若き日の芸術家の肖像
ジェームズ・ジョイス/飯島淳秀訳
目 次
若き日の芸術家の肖像
年譜
解説
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かくて彼は思いを未知の芸術にいたす
……オウィディウス『転身物語』第八巻
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むかしむかし、とてもたのしかったころのことでした。一ぴきの牛モウモウがみちをやってきました。みちをやってくるこの牛モウモウは、タックー坊やというかわいらしい男の子にあいました……
彼の父が彼にそのお話をきかせてくれた。父は片めがね越しに彼を見た。父は髯むじゃらの顔をしていた。
彼はタックー坊やだった。牛モウモウはベティ・バーンが暮らしている道のほうからやってきた。彼女はレモンせんべいを売っていた。
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おお、野ばらの花が咲いてます
小さな青い原っぱに
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彼はその歌をうたった。それは彼の歌だった。
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おお、青いばやの花がちゃいてます
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おねしょをすると、初めはあったかく、やがて冷たくなってくる。彼の母は油紙をしいた。それは妙な臭いがした。
母は父よりもいい匂いがした。彼女は踊る父のためにピアノで船乗りのホーンパイプ節〔木笛を伴奏にする舞曲〕をひいた。彼は踊った。
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トラララ ララ
トラララ トラララディ
トラララ ララ
トラララ ララ
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チャールズ伯父とダンティとが手をたたいた。彼らは彼の父や母より年長だったが、チャールズ伯父はダンティよりも上だった。
ダンティは彼女の洋服だんすにブラシを二本しまっていた。えび茶色のビロードの背のブラシはマイクル・ダヴィット〔アイルランドの急進的な政治家〕のためのであり、緑色のビロードの背のブラシはパーネル〔アイルランド独立運動の志士〕のためのであった。彼が薄葉紙《うすようし》を一枚持っていってやるたびに、彼女は香錠《カシュー》を一つくれた。
ヴァンス一家は七番地に住んでいた。そこにはまた違うお父さんとお母さんがいた。アイリーンのお父さんとお母さんだった。二人が大きくなったら、彼はアイリーンと結婚するつもりだった。彼はテーブルの下にかくれた。彼の母が言った。
――まあ、スティーヴン、お詫びしなさい。
ダンティが言った。
――ほら、お詫びしないと、鷲がやってきて、おめめをくり抜きますよ。
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おめめをくりぬけ
おわびしなさい
おわびしなさい
おめめをくりぬけ
おわびしなさい
おめめをくりぬけ
おめめをくりぬけ
おわびしなさい
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広い運動場は少年たちであふれ返っていた。みんな、わめいていた。生徒監たちが力強い叫び声で彼らをしきりに励ましていた。夕暮れの空気は蒼ざめ、ひえびえとしていた。蹴球をしているものたちが突進し、ずしんとぶつかるたびに、べとべとした革の球が鈍重な鳥のように薄明の中を飛んでいった。彼は自分の級の者の端、生徒監の見えないところ、乱暴な足のとどかぬ場所に絶えずいて、ときおり走り廻る振りをしていた。競技をしている生徒たちの群の中にいると、自分の体がいかにも小さく弱々しく感じられた。それに眼も弱くて、うるんでいた。ロディ・キッカムは違う。彼は第三級〔上級、中級につぐ最下級の組〕のキャプテンになるだろうと皆が言っていたくらいだ。
ロディ・キッカムは上品な生徒だったが、厭《ナスティ》なロウチは鼻もちならぬ奴だった。ロディ・キッカムは自分の番号の戸棚に脛《すね》当てを、また、学校の食堂には詰め籠〔寮にいる生徒に家庭から食糧をつめて送る籠〕を持っていた。ナスティ・ロウチは大きな手していた。彼は金曜日のプディングを「|毛布にくるまった犬《ドッグ・イン・ザ・ブランケット》」〔乾ぶどう入りパンやジャム入りプディングのこと〕と言っていた。ある日、彼がきいた。
――君の名はなんていうんだい?
スティーヴンは答えた。
――スティーヴン・ディーダラス。
するとナスティ・ロウチが言った。
――そりゃどういう名前なんだい?
スティーヴンが答えられないでいると、ナスティ・ロウチはきいた。
――君のお父さんはなんだい?
スティーヴンは答えた。
――紳士《ジェントルマン》だよ。
するとナスティ・ロウチがきいた。
――お役人かい?
彼は自分の級の者たちの端をあちらこちら、こそこそと動き廻り、時にはちょっと駈けだしてみたりした。けれど、両手は寒さで青白くなっていた。両手を絶えず、革帯《ベルト》でしめたねずみ色の上衣の脇ポケットに突っこんでいた。それはポケットの上をぐるりと巻いたベルトだった。ベルトといえば人をひっぱたくのにも使う。いつだったか、誰かがキャントウェルに言ったっけ。
――ぐずぐずいうと、思いきりベルトをくれてやるぞ。
キャントウェルは答えた。
――喧嘩ならお前の相棒とやってこいよ。セシル・サンダーをひっぱたいてみろ。そいつが見てえや。あべこべにおけつを蹴っとばされるだろうさ。
あれは上品な言葉づかいじゃない。学校の乱暴な子たちと口をきいてはいけませんとお母さんが言ったっけ。上品なお母さん! 最初の日、お城〔クロンゴウズ・ウッド・カレッジは中世の城の中にある〕の玄関《ホール》でお母さんがさよならを言ったとき、ヴェイルを鼻のところまでまくり上げて、ぼくにキスをした。そのとき、お母さんの鼻も眼も赤くなっていた。だけど、ぼくはお母さんが今にも泣きだしそうなのを見ないふりをしていた。上品なお母さんだけど、泣くとそう上品じゃない。それからお父さんはお小遣いに五シリング銀貨を二つくれたっけ。それから、何かほしいものがあったら手紙でわたしに言ってよこしなさい、また、どんなことをやっても、決して友達の告げ口だけはしてはいけないとお父さんは言ったっけ。それからお城の扉口で校長先生は、法衣を微風にひらひらさせながらお父さんとお母さんに握手をした。そして馬車は、お父さんとお母さんを乗せて駈けだしていった。二人は馬車から手をふりながら叫んだ。
――さよなら、スティーヴン、さよなら!
――さよなら、スティーヴン、さよなら!
彼はスクラムの渦中に巻きこまれた。そしてぎらぎら光る眼や泥まみれの靴に怖気づきながら、腰をかがめて足の間をすかして見た。仲間はもみあい、うなり声をあげており、彼らの脚はこすり合い、蹴とばし、ふんづけ合っていた。と、ジャック・ロートンの黄色い靴がボールを外に蹴りだすと、他の靴と脚がいっせいにボールを追って駈けだした。彼は皆のあとを追って少しばかり走ったが、間もなく立ち止まった。走りつづけるなんてつまらない。間もなく皆は休暇で家へ帰るんだ。夕食のあとで、自習室の自分の机の内側に貼ってある数字を七十七から七十六に変えよう。
自習室にいるほうがこの寒い外にいるよりもいい。空は蒼白く寒々としていたが、お城の中には灯がともっていた。どの窓からハミルトン・ロウアン〔アイルランド独立運動家〕は壕《ほり》壁に帽子を投げたのだろう。(追跡の兵隊の目をくらますために)あの頃は窓の下に花床があったのかしらと彼は思った。ある日、彼がお城へ呼ばれていったとき、執事が扉の木に兵隊たちがつけた弾の痕を見せてくれ、職員のたべるバター・クッキーを一切れくれた。お城に灯のともっているのを見るのはとてもあたたかい気持だった。本の中にある何かに似ていた。たぶんレスター僧院はこんなふうなのだろう。コーンウェル博士の綴字教科書《スペリング・ブック》におもしろい文句があった。それは詩みたいだけど綴りを習うだけの文句にすぎない。
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ウルジー〔イギリスの政治家〕はレスター僧院で亡くなった
僧院長たちは彼をそこに葬った
キャンカーは植物の病気である
キャンサーは動物の病気である
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炉の前の敷物の上に寝ころんで、両手を枕に、こんな文句について考えるのは楽しいだろうな。彼はまるで冷たいぬらぬらした水が肌にじかに触れでもしたかのように、ぞっと身震いした。ぼくが、栗を四十も勝ち取ったウェルズのよく熟《う》れてはじけた栗の実と、ぼくの小さな嗅ぎタバコ入れを取っ換えこしようとしなかったからといって、ぼくを四角などぶの中に肩で突いて落とすなんて、ウェルズは卑劣だ。あの水はなんて冷たくて、ぬらぬらしていたことだろう! 友達があのあぶくの中に大ねずみが一匹跳びこむのをいつか見たんだっけ。お母さんはダンティと一緒に炉にあたって坐り、ブリジッドがお茶を持ってくるのを待っていた。お母さんが足を炉格子《ろごうし》にかけていると、ぴかぴか光った上靴がとても熱くなって、とてもすてきな、あったかい匂いがしたっけ! ダンティはいろんなことを知っていた。彼女はモザンビーク海峡がどこにあるか、アメリカで一番長い河はなんという河か、月の中で一番高い山の名はなんというのかをぼくに教えてくれた。アーノール神父さんはお坊さんだからダンティより物知りだけど、お父さんもチャールズ伯父さんも、ダンティは利巧な女でたくさん本を読んでいる女だと言っていた。それから、ダンティが夕食のあとであのいつもの音をだして口に手をもってゆくとき、あれは胸やけのせいだったのだな。
運動場のずっと向うで叫ぶ声がした。
――集まれ!
すると中級と第三級からも他の声が叫んだ。
――集まれ! 集まれ!
プレヤーたちが集まってきた、顔を火照《ほて》らせ泥まみれだった。彼は室にはいるのがうれしくて、彼らの中にはいった。ロディ・キッカムは脂でべとべとした紐をつかんでボールを持っていた。一人の生徒がおしまいにもう一度蹴ってくれと頼んだ。だが彼はそれには返事をせずにどんどん歩いていった。サイモン・ムーナンがその生徒に、生徒監が見ているからよせと言った。生徒はサイモン・ムーナンに向き直って言った。
――どうしてお前がそんなことをいうか、おれたちみんな知ってるぞ。お前はマグレイドの稚児《サック》さ。
サックって変な言葉だな。その生徒がサイモン・ムーナンにそんな悪口をいったのは、サイモン・ムーナンが生徒監の二重袖をうしろで結んでやると、生徒監がいつも怒ったふりをするからだ。けれどサックという言葉の響きはいやだ。いつだったかウィックロウ・ホテルの洗面所で手を洗ったっけ、そしたらあとでお父さんが鎖を引いて栓をあけたら、汚い水が洗面盤の孔から流れていった。ゆっくりと水がすっかり落ちていったとき、洗面盤の孔のたてた音がこれに似てたっけ、サック。ただもっと大きな音だ。
そんなことや、洗面所の白い外観を思いだすと、ひやりと冷たい感じがして、それから熱くなった。栓が二つあって、ひねると水が出てきた。水と熱湯だった。彼は寒くなり、やがて少し熱くなった。すると、栓に記してある字が見えた。それはとても変なものだった。
廊下の空気もひやりと冷たかった。気味がわるく、じめじめしていた。けれど間もなくガスがつけられるだろう。あれは燃えながらかすかな歌声に似た軽い音をたてる。いつもおんなじだ。遊戯室の生徒たちが話しやめると、それが聞こえる。
算数の時間だった。アーノール神父がむずかしい計算問題を黒板に書いて、言った。
――さあて、誰が勝つかな? ヨーク、がんばれ! ランカスター、がんばれ!
スティーヴンはできるだけやってみたが、問題がむずかしすぎて、頭がこんがらがってきた。上衣の胸にピンでとめた白ばらのついている小さな絹の記章がふるえだした。彼は算数は不得手だったが、ヨーク組が負けないようにと一生懸命にやった。アーノール神父の顔がひどく険しく見えたが、怒っているのではなかった。笑っているのだ。やがてジャック・ロートンが指をぱちりと鳴らした。アーノール神父は彼の練習帖を見て、言った。
――よろしい。ランカスター組でかしたぞ! 赤ばらの勝ちだ。さあ、ヨーク組! こんどはがんばれ!
ジャック・ロートンが自分の側からこっちを見た。赤ばらのついている小さな絹の記章がひどく華やかに見えた。紺の水兵外套を着ていたからだった。スティーヴンは自分の顔までが赤くなるのをおぼえた。初等科で誰が首席をしめるか、ジャック・ロートンだろうか、彼だろうかと皆が賭けをしていることを思ったからだ。何週間かはジャック・ロートンが首席のカードをもらえば、また何週間か彼が首席のカードをもらった。彼の白い絹の記章がぶるぶる震えていた。つぎの問題に精をだしているうち、アーノール神父の声が聞こえた。と、熱意がすっかりぬけ去って、顔がひどく冷たくなるのを感じた。こんなに冷たく感じるのだから、きっと顔が蒼くなっているにちがいないと思った。計算問題の答をだすことができなかったけど、そんなことはどうだっていい。白ばらと赤ばら、考えるだけでもきれいな色だ。それに、一番と二番と三番のカードもきれいな色だ、桃色とクリーム色と藤色。藤色とクリーム色と桃色のばらは思ってみても美しい。たぶん野ばらはこんな色に似てるのかもしれない。小さな緑色のところに咲いた野ばらの花の歌を彼は思いだした。でも緑色のばらなんてあるわけがない。だけど、もしかしたら世界のどこかにあるかもしれないな。
鐘が鳴った。するとクラスの者たちが各教室から列をなして出はじめ、廊下をつたって食堂へ向った。彼は席について自分の皿の上の型で押したバターの二つのたまを眺めていたが、湿ったパンを食べる気になれなかった。テーブル掛けも湿ってぐにゃりとしていた。だが、白い前掛けをかけた不恰好《ぶかっこう》な炊事男がついでくれた熱いうすい紅茶は飲みほした。炊事男の前掛けも湿っているのだろうか、それとも白いものはみんな冷たくて湿っぽいのだろうかと思った。ナスティ・ロウチとソーリンは家から罐に入れて送ってきたココアを飲んだ。あんな紅茶が飲めるか、あれは豚の餌だと彼らは言うのだ。彼らのお父さんは役人だと生徒たちは言っていた。
彼には生徒のすべてがひどくなじめないように思えた。彼らにはみなお父さんとお母さんがあり、それに違った服装、違った声をしていた。彼は家に帰ってお母さんの膝に頭をのせたいと思った。だが、そんなことはできなかった。だから競技も勉強もお祈りも早く終って、床につくのを待ちこがれた。
彼は熱いお茶をもう一ぱい飲んだ。するとフレミングが言った。
――どうしたの? どこか痛いの、どうかしたのかい?
――わからない、とスティーヴンは言った。
――胃ぶくろがわるいんだよ、とフレミングが言った。顔があおいからね。いまになおるよ。
――うん、なおるさ。スティーヴンは言った。
だが、そこがわるいのじゃない。心臓がわるいんだと彼は思った。そんなところがわるくなるということがあればだ。きいてくれたりして、フレミングってとても親切だ。彼は泣きたくなった。食卓に両肘をついて、耳たぶを閉じたり開けたりした。すると、耳たぶを開けるたびに食堂のざわめきが聞こえた。それは夜汽車に似た騒音をたてた。また、耳たぶを閉じると、騒音はトンネルヘはいってゆく汽車のようにとぎれた。ドールキイでのあの晩も、汽車がこんなふうにごうごうとうなり、トンネルヘはいると、うなりがやんだ。彼は眼を閉じた。すると汽車は走りつづけ、ごうごうととどろいてはやみ、また、とどろいてはやむのだった。汽車がごうごうととどろいてはやみ、やがてトンネルを出るとまたとどろき、やがてまたやむのを聞いていると、楽しかった。
やがて上級生たちが食堂の中央の敷物をつたって出てゆきはじめた。パディ・ラスやジミイ・マギイや、葉巻をのむのを許されているスペイン人や毛糸の帽子をかぶっている小男のポルトガル人たちだ。それから中級のテーブルの生徒たち、つづいて第三級のテーブルの生徒たち。ひとりひとりそれぞれ違った歩き方だった。
彼は遊戯室の隅に腰かけて、ドミノ遊びに見とれているふりをしていた。と、一、二度、ちょっとの間だが小さな歌声のようなガスの音が聞こえた。生徒監が戸口のとこに数人の生徒たちといた。サイモン・ムーナンが彼の二重袖をむすんでやった。生徒監は彼らに何かタラベッグ〔アイルランド中部の町〕の話をしていた。
やがて彼が戸口から立ち去ると、ウェルズがスティーヴンのそばにやってきて言った。
――おい、ディーダラス、君は寝る前にお母さんにキッスをするかい?
スティーヴンは答えた。
――します。
ウェルズは他の生徒たちのほうをふり返って言った。
――わあい、こいつはね、毎晩ねる前にお母さんにキッスするんだってさ。
他の生徒たちがゲームをやめ、振りむいて笑った。スティーヴンはみんなに見られて赤くなって言った。
――しません。
ウェルズが言った。
――わあい、こいつはね、寝る前にお母さんにキッスをしないんだってさ。
彼らはまたどっと笑った。スティーヴンも一緒になって笑おうとした。たちまち体中がかっと熱くなって、どぎまぎした。どう答えればいいのだろう? 二様の答をしたのにウェルズは笑った。でもウェルズは三年級にいるから、どう答えればいいのか知っているにちがいない。ウェルズのお母さんのことを考えてみようとしたが、眼をあげてウェルズの顔を見る気になれなかった。彼はウェルズの顔が気に喰わなかった。きのう、ぼくがウェルズのよく熟れてはじけた栗の実と小さな嗅ぎタバコ入れを取っかえっこしないからといって、四角などぶだめの中にぼくを肩で突いてほうりこんだのは、栗を四十も勝ち取ったこのウェルズだ。あんなことをするなんて卑劣だ。みんなそう言っていた。それにあの水はなんて冷たくて、ぬらぬらしていたことだろう! 誰かがいつか、大ねずみがあのあぶくの中に跳びこむのを見たんだ。
どぶだめの冷たいぬるぬるしたものが体中にねばりついた。そして、自習時間の鐘が鳴って、各級のものがぞろぞろ遊戯室から出た時、彼は廊下や階段のひやりとした空気を服の中にまで感じた。彼はなおも、どう答えればいいのかを考えようとした。お母さんにキッスするのが正しいのか、それとも、お母さんにキッスするのはいけないのかしら。キッスする、あれは何だろう? あんなふうに顔をあげておやすみなさいを言うと、お母さんが顔を下へもってくる。あれがキッスだ。お母さんが唇をぼくの頬につける。お母さんの唇はやわらかく、ぼくの頬をぬらす。そして小さな可愛い音をたてる、キッス。どうしてみんな両方の顔であんなことをするんだろう?
自習室で席につくと彼は自分の机の蓋をあけて、内側に貼ってある数字を七十七から七十六に変えた。だがクリスマスの休暇はまだずっと先だ。だけど地球はいつも廻っているから、いつかはくるだろう。
地球の絵が地理の教科書の第一ページにあった。雲にとりかこまれた大きな球。フレミングはクレヨンを一箱持っていた。ある晩、自習時間中に彼は地球を緑色に、雲をえび茶色に塗ってしまった。それはダンティの洋服だんすの中にある二つのブラシのようだった。緑色のビロードの背のパーネルのためのブラシと、えび茶色のビロードの背のマイクル・ダヴィットのためのブラシだ。だがフレミングに地球と雲をそんな色に塗れと言ったわけじゃない。フレミングが勝手にやったのだ。
彼は地理の本を開けて勉強しようとした。だがアメリカのいろんな地名がおぼえられなかった。それに全部違った場所で、全部違った名前をもっている。地名はすべていろんな国々にあり、国々は大陸の中にあり、大陸は世界の中にあり、世界は宇宙の中にある。
彼は地理の本の扉を開いて、そこに自分が書いておいたものを読んだ。自分自身、つまり自分の名前と自分のいるところだ。
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スティーヴン・ディーダラス
初等科
クロンゴウズ・ウッド・カレッジ
サリンズ
キルデア郡
アイルランド
ヨーロッパ
世界
宇宙
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これは彼の書いたものだ。するとある晩、フレミングがふざけてその向い合せのページに書いた。
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スティーヴン・ディーダラスはぼくの名前、
アイルランドはぼくの国です。
クロンゴウズはぼくの住所
天国はぼくの未来の目的地です。
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彼はこの韻をふんだ文句を逆に読んでみたが、それでは詩にならなかった。そこで扉のページを下から上へと読んでいって自分の名前のところにきた。それが自分なのだ。もう一度、ページを下へと読んでいった。宇宙のあとは何だろうか? 何もない。だけど、宇宙のまわりに、何もないところの始まる前に、行きどまりになっているところを示すものが何かあるのだろうか? 壁があるわけはない。でも、すべて、ものの周囲にはそこに細い細い線があるはずだ。あらゆるものやあらゆるところについて考えるのは、とても大変なことだ。神さまでなくちゃそんなことはやれない。彼はそれがどんなに大変な考えにちがいないかを思ってみようとした。けれど神さまのことしか思いつかなかった。神《ゴッド》とは神さまの名だ、ちょうどぼくの名がスティーヴンであるとおなじように。「ディユ」はフランス語で神さまのことだ。それもやっぱり神さまの名だ。それで誰かが神きまにお祈りをして「ディユ」と言ったら、神さまにはすぐに、お祈りしているのがフランス人だとわかるんだ。だけど、世界中のあらゆる違った言葉には、神さまのいろんな呼び名があって、お祈りをする人たちが、みんなそれぞれの違った言葉で言っても神さまにはわかるけど、それでも神さまはいつも同じ神さまであって、神さまの本当の名はゴッドなんだ。
そんなふうに考えていると彼はとてもつかれた。自分の頭がいやに大きくなったような気がした。扉のページをめくり、ぐったりして、えび茶色の雲にかこまれた緑色のまるい地球を眺めた。どっちが正しいのだろうか、緑色に味方すべきか、えび茶色に味方すべきかと迷った。というのも、ある日ダンティがパーネルのためのブラシから緑色のビロードの背を鋏《はさみ》で切りとって、彼にパーネルは悪い人だと言ったことがあったからだ。うちではみんながそのことで議論をしているのじゃないかしらと思った。あれがつまり政治っていうんだ。それにはいつも二派があった。ダンティが一方の側にたつと、お父さんとケイシイさんは反対派だったけれど、お母さんとチャールズ伯父さんとはどっちの側でもなかった。毎日のように新聞には政治のことが何かのっていた。
政治とはどういうことかよくわからず、またどこが宇宙の果てかわからないのが、彼にはせつなかった。いかにも自分が小さく弱く感じられた。いつになったら詩や修辞学をならっている生徒たちのようになるのだろう? 彼らはふとい声をして、大きな編上靴をはいて、三角法をならっている。それはまだずっと先のことだ。まず休暇がきて、それからつぎの学期がきて、それからまた休暇、さらにまたつぎの学期、それからまた休暇。それは汽車がトンネルをはいったり出たりするのと似ているし、食堂で耳たぶを開けたり閉じたりする時の食事をしている生徒たちの騒音にも似ている。学期、休暇、トンネル、出る、騒音、やむ。なんて遠い先のことだろう! 床《とこ》について寝たほうがいい。ただ礼拝堂でのお祈りがあってからだ。彼はぶるっと身震いしてあくびをした。敷布が少しあったまってから寝床にはいるといい気持だろうな。敷布にもぐりたてはとても冷たい。初めどんなに冷たいかを思うと寒気がした。だけどそのうち敷布があったまってくると眠れるのだ。くたびれているといい気持だ。彼はまたあくびをした。晩祷《ばんとう》があってから就寝だ。彼はぶるつと身震いし、あくびがでそうになった。も少ししたら、いい気持になる。彼は冷たくて震えあがるような敷布から快よいぬくもりが少しずつひろがり、だんだんにぬくもってきて、ついに体中があたたかくなるのをおぼえた。こんなにもあたたかくなったのにぶるっと身震いをし、またあくびが出そうだった。
夜の祈りの鐘が鳴ったので、彼は他の者たちのあとにならんで自習室を出て、階段をおり廊下をつたって礼拝堂へむかった。廊下には暗い灯がついていた、礼拝堂の灯も暗かった。やがて全部が暗くなり眠りこむのだ。礼拝堂の夜気は冷たく、大理石は夜の海の色をしていた。海は昼も夜も冷たい。だけど夜のほうが冷たかった。うちのそばにある岸壁の下の海は冷たくて暗かった。だけど暖炉の台にはポンチをつくるため、もうやかんがかけられるころだろう。
礼拝堂の生徒監が彼の頭の上でお祈りをした。彼の記憶はその応誦《レスポンス》を知っていた。
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主よ、我が唇を開き給え
我が口は主の讃美を告げん
天主、我が援助《たすけ》に御心《みこころ》を傾け給え
主よ、我が援助に急ぎ給え
(「聖母マリアの聖務」)
[#ここで字下げ終わり]
礼拝堂は冷たい夜の匂いがした。だがそれは神聖な匂いだった。それは日曜日のミサに、礼拝堂のうしろにひざまずく年寄りの農夫たちの匂いのようじゃない。あれは外気と雨と泥炭とコールテンの匂いだった。でもあの人たちはとても信心深いお百姓さんたちだった。彼らはぼくのうしろでお祈りをしながら、ぼくの首に息を吹きかけ溜息をついた。クレインのお百姓だよ、とある友達がいったっけ。あすこには小さな田舎家があった。その一軒の田舎家の半開き戸のとこに一人の女が子供を抱いて立っているのを、サリンズからの馬車で通りかかったときに見かけたっけ。あんな田舎家に一晩泊るのは楽しいだろうな、いぶる泥炭の炉にあたり、炉火に照らされた暗がりの中で、あたたかい暗がりの中で、農夫の匂い、外気と雨と泥炭とコールテンの匂いをかぎながら。それにしても、あすこの木立にはさまれた道は暗かったなあ! あの暗闇では誰だって迷いこみそうだ。そのようすを考えると彼はこわくなった。
礼拝堂の生徒監が最後の祈りを唱えている声がきこえた。彼もその祈りを外の木立の下の闇にむかって唱えた。
[#ここから1字下げ]
主よ、願わくはこの住家《すみか》をみそなわし、あだな謀計《はかりごと》を遠ざけ給え。また主の御使《みつか》いをこの住家に降しわれらを安らかに守らしめ、主の御祝福を常にわれらの上にあらしめ給わんことを、われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。(公教会の「平安を求むる祈り」)
[#ここで字下げ終わり]
寮の寝室で服をぬぐとき指がふるえた。彼は指に急げと命じた。ガス灯が暗くされない前に服をぬぎ、ひざまずいて自分のお祈りをして床にはいらないと、死んでから地獄へゆくかもしれないのだ。靴下をまるめながらぬぎ、急いで寝衣を着て、ふるえながら寝台にひざまずき、ガス灯が暗くなりはしまいかと、びくびくしながら急いでお祈りをくり返して唱えた。肩がぶるぶる震えるのを感じつつ呟いた。
[#ここから1字下げ]
天主さま、お父さんとお母さんにお恵みをたれ、私のために彼らをお守り下さい!
天主さま、小さい弟たちや妹たちにお恵みをたれ、私のために彼らをお守り下さい!
天主さま、ダンティとチャールズ伯父さんにお恵みをたれ、私のために彼らをお守り下さい!
[#ここで字下げ終わり]
彼は十字を切ってわが身を清め、急いで寝台にあがってもぐりこみ、寝衣の裾で足をつつみ、冷たい白いシーツにくるまって、がたがた震えながらちぢこまった。だけど、もう死んでも地獄にゆかないだろう。震えもそのうちにとまるだろう。寝室の生徒たちにおやすみをいう声がした。彼はちょっと掛けぶとんからのぞいてみた。すると寝室のまわりも前も、黄色い帳《とばり》で四方をさえぎられていた。灯が音もなくすうっと暗くなった。
生徒監の靴音が遠のいていった。どこへゆくのだろう? 階段をおりて廊下をつたってゆくのかしら、それともはずれの自分の室へゆくのかしら? 暗闇が見えた。馬車ランプほどもある大きな眼をして夜中にあすこを歩きまわるあの黒犬のことは本当かしら? あれは人殺しの幽霊だという話だ。恐怖のながい戦慄が全身を流れた。お城の暗い玄関の間が見えた。古風な服装の年寄りの召使たちが階段の上の火のし部屋にいた。遠い昔のことだ。老いた召使たちはひっそりしている。そこには炉火があるけど、玄関の間はやっぱり暗い。一人の人影が玄関の間から階段へ近よってくる。彼は元帥の白いマントを着ていた。その顔は蒼ざめ異様だった。片手を脇腹におしつけている。彼は異様な瞳で老いた召使たちを見やった。召使たちは彼を眺め、主人の顔とマントに気づき彼が致命傷を負っているのを知った。だが彼らの見やったところには、ただ暗闇しかなかった。ただ暗いひっそりとした虚空のみが。彼らの主人は遥か海をこえた彼方のプラハの戦場で致命傷を受けていたのであった。彼は戦場に立っていて、片手で脇腹をおきえ、その顔は異様に蒼ざめ、元帥の白いマントを着ていたのだ。
おお、そんなことを考えると、なんて寒くて変な気持になることだろう! 暗闇は本当に寒くて気持がわるい。異様に蒼ざめて、馬車ランプのように大きな眼をした顔がいくつも見えた。あれは人殺したちの幽霊だ。海をこえた遙か彼方の戦場で致命傷を受けた元帥たちの姿なんだ。あんなうす気味のわるい顔をして、いったい何を彼らは言いたいのだろうか。
[#ここから1字下げ]
主よ、願わくはこの住家をみそなわし、あだな謀計《はかりごと》を遠ざけ給え……
[#ここで字下げ終わり]
休暇に家へ帰る! うれしいだろうな。友達がそう言ってたっけ。冬の朝早く、お城の扉口の外で馬車に乗りこむ。馬車が砂利の上を進んでゆく。校長先生へ万歳!
万歳! 万歳! 万歳!
馬車が礼拝堂のわきを通りかかるとみんな帽子をぬぐ。陽気にはしゃいで田舎道をぬけてゆく。馭者《ぎょしゃ》たちが鞭でボーデンスタウンの方角を指し示す。友達がわあっと喚声をあげる。「陽気な農夫」の農家の前を通りすぎた。わあわあつぎつぎにはやしたてる。はやしたて、はやしたてられながらクレインを通りぬける。百姓のおかみさんたちが半開き戸の前に立っている。男たちがあちこちに立っている。冬の空気はいい匂いがする。クレインの匂いだ。雨と冬の外気といぶっている泥炭とコールテンの匂いだ。
汽単は生徒たちでいっぱいだった。クリーム色の化粧塗りをした長い長いチョコレート色の汽車。車掌たちが汽車のドアを開けたり、閉めたり、鍵をかけたりはずしたりして歩きまわっていた。彼らは銀すじのついた、濃紺の服を着ていた。銀色の呼子《よぶこ》を持っていた。彼らの鍵は素早い美しい音をたてた、クリック、クリック、クリック、クリック。
やがて列車はひた走りに走って平地をこえ、アレンの丘をすぎた。電信柱がすいすいと通過してゆく。列車は走りつづけた。列車は心得ていた。彼の父の家の玄関の間にはいくつかのちょうちんと緑の小枝の環《わ》飾りがあった。ヒイラギとツタが姿見のまわりに、また緑と赤のヒイラギとツタがシャンデリアにからませてあった。壁の古い肖像画のまわりにも赤いヒイラギと緑のツタが飾ってあった。ヒイラギとツタは彼を迎えるため、またクリスマスを祝うためだ。
たのしい……
家中のもの。お帰りなきい、スティーヴン! 歓迎のさわぎ。お母さんがキッスしてくれた。これでいいのかしら? お父さんは元帥になっている。役人よりもえらいんだ。お帰り、スティーヴン!
ざわめき……
桿《かん》をこすって引かれるカーテンの鐶《わ》や、洗面器の中ではねかえる水のさわがしい音がしていた。寝室では起きだしたり服をきたり、顔を洗ったりするさわがしい音がしていた。生徒監が歩きまわって皆に早くしろと命じながら手を叩くさわがしい音。白々しい陽の光が、引きしぼられた黄色いカーテンや乱れた寝床を見せていた。彼の寝床はいやに熱かった。顔や体もいやに熱かった。
彼は起き上って寝台の横に腰かけた。ぐったりしていた。長靴下をはこうとした。靴下がぞっとするようなざらざらした感じだった。陽の光も妙に冷たかった。
フレミングが言った。
――具合がわるいんじゃないのかい?
彼にはわからなかった。するとフレミングは言った。
――寝ていたまえ。マグレイドにいってあげよう、君が具合がわるいってね。
――この子が病気なんだ。
――誰がだって?
――マグレイドにいってくれよ。
――床にはいってたまえ。
――病気だって?
一人の生徒が彼の両腕をささえてくれている間に、足にへばりつく靴下をぬいで、また熱い寝床にもぐりこんだ。
上下のシーツの間にちぢこまった。シーツの生温いぬくもりがうれしかった。友達がミサヘでる身支度をしながら自分の噂をしているのが聞こえた。あの四角などぶに突き落とすなんて卑劣な仕打ちだと言っている。
やがて声がしなくなった。彼らが行ってしまったのだ。寝台のそばで声がした。
――ディーダラス、いいつけないでね、きっとだよ。
ウェルズの顔がそこにあった。その顔を見て、ウェルズがびくびくしているのを知った。
――ぼくは本気じゃなかったんだよ。きっといわないだろうね?
どんなことをやっても決して友達のことを告げ口してはいけないと父から言われていたのだ。彼は頭をふり、言わないと答え、満足をおぼえた。
ウェルズが言った。
――ぼく、本気じゃなかったんだよ、本当だ。ちょっとふざけただけなんだ。ごめんね。
その顔と声が離れていった。心配になったんであやまったのだ。病気になったと、心配しているんだ。癌《キャンカー》は植物の病気で 癌《キャンサー》は動物の病気だったな。いや、違うかもしれない。あれはずっと前のことだっけ、夕明りの運動場で自分の組のはじっこを、あちこちのろのろと動きまわっていると、一羽の重そうな鳥が薄明りの中を低く飛んでいた。灯のともっているレスター僧院。ウルジーはそこで死んだんだ。僧院長たちは手ずから彼を葬ったんだ。
それはウェルズの顔ではない。生徒監の顔だった。仮病をつかっているんじゃない。そうだ、こりゃ本当に病気だ。仮病じゃないぞ。と、彼は生徒監の手を額に感じた。生徒監のひやりと湿っぽい手にひきかえ自分の額があつく、じっとりとしているのを感じた。その手はねずみにさわったのに似ていた。ぬらぬらして湿っぽく、ひやりとしている。どのねずみにも眼玉が二つあって、それで見るんだ。すべっこいぬるぬるした毛皮、ちぢこめてぴょんと跳ぶ小さな可愛い足、真黒なべっとりした眼玉。ねずみは跳び方ぐらいはわかるんだ。だけどねずみの頭じゃ三角法はわからない。ねずみは死ぬとごろりと横にころがっている。そのうち毛皮が干からびてしまう。ただの死物になってしまう。
生徒監がまたもそこにいた。起きなさい、起きて服を着て衛生室へゆくようにと副校長先生《ファーザー・ミニスター》がおっしゃってるよ、と彼の声が言っていた。彼ができるだけ手早く服をきていると、生徒監は言った。
――腹鳴りだからマイクルさんのとこへすっとんでいかなくちゃ!
彼は大変やきしい気持からそんなことを言ったのだ。それもすべて彼を笑わせるためだった。だが彼は頬や唇がぴくぴく震えて笑えなかった。だから生徒監は一人で笑わなければならなかった。
生徒監が大きな声で言った。
――はや足行進! 右っ! 左っ!
彼らは一緒に階段をおり廊下をつたって浴室の前を通りかかった。その戸口を通りすぎるとき、彼は泥炭色のどろ水のような湯、むんむんする湯気、湯にとびこむ騒々しい音、薬を思わせるタオルの臭いを思いだし、漠然とした恐怖をおぼえた。
マイクル助修士が衛生室の入口に立っていた。その右手の黒い戸棚の扉口から薬くさい臭いがにおってきた。それは棚の瓶からにおっていたのだ。生徒監がマイクル助修士に事情を伝えると、マイクル助修士は受け答えして生徒監を先生《サー》と呼んだ。彼は白髪まじりの赤毛で、おかしな顔つきをしていた。この人がいつまでたっても助修士《ブラザー》でいるのはおかしいな。この人が助修士で、それに一風変った顔つきをしているからって、先生と呼んじゃいけないのも変だな。まだ信仰がたりないんだろうか。どうして他の人たちに追いつけないのだろう?
室内には寝台が二つあって、その一つには生徒が寝ていた。彼らがはいってゆくと、彼が呼びかけた。
――おおい! ディーダラス少年じゃないか! 何がもち上がったんだ?
――上がってるのは空さ。マイクル助修士が言った。
彼は文法科の三年だった。スティーヴンが服をぬいでいると、彼はマイクル助修士にバター・トーストを一切れ持ってきてくれるようにたのんでいた。
――ねえ、たのむよ! と彼は言った。
――バタバタ騒ぐな! マイクル助修士は言った。お医者さんんがきたら、君は朝のうちにお払い箱だよ。
――ぼくが? 生徒は言った。ぼくはまだよくなってないよ。
マイクル助修士は同じことを言った。
――君はお払い箱になるんだよ。わかったね。
彼はかがみこんで火をかきたてた。長い胴をしている鉄道馬車の曳《ひき》馬のように、彼は長い背中をしていた。文法科の三年級の生徒に向って、火掻棒をもったいぶって振りまわし、うなずいて見せた。
それからマイクル助修士は出ていった。しばらくして文法科の三年級の生徒は壁に向ってくるりと寝返りをうち、眠りこんでしまった。
それは衛生室だった。じゃ、やっぱり病気だったんだ。学校から家の母や父に知らせの手紙を出したかしら。だけど、誰か神父さんが直接知らせにいったほうが早いだろう。それとも神父さんに持っていってもらう手紙を自分で書こうかしら。
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お母さま
ぼくは病気です。うちへ帰りたいと思います。どうぞつれにきて下さい。衛生室にはいっています。
さようなら
スティーヴン
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お母さんたちはなんて遠くにいるんだろう! 窓の外には冷たい日光がさしていた。ぼくは死ぬんじゃないかしらと彼は思った。お天気のいい日にだって、やっぱり死ぬことはある。もしかしたらお母さんがこないうちに死ぬかもしれない。そしたら、チャペルでおとむらいのミサがあるだろう、|おちび《リトル》が死んだときにあったと、友達が話してくれたように。生徒たちはみなミサに出るだろうな。黒い服をきて、みんな悲しそうな顔をして。ウェルズも出るだろう。だけどあいつには誰も見向きもするもんか。校長先生は黒と金の大きなコートをきて出てらっしゃるだろうな。それから祭壇の上や棺台のまわりには高い黄色いろうそくが立てられる。それからみんなは棺をかついでゆっくりとチャペルを出ていって、そしてぼくは、ぼだいじゅの並木の正面の道からそれたとこにある教団の小さな墓地にうめられる。そしたらウェルズは自分のやったことを後悔するだろうな。それにおとむらいの鐘も静かに鳴るだろう。
彼には弔鐘《ちょうしょう》が聞こえるようだった。彼はブリジッドが教えてくれた歌をわが身に向って口ずさんだ。
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ゴーンゴーン! お城の鐘です!
さようなら、お母さま!
ぼくを埋めて下さい、あの教会墓地に
大兄《おおにい》さんのおそばにね。
ぼくの柩《ひつぎ》は黒くして
六人の天使に守られて
二人は歌い、二人は祈り
二人はぼくのみたまをあの世へつれてゆく。
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なんて美しい悲しい歌だろう!「ぼくを埋めて下さい、あの教会墓地に」というところは、なんて美しい言葉だろう! かすかなわななきが彼の体を走った。なんて悲しい、なんて美しいのだろう! 彼はそっと泣きたくなった。自分のためにではない。音楽のように大変に美しく哀れなその文句のためにだ。鐘! 鐘! さようなら! ああ、さようなら!
冷たい日光が弱々しくなってきた。と、マイクル助修士が牛肉エキスのスープの椀を持って、寝台のわきに立っていた。口が熱っぽく、からからに乾いていたのでうれしかった。運動場でみんなの遊んでいるのが聞こえていた。こうしてその日も、まるで彼があすこに加わっているのと少しも変りなく学校の一日がすぎているのだ。
間もなくマイクル助修士が立ち去ろうとすると、文法科の三年の生徒が、ぜひもう一度戻ってきて新聞の記事をくわしくきかせてくれるようにとせがんだ。彼はスティーヴンにぼくの名はアサイというんだ、ぼくのお父さんはすばらしく速い競馬の馬をたくさん持っている、ぼくのお父さんはマイクル助修士に彼が欲しいときにはいつでもチップをたくさんやる、だってマイクル助修士はとても親切で、毎日お城にとどく新聞からいつも記事を話してきかせてくれるからねと言った。新聞にはありとあらゆる記事がのっている、事故、難船、スポーツや政治。
この頃の新聞は政治のことばかりだな、と彼は言った。君のうちの人も政治のことを話しあうかい?
――ええ、とスティーヴンは言った。
――ぼくんちもだよ、と彼は言った。
それから彼はちょっと考えこんで、言った。
――君の名前は変わってるね、ディーダラスって。ぼくの名前も変わってるよ、アサイなんて。ぼくの名前は町の名だ。君の名前はラテン語みたいだな。
それから彼はきいた。
――君は謎々《なぞなぞ》が上手かい?
スティーヴンは答えた。
――あんまり上手じゃない。
すると彼は言った。
――こんなの、とけるかい? キルデア郡はどうして生徒の半ズボンのあしに似てるか?
スティーヴンはどう答えればいいのだろうと考えていたが、やがて言った。
――ぼく、だめです。
――そのわけは、中に股《ア・サイ》があるからさ。このしゃれがわかる? アサイはキルデア郡の町だよ。そしてア・サイは別の股《サイ》のことさ。
――あっ、そうか。スティーヴンは言った。
――こいつは古くさい謎さ。彼は言った。
ちょっとして彼は言った。
――ねえ、君!
――なんですか? スティーヴンはきいた。
――いいかい、その謎にはも一つ別のきき方があるんだよ。彼は言った。
――そうお? スティーヴンは言った。
――その同じ謎がさ。彼は言った。その別のきき方を知ってるかい?
――いいえ。スティーヴンは言った。
――考えつかないかなあ、他のきき方を? と彼は言った。
彼はそういいながらふとんの上からスティーヴンを見やった。それからまたごろりと枕を下にして、言った。
――も一つきき方があるんだけど、君に教えるのはやめとこう。
なぜ彼は教えてくれないのだろう? 競馬の馬を持っているという彼のお父さんも、きっとソーリンやナスティ・ロウチのお父さんのようにお役人なんだろう。彼は自分の父親のことを思ってみた。お母さんにピアノをひかせて歌をうたう父のようすや、六ペンスをねだると父はいつも一シリングくれたことを思うと、父がほかの少年たちの父親のように役人でないのが気の毒に感じられた。じゃどうして、お父さんはぼくをこんなとこにやったのだろう? でもお父さんはいつか言ってたっけ、お前の大伯父さんは五十年前にここで解放者〔アイルランドの解放運動の志士ダニエル・オノーネルのこと。ジョイス家は血縁関係にある〕へ祝辞を呈したことがあるから、お前もこことまんざら縁のないものじゃないと。あの頃の人たちは、着ている古風な服装でわかるのだ。彼には厳粛な時代のように思えた。クロンゴウズの生徒たちが金ボタンのついた紺の上衣に、黄色いチョッキを着て、兎皮の帽子をかぶり、大人のようにビールを飲み、兎狩につかう猟犬をてんでに飼っていたのは、その頃のことではないだろうかと思った。
窓に眼をやると、光はいっそう弱くなっていた。もう運動場には曇った灰色の光がたちこめるだろう。運動場はなんの物音もしなかった。教室ではきっと作文をしているにちがいない。でなければアーノール神父さんが本を読んできかせているだろう。
誰もぼくにお薬をくれないのは変だな。たぶんマイクル助修士がくる時に持ってきてくれるのだろう。衛生室にはいるとむかむかするようなものを飲まされるぞとみんなは言ってたっけ。だけど今はさっきより気分がよくなった。ゆっくりよくなってくれるといいんだがなあ。そうすると本が読めるんだけど。図書室にはオランダのことを書いた本があった。それにはおもしろい外国の名前や珍らしい景色の街や船の写真がのっていた。あれはとても楽しい気持にさせてくれる。
窓の光はなんて蒼白いんだろう! だがきれいだった。炉の火影が壁の上で伸びたりちぢんだりしていた。それは波に似ていた。誰かが石炭をくべたのだ。人声が聞こえた。彼らは話をしていた。それは波のざわめきだった。でなければ波が高く低くうねりながら、内緒話をしているのだ。
彼には波だつ海が見えた。月のない夜空に暗く、大きな黒々とした波が高く低くうねっている。船がはいってくる埠頭のあたりにぽつんと一つ小さな明りがまたたいていた。おおぜいの人々が港にはいってくる船を見ようと、波打際に集まっているのが見えた。甲板に一人の背の高い男が立って、闇一色の陸地のほうを眺めていた。埠頭の光でスティーヴンにはその顔が見えた。マイクル助修士の悲しそうな顔だ。
見ていると彼が群衆のほうに片手をあげ、大きな悲しみにみちた声で海上から叫ぶのが聞こえた。
――彼は亡くなった。わたしたちは彼が柩台《ひつぎだい》に横たわっているのを見たのです。
悲痛な慟哭《どうこく》が群衆から起こった。
――パーネル! パーネル! パーネルが亡くなった!
彼らはがっくりひざまずき、悲しみに呻いた。
と、彼にはダンティが栗色のビロードの服をき、緑色のビロードのマントを肩からたらし、水際にひざまずいている人々のそばを、傲然《ごうぜん》と口をむすんだまま通りすぎるのが見えた。
高くつみあげた大きな薪が赤々と火床の中で燃えさかり、シャンデリアのつたをからませた枝飾りの下には、クリスマスの食卓がしつらえてあった。皆は少しおくれて帰宅したが、晩餐《ばんさん》はまだできていなかった。だが、もうじきですよ、と彼の母は言った。彼らは、扉が開いて召使たちがどっしりした金属の蓋をかぶせた大きな深皿を持ってはいってくるのを待っていた。
みんな待ちかまえていた。チャールズ伯父さんはずっと向うの窓のかげに坐っていた。ダンティとケイシイさんはそれぞれ暖炉の両側の安楽椅子にかけていた。スティーヴンは二人の間の椅子に腰かけ、暖まった疣《いぼ》飾りに足をかけていた。ディーダラス氏は暖炉棚の上にかかった鏡の中の自分の姿を眺め、口ひげの端をひねり、ついで燕尾服の尾をまくって、燃えさかる火に背をむけて立っていた。それでもまだときおり服の尾から片手を離し、口ひげの端をかわるがわるひねっていた。ケイシイさんは首をかしげ、にこにこ笑って指で咽喉《のど》のぐりぐりを軽くたたいた。と、スティーヴンもにっこり笑った。というのも、ケイシイさんの咽喉には銀のふくろがあるというのはうそだと今は知っていたからだ。ケイシイさんはよく銀の音をだしては、ぼくをだましたものだった、と思って笑ったのだ。ケイシイさんの手を開いて、その中に銀のふくろがかくされていやしないか見ようとしたら、どうしても指がまっすぐに伸ばせなかったことがある。ケイシイさんはヴィクトリア女王へ誕生日の贈物をしようとして〔女王の誕生日にアイルランド人が暴動を起こしたことをいう〕この三本の指が曲ってしまったんだよと語ってきかせた。
ケイシイさんは咽喉のぐりぐりを叩いて、眠そうな目でスティーヴンに微笑《ほほえ》んだ。と、ディーダラス氏は彼に言った。
――そうだ、やっとこれで落ちついたね、いやあ、実によく歩いたもんだねえ、ジョン。まったく……いったい今晩は晩餐がでるんだろうかね。きょう……まあとにかく、今日は岬《ヘッド》のあたりでオゾンをたっぷり吸ったな、うん、まったくだ。
彼はダンティのほうを向いて言った。
――全然お出かけにならなかったんですな、ミセズ・リオーダン?
ダンティは眉をしかめて、ぽつんと言った。
――ええ。
ディーダラス氏は燕尾服の裾をぱらりと落として食器棚へ歩みよった。彼は錠前つきの仕切り棚からウィスキーの大きな磁器の瓶をとりだし、細口のガラス酒器に静かにいれながら、ときおり腰をかがめては、どれくらい入れたか見るのだった。それから大瓶を仕切り戸棚にもどして、二つの盃にウィスキーを少しばかりつぎ、水を少し割り、それを持って暖炉のとこにもどってきた。
――ほんのちょっぴりですが、ジョン、ちょいと食欲の増進にね。彼は言った。
ケイシイさんは盃をとり、飲みほすと暖炉棚の手近なところにそれをおいた。それから言った。
――思うまいとしてもついどうも、あの友人のクリストファが造るなんてねえ……
彼はけたましく笑いだし、ごほんごほんむせながら言いたした。
――あんなシャンパンを造ってあの連中に売りつけようっていうんだから。
ディーダラス氏も大声で笑った。
――クリスティのことかね? 彼は言った。あいつの禿頭の疣《いぼ》の一つには一群れの狐よりもうんと悪智恵がつまっているよ。
彼は首をかしげ、両の眼を閉じ、唇を思いきりなめて、ホテルの主人の声色《こわいろ》でやりだした。
――それにあの男はとんだ猫なで声で人に話しかけましてな、ご存知ありませんか。たるんだ咽喉のあたりは、よだれでべとべとしております。とんだ男でして。
ケイシイさんはまだ苦しそうにひどく咳《せ》きこんで笑っていた。スティーヴンも、父の顔や声色からホテルの主人が眼に見えるようなので、笑った。
ディーダラス氏は片眼鏡を上げて彼をじっと見おろし、もの静かにやさしく言った。
――何がおかしいのかい、坊や、お前は?
召使たちがはいってきて食卓にご馳走をならべた。ディーダラス夫人がつづいてはいってきて、席がきめられた。
――あちらにお坐りになって、と彼女は言った。
ディーダラス氏は食卓の端へいって、声をかけた。
――さあ、ミセズ・リオーダン、そちらへどうぞ。ジョン、君もかけたまえ。
彼はぐるりとチャールズ伯父のかけているほうをふり返って、言った。
――さあ、ここで鳥がお待ちしておりますよ。
一同が席につくと、彼は手を蓋にかけたが、あわてて手をひっこめて言った。
――さあ、スティーヴン。
スティーヴンは自分の席で立ち上り、食前の感謝をささげた。
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主、願わくはわれらを祝し、また主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給え、われらの主キリストによりて願い奉る、アーメン。(「食前の祈り」)
[#ここで字下げ終わり]
一同が感謝をすませると、ディーダラス氏はいかにもうれしそうに溜息をついて、きらきら光る滴が真珠のようにへりにたまっている重そうな蓋を大皿から取った。
スティーヴンはまるまる肥った七面鳥を眺めやった。それはさっきまで翼と脚をしばって串にさして料理台にのっていたのだ。その七面鳥はお父さんが一ギニーもだしてドリア街のダンの店で買ったこと、店の者がどんなに上等な鳥か見せようとして、なん度も胸骨のとこを突ついてみせたことを彼は知っていた。店の男がこう言ったときの声を思いだした。
――こいつになさいまし、旦那。こいつは間違いなく飛びきり上等ですぜ。
クロンゴウズのバーレット先生が罰棒のことを七面鳥というのはどうしてかしら? だけどクロンゴウズはもう遠方なんだ。それに七面鳥やハムやセロリのあたたかい、こってりした匂いが皿や深皿からたちのぼっている、炉格子の中には大きな薪が高くつみかさなって、赤々と燃えている、それに緑のツタや赤いヒイラギ、それらはとても楽しい思いにさせてくれる。食事がすむと、大きなあんずのプディングが出る。それには皮をむいたアメンドウやヒイラギの小枝をあしらって、まわりを青白い炎がちらつき、頂には緑色の小さな旗がひらひらしているのだ。
それは彼の初めてのクリスマス・ディナーだったから、かつては自分もなん度か待っていたように、プディングが出るまで子供部屋で待っている小さな弟たちや妹たちのことを考えた。幅広のひくいカラーにイートン校型の上衣は妙に老《ふ》けた気持にさせるのだった。その朝、母がミサにでる身支度をした彼をつれて客間におりてきたとき、彼の父は泣いた。自分のお父さんのことを思いだしたのだった。チャールズ伯父さんもそんなことを言った。
ディーダラス氏は大皿に蓋をすると、むさぼるようにたべ始めた。やがて彼は言った。
――困ったもんだよ、あのクリスティの奴も。悪事で偏屈みたいになっておるからね。
――サイモン、とディーダラス夫人は言った。あなた、リオーダンさんにソースをさし上げてないじゃありませんの。
ディーダラス氏は舟型のソース入れをつかんだ。
――さし上げなかったですか、と彼は大きな声をあげた。ミセズ・オリーダン、この哀れなめくらにどうかお慈悲を。
ダンティは両手で自分の皿を覆って言った。
――いいえ、結構なのですよ。
ディーダラス氏はチャールズ伯父のほうを向いた。
――そちらはいかがです?
――ちゃんとやっておるよ、サイモン。
――君は、ジョン?
――ぼくはいいよ。君のほうこそやりたまえ。
――本当かい? ほら、スティーヴン、うれしくってぞくぞくなるようなものがあるぞ。
彼はスティーヴンの皿にたっぷりソースをかけてやると、ソース入れを食卓にもどした。それからチャールズ伯父に肉はやわらかいかときいた。チャールズ伯父はいっぱいに頬ばっていたので口がきけなかったが、やわらかいというようにうなずいて見せた。
――われらの友が参事会員《キャナン》に対して行なったあの答弁はりっぱだったな。どうだい? ディーダラス氏は言った。
――あの男にあれほどの器量があるとは思わなかったね、とケイシイさんは言った。
――「神父さん、あなた方が神の家を投票場にするのをおやめになれば、わたしもあなたの当然受けるべきものを払いましょう」
――大したご返答ですわね、とダンティが言った。みずからカトリック教徒と称する人が自分の司祭さんに向って言うなんて。
――悪いのはあの人たちのほうですよ、とディーダラス氏はおだやかに言った。馬鹿者の忠告でもきく気があれば、あの連中はもっぱら宗教にだけ専心するのでしょうがね。
――あれも宗教ですよ、とダンティは言った。あの方々は人々に戒めを与えておのれの務めを果しておいでなのですよ。
――われわれが神の家にゆくのは、とケイシイさんは言った。心から謙虚な気持でわれわれの造物主に祈るためであって、選挙演説を聞くためではありません。
――あれも宗教です、とダンティはまた言った。あの方たちが正しいのです。司祭さんがたは信者を導びかねばなりません。
――と同時に祭壇から政治を説かねばならないというんですかな? ディーダラス氏はきいた。
――そうですとも。ダンティは言った。それは社会道徳の問題でございます。司祭さんが、何が正しいか何が間違っているかを信者に教えないようでしたら、それはもう司祭さんではございませんものね。
ディーダラス夫人がナイフとフォークを置いて言った。
――後生ですから、お願いですから、一年中のこんなおめでたい日に、政治の議論をなさるのはやめて下さいましな。
――全くだ、とチャールズ伯父は言った。さあ、サイモン、それでもうたくさんだ。もうこれっきりもちだすな。
――うん、わかった、とディーダラス氏はあわてて言った。
彼は威勢よく蓋をとってきいた。
――さて、誰か七面鳥のもっとほしい方は?
誰も答えない。ダンティが言った。
――とにかくカトリック教徒が使うにしてはお立派な文句ですよ!
――リオーダンさん、お願いしますわ。ディーダラス夫人は言った。その問題はもうやめて下さいましな。
ダンティは彼女のほうに開き直って言った。
――それじゃ、あたしの教会の司祭さま方が馬鹿にされてるのを、ただここに坐って拝聴してなければならないとおっしゃるの?
――誰も司祭さんたちの悪口なんかいってやしませんよ、とディーダラス氏が言った。彼らが政治にくちばしをいれん限りはね。
――アイルランドの司教と司祭の方々がおっしゃった以上、それに従わなければなりません、とダンティは言った。
――まず彼らが政治を棄てるべきだね。ケイシイさんが言った。でなきゃ、民衆が自分たちの教会をおっぽりだすかもしれないね。
――お聞きになって? ダンティがディーダラス夫人のほうをふりむいて言った。
――ケイシイさん! サイモン! ディーダラス夫人が言った。いいかげんになさって下さい。
――全くいかんな! ひどすぎるよ! チャールズ伯父が言った。
――何だって? ディーダラス氏が大きな声をあげた。それじゃわれわれは英国民の命じるがままにあの人〔パーネルのことを指す〕を見棄てろというのかね?
――あの人はもう指導者たる資格はありませんでしたよ。ダンティが言った。あの人は世の罪人《つみびと》でした。
――われわれは皆罪人です、しかも大罪人です。ケイシイさんが冷やかに言った。
――「躓物《つまずき》を来らする者は禍害《わざわい》なるかな」ですわ、とリオーダン夫人が言った。「この小さき者の一人を躓《つまず》かするよりは、むしろ碾臼《ひきうす》の石を頸《くび》に懸けられて、海に投げ入れられんかた善きなり」(ルカ伝)これが聖霊のみことばですよ。
――恐ろしくまずい言葉だと申し上げたいですな。ディーダラス氏が涼しい顔をして言った。
――サイモン! サイモン! チャールズ伯父が言った。子供の前だよ。
――うむ、わかっている、とディーダラス氏は言った。わたしの言おうとしていたのは、その……実はあの鉄道の赤帽のひどい言葉使いのことを考えていたもんだからね。まあ、そりゃいいさ。ちょっと、スティーヴン、お前の皿をお出し。さあ、どんどん食べるんだよ、ほら。
彼はスティーヴンの皿にご馳走を山盛りにもってやり、チャールズ伯父とケイシイさんには七面鳥の大きな切れを給仕し、ソースをたっぷりかけて与えた。ディーダラス夫人はろくに食べていなかったし、ダンティは膝に手を置いたままだった。その顔は真赤になっていた。ディーダラス氏は肉切り用のナイフとフォークで深皿の端のあたりをひっかき廻しながら言った。
――ここに「法皇の鼻」〔しり肉の部分〕と称するうまいところがありますぞ。ご婦人か殿方、どなたかもし……
彼は大型フォークの先で肉切れを取り上げて見せた。誰も口をきかなかった。彼はそれを自分の皿にのせながら言った。
――諸君におすすめしなかったとはいわせませんぞ。こいつはわたしが食べたほうがよさそうだな、近頃どうも健康がすぐれんからな。
彼はスティーヴンにちらりと目くばせし、深皿の蓋をしてまた食べ始めた。
彼が食べている間、みな黙りこくっていた。やがて彼が言った。
――とにかくきょうは一日結構なお日柄だった。町にはよその土地の人もおおぜいきていたな。
誰も口をきかない。そこでまた彼は言った。
――去年のクリスマスより人出が多かったと思うね。
彼は他の連中を見廻したが、いずれも顔を皿に伏せていた。返事がないのでちょっと待ってから、苦りきって言った。
――やれやれ、どうやらうちのクリスマス・ディナーは台なしだね。
――幸運も恩寵もくるはずがありませんよ、とダンティが言った。教会の司祭さま方を尊敬しないような家には。
ディーダラス氏はがちゃんとナイフとフォークを自分の皿にほうりだした。
――尊敬! 彼は言った。口ばかり達者なでくの棒をですか、それともアーマー市〔アイルランドの大司教座の所在地〕の臓物《ぞうもつ》桶をですか? 尊敬だって――
――教会の殿様方だからなあ、とケイシイさんがゆっくりと小馬鹿にした口調で言った。
――リートリム卿〔リートリムは北西のコナハト州の郡。そこの領主のことか〕の駁者《ぎょしゃ》さ、そうさ。ディーダラス氏が言った。
――あの方たちは主に油をそそがれた方々〔神の祝福を受けた者の意〕です。ダンティは言った。お国の誉れです。
――臓物桶がね、とディーダラス氏は乱暴に言った。あれでもおっとり構えているときには立派な顔をしておるがね。あの野郎が冬の寒い日にキャベツのベイコンいためをぺろぺろなめている恰好を見るがいい。とんでもないよ!
彼は鈍重な獣のように顔中よじってしかめ面をし、唇でぺろぺろなめるような音をたてて見せた。
――本当に、サイモン、スティーヴンの前でそんな口のきき方をなさるものじゃありませんよ。よくありませんからね。
――そうですよ、大きくなっても、こういうことはみんな憶えてますよ、とダンティはむきになって言った。自分の家で神様や宗教や司祭に対する悪口を聞いたのですからね。
――ついでにこれも憶えさせとくんだね。ケイシイさんが食卓越しに彼女に向って怒鳴った。司祭たちや司祭の手先どもが、パーネルを絶望させて墓場へ追いやったあの文句をね。この子が大きくなった時にこいつも思いださせるんだな。
――畜生め! ディーダラス氏は叫んだ。パーネルが弱りこむと皆は彼を裏切って攻めたて、どぶねずみのように彼をたたきつぶそうとした。あさましい犬どもだ! 事実、犬だよ、奴らは! 全く犬そっくりだよ!
――あの人たちのふるまいは正しかったのです! ダンティは声をはりあげた。あの人たちはそれぞれの司教や司祭さんに従ったのです。あの人たちこそ立派ですよ!
――本当にたまらないわ、せめて一年のうちの今日だけでも、とディーダラス夫人が言った。こんなひどい議論をせずにいられないものでしょうかね!
チャールズ伯父が穏やかに両手をあげて言った。
――まあ、まあ、まあ! どんな意見にしろ、こうひどくいきり立って口ぎたない言葉を使わずにやれないものかね。たしかにこれじゃひどすぎるよ。
ディーダラス夫人が小声でダンティに何か話しかけたが、ダンティは大きな声で言った。
――あたしは黙ってひっこみませんよ。自分の教会や宗教が背教的なカトリック教徒から侮辱され唾をはきかけられれば、あたしは弁護しますよ。
ケイシイさんは自分の皿を乱暴に食卓の真中におしやり、両肘をつき、しわがれ声で自分の招待主に向って言った。
――ねえ君、ぼくは君にあの有名な唾をひっかけた話をして聞かせたかね?
――いや、聞かないね、ジョン。ディーダラス氏は言った。
――おや、そうかね。ケイシイさんは言った。こいつは甚だためになる話だがね。そう古いことでもないが、われわれが今いるこのウィックロウ郡であった話だ。
彼はふっと言いやめ、ダンティのほうに向き直り、静かな怒りをこめて言った。
――お断りしといてもよろしいが、この私のことをおっしゃっておるのなら、私は背教的なカトリック教徒じゃありませんぞ。信仰を売るくらいなら生命を棄てた私のおやじ、そのおやじのおやじ、そのまたおやじ同様に私はカトリック教徒ですからな。
――それじゃますます恥知らずですよ、とダンティは言った。そんなことを口にするようじゃ。
――話はどうした、ジョン。ディーダラス氏が笑顔で言った。とにかくその話を聞こうじゃないか。
――それでカトリック教徒ですかねえ! ダンティは皮肉たっぷりにくり返した。この地上のどんな極悪人の新教徒だって、今晩あたしが聞いたような言葉は口にしないでしょうよ。
ディーダラス氏は田舎《いなか》の歌手のように首を左右にふりながら小声で口ずさみ始めた。
――も一度断っておくが私は新教徒じゃありませんぞ。ケイシイさんは顔を真赤にして言った。
ディーダラス氏はまだ口ずさみながら首をふっていたが、うなるような鼻声で歌いだした。
[#ここから1字下げ]
さあさ、皆さん、ローマ教徒の
一度もミサにいったことのない皆さん。
[#ここで字下げ終わり]
彼は上機嫌でまたナイフとフォークを取りあげてたべ始め、ケイシイさんに言った。
――いまの話を聞かせてもらおうじゃないか、ジョン。みんなの消化の助けになるぞ。
スティーヴンは、手を組んで食卓越しにじっと瞳を凝らしているケイシイさんの顔を懐かしい思いで見やった。スティーヴンは炉端の彼のそばに腰をおろして、その浅黒い、いかつい顔を見上げているのが好きだった。けれど彼の黒い瞳は少しもこわくなかったし、その間のびのした声は、聞いていると楽しかった。だけどケイシイさんはどうして司祭さんの悪口をいったのかしら? きっとダンティのほうが正しいからなんだろう。前にお父さんが言ってたっけ、ダンティは我儘勝手な尼僧で、あれの兄が小間物類や鎖などを売って土地の人から金をまきあげたら、アリゲニイ山中の修道院から出てきてしまったとか。きっとそんなことからパーネルに手きびしく反対するのだろう。また彼女は彼がアイリーンと遊ぶのをいやがった。アイリーンは新教徒だし、あたしが小さい頃、いつも新教徒と遊んでいた子供たちを知っていたけど、新教徒は聖マリアの連祷をいつもからかうたねにしていたからと言うのだ。彼らは「象牙の塔」〔公教会祈祷文〕だとか、「黄金の堂」〔同〕とかいつも言っていた。どうして女のひとが象牙の塔や黄金の堂になるんだろう。じゃいったい、どっちのいうことが正しいのかしら? と、彼はクロンゴウズの衛生室の晩のことを思いだした。
暗い海、埠頭の灯、知らせを聞いたとき群衆からわき起こった悲嘆のうめきなどを。
アイリーンは長い真白な手をしていた。ある夕暮れ、鬼ごっこをして遊んでいた時、彼女がその手で彼の眼かくしをした。長くて真白で、薄く、ひやりと冷たく、やわらかだった。あれが象牙なんだ。冷たい白いもの。ああいうのが「象牙の塔」っていうんだな。
――そいつはしごく短くて味のある話だがね。ケイシイさんは言った。ある日、あのアークロウであったことだ。寒い厭な日だった。党主の亡くなる少し前のことだ。主よ、彼に御恵みをたれ給え!
彼はがっくり眼を閉じて間をおいた。ディーダラス氏は皿から骨を取り、わずかばかりついている肉を歯でむしり取りながら言った。
――つまり党主が殺される前というのだな。
ケイシイさんは両眼を開き、溜息をついて言葉をつづけた。
――ある日、向うのアークロウでのことだ。われわれはそこのある会合に行っていた。会合が終ると、われわれは停車場までの道を人ごみをかきわけていかねばならなかったよ。いやもう喧々囂々《けんけんごうごう》の騒ぎなんだよ、君。あんなのはまず初めてだね。群衆はあらん限りの悪態をわれわれにあびせかけるんだ。すると、婆さんが一人いた。まさに酔っぱらいの鬼婆だったね、そいつがぼくばかりに狙いをつけているんだ。ぼくとならんでぬかるみの中をしきりとはねまわり、ぼくの鼻っ先で怒鳴る、わめくときたね。「司祭狩りの奴め! パリ公債! 狐野郎! キティ・オシェイ〔パーネルと姦通して子供を産んだオシェイ夫人〕!」
――で、君はどうした、ジョン? ディーダラス氏はきいた。
――勝手に吠えさせておいたさ。ケイシイさんは言った。寒い日だったもんだから、元気づけに(ご婦人の前で失礼だが)タラモアの噛みタバコを口にいれていたので、どっちみち一言も口がきけなかったのだよ。タバコの汁が口いっぱいになっていたからね。
――それで、ジョン?
――それで、婆さんの思う存分吠えさせておいたのだ。「キティ・オシェイ」だの何のかのとわめきたてていたが、ついに婆さんの奴、私がここでそいつをくり返して言って、このクリスマスの食卓や、奥さんのお耳や私自身の口を汚すのもいやなほど、ひどく悪しざまにその婦人のことを罵《ののし》ったのだ。
彼は間をおいた。ディーダラス氏は骨から顔をあげてきいた。
――で、君はどうしたんだ、ジョン?
――どうしたもあるもんか! ケイシイさんは言った。婆さんがそう罵ると、そのきたない婆あ面《づら》をぼくの前にひょいと突きだした。こっちは口いっぱいのタバコの汁さ。ぼくは婆あのほうに体をかがめて、|べっ《ヽヽ》とやってやったのさ、こんなふうに。
彼は横をむき、唾を吐きかける恰好をしてみせた。
――べっ! とこんなふうにやったのさ、眼のまん真中めがけてね。
彼は片手でぴしゃっと一方の眼をおさえ、しゃがれた苦痛の悲鳴をあげた。
――「おお、イエズス様、マリア、ヨゼフ!」と婆さんが言うのだよ。「眼がつぶれた! 眼がつぶれた! ずぶぬれだよ!」
彼ははげしく笑いにむせんでやめたが、また始めた。
――「本当に眼がつぶれたよ」
ディーダラス氏は大きな声で笑いだし、椅子の背によりかかった。チャールズ伯父は頭を左右にふっていた。
ダンティは凄く怒った顔つきで、彼らが笑っている間に、二度もくり返して言った。
――おりっぱですわね! ふん! おりっぱですよ!
女のひとの眼に唾を吐きかけることなんか、りっぱなことじゃない。それにしても、ケイシイさんが口にしなかったその婆さんが罵ったキティ・オシェイの悪口って、いったい何だろうか? 彼は人ごみの中をかきわけ、遊覧馬車から演説をぶつケイシイさんを思い浮かべてみた。そのことのために牢屋にいれられたのだ。ある晩のこと、オニール巡査部長が家にやってきて、ひそひそ声で父と玄関で立ち話をし、帽子の顎紐をいらいらしながら噛んでいたのを憶えている。そしてあの晩、ケイシイさんはダブリンヘは汽車でゆかずに、馬車が戸口までやってきて、父が何かキャビンティーリ街道のことを言っているのが聞こえたっけ。
彼はアイルランドとパーネル派だし、お父さんもそうだった。ダンティだってそうだ。だって、いつかの夜、遊歩場の楽隊のところで、最後に楽隊が「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」を演奏したとき、一人の紳士が帽子をとったので、彼女は自分の傘でその人の頭をたたいたから。
ディーダラス氏は軽蔑してふふんと鼻を鳴らした。
――いやあ、ジョン。彼は言った。実際、民衆はめくらだな。われわれは司祭にのさばられておる不運な民族だよ。これまでも常にそうだったし、これからさき、いつまでもそうだろう。
チャールズ伯父は首をふりふり言った。
――いやなこった! いやなこった!
ディーダラス氏はまたくり返した。
――司祭にのさばられ、神から見放された民族だ!
彼は右手の壁にかかっている祖父の肖像を指さした。
――あすこにかかっているあの爺さん、わかるだろう、ジョン? 彼は言った。あの人はアイルランド人じゃ一文の徳にもならない時分にも、りっぱなアイルランド人だったよ。白衣団員〔一七六一年アイルランドで地主階級に反抗して結成された秘密結社員〕として死刑を宣告されたがね。司祭諸君については家訓のようなものを持《じ》していたよ。彼らの一人としてわが家の食卓を共にすることは断じて許さぬ、とね。
ダンティが憤然として口をいれた。
――あたしたちが司祭にのさばられている民族だとおっしゃるなら、それを誇りにして、よろしいじゃありませんか! 司祭さん方は神の瞳〔最愛のものの意〕ですからね。「かれらに触るるなかれ。かれらわが瞳なればなり」とキリストはおっしゃいます。
――そうすると、われわれは自分の国を愛してはならんというのですか? ケイシイさんがきいた。われわれを導びくために生れた人物に従ってはならんのですか?
――あれは国の裏切者です! ダンティは答えた。裏切者、姦通者です! 司祭さん方があの男を見棄てたのも当然ですよ。司祭はいつだってアイルランドの真実の友でした。
――確かにそうですが。ケイシイさんは言った。
彼はぐいと握り拳を食卓にだし、憤然とみけんに皺をよせ、指を一本一本突きだした。
――あの併合《ユニオン》〔一八〇〇年アイルランド議会はアイルランド併合法案を可決、翌年大英連合王国の属領となった〕当時、アイルランドの司教たちこそわれわれを裏切ったのじゃないですか。あの時、ラニガン司教がコーンウォリス侯に忠誠の辞を奉呈したですからな。司教や司祭どもは、一八二九年、カトリック教徒解放の代償に祖国の熱望を売ったではないですか。彼らは説教壇から、あるいは告解場で、フィーニア血盟団運動〔在米のアイルランド人によって一八五六年ニューヨークで結成された秘密結社〕を公然と非難したではないですか。さらにまた、彼らはテレンス・ベリュウ・マクマナス〔アイルランド独立運動の志士〕の遺骸を汚したではないですか。
彼の顔は怒りのため熱をおびてきた。スティーヴンも彼の一語一語に昂奮するにつれて、頬まで火照《ほて》ってくるのを覚えた。ディーダラス氏が遠慮会釈のない嘲《あざけ》りのばか笑いをあげた。
――おっ、そうだ、あのポール・カレン〔アイルランド独立運動の反対者、アイルランド大学学長〕の爺いを忘れとったぞ! こいつも神さまの目に入れても痛くない奴だ!
ダンティは食卓に乗りだし、ケイシイさんに向って叫んだ。
――正しいんです! 正しいですとも! あの方たちはどんな場合も正しかったですよ! 天主と道徳と信仰がまず第一です。
ディーダラス夫人は彼女の昂奮を見て、言った。
――リオーダンさん、この人たちの相手になって昂奮なすっちゃだめよ。
――神と信仰が何よりも先です! ダンティは叫んだ。神と信仰はこの世よりも大切です。
ケイシイさんは握りしめた拳骨をふりあげ、どすんと食卓にたたきつけた。
――そんならよし。彼はしわがれ声でわめいた。そういうことなら、アイルランドに神など無用だ!
――ジョン! ジョン! ディーダラス氏がこの客の上衣の袖をつかんで叫んだ。
ダンティは食卓越しににらみつけていた。その頬がぴくぴくふるえていた。ケイシイさんはしゃにむに椅子から立ち上り、食卓越しに彼女のほうに身をのりだし、まるで蜘蛛《くも》の巣でもはらいのけるかのように、片手で自分の眼の前の空気をぐいとひっかいた。
――神なんかいらんぞ、アイルランドには! 彼は怒鳴った。神なんかアイルランドにはもうたくさんだ。神なんか出ていっちまえ!
――罰当り! 悪魔! ダンティもぱっと立ち上り、彼の顔に唾でもひっかけんばかりにわめいた。
チャールズ伯父とディーダラス氏とが両側からなだめながら、ケイシイさんを椅子に引き戻した。彼は黒いぎらぎらした眼で前方をにらみつけながら、また言った。
――神なんか出ていっちまえてんだ!
ダンティは猛然と椅子を押しのけ食卓を離れた。彼女のナプキン・リングがひっくり返り、ゆっくりと絨毯《じゅうたん》の上をころがり、安楽椅子の脚にぶつかって止まった。ディーダラス夫人があわてて立ち上り、戸口へと彼女のあとを追った。戸口でダンティは荒々しくふり向き、部屋中を圧するようにわめいた。その頬は怒りで真赤になってふるえていた。
――地獄の鬼! あたしたちは勝ったんだよ! あの男をたたき殺したんですからね! 悪魔!
扉が彼女のうしろでぴしゃっと閉まった。
ケイシイさんは抑えられていた両腕をふり離すと、がっくり両手の上に頭をたれて苦しそうに鳴咽《おえつ》した。
――気の毒なパーネル! と大声で叫んだ。わが王は亡くなった!
彼は大きな声でせつなげに啜《すす》り泣いた。
スティーヴンは恐怖にうたれた顔をあげた。と、父の眼にも涙がいっぱいあふれているのに気がついた。
生徒たちが小さな群をつくって語り合っていた。
一人が言った。
――あいつら、ライアンズ丘の近くでつかまったんだよ。
――誰がつかまえたんだい?
――グリースン先生と副校長さ。奴ら、馬車に乗ってたんだ。
同じ生徒がつけたした。
――上級の人から聞いたんだよ。
フレミングがきいた。
――だけど、どうして逃げだしたんだろうね? 教えろよ。
――ぼくは知ってるぞ。セシル・サンダーが言った。校長室からお金をちょろまかしたからだよ。
――誰が盗んだの?
――キッカムの兄さんだよ。みんなでそいつを山分けしたんだ。
それじゃ泥棒だ。あの連中にどうしてそんなことがやれたんだろう?
――君はずいぶんよく知ってるんだな、サンダー! ウェルズが言った。ぼくはあいつらがずらかったわけを知ってるよ。
――わけをいえよ。
――口留めされてるんだ、とウェルズは言った。
――かくすなよ、ウェルズ。皆が言った。教えたっていいじゃないか。ぼくたち、洩らしゃしないよ。
スティーヴンは聞こうとして首を前に突きだした。ウェルズは誰かやってきはしないかとあたりを見廻した。それからこっそり言った。
――聖具室の戸棚に祭壇用の葡萄酒《ぶどうしゅ》がしまってあるのを知ってるだろう?
――うん。
――実はね、そいつを奴ら飲んだのさ。そしたら匂いで誰がやったかばれちゃったのだよ。それで逃げだしたってわけさ、わかったかい。
すると最初にいいだした生徒が言った。
――そうだ、ぼくが聞いたのもそうだったよ、上級の人からね。
一同は黙りこくっていた。スティーヴンは彼らの中に立ち、ものをいうのが恐ろしく、ただ聞きいっていた。畏れからくる微かな吐き気のため気力のなえるのをおぼえた。どうしてそんなことがやれたんだろう。彼は暗いひっそりとした聖具室を思い浮かべた。そこには木肌の黒い戸棚がいくつかあって、ひだのある法衣がたたんでそっとのせてある。そこは礼拝堂ではないのだが、それでも息をひそめて口をきかずにはおれない。そこは神聖な場所だった。彼は香炉を捧げもつ役の装束をつけに、そこへいったあの夏の宵のことを思いだした。木立の中の小さな祭壇へ行列をしていった宵のことだ。異様な、神聖な場所。香炉をもった少年が、真中についた鎖でそれを持ちあげて、炭火が消えないように振っていたっけ。あれは木炭ていうんだな。生徒がそれを静かに振っていると音もなく燃えあがって、なんとなく酸っぱいような臭いをだした。それから、みんなが装束をつけ終ると彼が校長の前に立って香炉をさしだした。校長が匙《さじ》いっぱいの香を入れると、それは真赤におこった炭火の上でしゅっという音をたてた。
生徒たちが運動場のあちこちに小さな群をつくって話しあっていた。彼には生徒たちが小さくなったように思えた。それも昨日、全速力で走っている者に突き倒されたせいだ。四年級の生徒だ。石炭がらをしいた道でその生徒の自転車にあっさり突きとばされ、眼鏡は三つに割られるし、思わず石炭がらの粉まで食わされたのだった。
そのせいで生徒たちが何だか小さくはるか彼方に見え、ゴールの柱《ポスト》もいやに細く遠くに、また柔らかな灰色の空がばかに高く見えるのだった。だが、そろそろクリケットのシーズンなので、蹴球のグランドでは全然競技が行われていなかった。バーンズが監督になるだろうという者もいれば、いやフラワーズだろうという者もいた。いま運動場いっぱいに生徒たちはラウンダーズ〔クリケットに似た球技〕をやり、ひねり球や低い緩球をほうっていた。あちらからもこちらからも、クリケットのバットの音が柔らかな灰色の空気をつらぬいて響いてきた。それはこんな音だ。ピック、パック、ポック、パック。噴水の水の小さなたまが、ふちまで溢れた水盤にゆっくりと落ちている。
黙りこんでいたアサイが静かに言った。
――君たちはみんな間違ってるよ。
みんなは知りたくてたまらぬようすで彼のほうを向いた
――どうしてだい?
――君は知っているのかい?
――誰に聞いたんだ?
――教えろよ、アサイ。
アサイは運動場の向うでサイモン・ムーナンが石を蹴とばしながら一人で歩いているほうを指さした。
――あいつにきけよ、と彼は言った。
生徒たちはそのほうを見やって、言った。
――なんであいつにきくんだい?
――あれとぐるなのか?
アサイは声を落として、言った。
――なぜあいつらがずらかったか知ってるか? 教えてやるけど、知ってるってことを洩らしちゃだめだぞ。
――教えろよ、アサイ。さっさといえよ。知ってるなら教えたっていいだろう。
彼はちょっと間をおいてから、さも内密らしく言った。
――奴らはいつかの晩、便所の中でサイモン・ムーナンやタスカー・ボイルと一緒につかまったんだよ。
――つかまった?
――何をしていたんだい?
アサイは言った。
――稚児さんごっこさ。
皆はしいんとなった。で、アサイは言った。
――そういうわけなのさ。
スティーヴンは生徒たちの顔を眺めたが、皆は運動場の向うを見やっているだけだった。誰かにそのことをきいてみたかった。便所の中で稚児さんごっこをするとは、どういうことなんだろう? どうしてそのために上級の者の中から五人も逃げだしたのかしら? ふざけたんだろうと彼は思った。サイモン・ムーナンはりっぱな服を持っていた。いつかの晩、彼が入口にいたとき、食堂の中央の敷物の上を蹴球のチームの生徒たちが転がしてよこしたクリーム色の菓子のはいった球を見せてくれたっけ。あれはベクティヴ・レインジャー・チームとの試合の晩だった。球は赤味のさした青いリンゴそっくりにできていて、ただ、それを開けると、中にいっぱいクリーム菓子がつまっていた。またある日、ボイルが象には二本の牙《タスク》があるというところを、大牙象《タスカー》があると言ったので、タスカー・ボイルと呼ばれるようになった。ところが、中には貴婦人《レイディ》ボイルと呼ぶ仲間もいた。というのは彼がしょっちゅう爪をいじってそれを切っていたからだ。
アイリーンもすらりと細長くて冷たい、白い手をしていたっけ。もっともあれは女の子だからな。あの手は象牙みたいだ。ただ、ふわりとしている。あれが本当に「象牙の塔」というものなんだ。だのに新教徒にはそれがわからないものだから、からかうんだ。いつだつたか、彼女とならんでホテルの庭園をのぞいていたことがある。一人の給仕が旗竿に旗をするするとかかげていた。フォックス・テリアが一匹日当りのいい芝生を跳びはねていた。彼が手を突っこんでいたポケットに、彼女が手を突っこんだ。その彼女の手はびっくりするほどひやりとして、細くて柔かかった。ポケットっておかしなものね、と彼女が言った。それから不意に彼女はぱっと離れて、曲っている坂道を笑いながら駈けおりていった。彼女の金髪が日光を浴びた金のように、うしろになびいた。|象牙の塔《ヽヽヽヽ》。|黄金の堂《ヽヽヽヽ》。何でもよく考えるとわかるんだな。
それにしても何で便所にいたのかしら? あすこには何かしたくなると行く。あすこはすっかり厚いスレートが張ってあり、水が一日中小さな孔からたれていて、腐ったような水の妙な臭いがしている。便所の一つの扉の裏側に、赤鉛筆でローマ人の服装をした鬚男が両手に煉瓦を一つずつ持っている絵がかいてある。その下のほうに絵の題が書いてある。
「バルブスは壁を築いていた」
生徒の誰かがふざけて書いたのだ。それは変な顔だけど、いかにも顎鬚を生やした男のようだ。また他の便所の壁に、左傾斜の書体のきれいな筆蹟でこんなことが書いてあった。
ジュリアス・シーザー著「|斑らの腹《キャリコ・ベリ》〔デ・ベロ・ガリコ、すなわち『ガリア戦記』にかけたもの〕」
便所は生徒たちがいたずら書きをするところだから、彼らがそこにいたのも、そのためだったんだろう。それにしてもやっぱりアサイの言ったことや、そのいい方は変だな。彼らが逃げたというのだから、ただのいたずらじゃなかったのだ。彼は皆と一緒になって運動場の向うを眺めているうちに、怖《こわ》くなってきた。
ついにフレミングが口をきいた。
――それでおれたち、他の奴らのやったことで、みんな罰を喰うだろうな?
――そうなったらおれは学校に戻ってこないよ。まあみんな見ていろ。セシル・サンダーが言った。食堂で三日間の無言の行をやらされたり、一分ごとに六、七回も罰棒を喰らいに呼ばれたりするぞ。
――そうだよ。ウェルズが言った。それにバーレットの爺のやつ、通知状のひねり方を変えるもんだから、そいつを開いても、また元どおりにできないんで、いくつ罰俸を喰うことになってるか見れやしない。ぼくも戻ってこないだろうな。
――そうなんだ。セシル・サンダーが言った。それに教頭が、けさ四年級にきたんだ。
――反対運動を起こそうじゃないか。フレミングが言った。どうだい?
一同は黙っていた。あたりはいやにしいんとして、クリケットのバットの音が聞こえるだけで、それも前よりのろのろしていた。ピック、ポック。
ウェルズがきいた。
――あいつら、どういうことになるんだろうね?
――サイモン・ムーナンとタスカーは罰俸を喰うさ。アサイが言った。それから上級の生徒たちは罰棒か放校か、どっちかを選ぶんだな。
――どっちを取るだろう? 最初に言いだした生徒がきいた。
――コリガンの他、みんな放校を選ぶつもりなんだ。アサイが答えた。コリガンはグリースン先生に罰俸を喰うんだって。
――おれはわかるな、そのわけが。セシル・サンダーが言った。コリガンのほうが正しくて、他の奴らは間違ってるよ。だってそうだろう、罰俸を喰ったなんてことは、じきに忘れられてしまうけど、放校になった奴は一生そのことがついてまわるからね。それにグリースンはあいつをひどくなぐりゃしないよ。
――そのほうが先生として一番うまい手だからね。フレミングが言った。
――サイモン・ムーナンやタスカーにはなりたくないな。セシル・サンダーが言った。だけど、きっと奴らは罰俸を喰わんだろうね。手のひらを九つずつたたかれにやられるぐらいのとこだろうな。
――いや、いや。アサイが言った。どっちも急所をやられるよ。
ウェルズが体をさすりながら泣き声で言った。
――ごめんなさい、先生、赦してください!
アサイがにやにや笑い、上衣の両袖をまくりあげながら、言った。
[#ここから1字下げ]
仕方がないぞ
やらねばならぬ
ズボンを脱いで
シリをだせ。
[#ここで字下げ終わり]
生徒たちは笑った。だが彼は皆が何となく怖《こわ》がっているのを感じた。柔らかな灰色の空気の静寂の中に、あちこちからクリケットのバットの音が聞こえてきた。ポック。それは音が聞こえているだけだけど、もし当ったら痛いだろう。罰俸も音をたてるけど、あんな音じゃない。それは鯨の骨となめし皮でできていて、中に鉛がはいっている、と生徒たちは言っている。どんなふうに痛いんだろうかと彼は思ってみた。音にもいろいろある。細長い籐杖《とうづえ》はひゅっという甲高い唸りをたてる。それはどんな痛みだろうかと思った。そんなことを思うと、彼はぶるっと身震いし寒気をおぼえた。アサイの言ったことにも寒気をおぼえた。それにしても彼の言葉のどこに笑いだすようなとこがあるのか? 身震いがでたじゃないか。でもそれはズボンを下ろした時に、きまって身震いのようなものをおぼえるせいだ。風呂場で服を脱いだ時もそうだ。誰がズボンを下ろすのだろう、先生かしら、生徒が自分でやるのかしら、と彼は考えた。ああ、いやだ、あんなふうに、どうして皆はそんなことに笑えるのだろうか?
彼はアサイのたくし上げた袖や、節くれだった、インクだらけの手を見やった。アサイはグリースン先生の袖をまくり上げるやり方を真似して見せようと、自分の袖をまくり上げたのだ。だけど、グリースン先生は丸いぴかぴか光ったカフスに、清潔な白い手首、肉づきのいい白い手をしているし、爪は長くのばしてとがらしてある。きっと先生もレイディ・ボイルみたいに、爪をいつも切っているのだろう。だけど、恐ろしく長くて先をとがらした爪だ。やけに長くて残忍なような爪だ。白いふっくらした手は残忍じゃなくてやさしい感じがするけど。残忍な長い爪、籐杖の鋭いひゅっという唸り、服を脱ぐ時にシャツの裾のほうにおぼえる鳥肌立つような寒さのことを考えると、寒気と恐怖に体がふるえたが、それでも清潔な、たのもしくて優しい、ふっくらした白い手を思い浮かべると、身内に妙に心の静まる快よい気持をおぼえた。彼はまた、セシル・サンダーの言ったことを思いだした。グリースン先生はコリガンをひどくぶちはしないだろうと言ったことだ。そしたらフレミングはそれが先生として一番うまい手だからねと言った。だけど、そんなわけじゃない。
運動場のずっと向うから怒鳴る声がした。
――集まれ!
すると他のいろんな声が叫んだ。
――集まれ! 集まれ!
習字の時間中、彼は腕組みをしたまま、ゆっくりと紙の上を走るペンの音に聞きいっていた。ハーフォード先生があちこち廻っては赤鉛筆で小さな印をつけたり、時には生徒の横に腰かけてペンの持ち方を教えたりした。スティーヴンは、前には見出しの言葉がどういう意味か一人で苦心して解こうと努めたこともあったが、今はもうわかっていた。本の一等終りだったからだ。「思慮なき熱中は漂う船に似たり」だが、文字の線が見えないくらいに細い糸のようなので、右の眼をしっかり閉じ、左の眼でようく見てやっと頭字のくねりがすっかり見分けられるのだった。
だけどハーフォード先生はとてもいい人で、決して癇癪を起こさなかった。他の先生たちはみな凄く癇癪を起こした。それにしても、上級の生徒たちのやったことで、どうして罰を受けなければならないんだろう? あの連中は聖具室の戸棚から祭壇用の葡萄酒を少しばかり飲んで、その匂いで誰がやったかばれたんだ、とウェルズは言った。もしかしたら彼らは聖体顕示台を盗みだし、それを持って逃げだし、どこかで売りとばそうとしたのだろう。それは恐ろしい罪にちがいない。夜中にこっそりあすこへはいりこみ、暗い戸棚を開けて、きらきら光る金でできたものを盗むなんて。それは聖体降福式のときに、生徒が香炉をふると両側から香煙がたちのぼり、聖歌隊ではドミニク・ケリイが一人で聖歌の初めの部分を歌う中を、祭壇の花やお燈明にかこまれて置かれたその中に、天主がおはいりになるものなのだ。だけどむろん彼らが盗んだ時には、天主はその中にいらっしゃらなかった。それにしても、それに手を触れるだけでも思いもよらぬ大それた罪だ。彼はそのことを、恐ろしい怪《け》しからぬ罪を思って、深い畏れをおぼえた。ペンのさらさらと走る音のする静寂の中で、そのことを思うと彼はぞっとした。だが、戸棚から祭壇用葡萄酒をだして飲み、匂いで見つかるというのも罪にはちがいない。でも、とんでもない恐ろしい感じはしない。ただ葡萄酒の匂いのために何だかむかむかしてくるのだ。というのも、礼拝堂で初めての聖体拝領を受けた日、彼が両眼を閉じ、口を開けて舌をちょっとだしていると、校長先生がかがみこんで、御聖体を彼に授けようとした時に、ミサの葡萄酒のあとの微かに酒臭い先生の息がにおったことがあったせいだ。葡萄酒《ワイン》、きれいな言葉だな。それは暗い紫色を思わせる。ギリシアの真白な神殿に似た家々の外にみのる葡萄が、暗い紫色をしているからなんだ。けれど、あの初めての聖体拝領の朝、校長先生の微かに臭い息のため胸がむかむかした。初めての聖体拝領の日は一生の中の一番うれしい日なんだ。ある時、おおぜいの将軍がナポレオンに、生涯のうちで一番うれしかった日はときいたことがある。大きな戦闘に勝った日か、皇帝になった日をあげるだろうと将軍たちは思っていた。ところがナポレオンはこう言った。
――諸君、わたしの生涯で最もうれしかった日は初めて聖体拝領にあずかった日です。
アーノール神父がはいってきて、ラテン語の授業が始まった。スティーヴンは相変らず腕組みをしたまま、机にもたれて黙然としていた。アーノール神父は作文帖を返して渡し、みんな言語道断だ。いますぐ直したとおりに清書しなおさぬとだめだと言った。中でも一番ひどいのはフレミングの作文で、インクの染みでページとページが貼りついていると言って、アーノール神父はノートのすみをつまんでさし上げ、こんな作文をだすのは、どの先生に対しても失礼だと言った。それから彼はジャック・ロートンに名詞mare(ラテン語の海)の格変化をきいた。するとジャック・ロートンは奪格の単数でつかえ、複数から先へ進めないでいた。
――よくそれで恥ずかしくないね。アーノール神父の語調はきびしかった。君は級長じゃないか!
そこで先生はつぎつぎに生徒たちに当ててきいた。誰もわからなかった。アーノール神父はいやに穏やかになってきた。生徒の一人一人が答えようとして、答えられないたびに、ますます穏やかになってきた。だが声だけはいやにもの静かなのに、その顔は険しくなり、眼はすわってきた。やがて彼がフレミングに当てると、フレミングはその言葉には複数はありませんと答えた。アーノール神父はいきなりぴしゃっと本を閉じて彼を怒鳴りつけた。
――教室の真中に出てひざまずいていたまえ。君のような怠け者にぶつかったのは初めてだ。他の者はもう一ぺん作文を清書するんだ。
フレミングはしぶしぶ席を立って、一番うしろの二つの腰掛《ベンチ》の間にひざまずいた。他の生徒たちは作文帖の上に覆いかぶさるようにして書き始めた。教室はしいんと静まり返っていた。スティーヴンがおずおずとアーノール神父の陰気な顔を盗み見ると、それは癇癪のため、やや赤く上気していた。
アーノール神父さんが癇癪を起こすのも罪になるのだろうか、それとも生徒が怠けた時には、怒ったほうがよく勉強をするという理由で、神父さんは癇癪を起こしてもかまわないのかしら、それともただ癇癪を起こしたふりをしているだけかしら? いや、かまわないから癇癪を起こしているんだ。お坊さんなら何が罪かを知っているし、罪を犯すことはないだろうから。だけどもし、何かの時に過って罪を犯したら、どうやって告解をするのかしら? きっと学監のとこへいって告解をするのだろう。もし学監が罪を犯したら校長のところへいくのだろう。それから校長は管区長のとこへ、管区長はイエズス会総会長のとこへいくのだろう。それが修道会というものだ。彼らはいずれも賢い人たちばかりだ、と父がいつか言ったのを聞いたことがある。彼らはイエズス会士にならなかったら、いずれも世間でえらい人たちになれたんだろう。じゃ、イエズス会士にならなかったら、アーノール神父やパディ・バーレットは何になってただろうか、マグレイド先生やグリースン先生は何になってたかしらと彼は思った。違った色合いの上衣やズボンを身につけ、顎鬚や口髭をはやし、いろんな違った帽子をかぶった、ようすのちがう彼らを思い浮かべてみなければならないので、何になったか容易に考えつかない。
扉が静かに開いて、また閉まった。素早いささやき声が教室をかけぬけた。教頭だ。たちまち死んだように静まり返った。と、一番うしろの机をぴしっと叩く罰棒の音。スティーヴンの心臓は恐怖でぎゅっとちぢまった。
――ここには罰棒の必要な生徒はおりませんかな、アーノール先生。教頭は叫ぶように言った。このクラスには罰棒を喰わせる用のある不勉強なのらくらの怠け者はおりませんかな?
彼は教室の真中にやってきてひざまずいているフレミングに気づいた。
――ほほう! 彼は大きな声をあげた。この生徒は誰です? なぜひざまずいておるのかね。君の名は何ていうんだ?
――フレミングです。
――ふふん、フレミングか! 怠け者にきまっとる。その眼にちゃんとそう書いてあるぞ。ひざまずいとるわけは、アーノール先生?
――ひどいラテン語の作文を書いたのです。アーノール神父は言った。しかも文法の質問も全部だめでした。
――当然じゃ! 教頭は叫んだ。だめにきまっておる! 根っからの怠け者ですぞ! あれの眼のすみっこにちゃんとそう書いてある。彼は手にした罰棒をばんと机にたたきつけて叫んだ。
――立て、フレミング! 立ちなさい!
フレミングはのろのろと立ち上がった。
――手をだせ! 教頭は怒鳴った。
フレミングは片手をさしだした。罰棒が大きなぴしっという音をたててその手を打ちすえた。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。
――そっちの手だ!
罰棒がまたも矢つぎ早やに大きな音をたてて六回打ちすえた。
――膝をついていろ! 教頭は怒鳴った。
フレミングは両手を腋の下にはさみ、痛さに顔をゆがめてひざまずいた。だがスティーヴンは彼の手がどんなに硬いか知っていた。フレミングはいつも松脂《まつやに》を両手にぬりこんでいたからだ。それにしても、罰棒の音が凄かったから、さぞや痛かったろう。スティーヴンの胸はどきどきし、おののいた。
――勉強するんだ、みんな! 教頭は怒鳴った。ここでは不勉強の怠けるのらくら者など一人も用はない、のらくらずるける悪賢い奴などは。さっさと勉強にかからんか。これからは毎日ドラン神父が見にくる。ドラン神父は明日もくるぞ。
彼は一人の生徒の脇腹を手にした罰棒で小突きながら言った。
――おいこら! ドラン神父はいつまたくるか?
――明日です、先生。そう言ったのはトム・ファーロングの声だった。
――明日も、そのまた明日も、そのまた明日もだ。教頭は言った。そのつもりで覚悟しているのだぞ。毎日ドラン神父だ。さっさと書くんだ。おいこら、お前は誰だ?
スティーヴンの心臓は不意に跳び上がった。
――ディーダラスです、先生。
――お前はなぜ他の者たちのように書いていないのだ?
――ぼくは……ぼくの……
彼は怯《おび》えて口がきけなかった。
――どうしてこの生徒は書いておらんのですか、アーノール先生?
――その子は眼鏡を壊したのです、とアーノール神父は言った。それでこの授業を免除してやりました。
――壊した? 何をいうとるか。名前はなんとかいったな? 教頭は言った。
――ディーダラスです。
――ここに出ろ、ディーダラス。怠け者の狡《ずる》い奴だ。その顔に、ちゃんと狡い奴と書いてあるぞ。どこで眼鏡を壊した?
スティーヴンは恐ろしさと狼狽から目がくらみ、よろめきながら教室の真中にでた。
――どこでお前の眼鏡を壊したか? と教頭はくり返しきいた。
――石炭がらの道です。
――ほほう! 石炭がらの道かね! 教頭は声を張りあげた。そんなごまかしにはのらぬぞ。
スティーヴンは驚いて眼を上げ、ドラン神父の血の気のない灰色の老《ふ》けた顔、両側に柔毛のある灰白色の坊主頭、眼鏡の鉄縁、眼鏡の奥からのぞいている無表情な瞳をちらっと見た。そんなごまかしにはのらんぞなどと、どうして言うのだろう?
――この不届きな怠け者め! 教頭は怒鳴った。眼鏡を壊したと! 生徒がよく使うてだ! さあその手をだせ!
スティーヴンは眼を閉じ、ふるえる手を、掌《てのひら》を上にして宙にさしだした。一瞬、教頭が指にさわって真直ぐにのばすのを感じたと思うと、法衣の袖が鳴り罰棒の振りあげられるのを感じた。木の棒の折れる大きな音に似た熱い焼けつくような、ひりひり刺すような一撃が、彼のわななく手を火焔の中の木の葉のように縮みあがらせた。音と痛さに、じいんと熱い涙が眼ににじみでてきた。全身は恐怖にふるえ、腕はわななき、縮みあがった焼けつくような青黒い手は、宙にたれた木の葉のごとくゆれた。悲鳴が、赦して下さいという訴えが口もとまで出かかった。だが、たとえ涙は眼を焦がし、苦痛と恐怖に四肢はわなわなと震えようと、彼は熱い涙と、咽喉《のど》を焼き焦がす悲鳴をぐっとおさえた。
――そっちの手! と教頭が怒鳴った。
スティーヴンは利かなくなった震える右腕をひっこめて、左手をさしだした。法衣の袖がまたもしゅっと鳴り罰棒がふり上げられた。鋭いくだけるような音。と、猛烈狂暴なぴりぴり焼けつくような痛みがその手を縮み上らせ、掌から指先を青黒い震える一つのかたまりのようにした。煮え返るような涙が眼からどっとあふれでて、屈辱と苦悶と恐怖にかあっとなり、恐ろしさにわななく腕をひっこめ、思わず苦痛の悲鳴をあげた。体は恐怖にすくんでふるえ、屈辱と怒りのあまり焼けるような叫びが咽喉からもれ、煮え返るような涙が眼からあふれ、火照《ほて》る頬をつたわり落ちてゆくのがわかった。
――膝をついているんだ。教頭が叫んだ。
スティーヴンはぶたれた手を脇腹におしつけながら急いでひざまずいた。一瞬のうちにこの両手が打たれ、苦痛にはれあがったのを思うと、手がとても可哀いそうに思えた。まるでそれが自分の手ではなくて他人の手であって、それに哀れみを感じてでもいるかのように。ひざまずいて、咽喉にせきあげる最後の鳴咽《おえつ》を静め、ひりひり焼けつくような痛みを脇腹におしつけながら、掌を上にして宙にさしだした手や、教頭がわななく指を真直ぐにのばそうとしてつかんだそのごつい手触りや、空間にどうしようもなく震えている打たれて真赤にはれ上った掌から指のかたまりのことを彼は思い浮かべた。
――みんな勉強するんだ。教頭が扉口から怒鳴った。ドラン神父は毎日生徒に、怠け者のずるいのらくら者に、罰棒を喰わせてやる用があるか見にくるぞ、毎日だ。毎日だぞ。
扉が彼のうしろで閉まった。
しいんとなった教室はせっせと作文を写し取っていた。アーノール神父は席から立ち上がり、生徒たちの間をまわって、やさしい言葉づかいですけてやったり、間違ったところを教えてやったりした。その声はひどくもの静かで優しかった。やがて自席にもどると、フレミングとスティーヴンに声をかけた。
――二人とも自分の席へ返ってよろしい。
フレミングとスティーヴンは立ち上がり、自分の席へもどって腰をおろした。スティーヴンは恥ずかしさに真赤になり、力のなえた片手で急いで本を開けると、顔をページにくっつけるようにしてかがみこんだ。
お医者さんが眼鏡をかけずに本を読んではいけないと言ったのだし、それに今朝新しいのを送ってくれるようにとうちのお父さんへ手紙をだしたんだから、これは不当だし、残酷だ。しかもアーノール先生は新しい眼鏡がくるまで勉強しなくてもいいとおっしゃったんだ。だのにクラスの者の前で狡い奴だなどと言われ、罰棒を喰わされたりして。ぼくはいつも一等や二等のカードをもらい、白薔薇《ヨーク》組のリーダーになっているんじゃないか! ごまかしだなんて教頭にわかるわけがない。彼は教頭が自分の手を真直ぐにのばそうとした時のあの指先の感じを思いだした。指がいかにも柔らかくて、しかもがっちりしていたから、自分と握手するつもりなのだと初めは思った。ところが、たちまち衣の袖のすれる音がしたと思うと、ぴしっときたのだ。しかも教室の真中にひざまずかせるなんて、ひどいし、不当だ。そしたらアーノール神父は何の区別もつけずに自分たち二人に席へ戻ってよろしいと命じた。彼はアーノール神父が作文を直してやっている低いやさしい声に耳をすました。きっと先生は今は後悔して、やさしくしてやろうと思っているのだろう。それにしても、あれは不当なひどい仕打ちだ。教頭がいくら司祭だからといったって、あれはあんまりだ、不当だ。あの血の気のない灰色の顔や鉄縁の眼鏡の奥の無表情な眼はいかにも冷酷らしい。だって初め、あのがっしりした柔らかい指先で手を真直ぐにのばしたのも、実はうまく、しかも大きな音をたてて打つためだったのだから。
――あんなの、鼻持ちならぬ卑劣なやり方だよ、実際そうだよ。各クラスの生徒が列をつくって食堂へと出てゆく廊下でフレミングが言った。何の罪もない生徒に罰棒を喰わすなんて。
――君は本当にわざと眼鏡をこわしたんじゃないよね、そうだろう。ナスティ・ロウチがきいた。
スティーヴンはフレミングのことばで胸がいっぱいになったような気がして、返事をしなかった。
――もちろんそうだよ! フレミングが言った。ぼくだったら我慢しないね。校長先生のところへいって言いつけてやるよ。
――そうさ。セシル・サンダーがかみつくような調子で言った。それにね、見てたら罰棒を肩の上までふりあげたんだぜ。あんなことはやっちゃいけないことになってるんだぞ。
――とても痛かったかい? ナスティ・ロウチがきいた。
――たまらなかったよ。スティーヴンは言った。
――ぼくなら我慢しないね。とまたフレミングは言った。相手があの禿チャビンだろうと、どこの禿頭だろうとね。怪しからん卑劣な下等なやり方だよ。実際そうだぜ。ぼくなら食事のあとでいきなり校長んとこへいって、言いつけてやる。
――そうだ。やれよ、そうしろよ。セシル・サンダーが言った。
――そうだよ、やれよ。校長のところへ行って言いつけてこいよ、ディーダラス。ナスティ・ロウチが言った。だって、あいつまた明日やってきて君をなぐるって言ったじゃないか。
――そうだ、校長に話してこいよ。皆が言った。
と、四年級の中の数人が聞き耳をたてていて、その一人がこう言った。
――元老院及びローマ市民はディーダラスが誤って処罰を受けたる旨を宣言す。
たしかにあれは間違っている。不当でひどい。食堂の席についている時、彼は幾度となくあの屈辱を思い返して苦しんでいるうち、ついに、本当に自分の顔には悪企みをする者らしいとこが何かあるのではなかろうかと気になりだし、小さな鏡を持っていればよかったと思った。だがそんなことはあり得ない。やっぱりあれは間違っており、残酷で不当なんだ。
四旬節の水曜日にいつもだされる黒っぽい魚の揚げものを喰う気になれなかった。おまけに彼の馬鈴薯の一つには鍬《くわ》の痕がついていた。そうだ、やっぱり皆が言ったとおりにしよう。校長先生のとこへいって不当な罰を受けたことを話してこよう。そういうことは昔、歴史上の人物、歴史の本にその人の顔がでているようなえらい人たちのやったことだ。そしたら校長先生もぼくが不当な罰を受けたということを断言するだろう。元老院やローマ市民は必ず、そういうことをした人々が不当な刑罰を受けたと断言していたんだからな。そういうのはリチマル・マグノルの「問題集」に名前がでているような偉い人物ばかりだ。歴史とはそういった人物やその人々のやったことばかりだ。実際、ピーター・パーレイ〔アメリカの教訓的少年読み物の作家〕の「ギリシア・ローマ物語」はそんなことばかり書いてある。そのピーター・パーレイの絵が第一ページにのっていたっけ。ヒースの原を突っきって一本の道が走り、道端には草や小さな潅木がしげっている。ピーター・パーレイは新教の牧師さんのような鍔広《つばびろ》の帽子をかぶり、大きなステッキを手にして、ギリシアやローマへ向う道をせっせと歩いている。
自分のやるべきことは簡単だ。食事がすんで自分の出る番がきたら、どんどん歩いてゆく。それも廊下にはでないで、お城へ通じる右手の階段を上がってゆけばいい。ただそれだけのことなんだ。それだけのことですむ。右へ曲ってさっさと階段をのぼる。三十秒もあれば、お城の中の校長室へ通じる低くて暗く狭い廊下にでるんだ。それに友達は一人残らず、あれは不当な仕打ちだと言っている。四年の人までが元老院とローマ市民のあのことを引き合いにだしてそう言ったんだ。
どんなことになるだろうか?
食堂の上席で上級の生徒たちの立ち上がる音がし、敷物をふんで出てゆくその足音が聞こえた。パディラス、それからジミイ・マギイ、つぎにスペイン人、ついでポルトガル人、そして五番目はグリースン先生にぶたれる筈の大きなコリガンだった。あいつのことのおかげで、教頭が何でもないのにぼくを悪企みをする奴だと言ってたたいたんだ。彼は泣き疲れた視力の弱い眼を見張って、列にまじって通ってゆくでぶのコリガンの広い肩や、うつむいている真黒な大頭を見守った。あのコリガンはとんでもないことを仕出かしたのに、グリースン先走はひどく打たないんだ。彼はでぶのコリガンがお風呂にはいっているときのようすを思いだした。浴槽の浅くなっている端の泥炭色をしたにごり湯と同じ色の肌をしていた。それに浴槽の側を歩いている時、彼の足は濡れたタイルの上でぴちゃぴちゃ大きな音をたて、肥っているので歩くたびに腿《もも》の肉がゆれるのだった。
食堂は半ばがらんとなったが、生徒たちはまだ列を作って出ていた。食堂の戸口の外には司祭も生徒監もいたためしはないから、階段を上がっていっても大丈夫だ。だが彼は行けなかった。校長先生が教頭の味方をして、あれをやはり生徒のごまかしの手だと思うかもしれない。そしたら教頭は相変らず毎日やってくる。教頭は自分のことを校長につげ口する生徒にはもの凄く癇癪を起こすから、かえって悪くなるばかりだ。友達はぼくに行くようにいっておきながら、自分たちは行こうとしない。みんなあのことなんか、もうすっかり忘れてるんだ。いや、すっかり忘れ去ることが一番いいんだ。それに教頭も、やってくると、ただ口でそう言っただけのことだろう。いや、こっそり目につかないようにしているのが一番いいんだ。小さな子供の場合には、そんなふうにして脱れられることがよくあるものだ。
彼の食卓の生徒たちが立ち上がった。彼も席を立ち、列の彼らにまじって出ていった。決心をしなければならない。出口に近づいているのだ。このまま皆と一緒にゆけば、こんなことで運動場を去るわけにはいかないから、校長先生のとこには、もうどうしても行けなくなる。また、もし行ったところで、やはり罰棒を喰うことになれば、皆はいい笑いものにして、ディーダラスの奴、小さいくせに教頭のことを校長にまで言いつけに行ったといいふらすだろう。
彼は敷物の上を進んでいった。と、扉が目の前にあった。だめだ。自分にはやれない。冷酷な無表情な眼つきで自分を見ている教頭の禿頭を思いだすと、名前はなんというのだと二度もきいた教頭の声が聞こえるのだった。初めに名前をいった時に、どうして憶えられなかったんだろう? 初めの時はよく聞いてなかったのかしら、それとも名前をからかうつもりだったのかしら。歴史にでてくる偉い人たちも、あれと似たような名をもっているし、誰もそれを笑いものになんかしない。そんなことがしたければ、それこそ自分の名前を笑いぐさにしたらいいじゃないか。ドラン、これこそ洗濯女の名前みたいだ。
戸口までくると彼は急いで右手にまがり、階段を上がっていった。そして引き返す決心のつかぬうちに、お城へ通じる低くて暗い狭い廊下にはいりこんでしまった。廊下の出入口の閾《しきい》をまたぐとき、ふり返って見もしなかったが、皆がぞろぞろ通ってゆきながら自分の後ろを眺めているのがわかった。
彼は狭くて暗い廊下をわたり、職員たちの室になっている扉の前をいくつか通りすぎた。薄暗がりをすかして前や左右をのぞきこみ、あれはきっと肖像にちがいないと思った。あたりは暗くひっそりとしていたし、彼の眼の視力は弱く、しかも泣きつかれていたので、よく見えなかった。だが、あれらは聖人や修道会のえらい方々の肖像で、通りかかる自分を黙って見おろしておいでになるのだと思った。開いた書物を手にして、そこに記されているAd Majorem Dei Gloriam(より大いなる神の光栄のために)という言葉を指し示している聖イグナチオ・ロヨラ。自分の胸を指さしている聖フランシスコ・ザベリオ。各級の生徒監のように、頭に四角いビレッタ帽をかぶっているロレンソ・リッチ。神々しい若きの三人の守護聖人――聖スタニスラウス・コストカ、聖アロイシウス・ゴンサゴ、福者ジョン・バーチマンズ、いずれも若くして亡くなったので、若々しい顔だ。それから、大きな外套に身をつつんで椅子に腰かけているピーター・ケニイ神父(この学校の創立者)。
彼は玄関の間の上にある階段の踊り場にでた。あたりを見廻した。そこはかつてハミルトン・ロウアンが駈けぬけていった場所で、兵隊たちの撃ったザラ弾の痕がそこについている。それからまた、老いた召使たちが白い元帥マント姿の亡霊を見たのもそこだった。
老僕が一人、踊り場の端を掃いていた。校長室はどこかときくと、老僕はずっとはずれの扉を指さして教え、彼がそこへ行ってノックするまで見送っていた。
返事がなかった。彼は再びさらに大きな音をたててノックした。こもったような声がした時、彼は胸がどきっとした。
――おはいり!
彼は把手《とって》をまわし扉を開けて、さらに中にある緑色の羅紗《らしゃ》戸の把手をまさぐった。それを見つけると、押して開け、中にはいった。
机に向って書きものをしている校長の姿が目にはいった。机上には頭蓋骨が一個のせてあり、室内には椅子の古革に似た異様な厳粛な匂いがこもっていた。
はいりこんだその場の厳《いか》めしさや部屋の静けさのために、動悸《どうき》が早鐘のように打っていた。彼は頭蓋骨を見やり、それから校長のにこやかな顔を見やった。
――やあ、君か。校長は言った。どうかしたのかね?
スティーヴンは咽喉につかえていたものをごくりとのみこんで、言った。
――ぼく、眼鏡をこわしたのです、先生。
校長はぽかんとして、言った。
――ほほう!
それから微笑を浮かべて、言った。
――そうか、眼鏡をこわしたら、家へ新しいのを送って下さいって、手紙をださなければいけないね。
――ぼく、家へ手紙だしたんです。スティーヴンは言った。そしてアーノール先生は新しいのがくるまで勉強しなくってもいいとおっしゃったのです。
――そうとも! 校長は言った。
スティーヴンはまたも、かたまりをごくりとのみこみ、脚や声がふるえないように努めた
――でも、先生……
――はい?
――ドラン先生がきょういらして、ぼくが作文を書いていなかったので、ぼくをぶったのです。
校長は黙って彼の顔を見ていた。顔にかあっと血がのぼり、いまにも眼から涙がこぼれそうになるのがわかった。
校長は言った。
――君の名前はたしかディーダラスだったね?
――ええ、そうです。
――それで、どこで眼鏡をこわしたの?
――石炭がらの道です。生徒が自転車置場からでてきたんです。それでぼく倒れて、眼鏡がこわれたんです。その生徒の名前は知りません。
校長はまた黙って彼を見つめていた。やがてにっこり笑って、言った。
――うん、それじゃ間違いだよ。きっとドラン先生はご存知なかったのだよ。
――でも、ぼく眼鏡をこわしましたって先生に言ったんです。そしたらぼくをぶったんです。
――新しいのを送ってくれるように家へ手紙をだしたことを先生にお話ししたのかね? 校長はきいた。
――いいえ。
――ああ、それじゃドラン先生はおわかりにならなかったのだよ。校長は言った。二、三日間、わたしが勉強を免除した、といってもかまわないよ。
スティーヴンは体がふるえてきて口がきけなくなるのではないかと思い、急いで言った。
――はい、先生。でもドラン先生は明日もいらして、そのことで、またぼくをたたくとおっしゃったのです。
――よし、わかった。校長は言った。それは間違いだ。わたしからドラン先生にお話ししよう。それならいいだろう?
スティーヴンは涙がにじんでくるのをおぼえ、呟くように言った。
――はい、わかりました。ありがとうございます。
校長は頭蓋骨のおいてある机の側から手をさしのべた。スティーヴンはその手の中に自分の手をちょっとのせた。冷たくて湿っぽい掌だと感じた。
――じゃ、さようなら。校長は手をひっこめ、おじぎをしながら言った。
――失礼します、先生。スティーヴンは言った。
彼はおじぎをし、二つの扉を注意深くゆっくりと閉めて、静かに部屋をでた。
だが、踊り場にいたさっきの老僕のそばを通りぬけ、再び低くて狭い、暗い廊下にくると、彼は次第に速く歩きだした。昂奮してますます歩調をはやめ、暗がりを急いでかけていった。廊下のはずれで扉に肘をどんとぶつけて開け、急いで階段をおり、二つの廊下を足早やにぬけ、戸外にでた。
運動場にいた生徒たちの叫び声が聞こえてきた。彼は急にかけだした。ぐんぐんかけて行き、石炭がらの道をつっきり、息せききって最下級の運動場へかけつけた。
生徒たちは彼の走ってくるのに気づいていた。ぐるりと彼を取りかこみ、互いに押し合って聞こうとした。
――話して聞かせろよ! 言えよ!
――校長先生はなんて言った?
――中にはいったのかい?
――聞かせろよ! 聞かせろよ!
彼は自分の言ったこと、校長の言ったことを話して聞かせた。話し終ると、生徒はいっせいに帽子を空中にくるくる廻してほうりあげ、叫んだ。
――ばんざあい!
彼らは帽子を受けとめると、またも天まで届かんばかりにほうりあげ、再び叫んだ。
――ばんざあい! ばんざあい!
彼らは手を組み合せ、それに彼をかかえあげ、彼がやっとのことで脱れだすまで、あちこち担いでまわった。彼が脱れでると、皆はまたも帽子をほうりあげて、八方にわかれ、口笛を吹き鳴らしながら、帽子をほうっては叫ぶのだった。
――ばんざあい!
そして彼らはやかん頭のドラン排斥の唸り声を三回あげ、コンミー校長を讃える喝采を三度やり、クロンゴウズ始まって以来のやさしい校長だと言った。
喝采はやわらかな灰色の大気の中に消えていった。彼は一人になった。楽しい自由な気持だった。それでもドラン神父に得意の鼻をうごめかす気持は少しもない。うんと温和《おとな》しく従順にしているつもりだ。自分が得意がっていないことを示すために、ドラン神父に何か親切なことがしてあげられるといいんだがとさえ思った。
大気はふんわりとした灰色で柔らかだった。夕暮れが迫っていた。あたりには夕暮れの匂いがあった。バートン少佐のとこへ皆で散歩にいったとき、蕪《かぶ》を引っこぬき、皮をむいてたべたあの田舎の畑の匂い。五倍子《ごふし》のあったあの亭《ちん》の向うのこんもりした森の匂いだ。
生徒たちは遠投や低く下から投げる練習や、ゆるいひねり球の練習をしていた。柔らかな灰色の静寂の中に、球のはずむ音が彼に聞こえた。あちらからもこちらからも静寂なあたりを通して、クリケットのバットの音がしていた。ピック、パック、ポック、パック。噴水の水滴が、ふちまであふれた水盤にのどかに落ちるのに似ている。
[#改ページ]
チャールズ伯父がひどく真黒なひねりタバコをすうものだから、とうとう彼の甥《おい》が、朝のタバコは庭のすみにある小さな離れでやってもらえないだろうか、と言いだした。
――ああいいとも、サイモン。結構だとも、サイモン。老人はおだやかに言った。どこなりとお前の気のすむとこでな。あの離れはわしにいいじゃろう。かえって健康によかろうよ。
――あきれ返るよ。ディーダラス氏は遠慮なく言った。よくもあんな下等なひどいタバコがすえたもんですね。まるで火薬じゃないですか、まったく。
――あれは至極うまいのだよ、サイモン、と老人は答えた。気分がえらくさわやかになって落ちつくのじゃ。
そこで毎朝、チャールズ伯父は離れ通いをやったが、それもまず、頭のうしろの髪に油をつけ、ていねいに櫛《くし》をあて、シルクハットの塵をはらい、それをかぶってから行くのだった。タバコをふかしている間、シルクハットの縁とパイプの火皿とが、離れの戸口の脇柱からちらりとのぞいていた。猫や庭道具と同居しているこのいやな臭いのする離れのことを、わしの四阿《あずまや》と彼は称していたが、それはまた共鳴箱の役目も果していた。毎朝、おとくいの歌のどれかを満足そうに鼻でうたうのだ。「おお、わたしにあずまやを」とか「青い瞳と金髪」とか「ブラーニイの杜《もり》」などをうたう合間に、灰色がかった青い煙の輪がゆるやかに彼のパイプからたちのぼり、すがすがしい空気の中に消えてゆくのだった。
ブラックロック〔ダブリン南郊の町〕での夏の初めの間、チャールズ伯父はいつもスティーヴンの遊び相手になっていた。チャールズ伯父はすっかり渋皮色になった皮膚をした矍鑠《かくしゃく》たる老人で、ごつごつした顔に真白な頬鬚《ほおひげ》を生やしていた。週日にはカリスフォート通りにある家と、町の大通りにあって一家と取引関係のある商店との間の使いを老人はやっていた。スティーヴンはこんな使いに一緒についてゆくのがうれしかった。というのも、チャールズ伯父は店先の蓋をあけた箱や樽にだしてあるものを何でも手当り次第、恐ろしく鷹揚《おうよう》に彼に取ってくれるからだった。彼は店の者がぎごちない笑顔を見せているのを尻目に、葡萄をおが屑ごとつかみだしたり、アメリカのりんごを三つ四つ、掴みだして、甥の息子の手の中に気前よくおしこむのだった。そして、スティーヴンがそれをもらうのを遠慮するふうをしているのを見ると、眉をしかめて、言うのだった。
――受けとりたまえ。わしのいうことがわからんのかね、君? これは君のお腹にいいのだよ。
注文表の記入がすむと、二人はスティーヴンの父の古い友人であるマイク・フリンがベンチに腰をかけて待っている公園へ廻るのだった。それから公園を一周するスティーヴンのランニングが始まるのだ。マイク・フリンは停車場に近い門のとこに時計を手にして立っている。と、スティーヴンはマイク・フリンが奨励する姿勢でトラックをまわるのだ。頭をぐっとそらせ、膝を十分に上げ、手を真直ぐに両脇につけるのである。朝の練習がすむと、トレイナーは批評を加え、青のズック靴で一ヤードかそこらを、お道化《どけ》た仕草でちょこちょこと足を動かし、実地にやって見せるのだった。あっけにとられた子供たちや子守女たちが小さな輪になって集まって彼を見物し、彼とチャールズ伯父がまた腰をおろしてスポーツや政治の話をやりだしても、まだ立ち去らなかった。マイク・フリンは現代の最もすぐれたランナーの何人かを手塩にかけて育てあげたのだ、と父が言うのを、スティーヴンはかつて聞いたが、自分のトレイナーの皮膚のたるんだ不精な鬚面が、タバコを巻いている長い、茶色に汚れた指の上にうつむいているのをちらちらと盗み見、また、その仕草からふっと顔をあげて、長いむくんだ指が巻くのをやめ、タバコの粉や繊維が、もとの袋の中へこぼれ溶ちているのにかまわず、茫然と青くかすんだ遠くを見入っている光のない穏やかな青い瞳を盗み見て、哀れをもよおすのだった。
帰り道、チャールズ伯父はよく礼拝堂《チャペル》に立ち寄った。スティーヴンが聖水盤に届かないので、老人は自分の手を浸して、スティーヴンの服や聖堂玄関の床にぱっぱと水をふりかけるのだった。お祈りをする間は、自分の赤いハンカチの上にひざまずき、どのページの下にも次のぺージの見出し語が印刷されてある指垢で黒くよごれた祈祷書を高い声で読んだ。スティーヴンは傍らにひざまずき、その敬虔《けいけん》さを共にする気はなかったが、敬意をはらった。いったいこの大伯父さんは何をこんなに真剣にお祈りしているのかしら、とたびたび思ったものだ。おそらく煉獄にある死者の霊のためか、あるいは幸福な死の恩寵を乞うためにお祈りしているのだろう。あるいは、彼がコーク〔南アイルランド最大の町〕で蕩尽《とうじん》した大身代の一部を神さまがお返し下さるようにと祈っているのであろう。
いつも日曜日には、スティーヴンは父や大伯父とつれだって運動代わりの散歩にでかけた。老人は足に|うおのめ《ヽヽヽヽ》があるにもかかわらず元気のいい健脚家で、十マイルから十二マイルもの道のりを歩くことがよくあった。スティローガンという寒村で道は二つに分かれていた。彼らは左へ折れてダブリン山脈へ向ってゆくか、あるいはゴーツタウン街道を通ってダンドラムヘはいるかして、帰りはサンディフォードを経てゆくのだった。道をてくてく歩きながらも、あるいは、うすぎたない道ばたの居酒屋にはいりこんでも、この老人連は彼らの心にかかる話題、アイルランドの政治問題、マンスター州のこと、彼らの一族の逸話などについてのべつ語りあっていた。それらの話を一つ残らず聞きもらすまいとスティーヴンは耳を傾けていた。わからない言葉は、すっかりそらんじてしまうまで、何度も胸の中でくり返した。そして、それらの言葉をとおして、それをめぐる現実の世界をちらりと垣間《かいま》見た。自分もまたその世界の生活に加わるという時が近づいているように思われて、自分を待ちもうけているその大きな役割にそなえる心組みをひそかにするのだったが、その役割がどういう性質かは、ただぼんやりとしかわからなかった。
晩は彼だけのものだったから、「モンテ・クリスト伯」のがさつな訳本に読み耽っていた。この陰惨な復讐者の姿が、幼いころに人から聞いたり想像したりしたさまざまの奇怪な恐ろしいものとなって、心の中に立ち現われてくるのだった。夜になると客間のテーブルの上に、乗換え切符や造花や色のついた薄葉紙や、チョコレートの包んである金銀の紙で、あの驚異にみちた島の洞穴の形をこしらえてみた。その金銀の安ぴかものにも倦きて、この舞台装置をこわしてしまうと、マルセイユや日の当る格子垣やメルセデス〔モンテ・クリスト伯の青年時代の初恋の女性〕などの華やかな絵が心に浮かび上がってくるのだった。
ブラックロックの郊外の、山地へ通じる街道沿いに、たくさんのバラの茂みのある庭に小さい白塗りの家が一軒あった。この家にもまた別のメルセデスが暮らしているのだと一人できめていた。彼は遠歩きにでかける時もその帰途も、これを目標にして距離を測った。そして空想の中で、あの小説に書かれてあるのにも劣らぬほどの波瀾万丈の長い冒険のかずかずをくぐりぬけてきて、その冒険も終りに近づくと、齢をとり、寂しさを加えて、月光の降りそそぐ庭に、何年も昔におのれの愛をふみにじったメルセデスと共に立ち、悲しい昂然とした拒絶の身振りをして、
――マダム、私はマスカット葡萄は決していただきません。
と言う自分の姿が現われるのだった。
彼はオーブリイ・ミルズという少年と組んで、彼と共に大通りの冒険団を組織した。オーブリイはいつもボタン孔に呼子をぶらさげ、革帯に自転車のランプをくくりつけていたが、他の連中はめいめいの革帯に短剣でもさすように短い棒切れをさしていた。スティーヴンはナポレオンがあっさりしたいでたちをしていたのを本で読んだおぼえがあるので、わざと何の飾りもつけずにいて、それによって、命令を下す前に自分の副官を相手に謀議をこらす快感をひそかに高めるのであった。ギャング団は老嬢の家の庭へ侵入したり、お城まで出かけて蓬々《ぼうぼう》と雑草の生いしげった岩の上で一合戦をやり、そのあとで鼻孔には磯の腐ったような悪臭を残し、手や髪毛には海草の臭い油をくっつけ、疲れ果てた落伍者のようになって家へ帰るのだった。
オーブリイとスティーヴンは同じ牛乳屋から牛乳を配達してもらっていたから、よくその牛乳配達車に乗って、雌牛が放牧されているキャリックマインズまでいった。大人たちが牛乳をしぼっている間、少年たちは替り番こにおとなしい雌馬に乗って原っぱを乗りまわした。だが秋になると雌牛たちは牧草地からつれ戻された。そして汚い青みどろの水たまりや、どろどろした糞のかたまりや、湯気のたつ|ふすま《ヽヽヽ》などのあるストラッドブルックの不潔な牛小屋を一目見ただけで、スティーヴンは胸が悪くなった。晴れた日の田園ではとても美しく思えた牛に吐き気を催して、それから取れる牛乳を見る気にもなれなかった。
この年は九月がきても彼は苦にならなかった。クロンゴウズに戻されないですむからだった。公園での練習はマイク・フリンが入院したのでやめになった。オーブリイは学校があるので、夕方一、二時間しかひまがなかった。ギャング団はばらばらになり、もはや夜襲も、岩頭上での合戦もなくなった。スティーヴンは時折夕方の牛乳を配達する車に乗って一緒にまわった。寒さでふるえるような馬車のこのドライヴは、あの不潔な牛舎の記憶を吹きとばしてしまい、牛乳配達人の上衣についている牛の毛や乾草屑を見ても、嫌悪の気持は少しも起こらなくなった。車が家の前にとまるごとに、彼は掃除のよくゆきとどいている台所や、ぼんやりと灯のともった玄関の間を一目のぞいてやろうとしたり、女中が牛乳入れをさしだすようすや扉を閉めるようすを見てやろうと待ちかまえた。あったかい手袋をはめ、ポケットにしょうが入りビスケットの大きな袋をつっこんでおいて、それを食べたりしていたら、毎日夕方、馬車に乗って牛乳配達をして廻るのもけっこうおもしろい生活だろうと思った。だが、公園を走って廻っている時に心臓が苦しくなって、急に脚がふらふらしてきたのと同じあの予感、あのトレイナーの皮膚のたるんだ不精な鬚面が、タバコのやにで汚れた長い指の上にうつむいているのを、頼りない気持でちらりと眺めたのと同じ直感が、未来の夢をすべて蹴散らしてしまうのだった。漠然とながら彼は父が困っていること、そのために自分がクロンゴウズへ戻されないのだということを悟っていた。しばらく前からわが家のようすが何となく変わったのを感じていたのだ。変わることはあり得ないと思っていたものが、そんなふうに変わったのは、彼の子供らしい世界観に微かながらもさまざまのショックを与えた。心の奥深くの闇の中で時折うごめくのを覚える野心は、何の吐け口も求めなかった。外界の薄暮に似た闇が、ロック|通り《ロード》の線路の上をかつかつと音をたててゆく馬の蹄《ひづめ》の音や、後ろで揺れてがらがら鳴っている大きな罐の音を聞いているうちに、彼の心を暗くするのだった。
彼の思いはメルセデスへ立ち返った。彼女の姿に思い耽っていると、異様な不安が彼の血の中に忍びこんできた。ときおり、何か熱っぽいものが身内におしよせてきて、彼を夕暮れの静かな通りに、ただ独りさまよわせるのだった。庭の静けさや窓々のやさしい光が、彼の不安な心に柔らかな影響を注ぎこんだ。遊びまわっている子供たちの騒々しさがうるさく、その愚劣な声が、クロンゴウズで感じたのよりもさらに鋭く、自分は他の連中とは違うのだという気持にさせるのだった。彼は遊びたいとも思わなかった。彼の魂が片時も見失ったことのないあの実体のない映像に、現実の世界で会いたかったのだ。どこに、どうやってその幻の影を求めていいのかわからなかったが、彼を導びいてきた予感が、自分のほうから露わなふるまいをせずとも、その姿がいつか自分とめぐり会うと彼に告げるのだった。二人は前から知り合っていて、逢びきの約束をしていたものでもあるかのように、たぶんどこかの家の門か、あるいはもっと人目につかぬ場所でこっそり会うだろう。闇と静寂にとりかこまれて二人だけでいる。と、その無上の甘美な瞬間に彼は変形してしまう。彼女に見つめられて、彼の姿は消えて何か実体のないものになる、と、たちまちまた変形する。気の弱さと臆病と未熟さとがその妖しい瞬間に彼から脱け去ってしまうのだ。
二台の大きな黄色い幌《ほろ》馬車がある朝、戸口の前に止まったと思うと、人夫どもがどやどやと家の中にはいりこんできて、家財道具を取りのけだした。家具類が乱暴にかつぎだされて、わら屑や縄の切れっ端の散らかった前庭をぬけ、門前に止まっている大きな荷馬車につみこまれた。全部が無事につみこまれると、荷馬車は騒々しい音をたてて動きだし、大通りを去っていった。やがて眼を真赤に泣きはらした母と共に乗っている鉄道の客車の窓から、スティーヴンはメリオン街道をがたがたと進んでゆくそれらを見かけた。
その夕方、居間の暖炉の火がどうしても燃え上がらないので、ディーダラス氏は燃え立たせようとして、火掻き棒を炉格子の桟にもたせかけた。チャールズ伯父は半分しか家具のはいっていない、絨毯《じゅうたん》もしいてない部屋の片隅でうたたねしていた。そのそばには一家の肖像画が壁にたてかけてあった。卓上のランプが、引越し人夫の土足でよごされた板張りの床に弱々しい光を投げていた。スティーヴンは父の脇の足のせ台に腰をかけて、辻つまのあわぬ長い独りごとに聴きいっていた。初めのうちは何のことやら、ほとんど、いや全然わからなかったが、そのうちだんだんに、父に敵があって何か闘争が起ころうとしているのだなとわかってきた。自分もその闘争に引きずりこまれ、何かの義務が自分の双肩にかかっているのだとも感じてきた。楽しい夢のようなブラックロックからあわただしく逃げだし、陰鬱な霧のかかった都会を通過して、これから暮らすことになる殺風景な、気のめいるようなこの家のことを思うと、心が重苦しくなるのだった。と、またしても直感が、未来の予感が襲ってきた。召使たちが廊下でよくひそひそ話をしていたわけも、父がよく暖炉に背を向けて炉敷の上に突っ立ち、席について食事をするようにと促《うな》がしているチャールズ伯父に向って、声高に話しこんでいたわけも合点がいった。
――まだわしにはぴりっとした気力は残っているぞ、スティーヴン。ディーダラス氏はにぶい火をがむしゃらに掻きたてながら言った。なあ坊や、われわれはまだ死んではおらんぞ。いや、主イエズスに誓って(天主よ赦したまえ)断じて半分も死んでなんかおらんぞ。
ダブリンは未知の複雑な昂奮だった。チャールズ伯父はもう使いにだせないほど耄碌《もうろく》してしまったし、それに新居に落ちつくごたごたで、スティーヴンはブラックロックにいたときよりもひまだった。初めはおっかなびっくりで付近の四つ辻広場を廻ってきたり、あるいはせいぜい、横丁の一つを中途あたりまではいりこんだりして満足していた。だが頭の中に、この都市のあらましの地図ができてしまうと、大胆に中心部の道順をたどって税関へ行きついた。ドックの間を咎めも受けずに通りぬけ、桟橋に沿ってゆき、水面のべっとりした黄角い浮渣《うきかす》の中にぽかりぽかりと浮いているたくさんのコルクや、うようよしている波止場人足や、がらがら音をたててゆく荷馬車や、貧弱な服装をして顎鬚を生やした警官などに、驚きの眼を見はるのだった。岸壁につんであったり、あるいは汽船の船倉から高々とつるしだされたりする商品の梱《こうり》から想像させられる人生の広大さと不可思議さは、またしても彼の心の中に、夕暮れの庭から庭へとメルセデスを求めてさまよった時のあの不安を甦《よみがえ》らせた。この目新しい騒がしい生活のさなかにあって、自分はまた別のマルセイユにいるのだと空想したかもしれないのだが、ここにはあの輝やかしい空も葡萄酒店の陽のあたる格子垣もなかった。埠頭や河面や低く雲のたれこめた空を眺めていると、漠然とした不満が、心の中にわき起こってくるのだったが、それでも彼は、本当に自分の手からすりぬけていった誰かを探し求めているかのように、日毎さまよい歩くのをやめなかった。
一度か二度、母につれられて親戚を訪ねにいった。灯火に照らされクリスマスの飾りつけをした賑やかにたちならぶ店の前を通ったが、むっつりと押し黙った、ほろ苦い気分は去らなかった。このほろ苦い気持の原因は遠いのや近いのやいろいろあった。年端のゆかぬ身で、落ちつかぬ愚かしい衝動の餌食になっているおのれが腹立たしく、また周囲の世界をあさましい偽善の相《すがた》に変えんとしている運命の変化にも怒りをおぼえた。だが憤慨したところで、どうしようもなかった。彼はじっと我慢して眼にうつるものことごとくを心に刻みつけ、それから一歩離れて屈辱の思いをひそかに味わうのであった。
彼は伯母の家の台所の背のない椅子に腰をかけていた。笠をつけたランプが暖炉の漆塗りの壁にかかっていて、その光で伯母は夕刊を膝の上において読んでいた。彼女は新聞にでている笑顔の人の写真を長いこと眺めていた。が、やがて考えこんで言った。
――きれいなメイブル・ハンターだねえ!
巻毛の少女がその写真をのぞきこもうと爪先立って、そっと言った。
――この女《ひと》、何に出ているの、母さん?
――無言劇《パーントマイム》だよ。
子供は巻毛の頭を母の袖にもたせかけ、一心に見入っていたが、やがてうっとりとなったように呟いた。
――きれいなメイブル・ハンターだわ!
まるで魅せられたかのように、気取って人を小馬鹿にしたようなその眼に、彼女は長いこと見いっていたが、やがてほれぼれとした調子で呟いた。
――何ともいえないほど素敵じゃなくて?
と、重い石炭をかついでよろめきながら表通りからはいってきた少年が、彼女のことばを聞きつけた。やにわにその荷を床におろし、急いで彼女の側へ見にいった。肩で彼女を押しのけ、見えないと文句をいいながら、真赤になっている黒く汚れた手で新聞の端を乱暴にひっぱった。
彼は古い、暗い窓のついた邸の奥にある狭い朝食室に腰かけていた。炉の火が壁にちらちらうつり、窓の向うには朦朧《もうろう》とした夕闇が河面にむらがっていた。炉の前では一人の老女がせわし気に茶をいれていた。せかせかと立ち働きながら、低い声で司祭や医者の言ったことを話していた。また、彼らが近頃の彼女に見受けた二、三の変化や、彼女の妙なようすや言葉つきについても語ってきかせた。彼はじっとそれに聴きいりながら、拱門《きょうもん》や地下窖《ちかこう》や曲りくねった坑道やでこぼこだらけの坑穴などの石炭にからまる、いろんな冒険の道を心の中でたどっていた。
ふと彼は戸口に何かの気配がするのに気づいた。戸口の暗がりの中に、頭が宙に浮かんで現われた。猿を思わせる弱々しいひとが炉辺の人声につられて、そこにやってきたのだ。蚊のなくような声が戸口からたずねた。
――ジョゼフィーンかい?
せかせかと立ち働いている老女は炉端から陽気に返事した。
――いいえ、エレン。スティーヴンですよ。
――まあ、今晩は、スティーヴン。
彼がそのあいさつに答えると、戸口の顔に愚鈍な微笑が顔いっぱいにほころびるのが見えた。
――何か用事なの、エレン? 炉端で老女がきいた。
だが彼女はその問には答えずに言うのだった。
――ジョゼフィーンかと思ったのよ。あなたがジョゼフィーンかと思ったのよ、スティーヴン。
そしてこんな言薬を何度かくり返して、弱々しい声で彼女は笑いだした。
彼はハロルド・クロスでの子供のパーティの真中に腰かけていた。例のむっつりと押し黙った警戒的な態度がいよいよ昂じていたので、彼はろくに遊びの仲間にも加わらなかった。子供たちはクラッカー・ボンボンから爆《はじ》けだしてきた紙帽子をかぶって、賑やかに踊ったりはねたりしていた。自分も一緒にはしゃごうとするのだが、派手なとんがり帽子や日除け帽にたちまじった陰気な姿に自分が感じられるのだった。
けれど、自分の歌をうたい終って、部屋のこじんまりした片隅にひきさがると、孤独の悦びを味わい始めた。その宵の初めのうちは、うわべだけの下らないものに思えたさんざめきが、彼の官能をはなやかにかすめ、熱っぽく騒ぐ血潮を他人の眼からかくしてくれる和《なご》やかな空気のように思えてくる間、輪になって踊るものたちの間から、音楽と笑いにつつまれて彼女の視線が彼のいる隅へと移ってきて彼の心をよろこばせてはなぶり、求めては、わくわく昂奮させるのだった。
玄関の間で、一番おそくまで残っていた子供たちが帰り支度をしていた。パーティは終った。彼女はショールにくるまった。一緒に鉄道馬車のほうへと歩いてゆくと、彼女の吐くあたたかい息が霧のように、頭巾をかぶった頭の上で陽気に飛び散り、彼女の靴は鏡のような道路を快活にかっかっと踏み鳴らした。
それは最終の馬車だった。痩せた栗毛の馬たちはそれを知っていて、警告するように澄んだ夜気に鈴を振り鳴らした。車掌が運転手と話しあっていて、ランプの緑色の光の中で共にしきりとうなずき合っていた。鉄道馬車の空いた座席の上に数枚の色のついた切符がちらかっていた。道を往き来する人の足音は絶えてなかった。痩せた栗毛の馬たちが鼻面をこすり合わせ鈴を振る時のほかは、夜の静けさを破る物音一つしなかった。
二人はじっと耳をすましているふうだった。彼は上の段で、彼女は下の段にいて。みじかい言葉のやりとりをしながら彼女はたびたび彼の段に上ってきては、また自分の段へ降りていった。一、二度しばしの間、上の段の彼のわきにぴったり身をよせて立ち、降りてゆくのを忘れていたが、やがてまた降りていった。彼の心は潮に浮かぶコルクのように彼女の動きにつれて踊った。彼は頭巾の下から自分に向って彼女の眼が語っていることを聞くと、現《うつつ》か夢かわからぬおぼろな遠い過去に、かつてその眼が告げる話を聞いたことがあったとさとった。彼女が美しいドレスや飾り帯や長い黒靴下などの虚飾をかり立てているのを見ると、かつて自分も何度となくそういうものに屈服したことがあったのをさとった。しかも彼の内なる声は、踊る心臓の高鳴りよりもさらに昂然と、手をのばしさえすればわがものとなる彼女の贈物を受けとるつもりかと彼に問うていた。彼はアイリーンとならんで立ってホテルの庭の中をのぞきこみ、給仕たちが旗を旗竿にするすると揚げているのや、フォックス・テリヤが日当りのいい芝生を跳びはねているのに見とれていたあの日のことを思いだした。あの時、突然アイリーンはけたたましい笑い声をあげて、ゆるやかな坂の曲り道をかけおりていった。今も彼はその時と同じように、まるで眼前の光景に静かに見とれている人のように、自分の場所にぼんやりと突っ立っていた。
――彼女もまた、ぼくがつかまえてくれればいいと思っているんだ、と彼は思った。ぼくについて馬車まできたのもそのためなんだ。ここの段に上ってきたら、わけなくつかまえられるじゃないか。誰も見ていないんだ。彼女を抱いてキッスできるじゃないか。
だが彼は何もしなかった。そして人気のない馬車に一人で腰かけていた時、自分の切符をこなごなに引き裂き、なまこ板の踏み段を陰気に見つめた。
つぎの日、彼はがらんとした二階の部屋で何時間も机に向っていた。彼の前には新しいペン、新しいインクの瓶、真新しいエメラルド色の練習帳がおかれていた。いつもの習慣から、つい第一ぺージの上端にイエズス会の標語の頭文字A・M・D・G(より大いなる神の光栄のために)を書いてしまっていた。そのぺージの最初の行には、彼が書こうとしている詩の表題が記してあった。「E―C(E・Cはエマ・クリアリの頭文字)へ捧ぐ」バイロン卿の詩集でこれと同じような表題を見たことがあるので、こういうふうに書きだしていいのだと知ったのだ。この題を記し、その下に装飾の線をかいてからあと、白日夢にふけりだし、ノートの表紙にいろんな図面をかき始めた。ブレイでのクリスマスの晩餐の席で起こった激論のつぎの朝、自分の机に向って父の税金の下半期通知書の一枚の裏にパーネルのことを詩にかこうとした自分の姿が、眼に浮かんできた。あの時は頭がどうしても主題と取っくむ気になれず、あきらめて、何人かの級友の名や住所をページに書きちらしたのだった。
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ロデリック・キッカム
ジョン・ロートン
アントニー・マックスワイニイ
サイモン・ムーナン
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今また失敗しそうに思えたのだが、昨夜のことに思いをひそめ、考えぬいて自信を得ようとした。こうしているうちに、平凡でつまらないと思えるいろんな要素が、すべてその場面からなくなっていった。あの鉄道馬車そのものも、馬車の男たちも馬も、すべて跡かたもなく消えた。また自分と彼女の姿もさだかではなくなった。詩は、ただ夜と、快よい微風と、乙女のごとき月の光とについて語るのみだった。何か言い知れぬ悲しみが、葉の枯れ落ちた木々の下に黙って立っている主人公たちの心に秘められ、やがて別れの瞬間がきたとき、一人のほうによって抑えに抑えられていた口づけが、二人によって交された。この詩句のあと、ページの下のほうにL・D・S(永遠に神をほめたたえん)としたためた。そしてノートをかくして母の寝室へはいりこみ、母の化粧卓の鏡にうつる自分の顔を長いこと見つめるのだった。
だが彼の長くつづいた閑《ひま》と気儘な時も終りに近づいていた。ある晩のこと、父がいろんな消息をもって帰宅し、食事の間中それらのことをしゃべりつづけていた。その日は羊肉のはやし煮になっていて、父が肉汁《グレイヴィ》にパンを漬けさせてくれるのをスティーヴンは知っていたから、父の帰りを待ちかねていたのだ。ところが、クロンゴウズの話がでたために不愉快な滓《かす》が口の中にへばりついたようになり、せっかくのはやし料理もうまく喰えなかった。
――ばったり出喰わしたんだよ、あの人と。ディーダラス氏は四度目にまた言った。ちょうどあの広場の角でね。
――それじゃあの方に、とディーダラス夫人は言った。あのことをちゃんとしていただけるのでしょうね。ベルヴィディア〔ダブリン北部にあるカレッジ〕のことなんですけど。
――むろんやってくれるよ。ディーダラス氏は言った。今はあの人が修道会の管区長だってこと、お前に言わなかったかね?
――あたしとしてはクリスチャン兄弟修道会《ブラザーズ》〔貧民教育を主旨とするカトリック団体〕の学校に、あの子を入れるという考えは厭でたまりませんでしたのよ。ディーダラス夫人は言った。
――クリスチャン兄弟修道会なんかとんでもない! ディーダラス氏は言った。鼻つまみのパディとか泥んこのミッキーなんて餓鬼と一緒になれるか。まっぴらだね。この子は天主さまのみ名にかけて、あくまでもイエズス会にやらねばいかん。初めからそこでやってきたんだからな。あれは後年のこの子のためになるだろう。あの連中ならお前に適当な地位を与えてくれるよ。
――イエズス会は大変にお金持の修道会じゃありません、サイモン?
――そうとも。結構な暮らしをしておるよ、まったくの話。クロンゴウズの食卓を見たろう。まったく闘鶏みたいにうまいものをたらふく喰わされているからな。
ディーダラス氏は自分の皿をスティーヴンのほうへ押しやって、残りを平らげるようにと言った。
――さてこれから、お前も一ふんばりしないといかんぞ、スティーヴン。彼は言った。ずいぶん長いことお休みしていたからな。
――いいえ、この子は今度はきっと一生懸命に勉強しますでしょう。ディーダラス夫人は言った。ことに今度はモーリスが一緒ですからねえ。
――おっ、そうそう、モーリスのことを忘れとったな。ディーダラス氏は言った。こら、モーリス! ここへおいで、このうすのろの腕白め! これからお前を学校にいれてやろうというのだが、わかるか。学校に行ったら猫《キャット》は、C、A、Tと綴るんだってことを教えてもらえるぞ。それからお前のその鼻をいつも乾かしとくように、きれいな可愛い安ハンカチを買ってやるぞ。どうだ、大いに楽しいだろう?
モーリスはにやにやしながら父を見、ついで兄を見た。
ディーダラス氏は片眼鏡をまわして眼にはめ、じいっと二人の息子を見つめた。スティーヴンは父から見つめられても知らぬ顔をしてパンをかじっていた。
――そりゃそうと、とディーダラス氏はついに言った。校長さん、というよりも管区長さんがね、お前とドラン神父さんとのあの話を聞かせて下すったぞ。お前は生意気な喰わせものだと言ってらしたぞ。
――まあ、サイモン、まさかそんなことを!
――言やしなかったさ! ディーダラスは言った。が、とにかく事の次第をくわしく話して下さったよ。話に花が咲いてね、つぎからつぎといろんな話がでたんだ。そうだ、ついでだが、市のあの職を誰がやることになるとおっしゃったか、お前にわかるかね? だがこいつはあとで話すこととしよう。とにかく、いま言いかけたとおり、しごく和気あいあいと、おしゃべりをやっておったのさ。そしたら、ここにおるこのわれわれの友人がいまでも眼鏡をかけておるかときかれて、それから一部始終を聞かせて下さったのだよ。
――で、先生は怒ってらしたのですか、サイモン?
――怒ったって! とんでもない!「しっかりした子だ!」とおっしゃったよ。
ディーダラス氏は管区長のもったいぶった鼻にかかった口調を真似した。
――ドラン神父とわたしは、食事の席で皆さんにその話をわたしからした時のことですがね、ドラン神父とわたしは、それで大笑いしたのですよ。あんたも気をつけたほうがよいぞ、ドラン先生、とわたしが言ったのです。でないと小さなディーダラスに、|にく《ヽヽ》十八も罰棒を喰いにやらされますぞとね。これで一緒になって、とんだ大笑いをしましてな。はっ! はっ! はっ!
ディーダラス氏は妻のほうに向きなおり、持ち前の声音にちょっと戻った。
――これでわかるだろう、あの学校で生徒をあずかる精神というものがな。いやあ、何といったってイエズス会士にはかなわんね、外交手腕にかけちゃ!
彼はまたも管区長の声音に返ってくりかえした。
――食事の席で皆さんにその話をわたしからした時のことですがね、ドラン神父もわたしも、わたしども一人残らず、それで心から大笑いしましたわい、わっはっはっはっ!
聖霊降臨祭の劇の夜がきた。スティーヴンは楽屋の窓から、中国の提灯《ちょうちん》がはりめぐらされてある小さな芝生を眺めわたした。来賓たちが校舎の踏み段を降りて、そのまま演芸場へはいりこんでゆくのに見とれていた。ベルヴィディアの先輩や、夜会服を着た接待係が演芸場の入口のあたりに三々五々むらがって、鄭重《ていちょう》に来賓を中へ案内していた。不意に、一つの提灯のぱっと明るくなった光の下で、にこにこ笑っている司祭の顔が見えた。
聖体はすでに聖櫃《せいひつ》から他へ移されてあったし、また前列の腰掛《ベンチ》はうしろへさげられて、祭壇とその前方の空間とが自由に通れるようにされていた。壁には球幹や体操用梶棒《インディアン・クラブ》が何組も立てかけてあり、片隅には、亜鈴《アレイ》がつみ重ねてあった。また、体操靴やスェーターや肌衣などの、きたならしい泥色の包みをやたらに山とつんだその真中に、頑丈な革張りの体操用木馬が立っていて、舞台へかつぎ上げられ、体操競技の終ったあと、優勝チームの真中にすえられる番のくるのを待っていた。
スティーヴンは作文がうまいという評判から、体育館書記に選ばれていたけれど、番組の第一部には何の役割もなくて、第二部にあたる劇ではおどけた物識り先生という主役をひき受けていた。この役がふり当てられたのも彼の背丈と重厚な態度のせいで、今はベルヴィディアに入学して二年目の終りで、第二級にいたからだった。
白い|半ズボン《ニッカース》にシャツ姿の二十人ばかりの下級生たちが舞台からどやどやと降りてきて納室をぬけ、礼拝堂へはいりこんでいった。納室と礼拝堂は熱心な先生たちや生徒たちであふれていた。でっぷり肥った禿頭の特務曹長が木馬の踏切り板に足をかけてためしていた。複雑な棒廻しの特別演技をやることになっている長い外套を着こんだ痩せた青年が、近くに立って面白そうに見ていたが、その深い脇ポケットから銀色にぬった棒がのぞいていた。別のチームが出場準備をしているので、木亜鈴のうつろな響きが聞こえていた。と、たちまち昂奮した生徒監が鵞鳥《がちょう》の群でも追うように法服の袖をばたつかせ、おくれている者たちを大声でせきたてて、納室の生徒を追いまくっていた。ナポリの百姓の小さな群が、礼拝堂のほうで腕を頭上でまわすもの、造花のスミレの花籠を振り片足をひいておじぎをするものなど、ステップの練習をしていた。礼拝堂の暗い片隅の、祭壇の左側で、一人のがっしりした体つきの老婦人がゆたかに波うつ黒い裾をひろげた中にひざまずいていた。彼女が立ち上がったとき、巻毛の金髪のかつらに古風な麦わらの日除け帽をかぶり、眉を黒々とすみでひき、頬にはほんのりと紅をさし、白粉をつけ、ピンク色の衣裳をつけた人物のいるのが発見された。この娘らしい人物の発見に、低い好奇の囁き声が礼拝堂をかけめぐった。生徒監の一人が笑顔でうなずきながら、暗い隅へ歩みより、がっしりした体つきの老婦人に一礼し、おどけた調子で言った。
――こちらは美わしきご婦人でいらせられましょうや、それともお人形をお連れ申されたのでありましょうや、ミセス・タロン?
それから腰をかがめて、日除け帽のふちのかげになった、厚化粧のにこやかな笑顔をのぞきこむと、彼は叫んだ。
――やあ! これは確かにやっぱりバーティ・タロン君にちがいないぞ!
窓際の自分の場所にいたスティーヴンは、老婦人と司祭とが声をそろえて笑いだし、また、一人で日除け帽踊りをやることになっているこの少年を見んものと、彼のうしろをぬけて前へ出てゆく生徒たちが感嘆して囁き合うのを、聞いていた。彼は思わず、もうじっとしておれないという身振りをした。窓の日除けの端をぱたりと落とすと、それまで突っ立っていたベンチから降り、礼拝堂を出ていった。
校舎をぬけでて、庭園の片側にたっている差掛け小屋の下に佇《たたず》んだ。向い側の演芸場から、観客のこもった騒音、不意にわき起こった軍楽隊の金属的な騒音がもれてきた。ガラス張りの屋根から上へ向けてひろがっている光は、さながら演芸場を、廃船のような建物の闇に碇泊した、お祭りの方船《はこぶね》のように見せ、提灯をつるしたその細い艫綱《ともづな》がそれを繋船所につないでいるかのようだった。演芸場の脇戸が不意に開いて、光の輻《や》がさっと芝生の上に流れた。にわかに音楽がどっと方船からわき起こった。ワルツの序曲だ。脇戸がもとどおりに閉まってからも、耳をすますと音楽のかすかな旋律が聞こえるのだった。序奏の部分の情感、あるいは緩やかな、あるいは軽快な調子が、その日一日中の彼の不安や、ついさっきのいらいらした動作の原因となっていた何とも名状できない昂奮を呼びさました。不安はまるで音波のように彼から湧きでるのだった。潮のように流れてくる楽の調べに乗って、方船は提灯の艫綱を航跡に曳きながら漂ってゆく。と、小人の砲兵隊を思わせるような騒音がその流動を乱した。それは亜鈴チームの登場を迎える拍手だった。
差掛け小屋のずっと端の街路に近いところに一点の薄赤い光がぽつんと闇に浮かんで見えた。彼がそのほうに近づいてゆくにつれ、かすかないい香りのするのに気づいた。二人の生徒が入口のかげに立ってタバコをすっていた。その側まで行かないうちに、声でヘロンとわかった。
――ディーダラス卿のおいでじゃ! 甲高いかすれ声が叫んだ。われらの頼もしき友、ようこそおいでなされた!
この歓迎の辞のあとはいっこうおかしくもない忍び笑いとなり、ヘロンは額手《サラーム》の礼をし、手にしたステッキで地面を突つき始めた。
――さあ参りましたぞ。スティーヴンは立ち止まり、ヘロンからちらりと彼の友人へ視線を移しながら言った。
その友人は彼には見おぼえのない男だったが、闇の中に光っているタバコの火で、微笑がゆるやかにひろがってゆく青白いきざな顔、背の高い、外套を着た背恰好、シルクハットなどが見分けられた。ヘロンは紹介は面倒だといわんばかりにこう言った。
――たった今、この友人のウォーリスに言ったところなのだよ、君があの学校の先生の役で校長の真似をやったら、さぞや今夜は面白いことになるだろうってさ。凄く愉快だろうな。
ヘロンは友人のウォーリスに聞かせようと、校長の学者ぶった低音《バス》のへたくそな真似をやってみせたが、自分の失敗に笑いだし、スティーヴンにやってみせてくれと頼んだ。
――かまわんじゃないか、ディーダラス、と彼は促した。君は凄くあいつの真似がうまいからなあ。「もし教クワイーにも聴かずば、これを異邦ジーンまたは取税ニーンのごとき者とすべし」(マタイ伝)
この真似も、パイプにタバコがかたくはまりすぎたウォーリスのおとなしい憤慨ぶりを示した文句で邪魔された。
――この間抜けのとんまのパイプ野郎|奴《め》。彼は口からそれを離して言い、にやりと笑い、鷹揚にパイプを見ながら眉をしかめた。いつもこんなふうに固くつまるんだよ。君はパイプを使う?
――ぼくはタバコやらないんだ、とスティーヴンは答えた。
――そうなんだよ、とヘロンが言った。ディーダラスは模範青年だからね。タバコもすわなければ、娯楽場にもいかない、恋愛遊戯もやらない、けしからんことは何一つ口にもできないんだよ。
スティーヴンは首を振って、自分の競争|仇《がたき》の赤らんだ、よく表情の動く、鳥のようにとがった顔を見て微笑した。ヴィンセント・ヘロンは名前も鳥のようだが〔ヘロンは「あおさぎ」のこと〕顔まで鳥だと、彼は何度も異様に思ったことがある。もじゃもじゃの光沢のない頭髪が、乱れた冠毛のように額にかぶさっている。その額は、狭くて骨ばっており、薄い鉤鼻《かぎばな》が、色の淡い無表情な、せせこましい両の出目の間に突きでているのだった。この競争仇は互いに学友だった。教室での席も一緒、礼拝堂でひざまずくのも一緒、ロザリオの祈りのあと昼食をとりながら語りあうのも一緒だった。一級の生徒たちはぱっとしない鈍物ぞろいだったので、スティーヴンとヘロンはその一年間、事実上、学校の先頭に立っていた。校長のところへ、休日にしてもらうとか、あるいは生徒を放免してもらうのを頼みにゆくのも彼らであった。
――おう、そうそう。ヘロンがだしぬけに言いだした。君のおやじさんがはいってゆくのを見かけたぞ。
微笑がスティーヴンの顔から消えた。友達からにしろ先生からにしろ、自分の父のことに少しでもふれられると、たちまち彼の平静は崩されてしまうのだ。内心びくびくしながら、ヘロンがつぎに何を言いだすか黙って待っていた。けれど、ヘロンは曰くあり気に肘で彼を突ついて言った。
――お前はずるいぞ。
――どうしてだい? スティーヴンは言った。
――お前は虫も殺さんような顔つきをしているけど、どうしてなかなか喰わせ者らしいな。ヘロンは言った。
――失礼ながら何のことを言ってらっしゃるのか、教えていただけませんかね? とスティーヴンは慇懃《いんぎん》に言った。
――教えてやらんでか。ヘロンは応じた。ぼくら、彼女を見たぞ。なあ、ウォーリス、見たよな。それがまた素敵もない美人ときていた。おまけに、いろんなことをしきりと訊いていたぞ!「スティーヴンは何の役をなさいますの、ディーダラスさん。スティーヴンはお歌いになりませんの、ディーダラスさん?」とかね。君のおやじさんは例のあの片眼鏡でむきになって彼女をじいっと見つめていたから、おやじさんも君のことを見抜いたらしいぞ、もっともおれだったら平気だがね、まったく。彼女は素晴らしいよ。な、そうだろう、ウォーリス?
――大いに悪くないね。ウォーリスはまたもパイプを口にくわえながら澄まして答えた。
赤の他人の前でこうずけずけとあてこすられると、一瞬スティーヴンの心をさっと怒りの矢がつらぬいた。彼にとっては、一少女の興味や好意などに何のおかしさも見出せなかった。あのハロルド十字路《クロス》の鉄道馬車の踏段での二人の別れ、そのことから胸の中へしみこんでいった重苦しい感情の流れ、それについて書いた詩、一日中それらのことばかりを考えていた。劇を見にくるのがわかっていたから、彼女と新たに会うことを一日中、思い描いていた。昔の落ちつかぬ重苦しい気分が、あのパーティの夜と同じように、またも彼の胸にあふれてきたものの、詩に吐け口を見出せなかったのだ。あの時と今との間には、少年期の二か年の成長と知識とが立ちふさがって、そういう吐け口を抑えてしまったのだ。一日中、彼の内にある鬱々として浮かぬ傷つきやすい気分が流れだし、暗い幾筋もの流れや潮となって、またも元に帰る、くり返しをしているうちに、最後には疲れ果て、ついにあの生徒監のお道化や厚化粧の少年が、彼にいたたまらない行動を起こさせるにいたったのだ。
――こうとなったら、みとめたほうがいいぞ。ヘロンがつづけた。今度こそは見事に君の正体を見破ったね。もうぼくに聖人ぶるわけにはいかんよ。こいつはまさに一本参ったろう。
低い、陽気さのない笑い声が彼の口からもれた。そしてさっきのように腰をかがめ、冗談に、怪しからんぞと言わんばかりにステッキで、スティーヴンの脚の腓《ふくらはぎ》を軽くたたいた。
スティーヴンの瞬間的な怒りはすでに去っていた。おだてられた得意な気持もなければ狼狽もおぼえず、ただこのひやかしが早く終ってくれればと願った。愚にもつかぬ低劣なふるまいと思えるこのことに、ほとんど恨みもおぼえなかった。というのも、彼の脳裡にある恋の冒険は、そんな言葉ぐらいで脅威にさらされることなど少しもないと知ったからだ。やがて彼の顔にはこの競争仇の作り笑いがうつっていた。
――みとめろよ! とヘロンはくり返し言って、またもステッキで腓を打った。
ふざけてたたいたのだが、最初のほど軽くはなかった。スティーヴンは皮膚がひりひりし、痛みはほとんどないくらいだが、かすかに熱くなるのを覚えた。まるで相手のふざけた気分に応じるかのように、おとなしく頭をさげて「われ告白す」を唱え始めた。この一場の事件は無事におさまった。というのはヘロンもウォーリスもこの不敬なふるまいに、つい赦してやる気になって笑いだしたからだ。
告白はただスティーヴンの口から出てくるだけだった。言葉を口にしているうちに、ヘロンの薄笑いを浮かべた両の口もとの微かな冷酷なえくぼに気がつき、腓を打った棒の、あの覚えのある痛みを感じ、よく聞かされたあの譴責《けんせき》の文句
――みとめろ。
という言葉を耳にした瞬間、まるで魔法の力によるかのごとく、心に呼び返された別の場面を突然思いだしたのだった。
それは彼が第六級にいたこの学校での一学期も終りに近い頃だった。彼の敏感な性質はまだ思いも設けぬあさましい暮らしに鞭打たれて苦痛をなめていたのだった。彼の魂はまだダブリンの重苦しい様相に落ちつかず、打ち負かされていたのだった。二年の間、夢でも見ていたような状態から出ると、自分が目新しい光景の真っ只中にはいりこんでいるのに気づき、あらゆる事、あらゆる人物が、失望なり魅力なりの深刻な影響を与えたのだが、魅力にしろ失望にしろ、それらは常に不安や苦しい思いをもって、彼の胸を満たしたのだった。学校生活に残された余暇はすべて破壊的な著作家たちを友としてついやされ、それらの嘲弄や激烈な言葉は、彼の脳裡ではげしい醗酵《はっこう》を起こしてから後、彼の未熟な文章に移されてゆくのであった。
論文は彼にとって一週間の主要な課業であった。だからいつも火曜日には家から学校へゆく時に途中のいろんなことで自己の運命を読むのだった。前にゆく人と自分を競争させ、歩調を速めて、ある目標にゆきつかぬうちに追い抜くとか、あるいは、歩道の敷石の一つ一つのます目を注意深くひろってゆくとかして、その週の論文で一等になるかならないかを占った。
ある火曜日のことだ。彼の勝利の履歴が無惨にもぶち壊された。英語教師のテイト先生が彼を指さして露骨な口調で言った。
――この生徒の論文には異端思想がある。
教室はしいんと静まり返った。テイト先生はその静粛を破らずに、股の間に片手を突っこんでいた。彼の糊でごわごわしたワイシャツが首や手首のあたりで音をたてていた。うすら寒い春の朝のことで、彼の眼はいまだに痛み、視力が弱っていた。彼は失敗と、看破されたこと、おのれの考えやわが家のあさましさを意識し、また折返してとがったカラーの、硬い端が首をこするのを感じた。
テイト先生の短い大きな笑いがクラスの者をやや気楽にした。
――おそらく君は知らなかったのだろう、と彼は言った。
――どこのとこですか? スティーヴンはきいた。
テイト先生は突っこんでいた手をだして論文をひろげた。
――ここだ。天地の創造主と魂に関するとこだ。ふむ……ふむ……ふむ……あ、ここだ「永久に近よる可能性のない」これは異端だよ。
スティーヴンは呟くように言った。
――ぼくは「永久に到達する可能性のない」というつもりだったのです。
それは服従であったので、ティト先生も気がおさまり、論文をたたむと、それを彼に渡しながら言った。
――ううむ……そうか!「永久に到達する」か。それならまた話は別だ。
だがクラスの気持はそうすぐにはおさまらなかった。授業が終ってから誰もこの事について彼には何も言わなかったけど、ある漠然とした皆の意地悪い悦びが周囲に感じられたのだった。
このクラスの者の前で叱言《こごと》を喰ったことがあって数日たった夜、彼が手紙を持ってドラムコンドラ通りを歩いていた時、呼びとめる声がした。
――待て!
ふりむくと、彼のクラスの三人の生徒が暗がりの中を、こっちへ歩みよってくるのが見えた。呼びとめたのはヘロンだった。二人の手下を両脇に従えて進んできながら、彼らの歩調に合せて、細身の籐杖で前方の空気を切っていた。彼の友人のボウランドはその脇にならんで進んできながら、顔中にやにや笑いを浮かべていた。その数歩あとから、ナッシュが速い歩調のためにふうふう息をつきながら、真赤な大頭を振りたてていた。
彼らがつれだってクロンリフ通りへ曲がりこむと、たちまち彼らは、いま何の本を読んでいるかとか、家のお父さんの木箱には何冊ぐらい本があるかなどと、本や作家の話をし始めた。ボウランドはクラスの鈍物、ナッシュは怠け者ときていたから、スティーヴンは何とも奇態な気持で彼らの話に聴きいっていた。事実、それぞれ好きな作家たちについてひとしきりしゃべった後に、ナッシュはキャプテン・マリアット〔イギリスの海洋小説家〕に断然味方して、彼こそ最大の作家だと言ったものだ。
――馬鹿いえ! ヘロンが言った。ディーダラスにきいてみろ。最大の作家は誰だ、ディーダラス?
スティーヴンはその質問に、からかっている調子のあるのに気づいて、言った。
――散文のほうのことかい?
――そうだよ。
――ニューマンだと思うね。
――カーディナル・ニューマン〔イギリスのカトリック枢機卿〕のことかい? ボウランドがきいた。
――そうだよ。スティーヴンは答えた。
にやにや笑いがナッシュのそばかすだらけの顔にひろがり、スティーヴンのほうを振りむきながら、彼は言った。
――すると、君はカーディナル・ニューマンが好きなのかい、ディーダラス?
――そうだ、多くの人が言ってるよ、ニューマンは最もりっぱな散文の文体《スタイル》を持っているとね。ヘロンが他の二人に説明してそう言った。むろん、彼は詩人じゃないよ。
――じゃ、最も優れた詩人は誰だい、ヘロン? ボウランドがきいた。
――テニソンにきまってるさ。ヘロンは答えた。
――おう、そうだ、テニソンだね。ナッシュが言った。ぼくんちには一冊になった彼の全詩集があるよ。
これを聞くとスティーヴンは黙っていようと誓いをたてていたのも忘れて、思わず怒鳴った。
――テニソンが詩人だって! 冗談じゃない、ただ詩のまねごとをしている奴じゃないか!
――おい、馬鹿いうな! ヘロンは言った。テニソンが最大の詩人だってことは誰でも知ってるぞ。
――じゃ、君は誰が最大の詩人だと思う? ボウランドが隣りを肘で突つきながら言った。
――むろんバイロンだよ。スティーヴンは答えた。
ヘロンが先にたって、三人は声をそろえて潮けるように笑いだした。
――何がおかしいんだい。スティーヴンはきいた。
――君がだよ。ヘロンは言った。バイロンが最大の詩人だって! あいつなんか、たかが無教育者の読む詩人にすぎんよ。
――さぞやりっぱな詩人でございましょうて。ボウランドが言った。
――君は黙っていたほうがいいぞ。スティーヴンは敢然と彼に突っかかるように向き直って言った。君が詩について知っていることといえば、校庭のスレートに書きたてて、そのため危うく屋根裏へぶちこまれるとこだったぐらいが関の山だからな。
ボウランドは実は、校庭のスレートに、小馬に乗って学校からよく家へ帰っていた彼の級友のことをうたった対句を書いたと噂されたのだ。
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タイスンが馬でエルサレムへ行く道すがら
落馬して怪我せり彼のアレック・カフーゼラム
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こう痛いところを突かれて、二人の輩下は黙りこんだが、ヘロンはつづけた。
――いずれにしろ、バイロンは異端だったし、不道徳でもあったよ。
――何だってかまわんよ。スティーヴンはかっとなって叫んだ。
――異端であろうとなかろうと、かまわんと言うのか? とナッシュが言った。
――君なんかにそんなことが何がわかるか。スティーヴンは怒鳴った。君は何でも翻訳以外にはただの一行も読んだためしがないじゃないか。ボウランドだってそうだ。
――おれは知ってるぜ、バイロンは悪人だってことをな。ボウランドが言った。
――おい、この異端野郎をとっつかまえろ、とへロンが怒鳴った。
たちまちスティーヴンは捕虜になった。
――テイトの奴がこないだ、お前に訂正をさせたんだ。ヘロンはつづけた。お前の論文の異端思想のことでよ。
――あした先生に言いつけてやるぞ、とボウランドが言った。
――言いつける? スティーヴンは言った。こわくて口もきけんだろうさ。
――こわい?
――そうさ。生命がこわいのさ。
――ふざけるなっ! とヘロンは叫び、スティーヴンの両脚を手にした籐杖でびしっとなぐった。
それが彼らの攻撃の合図となった。ナッシュがスティーヴンを羽交い締めにしている間に、ボウランドが溝《どぶ》にころがっていた長いキャベツの芯《しん》をひっつかんだ。籐杖でびしびしなぐられ、節くれだった芯でなぐりつけられながら、じたばたもがいているうちに、スティーヴンは鉄条網の柵に押しつけられた。
――バイロンなんか全然だめだとみとめろ!
――いやだ。
――みとめろ。
――いやだ。
――みとめろ。
――いやだと言ったらいやだ。
猛烈にもがき廻ったあげく、やっとのことで相手を振りきって脱れでた。彼をいじめた奴らは笑い声をあげ、はやしたてながらジョーンズ通りのほうへ立ち去っていった。彼は半ば涙にくらんだ眼で、はげしく拳をにぎりしめ、泣きじゃくりながら、よろよろと歩きだした。
彼がまだ『われ告白す』をくり返し、聞き手がのん気に笑いこけている間に、そしてまた、あの悪意に満ちた一場の場面が鋭く彼の脳裡をまだかすめている間に、自分をいじめた奴らになぜいまは何の恨みもおぼえないのか、不思議に思った。彼らの卑劣、乱暴を少しも忘れていなかったが、それを思いだしても何の怒りも湧いてこないのだった。だから、これまで書物でぶつかったことのあるはげしい愛と憎しみの描写も、すべて真実でないように思えるのだった。あの夜ですら、ジョーンズ通りをよろめきつつ家へ帰りながら、何かある力が、まるで軟らかに熟した果実の皮がくるりとむけるようにあっさりと、あの不意にからみついた怒りを剥ぎ取ってしまうのを覚えたのであった。
彼は小屋の隅に二人の仲間と一緒に突っ立ったまま、彼らの話や、どっと湧き起こる演芸場の喝采に、ぼんやりと耳を傾けていた。彼女はあすこの他の人たちの中にまじって、自分が出てくるのを待っているのだろう。彼女のようすを思いだそうとしたが、だめだった。彼女が頭巾のようにショールを頭にかぶっていたことや、あの黒い瞳に誘われて何か気力がへなへなと脱けさってしまうようになったことしか思いだせなかった。自分が彼女を思っていたように、彼女も自分を思ってくれていたろうかと思った。暗くて他の二人から見えぬのを幸いに、一方の手の指先を、触れるか触れぬほどそっと他方の掌にのせてみた。だが彼女の指の感触はもっと柔らかく、もっと確実だった。と、不意にその感触の記憶が、何か眼に見えぬ波のように彼の脳裡と体を貫いた。
一人の生徒がこっちへ差掛け小屋の下を駈けよってきた。昂奮して息をきらしていた。
――あ、ディーダラス。彼は叫んだ。ドイルが君のことでかんかんになってるぞ。すぐにはいって衣裳の支度をするんだ。早くやったほうがいいよ。
――いま行くよ、とヘロンは使いの者に、横柄にゆっくりと言った。行きたくなればな。
生徒はヘロンのほうを向いてくり返した。
――だけど、ドイルがおそろしくかんかんになってるんだよ。
――ドイルに伝えてくれないか、おれからよろしくってな。そして、あいつの目つきが気に喰わねえって言ってくれ、とヘロンは応じた。
――とにかく、もう行かなくちゃ、とスティーヴンは言った。彼にはそんな体面問題などはさして気にもならなかった。
――おれなら行かんな。ヘロンが言った。行ってたまるかってんだ。ありゃ上級生を呼びによこす道じゃないよ。かんかんになってるなんて、実際けしからん! だいたい、あいつのいやに古くさい劇に君が出てやるだけでもたくさんじゃないか。
この競争仇に近頃みとめられるこういう喧嘩ごしの仲間|贔屓《びいき》につられて、スティーヴンが、おとなしく従うという日頃の習慣から逸れるということはなかった。彼はこういう荒っぽさに不信を抱き、大人になるという悲しい予想に受けとれるこういう友情のもつ誠意に、疑惑を抱いた。ここで起こったような体面問題にしても、すべてこの種の問題同様、彼にとっては些々《ささ》たることだった。心の捕捉しがたい幻を追い求め、優柔不断にそういう追求から思いをそらしている間にも、まず何より紳士たれ、まず何よりも良きカトリック教徒たれ、と励ます父や先生たちの声を絶えず身辺に聞いてきた。これらの声も今はもう彼の耳には空《うつ》ろに響いているだけだった。体育館が開設された頃は、強く男らしく健康になれ、と彼を励ますまた別の声を聞いたのだった。さらに国民精神復興運動が学校《カレッジ》の中にまで感じられだした頃は、またも別の声が、祖国に誠実たれ、祖国の言語と伝統の高揚に協力せよ、と彼に命じたのだった。俗世間にでれば、すでに今から予想できるように、彼がせっせと働いて父の失墜した地位を高めよ、と世間の声が命じるであろうし、また一方では学友たちの声が親切な者たれ、他人の罪をかばってやるか、あるいは罪の赦しを乞うてやれ、また学校が休みになるようにできる限り尽せ、と彼を励ましていた。こういう騒々しい空ろに響く声のために、彼はずるずると幻影の追求を中途でやめてしまうのだった。ほんの一時はそれらに耳を藉《か》すが、それらから遠く離れ、その呼び声の届かぬところに一人でいるか、幻想の中の友を相手にしている時だけが、彼には楽しかったのだ。
聖具室では、でっぷり肥った生きのいい顔をしたイエズス会士と中年の男とが、むさくるしい青い衣裳をまとい、箱にいれた顔料や胡粉《ごふん》をこねまわしていた。顔をつくり終った生徒たちは、まだ何となくぎごちなさそうに、そこらをうろついたり立ったりして、おっかなびっくりのようすでそっと指先で顔をさわっていた。聖具室の真ん中に、その時ちょうど学校に滞在していた若いイエズス会士が、爪先と踵で拍子をとりながら体を前後にゆすって立っており、両手をぐいと脇ポケットに深く突っこんでいた。彼の小さな光沢のある赤い巻毛で美しく飾られた頭と、剃りたての顔は、しみ一つない法衣の美しさや、しみ一つない靴とよく調和していた。
このゆすっている姿を見つめ、この司祭の嘲けるような微笑の意味を勝手に読みとろうとしているうちに、まだクロンゴウズにやられぬ前に父から聞いた、イエズス会士はその身なりで必ず見分けがつくという言葉が、スティーヴンの記憶によみがえってきた。そのとたんに、父の考えとこの微笑しているりっぱな服装をしたお坊さんのそれとの間に、ある似通ったもののあるのを見ぬいたと思った。と、彼は何かしら聖職が、あるいは聖具室そのものが汚されているような気がした。いつもの聖具室の静寂も、今は騒々しい話し声や冗談に、ガス燈の炎や脂油の臭いでむっとしている空気に、かき乱されていた。
中年の男から額に皺をかいてもらい、顎を黒や青でくまどってもらいながら、大きな声でせりふを言って要点をはっきりさせるのだ、と肥った若いイエズス会士が命じている声を、彼は気もそぞろに聞いていた。楽隊が「キラーニイの百合」を奏するのが聞こえると、数分後には幕が上がるのだとわかった。舞台の怯《おじ》けは少しも感じなかったが、自分が演じなければならぬ役のことを思うと恥ずかしかった。自分のせりふのあれこれを思いだすと、化粧した頬にかあっと赤味がさしてきた。彼女の真剣な、誘うような瞳が観客の間からじっと、こっちを見つめているのが心に浮かんだ。と、その心に浮かんだ瞳はたちまち彼の逡巡を追いやり、意志を緊張させた。さらに別の性質が自分に付与されたかのように思えた。つまり周囲の昂奮と若々しさが、彼の重苦しい不信の念の中にまでいりこんで感染し、それを一変させてしまったのだ。稀にしか味わえぬような一瞬の間だったが、彼は本当に子供らしい気持につつみこまれたかのように思えた。そして、他の出演者たちの中にまじって舞台の袖に立っているうち、全体の浮き浮きした雰囲気にとけこみ、その浮き立った気分の中で、垂れ幕は二人の逞《たくま》しい体つきの坊さんの手で乱暴にぐいぐいと、しかもすっかり斜めにゆがんで引き上げられた。
その後、すぐに彼はぎらぎらしたガス燈の光をあび、うすぼけた書割にとりかこまれた舞台の上にあって、空間に浮かぶ無数の顔を前にして芝居をやっていた。舞台稽古のときには何の脈絡も活気もないと思ったこの劇が、俄然独特の活気をおびてきたのを見て彼は驚いた。今はそれが独りでに芝居を演じ、自分と仲間の演技者たちとは、各自の役をやってその劇を助けているように思えるのだった。最後のシーンで幕が下りると、拍手喝采が空間いっぱいにあふれるのが聞こえ、脇道具のすき間から見ていると、彼が演じていた前方のただ一つの塊りが異様な形に崩れ去り、顔ばかりの空間が、いっせいにあちこちで壊れ、ばらばらに散って、あわただしい幾つもの群に分かれていった。
彼は急いで舞台を去り、道化役をかなぐりすてて礼拝堂を通りぬけ、校庭にでた。劇がすんだ今になっても昂奮した神経は、何かさらに冒険をしきりと求めていた。彼はまるで冒険に追いすがろうとでもするかのように足を速めた。演芸場の扉は全部開けはなたれ、観客はすっかり出てしまっていた。彼が方舟《はこぶね》の纜索《ともづな》だと空想した綱に、少しばかりの提灯がかすかな夜風にゆれ、わびしくちらついていた。何か捜し物を取りにがしはしないかと懸命にあわてて校庭から石段を上がると、ホールにいる群衆の間をしゃにむに抜け、退出する人々を見送って来賓と握手をしたり、おじぎをしたりしている二人のイエズス会士の側を通りぬけた。さらに前へと焦立たしげに押し進み、ますます急いでいるようなふりをしながら、自分が通ったあとから、髪粉をふりかけたままの頭を見て人々が微笑したり、じろじろ見たり、肘で突つきあったりしているのを微かに意識した。
出口の段のところにくると、家の者たちが最初のガス燈のそばで自分を待っているのに気づいた。一目でその群のどの人影も、いつも見慣れた連中ばかりだと知ると、腹立たしげに段をかけ下りた。
――ジョージ通りまで使いにいってこなくちゃならないんです、と彼は父に向って一気に言った。ぼくはあとから帰ります。
父の問いも待たずに走って道を渡り、もの凄いスピードで丘をおり始めた。どこを通っているかも、ろくにわからなかった。誇りと希望と欲望とが、さながら胸の中で圧しつぶされた薬草のごとく、彼の心の眼の前に、もの狂おしいような香りの濠気《もうき》を立ちのぼらせた。傷つけられた誇りと崩れ落ちた希望と挫《くじ》かれた欲望の不意にわき起こった濠気の渦の中にまきこまれつつ、丘を大またにおりていった。濠気は濃い、荒れ狂うがごとき煙となって、彼の苦悩の瞳の前を上へと流れ、彼の頭上へ消え去ってゆき、やっと大気はもとの澄んだ冷たさへ戻った。
薄い膜がなおも彼の瞳を蔽っていたが、もはや瞳は燃えていなかった。今までも何度か怒りや恨みを払いのけてくれたのと似たある力が、彼の足をひきとめた。じっと立ち止まって、死体公示所の陰気な玄関をじっと見上げ、それからその横の暗い玉石を敷きつめた小路へ視線を移した。小路の塀に「埋葬地」という言葉が見えた。彼は悪臭のするよどんだ空気をゆっくりと吸った。
――これは、馬の小便と腐った藁《わら》の臭いだ、と彼は思った。嗅いでもいい匂いだ。おれの心を静めてくれる。もうすっかり心は静まった。家へ帰ろう。
スティーヴンはまたもキングズブリッジで列車の一隅に父とならんで腰かけた。父につれられて夜行の郵便列車でコークへ旅するところだった。列車が駅をでてゆくにつれ、彼は何年か前に味わった無邪気な驚きや、クロンゴウズの最初の日の一つ一つの出来事を思いだした。だが、今はもう何の驚きもおぼえなかった。暗くなってゆく大地がすべるがごとくかすめ、電信柱が音もなく四秒ごとにすいすいと車窓をかすめ、二、三人の黙りこくった番人のいる燈火の明滅する小さな停車場が、たちまち列車のあとに置きざりにされ、さながら走者がうしろに吹き飛ばす火の粉のように、一瞬、闇の中できらきら光るのだった。
彼は何の共感もなく、コークや若い頃の場景の父の思い出話に耳をかたむけていた。話の中に死んだ友人の面影が現われたり、あるいは、現実の訪問の目的を不意に思いだしたりするたびに溜息をついたり、ポケット・ウィスキーの瓶からぐいとあおったりして、話はとぎれ勝ちだった。スティーヴンは聞いてはいても、少しも気の毒な気持になれなかった。死者の面影はチャールズ伯父のそれを除いては、彼にとってどれも見知らぬ赤の他人ばかりだったし、伯父の面影も近頃はだんだん記憶からうすれかけていた。それでも父の財産が競売に付されようとしていることは知っており、そして自分自身のものが奪われるという意味で、無惨にも現実の世界にあざむかれて、自分がとりとめもない空想を描いていたと感じた。
メアリボローで彼は眠りこんだ。眼がさめると列車はすでにマロウを過ぎており、父は向いの座席に身をのばして眠りこんでいた。冷たい黎明の光が田園の上空に、人気のない畑や、窓を閉めきった農家の上空に、たちこめていた。静まり返った田園に見とれ、ときおり、父の深い寝息や、不意に寝返りを打つ音を聞いていると、眠りの恐怖に心のすくむ思いがしてきた。見えないけれども、あたりに眠っている人がいると思うと、それらがまるで自分に何か危害でも加えそうで、異様な恐怖がいっぱいにひろがってきて、早く夜が明ければいいと祈るのだった。神に向ってでもなければ聖人に向って唱えるでもない彼の祈りは、列車の戸口の隙間から冷え冷えとした朝の微風が足もとに忍びいってくるために、震えで始まり、列車の執拗《しつよう》なリズムに合わせてつくりあげた愚にもつかないだらだらした文句で終った。と、音もなく、四秒ごとの間をおいて、電信柱が規則正しく小節を間にはさんで疾駆する調べをつづけていた。この急激な調べが彼の恐怖を鎮めていった。彼は窓枠にもたれ、またいつとなしに眼蓋を閉じた。
彼らは朝まだきのコークを二輪の幌馬車に乗って通りぬけ、さらにヴィクトリア・ホテルの寝室でスティーヴンはすっかり眠り終えた。明るい暖かな日差しが窓からさしこんでいて、通りの騒々しい音が聞こえてきた。父が化粧卓の前に立ち、ひどく念をいれて頭髪や顔や口髭をしらべ、水差しの上に首をさしのべ、さらによく見ようとして、それを横に倒すように引きよせたりしていた。そんなことをしながら、おかしな節まわしと句切り法とで、独り小声で歌を口ずさんでいた。
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若いものらが一緒になるのも
若気の愚かさ
ここらあたりでねえお前
別れようよ
こわれたものが直せぬならば
いっそこわしてしまおうよ
わたしはゆくよ
アメリカさして
わたしのいいひと別嬪《べっぴん》さん
わたしのいいひと艶《あだ》っぽい
新しいときにゃ
うまいウイスキにちょと似てる
それでも年とり
冷たくなれば
山の露のよに
色香もあせて死んでゆく
[#ここで字下げ終わり]
窓の外の暖い陽のあたる市街を意識し、妙にうら悲しい陽気な節に花綏《はなづな》の飾りをつけたような父の声のやわらかなトレモロを聞いていると、スティーヴンの脳裡から、昨夜の何かもやもやした不機嫌がすっかり追い払われてしまった。彼は服を着ようと急いで起き上がって、歌が終ったときに言った。
――それはお父さんの他のどの民謡よりもずっといいなあ。
――そうかね? ディーダラス氏はきいた。
――ぼくはそれが好きだな、とスティーヴンは言った。
――こいつはずいぶん古い節なのだよ。ディーダラス氏は口髭の先をひねりながら言った。ああ、お前に聞かせてやりたかったな、ミック・レイシがこいつを歌うのをなあ! ミック・レイシは気の毒なことだ! あの男はこれにちょいと節廻しをつけるんだ。いつもこれには装飾音をつけたものだったな、わしにはとうとう覚えられなかったが。あの男なら「民謡《カム・オール・ユー》」でも何でも歌えたよ。
ディーダラス氏は朝食に羊の腸詰《ドリシーン》を註文した。そして食事の間中、しきりと土地の消息を給仕人にたずねていた。人の名前がでると、給仕人は現在の主《ぬし》のことを考え、ディーダラス氏はその人の父親かあるいは祖父の代のことを念頭においていたので、二人の話はたいてい喰い違うのだった。
――そんならまさかクイーンズ・カレッジは移ってないだろうね、とディーダラス氏は言った。わたしの倅に見せてやりたいと思っているのだが。
マーダイク遊歩道に沿った木々は花盛りだった。彼らはカレッジの構内にはいると、饒舌《じょうぜつ》な門衛につれられて中庭を渡っていった。だが砂利道を越えてゆきながら、十二、三歩あるくごとに門衛の返事で彼らは立ち止まらされるのだった。
――へえ、そうかねえ? すると気の毒にあの徳利腹《ポトルベリイ》も亡くなったのか?
――はい、亡くなりましてな。
こうして立ち止まるごとに、スティーヴンは所在なさそうに二人のうしろに立ち、そんな話題に倦きて、またのろのろと歩きだすのを落ちつかぬ気持で待っていた。中庭を横切ってしまう頃にはその落ちつかぬ気持が昂じ、焦躁に変わっていた。抜け目のない疑ぐり深い人と思っていた父が、どうしてこんな門衛のこびへつらう態度にだまされるのか不思議でならなかった。そうなると今朝までは面白く思われていた威勢のいい南部|訛《なまり》も、今ははがゆく聞こえるのだった。
彼らが解剖学の階段教室へはいりこむと、ディーダラス氏は、門衛に手伝ってもらいながら、自分の頭文字を彫りこんだ机をさがしまわった。スティーヴンは後方に残っていたが、教窒の暗さと静けさに、また、そこにただよっている疲れきった固苦しい学問的雰囲気に、気がめいってきた。机の上の黒くよごれた木に何度か彫り刻まれた「胎児《フォエトス》」という言葉を読んだ。この彫り刻まれた文字がにわかに彼の血をざわつかせた。この場にいない、ここの学生たちが周囲にいて、自分がその仲間に加わるのをしりごみしているような気がしたのだ。父の言葉の力では思い描けなかったその学生たちの生活の幻影が、机に刻まれたその言葉から、ぱっと眼前に跳びだしてきた。がっちりした肩幅の口髭をはやした学生が、ジャックナイフで一心にその文字を彫っている。他の学生たちは彼の近くに立ったり腰をかけたりして、その彫刻細工をにやにや笑って見ている。一人が彼の肘を突ついた。大男の学生が彼をふり返ってぐいと眉をしかめた。だぶだぶの灰色の服を着て、赤い編上げ靴をはいていた。
スティーヴンの名を呼ぶ声がした。彼はできるだけ、その幻影から遠ざかるように、急いで階段教室の段をおり、父の頭文字を近々とのぞきこむようにして、赤くなった顔をかくした。
だがいまの言葉と幻影とは、もときた中庭を横切って校門へ向いながらも、彼の眼前にちらついていた。この時まで、自分だけの心の獣的な特殊の病的なものときめこんでいたことの痕跡が、外部の世界にもあるのを知って彼は愕然とした。奇怪な幻想がひしめきあって記憶に浮かびあがってきた。それらもやはり単なる言葉から、不意に荒々しく彼の前にとびだしてきたのだった。彼はたちまちそれらに屈服し、それらが荒れくるい、理性を卑しめるにまかせ、いったいそれらはどこからくるのか、どんな奇怪な幻影の洞窟からやってくるのか、といつも不思議に思いながらも、それらが吹きすぎてしまうと、いつも他人に対しては気が弱くおどおどして、自分に焦らだち嫌悪をおぼえるのであった。
――おう、そうだ! 雑貨屋《グロサリー》というのがたしかあったぞ! とディーダラス氏が叫んだ。あの雑貨屋の話はお前もしょっちゅう聞いていたろう、スティーヴン。わしらの名が鳴りひびいていた頃には、何度そこへいったか知れないな、おおぜいおったよ。ハリー・ピアド、ちびのジャック・マウンティン、ボッブ・ダイアズ、フランス人のモーリス・モリアーティ、それにトム・オグレイディ、それから今朝話したミック・レイシ、それにジョウイ・コーベット、それからタンタイルの気の毒なちびのお人好しのジョニー・キーヴァーズなどだよ。
マーダイク遊歩道に沿った並木の葉むらが、日差しを受けてかさこそとそよいだ。クリケットのチームの人々が通りかかった。フランネルの選手服にブレザーコートを着た元気のいい若者たちで、中の一人が長い緑色のウィケット・バッグをかついでいた。静かな横丁では色のあせた制服をきたドイツ人の五人組の辻音楽隊が、でこぼこになった真鍮楽器をもって、浮浪児や怠けている使い走りの小僧たちの聴衆相手に演奏していた。白い帽子にエプロン姿の女中が、あつい強い日差しを受けて石灰岩の平板のように光っている窓閾《まどじきい》にのせた箱植えの草花に、水をやっていた。外に向って押し開かれたもう一つの窓からは、ピアノの音階をつぎつぎに最高音部まであげてゆく音がもれてきた。
スティーヴンは父とならんで歩いてゆきながら、以前にも聞いたことのある話に耳を傾け、父の若かりしころの仲間で今は散り散りばらばらになったり、故人になったりしている浮かれ騒いだ人々の名をまたも聞いていた。すると微かな嫌悪が胸の中で吐息をついた。ベルヴィディアに在学中の自分自身のあいまいな立場、特待生で、自分の権威にびくびくしていた級長、傲慢で感受性が強く疑い深くて、自分の生活のあさましさや自分の考えの放埒《ほうらつ》さと闘っていたことなどを思い起こした。机のよごれた木に刻みつけられたあの文字が彼をにらみつけ、彼の肉体の弱々しさや空しい昂奮をあざけり、われとわが身の気違いじみた汚らわしい歓楽に吐き気を催した。咽喉につかえた唾のかたまりが大きくなり、呑み下すのも汚らわしい思いであった。と、微かなむかつきが頭にまでのぼってきた、思わず一瞬眼を閉じ、やみくもに歩きつづけた。
なおも父の声が耳にはいってくる!
――お前が一本立ちでやるようになったらね、スティーヴン――そういう日がいずれはくるだろうが――忘れるんじゃないぞ、何をやるにしても紳士と交わってゆくのだぞ。わしの若いころは本当におもしろかったよ。なかなかりっぱな連中と親しくつきあっておった。わしらの誰もがそれぞれ何かできたな。いい声を持っている奴もおれば、芝居のうまい奴もいた。気のきいたコミック・ソングを歌える奴もおれば、ボートのうまいのやテニスのうまい奴もいたし、またおもしろい話を作って聞かせてくれるとかその他いろんなのがいたよ。とにかくわしらは、だれるということがなくて愉快にすごし、ちょいとばかり広い世間も知ったが、それでどうこうということは少しもなかったな。とにかくわしらはみんな紳士だったよ、スティーヴン――少なくともわしはそう思っているがね――それに肚《はら》の底から正直潔白なアイルランド人だったよ。お前に交際してもらいたいと思うのは、そういった人たちなのだ、つまりまともな連中だ。わしはお前に友人として話しているのだよ、スティーヴン。息子はおやじを恐れなくちゃいかんなどと、わしは思ってない。本当だよ、わしはお前のおじいさんが若い頃のわしを扱ってくれたように扱っているんだ。おじいさんとわしとは親子というよりも兄弟みたいだった。わしがタバコをすってるとこをとっつかまったあの最初の日のことは、忘れようったって忘れられんな。いつだったかわしは、わしとおなじような五、六人の連中と一緒にサウス・テレスのはずれに立っていたんだがね。みんな乙にパイプを横にくわえて、ひとかどの大人になったつもりでおったのさ。そしたら、だしぬけにおやじが通りかかったんだ。おやじは一言もいわなければ立ち止まりもしなかった。ところがその翌日、日曜日だったが、わしらは連れだって散歩にでかけた。そして家へ帰りかかると、おやじがポケットから葉巻の箱を取りだして、こう言ったよ――そりゃそうと、サイモン、お前がタバコをすうとか何かそんなふうなことをやるとはついぞ知らなかったよ――むろんわしは何とか体《てい》よく取りつくろうのに精いっぱいだったがね――うまいタバコがすいたかったら、とおやじは言うんだ、この葉巻を一つためしてみろ。昨夜アメリカ人の船長がクイーンズタウンでこいつを土産《みやげ》にくれたのだよ。
スティーヴンは父の声がほとんどすすり泣きに近いような笑い声に変わってゆくのを聞いた。
――おやじはあの頃コークきっての美男子だった、本当にそうだったよ! 表通りで女たちが立ち止まって見とれたものだよ。
彼はすすり泣きが父の咽喉《のど》を音をたてて下ってゆくのを聞き、思わずはっと気になって眼を開けた。急に眼にさしこんだ日光が、雲の浮かぶ空を、濃いばら色の光の、湖水のごとき空間のいくつもある陰暗な塊りの幻想的世界に変じた。彼の脳の心《しん》までが病み、無力になっていた。店々の看板の文字の意味も解しかねるほどだった。おのれの奇怪な生き方によって、みずからを現実界の彼方へおしやってしまったかのように思えた。現実の世界からは何ものも彼の心を動かさず、語りかけることもなく、ただそこに聞こえるのは、彼の内部に猛りくるう叫びのこだまのみだった。この地上の、あるいは人の、いかなる訴えにも応えることができず、憂いや喜びや友情の呼び声に唖《おし》のごとく無感覚になりはて、父の声に倦《う》みつかれ気力を奪われてしまっていた。自分の考えていることが自分のものとすら思えず、のろのろと心の中でくり返すのだった。
――ぼくはスティーヴン・ディーダラスだ。ぼくはいまサイモン・ディーダラスという名の自分の父とならんで歩いている。ぼくたちはアイルランドのコークにいる。コークは市だ。ぼくらの室はヴィクトリア・ホテルにある。ヴィクトリアとスティーヴンとサイモン。サイモンとスティーヴンとヴィクトリア。みんな名前だ。
自分の幼なかった頃の記憶が急にぼやけてしまった。その頃の生き生きとした瞬間のいくつかを思いだそうとしたがだめだった。ただ人の名前しか浮かんでこなかった。ダンティ、パーネル、クレイン、クロンゴウズ。小さな男の子が、衣裳戸棚に二つのブラシをしまっていた老婦人から、地理を教えてもらっていた。やがてその子は家を離れて学校へやられた。彼は初めての聖体拝領にあずかったり、クリケット帽から駄菓子をとりだして食ったり、衛生室の狭い寝室の壁にうつったちらちら動く火明りを見つめて、死んだときのことを空想していた。死んだ自分のために黒と金襴の大外衣《コープ》をまとった校長先生によってミサの祈りが唱えられ、それから、ライム樹のたちならぶ正面通路からそれた教団の小さな墓地に埋葬きれることを空想していた。だが、あの時、彼は死ななかった。パーネルが死んだのだった。礼拝堂では死者のためのミサもなければ行列もなかった。彼は死んだのではなくて、日光にさらされた薄膜のようにすうっと消えてなくなったのだ。彼はもはや存在していないが故に、存在から姿を消してしまったか、あるいは、さ迷いでてしまったのだ。そんなふうに、死によってではなく、日光にさらされて萎《しぼ》んでなくなるとか、宇宙のどこかに姿を消して忘れられてしまうかして、存在から出ていってしまうと考えるのは、何という異様なことだろう! 彼の小さな体が一瞬再び現われるのが見えるとは不思議だった。灰色のバンドのある上衣を着た小さな男の子だ。その両手は脇ポケットにいれられ、ズボンは膝のところでたくし込んでゴム入りバンドでとめてあった。
財産が売り立てられた日の夕方、スティーヴンはおとなしく父のあとにくっついて、市内の酒場から酒場へと歩きまわった。市場の販売人にも、バーテンや酒場の女給にも、うるさく金をねだる乞食にも、ディーダラス氏は一つことを語ってきかせていた――自分は古いコークの大学の卒業生であること、ダブリンにきてコーク訛《なまり》をぬくのに三十年間も苦労してきたこと、そばにいるこの小がっぱ野郎は自分の長男だが、ただのダブリンのボンチにすぎないこと。
彼らはその朝早くニューカム・コーヒー店をふりだしに、出かけたのだったが、その店ではディーダラス氏の茶碗が灰皿にぶつかって大きな音をたてた。スティーヴンは父の前夜の乱酔のそういった恥ずかしい跡を覆いかくそうと、自分の椅子を動かしたり、咳をしたりして、取りつくろっていたのだった。屈辱は尾をひいてつぎつぎに起こった――市場の販売人たちのつくり笑い、父がからかった酒場の女給たちの悪ふざけや色っぽい流し目、父の友人たちのお世辞やおだて。彼らがスティーヴンにお祖父さんに生写しだと言ったら、ディーダラス氏は、いやになるほど似ていると言って同意した。彼らはわざわざスティーヴンの言葉づかいにコーク訛のあとをほじくりだし、リー河〔コーク市を流れる河〕のほうがリフィ河〔ダブリン市を貫流する河〕よりもずっときれいな河だとみとめさせた。中の一人が、彼のラテン語を試そうとして、ディレクトスからの短文を訳させ、さらに Tempora mutantur nos et mutamur in illis と言うのと Tempora mutantur et nos mutamur in illis〔時代は変化を受け、われらもまたそれにつれて変化す。後者が正しい〕と言うのと、どっちが正しいかときいたりした。また別の一人、ディーダラス氏がジョニー・キャッシマンと呼んでいた元気のいい老人が、ダブリン娘とコーク娘とどっちがきれいかなどときいて、彼をすっかりまごつかせた。
――その子はそんなふうにはできとらんのだよ。ディーダラス氏は言った。かまわんでくれ。そんなくだらんことには頭を使わぬ、穏健な考えの子供でな。
――それじゃこのおやじの倅じゃないぞ、と小柄な老人は言った。
――そいつはしかとはわからんな。ディーダラス氏はおだやかに笑いながら言った。
――君のおやじはな、と小柄な老人はスティーヴンに向って言った。若い頃にゃコーク市きっての厚かましい浮気者だったぞ。知つとるかね?
スティーヴンは眼を伏せて、彼らがふらりとはいりこんできた酒場のタイル張りの床をじっと見つめた。
――おいおい、つまらん考えをそいつに吹きこんでくれるなよ。ディーダラス氏は言った。そいつは神さまにおまかせしといてくれ。
――冗談じゃない、なんにもわしゃ吹きこむもんかい。わしゃこの子のお祖父さんであってもええほどの年じゃ。いや、現にわしはこれでもおじいちゃまだよ、と小柄な老人はスティーヴンに向って言った。知つとるかね?
――そうですが? スティーヴンはきいた。
――確かにそうじゃとも。小柄な老人は言った。わしには向うのサンディズ・ウエル〔コーク市の西端にある町〕に元気のいい孫が二人あるんだよ。さて、そこでじゃ! このわしをいくつだと思うかね? わしはな、君のおじいさんが真赤な上衣を着て、馬に乗って猟にでかけるとこを見たのを憶えておるぞ。そいつはまだ君が生まれん前のことじゃ。
――そうさ、いや生まれるとは思いもしなかったさ。ディーダラス氏は言った。
――本当にわしは見たぞ、と小柄な老人は同じことを言った。しかもそれだけじゃない。わしは君のひいじいさんまで憶えておるぞ、あのジョン・スティーヴン・ディーダラス老人じゃ。あの人はもの凄い鉄火もんだったよ。さあどうじゃ! 大したことを憶えとるじゃろうが!
――そいつは三代――いや四代だ、と一座の別の人が言った。それじゃ、ジョニー・キャッシマン、あんたはかれこれ百歳に近いじゃないかね。
――そんなら、本当のとこを教えてやろう。小柄な老人は言った。わしは当年とってちょうど二十七歳じゃよ。
――人間の年齢なんて気の持ちようしだいさな、ジョニー。ディーダラス氏が言った。さあ、あんたのそれを乾しなさい、お代りをもらうからな。おい、ティムだかトムだか何だか知らんが、わしらにこのお代りをたのむぞ。いや全くの話、わしなんか、せいぜい十八ぐらいの気分だな。そこにおるあのわしの倅など、わしの年齢の半分にもなっとらんが、どんな時でもわしのほうが勝つぞ。
――えらそうなことを言うんじゃないよ、ディーダラス。もうそろそろ、うしろにすっこむ潮時だろうな。さっき口をきいた紳士が言った。
――とんでもない! ディーダラス氏はがんばった。こいつを向うに廻してテナーの歌いっくらをやってもいいぞ。五本棒の柵の跳びっくらをやってもいいぞ。猟犬の後を追って田舎を駆けっこしてもいいぞ。三十年前にケリー郡の青年、しかもその方の第一人者と競走したようにな。
――だがここじゃお前さんのほうが負けだろうな、と小柄な老人は額をたたいてみせながら言い、飲みほそうとして盃を上げた。
――うむ、倅の奴がおやじくらいの善良な人間になってくれることをのぞむよ。わしに言えるのはそれだけだ。ディーダラス氏は言った。
――そうなりゃ結構だよ。小柄な老人は言った。
――それでもありがたいことだなあ、ジョニー。ディーダラス氏は言った。わしらがこんなに長生きをして、しかも人さまに迷惑もかけずにやってきたってことはな。
――迷惑どころか大いにいいことをしてきたよ、サイモン。小柄な老人は真顔になって言った。これも神さまのおかげじゃ、わしらがこのとおり長生きして、大いに善事を果してきたこともな。
スティーヴンは三つの盃が仕出し台から持ち上げられるのを見守っていた。父と父の二人の旧友とが過ぎ去った日の思い出に乾盃をしたのだ。運命か、あるいは気質の深い淵が、スティーヴンを彼らから引き離していた。彼の知性は彼らのよりも老成しているかに思えた。それは月が年齢の若い地球を照らすごとく、彼らの葛藤や幸福や悔恨を上から冷やかに照らしていた。かつて彼らのうちに躍動したような人生や青春の躍動は、彼の中にはなかった。他人との親しい交りの歓びも、荒くれ男の健康な逞しさも、親孝行も彼にはあずかり知らぬものだった。冷酷な、愛情なき肉欲のほかは、何ものも彼の内なる魂をゆり動かさないのだった。彼の少年時代は死んだか消え失せてしまい、それと同時に、無邪気に歓び得る彼の魂も亡び、今は彼は月の不毛な外殻のごとき人生のさ中を漂っていたのだった。
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汝《な》れの蒼ざめるは
天に昇りて、地上を見つめ
友もなくさまよいたるに倦みにしためか
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彼は心の中でこのシェリーの断片詩の数行をくり返した。この詩句にひそむ悲しい人間の営みの空しさが、広大な非人間的活動の循環と入れ替って、彼の昂奮を冷却した。すると彼はおのれの人間的な空しい悲痛感を忘れた。
スティーヴンの母と弟と従兄弟の一人とが、ひっそりとしたフォスター・プレイスの角で待ってくれている間、彼と父とは石段を上がり、高地《ハイランド》出の歩哨が気取って歩きまわっている柱廊を進んでいった。大きな広間にはいりこんで勘定台の前に立つと、スティーヴンはアイルランド銀行総裁宛の三十三ポンドの支払い指定書をさしだした。彼の奨学金と論文の賞金であるこの金額は、すぐさま出納係によって紙幣と貨幣とりまぜて彼に支払われた。彼は平気を装おってそれをポケットにしまいこみ、父がしきりと話しかけているこの愛想のいい出納係が広い勘定台越しに彼の手を取って、輝やかしい前途を祈る祝いの言葉をただ聞き流していた。彼はこの二人の声にいらいらして、足をじっとさせていることができなかった。ところが出納係は他の客たちの用をたすのをのばしてまで、すっかり時世が変わって、金の都合のつく限り立派な教育を子弟に与えてやるにこしたことはないと言うのだった。ディーダラス氏はあたりや上の天井を熱心に見廻しながら広間を立ち去りかね、出ようとうながすスティーヴンに、今自分たちの立っているところはかつてのアイルランド議会の下院だったと語るのだった。
――天主よ、われらを助け給え! と彼は敬虔《けいけん》な口調で言った。あの昔の志士たちのことを考えてごらんよ、スティーヴン。ヒーリィ・ハッチンソンとかフラッド・グラタンにヘンリー・グラタン、チャールズ・ケンダル・ブッシュなどという方々と、内外にあるアイルランド民衆の指導者たる今の貴族たちとの違いはどうじゃ。そうさ、こんな連中は死んでも、昔のえらい方々の近くにすら断じて埋められやせんだろう。そうだとも、スティーヴン、残念ながらこんな連中は「美わしの七月の陽気な月の、晴れた五月の朝のこと、あたしゃ、ふらふら浮かれでた」というたわけた文句みたようなものにすぎんよ。
鋭い十月の風が銀行のあたりを吹きまくっていた。ぬかるみの道の端に立っている三人の頬はひきつり、眼はうるんでいた。スティーヴンは寒そうな服をきた母を見ると、二、三日前にバーナードオの店の飾り窓で二十ギニーの正札のついているマントを見たのを思いだした。
――さあて、これですんだぞ、とディーダラス氏が言った。
――食事をしたほうがいいでしょう。スティーヴンは言った。どこにしますか?
――食事? ディーダラス氏は言った。そうだな、そのほうがよかろう、どうじゃな?
――どこか、あまり高くないとこにしましょう。ディーダラス夫人が言った。
――アンダーダンの店はどうだ?
――そうね、どこか静かなとこ。
――いらっしゃい。スティーヴンは急いで言った。高くったって、かまやしないですよ。
彼はせかせかと昂奮した歩調で彼らの先に立ち、微笑を浮かべていた。皆も彼の意気ごみに微笑を浮かべて、おくれまいとついていった。
――若い者らしくのんびりとやってくれ、と彼の父が言った。わしらは何も半マイル競走をしに出とるんじゃあるまい?
つかの間のお祭り騒ぎのうちに、スティーヴンの賞金は、彼の指の間から流れでていった。食料品や菓子や乾し果物の大きな包みがいくつも市からとどいた。毎日彼は家族のために献立表をつくりあげ、毎夜のように三、四人の一行をつれては『インゴマー』や『リヨンの婦人』などを見に劇場へいった。上衣のポケットには自分の客たちにあげる四角なウィンナ・チョコレートを何枚もつめこみ、一方、ズボンのポケットはたくさんの銀貨や銅貨でふくらんでいた。みんなへの土産《みやげ》ものを買い、自分の部屋の具合を調べ、いろんな決心を書きだし、自分の書物を書棚にあちこち整頓し、あらゆる種類の時価表を熟読し、一家のために各人が何らかの役職をもつ一種の共和制をつくり、家の者に貸してやる貸付銀行を開設して、喜んで借りる連中に貸金をおしつけ、受取書の作成や貸した金額の利子の計算をする楽しみを味わおうとした。もう何もやることがなくなると、鉄道馬車で市中をあちこち廻った。やがて、しばしの歓楽も終る時がきた。桃色のエナメル塗りの壷の中味も尽き果て、彼の寝室の腰羽目も仕上げの終らぬ不体裁な上塗りのままにとり残された。
一家はまた元どおりの生活に戻った。母はもはや彼の金の濫費ぶりに小言をいう機会もなくなった。彼もまた元どおりの学校生活に戻り、この目新しい企ても瓦解した。共和国は崩壊し、貸付銀行は相当な赤字をだしてその金庫と帳簿を閉じ、自分自身について設けた生活の規則もすべて廃止となった。
なんという馬鹿げた企てであったろう! 外部のあさましい生活の潮を入れまいと、秩序と優雅の防波堤を築き、行為の掟や溌刺とした興味や新しい親子の関係によって、自己の内なる潮のはげしい動揺のまたも起こるのを食いとめようと企てたのだった。徒労だった。内からと同じく外部からも潮は防壁をこえて流れこんできたのだ。それらの潮は粉砕された防波堤の上で、またもや猛然と押し合い始めた。
彼はまた、おのれの空しい孤立をまざまざと見せつけられた。自分が近づこうと求めた生活に一歩も近よってもいなければ、自分を母や弟妹から隔ててしまった不安な恥ずかしきや恨めしさを切り抜けてもいなかったのだ。自分が彼らと同じ血を分け合ったもののようではなく、むしろ養子とか乳兄弟、もらい子という何か曰くのある関係に立っているかのように感じられるのだ。
彼はおのれの心に猛りたつ熱望を静めようとかかった。その熱望の前にあっては他のいっさいのことがつまらない、縁遠いものだった。自分が堕地獄の大罪を犯していることも、自分の生活が遁辞と嘘いつわりの連続となり下ってしまっていることも、ほとんど意に介さなかった。自分が思い耽っている悪事を実現しようとする内なる狂暴な欲望に比べれば、何ものも神聖ではなかった。彼は冷然とした態度で、あさましいまで微細に思い描くひそかな悦楽の図に耐え、その淫奔な空想の中で眼をひく姿を片っ端から倦きることなく汚して、昂奮をおぼえるのだった。夜となく昼となく外の世界の歪められた映像の間をさまよった。昼間は上品な純潔なものに思えた姿が、夜になると曲りくねった眠りの闇の中を彼に近づいてくるのだ。その女の顔は淫蕩な狡猾さでゆがみ、その瞳は獣的な歓喜で輝いている。ただ朝になると、暗い淫奔な悦楽のおぼろな記憶と、その鋭い屈辱的な罪悪感に苦しむのだった。
彼はまたもかつての彷徨の習慣に立ち返った。ヴェールをかぶったような秋の夕暮れにさそわれて、数年前にブラックロックの静かな並木道をさまよったように、街から街をほっつき歩いた。だが端正な前庭や窓辺のやわらかな燈火の眺めも今は、彼にしみじみと心安まる感銘を与えないのだった。ただおりおり、欲望の合い間に、彼の心をいたずらにさいなむ悦楽が、いくらかやわらいだ倦怠に席をゆずる時など、メルセデスの面影が彼の追憶のかげを横切るのだった。山々へ通じるあの街道沿いの小さな白い家やばらの茂みがまたも眼蓋に浮かび、何年かの別離と未知の経験をへた後で、月光に照らされた庭園に彼女と共に立ちながら、その場で悲しくも昂然と示さざるを得なかった拒絶の身振りを思いだした。そうしたおりには、クロード・メルノット〔『リヨンの婦人』の中の青年〕のやさしい言葉が口の端にのぼり、彼の不安を楽にしてくれるのだった。あのころ待ちのぞんでいたあいびきと、そしてまた、当時の希望と今との間に横たわる恐ろしい現実があるにもかかわらず、あの時に空想していた貴いめぐり逢いについての甘い予感に昂奮した。その時には、弱気も臆病も経験の未熟さをも忘れてしまおうと思い描いていためぐり逢いなのだった。
そういう一瞬が過ぎさるごとに、空しい情欲の炎がまたも燃えあがった。詩の文句が彼の口からもれ、わけのわからぬ叫び声や口にはでない獣的な言葉がしゃにむに出口を求め、彼の脳裡からとびだしてきた。彼の血は反逆した。路地や家々の入口の暗がりをのぞきこみ、一心に何か物音でも聞こえはせぬかと聞き耳をたてたりして、暗いぬかるむ通りをさまよい歩いた。まるで何か獲物を求めてうろつきまわる獣が邪魔でもされたように、彼はおのれに向って唸った。おのれと同類の他の者と共に罪を犯したかった。否応なしに人にも罪を犯させ、罪を犯すその女と共に歓喜を味わいたかった。何か暗い影が闇の中から抵抗しがたく迫ってくるのを感じた。それでもって身内にみなぎり溢れてくる洪水のように、それは捕捉しがたい、呟く影だった。その呟きは眠りながら聞く群衆の呟きのように彼の全身に浸透してきた。彼はこの浸透の苦悶に耐えながら両の手を痙攣《けいれん》的に握りしめ、歯をくいしばった。捕えられず、しかも彼を刺激するその弱々しい今にも消えなんとする影形《えいぎょう》をしっかりつかもうと、街路に両手をさしのべた。と、長いあいだ咽喉の奥でおし殺していた叫びが口をついてでた。それは煉獄の責苦を受けるものたちから発する絶望の号泣のように彼から発し、狂おしい哀願の号泣となって消えていった。邪悪な放肆《ほうし》を求める叫び、かつてじめじめした便所の壁に読んだ猥褻《わいせつ》な落書きのこだまにほかならね叫びだった。
彼は狭い、むさくるしい街々の迷路の一つにさまよいこんだ。不潔な路地から、どっと涌きおこるだみ声の浮かれ騒ぎや、喧嘩や、酔っぱらいの間のびした歌声が聞こえてきた。ユダヤ人町に迷いこんだのだろうかと思いながらも怯《ひる》まずに進んでいった。長い派手な寝室衣《ガウン》を着こんだ女や若い娘たちが家から家へと通りを横切っていた。女たちはいかにも閑《ひま》そうで、香水の匂いをぷんぷんさせていた。不意に彼はふるえがきて、眼がぼうっとかすんできた。黄色いガス燈の炎が、もやのかかった空を背景に、まるで祭壇の前で燃えているかのように、彼のかすんだ眼の前で立ち昇っていた。戸口の前や燈火に照らされた玄関の間に、何かの儀式にでもでるように着飾った女の群がかたまっていた。彼は別世界にはいりこんだのだ。数世紀のまどろみから彼は眼がさめたのだった。
彼は道の真ん中にじっと突っ立っていた。心臓がはげしく波打って、胸にぶつかるように鼓動を打っていた。長い桃色の寝室衣《ガウン》を着た一人の若い女が彼を引きとめようと手を腕にかけ、じっと彼の顔をのぞきこんだ。彼女は陽気な調子で言った。
――今晩は、ウィリちゃん!
彼女の部屋はあたたかくて、しゃれていた。寝台の脇のゆったりした安楽椅子に大きな人形が両脚をひろげて坐っていた。さも平気らしく見せるように、自分の舌にものを言えと彼は命じつつ、女が寝室衣を脱ぐのを見守り、香水をふった頭を得々と意識して動かしているさまに、目をとめていた。
彼が部屋の真ん中に黙って突っ立っていると、彼女はそばにやってきて、朗らかに、しかも落ちつきはらって彼を抱擁した。女のまろやかな腕が彼をしっかりと引きよせた。女の顔がまじめくさった冷静さで自分のほうにさしのべられるのを見、温かい女の胸が静かに起伏するのを感じると、彼は今にも、もの狂おしく泣きださんばかりになった。歓喜と安堵の涙が彼のうれしげな瞳に光り、どうしても言葉はでてこないのだが、唇は開いた。
女は鈴のちりちり鳴る手で彼の髪をかきわけながら、おなまさんと彼を呼んだ。
――キスしてよ。彼女は言った。
彼の唇が、うつむいてキスしてやろうとは、どうしてもしないのだ。彼は女の腕の中にしっかと抱かれ、徐々にゆっくりと愛撫を受けたかった。抱かれていると、にわかに自分が強く大胆になり、自信ができたような気がしてきた。だが唇はどうしてもうつむいて彼女を接吻しようとしないのだった。
不意に女はぐいと彼の頭をひきよせて自分の唇を彼のに合わせた。と、彼は女の露骨な上眼づかいの瞳の中に彼女の素振りの意味を読みとった。それは彼にはあまりにもはげしいことだった。
彼は眼を閉じ、女に身も心も自分をまかせきって、彼女のそっと開いている唇の暗い圧迫のほかは、周囲の世界の何ものも意識しなかった。その唇は、まるでそれが漠然とした言葉を伝えるものでもあるかのごとく、彼の唇をしめつけているように、彼の脳をもしめつけるのだった。そして唇と唇の間に、失神するような罪よりも陰暗な、声や匂いよりも甘いある未知の、おずおずと圧《おさ》えつけるものを感じた。
[#改ページ]
あわただしい十二月のたそがれが、陰気な昼間の後を騒々しく追うように、ばたばたとやってきた。教室の陰気な四角い窓から眺めていると、彼は腹がしきりと食べものをせがんでいるのを感じた。夕食にはシチューがでればいいなと思った。胡椒《こしょう》をきかしたメリケン粉のどろりとした白ソースの中からすくいだすカブと、にんじんと、つぶした馬鈴薯と、脂の多い羊肉のはいったやつだ。そいつを詰めこめ、と彼の腹がすすめていた。
やがて暗い秘めやかな夜がくる。早く暮れ落ちる夜になると、黄色い燈火がここかしこにうすぎたない娼家の街を明るく照らす。彼は街の曲りくねった道筋をあちこちたどってゆき、迂回しながら恐怖と歓喜にわななきつつ、絶えずしだいに近づいてゆき、ついに暗い角を曲ったところで彼の脚は不意に立ちすくむ。娼婦たちがそれぞれ一眠りしたあとで大儀そうにあくびをし、たばねた髪のヘアピンを直しながら、夜を迎える支度をして、めいめいの家からちょうど出てくるところであろう。彼は不意に自分の意志が動くか、あるいは不意に女たちのいい匂いのする柔らかな肉体から、罪を愛するおのれの魂に呼びかけるかするのを待ちうけつつ、その側をおとなしく通ってゆく。しかもその呼びかけを求めてうろつきながらも、ただ欲望のために麻痺した彼の感覚は、感覚を傷つけるものや、あるいは恥ずかしめるものだけを痛いほど気にするのだ。彼の眼は、むきだしのテーブルに輪形についた黒ビールの泡の跡や、気をつけの姿勢で立っている二人の兵士の写真や、けばけばしい芝居のビラが気になり、耳はものうげな他愛もないあいさつのことばが気になった。
――おい、バーティ、何かいいことでもあるのかい?
――あんたなの、ちょいと?
――十番さん、うぶなネリーがあんたをお待ちかねだわよ。
――今晩は、旦那! ショートタイムでちょいと寄ってらっしゃいよ。
雑記帳のページの方程式が孔雀の羽根のように眼玉模様や星形模様をつけて末広がりの恰好にひろがりだした。そしてその指数の眼や星が消し去られてしまうと、またゆっくりとつぼまりだした。指数が現われたり消えたりするのは、眼を開けたり閉じたりするようだし、眼を開けたり閉じたりするのは、星が生まれたり消えたりするようだった。星の生涯の広大な周期は彼のつかれた思考を、外へはそのぎりぎりの限界まで、内へはその中心まで運び去り、遠い楽の調べが外へも内へも彼につきまとった。何の調べか? 調べが近づいてくると、彼はあの言葉を思い起こした。友もなく疲れしゆえに蒼ざめてさまよう月へ寄せたシェリーの断片詩の言葉だ。星が微塵に砕け始め、雲のようなこまかい星屑が虚空を舞い落ちてきた。
ほの暗い光がますます弱々しくページの上に落ちていた。そのページの上には、またも別の方程式が徐々に開いてゆき、末広がりの形を大きくひろげ始めていた。それは経験を求めて出てゆき、罪を重ねるごとにひろがり、その燃える星の野火を遠くへひろげて、またもとへつぼまり、徐々に消えてゆき、その光をも炎をも消してゆく彼自身の魂であった。それらは消えた。そして冷たい闇が混沌たる心を満たした。
冷やかな透徹した無関心が彼の心を領した。初めての荒々しい罪に、生命の波がわが身からぬけ去ってゆくように感じ、あの放埒のためにおのれの肉体か魂が、不具になるのではないかと恐れた。そうなる代りに生命の波は彼をその胸にのせて彼の外へ運び去り、それがひき退く時にまたもとへ連れ返ってきた。しかも肉体も魂も傷つくことはなく、その両者の間に暗い和解が成立するのだった。彼の情炎が消されてしまった混沌は、冷やかな平静な自己の認識であった。彼は一度ならず死にも価する大罪を犯したのであり、最初の罪だけでも未来永劫の罰を受ける危険にありながら、つぎつぎに罪を重ねて、おのれの罪と罰を増していったのを知っていた。穢《けが》れを浄《きよ》める聖寵《せいちょう》の泉が彼の魂を洗い清めなくなった以上、彼の日々も課業も思いも、もはや彼には罪の贖いたり得なかった。乞食が与えようとする祝福から、逃げるようにして離れたが、その乞食へ施しをしたことによって、せいぜい何がしかの現実的な聖寵をわが身にかち得ようと、疲れた思いで望むくらいであった。熱烈な信仰は全く失われてしまった。おのれの魂がみずから破滅を熱望するのを知っていながら祈ったとて、何の甲斐があろうか。自分が眠っている間に生命を奪い、慈悲を乞ういとまもないうちに、自分の魂を地獄へ投げこむことが神の力の中にあるとは知っていながら、ある誇りが、ある畏れがただ一回の就床の祈りすら神へ捧げることをおしとどめるのだった。罪の中にあっての自己の誇り、神に対する愛なき畏れが、お前の破戒はあまりにも邪悪なるがゆえに、すべてを見そなわし、知り給う天主へ偽りの礼拝を捧げたとて、全部にしろ一部にしろ、罪の贖いはゆるされないと告げるのであった。
――おいおい、エニス、断言するが、それでもお前に頭があるというのなら、わしのステッキにも頭はあるぞ! 不尽根数が何だか説明できんというのかね?
でたらめな答えが、同級の者たちに対する彼の侮蔑の燃えさしをかきたてた。他人に対しては恥も恐れも感じなかった。いつも日曜日の朝、教会へはいってゆきながら、脱帽をして四列になって教会の外に立ったまま、せめて心の中ででも、見ることも聞くこともできないミサに参列しようとしている礼拝者たちに、彼は冷やかな一瞥《いちべつ》をくれるのだった。彼らの愚鈍な敬虔さや、頭にぬっている安髪油のむかつくような臭いが、彼らの祈る祭壇に反撥をおぼえさせた。いとも容易に籠絡できそうな彼らの無邪気さに疑惑を抱きながら、他の人々の中にまじって偽善の悪に屈服していた。
彼の寝室の壁には飾り文字の巻物がかかっていた。聖母マリア信心会の学校《カレッジ》での監督の辞令だった。いつも土曜の朝にこの信心会の全員が礼拝堂に集まって小聖務日課を誦《とな》えるとき、彼の場所は、祭壇の右手のクッションのついたひざまずく台になっていて、そこから自分の側の生徒たちの唱導をして、応誦を行うのであった。こういう欺瞞的な自分の役目にも苦痛をおぼえなかった。たとえ、ときおりこの名誉ある位地から立ち上がり、皆の前におのれの価しないことを告白し、礼拝堂を立ち去る衝動をおぼえても、皆の顔をちらりと見ただけで、すくんでしまうのだった。予言についての詩篇のいろんな心像が彼のいたずらな驕《おご》りを鎮めた。聖マリアのもろもろの光栄が彼の魂を虜《とりこ》にした。彼女の王たる血統を象徴する甘松香《かんしょうこう》と没薬《もつやく》と乳香《にゅうこう》、世の人々の間にマリア讃仰が長い間に次第に高まってきたことを象徴する彼女の標章《エンブレム》、遅咲きの草と遅咲きの樹に魂を奪われた。礼拝の終りに近づき日課を読む番になったとき、彼は良心をその調べに合わせて眠らせながら、暖味な声でそれを読んだ。
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我はレバノンにある杉のごとく、シオンの山にある糸杉のごとく聳《そび》えたり。我はカデスにおける棕櫚《しゅろ》のごとく聳えたり、イェリコにおける薔薇の園のごとく、また野に立てる美しき橄欖《かんらん》の木のごとし、道の辺の水の滸《ほとり》なる楓の木のごとく聳えたり。我は肉桂と芳《かんば》しきバルサムとのごとく薫を放てり、選ばれし没薬《もつやく》のごとくゆかしき香を放てり(集会書二四・一七〜九)
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神の御姿を蔽いかくしてしまった彼の罪は、なおさらに彼を罪人らの避所《さけどころ》へ近づけた。聖マリアの瞳は柔和な憐れみをたたえて彼を見守っているかに思え、その神々しさ、そこはかとなき肉体の上に微かに輝やく妖しい光は、彼女に近づく罪人を恥ずかしめなかった。もしわが身から罪をふりすてて、悔い改めずにはおれない気持になったとすれば、彼を駆りたてた衝動はマリアの騎士になりたい願いであった。狂おしいまでの肉欲がおさまった後、もし彼の魂がおずおずと彼女の住所《すみか》に再びはいろうとして「明るく調和し、天を語り、平和を注ぐ」暁《あけ》の星を標章に持ちたもうマリアに頼ろうとすることがあれば、それは汚らわしい恥ずべき言葉、淫らな接吻の味そのものがまだ残っている唇によって、マリアの御名がそっとつぶやかれる時であった。
これは不可解だった。こういうことがどうしてあり得るのだろうかと、彼は考えようとした。だが教室の中に深まってゆくたそがれが、彼の思念に暗く覆いかぶさった。鐘が鳴った。教師はつぎの授業にやる計算問題のやる個所とやらぬ個所とを指示して出ていった。スティーヴンの脇にいたヘロンが調子はずれにうなり始めた。
わが畏るべき友ボンバドスよ
校庭に行っていたエニスがこう言いながら戻ってきた。
――学校の給仕が校長を呼びにやってきたぞ。
スティーヴンのうしろにいた背の高い生徒が、両手をこすり合わせて言った。
――そいつはうまいぞ。たっぷり一時間は遊べるな。校長は二時半すぎまでは、やってこないね。やってきたら君が公教要理について質問でもすりゃいいんだ、ディーダラス。
椅子の背にもたれかかってぼんやりと雑記帳に書きちらかしながら、スティーヴンは周囲の話に耳を傾けていた。ヘロンがときおり話の邪魔をいれた。
――うるさいぞ。よさないか、そんなにぎゃあぎゃあ騒ぎたてるのは!
教会の教理の厳しい一句一句を究極までつきつめ、幽玄の沈黙の世界に感徹することに何か味気ない歓びを見出すのは不可解だったが、その結果はただおのれの罪の宣告を聞き、それだけになお、その断罪を強く感じるばかりであった。律法《おきて》の一つにつまずくものはすべてを犯したものとなるという聖ヤコボの言葉も最初、自分自身の心の闇の中で摸索し始めるまでは誇張した文句のように思えたのだった。色欲の悪の種子から他のあらゆる恐ろしい罪が生じたのだ。その罪とは、おのれへの誇りと他人への侮蔑、不埒《ふらち》な快楽を買う金銭を使うことへの切望、自分にはとうてい及ばぬ放埒をなし得るものたちへの羨望、敬虔な人々への讒謗的《ざんぼうてき》なつぶやき、貪婪《どんらん》な食の享楽、おのれのはげしい欲望に思い悩むうちに湧き起こる暗い険悪な形相の怒り、おのれのすべてを沈めてしまった心身の懶惰《らんだ》な沼。
椅子に腰をかけて校長の鋭敏な厳しい顔を静かに見つめながら、彼の思考はみずからに提出した奇妙な疑問にはいりこんだり出たりして思い迷っていた。もし人が若い時に一ポンドの金を盗んで、その一ポンドを利用して巨富をつんだとしたら、その人はいくら返済しなければならないか。盗んだ一ポンドだけでいいか、あるいはそれが生んだ複利と合わせてその一ポンドを返すべきなのか、それともその巨富を全部返さなければならないのか? 洗礼を授けている際に、もし司祭でない平信徒が、授ける言葉を言わぬ先に水をそそいだとしたら、その子供は洗礼を受けたことになるか? 洗礼は鉱泉水でもかまわないのか? 第一の聖福音〔山上の垂訓の八つの幸福の第一〕は心の貧しい者に天国を約束しておきながら、第二の聖福音も柔和なる人、彼らは地を得べければなりと約束しているのはいったいどういうことになるのか? もしイエズス・キリストが体と血、霊と神性とをもってパンだけの中に、また葡萄酒だけの中に在り給うのならば、なぜ聖体拝領の秘蹟はパンと葡萄酒の二種類のもとに定められたのか? 聖変化したパンのごく小さな一かけらにイエズス・キリストの体と血の全部を含んでいるのか、それとも体と血の一部分だけを含んでいるのか? もし聖変化された後で葡萄酒が酢《す》になり、パンが腐ってぼろぼろになっても、やはりイエズス・キリストは神として、また人としてその二種のもののもとに在り給うのか?
――きたぞ! きたぞ!
窓際で見張っていた一人の生徒が学寮から出てくる校長の姿を見たのだ。いっせいに公教要理の本が開かれ、いっせいに頭が黙々としてその上にたれた。校長がはいってきて、教壇の席についた。うしろの椅子の背の高い生徒がそっとスティーヴンを蹴って、難かしい質問をしろとうながした。
校長は公教要理の復習をしなかった。机の上に両手を重ねて、言った。
――聖フランシスコ・ザベリオを記念して水曜日の午後から静修が始まります。御聖人の祝日は土曜日になります。静修は水曜から金曜までつづきます。金曜日にはロザリオの祈りのあと、午後を全部つかって告解の聴聞があります。もし諸君の中に特に聴罪司祭をきめているものがいたら、その人たちは変えないほうがよかろう。ミサは土曜日の朝の九時に行われ、全校のための一般聖体拝領となっております。土曜日は授業はない。しかし土曜と日曜が休みだから月曜日も休みだろうとうっかり考えるものが中にはいるかもしれない。そんな間違いをせぬように気をつけてもらいたい。ローレス、君はどうもそんな間違いをやりそうだな。
――ぼくがですか、先生。どうしてです、先生?
校長の薄気味わるい微笑から教室中に静かなさざめきの小さい波がひろがった。スティーヴンの心はしぼむ花のように、不安のためにちぢまり、しぼんでいった。
校長は荘重につづけた。
――諸君の学院の守護者、聖フランシスコ・ザベリオの生涯については皆よく知っていることと思う。聖人は古いスペインの名門の出であられ、聖イグナチオの最初の弟子の一人であられたことは諸君も憶えているでしょう。お二人はフランシスコ・ザベリオが大学の哲学教授をしておられたパリでお会いになった。この若き秀でた貴族の学者は全心全霊をわれらの光栄ある創設者に打ちこまれたのです。そしてご承知のとおり、彼はみずから願ってインドヘの布教のため聖イグナチオよりつかわされたのであります。彼は諸君も知ってのように、インド諸国の使徒と呼ばれた。彼は東洋の国々、アフリカからインドヘ、インドから日本へと人々に洗礼をほどこしつつ廻られた。一カ月の中に一万人もの異教徒に洗礼を授けられたといわれております。彼の右腕は洗礼を授けられた人々の頭の上にそれほどたびたびあげられたので、利かなくなったともいわれております。さらに彼は天主のためになお多くの魂を得んがために、中国へ行くことを願われたのですが、熱病のため三州島《サンシアンタオ》で亡くなられたのであります。偉大なる聖人、聖フランシスコ・ザベリオ! 偉大なる天主の兵卒《つわもの》!
校長は間をおき、やがて前に組み合わせた手をふるわせて言葉をつづけた。
――彼は山をも移す信仰を持っておられた。わずか一カ月のうちに一万の魂を天主のためにかち得られた! これこそ真《まこと》の征服者、わが修道会の標語「より大いなる神の光栄のため」にかなうのであります! 天に偉大なる力をもち給う聖人ですぞ、憶えておきなきい。われらが悲しめるときわれらのために憐れみを乞うて下さる力、われらが魂のためとあるならば、われらが祈り求めるものを何でもかなえて下さる力、なかんずく、われらが罪を犯せるとき、悔い改める聖寵をわれらのために得て下さる力である。偉大なる聖人、聖フランシスコ・ザベリオ! 偉大なる魂の漁人《すなどりびと》!
彼は組み合わせた手をふるわせるのをやめ、額にあてて、その暗いきびしい眼から左右をのぞき、聴きいっているものたちを眺めやった。
沈黙の中にその両眼の暗い炎が夕闇を黄褐色にぱっと明るく光らせた。スティーヴンの心は、遠くから吹きよせてくる熱風を感じる砂漠の花のようにしぼんでしまった。
――ひたすら汝の四終を記憶せよ、然らば永久に罪を犯すことなかるべし――わが親愛なるキリストにおける兄弟たちよ、これは伝道之書、第七章四十節からの言葉であります。聖父《ちち》と聖子《こ》と聖霊との御名によりて。アーメン。
スティーヴンは礼拝堂の前列の椅子にかけていた。アーノール神父が祭壇の左手の卓に向ってかけていた。彼は肩に重い外套をかけていた。感冒のためにその蒼ざめた顔はひきつり、声はかれていた。実に不思議にもここによみがえった彼の旧師の姿が、スティーヴンの思いをクロンゴウズ時代の生活につれ戻した。生徒たちがむらがっている広い運動場、四角な下水溜、自分がそこに埋葬されるのを空想したライムの並木の本道路からそれたとこにある小さな墓地、病気で寝ていた衛生室の壁にうつった火影、マイクル助修士の悲しそうな顔。彼の魂は、こうした思い出がよみがえってくると、再び子供の魂に返った。
――私たちが本日ここに集《つど》いましたのも、キリストにおけるわが親愛なる小さき兄弟よ、俗界のあわただしい喧騒からしばしの間遠くはなれて、最も偉大なる聖人の一人、インド諸国の使徒、また本校の守護聖人、聖フランシスコ・ザベリオをお祝いし記念せんがためであります。親愛なる諸君、諸君の中の誰もが思いだせないほど、いやこの私も思いだせないほどの永い間、年々、本校の生徒はほかならぬこの礼拝堂に集まって、この守護聖人の祝日の前に恒例の静修を行ってきました。時は絶えず進み、それと共にいろいろの変化をもたらしてきました。ここ数年のうちにすら、どんな変化があったか諸君の大部分は憶えておられないでしょう。数年前にそこの最前列にかけていた生徒たちの多くが、今はおそらく遠い地方に、焼けつくような熱帯にあるとか、あるいは職務に没頭し、あるいは神学校にあり、あるいは渺茫《びょうぼう》たる大洋を航海しているでありましょうし、あるいはすでに大いなる天主に召されてあの世へゆき、そのしもべたる職をお返し申し上げているかもしれません。それでも年の移りゆくにつれ、それと共に良きにつけ悪しきにつけ変化をもたらしながらも、この大聖人の追憶は彼の学院の生徒たちによって讃えられておるのでありまして、生徒たちは毎年われらの聖母なる教会によって設けられた祝日に先立つ数日間、恒例の静修を行って、カトリック教国スペインの最も偉大なる子の一人の名と栄誉とをあらゆる時代に伝えんとするのであります。
――さてこの静修《ヽヽ》という言葉の意味は何でありましょうか、またそれが神の御前にて、人々の眼から見て真にキリスト者らしい生活を送ろうと願うすべての人々にとって、いとも有益な慣習であると各人にみとめられているのは何故でありましょうか? 静修とは、みなさん、しばらくの間私たちの生活の労苦、あくせく働くこの世の煩わしさから離れて、私たちの良心の状態を吟味し、聖なる宗教の神秘に深く思いをいたし、何故私たちがこの世にあるかをさらによく理解せんがためのものであります。この数日間、私はみなさんの前に四終についての若干の考えをのべるつもりです。それらは、諸君が公教要理から知っておられるように、死、審判、地獄、それから天国のことであります。われわれはこの数日間それらを充分に理解して、その理解からわれわれの魂に永遠の恵みを得るように努めましょう。そしてわが親愛なる生徒諸君、われわれは一つのことのために、しかもただその一つのことのために、この世につかわされたのであるということを憶えておいていただきたい。すなわちそれは天主の聖なる御旨《みよし》を行い、われわれの不滅の霊魂を救うということであります。その他のいっさいは無価値です。一つのことだけが必要なのです。すなわち人の霊魂の救済であります。人、全世界を贏《もう》くとも、己が不滅の霊魂を損せば、何の益あらん(マルコ伝)です。ああ、わが親愛なる諸君、嘘ではありません、そういう損失をつぐない得るものは、この惨めな世には何もないのであります。
――ですから、諸君、どうか諸君はこの数日間あなた方の心から世俗的な考えを、勉強であろうと遊びであろうと野心であろうとすべて取り去って、諸君の注意をすべて諸君の魂の状態に集中していただきたい。いまさら諸君の注意をうながす必要もないと思いますが、静修の期間中は一人残らず静かな敬虔《けいけん》な振舞いを守り、騒々しい不体裁な遊びはすべて避けなければいけません。上級の生徒諸君は、言うまでもなく、この慣習が犯されぬように気をつけて下さい。また私は特にマリア信心会や天使信心会の監督生ならぴに役員の諸君が仲間の生徒たちにりっぱな模範を示すよう期待します。
――そこで私たちは聖フランシスコを記念するこの静修を私たちの心と思いの限りをこめていたしましょう。そうすれば天主の祝福がみなさんの一年中の勉強の上にあるでしょう。しかし、なかんずく、この静修を後年にいたって振り返ってみる時、おそらく諸君はこの学校から遠く離れて種々さまざまの境遇にあるでしょうが、悦びと感謝をもって振り返って眺め、敬虔なりっぱな熱烈なキリスト教徒の生活の最初の基礎を置くこういう機会を授けて下されたことを、天主に感謝をささげることができるようなものにしなければいけません。またもし、こういうことがあるかもしれないが、今この席の中に天主の聖寵を失い痛ましい罪に落ちたような言うべからざる不幸を味わっている哀れなる魂があれば、この静修がその魂の人生上の転期になるように私は熱烈に信じかつ祈るものであります。私は天主の熱心なる僕《しもべ》フランシスコ・ザベリオの勲《いさお》によってそのような魂が心からの悔い改めに導びかれ、今年の聖フランシスコの日の聖体拝領が天主とその魂との間の永遠の契約となるよう天主に祈ります。義にかなうものにもかなわざるものにも、聖者にも罪人にも等しくこの静修が忘れがたきものとなりますように。
――キリストにおけるわが幼き兄弟たちよ、私を助けてください。あなた方における敬虔な注意によって、あなた方自身の献身によって、あなた方の外部に現われる振舞いによって私を助けて下さい。あなた方の念頭からいっさいの世俗的な考えを追い払い、ただひたすらあの最後のこと、死、審判、地獄、天国に思いを凝らして下さい。これらのことを憶えている者は永久に罪を犯さざるべしと伝道之書は言っております。この最後のことを記憶するものは、常にそれらを眼の前に置いて行動し考えるでありましょう。その人はもしこの現世において多くを犠牲にしてすごせば、百倍も千倍も多くのものが来世において、終りなき王国において、与えられるということを信じかつ悟って、りっぱな生涯をおくり、りっぱな死をとげるでありましょう――みなさん、これこそ祝福であり、私はこれを心からみなさんの一人一人に、聖父《ちち》と聖子《こ》と聖霊との御名によりてこい願うのであります。アーメン!
黙りこくった友人たちと家へ帰りながら、濃い霧が彼の思いをつつんでいるかのようだった。彼はその霧が晴れて、覆いかくしていたものを見せてくれるのを茫然とした思いで待った。食べた夕食も砂をかむような味だった。食事が終って、脂だらけの皿が食卓にほうりだされているうちに、彼は立ち上って窓際へゆき、こってりついた渣《かす》を口から舌でぬぐいとり、唇についた渣を舌なめずりして取った。これでおれも食後に自分の顎を舌なめずりする獣の状態に落ちこんだ。これじゃおしまいだ、と思うと、不安のかすかな光が霧のかかつた彼の意識にさしこみ始めた。窓ガラスに顔をおしつけ、暗くなってゆく街路をじっと見つめた。人影があちこちへ薄明りの中を通っていた。そうだ、あれが人生なのだ。ダブリンという名の数文字が鈍重な田舎者の執拗さで互いに意地悪く互いに押し合い、へし合いして彼の心に重くのしかかってきた。彼の魂は肥り、凝固して、でぶでぶした脂肪の塊と化し、ぼんやりとした不安にひたりつつ、陰気な不吉な夕闇の中へと刻々に深く落ちこんでゆく一方、彼のものである肉体はもの憂げに汚辱にまみれて立ち、暗い眼で外を見つめ心細げに取り乱した人間として、瞳を凝らすべき牛神〔古代エジプトのアピス神か〕を探し求めた。
その翌日の説教では死と審判の問題が出て、彼の魂を無気力な絶望状態から徐々にゆり動かした。不安のかすかな光は、説教者のしわがれ声が彼の魂に死を吹きこむにつれて、精神の恐怖になってきた。彼はその苦悶を味わった。死の冷たさが手足に触れ、さらに心臓へと忍びよってくるのをおぼえ、死の膜が眼をぼんやりと蔽い、頭脳の明るいいくつかの中心は燈火のように一つ一つ消え、臨終の汗がじっとり肌ににじみで、死にのぞむ四肢はぐったりと力を失い、言葉は不明瞭になり、戸惑い、衰え、心臓の鼓動は力を失い、さらに微かになって、ほとんど打ち負かされんばかりとなり、呼吸、哀れな息づかい、哀れな頼りない人間の精神は、啜り泣き、溜息をつき、咽喉の中でごろごろと鳴っている。もう助からない! もうだめだ! 自分――自分自身!――自分が屈していた自己の肉体は今や死に瀕している。墓場へ行ってしまえ。そいつを、屍《しかばね》を木箱にでもつめて釘づけにしてしまえ。人夫どもの肩にかつがせて、そいつを家の外に運びだせ、そいつを人目につかぬ地下の長い穴に、墓場の中にほうりこんで、腐るままに、這いまわる蛆虫《うじむし》のかたまりの餌になるままに、こそこそ走りまわる大きな腹をしたねずみどもの貪り食うままに放っておけ。
友人たちがまだ涙を浮かべて寝台の側に立っている間に、罪人の霊魂は裁かれた。意識のいまわの際の一瞬に、現世の生活の全体が魂の眼の前をよぎり、反省するいとまもなく、肉体は死に、魂は裁きの座の前に恐れおののいて立つ。これまで長いこと情け深かつた神も今は厳正となる。神は罪深い魂に訴え、悔い改めの猶予を与え、なおしばしの容赦を賜って、長い間忍耐されてきた。だが、その時も過ぎてしまった。罪を犯し享楽に耽る時もあった、神を嘲り、神の聖なる教会の戒めを愚弄する時もあった、神の尊厳を侮り、神の命令にそむき、同胞を瞞着し、つぎつぎと罪を犯し、おのれの堕落を人目からかくす時もあった。だがその時も終った。今度は神の番である。しかも神を瞞着したり欺いたりすることはできない。かくてあらゆる罪がその隠れ場所から現われでる。神意に背く最も反逆的なる罪も、われわれの哀れな腐敗せる性質へと堕落する最も下劣なる罪も、きわめて些細なる欠点から極悪非道の罪もである。かくなっては偉大な皇帝、大将軍、驚嘆すべき発明家、学者中の最大の学者であったことが何の役にたつであろう。神の御裁きの前にあっては万人すべて同一である。神は善なるものにむくい、報償をあたえ給い、邪《よこ》しまなるものを罰し給うのである。一人の魂の裁きには、ただの一瞬間でことたりる。肉体の死後一瞬にして魂は秤《はかり》にかけられる。個々の裁きが終ると、魂は至福の住家《すみか》へ、あるいは煉獄へ移るか、さもなくば泣き叫びつつ地獄へ投げこまれてしまう。
それだけではない。神の正義はなお人々の前にも示されなければならぬ。個々の裁きの後に、なお全体の裁きが残っているのである。最後の日は来た。最後の審判の日は迫っている。天の星は無花果《いちじく》の樹の大風にゆられてその実の落つるごとく、地に落ちてくる。宇宙の大発光体たる太陽は荒き毛布のごとくなった。月は血のごとく赤くなった。天は巻物を捲くごとく去っていった。天軍の総帥、大天使聖ミカエルが威風|燦《さん》として空に現われた。片足を海の上におき、片足を地の上において彼は大天使のラッパから硬き響きをたてて時の死滅を吹き鳴らす、天使の三度び吹くラッパの響きは全宇宙に満ち満ちた。(このあたりはすべて「黙示録」より)時はいまあり、むかしありしが、もはや後にあることなかるべし。最後のラッパの響きに全宇宙の人間の魂は、富めるものも貧しきものも、貴きものも賎しきものも、賢きものも愚かなるものも、善なるものも邪しまなるものも、ヨシャパテの谷(ヨエル書)をさして押しよせる。かつて存在したあらゆる人の魂、なお後に生まれるべきあらゆる人の魂、アダムのあらゆる息子と娘たち、万人ことごとくがその終局の日に集まりつどうのである。見よ、至高の審士《さばきびと》は近づき給う! もはや謙遜なる「神の羔羊《こひつじ》」(キリストのこと)に非ず、もはや柔和なるナザレトのイエズスに非ず、もはや「悲哀《かなしみ》の人」(イザヤ書)に非ず、もはや「善き牧者」(ヨハネ伝)にも非ずして、大いなる権能と尊厳をそなえ、九階級の神の御使たち、すなわち天使および大天使、第五、第六、第七の各御使い、第三、第四の御使い、ケルビムおよびセラフィムなる御使いを従えられて、全能の神、永遠の神が雲の上に来り給うのが見える。神は告げ給う。その御声は天地のいかに遠き涯《はて》までも聞こえる。至高の審士《さばきびと》、その判決には上告はなく、またあり得ない。神は義なるものをその側に召し、神の国に、彼らのために備えられたる永遠の福楽に入れよと彼らに命じ給う。不義なるものを追い払い、怒れる厳かな声にて叫び給う「詛《のろ》われたる者よ、我を離れて悪魔とその使いらとのために備えられたる永遠《とこしえ》の火に入れ」(マタイ伝)おお、かくてこの惨めなる罪人たちには何たる苦悶であろうか! 友は友より引き裂かれ、幼な子らは親より引き裂かれ、夫は妻より引き裂かれる。哀れな罪人らはこの地上の世界において、おのれにとって親しかつたものたちへ手をさしのべるのである。おそらく彼が嘲弄の的にしたであろう素朴な敬虔《けいけん》の念をもっていた人々へ、彼に忠告し正道へ導きいれようとしてくれた人々へ、やさしい兄弟へ、いとしい姉妹へ、こよなく彼を愛した母と父へ。だがもう遅い。義なる人々は、今はもうあらゆる人の眼の前に凄惨な悪の姿となって現われるあさましい詛われた霊魂から、顔をそむける。おお、汝ら偽善者よ、おお、汝ら「白く塗りたる墓」(マタイ伝)よ、おお、汝らの内なる魂は汚れた罪の泥沼であるのに、にこやかな笑顔を世間に見せるものたちよ、その恐ろしい日にお前たちはどうなるであろうか?
しかもこの日はくるであろう、きっとくる、必ずくる。死の日、審判の日は。人は死ぬると定められており、死後は裁きを受けると定められている。死は確定している。その時と死に方とはきまっていない。長患いによることもあろうし、不慮の事故によることもあろう。「神の子」は諸君の思いもよらぬ時に来たり給うのである。故にいついかなる時に死んでもいいように、いかなる時にも、心構えをしておかなければならぬ。死はわれわれすべてのものの終りである。われらの最初の祖先の罪によってこの世に来たらされた死と審判とは、われわれの地上の存在を閉ざす暗い門である。未知にして未見のところへ通じる門、あらゆる霊魂が孤独で、おのが善き行いによる以外に助けを得られず、力をかす友も兄弟も親も師もなくして、ただ独り、震えおののきつつ、くぐらねばならぬ門である。そういう思いを常にわれわれの念頭におくようにしよう。そうすればわれわれは罪を犯せないはずである。罪人にとっては恐怖の原因である死も、人生のおのが持ち場の務めを果し、朝夕の祈りに精進し、しばしば秘蹟を受け、情け深い善行をつとめて正しい道を歩んできた者には、祝福される瞬間なのである。敬虔にして信仰あつきカトリック教徒にとっては、義なる者にとっては、何一つ恐怖の原因はない。臨終の床にあった時、キリスト者がその最後をいかに迎え得るかを見せんがために、かの邪《よこ》しまなる青年ウォリック伯〔イギリスの軍人・政治家〕を呼びよせたのは、かの優れたイギリスの文人アディソンではなかつたか。敬虔にして信仰あつきキリスト教徒、その人こそ、またその人のみが、心の中で、こう唱え得るのである。
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死よ、なんじの勝は何所《いずこ》にかある
死よ、なんじの刺《はり》は何所にかある
(コリント前書)
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その一語一語が彼のためのものであった。彼の汚れた秘密の罪に向って、神の怒りのすべてが向けられたのだ。説教者の刃《やいば》は彼のあばかれた良心の中深くにえぐりこみ、彼はいま自分の魂が罪に膿みただれているのをおぼえた。そうだ、説教者の言うとおりだ。神の番がきたのだ。巣窟の中の獣のように、彼の魂は自分の汚物の中に寝ころがっていたのだが、天使の吹き鳴らすラッパの響きは彼を罪の暗黒から明るみに追いだしたのだ。天使により叫ばれた断罪の知らせは一瞬にして彼の思い上がった、平和を粉砕した。最後の日の風は彼の心を吹きぬけ、彼の罪、想像の中にある宝石のような瞳をした淫婦どもは旋風に追われて逃げだし、恐怖のあまり、ハツカネズミのごとく悲鳴をあげ、たてがみのごとく髪を振りたてて潰走《かいそう》した。
家路へつきながら四つ辻広場を横切っていると、若い女の明るい笑い声が彼のかっと燃えたつ耳に達した。脆《もろ》い華やいだ声はラッパの響きよりも強く彼の心を打った。眼をあげる勇気もなく彼は脇にそれ、歩きながら生い茂った灌木のかげを見つけた。慚愧《ざんき》の思いが打ちのめされた心から湧き起こり、全身に溢れだしてきた。エマの映像《イメージ》が眼の前に現われた。彼女に見すえられると、またも新たな恥ずかしさがどっと心から溢れでた。自分が心の中で彼女をどんな目に会わせたか、あるいは自分の獣的な欲望が、彼女の純潔をどう引き裂き蹂躙《じゅうりん》したかを、もし彼女が知ったら! あれが少年の恋か? あれが騎士道的精神なのか? あれが詩なのか? 自分の悦楽の不潔な細部が鼻の真下で悪臭を放った。暖炉の煙道の中にかくしておいた煤《すす》だらけの包みの絵、それらの絵の恥ずかし気もない、顔のあかくなるような淫らさを前にして思考と行為の罪を犯し、何時間も寝ころがっていたこと。猿に似たものや、きらきら光る宝石のような瞳をした娼婦たちのたかっている奇怪な夢。罪な告白の歓喜にひたりつつ、汚らわしい長い手紙を書いて、それを何日もひそかに持ち歩いたこと、それもただ若い女が通りがかりにふと見つけて、こっそり読んでくれそうな空地の角の草むらや、蝶番《ちょうつがい》のない扉の下や、どこかの生垣のくぼみに夜陰に乗じて突っこんでおくためだったこと。気違いだ! 狂気の沙汰だ! こんなことを本当に自分がやったのだろうか。汚れたいくつもの記憶が頭の中に凝縮してくると、冷たい汗が額にふきだしてきた。
慚愧《ざんき》の苦悶がすぎ去ると、彼は自己の魂をその情けない無力なざまから引きあげようと努めた。神も童貞マリアも彼からは遠すぎた。神はあまりにも偉大であり厳しく、童貞マリアはあまりにも清く神聖だった。だが彼は自分が広々とした地に、エマの傍らに立ち、謙虚に涙をたたえ、身をかがめて彼女の袖の肘に接吻しているさまを想像した。
薄緑の天の海原を一片の雲が西へ流れてゆくやわらかな澄んだ夕空の下の広々とした地に、彼らは、過ちを犯した子供たちは、一緒に立っていた。彼らの過ちはたかが二人の子供の過ちではあっても、神の霊威を深く傷つけたのだ。けれど、それは「見て危《あやう》き地上の美に非ずして、汝の標章たる暁の星のごとく、明るく調和する」聖母の心は傷つけなかつた。彼に向けられた聖母の瞳には怒りも非難の色もなかつた。彼女は二人の手を取らせ、二人の心に向って語るかのように言った。
――手をおとりなきい、スティーヴンとエマ。いま、天は美しい夕べです。あなた方は過ちを犯しましたが、あなた方はいつまでもあたしの子供です。一つの心が、いま一つの心を愛すのです。一緒に手を取りあっていらっしゃい、あたしの可愛い子供たち、そしたらあなた方は共に幸せになります。あなた方の心はお互いに愛しあうでしょう。
礼拝堂には、下ろされた日除けからもれてくる鈍い紅《くれない》の光がみなぎっていた。日除けの端と窓枠の間の隙間から、蒼ざめた一筋の光線が槍のようにさしこんで、祭壇の燭台の浮彫のある真鍮にあたって、天使たちの、戦いにいたんだ鎧を思わせる光を放っていた。
雨が礼拝堂に、校庭に、校舎に降りそそいでいた。雨は音もなく永遠に降るだろう。水嵩《みずかさ》はじりじりと増し、草も茂みをも覆いかくし、樹々も家をも覆いかくし、記念碑も山の頂をも覆いかくすだろう。生あるものすべては声もあげずに窒息して死んでしまうだろう。鳥、人間、象、豚、子供たち。ごった返す世界の破片の中に音もなく浮かんでいる屍。四十日、四十夜、水が地球の表面を覆いかくすまで雨は降りつづくであろう。
そういうことがあるかもしれない。ないとどうして言えようか。
――「陰府《よみ》はその欲望《のぞみ》をひろくし、その度《はか》られざる口をはる」――キリスト・イエズスにおけるわが親愛なる小さき兄弟らよ、これはイザヤ書第五章第十四節による言葉です。聖父《ちち》と聖子《こ》と聖霊との御名によりて。アーメン。
説教者は法衣の内ポケットから鎖のついていない時計を取りだし、ちょっと黙りこんで文字盤を見つめて、それを静かに説教台の前方においた。
彼はやおら静かな口調で語りだした。
――みなさん、アダムとエバはご承知のとおり、われわれの最初の親でありました。またみなさんも憶えていると思うが、彼らは「ルシフアー」(イザヤ書)とその不逞《ふてい》なる天使らが天より隕《お》ちて空席となっていた天上の座を再び充たすため、天主によって造られたのでした。ルシファーは朝《あした》の子といわれ、燦然と輝やく力強い天使だったそうですが、それでも彼は天より隕《お》ちると、それと共に天軍の三分の一が隕ちたのです。彼は隕ち、彼の反逆の天使らと共に地獄に投げこまれました。彼の罪がいかなるものであったか、私どもにはわかりません。神学者たちはそれを高ぶりの罪、non serviamすなわち「我は仕えず」という瞬時にして心に抱く罪深い考えと見なしております。その瞬間が彼の破滅だったのです。彼は天主の尊厳を一瞬の罪にみちた考えによって傷つけ、天主は彼を永劫《えいごう》に天より地獄に投げこまれたのでした。
――やがてアダムとエバが天主により造られ、ダマスコの町のエデン、うっそうと草木茂る、陽光と色彩と目も眩《まば》ゆいかの美わしき園に置き給うたのです。豊饒《ほうじょう》な大地は彼らに大地の恵みを与えました。獣や鳥はよろこんで彼らに仕えました。彼らはわれらの肉につきまとう禍、病気や貧困や死というものを知りませんでした。偉大にして寛大なる天主は彼らのために能うる限りのあらゆることをされた。だが天主から彼らに課せられた条件が一つありました。すなわち、天主の命に従うということであります。彼らは禁断の木の実を取って食うのを許されなかったのです。
――遺憾ながら、みなさん、彼らもまた堕ちたのです。かつては光輝|燦《さん》たる天使、あしたの子、今は汚らわしき魔性たる悪魔が野の諸《すべて》の獣の最も狡猾《さか》しきものたる蛇の姿になってやってきました。彼は彼らを嫉《そね》みました。堕ちた大いなるものたる彼は、おのれの罪により永久に失った相続分を、土で造られた人間が所有するなどとは、と思うと我慢ができなかつたのです。彼は弱き器《うつわ》(ペテロ前書)たる女のもとにきて、雄弁の毒を彼女の耳にそそぎこみ、約束したのです――おお、その約束は真に天主を恐れぬものでした――もしお前とアダムが禁断の木の実を喰らえば、お前たちは天主のごとくなる、否、天主そのものになるといったのです。エバはこの大誘惑者の奸計にのりました。彼女はりんごを食べ、彼女をしりぞける道徳的勇気のなかったアダムにもそれを与えました。サタンの毒の弁舌はその効目《ききめ》を現わしたのです。彼らは堕落したのです。
――と、その時、天主の御声がその楽園に聞こえ、御自らの創造物たる人間の責任を問われたのです。かくして、天軍の総帥たるミカエルが手に炎の剣をもち、罪を犯した両人の前に現われ、彼らをエデンよりこの世界へ、疾病と苦闘、冷酷と失意、労役と苦難の世界へ、彼らの額に汗して食を得るよう追い出されたのです。だが、その時でさえも天主は何と慈悲深くあられたことでありましょうか! 天主は堕落したわれらの哀れなる親に憐れみをかけられ、時が満つれば彼らを贖《あがな》う御方を天より降しつかわして、いま一度彼らを天主の子、天国を継ぐ者たらしめんと約束されたのです。そしてその御方、堕落した人間の償い主こそ「神の御独子《おんひとりご》の御子《おんこ》」「至聖なる三位一体の第二位のペルソナ」「永遠の言《ことば》」となられるのでありました。
――彼は来たり給うたのです。彼は清き処女、童貞なる御母マリアより生まれ給うたのです。彼はユダヤの貧しき厩《うまや》にて生まれ、御使命の時のいたるまで三十年の間、賤しき大工として送られたのです。やがて人間への愛に満ちあふれて彼は出《い》でゆき、新しい福音《ふくいん》を聞けと人々に呼びかけ給うたのです。
――世の人々は耳を傾けたでありましょうか。そう、耳は傾けたが、聞きいれようとはしなかったのです。彼は捕えられ、普通の罪人のように縛られ、愚か者と嘲けられ、悪名高い盗賊にゆずるためにしりぞけられ、五千|度《たび》鞭打たれ、茨《いばら》の冠をかぶせられ、ユダヤの暴徒やローマの兵卒らに街を引きまわされ、その衣をはぎとられ、絞首台にかけられ、その脇腹を槍にてつらぬかれて、われらが主の傷つけられた体からは水と血が絶え間なく流れ出《い》でたのであります。
――しかもその時にあっても、この上ない苦しみの時にあっても、われらが仁慈なる贖い主は人類に憐れみをかけ給いました。しかもそこに、カルワリオの丘の上にて彼は黄泉《よみ》の門はこれに勝たざるべし(マタイ伝)と約束されている聖なる公教会を建てられたのであります。彼はそれを「とこしえの巌」(イザヤ書)の上に建てられ、それに主の恩顧、秘蹟と犠牲《いけにえ》を授けられ、もし人々が主の教会の御言葉に従うならば、彼らは永遠《とこしえ》の生命《いのち》(マタイ伝)に入るであろう、だがあらゆることを彼らのためにしてやっても、なおあくまで悪にとどまっているならば、その人々には永劫の責苦、すなわち地獄があるのみだと約束されたのであります。
説教者の声が低くなった。彼は言葉をやめ、ちょっとの間、合掌し、やがてまた語りはじめた。
――さて、ここでしばらくの間、怒り給うた天主の報いとして、罪人の永劫の刑罰のため特に作りだされたあの呪われたる者の住家の実相を、われわれのできる限り、思い描いてみましょう。地獄は狭くて暗い悪臭をはなっている牢獄であり、悪鬼や浮かばれぬ亡霊の住家であって、炎と煙が充満しております。この牢獄の狭苦しきは天主の法《おきて》に縛られることを拒んだ者たちを罰せんがために、わざわざ天主によってもくろまれたのです。この地上の牢獄では、四方を壁にかこまれた獄房の中とか、牢獄の陰気な中庭とかにすぎないとしても、哀れな囚人には少くともいくらかでも身を動かす自由があります。地獄ではそうではない。そこでは詛《のろ》われた者の数の多いため、囚人たちはその恐ろしい牢獄の中にごっちゃに積み重ねられ、その四壁は厚さ四千マイルもあると言われております。そして詛われた者たちは完全に縛りあげられて、どうしようもないため、福楽の聖人、聖アンセルモ〔イタリア出身の神学者、のちにカンタベリ大司教〕が喩《たと》えに関するその著書の中で書いているように、彼らは眼を喰《くら》う蛆虫を取りのけることすらできないのです。
――彼らは外も闇であるその中に横たわっております。なぜなら、忘れてはなりませんぞ、地獄の火は少しも光をださないからなのです。天主の命によってバビロンの炉の火焔はその熱を失ったが、その光は失わなかった(ダニエル書)のですが、それと同じく天主の命によって、地獄の炎はその熱の強烈さをたもったまま、永劫にわたって闇の中で燃えさかっているのです。それは燃える硫黄《いおう》の暗い炎と黒い煙の永遠にやむことのない闇の嵐であり、その真っ只中に屍体がわずかな空気のはいるすきまさえなく累々とつみ重ねられているのです。パロ〔古代エジプト王の称=ファラオ〕の国を襲ったあらゆる災《わざわい》のうちで、ただ一つの災のみが、すなわち黒闇《やみ》の災が恐ろしかったといわれております。しからば、三日の間だけではなくして未来永劫につづく地獄の闇を何と呼んだらいいでしょうか?
――この狭苦しい暗黒の牢獄の恐怖は、そのすさまじい悪臭のために、いよいよつのります。あらゆる「世の塵芥《あくた》」(コリント前書)世界中の屑や滓《かす》は、最後の審判の日の大業火が世界を浄める時に、悪臭をはなつ巨大な下水へ向うがごとく、地獄へ流れこむであろうといわれております。途方もない量をなして燃えている硫黄もまた、その耐えがたい悪臭を地獄一面にみなぎらせております。また詛われた人々の屍体そのものが、まことに厭な臭気を発しているために、聖ボナヴェントゥラ〔イタリアのスコラ派神学者〕が言われていますように、その屍体の一つだけでも世界中に臭気をしみこませるにたるでありましょう。この世の空気、あの清らかなものですら、長いこと閉じこめておけば、汚れて、息ができなくなるものです。しからば地獄の空気が当然どんなに汚れているかを考えてごらんなさい。墓の中で腐ってくずれてゆく醜悪な、異臭を放つ屍体、どろどろに腐敗してジェリーのようになっている塊りを想像していただきたい。そのような屍体が炎の餌となり、燃えさかる硫黄の炎にのまれ、嘔吐を催すような、厭わしい腐敗の濛々《もうもう》と息づまるごとき煙をあげているさまを想像されたい。さらにまた、この胸のむかつくような異臭が、むっと鼻をつく悪臭の暗黒の中に何百万何千万と一塊りになった臭い死骸、いわば巨大な人間の腐敗菌のため、何百万倍、何千万倍と強くなっているのを想像されたい。こういうことをすべて想像してみれば、地獄の悪臭の恐ろしさがいくらかおわかりになるでありましょう。
――しかしながらこの悪臭も、実に恐ろしいものではあるが、詛われたものたちが受ける最大の肉体的苦しみではないのです。火責めの苦しみはかつて暴君がおのれの同胞に負わせた最大の苦しみであります。諸君の指を蝋燭の炎にちょっとでもいれてみたら、火の苦痛がわかるでしょう。だが、この世の火は天主によって人間のために、すなわち人間のうちに生命の火花をたもち、人間の有用な工《わざ》を助けるために創られたのであります。しかるに地獄の火はこれと性質を異にし、悔い改めぬ罪人を苦しめ罰するため、天主により創られたのです。わが地上の火はまた、それが襲う対象の可燃性の多少によって速く燃焼したり遅く燃焼したりする。そこで人智はその燃焼作用を抑えるというか、あるいは食いとめる化学薬剤を発明することに成功さえしたのであります。ところが地獄の中で燃える硫黄は、言語に絶する激しさをもって永遠に永劫に燃えつづけるよう特に工夫されているのであります。さらに、わが地上の火は燃えると同時に破壊してゆきます。だから火勢が強ければ強いだけ、その燃える時間もみじかくなる。だが地獄の火はつぎのごとき性質を持っている。すなわちそれは、その燃やすものを保存するのであって、信じがたいほどの激しさで燃え狂っても、それは永劫に燃えくるめくというのである。
――わが地上の火はまた、いかにそれが猛烈であろうと、あるいは大きく燃えひろがろうと、いかなる時でも、ある限られた範囲であります。しかるに地獄にある「火の池」(黙示録)は涯しがなく、岸辺もなければ底もない。悪魔自身がある兵卒から問われた時に、もし山全体が燃えさかる地獄の火の海に投じられたら、一瞬にして一片の蝋のごとく燃えつきてしまうであろうとみとめざるを得なかった、ということが記録に見えます。しかもこの恐ろしい火は詛われたるものたちの体の外側から苦しめるばかりか、浮かばれぬ霊魂の一つ一つが一個の地獄そのものとなり、無限の火はそれの中枢器官の中で猛り狂っているのであります。おお、そういう悲惨なものたちの運命はなんと恐ろしいものでありましょうか! 血は血管の中で沸々《ふつふつ》とたぎりたち、脳髄は頭蓋骨の中で沸騰し、胸の心臓は真赤に燃えて破裂し、腸は燃えているどろどろした赤熱の塊りとなり、やわらかな眼球は熔解した玉のごとくに火焔をあげている。
――しかもこの火の力と性質と涯しのなさについて私がお話ししてきたことも、その火の猛烈さ、魂と体とを等しく罰せんがために、神意により選ばれた手段として、それが有している強烈さに比べれば、ものの数ではありません。それは天主の瞋恚《しんい》から直かに生ずるのであって、それ自体の活動で作用するのではなく、天主の復讐の手段として作用するのであります。洗礼の聖水が身と共に魂を清めるように、刑罰の炎は肉と共に霊を苦しめるのです。肉のあらゆる感覚が苦しめられ、しかもその上に霊のあらゆる機能も苦しめられるのです。眼は見とおせぬ真の闇により、鼻はむっとする臭気により、耳は悲鳴と叫喚と呪詛により、味覚は不潔なるもの、癩病のごとき腐敗、なんともいえない息の詰るような汚らしいものにより、触感は赤熱した突き棒や大釘により、残忍な炎の舌により、苦しめられる。こうして、五感のいろんな責苦をとおして不滅の霊魂は、尊厳を傷つけられた全能の天主によって深淵に火を点ぜられ、天主の怒りの息によって煽られて永劫に消えず、いよいよ猛威を加えて延々と広く燃えさかる火の真っ只中で、永遠にその真髄まで苦しめられるのであります。
――最後にこの陰府《よみ》の牢獄の責苦は、詛われたるものたち自身の仲間によっても加えられるということを考えてみましょう。地上の悪しき仲間は甚だ有害なので、植物は、まるで本能的にするかのように、おのれに致命的であるとか有害なものは何であろうと、これと一緒になることを避けます。地獄にあってはあらゆる法則が覆《くつが》えされるのです――家族とか国家、絆《きずな》とか縁戚とかの考えはさらにありません。詛われたるものらは互いに怒号と悲鳴を交し、彼らの苦悶と狂暴は、自分たちと同じように、悶え苦しみ猛り狂っているものたちの存在によってはげしくなる。人間的な感覚はすべて忘れ去られているのです。苦悶する罪人の咆哮《ほうこう》は巨大な深淵のどんな遠くの隅々にもあふれている。詛われたるものらの口は天主への冒涜《ぼうとく》と、共に苦しんでいる仲間への憎悪と、罪の共犯者であったところの霊魂への呪詛とに溢れているのであります。昔は、近親殺し、おのれの父親に向って殺人の手をふりあげた者は、雄鶏、猿、蛇をいれた袋に入れて海の深所《ふかみ》へ投げこんで、これを罰するのが風習でありました。現代にあってはいかにも残酷にみえるこういう掟を制定した立法者たちの意図は、有害にして憎むべき獣と一緒にして犯罪者を罰するためだったのであります。だが、地獄の詛われたるものらが、おのれの罪を幇助《ほうじょ》し教唆《きょうさ》した者たち、彼らの言葉がおのれの心中に邪《よこ》しまな考えや、邪しまな生活の最初の種子を播いた者たち、おのれを罪に導びいた慎しみなき暗示を与えた者たち、おのれを徳の道から誘惑し唆《そその》かした瞳をした者たちを、共に悲惨な目にあっている仲間の中に見た時、その干からびた唇と痛む咽喉から爆発する呪詛のはげしさと比べれば、それらもの言わぬ獣の狂暴さなど何でありましょう。詛われたるものらはその共犯者どもに食ってかかり、彼らを責め、彼らを呪う。だがそんなことをしても、どうしようもなく絶望である。もう今さら悔い改めるには遅いのです。
――一番最後に、そういう詛われた霊魂にとって、誘惑したものも、されたものも等しく、悪魔と共にあることの恐ろしい責苦を考えてみましょう。悪魔は詛われたるものらを二様に、すなわち、悪魔の存在とその凌辱とによって苦しめるのです。これらの悪魔がどんなに恐ろしいものであるか、われわれにはとうてい考えられません。シエナの聖カタリナ〔十四世紀のイタリアの聖女〕はかつて悪魔を見て、つぎのように記しておられます。たとえ一瞬たりとも再びあのような恐ろしい怪物を見るくらいなら、いっそわが生命の果てるまで真赤に焼けた炭の道を歩いたほうがましであると。かつては美しい天使だったこれらの悪魔は、かつて美しかっただけにそれだけ忌わしく醜悪になっているのです。彼らは彼らが破滅に引きずりこんだ浮かばれぬ霊魂を嘲り愚弄する。地獄において良心の声となるものは、すなわち彼ら、この汚らわしき悪鬼なのです。なぜお前は罪を犯したのか? なぜお前は友人の誘惑に耳をかしたのか? なぜお前は敬虔な行い、善き働きから脇へそれたのか? なぜお前は罪の機会を避けなかったのか? なぜお前はあの悪い仲間から去らなかったのか? なぜお前はあの下劣な習慣を、あの不浄な習慣を棄てなかったのか? なぜお前は聴罪師の忠告に耳を傾けなかったのか? なぜお前は、初めて、あるいは二度、三度、四度、あるいは、百度もつまずいた後も、おのれの悪習を悔い改め、お前の罪を赦そうとしてひたすらお前の悔悟を待っていられた天主を、頼らなかったのか? 今はもう悔い改める時は過ぎてしまった。時は今ある。過去にもあった。だがもはや今後にはないであろう! ひそかに罪を犯し、かの懶惰と傲《おご》りに耽り、不法なるものを切望し、自己の劣情の刺激に負け、野獣のごとき、否、少なくとも野獣はただ獣にすぎずして、おのれを導びく理性を持たざるが故に、その野獣よりもさらに悪い生活をした時があった。時はあったのである。だがもう今後はない。天主はお前に向ってさまざまの声で語り給うたのに、お前は聞こうとしなかった。お前はお前の心の中にある高慢と怒りをたたきつぶそうともしなかった。お前はあの不正によって得た財貨をかえそうともしなかった。お前はお前の聖なる教会の戒めに従おうともしなければ、信仰の勤めに心を向けようともしなかった。お前はあの邪しまな仲間を棄てようともしなかった。お前はあの危険な誘惑をさけようともしなかった。こういうのが、かの鬼畜の拷問者の常套語、嘲弄と叱責の言葉、憎悪と嫌悪の言葉であります。嫌悪、そうです! なぜなら、彼らですら、他ならぬかの悪魔ですら、彼らが罪を犯したときには、ほかでもない、ただかような天使の性質と合致し得るごとき罪、すなわち知性の反逆、によって罪を犯したからであります。そして彼らは、彼らですら、汚らわしい悪魔ですら、堕落した人間が聖霊の神殿《みや》を侵し、汚し、みずからを汚し、堕落せしめるかの言語道断な罪の凝視から、不快と嫌悪のあまり、顔をそむけずにはおれないのです。
――ああ、キリストにおけるわが親愛なる小さき兄弟らよ。どうかそのような言葉を聞くことが、けっしてわれわれの運命になりませんように! 断じてそれがわれわれの運命にならぬように! 恐ろしい清算の最後の日に、今日、この礼拝堂にいる人々のうち唯の一人の霊魂も、偉大《おおい》なる審士《さばきびと》がその視界より永遠に去れと命じ給うあの悲惨なものたちの中に、見いだされることのないように、われわれの中の一人も「詛われたる者よ、我を離れて悪魔とその使いらとのために備えられたる永遠《とこしえ》の火に入れ」という恐ろしい棄却の宣告が、その耳に鳴り響くことのないよう、ひたすらわたしは天主にお祈りいたします。
彼は礼拝堂の側廊をさがっていった。その足はがくがくわななき、頭の皮はまるで幽霊の指にさわられでもしたかのようにぴくぴく震えていた。階段を昇り、廊下にはいりこんだ。その両側の壁には、外套や雨合羽がまるで絞首台につるされた悪人のように、首がなく、雫をぽたぽた垂らし、ぶざまな恰好でかかっていた。一足ごとに、自分はすでに死んでしまったのではないか、自分の魂は肉体の鞘から、もぎとられてしまっているのではなかろうか、自分は真逆さまに空間を落ちているのではなかろうかと怖れた。
彼は床を足でしっかと踏みしめることもできず、机に重苦しく腰をおろし、でたらめに書物の一つを開いて、懸命にそれに見いった。すべてが自分に向っていわれた言葉だ。あれは本当だ。神は全能なのだ。神は今でも自分を召し給うことができる。こうして机に坐っている間に、召されているのに気づくいとまもないうちに、召し給うこともできるのだ。神はおれを召されてしまったのだ。そうなのか? どうだ? そうなのか? 彼の肉は、貪婪《どんらん》な炎の舌が近づくのを感じて縮み上り、周囲に息詰るような空気の渦巻きを感じて、からからに乾ききった。おれは死んだのだ。そうだ。おれは裁きを受けたのだ。炎の波が彼の体をさっとかけぬけた。第一波だ。つづいてまた波。頭がかあっと熱くなってきた。また波だ。脳髄が頭蓋骨というひび割れた住居の内部でぐらぐらと泡立って煮えかえった。火炎が頭蓋骨から花冠のように噴きだし、人声のように悲鳴をあげた。
――地獄! 地獄! 地獄! 地獄 地獄!
人声が近くでした。
――地獄についてです。
――どうやらぐいぐいそいつを擦りこまれたらしいな。
――本当にそのとおりでしたよ。ぼくらはみんな震え上がってしまいました。
――そういうのが君たち生徒には必要なのさ。それも、君たちを勉強させるには、うんとやらんとね。
彼は弱々しく机に向い椅子の背にもたれかかった。おれは死んでいなかった。神様はまだ生かしておいて下さったのだ。まだなつかしい学校の世界にいたんだ。テイト先生とヴィンセント・ヘロンが窓際に立って話をしたり、冗談を言ったり、外の蕭々《しょうしょう》と降る雨に見いったり、頭を動かしたりしていた。
――晴れてくれるといいんだがなあ。生徒を四、五人つれて、自転車でマラハイドの近くまで遠乗りに出かけることにしたんだがね。これじゃ道はきっと泥んこだろうな。
――晴れるかもしれませんよ、先生。
よく知っている声、ありきたりの話、人声がやんだ時の教室の静寂、他の生徒たちがのんびりと昼食をもぐもぐ食っている間の、静かに若草をはんでいる牛のたてるような音に満たされた静けさが、彼の疼《うず》く魂を静めてくれた。
まだ時はあるのだ、おお、罪人の避け所なる聖マリア、われのためにお取りなし下さい! おお、汚れなき童貞、われを死の淵より救い給え!
英文学の授業は歴史の試問で始まった。王族、寵臣、陰謀家、大司教がもの言わぬ亡霊のように、いろんな名のヴェールのかげを通りすぎていった。みんな死んでしまった。みんな裁きを受けたのだ。「人、全世界を贏《もう》くとも、己が生命を損せば、何の益あらん」やっと彼にはわかった。人の世が彼の周囲に平和な野のごとくひろがり、その上で蟻にも似た人間たちが同胞として懸命に働き、死者は静かな塚の下で眠っているのだった。友人の肘が彼に触れ、彼の心臓はどきりとした。教師の質問に答えたとき、自分の声がおだやかな謙虚と悔恨に満ちているのがわかった。
彼の魂はもはや恐怖の苦痛に耐え得ずして、またも悔恨の平和な深みへとさらに深く沈んでゆき、沈みながら、弱々しい祈りを唱えた。ああ、そうだ、おれはまだ生命を召されることはない。心の中で悔い改めて、赦されよう。そしてこれからは過去のつぐないに自分が何をやるか、上にあるもの、天にあるものらが見ているのだ、全生涯、生涯のすべての時を通じてだ。ただ待ってください。
――全部です、神様! すべて、すべてです!
使いの者が入口にきて、礼拝堂で告解の聴聞が始まっていると告げた。四人の生徒が教室を出ていった。と、廊下を通ってゆく他の者たちの足音が聞こえた。身のおののく冷気が心臓のまわりを吹きぬけた。かすかな風のそよぎほどにも強くないのに、静かに耳をすませ耐えていると、自分自身の、心臓の筋に耳を押しあてて、それがぎゅっとすくみ上がるのを感じ、心室の不規則な鼓動を聞いているかのように思えてきた。
もう脱れられない。告解をしなければならぬ。自分のやったこと、考えたことの罪の一つ一つを言葉にして言わなければならないのだ。どうしよう? どうやればいいのか?
――神父きま、わたしは……
この思いが、冷たくきらめく細身の刃のごとく、彼の柔らかな肉に食い入ってきた。告白だ。だがあの学校の礼拝室ではだめだ。彼はいっさいを、行いと考えのあらゆる罪を、心から告白したいのだが、あの学校の仲間たちのいる中では厭だった。あすこから遠く離れたどこか暗い場所でなら、呟くようにしておのれの恥をすべてさらけだそう。彼はたとえ学校の礼拝堂で思いきって告白しなくてもお怒りにふれぬようにと、謙虚な気持で神に乞い、さらに、全くへり下った心で無言のうちに、周囲の幼ない心に恕《ゆる》しを乞うた。
時は過ぎた。
彼は再び礼拝堂の前列の席にかけた。外の日の光はすでに薄れかけていた。そして光がくすんだ赤い色の日除けをすかして落ちてゆくとき、それは最後の日の太陽が沈みかけ、あらゆる霊魂が裁きを受けに集まってくるかのように思えた。
――「われなんじの目のまえより絶《たた》れたり」(詩篇)キリストにおけるわが親愛なる兄弟らよ、この言葉は詩篇の第三十篇、第二十三節によるものです。聖父《ちち》と聖子《こ》と聖霊との御名によりて。アーメン。
説教者はもの静かな親しみ深い口調で語りだした。その顔は優しかった。彼はそっと両の手の指を合わせ、その先を合して、脆《もろ》い鳥籠のような恰好にした。
――今朝、私たちは、地獄について考えてみて、われらの尊き創立者が霊の修行のその著書の中で、場景の構成と称されているものを解釈しようと努めました。すなわち、私たちは精神の五感によって、私たちの想像の中に、かの恐ろしい場所と、地獄にあるもののすべてが耐える肉体上の苦痛の物質的特徴を思い描こうと努めました。今夕はしばしの間、地獄の精神的苦痛の性質を考えてみましょう。
――罪とは二重の大罪であるということを憶えていて下さい。それはわれわれの腐敗した性質が下等な本能に、下品な獣的なものへ向う衝動に、下劣にも屈することであります。さらにまたそれはわれわれのより高尚な性質の忠告から、清浄にして神聖なるものすべてから、聖なる天主そのものから、そむくことであります。かかる理由から、大罪は地獄において精神的と肉体的との二様の刑罰の方法で罰せられるのです。
さてこれらすべての精神的苦痛の中で特に最も大いなるものは失うことの苦痛でありまして、これはまことに甚だ大なるため、それだけでも他のすべての苦痛にまさる責苦であります。教会の最も偉大なる博士、天使のごとき博士と称されておりますアキノの聖トマ〔中世のスコラ哲学者トマス・アキナス。ジョイスは大きな影響を受けた〕が言っておられますが、最悪の天主の詛いはつぎのようなことにある、すなわち人間の悟性が神性の光を全く奪われ、その性情が執拗に天主の善よりそむくことであると。天主は無限に善なる存在であることを忘れてはいけません。ですからそういう存在を失うことは当然、無限に苦痛の損失となるのであります。この世にあっては、私たちはそういう損失が当然どういうものであるかについては、そうはっきりした考えを持っておりませんが、地獄の詛われたるものらは、その大きな責苦のために、自分たちの失ったものを充分にさとり、さらに、それをおのれ自身の罪によって失い、しかも永久に失ってしまったことをさとるのです。死の瞬間に肉の縛しめはばらばらに切れて、霊魂はただちに、あたかもその存在の中心に向うかのように天主に向って飛んでゆきます。わが親愛なる生徒諸君、私たちの魂は天主と共にあることをひたすら慕っている、ということを憶えておいていただきたい。われわれは天主より出で、天主により生き、天主に属しているのです。われわれは天主のもの、不変に天主のものであります。天主は尊き愛をもてあらゆる人の魂を愛し給い、あらゆる人の魂はその愛の中に生きているのです。そうでなくして他にどうあり得ましょうか? 私たちの呼吸する一つ一つの息、私たちの智能の一つ一つの考え、人生の一つ一つの瞬間が天主の尽きることなき善から出ているのであります。そこでもし母がわが子から引き裂かれ、男が家庭から追い払われ、友が友から引き離されるのが苦痛であるとするならば、煉獄にある魂が、無よりその魂を存在に呼び出し、それに生命を保たしめ、限りなき愛をもって愛し給うた至善にして愛情深き創造主の御前から追い払われることはなんたる苦痛であり、なんたる苦悩でありましょうぞ。しからば、これこそ、その最も偉大《おおい》なる善、天主から永久に別たれ、もうどうにも取りかえし難いと心の底より知って、その離別の苦悶をなめること、これこそ被創造の魂が耐え得る最大の責苦、poena damniすなわち損失の苦痛であります。
地獄の詛われたるものらの霊魂を苦しめる第二の苦痛は良心の苦痛であります。屍骸《しかばね》に腐敗によって蛆《うじ》が湧くように、それと同じく浮かばれぬ亡者の霊魂に罪の腐敗から絶えざる悔恨が、良心の刺痛が、イノケント三世教皇が称されているように三軍の刺痛の蛆が湧きだすのです。この残忍な蛆によって蒙る第一の刺し傷は過去の快楽の記憶でありましょう。おお、それはなんたる恐ろしい記憶でありましょうか! すべてを呑みこむ火の池の中で、驕《おご》れる王はおのれの宮廷の栄華を、賢明ではあるが心|邪《よこ》しまなる者はおのれの蔵書や研究の器具を、芸術的快楽の愛好者はおのれの大理石像や絵画やその他の芸術の宝を、食卓の快楽に耽った者はおのれの豪華な饗宴、精緻をこらして作った料理、選りぬきの酒を、思い起こすでありましょうし、守銭奴はおのれの黄金の貯えを、盗人は不正に得た富を、兇暴にして復讐の念にあふれた無慈悲な殺人者どもは彼らの耽った血と暴虐の行為を、不浄にして不義なるものは彼らの味わった口には言えぬ汚らわしき快楽を、思い浮かべるでありましょう。彼らはこれらすべてを思い浮かべ、みずからとみずからの罪を嫌悪するでありましょう。なぜなら永劫にわたって地獄の火責を受ける宣告を下された霊魂にとっては、すべてこれらの快楽もいかばかり惨めに思われてくるでありましょうから。地の渣滓《かなかす》のごときもの、金属の数片を求め、空しい栄誉を求め、肉体の逸楽を求め、神経の昂奮を求めて天上の至福を失ったと思って、彼らはさぞや忿懣《ふんまん》やる方ない思いをすることでしょう。彼らは心から悔いるでありましょう。そしてこれが良心の蛆の第二の刺し傷であり、犯した罪への手遅れの無益な嘆きであります。天主の正義はそういうあさましき哀れなるものたちの悟りが絶えず彼らの犯した罪に注がれるように主張し、さらにその上に、聖アウグスチノが指摘しておられるとおり、天主は彼らに、罪についての天主ご自身の知識をお授けになりますから、彼らの眼に罪は、天主おんみずからの眼にうつると同じように、凄惨な悪意のすがたをしてうつるでありましょう。彼らは醜悪そのもののおのれの罪を見て悔いるでしょうが、もう手遅れです。そこで彼らはみずから無視したよき機会をかこつでありましょう。これが良心の蛆虫の最後にして最も深い、最も残酷な刺し傷なのです。良心は言うでありましょう。悔い改める時と機会があったのにお前は悔い改めようとはしなかった。お前は両親から宗教的に育てられた。お前はお前を助ける教会の秘蹟と恩寵と贖宥《しょくゆう》を受けた。お前には教えを説き、迷いでた時にはお前を呼び戻し、お前が告白し悔悛しさえすればどんなに数多くの、どんなに恐ろしい罪であろうとお前の犯した罪を赦す「神の役者《えきしゃ》」がいた。だがお前は告白し悔悛しようとしなかった。お前は神聖な教役者を侮蔑した、お前は告解場に背を向けた、お前は罪の泥沼にいよいよ深くはまりこんでいった。天主はお前に訴え、お前を脅《おど》し、天主のもとに返れと懇願された。おお、なんたる恥、なんたる悲惨でありましょうぞ! 天地の主宰者が、お前を造り給うた天主を愛し天主の掟を守るようにと、お前に、土塊《つちくれ》より作られたるもの(ヨブ記)に、懇願し給うたのである。だがお前は聴こうとはしなかった。今さらお前にまだ泣くことができ、その涙で全地獄を満たそうとも、その悔悛の海は、お前の生存中に流す真の悔悛のただ一滴の涙がもたらしたかもしれぬものをすら、もたらさぬであろう。お前は今になって悔い改めようと、現世の一瞬を乞うている。空しいことだ。その時は過ぎ去っている。永遠に過ぎ去ってしまったのだ。
――こういうのが良心の三重の疼《うず》きであり、地獄の悲惨なものたちの心の髄まで咬みつく蝮《まむし》であります。そこで彼らは阿修羅のごとき狂暴さにみたされて、おのれの愚行にわれとわが身を呪い、かかる破滅につれこんだ邪悪な仲間を呪い、この世にあっては誘惑しておきながら今になってあの世で嘲ける悪魔どもを呪い、果ては彼らがかの善と忍耐とを軽蔑し侮ったものの、今は避け得られぬ正義と力とを持ち給う至高の存在を罵《ののし》り呪うにいたるのです。
――詛われたるものらが受けるべきつぎの精神的苦痛は拡大の苦痛です。人は、この世においては、多くの悪事ができるにしても、それを一時に行うことはできません。ちょうど往々にして毒が毒を制するように、一つの悪が他の悪を制して、反作用をするからです。地獄においてはこれと反対に、一つの苦しみは、他の苦しみに反作用する代りに、それになおさら大きな力を添えるのです。しかもそればかりでなく、内面の機能は外面の感覚よりも完全でありますから、それだけになおさら苦痛を味わうことができます。それぞれの感覚がそれにふさわしい苦しみに悩まされるのとちょうど同じく、それぞれの精神的機能もまたそうなのであります。空想は恐ろしい心像により、感性の機能は交互する切望と怒りにより、理性と悟性はかの恐怖の牢獄を領する外面の暗黒よりもさらに恐ろしい内面の暗黒によって、苦しめられるのです。これらの悪霊がいだく悪意は、無垢ではあっても、無限の拡がりと無限の持続性をもつ禍であり、罪の兇悪さと、天主がそれに対して抱き給う憎悪とを心にとめぬ限り、ほとんど理解できないほどの慄然とする邪悪の相であります。
――この拡大の苦痛に対していながら、しかもそれと共存して、強烈の苦痛があります。地獄は禍の中心であります。ご承知のように、ものはその一番端よりも中心部が密度が強《きょう》です。地獄の苦痛を少しでも軽減したり緩和したりするどんな種類の反作用のものも、混和物もありません。否、本来善であるものでも地獄では禍になるのです。交友も、他の所でなら悩めるものにとって慰めの源であるのに、そこでは絶え間ない苦しみとなるでありましょう。知識が、すなわち知識人の主要な福利として大いに憧憬されるものが、そこでは無知よりもひどく嫌われるでありましょう。光も、すなわち上は人間から下は森林のもっとも下等な植物にいたるまでのあらゆる生物から大いに熱望されるものが、極度に嫌悪されるでありましょう。この世においては、われわれの悲嘆はさして長くつづきもしなければ、またさして大きくもありません。というのは、人間の本性が習慣によってそれを克服するか、ないしは、それの負担に堪えかねてそれに終止符を打つかするからです。ところが地獄では、責苦は習慣によって克服されません。なぜなら、責苦は甚だしく強烈である一方、同時にまた刻々に変化するからです。いわば、一つ一つの責苦がさらに別の責苦から火を取って、その火をつけたものに更にはげしい猛火を与え返すのです。しかも人間の本性はこれらの強烈にして多様な責苦に屈することによっても、それから脱れることはできません。なぜなら、霊魂は、その受ける苦しみがいっそう大なるようにと、禍に支えられ保持されているからです。責苦の無限の拡大、信じがたいほどの苦痛の強烈さ、やむことない苦悶の変化――これこそ、罪人らによりかくも侵された神威の要求するところであります。これこそ、腐敗せる肉の淫逸、下等な快楽のため軽視され、差し措かれた天の神聖の求めるところであります。これこそ、罪人の贖《あがな》いのために流され、悪者の中の極悪人によってふみにじられた清浄なる「天主の小羊」の血の強要されるところであります。
――かの恐ろしき場所のあらゆる責苦の中で最後の、かつ絶頂の苦しみは地獄の永劫性であります。永劫! おお、まことに恐ろしい凄惨な言葉です。永劫! 人間がどう考えればそれを理解できるでしょうか? しかも忘れてはなりません、それは苦痛の永劫なのです。よしんば地獄の苦痛が実際ほどに苛烈でないとしても、それでも永久につづくと定められている以上、苦痛は測り知れないものとなるでありましょう。しかも苦痛は永続する一方、同時に、ご承知のとおり、それは堪えがたいほど強烈であり、こらえきれぬほど拡大的なのであります。虫に刺された痛みですら永劫にこらえるとなれば恐ろしい苦痛でありましょう。しからば、多様な責苦をこらえるとなれば、当然それはどういうことになりましょうか? 永久にです! 永劫にわたってです! 一年とか一代とかではなくて、永久にです。この恐ろしい意味を想像してみてください。みなさんは海岸の砂をしばしば見たことがあるでしょう。その小さな粒のなんと細かいことでしょう! 遊びたわむれる子供がつかむ小さな一握りの砂には、その細かい小さな粒がどんなにたくさんはいっていることでしょう。さて、そういう砂の山を想像してください。高さは百万マイル、この地上から最も遠い天の端まで達し、また幅も百万マイル、空間の最|僻端《へきたん》にまで及び、また厚さも百万マイルあります。さらにこういう無数の砂粒の厖大《ぼうだい》な集まりが、森林の木の葉、大海原の水の滴、鳥の羽毛、魚の鱗、動物の毛、広袤《こうぼう》たる空中の微分子等の数ほど倍増されたと想像してください。そして百万年目の終りごとに一羽の小鳥がその山にやってきて嘴にその砂の微細な一粒をくわえて運び去ってゆくと想像して下さい。その山のわずか一平方フィートを鳥が運び去ってしまう前に、いったい何百万、何千万世紀が経つでしょうか? その山全部を運び去ってしまう前に、どれほど無限の年代が経つでしょうか? しかもそういう莫大な時間の経過の終りにきても、永劫の一瞬間すら終ったとは言えないでありましょう。そういう何万億、何百万兆年の終りになって永劫はやっと始まったか始まらぬぐらいのとこでしょう。そして、その砂山が全部運び去られてしまった後でまたでき、小鳥がまたやってきて、一粒ずつまた全部運び去り、かように、空の星の数、空気中の微粒子、海の水滴、木々の葉、鳥の羽毛、魚の鱗、動物の毛の数ほどにその砂山が何度もできてはなくなっていったとしても、その測り知れぬくらいに巨大な山のそういう数限りない隆起と減少の終りになっても、永劫のただの一瞬も終ったとはいえないでありましょう。その時になっても、そういう大変な期間が終っても、考えるだけで目まいをおぼえるようなその無限の時代を経た後でも、永劫はやっと始まったぐらいのところでありましょう。
――ある尊き聖人が(われわれの修道会の神父のお一人だったと思いますが)かつて地獄の幻影を見ることを許されました。彼は、暗くて大時計の時を刻む音以外にはひっそりと静まり返っている大きな広間の真中に立っているように思われました。時計の音はやむことなくつづいていました。そしてこの聖人には、この時を刻む音が|ever《エヴァ》, |never《ネヴァ》 ,ever, neverという言葉を絶えずくり返しているように思えたのです。|常に《エヴァ》地獄にありて、|決して《ネヴァ》天国にいる能わず。常に天主の御前より退けられて、決して至福の夢を見る能わず。常に火炎に喰われ、毒虫に咬まれ、灼熱の大釘で突き刺されて、決してそれらの苦痛より脱れる能わず。常に良心に責められ、記憶を狂乱せしめ、思いは暗黒と絶望に満たされて、決して脱れる能わず。常に欺かれた者どもの惨めなるざまを毒々しく小気味よげに眺める汚らわしき悪鬼を呪い罵って、決して祝福されたる霊の輝やける衣を見ること能わず。常に火の深淵より天主に瞬時なりとも、ただの一瞬間なりともかような恐ろしい苦悶を楽にし給えかしと叫んでも、決して一瞬たりと神の赦しを受ける能わず。常に苦しみ、決して悦びはなく、常に呪われ、決して救われる能わず。|常に《エヴァ》、|決して《ネヴァ》。常に、決して。おお、なんと恐ろしい罰でありましょう! 永劫の果しなき苦悶、果しなき肉体と精神の責苦、一条の希望の光もなければ、一瞬の休止もない、強烈さにおいては限りなき苦悶、無限に変化する責苦、永遠に貪り食うものを永遠に保つ苛責、肉体を拷問にかける一方、絶えず精神を餌食にする業苦。永劫、その一瞬一瞬そのものが禍害《わざわい》の永劫なのです。こういうのが大罪を犯して死ぬ人々に対し、全能にして義の天主により命じられた恐ろしい罰であります。
――そうです、「義をおこなう天主」(イザヤ書)です! 人間は常に人間として推理するので、たった一つの重い罪の科《とが》で永遠にして無限の地獄の火の罰を課されるのに驚きます。彼らがこのように推理するわけは、人間のとんでもない錯覚や人間の悟性の暗さのためにくらまされて、大罪の慄然たる犯意を理解できないからです。彼らがこのように推理するわけは小罪といえどもきわめて憎むべき恐ろしい性質であるということを理解できないからであって、全能の創造主が、ほんの一つくらいの小罪、一つの嘘、一回の怒った顔、一瞬間の勝手気ままな怠惰というようなたった一つの小罪を罰せずに見のがしてやるという条件でなら、この世のあらゆる禍や悲惨、戦争とか疾病、略奪、犯罪、死、殺人などをなくし給うことがたとえできるとしても、罪は、心の中であろうと行為によろうと、天主の掟の違犯であり、もし天主がその違犯者を罰さなかったら天主は天主でなくなる以上、偉大なる全能の天主は小罪といえど見のがすことはできないのです。
――一つの罪、知性の一瞬の反逆的な驕りは、「|あしたの子明星《ルシファー》」と天軍の御使いの三分の一とをその栄光の座から隕《お》ちるにいたらしめたのです。一つの罪、一瞬の愚行と弱さとがアダムとエバをエデンから追いだし、死と苦難をこの世にもたらしたのです。その罪の結果を贖わんがために天主の御独子《おんひとりご》なる御子《おんこ》が地上に降り来給い、生き、苦しみ、十字架に三時間にわたってかけられ、いとも苦痛にみちた死をとげ給うたのです。
――おお、キリスト・イエズスにおけるわが親愛なる小さき兄弟たちよ、それでも私たちはその優しき贖主に逆らってその怒りを買おうというのですか? 再びその引き裂かれ、ずたずたにされたご遺体をふみつけにしようというのですか? 悲しみと愛に満ちあふれたその御顔に唾を吐きかけようというのですか? 私たちもまた、冷酷なユダヤ人や残忍な兵卒たちのごとく、私たちのために恐ろしき憂いの「酒搾《さかぶね》をひとりにてふみ給う」(イザヤ書)たその柔和にして憐れみ深き救主を嘲弄しようというのですか? 罪の一語一語が主の柔らかな脇腹の傷となるのです。罪の行いの一つ一つが主の頭を突き刺す棘となるのです。故意におちいる不浄な考えの一つ一つがその神聖にして慈愛深き心をつらぬく鋭い槍となるのです。いいえ、いけません。なん人《ぴと》であろうと、ご聖域を深く傷つけるようなこと、永劫の苦悶によって罰せられるようなこと、再び天主の御子を十字架にかけて嘲弄の的とするようなことを行うことはできません。
――わたくしはわたくしの貧しい言葉が現に聖寵に浴している人々には聖なる心を堅め、心の惑える人々には力を与え、もし皆さんの中にそのような人がいるならば、迷い出た哀れなる魂を聖寵に浴した状態につれもどすのに、今日役立ちましたようにと天主にお祈りいたします。わたくしも天主にお祈りいたしますから、必ず皆さんもわたくしと一緒に、わたくしたちが罪を悔い改めますようにとお祈りしてください。わたくしは皆さんに、皆さんの全部に、今このまずしき礼拝堂にて天主のみ前にひざまずき、痛悔の祈りをわたくしの後についてくり返して下さるようお願いします。天主は人類への愛に燃え、悩めるものたちを慰めようとしてあすこの聖櫃《せいき》のうちに在《い》まし給うのです。怖れることはありません。いかに多くの罪であろうと、いかに憎むべき罪であろうと、皆さんがその罪を悔い改めさえすれば、それは赦されるでありましょう。世俗的な恥ずかしさのためにしりごみしてはなりません。いまだに天主は罪人の永劫の死を望まれずして、むしろ罪人が改心して生きることを望み給う慈悲深き主でいらせられます。
――天主はあなた方を御許に呼んでおられます。あなた方は天主のものです。天主はあなた方を無よりお造りになった。天主はあなた方を天主にしてはじめてなし得る愛し方にて愛し給うた。天主は隻手《もろて》をひろげて、たとえあなた方が天主に対し罪を犯したことがあっても、あなた方を受けいれようとしておいでになる。天主のみもとに来たれ、哀れなる罪人よ、哀れにも驕り過まてる罪人よ。今こそ「恵みのとき」(イザヤ書)であります。今こそその時です。
司祭は立ち上がって、祭壇のほうへ向い、暮れおちた夕闇の中で聖櫃の前の段にひざまずいた。彼は礼拝堂の中の全員がひざまずき、ほんの微かな音も静まるまで待っていた。やがて顔を起こし、痛悔の祈りを一句ずつ熱をこめてくり返した。生徒たちは一句ごと彼に応答した。スティーヴンは、舌が上顎にねばりついてしまい、ただ頭をたれて心で祈った。
――ああ、わが天主!
――ああ、わが天主!
――われ、主の限りなくきらい給う罪をもって
――われ、主の限りなくきらい給う罪をもって
――限りなく愛すべき御父に
――限りなく愛すべき御父に
――背きしを
――背きしを
――心より悔み奉る
――心より悔み奉る
――われ、他のいかなる禍にもまして
――われ、他のいかなる禍にもまして
――わが罪を忌み憎む
――わが罪を忌み憎む
――聖寵の助けをもって
――聖寵の助けをもって
――今よりわが生活を改め
――今よりわが生活を改め
――再び御心に背くことあるまじと
――再び御心に背くことあるまじと
――かたく決心し奉る
――かたく決心し奉る
(公教会「痛悔の祈り」)
彼は食事のあとで自分の魂と二人だけになろうとして、自分の部屋へ上がっていった。一足ごとに魂は吐息をついているかに思われた。一歩ごとに魂は粘液のような暗い世界をぬけて彼の足と一緒に階段を昇り、昇りながら吐息をついた。
彼は扉口の踊り場で立ちどまり、やがて陶製の把手《とって》をつかむと、急いで扉を開けた。魂は彼の内部でひたすら悔いつつ、彼は閾《しきい》をまたぐときにどうか死が自分の額に触れないように、闇に棲む悪鬼どもが自分を支配する力を与えられてないようにとひそかに祈りながら、不安のうちに待った。まるで暗い洞窟の入口にでもいるかのように、彼はなおも閾のところで待った。いろんな顔がそこにいる、眼もだ。それらが待ちかまえ、ようすを窺っているのだ。
――おれたちには無論ちゃんとわかっているぞ、どうせ明るみに出るにきまっているのに、あいつは精神の絶対的力を確かめてみる努力をやってみんものと自分を説きつけようとこころみる努力に、相当の困難を見出すだろうさ。だがおれたちには無論ちゃんとわかっていたよ――
囁いているいろんな顔が待ちかまえ、じっと見守っていた。いくつものひそひそ声が洞窟の暗い外廓に満ちていた。彼は精神にも肉体にも強烈な恐怖をおぼえたが、勇敢に頭を起こし、断乎として大またに部屋へはいっていった。入口だ、部屋だ、同じ部屋だ、同じ窓だ。暗闇からひそひそ囁くように起こったと思われたあの言葉には全然なんの意味もないのだと、静かに自分に言い聞かせた。単に扉を開けはなしてある自分の部屋にすぎないのだと自分に言い聞かせた。
扉を閉めると、急いで寝台に歩みより、その側にひざまずき、顔を両手で覆った。手は冷たくじっとりしており、四肢は寒気で疼《うず》いた。体の不安と寒気と疲労とが襲いかかり、考えを蹴散らした。なぜおれは小さな子供のようにここにひざまずいて夕べの祈りを唱えているのか? 自分の魂とだけになるため、おのれの良心を吟味するため、おのれの罪と直面するため、それらの罪の時と方法と事情とを思いだすため、それらの罪を悲しみ嘆くためだ。彼は泣けなかった。それらの罪を記憶に呼びもどすこともできなかった。ただ魂と体、おのれの全体、記憶、意志、理解力、肉のすべてが、麻痺し疲れた疼《うず》きをおぼえるのみだった。
これは悪魔の仕業なのだ、おれの考えを散らし、良心を曇らせ、卑怯な、罪に腐った肉に迫って、攻めたてようとしているのだ。そう思うと彼は怯《お》ず怯ずとおのれの弱さを赦し給えと神に祈って、寝台に這い上がり、毛布でぴったり体をつつんで、またも顔を両手で覆った。自分は罪を犯した。天に対し、また神の前に深い深い罪を犯してしまった、だから自分はもう神の子と呼ばれる資格はないのだ。
自分が、このスティーヴン・ディーダラスがあんなことをやったということがあり得るだろうか? 彼の良心は答えて溜息をついていた。そうだ、たしかにやったのだ、こっそりと、汚らわしいやり方で、つぎつぎと。そして罪の図太さに無感覚になって、内なる魂は生ける腐敗の塊になっているのに、大胆にもあの聖櫃の前で敬虔《けいけん》な仮面をかぶっていたのだ。どうして、神に撃たれて死ななかったのだろうか? 癩《らい》のごとく忌まわしい彼の罪の一群が彼に攻めより、息を吐きかけ、四方八方から彼の上にかがみこんできた。彼は祈りの行為のうちにそれらを忘れようと努め、手足をぴったり縮め、目蓋をしっかりと閉じた。だが魂の感覚は縛られようとはしなかった。眼はかたく閉じているのに、おのれの罪を犯した場所が見え、また耳はしっかとふさがれているのに聞こえるのだった。あらん限りの意志で聞くまい、見まいと願った。その願望の緊張に全身が震えてくるまで、魂の感覚が閉ざされてしまうまで、彼は願った。感覚は一瞬閉ざされたと思うとまた開いた。彼には見えた。
堅い雑草と薊《あざみ》とおい茂った蕁麻《いらくさ》の群の野原。蓬々《ぼうぼう》とびっしり生い茂った草むらの中につぶれた空罐や硬くなった糞のころころした塊やとぐろを巻いたものがいっぱいころがっている。かすかな沼の光が、あらゆる汚物から、密生している灰緑色の雑草の間を上へ向ってむりやりにくぐり抜けている。その光のようにかすかで不快な悪臭が、空罐や腐りかけてぼろぼろになった糞から、渦をまいて立ちのぼっている。
いくつかの生きものがその野原にいた。一匹、三匹、六匹。生きものは野原をあちこち動きまわっていた。人間の顔をした山羊《やぎ》のような動物、角のような額をして、うすく顎ひげを生やし、消しゴムのような灰色をしている。その険しい眼には恐ろしい悪意がひらめき、あちこち動きまわりながら、うしろに長い尾をひきずっている。残忍な敵意のこもるそのあんぐり開けた口は、老いて骨張った顔を蒼白く燃え上らせた。一匹は裂けたフランネルの胴衣をその横腹にしっかり引きつけ、さらに別の一匹は、顎ひげが密生した雑草にからみつくので、ぶつぶつと抑揚のない声で不平を言っていた。がらがら音をたてる空罐の間を長い尾をひきずり、雑草の中をあちこちに曲りくねって、ゆるやかな円を描きつつ野原をぐるぐるとび廻っている間、彼らの唾液のない口からそっと言葉がもれていた。彼らはゆるやかな円を描いて動きまわり、取りまこう、取り囲もうと次第に円を縮めてくる、低い言葉がその唇からもれ、腐った糞でよごれた長い尾をふりまわし、その恐ろしい顔をぐいともたげた……
助けて!
彼は顔と首をだそうと、気違いのように毛布をぱっとはねのけた。あれがおれの地獄なんだ。おれの罪のために用意されてある地獄を神が示されたんだ。悪臭を放つ、畜生の、凶悪な地獄、淫乱な山羊に似た悪鬼の地獄。おれのために! おれのためにだ!
彼は寝台からとびだした。むっとする悪臭が咽喉《のど》に流れこみ、胸の中がぐっと詰り吐気を催させた。空気! 大空の空気! 彼はうめき、吐気に失神しそうになってよろめきながら窓へ向った。洗面台のところで痙攣が体の中に起こった。冷たくなった額をもの狂おしくつかみ、苦悶のうちに猛烈に吐いた。
発作がおさまると力なく窓際へ歩みより、窓を上げ、朝顔口のすみに腰かけ、窓閾に肘をかけた。雨はあがっていた。点々とともっている燈火をつぎつぎに流れてゆく水蒸気の中に、街は黄味をおびた靄《もや》のやわらかな繭《まゆ》をその周囲につむいでいた。空は静かで微かに明るく、空気を吸うと驟雨《しゅうう》にぬれた茂みの中のように甘かった。安らぎと、おぼろな光と、しっとりとした香りにつつまれ、彼は心をこめて誓約をした。
彼は祈った。
――主はかつて天の光栄につつまれて地上に降臨せんとし給いしにわれら罪を犯せり。かくて主は安らかにわれらを訪れ給うことなく、主は神なるが故にその尊厳を覆いその光を曇らせ給いぬ。主は力なき弱き者として来たり給い、われらにふさわしき優雅と光とをもち給う汝を代理として遣わし給えり。御母よ、いまや汝の御顔と御姿とはわれらに永遠を語り給う。見て危き地上の美に非ずして汝が標章たる暁《あけ》の星のごとく、明るく調和し、純潔を呼吸し、天を語り平和を注ぐ。おお日の先導よ! おお巡礼の光よ! 汝が導き給いしごとくなおもわれらを導き給え。暗き夜に寂しき曠野を越えて主イエズスの御許にわれらを導き給え。われらをわが家へ導き給え。
彼の眼は涙でくもっていた。うやうやしく天を仰ぎ見ておのれの失った純潔のために泣いた。
日がすっかり暮れ落ちると彼は家をでた。湿気をおびた暗い夜気に最初触れ、ついでうしろに閉めた扉の音に、祈りと涙になだめられた彼の良心は、またも疼いてきた。告白しろ! 告白しろ! 涙や祈りで良心をなだめすかすにはまだ充分でない。聖霊の役者《えきしゃ》の前にひざまずき、自分のかくしている罪をありのまま、悔悛してすっかりのべなければだめだ。玄関の扉の踏み板が、開いて自分を中に入れるときに軋《きし》むのを今度聞く前に、台所のテーブルに夕食の支度のできているのを今度見る前に、ひざまずいて告白をしてしまっておこう。至極簡単なことなのだ。
良心の疼きはやんだ。暗い街路を急ぎ足にすすんでいった。この街路の歩道にはとても多くの敷石があるし、この市にはとても多くの街路があるし、世界にはとてもたくさんの市があるのだ。しかも永劫には終りがない。自分は大罪を犯している。一度でも大罪なんだ。それはあっという間にあり得るのだ。だけど、どうしてそんなに速く起きるのだろう? 見たり、見ようと考えたりすることでもあり得る。眼は初めそのものを見たいと思わなくても見てしまう。するとあっという間に大罪を起こしている。だが肉体のあの部分にはわかるのか、どうなのか? 蛇、野の最も狡猾《さか》しき生物。あれは欲望をおこせば瞬時にしてわかるに違いない。そうして自分の欲望を一瞬一瞬と罪深くひきのばしてゆくのだ。あれは感じ、知って欲望を抱くのだ。なんという恐ろしいことだ! 誰があれを、肉体の獣的な部分をそういうふうに、つまり獣的に知り獣的に欲望できるように作ったのか? ではあれは自分なのか、それとも卑しい魂に動かされる人間でないものなのか? 彼は冬眠している蛇のような生きものが自分の生命の柔らかい髄を喰ってみずからをこやし、肉欲の粘液をすすって肥ってゆくと考えると、胸の底から吐気を催した。おお、なぜそんなことになるんだ? おお、なぜだ?
彼はこの考えの影にちぢこまり、万物と人間を造り給うた神を畏れてへり下った。気違いだ。あんな気違いじみた考えがよくもできたものだ。彼は闇の中で、下劣漢の思いでちぢこまり、おのれの守護の天使にその剣もてわが脳裡に囁く悪魔を追い払い給えと無言のうちに祈った。
囁きはやんだ。と、彼にはおのれの魂が、おのれの体を通して思いと言葉と行いにおいて、進んで罪を犯したことをはっきりと知った。告白しろ! ことごとくの罪を告白すべきだ。司祭に対し自分のやったことをどうして言い得ようか。いけない、告白しなければいけない。だが恥ずかしい思いを殺さずしてどうして説明ができようか。それなら、恥ずかしい思いなくして、どうしてあんなことがやれたんだ! 気違いだ! 告白しろ! おお、本当にもう一度自由な、罪のない身になりたい! もしかしたら司祭はわかって下さるだろう。おお、天主さま!
彼は燈火の暗い街路をいつまでも歩きつづけた。自分を待ち構えているものから尻ごみをしていたと見えぬように、一瞬たりとじっと立ちどまるのがこわく、せつなる願いを抱いて、なおも目指しているそこへ行きつくのがこわかったのだ。神が愛をもってこれを見給うた時、恩寵を授かった魂はどんなにか美しいにちがいない!
むさ苦しい若い女たちがそれぞれの籠を前にして、歩道の縁石に腰をおろしていた。そのじっとり濡れた髪が額の上にだらりとたれかぶさっていた。ぬかるみの中にしゃがんでいるだけに、見た目には美しくなかった。だがその魂は神が見給うている、そしてもしその魂が恩寵に浴している状態にあれば、女たちは輝やくばかりに見えるのだ。神はそれをごらんになって彼女たちを愛し給うのだ。
自分がどんなに堕落したかを思い、あの女たちの魂のほうが自分の魂よりも神には貴重なのだと感じると、絶えいらんばかりの慚愧《ざんき》の息がわびしく彼の魂の上を吹きすぎた。風は彼の上を吹き、神の恵みが時には多く時には少なく照らす幾万、幾十万とも知れぬ他の魂へと吹きすぎてゆく。時には明るく持ちこたえ、時には暗く消えなんとする星のように。かくて明滅するそれらの魂は光を保ち、やがて衰えて消え去り、動く風のそよぎに没し去ってしまうのだ。一つの魂がなくなった。ちっぽけな魂、彼のだ。それは一度きらめき、やがて消え去り、忘れられ、なくなってしまった、終りだ。真暗な、冷たい、空漠たる曠野。
場所の意識が、光もなく、感じもなく、生命もない時間の茫漠とした経過をこえて徐々に潮の引くように彼に戻ってきた。ごみごみした風景が彼の周囲におのずとできてきた。いつもの聞きなれた訛《なま》り、商店の明々と燃えているガス燈、魚や酒瓶や濡れたおが屑の臭い、動きまわっている男や女たち。一人の老婆が手に油罐をさげて街路を渡ろうとしていた。彼は身をかがめて近くに礼拝堂《チャペル》があるかと彼女にきいた。
――礼拝堂ですか? はい、ございますよ、|教会通りの礼拝堂《チャーチ・ストリート・チャペル》が。
――教会?
彼女は罐を別の手に持ちかえ、指でさし示した。いやな臭いのする皺くちゃの右手を肩掛けの縁からつきだしていると、彼はこの老婆の声にもの悲しくなり、気が静まって、いっそう彼女のほうに身をかがめた。
――ありがとう。
――どういたしまして。
高い祭壇の上のろうそくはすでに消されていたが、香のかおりはまだ薄暗い本堂にたれこめていた。顎ひげのある敬虔な顔をした労働者たちが脇戸から天蓋を運びだしていた。納室係がもの静かな身振りと言葉で彼らを助けていた。熱心な信徒の数人がまだ去りやらずに、側祭壇の一つの前で祈っていたり、あるいは告解場の近くの腰掛《ベンチ》の間でひざまずいていた。彼は怯ず怯ずと近より、教会の平和と静寂と馥郁《ふくいく》たる暗がりに感謝しつつ、本陣の一番うしろの腰掛に向ってひざまずいた。彼のひざまずいた板は狭く、いたんでおり、近くにひざまずいている人々は、イエズスに倣《なら》う賎しき者たちだった。イエズスもまた貧しき中に生まれ、大工の仕事場で働き、板を切ったり削ったりし、そして初めは貧しい漁師たちに向って神の国を説き、すべての人たちに心の柔和なる者、心の貧しき者たれと教え給うたのだ。
彼は両手に顔を伏せ、自分もまた傍らにひざまずく人々のようになり、自分の祈りが彼らのと同じく受け入れられるよう、おのれの心に柔和にして貧しくなれと命じた。彼は人々の側で祈ったが、つらかった。彼の魂は罪で汚れている。それだけに、神の深遠な方法によってイエズスが、大工たちや漁師たち、賤しい生業に従い、森の木を扱い細工をし、根気よく網を繕うなどという貧しい素朴な人々を、まず神の側に召されたという、そのような人々の素朴な信頼をもって、赦しを乞うだけの勇気は彼になかった。
一人の背の高い人影が側廊を近よってくると、告解をする人々がざわめいた。いよいよという時になって、ちらりと素早く眼をあげると、長い白ひげとカプチン修道会士の褐色の僧服が見えた。司祭は聴問席に入り、見えなくなった。二人の告解者が立ち上がって両側から告解室にはいっていった。木の引戸が閉められた。と、かすかな呟き声が静けさを乱した。
彼の血は血管の中でざわめき始めた。あたかも罪深き都〔ソドムとゴモラ〕が罪の宣告を聞くためにその眠りから呼びさまされたかのように、ざわめいた。火の粉が降り、粉のごとき灰が静かに降ってきて、人々の家にかかった。彼らは眠りからさめ、熱気に苦しみ、立ち騒いだ。
引戸が急に開いた。告解者が聴問席の横から出てきた。その奥の戸が引かれた。一人の女が静かに巧みな身のこなしで最初の告解者がひざまずいていたところへはいりこんでいった。かすかな呟きがまた始まった。
今ならまだ会堂を出られる。立ち上がってぬき足さし足そっと出てゆき、それから暗い通りを一目散にかけだしてゆける。今ならまだ恥から逃げられるのだ。ああ、いっそ何か恐ろしい犯罪だったならいいのに、だがあの一つの罪だけは! 殺人の罪だったら! 恥ずべき考え、恥ずべき言葉、恥ずべき行い、火の粉が降りそそぎ、彼の全身に触れた。恥ずかしさが、絶えず降りかかる細かい灼熱の灰のごとく彼の全身を覆った。あれを言葉にだして言うなんて! そうなれば自分の魂は窒息し、どうすることもできずに、息絶えてしまうだろう。
引戸がさっと開いた。告解者が聴問席の向う側からでてきた。こっち側の引戸が引かれた。告解者が先の人の出てきたところへはいりこんだ。静かに囁く声が、ふわふわした細雲のようになって聴問席から流れてきた。それはいまの女だった。やわらかな囁いている細雲、そっと囁いている霞、囁いたり消えたりしている。
彼は木の肘掛けのかげにかくれ、謙虚な気持でひそかにおのが胸をこぶしで打った。自分は他の人々と一つになろう、神と一つになろう。自分の隣人を愛そう。自分を造り愛された神を愛そう。他の人々と共にひざまずき祈って幸福になろう。神は自分をも彼らをも天よりみそなわし、彼らすべてを愛し給うだろう。
善人になるのはたやすいのだ。神の軛《くびき》は楽しく軽いのだ。決して罪を犯さず、いつまでも子供のままであったほうがいいのだ。神は幼子たちを愛され、彼らがみもとにくることを赦し給うからだ。罪を犯すということは恐ろしい、悲しいことだ。だが神は真から悔いる哀れな罪人には慈悲深くあり給うのだ。それは何といっても真実だ! それが本当に善というものなのだ。
引戸が不意にさっと開いた。告解者が出てきた。つぎは彼だった。彼は恐怖のうちに立ち上がり、上の空で告解場にはいっていった。
ついにその時はきた。彼は静かな薄暗がりの中にひざまずき、頭上にかかっている白い十字架像に限をあげた。神は自分が悔いているのをごらんになれるのだ。いっさいの罪を打ちあけよう。告白は長い時間かかるだろう。そうなれば礼拝堂にいる皆に自分がどんな罪人だったかわかるだろう。わかるなら、わかるがいい。それは本当なのだ。だが神は自分が悔いれば赦すと約束された。自分は悔いているのだ。彼は両手を合わせ、白い姿へ向ってさし上げ、光を失った眼で祈り、おののく全身で祈り、迷った動物のように頭を左右にふり、わななく唇で祈った。
――お赦しください! お赦しください! おお、お赦しください。
引戸がかたりと音をたてて開いた。彼の心臓は胸の中で跳びあがった。老司祭の顔が格子のところに見え、彼から顔をそむけ、頬杖をついていた。彼は十字を切り、罪を犯したからどうか清めてくださいと司祭に願った。それから頭をたれ、恐ろしい思いで『告白の祈り』をくり返した。
「わがいと大いなるあやまち」という文句のところで、息ができなくなり、やめた。
――この前に告解をしてから、どれくらいになりますか、わが子よ。
――ずいぶんになります。神父さま。
――一か月ですか?
――もっとです。神父さま。
――三か月ですか、わが子よ?
――もっとです、神父さま。
――六か月ですか?
――八か月です、神父さま。
彼はついに始めてしまった。司祭がきいた。
――で、その時からどういう憶えがありますか?
彼はおのれの罪を告白し始めた。ミサに出なかったこと、祈りを唱えなかったこと、嘘をついたこと。
――他に何か、わが子よ。
怒りの罪、他人をねたむ罪、貪食、虚栄、不従順の罪。
――他に何か、わが子よ?
もう仕方がない。彼は呟くように言った。
――わたくしは……貞潔を損う罪を犯したのです。神父さま。
司祭は顔をふり向けなかった。
――あなた一人で、わが子よ?
――それから……他の人とも。
――女の人たちと、わが子よ?
――はい、神父さま。
――それは結婚している婦人たちでしたか、わが子よ?
彼は知らなかった。彼の罪は彼の口から一つ一つ滴り落ちた。魂から恥に満ちた雫となって、腫物のように化膿し、じくじく膿をだし、あさましい悪の流れとなって滴り落ちた。最後の罪はのろのろと、きたならしくにじみでてきた。もう他に打ちあけることはなかった。彼はぐったりして頭をたれた。司祭は黙っていた。やがてきいた。
――あなたは年はいくつですか、わが子よ?
――十六です。神父さま。
司祭はなん度も顔を手でなでていた。やがて額を手にのせ、格子のほうへ体をのりだし、眼はやはりそらせたまま、ゆっくりと語りだした。その声はもの憂げで、老けていた。
――あなたは大変にお若いのだから、と彼は言った。どうかそういう罪を棄てて下さるようお願いしたい。それは恐ろしい罪です。肉体を亡ぼし、さらに魂をも亡ぼすのです。それは多くの犯罪や不幸の因です。それを棄てなされ、わが子よ、後生じゃから。それは不名誉でもあり男らしくもない。そのあさましい習慣があんたをどこへ導びくか、あるいはどこでそれがあんたをひどい目にあわすことになるか、まだおわかりにならんのじゃ。あんたがその罪を犯しておる限りは、哀れなるわが子よ、あんたは決して天主さまにとっては一文の値打もないものでありましょう。御母マリアさまに助けて下さるようにとお祈りをなされ。聖母はお助け下さるじゃろう、わが子よ。その罪があなたの心にはいりこんできた時には、われらが童貞マリアさまにお祈りをなされ。きっとそうして下さるでしょうな。あなたはそれらいっさいの罪を悔いておいでなさる。きっと悔いますね。そして、いま天主にお約束をして下され、聖寵の助けによって、もうこれからは決してそういうふしだらな罪を犯して、天主の御心に背くことはいたしませんと。その厳粛な約束を天主に誓って下さるでしょうな、どうですか?
――お誓いします、神父さま。
老いた、もの憂げな声は慈雨のごとく震え、からからに乾ききった彼の心に降ってきた。なんと甘く、もの悲しいことか!
――必ずそうして下され、哀れなわが子よ。悪魔があなたを迷わせていたのじゃ。悪魔がそのようなふうにあなたの肉体を辱しめようと誘惑する時は、そやつを地獄へ追い返しなされ――わが主を嫌う忌み憎むべき悪霊ですからの。いま天主にお約束をなされ、そういう罪、そういうあさましい、みじめな罪は棄てますと。
自分の涙に、また神の慈悲の光に盲目《めしい》のごとくなり、頭をたれて、赦罪の祈りの重々しい文句の唱えられるのを聞き、司祭の手が赦しの印に彼の上にさしあげられるのを見た。
――わが子よ、汝に天主の御恵みのあらんことを。わがために祈り給え。
彼は暗い本堂の一隅に悔悛を唱えるためにひざまずいて祈った。彼の祈りは白いばらの芯から立ちのぼる香気のように、彼の清められた心から天へと昇っていった。
ぬかるみの街路も晴れやかだった。彼は眼に見えない恩寵がみなぎって四肢を軽やかにしているのを意識し、大またに闊歩して家路へついていた。あらゆることをはねのけて、自分はやったのだ。自分は告白をした、そして神はぼくを赦して下さったのだ。この魂はもう一度正しく浄《きよ》くされたのだ、浄くされたのだ、浄く幸福にされたのだ。
もしそうなるのが神の御旨であるならば、死ぬのも美しいことだろう。恩寵の中に他の人々と共に、平和と貞潔と堪忍の生活をおくるのは美しい。
彼は台所の灯火のそばに掛け、幸福のために口をきく気もしなかった。今の今まで、人生とはどんなに美しく、平和であり得るかを知らなかったのだ。ランプをかこんでピンでとめた緑色の四角な紙が、やわらかな影を落としていた。食器戸棚にはソーセージと白プディングをもった皿がだしてあり、棚には卵がのっていた。それらは明日の朝、学校の礼拝堂での聖体拝領が終った後の朝食に出るのだ。白プディングと卵とソーセージとお茶。人生とは結局なんと単純な美しいものだろう! しかもぼくの人生はすべて、これからなのだ。
夢につつまれて彼は眠りに落ちた。夢につつまれて彼は起き上り、朝になっているのを知った。現《うつつ》とも夢ともつかぬ気持で彼は静かな朝を学校へと向っていった。
生徒たちは皆きていて、めいめいの席でひざまずいていた。彼らの中にまじって幸福な、と同時に気恥ずかしい思いでひざまずいた。祭壇には、馥郁《ふくいく》と香る山のような白い花が供えてあった。朝の光の中で蒼白いろうそくの炎が、白い花々の中で彼の魂のように澄み、静まりかえっていた。
彼は級友たちと共に祭壇の前にひざまずき、彼らと共に生きた柵のようないくつもの手の上に祭壇布を捧げていた。司祭が聖体器を手にして拝領者から拝領者へと移ってゆくのを聞くと、彼の両手はふるえ、魂はおののいた。
――我が主の御身体《おんからだ》。
いいのだろうか? 彼はそこに罪の汚れなく、怯《お》ず怯ずとひざまずいていた。やがて舌に聖餅《ホスチア》をのせれば、神はこの清められた体内にはいり給うのだ。
――永遠の生命に守り給わん事を。アーメン。
あらたな生活! 恩寵と貞潔と幸福の人生! 本当だ。これは夢じゃない。その夢から自分はもう醒めることはないのだ。過去になったのだ。
――我が主の御身体。
聖体器が彼のところにきた。
[#改ページ]
日曜日は聖三位一体の玄義に、月曜日は聖霊に、火曜日は守護の天使に、水曜日は聖ヨゼフに、木曜日は聖体の秘蹟に、金曜日は御受難イエズスに、土曜日は聖なる童貞マリアに献げられた。
毎朝、彼は聖なる御姿か秘蹟に接して、新たにおのれを浄《きよ》めた。彼の一日は、その日の一瞬一瞬の思いと行いをローマ教皇の目的にかなうよう、雄々しく捧げることと、早朝のミサとをもって始まるのだった。冷え冷えとした朝の空気がこの決然たる信仰の念をひきしめた。副祭壇で少数の礼拝者たちの中にまじってひざまずき、しおりをはさんだ祈祷書を手にして司祭の低声のあとにつけているとき、何度かちらりと眼をあげて、新約と旧約の象徴である二本のろうそくの間のうす暗いところに立っている僧衣をまとった姿を見やり、自分はいま地下墓地《カタコウム》〔古代ローマ時代、圧迫を受けたキリスト教徒がひそかに礼拝をおこなった場所〕の中のミサにひざまずいているのだ、と想像するのだった。
彼の日々の生活は、熱烈な信仰の範囲の中にととのえられた。祈祷と祈りによって、彼は煉獄にある霊魂のために何百という日と四旬と年とを骨惜しみなくつみ上げてやった。それでも聖務日課の悔悛のこういう莫大な月日の数を、楽々と果している際におぼえる精神的な勝利感は、必ずしもすべて彼の熱烈な祈りの報いとはならないのだった。なぜなら、こういう贖宥《しょくゆう》を乞う祈祷によって、苦しむ霊魂のために、自分がどの程度に一時の罰を軽くしてやったか、少しもわからないからだった。そして、永劫につづくのではないという点だけが地獄の火とは違う煉獄の火の真っ只中では、自分の悔悛の秘蹟もせいぜい一滴の水分くらいの役にしか立たないのではなかろうかと恐れて、彼は日ごとおのれの魂をかりたて、功徳の行いの範囲をましていった。
今は自己の身分上の義務だと見なすものによって区分したおのれの一日のどの部分も、その日の宗教的活動を中心にとり巻いていた。自分の生活が永遠の世界へ近づいたかに思え、考え、言葉、行いの一つ一つが、意識の一瞬一瞬が、天国において晴れやかに反響し返すようにすることができた。そして時には、こういう即時の反響感があまりにも生き生きとしているために、自分の献身的な魂が指のごとく、大きな金銭登録器のキーを押し、自分の努力によって得たものの総計が、数字ではなくしてほのかに立ちのぼる香煙か、なよやかな花となって、たちまち天国にとびだしてくるかのような気持になるのだった。
また彼が絶えず唱えるロザリオの祈りは――彼は街を歩きながらも唱えられるようにズボンのポケットに数珠《じゅず》をばらばらにして入れていた――名もない花のごとき色も香りもないと思えるほどの、そこはかとないこの世ならぬ生地をした花の花冠に変じた。彼は自分を創り給うた御父への信仰、自分の罪を贖い給うた御子への希望、自分を潔め給うた聖霊の愛というこの三つの神学上の徳のいずれにおいても自分の魂が強固になるようにと、日々三度、小ロザリオの祈りをかかさず捧げた。そしてこの三度の三重の祈りを、喜びと苦しみと栄えの、それぞれの玄義の名において聖マリアの御取次ぎによって三位(父と子と精霊)に捧げた。
その週の七日間の毎日、彼はさらに「聖霊の七つの賜物」(使徒行伝、イザヤ書)の一つ一つが、日々、自分の魂に降ってきて、過去において魂を汚した七つの大罪を追い払ってくださるようにと祈った。また彼はそれの降臨を確信して、その定められた日にそれぞれの賜物を求めて祈りはしたものの、ときおり彼には、智慧と聰明と知識とが、それぞれ別箇にわけて祈り求めねばならぬほどに、それぞれの本質に明確な区別のあるのが、妙に思えたのだった。それでも、いつか将来自分が霊的の向上をとげた段階にいたり、おのれの罪深い魂が至聖なる三位一体の第三位により、弱さからふるい立たされ、迷いを開かれた時には、この困難もとり除かれるのだろうと信じた。彼はこのことをいよいよ固く、戦《おのの》きをおぼえつつ信じた。というのも、神々しい薄暗がりと静けさの中には、鳩と烈風(使徒行伝)の象徴をもつ目に見えざる「助主《たすけぬし》」(精霊のこと)が宿り、その御者《おんもの》に罪を犯すのは赦すべからざる罪となるからであり、この永遠の神秘なる隠れたものに神として、司祭は年に一度「火の如き舌」(使徒行伝)の緋色の法衣をまとってミサを捧げるからだった。
彼が読む信仰の書に、おぼろに写しだされている一体なる三位の本質と関係のいろいろの形象――御父は永遠《とこしえ》より鏡にうつるがごとく至聖なる完成を凝視し、それによって永遠の御子をとこしえに儲け給い、また聖血は永遠より御父と御子より出ずるという――のほうが、神は彼がこの世に生れでる前、この世界そのものが存在しなかった以前の永い世々、永遠の昔から、彼の魂を愛し給うてきたという単純なことに比べれば、それらのもつ荘厳な不可知さの故に、まだしも彼の心に受けいれやすかった。
これまで、彼は愛とか憎しみという激情についてのいろいろな言葉が、おごそかに演壇や説教壇から唱えられるのを聞き、書物にもそれらが厳粛に説かれてあるのを読んで、なぜ自分の魂は、それらを片時なりと宿すことができないのだろうか、なぜ無理にでも信念をもってそれらの言葉を口にだすことができないのだろうか、と思っていた。しばしば短い怒りに襲われることはあったが、それを永続的な激情たらしめることはどうしてもできず、いわば自分の体が、いともあっさり何か外側の皮層か皮でもはぎとられるかのように、いつも自分がその怒りからするりとぬけだしてゆくのを感じていた。なんども言い知れぬ暗いざわめくものが自分の全身に浸透し、つかの間の邪悪な欲望の炎を点じることもあったが、それもやはり、彼のとらえ難いところへするりと逃げだし、あとの彼の頭は冴え、無関心になるだけだった。それが彼の魂の宿していた唯一の愛であり、唯一の憎しみであるらしかった。
だが、今はもう愛の実在を信じないわけにはゆかなかった。神御みずから永遠より聖なる愛をもって一個の彼の魂を愛し給うてきたからだ。しだいに彼の魂が霊的知識によって豊かになるにつれ、全世界が神の力と愛の、一つの広大な秩序のある現われを成しているのが、彼には見えてきた。人生は神の賜物だと思えてくると、たとえそれが木の小枝にかかるたった一枚の葉の眺めであろうとも、彼の魂は一瞬ごとに、その賜物の感動に対し、「授け主」を讃え、感謝せずにはおれなかった。世界はそれが全く物質と複雑さとからなっているにもかかわらず、今はもう彼の魂にとっては聖なる力と愛と普遍の原理として以外には存在しなかった。あらゆる自然に、尊い意味がひそむという彼の魂が受けたこの感じは、甚だ全面的であり、疑うべからざるものであったから、どういうふうであれ、何故自分などがいつまでも生きてなければならぬ必要があるのか、その理由がのみこめぬくらいだった。とはいえ、それが神の目的の一部であってみれば、自分が、殊に神意にそむいてあれほど深い、あんなにも汚らわしい罪を犯した自分ごとき者が、その効用に疑いをさしはさむことなど思いもよらなかった。唯一の永遠にして普遍の完全なる実在物のこの意識によって、従順に謙虚にされた彼の魂は、再びミサや祈祷や秘蹟や苦行という信仰の重荷をとりあげた。かくして大いなる愛の玄義について思い耽るにいたって以来はじめて、おのれの内に、何か新たに生まれた生命の動きに似た温かい動きというか、あるいは魂そのものの力を強く感じた。宗教芸術における法悦的な姿勢、さし上げひろげている両の手、いまにも失神せんとする者のようにかすかに開かれた唇と眼、それらは彼にとって創造主の前にへり下り、おどおどして祈る魂の相《すがた》であった。
だが彼は霊的昂奮の危険についてはあらかじめ戒められていたので、どんなに些細な、あるいは卑しい献身をもなおざりにすることを許さず、さらに危険のともなう聖者的な境地への到達をめざすよりもむしろ、絶えざる苦行によって、罪にみちた過去をつぐなおうと努めた。彼の五感のいずれもが厳しい訓練を課せられた。視覚の欲望を抑えるためには眼を伏せて街を歩くことを常とし、左右にちらりと視線を走らせることも、うしろを振り返ることをも決してしなかった。彼の眼は女の眼と会うこともすべて避けた。時にはまた、読み終らない文章の中途で不意に眼をあげて書物を閉じるときのように、不意に意志の努力によって眼の欲求の邪魔をした。聴覚の欲を抑えるためには、そのころ声変わりしかけていた自分の声を努めて抑制せず、歌もうたわなければ口笛も吹かず、また研ぎ台で庖丁を研ぐとか、十能《じゅうのう》で燃えがらを集めるとか、絨毯《じゅうたん》を棒ではたくとかいうような、苦しいほどに神経を焦《いら》だたせる騒音からも逃げようとはしなかった。嗅覚の欲を抑えるのには、さらに苦労した。というのは、彼がこれまでいろいろと妙な比較や実験をやったことのある糞やタールの臭いのごとき外界の臭気であろうと、自分の体臭であろうと、すべて悪臭には少しも本能的な嫌悪を感じないのを知ったからである。結局、自分の嗅覚が不快をおぼえる唯一の臭気は、長いこと澱《よど》んでいた尿の臭気に似たある種の腐った魚のような悪臭であることがわかった。そこで機会がありさえすればいつも、この不快な臭気に身をさらした。味覚の欲を抑えるためには、厳しい食事の習慣を実行し、教会の断食はすべて厳重に守り、また気を散らすことによっていろんな料理の風味から考えをそらそうと努めた。だが触覚の苦行には、最も苦心惨憺たる巧緻な工夫をこらしたのである。寝床では意識して姿勢を変えることを決してせず、椅子には最も窮屈な姿勢でかけ、痒《かゆ》みや痛みはすべてじっと我慢し、暖炉からは遠ざかり、ミサの際には福音書の朗読のとき以外は終始ひざまずいたままでおり、外気にぴりぴり刺されるような痛みを感じるようにと、頸や顔の部分は拭かずにおき、また、ロザリオの祈りを唱えていないときには、いつも競走者のように腕を両脇にしっかと当てて、決してポケットに突っこんだり、うしろに組んだりしなかった。
大罪を犯す誘惑は少しも覚えなかった。ところが手のこんだ敬虔《けいけん》な言行と克己を一とおりやり終えたあとで、自分が易々と子供っぽい下らぬ欠点に左右されるのを知って、意外に思った。祈りも断食も、母がくしゃみするのを聞いたり、自分の精進の邪魔をされたりすると、怒りを抑えるのにほとんど役にたたないのだった。そういう癇癪の吐け口を与えようと促す衝動を抑えるには、途方もない意志の努力を要した。彼がよく教師たちの間に気づいた些細な怒りを爆発させる姿、口元をぎゅっとゆがめたり、唇をかみしめたり、頬を紅潮させたりする恰好を思いだすと、これほどいろいろと謙虚に努めていながらも、それと思い合わされて、がっかり気落ちするのだった。自分の生活を他人の生活の平凡な流れに融けこますことは、彼にとってどんな断食や祈祷よりもつらかったので、おのれの満足のゆくまでこれを行うのに絶えず失敗し、そのあげくついには懐疑とためらいが起きると共に、精神的に乾き切った感じが魂の中に生じるにいたった。秘蹟そのものすら涸《か》れきった源に化し去ったかに思えるような寂莫の時期にはいりこんだ。告白は小心翼々として、しかも、悔い改まらぬ欠点の逃げ路になった。現に聖体を拝領しても、これまで聖体を訪《と》い奉った終りにおりおり感じられたあの霊的な交感といった、清らかな自己放棄の、溶けこんでゆくような瞬間はなかった。彼がこういう礼拝に用いた書は聖アルフォンソ・リグオリの著した古い粗略に扱われてきた祈祷書で、文字は褪《あ》せ、ページは枯れたように茶色に変色していた。讃歌の与える映像と拝領者の祈りとが融け合うその書のページを読んでいると、熱烈な愛と清らかな呼応の過ぎ去った世界が彼の魂に呼びさまされるのだった。聞こえざる声が魂を愛撫し、魂に名と誉れとを語り、婚姻のためのごとく起きて出できたれと魂に命じ、新婦よ、アマナよりまた豹の山より望め(雅歌)と命じるかのように思われた。魂はこれに身をゆだね、同じ聞こえざる声で答えるかに思えた、「かれわが胸のあいだに息うべし」(同)
この委《ゆだ》ねきってしまいたいという思いは、祈りや瞑想の間にまたも彼に囁きはじめた肉の執拗な声に、またしてもおのれの魂が襲われるのを覚える今は、彼の心にとって危険な魅力であった。ただ一度の同意のふるまいで、ただ一瞬の考えで、これまで行ってきたことのいっさいがふいになるのだと知ると、それが強烈な力をわきたたせる感を与えた。さながら上げ潮がひたひたと自分の素足へと迫ってきて、その最初のかすかな怯ず怯ずした音もない小波《さざなみ》が、自分の熱っぽい肌に触れるのを待っているかのようであった。と、それがあわや触れんとする瞬間に、あわや罪に応じようとするその刹那、とっさの意志の行動か、とっさの祈祷かによって救われ、上げ潮から遠く離れて、乾いた岸に立っている自分を見出すのだ。上げ潮の銀色の線がはるか遠去かっては、またも彼の足もとへとゆるやかに迫りだすのを見ると、自分が屈服もしなければ、すべてをふいにもしなかったのを知って、力と満足のあらたな昂奮に魂はふるえるのだった。
こんなふうに何度となく誘惑の潮を避けていると、心は乱れ、失うまいとしてきた恩寵が少しずつ自分から盗みとられてゆくのではなかろうかとも思った。おれは誘惑にかからぬぞという確固たる確信がぐらつき、それにつづいて、自分の魂は知らぬ間に実際に堕落してしまっているのではないかという漠然とした不安が起こった。誘惑を覚えるたびに神に祈ってきたのだし、祈り求めてきた恩寵は、神がそれを授けざるを得ない限りは当然与えられているはずだと自分に言い聞かせることによって、恩寵に浴している状態以前の意識を辛うじて取り戻した。あまりにもたび重なる誘惑とそのはげしさを知ると、やっと彼にも、かねて聞いていた聖者の試練の真実性がのみこめた。頻繁なはげしい誘惑は、魂の城砦がいまだ陥落していずに、悪魔がやっきとなってこれを陥落させようとしている証拠であった。
おのれの懐疑とか気の咎め――祈っている際の一瞬の不注意、魂の中の些細な怒りの感情的動き、あるいは言葉やふるまいのちょっとした強情――を告白してしまうと、聴罪師から赦罪を与えられる以前の過去の生活の罪をあげてみるようにと命じられることがよくあった。彼は屈辱と恥ずかしさをおぼえつつその名をあげ、改めてそれを後悔するのだった。どんなに聖者のごとき生活をしようと、どんな徳や完成に到達しようと、罪から完全にまぬがれることは自分には決してないだろうと思うと、いたたまらない屈辱感と慚愧《ざんき》の念をおぼえた。休まることのない罪悪感が常につきまとうだろう。告白をし、悔悛をして罪を赦され、また告白をし、悔悛をしてはまた罪を赦される、ただいたずらにだ。あるいは地獄の恐ろしさにかられて無理にしぼりだしたあの最初の軽率な告白が、よくなかったのではなかろうか。さし迫った最後の審判ばかりを恐れて、真剣におのれの罪を悲しむ気持がなかったのではあるまいか。だが、告白をしてよかったこと、またおのれの罪を真剣に悲しむ気持があったことの何より確実な証拠は、自分の生活の改まったことだと思った。
――おれは自分の生活を改めたのだ。改めたのじゃないか? と彼は自問した。
光を背にして校長が窓口のところに立って、褐色の横引きの日除けに片肘をかけ、も一つの日除けの紐をぶらさげてみたり、輪にしたりしながら、にこにこ笑って話をしている間、スティーヴンはその前に立って、長い夏の日が屋根の上にうすれてゆくのや、聖職者らしい指のゆるやかな器用な動きなどをちらちら眼で追っていた。司祭の顔はすっかり蔭にはいっていたが、背後からのかげってゆく陽が、深い溝のあるこめかみから頭のまるい曲線にさしていた。彼が終ったばかりの休暇、外国にある修道会の大学《カレッジ》、先生の更迭《こうてつ》など、とりとめもない話題を荘重な懇切な口調で語っている間、スティーヴンはまた耳で司祭の声の抑揚や間《ま》を追っていた。荘重、懇切な声音はのんびりとそんな話をしながらつづいていったが、話がとぎれると、スティーヴンは畏《かしこ》まった質問をして話をつづけさせないと悪いような気がした。彼にはそんな話が序の口とわかっていたので、心はその後につづくものを待ち構えていた。校長から呼出しの使いがきて以来、その使いの真意をつかもうと懸命に考えていたのだ。学校の応接室に腰かけて、校長がはいってくるのを待つ長い不安な時間、彼の眼はまわりの壁にかかっている陰気くさい絵から絵へとさまよっていきながら、心はとりとめもなく、ああかこうかと推測しているうちに、やっと呼出しの真意がおおよそはっきりしてきた。と、何か思いがけない理由でこれなくなってくれればいいがと思ったちょうどそのおり、扉の把手《とって》のまわる音がし、法衣のきぬずれの音がした。
校長はドミニコ会とフランシスコ修道会について、また聖トマと聖ボナヴェントゥラとの間の友情について語りだしていたのだった。彼の考えによると、カプチン会の服装はどうもいささか……
スティーヴンの顔は、司祭の人のよさそうな微笑に応じたが、意見をのべる熱意もなく、わずかに疑わしそうに口もとを動かしただけだった。
――たしか、と校長はつづけた。この頃はカプチン会士の間でもそれをやめて、他のフランシスコ会の例にならおうという話があるようだ。
――きっと、修道院のほうでは今のままにするでしょうね、とスティーヴンは言った。
――そうだとも。校長は言った。修道院でならあれで結構だが、街頭では実際あれはやめたほうがよさそうだ、とわたしは思うがねえ。
――あれはきっと厄介でしょうね。
――そりゃそうだ。むろんだよ。まあ、ちょいと想像してみたまえ、わたしがベルギーにいた頃、どんな天候のときでもこいつを膝までまくり上げて自転車に乗ってゆくのをよく見送ったものさ! 全くこっけいだったね。ベルギーではあの連中のことを|les jupes《レ・ジュープ》〔スカートのこと〕と呼んでいるよ。
母音が強い母音変化をつけられていたために、はっきり聞きとれなかった。
――なんて呼んでいるのですか?
――les jupes
――へえ!
スティーヴンはまたも眼には見えなかったけれど、司祭の蔭になった顔に浮かんだ微笑にこたえて、軽く笑った。というのも、低い慎重な発音《アクセント》が耳を打った時、その微笑の影というか、あるいは幻影のようなものが、たださっと彼の心をかすめたからだった。静かに前方のうすれゆく空を見つめ、夕暮れの涼気と、頬に燃え上がる小さな赧《あか》みをかくしてくれた微かに黄色を帯びた夕映えをよろこんだ。
女が身につける衣料品や、それを作るのに用いられるある種の軟らかな優美な織物は、いつも彼の意識に甘い罪の香気をもたらすのだった。子供のころに、彼は馬を御す手綱を華車《きゃしゃ》な絹のひもだろうと思っていたから、ストラッドブルックで馬具の脂でべとべとした革にさわってひどく驚いた。また、震える指先で初めて女の靴下のごわごわした地肌に触れたときも驚いた。というのも、本で読んだあらゆることが、自分の心の状態の共鳴なりあるいは予言と思われるものだけしか心に残っていないので、柔らかな言葉を用いた言い廻しや、バラの花びらのようにふわりとしたものの中でしか、なよやかな生命を秘めて動く女の心や肉体を、思い描けなかったからだった。
だが、司祭の口にのぼったいまの言葉は何かふくんだところがあった。ああいうことは聖職者たるものが軽々しく口にすべきでないと彼にはわかったからだ。あの言葉は何かもくろみがあってわざと軽々しく言ったのだ。と、彼は影にいる眼が自分の顔をさぐっているのを感じた。イエズス会士の狡猾《こうかつ》さについては、いろいろ話に聞いたり本で読んだりしていたが、自分の経験によって確証されたものではないとして、それらをあっさり片づけていた。教師たちは、たとえ彼らに惹《ひ》かれるものがなくとも、彼にはいつも聰明で真面目な聖職者たち、頑健で元気旺盛な生徒監たちに思えた。冷水で体をごしごし洗って、清潔な、肌触りのひやりとするリネンの下着を身につけた人々というふうに、彼らが思い描かれるのだった。クロンゴウズとベルヴィディァで彼らと共に暮らしてきた何年もの間、罰棒を喰ったのはたった二つだったし、それも間違って加えられたとはいえ、考えてみれば何度も罰を脱れたことがあった。その何年もの間に、教師の誰からも軽はずみな言葉を聞いたおぼえは一度もない。キリスト教の教理を教え、彼にりっぱな人生をおくるようにと励ましてくれたのは彼らだったし、また、彼が大罪に落ちこんだ時、恩寵へつれ戻してくれたのも彼らであった。自分がクロンゴウズでぼんやり者だった頃、彼らの前にでると、気後れをおぼえさせられたものだし、また、ベルヴィディアでぱっとしない地位を保っている間、気後れをおぼえさせられたのも、そういう先生がいたおかげであった。こういう感じは彼の学校生活の最後の年になるまで絶えずつきまとっていた。従順でなかったというためしは一度もなく、あるいは乱暴な級友たちにのめのめとそそのかされて、温和《おとな》しい服従の習慣からそれたこともかつてなかった。教師の所説に疑念を抱いても、思いきって公然と疑問をさしはさんだこともなかった。近頃は教師たちの判断の中にはいささか子供っぽく聞こえることがあって、なんだか自分が住み慣れた世界から徐々にぬけだしかけていて、その世界の言葉を聞くのもこれが最後でもあるかのように、失うものへの悲しみと未練とをおぼえるのだった。いつだったか、数人の生徒が礼拝堂近くの差掛け小屋の下で一人の司祭をかこんでむらがっていた時、司祭がこんなことを言うのを聞いたことがある。
――マコーレイ卿〔イギリスの歴史家・政治家〕はおそらく生涯に一度も、大罪つまり故意の大罪を犯したことのない人だったろうと思うね。
すると生徒の誰かが、ヴィクトル・ユーゴーはフランスの最大の文豪ではないかどうか司祭にきいた。司祭はそれに答えて、ヴィクトル・ユーゴーも教会に背を向けてしまったら、カトリック信徒であった頃に書いたその半分もいいものを全然書いていないと言った。
――もっとも、フランスの著名な批評家で、と司祭は言った。ヴィクトル・ユーゴーも確かに偉大ではあるが、ルイ・ヴィヨー〔フランスの著述家・熱烈なカトリック〕ほどの純粋なフランス文体は持っていない、と見ているものがたくさんいるよ。
司祭のふと言い及んだ言葉がスティーヴンの頬にぽっと点じた小さな赧みも、再び消え去り、彼の瞳はじっと静かに青白い空にそそがれた。だが落ちつかぬ一つの疑念が彼の心の前をあちこちに飛びまわっていた。仮面で蔽いかくしたいくつかの記憶が彼の前をぱっとかすめさった。場面や人物は見分けられたが、それらの中にふくむ何かきわめて重要なことがらを見落としていたのに気がついた。クロンゴウズの校庭を歩きまわりながら運動競技を見守り、クリケット帽から駄菓子をとりだして食べている自分の姿が、眼前に浮かんだ。数人のイエズス会士が婦人たちとつれだって自転車路をまわって歩いていた。クロンゴウズで使われる二、三の用語のこだまが、彼の心の遠く離れた洞窟で響いた。
耳をすまして応接室の静けさの中でこれらの遠いこだまに聞きいっていた時、ふと我に返ると司祭が改まった声で話しかけていた。
――きょう、君を呼びにやったのは、スティーヴン、非常に重大な問題について、君に話をしたかったからだよ。――君は、自分には天職がある、と感じたことがあるかね?
スティーヴンはありますと答えようとして唇を開いたが、その言葉を急にひっこめた。司祭は返事を待ってから、つけ加えた。
――つまり、君自身の内に、君の魂の中に、修道会にはいりたいという願いを感じたことがあるかときいているのだよ。考えてごらん。
――時々そんなことを考えたことはあります、とスティーヴンは言った、
司祭は日除けの紐を片側にぶらんと離し、両手を組んで、その上に重々しく顎をのせ、じっと考えこんだ。
――このような学校では、と遂に彼は言った。天主が宗教生活にお召しになる生徒が一人か、ないしはまあ二、三人はいるものです。そういう生徒はその篤い信仰、他の人たちに示すりっぱな模範から見て他の級友たちとは、はっきりと違っている。級友からは上に見られるし、仲間の信心会員たちからは指導者に選ばれる。そこで、この学校でそういう生徒、わが聖母マリア信心会の総代としてやってきたのは、スティーヴン、君なのだ。おそらくこの学校で天主が召し給うご計画でいられるものは君なのでしょう。
司祭の声の荘重さを強める誇らし気な力強い響きに応じて、スティーヴンの胸の鼓動は速くなった。
――そのお召しを受けることは、スティーヴン。司祭は言った。全能の天主が人間に与え給うことのできる最大の栄誉です。この地上のいかなる国王も皇帝も、天主の司祭の権能を持っていない。天上の主の御使いも大天使も、聖人も、いな童貞マリアすらも天主の司祭の権能は持っておりません。鍵の権能(マタイ伝)、罪を縛り、罪から解き放つ権能、悪魔を払う力、天主の造り給えるものより、彼らを掌管《つかさど》る悪鬼を追いだす力、天の偉大《おおい》なる天主をして祭壇に降し、パンと葡萄酒《ぶどうしゅ》の形をとらしめる力、権威。なんという恐ろしい力ではないか、スティーヴン!
この誇らしげな言辞の中に彼自身の誇らかな感慨のこだまを聞くと、スティーヴンの頬はまたも火照《ほて》り始めた。天使も聖人も畏敬して立ちすくむその恐ろしい力を従容《しょうよう》と、しかも謙虚にふるまう司祭となっているおのが姿を、幾度心に思い浮かべてきたことであろうか! 彼の魂はひそかにこの願望に思い耽るのを愛してきた。若々しいもの静かな態度の司祭が足早やにさっと告解場に入る、祭壇の段を昇る、香を焚く、拝跪《はいき》するなど、それらが現実と似ていながら現実から遠いがゆえに快よく感じられる司祭としての茫漠とした勤めを果している自分自身の姿を思い描いていたのだった。瞑想の中でくぐりぬけてきたその茫漠とした生活では、いろんな司祭たちに彼が気づいていた声音や身振りをやっているのだった。誰それのように横向きに膝を曲げてみたり、誰それのようにほんの僅かに香炉を振ってみたり、またある司祭のように、会衆に祝福を与えてから再び祭壇に向う時にさっと上祭服《カズラ》の裾をひろげてみたりした。また中でもいい気持になるのは、そういう想像の漠とした光景で脇役をつとめることだった。模糊とした盛観の雰囲気のことごとくが自分一身に尽きるのではないか、祭式がきわめて明瞭にして決定的な役目を自分におしつけるのではないか、と想像すると楽しくなくなり、ミサ執行者の厳めしさから尻ごみしてしまうのだ。彼はもっと目立たない聖職の務めをあこがれた。盛式ミサで副助祭の軽い帷衣《チュニクル》をまとい、祭壇から離れたところに会衆からは忘れられて立っており、肩には肩衣《かたぎぬ》をかけ、その襞の内側にパテナ〔聖体のパンを入れる金銀の用器〕を捧持しているとか、あるいは犠牲がすべて終った時に助祭として、金襴の袍衣《ダルマチカ》をまとってミサ執行者の下の段に立ち、両手を合わせ、顔を会衆のほうへ向けて「|往けよ、ミサ終れり《イテ・ミサ・エスト》」の聖歌をとなえたりすることだった。もし自分がミサ執行者となっているのを思い描くとすれば、それは彼の児童用のミサ典書の中にあるミサの絵にかかれてあるように、犠牲の天使〔大天使ミカエル〕のほかは礼拝者の一人もいない教会で、なんの飾りもない祭壇に向い、せいぜい自分と同じ年頃の侍者にかしずかれている姿であった。漠然とした犠牲とか秘蹟とかいう儀式の行為においてのみ、彼の意志は進んで現実にぶつかってゆこうとするかに思えるのだった。彼が怒りや倣慢を蔽いかくさんがために、ただ沈黙におちいっていたのも、あるいは自分から与えたいと熱望する抱擁をただ受けるだけで我慢していたのも、そのいずれにしろ、いつも自己を無行動におしとどめてきたのは、ある一定のなすべき儀式がそこにないということにも幾分原因していたのだった。
彼はいま畏って沈黙したまま司祭の訴えに耳を傾けているうち、それらの言葉をとおして、いよいよはっきりと、彼に側へ来たれと命じ、彼に神秘な知識と神秘な力を授けようとする声が聞こえてきた。それを授かれば魔術師シモン〔サマリヤの魔術師〕の罪とはいかなるものか、また絶対に赦されることのない聖霊に対する罪とはいかなるものかがわかるのだ。他の人々の眼から、怒りによって孕《はら》み生れた子ら(エペソ書)である者たちの眼から、かくされている深遠なこともわかるだろう。薄暗い礼拝堂の恥ずかしい思いにうちひしがれた告解場の中で、女や娘たちの唇が囁くのを聞いて、他人のもろもろの罪、罪深い切望や罪深い考えを知るのだ。だが自分の魂は、授品式の際の按手《あんしゅ》の礼により、秘蹟をもって罪に染まることのないようにされているので、汚れに染まずして再び祭壇の純白な静けさへもどってゆく。ホスチアを捧げ、それを裂く自分の手にはいかなる罪もつきまとうことはなく、主の御身体の見分けもつかぬわが身に招く堕地獄の呪いを喰い、かつ飲まされるいかなる罪も、祈りを捧げるわが唇には、つきまとうことがないのだ。自分はみどり子のごとく罪なきものとなって幽玄な知識、幽玄な力をつかむ。そして自分は「永遠《とこしえ》にメルキゼデクの位に等しき祭司」(詩篇、ヘブル書その他)となるのだ。
――わたしは、明朝、と校長は言った、全能の、天主が御聖意を君に顕わし給うようミサを捧げるつもりです。そこでスティーヴン、君は、最初の殉教者であり天主に対しきわめて力強い君の守護聖人〔聖ステファノのこと、スティーヴンと同名〕に、天主が君の心を教え導き下さるようにと、九日間の祈りを勤めてもらいたい。だが、スティーヴン、君は自分には使命があるのだということをはっきりと確信していなければいけない。というのは、後でもしそうでないとわかったら恐ろしいことになるからね。いったん司祭となったら、いつまでも司祭なのだ、いいかね。公教要理の教えている通り、品級の秘蹟〔司祭職につく儀式〕は、絶対にぬぐい去ることのできない不滅の信仰の印を霊魂に刻みつけるのだから、ただ一度しか受けることのできない秘蹟の一つです。事前にとくと考慮しておかねばいけない、後ではだめだ。これは厳粛な問題だよ、スティーヴン、君の永遠の魂の救いがそのことの如何にかかっているかもしれないからね。だが、わたしたちも共に天主に祈りましょう。
彼は重々しい広間の扉を開けたまま、もうすでに信仰生活の友に対するかのように手をさしのべた。スティーヴンは踏み段の上の広い壇のところまで出てくると、撫でるようなやわらかな夕暮れの空気を意識した。フィンドレイター教会の方角へ四人組の青年が腕を組み合い、頭をふり、リーダーのひく手風琴《コンサーティナ》の軽快なメロディに歩調を合わせて大股に歩いていた。その音楽は一瞬、不意に聞く音楽の最初の数小節がいつもそうなのだが、幻想的に織りなす彼の心の上をさっとよぎり、あたかも不意によせくる波が子供たちの造った砂の小塔を崩すかのように、難なく音もたてずに幻想を崩した。たわいもないその調べに微笑《ほほえ》んで、彼は司祭の顔に視線をあげ、そこに陽の沈んだあとの明るさのない残映をみとめると、その同僚あつかいをした気持にかすかに無言で応じた自分の手を、ゆっくりと引き離した。
踏み段をおりながら、彼の思い迷う心内の自問自答をぬぐい消した印象は、学院の入口から日没の残映をうつしている明るさのない仮面の印象だった。と、学院の生活の暗い影が重苦しく彼の意識に覆いかかってきた。自分を待ちもうけているものは、厳粛な秩序整然とした情熱のない人生、物質的な煩いのない生活だった。修練士となった最初の夜を自分はどうやって過ごすだろうか、どんな戸惑った思いで寮の最初の朝を迎えるだろうか、とあれこれ考えた。クロンゴウズの長い廊下のいやな臭いがよみがえってき、ガス灯の燃える炎のひかえめな呟きの音が聞こえた。たちまち全身のあらゆる部分から不安がにじみでてきた。つづいて熱病のように脈がはげしく打ちだし、わけのわからぬ言葉が騒然と彼の理性ある考えを、あっちこっちと滅茶苦茶に駆りたてた。肺はまるで蒸し熱い息の詰りそうな空気を吸いこんでいるかのように、ふくらんだり縮んだりした。と、またもクロンゴウズの浴室のよどんだような芝土色をした湯の上にこもっている蒸しあつい空気の臭いが鼻を打った。
これらの記憶に目覚めると、教育とか信仰よりも強いある本能が、その生活へ近づこうとするごとに、彼の内部で奮いたってきた。微妙な、敵意にみちた本能で、それが受身的な承諾をさせまいと彼を身構えさせるのだった。その生活の冷やかさと秩序とが彼を反撥させた。寒い朝に起きだして他の者たちとならんで早朝ミサへ出かけ、祈りを誦《とな》えながら気の遠くなるような胃のむかつきといたずらに闘おうと努める自分の姿が眼に浮かんだ。学院の同僚と共に食卓についている自分の姿が眼に浮かんだ。それなら、よその家で飲んだり食ったりするのが厭でたまらなかった自分のあの根深い内気は、いったいどうなったのだ? どんな社会にはいっていても自分は別だ、といつも思うにいたったあの精神の誇りは、どうなったのか?
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イエズス会士スティーヴン・ディーダラス師
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その新しい生活での自分の名前が文字となって眼前にいきなり跳びだし、それにつづいて定かならぬ顔か、あるいは顔の色の感じが、浮かんだような気がした。その色が褪せたかと思うと、血の気のうせた赤い煉瓦色の刻々に変わってゆく紅潮《あかしお》のように、どぎつくなってきた。その光は、冬の朝など、司祭の剃りたての顎にしょっちゅう見かけたあの生々しく、てらてら光った赤い色なのか? その顔は眼を閉じ、苦りきっていて敬虔で、怒りを押し殺した薄い紅みが走っていた。それは一部の生徒が|提灯あご《ランタン・ジョーズ》だとか|狐のギャンブル《フォクシイ・ギャンブル》などと呼んでいたイエズス会士の誰かの顔を心に描いた幻影じゃないのか?
彼はその時ちょうどガーディナー通りのイエズス会の寮の前を通りかかっていたので、もし自分が修道会に加わったら、どれが自分の室の窓になるのだろうかなどと、とりとめもなく考えた。と、この自分の考えのとりとめもなさ、これまで魂の至聖所と想い描いていたものから自分の魂が遠く離れていること、いったん自分のとるべき決定的な、変更の許されぬ行為が現世においても来世においても、永久に自分の自由を終らせようと迫ってくると、永年にわたる規律と服従が自分をおさえつけていたその把握の意外の弱さに、彼は驚いたのだった。教会の誇りある要求権、司祭職の神秘さと権能を彼に説きすすめる校長の声が、記憶の中でただいたずらにくり返されていた。彼の魂はあの場でそれを聞き、それをよろこんで迎えようとしていなかったのだ。いまにして彼は、一心に耳を傾けた勧告が、すでにくだらぬ形式的なお談義に堕し去ったのを知った。おれは司祭になって聖櫃《せいき》の前で香炉を振るようなことは絶対にやるまい。おれのこの世の定めは、社会的だろうと宗教的だろうとすべて聖職を避けることだ。あの校長の賢明な訴えも自分の心の急所には触れなかった。おれは他人とは別の、自分だけの智慧を学びとる、あるいはこの世のさまざまの陥穽《かんせい》の間をさまよって、自ら他人の智慧を学びとるよう運命づけられているのだ。
世の中の陥穽はこの世にある罪の道なのだ。おれは堕ちてゆくだろう。今はまだ堕ちてはいないが、黙したまま、あっという間に堕ちてゆくだろう。堕ちまいとすることはあまりにも難かしい、とても駄目だ。いつか来たるべき瞬間に、ずるずると何度も罪に堕ちかかりながら、まだ堕ちきらず、なおも罪に堕ちこんではいないのだが、今にも堕ちそうになるといったおのれの魂の無言の推移が感じられるのだった。
彼はトルカ河にかかった橋をわたり、ちらりと冷やかな視線を聖母マリアの色褪せた青いほこらに投げた。それはハムのような形に群がった見すぼらしい田舎家の集落の真中にある一本の柱の上に、鳥のように立っていた。それから左へ折れると、わが家へ通じている小道をたどっていった。腐ったキャベツの微かな酸っぱい臭いが、河の上の高くなった土地にある菜園からただよってきた。そうだ、父の家のこの乱脈、でたらめ、混乱とこの植物の生命の腐敗、それがいつかはおれの魂に勝利を占めるのだと思うと、微笑が浮かんだ。さらに、わが家の裏の菜園にいて、一家で帽子のおじさんと揮名《あだな》をつけていたあの孤独な作男をふっと思いだすと、思わず短かい笑いが唇からもれた。ちょっと間をおいて、その帽子をかぶった男が空の四隅をつぎつぎに見つめ、やがてさも未練気に鋤《すき》を地面に打ちこむ恰好を思い浮かべると、思わずさっきの笑いにつづいて、またも笑いがもれた。
彼は玄関《ポーチ》の掛け金のない扉を押し開き、がらんとした玄関の間をぬけて台所へはいりこんでいった。弟や妹たちが一かたまりになって食卓をかこんで腰かけていた。お茶はもう終りかけていて、やっと二番だしの茶の最後が紅茶茶碗代わりに使っている小さなガラスの壷やジャム入れの底に残っていた。砂糖をかけたパンの食い残しの屑やかけらが、その上にこぼれた紅茶のために茶色になって、食卓の上に散らかっていた。食卓の板のあちこちに紅茶の小さな溜りがあり、壊れた象牙の柄のナイフが一本、食いちらかした半月型のパイの中心に突き刺してあった。
暮れ落ちんとする日のもの悲しい静かな青白い輝きが、窓や開け放った戸口からさしこんで、ふとスティーヴンの心に本能的に湧き起こった自責の念をつつみ、静かに和らげてくれた。弟妹たちに許されなかったあらゆることが、長男なるがゆえに自分には惜しみなく与えられてきたのだ。けれど、夕暮れの静かな光は彼らの顔になんの恨みの気配もないのを示していた。
彼はみなのそばの食卓につくと、お父さんとお母さんはどこにいったのときいた。一人が答えた。
――おうちいを、見いにい、いいったんだようお。
また引越しか! ベルヴィディアのファロンという名の生徒が、馬鹿笑いをしながら、なんだってそうしょっちゅう引越すんだい、と彼にたびたびきいたことがある。またもあのおせっかい屋の馬鹿笑いが聞こえてくると、嘲りの苦《にが》い表情がたちまち顔を暗くした。
彼はきいた。
――余計なことかもしれないが、どうしてまた引越しするんだろうね?
――そうれはねえ、やあぬしがあ、ぼくらあを、追いいだすうからあさあ。
暖炉の向う側にいた一番下の弟の声が「静けき夜にいくたびか」の曲を歌いだした。他の者も一人一人その節をとりあげ、ついには全員が声をそろえて合唱をやりだした。彼らはこのようにして何時間も、曲から曲へ、合唱から合唱へと、最後のあわい光が地平線上に消え落ちるまで、最初の暗い夜雲が現われて夜のとばりがおりるまで、歌いつづけるのであろう。
彼はしばらく耳をすませて聞きいっていたが、やがて彼も一緒になってその歌に加わった。弟妹たちのかよわく清らかで無邪気な声のかげにひそむ疲れたような強い協和音に、心の痛みをおぼえつつ聴いていた。まだ人生の旅路に出ない先からもう彼らは行路に疲れているようだった。
彼にはこの台所の声の合唱が、終りなき世々の子供らの合唱のはてしもなき反響へと谺《こだま》し増大してゆくかに聞こえ、そのすべての谺にもやはり疲れと苦痛の響きをくり返す谺を聞きとった。みんな人生にのりだす前にもう人生に疲れているかのようだ。と、彼はニューマンもまたつぎのウェルギリウス〔紀元前のローマ詩人〕の哀切な詩句の中にこの響きを聞きとっているのを思いだした。「自然そのものの声のごと、なべての世の自然の子らの経験したれるかの苦しみと疲れの、しかもより良きものへの希望を口に発する」
彼はもう待ちきれなかった。
バイロン居酒屋の入口からクロンターフ礼拝堂の門へ、クロンターフ礼拝堂の門からバイロン居酒屋の入口へ、それからまた礼拝堂へ戻り、さらにまた居酒屋まで、初めのうちは歩道の敷石のますを念入りにひろいながらゆっくりと歩んでいたが、やがて詩の韻律の下がる個所に拍子を合わせて足を下ろしていった。父が指導教授《チューター》のダン・クロスビイと一緒に、彼のために何か大学のことで確かめるためにはいってから、もうたっぷり一時間はたっていた。たっぷり一時間も行ったり来たりして待っていたのだが、もうそれ以上待ちきれなくなった。
彼はいきなりブル〔クロンターフの砂丘〕の方角へ向って歩きだし、父の鋭い口笛に呼び返されないようにと歩調を速めた。やがてたちまち警察署の角を曲ると、ほっと安心した。
そうだ、あの面倒くさそうに黙っていたのから察したとおり、やっぱり母はこの考えには反対なのだ。しかも父の得意な気持よりも、母の不信のほうが鋭く胸を刺すだけに、自分の魂の中に衰えてゆく信仰が、母の眼には年を経るにつれて強まっていると映っていたのを、自分がどんな態度で見守ってきたか、冷静に考えてみた。漠とした反抗心が彼の内に力を得、母に対する不忠実を責める暗雲のごとく彼の心を暗くしたが、それが雲のように過ぎ去って、再び心を明るくし母に対して忠実になると、彼は漠然と、しかも何の悔いの念もなく、自分たちの人生が初めて音もなく分裂してゆくのをさとったのだった。
大学! そうだ、これでやっとおれの少年時代の保護者として立ちはだかつて、自分たちの中におれを引きとめ、彼らの意のままに従わせ、彼らの目的に役立たせようとしてきたあの番兵どもの誰何《すいか》のとどかぬところにきたのだ。満足につづいて誇らしい思いが、長いゆるやかな波のうねりのように彼を昂揚させた。仕えるために生まれてきながら、しかもまだ見とどけていない目的が、見えない抜け道から彼を脱れさせてくれ、今や再び彼に向ってさし招き、新しい冒険が展開されようとしているのだ。彼にはまるで、気まぐれな曲の調べが、いわば深夜の森から三叉に分れた火炎が発作的につぎつぎと炎を上げるかのように、さっと全音程上がったかと思うと、さっと減四度さがり、全音程上がってはまた長三度さがるのを聞いているかのような気がした。それは終止もなければ形式もない、妖精の前奏曲で、奔放、急速になり、炎が調子はずれに跳ねまわるにつれ、木の枝や草の下から、町の生きものが葉むらを打つ雨のように足音をぱたぱたたてて駈けているのを聞いている気がした。それらの足がぱたぱたと入り乱れて心の上を駈け去ってゆく。野兎や家兎の足、雄鹿や雌鹿や羚羊《かもしか》の足、ついにもう何も聞こえなくなると、ただニューマンからの誇らかな名調子を思いだした。
[#ここから1字下げ]
――その足は雄鹿の足のごとくにして、永遠の腕の下にあり。
[#ここで字下げ終わり]
その漠然とした姿の誇りが、自分の拒絶した聖職の尊厳を思いださせた。少年時代を通じ、つねに自分の運命だと、あれほどたびたび考えたことに思いをこらしていたのに、召命に従ういよいよの時になって、気ままな本能に従って横へ逸れてしまったのだ。もう時は過ぎ去ってしまった。授品式の聖油が自分の体に塗られることはもう決してない。自分は拒絶したのだ。何故か? 彼はドリマウント道路から海のほうへそれて、薄い板を張った橋を渡りかかると、重い靴をはいた足が踏みつけるので板がゆれるのを感じた。クリスチャン兄弟修道会の一団がブルから帰るとこで、二列にならんで橋を渡りかけていたのだ。やがて橋全体がぶるぶる震え、がんがん反響してきた。異様な人相の顔が二つずつ彼の側を通っていった。潮のために黄色や赤や鉛色によごれていた。気楽に平気な気持で彼らを眺めようと努めるうちに、わが身の恥ずかしさと憐れな気持から、かすかに顔が紅嘲してきた。その自分が腹立たしくなり、彼らの眼から顔をかくそうと、横向きに橋の下の浅い渦巻く水をじっと見下ろしていたが、そこにもやはり、彼らの不釣合いに大きなシルクハットや平打紐に似た粗末なカラーやだらりとたれ下った僧服が映っていた。
――助修士《ブラザー》ヒッキー
助修士クェイド
助修士マカードル
助修士キオー
彼らの敬神の念もその名のごとく、その顔のごとく、その服装のごとくあるのであろう。彼らの謙虚な、罪を悔いた心はおそらく、かつての自分の心よりも遙かに豊かな敬虔な献げもの、自分の入念をきわめた礼拝よりも十倍も神意にかなう贈りものをお供えしているのだ、といまさら自分に言ってみたところで始まらない。彼らに対して寛大な気持になろうとしたところで始まらないし、もし自分が自尊心を剥ぎとられ、打ちのめされて、乞食のぼろ服姿で彼らの家の門前に立つようなことにでもなれば、彼らは自分に対して寛大にしてくれ、おのれを愛するごとく自分を愛してくれるだろう、と我が身に言ってみたところで甲斐がない。最後に、愛の掟は、同じ量、同じ強さの愛をもっておのれの如くおのれの隣人を愛するのではなくして、同質の愛をもっておのれの如く隣人を愛せよと命じているのだということを、自分の冷静な確信にさからって論じたところで、無駄でもあるし辛いだけだ。
彼は胸に秘蔵しているもののなかから一句を引きだし、そっと独りつぶやいてみた。
――海より生ぜし斑《まだら》の雲の日。
この句とその日と場景とが一つの和音に合した。言葉。それは言葉の色彩なのか? 彼は言葉がつぎつぎと色合を変えて燃えるように輝いては褪せてゆくにまかせた。日の出の金色《こんじき》、りんご園の朽葉色と緑、海の紺青《こんじょう》、わた毛雲の縁の灰色。いや、それは言葉の色彩じゃない。それは完全文《ピリオッド》そのものの平衡と均整なのだ。では、自分は言葉のもつ伝説と色彩の連想よりも、言葉のリズムの抑揚のほうを愛するのか? それとも、自分が引っこみ思案でもあり、また視力も弱いところから、多彩にして華やかな物語性に満ちた語句のプリズムをとおして、燃えたつような感覚の世界の反射から得る悦びが少なくて、明晰、柔軟な綜合文に見事に写しだされる個性的な情緒の内的世界の静観から得る悦びのほうが、大きいのであろうか?
彼は震え動く橋から再びかたい地面へ出た。その瞬間、彼にはそう思えたのだが、空気がひやりと冷たくなった。で、横目に水のほうを眺めると、まき起こる突風がにわかに潮流を暗くし、波立たせているのだった。かすかに心臓がぎくりとし、咽喉《のど》がかすかに脈打ったので、自分の肉体が海の冷たい、人間より下等なものの臭いをどんなに怖れているかを改めて知らされた。それでも左手の砂丘の向うへは進まずに、河口に突き出ている岩の背をつたって真直ぐに歩きつづけた。
紗《しゃ》でつつんだような日の光は、河が湾に注ぎこむあたりの灰色の海面を弱々しく照らしていた。遠く、ゆるやかに流れるリフィ河の河筋に沿って細長い帆柱が、空にうつった斑点のごとく、さらになお遠くには、ダブリン市の形状が俯したごとく靄《もや》の中にかすんで横たわっていた。人間の倦怠のごとくに古い何か朦朧《もうろう》としたアラス織りの文様の風景のように、キリスト教国の第七の聖都の姿が無窮の空の彼方にのぞまれた。それは北欧人の侵入時代のように古くもなければ疲れてもいず、しかもその頃と同じように服従に忍耐強く見えた。
気落ちして、彼は海より生じた斑《まだら》の、ゆるやかに流れる雲へ眼をあげた。それは空の荒野を渡っていた。アイルランドの空高く真西を目指して行進する遊牧の民の群だ。それらが出てきた欧州大陸はあのアイリッシュ海を越えた彼方にある。変わった国語をもち、渓谷があり、森林につつまれ、城砦《じょうさい》をかまえ、壕《ほり》でかため、兵を備えた民族の欧州。ほぼ意識にのぼりかけているのに、一瞬たりと捕えることのできない、いろんな記憶や名のごとき入り乱れた調べが彼の内に聞こえた。と、その調べはしだいに遠のき、退いていくようだった。そして星雲のごとき調べが尾をひいて遠のいてゆくごとに、静寂なたそがれを星のように貫き、つねに一つの長く尾をひく呼び声がした。またも! またも! またもだ! 世界の彼方からの声が呼んでいた。おうい、ステパノス〔スティーヴンをギリシャ名式に呼んだもの〕
――ダエダルスがきたぞ!〔ダエダルスはギリシャ神話のイカルスの父。ディーダラスをギリシャ名で呼んだもの〕
――おう!……こらっ、よせったら、ドワイヤー、わからないのか。わからなきゃ、お前の口に一発食わしてやるぞ……おう!
――やれ、やれ、タウザー! 水につけちまえ!
――こっちへこいよ、ディーダラス――ボウス・ステパノウメノス――ボウス・ステパネフォロス!〔いずれも「冠をつけた牛」の意〕
――水につけちまえ! 水を飲ませてしまえよ、タウザー!
――助けてくれ! 助けてくれ!……おう!
彼らの顔を見分ける先に、彼には皆と言葉がひとかたまりになって聞こえてきた。その濡れた裸のごった混ぜを見ただけで、彼は骨の髄まで寒気をおぼえた。屍体のように青白いのや、蒼ざめた金色の光でつつまれたのや、赤膚《あかはだ》みたいに日焼けしたのや、そういった彼らの体が海水に濡れてきらめいていた。お粗末な支えにのせてあるので、彼らが跳びこむとぐらぐら揺れる跳び込み台代わりの石や、馬鹿騒ぎをしながらよじ登っている傾斜した防波堤の荒削りの石は、冷たく濡れた光を帯びて輝いていた。ぴしゃぴしゃいわせて体に叩きつけているタオルも冷たい海水をふくんで重そうだった。彼らのもじゃもじゃに乱れた髪も冷たい潮水でぐっしょり濡れていた。
彼らから呼ばれるままにおとなしくじっと立ち止まり、そのひやかしに軽口をたたいて受け流した。みんななんて特徴のない顔つきをしているのだろう。襟のボタンを深くはずしているシュリー、蛇のような形をした止め金のついている真赤な革帯をはずしたエニス、垂れのない脇ポケットのついているノーフォーク型上衣を脱いでいるコノリー、みんなそうだ! 彼らを見ているのは苦痛だった。彼らの情けない肉体に嫌悪を催す青春期の徴候を見ると、剣で突きさされるような苦痛をおぼえた。おそらく彼らはその胸の奥底にある秘密の恐れからの逃げ道を、多人数と喧嘩の中に求めているのだろう。だが彼は、皆から離れ、黙りこくったまま、自分自身の肉体の神秘をどんなに恐れていたかを思いだした。
――ステパノス・デダロス! ボウス・ステパノウメノス! ボウス・ステパネフォロス!
彼らのひやかしは、こと新しいものではなかったが、それが今は、彼の落ちつきはらった誇らしい優越感をくすぐった。いま初めてのように、自分の変わった名前が一つの予言のように思えたのだった。灰色の温かい空気は限りなく永遠に、自分の気持は甚だしく流動的で非個人化されたように感じられるため、あらゆる時代がただ一つのもののようにすら思えたのだった。ついさっきは、遠い昔のデンマーク人の王国の亡霊が、靄につつまれた都市の覆いをすかして、こっちを見ていたのだ。伝説の名工〔ギリシャ神話のダエダルスを指す〕の名を耳にした今、かすかな潮騒《しおざい》が聞こえ、翼をつけた姿が波の上を飛び、ゆるやかに空へ飛翔してゆくのが見えるような気がした。これはいったい何を意味するのだ? 太陽へ向かって海の上を飛ぶ鷹に似た男、それは何かの中世の予言と象徴の書の開巻第一ページの奇怪な象徴的図案だったろうか、自分が仕えるために生まれてきて幼い時代から少年時代の霧の中を追っていた目的の予言なのだろうか、芸術家がその仕事場で土のごとき鈍重な物質から未知の天翔《あまか》ける精妙な不滅のものを新たに造りだすという象徴なのか?
彼の胸はふるえ、呼吸ははずみ、さながら自分が太陽へ向かって天翔けているかのように、もの狂おしい生気が四肢にみなぎってきた。心は恐ろしい恍惚《こうこつ》感におののき、魂は空を飛んでいた。魂は世界の彼方の空中高く飛翔し、自分が知っている肉体は一気に浄められ、疑念を脱して光り輝き、精神の元素と混和していった。空を飛ぶ恍惚感に眼は輝き、呼吸ははげしくなり、風を切る四肢は震え、逞しくなり、光り輝いた。
――一! 二!……気をつけろ!
――わあっ、クリプス、溺れちゃう!
――一! 二! 三! それっ!
――つぎだ! つぎだ!
――一!……うっ!
――ステパネフォロス!
彼の咽喉は大声で叫びたい欲望でむずむずした。空高くの鷹か鷲の叫び、おのれの解放を風に向かって鋭く叫びたかった。これは、自分の魂へ呼びかける生命の呼びかけなのだ。義務と絶望の世界の退屈な鈍い声ではない。祭壇の陰気な奉仕へ自分を呼んだあの非人間的な声ではない。一瞬のもの狂おしい飛翔は彼を解放し、彼の唇が迎えていた勝利の叫びが彼の脳髄を切り開いた。
――ステパネフォロス!
あれはもう死人の体から剥ぎとった経帷子《きょうかたびら》でなくて何だろうか――これまで夜となく昼となくつきまとっていた恐怖、自分を取りまいていた疑念、内でも外でも自分を貶《おと》しめていた慚愧《ざんき》――すべては経帷子、墓場の装束じゃないか?
彼の魂は少年期の墓場からその屍衣《しい》を投げ棄てて立ち上がった。そうだ! そうだ! そうだ! おれと同じ名前のあの偉大な名工のように、おれの魂の自由と力から、生けるものを、新しい、天翔ける美しい、精妙、不滅なものを誇らかに創造しよう。
もはや血潮に燃える炎を消せなくなって、彼は昂奮して石垣からつと立ち上がった。頬は燃え、咽喉は歌っているかのごとく震えているのが感じられた。足には地上の果てへ向かう出発に焦がれる放浪の熱望がこもっていた。進め! 進め! 心が叫んでいるかに思われた。やがて宵闇が海に深く垂れこめ、夜の帳《とばり》が平原に落ち、暁が放浪の人の行くてにほのぼのと明けそめ、見知らぬ田園と丘陵と人の顔とを示す。何所《どこ》だろうか?
彼は北のホウスの方を見やった。潮は防波堤の浅瀬のほうの側の浜辺に打ちよせられた海藻の線から退いて、渚《なぎさ》からぐんぐん引いていた。すでに一つの細長い楕円形の砂洲が小波にかこまれ、温かく乾いてひろがっていた。ここかしこ、温かそうな色をした砂の小島が浅瀬から突きだして輝き、その小島のまわりや長い砂洲のあたり、浜辺の浅い潮流の中に、軽い服装をした人々の姿が徒渉したり、砂を掘ったりしていた。
たちまち彼も裸足《はだし》になり、靴下はポケットの中にたたみこんで入れ、ズック靴は紐を結び合わせて肩から掛けると、岩の間の漂流物の中から、先のとがった、塩水で腐蝕している棒をひろって、防波堤の傾斜をつかまりながら降りていった。
浜には一筋の細長い小川があった。その川の中をそろそろとたどって行ってみると、果しもなくつづく海草の漂着物に驚いた。碧玉色、黒、赤褐色、オリーヴ色などをして、それはゆらゆら揺れたり廻ったりして水中で動いていた。小川の水は果しもない漂着物で暗く、空を流れる雲を映していた。雲は彼の頭上を音もなく漂い、下には音もなく昆布が漂い、灰色の温かい空気はひっそりと静まっていた。新しい奔放な生命が彼の血管の中で歌っていた。
おれの少年時代はどこへいってしまったのだ? 心の傷手の恥を独りくよくよ思い煩い、卑劣とごまかしの心の家の中で、色あせた屍衣とさわれば萎むような花冠で装って、女王のごとく振舞うために、おのが運命から尻込みをしていたあの魂は、いったいどこへいってしまったのだ? いや、自分はどうなったのだ?
彼は独りだった。注目する人もいず、楽しく、奔放な生命の躍動する心に近かった。自分一人だけで、若々しい、わがままいっぱいの、奔放な気持になっていた。広漠たる荒々しい大気と塩気をふくんだ流れ、貝殻や昆布類の海の収穫物、紗《さ》でつつんだような蒼ざめた陽の光、派手な服や軽やかな服装をした子供たちや少女たちの姿、あたりにひびく子供っぽい声や少女らしい声の中にあって、彼は孤独でいた。
一人の少女が流れの真中に、独り静かに海をじっと見はるかして、彼の前に立っていた。まるで魔法が彼女を何か名も知れぬ美しい海鳥に化けさしたかのように思われた。その長いすらりとしたむきだしの脚は、鶴の脚のようにほっそりとしており、碧玉色の海草が肌の上に、何かの印のような形をなしてへばりついている部分のほかは、清らかだった。ふっくらとして象牙のような柔らかな色をしたその太腿《ふともも》は、ほとんど尻のあたりまで露わになって、ズロースの白い縁が柔らかな純白の綿毛のようにのぞいていた。濃い黒ずんだ紺のスカートは大胆に腰のあたりにまくり上げられ、鳩の尾のようにうしろに垂れていた。その胸は小鳥のそれのように柔らかく細っそりしていた。何か黒ずんだ羽毛をした鳩の胸のように、細っそりとして柔らかだった。だがその長い金髪はいかにも少女っぽかった。その顔はあどけなく、しかもどこか人の世の美の驚異を宿していた。
彼女は独り静かに彼方の海をじっと見つめていた。やがて彼の存在に、崇拝をこめた彼の瞳に気がつくと、恥じらいも、淫りがましさもなく、その視線を彼に移して静かに彼の凝視にまかせていた。長い長い間、彼女はその凝視をこらえていたが、やがて視線をはずして下の流れに眼を落とし、片足でそっと水をあちこちかきまわした。静かにゆれる水の最初の微かな音が静寂を破った。低い微かな囁くような音、静まっている鐘の音のように微かだ。あっちこっち、あっちこっちにかき廻す。と、微かな焔が彼女の頬にちらついた。
――おお、天なる神よ! 神を汚すがごとき歓喜の爆発に、スティーヴンの魂は叫んだ。
彼は不意に彼女から身をひるがえして、浜の向こうへと歩み去った。彼の頬は燃え、体は火照《ほて》り、四肢は震えていた。ぐんぐん先へ先へと闊歩していった。砂浜を越えたずっと先まで、海へ向かって荒々しく歌い、自分に向かって呼びかけた生の到来を迎えようと叫びながら。
彼女の映像は永久に彼の魂の中にはいりこみ、いかなる言葉もこの法悦の神聖な沈黙を破ることはなかった。彼女の瞳は彼を呼んだ。彼の魂はその招きに応じて跳びたったのだ。生き、過ちをし、つまずき、打ち勝ち、生から改めて生を創造することだ! 自然のままの天使が彼に現われたのだ。人の世の青春と美の天使、現世の美わしき大庭(詩篇)よりの使者が恍惚たる一瞬に、過失と栄光のあらゆる道へ通じる門を彼の前にぱっと押し開いたのだ。先へ先へ、ぐんぐん先へ進め!
彼はふと立ちどまり、静寂の中に自分の心臓の鼓動を聞いた。どれくらい歩いたのだろう? 何時なのだろうか?
付近には人影もなく、空気を伝わってくるなんのもの音もなかった。だが潮は変わり目に近く、日はすでに傾いていた。彼は陸のほうへ足を向け、岸へ向かって駈けだし、鋭い小石も意に介せず、なだらかな砂浜を駈けあがり、草むらのある丸い砂丘の輪の中に人目につかぬ砂の一隅を見つけると、夕暮れの平和と静寂に、騒ぎたつ血潮を鎮めようとして、そこにごろりと横になった。
広漠たる無関心な穹窿《きゅうりゅう》と天体のおだやかな連行を頭上に感じた。そして下なる大地、自分を生んでくれた大地は、その懐に彼を抱きよせてくれたのだった。
けだるい眠りをおぼえて眼を閉じた。目蓋はあたかも地球と、地球を見守る星辰の茫々たる回転運動を感じているかのごとく震えた。あたかもある新しい世界の妖しい光を感じているかのごとく震えた。魂は海の底のごとく幻想的で朦朧、模糊とし、雲に似た形や生きものの横切《よぎ》る、ある新しい世界へ引きこまれるように失神していった。世界、それはまたたく光か、それとも花なのか? ちらちら明滅し、震え、震えては開く、ぱっとさす光、開く花。それは無限につぎつぎとひろがり、真紅色に裂け、開き、やがて花の一ひら一ひら、光の波の一つ一つが限りなく淡いばら色に褪せ、その柔らかな茜《あかね》は天空一面に溢れる。茜は刻々に深くなってゆく。
眼がさめた時はとっぷり暮れ落ち、寝床にしていた砂も、乾いた草も、もはや火照ってはいなかった。彼はのろのろと立ち上がり、いまの眠りの陶酔感を思い返し、その快よさに溜息をついた。
砂丘の頂きによじ登り、あたりに瞳をこらした。日はすっかり暮れ落ちていた。新月の縁《ふち》が蒼白い広漠とした空との接線を切っていた。灰色の砂に深く食いこんでいる銀色の環の縁。潮は低く囁くような波の音をたてて、ぐんぐん陸へ向かって流れこんでくる、最後のまばらな人影を遠くの水溜りに島のように取り残して。
[#改ページ]
彼は三杯目のうすい茶を一滴も残さずに飲み干し、あたりに散らかっている揚げたパンの固い皮をぽりぽり噛みにかかり、壷の底に溜っている黒ずんだ汁をのぞいてみた。黄色な脂のタレは泥炭沼の穴のようにすくい取られており、その下に溜っている汁はクロンゴウズの浴室のどす黒い泥炭色をした水を記憶によみがえらせた。脇にある質札の箱はつい今しがた引っかき廻したところで、脂でべとべとした指先で、青や白の質草の札を一枚一枚ぼんやりと手に取ってみた。書きなぐり、吸取り砂がついており、皺くちゃになり、デイリーだのマッケヴォイだのといった質入れ人の名が記してある。
半長靴一足
黒上衣一着
雑品三個及び白布
パンツ一枚
やがて彼はそれらを片づけ、ぼつぼつ虫の食った痕のある箱の蓋をじっと考えこんで見つめていたが、ぼんやりした口調できいた。
――時計は何分進んでいるんですか?
彼の母は、暖炉棚の真中に横にねせて置いてあるへこんだ目覚し時計を、文字盤が十二時十五分前を示しているのが見えるところまで起こし、また横にねせた。
――一時間と二十五分よ、と彼女は言った。正しい時間はいま十時二十分過ぎですよ。お講義に間にあうように出かけたらどんなものだろうかね。
――顔を洗うから場所をあけてちょうだい、とスティーヴンは言った。
――ケイティ、スティーヴンが顔を洗うからそこをあけておくれ。
――ブーディ、スティーヴンが顔を洗うからそこをあけてちょうだい。
――だめよ、あたし、青石鹸《ブルー》を買いにゆくとこなんだから、あんた、してあげてよ、マギー。
琺瑯《ほうろう》引きの洗面器が流しにすえられ、古ぼけた洗濯手袋が流しの縁にほうりだされると、彼は母が首をごしごし洗ったり、耳のひだの中や小鼻のわきのくびれ目までほじりだすにまかせた。
――やれやれ、情けないことだわね。彼女は言った。大学生のくせにお母さんから洗ってもらわなければならないほど汚れてるなんて。
――でも、それがお母さんにはうれしいのだからね。スティーヴンは落ちつき払って言った。
耳をつんざくような口笛が二階から聞こえると、母は濡れた上っ張りを彼の手におしこみながら言った。
――拭いたら、後生だから早く出かけてちょうだいね。
二度目の鋭い口笛が怒ったように長く引きのばして聞こえると、娘の一人が階段の下まで出ていった。
――なあに、お父さん?
――のらくら兄貴の雌犬《ピッチ》野郎はもう出かけたか?
――ええ。
――本当か?
――ええ。
――ふうん!
娘は戻ってくると、早くして、裏口からそっと出ていくようにと手真似で合図した。スティーヴンは笑って言った。
――雌犬を男性だと思っているとすると、お父さんはおかしな性《ジェンダー》の観念を持っているな。
――まあ、お前、そりゃとんでもない恥ですよ、スティーヴン。母は言った。いまにお前があんな場所に足をふみいれた日を後悔する時がきますよ。あれでお前はまるで人が変わってしまったからねえ。
――じゃ、皆さん、失敬。スティーヴンはにやにや笑いながら、別れの投げキッスをした。
一段高くなった家並の裏の小道は水びたしになっていた。じくじく水に濡れた屑の山の中を足場をひろいながらゆっくりと小道をおりてゆくと、塀の奥にある尼僧の精神病院から気の狂った尼僧のわめき声が聞こえてきた。
――イエズスさま! おお、イエズスさま! イエズスさま!
彼は腹立たし気にぐいと頭をそらせて、そのわめき声を耳から振り払い、うず高くつんだ屑の間を蹴つまずきながら、足早やに進んでいったが、心にはすでに嫌悪と惨めな気持の疼《うず》きが食いこんでいた。あの父の口笛、母の愚痴、姿の見えぬ発狂者のわめき声が、もう今は、自分の青春の誇りを卑屈にしようと傷つけ、脅やかすいろんな声に聞こえてくるのだった。彼は罵りの言葉と共にそれらの声の木魂を心の中からも追い払った。それでも並木道を歩き、雫《しずく》のたれている木々を通してあたりに落ちている灰色の朝の光を感じ、濡れた木の葉や樹皮の妙に野生的な匂いをかいでいるうち、魂はその惨めな気持から解き放たれてきた。
並木道の重たげに雨に濡れた木々は、いつもながら、ゲルハルト・ハウプトマンの劇の中の少女や女たちの記憶を彼のうちに呼びさますのだった。そして、彼女たちのあわい悲しみの記憶と濡れた木の枝から降ってくる香りとが、静かな悦びの気分に入りまじってきた。市内へのいつもの朝の散歩がもう始まっていた。すると、彼にはこれから先のことがわかっていた。フェアヴィユの湿地帯を通りすぎる時には、ニューマンのあの僧院のごとき静謐《せいひつ》の気に満ちた散文を思いだすし、食料品店の飾り窓にぼんやりと視線をくれながらノース・ストランド|通り《ロード》を歩いている時には、ギド・カヴァルカンティ〔イタリアの詩人。ダンテの友人〕の暗いユーモアを思いだして微笑むだろうし、トールバット・プレイスにあるベアド石屋のそばを通る時には、イプセンの精神、だだっ児のような美の精神が一陣の鋭い風のように心の中を吹きぬけるのだ。またリフィ河を渡った向こうにある薄汚ない船具商の店先を通る時にはベン・ジョンソン〔イギリスの劇作家〕のあの歌をくり返すだろう、初めの詞は
われ横たわりいたれど疲れず
アリストテレスやアキナスの霊妙な言葉の中に美の本質を探し求めるのに疲れると、彼の思念はしばしばエリザベス朝文人の優雅な歌に心の悦びを求めていった。彼の心は、懐疑的な修道士の衣をまとって、その時代の窓下の蔭にしばしば佇み、リュートを弾く人々のもったいぶった愚弄するような調べや、遊び女たちのあけすけな笑い声を聞いているうち、ついにはあまりにも下品な笑い、時と共にくすんでしまった淫逸と偽りの節操の言葉に、彼の修道士的誇りを傷つけられ、いたたまれずにその隠れ場所から立ち去るのだった。
青春の交友から引き離すほどに心を奪われて、その思索に日々を過ごしていると思われていた学問も、実はアリストテレスの詩学と心理学からの僅かばかりの文集と『聖トマの思想によれるスコラ哲学要綱』にしかすぎなかった。彼の思惟は疑問と自己不信の薄明であり、ときおりぱっと直観の閃きによって明るく照らされることもあったが、それはきわめて鮮やかな眼もさめるばかりの閃光なので、そういう瞬間には、あたかも炎が燃えつきたかのように、現実界が彼の足もとで消滅してしまうのだった。そして、その後は、口が重くなり、他人の眼に会っても、応答をしない眼で迎えるのだった。というのは、美の精神がマントのように自分を覆いつつむのをおぼえ、せめて夢幻の中だけでも、高貴なるものと親しく触れているのをおぼえるからだった。だがこの束の間の無言の誇りがもはや彼を支えなくなると、やはり俗人たちの中にたちまじり、都会の汚濁と喧騒と懶惰《らんだ》の中を、怖れ気もなく気軽につき抜けてゆく自分を知って、ほっと安堵するのであった。
運河に沿った板囲いの近くで、人形のような顔をして縁なし帽をかぶり、小刻みの足取りで橋の斜面をこっちへ近づいてくる肺病やみの男に会った。チョコレート色の外套をきっちり着こんでボタンをかけ、たたんだこうもり傘を占い棒のようにほんの少し前方につきだして持っている。十一時にちがいないと思って、彼は時間を見ようと牛乳店の中をのぞきこんだ。牛乳店の時計は五時五分前をさしていたが、立ち去ろうとすると、どこか近くにはあるが見えない時計があわただしい正確さで十一時を打つのが聞こえた。それを聞くと、思わずマカンのことが頭に浮かんで笑いだした。と、狩猟用の上衣に半ズボンを着こみ、金色の山羊鬚《やぎひげ》のあるずんぐりした姿が、ホプキンズの店角に風に吹きさらされて立っているのが眼に浮かび、彼の声が聞こえた。
――ディーダラス、君は自分の中に閉じこもっている反社会的な奴だよ。おれは違う。おれは民主主義者だ。おれは未来の「ヨーロッパ連邦」のあらゆる階級と男女に、社会的自由と平等を打ちたてるために働き活動するつもりだ。
十一時か! これじゃあの講義にも遅れたな。いったい、きょうは何曜日なんだ? 彼は新聞販売店の前に立ち止まり、広告《ビラ》の見出しを読んだ。木曜日だ。十時から十一時までは英文学、十一時から十二時まではフランス語、十二時から一時までは物理だ。あの英文学の講義を思い浮かべると、こんなに離れていても、不安になり、やりきれない気持がした。クラスの者たちがおとなしく頭をたれて、名称上の定義、本質的定義や範例、生年や没年、主要作品、好意的批評と不評との対比など、書きとめるよう命じられた要点をノートに書きとめているさまが眼に見えるようだった。彼だけは頭をたれずにいた。というのも、彼の考えはあらぬかたへさまよいだしていたからだ。小人数の組の学生たちを見廻したり、あるいは窓外のもの寂し気な芝生の庭園を見渡していると、陰気な穴蔵の湿気や留ったような臭いが襲ってくるのだった。彼の真ん前の一列目の腰掛《ベンチ》に彼以外のも一つの頭が、畏まっている周囲の礼拝者たちのため聖櫃に向かって昂然と祈っている司祭の頭のように、うつむいている仲間の頭の上につきだして、端然ともたげられていた。クランリのことを考えると、彼のからだ全休の姿が思い浮かばずに、その頭と顔の形しか浮かんでこないのは何故だろうか? 今も、朝の灰色の帳《とばり》を背景に、眼前にそれが夢の中の幻影のごとく、ちょうど鉄の冠でもかぶったように、剛《こわ》い真黒な直毛が眉の上までかぶさった、刎《は》ねられた首かデスマスクのような顔が見えた。それは、坊主くさい顔だった。蒼ざめた顔色、鼻翼の張った鼻、眼の下や口のあたりの隈など、いかにも司祭らしく、細長くて血の気のない弱々しく微笑んでいる唇も司祭じみていた。スティーヴンは日ごと夜ごと、おのれの魂の動揺や不安や渇望をすべてクランリに打ち明けるのに、友人の答えはただ黙って聴いているだけだったときのようすをたちまち思いだし、あれは罪を赦す力のないのに、人々の告白を聴く罪深い司祭の顔だと内心ひそかに言うところだったが、その顔の暗い女のような瞳の凝視をまたも記憶の中に感じたのである。
この、心像をとおして、思索の異様な暗い洞穴をちらりとかいま見たが、まだそれにはいりこんでゆく時ではないと感じ、すぐに洞穴から眼をそらした。夜の闇のごときこの友人の冷淡さが、あたりの空気中に稀薄な恐ろしい毒気を吐いてまきちらしているかのように思われてくると、左右の何気ない言葉をつぎつぎと瞥見《べっけん》するうち、それらがしいんと静まり返って直接の意味を失い、ついには一つ一つのつまらぬ店の看板が呪文のように彼の心を縛り、路地のあまたの死語の中を歩いてゆくにつれ、魂は老齢のため溜息をつきつつ凋《しぼ》んでゆくのを、ただ茫然と驚いている自分に気がついた。彼自身の言語の意識は潮のように頭脳から退いてゆき、言葉自体の中に少しずつ流れこみ、気まぐれなリズムをなして組み合わさったり、ほぐれたりし始めた。
[#ここから1字下げ]
ツタは壁の上で忍び泣く
壁にからみついて忍び泣く
壁の上の黄色なツタよ
ツタよ、壁を這うツタよ
[#ここで字下げ終わり]
こんなたわごとを聞いた人があるか? あきれたもんだ! ツタが壁の上で忍び泣くのを聞いたやつなどいるか。黄色な|ツタ《アイヴィ》、これはいい。黄色な象牙《アイボリィ》もいい。それなら、象牙のツタというのはどうか?
この言葉が彼の頭の中で、象の斑紋のある牙から切りとったどんな象牙よりも、鮮やかに澄んで輝いた。アイヴォリ、イヴォワール、アヴォリオ、エブール〔英・仏・伊・ラテンの国語の順で、象牙のこと〕ラテン語で習った最初の文例の一つはIndia mittit edur(インドは象牙を産する)というのだった。と、オウィディウスの『転身物語』を優雅な英語で逐語的に訳すことを教えてくれ、食用豚とか陶器のかけらとか豚の背骨肉などのことを言っておかしがらせたあの校長の鋭い北方人的な顔を思いだした。彼がラテン語の韻文の法則についていささか心得のあるのもすべて、あるポルトガル人の司祭が著したぼろぼろの本から学んだのであった。
[#ここから1字下げ]
Contrahit orator, variant in carmine vates.(雄弁家は言葉を縮め、詩人は歌にて飾る)
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ローマ史上の危機とか勝利とか分裂とかはin tanto discrimine(かかる危機にあって)という陳腐な言葉で彼に伝えられたが、校長が音吐朗々と、壷はデナリー銀貨で溢れると訳したimplere ollam denariorumという言葉をとおして、かの都市の中の都市〔ローマ〕の社会生活を窺い知ろうと彼は努めたのだった。古くなっていたんだホラティウスの詩書のページは、彼の指先が冷えきっている時ですら、触れても決して冷たくは感じなかった。それらは人間味のあるページであり、五十年前にジョン・ダンカン・インヴァラリティとその弟のウィリアム・マルカム・インヴァラリティの人間味のある指がめくったページだ。そうだ、それらは黒ずんだ見返しに記された高貴の名だったし、自分のような貧弱なラテン語の学生にすら、あのおぼろげな韻文も、まるで桃金嬢《てんにんか》やラヴェンダーや|くまつづら《ヽヽヽヽヽ》の花々の中にこの長い年月を埋もれていたかのように、馥郁《ふくいく》と香ぐわしく感じられるのだ。それでも自分は、世界の文化の饗宴につらなれば、ただ一介の気後れのする客にしかすぎぬであろうし、また、その用語によって、一つの審美哲学を打ちだそうと腐心している、かの修道僧の学問〔スコラ哲学〕も、自分の住んでいる時代からは、高だか紋章学や鷹狩術の難解にして珍らしい通語ぐらいにしか考えられていないと思うと、気持が傷つけられた。
彼の左手のトリニティ大学の灰色の建物がこの市の無知の中に、まるで邪魔なくらいに大きな指環にはめた、色のさえない宝石のように、重々しくかまえているのに、心のめいりこむ思いがしてきて、悔悛した良心の束縛から解放されようともがきながら、あちこち歩き廻っているうちに、アイルランドの国民詩人〔トマス・ムア〕のおどけた像の前にばったり出てきた。
彼はそれを眺めても、憤慨する気もなかった。というのも、肉体と魂のものぐささが、まるで目に見えない寄生虫のように像の上を、その引きずっている足にも、マントの襞《ひだ》にも、ぺこついているようなその頭にも、そこら中に這いまわっているのだが、それがいかにも謙虚に自分の卑小さをさとっているかのように見えるからだった。それはミレシウス〔紀元前十四世紀頃スペインから来てアイルランドを征服したという伝説上の人物〕の子孫のマントを借り着しているファーボルグ人〔伝説上のアイルランドの先住民族〕だ。と、彼は百姓出である友人のディヴィンをふと思いだした。ファーボルグ人というのは彼らの間でふざけてつけたあだ名だったが、この若い百姓はそれを気軽に受け流した。
――いくらでも言ってくれ、スティヴィ、どうせおれはこちこち頭だからな。なんとでも呼ぶがいいさ。
友人が口にした自分のクリスチャン・ネームのなれなれしい呼び方を初めて耳にした時、スティーヴンにはうれしく感じられた。というのも彼は他人に対しては切り口上の言葉づかいであったし、他人のほうでも彼に対してそうだったからだ。よくグランタム街のディヴィンの下宿の部屋に腰をかけて、何足もずらりと壁に立てかけてある友人のりっぱな出来の編上げ靴に驚いたり、この友人の単純な耳に、自分の憧れや失意を覆いかくす他人の詩や歌をくり返し聞かせてやっているうちに、この聴き手の粗野なファーボルグ人気質に心ひかれたり、あるいはまたそれに反撥することもあったが、心ひかれるのは、静かに注意して聴く生まれながらの慇懃《いんぎん》さだとか、古めかしい英語の言葉づかいの趣きのある言い廻しとか、荒っぽい肉体的な技能をよろこぶ気力――ディヴィンはゲール人のマイクル・キュサックについていたことがあったからだが――によるのであった。ふっと急に反撥をおぼえるのは、お粗末な知性や感情の鈍さや、あるいはその眼に陰気に怯《おび》えた色を浮かべてじっと見つめるくせなどによるのであって、それはいまだに晩鐘が夜の恐怖になっているようなアイルランドの餓えた寒村の人々の怯えだったのである。
運動競技家である彼の叔父マット・ディヴィンの見事な偉業の思い出と結びついて、この若い百姓はアイルランドの悲しい伝説を崇拝していた。平板な大学生活をしゃにむに意義あらしめようと苦心している仲間の学生たちの噂は好んで彼を若きフィーニア会員にしたてていた。彼の乳母は彼にアイルランド語を教え、アイルランド神話の断片的な啓蒙で、彼の粗野な想像力をつくり上げたのである。いまだかつて誰一人としてそれに基づいて美しい一行すらつくりだしたことのないその神話に対し、また幾星霜を経て伝わってくるにつれ、否応なしにばらばらに分裂した厖大な物語に対し、彼はローマ・カトリック教に対すると同じ態度、つまり愚鈍な忠実な農奴の態度を固執していたのだ。英国《イングランド》から、あるいは英国文化をとおして彼のもとにくる思想や感情はいかなるものであろうと、一つの合言葉に従って、彼の心は武装して立ち向かった。しかも英国の向こうにある世界については、おれもそれに参加するのだと言っていたフランスの外人部隊のことしか知らないのだった。
こういう野心とこの青年の剽軽さとを結びつけて、スティーヴンはよく彼のことをだらしない鵞鳥《がちょう》と呼んだ。思索には熱心なスティーヴンの心と、アイルランド人の隠秘な生活態度との間に立って邪魔しているように始終思えるこの友人のひどい口の重さや尻の重さに当てつけたこの呼び名には、いささか歯がゆい気持もはいっていたのである。
ある夜、この若い百姓は、スティーヴンが知的反逆の冷やかな沈黙から脱れでようとして吐いた乱暴な、というよりも放埒な言葉に気力をあおられて、スティーヴンの頭に異様な幻想を思い描かせたことがあった。二人はデイヴィンの下宿へ向かつて、暗く狭いユダヤ人貧民街をゆっくりと通りぬけていた。
――去年の秋、もうそろそろ冬に近いころ、ぼくにある事件があったんだよ、スティヴィ、このことは誰にも話さなかったので、今それを打ちあけるのは君が初めてだということになるね。十月だったか十一月だったか憶えがないんだけどね。いや、あれは十月だったな、ぼくが新入生として入学するため、ここにやってくる前だったからな。
スティーヴンは微笑んでいる眼を彼に向け、この友人の信頼ぶりに気をよくし、話し手の素朴な口調に思わず好感をおぼえた。
――ぼくはその日は終日、家をでてバテヴァント――と言っても何所《どこ》にあるか、君が知ってるかどうか知らないけど――そこへ出かけてクローク青年団チームとサールズ豪勇チームとのホッケー試合に行ってたんだ。ところが驚いたね、スティヴィ、そいつが大変な激闘だったよ。ぼくの直ぐのいとこのフォンシィ・ディヴィンなど、その日は素っ裸になってリマリック軍のゴールを守ってたんだが、試合中の半分はフォワードのとこに出ていって、気違いみたいに怒鳴ってたよ。あの日のことは忘れられないなあ。一度なんか、クローク軍の一人がスティックで彼を凄い勢いでぴしゃっとやろうとしたんだよ。嘘じゃないよ、すんでのところで、こめかみのあたりにそいつを喰らうとこだったよ。いやあ、本当だとも、あの時、スティックのあの鉤《かぎ》でやられていたら、いとこはおだぶつになってたろうな。
――当らずにすんでよかったね、とスティーヴンは笑いながら言った。だけど、まさかそれが君にあった異様な事件じゃないのだろう?
――だけど、こいつは君にはおもしろくもないかもしれないけど、とにかく、その試合のあとは、もう大変な騒ぎだったもんだから、ぼくは帰りの汽車に乗りおくれてしまったんだ。運悪くその同じ日にカースルタウンロウチのほうで人民大会があって、近在の車は全部そっちへ行っていたので、便乗さしてもらえる牛車も何もつかまえられなかったのさ。だから、その晩は泊るか歩きとおすかするよりほか手がなかった。そこで、ぼくは歩きだしたよ。どんどん歩いていって、バリフーラ丘陵にさしかかった頃に、夜になりかけた。そこはキルマロックからたっぷり十マイル余あるし、そこからあとは長い寂しい一本道なんだ。道に沿って人家らしいものは一軒もなく、物音一つしないのだ。まるで真の闇だった。一、二度ぼくは道ばたのやぶの下に立ちどまって一服した。露がひどくなかったら、そこで寝ころがって眠っていたろうな。それでも道を曲ってから、やっと窓に灯のともっている小さな田舎家を見つけた。そこへ行って扉を叩いた。誰ですかっていう声がしたんで、バテヴァントでの試合を見にいって、歩いて家へ帰るとこで、水を一杯いただけるとありがたいのだがと答えたんだ。暫くすると若い女が扉を開けて、大きな茶碗にいれた牛乳をさしだした。女はちょうどぼくが扉を叩いた時に寝ようとしていたらしく、半分服を脱ぎかけていて、髪もだらりと垂らしていた。ぼくは女の姿や眼の表情のあるものから、こいつは妊娠しているにちがいないとにらんだんだよ。女は戸口で長いこと話しこんで、ぼくをひきとめていた。胸から肩まであらわにしているので、こいつは変だなと思ったんだ。お疲れでしょう、よろしかったら泊ってらしてはと女はきくのだ。家には自分一人きりで、夫はその朝、妹を見送りにクイーンズタウンへ出かけていったと言うんだね。そして話している間中その女はね、スティヴィ、ぼくの顔をじっと見つめて、しかも息の音が聞こえるくらいぴったりぼくの側に立っているのだよ。茶碗を返した時、とうとう女はぼくの手を取って、敷居から中へ引っぱりこもうとして言うのだ。「おはいりになって、今夜はここで泊ってらっしゃいよ。こわがることなんかちっともないわよ。家にはあたしのほか、誰もいないんですから……」ぼくははいらなかったよ、スティヴィ。お礼をいって、また道を歩いていった、ただもう熱に浮かされたようだった。道の最初の曲り角にきたとき、ふり返ってみると、女はまだ戸口に立っていた。
ディヴィンの話のこの最後の言葉が記憶の中で高嶋り、話の中の女の姿が、以前に学校の馬車でクレインを通りすぎたときに家々の戸口に立っているのを見かけたことのある他の百姓女の姿に写しだされて、彼女の民族の、と同時に自分の民族の一つのタイプとして、はっきり浮きだしてきた。闇と秘密と孤独の中でおのれの意識にめざめ、詐《いつわ》らぬ女の眼と声と身振りとによって見知らぬ男をおのが寝床へいざなう蝙蝠《こうもり》のごとき魂。
一つの手が彼の腕にかけられ、若々しい声が叫んだ。
――ちょいと、旦那、ごひいきの娘よ! きょうの口あけよ、旦那。この可愛い花束を買ってよ。ねえ、いかが?
彼の前にさしだした青い花と、彼女の若々しい青い瞳とが、一瞬、詐《いつわ》りなきものの象徴のように思え、彼がとまどっているうちに、その象徴は消えて、ただぼろ服と、じっとり濡れた粗い髪と、おきゃんらしい顔とが眼に映った。
――買ってちょうだいよ、旦那! ごひいきの娘を忘れちゃいやよ!
――金を持ってないよ、とスティーヴンは言った。
――この可愛いのを買ってよ、ね、いいでしょ、旦那。たった一ペニーよ。
――ぼくの言ったことが聞こえなかったのかい? スティーヴンは彼女のほうに体をつきだしてきいた。金を持ってないと言ったんだよ。もう一度言ってやる。
――そうお、じゃ、またいつか買ってね、きっとよ。娘はちょっと間をおいて答えた。
――そうだな、スティーヴンは言った。だけどそいつもどうだかね。
彼は急いで彼女を離れた。この娘のなれなれしさが悪態に変わるかもしれないのを恐れ、他の客に、英国からの漫遊客とかトリニティの学生に、花束をさしださないうちに、そこから脱れでたいと思ったからだ。グラフトン街《ストリート》〔ダブリン市の最もにぎやかな商店街〕をあるいている間中、さっきのあのみじめな文無しの思いがつづいていた。この通りの端の車道に、ウルフ・トーン〔アイルランドの愛国の志士〕を記念した碑があって、彼は父と一緒にその安置式につらなったことのあるのを思いだした。その妙に大仰《おおぎょう》な奉献の光景をにがにがしい気持で思いだした。大型四輪の遊覧馬車に四人のフランス代表が乗っていて、一人の肥った笑顔を浮かべた若い男が、棒の先に「|アイルランド万歳《ウイヴ・リルランド》!」と活字体で記したカードをはさんだのを持っていた。
だがスティーヴンズ・グリーン〔ダブリンの代表的な公園〕の木々は、雨で快い匂いを放っていた。雨で濡れそぼった土は朽ちるものの臭気を発していた。沃土をとおして多くの心臓からたちのぼる微かな香のようなかおり。年長の人々から語り聞かされたこの粋な、腐敗した都の魂は、時とともに萎縮して、土からたちのぼる微かな朽ちゆくものの臭いになってしまったのだ。と、あの陰気な大学にはいったとたんに、バック・イーガンやバーンチャペル・ウェイリー〔どちらもトリニティ大学出身の代議士〕のとは違う腐敗に気がつくだろうと知った。
階上のフランス語の教室へ上がってゆくにはもう遅かった。彼はホールをぬけて、物理の階段教室へ通じる左側の廊下へ出た。廊下は暗く静まり返っていたが、なんとなく油断のならぬ気配があった。どうして油断のならぬ気持がするのだろう? バック・ウェイリーの頃、ここには秘密の階段があったということを聞いていたせいだろうか? それともイエズス会の建物が治外法権になっていて、自分が異国人の中を歩いているせいであろうか? トーンやパーネルのアイルランドは空間に消えてなくなってしまったらしい。
彼は階段教室の扉を開き、ほこりっぽい窓からやっとさしこんでいる寒々とした灰色の光の中に佇んだ。大きな炉格子の前に人の姿がうずくまっていた。その痩せた体と白髪とで、学生監が火を起こしているのだとわかった。スティーヴンは扉を静かに閉めて、暖炉へ近づいた。
――お早うごさいます。先生! お手伝いしましょうか?
司祭はっと顔を上げて言った。
――もうちょっとだよ、ディーダラス君、まあ見ていたまえ。火を起こすにも技術があるのだよ。一般技芸《リベラル・アーツ》というものがある一方に、専門技芸というものがある。これはその専門技芸の一つだよ。
――ぼくもそれを覚えましょう、とスティーヴンは言った。
――石炭をいれすぎないことだね、と学生監は手早く仕事をしながら言った。それが秘訣の一つだよ。
彼は法衣の脇ポケットから四本のろうそくの燃えさしを取りだし、それを上手に石炭とひねった紙の間にすえた。スティーヴンは黙って彼を眺めていた。このように火を燃しつけるために敷石の上に膝をついて、ひねった紙とろうそくの燃えさしをしきりと配置しているのを見ていると、ふだんよりもいっそう、人気のない神殿で捧げものを供える場所の支度をしている賤しい侍僧、主のレビ人《びと》〔ユダヤの神殿で祭司を補佐した者〕に見えた。レビ人の粗末な麻の僧服のように、色褪せていたんだ法服が、高位聖職者服や鈴で縁取りした祭司長服《エボデ》ではさぞや困るだろうと思える人のひざまずいている姿を包みこむように垂れていた。彼のその体は主の賎しい勤めをして――祭壇の火の番をし、ひそかに消息を伝え、俗人たちの応待をし、命じられれば直ちに応じるといったことをして――年をとってしまい、しかもなんら聖者や高僧らしい美しさにも恵まれずに終った。いや、彼の魂すらも、光と美を目指して成長もせず、あるいは魂の清浄な芳香を外にまき散らすこともなく、そんな勤めをして老いてしまったのだ――銀色のとがった柔毛が白髪になっている痩せて筋張った彼の老躯が、恋愛とか闘争の昂奮《スリル》になんの反応もないように、苦行をさせられた意志は、もはや、意志を服従させる昂奮にも反応しなくなっているのだ。
学生監はしゃがみこんで、木切れに火が燃えうつるのを見守っていた。スティーヴンは沈黙を埋めようとして言った。
――とてもぼくには火を起こすのは、やれそうもありません。
――君は芸術家だったね、そうだろう、ディーダラス君? 学生監はちらりと視線をあげ、その薄青い眼をまばたきさせて言った。芸術家の目的は美の創造だ。美とは何ぞやとなると、これまた問題だね。
彼はこの問題をだして、ゆっくりとつまらなそうに手をこすり合わせた。
――いま君にこの問題が解けるかな、と彼はきいた。
――アキナスは、とスティーヴンは答えた。pulcra sunt quoe visa placent(眼に快きものは美なり)と言っております。
――前にあるこの火は、と学生監は言った。眼に快いだろう。するとそれは美しいだろうか?
――視覚といっても、それはここでは審美的思惟作用をいうものだと思いますが、それによって認識される限りでは、それは美しいでしょう。ですが、アキナスはまたBonum est in quod tendit appetitus(欲望をのばすものは善なり)とも言っています。暖を求める動物的欲求を満たす限りでは、火は善です。けれども地獄においては悪です。
――まさにそのとおりだ、と学生監は言った。君はたしかに急所をついているよ。
彼は敏捷に立ち上がると、扉へ歩みより、それを少し開けて言った。
――隙間風がこういう際には役に立つそうだよ。
彼が僅かに跛《びっこ》をひきながら、それでも元気のいい足取りで炉のところへ戻ってくる時、スティーヴンは、イエズス会士の無言の魂が、その青白い愛情のない瞳の奥から自分をうかがっているのに気づいた。聖イグナチオのように彼は跛《びっこ》であったが、その眼にはイグナチオの熱狂の閃きは少しも燃えていなかった。この教団の伝説的な巧智、教団の神秘にして捕捉しがたい叡智の寓話的な書物よりも複雑にして神秘な巧智すら、彼の魂を、使徒たる身の精気をもって燃えたたせることはなかったのだ。あたかも彼は、命ぜられるままに、より大いなる神の光栄のために、世俗の術策と知識と狡猾とを用い、それを弄する悦びも、それらにひそむ悪なるものへの憎悪も覚えずして、頑固な服従の身振りを示しつつ、それらをただいたずらにくり返しているかのように思えた。しかもこのように黙々たる奉仕をしていながら、まるで少しも師父を愛さず、またおのれの仕えている目的を、仮に愛しているにせよ、僅かしか愛していないかのように思えた。Similiter atque senis baculus(而してまた老人の杖のごとく)彼は、あるいは宗祖がそうせしめられたのではないかと思えるように、老人の手にした杖のごとく、闇夜の道や険悪な天候の時にすがり、庭園の椅子の上に貴婦人の花束と共に横たえられ、威嚇してふりあげられる運命にあったのだ。
学生監は炉の前に戻ってくると、顎をなで始めた。
――君から美学の問題について、何か聞かせてもらうのはいつだろうかな? と彼はきいた。
――ぼくからですって! スティーヴンはあっけにとられて言った。ぼくなどが二週間に一遍でも一つの考えに出くわしたら運のいいほうですよ。
――こういう問題は非常に深遠だね、ディーダラス君。学生監は言った。いわばモハーの断崖〔アイルランド北西部にある断崖〕から深海を見下ろすようなものだね。多くのものがその底へとおりてゆくが、それきり出てこない。熟練した潜水夫にして初めてその底へはいりこんでいって探り、再び水面へ出てこれるのだ。
――先生が思索のことをいっておられるのでしたら、とスティーヴンは言った。自由な思索といったようなものはない、とぼくも確信します。すべて思索というものは、思索自体の法則に縛られねばならないのですから。
――ほほう。
――ぼくの場合でしたら、今のところはアリストテレスとアキナスの思想の光が一つか二つもあれば、それをたよりに何とか思索をめぐらしてゆけます。
――なるほど。君の論旨はよくわかる。
――ぼくには彼らの光をたよりに自分で何とかやりとげるまで、ただ自分の効用と指導のために彼らが必要なだけです。もしランプがいぶったり、臭くなったりすれば、その芯を切ってみます。十分に明るくなければ、それを売って別のを買います。
――エピクテトス〔ギリシアのストア派の哲学者〕もランプを持っていたね、と学生監は言った。彼の死後、法外な値で売れたそうだが。彼が哲学の論文を書くのに使ったランプだったのだよ。エピクテトスは知っているだろう?
――魂は一杯のバケツの水にきわめて似ているといった老人ですよ、とスティーヴンはぞんざいな口調で言った。
――彼はね、あのくだけた調子で語っているがね、と学生監はつづけた。ある神像の前に鉄製のランプを置いて、それを泥棒に盗まれたのだそうだ。そこで、この哲学者はどうしたか。彼はね、盗むことは泥棒の本性にあるのだとつくづく考えて、つぎの日、鉄のランプの代りに陶製のランプを買おうと決心したのだよ。
熔けた獣脂の臭いが学生監のろうそくの燃えさしから漂ってきて、スティーヴンの意識の中で、バケツとランプ、ランプとバケツという口調の似た言葉の響きと一緒にとけ合った。司祭の声にも硬い金属的な響きがあった。スティーヴンの頭は本能的にとまどった。その異様な響き、今の連想による心像に、そしてまた消えたランプか、あるいは焦点が狂って懸けてある反射笠に似ているように思えるこの司祭の顔に、さまたげられたのだ。あの奥に、いや、あの内部に何がひそんでいるのだろうか? 愚鈍な眠ったような魂か、それとも知力をはらみ、神の憂鬱を感じ得る雷雲の暗さか?
――ランプといってもぼくのは違うのですけど、先生。スティーヴンは言った。
――わかっているよ、と学生監は言った。
――美の論議にあっての一つの困難は、とスティーヴンは言った。言葉が文学的慣習に従って用いられているのか、それとも一般世間の慣習に従って用いられているのかを知ることです。聖母マリアについてのべたニューマンのある文章で、彼女は諸聖人の全体の中に|留め《ディテイン》られたと言っているのを憶えています。一般世間でのこの言葉の用法は全く違います。先生を|お引留め《ディテイン》しているのではないでしょうね。
――いいえ、少しも。学生監は丁寧に言った。
――いいえ、違います、とスティーヴンは微笑みながら言った。ぼくのいう意味は……。
――うん、そうか、なるほど。学生監は素早く言った。君の論点はよくわかる。detainだね。
彼は下顎をつきだし、短かいから咳をした。
――ランプのことに戻るが、と彼は言った。これに油を入れるというのがまた難かしい問題でね。純粋な油を選ばなければいけないし、それを入れる際に溢れないように注意しなければいけないので、漏斗《ファヌル》にはいりきらぬほど注いではいけない。
――ファヌルって? スティーヴンはきいた。
――ランプに油を入れるのに使う漏斗《ファヌル》だよ。
――あれですか? スティーヴンは言った。あれはファヌルっていうのですか? タンディッシじゃないのですか?
――何だね、タンディッシって?
――あれです。あの……漏斗《ファヌル》です。
――アイルランドではあれをタンディッシというのかね? 学生監はきいた。そんな言葉は生まれて初めて聞いたよ。
――下ドラムコンドラ(ダブリン市の北の郊外)ではタンディッシと言っていますよ。スティーヴンは笑いながら言った。そこの土地の人は最も正しい英語を話していますよ。
――タンディッシか。学生監は考えこんで言った。これはなかなかおもしろい言葉だな。辞書に当ってみなければなりません。どうしてもやらねば。
彼の態度の慇懃《いんぎん》さにはいささか見せかけのようなところがあったので、スティーヴンはこのイングランド人の改宗者を、あの寓話〔ルカ伝にあるイエスのたとえ話、放蕩息子の弟の帰還に兄は怒った〕の中の兄が放湯者に向けたかもしれないのと同じ眼つきで眺めた。騒然たる改宗にならった卑しい追随者、アイルランドにいる哀れなイングランド人、あの陰謀と苦難と嫉視と闘争と侮蔑の奇怪な劇がほとんど終った時に、イエズス会史の舞台に登場してきたような人だ――遅参者、のろまな精神。どういうことから出発したのだろうか? おそらく彼は真面目な非国教徒の間で生まれ育ってイエズスの救いのみを見、国教の空虚な華やかさを嫌ったのだろう。教派の派閥的紛争、その騒々しい教会分立、六教理バプテスト派、特殊教派、|苗裔と蛇《シード・エンド・スネイク》のバプテスト派、堕罪以前論ドグマティスト派などの分派のたわ言にとりかこまれて、信仰の盲目的服従の必要を感じたのだろうか? 按手礼の息吹きの儀式や聖霊の発出についての細かく紡いだ推理の糸を、巻糸のように終りまで巻くうちに、忽然として真の教会を悟ったのだろうか? それとも、主キリストが、収税所に坐していたあの使徒〔マタイのこと〕のように、どこかのトタン屋根の教会堂の戸口に彼が腰をかけて、あくびをしながら教会の献金を勘定していた時に、彼に手をかけて「我に従え」と命じたのであろうか?
学生監はまたもやあの言葉をくり返した。
――タンディッシか! なるほど、これは面白いねえ!
――さっきおききになった問いのほうが、ぼくにはおもしろく思えます。芸術家が土くれから表現しようとひたすら努めるかの美とは何ぞや、ということです。スティーヴンは冷やかに言った。
このちょっとした言葉は、この慇懃で用心深い敵に感受性の鋭い両刃のきっ先をつきつけたかに見えた。口をきいている相手の男がベン・ジョンソンと同国人だと思うと、たまらないほどうんざりした。彼は思った。
――おれたちが話している言語はおれのものである前に、彼のものだったんだ。家庭《ホーム》、キリスト、麦酒《エイル》、主人《マスター》などという言葉は、彼が口にするのと、おれが口にするのとではなんという違いだろうか! おれがこれらの言葉を口にしたり書いたりすると、心に不安をおぼえずにはおれないのだ。きわめて使い慣れているくせに、実によそよそしい彼の国の言葉は、いつまでたってもおれには習い覚えた言葉なのであろう。おれはその言葉を作りもしなければ、認めもしていない。おれの声はそれらを寄せつけない。おれの魂は彼の国の言葉の影になって焦《いら》だっているのだ。
――美なるものと、崇高なるものとを区別すること。学生監は言い添えた。道徳的美と物質的美とを区別すること。また、どういう美が各種の芸術のそれぞれに適当であるかを探究すること。こういったことはわれわれが取り上げてもいい興味ある問題だね。
スティーヴンは、学生監の頑固な味気ない口調に、急にいや気がさして、黙っていた。と、静寂を通して大勢の靴音や、入り乱れた人声の遠くの騒音が階段をつたって聞こえてきた。
――しかし、こういう思索を追い求めていると栄養失調で身を亡ぼす危険がある。学生監は断乎として言った。まず君は学位を取るべきだね。これを君の第一の目標として自分の前にすえることだ。そうすれば、少しずつ自分の進むべき道がわかってくるだろう。これはあらゆる意味で言っているのだよ、君の生活や思索の道のことだ。初めのうちは自転車で坂道を登っているようなものかもしれない。ムーナン君がその例だよ。彼は頂上へ登りつく前にはずいぶん手間取った。だが頂上に達したよ。
――ぼくにはあの人の才能がないかもしれません。スティーヴンは静かに言った。
――そんなことはわかるものかね。学生監は陽気に言った。自分の中に何があるか、誰にもわかりはしないよ。わたしなら断じて失望しないだろうね。Per aspera ad astra(艱難を経て星の高きへ)だよ。
彼は急いで暖炉を離れ、文学科一年のクラスのくるのを監督しに階段の踊り場のほうへ行った。
暖炉にもたれてスティーヴンは、彼がクラスの学生の一人一人に分けへだてなく元気にあいさつするのを聞いているうち、学生の中でもがさつな連中の率直な笑顔が目に見えるようだった。騎士たるロヨラのこの忠実な僕《しもべ》、言うことも、あの連中より欲得ずくで、魂も彼らよりは堅固である聖職者に準ずるこの人、しかも自分の聴罪司祭とはどうしても呼ぶ気になれないこの人に対して、スティーヴンの傷つきやすい心には、わびしい憐みが露のごとく降りそそいできた。彼はかつてこの人やその同僚が、彼らの過去を通じて、神の裁きの庭において、放縦なるもの、熱意なきもの、打算的なるものの魂のために弁護したが故に、俗人ならぬものたちだけでなく、俗人たちからも、俗物の名をもらったわけを考えた。
教授のはいってくるのが、曇った蜘蛛の巣のかかっている窓下の、陰気な階段教室の最上段にかけていた学生たちがどた靴を三、四回やかましく踏み鳴らすことによって合図された。出席の点呼が始まって、名前への返事がいろんな声で行われているうちに、ピーター・バーンの名前にきた。
――はあい!
返事の太いバスが上段のほうから起こり、それにつづいて他の席から抗議の呟払いが起こった。
教授はちょっと読みあげるのをやめ、またつぎの名を呼んだ。
――クランリ!
返事がない。
――クランリ君!
微笑がスティーヴンの顔をかすめた。この友人のやっている研究がふと頭に浮かんだからだ。
――レパズタウン〔ダブリン市の南約七マイルにある競馬場〕を当ってみて下さい! うしろの席から誰かの声がした。
スティーヴンは急いで見上げたが、うす暗い光に輪郭を浮きたたせたモイニハンの鼻ばかりのような顔が、平然とかまえていた。方程式がだされた。周りでノートのがさがさいう音のしている最中に、スティーヴンはまたうしろを向いて、言った。
――頼む、紙を少しくれ。
――そんなに困ってるのか? モイニハンが無遠慮ににやにや笑いながらきいた。
彼は自分の雑記帳から一枚ちぎって、下に渡しながら囁いた。
――必要に迫られれば、俗人《レイマン》の男女は遠慮に及ばずさ。
忠実に紙切れに書きとっている方程式、とぐろを巻いたり解いたりしてゆく教授の計算、力と速度のお化けみたいな記号にスティーヴンの頭は魅せられ、ぐったり疲れてしまった。老教授は無神論のフリーメイスン会員だと誰かが言っていた。ああ、陰気な退屈な日だ! まるで苦痛を覚えぬ根気のよい意識の|地獄の辺土《リンボオ》、そこを数学者たちの霊魂はさまよい、刻々に稀薄に蒼白くなってゆくたそがれの平面から平面へと、長々とつづく細かな構造を投影し、さらに広大にして遠い、さらに触知し難い宇宙のぎりぎりの際辺まで、いくつかの急速な渦を放射しているようだ。
――そこで、われわれは楕円形と楕円体とを区別しなければならぬ。諸君の中にはW・S・ギルバート氏の作品に通じている人がおられるだろうと思う。彼の歌の一つに、宿命のようにやらずにおれない玉突きのいかさま師を歌ったのがあります。
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いんちきな羅紗《ラシャ》の上で
ひねったキューで
おまけに球まで楕円形
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――彼が言っているのは、わたしが只今のべた主軸の楕円体の形をした球のことです。
モイニハンがスティーヴンの耳もとに身をのりだして、小声で言った。
――楕円体の球はいかがでござんしょう! 追ってらっしゃい、ご婦人方よ、ぼくは騎兵隊のものですよ!
この同級生の野卑な駄洒落《だじゃれ》が疾風のようにスティーヴンの心の僧院をかけぬけ、壁にだらりとかかっている僧服を揺り動かして華やかな活気を吹きこみ、それらをゆすり、跳ねまわらせて、放埒な安逸の状態に追いやった。教団の人々の姿が疾風に吹きまくられた僧服から立ち現われた。学生監、白髪を頂いた恰幅のいい赤ら顔をした会計係、総長、敬虔《けいけん》な詩を著わした鳥の羽根のような髪をした小柄な司祭、経済学の教授のずんぐりした百姓のような体つき、階段の踊り場で、羚羊《かもしか》の群にかこまれて高いところにある木の葉を食っているキリンよろしく、自分のクラスの学生相手に良心の問題を論じる心理学の若い教授の背の高い姿、真面目に思い悩んでいる信心会の総代、悪党みたいな眼つきに、肥ったまんまるな頭をしたイタリア語の教授。そういった連中がぶらぶら歩き廻る、よろめく、とんぼ返りを打つ、はね廻る、ガウンをまくり上げて蛙跳びをやる、互いにうしろへ引き戻す、腹に響くような声で作り笑いをして体をゆする、互いに背中をぴしゃっと叩き、互いにひどい意地悪を笑い合う、互いになれなれしくあだ名で呼び合ったかと思えば、急に威厳をつけて何か乱暴な扱いに文句をつけ、二人ずつかたまり、手を口に当てがって、こそこそ耳打ちするのだ。
教授は横の壁にあるガラスのケースのとこへ行き、そこの棚から一組のコイルを取りだし、あちこち塵を吹き払うと、注意深く机に持ってきて、それに指を一本あてがって、講義を進めた。新式のコイルの線はP・W・マルティノによって最近発見されたプラチノイドという合金でできていると説明した。
彼は発見者の頭文字《イニシャル》と姓とをはっきり言った。モイニハンがうしろから囁いた。
――フレッシュ・ウォーター・マーチィンの野郎だよ!〔頭文字のF・Wからふざけて言ったもの〕
――きいてみろよ。スティーヴンは面倒くさそうにふざけて囁き返した。電気死刑にかける材料がいりますかって。なんならぼくを使ってもいいですって。
モイニハンは、教授がコイルの上にかがみこんでいるのを見ると、席から立ち上り、右手の指を大きな音のしないようにぱちんと鳴らし、べそをかいている腕白小僧の声でやりだした。
――先生! この子がいま悪いことを言いました、先生。
――プラチノイドは、と教授は厳めしい口調で言った。温度の変化による抵抗係数が低いところからニッケルに優っているのであります。このプラチノイド線は絶縁されており、それを絶縁している絹の被覆は、ちょうどこのわたしの指が触れている部分でエボナイト製のボビンに巻きつけてある。もしこれが一重巻きだと、余剰の電流がコイルの中に誘導されるでありましょう。ボビンは熱したパラフィン蝋に浸して……。鋭いアルスター〔アイルランドの北部の州〕訛《なま》りの声がスティーヴンの下の席から起こった。
――応用科学についての問題もだされるのでしょうか?
教授は純粋科学と応用科学という術語を使って、真面目くさった顔でごまかしだした。金縁の眼鏡をかけた、がっしりした体つきの学生がいささかあっけにとられたようすで、質問者を見つめていた。モイニハンがうしろから地声で囁いた。
――マカリスターの奴、手前の「一ポンドの肉」を欲しがる悪魔じゃないかね?
スティーヴンは、もつれ合った麻糸のような色の髪を蓬々と生やした、眼下の卵形をした頭を、冷やかに見下ろした。質問者の声も訛りも心根も癇にさわり、癇にさわったあまり、わざと冷酷な気持へ持ってゆき、この学生の親父さんは息子をベルファスト〔アルスター州の首都〕へでも勉学にやり、それで汽車賃をいくらかでも倹約したほうがましだったろう、と無理やりに考えたりした。
下の卵形の頭は振り向かなかったのでこの考えの矢にぶつからず、しかも矢は放たれたもとの弦《つる》に戻ってきた。というのは一瞬、この学生の乳漿《にゅうしょう》のように蒼白い顔が、彼の眼に浮かんだからだ。
――いまの考えはおれの考えじゃない、と彼はあわてて心の中で言った。それはうしろの席のおどけたアイルランド人から起こったんだ。落ちつけ。誰によってお前の民族の魂が取引され、民族の選ばれた人々が裏切られたかを、お前は確信をもって言えるか――質問者によってか、それとも嘲弄者によってか? 落ちつけ。エピクテトスを思いだせ。こんな際にあんな声でああいう質問をしたり、科学《サイエンス》という言葉を単音節に発音したりするのも、あるいは彼の性格なのだろう。
教授の間のびした声が、その説明しているコイルのまわりにゆっくりとぐるぐる巻きつき、コイルがその抵抗のオームを加えるにつれ、声の睡気を誘う力を二倍、三倍、四倍にしていった。
モイニハンの声が遠くの鐘の音に応じてうしろで叫んだ。
――授業終了です、諸君!
入口のホールは雑沓し、話し声でやかましかった。扉口近くの机の上に、額縁にいれた二枚の写真(ヴィクトリア女王とロシアのニコライ二世の写真)がおかれ、その間に、不規則につらなっている署名のある長い巻紙があった。マカンがせかせかと学生たちの間を歩きまわり、早口にまくしたて、拒絶に応酬し、つぎつぎと学生を机のところに引っぱってきていた。ホールの奥では学生監が若い教授と立ち話をして、もっともらしく顎を撫でたり、うなずいたりしていた。
スティーヴンは、扉口のところで雑沓にさえぎられ、思い迷ったようすで佇んだ。ソフトの広い垂れた鍔の下から、クランリの暗い瞳がじっと彼を見守っていた。
――君も署名したかい? スティーヴンはきいた。
クランリは切れ長の薄い唇をした口をぎゅっと閉じ、しばし考えこんで答えた。
――Ego habeo(我は署名せり)
――何のためにだ?
――Quod(何だって?)
――何のためにだい?
クランリは蒼白い顔をスティーヴンに向け、もの柔らかに、しかも皮肉な調子で言った。
――Per pax universalis(世界平和のために)
スティーヴンはツァーの写真を指さして言った。
――あれはたわいもなく酔っぱらったキリストみたいな顔をしているね。
その声に含まれた侮蔑と怒りとが、ホールの周囲の壁を静かに眺めていたクランリの瞳を引き戻した。
――癪にさわるのかい? 彼はきいた。
――いいや、スティーヴンは答えた。
――怒っているのかい?
――いいや。
――Gredo ut vos sanguinnarius mendax estis(汝はとんでもない嘘つきなりと我は信ず)とクランリは言った。quia facies vostra monstrat ut vos in danno malo humore estis(何となれば、汝の顔は汝が甚だしく不機嫌にあることを示しおればなり)
モイニハンが机のほうへ行く途中、スティーヴンの耳もとで言った。
――マカンの奴、えらく大張りきりだな。最後の一滴まで流すつもりだぜ。できたてほやほやの世界。女《あま》っちょどもには刺激物も投票権もいらねえよ。
スティーヴンはこういう打ち明け方に微笑して、モイニハンが行ってしまうと、くるりとまた向き直り、クランリの視線を迎えた。
――君にはわかるだろう、と彼は言った。なぜあいつがあんなに自由にぼくの耳に思ったことをぶちまけるかが。わかるかい?
陰気な苦渋の色がクランリの額に浮かんだ。彼はモイニハンがかがみこんで巻紙に署名している机のほうをにらみつけていたが、やがてにべもなく言い放った。
――おべっかさ!
Quis est in malo humore.(不機嫌なるはいずれなりや)スティーヴンは言った。ego aut vos?(我か汝か?)
クランリはその痛い皮肉にとりあわなかった。苦《にが》りきって自分の判断にこだわり、同じような、にべもない調子でくり返した。
――とんでもない言語道断なおべっか野郎、それがあいつの正体さ!
それがすべて死んだ友情に与える彼のいつもの墓碑銘だったから、スティーヴンはいずれ同じ調子で、自分の思い出にもそれが口にされるのではなかろうかと思った。この重い塊りのような文句が、泥沼にしずむ石のように徐々に沈んでいって聞こえなくなった。スティーヴンには、これまで他にも何度かおぼえがあったとおりに、それの沈みこんでゆくのがわかり、心を重苦しく圧えつけるのを覚えた。クランリの言葉は、ディヴィンのそれと違って、エリザベス朝英語の珍奇な句もなければ、アイルランド語の慣用語をおかしなふうに英語に変えた言い廻しもなかった。その間のびした口調には、わびしくさびれてゆく海港が響き返すダブリンの埠頭の谺《こだま》があり、その力強さには、どこかウィックロウ〔アイルランド東部の郡、首都もウィックロウ〕の説教壇がはっきりと響き返すダブリンの法話的雄弁の谺があった。
マカンがホールの向う側から急ぎ足にこっちへ近づいてくるにつれ、重苦しい渋面がクランリの顔から消えた。
――やあ、ここにいたのか! マカンが陽気に声をかけた。
――ちゃんといるさ! スティーヴンは言った。
――例によって遅れたな。君は進歩的傾向と時間厳守の尊重とを両立させられないのかい?
――そのような質問は規定違反であります。スティーヴンは言った。つぎの問題。
彼の微笑している眼はこの宣伝屋の胸ポケットからのぞいている銀紙につつんだ板チョコにじっと注がれていた。聞き耳をたてる連中が小さな輪をつくって、この機智合戦を聞こうとした。オリーヴ色の肌をして、縮れてない真黒な頭髪の痩せた学生が二人の間に首を突っこんで、文句のとびだすごとに二人の顔をちらちら見比べ、つばきをためた口をぽかんと開けて、飛び交う一つ一つの文句の意味を取ろうとしているかのようだった。クランリは小さな灰色のゴムまりをポケットから取りだし、それをくるくる廻しながら仔細に調べ始めた。
――つぎの問題? マカンは言った。おほん!
彼は騒々しく咳きこんで笑いだし、無遠慮ににやにやしながら、ずんぐりした顎から垂れている麦わら色の山羊ひげを二度しごいた。
――つぎの問題は感謝状に署名することだ。
――署名したら、ぼくにいくらかくれるかい? スティーヴンはきいた。
――君は理想主義者とばかり思ってたがねえ、とマカンは言った。
ジプシーに似た学生があたりを見廻し、はっきりしない羊の鳴き声みたいな声で、見物している連中に呼びかけた。
――断じてこいつは妙ちきりんな観念だ。そういう考えは欲得ずくの観念だとみなすね。
彼の声はあやふやになり沈黙してしまった。誰も彼の言葉に注意を払わなかったのだ。彼はオリーヴ色の、馬みたいな表情をした顔を、再び話をうながすかのようにスティーヴンに向けた。
マカンは滔々《とうとう》と元気よくツァーの詔勅について、ステッド〔イギリスのジャーナリスト、平和運動家〕について、全面的軍備撤廃、国際的紛争事件の仲裁、時代の徴候、可及的最大多数の最大幸福をできうる限り安価に獲得することをもって社会の任務とする新しい人間性と新しい人生の福音について、語り始めた。
ジプシーの学生は、この長講一席の終りに呼応して叫んだ。
――四海同胞のために万歳を三唱!
――やれよ、テンプル。彼の近くの頑丈な赤ら顔の学生が言った。あとで一杯おごってやるぞ。
――おれは四海同胞信者だよ、とテンプルは暗い楕円形の眼であたりをちらりと見やって言った。マルクスなんてとんでもない阿呆にすぎないよ。
クランリはぎごちない微笑を浮かべ、彼を黙らせようとしてその腕をぐいと掴み、くり返し言った。
――静かに、静かに、静かに!
テンプルは手をふり離そうともがきながら、口角に小さな泡を飛ばして、つづけた。
――社会主義はアイルランド人が起こしたのだ。そしてヨーロッパで最初に思想の自由を唱えた人はコリンズだった。二百年も前だ。彼は坊主の政略を指弾したんだ、このミドルセックスの哲学者は。ジョン・アントニイ・コリンズ〔ジョン・ロックの弟子、理神論者〕のために万歳三唱!
人垣の端のほうから弱々しい声が応じた。
――ぴよ! ぴよ!
モイニハンがスティーヴンの耳もとでそっと言った。
――どうだい、これは? ジョン・アントニイの哀れな妹の歌さ。
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ロティ・コリンズがズロースなくした
君のを拝借願えませんか
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スティーヴンが笑いだすと、モイニハンはその効果に気をよくし、また耳打ちした。
――おれたち、ジョン・アントニイ・コリンズにそれぞれ五シル賭けようぜ。
――ぼくは君の返答を待っているんだよ。マカンがそっ気ない調子で言った。
――この問題はぼくには少しも興味がないよ。スティーヴンは面倒くきそうに言った。君もよく承知の筈じゃないか。なぜこんなことに騒ぎたてるんだい?
――よし! マカンは舌打ちして言った。じゃ君は反動家だな?
――自分の考えをぼくに押しつけようと思っているのかい? スティーヴンはきいた。木のだんびらを振り廻してさ。
――比喩か! マカンは突けんどんに言った。事実を言えよ。
スティーヴンは顔を紅潮させてそっぽを向いた。マカンはなおも頑張り、意地悪く言った。
――二流詩人というやつは、どうやら、世界平和の問題といったような、ちっぽけな問題には超然としておるらしいな。
クランリは頭を上げ、仲裁のつもりで、この二人の学生の間にゴムまりをさしだして言った。
――Pax super totum sanguinarium globum.(この血なまぐさき地球上に平和あれ)
スティーヴンは、側に立っている連中をどけ、ツァーの像へ向って憤然と肩をそびやかして言った。
――自分の偶像は大事にしまっておくことだね。イエズスのような人物が必要だというなら、正統なイエズス的人物を持とうじゃないか。
――なるほど、そいつはうまい! ジプシーの学生がまわりの連中に向って言った。そいつはうまい表現だ。その表現は大いに気にいったね。
彼はまるでその文句を咽喉にごくりとのみこむかのように唾をのみこみ、ツィード織の帽子の庇《ひさし》をいじり廻しながら、スティーヴンのほうを向いて言った。
――失礼ですが、いま君の言われたあの表現はどういう意味なんですか?
近くの学生たちに押されるのを感じて、彼はその連中に言った。
――どういうつもりであんなことを言ったのか、知りたいんだよ。
彼は再びスティーヴンに向き直り、囁くように言った。
――君はイエズスを信じますか? ぼくは人間を信じています。むろん、ぼくは君が人間を信じているかどうかは知らないけど、ぼくは君に感心したですよ。どんな宗教にも頼らない人間の精神をぼくは讃美します。イエズスの精神についての君の意見もそれですか?
――がんばれ、テンプル。頑丈な赤ら顔の学生が、いつもの癖で、あの最初の考えをむし返して言った。さっきの酒が待ってるぞ。
――この男はぼくを阿呆だと思っているんですよ。テンプルはスティーヴンに説明した。それもぼくが精神の力を信じているというのでね。
クランリは両の腕をスティーヴンと彼の讃美者の腕に通して言った。
――Nos ad manum ballum jocabimus.(我らまりにて遊ばん)
スティーヴンは、連れてゆかれながら、マカンの紅潮した不愛想な顔に気がついた。
――ぼくの署名なんかものの数にはいらないですよ、と彼は丁寧に言った。君は君の道をゆくのが正しいんです。ぼくにはぼくの道をゆかせてくれたまえ。
――ディーダラス。マカンが切り口上で言った。君はいい男だとは信じるが、まだまだ愛他主義の尊さと人間個々の責任を学ぶべきだね。
声が起こった。
――知的偏屈などは、この運動に、はいらんほうがいいぞ。
スティーヴンは、マカリスターの声の刺々《とげとげ》しい調子に気づいたが、声のしたほうを振り返りもしなかった。クランリはスティーヴンとテンプルを腕で組み合わせ、まるで侍者たちに介添されて祭壇へ向かう途中のミサ執行者のように、厳粛な面持で学生の群の間を押しわけていった。
テンプルはしきりとクランリの胸の前に、半身をのりだすようにして言った。
――マカリスターの言ったこと聞いた? あの若僧は君をねたんでいるのだ。気がついたですか? きっとクランリにはわからなかったろうな。いやあ、ぼくには直ぐわかったさ。
彼らが奥のホールを通っていると、学生監が、話しこんでいた相手の学生から逃げだそうとしかけていた。彼は階段の下に立ち、片足を一番下の段にかけ、擦り切れた法衣を昇るのに備え、女のように注意深くたくしこんで、何度もうなずいては、くり返し言っていた。
――それに違いないね、ハケット君! 結構だ! それに違いないよ!
ホールの真中で、学校の信心会の総代が一人の寮生を相手に低い不機嫌な声で熱心に話しこんでいた。話しながら、そばかすのある額にちょっと皺をよせ、言葉の合間に、小さな骨製の鉛筆を噛んでいた。
――新入生には全部きてもらいたいね。三年の文科はたいてい大丈夫だ。二年の文科も間違いない。新入生は確かめておく必要があるね。
彼らが戸口を通りぬけている時、テンプルがまたもクランリの横から乗りだして、せかせかと囁き声で言った。
――あの男が結婚しているの、知ってますか? 改宗させられる前に結婚してたんですよ。どこかに細君と子供たちがいるんだ。いやあ、これほどおかしな話は聞いたことがないね、ええ?
彼の囁き声の終りは狡《ずる》そうな甲高い笑い声に消えていった。戸口を通りぬけた瞬間、クランリが乱暴に彼の首っ玉をつかみ、ゆすぶり廻して言った。
――このとんでもない、間抜けの馬鹿野郎め! 誓っていうが、このとんでもない滅茶苦茶な世の中でお前ほどべらぼうな大馬鹿野郎はないぞ!
おさえつけられたテンプルはもがきながら、なおも狡《ずる》そうに満足して笑っていると、クランリは乱暴にゆすぶるたびに、手きびしくくり返した。
――とんでもない、けしからん大馬鹿野郎め!
彼らは雑草の茂った庭園を横切った。重そうなだぶだぶのマントにくるまった総長が、日課の祈祷書を読みながら、散歩道の一つを彼らのほうに向ってやってきた。道の終りにくると、引き返す前に立ちどまって眼をあげた。テンプルはさっきと同じように帽子の庇をまさぐって、学生たちはおじぎした。彼らは黙りこんで進んでいった。球戯場に近づくと、競技をしている者たちの手の鈍い音や、湿った球のぶつかる音や、打つたびごとに昂奮して怒鳴るディヴィンの声などがスティーヴンに聞こえてきた。
三人の学生はディヴィンが腰かけてゲームを見ている箱のまわりに佇んだ。暫くしてテンプルがスティーヴンのところまでにじりよって、言った。
――邪魔してわるいけど、ぼく、君にききたかったんだ、ジャン・ジャック・ルソーは真面目な人だったと君は信じますか?
スティーヴンは無遠慮に笑った。クランリは、足もとの草むらから樽のこわれた板をひろい上げると、きっと向き直り、手きびしく言った。
――テンプル、きっぱり言っておくが、いいか、相手が誰で、どういうことだろうと、もう一言、言ってみろ、たたき殺してやるぞ、super spottum.(その場において)
――ルソーは君に似てたんじゃないかな、とスティーヴンは言った。感情家だな。
――あんな奴、くたばっちまえだ! クランリがずけずけ言った。あいつに口なんかきくんじゃないよ。テンプルに向って話しするくらいならだ、いいか、|おまる《ヽヽヽ》と話しするほうがましかもしれんてな。帰れよ、テンプル。頼むから帰ってくれ。
――お前なんか問題じゃないよ、クランリ。テンプルは振り上げられた樽板のとどかぬところにどいて応酬し、スティーヴンを指さした。おれの見たとこ、彼こそ、この大学で独自の考えをもつ唯一の人だ。
――大学! 独自! クランリは叫んだ。帰れ、罰当りめ、どうにも手のつけられん、とんでもねえ野郎だよ。
――おれは感情家だ、とテンプルは言った。まきに適評だ。おれは主情論者たることを誇りとするよ。
彼は狡そうな微笑を浮かべて、球戯場からこそこそ出ていった。クランリは生気のない無表情な顔をして彼を見守っていた。
――あいつを見ろ! 彼は言った。あんなひょうろく玉を見たことがあるかい?
この文句に応じて、庇帽を目深にかぶって壁にもたれていた一人の学生から奇妙な笑い声が起こった。甲高い調子の、しかもいやに筋骨たくましい体躯から起こった笑い声は、象のいななきに似ているように思われた。学生は全身をゆさぶり、おかしくてたまらないのを静めようとして、両の手で愉快そうに腿のつけ根をこすっていた。
――リンチが眼をきましたぞ、とクランリが言った。
リンチは、返事の代りに背のびをして、ぐいと胸を張った。
――リンチが胸を張ったぞ。スティーヴンは言った。いざ人生の批判をしてやろう、というようにね。
リンチは調子よく胸をぽんとたたいて言った。
――このおれの胸周りに文句のあるやつでもいるのか?
クランリはこの言葉を真に受け、二人は取っ組み合いを始めた。組打ちで二人の顔が真赤になった時、彼らは別れて、はあはあ息をきらせていた。スティーヴンは、ゲームに熱中して他の連中の話には耳もかさなかったディヴィンのほうに、乗りだした。
――ふぬけの鵞鳥君、どうだい? と彼はきいた。君も署名したかい?
ディヴィンはうなずいて言った。
――君もか、スティヴィ?
スティーヴンは首を振った。
――君はひどい男だよ、スティヴィ。ディヴィンは短かいパイプを口から取りながら言った。いつでも独りで離れているのだからね。
――君が世界平和の請願書に署名したからには、とスティーヴンは言った。君の部屋で見たあの小さな手帳《メモ》は焼き棄てるんだろうな。
ディヴィンが返事しないので、スティーヴンは手帳で見た文句を口にし始めた。
――フィーニア党員、前へ進め! フィーニア党員、斜め右へ進め! フィーニア党員、番号順に、敬礼、一、二ッ!
――そいつは別問題だよ。ディヴィンは言った。ぼくは何よりもまず第一にアイルランド国粋主義者だ。だけど、こいつはいかにも君らしいや。君は生まれながらの冷笑家だよ、スティヴィ。
――今度君がハーレイ〔アイルランド式のホッケー競技〕のスティックで騒動を起こす時に。スティーヴンは言った。どうしても密告者が必要だったら、ぼくに言ってくれ。四、五人はこの学校で見つけてやれるよ。
――君という人はわからないな。ディヴィンは言った。イギリス文学の悪口を言っているかと思えば、今度はアイルランドの密告者の悪口を言っているのだからな。君の名前や思想などからすると……いったい、君はアイルランド人なのかい?
――今から記録保存所へ一緒に来たまえ、そしたらうちの家系図を見せてあげるから。スティーヴンは言った。
――それじゃ、ぼくらの仲間にはいれよ。ディヴィンは言った。どうしてアイルランド語を習わないんだい? 最初の授業に出ただけで、どうして協会のクラス〔一八九三年、昔のアイルランド語たるゲール語復興運動のためダグラス・ハイドによって設立されたゲーリック協会〕からぬけたのだい?
――一つの理由は知ってるはずだ、とスティーヴンは答えた。
ディヴィンはぐいと頭をそらして笑った。
――おい、はっきり言えよ。彼は言った。理由って、さる若きご婦人とモラン神父のせいなのかい? だけど、ありゃ君がそう思いこんでいるだけだよ、スティヴィ。あの連中はただおしゃべりをして笑ってただけだよ。
スティーヴンはしばらく黙っていたが、ディヴィンの肩に親しげに手をかけた。
――憶えているかい? と彼は言った。ぼくらが初めて知り合った時のことを。初めて会ったあの朝、新入生《マトリキュレーション》のクラスはどこですかってぼくにきいたね、最初の音節にむやみに力を入れてさ。憶えてる? それから君はいつもイエズス会の人たちに|神父さん《ファーザー》って呼びかけてたっけな、憶えている? ぼくはひそかに君のことを思ったね、「あの男はあの口調どおりに無邪気なんだろうか?」って。
――ぼくは根が単純なんだよ、とディヴィンは言った。これは君もわかってる筈だ。ハーコート|通り《ストリート》であの晩、君の私生活のああいうことをいろいろ語って聞かせてくれた時はね、正直んとこ、スティヴィ、ぼくは夕食が食えなかったくらいだよ。とても調子が悪かったのだ。あの晩は長いこと眼がさえて眠れなかった。どうしてあんなことを話したのだい?
――こりゃどうも。スティーヴンは言った。つまりぼくがひどい奴だってわけだね。
――そういうわけじゃないけどね。ディヴィンは言った。話してくれなけりゃよかったと思うのさ。
スティーヴンの親愛感の穏やかな表面の下では、潮の流れがざわめき始めた。
――この民族とこの土地とこの生活とがぼくをつくりだしたのだ、と彼は言った。ぼくはあるがままの自己を表現するだけだ。
――なんとかぼくらの仲間にはいるよう努めてくれよ。ディヴィンはまたも言った。心では君はアイルランド人なのだけど、君の誇りが強すぎるのだよ。
――ぼくの祖先は自分たちの言葉を投げ棄てて、よそのを取った。スティーヴンは言った。彼らは僅かばかりの異国の連中におめおめと従わされた。ぼくがこの自分の生命と体を賭けて彼らの作った債務を支払うとでも思っているのかい。いったい、何のためにだ?
――われわれの自由のためだ、とディヴィンは言った。
――トーンの時代からパーネルの時代にいたるまで、尊敬すべき誠実な人がおのれの人生も青春も愛情もすべてを君らに捧げてきたのだが、君らはその人々をすべて敵に売り、あるいはいざという時に挫折させ、あるいは罵り、あるいは寝返りを打ったのだ。それでも君は仲間にはいれとぼくにすすめる。そういう君たちこそ先に呪われるがいい。
――彼らは理想のために生命を落としたんだ、スティヴィ、とディヴィンは言った。われわれの勝利の日はいまにくるよ、本当だとも。
スティーヴンは自分の考えをたどりながら、しばし黙っていた。
――魂はまず、と彼は曖昧に言った。ぼくが君に語って聞かせたような、ああいう際に生まれるのだ。それは肉体の誕生よりも神秘で、緩慢な暗い誕生だ。この国では人の魂が生まれると、その飛びたつのを押しとどめようと網が投げかけられるのだ。君は国籍だの国語だの宗教だのとぼくに言っているけどね。ぼくはそういう網をくぐりぬけて飛び立ってみるよ。
ディヴィンはパイプの灰をはたいた。
――深遠すぎてぼくにはわからんね、スティヴィ、と彼は言った。だけどね、まず祖国が何より先だ。アイルランド第一だよ、スティヴィ。詩人や神秘思想家には後からだってなれるじゃないか。
――君はアイルランドがどういうものか知っているのか? スティーヴンは冷やかな激しさをこめてきいた。アイルランドは自分の仔を食う老いぼれた雌豚だよ。
ディヴィンは掛けていた箱から立ち上がると、悲し気に頭をふりながら、競技者たちのほうへいった。だが、たちまちその悲しみもどこへやら、彼はクランリとゲームを終えた二人の競技者を相手に議論に熱中していた。四人組の試合をやることにきまったが、クランリは自分の球を使えと言い張っている。自分の手で二、三度球をはずませてから、球戯場のベースに力強く発止とたたきつけ、その鈍い音に応えて怒鳴った。
――この野郎!
スティーヴンは、得点が上がってくるまでリンチと立っていた。それからこっちへこいと彼の袖をぐいと引っぱった。リンチはそれに従いながら言った。
――われらもまた行かんか、こいつはクランリの口癖だが。
スティーヴンはこのあてこすりに微笑した。
彼らはもときた庭園をぬけ、よろよろ歩きの門衛が玄関《ホール》の掲示をピンで枠にとめているホールを抜けて出た。段の下で彼らは立ちどまり、スティーヴンがポケットからタバコを一箱取りだして友人にさしだした。
――君は貧乏だからな、と彼は言った。
――畜生、なんでえ、その糞いまいましいえらぶりようは。リンチが答えた。
このリンチの教養の第二の証明はまたもスティーヴンを微笑させた。
――今日はヨーロッパ文化にとっちゃどえらい日だな、と彼は言った。君が糞なんてひどい言葉を使う決心をしたとはね。
彼らはタバコに火をつけると右へ折れていった。しばらくしてスティーヴンが言いだした。
――アリストテレスは憐憫と恐怖を定義していない。ぼくはやったよ。つまり……。
リンチは立ち止まって突樫貧《つっけんどん》に言った。
――やめてくれ! 聴きたくないよ。気分が悪いんだ。昨夜ホランやゴギンスと無茶苦茶な酒盛りをやったんだ。
スティーヴンはかまわずつづけた。
――憐憫とはすべて人間の苦悩における重大にして不易なるものに直面して思念を停止せしめ、それを苦悩する者と結びつける感情である。恐怖とはすべて人間の苦悩における重大にして不易なるものに直面して思念を停止せしめ、それを隠れたる原因と結びつける感情である。
――もう一度言ってくれ、とリンチは言った。
スティーヴンは今の定義をゆっくりくり返した。
――数日前、一人の若い娘が辻馬車に乗りこんだ、と彼はつづけた。ロンドンでのことだ。彼女は永年会わなかった母親に会いにゆく途中だった。街角で荷馬車の轅《ながえ》が辻馬車の窓ガラスを星のように打ち砕いた。長い細い針のように砕けたガラスが彼女の心臓を突き刺した。彼女は即死した。新聞記者はそれを悲劇的な死と称した。これは悲劇的な死じゃない。ぼくの定義に従うと恐怖や憐憫とはおよそ遠いのだよ。
――悲劇的情緒は、実は、二様の方向をむいている一つの顔だ、すなわち恐怖に向っているのと憐憫に向っているのとであって、そのいずれもがその情緒の一面なのだ。ぼくはさっき停止《ヽヽ》という言葉を使ったね。それはつまり悲劇的情緒は静的だということなのだ。いやむしろ劇的情緒がそうなのだな。誤まれる芸術によって刺激される感情は動的、つまり欲望とか嫌悪なのだ。欲望はわれわれに所有すること、何ものかに向かうことを促す。嫌悪は放棄すること、何ものかから離れることを促す。そういう感情を昂奮させる好色的な、あるいは教訓的な芸術は、だから、誤まれる芸術なのだね。審美的情緒は、(ぼくは一般的な言葉を用いたけど)だから静的なのだ。思念は停止され、欲望や嫌悪を越えて高揚されるのだ。
――それじゃ芸術は欲望を刺激してはいけないと言うのだね、とリンチは言った。いつだったかぼくは博物館でプラクシテレス〔古代ギリシアの彫刻家〕のヴィーナス像のお尻に鉛筆で自分の名前を書いたって、君に話したね。あれは欲望じゃないのか?
――ぼくは正常な性情について語っているのだ、とスティーヴンは言った。君があの美しいカルメル会〔十二世紀にイタリアの高僧ベルナルドがカルメル山に修道院を立てて始めた修道会〕の学校の生徒だった時分、乾いた牛の糞を食ったという話もしたっけな。
リンチはまたもいななくような声で笑いだし、ポケットに突っこんだままの両手で腿《もも》のつけ根をまたこすり始めた。
――そうだ、した! した! と彼は叫んだ。
スティーヴンは連れのほうをふり向いて、しばらくまじまじとその眼を見ていた。リンチは、哄笑から我れに返ると、卑下したような瞳で彼の視線に答えた。長く先の尖った帽子の下の細長い扁平な頭が、ふとスティーヴンの脳裡に頭巾をかぶったようなふくれた頭の爬虫類の姿を思い描かせた。その眼までがきらりと光り、じっと見すえるところなど爬虫類を思わせた。それでいながら、その一瞬、卑下したすばしこい眼つきをしていながら、その眼は、かすかながらも人間的な一点、せつない自嘲的な、萎縮した魂の窓によって明るくされた。
――そういうことでは、とスティーヴンは儀礼的につけ加えた。われわれはみな動物だよ。ぼくもやはり動物さ。
――そうだ、とリンチは言った。
――だけど、今は精神の世界にはいっているのだ、とスティーヴンはつづけた。誤まれる芸術によって刺激された欲望や嫌悪は実は美的情緒ではないのだ。というわけは、単にそれらが特質上、動的であるからというばかりでなく、せいぜいが肉体的にしかすぎないからだ。われわれの肉体は純粋な神経系統の反射作用によって、それが恐怖するものからしりごみし、それが求めるものの刺激に応じる。われわれの眼蓋は蝿が眼にはいりそうになると気づく前に閉じるのだ。
――いつもそうとは限らんな、とリンチは批判的に言った。
――これと同様に、とスティーヴンは言った。君の肉体は裸像の刺激に反応したのだよ。だけどそれは単なる神経の反射作用にすぎなかったのだな。芸術家によって表現された美はわれわれの中に、動的な情緒や、あるいは純粋に肉体的な感覚を呼び起こすことはあり得ないのだ。それは美的静止状態、つまり観念的憐憫とか観念的恐怖、つまりぼくのいわゆる美のリズムによって引きだされ、持続され、最後には溶解される静止状態を呼び起こす、あるいは呼び起こすべきもの、あるいは誘致する、あるいは誘致すべきものなのだ。
――それは的確にいうとどうなのだ? リンチはきいた。
――リズムとは、スティーヴンは言った。すべて美的全体における部分と部分、あるいは美的全体とその一部ないしは幾つかの部分、あるいはいずれかの部分とそれが一部になっている美的全体、との最高の形式美関係をいうのだ。
――それがリズムだとするなら、とリンチは言った。君のいうところの美なるものを聞かせてもらいたいね。ついでに断わっておくがね、なるほどぼくは一度、牛の糞のかたまりを食ったけど、ぼくの讃美するのは美だけなんだぜ。
スティーヴンはまるで挨拶でもしているかのように帽子をちょっと脱いだ。それから微かに顔を赤らめて、リンチの厚ぼったいツィード織の袖に手をかけた。
――ぼくらは正しいのだ、と彼は言った。他の奴らが間違っているのだ。こういうことについて語り、その本質を理解しようと努め、そしてそれを理解した上で、粗雑な土やあるいはそれが生みだすものから、つまりわれわれの魂の獄《ひとや》の門である音や形や色から、われわれが理解するにいたった美の形象を、もう一度徐々に謙虚に不断に表現し、作りだすこと――それが芸術なのだ。
彼らは運河の橋に達していた。そこから進路を変えて、並木にそって進んでいった。よどんだ水に写っているにぶい灰色の光や頭上の濡れた枝の匂いが、スティーヴンの思考の流れに逆らうかのようだった。
――でも君はぼくの質問に答えてないじゃないか。リンチは言った。芸術とは何か? それが表現する美とは何か?
――それは最初に定義してやったじゃないか、このぼけ頭|奴《め》、スティーヴンは言った。あの時、ぼくは自分でその事を考えだしてみようとかかったのだよ。君はあの晩のことを憶えているかい? クランリが癇癪を起こして、ウィックロウ塩豚《ベーコン》の話をやりだしたろう。
――憶えているよ、とリンチは言った。奴はあのでぶでぶ肥った悪魔みたいな豚の話をしてくれたな。
――芸術とは、とスティーヴンは言った。感覚的ないしは知的素材を美の目的のために人間が処理することだ。君は豚のことを憶えていて、これは忘れたんだね。君たちは困った一対だよ、君とクランリとは。
リンチは冷え冷えとした灰色の空に向って顔をしかめて言った。
――君の美学を拝聴しなくちゃならんとなれば、せめてもう一本タバコをくれよ。おれはそんなことはどうだっていいんだ。女にも気がないよ。お前なんか糞喰えだ、何もかも糞喰えさ。おれは年に五百ポンドくれる職が欲しいよ。君じゃそいつにありつかせてくれることもできんな。
スティーヴンは彼にタバコの箱を渡した。リンチは残った最後の一本を取って、あっさり言った。
――つづけろよ!
――アキナスは、とスティーヴンは言った。美なるもの、その認識は快し、と言っている。
リンチはうなずいた。
――それは憶えているよ、と彼は言った。Pulcra sunt quoe visa placent.(眼を悦ばすものは美わし)
――彼が、visa(眼)という言葉を使っているのも、とスティーヴンは言った。視覚や聴覚を通してであろうと、あるいはその他いかなる認識の手段を通してであろうと、あらゆる種類の美的認識を包括するためなのだ。この言葉は、曖昧ではあるけど、欲望や嫌悪を刺激する善と悪を排除する程度には明白だよ。それは確かに静的状態を指しているのであって、動的状態じゃない。では真なるものについてはどうか? それもやはり精神の静止状態をつくりだす。君はまさか直角三角形の斜辺に鉛筆で自分の名前を書きはしないだろう。
――書かないね、リンチは言った。プラクシテレスのヴィーナスの斜辺なら頂戴するがね。
――だから静的なのだよ、スティーヴンは言った。たしかプラトンは美は真理の光輝であると言ってたと思うがね。これはつまり、真なるものと美なるものとは近似しているという以外に意味はないと思うのだ。真理は、知性によって知り得られるものの最も申し分のない関係から満足を得る知性によって、観照されるのだ。美は、感覚によって知り得られるものの最も申し分のない関係から満足を得る想像によって、観照されるのだ。真理へ向う第一歩は知性それ自体の構造と範囲を理解し、思惟作用の働きそのものを会得することだ。アリストテレスの哲学の全体系は彼の心理学の書に基づいているのであり、また、同一の属性は、同時に同一の関係で同一の実体に属してもおり、属してもいないということはあり得ない、という彼の説に基づいていると思うのだ。美へ向う第一歩は想像力の構造と範囲を理解し、美的認識の働きそのものを会得することだ。わかったかい?
――だが美とは何だね、とリンチはもどかし気にきいた。別の定義でやってくれ。何か見て好きになるようなやつでだ。君とアキナスにやれることって、せいぜいそれくらいのことかね?
――じゃ女を例にとろう、スティーヴンは言った。
――そうだ、女がいいや! リンチは勢いこんで言った。
――ギリシア人、トルコ人、中国人、エジプト人、ホッテントットは、スティーヴンは言った。いずれもすべて違ったタイプの女性美を崇拝する。このことはまるで脱けでられない迷宮のように見える。だけどぼくには二つの出口が考えられるのだ。一つはこういう仮定だ。すべて男が女性の中に讃美する肉体的性質は、種の繁殖のための女性の多様な機能と直接に関係しているということだ。事実そうかもしれない。この世の中はね、リンチ、君が想像する以上に味気ないものらしいな。ぼくとしちゃ、そういう出口は好まないな。そいつは美学よりもむしろ優生学へ通じるからね。君を迷宮からつれだして、今度は安ピカの教室へつれこみ、そこで片手には『種の起源』を、他の片手には新約聖書を持ったマカンの奴から、お前がヴィーナスの大きなお尻を讃美したのも、頑丈な子供を生んでくれそうだと感じたからだし、大きな乳房を讃美したのも、彼女とお前の子供たちにいい乳をだしてくれそうだと感じたからだ、と言われるのが落ちさ。
――それじゃマカンの奴はけしからん嘘つき野郎だ、とリンチは勢いこんで言った。
――出口はもう一つ残っているよ、とスティーヴンは笑いながら言った。
――つまり何だ? リンチは言った。
――この仮説が、とスティーヴンは始めた。
古鉄をつんだ長い大荷馬車がサー・パトリック・ダン病院の角を曲ってきて、じゃらんがらんという金属のやかましい騒音で、スティーヴンの言葉のしまいをかき消してしまった。リンチは大荷馬車が通りすぎてしまうまで耳をおさえて罵声を発していた。それから彼はくるりと乱暴に向き直った。スティーヴンも向き直り、相手の不機嫌がおきまるまでしばらく待っていた。
――この仮説が、とスティーヴンはもう一度くり返した。別の出口なのだ。つまり、同一物必ずしも万人に美しいとは見えないかもしれないが、美しいものを讃美するあらゆる人々は、そこに、すべて美的認識の段階を満足させ、かつそれと合致するある一定の関係を見出すだろう。君にはある形態を通して見え、ぼくにはまた別の形態を通して見えるこれらの感覚できるものの関係こそは、だから、美の必要不可欠な特質にちがいないのだ。ここでまた、ちょっと智慧を拝借しにわが旧友トマのところへ戻ろうかね。
リンチは笑った。
――実におもしろいよ、と彼は言った。君が陽気なデブの托鉢僧みたいに、ちょいちょい彼を引き合いにだすのを聞いているとね。内心じゃ自分でも笑っているのだろう?
――マカリスターなら、とスティーヴンは答えた。ぼくの美学を応用アキナスとでも称するだろうな。美学のこの面に関する限りでは、アキナスが終始ぼくを導びいていってくれるだろう。芸術の受胎、芸術の懐胎、芸術の再生の現象になると、新しい術語や新しい直接の経験が必要になってくる。
――そりゃそうさ、とリンチは言った。所詮アキナスは、いくら知性があっても、全くの話がデブの托鉢僧なんだからね。だけど、そのうちいつか、その新しい直接の経験と新しい術語を君から聞かせてもらえるだろう。第一部のほうを一つ大急ぎで片づけてくれないか。
――さあどうだかな、とスティーヴンは微笑を浮かべて言った。もしかしたら君よりもアキナスのほうがぼくの考えをよく理解してくれるかもしれないぞ。彼は詩人でもあったからね。彼は洗足木曜日のための讃歌を書いたよ。Pange lingua gloriosi.(いざ言葉もて宣べ讃えんかな)という文句で始まっている。これは讃歌の中でも最高の栄光だと言われているよ。複雑な、心の慰まる聖歌だ。ぼくは好きだよ。だけど、ウェナンチウス・フォルトゥナトゥス〔イタリアの詩人で司教〕の「王の聖旗《みはた》」という、あの沈痛にして荘厳な行列聖歌に比肩し得る聖歌はないね。
リンチは深いバスの声で静かに厳粛に歌いだした。
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ダヴィド王の深き信仰の歌は
ことごとく成就せられたり
彼は諸々《もろもろ》の民等《たみぐさ》に告《つ》げたり
「天主は木(十字架)にて王たり給う」と
(ミサ典書)
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――りっぱなものだ! と彼は大いに悦にいって言った。偉大な調べだ!
彼らはロウア・マウント通りへ曲りこんだ。角から数歩行くと、絹のクラヴァットをしめた肥った青年が彼らにあいさつして立ち止まった。
――試験の結果を聞いたですか? と彼はたずねた。グリフィンは落第です。ハルピンとオフリンは国内文官試験にとおった。ムーナンはインド文官試験で五番だった。オショーニシイは十四番だった。クラーク・カレッジのアイルランド出身者が昨夜彼らにご馳走をしてやってね。みんなライスカレーを食べたんだ。
彼の青白い、むくんだ顔には、いかにもおためごかしの意地悪さが見えた。そして合格の知らせをのべてしまうと、その小さな、脂肪でかこまれた眼が見えなくなり、その弱々しい、息を切らせている声が聞こえなくなった。
スティーヴンの質問にこたえて、その眼とその声とが再びそれらの隠れ家から出てきた。
――そう、マカラとぼくはね、と彼は言った。マカラは純正数学を受け、ぼくは憲法史を受けます。二十科目もあるんですよ。ぼくは植物も受けます。ぼくは野外クラブの会員だからね。
彼はもったいぶったようすで二人から退くと、毛糸の手袋をはめた肥った片手を胸に当てた。と、いきなり低い喘ぐような笑い声がそこからとびだしてきた。
――今度出かける時には蕪《かぶ》と玉葱《たまねぎ》を少し持って来たまえ。スティーヴンはぶっきらぼうに言った。シチューをこしらえよう。
肥った学生は鷹揚に笑って言った。
――ぼくら野外クラブの者はみんな非常にりっぱな人たちばかりですよ。先週の土曜日はぼくら七人で、グレンマリュア〔ダブリン近郊の古戦場〕へ出かけたですよ。
――女と一緒かい? ドノヴァンにリンチがきいた。
ドノヴァンはまたも片手を胸に当てて言った。
――われわれの目的は見聞を得ることですよ。
それから急いで言った。
――君は何か美学に関する論文を書いているそうですね。
スティーヴンは曖昧な否定の身振りをした。
――ゲーテやレッシングは、とドノヴァンは言った。その問題について大いに書いていますね。古典派とかロマン派とか、そういったことをいろいろね。『ラオコーン』〔レッシングの芸術論〕を読んだ時はとてもおもしろかったな。むろん観念的、ドイツ的で、恐ろしく深刻だけど。
他の二人はいずれも口をきかなかった。ドノヴァンはいかにも都会人風に二人に別れを告げた。
――じゃ、もう失礼します、と彼は静かに優しい口調で言った。今日は妹がドノヴァン家の夕食にパンケーキをつくるつもりじゃないかと、大いに疑いを、いやほとんど確信に近いくらいの疑いを持っているんですよ。
――さよなら、とスティーヴンはすぐにそれにつづいて言った。ぼくとぼくの仲間に蕪を持ってくるのを忘れないようにね。
リンチはじっと彼の後を見送っていたが、その唇がしだいに侮蔑にゆがみ、ついにはその顔が悪魔の面そっくりになった。
――あの黄色なパンケーキ食いの糞野郎がうまい職にありつけると思うとなあ、と彼はついに言った。それに引きかえ、このおれは安タバコをふかさねばならんとはなあ!
彼らはメリオン・スクェアヘと向い、しばらく黙りこくって歩いていった。
――美についてぼくが言っていることに結論をつけるとだね。スティーヴンは言った。感覚し得るものの最も満足すべき関係は、だから、芸術的認識に必要な諸段階と照応しなければならないのだ。これらを発見すれば、普遍的美の特質がわかるのだ。アキナス曰くAd pulcritudinem tria requiruntur integritas,consonantia, claritas.ぼくはこんなふうに訳すね、「美には三つのことが必要である、完全と調和と光輝と」これらは認識の段階に照応しているかね? 聞いているのかい?
――むろん聞いているよ。リンチは言った。おれが糞みたいな頭をしているとでも思うなら、ドノヴァンを追っかけて、よく聞いてくれとでも頼むがいいや。
スティーヴンは肉屋の小僧がさかさにして頭にひっかけている籠を指さした。
――あの籠を見たまえ、と彼は言った。
――見ているよ、とリンチは言った。
――あの籠を見るためには、とスティーヴンは言った。君の心はまず真先に籠を、その他の寵でない眼に見える世界から切り離すね。認識の第一段階は認識さるべき対象の周囲に限界線を引くことだ。美的イメージは空間的ないしは時間的にわれわれに提示される。耳に聞こえるものは時間的に提示され、眼に見えるものは空間的に提示される。だが時間的にしろ空間的にしろ、美的イメージはまず、美的イメージでないところの空間的ないしは時間的の無限の背景に対し自己を限界づけ、それ自体の内容をもつものとして明瞭に認識されるのだ。つまり君はそれを|一つの《ヽヽヽ》ものとして認識したわけだ。それを一つの全きものとして見るわけだ。つまり君はその完全性を認識するのだな。それがintegritas(完全性)だよ。
――まさに的中! リンチが笑いながら言った。さあ、それから。
――そこで、とスティーヴンは言った。君はその形の線に導びかれて点々と移ってゆく。君はそれをその限界内において、部分と部分とが均衡を保っていると認識する。君はその構造のリズムを感じる。いい換えれば、直観の綜合につづいて認識の分析がくることになるのだ。最初にそれを一個《ヽヽ》のものであると感じた後に、今度はそれを物《ヽ》と感じるのだ。つまりそれを、複雑にして複合的、分割可能、分離可能であって、諸部分より成り立ち、その諸部分とその諸部分の総和の結果が調和的であると認識するのだ。それがconsonantia(調和)だよ。
――これまた的中! とリンチは当意即妙に言った。今度はclaritas(光輝)とは何か、言えよ、そしたら葉巻を一本やるよ。
――この言葉の含む意味は、とスティーヴンは言った。いささか漠然としている。アキナスは不正確と思われる用語を用いているね。これには長い間ぼくも迷った。これは彼が象徴主義か観念論を考えていたのじゃないかと思いこまされるだろう。つまり、美の至高なるものはどこか他の世界、すなわち物質は観念の影にしかすぎぬという観念、実在はそれの象徴にしかすぎぬという実在の世界からの光だというわけだ。彼はもしかしたらclaritasとは何ものかにおける神意の芸術的発見と表象であるか、ないしは美的イメージを普遍的なイメージたらしめ、その本来の状態よりも、そのイメージを一段と美しく輝かせる普遍化の力である、ということを指しているのではないかしらと思ったのだ。しかしこれは文学的な言い方だ。ぼくはそう理解するよ。君があの籠を一個のものと認識し、ついでそれをその形に従って分析して、それを物として認識した時に、君は論理的にも美的にも許容できる唯一つの綜合をするのだ。それはあるがままのものであって、それ以外の何ものでもないと知るのだ。つまり彼がスコラ哲学のquidditasすなわちものの本体という言い方でのべているものの光輝と知るだろう。この至高の性質は、芸術家によって、美的イメージが最初にその想像の中に宿った時に感じられるのだ。その神秘な瞬間の精神をシェリーは美しくも「消えゆく炭火」にたとえている。その美の至高なる性質、美的イメージの鮮明な光輝が、その完全性にとらえられ、その調和に魅了された精神によって明白に認識される瞬間こそ、美的悦びの光り輝く沈黙の静的状態、つまりイタリアの生理学者ルイギ・ガルヴァーニがシェリーの言葉と匹敵するくらいの美しい文句を用いて「心臓の恍惚状態」と称した、あの心臓の状態にきわめてよく似た精神状態だね。
スティーヴンはちょっと間をおいた。相手は口をきかなかったけれど、自分の言葉が二人の周囲に、思索に魅せられた沈黙をひき起こしているのを感じた。
――ぼくが言ってきたことは、と彼は再び始めた。言葉の広い意味での、つまり文学的伝統における意味での美を言っているのだ。一般市場ではまた別の意味がある。われわれがこの語の第二の意味で美を語る時、われわれの判断はまず第一に芸術そのものと、その芸術の形式とによって左右される。イメージは明らかに芸術家自身の思考か感覚と、他の人々の思考か感覚との間にすえられねばならない。このことを記憶にとどめておくなら、芸術は必然的に一つのものから次のものへと進展する三つの形式にわかれてゆくことがわかるだろう。その三つの形式とは、抒情的形式、これは芸術家が自己のイメージを自分自身と直接関係あるものとして提示する形式、つぎは叙事的形式、これは芸術家が自己のイメージを自分自身と他の人々と直接関係あるものとして提示する形式、つぎは演劇的形式、これは彼が自己のイメージを他の人々と直接関係あるものとして提示する形式だ。
――それはついこないだの晩、ぼくに話したよ、とリンチは言った。それでぼくらは大激論を始めたじゃないか。
――家にノートがおいてあるが、とスティーヴンは言った。それには君の質問よりも、もっとおもしろい質問が書きとめてあるんだよ。その質問に対する答えを見出しながら、ぼくがいま説明しようとしているような審美論を発見したんだ。自分に設けた質問の二、三にこういうのがある。
「精巧に作られた椅子は悲劇的か喜劇的であるか? モナ・リザの肖像は、もしぼくがそれを見たいと思えばりっぱなのか? サー・フィリップ・クランプトン〔アイルランドの名医〕の胸像は抒情的か、叙事的か、演劇的か? もしそうでなければ、何故か?」
――実際、何故そうでないんだい? リンチは笑いながら言った。
――もし人が腹をたてて木片を切り刻んで、スティーヴンはつづけた。牛の像を作ったとしても、その像は芸術作品であるか? もしそうでなければ、何故か?
――そいつは可愛い質問だよ。リンチがまた笑いながら言った。まさにスコラ哲学臭があるね。
――レッシングは、とスティーヴンは言った。群像を取りあげて論ずるべきではなかったのだ。彫刻芸術は劣っているから、ぼくが言った三つの形式をそれぞれ明瞭に区別して示さないのだよ。最高の、しかも最も精神的芸術である文学においてすら形式は往々にして混同されている。抒情的形式は、実は、感動した瞬間の最も素朴な言語の意匠であって、大昔に橈《かい》をこいだり、坂道に石を引っぱりあげる者に励ましの声を送る時のようなリズムをもった叫びなのだ。その叫びを発している人は、自分自身が感動をおぼえていると意識するよりも、その感動の瞬間のほうを意識しているのだ。最も素朴な叙事的形式は、芸術家が感動を長く持続させ、自己をある叙事的事件の中心として自己に沈潜する時に、抒情的文学から出てゆくのが見られ、そしてこの形式は、感動の重心が芸術家自身からと他の人々からと、等距離になるまで発展してゆく。叙事の説話はもはや純粋には個人的でなくなるのだ。芸術家の個性は叙事そのものの中にはいりこみ、人物や行動の周囲を生ける海のごとくとりまいて流れるのだ。こういう発展は、一人称で始まり三人称で終っているあの古いイギリス民謡「英雄ターピン」に容易にうかがえるだろう。演劇的形式は、各人物をとりまいて流れ渦巻いていた生気が一人一人の人物に、その彼なり彼女なりが固有の触知できない美的生命を帯びてくるほどの生命力をみなぎらせる時に、達成されるのだ。芸術家の個性は、最初は叫びか声の抑揚か気分であるのが、やがて流動的な柔らかな光のごとき叙事となり、最後には存在を失うまでに自己洗煉を加える、いわば自らを非個性化するのだ。演劇的形式の美的イメージは人間の想像力の中で純粋化され、その想像力から再び投射される生命なのだ。審美の秘密は、物質的創造の秘密と同じく、到達されるのだ。芸術家は、天地創造の神と同じく、自分の作品の内部か背後か彼方か上方かに姿をかくし、存在を失うまでに洗練を加え、無関心に、自分の指の爪でもみがいているのだよ。
――その爪まで存在しなくなるほどに洗練を加えようとしているのだな、とリンチが言った。
高く薄雲におおわれた空から小雨がぱらついてきだしたので、二人は驟雨のこないうちに国立図書館へ行きつこうと、リンスター芝生《ローン》へ曲りこんだ。
――どういうつもりなんだい? とリンチはむっつりしたようすできいた。こんな惨めな、神に見棄てられたような島で、美とか想像力とかについてしゃべりたててさ。芸術家がこの国に罪を犯したあとで、自分の作品の中やうしろにかくれこむのも当たり前だね。
雨脚はいよいよ速くなった。二人がキルデア・ハウスの脇の通路をぬけると、おおぜいの学生が図書館のアーケイドの下にはいりこんで雨宿りをしているのに気がついた。クランリが円柱にもたれて、先をとがらせたマッチの棒で歯をほじくりながら、友達の話に聞きいっていた。数人の若い女が入口近くに立っていた。リンチがスティーヴンにささやいた。
――君の恋人がきているぜ。
スティーヴンは黙ったまま、一かたまりの学生の下の段に陣取り、降りしきる雨にかまわず、ときおり彼女のほうに視線を向けた。彼女もやはり黙ったまま友達の中に立っていた。いちゃつく相手の坊主がいないんだな、と彼はこの前、彼女を見たときのようすを思いだし、わざと意地悪くそう思った。リンチの言ったとおりだ。彼の心は、理論も勇気も空になって、もとの気だるい、のんびりした気分に落ちこんでいった。
学生たちが彼ら同志で語りあっているのを、彼は聞くともなしに聞いていた。彼らは最後の医科の試験に合格した二人の友達のこと、大洋航路の船医の就職口のありそうなこと、開業医の儲かることや儲からぬことなどについて語りあっていた。
――そんなこと当てになるもんか。アイルランドの田舎で開業したほうがいいぞ。
――ハインズはリヴァプールに二年ほどいたが、同じことを言ってるよ。ひどい目にあったって言ってたよ。産婆の仕事しかないんだってさ。
――じゃ、ああいう富める都会よりもこっちの田舎で職についたほうがいいって言うつもりかい? ぼくの知っているあの男は……
――ハインズはてんで脳味噌がないんだよ。あいつはガチ勉をやったんだ。もっぱらガチ勉一方さ。
――あいつの言うことなんか気にするな。大きな商業都市なら金はうんと儲かるよ。
――開業のやり方次第だね。
――Ego credo ut vita pauperum est simpliciter atrox, simpliciter sanguinarius atrox,in Liverpoolio.(余は信ず、リヴァプールの貧乏生活はまさに恐るべし、まさにもの凄く恐るべしと)
彼らの声はまるで途絶えがちの鼓動のように遠くから彼の耳にとどいてきた。彼女が友達と一緒に立ち去る支度をしていた。
あっという間の軽い驟雨が上がり、その名残りに、水蒸気が黒ずんだ土から吐きだされている方形の中庭の灌木に、ダイヤモンドの粒がかたまっていた。少女たちは小綺麗な靴をことこと鳴らしながら、柱廊の段の上に立って、静かに華やかに語り合い、雲をちらりと眺めたり、わずかな最後の雨粒をよけようと傘を巧みにかしげて持ったり、またそれをたたんで、品をつくってスカートをかかげたりしていた。
もしやおれは彼女に苛酷な判断をしたのじゃないだろうか? 彼女の生活はただ日課のロザリオのように他愛もないもの、その生活は小鳥の生活のように単純でおかしなもの、朝は陽気で、昼間中はそわそわ落ちつかず、日暮れになると疲れるというのじゃないだろうか? 彼女の心は小鳥の心のように他愛もなくて気儘なのか?
夜明け近くに彼は眼がさめた。おお、なんという美しい音楽だったことか! 彼の魂はしとど露に濡れていた。眠っている四肢の上を、蒼ざめた冷たい光の波が過ぎていった。彼はまるで魂が冷たい波の中にひたっているかのように、微かな快よい音楽を意識して、じっと横になっていた。心はふるえるような朝の意識へ、朝の霊感へと徐々に目覚めかけていた。この上もなく清らかな水のごとく清らかな、露のごとく甘い、妙なる調べのごとく感動的な精気が満ちあふれていた。だが、精気はなんと微かに、なんと静かに、あたかも天使たちが彼に息を吹きかけてでもいるかのように、吸いこまれていることか! 彼の魂は完全に目覚めるのを怖れ、少しずつ目覚めていた。それは狂気が醒め、妖しい草花が光に向って開き、蛾が音もなく飛びだすあの夜明けの凪《なぎ》の時刻であった。
心臓の恍惚状態! 魅せられた夜であった。夢か幻の中で天使の生活の歓喜を味わったのである。それは恍惚の一瞬にしかすぎなかったのか、それとも幾時間も幾年も幾時代ものことだったのか?
霊感の瞬間が今はいっせいに四方から、起こったことやあるいは起こったのかもしれないことの数多《あまた》の雲のごとき事柄から、反射するかのように思われた。その瞬間が一点の光のように閃光を放ち、ついで、もくもくと積み重なった雲のごとき茫漠とした事柄から、混沌とした形のものが、その残光を柔らかに覆いつつんでいた。おお! 想像の処女の胎内にて言葉は肉となった。天使ガブリエルは処女の部屋に来たった。残光は彼の精神の内部で深まり、そこより蒼白い炎が出てゆき、ばら色のはげしい光となるまで深みを加えていった。そのばら色のはげしい光は彼女の変わった気儘な心であった。かつていかなる男にもわからぬ、あるいは今後もわからぬであろうほどに変わっており、また創世の以前より気儘なのだ。そしてそのはげしいばら色の輝きに誘われて天使の群が天から堕ちてきた。
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熱烈なるふるまいに倦《う》まざるや
堕天使を誘惑せしものよ
もはや魅せられし日を語るなかれ。
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詩句が彼の心から唇へ移り、それをくり返し呟くうちに十九行二韻詩《ヴィラネル》のリズムのある動きがそれらの詩句にはいってゆくのが感じられた。ばら色の輝きは押韻の光線を放った。|ふるまい《ウェイズ》、日《デイズ》、|燃える《プレイズ》、讃美《プレイズ》、|立ち昇る《レイズ》。その光線はこの世を焼きつくし、男と天使の心を亡ぼした。それは彼女の気儘な心だったばらからの光線だ。
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そなたの瞳は男心を燃えたたせ
かれを意のままにせり。
熱烈なるふるまいに倦まざるや
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それから? リズムは静まってゆき、止み、再びまた拍子をとって動きだした。それから? 煙、世の祭壇から立ち昇る香煙。
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情炎の上に讃美の香煙は
立ち昇る、海原のすみずみより
もはや魅せられし日を語るなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
香煙は全地上より、霧のこめる大洋より立ち昇っていった。彼女を讃美する香煙だ。地球は揺れ動く香炉、香煙の珠、楕円体の珠に似ていた。リズムはたちまち止んだ。彼の心の叫びは断絶した。唇は最初の詩句を何度となく呟き始め、さらにつまずきつつ詩句の半ばまで進み、口ごもり、戸惑い、そこで絶句した。心の叫びは途切れた。
靄《もや》につつまれた風のない時刻が過ぎ、むきだしの窓ガラスの向こうに朝の光が濃くなってきた。はるか遠くで鐘の音が微かに打った。小鳥が一羽さえずっていた。二羽になり三羽になった。鐘の音と小鳥の鳴き声がやんだ。にぶい白々しい光が東西にひろがり、この世を覆い、彼の心のばら色の光を覆った。
すべてがふいになるのを怖れ、彼は急いで片肘をついて体を起こし、紙と鉛筆を探した。机上にはどっちもなかった。ただ夕食に米を食べたスープ皿と、よじれた獣脂の垂れと最後の炎で焼け焦げた紙の蝋燭受けのついた燭台があるだけだった。彼は大儀そうに、寝台のすそのほうに腕をのばし、そこに掛けてある上衣のポケットの中を手さぐりした。指に鉛筆がふれ、ついでタバコの箱を探しあてた。彼はまた寝そべり、箱を破って開き、残った最後の一本を窓の出っ張りにおき、さっきの十九行二韻詩の各節を、ざらざらした厚紙の表面に、きちんと整った小さな字で書きとめ始めた。
それを書いてしまうと、ごろごろした枕に仰向けに横になり、再びそれを呟いた。頭の下の節《ふし》のようにもつれ合った毛屑の塊りから、ふと彼女の客間の長椅子に詰めてあるごつごつした馬毛の塊りを思いだしたが、その長椅子に彼はいつも笑顔で、あるいは真面目な顔をして腰かけては、彼女にも自分にも厭気がさし、がらんとした食器棚の上方にかかっているイエズスの聖心の版画に当惑をおぼえ、なぜおれはやってきたんだと自問したものであった。話の合間に彼女が近づいてきて、知っている珍らしい歌を何か歌ってとたのむ姿が眼に浮かんだ。ついで、古ピアノに向かつて自分が腰かけ、しみのできた鍵盤で静かに絃を打ち鳴らし、またも室内の話し声の高まった中を、炉棚によりそった彼女に向って、エリザベス朝の人々のしゃれた歌、別れを怨む悲しい甘い歌、アジャンクールの勝利の歌、「|緑の袖《グリーンスリーブ》」の陽気な曲を歌ってきかせる自分の姿が眼に浮かんだ。自分が歌い、彼女が聴きいっている、あるいは聴きいっているような振りをしている間、彼の心は安らいでいたが、風変わりな古歌が終り、再び室内の話し声が耳にはいると、彼は自嘲を思いだした。若い男たちを、いささか早すぎると思われるほど直ぐになれなれしく、クリスチャン・ネームで呼ぶ家なのだ。
時には彼女の瞳がいまにも自分を信頼してくれそうに思えるおりもあったが、それもいたずらに待ちぼうけを食っただけだった。今も彼女が軽やかに踊りながら彼の記憶をかすめていった。ちょうどあの夜のカーニヴァル舞踏会の時のように、真白のドレスをちょっとかかげ、髪にさした白い枝飾りをゆらめかせて。彼女は輪舞《ロンド》にはいって軽やかに踊った。彼のほうへ踊りながら近づき、そばにくると、眼をちょっとそらせ、頬をかすかに火照《ほて》らせていた。つなぎ合った手の輪の中で、踊りの合間に彼女の手が束の間ながら彼の手の中におかれた。柔らかい商品のように。
――あなたこの頃、ずいぶんよそよそしいわね。
――ええ、ぼくは元来|修道士《モンク》に生まれついてるんです。
――まさか異教徒になってるのじゃないんでしょうね?
――ひどく気になるんですか?
返事の代りに、彼女はつなぎ合った手の輪に沿って踊りながら彼から離れ、軽やかに巧みに舞いつつ、誰にも身を委せなかった。白い枝飾りが踊るにつれて揺れ、影にはいると、その頬の火照りがいっそう濃くなった。
修道士! 自分自身の姿が修道院の神聖をけがす者、異端のフランシスコ会修道士、仕えることを望むがごとく、望まぬがごとく、ゲラルディーノ・ダ・ボルゴ・サン・ドンニコ〔十三世紀の神学者〕のように詭弁のしなやかな網を張って彼女の耳もとに囁く者として、浮きでてきた。
否、それはおれの姿じゃない。それは鳩のごとき眼で自分を眺めつつ、アイルランド語の熟語集のページをもて遊んでいる彼女をこの前見たときの、連れの中にいたあの若い司祭の姿に似ていた。
――ええ、ええ、ご婦人方もだんだん私たちのほうに意見を変えておられますよ。一日ごとにそれが目についてきますね。ご婦人方は私たちの味方です。アイルランド語の最もよき擁護者ですね。
――では教会は、モラン神父さま?
――教会もですよ。やはり、だんだん考えが変わってきてますね。教会でもこの仕事は進んでいますよ。教会のことはご心配なく。
ふん! あんなゲール語教室など馬鹿馬鹿しくて、やめてよかった。図書館の段のところで彼女に挨拶しないでよかったよ! 彼女なんかあの坊主といちゃつかせ、キリスト教国の下女である教会をもて遊ぶままに、ほうりだしといてよかった。
乱暴な荒々しい怒りが、最後の名残りの恍惚たる瞬間を彼の胸の奥底から一挙にたたきだしてしまった。それは彼女の美しいイメージを無惨にぶち壊し、その破片を四方八方に飛び散らした。四方八方に、彼女のイメージのねじけた映像が、彼の記憶からとびだしてきた。ぼろ服姿の濡れた荒い髪毛にお転婆らしい顔をして、ごひいきの娘よと言い、初売り買ってよとねだった花売娘、皿をがちゃがちゃ洗いながら田舎歌手の長く引きずるような歌い方で「キラーニイの湖水と山のほとり」の最初の数小節を歌う隣家の台所女中、コーク・ヒル近くの歩道で、鉄格子が彼の破れた靴底にひっかかってころぶのを見て陽気に笑いころげた少女、ジェイコブ・ビスケット工場から出てくる姿をちらりと見て、その小さな赤い唇に魅きつけられると、肩越しにこっちへ向って
――あたしの何を見て気にいったのよ、この真直ぐな髪と巻毛の眉?
と大きな声で言った娘。
けれどそのくせ、どんなに彼女のイメージを罵り嘲《あざけ》っても、怒りはやはり一種の讃仰だと感じた。彼女の長い睫毛《まつげ》がちらりと影を落とすあの暗い瞳の奥に、おそらく彼女の民族の秘密がひそんでいるのであろうと感じつつ、大して真面目でもないゲール語教室を軽蔑してやめてしまった。街を歩きながら苦い思いで自己に告げたのは、あれが彼女の国の女性の姿なのだ、闇と秘密と孤独の中で自己の意識に目覚め、愛情もなければ罪の汚れもなくして、しばし温和しい恋人のもとにとどまり、やがて彼と別れて、格子を隔てた司祭の耳に無邪気な破戒をささやく蝙蝠のような魂なのだ、ということだった。彼女に対する怒りは、その愛人を荒々しく毒づいてはけ口を見出しながら、その男の名や声や顔つきが彼の挫かれた誇りを傷つけた。ダブリンで警官をやっている弟とモイカレン〔アイルランド西部の街〕で居酒屋のボーイをしている弟のいるどん百姓上がりの坊主じゃないか。その男に、彼女は恥じらいながらおのれの魂の衣をぬいで裸にしてみせるのだ。経験の日々の糧《かて》を輝やかしい不朽の生命の肉体に変えつつ、永遠の想像の司祭たるおれにではなく、きまりきった儀式を行うことを教えられたにすぎない奴に向ってだ。
聖餐の輝やかしいイメージが再び一瞬にして苦い絶望の思いと結びつき、その思いは感謝を捧げる讃歌となって、途切れることなく叫びつづけた。
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わが断腸の叫びと悲嘆の歌は
聖餐の讃歌に凝りて高まる
熱烈なるふるまいに倦まざるや
聖餐を行う手は高く
縁まで溢るる聖杯を捧ぐ
もはや魅せられし日を語るなかれ。
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詩句を声にだして最初の行から言っているうちに、その調べとリズムが、心にしみわたり、いつしか静かな寛容な気持へと変わっていった。そこで詩句を文字にしてみてさらによく味わおうと、苦心して写し取り、ごろりと頭を枕にのせ、仰向けに寝た。
明けきった朝の光がさしていた。物音一つしなかった。だが、あたりではすべて日常の物音、しわがれ声、眠そうな祈りの中で、生活が目をさまそうとしているのがわかった。その生活からしりごみして、くるりと壁の側へ寝返りを打ち、毛布を僧頭巾のようにしてかぶり、ぼろぼろになった壁紙の大きな満開をすぎた紅花をじっと見つめた。その燃えるような紅の中で消えてゆく歓喜をあたためようとし、自分の寝ているところから天まで、一面に紅の花を散らしたばらの道を思い描いた。疲れた! 疲れた! おれも熱烈な所行に疲れた。
しだいにあたたかさが、もの憂い疲れが、ぴったりと毛布をかぶった頭から背筋を伝って下へと降り、全身にしみ渡っていった。それの降りてゆくのがわかり、寝ている自分の姿を見て微笑した。やがて眠るだろう。
十年ぶりに再び彼女のために詩を書いたのだった。十年前、彼女は肩掛けを頭から頭巾のようにかぶり、温かい息の噴霧を夜気の中に吐きながら、鏡のような道路をこつこつと歩いたっけ。あれは終車の鉄道馬車だった。痩せた褐色の馬たちはそれを知っていて、警告するかのように澄んだ夜空に鈴を振り鳴らしていた。車掌は運転手と話しこみ、ランプの緑色の光をあびて、彼らは何度もうなずいていた。おれたちは馬車の段に立っていた。おれは上のほうの段に、彼女は下の段に。彼女は話の合間に何度もおれの段まで上がってきてはまた降りてゆき、一度か二度、降りてゆくのを忘れ、おれの側にとどまっていて、それから降りていったっけ。やめろ! 放っとくがいいんだ!
あの子供らしい慧《さか》しさからこの愚かさにいたるまでの十年。もし彼女にこの詩を送ったらどうだろう? 朝食の席で卵をこつこつ叩いて割りながら、読まれることだろう。馬鹿馬鹿しい! 彼女の兄弟たちは笑いながら、あの逞しいごつい指で互いに紙を奪い合うだろう。彼女の伯父の思いやりある司祭は、安楽椅子に腰をすえ、腕をいっぱいに伸ばして紙を持ち、微笑しながらそれを読み、その文学的形式をみとめるだろう。
いや、だめだ、そんなことは愚劣だ。たとえこの詩を送ったところで、彼女は他の者に見せはしないだろう。そうだ、見せられるわけがない。
おれは彼女に間違ったことをしたのだ、と彼は感じ始めた。彼は彼女の無邪気な感じに動かされ、何かしら彼女が哀れな気持になった。その無邪気さとは、彼が罪を犯してそれを知るまでは、ついぞ彼にもわからなかったもの、彼女もまた、無邪気であった間は、言いかえれば、女性本来の妙な恥ずかしさを初めて感じる前は、自分でもわからなかった無邪気さなのだ。やがて初めて彼女の魂は、彼が初めて罪を犯した時の魂と同じく、生を営み始めたのだ。女性の暗い羞恥にわが身を恥じ、悲しい思いをしているあの弱々しい青白さやその瞳を思いだすと、優しい憐憫の情が彼の心に溢れてきた。
おれの魂が恍惚から気だるさへと移っていた間、彼女はどうしていただろう? もしかしたら、霊的生命の神秘なあり方で、あの同じ瞬間に彼女の魂がおれの讃仰を感じたのではなかろうか? そんなこともあり得るかもしれない。
燃えるような欲望が、またも彼の魂に火を点じて燃え上り、全身にひろがった。彼の欲情を感じて、あの十九行二韻詩の妖婦である彼女は、かぐわしい眠りから目覚めかけていた。気だるい表情を浮かべた黒いその瞳は、彼の眼へ向って大きく見開かれた。輝くばかりの、あたたかい、香気を放つ、放縦な四肢のその裸身は彼にゆだねられ、輝く雲のように彼をつつみ、流動する生命をもった水のように彼をつつんだ。と、濠々《もうもう》たる蒸気のごとく、あるいは空間を周《めぐ》る水流のごとく、神秘な要素の象徴たる、よどみない言葉が文字となって、頭にあふれだしてきた。
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熱烈なるふるまいに倦まざるや
堕天使を誘惑せしものよ
もはや魅せられし日を語るなかれ
そなたの瞳は男心を燃えたたせ
かれを意のままにせり。
熱烈なるふるまいに倦まざるや。
情炎の上に讃美の香煙は
立ち昇る、海原のすみずみより。
もはや魅せられし日を語るなかれ。
わが断腸の叫びと悲嘆の歌は
聖餐の讃歌に凝りて高まる。
熱烈なるふるまいに倦まざるや。
聖餐を行う手は高く
縁まで溢るる聖杯を捧ぐ。
もはや魅せられし日を語るなかれ。
しかも汝《な》れは男の憧れの熱き瞳をとらう
気だるき眼差しと放縦なる四肢をもて!
熱烈なるふるまいに倦まざるや
もはや魅せられし日を語るなかれ。
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なんの鳥だろう? 彼は図書館の入口の段に立ち、大儀そうに、とねりこのステッキにもたれてそれらを眺めた。鳥たちはモウルズワース街《ストリート》の一軒の家の突きだした肩をぐるぐる飛び廻っていた。三月末の夕暮れの空気はその飛びかう姿をはっきりと見せ、その薄墨色の素早い、震えている胴体が煙った淡い水色のだらりと垂れた布を背景にしたように、空に対してくっきり浮き出て飛んでいる。
彼はその飛ぶのに見とれていた。一羽、また一羽。薄墨色の閃き、ひらりと飛びかわす、羽ばたき。彼はその素早い震える体が全部行ってしまわぬうちに、数えてみようとした。六、十、十一、奇数だろうか、偶数だろうか。十二、十三だ。これは上空から二羽舞い降りてきたからだ。小鳥たちは高く低く飛びながら、常に直線や曲線を描いてぐるぐる舞い、常に左から右へと飛び、空中楼閣の周囲をめぐっている。
彼はその鳴き声に耳をすませた。羽目板のうしろのハツカネズミのなき声に似ている。甲高い二重音だ。けれどその音色は長く鋭く、ひゅっと鳴き、ネズミのなき声とは違って、三度か四度低く、飛ぶ嘴で風を切って顫音《せんおん》を発するのだ。その叫びはぶんぶん鳴っている糸巻から解かれるつややかな光をおびた糸のように、甲高く澄みきって細く、そして低くなってくるのだった。
この人間ならぬものの叫び声が、母の嗚咽《おえつ》や非難の声が執拗につぶやいている彼の耳を慰め、淡い空の空中楼閣のまわりを舞い、羽ばたき、ひらりと方向を転ずる薄墨色の繊細《かぼそ》い震える姿が、今なお母の面影の見える彼の眼を慰めた。
なぜ入口の段から空を見つめ、小鳥たちの甲高い二重音の叫び声を聞き、その飛びかうのに見いっているのか? 吉凶を占うためか? コーネリウス・アグリッパ〔プロシアの錬金術師〕の句がちらりと心をかすめると、つづいて、スウェーデンボルグの説いている知性的なものに対する鳥の感応力とか、また、空の生物は人間と違い自己の生命の秩序の中にあり、しかも理性によりその秩序をゆがめることがない故に、どうして彼らは智慧を得、またどうしておのれの時や季節を知るかということをのべた思想が、とりとめもなく飛び交った。
こうして彼がいま空飛ぶ鳥を見つめているように、人間は何代もの昔から空を仰いできたのであった。頭上の列柱がふと彼に古代の神殿を漠然と思いださせ、もの憂く寄りかかっているとねりこのステッキは、占卜《せんぼく》師の曲りくねった杖を思いださせた。得体の知れぬものへの恐怖感が彼の疲れた心に忍びこんできた。象徴や前兆の、また柳枝で編んだ翼で飛翔し、幽閉より逃げだした自分と同じ名を持つ鷹のような男の、また葦で粘土板に文字を書き、細長い朱鷺《とき》の額に尖月をつけた文字の神たるソウス〔古代エジプトの文字・学問の神。トトともいう〕の、恐怖なのだ。
彼はこの神の姿を思いだして微笑した。というのは、それが鬘《かつら》をかぶった徳利《とっくり》鼻の裁判官が腕をいっぱいにのばして持った書類に句読点《コンマ》を打っているのを思わせたからなのだが、この神の名がアイルランド語の罵詈《ばり》の言葉に似ていなかったら思いだすわけなどなかったろう。こんなことを考えるなど、愚かなことだ。だけど、自分が生まれ落ちた祈りと思慮の家や、自分がこれまで経てきた生活の秩序を永久に棄てようとしているのも、この愚かなるもののためではないのか?
鳥たちが鋭い鳴き声をあげて、突きでた家の角の上空を、薄れゆく夕空に黒くはえて飛びながら戻ってきた。いったい、何という鳥だろうか? きっと南から帰ってきた燕にちがいないと思った。それなら自分は遠くへ行く運命にあるのだ。なぜなら、あれは常に行ったり来たりして、人の家の軒端《のきば》に一時の家をつくり、つくってしまうと、わが家を棄てて放浪する鳥だから。
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お顔をもっと近づけて、オウナとアリール。
妾はお顔を見つめる、燕が
軒端の巣を見つめ
とどろく海へさまよいでるように。
〔アイルランドの詩人イェーツの詩劇のなかの詩〕
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茫々たる海の音にも似た柔らかな流れるような歓びが記憶の中に溢れてきて、褪《あ》せゆく淡い夕空の静かな拡がり、海原の静寂、流れる潮の上の海のたそがれをぬって飛ぶ燕の柔らかな平和、を心の中に感じた。
柔らかな流れるような歓びが言葉の中に流れこみ、柔らかな長い母音が音もなくぶつかつては砕け散り、寄せては返して、絶えず真白い波の鈴を、音なき諧調、音なき響きをなして打ち振り、やがて柔らかな低い絶え入るような叫びとなる。と、彼は輪を描いて素早く飛びかう鳥と頭上の蒼ざめた虚空に求めていた占いが、小塔《タレット》からとびだす一羽の鳥のごとく、音もなくさっと心から現われたのを感じた。
旅立ちの象徴か、孤独の象徴か? 記憶の耳に低吟するこの詩が、記憶の眼の前に国民劇場開幕の夜の場内の光景を描きだした〔一八九九年、アイルランド演劇復興運動の最初の公演として前述のイェーツの詩劇が上演された〕。彼は一人で二階桟敷《バルコニー》の横にいて、一階の特等席にいるダブリンの教養人士や、舞台のきらびやかな灯火によって額縁にはめこまれた華やかな書割《かきわり》の垂れ幕や、人形のごとき人間などを、疲れきった眼で眺めわたしていた。屈強な一人の警官が彼のうしろで汗をかいて、今にも実力行使に出そうに見えた。弥次や怒声や嘲罵の叫びが、あちこちから起こり、荒々しい疾風となって場内をかけめぐった。
――アイルランドの侮辱だぞ!
――ドイツ製だ!
――神の冒涜だ!
――おれたちは信仰を売った憶えはねえぞ!
――アイルランドの女は一人もそんなことをやらんぞ!
――素人の無神論者はいらんぞ。
――かけだしの仏教信者はいらねえよ。
上の窓から不意にしゅっと素早い音がしたので、閲覧室に電灯がついたんだなと知った。彼は穏やかな電灯がともったばかりの柱のあるホールヘはいりこみ、階段を上がり、きしむ音のする廻転木戸をぬけて中へはいりこんだ。
クランリが向うの辞書の棚の近くにかけていた。厚ぼったい書物が一冊、口絵のところを開けて、彼の前の見台にのっていた。彼は椅子の背によりかかり、新聞のチェス欄にでている問題を読んで聞かせている医学生の顔のほうへ、まるで聴罪師のように片方の耳を近づけていた。スティーヴンは彼の右の席にかけた。すると机の向こう側にいた司祭が怒ったように、読んでいた「タブレット」誌をぴしゃっと閉じて、立ち上がった。
クランリはその後ろ姿をおとなしくぼんやりと見つめていた。医学生はさらに低い声で読みつづけた。
――王から四つ前に歩。
――出たほうがいいよ、ディクスン、とスティーヴンは注意して言った。あの人、文句をいいに行ったんだよ。
ディクスンは新聞をたたむと、悠然と立ち上がりながら言った。
――わが兵は秩序整然と退却す。
――銃と家畜と共に、とスティーヴンは「牛属動物の疫病」と印刷してあるクランリの書物の扉を指さして、言い添えた。
彼らが机の間の狭い通路をぬけている時、スティーヴンは言った。
――クランリ、君に話したいことがあるんだ。
クランリは返事もしなければ、振り向きもしなかった。彼は書物を受付の台に置くと、りっぱな靴をはいた足で遠慮なく床を鳴らして出ていった。階段のところでちょっと立ち止まり、ぼんやりとディクスンを見つめ、さっきの言葉をくり返した。
――王の野郎から四つ前に歩か。
――そういう言い方をしたけりゃ、するがいいさ、とディクスンは言った。
彼はもの静かな抑揚のない声に、洗練されたものごしで、肉づきのいい清潔な手の指にはめた印形付の指環を、ときおり見せびらかすようにした。
彼らがホールを通っていると、一人の侏儒《しゅじゅ》のような背丈の男がこっちへやってきた。丸屋根のような彼の小さな帽子の下で、髯を当たらぬ顔がうれしそうに、にこにこ笑いだし、ついで何か呟くのが聞こえた。その眼は猿のそれのように憂鬱そうだった。
――今晩は、みなさん、と不精髯を生やした猿みたいな顔が言った。
――三月にしちゃ暖かい陽気だね、とクランリが言った。二階の窓はみんな開けてあるよ。
ディクスンは微笑を浮かべて、指環をひねった。色の黒い猿みたいに皺のよった顔がおとなしく嬉しそうに、その人間らしい口をすぼめると、悦にいった声をだした。
――三月にしては気持のいい陽気ですね。本当に気持がいい。
――二階にきれいな若いご婦人が二人きいているよ、大将、待ちくたびれてるぞ、とディクスンが言った。
クランリはにこりと笑って、やさしく言った。
――大将には恋人は一人しかいないよ、サー・ウォルター・スコットさ。ねえ、そうだろう、大将?
――今、何を読んでいるんだい、大将? ディクスンがきいた。『ラマムアの花嫁』〔ウォルター・スコットの小説〕かい?
――わたしは大スコットを愛してますよ、と伸縮自在の唇が言った。彼の書くものは美しいと思いますね。サー・ウォルター・スコットにかなう作家は他にいませんよ。
彼は細い、しなびて、日焼けした手を、その讃美と調子を合わせて静かに空に動かし、その薄い敏捷な目蓋を悲しげな瞳の上で、しきりとまたたかせた。
スティーヴンの耳にはその言葉つきのほうがさらに悲しげに聞こえた。アクセントは、弱くてじめじめしており、間違いの瑕瑾《かきん》はあるが上品で、それを聴いていると、やはり噂どおりに、このちぢかんだ体躯に流れる薄い血には貴族の血がまじっており、血族相姦の恋から生まれ出たのであろうかと怪しんだ。
公園の木々は雨に重く濡れていた。雨は静かに小止みなく、楯のごとく灰色に横たわっている湖水に降っていた。白鳥の群がそこに舞い、その下や岸辺は彼らの緑色がかった白い分泌物で汚れていた。恋人たちは、灰色の雨の光、濡れた静かな木立、楯に似た目撃している湖、白鳥などにうながされて、そっと相擁した。二人は歓喜も情熱もなく抱擁した、彼の腕は妹の首に巻きついて。灰色の毛の外套《クローク》が彼女の肩から腰へかけてはすかいに彼女を包み、その金髪の頭はうれし気に恥じらって垂れていた。彼はほつれた赤味がかった鳶色の髪、ほっそりした形のいい、力強い、そばかすのある手をしていた。顔は? 全然見えなかった。兄の顔は彼女の金髪の、雨に匂う髪の上に垂れていた。そばかすのある、強い、恰好のいい、愛撫している手はディヴィンの手であった。
彼は腹立たし気にこんな自分の考えや、それを呼び起こした皺だらけの一寸法師に眉をしかめた。バントリ団に対する父の悪口がふと記憶からとびだしてきた。彼はその悪口を押しやって、不安な気持で再び自分の考えに思い耽った。なぜあれはクランリの手ではなかったのか? ディヴィンの単純さと無邪気さとがもっと心の底深くに突き刺さっていたのか?
彼は、うまくこの侏儒と別れるのをクランリにまかせ、ディクスンと連れだってホールを抜けていった。
列柱の下でテンプルが数人の学生の群にかこまれて立っていた。中の一人が叫んだ。
――ディクスン、こっちへ来て聞けよ。テンプルがえらい気焔をあげてるぞ。
テンプルは黒いジプシーのような眼をぐいと彼に向けた。
――お前は偽善者だよ、オキーフ、彼は言った。それにディクスンはおめでたい奴だぞ。確かにこいつはうまい文学的表現だと思うな。
彼は狡そうに笑って、スティーヴンの顔をのぞきこみ、同じことをまた言った。
――確かにこの名前は気にいったよ。おめでたい奴か。
彼らの下の段に立っていた頑丈な体躯の学生が言った。
――色女の話に戻れよ、テンプル。その話が聞きたいよ。
――本当にあいつは持っていたんだよ、とテンプルは言った。しかもあいつは女房もあったんだからな。坊主どもはみんなあすこでよく飯を食っていたよ。確かにあいつらみんな、臭いと思うな。
――猟馬を惜しんで貸馬に乗る、ってとこだろうな、とディクスンが言った。
――おい、テンプル。オキーフが言った。いったいお前は黒麦酒《ポーター》を何本その腹の中に持うているんだい?
――お前の知能の程度はその言い廻しでわかるね、オキーフ。テンプルは露骨に軽蔑を現わして言った。
彼はひょろひょろした足どりで皆の間を歩きまわり、スティーヴンに向って話しかけた。
――君はフォスター家はベルギーの王族だってことを知ってるか? と彼はきいた。
クランリが入口のホールの扉から出てきた。帽子を項《うなじ》のところまでずらせ、丹念に歯をほじりながら。
――知ったかぶりがやってきたぞ。テンプルが言った。君はフォスター家のそのことを知ってるか?
彼は間をおいて返事を待った。クランリは歯にはさまったイチジクの種子を不細工なつま楊枝の先でほじりだし、それを熱心に見つめていた。
――フォスター家は、テンプルは言った。フランダースの王、ボールドウィン一世の後裔なのだ。彼は|森の男《フォリスター》と呼ばれた。フォリスターとフォスターとは同じ名前なのだ。ボールドウィン一世の子孫のキャプテン・フランシス・フォスターはアイルランドに定住して、クランブラシル族の最後の族長の娘と結婚した。さらにブレイク・フォスター家というのがあるがね。これは別の家系だ。
――フランダースの王、|やかん頭《ボールド・ヘッド》の出さ。クランリが光る歯をむきだして、またも丹念にほじりながら重ねていった。
――君はどこからそんな詳しい歴史を掘りだしたんだ? オキーフがきいた。
――おれは君の一族の歴史だって残らず知ってるぞ。テンプルはスティーヴンのほうを向いて言った。ジラルドゥス・カンブレンシス〔イギリスの歴史家・牧師。アイルランドを征服したヘンリー二世に仕えた〕が君の一族についてのべていることを知ってるかい?
――彼もボールドウィンの出かい? 黒い瞳をした背の高い肺病の学生がきいた。
――ボールド・ヘッドさ、とクランリが歯の隙間を吸いながら、また言った。
――Pernobilis et pervetusta familia(名高き旧家)だね、とテンプルはスティーヴンに言った。
彼らの下の段に立っていた頑丈な体躯の学生が短かいおならをした。ディクスンは彼のほうを向き、小声で言った。
――天使が何か言ったのか?
クランリもふり向いて、えらい剣幕だが、怒ったふうもなく言った。
――ゴギンズ、お前みたいな怪しからん汚ねえ野郎に会ったことはないぞ、わかったか。
――おれ、そう言おうと思っていたんだよ。ゴギンズがきっぱりと言った。庇をしたって別に誰にも迷惑かけたわけじゃあるまい。
――そいつは、とディクスンがもの柔らかな口調で言った。学術でいうpaulo post futurum(ギリシア文法の「未来完了時制」)といったようなものじゃないだろうね。
――だからおれはこの男はおめでたいと言ったろう。テンプルは左右を見廻しながら言った。さっきこいつにそういう名前をつけてやったんじゃないのか?
――やったよ。おれたちは聾《つんぼ》じゃないよ、と背の高い肺病やみが言った。
クランリはなおも下の頑丈な学生に眉をしかめていた。やがて、たまらんといったふうに鼻息を吹いて、彼を乱暴に踏段の下へ突きやった。
――ここにくるなよ、と彼は荒っぽく言った。あっちへ行けよ、臭いぞ。お前は悪臭壷だぞ。
ゴギンズは砂利道に跳んでおりると、すぐさま、また元のところに上機嫌で戻ってきた。テンプルは再びスティーヴンのほうを向いてきいた。
――君は遺伝の法則を信じるかね?
――お前は酔っぱらってるのか。どうかしてるのか、いったい何を言おうとしているんだい? クランリがくるりと彼に向き直り、あきれ顔にきいた。
――古今を通じて最も意味深長な文章は、とテンプルは熱中した口調で言った。動物学の最後にある文句だな。生殖は死の初めなり。
彼はスティーヴンの肘におずおずと触れ、熱心な面持できいた。
――君は詩人だから、この文句がどんなに意味深長かわかるだろう?
クランリはその長い人差指でさした。
――やつを見ろよ! 彼は軽蔑を浮かべて他の連中に言った。アイルランドの希望《ホープ》を見ろ! 彼らはこの言葉と身振りに笑いだした。テンプルは勇敢に彼に立ち向って言った。
――クランリ、君はいつもおれをせせら笑っているな。ちゃんとわかるぞ。だがおれはいつだって君に負けてやしないぞ。おれがいま自分と比べて君をどう考えているか、わかるか?
――ねえ、君。クランリは改まった口調で言った。君には不可能ですな、全くですよ、考えるなんてことは絶対にあり得ないですな。
――だけど君にわかるかい、とテンプルはつづけた。君とおれとを一緒に比べてみてぼくがどう思っているか?
――言っちまえよ、テンプル! 頑丈な学生が踏段のところから怒鳴った。ちびりちびり出しなよ!
テンプルは左右を見廻し、急に弱々しい身振りをしながら言った。
――おれは|きんたま《バロックズ》野郎なんだ、と彼は絶望的に頭を振りながら言った。そうなんだ。そうだってことは自分でも知っている。そうだってことは自分でも認めるよ。
ディクスンは軽く彼の肩をたたいて、やさしく言った。
――そう認めるところが何より君のりっぱなとこさね、テンプル。
――だけど、あいつは、とテンプルはクランリを指さして言った。あいつもおれと同じように、きんたま野郎なんだ。ただあいつは自分でそれを知らないんだ。そこだけがおれと違うのだ。
爆笑が彼の言葉を消した。だが彼はまたスティーヴンに向き直り、いきなり真顔になって言った。
――このballocks(睾丸)という言葉は実におもしろい言葉だね。こいつは英語の中で唯一の両数語〔文法における二者または一対を表わす語形〕だよ。知ってるかい?
――そうかね? スティーヴンは曖昧《あいまい》に言った。
彼はクランリの苦悶している固い表情の顔が今は我慢している作り笑いに明るくなったのを見守っていた。あの下品な悪口が、侮辱に耐える古い石像に不潔な水をぶっかけたように、さっとその顔をよぎったのだ。見守っているうちに、彼が帽子をあげて挨拶し、鉄の冠のように額から、こわ張って突っ立っている真黒な髪を現わした。
彼女が図書館の玄関から出てきて、スティーヴン越しにクランリの挨拶にこたえておじぎをした。この男もか? クランリの頬に微かな赤味がさしたのではなかったか? それとも、それはテンプルの言葉のせいだったか? 光がうすれてしまっていた。はっきりとは見えなかった。
この友人のよそよそしい沈黙、辛辣な批評、スティーヴンの熱をおびた気まぐれな告白を何度となく叩き壊した暴言を、いきなり押しつけるやり方もそのためだったのか? スティーヴンは、自分にもこういう乱暴さがあると思って、いくらも赦してきたのだった。と、彼はマラハイド近くの森で神に祈ろうと、借りもののぼろ自転車からおりたったある夕方のことを思いだした。彼はいま自分が神聖な土地に、神聖な時刻に立っているのだと知り、木立の薄暗い本堂《ネープ》に向って両手を高くさしあげ、恍惚として祈りを唱えたのだった。すると、二人の警察の者が薄暗い道の角を曲ってくるのが見えたので、祈りを中途でやめ、最近の無言劇の中の曲を高々と口笛で吹いたのだった。
彼はとねりこのステッキのすり切れた先で円柱の土台を叩きだした。さっき言ったことがクランリには聞こえなかったのか? まだ待っていてやれる。周囲の話し声がちょっとやんだ。と、また上の窓から低いしゅっという音が降ってきた。だがあたりには他にもの音ひとつなく、さっきぼんやりした眼で飛ぶのを追っていたあの燕たちも、今は寝ていた。
彼女が夕闇を抜けていったのだ。だから、しゅっという低い音が一つしたきり、あたりが静まり返ったのだ。だから周囲の舌がびたりとしゃべるのをやめたのだ。闇が垂れこめてきた。
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闇は空より落ち来たる
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微かな光のごとくゆらめく震えるような歓びが、彼の周囲を妖精の群のように踊った。だが、何故だろう? 彼女が暗くなりゆくあたりを通りすぎたためか、それとも、暗い母音や豊かなリュートの奏でる音色に似た冒頭の発音のあるこの詩のせいか?
彼はゆっくりと列柱の端の影の深いほうへと歩み去りながら、ステッキで軽く土台石をたたき、離れた学生たちから自分の幻想をかくそうとした。そしてダウランドやバードやナッシュの時代へ思いのかえるにまかせた。
欲情の闇からめざめる瞳、明けそめる東の空をくもらす瞳。その瞳のけだるい優雅さは閨《ねや》の甘美に非ずして何であろうか。また、その微光はじだらくなステュワート宮廷の汚水溜を覆う浮垢《ふこう》の微光に非ずして何であろうか。かくて彼は記憶の言葉によって琥珀《こはく》色の酒を、余韻|嫋々《じょうじょう》たる甘い調べを、誇らかなパヴァーヌの舞いを楽しみ、記憶の眼によって、家の露台から吸いつくような口で愛を求めるコヴェント・ガーデンの優しい淑女や、居酒屋のあばた面の女給や、有頂天にさせてくれる男に陽気に身をまかせ、何度となく抱きつく若い人妻たちを見た。
呼び求めたこれらの映像も、彼になんの悦びも与えなかった。それらは隠秘で情炎をかきたてるものではあったが、彼女のイメージがそれにはからまっていなかった。そんなふうに彼女のことを考えるべきじゃない。第一そんなふうに彼女のことを考えたのじゃない。では自分の心は当てにできないのか。古くさい空言《そらごと》だ、クランリのあの光る歯からほじりだされたイチジクの種子のように、埋もれたものから掘りだされた甘美さしかない甘いものだ。
彼女の姿がいまは街をぬけて家路をさしているのだと、ぼんやり彼にはわかるのだけど、あれは考えでも幻想でもなかった。初めはぼんやりとだが、やがて次第に鋭く彼女の肉体の匂いがしてきた。意識にのぼる不安が彼の血の中でたぎりたった。そうだ、匂ったのは彼女の肉体だったのだ。生ま生ましい、もの憂げな匂い、彼の歌が欲望をこめて流れてゆく下の生温い四肢、彼女の肉体が快い香りと露の水々しさをまきちらしている秘めた柔らかな下着。
一匹の虱《しらみ》が首のうなじを這っていた。彼は親指と人差指とで巧みにゆるいカラーの下でそれをつかまえた。やわらかだが米粒のように砕けやすいその体をしばらくの間親指と人差指にはさんでもみ、ぽろりと下へ落としてやり、生きてるだろうか死ぬだろうかと思った。ふと頭に、人聞の汗から生まれた虱は、神によって六日目に他の動物と共に創られたものではない、というコルネリウス・ア・ラピデ〔フランダースの神学者〕の奇妙な文句が浮かんだ。だが、首の皮膚のむず痒さが生身の傷に触れたような、かあっとなる思いをさせた。見すぼらしい服装をし、栄養不良の、虱に食われるような自分の肉体の生活に、思わず発作的な絶望を覚えて眼を閉じた。と、闇の中に虱のもろい光る体がいくつも空から降ってき、落下しながら何度もくるくる舞うのが見えた。そうだ、空から落ちてくるのは闇ではなくて、光輝だったのだ。
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光輝は空より落ち来たる
(トマス・ナッシュの詩「死の召喚」の一句)
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ナッシュの詩の一行を正しく憶えてすらいないのだ。それが呼び起こしたイメージはすべて虚妄であった。おれの心は虱を生みだしたのだ。おれの思考は懶惰《らんだ》の汗でわいた虱なのだ。
彼は列柱伝いに急いで学生の群のほうへ戻ってきた。それならそれでよし、あんな女など勝手にほうっておけ、あれが何だっていうんだ! 毎朝、頭から腰まで洗い、真黒な胸毛の生えたどこかの小ざっばりした運動選手にでも惚れてりゃいいんだ。そうすりゃいいんだ。
クランリはポケットの中に詰めこんでいる乾イチジクをまた一つ取りだし、ゆっくりと音をたてて食べていた。テンプルは円柱の切妻形装飾に腰をかけ、柱にもたれかかり、帽子は眠そうな目の上まで引きずりおろしている。ずんぐりした若い男が革の折鞄を小脇にかかえて玄関《ポーチ》から出てきた。彼は靴の踵と重そうなこうもり傘の石突きで敷石をこつこつと打ち鳴らしながら、皆のほうに近づいてきた。やがて、こうもり傘を上げて挨拶し、皆に声をかけた。
――今晩は、諸君。
彼はまた敷石を打ち、かすかに神経質な動作で頭を震わせながら、くすくす忍び笑いをした。背の高い肺病の学生とディクスンとオキーフとはアイルランド語で話しこんでいて、彼には返事もしなかった。そこで、クランリのほうを向いて、彼は言った。
――|今晩は《グッド・イヴニング》、特に君にね。
彼は相手を指し示すように、こうもり傘を動かして、またくすくす笑った。まだイチジクをかじっていたクランリは、大きな音をたてて口を動かしながら答えた。
――結構《グッド》な? そうだな、結構な晩だね。
ずんぐりした学生は真顔で彼を見やり、静かに、咎めるように、こうもり傘を振った。
――なるほどな。彼は言った。君ははっきりした意見を言おうというのだね。
――うむ、とクランリは答え、半分かじったイチジクの残りをさしだし、お前食えという恰好で、ずんぐりした学生のほうにぐいとそれを突きだした。
ずんぐりした学生はそれを食わずに、自分だけに通じる気分にひたり、なおもくすくす笑いながら、言葉と傘とを一緒に突きだすようにして、もったいぶって言った。
――君はどういうつもりで……
彼はふと言いやめ、食いかけのイチジクの果肉をぶっきらぼうに指さし、大きな声で言った。
――それのことを言ってるんだよ。
――うむ。クランリはさっさと同じ調子で言った。
――今のそれは。ずんぐりした学生は言った。事実そのままのつもりかい、それとも何か他意があったのかい?〔英語でイチジクとは軽蔑の意味あり〕
ディクスンは仲間から横へどきながら言った。
――ゴギンズが君を待ってたぜ、グリン。君とモイニハンとを探しにアデルフィ・ホテルへ廻って行ったよ。何がはいってるんだ? 彼はグリンのかかえている折鞄を叩きながら言った。
――試験の答案だ。グリンは答えた。ぼくの授業で生徒たちの上達ぶりを見ようと思って、毎月試験をしてやってるんだ。
自分でも折鞄を叩いて、軽く咳をし、微笑した。
――授業! クランリが無遠慮な口調で言った。するてえと、お前みたいなとんでもない猿まね冠者から教えられてる裸足の子供たちのことだね。子供たちも助からねえな!
彼はイチジクの残りを食いとり、へたのところを投げ棄てた。
――幼児らの我に来たるを許して止《とど》むな。グリンがもの柔らかく言った。
――ひでえ猿だよ。クランリが大げさに、また言った。しかも罰当りのひでえ猿だ!
テンプルが立ち上がり、クランリを押しのけ、グリンに向って話しかけた。
――いま君の言ったその文句は、と彼は言った。幼児らの我に来たるを許せ(マルコ伝一〇・一四など)ということについての新約からの引用だな。
――お前は寝てろよ、テンプル。オキーフが言った。
――しからばである。テンプルはなおもグリンに話しかけて、つづけた。イエスが子供たちの来るのを許したのなら、子供が洗礼を受けずに死んだ場合、何故、教会は彼らをすべて地獄へ追いやるのか。それは何故だ?
――そういう君は洗礼を受けたのか、テンプル? 肺病の学生がきいた。
――幼児らは皆来たるべしとイエスが言ったのなら、何故地獄へやられるのか? テンプルは眼で、グリンの眼をさぐりながら言った。
グリンは咳をして、昂奮した忍び笑いの声が出そうなのをやっとのことで抑え、一語言うごとに傘を動かしながら静かに言った。
――それなら、君の言葉どおりに、もしそうならば、何によって、君の言う、そのようなことになるのか、断乎として伺いたいね。
――それは、だね、教会はかつて罪を犯した君たち同様に、残酷だからだ。テンプルは言った。
――その問題について君の論は確かに正統《オーソドクス》な説なのかい、テンプル? ディクスンがものやわらかに言った。
――聖アウグスチノが、その洗礼を受けない子供たちの地獄に行くことをのべているよ。テンプルは答えた。彼もやはり残酷な、かつての罪人だったからな。
――こいつは参ったね。ディクスンは言った。だけどおれはそういう場合には、|地獄の辺土《リンボウ》というのがあると思ってたけどな。
――そいつと議論するな、ディクスン。クランリが乱暴に言った。そいつと話をしたり、そいつを見たりするのはよせ。めいめえ泣いてる山羊でも引っぱっていくみたいに、荒縄で家へしょっぴいて行けよ。
――地獄の辺土! テンプルは怒鳴った。そいつもうまい発明だよ。地獄同様にな。
――だけど厭なことだけは、なくしてあるよ。ディクスンが言った。
彼は笑いながら他の連中を振り向いて、言った。
――これだけ言えば、ここにいる諸君の意見を表わしていると思うがね。
――表わしているよ。グリンが断乎とした調子で言った。その点ではアイルランドは一致しているぞ。
彼は手にした傘の石突きで柱廊の石の床をたたいた。
――地獄か。テンプルは言った。おれは悪魔《サタン》の老獪な妻のその発明には敬意を表してもいいがね。地獄とはいかにもローマ的だな、中世のローマ帝国の城壁を思わせるよ、頑丈で醜悪でさ。だけど地獄の辺土って何だ?
――そいつをもういっぺん乳母車におしこめろよ、クランリ。オキーフが怒鳴った。
クランリはさっとテンプルのほうへ一歩ふみだし、立ち止まって足をふみ鳴らし、鶏にでも向って言うかのように叫んだ。
――しいっ!
テンプルは敏捷にとびのいた。
――リンボオとは何だか知ってるか? 彼は怒鳴った。ロスコモン〔アイルランド西部にある郡およびその首都〕じゃ、そういう新案物を何ていうか知ってるか?
――しいっ! こん畜生め! クランリは手をたたきながら言った。
――おれのけつでもなけりゃ肘でもないぞ! テンプルは馬鹿にした調子で怒鳴った。それがおれのいわゆるリンボオなのさ〔limboとlimb(四肢)とをもじったしゃれ〕
――そのステッキをよこせ。クランリが言った。
彼はスティーヴンの手から、とねりこのステキを乱暴にひったくり、段々を跳びおりた。だがテンプルは、彼が追ってくる気配を聞くと、敏捷な足の速い野獣のように、夕闇の中に逃げこんだ。クランリの重い靴の音が騒々しく中庭を追ってゆくのが聞こえ、やがて見失って、一足ごとに砂利を蹴とばしながら大儀そうに戻ってくる音がした。
憤然とした歩き方だった。そして憤然とした唐突な仕草で、彼はステッキをスティーヴンの手に突っ返した。スティーヴンは彼の怒っている原因が他にもあるのだと感じたが、じっと我慢した顔で軽く彼の腕に手をかけ、静かに言った。
――クランリ、さっき君に話したいことがあるって言ったろう。あっちへ行こうよ。
クランリはちょっと彼を見て、きいた。
――今かい?
――そう、今だよ。スティーヴンは言った。ここじゃ話ができない。あっちへ行こう。
彼らは口をきかずに連れだって中庭を越した。「ジークフリート」〔ワーグナーの楽劇〕の中の小鳥の歌の口笛がポーチの段のところから静かに彼らを追ってきた。クランリは振り返った。すると口笛を吹いていたディクスンが怒鳴った。
――君たちはどこへ出かけるんだい? あの勝負はどうするんだ、クランリ?
彼らはあたりの静かな空気を破る怒鳴り声で、アデルフィ・ホテルでやる筈の玉突の勝負のことを相談していた。スティーヴンは一人で先へ行き、楓《メイプル》ホテルに面したキルデア街《ストリート》の静かなところに出ると立ち止まり、またも辛抱強く待った。ホテルの名である青白い磨きたてた材と、その蒼白い正面とが、慇懃《いんぎん》な侮蔑の一瞥をくれたかのように、彼の心を突き刺した。彼は柔らかな灯のともったホテルの客間を憤然とにらみ返し、おそらくそこでアイルランドの貴族たちの太平楽な生活が悠々と営まれているのだろうと想像した。奴らは軍の辞令や地所の管理人のことなどを考えているのだ。百姓たちは田舎の道で奴らに挨拶する。奴らはいくつかのフランス料理の名を知っており、甲高い田舎者の声のきんきんとおる、窮屈そうなアクセントで、軽快な二輪馬車の駁者に命令を下すのだ。
いったいどうやれば彼らの良心を覚醒さすことができるのか、あるいは、彼らの娘に地主どもが子を生まさぬうちに、今の彼ら自身ほど下劣でない子孫をもうけるようにと、娘たちの空想におれの暗い影を落とすには、いったいどうやったらいいのか? すると、濃くつのってゆく夕闇のもとで、彼は自分の属しているこの民族の考えや欲望が、コウモリのごとく暗い田舎道を越え、小川の縁の木立や点々と水溜りのある沼地のあたりをひらひらと飛びかうのを感じた。ディヴィンが夜中に通りかかった家の戸口で一人の女が待っていて、゛彼に牛乳を飲ませたうえに、彼をくどき、も少しのところでベッドに誘いこみそうにした。それも、ディヴィンが内証ごとのできる者のおとなしい眼をしていたからだ。だが、おれには一人の女の瞳も誘ってくれたことがない。
彼の腕がぐいと強く握られ、クランリの声がした。
――われらもまた行かん。
彼らは南のほうに黙りこくって歩いた。やがてクランリが言った。
――あのへらへら下らんことをしゃべるテンプルの馬鹿野郎め! おれは誓って言うぞ、いいか、いつかおれはあの野郎をのしてやるからな。
だがその声にはもう怒りはなかった。スティーヴンは、もしやこの男は、ポーチの下で彼女がこいつに挨拶したのを思いだしているのではないかしらと思った。
彼らは左へ曲り、相変わらずどんどん歩いていった。こうしてかなり歩いた頃に、スティーヴンは言った。
――クランリ、おれは今晩いやな喧嘩をしたんだ。
――家の人とか? クランリはきいた。
――おふくろとだ。
――信仰のことでか?
――そうなんだ。スティーヴンは答えた。
すこし間をおいてクランリはきいた。
――君のお母さんはいくつだっけ?
――年寄りじゃない。スティーヴンは言った。母はおれに復活祭のお勤めをしてくれっていうのだ。
――で、やるのかい?
――しないよ。スティーヴンは言った。
――何故だ? クランリは言った。
――われは仕えず。スティーヴンは答えた。
――その文句は以前に聞いたな。クランリが穏やかに言った。
――以前じゃなく、以後に、言ってるんだ。スティーヴンはかっとなって言った。
クランリはスティーヴンの腕をぐっとおして言った。
――落ちつけよ、君はすぐに昂奮する男だよ、全く。
彼はそう言いながら神経質に笑いだし、感動した友情のこもった瞳でスティーヴンの顔を見上げるように、のぞきこんで言った。
――君は自分でもすぐにかっとなる質《たち》だってことを知ってるのかい?
――そういう質らしいな、とスティーヴンも笑いながら言った。
近頃何かよそよそしくなっていた二人の心が急に互いに相寄りそったように思えた。
――君は聖体拝領を信じるかね? クランリがきいた。
――おれは信じないよ。スティーヴンは言った。
――じゃ嘘だと思うのか?
――信じもしなければ、嘘だとも思わない。スティーヴンは答えた。
――多くの者が懐疑を抱いているね、宗教的な人たちまでがだ。それでもその懐疑に打ち勝つか、押しやるかしているんだ。クランリは言った。その点についての君の懐疑はあまりにも強いのかね?
――おれは懐疑に打ち勝とうとは思ってない。
クランリは一瞬当惑し、またもイチジクをポケットから取りだし、食べようとした時、スティーヴンが言った。
――やめてくれよ、たのむ。かじったイチジクを口いっぱい頬ばって、こんな問題の議論はできんよ。
クランリは立ち止まって、頭上の灯火でイチジクを仔細に眺めた。それから両方の鼻孔でその匂いをかいでみて、ちょっとかじり、べっと吐きだして、それを乱暴にどぶの中へ投げこんだ。どぶの中にころがったイチジクに向って、彼は言った。
――詛《のろ》われたる者よ、我を離れて永遠《とこしえ》の火に入れ!(マタイ伝二五・四一の一部略した言葉)
スティーヴンの腕を取り、彼はさらにつづけて言った。
――最後の審判の日にこの言葉が自分に向って言われやしないかと恐ろしくならないか?
――言われなかったら何が与えられるんだい? スティーヴンはきいた。学生監のお相伴をして永福をかね?
――きっと。クランリは言った。ああいう人なら福楽を授けられるだろうな。
――そうだよ、とスティーヴンはいささか皮肉をこめて言った。利口で、はしっこくて、無神経で、そしてなかんずく、狡猾だからな。
――おかしなもんだね。クランリは冷静に言った。君が信じないという宗教のことで君の頭は溢れかえっているんだからな。前の学校にいた頃には信じていたのかい? きっと信じてたと思うが。
――信じていたね。スティーヴンは答えた。
――で、その頃は幸福だったかい? クランリはやさしくきいた。例えば今の君よりも幸福だったかね?
――幸福だったこともたびたびだし。スティーヴンは言った。また幸福でなかったこともたびたびあった。あの頃のおれは別人だったよ。
――別人てどういうんだ。それはどういう意味だい?
――つまり、スティーヴンは言った。今あるような自分、こうならざるを得なかったような自分自身じゃなかったというのさ。
――今あるような君じゃない、こうならざるを得なかったような君じゃない。クランリはおうむ返しに言った。じゃ、一つ質問さしてもらうがね。君はお母さんを愛している?
スティーヴンはゆっくりと頭を振った。
――君の言葉の真意がよくわからんね。彼はぽつりとそう言っただけだった。
――君はこれまで誰も愛したことはないのか? クランリはきいた。
――女のことかね?
――そういうことを言ってるんじゃない。クランリはさらに冷静になって言った。誰かに、あるいは何ものかに、愛情を感じたことがあるかときいているんだ。
スティーヴンは暗い面持で歩道を見つめつつ、友人とならんで歩いていった。
――おれは神を愛そうとした。ついに彼は言った。今にしてみるとだめだったように思う。それは容易ならぬことだ。おれは自分の意志を神の御旨と一瞬一瞬結びつけようと努めた。その点では必ずしも失敗ではなかった。今でもやれないことはないだろうが……
クランリはそれを遮ってきいた。
――君のお母さんは幸福に暮らしてきたのかい?
――そいつはぼくにもわからんよ。スティーヴンは言った。
――子供は何人あるの?
――九人か十人だ。スティーヴンは答えた。そのうち何人か欠けたがね。
――君のお父さんは……クランリはちょっと口をつぐんでいたが、やがて言った。君の家族のことを詮索したくはないけどね。でもお父さんはいわゆる裕福な暮らしをしていたのかい。君が大きくなる頃のことを言うのだが。
――していたね。スティーヴンは言った。
――何をやっていたの? やや間をおいてクランリはきいた。
スティーヴンは父の属質をよどみなく数えたてだした。
――医学生、ボート選手、テナー歌手、素人俳優、弥次政治屋、小地主、小投資家、飲酒家、お人善し、話し上手、誰かの秘書、酒醸造所の何か、収税吏、破産者、そして現在は自分の過去の讃美者。
クランリは笑いだし、スティーヴンの腕をさらに握りしめて言った。
――酒醸造所とは愉快だな。
――まだ他に何か知りたいことがあるかい? スティーヴンはきいた。
――で、現在の境遇はいいのかね?
――そう見えるか? スティーヴンは突っけんどんに言った。
――そうか、じゃ、とクランリは考えこみながら言った。君は贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に生まれついたのだな。
彼はこの熟語を、よく型にはまった表現を使うときにやるふうに、ぶっきらぼうに大きな声で、あたかも相手にこれという確信もなく使ったのを知ってもらいたいかのように用いたのだった。
――お母さんはさぞやいろいろと苦労してこられたんだろうな、と彼はつづけて言った。これ以上苦労をかけないようにしようとは思わないのかね、たとえ……それとも思う?
――それができれば、とスティーヴンは言った。ぼくも苦しむことはないんだろうが。
――そんなら、やったらいいじゃないか。クランリは言った。お母さんが君にしてもらいたいと思ってるとおりにやるんだな。それが君に何だっていうんだ。君は聖体拝領を虚偽だと思っている。あんなものは形式だよ、それ以外の何ものでもないさ。そうすればお母さんも安心されるよ。
彼は言葉を休め、スティーヴンが返事しないので、そのまま黙っていた。やがて、自分の頭の中で考えていることを言葉にしてだすかのように、彼は言った。
――この悪臭紛々たる汚物の山みたいな世の中で、他のものはすべて不確かであろうと、母の愛だけはそうじゃない。母親は君をこの世におくりだしてくれるんだ。まず母の胎内に宿してくれるんだ。母親がどんな気持でいるか、そんなことはおれたちにはわからんさ。だけど、どういう気持でいようと、少なくともそれは真実に違いない。真実でなければならぬ。おれたちの観念とか野心が何だ。遊びだよ。観念! そうさ、あのうるさい間抜け野郎のテンプルだって観念を持っているさ。マカンにしたってそうだ。道を歩いている阿呆どもも皆、自分は観念を持っていると思っているのだ。
この言葉の奥にひそむ無言の意味に聴きいっていたスティーヴンは、無頓着なふうを装って言った。
――パスカルは、おれの記憶に間違いなければ、女性に触れるのを恐れて、どうしても母にキスさせようとしなかったよ。
――パスカルは豚だよ、とクランリは言った。
――アロイシウス・ゴンサガ〔イタリアのイエズス会士、学生の守護聖人〕も同類だったと思う。スティーヴンは言った。
――じゃ、そいつも豚だ。クランリは言った。
――教会は彼を聖人と呼んでいるぜ。スティーヴンは異議をとなえた。
――誰が何と呼ぼうと、おれには屁のかっぱさ、とクランリは乱暴に、にべもなく言い放った。おれは豚と呼ぶよ。
スティーヴンは頭の中で言葉をきちんとととのえてつづけた。
――イエスも群衆の前では母にいささか礼を失した扱いをしたらしいのだが、イエズス会の神学若でスペインの紳士のスアレスはイエスのために弁明をしているね。
――君はこんなことを考えてみたことはないかね、とクランリはきいた。イエスは見かけどおりの人ではなかったというふうに。
――それに最初に気がついた人は、とスティーヴンは答えた、イエス自身だったよ。
――いや、つまりだ、とクランリは語調を強めて言った。ほかならぬ彼自身が意識せる偽善者、当時のユダヤ人を指して彼のいうところの「白く塗りたる墓」(マタイ伝)だったという考えが浮かんだことはないか、というんだよ。あるいは、もっとはっきりいえば、彼はならず者だったというのだよ。
――そんなことは一度も考えたことがないね。スティーヴンは答えた。だけど、いったいどういうのだい、君はぼくを改宗者にしようとしているのかね、それとも君自身、背教者になろうとしているのかね?
彼は友人の顔を振り向いた。と、そこには何か意志の力といったようなもので微妙な意味あるものにしようと、もがいているぎごちない微笑が浮かんでいた。
クランリは不意に率直な分別くさい調子できいた。
――本当のとこを聞かせてくれ。おれの言ったことに少しでも驚いたかね?
――いささかね、とスティーヴンは言った。
――すると、何故驚いたのだろうかな。クランリは同じ調子で詰めよった。われわれの宗教は虚偽であり、イエスは神の子ではないと確かに感じているならばだ。
――それについては少しもおれは確信がないのだよ、とスティーヴンは言った。イエスはマリアの子というよりも神の子のようだね。
――じゃ、それが聖餐を受けない理由なのかね? クランリは詰問した。そのことにも確としたものがないからだね。聖体《ホスチア》はただのパン切れではなくて、もしかしたら神の子の体と血かもしれないとも感じるからだね? もしやそうじゃないかという恐れがあるからだね?
――そうだ、とスティーヴンは静かに言った。そう感じるし、またその怖さもある。
――わかった。クランリは言った。
スティーヴンはこの議論の打ちきり方に驚いて、すぐきさ、また議論を始めて言った。
――ぼくはいろんなものが怖いな。犬、馬、火器、海、雷雨、機械、夜の田舎道。
――だが何故パン切れが怖いのだ?
――それはおそらく、スティーヴンは言った。ぼくが怖いというそういったものの背後に、何か悪意をもつ現実がひそんでいるような気がするからだ。
――それじゃ、とクランリはきいた。不敬な聖体拝領をやったら、ローマ・カトリックの神の神罰に打たれて死に、呪われやしないかと怖いかね?
――ローマ・カトリックの神は今だってそうできるだろう。スティーヴンは言った。それ以上にぼくに恐しいのは、背後に二千年にわたる権威と崇拝を重ねている象徴に対する虚偽の礼拝によって、ぼくの魂の中に起こるかもしれぬ化学的作用なのだ。
――じゃ君は、とクランリはきいた。極度の危険にさらされても、いま言ったそういう不敬を犯すだろうか? 例えば、仮に君が刑罰を受ける時代に生きているとしたら?
――過去のことは何ともいえないな。スティーヴンは答えた。おそらく犯さんだろうね。
――それじゃ、とクランリは言った。君は新教徒になるつもりもないのだね。
――おれは信仰を失ってしまったとは言ったけど。スティーヴンは答えた。自尊心を失くしたとは言わなかったよ。論理的で筋の通った不条理を棄てて、非論理的で筋の通らぬ不条理を奉じたところで、それが何の解放になるだろうか。
彼らはなおもペムブルウク教区へ向って歩きつづけ、やがて並木道に沿ってゆっくりと歩いているうち、木立や点々とともっている邸宅の灯火に心がなごんできた。周囲にただよう裕福と閑寂の気配が彼らの貧しさを慰めてくれるように思えた。月桂樹の生垣の奥で、台所の窓に灯火がちらつき、ナイフを研ぎながら女中の声が歌っているのが聞こえた。小節を短かくきれぎれに歌っていた。
ロウジイ・オグレイディ
クランリは立ち止まり、耳をすませながら言った。
――Mulier cantat(女が歌っている)
ラテン語の柔らかな美しさが、魅惑的な感触をもって、音楽や女の手の感触よりもさらにほのかな、さらに心にしみる感触をもって夕闇に触れた。彼らの心の争いは鎮まった。教会の礼拝式に出る女の姿が音もなく闇の中をぬけていった。白い衣裳の姿、少年のように小さく、ほっそりとして、飾り帯が垂れていた。少年のように細く高い彼女の声が遠くの聖歌隊から、キリスト受難歌の初めの詠誦の暗鬱と叫喚をつらぬく女声の最初の歌詞を詠唱するのが聞こえてきた。
――Et tu cum Jesu Galilaeo eras(汝もガリラヤ人イエスと共にいたり。マタイ伝)
かくて心はいっせいに感動し、新しき星のように冴えわたる彼女の声に向けられ、声がプロハラキシトン〔ギリシャ文法でいう語尾から第三音節目に鋭音を有する語〕を詠唱する時はいよいよ冴え、やがてカデンツァの消えゆくにつれ、次第に微かになっていった。
歌声はやんだ。彼らは共に歩きだし、クランリは強く力を置いたリズムでリフレインの終りをくり返した。
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二人が結婚したときは
おお、どんなにか楽しかろう
わたしは可愛いロウジイ・オグレイディを愛してる
ロウジイ・オグレイディはわたしを愛してる
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――これこそまさに詩情というやつだな、と彼は言った。本当の愛があるよ。
彼は妙な微笑を浮かべて横目づかいに、ちらりとスティーヴンを見て言った。
――君はこれを詩と見なすかい? この歌詞が何を言おうとしているかわかるかい?
――ぼくはまずロウジイに会いたいね、とスティーヴンは言った。
――わけなく見つかるさ。クランリは言った。
彼の帽子は額のところまでずり落ちてきていた。彼はそれをぐいともとに戻した。と、木立の影の中でスティーヴンの眼に、闇にふちどられたその蒼白い顔と大きな黒眼がちの瞳が映った。なるほど、彼の顔は端麗だし、体は逞しくがっちりしている。こいつは母親の愛情のことを口にした。するとこいつは女の悩みを、女の体や心の弱さを感じているのだ。それならこいつは逞しいびくともしない腕で女をかばい、女に理性を屈するだろう。
では別れろ。去るべき時だ。声がスティーヴンの孤独の心にそっと語り、行けと命じ、お前の友情も今や終りだと告げた。そうだ、行こう。他人にさからって懸命に闘うなんてことはできない。自分には自分の役割があるのだ。
――たぶんおれはよそに行くだろうな、と彼は言った。
――どこへ? クランリはきいた。
――行けるところへだ。スティーヴンは言った。
――そうだな。クランリは言った。今の君にはここで暮らすのは苦しいかもしれないな。だけどそのために行くのかい?
――行かねばならないのだ。スティーヴンは答えた。
――というのも。クランリはつづけた。仮に行きたくないにしても、自分が追いだされたとか、あるいは異端者だとか世の中の除け者だとか見なさずにすむからね。りっぱな信者で君と同じような考えを持っている人がおおぜいいるよ。驚くだろう? 教会は石造の建築物でもなければ坊主でもなし、また彼らの教義でもないんだ。教会はそこに生まれてきた人々全体の集合だよ。おれは君がこの世で何をやりたいと思っているか知らない。ハーコート街の駅の外で立っていたあの晩、おれに話してくれたあのことかね?
――そうだ、とスティーヴンは場所と結びつけて考えごとを思いだすクランリの癖に思わず微笑を浮かべて言った。君がドハティを相手にサリギャップからラーラスまでの一番の近道のことで、半時間ももみ合っていた晩だね。
――あのでこ坊か! クランリは穏やかな軽蔑をこめて言った。あいつがサリギャップからラーラスまでの道の何を知ってるかってんだ。そういうことじゃ、あいつは何も知っちゃいねえよ。あのでかい、だらだら文句ばかりいいやがる洗面器みたいな頭をしてやがって!
彼は大きな声で長々と笑いだした。
――それで。スティーヴンは言った。他のことも憶えているかい?
――君の言ったことかね? クランリはきいた。うん、憶えているよ。君の精神がなんらの拘束もなく自由に表現できる生活や芸術の様式を発見することだ。
スティーヴンはお礼のしるしに帽子をとった。
――自由か! クランリはくり返した。だけど君はまだ不敬を犯すほど自由ではないじゃないか。どうだい、君は盗みをやるだろうかね?
――それより先に人に物乞いをするだろうな。スティーヴンは言った。
――それでも何ももらえなかったら盗むかね?
――君はぼくにこう言わせたいんだろう、とスティーヴンは答えた。所有権は一時的のものであり、また事情の如何によっては盗みも不法ではないと。誰しもそう信じてやるだろうさ。そこで、ぼくはそういう返答はしないよ。イエズス会士の神学者、ホアン・マリアーナ・デ・タラヴェラにきいてみろ。彼もまたどんな事情なら合法的に国王を殺してもよいか、また毒薬は盃にいれて国王に渡したほうがいいか、それとも衣服か鞍の前輪に塗るほうがいいか、説明してくれるだろう。ぼくにならむしろ、他人にのめのめ自分のものを盗ませて許しておくか、それとも、もし盗んだら、たしかいわゆる俗権の懲罰とかいうものをその者に加えるか、とでもきいてくれ。
――で、君はそうするかね?
――思うに。スティーヴンは言った。そうするのも盗まれるのも、同じくらいぼくには苦痛だろうな。
――なるほどね。クランリは言った。
彼はマッチを取りだして、歯の隙間を掃除しだした。やがて無造作に彼は言った。
――どうだね、例えば女の処女を破りたいと思うかね?
――失礼だが、とスティーヴンは丁寧に言った。それは大部分の若い男の野心じゃないのかい?
――じゃ君の見解はどうなんだ? クランリがきいた。
木炭のいぶる煙のようにむかつく臭いのする、気力をそぐような、この見解という言葉がスティーヴンの頭にかっときて、そのいぶる臭みが頭の上にたれこめているような気がした。
――いいかい、クランリ、と彼は言った。君はさっきからぼくがやるだろうか、やらんだろうかという仮定のことばかりきいている。いまはっきり君に言っておこう、ぼくのやる意志のあることとないことを。ぼくはもはや自分が信じないもの、それがよしんば自分の家庭であろうと、祖国であろうと、教会であろうと、それには仕えない。そしてぼくはできるだけ自由に、できるだけ全的に、生活なり芸術なりのある様式において自己を表現し、自己を守るためにぼくが自ら使うのを許す唯一の武器を用いるつもりだ、つまり沈黙と追放と巧智だ。
クランリは彼の腕をつかみ、リーズン公園へ向って引き返そうと、ぐるりと向き変えらせた。彼はまるで茶化したような調子で笑いだし、兄貴ぶった愛情をこめてスティーヴンの腕をぎゅっと握りしめた。
――巧智とはねえ! 彼は言った。君がかい? この貧弱な詩人の君が!
――だってそりゃ君が白状させたのじゃないか、とスティーヴンは彼に触られ、ぞっと身震いをおぼえて言った。さっきからぼくが他のいろんなことを白状したようにさ。そうだろう?
――そうだよ、坊や。クランリはなおもふざけた調子で言った。
――君はぼくの恐ろしいと思っているものを白状させた。だが、ついでにぼくが恐れないものも言っといてやろう。ぼくは孤独でいることも、他人のために斥けられることも、棄てなければならないものを棄てることも恐れない。また、過ちをすることも恐れない。たとえ大きな過ちだろうと、一生消えない過ち、いや永久に消えないような過ちであろうとだ。
クランリは再び真面目になって、歩調をゆるめながら言った。
――孤独、本当の孤独。君はそれを恐れないという。だが君はその言葉の真の意味を知っているのか? あらゆる他の人々から孤立するばかりでなく、たった一人の友すらもないんだぜ。
――ぼくはその冒険をやるつもりなのだ、とスティーヴンは言った。
――しかも、たった一人の人。クランリは言った。友人以上とも思える人、まだかつてだれも持ったことのないような、貴い真実の友以上となるかもしれない人もないのだぜ。
その言葉は何か彼自身の性質の奥深くにある心の琴線に触れているかのように思えた。この男は自分のことを、現在の自分か、あるいはかくなりたいと願う自分のことを語っているのだろうか? スティーヴンはしばらく黙って彼の顔を見つめていた。冷たい悲しみがそこに浮かんでいた。彼は自己を、その恐れている自分自身の孤独を、語ったのだ。
――誰のことを言っているんだ? スティーヴンはついにきいた。
クランリは答えなかった。
三月二十日 おれの反逆の問題についてクランリと長く語り合う。
彼は例の偉そうな態度をした。自分はさからわず、おとなしくしておく。母親に対する愛情の点でおれを攻撃した。彼の母を想像してみようと努めたが、だめ。いつかぼんやりしている時、おれに語った、彼が生まれたとき父親は六十一歳だったと。父親は眼に見える。逞しい農夫のタイプ。霜降りの三揃い服。頑丈な足。もじゃもじゃの胡麻塩の顎髯。おそらく猟犬の兎狩り競争にいつも出るのだろう。教会の献金はたっぷりではないが几帳面にラーラスのドワイヤー神父に納めている。時には日が暮れてから若い女たちに話しかける。ところで、母親のほうは? うんと若いか、うんと年寄りか? 前者のことはあるまい。もしそうなら、クランリはあのように語らなかったろう。では年寄りだ。おそらくそうだ、それで相手にされないのだ。だからクランリの魂の絶望があるのだ。弱り果てた腰から生まれた子。
三月二十一日 朝。昨夜、寝床の中でこのことを考えたが、あまりにも大儀でぼんやりしていたので書き加える気になれなかった。確かにぼんやりしていた。弱り果てた腰とはエリザベツとザカリア(ルカ伝一章、老夫婦にして、この二人より洗礼者ヨハネ生まる)のそれだ。すると彼は先駆者(洗礼者ヨハネの意もあり)なのだ。また、彼は主として腹肉のベイコンと乾イチジクを食う。イナゴと野蜜と解すべし(ヨハネ、これを食す、マタイ伝三・四)。また、彼のことを考えると、厳めしい刎《は》ねられた首〔ヨハネはヘロデ王の妻ヘロデアの奸計により斬首さる〕かあるいはまるで灰色の帳《とばり》かヴェロニカの布〔キリストの十字架の道行きで、ヴェロニカという女の差し出した布で顔の血をぬぐうと、その布にキリストの顔が刻印された〕に輪郭を描きだしたかのように死面《デスマスク》がいつも見える。教会ではこれを刎首《ふんしゅ》〔洗者ヨハネの刎首の記念〕と呼んでいる。ラテン門外の聖ヨハネにしばし惑わされる。この眼に見えるものは何か? 錠をこじ開けようとしている首を刎ねられた先駆者だ。
三月二十一日 夜。自由奔放な魂、とりとめもない妄想。死にたる者にその死にたる者を葬らせよ(マタイ伝八・二二)然り、ついでに死者は死者と結婚せしめよだ。
三月二十二日 リンチと一緒になって大柄の病院の看護婦のあとをつける。リンチの思いつきだ。嫌悪をおぼえる。若い雌牛をつけてゆく二匹の痩せている餓えた猟犬。
三月二十三日 あの晩以来彼女に会わず。体具合でも悪いのか? あるいはママのショールを肩にかけて暖炉にあたっているのだろう。だが、すねてはいない。おいしいお粥《かゆ》を一杯どう? 今はほしくなくて?
三月二十四日 しょっぱなから母と議論。問題、童貞女《おとめ》マリアのこと。こっちが男で若いので不利なり。逃げるため、マリアとその息子との関係に対抗し、イエスと親父《パパ》との関係を押しとおした。宗教は産科病院ではないと言ってやった。母は甘い。おれが妙な考えを持っていて本を読みすぎたんだと言う。違う。ろくに読んではいないし、大してわかってもいない。すると母は、おれが落ちつきのない心を持っているから、そのうち信仰に戻ってくるだろうと言った。こいつは罪の裏口から教会を去り、悔悟の天窓から再びはいってくるということになる。悔悟はできない。母にそう言って六ペンスねだった。三ペンスもらう。
それから学校へ行った。小さな丸顔のいかさま師の眼つきをしたゲッツィとまた言い争う。今度はノラの人ブルーノ〔ジョルダノ・ブルーノ。十六世紀イタリアの哲学者。聖変化と処女懐胎を信じず処刑された〕についてなり。初めはイタリア語、終りにはピジョン英語になった。彼曰く、ブルーノは恐ろしい異端者だと。彼はひどい焚刑《ふんけい》にあったとおれは言った。彼はなんとなく悲しげにこれに同意した。ついで彼のいわゆるrisotto alla bergamasca(ベルガモ風リゾット)の作り方を伝受してくれた。彼は柔らかなOの発音をする時、まるでその母音と接吻でもするかのごとく、ふっくらした肉感的な唇を突きだす。あいつは経験があるのかな? あいつには悔い改めることなどできるかな? そうだ、あいつならできる。いかさま師のまるい涙を二つ流して泣くだろう。両方の眼から一滴ずつ。
スティーヴンズ公園《グリーン》、すなわちおれの緑地《グリーン》をぬけながら、先夜クランリがわれわれの宗教と呼んだものを考えだしたのは、おれの国の人ではなくゲッツィの国の人だったのを思いだした。彼らの四人組、歩兵第九十七連隊の兵卒どもが十字架の下に坐って、磔刑《たっけい》を受けた者の衣を取ろうと骸子《さい》を投げたのだ。
図書館へ行った。評論を三つ読もうと努める。徒労。彼女はまだでてこない。おれは狼狽しているのか。何にだ? 彼女がもう再び出てくることはないだろうということだ。
ブレイクは書いている。
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ウィリアム・ボンドは死ぬのではなかろうか
確かに病いは重いから
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ああ、哀れなウィリアムよ!
いつかロタンダ〔一七五五年にできた娯楽場〕のジオラマを見た。終りにおえら方の絵があった。その中に、ちょうどその頃死んだウィリアム・ユアト・グラッドストーン〔イギリスの宰相〕のもあり。オーケストラ、「おお、ウィリ、われら、君をなつかしむ」を演奏せり。
どん百姓の民族!
三月二十五日 朝。夢にうなされた一夜。あんな夢は胸から追い払いたい。
長い曲りくねった回廊、床からどす黒い蒸気の柱が立ち登っている。そこは石にはめこまれた、伝説の王の像でいっぱいだ。その手は疲労を表わして膝の上に重ね合わされ、その眼は、どす黒い蒸気のごとく人間の過ちが眼前を立ち登るために、暗くなっている。
異形《いぎょう》のものが洞窟から出てくるごとく、ぞろぞろ通ってゆく。人間ほどの背丈はない。各々が全く離れて立っているように見えない。その顔は燐光を放ち、暗い色の条《すじ》がある。彼らはおれをじっと見つめ、限は何かものを問いたげである。口はきかない。
三月三十日 夕方、クランリが図書館のポーチにいて、ディクスンの奴と、彼女の弟とに問題をだしていた。ある母親がわが子をナイル河に落とした。まだ母親のことをくどくど言ってやがる。鰐がその子を取った。母は返してくれと頼んだ。鰐曰く、よろしい、おれがこの子をどうするつもりか、食うか食わないか、それをお前が当てたら返してやろうと。
こういう精神状態は実は自分の太陽の作用によって自分の泥沼の中から生まれるのだ、とレピダスなら言うだろう。
では、おれの精神状態は? やはりそうではないのか? そんならナイルの泥の中にたたきこんでしまえ!
四月一日 この最後の句、気に入らず。
四月二日 ジョンストンズ・ムーニィ・アンド・オブライエンの店で彼女がお茶を飲み、ケーキをたべているのを見た。というより、おれたちが通りかかった時に、目の早いリンチが見つけたのだ。クランリは弟にさそわれてその店に行ったと、教えてくれる。奴は例の鰐をもちだしたかな? 奴は輝く灯火《ともしび》〔ヨハネのこと〕か? とにかく、おれは奴を見届けたぞ。敢て見届けたと断言する。
ウィックロウの糠《ぬか》にまみれた桝のうしろでそっと輝やいているのさ(マタイ伝)。
四月三日 フィンドレイター教会の向いの葉巻屋でディヴィンに会った。黒のセーターを着て、ハーレイのスティックを持っていた。おれが行ってしまうのは本当か、またなぜかと訊く。ターラヘの一番の近道はホリヘッド経由〔ターラは太古に大陸よりアイルランドに渡来した種族の王都があった場所。ホリヘッドはイギリスのウェールズにある海港でダブリンとの間に郵船がある〕だと奴に告げてやった。ちょうどその時、父がやってきた。紹介する。父、鄭重にして観察的なり。軽い食事でもご馳走しようかとディヴィンをさそう。ディヴィン、会合へ行くところで、だめなり。別れてから、あの男はなかなか正直そうな眼をしていると父が言った。なぜおれが漕艇クラブにはいらないかときかれた。おれは大いに考えこんでいるような振りをした。すると、父はペニフェザー・チームを意気銷沈させた時の模様を話した。おれに法律を勉強してもらいたいという。生まれつきおれには法律がうってつけだという。ますます泥沼だ。ますます鰐だ。
四月五日 春の嵐。飛ぶ雲。おお、人生よ! りんごの樹が可憐な花々を落とした渦巻く沼地の水の黒ずんだ流れ。葉むらの中の少女たちの瞳。つんと澄ましたり、ふざけ廻っている少女。みんな金髪か金褐色だ。濃い鳶色は一人もいない。少女たちはいっそうよく顔を赤らめる。そら!
四月六日 なるほど彼女は過去のことをよく憶えている。女は皆そうだとリンチは言う。すると彼女は自分の幼ない頃のことを憶えているわけだ――もしおれが子供だったら、おれのもだ。過去は現在の中に溶けこんでいる。現在は未来を生みだすからこそ生きているのだ。リンチの言が正しければ、女の像は常にくまなく衣服で覆っておかねばならぬ、その片手は未練がましく自分の尻にさわっている。
四月六日 後刻。マイクル・ロバーツは忘れ去られた美を記憶しており、彼が腕の中にその美人を抱く時、この世からとうの昔に影を消していた愛くるしさをしっかと腕の中に抱きしめる。これじゃない。全然違う。おれはまだこの世に現われてきてない愛くるしさをこの腕の中に抱きしめたいのだ。
四月十日 微かに、重苦しい夜空の下を、いかなる愛撫にも応じない疲れた愛人のように、夢から夢なき眠りへと移った都会の静寂を破って、蹄の音が街路にする。やがて橋に近づくにつれ、そう微かでもなくなる。たちまち、暗い窓を通りすぎる時、静寂は矢のごとく警笛により引き裂かる。もう音は遙か遠くになっている、重苦しい夜陰の中を宝石のごとく輝く蹄、眠れる原を疾《と》く越えて、いかなる旅路の果てへ向うのか――いかなる心へ?――いかなる便りをたずさえてか?
四月十一日 昨夜書いたものを読む。とりとめもない昂奮を表わす曖昧な言葉。彼女の気にいるだろうか? そう思う。それならおれも気にいるべきだ。
四月十三日 あのtundish〔漏斗のこと〕が長いこと気にかかっていた。そいつを調べてみたら、英語だとわかる、しかし味もそっ気もないずいぶん古い英語だ。何だ、あの学生監の奴め、何だあの漏斗《ファヌル》は! 何しにやってきたんだ、おれたちに自分の国の言葉を教えるためか、それともおれたちから習うためか。どっちだかはっきりしろ!
四月十四日 ジョン・アルフォンサス・マルレナンがアイルランドの西部地方から戻ってきたところだった。ヨーロッパとアジアの新聞よ、これをのせてくれ。彼は向うのある山小屋で一人の老人に会ったと話してくれた。老人は赤い眼をして、短かいパイプを持っていた。老人はアイルランド語を使った。マルレナンもアイルランド語を使った。そのうち老人とマルレナンは英語で話した。マルレナンは宇宙と星の話をして聞かせた。老人はじっと坐って、耳を傾け、タバコをふかし、唾を吐いた。そして言った。
――ははあ、世界の向こうの端には恐ろしい奇妙な生きものがきっとおるに違いない。
おれは彼が恐ろしい。縁の赤くなった角のような彼の眼が恐ろしい。この老人とおれは今夜一晩中闘わねばならないのだ、夜の明けるまで、彼かおれが死んでしまうまで、彼の逞しい咽喉《のど》をひっつかんで、ついに……ついにどうなるのだ? ついに彼がおれに屈服するまでか? 否、おれには何も悪意はないんだ。
四月十五日 今日グラフトン街で彼女にばったり会った。人ごみにつられて一緒になったのだ。両方で立ち止まった。彼女はなぜおれがさっぱり寄りつかないのかときき、おれについていろんな噂話を聞いたと言う。こいつはただ時間をのばすためだったのだ。おれが詩を書いているかときく。誰についての詩かときき返してやった。これが彼女をますますどぎまぎさせたので、おれはすまない気がし、卑劣な気がした。すぐさまその弁を閉めて、ダンテが発明し、あらゆる国で特許を取った精神的・英雄的冷却装置を開けた。自分のこと、いろんな計画のことをまくしたてた。その最中に運悪くおれは革命的性質をおびた唐突な身振りをやったのだ。きっと一握りの豆を空中にばらまく奴のような恰好だったにちがいない。人々がおれたちのほうを見始めた。彼女はすぐその後で握手をして、立ち去りながら、おれが話したことをやってくれるようにと言った。
ところで、おれは、それを親しい情がこもっていると呼ぶが、違うだろうか。
そうだ、今日の彼女は好感がもてた。少しか、大いにか? わからない。彼女が好きになった。それはおれには新しい感情のように思える。しからばこの場合、他のいっさいのこと、おれは思うと思ったことのいっさい、また、おれは感じると感じたことのいっさい、今までの他のいっさいのことは、実は……おお、そんなことは棄ててしまえ、こいつめ! 寝て忘れてしまえ!
四月十六日 去るべし! 去るべし!
腕《かいな》と声の魅惑、道の白き腕、それらの堅き抱擁の約束と月に向ってそそり立つ丈高き船の黒き腕、それらの語る遠き国々の物諮。それらの腕はさしのべて言う、われらは孤独なり――来たれ。また声々はそれらに合わせて言う、われらはお前の血族なりと。それらが、その血族たるおれに呼びかけ、行く支度をととのえ、その狂喜せる大いなる青春の翼を打ちふるとき、空はそれらの仲間でいっぱいだ。
四月二十六日 母はおれの新しい中古服を直してくれている。いまはただ、おれが自分だけで生活し、家庭や友人から離れて人の心とはどういうものか、どういうことを感じるかをわかってくれるように祈るばかりだと言う。アーメン。そうあれかしだ。歓迎す、おお人生よ! おれは百万遍でも経験の真実を迎え、おれの魂の鍛冶場において、わが民族の創造せざりし良心を鍛えに行くぞ。
四月二十七日 古えの父よ、古えの工人よ、今も常にわが助けとなり給え。
一九〇四年、ダブリン
一九一四年、トリエステ
[#改ページ]
年譜
一八八二年
二月二日 ダブリンに生まれた。James Augustine (Aloysius)(Joyce)と命名。Aloysiusというのは九歳の時に堅振の秘蹟を受けて、聖人にちなむこの名を授けられたのである。ジェイムズの前に長男が生れているが、誕生後二週間で死んだ。
父親John Stanislaus Joyce (一八四九〜一九三一)はコーク郡の出身、その祖母はアイルランドの「解放者」ダニエル・オコウナルの従姉妹に当たるといわれている。性、奇矯にしてすこぶる機智に富み、談論風発といった人物だが、家のことにはきわめて無頓着で浪費家であった。ジェイムズが長じて後、『肖像』にあるようにたびたび引越しをして廻ったのも父親のこの性癖のためである。父親はクイーンズ・カレッジで学び、医科を取ったが実際は何の勉強もせず、彼がこの大学に残した跡は『肖像』にあるとおり、机に刻みつけた自分の名前だけであった。十六歳の時に父を喪ったジョンはチャペリゾッド(ここは『ダブリン人』の「痛ましい事件」の場面であり、『フィネガンズ・ウェイク』の主人公の住所でもある)の家屋敷を売り払ってダブリンに移り住み、政党のクラブの秘書をやったり、またしばらくは市の収税官吏をやっていた。一八八〇年にMary Jane Murrayと結婚。彼が三十一歳、妻二十一歳。
母親のメアリ・ジェインは葡萄酒商の娘であった。きわめて温和従順な婦人であり、熱烈なカトリック信者でもあった。この事は『肖像』の前編である『スティーヴン・ヒーロー』によくあらわされている。貞淑従順一方の妻は夫のはげしい性格のため、家庭では影の薄い存在であり、家計の苦心、つぎつぎに生れる子供の養育に並々ならぬ苦労があったようである。彼女はピアノに優れ、また彼女の母方の実家には歌手が出ている。父親のジョンも、また祖父もテナーの美声を持ち、ことに父親はアイルランド随一のテナーの声をしていたといわれる。専門歌手としてもりっぱに立てたジョイスのテナーの声、彼の音楽性は両親の血統であった。
一八八五年 三歳
弟のJohn Stanislaus Jr.生る。ジョイスに何人の弟妹があったか正確には知り得ないが、この次弟の後にジョージという弟がいたが幼逝。その他はポピイ、エヴァ、アイリーン、メイプルの四人の妹だけらしく、このうち、エヴァとアイリーンは後にジョイスのトリエステ時代に彼と一緒に暮らした。ジョイスの親戚の中で彼の大伯母キャラナン夫人は彼の名づけ母であり、『ダブリン人』の「死せるもの」のケイト叔母のモデルとなった。
一八八八年 六歳
一家はプレイに移転。この頃から弱視の徴候が顕著となった。このプレイの家から初めて学校に上がったのであり、この家に『肖像』の「ダンティ」が同居した。彼女は実名をコンウェイ夫人(『ユリシーズ』でもリオーダン夫人として現われる)といい、彼女の財産目当てに結婚した男に金を奪われて逃げ去られて以来、男を憎み、非カトリック教徒を憎悪した。彼女はジェイムズの家庭教師として迎え入れられたのである。ダンティがクリスマスの晩餐の席で猛烈に男に食ってかかる場面がここで想起されよう。九月、イエズス会の学校 Clongowes Wood College に入学。両親につれられて城を校舎にしたこの学校に入ったのは、やせっぽちの、恐ろしく神経質な少年であった。紅ばら、白ばら組に分れて競争した。眼鏡を壊され、間違って罰を食い、校長室に乗りこんでその不当を訴えた。この事実はその後五十年間、同校の語り草になっていた。
一八九一年 九歳
春学期終了後、一家の経済事情のためクロンゴウズ校を退く。Et Tu, Healy! 出版。最初の著作だが、一部も現存しない。弟スタニスラスの回想では、パーネルの死(同年十月七日)後、数カ月又は一年くらいして書かれたにちがいないとしている。
一八八七年四月のロンドン「タイムズ」紙に、ダブリンの暴動や暗殺事件の黒幕人物はパーネルだという攻撃記事がのり、パーネルはこれを事実無根、名誉毀損として訴えた。新聞は更にパーネルの私生活の醜聞(|O'Shea《オウシェイ》夫人との関係)を書きたてた。裁判はパーネルの勝訴に終ったが、オウシェイ夫人事件(彼は一八九一年同夫人と正式に結婚)のためにアイルランド国民連盟《ナショナル・リーグ》はパーネル派と反パーネル派に分裂抗争した。反パーネル派には教会側がついた。パーネルの裏切者ともいうべき反パーネル派の中のTimothy Healy は事ごとにパーネルを中傷、妨害するという卑劣な手段を取った。この男は後に新アイルランド総督になった。ジョイスの父はパーネル支持派であった。この両派の争いは全アイルランド人をその渦中に巻きこんだ形で、いかに皆が昂奮していたかは『肖像』中の有名な部分、クリスマス晩餐の席の激輪の場面に描出されている。少年ジョイスは裏切者ヒーリイの陰険きわまる態度に義憤を覚え『ヒーリイ、汝もか!』という攻撃の一文を草した。父親はこれを見て大いに喜び、パンフレットにして知人間に配った。なお『肖像』で少年スティーヴンが発熱し、学校の衛生室でパーネルの幻を見るのは、新聞にパーネルの死が報ぜられたのを夢現のうちに聞いたことであろう。クロンゴウズ校を退学した後、二年間、家で遊んだ。この間、父の母校クイーンズ・カレッジにつれてゆかれ、父の名をほった机を見せられたりした。一家は再びダブリン市内に移転。
一八九三年 十一歳
四月 Belvedere Collegeの三年級に入学、十六歳まで在学。弟スタニスラスも同校の一年級に入学。この頃からアイルランド文芸復興運動始まる。入学後三年目に当たる年から作文にてたびたび賞金を受け、学校中の評判となった。賞金は相当多額であったが、大部分、家族に芝居や料理店をおごって費消した。作文は一つも現存せず。
一八九六年 十四歳
ローマの詩人ホラティウスの英訳をした。これが現存するジョイスの最も古い文章とされている。
一八九八年 十六歳
この年にイェーツ、レイディ・グレゴリー、ジョージ・ムア等が「アイルランド文芸劇場」を計画した。ジョイスは専らナショナル図書館《ライブラリー》に通い、大陸の文学に接し、イプセンに没頭していた。イプセンヘの傾倒ぶりは『スティーヴン・ヒーロー』に詳述されている。偏狭な国粋主義に反撥し、眼を広い大陸文化に向けていたのだ。
思春期に達した彼の内部で霊と肉との闘いが始まる。『肖像』の地獄の説教中にある non serviam(我は仕えず)という「悪魔の誓い」が頭をもたげ始めるのもこの時期だ。「カトリック国民の信仰はその国民性の真髄であるが故に、それはその信仰と共に亡びる」というイエズス会の唱える教会と国家の不可分思想とは相容れなくなる。スティーヴンのごとく、ベルヴィディア校在学の最後の年に、教団にはいる考えを放棄した。この年には学芸会の演劇に出た。また学校のキャプテン(最上級の優等生に与えられる称号)に任ぜられた。父が収税官吏をやめ、転々と引越しばかりしていた。夏にベルヴィディア校を出た。
九月、University Collegeの英文学科に入学。この大学は三十年程前にジョン・カーディナル・ニューマンが創設した「カトリック大学」の後身である。ここでも盛んに例の図書館通いをやり、文科の学生とはあまり交らず、隣りの医科のトリニティ・カレッジの学生と交った。妥協を嫌悪し、傲岸、孤高を持していた彼は周囲の学生からなんとなく「薄気味悪い学生」に見られていた。この大学在学中に伊、仏、独語を完全に習得、メーテルリンクやヴェルレーヌを翻訳した。ジョイスは語学においても天才といわれ、十数カ国語ができたという。イプセンを原語で読むため、ノルウェー語を習得したのは周知のことだ。国語復興運動によるゲーリック語には全然興味がなく、むしろ嫌悪を覚え、ほとんど習っていない。もしジョイスがゲーリックで『肖像』や『ユリシーズ』を書いていたら、果してどれだけ世界文学に寄与したであろうか。偏狭独善の国粋主義はアイルランドをますますヨーロッパ文化の流れから遠ざけ、広い世界への視野を遮るものと考えたのだ。
一八九九年 十七歳
この夏に上演されたイェーツの『キャスリーン伯夫人』を非愛国的(非ゲーリック的)として学生たちが暴動的な騒ぎを起こした。『肖像』に描かれている。ジョイスはこれを冷やかに眺め、群衆の熱狂に加わらない。
一九〇〇年 十八歳
Ibsen's New Drama を「フォトナイトリー・レヴュウ」誌に発表。「ヘンリック・イプセンが演劇史上に一紀元を画したといってよい『人形の家』を書いて以来、二十年が経過した」という書きだしの、この評論は前年十二月に出た『我ら死して醒めたる時』の批評である。当時のイギリスの主要雑誌に十六ページにわたるジョイスの評論が掲載されたことは周囲に異常な驚愕を与えた。彼がイプセンを崇拝(彼自身は「私は英雄崇拝家ではありません」と断っているが)した理由は、この老劇作家の不覊《ふき》独立性、国家的宗教的統一からの自由、冷やかなリアリズム、精神的闘争への強い関心、論理の精密などにあった。
Moods 及びShine and Dark の二つの詩集。これは二冊のノートに書き集めたものだが現存せず。『肖像』中の「熱烈なるふるまいに倦まざるや」という十九行二韻詩《ヴィラネル》はこの初期作品の一例である。A Brilliant Career という五幕の戯曲を書いたが現存せず。ジョイスの戯曲は後の『追放人』と合わせて、この二つだけである。
一九〇一年 十九歳
十月 The Day of the Rabblement (騒乱の時代)を発表。この評論は大学の雑誌「セント・スティーヴンズ」が教授の検閲によってその掲載を拒否したため、これも同じく拒否された一友人(『肖像』のマカンのモデル)の評論「大学問題の忘れられた一面」と合わせて、Two Essays と題したパンフレットにして自費出版した。「いかなる人も大衆を嫌悪するに非ざれば、真をあるいは善を愛する者たり得ない、とノラの人(『肖像』最後の日記に見えるブルーノのこと)は言った」と冒頭し、芸術における大衆との妥協を断乎排撃することを主張し、芸術家が大衆性や商業主義と妥協すれば、もはや芸術家ではないと主張した。彼はこの中でアイルランド民族は「ヨーロッパで最も遅れた民族」ときめつけた。
ハウプトマンの戯曲二篇を非常な苦心を注いで翻訳したが未発表。この後にも種々の戯曲を英訳したり、中には英語の作品を伊訳したりしているが、いずれも発表されていない。しかしこのような仕事によっても会話の技巧を学んだのであろう。ジョイスの小説中の会話の巧妙、迫真性は際立っている。この頃よりダブリンに全く失望し、同時に自己の芸術哲学の樹立に思いを凝らしていた。大学へ行くまでのダブリン市の朝の散歩中、しきりと黙想に耽っていた。
一九〇二年 二十歳
五月 James Clarence Mangan なる評論を「セント・スティーヴンズ」誌に発表。マンガン(一八〇三〜四九)はアイルランドの詩人であり、マンガンの詩のいくつかをジョイスは自ら作曲している。この評論は彼の古典主義とロマン主養についての観念を知る有力な資料であり、スティーヴンがリンチを相手にやる芸術論の理解の助けにもなる。「スティーヴン・ヒーロー』ではこの二つの文学思想についての意見が詳述されている。この頃、イェーツと数回会った。
十月 ユニヴァーシティ・カレッジをB・Aのディグリーを得て卒業。秋晩く、故国アイルランドを去り、パリへ向つた。途中ロンドンでイェーツの親切な世話を受け、またアーサー・シモンズに紹介された。後にこのシモンズのおかげで文壇への登竜門が開かれたのである。イェーツ、シモンズ、後年のエズラ・パウンド、この三人はそれぞれの段階における作家ジョイスの登場に尽力した人々である。
何の当てもなく、二通の紹介状を持っただけでパリに乗りこんだ彼は、医学をやろうとした。だが医科大学の講義には一回出ただけで、授業料支払不能のため、やめざるを得なかった。さして落胆もしなかった。英語の個人教授をやり、絶えず空腹に襲われ、激烈な歯痛に悩み(これが後年の眼疾に悪影響を残したという)ながら、絶えず断片的なノートを取っていた。この頃のノートがリンチ相手のスティーヴンの芸術論として現われてくる。ベン・ジョンソンの全集を耽読し、ジョンソンの詩「われ横たわりいたれど疲れず」もノートに書きとめられた。
一九〇三年 二十一歳
四月 母危篤の電報に、旅費を借金して帰国。八月 母、肝硬変症にて死去。臨終の際、神に祈れという母の言葉に従わなかったという事実は弟スタニスラスの回想によると、伯母の願いだったとされている。だがいずれにせよ、神に仕えよという母の生前の願いは遂に容れられずして終ったのである。この母の願いに不従順だった悔恨と苦悩は『ユリシーズ』のスティーヴンに終始つきまとう。母の死後、居酒屋をほっつき歩き、ボヘミアン的生活に耽った。この帰郷中に『肖像』が書き始められ、『ダブリン人』の短篇が書き始められた。
一九〇四年 二十二歳
春にドールキイのクリフトン学校《スクール》の教師の職を得たが、在職四カ月でやめた。この学校のことが『ユリシーズ』に出てくる。この教師時代にサンディコーヴのマーテロ塔の中で、友人のゴガーティと暮らした。『ユリシーズ』冒頭に記されている塔がこれであり、バック・マリガンのモデルがこの友人だ。この年、詩作に耽り、友人達にテナーの美声で朗読して聞かせていた。これらがChamber Music(室内楽)となるのである。
A・Eの編集雑誌Irish Homestead に『イーヴリン』と『姉妹』とを売りこんだ。『肖像』の序章を「ダナ」誌に売りこんだが断られた。 六月 ノラ・バーナクルというゴールウェイ出身の女性と知り合う。『死せるもの』のゲイブリエルの妻グレッタもゴールウェイ出身の女性になっている。後のジョイス夫人ノラと知り合った六日後の一九〇四年六月十六日が『ユリシーズ』の一日になっている。この年のアイルランド音楽祭に出場。課題曲を自ら放棄して、優勝の金メダルをもらいそこなった。秋に『室内楽』の原稿をまとめて、アーサー・シモンズに送り、出版の世話を依頼した。
十月 妻のノラを伴い、アイルランドを去る。出発前に友人たちに向い、十年後には必ず話題になる本をだしてみせると宣言した。パリ経由、スイスのチューリヒに来たが、当てにした語学校のベルリッツ・スクールの教師の職はなかった。
十一月 オーストリアのトリエステ市のベルリッツ校の英語教師となったが、直ぐにポーラの同校に転任。このポーラで書いていたノートも『肖像』の芸術論に使用されている。この頃『土』を書いた。The Holy Office なる諷刺詩を自費出版。これはダブリン出発直前に出版したという説もあるが、現存するのはポーラ版のみ。
一九〇五年 二十三歳
三月 トリエステのベルリッツ校に転任。
七月 故国を去って大陸に移って以来の「九カ月間にぼくの得たものは、一人の子供とぼくの長篇の五〇〇ページと三つの短篇だ」と弟への手紙に報じているが、この月に長男Georgio が生まれた。五〇〇ページの長篇とは『スティーヴン・ヒーロー』のことだ。
十月 弟スタニスラスもトリエステに来て、ベルリッッ校の教師になった。
十一月 『ダブリン人』のために予定した十二篇の短篇が全部書き上げられた。
十二月 この原稿をロンドンの出版社グラント・リチャーズに送り、出版を頼んだ。この時から、この短篇集が世に出るまでの実に八年半の長きに及ぶ、英国出版史上でも稀な出版にまつわる紛糾、苦闘の歴史が始まる。この出版社は、先に『室内楽』の出版の尽力を頼んでおいたアーサー・シモンズが、同詩集の刊行を勧めた社である。
一九〇六年 二十四歳
二月 同社との出版契約なり、さらに『二人のよた者』を追加分として送付した。
三月 『スティーヴン・ヒーロー』を予定の半分、九一四ページ(原稿)まで書いた。予定では全六十三章、三十万語の構想だった。この作品の題名は、初めA Portrait of the Artist としたが、さらに Stephen Hero に変更し、のちさらに Chapters in the Life of a Young Man にしようかと迷っていた。
七月 G・リチャーズ社より文句をつけて返送してきた全原稿を読み直し、『姉妹』を書き改め、『小さな雲』を追加分として送付。これで全部で十四篇となった。妻子をかかえた窮乏の生活をいくらかでも楽にする目的もあって、新聞の求人広告に応じてローマの銀行の通信係に転じた。薄給のため、英語の個人教授や夜間の語学校の教師の内職もやった。
九月 中篇『死せるもの』の構想を練り始めた。またこの頃に『ユリシーズ』という小説の着想を得たようだ。これは『ダブリン人』のための短篇で、ダブリンのハンターという男を扱った短いスケッチにする考えでいたらしいが、題名を得ただけで、書き進められなかったようだ。
一九〇七年 二十五歳
三月 ローマを引揚げ、再びトリエステに戻ったが定職なく、個人教授にかけずり廻った。「その仕事ぶりは精力的で几帳面で、家庭のためには献身的であった」この頃に後の『ユリシーズ』のレオポルド・ブルームの性格のヒントを得た一実業人と知り合ったようだ。
四月 『室内楽』を別の社から出版。
七月 娘の Lucia Anna が生まれた。時期は不明だが、この年にトリエステの新聞に認められ、政治的な論説三篇を紙上に発表した。また虹彩炎にかかった。終生苦しむ眼疾の始まりであった。
秋の初めにダブリンのモーンセルという出版社から『ダブリン人』刊行の希望申込みを受けた。紙数の都合上、ここに順次日を追って、リチャーズ社及びモーンセル社から作品の改筆、削除せよとの不当な干渉を受けた経緯を述べ得ないのは残念だが、八年半にわたって最後の勝利を得るまで闘い抜いたジョイスの不撓不屈の信念と意志力はまさに驚くべきものがある。ロンドンの出版者からの文句(実は印刷人からの文句だが)は実に馬鹿気切ったものであり、ダブリンの出版社からの文句は実に非常識、陰険、陋劣を極めたものであった。先にローマ滞在中、弁護士にまで相談をもちかけたが、ジョイスがロンドンの居住権なきため、契約違反で訴えても不利だといわれたりしている。
一九〇八年 二十六歳
『ダブリン人』の出版の紛糾に発作的な怒りに駆られ「スティーヴン・ヒーロー」の原稿をストーヴの中に投げこんだ。妻のノラは手に火傷を負いながら、これを救いだした。(弟スタニスラスによると、これは一九〇九年か一〇年の出来事で、妹のアイリーンが救いだしたとしている)前編の二千枚に及ぶものより遙かに圧縮した新たな構想の下に小説を書きだした。これが現在の『若き日の芸術家の肖像』となるのである。
一九〇九年 二十七歳
八月 モーンセル社との紛争解決のため、息子のジョージオを伴い、五年ぶりにダブリンへ帰った。
九月 同社との不快な折衝の末、契約が成立したので、妹エヴァを連れてトリエステに帰った。
十月 同市で知り合った数人の実業家との話し合いでダブリンに映画館開設の案に興味を持ち、再びダブリンへ行った。
十二月 映画館ヴォルタ劇場を開き、かなりの入りを見たが、五カ月後には売却した。
一九一〇年 二十八歳
一月 妹のアイリーンを連れてトリエステに帰った。家計甚だしく逼迫してきた上に、モーンセル社から「委員室の蔦の日」におけろ国王エドワード七世に触れた部分の変更要求の問題でも苦しんだ。
一九一一年 二十九歳
右の問題についての出版社の強硬をきわめた要求に闘う手段として、時の国王ジョージ五世に書簡で訴えた。だが国王の秘書官から、かかる問題について国王が返答する慣例なしとの返答を受けたのみなので、アイルランドの通信社に回状を送り、新聞に掲載方を頼んで世論に訴えた。イタリアの公立学校の英語教員の正式資格を取るため試験を受けたが、ダブリンの大学の卒業資格では不適格とされ、失敗した。『若き日の芸術家の肖像』という題名を決定し、書き続けていた。
一九一二年 三十歳
七月 モーンセル社との紛争解決のため、一家を引きつれ、再びダブリンに帰った。この時の交渉の場に、現モダン・ライブラリー版『ダブリン人』の「解説」を書いているパドライック・コラムがいた。妻の故郷ゴールウェイを訪ね、心の憩いを得た。
九月 出版社の陰謀を思わせる不快、屈辱的な最後的手段に遭い、いっさいは水泡に帰し、ついに永遠に故国の土を踏まずと決意して、ダブリンを去った。事実、これが故国を見た最後であった。だが自ら「追放者」となった彼にとって、故国は忘れ去られたのではなかった。帰途、汽車の乗換駅たるオランダのフラッシングの駅の待合室で、故国の者かち味わわされた忿懣やる方ない気持に痛烈な皮肉をこめて Gas from a Burner(火口からのガス)という諷刺詩を書き、トリエステで印刷し、無料で配布した。この年の終りに『肖像』も終篇に近づいていた。
一九一三年 三十一歳
詩人エズラ・パウンドから『室内楽』の詩一篇を『イマジスト詩集』に転載する許可を求めてきた。パウンドとの知友関係を得たことはジョイスが欧米の文壇へ登場する大きな機縁となった。ロンドンのグラント・リチャーズ社から「ダブリン人』出版の交渉が再開された。
一九一四年 三十二歳
第一稿から見れば約十一年にわたり、決定稿のみでも五、六年を要した『肖像』が完成した。
二月 「エゴイスト」誌上に『肖像』の連載が始まった。(一九一五年九月まで続く)
六月 『ダブリン人』出版。一九〇六年以来八年余にわたってつづいた苦闘はついに報いられ、作者の原稿そのままの形で発表されたのである。この年はまさにジョイスにとって、また世界にとって記念すべき年となった。青年ジョイスが故国を去るに当り、十年後には必ず話題に上る本を書くと宣言してから、ちょうどその十年目に当る。『肖像』を完成し、息つく間もなく二十世紀前半の世界文学で最も話題になった『ユリシーズ』に着手したのだ。書き始めたその仕事を一時中止し、春の三カ月を費して戯曲 Exiles(追放人)を書き上げた。
八月 第一次大戦が勃発。彼は不拘束捕虜となり、個人教授の生活手段を失った。彼に好意を寄せていたゴールウェイの妻の大伯父から温かい援助の手がさしのべられた。知人の世話でオーストリア軍当局から中立国へ移る許可を受けた。
一九一五年 三十三歳
六月 一家をあげてスイスのチューリヒに移住。再び個人教授により生計を立てたが生活苦に陥る。ロンドンのエズラ・パウンドはこの窮乏を伝え聞き、イェーツその他と計って、時のイギリス首相に陳情し、国庫より援助金を贈らせた。ジョイスは戦争には全く中立的態度を持し、ただひたすら『ユリシーズ』の世界に没頭していた。
一九一六年 三十四歳
十二月『若き日の芸術家の肖像』及び『ダブリン人』をアメリカの出版社より刊行。『肖像』のイギリス版は翌年二月に出た。非常な好評を博し、名声にわかに上った。
一九一七年 三十五歳
チューリヒのあるソプラノ歌手の尽力により、ジョン・D・ロックフェラーの一人娘、マコーミック夫人(当時同市に在住)から月々の経済的援助を受ける幸運を得、これは約二年間つづいた。さらに「エゴイスト」誌の所有者ハリエット・ウィーヴァ女史からも援助を受け、戦時下の物価高に悩む同市で創作に専念できるようになった。
一九一八年 三十六歳
三月 ニューヨークの文芸誌「リトル・レヴュウ」に『ユリシーズ』の連載が始まり、一九二〇年十二月発禁事件が起こるまでつづいた。友人と劇団を組織し、イギリス劇をつぎつぎと上演した
五月 Exilesを英米同時に出版。十一月 第一次大戦終る。
一九一九年 三十七歳
この秋に、弟のいるトリエステに一家をつれて再び移り住んだ。『ユリシーズ』の執筆は第十三挿話まで進んでいたようだ。一方、若い文学者たちからは戦後の新しい文学の指導者「文壇のモーゼ」として仰がれるようになっていた。
一九二〇年 三十八歳
六月 トリエステは芸術の国際的首都たり得ない、ここにいては芸術界から孤立すると感じ、新しい文学運動の中心パリへ移住した。ここでもエズラ・パウンドからきわめて親切に各国の芸術家たちに紹介され、T・S・エリオットその他と知己になった。だが『ユリシーズ』が終りに近づくにつれ、その出版社を見つけることに苦慮し始め、一方、眼疾の激痛に苦しんだ。
十月 「リトル・レヴュウ」誌が『ユリシーズ』のワイセツの件によって告発され、裁判事件となった。
一九二一年 三十九歳
二月 ユリシーズ裁判は有罪の判決を受けた。この年にシルヴィア・ビーチ女史と知り合い、彼女のシェイクスピア社から『ユリシーズ』をだしてもらえることになり、同年の後半には六校以上の校正が出ていた。眼疾と闘いながら校正によって推敲を加えていった。ビーチ女史を始め、多くの友人から植字工にいたるまで、美しい協力がこの天才を取りかこんだ。
一九二二年 四十歳
二月二日『ユリシーズ』の作者の誕生日の祝賀晩餐会の席に初刷が披露された。八年間にわたる異常な努力の結実であった。果然、ごうごうたる賛否両論が欧米に巻き起こった。「二十世紀の最も偉大なる小説」と称揚され、「かつて印刷された最も不潔なる書」とも攻撃された。「ユリシーズを終りまで読み通せるものは百人の中、十人あるかなし。その十人の半分は頑張ってやっと通読するという程度であろう」といわれる難解の書だった。このような難解(エドマンド・ウィルソンによれば「余りにも長すぎて退屈」)な書が異常な売れ行きを示した。「途方もなく汚らわしい部分」を知りたがる大衆のワイセツな好奇心のおかげであった。
この年、左眼も緑内障になり、両眼失明の脅威に襲われ、爾後八年間に各国の名医にかかり、十回も手術を受け、危く失明だけは免れたのである。初夏にイギリスのサセックス州の田舎に行き、ここで次作の構想を得た。「ユリシーズは日覚めている生活の神話であったように、これは眠っている生活の神話」である Finnegans Wake であった。秋にニースへ行き、この新作に着手した。題名はすでにこのとき、作者の胸中にあった。眼疾は依然彼を苦しめていた。
一九二七年 四十五歳
二月 ニューヨークの某誌により一年余も続けられた『ユリシーズ』の無断掲載という海賊行為に対し、作者の誕生日の日付を以て欧米の美術界、学界の名士一六七名の連名による抗議文がアメリカの新聞に送られた。その顔触れの中には、ロマン・ローラン、ジュール・ロマン、バートランド・ラッセル、サマセット・モーム、D・H・ロレンス、T・S・エリオット、ジョン・ゴールズワージー、アンドレ・ジイド、クヌート・ハムズン、トマス・マン、アーネスト・ヘミングウエー、クープリン、ピランデルロ、アインシュタイン、カザミアン等々が見える。
四月 Work in Progress(進行中の作品)という題名で『フィネガンズ・ウェイク』がパリの「トランジション」誌に連載され始め、一九三八年五月まで続いた。最後の同作品の出版の際には広範な加筆推敲が行われている。
七月 Pomes Penyeach(一個一ペンスのりんご)出版。(十三篇の詩集)
一九二八年 四十六歳
十月 Anna Livia Plurabelle出版。『フィネガン』の一部である。アンナ・リヴィア・プルラベルはこの小説の主人公である居酒屋兼業の宿屋の亭主、H・C・イアウィッカーの妻である、と同時にアンナとはダブリン市を流れるリフィ河を指している。
一九二九年 四十七歳
八月 Tales Told of Shem and Shaun 出版。同じく『フィネガン』の一部。シェムとシォーンとは右の亭主夫婦の双生児の兄弟のことである。
一九三〇年 四十八歳
六月 Haveth Childers Everywhere 出版。同じくこの新長篇の一部。これは主人公H・C・イアウィッカーの異名であり、「いたる所に子供あり」という意味で、人類の祖先を象徴する。
十二月 バリトン歌手となった息子のジョージオ結婚。
一九三一年 四十九歳
十二月 父親ジョン・スタニスラス、長年の病患の後、ダブリンにて死去。
一九三二年 五十歳
二月 係のスティーヴン誕生。父親の死によって打撃を受けたジョイスにとって、孫は無限の悦びの源となった。
一九三三年 五十一歳
十二月 合衆国地裁判事J・M・ウルズィにより『ユリシーズ』はワイセツ文書に非ずと裁定され、解禁の書となった。イギリスで初めて同書の印刷発行を見たのは一九三六年にいたってからだ。
一九三四年 五十二歳
六月 The Mime of Mick, Mick and the Maggies 出版。同じく新長篇の一部。これは子供の遊戯の名である。
一九三六年 五十四歳
十二月 Collected Poems 出版。『室内楽』『一個一ペンスのりんご』及び未発表詩一篇を含む。
一九三七年 五十五歳
十月 Storiella as She is Syung 出版。同じく新長篇の一部。
一九三八年 五十六歳
十一月 新長篇『フィネガンズ・ウェイク』を脱稿した。すでに前のほうの校正が出始めていた。なおこの作品の原稿、覚書のノート類、校正刷は現在大英博物館の所蔵になっている。
一九三九年 五十七歳
二月二日 『ユリシーズ』の時と同様、作者の誕生日祝賀会に『フィネガンズ・ウェイク』の初刷が披露された。七年間にわたる労作であった。一般に発行されたのは五月、英米同時である。この書の反響が起こる間もなく、九月、第二次世界大戦勃発という動乱に遭遇し、ジョイスの象徴の世界は硝煙の彼方にいつしか巻きこまれてしまった。
一九四〇年 五十八歳
フランス崩壊後、チューリヒへ移った。
一九四一年 五十九歳
一月十三日 チューリヒにて腸の手術を受け死去した。
一九四四年
『スティーヴン・ヒーロー』出版。
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解説
二十歳の青年ジョイスが大学を卒業して晩秋の故国アイルランドを後に、ただ一人、大陸をあこがれて海を越えたのは、一九〇二年のことであった。惨憺たるパリ生活の中で、こえて二十一歳の年齢を迎えた彼は、母危篤の報に接して再びダブリンに帰った。神に仕えよという母のせつなる願いにも、この青年の強固な世界観は屈することを肯《がえん》じなかった。母は逝《い》った。もはや取り返しようもない子としての悔恨は、彼の心に深い傷痕を残した。それはいつかは告白されなければならぬ。
彼はまずそこにいたるまでの、神に仕えることができなくなるまでの、自己の歴史をたどってみなければならなかった。彼は自分のたどってきた足跡を記し始めた。そして一人の友人と共に廃塔の中の生活を経験し(これが『ユリシーズ』に現われてくる)、やがて妻たる女性を伴い、自叙伝小説の原稿とそのノートとを持って、二十二歳のジョイスは、十年後には必ず話題になる書を出してみせると宣言して、アイルランドを棄て去った。
二十三歳になったジョイスは大陸で右の小説を書きつづけ、五〇〇ページにまで達し、やがて二十四歳を迎えた。この年には原稿は九一四ページ、二十五章、十五万語まで進んでいた。彼の構想では、全篇六十三章、三十万語の厖大な長篇にする予定になっていた。そして題名を初めは「芸術家の肖像」としていたが、つぎに「スティーヴン・ヒーロー」に変え、さらに「一青年の人生の数章」にしようかと迷っていた。
一九〇八年、二十六歳のとき、彼は発作的な怒りにかられ、この「スティーヴン・ヒーロー」の原稿をストーヴの中に投げこんだ。原稿は妻の手によって(あるいは彼の妹とも言われるが)火中から救い出された。
その後、彼はこの厖大な原稿を放棄して、全く新たな構想の下に、自伝風の小説に着手した。そして二十九歳のときに、第三稿としてこれを再び書き改め、粗名を『若き日の芸術家の肖像』A Portrait of the Artist as a Young Man と決定した。これがここに今日われわれの読む書になったのである。
かくしてこの小説が完成したのは、着手してから六年目、作者三十二歳のときである。放棄した自叙伝小説「スティーヴン・ヒーロー」を書きだしたときから数えれば、およそ十一年という長い年月がかけられてきたのであった。一九〇四年、ダブリンを去るに当り友人たちに向かって行なったあの宣言は、まさしく十年後に果たされたのである。『肖像』の最後に記されている「一九〇四年、グブリン」と「一九一四年、トリエステ」は何を意味するのか。一九〇四年とはむろん故郷ダブリンから自らを追放した年、一九一四年とはまさにその十年後に当り、その間の十年という年月は、ジョイスの人生と芸術との苦闘、つまり「若き日の芸術家の肖像』の創造の苦闘を意味するものにほかならない。
ここで、ついでに奇しき因縁事をのべておきたい。『肖像』は一九一四年二月に「エゴイスト」誌によって連載が始められ、その年の八月に世界は大戦争を起こした。つぎの大作『ユリシーズ』は一九二二年の二月に刊行された。二月はジョイスの誕生月である。とにかくこのときは世界は無事であった。しかし最後の大作『フィニガンズ・ウェイク』が二月に本となって出来上った一九三九年の九月には、奇しくも再度、世界は大戦乱を巻き起こしている。なんというめぐり合わせであろうか!
二十一歳の頃(厳密にはわからないが)から書き始め、二十四歳のときには原稿九一四ページまで進み、二十六歳のときに火中に投じたという「スティーヴン・ヒーロー」はジョイスの死後に出版された。その書の解説を書いているシオダー・スペンサーは、この不完全な作品の成立について、いろいろと推測しているが、ここに特にのべる必要もないのでそれは省くとして、とにかく現在残っているその原稿(ハーヴァード大学図書館所蔵)は、五一九〜九〇二ぺージまでであるという。原稿には焼け焦げたような痕跡は少しもない。ようするに五一八ページまでの部分の原稿が消失してしまっているのだ。そうしてみると、二十三歳のときに五〇〇ページを書いていたというから、それ以後の部分が残っているわけになり、さらに二十四歳のときに九一四ページ(二十五章)まで書いたと自ら言っているところから、現存の原稿は九〇三ページ以降の一二ページ分がたりないことになる。これはどうなったのか? さらにまた、二十五章まで書いたとジョイス自身が、出版社のグラント・リチャーズ宛の手紙に記しているが、刊行された書で見ると、途中から始まっている章の末尾に「第五部の第一挿話の終り」としてあって、つぎに十六、十七章がつづき、十八章の末尾に「第五部の第二挿話の終り」となり、ついで十九章がきて、以後は順次、二十・二十一・二十二・二十三・二十四・二十五・二十六と章がつづいて終っている。したがって、「スティーヴン・ヒーロー」は、このあと第六十三章までつづけて完結する予定であったから、全篇はいくつかのパートと、いくつかのエピソードに分けられ、それらが六十三のチャプターに区分される構造を取ることになっていたのであろうと想像される。
「スティーヴン・ヒーロー」と『肖像』との詳細な比較照合はべつの機会にゆずるとして、ここではごく大ざっぱなことだけをのべておきたい。
『若き日の芸術家の肖像』は全部で五章十九節に分かれ、つぎのような構造をとっている。年齢は単に参考のため、私自身が仮に当てはめてみたもので、年譜を参照されたい。
第一章 クロンゴウズ学校時代(六〜九歳)
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1 クロンゴウズ校に上がる前のこと
2 クロンゴウズに入学してから二か月半後のクリスマス休暇まで
3 スティーヴンの家でのクリスマス晩餐での激論
4 スティーヴンの処罰と抗議
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第二章 ペルヴィディア校時代(十一〜十六歳)
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1 ダブリン郊外ブラックロックの生活。すでにクロンゴウズ校を退学している
2 ダブリン市内への引越し。親戚の家を訪ねること。子供のパーティの帰り、鉄道馬車でのE・C《エマ》との淡い恋情。ペルヴィディア校へ上げられる
3 同校の学芸会
4 父の母校を見につれてゆかれる。(父親に対する気持のへだたり)
5 賞金をもらったこと。家族の者からの孤立感。思春期の本能のはげしい悩み。売春婦との接触。
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第三章 同前(十六歳)
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1 肉への誘惑と霊との闘い
2 地獄の説教
3 肉の罪を犯したスティーヴンの悔悛
[#ここで字下げ終わり]
第四章 同前
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1 スティーヴンの心中における霊と肉・宗教と芸術との闘い
2 宗教との訣別
3 芸術を目指す決意と昂奮。小川で会った少女の美に打たれる(美の世界への開眼)。大学へはいる
[#ここで字下げ終わり]
第五章 ユニヴァーシティ・カレッジ時代(十六〜二十歳)
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1 学生監との芸術論。周囲の友人たちの政治運動への反撥。友人リンチとの美学論。恋人E・Cへの悩み
2 前節につづき、十年前の鉄道馬車での彼女との別れの回想
3 イェーツの詩劇に対する国粋主義的学生たちへの批判(狭量なアイルランド民族主義への嫌悪)友人クランリに母の願いを拒んだことを打ち明け、宗教への懐疑と、孤独な自己の道を進むことを語る
4 いっさいの過去とアイルランドに訣別し、未来の芸術の世界へ向かって飛翔し去ることの宣言
[#ここで字下げ終わり]
この第五章全体は、アイルランドの宗教・政治・民族、友人、家庭、及び芸術に対する青年スティーヴンの考えがいっさい吐露されている極めて重要な章である。
『肖像』はこのような構造をもって書かれている作品である。この小説のいわば草稿ともいうべき『スティーヴン・ヒーロー』において扱われているのは、『肖像』の第五章、すなわちスティーヴンの大学生時代である。題名のStephen Heroは「Dick Turpinの民謡」を思わせると、ハリイ・レヴィン氏は言っている。ディック・ターピンはTurpin Heroと称された十八世紀のイギリスにその名をとどろかせたという盗賊で、一七三九年にヨークで投獄され、断頭台の露と消えた。彼のことを扱った民話や民謡は数多く、最初に歌ったのはアイルランドの詩人ウィリアム・マギン(一七九三〜一八四二)であると言われ、またターピンがロンドンからヨークまでを一夜で馬をとばし、着いたとたんに馬は疲労のため死んだという世人を驚倒させた事件を、イギリスの歴史小説家ハリソン・エインズワース(一八〇五〜八二)が書いた。『肖像』の第五章に、「一人称で始まり、三人称で終っているあの古いイギリス民謡『英雄ターピン』」とスティーヴンが、リンチ相手に芸術論を展開してゆく言葉の中に出てくる。「ヒーロー」とは主人公でもあり「英雄」でもあるわけだ。
さて、この二つの作品の間にはどういう相違があるか。「……『肖像』では、われわれは開いた扉口から部屋を見るというのではなくて、鍵穴から見ているのである。暗い隅々にやっとのことで見える朦朧とした形状は、われわれの枠づけられ、限られた視界がみとめ得るものに、何か無気味な雰囲気を加えている。この作品(『スティーブン・ヒーロー』のこと)では扉口は開け放たれ、あらゆるものが可能な限り見えるようになっている。ここではスポットライトに当てられたものではなくして、白昼の光に照らされたいろいろのものが見える。ここでは強調、選択、技巧は乏しい」と評されているように、『スティーヴン・ヒーロー』はジョイスの生活のドキュメント的な要素が強く、それだけに『肖像」の「限られた視界」にうつしだされた「朦朧とした形状」を解釈する補足的な手がかりを与えてくれるであろう。例えば『肖像』のスティーヴンの恋人――あの鉄道馬車での微妙な、心の交りのあった少女、彼が詩をささげた少女――の名はE・Cという頭字でしか記されてなく、第三章第二節で初めてEmmaという名が出てくるだけである。E・Cという頭字のために、冒頭に出てくる幼いスティーヴンの遊び相手であったEileenと混同されていることがあるが、それは間違いであって、アイリーンの姓はヴァンスであり、スティーヴンが鉄道馬車で、思わせぶりなエマと言葉を交しながら突然思いだしているのは、エマとは別人のアイリーンのことである。このエマ・Cなる女性が『スティーヴン・ヒーロー』ではEmma Cleryという名で現われ、その家庭についても説明がされている。すると、消失した原稿の部分において、『肖像』と同じように幼少の頃からのことが扱われていたものという想像が許されるならば、アイリーン・ヴァンスなる少女もそこに詳しくのべられていたのではあるまいか。
『ユリシーズ』を容易に読むには、比較言語学と文学の博士号を持っていなければだめだし、かろうじて読むにも、ジョイスの他の作品と彼の生涯、ホメロスの『オデュッセイア』、フレイザーの『金枝篇』等を知っていなければならないし、むろん英文学史、アイルランド文芸復興、アイルランドの政治、ローマン・カトリックの典礼についての相当の知識を持っていなければならないという。それも英米人の言うことだから、われわれ外国人にとっては、それだけではすまない。とにかく『ダブリン人』などはまだいいとして、この『肖像』でもやはり、右の英文学史以下の諸項についての知識がなければ充分な理解は得がたいであろう。
『肖像』の冒頭に引用されているオウィディウスの言葉のように、ジョイスは「未知の芸術」に生涯をかけて「巧智」の限りをつくした。故郷ダブリンを去ったのも、スティーヴンが熱烈に語っているように、小さな島国のカソリシズムの因習生活に縛られ、大陸文化の接触から隔離された郷土の「麻痺」した生活環境にあっては、芸術家、それも未知なる新しい技を打ち樹てようとする芸術家として成長することは不可能だと断じたからである。
『肖像』は新しい芸術観に到達するまでの一青年の精神史である。これがジョイスの自叙伝的小説である点にはあえて異議はさしはさまないが、しかしふつうの自叙伝小説はすでに前作『スティーヴン・ヒーロー』により作者にとってはすんでいる。いわゆる「生い立ちの記」を二つも書く必要はない。前作については最近まで世人は何も知らなかったが、ジョイス自身にとっては、もう終ったことであり、再び新たに書くとすれば、何かを「強調」し、何かを「選択」し、素朴な技巧から発展していなければならない。だから作者は、芸術家たらんとする、生涯を宗教にではなく芸術にささげんとする一青年の精神の経験と発展に「視界を限定」し、焦点をしぼって、密度の高い作品たらしめようとした。この作品の意図は、芸術哲学の樹立、その理論によってかくあるべしという芸術家の像の精神的造形の過程を描くことにあった。前の草稿的作品でなされていた説明の記述は極度に抹殺され、自叙伝小説のカテゴリーを脱け出て、主人公の精神の発展に「強調」を置く一貫した目的から、人物も事件も背景も「選択」されて、息苦しいまで一本の糸に集中され、象徴的に圧縮され緊張し切っている。
「芸術は人生からの逃避ではない。全くその反対である。芸術は、逆に、人生の中心的表現である。芸術家は公衆の面前に機械的な天国をぶらさげて見せる人ではない。司祭はそういうことをやる。芸術家は自己の人生の充実から創造するのだと断言する」これは『スティーヴン・ヒーロー』において、イプセンについて語りながら、母親に向かって言うスティーヴンの言葉だ。「作家は真に理解するものを書くべきが第一だ」とジョイスは言った。
『肖像』は親の聞かせてくれたお話で始まり、その親のもとを去るところで終っている。少年スティーヴンが地理の本に、自分の姓名から始まって宇宙にいたるまでの、自己の現在いる位置を記して考え悩むところがある。まず自己から出発して、順次のび拡がっているこれは何を意味するのか。それは自己発見であり、自己の拡大さるべき未来への発展を暗示しているのだ。やがて狭小なアイルランドを棄て去って、ヨーロッパヘ、広大な世界を求めて飛びたつべき憧れを示すものである。イプセンの戯曲の中にある「私は生まれはノルウェー人だが、精神においてはコズモポリタンだ」という在り方と一致するものだ。『肖像』の最後の日記はその決断と行動の宣言である。自己の周囲、肉親、恋人、友人、師との訣別であり、自己の精神史に一つのピリオドを打ったのである。自己の全存在を生み育ててくれたアイルランドの民族・郷土・宗教・政治と訣別して、大陸の、世界の文化を志向して出発するのだ。Non serviam「我は仕えず」とルシファーが思った瞬間、煉獄の責苦が待ち構えていた。信仰の道を棄てたジョイスはみずから堕天使ルシファーとなったのである。人間の「巧智」の工夫を凝らした創造の翼をかって太陽へ向かい飛翔したダエダルス、それはジョイス自身であった。『肖像』の中で長々と地獄の説教がつづく。恐るべき地獄の描写であり、まさに一家をなした堂々たる説教の見事な文体である。「我は仕えず」と悪魔《ルシファー》の誓いをしたものは、永劫の煉獄の火に焼かれる。「ノラの人、ブルーノ」(最後の日記中にあり)は、パンと葡萄酒とが聖体に変化《へんげ》することを、またマリアの処女懐胎を信じなかった背教の故に、火焙《ひあぶ》りの刑に処せられた。ジョイスもまた背教の道を選んだのである。少しでも自己の理解できないことには妥協できず、些少のごまかしをも厳しく斥け、開かれた宗門に入らず、みずから「追放」と「孤独」を選び、芸術の殉教者となる運命のもとに、信じる芸術の世界へ向かって飛翔し去ったのであった。
先に地獄の説教を堂々たる見事な説教文体と言ったが、この作品全体を見ると、幼年、少年、青年へとスティーヴンの生長につれて、スタイルも変化をたどっているのに気づく。つまり幼年期の平易なスタイルから、スティーヴンの精神内容が複雑化するに従い難しいスタイルヘと変化しているのである。訳文において少しでもその変化を伝えたいと思って試みたつもりであるが、原文を読むにしくはない。
ジョイスの諸作品は、周知のとおり、「巧智」の限りをつくし、周到緻密な計画の下に連関させてある。『ダブリン人』『若き日の芸術家の肖像』『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウエイク』とつらなり、しかも詩集「室内楽」と、戯曲「追放人」もまたそれらにつながりを持つ。これらがすべてダブリンという一都市に場所を限定され、いずれもダブリンを扱っているという形而下的連関を言うのではない。とにかく、『ユリシーズ』の中に現われる多数の人物の中で、『ダブリン人』と『肖像』にも登場している(中には名前のみしか現われないのもあるが)人物が二十五人にのぼっているという。また、『ユリシーズ』の第二部第九挿話では『肖像』の第五章を連想させる要素が濃い。さらにまた、スティーヴンは、復活祭のミサに出るようにとの母のせつなる願いを拒否したことを友人クランリに打ち明け、そして突如として故郷を去る決心をする。この拒否は明らかにスティーヴンの――ジョイスの――人生の重大な転機になっているのだ。そしてこの拒否が一つの強迫観念のごとく『ユリシーズ』のスティーヴンを圧迫しつづける。
青年の悩める魂をあつかった英語文学の中で、『肖像』は最高傑作の一つだと誰か言ったと記憶するが、ここでわれわれは、ハリイ・レヴィン氏も指摘しているように、同じ主題をあつかったD・H・ロレンスの『息子と恋人』を直ちに思い起こすであろう。二十世紀前半のイギリスが生んだ現代文学の二大巨峰ともいうべきこの二人が、偶然にもほとんど時を同じくして、青年期の自叙伝的小説を書いているという事実はまことに興味深い。この両作品は基本的ないくつかの類似点を持ちながらも、比較することはほとんど無駄なくらいに異質の文学である。ジョイスの文学の師匠ともいうべきフロベールにも青年をあつかった『感情教育』がある。これまた前記二作品とは異なるが、しかし併せて読み返すといっそう興味深い。
最後に私の訳について、蛇足ながら二、三説明を加えておきたい。アイルランドは「北部」を除き、完全なカトリック教国である。この宗教問題が作品では重要な役割を持っている。作品中に出てくるいっさいのキリスト教関係の事項、祈祷文、聖句、聖歌等はすべて、わが国のカトリック教会の用語に従って統一を試みたつもりであるが、ときにふつうの用語を用いた個所もある。例えば「天主」と「神」という二様の語を用いたりした。カトリック用語については、小林珍雄氏の「キリスト教用語辞典』の他に、『カトリック大辞典』『弥撒典書』『公教会祈祷文』その他に拠った。なお不明の引用、事項等については、右の小林先生ならびに、同じく上智大学のチト・チーグレル神父から親しくご教示を頂いた。ことにチーグレル神父からは多くの貴重なご教示にあずかり、従来不明であった部分をいくつか註として明らかにし得たのは、私にとり望外の幸福であり感謝であった。例えば第三章第二節の地獄の説教中、「伝道之書、第七章第四十節からの言葉」とあるが、これは伝道之書ではなく、集会之書の同章同節にある聖句であると教えられた。原文の誤植かとも思い、いくつかの新旧の版を照合してみたが、いずれも前者になっているので、結局ジョイスの書き誤りかと思う。また、最後の日記中の「ラテン門外の聖ヨハネ」に私もまた「惑わされた」のであり、仏訳でも不明であったのだが、神父のご教示のおかげで一応の註をつけ得た。一応のと言ったのは、作者ジョイスが果してこの事を指したのかどうか、決定しかねるからである。
なお、つまらないことだが、クロンゴウズ、ベルヴィディア両校における学級を示す訳文の数字が原文と違えてあるが、これは学級の序列が原文のままでは私たち日本人にはピンとこないので、両校の学級組織を調べた上、それを日本式に当てはめて直してみたからである。