにトムがうまく仕事にありついた矢先だでな」
「なに、ありつきゃしねえのかもしれねえぜ」とアルが言った。「トムも、やっぱりさがしに行っただけなのかもしれねえだ。おれはガレージの仕事にありつけたらいいんだがなあ。早くそのほうのことを覚えてえし、それにおもしれえだろうからな」
父親はうなずいた。そして彼らは黙ってキャンプに向って車を走らせた。
委員たちが行ってしまうと、母親はジョード家のテントの前の箱に腰をおろして、情けなそうに『シャロンのバラ』を見ていた。「あのね――」と彼女は話しかけた。「ねえ――あたしは何年にも、こんなに元気づいたことはねえだよ。あの人たちは、みんないい人じゃないかね」
「あたし、育児室で働くわ」と『シャロンのバラ』は言った。「話をきいたのよ。赤ちゃんのこと、どんなふうにするものか、みんなおぼえられるんだって。そうすれば、なんでもわかるわ」
母親は驚きながら、うなずいた。「男たちが、みんな仕事にありつけたらいいんだがね」彼女は言った。「男たちが働いて、すこしはお金がはいってくるようになったらね!」彼女の目は空《くう》をさまよった。「男たちが働いて、あたしたちもここで働いてね、おまけに、みんないい人ばかりだし。もうすこししたら、何よりさきに、まず小さなストーブを買うだよ――上等のをね。たいして高くはないさ。そのつぎにはテントを買うだ。大きいのをね。それから中古のベッドのスプリングも買えるかもしれない。そして、このテントは食事のときにだけ使うようにするだよ。土曜日の晩には、みんなでダンスの会に出るだ。みんなの話だと、招《よ》びたければ、お客を招んでもいいそうだ。あたしは、招ぶような友達がほしいだよ。たぶん男たちが招べるような人たちと知合いになってくれるだろうがね」
『シャロンのバラ』は往来をのぞいた。「さっきの人よ、赤ん坊を流産させる話をした女よ――」と彼女は言いかけた。
「その話はおやめ」母親が警告した。
『シャロンのバラ』は小声で言った。「あの人の姿を見かけたの。こっちへくるところらしいわ。あら、ほんとだ! きたわ。おっ母さん、あの人を入れないで――」
母親はふりむいて、近づいてくる姿を見た。
「こんにちは」と女が言った。「わたしはサンドリー――リズベス・サンドリーっていいますだ。けさ、お宅の娘さんに会いましたよ」
「こんにちは」と母親が言った。
「あんたは神さまのお恵みを受けていなさるかね?」
「受けてますよ」と母親が言った。
「おまえさんは救われたのかね?」
「救われましたよ」母親の顔は、むっつりと相手の出方を待ちうけていた。
「そうかね、そりゃうれしいことだ」リズベスが言った。「罪びとどもが、このへんでは、えらく威勢が強くてね。このへんには、よこしまなものが、いっぱい、はびこってるだ。よこしまな人間、よこしまな催し、心の素直なクリスチャンには、とても我慢ができねえだ。わたしらのまわりには罪びとがいっぱいいるだからね」
母親の顔には、ちょっと血の気がさした。彼女は口をしっかり結んでいた。「ここには、いい人ばかりいるように思えますがね」と彼女はそっけなく言った。
サンドリー夫人は目をまるくした。「いい人だって?」と彼女は叫んだ。「おまえさんは、踊ったり抱きあったりする連中を、いい人と思いなさるのかい? わたしらの不滅の魂は、このキャンプでは、救われる見こみがねえだよ。昨夜ウィードパッチの集会へ行ったけど、牧師さんが、何て言ったか知ってるかね? 『あのキャンプには邪悪が満ち満ちてる』そう言っただよ。『貧しきものが富めるものとなろうとしている』とね。『罪に泣き罪にもだえるべきときに踊ったり抱きあったりしている』牧師さんが、そう言ってるんだよ。『ここへきておらぬ人たちは、みな、のろうべき罪びとだ』とね。まじめな人間は、あの人の話をきくと、とてもいい気持になるだ。そして、わたしたちは安全だってことがわかるだ。わたしたちはダンスなんかしねえからね」
母親の顔は赤かった。彼女は、ゆっくりと立って、サンドリー夫人の正面へきた。「出て行きな!」彼女は言った。「いますぐ出て行きな。あたしが罪びととなる前に、おまえさんがどこへ行けばいいかを教えてやる。おまえさんは、勝手に泣いたりもだえたりしてればいいんだ」
サンドリー夫人は口をぽかんとあけていた。彼女は、あとへさがった。それから凶暴な顔つきになった。「わたしゃ、おまえさんをクリスチャンだと思ってたがね」
「そうさ、あたしたちはそうだよ」と母親が言った。
「いんや、おまえさんたちは、そうじゃねえだ。おまえさんたちは地獄行きの重罪人だ。一人残らずそうだ! あたしは集会で、そのことを言ってやる。おまえさんの、のろわれた魂が燃えているのが、あたしには見えるだぞ。あそこにいる娘の腹のなかの罪のない子供が焼けているのが、あたしには見えるだ」
低い、せつなげな叫び声が『シャロンのバラ』の唇《くちびる》からもれた。母親は身をかがめて木の棒を拾いあげた。
「出てけ!」彼女は冷やかに言った。「二度とここへきちゃいけねえだ。おまえみたいなのを、あたしは前にも見たことがあるだ。そんなことをして楽しみにしてるだ。そうだろう!」母親はサンドリー夫人のほうへ進みよった。
一瞬、女はあとずさりしたが、すぐ頭をもたげてわめきだした。目はつりあがり、肩と腕は、だらりと両脇《りょうわき》にたれ、濃い縄《なわ》のような唾液《だえき》が口のすみから流れだした。彼女は、わめいては、またわめいた。それは長く深い獣のようなわめき声だった。男や女が、他のテントから走り集まってきて、近くに立った――おびえて、何も言わなかった。すこしずつ、女は、膝からくずおれて沈み、わめき声は低くなって、ふるえるうめき声と変っていった。横ざまに倒れて腕と足がねじれた。白目が開いた瞼《まぶた》の下に見えた。
一人の男が小声で言った。「憑《つ》きものだて。憑《つ》きものにとっつかれただよ」母親は、ねじれた寝姿を見おろしていた。
小男の管理人が、何の気もなく通りかかった。「何かあったのかい?」と彼はきいた。群集がわかれて道をあけた。彼は女を見た。「これはひどい」と彼は言った。「誰か二、三人でテントまで抱いてってくれないか」沈黙の人々は足ぶみしていた。二人の男がかがんで、一人が腕の下から、他の一人が足を持って、女をかかえあげた。女が運び去られると、人々は、ぞろぞろとそのあとについて動いた。『シャロンのバラ』は防水布の下へ行き、毛布で顔をおおって横になった。
管理人は母親の顔を見、それから彼女の手にした棒切れを見た。彼は疲れたように笑った。
「なぐったのかい?」と彼はきいた。
母親は去って行く人々のうしろから、まだ目を放さずにいた。彼女は、ゆっくりと首をふった。
「いんや――でも、なぐってやるつもりだった。きょうは二度もあの女は、うちの娘におせっかいをしただ」
管理人は言った。「なぐったりしないでおくんなさいよ。あの女は病人なんだ。病んでいるだけだよ」そして彼は、やさしくつけ加えた。「わしは、あの人に出て行ってもらいたいんだ。家族全部に出て行ってもらいたいんだ。あの女は、他の人たちを束にしたよりも、このキャンプで、ごたごたを起すのでね」
母親は平静をとり戻した。「もしまたきたら、あたしはなぐりつけるかもしれねえだ。安心はならねえだよ。これ以上、うちの娘を不安がらせてもらいたくねえだ」
「そのほうは心配しなさんな、ジョードのおかみさん」と彼は言った。「もう二度と会うことはあるまいよ。あの女は新しくきたものに働きかけるんだ。二度とはこないよ。おまえさんを罪びとだと思ってるからね」
「ふん、あたしは罪びとさ」と母親が言った。
「そうともさ。みんな罪びとだよ。だが、あの女のいう意味とはちがう意味でね。あの女は病人なんだよ、ジョードのおかみさん」
母親は感謝をこめて彼を見た。そして声をかけた。「ローザシャーンや、おまえ、きいたかい? あの女は病人なんだよ。狂ってるんだよ」だが娘は頭をあげなかった。母親が言った。「おまえさんに言っとくだがね、だんな。もしあの女がまたくるようだったら、あたしは安心がならねえだよ。なぐってやるだよ」
彼は、ゆがんだ微笑をした。「わしには、おまえさんの気持がわかるよ」と彼は言った。「だがまあ、なるだけやらないでおくれよ。それだけが、わしの頼みだ――なるべくやらないようにしてくれればいいよ」彼は、ゆっくりとサンドリー夫人の運ばれたほうへ歩いて行った。
母親はテントにはいって、『シャロンのバラ』のそばに坐った。「顔をあげな」と彼女は言った。娘は、じっと横たわったままだ。母親は娘の顔からやさしく毛布をめくった。
「あの女はね、気が変なんだよ」と彼女は言った。「あんなこと本気にするんじゃないよ」
『シャロンのバラ』は恐ろしげにささやいた。「火に焼かれるって言われたとき、あたし――ほんとうに焼かれてるような気がしたわ」
「あんなことは嘘だよ」と母親が言った。
「あたし、すっかりくたびれたわ」娘はささやいた。「あの騒ぎで、すっかりくたびれちゃったの。眠りたいわ。眠りたい」
「あいよ、じゃ、眠るがいいだ。ここはいいところだね。おまえは眠れるよ」
「でも、あの人がまたきたら」
「こないよ」と母親が言った。「あたしが、ちゃんと外に立ってるから、二度とこさせはしないよ。いいから、ゆっくりお休み。もうじき育児室で働かなきゃならねえだからね」
母親は、どっこいしょと立ちあがり、テントの入口へ行って箱に腰をおろした。膝に両肘《りょうひじ》をつき、両手を杯の形にして顎《あご》をささえた。キャンプのなかの動きを見、子供たちの声をきき、鉄の縁をたたく槌《つち》の音をきいた。しかし彼女の目は前方を見つめていた。
父親は往来を戻ってきて、そこに母親の姿を見つけ、そばに腰をおろした。彼女は、ゆっくりと父親のほうに目を移した。「仕事があったかい?」彼女はきいた。
「いんや」彼は恥じて答えた。「さがしたんだがな」
「アルやジョンやトラックはどこだい?」
「アルは何か直してるだ。道具を借りなきゃならねえんでね。その場で直してけって相手の男がアルに言ってただよ」
母親はもの悲しそうに言った。「ここはいいところだ。しばらくみんな幸せにここにいられるといいだね」
「仕事にさえありつけばな」
「ほんと! 仕事にさえありつければね」
父親は彼女の悲しんでいるのを感じとって、相手の顔をまじまじとながめた。「何をおまえはがっかりしてるだ? ここがそんないいところなら、なぜ、そんなにがっかりすることがあるだ?」
彼女は夫を見つめ、それから、ゆっくりと目を閉じた。
「おかしいね。そうじゃねえだよ。しじゅうあたしたちは動いたり押しのけられたりばかりしていたんで、これまで、あたしは、何も考えなかっただ。ところがいま、ここの人たちが、あたしに親切にしてくれるだ。とても親切にしてくれるだ。そしたら、あたしがいちばんはじめにしたことっていえば、まず、すぐに悲しいことを思いだしちまっただよ――じいさまが死んで、お墓へ埋めた、あの晩のことをさ。あたしは、あれからずっと外にばかりいて、ゆられたり動いたり、それがかえってよかっただよ。だけど、いまはここへきて、よけいに悲しくなってしまっただ。それからばあさま――そしてノアも、あんなふうにして行っちまって! 河に沿って、どんどん行っちまった。ああいうことも、その一つなのだが、それがいま、みんないちどきに戻ってきただよ。ばあさまは乞食《こじき》みてえになって、乞食みてえに埋められただ。それがいまとなってはつらいだよ。とてもつらいだ。それからノアは河下のほうへ行っちまっただ。あの子自身、どんなところか知りもしねえところへ。あの子は、どんなところか、なんにも知らねえだ。あたしたちも知らねえ。あれが生きてるか死んでるか、それを知るすべも、もうねえだ。わかりっこねえだ。それからコニーも逃げだすし。あたしは、これまで頭に隙間《すきま》がなかったけんど、いまになって、そうしたことが、みんないっしょになって戻ってくるだよ。あたしたちは、いいところへきたんだから、よろこぶのがあたりまえなのにね」父親は、母親のしゃべっているあいだ、その口もとを見まもっていた。彼女は目をとじていた。「あたしは、あの山をおぼえてるだ。ノアが歩いて行った河のそばの歯のようにとがったあの山をね。じいさまが眠ってる地面の切株もおぼえてるだ。故郷《くに》の肉切台もおぼえてるだ――鶏の羽根が一枚くっついてて、切り傷が縦横にいっぱいついてて、鶏の血で黒くなった肉切台もね」
父親の声には、母親の調子が移っていた。「おれはきょう鴨《かも》を見ただ」と彼は言った。「南に向って――高いところをな。それが、ばかにきれいに見えただ。それから針金の上にとまってる黒鳥も見たし、垣根《かきね》の上の鳩《はと》も見ただ」母親は目を開いて父親を見た。父親は話しつづける。「わしは、まるで人間が野原で舞ってるようなつむじ風を見ただよ。そして鴨が南のほうへ渡って行っただ」
母親は微笑した。「おぼえてるかい?」と彼女は言った。「故郷《くに》で、あたしたちがいつも話してたことを、おぼえてるかね? 『冬が早くきたね』鴨が渡るときは、そう言ったもんだ。いつもそう言ったもんだよ。冬は、こようと思ったときにくるだ。でも、あたしたちは、いつも『冬が早くきたね』そう言ったもんだ。どういうつもりだったのかねえ」
「針金の上に黒鳥がいるのを見たぜ」と父親は言った。「みんなぴったりくっついてな。それから鳩も。鳩みてえに静かにとまってるやつはいねえだな――垣根の針金の上によ――番《つがい》らしかった。並んでた。それから、あのつむじ風――まるで人間みてえに野原で踊ってたぜ。まるで大人ぐらいの大きさだった」
「故郷のことを考えずにいられるといいんだけど」と母親が言った。「あすこはもう故郷じゃねえんだもの。忘れたいよ。それからノアのことも」
「あいつのいうことは一度もまちがってなかっただ――つまり――うむ、おれがわるかっただよ」
「それを言っちゃいけねえって言ったじゃないかね。もう生きちゃいないよ、たぶん」
「でもおれは、もっとあいつを知ってなくちゃいけなかっただ」
「もうよしておくれ」と母親は言った。「ノアは変り者だった。ことによったら河のそばで調子よく暮していくかもしれねえだよ。そのほうがいいのかもしれねえだ。あたしたちが心配したって、はじまらねえだよ。ここはいいところだ。それに、おまえさんも、じきに仕事にありつくかもしれないしね」
父親は空を指さした。「見ろや――また鴨だ。大きな群れだて。おっ母、『冬が早くきたね』」
彼女は、くっくっと笑った。「おまえさんのくせだね。そして自分でも、なぜだか知らねえだ」
「ジョンがきた」と父親が言った。「こっちへきて坐んなよ、ジョン」
ジョン伯父が仲間にはいった。彼は母親の正面に腰をおろした。「どこへも行かなかったぜ」と彼は言った。「車を乗りまわしただけよ。なあ、アルがおまえに会いてえって言ってたぜ。タイヤを買わなきゃならねえんだとさ。外っ側が一枚しか残ってねえんだそうだ」
父親は立ちあがった。「安く買えるといいだがな。あまり金が残ってねえだから。アルはどこにいるだ?」
「あっちだ。つぎの十字路を右へまがったとこだよ。新しいのを買わねえと、空気が出て、チューブが痛むんだって言ってたぜ」父親は歩いて行った。彼の目は空に描かれた鴨の群れの巨大なVの字のあとを追っていた。
ジョン伯父は地面から小石を拾って、それを手から落し、またそれを拾いあげた。彼は母親のほうを見なかった。「仕事はねえだ」と彼は言った。
「だって、すっかりさがしきったというわけじゃねえだもの」と母親が言った。
「うむ、だが外に貼紙《はりがみ》が出てるだ」
「そうかい。でもトムは仕事を手に入れたにちがいないよ。まだ帰ってこねえもの」
ジョン伯父が言った。「行っちまったのかもしれねえぜ――コニーみてえに、それともノアみてえに」
母親は鋭く彼を見たが、すぐにその目はやわらいだ。「おまえさんにゃわかってるんだ」と彼女は言った。「おまえさんは心では安心してるんだ。トムは仕事にありついただよ。夕方には戻ってくるだ。ほんとだよ」彼女は満足そうに微笑した。「あの子は、いい若者じゃないかね」彼女は言った。「感心な子じゃないかね」
車やトラックがキャンプのなかへはいってきはじめ、衛生班に向って男たちがぞろぞろと歩いてきた。どの男も清潔な仕事着とシャツを手に持っていた。
母親は元気をとり戻した。「ジョン、お父っさんをさがしに行っておくれ。店へ行ってもらうだよ。豆と、砂糖と――揚げものにする肉を一きれと、人参《にんじん》と、それから――お父っさんに何かおいしいものを――何でもいいけど、おいしいものを――今夜食べるものを買ってくるように言っておくれ。今夜は――あたしたちも――何かおいしいものを食べようよ」
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第二十三章
職を求めて駆けまわり、生きようともがいている移住民たちは、つねに楽しみをさがし、楽しみを追い、楽しみをつくりだし、そして娯楽に飢えていた。ときとして娯楽は、しゃべることのなかにあった。彼らは冗談を言いながら人生をよじのぼっていた。そして、道ばたのキャンプのなか、河のほとりの壕《ごう》の土手の上、無花果《いちじく》の木の下などに、話し手があらわれると、人々は、そのような才能にめぐまれた人たちの話をきくために、暗い灯火の光のなかに集まった。
わしはジェロニモ討伐戦のときの徴募兵だった――
すると人々は耳を傾ける。人々のおだやかな目は消えかかる火を映している。
インディアンのやつらは利口だったぜ――蛇《へび》みてえに逃げまわって、静かにしようと思うと、こそとも物音をたてねえんだ。落葉のなかを歩いても、かさとも言わせねえだ。おまえたちも一ぺんやってみるといいや。
すると人々は耳を傾け、落葉の押しつぶされる音を足の下にきく思いがした。
季節の変り目になると、雲が立つ。わるい季節だ。軍隊が、まともなことをしたって話をきいたことが一度でもあるかい? 軍隊に十回、勝ち戦《いくさ》の機会をあたえてみな。それでもまごついてばかりいるから。百人のインディアンをやっつけるのに三連隊も使うんだ――いつもだぜ。
すると人々は耳を傾け、人々の顔は、きき入ることによって、おだやかになる。語り手は、その話す物語に人々の注意を引きつけながら、大きなリズムをつけて語る。物語がすばらしいのだから、彼らもすばらしい言葉で語るのだ。きき手も、それによってすばらしくなる。
峰の頂に、太陽を背にして、一人のインディアンの戦士が立ってた。やつは自分が目につくところに立ってることを知ってた。腕をひろげて立ってるんだ。素っ裸で、太陽を背にして立ってるんだ。はて、気でも狂ったのかとわしは思った。ともかくそこに立って十字架みてえに腕をひろげてるんだ。四百ヤードぐらいの距離だった。すると兵隊どもは――その姿を見ると、指で風向きをはかったりしたものの、それっきり、みんなそこに伏せたまま、撃つことができねえ。ことによると、そのインディアンは、何かを知ってたのかもしれねえ。わしたちが撃てねえことを知ってたんだろう。わしらはライフルを持って、照星を起して、腹ばいになって、しかも銃を肩にかまえることさえできずに、やつを見ていた。頭に鉢巻《はちま》きして、羽毛が一本立っているのが見えた。しかも、やつは太陽のように素っ裸なのだ。長い間、わしたちは、そこに伏せたまま見ていたが、やつは、ぴくとも動かない。すると隊長が躍起になった。「撃て。意気地なしめ、どうしたんだ。撃て!」さかんにどなるんだ。わしたちは、そこに腹ばいになったまんまだ。「五つ数えるから、数え終ったら敵を倒すんだ」隊長が言った。ところがだよ、おめえさんたち――わしたちは、わざと、のろくさと銃をかまえて、誰《だれ》かが真っ先に撃ってくれればいいと、みんながそう考えてたんだ。わしの一生で、あんなわびしかったことはねえ。わしは、やつの腹に狙《ねら》いをつけた。なぜって、他の個所ではインディアンを仕止めることは、けっしてできねえからさ――そして――そのときだ。いいかね、やつは、どすんと倒れてころがっちまったんだ。そこで、わしたちは、そこまで登って行った。そんなに大きな男じゃなかった――さっき山の上に立っていたときには、とても大きく見えたんだがね。すっかりくたばって、ちっぽけな死体になってやがるんだ。雄の雉子《きじ》を見たことがあるかい? 引きしまった美しい鳥で、どの羽根も、みんな絵に描《か》いたみたいで、目までが、きれいに色どってある。そいつをズドンと一発やって拾いあげて見ると――血だらけで、ぐんにゃりとしてて、何か自分よりもりっぱなものをよごしたような気がするもんだ。焼いて食ったところで、何の償いにもならねえ。自分の心のなかの何かをよごしたんだから、けっして償うことはできねえのさ。
すると人々はうなずき、おそらく火は、すこしばかり明るく燃えて、人々の目が、それぞれ自分の心のなかを見入っていることを示したことだろう。
太陽に向って、腕をひろげて、じつにやつは堂々としていた――まるで神さまのようにな。
そして、おそらく一人の男は、食物にしようか娯楽にしようかと二十セントの金を天秤《てんびん》にかけて、メリースビルかトゥーレリか、シーリーズかマウンテン・ビューへ映画を見に出かけるだろう。そして記憶をいっぱいにして壕のキャンプへ戻《もど》ってくる。そして彼は、それを話してきかせるのだ。
金持の男がいてな。これが貧乏人のようなふりをしてるんだ。ところが金持の女がいて、こいつも貧乏人のようなふりをしてるのさ。二人がハンバーグ・スタンドで会うんだな。
なぜだい?
なぜだか知らねえや――そういうふうにできてるんだ。
なぜ二人は貧乏人のふりをしてるんだい?
つまり、二人とも金持であることに飽きちまったのさ。
ばかばかしい!
おまえ、話をききてえのか、ききたくねえのか?
あいよ、じゃ先をつづけてくんな。もちろん、ききてえさ。きくけどもよ、もしおれが金持だったら、いくらでもポーク・チャップを食べちまうぜ――まるで森みたいに、ぐるりに並べて、片っ端から思うぞんぶん食べちまうよ。さあ、それから?
うむ、二人は両方とも相手を貧乏人だと思ってるんだ。すると二人は、とっつかまって、牢屋《ろうや》へ入れられるだ。ところが、出ればおたがいに相手が金持だとわかるもんだから、牢屋から出てこねえんだ。すると看守が、二人は貧乏人だとばかり思ってるもんだから、二人にひどいことをするんだ。本当のことがわかったときの看守の野郎の顔を見せたかったよ。気絶しそうになりゃがったぜ。それでおしまいさ。
何だって牢へはいったんだい?
うむ、二人は何か過激な会合でつかまるんだが、二人とも過激派じゃねえだ。偶然そこにいたまでのことなのさ。それで二人とも金のために結婚はしたくねえと思ってるだ。そうなんだ。
そうすると、そのくそったれめは、二人とも、はじめっから相手をだましたんだね。
うん、だけど映画じゃ、二人とも、いいことをしてるようにできてるだ。人には親切でね。
おれは一度、映画を見たことがあるよ。その映画は、おれの身の上なんだ。いや、それ以上なんだ。おれの一生なんだ。いや、おれの一生以上によかった。何もかもすばらしかったぜ。
うむ、おれはいやだな。おれなら、映画から逃げだしたくなるな。
そうかい――映画って本当のことだと思ってんのかい。
そこで二人は結婚したんだが、すると、やっと正体がわかるだ。二人にひどいことをしたやつらにも、それがわかるだ。一人、不親切だった野郎がいて、そいつは、男がシルク・ハットをかぶってはいってきたときにゃ気絶しそうになるだ。ほんとうに気絶しそうなんだ。それから、ドイツの兵隊が足をけあげているニュース映画があっただよ――ばかばかしいくらいおもしろかったぜ。
そして、いつも、もしいくらかの金を持っていれば、男は酒に酔うことができた。堅い角《かど》がとれて暖かい気持になれた。すると、さびしさは消えた。なぜなら男は、自分の頭のなかに友達をいっぱい集めることができるし、また敵を見つけてそれをうち倒すことができるからだ。壕のなかに坐る、大地は彼の下でやわらかになる。失敗の痛みはにぶり、未来にも脅威がない。そして飢えは姿を見せなくなり、世界は、なごやかに、やすらかになり、男は彼の目標とした場所へ行きつくことができる。星は、驚くほど近くへおりてきて、空はおだやかだ。死が友となり、眠りは死の兄弟となる。なつかしい昔が帰ってくる――故郷で一度、ともに踊ったことのある美しい足をした乙女《おとめ》――馬――遠い昔。馬と鞍《くら》。皮には飾りがついていたっけ。あれはいつだったろう? 話し相手の娘を一人見つけてえもんだ。その娘といっしょに寝るんだ。だが、ここは暖かだ。なんて星が近いんだろう。そして悲しみと楽しみとは、まことに仲がよくて、実は同じものなのだ。年じゅう酔っぱらっていてえ。これをわるいなんていうやつは誰だ? 誰がわるいなんていえるんだ? 牧師か――だが、やつらはやつらで酔っぱらっているのさ。やせこけた、ひからびた女たち。だが、あの連中はかわいそうな身の上だから、何もわからねえんだ。社会改革家か――だが、やつらは生きるってことに深く食いこんでねえから、ほんとのことがわからねえんだ。そうさ――星は近いし、なつかしいし、おれは、この宇宙の同胞愛と一つになってるんだ。何もかも神聖だ――何もかもが。おれだってもだ。
ハーモニカは持ち運びが楽だ。尻《しり》のポケットから出し、手のひらに向けてぽんとたたいて、泥《どろ》や、ポケットの屑《くず》や、煙草《たばこ》の粉などをふり落す。それで用意はオーケーだ。ハーモニカがあれば、何でもできる。細い蘆笛《あしぶえ》のような単音でも、和音でも、リズムのあるメロディーでも。手をちょっとまげれば音楽をとり出すことができるんだ。風笛のように悲しく泣き叫ぶことも、オルガンのようにまるっこい音も、丘の蘆笛のように鋭く痛々しい音も、出すことができる。そして、吹いたあとはポケットへしまっておける。吹いているうちに、新しい技巧、誰に教わるでもなく、手で調子をつける新しい方法も、唇《くちびる》で調子をひねる工夫もおぼえる。どこででもやれる――ときには真昼の木陰に、一人ぼっちで、ときには晩めしのあと、女たちがあと片づけをしているときのテントの入口で。足はやさしく大地をたたく。眉《まゆ》はリズムにつれてあがったり下がったりする。またもし、なくしたりこわしたりしたにしても、たいした損害ではない。二十五セントで新しいのが買えるんだ。
ギターのほうが金がかかる。こいつは習わなきゃだめだ。左手の指に胼胝《たこ》ができるようでなくちゃだめだ。右手の親指に胼胝のかどができるようでなくちゃだめだ。そして左手の指を伸ばすんだ。蜘蛛《くも》の足のように、フレットの上のぴんと張った弦のどれにも届くように伸ばすんだ。
これは、うちの親父《おやじ》の楽器だよ。はじめて親父がおれにハ調を教えてくれたのは、まだほんの子供のころだった。そして、おれが親父に負けねえくらいうまくなったころには、親父は、もうほとんどひかなかった。戸口に腰かけて、おれのひくのをききながら、足で拍子をとっていたもんだ。おれが一休みしようとすると、親父はどなりつけたもんだ。そして、おれがまた手にとると、親父は、ゆったりと腰をかけて、うなずくんだ。「ひきな」と親父はいうんだ。「じょうずにひきな」いい楽器だよ。頭のほうの減ったとこを見てくれ。百万もの歌が、こいつをすり減らしたんだ。やがて、いつかは卵みたいに、くぼんでしまうこったろう。だが、修理したりなんかして、こいつを苦しめちゃいけねえ。音色がわるくなっちまうからな。暮れ方に、これをひいてみな。隣のテントにハーモニカをやるのがいるよ。合奏したら、とてもすてきだぜ。
バイオリンはまれだ。おぼえるのがむずかしい。フレットもないし、教師もいない。
まあ、年寄りのひくのをきいて、ききわけてみな。どうして二重音を出すのか、わかるまい。秘伝だってことだよ。だが、おれはよく見ていたんだ。こんなふうにしてやってたぜ。
バイオリンは風のように鋭い。敏感で、神経質で、そして鋭いんだ。
たいしたバイオリンじゃねえな。二ドルも払ったんだぜ。四百年も昔のバイオリンがあるそうだな。まるで、ウイスキーみたいに芳醇《ほうじゅん》なんだ。五万ドルも六万ドルもするのがあるそうだ。おれは、そんなのは知らねえな。嘘《うそ》みたいに思えるぜ。ひでえ音じゃねえか、こいつは? 踊るかい? おれは弓に松脂《まつやに》をたっぷりつけてこするぜ。おい! じゃ、鳴らすぜ。一マイル先できいてくれ。
ハーモニカとバイオリンとギター、この三つは暮れ方のものだ。リールの曲をひいて、足で音色をたたきだす。ギターの大きな深い弦が心臓のように鼓動する。そしてハーモニカの鋭い音と、バイオリンの刺すようにきしる音。人々はよりそって動きださずにはいられない。そうせずにはいられないのだ。さあ、『チキン・リール』だ。すると足が拍子をとりはじめる。若いやせた男がクイック・ステップを三つ踏むと、腕がしなやかに宙に踊る。広場にはぎっしり人が集まって踊りがはじまる。何もない地面を、両足が鈍く音をたて、踵《かかと》でたたきつける。手が円を描いてふりまわされる。髪の毛がたれ、息づかいが荒くなる。ちょっと壁にもたれて休みなよ。
あのテキサス生れの若造を見ろよ。長い足をぐにゃぐにゃさせて、ワンステップに四度もタップを踏みやがる。あんなにきれいにまわれるやつは、見たことがねえな。あのチェロキー娘をふりまわしてる男を見ろや。娘のやつ、頬《ほお》を真っ赤にして、足の爪先《つまさき》を、あんなにつき出してやがる。あの息づかいをみろよ。胸の波うつのを見ろよ。疲れたのかな?目がまわったのかな? いや、そうじゃねえ。テキサスの若造め、目に髪の毛がはいったんだ。口を大きくあけてやがる。息ができねえんだ。それでもあいつは、ワンステップに四度もタップを踏みながら、あのチェロキー娘と踊り通すぜ。
バイオリンが叫び、ギターがうなる。吹奏楽器の男の顔が真っ赤だ。テキサス生れの若者とチェロキー族の娘とは、犬のように呼吸をあらくして地面をたたきつづける。年寄り連中は立って手で拍子をとる。すこし笑いながら足で拍子をとる。
故郷《くに》では――学校で、これをやったもんだ。大きな月が西のほうへ落ちていった。あたしたちは――あたしと彼とは、二人で歩いて行った。咽喉《のど》がつまっていたから、話はしなかった。何も話をしなかった。するとまもなく干し草の山があった。まっすぐにそこへ行って横になった。テキサスの若者とチェロキー娘とが、ステップを踏みながら闇《やみ》のなかへ消えて行くのを見ていたけど、二人は、見られているとは思っていなかった。おお、神さま! あたしもあのテキサスの若者といっしょに行きたかった。月がもうじきのぼるだろう。あたしは、あの娘の父親が二人をつかまえようとして外へ出て行くのを見た。けれども、つかまえなかった。父親は知っていたのだ。滝の落ちるのをとめるようなものだということを。樹液が木のなかで動くのをとめるようなものだということを。そして月がもうじきのぼるだろう。
もっと音楽をやれ――恋の歌をやれ――『ラレドの町を歩いたときに』みてえなのをさ。火が消えかかっていた。火を燃やすなんて恥ずかしいじゃねえか。お月さまが、もうじきのぼるんだよ。
用水堀《ようすいぼり》のわきで、牧師は説教し、聴衆は泣いた。牧師は虎《とら》のように床を踏み、人々を声で鞭《むち》うった。人々は地面に伏して泣訴した。彼は人々の腹を読み、計算し、駆りたて、そして人々が地面に伏して身もだえすると、彼は壇をおり、力をふるって、一人一人を腕のなかにかかえこんで叫んだ。キリストよ、受けたまえ! そして、一人一人を水のなかに投げこんだ。人々が腰まで水につかり、牧師のほうを恐れのまなざしで見ると、彼は岸にひざまずいて人々のために祈った。すべての男女が地面に伏して泣き訴えよと祈った。男も女も、滴《しずく》をたらし、着物をべっとり身にまといつかせて、それを見まもった。やがて靴《くつ》にごぼごぼ水音をさせ、水をはねかしながら、彼らはキャンプへ、テントへ、歩いて帰り、小声で驚きながら語りあった――
おれたちは救われただ、と彼らは言った。あたしたちは雪のように白く洗い清められたのだわ。
おれたちはもう二度と罪を犯さねえだ。
すると子供たちは、おびえて、濡《ぬ》れて、たがいにささやきかわした――
あたいたちは救われたのよ。もう二度と罪を犯さないわ。
おいら、罪ってどんなものだか、それが知りてえだ。そうすれば罪を犯せるだ。
移住民たちは謙虚に道路で楽しみをさがし求めていた。
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第二十四章
土曜日の朝、洗濯場《せんたくば》は満員だった。女たちはピンクの綾織《あやお》り木綿や花模様の木綿のドレスを洗濯し、日にかわかしてから、皺《しわ》のないように布をぴんと伸ばした。午後ともなると、キャンプじゅうが浮足だって、人々は興奮していた。子供たちは熱病にとりつかれたように、いつもより、いっそうやかましく騒ぎたてた。三時ごろには子供の入浴がはじまり、一人一人つかまえられ、どなりつけられ、洗われ、遊び場の喧騒《けんそう》は、ややしずまった。五時前には、子供たちは、またよごしてはいけないとしかられて、小さくなっていた。彼らは、きれいな着物を着せられて、固くなって、そのへんを歩きまわり、着物に気をつかうものだから、皆みじめっぽい気持になっていた。
大きな野外のダンス場では、委員会が忙しく立ち働いていた。どんな短い電線も徴発された。市の塵芥《ごみ》捨て場まで針金をさがしに出かけ、誰《だれ》の道具箱からも絆創膏《ばんそうこう》のテープを寄付させられた。さて、いまそのつぎはぎだらけのつぎ足しの電線がダンス場に張りめぐらされ、壜《びん》の首が絶縁体としてとりつけられた。この夜、この踊り場は、はじめて灯火がつくのだ。六時には、男たちは仕事から、または仕事さがしから戻《もど》ってきて、新しく風呂場《ふろば》がたてこんだ。七時には夕食もすみ、男たちも、よそ行きに着替えをすませた――洗いたての仕事着、清潔な青いシャツ、なかには上品な黒服もいた。若い女たちは、ぴんとした手垢《てあか》のつかぬプリントのドレスに、髪を編んだりリボンを飾ったりして、したくはすっかりできていた。苦労性な女房《にょうぼう》たちは、家族の様子を点検し、夕食の皿《さら》を洗いあげた。壇上では楽団が、二重に垣《かき》をつくった子供たちにとりまかれて、練習していた。人々は張りきり、のぼせていた。
議長のエズラ・ヒューストンのテントでは五人の中央委員が会合していた。ヒューストンは背の高い、やせた男で、野良《のら》仕事で真っ黒になった顔と、小さな剃刀《かみそり》の刃のような目をしていた。彼が各衛生班から一人ずつ出ている委員たちの司会をつとめた。
「ダンス場破りをしようというたくらみが耳にはいったのは、まったく運がよかっただな!」と彼は言った。
第三班を代表する桶《おけ》のようにずんぐりした小男が発言した。「野郎どもをぺちゃんこにやっつけて、目にもの見せてやるがいいだ」
「いんや」とヒューストンが言った。「それこそ、やつらの思うつぼだて。そいつはいけねえだよ、おまえさん。もしやつらに、なかで喧嘩《けんか》をおっぱじめさせたら、警官どもを乱入させることになるだ。そして警官どもに、おれたちには秩序がねえと言わせることになるだ。前にも、それをやってるだよ――他の場所でな」彼は第二班から出ている沈痛な顔の色の黒い若者に言った。「垣根のまわりに立ってて、もぐりこむやつがねえように見張らせる人を集めたかい?」
沈痛な若者はうなずいた。「うん! 十二人だ。誰もなぐったりしちゃいけねえと言っといたよ。外へつき戻すだけにしろって」
ヒューストンが言った。「おめえ、外へ出て、ウィリー・イートンをさがしてきてくれねえか。たしか、あれが娯楽委員会の議長だったな?」
「そうだよ」
「うむ、ちょっとおれたちが会いてえと言ってくれ」
若者は出て行って、すぐに筋張ったテキサス男をつれて戻ってきた。ウィリー・イートンは、顎《あご》が長く弱々しくて、髪は埃《ほこり》のような色をしていた。腕や足は長く、だらりとして、パンハンドル生れらしい灰色の日やけしたような目の色をしていた。彼は微笑しながらテントのなかに立ち、両手を絶えず手首の上でくるくるまわしていた。
ヒューストンが言った。「今夜のこと、きいただか?」
ウィリーは、にやりと笑った。「きいたよ!」
「それについて何か対策を講じたかね?」
「やったよ!」
「おまえのとった方法を話してくれ」
ウィリー・イートンは愉快そうに、にやにや笑った。「ええと、ふだん娯楽委員会は五人だけんど、おいら、あと二十人――しっかりした強い若いやつばかりを――ふやしただよ。こいつらは、ダンスしながら、目を大きくあいて、耳もよく働かせてることになってるだ。ちっとでも何かあったら――言い合いでも口論でもはじまったら、こいつらが、ぐるりととりかこむだ。すっかり手筈《てはず》ができてるだよ。ちょっと見には、何もわからねえだ。何かやりだすやつがあったら、連中が何げないふりをして、そいつを外へつれ出しちまうだ」
「やつらにけがをさせねえようにしろと言っておいてくれ」
ウィリーは楽しそうに笑った。「そいつは、おいらからよく言っといたよ」と彼は言った。
「うむ、みんなによくわかるように言っといてくれよ」
「みんな、わかってるだよ。五人を門のところに出して、はいってくるやつを見はってるようにしただ。やつらが何かはじめる前に目星をつけとこうと思ってな」
ヒューストンは立ちあがった。彼の鋼鉄色の目は、きびしかった。「さて、よくきいてくれ、ウィリー、おれたちは、やつらにけがはさせたくねえだ。正面の門に近いところに警官が出ばってくるはずだ。もし、おまえたちが、やつらに血を流させたら、そんなときにゃ――警官が、おまえたちをつかまえるだぞ」
「そのことは、ちゃんと考えに入れてあるだよ」ウィリーが言った。「やつらを裏門から野原のなかへつれ出すだよ。若い連中が、いっしょにやつらについてくことになってるだ」
「うむ、そんなら大丈夫だろうて」ヒューストンは心配そうに言った。「だが、どんな騒ぎも起しちゃだめだぞ、ウィリー。おまえの責任だぞ。野郎どもにけがをさせちゃいけねえだ。杖《つえ》もナイフもピストルも、いっさいそういうもんを使っちゃいけねえ」
「わかったよ」とウィリーが言った。「おれたちは、やつらを傷つけるようなことはしねえだ」
ヒューストンは、まだ疑わしそうだ。「おまえが信用できる人間だということがわかってればいいんだがな、ウィリー。もし、どうしてもやつらを痛めつけなければならねえときにゃ、血を流さねえようにして痛めつけるだぞ」
「いいとも!」とウィリーが言った。
「おまえの選んだ若いやつらについては、おまえは自信をもってるだな?」
「もってるだよ」
「よし。で、もしパーティーが、まとまりがつかなくなったら、わしは右手のすみにいるからな、ダンス場のこっちのほうだ」
ウィリーは、おどけた敬礼をして出て行った。
ヒューストンが言った。「わしにはわからん。ただ、ウィリーの選んだ若い連中が、誰も殺さねえようにと祈るほかはねえだ。いったい、何のために保安官補は、このキャンプを痛めつけてえのかね? なぜ、わしらをほっといてくれねえのかね?」
第二班の沈痛な男が言った。「おれはサンランド土地家畜会社の農場に住んでただが、まったくの話、十人に一人ぐらいのわりで警官をおくだよ。二百人の人間に水道口が一つしかねえのさ」
樽《たる》みたいにふとった男が言った。「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうめ。その話をしちゃいけねえだ。おれも、あすこにいただ。仮小屋が一かたまりあっただ――ずらりと三十戸、そいつが十五並びあっただよ。しかも、その住居ぜんたいについてトイレが十カ所しかねえだ。だから、ちくしょうっ、一マイルはなれても臭気《におい》がしたもんだ。保安官補の一人が、おれにひでえことを言いやがった。みんないるところで、『あのろくでもねえ国営キャンプめ』と、こういうんだ。『あそこでは、誰にでも湯を使わせるから、みんな湯をほしがるんだ。あそこで水洗便所なんぞつくるから、みんな水洗便所をほしがるんだ』それから、『あのオーキーの獣どもに、あんなものを使わせるから、やつらがほしがるようになるんだ』また、こうも言ったぜ。『国営キャンプでは赤の会合をやってやがる。みんなで、どうやって救済資金を受けるかを相談してるんだ』」
ヒューストンがきいた。「それで、誰もその野郎を痛めつけなかったのかい?」
「うん、そこに一人、小男がいてな、『救済って、何のことだい?』と、きいたもんだ。『救済ってのはな――おれたち納税者の納めた金を、おまえたちオーキーがとっちまうことさ』『おれたちだって物品税やガス税や煙草《たばこ》税を払ってるぜ』と、その小男が言った。『農場主は政府から綿花一ポンドについて四セントずつもらってるが――あれは救済じゃねえのか? 鉄道会社や船会社は補助金をもらってるが――あれは救済じゃねえのか?』『それらはみんな、やるべきことをやってるまでさ』と、その保安官補が答えた。『ふむ』と、その小男が言った。『おれたちがいなかったら、このろくでもねえ作物は、どうやって収穫するだ?』」樽みたいにふとった男は一座を見まわした。
「保安官補は、そしたら何と言っただ?」とヒューストンがきいた。
「するとよ、保安官補のやつ、いきなり立ちあがって、こう言ったもんだ。『うぬら赤のちくしょうどもは、しじゅうごたごたばかり起してやがる。おめえ、おれといっしょにこい』そうしてやつは、その小男を引っぱって行きゃがって、とうとう浮浪罪で六十日間監獄へぶちこみゃがっただよ」
「その男に仕事があったら、やつらはどうするかね?」とティモシー・ウォーレスがきいた。
樽みたいにふとった男は笑った。「そんなこと、わかってるじゃねえか」と彼は言った。「浮浪者ってのは、警官の気に入らねえやつのことだくらいのことはよ。やつらがこの国営キャンプをきらうのは、そのためなんだよ。警官は、ここへはいることができねえだ。ここのなかはアメリカ合衆国で、カリフォルニアじゃねえものな」
ヒューストンは嘆息した。「ここにずっといてえもんだ。だけど近いうちに出なければならねえだ。わしは、ここが好きだて。みんな仲よくやってるだ。それなのに、なんてえことだ! なぜやつらは、わしたちに、みじめな思いをさせたり、監獄へぶちこんだりばかりして、こうしてわしらの自由にさせておいてはくれねえだ? もし、やつらが、わしたちを苦しめるのをやめねえとすると、やつらは、わしたちを喧嘩に引っぱりこむ了見なんだ」それから彼は声をやわらげて、「とにかく、わしらはおとなしくしていなくちゃならねえだ」と自分に言いきかせた。「委員会は癇癪《かんしゃく》を起す権利はねえだで」
第三班の樽みたいにふとった男が言った。「この委員会が、全部頭がどうかしてると思ってるものがいたら、委員会をためしてみるがいいだ。きょう、おれんとこの班で、喧嘩があっただ――女同士のな。大声を出したり、塵介《ごみ》をぶつけ合ったりしただよ。婦人委員会では手におえなくて、おれんとこへもちこんできただ。この喧嘩を、おれのほうの委員会へもちこんでくれというだ。女同士のごたごたは、おまえさんたちで始末をしろと、おれは言ってやっただ。この委員会は塵芥の投げ合いまで世話はやかねえだよ」
ヒューストンはうなずいた。「手ぎわよくやっただな」と彼は言った。
もう宵闇《よいやみ》がおりてきていた。闇が濃くなるにつれ、楽団の練習も音が高くなるようであった。灯火が、ぱっとついて、二人の男が、ダンス・フロアのつぎだらけの電線を調べていた。子供たちは楽師のまわりに密集していた。ギターをもった一人の若者が、『ダウン・ホーム・ブルース』をうたい、じょうずに自分で伴奏した。彼の二番めの歌には、三人のハーモニカと、一人のバイオリンとが合奏した。テントからは人波が踊り場のほうへ流れた――男たちは洗いたての青い綿布、女たちは綾織り木綿のドレスだ。人々は踊り場の近くへきて、灯火の下で顔をかがやかせ、熱意をこめて、静かに待っていた。
この指定地の周囲には、高い針金の柵《さく》がめぐらされ、この柵に沿って、五十フィートの間隔をおいて、見張りが草の上に坐って待機していた。
いよいよ小農場主やその家族、他のキャンプにいる移住民たちなど、招待客の車が到着しはじめた。客は、門をくぐるごとに、一人一人、自分を招いてくれたこのキャンプ居住者の名を言った。
楽団は高らかに演奏をはじめた。もう練習ではなかった。キリスト信者たちはテントの前に腰をおろして、これをながめていた。彼らの顔はけわしく、軽蔑《けいべつ》の色を浮べていた。彼らは、おたがいに語り合うでもなく、ただ罪を見張っているのであった。だから、彼らの顔は、この行事のすべてを非難していた。
ジョード家のテントでは、ルーシーとウィンフィールドが、それほどたくさんあるわけでもない食事を大急ぎで丸のみにして、さて踊り場へ出かけようとすると、母親が二人を呼びとめた。そして、めいめいの顎《あご》の下をもって顔を上向かせ、二人の鼻の穴をのぞきこみ、耳を引っぱって内側を検査してから、もう一度衛生班へ手を洗わせにやった。彼らは、建物の裏側で母親の目をそらし、いっさんに踊り場めがけて走って行き、楽団のまわりに目白押しにかたまっている子供たちの仲間に割りこんだ。
アルは食事をすまし、トムの剃刀《かみそり》で鬚《ひげ》を剃《そ》るのに三十分もかかった。アルは、体にぴったり合う毛の背広と縞《しま》のシャツを持っていた。シャワーを浴び、体を洗い、縮れてない髪の毛を、うしろへ撫《な》でつけた。洗面所が、しばらく無人になったとき、彼は鏡のなかの自分に見とれたようにほほえみかけ、それから横向きになって、微笑したときの横顔がどう見えるかを見ようとした。彼は紫色の腕輪を腕に通し、ぴったりした上着を着た。それからトイレット・ペーパーをむしって、黄色い靴《くつ》を、すっかりこすりあげた。おくれた入浴者が、はいってきたので、アルは急いでそこを出て、せっかちに踊り場のほうへ行った。目は娘たちを物色していた。ダンス・フロアの近くのテントの前に腰かけているきれいな金髪の娘が目についた。彼はその近くまで行って、シャツを見せるために上着の前をぱっとひろげた。
「今夜は踊るのかい?」と彼はきいた。
娘は、わきを向いて返事をしなかった。
「男は、おめえさんとは話ができねえことになってるのかい? おれと踊ろうじゃないか?」そして彼は気安そうに、「おれはワルツが踊れるぜ」と言った。
娘は恥ずかしそうに目をあげ、そして言った。「そんなこと、何でもないわ――誰だってワルツくらいできるわ」
「おれみたいにゃできねえさ」とアルが言った。音楽が波のように高まったので、彼は片方の足で拍子をとった。「おいでよ」と彼は言った。
ひどく太った女がテントから顔を出して、彼をにらみつけた。「さっさと向うへ行っておくれ」と彼女は猛烈な調子で言った。「この娘は、もう話がきまってるんだからね。結婚することになってて、今夜婚約者がくるんだよ」
アルは色男めかして娘にウィンクして、それから先へ進んだ。肩をゆすり、腕をふって、足で音楽の拍子をとりながら歩いて行った。すると女は、そのうしろ姿を熱心に見送っていた。
父親は皿《さら》をおいて立ちあがった。「きなよ、ジョン」と彼は言った。そして母親に向って、「仕事のことで、これから相談しに行ってくるだ」と説明した。父親とジョン伯父とは、管理人の家へ歩いて行った。
トムは店で買ったパンの一片を、皿のシチュー肉の汁《しる》のなかへつけて、それを食べた。彼が皿を母親に手渡すと、母親はそれをバケツの湯のなかに入れ、洗って、『シャロンのバラ』に手渡して、それをふかせた。「おまえはダンスへは行かないのかい?」母親がきいた。
「行くともさ」とトムは言った。「おれは委員なんだ。これから、よそからきた人を、もてなしてやるだよ」
「もう委員になったのかい?」と母親が言った。「おまえが仕事にありついたせいだね、きっと」
『シャロンのバラ』は、皿を片づけるために横を向いた。トムが彼女を指さした。「あれ、この娘《こ》はずいぶん大きくなっただな」と彼は言った。
『シャロンのバラ』は赤くなって、皿をもう一枚母親から受けとった。「大きくなったともさ」と母親が言った。
「それに、きれいになっただよ」とトムが言った。
娘は、ますます赤くなって顔を伏せた。「よしてよ」と彼女は小声で言った。
「きまってるよ」と母親が言った。「赤ちゃんをみごもった娘は、みんなきれいに見えるもんだよ」
トムは笑った。「こんなふうにふくらんでくとすると、そのうち手押し車に乗っけて運ばなくちゃならなくなるだぜ」
「もうよしてったら」と『シャロンのバラ』は言い、テントのなかへはいって姿をかくした。
母親は、くっくっと笑った。「あの娘《こ》を困らせちゃいけねえだよ」
「困らしてもらいてえんだよ」とトムが言った。
「それはそうだけどさ。やっぱり困ることも困るんだよ。それに、コニーのことで悲しんでるしね」
「うむ、あいつのことは、あきらめたほうがいいんじゃねえかな。あいつめ、いまごろは合衆国大統領になる勉強でもしてやがるだろう」
「あの娘《こ》を困らしちゃいけねえだよ」と母親が言った。「容易なことでは始末のつかないお荷物をしょってるんだからね」
ウィリー・イートンが近くへきて、にやりと笑って言った。「トム・ジョードって、おまえかい?」
「そうだよ」
「うむ、おれは娯楽委員会の委員長だがな。おまえにきてもらいてえだ。おまえのことを人からきいたでな」
「いいとも、もちろんいっしょにやるだよ」とトムが言った。「これは、うちのおっ母だ」
「今晩は」とウィリーが言った。
「お目にかかれてうれしいですよ」
ウィリーが言った。「おまえは、はじめ門のところにがんばってて、それから踊り場のほうへきてもらいてえ。はいってくるやつを見張ってて、目星をつけておいてもらいてえだ。もう一人のやつといっしょにやってくれ。それからあとは踊りながら見張っててもらいてえ」
「よしきた! 万事うまくやってみせるだよ」とトムが言った。
母親が心配そうに言った。「ごたごたが起るんじゃあるまいね?」
「いんや、大丈夫だよ、おかみさん」とウィリーが言った。「何にもごたごたなんぞ起きやしねえだから」
「何にも起りゃしねえよ」とトムが言った。「じゃ、おれは出かけるぜ。あとで踊り場で会おうよ、おっ母」
二人の若者は急ぎ足で正門のほうへ行った。
母親は洗った皿を箱の上に重ねた。「出ておいで」と彼女は娘を呼んだ。返事がなかった。「ローザシャーンや、出ておいで」
娘はテントから出てきて、また皿ふきをつづけた。
「トムはおまえを笑わせようとしてるだけなんだよ」
「わかってるわ。気にしてやしないわ。ただ、あたし、人に見られるのがいやなの」
「それはおまえ、仕方がないよ。これからも見られるだ。でも若い女が身持になったのを見るのは、楽しいもんだよ。おまえはダンスへは行かないのかい?」
「あたし――でも、わからないわ。コニーがいてくれたらいいんだけど」彼女の声が高くなった。「おっ母さん、あたし、あの人にいてほしいわ。とても我慢できそうもないわ」
母親は顔をよせて娘を見た。「わかってるよ」と彼女は言った。「でも、ローザシャーンや――家《うち》のものに恥をかかせちゃいけないよ」
「そんなつもりはないわ、おっ母さん」
「そうかい、あたしたちに恥をかかせたりしちゃいけないよ。いまは家もいろいろとつらいことが重なってるけど、恥じなければならないようなことは一つもないんだからね」
娘の唇《くちびる》がふるえた。――「あたし――踊りに行かないわ。あたし、どうにも――ならなかったのよ――おっ母さん」彼女は腰をおろして、腕のなかへ頭をうずめてしまった。
母親は皿布巾《さらぶきん》で彼女の手をふいてやり、それから娘の前の地面にしゃがんで、両手を『シャロンのバラ』の髪の上においた。「おまえはいい娘《こ》だよ」と彼女は言った。「おまえは、いつもいい娘だった。おまえのことは、あたしがよくめんどうみてあげるよ。こわがることはないんだよ」彼女は言葉の調子に、ある気持をふくめた。「おまえとあたしとで、これからどんなことをするか、知ってるかい? 二人でダンスへ行って、二人であすこへ腰かけて見物するんだよ。誰かが踊ろうと言ったら――そうさ、そのときにゃ、あたしが、この娘《こ》は体が丈夫でないんだって、そう言ってあげるよ。体が弱っているんだと、あたしが言ってあげるよ。そうすれば、おまえも、音楽をきいたり、いろいろできるものね」
『シャロンのバラ』は頭をあげた。「おっ母さんは、あたしを踊らせたくないのね?」
「そうだよ、踊らせたくねえだ」
「そして、誰にもあたしにさわらせちゃいやよ」
「いいとも、誰にもさわらせないよ」
娘は溜息《ためいき》をついた。彼女は絶望的になって言った。「あたし、どうしたらいいのか、わからないわ、おっ母さん。ほんとに、わからないわ。わからないわ」
母親は彼女の膝《ひざ》を軽くたたいた。「あのね」と彼女は言った。「こっちをごらん。あたしが話してあげるからさ。もうすこしたつと、いまほど体の調子もわるくなくなるだよ。もうすこしたてばね。ほんとだよ。さあ、もう行こうね。これから顔を洗って、いいドレスを着て、二人でダンスを見物しようね」母親は『シャロンのバラ』を衛生班へつれて行った。
父親とジョン伯父とは、事務所のポーチのわきで、一団の人々といっしょに坐りこんでいた。
「きょうは、もうすこしで仕事にありつくところだったんだが」と父親が言った。「ほんの五、六分、おそかっただよ。もう二人の男を雇っちまったあとでね。それに、何だよ、おまえさん、おかしな話さ。麦わら帽の係がいてね、いうことにゃ、『うちでは、いましがた三十セントの男を雇っちまった。もちろん二十セントの働き手なら雇えるんだが。二十セントなら、いくらでも雇えるぜ。おまえ、キャンプへ行って、二十セントなら、いくらでも雇うって言ってくれないか』」
坐っている人々は神経質に体を動かした。肩幅のひろい男が、顔は黒い帽子の陰に完全にかくれていたが、手のひらで自分の膝をぴしゃりとたたいた。「知ってるぜ、おれは。ひでえ話さ!」と彼は叫んだ。「そう言ってやつらは人を雇うだ。腹のへった人間を雇うのさ。一時間二十セントじゃ妻子を養っていくことはできねえだが、それでも腹のへったやつは飛びつくだ。やつらは、おれたちをつき放したり呼びよせたり、いいようにしやがるだ。仕事をせり売りしてやがるだ。ちくしょうめ、もうじき、仕事をやるから金を出せってなことになるかもしれねえぜ」
「わしらも、その仕事をやろうかと思っただよ」と父親が言った。「わしらは仕事がねえだでね。ほんとに、やってもいいと思っただよ。だが、そこに係のやつがいやがって、そいつの顔つきを見たら、こわくなったからやめただよ」
黒い帽子が言った。「考えると気が変になるぜ! おれは、ある男のところで働いてただが、その男は、作物の摘み手が雇えねえだ。摘んだものではいる金よりも、摘むために払う金のほうが高くつくのよ。だから、やっこさん、どうしたらいいかわからねえだ」
「わしから見ると――」言いかけて父親はやめた。一座は彼の言葉を待って、黙っていた。「つまり――いまちょっと考えただが、ここに一人の百姓が一エーカーの土地をもってるとするな。そうすると、わしの女房《にょうぼう》なんぞだと、小さな野菜畑つくって、二、三頭の豚と、鶏の五、六羽ぐれえ飼えるだ。そして、わしら男は外へ出て仕事を見つけて、それから帰ってくるだ。子供らも学校へ通えるだろう。ところが、ここいらじゃ、そういう学校見たことがねえだ」
「おれたちの子供らは、やつらの学校へ行ったって、しあわせじゃねえだよ」と黒帽子が言った。
「なぜだい? やつらの学校は、とてもりっぱだぜ」
「うむ、靴もはかず、ぼろを着た子供がよ、靴下もはき、上等のズボンをはいてるほかの子供たちにまじってよ、おまけに『オーキー』なんて言われるだ。うちの伜《せがれ》は学校へ行って、毎日、喧嘩《けんか》さ。よくもまあ、やりやがったものよ。丈夫な餓鬼でな。毎日、喧嘩しなきゃならねえのさ。着物をずたずたにして、鼻血を出して帰ってくるだ。すると、おふくろが、伜を怒るだ。おれは、そいつだけはやめさせたよ。何も世界じゅうかかってちっぽけな小僧をひっぱたくことはねえだ。ちくしょう!それでも、やつは、あいつらの餓鬼どもよりは、いくらか出来がいいだ――その上等のズボンの洟《はな》ったらしどもよりもな。おれにゃわからねえ。おれにゃわからねえだ」
父親が質問した。「それでよ、いってえ、わしは、どうすればいいだかな? 金も、もうねえだ。一人の伜は半端仕事にありついただが、それだけじゃ食えねえだ。結局わしも二十セントの仕事をやることになるだろうて。そうするよりほかはねえだでね」
黒帽子が頭をあげたので、剛《こわ》い毛の生えた顎が光のなかに見え、筋張った首筋にはひげが毛皮のように横に寝ていた。「そうとも!」彼は辛辣《しんらつ》に言った。「おまえは、やるがいいだ。ところで、おれは二十五セントの男だ。おまえが二十セントで、おれの仕事をとりあげることになるだろう。それからこんどは、おれが腹をすかして、十五セントで、おまえの仕事をとりかえすだ。そうだとも! おまえ、さっさと行って、仕事を引きうけなよ」
「うむ、だけどおれに、どうすることができるだ?」父親が言った。「おまえに二十五セント稼《かせ》がせるために、このおれが飢え死にすることもできめえしよ」
黒帽子は、また頭をさげたので、顎は陰のなかにかくれた。「おれにゃわからねえだ」と彼は言った。
「まったくわからねえ。一日十二時間働いて、ちっとばかり腹をすかして帰ってくるだけでも結構|辛《つれ》えだが、そこへもってきて、しじゅう気を使ってなきゃならねえだ。うちの餓鬼どもの食うものも十分ではねえだて。朝から晩まで考えてばかりもいられねえし、これじゃ気が狂うだよ」
一座の人々は神経質にあぐらの足を組みかえた。
トムは門に立って、ダンス場へはいってくる人々を見張っていた。外灯が彼らの顔を上から照らした。ウィリー・イートンが言った。「よく目をあけて見ててくれ。いまジュール・ビテラをよこすからな。あいつは半分チェロキーなんだ。いい男よ。しっかり見張っててくれよ。そして、怪しいやつかどうか見分けておいてくれ」
「いいとも」と、トムが言った。彼は農場主の家族がはいってくるのを見ていた。髪の毛を編んだ娘たちや、ダンスへ出るのでみがきたてた若い男たちだ。ジュールがきて、彼のそばに立った。
「手伝いにきたぜ」と彼は言った。
トムは相手の鷲鼻《わしばな》と、高い茶色の頬骨《ほおぼね》と、薄い引っこんだ顎とをながめた。「おまえは半分インディアンだってな。おれには、まるまるインディアンに見えるぜ」
「そうじゃねえよ」とジュールが言った。「ちょうど半々さ。まるまるだといいと思うよ。それだと指定保留地に土地がもらえるだ。生粋《きっすい》のやつらのなかには、それでとてもうまくやってるのがいるだよ」
「あの連中を見ろよ」とトムが言った。
客たちは門を通ってどんどんつめかけてきた。農場主の家族、低地のキャンプからやってきた移住民、騒ぎまわろうと張りきっている子供たち、それを押えようとする穏和な親たち。
ジュールが言った。「ここのダンスは、おかしなことをやってるぜ。キャンプの人たちは、一文の得もねえのに、ただ友達にきて踊ってもらいてえばっかりに、客を呼んで、いい気持になってるだ。それで、ほかのやつは、ここのダンスのおかげで、そいつらを尊敬するだ。おれが働いてた小さな農場の主人も、ここへ踊りにくるだよ。おれがきてくれるように招《よ》んだんで、その人はくるんだ。この郡で、たった一つの上品なダンス会で、娘や妻をつれてこられるのは、ここだけだと言ってるよ。おい! 見ろ」
三人の若い男が門をはいってきた――仕事着を着た若い労働者だ。ぴったりくっついて歩いていた。門の見張り人が質問すると、三人はそれに答えて通った。
「よく、あいつらを見てみな」とジュールが言った。そして見張り人のところへ行った。「あの三人を呼んだのは、誰《だれ》だい?」ときいた。
「第四班のジャクソンって男だ」
ジュールはトムのところへ戻《もど》ってきた。「あいつどもは、おれたちの警戒してるやつらだと思うよ」
「どうしてわかるだ?」
「どうしてだか知らねえけど、ただ、そんな気がするだ。なんだか警戒してやがった。やつらのあとをつけて行って、ウィリーに、気をつけるように言ってくれ。それからウィリーにそう言って、第四班のジャクソンに問い合わすようにはからってくれ。ジャクソンをつれてきて、大丈夫なやつかどうか調べるんだ。おれはここに残ってるから」
トムは三人の若い男のうしろから歩いて行った。三人はダンス場のほうへ行き、おとなしく群集の端のあたりに位置を占めた。トムは、ウィリーが楽団の近くにいて、こちらに合図するのを見た。「何の用だい?」とウィリーがきいた。
「あの三人――わかるか――あすこだ」
「うん」
「やつらは第四班のジャクソンって男に招ばれたっていうんだがね」
ウィリーは首を伸ばしてヒューストンを見つけ、彼を呼んだ。「あの三人のやつらだがね」と彼は言った。「第四班のジャクソンを見つけて、あいつらを招んだかどうか調べたほうがよさそうだぜ」
ヒューストンは踵《きびす》を返して歩き去った。まもなく彼は、やせた骨太のカンザス男といっしょに戻ってきた。
「これがジャクソンだ」とヒューストンが言った。「いいかい、ジャクソン、あの三人の若いやつらを見てくれ」
「うむ」
「おまえ、あいつらを招んだのか?」
「いんや」
「前に見たことがあるかい?」
ジャクソンは彼らのほうをのぞいた。「あるとも。グレゴリオのところでいっしょに働いてたことがあるだ」
「それでおまえの名前を知ってるんだな」
「ちげえねえ。あいつらのすぐそばで働いてたからな」
「よし、わかった」とヒューストンが言った。「おまえは、やつらの近くへ行くんじゃねえぞ。やつらが、いい人間なら、おれたちだって、ほうり出すようなことはしねえだ。ありがとうよ、ジャクソン」
「うまくやっただ」と彼はトムに言った。「きっとあいつらが、そのやつらにちげえねえ」
「ジュールがかぎつけただよ」とトムが言った。
「ふん、不思議はねえや」とウィリーが言った。「あいつのインディアンの血がかぎつけたのさ。よし、おれはみんなに、やつらのことを教えておくだ」
十六歳の少年が群集のなかを抜けて走ってきた。そして息を切らせながらヒューストンの前で立ちどまった。
「ヒューストンさん」彼は言った。「あんたに言われたとおりにしただよ。六人の男を乗せた車がユーカリ樹のそばにとまってるだ。それから、もう一台、四人乗ったのが、あの北側の道路のとこにいるだよ。おいら、マッチを借りてみただ。やつら、拳銃《けんじゅう》もってるだよ。おいら、たしかに見ただ」
ヒューストンの目は、けわしく、すごくなった。「ウィリー」と彼は言った。「おまえ、万事用意はできてるだな?」
ウィリーは、うれしそうに笑った。「できてるとも、ヒューストンさん、何にも故障はねえだよ」
「よし、けがをさせるなよ。忘れるな。できるなら、おだやかに、じょうずにやれ。おれも、ちょっと、やつらに会ってみてえ。おれはテントにいるぜ」
「まあ、どのくらいうまくやれるか、やってみるだ」とウィリーが言った。
ダンスはまだ正式にはじまっていなかったが、いまウィリーは床の上にのぼって呼びかけた。
「めいめいスクエア・ダンスの相手をきめてくんな」音楽はやんだ。青年や少女、若い男や女が走りまわって、八組のスクエアが、大きなフロアにあらわれた。そして、いつでも踊りだそうと待っていた。少女たちは両手を前に出し、指をくねくね動かしていた。青年たちは落ちつきなく足拍子をとっていた。フロアの周囲には、老人たちが、にこやかに腰をおろして、子供たちをフロアにあがらせないように押えていた。そして遠くでは、キリスト信者たちが、けわしい非難の顔で腰をおろし、罪が行われるのを見まもっていた。
母親と『シャロンのバラ』は、ベンチに腰をおろして見物していた。青年たちが『シャロンのバラ』に相手を申しこむたびに、母親は言った。「いいえ、この子は病気なんでね」そして『シャロンのバラ』は顔を赤くし、目をかがやかした。
音頭《おんど》とりがフロアの中央に進み出て手を高くかざした。
「用意はいいかね? では、はじめてくれ!」
音楽が『チキン・リール』を、鋭く、ほがらかに奏《かな》ではじめた。バイオリンは叫び、ハーモニカは鼻にかかって鋭く、ギターは低音でふとくうなった。音頭とりが順番を呼び、それにつれてスクエアは移動した。そして彼らは、前に、うしろに、手をまるくふり、相手の婦人を旋回させながら踊った。音頭とりは夢中になって足で拍子をとり、前後にそりかえって歩きまわり、順番を呼びながらスクエアのなかを通りぬけた。
「そら、ご婦人をくるりとまわして、やわらかーく。手を組んで、まわして、はなして、進んで――」音楽は高く、また低く、そして動く靴が拍子をそろえて床をうつ音が太鼓の音のように鳴った。「右へまわって、さあ別れて――さがって――さがって」音頭とりは、高音の、よくふるえる単調な声でうたうように言った。いま娘たちの髪は念入りな櫛《くし》の跡をうしなった。いま汗が若い男たちの額ににじみ出た。いま熟練者は巧みなインター・ステップを見せた。そして、フロアの端に陣どった老人たちも、リズムに乗って、軽く手をたたき、足で拍子をとった。そして彼らはやさしく微笑し、それから、たがいに目と目を見合せては、うなずき合った。
母親は頭を『シャロンのバラ』の耳に近づけた。
「おまえはそう思わないかもしれないけど、うちのお父っさんは、若いときには、あたしの知ってるなかでいちばんじょうずな踊り手だったんだよ」そして母親は微笑した。「昔のことを思いださせるよ」と彼女は言った。そして、見物する人たちの顔に見える微笑は、昔の微笑であった。
「二十年前、マスコーギの近くに、バイオリンをひく盲人がいたっけが――」
「わしは昔、一飛びで四度|踵《かかと》をたたける男を見たことがあるだよ」
「ダコタにいたスウェーデン人――あいつらが、どんなことやったか、知ってるかね? 婦人のスカートをはねあげて、とても活発に――まるで交尾期の若駒《わかごま》のように活発に踊ったもんだ。スウェーデン人のやつめ、そんなことをときどきやってみせたもんだよ」
遠くでは、キリスト信者たちが、引きとめにくい自分の子供たちを監視していた。「罪のことを考えるだ」彼らは言った。「あの人たちはいま火かき棒に乗って地獄へ飛んで行くところなんだよ。神さまを信じるものが、そんなものを見たがるなんて恥ずかしいことなんだよ」子供たちは、黙って、いらいらしていた。
「もう一度まわって、ちょっと休んで」音頭とりはうたうように言った。「さあ、もう一回、もうすぐ終るからね」娘たちは汗をかき、顔を赤らめ、口を開いて、まじめな、敬虔《けいけん》な顔つきで踊っていたし、若者たちは長い髪の毛をはねあげて、爪先を踊らせ、つきあげては、踵を鳴らした。スクエアは、出たりはいったり、入れ替ったり、うしろへさがったり、旋回したりしながら動いていき、音楽は鋭く鳴りひびいた。
すると、突然それがやんだ。踊り手は疲れて息をあえがせながら、立ちすくんだ。子供たちが抑制からときはなたれ、フロアへ突進して、夢中で、たがいに追いかけまわし、走り、すべり、帽子をもぎとりあい、髪を引っぱりあった。踊り手たちは手で顔を煽《あお》ぎながら腰をおろした。楽師たちは立って、伸びをして、また腰かけた。そしてギターひきは静かに弦を鳴らしていた。
するとウィリーが呼びかけた。「組める人は、また新しい相手とスクエアを組んでくんな」踊り手たちは、あわてて立ちあがった。新しい踊り手はパートナーをめがけて殺到した。トムは例の三人づれの若い男の近くに立っていた。彼は、三人がぐいぐい人を押しのけてフロアへあがり、スクエアを組んでいる一組に向って進んで行くのを見た。ウィリーに手をふってみせると、ウィリーはバイオリンひきに何か言った。バイオリンひきは弓で一かき弦を鳴らした。二十人の若い男が、ゆっくりとフロアを横ぎって、ぶらぶら近づいてきた。三人の男はスクエアの組のところまできた。すると、一人が言った。「おれはこの娘《こ》と踊るんだ」
金髪の若者が、びっくりしてこれを見あげた。「この娘は、おれの相手だぜ」
「何を言いやがる。この小僧っ子め――」
闇《やみ》のなかから鋭い口笛が鳴った。三人の男は、もうとりかこまれていた。そして三人とも、両手を握られていることに気がついた。そのとき、とりかこんだ連中は、ゆっくりとフロアの上から動きだした。
ウィリーが叫んだ。「さあ、はじめよう!」音楽が鳴り、音頭とりは旋回のたびに調子を整え、足が床の上をたたいた。
一台の幌《ほろ》自動車が入口まで乗りつけてきた。運転手が叫んだ。「あけろ。騒ぎが起ったという知らせがあったんだ」
門番は、その場を動かなかった。「騒ぎなんぞ起りゃしねえよ。あの楽隊をききなよ。おまえさんたちは誰だい?」
「保安官補だ」
「逮捕状は持ってるのか?」
「騒ぎが起れば逮捕状はいらないんだ」
「なるほどな。だけど、ここにゃ騒ぎは起ってねえぜ」門番が言った。
車のなかの男たちは、音楽と音頭とりの声に耳をすまし、それから自動車は、のろのろとあと戻りして十字路にとまり、そこで待機していた。
移動する人壁のなかで、三人の若い男は、いずれも身動きもならず、口にも手で蓋《ふた》をされていた。暗闇のところまでくると、隊列がほぐれた。
トムが言った。「うまくいっただな」彼は犠牲者の両腕をうしろから押えていた。
ウィリーがダンス・フロアから彼らのほうへ走ってきた。「うまくやった」と彼は言った。「もうあとは六人でたくさんだよ。ヒューストンがこの連中に会いてえそうだ」
当のヒューストンが闇のなかからあらわれた。「これが例の連中かい?」
「そうだよ」とジュールが言った。「まっすぐあがって行って、やりだしただ。だが、腕一本ふりまわす暇もなかっただよ」
「顔を見せろ」つかまった男たちは、彼に顔を見せるために回転させられた。彼らは首をたれていた。ヒューストンは、一つ一つ、むっつりした顔に懐中電灯の光をあてた。「何のためにやったんだ?」と彼はきいた。返事はなかった。「おまえたちにやれと言ったのは誰だ?」
「うるせえや。おれたちは何もしねえじゃねえか。ダンスをしようとしただけだぜ」
「そうじゃねえぞ」とジュールが言った。「おめえたちは、あの小僧をなぐり倒そうとしたじゃねえか」
トムが言った。「ヒューストンさん、ちょうどこいつらが歩きだしたとき、誰かが呼び子を鳴らしただぜ」
「そうだ、わかった! 警察のやつら! すぐに門のところへきてやがっただ」彼はふりかえった。「わしらは、おまえたちにけがはさせねえ。おまえたちは、誰にこのダンス会をぶちこわせと言われたんだ?」彼は答えを待った。「おまえたちは、わしたちと同じ国の人間だ」ヒューストンは悲しそうに言った。「おまえたちは、わしらの仲間だ。どうしてここへきたんだ。わしらは、みんな知ってるんだぞ」と彼はつけ加えた。
「ふん、勝手にしろ。誰だって食わなきゃならねえんだ」
「誰が、おまえたちをよこしたんだ? 誰が金をくれて行けと言ったんだ?」
「金なんぞもらってねえよ」
「そんなら、もうもらえねえだぞ。喧嘩が起らなきゃ駄賃《だちん》もねえだ。そうだろうが?」
押えつけられた男の一人が言った。「おまえたちの思うとおりにしろ。おれたちは何も言いやしねえから」
ヒューストンは、しばらく頭をたれた。それから彼は、やさしく言った。「よし、いうな。だが、よくきけよ。自分たちと同じ人間に傷をつけるんじゃねえ。わしたちは、仲よくやっていこうと思って、慰安もやり、秩序も保ってるだ。それをぶちこわすのはよしてくれ。それだけは考えてくれ。おまえたちは自分で自分を痛めつけてるんだぞ」
「よし、みんな、こいつらを裏の柵《さく》から出してやれ。けがをさせるんじゃねえぞ。こいつらは、自分で自分のやってることがわからねえんだ」
男たちの人壁は、ゆっくりとキャンプの裏側に向って動いた。ヒューストンは彼らを見送っていた。
ジュールが言った。「どうだい、一つだけ、こいつらを思いきりけとばしてやろうじゃねえか」
「いけねえ!」ウィリーが叫んだ。「やらねえと約束したじゃねえか」
「たった一けり、軽く小気味のいいところをさ」ジュールは嘆願した。「越しにほうり投げてやるだけさ、そいつはどうだい?」
「いけねえ」ウィリーはがんばった。
「おい、きけ」と彼は言った。「おれたちはこんどだけははなしてやる。だが、これだけのことはきいて帰れ。もし、二度とこんなことをやったら、おれたちは、誰がこようと地獄へけこんでやる。そいつの体から骨まで抜きとってやる。だから、仲間のやつらに、そう言え。ヒューストンは、おめえたちも、おれたちと同じ仲間だと言った――そうかもしれねえだ。それを考えると、胸くそがわるいや」
彼らは柵に近づいた。腰をおろしていた見張り番が二人、立って近よってきた。「早く帰る人ができたんでね」とウィリーが言った。三人の男は、垣根《かきね》を越えて、闇のなかに消えた。
一隊は、すぐダンス・フロアへ引きかえした。『オールド・ダン・タッカー』の音楽が、弦楽団から悲しげにひびき渡った。
事務所の近くでは、人々はまだ車座になって話しあっていた。鋭い音楽は、彼らのところへもとどいた。
父親が言った。「世の中は変りかけてるだ。なんだか、わしにはわからねえだが。ことによると、わしらの生きてるうちには見られねえかもしれねえだ。だが、変りかけてはいるだ。なんとなく落ちつかねえ気分がみなぎってるだ。それが何か、誰にも見当がつかねえだ。それでいらいらしてるだよ」
すると黒帽子が、また頭をあげた。光が彼の毛の剛《こわ》い頬髯《ほおひげ》にさした。彼は地面から小石を集め、親指でおはじきのようにはじいていた。「おれにもわからねえ。変化があるのは、おまえのいうとおり、たしかだな。オハイオのアクロンで起きた出来事のことを、おれはきいただよ。ゴム会社だ。安い賃金で働くからというんで山の連中を狩り集めた。すると、出てきた山の連中が組合にはいっちまった。さあ、それで、おまえさん、えらい騒ぎになっただ。商人だの在郷軍人だの、そういう手合いが、みんなで、があがあわめきだしたもんだ。『赤だ!』ってな。それでもアクロンじゃ、組合はちゃんとやってるだ。牧師がそのことで説教するし、新聞が騒いで書きたてる。そしてゴム会社では、鶴嘴《つるはし》の柄《え》を用意するやら、催涙ガスを買うやらって騒ぎだ。ちくしょうめ、まるであの山の連中が正真正銘の悪党みてえな騒ぎよ!」彼は話をやめて、またおはじきの石を集めた。「それでだ――去年の三月のことよ。ある日曜日に、五千人の山の連中が、町の外へ七面鳥撃ちに出かけただ。五千人がライフル銃を肩に町のなかを行列して通ったのさ。そして連中は、七面鳥撃ちをやって、町へ帰ってきた。連中のやったことは、それだけよ。しかも、それでだよ、おまえさん、それっきり町には何のごたごたもなくなっただ。市の委員会は鶴嘴の柄を引っこめるし、商人は店を開くし、誰も棍棒《こんぼう》でなぐられねえし、熱いタールで私刑《リンチ》にされるようなこともなくなった。また誰も殺されやしなかっただ」長い沈黙があった。しばらくして黒帽子が言った。「ここの町のやつらも、だんだん汚ねえことをやるようになってきただ。キャンプを焼きはらったり、百姓をなぐったりな。おれは考えてるだ。おれたち百姓が、みんな鉄砲を持つんだ。ことによったら、おれたちも七面鳥狩りの会でもつくって、日曜日ごとに集まったらいいんじゃねえかと、おれは考えてるだよ」
人々は彼の顔を見、それから地面に目を落した。そして彼らの足は落ちつきなく動き、体の重みをたえず一方の足から他方の足へと移しかえていた。
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第二十五章
カリフォルニアの春は美しい。果実のみのる谷は、遠浅の海にうちよせるかぐわしいピンクと白の波だ。葡萄《ぶどう》の最初の巻鬚《まきひげ》が、古い節くれだった蔓《つる》から生えでて、滝のように幹をおおう。一面に緑におおわれた丘は、乳房のように、まるくて、やわらかだ。そして平地では、野菜畑が、一マイルにもわたる畝《うね》に、薄青いレタスや、縮れた小さなカリフラワーや、灰青色の奇妙な朝鮮薊《あざみ》の列をつくる。
それから若葉が萌《も》えだす。そして花びらは果物の木から落ち、地上を薄いピンクと白でおおってしまう。花の中心部がふくらみ、艶《つや》っぽく色づいてくる――桜んぼと林檎《りんご》、桃と梨《なし》、実のなかに花をとじこめている無花果《いちじく》。カリフォルニア一帯は、実りを急ぐ。そして果実は重たくなり、枝は果物の重みでしだいにまがりはじめるので、それをささえるのに棒をあてがわなくてはならない。
この豊饒《ほうじょう》な果物の実りの陰には、理解と知識と熟練とをそなえた人たちがいる。種子を実験し、その根が、大地にある幾百万の敵、黴《かび》、害虫、赤さび病、胴枯れ病などに抵抗できて豊かな収穫があがるよう、たえずその技術を発展させている人たちだ。これらの人たちは、種子を、根を、より完全なものにしようとして、熱心に、たえず働く。また化学関係の人たちがいる。彼らは病菌を殺すために木へ薬品を吹きかけ、葡萄に硫黄《いおう》処理をおこない、病んだり腐ったりした部分、黴や病巣の部分を切りとる。予防剤の係の医師たちもいる。彼らは畝のなかで、果物にたかる蠅《はえ》やマメコガネなどをさがしてあるく。そして病気の木を調べあげ、根から引きぬいて燃やしてしまう。皆専門の知識をもった人たちだ。なかでも若木や小さな葡萄を接木《つぎき》する人たちは、最も高い知識をもっている。なぜなら彼らは微妙な繊細さを必要とする外科医の仕事をしているからだ。樹皮を剥《は》いで、接木をおき、傷口をしばって外気から守るとき、彼らは外科医の手腕と外科医の勇気とをもたねばならない。彼らは、りっぱな人たちなのだ。
耕作機は畦《あぜ》にそって動いていく。肥えた土をつくるために、春の草を引きぬいて、それを土の下へ埋め、地表の近くに水分を保たせるように土地を掘りかえし、潅漑《かんがい》用の小さな水たまりをつくるために土を盛りあげ、水を吸って木を枯らす雑草類を抜きすてていく。
そのあいだ、たえず果実は大きくなり、花は蔓に長い花房をつける。そして、実りのよい年には、暖かさが増すにつれて、葉は濃い緑になる。李《すもも》は小鳥の緑色の卵のように伸びふくらみ、枝々はその重みでつっかい棒によりかかる。堅い小さな梨が形をなしてくる。細かい綿毛が桃の実に出はじめる。葡萄の花房は、小さな花弁をふり落す。そして堅い小さな粒は緑色のボタンになる。そのボタンが重みを増してくる。畑に働く男たち、小さな果樹園の所有主たちは、それを見まもり、そして考える。ことしは出来がいい。人々は鼻が高い。なぜなら、ことし出来がいいのは、彼らの経験の賜物《たまもの》だからだ。彼らは世の中を自分たちの経験で変えるのである。短い、やせた麦の穂が、大きな、実り豊かな穂になる。小さなすっぱい林檎が、大きく甘く育つ。そして、あの古い葡萄の木――木々のあいだで生長して、小鳥どもにその小さな実をついばまれていた葡萄は、千種類もの実を育てあげる。赤いのや黒いの、緑色や薄桃色、紫や黄色。そして、どの種類にも、特有の香りがある。農事試験場で働く人々は新種の果実をつくりだす――ネクタリンとか四十種ものプラムとか、薄い殻《から》のついた胡桃《くるみ》とか。そしていつも彼らは、選んだり、接木をしたり、交配をしたり、自分自身を励ましたり、大地を励ましたりして、働きつづける。
そして最初に桜んぼが実る。一ポンドあたり一セント半だ。そんな値段じゃ摘めやしねえよ。黒い桜んぼや赤い桜んぼ。いずれもよく実って甘い。小鳥たちが桜んぼを半分ついばみ、熊《くま》ん蜂《ばち》が小鳥のほじくった穴のなかへと這《は》いこむ。そして種子は地面に落ち、黒い残り滓《かす》をくっつけたままかわいてしまう。
紫色の李は、やわらかく、甘くなる。ああ、わしらはあれを摘んで干すこともできねえし、硫黄処理もできねえだ。賃金を払うことができねえだもの。どんなに安い賃金でもさ。そして紫色の李は地面に落ちて、じゅうたんを敷きつめる。まず表皮が、すこし縮れる。蠅の群れが大よろこびでたかってくる。谷は甘たるく腐っていくにおいでいっぱいになる。果肉は黒く変色し、豊かな実りは大地でしなびてしまう。
そして梨が黄色くやわらかになる。トン五ドルだ。五ポンド箱が四十で五ドルにしかならないのだ。枝を剪《き》りこみ、消毒薬を吹きかけられた木々。よく耕されている果樹園だ。――果物を摘んで箱につめて、トラックに積んで、その果実を缶詰《かんづめ》工場へ送り届けて、そして四十箱で五ドルだ。とてもやれっこねえよ。黄色い果実は、どさりと地面に落ち、地面に水気をはねかす。熊ん蜂が、やわらかな果肉にもぐりこむ。そこには発酵と腐敗のにおいがただよう。
それから葡萄――おれたちは上等の葡萄酒はつくれねえだよ。誰《だれ》も上等の葡萄酒なんて買わねえもの。蔓から葡萄をもぎとりな。いい葡萄も、熟《う》れすぎたのも、熊ん蜂のつっついた葡萄もな。茎も押しこんじまえ。埃《ほこり》も、腐ったのも、みんな押しこんじまうだ。
樽《たる》のなかに黴と発酵酸が発生するぜ。
硫黄とタンニン酸を加えな。
発酵するにおいは葡萄酒の芳醇《ほうじゅん》な香りではなく、腐敗と化学薬品のにおいだ。
いやはや、でも、まあとにかくアルコール分はあるだよ。酔っぱらえるぜ。
小さな土地をもつ百姓は、借金が潮《うしお》のように頭上におおいかぶさってくるのを見まもる。彼らは木々を手入れした。しかし収穫は、まるで売ることができなかった。彼らは枝をはらい、接木をした。しかし実ったものを摘みとらなかった。経験のある人たちは、働き、そして思案をこらした。しかし果実は、いま地面に落ちて腐っていた。つぶされ、樽につめこまれた葡萄は、腐って、空気を濁らせているのだ。あの葡萄酒を飲んでみな――葡萄の香りなんて、これっぽっちもねえぜ。ただ硫黄とタンニン酸とアルコールのにおいがするだけさ。
この小さな果樹園は、来年になると大地主の手にはいってしまうにちがいない。なぜなら、借金で持主は身動きできなくなるからだ。
この葡萄園は銀行の手にはいってしまうだろう。ただ大地主だけが生き残るのだ。というのも、彼らは缶詰工場をもっているからだ。そこでは四つの梨がむかれ、一つを半分ずつに切って、味つけされ、缶詰につめこまれ、それでもやはり十五セントであがるのだ。それに缶詰にした梨は、いたまない。何年でも保《も》つ。
腐敗が、この州全体にひろがる。そして甘いにおいは、この土地をおおう大きな悲しみだ。接木もやれば優良な種子をつくりだすこともできる人々は、その産物を飢えた人たちにあたえる方法を見いだすことができない。新しい果実をつくりだした人たちは、その果実が人々の口にはいるようにする組織をつくりだすことができない。そして、その失敗は、大きな悲しみのように、州のいたるところにおおいかぶさるのだ。
葡萄蔓の、あるいは果実の、根わけ仕事は、値段を維持するために中止しなければならない。そしてこれは、何にもまして悲しい腹だたしいことなのだ。オレンジが車に幾台分も地面に捨てられる。人々が何マイルもの遠くから、その果実をとりにくる。しかし、これはやるわけにはいかない。もし、誰でも車でやってきて、このオレンジを持って行けるものなら、一ダース二十五セントなんて値段で、誰がオレンジを買うものか。ホースをもった男たちが、そのオレンジの山に石油をふりかけてしまう。そればかりか彼らは、その犯罪に――果物をとりにやってくる人たちの行為に、腹をたてているのだ。百万人の人間が腹をへらしている。果実をほしがっている――それなのに、その金色の山へ石油をふりかけてしまうのだ。
腐敗のにおいが、この土地に満ちわたる。
コーヒーは船の燃料に燃やしちまえ。玉蜀黍《とうもろこし》は暖房に使っちまえ。とてもあつい火がたけるぞ。馬鈴薯《じゃがいも》は河に捨てちまえ。そして、腹のへったやつらが、それをすくい出しにこないように、堤に番人を立てろ。豚は殺して埋めちまえ。そうすれば腐った膿《うみ》は土にしみこむだろう。
摘発されない犯罪が、ここではおこなわれている。泣くことでは表現できない悲しみが、ここにはある。われわれのすべての成功を|ふい《ヽヽ》にする失敗がある。肥沃《ひよく》な土地、まっすぐな木々の列、がっしりとした幹、熟した果実。そしてペラグラ病にかかった子供は死ぬよりほかに道はない。なぜならオレンジからは収益があがらないからだ。検屍官《けんしかん》は、死亡証明書に、こう書きこむにちがいない――栄養失調による死亡――。それというのも食糧を腐らせねばならないからだ。むりにでも腐らせねばならないからだ。
人々は網をもって河岸へ馬鈴薯をすくいにくる。すると番人がそれをさえぎる。人々は山と捨てられたオレンジを拾いに、がたつく車でやってくる。しかし、それには石油がまかれている。人々は、じっとたたずんで、馬鈴薯が流れていくのを見まもる。穴のなかで殺される豚どもの叫びをきき、その穴に生石灰をかぶせられる音をきく。腐ってくずれていくオレンジの山を見まもる。そして人々の目には失望の色があり、飢えた人たちの目には湧《わ》きあがる怒りの色がある。人々の魂のなかには怒りの葡萄が実りはじめ、それがしだいに大きくなっていく――収穫のときを待ちつつ、それはしだいに大きくなっていく。
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第二十六章
ウィードパッチのキャンプ地では、遠くの雲が夕日の上に棚引《たなび》いてその端を赤く染めている夕方の一刻、ジョード家の人々は食事を終えたところだった。母親は皿《さら》を洗いはじめる前に、ちょっとためらった。
「あたしたち、なんとかしなくちゃね」と彼女は言った。そしてウィンフィールドを指さした。
「あの子をごらんな」一同がその小さな子を見つめると、彼女は言った。「あの子は眠りながら、びくっとしたり、体をねじったりしてるだ。あの顔色をごらんな」家族のものは恥じて、ふたたび地面を見つめた。「揚げた練り粉パンだけだもの」と母親はつづける。「ここへきて、もう一カ月にもなるだ。そのあいだに、トムは五日間働いたけど、あとの連中は、毎日駆けずりまわってても、何一つ仕事がねえ。そして口に出すのをこわがってるだ。お金がなくなっていくのに、口に出していうのを避けてるだ。おまえさんたちは、毎晩、ただ食べて、それから、ぶらつきに出て行くだけなんだものね。はっきり口に出していわねえだ。でも、もうはっきりさせなくちゃ。ローザシャーンのお産だって、そんなに先のことじゃねえんだし、あれの顔色を見てごらんよ。さあ、はっきり方針をきめなくちゃいけねえだよ。いまから、はっきり相談がまとまるまで、誰《だれ》も席を立たねえでおくれよ。油一日分と粉が二日分、それに馬鈴薯《じゃがいも》が十個しか残ってねえんだよ。さあ、なんとか考えておくれ!」
彼らは地面を見つめた。父親はポケット・ナイフで厚い爪《つめ》を掃除した。ジョン伯父は腰かけている箱の割れ目をほじくった。トムは下唇《したくちびる》をつまんで引っぱった。
彼は唇をはなして、おだやかに言った。「おれたちにしても、ずいぶんさがしまわっただよ、おっ母。ガソリンが使えなくなってからってものは、歩きまわってね。門があればはいって行ったし、どこの家にもききにはいっただ。ここには仕事はねえとわかっている家までもね。楽じゃねえだよ。どうせ見つかりっこない仕事をさがしに出かけて行くってことはね」
母親は、きつい口調で言った。「何もわざわざみんなの気力を阻喪《そそう》させることはねえだよ。うちの家族は、それでなくても苦しくなってるだからね。むだに気を落させねえでおくれ」
父親は削った爪をながめていた。「わしたちは行かなくちゃなるめえて」と彼は言った。「行きたくはねえだが。いいところだし、それにここにいる連中もいい人たちだて。またあのフーバビルみてえなところに住むようになるんじゃやりきれねえけんどな」
「とにかく、もし行かなくちゃならねえもんなら、そうしようじゃないかね。何よりもまず、あたしたちは食べなくちゃならねえだからね」
アルが口をはさんだ。「おれはトラックに一杯ガソリンを入れといたぜ。誰にも手をつけさせなかっただ」
トムが微笑した。「アルときたら、ずいぶんばかなことをいうときもあるけど、なかなか頭がいいぜ」
「さあ、考えておくれ」と母親が言った。「あたしは、うちの家族が飢えていくのを、ぼんやり見てたくはねえだよ。油は、あと一日分、それっきりなんだよ。ローザシャーンのお産も近づいてきたし、栄養をとらせなくちゃいけねえだよ。どうするだね?」
「ここは湯が出るし、洗面所も――」
「でも、洗面所を食べるわけにゃいかねえだよ」
トムが言った。「きょう、メリーズビルへ行く日雇いをさがしてる男がいたぜ。果実摘みだとさ」
「じゃ、メリーズビルへ行ったらどうなの?」と母親がうながした。
「さあね」とトムが言った。「なんとなく、くせえ感じがしただよ。その野郎、やけに勧めやがるだでね。どれだけ支払うかってことは言わなかっただ。はっきりはわからねえっていうのさ」
母親が言った。「メリーズビルへ行こうよ。安くったってかまわないじゃないか。行こうよ」
「遠すぎるだよ」とトムが言った。「おれたち、ガソリンを買う金がねえだ。あそこまでは行けねえだよ。おっ母、おっ母は、おれたちに考えろっていうけんど、おれたちときたら年じゅう考えてばかりいるだぜ」
ジョン伯父が言った。「話にきくと北のほうじゃ綿花ができかかってるってことだ。トゥーレリとかいうとこの近在でよ。そこは、さほど遠くねえような話だったぜ」
「とにかく、あたしたちは行かなくちゃ。それも、なるべく早く出発しなくちゃならねえだよ。あたしはもうここにのんびりかまえちゃいられねえだ。いくらここがいいところだってね」母親はバケツをとりあげて衛生班のほうへ湯をとりに歩いて行った。
「おっ母は頑固《がんこ》になっただな」とトムが言った。「このごろでは、おっ母がよく腹をたてるのを見るだよ。とてもいらいらしてるだ」
父親は、ほっとした様子で言った。「そんでもまあ、とにかくおっ母が、それを表面《おもて》にもちだしてくれたでよかっただよ。わしは夜、横になりながら、頭がかっとなるまで考えてばかりいただもんな。これからは、わしらも、一人で考えこんでばかりいねえで、みんなで話し合えるってもんだ」
母親は湯気の立つバケツを持ってきた。「さあ」と彼女は言った。「何か考えついたかい?」
「いま考えてるとこなんだよ」トムが言った。「北のほうの綿花のできかかってるところへ行こうかどうかと考えてるとこさ。この土地にゃ、かなり長いこといた。もうここには仕事がねえのがわかっただよ。いま荷物をまとめて北へ出かけるとするな、そうすると、綿花のできるころには、向うへ行っていられるわけだ。すこしは綿花いじりするのもいいもんだて。アル、ガソリンはタンクにいっぱいあるのか?」
「だいたい――あと二インチぐらいでいっぱいというところだ」
「あそこまでは、なんとか行けそうだな」
母親はバケツのなかの皿を洗う手を休めた。「それで?」と彼女は促した。
トムが言った。「おっ母の勝ちだよ。どうやら、おれたちは出かけることになったらしいだ。そうだろう、お父っさん?」
「そうするより仕方がねえだろう」と父親が言った。
母親は、ちらと父親を見やった。「いつ?」
「そうさな――待つ必要はねえだ。どうせならあすの朝出発するか」
「そうだよ、朝のうちに出発しなくちゃ。もうここにゃ何にも残っちゃいねえだから」
「いいかい、おっ母、わしが行きたがらねえなどとは考えなさんなよ。わしは、ここ二週間ばかり、腹を満足させるほど食ってねえだでな。そりゃ、なんとか食ってはきたさ。だけど、ろくなもの食ってやしねえだ」
母親は皿類をバケツにつっこんだ。「さあ、それじゃ朝になったら出かけるとしよう」と彼女は言った。
父親は鼻を鳴らした。「どうやら時代が変ったらしいて」と彼は皮肉まじりに言った。「昔は男が、どうしろこうしろと命令したもんだ。このごろじゃ、女が、どうしろこうしろと言いきかせるだ。もうじき女が棍棒《こんぼう》もちだしてどなりつけるようなことになるだろうて」
母親は洗い終って水のたれている皿を箱の上においた。彼女は仕事をしながら微笑した。「おまえさんは棒切れをもってるじゃないかね、お父っさん」彼女は言った。「食べものと住む場所が、ちゃんとしてるときにゃ、おまえさんだって、その棒切れを使って自分の思いどおりにふるまえるだよ。でも、おまえさんは、いま自分の役目をしてねえだし、それに考えもしてねえし、働いてもいねえだ。もしおまえさんが、ちゃんとやっていたら、それこそ、棒切れをふりまわすこともやるし、女たちだって鼻を鳴らしてその下を這《は》いまわるだよ。でも、おまえさんは棒切れをもってても女たちをぶんなぐろうとはしねえだ。ねえ、おまえさん、いま喧嘩《けんか》をやってんだよ。あたしだってちゃんと棒切れをもって用意してんだからね」
父親は、まごつき、にやりと笑った。「どうもおめえのそんな言い方は小さいやつらにゃきかせたくねえだな」と彼は言った。
「おまえさんは、そんなことをつべこべいうまえに、あれらのお腹《なか》にベーコンでも入れてやっとくれよ」
父親は苦りきって立ちあがり、出て行った。ジョン伯父が、そのあとにつづいた。
母親の手は水のなかで忙しく動いた。しかし彼女は二人が出て行くのを見まもっていた。そしてトムに誇らしげに言った。「お父っさんは大丈夫さ。みじめに敗《ま》けてなんぞいやしないよ。もうすこしで、あたしをなぐりつけるところだったんだよ」
トムは笑った。「じゃ、わざと悪口を言っただね?」
「そうともさ」と母親は言った。「よくあるだろう、心配ごとが重なって考えこむと、それですっかり腑抜《ふぬ》けになっちまってさ、まるで、ふにゃふにゃ死んだみてえになっちゃうじゃないか。そんなときに、その人を怒らせると、案外しゃんとするもんさ。お父っさんはね、何にも言わなかったけど、いま、とっても腹をたててるだよ。いまに、しゃんとするだ。あの人は大丈夫だよ」
アルが立ちあがった。「ちっとばかり散歩してくるだ」と彼は言った。
「トラックの調子でも見に行ったらどうだい?」とトムが注意した。
「ちゃんとしてるだよ」
「もしぐあいがわるかったら、おっ母に、おまえをどやしつけてもらうだぞ」
「車は大丈夫さ」アルは、ぶらぶらテントの列のあいだを歩いて行った。
トムは溜息《ためいき》をついた。「おれは、くたびれただよ、おっ母。ひとつこんどは、おれを怒らせてみてくれねえか」
「おまえは、分別があるだよ、トム。おまえを怒らせる必要はねえだ。あたしは頼りにしてるんだよ。おまえに投げだされたら、それこそたいへんだよ、トム」
一つの重荷が彼の肩にかかったわけだ。「いやだなあ」と彼は言った。「おれもアルみてえに外をうろつきまわりてえだよ。それからお父っさんみてえに腹をたててみてえし、ジョン伯父みてえに酔っぱらってみてえだ」
母親は頭をふった。「おまえにはできねえだよ、トム。あたしは知ってるよ。おまえが小さな子供の時分から、あたしにはわかってただよ。おまえにゃできねえだ。世の中にゃ、ほんとにそれっきりの人間で、ほかに能のねえ人間もいるだ。あのアル――あれは、ただ女の子の尻《しり》を追いまわしてるだけの若者でしかねえだ。おまえは、そんなふうじゃなかったよ、トム」
「いや、おれだってそうだったぜ」とトムが言った。「いまだってそうさ」
「いいえ、おまえはそうじゃない。おまえのやることは、何だって、自分のことだけじゃねえだ。おまえが監獄へ送られたとき、あたしはそれを知っただよ。おまえは生れつきそうなんだ」
「さあ、おっ母――もう、そんな話はよそうぜ。でたらめだよ。みんなおっ母が、頭んなかでこしらえあげたことさ」
彼女は皿の上にナイフとフォークをおいた。「たぶんね。たぶん、あたしの頭んなかで考えたことだろうよ。ローザシャーン、これふいて、しまっておくれ」
娘は息苦しそうに立ちあがった。ふくれたお腹が、体の前につき出ていた。のろのろと箱のそばに歩みより、箱の上から洗った皿をとりあげた。
トムが言った。「すっかりふくれあがったもんだから、目の玉が飛びだしてきたぜ」
「からかうのはよしなよ」と母親が言った。「あの娘《こ》は、ぐあいがよくないんだからね。おまえは行って、みんなにお別れのあいさつでもしといで」
「そうしよう」と彼は言った。「あそこまで、どれくらいの距離か調べてこよう」
母親は娘に言った。「トムは別に悪気があって言ったんじゃねえだよ。ルーシーとウィンフィールドは、どこにいるだかね?」
「二人ともお父っさんのあとにくっついてったわ。姿を見かけたわ」
「そんなら、ほっとこう」
『シャロンのバラ』は、のろのろと働いた。母親は彼女を注意深くながめた。「おまえ、気分はいいだかね? 頬《ほ》っぺたが、ちょっとたるんでるようだけど」
「あたし、本当に必要とするほど牛乳飲んでないのよ」
「わかってるだよ。うちには、あいにく牛乳がないんでね」
『シャロンのバラ』は、ものうげに言った。「もしコニーが行っちまわなかったら、あたしたちは、いまごろ小さな家をもつことができたんだわ。そして、あの人は勉強してたわ。好きなだけ牛乳も飲めてたわ。かわいい赤ん坊が生れたにちがいないわ。でも、このお腹にいる赤ん坊は、丈夫な子に生れそうもないわ。あたし牛乳を飲まなくちゃいけないんだわ」彼女はエプロンのポケットに手を入れて、口に何かを入れた。
母親が言った。「おまえ、何か噛《か》んでるようだね。何を食べてるの?」
「何でもないわ」
「お言い、何を噛んでるんだい?」
「ただの消石灰のかけらよ。かたまりを見つけたの」
「まあ、そんなもの。ごみを食べてるみたいなもんじゃないか」
「なんとなく、ほしいような気がしたのよ」
母親は黙った。そして膝《ひざ》をひろげてスカートをぴんと張った。「あたしにもおぼえがあるだ」と彼女は、しまいに言った。「あたしは子供ができると、石炭を食べただよ。大きなかたまりを一つね。ばあさまは、そんなことをしたらたいへんだって言ったけどね。そんなこと、ちっとも赤ん坊に関係ないんだよ。そんなこと考えるのだって無用さ」
「あたしは夫もないんだわ! 牛乳もないんだわ!」
母親が言った。「もしおまえが甲斐性《かいしょう》のある娘なら、ぶったたいてやるんだけどね。その顔のまん中をさ」彼女は立ちあがって、テントのなかへはいって行った。そして、ふたたび出てくると、『シャロンのバラ』の前に立った。手をさしだして言った。「ごらん!」小さな金のイヤリングが、その手のなかにあった。「これをおまえにあげるよ」
娘の目は、一瞬、かがやいた。それから彼女は、わきを向いた。
「あたし、耳に穴があいてないもの」
「そんなら、あたしがいまあけてやるだよ」母親は急いでテントに戻《もど》った。そしてボール箱をもって戻ってきた。せわしげに針に糸を通した。糸を二重《ふたえ》に合わせ、そこに、いくつもの結び目をこしらえた。二番目の針にも糸を通し、これにも結び目をこしらえた。箱のなかからコルクの一片を見つけだした。
「痛いんじゃない? ねえ、痛いんじゃない?」
母親は娘のそばにより、耳たぶのうしろにコルクをあて針を突きさして、コルクのほうへと抜いた。
娘は身をよじった。「痛いわ。傷になるわ」
「これだけのことさ」
「うそよ。傷になるわ」
「さてと、こんどは、そっちの耳をお見せ」彼女はまたコルクをあてて、そっちの耳に刺した。
「けがするわ」
「静かにしな!」と彼女は言った。「もう、おしまいだよ」
『シャロンのバラ』は驚いて母親を見やった。母親は針を抜きとり、糸を引っぱって、はじめの結び目を耳たぶの穴から通した。
「さあ」と彼女は言った。「毎日、ひとつずつ結び目のこぶを引っぱるだ。そうすれば、二週間したら、ちゃんと穴があいて、それをつけることができるだ。ほら――これは、おまえのものだよ、しまっときな」
『シャロンのバラ』は、そっと自分の耳にさわり、指についた血の点を見やった。「痛くなかったわ。ちょっとちくりとしただけよ」
「ほんとは、もっとずっと前にあけとかなくちゃいけなかっただよ」と母親は言った。そして娘の顔を見やり、勝ち誇ったように微笑した。「さあ、あのお皿を片づけちまっておくれ。おまえの赤ちゃんは、いい赤ちゃんになるだよ。もうすこしで、おまえを耳の穴もあけないままお産をさせるところだった。でも、いまはもう、おまえは安全だよ」
「これ、何か大切なことなの?」
「そうだともさ」と母親は言った。「もちろん、そうなんだよ」
アルは道路をダンス場のほうへ歩いて行った。こぢんまりしたテントの外で、彼はそっと口笛を吹いた。それから道路をぶらぶら歩いた。彼は敷地の端まできて、草のなかに腰をおろした。
西のほうの雲は、いま端の赤みをうしなっており、中心部は真っ黒だった。アルは足を掻《か》き、夕方の空を見あげた。
すこしたつと、金髪の娘が近よってきた――美しくて、ほっそりした体つきの娘だ。彼女は彼のそばの草に坐った。何も言わなかった。アルは手を彼女の腰にまわし、指で撫《な》でまわした。
「やめて」と彼女は言った。「くすぐったいわ」
「おれたちは、あす出かけるんだ」とアルが言った。
びっくりして彼女はアルを見やった。「あした? どこへ?」
「北のほうへさ」と彼は気軽に答えた。
「まあ、だって、あたしたち、結婚するはずだったんでしょう。そうじゃないの?」
「もちろんさ。そのうちね」
「あんた、すぐだって言ったじゃないの!」と彼女は怒ったように言った。
「そうさ。|すぐ《ヽヽ》ってのは、その|すぐ《ヽヽ》がきたときのことさ」
「あんたは約束したじゃないの」彼は、なおも指を這いまわらせた。「よしてったら」彼女は叫んだ。「結婚するって、あんた言ったじゃないの」
「うん、もちろんおれたちは結婚するだよ」
「だけど、あんたは行っちまうんでしょう?」
アルが問いかえした。「いったいどうしたっていうだ? 赤ん坊でもできたってのかい?」
「ううん、ちがうわ」
アルは笑った。「こんなことしてたら、時間のむだってもんだぜ。そうだろう?」
彼女は顎《あご》をつき出した。急に立ちあがった。「あんたは、あたしから逃げるのね、アル・ジョード。もうあんたとは会いたくないわ」
「おい、さあ、こっちへきなよ。どうしただ?」
「あんたったら、ただあたしを――なんてわるい人だろう」
「ちょっと待ちなよ」
「あんたは、あたしが、あんたのあとを追っかけて行くような女だと思ってるの。どっこい、そんなことしませんよだ! あたしは、男なんかいくらでも見つけられるんだから」
「おい、ちょっと待ちなよ」
「いいえ、いいわよ――。行っちまいなさいよ」
アルは突然、身を伸ばした。彼女の足首をつかまえて、つまずかせた。倒れかかる体をつかまえ、しっかりと抱きしめると、叫びだそうとする口を手で押えた。彼女は、アルの指に噛みつこうとした。しかし彼は、手をまるくコップのようにして彼女の口にかぶせた。そして片手で押えつけた。すぐに彼女は静かに横たわった。しばらくすると、たちまち二人はかわいた草のなかで、くすくす笑いあっていた。
「そうさ、おれたちはすぐに戻ってくるだよ」とアルは言った。「そして、そんときにゃポケットにたんまり金を入れてくるだ。二人でハリウッドへ行って映画を見るんだ」
彼女は仰向けに寝ていた。アルは、その上に身をかがめた。そして彼は、明るい夕空の星が彼女の瞳《ひとみ》に映っているのを見た。それから黒い雲が彼女の瞳に映っているのを見た。
「おれたちは汽車で行くだ」と彼は言った。
「どれくらいの期間、行ってるつもりなの?」と彼女はたずねた。
「たぶん一カ月ぐらいだろう」と彼は言った。
夕闇《ゆうやみ》がおりてきた。そして父親とジョン伯父は、事務所の外で、家長たちの集りに加わって、しゃがんでいた。彼らは夜や未来について考えこんでいた。すり切れてはいるが清潔な服を着た小柄《こがら》な管理人は、ポーチの手すりに肘《ひじ》を休めていた。彼の顔は、げっそりと疲れていた。
ヒューストンが彼を見あげた。「あんたは、ちっとばかり眠んなすったほうがいいだ」
「そうしなくちゃと思うんだが。きのうは第三班で赤ん坊が生れてね。わしはどうやらなかなかいい産婆《さんば》になれそうだよ」
「その仕事は、誰かが知ってなくちゃ困るだからね」とヒューストンは言った。「結婚した男は知ってなくちゃいけねえだよ」
父親が言った。「わしらは、あすの朝、出発するつもりだ」
「そうかい、どっちの方角へ行くつもりだね?」
「すこしばかり北のほうへ行ってみようと思うだ。最初の綿のとり入れに間に合うようにね。わしらは、仕事がなかったもんだで、食いものがきれちまっただ」
「そこへ行けば、何か仕事があるのかね?」とヒューストンがたずねた。
「いんや、しかし、ここにねえことはたしかになっただからね」
「もうすこししたら、あるだよ。もうすこししたらな」とヒューストンが言った。「待ってるといいだに」
「わしらだって行きたくはねえだよ」と父親は言った。「ここの人たちは、ほんとにいい人たちだし――それに洗面所といい、何といい。だけど、わしらは食わなくちゃならねえだ。ガソリンも買わなくちゃならねえ。そうしねえと道路を動くこともできねえだでな。ここでは、わしらは毎日|風呂《ふろ》を浴びただ。生れてから、こんなに清潔だったことはなかっただよ。妙なこった――昔は一週間に一ぺんしか風呂にはいらなかったもんだ。それでも、あまり臭えようには思えなかっただ。ところが、いまは、ほんの一日でも風呂を浴びねえと、もう体が臭いように思えてくるだ。あんまり毎日風呂にはいると、こんなふうになるもんかね」
「たぶん、以前のおまえさんは、自分の臭《にお》いがわからなかったんだろうよ」と管理人が言った。
「そうだろうてな。わしら、ほんとに、ここにいられるといいだが」
小柄な管理人は両手の手のひらでこめかみを押えた。「たしか、今夜もまた赤ん坊が生れることになってたぜ」と彼は言った。
「わしんとこでも一人できかかってるところさ。もうじきね」と父親が言った。「ここで産ませられるとよかっただ。まったくそうだとよかっただがよ」
トムとウィリーと混血のジュールはダンス場の床の端に腰かけて足をぶらぶらさせていた。
「おれはダーラムを一袋もってるだが」とジュールが言った。「吸うかい?」
「そりゃ、もちろんさ」とトムが言った。「おれは長いこと吸ってねえだ」彼は、煙草《たばこ》の粉をこぼさないように、注意深く茶色の煙草を巻いた。
「まったく、おめえが行っちまうのは残念だよ」とウィリーが言った。「おめえんとこの家族はいい人たちだからな」
トムは、煙草に火をつけた。「おれも、うんと考えただよ。ほんとに、ここに住みつきたかっただ」
ジュールはダーラムをとり戻した。「いやなもんだて」と彼は言った。「おれは小さな娘を二人もってるだがね。この土地へきたときにゃ、学校へやろうと考えたもんさ。ところが、おれたちは一カ所にゆっくり落ちついてはいられねえだ。いつも、あっちこっち、うろついてなくちゃならねえ」
「もう一度フーバビルに住まずにいられるといいだが」とトムが言った。「ほんのちょっとだけ、あそこにいただが、まったく腹のたつことばかりだったぜ。保安官補のやつがきてよ、友達を引っぱっていきゃがっただ。ただちょっと本当のことを言ったためにだぜ。おれは実際腹がたっただ」
「ストライキに参加したことがあるかい?」とウィリーがきいた。
「いんや」
「そうかい。おれは、ずいぶん考えてみただよ。なぜあの保安官どもが、ここへはいってきて、ほかの場所みてえに暴れねえのか。なぜだかわかるかい? 事務所にいるあの小男が入れさせねえからか? とんでもねえだ」
「じゃ、なぜだい?」ジュールがたずねた。
「言おうか。それはな、おれたちが、みんないっしょに働いているからだよ。保安官だって、このキャンプにいる人間を、一人だけ引っぱったって仕方がねえだ。やつらは、このキャンプ全体を引っぱりてえだ。ところが、そいつは、やりたくてもやれねえだ。おれたちは、ただ大声でどなればいいだ。なにしろ二百人からの人間がいるだでな。組合を組織してる男が、道路で大声で言ってたよ。おれたちは、どこでだって、組織ができる、ただ、かたまり合えばいいんだってな。向うだって、二百人の人間がいっしょなら、乱暴なまねはできねえさ。一人の人間を引っぱってくのはできるけんどな」
「そうだよ」とジュールが言った。「それで組合ができたとしてみよう。指導者がいるぜ。やつらはその指導者を引っぱってくだけだぜ。すると組合なんかなくなっちまうぜ」
「そうさな」とウィリーがいった。「でも、おれたちは、いつかそれを考え出さなくちゃいけねえだよ。おれはこの土地に一年いるだが、賃金は下がる一方だぜ。いまじゃ働いたって自分の家族を食わすことができねえだ。それも日増しにわるくなるばかりよ。ただ、こうしてぼんやりしてて飢えてるんじゃ、どうしようもねえだ。どうしていいかはわかんねえだけんど。馬を二頭もってるときにゃ、その馬が働かねえときだって、食いものをやって、それでも別に文句は言わねえ。ところが、働く人間を雇った場合にゃ、働かねえときにゃ、一文だって出しゃしねえ。馬のほうが人間よりも、値打ちがあるってわけよ。おれにゃ、わけがわからねえだよ」
「だからよ、だからおれは、そんなこと、ほんとは考えたくはねえだ」とジュールが言った。「だけど、考えねえわけにゃいかねえだ。おれにゃ、さっきも言ったように小さな娘がいる。かわいい女《あま》っ子なんだ。このあいだなんざ、このキャンプのものが賞品くれただよ、かわいいっていうんでね。ところで、この娘が、いまどうなってると思うかね? やせこけてしまっただよ。おれにゃ、とても我慢ならねえだ。とてもかわいい娘なんだ。おれは、何かやりだすぜ」
「どうやって?」とウィリーがきく。「何をやらかすだ――何か盗んで監獄にぶちこまれるってことか? 誰かを殺して、しばり首にでもなるってことか?」
「わからねえ」とジュールが言った。「そのことを考えると気が狂いそうだ。ほんとに気が狂うだよ」
「もう、あのダンスもやれなくなるだな」トムが言った。「あれは、おれのいちばん好きなもんだったけんど。さてと、おれは帰るぜ。さようなら。どこかでまた会えるといいだな」彼は握手した。
「会えるとも」とジュールが言った。
「じゃ、あばよ」とトムは闇のなかへ歩き去った。
ジョード家のテントの暗闇のなかでは、ルーシーとウィンフィールドが自分たちのマットに横たわっていた。母親がそばに寝ていた。ルーシーが、ささやいた。「おっ母さん!」
「うん? おまえ、寝てなかったのかい?」
「おっ母さん――あたしたちの行くところにはクローケーがある?」
「どうだかね。すこしお眠り。朝早く出発するだからね」
「でも、あたし、ここにいたいわ。ここにはクローケーがあるんだもの」
「しいっ!」と母親が言った。
「おっ母さん、ウィンフィールドは、さっき、よその子をぶったのよ」
「いけないよ、そんなことしちゃ」
「あたしは、いけないこと、知ってるわ。だから、いけないって言ったのよ。でもウィンフィールドは、その子の鼻をぶっちゃったの。そしたら、すごいのよ、血がだらだら出たのよ!」
「そんな話をするんじゃないよ。あんまりいい話じゃないからね」
ウィンフィールドが体を向けた。「その子のやつ、おいらをオーキーって言ったんだ」と彼は怒り声で言った。「あいつは、オレゴンからきたんだからオーキーじゃないんだって。おいらのことを、|やくざ《ヽヽヽ》オーキーだなんて言ったんだ。だから、おいら、なぐってやったんだ」
「しいっ! そんなことをしちゃいけないよ。その子はただ悪口を言っただけで、何もしやしないんだからね」
「そんなら、悪口なんか言わせないようにしてやるだ」とウィンフィールドは、きつい声で言った。
「しいっ! すこし眠んなよ」
ルーシーが言った。「あんたったら、血がたれるとこ、見なかったの――あの子の着物に、いっぱいついていたのに」
母親は毛布の下から手を伸ばしてルーシーの頬《ほお》をつねった。小さな娘は、一瞬、身をかたくした。それから鼻をつまらせて、低く泣きはじめた。
洗面所では父親とジョン伯父がとなりあったトイレに腰かけていた。「まあ、最後のやつを、ゆっくりとやるか」父親が言った。「まったく気分のいいところだて。思いださねえかい、うちのちびどもが、はじめてこの水洗を流したときのことさ。あのあわてようったらなかったぜ」
「わしだって、びっくりしなくもなかっただよ」とジョン伯父が言った。そして、着ている仕事着を膝《ひざ》のあたりまでまくりあげた。「わしはわるくなるばかりだて」と彼は言った。「わしは罪を感じるだよ」
「おまえさんは、何にも罪なんか犯してやしねえだよ」と父親が言った。「おまえさんは金を一文ももってねえだろう。酔っぱらうだけの金もさ。罪を犯すためにだって二ドルは入り用だて。ところがわしらは、それすらも持ってねえだ」
「そのとおりさ! だけどわしは罪のことを考えるだよ」
「それでいいさ。何もわるいことをせずに考えるなら、罪のことを考えたって、ちっともかまわねえだよ」
「それでもやっぱりつらいだ」とジョン伯父が言った。
「安あがりじゃねえだか」と父親が言った。
「罪を見くびるもんじゃねえだ」
「見くびりはしねえさ。まあ、好きなようにするだ。おまえさんときたら、地獄が燃えてるというんで、いつだって罪のことばかり考えてるだ」
「自分でもそれは知ってるだよ」とジョン伯父は言った。「わしは、いつもそんなぐあいだて。わしは、自分の犯した罪の半分も人に語ってはいねえだ」
「そんなら、そっとそのままにしときなよ」
「ここの、このりっぱなトイレにいると、自分の罪深いことが感じられるだよ」
「それじゃ藪《やぶ》んなかへでも行ってやらかすんだな。さあ、出ようぜ。ズボンを引っぱりあげてテントですこしばかり眠ろうや」父親は仕事着のベルトを引っぱりあげてホックをつけた。水を流し、水が便器を渦巻《うずま》き流れるのを考え深げに見まもった。
母親がキャンプの家族たちを起したときには、外はまだ暗かった。薄暗い終夜灯の光が衛生班の入口からさしていた。道ばたに並んだテントからは、いろんな調子のいびきがきこえた。
母親が言った。「さあ、起きなよ。出かけなくちゃならねえだからね。もうじき夜が明けるだよ」彼女は灯火のおおいをきしませて上へあげ、芯《しん》に火をともした。「さあ、みんな起きておくれ」
テントのなかに緩慢な動きが起った。毛布や布団《ふとん》がめくられ、眠たげな目が光をまぶしげに細目で見やった。母親は、寝るときに着ていたスリップの上にドレスを着こんだ。
「コーヒーがないんだよ」と彼女は言った。「ビスケットがすこしばかりあるだけだて。道路へ出たら、それを食べることにしよう。さあ、起きておくれ。トラックに荷を積むだ。さあ、はじめておくれ。あんまり騒がしくしないようにね。近所の人を起したくねえだからね」
すこしたつと、ようやく一同は、完全に目をさました。
「おまえたち、遠くへ行っちゃいけないよ」と母親は子供たちに注意した。家族のものは服を着た。男たちはテントを引きおろし、トラックに荷を積んだ。
「平らに、きちんと積んでおくれ」と母親は注意した。彼らは荷物の上にマットを敷き、上には防水布を支柱にしばりつけた。
「ようし、おっ母」とトムが言った。「用意ができたぜ」
母親は冷たいビスケットの皿《さら》をさしだした。「よし、さあ、これ、一人に一つあてだよ。これだけしかないんだからね」
ルーシーとウィンフィールドはビスケットをつかんで荷物の上にのぼった。二人で一枚の毛布を上にかけ、冷たく堅いビスケットを握ったまま、ふたたび眠りこんだ。トムは運転席にはいってスターターを踏んだ。それは、ちょっと音をたてて、とまってしまった。
「しようがねえな。アル!」とトムが叫んだ。「おめえ、電池をほったらかしにしといただな」
アルがどなり返した。「車を走らせるガソリンがねえときに、いつも充電さしとくわけにもいかねえじゃねえかよ」
トムが不意にくすくす笑った。「どうして放電したか知らねえけんどよ、とにかく、おめえのせいだぜ。クランクをまわす責任は、おめえにあるだ」
「おれの責任じゃねえったら」
トムは外へ出て座席の下からクランクをとり出した。「おれのせいだよ」と彼は言った。
「おれがまわすよ」アルがクランクをつかんだ。「スパークを落しといてくれ。さもないと、おれの手が、もぎれちまうだ」
「よしきた。さあ、まわしてくれ」
アルは力をこめてクランクをぐるぐるとまわした。エンジンがかかって、たったっと鳴り、トムがガソリンを慎重に送るにつれて、うなり声をあげた。彼はスパークをあげ、スロットルを落した。
母親が彼のそばに這《は》いあがってきた。「いまの音でキャンプじゅうの人が目をさましちまっただよ」と彼女は言った。
「またすぐ寝こんじまうさ」
アルは反対側へはいって坐った。「お父っさんとジョン伯父は上にあがったよ」と彼は言った。「もう一度眠るつもりらしいや」
トムは正門のほうへ運転して行った。門番が事務所から出てきて、トラックに向って懐中電灯をふった。「ちょっと待ちな」
「何か用かい?」
「出て行くんかい?」
「そうでさ」
「それじゃ帳簿を消さなくちゃならねえ」
「いいとも」
「どっちのほうへ行くか、わかってんのかい?」
「まあ、北のほうへ行ってみようと思ってるだよ」
「じゃ、元気でな」門番が言った。
「おまえさんもな。さよなら」
トラックは急な隆起を、ゆっくりと登って道路に出た。トムは、彼が、かつて走らせた道を、また逆に辿《たど》った。ウィードパッチをすぎて九十九号道路へ出た。それから、その大きな舗装した道路を、ベイカーズフィールドに向って北へと走った。市の郊外に近づいたころ、夜が明けはなれた。
トムが言った。「いたるところに食堂があるぜ。しかも、そこにゃ必ずコーヒーがあるときてやがる。あの終夜営業店を見ろや。あそこにはコーヒーが十ガロンはあるにちげえねえ。熱いやつがよ!」
「ちえっ、よせよ」アルが言った。
トムは彼のほうに、にやりと笑った。「ところで、おめえは女の子を一人つかまえたようだな」
「それがどうしたってんだい?」
「おっ母、アルのやつは、けさは機嫌《きげん》がわるいや。つきあっちゃくれねえようだぜ」
アルは、いらだたしげに言った。「おれはもうじき一人でやってくつもりだ。誰《だれ》だって、家族がいなけりゃ、ずっと楽に暮していけるだ」
トムが言った。「おめえだって、九カ月もしたら、きっと家族もちになってるだ。おれは見たぜ、おまえがいちゃついているのをな」
「でたらめ言ってら」とアルは言った。「おれはガレージの仕事を見つけるんだ。そしたら食堂で飯を食って――」
「そして九カ月もしたら女房《にょうぼう》と子供をしょいこむか」
「そんなものはもたねえだよ」
トムは言った。「おめえはえらいよ、アル。頭をぶったたかれに行くだものな」
「誰がそんなことをやるだ?」
「いつだって、そんなことをやるやつが、ああいうところにゃいるもんさ」とトムが言った。
「兄貴は、自分がそうだもんだから、なんでも――」
「さあ、もうそんなことやめにしておくれ」と母親が口をはさんだ。
「やめるよ」トムが言った。「おれは、からかってたんだよ。本気で気をわるくさせてたわけじゃねえだ。アル、おれは、おまえがそんなにあの女の子が好きだとは知らなかっただ」
「おれは、どんな女の子だって、たいして好きにゃならねえさ」
「そんなら、いいだ。そのほうがな。そんなら、おれと議論することもねえだろう」
トラックは町のなかへはいりかけた。「あのホットドッグ・スタンドを見ろ――ほら、何百軒ってあるぜ」とトムが言った。
母親が言った。「トム! あたしは一ドルだけしまってあるんだけど、おまえ、コーヒーがほしいんなら、それを使うかい」
「うんにゃ、おっ母、おれはただ、冗談に言っただけだよ」
「ほんとにほしかったら、飲んでもいいんだよ」
「飲みたくねえだよ」
アルが言った。「そんならコーヒーのことなんかいうなよ」
トムは、しばらくのあいだ黙っていた。「なんだかおれは年じゅうコーヒーのことばかり考えてるみてえだな」と彼は言った。「あそこが、いつかの夜、走りこんだ道だぜ」
「二度と、あんなことはしたくないね」と母親が言った。「あれはいやな晩だったよ」
「おれも、あんなことは好かねえだ」
太陽が右手にのぼった。そしてトラックの投げる大きな影が車のわきを走り、道ばたの長い柵《さく》の列の上をかすめた。彼らは建てなおされたフーバビルを通りすぎた。「見ろや」とトムが言った。「あそこにゃ新しい人たちが住んでるぜ。以前《まえ》とちっとも変ってねえようだ」
アルは、ようやく憂鬱《ゆううつ》な気分から抜けだした。
「いつかきいたんだけど、あの人たちのなかには、十五回も焼け出されたものがいるそうだぜ。あの人たちは、柳の木の奥にかくれていて、また出てきてからに草小屋を建てなおすんだってさ。地鼠《じねずみ》みてえなもんさ。それに、すっかりなれちまったもんだから、焼かれても、たいして怒らねえそうだ。まるで天気がわるいのと同じように考えてるだよ」
「たしかにあの晩は、おれにとっちゃ、わるい天気だったぜ」トムが言った。彼らは幅のひろい国道へ出た。太陽の暖かさに、彼らは、すこし身をふるわせた。「朝がうそ寒くなってきただ」とトムが言った。「冬がやってくるだ。それまでになんとか金が稼《かせ》げるといいだな。冬になってからのテントは、あんまりぞっとしねえだでな」
母親は溜息《ためいき》をついた。それから頭をまっすぐにあげた。「トム」と彼女は言った。「あたしたちは冬になったら家をもたなくちゃならねえだ。ほんとうにそうしなくちゃならねえだ。ルーシーは大丈夫だけど、ウィンフィールは、あまり丈夫じゃねえだからね。雨季がやってくるまでに家をもたなくちゃ。このあたりは、ひどく雨が降るってことだからね」
「家ぐらいもてるだよ、おっ母。安心してなよ。家ぐらいもてるさ」
「ほんの床と屋根があればいいだ。子供たちが地面に寝るようなことさえなければね」
「おっ母、なんとかやってみるだよ」
「いま、おまえを心配させたくはないけどね」
「なんとかやってみるだ」
「あたしは、ときどき恐ろしくなるだ」と彼女は言った。「すっかり元気をなくしちまうだよ」
「おっ母が元気をなくしたことなんて、一度も見たことがねえぜ」
「夜になると、ときどきそうなることがあるんだよ」
トラックの前のほうで、はげしくしゅっという音がした。トムは、ハンドルを握りしめ、ぐいとブレーキを踏んだ。トラックは急停止した。トムは溜息をついた。「ちえっ、とうとうやっちまったぜ」彼は座席のうしろに背をもたせかけた。アルが飛んで出て、トラックの右の前輪に走って行った。
「でっかい釘《くぎ》だぜ」と彼は声をあげた。
「パンク張りはあるかい?」
「いんや」とアルが言った。「みんな使っちまっただよ。パンク用のゴムはあるけんど、膠《にかわ》がねえだ」
トムは母親のほうを見返り、悲しそうな顔つきで微笑した。「あの一ドルのことなんぞ言いだしてくれなきゃよかったのに」と彼は言った。「そうすりゃ、ほかのときに使えたのに」彼は車から出て、パンクしたタイヤに近づいて行った。
アルはぺしゃんこになったタイヤから出ている大きな釘を指さした。「ほら、これだ!」
「この郡のなかにたった一本しかねえ釘を、よりによっておれたちが踏んづけちまったみてえだな」
「ひどいのかい?」母親が声をかけた。
「いんや、そんなにひどくはねえだよ。でも修繕しなくちゃならねえだ」
家族のものは、車の上から重なっておりた。「パンクかい?」と父親がたずねた。それからタイヤを見つめ、黙ってしまった。
トムは母親を座席からどかせ、クッションの下からパンク直しの缶《かん》をとり出した。そしてゴムの使い残しをひろげ、チューブ入りの接着剤をとり出して、そっとしぼった。「ほとんどかわきかけてるぜ」と彼は言った。「でも、まあ、なんとか足りるだろうて。よしきた、アル、後部の車輪に突っかいをしてくれ。ジャッキでもちあげるだ」
トムとアルは仲よく協力した。彼らは後輪の下に石をあてがい、ジャッキを前輪の車軸にあて、ぺしゃんこになった車輪をもちあげてタイヤにかかる重みをなくした。それから二人でタイヤをはずした。穴のあいた場所を見つけ、ぼろ布をガソリン・タンクにひたして、パンク穴のまわりのチューブを洗った。それからアルがチューブを膝の上でぴんと張っているあいだに、トムが接着剤入りのチューブを二つに引きさいて、液体をポケット・ナイフで薄くゴムの上に塗りつけた。そして慎重にゴムのりをのばした。「さあ、おれが当てゴムを切ってるあいだ、こいつをかわかしておこう」彼は当てゴムを切りとり、青いゴムのまわりを斜めにそぎとった。アルがチューブをきつく引っぱっているあいだに、トムは、そっとその場所へ当てゴムを張りつけた。「さあ、よし! こんどはそれをステップのところへもってってくれ。おれがハンマーでたたくから」彼は当てゴムを注意深くたたいた。それからチューブを伸ばして、当てゴムの端を調べた。「さあ、これでよし! なんとかもつだろう。元のとおりはめて空気を入れるんだ。おっ母、どうやらおっ母の一ドルは使わずにすみそうだぜ」
アルが言った。「スペアがあるといいだな。どうしてもスペアがいるだよ、トム。ちゃんと枠《わく》にはいって空気がぱんぱんはいってるやつがさ。そうすりゃ、パンクなんて夜だって直せるだ」
「スペアを買う金ができたら、まずおれたちは、その代りにコーヒーと脇肉《わきにく》を買っちまうだろうて」トムが言った。
早朝を往来する車が国道をうなりすぎた。そして太陽は暖かみとかがやきとを増してきた。やわらかく、ささやくような風が、南西から吹いてきた。渓谷の両側にそびえる山々は薄白い霧にぼやけていた。
トムがタイヤに空気を入れているとき、一台のロードスターが北から走ってきて道路の向い側にとまった。薄鼠色の背広服を着た、日やけした顔の男が出てきて、道路を横ぎってトラックのほうへやってきた。帽子はかぶっていない。彼は微笑した。歯が褐色《かっしょく》の顔のなかできわだって白い。左手の薬指に太い金の結婚指輪をはめている。小さな金のフット・ボールが、チョッキにわたした細い鎖にぶらさがっていた。「お早う」と彼は愛想《あいそ》よく言葉をかけた。
トムはポンプを動かす手をとめて目をあげた。「お早う」
男は、粗《あら》い、短い、白髪《しらが》まじりの髪の毛を、指でかきあげた。「おまえさんがたは仕事をさがしてるのかい?」
「そうですだよ、だんな。それで血眼《ちまなこ》になってるんでさ」
「桃は摘めるかね?」
「まだ、一度もやったことはねえだ」父親が言った。
「しかし、おれたちは、何でもやれますだよ」とトムが急いで言った。「何だって摘めまさ」
その男はチョッキの金のフット・ボールをいじくった。
「ここから四十マイルばかり北へ行けば、いくらでも仕事はあるんだがね」
「そいつは、ぜひやりてえだ」トムが言った。「どのへんだか教えてくだされば、わしたちゃ、つっ走って行きますだよ」
「それではな、北へピックスリーまで行くんだ。そこまでは三十五、六マイルある。それから東へ折れて六マイルほど行く。そしたら、フーパー農場はどこかときけばいい。そこに行きゃ、うんと仕事があるよ」
「きっと行きますだ」
「ほかに仕事をさがしてる人たちのいるとこを知ってるかね?」
「ええ、そりゃ」とトムが言った。「あのウィードパッチ・キャンプへ行けば大勢の人が仕事をさがしてまさあ」
「じゃ、そこへ行ってみよう。わしたちは、ちょいとばかり人手がいるのでね。忘れなさんなよ、ピックスリーで東へまがって、そのまままっすぐ行けばフーパー農場へ出るんだ」
「もちろん忘れやしませんや」とトムが言った。「どうもすみませんね、だんな。わしたちは、えらく仕事がほしいですでね」
「結構だ。それじゃ、できるだけ早く行くことだな」彼は道路を横ぎって行き、オープンのロードスターに乗りこんで南へ走り去った。
トムはポンプに体重をかけた。「一人で二十ずつだ」と彼は声をかけた。「一――二――三――四――」二十でアルがポンプを交替した。それから父親、それからジョン伯父。タイヤはいっぱいになり、ふくらんで、なめらかになった。三回交替すると、ポンプはもうきかなくなった。「車をおろして様子をみてみよう」とトムが言った。
アルはジャッキをまわして車を下げた。「十分はいってるだ」と彼は言った。「すこしはいりすぎたくらいだ」
彼らは道具を車のなかに投げこんだ。「さあ、行こうぜ」トムが叫んだ。「とうとうなんとか仕事にありついたようだ」
母親が、ふたたびまん中に坐った。こんどはアルが運転した。
「さあ、そっと走らせてくれよ。あんまりエンジンを燃やさねえようにな、アル」
日の照る朝の畑のなかを走った。霧は丘の頂からあがり、山々は濃い紫のひだを見せて、すっきりと褐色にそびえていた。トラックが走りすぎると、野鳩《のばと》が柵のあたりから舞いあがった。アルは、われ知らず速力を増した。
「ゆっくりやれよ」とトムが注意した。「むちゃに走らせると、ばらばらになっちまうぜ。おれたちは、あそこまで行かなくちゃならねえだからな。それに、きょうは仕事にありつけるかもしれねえだ」
母親が興奮したように言った。「四人の男が働くんだから、いくらか前借りできるだろうよ。最初に買うのは、まずコーヒーだよ。おまえが、とてもほしがってたからね。それから小麦粉とふくらし粉と肉をすこしと。脇肉はすぐには買わないほうがいいね。それは、あとまわしにしよう。たぶん土曜日にね。それから石鹸《せっけん》だ。石鹸を買わなくちゃ。あたしたち、どんなところに住むことになるのかしらね」彼女は、しゃべりつづけた。「それに牛乳があるだ。牛乳をなんとか買おう。ローザシャーンは牛乳をとらなければいけないんだからね。看護婦さんがそう言ってたよ」
一匹の蛇《へび》が暖かな国道をくねり渡った。アルがそのほうにハンドルを向けて蛇を轢《ひ》き殺し、それから、もとの走路に戻《もど》った。
「鼠とりの蛇だ」とトムが言った。「あいつは、やっちゃいけねえだよ」
「おれは大きらいなんだ」とアルは愉快げに言った。「どんな種類の蛇でも、おれはきらいさ。蛇を見ると吐き気がするだ」
国道を走る午前の交通は頻繁《ひんぱん》になった。ドアに会社の商標をペンキで書きつけた、ぴかぴかのクーペを運転するセールスマン、背後にやかましく鎖を引きずっていく赤と白のガソリン・トラック。農作物を配達する食料品問屋の四角いドアの大型|幌《ほろ》トラック。道路の両側の土地は豊かだ。果樹園があり、いまは葉盛りである。そして葡萄《ぶどう》園では柵の列のあいだを一面に蔓《つる》が伸びひろがっている。メロンの畑もあるし、小麦畑もある。白い家々が緑の畑のなかに立っている。薔薇《ばら》が、その上をおおっている。そして太陽は金色で暖かい。
トラックの前部の座席では、母親とトムとアルが幸福な気分にとりつかれていた。「あたしは、もう長いこと、こんないい気分を味わったことはなかっただよ」と母親が言った。「桃をうんと摘んだら、なんとか家を一軒もてるかもしれないね。家賃だって払うさ。二カ月分くらい一度に払うよ。なんとか家をもたなくちゃね」
アルが言った。「おれは貯金するよ。貯金して、それから町へ行って、ガレージの仕事を見つけるんだ。部屋を借りて住んで食堂で飯を食うだ。毎晩映画に出かけるだ。金なんか、そんなにかからねえさ。西部ものを見るだ」彼の手はハンドルをかたく握りしめた。
ラジエーターが、ぶつぶつ音をたてて蒸気をもらした。「水はいっぱい入れといたかい?」トムがきいた。
「入れといたよ。風がうしろから吹いてるだろう。だから沸騰《ふっとう》するんだ」
「なんていい日だろうな、きょうは」トムが言った。
「マカレスターにいたときにゃ、働きながら、いつも自分のやりてえことを考えてたもんだ。まっすぐ、どこまでも、どんどん飛ばして、どこにもとまらずにつっ走ってみてえなんて考えたもんさ。ずいぶん昔のような気がするな。はいってたのが何年も前のような気がするて。一人、看守で、おれをいじめたやつがいた。おれは、そいつをぶち殺したくなった。だから、おれは警官というと腹がたつのさ。どのお巡《まわ》りも、みんな同じ面《つら》してるみてえだものな。赤い面してやがってさ。豚みてえな感じだ。兄貴が一人、西部に住んでる――そう言って、仮釈放で出た男を、その兄貴のところへ送るんだ。そこでは、ほとんどただ働きをさせられるだ。そして、もし何か文句でも言って暴れようもんなら、仮釈放の宣誓を破ったというんで、マカレスターへ送り返されるってわけよ。おれの知り合った男が、そう言ってただよ」
「そんなことはもう考えないでおくれよ」母親が頼んだ。「あたしは食べものをうんと貯《たくわ》えなくちゃ。粉とラードを、どっさりね」
「考えねえわけにゃいかねえだよ」トムが言った。「あそこのことは、誰にもしゃべらずにおこうとするんだけど、そうすると気分が変にむしゃくしゃしてくるだ。変り者が一人いただ。そいつのことは一度も話さなかったな。ハッピー・フーリガンみてえな男だった。毒っ気のねえやつでね。いつも脱獄しようとしてやがった。みんなやつのことをフーリガンって呼んでたんだ」トムは、ひとりで笑った。
「あそこのことは、もう考えないでおくれ」と母親が頼んだ。
「話しなよ」アルが言った。「その男のことをきかしてくれよ」
「何も、いやな話じゃねえだよ、おっ母」とトムが言った。「やつは、いつも脱獄しようとしてやがった。計画をたてるだ。やつのやろうとする計画をね。ところがやつは、それを自分だけの秘密にしておけねえのさ。だから、すぐと仲間の連中が、みんなそのことを知ってしまうだ。看守までがさ。やつが、その計画を実行すると、向うじゃ待ってましたとばかり、やつの腕をつかまえて、もとのところへ引き戻しちまうというわけさ。あるとき、やつは、乗り越える場所を心のなかへ描いただ。やつは、それをみんなに教えてまわっただよ。みんな知らん顔してた。やつは実行にとりかかった。それでも、みんな知らん顔してた。やつは、どこからかロープを仕入れてきた。そして、そいつを塀《へい》にかけて乗り越えただよ。ところが外にゃ、看守が六人、でっかい袋をもって待ってた。フーリガンのやつ、ロープを伝わっておりてきた。看守たちは袋をひろげて待ってる。そして、やつは、その袋のなかへ、すっぽりはいっちまったわけさ。看守たちは、その袋の口をしばって、もとのところへつれ戻しただが、いやはや、こんときは、みんな死ぬほど笑ったもんだ。ところが、それでフーリガンのやつ、気分がすっかり滅入《めい》っちまった。おいおい泣いたもんだよ。そして、ぼんやり歩きまわって、病人みてえになっちまっただ。すっかり気分がくさっちまったのよ。針で手首を切って血を出して死のうとまでしただ。すっかり悲観しちまってね。まったく毒っ気のねえ男だった。あそこにゃ、いろんな変り者がごたごたいるだよ」
「その話はよしにしておくれよ」母親が言った。「あたしはフロイドのおふくろさんを知ってるけど、あの子も、わるい子じゃなかった。ただ、みんなに追いつめられて、ああなっちまっただけさ」
太陽は昼近くの天頂にのぼった。トラックの影はやせてきて車輪の下に這いこんだ。
「ピックスリーは、このさきにちげえねえだ」とアルが言った。「ちょっと前に標示板を見ただよ」車は小さな町にはいった。そして、前よりも細い道へと東にまがった。果樹が両側に並び、道路はまるで教会の通廊のようであった。
「場所がすぐわかるといいだがな」トムが言った。
母親は言った。「あの人の話だと、フーパー農場とか言ってたよ。誰かにきけば教えてくれるって言ってたよ。近くに店でもあるといいけど。四人の男が働くんだから、いくらか前貸ししてくれるかもしれないね。いくらか前貸ししてくれると、とてもすてきな夕食がつくれるんだけど。すてきなシチューをつくるだよ」
「それにコーヒーだ」とトムが言った。「それから、おれはダーラム煙草《たばこ》を一袋ほしいだ。おれは長いこと自分の煙草を吸わねえだもんな」
ずっと前方で道路は幾台かの自動車にふさがれていた。そして白いオートバイが道ばたにとまっていた。
「事故があったにちげえねえ」とトムが言った。
近づくと、長靴《ながぐつ》につり革をかけた州警察の警官が一人、いちばん後尾の車のあたりに立っていた。警官は手をあげた。アルは車をとめた。警官は、なれなれしく車の横によりかかった。「どこへ行くんだ?」
アルが言った。「人にきいたんだけど、この先に桃を摘む仕事があるっていうんで」
「働きたいってわけだね?」
「そのとおりだよ」トムが言った。
「よろしい。ここでちょっと待ってろ」彼は道路の端へ行き、前のほうへ声をかけた。「もう一台だ。これで六台になったぞ。この組は一応通してやったほうがいいだろう」
トムが叫んだ。「ちょっと、何が起っただね?」
警官はふりむいた。「向うにちょっと厄介《やっかい》ごとがあるんだ。心配しなくてもいい。通り抜けられるから。この列について行けばいいんだ」
オートバイが発車するときのエンジンのとどろきが起った。車の列は動きだした。ジョード家の車を最後尾にして――二台のオートバイが先頭に立ち、二台が後尾についた。
トムが不安げに言った。「いったい何が起ったっていうのかな?」
「たぶん道路がこわれてるんだろう」とアルが考えを述べた。
「だといって、何も四人もお巡りが案内する必要もねえだろう。おれは、こんなことは好かねえだ」
先頭のオートバイは速力を増した。古自動車の列もスピードを増した。アルは急いで最後の車のあとにしたがった。
「この先にいる連中も、おれたちの仲間だぜ」とトムが言った。「どうも気に入らねえな」
突然、先導するオートバイが道路を折れて、砂利を敷いた幅ひろい入口の道にはいった。古自動車の群れは、そのあとを苦しげに追った。オートバイは、モーターをうならせた。トムは、一団の人々が道ばたのくぼんだところに並んで立っているのを見た。彼らの口が、まるで罵《ののし》ってでもいるように開かれているのを見た。ふりまわす拳《こぶし》と憤りの顔を見た。一人の頑丈《がんじょう》そうな女が車のほうへ駆けだした。しかし、うなり声をあげるオートバイが、女の行手をさえぎった。高い、針金を渡した門が、大きく開かれた。六台の古自動車は、そこを通りぬけた。門は彼らの背後でとざされた。四台のオートバイは、もときたほうへ向きを変えた。そして、いま、それらのオートバイが走り去ったので、道ばたにいる人たちの遠いわめき声が、きこえてきた。二人の男が砂利道のそばに立っていた。二人とも銃を持っていた。
一人が声をかけた。「さあ行きな。なんだってそんなところで待ってるんだ?」六台の車は前へ動いた。角をまがると、だしぬけに桃農場のキャンプ地に出た。
そこには五十個ほどの、小さくて四角い、平屋根の小屋があった。どれにも入口の扉《とびら》が一つと窓が一つついており、それらの集合である全体の姿も四角だった。水槽《タンク》がキャンプ地の端に空高く立っており、一軒の食料品店が、その反対側に立っていた。四角い家の並んだ列のどの端にも二人の男が立っていた。散弾銃で武装して、シャツには大きな銀の星章をピンでとめていた。
六台の車がとまった。二人の帳簿係が車から車へと動きまわった。「働きたいんだな?」
トムが答えた。「そうだよ。だけど、これはいったい何が起きたんですかい?」
「おまえたちの知ったことじゃないよ。働きたいんだろう?」
「働きてえよ」
「名前は?」
「ジョード」
「男は何人だ?」
「四人」
「女は?」
「二人」
「子供は?」
「二人」
「全部働けるのかね?」
「ええと――まあ大丈夫でしょうて」
「よし。六十三号の家へはいんな。賃金は一箱で五セントだ。きずものをつめないこと。よろしい、さあ、行くんだ。すぐ仕事にかかんな」
車は動いた。どの四角な赤い家の扉にも、番号がペンキで塗ってあった。「六十号か」トムが言った。「あれが六十号だから、この先にちげえねえ。ほら、六十一号、六十二号――やあ、これだ」
アルは自動車をその小さな家の扉の近くに停車させた。家族たちは荷物の上からおりてきて、とまどった様子で、あたりを見まわした。二人の保安官補が近づいてきた。そして一同の顔を、たんねんにながめた。
「名前は?」
「ジョード」トムが我慢しかねるような声で言った。「いったいどうしたんですかい?」
保安官補の一人が長い名簿をとりだした。「ここにゃのってないな。おまえたち、前にここへきたことはないだろうな? 許可証を見せろ。持ってないのか。大丈夫らしいな」
「いいかい、おまえたち、わしらは、ちっともめんどうなんか起したくないんだ。おまえたちは、ただ自分の仕事をやってればいい。そうすりゃ何のこともないんだ」
二人は不意に身をひるがえして歩き去った。埃《ほこり》っぽい道路のはずれで、彼らは二つの箱に腰をおろした。その位置から道路全体を見渡した。
トムは彼らを見つめた。「あいつども、おれたちを、ほんとにおとなしくさせるつもりでいやがるぜ」
母親は家のドアをあけてなかへ踏み入った。床には食用油がはねていた。一つの部屋に錆《さ》びかかったブリキのストーブがあった。そのほかは何もない。そのブリキのストーブは四つの煉瓦《れんが》石の上にのっていて、錆びたストーブ煙突が屋根へつき抜けていた。部屋は汗と食用油のにおいがした。『シャロンのバラ』は母親のそばに立った。「あたしたち、ここへ住むの?」
母親は一瞬、黙りこんだ。「もちろんだよ」と、やがて言った。「洗って掃除すれば、そんなにわるいとこでもないよ。雑巾《ぞうきん》をかければね」
「あたしはテントに住んだほうがいいわ」と娘は言った。
「ここには床があるだ」母親が言った。「雨が降ってももらないしね」彼女は戸口に向って言った。「荷をおろすとするかね」
男たちは黙ってトラックから荷をおろした。さっきから、ある恐れが彼らの上に落ちかかっていた。四角い箱小屋の集落は、ひっそりしていた。一人の女が道路を歩いて行った。しかし彼女は、彼らのほうを見ようともしなかった。首をたれ、よごれたギンガムの服は裾《すそ》のほうが裂けてすり切れていた。
その気分はルーシーとウィンフィールドにも落ちかかっていた。彼らは、あたりを見に行こうと駆けだしたりもせず、トラックのかたわらで家族たちのそばにくっついていた。そして、さびしそうに、埃っぽい道路を、あちこちながめた。ウィンフィールドは荷づくり用の針金の切れ端を見つけ、それを幾度も上下にまげて、とうとう折ってしまった。そして、その短いほうの針金を鍵《かぎ》の形にまげて手のなかでぐるぐるまわした。
トムと父親が家のなかへマットを運んでいるとき、事務員があらわれた。カーキ色のズボンと青いシャツ、そして黒いネクタイをしていた。銀縁の眼鏡をかけていて、両眼は、厚いレンズごしに、弱々しく赤く見えた。睫毛《まつげ》は子牛のそれのように動かなかった。彼は、体を乗りだしてトムを見た。
「帳簿に記載しなければならないんだが」と彼は言った。「何人働きに出られるんだね?」
トムが言った。「男が四人でさ。仕事はつらいかね?」
「桃を摘む仕事だ」と事務員は言った。「請負仕事だよ。一箱で五セントだ」
「小さな連中が働いてはいけねえってことはねえんだろうね?」
「もちろんないとも。乱暴にやりさえしなけりゃね」
母親が戸口に立った。「うちのなかが落ちついたら、あたしも、すぐに手助けするだよ。あたしたち、なんにも食べるものがないんだけれど、いますぐ賃金を払ってもらえるだかね?」
「そりゃ、できないな。賃金の前払いはしないんだ。しかし、あの店で前借りできるよ、働いて稼《かせ》ぐだけの分はな」
「さあ、急いだ」トムが言った。「今夜は肉とパンがすこしほしいだ。どこで働くだね?」
「おれもこれから行くところだ。あとからついてきな」
トムと父親とアルとジョン伯父は、事務員とともに、埃っぽい道を歩いて行き、果樹園の桃の木のあいだへはいって行った。細い葉が黄色になりかかっていた。桃は金と赤の豊かな玉になって枝についていた。木々のあいだに空箱《あきばこ》が重ねてあった。摘み手が、あちこちと動き、手にしたバケツのなかへ、枝から摘みとった桃を入れたり、その桃を箱につめたり、箱を検査場へ運んだりしていた――そして、その検査場、つめられた箱の山がトラックを待っているところでは、別の事務員が摘み手の名前をひきあわせるために待っていた。
「また四人きたよ」案内した男が事務員に言った。
「よしきた。前に摘んだことがあるかい?」
「一度もねえだ」トムが言った。
「じゃ、気をつけて摘みなよ。きずものはだめだよ。風で落ちたのもだめだ。とった桃にきずをつけたら、それも勘定に入れないよ。あそこにバケツがある」
トムは三ガロン入りのバケツをとりあげてながめた。「底が穴だらけだぜ」
「そうさ」と近眼の事務員が言った。「そうしとけば誰《だれ》にも盗まれないからね。さあ、よし――場所は、このあたりだ。さあ、かかってくれ」
ジョード家の四人のものは、バケツを持って果樹園にはいった。「やつらは時間をむだにしねえだな」とトムが言った。
「まったくひでえや」とアルが言った。「おれはガレージで働いたほうがよさそうだて」
父親は、それまでおとなしく畑までついてきていたのだが、しかしいま彼は、だしぬけにアルのほうに向き直った。「いい加減にやめねえか」と彼は言った。「勝手な熱をあげたり文句を言ったり鼻を鳴らしたりばかりしくさって。おめえも働かにゃならねえだ。まだそんなにえらくなったわけでもねえだて、わしらは、おめえの言いなりにばかりなっちゃいられねえだ」
アルの顔は怒りで赤くなった。彼は、わめきだそうとした。
トムが彼のそばに近づいた。「よせよ、アル」と彼は静かに言った。「パンと肉だ。おれたちはなんとかやっていかなくちゃならねえだ」
彼らは果実に手を伸ばしてバケツへ落しこんだ。トムは急いで自分の仕事にとりかかった。バケツ一ぱい、二はい。そして、それらを箱につめた。三ばいめ。箱が一ぱいになった。
「これでやっと五セント分摘んだだぞ」彼は箱をもちあげ急いで検査場へ歩いて行った。「さあ、これで五セント分だ」と彼は検査員に言った。
検査員は箱のなかを見やった。一つ二つ桃を引っくりかえした。「そっちへおいときな。こいつはだめだ」と彼は言った。「傷をつけるなって言ったじゃないか。バケツから箱へ投げこんだろう、え? ほら、どの桃も、みんな傷がついてる。一つも通らないよ。そっと入れなよ。さもないと一文にもならんぜ」
「ひでえもんだ――くそっ――」
「そう怒るな。やる前に注意しといたじゃないか」
トムの目は落胆の色を見せて下を向いた。「いいよ」と彼は言った。「いいさ」彼は急いでみんなのほうに戻《もど》った。
「おまえもぶちまけたらしいだな」と彼はアルに言った。「おれの入れ方と同じだて。それじゃ受けとってくれねえぜ」
「ちえっ、じゃ、どうすりゃいいんだ」とアルが言いはじめた。
「気長に摘むだよ。バケツのなかへぶちまけちゃだめなんだ。そっと入れなくちゃね」
彼らは、やり直した。こんどは果実をそっと扱った。箱は、なかなかいっぱいにならなかった。「こいつは考えなくちゃいけねえだな」とトムが言った。「もしルーシーとウィンフィールドとローザシャーンが、箱に入れるほうをやってくれたら、みんなで手わけしてやれることになるだ」彼は、つめ終った箱を検査場へ持って行った。「これで五セントになるだかね?」
検査員はそれを調べ、二、三段下まで掘りかえしてみた。「これならいい」と彼は言った。そして、その箱を帳簿につけた。
「のんびりやんなよ」
トムは急いで戻った。「五セント手に入れたぜ」と彼は呼びかけた。「おれは五セント稼いだだよ。だけど、こいつを二十回やらねえと一ドルにゃならねえだな」
彼らは休まず午後いっぱい働いた。ルーシーとウィンフィールドが、あとになってやってきた。「おめえたちも働かなくちゃならねえだよ」と父親が二人に言いきかせた。「箱に桃を丁寧に入れるだ。さあ、これだ。一どきに一つずつだぜ」
子供たちは、しゃがみこんで、父親のおいたバケツから桃をとりあげた。その横には一並びのバケツが彼らのために並んでいた。トムは、いっぱいになった箱を、いくつか検査場へ運んで行った。「これで七つ」と彼は言った。「これで八つ。四十セント稼いだだ。四十セントありゃ、すてきな夕食ができるだ」
午後はすぎた。ルーシーは逃げだそうとした。「あたし、疲れたわ」と彼女は鼻を鳴らした。「一休みしなくちゃ」
「そこにちゃんといなきゃいけねえだ」父親が言った。
ジョン伯父は、ゆっくりと摘んだ。トムが二箱やるあいだに一箱だった。彼の調子は変らなかった。
午後も半ばをすぎたころ、母親がやってきた。「もっと早くきたかったんだけどね、ローザシャーンが気分がわるくなったもんだから」と彼女は言った。「ちょっと気が遠くなっただけだけどね」
「おまえたち、桃を食べたね?」と彼女は子供たちに言った。「お腹《なか》がわるくなるよ」母親のずんぐりした体は敏捷《びんしょう》に動いた。彼女は、すぐにバケツを捨ててしまって、エプロンに摘み入れた。太陽が沈んだころ、彼らは二十箱摘み終えていた。
トムは二十番目の箱を検査場におろした。「一ドル」と彼は言った。「いつまで働くんですかね?」
「暗くなるまでさ。目が見えるうちは働くんだ」
「じゃ、これで前借りできるだね? おっ母がさきに帰って食べるものを買わなくちゃならねえだ」
「いいとも。一ドル分の伝票を渡そう」彼は紙片に書きこんでトムに渡した。
彼はそれを母親のところへ持って行った。「さあ、これで一ドル分だけのものが、あの店から買えるだよ」
母親はバケツを下におろして肩を伸ばした。「くたびれるね、はじめてだと」
「そうさ。でも、すぐになれるだよ。早いとこ行って食糧を買ってくれよ」
母親は言った。「おまえ、何が食べたいんだね?」
「肉さ」とトムは言った。「肉とパンと、砂糖のはいったコーヒーをたっぷり一杯。でっかい肉切れが食いてえだ」
ルーシーが泣き声をあげた。「おっ母さん、くたびれちゃったわ」
「それじゃ、家にお帰り」
「この連中は、やりはじめたときからくたびれてるだよ」と父親が言った。「まるで野兎《のうさぎ》みてえに手に負えなくなってきよった。ときどきしかりつけてやらんことにゃ、いまに手がつけられなくなるだぜ」
「落ちついたら、この子たちを学校へ行かせるだよ」母親が言った。そして落ちついた様子で歩み去った。ルーシーとウィンフィールドは、すこし小さくなって、そのあとからついて行った。
「おれたち、毎日働かなくちゃならないの?」ウィンフィールドがたずねた。
母親は立ちどまって子供たちを待った。そして、ウィンフィールドの手をとり、手をつなげたまま歩いた。「それほどつらい仕事じゃないじゃないか」母親は言った。「いい子になんなよ。おまえは家《うち》を助けてるんだからね。もし家じゅうのものが働けたら、あたしたちは、すぐに気持のいい家に住めるようになるんだよ。だから手助けをしなくちゃね」
「でも、おいら、とてもくたびれちゃった」
「そうだろうとも。あたしだって疲れたよ。誰もみんなくたびれてるんだよ。何か、ほかのことを考えよう。おまえが学校に行くときのことでも考えてごらん」
「おいら、学校へなんか行きたくねえや。ルーシーも行きたくないって言ってるよ。あの子供たちね、学校へ行くやつらさ、おいら知ってんだ。あいつら、おれたちのことをオーキーって呼ぶんだ。おいら知ってるんだ。おいら行きたくねえ」
母親は哀れむように彼の黄色い髪を見おろした。
「いまはわがままを言って困らせないでおくれね」と彼女はなだめた。「あたしたちが、ちゃんと落ちついたら、いくらやんちゃを言ってもいいから。でも、いまは困るよ。いろんな心配ごとがたくさんあるだからね」
「あたし、桃を六つ食べたわ」とルーシーが言った。
「それじゃ、おまえ、お腹をこわすよ。あの家は近くにトイレがないから困るよ」
会社の食料品店は、波形鉄板をつなぎ合せて建てた小さな仮小屋だった。どこにも窓はなかった。母親は網戸を押してなかへはいった。小柄《こがら》な男がカウンターの向うに立っていた。つるつるに禿《は》げていて、顔全体が青白かった。大きな褐色《かっしょく》の眉毛《まゆげ》が目の上にアーチ型を描いているが、その顔は、いつもびっくりしたような、ぎくりとしたような表情を見せていた。鼻は長くて薄く、そして鳥のくちばしのように彎曲《わんきょく》していた。鼻孔には明るい色の毛がいっぱい生えていた。青シャツの袖《そで》の上に黒いサテンの袖カバーをはめていた。母親がはいって行ったとき彼はカウンターに両肘《りょうひじ》をついていた。
「こんにちは」彼女が言った。
彼は興味深げに彼女をながめた。目の上のアーチ型が、ますます高くなった。「やあ」
「一ドルの伝票をもってきたんですけど」
「そんなら一ドル分だけ買えるよ」彼は言った。そして甲高《かんだか》い声ですこし笑った。「そうだともさ、一ドル分だよ。一ドル分ね」彼は台の上で手を動かした。「どれでも」彼は袖カバーをちょいと引きあげた。
「肉を買いたいと思うんですが」
「どんな種類のものでもあるぜ」と彼は言った。「ハンバーグ――ひき肉はどうだね? 一ポンド二十セントだよ、ハンバーグ用のひき肉はね」
「それじゃ高すぎやしないかね? たしかこの前買ったときは十五セントだったと思うけど」
「いえね」と彼はすこし笑った。「さよう、たしかに高い。だが、高くもないね。おまえさんが二ポンドのひき肉を買いに町へ行くとすると、それでガソリン一ガロンは使っちまうだろう。だから、それを考えれば本当は高くないんだよ。ここなら一滴もガソリン使わなくてもいいんだからね」
母親はつめよった。「おまえさんだって、ガソリンなんか使わずに仕入れてるんじゃないか」
彼は愉快げに笑った。「おまえさんは物事を裏返しに見てるようだ」と彼は言った。「こっちは買うほうではなくて、売る側なんだよ。もしこっちが買い手なら、そりゃ、ちっとばかり話がちがってくるがね」
母親は二本の指を口にあて、顔をしかめて考えた。「それはほとんど脂身《あぶらみ》と骨ばかりみたいだね」
「この肉で、うまいご馳走《ちそう》ができるかどうか、そいつはわしにゃ請け合えないよ」と店主は言った。「それをわしも食うかどうかとなると請け合えないね。もっともここにゃ、わしの食べたくないものがたくさんあるがね」
母親は、ちょっとのあいだ、きつい目で彼を見ていた。彼女は自分の声の調子を押えた。「ほかに、もっと安い肉はないのかね?」
「スープ用の骨があるよ」と彼は言った。「一ポンド十セントだ」
「でも、骨だけだろう?」
「骨だけさ」と彼は言った。「いいスープができるぜ。骨だけだがね」
「シチューにする肉はあるの?」
「あるとも! 一ポンド二十五セントだ」
「それじゃ、どうやら肉は買えそうもないよ」母親は言った。「でも、みんな肉をほしがってるんでね。肉を食べたいって言ってるんでね」
「だれだって肉はほしいよ――肉は必要さ。あのハンバーグ用のひき肉は、なかなかいい肉だぜ。脂が出るから肉汁に使えるしね。とてもうまいぜ。何のむだもないわけだ。骨を捨てる必要もないしね」
「その――脇肉は、いくら?」
「いやはや、おまえさん、極上物にとっかかったもんだ。これはクリスマス用だぜ。感謝祭用さ。一ポンドが三十五セントだがね。七面鳥のほうが、これより安く売ってあげられるよ。もし七面鳥があればの話だがね」
母親は溜息《ためいき》をついた。「ハンバーグ用のひき肉を二ポンドおくれ」
「はいよ、おかみさん」彼は蝋紙《ろうがみ》の上に色のあせた肉をすくいあげた。「それから、ほかに何か?」
「それと、パンをすこしばかり」
「ここにあるよ。この見事な大きなのが十五セントだ」
「それは十二セントのパンじゃないか」
「そうだよ。町まで飛んで行って買えば十二セントさ。ガソリン一ガロン使ってね。ほかには、何が入用かね? 馬鈴薯《じゃがいも》かい?」
「そう、馬鈴薯」
「これは五ポンドで二十五セントだ」
母親は彼のほうへにじりよった。「ずいぶん言いたいほうだいのことをいうじゃないか。あたしは、それが町でいくらしてるか知ってるんだよ」
小柄な男は口をきつく結んだ。「そんなら町へ行って買ってきなよ」
母親は自分の指の関節を見つめた。「この店は、どういうことになってるの?」彼女は、おだやかにきいた。「おまえさんが、この店をもってるのかい?」
「いんや、わしはただ、ここで働いてるだけさ」
「それじゃ、おまえさんが、からかい半分のことばかりいうことはないじゃないか。そんなことをして、何のたしになるんだい?」彼女は自分の光った皺《しわ》だらけの両手をながめた。小男は黙っていた。「この店は誰がもってるの?」
「フーパー農場会社だよ、おかみさん」
「会社が、値段をきめるだね?」
「そうだよ、おかみさん」
彼女は目をあげた。すこし微笑していた。「それで、ここにはいってくる人は、誰もかれも、あたしみたいにしゃべったり腹をたてたりするんだね?」
彼は、ちょっとためらった。「ええ、まあそうだよ、おかみさん」
「それだもんだから、おまえさんはからかうんだね?」
「どういう意味だね?」
「こうした卑《いや》しいことをやってて自分が恥ずかしいからさ。そうだろう? だから、えらぶって、からかってみたりするんだろう?」彼女の声はやわらかかった。店主は、とまどった顔で、彼女を見まもった。返事をしなかった。「そういうわけなんだね?」と母親は、しまいに言った。「肉が四十セントにパンが十五セント、馬鈴薯が二十五セント、それで八十セントだね。コーヒーは?」
「いちばん安いのが二十セントだよ、おかみさん」
「じゃ、それで一ドルだね。家じゅう七人が働いて、それが一度の夕食代だ」彼女は自分の手をながめた。「さあ、包んでおくれ」彼女は急いで言った。
「はいよ、おかみさん」と彼は言った。「ありがとさん」彼は馬鈴薯を袋に入れて、袋の口をたんねんに折ってしめた。彼の目が、ちらと母親を見た。それから、ふたたび自分の仕事にかくれた。彼女は彼を見まもった。そして、すこし微笑した。
「おまえさんは、どうしてこんな仕事をしてるの?」と彼女はたずねた。
「わしだって食わなくちゃなんねえからね」と彼は弁解をはじめた。だが、すぐに挑《いど》むような口調になった。「人間だれだって食う権利をもってるんだ」
「どんな人間が?」と母親は問い返した。
彼は包みを四つカウンターにおいた。「肉」と彼は言った。「馬鈴薯とパン、コーヒー、これで一ドルきっちりだ」彼女は伝票を彼に渡し、彼が帳簿に名前と金額を記入するのを見まもった。「さあ」と彼は言った。「これですっかり差引きなしだ」
母親は包みをとりあげた。「おや」と彼女は言った。「コーヒーにいれる砂糖がなかったっけ。息子のトムは砂糖をほしがってんだよ。そうだ!」彼女は言った。「ねえ、おまえさん、うちの連中は、あすこで働いてるんだよ。だから、すこし砂糖をわけておくれな。伝票はあとで持ってくるからさ」
小男は目をそらした――できるだけ母親の視線と合わぬほうへ目をそむけた。「それはできないんだよ」彼は低い声で言った。「規則なんでね。わしにゃ、できないんだ。もしやると厄介なことになるんだ。わしはくびになっちまうんだよ」
「だけど、うちの連中は、あそこの畑で、いま働いてるんだよ。十セントよりも、もっと稼いでるんだよ。だから十セント分の砂糖をわけておくれよ。トム――うちの息子が、コーヒーに砂糖をほしがるんでね。いつもそのことを言ってるんだよ」
「わしにゃできないよ、おかみさん。規則なんでね。伝票なしの貸売りは厳禁、支配人が、いつも口ぐせに言ってるんだよ。できねえな。とてもできないよ。よくねだられるんだがね。連中は、いつも、だれかにねだるんだ。わしはできないよ」
「十セント分でも?」
「いくらすこしでも、おかみさん」彼は頼むように母親を見やった。それから彼の顔は怖《お》じた色を引っこめた。彼は十セントをポケットからとりだすと、それをレジスターのなかへ音高く落しこんだ。「さあ、よし」と彼は、ほっとしたような声で言った。そしてカウンターの下から小袋を引きだし、ぷっと口で吹いてその口をあけて、なかに、いくらかの砂糖を流しこんだ。それを計量器にかけ、もうすこし余計に加えた。
「さあ、おかみさん」と彼は言った。「かまわないよ。おまえさんが伝票をもってきたら、そんとき、いまの十セントを返してもらうからね」
母親は、じっと彼を見つめた。彼女の手は、探るように砂糖の袋をとって、自分の腕にある包みの山に加えた。「ありがとう」彼女は静かに言った。戸口へ歩いて行き、ドアに手をかけたとき彼女はふりかえった。「あたしはいいことを一つ教えられただよ」と彼女は言った。「毎日教えられてるだ。もしおまえさんが困ったり、心が傷ついたり、助けが入り用だったりしたときには――貧乏な人たちのところへ行きなさるがいいだよ。助けてくれるのは、あの人たちだけだからね――ほんとにあの人たちだけだよ」網戸が彼女の背後でばたんとしまった。
小柄な男は、カウンターに両肘をついて、例のびっくりしたような目で、彼女の姿を見送った。ふとったぶち猫《ねこ》がカウンターの上に飛びあがり、大儀そうに、そっと彼のほうに近よった。猫は男の腕に横腹をこすりつけた。彼は手を伸ばして猫を頬《ほお》に引きよせた。猫は、ごろごろと気持よげに咽喉《のど》を鳴らした。尾の先が前後にぴょこぴょこ動いた。
夕暮れが深まるころ、トムとアルと父親とジョン伯父は果樹園から歩いて戻ってきた。彼らの足どりは、すこしばかり重かった。
「ただ手を伸ばして摘むだけのことなら、さして疲れるほどのこともねえだろうが」と父親が言った。
「二、三日すりゃ、なんともなくなるだろうて」トムが言った。「なあ、お父っさん、食事をすましたら、おれは出てって、門の外のあの騒ぎが何だか見てくるだよ。どうも気にかかるだ。いっしょにくるかい?」
「いんや」父親が言った。「わしは、当分のあいだ、ただ働くだけで、何にも考えねえことにするだよ。わしときたら、ここずっと長いこと、えらく頭を使ってばかりきただでな。行かねえよ。わしは、しばらく坐っててから寝ることにするだ」
「アル、おまえは、どうだい?」
アルは目をそらした。「おれは、この近所でも見てまわるかな。まず――」
「それではと、ジョン伯父がこないのはわかってるから、おれは、一人で行ってみよう。おれはどうも気になって仕方がねえだ」
父親が言った。「わしなら、そんなことをする前に、もっと気がかりなことを考えるだな――あの、あそこにいた警官たちのことをな」
「たぶん、夜になれば、やつらだって、あそこにゃいねえだろう」とトムが言った。
「まあ、わしは見に行くのはよそう。それから、おめえが行くとき、おっ母には何しに行くか言わねえほうがいいぞ。おっ母は心配してやきもきするだろうからな」
トムはアルのほうをふりかえった。「おめえは気にかからねえだか?」
「おれは、このキャンプのあたりをぶらついてみようと思ってるだ」とアルは言った。
「女の子をさがしにか?」
「それはおれの勝手さ」アルは、とがった口調で言った。
「おれはやっぱり行ってみるよ」とトムは言った。
彼らは果樹園を出て、赤い小屋の並んでいる、埃《ほこり》っぽい通りへはいった。石油ランプの暗い黄色い光が、いくつかの家の戸口から流れていた。そして内部では、薄暗がりのなかに、人々の黒い姿が動いていた。通りの端に、一人の警備員が、じっと腰をおろしていた。猟銃を膝《ひざ》にのせていた。
警備員の前を通るとき、トムは足をとめた。「体を洗える場所はあるだかね?」
警備員は夕暮れの光のなかで彼をながめまわした。しまいに彼は言った。「あの水槽《タンク》が見えるだろう?」
「うん」
「あそこにホースがあるよ」
「湯はあるんですかい?」
「おい、おまえは自分を誰だと思ってるんだ。J・P・モーガンだとでも思ってるのか?」
「いんや」トムが言った。「もちろんそうじゃねえさ。じゃ、ごめんよ」
警備員は、軽蔑《けいべつ》した口つきでつぶやいた。「湯だなんて言いやがる。とんでもねえや。その次は風呂桶《ふろおけ》がほしいとくるだろう」彼はジョード家の連中のうしろ姿をにらみつけた。
別の警備員が、端の家をまわって、そこへやってきた。
「なんだい、マック?」
「いや、あのオーキーどもさ。『湯はあるのか?』なんて言いやがるんだ」
二番目の警備員は猟銃の台尻《だいじり》を地面におろした。「そいつはあの国営キャンプのせいだよ」と彼は言った。「きっとあの連中も国営キャンプにいたんだろう。あのキャンプをぶっつぶさねえかぎり、おれたちも落ちついていられねえぜ。あの連中は、いまにきっと清潔な敷布をほしがるにちげえねえ」
マックが言った。「表門のほうの様子はどうだい――何かきいたかい?」
「うん、やつら、外で一日じゅうわめいてたがね、州警察が、なんとかしずめたよ。あの生意気なやつらを、こっぴどい目にあわせることになってるんだ。おれは、一人、ひょろ長くやせた野郎がアジ演説ぶってるのをきいたよ。そいつを今夜とっつかまえるそうだ。そうすりゃ、やつらも、ばらばらになっちまうさ」
「あんまり楽に片づくと、おれたちの仕事がなくなっちまうぜ」マックが言った。
「大丈夫、おれたちの仕事は、いくらでもあるよ。あのオーキー野郎ども! あいつどもは、いつまでも見張ってなくちゃならねえもの。なあに、すこしおさまったら、またこっちで、ちょっとことを荒だててやりゃあいいんさ」
「ここの賃金を切り下げりゃ、また騒ぎになるだろうて」
「そうともよ。安心しな、仕事にあぶれる心配はねえさ――フーパーのおやじが、ひでえ扱いをやめねえかぎりはな」
ジョード家では火が燃えていた。ハンバーグのかたまりが油のなかではねたりじゅっじゅっと音を立てたりし、馬鈴薯《じゃがいも》がぶつぶつ煮えていた。家じゅうが煙だらけで、黄色い灯火の光が壁の上に人々の黒い影を投げていた。母親が忙しく火のまわりで動いているあいだ、『シャロンのバラ』は箱に腰かけて重たいお腹を休めていた。
「すこしはよくなったかい?」母親が言った。
「料理のにおいがたまらないわ。あたし、お腹がすいてるのよ」
「立って行ってドアのところにでも坐っといで」母親が言った。「その箱はこわしちまわなきゃならないんだから」
男たちが、どやどやとはいってきた。「肉だ」とトムが言った。「それにコーヒーもある。いい匂《にお》いだ。ああ腹がへった。うんと桃をくったけんど、さっぱり腹の足しにゃならねえだ。おっ母、どこで手を洗うだね?」
「あの水槽のところまで行っておくれ。あすこの下で洗うだよ。いまルーシーとウィンフィールドを洗いにやったところさ」男たちは、ふたたび出て行った。
「さあ、立ちな、ローザシャーン」と母親が命じた。「ドアのところか、ベッドか、どちらかにかけておくれ。その箱はこわさなくちゃならねえだからね」
娘は両手で体をささえて立ちあがった。苦しげにマットの一つに歩いて行って、その上に腰をおろした。ルーシーとウィンフィールドが、そっとはいってきた。黙って壁沿いにはいってきたのは、目だたずにいようという魂胆だった。
母親は彼らのほうを見た。「どうやらおまえたちは、部屋があまり明るくないんで得をしたようだね」と彼女は言った。そして、ウィンフィールドのほうに手を伸ばして髪の毛にさわった。「おや、それでも濡《ぬ》れてはいるね。でも、あまりよく洗ってないようだね」
「石鹸《せっけん》がなかったんだよ」ウィンフィールドが不満げに言った。
「そのとおりさ。石鹸は買えなかったんだよ。きょうはね。たぶんあすは買えるだろう」彼女はストーブのところに戻《もど》った。皿《さら》を並べて夕食をとりわけはじめた。一人あて肉のかたまりが二つと大きな馬鈴薯が一つと、どの皿にもパンを三きれずつおいた。肉をフライパンからすっかりとり出すと、彼女は、どの皿にも肉汁をすこしずつかけた。男たちが、ふたたびはいってきた。彼らの顔には水がしたたり、髪は水でかがやいていた。
「さあ、とっかかろうぜ」とトムが叫んだ。
彼らは皿を引きよせた。黙って威勢よく食い、パン切れで肉汁をふきとった。子供たちは部屋のすみに引っこみ、皿を床におき、食べものの前に小さな動物のようにひざまずいた。
トムは最後のパンを飲みこんだ。「もっとあるのかい、おっ母?」
「いんや」と彼女は言った。「それだけだよ。おまえは一ドルあたしにくれただろう。これだけが一ドル分なんだよ」
「これだけかい?」
「あの店は特別の割増し値段なんだよ。あたしたち、なんとか町へ出て買い物するようにしなくちゃいけないね」
「おれは腹がいっぱいにならねえだ」とトムが言った。
「まあ、あすは、おまえさんがたも朝から働けるだからね。あすの晩は――たくさん食べられるだよ」
アルは口を袖でぬぐった。「さてと、このあたりを一まわりしてくるかな」と彼は言った。
「待てよ、おれもいっしょに行くから」トムは、弟のあとについて外へ出た。闇《やみ》のなかでトムは弟のそばに身をよせた。「ほんとうにおめえは、おれといっしょにきたくねえのか?」
「そうさ。おれは、さっきも言ったけど、このへんを見てまわりてえんだ」
「そうか」とトムは言った。身を返して通りを歩いて行った。家々からの煙が低く地面にただよっていた。そして灯火が戸口や窓の影を通りに投げていた。戸口の踏段には人々がしゃがんで外の闇を見ていた。彼らの目が通りを歩いて行くトムを追うとき、彼らの頭もまたそれにつれて動くのをトムは見ることができた。埃っぽい道路が通りの端から刈株だらけの畑のあいだにつづいていた。そして、まるく積み重ねた干し草の山が、星の光に黒く見えていた。細く欠けた月が西の空に低くかかっていた。そして長い薄白い銀河が頭上にくっきりと流れていた。トムの足音は、埃の道路に――黄色い刈株のあいだにつづく黒い地帯に、やわらかくひびいた。彼はポケットに手をつっこみ表門のほうへと歩いて行った。トムは潅漑《かんがい》水路の水が草々にささやく声をきくことができた。彼は土手に這《は》いあがって暗い水を見おろした。そして星々が水に映って光るのを見た。前方に国道があった。走りすぎる自動車のヘッドライトが、その場所を示していた。トムは、ふたたびその方角に歩きだした。高い針金づくりの門が星明りのなかに見えた。
人影が道ばたで動いた。声がきこえた。「おい、――誰《だれ》だ?」
トムは足をとめて、じっと立った。「おまえさんは誰だい?」
男は立ちあがって近よってきた。トムはその男の手に鉄砲を見ることができた。すると懐中電灯の光が彼の顔の上にあたった。「どこへ行こうってんだ?」
「その、ちょっと散歩しようと思ってね。散歩をしちゃいけねえと法律で禁じられてでもいるのかい?」
「どこか別のほうを散歩したほうがいいぜ」
トムがたずねた。「ここから外へ出ることもできねえのかね?」
「今夜はできないな。もとのほうへ戻るか、それとも呼子を吹いて仲間を呼んでおまえをつかまえさせようか?」
「よせやい」とトムが言った。「おれは、何のかかわりもねえだ。もし騒ぎが起るとしたって、おれはそんなことにゃ、ちっとも関係はねえだ。もちろん引きかえすだよ、だんな」
黒い姿は身がまえをくずした。懐中電灯の光は消えた。「いいかい、これはおまえ自身のためなんだぞ。あのピケの気ちがい野郎どもが、うっかりすると、おまえを引っぱりこんじまうからな」
「ピケって何だい?」
「あの赤の野郎どもさ」
「そうか」とトムは言った。「あの連中のことだとは気がつかなかっただ」
「ここへはいってきたとき、やつらを見ただろう?」
「そういえば、一かたまりになった連中を見たっけ。だけど、警官もまた、うんといたでな。おれは衝突事故でもあったのかと思っただよ」
「さあ、もとへ戻ったほうがいいぜ」
「そうするだよ、だんな」彼は身を返して、もときたほうへ戻りはじめた。道路を静かに百ヤードばかり歩いた。それから立ちどまって耳をすました。ふるえるような洗熊《あらいぐま》の叫び声が潅漑水路の近くできこえた。そして、ずっと遠くで、つながれた犬の腹だたしげな吠《ほ》え声がした。トムは道ばたに腰をおろして耳をすました。夜鷹《よたか》の高いやわらかな笑い声、そして刈株のあいだでは這い歩く動物たちの忍びやかな動きがきこえた。彼は道路の左右の地平線を、黒い道の両端を、じっと見すえた。何一つそこには動くものはなかった。いま彼は立ちあがって、ゆっくりと道路の右手、刈株の畑のなかへ踏みこんだ。そして、まるく積み重ねた、わらの山よりも低く、できるだけ身をかがめて歩いた。ゆっくりと歩き、ときたま立ちどまっては耳をすました。とうとう針金の柵《さく》のそばまできた。頑丈《がんじょう》な有刺鉄線を五段ならべた柵だ。そのそばに彼は仰向けに寝て、頭をいちばん下段の鉄線の下にくぐらせた。そして、針金を両手で上に押しあげ、足で地面をけって、身をずり動かした。
立ちあがろうとすると、一団の男たちが、自動車道路の端を歩いてきた。トムは彼らがずっと先のほうへ行くまで待ち、それから立ちあがって、そのあとについて行った。道路の両側にテントはないかと目をくばった。幾台かの自動車が走りすぎた。一筋の川が畑を横ぎって流れていた。自動車道路は小さなコンクリートの橋で川を越えていた。トムは橋の手すり越しにのぞきこんだ。深い川底にテントが一つ見えた。なかに灯火が燃えていた。彼は、それをしばらく見まもっていた。張ったテントの壁に人影が映っているのが見えた。彼は柵を乗りこえて、川底へと、藪《やぶ》や小さな柳のなかを降りて行った。川底につくと、小さな流れのそばに小道を見いだした。一人の男がテントの前の箱に坐っていた。
「今晩は」とトムは言った。
「誰だい?」
「その――おれは、ただ、その――ただ、ちょっとここを通りかかったもんだから」
「ここに知合いでもいるのか?」
「いんや。ほんとのところ、おれはただちょっと通りかかっただけなんだ」
頭が一つテントからつき出た。声がした。「何が起きたのかね?」
「ケーシー!」とトムが叫んだ。「ケーシーこりゃ驚いた! いったいここで何をしてるだ?」
「やあ、こりゃトム・ジョードだて! さあ、はいんな、トミー、さあ、はいんなよ」
「知ってるのかね?」入口にいた男がたずねた。
「知ってるかって? 大知りさ。昔っからの知合いさ。わしといっしょに西部へきた男だよ。さあ、はいんな、トム」彼はトムの肘《ひじ》をつかみ、テントのなかへ引き入れた。
三人の男が地面に坐っていた。そしてテントの中央には灯火が燃えていた。男たちは疑わしげに目をあげた。暗い顔つきの、しかめっ面《つら》をした男が手をさしだした。「やあ」と彼は言った。「ケーシーから、おまえさんのことはきいてただよ。これが、おまえさんのよく話してた人かい?」
「そうさ。これがその当人だよ。まったく驚いただな! おまえさんとこの家族は、どこにいるだ? おまえさんは、ここで、何してるだ?」
「それがさ」とトムが言った。「ここに仕事の口があるときいたもんで、それでやってきたわけさ。すると州の警官が五、六人待ってて、おれたちを、この農場にぶちこんじまっただ。だから、おれたちは、そこで午後いっぱい桃を摘んだってわけよ。ところで、おれは農場へはいるとき、大勢の人たちが、何かどなってるのを見ただ。だけど、誰も、そのわけを話してくれねえだ。それで、何が起きたのかと出てきたわけだよ。どうしておまえさんはここへきたんだい、ケーシー?」
説教師は前に身を傾けた。黄色い灯の光が彼の高い青白い額に落ちた。「監獄って妙なところさ」と彼は言った。「わしは、キリストのように野っ原へ出て、何かを見つけ出そうとしてきた男だ。ときにゃ、もうすこしで、その何かがわかりかけたこともあるだ。ところが、監獄へ行ったら、たちまち本当のことがわかっちまっただよ」彼の目は鋭く愉快げだった。「えらく大きな古い監房だった。それに、いつでも満員でな。新しい男がはいってくる。すると幾人かが出て行く。もちろんわしは、その連中の誰とも話しただよ」
「そりゃそうにちがいなかったろうて」とトムが言った。「おめえさんは、いつもしゃべってるだでな。もしおめえさんが絞首台にあがったら、おめえさんはきっと首を絞める役人と一日じゅうしゃべって暇をつぶすにちげえねえだ。まったく、おっそろしいしゃべり手だでな」
テントのなかの男たちは、くすくす笑った。皺《しわ》だらけの顔をした小柄《こがら》のしなびた男が膝《ひざ》をたたいて言った。「まったく、いつもしゃべってるだ」と彼は言った。「もっとも、みんなこの人の話をきくのが好きだけどね」
「昔は説教師だったんだ」トムが言った。「やつはそのことを話したかね?」
「もちろん話したよ」
ケーシーは、にっこり笑った。「それでだ」と彼は話をつづけた。「わしは、しだいにわかりはじめただよ。監房にいる人間のうち幾人かは酔いどれだった。だけど大部分は、何かを盗んで、そこへはいってきた連中だ。しかも、その盗んだ品物といえば、たいていは連中に必要なもので、それ以外では手に入れる方法のねえものだった。わかるかい?」と彼は反問した。
「いんや」トムが言った。
「つまり、連中はみんな、いい連中なんだよ。いいかね。やつらがわるくなった原因は、やつらが何か必要になったからなんだ。そこで、わしにもわかりかけてきただ。貧乏だってことが、すべてのめんどうや厄介《やっかい》ごとを起す原因だということがな。わしはこのことを、さんざん頭をしぼって考えだしたわけじゃねえ。ある日わしらは豆を食わされただが、こいつがすっぱくなってただ。一人の男がどなった。しかし何の反応もなかった。やつは、すっとんきょうな大声でどなった。模範囚《トラスティ》がやってきて、なかをのぞいてからに、そのまま行っちまっただ。すると、こんどは、ほかのやつが、わめきだした。さあ、それからは、みんなが、どなりだしただ。みんな同じ調子でね。嘘《うそ》でねえだよ。まるで監房がふくれあがって破裂しちまいそうだった。するとだ! 妙なことが起っただよ。やつらが駆けつけてきてからに、わしらに別の食べものをくれただ――わしらにくれただよ。わかるかね?」
「わからねえだな」トムが言った。
ケーシーは手に顎《あご》をのせた。「どうも、おめえさんにゃ説明できねえようだ」と彼は言った。「どうやらおめえさんは自分で見つけだすよりほかあるめえて。ところで、おめえさんの例の帽子は、どうしただね?」
「かぶらねえで出てきただよ」
「妹さんはどんなぐあいだね?」
「うん、やつは雌牛みてえにでっかくなっちまっただよ。きっと双生児《ふたご》を生むにちげえねえだ。腹の下に車をあてがいたくなるくれえさ。両手でこうやって持ちあげてるほどだもんな。ところで、ここで、何が起ってるのか、そいつをまだおれに話してねえだぜ」
しなびた男が言った。「おれたちはストライキをやったんだ。何が起ってるっていやあ、ストライキなんだ」
「そうかい。だけんど、一箱五セントは、たいした賃金じゃねえだが、なんとか食ってはいけるぜ」
「五セントだと?」しなびた男が叫んだ。「五セントだと? おまえたちには五セント払ってんのか?」
「そうだよ。おれたちはきょう一ドル半かせいだだ」
重苦しい沈黙がテントのなかに満ちた。ケーシーは入口のほうを、暗い夜を見つめた。「なあ、トム」と彼は、しまいに言った。「わしらはここで働こうと思ってやってきただ。やつらは五セント払うというとった。わしらの仲間が、うんと集まっただ。ところが、ここへ着いてみると、やつらは、二セント半しか払わねえと言いだした。これじゃ男一人でも満足にゃ食えねえだ。まして子供でもあった日にゃ――そこでわしらは、それじゃ仕事はやれねえと言っただよ。そしたら、やつらは、わしらを追いだしただ。そして、そこらじゅうの警官が出てきて、わしらを押えつけちまっただ。いま、やつらは、おめえさんらに五セント払ってるだが、やつらがこのストライキを破っちまったら――そんときでもなお五セント払うと思うだかね?」
「さあな」トムが言った。「いまは五セント払ってるだが」
「いいかい」ケーシーが言った。「わしらはここで、みんなでいっしょにキャンプしようとしただ。するとやつらは、わしらを豚みてえに追っぱらっただ。ちりぢりにしただ。みんなをたたきのめしただ。わしらを豚みてえに追っぱらっただ。やつらは、おめえさんたちを、やっぱり豚みてえにつれこんだ。わしらは、もう長くはもちこたえられねえだよ。なかにゃ二日も食ってねえものさえいるだでな。おめえさん、今夜は戻るかね?」
「そのつもりだて」トムが言った。
「それじゃ――なかにいる連中に、この事情を話してやってくれよ、トム、連中に話してくれ、そうやって働いてるのは、わしらを飢え死にさせることだし、自分たちも自殺するようなもんだってことをな。実際のところ、やつらがわしらを追っぱらっちまったら、また二セント半に切り下げるのは、火を見るよりはっきりしてるだからね」
「みんなに話してみよう」トムが言った「けんど、どうやって話したらいいだかな。あんなに大勢の男が鉄砲持ってるのは、はじめて見たぜ。やつらときたら、一人の人間とさえ話をさせるかどうかわからねえだ。それに、みんなあいさつもかわさねえだ。ただ頭をたれっぱなしにしててからに、こんちはも言わねえだ」
「なんとか話してみてくれ、トム。連中だって、わしらが追っぱらわれて行っちまったら、たちまち二セント半にされちまうだ。この二セント半というのが、どんな程度のもんか、わかるかい――これはな、一ドルとるのに一トンの桃を摘んで運ぶってことなんだぜ」彼は頭を落した。「いや――これじゃできねえだ。これじゃ自分の食うものを買うことができねえ。これで食ってくことはできねえだよ」
「なんとかみんなに話してみるだよ」
「おふくろさんは、どうしてるだ?」
「とても元気だ。あの国営キャンプが、えらく気に入ってたぜ。風呂場《ふろば》も湯もあってね」
「うん――話にゃきいただよ」
「あそこは、ほんとにいいところだった。もっとも仕事は見つからなかっただ。だもんで出てきちまったわけだけんど」
「そこへ行ってみてえもんだな」とケーシーが言った。「一度見てみてえもんだ。話によると、あそこにゃ警官は一人もいねえそうだな」
「みんな自分がお巡《まわ》りなんだ」
ケーシーは興奮して目をあげた。「それで、何か厄介ごとは起らねえのかね? 喧嘩《けんか》とか盗みとかのんだくれとか?」
「いんや」とトムが言った。
「それで、もし誰かがわるいことしたら――そしたらどうするだ? 連中は、どう処理するだ?」
「その人間をキャンプ地から追いだすのさ」
「だけど、そんなやつはたくさんいねえのか?」
「いやしねえよ」とトムが言った。「おれたちは、あそこに一月いただが、そのあいだに一人だけだった」
ケーシーの目は興奮にかがやいた。彼は他の男たちのほうを向いた。「わかっただろうが?」と彼は言った。「わしが前に言ったとおりだて。警官ってものは、めんどうをふせぐよりも起すほうが多いだ。おい、トム、あの果樹園のなかにいる連中に、ストライキをやるように話してみてくれねえか。この二日ぐらいのあいだなら成功するだ。桃が、ちょうど熟してるときだでな。話してみてくれや」
「みんな動くめえな」とトムが言った。「連中はいま五セントとってるだ。それで満足して、ほかのことは何にも見向きもしねえだろうて」
「だけど、もしこのストライキがなかったら、連中だって五セントとれやしなかったんだぜ」
「どうもおれにゃ、みんなが承知するとは思えねえだな。連中は五セント稼《かせ》いでるだ。それだけしか、みんなは考えてやしねえだからね」
「まあ、とにかく話してみてくれ」
「まあ第一にお父っさんがだめだろうて」とトムが言った。「おれは、うちのおやじを知ってるだが、そんなことは、自分の口出しすることじゃねえっていうにきまってるだよ」
「そうよな」とケーシーは、わびしげに言った。「まあ、そうだろうな。ほんとうにわかるにゃ一度はこっぴどくぶったたかれなくちゃならねえのさ」
「おれたちは食べるものを切らしちまっただ」とトムは言った。「それが今夜は、みんな肉を食っただ。うんとじゃねえけんど、ともかく肉を食っただ。いったい、うちのおやじが、ほかの人たちのために自分の肉をあきらめると思うかい? それにローザシャーンは牛乳をとらなくちゃならねえだ。うちのおっ母が、門の外でどなっている一かたまりの人間のために娘の腹の赤ん坊を飢えさせると思うかい?」
ケーシーは、悲しげに言った。「あの人たちがわかってくれたらな。あの人たちがほんとうに自分たちの肉を手に入れるただ一つの道をわかってくれたらなあ――ええっ、くそっ! ときどきわしは疲れるだ。おっそろしく疲れるだよ。わしは一人の男を知ってるだ。わしが留置場にいたときはいってきた男さ。組合運動をはじめようとしただ。そして、組合を一つつくって、そこから出発した。ところが自警団の連中が、そいつをぶちこわしちまった。そしたら、どうなったと思う? やつが助けようとしていた組合の連中までが、みんなで彼をおっぽりだしちまっただ。やつとは何事にも手を組まねえだ。会社がおっかなくなっちまったのさ。そして言ったもんだ。『出てうせろ。おめえはみんなのために危険な人間だ』ってな。やつの気持は、すっかり傷ついちまった。しかし、やつは言ってたよ。『これも、よく知ってみりゃ、そんなにわるいこっちゃねえ』それから、こうも言っただ。『フランス革命――あれを起した連中も、みんな首をちょん切られちまっただ。いつもそんなぐあいなのさ』とね。『ちょうど雨が降るのと同じくらい自然なことなんだ。おれは別にこれをおもしろがってやってたわけじゃねえ。しなくちゃならぬことだからやってるまでだ。ワシントンを考えてみるがいいだ』と彼はいうのさ。『革命をうまくやりとげてよ。それが終ったら、あの畜生どもは、やつに襲いかかったじゃねえか。リンカーンの場合も同じだて。いっしょにどなりたてた同じ人間が殺すんだ。雨が降るみてえに自然のなりゆきだよ』」
「おもしろ半分にやったとは思えねえだな」とトムが言った。
「そうさ。おもしろ半分じゃねえ。監獄にいた男な、そいつが言っただよ。『とにかく誰でも自分のやれることをやっていくだ。そして』ってね。『ただ、いつも、ほんのすこしでもいいから前に踏みだすってのが大切なんだ。ときにゃ、いくらかあとずさりもするだ。だけど、けっして大きくは後退しねえ。それは証明できる』そういうだ。『だから、すべてのことが、その方向に進むんだ。ということは、一見するとむだ足してるようなときでも、そうじゃなくて進んでることなんだ』」
「よくしゃべるだな」とトムが言った。「年じゅう、しゃべってるだ。たとえば、おれの弟のアルに例をとってみてもよ。やつは女の子をさがしに出歩いてるだ。ほかのことなんぞ何もかまわねえだ。そして二日ばかりすると、もう女の子を一人つかまえてるだ。昼はそのことばかり考えて、夜になると追いまわしてやがる。やつは、まるっきり一歩前進したとか後退したとかわきへそれたとか、そんなことは考えてやしねえだ」
「そうともよ」ケーシーは言った。「やつはただ自分のやりてえことをやってるわけだて。わしらはみんな誰でもそうなのさ」
外に坐っていた男がテントの入口の幕を大きく開いた。
「ちくしょうめ、どうもいやな気がする」と彼は言った。
ケーシーは、そのほうを見やった。「どうしただね?」
「わからねえ。なんだかやきもきするだよ。猫みてえに神経がいらだつだよ」
「いったい、どうしたっていうだ?」
「何か音をききつけたみたいでよ、だもんで耳をすましてみると、何にもきこえねえだ」
「おまえがびくついてるだけのことさ」と、しぼんだ男が言った。そして立ちあがって外へ出て行った。だが、すぐにまた彼はテントのなかをのぞきこんだ。
「向うに、えらくでっかい黒雲がわいてきたぜ。きっと雷がくるだよ。だもんで、やつはいらいらするのさ――電気のせいだて」彼は、ふたたび頭を引っこめた。他の二人の男が立ちあがって外へ出て行った。
ケーシーが低く言った。「あの連中も、みんないらだってるだ。あの警官どもが、わしらをたたきのめして、この土地から追い出すなんておどかすもんだでね。警官どもは、わしを指導者だと思ってるだよ。あんまりわしがしゃべるもんだでね」
貧相な男が、ふたたび顔を見せた。「ケーシー、その灯火《あかり》を消して外へ出なよ。何かきたらしいぜ」
ケーシーは灯火の捩子《ねじ》をまわした。炎は穴のなかに小さくなり、またたいて、消えた。ケーシーは手さぐりで外へ出た。トムがそのあとにしたがった。「なんだね?」ケーシーは、そっとたずねた。
「なんだかわからねえだ。だけど、ほら、きいてみな!」
しじまのなかに蛙《かえる》の声が一面にひびいていた。甲高い鋭い|こおろぎ《ヽヽヽヽ》のひと鳴き。しかし、そうした音の背後から別の音が伝わってきた――道路からの、かすかな足音、土手の上で土くれのころがる音、流れの近くの藪《やぶ》のざわめき動く音。
「ほんとうにきこえたのかどうかはっきりしねえだ。そうと思いこむだけだよ。それで神経がいらだつのさ」ケーシーは、そう言って一同を安心させた。「わしらは、みんな神経質になってるだよ。どうもほんとうのところは自分でも説明できねえだが。トム、何かきこえるかね?」
「おれはきいただよ」とトムが言った。「うん、おれにゃきこえるぜ。どうも四方から人間が近づいてくるように思えるだ。この場所から出たほうがいいんじゃねえか」
しなびた男がささやいた。「橋の下から行こう――道はそっちだ。テントを出るのはしゃくにさわるけんどな」
「行こう」ケーシーが言った。
彼らは流れに沿って静かに動いた。黒い橋が彼らの前に洞穴《ほらあな》のようにあらわれた。ケーシーが身をかがめてそこへはいった。トムが、うしろにしたがった。彼らの足は水のなかにすべりこんだ。三十フィートばかり進んだ。呼吸が彎曲《わんきょく》した橋の天井に反響した。それから彼らは橋の反対側の口へ出て背を伸ばした。
鋭い呼び声がした。「そら、あそこにいるぞ!」二本の懐中電灯の光が男たちの上に落ち、彼らをとらえ、彼らの目をくらませた。「動くんじゃないぞ」いくつかの声が闇《やみ》のなかからきこえた。「あれがそうだ。あの頭の光ってる野郎だ。あいつがそうだ」
ケーシーは目のくらむままに光のほうを見つめた。そして深く息をついた。「よくききなよ」と彼は言った。「おめえさんがたは、いま自分が何をやってるか気づかずにいるだ。おめえさんがたのやってることは、子供を飢え死にさせることなんだぞ」
「黙れ! この赤のちくしょう野郎め」
背の低いふとった男が、光のなかへ踏みだした。新しい白い鶴嘴《つるはし》の柄《え》をもっていた。
ケーシーは言葉をつづけた。「おめえさんがたは、自分が何をやってるか気がつかねえんだ」
ふとった男が鶴嘴の柄をふりまわした。ケーシーは避けようと身をかがめて一撃をくらった。重い木の棒が、彼の頭に、鈍い骨の砕ける音とともにめりこんだ。ケーシーは光のわきに倒れた。
「ちえっ、ジョージ。おめえは、やつを殺しちまったらしいぞ」
「やつを照らしてみろ」とジョージが言った。「あの野郎をまっすぐ照らすんだ」懐中電灯の光線は下に落ち、あたりをさがして、ケーシーのつぶれた頭を見つけだした。
トムは説教師を見おろした。光線は、ふとった男の両足と白い新しい鶴嘴の柄を横ぎって流れた。トムは無言のまま身を躍らせた。木の柄をもぎとった。最初の一撃では、うち損じて相手の肩をうったと気づいた。しかし二番目にふったはげしい一撃は相手の頭にあたった。そして、ふとった男がくずおれたとき、さらに三つの打撃が彼の頭上に加えられた。光線が、あたりをはねまわった。どなる声、走りまわる足音のひびき、藪のなかを走り抜ける音。トムは倒れた男のほうに身をかがめた。するとそのとき、棍棒《こんぼう》の一撃が彼の頭にあたった。目のまわるような一撃だった。彼はその一撃を高圧電気にふれたように感じた。そして、つぎには彼は流れに沿って身をかがめて走っていた。彼は、あとを追って水をける足音をきいた。急に彼は身をひるがえして藪のなかの野葛《つたうるし》の茂みの奥へもぐりこんだ。そして、じっと横たわった。足音が近よった。光が川底に沿って、ちらちらと見えた。トムは、その茂みをくぐり抜けて上へ出た。そこは果樹園だった。まだ彼の耳には、叫び声や川底で彼をさがす音が、きこえてきた。彼は身をかがめ、開墾されている地面を走った――土の塊《かたまり》が足元で崩れてころがった。前方に畑のへりを示す藪が見えた。それは潅漑《かんがい》水路の岸に茂っている藪だ。彼は柵のあいだを抜け、蔓草《つるくさ》と木苺《きいちご》の藪のなかへはいりこんだ。そして、そこに横たわり、荒々しくあえぎつづけた。しびれた顔や鼻にさわってみた。鼻がつぶれていた。一筋の血が顎からしたたり落ちた。彼は、じっと腹ばいになって気が落ちつくのを待った。それから、そっと水路の端へ這《は》って行った。冷たい水で顔を洗った。青いシャツの端を切り裂いて水につけ、それを裂けた頬《ほお》と鼻にあてた。水がしみて、ぴりぴりと燃えるように感じられた。
黒い雲は、星を闇でかくしながら、すでに空をおおいはじめていた。夜は、ふたたび静かだった。
トムは水のなかに踏みこんで、足で底を探った。二回ほど胸で水を切って泳ぎ、向う側の土手に重い体を引きずるようにして這いあがった。服が体にまつわりついた。歩くと水のたれる音がきこえた。両方の靴《くつ》が、ごぼごぼと鳴った。坐りこみ、靴を脱いで、なかにはいっている水をあけた。ズボンのすそをしぼり、上着を脱いで、その水もしぼりだした。
自動車道路に沿って、水路をさがしているらしい懐中電灯のせわしない動きを、彼は見た。トムは靴をはき、注意深く刈株の畑を横ぎった。靴はもうごぼごぼという音をたてなかった。彼は勘を働かせて刈株畑の端へと歩いて行った。そして、ようやく道路に出た。きわめて注意深く、四角い小屋のかたまりのほうへと近づいた。
一度は警備員が、何か物音をきいたと感じて、声をかけてきた。「誰だ?」
トムは身を伏せて、地面にへばりついた。懐中電灯の光が頭上をすぎた。彼は静かにジョード家の戸口に向って這って行った。ドアの蝶番《ちょうつがい》がきしった。そして、静かで、落ちついていて、すっかり目ざめている母親の声がした――。
「何だね?」
「おれだよ、トムだよ」
「まあ、おまえかい。すこし眠ったほうがいいよ。アルはまだ戻《もど》ってないよ」
「やつは女の子を見つけたにちがいねえだよ」
「さあ、眠んな」彼女は低い声で言った。「おまえの寝場所は、あの窓の下のところだよ」
彼は自分の寝場所を見つけだし、服を全部脱いで裸になった。毛布にくるまって、ふるえながら横になった。すると顔の傷が感覚をとり戻して、体じゅうがずきずきと痛んだ。
一時間ほどたってからアルがはいってきた。彼は、そっと足を動かしてきて、トムの濡《ぬ》れた服を踏んだ。
「しいっ!」とトムが言った。
アルが、ささやいた。「起きてたのかい?どうしてこんなに濡れたんだい?」
「しいっ」とトムが言った。「朝になったら話すだ」
父親が寝返りをうった。彼のいびきが部屋じゅうにひろがった。
「寒いだろう?」とアルが言った。
「しいっ、さあ眠んなよ」小さな四角い窓が、真っ暗な部屋から見ると、灰色に見えた。
トムは眠らなかった。顔の傷口の神経がよみがえってきてうずいた。そして頬骨が痛んだ。裂けた鼻はふくれあがり、血が流れるごとに、飛びあがるほど、身ぶるいするほど痛んだ。彼は小さな四角い窓を見まもった。星々が、それを横ぎって落ち、視界から消えていくのを見た。間をおいて彼は夜警の足音をきいた。
ついに小屋の鶏が遠くで鳴いた。しだいに窓が明るんできた。トムは指先でふくれた顔にさわった。その動きでアルがうなり声をあげ、夢のなかで何かつぶやいた。
夜明けが、ようやくやってきた。ぎっちり立ち並んだ小屋のなかから、人の動く音、小枝を折るひびき、鍋《なべ》類のわずかに触れ合う音などがきこえてきた。ほの白んできた薄闇のなかで母親が不意に身を起した。トムは母親の顔を見ることができた。その顔は眠気のためにはれぼったくなっていた。彼女は窓を見やった。長いあいだ見ていた。それから毛布を払いのけて自分のドレスをさがした。なおも坐ったままドレスを頭からかぶり、両腕をさしあげて、それを腰のあたりまですべり落した。立ちあがってから、ドレスを踵《かかと》のあたりまで引っぱった。それから、裸足《はだし》のまま注意深く窓に近づいて外をながめた。明るんでいく光を見つめながら、彼女のすばやい指は、髪をほどき、もつれを直し、そして、もう一度たばねた。それから両手を前で握り合せ、しばらくのあいだ、じっと動かなかった。その顔が、窓のそばで、くっきりと浮びあがった。母親は身を返して、マットのあいだを注意深く歩き、灯火を見つけだした。おおい蓋《ぶた》がきしってあがり、彼女は芯《しん》に火をつけた。
父親が寝返りして母親のほうに眼《め》をしばたたいた。彼女が言った。「お父っさん、まだいくらかお金はあるかね?」
「うん? うん、六十セントの伝票があるだ」
「それじゃ起きて粉とラードを買ってきておくれな。さあ、すぐに」
父親はあくびをした。「店はたぶんまだ開いてねえだぜ」
「そしたら起しなさいよ。おまえさんたち、何かお腹《なか》に入れとかなくちゃだめだよ。働きに出るんだもの」
父親は身をよじって仕事着を着こみ、色あせた上着をつけた。ふらふらと戸口へ行き、あくびをして伸びをした。
子供たちが目をさまして、毛布の下から、二十日鼠《はつかねずみ》のように目を見はった。薄白い光が、いまや部屋じゅうに満ちた。しかし太陽がのぼる前の色のない光だ。母親は、みんなのマットの上を、ちらと見やった。ジョン伯父も目をさましていた。アルは、ぐっすり眠っている。母親の目はトムのほうに動いた。ちょっとのあいだ、彼女は彼のほうをうかがい見た。それから、すばやく近よった。彼の顔はふくれあがっていて青かった。血が、唇《くちびる》と首のところに黒くかわいてこびりついていた。裂けた頬の傷口がひきつって固まっていた。
「トム」彼女はささやいた。「どうしたんだい?」
「静かに」と彼は言った。「大きな声でしゃべらねえで。騒ぎに巻きこまれちまっただ」
「トム!」
「仕方がなかっただよ、おっ母」
彼女は彼のそばにひざまずいた。「厄介《やっかい》なことになったのかい?」
彼は長いこと答えずにいた。「うん」と彼は言った。「厄介なことになっただ。おれは仕事に出て行けねえだよ。かくれてなくちゃなんねえだ」
子供たちは手と膝《ひざ》で近くまで這《は》ってきて、むさぼるようにトムを見つめた。「トムは、どうしたの、おっ母?」
「静かに!」母親が言った。「おまえたちは顔を洗っといで」
「石鹸《せっけん》がないんだ」
「そんなら、水でいいだ」
「トムはどうしたの?」
「いいから静かにおし。そして、誰《だれ》にもしゃべるんじゃないよ」
彼らは、うしろに下がり、いちばんはなれたところの壁によりかかってうずくまった。そこなら、誰からも監視されないだろうと知っていたからだ。
母親がたずねた。「ひどくわるいのかい?」
「鼻をつぶされただ」
「あたしのいうのは、その厄介ごとのことだよ」
「うん、ひでえだよ」
アルは目をあげてトムを見た。「こりゃいったいどうしただ?」
「なんだい?」ジョン伯父がたずねた。
父親が荒っぽくはいってきた。「店は、ちゃんと開いてたぜ」彼は小さな粉の袋とラードの包みをストーブのそばの床においた。「どうしただ?」と彼はたずねた。
トムは、ちょっとのあいだ片肘《かたひじ》ついて半身を起した。それから、また仰向けになった。
「くそっ、おれは一度だけみんなに話すだでな。だから、みんないっぺんにきいてもらいてえだ。子供たちは、どこにいるだ?」
母親は、彼ら、壁に寄ってうずくまっている二人に目をやった。「行って顔を洗っといで」
「いんや」とトムは言った。「子供たちもきいとかなくちゃいけねえだよ。ほんとのことを知らねえと、かえってよけいなことをしゃべりまくるだでな」
「いったい、どうしただ?」と父親が答えを求めた。
「いま話すだよ。実は、きのうの夜、おれは外の連中が、何をどなっていたのか、それを探りに出かけただ。そしたら、ひょっくりケーシーに出会っただ」
「あの説教師にかい?」
「そうだよ、お父っさん。説教師だ。こんどは、やつはストライキを指導していただ。そこへ、やつらがケーシーをとっつかめえにやってきただ」
父親が促した。「誰がとっつかめえにやってきただ?」
「よくわからねえだ。いつかの夜、おれたちの車を道路で引きかえさせた連中と同じやつらだよ。鶴嘴《つるはし》の柄をもってやがった」彼は口を休めた。「やつらはケーシーをぶっ殺しちまっただ。頭をぶっつぶしてな。そんとき、おれは、そこに立ってただ。おれは、かっとなった。そして、その鶴嘴の柄をひっつかんじまっただ」話しながら、彼は、わびしげに、あの夜を、闇を、懐中電灯を、思い起した。「おれは――おれは、野郎を一人、なぐりつけちまっただ」
母親は咽喉《のど》もとで呼吸《いき》をつまらせた。父親は身を硬《こわ》ばらせた。「殺しちまったのか?」と彼は低くたずねた。
「さあ――わからねえだ。おれは、かっと気がたってたで。ぶっ殺すつもりだったよ」
母親がたずねた。「おまえ、やつらに見られたかい?」
「わからねえだ。わからねえだよ。見られたかもしれねえだな。やつら、懐中電灯を、おれたちにあてただから」
ちょっとのあいだ母親は彼の目を見つめた。「お父っさん」と彼女は言った。「箱をこわしておくれ。朝食のしたくをしなくちゃなんねえだ。みんな仕事に行くんだからね。ルーシー、ウィンフィール、もし誰かが、おまえたちにきいたら――トムは病気なんだよ――いいね? もし、おまえたちがしゃべると――トムは――監獄に送られちまうんだよ。わかったね?」
「うん」
「あの子たちに気をつけておくれ、ジョン。誰とも口をきかせないようにね」父親が品物を入れておいた箱をぶちこわすと、母親がそれで火をおこした。彼女はドーナツをつくりコーヒーのポットを煮たたせた。かわいた木は燃えさかり、煙突のなかに炎をあげた。
父親は箱をこわし終えた。彼はトムのほうに近よった。「ケーシーか――やつは、いい人間だったな。なんだってやつは、そんな騒ぎに飛びこんじまったんだろう?」
トムが、ものうげに言った。「あの連中は、ここへ一箱五セントで働きにきただ」
「いま、わしらが稼《かせ》いでるのと同じじゃねえか」
「そうだよ。おれたちがやってたことは、ストライキを破ることだったのさ。やつらは、あの連中には二セント半しか払わなかったんだそうだ」
「それじゃ食えねえだ」
「そうなんだ」とトムは、だるそうに言った。「だもんだから、連中はストライキをやらかしたのさ。どうやら、きのうの晩、やつらはストライキをぶっつぶしたらしいだ。きょうからは、おれたちも、きっと二セント半に切り下げられるだぜ」
「そんな、ちくしょうどもめ――」
「そうなんだよ! お父っさん。わかるだろうが、ケーシーは、やっぱり――いい人間だったよ。ちくしょうめ、おれはどうも、あの様子が忘れられねえだ。やつが、そばに倒れてて――頭がつぶされて、ぐしゃりとなってるだ。ああ、くそっ」彼は両手で目をおおった。
「さて、わしらは、どうするかな」ジョン伯父が言った。
いまアルは立ちあがっていた。「ちえっ、おれにゃ、どうするかわかってるだよ。おれはここから出て行くだ」
「いや、だめだ、アル」とトムが言った。「うちじゃ、おめえが必要なんだ。出て行くのはおれだ。おれは危険な人間なんだでな。立てるようになったら、おれはすぐ出かけるだよ」
母親はストーブのところで働いていた。彼女の頭は、話をきくために半ば傾けられていた。彼女はフライパンに油を入れ、それが熱でぶつぶついいはじめると、それに粉の玉をいくつも落しこんだ。
トムがさらに言った。「おめえは、ここにとどまっていなくちゃいけねえだよ、アル。トラックの世話をしてくれなきゃいけねえだ」
「おれはいやだよ」
「ほかに仕方がねえだよ、アル。おめえの家族なんだぞ。おめえは、みんなを助けることができるだ。しかしおれは、みんなにとって危険な人物なんだ」
アルは腹だたしげに不平をこぼした。「どうしておれがガレージの仕事についちゃいけねえのか、自分でもわからねえだ」
「たぶん、もうすこしたったらな」トムはアルから目をはなした。そしてマットに横たわっている『シャロンのバラ』を見た。彼女の目は大きく――ぐっと大きく見開かれていた。「心配するでねえだ」と彼は妹に呼びかけた。「心配するでねえ。きょうは牛乳が飲めるはずだで」彼女はゆっくりとまたたきをし、何にも答えなかった。
父親が言った。「トム、わしらはたしかめておかなくちゃならねえだ。おめえは、その男を殺したと思うだか?」
「どうだかな。暗かったし、それに、誰かがおれをなぐったでな。わからねえだよ。そうだといいだよ。あの野郎を殺しそこねたんだったら残念だて」
「トム」と母親が声をかけた。「そんな言い方はやめておくれ」
通りのほうから、たくさんの自動車がそろそろと動く音がした。父親が窓に近づいて外をのぞいた。「新しい連中が一流れはいってきただぞ」と彼は言った。
「どうやらやつらは、うまくストライキをつぶしちまったらしい」トムが言った。「これで二セント半の仕事をはじめることになるだ」
「だけど、それじゃ、駆け足で走りまわって仕事をしても、まだ養っていけねえぜ」
「もちろんさ」トムが言った。「風で落ちた桃でも食うだよ。そうすりゃ命は保《も》つだろうて」
母親は練り粉のパンを引っくり返し、コーヒーをかきまわした。「あたしの考えをきいておくれ」と彼女は言った。「あたしは、きょうは玉蜀黍《とうもろこし》の粉を買うつもりだよ。玉蜀黍|粥《がゆ》を食べるだ。そしてガソリンを買うだけのお金がたまったら、すぐにここを出るだ。ここは、いいところじゃねえだよ。それに、あたしはトムを一人でいかせたくはねえだ。そんなこと、ごめんだよ」
「そんなことはできねえよ、おっ母。おれはいまみんなにとって危険な人間なんだぜ」
彼女の顎《あご》は引きしまった。「だからこそ、みんなでやるのさ。さあ、これを食べておくれ。そして仕事に出ておくれ。あたしも食い終ったら、すぐあとから行くだよ。なんとかすこしお金をつくらなくちゃ困るだからね」
彼らは練り粉のパンを食べたが、それは熱すぎて口をこがすほどだった。彼らはコーヒーを下におろしてコップにつぎ、幾杯かを飲んだ。
ジョン伯父は皿《さら》の上で頭をふった。「どうやら、ここにも落ちつけそうもねえだな。それもきっと、おれの罪のためだて」
「よせよ!」と父親が叫んだ。「いまは、おめえさんの罪の話なんぞ、きいてる暇はねえだ。さあ、行こう。仕事に出ようぜ。子供たち、おめえらも手伝いな。おっ母のいうとおりだて。わしらは、ここから出なくちゃなんねえだ」
彼らが出て行ったあとで、母親はパンの皿とコーヒーをトムのところへ運んできた。「何かすこし食べたほうがいいだよ」
「食えねえだよ、おっ母。すっかりただれて、痛くって噛《か》めねえだ」
「なんとか噛んでごらんよ」
「噛めねえだよ、おっ母」
母親は彼のマットの端に坐りこんだ。「あたしに話しておくれ」と彼女は言った。「どんな様子だったか。あたしは考えてみたいよ。あたしは、ちゃんと筋道を知りたいんだよ。ケーシーは、何をやってただい? なぜやつらはケーシーを殺しただね?」
「ケーシーは、やつらの懐中電灯の光のなかで、ただつっ立ってただけなんだ」
「そして、何て言ったの? あの人が何て言ったか、おぼえていないかい?」
トムは言った。「おぼえてるとも。ケーシーは言ったよ。『おめえさんがたは人々を飢えさせる権利はもってねえだ』すると、ふとった男が、ケーシーを、赤のちくしょう野郎めと呼んだだ。するとケーシーは言ったよ。『おめえさんがたは、自分が何をやってるのかわかってねえんだ』そして、その野郎がケーシーの頭をたたきつぶしたんだ」
母親は目を落した。そして両手をきつくしぼり合せた。
「あの人は、そう言ったのかい――『おめえさんがたは自分のやってることがわからねえんだ』って」
「そうだよ!」
母親は言った。「ああ、ばあさまにいまの言葉をきかしてやりたかったよ」
「おっ母――おれは自分でも自分が何をやってるのかわからなかっただ。自分があんなことをやらかそうなんて思ってもみなかっただよ」
「いいよ。そりゃあたしだって、おまえがそんなことをしてくれなければよかったと思うし、おまえがそこに居合せなかったらとも思うけどね。でも、おまえとしたら、我慢できずにやったことだもの。おまえがわるいとは思えねえだよ」彼女はストーブに近づき、布切れを湯気のたつ皿洗いの水にひたした。「さあ、これを」と母親が言った。「これを顔のそこにあてるといいだ」
彼は暖かな布を鼻と頬《ほお》の上におき、その熱に顔をしかめた。「おっ母、おれは今夜出て行くつもりだよ。こんな心配を家のものにいつまでもかけていたくはねえだて」
母親は怒ったように言った。「トム! あたしは事件が全部わかったわけじゃねえだ。だけど、おまえが行っちまっても、家族は気楽にゃなりはしねえだよ。かえってみんなは苦しくなるだ」彼女は言葉をつづけた。「昔は、あたしたちも土地をもってた。そのころは、あたしたちのまわりにも|きまり《ヽヽヽ》というもんがあっただ。年をとった人たちが死んでいくと、小さなものが育った。そして、あたしたちは、いつも一つだった――あたしたちは家族だった――一つにまとまって、ぴったりしてた。ところが、いまでは、あたしたちは、もうぴったりと寄り合ってはいねえだ。あたしは、それをちゃんと元のようにすることはできねえだ。何一つ、あたしたちをぴったりいっしょにしてくれるものはねえだから。アル――あの子は自分の好きなところへ出て行きたくて、うずうずしてるだ。ジョン伯父は、ただのろのろとついてくるだけだ。お父っさんも、昔のようじゃなくなっただ。もう家長ではなくなっただよ。トム、あたしたちの家族は、割れてこわれちまいそうになってるだよ。もういまでは家庭らしいところなんて、まるでなくなっちまっただ。それにローザシャーンだが」彼女は、あたりを見まわして、娘の見開いた大きな目を見つけた。「あれは赤ん坊を産むっていうのに、腹の子の父親はいねえし、家庭ももってねえだ。あたしにゃわからなくなったよ。これまで、なんとか家族をちゃんとしようとして、やってきたんだけんどね。ウィンフィールだって――こんなことで、あの子はどうなるだろう? 乱暴になるばかりだ。それにルーシーも――動物みたいになってくだ。何にも頼れるものがねえんだよ。行かねえでおくれ、トム。いっしょにいて手助けしておくれ」
「いいとも」彼は、くたびれたように言った。「いっしょにいるだよ。だけど、おれはそんなことをしちゃいけねえだ。おれにゃわかってるだ」
母親は皿洗い桶《おけ》へ行き、ブリキ皿を洗ってかわかした。
「おまえは眠らなかっただね?」
「うん」
「じゃ、お眠り。おまえの着物は、たしか濡れてたようだね。ストーブのそばにかけてかわかしてあげるよ」彼女は、その仕事を終えた。
「さあ、あたしは行くだ。摘まなくちゃ。ローザシャーン、もし、誰か外からきたら、トムは病気だっていうんだよ。わかったね? 誰もなかへ入れるんじゃねえよ。わかったね?」
『シャロンのバラ』はうなずいた。「あたしたちはお昼に戻ってくるよ。トム、すこしお眠り。たぶん今夜はここを出て行けるだろうよ」彼女は、すっとトムのところへ身をよせた。「トム、おまえ、まさか抜けだして行くようなことはしまいね?」
「行かねえだよ、おっ母」
「きっとだね? きっと行かないね?」
「行かねえよ、おっ母、おれはここにいるよ」
「いいね。いまの言葉を、おぼえてておくれよ、ローザシャーン」彼女は外へ出て行き、背後にドアをしっかりとしめた。
トムは、じっと横たわっていた――すると睡眠の波が彼をもちあげて無意識の淵《ふち》へ運び、そっとそのなかへ落しこんで、ふたたびもちあげた。
「ねえ――トム!」
「うん? 何だい?」彼は、やっと目をさました。そして『シャロンのバラ』を見た。彼女の目は恨みに燃えていた。「何で起したんだい?」
「あんたは人を殺したのね!」
「そうさ。あんまり大きな声を出すなよ! おまえ、誰かにきかせてえのか?」
「かまうもんか」と彼女は叫んだ。「あの女が話してくれたわ。罪というものは、とてもあたしの体に|さわる《ヽヽヽ》んだって、そう言ったわよ。そしたら、あたし、いい赤ちゃんを産めないじゃないの。コニーは行っちまったし、いい食事はとれないし、牛乳は飲めないし」彼女の声はヒステリックに高まった。「それに、またいま、あんたは人を殺すし。こんなことで、どうして満足な赤ちゃんが産めて?きっと――片輪者が生れてよ――片輪者が! あたし、ダンスさえしないで我慢してたのに」
トムは身を起した。「しいっ!」と彼は言った。
「そんな声を出すと、誰かはいってくるだぞ」
「かまうもんですか。あたしは片輪を産むんだわ! あたしは抱き合って踊るダンスなんて一度も踊らなかったのに」
彼は彼女のそばへよった。「静かにするだ」
「そばへよらないでよ。まして、兄さんときたら、二人めの人殺しをしたんだもの」彼女の顔はヒステリックに紅潮してきた。しゃべる言葉が、もつれた。「兄さんなんか見るのもいやだわ」彼女は毛布で顔をおおった。
トムは、息をつめて泣く、むせるような泣き声をきいた。彼は唇《くちびる》を噛み床をじっと見つめた。それから彼は父親のベッドへ行った。マットの端の下あたりにライフル銃がおいてあった。三八口径の槓桿《てこ》式のウインチェスター銃だ。トムは、それをとりあげ、槓桿を引いて薬莢《やっきょう》に弾薬がつまっているのをたしかめ、安全装置をかけて撃ち金を試してみた。それから自分のマットへ戻った。ライフル銃を、銃床を上に、銃身を下に向け、自分の横の床の上においた。『シャロンのバラ』の声は、すすり泣きに変った。トムは、ふたたび横になって、体を、そして傷ついた頬を、毛布でおおい、呼吸《いき》ができるように、すこし隙間《すきま》をつくった。彼は溜息《ためいき》をついた。「くそっ! ちきしょうめ」
戸外では、一団の車が通りすぎ、そして、いくつかの声がきこえた。
「何人だい?」
「わしらだけさ――三人だよ。いくら払うだね?」
「おまえさんたちは二十五号の家へ行くんだ。番号はドアに書いてある」
「承知しました、だんな。それで、いくら払ってくれるんですかい?」
「二セント半だ」
「そんなばかな。それじゃ夕食も食えねえだぜ!」
「こっちの払うのはそれだけだ。もうじき南から二百人やってくるが、その連中は、それで大よろこびで働くぜ」
「だけど、よう、だんな!」
「さあ行きな。それで働くか、それともやめるか、こっちは文句をきいてる暇はないんだ」
「けんど――」
「いいかい。おれは賃金の係じゃないんだ。おまえさんたちの帳づけをしてるだけなんだ。もし働きたけりゃ、はいんなよ。働きたくねえんなら、まわれ右して出てってくれ」
「二十五号でしたっけね?」
「そうだ、二十五号だ」
トムはマットの上でまどろんだ。部屋のなかを忍び歩く足音に目をさました。彼の手はライフル銃に這《は》っていき、その台尻《だいじり》を、しっかりと握りしめた。彼は顔にかかった毛布を引きおろした。『シャロンのバラ』が彼のマットのそばに立っていた。
「なんだい?」とトムは返事をうながした。
「眠ってなさいよ」と彼女は言った。「安心して眠んなさいよ。あたしがドアを監視してるから。誰《だれ》も入れはしないわ」
彼は、ちょっとのあいだ、彼女の顔を見まもった。「うん、そうしよう」と彼は言った。そして、ふたたび顔に毛布をかぶせた。
夕闇《ゆうやみ》がおりるころ母親が戻《もど》ってきた。彼女はドアの前で立ちどまり、ノックをして言った。「あたしだよ」トムに心配させないためだ。彼女はドアをあけ、包みを下げて、なかへはいった。トムは目をさましてマットの上に起きあがった。傷はもうかわいて、ひきつれたようになっているので、まわりの皮膚がつるつるしていた。左の目はふさがりそうにたれさがっていた。「留守に誰かきたかい?」と母親はたずねた。
「いんや」と彼は言った。「誰もこなかっただ。やつら、とうとう賃金を切り下げただね」
「どうして知ってるの?」
「外で話してるのをきいただ」
『シャロンのバラ』は、だるそうに母親を見た。
トムは親指で妹のほうを指さした。「あいつ、おっそろしくわめいたぜ、おっ母。まるで困ったことは何もかもみんな自分を目あてに起るとでも考えてるらしいだ。あんなにおっそろしく騒ぎたてられたんじゃ、おれは、とてもここに落ちついちゃいられねえだよ」
母親は『シャロンのバラ』のほうを向いた。「おまえ、何をしたの?」
娘は怒ったように言った。「こんな騒ぎばかりあったんじゃ、どうしてあたし、いい赤ちゃんを産めるの?」
母親は言った。「お黙り。いまはすこし静かにおしよ。おまえが、どんな気持か、あたしにはわかってるよ。それに、むりもないことも知ってるだ。でも、いまは騒がないで静かにしておくれ」
母親はこんどはトムのほうに向きなおった。「あの娘《こ》のことは気にしないでおくれよ、トム。いまが、とてもつらい時期なんだよ、あたしにも、おぼえがあるけどね。赤ん坊を産むときには、何もかもが自分を傷つけるように思えるし、人のいうことは、なんでもみんな自分を侮辱するようにきこえるだよ。何でも、みんな自分の敵みたいに思えるだ。あの娘のことは気にしないでおくれ。自分でも、どうにも仕方がないんだから。そんなふうに感じる時期なんだよ」
「おれは別にやつを怒らせたくはねえだよ」
「黙って、トム、もうおしゃべりはやめよう」彼女は冷えたストーブに、もってきた包みをのせた。「ろくすっぽ何も買えなかっただ」と彼女は言った。「けさ言ったように、あたしたちはここを出て行くんだからね。トム、なんとかすこし薪《まき》を集めておくれな。いや――おまえにゃできないね。さあ、ここに最後の箱が一つ残ってるだ。これをこわしておくれ。ほかの連中にも、帰り道に小枝を拾ってくるように頼んでおいただ。お粥《かゆ》にして砂糖をすこしかけて食べよう」
トムは立ちあがって、一つだけ残った箱を、ばらばらにこわした。母親はストーブの片すみに注意深く火を起し、一つのストーブの穴へと火力を集めた。そして鍋《なべ》に水を満たし、炎の上にかけた。鍋は、じかに火の上にかけられて、じゅっと音を立てた。
「きょうの桃摘みは、どんなぐあいだったい?」とトムがたずねた。
母親は玉蜀黍粉の袋にコップをつっこんだ。「そのことは話したくねえだよ。きょうは、みんなが、どんな冗談を言ってたかと、いま考えてたところなんだけどね。トム、とてもいやだよ。もうみんな冗談も言えないんだ。冗談をいうときには、きっとそれが、皮肉な、苦い冗談になってるだよ。そして、誰もおもしろがらない冗談なのさ。きょう、誰かが、こんなこと言ったよ。『不景気は終ったな。さっき野兎《のうさぎ》を見たけど、誰もあとを追っかけなかったもの』そしたら別の男が言ったよ。『追っかけないのは、そのせいじゃねえよ。もう野兎を殺すこともできねえのさ。やつらをつかまえたら、ミルクをしぼってから逃してやるんだ。おまえの見たのは、たぶんもうしぼりっかすだろうて』ねえ、あたしのいうことわかるだろう。ちっともおかしくなんぞないんだよ。いつかじいさまがインディアンを改宗させて家へつれて帰ったとき、そのインディアンが、豆の鍋を底までなめてしまい、ジョン伯父のウイスキーを盗み飲みしちまったもんだが、あんなおかしさがないんだよ。トム、その布を水で冷やして顔にあてるといいよ」
夕闇が深まった。母親は灯火《あかり》をつけて壁の釘《くぎ》につるした。そして小枝をくべ、湯のなかへ玉蜀黍粉をすこしずつ入れた。「ローザシャーン」と彼女は言った。「おまえ、この粥を、かきまわしておくれ」
戸外に走ってくる足音がした。ドアが、ばたんと開かれて壁にはねかえった。ルーシーが駆けこんできた。
「おっ母さん!」彼女は叫んだ。「おっ母さん、ウィンフィールがひきつけを起したよ!」
「どこで? 早く言いな!」
ルーシーは喘《あえ》いだ。「青くなって倒れちまったの。あんまりたくさん桃を食べたもんだから、一日じゅうお腹をくだしていたのよ。急に倒れちゃったの。青くなって!」
「さあ、案内しておくれ」と母親は命令した。「ローザシャーン、おまえ、そのお粥を見てておくれ」
母親はルーシーとともに外へ出た。小さな娘の背後から、通りを重苦しげに走って行った。三人の男が夕闇のなかを彼女のほうに歩いてきた。まん中の男がウィンフィールドを胸にかかえていた。母親は、そのほうへ走りよった。「うちの子なんです」と彼女は叫んだ。「渡しておくんなさい」
「わしが家まで運んで行ってあげるよ、おかみさん」
「いいえ、ここで、ここで渡してください」彼女は小さな息子を背負って、もときた方向へ歩きだした。それから、ふとわれに返った。「どうもありがとう、ほんとにどうも――」と彼女は男たちに言った。
「なあに、おかみさん、その子は、えらく弱ってるだね。どうやら虫がいるらしいぜ」
彼女は急いで家へ戻った。ウィンフィールドは彼女の腕のなかでぐったりとしていた。母親は彼を家のなかに運びこみ、ひざまずいてマットにおろした。「話してみな、どうしたんだい?」と彼女は子供の返事を促した。彼は、めまいがするらしく、目を細くあけ、頭をふって、ふたたび目をとじた。
ルーシーが言った。「さっき、あたし言ったでしょう、おっ母さん。ウィンフィールは一日じゅうお腹をくだしてたのよ。しょっちゅうなの。あんまり桃を食べすぎたのよ」
母親は彼の額に手をあてた。「別に熱はないようだね。だけど顔が青くやつれてるだ」
トムが近よってきて灯火を下へさげた。「きっと」彼は言った。「ウィンフィールのやつ、腹がへってるだ。力がなくなっちまったのさ。牛乳を買ってきて飲ましてやんなよ。お粥のなかへ牛乳まぜて食べさせたらいいだ」
「ウィンフィール」と母親が言った。「どんな気持だか言ってごらん」
「目がまわるだ」とウィンフィールドは言った。「なんだかぐるぐる目がまわるだよ」
「あんなにお腹がくだったの見たことないわ」ルーシーが大げさに言った。
父親とジョン伯父とアルが家にはいってきた。彼らは腕に一山の小枝と、何本かの灌木《かんぼく》をかかえていた。それをストーブのそばに落してから、「何事だい、こんどは?」と父親が言った。
「ウィンフィールがぐあいがわるいんだよ。この子に牛乳をやらなくちゃ」
「なんちゅうこった! わしらは、いつも、何かが入り用なんだて!」
母親が言った。「きょうは、いくらになっただね?」
「一ドル四十二セントだ」
「そんなら、ウィンフィールに牛乳を一|缶《かん》買ってやるぐらいできるだね」
「しかし、何でやつは病気なんぞになっただな?」
「なぜだかね。でも、とにかくこの子は病気なんだよ。さあ、買ってきておくれ!」父親は、ぶつぶつ言いながらドアの外へ出て行った。「おまえ、お粥はかきまわしてるだろうね!」
「ええ」と『シャロンのバラ』は、やっていることを証拠だてるために手を早めた。
アルが不平を言った。「いやんなっちまうな、おっ母、暗くなるまで働いたのに、夕食はお粥だけかい?」
「アル、あたしたちがここから出て行かなくちゃならないことは、おまえも知ってるだろう。とったお金は、みんなガソリン買うのにあてるんだよ。わかってるじゃないか」
「だけど、かなわねえな、おっ母! 人間が仕事をやるためにゃ、肉を食わなくちゃ」
「黙って坐っておくれよ」と彼女は言った。「あたしたちには、いま、とても大きな問題があって、それをまずいちばんに片づけなきゃならないんだよ。おまえだって、その問題が、どんなことか心得てるはずじゃないかね」
トムがたずねた。「それは、おれのことかい?」
「食事のときに話をしようよ」と母親は言った。「アル、あたしたちが出かけるだけのガソリンはあるかい?」
「タンクに四分の一くらいあるだよ」アルが言った。
「いま話してもらいてえだな」とトムが言った。
「あとでいうよ。ちょっと待っておくれ」
「おまえ、そのお粥を、もっとかきまわしておくれ。さあ、コーヒーをすこしばかりかけることにするよ。お砂糖は、コーヒーか、お粥か、どちらか一方だけにしておくれ。両方に入れるほどたくさんはないんだからね」
父親が細長いミルクの缶をもって帰ってきた。「十セントだ」と父親は腹だたしげに言った。
「さあ」母親は缶を受けとってそれに穴を開けた。濃い溶液をコップにつぎ、それをトムに渡した。「それをウィンフィールにやっておくれ」
トムは少年のマットのそばにひざまずいた。「さあ、これを飲みな」
「飲めないよ。おれ、お腹が変なんだよ。そっとしといてくれよ」
トムは立ちあがった。「いまは飲めねえらしいよ、おっ母。すこし待とうや」
母親は、そのコップをとって窓の縁においた。「誰もこれにさわらないでおくれよ」と彼女は注意した。「これはウィンフィールのだからね!」
「あたしは、ちっともミルクを飲まないわ」と『シャロンのバラ』が、すねたように言った。「あたしは飲まなくちゃいけないのよ」
「わかってるよ。でも、おまえは、まだちゃんと歩けるだろう。このちびはのびちまったんだよ。お粥は、ちゃんと濃くなったかい?」
「ええ、もうほとんどかきまわせないくらいよ」
「それじゃ、さあ食べようよ。はい、お砂糖。一人に一|匙《さじ》ずつだよ。お粥に入れるかコーヒーに入れるかしておくれ」
トムが言った。「おれは粥には塩と胡椒《こしょう》を入れたほうがいいだな」
「そんなら塩をおかけ」と母親が言った。「胡椒は切れちまっただよ」
木箱はもう全部なくなっていた。家族のものはマットに坐ってお粥を食べた。みんな勝手に幾度もお代りをしたので、しまいに鍋は、ほとんどからになった。「ウィンフィールに、すこしとっといておくれよ」と母親が言った。
ウィンフィールドは、坐ってミルクを飲んだ。すると、たちまち彼は食欲が出てきた。彼は粥の鍋を両足のあいだにおき、残っているのを食べ、さらに、まわりにくっついているのを掻《か》きとって食べた。母親は缶のミルクの残りをコップにつぎ、それを、そっと片すみにいる『シャロンのバラ』のほうへ押しやった。それからコーヒーを、いくつものコップにつぎわけて、みんなにくばった。
「外じゃ、どんな様子だか、話してくれねえだか?」とトムが言った。「きいときてえだ」
父親は、ぎごちなく言った。「ルーシーとウィンフィールにゃきかせなくてもいいじゃねえか。二人は外で遊ばしておくわけにゃいかねえだかね?」
母親が言った。「いいえ、この子たちも、大人の仲間に入れてやったほうがいいだ。たとえまだ大人ではないにしてもね。それよりほかに方法はねえだよ。ルーシー、おまえもウィンフィールも、ここできいたことを人にいうんじゃないよ。そうしないと、おまえたちの家族は、ばらばらになっちまうだからね」
「言わないよ」とルーシーは言った。「あたしたちは大人だもの」
「それじゃ、ちょっと静かにしてておくれ」いくつものコーヒーのコップが床の上においてあった。灯火の短いふとい炎が、ずんぐりした蝶《ちょう》の羽のように、壁へ黄色の薄明りを投げていた。
「さあ、話してくれ」とトムが言った。
母親は言った。「お父っさん、おまえさん、話しなよ」
ジョン伯父はコーヒーをすすった。父親が言った。
「やつらは、やっぱりおまえが言ったように賃金を落しただよ。ところで、えらく腹をすかした摘み手が、新しく、わんさとはいってきてな。その連中ときたら、ただパンの塊《かたまり》さえ手にはいればという気でいるだ。桃の木に飛んで行ってからに、それを先にとったものが勝ちってわけさ。これじゃ全部とり切るのも、つかの間だて。誰《だれ》もかれも新しい桃の木へと駆けだして行くだよ。わしは幾度か喧嘩《けんか》してるのを見ただ――一人が、それはおれの木だっていうのに、別のやつが、その木からむりに桃を摘みとろうとしてな。この連中は、みんなエル・セントロのような遠いところからつれてこられたんだそうだ。おそろしく腹をへらしてるだ。パン一きれのために一日じゅう働くだ。わしは検査人に言ってやっただよ。『わしら、一箱二セント半じゃ働けねえだ』すると、やつがいうだ。『いいとも。じゃ、よしな。あの連中は、それで結構働くんだから』わしは言ってやったよ。『あの連中だって、腹が満足したら、すぐこれじゃ働かなくなるだ』そしたら、やつはいうんだ。『なあに、連中の腹が満足する前に、こっちは桃をみんな摘んじまってるよ』」父親は言葉をとめた。
「えらいこった」とジョン伯父は言った。「話にきくと、今夜あと二百人入れるそうだ」
トムが言った。「そうかい! だけど例の連中の様子はどうだい?」
父親は、しばらく黙った。「トム」と彼は言った。「どうやらおまえは殺《や》っちまったらしいだぜ」
「おれもそう思ってただよ。見えなかったけど、そう感じただ」
「誰もかれも、あの話で、もちきりだった」とジョン伯父が言った。「しきりに人を狩り集めてるだ。そして私刑《リンチ》のことをしゃべり合っておったぞ――もちろん、やつらがその下手人をつかまえたときのことだが」
トムは、大きく目を見開いている子供たちのほうを見やった。彼らは、ろくにまたたきもしなかった。まるで、この闇《やみ》の一刻に何か事件が起るのではないかと心配しているような顔つきだった。トムは言った。「しかし、それをやった下手人は、向うがケーシーを殺したからやったんだ」
父親がさえぎった。「やつらが、いましゃべってるのは、そうじゃねえだ。その男が先にやったと言ってるだよ」
トムは大きく息をもらした。「ちくしょう!」
「やつらは、わしらの仲間にわるい感情を起そうと企てているだ。わしらのきいたところじゃ、そうだて。やつらは、宣伝屋や友愛組合のやつらを、みんな集めて、その男をつかまえると言っとるそうだ」
「その下手人の人相を、やつらは知ってるようかね?」トムがきき返した。
「さあ――確実には知らんようだて――しかし、わしのきいたところによると、やつらは、その男をなぐったと思ってるだ。だから――その男には――」
トムは手をゆっくりと上にあげて頬《ほお》の傷にあてた。
母親は叫んだ。「そんなことはねえだよ。あいつらのいうことなんて嘘《うそ》さ!」
「いいんだよ、おっ母」とトムは言った。「やつらは企《たくら》んでるだ。あの宣伝野郎どものいうことは、どんなことでも、おれたちに反対することでさえあれば、みんな正しいわけなんだ」
母親は薄暗い光を通してトムのほうをうかがった。そしてトムの顔を、とくに、その唇《くちびる》を見まもった。
「おまえは約束したね?」と彼女は言った。
「おっ母、おれは――いや、その男は、たぶん出て行かなきゃならねえだろうて。もし――その男が、何かわるいことをやったのなら、たぶんやつは、こう考えるだろうよ。『いいとも。首をくくられよう。おれはわるいことをやっただて。それに報いがあるのは当然だ』だけど、その男は、何もわるいことはしなかっただ。スカンク一匹殺したほどにも後悔してねえだ」
ルーシーが口を入れた。「おっ母さん、あたしとウィンフィールは知ってるわ。その男の人は監獄へなんか行かなくたっていいんでしょう?」
トムは、くすりと笑った。「だから、その男は首なんぞくくられたくはねえだよ。なぜって、やつは自分がわるいことしたとは思ってねえだもの。同時に、やつは、自分の家族に迷惑をかけたくねえと思ってるだ。おっ母――おれは出て行かなくちゃならねえだよ」
母親は手を口にあてて咳《せき》ばらいした。「いけないよ」と彼女は言った。「どこにもかくれるところがないじゃないか。それに信じて頼れる人もいやしねえだ。頼れるのは、あたしたちだけさ。あたしたちは、おまえをかくしとけるよ。そして、おまえの顔が直るまで、おまえに食べものをやれるだよ」
「だけど、おっ母――」
彼女は立ちあがった。「行っちゃいけねえだ。あたしたちがつれてってあげるだよ。アル、トラックを戸口に着けておくれ。さあ、あたしは考えをきめただよ。いちばん下にマットを一枚おくだ。そしてそこへトムを急いで寝かすだ。ほかのマットをうまく並べて、穴をつくるようにして、トムをその穴に入れるだよ。そのまわりを、ちゃんと囲ってね。そういうふうにすれば、端のほうから呼吸《いき》ができるだ。議論はやめだ。さあ、そのとおりにするだ」
父親が不平を言った。「どうやら男はもう言いてえことも言えなくなったらしいだな。おっ母は、まるで大いばりだて。わしらが落ちつけるときがきたら、わしはひとつおっ母に大目玉くらわしてやるだぞ」
「そのときがきたら、うんとやっとくれよ」母親が言った。「さあ、立ちな、アル。もうすっかり暗くなったよ」
アルはトラックのところへ出て行った。そして慎重に運転して、戸口まで後退してきた。
母親が言った。「さあ、急いでマットをなかに入れて!」
父親とジョン伯父は後部の側板ごしにマットを投げあげた。「さあ、そのマットも」彼らは二つ目のマットを投げあげた。「さあ――トム、おまえ、あそこに飛び乗って下へはいるだ。急いで!」
トムは、すばやくよじのぼった。そして、なかにはいった。彼は一つのマットを、まっすぐに伸ばし、二つ目を体の上に引っぱりあげた。父親はマットの上部をまげ、両脇《りょうわき》を立てて、トムの上に、まるくかぶさるようにした。父親とアルとジョン伯父は、急いで荷物を積みこんだ。トムの穴の上に毛布を重ね、両側にバケツ類を立て、残ったマットを背後にひろげた。鍋《なべ》やフライパン、余分の衣類などは、一つ一つ、ばらばらに運ばれた。というのは、それらを入れる箱は、みんな燃やしてしまったからだ。ほとんど積み終えたころ、一人の警備員が、腕をまげ、まげた腕に猟銃をぶらさげて近づいてきた。
「何をしてるんだ?」と彼はきいた。
「わしら、出て行くんでさ」と父親が言った。
「どうしてだ?」
「その――わしら仕事を見つけたもんだでね――いい仕事をな」
「ほんとか? どこにそんな仕事があったんだ?」
「その――ウィードパッチのほうでさ」
「ちょっと調べるぜ」彼は懐中電灯の光を父親の顔に、ジョン伯父の顔に、そしてアルの顔にあてた。
「おまえさんたちのとこにゃ、もう一人、男がいやしなかったかね?」
アルが言った。「あのルンペンのことかい? 青い顔した小さな男かい?」
「そうだ。そんな顔してたやつがな」
「あれは、おれたちが、ここにくる途中で拾ってきたんだ。やつは、けさ出て行っちまったよ。賃金が下がったと知ったらね」
「そいつは、どんな男だったか、もう一度言ってみな」
「背の低い男さ。青い顔のよ」
「やつは、けさ、けがをしてやしなかったかい?」
「何も気がつかなかっただな」とアルは言った。「ガソリン・スタンドは開いてるかね?」
「うん、八時までだ」
「乗んな」とアルは叫んだ。「ウィードパッチへ朝までに着こうってんじゃ急がなくちゃならねえ。前に乗るかい、おっ母?」
「いんや、あたしはうしろに乗るだ」彼女は言った。「お父っさん、おまえさんも、このうしろに坐んなよ。ローザシャーンはアルとジョン伯父の横へ坐らせなよ」
「お父っさん、仕事の伝票くんな」アルが言った。「これで、できたらガソリンと釣《つ》り銭《せん》をもらうだ」
警備員が見送っているなかを、彼らは通りに沿って動きだし、左へまわってガソリン・スタンドの前でとまった。
「二ガロン入れてくれ」とアルが言った。
「そんなに遠くまで行くんじゃないね?」
「そうだよ、遠くじゃないんだ。この伝票で買えるんだろう?」
「さあて――そいつはどうもできそうもないな」
「ねえ、だんな」とアルが言った。「おれたちは、今夜じゅうに着きゃ、とてもいい仕事が手にはいるだよ。もし行けねえと、そいつを逃がしちまうだ。わかってくれよ」
「じゃ、いいだろう。それじゃ、おまえさん、サインをしてくれ」
アルは外へ出てハドソン車の前にまわった。「もちろんでさ」と彼は言った。そしてラジエーターの蓋《ふた》をとり水を満たした。
「二ガロンと言ったな」
「そうだよ。二ガロンだ」
「どの方向へ行くんだね?」
「南さ。仕事をめっけたんだ」
「そうかい。仕事はすくねえだな――まとまった仕事はね」
「友達がいるだ」と言った。「仕事は、いつだって手にはいるだよ。じゃ、さよなら」トラックはぐるりとまわって、埃《ほこり》っぽい通りを道路へとゆれながら出て行った。弱々しいヘッドライトが道路の上にゆれた。右のヘッドライトは接触がわるくて、ついたり消えたりした。ちょっとしたくぼみがあると、トラックの床に散らばっている鍋や薬缶《やかん》などが、踊りあがり、ぶつかり合った。
『シャロンのバラ』が低くうなった。
「気分がわるいのかい?」ジョン伯父がたずねた。
「そうよ! いつも気持がわるいの。気持のいいところに静かに坐っていられたら、どんなにいいだろう。家があって、こんなふうにしてこなくてもいいんだったらね。あたしたちが家をもってたら、コニーだって、きっと行っちまうようなことはなかったわ。あの人は勉強を終えて、どこかにつとめてるわ」アルもジョン伯父も、それには答えなかった。コニーのこととなると、ちょっと困るのだ。
農場の出口の白く塗った門のところへくると、警備員がトラックのそばへよってきた。
「出て行くのか?」
「そうだよ」とアルが言った。「北へ行くだ。仕事を見つけたんでね」
警備員は懐中電灯をトラックに向けテントの下を照らした。母親と父親は石のようになって明るい光を見おろした。「よろしい」警備員は門を大きく開いた。トラックは左へまがって、第百一号道路、南北へ走る大きな国道へ出た。
「どこへ行くのかわかっとるのかね?」ジョン伯父がたずねた。
「いんや」とアルは言った。「ただ走ってるだけさ。まったくやんなっちまうだ」
「あたし、そんなに先のことじゃないのよ」と『シャロンのバラ』が、おどかすように言った。「もっとちゃんとしたところがなくちゃ困るわ」
夜の空気は、霜の訪れを思わせる寒さだった。道路に沿った果実の木々の葉は散りはじめていた。荷物の上では、母親がトラックの側板に背をもたせかけており、父親は彼女と向いあって反対側に坐っていた。
母親が呼びかけた。「大丈夫かい、トム?」
彼の、こもったような声が返ってきた。「ちょっとせま苦しいだな。もう農場は通りすぎただね?」
「用心しておくれよ」と母親が言った。「とめられるかもしれないからね」
トムは穴の片側をあげた。ほの暗いトラックの中で鍋類が鳴った。「これは、すぐ下におろせるから大丈夫だ」と彼は言った。「それに、おれは、ここへとじこめられてるの、いやだよ」
彼は片肘《かたひじ》をついて身を起した。「やあ、寒くなってきただな」
「雲が出てきただ」と父親が言った。「人の話では、ことしは冬が早いらしい」
「栗鼠《りす》が巣を高くつくってるからだろう? それとも草が早く種子《たね》をつけたからかい?」とトムはたずねた。「まったくさ、天気占いなんて、何でだってできるだよ。たとえば、古|股引《ももひき》一枚使って、冬が早くくるかどうかを占うやつだって、きっといるにちげえねえだ」
「どんなもんかな」と父親が言った。「わしにゃ、冬がきはじめたように思えるだが。とにかく、天候を知るにゃ、長いこと同じ土地に住まなくちゃだめだな」
「どっちの方向へ進んでるんだろう?」とトムがたずねた。
「知らねえだな。アルは左へまがったよ。どうやらやつは、わしらのきた方角へ戻《もど》る気らしいて」
トムが言った。「どっちがいいだか、おれにもわからねえだが、でも、とにかく大きな道路を行くと、どうしても警官にぶつかることが多いんじゃねえかな。おれのこの顔じゃ、たちまち、やつらも感づくだよ。裏道を走ったほうがいいように思うだ」
母親は言った。「その後ろ板をたたいて、アルに車をとめるように合図しておくれ」
トムは拳《こぶし》で前の板をたたいた。トラックは道路の端に停車した。アルは外へ出て後部へ歩いてきた。ルーシーとウィンフィールドが毛布の下から顔をのぞかせた。
「何だい?」とアルがたずねた。
母親が言った。「いま三人で考えたんだけどね。裏道を行ったほうがいいんじゃないかね。トムがそういうんだよ」
「おれの顔がこれだて」とトムがつけ加えた。「誰にもすぐわかるだよ。警官だって気がつくだろうて」
「それで、どっちのほうへ行きてえだね? おれは北に向っただよ。いままで南にいたでな」
「それでいいだよ」とトムが言った。「ただし裏道を行ってもらいてえだ」
アルが言った。「車をとめて、すこし眠るってなあ、どうだい? どうせあすも走るんだろうからさ」
母親が急いで言った。「それはまだだよ。まず、もうすこし遠くへ行くことだよ」
「よしきた」アルは席に戻って運転をつづけた。
ルーシーとウィンフィールドは、ふたたび頭に毛布を引っかぶった。母親が声をかけた。「ウィンフィールは、もうなんともないのかい」
「なんともないらしいわ」とルーシーが答えた。「さっきは眠ってたわよ」
母親はトラックの側板に背をもたせた。「追いたてられるって、妙な気持にさせられるもんだね。あたしはだんだん意地悪になってくるようだよ」
「誰でも意地がわるくなるだよ」と父親が言った。「誰でもな。おまえ、きょうの喧嘩を見ただろうが。人って変るもんだて。あの国営キャンプにいたときにゃ、誰も意地わるくなんぞなかっただ」
アルは砂利道へとまがった。黄色い光が地面にふるえた。果実の木は、いまや消え去り、その代り綿花畑がつづいた。田舎道をまがったりくねったりしながら、綿花畑のあいだを二十マイルほど走った。道は、草の茂った小川と並行し、コンクリートの橋で川を渡ると、また反対側を並行して走った。やがて小川の端に、車輪のない赤い貨車の長い列が見えた。そして道ばたに大きな看板が出ていた。『綿摘み人募集』アルは車をゆるめた。トムはトラックの側板のあいだからのぞいた。貨車の列を四分の一マイルほどすぎたとき、トムは、ふたたび板をたたいた。アルは道ばたに車をとめて、また出てきた。
「こんどは何だい?」
「エンジンをとめて、ここへのぼってこいよ」とトムが言った。
アルは運転席にはいり、道をそれて窪地《くぼち》に乗り入れ、ライトとエンジンをとめた。そして後部から這《は》いあがった。「さあ、きたぜ」と彼は言った。
トムは鍋類の上をまたぎ母親の前に膝《ひざ》をついて坐った。
「いいかね」と彼は言った。「あそこに綿摘み人募集と書いた看板があったのを見ただ。それで、おれは考えただ、みんなといっしょにいて、しかも、何もめんどうを起さねえですむやり方をな。おれの顔がよくなりさえすりゃ、心配もいらねえだが、いまはそうはいかねえだ。ほら、あそこに貨車があっただろうが。あのなかに綿摘み人たちは住むんだ。たぶん、いま、あそこにゃ仕事があるんだろう。どうだい、みんなあそこで仕事をやって貨車に住むことにしたら?」
「おまえは、どうするの?」と母親がたずねた。
「ほら、あの藪《やぶ》だらけの小川があっただろうが。あの藪のなかにかくれてれば、見つからねえだよ。そして夜になったら、おれに何か食べるもんをもってきてくんなよ。ちょっと前、排水渠《はいすいきょ》が一つあるのを見ただ。たぶん、あのなかで眠れると思うだ」
父親が言った。「うん、わしも綿花をいじってみたくなっただ。あそこにゃ仕事があるらしいだな」
「あの貨車は住みいいかもしれないね」と母親が言った。「気持よくかわいててさ。トム、おまえ、かくれていられるような藪があるだかね?」
「あるだよ。おれは気をつけて見ておいただ。ちょっとした、うまいかくれ場所をつくるだよ。顔が直ったら、出てくるだ」
「とってもひどい傷あとが残りそうだね」
「へん! 誰だって傷あとぐれえあるさ」
「わしは一度に四百ポンド摘んだことがあるだぞ」と父親が言った。「もちろんそんときは、えらく収穫のあった年だったがな。みんなで摘めば、ちっとは金がつくれそうだな」
「肉が買えるだ」とアルが言った。「ところで、いまはとりあえず、どうするだ?」
「さっきのところまで走らせなよ。そしてトラックのなかで朝まで眠るだ」と父親が言った。「朝になったら仕事を手に入れるだ。暗かったけども、わしにゃ綿の実が見えただ」
「トムはどうするの?」と母親がたずねた。
「まあ、おれのことは、ちょっと忘れててくれよ、おっ母。おれは毛布を一枚持ってくぜ。あとで、あそこまで戻ったときに見てくれや、とてもいい排水渠があるだから。パンか馬鈴薯《じゃがいも》かお粥《かゆ》でも持ってきて、あそこへおいといてくれればいいだよ。おれがとりに行って勝手に食うだから」
「そんな、おまえ!」
「わしには、それはいいやりかただと思えるだがな」父親が言った。
「いいやりかただよ」とトムが主張した。「おれの顔が、いくらかよくなりさえしたら、出てって綿摘みできるだ」
「じゃ、いいよ」と母親が同意した。「だけど、うかつなことはしないでおくれよ。ここしばらくは誰にも見られないほうがいいだ」
トムはトラックのうしろへ這って行った。「おれは、この毛布を一枚だけ持ってくよ。おっ母、あと戻りしさえすれば、あの排水渠は見つかるだからね」
「気をつけてな」と母親が頼むように言った。「おまえ、気をつけておくれよ」
「うん」とトムは言った。「うん、大丈夫だよ」彼は後部の板をよじのぼり、それから土手に飛びおりた。
「おやすみ」と彼は言った。
母親は、彼が夜のなかにまぎれこみ、流れのそばの草叢《くさむら》へ消えて行くのを見まもった。「ああ、神さま、ほんとにあの子が無事でいてくれますように」と彼女は言った。
アルがたずねた。「お父っさんは、さっき、もとのところまで戻せって言っただな?」
「そうだよ」と父親が言った。
「ゆっくりやっておくれよ」と母親が言った。「あたしはトムの言った排水渠をたしかめてみたいんだから。この目で見とかなくちゃね」
アルは車を後退させ、方向転換できるところまで、そのまま狭い道を運転して行った。ゆっくりと有蓋《ゆうがい》貨車の列のあるところまで走らせた。トラックのライトが、幅ひろい貨車のドアへあがる細い踏板を照らしだした。それらのドアは暗かった。誰一人、夜のなかで動くものもいなかった。アルはライトを消した。
「おめえとジョン伯父は、うしろへのぼるだ」と彼は『シャロンのバラ』に言った。「おれは、この座席で眠るから」
ジョン伯父は重たい娘の体を後部の側板の上に押しあげた。母親は鍋類を重ねて片づけた。家族たちはトラックの後部で、いっしょにかたまり合った。
貨車の一つで赤ん坊が泣いた。長く引っぱる泣き声だ。一匹の犬が小刻みに走ってきた。においをかいだり、鼻を鳴らしたりしながらやってきて、ゆっくりとジョード家のトラックのまわりをまわった。流れる水のさわやかなひびきが川床からきこえてきた。
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第二十七章
『綿摘み人募集』――道ばたに貼《は》りだされた貼札、ばらまかれた広告ビラ、オレンジ色のビラだ――『綿摘み人募集』
ここだ、この道路の先だよ、そう書いてあるぜ。
濃い緑色の植物は、いま、もつれ合っている。そして重い綿の実が莢《さや》にくっついている。ポップコーンのようにはみ出している白い綿の実。
綿の実にさわるのはいい気持のもんだぜ。そっと、指の先でな。
おれはいい摘み手だぜ。
そこに係の人がいるだ。すぐ目の前によ。
綿を摘ましてもらいてえと思うだが。
袋はもってるかね?
いんや、もってねえだよ。
一ドルかかるぜ、この袋は。おまえさんが最初に摘む百五十ポンドから引いとくよ。あの畑じゃ、最初の一ポンドが八十セントだ。二回目からは九十セントだ。ここにある袋をもって行きな。一ドルだぜ。一ドルもってねえんなら、おまえさんの摘む最初の百五十ポンドから差引くよ。不都合はねえだろう、そんならね。
むりはねえだよ。上等の綿袋だもの。一季節は十分使えるだ。そして引きずったり引っくりかえしたりして、それがすり切れたときには、こんどは反対側の端を使うだ。開いてるほうの口を縫っちまって、すり切れたほうの口をあけるのさ。両端がだめになっちまったら、上等の布地になるだ。上等の夏ズボンを一着つくるさ。夜の寝巻をつくるさ。まったくよ――綿袋って便利なもんだ。
さあ、そいつを腰のまわりにぶらさげるだ。股《また》を開いて、両足のあいだで引っぱるんだ。最初は軽く引っぱれるさ。指先が綿を摘みとると、手が両足のあいだにある袋のなかに、くねりながらはいるってわけだ。子供たちは、うしろからついてくる。子供用の袋なんかねえよ――南京《ナンキン》袋を使いな。さもなきゃ、おやじさんの袋に入れるんだな。さあ、袋が重くなったようだ。前にかがんで、引っぱっていくんだ。おれは綿摘みはじょうずなんだ。指先が器用で、すぐに実を探りあてるんだ。しゃべりながらでも、うたいながらでも、それでも袋は重たくなっていくんだ。指が自然と摘むように動くんだ。指は知ってるんだ。目は仕事を見てるだけで――いや実際は何も見てもいねえのさ。
綿花の列のあいだを、しゃべりながら進む――
故郷《くに》にいたころ、ある女が、名前は言いたくねえだが――ある女が、だしぬけに黒人の子供を産んだんだ。誰《だれ》もそれまで気がつかなかった。その黒人を追いまわすことも、とうとうしなかっただが、しかし、とにかくそれ以来、女はもう頭をしゃんとあげていられなくなっちまった。いや、おれは別の話をするつもりだった――その女が、えらく達者な綿摘みだってことをさ。
さあ、袋が重たくなったぞ。力を入れて引っぱってくだ。腰をすえて、荷馬みたいに引きずって行くだ。子供たちは、おやじの袋のなかに摘み入れるだ。ここの綿花は、いい出来だて。低い土地だと、細くなるだよ。細くて、筋張ってるだ。このカリフォルニアの綿花みたいなのは、生れてはじめて見ただ。繊維が長くてよ、おれの見たうちじゃ、とびきり上等の出来だて。おそらく土地をすぐだめにしてしまうにちがいねえだ。人間ってやつは綿畑を買いたがるもんだが――買いなさんなよ。借りたほうがいいぜ。借りといて、その土地があまり収穫がなくなったら、また、どこか新しい土地に移るだ。
畑を横ぎって動いて行く人々の列。指の動き。探る指先が微妙に動いて、綿の莢を見つけだす。目を使う必要は、ほとんどない。
目が見えなくなったとしても綿花は摘めるぜ。綿の実は感じでわかるだ。きれいに摘んじまうだよ。すっきりと、きれいにな。
さあ、袋にいっぱいになっただ。計量器《はかり》のところへもって行くだ。文句をいうだ。計量係のやつ、おまえの袋にゃ石が入れてあるんだろうなんて言いやがるだ。てめえは、どうだい、やつの計量器は、いい加減のところで動かねえようにしてあるだぜ。ときには計量係のほうが正しいこともあるだよ。こっちの袋に石ころがはいってることもあるだ。ときには、こっちが正しいこともあるだ。計量器がごまかしてあるだ。ときには両方正しいだ――石ころがはいってて計量器がいんちきだってこともあるだよ。いつも喧嘩《けんか》さ。遠慮して我慢することはねえぜ。やつらもぺこぺこはしねえだ。石ころの一つや二つ何だい。一つぐらいはいってるかもしれねえよ。二十五ポンドか? いつも口論さ。
さあ、からの袋をさげて帰るだ。おれたちのほうにも帳面がなくちゃいけねえだな。目方をつけるのさ。そうしなくちゃいけねえだよ。もしこっちが目方を書きこんでるとわかれば、向うだって、ごまかしゃしねえからな。しかし、自分で自分の袋の目方をまちがわねえようにしなきゃ、誰も助《す》けちゃくれねえぜ。
こいつは、いい仕事だて。子供らは遊びまわれるしよ。綿摘み機械の話、きいたかい?
うん、きいたことがあるだ。
そいつは、こっちへもくるかな?
さあな、もしそいつがきたら――綿摘み人は追っぱらわれるってことだぜ。
日が暮れただ。みんなくたくただ。だけど、いい仕事だ。三ドルとっただよ、わしとおっ母と子供らとでな。
車の群れが綿花畑のほうへ動いてくる。綿花畑のキャンプ地ができあがる。網を張った高いトラックとトレーラーが白い綿毛を高くつみあげる。綿花は柵《さく》の針金にひっかかる。風が吹くと、綿花は小さな球となって道をころがる。
そして綿花は、服にひっかかり、ひげにへばりつく。鼻をかみな、おめえの鼻のなかにゃ綿花がはいってるぜ。
さあ、馬力をかけろ。暗くなるまでに袋をいっぱいにするだ。実莢《みざや》をさぐる敏感な指。力をこめて前へ進んでは袋を引きずっていく腰。子供たちは、夕方なので、もうくたくただ。女らは耕された地面につまずく。そして太陽は沈んでいく。
長くつづくといいだがな。たしかに、たいした金は稼《かせ》げねえけんど、それでも、ずっとつづいてくれるといいだがな。
国道の上では古自動車の群れが重なり合ってつづく。みんな広告ビラを見てやってきたのだ。
綿袋をもってるかね?
いんや。
それじゃ、一ドルかかるぜ。
仲間が五十人くらいしかいねえとすると、もうしばらくは、やっていけるだよ。だけど五百人もいたんじゃな。これじゃ、とてもつづかねえだよ。誰も自分の袋の代も稼げねえだぜ。仕事にありついて新しい袋を手に入れたところで、そいつが重くならねえうちに畑は摘み終えちまうだでな。
なんとか、すこしは金をためなよ! 冬が駆け足でやってくるだ。冬場になると、カリフォルニアには、何も仕事はねえだぞ。暗くなる前に袋をいっぱいにしろや。あの野郎、土の塊《かたまり》を二つ袋に入れやがった。おれは見たぜ。
ふん、くそっ、かまわねえさ。おれは向うのいんちき計量器《ばかり》に目方を釣合《つりあわ》せるだけさ。
さあ、これがおれの帳面だ。三百十二ポンドだ。
いいとも!
あれ、やつは、ちっとも文句を言わねえぜ! きっといんちき計量器を使ってるにちげえねえだ。とにかく、きょうはいい日だったな。
千人もの人間が、いまこの畑へおしかけてくる途中だという話だぜ。あしたは、うんと馬力かけようや。大急ぎで綿花をひんむしろうぜ。
『綿摘み人募集』摘み手がふえれば、それだけ綿繰機もよく動くわけだ。
さあ、綿花畑のキャンプ地へ。
今夜は脇肉《わきにく》か。すげえな! 脇肉が買えるだけ稼いだだ! 小さい連中に手をかしてやんなよ、すっかりくたびれちまってるだから。先に走ってって脇肉を四ポンド買っといてくれ。おっ母が今夜は、うまいパンをつくってくれるぜ。もし、くたびれきっていなければな。
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第二十八章
川岸の低地に、有蓋《ゆうがい》貨車が十二台、端と端とを接して並んでいた。六台ずつ二列になり、車輪はすっかりとりはずされていた。大きな引戸のところまで、すべりどめの桟《さん》をつけた踏板が梯子《はしご》段代りに渡してあった。雨や隙間風《すきまかぜ》もはいらず、住みよい家になっていた。一|車輛《しゃりょう》を二つにわけて、合計二十四家庭がはいれるわけだ。窓はないが、幅のひろいドアがあけっぱなしになっていた。中央に帆布をたらしている車もあれば、ドアの位置だけが二家庭の境になっている車もあった。
ジョード家は後尾の貨車の片すみを手に入れた。誰《だれ》か前に住んでいた人が石油|缶《かん》ストーブの煙突を備えつけ、壁にその煙突用の穴までつくってくれていた。幅のひろいドアをあけておいても、車のすみは暗かった。母親は車の中央に防水布をたらして仕切りをした。
「すてきだね」と彼女は言った。「いままでにあたしたちが住んだところで、こんなにすてきなのはなかったよ。国営キャンプは別だけど」
彼女は毎晩床にマットをひろげ、朝になると、またそれを巻いて片づけた。家族のものは、毎日畑に出かけて綿を摘み、夜になると、肉を食べた。ある土曜日、みんなで車に乗ってトゥーレリへ行き、ブリキのストーブと、アルと父親のために新しい仕事着を、また母親にはドレスを買ってきた。母親の一張羅《いっちょうら》のドレスは『シャロンのバラ』が譲りうけた。
「あの娘《こ》はお腹が大きくなってるだから」と母親は言った。「いまあの娘に新しいドレスを買うなんて、もったいないよ」
ジョード家は運がよかった。早くやってきたので、貨車の部屋を手に入れることができたのだ。あとからきた連中は狭い岸いっぱいにテントを張っていた。貨車にいる連中は、古顔で、ある点では貴族階級だった。
細い川が柳の木の群れからすべるように流れ出て、また柳の群れのなかに流れ入っていた。一つ一つの貨車から踏みならされた小道が川のほうにおりていた。貨車と貨車とのあいだに干し物綱が張ってあって、毎日|洗濯物《せんたくもの》が隙間《すきま》なく干してあった。
夕方になると、人々は折りたたんだ綿袋をかかえて、畑から戻《もど》ってきた。そして十字路にある売店へはいって行った。そこでは綿摘み人がたくさん集まって食料品を買っていた。
「どのくらい稼《かせ》いだね。きょうは?」
「おれたち、かなり稼いだぜ。三ドル半だ。娘のやつが元気ならなあ。子供たちも、だんだん摘むのがうまくなっただよ。おっ母が子供たちに小さな袋を一つずつあてがっただ。子供たちにゃ大人の袋は引っぱれねえだでね。摘んだやつは、おれたちの袋のなかへ投げこむってわけよ。袋は古シャツを二つつぶしてつくっただよ。なかなかぐあいがいいだぜ」
母親は人差し指を唇《くちびる》にあて、その指に息を吹きかけて、考えこみながら肉売り場へ出かけた。
「骨つきの豚肉でももらおうかね」と彼女は言った。「いくらだね?」
「一ポンド三十セントだよ、おかみさん」
「じゃ、三ポンドおくれ。それから煮物にする牛肉のいいとこを一きれね。娘が、あした料理して食べるのさ。それにミルクを一本、これも娘のだよ。あの娘《こ》ったら、ミルクをほしがってね。もうじき赤ん坊が生れるんだよ。看護婦がうんとミルクを飲めって言ったんだとさ。ええと、それから馬鈴薯《じゃがいも》ももらおうかね」
父親が近よってきた。両手でシロップの缶を一つ持っていた。「これ、買おうか」と彼は言った。「ホットケーキでもつくろうや」
母親は眉《まゆ》をしかめた。「え――ええ、いいわ。じゃ、こっちのを買おう。さてと――ラードはたくさんあるし」
ルーシーが近づいてきた。両手にクラッカー・ジャックの大箱を二つ持っていた。瞳《ひとみ》のなかに思いつめた思案の色をこめていて、母親が頭を縦にふるか横にふるかで、悲劇にもなれば、よろこびの興奮にも変る顔つきだった。「おっ母さん、これ?」ルーシーは箱をさしあげ、ほしくてしようがないといったふうに上下に動かしてみせた。
「さあ、返しておいで、それを――」
ルーシーの瞳のなかに悲劇が生れそうになった。父親が口を出した。「一箱で、たかがニッケル一枚じゃねえか。きょうは子供たちも、よく働いたしよ」
「そんなら――」ルーシーの瞳のなかに興奮がこっそり忍びこみはじめた。「いいよ」
ルーシーは、くるりと身をひるがえして飛んで行った。ドアへ行く途中で、ルーシーはウィンフィールドをつかまえ、すごい勢いで彼を外へつれ出した。そして二人とも夕闇《ゆうやみ》のなかに見えなくなった。
ジョン伯父は、手のひらの部分が黄色い皮になっているキャンバスの手袋をいじっていた。そして、はめたり、脱いだりしたあげく、また売場へ戻《もど》した。それから、おもむろに酒壜《さかびん》の並んでいる棚《たな》のほうににじりより、立ちどまって、壜のレッテルを、まじまじとながめた。母親が、その伯父の姿を認めた。「お父っさん」と彼女は言い、ジョン伯父のほうに顎《あご》をしゃくって見せた。
父親は、ぶらぶらジョン伯父のほうへ歩いて行った。
「飲みてえのかい、ジョン?」
「いや、そんなこたねえだよ」
「綿摘みが終るまで、なんとか待ってくれや」と父親が言った。「それからなら、好きなだけ飲みなよ」
「ちっとも、ほしくねえだよ」とジョン伯父は言った。「近ごろは、よく働いて、よく眠れるで、夢も何も見やしねえだ」
「なんだか、壜をながめて、よだれたらしているようだったぜ」
「見てたってほどでもねえさ。妙なことだて、くだらねえものが、ほしくなるだ。いりもしねえようなものがね。安全|剃刀《かみそり》がほしくなったりよ。その手袋も、ほしかっただ。ばかに安いだでね」
「手袋をはめちゃ綿は摘めねえだぜ」と父親が言った。
「そりゃ知ってるけどね。安全剃刀だって、別にいるわけじゃねえだ。そこに並んでるがらくたを、いろうがいるまいが、ただわけもなく買いたくなっただけよ」
母親が声をかけた。「さあ、買いものはすんだよ」彼女は袋を持っていた。ジョン伯父と父親は、それぞれ包みを一つずつ手にした。外ではルーシーとウィンフィールドが待っていた。二人は目を大きく見開き、クラッカー・ジャックを、いっぱい頬《ほお》ばっていた。
「晩めしが食べられないよ」と母親が言った。
人々が貨車のキャンプのほうへ、ぞろぞろと歩いて行った。テントには灯《ひ》がともっていた。煙がストーブの煙突から立ちのぼっていた。ジョード家の家族は踏板をあがって、貨車のなかの部屋にはいった。『シャロンのバラ』は、ストーブの横の箱に腰かけていた。彼女はもうストーブを燃やしていた。ブリキのストーブは、熱のために葡萄色《ぶどういろ》になっていた。
「ミルク、買ってきてくれた?」と彼女はたずねた。
「うん、ここにあるよ」
「ちょうだい。お昼からミルク飲んでないのよ」
「この娘ったら、薬だと思ってるよ」
「でも看護婦さんが、そう言ったわ」
「馬鈴薯《じゃがいも》は用意しといたかい?」
「ええ――皮をむいといたわ」
「フライにしようかね」と母親は言った。「豚肉を買ってきたよ。馬鈴薯を切って、新しいフライパンに入れておくれ。それに、玉葱《たまねぎ》もまぜてね。さあ、みんな表へ行って手を洗ったら、バケツに水を入れてきておくれ。ルーシーとウィンフィールは、どこにいるの? 手を洗わせなくちゃ。二人ともクラッカー・ジャックを買ったんだよ」と母親は『シャロンのバラ』に話しかけた。「二人とも一箱ずつ買ったんだよ」
男たちは外へ出ると川で手を洗った。『シャロンのバラ』は馬鈴薯を薄切りにしてフライパンに入れ、ナイフの先でかきまわした。
不意に帆布が押しあけられた。隣の部屋から、頑丈《がんじょう》な、汗に濡《ぬ》れた顔がのぞきこんだ。「どうだったかね、仕事のぐあいは、ジョードのおかみさん?」
母親は、くるりとふりむいた。「おや、今晩は、ウェンライトのおかみさん。きょうはよくやっただよ。三ドル半稼いだだ。三ドル五十七セントさ、細かくいえばね」
「うちじゃ四ドル稼いだよ」
「そうでしょうね」と母親は言った。「お宅は人手が多いから」
「そう、ジョナスも大きくなったしね。おや、豚肉のご馳走《ちそう》だね」
ウィンフィールドがドアからこっそりはいってきた。「おっ母さん」
「すこし黙っといで。ええ、うちの連中が、とても好きなもんでね」
「あたしゃ、ベーコンを料理してるよ」とウェンライトのおかみさんが言った。「ベーコンの匂《にお》いがしないかね?」
「いいえ――こっちも馬鈴薯に玉葱をまぜていためてるんでね、匂いませんよ」
「あの子ったら、こがしてるよ!」とウェンライトのおかみさんは叫んで、急いで頭を引っこめた。
「おっ母さん」とウィンフィールドが言った。
「何さクラッカー・ジャックで、お腹《なか》でも痛めたのかい?」
「おっ母さん――ルーシーがしゃべったよ」
「しゃべったって――何をさ?」
「トムのことを」
母親は目を大きく見開いた。「しゃべったって?」それから彼女はウィンフィールドの前に膝《ひざ》をついた。「ウィンフィール、誰にしゃべったの?」
ウィンフィールドは困った顔をして、すこし後ずさりした。「うん、ほんのちょっと、しゃべっただけだよ」
「ウィンフィール! さあ、あの子が、どんなことを言ったか、話してごらん」
「ルーシーは――ルーシーは、クラッカー・ジャックを、みんな食べなかったよ。すこしとっといて、一度にひとっかけずつ、ゆっくり、いつもみたいに食べて、そして、『ウィンフィール、きっと、おまえだって、とっとけばよかったと思うよ』って言ったんだよ」
「ウィンフィール!」と母親は詰問《きつもん》した。「さあ、話してごらん」彼女は神経質にカーテンのほうをふりむいた。「ローザシャーン、おまえ、ウェンライトのおかみさんとこへ行って、おしゃべりしておいで。そうすりゃ、こっちの話、きかれねえだから」
「馬鈴薯《じゃがいも》、どうするの?」
「あたしが見るからさ。さあ、行っておくれ。あの人にカーテンのところできかれたくねえだからね」娘は、だるそうに足を引きずって貨車のなかを歩いて行き、かかっている防水布の脇《わき》をまわって行った。
母親は言った。「さあ、ウィンフィール、話してごらん」
「あのね、ルーシーは一どきに一きれずつしか食べないの。一つを二つに割ったりして、あとまで長持ちさせようとしたんだよ」
「さあ、もっと急いで話しな」
「そしたらね、よその子が二、三人やってきたんだ。そしてクラッカーをもらおうとしたの。だけどルーシーはすこしずつかじってて、一つもやらなかったんだ。だもんだから、みんな怒っちゃって、一人の子がルーシーのクラッカー・ジャックの箱をひったくっちまったんだ」
「ウィンフィール、その話でないほうを早く話しな」
「話すよ」と彼は言った。「それで、ルーシーも怒って、その子たちを追いかけたんだ。そして、一人と喧嘩《けんか》して、それからまた別の一人と喧嘩したんだ。そしたら、大きな女の子がやってきて、こんどはルーシーをぶったんだ。とてもきつくぶったんだよ。それでルーシーは泣きだして、大きな兄さんに言いつけて、おまえなんか殺してやるって言ったんだ。そしたら、その大きな女の子が、へえ、そうかい、あたしだって大きな兄さんがいるんだよって、そう言ったんだ」ウィンフィールドは、しゃべりながら息をはずませた。「それから、二人でまた喧嘩して、大きな女の子が、ルーシーを、ひどくぶったんだ。そしたらルーシーは、うちの兄さんに、おまえの兄さんを殺してもらうからって言ったんだ。すると大きな女の子が、うちの兄さんが、おまえの兄さんを殺したらどうする? って言ったの。そしたら――そしたら、ルーシーは、うちの兄さんは、もう二人も人を殺したことがあるんだよって、そう言ったんだ。そいで――そいで――こんどは大きな女の子が、『へえだ! おまえなんか大嘘《おおうそ》つきだ』って言ったの。そしたらルーシーが、へえ、そうかい、うちの兄さんは、人殺しをしたので、いまかくれているんだよ、おまえの兄さんだって殺せるんだよ、って言ったんだ。それからまた二人で口喧嘩して、こんどはルーシーが石を投げたら、大きな女の子はルーシーを追いかけてきたんだ。それから、おいら、帰ってきたんだよ」
「ああ!」と母親は疲れたように言った。「ああ、秣桶《かいばおけ》に眠りたもうわが主イエスさま、どうしたらいいのでしょう?」彼女は手に額をうずめ、両の目をこすった。「どうしよう?」燃えさかるストーブから馬鈴薯《じゃがいも》のこげるにおいがした。母親は本能的にストーブのところへ行って、馬鈴薯を引っくりかえした。
「ローザシャーン」と母親は呼んだ。娘が防水布の垂幕《たれまく》から姿をあらわした。「ここへきて夕食を見ておくれ。ウィンフィール、ルーシーをさがしてここへつれておいで」
「ルーシーをぶつのかい、おっ母さん?」と彼は、うれしそうにたずねた。
「ぶたないよ。こうなったら、どうしようもないさ。ほんとに、まあ、どうしてあれをしゃべっちまったんだろう。いいえ、ルーシーをぶったって、何のたしにもなりゃしないよ。さあ、駆けだして行って、ルーシーをさがしておいで!」
ウィンフィールドは貨車のドアに向って駆けだした。出がけに、家のものが三人、踏板をのぼってくるのに出会った。三人が、なかにはいるあいだ、ウィンフィールドは、わきに立っていた。
母親は静かに言った。「お父っさん、話があるんだよ。ルーシーが、どこかよその子供に、トムのかくれてることをしゃべっちまったんだって」
「何だと?」
「あの子がしゃべっちまったんだって。喧嘩をしたあげくね」
「ちえっ、あのばか娘が!」
「いいえ、あの子は、何をしたのか、自分のしたことがわからないんだよ。ねえ、お父っさん、おまえさんに、ここにいてもらいたいんだけどね。あたしは表へ行ってトムをさがして、このことを話してくるだよ。気をつけるようにと言ってやらなきゃね。おまえさんは、ここにいておくれな、お父っさん。そして様子を見てておくれ。あたしは食べものをトムに持ってってやるだから」
「いいとも」と父親は同意した。
「ルーシーには口でしかることもしないでおくれよ。あたしがなんとかうまくいうからね」
そのとき、ルーシーがはいってきた。うしろにウィンフィールドがいた。少女はよごれていた。口はべたつき、鼻からは血がしたたっていて、喧嘩の跡を示していた。恥ずかしそうに、おどおどしていた。ウィンフィールドは、得意になってルーシーのあとからついてきた。ルーシーは、きつい目であたりを見まわしたが、やがてすみのほうへ行って、そこで背を向けた。屈辱と怒りがルーシーの内部でまじり合っていた。
「姉ちゃんのこと、おっ母さんに言いつけてやったよ」ウィンフィールドは言った。
母親はブリキの皿《さら》に二つのポーク・チャップと、いためた馬鈴薯をのせていた。「お黙り、ウィンフィール」と彼女は言った。「あの子はもう痛めつけられてるんだよ。だから、これ以上怒らすことはないよ」
ルーシーの体が、貨車のなかを、はげしく横ぎってきた。母親の腰に両手をまわし腹のあたりに額をうずめた。そして、窒息するような声をあげ、全身をふるわせて、すすり泣いた。母親は娘を引きはなそうとしたが、よごれた手は固くまつわりついてはなれなかった。母親は、やさしくルーシーの髪の毛を額のうしろになでつけてやり、それから、やさしく肩をたたいた。「泣くんじゃないよ」と彼女は言った。「おまえは、何も知らなかったんだものね」
ルーシーは涙と血の跡のついたよごれた顔をあげた。
「あたしのクラッカー・ジャックとられちゃったわ!」と彼女は叫んだ。「あの大きな、ばかたれの女の子が、あたしをぶったのよ――」彼女は、またはげしく泣いた。
「静かにして!」と母親は言った。「そんな言い方をするもんじゃない。さあ、あたしはこれから用があるからね」
「どうしてぶたないの、おっ母さん? ルーシーがあんなに、けちけちしてクラッカー・ジャックを食べなけりゃ、こんなこと起きなかったんだよ。ねえ、ルーシーをぶってやんなよ」
「よけいなおせっかいしなくてもいいだよ」と母親は、きびしく言った。「こんどは、おまえがぶたれるよ。さあ、もうおよし、ルーシー」
ウィンフィールドは、巻いて片づけたマットレスのほうに引っこむと、冷笑するように、つまらなそうに家族たちを見つめていた。彼は防御しやすい姿勢をとった。隙があればルーシーが飛びかかってくるかもしれないからだ。ウィンフィールドには、それがわかっていた。ルーシーは静かに、がっかりしたように部屋の片すみへ歩いて行った。
母親はブリキの皿に新聞紙をかぶせた。「さあ、あたしは行くよ」と彼女は言った。
「おまえさんは何も食べねえのかね?」とジョン伯父がたずねた。
「あとでね。帰ってからにするよ。いまは何もほしくねえだ」母親は開いたドアのほうへ歩いて行った。桟《さん》をつけた急な踏板を、一歩一歩、踏みしめるようにしておりた。
貨車の群れと川岸とのあいだには、テントが隙間もなく張りめぐらされていた。綱が、たがいに交差し合い、一つのテントの留杭《とめぐい》が他のテントの綱にはいりこんでいた。灯火がテントの布をすかしてかがやいており、どこの煙突も煙を吐いていた。男や女たちが方々の入口で立話をしていた。子供たちは、熱心に、あたりを駆けまわっている。母親はテントのあいだをむずかしい顔をして歩いて行った。進むにつれて、そこ、ここから声をかけられた。「今晩は、ジョードのおかみさん」
「今晩は」
「ご馳走を持ってくのかね、ジョードのおかみさん?」
「お友達がいるんでね。パンをすこし返しに行くんですよ」
やっとテントの列の端まできた。彼女は、ふと立ちどまって、うしろを見た。灯火のかがやきが、キャンプ地のほうに見えた。話をしている大勢の人々のやわらかい話し声がきこえた。ときどき、甲高《かんだか》い声が、その低い声のざわめきを破った。煙のにおいが空気中に満ちていた。誰《だれ》かが静かにハーモニカを吹いていた。調子を調べるために一つの節を幾度もくりかえしやっていた。
母親は川ばたの柳の木立のあいだにはいった。そして小道からそれると、立ちどまって息をひそめ、誰かあとをつけてくるものはないかと耳をすました。一人の男が道をキャンプ地のほうへ歩いてきた。歩きながらサスペンダーを押しあげ、ズボンのボタンをはめていた。母親は、じっと静かに坐っていた。男は彼女に気づかず通りすぎた。彼女は五分ほどそのまま待ち、それから立ちあがって、川岸の小道を足音を忍ばせて歩いて行った。静かな歩き方だ。あまり静かなので、彼女の耳には、柳の落葉の上を歩く自分のやわらかい足音に重なって、水のささやきがきこえた。小道と川は左に折れ、それからまた右に折れ、ついに国道に近づいた。薄い星の光に、堤防が見え、排水渠《はいすいきょ》の黒い丸穴が見えた。いつも彼女がトムの食物をおいておく穴だ。母親は注意深く前に進んで、穴に包みを押しこみ、そこにおいてあるからのブリキ皿をとった。それから這《は》うようにして、柳の木立のなかに戻り、茂みのあいだにはいって、坐って待っていた。もつれた枝葉のあいだから、排水渠の黒い穴が見えた。彼女は膝を抱きしめ、おし黙って、坐っていた。すこしのあいだ、茂みが、ふたたび、かさこそとざわめいた。野鼠《のねずみ》が葉の上をそろそろと動いた。スカンクが一匹、だるそうに、のろのろ歩いて、知らぬまに小道のほうに出て行った。悪臭が、かすかにあとに残った。やがて風が、ためすように柳の群れを低くそよがせた。すると金色の葉の驟雨《しゅうう》が地面に降りそそいだ。不意に突風が吹いて木々をはげしくゆり動かした。葉が痛くなるほどたくさん落ちてきた。母親は、葉を髪や肩に感じた。空には、むくむくと黒雲が動いて、星を消していった。大粒の雨が撒《ま》くように降ってきて、落葉の上で音高くはねた。それから雲が動くと、また星があらわれてきた。母親は身をふるわせた。風が吹きすぎていくと、藪《やぶ》は静まりかえった。しかし木々のざわめきは川の下のほうまでひびいた。背後のキャンプ地のあたりから、一つの旋律を探っているバイオリンの細く通る調べがきこえた。
母親は、はるか左手のほうに、落葉のなかを忍び歩く足音をきいた。彼女は緊張した。膝を伸ばし、頭をまっすぐにあげ、もっとよくきこうと耳をすました。動きはとまり、ふたたびそのあとに長い一瞬一瞬がはじまった。かわいた落葉の上で、蔓草《つるくさ》が、荒々しくきしった。母親は空地《あきち》に這いこんで排水渠に近づく黒い影を見た。一瞬、黒い丸穴が見えなくなり、それから黒い影は引きかえして行った。彼女は、そっと呼びかけた。「トム!」影は静かに立ちどまった。あまり静かに、あまり姿勢を低くして地上にとどまったので、それは、まるで木の切株のようだった。彼女は、ふたたび呼んだ。「トム、ねえ、トム!」すると、その影が動いた。
「おっ母かい?」
「ここにいるんだよ」彼女は立ちあがると、彼に会うために歩いて行った。
「きちゃいけねえのにな」と彼は言った。
「どうしても会わなきゃならなかったのさ。話があるんだよ」
「ここは小道に近いところなんだぜ」と彼は言った。「誰か来あわせねえともかぎらねえだ」
「どこか、いい場所はないかい、トム?」
「あるよ――だけど、もし――なあ、誰か、おれとおっ母がいっしょにいるところを見たら――家じゅうのものが困るだよ」
「でも仕方がないんだよ、トム」
「じゃ、きなよ。そっとだよ」彼は小さな流れにはいって、慎重にそこを渡り、母親も、そのあとについて行った。トムは茂みのなかを通りぬけ、藪の反対側の原に出ると、畦《あぜ》のある畑に沿って歩いて行った。黒々とした綿の茎が、地面を背にして、とげとげしく生え、綿の花が、すこしばかりその茎に引っかかっていた。二人が畑の端に沿って四分の一マイルほど行くと、トムはまた茂みのなかにまがりこんだ。そしてブラックベリーのまるい大きな茂みに近づき、そこに身をかがめて、もつれた蔓草のかたまりを脇にとりのけた。「這ってはいんなよ」と彼は言った。
母親は手と膝で四つんばいになってはいった。下は砂地らしい。すぐ、まるい茂みの黒い内部が彼女の前に開けた。土の上に敷いてあるトムの毛布が手さぐりでわかった。トムは蔓草を元どおりにした。穴のなかには光がなかった。
「どこにいるんだい、おっ母?」
「ここだよ、ほら、ここだよ。静かに話しなよ、トム」
「大丈夫だよ。ここしばらく、まるで兎《うさぎ》みてえに暮してきただ」
トムがブリキ皿のおおいをとる音がきこえた。
「ポーク・チャップと馬鈴薯《じゃがいも》のいためたのだよ」と彼女は言った。
「すげえな。まだ温かいぜ」
母親は、暗黒のなかにいるトムの姿は見ることができなかったけれど、噛んだり、肉を裂いたり、のみこんだりする音はきこえた。
「すばらしいかくれ家だよ」と彼は言った。
母親は、おどおどしながら言った。「トム――ルーシーが、おまえのことをしゃべっちまっただよ」
トムの、ぐっとのみこむ音がきこえた。「ルーシーが? どうしてだい?」
「それがね、あの子のせいじゃないんだよ。よその子と喧嘩をしてね、うちの兄さんが、おまえんとこの兄さんをぶってやる、なんて言ったのさ、ほら、子供がよくやるじゃないか。そして、うちの兄さんは人を殺してかくれているんだって、おしゃべりしちゃったんだよ」
トムは、くすくす笑った。「おれの小さい時分にゃ、いつも子供たちをジョン伯父にぶってもらおうとしたんだけど、伯父貴はやってくれなかっただ。なあに、子供って年じゅうそんなことをいうだよ。おっ母、心配するこたねえだ」
「いや、そうじゃないよ」と母親は言った。「相手の子供たちが言いふらして歩くだろう。そして大人連中は、それをきいて、またしゃべってまわり、それから、そうさ、ひょっとすると、いるかもしれないというんで、男たちが、探しまわるだよ。トム、おまえ、ここからどこかへ行っちまったほうがいいだよ」
「そりゃ、おれがいつも言ってることじゃねえか。おっ母が、あの排水渠に食べものをおきにくるところを、誰かに見られやしねえかと、おれは、いつもびくびくしてただ。それに見張ってるやつがいやしねえかと、それも気になるだよ」
「わかってるよ。けど、あたしは、おまえに近くにいてもらいたかったんだよ。おまえのことが気がかりでね。あたしは、おまえの顔を見てなかった。ここじゃ見えないね。顔のぐあいはどうなの」
「どんどんなおってきてるだ」
「近くにおより、トム。手でさわらせておくれ。さあ、こっちへよって」トムは母親のそばへ這ってきた。彼女は手をのばして暗闇《くらやみ》のなかにトムの顔を探りあて、指を鼻に這わせ、それから左の頬《ほお》をまさぐった。「大きな傷じゃないか、トム。鼻もまがっちゃったし」
「まあ好都合というもんさ。これなら、誰にも、おれだってことがわからねえだろうからね。指紋が登録されてなかったら、これで安心なんだが」彼はまた食事にとりかかった。
「しいっ!」と彼女が言った。「音がするだ!」
「風だよ、おっ母。風の音さ」はげしい突風が川に注ぎこみ、木々は風の下で、かさかさと鳴った。
彼女は彼の声のするほうに這いよった。「もう一度さわらしておくれ、トム。まるで盲目みたいだね、こんなに暗いんで。でも、指ざわりででもいいから、あたしはおまえをよくおぼえておきたいんだよ。逃げなくちゃね、トム」
「うん! はじめっから、おれはそうなると思ってただよ」
「うちじゃ、ずいぶん稼いだからね」と母親は言った。「あたしはお金を貯《た》めてたんだよ。手をお出し、トム、ここに七ドルあるだ」
「おっ母の金はもらわねえだよ」と彼は答えた。「どうにかやっていけるだ」
「手を出しなったら、トム。おまえが一文なしでいたんじゃ、あたしは夜も眠れないよ。おまえだってバスに乗ったり何かしなくちゃならないんだよ。あたしは、うんと遠くへ行ってもらいたいんだよ、三百マイルも四百マイルも遠くへね」
「金をもらうわけにゃいかねえだな」
「トム」と母親は、きびしく言った。「おまえ、このお金を、とらなくちゃいけないよ。わかるかい? おまえは、あたしを苦しめる権利はねえだよ」
「勝手な言い方だな」トムは言った。
「どこか大きな町へ行ったほうがいいだよ。ロサンゼルスあたりへさ。あんなとこへ行けば、おまえを探してつかまえる人なんていないからね」
「う――うん」と彼は言った。「なあ、おっ母、おれは日がな一日、夜だって、ひとりぼっちでかくれてるんだ。それでいったい、誰のことを考えてると思うだ? ケーシーのことだて! あの男は、おれに、いろんな話をしてくれただ。うんざりするほどな。でも、いまになってみりゃ、おれは、やつの言ったことばかり考えるだ。おれは、やつの話をおぼえてるだよ――すっかりな。あるとき、やつは自分の霊を見つけるために荒野へ出かけたんだそうだ。そして、自分だけの霊なんてものはないということに気がついたんだそうだ。ただ自分は偉大な霊の一部分をもっているだけだってことがわかったんだそうだ。荒野なんてものは、何の役にもたたねえ。なぜって、やつのもってる霊の一かけらは、残りの一かけら一かけらといっしょになり、全体のものとなるんでなけりゃ役にたたねえからというわけだて。おれが、こんな話をおぼえているなんておかしな話さ。自分じゃ、きいてたつもりもなかっただでな。でも、おれは、いま気がついただよ、人間、一人ぼっちでは、何の役にもたたねえってことをな」
「あの人は、いい人だった」と母親が言った。
トムはつづけた。「やつは、いつか聖書の文句か何かをしゃべりまくっていたっけ。地獄の責め苦のような聖書の文句じゃなかった。二度話してくれたで、おれはおぼえてるだ。『伝道の書』に出てる文句だって言ってたよ」
「どんな文句だい、トム?」
「こうなんだ、『二人は一人に愈《まさ》る、そはその労苦《ほねおり》のために善報《よきむくい》を得ればなり。即《すなわ》ち、その跌倒《たおる》る時には一箇《ひとり》の人その伴侶《とも》を扶《たす》け起すべし。然《され》ど孤身《ひとり》にして跌倒《たおる》る者は憐《あわ》れなるかな。これを扶け起す者なきなり』これはその一部分だよ」
「きかしておくれ」と母親は言った。「先をつづけておくれよ、トム」
「じゃ、もうすこしな。『又二人ともに寝《いぬ》れば温暖《あたたか》なり。一人ならば争《いか》で温暖《あたたか》ならんや。人もしその一人を攻撃《せめうた》ば二人してこれに当るべし。三根《みこ》の縄《なわ》は容易《たやす》く断《きれ》ざるなり』」
「それ、聖書の文句かい?」
「ケーシーがそう言っただよ、伝道の書って名前だったぜ」
「しいっ――何か音がするだよ」
「風さ、おっ母、おれはよく風の音を知ってるだ。おれは考えてるだよ、おっ母――たいていのお説教は、貧乏人のことを言ってるだ。これからもずっと、おれたちがいっしょに暮すような貧乏人のことをね。それも、もし何ももってないときにも、じっと手をこまねいて、おとなしく我慢してろ、死ぬときにゃ恩寵《おんちょう》にあずかれるっていうだ。ところが伝道の書には、二人は一人に愈《まさ》る、そはその労苦《ほねおり》のために善報《よきむくい》を得ればなり、って言ってるだよ」
「トム」と母親が言った。「おまえは、何をするつもりだい?」
トムは長いこと黙っていた。「おれは考えてるだ、あの国営キャンプでやったことをな。おれたちが、おれたちの手でやったことをさ、喧嘩《けんか》があったときは、おれたちの手で決着をつけたじゃねえか。鉄砲をふりまわすお巡りもいなかっただ。それでも、お巡《まわ》りの力でつくりあげる以上の秩序があっただ。おれは、もう一度ああいうふうにできねえわけはねえと思うだよ。おれたちの味方でねえお巡りなんざ、おっぽりだすのさ。みんなで、自分のために、共同して働くのさ――みんなおれたち自身の土地を耕してね」
「トム」と母親はくりかえした。「おまえ、何をするつもりなんだい?」
「ケーシーのやったことさ」と彼は言った。
「でも、あの人は殺されちまったよ」
「うん」とトムは言った。「やつは、家鴨《あひる》みてえにすばやく頭をひっこめなかったからさ。やつは何も法律を犯すようなことはしてなかっただ。おっ母、おれは、ずいぶん考えただよ。豚のように生きているおれたちの仲間のことや、むざむざ眠ってる豊かな土地のことや、それに百万エーカーももってる野郎のことなどをね。一方じゃ何十万という農民が飢えてるだ。おれたちの仲間が力を合わせて、このあいだの連中みたいにどなりだしたら、どうだろうと考えるだ。もっともフーパー農園のときは人数がすこし足りなかったけんどね――」
母親は言った。「トム、おまえは追いたてられて、しまいにゃ、あのフロイドの息子みたいに殺されちまうだよ」
「どっちにしたって、おれは追われるだよ。あいつらは、おれたちの仲間を、みんな追っぱらおうとしてるだ」
「おまえ、誰かを殺すつもりじゃないだろうね、トム?」
「しねえよ。おれは考えてただよ、おれがお尋ね者でいるあいだは、ひょっとすると、やりかねねえだが――くそっ、どうもまだよく考えてねえらしいや。よくわからねえだよ、おっ母。けんど、まあ、おれのことは心配しなくてもいいだよ。心配しねえでくれよ」
二人は黙って、蔓におおわれた洞穴《ほらあな》の、石炭のような暗黒のなかに坐っていた。母親が言った。
「これから先、おまえの消息は、どうすりゃ知れるだかね? おまえが殺されても、あたしの耳には届かねえだろうしね。おまえはけがさせられるかもしれない。どうすりゃ便りがきけるだろうね」
トムは、あいまいに笑い声をあげた。「そうだな、ケーシーが言ったように、人間、自分だけの霊なんてものはもっちゃいねえだ、ただ大きな霊の一部分をもっているだけなのかもしれねえ――そうとすりゃ――」
「そうとすりゃ、何だい、トム?」
「そうとすりゃ、何でもねえじゃねえか。つまり、おれは暗闇のどこにでもいるってことになるだもの。どこにでも――おっ母が見さえすりゃ、どこにでもいるだ。パンを食わせろと騒ぎを起せば、どこであろうと、その騒ぎのなかにいるだ。警官が、おれたちの仲間をなぐってりゃ、そこにもおれはいるだよ。ケーシーが知ったら、何ていうかわからねえだが、仲間が怒って大声を出しゃ、そこにもおれはいるだろうて――お腹《なか》のすいた子供たちが、食事の用意ができたというんで、声をあげて笑ってれば、そこにもおれはいるだ。それに、おれたちの仲間が、自分の手で育てたものを食べ、自分の手で建てた家に住むようになれば、そのときにも――うん、そこにも、おれはいるだろうよ。わかるかい? ちえっ、おれの話し方、ケーシーに似てきやがっただ。あまりケーシーのことを考えすぎたからだね。ときどき、やつの姿が目に見えるような気がするだよ」
「あたしにゃ、何のことやらわからねえだ」と母親が言った。「ほんとにわからねえだよ」
「おれだってさ」とトムは言った。「ただ、おれは近ごろ、いま言ったようなことを、あれこれ考えるだよ。ひとところに、じっとしてると、やたらに考えるようになるもんだね。もう帰らなくちゃいけねえだぜ、おっ母」
「じゃ、このお金をとっておくれ」
彼は、すこしのあいだ黙っていた。「いいとも」と彼は言った。
「それからね、トム、あとで――ほとぼりがさめたら、帰ってくるんだよ。そのとき、あたしたちのいるところがさがしだせるかね」
「大丈夫さ」と彼は言った。「さあ、もう行ったほうがいいだ。ほら、手をかしなよ」彼は母親を入口のほうへ導いて行った。母親の指は彼の手首をつかんでいた。トムは蔓草のかたまりをとりのけて母親を外へつれだした。「畑をどんどん行くと、その果てに鈴懸《すずかけ》の木が一本あるだ。そしたら、こんどは川を渡るだよ。さよなら」
「さよなら」と母親は言い、足早に歩いて行った。目は濡《ぬ》れて燃えるようだったが、泣きだしはしなかった。足音が高くひびいた。茂みのところを通って行くときにも、落葉を踏む音にも無頓着《むとんちゃく》な足どりだった。そのうちに、薄暗い空から大粒の雨が、ぽつりぽつりと降りはじめた。それはかわいた葉に重たくはねかえった。母親は足をとめ、滴《しずく》の落ちる茂みのなかに、じっと立っていた。それから、くるりとふりむいた。三歩ばかり、蔓草の茂みの方向に戻《もど》った。それからまた、すばやく向きを変え、貨車のキャンプ地のほうへ歩いて行った。母親は、まっすぐに排水渠《はいすいきょ》に出ると、小道にのぼった。雨は、もうやんでいたが、空は曇っていた。小道のうしろのほうに足音がきこえた。彼女は敏感にふりかえった。ぼんやりした懐中電灯の光が道路に踊っていた。母親はまた前を向いて家のほうに足を向けた。たちまち男は母親に追いついた。礼儀正しく、男は光を地上にあてたままで、母親の顔を照らしたりはしなかった。
「今晩は」と彼は言った。
「今晩は」と母親が答えた。
「すこしばかり雨が降りそうですな」
「いやですね。綿が摘めませんからね。あたしたち、綿摘みができねえと困りますだよ」
「わしもやっぱり綿摘みをやらねえと困るですだ。そこのキャンプにお住まいで?」
「そうですだ」二人の足がそろって道を踏んだ。
「わしは綿畑を二十エーカーばかりもってましてね。すこし出来がおそかっただが、やっといま摘めるようになりましたよ。わしはいま綿摘み人を頼もうと思ってるところなんですがね」
「大丈夫、綿摘み人は雇えますよ。摘み時期は、ほとんど終りですからね」
「そうだといいですが。わしんとこの畑は、この、ほんの二マイルほど行ったところですだ」
「あたしたちは六人家族なんです」と母親は言った。「男三人、それに、あたしと子供二人ですよ」
「看板を出しときましょう。二マイルほどですよ――この道を行ってね」
「あたしたち、朝のうちに、そちらへ行きますだ」
「降らなきゃいいがね」
「まったくですね」と母親が言った。「二十エーカーなら、そんなに長くはかかりませんからね」
「早く摘んでもらえばもらうほど好都合ですて。うちの綿は遅手《おくて》でね、実がなるまで長いことかかっただ」
「賃金は、いくら払うんですか?」
「九十セントさ」
「じゃ、摘みましょう。来年は七十五セントから六十セントにもなるという噂《うわさ》ですね」
「そういう話ですな」
「またひともめするでしょうね」と母親が言った。
「まあ、そうでしょうな。でも、わしみたいな小百姓にゃ何もできませんよ。農業組合で賃金をきめてしまいますでな。わしたちは、それにしたがわにゃならねえです。いうことをきかねえと、農場を手放せとくる。弱いものは、いつも押しつけられてばかりいるんでさ」
二人はキャンプ地のところまできた。
「あたしたち、そちらで働かせてもらいますだよ」と母親は言った。「もうこっちはたいして残ってませんからね」彼女は、いちばん端の貨車の踏板をのぼった。灯火の弱い光が車のなかに暗い影をつくっていた。父親とジョン伯父と一人の年配の男が壁を背にして坐っていた。
「おや」と母親は言った。「今晩は、ウェンライトさん」
男は細かに皺《しわ》の目立つ顔をあげた。盛りあがっているような眉毛《まゆげ》の下に、深く考えこんでいる目があった。髪は青みがかった白い毛で美しかった。古色|蒼然《そうぜん》たる銀色のひげが顎《あご》と口をおおっていた。
「今晩は、おかみさん」と彼は言った。
「あしたの仕事があるだよ」と母親は言った。「二マイルほど北に行ったところさ。二十エーカーだって」
「トラックで行ったほうがいいだな」と父親が言った。「そのほうが、うんと摘めるだ」
ウェンライトが熱心に頭をあげて言った。「わしんとこでも摘ましてもらえますだかな?」
「ええ、もちろんですとも。あたし、その人と、ちょっといっしょに歩いたんです。綿摘み人を雇いにくる途中でしたよ」
「綿花も、まず終りですな。二番摘みとなると、とり入れもすくねえだて。だから、二番摘みで稼《かせ》ぐのは、なまやさしいこっちゃねえですよ。一度摘めば、たいてい摘みつくしちまうだからね」
「お宅もいっしょに乗って行けますだよ」と母親が言った。「ガソリンを出しあってね」
「そうかね――そりゃ親切にありがとうよ、おかみさん」
「おたがいに助かりますだよ」と母親が言った。
父親が口をはさんだ。「ウェンライトさんはね――心配ごとがあって、うちへきなすったのだよ。あの子の話をしていただが」
「なんのこと?」
ウェンライトは床を見つめた。「うちのアギーのことですがね」と彼は言った。「あれも大きくなって――もう十六ですだ、大人になっちまったですだよ」
「アギーは、きれいな娘さんですね」と母親が言った。
「話をしまいまできくだよ」と父親が言った。
「つまり、あれとお宅のアルですが、二人は毎晩いっしょに出歩いてるですよ。アギーは、体も丈夫だで、いずれは亭主《ていしゅ》をもつ身ですだ。まちがいを起さねえかぎりはね。うちじゃ、いままでそんなまちがいなんて、なかったですだよ。ところで、わしたち、ひどく貧乏してるだで、女房《にょうぼう》もわしも心配してるだ。もしあれがまちがいでも起したらどうしようかとね」
母親はマットを敷いて、その上に坐った。「二人はいま外へ行ってるんですか?」と彼女はたずねた。
「いつもですよ」とウェンライトは言った。「毎晩でさ」
「なるほど。でも、うちのアルは、いい子ですよ。近ごろは、ほっつき歩いてばかりいますけど、でも、なかなかしっかりした子ですだ。あれ以上の子はいねえと思うほどですだよ」
「いや、わしは、何もアルのことを不足に思ってるわけじゃねえだ。わしたちだってアルが好きですだよ。でも、女房とわしが心配してんのは――つまり、なんしろ娘がもう一人前の女だでね。うちでもお宅でも、ほっぽり放しにしておいて、そのうちアギーにまちがいがあったことがわかったというようなことになったら、どんなものですかい? 家族の名を汚《けが》すようなことは、いままでなかっただでね」
母親は静かに言った。「うちでもお宅の名前を汚さねえように注意しますだ」
ウェンライトは、つと立ちあがった。「ありがとうござんした、おかみさん。アギーも、もうねんねえじゃねえです。あれは、いい子でさあ――心がけもいいだし、きれいだし。うちの名を汚さねえようにとりはからってくださりゃ、おかみさん、ほんとにありがてえですだよ。これもアギーの罪とばかりもいえねえですよ。なんしろ、まだ年齢《とし》がいってねえだで」
「うちのお父っさんからアルにはよく言いきかせますで」と母親は言った。「もしお父っさんが、いやだと言ったら、そんときは、あたしから言いきかせときますだ」
ウェンライトは言った。「では、おやすみ、どうもありがとござんした」彼は防水布の垂幕の端をまわって出て行った。隣の部屋で、ひそひそ話をしているウェンライトの声がきこえた。自分の役目の結果を説明しているのだ。
母親は、ちょっと耳を傾けていたが、やがて、「さあ、二人とも、ここへきてお坐り」と言った。
うずくまっていた父親とジョン伯父が、だるそうに立ちあがり、母親のそばのマットに坐った。
「子供たちは、どこにいるの?」
父親はすみの布団《ふとん》を指さした。「ルーシーのやつ、ウィンフィールドに飛びかかって噛《か》みつきよっただ。それで二人とも寝かせただよ。もう眠っちまったろうて。ローザシャーンは知合いのおかみさんのとこへおしゃべりに行っただよ」
母親は溜息《ためいき》をついた。「トムと会ってきただよ」と彼女は声をひそめて言った。「遠くへ行くことにしただよ、ずっと遠くへね」
父親は、ゆっくりとうなずいた。ジョン伯父は顎を胸に落した。「ほかに方法はなかったのかな?」と父親が言った。「どうかね、ジョン?」
ジョン伯父は顔をあげた。「わしにゃ、よくわからねえだ」と彼は言った。「わしは、さっぱり考えがまとまらんようなあんばいだて」
「トムはいい息子だよ」と母親は言った。それから弁解するように言った。「といって、あたしは別にアルがわるい子だっていうつもりじゃないけどね」
「わかってるだよ」と父親は静かに言った。「わしはもう、なんの役にもたたねえだ。いつも、昔はこうだったと考えてるだけだて。いつも家《うち》のことを考えると、先のことがわからなくなるだ」
「ここは、あの土地よりもきれいで――いい土地じゃないかね」と母親は言った。
「わかってるだよ。だがわしは、それさえ目にはいらねえだよ。故郷《くに》の家で、あの柳の葉が落ちたりするのを考えてるとな。ときどき、南側の垣《かき》にあいてた穴を修繕しようかなんぞと考えたりするだ。妙なことだて! 女が家のなかをきりもりするようになっただ。女たちが、こうしよう、あそこへ行こう、っていうだ。それでも、わしはまるで気にかけねえだ」
「女ってものは、男よりもうまく、いろいろ変えていけるものなんだよ」と母親は慰めるように言った。「女は自分の生活を腕に抱きかかえているのさ。男は生活をすっかり頭のなかにもっているだ。気にしなさんなよ。きっと――そうとも、きっと来年は土地をもてるだよ」
「いまじゃ、わしたちは、何ももってねえだ」と父親は言った。「長いことかかったけんど――仕事も、自分のとり入れも、何もねえだ。これから、何をしたらいいだ? どうして食べものを手に入れたらいいだ? それにローザシャーンも、じきに子供を産むだ。何やかやで、わしは考えるのが、いやになるだよ。考えたくねえもんだから、結局昔のことを、あれこれほじくり出してみるようになるだ。わしの生涯《しょうがい》は、もう終ったような気がするだよ」
「いえ、まだだよ」と母親は微笑しながら言った。「まだだよ、お父っさん。これも女のほうがよく知っていることさ。あたしは気がついてるだ。男ってものは一区切り一区切りのなかに生活してるのさ――赤ん坊が生れる、人が死ぬ、これが一区切りさ――農場が手にはいり、また自分の農場をなくす、これも一区切りさ。ところが、女はね、おしまいまで一つの流れなんだよ。小川みたいな、渦《うず》みたいな、滝みたいなとこもあるけんど、やっぱり川なんだよ。ただ流れつづけるのさ。女って、そんなふうにものを見るんだよ。あたしたちは死に絶えやしねえだ。人間は生きつづけるだ――そりゃ、すこしは変化もあるだろうけんど、やっぱり、ずうっと生きつづけるだよ」
「どうしてそんなことがいえるだね?」とジョン伯父が反問した。「すると、いったい、何が、そんなふうに物事をとどまらせねえでおき、そうして人間を疲れて死んじまうことから救いだすだね?」
母親は考えていた。彼女は、つやのある手の甲を片方の手でこすり、右手の指を左手の指のあいだにつっこんだ。「さあ、何と言ったらいいんだろうね」と母親は言った。「あたしたちのすることは、どんなことでも――生きていくことを目ざしているんだと思うだよ。あたしにゃ、そう思えるだ。お腹《なか》がひもじくなるんだって――病気になるんだって、その証拠だよ。そりゃ、死ぬ人だってあるさ。だけど、残った人は、もっと丈夫だからね。なんとかその日を生きようとするのさ。ただその日をね」
ジョン伯父は言った。「あのとき、女房が死にさえしなかったら――」
「ただその日を生きるだよ」と母親は言った。「くよくよしねえことだね」
「来年は、いい年かもしれねえだな。故郷《くに》へ帰ってよ」と父親が言った。
母親が言った。「しいっ!」
踏板のところに忍び足がきこえ、アルが垂幕をくぐってはいってきた。「やあ」と彼は言った。「もう眠ってるのかと思っただよ」
「アル」と母親が言った。「いま、みんなでおしゃべりしてたとこさ。そこに坐んな」
「うん――いいとも。おれも話してえだよ。もうすこししたら、おれは出て行かなきゃならねえだて」
「だめだよ。おまえは、ここにいてくれなきゃ困るだよ。どうして出て行くんだい?」
「うん、おれとアギー・ウェンライトな、二人は結婚するつもりなんだ。それで、おれは、ガレージに職をさがして、二人で、しばらく借家住まいをするだ。そして――」彼は、きつい目をして顔をあげた。「そうだとも、二人はそうするだ。誰《だれ》がとめようとしたってだめだ!」
三人は、その顔を、じっと見つめていた。「アル」と母親がやっと口をきった。「あたしたちは、うれしいだよ。とてもうれしいだ」
「ほんとかい?」
「ああ、もちろんほんとさ。おまえは、もう大人だ。おまえにゃ、おかみさんがいるだ。でも、すぐに出て行くことはよしとくれ、アル」
「アギーと約束しただ」と彼は言った。「どうしても出て行かなきゃならねえだ。もうこんな生活には我慢できねえだよ」
「春まで待っておくれ」と母親は懇願した。「ほんの春までだよ。春まで、ここにいておくれよ。おまえがいなくなったら、誰がトラックを運転するだ?」
「うん――」
ウェンライトのおかみさんが、垂幕をまわって頭を出した。「もう話をきいただかね?」と彼女はたずねた。
「ええ! いまきいただよ」
「うれしいだよ! ケーキでもあればね。ケーキかなにか――あればねえ」
「あたしがコーヒーとパンケーキをなんとかお膳《ぜん》だてしますだ」と母親が言った。「シロップを持ってるだからね」
「そりゃ、ありがたい」とウェンライトのおかみさんが言った。「それは――すばらしいだ。それでは、わたしはお砂糖をすこし持ってくるだ。パンケーキのなかにお砂糖を入れよう」
母親は小枝を折ってストーブに入れた。夕食に使い残した石炭が小枝をぱちぱちと燃えあがらせた。ルーシーとウィンフィールドは、殻《から》から出てくる|やどかり《ヽヽヽヽ》のようにベッドから這《は》い出してきた。二人は、ちょっとおとなしくしていた。まだ二人とも怒られるのではないかと様子をさぐる目つきだった。しかし、誰も自分たちに気をつけていないのを知ると、二人は大胆になった。ルーシーは、片足ではねて一気にドアまで行くと、壁に手をふれずに、またぴょんぴょんとはねてきた。
母親が鉢《はち》に小麦粉を入れていると、『シャロンのバラ』が踏板をあがってきた。彼女は一歩一歩踏みしめるように注意深く歩いていた。「どうしたの?」と彼女はたずねた。
「うん、いい話があるんだよ!」と母親が叫んだ。「アルとアギー・ウェンライトが結婚するんで、ちょっとしたパーティーをしようってわけさ」
『シャロンのバラ』は身動きもせずに立っていた。それから、ゆっくりとアルを見た。アルは、どぎまぎして、困ったような顔で、そこに立っていた。
ウェンライトのおかみさんが、隣の部屋から叫んだ。
「アギーに新しいドレスを着せてるんでね。いますぐそっちへ行きますだ」
『シャロンのバラ』は、ゆっくりと体をまわした。そしてひろいドアに戻《もど》ると、忍び足で、そろそろと踏板をおりて行った。地面におり立つと、ゆっくりと川沿いの小道のほうへ歩いて行った。母親が、さっき歩いていた道だ――彼女は柳の木立のなかに足を向けた。風は、さっきよりも静かに吹いていた。灌木《かんぼく》が静かに音をたてた。『シャロンのバラ』は膝をついて、茂みのなか深く這いすすんだ。木苺《きいちご》の蔓《つる》が顔にからまり、髪の毛を引っぱったが、彼女は気にもとめなかった。体が、すっかり茂みにかくれたと感じたとき、やっと動くのをやめた。彼女は仰向けになって、体を伸ばした。そして自分のなかに赤ん坊の重みを感じた。
灯火のない貨車のなかで母親は体を動かした。それから毛布をうしろに押しやって起きあがった。車の開いた窓から、灰色の星の光が、いくらかさしこんでいた。母親は戸口まで歩いて行って、立ったまま外を見た。星が東の空に青白んでいた。風は柳の茂み越しにやわらかく吹き、小川から水のささやきがきこえた。キャンプは、ほとんど寝静まっていたが、一つのテントの前に、火がすこし燃えていて、そのまわりに立って火にあたっている人々の姿が見えた。ぱちぱちと燃えはじめた火の明りのなかに、手をこすりながら炎に向っている人々の顔を母親は見ることができた。やがて彼らは火に背中を向け、手をうしろにやった。長いこと母親は外を見ていた。そして手を前に組み合せていた。風が強く弱く吹いてはすぎて行った。霜がおりそうな、ひやりとする空気だった。母親は、体をふるわし、両手をこすった。やがて足音を忍ばせて戻り、ランプの脇《わき》にあるマッチを手さぐった。暗闇《くらやみ》が急に明るくなった。母親はランプの芯《しん》に火をつけ、それが一瞬青く燃え、やがて黄色い、微妙にまがりくねった光の輪になるのをみつめていた。彼女はランプをストーブのところへ持って行き、それを下におくと、かわいて脆《もろ》くなった柳の小枝を折って、ストーブに入れた。たちまち炎が、ぼうっと音をたてて煙突にのぼった。
『シャロンのバラ』は、だるそうに、体をまわして起きあがった。「あたし、いま起きるわ」と彼女は言った。
「暖かくなるまで、もうすこし横になってたらいいじゃないか」と母親は言った。
「ううん、あたし起きるわ」
母親はコーヒー・ポットにバケツの水を満たし、ストーブの上においた。それからヘットを厚くフライパンに敷いて菓子パンを温めた。「何か心配ごとでもあるのかい?」と母親は低い声で言った。
「あたし、出かけるのよ」と『シャロンのバラ』は言った。
「出かけるって、どこへ?」
「綿摘みによ」
「だめだよ」と母親は言った。「もうお腹が大きすぎるだもの」
「いいえ、そんなことないわ。あたし、行くわ」
母親は、コーヒー・ポットの湯のなかに、コーヒーを計って入れた。「ローザシャーン、おまえは、ゆうべパンケーキを食べなかっただね?」娘は答えなかった。「何のために綿摘みに行くんだい?」まだ答えはなかった。「アルとアギーのためかい?」母親はこんどは近くによって娘の顔を見た。「ねえ、おまえは摘む必要はねえだよ」
「あたし、摘むわ」
「いいよ、そんなら。でも、無理しないでおくれよ」
「起きてよ、お父っさん! 目をさまして起きるのよ!」
父親は目をぱちぱちさせてあくびした。「まだ眠り足りねえだな」と彼は、ぶつぶつ言った。「ゆんべ寝たのは、きっと十一時ごろだったろうて」
「さあ、起きて、みんな顔を洗っておくれ」
車のなかの人々は、ゆっくりと目をあけ、毛布から這いだして、体をねじまげながら服を着た。母親は塩づけの豚肉を薄く切って、別のフライパンに入れた。「さあ、起きて、顔を洗っておくれ」と彼女は命令するように言った。
隣の部屋に灯《ひ》がついた。ウェンライトの家から小枝を折る音がきこえた。「ジョードのおかみさん」と呼ぶ声がした。「うちじゃしたくしてるところですだ。もうじきですだよ」
アルが、ぶつぶつ言った。「どうして、うちじゃ、こんなに早く起きるだい?」
「二十エーカーしかないんだからね」と母親は言った。
「早く向うへ行かなくちゃならないのさ。もう綿摘みの仕事もたいして残ってないだよ。人の摘まないうちに行かなきゃね」母親は大急ぎで、みんなに身支度をさせ、朝食をつめこませた。
「さあ、コーヒーを飲みな」と彼女は言った。「もう出かけなくちゃ」
「こう暗くちゃ綿は摘めねえだよ、おっ母」
「向うに着くころにゃ明るくなってるだよ」
「外は濡《ぬ》れてるらしいな」
「たいした降りじゃなかっただ。さあ、コーヒーを飲みな。アル、おまえは飲み終えたら、エンジンをかけといておくれ」
それから母親は呼びかけた。「したくはどうかね、ウェンライトのおかみさん?」
「いま食べてるところですだ。すぐにすみますだよ」
外ではキャンプがもう活気づいていた。テントの前で焚火《たきび》が燃えていた。貨車の小屋からストーブの煙突が煙をふきだした。
アルはコーヒーをすっかり飲んで、底にたまった滓《かす》まで口に入れた。踏板を歩きながら、彼は、ぺっぺっと滓を吐きだした。
「したくができましただよ、ウェンライトのおかみさん」と母親は声をかけた。そして『シャロンのバラ』のほうを向いて言った。「おまえは家にいなよ」
娘は顎《あご》を引いた。「あたし、行くわ」と言った。「おっ母さん、あたし、行かなくちゃ」
「でも、おまえは綿を入れる袋を持ってないじゃないか。袋だって引っぱれねえだし」
「おっ母さんの袋のなかに入れるわ」
「行かないでくれるとありがたいんだがね」
「行くわ」
母親は溜息《ためいき》をついた。「じゃ、あたしが、おまえの体に気をつけていよう。お医者さんに診《み》てもらえるといいんだけどねえ」
『シャロンのバラ』は、落ちつかなげに貨車のなかを歩きまわった。軽い上着を着たが、また脱いだ。「毛布を持ってきなよ」と母親が言った。「そうすりゃ、休みたいときに、体を温めていられるだからね」
貨車小屋のうしろで、トラックのモーターの吼《ほ》える音がした。「うちが一番乗りらしいだね」と母親が勝ち誇ったように言った。「さあ、みんな袋を持って。ルーシーや、摘んだ綿を入れるためにつくってあげたあのシャツの袋ね、あれを忘れるんじゃないよ」
ウェンライト家とジョード家の一行は暗いなかにとまっているトラックに乗りこんだ。夜明けが近づきつつあった。しかし、まだ夜明けの歩みはのろく、薄暗かった。
「左へまがって」と母親がアルに声をかけた。「行く道に立て札が出てるはずだよ」車は暗い道に沿って走った。ほかの車が幾台か、あとからついてきた。うしろのキャンプ地にも、エンジンを始動させ、家族を乗せている車があった。トラックは国道へ出て左へ折れた。
右側の道ばたに、郵便箱にボール紙が結わえつけてあった。青いクレヨンで『綿摘み人募集』と書いてあった。アルは入口のほうに車をまわしてなかへはいり、裏庭に出た。裏庭には、もう車がたくさんとまっていた。白い納屋《なや》のすみにある電灯が、梯子《はしご》のあたりに立っている男や女たちの群れを照らしていた。人々は腕にそれぞれ袋をかかえていた。幾人かの女たちは両肩に袋をかけ、胸の前で紐《ひも》を十字にかわしてかけていた。
「思ったほど早い組じゃなかったな」とアルが言った。彼はトラックを柵《さく》のそばによせてとめた。家族たちは車からおり、待っている人々の群れのなかに加わった。道路から、まだたくさんの車が、はいってきてはとまった。あとからあとから家族づれの人々が群れのなかに加わった。納屋のすみの電灯の下では、農場主が名前を書きつけては人々をなかへ入れていた。
「ホーレーかね?」と彼は言った。「H―A―W―L―E―Y―だね? 何人かね」
「四人ですだ。ウィルと――」
「ウィルと」
「ベントンと――」
「ベントンと」
「アミリアと――」
「アミリアと」
「クレアと――」
「クレアと。次は、誰かね? カーペンターだね? 何人かね?」
「六人でがす」
農場主は帳簿に名前を書きこんだ。収穫した綿の「重量」の欄は、左に空白になって残っていた。
「袋は持ってるかね? わしんとこにも、いくらかあるよ。一枚一ドルだ」車があとからあとから裏庭に流れこんできた。農場主は、羊皮で裏打ちしたジャケットを首のあたりまで引っぱりあげた。そして、おしはかるように車道のほうに目をやった。
「二十エーカーぐらい、これだけの人間でやれば、すぐ片づいちまうな」と彼は言った。
子供たちは、大きな綿花運搬用のトレーラーの横腹の針金に足指をつっこんで、上へよじのぼろうとしていた。「そこへはいっちゃいけないよ」と農場主はどなった。「おりなよ! おまえたちときたら、その針金を、ばらばらに切っちまうだから」すると子供たちは、困ったような顔をし、口もきかずに、ゆっくりと下へおりた。ほの白い夜明けがきた。
「露がおりてるから、そのぶんの重みを引かなきゃなるまいて」と農場主は言った。「日がさしてくれば別だが。さあ、よかったら行ってくれ。もう見るにゃ不足のねえ明るさだて」
人々は、すばやく綿畑へ出かけ、てんでに列をつくった。袋を腰に結び、かじかんだ指を温めるために、両手をぴしゃぴしゃうった。綿を摘むには、指がすばしこくなければならないのだ。夜明けの光が東の丘陵を色づけていた。幅のひろい人々の列が、畝《うね》をおおうように動いて行った。国道からは、まだ車がやってきて裏庭にとまり、しまいには、そこがいっぱいになってしまって、とうとう道の両側に駐車するようになった。強い風が畑の上に吹いていた。「おまえさんがたが、どうしてこんなに大勢、仕事があると気がついたのか、わしにゃわからないよ」と農場主は言った。「よっぽど大きな葡萄園《ぶどうえん》でもなくちゃ、どうにもならんな。こんな二十エーカーぽっちの畑じゃ、昼までもつまいて。なんという名前だね? ヒュームか? 何人かね?」
人々は列をなして畑を横ぎって行った。強い西風が小やみなく彼らの服に吹きつけた。人々の指は、こぼれおちそうな綿の実にとびかかり、それを長い袋に投げこんだ。袋は彼らの背後でしだいに重たくなっていった。
父親は同じ畝の右手にいる男に話しかけた。「わしの故郷《くに》じゃ、こんな風が吹くと、たいてい雨だ。でも、雨にしちゃ、すこしばかり寒いようだね。おまえさんは、ここに、どのくらいいなさるのかね?」話しながらも、目は自分の仕事からはなさなかった。
隣の男も顔はあげなかった。「かれこれ一年いまさあ」
「雨が降ると思うかね?」
「わからねえだな。だが、わからなくても、別に恥じゃねえだて。このあたりに、ずっと住んでる人たちでも、そんなこと、よく知らねえだよ。こうやってとり入れてる最中にやってくりゃ、本降りになるだ。このへんじゃ、みんなそう言ってるだよ」
父親は西のほうの丘を、ちらと見た。大きな灰色の雲が丘のすぐ上にただよい、速い風に流されていた。「あれは雨雲のようだて」と彼は言った。
隣の男は、横目で、ちらとそのほうを見た。「さあね」と男は言った。畝の列のうしろのほうにいた人々が、皆ふりかえって雲を見た。それからまた仕事に戻り、手早く綿を摘んだ。人々は摘むことを競い、時間と袋の重さとを競い、雨と競い、おたがい同士競いあった――ただ、摘む綿の量を稼《かせ》ぐ金のたかだけが目あてだった。人々は畑の向う端まで行きつくと、新しい畝を手に入れようと駆けだして行った。こんどは向い風を受ける位置になった。すると、のぼる太陽に向って空高くおおってくる灰色の雲が見えた。なおも多くの車が道ばたに駐車し、新しい綿摘み人が、帳簿に名前を記入されては、はいってきた。人々の列は熱したように畑を動いて行き、畝の端にくると重さをはかり、摘んだ綿に印をつけ、自分の帳面にそれを書きつけ、新しい畝に走って行った。
十一時に畑は摘みつくされ、仕事は終った。荷台に針金を張りまわしたトレーラーが、同じく針金を張りめぐらしたトラックの後尾につながれた。そして、それらの車は国道を出て、綿繰り工場のほうへ走り去った。綿が針金からはみだしてひらひらし、小さな雲のように空気のなかに流れていくのもあった。そして、その綿屑《わたくず》は道ばたの雑草にまつわりつき、ひらひらとゆれていた。綿摘み人たちは、わびしげに裏庭に戻り、賃金をもらうまで列をつくって立っていた。
「ヒューム、ジェームズ、二十セント。ラルフ、三十セント。ジョード、トーマス、九十セント。ウィンフィールド、十五セント」
支払われる賃金には、紙幣、銀貨、ニッケル貨、ペニーなどがまじっていた。支払いを受けるときには、だれでも自分の帳面をのぞいて見た。「ウェンライト、アグネス、三十四セント。トビン、六十三セント」人の列は、ゆっくりと動いていった。家族づれの綿摘み人たちは、おし黙ったまま車に戻った。それから、のろのろ車を走らせて行った。
ジョード家とウェンライト家の家族たちは、車道がすくまで、トラックに乗って待っていた。待っているうちに大粒の雨が降りはじめた。アルは車から右手を出して雨粒を感じた。『シャロンのバラ』はまん中に坐っていた。母親は外側にいた。『シャロンのバラ』の目は、もとのように曇っていた。
「おまえ、やっぱりくるんじゃなかったね」と母親が言った。「十五ポンドしか摘めなかったじゃないか」
『シャロンのバラ』は大きくふくれた自分の腹を見おろして、何とも答えなかった。不意に彼女は身をふるわせて、はげしく頭をのけぞらした。近くで見ていた母親は、綿摘み袋をひろげて『シャロンのバラ』の肩をおおった。そして娘の体を引きよせた。
やっと道がすいてきた。アルはモーターを動かして、国道を走らせて行った。大きな雨粒が、ぱらぱらと降って、路面にはねかえった。トラックが進むにつれ、滴《しずく》はしだいに小さくなり、ひっきりなしに降るようになった。トラックの屋根にひびく雨の音が、古ぼけたモーターの音よりも高くきこえた。トラックの床では、ウェンライト家とジョード家の家族たちが、綿摘み袋をひろげて頭や肩にかぶせていた。
『シャロンのバラ』が母親の腕のなかで、はげしく身をふるわせた。母親は叫んだ。「早くやっとくれ、アル。ローザシャーンは風邪をひいたようだ。足をお湯で温めてやらなきゃ」
アルはすぐモーターにスピードをかけた。そして貨車のキャンプに着くと、トラックを赤い貨車の近くによせてとめた。母親は、みんなが動きださないうちに、大きな声で指図した。「アル」と彼女は言った。「おまえとジョンとお父っさんは、柳の林へ行って、できるだけ枯枝を集めてきておくれ。暖かくしなくちゃならないからね」
「雨もりは大丈夫か?」
「大丈夫だよ、もってるようには思えねえだよ。ちゃんとかわいてるだもの。でも薪《まき》がいるんだよ。暖かくしなくちゃ。ルーシーとウィンフィールドもつれて行きな。あの子たちだって小枝ぐらいとれるだから。この娘《こ》は、ぐあいがわるいんだよ」
母親は外へ出た。『シャロンのバラ』は、そのあとについて行こうとしたが、膝《ひざ》がぐらついて、踏板に、だるそうに坐りこんでしまった。
ふとったウェンライトのおかみさんが、その姿をみとめた。
「どうしたの? 生れるんじゃないのかい」
「いいえ、そうじゃないらしい」と母親が言った。「寒気がするんですよ。風邪をひいたんでしょうよ。手を貸しておくんなさいね」二人は『シャロンのバラ』を助けて歩いて行った。数歩行くと、娘の力は戻ってきた――足がしっかりしてきた。
「大丈夫よ、おっ母さん」と彼女は言った。「さっきちょっと変だっただけよ」
二人は彼女の肘《ひじ》をささえていた。「足をお湯で温めるだ」と母親は、何もかも心得ている口ぶりで言った。二人で『シャロンのバラ』を踏板の上に助けあげて車室のなかへ入れた。
「娘さんの体をこすってあげなさいよ」とウェンライトのおかみさんが言った。「わたしは火をおこすことにしよう」そして、最後の小枝をストーブにくべた。雨はもう本降りになって屋根を洗い流していた。
母親は屋根を見あげた。「おたがいに丈夫な屋根でよござんしたよ」と彼女は言った。「あのテントって代物《しろもの》は、どんな上等のだってもりますだからね。ちょっと水をそこにかけてくれないかね、ウェンライトのおかみさん」
『シャロンのバラ』は、マットに静かに横になっていた。靴《くつ》を脱いで、二人に足をさすってもらった。ウェンライトのおかみさんは、彼女の上に身をかがめた。「痛むのかい?」と彼女はたずねた。
「いえ、ちょっと気分がよくないだけよ。ただ気持がわるいだけなの」
「わたし、痛みどめも下剤も持ってるだ」とウェンライトのおかみさんが言った。「よかったら、いつでも使っておくんなさい。よろこんでさしあげるだからね」
娘は、はげしくふるえた。「布団《ふとん》をかけて、おっ母さん、寒いわ」母親は、ありったけの毛布を持ってきて、娘の上にかけた。雨は、はげしく屋根に音をたてた。
やっと薪拾いの連中が戻ってきた。みんな腕いっぱいに粗朶《そだ》をかかえ、帽子のふちから雨の滴をたらしていた。「ちくしょうめ、ひどい雨だて」と父親が言った。
「ものの一分とたたねえうちに、びしょ濡れだ」
母親が言った。「もう一度行って、もっととってきておくれ。いますぐ暖かくしなきゃならないんだよ。もうすぐ暗くなるだからね」ルーシーとウィンフィールドが濡れながらはいってきて、薪を積んであるところに投げだした。二人とも、また出て行こうとした。「おまえたちは、ここにいるだ」と母親は言った。「火のそばへきてかわかすだ」
午後は雨に濡れて銀色に光り、道路は水でかがやいていた。一時間ごとに綿の畑は黒ずみ、しぼんでいくように見えた。父親とアルとジョン伯父は、幾度も茂みのなかへ行っては枯枝をたくさん運んできた。三人はそれをドアのそばに積み重ねた。しまいに、その高さが、ほとんど天井に届くほどになると、やっと三人は働くのをやめて、ストーブのところへ歩みよった。雨滴が帽子から肩におびただしく流れた。上着の端からもたれ、靴は歩くたびごとにごぼごぼと鳴った。
「もう結構よ、さあ、着物を脱いで」と母親が言った。「みんなのために、おいしいコーヒーをつくったからね。かわいた仕事着に着替えておくれ、そんなところに立ってないでさ」
この日は暮れるのが早かった。どの車輛《しゃりょう》小屋のなかでも、家族たちは、体をよせあって、屋根に降りそそぐ雨の音にきき入っていた。
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第二十九章
高い海岸沿いの山々と谷の上に、灰色の雲が海のほうから乗りこんできた。風が空のはるか上を、はげしく、音もなく吹いた。それは茂みをひゅうひゅうならせ、森林のなかで吼《ほ》えたけった。雲も、きれぎれに、または、かたまって、あるいは幾重《いくえ》にも重なったり灰色の岩の形をしたりして、やってきた。そして、それらの雲は、みないっしょに積み重なり、西のほうをおおって低くたれこめた。やがて風はやみ、雲だけを深く厚く空に残したまま行ってしまった。雨は急激な驟雨《しゅうう》となり、またしばらくやみ、それから豪雨となった。ついで、しだいに単調なテンポに落ちつき、小粒の雨となって小やみなく降りつづけ、はるかのかなたまで灰色にして、日の光を夕方まで通さないようにしてしまった。まず、はじめに、かわいた大地が水分を吸いつくして黒くなった。二日間、雨を飲みこむと、大地はあふれてしまう。つぎに水たまりができ、低地の畑には、ところどころ小さな湖水ができた。この泥《どろ》んこの湖水は、しだいに水面が高くなり、降りしきる雨が光る水をはねかえした。最後に山々にも水があふれ、丘の傾斜面には、いくつもの小さな流れが走った。その流れは一つに集まって洪水《こうずい》となり、峡谷から盆地へ勢いよくそそぎこんだ。雨は小やみなく降りつづけた。小川も河も、水が堤防の高さにすれすれになり、柳やそのほかの木の根にしみ入り、柳を流れのなか深くに傾かせ、綿の根をほじくり、木々を倒した。泥んこの水は堤防の両側に沿って走り、やがて堤防に這《は》いあがって、ついにそれを越してしまった。そして野原に、果樹園に、黒い茎の立っている綿花畑に、あふれ出た。河と同じ高さの畑は、幅のひろい灰色の湖水となり、雨がその表面をたたいた。やがて雨は国道にも降り注ぎ、自動車は行手の雨を切り、背後に煮え立つような泥のわだちを残して、のろのろと進むようになった。大地は、うちたたく雨の下に息をひそめ、小さな流れは泡立《あわだ》つ洪水となってとどろいた。
最初の雨が降りはじめたとき、渡りものの稼《かせ》ぎ人たちは、テントのなかで、かたまり合って言った。すぐやむだよ。あるいは、こう問いかけた。どのくらいつづくのかな?
そして水たまりができると、人々はシャベルを手にして雨のなかへ出て行き、テントの周囲に小さな溝《みぞ》をつくった。うちたたく雨は、テントにしみこみ、しまいには防水布を通して、なかにしたたり落ちた。やがて小さな溝は洗い流され、水がテントのなかへ浸入してきた。そして水はベッドを濡《ぬ》らし、毛布を濡らしてしまった。人々は濡れた着物にくるまって坐っていた。いくつも箱を並べ、その上に板をのせ、昼も夜も、その上に坐っていた。
テントのそばには、古ぼけた車が並んでいた。水が点火装置のワイヤーをよごし、キャブレターを役にたたなくしてしまった。小さな灰色のテントが湖水のなかに立っていた。ついに人々は動きださなければならなくなった。しかし、そのとき車は動かなかった。ワイヤーがだめになってしまったからだ。そして、かりにエンジンが始動するとしても、深い泥濘《でいねい》が車に食いこんでしまっているのだ。そこで人々は、両腕に毛布をかかえて、歩いて行くことになった。腕に子供たちや老人たちを抱いて、水をはねかえしながら歩いて行った。もし納屋《なや》でも一軒、高いところにあれば、そこは、ふるえながら気落ちしている人々で、いっぱいになってしまうだろう。やがて救済事業をやっている役所へ行くものが出てきた。しかし彼らは、悲しげな顔をして、もとのところへ戻《もど》ってきた。
規則があってよ――救済資金を受けるにゃ、一年ここにいなきゃだめなんだってよ。政府が助けてくれるって話だがね。でも、いつのことかわかんねえそうだ。
やがて徐々に、人々の最も恐れていることがやってくる。
これから三月《みつき》ってもの、仕事はなさそうだぜ。
小屋の中で、人々は、たがいによりそっていた。恐怖が人々の上におおいかぶさった。彼らの顔は恐怖で灰色になった。子供たちは腹をへらして泣いた。しかし食べものはなかった。
つぎには病気がやってきた。肺炎とか、目から乳頭までおかす|はしか《ヽヽヽ》とか。
しかし雨は降りつづき、水は国道を流れた。地下水路が水を運ばなくなるからだ。
やがて、テントから、人のいっぱいになった小屋から、ずぶ濡れの男たちが出て行った。彼らの服はぼろがはみだし、靴《くつ》は泥だらけで、ぐにゃぐにゃになっていた。男たちは水しぶきをあげて、雨のなかを町へ、村へ、救済局へ行き、ぺこぺこ頭を下げて食べるものを乞《こ》い、助けを乞い、盗みをしようとし、嘘《うそ》をついた。そして物乞いと、平身低頭の下から、絶望的な怒りがくすぶりはじめた。やがて小さな町でも、濡れそぼった人々に対する哀れみは怒りに変り、飢えた人々に対する怒りは、彼らに対する恐怖に変っていった。やがて警察署長が警部たちをどなりつけ、励ました。そして命令がいくつも出て、たちまちライフル銃と催涙ガスと弾薬が持ちだされた。かくして飢えた人々は、店のうしろの路地に群がって、腐れかかった野菜を乞い、できれば盗もうとした。
興奮した男たちが医者の家のドアをはげしくたたいた。しかし医者は忙しかった。悲しみにあふれた男は、町の店で、検屍官《けんしかん》に車をよこしてくれるよう言《こと》づけた。検屍官は、それほど忙しくなかった。検屍官の大型自動車が泥道を通ってやってきて、死体を運びだした。
雨は音をたてて小やみなく降り、流れは堤防を破って土地一帯にひろがった。
物置小屋の下に集まり、濡れた干し草の上に横になっている人々の心に、飢えと恐れが、怒りを育てていった。少年たちは出て行った。物乞いにではない。盗みにだ。そして男たちも盗みをやってみるつもりで、弱々しく出て行った。
署長は新任の警部たちをどなりつけ、新たにライフル銃を持ちださせた。すると堅固な家に住んでいる気楽な人々は、移住労働者たちに、まず憐憫《れんびん》を感じ、つぎには嫌悪《けんお》を、そしてしまいには憎悪を感じだした。
雨もりする小屋の濡れた干し草のなかで、肺炎に喘《あえ》ぐ女に子供が生れた。そのすみには老人たちがうずくまり、うずくまったまま死んでいった。だから検屍官は、老人たちの死体をまっすぐに伸ばすことができなかった。夜になると、われを忘れた男たちが、大胆に鶏小屋に近づき、鳴きわめく鶏を盗んできた。銃で撃たれるようなときでも、彼らは駆けだしたりはせず、むっつりした顔で、泥をはねかしてその場を去った。なぐられるときには、がっくりと泥のなかにのめりこんだ。
雨がやんだ。畑には水が満ちていた。その水に灰色の空が映っていた。そして大地は流れる水の音にざわめいていた。男たちは納屋から、物置小屋から出てきた。彼らは、しゃがみこんで、水のあふれた土地をながめわたした。みんな黙ったまま。そしてときどき、ひどく静かな声で話をした。
春まで仕事はねえよ。あぶれさ。
そして、仕事がなければ――金もはいらず、食べものもないのだ。
馬をたくさん持ってるものは、馬を使って鋤《すき》をいれ、耕し、草を刈るだが、仕事がねえときだって馬にひもじい思いはさせねえだぜ。
そっちは馬だが――こっちは人間だ。
女たちは男たちを見つめた。ついに破局がきたのかどうかをたしかめようとして男たちを見まもるのであった。女たちは、ものも言わずに立ちつくして、男たちを見まもっていた。そして男たちは、幾人かが集まると、その顔からは恐怖の影が去り、その代りに怒りがあらわれてきた。すると女たちは、ほっと溜息《ためいき》をついた。彼女たちは、これなら安心だと知っているからだ――破局はこなかったのだ。恐怖が怒りに変りうるうちは、けっして破局はこないものだ。
ちっぽけな草のかたまりが大地から萌《も》え出てきた。そして四、五日もすると、丘は薄緑色になって、新しい年がはじまるのだ。
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第三十章
有蓋《ゆうがい》貨車のキャンプでは、あちこちに水たまりができて、雨が泥《どろ》のなかにしぶきをあげていた。小川は、しだいに土手を這《は》いあがって、有蓋貨車の並ぶ低い平地のほうへ忍びよってきた。
雨が降りはじめて二日目に、アルは、貨車のまん中にたらしてあった防水布をとりはずして、外へ持ちだし、トラックの鼻面《はなづら》にかぶせた。それから貨車へ戻《もど》ってきて、わら布団《ぶとん》の上に腰をおろした。仕切りがなくなったので、二つの家族は貨車のなかで一つになった。男たちは、いっしょに坐っていたが、彼らの気持は沈んでいた。母親はストーブに小さな火を絶やさない程度に小枝をすこしずつくべて薪《まき》を節約した。雨は、ほとんど平らな有蓋貨車の屋根に、はげしく降り注いだ。
三日目になるとウェンライトの家族がそわそわしはじめた。「ことによると、ここを出たほうがいいかもしれねえだ」とウェンライトのおかみさんは言った。
母親が彼らを引きとめようとした。「どこへ行こうっていうだ? ちゃんとした屋根のあるところが、どこかにあるとでもいうだかね?」
「それはわかんねえけど、ともかくあたしたちは、ここを出て行かなくちゃならねえような気がするだよ」そんな話をしながら、母親はアルの顔色をうかがっていた。
ルーシーとウィンフィールドは、ちょっとのあいだ遊ぼうとつとめていたが、やがて彼らも、何をしようとするでもなく不機嫌《ふきげん》に黙りこくってしまった。雨は太鼓のように屋根をたたきつづけた。
その同じ三日目には、はげしい雨の音を圧して、川に水の流れる音がきこえるようになった。父親とジョン伯父は、開いた戸口に立って、水かさを増してきた川の流れを見やった。キャンプの両端では、川の水は国道に沿って流れていたが、キャンプのところでは、ぐるりと弓なりに迂回《うかい》していて、ちょうど国道を背にキャンプが流れにとりかこまれたような形になっていた。父親が言った。「おめえは、どう思うだかね、ジョン? あの川の水がせりあがってくると、ここは水びたしになっちまうような気がするだがな」
ジョン伯父が口をあけて、粗《あら》いひげの生えている顎《あご》をさすった。「そうだな」と彼は言った。「そうなるかもしれねえだな」
『シャロンのバラ』は、ひどい風邪をひいて床についていた。顔は紅潮し、目は熱できらきら光っていた。母親が、熱いミルクのコップを持ってきて、彼女のそばに坐った。「ほら」と彼女は言った。「これを飲みなよ。元気が出るようにベーコンの脂汁《あぶらじる》を入れておいただ。さあ、飲みな」
『シャロンのバラ』は弱々しく首を横にふった。「あたし、お腹《なか》がすいてないの」
父親は指で空中に曲線を描いた。「みんなでシャベルで土手をつくったら、きっと水は防げるだ。あそこからあそこまで土手をつくればいいだ」
「そうだな」とジョン伯父が同意した。「防げるかもしれねえだな。だけんど、ほかの連中がその気になるかどうかわからねえだ。どっかほかのところへ行ったほうがいいというかもしれねえだ」
「だけんど、この貨車のなかへは、まだ水がはいってねえだ」と父親が主張した。「こんなにいいかわいた場所は、ほかに見つけることはできねえだよ。ちょっと待ってな」貨車のなかの柴《しば》の山から小枝を一本とり出すと、彼は踏板を駆けおり、泥水をぴしゃぴしゃやりながら川っぷちまで行って、渦《うず》を巻いている水ぎわに、その小枝をまっすぐに立てた。それから、すぐ貨車へ戻ってきた。「ちえっ、ずぶ濡《ぬ》れになっちまうだ」と彼は言った。
二人の男は水ぎわに立てたその小枝から目をはなさなかった。水は、しだいにその小枝をとりかこんで高くなっていき、じんわりと土手を這いあがっていった。父親は戸口にしゃがみこんだ。「ずいぶん早く水かさが増してくるだな」と彼は言った。「ほかの仲間に相談しに行かなくちゃならねえだ。土手をつくるのを手伝ってくれるかどうかきいてくるだ。手伝ってくれなきゃ、ここを出て行くほかはあるめえ」父親は長い貨車のなかを見渡してウェンライトが住んでいるほうを見やった。アルがそこにいてアギーのそばに坐っていた。父親は隣の領分へはいりこんで行った。「水かさが増してきてるだ」と彼は言った。「土手を盛りあげたらどうかと思うだがね。みんなが手伝ってくれりゃ、すぐできちまうだよ」
ウェンライトが言った。「わしたちもいま相談してたところだ。ここを出て行かなくちゃなるめえと思うだよ」
父親が言った。「おめえさんだって、あっちこっち歩きまわってきたんじゃねえだか。水に濡れてねえ場所が手にはいりそうなもんかどうかぐらい、わかりそうなもんだ」
「わかってるだよ。だけんど、やっぱり――」
アルが言った。「お父っさん、ここの人たちが行くんなら、おれもいっしょに出て行くぜ」
父親は、びっくりした顔をした。「そんなことはできねえだぞ、アル。トラックが――おれたちにゃ、あのトラックを運転することができねえだでな」
「そんなこと知っちゃいねえよ。おれとアギーは、もうはなれられねえんだ」
「まあ、ちょっと待ってくんろ」と、父親が言った。「ちょっとこっちへきて見てみな」ウェンライトとアルは、立ちあがって戸口に歩みよった。「見えるだろうが」と、父親が指さしながら言った。「ほんのあそこからあそこまで土手をつくりゃええだ」彼は、さっき挿《さ》した小枝を見た。水はもうそのまわりに渦をまき、じわじわと土手に這いのぼってきた。
「大仕事だて。それに、そんなことをしてみたところで、どっちみち水があふれてくるかもしれねえだ」とウェンライトは反対した。
「だけんど、おれたちはいま何もしてねえだで、仕事をするのもいいでねえだか。こんなにいい場所は、なかなか見つかるもんでねえだ。さあ、行くだ。ほかのもんにも相談してみるだ。みんなが手伝ってくれりゃ、できちまうだよ」
アルが言った。「アギーが行くんなら、おれもいっしょに行くぜ」
父親が言った。「なあ、アル、ほかの連中が土盛りはいやだといえば、そのときは出て行かなくちゃならねえだ。さあ、とにかくみんなと相談してくるだよ」彼は肩をすぼめて踏板を駆けおり、隣の貨車の踏板を駆けのぼって、開いた戸口に飛びこんで行った。
母親はストーブのそばに陣どって、弱い炎にすこしずつ木片をくべていた。ルーシーが母親にまつわりついて、「あたし、お腹《なか》がすいたよ」と哀れっぽい声を出した。
「いんや、そんなはずはねえだ」と母親が言った。「おまえは、玉蜀黍粥《とうもろこしがゆ》を、たくさん食べたじゃねえか」
「『クラッカー・ジャック』が一箱ほしいよ。何にもすることがないんだもん。何にもおもしろいことがないんだもん」
「いまにおもしろいことができるだよ」と母親が言った。「もうすこし待っておいで。じきにおもしろいことができるだから。もうじき家と畑をもつようになるだ」
「犬が一匹ほしいな」とルーシーが言った。
「犬も飼ってやるだ。それから猫《ねこ》もね」
「黄色い猫?」
「いい子だから、うるさくしないでおくれ」と母親が頼むように言った。「いまは、あたしをそんなに困らさないでおくれよ、ルーシー。ローザシャーンが病気なんだよ。ほんのちょっとのあいだ、お利口にしてておくれ。いまにおもしろいことができるだからね」ルーシーは、ぶつぶつ言いながら、所在なさそうに向うへ行ってしまった。
『シャロンのバラ』が毛布にくるまって寝ているわら布団から、ふいに短い悲鳴がきこえ、途中で一度とぎれて、またきこえた。母親は、さっとふりむいて、彼女のそばに駆けよった。『シャロンのバラ』は息をつめ、目が恐怖に満ちていた。
「どうしただ?」と母親が叫んだ。娘は息を吐きだし、また息をつめた。母親は、いきなり毛布の下へ手をさし入れた。それから立ちあがって、「ウェンライトのおかみさん」と呼んだ。「ねえ、ウェンライトのおかみさん!」
ふとった小柄《こがら》な女が貨車の向う側からやってきた。「どうかしたのかい?」
「見ておくれよ!」母親は、『シャロンのバラ』の顔を指さした。歯が下唇《したくちびる》をしっかり噛《か》みしめ、額は汗に濡れ、目には恐怖の色があらわれていた。
「産気づいたんだと思うよ」と彼女は言った。「ちょっと早いようだけど」
娘は大きな溜息《ためいき》をついてぐったりとなった。食いしばっていた唇をゆるめ、目をとじた。ウェンライトのおかみさんは娘の上にかがみこんだ。
「体じゅうが締めつけられるような気持だったかい――ぎゅっと。さあ、答えてみな」『シャロンのバラ』は弱々しくうなずいた。ウェンライトのおかみさんは、母親のほうを向いて、「そのとおりだよ」と言った。「産気づいただよ。ちょっと早かったと言っただね?」
「熱のせいで早くなったのかもしれねえだ」
「ともかく、ちゃんと立たせなくちゃいけないよ。歩きまわらせなくちゃ」
「この娘にゃむりだよ」と母親が言った。「とてもそれだけの元気はねえだもの」
「でも、そうさせなくちゃいけないよ」ウェンライトのおかみさんは経験者らしく、落ちついた、きびしい態度になった。「あたしゃ何回もとりあげたことがあるだ」と彼女が言った。「さあ、そのドアをしめておこう。ちょっとだけあけてね。あまり風がはいらないようにしなくちゃ」二人の女は重い引戸を押してドアをしめ、ほんの一フィートほどあいているだけにした。「うちのランプも持ってくるよ」とウェンライトのおかみさんは言った。彼女の顔は興奮で青ざめていた。「アギー」と彼女は声をかけた。「おまえ、この子たちを見てておくれ」
母親がうなずいた。「それがいいだ。ルーシー、おまえとウィンフィールドは、アギーのところへ行っといで。さあ、行くんだ」
「どうして?」と二人がきいた。
「そうしなくちゃいけねえからさ。ローザシャーンが赤ん坊を産むんだよ」
「あたし、見たいわ、おっ母さん。見せておくれよ」
「ルーシー、さあ、お行き。早くお行きったら」こんなにきっぱり言われたのでは、口答えするわけにはいかなかった。ルーシーとウィンフィールドは、しぶしぶ貨車のなかを歩いて行った。母親がランタンに火をつけた。ウェンライトのおかみさんは、ロチェスター・ランプを持ってきて床においた。大きなまるい炎が有蓋貨車のなかを明るく照らした。
ルーシーとウィンフィールドは粗朶《そだ》の山の陰に立って、じっと見ていた。「赤ん坊を産むんだってもの、あたしたちも見なくちゃね」とルーシーが小声で言った。「さあ、もう音を立てちゃいけないわよ。おっ母さんが見せてくれなくなるからね。おっ母さんがこっちを向いたら、この柴の陰にかくれるのよ。そしたら見えるから」
「お産を見た子は、あまりいないんだよ」とウィンフィールドが言った。
「見た子なんて誰《だれ》もいやしないわよ」とルーシーが誇らしげに言った。「あたしたちだけよ」
わら布団のそばではランプの明るい光のなかで母親とウェンライトのおかみさんとが相談していた。二人の声は、うつろにうちつける雨の音よりも、すこしばかり高かった。ウェンライトのおかみさんがエプロンのポケットから果物ナイフをとりだして、それをわら布団の下にすべりこませた。「何の役にもたたないかもしれないけれど」と彼女は弁解がましく言った。「うちじゃ、いつもこうするもんだからね。どっちみち害にはならないから」
母親がうなずいた。「あたしたちは鋤《すき》のさきを使ったもんだよ。刃のあるもんなら何だっていいんじゃないかね。お産の苦しみを断ち切ってくれるものならね。長くかからなきゃいいけど」
「おまえさん、もう気分はよくなったかい?」
『シャロンのバラ』は不安そうにうなずいた。「もう生れるの?」
「そうだよ」と母親が言った。「いい赤ん坊が生れるだよ。ただ、あたしたちのいうとおりにしてればそれでいいだ。起きて歩けそうかね」
「やってみるわ」
「いい子だね」とウェンライトのおかみさんが言った。「ほんとにいい子だよ。あたしたちが手伝ってあげるからね。いっしょに歩いてあげるよ」二人は彼女を助け起して、肩に毛布を巻いてやりピンでとめた。それから、母親が一方から腕をささえ、ウェンライトのおかみさんが、もう一方から腕をささえた。二人は粗朶の山まで彼女を歩かせ、それから、ゆっくりと向きを変えて、またもとのところまで歩かせ、それを何回も何回もくりかえした。雨は屋根にあたって重々しい音をたてていた。
ルーシーとウィンフィールドは待ち遠しそうに見つめていた。「いつ生れるんだい?」とウィンフィールドがきいた。「しいっ! おっ母さんが気がつくじゃないの。見せてもらえなくなるわよ」
アギーが二人に加わって粗朶の山の陰にかくれた。アギーのやせた顔と黄色い髪がランプの光に照らされて見え、壁に映った彼女の鼻は長く尖《とが》って見えた。
ルーシーがささやいた。「お姉ちゃんは、赤ん坊の生れるところを見たことがあるの?」
「あるわ」とアギーが言った。
「じゃ、いつ生れるのかしら?」
「そんなに長くはかからないわよ」
「じゃ、どのくらい?」
「たぶんあすの朝まではかからないと思うわ」
「なんだ」とルーシーが言った。「それじゃ、いま見ていても、何にもならないじゃないの。あら、見てごらん」
歩いていた女たちが立ちどまっていた。『シャロンのバラ』が体をこわばらせ、苦しさに泣きそうになっていた。二人は彼女をわら布団に寝かせ、うめきながら両の拳《こぶし》を握りしめている娘の額をふいてやった。それから、母親は、小声で彼女に話しかけた。「楽にしてるんだよ」と母親は言った。「すぐになんでもなくなるだから――すぐになんでもなくなるだ。ちょっとのあいだ手を握りしめてるがいいだ。それから、下唇を噛みしめて。そう、そう、それでいいだ――それでいいだよ」陣痛はすぎた。二人は、しばらく娘を休ませ、それからまた助け起して、三人で歩きはじめた。陣痛のあいまに、何度も何度も行ったりきたりした。
父親が、狭い隙間《すきま》から首をのぞかせた。彼の帽子からは、滴《しずく》がたれていた。「どうして戸をしめただね?」と彼は言った。そのとき彼は女たちが歩いているのを見た。
母親が言った。「産気づいただよ」
「それじゃ、出て行こうにも行けねえわけだな」
「そうだよ」
「それじゃ、どうでも土手をつくらなくちゃならねえだな」
「そうしてもらわなくちゃならねえだよ」
父親は、ぴしゃぴしゃと泥《どろ》のなかを歩いて川のほうへ行った。さっきの小枝は四インチばかり水のなかに没していた。男が二十人ばかり雨のなかに立っていた。父親が叫んだ。「土手をつくらなくちゃならねえだ。うちの娘が陣痛を起したでな」男たちは彼のまわりに集まった。
「赤ん坊か?」
「そうだよ。当分もう出て行くことはできねえだ」
一人の背の高い男が言った。「おれの赤ん坊じゃねえだ。わしらは出て行けるだぞ」
「そうだとも」と父親が言った。「おめえは行けるだ。行くがいいだ。誰もとめやしねえだ。シャベルが八つしきゃねえだでな」彼は急いで土手の低くなっているところへ行き、シャベルを泥のなかへつっこんだ。ごぼりと音がして、シャベルいっぱいの土がもちあがった。彼はまたシャベルをつっこんで泥をすくいとり、それを小川の土手の低いところへ投げ入れた。その彼のそばへ、ほかの男たちが、ずらりと並んだ。彼らは泥を盛りあげて長い土手をつくった。シャベルを持っていないものは、細い柳の生枝を切ってきて、それを筵《むしろ》に編んで土手に踏みつけた。仕事の情熱、闘いの情熱が男たちをとらえた。一人の男がシャベルを投げだすと、別の男がそれをとりあげた。彼らは上着と帽子を脱ぎ捨てた。シャツとズボンは固く体にまつわりつき、靴《くつ》は不格好な泥の塊《かたまり》になった。鋭い悲鳴がジョード家の貨車のほうからきこえてきた。男たちは手を休めて不安そうに耳をすまし、それからまた仕事にかかった。こうして、小さな土手は、しだいに伸びていって、とうとう流れの上手《かみて》と下手《しもて》で国道の堤防につながった。ここまでくると、彼らは疲れ、シャベルの動きは前よりも緩慢になった。そして川の流れは、ゆっくりと水かさを増していった。水は最初に泥が投げ入れられたところよりも高くなっていた。
父親が勝ち誇ったように笑った。「土手をつくらなかったら、いまごろは水があふれちまったところだぞ」
流れは新しい土手の面に沿って、ゆっくり増水していき、柳の筵をひきちぎりはじめた。「もっと高く!」と、父親が叫んだ。「もっと高く積みあげなくちゃなんねえだぞ!」
夕方がきたが、仕事はつづけられた。男たちは、いまはもう、くたくたに疲れていた。顔はこわばり、死人のようだった。彼らは機械のようにぎくしゃくと動いた。暗くなってくると、女たちが貨車の戸口にランタンをおき、すぐ手にとれるところにコーヒー・ポットをおいた。そして女たちは一人一人ジョード家の貨車へ走って行っては、小さな隙間から、なかへすべりこんだ。
陣痛は、ますます頻繁《ひんぱん》になり、いまでは二十分おきにおそってきた。『シャロンのバラ』は、もうこらえるだけの気力をなくしていた。彼女は、はげしい苦痛に耐えかねて、ものすごい悲鳴をあげた。すると、近所の女たちが彼女を見にきて、いたわるように彼女の体をたたいてやっては、また自分の貨車に戻《もど》って行った。
母親は、いまはどんどん火をおこし、容器という容器に水をみたしてストーブにかけていた。父親が、何度も戻ってきては貨車の戸口からのぞきこみ、「大丈夫か?」ときいた。
「うん、大丈夫だよ」と、母親は父親を安心させた。
暗くなってきたとき、誰かが仕事の現場へ懐中電灯を持ってきた。ジョン伯父は脇目《わきめ》もふらずに泥を土手の上に投げあげた。
「ゆっくりやったほうがいいだ」と、父親が言った。「そんなに精出すと死んじまうだぞ」
「こうしねえではいられねえだ。あのわめき声をきいちゃいられねえだ。まるで――まるで、あのときみてえだで――」
「わかってるだよ」と、父親が言った。「だけんど、とにかく、ゆっくりやったほうがいいだ」
ジョン伯父は泣き声を出した。「わしは逃げだしたくなるだ。まったく、働いてでもいねえと、逃げだしたくなるだよ」
父親は彼から目をそらした。「さっき立てた目印は、どうなってるだね」
懐中電灯を持った男が小枝に光線を投げかけた。雨が白くその光線をよぎった。「水がふえてきてるだ」
「もう前よりは、ふえかたが、ゆっくりになってるはずだ」と、父親は言った。「さきに向う側にうんとあふれるはずだでな」
「だけんど、やっぱりふえてるだ」
女たちはコーヒー・ポットをいっぱいにして、また戸口に出しておいた。そして、夜がふけるにつれて、男たちの動きは、ますます緩慢になり、彼らはまるで荷車を引く馬のように重い足をもちあげた。土手の上に、さらに多くの泥が積みあげられ、さらに多くの柳の枝が編まれた。雨は、とめどなく降りつづけた。懐中電灯に照らしだされた人々の顔を見ると、目はすわり、頬《ほお》の筋肉は、みみずばれに浮きあがっていた。
長いあいだ悲鳴が貨車からきこえてきていたが、やがて静かになった。
父親が言った。「生れたんなら、おっ母が呼ぶはずだて」彼はむっつりと泥をシャベルで掘りつづけた。
流れは土手にあたって渦《うず》を巻き、わきかえった。すると流れの上手のほうで、何か引きさけるような音がした。懐中電灯の光が倒れかけている一本の大きなは|ねこやなぎ《ヽヽヽヽヽ》の木を照らしだした。男たちは仕事をやめて、それを見まもった。木の大枝が水のなかに沈み、流れに押されてじりじりとまわり、水が小さな根を掘りくずした。徐々に木は根こそぎにされ、やがてゆっくりと流れを下りはじめた。疲れ果てた男たちは、口をぽかんとあけたまま、それを見つめていた。木は、ゆっくりと流れて行った。すると、一本の大枝が切株にひっかかり、それに引きとめられて動けなくなった。すると、根っこのほうが、じわじわと大まわりをはじめ、いまつくったばかりの土手にひっかかった。水が、その背後で盛りあがった。木は動いて土手を突きくずした。小さな流れが土手の裂け目から流れだした。父親は飛びだして行って、泥をその裂け目に押しこんだ。水は木にあたってあふれた。すると土手は見る見るうちに洗い流され、水が、くるぶしのあたりを、膝《ひざ》のまわりを洗った。男たちは一目散に駆けだした。流れは、ゆっくりと、なめらかに平地に流れこみ、有蓋《ゆうがい》貨車の下に、自動車の下に流れて行った。
ジョン伯父は水があふれ出るのを見ていた。暗闇《くらやみ》のなかで彼はそれを見ることができた。彼は、へたへたとその場にくずおれた。膝をついた。すると、ひきずりこむように水が胸のまわりに渦まいた。
父親は彼が倒れるのを見た。「おい! どうしただ」彼はジョン伯父を助け起した。「気分でもわるいのか? さあ、行くだ。貨車のほうが高えだ」
ジョン伯父は力をふりしぼった。「自分でもわからねえだよ」と彼は、すまなそうに言った。「足がまいっちまっただ。すっかり足がいうことをきかなくなっただよ」父親は彼を助けて貨車のほうへ行った。
土手が切れたとき、アルは、うしろをふりむいて駆けだした。トラックのところまでたどりついたときには、水は、ふくらはぎのあたりにまできていた。車の前部にかけてあった防水布をさっと払いのけると、彼は車のなかへ飛びこんだ。スターターを踏んだ。エンジンはぐるぐるまわったが、モーターのうなりはなかった。彼はチョークを深くした。バッテリーは濡れたモーターを動かしはしたが、回転はますます緩慢になっていった。そしてエンジンのかかる音はきこえなかった。何度も何度もやってみたが、回転は、ますます緩慢になっていくばかりだった。アルは点火位置を高くした。座席の下を探ってクランクをとりだし、外へ飛びだした。水はステップよりも高くなっていた。彼はトラックの前へ走って行った。もうクランク・ケースも水にかくれていた。彼は気ちがいのようにクランクをあてがって、ぐるぐるまわした。クランクを握りしめた手が、一回転ごとに、ゆっくりと流れている水に、しぶきをあげた。気ちがいのようにクランクをまわしていた彼も、とうとう力がつきてしまった。モーターは水びたしになり、バッテリーも動かなくなってしまった。すこし高い地面で、二台の車にエンジンがかかり、ライトがついた。車は泥《どろ》のなかでもがいたが、車輪が泥にめりこむばかりで、とうとう運転手たちは、エンジンを切って、じっと坐りこみ、ヘッドライトの光線に見入った。雨はその光線のなかに白い筋となってたたきつけた。アルは、ゆっくりとトラックの前をまわり、手を伸ばしてイグニションのスイッチを切った。父親は踏板のところまできたとき板の低いほうの端が浮いているのを見つけた。彼は水の下の泥のなかへ板を踏みつけた。
「ちゃんとあがれると思うだかね。ジョン?」と彼はきいた。
「大丈夫だ。先に行ってくれろ」
父親は用心深く踏板をのぼって行き、体を縮めて、狭い隙間を通りぬけた。二つのランプは炎を低く小さくしてあった。母親が『シャロンのバラ』のそばのわら布団《ぶとん》の上に坐って、ボール紙で、じっと動かない娘の顔をあおいでいた。ウェンライトのおかみさんがかわいた粗朶をストーブのなかへつっこむと、湿った煙が、蓋《ふた》の周囲から吹きだして、貨車のなかを、布の燃えるようなにおいでいっぱいにした。父親がはいってきたとき、母親は、父親の顔をちらと見あげたが、すぐ下を向いてしまった。
「どんなぐあいだね――この娘《こ》は?」と父親はきいた。
母親はもう彼のほうを見あげなかった。「大丈夫だと思うだよ。いま眠ってるだ」
空気は出産のにおいで臭く、いきがつまるようだった。ジョン伯父が這うようにしてはいってきて、貨車の壁にもたれて体をささえた。ウェンライトのおかみさんが仕事をやめて、父親のほうへ近づいてきた。そして、父親の肘《ひじ》をひっぱって貨車のすみのほうへつれて行った。ランタンをとりあげて、それをすみの林檎《りんご》箱の上においた。新聞紙を敷いた上に、青い、しなびた、小さいミイラのようなものが横たわっていた。「息もしなかっただよ」とウェンライトのおかみさんは小さな声で言った。「はじめから生きちゃいなかっただ」
ジョン伯父は向きを変えると、疲れたように足を引きずって車の暗い端のほうへ歩いて行った。雨は、いまは静かに屋根をたたいていた。雨の音が静かになったので、ジョン伯父が暗闇のなかで疲れたようにすすり泣いているのがきこえるほどだった。
父親はウェンライトのおかみさんを見あげた。彼女の手からランタンを受けとると、それを床の上においた。ルーシーとウィンフィールドが、目に腕をあてて光をさえぎりながらわら布団の上で眠っていた。
父親は、ゆっくりと『シャロンのバラ』が寝ているわら布団に歩みよった。彼は、しゃがみこもうとしたが、足が疲れすぎていて、いうことをきかなかった。そこで、しゃがむ代りに、膝をついた。母親は四角いボール紙を前後に動かしてあおぎつづけた。ちょっと父親のほうを見たが、目は、まるで夢遊病者の目のように大きく見開かれていた。
父親が言った。「わしたちは――それでもやっただよ――できるだけのことはな」
「わかってるよ」
「わしたちは一晩じゅう働いただ。ところが木が土手を破っちまっただ」
「わかってるよ」
「この貨車の下に音がきこえるだろうが」
「わかってるよ。音はきこえただよ」
「この娘《こ》は大丈夫だかね?」
「さあね」
「だけんど――わしたちは――ほかになんとか方法がなかったのかね?」
母親の唇《くちびる》はこわばり、まっ青だった。
「どうしようもなかっただよ――一つしか方法はなかっただ――たった一つしか――それを、あたしたちはやっただよ」
「わしたちは、ぶっ倒れるまで働いただ。それなのに、あの木のちくしょうめが――雨は、いくらか小降りになったようだな」母親は天井を見あげ、それからまた下を見た。父親は、しゃべらずにはいられないもののように、また言葉をつづけた。「どのくらいまで水が出るかわからねえだ。この貨車まで水浸しにしてしまうかもしれねえだ」
「わかってるよ」
「おめえは、何でもわかってるだな」
彼女は口をつぐんだ。ボール紙が、ゆっくり前後に動いた。
「わしたちは、へまをやらかしただかね?」と彼は訴えるように言った。「ほかに何かやれることがあっただかね?」
母親は異様な表情で彼を見た。彼女の青ざめた唇が夢みるような憐憫《れんびん》を浮べて微笑した。「何もおまえさんがわるいんじゃないよ。もういいんだよ。そのうちによくなるさ。変りかけているんだよ――何もかもがね」
「たぶん水が――わしたちは出て行かなくちゃならなくなるだ」
「出て行くときがきたら――あたしたちは出ていくだよ。あたしたちは、しなくちゃならないことをするだけさ。もう黙っておいでよ。この娘《こ》を起してしまうからさ」
ウェンライトのおかみさんが小枝を折って、湿ってくすぶっている火のなかへつっこんだ。
外から怒った声がきこえてきた。「おれは、なかへはいって、あの野郎の面《つら》を自分で見ねえことには腹の虫がおさまらねえだ」
するとドアのすぐ外でアルの声がきこえた。「おめえ、どこへ行こうっていうだ?」
「あのジョードの野郎に用があるだ」
「だめだ。はいらせねえだ。おめえ、いったい、どうしただね?」
「あの野郎が、土手を築こうなんて、あんなばかげた考えを起さなかったら、おれたちは、ここを立ちのけたはずだ。しかし、いまではもう、車が動かなくなっちまっただ」
「おめえは、うちの車が道をすいすい走ってるとでも思ってるのか?」
「おれは、なかへはいるだぞ」
アルの声は冷たかった。「はいれるもんならはいってみるがいいだ」
父親は、ゆっくり立ちあがって戸口へ行った。「いいだよ、アル。おれのほうから出て行くだ。心配することはねえだよ、アル」父親は、すばやく踏板をおりた。母親は、父親がこう言っているのを耳にした。「うちにゃ病人がいるだでな。こっちへきてくれろ」
雨は、いまは屋根にぱらぱらと音をたてる程度で、新しく吹きはじめたそよ風が、ときどきそれをさっと吹きはらった。ウェンライトのおかみさんがストーブのそばから立ちあがってきて、『シャロンのバラ』を見おろした。「もうじき夜明けだよ、おかみさん。すこし寝なすったらどうだね? あたしが、この娘のそばに坐っててやるだ」
「いんや」と、母親は言った。「あたしゃ疲れちゃいねえだよ」
「嘘《うそ》を言っちゃいけねえだ」とウェンライトのおかみさんは言った。「さあ、しばらく横になったほうがいいだ」
母親はボール紙でゆっくり空気を送った。「おまえさんにゃ、えらく世話になっただね」と彼女は言った。「お礼を言いますだ」
ふとった女は、ほほえんだ。「お礼をいうことなんかありゃしねえだよ。みんな同じ貨車に乗りあわせたんだもの。もしも、あたしたちが、ひょんなことになってたとしたら、どうだかね。そうすりゃ、きっとおまえさんたちが助けてくれたはずだよ」
「それはそうだ」と母親が言った。「もちろん、そんときにゃ、あたしたちが手を貨しただろうよ」
「誰《だれ》だってそうするだよ」
「誰でもがね。昔は家族が第一だったけれど、いまはそうじゃないんだもんね。みんな、おんなじことなんだ。暮しがわるくなればなるほど、あたしたちのしなくちゃならねえことがふえてくるんだね」
「あの赤ん坊は、はじめっから助かりっこなかったんだよ」
「わかってるよ」と、母親は言った。
ルーシーが大きな溜息《ためいき》をついて腕を目からはなした。ちょっとのあいだ、まぶしそうにランプを見てから、ぐるりと頭を動かして母親を見た。「もう生れたの?」ときいた。「赤ちゃんは、もう出ちゃったの?」
ウェンライトのおかみさんが袋をとってすみっこの林檎《りんご》箱の上にかぶせた。
「赤ちゃんは、どこにいるの?」とルーシーがきいた。
母親は唇をなめた。「赤ちゃんなんかいやしないよ。はじめっからいなかったのさ。あたしたちは勘ちがいしていたんだよ」
「なんだ、つまんないの」ルーシーはあくびをした。「赤ちゃんだったらよかったのに」
ウェンライトのおかみさんは、母親のそばに坐り、彼女からボール紙をとりあげてあおいだ。母親は膝に手を組んだ。彼女のくたびれた目は、疲れきって眠っている『シャロンのバラ』の顔から一度もはなれなかった。「さあ、さあ」とウェンライトのおかみさんが言った。「ちょっと横になったほうがいいだ。娘のすぐそばにいられるんじゃないかね。なあに、この子がちょっと大きな呼吸《いき》でもすりゃ、それですぐに目がさめるだよ」
「じゃ、そうするだ」母親は眠っている娘と同じわら布団の上に体を伸ばした。ウェンライトのおかみさんは床に坐って二人を見まもっていた。
父親とアルとジョン伯父は、貨車の入口に坐って鋼色《はがねいろ》の夜明けがやってくるのを見まもっていた。雨はやんでいたが、空には雲が深く、ずっしりとたれこめていた。暁の光がさしこんでくると、その光が水面に反射した。黒い木の枝や箱や板などを運んで矢のように流れている川の流れが見えた。水は有蓋《ゆうがい》貨車がならんでいる平地に渦《うず》を巻いて流れこんできた。土手は跡形もなかった。平地にはいると流れは停止し、洪水《こうずい》の端には黄色い泡《あわ》の縁どりができていた。父親は戸口から身を乗りだして、水面からすこし上の踏板のあたりに小枝を一本おいた。男たちは、水がゆるやかにその小枝に向って這いあがり、やがて、それをそっともちあげて運び去って行くのを見つめていた。父親は、もう一本の小枝を水面から一インチばかり上のところにおくと、戸口のところへ腰を据《す》えて、じっとそれを見まもっていた。
「車のなかまで水がはいってくると思うだかね?」とアルがきいた。
「そりゃ、何ともいえねえだな。まだ丘のほうから水がどんどん流れてくるはずだでな。何ともいえねえだよ。それにまた雨が降りだすかもしれねえだしな」
アルが言った。「おれは考えていただがな。もし水がはいってきたら、何もかもぐしょ濡れになっちまうだぜ」
「そうだ」
「だけんど、貨車のなかにはいってきたとしても、三、四フィート以上にはならねえだろう。そのくらいまでくると、国道を越えて、まず向うのほうへひろがって行くだろうからな」
「どうしてわかるだね?」と、父親がきいた。
「おれは、この貨車の端からすかして、はかって見ただよ」彼は片手をあげた。「あがってくるとしても、だいたいこのくらいだろうて」
「わかっただ」と、父親が言った。「それで、どうだというだね。おれたちは、もうここにはいられなくなるだぞ」
「ここにいなくちゃなんねえだよ。トラックは、ここにあるだし、洪水が引いても、トラックから水が引くまでに一週間はかかるだから」
「それで――おめえの考えってのは?」
「トラックの側板をはがして、このなかへ台みてえなものをつくれば、荷物を積みあげて、その上に坐っていられると思うだ」
「それで、炊事はどうやってするだね――食べるのはどうするだね?」
「でも、ともかく荷物だけは濡らさねえですむぜ」
しだいに外は明るくなっていった。灰色の金属的な光だった。二本目の小枝が踏板から流れて行った。父親は、もう一本の小枝を、もうすこし高いところにおいた。「たしかに増水してきてるだ」と彼は言った。「おめえのいうとおりにしたほうがいいかもしれねえだな」
母親が眠りながら落ちつきなく寝返りをうった。目を大きく見開いた。そして警告するように鋭い叫びを発した。「トム! ああ、トム! トム!」
ウェンライトのおかみさんが、なだめるように声をかけた。すると、母親の目は、ふたたびとじられて、母親は夢のなかで身もだえした。ウェンライトのおかみさんは立ちあがって戸口のところへ歩いて行き、「ねえ!」と小さな声で言った。「どうせ、あたしたちは、すぐには立ちのくわけにはいかないんだからね」彼女は林檎箱のおいてある貨車のすみっこのほうを指さした。
「あれをおいといたところで、何の益もありゃしないよ。ただ厄介《やっかい》や悲しみの種になるばかりさ。誰かあれを――持ってって埋めてくるわけにはいかねえかね?」
男たちは黙っていた。やがて父親が言った。「おまえさんのいうことはもっともだ。まったく悲しみの種になるばかりだて。けんど、あれを埋めることは、法律を犯すことになるだ」
「法律を犯すにしても、どうでもしなきゃならねえことが、たくさんあるだよ」
「そりゃそうだ」
アルが言った。「水がこれ以上あがってこねえうちに、トラックの側板をひっぺがさなくちゃならねえだ」
父親はジョン伯父に言った。「おめえ、あれを持ってって埋めてきてくれねえだか。そのあいだにアルとおれとで、あの板を運んでおくだ」
ジョン伯父は、むっつりした顔で言った。「どうしてこのわしがやんなくちゃなんねえだ。どうして、おめえたちがやんねえだ? わしは、やりたくねえだ」しかし、そのすぐあと彼はつけ加えた。「いいだ、わしがやるだよ。いいとも、わしがやるだ。さあ、そいつを渡してくれ」彼の声は高くなりはじめた。「さあ、そいつをわしに渡してくれ」
「あの二人を起さないでおくれよ」とウェンライトのおかみさんが言った。彼女は林檎箱を戸口のところまで運んできて、上にかぶせた袋を丁寧にひろげた。
「シャベルは、おめえのすぐうしろに立てかけてあるだ」と、父親が言った。
ジョン伯父は片手にシャベルを持ち、そっと戸口を抜けて、ゆるやかに流れる水のなかへ足を踏み入れた。水が、ほとんど腰のあたりまで達したころ足がようやく底についた。彼は、ふりむいて林檎箱を、もう一方の腕の下に、しっかとかかえこんだ。
父親が言った。「さあ、アル。あの板を運ぶだ」
灰色の暁の光のなかを、ジョン伯父は、水を渡って貨車の端をまわり、ジョード家のトラックのそばを通りすぎた。それから、つるつるすべる土手をのぼって国道に出た。国道を歩いて有蓋貨車の並んでいる平地をすぎ、やがて、わきかえっている流れが道路のすぐそばまで迫っているところへきた。そこまでくると柳の木が道ばたに並んで生い茂っていた。彼は、シャベルを下におき、箱を胸にかかえて茂みのなかを歩いて行き、早い流れのふちに出た。しばらくのあいだ彼は、水が柳の幹のあいだに黄色い泡を残して渦巻き流れるのを見まもっていた。彼は林檎の箱を、しっかり胸に抱きしめていた。それから身をかがめて箱を流れに浮べ、片手でそれをささえた。そして、はげしい口調で言った。「さあ、流れて行って、みんなに言ってやるだぞ。町のなかへ流れて行って、腐っちまってからに、その腐った姿で、みんなに言ってやるだ。そういう状態でこそ、おめえは話すことができるだでな。おめえが男の子だか女の子だか、それすらも、わしにはわからねえ。知ろうともおもわねえ。さあ、流れてくがいいだ。そして町のなかに、ころがってるだ。そうすりゃ、たぶん、あいつらにもわかるだろうて」彼は、そっと箱を流れのなかへ押しやって手をはなした。箱は重そうに水に浮び、横向けに、じりじり動いて行って、ぐるぐるまわると、ゆっくりとひっくり返った。袋がただよい流れ、箱が早い流れにつかまると、たちまち押し流され、茂みの陰に見えなくなった。ジョン伯父はシャベルを握って急いで有蓋貨車のところへ戻った。ざぶざぶと水のなかへはいって行き、水を渡ってトラックのところまで行った。そこでは父親とアルが、幅一フィート、長さ六フィートの側板をはずしにかかっていた。
父親が彼のほうを見やった。「すんだだかね?」
「うん」
「それじゃ」と、父親が言った。「おめえがアルの手伝いをしてくれるんなら、おれは店へ行って何か食べるものを買ってくるだ」
「ベーコンをすこし買ってきてくんなよ」とアルが言った。「すこし肉を食わねえと保《も》たねえだ」
「いいだとも」と父親が言った。彼がトラックから飛びおりると、ジョン伯父があとを引きうけた。
二人が厚板を貨車の戸口へ押しこんでいると、母親が目をさまして起きあがった。
「何をしてるだね?」
「濡《ぬ》れねえ場所をつくるだよ」
「どうしてだね?」と母親がきいた。「ここへは水ははいっちゃいねえだよ」
「いつまでもそういうわけにはいかねえだよ。水はどんどんあがってきてるだから」
母親は、ごそごそと起きあがって戸口へ行った。
「あたしたち、ここを出て行かなくちゃならねえのかね?」
「出ては行かれねえだよ」とアルが言った。「うちの荷物は、すっかりここにおいてあるだから。それに、トラックも、ここにあるだし。持物は、みんなここにあるだ」
「お父っさんは、どこにいるだね?」
「朝食の買いものに出かけて行っただ」
母親は水を見おろした。もう床まで六インチしかなかった。彼女は、わら布団に戻って『シャロンのバラ』を見た。娘が彼女を見返した。
「気分はどうだね?」と母親はきいた。
「疲れたわ。ほんとにくたくたになっちまったわ」
「いま朝食をすこし食べさせてあげるだ」
「あたしお腹すいてないわ」
ウェンライトのおかみさんが、母親のそばへよってきた。「娘さんは大丈夫らしいだね。無事に切りぬけただよ」
『シャロンのバラ』の目が、母親に問いかけた。母親は、その問いを避けようとした。ウェンライトのおかみさんはストーブのほうへ歩いて行った。
「おっ母さん」
「何だい? 何か用かい?」
「あれは――元気――なの?」
母親は、かくしてもむだだとさとった。彼女は、わら布団の上に膝をついて、「まだこれからいくらでも赤ん坊は産めるだよ」と言った。「あたしたちは、知ってるだけのことは全部やっただ」
『シャロンのバラ』は身をもがいて、ようやく起きあがった。「おっ母さん!」
「おまえには、どうしようもなかったのだよ」
娘はまた仰向けになって腕で目をおおった。ルーシーが忍びよってきて、耳につくような声でささやいた。「姉ちゃんは病気なの、おっ母さん? 姉ちゃんは死ぬの?」
「死にゃしないよ。すぐに元気になるだよ。元気になるともさ」
父親が腕いっぱいに包みをかかえてはいってきた。
「どうだな、この娘《こ》のぐあいは?」
「大丈夫だよ」と母親が言った。「すぐによくなるだ」
ルーシーはウィンフィールドに報告した。「姉ちゃんは死なないってさ。おっ母さんがそう言ってたよ」
するとウィンフィールドは、いかにもませた様子で木のとげで歯をほじくりながら言った。「おいら、ずっと前から知ってたよ」
「どうしてわかったのさ?」
「教えてやらないよ」ウィンフィールドはそう言って小さい木ぎれをぺっと吐きだした。
母親が、あるだけの小枝で火をおこし、ベーコンを使って肉汁をつくった。父親は店売りのパンを買ってきていた。母親はそれを見て顔をしかめた。「すこしはお金が残ってるのかい?」
「いんや」と、父親が言った。「だけんど、わしたち、ひどく腹がへってるだでな」
「だから店売りのパンを買ったというのかい?」
母親は、ぷりぷりしながら言った。
「だけんど、わしたちは、えらく腹がへってるだ。一晩じゅう働き通しだったでな」
母親は溜息《ためいき》をついた。「それで、あたしたちはこれからどうするのさ?」
彼らが食べているうちにも、水はしだいに高くなってきた。アルは食べものをのみこむと、父親と二人で台をつくった。幅五フィート、長さ六フィート、高さは床の上四フィートだった。水は戸口のふちまで忍びより、長いあいだ、ためらっているように見えたが、やがて、ゆるやかに床の上へ流れこんできた。すると、外では、また雨が降りはじめた。前と同じように大きな重い雨滴が水面にしぶきをあげ、屋根にうつろな音をたててたたきつけた。
アルが言った。「さあ、わら布団を上にあげよう。濡れるといけねえから、毛布を上に積みあげるだ」彼らは持物を台の上に積みあげた。すると水は、そろそろと床の上に這いあがってきた。父親と母親とアルとジョン伯父とが四すみをつかんで、『シャロンのバラ』を乗せたまま、わら布団を持ちあげ、それを荷物の上にのせた。
すると娘が抗議した。「あたし、歩けるわ。あたしはもういいのよ」水が薄い膜のように床の上を這いすすんだ。『シャロンのバラ』は何か母親にささやいた。母親は手を毛布の下に入れて彼女の乳房にさわり、うなずいた。
貨車の反対側の端では、ウェンライトの家族が、金槌《かなづち》をたたいて自分たちの台をつくっていた。雨は繁《しげ》くなり、やがて通りすぎていった。
母親は足もとを見おろした。水は、いまでは床上半インチほどの深さになっていた。「おまえたち――ルーシー――ウィンフィールド!」彼女は狂乱したように声をかけた。「さあ、この荷物の上にあがるだ。風邪をひいちまうだぞ」彼女は子供たちが無事に上にあがって、『シャロンのバラ』のそばに、ぎごちなく坐るのを見とどけた。母親は突然言った。「あたしたちは出て行かなくちゃならねえだ」
「出てなんぞ行かれやしねえだよ」と父親が言った。「アルのいうとおり、おれたちの荷物は全部ここにあるだ。貨車の引戸をはずして、もっと坐る場所をたくさんつくるだよ」
家族は口もきかず、いらいらしながら、台の上に身をよせ合っていた。水が貨車のなかで六インチほどの深さになったとき、洪水は、ようやく土手を越えて、なだらかにひろがり、それから向う側の綿畑に流れこんだ。その日の昼と晩、男たちは、びしょ濡れのまま有蓋貨車の引戸の上にごろ寝した。母親は『シャロンのバラ』のそばに寝た。母親は、ときどき娘にささやきかけ、またときには考えこむような顔つきで、そっと起きあがったりした。毛布の下に彼女は店売りのパンをしまっておいた。いま雨は間歇《かんけつ》的になっていた。ちょっと雨まじりの突風がやってきては、そのあと、しばらく静かになった。二日目の朝、父親は、水しぶきをあげてキャンプのなかを通り抜けて行き、ポケットに、馬鈴薯《じゃがいも》を十ばかり入れて戻《もど》ってきた。彼が貨車の内壁の一部分を削りとって火をおこし、鍋《なべ》に水をすくい入れているあいだ、母親は、むっつりと彼を見まもっていた。家族は、ゆでたばかりで湯気のたっている馬鈴薯を指でむいて食べた。そして、この最後の食べものがなくなってしまうと、彼らは灰色の水を、じっと見つめ、夜になっても、なかなか横にならなかった。
朝がくると、彼らは落ちつきなく目をさました。『シャロンのバラ』が母親にささやいた。
母親は、うなずいて言った。「そうだね。もう潮時だね」それから彼女は男たちが横になっている貨車の引戸のほうを向いて、「あたしたちは、もうここを出て行くだ」と乱暴な口調で言った。「もっと高いところへ行くだ。おまえさんたちが行こうと行くまいと、あたしはローザシャーンと子供たちをつれて出て行くだよ」
「おれたちは出て行かれねえだ」と父親は弱々しく言った。
「そんなら、いいだ。でも、おまえさん、とにかくローザシャーンを国道まで抱いてって、それからここへ戻ってきたっていいじゃないかね。いまは雨も降ってないし、あたしたちは出かけるだ」
「よし、おれたちも行くだ」と父親が言った。
アルが言った。「おっ母、おれは行かねえだぜ」
「どうして行かねえだね?」
「だって――アギーが――その、あの娘《こ》とおれは」
母親は、ほほえんで、「いいとも」と言った。「おまえは、ここに残ってるがいいだよ、アル。荷物の番をしておくれ。水が引いたら――そうすりゃ、あたしたちも戻ってくるだからね。さあ、急いで、雨がまた降りださないうちに」と彼女は、父親に言った。「さあ、ローザシャーン。あたしたちは水につかっていないところへ行くんだ」
「あたし、歩けるわ」
「そりゃ、すこしくらいならね。しかし、それも道に出てからだよ。さあ、しっかり頼むよ、お父っさん」
父親は、水のなかへはいって待ちかまえた。母親はローザシャーンを台から助けおろし、彼女をささえて車のなかを歩いて行った。父親は、彼女を腕に抱きとると、できるだけ高く抱きあげて、深い水のなかを注意深くかきわけて行き、貨車の端をまわって国道に出た。彼女をおろして立たせ、手でささえた。ジョン伯父がルーシーを抱いてあとにつづいた。母親が水のなかへはいった。すると、一瞬、スカートがまわりに波うった。
「ウィンフィールド、さあ、おっ母さんの肩に乗るだ。アル――あたしたちは、水が引いたら、すぐ戻ってくるからね。アル――」彼女は、ちょっと言葉をきった。「もし――もしトムがやってきたら――あたしたちは戻ってくると、あの子に言っておくれよ。用心するようにってね。ウィンフィールド! さあ、おっ母さんの肩に乗るだ――さあ! いいかい、足をじっとさせてるんだよ」彼女は胸までつかる水のなかを、よろけながら歩いて行った。国道の土手までくると、みんなで彼女を助けあげ、ウィンフィールドを肩からおろしてやった。
彼らは国道に立って、あたり一面の水や、暗赤色の貨車の群れや、ゆっくりと流れる水に深くつかっているトラックや、自動車をふりかえった。すると、彼らが立っているあいだにも、細かい霧のような雨が降りはじめた。
「さあ、もう行かなくちゃ」と母親が言った。「ローザシャーン、おまえ、歩けそうかね?」
「なんだか、くらくらするわ」と娘は言った。「まるで、ぶたれたみたいな気持だわ」
父親が、ぶつぶつ言った。「さて、歩いて行くといったところで、おれたちは、どこへ行くだね?」「わからないさ。さあ、ローザシャーンに手を貸してやっておくれ」母親は娘の右腕をとって彼女をささえてやり、父親は左腕をとった。
「どこか水につかってないところに行くだよ。そうしなきゃならねえだ。おまえさんたちだって、もう二日間もかわいた着物を着てねえだからね」彼らは、のろのろと国道を歩いて行った。ものすごい勢いで道ばたの川を流れて行く水の音がきこえた。ルーシーとウィンフィールドは道に水しぶきをあげながら並んで歩いて行った。彼らは、のろのろと歩いて行った。空が暗くなり、雨がはげしくなった。国道を行く車は一台もなかった。
「急がなくちゃなんねえだ」と母親は言った。「この子が、ずぶ濡れになっちまったら――どんなことになるかわからねえだからね」
「だけんど、おめえはまだ、おれたちがどこへ急いで行くだか、それを言ってねえじゃねえか」と、父親が皮肉たっぷりに言った。
道は流れに沿ってまがった。母親は、そのあたりの土地と畑を見まわした。道からはるかにはなれた左手のほうに、ゆるやかな起伏をなす丘があって、その上に雨にうたれて黒ずんだ納屋《なや》が一軒立っていた。「見なよ!」と母親は言った。「あれを見なよ! あの納屋ならかわいてるにちがいねえだ。雨がやむまで、あそこへ行こうよ」
父親は溜息をついた。「行ったところで、あの持主に追んだされることだろうて」
前方の道ばたにルーシーは一点の赤いものを見つけた。彼女は、そこへ駆けて行った。野生のまま見すてられた葉のふぞろいなゼラニウムが一本生えていて、花が雨にうたれて一つついていた。彼女は、その花を摘みとり、花びらを一枚そっとはがして鼻にくっつけた。ウィンフィールドが、それを見ようとして駆けてきた。
「おいらにも一枚おくれよ」と彼は言った。
「いやよ。これはみんな、あたいのもんよ。あたいが見つけたんだもの」彼女は、もう一枚の赤い花びらを額にくっつけた。小さい鮮紅色のハート形の花びらだった。
「よう、ルーシー、おいらにも一枚おくれよ。よう、おくれったら」彼が彼女の手の花をひったくろうとしてつかみそこねると、ルーシーは弟の顔を平手でぶった。彼は一瞬、呆然《ぼうぜん》とその場に立っていたが、やがて唇がふるえ、目に涙があふれてきた。
ほかのものが追いついた。「まあ、おまえ、何をしたの?」と、母親がきいた。「ねえ、何をしただね?」
「この子が、あたいの花をとろうとしたのよ」とルーシーが言った。
するとウィンフィールドは、すすりあげながら言った。
「おいらは、たった一枚ほしかっただけなんだ――鼻に――くっつけるのに」
「この子に一枚おやり、ルーシー」
「自分で見つけたらいいじゃないの。これは、あたいのよ」
「ルーシー! この子に一枚おやりったら」
ルーシーは、母親の口調に威嚇《いかく》のひびきがあるのをききとって戦術を変えた。「そら」彼女は猫なで声で言った。「あたいが一枚くっつけてあげるよ」大人たちは、先へ歩いて行った。ウィンフィールドは彼女のほうへ鼻をつきだした。彼女は花びらを舌で濡らして、それを、ぎゅっと彼の鼻に押しつけ、「なんだい、このちんぴらの、ろくでなし」と小さな声で言った。ウィンフィールドは指でその花びらを探って、鼻に押しつけた。二人は、ほかの連中のあとを追って、さっさと歩いて行った。ルーシーは、せっかくの楽しみが、もう消えてしまったのを感じた。「そら」と彼女が言った。「ここに、もうすこしあるわ。おでこにつけるといいわ」
道路の右手から、ざあっという音がきこえてきた。母親が叫んだ。「さあ、急ぐだ。ひどい降りがやってくるだ。ここの柵《さく》を抜けて行こう。そのほうが近道だで。さあ、早く!しっかり歩くだよ。ローザシャーン」彼らは半ば娘をひきずるようにして溝《みぞ》を越え、娘を助けて柵をくぐり抜けた。すると、そのとき嵐《あらし》が襲いかかってきた。土砂降りの雨が降ってきた。彼らは、泥水のなかをかきわけて進み、小さな傾斜をのぼった。黒い納屋は、ほとんど雨にかすんでいた。雨は、ざあっと降ってきては、しぶきをあげ、強くなった風が、それを吹きはらった。『シャロンのバラ』が足をすべらした。彼女は、両脇《りょうわき》からささえている二人に引きずられた。
「お父っさん! この子を抱いてやってくれねえだか」
父親は身をかがめて娘を抱きあげた。「どっちみち、びしょ濡れだで。さあ急ぐだ。ウィンフィールド――ルーシー! 先に駆けて行くがいいだ」
彼らは、あえぎあえぎ雨に濡れた納屋にたどりつき、開いている一方の端から、なかへよろめきはいった。この端にはドアがついてなかった。円形の鋤《すき》や、こわれた中耕機や、鉄の車輪など、錆《さ》びた農具が、いくつかころがっていた。雨が屋根をたたき、入口に水のとばりをつくっていた。父親は『シャロンのバラ』を、そっと油じみた箱の上におろした。「ちくしょうめ」と彼は言った。
母親が言った。「たぶん、なかのほうに干し草があるだ。ごらんよ、あそこにドアがあるだ」彼女は錆びた蝶番《ちょうつがい》のついたドアをあけてみた。「干し草があるだよ」と彼女は叫んだ。「さあ、なかへおはいり、ローザシャーン」
なかは暗かった。板の隙間から、かすかな光がもれていた。
「横になるがいいだよ、ローザシャーン」と母親が言った。「横になって休むだ。あたしがなんとか方法を考えて着ているものをかわかしてあげるだ」
ウィンフィールドが言った。「おっ母さん!」屋根をたたく、はげしい雨音が彼の声をかき消した。「おっ母さん!」
「何だね? なんの用だね?」
「見てごらんよ、あのすみっこ」
母親は、そっちを見た。薄暗がりのなかに二つの人影があった。一人の男が仰向けに寝ており、そのそばに一人の男の子が坐っていた。男の子は目を大きく見開き、新来者のほうを、じっと見つめていた。母親が見ていると、男の子は、ゆっくりと立ちあがって彼女のほうへやってきた。その声は、しゃがれていた。
「おばさんは、ここの持主かい?」
「いんや」と母親は言った。「ただ雨宿りにきただけだよ。病気の娘がいるだでね。おまえさん、かわいた毛布をもってるかい? この娘の濡《ぬ》れた服を脱がすのに使えるような毛布を?」
男の子はすみっこへ戻ると、よごれた掛《か》け布団《ぶとん》を持ってきて、母親にさしだした。
「ありがとよ」と彼女は言った。「あの人は、どうしただね?」
男の子は、しゃがれた抑揚のない声で言った。「はじめは病気だったんだ――だけど、いまでは飢え死にしそうなんだ」
「なんだって?」
「飢え死にしそうなんだ。綿畑で病気になったんだ。もう六日間も食べてないんだ」
母親はすみのところへ歩いて行って、その男を見おろした。男は五十歳ぐらいで、頬《ほお》ひげの生えた顔は、やつれはて、見開いた目は、ぼんやりと何かを見つめているようであった。少年が彼女のそばに立った。「おまえのお父っさんかい?」と母親はたずねた。
「そうだよ。お腹はすいてないとか、いま食べたばかりだとか、そんなことばかり言って、おいらに食べものをくれちまうんだ。もうすっかり弱っちまっているんだ。動くこともできないくらいなんだ」
屋根をたたく雨の音が低くなって、安心させるような、さあーっという音に変っていた。やせこけた男は、唇を動かした。母親は彼のそばにひざまずいて耳を近づけた。彼の唇が、また動いた。
「大丈夫だよ」と母親は言った。「安心するがいいだ。この子のことは大丈夫だて。うちの娘の濡れた服を脱がせるあいだ、ちょっと待っておくんなさいよ」
母親は娘のところに戻り、「さあ、服を脱ぐだ」と言って、娘の体が見えないように掛け布団をひろげて、さえぎってやった。そして、娘が裸になると、母親は掛け布団で彼女をくるんでやった。
少年がまた母親のそばへきて、わけを話しはじめた。「おいらは知らなかったんだ。もう食べたとか、お腹はすいてないとか、父ちゃんがいうもんだから。ゆうべ、おいらは、出かけて行って、窓を破ってパンをすこし盗んできたんだ。そして父ちゃんに食べさせたんだ。だけど、父ちゃんは、みんな、もどしちまって、それからこんどは、前よりも弱ってしまったんだ。スープかミルクを飲ませなくちゃいけないんだ。おばさんたち、ミルクを買うお金持ってるかい?」
母親が言った。「静かにするだ。心配しなくてもいいだよ。なんとか方法を考えてあげるだからね」
突然、少年が叫んだ。「ほんとに父ちゃんは死にかけてるんだよ。飢え死にしかけてるんだ」
「静かにするんだよ」と、母親が言った。彼女は、どうしようもなくそこにつっ立って病人を見つめている父親とジョン伯父を見た。それから、掛け布団にくるまって身を縮めて寝ている『シャロンのバラ』を見た。母親の目は『シャロンのバラ』の目をはなれて、その先のほうを見たが、すぐにまたその目は戻った。二人の女は、たがいに、じっと顔を見合せていた。娘の息が、切れ切れになり、あえぎはじめた。
彼女は言った。「いいわ」
母親は、ほほえんだ。「おまえもきっと、そう言ってくれるだろうと思ってただ。ちゃんとわかってただよ」彼女は膝《ひざ》の上にしっかり組み合せた両の手を見おろした。
『シャロンのバラ』がささやいた。「あんたたち――みんな――外へ出てくれない?」雨がさっと軽く屋根をなでた。
母親は身をかがめて手のひらで娘の乱れた髪を額からかきあげてやり、その額に接吻《せっぷん》した。母親は、さっと立ちあがった。「さあ、おまえさんたち」と彼女は声をかけた。「おまえさんたちは道具部屋のほうへ行ってておくれ」ルーシーが何か言いたそうに口をあけた。「黙って」と母親が言った。「黙ってさっさと出て行くだ」彼女は、みんなをドアから追いだし、自分は少年をつれだして、きしむドアをしめた。
ちょっとのあいだ、『シャロンのバラ』は、かすかに雨音がきこえてくる納屋のなかに、じっと坐っていた。それから、疲れた体を引きあげるようにして立ちあがり、掛け布団を、体のまわりにかきよせた。ゆっくりとすみのほうへ歩いて行って、やつれ衰えた顔を見おろし、大きく見開いた、おびえた目に見入った。やがて、ゆっくりと男のそばに身を横たえた。男は、のろのろと首を横にふった。『シャロンのバラ』は布団の片端をゆるめて胸の乳房をあらわにした。「のまなきゃいけないわ」と彼女は言った。彼女は、体をもがくようにして、もっとそばへにじりより、男の頭を引きよせた。「さあ!」と彼女は言った。「さあ」彼女の手が男の頭のうしろに伸びて、それをささえた。指が、やさしく男の髪をまさぐった。彼女は顔をあげて納屋のなかを見まわした。唇《くちびる》はとじられて神秘な微笑を浮べた。
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解説
[#地付き]大久保康雄
アメリカ文学の場合、よく二〇年代作家とか三〇年代作家とかいうことがいわれるが、文学の世代的な系列から言うなら、一八八五年生れのシンクレア・ルイスを代表とする時代のあとに、ヘミングウェイ、フォークナーなど、第一次大戦後の、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」の時代がくる。そしてそのあとに、二十世紀生れのスタインベック、ウルフ、ファレル、サロイヤンたちが、三〇年代作家として登場するわけである。二〇年代文学の特徴は、「ロスト・ジェネレーション」という言葉に最もよくあらわされているように、人間性への絶望、虚無、ペシミズムであった。これに一足おくれて出現した三〇年代文学は、それとは別の新しい世界観を見いだした。すくなくとも見いだそうとつとめた。そこには、いまだなお二〇年代の暗さがつきまとってはいるものの、しかしあきらかに前代と区別しうる要素、いうならば人間性に対する愛情の回復、建設的志向、積極性、オプティミズム等を指摘しうるのである。このような傾向は、彼らが大戦時にまだ出征する年代に達していず、したがって戦場の悲惨も、戦後の思想的幻滅も道徳的荒廃も、ほとんど経験せずに済んだこと、また一九二九年から三〇年にかけてアメリカの経済界を席巻《せっけん》した大恐慌《だいきょうこう》を境にして、アメリカ思想の傾向が個人主義から社会主義への方向をとりはじめたことを考えるなら、けっして不思議ではない。
この三〇年代の特質を最もよく代表しているのがスタインベックの文学である。
ジョン・スタインベック(John Steinbeck)は、一九〇二年二月二十七日、カリフォルニア州のサリーナスで生れた。父はドイツ系で郡の収入役、母はアイルランド系で小学校の教師をしていた。夫婦|共稼《ともかせ》ぎの家庭は裕福でなく、彼はハイスクール時代から農場の手伝いなどをしていた。ハイスクールを出てスタンフォード大学にはいり、奨学金をもらって勉強していたが、学資に不自由しがちで、ついに二五年、学位をとらずに退学した。そのとき早くも文筆で立つ決心をして、ニューヨークへ出て、まずレポーターの仕事にありついたが、観念的なことしか書かぬというのでクビになった。それからは煉瓦《れんが》運びの人夫、ペンキ屋の見習、別荘番、果樹園の労働者など、転々と職を変え、たえず生活に追われていた。カリフォルニアに舞い戻《もど》って別荘番をしながら書いたのが、処女作『黄金の盃《さかずき》』(Cup of Gold,1929)である。これは、十七、八世紀のころ西インドのスペイン領海を荒しまわった海賊でパナマの征服者として知られているサー・ヘンリー・モーガンを主人公にしたロマンティックな物語であるが、わずか千五百部しか売れず、世間から何の反響も得られなかった。
その翌年結婚したが、おりからアメリカ全土を不況のどん底に叩《たた》きこんだ大恐慌は、深刻な失業時代、生活難時代をつくりだし、彼の生活もまたいよいよ苦しくなった。しかし貧乏とたたかいながら彼はつぎつぎと作品を発表していった。三二年には『天の牧場』(The Pastures of Heaven)を、翌三三年には『知らざる神に』(To a God Unknown)を発表したが、いずれも世の注目をひくに至らず、三五年の『トーティーヤ台地』(Tortilla Flat)によって、ようやく作家として認められるに至った。
カリフォルニアの海岸沿いの町モンテレイの町はずれに「トーティーヤ台地」と呼ばれている台地があり、そこにパイサノという古い種族が住んでいる。作者の説明によるとパイサノとはスペイン、イタリア、メキシコ、コーカサスの混血種族なのだそうであるが、この小説は、現代文明に背を向けて生きているような一群のパイサノの生活を、ダニーという男を中心にして描いたもので、放埒《ほうらつ》無頼、無軌道で、無知で、狡猾《こうかつ》で、しかも心の底に愛すべき誠実と善意とを秘めた彼らの日常生活が、ときには野放図な笑いを伴って、ときには深い人間的なペーソスをたたえて、読むものの胸に、不思議とほほえましく、あたたかい、しみじみとした感動を呼び起さずにはおかない。粗野で、開放的で、底ぬけの明るさと哀愁との交ざり合ったアメリカン・ユーモアの一つの典型を、私たちはこの作品に見ることができる。
ついで、その翌年、彼は『勝敗のわからぬ戦い』(In Dubious Battle)を書いた。前作とはうって変って、ここに描かれているのは、きびしい現実の悲惨と苦悩のすがたである。すなわち当時ようやくカリフォルニア一帯にかまびすしくなった労働問題を真っ向からとりあげて、果樹園の争議と、アメリカ商業主義に対して「勝敗のわからぬ戦い」を挑《いど》む若い指導者の悲劇的な運命とを、きわめてリアリスティックに描きあげているのである。
この作品が出版される以前に、早くもスタインベックは、つぎの新しい作品の執筆にとりかかっていた。それが翌三七年に発表された『二十日鼠《はつかねずみ》と人間』(Of Mice and Men)であり、この作品の成功によって、彼の作家的名声は不動のものとなった。ここには農場から農場へと渡り歩く貧しい雇い農夫の奇妙な友情がとりあげられている。
その年のベストセラーとなったこの本の印税で、彼は妻を伴ってスカンジナビア半島へ旅行した。そして一九三〇年代の最後の年に、彼の最大の傑作であり、同時に三〇年代アメリカ文学の代表的作品とされている長編『怒りの葡萄《ぶどう》』(The Grapes of Wrath)を発表した。
『怒りの葡萄』は土地を失ったオクラホマの貧農家族の悲劇的な運命を描いた一大叙事詩である。スタインベックの経験と才能のすべてがここに集大成されている感があり、迫力の強さにおいても感銘の深さにおいても、これにまさる作品を彼はその後書いていない。
一九三三年からほぼ二年間、テキサスからカナダ国境にいたる大平原には猛烈な砂嵐《すなあらし》が吹き荒れた。それはすべての耕地を一夜にして砂丘に変えてしまった。この天災と、機械化された耕作会社のトラクターとに追われて、オクラホマの貧農ジョード一家は、祖父が手に入れ父が開墾した土地を捨て、宣伝ビラにつられて、西の方カリフォルニアへと移住して行く。毛布と炊事道具だけを、半壊の古自動車に積みこみ、二千マイルもの行程を、山脈を越え、砂漠《さばく》を横ぎって、カリフォルニアへとたどりつく。しかし、そのカリフォルニアも彼らを待ちうけた天国ではない。すでにそこにはオーキーと蔑称《べっしょう》される二十五万の土地を追われた浮浪農民が各地から集まってきている。労働力は過剰になり、賃金は使用者側の意のままに切り下げられる。一家総出で終日休みなく働いても一回分の食事を賄《まかな》うのが精いっぱいである。漠然と団結抗争の意識が彼らの中にうかびあがることもあるが、それは直ちに「赤」とされて、いっそう強い迫害がのしかかってくるばかりだ。百万エーカーを所有する一人の地主のために十万の農民が飢えた、と作者は書いている。しかしこの飢えは、やがて次第に怒りに変ってゆく。かくてカリフォルニアの沃野《よくや》に実を結んだのは、ほかならぬ「怒りの葡萄」であった――というのがこの小説の荒筋である。
このように悲惨な農民の運命を、ジョード一家を中心にして、スタインベックは、アメリカ商業主義への強い怒りをこめ、はげしい抗議の文学として描きあげているのであるが、しかしその筆致は主観をおさえてあくまで冷静であり、ときには非情でさえあって、それがこの小説の劇的な雰囲気《ふんいき》を盛りあげてゆく上にすばらしい効果をあげていることは注目されてよい。スタインベック文学の一つの特徴である素朴《そぼく》な、一見無技巧とも思える荒けずりの動的手法も、この作品では最高度に発揮されていて、息づまるような緊迫感を高めることに役だっている。
構成上からいっても、この小説には特異な形式が用いられている。全編が三十章に分れているのであるが、そのうち奇数章は一種の中間章(inter-chapter)として、物語の筋とは独立に、その物語の背景を成す社会的条件、あるいはその物語を必然ならしめている自然的、地理的諸条件を、短い、極度に圧縮された形で、抽象的に語ることに費やされている。そして筋の発展の叙述は、もっぱら偶数章にゆだねられ、ここで人物や事件や行動が、直接的、具体的に語られるという仕組みになっている。文体から見ても、両者のあいだには著しい相違があり、奇数章が、ときとして抒情《じょじょう》的な調子にまで高められていることがあるものの、多くは標準的な言葉による平叙文であるのに対し、偶数章は会話が多く、それも方言俗語の類《たぐ》いを縦横に駆使することによって、柔軟な、多彩な、どうかすると乱雑とも思えるまでに変化に富んだスタイルをつくりあげているのである。
このような手法が個々の状況と全体の状況とを媒介し、ある地方の、ある時期に関する物語を、普遍的な問題の象徴たらしめていることはいうまでもないが、一方またそれは、物語を叙述する部分と説明する部分とに分つことによって、前者(偶数章)から過度の負担をとりのぞき、それだけ叙述を生き生きとした流動感のあるものにするという効果をあげている。作者は、偶数章においてさえ、ただの一度も登場人物の心理を描いていない。人物はすべて外部から、すなわちそれぞれの行動を通じて把握されている。彼らの内部を描くことが必要である場合には、それは映画のナラタージュの手法のように、回想という形式で、いわば外面化されて提出される。人物や事件の「動き」を表現するのに、これはおそらく最上の方法であろう。『怒りの葡萄』が、ときとしてルポルタージュ風の作品と言われるのは、おそらくこうしたところからであろうと思うが、このような方法が可能となったのは、登場人物がすでに「思ったことをそのまま行動に表わす」単純素朴な存在であるからばかりでなく、前述のごとく状況の説明があらかじめ別の場所(奇数章)でなされているからにほかならない。『怒りの葡萄』全体の結構は旧約聖書の『出エジプト記』ならびにその続編に基づいているといわれる。
――エジプト王の圧制に苦しんだイスラエル人が、モーゼに導かれて、蜜《みつ》の流れる豊饒《ほうじょう》の地カナンへと、荒野をさまよいながら長途の旅をつづけ、ついにカナンにたどりつくが、ここでもまた苦難に会い、しかしその間にしだいにイスラエルの民族的自覚を深めて、なおも生き残ってゆく、という『出エジプト記』の物語は、『怒りの葡萄』の基本的構成とまったく同一である。ついでに、もっと細かに相似点を捜すなら、たとえば『出エジプト記』のモーゼは、最初、同胞を虐《しいた》げるエジプト人を殺して官憲に追われ、ついにエジプトに住むイスラエル人を引きつれてカナンの地に旅だつのであるが、そのモーゼのすがたは、そのまま『怒りの葡萄』の青年トム・ジョードに受けつがれていることは疑う余地がない。また幾度か人民を裏切っては約束を破る狡猾《こうかつ》なエジプト王パロは、財力にものをいわせてオクラホマの農民から耕地を取りあげる銀行や大地主に対応する。そのほか、イスラエル人たちが長い旅に出て水に苦しむ荒野は、カリフォルニア州境に横たわる水のない砂漠になる。そしてイスラエル人が食べる酵《たね》なしパンはジョード家の『おっ母』がつくる手製のパンを、またイスラエル人が旅の宿りに立てる幕舎は移住農民の張るテントを、われわれに思い起させる。その他、こうした相似性は実に数多く両書のあいだに見いだせる。一つの地において圧迫され虐げられた人間の集団が、別の地、より豊かな、より生きよい地を求めて逃《のが》れ、その地においてふたたび苦難に会い、しかもなお生き残ってゆくという歴史は、人類とともに古く、数知れずくりかえされてきた。とくにヨーロッパのように民族的、宗教的に複雑な土地の歴史は、どの時代にも、こうした型の悲劇をもっているといってもよいほどである。アメリカ国民にしても、もともとヨーロッパにおける苦難から逃れて、豊饒な新世界へと渡り、そこで幾多の苦難と戦って生き残った過去をもっているのである。
こうして見てくると、『怒りの葡萄』は旧約聖書とその原型においてまったく同一であることがわかる。原型とは、人間が集まって構成する社会において、その社会史のはじまるとともに起った人間社会の葛藤《かっとう》の一つの基本的な型という意味であり、その意味では『怒りの葡萄』は一つの集団社会における人間生活の運命的ともいえる深い欠陥を、普遍的な面でとらえているともいえる。すなわちオクラホマ農民の苦難を、歴史とともに古いこうした原型の中に物語ることによって、『怒りの葡萄』は文学作品として一つの時代と場所とを越えた地点に達しているのである。
スタインベックはこの作品において二つのタイプの人間を明確に描きだしている。それはすでに第二章、ジョード家の物語の発端からはじめられている。一つのタイプは、巨大なぴかぴかする大型トラックを運転することに喜びと力とを感じている男であり、もう一つのタイプは、その運転手にタダ乗りを頼んで軽蔑《けいべつ》されるトム・ジョードである。物語が進むにつれて、たえず作者はこの二つの型の人間を描きだし、それがこの作品に太い縦の糸を織りこんでいる。すなわち前者のタイプとしては、トラクターの運転手、地主の代理人、警官、農場主など、それぞれに大小の権力を背後にしている人々であり、後者のタイプとしては、彼らのごとき権力をもたず、また欲しもせず、ただ自分の耕す土地と自分の労働力とで独立の生活を願う人々である。スタインベックは、この権力者と被圧迫者を示す二つのタイプの人間を実に生き生きと描きだし、けっしてそれらを善玉悪玉風に類形化してはいない。もしこの二つのタイプの人間が立場を変えたなら、やはり両方とも同じような行動に出るだろうと思える自由さで、これらのタイプを人間としてとらえているのである。いうまでもなく権力者と被圧迫者という関係は、時代と場所とを問わず、どのような社会においても、何らかの形であらわれる社会的現実である。われわれは、説教師ケーシーの頭をなぐりつける警官のすがたに、あらためてわれわれの社会における警官のすがたを思い起す必要もないほど、この面の事実については、『怒りの葡萄』と共通した現実を見ている。ただスタインベックは『怒りの葡萄』において、この普遍的な現実を生きたすがたとしてとらえているのである。すなわち権力の中に自己を見失った人間がどのようにインヒューマンなすがたになるか、また虐げられる人間のもつ人間性《ヒューマニティー》はどのようにゆがみ、あるいは反撥《はんぱつ》して生きのびてゆくか、そういう基本的な面で人間を見ているのである。それだからこそ、このように描かれた登場人物は、われわれにもけっして無縁と思われぬ人間として、強く訴えかけてくるものをもっているのである。
ボロ自動車で西へ行くジョード家の人々――祖父母、ジョン伯父、老トムとその妻、ノア、仮出獄したトム、ローザシャーン、その夫コニー、アル、ルーシー、ウィンフィールド、および同行者である牧師あがりのケーシーのうち、誰《だれ》がこの小説の主人公であるかは議論の余地があろう。表面的には、疑いもなく仮出獄した若いトムである。しかしながら実質的に一家を支配し、「女神のもつ超人性と無欠さ」によってこの群像の中心となっているのは、老トムの妻、六人の子供たちの母親である。むしろ作者は、ある意味で対照的なこの二人を中心にして、これらの群像を造型したとも見られる。この二人の対立は、大づかみにいえば男と女との、遠心性と求心性との対立である。男は家庭から外へ出て、他を破壊し、自らもまた破壊される。女は家庭にとどまり、過去を受けつぎ、未来に伝える。もちろん男もまた彼なりの意味で伝統の保持者ではある。しかし男が出て行くのは社会へ――敵意に満ち、たとい敗北とわかっていても戦わねばならぬ社会の中へである。しかもこの社会は連帯性を欠いた人間関係である。これに対して家庭は人間相互の連帯性の最後の砦《とりで》である。女はこの砦を死守しようとし、社会は外部からこの砦を打ち破ろうとする。『怒りの葡萄』は、またこうした戦いの画面でもあるのだ。
初期の作品『トーティーヤ台地』から『怒りの葡萄』まで、さまざまに変化した素材のもとでスタインベックが常に物語っているのは、現代文明に浸潤されて失われつつある野性的な愛情や本能的情熱についてであり、そしてそのバイタリティーについてである。ここから『怒りの葡萄』に最も色濃く流れているスタインベックの信念について語ることができるように思う。それは、「人間というものは、どのような苦難に会っても生きつづけてゆくものだ」という信念である。私たちはこの信念が、説教師ケーシーや母親の口から、しばしば何気なしに語られていることに気づく。この小説の結末が、スタインベック特有の表現で、このことを端的にあらわしている。すなわち結末の部分で娘ローザシャーンは赤子を死産し、ジョード一家は洪水《こうずい》に追われて雨のなかを一軒の納屋《なや》に逃げこむ。その納屋の片隅《かたすみ》に、やはり彼らと同じ浮浪労働者が一人、飢え死にしそうになって横たわっている。ローザシャーンは乳の張った胸にその男を抱きかかえ、そっと乳房を含ませる。「彼女は顔をあげて納屋のなかを見まわした。唇《くちびる》はとじられて神秘な微笑を浮べた」――これでこの小説は終っているのであるが、これこそ人間がいかなる苦難にも耐えて生きぬいてゆくすがたの象徴的な表現と見ていいのではあるまいか。虐げられ、苦難の果てに追われた人間たちにも、なお滅ぼし得ぬ最後のものは、生きようとする本能的な力だ、ということを、スタインベックは、ローザシャーンの微笑を通してわれわれに伝えようとしているのである。ここにおける「生」とは、個人的な生命を意味せず、家族あるいは移住農民全体の生を意味しているのであり、死の意味も同様に解される。すなわちローザシャーンの浮べた微笑は、いまこのより大いなる「生」へと自らが結ばれたことを無意識に感得した本能が誘いだしたものと見るべきであろう。
最後に、『怒りの葡萄』以後の彼の作品について、簡単にふれておきたい。
一九四二年の『月は沈みぬ』(The Moon is Down)は第二次大戦を扱った小説で、北欧へ侵入したナチス・ドイツ軍に対するデモクラシー市民のレジスタンスを描いており、格別作者の名声を高めるものではないが、彼の関心がカリフォルニアの狭い谷間から、めずらしく国外の状況に向けられたという点で興味がある。
一九四三年、スタインベックは『ヘラルド・トリビューン』の特派員としてイギリスへ渡り、さらにアフリカ、シシリーへ行き、ついでイタリアへ渡って、つぶさに大戦のすがたを視察してきた。そして約半|歳《とし》の戦線めぐりの後、アメリカへ帰って最初に発表したのが『缶詰《かんづめ》横町』(Cannery Row,1945)である。舞台は『トーティーヤ台地』と同じ町の、海岸に近い缶詰工場街、登場人物も『トーティーヤ台地』と同じように例のパイサノたちである。この横町に住む魚介実験所の主人でドックという酒好きの男、町の顔役マック、それをとりまく少年たち、|あいまい《ヽヽヽヽ》屋のおかみ、雑貨商の中国人などを中心に、それらの住民たちの卑猥《ひわい》と純情とを描いたもので、すべて『トーティーヤ台地』と同型の小説と見てよい。ただ作者がこの小説の序文でつぎのように言っていることは、この作者が、このような人間たちをどのように眺《なが》め、また彼らをどのように愛しているかを示すものとして注目されてよい。――「そこの住民は、ある人がいつか言ったように、『いんばい、ぜげん、ばくちうち、やくざもの』である。しかし、もしその人が別の覗《のぞ》き穴から眺めたなら、彼は言ったかもしれない。『聖者、天使、殉教者、底なしの善人』と。そして、どちらも同じものを指しているのだ」
一九四七年には『気まぐれバス』(The Wayward Bus)を発表した。場所はふたたびカリフォルニアにかえって、例のサリーナス渓谷である。料理店とガレージを経営している男とその細君、シカゴの実業家夫妻とおてんば娘、紳士のパーティーを職場にしているいかがわしい職業の女、この女に目をつけるバスの運転手など、立往生した長距離乗合バスで偶然いっしょになったこれらの人々の刻々にゆれ動く内面風景を、若干エロティックに、若干ユーモラスに、そして若干|諷刺《ふうし》をきかせて、風俗画風のタッチで描いたもので、おそらく作者の真意はアメリカ現代社会の縮図を描くことにあったものと思われる。立往生した乗合バスを舞台に選んだことは、人間的連帯感を実質的に喪失した一社会の内実をさらけ出させるための、いわば限定状況を設定したものとも考えられる。貧しさということが限界状況の役割を演じていた彼の従来の諸作に比べて、これは一つの転換ともいえよう。
一九五二年の秋に発表した『エデンの東』(East of Eden)は、原書でおよそ六百ページにも及ぶ長編で、すくなくとも分量の点では『怒りの葡萄』をしのぐ大作である。作の題名を創世記の「カイン、エホバの前を離れ出で、エデンの東なるノドの地に住めり」からとっていることからもほぼ察しられるように、この長編もまた『怒りの葡萄』と同じくその基本的原型を聖書の世界に求めている。スタインベックは『怒りの葡萄』を執筆中、「いつかは自分の一家について書かねばならぬ」と日記に書きつけたそうであるが、それを実現したのがこの『エデンの東』である。母方の祖父サム・ハミルトンにはじまる彼の一家の歴史を年代記風につづったもので、作者自身、「これまで書いたものは、ある意味でこの作品を書くための練習であった。もしこの作品が失敗ならば自分はこれまで時間を空費してきたことになる」と自負しているだけに、たいへんな力作であり、スタインベックの作家としてのよい面もわるい面もすべてここに叩《たた》きこまれているように思える。(サムの娘の一人が作者の母親に当るのだそうで、作者自身も実名で登場している。)しかも作者は、人間の善意に満ちた結びつきを象徴するハミルトン一家の傍《かたわ》らに、人間の邪悪をむき出しにしたトラスク一家なるものを設定し、この両者の対照によって作者自身の全体的な人間観を暗示しようとしたらしい。トラスク家の物語もハミルトン家の場合と同じく南北戦争当時から第一次大戦に及び、登場人物も三世代にわたっているが、ここでは旧約聖書にカインとアベルの物語として示されている兄弟|相剋《そうこく》のテーマが、いろんな形で、しつこくくりかえされる。
しかしながら、二つの家族の物語を平行的に進めるというこのやり方は、作者の意図にもかかわらず、この作品においてはあまり成功しているとはいえないようだ。むしろ一つの物語として描いた方が効果的ではなかったかとさえ思える。部分的には非常にすぐれた個所があり、筆致にも重厚と円熟とが加わってきているのに、『怒りの葡萄』に比して何か印象が希薄で迫力の不足が感じられるのは、そのような骨組のルーズさが災いしているのではないかと思われる。とはいえ『エデンの東』が『怒りの葡萄』以来の注目すべき作品であることはまちがいない。
スタインベックにはまたすぐれた短編がいくつかあり、それは短編集『長い谷間(The Long Valley,1938)に収められている。彼の生れ故郷であるサリーナスの「長い谷間」に住んでいる原始的で、素朴《そぼく》で、無知な人たちの生活がかもし出すユーモアとペーソスを、陰影の深い筆致で描きだした佳品が多く、アンドレ・ジイドは、『長い谷間』におさめられた諸短編は、チェーホフの傑作にも劣らず、ときとしてはそれを凌駕《りょうが》している、とさえ言っている。
[#地付き](一九五三年九月)