ダブリン人
ジェームズ・ジョイス/飯島淳秀訳
目 次
姉妹
遭遇
アラビイ
イーヴリン
競争の後
二人のよた者
下宿屋
小さな影
似たもの同士
痛ましい事件
委員室の蔦《つた》の日
母親
恩寵
死せるもの
解説
[#改ページ]
姉妹
彼も今度は絶望だった。三度目の卒中だったから。夜ごと、ぼくはその家の前を通って(休暇のときだったので)灯りのともった四角い窓のようすをうかがった。毎夜それは少しも変わりなく、弱々しく、またむらなく照らしだされていた。もし彼が死んだら、暗くしてある日除《ブラインド》に蝋燭の火明りがうつるだろうと思った。というのも、遺骸の枕もとに蝋燭が二本立てられるはずだと知っていたからだ。彼はよくぼくにいっていた。「わたしももう永くはないよ」と。ぼくはその言葉を愚にもつかないことに思っていたのだった。いま、それは本当だったのだと知った。毎夜、窓をじっと見上げるごとに、ぼくは麻痺《パラリシス》という言葉をそっと自分につぶやいてみた。それはいつも、ユークリッド幾何学のノウマンという言葉や公教要理の聖職売買《シモニー》という言葉と同じように、耳に異様にひびくのだった。けれど、いまはそれが何か有害な罪深いものの名のようにひびくのだった。ぼくは恐怖でいっぱいになったが、そのくせもっとそれに近よって、その恐ろしい働きをよく眺めてみたい欲望にかられるのだった。
夕食に廊下へおりてゆくと、コッター爺さんが暖炉にあたりながら煙草をふかしていた。伯母がぼくのオートミールのかゆをよそってくれている間、彼は自分の前の話に戻るとでもいった調子でいった。
「いや、はっきりこうだというわけじゃないのだが……何か変なところがあったよ……あの人には何か薄気味わるいところがあったな。わしの意見をいわしてもらうと……」
彼はパイプをふかし始めた。明らかに自分の意見を頭の中でまとめているのだ。馬鹿爺い! ぼくたちが彼を始めて知った頃は、不純な下等酒精や蒸溜器《じょうりゅうき》の螺旋管《らせんかん》の話をしてくれて、少しは彼もおもしろかった。けれどもすぐにぼくは、彼にも、また蒸留酒製造場のだらだらした長話にも、あきてしまった。
「わしはそれについては、わしなりの考えがありますんでな」と彼はいった。「あれもその一つだと思うのじゃが……よくある、あの妙ちきりんな症状だね……どうも説明しにくいが……」
彼はその自分の考えをのべずに、またもパイプをふかしだした。伯父はぼくがにらみつけているのを見て、言葉をかけた。
「実はな、お前の永のお友達が亡くなったのだよ。と聞くとお前も悲しいだろうが」
「フリン神父さんだよ」
「あの方が亡くなったの?」
「こちらのコッターさんからいまうかがったんだよ。お宅の前を通りかかられたんだ」
ぼくは自分が観察されているのがわかった。だから、さもその知らせになんの興味もないような顔付をして、たべつづけていた。伯父がコッター爺さんに説明した。
「この子とあの人とはえらい仲良しでしてな、老人はこの子にいろんなことを教えてくれたよ、まったく。この子には大変望みをかけておいでだったそうでな」
「主、かれの霊魂に御慈悲をたれたまえ」伯母が敬虔《けいけん》にいった。
コッター爺さんは暫らくぼくを眺めていた。彼の小さな、じゅず玉のような黒い瞳が、さぐるようにぼくを見ているのを感じたが、ぼくは皿から顔をあげて、彼の好奇心を満足させてやろうとはしなかった。彼はパイプをふかし始め、やがてとうとう無作法に炉格子の中にべっと唾《つば》を吐いた。
「わしじゃったら、自分の子供がああいう人と、むやみやたらに話相手になるのはごめんじゃな」
「それはどういうことでございますの、コッターさん?」と伯母がきいた。
「つまりですな」コッター爺さんはいった。「そういうのは子供にはよくないのじゃ。わしの考えでは子供は同じ年頃の子供同士一緒にかけずりまわって遊ばせることじゃ。そして……わたしの考えは間違っとるかな、ジャック?」
「わたしもその主義ですな」伯父がいった。「子供は子供の分を弁《わきま》えなければいかん。わたしは常々いっておるんですがな、そこにいるあの薔薇十字会員《ロウジクルーシアン》にな、運動をしろって。そうだとも、わたしなんど餓鬼の時分には、冬でも夏でも毎朝、冷水浴をかかしたことがない。それが今もわたしに効いておるのですよ。教育も至極結構で大したもんだが……コッターさんはもしかしたらあの山羊の脚肉を少し召しあがるかもしれないよ」と彼は伯母に向っていい添えた。
「いや、いや、わしなら結構じゃ」コッター爺さんはいった。
伯母は鼠入らずからその料理を取りだして、食卓にだした。
「ですけど、どうして子供によくないとお考えですの、コッターさん?」彼女がきいた。
「子供には悪いね」コッター爺さんはいった。「というのは、子供の心は至極感じやすいものだからな。子供がああいうものを見るとだね、その結果は……」
ぼくはかっとなって思わず叫び声をあげやしないかと、口の中にオートミールをつめこんだ。いやな、赤鼻の馬鹿爺め!
ぼくは遅くなってから、やっと眠りについた。ぼくを子供扱いにしたことでコッター爺さんに腹がたってならなかったが、それでも途中でいいやめた彼の言葉から意味をひきだそうと、いろいろ頭を悩ました。部屋の暗がりの中に、中風病みの重苦しい蒼《あお》ざめた顔がまたも見えたような気がした。ぼくは毛布を頭からひっかぶって、クリスマスのことを考えようとした。だが、蒼ざめた顔はなおもぼくにつきまとった。それはぶつぶつ呟いていた。何かを告白したがっているんだなと、わかった。何か快よい悪徳の世界にぼくの魂が落ちこんでゆくような気がした。と、またもそこに顔が待ちかまえているのだった。それはひくい呟き声でぼくに向って告白し始めた。どうしてたえず微笑を浮かべているのかしら、どうしてあの唇はあんなに唾でぬれているのだろうかと思った。けれどその時、あれは中風で死んだのだったと思いだした。と、彼の聖職売買者としての罪を赦《ゆる》してやるかのように、自分までが弱々しく微笑しているのを感じた。
翌朝、朝食をおえると、ぼくはグレート・ブリテン街の小さな家を見にでかけた。それは「織物販売業」という漠然とした看板のある目立たない店だった。織物販売業といっても主に子供用の毛編靴とか蝙蝠傘《こうもりがさ》類で、普段なら「雨傘張りかえ」という札がいつもウインドにさがっていたものだ。今は鎧戸《よろいど》が上げてないので札は見えなかった。喪章《もしょう》のクレープの花束がリボンで扉のノッカーに結びつけてあった。二人の貧相な女と電報配達夫とが、喪章にピンでとめたカードを読んでいた。ぼくも近よって、読んだ。
[#ここから1字下げ]
一八九五年七月一日
ジェイムズ・フリン師(前ミース街、セントキャサリン教会司祭)享年六十五歳
われの安らかに憩《いこ》わんことを
[#ここで字下げ終わり]
このカードを読むと、彼の死んだということが納得《なっとく》させられ、はたと行止まりにぶつかったような気がして戸惑った。死んでなければ、ぼくは店の奥の小さな暗い部屋にはいりこんでゆき、暖炉のわきの彼の安楽椅子に、大外套にほとんどくるまりこむようにして、腰をすえている彼を見出したろう。たぶん伯母は彼にあげるため、一包のハイ・トースト〔煙草の名〕をぼくに渡していたろう。そしてこのおみやげが、うつけたような仮眠から彼の眼をさましたことであろう。包の中味を彼の黒い嗅ぎ煙草入にあけてやるのは、いつもぼくだった。というのも彼の手の震えがひどすぎて、彼がやると嗅ぎ煙草の半分を床にこぼしてしまうにきまっていたからだ。あの大きな震える手を鼻へもってゆく間にも、指の間から小さな煙のように、煙草の粉が彼の外套の前にぱらぱらこぼれ落ちるのだった。彼の古めかしい僧服が蒼然《そうぜん》と色|褪《あ》せて見えるようになったのも、このようにたえず嗅ぎ煙草がふりそそぐせいだったのかもしれない。なぜなら、一週間分の嗅ぎ煙草の粉のため、いつもそうだったが、黒く汚れ、しかもそれで落ちた粉を払いのけようとしていた赤いハンカチも全然用をなさないからだった。
ぼくは中にはいって彼を見たかったけど、扉をノックする勇気がなかった。ぼくは立ちさって通りの陽の当る側をゆっくりと歩き、通りがかりの店々の飾窓にある派手な広告を残らず読んでいった。自分も、またその日も、なんだか死を悼《いた》む気分にないのが異様に思われ、しかも彼の死によって自分が何かから解き放たれたとでもいうような開放感を心の中に見出して、当惑さえ覚えた。ぼくにはこれが不可解だった。というのも、前夜伯父がいったように、フリン神父はぼくにたくさんのことを教えてくれた人だったからだ。彼はローマのアイルランド神学校に学び、ぼくにラテン語の正しい発音の仕方を教えてくれたのだった。|地下の墓穴《カタコウム》〔初期キリスト教徒の避難所〕やナポレオン・ボナパルトのいろんな話も聞かせてくれたし、またミサの種々の儀式や司祭のきる各種の祭服の意味を説明してもくれた。時々、ぼくにむかって難題をもちかけて、こんな場合には、人はどうすべきか、これこれの罪は大罪か、小罪か、それとも単なるあやまちにすぎないものだろうか、などと質問しては一人悦にいっていた。彼の質問によって、ぼくは、それまでごく単純な行為とばかり思っていた教会のある種の慣習が、実は非常に複雑神秘なものであることを知った。聖体や告解室の秘密に対する司祭の義務は、ぼくには非常に重々しいものに思われたので、誰にしろ、よくもそういう義務を負う勇気を見いだせたものだと、驚嘆していたくらいだった。だから、公教会の神父たちが郵便局地名簿のように部厚く、新聞の法律広告のように活字のぎっしり詰った書物を書いて、これらのあらゆる複雑な問題を解明しているのだと、彼が話してくれたときも、ぼくは驚かなかった。こういう問題を考えるとき、ぼくは全然答えられないことがあった。答えられても全く間のぬけた、しどろもどろの答しかできなかった。それに対し、彼はいつもきまって微笑みながら、頭を一二度うなずかせるのだった。時には、ぼくに記憶させておいたミサの応誦をいわせてみることもあった。そして、ぼくがそれを早口に唱えていると、彼はもの思いに沈んだように微笑んで頭をうなずかせては、時折大きな嗅ぎ煙草のかたまりを両方の鼻孔へ代わるがわるおしこんでいた。彼が微笑すると、いつもきまってよごれた大きな歯が現われ、舌が下唇にだらりとつきでた――あれぼくたちがまだ知りあいになりたてで、彼をよく知らなかった時分、気にかかってならない癖だった。
日向《ひなた》を歩きながら、ぼくはコッター爺さんの言葉を思いだし、あの夢の後はどうなったかを思いだそうとつとめた。長い天鵞絨《ビロード》のカーテンや古めかしい型の吊《つ》りランプがあったのを思いだした。ぼくは、どこか風俗習慣のまるで違った、ずっと遠くの国にいるような気がした――ペルシャだろうと思った……だが、この夢の結末は思いだせなかった。
日暮れに伯母はぼくをつれて、お悔《くや》みにいった。日没後だったが、西向きの家々の窓ガラスは、きらきらと茜色《あかねいろ》に輝いた大きな雲の峰を照りかえしていた。ナニーが玄関口に応待に出てきた。大きな声で話しかけるのはこの場合ふさわしくなかったので、伯母はただ握手だけした。この老婦人は相手の意向を問うかのように上の方を差し、伯母がうなずくと、彼女は狭い階段を先に立ち、やっと手摺《てすり》の高さから頭がでる程度にうなだれたまま、とぼとぼと上っていった。最初の踊り場にくると、彼女は立ち止まって、ぼくらに遺骸を安置した部屋の開いている扉口のほうへ進むよう、手まねで促《うな》がした。伯母は入っていった。しかしぼくが入るのをためらっているのを見て、老婦人はぼくにはいるよう、しきりと手まねをくり返した。
ぼくは爪先立って入っていった。日除のレースの端を通して、部屋全体が鈍い金色の光につつまれて、その真中で、蝋燭が蒼ざめた弱々しい炎のように見えた。彼は、納棺《のうかん》されていた。ナニーに従って、ぼくたち三人は、寝台の裾《すそ》のところに跪《ひざまず》いた。ぼくはお祈りをするふりをしていたが、老婦人の呟き声が邪魔になって、考えを集中することができなかった。彼女のスカートのホックがうしろで如何にも不体裁にとめてあるのや、ラシャの靴の踵《かかと》が片方ばかりふみつぶされているのが、ぼくの目についた。老司祭はあすこの棺に入っていても微笑しているのだという空想が、ふと浮かんだ。
だが、違っていた。立ち上って、寝台の枕もとまでいったとき、ぼくは、彼が微笑んでいないのを見た。祭壇に臨むときのように祭服をきて、厳粛なようすで、一杯になって、そこに横たわっていた。そして大きな両の手は聖杯を軽くおさえていた。顔は恐ろしく獰猛《どうもう》で、青白く、がっしりと重々しく、鼻孔はほら穴のように黒々としていた、そして白い柔毛《にこげ》がうすく顔にはえていた。強い香りが部屋にこもっていた――花があったのだ。
ぼくたちは胸に十字を切って、部屋を出た。階下の小さな部屋に行くと、イライザが老司教の肱掛椅子に端然と腰掛けていた。ぼくが片隅にあるいつもの椅子のほうへおそるおそる近よっている間に、ナニーは食器棚のところへ行って、飾壜に入ったシェリー酒とグラスを幾つか持ってきた。彼女はそれらをテーブルの上に並べると、葡萄酒を少しいかがでしょうと、ぼくたちにすすめた。それから、姉のいいつけで、彼女はシェリー酒をグラスにそれぞれついで、ぼくたちに廻してよこした。ぼくはクリーム・クラッカーも取るように、しきりとすすめられたが、たべるときにひどく大きな音をたてそうだったので、断った。彼女は、ぼくの断ったのに何となくがっかりしたようすだった。そして静かに姉の後のソファーへ行って腰をかけた。誰一人、口をきかなかった。――ぼくらは皆、空っぽの暖炉をじっとみつめていた。
伯母はじっとだまっていたが、イライザが溜息をついた時、やっと口を開いた。
「ほんとうに、あの方もとうとうあの世へいっておしまいになりましたね」
イライザはあらためて溜息をつくと、うなずいてみせた。伯母はグラスの脚を指先でなでてから、少しばかりすすった。
「御臨終は……おだやかに?」彼女はたずねた。
「ええ、そりゃとても静かでございました」イライザはいった。「いつ息をひき取ったかわからないほどでした。美しい死に方でございました。おかげさまで」
「で、何もかもすっかり……?」
「オウローク神父さまが火曜日にいらして下さり、終油もすませて、すっかり用意をととのえて下さいましたので」
「じゃ、御自分でも覚悟はされてたんですのね?」
「本人もすっかりあきらめておりました」
「本当にあきらめきった御様子ですね」
「湯灌をしにきてもらったおばさんもそう申しておりました。まるで本当にお寝《やす》みになってらっしゃるようです、それほど静かに、あきらめきったお顔です、といっておりました。あんなに美しい亡骸《なきがら》になろうとは、誰も思いませんでした」
「ほんとうにねえ」伯母はいった
グラスからまた少しすすると、彼女は語をついだ。
「でもねえ、フリンさん、何といっても、できるだけのことはつくしておあげになったと思えば、それがせめてもの慰めになりますわ。お二人とも、ほんとうに親切にしておあげになったんですもの」
イライザは洋服のひざのところをなでつけていた。
「ああ、ジェイムズも本当に可哀いそうに!」彼女はいった。「この通り貧乏ですけど、私たちができるだけのことをしたのは天主様も御存知です――存命中はあの人に不自由な思いをさせたくありませんでしたから」
ナニーはソファーの枕に頭をもたせていまにも眠りこみそうに見えた。
「ナニーも気の毒です」とイライザは言った。「すっかり疲れきっているんです。何から何までしたんですのよ、あのひととあたしとで、湯灌をつかわせるおばさんを雇うと、今度は、納棺の準備、そして納棺がすむと、礼拝堂でのミサの手はずをきめたりしました。オウローク神父さんがいて下さらなかったら、どんなことをしたやら、しれませんわ。あの花を持ってきて下すったのも、礼拝堂からあの二つの燭台をもってきて下すったのも、『フリーマンズ・ジェネラル』〔新聞の名〕に広告を書いて出して下すったのも、それから、墓地や亡くなったジェイムズの保険の書類もすっかり引受けて下すったのも、みんなあの方だったんですの」
「それはそれは御親切なことでしたわね」と伯母はいった。
イライザは両の眼をじっと閉じて、静かに頭をふった。
「本当に、昔からお友達ほどいいものはございません」と彼女はいった。「何のかのといったり、したりしても、死んでからまで頼りになるお友達はいないものですね」
「全く、その通りですわ」伯母がいった。「永遠の報いへ行かれてしまいましたからは、あなた方のつくしておあげになった御親切を、あの方が決して忘れられるわけがありませんわ」
「ああ、ジェイムズも可哀そうに!」イライザはいった。「あの人は大して世話のやけぬほうでした。今と同じように、家にいても、ことりとも音をたてませんでした、それでも、やっぱし、あの人はいなくなったのです。死んでしまったのです……」
「すっかり片がつきますと、改めてあの方のおいでにならないのがお寂しくなりますね」と伯母はいった。
「そうなんですの」イライザは言った。「もう肉汁のスープをカップに入れてあの人にもっていってあげることもなくなりますし、奥様も嗅ぎ煙草をお贈りになることもなくなるのですわね。ああ、ジェイムズが可哀そうです!」
彼女はふっと口をつぐんだ。そしてあたかも過ぎ去った日のことを思いかえすかのようにしていたが、やがて、きびしい口調でいった。
「実は、近頃どうもあの人に変なところが見受けられたんですの。私がスープをもっていくたびに、あの人は聖務日課書を床《ゆか》に落としたまま椅子にのけぞって、ぽかんと口をあけていたんですのよ」
彼女は指を一本鼻におさえつけて、まゆをひそめた。やがて再び彼女はつづけた。
「そのくせ、夏が終わらないうちに一日、馬車を駆って私たち皆の生まれたアイリッシュ・タウンの昔の家をもう一度ちょっと見てくるんだ、そして、私もナニーも一緒につれていくのだと、絶えず口ぐせのようにいっておりました。オウローク神父さんがお話しになってましたあの音のしない新式の馬車、中気入《リューマチツク》〔ニューマティク(空気入り)という語を言い違えたもの〕車輪のついているとかいうあの馬車を一台――あそこのジョニー・ラッシュの店ででも一日安く借りられて、日曜の夕方にでも、三人そろってそれを駆って出られたらっていっておりました。自分ではすっかりその気になっておりましたのに……本当にジェイムズも可哀そうに!」
「主よ、かれの霊魂に御慈悲を垂れたまえ」伯母はいった。
イライザはハンカチを取りだして、眼をぬぐった。それから、再びそれをもとのポケットにしまって、しばらくの間、じっと空っぽの炉格子をみつめたまま、何もいわなかった。
「あの人は平生、あんまりきちょうめんすぎたのです」彼女はいった。「司祭のお務めは、あの人には負担が重すぎたのです。それに、ままならぬ一生だったとでも申しましょうか」
「そうですね」伯母はいった。「不遇なお方でした。誰にもそう見えましたもの」
沈黙が小さな部屋を領した。その隙に、ぼくはそっとテーブルに近寄ってシェリー酒を味わった。そして静かにまた片隅の椅子にもどった。イライザはじっと深い幻想に落ちいっているかに見えた。ぼくたちは、彼女が沈黙を破るのを、遠慮して待っていた。長い間をおいてから、彼女はぽつり、ぽつりと話した。
「あの人がこわしたのはあの聖杯だったのですよ……あれがそもそものつまずきでした。むろん、皆さんは何でもなかったって、おっしゃって下さるんですけどね。つまり、聖杯に何も入ってなかったわけなんですよ。ですけど、やっぱり……侍者のやった間違いだったとかだそうですけど。それにしても、可哀そうにジェイムズはとても苦にしておりましたよ。主よ、御慈悲を垂れたまえ!」
「そうだったのですか」と伯母はいった。「私もちょっと聞いておりましたが……」
イライザはうなずいた。
「そのことが心にこたえたのでございますね」彼女はいった。「あれからというもの、すっかりふさぎこんでしまって、誰とも口をきかずに、一人でぶらぶらと歩き廻るようになったのです。で、ある晩など、来てもらいたいからと呼ばれたのですが、どこを探してもあの人はみつからないのです。皆さん、あちこちとくまなく探してみたのですけど、やっぱりどこにも影も形もみえないのです。そうしましたら、書記の方が礼拝堂を探してみたらといいだされて鍵をとってきて、礼拝堂をあけて、書記の方とオウローク神父さんと居あわせたもう一人の司祭の方とで、灯りをもってあの人を探されたんだそうです……すると、まあ、どうでしょう、そこにいたんでございますよ、一人ぽつんと、告解室のくらがりにきちんと坐りこんで、かっと目をむいて、一人でうす笑いのようなものをうかべてたというのです」
彼女はここでふと、耳を澄ますかのようにだまりこんでしまった。ぼくも、じっと耳を澄ましてみた。が、家の中はもの音一つきこえなかった。と、ぼくは、さっき皆で見た通りに、老司教が死んで、厳粛にしかも恐ろしい顔付をして、ただいたずらに胸の上に聖杯をのせたまま、棺《ひつぎ》の中にじっと横たわっているのだと知った。
イライザはまた語りだした。
「かっと目を開いて、一人で笑っているような顔付きをして……それだものですから、むろん、皆さんはそれをみてから、どうもあの人はなんだか変なのでないかと考えるようになったのです……」
[#改ページ]
遭遇
≪未開の西部≫〔開拓時代のアメリカ西部地方〕をぼくらに初めて教えてくれたのはジョウ・ディランだった。彼は「ユニオン・ジャック」とか「ブラック」とか「ヘイパニイ・マーヴェル」とかのバックナンバーからなっている、ささやかな蔵書を持っていた。放課後、毎夕、ぼくらは彼の家の裏庭に勢ぞろいして、インディアンの戦争ごっごの作戦をねった。ディランと、彼の弟のリオウという怠け者の太っちょの二人が厩《うまや》の二階を守備し、ぼくらはそれを強襲して奪取しようとするのだ。さもなければ、原っぱで正々堂々と決戦をいどむのであった。しかし、どんなに興奮しても、包囲攻撃にも交戦にもぼくらは一度も勝てなかった。勝負はいつもきまって、ジョウ・ディランの戦勝踊りで幕になった。彼の両親は毎朝、ガーディナー街の八時のミサに出かけていたが、ディラン夫人のふりまく和《なご》やかな芳香が、家の玄関のホールにしみわたっていた。だのに、息子のほうは、年下のずっと気弱なぼくらには乱暴すぎるくらいの遊びぶりだった。彼が、使い古しの急須《きゅうす》カバー〔茶がさめぬよう急須を入れる綿入りの袋〕を頭にひっかぶって、拳固でブリキ缶をひっぱたきながら、
「ヤア! ヤーカ、ヤーカ、ヤーカ!」
とわめいて、庭をはね廻っているときなど、どこかインディアンじみていた。
彼が聖職につけとの召命を受けたと報ぜられたとき、誰も本気にしなかった。しかし、それは嘘ではなかった。
不服従の精神がぼくらの間にはびこっていた。教養や体質の相違はすべて、この精神の名の下に無視された。ぼくらは一つに結束した、ある物は英雄気分で、ある者はふざけ半分に、またある者はほとんど恐怖をおぼえながら。ぼくは、この最後の連中――勉強きちがいだとか、元気がないなどと見られるのがいやなばかりに渋々参加したインディアン――の一人であった。≪未開の西部≫文学に出てくる冒険の数々は、ぼくの性質とはおよそ縁遠いものだったが、少なくとも逃げ口だけは開けてくれた。ぼくには、粗野でおてんばの美少女たちが時々廻覧しているアメリカの探偵小説などのほうが気にいっていた。これらの小説類には、どこといって悪いところがあるわけでもなく、作品の意図も時には文学的なものもあったのだが、それらは授業中こっそり廻覧されていた。と、ある日、バトラー神父さんがローマ史の四頁分を復習して質問している時に、要領の悪いリオウ・ディランが「ヘイパニイ・マーヴェル」を一冊もっているとこを発見されてしまった。
「この頁か? こっちの頁か? ここか? さあ、ディラン立って! 『夜のあ……』……続けて! 夜がどうした? 『夜あけそめし朝まだき』……さらってきたのか? 何だ、そのポケットに入れとるものは?」
リオウ・ディランがその雑誌をさしだした時、皆の心臓はドキドキ動悸《どうき》を打った。それでも皆、何食わぬ顔をしていた。パトラー神父さんは、むずかしい顔をして、頁をめくっていた。
「何だね、この下らんものは?」彼はいった。「アパッチ族の酋長《しゅうちょう》! ローマ史の勉強もせんで、こんなものを読んどったのか? こういう下らんものは以後学校へ持って来ちゃいかんぞ。こういうものを書く奴は、きっと、飲み代稼《しろかせ》ぎに書いとるへっぽこ文士だろう。君らのように教育をちゃんと受けた生徒がこんなものを読んどるとは、あきれるね。仮に君らが……公立学校《ナショナル・スクール》の生徒だというのなら話もわかるが。よろしいか、ディラン、しっかと注意しておくぞ、一生懸命勉強をするんだぞ、さもないと……」
厳粛な授業中のこの叱責《しっせき》で、ぼくにとって、≪未開の西部≫の大部分の華々しさがあせてしまい、リオウ・ディランのあのふっくらした顔がまごついているのを見て、いささか良心の目ざめるのを覚えた。だが学校の束縛的な力から遠ざかると、またしてもぼくは荒々しい昂奮やあの乱暴極まる物語によってしか得られないような逃避を、しきりと追い求め始めていた。夕方の戦争ごっこも、しまいには型にはまった午前中の課業同様、ぼくにはとても退屈に思われてきた。というのも、実はほんものの冒険がぼく自身に起ってくれることを願っていたからだ。けれどよく考えてみると、ほんものの冒険は、家にじっとしているような人には起こりっこない、それは外に求めるべきものだった。
夏休みも間近にせまったころ、ぼくは、せめて一日だけでも、あのうんざりする学校生活から逃げだしてみようと決心した。そこで、リオウ・ディランとマーニイという名の少年と一緒に一日ずる休みを計画した。ぼくらは銘々《めいめい》六ペンスをためこんだ。ぼくらは朝十時に運河橋《カナル・ブリッジ》で落ち合うことにした。マーニイは姉さんに欠席届を書いてもらうこと、リオウ・ディランは兄さんに病気だと言ってもらうことになった。ぼくらは|浅橋通り《ウォーフ・ロード》を船のあるところまで行き、それから渡し船で向こう側へ渡り、そこから歩いて鳩小屋《ピジョン・ハウス》〔ダブリン湾に突き出た昔のピジョン・ハウス砦。現在はダブリン市の発電所がある〕を見に行くことに決めた。リオウ・ディランはしきりと、学校の外でバトラー神父さんか誰かに会わないだろうかと心配した、が、マーニイが心得顔に、バトラー神父さんがわざわざ、鳩小屋なんかに何の用があって行くんだ、ときき返した。ぼくらは安心した。そこで、ぼくは二人からそれぞれ六ペンスを集め、同時にぼくの分の六ペンスも皆に見せて計画の第一段階を終えた。前の晩に、最後の準備をしていたときは、ぼくらはみな何となくわくわくしていた。笑いながら、互いに握手をかわすと、マーニイがいった。
「兄弟、じゃ明日また!」
その夜ぼくはおちおち眠れなかった。
朝になると、一番近くにすんでいたので、ぼくはいの一番に橋のところへ行っていた。滅多に人のやってこない庭の隅にある灰捨場の近くの深い草むらの中に教科書をかくして、運河堤を急いでいった。それは六月の第一週、ある穏やかな晴れた朝だった。ぼくは橋の笠石の上にきちんと腰掛け、前の晩一生懸命パイプ白土を塗りこんでおいた華車《きゃしゃ》なズック靴をうっとりと見つめたり、いっぱい勤め人を乗せた鉄道馬車を馬がおとなしく引いて丘を上ってくるのをじっと見ていたりした。遊歩道に沿った高い並木の枝々は、どれもこれもはなやかに淡い緑色の若葉をつけていた。そして、日光は若葉の間をくぐって、斜めに水面に落ちていた。橋の御影石《みかげいし》は段々温かくなってきた。ぼくは頭の中に浮かんでくる節の拍子にあわせて、御影石を両手で軽く叩き始めた。ぼくはとても幸福だった。
ぼくが、そこに五分か十分も腰掛けていると、マーニイの鼠色の服の近づいてくるのが見えた。彼は笑いながら、丘をあがって、橋のぼくのとなりによじ登ってきた。ぼくらが待っている間、彼は内ポケットからはみだしていたぱちんこを取りだして、自分でそれの改良を加えた点を説明してくれた。ぼくが、なぜそんなものを持ってきたのだときくと、鳥どもを少しいじめてやろうと思って持ってきたのだ、というのだった。マーニイはさかんに俗語をつかった。バトラー神父さんのことをバンサー爺いといったりした。ぼくらは、更に十五分待ってみたが、いっこうにリオウ・ディランのくる様子はなかった。マーニイはとうとう下に飛びおりると、いった。
「行こう。でぶの奴、おじ気づくと思っていたよ」
「でも奴の六ペンスは……」ぼくはいった。
「そいつあ罰金だ」とマーニイはいった。「それだけ俺たちにはとくちんしたってことよ――|いっこ(一シリング)のところが|いっこ半(一シリング六ペンス)ってわけさ」
ぼくらはノース・ストランド通りを歩いて、硫酸塩工場《ヴィトリアル・ワークス》のところまできて、そこから、浅橋通りを右へ曲った。人目につかないところにくるやいなや、マーニイはさっそくインディアンの真似《まね》をはじめた。彼はゥらのぱちんこをふりまわしながら、うすぎたない女の子の一団を追っかけまわし、それに対し、ぼろ服の男の子が二人、男気をだしてぼくらに石を投げだすと、今度は二人して、奴らをやっつけようといいだした。ぼくは、小僧達が小さすぎるからといって反対した。そこでぼくらがまた歩きだすと、このぼろ服の坊主たちは、浅黒い顔をしたマーニイが帽子にクリケット・クラブの銀のバッジをつけていたとこから、ぼくらを新教徒《プロテスタント》だと思って、金切声で「スウォドラー! スウォドラー!」〔アイルランドのカトリック教徒間で用いられるメソジスト教徒のあだ名〕と後からはやしたててきた。ぼくらは|火のし丘《スムージング・アイアン》まで来た時、包囲攻撃を企てたが、せめて三人はいなくてはならなかったので、それは失敗だった。ぼくらはリオウ・ディランの奴はなんていくじなしなんだろう、といってみたり、三時にはライアン先生からいくつくらいむちを頂戴するかな、と想像してみたりして、彼に対する腹いせをした。
やがて、ぼくらは河の近くにやって来た。片側に高い石塀のある騒々しい街路を歩きまわり、起重機やエンジンの動くのを見物して、立ち止って動かずにいるところを、たくさん荷物をつみこんだ荷馬車の馭者に度々どなりつけられたりして、長い時間をつぶした。浅橋についたときには正午だった。人夫たちはみんな中食をとっているところらしかったので、ぼくらも乾葡萄《ほしぶどう》の入った大きな菓子パンを二つ買い、河岸の鉄管に腰掛けてそれを喰べた。ダブリンの盛んな通商景観を一望の下におさめることができた――もくもくとうず巻く煙で遠くからそれとわかるはしけ、リングズエンドの向こうにみえる褐色の漁船団、向い側の埠頭《ふとう》に荷揚げ中の大型の白い帆船。マーニイは、ああいう大きな船のどれか一つに乗って、海へ逃げだしたらさぞ痛快なことだろう、といった。高いマストを見ていると、ぼくでも、学校で貧弱な知識をつめこまれてきた地理が、徐々に具体性を伴って、目の前に見えてきたというか、想像されてきた。学校も家庭も、ぼくらから遠方へ退いて、その支配力もまた弱まっていくように思われた。
ぼくらははしけ代を払うと、二人の労働者と鞄をもった小柄なユダヤ人の一人と同行で、渡し船でリフィ河を渡った。ぼくらは厳粛なほどに真面目くさっていた。が、この短い船旅の間に、一度お互の眼があうと、ぼくらはふきだしてしまった。岸に上ると、さっき向う側の埠頭から見ていた美しい三本マストの帆船が荷揚げするのを見物した。あれはノルウェー船だ、と側に立っていた誰かがいった。ぼくは船尾のほうへ廻って行き、そこに書いてある船銘を判読してみた。けれども、それが判読できなかったので、引き返して、今度は、異国の水夫たちをたんねんに見てまわり、緑色の眼をした者がいるかどうかと探してみた。というのも、ぼくは何か考え違いをしていたからだ……水夫たちの眼は、青や、灰色だった。黒いのまであった、ただ一人、緑色の眼だといえそうな水夫は背の高い男で、厚い板材が下りてくるたびに上機嫌で、
「オーライ! オーライ!」
と大声でどなっては、浅橋の群衆を笑わせていた。
この見物に飽きると、ぼくらはのろのろとリングズエンドへぶらついて行った。じりじりと焼けつくような暑い日になってきた。食料品店のウインドの中のビスケットが黴《か》びて白っぽくなっていた。ぼくらはビスケットとチョコレートを少しばかり買いこんで、そいつをせっせと喰いながら、漁師の家族たちが住んでいるむさ苦しい通りをぶらぶら抜けていった。牛乳店が一軒も見つからなかったので、呼売りの商人の店へ行って、きいちごのレモン水を一本ずつ買った。これで元気づいたマーニイが、猫を路地に追い込んだ、が、猫はまんまと、広い原っぱへ逃げてしまった。二人共いささか疲れを覚えてきたので、原っぱに来ると、直ぐさま、その端の向うにドッダー河の見える坂になった土手へ向って進んでいった。
もう時間もかなり遅く、おまけにひどく疲れてしまったので、予定の≪鳩小屋≫訪問を果せそうもなかった。冒険が露見しないためには、ほくらは四時間前に帰宅していなければならなかったのだ。マーニイは残念そうに彼のぱちんこを見やった。ぼくは、彼が多少でも元気を取りもどさないうちに、汽車で家へ帰ろうと提案する必要があった。太陽は雲のうしろにかくれてしまい、とり残されたぼくらには疲れきった思いと、かけらほどの食糧があるのみだった。
原っぱにはぼくらの他に誰もいなかった。口もきかずに暫く土手の上に寝ころんでいると、原っぱの向う外れから一人の男が近づいてくるのが見えた。ぼくは、よく女の子が運勢占いをやるあの緑色の茎《くき》を一本かみながら、その男をぼんやりと見つめていた。彼は土手づたいにこちらへゆっくりとやってきた。一方の手を腰にあてて歩いていた。もう一方の手には、ステッキを持って、それで芝土を軽く叩いていた。緑色がかった黒のうすぎたない服を着て、ぼくらがよくお椀帽といっている山の高い帽子をかぶっていた。口ひげがごま塩であったから、かなり年輩のように見えた。彼はぼくらの足の下を通りすぎるとき、こちらをちらっと見上げて、そのまま進んでいった。ぼくらは眼で彼のあとをつけていると、およそ五十歩程も先へいってから、くるりと後返り、いまきた道を引き返しだすのが見えた。始終ステッキで地面を叩きながら、いやにのろのろとぼくらのほうへ歩いて来た。あまりゆっくりしているので、草の中を何か探してでもいるのだろうと、ぼくは思った程だった。
彼はぼくらのところまで上ってくると立ち止って、今日は、といった。ぼくらが挨拶を返すと、彼はゆっくりと、大層注意深く、ぼくらと並んで斜面に腰を下した。彼は天候の話を始めた。今年の夏はひどく暑くなるだろうといって、さらに彼が少年の頃――かなり古い昔のことだが――からみると、季節も随分変化したものだ、といいそえた。彼は人の一生で一番楽しい時は何といっても学校時代だ、わたしも、もう一度、青春時代に返れるものなら、何を犠牲にしてもかまわないと話した。ぼくらをいささかうんざりさせるこういった感慨を彼がのべている間、ぼくらは黙りこくっていた。やがて、彼は学校のことだの書物のことだのを話し始めた。そしてぼくらに、トマス・ムア〔アイルランドの国民詩人。一七七九〜一八五二〕の詩や、サー・ウォルター・スコット〔スコットランドの小説家、詩人。一七七一〜一八三二〕やリットン卿〔英国の通俗作家。一八〇三〜七三〕の作品を読んだことがあるかときいた。ぼくは、彼があげたような本は皆もう読んだような顔をしていたので、しまいに彼はいった。
「ほう、君はわたし同様に本の虫だね。だが」と彼は、眼をまんまるにしてぼくを見つめていたマーニイを指さしていいそえた。「その子は違う。その子は遊ぶほうに熱中しているね」
彼は、家には、サー・ウォルター・スコットの全集も、リットン卿の全集もそろっている、そしてああいう本は読んで飽きるということが決してないものだといった。「むろん」彼はいった。「リットン卿の作品の中には、子供には読めないものもあるがね」マーニイはどうして子供に読めないのかときいたものだ――これは癪《しゃく》にさわる、つらい質問だった。というのはその男がぼくまで、マーニイ同様、馬鹿者だと思いはしまいかと心配になったからだ。男は、しかし、ただ微笑しているだけだった。その口の、黄色くなった歯と歯の間が大きな隙間だらけになっているのをぼくは見た。今度は、彼は、君たちのうちで、誰が一番たくさん恋人を持っているかときいた。マーニイは、ぼくには三人、女の子がいる、と朗らかに答えた。男は、ぼくに向って、君はいく人ある、ときいた。ぼくは一人もいないと答えた。彼は本当にしないで、きっと一人はいるに違いないといった。ぼくは黙っていた。
「それじゃ」とマーニイは男に無遠慮な口をきいた。「おじさん自身は何人あるんだい?」
男はさっきと同じように微笑していたが、君らの年頃には、わたしはおおぜいの恋人を持っていたよ、といった。「どんな少年でも」彼はいった。「小さな恋人をもってるもんだよ」
こういう問題に対する彼の態度が、彼の年配の人のそれにしては、奇異なほど自由なのにぼくはびっくりした。ぼくは、心の中で、少年と恋人について彼のいったことは、もっともだと考えた。けれど、ぼくは彼の口にした言葉が厭だったし、なぜ彼は、まるで何かを恐れてでもいるかのように、あるいは、不意に寒気を覚えでもしたかのように、一、二度、体をふるわせたのだろうかと思った。彼が話を進めてゆくにつれ、彼のアクセントが正しいのに気づいた。彼は、女の子の話をぼくらにし始め、女の子がどんなに大層やわらかい髪をしているかとか、その手はどんなに柔かいかとか、さらにまた、女の子なんて皆、いざ知り合ってみると、見かけほどよくはないものだなどといったりした。若くてきれいな女の子や、そのきれいな白い手や、美しくて柔かな髪の毛を眺めているときほど、わたしの好きなものはない、ともいった。彼は何か心にそらんじてしまったことを繰り返し喋《しゃべ》っているような、あるいはまた、自分自身の口にした言葉に魅《み》せられて、考えが同一の軌道を堂々めぐりしているとでもいったような印象を、ぼくに与えた。彼は時には、まるで誰でも知っていることにただふれてみる、といったような話し方をするかと思うと、また時には声をひそめて、何か他人に立聞きされたくない内密のことを打ちあけてでもいるかのように、わけありげな口のきき方をするのだった。彼は自分の文句を、それに変化をつけ、一本調子の声でぐるりと一めぐりして何度もくり返した。ばくは彼の言葉に耳を傾けながら、じっと斜面の裾のほうを見つめたままでいた。
やや暫くして、彼の独白はとだえた。彼はゆっくりと立ち上って、一分間かそこら、ほんのちょっとの間、失敬しなくてはならないといった。ぼくは視線の方向を変えずに、彼がゆっくりと、ぼくらのところから立ち去って、原っぱの手近な片隅のほうへゆくのを見た。彼がいってしまっても、ぼくらは相変らずおし黙っていた。数分、沈黙が続いた後で、マーニイが叫ぶようにいうのを聞いた。
「おい! 見ろよ、あいつのやってることを!」
ぼくが返事もせず、視線もあげないので、マーニイはもう一度大きな声でいった。
「おい、……あいつ、変な野郎だなあ!」
「もしあいつが、ぼくらの名前をきいたら」とぼくはいった。「君はマーフィ、ぼくはスミスっていうことにしとこうや」
それきり、ぼくらはもうお互いに何もいわなかった。ぼくはなおも、あの男がもどって来て、またぼくらと並んで腰を下したら、ぼくは逃げていってしまおうか、どうしようかと考えていた。彼が腰を下すと、丁度そのとき、マーニイは、さっき逃がしてしまった猫の姿を見つけて、ぱっと立ち上がり、原っぱを真一文字に、猫を追っかけた。男とぼくはその追跡をじっと見ていた。猫は、またも逃げてしまった。マーニイは猫がよじ登っていった塀《へい》に石を投げ始めた。彼はこれもあきらめると、あてもなく、原っぱの向う端をぶらぶら歩き始めた。
しばらくして、男はぼくに話しだした。君の友達はずいぶん乱暴な子だね、といって、あの子は学校じゃよく鞭《むち》で叩かれるかとたずねた。ぼくは憤慨して、ぼくらはおじさんがいうように、鞭なんかで叩かれる公立学校の生徒じゃないと、も少しでいってやるところだった、が、ぼくは黙っていた。彼は男の子をせっかんすることについて話しだした。彼の心はまたもや、自分の話に魅せられたように、この新しい中心のまわりを、ぐるぐるとゆるやかに廻っているかのように思われた。男の子があんな風になったら、鞭で叩かれないとだめだ、うんと鞭をくれてやらなくちゃだめだといった。男の子が乱暴で、始末におえないときは、したたか鞭でぶってやる以外、何をやってもきき目はない。手をぴしゃりと打ったり、横っ面をはりとばすのなんか、全然きき目がない、本当に必要なのは、何といっても、うんと強い鞭をくれてやることだ。ぼくは、こういう意見にびっくりして、思わず彼の顔をちらりと見やった。そうすると、ぴくぴく引きつった額の下から、一対《いっつい》の暗緑色の瞳でぼくをじっとうかがっている、はげしい視線にぶつかった。ぼくはまた眼をそらした。
男は、例の独白をつづけた。彼は、つい今しがたの自由主義《リベラリズム》などはもう忘れ果てたかのようだった。女の子に話しかけたり、女の子を恋人に持つような男の子を見つけでもしたら、思いきり鞭をくれてやる。そしたら女の子に話しかけてはならんことを思い知らされるだろう、と男はいった。また、女の子を恋人に持っているくせに、嘘をつく男の子がいたら、そのときは、世界中のどんな男の子も味わったことがないような鞭をその子に喰わしてやる。この世界の中で、これほどわたしの好きなものはないというのだった。彼は、まるで何か手のこんだ謎でも説明するかのように、そういう男の子にどんな具合に鞭をくれてやるかということを詳《くわ》しくぼくにのべた。わたしは、この世の何よりもこいつが好きでこたえられないのだと彼はいった。その声は、一本調子で、ぼくをその謎の中に引きこんでゆくにつれ、次第に愛情のようなものすらおびてきて、どうか、自分の気持ちをわかってくれと懇願しているようにも思われた。
ぼくは、かれの告白がもう一度止むのを待った。そしていきなり立ち上った。内心の動揺を現わさないようにと、靴をきちんと整えるようなふりをして、ちょっと間をおいてから、もう行かなくてはなりません、といって、男に別れを告げた。ぼくは悠々《ゆうゆう》と斜面を登っていったが、心臓は、彼が後から今にも足音をとらえそうな気がして、早鐘のように動悸をうっていた。斜面の頂きにつくと、振りむいて、男のほうは見ずに、大きな声で原っぱの向うに向って叫んだ。
「マーフィ!」
ぼくの声には無理に元気をつけているような調子があった。けちな策略が恥かしかった。ぼくは、もう一遍その名を呼んだ、すると、マーニイはやっとぼくを見つけて、おーい、と返事をした。彼が原っぱの向うからぼくのほうへ駆けてきたとき、ぼくの心臓はどんなに高なったことか! 彼はまるでぼくを応援にでもくるように走ってきた。ぼくはすまない気がした。というのは、内心ではいつも彼をいささか軽蔑していたからだ。
[#改ページ]
アラビイ
北《ノース》リッチモンド街は行止りになっていたので、クリスチャン兄弟修道会立学校の放課後時以外は、ひっそりとした通りだった。その袋路のどんづまりに、二階建の空家が一軒、近隣から離れて四角な地所に立っていた。通りの他の家々は、その中のかなり立派な生活を意識しているように、褐色の落着きはらった顔つきで互いにじっと見あっていた。
ぼくたちの住んでいる家の、前の住居者だった司祭さんは、奥の客間で亡くなった。長い間、しめきってあったので、黴臭《かびくさ》くなった空気がどの部屋々々にもこもっていた。台所の裏の物置部屋には、古い反故《ほご》紙がちらかっていた。それらの中に、ぼくは、数冊の紙表紙の本を見つけた。本の頁はめくれあがって、じっとり湿っていた――ウォルター・スコットの『僧院長』や、『敬虔なる聖体拝礼者』や、『ヴィドック回顧録』〔フランソワ・ヴィドック、一七七五〜一八五七。フランスの探偵、その著書〕などだった。頁の紙が黄色かったので、ぼくには最後の本が一番気にいった。家の裏手の荒れ放題になっていた庭には、林檎《りんご》の木が一本中央にあって、ぼうぼうとのびた二、三の茂みがあった。その茂みの一つの蔭で、ぼくは死んだ前住者のさびついた自転車の空気入れを見つけた。彼は大変に慈悲深い司祭さんだった。遺言として、所持金はすべて公共団体に、また家財道具は自分の妹に残していったのだった。
冬の日足の短かい頃になると、ぼくらがまだ夕食をおえないうちに、夕闇がたれこめるのだった。ぼくらが通りにおちあう頃には、もう家々は黒ずんでいた。頭上の空のひろがりは、刻々と移り変るすみれ色になり、その空に向って、街燈が弱々しいランタンをかかげていた。冷たい空気が肌をさすようだった。ぼくらは体がかっかと火照《ほて》ってくるまで遊んだ。ひっそりとした通りに、ぼくらの叫び声が響き渡っていった。遊びの道順は、家々の裏の、ぼくらがいつも裏店《うらだな》の荒くれどもの挑戦にぶつかる薄暗いどろんこの路地をかけぬけて、灰捨穴から臭気のたち昇っている薄暗いびしょびしょした庭の裏木戸や、馭者たちが馬に櫛をあてて手入れをしたり、締《し》め金のついた馬具で快よい音を響かせている、薄暗くて臭い厩などにのびていった。通りにもどってくる頃には、地下にある勝手の窓から、灯りが勝手口の石畳一面にさしていた。通りの曲り角を折れてくるぼくの伯父の姿をみつけると、ぼくらは一斉に物陰にかくれこみ、彼がそのまま無事に家に入るのを見とどけるまで、そこをどかなかった。それからまた、マンガンの姉さんが弟をお茶に呼びいれるため、戸口の段のところに現われるときも、ぼくらは物陰から、彼女が通りの左右をじっと見ているようすを窺《うかが》っていた。ぼくらは彼女がそのまま、そこにいるか、内に入ってしまうかをじっと見まもっていて、もし彼女がいつまでもそこに立ったままでいると、ぼくらも諦《あきら》めて物陰から出て、マンガンの家の上り段のほうへ行くのだった。ぼくらを待っている間、彼女の姿は半開きの戸口からさしてくる光で、鮮かに浮きだしていた。弟はいつも彼女をさんざん焦《じ》らして、やっということをきくのだった。ぼくは手摺りのところに突っ立って、彼女を見つめていた。彼女が体を動かすと、洋服が揺れ、やわらかなさげ髪も右、左にゆれ動いた。
毎朝、ぼくは、通りに面した居間の床にねそべって、彼女の家の戸口を見張った。ぼくのほうは見られないように、日除を窓枠から一インチ以内のところまで引きおろしておいた。彼女が戸口の上り段に出てくると、ぼくの心は躍った。ぼくは、玄関のホールに走っていって、教科書を引っ掴《つか》むと、彼女の後を追った。その鳶色《とびいろ》の姿から始終眼をはなさず、二人の道が岐《わか》れるところにさしかかると、歩みを速めて彼女を追いこした。くる朝もくる朝もこのことがくり返された。何げない二言三言以外は、彼女に口をきいたことは一度もなかった。だのに、彼女の名前は、まるで召喚状《しょうかんじょう》のように、ぼくの愚かしい全身の血を呼び集めるのだった。
彼女のまぼろしはロマンスとはおよそ縁遠い場所にまで、ぼくにつきまとった。毎土曜日の夕方、伯母が市に買物に出かけるのにおともして、ぼくは荷物の幾つかをもってあげねばならなかった。ぼくらは、けばけばしい通りをぬけていった。酔っぱらいや買物をねぎる女たち、あるいは労働者たちの悪態、樽詰《たるづめ》の豚の頬肉のそばに立って店番をしながら、金切声で連呼している小僧の声、オドノバン・ロサについての「|みんなおいでよ《カム・オール・ユー》」〔この歌詞で始まるアイルランド又はイングランドの俗謡〕や祖国の動乱を歌った民謡を、鼻にかけて唄う辻音楽師の単調な歌声などでごったがえしていた。こういった騒々しい音も、ぼくにとってはただひたすらに、生きているという昂奮に凝結した。われこそは群がる敵中を無事、わが聖杯を捧げとおした者なるぞ、と想像した。折々、彼女の名が、自分でもわからない奇妙な祈りの言葉や、讃美の言葉となって、ぼくの口をついて出た。眼は幾度となく涙で一杯になった(これもどうしてだか、わからないのだが)、そして時折、心の内からこみあげてくる流れが、堰《せき》を切ったように、どっとばかり胸に溢《あふ》れだしてくるように思われた。未来のことなど、ほとんど考えなかった。いつか彼女に話しかけてみよう、それともよそうか、いや、もし話しかけるとしたら、この思い乱れた慕わしい気持をどう彼女に告げたものだろうか、ぼくには全くわからなかった。けれど、ぼくの体は竪琴《たてごと》、そして、彼女の言葉、身振りは絃《げん》を走る指先のようだった。
ある夕暮れ、ぼくは司祭の亡くなったという奥の居間に入っていった。薄暗い雨降りの夕暮れだった。家の中には、物音一つ聞こえなかった。壊れた窓ガラスの一つを通して、大地にぶつかる雨の音、こまかい水の針がぬれそぼった花壇に絶えずたわむれる音が、聞こえていた。どこか遠いところの街燈か、灯りのともった窓かが、下のほうで光っていた。ほとんど何も見えないのがありがたかった。感覚のすべてが自らを覆《おお》いたがっているように思えた。ぼくは今にも自分が感覚からすりぬけそうになるのを感じつつ、「ああ、恋! ああ、恋!」と、何度となくつぶやきながら、両手の掌がふるえてくるまで互いに強くおしつけていた。
ついに、彼女はぼくに話しかけた。彼女が最初の数語をいいだしたとき、ぼくはひどくとまどって、何と答えていいかわからなかった。ぼくに、≪アラビイ≫にいらっしゃるの、ときいた。それに対して、ええ、と答えたのか、いいえ、と答えたのか忘れてしまった。素敵なバザーでしょうねえ、私も行ってみたいわ、と彼女はいった。
「でも、なぜ行けないの?」ぼくはきいた。
話しながら、彼女は手くびのところで、銀の腕輪をくるくるまわしていた。今週はうちの修道院で静修があるのよ、だから、私、行けないの、と彼女はいった。彼女の弟と他に二人の少年が帽子の取りっこをしていた。ぼくは一人離れて手摺りのところにいた。彼女は頭をぼくのほうにさげ、鉄柵の棒の一本につかまっていた。ぼくの家の戸口の向い側にある街燈の光が彼女のふっくらした白いうなじにあたり、そこにかぶさっている髪の毛をてらしだし、更に下におちて、手摺にかけた手をてらしていた。光は彼女の服の片側にもおちかかって、姿勢を崩して立っているとき、ちらりと見えるペティコートの白い裾をてらしていた。
「あなたは行くといいわ」彼女はいった。
「もし行ったら」ぼくはいった。「ぼく、何かおみやげを買ってきてあげるよ」
その晩以来、何と数限りもない愚かしさが、寝ても、覚めてもぼくの考えを荒しまわったことだろう! バザーまで退屈な日々が、一ぺんにきえてなくなればいいと思った。学校の勉強にはじりじりと焦立った。夜は寝室で、昼は教室で、彼女の面影が、懸命に読もうと努める本と頁とぼくとの間に入りこんできた。アラビイという言葉の綴りの響きは、ぼくの魂が耽っていた静けさをついて、ぼくによびかけ、東洋的な魔力をなげかけた。土曜日の晩にバザーへ行かしてもらいたいと許しをもとめた。伯母はびっくりして、まさかフリーメイスン〔平和と愛を高唱する世界的規模の秘密結社〕のような秘密のことじゃないだろうねといった。授業中の質問にもろくに答えなかった。先生の顔が、温顔からきびしい顔つきへと移っていくのをじっと見ていた。怠けだしたのじゃあるまいね、と先生はいった。自分のとりとめもない考えがどうしてもまとめられなかった。人生の真面目な仕事にはもうほとんど我慢がならなかった。そういうものが自分と自分の欲望との間にはいって邪魔している今は、そんなものは、ぼくにとって子供の遊び、面白くもない単調な子供の遊びとしか思えなかった。
土曜日の朝、ぼくは、今晩バザーへ行きたいのだけれどといって、伯父にもう一度念をおした。伯父は帽子ブラッシを探して、玄関の帽子掛けのところで騒ぎたてていたが、ぼくにはそっけなく、
「ああ、わかっとる、わかっとる」と答えたきりだった。
玄関に伯父がいたので、表の部屋に行って、窓のところに寝そべっているわけにもいかなかった。ぼくは不機嫌な気分で家を出て、のろのろと学校へ向っていった。外気は情け容赦《ようしゃ》もなく冷たかった、そして、もう既にぼくの心は不安でならなかった。
夕食に帰ってみると、伯父はまだ帰ってきていなかった。まだ早かった。ぼくは暫く、時計をじっと見つめて腰を下していたが、時計のかちかちいう音にいらだちを覚えてきて、部屋を出た。階段をのぼって、やっと上にたどりついた。高い、冷たい、がらんとした暗い部屋が気持を楽にしてくれた。部屋から部屋を歌いながら歩きまわった。表に面した窓から、下の通りで友達が遊んでいるのが見えた。彼らの叫び声が弱められ、ぼんやりと聞こえてきた。頬を冷たい窓ガラスに押しつけて、彼女が住んでいる薄暗い家を眺めた。ふっくらしたうなじ、手摺りにかけた手、服の裾へりなどに、街燈の光がつつましやかにさしている鳶色の服を想像で作りだし、ただそればかり見つめて、ぼくは小一時間もそこに佇んでいたらしい。
再び階下におりてくると、マーサー婆さんが暖炉に腰をおろしていた。彼女はおしゃべりな婆さんだった。質屋の後家さんで、何か信心の目的から小切手を集めていた。ぼくはお茶の席の世間話を我慢しなければならなかった。食事を一時間以上ものばしたのに、それでも伯父は帰ってこなかった。マーサー婆さんはおいとまするといって立ち上った。残念だけども、もうこれ以上待っていられない、八時を廻っているし、夜気はわたしの体に毒だから、夜おそく外に出たくないのだ、というのだった。婆さんが行ってしまってから、ぼくは、拳をにぎりしめて、部屋をあちこちと歩きだした。伯母はいった。
「折角の今夜のバザー行きがおじゃんにならなければいいんだけどね」
九時に、伯父が玄関の扉の掛金をはずす音がした。彼が独《ひと》り言《ごと》といったり、外套の重みで帽子掛けのゆれる音などが聞こえた。これらの気配でぼくには察しがついた。彼の食事の中途で、ぼくはバザーに行くお金を下さい、と伯父にたのんだ。彼は忘れてしまっていたのだ。
「世間の人は床について、もう一眠りした頃じゃないか」と彼はいった。
ぼくはにこりともしなかった。伯母は彼に強い口調でいった。
「お金をやって行かしてやったらどうですか。あなたのおかげで、こんなにおそくまで待たされてたんですから」
伯父は忘れてしまって大変すまなかったな、といった。
「勉強ばかりさせて遊ばせないと子供が馬鹿になる」という昔の諺《ことわざ》は、本当だと思うよ、といった。で、どこへ行くんだったけな、ときいた。ぼくがもう一度話すと、伯父は、「おまえ、アラビア人の馬の別れ」〔金に窮して売った愛馬を再び探し求めたが遂に見つからず、発見者に当の馬を与えるといいだした、男の唄物語〕というのを知っているか、ときいた。ぼくが台所を出るとき、伯父はこの唄の初めの文句を伯母に吟じてきかせるところだった。
ぼくは停車場へと、バッキンガム通りを大股で急ぎながら、一フロリン銀貨を手にしっかりと握っていた。買物の人々でごった返し、ガス燈の光で明るく輝いている通りの光景を目にすると、旅行の目的が改めて思い起こされた。がらんとした列車の三等車に席をとった。我慢ならぬほど遅れた末に、やっと汽車はのろのろと停車場から動きだした。廃墟《はいきょ》のような家々の間や、キラキラ光る川の上を這《は》うように進んでいった。ウエストランド・ロウ駅で大勢の人の群が客車の扉口におしかけてきたが、赤帽たちがこれはバザー行きの特別列車だといって彼らをおし返した。がらんとした車にぼくは一人ぽつんと残った。数分して、列車は木造の仮説プラットホームに止った。ぼくは道路に出た。灯りにてらされた時計の文字板を見ると、十時十分前だった。前方に、魔法めいた名前をかかげた大きな建物があった。
六ペンスの入場口がどこにもみつからなかったので、バザーがしまってしまわないかと心配になり、疲れきった顔つきの男に一シリング渡して、廻転《まわり》木戸を大急ぎでぬけた。壁の半分ほどの高さを回廊がぐるっと囲んだ大ホールに入った。売店はもう大抵しまっていて、ホールの大部分は暗くなっていた。礼拝がすんで教会を覆いつつむあの沈黙に似た静けさがあった。ぼくはおずおずバザーの中央に歩いていった。まだ開いている売店のまわりに数人の人がたかっていた。上方に色ランプでカフェ・シャンタンという字を書いた幕の前では、二人の男が盆の上のお金を勘定していた。ぼくは硬貨の落ちる音に耳をすました。
なぜここにきたのかをやっと思いだすと、ぼくは売店の一つに近よって、磁器の花瓶や花模様のついたティー・セットをあれこれとのぞいてみた。売店の扉口で、一人の若い女と二人の若い男とが話しては笑っていた。ぼくは彼らのイングランド訛りに気づいて、聞くともなく彼らの会話を聞いていた。
「まあ、あたし、そんなこと、絶対いわなかったわ!」
「いいや、いった!」
「だって、あたしいわなかったわよ!」
「ねえ、この女《ひと》そういったろう?」
「うん、ぼくも聞いた」
「まあ、嘘ばっかり……いって!」
若い女は、ぼくに気がつくと、こっちへやってきて、何か買物がしたいのかときいた。さも気のなさそうな声の調子だった。お務めで話しかけているふうだった。ぼくは売店の暗い入口の両側に東洋の番兵みたいに突っ立っている大きな壷をおそるおそる眺めて、小声でいった――
「いえ、いいんです」
若い女は花瓶の一つの位置を変えると、二人の青年のところへもどっていった。彼らはまた同じことを話し始めた。一、二度若い女は肩ごしにこっちをちらっと見た。
ぼくは、そこにいつまでいても無駄だと知りつつ、そうすることによって、彼女の店の品物に対するぼくの関心を一層本物らしく見せるために、店の前でぐずぐずしていた。やがて、ゆっくり立ち去って、バザーの中央を離れていった。ポケットの六ペンスの上に一ペニー銅貨を二枚チャリンと落とした。廻廊の端から、灯りが消えるぞ、という叫び声が聞こえた。と、ホールの上のほうはすっかり暗くなった。
暗闇をじっと見上げたとき、ぼくは見栄にかられ、愚弄《ぐろう》された者としての自分の姿が見えた。とぼくの眼は苦悶と怒りに燃えたった。
[#改ページ]
イーヴリン
彼女は窓辺に腰をおろして、夕暮れが並木道に迫ってくるのをじっと見守っていた。頭を窓掛けにもたせかけていると、鼻孔にほこりっぽいクレトン更紗《さらさ》の匂いがした。彼女は疲れていた。
人通りはほとんどなかった。一番外れの家から出てきた男が、家路を指して通っていった。その男がコンクリートの鋪道をコツコツと歩いて行く足音、やがて新築の赤い家々の前の石炭がらの道をざくざくふんでゆく足音が聞こえてきた。かつては、あそこに原っぱがあって、その原っぱでいつも夕方になると、よそのうちの子たちと遊んだものだった。が、その後、ベルファースト〔北アイルランドの首都の海港〕から来た男があの原っぱを買って、そこに家を幾軒か建てた――ここらの小さな褐色の家などとちがって、きらきら光る屋根のある派手な煉瓦造りの家だった。並木道の子供らは皆一緒にあの原っぱで遊んだものだった――ディヴァインのところの子も、ウォーターの家の子も、ダンのところの子も、びっこのキオウ坊も、あたしも、家の弟たち妹たちも。でもアーネストはちっとも遊ばなかった。あの子はもう大人だった。あたしの父さんはよく、りんぼくのステッキを持って、原っぱからみんなを家に追い返したものだった。でも、いつも、キオウ坊が見張りをして、うちの父さんがやってくるのを見つけると大きな声で叫んだものだった。それにしても皆、あのころはかえって幸せだったような気がする。父さんも、あの頃はそんなにひどくなかった。それに母さんも生きていた。あれも、遠い昔のことになってしまった。このあたしも、弟たちや妹たちもみな大きくなってしまった。ティジィ・ダンも死んだ。ウォーターの一家はイングランドへ引きあげていってしまった。何もかも変っていく。そして、あたしも、いま、他の人たちのように、わが家を棄ててゆこうとしているのだ。
わが家! 彼女は部屋を見廻して、自分が、永年の間、週に一回、これだけのほこりが、一体どこからわいてくるのかしらといぶかりながら掃除をしてきた部屋のなじみの品々をひとわたり、改めて眺めやった。恐らく自分でも、引き離されようとは夢にも思ったことのないこのなじみの品々を、もう二度と見ることはないだろう。だのに、この永年の間、とうとうあたしには、あの壊れた足踏みオルガンの上の壁に、聖女マーガレット・メアリ・アラコク〔一六四七〜一六九〇。フランスの修道女にしてイエズスの聖心への奉献の創始者、一九二〇年、列聖される〕にしたお約束の印の色刷りの版画とならべ掛けてある黄色くなった写真の司祭さんの名前がわからずじまいだった。あの方はあたしの父さんの学校友達だった。父さんは家に来られた方にこの写真を見せるたびに、
「今、メルボルンにおりますよ」
といったでたらめのことをいって、それを渡すのだった。
彼女は家をはなれることに、家出をすることに同意してしまった。賢明な処置だったかしら? 彼女は問題の明暗両面を推しはかってみた。ともあれ、家にとどまっていれば寝食にはことかかないですむし、彼女の生活のすべてを知ってくれている人達が周りにいる。むろん、家でも勤め先でも、一生懸命働かなければならない、あたしが男と出奔《しゅっぽん》したことを百貨店の人達が知ったら、あたしのことをなんていうかしら? 多分、ばかな女だというだろう。そして、あたしの持ち場は広告で、補充される。ミス・ギャバンは喜ぶだろう。彼女はいつだって、殊にそば耳をたてている人がいるときにはいつも、あたしにつらく当ったのだから。
「ヒルさん、お客さま方がお待ちじゃありませんか」
「ぐずぐずしないで下さいよ、ヒルさん」
百貨店をやめたって、そんなに悲しいとは思わないだろう。
けれど、新しい家庭では、遠い未知の国では、そうはいくまい。そのときには、あたしも結婚している――このあたし、イーヴリンが。そうしたら世間の人もあたしを尊敬して扱ってくれる。あたしの母さんみたいな扱いはされまい。今ですら、もう十九をこしたというのに、彼女は父親の乱暴に時々身の危険を感じることがある。彼女の胸をどきどきさせたのも、きっとそのためなのだ。皆が大きくなると、父親はハリーやアーネストによくしたように、彼女には決してむかってこなくなった。それも彼女が女の子だからだ。ところが、近頃は彼女をおどして、何でも死んだ母親のせいにして、彼女にいいたい放題のことをいうようになった。今は、あたしをかばってくれる人は一人もいない。アーネストは亡くなったし、教会の装飾を仕事にしているハリーも、大抵いつもどこか田舎のほうに行っていた。おまけに、土曜の夜になると、きまってお金のことでつまらぬいさかいがおこり、それが彼女にはいいようもなくいやでたまらなくなってきた。彼女はいつでも自分の給金は全部――七シリング――渡していたし、ハリーもだせるだけはだしていた。けれど、父親からお金をもらうということで、いざこざがおきるのだ。父親は、彼女がいつもお金を無駄遣いする、お前はちっとも頭を働かさん、わしがせっせとかせいだ金を街にすてるため、お前にやるわけにはいかんとか、もっとひどいこともいうのだ。それというのも、彼は土曜の夜はいつもとてもひどいのだから。結局はお金をくれて、日曜日の正餐の買物でもするつもりかときくのだった。そこで、彼女はできるだけ大急ぎで家をとびだして、買物をしてこなければならなかった。人ごみを肘でおしわけながら、黒い革財布をしっかと手に握り、食料品を一山かかえ、おそくなって帰宅するのだ。彼女は、世帯をきりまわし、彼女の責任にまかされている二人の弟妹をきちんと学校へだしてやり、きまった時間に食事をさせてやるつらい仕事をかかえていた。つらい仕事だった――つらい生活だ――けれど、いざ、それと別れるという今になってみると、それが全部いやな生活であるともいいきれなかった。
彼女は、フランクと一緒に別の生活にふみこもうとしていたのだ。フランクはとても親切で、男らしく、ものにこだわらぬ質《たち》だった。彼と一緒に夜の船で逃げだして、彼の妻になり、ブエノス・アイレスの彼の用意してくれている家で一緒に住むことになっていた。彼と初めて会った時のことを、今でもはっきりと憶えている。あの人はあたしがよく通ったあの本街道の家に下宿していた。つい二、三週間前のことのような気がする。彼はまびさしのついた帽子をあみだにかぶって、赤銅色《しゃくどういろ》の顔に、くしゃくしゃした髪の毛を前にたらして、門のところに立っていた。その時から、あれから二人は知りあう仲になったのだ。彼はいつも夕方に百貨店の外まで彼女を迎えにきて、家まで送って行った。「ボヘミア娘」〔アイルランドの作曲家M・W・バルフの歌劇〕をみに彼女をつれていった時など、彼と一緒に、劇場のいつも坐らないようなところに席をとっていると、彼女はなんだか得意な気持ちになった。彼はとても音楽が好きで歌も少しはうたった。皆は二人が恋しあっているのを知っていたので、彼が水夫を恋い慕う乙女の歌をうたうと、彼女はいつもうれしいような困った気持ちになった。彼はよく彼女のことをふざけてポペンズなどと呼んでいた。何よりもまず、恋人を持つということは、彼女にとって胸のときめくことだった。それから彼が好きになりだした。彼は遠い国々の話などを知っていた。彼は月一ポンドでアラン郵船のカナダ行きの船のデッキ・ボーイから始めたのだ。自分の乗った船の名前だの、いろんな航路の名前を彼女に話してきかせた。マジェラン海峡を通ったこともあり、また恐ろしいパタゴニア種族〔世界中で最も丈が高い種族とされている南米の黒人〕の話などしてきかせた。ブエノスアイレスで運よくいったものだから、ちょっと休暇に、故国にもどって来たのだと彼はいった。むろん、彼女の父親は二人の仲を知って、彼女に男といっさい口をきいてはならぬと禁じてしまった。
「ああいう船乗り連中など知れたもんだ」と父はいった。
ある日、彼はフランクと喧嘩したので、それ以後、彼女は隠れて恋人と会わねばならなくなった。
夕闇が並木路に深まっていった。彼女の膝《ひざ》の上の二通の手紙の白さがぼんやりしてきた。一通はハリーに、もう一通は父に宛てたものだった。アーネストは彼女のお気に入りだったが、ハリーも好きだった。父親が、近頃すっかり年をとってきたのが彼女にはわかっていた。あたしがいなくなったら、父さんもさぞ寂しがることだろう。父さんも、時には、とてもいいときがある。ついこの間もあたしが、一日、病気で伏せっていたとき、父さんは怪談を読んできかせてくれたし、暖炉でトーストを作ってもくれた。まだ母さんが生きてた頃、いつだったか、家中みなして一日ハウスの丘へピクニックにいったことがあった。父さんが、子供たちを笑わすために、母さんのボンネットをかぶったのを憶えている。
時間はどんどんたっていった。だが、彼女は相変らず窓辺に腰をおろして、頭を窓掛けにもたせかけたまま、ほこりっぽいクレトン更紗の匂を吸いこんでいた。並木路のずっと遠くのほうから、辻音楽師のひく手廻し風琴の音が聞こえてきた。彼女はその節を知っていた。なんという不思議なことだろう、あれがこのいよいよという夜にやって来て、母さんにした約束、あたしができる限り長いこと家のことを一切みますから、といった約束を思いださせるなんて。彼女は母の病気の最後の夜を思い出した。今もまた彼女は玄関の向い側のしめきった暗い部屋にいて、外ではイタリアのもの悲しい曲が聞こえている。あの時、風琴ひきはよそへ行けといいつけられて、六ペンスをもらっていった。父が肩を怒らせて、
「仕様のないイタリア人の奴め! こんなところへ来やがって!」
といいながら病室にもどって来たのを思い出した。
もの思いに耽っていると、母の生涯の哀れな幻影が、自分の存在の最も大切な部分に呪文《じゅもん》をかけてきた――最後は発狂で閉じたあの平凡な犠牲の一生涯。またもあのたえず愚かしい程の執拗《しつよう》さでいう母の声が聞こえて、彼女はぞっと身震いした。
「デレヴォーン・セローン! デレヴォーン・セローン」
彼女はふいに恐怖の衝動に襲われて立ち上った。逃げだそう! 逃げださなければいけない! フランクがあたしを救ってくれるだろう。あの人はあたしに人生を、きっと愛も、与えてくれるだろう。とにかく、あたしは生きたいのだ。あたしが不幸でなければならないわけがどこにあろうか。あたしにも幸福の権利がある。フランクがあたしを抱きよせ、しっかと腕の中につつんでくれるだろう。あの人ならあたしを救ってくれる。
彼女はノース・ウォールの停車場の揺れる人並みの中に立っていた。彼が自分の手をつかんで、自分に話しかけているのが、何か渡航のことをしきりと繰返していっているのが、わかった。停車場は褐色の軍用|行李《こうり》を持った兵隊達で一杯だった。倉庫の広い扉口をすかして、埠頭の岸壁に横づけになっている、舷窓に明りのついた真黒い船体がちらりと彼女に見えた。彼女はなんの返事もしなかった。頬が血の気を失って、つめたくなっていくのを覚え、千々に思い迷う心から、あたしを御導き下さい、あたしの義務が何かをお示し下さいと神に祈った。船は長い、もの悲しい汽笛の音を霧の中に鳴らした。このまま行けば、明日は、フランクと一緒にブエノスアイレスを指して海を渡っていることになる。あたしたちの乗船は予約されてある。何もかもフランクがあたしの為にしてくれたのに、今さら、どうしてあたしは引き返すことができようか。苦悩のために吐気を催してきた。無言のひたむきな祈りをとなえて、彼女は唇を動かしつづけた。
さわがしい鐘の音が彼女の胸に鳴りひびいた。彼が手をつかむのを感じた。
「さあ、行こう!」
世界中の海が彼女の胸のあたりを逆巻いた。彼がその怒濤の中に彼女を引きずり込んで行く。あたしを溺らせるつもりだ。彼女はしっかと両手で鉄柵につかまった。
「行こう!」
いや! いや! いや! だめだ。両手は狂ったように鉄柵にしがみついた。海の真唯中で彼女ははげしい苦悶の叫びを放った。
「イーヴリン! イッヴィー!」
彼は柵の向うへ跳びだし、彼女についてくるようによんだ。さっさと行けと怒鳴りつけられながらも、なお彼女によびかけた。彼女はどうしようもない動物のように、ただおとなしく、青白い顔を彼のほうへ向けた。その瞳は彼に、愛も、別れも、感謝も、何のしるしも、あらわしていなかった。
[#改ページ]
競争の後
自動車が幾台もダブリン目指して、ネイス街道〔ネイスはダブリンの南西、キルデア郡の町〕のコースを疾走してきた。インチコアの丘の頂に見物人がわんさとおしよせ、帰路を疾走する自動車を見ていた。この貧困と怠惰の道筋を、「欧州大陸《コンチネント》」がその富と勤勉を駆って通りぬけた。時折、人々の群が感激におしつぶされたような歓呼の声をあげた。もっとも、彼らの同情は、もっぱら青い自動車――彼らの友邦であるフランスの自動車にむけられていたのだ。
それに、フランス人は事実上の勝者だった。彼らのチームは相ついでゴール・インして、二位と三位をしめた。優勝したドイツの自動車の操縦者はベルギー人だと伝わった。だから、青い車が丘の頂にやってくるたびに倍の歓迎を受け、また、その歓迎の喚声が上るたびに、車中の者たちの微笑や会釈《えしゃく》で応えられた。これらのしゃれた造りの自動車の中の一台に、四人の青年の一団が乗っていた。彼らの意気は、あの巧みなフランス語のいい廻しも及ばぬほどに今は意気|颯爽《さっそう》たるふうがあった。事実、これら四人の青年はほとんど浮かれださんばかりであった。四人とは、自動車の持ち主のシャルル・セグアンと、カナダ生れの若い電気技師アンドレ・リヴィエールと、ヴィロナというハンガリー人の大男と、ドイルというしゃれた身なりの青年とであった。セグアンは思いがけなく予約の注文をいくつか得たものだから、上機嫌だった。(彼はパリで自動車会社を始めようとしているところだった)また、リヴィエールも、その会社の支配人を仰せつかることになっていたので上機嫌だった。この二人の若者は、(いとこ同士だったのだが)フランスの車の上首尾にひどく機嫌をよくしていたのだ。ヴィロナも至極満足のゆく昼食をたべたので、上機嫌だった。おまけに彼は生来の楽天家ときていた。ところが、この一団の四人目の青年は、あまりにも昂奮しすぎて、手放しで幸福だなどともいえないありさまだった。
彼は年の頃二十六歳くらい、柔かい淡褐色の口髭をたて、眼は灰色の童眼というところだった。彼の父親は、初め進歩的な国民党員として世に出た人であったが、年へずして、自説を変えてしまった。そこで、キングズタウンで肉屋をして金をもうけ、更にダブリンとその近郊に店を開いて、金を何倍にもふやしてもうけた。また、運よく警察の請負仕事などを獲得して、ついにはダブリンの新聞紙に屈指の豪商とまでいわれる程の金持ちになった。息子をイングランドへやって、大きなカトリックの大学で教育を受けさせ、さらにその後、ダブリン大学へやって法律を学ばせた。ジミーは大して熱心に勉強もせず、一時は横道にそれたりした。金は持っているし、人気もあった。物好きにも、自分の時間をもっぱら音楽仲間と、ドライブの仲間に費した。それから少しは世間を見てこいと、一学期間ケンブリッジへやらされた。父親はいさめながらも、内心は使い過した金高を得意に思って、息子のつけを払って、彼を家につれ戻したのである。彼がセグアンと知りあったのはケンブリッジにいた時のことだ。彼はこれまでのところ、せいぜい知りあいという程度のところであったが、世間もさんざん見ており、フランスでも最大のホテルのいくつかを持っているという噂のある人と交際することが、ジミーには非常にうれしかった。こういう人物は、(彼の父も同感の意を表したように)たとえセグアンのように愉快な仲間でなくても、充分知りあっておく価値のある人物であった。ヴィロナも愉快な男で――優れたピアニストだった――が、残念なことには、ひどく貧乏だった。
車は陽気な青年たちを乗せて楽しげに走りつづけた。二人のいとこは前の席に坐り、ジミーと彼のハンガリー人の友人は後部に坐っていた。確かに、ヴィロナが一番はしゃいでいた。何マイルもの道を太いバスの声で鼻唄をうたいつづけていたのである。フランス人たちは哄笑や軽口を肩越しに投げとばしていた。ジミーはしょっちゅう、その早口の言葉を聞きのがすまいと、前に気を配っていなければならなかった。これは彼にとってはそう愉快なことでもなかった。というのも、その意味を巧みに推測して、適当な返事をはげしい風に逆って、ほとんどのべつに、どなり返さねばならなかったからだ。おまけに、ヴィロナの鼻唄が皆を混乱させるし、自動車の騒音もまたうるさかった。
空間を快速力で疾走するのは人の気分を昂奮させるものだ。名声が上るのもそうである。また、金を持っていることもそうである。これらが、ジミーの昂奮の三大理由であった。彼はこの日多くの友人たちから、これら欧州大陸の連中の一団に加わっているのを見られたのだ。競争参加の自動車の車体検査所で、セグアンは彼をフランス選手の一人に紹介してくれた。そして彼がまごついて、挨拶を口の中でつぶやいていると、それに答えて、操縦者は浅黒い顔をほころばせて、白くきらきら光る歯を見せた。そういう光栄の後で、互いに袖引き目引きしながら、意味あり気な目くばせをしている観衆の卑俗な世界へ戻ってゆくのは愉快だった。それから金のほうも――実は、彼の自由になる莫大な額があったのだ。恐らくセグアンだったらそれを莫大だとも思わないだろうが、ジミーは、一時横道にそれたとはいえ、根は親の手がたい性分をうけついでいる者であったから、どんなに苦労をしてそれだけの金をあつめたかは、よく承知していた。こういうことがわかっていたので、以前に無茶をやっても、適当な範囲内に≪つけ≫の額をとめていたのである。もっと高尚な知的の酔狂だけが問題であったあの頃でも、金にひそむ苦労がこれほどわかっていたとするなら、今、自分の資産の大半を賭《か》けようとしているこの日は、なおさらのことであろう! 彼にとってこれは実に重大なことであった。
むろん、この投資は安全なものではあった。それにセグアンのほうも努めて、アイルランドの金が小額でも会社の資本に加えられることになったのは、友情の賜物だという印象を与えようとしていた。ジミーは、父の事業に対する鋭い勘には尊敬の念を払っていた。今度の場合も最初にこの投資のことを、つまり自動車事業で一もうけやる、それも大金をもうけようといいだしたのは、父だった。それにセグアンにはまごう方なき富豪の風采《ふうさい》があった。ジミーは日々の仕事が、自分のいま乗っているこういう素晴らしい自動車のようだったらと考えだした。実に快適な走り方じゃないか! 何んという素敵なスタイルでこの街道を疾走してきたことだろう! 自動車旅行は生命の鼓動そのものに魔法の指をそえ、人間の神経組織は勇躍してこの快走する青い生きものの躍動する進行に、しきりに応じようと努めていた。
彼らはデイム街を下っていった。通りはいつにない車馬の往来で賑わい、自動車の警笛だの、焦立っている電車の運転手の鳴らす鐘の音で騒々しかった。アイルランド銀行近くでセグアンは車を停め、ジミーと彼の友とがおりた。唸《うな》りをあげている自動車に敬意を捧げに、歩道に小さな人だかりができた。一行はその晩、セグアンのホテルで夕食を共にすることになっていて、その間、ジミーと、彼のところに泊っているヴィロナとは、服を着替えに一旦帰宅することになった。車はグラフトン街に向ってゆっくりと動きだし、二人の青年は見物人の群をかきわけていった。二人は足で歩くということに一種奇妙な失望感を抱きながら、北のほうへ歩いていった。やがて街は夏の夕暮れの靄《もや》につつまれて、頭上に青白い灯火の円球をかかげた。
ジミーの家ではこの晩餐は一つの重大事に申し渡されていた。両親の狼狽には何かある誇りといったものが混じっていた。また見境もないほどのとりのぼせようも多少混っていた。外国の大都会の名前がでるだけでも、これだけの効果があるのだ。ジミーも盛装してみると、なかなかの風采を示した。そして、彼が玄関の間に立って、礼装用の白ネクタイの蝶結《ちょうむす》びに最後の調整をほどこしていたときには、恐らく父親は、金をだしてもそう滅多には買えぬものを息子のために用意しておいてやったことに、商売上からもよかったと満足していたことであろう。だから、父親はヴィロナにおかしなほど親切をつくしていた。彼の態度には外国人の教養に対する心からの尊敬の気持ちが現われていた。だが主人のこういった抜目ない心遣いも、ハンガリー人のほうには一向ききめがないらしかった。というのも、彼は晩餐に盛んな食欲を覚え始めていたからだ。
晩餐は素晴しかった、贅美をつくしていた。セグアンは非常に洗練された趣味の持主だ、とジミーは確信した。一座にはラウスという若いイギリス人が加わった。この青年にはケンブリッジで、セグアンと一緒にジミーは会ったことがあるのだ。青年達は蝋燭形の電燈にてらされた小じんまりした部屋で晩餐をとった。彼らはしきりと遠慮なく語り合った。想像力を燃やしたてていたジミーは、フランス人達の快活な若々しさが、がっしりした枠にはまったイギリス人の物腰と、見事にからまってゆくのに気がついた。これこそ自分の思い描いていた優美なイメージだ、まさにこれだ、と彼は思った。彼らの招待主の会話を運んでいく巧みさにも感嘆した。五人の青年はいろいろ違った趣味をもっていた。皆、盛んにしゃべった。ヴォロナは、尊敬|措《お》く能わざるといった態度で、いささか度胆をぬかれたていのイギリス人に、英国の小恋歌《マドリガル》の美点を数えあげて、古い楽器の失われたことを嘆じ始めた。リヴィエールは、そうあからさまにという程でもなかったが、フランスの機械技師の勝利をジミーに説明しにかかった。浪漫派画家の描く不正確な弦楽器《リュート》を嘲笑するハンガリー人の太く響く声がのさばりだすと、セグアンが一座を政治問題のほうへ導いていった。これには誰もが意気投合する話題があった。ジミーは互に腹蔵のない雰囲気の下で、父親の埋れた熱狂が、自分の内に目覚めて躍動し始めるのを感じた。彼はついに無神経なラウスまで刺戟《しげき》した。部屋は二重にあつ苦しくなってきた。セグアンの役目は一瞬ごとに困難の度を加えていった。私恨《しこん》の危険すらあった。機敏な主人役は潮時を見て≪人類≫のために盃をあげ、乾杯が終ると、彼は窓を意味ありげにさっと開けた。
その夜、市は首都の仮面をかぶっていた。五人の青年は馥郁《ふくいく》たる紫煙をただよわせながら、スティヴンズ公園をぶらついた。彼らは声高《こわだか》に陽気に語り合った。マントを肩にひっかけてぶらさげていた。人々は彼らに道をあけた。グラフトン街の角で、一人のずんぐりした男が二人の眉目《みめ》うるわしい婦人を自動車に乗りこませ、もう一人の肥った男にあずけていた。車は走り去った。とそのずんぐりした男がこの一行に目をとめた。
「アンドレ」
「ファーリーじゃないか!」
とめどない会話がそれに続いた。ファーリーはアメリカ人だった。彼が何を話しているのか、誰にもあまりよくわからなかった。ヴィロナとリヴィエールが最も喧《やか》ましかったが、とにかく、誰もかれも昂奮していた。彼らはさんざん笑いながら、互にぎゅうぎゅうつめこんで、一台の車に乗った。彼らは、今はもう柔らかな色合いにとけこんだ群衆のそばを、陽気な鈴の音にあわせて、駆っていった。ウェストランド・ロウで汽車に乗った。と、たちまち――そうジミーには思えたのだが――キングズタウンの駅の外へ歩きかけていた。改札掛りの男がジミーに挨拶した。老人であった。
「結構なお晩ですねえ!」
澄みきった夏の夜だった。港が足もとに、暗くした鏡のように横たわっていた。一行は腕を環に組んで、「アデー・ルッセール」を合唱しながら、
「オー! オー! オーエ、|ほんとだ《ヴレマン》!」をいうたびに足踏みしては、港へ向って進んでいった。
船曳場《ふなひきば》でボートに乗りこみ、アメリカ人の持っていたヨットのほうへ向った。夜食と音楽とトランプをやろうというのだ。ヴィロナが確信をもっていった。
「こいつあ愉快だ!」
船室にはヨット用のピアノがあった。ヴィロナが、ファーリーとリヴィエールにワルツを一曲ひいてやった。ファーリーが騎士で、リヴィエールが貴婦人になって踊った。それから即興のスクエア・ダンスで、めいめい勝手に思いつきのフィギアを工夫した。なんという浮かれようだったろう! ジミーは熱心に自分の役を演じた。ともあれ、これも世間を知ることなのだから。やがて、ファーリーが息をきらせて、「ストップ!」と叫んだ。召使が軽い夜食を運びこんできた。若者たちはただ形式的に席についた。しかし、酒は飲んだ。ボヘミアンを気取ったのだ。アイルランド、イギリス、フランス、ハンガリー、アメリカ合衆国のために乾盃をした。ジミーは演説をぶち、長広舌をふるった。言葉のきれ目がくるたびに、ヴィロナが「謹聴! 謹聴!」といった。彼が坐ると、盛んな拍手が送られた。きっと立派な演説だったに違いない。ファーリーが彼の背中をどやして、大声で笑った。何と愉快な連中だろう! 何といい仲間なんだろう!
トランプだ! トランプだ! 食卓がかたづけられた。ヴィロナがそっとピアノのところへ戻り、皆のために自分からいろんな曲をサーヴィスしてやった。他の連中はつぎつぎと勝負をやり、大胆に一か八かの冒険に跳びこんでいた。彼らはハートの女王《クイーン》の健康を祝して乾盃した。ジミーは聴衆のいないのが、いささか物たりなく感じられた、機智が花火をちらしているというのに。勝負はまさにたけなわとなり、手形が渡されだした。ジミーは誰が勝っているのか、はっきりわからなかったが、自分が負けていることだけはわかっていた。だが、それも自分のへまのせいだ、しょっちゅう、取り札を間違えて他の連中に、借用証書《アイ・オー・ユー》の計算をしてもらわねばならなかったからだ。皆、向う見ずな連中ばかりだったが、さすがに、彼はもうやめにしてもらいたかった。時間もおそかった。誰かがヨット「ニューポートの美女」号に乾盃した。すると、誰かがお名残りにもう一番、大勝負をやろうと提案した。
ピアノはやんでいた。ヴィロナは甲板に上ってしまったらしかった。それは凄い勝負だった。いよいよ勝負の片がつくという直前に彼らは一服し、幸福を願って盃をあげた。ジミーはラウスとセグアンの勝負になっていることを知った。何という昂奮だろう! ジミーも昂奮していた。むろん、彼は負けだ。一体どのくらい手形を書いただろうか? 一座は立ち上がって、喋ったり、しきりにジェスチュアを使っては打出しの一回を始めた。ラウスが勝った。船室は青年達の歓声で震えた。札がかき集められた。それから、彼らはめいめいの勝った分を集めだした。ファーリーとジミーとが一番負けた。
ジミーは、朝になればきっと後悔するのが自分でもわかっていたが、今は、休息がうれしかった。自分の馬鹿さかげんをつつんでくれる暗い麻痺状態が有難かった。彼はテーブルに両肘をつき、頭をかかえこんでこめかみの脈を数えた。船室の扉が開いた。と、灰色の光芒《こうぼう》の中にハンガリー人が突っ立っていた。
「みんな、夜が明けたぞ!」
[#改ページ]
二人のよた者
暖かい八月の灰色の黄昏《たそがれ》がすでに市にたれこめ、夏の名残りの暑さのやわらかい空気が街々をめぐっていた。街路は、日曜の休業で鎧戸を下し、華やかな色どりの群衆で雑沓《ざっとう》していた。街燈が、光に映える真珠のように、高い街燈柱の天辺から、下界に織りなす生きものを照らしていた。その生きた織りものは絶え間なく形と色を変えながら、暖かい灰色の黄昏の大気の中へ、変わることなく、絶えることないざわめきを放っていた。
二人の青年がラトランド広小路《スクウェア》の丘をおりてきた。その一人はちょうど長談義を終えようとしているところだった。もう一人の男は、歩道の緑を歩きながら時々、つれの乱暴な動作のために余儀なく車道にのりだしていたが、面白く傾聴している顔付をしていた。彼はずんぐりした赭《あか》ら顔の男だった。ヨット帽をぐっとあみだにかぶり、一心にきいている話につれて、鼻や眼や口の隅から顔一面に、絶えず表情の波紋がひろがるのであった。おかしさに身をよじらせては、ぜいぜい喘《あえ》ぐような笑い声が、少しずつ噴きだすようにつぎつぎと出てきた。その眼は、悪智恵に面白がってきらきらと輝きながら、ひっきりなしにつれの顔に視線を投げていた。一、二度彼は、騎馬闘牛士のやるように、一方の肩に無造作にひっかけた軽い防水マントをかけ直した。その半ズボンといい、白いラバー・シューズといい、無造作に肩にかけた防水マントといい、いずれも若さをあらわしていた。だがその体つきは腰のところで脂肪がついて肥満し、髪はうすく、灰色で、顔も表情も波紋が消えさると、すさんだ形相《ぎょうそう》をしていた。
話が終ったとはっきり知ると、彼はたっぷり三十秒間、声もたてずに、笑いころげた。それから、いったものだ。
「なあるほど!……そいつはうめえ話だ!」
彼の声は精力だけをしぼりだしたみたいだった。そしていまの言葉を強めるために諧謔《かいぎゃく》をそえてつけ加えた。
「そいつぁ、二つとねえ、稀にみる、そういっちゃなんだが、|御念の入った《ルシェルシェ》話じゃねえか!」
彼はこういってしまうと、真顔になって口をつぐんだ。ドーセット街の居酒屋で、午後中じゃべりまくっていたので舌が疲れていた。たいていの者は、レネハンをだにみたいな奴だと思っていた。ところが、こういう評判にもかかわらず、彼の如才のなさや口達者のために、仲間はいつも彼をしりぞける全般的な政策をとることができなかった。彼は酒場に集っている仲間の一団のところへやってくると、自分がその一座に加えてもらうまで、仲間の周りで如才なくふるまうという図々しい態度をとるのだった。彼は話やリマリック節〔五行押韻詩形のアイルランドの浮かれ節、リマリックは町の名〕や謎々などのたねをしこたま仕込んでいる、派手な、ならず者だった。ありとあらゆる、無礼な言行を平気でやっていた。きびしい生活の務めをそうやって果しているのか、誰にもわからなかったが、彼の名前はなんとなく、入りくんだ競馬の世界とむすびつけられていた。
「で、お前、どこでその女をひろったんだ、コーリー?」彼はきいた。
コーリーは、舌を素早く上唇に走らせた。
「ある晩のことさ、なあ」彼はいった。「おれが、デイム街〔ダブリンのほぼ中央にある繁華街〕を歩いてたんだよ、そしたら、ウォーターハウスの時計の下によ、乙な別嬪《べっぴん》を見つけたってわけさ。でな、今晩は、っていったんだよ。それからちょっと、運河の辺りをひと廻りしたんだ。その女の話じゃバゴット街のある家のおさんどんをやってるってわけなんだな。おれはな、その晩はそいつの胴へ腕をまわして、ちょいとだけぎゅっと抱きしめてやったのさ。そうして、つぎの日曜日によ、なあ、しめしあわせて会ったのさ。二人してドニーブルック〔ダブリン南郊の町、十三世紀初頭より始まった定期市で有名であるが、風教上より十九世紀半ばに市は禁止された〕へ出かけて、あそこの原っぱへそいつをひっぱりこんだのさ。その女ったらよ、あたし、よく酪農場の男ときたわ、っていうじゃねえか……よかったぜ、おい。煙草は毎晩もってきてくれるし、往きも帰りも電車賃は払ってくれるしな。ある晩なんか、てんですげえ葉巻を二本もってきてくれたんだ――ほら、あのおやじがよくふかしてたやつがあるだろう、あれとおんなじ本物なんだ……おれはな、なあお前、女が孕《はら》みやしねえかとしんぺえだったのさ。ところが女のほうはうまくするりと逃げやがるのさ」
「きっとお前が結婚してくれると思ってるんだろうよ」とレネハンがいった。
「おれはちゃんといってやったのさ、おれは職がねえって」コーリーはいった。「ピム〔ダブリンの呉服店、詩人A・Fがかつて勤めていたといわれる〕にいるんだってこともいってやったよ。女の奴、おれの名前は知らねえのよ。あんまり昂奮して名前をいわなかったのさ。それでも女のほうじゃ、おれがちょいとした男だとでも思ってんだよ」
レネハンはまたも声をたてずに笑いだした。
「これまでに聞いたうめえ話のうちで」と彼はいった。「なんてったって、そいつはめっぽう、うめえ話だぞ」
歩きぶりで、コーリーがその讚辞に気をよくしているのがわかった。彼のたくましい体の調子づいた動作のために、相棒は歩道へと二、三歩軽くとびのいて、また戻らねばならなかった。コーリーは警部の息子で、父親の体格と物腰をうけついでいた。両手を脇にあてがい、体を棒のようにおこして、頭を左右にふりふり歩くのだった。首は大きく、まんまるで、脂ぎっていた。どんな天候時でも始終汗をかいていた。横っちょにまげてかぶった大きな丸い帽子は、一つの球根からもう一つの球根が出ているように見えた。まるで観兵式にでも出ているかのように、自分のすぐ前方をにらんで歩いた。通りで、誰かをじっと視線で追いたいと思うような時には、体を腰からねじらねばならないのだ。目下、彼はのらりくらりと遊び暮していた。何か仕事に空きができるといつも、友人が始終彼に苦言を与えようとした。よく彼が私服の警官と熱心に話しながら歩いているのを見かけることがあった。あらゆる事件の内幕に通じていて、最後の断を下すのが好きだった。相手の言葉などには耳もかさずにしゃべった。彼の話はたいてい自分のことだった。自分は誰々にこういってやったとか、誰々は自分にこういったとか、事態をおさめるのにこういってやったとかなどだ。この種の問答を話してきかせるときに、彼はフローレンス人流に自分の名前の最初の字を気息音で発音した。〔コーリーをコホリーというように〔h〕音を入れることで、アイルランド英語の特徴〕
レネハンは相棒に煙草をすすめた。二人の青年は群衆の中を縫って歩きながら、すれちがう女の子の誰かれに、コーリーは時々ふりむいては笑いかけた。しかし、レネハンの眼は、二重の暈《かさ》にかこまれた大きな淡い月に、またたきもせず注がれていた。彼は熱心に、月のおもてをぼうっと光る灰色の膜がかすめていくのに見とれていた。とうとう彼はいった。
「ところで……なあ、コーリー、お前はそれを間違いなくやれるんだろうなあ、ええ?」
コーリーは返事の代りに、意味あり気に片眼をとじた。
「女のほうはその気があるのか?」レネハンが半信半疑できいた。「お前には女がわかんねえからな」
「女のほうは大丈夫だ」コーリーはいった。「彼女《あれ》を籠絡《ろうらく》する手はちゃんと心得てるよ。あいつはおれにぞっこんだからな」
「お前こそいわゆる女蕩《おんなたら》しのロザリオ〔十八世紀のイギリスの劇作家にして桂冠詩人ニコラス・ロウの戯曲「美しき悔悟者」の主人公、この男の名が女蕩しの代名詞となる〕って奴だな」レネハンがいった。「しかも正真正銘のロザリオときてらあ!」
ひやかし半分なところが、彼の態度の卑屈さを救った。彼には自分をいい子にしておくために、へつらいをひやかしともとれるようにぼかす癖があった。だが、コーリーのほうには、そういうことを感じるだけの敏感さがなかった。
「おべんちゃらいったって駄目なこった」かれはきっぱりといった。「万事わが掌中にありだ」
「さんざんためしてきた腕にかけてか」とレネハンはいった。
「初めは、あまっ子らとよくつきあったものさ」とコーリーはかくさずいった。「南環状道路《サウス・サーキュラー》〔ダブリン西南端を走る道路〕の向うっぱたの娘っ子らさ。そいつらを電車にのっけて、あっちこっちへつれてったもんだよ。電車賃は払ってやる。楽隊にもつれてってやったし、劇場に芝居を見せにもつれてってやったもんさ。チョコレートだとかキャンディだとか、何だかだと買ってやったよ。やつらにゃこれでも相当みついだものさね」彼は自分のいったことが信用してもらえないのに気づいたかのように、何とかして納得させようといった調子でいいそえた。
しかし、レネハンには充分それが信用できた。彼は真面目にうなずいた。
「ふん、そういう手もある」彼はいった。「けど、そいつぁへたくそな手だぜ」
「だから、おれが得たってものも、くそいまいましいことばかりさ」コーリーはいった。
「今度もまたそれか」とレネハンはいった。
「それでも一人だけは別だったな」
彼は舌をすべらせて上唇をしめした。思い出が彼の眼を輝やかせた。彼も、今はほとんどかくれてしまった青白い月の面を凝視して、感慨に耽っているふうだった。
「彼女《あのこ》は……ちょいとよかったな」と彼は未練がましくいった。
彼はまた口をつぐんだ。それから、いいそえた。
「彼女《あのこ》は、今はパン助さ。いつだったか夜に、二人の男と一緒に、自動車でアール街を走らせているのを見かけたよ」
「そりゃお前のやっとることだろう」とレネハンはいった。
「おれの前に他にも男が何人かいたんだ」とコーリーは落ちつき払っていった。
今度はレネハンにはちょっと信用しかねた。頭を左右にふって微笑した。
「コーリー、おれをごまかそうたって駄目だぞ」彼はいった。
「絶対に嘘じゃねえよ!」とコーリーはいった。「女が自分でそういったもの」
レネハンは悲壮な身振りをしてみせた。
「節操ねえ、ひでえやつだな!」彼はいった。
彼らがトリニティ大学の鉄柵にそって歩いていた時、レネハンが車道にとびだして、時計を見上げた。
「二十分すぎだぞ」と彼はいった。
「まだちょっと早い」コーリーがいった。「女は間違いなくくるよ。おれはいつも少し待たせることにしてるんだ」
レネハンは静かに笑った。
「てへっ! コーリー、お前も女の操縦法を心得てるな」彼はいった。
「女の小細工にゃ負けねえよ」とコーリーはみとめた。
「でも、よう」レネハンがまたいった。「お前、本当にうまくそいつがやれる自信があるのか? そう易々《やすやす》とはいかねえからなあ。女もあの点になるてえと、馬鹿にちゃっかりしてるからなあ。ええ?……どうでえ?」
彼のキラキラ光る小さな眼が相棒の顔をじろじろ見廻わして、自信の程をたしかめようとした。コーリーは、しつこい虫を払いのけるように、頭を左右へふって、眉をしかめた。
「うまくやってみせるよ」彼はいった。「おれにまかしといてくれ、な?」
レネハンはそれ以上なにもいわなかった。相棒の機嫌をいらだたせ、怒らせてしまって、お前の忠告なんか真平だといわれたくなかった。ちょっとしたかけひきが必要だった。だか、コーリーの額はすぐにまたやわらいだ。彼の思いは別な方向へ走っていったのである。
「彼女《あれ》はなかなかやさしい女《あま》なんだ」と、ほれぼれと彼はいった。「それがあいつの生地なんだ」
二人はナッソー街を歩いて行き、それから折れてキルデア街へ入った。クラブ〔キルデア・ストリートクラブのこと、元はデイリーズ・クラブを称し、一七五〇年設立、文人のクラブだったが、一八二三年に改新された〕の入口からあまり遠くないところで、一人の辻音楽師が車道に立って、小さな輪になった聴衆に向ってハープをひいていた。彼は無頓着なようすで絃をかき鳴らしながら、時々、新しく加わった聴衆の一人々々の顔に素早い視線をおくったり、また時には、やはり物憂げに空に眼をやっていた。ハープのほうも、覆いが肘部のあたりにたれかかっているのも頓着せず、見物人や自分の主人の眼と同様、くたびれたようすをしていた。一方の手はバスで「おお、黙せよ、モイル」の曲をかなで、もう一方の手は、最高音《トレブル》で一音節ずつその後を追ってすべっていった。曲の音色は深く、いっぱいに響いていった。
二人の青年は口もきかずに通りを先へ歩いていった。哀切な曲が二人の後を追った。彼らはスティヴンズ公園《グリーン》にくると、路を横切った。ここまでくると、電車の騒音や灯火や群衆が彼らをその沈黙から解放した。
「来てるぜ、ほら!」コーリーがいった。
ヒューム街の角に一人の若い女が立っていた。青い服に白い水兵帽をかぶっていた。片手に日傘をぶらぶらさせながら、歩道の緑石のところに立っていた。レネハンは活気づいた。
「ちょいとお顔を拝ませろや、コーリー」彼はいった。
コーリーは連れを横目で見た。と、その顔にはいやらしいにやにや笑いが浮かんでいた。
「おれの縄張りにわりこもうってんだな?」彼がきいた。
「何いってやがんだ!」レネハンは洒々《しゃあしゃあ》といった。「紹介なんかしてもれえたくねえよ。顔を拝見しようってだけさ。そいつを取って喰おうってわけじゃねえよ」
「あ……ちょいと見るだけか?」とコーリーはいくらか愛想よくなっていった。「それじゃ……こうしようぜ。おれが彼女《あれ》んとこへいって話してるから、お前そのそばを通れ」
「合点!」レネハンがいった。
コーリーがすでに片脚を鎖の向うにやった時に、レネハンが呼びかけた。
「で、それから? どこであう、おれたち?」
「十時半」とコーリーは、もう一方の脚をまたがせながら答えた。
「どこで?」
「メリオン街の角だ。おれたちは戻ってくるよ」
「じゃうまくやれよ」別れぎわにレナハンがいった。
コーリーは答えなかった。頭を左右にふりふり、道路をぶらりと横切った。その大きな図体や、ゆったりとした足どりや、確実な靴音には何となく征服者らしいものがあった。彼は、その若い女のところへ近づくと、挨拶もせずに、いきなり話し始めた。女は傘を前より一層早くふりながら、踵で体を左右に半回転させていた。一、二度、彼が近々と身をよせて話しかけると、女は笑いだして、うつむいた。
レネハンは、数分間、彼らのようすをうかがっていた。それから、急ぎ足に鎖にそって少しばかり歩くと、はすかいに道路を横切った。ヒューム街の角に近よってくると、空気に強い香水の匂いのするのに気がついた。彼の眼は素早く、むさぼるように、若い女の姿に吸いよせられた。女は一張羅《いっちょうら》の晴着をきていた。紺サージのスカートを、黒革のベルトが腰のところでとめていた。ベルトの大きな銀色のバックルが、白いブラウスの薄い布地をクリップのようにはさんで、体の中央部にくいこんでいるように見えた。真珠貝のボタンのついた短い黒のジャケットに、毛ばだてた黒い襟巻《ボア》をしていた。チュールの襟の端を上手に乱し、大きな紅い花束を、茎を上にして胸元にピンでとめていた。レネハンの眼は女の太くて短い、たくまし気な胴に満足そうに注がれていた。顔や、肉づきのいい紅い頬や、恥じらうこともない青い眼に、おおらかなたくましい健康さが燃えていた。顔立は鈍重だった。横に開いた鼻孔、満足そうな顔にぽかんとあけているしまりのない口、それにつきだしている二本の前歯。レネハンは通りかかるとき、帽子を取った。およそ十秒くらいたってから、コーリーが空間に挨拶を返した。挨拶に、彼は手をあいまいにあげ、かぶった帽子の角度をおもむろに変える仕草をした。
レネハンはずっと離れたシェルボーン・ホテルまで歩いていって、そこで立ち止って、待った。暫く待っていると、二人が自分のほうへやってくるのが見えた。彼らが右へ折れたので、彼は白い靴をはいた軽い足どりで、メリオン広小路の片側をそのまま進んで、二人の後をつけていった。二人の歩調にあわせて、ゆっくり歩きながら、彼はじっと、コーリーの顔を見守った。その顔は、まるで旋回軸《ピボット》で回転する大きな球のように、若い女の頭のほうへたえずむけられていた。ついに彼らがドニーブルック行きの鉄道馬車の階段を昇って行くのを見とどけるまで、彼は二人から目をはなさなかった。それから、ひき返して、いま来た道を逆にもどっていった。
さて一人ぼっちになってみると、彼は前より一層|老《ふ》けてみえた。いつもの陽気さが、彼からぬけだしてしまったようだった。デュークズ・ローン〔「肖像」中のリンスター芝生と同じとこ〕の鉄柵のところへくると、彼は一方の手を、鉄柵の上に滑らせていった。さっき辻音楽師がひいていたハープの調べが今、彼の動作を支配し始めていた。柔かく大地をふむ足があのメロディーを奏で、また指は、一群の旋律《せんりつ》を一つ一つ追って、変奏曲の音階を鉄柵に空しくかきならしていった。
彼はもの憂げにスティヴンズ公園を廻ってから、グラフトン街を歩いていった。彼が通りぬけていく群衆の中の色々な要素に、眼は気づいていたけれど、ただ陰気にそうしているだけだった。自分を魅惑するはずのものがすべて下らなく思え、大胆な行為に彼を誘《いざ》なう流し目にも答えなかった。こっちからいろんなことをしゃべり、いろんなことを思いつき、面白がらせてやらねばならないことがわかっていた。自分の頭も咽喉もかさかさにひからびて、とうていそんな労苦にはたえられないのだ。コーリーにまた会うまでの時間をどう過したらいいかという問題には、いささか頭を悩ませた。ただこのまま歩いているという以外に、何一つ方法を思いつかなかった。ラトランド広小路の角へくると左へ折れた。と、そこの暗い静かな通りで、前よりも気分が楽になった。通りの陰鬱なようすが彼の気分にあった。ついに一軒の貧相な店のウインドウの前で立ち止まった。その上方に白い字で「軽食堂」という文字が書かれてあった。ウインドのガラスに、「ジンジャビール」「ジンジャエール」と書いた二枚のひらひらするびらが貼《は》ってあった。薄く切ったハムが青い大皿にだしてあって、そのそばの皿に大層ふんわりとしたプラム・プディングの一片がのっていた。暫く、彼はこの食物にむさぼるような視線を投げていたが、やがて、通りの左右をさぐるように見やってから、素早く店に入っていった。
彼は空腹だった。というのも、けちな二人の酒場の給仕にたのんで、もって来てもらった僅かのビスケットの他は、朝から何もたべていなかったのだ。彼はテーブル掛けもない木の食卓の、二人の女工と一人の職工の向い側に、腰を下した。だらしのない給仕女が注文をききにきた。
「豆は一皿いくら?」彼はきいた。
「一ペンス半です」女がいった。
「豆を一皿もってきてくれ」と彼。「それからジンジャビールを一本」
彼は、自分が入ってきたことで、暫く、話し声がやんでしまったので、おれの紳士らしい風采は実は嘘なんだと知らせるために、乱暴な口をきいた。顔がかっと火照ってきた。不自然さをみせないために、帽子を頭のうしろにぐいとすべらせて、両肘をテーブルにすえた。職工と二人の女工は仔細《しさい》に彼を観察してから、再び低い声で会話を続けた。給仕女が胡椒《こしょう》と酢で味をつけた熱い五目豆の皿とフォークとジンジャビールをもってきた。彼は貪《むさぼ》りくった。滅法うまかったので、この店を憶えておこうと思ったほどだ。豆を平らげてしまうと、ジンジャビールをちびちびと飲んだ。暫く腰かけたまま、コーリーの冒険のことを考えていた。どこかの暗い夜道を歩いて行く二人の恋人を頭に描いてみた。いんぎんな言葉使いをする太い精力的なコーリーの声が聞こえてきた。若い女の口もとのなまめかしさがまた目の前に浮かんできた。そういう光景を想い浮かべると、自分の財布と気力の欠乏とがつくづく感じられた。彼はうろつき廻ったり、苦しい羽目に落ちたり、さまざまな奸策《かんさく》を弄《ろう》することには、もううんざりしていた。十一月がくると自分も三十一歳になる。おれには、人並の職が得られないのか? 一家をかまえるということは、ないのだろうか? 暖かい暖炉の側に腰をおろし、楽しい夕餉《ゆうげ》の食卓につけたら、どんなに楽しいことだろう、と彼は思った。友達や女の子と街をほっつき歩くのも、もうたくさんだ。そういう友達がどれほど値打のある奴かもわかった。女の子もそうだ。経験は彼の心を、世の中に対してひがんで見るようにした。けれど、希望がことごとくなくなったというのでもなかった。くい終ると、前よりも明るい気持になった。自分の生活に対する気だるさも、打ちひしがれた気分もやや恢復してきた。おれだってもしかして、素直で気立てのいい、現金《げんなま》をもった娘にでもめぐり逢えさえすれば、まだ、どこかこじんまりとした隅っこに落ちついて、幸福にくらしてゆけないこともないのだが。
彼はだらしない給仕女に二ペンス半を払って店の外に出て、再びぶらぶら歩き始めた。ケイペル街に入って、市庁〔一七六九年の建築になる〕のほうへ歩いていった。それから、デイム街へ折れた。ジョージ街の角で二人の友達に出会って立ち話をした。歩きずめだったので、休めるのがうれしかった。友達は、コーリーにあったか、最近はどうしてるんだと彼にきいた。彼は今日はコーリーと一緒に過したと答えた。友達はほとんどしゃべらなかった。彼らは群衆の中の人物をぼんやりと見送っては、時々品定めのようなことをいった。一人がウェストモアランド街で、一時間前にマックにあったといった。するとレネハンは、おれはゆうべはイーガンのところでマックと一緒だったといった。ウェストモアランド街でマックに会ったという青年が、マックが玉突きの勝負で少し儲けたっていうのは本当かときいた。レネハンは知らなかった。ホロハンがイーガンの店で酒をおごってくれた、と彼は話した。
彼は十時十五分前に友達と別れて、ジョージ街を歩いていった。市営市場のところを左に折れて、グラフトン街へ入っていった。女の子や若い男たちの数が少くなった。通りを歩いてゆく途中で、いくつものグループや二人連れが互にさよならをいいかわしているのが聞こえた。医科大学〔グラフトン街を過ぎ、スティヴンズ公園の西口に面す〕の時計台のところまで行った。ちょうど十時を打つところだった。コーリーがひょっとして早目にもどってきているといけないと思って、急いで彼は公園《グリーン》の北側にそって急ぎ足に歩きだした。メリオン街の角につくと、街燈の蔭のところに立ち、余しておいた煙草を一本取りだして火をつけた。街燈柱によりかかって、コーリーと例の若い女がもどってくるのが見えたと思われる方角に、じっと視線をすえた。
彼の頭は再び活発になってきた。コーリーの奴、首尾よくやったかなと思った。もう女にせびっただろうか、それとも、あれは最後までとっておく気かなと考えてみた。彼は、自分のはむろんだが、友達の立場のどんなつらさや昂奮も共に味わった。だが、ゆっくり回転させるコーリーの頭のことを思い出すと、何かしら気持が楽になった。コーリーなら間違いなく手にいれるだろうと思った。と、全く突然、コーリーが別の道を通って女を家まで送って、おれをまいたのではあるまいか、という考えが彼を打った。彼の眼は街路を探った。二人の影も形も見えなかった。もう、医科大学の時計を見てから、確かに三十分はたっている。コーリーがそんなことをするだろうか? 彼は最後の煙草に火をつけ、いらいらしながらそれをすいだした。メリオン広小路の向うの角に電車が止まるたびに眼をみはった。奴らは別の道を通って帰ってしまったに違いない。煙草の紙がさけた。彼はいまいましげにそれを道路へ投げつけた。
不意に、二人が彼のほうへやってくるのが見えた。彼はうれしさにはっとなり、街燈柱にぴったりと身をよせて、二人の歩きぶりから結果を読みとろうとした。二人とも急いで歩いていた。若い女のほうは小きざみな早足で、コーリーのほうは女のそばによりそって大股に歩いていた。話をしているらしいようすはなかった。結果の暗示が錐《きり》の先のように彼を刺した。コーリーが失敗するのはわかっていたのだ。駄目だと思った。
二人はバゴット街を折れていったので、彼はすぐさま反対側の歩道へ廻ってその後をつけた。二人が立ち止まると、彼も立ち止まった。二人は暫く話していたが、やがて若い女は家の地下勝手口の段々を下りていった。コーリーは正面の踏み段から少し離れた歩道の縁に立っていた。数分がすぎた。それから、玄関の扉がゆっくりと注意深く開かれた。女が正面の踏み段をかけおりて来て、咳払《せきばら》いをした。コーリーはふり向いて、女のほうへ行った。彼の大きな体のかげに女の体がはいって、しばらく見えなかったが、コーリーは急ぎ足でスティヴンズ公園のほうへ歩きだした。
レネハンも同じ方向へ急いだ。雨の粒がぽつりぽつりと落ちてきた。彼はその雨を警告だと取り、若い女が入っていった家のほうをふりかえって、女が自分を見ていないのをたしかめると、道路を夢中で横切った。不安と急いでかけたこととで、息切れがした。彼は大声で呼んだ。
「おうい、コーリー!」
コーリーは首をまわして、誰が呼んだのかと見た。が、前と同じように歩きつづけた。レネハンは、肩の防水マントを片一方の手でおさえながら、かれの後を追った。
「おうい、コーリー!」と再び叫んだ。
彼は友達に追いすがると、その顔を鋭くのぞきこんだ。そこには何も見られなかった。
「おい」彼はいった。「あれ、うまくいったのか?」
彼らはイーリイ広場の角に来た。コーリーは相変らず返事をせず、左に曲って、横丁を進んで行った。彼の顔付はきびしく、落着いていた。レネハンは不安な息づかいをしながら、友達についていった。彼はあせった。と相手を嚇すような調子が彼の声をつらぬいた。
「いえねえのか?」彼はいった。「やってみたんだろう?」
コーリーは最初の街燈のところで立止って、きびしい眼付で前方をにらんだ。それから、もったいぶった身振りで一方の手を明りのほうへつきだし、微笑を浮かべて、自分の子分が一心に見つめている前で、ゆっくりとその手を開いた。掌の中には一枚の小さな金貨が光っていた。
[#改ページ]
下宿屋
ムーニイの女将《おかみ》さんは肉屋の娘だった。彼女は一から十まで、自分一人でやり通すことのできる女、果断な女だった。父親の雇人頭と結婚してスプリング公園《ガーデン》の近くに肉屋の店を開いていた。ところが、ムーニイは、細君の父親が死ぬと、たちまちぐれだした。酒は飲む、帳場の金は盗む、後先かまわず借金は作る。禁酒の誓いを立てさせても、てんで無駄だった。二、三日後にはまたぞろ、きっと放蕩をやりだすのだった。お客の目の前で細君と立ち廻りをやる、ひどい肉を仕入れるなどで、商売を台なしにしてしまった。ある晩、彼は細君に肉切りの大庖丁をふりまわしたので、彼女は近所の家で寝なければならなかった。
それ以来、二人は別れて暮した。彼女は司祭のところへ行って、別居の許しを得、子供たちは自分がひき取ることにした。彼女は金も、食物も、住む部屋も、夫には与えようとしなかった。そこで夫はやむを得ず郡長《シェリフ》〔任期一年の名誉職で郡内の行政司法事務を司って属官を監督する〕の小使になった。彼はむさくるしい、背の曲った、のんべえの小男であった。顔は青白く、白い口髭をはやし、血走って爛《ただ》れたような小さな眼の上に、細く鉛筆で書いたような眉毛も白かった。一日中、役人の部屋に腰掛けて、仕事を仰せつかるのを待っているのだった。ムーニイの女将さんのほうは、肉屋の商売で残った金をまとめて、ハードウィック街に下宿屋を始めた。彼女は堂々たる大女だった。彼女の宿には、リヴァプールやマン島からくる観光客、それに、時には、演芸場からの芸人《アルテイスト》といった連中などで構成する浮動客があった。住み込んでいる客は、市に職のある事務員などであった。彼女はぬけ目なく、がっちりと下宿を経営し、信用貸しをしてよい時、厳重に出る時、大目に見る時を心得ていた。下宿している青年たちはいずれも彼女のことを「マダム」と呼んでいた。
ムーニイの女将さんのところの若い連中は部屋代と賄《まかな》いで〔夕食のビールやスタウトを除き〕週十五シリングを払っていた。彼らは趣味や職業が共通していたので、皆お互に大層仲よくしていた。互いに競馬の人気馬とそうでない馬の形勢を論じあったりもした。マダムの息子のジャック・ムーニイはフリート街のさる問屋の事務員をしていたが、一筋縄でゆかぬ者だとの評判だった。兵隊の使う卑語を好んで用い、帰宅は普通、夜中の一時、二時だった。友達と会えば、いつもとっておきの猥談をし、必ず何かうまい話――つまり有望な馬だとか、ものになりそうな芸人――に精通しているのが常だった。拳闘も上手で、滑稽歌《コミック・ソング》も歌った。日曜の夜などには、よく、ムーニイの女将さんの表の客間で、懇親会が催された。演芸場の芸人も出てくれて、シェリダンなどがワルツやポルカをひいて、即席に伴奏を入れたりした。マダムの娘のポリー・ムーニイも歌った。
[#ここから1字下げ]
わたしゃあ……自墜落娘なの
そんなに気取るこたあない
ごらんのとおりのわたしだもの
[#ここで字下げ終わり]
と彼女は歌った。
ポリーは十九歳のほっそりとした娘だった。明るい色の柔かな髪をしており、ふっくらしたかわいい口元をしていた。かすかに緑色がすかして見える灰色の瞳は、人と話をするときに、上のほうに視線を向ける癖があって、それが、彼女を可愛い、意地悪のマドンナのように見せていた。ムーニイの女将さんは、初めこの娘を穀物問屋の店のタイピストにだしたのだが、郡長の評判の悪い小使が一日おきに店にやってきては、自分の娘にちょいと話をさせてくれと頼むので、また娘を家へつれもどし、家事をさせることにしたのだった。ポリーがしごく快活な質《たち》だったので、実は、彼女を家の青年達と自由にさせてやろうという肚《はら》もあったのである。それに、若い男というものは、そこらに若い女がいると思うのが好きなものだ。ポリーは無論、青年たちとふざけあった。けれど、鋭敏な判断家であるムーニイ女将さんは青年たちは、ただ時間つぶしをしているにすぎないことを承知していた。誰一人、本気でいるものはなかった。かなりの間、そういう形勢がそのまま続いた。が、ポリーと青年の中の一人との間に何やら起こりかけているのを察知すると、ムーニイの女将さんはポリーをまたタイプの仕事のほうへだそうかと考え始めた。二人を監視しながらも、すべてを自分の胸の中に納めていた。
ポリーは、自分が監視されているのを知っていた。いわんや、母親がじっと沈黙を守っているのが、彼女に理解できぬはずはなかった。母と娘との間に公然の結託があったわけでもなく、公然の諒解があったわけでもなかったが、宿の人達がこの情事を口にするようになっても、依然としてムーニイの女将さんは口だしをしなかった。ポリーの態度が少しおかしくなりだした。青年は明らかに当惑していた。ついに、ムーニイ女将さんはいうべき時がきたと判断して、干渉に出た。彼女は肉切り人が肉をさばくように、道徳問題を処理した。この問題についても、すでに彼女の肚はきまっていたのである。
初夏のあるさわやかな日曜の朝、昼の暑さを約束するようではあったが、すがすがしい微風が吹き通していた。下宿屋の窓はことごとく開け放たれ、レースのカーテンが、引き上げられた窓枠の下から、街路のほうへ穏やかに風を孕んでいた。ジョージ教会の(鐘楼《しょうろう》は絶え間なく鐘の音を送りだし、信者たちは、一人で、あるいは何人かつれ立って、教会前の小さな円形広場を横切っていった。手袋をはめた手にもっている小型の書物によっても、またむっつりとした態度によっても、彼らの目的が見てとれた。下宿屋では、朝食が終って、朝食室のテーブルには、少量のベーコンの脂や皮と一緒に、卵の黄色の縞《しま》のついた皿がちらかっていた。ムーニイの女将さんは安物の肱掛椅子に腰をおろして、女中のメアリーが食卓の道具をかたづけるのを見守っていた。彼女はメアリーに、火曜日のブレッド・プティングを作るたしにするために、切りちらされたパンの皮だの屑《くず》を集めさせた。テーブルの片がつき、パン屑が拾われ、砂糖やバターが無事にしまわれ錠《じょう》がかけられると、女将さんは前の晩にポリーとした話しあいをもう一ぺん心にたどり始めた。事情は彼女の推察通りだった。彼女は単刀直入に質問した。ポリーも包みかくさず答えた。むろん、両方とも、幾分ばつの悪い思いだった。母親のほうは、あまり無頓着なようすでいきさつを聞いたり、今まで見ないふりをしてきたように思われたくなかったところから、ぎごちなくなっていた。また一方、ポリーのほうでも、単にそういうふうな話が出ると、いつもばつの悪い思いをさせられるというせいばかりでなく、悧巧《りこう》な無邪気さから、母親の寛大さのかげにある意図をあらかじめ知っていたと思われたくないというせいもあって、ぎごちなくなっていた。
ムーニイの女将さんは夢想にひたりながらも、ジョージ教会の鐘が鳴りやんでいるのに気がつくと、すぐさま本能的に炉棚の上の小さな鍍金の置時計をちらっと見た。十一時十七分すぎだった。これから、ドーランさんとあってこの問題の片をつけ、それから、十二時前にモールバラ街まで行くのに時間はたっぷりある。きっと勝てるわ。第一に、世論はあたしのほうに味方してくれている。だって、あたしは散々いためつけられた母親なんだから。立派な人だと思ったからこそ、あたしの家にすまわせてあげたんだ。だのに、あの人は、あたしの親切にすっかりつけいったのだ。あの人だって三十四か五にもなっているんだから、若気のいたりでなどという言訳は成りたたない。また、少しは世の中も見てきた男なんだから、無知という言訳も成りたたない。あれはポリーの若さと初心《うぶ》につけこんだまでだ。これはもうはっきりしている。問題はこの点だ。つまりあの男がどんな償《つぐな》いをするかということだ。
こんな場合はどうしたって償いはあるべきだ。それでも男にとっては結構至極な話なのだ。楽しいことを味わったあげく、何もなかったような顔をして、さっさと勝手なことをやってゆける。だが、娘のほうは、非難の矢面《やおもて》に立たねばならないのだ。母親の中には金高でこういった事をおさめて、満足しているものもいる。現にあたしが、そういう例をいくつか知っている。けれど、あたしはそんなことはしたくない。あたしにとって娘の傷つけられた体面を償うものは唯一つしかない。結婚だ。
彼女は、ドーラン氏と話がしたいからとつたえに、メアリーを彼の部屋へやる前、もう一ぺん、自分の目算にあたってみた。大丈夫、勝てる自信があった。あの人は真面目な青年だ、他の連中のように道楽者でもなければ、騒々しいところもない。もしこれが、シェリダンさんや、ミードさんや、バンタム・ライアンズだったら、あたしも、これ位の苦労じゃすまない。ドーランさんは、世間に知れるのを平気でいられるような人じゃないと思う。この家の下宿人はみな、今度の事を多少なりと知っている。誰かによって、さもまことしやかなことが、ことこまかにいわれていた。それに、あの人は十三年も、カトリック教徒の大きな酒商人の店に勤めてきたのだから、このことが明るみにだされると、彼は職を失うことになる。だから、あの人が同意してくれれば、万事うまくいくのだ。一つには、あの人がかなり給料をとっているのをあたしは知っている。それに、少しは貯えもあるらしい。
かれこれ三十分たってしまった! 彼女は立ち上がって、掛鏡の中の自分を改めて見た。大きな赤ら顔に浮かぶ断固たる表情に、彼女は満足した。そして、彼女の知っている母親で、娘を片づけられないでいる人の誰かれのことを考えてみた。
ドーラン氏は、実際、この日曜の朝は不安な気持ちで一杯だった。顔をそろうと二度も試みたが、手もとがひどく落着きを失っていて、とうとう、途中でよさなければならなかった。三日前からの赤っぽい髭が顎《あご》のへりにのびているし、また、二、三分毎に眼鏡に曇りがくるので、それを取りはずして、ポケットのハンケチでふかなければならなかった。前夜の自分の告白の思い出が彼のはげしい苦痛の種になっていた。司祭は今度の事件のばかばかしい細部まで洗いたてて、結局、おれの罪を仰々しいものにして、お蔭で、自分にまだ償いという逃げ路が与えられていることが唯々ありがたいくらいだと思わせられてしまった。罪は犯されてしまったのだ。おれには、彼女と結婚するか、行方をくらますか、それ以外に今となって何ができるというのだ? どこまでもしらをきることはできない。今度のことはきっと、皆の口の端にのぼる。主人の耳にだって間違いなく入る。ダブリンは本当に小さな所なのだから。誰もかれも余計な他人のことまでちゃんと知っている。レナード老人が、耳ざわりな声で、「ドーラン君をここへ呼んでくれたまえ」といっている幻聴《げんちょう》が、かきたてられた想像力で耳に聞こえてくると、心臓が生温かく咽喉にとびだしてくるような感じがした。
長年の勤めもすべて水の泡だ! 勤勉も精励もすべて棒にふってしまった! 青年時代、若気のいたりから道楽もやった。おのれの自由思想を誇り、居酒屋で、友達に神の存在を否定したりもした。だが、それもすべて過ぎ去ったこと、殆んど……すんでしまったことだ。未だに「レノルズ新聞」〔競馬のことなどのでている娯楽新聞〕は毎週とっているが、宗教のお勤めにはちゃんと出ている。一年の十分の九は、規則正しい生活を送っているのだ。一家をかまえて、落ちつける金は充分ある。が、問題はそんなことではない。実家の者が彼女を見くだすだろう。まず第一に、彼女には悪評高い父親がいる。それから、母親の下宿屋だってとかくの噂がたち始めている。自分はしてやられたような気がする。友達がこの事を話のたねにして、嘲笑しているのが眼に見える。確かに彼女は少し下品だ。時々、「あたい見たよ」とか「あたいが知ってたんなら」とかいうような口をきく。だが、本当に自分が彼女を愛しているのなら、言葉づかいが何だというのだ。彼女がああいうことをやったからといって、彼女を好いてよいのか、軽蔑してよいのか、我ながら決しかねるのだ。むろん、おれも、それをやったのだ。本能はおれに結婚せずに、このまま自由の身でいろと、しきりにすすめる。いったん結婚したら、お前はもうおしまいだぞ、と本能はいう。
彼がベッドの縁にワイシャツとズボンだけの姿で、しょんぼりと腰をかけているところへ、彼女が扉を軽くノックして、入ってきた。彼女は、母親に今度のことを残らず打明けたということや、母親が今朝彼と話をしたがっていることなど、すべて彼に話した。彼女は泣きながら、彼の首に両の腕を投げかけて、いった。
「ああ、ボッブ! ボッブ! あたしどうしたらいいの? 一体、あたしどうしたらいいっていうの?」
いっそ死んでしまいたい、ともいった。
彼は泣くんじゃない、大丈夫だ、恐れることなど少しもないといって、彼女を弱々しく慰めた。ワイシャツにつよく押しあててくる彼女の胸の動揺を感じた。
こういうことになったのも、あながち彼のほうばかりが悪いのではなかった。彼は、独身者の好奇にみちた持続力の強い記憶で、彼女の服が、彼女の息づかいが、彼女の指先が与えてくれた、あの最初の思いがけない愛撫の感じをありありと憶えていた。それから、ある夜おそく、床につこうと服をぬいでいると、彼女がおずおずと扉をノックして来た。彼女は、自分の蝋燭が風に吹き消されてしまったから、彼のところの蝋燭に火をもらいに来たというのだった。あれは彼女の入浴の晩だった。彼女は捺染模様のフランネルのゆっくりした、胸のはだけた、整髪用の上衣を着ていた。白い足の甲が毛布のスリッパの口から光っていた。芳香に匂う彼女の肌の下に血液が暖かく燃えていた。蝋燭に火をともし、しっかりと位置をすえていたときの彼女の手や手くびからも、かすかな匂いがたちのぼっていた。
彼がとてもおそく帰ってきたような夜、彼の夕食を温めてくれるのは彼女だった。彼は、夜中にひっそりと寝しずまった家の中で、自分ただ一人のそばに彼女がいるのを感じ、何をたべているのか、ろくにわからなかった。しかも、彼女の思いやりの深いことといったら! そんな晩にひょっとして、寒かったり、雨が降っていたり、風が吹いていたりすると、必ず小さなコップに一杯、ポンスが用意されてあった。多分、二人が一緒になったら幸福にやってゆけるだろう……。
二人はよく別々に蝋燭をもって、忍び足で一緒に階段を上って行き、三番目の踊り場で、しぶしぶお休みを交わした。そこで、接吻をしたものだ。あのときの彼女の眼、手の感触、おのれの狂ったような昂奮が、ありありと思い出されてくる……。
けれど、そういう昂奮は過ぎ去るものだ。彼女のいった言葉を、今度はおのが身にあてはめて、くりかえしてみた。「おれはどうすればいいのか?」独身者の本能が彼に内密にしておけと警告を与えてきた。だが、罪は目の前にあるのだ。彼の廉恥心《れんちしん》は彼に、こういう罪に対しては償いをしなければならないと命じるのであった。
彼が、ベッドの縁に彼女と一緒に腰をおろしていたとき、メアリーが扉口のところへやって来て、奥様が客間のほうで彼にあいたがっていると伝えた。彼は立ち上ると、前にもまして悄然《しょうぜん》として、上衣とチョッキを着た。身支度をすると、彼女のところへ行って慰めた。大丈夫だ、決して心配しなくていい。彼女がベッドで泣きながら、「ああ、苦しい!」と低く嘆き悲しんでいるのをそのままにして、彼は出ていった。
階段をおりながらも、眼鏡が水気で曇ってくるので、それをはずして、ふかなければならなかった。彼は、屋根を突き抜けて天に昇り、どこかもう二度と自分のいざこざを耳にすることのない別の世界へ飛び去っていきたかった。しかし、ある力が、彼を一段々々と、ぐいぐい下へおしやっていった。店の主人とマダムの無慈悲な顔が、彼の困惑をじっと見すえていた。最後の一続きの階段のところで、バスビールの壜を二本抱きかかえて、食器室から出てきたジャック・ムーニイとすれちがった。二人は素気ない会釈《えしゃく》をかわした。そして、この恋する男の視線は、一、二秒の間、ブルドックのような肉付きのよい顔と、二本の太くて短い腕にとめられた。階段の裾につくと、彼は上をちらっと見上げた。ジャックが角の部屋の窓口から自分をうかがっているのが見えた。
寄席の芸人の一人である、小柄な金髪のロンドン児が、かなりあけすけなあてこすりをポリーにした晩のことを、彼はひょいと思い出した。あの時の懇親会はジャックが乱暴をやったため、ほとんどぶちこわされてしまった。皆で彼を静めにかかった。当の寄席の芸人も、普段よりやや青ざめて、微笑を浮かべながら、何も悪意はなかったんだとしきりといっていた。だのに、ジャックは彼に向って、どこのどいつだろうと、おれの妹につまらねえまねをしやがったら、そいつの喉元にがぶりとかぶりついてやるからそう思え、とくってかかってやめなかった。彼ならやりかねないことだ。
ポリーは暫くベッドの縁に腰をおろして、泣いていた。やがて、涙をぬぐうと、姿見のところへ行った。タオルの端を水差しにひたすと、冷水で眼を洗った。自分の横顔を眺めて、耳の上のヘアピンを直した。それから、またベッドへもどって、裾のところに坐った。長いこと枕に見入っていた。それを眺めていると、彼女の心の中に、秘密のいとしい思い出が浮かんできた。項《うなじ》を冷たいベッドの鉄棒にもたせかけて、夢想に耽っていた。その顔には最早、不安の色は全く見えなくなっていた。
彼女は辛抱《しんぼう》強く、ほとんど浮き浮きしたようなようすで待った。だしぬけに思い出は徐々に未来の希望と夢に席をゆずっていた。希望も夢も微細をきわめていった、そのために、もはや視線をじっとすえていた白い枕も見えなくなり、何かを待っているのだということも記憶の外に消えていった。
遂に、母親の呼ぶ声を耳にした。彼女ははっと跳び起きると、手摺のところへかけていった。
「ポリー! ポリー!」
「ええ? お母さん」
「おりておいでよ。ねえ、ドーランさんがお前にお話があるってさ」
と、彼女は自分が何を待っていたのか思い出した。
[#改ページ]
小さな影
八年前に彼は友をノース・ウォール〔リフィ河口に築造された、ダブリン港の埠頭〕に見送り、その安泰と成功を祈ったのだ。ギャラハーは成功した。広く旅をしたようす、りゅうとしたトゥイードの服、怯《おく》れ気もない言葉の調子などで、それとわかる。彼のごとき才能をもった人間も少なければ、またあれほどに成功していながら、依然として毒されなかったという人間は、なおさら少ないものだ。ギャラハーの心は常に正しかった。だから成功するのも当然だ。そのような友がいるということはありがたいことだった。
ちびのチャンドラーは昼食の時以来、ギャラハーと会うこと、ギャラハーの招待のこと、ギャラハーの住む大都会ロンドンのことばかりを考えていた。彼はちびのチャンドラーと呼ばれていた。というのも、普通人の背丈よりはほんのわずか低いだけなのだが、見たとこ、いかにも小男という感じを人に与えたからだった。手は白くて小さかった。体つきはいかにも弱々しく、声はもの静かで、挙措《きょそ》動作は洗練されていた。その絹のような金髪と口髭は最大級の手入れがほどこされ、ハンカチにも用意周到に香水がつけてあった。爪に出た半月形も見事なものだし、微笑すると、あどけない白い歯並がちらりと見えた。
彼は|ダブリン法学会《キングズ・インズ》〔元はリフィ河北岸沿いの高等法院の場所にあったが、十八世紀にダブリン北辺の現位置に移る〕の自分の机に向って、この八年というものがどんな変遷《へんせん》をもたらしたか考えてみた。彼が知りあったときには、貧窮のどん底にいた友が、今はロンドン・プレス紙の錚々《そうそう》たる人物になっていた。彼は書きものにあくと、しばしば目を転じて役所の窓の外をつくづくと眺めた。晩秋の夕陽の輝きが芝生や散歩道一面にひろがっていた。夕陽は、ベンチで居眠りをしているだらしない子守だの、よぼよぼの爺さんなどに、優しい金粉の雨をふり注いでいた。それは動いている人影のすべてに、ちらちらと震えていた――砂利道をきゃっきゃっと呼びながら走っていく子供たちの上にも、公園をぬけて行く一人々々の上にも。彼はこの風景をじっと見つめ、人生を思った。そして(人生を思うとき、いつもそうなるように)うら悲しくなっていった。穏やかな憂鬱が彼をとらえた。運命にあらがってみても無駄だ、彼はそんな気がした。それが、歳月の彼に残してくれた智恵の重荷であった。
彼は家の書架にある幾冊かの詩集を思い出した。それらの詩集はまだ独身時代の頃に買ったものであった。玄関のホールの外れにある小部屋にいる時など、晩、よく一冊の書架から取りだして、どれか妻に読んでやろうと思うこともあった。が、そのたびに恥ずかしさが先に立って、彼はやめてしまうのであった。そんなことで、詩集は相変らず棚にそのままになっていた。折々、ひとりで詩句を口ずさんでみては、慰めを受けていた。
時間がくると、彼は立ち上がって机を離れ、同僚の事務員たちに礼儀正しく別れをつげた。こざっぱりした、つつましやかな姿で、法学会の封建時代の拱門をくぐって出ると、ヘンリエッタ街を足早に歩いていった。黄金色の夕陽は衰えかけて、大気は身にしむほど冷えてきた。うすぎたない子供らの群が通りにいっぱい集っていた。子供らは車道に突っ立ってみたり走ったり、そうかと思うと、開けっ放しの扉の前の上り段を腹ばいになって登っていったり、敷居の上に二十日鼠《はつかねずみ》のようにうずくまったりしていた。そういう子供らはちびのチャンドラーの眼中になかった。彼は、そういう下らない虱《しらみ》みたいな生きものの中を巧みに縫って、かつてはダンブリンの貴族たちが驕《おご》った不気味なお化け屋敷のかげを注意深くたどっていった。過去の思い出は今の彼になんの興味もおこさなかった。というのも、彼の心は現在の歓びで一杯だったからだ。
コーレスには行ったことはまだ一度もなかったが、その評判は知っていた。皆は芝居の帰りにそこへ行ったことはまだ一度もなかったが、その評判は知っていた。皆は芝居の帰りにそこへ行って、牡蠣《かき》をたべたり、リキュールを飲んだりするそうだし、そこの給仕たちはフランス語とドイツ語を話すというのも聞いていた。夜など、足早に通りかかると、扉口の前に馬車が乗りつけられて、目もあやに盛装した婦人たちが、伊達男《だておとこ》に付きそわれて車をおりて、さっさと中に入って行く情景を見ることがあった。そういう人々は、あでやかな衣裳をつけ、その上にいろんなものをまとっていた。顔は脂粉におおわれ、服が地面にふれると、まるでアタランタ〔ギリシア神話中の駿足の美女〕の驚いた恰好《かっこう》よろしく、それをつまみ上げるのであった。彼はいつもふり向いても見ずに通り抜けることにしていた。昼間でも、街を歩くときはせかせかと早足で行くのが彼の癖になっていた。夜おそく街を歩いているようなときはいつも、何か不安そうに昂奮して道を急ぐのだった。だが、時にはそういう不安を覚えさせるものを自分から求めることもあった。一番暗くて一番狭い通りをわざわざ選んで、勇を鼓《こ》して前進しながらも、おのれの靴音のまわりに拡がるしじまが恐ろしくなり、ふらふらよろめく無言の人影に胸騒ぎを覚えるのだった。また、時折、つかの間の低い笑い声に、木の葉のように震えるのであった。
彼は右へ折れて、ケイベル街へ向った。ロンドン・プレス紙のイグネイシャス・ギャラハー! 一体、誰が八年前に、このことを予想したろうか? だが、過去を一つ一つあたってみると、ちびのチャンドラーには、友の中に将来の偉大さを予知させる多くの兆候があったことを思い出した。皆はよく、イグネイシャス・ギャラハーは荒っぽいといっていた。むろん、あの頃は、彼も放蕩なやくざ連中にまじってさんざん飲みまわり、四方八方に借金をつくっていた。とどのつまり金銭問題のからんだ、あるいかがわしい事件にまきこまれてしまった。少なくとも、あれが彼の出奔の原因の一つに数えられていた。しかし、誰も、彼の才能を否定する者はいなかった。イグネイシャス・ギャラハーには、思わずつい心をひきつけられるある種の……何ものかが常にひそんでいたのだった。彼は、貧乏して全く窮したような時でも、相変らず不敵な面構えをしていた。ちびのチャンドラーはイグネイシャス・ギャラハーが進退きわまったというときにいった言葉の一つを思い出した。(そして、そのことを思い出すと、彼の頬にかすかに誇らしげな赤みがさしてきた)
「おい、さあ中休《ハーフタイム》みだ」彼はいつも屈託なくいった。
「一つとっくり考えることにしようぜ」
あれがイグネイシャス・ギャラハーの精一杯のところだった。それにしても、癪なことだが、そのために彼を賞賛せずにはいられないのだ。
ちびのチャンドラーは歩調を速めた。彼は生まれて初めて、すれちがう人々に優越感を覚えた。彼の魂は初めてケイペル街のたいくつな俗悪さに、胸くその悪くなるような不快感を覚えた。嘘いつわりのない全くの話、成功したかったら、出て行かなければだめだ。ダブリンにいたら何もできない。グラッタン橋を渡りながら河を見下ろして、河下の岸壁のほうへ視線を向け、そこにあるいじけた貧乏家に同情を禁じ得なかった。それらは河岸にひしめきあう浮浪者たちの群のように思われた。古ぼけた上衣は埃《ほこり》と煤《すす》にまみれ、眼前にくりひろげられる日没の風景にうつけたようになって、冷やりとする最初の夜気のおとずれを待ちかまえて、それから、やおら立ち上ると、身を震わせつつ立去っていく浮浪者。彼はこういう自己の感懐を一篇の詩に書けないものかと思った。ギャラハーなら、それをロンドンの新聞にでものせてくれるかもしれない。おれには何か独創的なものが書けるだろうか? 自分がどういう感懐を表わしたいのか、はっきりしなかった。が、今、自分に詩的契機がやって来ていると考えて、彼は身内に幼ない希望にも似た生命力がこみ上げてくるのだった。彼は勇敢に前進した。
一歩ごとに彼はロンドンに近づいた。一歩ごとに、自己のくすぶった非芸術的な生活からはなれていった。彼の心の地平線に一条の光がまたたき始めた。自分はまだそれほどの歳でもない――三十二なのだ。自分の気質は、今まさに成熟期にあるといえよう。詩で表現したいと思ういろんな情緒や感懐がある。そういうものがこの自分の内に感じられるのだ。はたして、これが詩人の魂であるかどうかを知るために、おのれの魂をじっと推し量ってみようとした。憂鬱がおのれの気質の基調であるように思えた。しかし、それは誠実と諦《あきら》めと素朴な悦びのくりかえしの内にいつしか和らげられてきた憂鬱であった。もしこれを、一冊の詩集に歌い上げたならば、恐らく人々も耳を傾けてくれるだろう。決して大衆に受け入れられるようなものにはなるまい。それはわかっている。自分には大衆をゆり動かすことはできない。しかし、同じ精神をもった少数の人々には訴えるだろう。多分、英国の批評家たちは、おれの詩に流れる憂鬱の調べの故に、自分をケルト派〔W・B・イエーツの影響により、題材にアイルランドの神話伝説を取り、神秘的なアイルランドの特性をもって新しい詩の伝統にしようとした流派、一九〇〇年頃より起る〕の一人と認めるだろう。更に、暗にそういうことを自分のほうでもほのめかしておこう。彼は、自分の書物が受けるであろう書評の中の文章や文句を作ってみ始めた。「チャンドラー氏は平明典雅なる詩文の才に恵まれ」……「これらの詩には悩める哀愁の情があふれ」……「ケルト的調べ」自分の名がそうアイルランド的に聞こえないのが残念だった。苗字の前に母方の名を入れたほうがよさそうだ。トマス・マロン・チャンドラー。でなければ、T・マロン・チャンドラーのほうがなおよさそうだ。これはギャラハーにも話してみよう。
あまり熱心に夢想を追っていたものだから、通りを行きすぎて、戻らねばならなかった。コーレスの店に近づいてくると、例の心の動揺が彼を圧えつけ始めた。彼は扉口の前で、最後のふんぎりがつかず立ち止った。やっと扉を開けて、中に入った。
バーの光と騒音のために、しばし、彼は扉口のところに突っ立っていた。あたりを見廻した。が、たくさんの赤や緑の葡萄酒盃のぎらぎらする輝きのために、視覚が混乱してしまった。バーには人が一杯いるらしかった。そして、それらの人々が自分をもの珍らしそうにじろじろと見ているような気がした。あわてて、ちらりと左右へ目をやってみた。(さも重大な要件があるようなふりをして、わずかに眉をひそめた)だが、少し視覚をとりもどしてくると、誰一人ふりむいて自分のほうを見る人のなかったことを知った。まさしく、仕出台に背をもたせて、両脚をぐっと開いて突っ立っているイグネイシャス・ギャラハーがいた。
「やあ、トミー、しばらく。久しぶりだねえ! 何にしようか? 何を飲む? おれはウィスキーを飲んでるところだ。海のあっちのやつよりか、うんとうまいな。ソーダか? リチウム水〔酸化リチウム塩を合む鉱水〕か? 鉱泉水は何もいらん? おれもそうだ。風味をこわすからな……おい、給仕《ギャルソン》、いい子だ、モルト・ウィスキーの半分を二つたのむぜ……そこで、と、別れてから、その後どうしていたの? いや、全くお互に年をとったなあ! おれも少しはふけたろう、――え、どうだ? 天辺《てっぺん》のほうも、少し白くなって、薄くなったよ――どうだ?」
イグネイシャス・ギャラハーは帽子をとって、短く刈りあげた大きな頭をみせた。その顔は生気に欠けて、青ざめていた。髯はきれいに剃《そ》ってあった。青みのかかったねずみ色の眼は、血色の悪い不健康さを一層目立たせて、つけている派手なオレンジ色のネクタイの上方に、はっきりと輝いていた。この対照的な特徴の中間に、唇がいやに長く、無細工な形をして、血の気がなかった。彼は頭を下げて、二本の指でさも大切そうに、頂きの薄い頭をさわってみせた。ちびのチャンドラーはそんなことはないというふうにかぶりをふった。イグネイシャス・ギャラハーはまた帽子をかぶった。
「やっぱりこたえるねえ」彼はいった。「新聞記者生活は。四六時中|泡《あわ》を喰ってかけずりまわって、ネタさがしさ。いつもネタがあるってわけじゃなし。それでいて、いつも何か新しいものを取材しなけりゃならん。本当に、二、三日でいいからゲラ刷りや活字から離れていたいよ。まったくの話、こうして故郷に帰ってこられたのが、滅法うれしくてならんよ。体にはとてもいいんだ、ちょっとした休みがね。おなじみの、このきたないダブリンに上陸したとたんに、もうすっかり元気になっちまったんだから。……さあ、きたぞ、トミー、水か? よし、いい加減になったらいってくれ」
ちびのチャンドラーはウィスキーを思いきり薄めてもらった。
「おい、冗談じゃない、これじゃ水っぽいぜ」イグネイシャス・ギャラハーがいった。「おれは生《き》で飲んでるんだ」
「普段、ほとんどやらんもんだからねえ」ちびのチャンドラーは遠慮がちにいった。「たまに誰か昔の連中に会ったとき、半杯がそこいら、やるくらいなもんで、あとはやらんから」
「ああ、そうか」イグネイシャス・ギャラハーはいった。
「われらがためと、なつかしい昔と、昔なじみのために乾杯しよう」
二人はコップをあわせると、乾盃した。
「今日、昔の連中になん人か会ったぞ」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「オハラはだいぶ左前になっているらしいな。今、なにをやっているんだ、彼は?」
「何もしてないんだよ」ちびのチャンドラーはいった。「すっかりおちぶれちゃってね」
「だけど、ホウガンはうまいとこにはまりこんだじゃないか」
「うん、土地委員会《ランド・コミッション》にいるんだ」
「いつだったか、夜、ロンドンで奴に会ったよ。いやに景気がよさそうだったなあ。……それにしても、オハラは気の毒だなあ! むやみと飲むんだな?」
「そればかりじゃない」ちびのチャンドラーは言葉少なにいった。
イグネイシャス・ギャラハーは笑った。
「トミー」彼はいった。「君はちっとも変らんなあ。相変らず真面目だ。日曜の朝なんか、おれが二日酔で頭がぐらぐらして、舌に苔ができちまってる時なんか、よくおれに説教したっけなあ。ちったあ、広い世の中をぶらついてみたかないかね? ちっとも、旅行もしないんだろう?」
「マン島へ行ったよ」ちびのチャンドラーはいった。
イグネイシャス・ギャラハーは笑った。
「マン島か!」彼は行った。「ロンドンかパリへ行きたまえ。何ていったって、パリさ。面白いぞ」
「パリは知ってるの?」
「まあ知ってるというとこだろうな! ちょいとうろついてきたからな」
「本当に世間でいうほどに美しいとこかい?」ちびのチャンドラーはきいた。
イグネイシャス・ギャラハーがぐいと酒を飲みほしている間、彼は自分のをちびちびすすった。
「美しい?」イグネイシャス・ギャラハーはその言葉と酒の風味とを味わいこんで、一息ついてからいった。「それほど美しくはないよ。そりゃむろん、美しくはあるさ……だが、パリの生活だよ。こいつだよ。ああ、パリほどはなやかで、活気があって、刺戟に富んだ都会は他にはないなあ……」
ちびのチャンドラーは自分のウィスキーをすっかりあけてしまった。かなり骨を折って、やっとバーテンの眼をとらえた。同じやつをも一つ注文した。
「ムーラン・ルージュにもいったよ」バーテンが二人のコップを持ってゆくと、イグネイシャス・ギャラハーはつづけた。「それから、ボヘミアンのカフェにも片っぱしから行ってみた。大変な代物だ! 君みたいな君子《くんし》の行くところじゃないよ、トミー!」
ちびのチャンドラーは、バーテンがコップを二つもって戻ってくるまで、何もいわなかった。それから、彼は友達のコップに軽くあわせて、先の乾盃を返した。彼は何となく幻滅を覚え始めていた。ギャラハーの口調や、自分のことをいういい方が気にさわった。前には見かけなかった何か俗っぽいものが、友の中にあった。けれど、それも恐らく、ロンドンで、新聞界の喧騒と競争のまっただ中に生活していたためにすぎないのだろう。こういう新しいはったり的な態度の奥にもやはり、あの昔の人間的な魅力はあった。何といってもギャラハーは今日まで生きぬいて、世間を見てきたのだ。この友をちびのチャンドラーは羨望《せんぼう》の眼で見やった。
「パリでは何もかもが陽気なんだ」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「人生は楽しむべしと確信しているんだな――その通りだと思わないか? 本当に楽しもうと思ったら、パリへ行かなくちゃだめだ。それに、いいかい、パリじゃ、アイルランド人はえらく好感がもたれてるんだよ。おれがアイルランドの出だと聞くと、皆、下へもおかない歓待ぶりなんだ」
ちびのチャンドラーはコップを四、五口すすった。
「どうだね」彼はいった。「パリって皆のいってる程ひどく……堕落しているって本当かい?」
イグネイシャス・ギャラハーは右腕で抱擁するように、偏見はないといったゼスチャアをした。
「どこもかしこも腐敗しているね」彼はいった。「むろん、パリにも生きのいいとこはあるよ。たとえば、学生たちの舞踊会へ行ってみたまえ。蓮葉女《ココット》がだらしなくなりだしたら、それこそ、手がつけられないね。そういう連中がどんなものだか知ってるだろうね?」
「話には聞いていたよ」ちびのチャンドラーはいった。
イグネイシャス・ギャラハーはウィスキーをのみほすと頭を振った。
「そうだな」彼はいった。「君のお気に召すかどうか知らんが、パリジャンヌほどの女はどこを探したっていないぞ――スタイルにしても、気っぷにしても」
「すると、パリは堕落した都会だな」ちびのチャンドラーは、おずおずとその見解を固執《こしつ》した。「つまり、ロンドンだの、ダブリンだのと比べた上での話だけど」
「ロンドン!」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「どっちも、どっこいどっこいのとこさ。君、ホウガンにきいてみたまえ。ホウガンが来たときに、ちょいとロンドンを見せといたからね。君の眼を開いてくれるだろうて……おい、トミー、そのウィスキーでポンスをつくるんじゃあるまいが。干したまえ」
「いや、もう本当に……」
「おい、さあやれよ。もう一杯ぐらい飲んだって、何てことはないだろう。何がいい? 同じのでいいか?」
「そうだな……いいよ」
「フランソワ、またこれだ……煙草をすうか、トミー?」
イグネイシャス・ギャラハーは葉巻入れをだした。二人の友は葉巻に火をつけると、酒がくるまで、黙ってそれをふかしていた。
「これはおれの意見だけど」イグネイシャス・ギャラハーは、しばらくしてから、それまで逃げこんでいた紫煙の中から出てきていった。「全くこわいみたいな世の中だよ。堕落といえば! いろんな実例を聞いたよ――何のことだっけ!――そうだ、このおれがじかに知っていることだよ、いろんな実例をな……堕落の……」
イグネイシャス・ギャラハーはじっと考え込みながら、葉巻をふかしていた。やがて冷静な歴史家のような口調でつれの友に、外国にはびこっている堕落絵図を描き始めた。手短かに多くの首都の堕落面を語って、ベルリンをその最たるものとしたいらしかった。彼に断言できないことも若干《じゃっかん》あった、(知人たちからのまた聞きの話であったからだ)が、その他のことは彼自身の経験によっていた。彼は身分も地位も容赦しなかった。ヨーロッパ大陸における修道院の内幕の数々を暴露し、上流社会に流行している策略の二、三を説明し、最後に、イギリスのさる公爵夫人に関する話――彼が事実であることを知っている話を、克明に語ってきかせた。ちびのチャンドラーは唖然《あぜん》とした。
「まあ、とにかく」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「われわれは、ここにこうして、そんなことはとんと御存じない昔ながらの、のほほんとかまえたダブリンにいるのさ」
「なんとも退屈でしょうがあるまい」ちびのチャンドラーはいった。「いたるところ、よその土地を見てきてるんじゃ!」
「いやあ」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「ここにくるとほっとするよ。とにかく、なんといっても、ほれ、古里は古里だからねえ。やっぱし、古里を慕う気持は如何ともし難いもんだね。それが人情さ……それにしても、君も自分のことを少しは話せよ。ホウガンから聞いたんだが、君は……円満なる家族の悦びを味わっているというじゃないか。二年前だって?」
ちびのチャンドラーは顔を赭《あか》くして、微笑した。
「うん」彼はいった。「去年の五月に結婚した」
「お祝いをいうのにはもう遅すぎるかも知れないけど」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「君の住所がわからなかったもんでね、さもなければ、むろんその時、お祝いをいっていたんだが」
彼は手をさしだした。ちびのチャンドラーはその手をとった。
「じゃあ、トミー」彼はいった。「君たち夫婦がいつも幸せに暮すことを祈るよ、そして大金持になることもな。そして、おれが君にずどんと一発喰らわすまでは、いつまでも生きていて下さいますようにだ。これは親友の心からの望みだよ、旧友のな。わかるね?」
「わかるよ」ちびのチャンドラーはいった。
「で、子供は?」イグネイシャス・ギャラハーはきいた。
ちびのチャンドラーはまた赭くなった。
「一人あるよ」彼はいった。
「男の子? 女の子?」
「坊主だ」
イグネイシャス・ギャラハーは友の背中をぴしゃっとたたいた。
「ブラヴォー」彼はいった。「さすがは君だ、トミー」
ちびのチャンドラーは微笑んで、戸惑ったように自分のコップを眺め、白い三枚のあどけない前歯で下唇をかんだ。
「帰る前に」彼はいった。「ぼくらと一晩一緒に過してくれないか。家内も君に会えたら、とても喜ぶだろうよ。なんなら、ちょっと音楽でもやって、それに――」
「いやあ、どうも有難う」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「もっと早くあえなくて残念だったよ。実は明日の晩、発たねばならないんだよ」
「じゃ、今晩でも……?」
「全く残念だなあ、君。もう一人仲間を――こいつも仲々の好青年なんだが―一緒に連れて来てるんだよ。で、ちょっとしたカルタの集りに行く約束になっているんだ。それさえなかったら……」
「ああ、それだったら……」
「でも、ひょっとしたら」とイグネイシャス・ギャラハーは思いやり深くいった。「きっかけができたから、また来年ちょいと、こっちにやってくるかも知れないよ。ただ楽しみがのびてしまうけどな」
「そうか」ちびのチャンドラーはいった。「じゃ、今度来たら、きっと一晩きてくれよ。今から約束しとくよ、いいね?」
「いいとも、約束した」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「来年来たら|誓って履行する《パロール・ドヌール》」
「じゃ、契約を固めるために」ちびのチャンドラーはいった。「もう一杯だけゆこうぜ」
イグネイシャス・ギャラハーは、大きな金時計を取りだして、眺めた。
「それで≪おつもり≫にするのか?」彼はいった。「何しろ、ほら、あとのおまけがあるんでね」
「ああ、そうだったね、これで最後だ」ちびのチャンドラーはいった。
「よし、それじゃ」イグネイシャス・ギャラハーはいった。「もう一杯飲もう、|別れの盃《ドック・アン・ドルイス》に――こいつは水っぽいウィスキーには、おあつらえむきのお国言葉だな」
ちびのチャンドラーは酒を命じた。少し前に彼の顔に昇った赤みが、今すっかり本ものになってきた。ごく少量でいつも彼は赤くなった。今はもう顔が火照り、昂奮を覚えてきた。三杯の弱いウィスキーが彼の頭にきて、ギャラハーの強い葉巻が考えを混乱させてしまった。というのも、彼はいたって体質の弱い、節制家だったからだ。八年振りでギャラハーに会い、今こうしてギャラハーと共にコーレスの店で光と騒音にとりかこまれて、ギャラハーの話に耳を傾け、ギャラハーの気まぐれな、勝ち誇った生活に束の間でも、仲間入りするという思いがけない経験のために、彼の敏感な性質の平衡《へいこう》がくつがえされてしまったのだ。彼はおのれの生活と友の生活とのはげしい対象を痛切に感じた。これは不当だと思われた。ギャラハーは生れも、教育も共に自分よりも劣っているのだ。自分だって、機会さえあれば、友が今までにやったことよりも、また将来にやれそうなことよりも、もっといいことが、あのはったりだけのジャーナリズムなどより、もっと高尚なことをやれる自信がある。おれの道を邪魔しているものは一体何だ? この不幸なる小心ではないか! 何とかして自己の主張をつらぬき、おれも男だと主張してみたい。ギャラハーがおれの招待を拒絶した裏はわかっている。ギャラハーはアイルランドにやって来たことによって、アイルランドに恩着せがましくしているが、それと同じく、自分の友情でおれに恩を着せているにすぎないのだ。
バーテンが彼らの酒を持ってきた。ちびのチャンドラーはコップを一つ友のほうへ押しやった。そして、もう一つふてぶてしく取り上げた。
「どうだかわからんがね」彼は、二人がコップをさし上げたときにいった。「来年君がきたら、今度はぼくからイグネイシャス・ギャラハー夫婦の長寿と幸福を祈るということになるかも知れないな」
イグネイシャス・ギャラハーは酒を飲みながら、思い入れよろしく、コップの縁ごしに片眼をつぶってみせた。飲み終ると、強く舌鼓を打ち、コップを下に置いていった。
「御心配は全然ないね。まず、したい放題のことをやって、少しは人生や世間を見て、それから、おもむろに、頸枷《くびかせ》を頂戴しようって寸法さ――もし頂戴すればの話だが」
「いつかはそうなるよ」ちびのチャンドラーは静かにいった。
イグネイシャス・ギャラハーはオレンジ色のネクタイと青みがかったねずみ色の眼をぐっと友のほうに向けた。
「君はそう思うかい?」彼はいった。
「君も頸枷をはめるっていうことになるよ」ちびのチャンドラーは頑固にくり返した。「これはと思う女がみつかれば、外のみんなと同じさ」
彼は少し語調を強めた。と、自分がうっかり本心を見せてしまったことに気がついた。だが、頬がかっと紅潮してきても、友の視線からじっと目をそらさずにいた。イグネイシャス・ギャラハーはしばらく彼を見つめていたが、やがていった。
「万が一、そうなったとしてもだよ、好いた好かれたなんてことは、間違ったって絶対ありっこないよ。おれは金と結婚するつもりなんだ。銀行に預金がたっぷりある女でなくちゃ、おれには縁なしだ」
ちびのチャンドラーは首をふった。
「おい、しっかりしろよ、君」イグネイシャス・ギャラハーは雄弁になっていった。「納得がゆかんのか? おれが一言、うんといいさえすれば、明日にでも女と金がおれのものになる。まさかと思うだろう? ところが、おれにはわかっている。金持のドイツ人やユダヤ人で、金を腐るほどかかえていて、ただもうよろこんで……というような女が何百――いやそんなこっちゃない――うようよいるんだよ。まあ、見ていろ。細工は粒々といくかどうか見ていろよ、いいかね、おれは事にかかる時には、本気だからね。まあ見ていろ」
彼はコップを口へ勢よくもってゆき、全部飲みほすと、大声で笑った。それからじっと考え込んで前方を見ていたが、前よりも落着いた口調でいった。
「だが、ちっともおれは急いじゃいないんだ。向うを待たせときゃいいのさ。とにかく一人の女に縛《しば》られようとは、夢にも思わんよ」
彼は口で味わってみるまねをして、渋面を作ってみせた。
「きっといささか腐りのきた味がするにちがいないと思うね」と、彼はいった。
ちびのチャンドラーは玄関のホールの外れの部屋で子供を抱いていた。倹約をして女中を置いていなかったが、アニーの妹のモニカが朝の一時間ばかりと夕方一時間ばかりを手伝いに来ていた。だがモニカはもうとっくに帰っていた。九時十五分前だった。ちびのチャンドラーは夜食《ティ》に遅れて帰宅した。おまけに、アニーにビューリイの店からコーヒーの包を持ってきてやるのを忘れてしまったのだ。むろん、アニーは不機嫌で、ろくに返事もしなかった。お茶なしですまします、と彼女はいったが、それでも角の店が閉まる時分になると、彼女は自分で行って、四分の一ポンドの茶と二ポンドの砂糖を買ってくるといいだした。妻は眠っている子供を上手に彼の腕に渡すと、いった。
「よくって、おこしちゃ駄目よ」
陶器の白い笠のついた小さなランプがテーブルの上にあった。その明りが、曲りくねった角製の額縁に納められた写真を照らしていた。アニーの写真だった。ちびのチャンドラーはじっとそれを見やり、暫く、その堅くひき結んだうすい唇を見つめていた。ある土曜日に彼女へのプレゼントに彼が買ってきた水色の夏のブラウスを着ていた。あれは十シリング十一ペンスもしたのだ。それよりも、あれを買うのに、自分はどれほど神経を使ったことか! あの日は本当に苦しんだ。客のいなくなるまで店の扉口のところで待って、それから、カウンターのところに立って、女店員が婦人用のブラウスをつぎつぎとだしてくれる間も努めて平静を装っていた。そして、今度は帳場で金を払うと、おつり一ペンスをもらうのを忘れ、帳場の店員に呼びもどされ、やっと、店を出る段になっても、赤くなった顔を隠そうと、包みがちゃんと縛ってあるかどうか調べるような振りをした。そのブラウスをもって帰ると、アニーは接吻をしてくれ、とっても素敵だわ、そしてハイカラね、といってくれた。だが値段をきくと、アニーはブラウスをテーブルの上にほうりだし、こんなものに十シリング十一ペンスもとるなんて、まさにインチキだといった。初めのうちは突っ返したらいいといっていたが、ちょっと着てみると、それが気に入り、特に袖の仕立てが気に入ってしまい、おれに接吻をし、本当にあなたはいい方ね、といった。
ふん!……。
彼は写真の眼をひややかにのぞきこんだ。相手の眼もひややかに応えた。確かにあの眼はきれいだ、顔そのものもきれいだ。だが、あの顔にはどこか卑しいところがある。どうしてあんなに非常な、貴婦人ぶったようすをしているんだろう? あの落着きはらった眼を見ていると、いらだってくる。こっちをはねつけ、無視している。情熱なんか全くない、陶酔《とうすい》もない。ギャラハーがいっていた金持ちのユダヤ女のことを思い出した。そういうユダヤ女の黒い、東洋的な瞳には、どんなに情熱があふれ、艶めかしい欲情が満ちていることだろう!……どうしておれはこんな写真の眼と結婚したのか?
この質問にひっかかると、部屋のまわりをおずおずとうかがった。この家のため月賦《げっぷ》で買った美しい家具にも、何か卑しいものがある。アニーが自分で選んだものだから、それが妻を思わせるのだ。家具も矢張りつんと取り澄して、美しかった。自分の生活に対するにぶい憤りが心の中に湧き起こってきた。このおれのちっぽけな家から逃げだせないものか? ギャラハーのように大胆に人生を送ろうとするのは、おれにはもう遅すぎるだろうか? 自分もロンドンへ行けないものだろうか? まだ支払いの残っている家具がある。一冊本を書いて、出版できさえしたら、それでおれの道が開けるかもしれない。
バイロンの詩集が一冊、目の前のテーブルにのっていた。子供をおこさないように、左手で注意深くそれを開いて冒頭の詩を読み始めた。
[#ここから1字下げ]
風止みて、夕闇静か
杜《もり》を吹くそよぎだになく
われマーガレットの墳墓《おくつき》に寄り
いとしき遺骸《なきがら》に花を撒かんとす
[#ここで字下げ終わり]
暫し間をおいた。部屋のあたりにただようこの詩のリズムを感じた。なんという哀愁であろう! おれもこのように書いて、自分の魂の憂鬱を詩にあらわせるだろうか? 書きたいことはたくさんある。例えば、数時間前、グラッタン橋を渡ったときの感懐がそうだ。もう一遍あのときの気分に返れたら……。
子供が目をさまして、泣きだした。彼は本の頁から眼を移して、子供を鎮《しず》めにかかった。だが、子供はだまらなかった。腕の中で左右にゆすってやった、が、泣き叫ぶ声は、ますます鋭くなっていた。彼はなおも早く揺りながら、眼で詩の第二節を読みはじめた。
[#ここから1字下げ]
この狭き墓穴《あな》にその骸《なきがら》は眠る
その骸もかつて……
[#ここで字下げ終わり]
駄目だ。読めない。何もできない。子供の泣き叫ぶ声が耳の鼓膜をつんざいた。駄目だ、駄目だ! おれは、一生とらわれの身だ。腕が怒りに震えた。彼は突然子供の顔に覆いかぶさって怒鳴った。
「だまれ!」
子供は一瞬泣きやめたが、激しい恐怖のひきつけを起こして、金切声で泣きだした。彼は椅子から跳び立って、子供を抱いたまま、部屋をあっちこっちと気ぜわしく歩いてみた。子供は、悲しそうに泣きじゃくり始めた。四、五秒、息を切らしていたと思うと、また改めて、火がついたように泣きだした。部屋の薄い壁が泣き声を反響させた。彼はなだめすかしてみた、が、一層ひきつったように泣きじゃくった。子供のひきつってふるえている顔を見て、彼ははっとした。切れ目なしに泣きじゃくる数を七つまで数えると、彼は恐怖のあまり、子供をひたと自分の胸におしあてた。もしや死んだら!……
扉がさっと開いて、若い妻が息を切らしながらとびこんできた。
「どうしたんです? どうしたの?」彼女は叫んだ。母親の声を聞くと、子供は、また激しく泣きじゃくりだした。
「どうもしないよ、アニー……何でもない……泣きだしたんで……」
彼女は包みを床に投げだすと、彼から子供をひったくって取った。
「この子に何をなさったんです?」妻は彼の顔をにらみつけながら、大きな声でいった。
ちびのチャンドラーは一瞬、妻の視線を受けとめていたが、そこに現われた憎悪にぶつかると、彼の心はしぼんでいった。口ごもりながら彼はいいだした。
「何でもないんだ……こ……これが泣きだしたんで……どうにもできなくて……何もしやしなかったんだよ……どうした?」
夫のいうことには耳もかさず、彼女は子供を腕にしっかりと抱いて、部屋をあっちこっちと歩きだした。そして小声でつぶやいた。
「坊や! 坊やちゃん! こわかったの、え?……ああ、よし、よし! ばあ、ばあ!……いい子ちゃん! ママの大事な大事ないい子ちゃん!……ほれ、ね!」
ちびのチャンドラーは恥ずかしさが頬一面にひろがってゆくのを感じた。彼はランプの光のあたらないところに立ちのいた。耳をすましていると、火のついたような子供の発作が段々弱まってゆくのがわかった。彼の眼には自責の涙がこみ上げてきた。
[#改ページ]
似たもの同士
ベルがけたたましく鳴った。ミス・パーカーが通話管のところへ行くと、癇癪《かんしゃく》を起こした声が、鼓膜の破けるようなアイルランドの北方|訛《なま》りでわめいた。
「ファリントンをこっちへよこしてくれ!」
ミス・パーカーは自分のタイプライターのところへもどって、デスクで書きものをしている男にいった。
「アリーンさんが二階へ来て下さいって」
男は声をひそめて「畜生!」と呟くと、椅子をうしろへ押しのけて、立ち上った。立ち上ると、彼は背の高い大男だった。濃い葡萄酒色の張りのない顔に、金髪の眉と口髭をしていた。眼は心持ち出目で、白眼が濁《にご》っていた。帳場の台板を上に開け、顧客の側を通って、重い足取りで事務室から出ていった。
大儀そうにのそのそと階段を上り、二番目の踊り場にきた。そこの扉に、「ミスター・アリーン」という文字の刻まれた真鍮《しんちゅう》の表札がかかっていた。ここで立ち止ると、疲れと腹立たしさのために喘ぎながらノックした。かん高い声が叫んだ。
「入り給え!」
男はアリーン氏の部屋に入った。と同時に、髯をきれいにそった顔に金縁眼鏡をかけた小男のアリーン氏が、ひょいと書類の山の上に頭をつきだした。頭そのものが桃色をしていて、毛が全くなかったので、まるで書類の上に大きな卵が載っかっているようだった。アリーン氏はすかさず口をきった。
「ファリントン? これはどういうつもりかね? どうしてこう君はしょっちゅう人に文句をいわせるんだ。ボッドリーとカーウォンの契約書の写しを君は一体どういうわけで作らんのだ? 四時までには準備しとかにゃいかんというたじゃないか」
「しかし、シェリーさんがおっしゃったのですと――」
「≪シェリーさんがおっしゃった≫?……シェリーさんがおっしゃることじゃない、わしのいうことを守ってくれんと困るね。だいたい君はいつも仕事を逃げて、なんじゃかんじゃと言いわけばかりしておるじゃないか。もし夕方までに契約書の写しができなかったら、この事をクロスビー君にも話すからね……いいね、うん?」
「はい」
「わかったろうな?……そうだ、も一つ細かいことがあるぞ! 全く君に話しするのは、壁に向って話しとるのと同じだからなあ。今度限りでわかってくれたまえ、昼食は三十分ですましてもらいたいね、一時間半もかかるって法はないぞ。一体君は何品食うのかね? 全くきいてみたくなるよ……気をつけてくれるね?」
「はい」
アリーン氏は再び書類の山に頭を突っこんだ。男は、クロスビー&アリーン商会の業務を取締っている、このてらてら光る頭にじっと眼をすえて、その頭の脆《もろ》さを考えてみた。忿《いか》りの発作が、暫く彼の咽喉をしめつけていた。やがて、それが去ると、後に、はげしい渇《かわ》きの感じが残った。男はこのいつもの感じを知って、今夜はしたたか飲まずにはおれないぞ、と思った。月の半ばを過ぎていた。写しを間にあわせておいたら、ひょっとしてアリーン氏は会計のほうへ伝票を出してくれるかも知れない。彼はじっと突っ立ったまま、書類の山にのっている頭をにらんでいた。突然、アリーン氏は、書類を全部ひっくりかえして、何か探し始めた。と、その時まで、彼がそこにいたのに気がつかなかったとでもいうように、もう一度頭をひょいともたげて、いった。
「何だ? 一日そこに突っ立っとる気か。いやはや、どうも、ファリントン、君は実におっとりできておるな!」
「外になにかと思ってお待ち……」
「よろしい、待ってるには及ばん。階下《した》へ行って、さっさと仕事をやりたまえ」
男は重い足取りで扉口のほうへ歩いて行った。彼が部屋を出る時に、アリーン氏が彼の後から、夕方までに契約書の写しができなかったら、クロスビー氏にそのことを話すぞ、と大声でいっているのが聞こえた。
彼は階下の事務室の自分のデスクに戻って、まだ写してない書類の枚数を数えてみた。ペンを取って、インクにひたしたが、そのまま、前に書いた最後の文句をぽかんと見つめていた。「前記バーナード・ボッドリーは決して……」夕闇がたれこめてきた。もう数分したら、ガス燈に火が入る、そしたら、書けるようになる。彼は咽喉の渇きを癒《いや》さねばだめだと思った。デスクを立って、前と同様、帳場の板を上げて、事務室を出かかった。出て行こうとするところを、主任がさぐるような眼つきで見ていた。
「大丈夫です、シェリーさん」男はいって、指でさしながら外出の目的を教えた。
主任は帽子掛けをちらりと見たが、全部帽子がそろっているのを見ると、何もいわなかった。男は踊り場のところにくると、直ちにポケットから白黒の碁盤縞《ごばんじま》の毛編み帽子をひっぱりだし頭にかぶると、がたぴしする階段を大急ぎでかけ下りていった。表の扉口から出ると、こそこそと鋪道の内側に沿って街角へ歩いていった。と、突然、ある扉口へすっと入っていった。彼は今、オニールの店の薄暗い小部屋に入って、ほっとした。バーをのぞきこむ小さな窓一杯に、濃い葡萄酒色か黒ずんだ肉のような色に充実した色に充血した顔をおしあてて、呼んだ。
「おい、パット、すまん、黒の生《なま》を一つくれ」
ボーイが生の黒ビールを一杯もってきた。男は一息にぐっと飲んでしまうと、ヒメウイキョウの実を注文した。帳場にペニー銅貨を置くと、ボーイがうす暗がりで、手探りでそれを受け取るのを後にして、さっき入ってきたときと同じように、こそこそと小屋を引揚げていった。
暗闇が、深い霧を伴って二月の黄昏《たそがれ》に深まっていった。ユーステス街の街燈はもう灯が入っていた。男は写しをちゃんと間にあわせられるかなと思いながら、家並を通って、事務所の扉口のところまでやってきた。階段の上のところにくると、湿った強い香水の匂いが彼の鼻に匂ってきた。オニールへ行っている留守に、きっとミス・デラコアがきたのだな。帽子をまたもとのポケットにねじこむと、ぼんやりしたふうを装《よそお》って、事務室へ入っていった。
「アリーンさんがさっきから君を呼んでいるんだよ」主任が厳しくいった。「どこにいたのだい?」
男は、帳場にいる二人の客を、暗にあの人たちがいるので答えにくいんで、とでもいっているような眼付で、ちらりと見やった。客がいずれも男だったので主任は思わず笑いだした。
「見当はついてるよ」彼はいった。「一日に五度は、どうも少々……まあいいから、ぐずぐずせんで、アリーンさんへデラコアの件の通信控えを届けてきたまえ」
人のいるまん前でこんなふうにいわれたことや、階段をかけ上ってきたことや、大急ぎで一呑みにした黒ビールなどで、男は頭が混乱していた。自分のデスクに向って、さて命じられた仕事にかかってみると、五時半までには、とうてい契約書の写しを終えるという仕事が片付かないことを悟った。暗いじめじめした夜になりかけてきた。こういう晩は酒場で過したかった。ガス燈のぎらぎらする明りや、コップのがちゃがちゃぶつかる音の中で友達と飲みたかった。デラコアの通信文を引きだして、事務室を出ていった。どうか、アリーン氏が最後の手紙が二通ぬけているのを見付けませんように、と祈った。
湿った強い香水の匂いが、アリーン氏の部屋に行くまでの途中にずっと漂っていた。ミス・デラコアは一見ユダヤ人に見える中年の婦人だった。アリーン氏は彼女だか、彼女の金だかにほれているという噂だった。彼女はちょいちょいこの事務所へやってきて、くると長居した。彼女は今も香水の芳香をはなって、彼のデスクの脇に腰掛け、傘の柄《え》をなでたり、帽子の大きな黒い羽根飾を揺ったりしていた。アリーン氏は帽子をぐるりと廻して彼女と面と向って、鷹揚《おうよう》に右足を左の膝にのせていた。男は通信文をデスクに置き、かしこまって一礼した、が、アリーン氏もミス・デラコアも、彼のお辞儀には全然気をとめなかった。アリーン氏は通信文を指で軽く叩くと、それを、「よろしい、行きたまえ」とでもいうように、彼のほうへぽいっとはじいた。
男は階下の事務室へもどって、再び自分のデスクに腰かけた。彼はじっと、前の書きかけの文句をにらんだ。≪前記バーナード・ボッドリーは決して≫……(In no case shall the said Bernard Bodley be……)。最後の三語が同じbで始っているのがいかにもおかしい、と思った。主任は、手紙のタイプが郵便に間にあわないだろうといって、ミス・パーカーをせかし始めた。男は暫く、タイプライターのパチパチいう音に耳を傾けていたが、やがて、写しを書き終えようと仕事にかかった。しかし、頭がはっきりしなかった。心は居酒屋のぎらぎらする明りや騒がしい音などのあらぬ方へさまよっていった。熱いポンスの欲しい夜だ。一生懸命写しと取組んだ。しかし、時計が五時を打ったときに、まだ十四頁書かねばならなかった。こん畜生! 到底《とうてい》全部は間にあいっこない。大声で悪態がつきたかった。何かに拳固をがあんとぶつけたかった。ぷりぷりしていたので≪バーナード・ボッドリー≫と書くところを、≪バーナード・バーナード≫と書いてしまった。彼は、もう一遍さらの紙に初めから書き直さねばならなかった。
彼はここの事務所くらいは全部を自分一人で相手どって、楽に片付けられるほどの力を感じた。全身が何かしたくて疼《うず》いた。とびだして、滅茶苦茶に飲んでやりたかった。おのれの生活のみじめさに憤った……会計にそっと俸給の前借りをしようか。いや、あの会計は駄目だ。前貸しなんかしてくれるものか……レナードやオハラランやノージイ・フリン等の仲間と会う場所はわかっている。彼の感情過多を計るバロメーターは嵐の発作を示していた。
彼はすっかり空想にふけっていたので、自分の名前を二度呼ばれてから、やっと返事した。アリーン氏とミス・デラコアが帳場の外に立っていた。事務員たちも一斉にこちらをふりむいて、何事が起こるかと固唾《かたず》をのんでうかがっていた。男はデスクから立ち上った。アリーン氏は、手紙が二通ぬけとったぞ、といって、がみがみと長説教を始めた。男は答えた。私は何も知りません、ちゃんと全部写したのですからと。長広舌はまだつづいていた。罵詈《ばり》があまりはげしく手酷《てきび》しかったので、男はあやうく拳を目の前にいる小男の頭に、一発喰らわしそうになるところだった。
「私はほかの二通の手紙など、何も知りません」彼はとぼけていった。
「≪私は≫――≪何も≫――≪知らん≫。むろん、君は知らんだろうよ」アリーン氏はいった。「どうだ」彼は隣の婦人にまず同意を求めるようにちらりと視線を走らせて、いいそえた。「一体、君はこのわしを馬鹿と思うかね? わしを底抜けの馬鹿と思っとるのかね?」
男は婦人の顔から、小さな卵形の頭に眼をやって、またもどした。と、自分でもやっと気がついた時には、もう彼の舌にまたとない好機をとらえてしまっていた。
「私にそういう質問をされるのは」と彼はいった。「いささか無理じゃございませんかな」
事務員たちまでが一瞬固唾をのんだ。いずれもこれには肝をつぶした。(周りにいたものだけでなく、この当意即妙の言葉をとばした男自身もそうだった)それから、肥った、人好きのするミス・デラコアがあけすけな微笑をほころばせた。アリーン氏は野薔薇のような色に顔を真赤にし、その口は一寸法師が癇癪を起こしたようにぴくぴく引きつっていた。彼は拳固を男の鼻先で振りまわしていたが、遂にはそれは、何かの電気機械の把手のようにびりびりと振動を始めたように思えた。
「この無礼者め! この恥しらずめ! すぐに貴様を片付けてやるぞ! いまに見ておれ! 無礼をわびるか、さもなければ、直ちにこの事務所から出てけ! ここをやめるか、いいか、わしにあやまるかだ!」
彼は事務室の真向いにある扉口の奥に立って、会計が一人で出てくるかどうか見張っていた。事務員たちは皆出ていった。最後に会計が主任とつれだって出てきた。主任と一緒にいるときには、彼に何かいっても無駄だ。男は自分の立場がひどく不利なのを感じた。あの無礼に対しては、どうしたってアリーン氏に、情けないが詫をいれないわけにはゆかない。それにしても、この事務所も、これからは自分にとって、いやな居心地の悪いところになってしまった、と考えた。アリーン氏はかつて、自分の甥《おい》を入れるためにピーク少年を事務所からいびりだしてしまった。あの手口を思い出した。われとわが身が、また他の誰もかれもが、癪にさわって、むしょうに腹立たしくなり、酒が欲しくなり復讐心《ふくしゅうしん》がむらむらと起ってきた。アリーン氏はおれには一刻も休息を与えてはくれまい。おれの生活はめちゃくちゃになってしまう。今度という今度は、おれもとんだ馬鹿をやってしまった。おれには口をつつしむということができないのだろうか? だが、おれとアリーン氏とは初めから、協調できなかったのだ。おれが彼のアイルランドの北方訛りをまねて、ヒギンズやミス・パーカーを笑わせていたのを、アリーン氏に立ち聞きされたあの日からだ。あれがそもそもの始まりだった。ヒギンズに金のことを頼んでみてもよかったのだ。しかし、ヒギンズもきっと、自分では持ちあわせがないだろう。世帯を二つかかえてる男なんだから、むろん、彼は駄目だ……。
彼の大きな体はまたしても居酒屋の慰めを求めて疼きだした。霧が身にしみて冷たくなってきた。オニールの店に行ったら、パットに借りられるかな、と思った。あいつでは一シリング以上は借りられない―一シリングではなんにもならん。けれど、どこかで金を工面しなければならない。黒ビールに最後の一ペニーをはたいてしまったのだから。ぐずぐずしていたら、どこへ行っても金の工面がつかなくなってしまう。と、時計の鎖をいじりながら、不意に、フリート街のテリー・ケリー質店のことを思いついた。こいつはうまい思いつきだ! なぜもっと早く気がつかなかったろう?
彼は、奴らなんか、みんな、くたばっちまえ、おれは今夜は大いに楽しんでやるからな、と口の中でぶつぶつ独り言をいいながら、テンプル・バー〔フリート街につづく街の名〕の狭い横町を足早にぬけていった。テリー・ケリー質店の番頭は、一クラウン〔五シリング銀貨〕! といったが、質主のほうは、六シリングだと頑張った。結局、六シリングきっかりもらった。彼は、親指と他の指とで重ねた銀貨の小さな円筒をおさえて、にこにこ顔で質屋を出た。ウェストモアランド街〔ダブリン随一の繁華街、フリート街と交叉す〕では、歩道は勤め帰りの若い男女でごったがえしていた。それに、みすぼらしい少年がここかしこと走りながら、夕刊新聞の名をわめいていた。街の光景を誇らしげな満足感を抱いて見渡し、オフィス・ガールを横柄に睨《にら》みながら、人込みの中をぬけていった。彼の頭は電車の鈴や架線をこするポールなどの騒音で、いっぱいだった。鼻はすでにポンスから立ちのぼる香りをかいでいた。歩きながら、仲間に今日の事件を話してやる時の文句をあらかじめ考えてみた。
「それで、おれはちょいと奴さんの顔を見たのさ――しゃあしゃあとしてな、それから、今度は女のほうを見たよ。で、またもう一遍奴のほうに目をもどしたのさ――わざとゆっくりとな。『私にそういう質問をされるのは、いささか無理じゃございませんかな』といったわけさ」
ノージイ・フリンはデイヴィ・バーンの店の隅の、いつものところに陣取っていた。そして、話を聞くと、彼はこんな痛快なことは聞いたことがないといって、ファリントンに半混《ハーフ》をおごってくれた。今度はファリントンがおごった。暫くすると、オハラランとパッディ・レナードが入ってきて、もう一度、二人にさっきの話をしてきかせた。オハラランは、一座の全部に熱い生ウィスキーをおごって、自分がファウンズ街のキャランのところにいた時分に、そこの主任に向ってうまい応酬《おうしゅう》をした話をしてきかせた。しかし、その逆襲も牧歌《エクローグ》〔牧夫を中心にした対話体の短詩〕にでてくる、気前のいいあの羊飼いを真似てやったものだから、ファリントンの逆襲ほど気がきいたものでなかったのを、彼も認めざるを得なかった。そこで、ファリントンは連中にこいつを早く片付けて、もう一杯やろうといった。
皆がそれぞれ自分の酒の名をいっている丁度そこへ、誰あろう、ヒギンズが入ってきた! 無論、彼も一座の仲間入りしないわけはなかった。皆は彼にも事件を彼の立場から説明してくれと頼んだので、彼は至極陽気に話してきかせた。それというのも、うすいホット・ウィスキーが五杯もならんでいる光景が、非常に気分を浮きたたせたからだ。アリーン氏が拳固をファリントンの鼻先で振りまわしたときのようすを彼がやってみせたとき、一人残らず爆笑した。それから、ファリントンの真似をやってみせ、「ところが、こちらさまときちゃ全く涼しい顔をしたもんでね」といった。その間、ファリントンはというと、どろんとにごった眼で一座の連中を見ながら微笑して、時折、口髭についた酒の雫《しずく》を下唇の助けを借りてすすりこんでいた。
一渡り酒がすむと、何となく座が白けた。オハラランは金を持っていた。が、他の二人は少しも持ってなそうだった。そこで、一同はまだ何となく未練を残しつつ店をでた。デューク街の角で、ヒギンズとノージイ・フリンは斜めに左へ折れていった。他の三人は市内のほうへ戻っていった。雨が冷たい街路にしとしとと降っていた。バラスト局〔一七〇七年設立されたダブリン港の管理に当る機関。後に「港務局」となる〕のところへ来たとき、ファリントンがスコッチ・ハウスへ行かないかといいだした。酒場は人が一杯で、話し声やコップの音で騒々しかった。三人は入口で哀れっぽい声で呼びかけるマッチ売りどもを押しのけて、カウンターの一隅に小さくかたまった。互にいろんな話を交わし始めた。レナードがティヴォリ座で曲芸師《アクロバット》兼立廻りの芸人をしているウェザーズという名の若者を二人に紹介した。ファリントンが一同に一杯ずつおごった。ウェザーズは、自分はアポリネーリス水〔鉱泉飲料の商品名〕で割った弱いアイルランド産ウィスキーにしたいといった。事理に極めて明るいファリントンは仲間に、君らもアポリネーリスのほうにするかときいた。ところが仲間は、おれたちのはホットにしてくれといった。話がだいぶ芝居がかってきた。オハラランが一渡りおごった。と、もう一遍ファリントンがおごった。ウェザーズは、款待があまりアイルランド風すぎて困るといいだした。彼は、皆を舞台裏へ案内して、いい女の子を紹介しようと約束した。オハラランはおれのどろんと濁った眼は、自分がからかわれているのはよくわかっているぞという印に、一同をじろりと見廻した。ウェザーズは自前で皆にほんの少しばかりふるまってから、後でプールベッグ街のマリガンの店でまた会おうと約束をした。
スコッチ・ハウスが看板《かんばん》になると、一同はマリガンの店へ廻っていった。店の奥の部屋へ入ると、オハラランが一座に弱いホット・スペシャルを注文した。一同は陶然《とうぜん》としてき始めた。ファリントンが丁度、一同にもう一杯おごろうとしているところへ、ウェザーズが戻ってきた。今度は彼は苦味《ビター》ビールをのんでくれたので、ファリントンはほっと胸をなでおろした。手持ちの金はいよいよ心細くなっていったが、まだも少しずつぐらいはあった。と、そこへ大きな帽子をかぶった若い女が二人と、碁盤縞の服を着た男が一人、入ってきて、すぐそばのテーブルに腰かけた。ウェザーズは彼らに挨拶をして、一同にティヴォリ座に出ている人たちだと教えた。ファリントンの視線はしきりと若い女の一人のほうへ向けられていた。その女のようすには、どこか印象的なところがあった。つやのある孔雀色のモスリンの大きなスカーフが帽子にまきつけられて、顎の下で、それが大きな蝶結びにされていた。それに、肘までとどく鮮黄色の手袋をはめていた。ファリントンは、いかにも優美にしきりと動かしている女のむっちりとした腕に、ほれぼれとした視線を投げていた。暫くして、女が彼の視線に応じてこちらを見たとき、そのつぶらな暗褐色の瞳に、なお一層引きつけられてしまった。はすに睨むようなその眼差しに彼は恍惚《こうこつ》となった。女は彼を、一、二度ちらっと見やった。一行が部屋を出て行く時、女は彼の椅子にぶつかって通り、「あら、ごめんなさい!」とロンドン口調でいった。彼は、女が自分のほうをふり返ってくれますようにと祈りながら、部屋を出て行くのをじっと見守っていた。しかし、彼の期待は破られた。彼は金の欠乏をのろい、自分のふるまった酒、殊にもウェザーズにおごったアポリネーリス水で割ったウィスキーをのろった。今、彼が憎むものが一つあるとすれば、それは大酒飲みであった。無上に腹がたち、仲間の会話も全くうわの空であった。
パッディ・レナードに呼ばれて気がつくと、皆は力業の話をしていた。ウェザーズは一同に腕の二頭筋を見せて、すっかり自慢しているので、他の二人がファリントンに呼びかけて、アイルランドの名誉を護れというのだった。そこで、ファリントンは袖をまくり上げて、彼の二頭筋を一同に見せた。二本の腕が比較検討され、ついには力比べをしてみようということにきまった。テーブルのものが片付けられ、二人の男がその上に肘をすえて、手を握りあった。パッディ・レナードが「それ!」というと、それぞれ相手の手をテーブルに倒しておしつけようというのだ。ファリントンは真剣そのものという顔付で一生懸命だった。
力比べが始った。およそ三十秒もすると、ウェザーズが相手の手をじわりじわりとテーブルの上に倒していった。ファリントンの濃い葡萄酒色をした顔は、こんな青二才にまけたという忿りと屈辱に、一層どす黒く充血していった。
「体の重みを腕にかけちゃいかんよ、フェア・プレイでいこうぜ」彼はいった。
「誰がこすいことをしたっていうんだい?」相手はいった。
「ようし、もう一度いこう。三回勝負だぞ」
力比べがまた始った。ファリントンの額に青筋が立って、血の気のないウェザーズの顔色が紅潮していった。二人の手と腕は奮闘して震えていた。かなり奮戦した後、ウェザーズが、また相手の手をゆっくりとテーブルに倒した。見物人の口から称賛のささやきが呟かれた。テーブルの側に立っていた給仕は勝者のほうにその赭ら顔をうなずいてみせ、間抜けたなれなれしさでいった。
「なるほど! こいつは≪こつ≫だね!」
「貴様なんかに何がわかるかってんだ」ファリントンは、その男のほうにひらき直って、荒々しくいった。「余計なおせっかいいうな!」
「しっ、しっ!」とオハラランが、ファリントンの顔の逆上した表情を見てとると、いった。
「お開きだ、みんな。あともう一杯だけちょっとやって、引きあげよう」
恐ろしく仏頂面をした男が、オコウヌル橋のところに立って、家へ帰る為に、サンディマウント〔ダブリン南郊外の海沿いの町〕行きの小さな電車を待っていた。彼は鬱積した怒りと復讐心でいっぱいだった。屈辱と不満がくすぶっていた。酔った気分さえなかった。ポケットには二ペンスしかなかった。あらゆるものを呪《のろ》った。事務室ではへまをやり、時計は質に入れ、金はすっかり使いはたし、しかも、酔うことすらできなかったのだ。また酒が欲しくなってきた。またあの暑い、むっとする居酒屋へもどりたかった。たかが青二才に二度も負けて、腕節の強い男というおのれの評判も地におちてしまった。心臓が激しい憤怒《ふんぬ》の情でふくれ上った。彼のところを通るときにぶつかって、≪ごめんなさい≫! といったあの大きな帽子の女のことを思い出すと、彼は激情のあまりほとんど息詰まりそうになった。
電車は彼をシェルボーン道路《ロード》でおろしていった。彼は兵営の塀のかげにそって、その大きな図体を運んでいった。わが家に戻るのがたまらなくいやだった。横戸から中に入ると、台所はがらんとして、炊事の火もほとんど消えていた。二階に向って呶鳴った。
「エイダア! エイダア!」
妻は小柄で、顔のかど張った女だった。彼女は夫がしらふのときは威張っていたが、酔っているときは夫にいじめられていた。五人の子供があった。小さな男の子が階段をかけおりてきた。
「誰だ!」男は闇をすかしながらいった。
「ぼくだよ、とうちゃん」
「誰だ? チャリーか?」
「ちがわい、とうちゃん、トムだよ」
「母ちゃんはどこだ?」
「教会へいってるよ」
「そうか……とうちゃんに何か晩飯《ばんめし》残しといてくれなかったかな?」
「あるよ、とうちゃん、ぼくが――」
「あかりをつけろ。あかりもつけないで何してんだ? 皆はもう寝たか?」
男は椅子の一つにどすんと坐った。少年はランプをつけた。半ば独り言に、彼は息子の一本調子の言葉つきを真似し始めた。「教会へ行ったの。教会へ行ったの、か!」灯がつくと、彼はテーブルの上に拳をどすんと叩きつけ、大きな声でいった。
「飯《めし》はどうした?」
「今……あっためてるとこだよ、とうちゃん」少年はいった。
男はすさまじい勢いで飛び上って、火を指した。
「その火でか! 消しちまってるじゃないか! ようし、そういうことをしていると、承知しないぞ!」
彼は扉口のほうへ一歩足を出して、扉のうしろに立てかけてあるステッキをひっつかんだ。
「火を消したりする奴は承知せん」といって、腕を存分に振りまわせるように、袖をまくりあげた。
少年は、「あ、とうちゃん!」と呼んで、テーブルの周りを、泣きべそをかきながらかけた。しかし、男は彼を追って上衣をつかんだ。少年は夢中になってあたりを見廻したが、どこにも逃げ場がないのを知ると、へたへたと膝をついてしまった。
「やい、どうせまた火を消すんだろう!」と男はいって、ステッキで力まかせに彼を打った。
「思い知れ、この餓鬼野郎!」
少年はステッキが腿にくい入ると、ひいひい悲鳴をあげた。両手を空に握りあわせ、その声は恐怖におののいていた。
「ああ、とうちゃん!」彼は叫んだ。「ぶたないでよう、とうちゃん! ぼく……ぼく、とうちゃんのために『天使祝詞』〔公教会祈祷の主要なる祈り〕をしたげるから……ぶたなければ、とうちゃん、ぼく『天使祝詞』をしたげるから……『天使祝詞』を唱えるから……」
[#改ページ]
監督は女たちのお茶がすんだらすぐに出かけてよろしいというお許しを下すったので、マライアは夕方の外出を楽しみに待っていた。炊事場《すいじば》はきちんと整頓されていた。銅の大釜は人の姿が映るくらいだと料理番はいっていた。火も赫々と燃えていた。脇テーブルの一つにはたいそう大きな乾葡萄入りの菓子が四つのっていた。それらの菓子はちょっと見ると、まだ切ってないようだ。けれど、よく近寄って見ると、長い厚目の等分な片に庖丁《ほうちょう》が入れられてあって、すぐお茶の席にくばれるようになっているのがわかる。マライア自身が切ったのだった。
マライアは、本当にとても小柄な女だったが、鼻がひどく長く、顎もまたひどく長かった。「そうですとも、あなた」とか「いいえ、あなた」とか、いつもなだめるような口調で、やや鼻にかかった物のいい方をした。女たちが風呂のことで喧嘩を始めるといつも彼女が叫びだされ、またいつも、仲直りをさせるのに成功した。ある日、監督は女にこういったことがあった。
「マライア、あなたは本当に仲裁の名人だわねえ!」
そして、この賞め言葉を、副監督も、賄婦《まかないふ》の二人も聞いていた。また、ジンジャー・ムーニーも、マライアがいなかったら、アイロン掛けを受持っている唖者《おし》に、自分はどんなことをしているかわからないと、常々いっていた。誰もかれもマライアがとても好きだったのだ。
女たちがお茶を飲むのは六時だから、七時前には出かけられる。ボールズブリッジ〔ダブリンに近い南郊ドッター河にかかる橋〕からネルソン塔《ピラー》〔オコウヌル街中央十字路に立つ高さ一三四フィートの記念塔〕まで、二十分。ネルソン塔からドラムコンドラ〔ダブリン北郊の町〕まで、二十分。それから買物をするのに二十分。八時前にはあそこへ行ける。彼女は銀の止金のついた財布を取りだして、あらためて、その「ベルファーストからの贈物」という文字を読んだ。彼女には、その財布がとても気に入っていた。というのも、ジョウが、アルフィと一緒に五年前、聖霊御降臨日〔復活最後第七の日曜日〕の翌日ベルファーストへ旅行したときのお土産《みやげ》だったからだ。財布には、半クラウン銀貨が二枚と銅貨が数枚入っていた。電車賃をはらっても五シリングは充分残る。子供たちが皆、歌をうたって、どんなに楽しい晩になるだろう! どうかジョウが酔っぱらって帰って来ませんように。少しでもお酒がはいると、ジョウはがらりと人が変ってしまうのだから。
ジョウは彼女に、うちへ来て一緒に暮しては、と度々いってくれたが、彼女は気兼ねをするようになるかもしれないと考えた。(もっとも、ジョウの妻はいつもとても親切にしてくれたが)それに彼女も、この洗濯屋の生活にすっかりなじんでしまっていたのだ。ジョウはいい人だ。彼も、アルフィも彼女が子守をしてやったのだ。だから、ジョウはよくこういったものだ。
「母さんは母さんさ。けど、マライアはぼくのほんとのお母さんだ」
家がかたむいてしまったので、ジョウたちは、この≪ダブリン・バイ・ランプライト≫洗濯店に勤め口を見つけてくれた。そして、彼女にはここが気にいっていた。以前は、よく新教徒は駄目だ、駄目だといっていたものだが、今では彼女も、そういう人たちも大そう親切な人で、いくらか口数が少くて、真面目だけれども、それでも、一緒に暮らすのにはとてもいい人たちだと考えていた。それから、温室で草花を作り、その世話を楽しみにしていた。きれいな羊歯《しだ》類やサクラランを作っていた。誰でも彼女を訪ねてくると、いつも温室から、一、二本のさし枝をその人にわけてあげるのだった。彼女のいやなことが一つあった。それは家中いたるところにおいてある宗教パンフレットだった。しかし、監督さんは本当に上品で、とてもあつかいやすい人であった。
料理番が、万端準備がととのったと彼女にいうと、彼女は女たちの部屋へ行って、大きな鐘を鳴らし始めた。数分たつと、女たちは二人、三人とかたまって、ペティコートで、ぽつぽつと湯気を立てている手を拭いたり、湯気の立つ赤い腕にブラウスの袖をおろしたりしながら、入って来始めた。皆は大きなコップの前に腰をおろした。それらには、料理番と唖者とで、予め大きなブリキ缶で牛乳と砂糖を混ぜておいた熱いお茶がつがれてあった。マライアは乾葡萄入菓子を配るのを指図して、めいめい四片《よきれ》ずつになるように見ていた。皆は食べている間、盛んに笑ったり、冗談をとばしたりした。リッジイ・フレミングが、マライアはきっと指環にあたるわ、といった。フレミングは何年となく万聖節《ハロイーン》の宵祭〔十月三十一日、この日にさまざまの占い遊びを行う。後出のジョウの家での遊びもそれ〕の度にそんなことをいっていたけれども、マライアはあたしは指環も男もいらないといって、笑うより他なかった。彼女が笑うと、その灰緑色の眼が、失望を味わわされた恥かしさにきらきら光って、鼻の先が殆んど顎の先につかんばかりになった。そのとき、ジンジャー・ムーニーが自分のお茶のコップをかざして、マライアの健康を祝そうと提案した。他の女たちは、テーブルの上のめいめいのコップをかちゃかちゃとあわせた。と、ムーニーが黒ビールを一滴でも入れて飲めないのが残念だといった。それで、マライアがまたしても鼻の先を顎の先につけそうにして、その小さな体がこなごなにならんばかりに笑った。というのも彼女は、ムーニーも無論世間なみの女の考えしかもっていないが、悪意はないのだということを知っていたからである。
しかし、女たちがお茶を終って、料理番と唖者がお茶の道具を片付け始めたとき、マライアはどんなにうれしかったことだろう! 彼女は自分の小さな寝室へ行って、明日の朝はミサのある朝だったと思い出して、目覚時計の針を七時から六時に変えておいた。それから、働き着のスカートと室内靴を脱いで、ベッドの上に一張羅のスカートを、ベッドの裾に小さな外出用の靴をおいた。ブラウスも取り変えた。鏡の前に立ったとき、若い娘の時分、日曜の朝、ミサに行くのにお化粧をしたことを思い出した。そして、あのようにしょっちゅう着飾っていた自分のひどく小さな体を、奇妙な愛情をもって眺めるのであった。年月はへたにもかかわらず、それはやはり美しくととのった、小柄な体だった。
外に出ると、街路は雨で光っていた。古い茶色の防水コートを着てきてよかったと思った。電車は満員だった。車の奥の小さな腰掛に、乗客の皆に向いあって、爪先がかろうじて床に触れるような格好で坐らねばならなかった。これからすることを一通り心の中で整理し、人の厄介にならず、ポケットに自分で勝手に使えるお金をもっているのは、どんなに気持のいいことか、考えるのだった。皆で楽しい晩がすごせますようにと祈った。むろん、楽しい夜がすごせるにきまっているが、アルフィとジョウが口をきかないのは、なんとしても残念だと思わずにはいられなかった。今では二人はいつも仲たがいばかりしていた。二人共まだ子供の頃は、無二の仲良しだったのに。でも、こういうのが人生なんだ。
ネルソン塔で電車をおりると、彼女は人混みの中を足早に縫《ぬ》っていった。ダウンズ菓子店に入ったが、店は客が一杯で、店員をつかまえるまでに、かなりの時間をくってしまった。取合せの駄菓子を十二箇買い、大きな袋をかかえてやっと店を出た。それから他に何を買おうかしら、と思った。何か本当に素晴しいものが買いたかった。きっと林檎や胡桃《くるみ》はたくさんあるに違いない。何を買えばいいかわからず、頭に浮かぶものといえば、お菓子ばかりだった。とうとうプラム・ケーキ〔婚礼などに用いる干しぶどう入りのケーキ〕を買うことにきめた、が、ダウンズのプラム・ケーキには上にアメンドウの砂糖ごろもがたっぷりのっていないので、ヘンリー街の店のほうに廻ってみた。ここで、彼女は気に入ったのを選ぶのにかなりの時間をつぶした。帳場の後にいた上品な年若の女が、明らかに、彼女に少し手をやいたようすで、お求めになりたいのはウェディング・ケーキなのでございますか、ときいた。そういわれて、マライアはぽっと頬を染めて、若い女に微笑した。けれど、若い女はすっかり真面目にとって、とうとうプラム・ケーキの厚い片を切ると、それを包んで、いった。
「二シリング四ペンス頂戴いたします」
ドラムコンドラ行き電車では、立ってなくてはなるまいと思った。若い男は誰も彼女に注意してくれそうもなかったからだ。ところが、一人の年輩の紳士が彼女に席を譲ってくれた。太った紳士で、茶色の堅い帽子をかぶっていた。四角な赤ら顔をして、灰色がかった口髭をはやしていた。マライアは、この人は連隊長かなんかのように見える紳士だと思って、ただ真直ぐに前方を睨《にら》んでばかりいる若い男たちよりよっぽど、この人のほうが礼儀正しい人だと思うのであった。その紳士は彼女と万聖節のことや、雨降りの話などをしはじめた。彼は、袋に小さい者たちへのお土産がたくさん入っているのだと想像して、子供たちは、小さいうちに大いに楽しんでおくべきですなあ、というのだった。マライアもその意見に賛成して、気取ったうなずきや、咳払いなどをして、彼に同感の意を表わした。彼はとても親切にしてくれた。運河橋で下車する時、彼女はお礼をのべて、頭を下げた。紳士のほうでも頭を下げた。そして帽子をかざして、愛想よく微笑した。彼女は雨をさけて、小さな頭を前へこごめながら、台町《テラス》〔通りより一段高く家の並んだ町〕を通っていった。歩きながら、紳士はたとえ一杯きこしめしていても、さすがはすぐわかるものだと思った。
彼女がジョウの家にやってくると、誰もかも「そら、マライアがきた!」といった。ジョウも勤めからもう帰ってきていたし、子供たちは皆、晴着を着ていた。隣家から大きな女の子が二人きていて、丁度ゲイムをやっているところだった。マライアは、一番上のアルフィに、皆でわけるようにと菓子の包みを渡した。ドネリー夫人は、こんなにどっさりお菓子をもってきていただいて、本当に御親切さまといって、子供たちに、
「マライアさん、ありがとうございます」といわせた。
しかし、マライアは、お父さんとお母さんには特別に、お二人にきっとお気に召すものを持って来ているんですよ、といって、例のプラム・ケーキを探し始めた。ダウンズの店の袋や、防水コートのポケットや玄関の衝立《ついたて》を探してみたが、どこにもそれが見つからなかった。それから、彼女は全部の子供たちに――むろん間違ってだけど――誰かそれをたべはしなかったか、ときいてみたが、子供たちは皆、たべなかったといって、盗んだなんていわれるくらいなら、お菓子なんかたべたくないといったような顔付をした。皆でこの謎をとこうと考えてみた。と、ドネリー夫人が、きっとマライアが電車の中に置き忘れてきたのだといいだした。マライアはあの白髪まじりの口髭の紳士に、自分の心がすっかり混乱していたことを思い出して、恥かしさといらだちと失望で赤くなった。彼女は、自分のやったいささか開いた口のふさがらぬような失敗と、二シリング四ペンスをただ棄ててしまったことを考えると、今にもわっと泣きださんばかりになった。
けれど、ジョウはもう気にするなといって、彼女を暖炉の側にかけさせた。彼はとても親切にしてくれた。勤め先の会社であったことをいろいろと話してきかせ、支配人に彼がした気の利いた返事などをくり返してみせたりした。マライアには、ジョウがしたという返事に、どうして彼がそんなにひどく笑うのかわからなかった。が、彼女は、その支配人さんというのは、きっと随分横柄で扱いにくい人にちがいないといった。ジョウは、支配人も操縦法さえ心得ていればそんなに悪い人ではない、怒らせるようなことをしない限り、親切な人だというのであった。ドネリー夫人は子供たちにピアノを弾いてやった。子供たちは踊ったり、歌ったりした。それから、隣家の二人の女の子が胡桃を配った。誰がさがしても胡桃割りがみつからなかったので、ジョウは今にも癇癪を起しそうになり、胡桃割りがなくて、マライアは割れると思っているのかときいた。けれど、マライアは、あたしは胡桃を好かないから、あたしのことは心配しないでいいからといった。それでジョウはスタウト〔上等の黒ビール〕を一本開けましょうか、ときいた。ドネリー夫人は、もしよろしかったら、家にはポートワインもありますから、といったりした。マライアは、もうそう何もすすめないでもらいたいといったが、ジョウは承知しなかった。
そこで、マライアは彼のいうとおりにさせておいた。皆、暖炉の側に坐って、昔の話をした。マライアはアルフィのために少しでも弁護しておこうと思った。けれど、ジョウは二度とあんな弟と口をきくくらいなら、天罰が当って死んだほうがましだといいだしたので、マライアは、こんな事をいい出して申しわけなかったといった。ドネリー夫人は、自分の血を分けた兄弟のことをそんなふうにいうのはあなたにとって、大そう恥かしいことだと、夫にいったが、ジョウはアルフィなんか俺の兄弟じゃないといって、そのことで一騒ぎ始まりそうになってしまった。だが、ジョウは、こういう晩だから、今夜は怒るのをよそうといって、妻にスタウトをもう少しあけるようにいった。隣家の二人の娘が万聖節の宵祭の遊戯を準備して、やがて、何もかもが、再び陽気になった。マライアは、子供たちがとても陽気にしており、ジョウと妻とがとても上機嫌でいるのを見てうれしかった。隣家の娘二人が台皿を数枚テーブルにおいて、子供たちを目隠しでテーブルのところへ引張っていった。一人は祈祷書をつかんだが、他の三人は水をつかんだ。隣家の娘の一人が指環をつかむと、ドネリー夫人が、「ほら、あたしにはみんなわかってますよ」といわんばかりに、顔を赭くしている娘に向って指をふった。皆は、今度はマライアに目隠しをして、テーブルのところへつれていって、彼女が何をつかむか見ようといいだした。そして皆が目隠しをしている間、マライアは鼻の先が顎の先につかんばかりに何度も何度も笑っていた。
皆は笑ったり、冗談をいったりしながら、マライアをテーブルのところへ引張っていった。彼女はいわれる通りに、手を空にさしのべた。空にあっちこっちと手を動かして、台皿の一つの上に落していった。指にぐにゃりと柔かな、しめった物質《もの》〔すなわち粘土。土と聖書に由来して、この遊びで死を意味する〕を感じた。誰も何もいわず、目隠しもといてくれなかったので、彼女ははっとした。ちょっとの間、沈黙があった。やがて足をすって歩く音や囁《ささや》きあう声が盛んに聞こえだした。誰かが何か庭のことをいっていた。とうとうドネリー夫人が隣家の娘の一人に何か剣突《けんつく》をくらわせるようなことをいって、すぐ外へほうりだすようにといいつけ、今のはノー・プレイだといった。マライアは今のは間違いだったのだと解し、そこでもう一遍やり直さねばならなかった。今度は祈祷書をつかんだ。
それから、ドネリー夫人が子供たちにミス・マックラウズ・リール〔リールは二人が手を取らないで組になって踊る軽快な踊り。ここは複拍子のその曲をいう〕を弾いてやった。ジョウはマライアに葡萄酒を一杯飲ませた。やがて、皆、またすっかり陽気になった。ドネリー夫人は、マライアは祈祷書をつかんだから、年内に尼《あま》さんになるかも知れないといった。マライアは、ジョウが今晩ほどこんなに親切で、楽しい話や思い出話にあふれているのを見たためしがなかった。本当に皆親切にしてくれるので、と彼女はいった。
遂に子供たちはくたびれて、眠くなってきた。ジョウはマライアに、帰る前に何か短い歌、昔の歌を一つうたってくれないかと頼んだ。ドネリー夫人も、「どうぞ、お願いしますわ、マライアさん!」というのであった。そこでマライアも立ち上がって、ピアノの側に立たないわけにはいかなかった。ドネリー夫人は子供たちに、静かにしてマライアさんの歌をよく聴くようにといった。それから、彼女は前奏を弾いて、「さあ、マライアさん!」といった。マライアはひどく赭くなりながら、小さな震え声で歌い始めた。彼女は「わたしが夢で住んだのは」を歌った。二節目までくると、またくり返して歌った。
[#ここから1字下げ]
わたしが夢で住んだのは、大理石の御館《おんやかた》
家臣や奴隷にかしずかれ
館《やかた》に集《つど》うあまたの人の中で
わたしは希望と誇りだった
数えきれないほどの富を持ち
名高い旧家を誇る身なれど
夢見た中でもこよない歓びは
あなたの変らぬ愛だった
[#ここで字下げ終わり]
けれど、誰も彼女の間違いを正そうとはしなかった。彼女が歌い終わった時、ジョウはすっかり感動していた。彼は、誰が何といおうと、昔ほどいい時はない、そして、可哀そうな老バルフ〔ダブリン生れの作曲家、提琴家にして歌手。「イーヴリン」の中の「ボヘミアン娘」の作曲者〕の歌ほどいい歌はないといった。彼の眼はすっかり涙であふれてしまい、自分の探しているものが見つからないほどだった。そこでとうとう妻にたのんで、栓抜きのありかを教えてもらわねばならなかった。
[#改ページ]
痛ましい事件
ジェイムズ・ダッフィ氏はチャペリゾッド〔ダブリン市の西三マイル、リフィ河の南側。河の反対側がフィニックス公園。アーサー王伝説のトリスタンの愛人イゾールトの誕生地といわれる〕にすんでいた。というのは、自分がそこの市民である市から、できるだけ離れてすみたかったからでもあるし、また、他のダブリン郊外地のすべてが、下品で、当世風で、見栄ばかりはっていると思われたからでもあった。彼は古びた陰気な家にすんでいた。窓からは、廃止されている蒸留酒製造場や、ダブリンの街のたちならんでいる側の浅い河〔リフィ河のこと〕をずっと上流のほうまで見渡せた。敷物をひかぬ部屋の高い壁には、絵は一枚もかけてなかった。その部屋の家具はことごとく、彼が自ら買ったものであった。黒い鉄の寝台、鉄の洗面器台、四脚の籐椅子、衣桁《いこう》、石炭入れ、炉格子《ろごうし》や炉辺用具、二重手箱がのせてある四角いテーブル。書棚は白木の材の棚で部屋の|入込み《アルコーブ》に造られてあった。寝台には、白い夜具が一ぱいにひろげてあって、裾《すそ》のほうには、黒と緋《ひ》のだんだらの毛布がかけてあった。洗面台の上には小さな手鏡が懸っていた。昼間は白い笠《かさ》のついたランプが炉棚の唯一の装飾品としてたっていた。白木造りの棚の上の書物は下から上へ、大きさの順にきちんと並べてあった。一番下の棚の一方の隅にはウァーズワス全集があった。「メイヌースの公教要理」〔一七九五年創立の公教会の学寮メイヌースから出された公教要理〕の写しが、ノートのクロース表紙に綴じこまれて、最上段の一方の隅にあった。書き物道具はいつも手箱の上におかれてあった。手箱の中には、ト書きが紫インキで書かれたハウプトマン〔ドイツの劇作家。一九二一年ノーベル賞を受く。一八六二〜一九四六〕の『ミハエル・クラーメル』〔ジョイス自身がこの作品を一九〇一年に訳している〕の翻訳原稿と真鍮のピンでとじあわせた小さな紙の束が入っていた。これらの紙片に、折々、ちょっとした文句が書きつけられるのであったが、いつだったか、ふと皮肉な気分になって、その一番上の紙片に「バイル・ビーンズ」〔イギリスの有名な胃病の薬〕の広告文の見出しをはりつけた。手箱の蓋をとると、中から微かな香りがもれてきた――新しいシーダ材の鉛筆の匂いやアラビアゴムの壜の匂いや、あるいは、そこにおき忘れていたのかもしれない熟れすぎた林檎の匂いなどだった。
ダッフィ氏は、精神や肉体の不調を予知させるようなものを嫌悪した。中世の医者ならば、さしずめ彼を「土星陰鬱性《サタナイン》」〔土星の影響下に生れたむっつりとして気むずかしい性質をいう〕と呼んだであろう。彼の過してきた年月をくまなく物語っている彼の顔は、油気のない黒い髪がはえて、黄褐色の口髭からは無愛想な口がはみだしていた。その頬骨《ほおぼね》も彼の顔にきびしい性格をそえていた。だが、眼にはきびしいところは全然なかった。それが、黄褐色の眉の下から世間を見ているときには、他人の内に罪や欠点を償おうとする行動を見落すまいと気をつかいながら、度々失望ばかり味わわされているといったような人の印象を与えた。彼は自分の肉体からいくらか距離をおいて、懐疑的に横目で自分のやることを眺めながら暮らしていた。彼には、時々、三人称の主語と過去時制の述語動詞で、自分自身に関する短い文章を心の中に組みたててみたくなる妙な自伝癖があった。彼はただの一度たりとも、乞食に施しをしたことがなかった。頑丈《がんじょう》な榛《はしばみ》のステッキをもって、毅然《きぜん》として歩いた。
彼は長年、バゴット街のある個人銀行の出納係《すいとうがかり》をやっていた。毎朝、チャペリゾッドから電車で出勤して、正午にはダン・バークの店へ行って中食――ラガービールを一本と葛《くず》粉入りのビスケットの小皿一つ――を取った。四時になると仕事が終る。それからジョージ街の小料理店へ行って夕食をとる。そこへ行くと、ダブリンの金持ちの若い洒落者《しゃれもの》たちの社会から無事に守られているような気がしたし、また献立表にも、ある正直さがありありと読みとれるからだった。夕方は下宿屋の女将《おかみ》さんのピアノの前に坐るか、市の街外れをぶらつくかして過した。モオツァルトの音楽が好きだったので、時折、オペラや音楽会などにも出かけた。こういったものが彼の生活の唯一の気晴しだった。
彼には話相手も友達も、教派も信条もなかった。彼は、他とは何らの交わりもない、自分だけの精神生活を送っていった。ただクリスマスがくれば親戚を訪問し、親戚の者が死ねば、野辺の送りをしてやった。これら二つの社会的義務は古めかしい体面のために果していたのである。しかし、都会生活を律するしきたりというものには、それ以上何らの顧慮も払わなかった。場合によっては自分だって銀行の金を持ち逃げすることもあるだろう、といったことをひそかに考えてみることもあったが、そんな事情は起こらなかったから、彼の生活は坦々《たんたん》としてすぎていった――なんの波瀾《はらん》もない物語だ。
ある晩、彼はロタンダ座〔音楽や演芸のための会堂、現在は映画劇場になっている〕で二人の夫人の隣りに席をしめていた。客席は閑散として、ひっそりとした場内には、惨めな失敗の予感がただよっていた。彼の隣りに坐っていた婦人が、一、二度まばらな場内を見廻わしてから、いった。
「今夜は、こんなに入りが少なくて、本当に気の毒ですわ! 空っぽの席に向ってうたわなければならないのは、さぞかしつらいことでしょうね」
彼はこの言葉を会話の誘い水だと思った。女がさして間の悪そうなふうにも見えないのに彼は驚いた。話をしながら、彼女をおのれの記憶の中に永遠にとどめておこうと思った。女の隣りにいる若い女が、彼女の娘だとわかると、彼は、女が自分より、一つかそこら若いと判断した。かつては美貌《びぼう》をうたわれたに違いない女の顔には、今なお理智のひらめきがよみとれた。顔立の極めてはっきりした、うりざね顔であった。眼は非常に濃い青色で、落着きがあった。じっと見つめるその視線は、初めは相手にいどみかかるような色を見せているが、瞳孔《どうこう》がゆっくりと紅彩の中に消えてゆくように思われて、その視線は乱れ、一瞬、非常に感受性の強い気質をのぞかせるのだ。が、瞳孔はたちまち元にもどり、この半ば現われかけた本性は再び慎重な分別のかげにかくれ、むっちりとふくらみをもった胸を浮彫りにしたアストラカン織の上衣が、一層はっきりと相手にいどみかかるようなようすになるのだった。
それから数週間たって、アールズフォート台地《テラス》〔セント・スティヴンズ公園の南側にして、ジョイスの出身校「ユニヴァーシティ・カレッジ」がある〕のさる音楽会で、彼は再び、彼女に会った。そして、彼女の娘の注意が他にそれている折々を盗んで、親密感を深めた。女は、一、二度自分の夫のことに触れたが、その声の調子は、それを警告としているようなものではなかった。女の名前はシニコウ夫人といった。夫の祖父という人はレグホーン〔イタリアの西海岸にある港。付近に斜塔で有名なピサがある〕から来た人であった。夫はダブリンとオランダの間を通っている商船の船長であった。そして、子供が一人あった。
偶然にも三度目に彼女と会った時、彼は勇を鼓して彼女と会う約束をした。女はきた。これが最初となって、その後は幾度となく会った。二人はいつも夕方に会い、最も静かな区域を選んで、一緒に散歩した。ダッフィ氏はしかし、こそこそ隠れてやるということが嫌いな性分なので、二人はこっそりと会わなければならないと知ると、自分を彼女の家に呼んでくれるようにと強《し》いた。シニコウ船長は、娘の結婚の承諾を求めているのではあるまいかと思って、彼の訪問を歓迎した。彼は、自分の快楽の殿堂からは妻を全く忘れ去っていたから、まさか他の者が妻に興味を持とうなどと疑いもしなかった。夫は始終留守がちであったし、娘は音楽の出稽古に出かけていたから、ダッフィ氏は、彼女と交際を楽しむ多くの機会に恵まれた。彼にしても、また彼女にしても、今までにそのような冒険を味わったことがなかったし、また、どちらも何の不似合も意識しなかった。少しずつ、彼はおのれの思想を彼女の思想にからませていった。彼は女に本を貸し、観念を与え、知的生活をわかち合った。女はあらゆることに耳を傾けた。
彼の理論のお返しに、時には彼女のほうから、自分自身の人生にあった何がしかの事実を提供した。ほとんど母親のような心遣いで、彼に自分の本性をすっかりさらけだすように勧めるのであった。彼女は彼の聴罪司祭になっていた。彼は、実は私は暫くアイルランド社会党の会合に顔を出していたことがあって、そこへ行くと、薄暗い石油ランプの火明りに照らされた屋根裏部屋で、二十人ばかりのきまじめな労働者の中にいる自分自身が特異な存在に思われてくるのだった、などと彼女に話した。その団体が三つの支部にわかれ、それぞれの指導者の下におかれ、それぞれの屋根裏部屋に集まるようになったので、それきり彼は会合に出席するのをやめた。労働者たちの討論は実にだらしがなく、また賃銀問題に対する彼らの関心は並外れていると彼はいうのだ。彼らはいかめしい顔つきをした現実主義者であり、自分らには到底得られない閑暇の産物である厳格さを恨んでいると、彼には思われた。社会革命なんか、ここ数世紀の間は、ダブリンなどには到底おこりそうもない、と彼は彼女に話すのであった。
なぜ、あなたのお考えをまとめてお書きにならないのです? と彼女は彼にきいた。何のためにです? 彼は慎重な嘲《あざけ》りをこめてきき返した。ものの六十秒間も続けて物を考えることができないような、空虚な文句を並べたてる連中と張合うためにですか? 道徳は警察にまかせ、美術は興行元にまかせている愚鈍《ぐどん》な中産階級の批評を甘んじて受けるためにですか?
彼はダブリン郊外にある彼女の小さな家に、しげしげと出かけていった。そしてよく夕方を二人だけで過した。二人の考えがからまりあってゆくにつれ、少しずつ、二人は身近かなことを話すようになった。彼女との交わりは、いわば、外来種の植物をつつむ温かな土壌のようなものであった。彼女は明りをつけようともせずに、暗闇が二人の上にたれこめてくるにまかせていることが幾度もあった。薄暗い、目立たぬ部屋が、二人の孤独が、二人の耳もとに今もなお震える音楽が、二人を結びつけた。このような結合によって、彼の心は昂揚し、彼の性格のごつごつした角はとれ、彼の精神生活に情緒《じょうちょ》が注ぎこまれていった。折々、彼はおのれの声の響きにじっと耳を傾けている自分を見出すことがあった。彼女の眼の中では、自分は天使の高みにまで昇ってゆくのだとも思った。彼は相手の熱烈な性情を、わが身にますますぴったりと引きつけてゆくにつれ、おのれの声とおぼしき聞きなれぬ非人間的な声が、魂の癒《いや》し難き孤独を執拗《しつよう》に主張するのを聞くのであった。われわれはおのれのすべてを与えることはできない、とその声はいう。われわれはわれわれ自らのものである。こういう対話の果に、ある夜、シニコウ夫人がいつにない昂奮のそぶりをことごとく現わしているうちに、情熱的に彼の手を取って、彼女の頬にひたとおしつけるということがあった。
ダッフィ氏はいたく驚いた。自分の言葉に対する夫人の解釈に彼は幻滅を覚えた。彼は一週間、彼女を訪ねなかった。それから、彼は手紙で会いたいと伝えた。彼は自分たちの最後の会見が、二人の荒廃した告解室の影響力にわずらわされたくなかったので、公園口《パークゲイト》〔フィニックス公園東南端の入口の門〕に近くにある小さな菓子店で会った。秋のひえびえとした天候の日だった。だが、寒さにも拘らず二人は、公園の道をあちこちと、三時間近くもさまよった。二人はお互の交りを絶つことにした。あらゆる絆《きずな》は悲しみの絆です、と彼はいった。公園を出ると、二人は黙々として、電車のほうへ足を向けた。けれど、ここまで来て、彼女が烈しく身を震わし始めた。彼は、彼女のほうでまたも決心が崩れるのを恐れ、そそくさと別れを告げて、彼女のもとを去った。数日たって、彼は、自分の書物と楽譜の入った小包を受け取った。
四年がすぎた。ダッフィ氏はまたあの坦々とした生活の道にもどっていた。部屋は依然として彼の精神の規律正しさを明らかに示していた。下の部屋の楽譜台には若干の新譜がちらばっていた。書棚にはニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』と『楽しき知識』の二巻があった。手箱の中にあった紙片の綴り込みには、ほとんど何も書いてなかった。シニコウ夫人との最後の会見後二か月たってから書かれた文章の一つに曰く。男性と男性の間における愛は不可能である。なぜならば性の交渉があり得ぬからである。また男性と女性の間における友情は不可能である。なぜならば、性の交渉が当然なければならないからである。彼は彼女と会うことを恐れ、音楽会にも遠ざかっていた。彼の父が死んだ。銀行の後輩の同僚が退職した。それでもなお、彼は毎朝、電車で市内に出勤し、毎夕、ジョージ街でつつましく夕食をとり、食後に夕刊を読んで、市から家へ歩いて帰っていた。
ある晩、彼は少量のキャベツを添えたコーン・ビーフを口にしかけて、ふと手をとめた。彼の眼は飲み水のガラス壜《びん》に立てかけた夕刊新聞のある記事にじっと注がれていた。彼はたべようとした食物を皿にもどして、その記事を注意深く読んでいった。それから、水を一杯飲んで、皿を一方におしやると、新聞を二つにたたんで、両肘《りょうひじ》の間においた。そしてくり返し、くり返し、その記事を読んだ。キャベツの白い脂《あぶら》がひえて、皿の上にかたまりだしていた。給仕女が、お料理が煮えておりませんでしたのでしょうか、と彼のところへわざわざききにきた。大変結構だとかれはいって、砂を噛むような思いで、二口、三口たべた。それから勘定を払って、外に出た。
十一月の薄暮の中を、彼は足早に歩いていった。頑丈な榛《はしばみ》のステッキが地面を一定の間隔《かんかく》をおいて打っていた。淡黄色の「メイル」紙の緑が、ぴったりした海軍型の短外套の脇ポケットからのぞいていた。公園口からチャペリゾッドへ通ずる人通りの少ない路にくると、彼は歩調をゆるめた。地面を打つステッキは次第に力なくなり、不規則にもれる呼吸も、ほとんど溜息に似た響きを立てて、冬空の空気の中に凝結《ぎょうけつ》していった。家にたどりつくと、彼は真直ぐに寝室に入った。ポケットから新聞を取りだすと、幽《かす》かな窓の明りで、例の記事をまた読み返した。声には出さずに、ちょうど司祭が密誦《セクレト》〔声をださず唇のみを動かして唱える公教会の祈りの形式〕の祈りをする時のように、ただ唇だけを動かして読んだ。それは次のような記事であった。
[#ここから1字下げ]
シドニイ・パレイド駅にて婦人轢死
痛ましい事件
本日、ダブリン市立病院において検屍官《けんしかん》代理(レヴァレット氏不在のため)によって、エミリ・シニコウ夫人(四三歳)の検屍が行われた。同夫人は昨夕シドニイ・パレイド駅〔ダブリンからキングズタウン方面へ行く鉄道線の二つ目の駅〕で轢殺《れきさつ》されたものである。その結果、次のようなことが明らかになった。轢死した婦人は線路を横断しようとした際、キングズタウン発十時の普通列車の機関車にはねとばされ、そのため頭部と右脇腹に重傷を受け、これが死因となったのである。
機関士ジェイムズ・レノンのいうところによると、同機関士は鉄道会社に十五年も勤務しているもので、車掌の笛を聞いて、発車させたが、一、二秒後に大きな叫び声を聞くと同時に列車を停めた。列車は徐行していた、という。
赤帽P・ダンの言によると、列車がまさに発車しようとした時、一人の婦人が線路を横断しようとするのをみとめたので、同赤帽はその婦人のほうへ駆けだして、大声で叫んだが、行きつかぬうちに、婦人は機関車の緩衝器《かんしょうき》に引っかけられ、地面に倒れた。
陪審員「婦人が倒れるところを見たのですね?」
証人「はい」
巡査部長クロリーは、現場に到着した時、この死亡者が死んだようになってプラットホームに倒れていたと宣誓証言した。同部長は死体を救急車の到着するまで、待合室に移させた。
巡査五十七号もこれに確証を与えた。
ダブリン市立病院住込みの外科助手ハルピン博士は語る。死亡者は下|肋骨《ろっこつ》二枚を骨折し、右肩に強度の打撲傷を受けている。頭部の右側の負傷は倒れた際に受けたものである。これらの負傷は、普通人では死因になるほどのものではない。博士の意見によると、死因は恐らくショックと心臓|麻痺《まひ》によるものだろうということだ。
鉄道会社を代表して、H・B・パターソン・フィンレイ氏はこの事故に対し深い遺憾の意を表した。会社側としては、各駅に注意の掲示をだし、また踏切には特許開閉機を使用して、陸橋によらずに線路を横断することのないよう、常にあらゆる防止手段を講じてきている。亡くなった方は夜遅くプラットホームからプラットホームへ路線を横断することが度々あったので、この事件の他の状況から見ても、鉄道員側に落度があったとは思えませんとのべている。
死亡者の夫で、シドニイ・パレイドのレオヴィル在住のシニコウ船長も証言を行った。死亡者は自分の妻ですとのべた。同船長は、当日の朝ロッテルダムから着いたばかりだったので、事故のあった時刻にはダブリンにいなかった。両人は二十二年前に結婚、およそ二年ほど前、妻にかなりの大酒癖がつき始めるようになる前までは、夫婦仲は円満だったとのことである。
メアリー・シニコウ嬢は、最近母は夜中に酒を買いに出かける癖があったといっている。同証人は度々母と話しあって、禁酒同盟にはいるよう勧めたという。同人は事件の起った一時間後までは家を留守にしていた。
陪審団は、医学的根拠に従った評決を答申し、レノンを無罪釈放にした。
検屍官代理は今度の事件は、世にも傷ましい事件であると述べ、シニコウ船長と同令嬢に深い同情の意を表した。なお、また、鉄道会社に対しては、将来同様の事故の起きるのを防止する強力な措置を講ずるように促した。罪は誰にも帰せられなかったのである。
[#ここで字下げ終わり]
ダッフィ氏は新聞から眼をあげると、窓外の陰気な夕暮れの風景に瞳をこらした。河は人気のない蒸留酒製造場の側を静かに流れていた。そして、時折、ルーカン道路の沿道の家に、明りがちらちらと見えた。なんという結末だ! 彼女の死の記述のすべてが彼に嫌悪を催させた。自分が神聖にしていたことを、かりそめにもあの女に語ったことがあると思うと、胸がむかむかしてきた。陳腐《ちんぷ》な文句、空々しい同情の言葉、ごくありきたりの犬死の真相を極力ふせて書くようにたのまれた記者の慎重な言葉づかい、それらに彼は胸くそが悪くなった。彼女は自分自身の品位を地に堕したばかりではない。彼の品位までひきずりおとしたのだ。彼は、彼女の汚らわしい悪徳の場となった、悲惨と悪臭に満ちた場所を思い描いた。あれがおのれの魂の友とは! いつか見かけたことのある、あのびっこをひいた浅ましい者共が缶や壜を持って、酒場の男に酒を入れてもらっている情景を思い浮かべた。全く、何たる結末だ! 確かに彼女は生きる資格のない女だったのだ。何の意志の力もなく、いとも易々と悪癖の餌食となり、文明の足下にふみにじられた敗残者の一人なのだ。それにしても、よくもこうまで下劣に落ちこんでしまったものだ! よュもこうまで徹底的に、あの女に自から欺かれていたものだ。彼はあの夜の彼女の情熱の爆発を思いだし、それに対しこれまでにない苛烈な解釈を加えてみた。今にして彼は自分のとった道を容易に肯定することができた。
光線が暗くなり、思い出がさまよいだすにつれ、ふと、彼女の手がおのれの手に触れたような気がした。初めは胸のあたりを襲ったあのショックが、今は神経を襲ってきた。彼は外套と帽子を手早く身につけて、外に出た。扉口に出ると冷たい大気が彼を迎え、外套の袖口《そでくち》の中にしのびこんできた。チャペリゾッド橋の居酒屋にくると、中に入って、熱いポンスを注文した。
店の主人は極めて愛想よく給仕をしたが、別段、話しこもうともしなかった。店には五、六人の労働者がいて、キルデア郡のある紳士の所有地の価格を論じあっていた。時折、一パイント入りの大コップから酒を飲んでは、煙草をすい、しょっちゅう床に唾をはいては、時々どた靴でその唾に鋸屑《おがくず》をかけていた。ダッフィ氏は自分の床几《しょうぎ》にかけたまま、見るともなく、聞くともなく、その労働者たちに視線を注いでいた。しばらくすると彼らは出ていった。彼はポンスをもう一杯注文し、長いことかかってそれを飲んだ。店の主人は、帳場に寝そべって、「ヘラルド」紙を読んで、欠伸《あくび》をしていた。時折、外の人気ない道路を、電車がポールの音をたてて走っていくのが聞こえていた。
彼はそこに坐ったまま、彼女との生活を思い返し、いま彼女に抱いている二つの面影を交互によび起こしているうちに、彼女は死んだのだということ、彼女はもはや存在しないのだということ、彼女は一つの思い出になってしまったのだということをはっきり悟った。彼は不安な気持になりだした。自分として何か他にとる道があったのではないか、と自らに問うてみた。自分には彼女を相手に、あのまま欺瞞《ぎまん》の喜劇をつづけてゆくことはできなかった。かといって、彼女と公然と一緒に生活することもできなかった。自分としては、最善と思われることをやったのだ。自分に何を責められることがあろう? 今、彼女がいなくなってみて、初めて彼は、くる夜もくる夜もあの部屋で、一人さびしく腰を下ろしていた彼女の生活がどんなにさびしいものであったかを知った。自分の生活もまた、自分が死んで、存在しなくなり、一つの思い出――もし誰かが思い出してくれるならば――になるまでは、寂しいものであろう。
彼が店を出たときは九時をすぎていた。夜は冷たく、陰鬱であった。最初の門から公園に入った。ひょろ長い樹々の下を歩いていった。四年前二人で歩いたもの寂しい小径《こみち》を通っていった。暗闇の中に、彼女がすぐ近くにいるような気がした。時折、彼女の声が耳に響き、彼女の手が自分の手に触るような気がした。立ち止って、じっと耳をすましてみた。なぜ、おれは彼女に生を与えなかったのだ? なぜ、おれは彼女に死を宣告したのだ? 彼はおのれの道徳観が微塵《みじん》に崩れ落ちてゆくのを意識した。
マガジーン・ヒル〔フィニックス公園の南部リフィ河の近くにある丘〕の頂きにやってくると、彼は立ち止って、河にそってダブリンの方を見やった。ダブリンの灯火は、冷たい夜空に赤々と、人恋しげに燃えていた。斜面を見下すと、麓《ふもと》の、公園の塀の蔭に、幾人かの人影が横になっているのが見えた。欲得ずくの、人目をしのんでの、そういう愛欲に彼は限りない絶望を覚えた。おのれの生活の厳しさを噛みしめ、おのれが人生の饗宴からの追放者であったのを感じた。ただ一人の人間が自分を愛してくれたらしかった。だのに自分はその者に、生と幸福を与えなかった。自分はその者に恥辱を課し、恥ずべき死を宣告したのだ。下の塀のところに身を伏せている者たちが彼のようすをうかがって、立ち退きを求めているのに気づいた。誰一人として自分には用がないのだ。自分は人生の饗宴から追われた存在なのだ。彼は眼を、ダブリンへ向って曲りくねって流れて行く鈍色に光る河へ転じた。河の向うに、貨物列車が、ちょうど火の燃える頭を暗闇にうねる虫のように、頑固に、根気よく、キングズブリッジ駅から曲りくねって出てくるのが見えた。それはゆっくりと視界から消えていった。が、彼の耳には依然として、機関車のうなる音が根気よく彼女の名前の音節《シラブル》を幾度もくり返しているのが聞こえていた。
彼は今きた道をもどっていった。機関車のリズムがまだ彼の耳にしきりに響いていた。記憶が語りかけてくるものの真実性が彼には疑わしくなってきた。一本の樹の下に足をとめて、リズムの消えてゆくままにしていた。もはや、暗闇の彼の身近に彼女がいる感じも、彼女の声が耳に響いてくる感じもなかった。暫く耳を傾けて待った。何もきこえなかった。夜は全くしずもり返っていた。もう一度耳を澄ました。静寂そのものであった。おれは孤独なのだ、と彼は感じた。
[#改ページ]
委員室の蔦《つた》の日
ジャック爺さんは、燃え残りをボール紙の切《きれ》はしでかき集めると、それを白くなった石灰の山の上に注意深くひろげた。石灰の山が、薄くその燃え残りをかぶると、彼の顔は暗くなった。が、彼がまた火を煽《あお》ぎにかかると、爺さんのしゃがみこんだ影法師が向い側の壁にのびて、顔が再び、ゆっくりと火明りに浮かんできた。ひどく骨ばった、髯むじゃらの老人の顔だった。涙のたまった青い眼を炉火にしばたたかせて、ぬれた口を時々あんぐりあけて、それを閉じる時に、一、二度、機械的にもぐもぐさせるのであった。燃え残りに火がつくと、爺さんはボール紙の片を壁によせかけて、溜息をつくと、いった。
「今度はようごわしょう、オコウナーさん」
灰色の髪をした青年、オコウナー氏は、顔に一杯できものやにきびができて醜くなっており、ちょうど煙草を格好よくまるい筒に作っているところだったが、言葉をかけられたとき、慎重にその手細工をほどき、それから瞑想《めいそう》に耽るように、再び煙草を巻き始めた。ちょっと手をとめて考えていたが、意を決して紙をなめた。
「ティアニーさんはいつ帰ってくるといってた?」彼はかすれた作り声できいた。
「何んともいっていかれんでした」
オコウナー氏は煙草を口にくわえると、ポケットをさぐり始めた。彼はうすい板紙のカードの束を取りだした。
「マッチを持ってまいりやしょう」と老人はいった。
「かまわん、これで間にあう」オコウナー氏はいった。
彼はカードの一枚を選ぶと、それに印刷されてあるものを読んだ。
[#ここから1字下げ]
市会選挙
――――
王立取引所区
立候補者リチャード・J・ティアニー氏(方面委員)
来る王立取引所区選挙に於きましては貴下の尊き一票を謹んでお願い申し上げます
――――
[#ここで字下げ終わり]
オコウナー氏はティアニー氏の代理人から、取引所区の一画の選挙応援を頼まれていたのであるが、天候が険悪で、長靴が濡れてしまったので、その日の大部分をウィックロウ街の委員室で、番人のジャック爺さんと炉辺に坐って過してしまった。短い日が暮れてしまってからも、こうして二人は坐っていた。十月六日、戸外は、どんよりとして寒かった。
オコウナー氏は、そのカードを細かく引きちぎって、それに火をつけると、煙草に移した。彼が、そうすると、その炎が彼の上衣の襟の折返しにつけたくすんだ光沢を放つ蔦《つた》の葉〔一八九一年十月六日死去せるパーネルを記念せるバッジ。なお蔦は古代より諸国において記念に用いられる〕を照らしだした。爺さんは彼を仔細に見守っていたが、やがて、例のボール紙の片をもう一遍取り上げると、炉火をゆっくりと煽ぎ始めた。彼の相手は煙草をふかしていた。
「やれやれ」爺さんは、話を続けていった。「子供をどうして育てたもんか、ようわからんですわ、まったく手前《てめえ》の倅がああいう奴になろうとは、誰も思いませんでしたわい! クリスチャン兄弟修道会《ブラザーズ》の学校にも出してやって、このわしにでけることは、何でもしてやったんじゃが、ああして、今じゃのんだくれて、ほっついておる。わしゃ、なんとかしてあれをまともな人間にしてやろうと、骨を折ったんですがな」
彼は大儀そうにボール紙をもとの場所にもどした。
「わしがこんな老ぼれでさえなけりゃ、あいつの心得違いをたたき直してやるんですがなあ。背中に棒をくらわして、思いっきり、あいつをどやしつけてやるんですがなあ――昔は、しょっちゅうやったもんでしたわい。なんしろ、お袋、なんじゃかんじゃいって、あいつを甘やかしてしまうもんで……」
「それが子供を駄目にするのだよ」オコウナー氏はいった。
「確かに、そのとおりじゃ」爺さんはいった。「それで、当人はどうかてえと、ありがてえなんて気は爪のあかほどもないんじゃから。ただもう、生意気になるばかりじゃ。このわたしがちいっと飲んどるとこを見つけでもすりゃ、きっと、このわしを反対にやりこめようとけつかる。世界中どこへいったって、倅のくせに手前のおやじに向ってそんな口をきいたとなりゃ、どだいもう世の中はわやじゃねえですか」
「幾つになるのだい?」オコウナー氏はいった。
「十九なんで」爺さんはいった。
「いやあ、あののんだくれ野郎だって、学校を出て何もさせずにほっておくわしじゃねえです。『いつまでも親のすねをかじっておれねえんだぞ』わしはいいましたよ。『自分の職を持たにゃいかんぞ』とな。けど、どうでごわしょう、職につくてえと、なおいけねえです。かせいだやつを皆飲んじまう」
オコウナー氏は、気の毒にというように頭を振った。爺さんは黙りこんで、じっと炉火を見つめていた。誰かが部屋の扉をあけると、大声でいった。
「よう! 何だい、こりゃ、秘密の会合か?」
「どなたかな?」
「暗闇で何をしているのかね?」と声がきいた。
「何だ、ハインズか?」オコウナー氏はきいた。
「ああ。暗闇で何をしてるんだ?」ハインズ氏は、暖炉の火明りのほうへ進んできながらいった。
彼は薄褐色の髭をはやした、丈の高い、ほっそりとした青年だった。帽子の縁に、今にも落ちそうになって小さな雨の滴《しずく》がかかっていた。トッパーの襟が上に立てられていた。
「おい、マット」彼はオコウナー氏にいった。「どんなもようだい?」
オコウナー氏は頭《かぶり》をふった。爺さんは炉辺を去って、部屋をよろめくように歩いて、燭台を二つ持ってもどってきた。彼はそれを一つずつ火に突っ込んで、テーブルのところへ持って行った。飾り気のない部屋が浮かび出て、炉火はその赤々とした色を失った。部屋の壁には選挙演説のビラが一枚ある他は何もなかった。部屋の真中に小さなテーブルがあり、その上に書類がつみ上げられてあった。
ハインズ氏は炉棚によりかかって、問いかけた。
「もう金はくれたか?」
「いや、まだだ」オコウナー氏はいった。「全く、今夜ここに見殺しにしておかれるんじゃ、かなわんぜ」
ハインズ氏は笑った。
「なに、金はくれるさ。心配するな」彼はいった。
「払う気があるなら、何とかてきぱき、やってもらいたいもんだね」オコウナー氏はいった。
「どう思うかね、ジャック?」ハインズ氏は、ひやかすような口調で爺さんにいった。
爺さんは炉辺の自分の席にもどると、いった。
「とにかく、あの人にはねえ訳じゃねえから。もう一人のへっぽこ職人とはちがいまさあ」
「もう一人のへっぽこ職人て?」ハインズ氏がいった。
「コルガンでさあ」爺さんは鼻先であしらうようにいった。
「コルガンは労働者だからっていうわけ? 真正直な煉瓦職人と酒屋の主人と、どう違うっていうんだい――ええ? 労働者には他の人たちみたいに市政に参与する立派な権利がないっていうのかい――まったく、おえら方の前に出りゃ、しょっちゅうぺこついてるような、あんな紳士面している奴らなんかより、よっぽどましな権利があるんじゃないか? そうだろう、マット?」ハインズ氏は、オコウナー氏に呼びかけていった。
「そのとおりだね」オコウナー氏はいった。
「もう一方は、そんなけちな根性はこれっぽっちも持っとらん真正直な男だぜ。労働者階級を代表して加わっているのだ。君らが働いてやっているここの奴さんは、ただ儲《もう》け口か何かにありつきたいだけの話よ」
「むろん、労働者階級の代表を立てるっちゅうことは当然なこんじゃが」爺さんはいった。
「労働者は」ハインズ氏はいった。「さんざん足蹴《あしげ》にされて、しかも、一文ももらわない。だけどよ、何を生産するんだって、もとは労働なんだぜ。労働者は何も、手前の息子や甥や従兄弟などのためにうまい儲け口を探すなんてことはしない。労働者は、ダブリンの名誉を泥の中に突っこんで、ドイツの王様に媚《こ》びるなんてこともしない」
「そりゃあどういうことで?」爺さんはいった。
「知らないのか、来年エドワード王〔英国王エドワード七世、その治世は一九〇一年より死去の一九一〇年まで。ダブリン訪問は一九〇三年の春。時のドイツ皇帝は彼の叔父に当るヴィルヘルム二世〕がダブリンにやって来たら、歓迎の辞を呈しようっていう奴らを? 外国の王様に頓首再拝してどうしようっていうんだい?」
「うちの大将だって、そんな歓迎などには賛成せんだろう」とオコウナー氏がいった。「国民党公認候補で出馬してるんだから」
「そうかな?」ハインズ氏がいった。「ま、どうなることか、いまに見てい給え。おれにはちゃんとわかってる。|ペテン師《トリッキー》ディッキー・ティアニーじゃなかったのか?」
「まったく君のいうとおりかもしれんな、ジョウ」オコウナー氏はいった。「とにかく冀《こいねがわ》くば、大将が金を持って現われますようにだ」
三人は黙りこんだ。爺さんはまた燃え残りをかき集めだした。ハインズ氏は帽子をぬいで振るい、それから上衣の襟を下におろした、と、折り返しにつけた蔦の葉が外に現われた。
「もし、この人が生きていたら」と、蔦の葉を指しながら、彼はいった。「歓迎の辞なんて話もでてこなかったろうよ」
「本当だ」オコウナー氏がいった。
「ほんとうに、あの頃はいい御時世じゃった!」爺さんがいった。「あの頃は活気があったもんじゃ」
部屋は再び静まり返った。と、小さな男が、鼻をつまらせながら、ひどくつめたそうな耳をして、ばたばたと扉を押して入ってきた。彼はあわただしく炉辺のところまでくると、まるで花火でもだしそうな勢いで、両手をごしごしとこすりあわせた。
「金はないぜ」彼はいった。
「ここへおかけなせえ、ヘンチーさん」爺さんは自分の椅子をすすめて、いった。
「いや、いいよ、ジャック、かまわんで」ヘンチー氏はいった。
彼はハインズ氏にぞんざいにうなずくと、爺さんがあけてくれた椅子に腰かけた。
「君は、アーンジャ街のほうをやったんだな?」彼はオコウナー氏にきいた。
「うん」オコウナー氏はいって、ポケットのメモを探し始めた。
「グライムズのところを訪ねたか?」
「訪ねた」
「で、どんなふうだった?」
「どうしても約束してくれないんだ。『だれに投票するかは誰にもいわんから』っていってた。だが、まあ大丈夫だろうな」
「どうして?」
「推薦者《すいせんしゃ》は誰々だって訊《き》いたもの。話しておいたよ。バーク神父の名前をあげておいた。多分大丈夫だろう」
ヘンチー氏は洟《はなみず》をすすって、両手を炉火にかざし、猛烈な速さでごしごしこすりあわせた。それからいった。
「すまんけど、ジャック、石炭を少しもってきてくれんか。まだ幾らか残ってるはずだから」
爺さんは部屋を出ていった。
「だめだな」ヘンチー氏は頭を振りながらいった。「あの下足野郎にきいたんだよ。ところが『ああ、ヘンチー君、仕事をちゃんとやってくれているということがわかれば、君、わしだって忘れやしないから、大丈夫だ』ってぬかしやがるんだよ。けちんぼ野郎め! ちょっ、あいつなら他に、口のききようもあるめえ」
「さっきおれがいったろう、マット?」ハインズ氏がいった。「やっぱり|ペテン師《トリッキー》ディッキー・ティアニーだね」
「ああ、噂にたがわず全くのペテンだよ」ヘンチー氏がいった。「あの豚みたいな眼はただくっついてるんじゃねえよ。とんでもねえ野郎だ! 『そいつあ、ヘンチー君、ファニングさんに話さんとならんな……もう随分、金を使ったんでね』なんていう代りに、男らしく、ぱっと払えないもんかねえ? がりがりのけちんぼ野郎め! あいつは、手前のちびの親父がメアリー横丁《レイン》で古着屋の店を開いてた時分を忘れとるんだろうさ」
「でも、ほんとの話か、そりゃあ?」オコウナー氏はきいた。
「本当だとも」とヘンチー氏はいった。「全然聞いたことないのか? 皆、日曜の朝など、どこの家もまだ閉まっている時刻に、チョッキやズボンを買いに行ったもんだよ――まったく! ところが、|ペテン師《トリッキー》ディッキーのちびの親爺の奴、いつも隅っこに、いかがわしい小さな黒い壜をしまっていたんだぜ。わかるだろう? それなんだよ。そういう所なのさ、大将がこの世にとびだしてきたのは」
爺さんが石炭の塊《かたまり》をいくつかもって、戻ってきて、それを火の上のあちこちに置いた。
「困ったもんだなあ」オコウナー氏がいった。「どんな了見で金も払わんで、おれたちを働かしとこうっていうんだい?」
「どうしょうも、こうしょうもないよ」ヘンチー氏がいった。「家に帰りゃあ、玄関口に執達吏が待ってらあね」
ハインズ氏は笑って、肩の力で炉棚から体を押しのけると、出て行きそうにした。
「エディ王〔エドワード七世のこと〕がやってきたら、万事がわかるだろうさ」彼はいった。「じゃ、おれちょっと出かけてくるよ。じゃまた後で。失敬」
彼は部屋からゆっくりと出ていった。ヘンチー氏も爺さんも黙っていた。が、扉がしまる途端に、それまで炉をむっつりと見つめていたオコウナー氏が、いきなり大きな声でいった。
「失敬、ジョウ」
ヘンチー氏はちょっと待ってから、扉口のほうに向ってうなずいた。
「一体」炉の向うから彼はいった。「あいつ、何しに来たんだ。なんの用だったんだい?」
「いやあ、気の毒だよ、ジョウも!」オコウナー氏は煙草の吸殻を炉に投げながらいった。
「あいつも困ってるんだよ、おれたち御同様にな」
ヘンチー氏は強く洟をすすると、まるで炉火を消してしまいそうなほど、おびただしく痰《たん》を吐いた。炉はジュッと抗議の音をたてた。
「おれだけの率直《そっちょく》な意見をいうとだな」彼はいった。「奴は向こう側の者かもしれんぜ。はっきりいうとだな、コルガン方のスパイだよ。ちょっと廻って、奴らの形勢をさぐりだしてきてみろよ。別に怪しまれやせんよ。どうだい?」
「だけど、あのジョウはいい男なんだぜ」オコウナー氏はいった。
「奴の親爺っていう人は、立派ないい人だったよ」ヘンチー氏もみとめた。「なくなったラリー・ハインズさんか! 存命中はいろいろいいことをした人だったなあ! だが、息子のほうは十九|金《カラット》〔純金は二十四金〕にも当らんのじゃないかなあ? ちょっ! 困ってる奴は、おれにだってわかるさ、けど、人の脛をかじってる奴の気が知れねえ。どうだい、奴にも一人前の男っていうとこがちっとはあるかい?」
「ここに来たって、わしがちやほやせんですからな」爺さんはいった。「探りにこの辺をうろつかんで、手前のほうの側の仕事に精出したらええんだ」
「ぼくにはよくわからんが」オコウナー氏は煙草の巻紙と刻み煙草をとりだしながら、自信がなさそうにいった。「ジョウ・ハインズは曲ったことの嫌いな男だと思うがなあ。それに、あれでなかなか筆のたつ男だし。おぼえているだろう、あれが書いた……?」
「正直いうと、山出しの男だのフィーニア会〔アイルランドの独立を目的として一八五七年ニュー・ヨークに在来アイルランド人により結成された秘密結社〕の連中の中には、いささか悧巧すぎる奴がいるよ」ヘンチー氏はいった。「ああいうちんぴら共に対しては腹蔵のない率直なところ、どんな意見をおれがもっているか、君も知っているだろう? 確かに奴らの半分はお城〔ダブリン城のこと、市のほぼ中央に位置し、一二二三年に築城される。現在は政府の諸機関があるが、一九二二年の独立までは英国の総督官邸であった〕から鼻薬を利かされてるんだよ」
「そいつあ、どんなもんですかなあ」爺さんがいった。
「ところが、おれにはちゃんと事実だとわかっているんだ」ヘンチー氏はいった。「奴らはお城の下働きさ……ハインズのことをいってるんじゃないんだよ……ちょっ! 奴のほうが、一枚うわてらしいぞ……ところが、さる藪睨《やぶにら》みのくだらねえ貴族面した奴がいるけど――わかるだろう、おれのいっとるその愛国者という奴?」
オコウナー氏はうなずいた。
「聞きたけりゃいってやろう。サー少佐〔一八〇三年熱烈な独立の志士ロバート・エメットがナポレオンの援軍を得てダブリンに反乱を起そうとした時、彼を逮捕して死刑に至らしめた軍人〕直系の子孫て奴さ! 全く、愛国者中の愛国者というわけだよ。そういう奴がだよ、今や、祖国を二束三文で売りとばそうとしている野郎なんだ――そうなんだ――それで平身低頭して、全能のキリストさまに、売り飛ばす国のあったことを感謝しようってのさ」
扉をノックする音がした。
「どうぞ!」ヘンチー氏がいった。
貧乏司祭か貧乏役者といったような男が、扉口に現れた。真黒な服が小柄な体に、ぴっちりとボタンをかけられて、司祭のカラーをつけているのか、普通人のカラーをつけているのか、ちょっとわからなかった。というのも、むきだしのボタンが蝋燭の光を照り返して、むさくるしいフロック・コートの襟が頸のまわりに立てられてあったからだ。堅い黒のフェルトの丸帽をかぶっていた。顔は雨の滴に光って、全体、湿った黄色いチーズのように見え、ただ二つの薄赤い点が両の頬骨を際立たせていた。男は不意に恐ろしく長い口を開いて、失望を示し、同時によく光る青い眼を大きく見開いて、喜びと驚きの情を示した。
「ああ、キオン神父さんでしたか!」ヘンチー氏は椅子から跳び立っていった。「これはこれは、さあどうぞ!」
「あ、いや、いや、いや」キオン神父は、まるで子供にでもいうかのように、唇をすぼめて、あわてていった。
「入って、おかけになりませんか?」
「いや、いや、いや!」キオン神父は、慎重な、やさしい、なめらかな声でいった。「今はお邪魔をしてはいけませんでな。ちょいと、ファニングさんを探しとるんじゃが……」
「今、『ブラック・イーグル』へ廻っているんですが」とヘンチー氏がいった。「でも、まあ、ちょっと入って、おかけなさいまし」
「いや、いや、結構、大した用件ではないんじゃが、ちょいとな」キオン神父はいった。「ありがとう、本当に」
彼は扉口から引揚げて行った。ヘンチー氏は燭台を一つとり、出口へ行って、階下へ行く神父のほうを照らした。
「あ、かまわないで下され!」
「いや何でもないんで、階段がとても暗いですから」
「いや、いや、見えるよ……本当に、ありがとう」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、ありがとう……ありがとう」
ヘンチー氏は燭台をもってもどってくると、それをテーブルの上に置いた。彼はまた、炉辺に腰を下ろした。暫く沈黙があった。
「ねえ、ジョン」オコウナー氏はまた板紙カードで、煙草の火をつけながらいった。
「うん?」
「何だい、ありゃ、本当のとこ?」
「もっとはっきりいってくれよ」ヘンチー氏はいった。
「ファニングとあれとは随分親密らしいねえ。二人は一緒によく、キャヴァナーの店にいるぜ。全体、司祭なんだろうかな?」
「ううん、そうだと思ってるが……いわゆる、もてあまし者らしいな。ああいうのがたくさんいないで幸さ。それでも、たまにはいるんだな……まあ、ああいうのも不運な人間なんだろうな……」
「で、どうやって喰べてるんだ?」オコウナー氏はきいた。
「それがまた謎さ」
「どこか礼拝堂だか教会だか修道会だか……に属してでもいるのかね、それとも――」
「いや」ヘンチー氏はいった。「自前であちこち旅行しているらしいよ……そういっちゃ何だけど」彼はいい添えた。「あれで大酒飲みだったと思ったがな」
「そういや、何とかして一杯やれないかなあ」オコウナー氏がきいた。
「わしも一ぺえ欲しいですなあ」爺さんもいった。
「おれはあのちびの下足野郎に三遍も頼んだぜ」ヘンチー氏がいった。「スタウトを一ダース届けてくれってね。それからさっき、もう一遍頼んでみたんだけど、ワイシャツ姿で帳場台によりかかって、助役のカウリーと、とっくり話し込んでやがった」
「なぜ、つついてやらなかったんだい?」オコウナー氏はいった。
「そりゃ、助役のカウリーと話している間は、寄っつきたくなかったからさ、奴さんの視線がつかまるまで、待ってたわけさ。それからいったよ。『例の、なに、大したことじゃないんですが、お話しましたあれのほうの……』ってね。『わかってるよ、ヘンチー君』っていったけれど、なあに、あのちびっちょ、きっとけろっと忘れてるんだよ」
「あっちのほうじゃ相当やってるよ」オコウナーが分別顔にいった。「僕は、きのう、サフォーク街の角で、あの三人がせっせとやっているのを見たからね」
「奴らがやってるけちな手なんか、おれには見当がついてるよ」ヘンチー氏はいった。「きょう日《び》は、市長にしてもらいたかったら、市の長老連に金を融通してもらわねばならんもの。そうすれば、市長にしてもらえるってことよ。ようし! 一つおれが市長になることを真剣に考えるかな。どうだい、おれにやれるかな?」
オコウナー氏は笑った。
「借金のほうだけはね……」
「市長官邸を車で出るんだ」ヘンチー氏はいった。「虫けらみたいな奴らどもの中をさ。髪粉をつけた鬘《かつら》をかぶったおれの後には、このジャックを立たせてな――ええ?」
「そうしたら、ぼくを君の秘書にしてくれよ、ジョン」
「ようし。そして、キオン神父をお抱えの司祭にしてやろう。一族の宴を張ろうじゃないか」
「まったく、ヘンチーさんよ」爺さんがいった。「あんただったら、他の誰かよりゃ、うんと立派になさるでしょうなあ。いつだったか、わしは門番のキーガン爺さんに話してやりましたわい。『で、お前《めえ》、今度の新しい市長さんはどうだね、パット?』ってわしが、爺さんにな。そいから、『今度は、大した御馳走《ごっつお》もあんめえ』ともいいやした。『御馳走《ごっつお》だと!』そいつがいってやした。『大方、油|雑巾《ぞうきん》の匂いでも嗅いで生きとるんじゃろ』とな。そいから、なんていったと思いなさるかね? まったく、神様にもはっきり申しあげるが、わしにゃ信じられねえですよ」
「何てだ?」ヘンチー氏とオコウナー氏がいった。
「こういいやした。『ダブリンの市長ともあろう人が、晩飯に切り肉を一ポンド買いにやらせるんだといったら、お前、どう思うかね。それでてえした暮しになるもんかね?』といいやしたんで、わしも『違えねえ! 全くだ』というだけでしたよ。『切り肉を一ポンドだぜ』そいつがいいやすんです、『市長官邸にだぞ』わしも『全くだ! こんどは一体、どういうお方がなるのかね?』というたもんです」
この時、扉をノックする音がして、ひょいと少年が顔をだした。
「なんじゃ?」爺さんがいった。
「『ブラック・イーグル』からです」と少年はいって、体を横にまげて入ってくると、壜をがちゃがちゃさせて、籠を床に置いた。
爺さんは少年が籠からテーブルに壜を移すのを手伝って、数がそろっているか、勘定した。移し終えると、少年は籠を腕にかけて、きいた。
「壜がありましたら?」
「何の壜だい?」爺さんがいった。
「まず、そいつを飲ましてくれんか?」ヘンチー氏がいった。
「壜をもらってこいといいつけられたんです」
「明日《あした》またきな」爺さんがいった。
「おい、坊や!」ヘンチー氏がいった。「オファレルのとこへひとっぱしりして、栓抜《せんぬ》きを貸してもらってきてくれないか――ヘンチーさんから頼まれたっていいな、すぐお返しするからって。籠はそこへおいてけ」
少年は出ていった。ヘンチー氏は上機嫌で両手をこすり始めて、いった。
「うん、まあ、結局、大将もそんなに悪くねえや。とにかく、いっただけのことはするもんな」
「コップがねえでがすよ」爺さんがいった。
「なに、そんなこたあ心配するなよ、ジャック」ヘンチー氏はいった。「ラッパ飲みってこたあ、今更はじまったこっちゃないものな」
「とにかく、何もなくちゃ話にならんからな」オコウナー氏はいった。
「あれも悪い男じゃないんだよ」とヘンチー氏はいった。「ただ、ファニングが奴さんにしこたま貸し付けてるんだな。まあ、けちけちはしてるが、悪気はねえんだ」
少年が栓抜きをもってもどってきた。爺さんは三本、栓を抜いて、栓抜きを返そうとすると、ヘンチー氏は少年にいった。
「一杯飲むか、君」
「頂いてもけっこうで」
爺さんは渋々もう一本開けて、少年に渡した。
「年はいくつだね?」彼がきいた。
「十七です」と少年。
爺さんがそれ以上何もいわなかったので、少年は壜をとって、「ヘンチーさんに最高の敬意を表して」といって、中味を飲んで、壜をテーブルにもどし、袖で口をぬぐった。それから、栓抜きを取り上げ、何やら挨拶らしいことをつぶやいて、横になって扉口を出ていった。
「ああいった具合で酒を覚えるんじゃ」爺さんがいった。
「そも病みつきの元というとこだな」とヘンチー氏がいった。
爺さんは栓を抜いておいた三本を配った。皆一斉にラッパ飲みをやった。飲み終ると、それぞれ自分の手のとどく炉棚の上に壜を置いて、満足そうに、ふうっと息をついた。
「なんせ、おれはたっぷり一日分の仕事をしたからな、今日は」暫く間をおいて、ヘンチー氏がいった。
「そうかね、ジョン?」
「そうさ、ドーソン街で確実なやつを一つか二つ、手に入れてやったんだからな、クロフトンとおれとで。ここだけの話だけど、クロフトンの奴な、(むろん、いい奴だよ)けど、運動員としちゃ、てんで話にならねえ奴だよ。まるで口をきかねえんだから。おれが一席やってる間、奴はただ突っ立って、皆の顔を見てるだけなんだ」
「そこへ、二人の男が部屋に入ってきた。一人は非常に肥った男で、その紺サージの服が、とっくりのような体から、今にもずり落ちそうに見えた。大きな顔で、表情は若い雄牛の顔に似ていた。ぎょろっとした青い眼をして、ごま塩の口髭をはやしていた。もう一人の男は、年もずっと若く、もっと華車《きゃしゃ》な体格で、ほっそりとした、きれいに髯を当った顔をしていた。非常に高いダブル・カラーをして、鍔《つば》の広い山高帽子をかぶっていた。
「いやあ、クロフトン!」ヘンチー氏が肥った男にいった。「噂をすれば……」
「どこから酒がきたんだい?」若いほうの男がきいた。「雌牛が仔を生んだってのか?」
「ああ、そうだとも、ライアンズは先ず真先きに酒に眼をつけるよ!」オコウナー氏が、笑いながらいった。
「なんだ、こういうのがお前らの選挙運動か?」ライアンズ氏がいった。「クロフトンとおれはこの寒いとこを雨にうたれて、票を獲得してきたんだぞ」
「ちぇっ! 馬鹿いえ」ヘンチー氏はいった。「君ら二人で一週間かかるところを、おれなんざ五分間で、もっと獲得するよ」
「スタウトを二本抜いてくれ、ジャック」オコウナー氏がいった。
「駄目でさあね」爺さんがいった。「栓抜きがないんじゃから」
「待て、待て!」ヘンチー氏が急いで立ち上って、いった。「こういう器用なまねは知らねえだろう?」
彼はテーブルから壜を二本とると、暖炉のところへもっていって、ホッブ〔暖炉の内部横側に設けた鉄瓶、鍋などをのせる台〕の上にそれを置いた。それから、また炉辺に腰を下ろすと、自分の壜からもう一口飲んだ。ライアンズ氏はテーブルの角に腰をかけて、帽子をあみだにすべらし、両脚をぶらぶら振りだした。
「どっちがおれんだい?」彼はきいた。
「こっちだよ」ヘンチー氏がいった。
クロフトン氏は箱に腰を下ろして、ホップの上のもう一つの壜をじっと見ていた。彼は二つのわけがあって黙っていたのだ。第一のわけというのは、それだけで充分な理由だが、何もいうことがなかったからだ。もう一つのわけは、連中を自分より低い者と見なしていたからだ。彼はもとは保守党のウィルキンズの運動員だったのだが、保守党のほうで自党の候補者をひっこめ、禍《わざわ》いの少ないほうを選んで、国民党の候補者を支持するようになったので、彼も、ティアニー氏のために働くことになったのだった。
数分すると、「ポン!」といいわけをするような音がして、ライアンズ氏のほうの壜から栓がとんだ。ライアンズ氏はテーブルから跳びおりると、暖炉のところへ行って、自分の壜をとり、それをもってテーブルへもどっていった。
「ちょうど皆に話してたところなんだが、クロフトン」ヘンチー氏がいった。「おれたちは、今日、二、三票、しっかりしたやつを獲得したんだ」
「誰だい?」ライアンズ氏はきいた。
「いいか、一つはパークス。それから、もう一つがアトキンソン。それからドーソン街のウォードだ。なかなか立派な爺さんだよ、彼も――きちんとした老紳士でね、老保守党員だよ! 『ですがあんたのほうの候補者は国民党員じゃなかったかの?』っていうんだよ。おれは『立派な人です』といったさ。『この国のためになることでしたら、どんなことにでも寄与いたす考えでおります。多額納税者でございます』ともいったよ。『市内に広大な宅地を所有しておりますし、商売を三か所でやっておりますから、地方税の引き下げということは、自分の利益にもなることじゃありませんか? 卓越した、尊敬を受けている市民です。また、方面委員でもあり、善悪はむろんのこと、中立といった如何なる派にも属しておりません』といったよ。どこでも、この伝で話すのさ」
「で、王様に対する歓迎の辞のほうはどうしたい?」とライアンズ氏は酒を飲み、舌鼓を打っていった。
「そいつは、いいかね」ヘンチー氏はいった。「ウォード爺さんにもいったんだが、この国で必要としているものは、資本なんだ。王がこっちへくるということは、この国へ金が流入してくるということになる。ダブリン市民はそれで利益を得ることになるのだ。あの河岸沿いの工場を見給え、ことごとく遊んでいるではないか? 古い産業、各種工場、造船所、製造工場等を活動させるだけでも、この国にどれだけの金がはいってくるかを考えてみ給え。われわれに必要なのはその資本なのだ」
「しかし、ちょっと待ってくれ、ジョン」オコウナー氏がいった。「一体、われわれはなぜ、英国王を歓迎しなければならないんだ? かのパーネル〔チャールズ・スチュワート・パーネルのこと〕だって……」
「パーネルは」とヘンチー氏はいった。「死んでいる。そこでおれはこういうふうに考えてるんだ。今度の奴さんは、頭が白くなりかけるまで、あの年取ったお袋さん〔ヴィクトリア女王のこと〕にほっておかれて、やっと位についたんじゃないか。あれは世間人だ。われわれには悪意はもっていないんだ。まあ、いってみれば愉快な、立派な、品のいい男ってとこだ。それに、ばかげたとこはない。きっと『あの年寄りは一度もこの野蛮《やばん》なアイルランド人を見に行かなかった。よし、一つわしが直々に行って、どういう奴らか見てまいろう』とでも自分にいいきかせたんじゃないか。だから、はるばる親善の訪問にこの国にやってくる者に、侮辱を加えようというのはどうかね? ええ? 間違ってないかね、クロフトン?」
クロフトン氏はうなずいた。
「しかし、結局のところ」とライアンズ氏が議論をもちかけるようにいった。「エドワード王の生活というものはだなあ、とても……」
「既往は水に流そう」ヘンチー氏がいった。「個人的にはおれはあの人を尊敬するな。君だのおれみたいに、あの人はただの風来坊なんだ。一杯の安酒を愛するし、ちっとは道楽の味も知っているし、良きスポーツマンでもあるんだ。実際、われわれアイルランド人も、フェア・プレイでゆけんものかね?」
「そりゃ大いに結構なことだがね」ライアンズ氏がいった。「しかし、パーネルの場合を考えてみ給え」
「一体全体」とヘンチー氏。「この二つの場合にどういう類似点があるんだね?」
「僕のいうのはだね」とライアンズ氏はいった。「われわれにはわれわれの理想があるということだ。なんで今更、ああいう人を歓迎するわけがあるんだね? パーネルのやったことからして、彼こそわれわれを指導するにふさわしかった人物だと思わないか? そんなら何故エドワード七世に、ああいうことをしようっていうのだい?」
「今日はパーネルの記念日だ」オコウナー氏がいった。「お互に感情を悪くするようなことはよそうよ。死して今はなきパーネルを、われわれはみな尊敬しているんだ――保守党ですらそうだ」と彼はクロフトン氏のほうに向き直って、いいそえた。
ポン! クロフトン氏の壜から、遅ればせに栓が跳んだ。クロフトン氏は箱から立ち上がって、暖炉のところへ行った。自分の獲物を持って戻ってくると、太い声でいった。
「わが党のほうでも彼を尊敬しているよ。彼は紳士だったからな」
「まさに然りだ、クロフトン!」ヘンチー氏が勢いこんでいった。「あのうるさい議員共を抑えることのできたのは彼だけだったからな。『坐れ、犬共! 静まれ、野良犬め』そういう扱い方だったな。入り給え、ジョウ! どうぞ!」彼は扉口のところにハインズ氏を見つけると、大きな声でいった。
ハインズ氏はゆっくりと入ってきた。
「スタウトをもう一本抜いてくれ、ジャック」とヘンチー氏はいった。「おっと、栓抜きのないのを忘れとったぞ! よし、こっちへ一本よこしてくれ、炉にかけるから」
爺さんは彼にもう一本渡した、彼はそれをホップの上に置いた。
「かけ給え、ジョウ」オコウナー氏はいった。「いま、首領〔パーネルのこと〕の話をしているとこなんだ」
「そう、そう!」とヘンチー氏がいった。
ハインズ氏はライアンズ氏に近いテーブルの縁に腰かけたが、黙っていた。
「とにかく、現にパーネルを見棄てなかった者の一人がおるからな」ヘンチー氏はいった。
「神かけて、こいつは君のためにいってやるんだよ、ジョウ! そうだな、本当に君は男らしくどこまでもパーネルについていたものな!」
「あ、ジョウ」オコウナー氏が不意にいった。「君が書いたあれを聞かせてくれ――憶えているだろう? 今、持っているか?」
「あ、そうだ!」とヘンチー氏がいった。「聞かせてくれ。君は聞いたことあるかい、クロフトン? まあ聞いてみろ、素晴らしいものだ」
「さあ、やれよ」オコウナー氏はいった。「始めろよ、ジョウ」
ハインズ氏はすぐには、皆のいっているものが思いだせないふうだったが、暫く考えてからいった。
「あ、あれか……もう、ずいぶん前のものだよ」
「さあ、やってやって!」とオコウナー氏がいった。
「シッ、シッ」ヘンチー氏。「さあ、ジョウ!」
ハインズ氏はなお暫くためらっていたが、やがて、しんと静まり返った中を帽子をとって、それをテーブルに置き、立ち上がった。頭の中でそれを今一度たどっているふうだった。かなり長い間をおいてから、題を告げた。
[#ここから1字下げ]
パーネルの死
一八九一年十月六日
[#ここで字下げ終わり]
一、二度咳払いをして、やおら朗唱し始めた。
[#ここから1字下げ]
彼は亡《な》し。われらが無冠の帝王は逝《ゆ》きぬ
おお、エーリン〔アイルランドの古名〕よ、嘆き悲しめ
かの残忍なる現代の偽善者どもに倒され
今や彼、骸《むくろ》となりはてたれば。
汚辱より栄光へ彼が引揚げしかの卑劣なる
飼犬の毒牙にかかり、今ははや
エーリンの希望もエーリンの夢も
そが王を葬《とむら》うる火の上に崩れ去る。
宮殿にても、茅屋《かやや》、賤屋《しずがや》にても
アイルランド魂のあるところ
哀哭《あいこく》の声あげてうなだれぬ――彼は逝きたり
エーリンの運命を開くべき人なれば。
彼は祖国エーリンの誉れを不朽にせしならん
緑の旗を翩翻《へんぽん》と翻《ひるが》えせしならん
全世界の国々に、この国の国政家《まつりびと》
文人、武人の名を高からしめしならん。
彼は「自由」を夢みたりき(あわれ
そは夢に過ぎざりし!)されどひたむきに
かの偶像をとらえんとせしも、裏切りは
彼の愛するものより彼を引裂きぬ。
おのが主を打ち、また接吻をもて
おのが主を、主の敵なる――
媚《こ》び諂《へつ》らいの僧侶の衆に売り渡したる
怯懦《きょうだ》卑劣の徒輩《やから》こそ恥ずべし。
冀《ねがわく》ばかかる徒輩を昂然として斥《しりぞ》けし
気高き人の名を泥土に汚さんとしたる
諸人《もろびと》の胸底深くその思い出に、恥辱の思い
とこしえに消ゆることなかれかし
勇者の倒るるがごと彼は倒れ
今者際《いまわのきわ》にいたるまで気高く臆せず
死は今や、彼を過ぎし遠きその昔《かみ》の
エーリンの勇士と結ばしめぬ。
争いの響きも彼の眠りを擾《みだ》すことなかれ!
静かに彼は眠る。人の世の苦しみも
はたまた栄光の頂に登らんとせる
高き大望も今は彼を駆らず。
かの徒輩|恣《ほしい》ままに振舞い、彼を打ち倒せり
されどエーリンよ、聴け、彼の魂魄《こんぱく》は立ち上らん
焔の中より飛びたつ不死鳥のごと
黎明《れいめい》の光の訪れる時に。
われらに「解放」の世をもたらす日
その日にこそ、エーリンよ、
「歓喜」に捧ぐる盃にて干すべし
一つの悲しみ――パーネルの思い出を。
[#ここで字下げ終わり]
ハインズ氏は再びテーブルに腰をおろした。彼がその朗唱を終えた時もなお静まり返っていたが、やがて、拍手の嵐が起った。ライアンズ氏までが拍手した。喝采《かっさい》は暫し続いた。それが、やむと、聴衆はいずれもめいめいの壜から黙って飲んだ。
ポン! ハインズ氏の壜から栓が跳んだ。けれど、ハインズ氏は頬を紅潮させ帽子もかぶらずに、テーブルにかけたままだった。今の誘《さそ》いの音も、彼の耳にはいらぬらしかった。
「素晴らしかったぞ、ジョウ!」とオコウナー氏がいって、自分の昂奮をかくそうとして、煙草の巻紙と刻み煙草の袋をまた取りだした。
「いまの、どう思うかね、クロフトン?」ヘンチー氏が怒鳴るようにいった。「素晴らしいだろう? どうだ?」
素晴らしい作品だと、クロフトン氏はいった。
[#改ページ]
母親
愛蘭独立協会《エーラ・アブー・ソサイエティ》の副幹事ホロハン氏は、連続音楽会の打合わせで、手やポケットによごれた紙束をいっぱいもって、一か月近くも、ダブリンを東奔西走していた。彼はびっこだった。それで、友達は彼のことを≪ちんば≫のホロハンと呼んでいた。絶えずあちこち歩き廻っては、街角に長いこと突っ立ったまま、要点を論じあって、メモを取っていた。が、最後に万事のしめくくりをつけたのはキアニー夫人だった。
ミス・デヴリンが腹いせにキアニー夫人になったのであった。彼女は修道院の高等科に学び、フランス語と音楽を学んだ。生来顔色が青白く、もの腰が高慢ちきだったので、学校では友達もほとんどなかった。年頃になると、多くの家々にだされたが、行ったさきざきで、彼女の演奏とその象牙の如く気品のある作法は賞讃の的になった。彼女は身につけた教養のひややかな円周の中に、ただじっと坐し、敢然とこれにぶつかって、彼女にきらびやかな生活を与えてくれる求婚者を待ちかまえていた。だが、彼女の会った青年たちはみな十人並だった。そういう者たちには彼女は何の誘いも与えず、ただひそかに、トルコ菓子〔ゼラチンを固め、砂糖をまぶした菓子〕をしきりとたべては、自分のロマンティックなあこがれを慰めようとするだけだった。しかし、それにも限度があって、彼女に対する友達の口もうるさくなりはじめたので、彼女はオーモンド河岸《かし》の靴屋であるキアニー氏と結婚して皆を黙らせてしまった。
キアニー氏は彼女よりもずっと年上であった。彼のする話はきまじめなものであって、それが間々《まま》、彼の大きな褐色のあご鬚の中からもれるのであった。結婚生活の最初の一年がたつと、キアニー夫人は、こういう男はロマンティックな人よりも永持ちがすると知った、が、自分自身のロマンティックな考えを棄てるということはしなかった。彼は謹厳で、倹約家で、信仰心に篤《あつ》かった。毎月、第一金曜日には欠かさず、礼拝に出かけていった。時には妻をつれていったが、たいていは一人でいった。けれど、彼女の信仰心が弱まったというのでは決してなく、彼には良き妻であった。なじみのない処で何かパーティでもあるような時、彼女がほんの微かに眉を上げると、彼はつと立ち上って、暇《いとま》を告げるのだった。また、彼が咳に苦しんでいる時などは、羽根蒲団を足にかけてやり、強いラム酒のポンスを作ってやった。夫のキアニー氏のほうはといえば、これはまた典型的な父親だった。ある講に毎週少額の金を払いこんで、二人の娘に、二十四歳になったら、めいめい百ポンドの持参金がもらえるようにしておいた。上の娘のキャスリーンは立派な修道院へやって、フランス語と音楽を学ばせ、さらにその後は王立音楽学校の月謝もだしてやった。毎年七月になると、キアニー夫人は友達にこんなことをいう折があった。
「宅では、二、三週間スケリーズ〔ダブリンの南にある海岸避暑地〕に行ってくるようにと、あたしたちに申しているのでございますのよ」
スケリーズでなければ、ハウスかグレイストーンズだった。
アイルランド復興運動〔十九世紀末頃より古代ケルト民族精神の復活を目的としてアイルランド国民文学の確立にまで結実を示した文化運動〕が相当なものになりだすと、キアニー夫人は娘のキャスリーンという名前を利用して、アイルランド語の先生を家につれてきた。キャスリーンとその妹がアイルランド語の絵葉書を友達に送ると、その友達のほうでも、アイルランド語で書いた他の絵葉書を送って返したりした。特別な日曜日には、キアニー氏は家族をつれて仮司教座聖堂〔メトロポリタン・プロカシードラルのこと、ダブリンの公教会の本山〕へ行ったが、ミサがすむと、カシードラル街の角に、一群の人々がより集まるのだった。彼らはいずれもキアニー家の友人たちだった。――音楽の友達とか国民党の知人だった。そして、彼らは互に少しばかり雑談をかわすと一斉に握手しあい、かわす手があまりたくさんなのに笑いながら、アイルランド語で互いにさようならをいうのだった。そのうち、ミス・キャスリーン・キアニーの名前が人の口によくのぼるようになった。彼女はとても音楽が上手で、それにとてもいいお嬢さんだ。そればかりか、アイルランド語運動の信奉者であると噂された。キアニー夫人はこれに大いに満足していた。だから、ある日、ホロハン氏が彼女のもとにやってきて、彼の協会がエンシァント音楽堂で催すことになっている連続四回の大音楽会に、お嬢さんをぜひ伴奏者にお願いしたいといってきたときも、そんなに驚かなかった。彼女は、彼を客間へ通して掛けさせ、葡萄酒の飾り瓶と銀のビスケット入れを持ちだしてきた。彼女はすっかり乗り気になって、その企画の細部にわたっていろいろと聞き、ああしてはどうか、こうしてはどうかと意見をのべた。こうしてついに契約書が作成され、それによって、キャスリーンは四回の大音楽会の伴奏者として出演料に、八ギニーを受け取ることになったのである。
ホロハン氏はビラの用語やプログラムの組み方といった細かい事柄についてはずぶの素人だったので、キアニー夫人は彼を助けてやった。彼女は≪こつ≫を心得ていた。どの歌手を大文字にして、どの歌手を小文字にすべきか、ちゃんと心得ていた。第一テナーは、ミード氏の喜歌劇の曲目の後では出たがらないということも知っていた。聴衆を絶えずあきさせないために、どうかなと思う曲目は、古くから馴染のあるものの間にはさんだ。ホロハン氏は何かと彼女の忠告を受けに毎日訪ねてきた。彼女はいつも親切に、何くれと相談に応じた――実際、家族的にもてなした。彼女は葡萄酒の飾り瓶を彼のほうへ押しやって、いうのだった。
「さあ、御自分でどうぞお好きなだけ、ホロハンさん!」
そして彼が手酌《てじゃく》で勝手にやっている間、彼女はいってやった。
「大丈夫よ! 御心配なさらなくていいのよ!」
何もかもが順調に運んでいった。キアニー夫人は、キャスリーンのドレスの前に入れるために、ブラウン・トマスの店で綺麗な薄桃色のシャルムーズ〔繻子に似た絹織物〕を買ってきた。それはかなりの値段だった。けれど、少しぐらい費用がかさんでも、申しわけの立つ場合があるものだ。彼女は最後の音楽会には、二シリングの入場券を二十枚も買って、そうでもしなければ来てくれそうもない友達にそれを送った。彼女は何一つ忘れなかった。お蔭でするべきことは全部手がうたれた。
音楽会は、水、木、金、土にわたって行われることになっていた。キアニー夫人は娘をつれて水曜の夜、エンシャント音楽堂に来たものの、どうも、ようすが気にいらなかった。光った青いバッジを上衣につけた数人の青年が、玄関に漫然と突っ立っていた。彼らの誰もが夜会服を着ていないのだ。彼女は娘をつれて、中へはいっていったが、会場の開いた扉口から中をちらっと見ると、接待係の怠慢なわけがよくわかった。初め時間を間違えたのかしら、と思ってみた。いや、もう八時二十分前だった。
舞台裏の楽屋で、彼女は協会の幹事フィッツパトリック氏に紹介された。彼女は、にっこり笑って彼の手を取った。男は小柄で、青白い空ろな顔をしていた。鳶色のソフトを頭の横っちょに無造作にかぶり、その口調には抑揚のないのに彼女は気付いた。彼は手にプログラムを持ち、彼女と話をしている間も、その端を噛んでぐちゃぐちゃにしていた。あてが外れたことも軽く取っているふうだった。ホロハン氏が二、三分ごとに、切符売場からの報告をもって、楽屋にやってきた。歌手たちはやや上り気味のようすで、かたまって話しながら、時々、鏡のほうをちらっと見やっては、楽譜を巻いたり、のばしたりしていた。八時半近くなると、漠然と部屋の人達に微笑して、いった。
「さあ、みなさん、そろそろ開幕にいたしましょうか」
キアニー夫人はそのいかにも平板な語尾に、じろっと素早い軽蔑の眼ざしをなげ、それから元気づけるように、娘にいった。
「さあ、よくって?」
機会をとらえて、彼女はホロハン氏を脇に呼び、いったいこれはどうしたわけか、話してくれるようにと頼んだ。ホロハン氏にもどういうわけか見当がつかなかった。四回もの音楽会にしたというとこに委員たちの間違いがあった。四回というのは多過ぎるのだ、といった。
「それにこの歌手ですもの!」キアニー夫人がいった。「むろん、一生懸命やってますわ、でも、本当はいい歌手じゃありませんものね」
ホロハン氏も歌手がよくないことは認めた。けれど、委員会のほうで、初めの三回はいいかげんにしておいて、芸達者は土曜の夜にとっておくことに決定したのだと彼はいった。キアニー夫人は何もいわなかったが、平凡な曲目がつぎつぎに舞台では進行し、会場の少ない客がいよいよへってゆくにつれ、こんな音楽会に多少ともお金をかけたことが、くやしくなってきた。どうも見ていると気にくわないことがあったし、それにフィッツパトリック氏のぽかんとした笑顔もかんにさわってならないのだ。けれど、彼女は何もいわずに、どうおわるか見てやりましょうと、待っていた。音楽会は十時少し前に終った。皆、そそくさと家へ帰っていった。
木曜の夜の音楽会は前夜より入りがよかった。が、キアニー夫人は、すぐに無料入場者が大部分であるのに気づいた。聴衆はまるで、この音楽会が非公式な最後の舞台稽古でもあるかのように、無作法にふるまっていた。フィッツパトリック氏はいかにもうれしそうだった。キアニー夫人が、彼の行動に腹を立てて注目していることには少しも気づいていなかった。幕の端に立って、時折、頭をひょいと突きだしては、二階桟敷《バルコニー》の隅にいる二人の友達と笑いをかわしていた。その晩のうちに、キアニー夫人は、金曜の音楽会を中止して、委員会は全力をあげて土曜の夜には必ず、大入り満員にしてみせるつもりでいるということを知った。これを聞くと、彼女はホロハン氏を探しだした。彼がレモン水のグラスをもって、若い婦人のところへびっこを引きながら大急ぎで走って行くところを無理にひきとめて、それが事実かきいてみた。確かに事実だという。
「でも、むろん、あの契約には変りありませんわね」彼女はいった。「契約は四回の音楽会のためのものでしたけど」
ホロハン氏はひどく急《せ》いているようすだった。で、彼はフィッツパトリック氏に話してみるようにと、彼女にいった。こうなると、キアニー夫人は狼狽《ろうばい》しはじめた。彼女はフィッツパトリック氏を幕の蔭から呼びだして、うちの娘は四回の音楽会に対して契約したのだから、むろん、契約条件に従って、協会が四回の音楽会にしようが、しまいがいずれにせよ、初めに契約した金額は当然頂かねばならないと話した。フィッツパトリック氏は問題となっている点がすぐにはのみこめず、この難題を自分では解決できないらしく、後で委員会にこのことを出してみますというのだった。キアニー夫人の頬は怒りのためにふるえだした。そして彼女は、
「ねえ、一体そのイインっていうのはどなたなんです?」ときくのをこらえるのが精一杯だった。
だが、そんなことをきくのは、彼女らしからぬと考えた。だから、彼女は黙っていた。
金曜日の朝早く、ダブリンの主だった街路には、チラシの束をかかえた少年が出された。夕刊の新聞はいっせいに太鼓持ちの記事をのせ、翌日の晩にせまった音楽会のことを音楽愛好家たちに思いださせた。キアニー夫人はこれで多少安心してみたものの、夫に自分の疑念の一部を話しておいたほうがよさそうだと思った。夫は注意深く聴いていたが、土曜の夜には自分も一緒に行ったほうがいいだろうといった。彼女も賛成した。彼女は中央郵便局〔オコウヌル街にあり、美しいイオニア式建築〕を尊敬するのと同じ按配に、夫を何か大きい確固たる安全なものとして尊敬していた。だから、夫の才能の乏しいことは知っていたけれども、その男性としての抽象的価値はみとめていた。彼女は夫が一緒に行こうといいだしたことがうれしかった。自分の計画をよくよく考えてみた。
大音楽会の夜がやってきた。キアニー夫人は夫と娘と共に、音楽会の始まる定刻、四十五分前にエンシャント音楽堂に到着した。生憎《あいにく》なことに、雨降りの晩だった。キアニー夫人は娘の衣裳と楽譜を夫にあずけて、ホロハン氏か、フィッツパトリック氏を探しに、建物の中をくまなく廻ってみた。どちらも見つからなかった、接待係の人に、委員の誰かが会場にいないだろうかときいてみた。さんざん苦労したあげく、接待係がやっと、ミス・ベアンという名の小柄な婦人をつれてきたので、その女に、キアニー夫人は幹事の一人に会いたいのだと話した。ミス・ベアンは、皆さんはもうじきいらっしゃるでしょうといって、私で何かお役に立つことでしょうかときいた。キアニー夫人はその老けこんだ顔が信頼と熱意の表情にぎゅっと固くなっているのを鋭い目つきで見ていたが、答えた。
「いえ、結構です!」
小柄な女は、大入りにしたいものですねえ、といった。女は外の雨を眺めているうちに、つい濡れた街路の憂鬱さのため、そのねじけた顔から信頼と熱意が、あとかたもなく、消え去っていった。と、小さな吐息をもらして、いった。
「やれやれ! できるだけのことはしたんですのにねえ」
キアニー夫人は仕方なく楽屋へもどっていった。
歌手たちがくるところだった。バスと第二テナーは既に来ていた。バスのダッガン氏はまばらな黒い口髭をはやした、ほっそりした青年だった。彼は市内のある事務所で門衛をしている人の息子だった。少年時代には、反響のいい玄関で長く尾を引くバスで歌っていた。こういう賤しい境涯から身を起こし、第一流の歌手になったのだった。グランド・オペラに出たこともあった。ある夜、あるオペラ歌手が病気で倒れてしまったので、彼がクイーン座でオペラ「マリターナ」〔アイルランドの作曲家、ウィリアム・ヴィンセント・ウォーレスのオペラ〕の中の王の役を代演したことがあった。彼は自分の歌を非常な感情をこめ、豊かな声量で歌ったので、大向うから非常な喝采を受けた。ところが、残念なことに、軽率にも手袋をはめた手で、一、二度鼻をふいたので、折角の好印象を台なしにしてしまった。謙遜で、口数の少ない人だった。yous〔youの複数方言、または無学的用法〕とごく低い声でいうので、人には気付かれずにすんでいた。また、自分の声のために、ミルクより強い飲み物は決して取らなかった。第二テナーのベル氏は金髪の小柄な人で、毎年、フェイス・シオイル〔ダブリンで毎年開かれるアイルランド音楽祭、一九〇四年のこのコンクールにジョイス参加した〕で賞を競っていた。四回目でやっと、青銅メダルをもらった。非常に神経質で、他のテナーに対しては極端に嫉妬深かったが、その神経質な嫉妬心を、あふれんばかりの親愛の情でかくしていた。音楽会がどんなにつらいものであるかということを人々に知らせるのが彼の癖だった。だからダッガン氏の姿を見ると、側に寄っていって、きいたものだ。
「あなたも出るのですね」
「ええ」ダッガン氏はいった。
ベル氏はこの受難者仲間に笑いながら、手をさしのべていった。
「握手しましょう!」
キアニー夫人はこの二人の青年のそばを通って、会場のようすを見に幕の端へいった。席はみるみるふさがっていくところだった。客席には心地よいざわめきがうず巻いていた。彼女はもどってきて、夫にこっそりと耳うちした。二人の会話は明らかにキャスリーンのことだった、というのは、二人共、キャスリーンが、国民党の友達の一人でコントラルトのミス・ヒーリーと立ち話をしているところを何度もちらちら見ていたからだ。顔の蒼白い、見知らぬ婦人が、つれもなく唯一人で、楽屋に入ってきた。女たちはそのやせこけた体をつつんでいる色褪せた青いドレスを、鋭い眼で追っていた。誰かが、あれはソプラノのマダム・グリンだ、といった。
「まあ、どこからあんな人、掘りだしてきたのかしら」キャスリーンがミス・ヒーリーにいった。「あのひとのことなんか、全然きいたことないじゃありませんか」
ミス・ヒーリーは微笑しているよりほかなかった。丁度その時、ホロハン氏がびっこをひきながら楽屋に入ってきた。二人の若い女は彼に、あの見たこともない人は誰かときいた。ホロハン氏は、彼女がロンドンから来たマダム・グリンなのですよ、といった。マダム・グリンは楽屋の隅に突っ立って、巻いた楽譜をしゃっちこばって前に持ち、時々、そのびっくりしたような視線の向きをあちこちと変えていた。色褪《いろあ》せたドレスは影になってかくれていたが、影のために、今度は逆に意地悪く鎖骨《さこつ》の蔭が、小さなくぼみになって見えていた。会場のざわめきが、だんだん大きくなっていった。第一テナーとバリトンとが一緒に到着した。いずれも立派な服装をしており、肥った、満ちたりたようすだった。二人の到来で一座の中に、いかにもゆったりとした空気がかもしだされた。
キアニー夫人は娘を彼らのところにつれて行き、愛想よく話しかけた。夫人は二人と親しくしたかったのだ。しかし、いんぎんに努めながらも、彼女の眼はびっこを引きながら、ひょこひょこと歩いているホロハン氏を追っていた。手早く二人に断わって別れると、ホロハン氏の後を追って出ていった。
「ホロハンさん、ちょっとお話したいのですけど」彼女はいった。
二人は廊下の人目につかないところへ降りていった。キアニー夫人は彼に、娘の謝礼はいつ払ってもらえますでしょうかときいた。そのほうはフィッツパトリック氏がやっていますから、とホロハン氏はいった。キアニー夫人はフィッツパトリック氏のことなど私の知ったことではないといった。娘は八ギニーの契約書に署名したのであって、それだけは当然支払われるべきだというのであった。ホロハン氏は、それは、私のかかわったことではないというだけだった。
「どうして、あなたのかかわったことではないんですの?」キアニー夫人はきいた。「娘との契約を持ちこんでこられたのは、あなた御自身じゃありませんでしたの? とにかく、あなたにかかわりはなくても、私にはありますからね。ちゃんとやって頂きますわよ」
「フィッツパトリックさんにお話しされたらいいでしょう」とホロハン氏はきっぱりいった。
「フィッツパトリックさんのことなんか、私の知ったことじゃありませんよ」キアニー夫人はくり返した。「契約をしてあるんですからね。ちゃんとそれを、履行して頂くつもりでおりますよ」
夫人が楽屋に帰ってきたとき、その頬はやや紅潮していた。楽屋は活気づいていた。外出着をきた二人の男が暖炉を占領して、ミス・ヒーリーとバリトン歌手とになれなれしく話しかけていた。男達は「フリーマン」紙の記者とオマッドン・バーク氏だった。「フリーマン」の記事は、さるアメリカの牧師が市長官邸でする講義の記事を書かなければならないので、音楽会のほうは待っていられないから、といいにきたのであった。フリーマン社では記事は自分にまかすということになっているから、載せるように計らおうと彼はいうのだった。ごま塩頭の男で、もっともらしい声をして、そつない作法を心得ていた。火の消えてしまった葉巻を手にもって、体のまわりに葉巻の芳香をただよわせていた。音楽会とか音楽家には相当うんざりしているので、彼はすぐにそこを出るつもりでいたが、いつまでも炉棚によりかかっていた。ミス・ヒーリーは彼の真前に立って、喋ったり笑ったりしていた。年の功で、ミス・ヒーリーの愛想のよいのには何かわけがあるなと彼も思ったが、機会をすかさずものにしてやろうというほどの気の若さはあった。彼女の肉体の暖かさ、色香が彼の感覚を刺戟した。自分の眼の下で、ゆっくりと波打っている胸は、今はおれのために波打っているのだ、そして笑いや、芳香や、わざとらしい秋波もおれへの贈りものなのだ、と彼は心地よく意識した。もうそれ以上そこに長居ができなくなると、いかにも未練そうに彼女に別れをつげた。
「オマッドン・バークが短評を書くからね」彼はホロハン氏に説明した。「新聞にだすのはぼくがやってあげるから」
「どうもありがとう、ヘンドリックさん」ホロハン氏はいった。「一つお願いします。そうそう、お出掛けになる前に、ちょっと何かいかがですか?」
「結構ですな」ヘンドリック氏はいった。
二人の男は曲がりくねった通路を通って、暗い階段を上り、奥まった一室へやってきた。そこでは接待係りの一人が数人の紳士に壜の栓を抜いてやっていた。その紳士の一人はオマッドン・バーク氏だった。この部屋を勘で嗅ぎつけてやってきたのだ。彼は人あたりの柔かい、年輩の男で、楽な姿勢を取るときには、その堂々たる体躯を大きな絹張りの蝙蝠傘《こうもりがさ》に安定させるのであった。えらそうな西部風の彼の名前は、彼の微妙な財政問題を安定させる道徳的蝙蝠傘となっていたのだ。彼は広く尊敬をうけていた。
ホロハン氏が「フリーマン」の記者を歓待している間、キアニー夫人はひどく勢いこんだ声で夫と話をしていたので、夫はもっと低い声でいうようにと頼まねばならなかった。楽屋の他の人々の話声が緊張してきた。最初の出演者であるベル氏が楽譜を持って構えていたが、伴奏者はなんの合図もしなかった。明らかに何か手違いがあったのだ。キアニー氏は真直ぐに前方をにらんで、あご鬚をなでていた。キアニー夫人のほうは押し殺した声に力を入れて、キャスリーンの耳元に何かいっていた。会場のほうから、拍手をしたり、足を踏み鳴らしたりする催促の音が聞こえてきた。第一テナーとバリトンとミス・ヒーリーとが一緒に立って、じっと待っていた。が、ベル氏の神経は自分が遅れてやってきたと聴衆が思いはしないかと、ひどくいらだっていた。
ホロハン氏とオマッドン・バーク氏が楽屋に入ってきた。ホロハン氏は、すぐに部屋の沈黙を察知した。彼はキアニー夫人のところへつかつかと歩み寄って、熱心に彼女と話しこんだ。二人が話している間も、会場のざわめきはいよいよ大きくなっていった。ホロハン氏はひどく赤くなって、昂奮してきた。彼はしきりとまくしたてていたが、キアニー夫人は時々そっけなく口をきくだけだった。
「娘は出ませんよ。あの八ギニーは頂かなければなりません」
ホロハン氏は、聴衆が拍手したり、足を踏み鳴らしている会場のほうを懸命に指さした。彼はキアニー氏やキャスリーンにも泣きついてみた。しかし、キアニー氏は相変わらず鬚をなで、キャスリーンは、あたしのせいじゃないというように下をむいて、新しい靴の尖を動かしているばかりだった。キアニー夫人はくり返した。
「お金を頂戴しなければ、娘は出ませんよ」
懸命にまくしたてた末に、ホロハン氏はびっこをひきながらあわてて出ていった。部屋がしんとなった。沈黙して張りつめた空気が少し息苦しくなってきた時に、ミス・ヒーリーがバリトン歌手にいった。
「パット・キャンブル夫人に今週お会いになりまして!」
バリトン歌手は、まだ会ってないが、大変お元気だそうだといった。会話はそれ以上続かなかった。第一テナーは首を前に曲げて、チョッキにかけた金鎖の輪を数えだし、微笑をしたり、勝手な旋律をハミングしてみて、前額|竇《とう》の響き工合をみたりしていた。時折、皆がキアニー夫人のほうをちらっと見やった。
聴衆席のざわめきが怒号にまで高まってきたときに、フィッツパトリック氏が部屋に跳びこんできた。その後から、ホロハン氏が息をきらしてついてきた。会場の拍手と足を踏みならす音の間に口笛も入っていた。フィリッツパトリック氏は手に数枚の紙幣を持っていた。彼はキアニー夫人の手に四枚数えて渡すと、後の半分は幕間に渡すからといった。キアニー夫人はいった。
「これでは四シリング不足ですけれど」
だが、キャスリーンはスカートをたくしよせ、ポプラの葉のように身をふるわせている最初の出演者に、「さあ、ベルさん」といった。歌手と伴奏者が一緒に出ていった。会場の騒ぎが静まっていた。二、三秒の間があった。と、ピアノの音が聞こえてきた。
音楽会の第一部は、マダム・グリンのものを除いては非常な成功であった。気の毒に、この婦人は「キラーニイ」を、声量のないあえぐような声で、抑揚も発声も全く旧式なマンネリズムで歌ったのだった。彼女はそういう歌い方が自分の歌に優雅な趣きをそえると信じていたのである。彼女はまるで古めかしい舞台衣裳からぬけ出てきたといった恰好だったので、安席の連中が、その甲高い哀れっぽい調子をからかった。それでも、第一テナーとコントラルト歌手は満場の大喝采を博した。キャスリーンはアイルランド抜萃曲を弾いて、これも非常な喝采をあびた。第一部は、素人劇を作った若い婦人による壮烈な愛国詩の吟唱で幕を閉じた。これは当然喝采を受けた。それが終ると、人々は満足して休憩に出た。
その間ずっと、楽屋は昂奮の坩堝《るつぼ》だった。片隅にホロハン氏、フィッツパトリック氏、ミス・ベアン、接待系の二人、バリトン、バス、それにオマッドン・バーク氏がいた。オマッドン・バーク氏は、これはかつて自分が目撃した中でも最も不愉快な事件だといった。ミス・キャスリーン・キアニーは今後ダブリンの楽壇にはもう出られまい、ともいった。バリトン歌手は、キアニー夫人のとった行動をどう思うかときかれた。彼は何もいいたくなかった。彼は既に出演料をもらっていたし、人とのいざこざに巻きこまれたくなかった。それでも、キアニー夫人も、歌手たちのことを少しは考えてみてくれてもよかったのにといった。接待係の者と幹事たちは、幕間になったら、どうしようかと烈しく論じ合っていた。
「ぼくはベアンさんの意見に賛成だね」オマッドン・バーク氏がいった。「一文も払ってやるな」
部屋のもう一方の隅には、キアニー夫人とその夫、ベル氏、ミス・ヒーリーと、やむを得ず愛国詩を吟唱した若い婦人とがいた。キアニー夫人は、委員たちの態度は言語道断だといっていた。骨折りも出費もいとわなかったのに、その代償がこのざまだというのであった。
あの連中はたかが相手は女の子だ、何かまうことはないから踏みつけにしてやれと思っているのだ。だけど、自分はあの人たちの間違いを教えてやる。あたしが男だったら、いくら何でもこんな仕打ちはできないだろう。でも、娘の権利は、何としても通してみせる。馬鹿にされてたまるもんですか。もし残りの全部を払わなかったら、ダブリン中にいいふらしてやる。むろん、歌手たちにはお気の毒だと思っている。でも、他にどう仕様もないじゃないの? 彼女は第二テナーに訴えた。第二テナーは、自分にもあなたが厚遇をうけているようには思えないといった。また、ミス・ヒーリーにも訴えてみた。ミス・ヒーリーは実は向こうにいる連中の仲間入りをしたかったのだが、キャスリーンとは大の仲良しだったし、キアニー家から度々招待を受けていたので、そうするわけにもいかなかったのだ。
第一部が終るとすぐにフィッツパトリック氏とホロハン氏は、キアニー夫人のところへ行って、残りの四ギニーは来週の火曜の委員会がすんでから支払う、また、お嬢さんが第二部の演奏をしなかった場合には、契約は破棄されたものと思って、一切支払はしない、といった。
「委員なんて、わたくしは存じませんよ」キアニー夫人は憤然としていった。「うちの娘は契約をしているのですよ。四ポンド八シリング頂かなければ、一歩も舞台には上りません」
「あなたには驚きますね、キアニーさん」ホロハン氏がいった。「まさか、あなたがこんな出方をされるとは思いませんでしたなあ」
「それじゃ、あなたは、私にどんな仕打に出られたんですか?」キアニー夫人がきいた。
彼女は満面に怒りの色を現わし、両手で誰かにつかみかからんばかりの気配であった。
「私は私の権利を主張しているんですよ」彼女はいった。
「少しは体面をわきまえられてはいかがでしょう」ホロハン氏がいった。
「わたくしが、っておっしゃるんですか?……それなら、あたしが、娘にいつ支払ってもらえるかと伺っても、礼儀正しい御返事は頂けないのでございますね」
彼女はぐいと頭をもたげ、高飛車な声でいった。
「あなたから幹事にいっといてちょうだい。わたくしの知ったことじゃありませんからね。どうせわたくしはペテン師の大馬鹿者ですからね」
「あなたはレイディかと思ってましたよ」とホロハン氏はいうなり、ぷいと彼女のもとから立ち去って行った。
こうなると、キアニー夫人の行動はあらゆる方面から非難を受けた。誰もが委員のとった処置を肯定した。彼女は扉口のところに突っ立って、激しい怒りに容貌は気味悪く一変し、盛んに手ぶり身ぶりで夫や娘といい争っていた。彼女は幹事たちが自分のところへやってくるだろうと期待して、第二部が始まる時刻まで待ってみた。だが、ミス・ヒーリーが快よく一、二の伴奏を弾くことを承諾した。キアニー夫人は脇へどいてバリトン歌手と伴奏者とが舞台へ出て行くのに手をこまねいている他はなかった。彼女は怒った石像のように、暫くじっと立っていた。が、歌の最初の調べが彼女の耳を打つと、娘の外套をいきなりつかんで、夫にいった。
「馬車を呼んで下さい!」
彼はすぐに出ていった。キアニー夫人は娘を外套でくるんで、夫の後から出ていった。出口のところにさしかかると、立ち止ってホロハン氏の顔をにらみすえた。
「まだ、話はついていませんよ」彼女はいった。
「私のほうはもうついていますがね」ホロハン氏がいった。
キャスリーンは母におとなしく従っていった。ホロハン氏は、体がかっかと火のついたようになるのを鎮めようとして、部屋の中をいったりきたりし始めた。
「えらい女だよ!」と彼はいった。「ふん、大した女さ!」
「君は正当なことをしたんだよ、ホロハン」と、オマッドン・バーク氏は、賛成の意を表して蝙蝠傘に身をもたせていった。
[#改ページ]
恩寵
その時、便所にいあわせた二人の紳士が彼を起そうとしてみた。が、彼はどうしようもなかった。落ちた階段の裾に体をちぢこめて横たわっているのだ。二人はやっとのことで、男を仰向けにした。帽子は数ヤード先にころがっていたし、服は、うつ伏せになっている床の汚物や、じくじく流れでたもので汚れていた。眼は閉じ、ぜいぜいいう音をたてて呼吸していた。細い血の条《すじ》が口の端からしたたっていた。
この二人の紳士とボーイの一人とで彼を階段の上に運び上げ、また酒場の床におろした。二分もすると、まわりに人垣ができた。酒場のマネージャーは、皆にこの男が誰であるか、誰と一緒にいたのかとたずねた。誰もその男が誰だか知らなかったが、ボーイの一人が、この方には弱いラム酒をもって行ったといった。この方お一人だけだったのかとマネージャーはきいた。
「いいえ。二人おつれの方がおいででした」
「で、その方たちはどうなすったのかね?」
誰も知らなかった。声がして、
「風にあてろよ。気絶してるんだ」
といった。
弥次馬の輪がひろがっていったが、また、ゴムのようにちぢんでいった。どす黒い血のまるい塊りが、モザイク模様の床の上の、男の頭近くのところにできていた。マネジャーは男の顔が血の気を失い、蒼白になっているのに驚いて、警官を呼びにやった。
カラーが外され、ネクタイがとかれた。男は、一瞬眼を開けて、溜息をすると、また眼を閉じた。彼を二階に運びあげた紳士の一人が片手に汚れたシルク・ハットを持っていた。マネジャーはくり返し、この怪我人は誰だか、あるいはその連れはどこへ行ったか、誰か知らないかときいていた。酒場の扉が開くと、大男の巡査が入ってきた。横丁から巡査についてきた人の群れが扉口の外に集ってひしめきあいながら、ガラス戸ごしに中を見ようとしていた。
マネジャーは早速自分の知っているだけを話し始めた。肉づきのいい、鈍重な、動ぜぬ顔付の若い巡査はじっときいていた。頭をゆっくり右、左へ向け、さらにマネジャーのほうから床の上の男のほうへと動かしていた。まるで、自分が何かだまされたりするのを恐れているようなようすだった。やがて、手袋をぬぐと、腰のところから手帳を取りだし、鉛筆の芯《しん》をなめて、書きこむ用意をした。彼は田舎訛《いなかなま》りの疑り深そうな口調できいた。
「何者だね、この男は? 名前と住所は」
自転車服を着た一人の青年が、見物人の環を押しわけて前に出てきた。彼はすばやく怪我人のそばに膝をつくと、水をたのんだ。巡査も膝をついて、手を貸した。青年は怪我人の口から血を洗い取って、それからブランデーを少しもってくるようにいった。巡査はその命令を威張った声でくり返した。ボーイがコップをもって駆けつけてきた。ブランデーが男の咽喉に無理に流しこまれた。数秒たつと男は目を開けて、あたりを見廻した。ぐるっと環になっている人々の顔をじっと見ていたが、やがて、ようすがわかって、立ち上がろうとした。
「もう大丈夫ですか?」自転車服の青年がきいた。
「ああ、なん……でもない」と怪我人は立ち上ろうとしながら、いった。
彼は助け起こされた。マネジャーが病院のことを何かいうと、見物人の中から助言をする者もでた。つぶれたシルク・ハットが男の頭にのせられた。巡査がきいた。
「どこに住んどるのかね?」
男は、返事もしないで、髭の先をひねりだした。自分の怪我を大したことでもないと取っていた。何でもないほんのちょっとした間違いだと彼はいった。ひどくろれつの廻らぬ口だった。
「住いはどこだね?」巡査はくり返した。
男は車を呼んでもらいたいといった。そのことでいろんな意見が出されているところへ、丈の長い黄色のアルスター外套を着た、長身で快活な色白の紳士が酒場の向う側の隅のほうからやってきた。この光景を見ると、彼は大きな声でいった。
「おや、トムじゃないか! どうしたんだ?」
「いんやあ、なん……≪れ≫も……ね……えよ」男はいった
この新来者は目の前の哀れな男のようすを見て、それから巡査のほうへ向き直って、いった。
「大丈夫です、お巡りさん。私が家まで送って行きますから」
巡査はヘルメットに手をかけると、答えた。
「お願いします、パウアさん」
「さあ、トム」パウア氏は友達の腕を取るといった。「骨折はしてないよ。どうだね? 歩けるか?」
自転車服の青年が男のもう一方の腕をとると、人垣が割れて道をあけた。
「どうして、こんな騒ぎになったんだい?」パウア氏はきいた。
「階段から落ちたんです」若い男がいった。
「えらく、お≪しぇ≫わ……に……なります……なあ」怪我をした男はいった。
「いや、ちっとも」
「ちょいと一杯やりま……?」
「いや、また今度、今度」
三人の男は酒場を出た。人の群れは扉口をぬけて、横丁へはいりこんでいった。マネジャーは、事故の現場を調べに巡査を階段のところへつれていった。男は足をふみはずしたに相違ないということに意見が一致した。客たちはカウンターのほうへもどっていった。ボーイが床の血痕を拭いにかかった。
彼らがグラフトン街にやってくると、パウア氏は口笛を吹いて、車を呼んだ。怪我をした男はまた、できるだけはっきりといった。
「≪えあく≫……ごめん≪ろ≫うをかけました。またおあいし≪あ≫しょう。わた……のなめえはカーナンです」
ショックと、始まってきた痛みとで、いくらか正気に戻っていた。
「いや、どういたしまして」と若い男はいった。
彼らは握手した。カーナン氏は車に押し上げられた。パウア氏が馭者に指図を与えている間、彼は若い男に感謝の意を表して、一緒に飲めなかったのをしきりと残念がっていた。
「またこの次にでも」若い男がいった。
車はウェストモアランド街のほうへ走り去っていった。バラスト局のとこを通過するときに、時計が九時半をさしていた。鋭い東風が河口から吹きつけてきた。カーナン氏は寒さに身をちぢこめた。彼の友人は、どうしてあんな椿事《ちんじ》を起こしたのか話してくれと、彼にきいた。
「へん……が、≪れ≫きない」彼は答えた。「……たが、切れた……」
「見せてごらん」
相手は、馬車の座席の前の荷物置場のほうに身をのりだすようにして、カーナン氏の口の中をのぞきこんだが、見えなかった。彼はマッチをすって、それを両手でかこいながら、もう一度カーナン氏が素直に開けている口の中をのぞきこんだ。車ががたがた揺れるので、マッチが開けた口もとにうまく定らなかった。下歯とはぐきにべっとりと血糊《ちのり》がついていて、舌の端がごく少し、噛み切られているらしかった。マッチが消えた。
「こいつあひどいな」パウア氏がいった。
「いやあ、なん≪れ≫も……ない」カーナン氏は口を閉じて、汚れた上衣の襟を頸に引き寄せながらいった。
カーナン氏は、自分の職業が持つ品位というものを堅く信じている旧弊なタイプの注文取りの外交員だった。市内で見かける彼の姿はいつもきまって、なかなか立派なシルク・ハットをかぶり、脚にゲートルを巻いていた。身につけるこの二つのもののお蔭で、どんな場合もとがめられずにすむものだ、と彼はいうのだ。彼は、彼のナポレオンともいうべき偉大なるブラックホワイトの伝統を、今もって守っているわけで、その人の思い出を、時折、挿話や真似で呼び起こすのであった。当世風の商法といえば、精々クロウ街に小さな事務所を持ち、そこの窓のよろい戸に、自分の商会の名と併せてその所在地――ロンドン、E・C区――と書いておくくらいが、彼にしてみれば関の山だったのである。この小さな事務所の炉棚には、小さな鉛の缶がずらりと並べてあり、窓の前のテーブルには、いつも黒い液体が半分程はいっている茶碗が四つか五つのっていた。これらの茶碗で、カーナン氏は茶の味利きをするのだ。一口ふくんで、すうっと吸い上げ、それを舌にふくませてから、べっと炉格子へ吐きだす。こうして、暫く考えこんでから鑑別するのだ。
ずっと年の若いパウア氏はダブリン城の英国アイルランド警察署に勤めていた。彼の出世の曲線は、この友人の衰退の曲線と交叉していた。それでもカーナン氏の衰退は、成功の絶頂にいた当時の彼を知っているこういった友達の一部から、未だに彼が一廉《ひとかど》の人物として敬意をよせられているという事実によって、和らげられていた。パウア氏もこういった友人の一人だった。この人の何ともわけのわからぬ借金は友人たちの笑い話になっていた。彼は気さくな青年だった。
車は、グラースネヴィン道路〔ダブリンの北西郊外〕の一軒の小さな家の前で止った。カーナン氏は皆に助けられて、家に入った。細君が彼をベッドに入れた。その間、パウア氏は階下の台所で、子供たちにどこの学校に行っているかとか、どんな本を習っているの、などときいていた。子供たちは――女の子が二人と男の子が一人だったが――父親がぐったりのびてしまっていることや、母親の手がふさがっていることを知っていて、彼とひどいばか騒ぎを始めた。子供たちの作法や言葉使いを彼は意外に思い、眉をよせて考えこんでいった。暫くたつと、カーナン夫人が台所に入ってきて、叫んだ。
「なんて情けないざまでしょうねえ? いつかは生命を落すことになりますよ。それも因果応報でしょう。金曜から飲みつづけなんですからねえ」
パウア氏は、自分にはなんの責任もないのであって、ただほんの偶然その場に来あわせただけだということを、彼女に注意深く説明した。カーナン夫人は、何度かの家庭争議の際に受けたパウア氏の好意や、小額ながら何度も金の融通をしてもらって、急場をしのいだことなどを思いだしていった。
「あら、大丈夫ですわ、パウアさん。わかってますわよ、あなたは宅のお友達なんですもの。他のおつきあいの方々とは違うんですもの。あの人達ときたら、宅がポケットにお金を持っている間はちやほやしてるんですものね、女房や子供をほうりださしといて。結構なお友達ですわ! 今夜は誰と一緒におりましたの、御存じありません?」
パウア氏は首を振っただけで、何もいわなかった。
「生憎なことに」彼女は続けた。「何もさし上げるものがございませんのよ。でも、ちょっとお持ち頂けたら、角のフォガティの店に使いにやりますけど」
パウア氏は立ち上った。
「実はうちでは、あの人がお金をもって帰ってくるのを待っていたんですの。自分に家族があることなど、ちっとも頭にないようですわねえ」
「いや、奥さん」パウア氏はいった。「ぼくらで御主人の生活を一新させてみせますよ。ぼくからマーティンに話してみます。マーティンなら大丈夫です。二、三日うち夜分にでもこちらへ伺って、とっくり話しあいましょう」
彼女は彼を扉口まで見送っていった。馭者は歩道をふんづけるように歩き廻り、両腕を振って、体を温めていた。
「わざわざつれてきて下さいまして、本当にありがとうございました」彼女はいった。
「いや、そんなこと」とパウア氏はいった。
彼は車に乗りこんだ。車が動きだすと、彼女に向って快活に帽子をかざした。
「御主人を別人のようにしてみせますよ」彼はいった。「じゃ、さようなら、奥さん」
カーナン夫人の困惑した眼は、見えなくなるまで車をじっと見まもっていた。やがて視界をもどすと、家に入って、夫のポケットをからにした。
彼女は中年のよく働く実際的な女だった。ついこの間、銀婚式の祝いをして、その時にはパウア氏の伴奏で夫とワルツを踊って、円満な仲を取りもどしたのだった。求婚時代には、カーナン氏も不親切な男とは思えなかった。彼女は今でも結婚式だと聞くといつでも、教会の門へ馳けつけて、新婚の二人を見ては、自分もかつては、フロックコートに藤色のズボンというしゃれた服装で、一方の腕にきちっと優美な格好でシルク・ハットをかかえた陽気な太った男の、もう一方の腕にもたれて、サンディマウントの「海の星」教会〔実在の教会「ユリシーズ」第二部十三挿話に描写されている〕から出てきた時もあったのを、鮮やかな喜びをもって思い起こすのだった。結婚後三週間すると、彼女は妻の生活は退屈なものだと知った。それからもっとたって、もう我慢ができないと思い始めた時には、既に母になっていた。母親としての務めによって彼女はどんな困難にも打ち勝ってきた。こうして二十五年の間、夫のためにてきぱきと家をきりまわしてきた。上の二人の息子はもう一人立ちしていた。一人はグラスゴーの服地屋に入り、もう一人はベルファーストで、茶商の店員をしていた。いずれもよい息子だった。几帳面《きちょうめん》に便りもよこすし、時には家に金も送ってきていた。他の子供たちはまだ学校に行っていた。
カーナン氏は翌日事務所には手紙をだして、床に引きこもっていた。妻は彼のためにビーフ・ティ〔濃く煮つめた牛肉のスープの滋養飲料〕を作ってやり、彼に容赦《ようしゃ》なく叱言《こごと》を喰わした。彼女は夫のたびたびの深酒も気候の一部ぐらいにとって、病気になれば、いつでも忠実につきそって看病をし、いつも朝食をたべさせるように努力した。もっとひどい亭主だっているのだし、子供たちが大きくなってからは一度も乱暴をするようなことはなくなった。トマス街〔ダブリン城よりさらに西に行った街〕の外れまで出かけていって、ちょっとした注文も、記帳をしにまたもどってくるということも、彼女にはわかっていた。
それから二晩後に、友人たちが彼に会いにやってきた。妻は皆を彼の寝室へ上げた。寝室の空気は体臭でむっとしていた。妻は炉辺に椅子をすすめた。カーナン氏の舌は時々さすように痛むので、昼の間はやや不機嫌だったが、今はずっと愛想よくなっていた。彼はベッドに枕を支《ささ》えにして起き直った。そのふくれた頬に小さな赤味がさしているため、全体が温かい燃えがらのように見えていた。彼は部屋の取りちらかっていることを客たちに詫びたが、同時に先輩の誇りをもって、いくらか尊大にかまえて彼らを見た。
彼はカニンガム氏、マッコイ氏、パウア氏という友人たちが客間でカーナン夫人に明らかにした陰謀の、自分が槍玉に上っているということには全然気付いていなかった。その考えはパウア氏の発案だったが、それを具体的におしすすめるのはカニンガム氏にまかされてあった。カーナン氏は元来プロテスタントの出だった。結婚の際にカトリックに改宗したのだったが、二十年間、教会には一歩も寄り付かなかった。そればかりか、かえってカトリック教に横槍を入れたりして喜んでいた。
カニンガム氏はこういう場合にはうってつけの人物だった。彼はパウア氏とは年上の同僚だった。彼自身の家族生活はさして幸福ではなかった。皆、彼に非常な同情を寄せていた。というのも、不治の飲んだくれで、ちょっと人前には出せぬ女と結婚しているということが皆に知られていたからだ、彼は妻に六度も家を構えてやったのだが、その度ごとに妻は家具を質に入れて彼に負担を負わせた。
皆はこの気の毒なマーティン・カニンガムを尊敬していた。彼は非常に思慮深い男で、勢力もあり、頭もよかった。その鋭利な人間の知識、警察裁判所〔軽犯罪即決裁判所〕で永らくいろんな事を手がけてきたために一層隙のなくなった生来の機敏さ、これらが通俗哲学の水にちょいちょい浸されて、和らげられていたのだった。彼は仲々の物識りでもあった。友人たちも、彼の意見には一目をおき、顔がシェイクスピアに似ていると思っていた。
計画がカーナン夫人に明らかにされると、彼女はいった。
「あなたに全部お任せしますわ、カニンガムさん」
四半世紀にわたる結婚生活を送ってきた今では、彼女にはもう殆んど夢というものが残っていなかった。彼女にとっては信仰は一つの習慣であった。それに、夫くらいの年配の男は、死ぬまでもう大して変わるものではないと考えていた。夫の今度の椿事に対しても、当然至極のことだという奇妙な気持を、どうかすると抱きたくなっていた。それに、彼女にしてみれば、自分が冷酷な女とは思われたくないということを別にすれば、少しぐらい舌が短くなったって、夫にはそんなに苦痛でもないでしょう、と客たちにいってやりたいほどだった。しかしカニンガム氏は頭の切れる人だったし、信仰は信仰である。計画はうまく役立つかもしれない。少なくとも害になるはずはない。彼女の信仰はとくに篤いというほどでもない。彼女は≪聖心≫〔槍でつかれたキリストの心臓、人類に対するイエスの愛の象徴としてカトリック教会ではそのために特別の祭式を行う〕をあらゆるカトリックの勤行の中で最も普遍的に役立つものとして堅く信じ、秘蹟《ひせき》〔洗礼・堅振・聖体・悔悛・終油・品級・婚姻の七聖典をいう〕を是認していた。彼女の信心は台所の域を出ないものではあったが、もし苦しいときにぶつかれば、バンシイ〔アイルランドやスコットランドで、家に死人のある時恐ろしい泣き声でそれを知らせるという化物〕でも聖霊でも信じることができたろう。
客たちは、今度の椿事について話し始めた。カニンガム氏は、前にもこれとそっくりの事件があったのを知っているといった。七十になる老人が癲癇《てんかん》の発作を起こしているうちに舌の端を噛み切ったが、またもと通りに肉があがって、もう傷痕もわからなくなったというのだった。
「でも、わたしは七十じゃないよ」と病人はいった。
「あたりまえじゃないか」とカニンガム氏はいった。
「もう痛みはしないんだろう」マッコイ氏がきいた。
マッコイ氏はかつてはテナー歌手として、少しは鳴らした人であった。ソプラノ歌手であった彼の妻は、いまだに小さい子供たちに安い月謝でピアノを教えていた。彼の今日までの閲歴は、二点間の最短距離というものではなかった。やりくり算段の生活に追いこまれたことも、ちょいちょいあった。中部鉄道会社《ミッドランド・レイルウエイ》の事務員、「アイリッシュ・タイムズ」紙や「フリーマンズ・ジャーナル」紙の広告取り、石炭会社の市内委託外交員、私立探偵、副郡長《サブ・シェリフ》の事務所の書記などをつとめて、最近は市検屍官の秘書になっていた。この新しい務めのために、彼は職掌柄、カーナン氏の症状に興味を覚えたのであった。
「痛みかね? 大したことはないがね」カーナン氏は答えた。「ただ、とても気持が悪い。胸がむかついて、吐気をもよおしそうな気分がするんだ」
「そりゃあ酒のせいだよ」カニンガムが即座にいった。
「いや」カーナン氏はいった。「車の中で風邪を引いたらしい。何か咽喉にひっかかってるんだけど、痰《たん》だか――」
「粘液だよ」とマッコイ氏はいった。
「咽喉のところを、下からぐうっとこみ上げてくるのだ。むかむかしてくる」
「ふん、ふん」とマッコイ氏。「腹部がね」
彼はカニンガム氏とパウア氏とを同時に、注意をうながすような眼つきで見た。カニンガム氏があわててうなずくと、パウア氏はいった。
「まあ、何だな、終りよければ、すべてよしだよ」
「君にはすっかり面倒をかけちまったなあ」病人はいった。
パウア氏は手を振った。
「わたしと一緒にいた他の二人の奴は――」
「誰と一緒にいたのだい?」カニンガム氏がきいた。
「一人は名前も知らん。あん畜生、何という名前だっけなあ? 薄い茶色の髪をしたあのちびっちょ……」
「で、もう一人の奴っていうのは?」
「ハーファードだ」
「ふうむ」とカニンガム氏。
カニンガム氏の口からこの感慨がもれると、皆は黙りこんだ。彼には密《ひそ》かに知っていることがあると皆にわかったからだ。この場合、≪ふうむ≫というこの単音節には道徳的な意味合が含まれていた。ハーフォード氏は時々、小グループをつくって、日曜の昼さがり、できるだけ早く郊外の居酒屋に到着しようという目的で、市を出発する。そこに着くと連中は大ぴらに「|欺りなき《ボナ・ファイディ》」旅人という資格を獲得するのである。しかし、そういう旅行者仲間といえども、彼の素姓を大目に見のがすようなことは承知しなかった。彼はまず、労働者たちに非常な高利で小金を貸す、いかがわしい金貸しを振り出しに、その後、ゴールバーグ氏という恐ろしく肥った背の低い男と、リフィ貸付銀行の共同経営をするようになった。彼はユダヤ人的道徳律以上のものは決して抱いていなかったのであるが、仲間のカトリック教徒たちは、自分自身が、あるいは代理人としての自分が、ハーフォードの強引な取り立てを喰って憤慨するときはいつでも、彼のことをアイルランド・ユダヤ人だとか、文盲だとかと辛辣《しんらつ》な口をきき、白痴の息子が生まれたのも、高利貸などをしている天罰だと見ていた。また、別の場合には、彼のいい点も認めてはいたのだが。
「あの男はどこへ行ったんだろうかなあ」カーナン氏がいった。
彼は今度の事件の細かな点は曖昧にしておきたかったのだ。友人たちには、何か間違いがあって、ハーフォードと自分とが互いに姿を見失ったのだと思わせておきたかったのだ。友人たちは、酒を飲んだときのハーフォード氏の行状をよく知っていたから、黙っていた。パウア氏がまたいった。
「終りよければ、すべてよし、だよ」
カーナン氏はすぐさま話題を変えた。
「あれは親切な男だったなあ、あの医者は」彼はいった。「彼がいなかったら――」
「そうだ、あの人がいなかったら」とパウア氏がいった。「まず、科料処分では換えてもらえない拘留《こうりゅう》七日間ということだったろうな」
「そうだよ、まったく」カーナン氏はしきりに思いだそうとしながらいった。「そうだ、お巡りがいたなあ。なかなか、親切そうな若者だったな。どうして、ああいうことになったのかな?」
「君はすっかり酔いつぶれていたんだ、トム」カニンガム氏が重々しくいった。
「そうだ」カーナン氏も同様に重々しい口調でいった。
「ジャック、君はその巡査に鼻薬を利かしたんだろう」とマッコイ氏がいった。
パウア氏はクリスチャン・ネイムで呼ばれるのを好かなかった。彼は別に堅苦しい男ではなかったが、最近、マッコイ氏が夫人を地方演奏に行かせるような芝居をうって、旅行鞄や旅行用トランクを探しまわったということを、忘れかねていた。彼は自分が騙されたということに憤るよりも、そういうさもしい芝居をうったということに腹を立てていた。だから、彼は、カーナン氏がたずねでもしたかのように、その問いに返事をしてやったのだ。
今の言葉にカーナン氏は憤慨した。彼は市民たることの強い意識を持ち、自分の住む市とは互に公明正大な関係をもって生活することを願っていた。だから、野暮な田舎っぺと自分が呼んでいるような者達から、面と向って少しでも侮辱を加えられることには、我慢ができなかったのだ。
「われわれが税金を払っているのはそんなことのためなのか?」彼はきいた。「ああいう馬鹿野郎共に、めしを食わしたり、服を着せたりするためにか……奴らは外になんの能もないじゃないか」
カニンガム氏は笑った。彼は勤務時間の間だけダブリン城の役人だった。
「他に能のあるわけはないじゃないかね、トム」と彼はいった。
彼は太い田舎訛りの声をつくって、命令口調でいった。
「六十五番、このキャベツを受けとめろ!」皆、笑った。
マッコイ氏は何とかして話の仲間に入りたかったので、その話は聞いた覚えがないような振りをした。カニンガム氏がいった。
「多分――世間の噂なんだがね――訓練所でやってることだと思うんだが、そこで、あのとてつもなくでっかい田舎者の≪とんま≫を訓練するのだよ。巡査部長が連中を壁の前に一列横隊に立たせて、めいめいの皿を捧げさせるんだ」
彼はお道化た身振りでその話を説明した。
「晩飯のときなんだよ。それで、その部長がテーブルの自分の前に、ばかでかいキャベツの鉢と、シャベルのようなばかでかいスプーンをおいて。そのスプーンにキャベツの塊りをしゃくいあげて、そいつを部屋の向うへ投げるんだ。気の毒に、連中、そいつをめいめいの皿で受けとめなければならんのだ。六十五番、このキャベツを受けとめろ! ってな」
皆はまた笑いだした。だがカーナン氏はまだ何となく憤慨していた。彼は新聞に投書してやろうといった。
「そういう悪党どもがこんな都会に出てきてだ」彼はいった。「えらそうにお上面《かみづら》をしているんだからな。マーティン、奴らがどんな人間だかわかっておるだろう」
カニンガム氏はひかえめな同意をした。
「世の中は万事そんなものさ」彼はいった。「善玉もありゃ、悪玉もある」
「そりゃそうさ、善い奴もいることは、おれだって認めるよ」とカーナン氏は満足していった。
「ああいう連中には何もいわんのが得策だよ」マッコイ氏がいった。「おれの意見はそうだ!」
カーナン夫人が部屋に入ってきて、テーブルの上に盆を置きながらいった。
「どうぞお手酌でご自由に、皆さん」
パウア氏が取りもち役をつとめようと立ち上って、夫人に自分の椅子を勧めた。彼女は、今|階下《した》でアイロンをかけているところですからといって、それを断わり、パウア氏のうしろにいたカニンガム氏とうなずきあうと、部屋のを出て行こうとした。夫が彼女に大声でいった。
「おい、おれには何も持ってこないのか?」
「まあ、あなたに! あなたにはあたしの手の甲ですよ!」カーナン夫人はずけずけといった。
夫は、彼女のうしろから叫んだ。
「かわいそうな亭主にはなにもないのかい!」
彼がひどく滑稽な顔と声をしてみせたので、一同がにぎやかに笑う中に、スタウトの瓶が配られた。
客たちはそれぞれのコップから飲むと、また、コップをテーブルに置いて、一息ついた。すると、カニンガム氏がパウア氏のほうを向いて、急に思い出したようにいった。
「木曜の夜だとかいったな、ジャック?」
「うん、木曜だよ」とパウア氏がいった。
「よしきた」カニンガム氏は即座にいった。
「マッコオリーの店で落ちあえるよ」マッコイ氏がいった。「あそこなら一番便利だからな」
「だけど、おくれちゃまずいな」パウア氏が熱心にいった。「何しろあすこは扉口までぎゅう詰になるからな」
「七時半なら落ちあえるだろう」とマッコイ氏がいった。
「よしきた」とカニンガム氏。
「七時半、マッコオリーの店だね!」
ちょっと沈黙があった。カーナン氏は友人たちの内緒事に加えてもらえるかどうか、暫く待ってみた。やがて彼はきいた。
「何がおっぱじまるんだね?」
「いや、なんでもないよ」とカニンガム氏がいった。「木曜日に、われわれでほんのちょっとしたことを計画してるんだよ」
「オペラか?」とカーナン氏。
「いや、いや」カニンガム氏があいまいな口調でいった。「ほんのちょっとした……宗教上のことさ」
「ふうん」とカーナン氏。
また、沈黙があった。と、パウア氏があっさりいった。
「実はねえ、トム、ぼくらで静修をしようっていうんだよ」
「そう、そうなんだよ」カニンガム氏。「ここにいるジャックとぼくとマッコイ――この三人で壷の中味を洗い清めようというんだよ」
彼はこの隠喩にある目立たない力をこめていうと、自分の声に励まされて、さらにつづけた。
「実はまあいってみるなら、ほくらは一人残らず、やくざ者の寄ったかりみたいなものだろう。本当に誰もかれもだよ」と彼は無骨な思いやりをこめていいそえてから、パウア氏のほうを向いた。「ここで、さっぱり泥をはかないか!」
「白状する」とパウア氏はいった。
「おれもいさぎよく白状する」マッコイ氏。
「これで、皆一緒に壷の中味を洗い清めるってわけだ」とカニンガム氏がいった。
ある考えをふと思いついたらしかった。彼は突然病人のほうをふり向いて、いった。
「見当がつくかな、トム、今ひょいとぼくの頭に思いついたことが何だか? 君も仲間に入らないか、そうすると、四人組のリールってわけだ」
「そいつあ名案だ」とパウア氏がいった。「ぼくら四人がそうじゃないか」
カーナン氏は黙っていた。この提案は彼の頭に殆んど何の意味も伝えなかった。が、何か精神的な力が自分のために働きかけようとしかけているのを知ると、自分が頑固な態度を見せるのも、それはただ面子にとらわれているせいだと思った。彼は長いこと、話の仲間入りをせず、友人たちがイエズス会のことを議論している間、穏やかな反抗をしているといったようすで、じっと聴いていた。
「ぼくはイエズス会を、そんなに軽蔑はしていないぞ」とうとう我慢しきれずに彼は横から口をだした。「あれは学識のある修道会だよ。それに、善意をもっている修道会だと思うね」
「あれは公教会の中じゃ一番大きな修道会だからねえ、トム」カニンガム氏が力こぶを入れていった。「イエズス会の総会長は教皇の次に位しておるよ」
「まさしくその通りだ」とマッコイ氏がいった。「もし何かちゃんと間違いなくやってもらいたいことがあったら、イエズス会士のところへ行くんだね。なかなか勢力を持っている連中だよ。恰好の例があるがね……」
「イエズス会は立派な団体だ」とパウア氏
「イエズス会には」とカニンガム氏がいった。「面白いことがあるよ。公教会の外の修道会はどれも何かの折につけては改革を必要としたんだが、イエズス会だけは一度も改革されたことがないんだ。決して衰微したこともないんだね」
「そうかね」とマッコイ氏がきいた。
「厳然たる事実だよ」カニンガム氏はいった。「歴史だよ」
「イエズス会の教会だって見給え」とパウア氏。「彼らのもっている信徒を見てみたまえ」
「イエズス会は上流階級に合っているんだね」マッコイ氏がいった。
「もちろんだよ」とパウア氏。
「そうだ」カーナン氏がいった。「そうだよ、おれがイエズス会に好感を持っているわけは。中には無智で生意気な生ぐさ坊主どもがいて――」
「みんないい人たちばかりだよ」カニンガム氏がいった。「ひとりびとり、それぞれにね。アイルランドの僧門は、世界中どこへ行っても尊敬をうけているんだよ」
「うむ、確かにそうだ」パウア氏がいった。
「大陸のそんじょそこらの僧門とはわけが違うよ」とマッコイ氏。「僧門なんていえたもんじゃないからな」
「あるいは君のいう通りだろうな」とカーナン氏はやや打ちとけてきて、そういった。
「むろん本当だとも」とカニンガム氏。「ぼくはこの齢になるまで世の中を渡ってきて、いろんな面を見てきたが、どんな場合にも必ずちゃんと本質は判断してきておるよ」
客たちは互に他にならって、もう一度飲んだ。カーナン氏は心の中で何かをじっと比べて考えこんでいるらしかった。彼は深く心を動かされたのだった。彼はカニンガム氏を、本質を見抜く確実な判断家として、また、表面を鋭く読み取る人として高く買っていた。彼はもっとくわしいことをきいてみた。
「いやあ、ただ静修をするだけだよ」カニンガム氏がいった。「パードン神父さんがやって下さるんで。商売人のためのなんだがね」
「あの人ならそうつらい目にはあわせんからね、トム」パウア氏が説得するようにいった。
「パードン神父? パードン神父?」病人はいった。
「ほら、君は知ってる筈だがなあ、トム」カニンガム氏が勢いこんでいった。「いい人だ、面白い人だよ! われわれとちっとも変わらない世間人だよ」
「ああ……そうか、多分知っている。かなり赭ら顔の、背が高い」
「そう、そう、その人だ」
「で、どうかね、マーティン……説教のうまい人か?」
「そうさなあ……厳密にいったら説教じゃないんだろうな。まあ常識的な、くだけた話っていうようなものじゃないかな」
カーナン氏はじっと考えていた。マッコイ氏がいった。「トム・パーク神父、あれは大した男だったな!」
「そうだ、トム・パーク神父か」とカニンガム氏。「あれは生れながらの雄弁家だった。トム、君は聞いたことがあるかね、あの人の説教?」
「聞いたことがあるかって!」病人はじれったそうにいった。「とんでもない! おれはあの人の説教を聞いて……」
「だけど、大した神学者ではなかったという話だね」カニンガム氏がいった。
「そうかね?」とマッコイ氏。
「いや、むろん、間違ったところがあるっていうんじゃないんだよ。ただ時々、本当にオーソドックスでない説教をしたというだけの話さ」
「全く!……あの人は素晴しい人だった」とマッコイ氏がいった。
「一度あの人の話を聞いたよ」カーナン氏はつづけた。「その時の説教の題を胴忘れしたがね。クロフトンとおれとが教会のうしろの……平土間……じゃない……ええと、あの――」
「身廊」とカニンガム氏がいった。
「そう、その扉の近くの、うしろのとこだ。何という題目だったかなあ……おう、そうだ、教皇、亡くなった教皇のことだったな。思い出した、思い出した。全く素晴しかったよ、あの弁舌振りは。それから、あの声! 全く、大した声をしていたじゃないかね! 『ヴァチカン宮殿の囚われ人』って、教皇のことを叫んでいた。おれたちが教会を出ると、クロフトンがおれにこんなことをいったっけ――」
「だけど、クロフトンは、彼《あれ》はオレンジ党員〔一七九五年、北アイルランドに組織された新教と英国擁護の秘密結社の党員、オレンジ色のリボンを徽章とした〕じゃないかね?」パウア氏がいった。
「むろん、そうだ!」とカーナン氏はいった。「それに、仲々|天晴《あっぱ》れなオレンジ党員なんだ。二人でムーア街のバトラーの店へ行ったんだ――実際、おれは全く感服したね、嘘いつわりなくさ――あの時の奴の一言一句憶えているよ。『カーナン』と奴がいうのさ、『ぼくらはそれぞれ違った祭壇に礼拝をする』っていうのだな、『だがぼくらの信仰は一つだ』実にうまいことをいったもんだと、感心したな」
「そいつはなかなか含蓄の深い言葉だな」パウア氏がいった。「トム神父が説教する会堂には、いつも新教徒がおおぜい来ていたものだ」
「両派にはそんな大した違いはないよ」マッコイ氏がいった。「われわれがいずれも信ずるのは――」
彼はちょっと、ためらった。
「……救い主なのだ。ただ、彼らは教皇と天主の聖母〔聖母マリアのこと〕を信じないだけなのだ」
「しかし、もちろん」カニンガム氏が静かな口調で、効果的にいった。「われわれの宗教こそ、宗教だよ。古い、初めから少しも変らぬ信仰なのだ」
「それはそうだとも」カーナン氏が熱烈な口調でいった。
カーナン夫人が寝室の扉口にやって来て、知らせた。
「あなた、お客様ですよ!」
「どなただね」
「フォガティさんよ」
「おお、どうぞ! お入り下さい」
蒼白い卵形の顔が明かりのほうに進み出た。垂れた金色の口髭の弓形と同じような恰好に、金色の眉毛が、きょとんとびっくりしたような眼の上に弧を描いていた。フォガティ氏は地味な食料品商だった。市内の酒類販売免許店の商売をやって失敗したのである。というのは、彼の財政状態からやむを得ず、二流の酒造家やビール醸造業者などから仕入れるより他なかったからだ。グラースネヴィン道路には小さな店を開いていた。そこでなら自分の客扱いがこの区域の主婦たちのお気に召すだろうと内心ひそかに思ったのである。物腰には、ある上品さがあったし、小さな子供たちにもお愛想をいい、いうことも要領を得て、てきぱきしていた。教養もなくはなかった。
フィガティ氏は、スペシャル・ウィスキーの半パイント壜を見舞にもってきた。彼は丁寧にカーナン氏の容態をたずね、テーブルに見舞の品を置くと、一座の者と対等の格で腰をおろした。カーナン氏は、フィガティ氏にまだ支払ってない食料品代が少しあったのを思い出して、彼のおみやげを一層有難く思った。彼はいった。
「やっぱり君だなあ。ジャック、それを開けてくれないか?」
パウア氏がまたとりもち役をつとめた。コップがゆすがれ、少量のウィスキーが五つに注がれた。このあら手の一口がきいて、話はますます弾んだ。椅子に浅くかけていたフォガティが特に興味を寄せた。
「教皇レオ十三世は」カニンガム氏がいった。「あの時代の指導的人物の一人だった。彼の理想はだね、ローマ・カトリック教会とギリシア教会の合同ということだったね。それが彼の生涯の目的だったんだ」
「あの方はヨーロッパ最高の知識人の一人だとよく聞いたよ」とパウア氏がいった。「むろん、教皇であるということとは別にしてだよ」
「まさにその通りだ」カニンガム氏がいった。「最高とまではゆかないにしても、教皇としての彼のモットーはね、Lux upon Lux――つまり光よりの光〔「信経」にある言葉〕というのだったね」
「違う、違う」フォガティが熱心にいった。「そこは間違っていると思う。あれは Lux in Tenebris〔ヨハネ伝一ノ五〕だったと思う――つまり、≪闇の中の光≫です」
「うむ、そうだ」とマッコイ氏。「Tenebrae だった」
「失礼だけどね」カニンガム氏がきっぱりといった。「あれは Lux upon Luxだったよ。だって、あの方の前任者のピオ九世のモットーが Crux upon Crux ――つまり≪十字架の上に十字架≫だったのだよ――この二人の教皇在位間の相違を示すことになるわけだ」
この推断は承認された。カニンガム氏はつづけた。
「教皇レオは、知っての通り、えらい学者であり、詩人でもあった」
「力強い顔をしていたね」とカーナン氏。
「そうだ」とカニンガム氏。「ラテン語の詩を書いたよ」
「本当ですか?」とフォガティ氏がいった。
マッコイ氏はウィスキーを満足そうにちびちびやって、二重の意味をこめて頭を振っていった。
「冗談いうなよ、全く」
「おれたち、そんなことは習わなかったな、トム」パウア氏が、マッコイ氏の例にならって、いった。「あの安月謝の学校へ行った時にはね」
「小脇に泥炭をかかえて、安月謝学校へ通った人にだって立派な人はたくさんいたよ」カーナン氏は警戒的な文句をつかっていった。「昔の制度が一番良かった。かざりのない真心からの教育だった。近頃みたいな見かけ倒しのところなんかは微塵もなかったな……」
「全くその通りだ」パウア氏がいった。
「余計なものは全然なかった」とフィガティ氏。
彼はその言葉をきっぱりというと、重々しく酒を飲んだ。
「いま憶えているのは」とカニンガム氏がいった。「教皇レオの詩の一つで写真の発明を歌ったのをぼくは読んだな――むろん、ラテン語で書いた詩だ」
「写真のことを!」カーナン氏が叫んだ。
「そうだよ」とカニンガム氏。
彼はまたコップを傾けた。
「ふうん! そういえば」とマッコイ氏。「考えてみると、写真っていうのは驚くべきものじゃないかね?」
「むろんだとも」とパウア氏。「偉大なる精神には、ものを見る眼があるんだね」
「詩人がいうとおり、『偉大なる精神は狂気に極めて近し』だよ」フィガティ氏がいった。
カーナン氏はしきりと何か考えているらしかった。彼はある難しい問題点に対する新教徒の神学を思い出そうと努めていたが、遂にカニンガム氏に向っていった。
「ねえ、マーティン」彼はいった。「教皇の中には――むろん、現在の教皇や、その前の方なんかじゃないよ、けど、昔の教皇の中には――必ずしも……そのう……非の打ちどころのない人物とまでゆかない人もあったんじゃないのかな?」
沈黙があった。カニンガム氏がいった。
「そりゃ、むろん、いくらかは悪いのもあったさ……しかし、こいつは驚くべきことなんだがね。教皇の中で一人たりとも、どんな大酒飲みだった教皇でも、どんなに……とんでもない悪党だって、ただの一人だって、かつて≪聖座から≫、誤った教義を一言たりとも説教したものはいなかったんだよ。全く、これは驚くべきことじゃないか?」
「全くだ」とカーナン氏がいった。
「そうなんだ、教皇が≪聖座から≫話す時には」とフォガティ氏が説明した。「教皇は不可誤なりだからだよ」
「その通りだ」カニンガム氏。
「そうだ、教皇不可誤説〔一八七〇年にヴァチカン公会議で決定されて教義となったもので、キリストの代表者ですべての真理において聖霊に導かれた者としの教皇が「ペトロの座から」信仰及び道徳上の事に関して宣言することには決して誤りがないという説〕のことは知っている。たしか、あの時はぼくがまだ若い頃で……それともあれは――?」
フォガティ氏は話を遮ぎった。彼は壜を取り上げると、皆に少しずつ注いでやった。マッコイ氏は全部にゆきわたるほどないのを見ると、自分は最初の分が終っていないからと遠慮した。他の連中は遠慮しながらも受けた。コップにウィスキーが注がれてゆく軽い澄んだ音が心地よい間奏曲をかなでた。
「なにをいおうとしていたんだね、トム?」マッコイ氏がきいた。
「教皇不可誤説だよ」カニンガム氏はいった。「あれは公教会史上、未だかつてない一大感激的シーンだったね」
「というと? マーティン」パウア氏がきいた。
カニンガム氏は太い指を二本たてた。
「つまり枢機卿や大司教や司教の枢機院〔教皇の最高諮問機関〕で、他が全部賛成なのに、二人だけこれに反対したんだね。この二人を除いて、枢機院満場一致だったんだ。反対! といって、この二人は頑として承知しないのだ!」
「へえ!」とマッコイ氏。
「その二人というのはドイツ人の枢機卿で、名前をドルリング……いや、ドウリング……いや――」
「ドウリングじゃドイツ人じゃないね、こいつは絶対確実だよ」パウア氏が笑いながらいった。
「まあ、名前は何にしろだ、その偉大なるドイツの枢機卿が一人と、もう一人はジョン・マックヘイルだったんだ」
「なんだって?」カーナン氏が叫んだ。「それはチュアム〔アイルランド西部の古都〕のジョンのことかね?」
「それも確かかね?」フォガティ氏が疑わしそうにきいた。「あたしゃイタリア人かアメリカ人だったと思ってたけど」
「テュアムのジョンが」とカニンガム氏はくり返した。「その人だったのだよ」
彼は酒を飲んだ、他の客たちもそれにならった。それから彼はまたつづけた。
「そこで、世界のあらゆる隅々から集まった枢機卿や司教や大司教たちと、この二人の喧嘩好きの猛者とで大議論がおっ始ったのだ。そのうち遂に、教皇自身が立ち上って、≪聖座から≫不可誤を公教会の教養なりと宣言したわけだ。とそのとたんに、反対をとなえてきたジョン・マックヘイルが立ち上って、獅子のごとき大音声で、『クレドー!』と叫んだのだ」
「≪われ信ず≫!」フォガティ氏がいった。
「≪クレドー≫!」とカニンガム氏。「それによって彼の信仰が明らかにされたわけだ。教皇が告げた瞬間に、彼は服したのだ」
「それでドウリングのほうはどうした?」マッコイ氏がきいた。
「ドイツの枢機卿は服しようとしなかったんだ。教会を去ったんだ」
カニンガム氏の言葉は聞き手たちの頭の中に教会という巨大なイメージを作りあげた。彼の深いしわがれた声が信仰と服従の言葉を発すると、彼らを感激させたのであった。カーナン夫人が手をふきながら部屋に入ってきたときには、一座は厳粛な空気につつまれていた。彼女はこの沈黙をみださずに、寝台の裾の手摺りに身を乗り出すようにしてもたれた。
「おれはジョン・マックヘイルを一度見たことがある」とカーナン氏がいった。「あれは終生忘れられないな」
彼は妻のほうを向いて、確証をもとめた。
「お前には、よく話しをして聞かせたな、あの事を?」
カーナン夫人はうなずいた。
「ジョン・グレイ卿〔一八一六〜七五。アイルランドの新聞「フリーマンズ・ジャーナル」の社主で、ダブリンの上水道の創設者、オコウヌル街にその銅像がある〕の銅像の除幕式のときのことだったよ。エドマンド・ドワイア・グレイが演説をして、長々とくだらんことをしゃべっていたがね。と、そこにあの老人がいたんだね、気むずかしそうな顔付きの老人で、もじゃもじゃした眉毛の下から、じっと演説をしている男を見ていたよ」
カーナン氏は眉根をよせ、怒った雄牛のように頭を低めて、妻をじろりとにらんだ。
「驚いたね!」彼はふつうの顔にもどって、大きな声でいった。「人間の顔にあんな眼つきを見たことがないよ。まるで、『おい、お前の本心はもうちゃんとわかっているぞ』といっているようだったよ。鷹のような眼つきをしていたね」
「グレイの一族には一人もいいやつはいなかった」パウア氏がいった。
また、沈黙があった。パウア氏はカーナン夫人のほうをふり向いて、いきなり上機嫌にいった。
「実はね、奥さん、ぼくらはこの御主人を立派な、敬虔《けいけん》な、信仰篤いローマ・カトリック教徒にしようとしておるとこなんですよ」
彼は、一座の者を全部ひっくるめるように腕をぐるりと振った。
「ぼくら一同打ちそろって静修をして、それぞれ罪を告白しようっていうんですよ――断じてこいつは、ぼくらに大いに必要なことですからねえ」
「おれはかまわんと思っているがね」カーナン氏がいささか神経質に微笑しながらいった。
カーナン夫人は、自分の満足した気持は表にださないほうが悧巧だと思った。そこでこういった。
「あなたのお話をじっと聴いてなくちゃならない司祭さんがお気の毒ですわね」
カーナン氏の表情が変った。
「それが厭なら」と彼はぶっきら棒にいった。「司祭は……他のことをやりゃあいいさ。おれは哀れな身の上話をちょいとやるだけさ。おれはそう悪人じゃないからね――」
カニンガム氏がすかさず割りこんだ。
「ぼくらは皆、悪魔と手を切ろう」彼はいった。「みんな一緒にだ。悪魔の仕業と虚飾を忘れることだ」
「サタンよ、わが後《うしろ》に退け!」〔マタイ伝十六ノ二三〕とフォガティ氏はいって、笑いながら、他の連中を見た。
パウア氏は何もいわなかった。彼は計画が完全に図に当ったと感じた。さすがにうれしそうな表情が彼の顔にちらついていた。
「ぼくらがしなくちゃならんのは」カニンガム氏がいった。「手に、火をともした蝋燭を持って立ち上り、洗礼のときの誓を新たにやり直す、ただそれでいいのさ」
「そうだ、トム、何はともあれ」マッコイ氏がいった。「蝋燭は忘れないようにな」
「何だって?」とカーナン氏はいった。「蝋燭を持たなくちゃならんか?」
「うん、そうだよ」とカニンガム氏。
「いやだ、断然いやだ、そんなことは」カーナン氏は分別くさくいった。「その点ははっきり一線を画するよ。勤めはちゃんとする。静修も告解もやるよ……そういったことはすべてやるよ。だが……蝋燭はごめんだ。いやだ、何としてもいやだね、蝋燭だけは真平だ!」
彼は茶番めいた大仰さで頭をふった。
「あんなことをいってますよ!」彼の妻はいった。
「蝋燭は真平だね」カーナン氏は、聞き手に効果をうえつけたと気付き、相変わらず頭を左右にふりつづけていった。「幻燈みたいなことは、おれは真平だよ」
皆は腹をかかえて笑った。
「大したカトリック教徒ですわねえ!」彼の妻がいった。
「蝋燭はいやだ!」カーナン氏は強情にくり返した。「あれだけは止しだ!」
ガーディナー街のイエズス会派の教会の袖廊〔十字架形教会堂の左右の翼部〕は殆んどいっぱいだった。それでも刻々、紳士たちが横の扉口から入ってきて、助修士〔聖職者ではないが修道院で修道士と同じ宗教生活をしながら一般労働に従事する人〕に導かれて、側廊を空席の見つかるところまで足音をしのばせて歩いていった。紳士たちはいずれも盛装して、威儀を正していた。教会堂の灯火の光が、点々とトウィードの平服もまじっている、純白のカラーをつけた黒服の集まりの上や、緑色大理石のうすい斑点のある柱や、悲愴な油絵の上に落ちていた。紳士たちは長椅子にかけて、ズボンをちょっと膝の上に引き上げ、帽子をそっと邪魔にならぬように置いた。ぐっと反り返って、高い祭壇の前に吊るされている赤い永明燈が、遠くぽっと、ともっているのを、かしこまって見つめていた。
説教壇の近くの長椅子の一つにカニンガム氏とカーナン氏がかけていた。後ろの長椅子に、マッコイ氏が一人でいた。更にその後ろの椅子にパウア氏とフォガティ氏がかけていた。マッコイ氏は他の仲間と一緒に椅子にかけようとしたのだが、見つからなかったのだ。そして、一同が五の目型〔さいの目の五と同じ形〕に落ち着いたとき、彼はそのことで冗談をいってみたが、うまく利かなかった。冗談がうまくのみ込んでもらえなかったので、やめてしまったのだ。いくら彼でも堂内の粛然とした雰囲気を感じ、その宗教的な刺戟に応《こた》え始めていたのである。小声でカニンガム氏は、少し離れたところにかけている高利貸のハーフォード氏や、新たに選挙された区会議員の一人で説教壇のすぐ下にかけている市の登記代理人であり市長製造者であるファニング氏のほうに、カーナン氏の注意をうながした。右手には、質屋を三軒も持っているマイクル・グライムズ老人や、町役場事務長の事務室の仕事を求めているダン・ホウガンの甥《おい》がいた。ずっと前のほうには「フリーマンズ・ジャーナル」紙の主筆ヘンドリック氏や、かつては相当な商人であったカーナン氏の旧友、気の毒なオキャロールがいた。カーナン氏は、なじみの顔が幾つも見つかるにつれて、段々、気持が寛《くつろ》いできた。妻に修理してもらった例の帽子が膝の上に乗っていた。彼は一方の手で、軽く、だが、しっかりと帽子の縁《ふち》をおさえ、もう一方の手でカフスを一、二度ひっぱった。
上半身は白い法衣でおおわれた堂々たる風采の人物が説教壇に、大儀そうに上っていくのが見えた。一斉に会衆はざわめいて、ハンカチを取りだすと、その上に注意深く跪いた。カーナン氏も皆のやる通りにならった。司祭の姿はもう説教壇にすっくと立ち、大きな赭ら顔をのせたその巨体の三分の二が、手摺りの上に現われていた。
パードン神父は跪いて、ぽつりときらめく赤い光のほうへ体を向けると、両の手で顔をおおい、祈った。暫くしてから、手を顔から離して、立ち上った。会衆も立ち上って、椅子にまた坐った。カーナン氏は帽子を膝のもとと同じ位置にもどして、喰い入るような顔を説教者のほうへ向けた。説教者は手のこんだ大きな身振りで法衣の左右の広い袖をひるがえして、ゆっくりと会衆の並んでいる顔を見渡した。それから、彼はいった。
「この世の子らは己が時代の事には光の子らよりも巧みなり。われ汝らに告ぐ、不義の富をもて、己がために友をつくれ。さらば富の失《う》する時、その友汝らを永遠《とこしえ》の住居《すまい》に迎えん」〔ルカ伝十六ノ八〜九〕
パードン神父は、朗々たる確信に満ちた声で、この聖句を敷衍《ふえん》していった。彼の話によると、これは聖書の中でもその正しい解釈の最も困難な聖句の一つだとのことであった。これは、不用意に読むと、他のところでイエズス・キリストによって説かれている高遠なる教えと喰い違っているように思われる聖句である、というのだった。だがこの聖句は、自分には、俗世の生活を送る運命にあって、しかも俗世間的な仕方ではその生活を送りたくない人々への指針に特に適した聖句のように思われる、と彼は聴衆にいうのであった。それは商業や専門職にたずさわる人々のための聖句だというのだった。イエズス・キリストは、われわれ人間の本性のあらゆる欠点を御理解になって、必ずしもすべての人々が宗教的生活に入るものではなく、極めて大多数の人達は俗世間に生活しなければならず、それ故、ある程度は俗世間のために暮らしてゆかなければならない、ということをわかっておられたのである。そこで、この文章の中で、主はそういう人々に一つの勧告の言葉を与えようと配慮されたのであって、彼らの前に、あらゆる人々の中でも宗教的なことに最も心を使うことの少ない「富《マモン》」の崇拝者たちをまず、宗教生活における手本として示されたのである。
彼は、自分が今晩ここにきたのも、決して人を脅かすためでもなければ、途方もない目的があってきたのでもなく、一介の俗世間の者として、私の仲間に話しにきたのである、と聴衆に語った。自分は商売をしている人たちに話しにきたのである。だから自分は商売人らしく話をするつもりだ。比喩を使うのを許してもらうならば、私は皆さんの精神の会計官なのだ、というのであった。だから、どうか聴衆の皆さんの一人びとりが、自分の帳簿を、自分の精神生活の帳簿を開いて、それが良心と正解にあっているかどうか調べていただきたいのだ、というのであった。
イエズス・キリストは厳格な監督者ではない。主は私たちの些細な過ちも、私たちの哀れな堕落した本性の弱さも、俗世間の色々の誘惑も理解していらっしゃる。私たちはこれまでにも誘惑を受けたであろうし、また、今も何かにつけては誘惑を受けるのである。失敗もするであろう、いや、みんな失敗をやっている。だが、たった一つだけ、皆さんにお願いしたいことがある、と彼はいった。そのお願いとは、神に対して率直であれということである。もし、自分の貸借勘定があらゆる点でぴたっとあっていれば、こういうがいい。
「さあ、おれは自分の帳簿を検査したぞ。全部きちんとなっている」
だがもし、ひょっとして間違っている点が少しでもあったら、事実を認め、率直に、男らしくいうべきだ。
「さあ、勘定書はすっかり調べた。こことここが間違っている。けれど天主の恩寵を得て、こことこことを訂正しよう。そして、おれの勘定書をきちんとあわそう」
[#改ページ]
死せるもの
番人の娘リリイは、文字通り足をすりこぎにして駈けずり廻った。一人の紳士を一階の帳場の裏にある小さな食器室へ連れていって、外套を脱ぐのを手伝っていると、またもかすれたような玄関の鈴が鳴り響くので、つぎの客を案内しに、むきだしの廊下を急いで駈けもどらねばならなかった。婦人たちのほうの世話までもしなくてよかったのは、彼女にとって幸いだった。が、ミス・ケイトとミス・ジューリアはそのことを考えて、二階の浴室を婦人用の化粧室に変えておいたのだった。ミス・ケイトとミス・ジューリアとはその室にいて、お喋《しゃべ》りをしたり、笑ったり、から騒ぎをして、交る交るに階段の上までいっては、手摺り越しに下のようすをうかがって、どなたがいらしたの、とリリイに声をかけてきくのだった。
このモーカン姉妹が催す年に一度の舞踏会は、いつも盛大な行事になっていた。姉妹を知っている人々は皆それにやってきた。一族の者たちや家族の古なじみの人々や、ジューリアの合唱団の人たちや、もうすっかり大人になってしまったケイトの教え子たちや、メアリー・ジェインの教え子の中の者たちまでやって来た。今までにただの一度もこの会が失敗に終ったためしはない。人々の記憶する限り、もう何年にもわたってこの行事は素晴しくうまくいっていたのだ。ケイトとジューリアが、兄のパットの死後、ストウニイ・バター〔リフィ河北岸の市の北西部にある町〕の家を引越してからのことなのだから。あれから唯一人の姪《めい》のメアリー・ジェインを引き取って、彼らはアッシャーズ・アイランド〔リフィ河南岸沿いの町〕の薄暗い陰気な家に、階下の穀物問屋フラムさんから借りたその家の二階で、一緒に暮らすことになったのだ。あれはもう今からたっぷり三十年も前のことだ。あの頃はまだ丈の短い服を着た小さな子供だったメアリー・ジェインが、今ではこの家の大黒柱になっていた。というのも、彼女はハディントン通りの教会でオルガンをひいていたからだ。彼女は音楽学校出身で、毎年エンシァント音楽堂の階上の部屋で教え子の演奏会を催していた。生徒の多くはキングズタウン・ドールキイ間の鉄道の沿線の良家の子女だった。年はとっていたけれど、彼女の二人の叔母もそれぞれ自分の役割をもっていた。ジューリアは、すっかり白髪頭になっていたけれども、未だにアダム・エンド・イーヴ教会のリーディング・ソプラノをつとめていた。ケイトも、めっきり弱って、あまり外を出歩けなかったが、それでも奥の部屋で、旧式の角型ピアノを使って、初心者に音楽の手ほどきをしてやっていた。番人の娘のリリイが彼らのために家事をやってくれていた。彼らの生活は地味だったけれど、ぜいたくな食事――すべて極上のもの、極上の牛の腰肉、三シリングのお茶、壜詰の特級黒ビールなど――をするのは、結局、徳だと信じていた。それでもリリイは指図通りにせず間違いをやるということが滅多になかったので、三人の女主人とは至極うまくいっていた。三人とも小うるさかったが、それだけのことだった。ただ、口答えだけは、彼らはどうしても容赦しなかった。
むろん、その夜のようなときに、彼らが小うるさく騒ぎたてるのもあたりまえのことだ。おまけに十時をとうに過ぎたというのに、まだゲイブリエル夫婦のくる気配すらない。それに、フレディ・マリンズがへべれけに酔っぱらって、のり込んできはしまいかと、彼らは恐ろしく気をもんでいた。メアリー・ジェインの教え子の誰にも、彼がきこしめているとこを、何としても見せたくはなかったのである。しかもそういうときの彼は、どうにも手のつけようのないことが間々あるのだ。フレディ・マリンズはいつも遅れてやってくるのだけれど、ゲイブリエルがこないのは一体どういうわけかしらと、彼女らは不思議がった。だから彼女らは二分ごとに手摺りのところへ行っては、リリイに、ゲイブリエルか、フレディが来ましたか、ときくのだった。
「まあ、コンロイさん」とリリイは扉を開けてやりながら、ゲイブリエルにいった、「ケイトさまもジューリアさまも、もうあなたがお見えにならないかと思ってらっしゃいましたわ。ようこそ、奥さま」
「そりゃそうだろうな」ゲイブリエルはいった、「だけど叔母さんたちは、この家内が長々と三時間もかかって支度をするのをもう忘れているんだね」
彼が靴ぬぐいの上にのって、オーヴァ・シューズの雪をこすり落としている間に、リリイは彼の妻を階段の下まで案内して、大きな声でいった。
「ケイトさま、コンロイさまの奥様がお見えになりました」
ケイトとジューリアは早速暗い階段を、とことこ下りてきた。二人ともゲイブリエルの妻に接吻して、寒さで凍えそうだったろうといい、ゲイブリエルも一緒かときいた。
「これこの通り、ちゃんと来ておりますよ、ケイト叔母さん! さきに上ってて下さい。後から行きますから」とゲイブリエルが暗がりから大きな声でいった。
彼は相変らず足をごしごしこすりつづけていた。その間に三人の女たちは笑いながら、階上の婦人の化粧室へ上っていった。薄い雪のふさ飾りが、彼の外套の肩にはケープのように、オーヴァ・シューズの爪先きには飾革のように、のっていた。雪でかたくなったフライズ〔片面だけけばをたてた外套用の粗紡毛織物、アイルランドの特産品〕を外套のボタンがキューキューと音を立ててすり抜けていくにつれ、戸外の冷たい、新鮮な空気がすきまや折りひだから洩れてきた。
「まだ雪が降ってますの、コンロイさん?」とリリイがきいた。
彼女は先きに立って彼を食器室へ案内して、外套を脱ぐのを手伝った。ゲイブリエルは、彼女が彼の苗字《みょうじ》を口にしたときに区切っていった三音節に微笑みながら、彼女をちらっと見た。彼女はきゃしゃな体つきをした、伸び盛りの少女だった。顔色は青白く、髪は乾草色をしていた。食器室のガス燈の光がその顔色を一層青白く見せた。ゲイブリエルは、まだ子供で、よく布人形をあやしながら踏み段の一番下に腰かけていた時分からの彼女を知っていた。
「うん、降ってるよ、リリイ」彼は答えた。「一晩中雪だろうな」
彼は食堂室の天井《てんじょう》を見上げた。天井は、上の床を踏む音や小刻みに足を引きずる音でみしみしいっていた。彼は一瞬ピアノの音に耳をすませていたが、ひょいと少女のほうに眼を向けた。彼女は棚の隅で、彼の外套を注意深くたたんでいた。
「ねえ、リリイ」彼女は打ちとけた調子でいった。「君、まだ学校へ行っているの?」
「いいえ、もう」彼女は答えた。「学校を終えて、これでもう一年以上になりますのよ」
「そうか、それじゃ」ゲイブリエルは陽気にいった、「そのうちいつか、彼氏との結婚式にぼくらも列席するというわけだね、そうだろう?」
少女は肩ごしにちらっと彼を見返すと、ひどく辛辣《しんらつ》な口調でいった。
「この頃の男のひとは口先ばかりうまくて、人から取れるだけのものを取ろうとするんですもの」
ゲイブリエルはまるで自分がへまなことを仕出かしたかのように赭くなって、彼女のほうを見ずに、オーヴァ・シューズをぽいと脱いで、エナメル革の靴をマフラーでしきりとはたいた。
彼はでっぷりとした、やや背の高い青年だった。頬の赤みが額のほうまでずっとのぼっていって、そこでぼんやりとした薄紅色の幾つかのまだらになって、散った。毛のないすべすべした彼の顔には、鋭敏な落ちつかぬ眼をさえぎる眼鏡のふき清められたレンズと明るい金めっきの緑とが、きらきら光っていた。つややかな黒髪は真中で分けられ、長くカーブをつけて耳の後へ撫でつけられ、そこについている帽子の跡のみぞの下で、わずかにちぢれていた。
はたいて靴につやを出すと、彼は立ち上って、チョッキを下に引っぱって、肥った胴にきちっと合わせた。それから、素早くポケットから銅貨を一つ取りだした。
「ほら、リリイ」彼はそれを彼女の手におしこみながらいった、「クリスマスだろう。ほんの……これ少しばかりだけど……」
彼は足早に扉口のほうへ歩いていった。
「あら、いけませんわ」少女は叫びながら、彼を追った、「本当です、あたし頂けませんわ」
「クリスマスだよ! クリスマスだよ!」とゲイブリエルはいって、ほとんど馳けるようにして階段へ行きながら、駄目だよ、というように手をふった。
彼が階段のとこへいってしまったのを見て、少女は後から彼に大きな声でいった。
「それじゃ、有難うございます」
彼は客間の扉の外で、ワルツがすむまで、扉をさっとなでるスカートの衣ずれの音や、小刻みに引きずる足音に耳を傾けながら待っていた。まだ、あの少女の辛辣な思いがけない逆襲に度を失っていた。それが彼に暗い影を投げかけていたのだ。カフスやネクタイの蝶結びを整えては、なんとかしてその影を払いのけようと努めた。そこで、チョッキのポケットから小さな紙片を取りだし、演説の心おぼえに書いておいた見出しにざっと目を通した。ロバート・ブラウニングからの引用詩句についてはまだ決しかねていた。というのも、聞き手に難しすぎはしまいかという懸念があったからだ。むしろ、わかりやすいシェイクスピアか『アイルランド抒情詩集』〔アイルランド国民詩人トマス・ムアの詩集〕からの引用詩句のほうがいいのではなかろうか。無神経にがたがたと踏み鳴らす人々の踵《かかと》の音や靴底を引きずる音で、あの連中の教養の程度が自分のとは違うのだと思い出した。彼らにわかりもしない詩句を引用して聞かせたところで、それはただいたずらに自分を滑稽にするばかりだろう。あいつは自分の優越した教育をひけらかしているのだ、と連中は思うだろう。食器室であの娘にへまをやったと同じように、あの連中に対してもへまをやるだけだろう。おれは見当違いの調子を取っていたのだ。演説の全体が初めから終いまで間違っていた、全くの失敗だ。
ちょうどその時、彼の叔母たちと妻とが婦人化粧室から出てきた。叔母は二人とも小柄で、質素な服装をした老婦人だった。ジューリア叔母のほうが一インチかそこら高かった。耳の上までかぶさるように引きつめたその髪は灰色だった。皮膚のたるんだ大きな顔も、やや暗いかげがあって、やはり灰色をしていた。造りはがっしりしており、姿勢も真直ぐしていたが、鈍い眼と開いた唇とは自分が今どこにいるのか、どこへ行くところなのかわからないといった女の印象を与えた。ケイト叔母はもっと元気があった。顔は妹より健康そうで、しなびた赤い林檎のように、顔中しわだらけだった。同じように旧式な結い方をした髪はまだ濃い栗色を失っていなかった。
叔母たちはいずれも喜んでゲイブリエルに接吻した。彼は港務局〔ダブリン港の浚渫及び水路の証明を扱う役所〕のT・J・コンロイと結婚した彼女らの亡くなった姉のエレンの息子で、彼女らの気に入りの男だった。
「グレッタの話だと、あんた方、今夜はマンクスタウンに馬車では帰らないんですってね、ゲイブリエル」とケイト叔母はいった。
「ええ」ゲイブリエルは妻のほうをふり向きながらいった。「去年はそれでさんざんな目にあったね。ケイト叔母さん、憶えてらっしゃらないかな? あれでグレッタはすっかり風邪を引いてしまったんですよ。道中、馬車の窓はガタガタ鳴りずめ、おまけにメリオンを過ぎてから東風がびゅうびゅう吹きこんできて、まったく結構な目に会いましたよ。グレッタは悪性の感冒にすっかりやられちまって」
ケイト叔母はきびしく眉をひそめて、一語一語にうなずいていた。
「そうですよ、ゲイブリエル、それがいいよ」彼女はいった、「用心するにこしたことはないもの」
「ところが、このグレッタときたら」とゲイブリエル、「ほおっておけば、雪の中を家まで歩いて行きかねないんですからねえ」
コンロイ夫人は笑った。
「この人のいうことなんか、気になすっちゃ駄目ですわよ、ケイト叔母さま」彼女はいった。
「本当にうるさいんですの。やれ、夜はトムの眼のために緑色の笠をつけてやれの、唖鈴《あれい》体操をさせろの、イヴァにはオートミルのおかゆを無理にたべさせろのって、子供こそ可哀そうですわ。イヴァはもうおかゆを見ただけで厭がってるんですもの!……そうそう、この頃この人があたしに何をつけさせてるか、見当もおつきになりませんわよ!」
彼女は弾《はじ》けるように笑いだして、夫のほうをちらっと見た。彼のほれぼれした幸福そうな眼は、妻の服から、顔、髪へと移っていった。二人の叔母も笑いころげた。というのも、ゲイブリエルの取越苦労は、皆のいつもおきまりの笑い話になっていたからだ。
「ゴロッシズなんですよ!」コンロイ夫人はいった。「今度はそれなんですのよ。足もとがぬかってると、いつも、あたし、そのゴロッシズをはかなくちゃならないんですの。今晩だってそうですわ、はいてけっていうんですけど、あたし、どうしてもいやだっていいましたの。本当にこの分でしたら今度は潜水服を買ってくれそうですわ」
ゲイブリエルは神経質に笑って、気を落ち着けるかのように自分のネクタイを軽く叩いた。ケイト叔母は文字通り体を二つに折らんばかりにして、この冗談に腹をかかえて面白がった。ジューリア叔母の顔からは、微笑がすぐに消えて、浮かない瞳を甥の顔に向けた。しばらく間をおいてから、彼女はきいた。
「で、ゴロッシズって何? ゲイブリエル」
「ゴロッシズですよ、ジューリア」と彼女の姉は叫んだ。「あきれたわねえ、ゴロッシズを知らないの? よくはくじゃないの……深靴の上に。グレッタ、あれでしょ?」
「そうですわ」コンロイ夫人はいった、「グッタペルカ〔マレー地方産のあかてつ科の常緑喬木の樹液を乾燥させたゴム様物質〕で作ったものですの。あたしたち二人とも、それをもってますのよ。ゲイブリエルの話ですと、大陸では皆はいているんですって」
「へえ、大陸でねえ」とジューリア叔母は、ゆっくりと頭をうなずかせながら呟いた。
ゲイブリエルは眉をひそめて、少しむっとしたようにいった。
「何もそんなに珍らしいものじゃありませんよ。グレッタはただ、その言葉でクリスティ黒人楽団《ミンストレルズ》〔顔を黒く塗って黒人の歌を唄う歌手とバンジョー演奏家の一座〕を思いだすといって、ひどく面白がっているんですよ」
「それはそうと、どうなの、ゲイブリエル」ケイト叔母は素早く気転をきかせていった、「むろん、部屋のほうはもうちゃんとしてあるんでしょうね。グレッタがいってたけど……」
「ああ、部屋は大丈夫です」ゲイブリエルは答えた、「グレシャム〔オコウヌル街にあるホテルの名〕に取っておきましたから」
「本当に」ケイト叔母、「手まわしがよかったね。それで子供たちのほうは、グレッタ、心配じゃないのかい?」
「あら、一晩だけのことですし」コンロイ夫人はいった、「それにベッシーがみてくれますから」
「本当に」とまたケイト叔母はいった、「ああいう、まかせておける女中がいれば、とても心強いねえ! 家にもあのリリイがいるんですけど、確かにこの頃、あの娘《こ》はどうかしてるのじゃないかしら。以前とはすっかり変ってしまったよ」
ゲイブリエルはそのことについて少し叔母にきこうとした。が、叔母は急にいいやめ、妹の後姿をじっと見つめていた。娘は階段をぶらぶら降りて行きながら、手摺りごしに首を鶴のようにのばしていたのだ。
「ちょっと、どうしたの」彼女は焦立たしそうな口調でいった。「ジューリア、どこへいくのかしら? ジューリア! ジューリアってば! あんたどこへいくの?」
すでに階段を半ばほど降りていたジューリアはもどってきて、そっと告げた。
「フレディが来たのよ」
ちょうどその時、拍手の音とピアノの最後の装飾楽句とがワルツの終ったことを知らせた。客間の扉が内側から開けられて、幾組かの二人連れが出てきた。ケイト叔母は大急ぎでゲイブリエルをわきへ引きよせて、彼の耳に囁いた。
「ゲイブリエル、お願いだから、そうっと下へいって、フレディのようす、大丈夫か見てきておくれよ。もし酔っぱらってるようだったら上へあげないでおくれ。きっと酔ってるよ。まちがいないよ」
ゲイブリエルは階段のところへ行って、手摺りごしに耳をすました。食器室で話をしている二人の話声が聞こえてきた。と、フレディ・マリンズの笑い声が聞きわけられた。彼は大きな音をたてて階段を降りていった。
「本当に助かるよ」ケイト叔母はコンロイ夫人にいった。「ゲイブリエルが来てくれて。あの人がいてくれると、あたし、いつも気が楽になりますよ……ジューリア、ミス・デイリーとミス・パウアーよ、何かお飲みものさし上げて頂戴。デイリーさん、お見事なワルツを弾いて下さって、有難うございます。おかげでとても楽しゅうございましたわ」
パートナーと一緒に出てきた胡麻塩髭をぴんと立てた、浅黒い肌の、背の高い、しなびた顔の男がいった。
「モーカンさん、わたしたちにも何か頂けますかな」
「ジューリア」ケイト叔母は余計な形式ぬきにいった。「ミスタ・ブラウンとミス・ファーロングですよ。デイリーさんとパウアーさんを御一緒に、ジューリア、この方々もおつれして頂戴」
「わしはこれでなかなか婦人に好かれる男でしてな」ブラウン氏は、髭がさかさに立つ程口をすぼめ、顔中しわだらけにして笑いながらいった。「なあ、モーカンさん、みなさんがわしを好いて下さるわけは――」
彼はその言葉をしまいまでいわなかったが、ケイト叔母がもう声のとどかぬところへ行ってしまっているのを見て、すぐに三人の若い婦人を奥の部屋へつれていった。部屋の真中には四角いテーブルが二つ、端と端を縦につないで置いてあり、その上に丁度ジューリア叔母と番人とが大きなテーブル掛けを一杯ひろげて、のばしていた。食器棚には、深皿や平皿や、コップや、ナイフとフォークとスプーンの束などが、きれいに並べられてあった。蓋《ふた》のしてある角型ピアノの上も、食べ物や菓子類をのせる棚代りに使われていた。片隅の小さいほうの食器棚のところに二人の青年が立って、ホップ・ビター〔ホップで風味をつけた醗酵させてない酒の一種〕を飲んでいた。
ブラウン氏はまかされた人々をそこへ連れていって、冗談に、熱くした強くて甘い婦人向きのポンスを皆にすすめた。婦人たちが強い飲み物は絶対に頂きませんというので、彼はレモン水を三本あけてやった。それから、青年の一人に脇へどいてもらって、彼は、飾瓶を手にとるとウィスキーをなみなみと自分についだ。青年たちは、彼が一口、味見をしているのを、かしこまって見ていた。
「やれやれ」彼は微笑しながらいった。「こいつはお医者さまの命令でしてな」
彼のしなびた顔は相好をくずした笑顔になった。三人の若い婦人たちも、肩をこまかく波打たせ、体を前後にゆりながら、彼女のおどけように澄んだ笑い声で答えた。中で一番大胆なのがいった。
「あら、ブラウンさん、確かお医者さま、そんなものは一度も御命令にならなかったはずですわ」
ブラウン氏はウィスキーをも一口すすって、にじりよるまねをしていった。
「いや、よろしいかね、このわしはかの有名なるキャシディのおかみといったとこですわい。『ねえ、メアリー・グライムズや、わたしが飲まなくたって、飲ませるようにしておくれよ、だってわたしは本当に飲みたいんだからね』って、おかみさんはいったという話じゃござらんか」
彼のほてった顔は、いささかなれなれしすぎるほど前へ傾いてきて、ひどく下品なダブリン訛りをつかったので、若い婦人たちは、同一の本能から、彼の話を黙って聞いていた。メアリー・ジェインの弟子の一人であるミス・ファーロングは、ミス・デイリーに、あなたの弾いたあの美しいワルツの曲名はなんというのですか、と尋ねた。ブラウン氏は自分が相手にされないのを知ると、もっと話のわかりそうな二人の青年のほうへぷいと向き直った。
パンジイ色の服を着た赤ら顔の若い女が部屋にはいってくると、昂奮して手を叩きながら叫んだ。
「カドリール〔二人又は四人して踊る舞踏〕! カドリールですよ!」
彼女のすぐ後からケイト叔母が入ってきて、叫んだ。
「殿方お二人と御婦人が三人なんだよ、メアリー・ジェイン!」
「あ、ミスタ・バーギンとミスタ・ケリガンがここにいらっしゃるわ」とメアリ・ジェインはいった。「ケリガンさん、パウアーさんとお組みになりません? ファーロングさん、貴方はバーギンさんをパートナーにいかが。さあ、これでちょうどいいわ」
「御婦人のほうが三人ですってば、メアリー・ジェイン」ケイト叔母がいった。
二人の青年紳士が、どうでしょう、お相手願えますでしょうか、と婦人たちにきいた。メアリー・ジェインはミス・デイリーのほうを向いた。
「あ、デイリーさん、ついさっき二度も弾いて頂いたばかりで、本当にすみませんけど、お願いしますわ、だって、今夜は御婦人の数が本当に足りないんですのよ」
「あら、ちっともかまいませんわ、モーカンさん」
「でも、あなたには素晴しいパートナーを用意してあるの、テナーのバーテル・ダーシーさんよ。あとでその方に歌って頂きましょう。ダブリン中があの方にはもう夢中なのよ」
「素晴しい声ですよ、本当にいい声ですよ」とケイト叔母がいった。
ピアノが最初のフィギュアの前奏曲を二度くり返して始めると、メアリー・ジェインは補充の人たちを大急ぎで部屋から連れていった。彼らが部屋を出ると、すぐ入れかわるようにジューリア叔母が、何かふり返って見ながら、部屋にこっそり入りこんできた。
「どうかして? ジューリア」ケイト叔母は気づかわしげにきいた。「だれなの?」
ジューリアはつみ重ねたナプキンをもって来たのだが、姉のほうを向くと、まるでその質問にびっくりしたかのように、簡単にいった。
「いいえ、フレディなのよ、ケイト。ゲイブリエルが一緒だけど」
なるほど、彼女のすぐ後ろに、ゲイブリエルがフレディ・マリンズを案内して踊り場をこちらへくるのが見えた。四十がらみの若々しい男である。フレディは背恰好から体格まで、ほぼゲイブリエルと同じで、ひどく撫で肩だった。顔の肉づきはよかったが、蒼白くて、福耳の耳たぶと、出張った鼻翼のところに、ほんのりと赤味がさしていた。野卑な顔、だんご鼻、額は中高でぬけ上り、ぼってりと突き出た唇をしていた。目蓋の重たげな眼や、貧弱な髪をぼさぼさにしたところは、いかにも彼をねむたそうに見せていた。彼は階段を上りながらゲイブリエルにして聞かせていた話に、甲高い調子で自分からさも面白そうに笑っては、それと同時に、左手のにぎりこぶしの指関節で、しきりと左の眼をごしごしこすっていた。
「今晩は、フレディ」ジューリア叔母はいった。
フレディ・マリンズはモーカン姉妹に、声がのどにひっかかるくせがあるため、ぶっきらぼうに聞こえる調子で、今晩は、と挨拶した。それから、ブラウン氏が食器棚のほうから彼ににやにや笑いかけているのを見て、かなりあぶなっかしい足つきで、部屋を横切ってゆき、たったいまゲイブリエルに語ったばかりの話を、小声でまたくり返し始めた。
「そんなにひどくはないだろうね?」ケイト叔母はゲイブリエルにいった。
ゲイブリエルの眉は暗かったが、それをぴりっと上にあげると、答えた。
「ええ、大丈夫です、殆んど目だたぬくらいですから」
「ね、仕様のない人でしょう、本当に」と彼女はいった。「お母さんもお気の毒ですよ、大晦日の晩にあの人に禁酒の誓いをさせたんだからねえ。とにかく、ゲイブリエル、さあ、客間のほうへいらっしゃい」
ゲイブリエルと部屋を出ていく前に、彼女は顔をしかめ、人差し指を左右にふって、用心するようにとブラウン氏に合図した。ブラウン氏はうなずいて、それに答えた。彼女が行ってしまうと、フレディ・マリンズに向っていった。
「さあ、こんどは、おっさん、レモン水を一杯ついでやるから、元気をつけたまえ」
話が今まさに最高潮に達しようとしていたフレディ・マリンズは、じれったがって、その申出をはねつけたが、ブラウン氏はまず、フレディ・マリンズに、彼の洋服の乱れを注意するようにいって、レモン水をなみなみとついで与えた。フレディ・マリンズは左手で、機械的にコップを受けとり、右手で、服の乱れを機械的に直していた。ブラウン氏は、もう一遍おかしさに顔中皺だらけにして、独りでウィスキーを一杯ついだが、その間、フレディ・マリンズは、話がまだ再高潮に達しきらないうちに、突然、はげしい気管支炎性の笑いの発作に襲われ、まだ口をつけない、溢《あふ》れだしているコップを下におくと、左の眼を、左のこぶしの指関節でごしごしこすり始め、笑いの発作の許す限りしきりと、話の終いの文句をくり返していた。
メアリー・ジェインが静まりかえった客間に、走句と難しい楽節のいっぱいあるアカデミー曲を弾いている間、ゲイブリエルはじっとそれに耳を傾けていられなかった。彼は音楽好きだった。けれども、今彼女が弾いている曲も彼にとっては何の美しい調べも感じられなかった。皆、メアリー・ジェインになにか弾いてもらいたがってはいたが、一体、他の皆にもこの曲に美しい調べが感じられるのだろうかと疑った。ピアノの音を聞きつけて食堂からやってきた四人の若い男が扉口のところに立っていたが、数分後には二人ずつ、そっといなくなってしまった。この曲についていってるらしいのは、両手を鍵盤の上に走らせて、休止のところにくると、まるで巫女《みこ》が咄嗟《とっさ》に呪《のろ》いをかける手ぶりそっくりに、鍵盤から両手をあげるメアリー・ジェイン自身と、彼女のすぐ脇に立って頁をめくっているケイト叔母だけであった。
重々しいシャンデリアの下で、蜜蝋でピカピカ光っている床が、ゲイブリエルの眼には痛かったので、視線をピアノの上の壁に移していった。そこには『ロミオとジュリエット』のあの露台の場の絵がかかっていた。その脇に、ジューリア叔母が娘の時分に、赤と青と茶の毛糸で刺繍した暗殺されたロンドン塔の二王子〔十五世紀末のエドワード四世の二人の王子〕の絵があった。たぶん、叔母たちが娘時分に行っていた学校では、ああいう種類の手芸が一年間教えられたのだろう。母もぼくのお誕生祝いだといって、小狐の頭を幾つか刺繍して、茶の繻子の裏をつけた、まるい桑の実色のボタンのついた、紫色のタビネット織のチョッキを作ってくれたことがあった。ケイト叔母さんはよく、うちの母のことをモーカン家の頭脳の持主だといっていたのに、その母に音楽の素質がまるっきりなかったのは不思議だ。ケイトもジューリアも、真面目で奥様然とした自分たちの姉を、いつもいささか誇りにしていたようだ。母の写真が掛鏡の前に立ててある。膝の上に開いた本をのせ、そして、水兵服を着て彼女の足下にもたれかかっているコンスタンタインに、本の中の何かを指さしている。息子たちの名前を選んでつけたのは母だった。母は家の体面ということにとても思慮深かったからだ。母のおかげで、コンスタンタインは今はバルブリガン〔ダブリンに近い北方海岸沿いの小さな町〕で上席助任司祭をしているし、ゲイブリエル自身も、母のおかげで王立大学《ロイヤル・ユニヴァーシティ》で学位をとった。彼の結婚に対する母の不機嫌な反対を思い出すと、彼の顔には暗い翳《かげ》がさした。彼女が口にした二、三の軽蔑した言葉は、未だに彼の記憶の中にうずいていた。母は一度、グレッタのことを田舎者によくある小悧巧者だ、といったことがあった。だが、それはグレッタには全くあたっていない。マンクスタウンの家で、母の最後の永患いの間、終始母の世話をしたのは、そのグレッタであった。
彼は、メアリー・ジェインがそろそろ曲の終りに近づいているらしいのを知った。というのも、彼女が再び、一小節ごとに音階の走句を伴った初めのメロディに返って弾いていたからだ。曲の終るのを待っている間に、彼の心から次第に腹立たしい気持が消えていた。曲は高音部の数オクターヴの顫音と低音部の最後の太いオクターヴで終った。上気して、神経質に楽譜を巻くと、部屋から逃げるように出て行くメアリー・ジェインを、皆は万雷の拍手をもって送った。一番熱心な拍手が扉口の四人の青年から起った。彼らは曲の初めに部屋をぬけだして食堂に行っていたが、ピアノが終ったときには、もどってきていたのだ。
ランサー〔カドリールの一種の舞踊〕の用意がされた。ゲイブリエルはミス・イーヴァズと組むことになった。彼女は顔にそばかすがあって、目が鳶色の出目で、物腰の率直な、お喋りの若い婦人だった。胸もとを低くくった胴衣も着ていなかった。襟の前にとめてある大きなブローチには、アイルランドの紋章と標語がついていた。
二人がそれぞれの位置につくと、彼女は唐突にいいだした。
「あたし、貴方にはっきり説明してもらいたいことがあるのよ」
「ぼくに?」ゲイブリエルはいった。
彼女勿体ぶってうなずいた。
「何ですか?」ゲイブリエルは彼女の真面目くさったようすに微笑をよせながら、きいた。
「G・Cって誰のこと?」とミス・イーヴァズは答えて、喰い入るように彼を見つめた。
ゲイブリエルは顔を赭らめ、まるで、自分には解《げ》せないといわんばかりに、眉をひそめかけると、彼女がそっけない口調でいった。
「まあ、白ばくれてるわ! あなたが『デイリイ・エクスプレス』〔一九〇〇年創刊のロンドンの極右保守的な朝刊新聞〕に寄稿していることはちゃんと、あたし知ってるわよ。ねえ、いったい、あなた自分が恥かしくないの?」
「どうして自分を恥じなければならないんですか」ゲイブリエルは眼をしばたたかせて、微笑しようと努めながらきいた。
「それじゃ、あなたって情けない方ね」とミス・イーヴァズはさっぱりいった。「貴方があんな新聞に寄稿するなんて、まさか、貴方がイギリスかぶれだとは、あたし思わなかったわ」
困惑の表情がゲイブリエルの顔に現われた。彼が毎水曜日に「デイリイ・エクスプレス」の文芸欄を書いていることは事実だった。それによって、彼は十五シリングをもらっていたのだ。けれど、そのために、必ずしも自分がイギリスかぶれになったとはいえない。批評のためにもらう書物のほうが、けちな小切手よりはるかに有難かった。彼は印刷したての本の表紙をなでたり、頁をめくったりするのが好きだった。殆んど毎日、大学の授業をすますと、彼は河岸をぶらついてはバチュラー|通り《ウォーク》〔オコウヌル街に接するリフィ河の直ぐ北岸〕のヒッキーとか、アストン河岸《ケイ》〔バチュラー通りの対岸〕のウェッブだとかマッシイだとか、あるいはまた横丁のオクロヒッシイとかいう古本屋へ行くのを常としていた。彼は、彼女の攻撃にどう立ち向ったらいいものか、わからなかった。彼は、文学は政治の上にあるといいたかった。けれど、二人は永年の友人で、経歴も初めは大学で、それから教師として、というように平行してきた。だから、思い切ってえらそうな文句を彼女にはいえなかった。彼は、相変らず眼をしばたたかせ、努めて微笑を浮かべようとして、書評を書くということには政治的なものと何の関係もないと、しどろもどろに呟いた。
二人の行き違う番が来ても、彼はまだ困惑して、ぼんやりしていた。ミス・イーヴァズは素早く彼の手を温かく握りしめ、そっと打ちとけた調子でいった。
「むろん、からかってみただけなのよ。さあ、クロスするのよ」
二人がまた一緒になると、彼女は大学のことを話しだしたので、ゲイブリエルはいくらか楽な気持になった。あたしのお友達があなたのブラウニングの詩の批評を見せてくれたことがある。それで、あたしはその秘密を知ったのよ、でも、あたしにはあの批評がとても気に入ったわと話し、急にこんなことをいった。
「ねえ、コンロイさん、今年の夏、アラン島へ旅行に出かけないこと? あたしたち、あそこでまる一ヶ月過すつもりなの。大西洋へ出ると素敵よ。是非お出でなさいよ。クランシーさんがいらっしゃるし、キルケリーさんやキャスリーン・カーニイさんもいらっしゃるわ。グレッタもいらっしゃると素晴しいことよ。グレッタはコノート〔アイルランド西部の州〕の出だったわね」
「でも、あなたはいらっしゃるわね?」とミス・イーヴァズは熱心に温かい手を彼の腕にかけて、いった。
「実は」とゲイブリエルはいった。「ぼくは出かける準備をしちゃったんです――」
「どこへ行くの」ミス・イーヴァズはきいた。
「ほら、毎年ぼくは仲間たちと自転車旅行をしてるでしょう、それで――」
「ですけど、どこへなの?」ミス・イーヴァズはきいた。
「そうだな、ぼくらはいつもフランスとかベルギーとか、ドイツなどへ行ってますが」とゲイブリエルはぎごちない口調でいった。
「それにしても、なぜフランスやベルギーへいらっしゃるの?」ミス・イーヴァズはいった。
「自分の国を訪ねてみないで」
「そう」とゲイブリエル、「それはなあ、一つにはいろんな国の言葉と接触を保つというためと、一つには気分の変化ですね」
「それじゃ、自分の国の言葉とは絶えず接触しなくてもいいとおっしゃるの――アイルランド語と?」とミス・イーヴァズはきいた。
「さあ」とゲイブリエル、「そういうふうにいわれると、アイルランド語はぼくのやっている国語じゃないってことになりますね」
二人の周りにいた者たちはふり返って、この手きびしい追求に耳を傾けた。ゲイブリエルは神経質に左右にちらっと視線を流して、しきりと、額まで赤みがひろがってゆくこの試練にもめげず、上機嫌を装おうと努めた。
「すると、あなたにはあちこち訪ねてみる自分の郷土がないっておっしゃるの?」ミス・イーヴァズは続けた、「あなたはその郷土については何も知ってらっしゃらないのじゃなくて? あなた自身の国民や、あなた自身の国も」
「そう、実をいいますとね」ゲイブリエルはふいに反駁に出た。「ぼくは自分自身の国にはうんざりしてるんです、むかむかしているんですよ!」
「なぜ?」とミス・イーヴァズはきいた。
ゲイブリエルは自分の反駁にかっとなってしまったために、返事もしなかった。
「なぜなの?」ミス・イーヴァズはくり返した。
二人は一緒にヴィジティングをしなければならぬ番になっていた。それでも彼が返事をしないので、ミス・イーヴァズは昂奮していった。
「むろん、あなたには御返事できないわね」
ゲイブリエルは動揺する心を、懸命になってダンスに加わることによって、隠そうと努めた。彼女の視線にも触れぬようにした。彼女がにがりきった表情を浮かべていたからだ。けれど彼らが長い輪の中で会った時、自分の手がかたく握りしめられたのにびっくりした。彼女が一瞬ひやかすように眉の下から見つめるので、遂に彼も笑顔を見せた。それから、ちょうど輪がまた動きだしかけると、彼女はつま先立って、彼の耳もとに囁いた。
「イギリスかぶれ!」
ランサーが終ると、ゲイブリエルはフレディ・マリンズの母親がかけている部屋の向う隅へ立ち去った。マリンズの母親は太った弱々しい白髪の老婦人だった。声は息子同様にかすれ声で、少しばかり吃《ども》った。彼女はフレディが来ていることや、今夜はそうひどくないことなどをすでに聞いていた。ゲイブリエルは彼女に、船の旅はいかがでしたかと、きいた。彼女はもう結婚した娘と一緒にグラスゴーに住んでいて、年に一遍ようすを見に、ダブリンへやってくるのだった。素晴しい船旅でした、船長さんが何くれとなく面倒をみてくれたと、おっとりした口調で彼女は答えた。彼女は娘がグラスゴーにかまえている綺麗な家の話だの、そこでつきあっているあらゆる知人の話だのをした。彼女の舌がだらだらとつまらぬことを喋り立てている間に、ゲイブリエルは自分の心からミス・イーヴァズとのあの不愉快な一件の記憶をすべて払いのけようと努めた。むろんあの娘は、いや婦人は、いや何だっていい、ともかく狂信家なのだ。が、何事にも場合というものがある。ぼくは恐らく、あんなふうに彼女に答えるべきじゃなかった。だけど、彼女にだって、人前で、たとへ冗談であれ、ぼくのことをイギリスかぶれなどと呼ぶ権利はない。ぼくを詰問したり、あの兎みたいな眼でじっと見つめて、人前でなぶりものにしようとしたのだ。
彼は妻がワルツを踊っている人々の間を縫って、こっちへやってくるのを見た。彼女はそばにくると、彼の耳もとでいった。
「ゲイブリエル、ケイト叔母さまが、いつものようにあなたに鵞鳥《がちょう》を切りわけるのをやってもらえるかしらって、おっしゃってるのよ。ミス・デイリーがハムを切りわけて、あたしはプディングをするのよ」
「ああ、やってやるよ」ゲイブリエルはいった。
「叔母さま、あたしたちだけで食事をするように、このワルツが終ったらすぐに、若い人たちを先に部屋に通すんですって」
「君、踊ってたの?」ゲイブリエルはきいた。
「もちろん踊ってたわ。おわかりにならなかった? あなた、モリー・イーヴァズと何を口論してらしたの?」
「口論じゃないよ。どうして? あの人がそんなこといったのかい?」
「そんなようなこといってたわ。あたし、あのダーシーさんに何とかして歌をうたわせようと思ってるの。あの方、とっても自信満々らしいのよ」
「口論したんじゃないよ」とゲイブリエルは不機嫌にいった。「ただ、彼女がアイルランドの西部へ、ぼくも旅行に出かけないかといったのさ、で、ぼくはいけないといったんだよ」
彼の妻は昂奮し、両手を握りあわせて小踊りした。
「ねえ、是非行きましょうよ、ゲイブリエル」彼女は叫んだ。「もう一度ゴールウェイを見たいわ」
「君、行きたけりゃ、行ったらいい」ゲイブリエルはそっけなくいった。
彼女は一瞬彼をじっと見つめ、それからくるっとマリンズ夫人をふり返っていった。
「マリンズさん。こういういい旦那様なのですよ」
彼女が部屋を縫うようにして引き返していく間にも、マリンズ夫人はこの中断には委細かまわず、ゲイブリエルに向ってスコットランドには、どんな美しい場所や美しい風景があるかということを話しつづけた。うちのむこが毎年皆を湖水地方へつれてゆき、いつも皆で釣りをするんですよ。むこは釣りの名人で、いつだったか彼が見事な大きい魚をとったら、ホテルの者がそれを夕食に料理して出してくれた。
ゲイブリエルは、彼女のいっていることに殆んど耳をかしていなかった。夕食がようやく間近になってきたので、彼はまた、演説と引用句について考え始めていた。フレディ・マリンズが部屋の向うから母親に会いにやってくるのを見ると、ゲイブリエルは彼に椅子をあけて、自分はひっこんだ窓口のところへ退いた。部屋は既にがらんとなっていた。奥の部屋から、皿やナイフのがちゃがちゃいう音が聞こえてきた。まだ客間に残っていた人たちは、ダンスにも倦きたらしく幾つかの小さなグループを作って、静かに話しあっていた。ゲイブリエルの熱した顫《ふる》える指先は冷たい窓ガラスを軽く打っていた。外はさぞや寒いことだろう! たった独りで、外を河にそって、それから公園〔フィニックス公園のこと〕を通り抜けて歩いたら、どんなにか気持がいいだろう! 雪が樹々の枝々につもり、ウェリントン記念碑〔フィニックス公園にあり、高さ二百呎〕は、てっぺんにキラキラ光るわた帽子をかぶっているだろう。晩餐の席につくよりも、あそこに行ったほうがどれほど気持いいかしれない!
彼は演説の見出しにざっと目を走らせた。アイルランド特有のもてなし、悲しい思い出、美の三女神〔ギリシア神話で輝き、喜び、開花を象徴した、アグレイア、ユーフラシニ、サライアの三姉妹の女神〕、パリス〔ギリシア神話でスパルタの王メネラオスの妃ヘレネを奪い取ったトロイア王プリアモスの王子。このためにトロイア戦争が起きた〕、ブラウニングからの引用句。彼は自分の批評文に書いた文句を我身にもう一度くり返していってみた。「人は思想に悩める音楽に聴き入っているように感ずる」ミス・イーヴァズはその批評をほめてくれた。心からのものだったろうか? 口先で宣伝ばかりしているが、本当に自分自身の生活というものをあの人はもっているのかしら? 二人の間に何か気まずさといったものが、今夜まで一度だってあったことはない。彼女が晩餐の席について、自分が演説している間中、批判的な、ひやかしているような眼で、じっと自分を見つめるのだろうと思うと、彼は気がくじけた。恐らく彼女は、ぼくが演説に失敗するのを見ても、気の毒には思ってくれまい。ある考えをふと思いつくと、勇気を得た。暗にケイト叔母やジューリア叔母をさして、こういってみよう。「紳士淑女諸君、今やわれわれの中にあって終りに近づきつつある世代には、いくつかの欠点があったかも知れませんが、しかし、それは私にいわしむれば、親切なるもてなし、ユーモア、人情といった、いくつかの美点をもっていたと思うのであります。これらの美点は、われわれの周囲に生長しつつあるところの新しい、極めて真剣な、極めて高い教育を受けた世代には、どうも欠けているように私には思われるのであります」仲々よろしい。これでミス・イーヴァズに一矢むくいられるぞ。叔母たちが単なる二人の無知な御老人、ということになったからとて、何も気にすることはないではないか?
部屋の中のささやき声が彼の注意をひいた。ブラウン氏が慇懃《いんぎん》にジューリア叔母に付きそって、扉口から進んでくるところで、叔母は彼の腕によりかかって、微笑をたたえ、頭をたれていた。てんでに鳴らす歓迎の拍手までもが付きそうかのように、彼女がピアノのところへ行き、それから、メアリー・ジェインが腰掛けについて、ジューリア叔母が、もう微笑をやめて、部屋に声がよく通るようになかば向きをかえるまでつづき、やがて徐々に静まっていった。ゲイブリエルはその前奏に憶えがあった。それは、「婚礼の装い」というジューリア叔母のおなじみの歌の前奏だった。調子の力強い、澄んだ彼女の声は、メロディを飾る走句に元気一杯にぶつかっていき、しかも、非常に早く唱っているのだが、装飾音のどんな小さなものまでも間違えなかった。歌い手の顔を見ずに、その声についてゆくと、迅速《じんそく》に安全に空を飛んでいる昂奮を覚え、その昂奮を歌い手と共に味わうのだった。ゲイブリエルは歌が終ると、皆と一緒に大きな拍手を送った。われるような拍手が、見えない晩餐のテーブルのほうからも起ってきた。それが本当に心からの響きをともなっていたので、ちょうど腰をかがめて、表紙に彼女のイニシアルのついた古びた革表紙の歌曲集を楽譜台に戻しかけているジューリア叔母の顔に、抑えきれずにぽうと赤みがさしてきた。彼女の歌をよく聞こうとして小首をかしげて聴きいっていたフレディ・マリンズは、他の皆がもう拍手を終っているのにまだ一人で拍手を送って、何か彼の母に活気づいて話していた。母親は頭を重々しくゆっくりとうなずかせながら、黙って同意していた。遂に、もう拍手ができなくなると、彼はひょいと立ち上って、大急ぎで部屋の向うのジューリア叔母のところへ行って、彼女の手をとり、自分の両手の中へそれをおさえて、言葉がうまく出てこなかったり、声のかすれがあまりひどくなったりすると、それをしきりと振り動かしていた。
「いま、母にも話してたところですがね」と彼はいった。「あなたがあんなに上手に歌いなすったのは聞いたことがありませんよ、本当に。いやあ、全く今夜みたいにあなたの声がよかったのは、わたしには初めてですよ。全くだ! 今、こんなこといっても本気にされんだろうが、こいつは本当ですぞ。わたしの名誉にかけ、誓って、本当のことですぞ。あなたの声があんなに張りがあって、あんなに……あんなに冴えて、張りがあったのを聞いたことがありませんて、本当に」
ジューリア叔母は相好をくずして微笑し、彼に握られている手を離しながら、何やらお礼の言葉らしいものを口の中で呟いた。ブラウン氏は開いた手を彼女のほうにつき出して、まわりにいる人たちに、まるで興行師が、世にも驚くべきものを観客に紹介する身振りよろしくいった。
「わが最近の掘り出しもの、ミス・ジューリア・モーカンでござい!」
彼は、こういって、自分から愉快そうに大笑いした。と、フレディ・マリンズがくるっと彼のほうに向き直っていった。
「なんだって、ブラウン、どんなに真剣になったって、あんたにゃ、これほどの素晴しい掘り出しものはできんぞ、ただこのわしがいっているのは、こちらさんに伺っている間に今晩の半分も上手に唱いなすったことはなかったということなんだ。こいつはまったく嘘いつわりなしの事実ですな」
「わしもそうだよ」ブラウン氏はいった。「お声が素晴しくよくなられたと思うね」
ジューリア叔母は肩をすくめ、つつましやかな誇りをもっていった。
「三十年前だって、わたしは普通の声からみると悪い声じゃありませんでしたよ」
「わたしはよくジューリアにいいましたの」とケイト叔母が力を入れていった。「あんたはただ、あの聖歌隊の中で埋もれてしまってるってね。ところが、わたしからそういわれるのを、この人はとってもいやがって」
彼女は、まるで強情《ごうじょう》な子に反対して、他の人たちの良識に訴えでもするかのように、くるりと向き直った。その間、ジューリア叔母は、前方をじっと見つめていたが、その顔には追憶の微笑のかげがちらついていた。
「本当に」ケイト叔母はつづけた、「このひとは、はたから何かいわれたり、指図されたりするのをいやがって、明けても暮れても、朝から晩まで、ただただ、あの聖歌隊で奉仕してきたんですからね。クリスマスの朝などは六時なんですからねえ! それも、みんな、一体、何のためなんでしょう?」
「そりゃ、ケイト叔母さま、神様のためじゃありません?」メアリー・ジェインが、ピアノの腰掛けの上で体をぐるっと廻して微笑しながらきいた。
ケイト叔母はいきり立ったようすで姪に立ち向って、いった。
「神様のためだってことはよくわかってます、メアリー・ジェイン、ですけど、一生そこで奉仕にあけくれた女の人たちを聖歌隊から追い出しといて、青二才の男の子を上にすえるなんて、法王さまにしたって、ちっともほめたことじゃありませんよ。法王さまがそうなさるんなら、それも教会のためのことでしょうが、とにかく、メアリー・ジェイン、これは妥当なことじゃありませんよ、正しいことじゃありませんよ」
彼女はいつしか昂奮していった。それがしゃくにさわる問題だけに、なおも妹の弁護をしたいらしかった。が、メアリー・ジェインは踊り手が皆戻ってきたのを見て、なだめるように中に入った。
「ねえ、ケイト叔母さま、別の教派でいらっしゃるブラウンさんに失礼ですわよ」
ケイト叔母は、自分の教派を引き合いにだされて、にやにや笑っているブラウン氏のほうに向き直って、急いでいった。
「あら、わたしは何も法王さまが正しいかどうかなんてことに異議をさしはさんでるのじゃありませんよ。たかが愚かもののお婆さんなんですもの、そんな大それたことをするもんですか。それにしても、世間ふつうの礼儀とか恩とかいったものがありますよ。わたしがジューリアの立場でしたら、ヒーリイ神父さんに面と向って、はっきりといってやりますよ……」
「それに、ねえ、ケイト叔母さま」とメアリー・ジェインはいった。「私たち本当にお腹《なか》がペコペコなのよ、お腹がすいてるときには、どうしたって皆、プリプリしてくるわ」
「それに、のどがかわいとるときも、口やかましくなりますなあ」とブラウン氏がいった。
「ですから、お食事の席につきましょう」とメアリー・ジェイン。「そしてこの議論の結末は後廻しにしましょうよ」
ゲイブリエルは客間の外の踊り場に出ると、妻とメアリー・ジェインとがしきりにミス・イーヴァズに晩餐に残っていくようにとすすめているのを見出した。けれど、帽子をかぶって、外套のボタンもはめかけていたミス・イーヴァズは、残りたがっていなかった。少しもお腹がすいていないし、それにすっかり長居しすぎたので帰らなければならないという。
「でも、ほんの十分だけでも、モリー」とコンロイ夫人。「それだったら遅くなることはないでしょう」
「ほんの一口だけでも」とメアリー・ジェインもいった、「あんなにお踊りになった後なんですもの」
「本当に、あたし、失礼しますわ」ミス・イーヴァズはいった。
「ちっとも面白くなかったんじゃないかしら」とメアリー・ジェインは諦《あきら》めていった。
「いいえ、とっても面白うございましたわ、本当に」とミス・イーヴァズ。「でも、本当に、これでおいとまさせて下さいね」
「でも、どうやってお帰りになります?」とコンロイ夫人はきいた。
「あら、この河岸をほんの二足ほど上ったところなんですもの」
ゲイブリエルは一瞬ためらってから、いった。
「イーヴァズさん、よろしかったら、ぼくがお送りしますよ、どうしても本当にお帰りにならなければならんとおっしゃるなら」
けれど、ミス・イーヴァズは皆をふり切るように離れていった。
「本当におかまいなく」彼女は大きな声でいった。「お願いですからどうぞお食事にいらして、あたしのことはお構いなく。自分のことぐらいちゃんと気をつけられますから」
「本当に、モリー、あなたっておかしなひとね」とコンロイ夫人が率直にいった。
「バノフト・リブ」〔「さようなら」という意味のアイルランド語をゲイブリエルのつらあてに故意に使ったもの〕とミス・イーヴァズは段階を駈け下りながら、笑って叫んだ。
メアリー・ジェインは、顔に不機嫌な当惑の表情を浮かべて、彼女の後姿をじっと見送っていた。コンロイ夫人は手摺りに身をのりだすようにして、玄関の扉の音に耳を澄ませた。ゲイブリエルは、彼女が突然帰宅したのは、実は自分が原因じゃなかったかしら、と胸の中で自問した。だが、彼女には不機嫌なようすもみられなかった、むしろ、笑って出ていったではないか。彼はうつろな目付きでじっと階段を見下ろしていた。
ちょうどその時、ケイト叔母が食堂から小刻みの足つきで出てきて、両の手を絞らんばかりにして困りきっていた。
「ゲイブリエルはどこ?」彼女は叫んだ。「一体、ゲイブリエルはどこにいるんです? 皆さん、あちらでお待ちかねで、舞台の用意はすっかりできているっていうのに、鵞鳥を切りわける人が誰もいないじゃありませんか!」
「ここにいますよ、ケイト叔母さん!」とゲイブリエルは、急に活気づいて、いった。「必要とあらば、いつでも鵞鳥の十羽や二十羽は切ってあげますよ」
まるまると肥えた褐色の鵞鳥がテーブルの一方の端にあった。その反対側の端には、パセリの茎を一面にあしらってある折りたたんだ紙の床に、外皮をむいて、パン屑をふりかけてある大きなハムがのせてあり、そのハムの脛肉のまわりには、さっぱりした紙の襞飾りがついており、その脇に香料で風味をつけた牛の腿肉があった。この向いあった両端の間には、添え料理の皿がずらりと平行してならんでいた――赤と黄の、小さな聖堂の恰好をした二つのジェリー。ブラマンジュ〔コンスターチ、牛乳、砂糖などを混ぜて作った白いクリーム状のたべもの〕と真赤なジャムの塊りをもりつけた平皿。柄が茎状飾になっている緑色の葉型をした大皿、その上には紫色の乾葡萄と皮をむいた扁桃《はたんきょう》の房がのせてある。それと対《つい》の皿にはスミルナ無花果《いちじく》を骰子形《さいころがた》に切ったのがのせてある。おろしたニクズクをのせたカスタードの皿、金紙や銀紙でくるんだチョコレートや砂糖菓子の一杯はいった小さな鉢。また、何本かの長いセロリの茎を立てた硝子の瓶。テーブルの中央にはオレンジとアメリカ林檎のピラミッドを支えた果物台を見張っている番人のように、ずんぐりした古風なカットグラスの飾り壜が二本立っていた。一本には赤葡萄酒が、もう一本には黒ずんだ色のシェリー酒が入っていた。蓋をした角型ピアノの上には、大きな黄色の皿に入ったプディングが待機していて、その後ろにはスタウトとビールと炭酸水の壜の三分隊がひかえていた。それらは皆、軍服の色に従って整列させてあった。最初の二分隊は茶と赤のラベルのついた黒色、三番目の一番小さな分隊は緑の懸章を斜めにつけた白色。
ゲイブリエルは大胆にテーブルの上座に席を取り、肉切りナイフの刃先を確かめると、フォークをぐさりと鵞鳥に突き刺した。今は全く楽な気分になっていた。というのも、彼は肉を切り分ける名人であり、御馳走のどっさりのったテーブルの上座にいることほど、望ましいことはなかったからだ。
「ファーロングさん、あんたにはどこをさしあげましょう?」と彼はきいた。「翼のとこですか、それとも、胸肉のとこ?」
「胸肉のとこをほんの少々」
「ヒギンズさん、あなた、どこにしますか?」
「あら、どこでも結構ですわ、コンロイさん」
ゲイブリエルとミス・デイリーが、鵞鳥の皿と、ハムと香料入りの牛肉の皿をやり取りしている間に、リリイは純白のナプキンでくるんだ熱い、粉質のポテトの皿を持って、客から客へと廻っていた。これはメアリー・ジェインの発案になったものだった。彼女は他に鵞鳥にアップル・ソースを添えることも提案したが、ケイト叔母は、アップル・ソースなしで、あっさりした鵞鳥のローストのほうがあたしには結構いつもおいしかったといい、折角のものが喰べてもまずかってはいけないからというのだった。メアリー・ジェインは教え子たちの世話をして、彼らに肉の一番良いところをとるように取り計った。ケイト叔母とジューリア叔母は、紳士たちにはスタウトやビールの壜、婦人たちには炭酸水の壜を開けて、ピアノの向う側から渡した。入り乱れて混乱し、笑声や、やかましい音で一杯になった。注文や注文を取り消す声、ナイフやフォークのぶつかる音、コルク栓《せん》やガラス栓の音の騒々しさ。ゲイブリエルは最初の一巡がすむと、自分の分もとらずに、すぐさま、次のお代りを切り始めた。皆はこれに大声で反対をした。それで、彼も妥協して、長々とスタウトを一気に飲みほした。というのも、この切り分け役は大変な仕事だと思ったからだ。メアリー・ジェインは静かに喰べていたが、ケイト叔母とジューリア叔母は、まだテーブルのまわりをあぶなげな足どりで歩きまわり、互に後をくっついて廻り、互に邪魔をし合い、互に指図をしながら、ろくに耳もかしていなかった。ブラウン氏が、二人に、どうか席について、食事を取るようにと、しきりにいい、ゲイブリエルもすすめたが、彼女たちはまだ時間はたっぷりあるからといっていた。そこで遂にフレディ・マリンズが立ち上って、ケイト叔母をつかまえて、彼女の椅子にどしんとばかりにかけさせてしまったので、一斉に笑い声がわき起った。
みなに充分料理がゆきわたったときに、ゲイブリエルはにこにこ笑いながらいった。
「では、俗にいう詰めものをもう少し御所望の方は、どうぞ御申し出下さい」
皆は一斉に、彼に自分の食事を始めるようにとすすめると、リリイが彼のためにとっておいたポテトを三つ持ってやってきた。
「それじゃあ」とゲイブリエルは食前の一杯をもう一度ぐいと飲んで、愛想よくいった。「皆さん、どうか暫くの間、ぼくの存在を忘れてらして下さい」
彼は自分の食事に取りかかって、リリイが皿を片付けている間に交わされている皆の話の仲間に、加わらなかった。話題は、ちょうどロイヤル座にかかっていた歌劇団のことだった。いきな口髭をはやした浅黒い顔の青年、テナーのバーテル・ダーシー氏は、その歌劇団の主役アルト歌手を大層高くかったが、ミス・ファーロングは、どうもあの歌手の演技は俗っぽくて、という意見だった。フレディ・マリンズの意見だと、ゲイアティ座のお伽劇《とぎげき》の第二幕で黒人の酋長が唱うが、あれはかつて聞いたうちで最も優れたテナーの一人だというのであった。
「あなたは、もうお聞きになりましたか?」と彼はテーブル越しにバーテル・ダーシー氏にきいた。
「いいえ」バーテル・ダーシー氏は素気なく答えた。
「実はですな」フレディ・マリンズは説明した、「今、あの黒人についてのあなたの御意見をうけたまわりたいんですがなあ。わたしは堂々たる声の持主だと思うとるんです」
「本当の掘りだしものをするには、おっさんでなくちゃ、やれんよ」とブラウン氏が、食卓の人々にむかって、くだけた口調でいった。
「黒人だっていい声をもっちゃならんという法はないでしょう?」とフレディ・マリンズはずけずけした調子できいた。「ただ色が真黒だからというんですかい?」
誰も、この問には返事しなかった。そこで、メアリー・ジェインが食卓の人々を本格歌劇の話に引きもどした。彼女は教え子の一人からかつて「ミニヨン」〔ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」に基いた喜歌劇〕の入場券をもらったことがあった。むろん、とても素晴しかったけど、あれで亡くなったジョージナ・バーンズのことを思い出してしまったと彼女はいった。ブラウン氏は、それよりもっと昔に遡《さかのぼ》って、ダブリンによくやってきた古いイタリアの歌劇団――ティチェンス〔ハンブルグ生まれの名ソプラノ歌手〕、イルマ・デ・ムルズカ〔クロアチア出身のソプラノ歌手〕、カンパニーニ〔パルマ出身の名テナー歌手〕偉大なるトレベルリ〔パリ生まれのメゾ・ソプラノ歌手〕、ジューリーニ〔イタリア生れのテナー歌手〕、ラヴェルリ、アラムブロ――といった一座のことまで話すことができた。あの頃は、やっとダブリンでも歌らしいものが聞けた時代だった、と彼はいった。彼はまた、あの昔のロイヤル座の天井桟敷は毎晩のようにぎゅう詰だったもんだとか、ある夜のこと、さるイタリア人のテナーが「兵士の如くわれ死なん」に五度もアンコールをくり返して、おまけに、そのたびに、高いハ調を入れて歌ったことがあったとか、また大向うの連中が時々熱狂のあまり、ある有名なプリマ・ドンナの四輪馬車から馬をはずしてしまって、皆で彼女をそのホテルまで街を曳いて歩いたなんてこともあったという話もきかせた。何故、近頃は昔のグランド・オペラをやらんのでしょうなあ? と彼はきいた、「ディノーラ」〔ドイツ生れのマイアーベア作の歌劇〕だとか、「ルクレチア・ボルジア」〔ドニゼッティ作の歌劇〕だとか? つまりは、ああいうのを歌うだけの声の持主がおらんのでしょうなあ、そのためですなあ。
「いや、いや」とバーテル・ダーシー氏、「こんにちだって、当時に劣らぬ名歌手はおると思いますがねえ」
「どこにおります?」とブラウン氏はつめよった。
「ロンドンにも、パリにも、ミラノにもいますよ」バーテル・ダーシー氏も昂奮していった。「例えば、カルーソーなんかは実に大したものだと思いますがねえ、あなたがおっしゃった人たちの誰にも、ひけを取らぬくらいじゃないですかね」
「そうかも知れん」とブラウン氏、「だが、わしとしては甚だ疑問を持ちますなあ」
「ああ、何とかして、あたし、カルーソーの歌が聞きたいわ」とメアリー・ジェインがいった。
「わたしにはね」と、骨のついた肉をつついていたケイト叔母がいった。「この人以外にはないっていえるテナーがいましたよ。むろん、わたし自身の好みでのことですけどね。それにしても、あなた方の中には、あのテナーの話を聞いたことのある人は、多分いますまいねえ」
「誰のことでございますか、モーカンさん」バーテル・ダーシー氏が鄭重《ていちょう》にきいた。
「名前は」ケイト叔母はいった。「パーキンスンといいましたが、わたしが聞いた頃は、ちょうど油の乗りきっていた時でした。男性の咽喉にこれ以上の冴えた声はないといっていいほどのテナーの声をもっていたと、今でも思ってますよ」
「変ですねえ」とバーテル・ダーシー氏はいった。「そんな名前は一度も聞いたことがないですねえ」
「左様、左様。モーカンさんのいわれるとおり」とブラウン氏。「私は齢をとってからのパーキンスンのことは聞いた憶えがありますな。ですけど、この私にも古すぎる昔の人ですな」
「美しい、澄んだ、甘い、柔かな声をしたイギリス人のテナーでした」とケイト叔母は熱烈な口調でいった。
ゲイブリエルが食事を終えると、大きなプディングがテーブルに運ばれてきた。フォークやスプーンのガチャガチャ触れあう音がまた始まった。ゲイブリエルの妻は、プディングを匙《さじ》でわけて、つぎつぎと皿を食卓にまわした。それを、途中でメアリー・ジェインが受けとめて、きいちごやオレンジのジェリーだの、ブラモンジュとジャムだのをつけ添えた。プディングはジューリア叔母の作ったものだったので、彼女は一座の方々から賞讃の言葉を受けた。当の彼女は、思ったように充分な焦茶色が出なかった、というのだった。
「じゃ、モーカンさん」とブラウン氏がいった。「私がお望み通りの焦茶色になりましょう。ほら、御覧のごとく私は全部|焦茶色《ブラウン》ですからなあ」
ゲイブリエルを除いて、一座の紳士たちはジューリア叔母への敬意からプディングを少し喰べた。ゲイブリエルは決して甘いものに手をださなかったので、彼にはセロリが残されていた。フレディ・マリンズもセロリを一本とって、プディングと一緒に喰べた。彼は、セロリが血には一番いいという話を聞いていたし、ちょうどその時、医者にかかっていたのである。食事の間中、一言もしゃべらなかったマリンズ夫人が、倅は、一週間ほどしたら、メラレイ山〔アイルランド南部の山名にして著名な女人禁制の修道院あり〕へ出かけることになっているのだといった。そこで話題がメラレイ山のことに移り、あそこの空気は全く気分がひきしまるようだとか、修道士たちがとても歓待してくれて、しかも客からは一文も金をせびらないとか、語りあった。
「では、そうするとなんですか」とブラウン氏が不思議そうにきいた。「人があそこへ行って、ホテルかなんかみたいにそこに宿をかりて、しかも贅沢《ぜいたく》しほうだいをして、金はびた一文払わずにきてもかまわんというのですか?」
「いいえ、たいがいの人は去るときには、何がしか喜捨を修道院にしていきますわ」メアリー・ジェインがいった。
「われわれの教会にもそういった施設がほしいですなあ」とブラウン氏は本気でいった。
彼は、修道士たちが無言の行で、朝は二時に起き、眠るのは棺《かん》の中だと聞いて驚いた。何んでそんなことをするんでしょうなあ、と彼はきいた。
「それが修道会の掟なのです」とケイト叔母がきっぱりといった。
「なる程、だがそのわけは?」とブラウン氏はきいた。
ケイト叔母はもう一度、それが掟で、ただそれだけだ、とくり返した。ブラウン氏は、まだどうも腑に落ちぬらしかった。フレディ・マリンズは、修道士たちは外の俗界のすべての罪人によって犯された罪を贖《あがな》おうと努力しているのだということを、精一杯骨折って彼に説明した。この説明でも大してはっきりしなかった。というのも、ブラウン氏はにやりと笑って、こういったからだ。
「そういう考えは至極結構だが、しかし、ふかふかしたスプリング付の寝台でも、お棺と同じというわけにいかんのですかなあ?」
「お棺はね」とメアリー・ジェインがいった。「自分の最期というものを思い出させるためなんですよ」
話題が陰気になっていったので、座がしいんと静まり返ったが、その間にも、マリンズ夫人がはっきりしない小声で隣りの人に話しているのが聞こえた。
「僧院の方々は、本当に立派な、信仰のあつい方々ですよ」
乾葡萄や扁桃や無花果や林檎やオレンジやチョコレートやキャンディなどが、やがて食卓に廻された。ジューリア叔母は客一同に、赤葡萄酒かシェリー酒をとるようにすすめた。最初、バーテル・ダーシー氏はそのどちらもいらないと断わったが、隣席の一人が彼を肘《ひじ》でそっと突いて、何か小声で囁いたので、彼もグラスについでもらった。最後あたりのグラスがつがれていくにつれ、段々、話声がやんでいった。しばらく話が途切れて、酒をつぐ音と椅子のガタガタいう音だけが沈黙を破った。モーカン家の者は三人ともテーブル掛けに眼を落としていた。誰かが、一、二度、咳払《せきばら》いをした。すると二、三の男客が静かにという合図に、軽くテーブルを叩いた。静かになった。と、ゲイブリエルは椅子を後へおしやって、立ち上った。
テーブルを叩く音が元気づけるようにたちまち大きくなったと思うと、やがてぴたりとやんだ。ゲイブリエルは顫えている十本の指を、テーブル掛けにもたせて、一同に神経質な微笑を送った。見上げている顔の列にぶつかって、彼は眼をシャンデリアのほうへ上げた。ピアノがワルツの調べをかなでていた。客間の扉をかするスカートの衣ずれの音を彼は聞いた。きっと表の河岸では、雪の中に人々が佇《たたず》んで、じっと明りのともった窓を見上げ、ワルツの曲に耳を澄ましていることだろう。あそこの空気は清らかだ。ずっと向うには公園がある。そこでは雪が樹々にずっしりとつもっている。ウェリントン記念碑もキラキラと輝く雪の綿帽子をかぶって、それが西方の「十五エイカー」〔フィニックス公園にある十五エイカーの昔の決闘場〕の白野原いったいに、きらめいている。
彼は始めた。
「みなさん、
例年の如く、今夕もまた、まことによろこばしい役目を、この私がつとめることになりました。しかしながら、話し手としての私の乏しい能力には、あまりにも荷の勝ちすぎる大役ではないかと恐れるものであります」
「御謙遜、御謙遜!」とブラウン氏がいった。
「ですが、ともあれ、今夜はただ一重《ひとえ》にどうか私の意のあるところをおくみ取り願い、しばらくの間、みなさんの御清聴をお煩《わずら》わせして、この機にあたって私の感想がいかなるものかを一言、披瀝《ひれき》させて頂こうと存じます。
「みなさん、私共がこうして、このもてなし厚き屋根の下に、この歓待の卓をかこんで相集い寄りますのは、これが初めてのことではございません。また、私共がかくも優しき御婦人方の手厚い御もてなしにあずかる者――いや、あるいはこう申したほうがよろしいでしょう、すなわち、おもてなしの犠牲――となりましたことも、今夜が初めてのことではありません」
彼は片手で空に円を描いて、間をおいた。皆、ケイト叔母や、ジューリア叔母やメアリー・ジェインを見て笑ったり、微笑したりした。三人共、喜びに頬を紅潮させていた。ゲイブリエルは更に勇気を出して言葉をつづけた。
「めぐりくる年ごとに、私がますます強く感じますことは、わが郷土の伝統で、もてなしということほど偉大な名誉ある伝統はなく、この伝統ほど大切に護るべき伝統はないと思うのであります。私の経験の知る限りでは(と申しますのも私は今日まで海外の土地を少なからず見ておりますので)現代の諸国家にありまして、これは、実に稀に見る伝統なのであります。中には、これは、われわれの誇るべきものであるよりも、むしろわれわれの弱点であるといわれる方もおられるかもしれません。しかしながら、たとえ、そうであるにせよ、それなら、私といたしましては、これは貴き弱点であり、われわれの間で、永く涵養《かんよう》されるであろうと確信されるものであります。少なくとも、私は、この一事だけは信じております。すなわち、この一つ屋根が、先に申しあげたこの優しき御婦人方を宿らしめる限り――そして、私は、後に来るべき永い永い年月にわたっても、かくあれかしと衷心《ちゅうしん》より望むものでありますが――われらの父祖たちが残して行かれ、今度はわれわれが子々孫々へと手渡して行くべき、真の温かき、ねんごろなるアイルランド風のもてなしの伝統は、いまなお、われわれの中に生きているのであります」
心からの同感の囁きが食卓をめぐった。ふと、ミス・イーヴァズがこの席にいないことや、彼女が無作法に中座してしまったことが、ゲイブリエルの心をかすめた。彼は、自信に満ちて、いった。
「みなさん、
今や新しい世代がわれわれの中に生長しつつあります。新しい観念と、新しい主義に動かされている世代であります。それは真剣で熱烈なものであります。といいますのも、これらの新しい観念やその熱狂性は、よしんばその方向が誤っているにせよ、おおむね真摯《しんし》であると信じられるからであります。しかるに、われわれは今日、懐疑的なる――こういう言葉が許されるならば、思想に悩める――時代に生きているのであります。で、私は時折こういうことを憂うるのであります。即ち、この新しき世代は今後、教育、しかも極めて高い教育を受けているにもかかわらず、これよりも前の世代にあったところの人情だとか、もてなしだとか、快よいユーモアといった美点を欠くのではなかろうか、ということであります。今晩も、かつてのいろいろな偉大な声楽家の名前を聞いておりまして、正直のところ、われわれは昔ほどの豊かさの欠けた時代に生きているような気がいたしました。ああいう時代は、誇張ではなく、ゆったりした時代といえるでありましょう。そして、たとえ彼らが逝いて帰らぬ者であれ、少なくともこのような集《つど》いにおいて、なおわれわれは誇りと愛情をもって彼らを語り、世人の胸より惜しまれて、亡びることのない名声を持つ、逝いて今は亡き偉大なる彼らの思い出を、胸底深くいつまでもとどめておきたいと思うのであります」
「謹聴《ヒア》、謹聴《ヒア》!」ブラウン氏が大きな声でいった。
「それにしても」ゲイブリエルは、声を一層静かな抑揚に落としてつづけた。「このような集いにはきまって、われわれの心にくり返し起ってくる、もっと悲しい思いがあるのです。即ち、過去や、青春や、うつろいや、今夜この席に寂しくも見当らぬ幾つかの顔についての思いであります。われわれの人生行路には、幾多のかような悲しい思い出がまき散らされております。が、もしわれわれが絶えずそういうことばかりに考えふけっているとしますれば、生きている人々の間にあって、われわれの勤めを勇敢になしとげてゆこうという気力を見失うことになるでしょう。われわれの各人すべてには、そのたゆまざる努力を要求する、しかも正当に要求する生きた義務と生きた愛情とがあるのであります。
「でありますから、私はいつまでも過去のことにかかずらっていようとは思いません。私は今夜ここにおいでの方々に、陰気くさい説教を押しつけようというのでもございません。われわれは、判でおした如き日常の雑沓《ざっとう》と慌《あわただ》しさから、ほんの暫くのあいだ離れて、ここに相集うているのであります。われわれは、親しき交りの精神においては友として、また友誼《ゆうぎ》の真の精神においてはある程度まで同僚として、そしてまた――何といいましょうか――ダブリン楽壇の三女神の客人として、ここに相集うているのであります」
食卓は、この暗示的な言葉を聞いて喝采と哄笑に沸騰した。ジューリア叔母が、左右の隣席の者に、ゲイブリエルが何といったかときいていたが、はっきりしなかった。
「ジューリア叔母さま、私たちが三女神だっていうんですよ」とメアリー・ジェインがいった。
ジューリア叔母には何のことかわからなかったが、にこにこ笑って、ゲイブリエルを見上げた。彼は同じ調子でつづけた。
「みなさん、
私は、かのパリスの演じた役割〔ギリシア神話でトロイの王子パリスが三女神の中から最美人を選ぶ故事を指す〕を、今夜ここで演じようとは思いません。私は彼女たちに優劣をつける気は毛頭ありません。こういうことは公平を欠く不快な務めでありますし、また、私の貧弱な才能を越えた役割でもありましょう。と申しますのも、私が彼女たちを順々に眺めわたしてみますと、善良な心情、あまりにも善良すぎる心情が、彼女を知る限りの人々の間では一つの通り言葉にすらなっている、われわれの主たるホステスを選ぶべきか、それとも、永遠の若さを恵まれたとも見える妹御さんのほう、今夜の私たち一同にとってまさに驚異であり、天啓でもあったというべき歌いぶりをされたその方を選ぶべきか、あるいはまた、最後にはなりましたが前のいずれにも劣らぬ才媛《さいえん》で、明朗で、勤勉で、模範的な姪御さんであられるわれらの最も年若きホステスを考えてみますとき、みなさん、私は正直なとこ、この御三人のどなたに御褒美《ごほうび》をさしあぐべきかを知らないのであります」
ゲイブリエルは、叔母たちのほうへ視線をちらりと落として、ジューリア叔母の顔に浮かぶ大きな微笑と、ケイト叔母の眼に浮かんだ涙を見て、演説のしめくくりへ急いだ。彼は赤葡萄酒のグラスを慇懃に取り上げ、並居る一座の人々がみな待ち構えたようにグラスに指をふれると、大きな声でいった。
「さあ、みなさん御一緒に、この御三人に乾杯をいたしましょう。御三人の健康と、富と、長寿と、幸福と、繁栄のために乾杯いたしましょう。そして何とぞ、それぞれの職業においてみずから獲得されました誇りある地位と、さらに私たちの心に植えつけられました尊敬と愛情の地位とを、末永く保たれんことをお祈りいたしましょう」
客人は一斉にグラスを手にして立ち上がると、腰かけたままでいる三人のほうを向いて、ブラウン氏を音頭取りに、声をそろえて歌った。
[#ここから1字下げ]
みんな陽気で愉快な仲間
みんな陽気で愉快な仲間
みんな陽気で愉快な仲間
それは嘘だとだあれもいえない
[#ここで字下げ終わり]
ケイト叔母は人目もはばからず、ハンカチで目をぬぐっていたし、ジューリア叔母までが感極まっているらしかった。フレディ・マリンズはプディングのフォークで拍子を取り、歌い手たちは、まるで節をつけて相談でもやるかのように、互いに向かいあい、力をいれて歌った。
[#ここから1字下げ]
嘘つく者がいなければ
嘘つく者がいなければ
[#ここで字下げ終わり]
それからもう一度、女主人たちのほうへ向き直って、歌った。
[#ここから1字下げ]
みんな陽気で愉快な仲間
みんな陽気で愉快な仲間
みんな陽気で愉快な仲間
それは嘘だとだあれもいえない
[#ここで字下げ終わり]
これにつづく歓呼は、食事の部屋の向うにいる大勢の他の客たちによって取り上げられ、幾度もくり返された。フレディ・マリンズは士官のような恰好で、フォークを高くさし上げていた。
身を切るような朝の空気が、彼らの立っている玄関の間に流れこんできたので、ケイト叔母がいった。
「誰か、ドアを閉めてちょうだい。マリンズの奥さんが凍え死になすっちまうよ」
「ブラウンがあそこに出てらっしゃるのよ、ケイト叔母さま」とメアリー・ジェインがいった。
「ブラウンはどこにもいるんだねえ」とケイト叔母は声を落としていった。
メアリー・ジェインはこの叔母の口調に笑いだした。
「本当に」彼女はいたずらっぽくいった。「あの人、とてもよく気がつくわね」
「あの人は、ここに引いてもらったガスみたいに便利だったよ」ケイト叔母は前と同じ口調でいった。「クリスマスの間はね」
今度は、叔母が上機嫌で笑った、が、それから急いでいいそえた。
「でも、メアリー・ジェイン、あの人に中に入って、ドアを閉めるようにいっておくれ、まさか、私のいったこと、あの人に聞こえやしなかったろうねえ」
と、その時、玄関の扉が開くと、ブラウン氏が、まるで心臓が破裂しそうな勢で大笑いしながら、戸口の段から入ってきた。まがいのアストラカンの袖口と襟がついた長い緑色の外套を着て、卵型の毛の帽子をかぶっていた。彼は雪に一面覆われた河岸を指さした。その方向から長くのばした鋭い口笛が聞こえてきた。
「おっさん、ダブリン中の馬車を残らず呼び出しそうですよ」と彼はいった。
ゲイブリエルが事務所の奥の小さな食器室から、外套に手を通そうとばたばたしながら出てきて、広間をぐるっと見廻すと、いった。
「グレッタはまだ降りてきませんか?」
「上で弾いているのは誰ですか?」ゲイブリエルはきいた。
「誰も弾いてやしないよ。皆さん、お引きあげになったんだから」
「あら、違うわ、ケイト叔母さま」メアリー・ジェインがいった。「バーテル・ダーシーとミス・オキャラハンがまだいらっしゃるわ」
「とにかく、誰かピアノをいじってますよ」とゲイブリエルはいった。
メアリー・ジェインはゲイブリエルとブラウン氏をちらりと見ると、ぶるっと身を震わせていった。
「そんなふうに殿方がお二人もくるまりこんでいるのを見ただけで、あたし、寒くなってしまうわ。あたしだったら、とても、こんな時間に帰ることなんかできませんわ」
「わたしならこういう時に」とブラウン氏が威勢よくいった。「元気よく愉快に田舎を歩いたり、素晴しい駿馬を轅《ながえ》につけて、びゅんびゅん走らせるのが一番好きですなあ」
「昔はうちにも、とってもいい馬と二輪馬車がありましたけどねえ」とジューリア叔母が悲しそうにいった。
「あの夢にも忘れぬジョニイね」とメアリー・ジェインが笑いながらいった。
ケイト叔母とゲイブリエルも笑った。
「なんだって? ジョニイがどうかしたっていうんですかい?」ブラウン氏がきいた。
「ぼくらの祖父にあたる亡くなったパトリック・モーカン、ほれ」とゲイブリエルが説明した。
「晩年には御老人で世間に通ってたでしょう、あの人は膠《にかわ》造りだったんです」
「いいえ、ねえ、ゲイブリエル」ケイト叔母が笑いながらいった。「糊工場をもってたのよ」
「まあ、膠にしろ、糊にしろ」ゲイブリエルはいった。「とにかく、その御老人がジョニイっていう名の馬をもってたんですよ。で、ジョニイはその御老人の工場で働き、いつもひき臼を廻すために、ぐるぐる廻って歩いていたのです。そこまでは至極無事だったんだが、やがて、ジョニイに悲劇的役割がやってきたんですよ。ある日のこと、御老人が公園の観兵式に、上流の人たちと馬車で出かけようと思ったんですね」
「主よ、かれの霊魂をあわれみ給え」ケイト叔母は憐れみの情をこめていった。
「アーメン」ゲイブリエルはいった。「そこで、さっきの話のように、御老人はジョニイに馬具をつけ、一番いいシルク・ハットをかぶり、一番いい|飾り《ストック》カラーをつけて威風堂堂と、バック小路《レイン》付近のどこかにあった先祖伝来の邸から乗りだしたってわけですな」
みんな、マリンズ夫人までが、ゲイブリエルの調子に笑った。すると、ケイト叔母がいった。
「あら、ねえ、ゲイブリエル、バック小路に住んでらしたのじゃないのよ。本当に、工場だけがあそこにあったんですよ」
「その先祖代々の邸から」とゲイブリエルはつづけた。「ジョニイに曳かせて乗りだしたんです。で、ジョニイがビリイ王の銅像〔ジェイムズ二世の後をついだウィリアム二世〔一六五〇〜一七〇二〕その乗馬姿の銅像がデイム街にある〕の見えるところまでは万事、見ごとにいったんですがね、ビリイ王の乗っている馬にほれこんじまったのか、それともまた工場に戻ってきたとでも思い込んじまったのか、とにかく、ジョニイの奴、その銅像のまわりをぐるぐる廻りだしたんですねえ」
ゲイブリエルは皆の大笑いする中を、オーヴァ・シューズをはいたまま、玄関の間をぐるぐる円を描いて歩いた。
「ぐるぐる、ぐるぐるそいつが廻るので」ゲイブリエルは話した。「大層気取った御老人の大旦那はすっかり立腹しちまって、『さあ、行け、これ! どうしようっていうんじゃ? これ! ジョニイ! ジョニイ! いやはや、言語道断なふるまいじゃぞ! 馬の気持はとんとわからんわい!』」
この出来事をゲイブリエルが真似た仕草につづいて起った賑やかな笑声は玄関の間に響くノックの音で邪魔された。メアリー・ジェインが駈けよって扉を開け、フレディ・マリンズを入れてやった。帽子を思いきりあみだにかぶり、寒さに肩をちぢかめたフレディ・マリンズは、さんざん奔走《ほんそう》してきたところで、ふうふういって、汗をかいていた。
「ようやく、やっと一台だけつかまえたですよ」
「いやあ、ぼくらは河岸へ出て別のを見つけますよ」とゲイブリエルはいった。
「そうね」とケイト叔母がいった。「マリンズの奥さんを隙間風の当るところにお立たせしとかないほうがいいから」
マリンズ夫人は息子とブラウン氏に助けられて表の段々を下りると、さんざんに苦心したあげく、やっとのことで馬車の中に押しこまれた。彼女の後からフレディ・マリンズが中によじ登ると、ブラウン氏の助言もあって、長いことかかった末に彼女を座席に落ち着けた。やっと彼女が居心地よく落ち着いたので、フレディ・マリンズはブラウン氏に乗るようすすめた。何だかだと話がこんがらがったあげく、ブラウン氏は馬車に乗りこんだ。馭者《ぎょしゃ》は自分の膝にひざ掛をかけると、身をかがめて行き先をきいた。混乱がますます大きくなっていった。馭者はフレディ・マリンズとブラウン氏とから違った指図を受けるありさまで、その二人は、いずれも馬車の窓から首をつきだしていた。話がもつれているのは、ブラウン氏を途中のどこで下ろそうかということだった。ケイト叔母とジューリア叔母とメアリー・ジェインとが戸口の段のところから、喰い違った指図やら、反対やら、盛んな笑い声などで、この論争に加勢した。フレディ・マリンズはといえば、笑って口もきけないありさまだった。彼は帽子が台なしになりそうなほど、ひっきりなしに窓から首をだしたりひっこめたりしては、母親に論争がどう進んでいるか伝えていた。とうとうしまいに、ブラウン氏は、わあわあいう皆の騒々しい笑い声より一段と高い声を張りあげて、困りきっている馭者に怒鳴った。
「トリニティ大学を知ってるか?」
「へえ、知っとります」と馭者。
「じゃあトリニティ大学の門にどかんと乗りつけろ」ブラウン氏はいった。「それから先またどこへ行くか教えてやろう。わかったか?」
「へえ、わかりました」と馭者はいった。
「トリニティ大学へ一気にとばしてくれ」
「承知しました」と馭者。
馬にさっとひと鞭あてると、馬車はがたがたと河岸に沿って、笑声とさよならの合唱の中を動きだした。
ゲイブリエルは他の者たちと一緒に玄関口まで出なかった。玄関の暗がりにいて、じっと階段を見上げていた。一人の女が、最初の段の上近くの、やはり、暗がりに立っていた。女の顔は見えなかったが、影のために黒と白に見えるスカートの赤褐色《テラコッタ》と鮭肉色《サーマン・ピンク》の飾りの縦切れが見えた。妻だった。彼女は手摺によりかかり、何かにじっと耳を澄ませていた。ゲイブリエルは彼女のひっそりとしたようすに意外な思いで、彼もまた耳をそばだてて聞いてみた。しかし、表の上り段の笑顔や、いいあいの騒ぎと、ピアノにひびくいくつかの和音と短い男声の歌声の外は、ほとんど聞きとれなかった。
彼は玄関の暗がりに佇んで、その声が歌っている曲をとらえようとしながら、妻をじっと見上げていた。彼女の姿勢には、まるで何かを象徴でもしているかのように気品と神秘がただよっていた。階段の暗がりに立って、遠くの音楽に耳をかたむけている女は、一体何の象徴なのであろうか、と彼は自らに問うてみた。もし自分が画家であるならば、あの姿勢でいる彼女を描くだろう。あの青いフェルト帽は暗がりをバックに毛髪の褐色を浮き立たせ、スカートの暗色の縦切れは明色のそれを引き立てるだろう。「遥かなる音楽」もし自分が画家なら、その画をそう呼ぶとこだろう。
玄関の扉が閉まって、ケイト叔母とジューリア叔母と、メアリー・ジェインとがまだ笑いながら、ホールをやってきた。
「ねえ、フィレディって、とんでもないでしょう?」とメアリー・ジェインがいった。「本当に困っちまうわ」
ゲイブリエルは何もいわずに、ただ階段の上の妻の立っているほうを指さした。玄関の扉が閉められたので、声とピアノの音が一層はっきりと聞こえてきた。ゲイブリエルは彼らに黙るように、片手をあげて合図した。歌は古いアイルランド的な音調を帯びているように思われ、歌い手はその歌詞にも声にも自信がなさそうだった。その声は、へだたっているためと、歌い手のかすれた声のために哀調を帯び、悲嘆を現わす歌詞で曲の旋律をどことなく飾っていた。
[#ここから1字下げ]
ああ、雨はふる、わが重き髪に
露はわが肌をぬらす
吾子《あこ》はふしてつめたく……
[#ここで字下げ終わり]
「あら」メアリー・ジェインが叫んだ。「バーテル・ダーシーが歌っているわ。一晩中歌いたがらなかったのに。そうだわ、帰る前に一曲歌ってもらいましょう」
「そうとも、頼んでごらん、メアリー・ジェイン」とケイト叔母はいった。
メアリー・ジェインは、つと皆のそばをすり抜けて、階段のほうへ駈けだしたが、そこに行きつかぬうちに、歌声は止み、ピアノがぱたんと閉じられた。
「まあ、残念!」彼女は叫んだ。「あの方、下へおりてらっしゃるの、グレッタ?」
ゲイブリエルは、妻がええ、と返事するのを聞き、彼女が皆のほうへおりてくるのを見た。彼女の二、三歩後に、バーテル・ダーシー氏とミス・オキャラハンがいた。
「まあ、ダーシーさん」とメアリー・ジェインが叫んだ。「折角、あたしたちみんなが、うっとりなって聴いてましたのに、あんなふうに、不意にやめておしまいになるなんて、本当にひどいわ」
「あたし、もう一晩中せがんでましたのよ」ミス・オキャラハンがいった。「それから、コンロイ夫人《さん》もよ。だのにこの方ったら、ひどい風邪をひいたの、歌えないだのって、おっしゃるのよ」
「あら、ダーシーさん」とケイト叔母がいった。「そんな御冗談なんかおっしゃって」
「ほらこの通り、鳥みたいな嗄《しゃが》れ声になってるじゃないか」とダーシー氏は乱暴な口調でいった。
彼は急いで食器室に入って行き、外套を着た。皆は、彼の乱暴な口のききように不意をうたれて、二の句がつげずに黙ってしまった。ケイト叔母は眉をよせ、この話題はやめにするよう、皆に合図した。ダーシー氏は注意深く首を包み、渋い顔をして突っ立っていた。
「陽気のせいですねえ」暫く間をおいて、ジューリア叔母がいった。
「そうねえ、みんな風邪をひきこんで」とケイト叔母がすぐに応じた。「皆さんがね」
「人の話だと」とメアリー・ジェイン。「ここ三十年来、こんな大雪はなかったそうですよ。なんですか、今朝の新聞では、アイルランド中どこもかしこも雪ですって」
「私は雪景色が好きよ」ジューリア叔母が悲しそうにいった。
「あたしも好きだわ」ミス・オキャラハンがいった。「何だか地面に雪がないと、クリスマスらしくありませんもの」
「でも、あいにく、ダーシーさんは雪がお嫌いなのよ」ケイト叔母が微笑を浮かべていった。
ダーシー氏はすっかり首をくるんで、ボタンをかけて、食器室から出てくると、いかにも後悔したような口調で、自分の風邪の来歴を皆に話してきかせた。皆は彼に何かと忠告を与え、本当にいけませんわねといって、夜気にはくれぐれも咽喉を注意するようにとすすめた。ゲイブリエルは妻をじっと見ていた。彼女はこの話の仲間には加わらないで、埃のつもった扇窓の真下に立っていた。ガス燈の炎が豊かな髪のブロンズ色を照らしだしていた。つい二、三日前、彼はその髪を暖炉で乾かしているのを見たのだった。彼女は同じ姿勢のままで、周囲の話には気をとめてないふうだった。やっと、こっちを向いたその彼女の頬には赤みがさし、眼がきらきらと輝いているのにゲイブリエルは気がついた。さっと、歓びの血潮が彼の心臓からほとばしり出てきた。
「ダーシーさん」と彼女はいった。「さっき歌ってらしたあの曲の名は何んていうんですの?」
「『オーグリムの乙女』〔オーグリムはゴールウェイ郡の村の名、愛仏連合軍が英軍に敗れた古戦場〕というのです」とダーシー氏。「でも、ちゃんと思いだせなかったのですか。どうしてですか? この歌、御存じなのですか?」
「『オーグリムの乙女』ね」彼女はくり返した。「曲名がどうしても思いつかなかったものですから」
「とてもいい曲ですねえ」メアリー・ジェインがいった。「今晩は、お声がよく出なくて本当に残念でしたわ」
「ねえ、メアリー・ジェイン」ケイト叔母がいった。「ダーシーさんを困らせてはいけませんよ。うるさがられるといけませんからね」
みんな、出かける用意がととのったのを見ると、彼女は彼らの先にたって玄関口へ送りだし、そこでさようならが交わされた。
「それでは、ケイト叔母さん、おやすみなさい。楽しい晩で、ありがとうございました」
「さようなら、ゲイブリエル。さようなら、グレッタ!」
「ケイト叔母さま、さようなら。本当にありがとうございました。ジューリア叔母さま、おやすみなさいまし」
「あ、グレッタ、おやすみ、あなたが見えなかったもんで」
「さようなら、ダーシーさん。さようなら、オキャラハンさん」
「さようなら、モーカンさん」
「もう一度、さようなら」
「みなさん、さようなら。お気をつけて」
「おやすみなさい。さようなら」
朝はまだ暗かった。鈍い黄色な光が、家々や河一面にたれこめていた。空は落ちかかってくるようだった。足もとは雪でぬかっていた。雪の縞や塊りが、わずかに屋根の上や河岸の欄干《らんかん》の上や地下勝手口の棚の上などにあった。灯火はまだよどんだ大気の中で赤々と燃えていた。河の向側では四法廷《フォー・コーツ》の大建築があたりを威圧するがごとく、重苦しい空にくっきりと浮かんでいた。
妻は彼の前をバーテル・ダーシー氏と歩いていた。茶色の包み紙にくるんだ靴を小脇にはさみ、雪解けをさけて両手でスカートをつまみ上げている妻のどこにも、もはや優美な姿勢はなかったが、ゲイブリエルの眼はなおも幸福に輝いていた。血が彼の血管を躍動して流れ、脳裡にはさまざまな思念が誇らかに、楽しげに、優しく、逞《たくま》しく荒れまわっていた。
妻は彼の前をいかにも軽やかに、いかにもきりっとした態度で歩いて行くので、後からそっと足音をしのばせて駈けより、肩をとらえて、何か愚かしい、愛情に満ちた言葉を彼女の耳に囁いてみたい衝動にかられるのだった。何かしら妻がいかにも弱々しく見えるので、妻を何ものかから守り、妻と二人きりでいたかった。二人の秘密の生活の瞬間々々が、どっとばかり記憶の中に星のごとく散り咲いた。ヘリオトロープの匂う封筒が朝食の大型コーヒー茶碗のそばにあった。彼はそれを手で愛撫した。鳥が≪つた≫の中で囀《さえず》っていた。カーテンにさす日光の網目が床に伸びてちらついていた。幸福感にものを喰べる気もしなかった。二人はごったがえすプラットフォームに立ち、彼女の手袋をはめた温かい掌の中に、切符を入れていた。寒さの中に彼女と共に佇み、格子の窓越しに、ごうごうと唸っている炉で壜を造っている男をのぞき込んでいた。ひどい寒さだった。彼女の顔は、冷気に香りながら、彼の顔のすぐそばにあった。不意に、彼は炉の男に呼びかけた。
「炉は熱いですか?」
だが、男には、炉のうなる音で何も聞こえなかった。そのほうがかえってよかったのだ。男は突慳貪《つっけんどん》な返事をしたかも知れないからだ。
なおもっと甘い歓びの波が彼の心臓からほとばしり、温かい氾濫《はんらん》となって、動脈をめぐっていった。星のやわらかなきらめきのように、誰も知らぬ、何人も知ることのできぬ二人の生活の瞬間瞬間がぱっと彼の記憶に咲きみだれ、輝いた。彼は、妻にもそれらの瞬間をもう一度思い起こさせて、二人の退屈な生活の幾歳かをきれいに忘れさせ、ただ二人の陶酔の瞬間のみを思い出させたかった。というのも、歳月は未だ、自分の魂を、また妻の魂をも消滅させてしまったようには思えなかったからだ。彼らの子供たちも、彼の執筆も、彼女の世帯の苦労も、二人の魂のやわらかい焔をすべて消し去ってはいなかったからだ。あの頃、彼女に書き送った手紙の一つに、彼はこういったことがある。「一体、何故、このような言葉がぼくにはこれほど退屈で冷たく思われるのでしょう? 貴女の名にふさわしい、優しい言葉がないためなのでしょうか?」
遥かな音楽のように、数年前に書いたこれらの言葉が、過去から彼へ向って甦《よみがえ》ってきた。彼女と二人だけになりたかった。他の連中が行ってしまったら、ホテルの部屋に彼女と二人になったら、その時こそ二人だけになれるのだ。妻にそっと呼びかけよう。
「グレッタ!」
おそらく妻にはすぐには聞きとれないかもしれない。妻は服を脱ぎかけている。と、彼の声にひそむ何かが彼女をふっとさせる。彼女は振り向いて、彼のほうを見る……。
ワインダバーン街の角で、彼らは辻馬車に会った。
馬車のガラガラいう騒音で会話をせずにすんだので、彼はうれしかった。妻は窓の外を見ていた。疲れているらしかった。他の連中も、建物だの通りだのを指さしては、ほんの二言、三言、口をきくだけだった。馬は、どんよりした朝空の下を、ガタガタ音をたてる古ぼけた箱を後ろに曳いて、大儀そうに駈けていった。またもゲイブリエルは彼女と共に辻馬車に乗り、便船に間にあうように走らせ、二人の蜜月旅行へと走らせていた。
馬車がオコウヌル橋を渡るとき、ミス・オキャラハンがいった。
「人の話ではオコウヌル橋を渡るときは、必ず白い馬が見えるんだそうですってね」
「今は白い人が見えますよ」とゲイブリエルがいった。
「どこに?」バーテル・ダーシー氏がきいた。
ゲイブリエルは雪が斑らにつもっている銅像を指さした。それから、親しげに銅像に会釈して、手を振った。
「さようなら、ダン〔ダニエル・オコウヌルのこと〕」と彼は陽気にいった。
馬車がホテルの前で止ると、ゲイブリエルはとびおりて、バーテル・ダーシー氏が断るのもきかずに、馭者に金を払った。彼は男に料金の他に一シリングやった。男はお辞儀をしていった。
「いいお年をむかえなさいまし、旦那」
「あんたもね」ゲイブリエルは愛想よくいった。
彼女は馬車からおりながら、ちょっと彼の胸にもたれたが、道の舗緑石に立って、皆にさようならをいう間も、そのままでいた。二、三時間前に彼と踊った時と同じように、軽く、そっと彼の腕によりかかっていた。あの時、彼は得意になり、幸福な思いでいた。彼女が自分のものであることに幸福を味わい、彼女の優美さと、妻らしい物腰に誇らしさを覚えたのであった。ところが、つぎつぎと多くの思い出を再び燃え上らせた後の今は、音楽的な、未知な、芳香に満ちた彼女の肉体との最初の接触が、鋭い欲情のうずきを彼の身内にもたらした。彼女の沈黙をいいことに彼は妻の腕をひたと自分の脇腹に押しつけた。そして、ホテルの入口に立った時、彼は、自分たちが生活と義務から逃れ、家族や友人たちからも逃れ、奔放な、歓喜に輝く心を抱いて、新たなる冒険を目指して逃げだしてきたような気持になった。
老人が一人、ホールで大きな幌《ほろ》のついた椅子にまどろんでいた。老人は帳場で蝋燭をともすと、彼らの前を階段へ向っていった。彼らは黙って後に従った。彼らの足は厚い絨緞《じゅうたん》を敷いた階段を、柔かな音をたてて踏んでいった。妻は玄関番の後について階段を上っていった。頭をたれて上っており、その華車《きゃしゃ》な肩は重荷を負っているように曲り、スカートは腰をぴっちりとしめていた。彼女の腰に腕を投げて、じっと彼女を抱きとめることもできるのだ。というのも、彼の両の腕は妻をしっかと捉えたい欲望にふるえ、ただ掌にくいこむほどに爪を押しつけて、わずかに猛り狂う肉体の衝動を制していたからだった。玄関番は階段の途中で立ち止まると、蝋が垂れている蝋燭の位置を直した。彼らも、老人の下の段で立ち止った。しじまの中に、ゲイブリエルは熔けた蝋が皿に落ちこむ音と肋骨《ろっこつ》に重く響く心臓の鼓動とを聞いていた。
玄関番は廊下にそって二人を案内すると、一つの扉を開いた。それから、不安定な蝋燭を化粧台に置くと、朝は何時に起こしたらよいかときいた。
「八時」とゲイブリエルはいった。
玄関番は電燈の差込口を指して、口の中でぼそぼそといいわけを始めた。が、ゲイブリエルはそれを遮った。
「灯はいらない。表通りからの明りで結構だよ。それから」彼は、蝋燭を指しながらいいそえた。「すまんが、その見事な品はもっていってくれないか」
玄関番は再び蝋燭を取り上げた。が、のろのろとだった。というのも、こんな変った考えに驚いたからだった。それから、彼は口の中でお休みなさいをつぶやいて、出ていった。ゲイブリエルは扉に鍵をかけた。
街燈から射す青白い光線が一条の細長い筋となって一つの窓から扉口まで落ちていた。ゲイブリエルは外套と帽子を寝椅子に投げて、向う側の窓へ歩みよった。彼は、自分の昂奮を少しでも落着けようと、下の街路のほうを見やった。やがてふりむくと、光に背をむけて、箪笥によりかかった。彼女は帽子も外套もぬいで、大きな掛け鏡の前に立って、胸のホックをはずしているところだった。ゲイブリエルは暫く黙ったまま、じっと彼女を見つめていた。やがていった。
「グレッタ!」
彼女はゆっくりと鏡を離れ去って、光の条に沿って、彼のほうへ歩みよってきた。その顔つきがいかにも真剣で、疲労して見えたので、言葉がゲイブリエルの唇から出てこなかった。いや、まだその機ではネいのだ。
「疲れてるようだね」彼はいった。
「少しね」彼女は答えた。
「気分でも悪いんじゃない?」
「いいえ、疲れてるだけなのよ」
彼女は窓際へ行って、そこに佇んで、外を見た。ゲイブリエルはもう一度待った。が、気おくれに今にも打ち負かされそうに思えたので、不意にいった。
「あのねえ、グレッタ!」
「何ですの?」
「ほら、知っているだろう、あの気の毒なマリンズの奴を?」彼は口早にいった。
「ええ、あの人がどうしたの?」
「いや、奴さん、あれでもなかなかいい男なんだね、本当のとこは」ゲイブリエルはつくり声でつづけた。「あれに貸してやったソヴリン〔一ポンド金貨〕を返してよこしたんだよ。実は、ぼくは当てになんかしてなかったんだからね。あのブラウンからどうしても手を切らないのは困りもんだよ。本当は、悪い奴じゃないんだからね」
彼は今は、いらいらして、身を震わせていた。どうして、妻はあんなにぼんやりしているのだろう。どう始めていいのか、彼にはわからなかった。彼女も何かにいらだっているのだろうか? ちょっと、こっちを向いてくれるか、彼女のほうから進んでこっちに来てくれさえすれば! あのままで彼女をとらえるのは乱暴だ。いや、まず先に彼女の眼に、少しでも情熱が見られなければだめだ。妻の妙によそよそしい気分を制服してしまいたかった。
「いつ、あの人にその一ポンドをお貸しになったの?」間をおいて、彼女はきいた。
ゲイブリエルは、飲んだくれのマリンズと例の一ポンドのことで乱暴な口をききそうになる自分を、懸命に抑えた。胸の奥底から彼女に呼びかけ、彼女の肉体を壊れんばかりに自分のに押しつけ、彼女を圧倒したい欲望を覚えた。だが彼はいった。
「あ、クリスマスのときだよ、ヘンリー街にあいつが小さなクリスマス・カードの店を開いた時だよ」
彼は熱に浮かされたように怒りと欲望に駆られていたので、彼女が窓のところから近よってくるのが聞こえなかった。彼女はよそよそしい目付きで彼を見ながら、一瞬彼の前に立った。と、不意に、爪先でのび上がると、そっと両手を彼の肩にあてて、接吻した。
「あなたは本当に寛大な方ね、ゲイブリエル」と彼女はいった。
ゲイブリエルは、このだしぬけの接吻とこの言葉のおかしさに悦び震えながら、両手を彼女の髪にあて、指先でそっと触れつつ、髪を後へなで始めた。洗ったので髪はきれいにつややかになっていた。彼の胸は幸福感であふれていた。彼がそれを切望していた丁度その時に、彼女のほうから進んでやってきたのだ。恐らく妻の想いも自分の想いと一緒に流れていたのだろう。恐らく妻はこのおれの中にあった激しい欲望を感じとったのだ。だから、応じる気分が彼女にやってきたのだ。こうも易々と彼女が自分の手に落ちてしまうと、自分がどうしてあんなに気おくれしていたのか、今は不思議なくらいだった。
彼は、彼女の頭を両手ではさんだまま、立っていた。それから、一方の腕をすべらせて素早く彼女の胴にまわして、引き寄せると、そっと小声でいった。
「グレッタ、ねえ、何を考えてるの?」
彼女は答えもせず、また、すっかり体を彼の腕にまかせるでもなかった。彼は再びそっといった。
「ねえ、どうしたの、グレッタ。ぼくにはわかるような気がするけど、そうなの?」
彼女はすぐには答えなかった。それから、いきなり泣きだして、いった。
「ああ、あたし、あの『オーグリムの乙女』の歌のことを考えているの」
彼女は急に彼から離れて、寝台に駈けより、両腕を寝台の手摺りに投げかけて、顔をふせてしまった。ゲイブリエルは一瞬あっけにとられて、棒立ちになっていたが、やがて彼女のもとへ行った。大姿見のところを通りかかるとき、彼は自分の全身の映像を見た。広い、ぴんと張ったワイシャツの胸、鏡をのぞきこむたびにいつも自分をとまどわす表情の顔、キラキラ光る金めっき縁の眼鏡。彼女の数歩前で立ち止って、いった。
「あの歌がどうしたの? なぜ、あれで泣きだしたりするの?」
彼女は両腕から頭をあげて、子供のように手の甲で涙をぬぐった。思ったよりもやさしい調子が彼の声に出てきた。
「グレッタ、どうしたの?」彼はきいた。
「ずっと以前、あの歌をよく唱っていた人のことを考えているの」
「で、ずっと昔の人って誰なの?」ゲイブリエルは、微笑しながらきいた。
「あたしがゴールウェイでおばあさんと一緒に住んでいた頃に知りあった人なの」彼女がいった。
微笑がゲイブリエルの顔から消えていった。にぶい怒りがまたもや彼の心の奥で頭をもたげだし、くすぶっていた欲情の焔が血管の中でめらめらと怒りに燃え始めた。
「誰かお前が恋していた人かい?」彼は皮肉な口調できいた。
「あたしの知っていた若い人なの」彼女は答えた。「マイクル・フュウリイっていう。よく、あの『オーグリムの乙女』の歌を唱っていたの。とても体のひ弱な人だったわ」
ゲイブリエルは黙っていた。自分が、その体の弱い若者に関心をもっていると思われたくなかった。
「今でもあの人の姿がはっきりと眼に浮かぶわ」彼女は、一瞬、間をおいてからいった。「そう、あの人の眼、大きな、黒みがちの眼、それから、あの眼の表情――あの眼つきも!」
「ああ、じゃ、きみは今もその人を愛してるんだね!」ゲイブリエルはいった。
「よくあの人と散歩に出かけたわ」と彼女。「私がゴールウェイにいた頃は」
ある思いがゲイブリエルの心をよぎった。
「じゃ、きみがあのイーヴァズの娘とゴールウェイに行きたがったのも、そのためだったんだろうな?」彼は冷然といった。
彼女は彼を見やり、びっくりしてきいた。
「何のためだっておっしゃるの?」
彼女の視線がゲイブリエルの間の悪い思いをさせた。彼は肩をすぼめて、いった。
「ぼくの知ったことか。恐らくその人に逢うためだろうさ」
彼女は黙って視線を彼からそらせ、光線の条をたどって、窓のほうへ向けた。
「その人は死にました」彼女はついにいった。「わずか十七で死んだわ。あんな若さで死ぬなんて、残酷だわ」
「何をしていた人だい?」ゲイブリエルは、相変らずひやかすような口調できいた。
「ガス会社にいました」彼女はいった。
ゲイブリエルは自分の皮肉の失敗と、このガス会社の少年の姿を死者の中から呼びもどしたことに屈辱を覚えた。おれがさっき二人だけの秘密の生活の思い出に耽って、やさしさと歓びと欲望に満たされていたとき、妻は心の中でおれをもう一人の男と比べていたのだ。わが身が恥ずかしくてたまらぬ意識が彼を襲ってきた。おのが身が、叔母たちのために安っぽく使い走りをする滑稽な姿、また俗物どもに弁舌などをふるい、自分の道化じみた情欲を理想化してみたりする神経質で、お人よしのセンチメンタリスト、鏡の中にその姿をちらっと見たあの憐れむべき間抜け者として、映ずるのだった。彼は自分の額に燃える恥ずかしさを彼女に見られまいと、本能的に前より一層光に背を向けた。
彼は努めて、冷静な質問の調子を保とうとした。が、口を開くと、彼の声は気兼ねした、普通の声になっていた。
「きみはそのマイクル・フュウリイに恋していたらしいね、グレッタ」彼はいった。
「あの頃は、あたし、とても親しくしていたわ」彼女がいった。
その声はぼんやりしていて、悲しそうだった。ゲイブリエルは、今は自分が狙った方向に彼女を誘導しようとしても無駄だと感じて、彼女の片手を愛撫しながら、彼も悲しげな口調でいった。
「何んでそんなに若くて死んだの、グレッタ。結核、だったの?」
「あたしのせいで亡くなったと思うの」と彼女は答えた。
この答えに、漠然とした恐怖がゲイブリエルをとらえた。あたかも勝利を予期したその時になって、何か実体のない、報復的なものが自分に迫ってきて、その漠然とした世界で力を結集し、自分に襲いかかってくるかのようだった。だが、彼は理性の努力でそれを払いのけ、なおも彼女の手を愛撫した。重ねて彼女にきかなかった。というのも、彼女のほうから打ちあけてくれそうな気がしたからだ。彼女の手は温かく、しっとりとしていた。彼に触れられても、その手は何も応じなかった。だが、彼は、ちょうどあの春の朝、彼のとこにきた彼女の最初の手紙を愛撫したときのように、なおも彼女の手を愛撫しつづけた。
「冬のことだったわ」彼女は語った。「ちょうど、あたしがおばあさんのもとを去って、こちらの修道院にこようとしていたあの冬の初め頃のことよ。その頃、あの人はゴールウェイの下宿で病気になって、外出も許されなかったし、ウータラードのあの人の家にも知らせがいったの。肺病だとか、何かそんな病気だったらしいの。あたし、くわしいことは知らなかったの」
彼女は一瞬、間をおいて溜息をついた。「可哀いそうだわ」彼女はつづけた。「あたしがとても好きだったし、それにとてもおとなしい子だったの。あたしたち、よくつれだって散歩に出かけたものよ、ゲイブリエル、ほら、田舎の人たちがよくやってるようにね。ただ健康にいいからというんで、歌の勉強をしかけてたわ。とてもいい声をしてたの。可哀そうなマイクル・フュウリイ」
「そう、で、それから?」ゲイブリエルはきいた。
「で、それから、いよいよあたしがゴールウェイを去って、修道院へくるという時になると、あの人はとても悪くなって、どうしてもあの人と会わせてもらえなかったの。それで、あたし、あの人に手紙を書いたわ。あたしはダブリンへ参ります、夏には帰ってきますから、そのときにはもっとよくなっていらっしゃるようにって」
彼女は暫く黙りこんで、声をこらえて、またつづけた。
「すると、あたしが出発をする前の晩のこと、ナンズ・アイランドのおばあさんの家で、荷造りをしていたら、窓に小石が投げつけられる音がしたの。窓はすっかりぬれていて、見えなかったものだから、そのまま下へ駈けおりて、裏からそっと庭に出て見ると、庭の隅に、可哀そうにふるえながら、あの人が立っていたのよ」
「で、きみは帰るようにいわなかったの?」ゲイブリエルはきいた。
「あたしは、お願いだからすぐにお家へ帰って、といったわ、雨にうたれたら死んでしまうっていったんです。だのに、あの人は、ぼくはもう生きていたくないっていうのよ。あの人の眼がありありと見えるわ! 塀の隅のぽつんと一本、樹のあるところに立ってたわ」
「で、家へ帰ったの?」ゲイブリエルはきいた。
「ええ、帰りました。そして、あたしが修道院に入ってほんの一週間したら、あの人は亡くなって、実家のあったウータラードに埋葬されたんです。ああ、あの人が死んだという、あのことを聞いた日」
彼女はむせび泣きに声をつまらせて、いいやめた。感動に耐えかね、顔を伏せて寝台に身を投げかけ、蒲団に顔を埋めて嗚咽《おえつ》した。ゲイブリエルはしばしの間、思い迷って彼女の手をとっていたが、やがて、妻の悲しみに踏みこむのに気後れし、そっと手をはなすと、静かに窓辺へ歩んでいった。
妻はよく眠っていた。
ゲイブリエルは肘をついて、彼女の乱れた髪と半ば開いた口を、しばらく憤《いきどお》りの気持もなく見つめ、深く引く息づかいに耳を澄ませていた。こうして、お前は、今まで、そのロマンスを秘めていたのだ。一人の男がお前のために死んだ。夫たる自分がお前の生活の中で、どんなみじめな役割しか演じていなかったかを考えても、今のおれはほとんど何の苦しみも覚えない。彼は眠っている彼女を、まるで自分と彼女とが今日まで夫と妻として生活を共にしてきたものではないかのように、じっと見つめた。彼の詮索的《せんさくてき》な眼はじっと妻の顔や髪に注がれていた。そして、彼女に乙女の初々しい美しさがあったその時分には、きっとこうもあったろうと思いふけっていくと、いつしか彼女に対する不思議な親しみに満ちた同情が彼の胸の内にわいてきた。お前の顔はもう美しくない、とは自分にもいいたくなかった。しかし、それはもはや、マイクル・フュウリイが死を賭してまで求めた顔ではないことを彼は知った。
恐らく、彼女は、おれに物語のすべてを語ったのではあるまい。彼の眼は彼女が着物の一部を投げかけた椅子へと動いていった。ペティコートの紐《ひも》が床にたれ下っていた。長靴の片方が、ぐにゃぐにゃの上部を下にたれさげたまま突っ立っていた。もう片方は横たおしになっていた。一時間前のあの狂おしいほどの昂奮が不思議に思われてきた。一体、あれはどこから起ってきたのだ? 叔母のところの晩餐からだ。おれのやった馬鹿気た演説からだ。葡萄酒とダンスからだ。玄関の間でさよならをいった時の陽気な騒ぎからだ。雪の中を河にそって歩いた時の喜びからだ。ジューリア叔母さんも可哀そうだ! 叔母さんも、やがてはパトリック・モーカンやあの馬の亡霊と同じ亡霊になるのだ。おれは、たしかに叔母さんが「婚礼の装い」を歌っている時の顔に、ちらりとあの憔悴《しょうすい》した表情を見た。多分、遠からず、おれはあの同じ客間で喪服を着て、膝にシルク・ハットをのせて、腰をかけている時がくる。ブラインドはおろされ、ケイト叔母がおれの隣りに腰かけて、泣きながら、鼻をかんだりして、ジューリア叔母の臨終の模様を語る時がくるのだ。おれは、叔母を慰める言葉を心の中で探してみるが、どれも中途半端で役にたたない。そうだ、きっと、そういういことが間近かに起ってくる。
冷たい部屋の空気が肩にぞくぞくとしみた。彼は注意深くシーツの下に体を伸ばし、妻の隣りに横になった。一人一人、みんな亡霊になってゆくのだ。歳と共に陰気にあせ衰えてゆくよりも、何か華々しい情熱に満ちあふれているうちに、勇敢にあの彼岸の世界へ逝くほうがましだ。彼は考えた、一体、おれの隣りに寝ているこの妻が、どのような思いで、この幾年もの間、ぼくは生きていたくないといったあの恋人の眼ざしの面影を胸の中に固く秘めていたのだろうか、と。
寛容の涙がゲイブリエルの眼にあふれてきた。どんな女に対しても、これまで自分からこんな気持になったことはなかったが、こういう感情こそ愛にちがいないと知った。彼の眼にはなおも涙が止めどなくこみあげてきた。薄暗がりの中で、彼は、雫《しずく》のたれる木の下に立っている青年の姿を眼のあたりに見る心地がした。他にもいくつかの姿が近くにあった。彼の魂は、死せるものの大群が住むかの世界へ近づいていた。彼は、それらの気まぐれな、明滅する存在を意識はするが、認識することはできなかった。彼自身の実存も、ある灰色の得体の知れぬ世界へ消え去りかけていた。これら死せるものの、かつては築き上げ、住んでいたその堅固な世界そのものが、ばらばらに解体し、小さくしぼんでゆく。
窓ガラスを打つ軽やかな音に、窓のほうをふり向いた。また、雪が降りだしていたのだ。彼は眠そうに雪片を見やった。銀色と黒灰色に、街燈の光を背に、斜に舞い落ちていた。いよいよ西への旅に出てゆく時がきたのだ。そうだ、新聞の伝える通りだ。アイルランド中くまなく雪なのだ。雪は、暗い中央平野のすみずみにも、木々のない丘陵《きゅうりょう》にも降っている。アレンの沼沢《しょうたく》にも静かに降っている。また、はるか西方では、暗い荒れがちのシャノン河の波頭にも、音もなく降っている。マイクル・フュウリイの埋められている丘の寂しい教会墓地のすみずみにも降っている。まがった十字架や墓石の上にも、小さな門の槍の上にも、葉の枯れ落ちたいばらの上にも、吹きよせられて、厚くつもっている、ひそやかに宇宙を舞い下り、生けるものと死せるものの最後が落ちかかってくるごとく、それらすべてのものの上に、ひそやかに降りかかる雪の音を聞きつつ、彼の魂はゆるやかに意識を失っていった。
[#改ページ]
解説
クラシック(古典的)とは元来ローマ人の社会的階級の最上位のクラスを指したものであり、それが文学作品では最高級とか第一級を指すように使われている。ジェイムズ・ジョイス(一八八二〜一九四一)がアイルランドの生んだ現代イギリス文学のクラシック作家であることは、いまさら断わるまでもないと思う。日本におけるジョイス文学の紹介、研究はもうかなり古く、先年東京で開かれた世界ペン大会に作成された『日本における外国文学の足跡』では、こんにちからちょうど四十年前の一九一八年に第一歩が印せられたことになっている。そして、一九三一、二年が日本のジョイス・ブームをつくっている。五十八年の生涯を送ったジョイスの作品数は極めて少い。
『室内楽』(詩集、一九〇七)
『ダブリン人』(短編集、一九一四)
『若き日の芸術家の肖像』(長篇、一九一六)
『追放人』(戯曲、一九一八)
『ユリシーズ』(長篇、一九二二)
『一個一ペンスのりんご』(詩集、一九二七)
『フィネガンズ・ウェイク』(長篇、一九三九)
このほかに自費出版の詩と、死後の一九四四年に刊行された『スティーヴン・ヒーロー』(欠損している未完成の自伝的長篇)がある。日本でジョイス・ブームを現出していた一九三一、二年はジョイスが『進行中の作品』として『フィネガンズ・ウェイク』を部分的に発表していたころである。そして、この最後の大長篇を除き右にあげた諸作品は全部邦訳されている〔現在はこの作品も翻訳されている〕。
ジョイスの生涯については私訳の『若き日の芸術家の肖像』にくわしいジョイス年譜の形ですでに発表したので、ここでは割愛する。ジョイスの自伝的小説ともいうべき『若き日の芸術家の肖像』は青年期をあつかった現代小説の白眉と称され、ジョイスの芸術観とか文学技法とかは別にしても、いずこの国、いずれの時代の青年もつねに一度はぶつかる精神と肉体の苦悩が、きびしい求道の態度で描かれ、深刻な感銘を与えずにはおかない。
さて、この『ダブリン人』は何のために書かれたのか。この作品は一九一四年に刊行されてはいるが、書かれたのはそれよりずっと以前である。
「姉妹」「イーヴリン」一九〇三年(二十一歳)
「土」一九〇四年(二十二歳)
ということになっており、一九〇五年(二十三歳)までにはさらに九篇が書かれており、つづいて二十四歳のときに「二人のよた者」「小さな影」、二十五歳のとき最後の「死せるもの」が書かれた。これらが一九一四年に出版されるまでには、出版社の陰険卑劣な行為で紛糾をきわめ、八年半にわたるジョイスのねばりと文学的信念の主張が結局勝利をおさめるという事件があった。
「どの作家もいまだかつてダブリンを世界に提示したことはないと私は思います。それは何千年かにわたってヨーロッパの一首都でありましたし、現在も英帝国の第二の首都だと思われており、またそれはヴェネチアのほぼ三倍の大きさでもあります。ダブリン人(Dubliner)という表現は、何だか私にはある意味をもっているように思えますが、『ロンドン人』とか『パリ人』――これはどっちもこれまで作家たちによって題名として用いられています――ということばに対しても同じことがいえるかどうかは疑問です。折々、出版社の新刊目録にアイルランドのことをあつかった書物の広告を見かけますので、この私の短篇集にただよっている――そうあってくれればいいのですが――独特の腐敗臭を知りたいために、金を払ってくれる人々もあるかもしれないと思うのです」
これはジョイスが出版交渉のために出版社あてに書いた手紙の一節だ。また、別の手紙でつぎのように記している。
[#ここから1字下げ]
「私の意図は自分の郷土のモラルの歴史の一章を書くことでした。私がその場面にダブリンをえらんだのも、この都会が私には麻痺の中心に思われたからです。私はそれを無関心な世人に、この都会がもつすがたを子供時代、青春期、成熟期、公生活の四つの面のもとに示そうと試みました。作品はこの順序で配列されています」
[#ここで字下げ終わり]
作品はこの順序で配列されているという。どの面のどういうすがた、年齢・職業において描かれていようと、それはすべてダブリン人である。この作品の邦訳では「ダブリン市民」とか「ダブリンの人々」などとされているが、いずれにしろ同じことだ。私の「ダブリン人」という訳語にしても同じだ。要するに、ダブリンに、あるいはアイルランドに、生れ、生活を営み、人生を送るダブリン的、あるいはアイルランド的性格をもつ人間たちを指すのである。ダブリン人とはわれわれが大阪人、東京人、東北人などと称するときにもつその土地の固有な人間像をイメージに浮かべるときと似通った意味に解していい。ジョイスはアイルランド人を「ヨーロッパの最もおくれた民族」とか「半身不随、麻痺の魂」ときめつけた。ヨーロッパ大陸から全くとり残され、文化果つるところといったふうな小さな島国(日本の北海道より小)、保守的なカトリック教会によって馴到《じゅんち》されてきた因襲的な人々、それがアイルランド人である。だが、この作品に描きだされた人々の生活、人生は決してダブリンのみに限られる狭いものではない。ここで生活を営んでいる人々――例えばイーヴリンにしろ、ちびのチャンドラーにしろ、ファリントンにしろ、あるいは「下宿屋」のおかみさんにしろ――はどこの国にも見出されるだろう。彼らは、あるいは彼らの生活感情や考え方は、われわれの中にも、われわれの周囲にも見出されないであろうか。つまり、普遍性をもっているというわけだ。
作者みずからがいう四つのすがたの分け方については多少違っている場合がある。子供時代を初めの三篇、青春期を「イーヴリン」から「下宿屋」まで、成熟期《おとな》を「小さな影」から「痛ましい事件」まで、公生活(public life)を残りの四篇としている見方もある。
また、子供時代を初めの二篇、青春期を「アラビイ」、成熟期を「イーヴリン」から「痛ましい事件」までの八篇、そして公生活を「委員室の蔦の日」「母親」「恩寵」の三篇とし、最後の長い短篇は成熟期と公生活とを結びつけた全篇のエピローグというように解している人もある。
十五の短篇の一つ一つについてこまかく解釈するのは、ここでは不必要と思うのでさしひかえるが、これら十五の短篇が相互にどういう意味をもって組み合されているか、私なりの解釈の暗示だけをつけ加えておきたい。
私には『ダブリン人』のほとんどの各短篇が対《つい》をなしているように思われるのだ。「姉妹」の司祭の笑うと舌がだらりと出る不気味な狂気と人生の廃残者のすがた、これはつぎの「遭遇」の得体の知れぬ、空洞のごとき口をした、廃残者を思わせる男と似通う。この両短篇は人生の暗面をのぞいた少年の幻滅感と挫折を現わしている。「アラビイ」と「イーヴリン」は人生の卑俗に挫折させられた結実のない愛情の空しさである。「競争の後」と「二人のよた者」は、前者は有産階級のインテリ青年の放縦でたらめな生活、後者は女中をひっかけて小ぜにをたかる無知な町の|よたもの《ジゴロ》の下らない生活である。「下宿屋」の娘は欲得づくの母親のおかげで得恋し、「イーヴリン」は母親のないため生活の犠牲となって失恋する。娘を使っての母親の処世的打算、欲得づくは、ずっと後の短篇「母親」と対をなし、前者の母親は一応成功し、後者は失敗している。そして、この「下宿屋」のおかみ夫婦生活、結婚することにきまったこの娘がこれからどんな家庭生活をもつであろうかということは、つぎにつづく二つの短篇で、ダブリンの小市民の家庭生活が示されていることによって想像がつくであろう。「小さな影」と「似たもの同士」はいずれも、そこらにいくらでもころがっていそうな勤め人の生活を現わしている。一方は善良小心な、まだ人生の夢をあきらめきれずにいる若い勤め人、他方は酒で憂さをごまかし、上役から怒られたのを弱い子供に八つ当りして、すでに人生に何の夢も持たず、こうして一生を終る勤め人である。
このあとにつづく二篇「土」と「痛ましい事件」は右の家庭生活を持ったものと異なり、一生を孤独に終る男女の独身者を扱ったものである。「痛ましい事件」は「死せるもの」と共に現代の世界の短篇小説中の傑作に位すると激賞されている。また「土」はいろいろの解釈がほどこされ、中には作者ジョイスの弟から、その行きすぎた解釈に抗議を受けたものもあった。
「委員室の蔦の日」「母親」「恩寵」は私生活に対するいわゆる「公生活」の面を示し、ダブリンの腐敗、無気力の政治、芸術、宗教を扱っているというのが一般の解釈である。
ジョイスが一番あとに追加として書いた最後の「死せるもの」は、すでに記したように公生活(社交)と成熟期《おとな》の面を扱い、しかも独身者、夫婦の生活がここでもまたくり返されている。独身の老姉妹は「姉妹」を思わせないであろうか。ゲイブリエルの叔母たちのほうが司祭の家の姉妹よりは恵まれてはいるらしいけど。ゲイブリエル夫婦は自他ともに許すほどの幸福な夫婦である。その幸福だと思っていた夫婦生活に、全く思いももうけぬときに、亀裂を生ぜしめるような不幸が襲いかかろうとする。妻の娘時代の愛の告白だ。これもまた一つの青春期の面を示し、そして「イーヴリン」と同じく結実しない愛、人生の挫折であった。
このように『ダブリン人』十五の短篇は、挫折、因襲、無気力、惰性、あるいは死といったふうに、全篇に幻滅感が覆っているのだ。われわれ「生けるものたち」の営む人生とはこんなものであろう。生けるものには生けるものの義務があり、それによって人生をいつしか過ごしてしまうのであろう。ジューリア叔母たちもやがては、「死せるもの」の中にはいってゆく。さらに、まだ若いゲイブリエルたち夫婦もまたやがていつかは。男を夢中にさせた妻の美も衰えあせてゆく。憎しみ、嫉妬、情欲は、全アイルランドを覆いつつみ、「暗い荒れがちのシャノン河の波」(人生の浮沈、動揺)をも覆う雪、永遠の自然に比べれば何と小さいことか。かくてゲイブリエルは人間への深い憐憫、愛情につつまれてゆく。
この最後の短篇において、私たちは明白に作者の投影と思われる人物を見出す。ゲイブリエルは作者ジョイスがもし故郷を棄てずしてダブリンにとどまっていたなら、恐らくこういう生活を送ったであろうと想像されるすがたになっている。「痛ましい事件」の自伝癖のあるダッフィもそれに類する。そのゲイブリエルに作者ジョイスは『ダブリン人』全篇のしめくくり(エピローグ)を打ちだしたと考えられる。『ダブリン人』に現われる数十人のダブリン人が代表する前記のような人生への救いとして、雪のごとく昇華された憐憫で全篇を結んでいるのだと、いまの私は解したい。
『ダブリン人』の解釈については、長篇『ユリシーズ』と同じく、ホメロスの『オデュッセイア』に原型をとって書かれているという新説も唱えられているが、つぶさに比較検討してみない限り、人の受け売りはできない。
翻訳はつぎのテキストを用いた。
James Joyce: Dubliners(Jonathan Cape,1952)
この他に、Harry Levin 教授編のThe Essential James Joyce 及びモダン・ライブラリー版の『ダブリン人』を参照した。