狭き門
ジッド/山内義雄訳
目 次
狭き門
ジッドの生涯《しょうがい》と作品(新庄嘉章)
『狭き門』について(山内義雄)
跋(石川淳)
年譜(新庄嘉章)
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狭き門
力を尽して狭き門より入《い》れ
ルカ伝第十三章二十四節
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M・A・Gに
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ほかの人たちだったら、これをもって一巻の書物を書き上げることもできただろう。だが、わたしがここに物語る話は、わたしがそうした生活を生きんがために全力をつくし、そして、わたしの精根がそれに傾けつくされたところのものなのだ。で、わたしは、ごく手短かに思い出を記していこうと思う。そして、たといそれがところどころとぎれていても、それをつづりあわせ、またそれを結びつけるために作りごとをするようなことはけっしてしまい。なぜかといえば、思い出をととのえるためのそうした努力は、私がそれを物語ることによって味わおうと思っている最後の楽しみを妨げることになるだろうから。
父を失ったときには、まだ十二にもなっていなかった。母は、父が医者をしていたル・アーヴルに、もうとどまっている必要もなくなったことなので、わたしが学業をおさめるのに都合がよかろうと思って、パリに移り住むことに決心した。母は、リュクサンブール公園のそばに小さな住居《アパルトマン》を借りた。そして、ミス・アシュバートンも、そこへ来てわたしたちといっしょに住むことになったのだった。もう身寄りもいないミス・フロラ・アシュバートンは、最初は母の家庭教師だったが、やがてその話相手になり、ほどなく友だちということになってしまった。わたしは、この二人ながら、優しい、寂しげなようすの、そして、いつも喪服姿でしか思い出せない二人の女性の膝下《しつか》で暮していた。ある日、それは父がなくなってからよほどたってのことと思うが、母は、朝の帽子の黒いリボンを薄紫のリボンと取りかえた。それを見たわたしは、「お母さま、その色はとてもお母さまに似合わないや」と叫んだものだった。
翌日になると、母はまた黒のリボンを着けていた。
わたしは、ひよわなたちだった。わたしの疲れるのを案じた母とミス・アシュバートンの心づかいが、わたしを一個の怠け者に終らせなかったとしたら、それはたしかに、わたし自身、しんから勉強に興味をもっていたからのことだった。夏の初めのさわやかな日がやってくると、二人は、今こそわたしのためにパリを離れるときが来た、ここにいてはわたしの顔色が悪くなってしまうと考えた。そして、わたしたちは六月なかばに、叔父のビュコランが毎年呼んでくれるル・アーヴルのそばのフォングーズマールへ向って出発した。
さして大きくもなく、また取りたてて美しいというでもなく、ほかのノルマンディーの庭にくらべて格別目立つ何ものかがあるというでもない庭のなかに、白い、三階建てのビュコラン家の住居は、ほかの十八世紀の多くの別荘と似通った風情《ふぜい》を見せていた。東のほう、庭に向っては二十ばかりの大きな窓があいていた。そして、うしろのほうにも、おなじだけの窓がある。両側には一つも窓がない。窓口には小さい窓ガラスがはまっている。そのうちの幾枚かは、近ごろ取りかえられたもので、そばに並べると曇って緑がかってみえる古い窓ガラスのなかにあって、あまりに透き通りすぎているように思われた。そのあるものには、家の人たちが≪泡《あわ》≫と呼んでいる|きず《ヽヽ》がある。そうしたガラスを透かしてながめる樹木はよろけて見えた。そして、前を通る郵便配達人には、たちまち|こぶ《ヽヽ》ができるのだった。
長方形の庭は土塀《どべい》で囲まれている。それは、家の前で、木陰をもったかなりに広い芝生をつくり、それを取り巻いて砂と小石の小みちがあった。こっちのほうは土塀が低くなっていて、そこからは、この庭を取り巻き、そしてこの土地風に|ぶな《ヽヽ》の並木道でしきられた農家の庭が見えている。
家の裏手のほう、西のほうへ向っては、庭はさらにのびのびとひろがっている。花盛りの小みちは、南側の樹牆《エスパリエ》の前のところで、ポルトガル産の月桂樹《げっけいじゅ》やその他の樹木の厚い|とばり《ヽヽヽ》のおかげで海からの風を防いでもらっている。も一つの小みちは、北の土塀にそって木々の茂みの陰に消えていっている。従姉妹《いとこ》たちはそれを≪暗いみち≫と呼びならわしていた。そして、たそがれ過ぎると、進んでそこへ行ってみようともしなかった。この二筋の小みちは、幾段かおりたところで、庭から低くなってつづいている菜園のほうへ通じている。菜園の奥にあたり、小さな隠し戸のあけられている土塀の向う側には輪伐林があって、|ぶな《ヽヽ》の並木が右からと左からとそこへ集まってきている。西向きの踏段の上からは、この林を越して高地のほうまで見わたされ、その上をおおう農作物をながめわたすことができる。遠からぬ地平線のほうにあたっては、小さな村の教会堂が見える。そして夕暮れ、風のないときには、いくつかの家から立ちのぼる煙も見えた。
夏の晴れわたった夕暮れには、いつも夕食のあとで、わたしたちはよく≪低いお庭≫のほうへおりていった。わたしたちは隠し戸から出て、いくらかこのあたりを見わたすことのできる並木道のベンチのところまで行った。そこの、今は使わなくなっている泥灰石《でいかいせき》の採掘場の茅葺《かやぶき》屋根のそばに、叔父、母、ミス・アシュバートンが腰をおろした。わたしたちの前、小さな谷間は靄《もや》が立ちこめ、空ははるかかなたの林の上で金色に染まっていた。そしてわたしたちは、すでに薄暗くなっている庭の奥で、おそくまで時をすごしたものだった。やがてわたしたちはまた家へはいる。すると、客間のなかに、ついぞわたしたちといっしょに出ることのない叔母を見いだすのだった……わたしたち子供らにとっては、ここまでで夕方の時間はおしまいになっていた。だが、よほどたってから上がってくる親たちの足音を聞くころまで、部屋のなかで何か読みふけっていたこともたびたびあった。
庭へ出てすごさないほとんどすべてのほかの時間は、叔父の書斎に勉強机を据《す》えた≪自習室≫ですごした。従弟《いとこ》のロベールとわたしとは、隣りあって勉強していた。二人のうしろには、ジュリエットとアリサがすわった。わたしにとって、アリサは二つ年上で、ジュリエットは一つ下だ。ロベールは、四人のなかでいちばん年下だった。
わたしは、幼年時代の思い出をここにすっかり書くつもりはない。ただこの物語に関係のある部分だけを記すことにする。物語の始まりは、まさに父のなくなった年だと言えるだろう。おそらくはわたしの感受性が、わたし一家の不幸により、またわたし自身の悲しみによって、とだけとは言えないとすれば、少なくとも母の悲嘆を見ることによって極端に刺激されたことで、今までとちがった気持を起させたからにちがいない、わたしは年よりも早く物心づいていた。その年、フォングーズマールにやって来たときのわたしの目には、ジュリエットとロベールがいたって子供らしくうつったのに反し、アリサを見たときに、とつぜん、わたしたち二人がもう子供ではなくなったということが感じられた。
そうだ、それは父のなくなった年だった。わたしの記憶を裏書きしてくれるものは、わたしたちがついて間もなく、母とミス・アシュバートンとのあいだに取りかわされた会話だった。わたしは不意に、母がその友だちと話している部屋のなかへはいっていった。話は叔母についてのことだった。母は、叔母が喪に服さなかったとか、服したにしても、もうそれをやめてしまったといって腹を立てていた。(実をいうと、わたしにとって、喪服を着けたビュコランの叔母を想像することは、派手な衣装を着けた母を考えるのとおなじく、まったく不可能なことだった。)わたしたちがついた日には、わたしの記憶するかぎりにおいて、リュシル・ビュコランはモスリンの服を着ていた。いつものように、事を好まぬミス・アシュバートンは、母をなだめようとつとめていた。そして、おそるおそる説いていた。
「なにしろ、白だって喪の色ですものねえ」
「では、あなたは、あのひとのかけていた赤いショールも≪喪の≫色だっておっしゃるの? フロラさん、あたし腹を立てるわよ」と、母が叫んだ。
わたしが叔母に会うのは夏休みのときだけだった。そして、叔母が、わたしのよく見なれた、軽い、そして広くあいている胴着《コルサージュ》をつけていたというのも、それはたしかに暑さのためだったにちがいない。しかし、叔母が素肌《すはだ》の肩に投げかけていた、あのショールの燃えるような色にもまして、そうした肩もあらわな姿《デコルテ》こそ、母を憤慨させたのだった。
リュシル・ビュコランは、いたって|きりょうよし《ヽヽヽヽヽヽ》だった。わたしのところにある彼女の肖像は、その当時のままの叔母を見せている。自分の生んだ子供たちのなかの姉娘ともまちがえられそうな若やいだようす、いつものくせで、斜めに腰をかけ、左手をあてた顔をかしげ、小指を気取ったようすで唇《くちびる》のほうへ曲げている。目のあらいヘヤネットは、うなじのところになかば乱れかかっているちぢれ髪のたばを押えている。胴着《コルサージュ》の切れこんだところには、黒ビロードのゆるい首飾りのひものはしに、イタリア・モザイクの牌《メダイヨン》が下がっている。大きく結んで、その結んだところをひらひらさせた黒ビロードのベルトや、椅子《いす》の背にひもでつり下げられた|ふち《ヽヽ》の広いしなやかな麦藁《むぎわら》帽子など、すべてが彼女をいっそうあどけなく見せている。右の手はたらしたままで、閉じた書物をもっている。
叔母リュシル・ビュコランは植民地生れだった。彼女は、その両親を知らなかったか、それとも早く死に別れたとかいうことだった。あとで母から聞いたところによれば、彼女は捨て児《ご》か、または孤児だったが、ちょうど子供のなかった牧師のヴォーティエの家に引きとられ、また牧師もやがてマルティニックを引き払うことになったので、その子を連れて当時ビュコラン一家が住んでいたル・アーヴルにやって来た。ヴォーティエ一家とビュコラン一家は交際をはじめた。叔父は当時ある外国銀行につとめていたが、三年して家に帰ってきたとき、はじめてこの若いリュシルの姿を見た。叔父はすっかり彼女に打ち込んで、すぐさま結婚を申し込み、両親やわたしの母などにずいぶん心を痛めさせたものだった。リュシルは時に十六だった。それまでのあいだにヴォーティエ夫人には子供が二人生れていた。夫人はその子供のためにも、一月ごとに性質が変に固まってゆくこの養い子の感化を恐れるようになっていた。それに、暮しも楽ではなかったし……と、これらはヴォーティエ一家が母の弟の申し出を喜んで聞き入れた理由として、母が話して聞かせたことだった。それに加えて、わたしの想像するところによると、若いリュシルが、ようやく彼ら一家にとって恐ろしく当惑の種になりだしたということも考えられる。ル・アーヴルの社会というものを知っているわたしには、男の心をひきつけずにはいないようなこうした娘を、世間がどんな態度で迎えたかもたやすく想像される。ヴォーティエ牧師がいかにも柔和で、慎み深く、淳朴《じゅんぼく》で、たくらみにかかってはまったく手も足も出ず、悪の前にはすっかり|かぶと《ヽヽヽ》をぬいでしまうといったようなことは、もっとも、後になってわたしにわかったことなのだが――なにしろこのいかにも人のいい牧師さんは、まったく窮してしまったものらしい。ヴォーティエ夫人については、わたしはなんともいうことができない。夫人は、その四番目の息子、わたしとほとんど同年輩で、やがてわたしと友だちになるべき男の子を産み落すやいなや、産後の肥立ちが悪くて死んでしまったのだから……
リュシル・ビュコランの叔母は、わたしたちの生活にたいして交渉をもっていなかった。叔母は、昼食のあとでなければ部屋からおりてこなかった。そして、彼女はすぐソファかハンモックの上に長々と身をのばして夕方まで横になり、それからだるそうなようすで起きあがるのだった。彼女は、おりおり、額の上に、それが乾いているにもかかわらず、さも汗ばんでくるのをふくとでもいったようにハンカチをあてた。そのハンカチのいかにもしなやかなこと、それに花の匂《にお》いというよりはむしろ果実のような匂いのしていることが、わたしをすっかり驚かした。おりおり叔母は、帯のあいだから、ほかのいろいろな物といっしょに時計の鎖に下げてある銀の滑り蓋《ぶた》のついた小さな鏡を取りだした。そして、顔をそのなかにうつして見ては、指を唇にあててちょっと唾《つば》でぬらし、それで目尻《めじり》を湿していた。よく本を持っていることがあったが、ほとんどいつも閉じられたままだった。本のなかにはページのあいだに|べっこう《ヽヽヽヽ》のペーパー・ナイフがはさまっていた。誰《だれ》かがそばへ寄っていっても、叔母の眼差《まなざ》しは夢みつづけていて、振り向こうともしなかった。そして、しばしば、彼女のだらけたような、疲れたような手のなかから、あるいはソファの肱掛《ひじかけ》から、スカートの|ひだ《ヽヽ》から、ハンカチ、本、何かの花、|しおり《ヽヽヽ》などが滑り落ちたものだった。ある日のこと、その本を拾い上げてみたことがあったが――これも幼いおりの思い出話の一つであるが――それが詩であったのを見て赤面したことをおぼえている。
夜、夕食のあとでは、叔母はわたしたちの家族のテーブルへは来ないで、ピアノの前にすわって、いい気持になってショパンのゆるいマズルカをひいていた。そして、ときどき調子をはずしては、彼女は|とん《ヽヽ》と一つたたいて、そのままじっとしているのだった……
叔母のそばにいると、わたしには言うに言われぬ窮屈さが感じられた。それは、落ちつかない、尊敬とおそれとのまじりあったような気持だった。それはおそらく、それと知られぬ本能のはたらきから、彼女を警戒したからにちがいなかった。それにわたしは、彼女がフロラ・アシュバートンとわたしの母を軽蔑《けいべつ》していること、ミス・アシュバートンは彼女を恐れ、わたしの母はわたしの母で、彼女をきらっていることを感じていた。
リュシル・ビュコランの叔母よ、わたしはあなたにたいして、このうえ悪い気持をもちつづけようとは思っていない。あなたの犯したああしたあやまちも、しばらく忘れていたいと思っている……少なくもわたしは、怒りをまじえずにあなたのことを語りたいと思っている。
その夏のある日のこと――それともその翌年の夏であったかもしれない、いつも同じような道具立てなので、わたしの記憶は重なりあって、ときどきごっちゃになってしまう――わたしは客間に本を取りにはいっていった。すると、そこに叔母がいた。わたしはすぐ出てこようとした。すると、いつもはろくにわたしのほうを見ようともしない叔母に呼びとめられた。
「なぜそんなにすぐ出てゆくの? ジェローム、あたしがこわい?」
胸をどきどきさせながら、わたしはそばへ行った。わたしはつとめて微笑してみせ、思いきって彼女のほうへ手を出した。彼女は、片方の手でわたしの手を握り、もう一方の手でわたしの頬《ほお》をなでた。
「お母さんて、なんて変な身なりをさせておくんだろうね、かわいそうに」
わたしはちょうど、ひろい襟《えり》のついたセイラー服を着ていた。それを叔母はくしゃくしゃにしはじめた。
「セイラー服の襟はもっと広くあいてるものよ」叔母は、シャツのボタンを一つ飛ばしながらこう言った。「ねえ、こうしたほうがどんなにいいか!」そしてまた、あの小さな鏡を出して、自分の顔のほうへわたしの顔を引きよせ、わたしのくびのまわりにそのあらわな腕をまわして、その手を、はだけたわたしのシャツのなかに突っこみ、くすぐったくはないかと笑ってたずねながら、もっともっと奥のほうへ手を入れた……わたしが急にはねあがったので、セイラー服は破れてしまった。わたしは顔を真っ赤にしながら、
「まあ、おばかさん」と、叔母が叫んでいるあいだに逃げだしてしまった。わたしは庭の奥まで駆けていった。そして、菜園の小さな天水槽《てんすいおけ》の水にハンカチをひたし、それを額にあて、頬や、くびや、叔母のさわったどこもかしこも、洗って、こすった。
ときどき、リュシル・ビュコランには≪発作≫が起った。それはとつぜん彼女を襲って、家中大騒動をまきおこしてしまうのだった。ミス・アシュバートンは、大急ぎで子供たちを連れだし、彼らの気持をまぎらせようとした。だが、寝室か客間から聞えてくる恐ろしい叫び声を、いくら子供たちの耳にいれまいとしても、それはまったく不可能なことだった。叔父はすっかり度を失っていた。叔父が、タオルやオー・ド・コロンや、エーテルを取りにいくため、廊下を駆けていくのが聞えていた。夕方、まだ叔母が姿を見せぬ食卓に向った叔父は、いつも心配そうな、老いを見せた顔をしていた。
発作がだいたいすぎてしまうと、リュシル・ビュコランは、いつも子供たちを彼女のそばへ呼びよせた。少なくともロベールとジュリエットを。アリサを呼ぶことは絶えてなかった。こうした悲しい日には、アリサは自分の部屋に閉じこもったきりだった。そして、そこへ時おり、叔父が出かけていくのだった。というのは、叔父はよく彼女と話をしていたからだった。
叔母の発作は召使たちを非常に恐れさせた。ある晩、発作がことのほかはげしく、わたしが母といっしょに、比較的客間のできごとの聞えてこない母の部屋に閉じこめられていたとき、わたしたちには、
「旦那《だんな》さま、いらしってください、奥さまが息をお引きとりになりそうなのです」と叫んで、廊下を駆けていく女中の声が聞えた。
叔父はアリサの部屋へ行っていた。母は、叔父を呼びに行った。十五分ばかりして、二人がそれと気がつかずに、わたしのいる部屋のあけはなった窓のところを通っていったとき、わたしの耳には母の声が聞えた。
「ねえ、はっきり言ってみましょうか、あれはみんな、お芝居よ」そして、幾度も言葉をきっては、「お――し――ば――い」と、言った。
これは、休暇の終りごろに起ったことだった。そして、わたしたちが喪に服してから二年後のできごとだった。それから後、わたしと叔母とは長いこと会わなかった。ところでわたしは、わたしたちの家庭をくつがえすにいたったあの悲しい事件、またその解決の少し前にあたって、それまで叔母にたいして感じていたいろいろ込み入った、まだはっきりしなかったわたしの感情を、まったく憎しみに代えさせるにいたった一つのできごとを語るに先だち、ここで従姉《いとこ》のことを話しておくべきだと思う。
アリサ・ビュコランが美しかったこと、わたしはまだそれに気がついていなかった。わたしが彼女のほうへ引きつけられ、縛られていたのは、単なる美というよりも、もっとほかの魅力によってだった。もちろん彼女は、とても母親似だった。しかし、彼女の眼差しは、わたしがよほどたってからやっとその似通っていることに気がついたほど、まったくちがった表情をたたえていた。わたしには、どうも顔というものがうまく描き出せない。輪郭や、それに目の色までが消えうせてしまう。わたしは彼女の、すでにそのころからうれいを含んでいるようだった微笑の表情と、大きな輪を描いて、目もとからおどろくほど遠くはなれている眉毛《まゆげ》の線とを思い出すばかりだ。こんな眉毛は、どこでも見たことがない……ただ、ダンテ時代のフィレンツェの小さい彫像に、これとおなじのがあっただけだ。子供の時分のベアトリーチェも、おそらくこんなに大きく弧を描いた眉毛を持っていたにちがいない。この眉毛は、彼女の眼差しに、また彼女の体全体に、おぼつかなげな、それでいて頼りきっているような物問いたげな表情――そうだ、熱情的に問いかけてくるといったような表情をあたえていた。彼女にあっては、すべてが問いかけの気持と、待ちもうけの気持だった……そうした問いかけるような彼女のようすに、どうしてわたしの心がとらえられ、一生まで決定されるにいたったか、それをこれから話すことにしよう。
だが、彼女にくらべれば、ジュリエットのほうが、もっと美しく思われてもよかった。快活さと健康とが、彼女に輝きをそえていた。だが、彼女の美しさは、姉の優雅さに並べるとなんとなく外面的なもののように思われ、誰にでも一目でそれと見てとれる程度のもののように思われた。一方|従弟《いとこ》のロベールには、べつにこれと取りたてて言うべき特徴がなかった。単に、わたしとほとんど同年輩の男の子だったというにすぎない。わたしは、ジュリエットや彼とは、ただ遊ぶだけだった。そしてアリサとは、いつも話をした。アリサは、ほとんどわたしたちの遊び仲間にはいらなかった。過去の思い出にどれほど深く分け入ってみても、いつもまじめで、やさしく微笑を含んだ、考えぶかそうな彼女が見いだされるのだ。わたしたち二人、どんな話をしたことか。子供二人に何の話ができるだろう。いずれそのうち、そのことも語ろうと思っている。だが、まず、そして二度と叔母のことを書かないため、叔母の身に関したことをここですっかり話してしまおう。
父の死後二年、母とわたしとは復活祭の休暇をすごすため、ル・アーヴルにやって来た。わたしたちは、町のなかでかなり手ぜまな家に住んでいるビュコランの家には泊らないで、もっと広い家に住んでいる母の姉の住居に落ちついた。めったに会うことのなかったプランティエの伯母は、ずっと|やもめ《ヽヽヽ》を通していた。その子供たち、わたしよりも年がいっており、それに性質も非常にちがっていたその子供たちとは、わずかに顔見知りというにすぎなかった。ル・アーヴルで≪プランティエ家≫と呼ばれているその家は、町のなかにはなく、町を見おろした、≪山≫と呼ばれる丘のなかほどにあった。ビュコラン一家は商業区近くに住んでいた。そこには急な坂があって、双方の家へはかなり短い時間で往来することができた。わたしは一日のうちに幾度となく、その坂をころがりおりたり、よじのぼったりしたものだった。
その日、わたしは叔父の家で昼食をたべた。食事ののち、しばらくして叔父は出ていった。わたしは叔父を事務所まで送っていき、それからプランティエの家に母をさがしにいった。ところが、行ってみると、母と伯母とは外出していて、夕食のときでなければ帰ってこないだろうということだった。わたしはすぐさま町へおりていった。町を自由に散歩するなどということはめったにできないことだった。わたしは、海からの靄《もや》で、陰鬱《いんうつ》な風情《ふぜい》の港に来た。わたしは、一、二時間波止場の上をさまよい歩いた。急にわたしの胸のなかには、いま別れてきたばかりだが、不意にアリサを訪ねてみようという考えが思い浮んだ……わたしは駆け足で町を横切ってビュコラン家の戸口のベルを鳴らした。と、もう階段のところに飛びこんでいた。戸をあけてくれた女中は、わたしを引きとめた。
「ジェロームさま、お上がりになってはいけません。奥さまがまた発作を起していらっしゃるんですから」
が、わたしはかまわず上がっていった。叔母さんには用がないんだ……アリサの部屋は四階にあった。二階には客間と食堂がある。三階は叔母の部屋で、そこから話し声が湧《わ》き起っていた。部屋の戸はあいていて、どうしてもその前を通らなければならない。一筋の明りが部屋からさしていて|踊り場《パリエ》のところを横さまに流れていた。わたしは、見つけられてはと思って、ちょっとためらって、身を隠した。そして、おどろいたことには、次のような場面を見たのだった。窓掛けがしめられて、二つの燭台《しょくだい》の火が花やかに照らしだしている部屋の中央に、叔母は長《なが》椅子《いす》の上に身を横たえていた。その足もとにはロベールとジュリエットがいた。叔母のうしろには、中尉《ちゅうい》の軍服をつけた、見たこともない若い男がいた。その場に二人の子供が居あわせたこと、それは今日考えればじつに言語道断なことのように思われる。だが、当時の無邪気だったわたしには、それはむしろ安心をあたえてくれたのだった。子供たちは笑いながら、フルートのような細い声で、次のような言葉を繰り返しているその見知らぬ男をながめていた。
「ビュコラン! ビュコラン!……もしぼくが羊を一頭持っていたら、たしかにビュコランて名をつけますな」
叔母もまた大きな声をたてて笑った。わたしは叔母が男に巻きタバコを差し出し、男に火をつけてもらってから、それを一吹き二吹きふかすのを見た。巻きタバコが床に落ちた。すると、男はそれを拾おうとして飛びだし、ショールに足をからまれたようなふりをしながら、叔母の前にひざまずいた……こうしたばかばかしいお芝居のおかげで、わたしは見つけられずに、そこを通り抜けることができた。
いま、わたしはアリサの部屋の戸口に立っている。わたしはちょっと待った。笑い声と歓声とが下から聞えてくる。おそらくそれがわたしのノックの音を消したのだろう。わたしにはなんの返事も聞かれなかった。わたしはドアを押した。するとドアは音もなくあいた。部屋のなかはすでに薄暗くなっていて、すぐにはアリサを見わけることができなかったほどだった。アリサは、そのベッドの枕《まくら》もとにひざまずいて、薄れ日のさしこんでくる窓のほうへ背を向けていた。そして、わたしの近よるのを見て振り向いたが、べつに立ちあがろうともしなかった。彼女はつぶやくようにこう言った。
「あら、ジェローム、なぜ帰ってきたの?」
わたしは、キスしてやろうと思って体をかがめた。彼女の顔には涙があふれていた……
この瞬間が、わたしの一生を決定したのだった。わたしは、今もなお苦しく思わずにはそのときのことを思い出せない。もちろんわたしには、はなはだ不完全にしかアリサの悲嘆の原因がのみこめていなかった。だがわたしには、そうした悲嘆が、この波打っているいじらしい魂にとって、またすすり泣きにふるえているこのかよわい肉体にとって、いかに強すぎるものであるかがひしひし感じられたのだった。
わたしは、ひざまずいている彼女のそばに立っていた。わたしには、自分の心に起ったこの新しい興奮をどう言い現わしていいかわからなかった。わたしはただ、彼女の頭を自分の胸にあて、また彼女の額にわが心が流れだしてくる自分の唇《くちびる》をじっと押し当てていた。愛と憐《あわ》れみ、また感激、犠牲、徳行といったものが雑然と入りまじった感情に陶酔しながら、わたしは全心から神に訴え、わが一生の目的は、このアリサを、恐怖、不幸、生活から守ってやることのほかにないと思いながら、みずから進んでそれにあたろうとしていた。わたしは、祈願の心に満ちてひざまずいた。わたしは、アリサを、かばうように抱きしめてやった。わたしの耳に彼女がききとれないほどの声でこう言うのが聞えた。
「ジェローム、みんなには見られなかったわね。早く出て行って! 見つかるといけないから」
そして、さらに声を低めて、
「ジェローム、誰《だれ》にも言わないでね……お気の毒なお父さまは、なんにもご存じないんだから」
で、わたしは何も母に言わなかった。だが、プランティエの伯母と母とのいつ終るともない内証話《ないしょばなし》や、二人の何か隠しているような、落ちつかない、心配そうなようす、二人の話しているそばへ行くごとに、≪お前はもっとあっちへ行って遊んでいるんですよ≫と言って遠ざけられたことなど、すべては、わたしに、二人ともビュコラン家の秘密についてまったく知らないわけはないのだと考えさせるのだった。
わたしたちがパリへ帰るか帰らないのに、一通の電報が母をル・アーヴルへ呼びもどした。叔母が家出をしたのだった。
「誰かといっしょに?」と、わたしは、母がわたしをあずけていったミス・アシュバートンにたずねた。
「それはお母さまにうかがうのですよ。わたしには何も申せません」と、年をとったこの母の親友は、この事件に当惑しきって答えたのだった。
二日たって、ミス・アシュバートンとわたしとは、母のもとへ行くために出発することになった。それは土曜日のことだった。翌日は、従姉妹《いとこ》たちと会堂で会えるはずだった。そして、わたしの心はそのことだけでいっぱいだった。それは子供心に、そうしたところで会うことにより、わたしたちの再会が浄《きよ》められるということを、とても重大に考えていたからだった。ともかく、叔母のことなど、さして考えてはいなかった。そして、母に向ってたずねたりしないところに、自分としての値打ちがあるのだと考えていた。
その朝、小さなチャペルには、人はたいして多くなかった。ヴォーティエ牧師は、たしかに思うところあってのことだろう、瞑想《めいそう》のための引用句として、≪力を尽して狭き門より入《い》れ≫というキリストの言葉を取り上げた。
アリサは、わたしの数列前の席についていた。わたしからは、彼女の横顔がながめられた。わたしは、われを忘れてじっと彼女を見つめていた。そうしたわたしにとっては、一心に聞き入っていたこれらの言葉も、じつは彼女を通してそれを聞いているもののように思われた。叔父は、母のそばに腰をかけて涙を流していた。
牧師は最初全節を読んだ。「≪力を尽して狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路《みち》は広く、之《これ》より入る者おおし。生命《いのち》にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし≫」そして、主題をはっきりわけながら、まず≪広き路≫のことを語った……。わたしは、ぼんやりして、夢のように、叔母の部屋のことを思い浮べていた。ねそべって、笑っている叔母が思い浮んだ。つづいて、これも笑っている、花やかな士官の姿が思い浮んだ……そして笑うということ、喜ぶということ自体が、すでにしゃくな、不愉快なものに思われ、あたかも罪悪のいとわしい誇大な表現のようにさえ思われてきた……
「≪之より入る者おおし≫」と、ヴォーティエ牧師はつづけた。そして、彼は説きつづけた。わたしは、笑いさざめき、浮かれたようすで行列をつくって歩いてゆく多くの着飾った人たちを思い浮べた。そして、わたしは、その人たちと歩みをそろえる一足ごとに、アリサから遠ざかるようだったので、とうていそんな仲間入りはできないし、またしたくもないと思った。――牧師は、ふたたび本文の冒頭を口にした。そしてわたしは、努力してそこからはいらなければならないという狭き門を見た。わたしは、見つづけている夢のなかで、その門のことを一種の圧延機のように想像して、自分はそこから骨を折ってはいっていくのだ、それは非常な苦しみではあるが、しかしそこには、何か天の祝福の前味といったようなものが見いだされるのだというふうに感じていた。そして、この門は、さらにアリサの部屋の戸口になっていた。わたしはそこへはいるために体を小さくし、また自分のなかに残っているあらゆる利己心というものを捨てるのだ……「≪生命にいたる路は狭ければなり≫」とヴォーティエ牧師はつづけた。そして、わたしは、あらゆる苦行、あらゆる悲しみを超えて、はるかに、純な、神秘な、聖《きよ》い喜び、わたしの心がすでに渇望《かつぼう》しはじめている一つの新しい喜びを想像し、予感していた。わたしはこの喜びを、あの鋭いようで優しいヴァイオリンの音のように、またはあのアリサの心とわたしの心とが、そのなかで燃えつきてしまう激しい炎のように想像していた。わたしたち二人は、黙示録に記されたような白い衣装を着て、たがいに手と手を取りあいながら、おなじ目的をさして進んでゆくのだ……こうした子供のいだく空想が、たとい微笑をもって迎えられるようなものであろうと、そんなことはどうでもいい。わたしはいま、ただありのままを物語っているのだ。そこには混乱も見られるだろうが、要するにそれはただ文字の上のことであり、それに、きわめて明確な感情をあらわすにあたっての、比喩《ひゆ》の不完全さにほかならないのだ。
「≪之を見いだす者すくなし≫」と、ヴォーティエ牧師は終りかけていた。彼は、どういうふうにしてこの狭き門を見いだすべきかを説いた……≪見いだす者すくなし≫――自分はたしかにその一人になるだろう……
説教の終り近くなると、わたしの心の緊張は極点に達して、式が終るやいなや、わたしは従姉に会おうともしないで逃げるように立ち去った。それは一種の自尊心から、わたしの決心を(わたしはすでに心に決するところがあった)試練にかけよう、そしてそのためには、ただちに彼女から遠ざかることが、自分が彼女にもっともふさわしい人間になるのだと考えたからのことだった。
こうしたおごそかな戒めは、生れながらに義務の気持に慣らされ、すでに素質のできあがっている一つの心を見いだした。そして、わたしの父母が身をもってしめしてくれた手本は、父母がわたしの若き日の心の衝動に課していたあのピューリタン風な規律と結びついて、そうした心を、あの徳と呼ばれるもののほうへ傾斜していった。わたしにとって、身を忍ぶということは、他の者にとって放縦に身をまかせるというのと同じく、きわめて自然なことに思われていた。そして、わたしに課せられた厳格さは、わたしの力をくじかせるどころか、かえってわたしを楽しい気持にさせてくれていた。わたしが将来にたいして捜し求めていたものは、幸福それ自身というより、むしろそれに到達せんがための不断の努力にほかならなかった。そして、わたしはすでに、幸福というものと、徳というものとを同一のものとして考えていた。もちろん十四歳の子供であったわたしは、まだ考え方もはっきりせず、どうにでも変えられるようなものではあった。だが、やがて、わたしのアリサにたいする愛は、わたしをして遮《しゃ》二無二《にむに》そのほうへ押し進めることになったのだった。それはまったくとつぜんな内面の啓示だった。そのおかげで、わたしにはわたし自身というものがはっきりわかってきた。すなわちわたしには、自分が反省的であり、内気であり、希望に満ち、他人のことなどあまり考えず、何かやってみようなどという気持もなく、克《か》つことといえばただ自分の内心の勝利だけしか考えない人間であることがわかってきた。わたしは勉強が好きだった。遊びごとのなかでは、頭を使わなければならないものとか、骨の折れるものでなければ夢中になれなかった。同じ年ごろの友だちとはあまり交際もしなかったし、遊ぶことがあっても、それは情合ずくかお愛想《あいそ》からにすぎなかった。それでいて、アベル・ヴォーティエとだけはつきあった。彼は翌年、わたしの後を追ってパリに来て、おなじクラスでいっしょになったのだった。にこやかな屈託のない少年で、彼にたいするわたしの気持には、畏敬《いけい》というよりむしろ親しさのほうがまさっていた。が、少なくとも彼とだけは、いつもわたしの思い出がかけめぐるル・アーヴルやフォングーズマールの話をすることができた。
従弟《いとこ》のロベール・ビュコランは、われわれと同じ中学の寄宿舎に、二つ下の級に入れられていたが、その彼とはただ日曜日に会うだけだった。それにしても彼が、その実あまり似てはいなかったが、あの従姉妹《いとこ》たちの弟でなかったとしたら、おそらくよろこんで会う気にもならなかったにちがいなかった。
そのころのわたしは、恋で心がいっぱいだった。そしてこの恋の思いに照らされて、初めてロベールとの交遊が、わたしにとっていくらかの重要さをもつことになったのだった。アリサといえば、福音書が教えてくれた高価な真珠のようなものだった。わたしはそれを獲んがために、自分の持つあらゆるものを売り払う男だった。たといそのころまだほんの子供ではあったにしても、恋を物語り、そして彼女にたいしていだいていたわたしの感情をそう名づけるのはまちがっているだろうか。それからのち、わたしの知ったことで、何ひとつこれ以上に恋という名にふさわしく思われたものはなかった。それのみならず、わたしが、肉体的にきわめて明確な不安に悩まされる年ごろになったときでも、わたしの感情はたいして性格が変らなかった。子供の時分、ただなんとかして彼女にふさわしいものになりたいと思っていたその彼女を、わたしはもっと直接な方法でわが物にしようなどとは考えてさえもみなかった。精励、努力、敬虔《けいけん》な行為など、すべてをわたしは神秘な気持でアリサに捧《ささ》げていた。そして、彼女のためにのみしているすべてのことを、多くの場合、彼女自身には気づかせないようにしておくことこそ、徳をみがいていくことだと考えていた。こうしてわたしは、何かしらのぼせかえるような謙譲の気持に陶酔し、ああ、自分自身の楽しみなどはほとんど念頭におかず、ただ自分にとって何か努力に値することのみを喜ぶというふうになっていた。
こうした張り合いの気持は、ただわたしだけを一所懸命にさせていたのだろうか? 事実アリサはそうしたことに気がついているようすもなく、また彼女のため、かくも一心に努めているわたしのために、またはわたしゆえに、何かしてくれようとするでもないように思われた。彼女の飾りけのない心のなかでは、すべてがまったく自然のままの美しさを保っていた。彼女の徳には、あるがままに投げ出されていると思われるほどな自由さと優雅さが見られるのだった。その子供らしい微笑のおかげで、彼女の重々しい眼差《まなざ》しも愛くるしいものになっていた。わたしは、彼女のじつに優しい、またしとやかな、あの物言いたげに上に向けられた眼差しを思い出す。そして、当惑しきった叔父が、この姉娘のもとに援助と助言と慰安とを求めていたことが理解できるのだ。その次の年の夏、わたしは、叔父がよく彼女と話しているところを見かけた。悲しみのために叔父はすっかり老いこんでしまっていた。食事のときにもほとんど口をきかず、時おり思い出したように、無理につくった快活らしさを見せてはいたが、それは彼の沈黙にもましてつらそうに思われた。夕方、アリサが迎えに行くまで、叔父は書斎でタバコをふかしていた。そしていろいろ言われたすえに、やっと外へ出るのだった。そしてアリサは、叔父をまるで子供のようにすかして庭に連れだす。二人は、花の小みちを下って、菜園の階段に近く、椅子《いす》の出してあるロータリーのところへ行って腰をおろすのだった。
ある日の暮れがた、わたしは、あの大きな一もとの赤|ぶな《ヽヽ》の木のかげになった芝生に身を横たえて読書につい遅くまで時をすごしてしまった。そこはあの花の小みちのあたりとは月桂樹《げっけいじゅ》の|まがき《ヽヽヽ》一つで隔てられ、姿こそ見えないけれど声だけは聞えるといったそのあたりに、わたしはふとアリサと叔父との話し声を耳にした。たしかに二人は、今までロベールのことを話していたにちがいなかった。そのときアリサの唇からわたしの名がもれた。そして、だんだん話し声が聞き取れるようになってくると、叔父の声で、
「うん、あの子はいつまでも勉強が好きでいるだろうよ」と、言うのが聞えた。
思わず立ち聞きしてしまったわたしは、そのままその場を去ろうと思った。少なくとも、なんとかして、自分のここにいることを知らせたいと思った。だが、どうしよう。せきばらいをしたものか、それとも≪ここにいますよ、話が聞えますよ≫とでもどなったものか……わたしが黙っていたのは、それはもっと話を聞こうという好奇心からというより、むしろ|ばつ《ヽヽ》の悪さと、臆病《おくびょう》からのためだった。それに、二人はただそこを歩いて通りすがったまでのこと、したがって、その話にしても、はっきりそれと聞き取れなかったことでもあるし……だが、二人はゆっくり歩いていた。たしかにアリサは、いつものように腕に軽い籠《かご》をかけて、しおれた花を摘みとったり、海からたびたび襲ってくる霧のおかげで、青いままで樹牆《エスパリエ》の根方に落ちてしまった果実を拾ったりしていたにちがいない。わたしの耳には、アリサの澄んだ声が聞えた。
「お父さま、あのパリシエのおじさまは偉いお方だったんですの?」
叔父の声は、低く、そしてはっきりしていなかった。で、なんと返事したのかわたしには聞き取れなかった。アリサはなおもたずねつづけた。
「たいへん偉い方だったんでしょう?」
また、あまりにもぼんやりした返事が聞えた。すると、ふたたびアリサの声で、
「ジェロームはりこうですわね?」
聞き耳を立てずにいられようか。……しかし、今度は何も聞きとれなかった。アリサはつづけた。
「偉い人になるだろうとお思いになって?」
このとき、叔父の声は高くなった。
「だが、まず聞きたいのは、お前の言う≪えらい≫というのはどういう意味なのかね。人間は、そんなふうには見えないでいて、少なくもこの世の人間たちの目にはそういうふうに見えないでいて……しかも神さまから見れば非常にえらい人になれるんだからね」
「そうした意味で言ってるんですの」と、アリサが言った。
「それに……そんなことが今からわかるものかね。あの子にしても、まだ子供じゃないか……もちろん将来望みはありそうだ。だが、それだけで成功するとはかぎらない……」
「では、ほかにどんなものがいるんですの?」
「さあ、なんと言ったものかな。安心とか、助力とか、愛とか……」
「助力ってどんなことですの?」と、アリサがさえぎって言った。
「わたしには得られなかった、あの愛情とか、尊敬とかいったようなものなんだ」と、悲しげに叔父が答えた。それきり、二人の言葉はまったく聞きとれなくなってしまった。
夜の祈祷《きとう》のとき、わたしは心にもなく犯してしまった無作法について後悔した。そして、そのことを従姉《いとこ》に打ち明けようと決心した。もっともそこには、もう少し立ち入って聞きだしたいという好奇心もあったらしい。
翌日わたしがそのことを言いだすやいなや、
「ジェローム、そんなふうに立ち聞きするなんてたいへん悪いことよ。わたしたちに知らせるか、行ってしまうかしたらよかったんじゃないの」
「大丈夫ぼくは聞いていなかったんだ……聞こうと思わずに、ただ耳にはいっただけなんだ……それにそっちも、ずっと通って行ってしまったじゃないか」
「わたしたちはゆっくり歩いていたことよ」
「そうかもしれない。だけどぼくにはほんのわずかしか聞えなかった。そして、すぐ聞えなくなってしまった……ねえ、成功するためにどんなものがいるって聞いたとき、叔父さんはなんて返事した?」
「ジェローム」と、アリサは笑いながら言った。「あなたがちゃんと聞いたとおりよ! あなたはわたしに、もう一度言わせて楽しみたいのね」
「ぼく、たしかにはじめのほうしか聞かなかった……叔父さんが、あの安心と愛とのことを話していたときさ」
「それから、もっとほかのものがいるって言ったのよ」
「で、アリサはなんて返事をした?」
アリサは急に真顔になった。
「一生のための助力ならジェロームにはお母さまがいらっしゃるって」
「だって、アリサ、ぼくにいつまでもお母さんがいてくださらないことはわかってるじゃないか……それに、それはちがうんだ……」
アリサはうつむいた。
「パパもそうだと言ったのよ」
わたしはふるえながら彼女の手を取った。
「ぼくがこれからどんなものになろうとしても、それはみんなアリサのためなんだ」
「だってジェローム、わたしだってあなたから離れるかもしれないじゃないの」
わたしの言葉には、わたしの心そのものが込められていた。
「ぼくは、ぼくはどうしたって離れない」
彼女は、軽く肩をすくめてみせた。
「あなたはひとり歩きできるほど強くはないの? 神さまを得ようと思ったら、誰《だれ》でもひとりでなくてはいけないのよ」
「だって、ぼくにみちを教えてくれるのは君なんだ」
「なぜあなたはイエスさまのほかに案内者が必要なの?……わたしたちがおたがいにいちばん近くにいるときは、それはおたがいがすっかり自分自身を忘れてしまって、ただ神さまにお祈りをしているときだけだとは思わない?」
「うん、二人をいっしょにさせてくださいってね」と、わたしは口をはさんだ。「朝も晩も、ぼくはいつもそう神さまにお願いしてるんだ」
「神さまのなかでいっしょになるっていうことが、あなたにはわからない?」
「それはよくわかってるさ。それは二人のあがめるおなじもののなかに、おたがいを夢中になって見いだすことなんだ。ぼくには実際、アリサを見つけるために、アリサのあがめるものをぼくもあがめているような気がするんだ」
「あなたのあがめ方は純粋ではないわ」
「むずかしい注文はたくさんだ。天国だって、そこでアリサに会えないのだったらぼくはまっぴらだ」
アリサは口に指をあてて、少し改まった調子で言った。
「≪まず神の国と神の義とを求めよ≫」
こうしてわたしたちの会話を書きとめていきながら、わたしには、ある子供たちの話が案外好んでもっともらしいものであることを知らない人たちにとっては、こうした会話はかなり子供らしくなく思われるであろうと考えられる。といってどうしたらいいのだろう。その言いわけでもしたものか。そんなことは、もっと自然らしく聞かせようとして言葉を飾りたてるのとひとしく、わたしとしてしたくないことなのだ。
わたしたちはラテン語の福音書を手に入れて、そのなかの長い章句をそらんじた。アリサは、弟を助けるという名目で、わたしとラテン語を勉強していた。だが、それはわたしの読書についてくるためだったと思われる。そしてまた、彼女がたしかについてきそうもない学問には、わたし自身も実のところ、趣味をもとうとしなかった。こうしたことは、時にはわたしのさまたげになったかはしらないが、だが誰しもがすぐ考えるであろうように、それはわたしの精神の飛躍を引きとめたりするようなものではなかった。むしろわたしには、彼女がどこへでも自由に、わたしの前に立って進んでくれているように思われた。しかもわたしの心は、アリサ次第で、その方向を定めていた。そしてその当時わたしたちの心を支配していたもの、二人が≪思索≫と呼んでいたところのもののごときも、その実しばしば、もっと深く分け入った二人の心の一致の口実、二人の感情に着せる衣、また二人の愛の気持をかくす掛け衣《ぎぬ》にすぎない場合が多かった。
母は最初、彼女にはその深さがまだわからないでいたこうした感情について、たしかに心を痛めていたらしい。ところが、いま自分の健康がようやく傾きかけたのを意識するようになった彼女は、わたしたち二人をひとしく母として抱擁できたらと思うようになっていた。よほど前からわずらっていた心臓の病も、このごろではますます故障を起しがちだった。特に激しい発作のあったとき、母はわたしをそばに呼んで、
「ねえ、母さんもずいぶん年をとったからね。いつ急にお前を残していくことになるかもしれないよ」
母は、息苦しくなって口をつぐんだ。わたしもたまらなくなって、それを言いだすのを母が待っているらしく思われたことを、口に出してしまった。
「お母さま……わかるでしょう。ぼくはアリサをお嫁にもらいたいんです」わたしの言葉は、母の心の底深くにあった考えと結びついたと見えて、母はすぐそのあとを受けてこう言った。
「そうなのよ。あなたに話したかったのはそのことなのよ、ジェローム」
「ねえお母さま!」と、わたしはもう泣き声になっていた。「アリサはぼくを好きでいてくれるでしょうか?」
「そうともさ」母は幾度も優しく「そうともさ」と、繰り返した。母は話をするのが苦しそうだった。母はつけ加えて言った。「なにごとも主におまかせするのだよ」そしてちょうどわたしが母のそばにうつむいていたものだから、母はその手をわたしの頭にのせて、なおも言葉をつづけた。「主がお前がたをお守りくださるように。どうか主が、お前がた二人をお守りくださるように」こう言って母はうとうと眠りに落ちていくらしかった。わたしも母を起そうとしなかった。
こうした会話は、それ以後二度とかわされなかった。翌日は母も気分がよかった。わたしはまた講義をきくために学校へもどった。そして、あのおりのなかば打ち明け話めいたことは、ふたたび沈黙にとざされてしまった。それに、それ以上、なんの知りうることがあったろう? アリサがわたしを愛していることについては、片時たりとも疑う余地がなかった。あるいは、それまで疑ったことがあるにしても、引きつづいて起った悲しいできごとによって、そうした疑いの気持も永遠にわたしの心から消え去ってしまったにちがいなかった。
母がある日の暮れがた、いたって安らかに、ミス・アシュバートンとわたしに見まもられながら消えていったのだった。母の命をうばった最後の発作は、それに先だつ数々の発作にくらべて、最初そう激しいもののようには思われなかった。それはただ、臨終近くなってはじめて危険な症状をしめしたので、親類のだれひとり駆けつける暇がなかった。わたしは母の古い友だちといっしょに、なつかしい母の通夜《つや》の第一夜を送った。わたしは母を深く愛していた。そして、涙が流れ落ちるのにもかかわらず、心のうちに悲しみの気持が湧《わ》き起らないのにおどろいていた。わたしが涙を流したのは、それは、目の前で自分よりずっと年の若い友だちに神の御前《みまえ》に先だたれてしまったミス・アシュバートンを見て、気の毒に思ったからのことだった。一方、母の死が、従姉をわたしのほうに早く近づけることになるだろうというひそかな空想は、わたしの悲しみを強く抑えたのだった。
翌日叔父が来た。叔父はわたしに、プランティエの伯母といっしょにその次の日でなければやってこられないという娘の手紙をわたした。
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……ジェローム。お母さまのおなくなりになる前に、待っておいでだったご満足のゆくような言葉を申しあげられなくて、わたし、どんなに残念に思っているでしょう。今はお母さまも許してくださいますように! これからはわたしたち二人、神さまだけに導いていっていただけますように! さよなら、かわいそうなお友だち。これまでより、もっともっと優しい、あなたのアリサより。
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この手紙は何を意味していたのだろう。それを言えなかったことが残念だったというその言葉、それは、わたしたち二人の将来を約束すべき言葉でなくてなんだろう? だがわたしは、まだずいぶん年が若かったし、彼女にすぐさま結婚を申し込む気にはなれずにいた。それに、約束しておく必要があっただろうか? 二人はとっくに、婚約者のようなものではなかったろうか? 二人の恋は、近親の人たちにとって、もうなんの秘密でもなかったのだ。叔父にしても、母とおなじく、それになんの故障も持ちこまなかった。そればかりではない。叔父はすでに、わたしをなかば息子のようにとりあつかってくれていたのだった。
数日ののちにやってきた復活祭の休暇を、わたしはル・アーヴルですごし、泊るほうはプランティエの伯母の家にして、食事はほとんどビュコランの叔父の家でたべてすごした。
伯母のフェリシー・プランティエは、この上なくよくできた女性だった。しかしわたしの従姉妹《いとこ》にしても、またわたしにしても、彼女にたいしては深い親しみがもてずにいた。彼女はひっきりなしに|せかせか《ヽヽヽヽ》して、いつも息をはずませていた。動作にしてもやさしさがなく、声には|つや《ヽヽ》というものがなかった。一日のうちのいつであろうと、いったんわたしたちがかわいくてたまらなくなると、彼女はたまらないほどの愛撫《あいぶ》でわたしたちを閉口させた。ビュコランの叔父は、とてもこの伯母を愛していた。だが、わたしたちは、伯母と話しているときの叔父の声を聞いただけで、叔父が伯母よりもわたしの母のほうをどれほど愛していたかということをわけなくさとることができた。
ある晩、伯母が言うには、
「ねえ、お前、この夏をどうしてすごすつもりか知らないけれど、どんな計画を立てたのか話しておくれでないかね。そうしたら、わたしもわたしで決めることがあるし、わたしにできることだったら……」
「まだたいして考えていないんです」と、わたしは答えた。「どこか旅行でもしてみようと思ってるんです」
すると、伯母は言葉をつづけて、
「ねえ、わたしのところも、フォングーズマールとおなじように、いつやって来てもいいんだよ。むろん、あちらへ行ったら、たしかに叔父さんもジュリエットも喜ぶことだろうし……」
「アリサのことでしょう」
「そうそう、ごめんなさいね。わたしとしたことが、お前の好きなのはジュリエットだとばかり思いこんでいたのよ! 叔父さんから聞くまではね……まだひと月にもならない前のことだった……ねえ、わたしはお前がかわいいんだよ。だが、お前というものをよく知っていないのさ。お前には、めったに会うことがないものね……! それにわたしは、人さまのことがあまり目につかないたちでね。わたしには、自分に関係のないことをながめるために立ちどまったりするひまがないのよ。わたしはいつも、お前がジュリエットと遊んでいるのを見たものだった……だから、わたしはそう思ったのさ……あの子はずいぶん|きりょうよし《ヽヽヽヽヽヽ》で、なかなか陽気だし」
「ええ、いまだって彼女とは喜んで遊びますよ。でも、ぼくの好きなのはアリサなんです……」
「いいよ、いいよ。それはお前の好きなようにさ……わたしは、ほら、アリサをあまり知らないと言ってもいいくらいなんだから。あの娘は、妹よりも口数が少ない。ただお前があの子を選んだからには、何かりっぱな理由があってだろうね」
「だって伯母さん、ぼくがアリサを好きなのは、何も選んだためではないんですよ。どんな理由だなんて、考えさえもしなかったんです……」
「怒ってはいけないよ、ジェローム。意地悪で言っているんじゃないんだから……おや、言おうとしたことを忘れちまった……ああそうそう、いずれはご婚礼ということで決着がつくんだろうがね。だが、お前にはまだ喪がかかっていることだし、お堅く言うと、今すぐ婚約者になっておくことはできないね。……それにお前も若いことだし……お母さまがいないのに、今お前ひとりでフォングーズマールへ行くというのは、ひょっとすると変な目で見られることになりはしまいかと思われるんだが……」
「だから、それを考えてぼくは旅行しようかと言ったんです」
「そう、それでね。わたし考えたんだが、わたしがいたら万事うまくいくだろうと思うのさ。それで、この夏は、わたしも、しばらくのあいだ、ひまをつくっておいたんだよ」
「だが、来てくださいって言いさえしたら、ミス・アシュバートンだって喜んでやって来てくれるんですよ」
「あの人の来てくれることは知ってるさ。でもそれだけではいけないよ! わたしもいっしょに行こうじゃないか……なにもお母さんのかわりをしようなんて、そんな大それた気持があるわけじゃないんだよ」と、言いながら、彼女は急にすすり泣きをはじめた。
「わたしは、ただ家のことの面倒をみてあげようと言うだけなのさ。それに、お前にしても、叔父さんにしても、またあのアリサにしても、べつに気づまりにも思うまいしさ」
フェリシー伯母は、自分がいっしょにいることの効能について買いかぶりすぎていた。事実、わたしたちには伯母のいることだけが、気づまりな思いをさせるのだった。伯母は自分でも言っていたとおり、もう七月からフォングーズマールにやって来ていた。そしてミス・アシュバートンとわたしも、すぐに、そこで伯母とおちあった。アリサを手伝って家事の面倒をみるという名目のもとに、伯母はあれほど静かな家のなかを、ひっきりなしの騒がしさで満たしていた。わたしたちをよろこばせるため、また彼女の言葉によれば≪万事をうまく運ぶため≫の|ちやほや《ヽヽヽヽ》ぶりも、それはあまり|しつこ《ヽヽヽ》すぎて、アリサもわたしも、伯母の前では、窮屈で、ほとんど黙りこんでいるときが多かった。おそらく伯母の目には、わたしたち二人がずいぶん冷淡にも見えただろう……もっとも、二人がたとい黙っていなかったにしたところで、伯母に、わたしたちの愛の性質がのみこめただろうか。それに反して、ジュリエットの性質は、伯母のにぎやかさとかなりしっくり合っていた。そして、この伯母が、姪《めい》たちのなかでもとりわけ妹娘をかわいがるということから感じられる不愉快な気持、それこそまた、伯母にたいするわたしの親しみの気持を、どうやらさまたげていたものらしかった。
ある朝、郵便がきたあとで、わたしは伯母に呼ばれた。
「ジェローム、とても困ったことが起ってね。娘が病気になって、わたしを呼んでよこしたんだよ。で、お前を残して行かなければならなくなったのさ……」
わたしは、くだらない心づかいから、伯母が出発したあとでもなおフォングーズマールにいていいものかどうか、その決心がつきかねるままに叔父のところへ会いに行った。だが、そのことを口に出すが早いか、
「姉は、なんでもないことをなぜそうむずかしく考えようとするんだろう? なんでお前が帰らなくてはならないんだ? ジェローム」と、叔父は叫んだ。
「もうお前はなかば家《うち》の息子じゃないか」
伯母は、フォングーズマールに、ほとんど二週間ばかりしかいなかった。伯母が出発してしまうやいなや、家のなかは落ちついてきた。幸福を思わせるような静けさがふたたび家のなかにもどってきた。わたしの喪は、二人の愛を寂しくさせるどころか、さらにそれを深めたようなものだった。おだやかな生活がはじまった。そして、そうしたなかでは、ちょうどすごく響きやすい場所におけるとおなじように、わたしたちの心のちょっとした動きでも、おたがいにすぐに聞き取れることになったのだった。
伯母が出発してから数日たった日の暮れがた、わたしたちは食卓で伯母のうわさをした。それをわたしは思い出す。
「まあなんていう騒ぎだったろう!」と、わたしたちは言ったものだった。「人生の波が、伯母さんの心のなかに、あれほどまでに落ちつきをあたえないなんて。美しい愛のすがたよ、お前の影はどうなったんだ?」……というのは、わたしたちは、シュタイン夫人について≪この人の心にうつった世界こそ、見るも美しいにちがいない≫と書いたゲーテの言葉を思い出していたからだった。そして、わたしたちはよくはわからないが、すぐ一種の階級といったようなものを考え、そして、そのなかのもっとも高いものとして瞑想《めいそう》の能力を評価した。すると、それまで黙っていた叔父は、さびしそうな微笑を浮べながら言葉をついだ。
「ねえ、君たち、神さまは、それがどんなに砕かれても、そこにちゃんとご自身のすがたをお見わけになるのだ。人を判断するのに、その人の一生のある時期だけをとってみることは慎もうじゃないか。わたしの姉について、君たちの気に入らないすべての点、それは、いろいろなできごとのためにそうなったので、それをよく知っているわたしとしては、君たちのように酷評することができないのだ。若い時代、どんなに人づきのいい性質であっても、年をとると、それがいやなものになってくる。いまお前がたの言っているフェリシーの≪せわしなさ≫にしても、はじめのうちは、かわいらしい快活さとか、てきぱきしているとか、気軽さとか、愛嬌《あいきょう》とか言われていたものだった……われわれにしたって、きょうのお前がたとくらべて、そうちがってはいなかったのだ。ジェローム、わたしは、ちょうどいまのお前にそっくりだった……いやおそらく、想像以上に似ていたかもしれない。フェリシーは、いまのジュリエットにそっくりだった……そうだ、体つきから言っても――」叔父は自分の娘のほうを振り返りながら、「お前の声を聞いていると、たちまちそこに伯母さんがいるような気持がする。伯母さんにはお前のような微笑があった。それに、あとでは見られなくなったが、お前のように、ときどき何もしないで、腰をかけながら、肱《ひじ》を前につき、組み合せた指のあいだで額をささえながら、じっとしているようなことがよくあった」
ミス・アシュバートンはわたしのほうを振り向いて、ほとんど声をひそめるようにしてこう言った。
「お母さまには、アリサさんがそっくりですわね」
この年の夏はすばらしかった。あらゆるものに空の青さがしみこんでいるように思われた。わたしたちの元気は、不幸だとか、死だとかを征服してしまっていた。暗い影は、わたしたちの前からしりぞいていってしまっていた。朝ごとに、わたしは喜びによって目をさました。わたしは、しののめごろに起き上がって、日の出を迎えに飛びだした……いまにしてその時分のことを思い起すとき、それは、露いっぱいの、いかにもしっとりしたときであったことが思い出される。いつもずいぶん夜ふかしをする姉にくらべてずっと早起きのジュリエットは、わたしといっしょに庭へおりていくのだった。ジュリエットは、姉とわたしとのあいだに、使者の役目をつとめてくれていた。わたしは彼女に、わたしたちの恋のことをくどくどと話して聞かせた。すると彼女もまた、それを飽きることなく聞いているようだった。アリサの前だと、あまりに彼女を想《おも》う恋心ゆえに心がおびえて言えないでいた言葉を、わたしはジュリエットを相手に話して聞かせた。アリサもこの|からくり《ヽヽヽヽ》を承知しているかのように、そしてわたしたちの話といえば、要するにいつも彼女のことであるというのを知っていてか知らないでか、なにしろ妹にだとわたしが快活に話のできるのを見てはおもしろがっているようだった。
見かけはしとやかな愛のすがた、しかも、はげしすぎるほどの愛のすがたよ、どうした隠れた路《みち》によって、お前はわたしたちを笑いから涙へ、また、この上もなく無邪気な歓喜から、あのきびしい掟《おきて》のほうへと導いていってしまったのか?
夏はいかにも清く、いかにも滑らかにのがれ去って、そのすべりゆく一日一日については今ほとんど何ものも思い出せない。あったことはと言えば、ただ物語とか読書とか……
「悲しい夢を見たんですの」と、休暇も終りに近づいたある日の朝のこと、アリサが言った。「このわたしは生きているのに、あなたは死んでしまっているの。いいえ、あなたの死ぬのを見たんじゃないの。ただ、あなたはもう死んでたの。こわかったわ。でも、どうしてもそんなことはありえないように思われたので、ただ、あなたがどこかへ行ってお留守なんだということにしておいたの。二人は離れていたんだけれど、わたしには、あなたのところへ行く路がどこかにあるように思われたの。どうしたら行けるかしらと考えて、そこへ行くために骨を折っていたら、おかげで目がさめちまった。
けさになっても、その夢がまざまざ見えているようだったの。夢を見つづけてでもいるようだったの。まだあなたとは離れていて、なんだかこのまま、あなたと長いこと長いこと」と言って、彼女は低い声で「一生」とつけ加えた、「一生、別れていなければならないような、そして、一生いろいろ努力しなければならないような気持がして……」
「なんのためにさ?」
「二人がいっしょになるために、おたがい、いろいろ努力しなければならないだろうって」
わたしはアリサの言葉を、本気にしなかった。でなければ、本気にすることをおそれていた。そして胸の鼓動が激しくなったわたしは、アリサの言葉を打ち消すように、急に勇気をだしてこう言った。
「ぼくはぼくで、けさアリサをしっかり、どんなことがあっても……死なないかぎり離れないような、強烈な結婚をしようとしている夢を見たんだぜ」
「ではあなたは、死んだら二人は別々になってしまうと思っている?」と、アリサが言った。
「それはね……」
「わたしの考えでは、死ぬっていうのはかえって近づけてくれることだと思うわ……そう、生きているうちに離れていたものを、近づけてくれることだと思うわ」
これらの言葉は、深くわたしたちの心のなかにしみこんで、そのときの二人の言葉の調子までがまだ耳に残っているような気持がする。だが、そうした言葉の重大さについては、あとになってはじめてそれと思いあたった。
夏は去って行きかけていた。もはや、あらかた畑地もむなしくなって、その上を見わたすながめも、さらに思いがけないほどひろがっていた。わたしが出発しようという前日、否《いな》、前々日の夕方のことだった。わたしは、ジュリエットと≪低いお庭≫の木立ちのほうにおりていった。
「きのうアリサに何を暗唱して聞かせてあげた?」と、ジュリエットが言った。
「いつさ?」
「あの採掘場のところのベンチで……わたしたちが二人をのこして帰ってしまったとき……」
「ああ!……ボードレールの詩だったと思うけれど……」
「何の詩? わたしには聞かせてくださらないのね」
やがて、冷たき闇《やみ》に、われら沈まん
と、わたしは気の進まない調子ではじめた。ところが、彼女はすぐわたしの言葉をさえぎって、ふるえを帯びた、いつもとちがった声であとをつづけた。
さらば、束《つか》の間《ま》の、われらが夏の強きひかりよ
「なんだ、知ってるのか?」と、わたしはすっかり驚いて叫んだ。「詩なんか好きではないと思っていた……」
「なぜ? あなたに詩を読んで聞かせていただかないから?」と、笑いながらではあるが、少しこわばった調子で言った。「あなたはときどき、わたしをほんとにばかだと思っているらしいわね」
「りこうな人でも詩の好きでない人があるからね。一度だって君が詩を読むのを聞かなかったし、読んでくれとも言わなかったじゃないか」
「だって、それはアリサが引き受けてるんですもの……」と、ちょっと口をつぐんだが、やがてとつぜん、
「お立ちはあさって?」
「どうしてもね」
「この冬は何をなさるおつもり?」
「高等師範学校《エコル・ノルマル》の一年生さ」
「アリサとの結婚はいつのつもり?」
「兵役をすまさないうちはね。それに、それから何をするか、もう少しはっきりしたことがわからないと」
「まだわかっていない?」
「まだ知りたいとも思っていないんだ。興味がひかれることがありすぎるんだから。何か一つ選ばなければならない時期、それだけに打ち込むといったような時期のくるのを、なるたけ先へ延ばしておくんだ」
「だから、身のきまるのがいやさに、婚約も延ばしておくの?」
わたしは、なんとも答えずに肩をすくめてみせた。彼女はなおもたずねた。
「では、なぜ婚約しておかないの? なぜ、すぐ婚約者にならないの?」
「なぜ、婚約者になる必要があるんだろう。別段世間の人に知らせないでも、ぼくたち二人が二人であり、またいつまでも二人でいるということさえわかっていたら、それでたくさんじゃないだろうか。ぼく自身一生を喜んでアリサに捧《ささ》げるつもりでいるとき、その愛の気持を、何か約束で固めたからって、もっとりっぱになると思うかね? ぼくはそうは思わない。誓いを立てることなんか、愛にたいする侮辱のように思われるんだ……アリサを疑ってでもいるのでなければ、婚約者になんかなりたくないのさ」
「わたしの疑うのはアリサじゃないわ……」
二人はゆっくり歩いていった。そして、ついこのあいだ、聞くともなしに叔父とアリサの話を立ち聞きしたあの場所までやって来た。そのときとつぜん、わたしの頭には、さっき庭に出ていくのを見たアリサが、このロータリーのあたりに腰をおろして、わたしたちの話を同じようにして聞いているのではないかという考えがひらめいた。わたしは、面と向っては言えないようなことを、今こうしてなら彼女に聞かせてやれるという考えにそそのかされた。わたしは、そうしたお芝居にすっかり調子づいて、声を高めて、
「ああ」と、わたしの年ごろのものにありがちなおおげさな感激の調子で叫んだ。そして、あまりにも自分自身の言葉に気を取られすぎていたわたしは、ジュリエットの言葉のなかに、彼女が口に出さずにいることの意味をさとることができなかったのだった……「ああ、愛する人の心の上に身をかがめて、その心のなかに、ちょうど鏡のなかに見るように、そこに落ちている自分自身の姿をながめることができたらなあ! 相手の人の心のうちに、ちょうど自分自身におけるように、いや、自分自身におけるよりも、もっとあざやかに、自分というものを見つけることができたらなあ! それこそなんという安らかな愛だろう! なんという清らかな恋だろう!……」
わたしは、ジュリエットが悩ましげな素振りをしたのを見て、それは自分の安っぽい名文句のためであると思ってうぬぼれた。彼女はとつぜん、その顔をわたしの肩に埋《うず》めた。
「ジェローム! ジェローム! アリサを幸福にしてあげてほしいの! もしあなたのためにアリサが苦しむようなことがあったら、わたしあなたがきらいになってよ」
「そうさ、ジュリエット」と、わたしは、彼女に接吻《せっぷん》してやり、その額を上げさせてやりながら叫んだ。「ぼく自身、自分がきらいになるだろうさ。ああ、わかってくれたらなあ!……ぼくがまだ将来の方針を決めないでいるのも、それはアリサと、生活をもっとりっぱにはじめたいからのことなんだ! なにしろぼくは、将来をすっかりアリサに懸けている! アリサなしでなれるようなことなら、なりたくないとまで思ってるんだ……」
「そういう話をあなたから聞かされて、アリサはあなたになんて言っているの?」
「そんなことなど絶対アリサには話さなかった! 絶対。そんなわけで、許婚《いいなずけ》にもならずにいるんだ。二人は、結婚のことなんか、ついぞ話してみたことがなかった。また、そのあとで何をしようということなんかも。ああジュリエット、ぼくにはアリサとの生活が、とても美しいものに思われて……わかるかい、そんなことを、口に出す気にさえなれないんだ」
「つまり、アリサを不意に幸福にしてやりたいと思ってるのね」
「そうではない。だがぼくは、アリサをおそれさせること……わかるかい……それをおそれているんだ。ぼくはいま、自分の目の前にちらりと見えている大きな幸福が、アリサをおそれさせはしないかとおそれているんだ!いつだかぼくは、アリサに、旅がしたくないかときいてやった。するとアリサは、そんなことは少しも思っていない、ただ、そうした国々があるということ、その国々は美しくって、自分以外の誰《だれ》にでもそこへ行けることがわかってさえいたら、それで十分なんだと言っていた……」
「ジェローム、あなた旅行がしたい?」
「いたるところへ行ってみたいな! ぼくには、人生全部が、一つの長い旅のように思われるんだ。つまり、アリサといっしょに、書物や、いろいろな人たちや、さまざまな国を訪れる旅。君は≪錨《いかり》を上げる≫という言葉の意味を考えることがあるかしら?」
「ええ、たびたび」と、彼女はつぶやくように言った。
だが、彼女の言葉を聞きながして、それがさも、あの傷ついた哀れな小鳥のように地に落ちるのにまかせていたわたしは、そのまま言葉をつづけていった。
「夜、出発する。朝明けのまばゆい光に目をさます。そして、おぼつかない波の上、自分たちは二人きりなんだと思う……」
「そして、ずっと子供の時分に、地図の上だけで見ていたどこかの港に着くのね。そこでは、何もかも見たことのないものばかり。……あなたがアリサに腕をかして、船からいっしょに、タラップをおりていくのが見えるようだわ」
「そして、二人は大急ぎで郵便局へ行く」と、わたしは笑いながらつけ加えた。「そしてジュリエットがよこしておいてくれた手紙を受け取る……」
「……フォングーズマールから出した手紙ね。ジュリエットは、そこに残ってるの。フォングーズマールは小ちゃく、さびしそうで、そしてずっと遠くのほうに思われるのね……」
これがたしかにそのときのジュリエットの言葉だったかどうか、それははっきり言うことができない。恋で心がいっぱいだったわたしは、恋の表現以外には、ほとんど耳をかさなかった。
二人はロータリーのところまで来た。そして、やおら引き返そうとしたとき、木陰から急に、アリサがあらわれた。彼女の顔は蒼白《そうはく》だった。それを見たジュリエットは、思わずあっと声をたてた。
「ええ、どうも気分がよくないのよ」と、アリサは口早につぶやいた。「冷えるわね。家へはいったほうがよさそうだわ」そして、すぐにわたしたちのそばを離れて、急ぎ足で家のほうへ帰っていった。
「二人の話を聞いたのね」と、アリサの姿が少し遠のくが早いかジュリエットが言った。
「だって、気にするようなことは何も言わなかった。かえって……」
「ごめんなさい」ジュリエットはそう言うと、急いで姉の後を追っていった。
その晩わたしは眠れなかった。アリサは夕食に姿を見せたが、頭痛がすると言ってすぐ引っこんでしまった。彼女は、わたしたちの話から、何を聞きとったというのだろう。そしてわたしは、おそるおそるわたしたちの言った言葉を思いかえしてみた。そして、あまりジュリエットのそばに寄り添って歩いていたこと、腕をジュリエットの体に巻きつけていたのが悪かったのかなと思ってみた。だが、そんなことは、小さいころからやりつけていたことだった。そして、アリサは、これまでにも幾度となく、そうして歩いている二人を見たはずだった。今にして思うと、わたしは、悲しいことに目が見えなかった。すなわちわたしは、自分の過失をさがしながら、あのときうわの空で聞いていたジュリエットの言葉、今は自分にもはっきり思い出せないその言葉を、アリサのほうが、かえってよく聞き取っていたかもしれないことに気がつかなかったのだった。それはともかく、わたしは、不安な気持に思いまどい、アリサが自分を疑いはしないかをおそれ、ほかになんら危険らしいものも考えられなかったわたしは、きのうジュリエットにああ言いはしたものの、むしろそのジュリエットの言葉から思いついて、いろいろなこだわりや懸念《けねん》をうちこえ、翌日アリサと婚約者になってしまおうと決心した。
それは、わたしの出発する前日のことだった。わたしは、彼女の沈んでいるのを、そのせいにすることができたのだった。彼女は、わたしを避けているらしいようすだった。日のうちは、彼女と二人きりになるおりもなしに過ぎていった。わたしは、あるいはこのまま、彼女に何も話さずに出発することになりはしまいかと思って、夕食に先だつちょっと前に、彼女の部屋まで出かけていった。彼女はちょうど、珊瑚《さんご》の首飾りをつけようとしているところだった。そして、それを結ぶため、両腕を差し上げ、戸口のほうへ背を向け、火をともした二本の蝋燭《ろうそく》のあいだに肩越しに姿を鏡にうつしながら、いくらかうつむき加減になっていた。彼女は、まず、その鏡のなかにわたしの姿を見つけた。そして、そのまま振り向こうともせずに、しばらくわたしを見つめていた。
「おや、ドアはしまっていなかった?」
「たたいたけど、君の返事がなかった。アリサ、ぼくがあした立つことを知っている?」
彼女はなんとも答えなかった。そして、暖炉の棚《たな》の上に、うまくかからなかった首飾りを置いた。わたしには、≪婚約者≫という言葉は、なにかあまりにもむきだしな、露骨なもののように思われた。そのかわりなにかしら婉曲《えんきょく》な言いまわしをした。わたしの言おうとしている意味がわかると、アリサはちょっとよろめいたようすで、暖炉のところにもたれかかった……だが、わたし自身も体がふるえて、おずおずしながら、つとめて彼女のほうを見ないようにしていた。
わたしは彼女のそばにいた。そして、目を伏せたまま、その手を取った。彼女は、べつに振りほどこうともしなかった。だが、心持ち顔を伏せて、ちょっとわたしの手を持ち上げ、それに自分の唇《くちびる》をあてた。そして、なかばわたしに身を寄せながら、つぶやくようにこう言った。
「いいえ、ジェローム、婚約はよしにして。後生だから……」
わたしの心臓は、彼女にもわかったと思われるほど強く打っていた。彼女は、さらにやさしい声で語りつづけた。「ええ、まだ早いの……」
そして、わたしが、
「なぜ?」と、たずねると、
「わたしこそなぜとおたずねしたいわ。なぜこのままではいけないの?」
わたしは、きのうの話のことを口に出す勇気がなかった。だが彼女は、たしかにわたしがそのことを考えているのを感じていた。そして、わたしの考えにたいする答えとでもいったように、じっとわたしを見つめながらこう言った。
「あなた、思いちがいをしておいでなのよ。わたし、そんなに幸福になる必要がないの。今のままで、二人は、十分幸福ではなくって?」
彼女は、つとめて微笑してみせようとしたがだめだった。
「そうじゃないさ。だって、ぼくはこのまま行ってしまわなければならないんだもの」
「ねえ、ジェローム、わたし今はあなたとお話ができないの。わたしたちの最後の時を、台なしにしないでおこうじゃないの……ほんとに。わたし、とてもあなたが好き。安心して。手紙をあげるわ。そして、あなたにわけを説明するわ。きっと出してよ、あしたにでも……お立ちになったらすぐにでも。――さ、いらっしゃい。あら、わたし泣いてるのね……このままにしておいて」
彼女は、わたしを押して、静かに自分から離れさせた。そして、それが彼女との別れだった。すなわち、その晩、彼女にはそれ以上何も言うことができなかった。そして、翌日出発のときにも、彼女は部屋に閉じこもったきりだった。わたしには、わたしを乗せた馬車の遠ざかっていくのを見ながら、部屋の窓で別れの合図をしている彼女が見えた。
その年、わたしはほとんどアベル・ヴォーティエに会えなかった。彼は徴兵に先だって、志願して兵役についていた。一方わたしは、修辞学級の講義をもう一年繰り返して聞いて、学士試験の準備をしていた。アベルより二つ年下のわたしは、二人がその年はいることにしていた高等師範学校《エコル・ノルマル》の卒業まで、兵役を延期しておいたのだった。
二人は、ふたたび楽しく顔を合わせた。軍隊を出てからの彼は、一月あまりも旅行していた。わたしは、彼が変っていはしまいかと案じていた。ところが、彼は以前よりもずっと落ちつきができたというだけで、愛嬌《あいきょう》のいいところも元のままだった。学期のはじまる前日の午後、二人がリュクサンブール公園ですごしたとき、わたしは内証話《ないしょばなし》をしまっておくことができないままに、長々と恋愛事件について話して聞かせた。もっとも、彼はすでにそれを知っていた。彼は、その年、幾人かの女との経験もあって、いくらかうぬぼれのこもった先輩顔をみせていた。といって、それはけっしてわたしを気持悪くさせるようなものではなかった。彼はわたしが、彼のいわゆる≪最後の言葉を切り出す≫方法を心得ていなかったといってわたしをからかいながら、公理として、女には、陣立てをととのえる余裕をあたえてはいけないことを説明して聞かせた。わたしは黙って、彼のしゃべるままにまかせていた。だがわたしは、彼のそうしたりっぱな議論も、当のわたしとアリサにとってはなんの役にも立たないこと、それは要するに、彼がわたしたち二人を理解していないことをしめすものくらいに考えていた。
わたしたちが帰った翌日、わたしは次のような手紙を受け取った。
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なつかしいジェローム
あなたのお申し出をよく考えてみました。(わたしの申し出! 婚約のことをこんなふうに呼ぶとはなにごとだろう!)わたしは、あなたにとって年上すぎはしないかと思いますの。あなたはまだほかの女の方をご存じないから、そうお思いでないかもしれませんが、わたしには、あなたのものになったあとで、あなたのお気に入らなくなったときのことを考えて、いずれのちのち苦しまなくてはならないように思われますの。この手紙をお読みになって、あなたはお怒りになるでしょうね。あなたの反対なさるお声が聞えるようだわ。でも、わたしはあなたに、どうかも少し世の中がおわかりになるまで、待っていただきたいと思いますの。
こんなことを言うのも、みんなあなたのためを思ってなんだということをわかってちょうだい。そしてわたしには、あなたを愛さないようになぞけっしてけっしてなれっこありませんの。
[#地付き]アリサ
[#ここで字下げ終わり]
二人が愛さないようになる! そんなことがいまさら問題になるだろうか! わたしは悲しいよりむしろおどろいてしまった。そして、狼狽《ろうばい》しきったわたしは、手紙を見せようと思って、すぐさまアベルのところへ駆けつけた。
「で、君はどうしようっていうんだね」と、アベルは、唇を結び、首をふりふり、手紙を読みおわるとわたしに言った。わたしは、不安と絶望をこめて、両腕をあげてみせた。「まあ返事は出さないほうがいいだろう! 女と言い合いをはじめたら君の敗《ま》けさ! ねえ、土曜の晩ル・アーヴルに泊ると、ぼくらは日曜の朝にはフォングーズマールへ行ける。そして月曜の第一時間めの授業までには帰ってこられる。ぼくは、君の親類たちとも入営以来会っていないし、口実としてはそれで十分だし、それにぼくとしても面目が立つわけだ。アリサが、それを口実だと思ったら、それもかえってけっこうじゃないか! 君が姉娘と話しているあいだ、ぼくはジュリエットを引き受けよう。子供らしいまねをやっちゃあだめだぜ……事実、君のやってることには、ぼくによくわからない点がある。すっかり話したのではないらしいな……まあそんなことはどうでもいい。いまにわかってみせるから……とりわけ、ぼくたちの行くことを知らせないでおくことだ。ひとつアリサの不意を襲って、武装するひまのないようにしておかなくては」
庭の木戸を押したときには胸が高鳴っていた。ジュリエットは、すぐわたしたちを迎えに飛んできた。肌着《はだぎ》室で仕事をしていたアリサは、すぐにはおりてこようとしなかった。彼女は、わたしたちが叔父とミス・アシュバートンと話していたとき、ようやく客間にはいってきた。わたしたちがとつぜんやって来たことにおどろいたにしても、少なくもそうしたようすは|おくび《ヽヽヽ》にも出さなかった。わたしはアベルから言われたことを考えていた。そして、彼女が長いこと姿を現わさなかったのも、わたしにたいして≪武装する≫ためだったんだな、と思った。ジュリエットの極端にはしゃいだようすは、アリサの慎み深い態度をことさら冷たいものに思わせた。わたしには、わたしの帰ってきたのを彼女が不服に思っていることが感じられた。少なくとも彼女は、その不服を態度にしめそうとしていた。わたしには、その裏に、もっとはげしいほかの感情のひそんでいるのをさがしてみるだけの勇気がなかった。わたしたちからずっと離れて、窓のそばの片すみに腰かけていた彼女は、刺繍《ししゅう》に夢中になっているようすで、唇を動かしながら針目を数えていた。アベルは話しつづけていた。ほんとにそれで助かったのだ! なぜかといえば、わたしにはもう話をする気力もなく、したがって、もしアベルが、軍隊生活や旅行の話をしてくれなかったとしたら、今度の再会の最初のときも、まったく沈みきったものになったはずだった。叔父までが、とても心配そうなようすをしていた。
昼食がすむかすまないのに、ジュリエットはわたしをわきへ呼んで、庭へ連れだした。
「考えてもみてよ、わたしをお嫁にもらいたいっていう人があるのよ!」と、二人きりになるが早いか彼女が言った。「フェリシー伯母さんが、きのうお父さんあての手紙で、ニームで葡萄《ぶどう》栽培をやっている人からの申し込みというのを言ってよこしたの。伯母さんは、りっぱな人物だって言ってらっしゃるのよ。この春の社交界でときどきわたしに会って、わたしを好きになったんですって」
「で、君にもその人がわかっていた?」わたしは、われにもあらずその候補者にたいする敵意とでもいった気持でたずねた。
「ええ、わかってるわ。人のいいドン・キホーテ型の人。教養がなくて、とても顔がまずくって下品で、それにおかしな人で、その人の前では、伯母さんだっていつものようにまじめにしてはいられなかったほど」
「そして、やっこさん……見込みがありそうなのかね?」と、わたしは鼻の先で言った。
「まあ、ジェローム、冗談はよしてよ! 商人なのよ……一度だってあの人を見たら、そんな質問はできないはずよ」
「それで……叔父さんはなんて返事をした?」
「わたしが返事をしたとおり。まだ結婚するには早すぎますって。……困ったことには」と、彼女は笑いながら言いたした、「伯母さんは、反対を見こして、手紙の追って書きで、エドゥワール・テシエールさん――それがその人の名前なの――は、待っているつもりでいる、そしてただ≪順位をとる≫ため、いちはやく名乗りだけを上げておくと言ってるって書いてきたの……ばかばかしいわ。と言って、ほかに仕方がないじゃないの、まさかあまり顔がまずすぎるからとも言えないし!」
「うん、でも、葡萄作りなんかいやだって言ってやったら」
彼女は肩をすくめてみせた。
「そんなこと、伯母さんには通用しない理屈だわ……もうその話はやめ。アリサから手紙が行ったこと?」
彼女は非常に口軽に話していた。そして、とても興奮しているようすだった。わたしは、彼女にアリサからの手紙を見せた。すると彼女は、顔を真っ赤にしながらそれを読んだ。
「で、あなたはいったいどうするつもり?」
こうたずねた彼女の声には、怒りの調子が見られるように思われた。
「わからなくなっちまったんだ」と、わたしは答えた。「いまここに来てみると、手紙で書いたほうが楽だったように思われて、もう来たことを後悔してるんだ。アリサが言おうとしていることがわかるかね?」
「アリサは、あなたを自由にしてあげようと思ってるのよ」
「だがぼくは、そんな自由にあこがれてなんぞいないんじゃないか! なぜアリサがあんなことを書いてよこしたのかわかるかい?」
ジュリエットは「いいえ」と答えた。それがいかにも冷淡な調子で言われたことから、わたしはたとい真実のことを察することができなかったにしても、少なくもこの瞬間から、ジュリエットもまんざら知らないのではないのだと確信した。やがて、歩いていた小みちの曲り角まで行くと、彼女は急にくるりと向きをかえて、
「では、失礼するわ。わたしと話をしにいらしったんじゃないんだから。あんまり長くごいっしょにいすぎましたわ」
彼女は駆けながら家のほうへ逃げていった。そして、しばらくすると、彼女がピアノをひいているのが聞えた。
わたしが客間にはいっていったとき、彼女は、今はだらけた、何か気まぐれに即興をひいているとでもいったようすでピアノをひきつづけながら、そこへやって来たアベルと話していた。わたしは、二人をそのままにしておいた。そして、アリサを求めて庭のなかをかなり長いことさまよい歩いた。
彼女は果樹園の奥にいて、土塀《どべい》の下で、ぶな《ヽヽ》の枯葉の匂《にお》いにまじって香りを放っている初咲の菊を摘んでいた。空気は、秋に満ちたりていた。樹牆《エスパリエ》を暖める日の光も今は弱くなっていたが、空は東洋を思わせる澄みきった空だった。彼女の顔は、大きなゼーランド風の帽子にふちどられ、ほとんどその奥に隠されていた。それは、アベルが旅行土産に持ってきたもので、彼女はすぐにそれをかぶったのだった。近よっていっても、はじめのうち、彼女は振り向こうとしなかった。だが、抑えきれないかすかな体のふるえから、わたしには、足音を聞きつけたにちがいないことが察しられた。そしてわたしは、彼女の非難や彼女の眼差《まなざ》しがわたしに投げかける峻厳《しゅんげん》さにたいして、すっかり身を固め、勇気を取りなおしていた。ところが、かなりそばまで近よって、いささかおびえたように歩みをゆるめたとたん、彼女は、最初顔をこちらに振り向けようともせず、まるですねた子供みたいにうつむいたまま、花でいっぱいの手をほとんどうしろ向きでわたしのほうへ突き出し、いらっしゃいといったようなようすをして見せた。そしてわたしが、こうした|しぐさ《ヽヽヽ》を見るなり、からかってやろうと思ってわざと立ちどまると、彼女ははじめてうしろを振り向き、顔を上げながらわたしのほうへ幾足か歩みよってきた。その顔には、微笑があふれていた。彼女の眼差しから考えて、わたしには、また万事が、たちまち単純で、なんでもないことのように思われた。そこでわたしは、なんの苦もなく、そして声の調子も変えないで、自分の言葉を口にすることができた。
「手紙を見てやって来たんだ」
「そうだと思ったわ」こう言ったあとで、やがて声の調子で叱責《しっせき》の|とげ《ヽヽ》をやわらげながら、「それを怒っていたんだわ。なぜわたしの言ったことをそんなに悪くお取りになったの。だってわかりきったことじゃなくって……(わたしには、あの悲しみや心配など、みんなわたしが心のなかで考えだしたもの、わたしの心のなかにだけしか存在しないもののように思われてきた)。わたしたちはあのままで幸福だったんだわ。そのことはあなたにもはっきりお話ししたわね。それをあなたが変えようとなさるのをわたしが拒んだからって、びっくりなさることはないじゃないの」
事実彼女のそばにいると、わたしは自分がいかにも幸福に思われ、彼女の考えとちがった考えは何ひとついだくまいと思ったほど、それほど完全に幸福だった。そして、彼女の微笑以外に、そして、こうしたたくさんの花々がふちどっている暖かい小みちの上を、彼女に手をかしながら二人で歩くということ以外、何ひとつ望む気持になれなかった。
「もしそのほうがいいと言うんだったら」と、わたしは、たちまちほかのあらゆる希望をあきらめ、現在のまったき幸福のなかに身をまかせながら、重々しい調子で言った。「もしそのほうがいいんだったら、婚約はやめることにしよう。君の手紙を受け取ったとき、ぼくは、自分がほんとに幸福だということ、そして、これからは幸福でなくなるんだということをはっきり考えさせられたんだ。ああ、あの昔の幸福を返してほしいんだ。ぼくはもう、それがなくては生きてはいけないんだ。君のためなら一生待ってもいいと思うほど、ぼくは君が好きなんだ。だが、君がぼくを愛してくれないようになり、君がぼくの気持を疑ったりするようになるなんて、アリサ、そんなことは考えただけでたまらない」
「あら、ジェローム、わたし、なんで疑ったりできるかしら?」
そして、こう言った彼女の声は、やさしいとともに寂しげだった。だが、彼女の顔を輝かしていた微笑は、そのままいかにもすみきった美しさを見せていたので、わたしは、自分自身の疑惑や抗弁のことを恥ずかしく思った。わたしには、彼女の声の奥にひそんでいるように思われる寂しげな余韻も、要するに自分のそうした態度によるもののように考えられた。わたしは、藪《やぶ》から棒に、わたしの計画のこと、勉強のこと、いろいろ自分自身につけ加えることの多いであろう新しい生活のことなどを話しはじめた。当時の高等師範学校《エコル・ノルマル》は、最近それが変ったようなものとはだいぶちがっていた。規律もかなりきびしかったが、それはただ懶惰《らんだ》な人間とか、手に負えないような人間にとってだけ厳格なのだった。勤勉な学生の努力は、それによってかえって励まされた。わたしには、こうしたなかば修道院的な習慣によって世間から守ってもらえることが気に入っていた。それに、世間などというものは、わたしにはさして興味をひくほどのものではなかったし、もしアリサがそれをおそれるというのだったら、すぐにもきらいになれるほどのものだった。ミス・アシュバートンは、パリで、以前母と暮していた家に住んでいた。彼女以外にはほとんどパリに知り合いのないアベルとわたしは、日曜ごとに幾時間かを彼女のところですごすことにしよう、そして、アリサには日曜ごとに手紙を出して、どういう生活をしているか、一部始終を知らせてやろう。
いまわたしたちは、蓋《ふた》をあけはなった温床《フレーム》の枠《わく》の上に腰をおろしていた。そこからは、最後の実をもがれてしまったあとの、胡瓜《きゅうり》の太い茎が気ままにあふれだしていた。アリサはわたしの話に耳を傾け、そしていろいろたずねかけてきた。わたしは、今までかつて、これほど心のこもった彼女の愛情、これほど迫った彼女の愛を感じたことはなかった。危惧《きぐ》、不安、それに、きわめてわずかな懸念《けねん》さえも、ちょうどあの真っ青な空に消える靄《もや》のように、彼女の微笑のなかに消えてしまい、そうしたたまらない親しさのなかに溶けていった。
やがて、ジュリエットとアベルもやって来て、|ぶな《ヽヽ》の並木のベンチに腰をおろし、みんなはスインバーンの『時の凱歌《がいか》』を読み返し、それを一節ずつかわるがわるに読んでは、その日の終りをすごしたのだった。夕方になった。
「さあ!」いざ出発というとき、アリサはわたしにキスしながらこう言った。半分は冗談に、だが、まるで姉とでもいったような態度で。それというのは、わたしの突拍子もない行動が彼女をそうさせたのであったろうし、彼女も好んでそうした態度をとったのだった。「さあ、これからは今までのようなお坊ちゃんでなくなるって約束してちょうだい……」
「どうだい? 婚約はまとまったかい?」また二人きりになるが早いかアベルがたずねた。
「もうそんなことは問題でなくなったんだ」とわたしは答えた。そしてすぐにこれ以上の質問ははっきりさえぎるような調子でつけ加えた。「そしてそのほうがいいんだ。ぼくは今までに、きょうの午後ほど幸福だったことはなかった」
「おれもだ」と、アベルは叫んだ。そして、急にわたしの首に飛びつきながら、「すばらしい、途方もないことを聞かせてやろうか。ジェローム、ぼくはジュリエットにまいっちゃった。去年から、少しはそうではないかと思っていた。だが、それから世の中も見てきたし、もう一度君の従姉妹《いとこ》たちに会うまでは、君には何も言わずにおこうと思っていた。今こそいよいよきまったんだ。ぼくの一生もこれできまった。
愛すとは、言うもおろかぞ――われはジュリエットをあがむるを!
ぼくには、ずっと前から、君が義理の兄弟ででもあるように愛情を感じていたんだ……」
こう言って、笑ったりふざけたりしながら、腕をひろげてわたしを抱きしめ、そして、パリへ帰る汽車の腰掛けの上で、彼はまるで子供のようにころげまわっていた。わたしは、彼の打ち明け話を聞かされてまったく息がつまってしまった。そして、そこにいくらかまじっているらしい言葉の誇張にいささか悩まされていた。だが、これほどまでの感激と喜悦とに、どうしてあらがうことができただろう?……
「で、どうした、打ち明けたのか?」と、とうとうわたしは彼の感激の合間を見て問いかけた。
「いや、とんでもない。ぼくは物語のいちばん美しい一節を燃やしてしまったりしたくないんだ。
恋にありていともうれしきは、
≪君を愛す≫と言いしそのときにあらず……
どうだい、|ゆっくり先生《ヽヽヽヽヽヽ》、いけないとは言うまいな」
「だって」と、わたしは、いくらかいらいらしながら言った。「ジュリエットのほうではいったいどう……」
「ぼくを見たとき、ジュリエットがどんなに取り乱していたか気づかなかったのかい。ぼくたち二人がいたあいだ、彼女はいつもそわそわして、真っ赤になって話しつづけていたじゃないか……そうだ、君には何も気がつかなかった。それも当然さ、君は、アリサのことでいっぱいだったんだから……そうだった、彼女から、なんという質問攻めにあわされたことだろう! ぼくの言葉をどんなにむさぼり聞いていたことだろう! 去年からみると、とてもりこうになっている。それなのに、君はどうして彼女が本を好きでないなんて思ったんだ? 君は、本はいつもアリサのためにだけあるものと思ってるんだ……ところが、ジュリエットの知識には、じつに驚くべきものがある。夕食の前に何をして遊んだと思う? 二人して、ダンテの『カンツォーネ』の思い出しごっこをしたんだ。たがいに一つずつ詩句を暗唱したんだ。そしてぼくがまちがえると彼女が直す。知ってるだろう。
Amor che nella mente mi ragiona.
わが心に呼びかくる愛のおもいよ
というやつを。ジュリエットがイタリア語を習ったなんて、君はぼくに言わなかったじゃないか」
「ぼくだって知らなかった」と、わたしはかなりびっくりして言った。
「なんだって? だけど『カンツォーネ』をはじめるときに、ジュリエットは君に教えてもらったんだって言ってたぜ」
「それでは、彼女がいつもぼくたちのそばで縫物をしたり刺繍《ししゅう》をしていたときに、ぼくがアリサに読んでやってるのを聞いてたんだろう。わかっているようなふうは|おくび《ヽヽヽ》にも出していなかったが」
「なるほど。アリサと君とはあきれかえるほどの利己主義者だな。君たちは自分たちの恋にばかり夢中になって、こうした知能、こうした心の驚くべき発芽にちっとも注意をしていないんだ。自慢するわけではないが、ぼくはたしかに、じつにいいときにあらわれたんだ……そうだ、ぼくは何も君を悪く思っているんじゃない。ね、わかるだろう」と、彼はまたもやわたしにキスをして言った。「ただこのことだけは約束してもらおう。このことについて、一言もアリサに言わないでほしい。ぼくはぼくのことを自分一人でやってくつもりだ。ジュリエットはぼくのものだ。これはたしかだ。次の休暇がくるまで、このままにしておいて大丈夫なんだ。ぼくはそのときまで、手紙を出すまいとさえ思ってるんだ。だが新年の休暇がやってきたら、君とぼくとでル・アーヴルへ行ってすごすことにしよう。そして……」
「そして?」
「そうしたらさ、アリサはたちまちぼくたち二人が婚約者になったことを知るだろう。ぼくは、それを手っ取り早くやってのけるつもりでいる。それからどうなるかわかるかい?君がなかなか得られずにいるアリサの承諾を、ぼくたちが手本をしめすことによって、みごとに手に入れさせてやろうと思うんだ。ぼくたち二人は君たちが結婚してからでなければ結婚しないということを、アリサにのみこませてやろうと思うんだ……」
彼は話しつづけていた。そしてわたしを、涸《か》れることのない言葉の潮《うしお》の下に押し流して、それは汽車がパリに着いても、高等師範学校《エコル・ノルマル》へ帰ってからも、まだとどまることをしらなかった。すなわち、駅から学校まで歩いて帰ったにもかかわらず、それに夜がだいぶふけていたにもかかわらず、アベルはわたしの部屋にまで押しかけてきて、二人は朝まで話しつづけた。
アベルの感激は、現在をも未来をも思いのままにしていた。彼はすでにわたしたち二組の結婚を夢みていて、そのことを話していた。そして、めいめいの驚きと喜びとを想像して、それを語っていた。彼はわたしたちの恋物語、わたしたちの友情、また彼がわたしの恋においてつとめる役割の美しさにすっかり有頂天になっていた。わたしは、そうしたここちよい熱狂にあらがいかねて、自分自身もまたその気分にひたされてきて、そうした夢想のような話の魅力にしだいしだいに身をまかせてしまっていた。恋のおかげで、わたしたちの大望も、わたしたちの勇気も、ともにふくれあがっていた。学校を出るやいなや、二組の結婚はヴォーティエ牧師によって祝福され、そして、わたしたちは四人づれで旅行に出ることにしよう、そして、わたしたちは何か大きな仕事に着手しよう。そして、二人の妻は、よろこんでわたしたちの協力者になってくれるだろう。教師などにはなりたくないと思っていて、自分の天職が文筆にあると自ら信じている彼は、書きあげたいくつかの脚本で大いに当てて、たちまち今まで彼に欠けていた一財産を築き上げるだろう。一方、学問によって得られる利益よりは、むしろ学問自身に興味を持っているわたしは、宗教哲学の研究に身をゆだね、それの歴史を書くことにするだろう……だが、いまここで、そのときの希望の数々を思い起してみたところで、それがいったいなんになるだろう。
翌日から、わたしたちはまた学業に没頭した。
新年の休暇まではきわめて短かかったし、最近のアリサとの話し合いにすっかりいい気持になってしまっていたわたしの信頼は、片時たりともゆるむことがなかった。わたしは、かねて心ひそかに思いさだめていたとおり、日曜のたびごとに長々と手紙を書いた。その他の日は、友人たちともつきあわず、ただアベルと会うくらいなもので、アリサのことを思いながらすごしていた。そしてわたしは、好きな本のなかに、アリサがそこに見いだすであろう興味を主にして、自分の興味をそれにしたがわせながら、アリサに読ませたいと思う言葉を書きつけていた。彼女の手紙は、相変らずわたしをなにか不安な気持にさせていた。わたしの手紙にかなり規則正しく返事をよこしてはいたが、わたしについてこようとする彼女の熱心さのうちには、彼女の素直な心の動きというより、むしろわたしの勉強を勇気づけようという気持が見いだされるように思った。そして、わたしにあって、判断とか、論議とか、批判とかは、思想を表現するための方法にすぎないものだったのに反し、彼女は、それらを用いて、わたしにたいする自分自身の考えを隠しているのではないかとさえ思われた。わたしは、おりおり、彼女がそれをおもしろがっているのではないかとさえも疑った……だが、そんなことはどうでもいい、あらゆることについて文句を言うまいと決心したわたしは、自分の書く手紙の中に、そうした不安を少しも見せないようにつとめていた。
で、十二月も末ちかく、アベルとわたしとはル・アーヴルへ向けて出発した。
わたしはプランティエの伯母のところに落ちついた。わたしがついたとき、伯母は家にいなかった。ところが、わたしが室《へや》に落ちついたと思う間もなく、下男がやって来て、伯母が客間で待っていることを伝えた。
伯母は、わたしの健康とか、住居のぐあいとか、また勉強のことなどをひとわたり聞いてしまうと、なんの屈託もなしに、例のご親切な穿鑿《せんさく》ずきの気持でこう言った。
「お前はまだわたしに言わなかったね、フォングーズマールでご満足だったかどうか? 少しは話が進んだかね?」
わたしは、いかにも不器用な伯母の親切を我慢しなければならなかった。だが、わたしとしては、たといどんなに清らかな、やさしい言葉で語られたにしても、傷つけられるような思いをせずにはいられないそうした感情が、簡単に片づけられてしまうのを見るのがつらかったにしても、それを口にする伯母の言葉が、いかにも素直で、いかにも親身にあふれていたことから、それを怒ったりするのはいかにもばかげているように思われた。それにもかかわらず、はじめのうち、わたしは少し言葉を返した。
「だって、伯母さんはこの春、婚約はまだ早すぎるとおっしゃったじゃありませんか?」
「そう、おぼえているわ、まずはじめにはそんなことを言うものなのさ」伯母は、わたしの片方の手を取り、それを自分の手のなかに、さも感激しきったようすで握りしめながら言葉をつづけた。「それに、お前の勉強や兵役のこともあるので、あと幾年かしなければ結婚できないこともわかっているんだし。ただわたしだけの考えだが、あまり長い婚約はよくないように思われるのさ。そんなことをしていると、若い娘さんはくたびれてしまうからね……ときには、とてもいじらしくさえ思われるのさ……だが、なんにしても婚約を公《おおやけ》のものにしておく必要はないね……もっとも、そうしておくと、もうそのためにこれ以上|やきもき《ヽヽヽヽ》する必要のないということを――もちろん控え目に――人にのみこませることだけはできるけれどね。それに、そうすれば、文通や交際もさしつかえないことになるし、それに、ほかからの申し込みがあっても――そういうことだって起ってこようさ――」と、彼女は、いかにも|わけ《ヽヽ》知り顔な微笑を浮べながらつけ加えた。
「そうしたときにも、おだやかに……ええ、もうそうしていただかなくてもよろしいんですの、と返事ができようというものさ。知っておいでのことと思うが、ジュリエットをもらいたいと言ってきた人があったのさ! ことしの冬、あの子はだいぶ人目をひいたんでね。だが、まだ少し年も若いし、あの子もそういった意味の返事をしたのさ。すると相手の若い人は待つと言うのさ。なに、ほんとのことを言えば、もう≪若い≫なんて言える人ではないんだけれど……でも、良い口にはちがいないのさ。とても確かな人物でね。お前もあした、その人にお会いだろう。家の≪クリスマス・ツリー≫にやってくることになっているのさ。お前の感じを聞かせておくれよ」
「でも、やってくるだけ骨折り損になりはしまいかと思いますね。ジュリエットには、ほかに思ってる人があるかもしれないし」わたしは、ただちにそれがアベルだとは口に出さないように苦心した。
「へえ?」伯母は、疑うように口をとがらし、頭をかしげて、聞き返すような調子で言った。「これは驚いた! それなら、なぜ彼女はそのことをいままでわたしに言わなかったんだろう!」
わたしは、これ以上なにも言うまいと思って唇《くちびる》をかんだ。
「なあに、いまにわかるさ……ジュリエットはこのごろ少し加減が悪くってね」と、伯母はつづけた。「……それに、問題はジュリエットのことではなかったんだね……そうそう、アリサも、気のやさしい、いい娘さ……それで、お前もう宣言をしたのかね、|ええ《ヽヽ》か、|いいえ《ヽヽヽ》か?」
この≪宣言≫という、いかにも場合を考えぬ、野卑とさえ思われる言葉づかいをされたのにたいして、わたしは、心の底から|かっ《ヽヽ》となった。だが真っ向から問いかけられ、そしていたって嘘《うそ》のへたなわたしは、ついぼんやり返事をしてしまった。
「ええ」そして、自分でも顔のほてってくるのを感じた。
「で、あの子はなんと言ったね!」
わたしは下を向いた。できれば返事をしたくなかったのだった。で、さらにぼんやり、気の進まない調子で、
「婚約するのはいやなんだそうです」
「なるほど、もっともだねえ」と、伯母が叫んだ。「いつでもできることなんだから……」
「伯母さん、もうそんな話はよしましょう」だが、とめようとしてもむだだった。
「それに、あの子だったらそう言いそうさ。あの子は、いつもお前より、考え方の筋が通っているように思っていたのさ……」
そのとき、どうしてか自分にもわからなかったが、おそらくこうしていろいろ聞かれて興奮したためででもあったろう、わたしは、急に胸が張り裂けそうに思われた。わたしは子供のように、親切な伯母の膝《ひざ》に額を埋《うず》めて、すすり泣きながら、
「伯母さん、そうじゃないんです。あなたにはわからないんです」と、言った。「アリサは、待ってくれと言ったんじゃないんです……」
「それではどうしたというんだね? お前をきらいだとでも言ったのかい?」伯母は、手でわたしの顔を上げさせながら、とてもやさしい、同情するような調子で言った。
「そうでもないんです……いいえ、はっきりそうだというわけでもないんです」
わたしは悲しそうに頭をゆすった。
「あの子が、お前を愛さなくなるとでも思っているのかね?」
「いいえ。それを心配しているんじゃないんです」
「だって、わたしにわかってもらおうと思ったら、もう少しはっきり説明してくれなくては困るじゃないか」
わたしは、自分を弱気のままにまかせておいたことを恥ずかしく思った。伯母には、たしかにわたしの不安の理由を見とどけることができなかったにちがいない。だが、もしアリサの拒絶の背後に、なにか明らかな動機がひそんでいるものとしたら、伯母からおだやかにたずねてもらうことで、あるいはそれを発見できることになるかもしれない。やがて、伯母は自分のほうからそのことを切りだしてくれた。
「ねえ」と伯母が言った。「アリサは、あした、家のクリスマス・ツリーをこしらえる手伝いにやってくることになってるのさ。そうしたら、わたしには、いったいどうしたわけかわかるだろう。お前には、それをお昼食のときに教えてあげよう。そうしたら、もうなにも心配することのないことがわかるだろうよ」
わたしはビュコランの家へ夕食をたべに行った。なるほどジュリエットは幾日か前から加減が悪くて、人が変ったように思われた、彼女の眼差《まなざ》しは、いくらか殺気だち、ほとんどかたい表情を浮べ、それが、いままでよりもいっそう、彼女と姉とをちがったものに思わせた。わたしはその晩、二人のうちどちらとも特別に話をすることができなかった。それに、べつにそれを望んでいたわけでもなかったし、おりから叔父も疲れているようだったし、わたしは食事がすんでしばらくすると引き上げてしまった。
プランティエの伯母が作るクリスマス・ツリーは、毎年大勢の子供やら、親類やら、友だちを集めることになっていた。それは、階段の上がり口にあたる玄関に立てられていた。そして、その玄関は、取っつきの控え間や客間や、それからまた、そこに食卓が据《す》えられ、温室とでもいったような、ガラス戸のついた室へ通じていた。まだツリーの飾りつけができていなかったため、祭りの朝、すなわちわたしのついた翌日、アリサは、伯母が話したとおり、朝早くから、いろいろな飾りとか、蝋燭《ろうそく》とか、果物、砂糖菓子、玩具《おもちゃ》などを枝に取りつける手伝いをしにやって来た。わたしとしては、彼女のそばでいっしょにそうした仕事ができたら、それはずいぶんうれしかったにちがいない。だが、いまは伯母に話をさせなければならなかった。で、わたしはアリサに会わずに外へ出た。そして午前中、つとめて心の不安をまぎらしていようとした。
わたしは、ジュリエットに会おうと思って、まずビュコランのところへ出かけた。すると、もうアベルが来ているということだった。わたしは、|いち《ヽヽ》か|ばち《ヽヽ》かの話のじゃまをしてはいけないと思って、すぐさまそこを出ると、昼食近くまで、河岸のあたりや町のなかなどを歩きまわった。
「おばかさん」と、わたしが帰ってくるのを見るなり伯母が言った。「そんなに|くよくよ《ヽヽヽヽ》することがありますか。お前がけさ言ったことには、何ひとつ筋が通っていないじゃないか……わたしは、まわりくどいことなんかしなかったんだよ。わたしは、手伝いつかれたアシュバートンさんを散歩に出してやったのさ。そして、アリサと二人きりになるが早いか、なぜこの夏、婚約者にならなかったのかと|あけすけ《ヽヽヽヽ》に聞いてやったのさ。アリサが困ったとでもお思いか?
アリサはちっともあわてずに、落ちつきはらって、妹より先に結婚する気にはなれないっていったんだよ。お前にしたって、もし率直に聞いてやったら、アリサはきっと、わたしに言ったとおりの返事をしたにちがいない。ほんとに心配するだけの値打ちがあったわけだね! ねえ、率直ということがなによりさ。それにアリサは、お父さんとも離れられないって言ってたっけ。……そう、二人はいろいろ話をしたよ。あの子には、ちゃんと話がわかっているのさ。それに、自分がお前に向くかどうか、そこがまだしっかりわかっていないとも言っていた。あまり年上なのが心配だ、むしろ、ジュリエットくらいの年ごろの娘さんのほうがいいだろうってね……」
伯母は話しつづけていた。だが、わたしはもう耳をかしていなかった。わたしにとって大事なことはたった一つ、それは、アリサが、妹より先に結婚しないと言ったことだった。だが、それにはアベルがいるではないか。なるほど、あのうぬぼれ屋の言ったことが当っていたのだ。あいつは同時に、二組の結婚を成立させようとしているのだ……
わたしは、こうした、じつはきわめて単純なことではあるが、それによる心の動揺を伯母に一所懸命かくして、伯母にとっていかにも当然らしく見えそうな、しかも伯母自身がそれをあたえたように思われるだけ、それだけ伯母がかなり愉快に思うような、うれしそうなようすだけをして見せておいた。だが昼食がすむやいなや、わたしは何かいい加減な口実をもうけて、大急ぎでアベルに会いに行った。
「どんなもんだい? ぼくが言ってたとおりじゃないか!」わたしが喜びを告げるやいなや、アベルはわたしにキスしながらこう叫んだ。「けさのジュリエットとの話は、ほとんど決定的なものと言えるんだ。もっとも二人は、君のことだけしか話さなかったがね。なにしろ彼女は疲れて、いらいらしているようだった……ぼくは、あまり深入りして心に動揺をあたえたり、あまり長くいっしょにいて興奮させたりしてはいけないと思った。君の話を聞けば、もう万事できあがったも同然なんだ! ぼくは大急ぎでステッキと帽子をとってくる。君は、ぼくが途中で空に舞いあがったりするといけないから、ビュコラン家の戸口までついてくるんだ。ぼくはもうエウフォリオンよりも浮きうきした気持なんだ……ジュリエットに、ただ彼女のためだけに、姉が君への承諾を与えしぶっているということがわかったとき、そして、ぼくがすぐジュリエットに結婚を申し込んだとき……ああ、ぼくには、今夜おやじが、クリスマス・ツリーの前で、うれしさのあまり涙を流して主をほめたたえ、祝福に満ちた手を、ひざまずいている四人の婚約者の上におくところが目に見えるようだ。ミス・アシュバートンはほっとして上気してしまうだろう。そしてプランティエの伯母さんは、胴着《コルサージュ》の中で溶けてなくなってしまうだろう。そして、あかあかと輝くクリスマス・ツリーは、主の栄光を歌って、ちょうど聖書のなかにある山々のように手を打ちはやすことだろう」
クリスマス・ツリーに灯《ひ》がともされ、子供たちや、親類のものたちや、友人たちがそのまわりに集まるのは夕方ということになっていた。アベルと別れてから、心配と焦慮とで何ひとつできなかったわたしは、待ち遠しさをまぎらすために、遠くサンタドレスの断崖《だんがい》まで歩きに行ったが、道に迷って、プランティエの伯母の家にもどりついたときには、すでにしばらく前からお祭りがはじまっていた。
玄関へはいるなり、わたしの目にはアリサが見えた。まるでわたしを待っていたように、彼女はすぐわたしのほうへやってきた。そのくびのあたり、派手な胴着《コルサージュ》の切れこんだところには古い小さな紫水晶《アメチスト》の十字架が下がっていた。それは、わたしが母の形見に贈ったもので、今まで一度も下げたのを見たことのないものだった。彼女の容貌《ようぼう》はひきしまっていて、その苦しそうな表情がわたしの心をしめ上げた。
「なぜこんなにおそくなったの?」と、彼女は押し殺したような、せきこんだような調子で言った。「お話ししたいことがあったのに」
「断崖のところで道に迷っちゃったんだ……君、どこか悪い……アリサ、どうしたのさ?」
アリサは、わたしの前にしばらく当惑したようなようすで唇をふるわせながら立っていた。そうした苦しそうなようすに、わたしはとても不安になって、たずねてみる気になれなかった。彼女は、わたしの顔を引き寄せようとするかのように、わたしのくびに手を掛けた。わたしには、彼女が話をしたいことがわかった。だが、ちょうどそのとき、お客さまたちがはいってきた。そして、彼女の手からは力がぬけて、ふたたび下へおろされた……
「もう、いまはだめ」と、彼女はつぶやいた。そして、わたしの目に涙のあふれているのを見ると、さもこうしたその場かぎりの申しわけでもわたしの心をなごめる役に立つといったように、わたしの眼差しの問いかけにたいしてこう答えた。
「いいえ……安心して。ただちょっと頭が痛いの。子供たちがばか騒ぎをするんですもの……やっとここまで逃げてきたの……でも、また子供たちのほうへ行ってやらなくては」
彼女は急にわたしのそばを離れていった。人が|どやどや《ヽヽヽヽ》はいってきて、二人のあいだは隔てられてしまった。わたしは、客間へ後を追って行こうと思った。わたしは、室《へや》の向うのほうで、彼女が子供たちに囲まれて、その遊び相手になっているのを見つけた。わたしと彼女とのあいだにはいろいろな人たちがいて、そのそばを通るとつかまりそうに思われた。お愛想《あいそ》とか、おしゃべりとか、わたしには、とてもそうしたことはできそうもなかった。ひょっとして、あの壁にそって身をすべらして行ったら……わたしはそれをこころみた。
ちょうど庭へ出る大きなガラス戸の前を通ろうとしたときだった、わたしは誰《だれ》かに腕をつかまれた。ジュリエットだった。体を窓掛けに包むようにして、なかば戸口に身を隠しながら。
「温室へ行きましょう」と、彼女はせわしそうに言った。「少しお話ししたいことがあるの。あなたはあなたで来てちょうだい。わたしはすぐに行きますから」こう言ってドアをそっと細目にあけながら、逃げるように庭へ出ていった。
どうしたというのだろう? わたしはアベルに会っておきたかった。いったい何を言ったのだろう?……いったい何をしたのだろう?……わたしは、玄関のほうへもどって、ジュリエットの待っているという温室のなかへはいっていった。
彼女は顔をほてらせていた。眉《まゆ》をよせているので、その眼差しには、きつい、悩ましげな表情が見られていた。目は、熱でもあるように輝いていた。その声までが、なんだか|がさがさ《ヽヽヽヽ》して、ひきつれてでもいるようだった。彼女は、狂熱とでもいったようなものによって興奮させられていた。わたしは、不安を感じながらも、彼女の美しさに驚かされ、当惑させられたかたちだった。そこには、二人だけしかいなかった。
「アリサが何か言って?」と、すぐに彼女がわたしにたずねた。
「ほんのちょっと、ぼくがおそく帰ってきたんで」
「姉さんは、わたしを姉さんより先にお嫁に行かせようとしているのをご存じ?」
「うん」
彼女は、じっとわたしを見つめた……
「わたしを誰と結婚させたがっているのかご存じ?」
わたしは黙っていた。
「あなたよ」と、彼女は叫ぶように言いそえた。
「ばかな!」
「そうでしょう!」その声には、絶望と勝利とがこもっていた。彼女は、すっくと身を起した。というより、ぐっと体をそらせた。
「いまわたしには、わたしのしなければならないことがわかりましたの」と、彼女は温室の戸をあけながら、はっきりしない声で言った。そして、戸を激しくしめて、出ていった。
わたしの頭と心のなかでは、あらゆるものがよろめいていた。こめかみに、血の脈打つのが感じられた。こうしたわたしの錯乱にたいして、ただ一つの考えだけが踏みこたえてくれていた。それは、アベルをさがしだすということだった。おそらく彼だったら、この姉妹の妙な言葉の意味を、説明してくれるにちがいない……だが、自分の動揺を気取《けど》られはしまいかと思うと、客間へはいっていく気にもなれなかった。わたしは外へ出た。ひんやりした庭の空気が、心に落ちつきをあたえてくれた。そして、わたしはしばらくのあいだそこにいた。夜がせまり、海からの靄《もや》が町をすっかり立てこめていた。木々には葉の影もなく、天と地とはかぎりなく寂しそうに見えていた……歌声が起った。それは、クリスマス・ツリーを囲んだ子供たちの合唱にちがいない。わたしは、玄関からはいっていった。客間と控え間の戸はあけはなたれていた。わたしには、いま人けのない客間のなかで、ピアノの陰から身をはみださせ、ジュリエットと話をしている伯母の姿が目にはいった。控え間では、飾り立てたツリーを囲んで、お客さまたちが押し合っていた。子供たちは、賛美歌を歌いおわっていた。あたりは|しん《ヽヽ》として、ヴォーティエ牧師が、いまツリーの前に立って説教のようなものをはじめていた。彼は、いわゆる≪よき種を播《ま》く≫ための、どんな機会をものがさなかった。わたしには、燈火とむし暑さとがたまらなかった。わたしは、もう一度外へ出ようと思った。すると、戸口にもたれているアベルの姿が目にはいった。おそらく、よほど前からそこにいたにちがいない。彼は敵意をこめたようすでわたしを見つめていた。そして二人の眼差しが出会うと肩をすくめてみせた。わたしは彼のほうへ近づいた。
「ばか!」と彼は低い声で言った。そして、たちまち「ああ、そうだ、出よう。とんだばかな目を見せられちゃった!」そして外へ出るが早いか、「ばか」と、もう一度、わたしが心配そうに何も言わずにながめているのを見て言った。「彼女の好きなのは君だったんだ。君は、それをぼくに言えなかったのか?」
わたしは、打ちのめされたようになっていた。何がなんだかわからなかった。
「できなかった! そうだろう? 君自身さえ知らなかったんだ!」
彼は、わたしの腕をつかむと、荒々しくわたしをゆすぶった。食いしばった歯のあいだからもれる彼の声は、ふるえながら鳴っていた。
「アベル、お願いだ」しばらく黙っていたあとで、わたしもまたふるえを帯びた声で、あてもなく大またに引っぱりまわされながら言った。「そんなに興奮せずに、事の顛末《てんまつ》を聞かせてくれろよ。ぼくには、まったくわからないんだ」
街燈のかげで、彼はたちまちわたしを引きとめると、穴のあくほどわたしの顔を見つめた。そして、わたしを強く引き寄せると、わたしの肩に頭をもたせ、すすり泣きながらこうつぶやいた。
「許してくれ。ぼくもばかだった。そして、君もわからなかったように、このぼくにもまったく見通せなかったんだ」
泣いたので、いくらか気持が落ちついたようだった。彼は、顔を上げて、ふたたび歩きだしながら、言葉をつづけた。
「どんなことがあったかって?……いまさらそんなことを話してなにになろう。君にも言ったように、けさジュリエットと話をした。ジュリエットは、とりわけきれいで、元気だった。ぼくはそれをぼくのせいだとばかり思っていた。だが、それは単に、二人が君のことを話していたからのことだったんだ」
「では、そのとき君にはわからなかったのか?……」
「うん、はっきりしたことはわからなかった。だがいまになって考えてみれば、なにからなにまで思いあたることばかりだ……」
「たしかに思いちがいではないんだな?」
「思いちがい? だって、彼女が君を愛していることがわからなかったら、それは目が見えないというものだ」
「で、アリサは?……」
「で、アリサが犠牲になったんだ。アリサは、妹の秘密を知るとともに、自分が譲ろうと思ったんだ。たいしてわかりにくくもないだろう……ぼくは、もう一度ジュリエットと話したいと思った。そして、ぼくが一言二言口に出すが早いか、というよりぼくの言おうとしていることを気取るやいなや、彼女は、二人で腰かけていた長《なが》椅子《いす》から立ち上がった。そして幾度も≪そうだろうと思ってましたわ≫と、繰り返した。それがちっともそう思っている調子ではないんだ……」
「冗談はよそうや」
「なぜ? もっとも、ぼくもばかな話だとは思っている……ジュリエットは、いきなり姉の部屋へ飛びこんでいった。激しい言葉の叫ばれるのを聞いて、ぼくは|こと《ヽヽ》だなと思った。ぼくは、ジュリエットにもう一度会いたいと思っていた。ところが、しばらくして出てきたのはアリサだった。彼女は帽子をかぶっていた。そして、ぼくを見るなり、ちょっと当惑したようなようすだったが、通りすがりに早口で≪こんにちは≫と言った……それだけさ」
「で、それからジュリエットには会わなかった?」
アベルはちょっとためらった。
「会ったんだ。アリサが出ていったので、ぼくは部屋の戸を押した。ジュリエットは、暖炉の前に立って、身動きもせず、肱《ひじ》を大理石の棚《たな》の上に置きながら、あごを手の中に埋《うず》めていた。彼女は、じっと鏡のなかに見入っていた。ぼくのはいっていくのを聞きつけると、振り向きもしないで、足で床を踏みならしながら、≪ほっといてちょうだい≫と言った。それがいかにも|けん《ヽヽ》のある調子で言われたので、ぼくは、そこそこに出てきてしまった。こうしたわけなんだ」
「で、これから?」
「すっかり話していい気持になった……これから? そうさ。君がジュリエットの恋わずらいをなおしてやるのさ。ぼくがアリサを誤解しているのでないかぎり、それまでは、アリサはどうしても君のものにはなるまいからなのさ」
二人は、かなり長いあいだ黙って歩いていた。
「帰ろう!」と、とうとう彼が言った。「もう客たちも帰ったろう、|おやじ《ヽヽヽ》が待ってるといけないから」
二人は家に帰った。はたして客間は|から《ヽヽ》だった。控え間の、いまは装飾も取り去られ、灯もほとんど消えているツリーのそばには、伯母とその二人の子供たち、ビュコランの叔父、ミス・アシュバートン、牧師、わたしの従姉妹《いとこ》、それからかなり滑稽《こっけい》な人物、長いこと伯母と話をしているのは見ていたが、そのときまで、これがジュリエットの言った求婚者とは思いもよらなかったその男、これだけの人たちだけが残っていた。わたしたちの誰よりも大柄《おおがら》で、がっしりした、赤ら顔の男で、頭もほとんどはげあがり、階級がちがい、社会がちがい、生れのちがったその男は、いまわたしたちのあいだにあっては場ちがいといったようすだった。彼は、いらいらしたようなようすで、大きなひげの下にある、胡麻塩《ごましお》がかった、ちょんぼりした皇帝髯《アンペリアル》を引っぱったりひねったりしていた。戸のあけはなたれた玄関には、もう明りもついていなかった。二人は、音をたてずにはいっていった。したがって、誰もわたしたちの帰ってきたのに気がつかなかった。このとき、一つの恐ろしい予想がわたしをとらえた。
「とまれ!」と、アベルが、わたしの腕をつかまえて言った。
そのとき二人は、その見知らぬ男がジュリエットに近づき、ジュリエットが、見向きもせずに力なく投げ出した手を取ろうとしているのを見た。わたしは心が暗くなった……
「アベル、いったいどうしたんだ?」と、わたしは、まだよくわからないといった調子で、いや、むしろ思いちがいであってほしいといった調子でそっとたずねた。
「なあに、ちょっとせりあげてるのさ」と、アベルは、きしむような声で言った。「ジュリエットは、姉に負けたくないと思っているのさ。さだめし天国で、天使たちがほめたたえてくださるだろうさ!」
叔父が来て、ミス・アシュバートンと伯母に囲まれているジュリエットにキスをした。ヴォーティエ牧師が歩みよった……わたしは体をのりだした。アリサはわたしを見つけて走りよるなり、ふるえながら、
「ジェローム、だめよ。あの子はほんとに愛してなんぞいないのよ。けさもわたしに言ったわ。やめさせてちょうだい、ジェローム、ああ、あの子はどうなることかしら?……」
アリサは、絶望しきって、訴えるように、わたしの肩にすがりつきながら言った。わたしは、その苦しみを軽めてやるためなら、命を投げ出しても惜しいとは思わなかった。
ツリーのあるあたりで、とつぜん叫び声が聞えた。ざわめくけはい……わたしたちは駆けよった。ジュリエットは、失心したまま、伯母の腕のなかに倒れていた。みんなは駆けよってのぞきこんでいた。そして、わたしにはよく見えなかった。髪の毛はほぐれてしまって、恐ろしいほど顔色のわるい彼女を、のけぞらせてでもいるようだった。彼女の体のけいれんしていたことから見て、それは普通の気絶ではないらしかった。
「なんでもありません、なんでもありませんよ」と、伯母は高い声を出して、おどおどしているビュコランの叔父を落ちつかせようとしていたが、一方ヴォーティエ牧師も、人さし指で天をさしながら、叔父をなぐさめていた。「――なあに、なんでもありませんよ。興奮しただけなんですよ。ちょっと神経の発作が起ったまでのことなんですよ。テシエールさん、あなたは力がおありだから、手をかしてくださいません? わたしの部屋へ上げましょう……わたしのベッドに……わたしのベッドに……」こう言ってから、伯母は、その長男のほうへ体をかしげて何やら耳にささやいた。つづいて息子の出ていくのが見えた。おそらく医者を呼びに行ったのにちがいなかった。
伯母と求婚者のテシエールとは、彼らの腕のなかになかば身をのけぞらしているジュリエットを肩の下から抱きかかえた。アリサは足を持ちあげて、それをやさしく抱きしめた。アベルはややもするとがっくりのけぞりそうな彼女の頭をささえていた。そして、ほぐれた髪の毛をかき集めながら、かがみこんでキスしてやっているのが見えた。
わたしは、室の戸口で、立ちどまった。ジュリエットは、ベッドの上に寝かされた。アリサは、テシエールとアベルに何か言った。だが、それはわたしに聞えなかった。そして彼女は、二人を戸口まで送ってきた。そして、わたしたちに向って、どうかこのままそっとしておいてほしい、プランティエの伯母と自分だけがついていることにしたい、と言った……
アベルは、わたしの腕をつかんで外へ連れだした。そしてわたしたちは、闇《やみ》のなかを、長いこと、|あて《ヽヽ》もなく、力なく、何を考えるともなしに歩いていった。
わたしは、生きてゆくということのためには、このアリサとの恋をよそにしてそこになんの理由もなく、わたしはこの恋にすがりつき、愛する彼女から出てくるもの以外何ものをも期待せず、また期待しようとも思わなかった。
その翌日、わたしはアリサに会いに行こうとした矢先を伯母にとめられ、そして、受け取ったばかりというこんな手紙を見せられた。
[#ここから1字下げ]
……やっと、けさがた、お医者さまの処方してくだすった水薬が、ジュリエットの激しい興奮にききだしました。これから四、五日、ジェロームには来ないようにしてほしいと思います。ジュリエットにはその足音や声がわかりましょうし、そしていまのジュリエットには絶対安静が必要なのですから……
ジュリエットの容体によっては、わたしはこのままここにいなければならなさそうです。それで、伯母さま、もし出発までに会えないようでしたら、あとから彼には手紙を出すからとお伝えください……
[#ここで字下げ終わり]
訪問禁止はわたしだけだった。伯母も、ほかの誰《だれ》でも、自由にビュコラン家を訪れることを許されていた。そして伯母は、けさも行こうとしているところだった。わたしの足音だって? なんとばかばかしい口実だ……勝手にしろ!
「結構です。行きますまい」
すぐにアリサに会えないことは、とてもつらかった。それでいて、会うことがこわくもあった。わたしには、妹の容体をわたしのせいにしているのではないかと心配だった。そして、いらだっている彼女に会うよりは、むしろ会わないでいるほうがずっと楽に我慢できた。
ただ、せめてアベルだけには会いたかった。
アベルの家をたずねると、女中は一通の手紙を渡した。
[#ここから1字下げ]
心配するといけないと思ってこの短い手紙を書き残す。こうもジュリエットの身近に、こうしてル・アーヴルにとどまっていることはなんとしても耐えがたい。そこでゆうべ、君と別れたすぐあとで、サザンプトン行きの船に乗った。ロンドンのS……のところで、休暇の残りをすごすつもりだ。また学校で会うことにしよう……
[#ここで字下げ終わり]
……あらゆるこの世の頼みの|つな《ヽヽ》が、一度にわたしから消え去ってしまった。わたしとしても、悲しいことしか残っていない滞在を、このうえつづけようとは思わなかった。そして、学期のはじまる前にパリにもどった。わたしは、神のほうへ、≪あらゆるまことの慰め、あらゆる聖寵《せいちょう》、あらゆるまったき恵みを授けたもう≫主のほうへ、わが眼差《まなざ》しを振り向けた。わたしは、自分の苦患《くげん》を主の前に捧《ささ》げた。わたしには、アリサもまた、その頼りを主に求めているにちがいないように思われた。そして、彼女も祈っているのだと思うことが、わたしの祈祷《きとう》をはげましてくれ、またそれを熱心なものにもさせてくれた。
アリサからの手紙、またわたしからの手紙以外には、べつに改まったできごともなく、思索と勉学とで長い月日がたっていった。わたしは、アリサの手紙を残らずしまっておいた。そして、これから以後のおぼつかない思い出は、それらの手紙を手がかりにして述べていこうと思う。
わたしは、伯母から――そして、それは最初伯母からだけだった――ル・アーヴルの近況を知ることができた。そして、伯母の手紙によって、はじめ幾日かのあいだ、ジュリエットの病状が思わしくなく、みんなをどんなに心配させたかを知ることができた。出発してから十二日めに、わたしはやっとアリサからの手紙を受け取った。
[#ここから1字下げ]
なつかしいジェローム、もっと早く手紙をあげられなかったことを許してちょうだい。でも、かわいそうなジュリエットの容体が、その暇をあたえてくれなかったんですの。お立ちになってから、ほとんどジュリエットのそばにつききりでした。伯母さんにお願いして、わたしたちのことを知らせていただくようにしておきましたが、おそらくそうしてくだすったことと思います。で、三日このかた、ジュリエットのよくなったことも知っておいでのことでしょう。神さまにはお礼を申し上げていますが、まだ楽な気持になれずにいます。
[#ここで字下げ終わり]
今まであまり彼のことを記さなかったが、ロベールもまたわたしにおくれること幾日かののちパリに帰ってきて、その姉妹たちの消息を知らせてくれた。あの姉たちの弟であればこそ、わたしは彼にたいして、わたしの生来の気質が自然にそうさせた以上に面倒をみてやっていた。ロベールのはいっている農学校が休みになるごとに、わたしは彼の面倒をみてやり、いろいろ気持をまぎらしてやるようにしていた。
わたしは、アリサにも伯母にも聞いてやれないことを、彼の口から知ることができた。それによると、エドゥワール・テシエールは、熱心にジュリエットのようすをたずねてよこしていた。だが、ロベールがル・アーヴルを立つまでには、ジュリエットはまだテシエールと会わずにいた。それにまた、わたしが立ってからというもの、ジュリエットは姉にたいして、なんとも手に負えないほどな、執拗《しつよう》な沈黙を守りつづけているということだった。
それからしばらくして、伯母から、これはわたしも予感していたことだったが、アリサがすぐにも破談にさせようとしていたジュリエットの婚約を、今度はジュリエットのほうから、できるだけ早く正式なものにしたいと希望していることを知った。そうした決心は、それをひるがえさせようとした数々の忠告、命令、嘆願をすべてむなしく失敗に終らせ、それはジュリエットの額に|かんぬき《ヽヽヽヽ》をおろさせ、彼女の目を固く閉じさせ、彼女を沈黙のなかに立てこもらせたのだった……
時は過ぎた。アリサには、こちらからもべつに書いてやるようなこともなかったが、彼女のほうからも、はなはだ頼りない手紙だけしかよこさなかった。わたしは、深い冬の霧に身を包まれていた。そして勉学の|ともしび《ヽヽヽヽ》も、愛と信仰とのあらゆる熱情も、このわたしの心から、闇と寒さとを払いのけてはくれなかった。時は過ぎていった。
と、とつぜん春の訪れたある朝のこと、ちょうどそのころル・アーヴルを留守にしていた伯母あてのアリサの手紙が、伯母からわたしにまわされてきた。その手紙のなかから、事のいきさつを明らかにするであろうと思われる個所《かしょ》を、ここに写し取ってみようと思う。
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……お言いつけを守ったことをおほめください。伯母さまのおすすめくだすったとおり、テシエールさんにお会いしました。そして、長々とお話ししました。あの方はまったく申し分のない方のように思われます。そして、何から何まで申しますと、この結婚は初めわたくしの心配していたほど不幸なものではないように思われてきました。なるほど、ジュリエットはあの方を愛してはおりません。でも、あの方は、一週一週と愛される値打ちのある方になっておいでのように思われます。あの方のお話をきけば、今度の事情もよく見抜いておいでになります。そして、ジュリエットの性質についても、よくわかっておいでです。あの方は、ご自分の愛の力にとても自信をもっておいでで、あの方の忍耐をもってしたら、打ち克《か》つことのできないことは何一つないという自信をもっておいでです。つまり、あの方は、すっかりジュリエットに打ち込んでしまっておいでなのです。
ジェロームが、あんなにも弟の面倒をみていてくれますのをうれしく思っています。ジェロームは、それをただ責任の気持から――それに、おそらくわたしをよろこばせたいと思って――やっていてくれるように思います。なぜかと申せば、ロベールとジェロームでは、その性質にほとんど似たところがないのですもの。ともかく、ジェロームには、自分に課せられた義務が苦しければ苦しいだけ、それだけ魂がはぐくまれ、魂が引き上げられるということがわかったろうと思います。あらあら、とても高尚《こうしょう》なことを書いてしまいましたわ! 大きな姪《めい》の言うことを、あまりお笑いになりませんように。こうした考え方こそ、わたくし自身をささえてくれ、あのジュリエットの結婚を、いいこととしてながめさせてくれるものなのですから。
…………………………………………………
伯母さま、ご親切なご注意、どれほどうれしかったことでしょう……でも、わたくしを不仕合せだなどとお考えにならないでください。それはほとんど≪お考えちがい≫とさえ申し上げられるのです。なぜかと申せば、ジュリエットの身に起った試練の反動が、いまこのわたくしにもたらされているのですから。わたくしには、聖書の中の一言、あまりよくわからずに繰り返していたあの聖書のなかの一言が、とつぜんはっきりわかりました。≪人を恃《たの》むものは詛《のろ》わるべし≫この言葉は、これを聖書のなかに見つけるよりずっと前に、ジェロームがまだ十二にならず、わたくしがちょうど十四になったばかりの年の降誕祭に、ジェロームの送ってくれた小さなクリスマス・カードの上に書かれているのを読んだのでした。そのカードには、そのころずいぶんきれいだと思った花束のそばに、コルネイユの釈義による次のような詩句が書き添えられておりました。
いかに塵《ちり》の世を立ち超えしめでたさのありて、
きょう、わが身をば主に近く高むるものか?
ただ人のみにささえを築く
人ありとせばあわれなるかな!
心のままを申し上げれば、わたくしは、これよりも、あのエレミヤ記の簡素な一節のほうがずっと好きでございます。ジェロームは、この詩にはあまり気をとめずにカードを選んだもののように思われます。しかし、ジェロームからの手紙によって考えますと、今のジェロームの考え方は、わたくしのそれとかなり似てきております。そして、わたくしは、毎日、主にたいして、こうして二人を同時に主にお近づけくだすったことを感謝しているのでございます。
伯母さまとのお話を思い出して、ジェロームには以前ほど長い手紙をやらないことにしております。ジェロームの勉強をさまたげることをおそれてでございます。だから、こうして、伯母さまにあの方のことをお話しして、それで埋め合せをつけているのだななどとお考えでしょうか。いつまで書いてもきりがなさそうに思われるので、きょうはこれでやめにいたします。今度だけはあまりお叱《しか》りくださいませんように。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙は、わたしにどんなことを考えさせたことだろう。わたしは、伯母の無作法な差し出口――いったいアリサが言っている伯母との話、わたしに向ってのアリサの沈黙の原因となったその話とはいったいどんなことなのだろう――と、それをわざわざわたしに知らせようと考えついた伯母の間抜けな親切さとをのろわしく思った。今まで、つらい思いでアリサの沈黙を我慢していたわたしに、せめてこのわたしに書いてよこさないことを、わたし以外の人に言っているということだけでも知らせずにおいてくれたら! そうなると、何から何までが腹だたしかった。二人のあいだだけのこまごました秘密を、これほどわけなく伯母に話してやるなんて。しかも、こうしたこだわりのない調子、沈着さ、取りすましたようす、のんきそうな調子、これはいったいどうしたことだ……
「そうじゃないさ。この手紙には、それが君の名あてになっていないことを別にすれば、何ひとつ君を怒らせるようなことはないじゃないか」と、アベルが言った。彼は、わたしにとっての日々の相談相手であり、二人の性質がちがっているにもかかわらず、あるいはむしろその性質のちがっていることによって、彼にだけは打ち明けた話もでき、さみしいときには、自分の気の弱さから、同情を求めて泣きつきたい気持から、自分にたいする疑いの気持から、また、困っているときには、彼のあたえてくれる忠言にたいする信頼の気持から、いつもわたしを彼にたよらせることになっていたのだった……
「ひとつこの手紙を調べてみようじゃないか」と、アベルは手紙を机の上にひろげて言った。
いまいましく思いながらも、すでに三晩というものがたっていた。わたしは、そのいまいましさを四日間というものこらえていた!そしてわたしは、ほとんど自然に、アベルが次のように言った気持にまで落ちていった。
「ジュリエットとテシエールの問題なんか、恋の炎のなかに投げ捨ててしまうさ。そのあげる炎がどんなものか、それはおたがいの知ってるとおりだ。ふん、テシエールなんて、ちょうどその炎のなかに飛びこんで身をこがすにふさわしい蝶々《ちょうちょう》なのさ……」
「その話はよそうや」と、わたしは彼の冗談に気を悪くして言った。「あとの問題に移ることにしようや」
「あとの問題?」と、彼は言った……「あとのことと言えば、それは君自身の問題じゃないか。勝手にお嘆きなさいよ、だ。一行一句に、君を思う心があふれているんだ。手紙全部が、君にあてて書かれているといっていいんだ。フェリシー伯母さんがそれを送ってよこしたというのも、要するにほんとの名あて人に届けたというにすぎないんだ。君がいないために、アリサは仕方なしに人のいい伯母さんあてに書いたんだ。伯母さんに、コルネイユの詩がなんの効果を持つというんだ――ついでに言うが、これはラシーヌの詩なんだぜ――アリサは君と話をしているんだ。こうしたことを、みんな君あてに話してるんだ。二週間以内に、アリサから、これと同じほどの長さの、打ちとけた、気持のいい手紙がもらえなかったら、君もずいぶんおめでたいぜ……」
「とてもよこしそうには見えないな」
「それというのも君の腕次第さ。ぼくの考えをきかせてやろうか?――きょうからはずっと、二人のあいだの恋についても、また結婚のことについても一言も言ってやらないことだ。妹のことがあってからというもの、アリサはそのことだけを根に持ってるんだ。だから今度は、弟思いのアリサの気持に働きかけてやるんだ。そして――君もせっかく、あのおめでたい男の世話をする気になってることだし――ロベールのことを、気長に書いて知らせてやる。こうして、アリサの頭をたのしませてやるんだ。あとは自然にうまくいく。ああ、もしぼく自身、筆をとって書くのだったら!……」
「君にはとてもアリサを愛するだけの資格がないさ」
そうは言いながらも、わたしはアベルのすすめにしたがった。すると案の定、たちまちアリサからの手紙には油が乗ってきた。だが、ジュリエットの幸福、とは言えないにしても、彼女の身が落ちつくまで、わたしには、アリサから真のよろこび、隔意のない身をまかせた気持を受け取ることは望めないように思われた。
妹についてのアリサの消息は、すべてが調子よくいっていることを伝えていた。妹の結婚は七月に挙げられることになっていた。そしてそのころはアベルとわたしとは、学校のほうの都合で、とても来られないだろうといったようなことも書かれていた……わたしは、さてはわたしたち二人、式に連ならないでほしいのだなということをさとった。で、何かの試験のあるというのを口実に、祝いの手紙だけを出すことにした。
結婚式のあと二週間ばかりすると、アリサから次のような手紙が来た。
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なつかしいジェローム
きのう偶然あなたからいただいた美しいラシーヌの詩集をあけましたら、そのなかに、やがて十年にもなろうというあいだ、聖書にはさんでしまっておいた、あなたからの古い小さなクリスマス・カードに四行の詩句を見つけてびっくりしました。
いかに塵の世を立ち超えしめでたさのありて、
きょう、わが身をば主に近く高むるものか?
ただ人のみにささえを築く
人ありとせばあわれなるかな!
わたしは、これをコルネイユが釈義した詩の一節とばかり思っていました。そして実のところ、あまりたいしたものとも思っていませんでした。ところが、そのいかにも精神的な第四歌を読んでいくうち、わたしは、あなたに書いてあげずにはいられないほど美しい詩句を見つけました。本の余白に、あなたが大胆に書いておおきだった頭《かしら》文字《もじ》から考えて、あなたもすでに知っておいでのことと思います。(当時わたしは、自分の本やアリサの本のなかに、自分の好きなくだりがあり、それをアリサに知らせたいと思ったとき、そこにいつもアリサの頭文字を書いておいたものだった)。でも、それはどうでもいいのです。それを写したくなったので、ここに写してみることにします。自分の見つけたと思っていたものが、じつはあなたに教えていただいたものだとわかったとき、はじめはちょっと当惑しました。でも、そうしたさもしいわたしの気持は、あなたもそのくだりが好きでいらしったというよろこびの前に、すっかり消えてしまいました。そして、写しながらも、あなたといっしょにそれを読みかえしているような気持になっています。
不滅なる知恵の言葉は
鳴りひびきわれらにおしう。
「人の子よ。なんじらの心づかいが
実らせし果実やいかに?
うつろなる心の人よ、あやまちて
脈管の血潮もあだに、
いつもただその手に獲《う》るは
腹みたすパンにはあらで
いやさらに飢えをばそそる
影のみと知るや知らずや。
いまわれら、なれにすすむる
このパンは天使の食ぞ。
主の君が小麦を選《え》りて
み手ずから作らせたもう
味高きこのパンこそは
なれが知る世の人々の
食卓《つくえ》にはのぼらぬものぞ。
われにくるものに与えん。
きたれかし。生きんとならば
取り、食し、かくて生くべし」
…………………………
めぐまれし囚《とら》われ人《びと》は、やすらかに
主の君がくびきのもとに、
いつまでも涸《か》るることなき
あたらしき泉に飲むぞ。
何人《なにびと》も、飲むべかりけり。
この水は諸衆を招く。
さるをただ、狂おしくひた馳《は》せめぐり
濁りたる泉をもとめ
あるはまた、いつわりおおき濁りに汲《く》めど、
つねに、水われらをのがれ、手に残るものとてはなし。
なんという美しさ! ジェローム、なんという美しい言葉でしょう! あなたもほんとうにわたしの思うほどそれを美しいとお思いになるかしら? わたしの持っている版の注には、ドーマール嬢のうたうこの歌を聞きながら、ド・マントゥノン夫人が感激して≪はらはらと涙を流し≫、もう一度その一部を繰り返させたと書かれています。わたしも、今はそれをそらんじています。そして繰り返し口ずさんで、少しもあきることがないのです。わたしの寂しく思うのは、ただ、それをあなたのお読みになるのをお聞きできなかったということだけ。
旅行中の二人からの便りはいつもよいことばかり。恐ろしい暑さにもかかわらず、バイヨンヌやビヤリッツへ行ったジュリエットがどんなに楽しい日をすごしたか、それはもう知っておいでのはずです。あれから二人はフォンタラビーへも行ってビュルゴスに滞在し、ピレネー山脈を二度も越えました……いま妹からモンセラ発の感激しきった手紙を受け取りました。エドゥワールさんが、葡萄《ぶどう》収穫の支度のために、ぜひ九月までに帰りたいといっているニームへもどる前に、二人はあと十日ばかり、バルセロナでゆっくりするつもりということです。
一週間このかた、わたしは父と二人で、フォングーズマールにいます。ミス・アシュバートンもあしたここへやっておいでのはず。四日したらロベールも来ます。かわいそうなあの子が、試験に失敗したことはご存じですわね。むずかしくはなかったのでしょうが、つまり試験官が妙な問題を出したのでまごついてしまったのです。一所懸命にやっているというあなたからの手紙でしたし、ロベールの準備が足りなかったとも思えません。ただ試験官が、ああして生徒たちをまごつかせては喜んでいるらしいんですの。
あなたの及第についてはお喜びの言葉を言う必要もないくらい。それほどわたしには当然のことに思われます。ジェローム、わたしはあなたを、それほどまでに信じています。あなたのことを思うごとに、わたしの胸は希望であふれてくるのです。いつかお話しになったお仕事のほうも、すぐお取りかかれになれそうかしら?……
……ここでは、庭のあたり、少しも変っていませんが、家のなかは、なんだか|がらん《ヽヽヽ》としているようです。ことしおいでにならないようにとお願いしたわけがおわかりでしたわね。そのほうがいいように思われますの。そしてわたしは、そのことを毎日心に言いきかせているのです。なぜって、長くお会いしないでいることは、ずいぶんつらいことなんですもの……ときどき、思わずあなたをさがすことがあります。本を読みさして、ふとうしろを振り向くと……そこにあなたが立っておいでのように思われて。
また手紙をつづけます。夜です。みんなは寝ています。あけはなった窓の前で、わたしはあなたへの手紙を書くために起きています。庭はすっかりいい匂《にお》い。風は暖かです。二人がまだ小さかったころ、何かとてもきれいなものを見ると、すぐ、≪神さま、こうしたものをお造りくだすったことを感謝いたします≫と言ったことを覚えていらしって?……今夜、わたしは心の底から、≪神さま、こんな美しい夜をお造りくだすったことを感謝いたします≫と思いました。そして、突然、わたしのそばにいていただきたい、また、あなたはここにおいでなのだと思いました。とても激しく。あなたにも、きっとこの気持が通じたにちがいないと思われるほど。
そう、お手紙によく≪素直な魂の所有者にとっては≫賛美はつねに感謝に終る、とありましたわね……どんなにたくさんお書きしたいことでしょう! わたしは今、ジュリエットの言ってよこしたあの輝きわたる国のことを思っています。わたしはまた、ほかの、もっと広い、もっと輝いた、もっとさびしい国々のことを思っていますの。いつか、どうしてかわかりませんが、どことも知れぬ神秘的な広い国を二人で見るときがありそうな、奇妙な信念をもっていますの……
[#ここで字下げ終わり]
わたしがどれほど有頂天になって、どれほど愛の嗚咽《おえつ》にむせびながらこれを読んだか、おそらく想像していただけると思う。何通かの手紙がこれにつづいた。アリサはたしかに、わたしがフォングーズマールへ行かなかったことを感謝していた。彼女はたしかに、ことしわたしが会いに行かないことを望んでいるのだ。そのくせ彼女は、わたしのいないことを残り惜しく思って、今やわたしを望んでいるのだ。一ページごとに、わたしを呼ぶおなじ響きが聞かれていた。これに耐えるだけの力を、わたしはどこから得たのだろうか? それはたしかに、あのアベルの忠告や、またこの歓喜が奪われるようなことが起りはしないかというおそれや、心を誘われることにたいして自然に身を引きしめるということからだったにちがいない。
次々に来た手紙のなかから、この物語に関するものの全部を写してみよう。
[#ここから1字下げ]
なつかしいジェローム
お手紙を読んでたまらなくうれしくなりました。オルヴィエトからのお便りにご返事しようと思っていたとき、ベルッジアとアッシジからのお手紙が同時につきました。わたしの心はまるで旅をしているよう。ここにいるのは、つまりわたしの体だけ。ほんとにわたしは、ごいっしょに、あのオンブリヤの白い道の上を歩いているのです。朝、あなたとごいっしょに出発して、新しい目をあげて朝明けをながめます……あのコルトナの高台から、ほんとうにわたしの名を呼んでくだすった? そのお声が聞えましたわ……アッシジの上のほうの山ではずいぶん咽喉《のど》がかわきました。そして修道士《フランシスカン》のくれた一杯の水がどんなにおいしかったことか。あなた、わたしにはそれらのひとつひとつがあなたを通してながめられますの。聖フランチェスコについて書いておよこしになったことをどんなにうれしく思ったことでしょう。ほんとに、求めなくてはならないのは、心の解放ではなく、その|高揚《ヽヽ》ですわね。心の解放、そこにはいつもあのいとわしい誇りの気持がつきまとっています。大望は反抗のためにでなく、奉仕のために使わなければなりませんのね……
ニームからはいい便りがあってもう喜びに身をまかせてもいいと神さまからお許しがあったような気持です。ただこの夏中たった一つ心のかげりとなったのは、父のようす。いろいろ心をくばっているのですが、いつも寂しそうにしています。というより、ひとりになると、すぐまたもとの寂しい気持にかえっていってしまいますの。そして、そこから抜けだすことがますますむずかしくなっていますの。わたしたちのまわりで語られるあらゆる自然の喜びの言葉も、父にとっては無縁のものになってしまい、父は、そうした言葉に耳をかそうともしないのです。ミス・アシュバートンはお達者です。父とあの方とに、あなたからのお手紙を読んであげています。一本のお手紙で、三日ばかり話題に事を欠きません。そうしているうち、また次のお手紙が来るというわけ……
……ロベールは、おととい立っていきました。休暇の終りの部分を、模範農場を経営している方の息子のR……さんというお友だちのところですごすのだと言っていました。ここでわたしたちが送っているような生活は、もちろんあの子にとってあまり愉快なものではありません。で、行ってみたいと言いだしたとき、わたしとしては、その計画に賛成してやらなければなりませんでした……
……お話ししたいことは山ほどあります。いつまでも尽きないほどお話ししたくてたまりませんの。ときどき、言葉なり、はっきりした考えなりがつかめなくて――今夜なども、夢をみているような気持でこれを書いています――ただ無限の富を与えたり受けたりしているとでもいったような、息づまるような気持をいだいていますの。
どうしてあんなに長いあいだ、おたがいに沈黙しあっていられたのかしら? おそらく二人は冬ごもりをしていたのですわね。ああ、もうこんな恐ろしい沈黙の冬はおしまいにしたい! ふたたびあなたを見つけることができて、わたしには、生活も、思想も、心も、すべてが汲めどもつきぬほど美しく、尊く、豊かなものに思われだしてきましたの……
[#地付き]九月十二日
ピサからのお手紙たしかに受け取りました。こちらもすばらしいお天気です。これまで、ノルマンディーがこんなに美しく思われたことははじめてでした。おととい、わたしは一人で、どことあてなく、足にまかせて野原を長いこと歩きまわりました。太陽と歓喜に酔ったわたしは、帰ってきたとき、疲れたというよりすっかり興奮してしまっていました。燃えるような太陽の下に、藁塚《わらづか》の姿のなんと美しかったことでしょう! すべてをすばらしいと思うためには、イタリアにいると想像する必要もありませんでした。
そう、あなたがおっしゃるように、自然の≪おぼろげな賛歌≫のなかで、わたしが聞き、わたしが理解するのは、あの歓喜へ向っての|すすめ《ヽヽヽ》なのです。それは、どの鳥の歌のなかにも聞かれますの。それは、どの花の香《か》のなかにも匂っていますの。そしていま、わたしには、祈祷《きとう》の唯一《ゆいいつ》の形式として、賛美よりほかにはないと理解するようになりました。そしてわたしは、あの聖フランチェスコといっしょに、≪神よ、神よ≫と、e non altro(それのみ)言葉にあらわせないほどの愛の思いに心をみなぎらせながら言っていますの。
でも、そのため、わたしが無学な修道女になりはしないかとのご心配はご無用! このごろずいぶん本を読みました。幾日かつづいた雨の日のおかげもあって、まるで賛美を書物のなかに畳みこんだとでもいったようでした……マルブランシュも読みおわって、すぐライプニッツの『クラークへの手紙』にかかりました。そして、少し息をつこうと――あまりおもしろくはありませんでしたが、シェリーの『チェンチ一家』を読みました。それに『はにかみ草』も。こんなことを言ってはお気に入らないかもしれませんが、去年の夏、ごいっしょに読んだキーツの詩四つとなら、シェリー全部、バイロン全部を取りかえても、少しも惜しいとは思いませんわ。同様に、ボードレールのソネットのいくつかのためなら、ユゴー全部と取りかえますわ。|大詩人《ヽヽヽ》という言葉にはなんの意味もないんですわね。大切なのは|純な《ヽヽ》詩人であるということ……さあ、これらすべてをわたしに教えてくださり、そして、これらを理解し、愛するように導いてくだすったことをほんとにうれしく思っていますわ。
……いいえ、お会いする幾日かの楽しさゆえに、旅行を早く切り上げたりなさらないで。ほんとうに、二人はまだ会わないほうがいいんですわ。信じてください。たといあなたがわたしのそばにおいでになっても、あなたを今より以上に思うことにはならないのですから。心配おさせしたくはないんですが、わたしはいま――あなたに、ここにいてくださらないようにと願いたい気持になっていますの。ありのままに言いましょうか? たとえば、もし今夜にでもあなたのいらっしゃることがわかったら……わたしきっと逃げだしますわ。
ああ、どうぞ、こうした……感情の説明をお求めにならずに。わたしには、ただ、わたしがいつもあなたのことを思っているということ(|あなた《ヽヽヽ》の幸福のためにはそれで十分だと思いますわ)そして、それでわたしも幸福なのだ、ということだけがわかっていますの……
[#ここで字下げ終わり]
…………………………………………………
この最後の手紙が来てからしばらくして、わたしがイタリアから帰って間もなく、わたしは兵役に服してナンシーに送られた。知った者といってはひとりもいなかったが、わたしはむしろそうした孤独をうれしく思っていた。それは、彼女に思われているというわたし自身の誇りにとっても、またアリサにとっても、こうして彼女からの手紙だけが唯一の頼みであり、また彼女の思い出のみが、あのロンサールの言ったような≪わが唯一の全的《エンテレ》実現《ケイア》≫であることが、よりはっきり受け取れるからのことだった。
事実わたしは、自分に課せられたかなりつらい規律生活をきわめて気軽に耐えていった。わたしはあらゆるものにたいしてしっかり身を持し、アリサに送る手紙のなかにも、そばにいられないのを残念に思うという以外、なんら泣き言らしいことを書いてやらなかった。そして二人は、こうした長く別れているということに、二人の勇気にふさわしい試練を見いだしていた。――アリサからは≪ちっとも訴えたりなさらないあなた≫とか、≪弱ったりなさることの想像できないあなた≫とか書いてよこした。こうした言葉にかけても、たといどんなことであれ、踏み越えられないことがあったろうか?
二人が会ったときから数えて、もうほとんど一年の月日がたっていた。彼女はそのことをあまり考えていないようだった。そして、きょうから改めてそのときのくるのを待とうとでもいったようだった。わたしは、そのことを彼女にとがめてやった。彼女の返事はこうだった。
[#ここから1字下げ]
だって、ごいっしょにイタリアへも行ったじゃありません? すぐ忘れておしまいですのね。一日だって、おそばを離れたことはありませんでした。ただ、今のうちだけ、あなたについて行けないのだということをわかってください。わたしの言う、別れているというのは、ただこれだけのことなんですの。軍人姿のあなたを想像してみようと思っています……でも、それはだめ。わたしには、夕方、ガンベッタ通りの小さなお部屋で、書きものをなさるか本を読んでおいでのあなたを思い出すことのできるのがせめてものこと……いいえ、それさえはっきりとは思い出せません。ほんとうに、あなたとは、フォングーズマールかル・アーヴルかで、このさき一年しないとお会いできませんのね。
一年! これまでに過ぎた日のことなどを数えているのではありませんわ。わたしの希望は、ゆっくりゆっくり近づいてくるその日をじっと見まもっていますの。あなたは、まだおぼえておいでになるかしら、庭のずっと奥の低い土塀《どべい》のことを? そのかげには菊がかこってありました。そして二人は、その土塀の上を伝って遊びましたわね。ジュリエットとあなたの二人は、天国めざしてまっすぐ歩いていくマホメット教徒といったように、その上を大胆に歩いておいででした。ところがわたしは、ちょっと歩きだすが早いか|めまい《ヽヽヽ》がして、あなたはいつも下から≪足もとを見てはいけないよ……まっすぐ見て! さ、歩くのをやめちゃだめ、|めあて《ヽヽヽ》をきめて!≫と、どなっていてくださいました。そしてとうとう――これは口で言ってくださるのよりありがたかったのでした――あなたは土塀のはしによじのぼって、わたしを待っていてくださいました……そのときは、体のふるえもとまっていました。|めまい《ヽヽヽ》もしなくなっていました。そして、あなたばかりをじっと見つめて、あなたのひろげた腕のなかへ飛びこんでいったものでした……
あなたを信じていなかったら、わたしはどうなっていたことでしょう。あなたを強い方だと思いつづけていたいのです。そして、あなたを頼りにしていたいのです。どうか弱くおなりにならずに。
[#ここで字下げ終わり]
一種の挑戦《ちょうせん》的な気持から、ことさら希望をさきへ延ばそうとしたわたしたちは、――それに、一方では完全でない再会を恐れる気持も手伝って、わたしたちは新年に近い幾日かの休暇を、パリにいるミス・アシュバートンのもとですごすことにしようと申し合せた……
前にも述べておいたが、ここに写すのはこれらの手紙の全部ではない。次のものは二月の中旬に受け取ったものである。
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おととい、パリ街を通りながら、M……の店頭に、前にあなたからお聞きしながら、その|事実《ヽヽ》について全然信じられなかったあのアベルの本が、恐れげもなく並べられているのを見て驚きました。とても我慢できませんでした。わたしは店にはいりました。でもいかにも妙な書名なので、店員に向ってそれを言いだすことができずにもじもじしていました。ことによると、ほかの本をなんでもいいから買って、店を出てしまうのではないかとさえ思いました。ところが、いいあんばいに、帳場のそばに、あの『むつみあい』の小さな山が買い手を待っていました。そこでわたしは本を一冊手にすると、口をきく必要もなく、帳場に百スーを投げ出しました。
わたしは、アベルからその本を送ってくれなかったことを感謝しています。わたしは、顔をあからめることなしには、それを繙《ひもと》くことができませんでした。それは、作品そのもの――結局そこには、卑猥《ひわい》というよりもばかげたことのほうが多かったのですが――について赤面するというより、アベル、あなたのお友だちのアベル・ヴォーティエが、あんなものを書いたということを思ってなのでした。わたしは、一ページごとに、『ル・タン』紙の批評家が見いだしたという≪偉大な才能≫なるものをさがしてみましたが、結局それを見いだせませんでした。アベルのことがよくうわさに出るこのル・アーヴルの小さな社交界では、本の評判がたいへんいいということを聞きました。あの人の手の施しようのない軽薄さのことを、やれ≪軽妙≫だとか、やれ≪優雅≫だとか言っているのを耳にしました。もちろんわたしは、つとめて口を慎んでいます。そして、こうした読後感も、ただあなたにだけお伝えするのです。はじめのうち、むりもなく困っておいでだったお気の毒なヴォーティエさんも、このごろでは、そこに何か自慢の種があるのではないかと考えだしておいでのようです。そして、まわりの人たちも、ヴォーティエさんにそう思いこませてあげようとつとめています。きのう、プランティエ伯母さまのところで、V……夫人がとつぜん「ご子息さまもご成功で、さだめしお喜びでございましょう」とおっしゃると、ヴォーティエさんは少し当惑なさったようすで、「いや、まだなかなかそこまではいっておりませんよ……」とお答えになりました。すると、「なに、もうすぐそうおなりになりますよ」とおっしゃった伯母さまのお言葉、そこにはなんら悪気のなかったことはもちろんですが、いかにも引き立てるようにおっしゃったので、みんなは急に笑いだし、ヴォーティエさんまでが笑いだしておしまいでした。
あの人が、ブールヴァールのどこかの劇場のために準備しておいでだという、そして新聞でももう評判をはじめているらしい『新アベラール』が上演されることになったら、いったいどういうことになるでしょう。お気の毒なアベルさん! あの人のねらっておいでの成功、そして、それでもう満足しておしまいになりそうな成功とは、じつはそうしたものだったのでしょうか?
きのう『心の慰安』を読みました。≪まことにして永遠なる光栄を望むものは、ただいっときに過ぎざるものに意をそそぐことなし。心にこれをさげすまざるものは、そは自ら聖《きよ》らかなる光栄を求めざることをしめすものなり≫そしてわたしは思いました。≪主よ、どんな地上の光栄ともくらべものにならない浄《きよ》らかな光栄のため、わがジェロームを選びたまいしことを感謝したてまつる≫
[#ここで字下げ終わり]
幾週か、幾月かは単調な軍隊生活のうちに過ぎていった。だがわたしは、いつもさまざまの思い出とか希望のことばかり考えていたので、時のたつことのおそさ、時間の長さなどにはあまり気がつかずにいた。
叔父とアリサとは、この六月に、ちょうどそのころお産の近づいていたジュリエットを見舞うため、ニームの近くへ行くことになっていた。ところが少々かんばしくない消息が、二人の出発を早めさせることになったのだった。
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ル・アーヴルあてのこのあいだのお手紙は(と、アリサから言ってよこした)ちょうどわたしたちが立ったあとにつきました。それが、どうしたことか、一週間もして、きょうようやくここにまわってきました。その一週間のあいだ、わたしは何か物たりないもののあるような、おびえたような、不安な、力ない気持で暮していました。ああ、あなたがいてくださるときだけ、わたしには、自分がはじめて自分であり、自分以上のものになれるように思われますの……
ジュリエットはふたたび元気になりました。わたしたちは、あまり心配もしないで、その出産の日をきょうかあすかと待っています。けさ、あなたに手紙をお出しすることもよく知っています。わたしたちがエーグ・ヴィーヴへ着いた翌日、ジュリエットはわたしに「ところでジェロームさんはどうしていらしって?……いつも手紙をくださる?」と、たずねました。そして、わたしも嘘《うそ》を言うことができず、ありのままを答えてやりますと「それでは今度手紙を上げるときに……」と言ってちょっとためらいましたが、やがてやさしい微笑を浮べながら「わたしは、もうなおりましたと言ってあげてちょうだい」と、言いました。いつも陽気な妹の手紙を見ながら、ただ幸福のお芝居をやってみせているだけではないだろうか、そうしているうちに、自分でもその気になってしまったのではないだろうかと、いささか危《あや》ぶんでいたのでした。……ところが今、妹を幸福にしているものは、かつて妹の考えていたような、そしてまた彼女の幸福がそれにかかっていると思われていたようなものとはまったく別なものなのです。……ああ、≪幸福≫と呼ばれるものは、どうしてこれほど魂と関係の深いものなのでしょう。そして外部からそれを形作っているかに見えるもろもろのものは、なんと価値がないのでしょう。≪荒地《ガリーグ》≫のほうへひとりで散歩に行きながら、いろいろ考えたことはこの上お聞かせしないことにいたします。ただそこへ行ってわたしの驚いたのは、自分があまりに愉快になれなかったということでした。ジュリエットが幸福であるということだけで、十分満足していいはずなのに……わたしの心としたことが、どうして不可解な憂鬱《ゆううつ》におそわれて、それに打ち克《か》つことができないのかしら。このわたしの感じた、と言って言葉がすぎれば、少なくともわたしのみとめているこの国の美しさも、わたしの説明しようのない気持をつのらすばかり。……あなたがあのイタリアから手紙をくだすったころは、あなたを通してあらゆるものを見ることができていました。それなのに今、あなたなしに見ているわたしは、何から何まであなたから盗んで見てでもいるかのよう。フォングーズマールやル・アーヴルにいたころは、もの悲しい雨の日のために、忍耐力を養っていました。ところが、ここへ来ると、その力はもうなんの役にもたたなくなってしまい、その力を用うるによしないことを思って、心もとなくなっております。人々や、この土地の陽気さなどが、なんとしても気にさわってなりませんの。わたしが≪さびしい≫というのも、それはあの人たちほど騒げないということだけかもしれません……これまで、わたしの喜びのなかには、たしかに得意といった気持が含まれていたようです。というのは、今のわたしには、こうして自分となんのかかわりもない陽気さのなかに身をおいて、なにか屈辱とでもいったような気持が感じられているのですから。
ここへ来てからは、お祈りさえも満足にできませんでした。なんだか、神さまは、もう以前のところにはいらっしゃらないのだといった子供らしい気持です。さようなら。書きたいのですが、これでやめます。こうした冒涜《ぼうとく》の言葉、わたしの弱さ、わたしの悲しみ、それにこんなことをすっかりお打ち明けしたこと、それに、もし今夜郵便屋さんが持っていってくれなかったら、あしたはおそらく破りすててしまうようなことを書き連ねたことなど、自分ながら恥ずかしく思っています。
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次の手紙には、彼女が名付親《マレーヌ》となるはずの姪《めい》が生れたこと、ジュリエットや叔父の喜びのことだけしか書かれていなかった。……そして彼女自身の気持については、なにも問題にされていなかった。
やがてまた、フォングーズマール発の手紙が来だした。七月になって、ジュリエットもそこに来たのだった。
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エドゥワールさんとジュリエットは、けさ立って行きました。とりわけ残念なのは、あのかわいい姪のいなくなったこと。半年たって、また会うころには、その動作も見ちがえるようになっているでしょう。今までのところ、そのはじめての動作の何から何まで、すっかり見とどけてきたのでした。≪生成≫とは、ほんとに不思議な、そして驚くほどのものですわね。わたしたちが、さまでそれにおどろかずにいられるというのも、それは注意が足りないからのことなのです。希望に満ちた小さな揺籃《ようらん》をのぞきこみながら、わたしは何時間もすごしました。いったいどうした利己心から、あるいはどうした自己満足の気持から、また、よりよきことを求める心のどうした減退が原因で、あんなにもすみやかに発展がとまり、また、すべての人々が、ああも神さまから遠いところに立ちどまってしまうのでしょう? おお、もしわたしたちが、もっともっと主に近づくことができるのだったら、そして、そうしようと思うのだったら……そこにどんなに張り合いが出てくることでしょう!
ジュリエットは、とても幸福らしく思われます。はじめ、ピアノと読書をやめているのを見てちょっと悲しく思いました。でも、それはエドゥワールさんが音楽を好きでなく、読書にも趣味をもっておいででないからのことなのでした。そして、夫のついていけないような楽しみを求めないジュリエットの態度は、おそらく賢いものと言えるでしょう。反対に、ジュリエットのほうでは夫の仕事に興味をもち、夫はジュリエットに何から何まで説明してやっているのでした。ことしは、とても事業がひろがりました。エドゥワールさんは、ル・アーヴルに大切なお得意のできたのも、まったく結婚のおかげだと冗談を言っておいでです。ロベールはこのあいだの商用の旅に、エドゥワールさんのお供をしました。エドゥワールさんは、とてもロベールに目をかけていてくだすって、その性質ものみこめた、きっとこうした仕事に深い興味を持つようになるにちがいないとたのしみにしていてくださいます。
父も、とてもよくなりました。娘が幸福になったのをみて、すっかり若返ったというわけなのです。そして、またもや畑仕事や庭仕事に興味をもちはじめました。そして、ミス・アシュバートンをも加えて、やりかけたままエドゥワールさん一家が泊りに来たため中止していた、高い声で本を読むことをはじめてくれないかと今も言ったところですの。わたしが読んであげているのは、あのヒュブナー男爵《だんしゃく》の『旅行記』です。わたし自身も、それをおもしろがってやっています。これからは、本を読む時間も多くなります。あなたからのお指図を待っていますわ。けさも、次々に何冊かの本を取り出してみながら、そのどれ一つ、心をひくようなものがないんですもの!
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このころから、アリサの手紙は乱れがちなものになり、また思いせまったものになっていった。夏の終り近くによこした手紙には、
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ご心配をかけるだろうとは知りながら、どれほどお待ちしているかを言わずにはいられません。お会いするまでの一日一日が、わたしを重くおさえつけ、わたしを圧《お》しつぶしてしまいますの。まだあと二カ月! ずっとお別れしていたあいだよりも、長くながく思われますわ! 待ちこがれの気持をいかにまぎらそうとつとめてみても、それはばかげた、その時かぎりのもののように思われて、どんなことにも一心になることができませんの。書物にもなんの力も魅力もなく、散歩もおもしろくありません。自然全体がありがたみを失ってしまって、庭は色あせ、匂《にお》いのないものに思われます。むしろあなたの苦しいお務め、義務的ないやおうなしの訓練、いつもあなたからあなた自身をもぎとって、あなたを|へとへと《ヽヽヽヽ》に疲れさせ、一日一日を早くすごさせ、そして夕方、ぐったりしてあなたを眠りのなかに投げこむというあの訓練のほうがうらやましく思われます。演習のことをお書きになった勇ましいお手紙、それに心を奪われました。よく眠れなかったこの二晩三晩、幾度となく起床ラッパを聞いたように思って飛び起きました。はっきりそれが聞えました。あなたのお書きだったあの軽い陶酔の気持、朝の歓喜、なかばめまいがするような気持、わたしには、それがよくわかるように思われますの……明け方の、凍ったような輝きのなかであのマルゼヴィルの高地がどんなに美しかったことでしょう!
しばらく前から、少し体ぐあいが悪いのです。でも、たいしたことはありません。少しあなたをお待ちしすぎたという、ただそれだけ。
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それから六週間たって、
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これがいちばんおしまいの手紙。お帰りの日がまだよくおきまりでないにしても、そうおそくなることはないと思います。で、もう手紙を上げることもありますまい。フォングーズマールでお会いしたいと思っていましたが、このごろ時候が悪くてたいへん寒く、父はただ町へ帰ることばかり言っています。ジュリエットやロベールもいませんし、ゆっくりお宿ができるはずなのですが、あなたには、フェリシー伯母さまのところに泊っていただいたほうがいいと思います。伯母さまも、お宿をするのをきっとお喜びになりましょうし。
お会いする日が近づくにつれ、お待ちしている気持がなんだか心配になってきます。ほとんどおそれの気持です。あれほどおいでを待ちこがれていながら、今ではおそれているかのよう。そして、もうそのことを考えまいとつとめています。あなたのお押しになるベルの音、階段での足音のことを思っただけで、もう心臓はとまり、でなければ、胸が苦しくなってきます……くれぐれもわたしがお話しすることをあてになさらないで……まるでわたしの過去が、そこで終ってしまいでもするような気持。その向うには何も見えません。わたしの人生は、そこまででとまってしまうんです……
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それから四日たって、すなわち除隊の一週間前に、もう一通の、きわめて短い手紙が届いた。
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ル・アーヴルでの滞在とわたしたちの再会の最初の機会を、あまりだらしなく引きのばすまいというお考えには賛成ですわ。今までおたがいの手紙のなかで書いたこと以外、なんのお話がありましょう。聴講届のため、二十八日までにパリにお帰りにならなければならないのでしたら、どうかためらったりなさらないで。二日だけしかいっしょにいられないことにどうか未練を残したりなさらないで。わたしたちには、この先、一生が残されているのですもの。
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二人が久しぶりで顔を合わせたのはプランティエの伯母のところだった。わたしは、軍隊に行っていたため、自分が急に鈍くなり、ぎごちなくなったように感じていた……つづいて、彼女のほうでも、わたしの変化に気づいたなと思った。が、なんにしても二人のあいだのことなのだ。最初のまちがった印象など、どうでもかまわないはずではないか? はじめ、わたしには、昔のままの彼女を見いだせなかったらどうしようと、ほとんど彼女のほうが見られなかった……そうだった、わたしたちを当惑させたのは、むしろみんながわたしたちを無理に婚約者同士らしくさせようというばかげた役割、みんなして二人だけにしておこう、二人のそばを早く離れてやろうとするそのご親切にほかならなかった。
「だって、伯母さま、ちっともじゃまになんかなりませんことよ。べつに内証話《ないしょばなし》なんてないんですもの」と、アリサは、伯母が席をはずしてやろうと、とんでもない努力をしているのを見ながら言った。
「そうじゃないよ、そうじゃないよ。わたしにはよくわかっているんだよ。長いこと別れていると、いろいろ細かいことで話し合いたいことがあるものだからね……」
「お願いですから、伯母さま。もし行っておしまいだったら、かえっておうらみ申しますわ」それは怒りを帯びた調子で言われたので、ほとんどアリサの声とも思われなかった。
「伯母さん、もし行っておしまいになるのでしたら、ぼくたちもう一言も話をしないことにしますよ」と、わたしは笑いながら、それと同時に、二人だけになることに一種のおそれをいだきながら言った。そして会話は、快活さをよそおい、平凡に、そして裏におのおのの心配を隠しながら、うわべだけ元気をよそおいながらかわされていた。二人は、ビュコランの叔父から昼食によばれていたので、翌日また会えることになっていた。で、この最初の日の午後、むしろこうした喜劇の終ることを喜びながら、なにごともなく別れてしまった。
わたしは、食事の時間よりもずっと早く出かけた。ところが、アリサは一人の友だちと話していた。アリサは、思いきってその人を帰すことをせず、その人のほうも、帰ろうとするほど気がきいていなかった。だが、とうとう客が帰って二人きりになったとき、わたしはなぜあの人を昼食によばなかったのかと、わざと驚いたふりをしてみせた。わたしたちは眠られぬ一夜のあとで疲れきり、いらいらした気持になっていた。叔父がはいってきた。アリサは、わたしが叔父の年をとったことに気のついたのを見て取った。もう耳が遠くなっていて、わたしの声も聞き取れなかった。話をわからせようとすると、いきおい大きな声を出さなければならず、それが話を間の抜けたものにさせていた。
昼食の後、プランティエの伯母は、かねての約束どおり、わたしたちを馬車で迎えにやって来た。伯母は、わたしたちをオルシェまで連れて行き、帰りには、アリサとわたしに、道のうちでもいちばん気持のいいところを、車をおりて歩かせようという考えだった。
季節のわりには暑かった。わたしたちの歩いていった坂のあたりはちょうど日に照らされていて、なんの趣もなかった。葉の落ちつくした樹木は、わたしたちに少しの陰さえあたえてくれなかった。二人は、伯母が馬車をとめて待っていてくれるところまで早くつきたいと思って、無理に足を早めて歩いていった。頭は頭痛でしめ上げられ、そこからはなんの考えさえ浮ばなかった。そして、平然たるところを見せるつもりか、それとも、そうすることが話をするかわりとでもいったように、わたしは、歩きながら、アリサが取らせてくれた彼女の手を取っていた。こうした興奮、歩くための息切れ、黙っている|ばつ《ヽヽ》のわるさに、二人はすっかり上気してしまっていた。わたしの耳には|こめかみ《ヽヽヽヽ》の鳴るのが聞えていた。アリサの顔も、気味の悪いほど上気していた。やがて二人は、汗ばんだ手をたがいに取り合っている気まずさに気づいて、手を放し、それをさびしく下におろした。
わたしたちは、あまり急いで歩きすぎていた。そして、伯母が話の間をつくってくれようと、別の道をたどってゆっくり歩かせていった馬車よりも、ずっと早く約束の四つ辻《つじ》についてしまった。二人は土手の上に腰をおろした。急に吹き立った冷たい風に、わたしたちは身ぶるいした。二人はぐっしょり汗をかいていたのだった。そこで二人は、立ちあがるなり、馬車の来るほうへ向って出かけていった。……ところが、またもや当惑させられたのは、伯母のいかにもねんごろすぎる親切ぶりだった。伯母は、もう二人のあいだに十分話し合いができたものと思いこみ、わたしたちの婚約の式のことをいろいろ聞きだそうとするのだった。なんとも我慢ができなくなって、目にいっぱい涙をためていたアリサは、頭が痛んでならないというのを口実にした。こうして、帰り道は沈黙のうちに終ってしまった。
翌日、目をさましたわたしは、体がこり、風邪をひきこんで気分も悪く、午後になってようやくビュコラン家へ行く気になった。おりあしく、アリサは一人ではなかった。プランティエの伯母の孫娘の一人、マドレーヌ・プランティエがそこに居あわせた。わたしは、アリサがこの子とは好んで話をすることを知っていた。祖母の家に幾日か泊りがけで来ていたその子は、わたしのはいっていくのを見ると、
「すぐ≪山≫の家へお帰り? それなら、あたしもごいっしょに行くわ」と、言った。
わたしは、機械的に承知してしまった。こうしてわたしは、アリサと二人だけになることができなかった。だが、こうして愛くるしい子供がいてくれたことは、何かの役にたってくれた。わたしは、前の日のように、耐えがたいほどな窮屈な思いをしないですんだのだった。やがて話は、三人のあいだにすらすらと取りかわされた。しかもそれは、はじめわたしのおそれていたような、上すべりしたものではなかった。さてわたしが≪さよなら≫を言ったとき、アリサはなにかしら不思議な微笑をもらした。そのときまで、彼女は、わたしが翌日立つということを知らずにいたものらしかった。それに、いずれ近いうちに会えるという見通しもあったことから、わたしの≪さよなら≫には、べつに悲しそうな調子も見られなかった。
だが、夕食をすますと、わたしは漠《ばく》とした不安の念に駆られるままにふたたび町へ出かけ、いっときばかりさまよい歩いたすえ、思いきってビュコランの家のベルを押した。迎えに出たのは叔父だった。アリサは加減が悪いと言って、もう自分の部屋に引きさがっていた。そして、おそらくすぐに横になったにちがいなかった。わたしは、しばらく叔父と話してから外へ出た……
こうした手ちがいの数々はいかにも残念だったが、いまさら文句を言ってみてもはじまるまい。かりに、すべてがわたしたちに都合よくはこんでいたにしても、わたしたちは、やはりああした気まずい気持を作りだしていたかもしれなかった。だが、アリサ自身もそうした気持を感じていたらしいということ、それがわたしにとってはとてもつらかった。これは、わたしがパリに帰ってから間もなく受け取った手紙である。
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なんという悲しい再会だったでしょう。あなたは、さも罪がほかの人たちにあるように思っておいでのようでした。でも、あなたご自身も、そうは思っておいでなのではないのでした。これからも、いつもこのとおりだろうと思いますわ。わたしにはちゃんとわかっていますの。ああ、お願い、もう二度とお目にかからないようにしましょう!
おたがいにたくさんお話ししなければならないことがあるのに、なんという気まずい思い、はぐらかされた気持、こわばり、沈黙だったでしょう。あなたがおいでになった最初の日、わたしには、沈黙それ自身さえかえってうれしく思われました。それというのも、やがてはその沈黙もとけてくれるにちがいない、そして、あなたはわたしに、すばらしい話をしてくださるにちがいないと思いこんでいたからですの。そしてあなたは、そうしてくださらずにはお立ちになるはずがないと思いこんでいたからでした。
それなのに、オルシェへの陰気な散歩が無言のうちに終るのを見たとき、とりわけ、取り合っていた二人の手がいつのまにか離れて希望なく|だらり《ヽヽヽ》と下におろされたとき、わたしは、自分の心が、嘆きと苦しみとで消え入りそうなのを感じました。とりわけ悲しく思われたのは、あなたがわたしの手をお放しになったと考えるより、たといあなたがお放しにならないまでも、おそらくわたしのほうで放しただろうということでした。それというのは、わたしの手は、もうあなたのお手のなかにあることを心苦しく思いはじめていたからでした。
翌日――それはきのうでした。わたしは午前中、狂おしい気持でお待ちしました。心配のあまり家にじっとしていることができなかったわたしは、波止場のどこそこにいるから来てくださるように置き手紙をして、家を出ました。わたしは、長いこと、高波のうねる海をながめていました。しかし、あなたと離れてながめているにはあまりに苦しすぎました。ことによるとあなたが部屋で待っていてくださるかもしれないと思ったわたしは、そのまま家へもどってきました。自分の体が、午後はふさがっていることも知っていました。というのは、前の日、マドレーヌが来ると言ったとき、わたしは、あなたとは朝のうちお会いできることと思って、来てもいいと言ってしまっていたからでした。でも考えてみれば、おそらくあの子がいたればこそ、今度お会いしたうちでのいちばん気持のよいときをすごすことができたのですわね。わたしは、しばらくのあいだ、ああした楽な気持でのお話が、いつまでもいつまでもつづいてくれそうなばかげた空想さえしていたのでした……で、あなたが、わたしとあの子二人が腰かけていた長《なが》椅子《いす》のところへ来て、わたしの上に身をこごめながら≪さよなら≫をおっしゃったとき、とてもお答えすることができませんでした。万事休すといったように思われました。わたしには、すぐに、あなたがお立ちになるんだなということがわかりました。
あなたがマドレーヌといっしょにお帰りにならないうちに、わたしにはそれがありうべからざること、なんとしても耐えがたいことのように思われてきました。わたしは、すぐあとから出かけました。あなたと、もっとお話しがしたかったからでした。そして、今まで言わずにいたことをすっかりお話ししようと思ったのでした。わたしは、すぐにプランティエの伯母さんのところへかけつけようとしていました。……でも、もう時間もおそかったし、それだけのひまもなかったし、またそうする勇気もありませんでした……わたしはがっかりして家に帰りました。そしてあなたへの手紙を――もうどんなに手紙なぞ書きたくないと思ったことでしょう――お別れの手紙を書こうとしました……つまり、わたしたち二人の文通にしても、それは大きなまぼろしにすぎず、おたがいが、ただ自分自身のために手紙を書いているにすぎないことが、そして――ああ、ジェローム、二人はいつも遠く離れているのだということが、いやというほどはっきり感じられたからなのでした。
じつは、この手紙も一度書いて破りました。ですが、今また、ほとんどおなじようなこの手紙の筆をとっています。けっして、前ほどあなたが好きでなくなったからというのではありませんの。かえって、あなたがそばに来てくださるやいなや、たちまち感じられる胸騒ぎや気づまりなどから、どれほどあなたを深く愛しているかを、今度ほどはっきり感じさせられたことはありませんでした。でも、それは同時に、絶望的な気持で、というのは、ほんとうを言えば、遠くからあなたをお思いしていたときのほうが、もっともっと好きになれたのですもの。じつは、わたしは、前からそうではないかと思っていました。それが、あれほど待ち望んでお会いしてみて、わたしには、たしかにそのように思われました。そしてあなたも、そう考えてくださらなければ。さようなら、これほどまでに好きなあなた、神さまが、あなたを守って、導いていってくださいますように。人間が近づいていってまちがいのないのは、ただ主のほうだけですの。
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さて、この手紙だけでは十分わたしを苦しませるに足りないとでも言うかのように、翌日、彼女はそれに次のような≪追って書き≫を書き添えていた。
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この手紙をお出しする前に、わたしたち二人のことについて、もう少し気をくばってくださるようにお願いしたいと思います。あなたは、わたしとあなたのあいだだけにしておかなければならないことを、たびたびジュリエットやアベルにお話しになり、そのためにわたしにつらい気持をおさせでした。そのことから、わたしには、あなたご自身それに気がおつきになるよりずっと前に、あなたの愛が、何よりもまず頭脳の愛、愛と信との美しい知的な執着にすぎないもののように思われていましたの。
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あきらかに、わたしがこの手紙をアベルに見せはしまいかという懸念《けねん》から、この最後の数行を書き添えたものにちがいなかった。なんという疑《うたぐ》りぶかい見通しから、こうまで用心することになったものか。近ごろのわたしの言葉のなかに、アベルの助言のかげを見つけでもしたというのだろうか……
わたしはその後、自分の気持がアベルから非常に隔たってしまったことを感じていた。わたしたちは、まさに、反対の二つのみちをたどりつつあるのだった。したがって、悲しみの苦しい重荷をわたし一人に負わせるつもりだったら、そうした指図はいまさら余計なことなのだった。
その後三日間というもの、わたしはまったく苦悶《くもん》そのものに終始した。わたしは、アリサへ返事を書こうと思った。わたしは、あまりに|むき《ヽヽ》になった論争や、あまりにはげしい抗弁や、ちょっとしたまずい言葉のため、二人の傷口を癒《い》やしがたいまでに深いものにすることを恐れていた。わたしは、いくたびとなく恋にもだえた手紙を書きかけた。わたしがついに意を決して彼女に送ったこの手紙、涙に洗われたこの手紙の写しを取り出してみるとき、わたしは、今もなお涙なしには読み返すことができない。
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アリサ! ぼくを憐《あわ》れんでくれ、そしてぼくたち二人を。君の手紙はじつにつらい。君の懸念を一笑に付してしまうことができたらどんなにうれしいことだろう。そうだ、君が書いてよこしたことを、ぼくもすっかり感じていたのだ。ぼくはただ、それをそうだと思いこむことをおそれていたのだ。この気のせいにしかすぎないことを、君はなぜそんなにおそろしい事実として考えるのか! そして、なぜまたそれをぼくたち二人のあいだに、さらに深めさせようとしているのだ!
もし君が、ぼくを前ほど愛していないのだったら……ああ、そんなつらい想像はしたくない。君の手紙のすべてが、それを打ち消しているのだから。してみれば、君の一時の懸念などは、取るにたりないものではなかろうか? アリサ、理屈を言おうとすると、言葉がたちまち凍ってしまう。そして、ぼくには、ただ心のうめきが聞えるばかりだ。君が好きであればあるだけ、ぼくにはうまいことが言えず、君を好きになればなるだけ、うまく話ができなくなるのだ。≪頭脳の愛≫……ぼくはいったい、これになんと答えたらいいのだろう? 全霊をかたむけて君を愛している場合、知性と心とのあいだにどうして区別ができるだろう。だが、二人の文通それ自身が、君からの手痛い非難の原因になってることだし、そして、その文通によって二人は最初いい気持に持ち上げられ、あとでは現実のなかに突き落され、今みるようにつらい手傷をあたえられ、そして今、君が手紙を書くにしても、それはただ自分自身にあてて書いているにすぎないように思われるだろうし、一方、ぼくとしても、今度のような手紙をもう一度受け取る苦しみに耐えないので、お願いだ、しばらく二人のあいだのすべての便りをやめることにしよう。
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わたしは、手紙のあとの部分で、彼女の判断について抗弁をこころみながら、彼女に訴え、もう一度会う約束をしてもらいたいと頼んでみた。このあいだ会ったときは、なにしろすべてがうまくいっていなかった。道具立てにしても、端役《はやく》にしても、季節にしても――それに、それまでの熱しきっていた二人のあいだの文通すらも、二人が会うための、水ももらさぬ準備をととのえていてくれたものとは言えなかったし。今度会うまで、ただ沈黙を先立たせることにしよう。わたしは、春、あのフォングーズマールで、すなわち、そこでだったら、おそらく過去の思い出もわたしのためによき|とりなし《ヽヽヽヽ》をしてくれることだろうし、叔父もまた喜んでわたしを迎えてくれることだろうし、そのフォングーズマールで、滞在日数はすべて彼女にまかせることにして、復活祭の休暇のあいだ、ともかく会うことにしたいと思っていた。
わたしの決心はしっかりきまった。そして、手紙を出してしまうやいなや、ふたたび勉強に没頭することができた。
わたしは、その年の暮れる前に、ふたたびアリサに会うこととなった。というのは、数カ月前から健康が下り坂になっていたミス・アシュバートンが、降誕祭を控えた四日前になくなったからだった。軍隊から帰って以来、以前同様ずっと彼女と暮していたわたしは、ほとんど彼女のもとを離れず、その臨終にも立ち会うことができた。ところで、アリサからよこした葉書は、彼女が、今度の不幸にもまして、二人の沈黙の誓いのほうを重くみていることを了解させた。彼女は、会葬できない叔父のかわりに、ほんのちょっと、埋葬のためだけにやってくるというのだった。
告別式のときも、そのあとで柩《ひつぎ》にしたがっていったときも、彼女とわたしとはほとんど二人だけだった。たがいに並んで歩いていきながら、二人は、ほんの一言二言、言葉をかわしただけだった。だが、会堂にはいり、彼女がわたしのそばに腰を掛けたとき、わたしは幾度となく、彼女の眼差《まなざ》しがやさしくわたしのほうへ注がれているのを感じた。
「ではいいことね」と別れぎわに彼女は言った。「復活祭までは何も」
「いいよ。だから復活祭には……」
「お待ちしているわ」
わたしたちは、そのとき墓地の入り口のところにいた。わたしは、駅まで送っていこうと言った。だが、彼女は一台の馬車を呼びとめて、別れの言葉さえ口にせずに、わたしを残して行ってしまった。
「アリサは庭で待ってるよ」四月の末、わたしがフォングーズマールに着いたとき、叔父は、わたしに父親のようなキスをあたえたあとで、こう言った。たとい最初は、迎えに飛びだしてきてくれないことに多少がっかりはしながらも、この再会最初のときの月並みなあいさつからたがいを救ってくれたことを思って、わたしはすぐに、彼女の心づくしをうれしいものに思った。
彼女は庭の奥にいた。わたしは、一年のうちのこの季節を迎えてすっかり花をつけている、リラ、|ななかまど《ヽヽヽヽヽ》、|えにしだ《ヽヽヽヽ》、ヴェジュリアなどの茂みにしっかり囲まれたロータリーのほうへ向って歩いていった。わたしは、あまり遠くから彼女の姿を見ないようにしたいと思い、一つにはわたしの行くのを見つけられたくないと思って、庭のあちらがわ、木々の梢《こずえ》がさしかわし、空気のひんやりしている薄暗い小みちをたどって行った。わたしはゆっくり歩いていった。空はちょうどわたしの喜びのように、暖かく、輝きわたり、すっきりと澄みわたっていた。たしかに彼女は、わたしがほかの小みちからくるものと思いこんでいたらしかった。わたしは、彼女に気取《けど》られることなしに、そのそばまで行くことができた。そして、彼女のうしろに歩みよった。わたしは立ちどまった……わたしは≪時≫までがわたしとともに立ちどまったかのように感じられて、これが幸福それ自身に先だつ時だとしたら、今こそこの上もない楽しい時、そして、幸福それ自身さえも及ばないであろうような楽しい時なのだと心に思った。
わたしは、彼女の前にひざまずこうとした。そして、一足前へ進んだ。それを彼女が聞きつけた。彼女はとつぜん立ち上がると、今までやっていた刺繍《ししゅう》の地面に落ちるのも忘れ、わたしのほうへ腕を差し出し、両手をわたしの肩の上にのせた。二人はしばらくそのまま立っていた。彼女は、腕をのばし、微笑を浮べ、小首をかしげて、何も言わずにやさしくわたしを見つめながら。彼女は、真っ白な着物を着ていた。わたしは、そのほとんど厳粛すぎるとさえ思われる顔の上に、いつものような子供らしい微笑を見いだした……
「ねえ、アリサ」とわたしは急に叫んだ。「きょうから十二日間休暇があるんだ、だが、君がいやだというなら、一日も余計にいようとは思わない。――あしたフォングーズマールを立ってほしい――ということを知らせるため、何か|しるし《ヽヽヽ》をきめておこうじゃないか。そうしたら、その翌日は、いざこざなしに、何ひとつ文句や愚痴を言わずに立つことにする。どう?」
前から文句をこしらえておかなかっただけ、それだけかえって楽に言いだすことができた。彼女はちょっと考えていたが、
「夕方、お食事におりるとき、あなたの好きな紫水晶《アメチスト》の十字架をくびにかけていなかったら……よくって?」
「それがぼくにとって、最後の晩になるわけだな」
「でも、涙も流さず、ためいきもつかずにお立ちになれるかしら……」と、彼女が言った。
「お別れも言わずに、だ。ぼくは、その最後の晩、君自身が――おや、わからなかったのかしら?――と思うほど何気ないようすで、前の晩と少しも変らずに別れてみせよう。だが、あくる日の朝、君がぼくをさがすと、ぼくは、もういない」
「あくる日、おさがししたりしないことよ」
彼女は手を差し出した。わたしはそれを唇《くちびる》へ持っていきながら、言葉をつづけた。
「だが、今からその最後の晩まで、何か匂《にお》わせたりしないでほしいな」
「あなたのほうでも、あとのお別れのことなんか匂わせないでね」
今は、この再会のおごそかな気持から、ようやく二人のあいだに生れかけてきていた気づまりな空気を破ってしまう必要があった。
「ぼくは君と暮すこの幾日かが、ほかの日とおなじようなものであってほしいと思ってるんだ……つまり、二人にとって、こうした幾日かを、なにか特別な幾日ででもあるかのように感じないでいたいと思ってるんだ。それに……初めのうち、つとめて話をしようなんてしないことにしたら……」
彼女は笑いだした。わたしはなおもつけ加えた。
「何か二人してできるようなことはないかしら?」
二人はこれまで、いつも庭仕事に興味をもっていた。つい先ごろ、新米の植木屋が以前の植木屋とかわったので、庭は二カ月もほったらかされていて、しなければならない仕事が山ほどあった。ばらの刈り込みも行きとどいていなかった。なかでも発育のさかんなやつは、枯枝がいっぱいついたままになっていた。ほかの、蔓《つる》ばらのたぐいになると、ささえがしっかりしていないため、地面の上に這《は》いくずれていた。贅枝《ぜいし》が、ほかの枝々の発育をさまたげていた。大部分のものは、かつてわたしたちの接木《つぎき》してやったものだった。わたしたちには、自分たちの手にかけた木を見わけることができた。そうした木のためにしてやらなければならない手入れには、長い時間を必要とした。こうして初めの三日間、二人は、なんらまじめな話にふれることなしにいろいろ話をすることができ、たとい黙っているときでも、なんら沈黙の圧迫を感じないですんだ。
こうしてわたしたちは、たがいに打ちとけていた。わたしは、いかなる言いわけにもまして、こうやって気持のなれていくことに望みをつないでいた。二人のあいだには、今は別れていたという記憶さえぼやけていき、わたしが彼女の心にしばしば感じていたおそれの気持も、また彼女がわたしに会っておそれていた心の緊張も、ともに薄らいでいったのだった。去年の秋の悲しい訪問のときよりずっと若くなったアリサは、今までにないほど美しかった。わたしは、まだアリサにキスをしていなかった。わたしは毎晩、彼女の胴着《コルサージュ》に、黄金の鎖でつり下げられた小さな紫水晶《アメチスト》の十字架のきらめいているのを見た。わたしの心は安心し、そこにはふたたび希望が生れかけていた。希望と言おうか? 否《いな》、それはすでに一つの確信だった。そして、わたしには、それがアリサの心にも感じられているように思っていた。というのは、わたしはわたし自身を疑っていなかったので、アリサのことをも、もはや疑うことができなかったからだった。二人の話は、だんだん大胆になっていった。
「アリサ」ある朝、それは美しい空気がさざめきわたり、二人の心が花々のように開かれたある朝のこと、わたしは彼女に向って言った。「今はジュリエットも幸福になったんだし、ぼくたちも、そろそろ……」
わたしは、じっと彼女を見つめながら、ゆっくり話していた。とつぜん、彼女の顔はおどろくばかり蒼《あお》ざめた。そしてわたしは、言葉を言い終ることができなかった。
「あなた!」と、彼女は言った。そして、わたしのほうを見ずに、「わたし、あなたのおそばにいると、もうこれ以上幸福なことはないと思われるほど幸福な気持になりますの……でも、じつは、わたしたちは、幸福になるために生れてきたのではないんですわ」
「では、魂は、幸福以上に何を望むというんだろう?」と、わたしは性急に叫んだ。彼女は小声でつぶやいた。
「聖《きよ》らかさ……」それはいかにも低く言われたので、わたしは、それを聞いたというよりも、むしろそれと察したのだった。
あらゆるわたしの幸福は、いま翼をひろげ、わたしをのがれて、空のほうへ飛び去ろうとしていた。
「君がいてくれなければ、ぼくにはそれが得られないんだ」と、わたしは彼女の膝《ひざ》に額を埋《うず》め、まるで子供のように、だがそれは悲しいからのことではなく、愛の気持から涙をながしながら、ふたたび言葉をつづけた。「君なしではだめなんだ、君なしではだめなんだ!」
やがて、その日もほかの日のように流れ去った。ところが夕方、アリサは、あの紫水晶《アメチスト》の小さな首飾りをつけない姿をあらわした。わたしは、忠実に約束を守って、翌日、夜が明けるやいなや出発した。
その翌々日、わたしは次に掲げるような奇怪な手紙を受け取った。そこには、冒頭の引用句としてシェークスピアの詩の幾行かが書かれていた。
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That strain again, ―it had a dying fall :
O, it came o'er my ear like the sweet south,
That breathes upon a bank of violets,
Stealing and giving odour. ― Enough ; no more,
'Tis not so sweet now as it was before. . .
今の曲をもう一度! 滅入《めい》って行くような調べだった。おお、まるで菫《すみれ》の咲いている土手を、その花の香《かおり》をとったりやったりして、吹き通っている懐かしい南風のように、わしの耳には聞えた。もうたくさん。よしてくれ。もうさっきほどに懐かしくない。(坪内逍遥《つぼうちしょうよう》 訳)
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ええ、われにもなく、朝のうち、ずっとあなたをおさがししましたわ。あなたがお立ちだったとはどうしても信じられなかったからでした。約束を守ってくだすったことが、かえって恨めしくも思われました。からかっておいでになるんだな、とも思ってみました。茂みのうしろごとに、あなたがひょっこり出ていらっしゃりはしまいかと思いました。――でも、それはちがっていました。お立ちになったのはまさに現実のことなのでした。お礼を申します。
それからあとの一日というもの、わたしは今あなたのお耳に入れておきたいと思っている一つの考えが頭を離れないためと、それに、もし今、その考えをあなたのお耳に入れておかなければ、あとになって、わたしはきっとあなたにたいしてなすべきことを怠ったことになり、あなたから、おこごとを受けても仕方がないといったような、ずいぶん変ですけれど、それでいてわたしにはっきり考えられた恐れの気持につきまとわれてすごしました……
あなたがフォングーズマールにおいでだったはじめのあいだ、あなたのおそばにいるとき、わたしは、全身に感じられるあの不思議な満ちたりた気持にわれながらおどろき、つづいてすぐそのことが心配になっていたのでした。「これ以上何も望むもののないほどの満足な気持」と、あなたは言っておいででした。ああ、その気持こそ、ほんとにわたしの心を不安にさせるものなんですの……
わたしには、あなたにわたしの気持を誤解させているのではないかと心配なのです。とりわけわたしは、わたしの心のもっとも激しい感情の表現にすぎないものを、あなたが何かむずかしい理屈(それにしてもずいぶんへたな理屈でしょうが)ででもあるかのようにお考えになりはしまいかと心配しているんですの。
「満足させてくれるものでなかったら、それは幸福とは言われないのじゃないだろうか」と、あなたは言っておいででした。覚えていらっしゃる? そしてわたしは、それになんとお答えしていいかわからずにいました。ええ、ジェローム、わたしたち、それだけでは満足できませんの。それだけで満足してはいけませんの。あの、なんともたまらない満足の気持、わたしには、それが真実のものとは思われないんです。わたしたちは、この秋、そうした満足のかげに何がひそんでいるかを思い知らされはしなかったでしょうか?……
真実のもの! ああ主よ、どうかその幸福が、わたしたちにとって真実のものでありませんように。わたしたちは、もっとほかの幸福のために生れてきたんです……
つい近ごろの文通が、秋お会いした時をそこねてしまったのとおなじように、きのうあなたがそばにいてくだすった思い出は、きょうのこの手紙を味気なくさせています。手紙を書くとき、いつも感じるあのうっとりとした気持、それが今ではどこへ行ったというのでしょう。手紙を書いたり、お会いしたりすることで、おたがい、愛の気持から得られるはずのきわめて純粋なよろこびの心まで、すっかり汲《く》みつくしてしまっていたのでした。そして今、われにもあらず、あの『十二夜』に出てくるオーシノーのように、≪もうたくさんだ、よしてくれ。もうさっきほどに懐かしくないのだ≫と叫ばなければならないんですの。
さようなら、お友だち。Hic incipit amor Dei.(神の愛ここにはじまる)。ああ、どんなにあなたが好きでしょう……いつまでもあなたの
[#地付き]アリサ
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徳行という|わな《ヽヽ》の前に立っては、わたしはまったく手のくだしようがなかった。わたしは、雄々しいふるまいということに目をくらまされ、心をひきつけられていた――というわけは、わたしはそうした雄々しさと愛とを、区別していなかったからだった。わたしは、アリサの手紙によって、きわめて雄々しい感激に酔わされていた。ひそかにわたしは、ただアリサのためだけに、|より《ヽヽ》多くの徳を積もうと心がけていた。いかなる山みちも、ただそれが上にのぼっていくものであるかぎり、それはわたしをアリサへまで導いていってくれるにちがいないのだ。ああ、大地がいかにすみやかにせばまっていこうとも、そこにわたしたち二人だけがいられるのだったら、それはむしろもどかしくさえ思われるにちがいなかった! だが、悲しいかな、当時のわたしは、彼女の駆け引きの微妙な点に気がつかなかった。そして、一つの峰までたどりつくと、ふたたび彼女に逃げられてしまうことなど、夢にも考えていなかった。
わたしは、長い返事を出した。わたしは、今、そのときの手紙のなかで、いくらか見通しがきいていたように思われる一節だけを思い出す。
≪ぼくにはしばしば、ぼくの恋だけが、ぼくのもっているあらゆるもののなかでのもっとも善きものであり、ぼくの徳行もすべてそれにかかっており、恋こそはぼくをぼく以上に押し上げてくれるものであり、もし君というものがなかったら、ぼくはふたたび、きわめて普通な資質の人間のしめす平凡な高さまで堕《お》ちていくよりほかにないように思われる。ただ、君といっしょになれるという希望をもっていればこそ、いかに険しいあの山みちも、きわめて楽しいものに思われるのだ≫
だが、彼女をして次のような返事を書かせたのは、いったいどうしたことを書き添えたからのことだろう。
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でも、聖らかさというものは、好ききらいできめるべきではありませんわ。それは一つの務めなのですわ。(そして、この言葉の下に線が三本引かれていた)もしあなたが、わたしの思っているとおりの方だとすると、あなたもその務めからおのがれになることはできないはずですわ。
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これだけだった。そして、わたしは、二人の文通もこれで終りだ、このうえどれほど巧みに説いてみても、またどれほど堅固な意志をもってしても、これ以上どうすることもできないだろうということを了解した。というよりはむしろ予感したのだった。
だがわたしは、ふたたび長い、やさしい手紙を書き送った。三度目の手紙を出したあとで、わたしは次のような手紙を受け取った。
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お友だち
なにもあなたに手紙を上げまいと決心したのではありませんの。ただ、もうそれに興味がもてなくなっているのです。でも、あなたからのお手紙は、今でも心を楽しませてくれていますわ。それでいて、わたしには、これほどまでにご心配をかけることが、だんだんすまないように思われてきますの。
夏ももう遠くありません。しばらくのあいだ文通をやめていようじゃありません?そして、九月の終りの二週間を、フォングーズマールのわたしのそばですごしにおいでになってください。おわかりになって?おわかりだったらご返事にはおよびません。あなたからご返事のないのを、承知してくだすったしるしと思います。そして、ご返事がないようにと望んでいます。
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わたしは返事を出さなかった。この沈黙こそ、たしかにわたしに課せられた最後の試みにちがいなかった。数カ月の勉強ののち、つづいて数週間の旅行ののち、わたしは、すっかり落ちついた気持で、フォングーズマールへ出かけていったのだった。
こうした簡単な物語だけで、最初自分にもはっきりつかめなかった事の成り行きを、どうしたらうまく伝えることができるだろう?わたしとしては、その後自分がすっかり打ちのめされるにいたったあの悲しいできごとのことを記す以外、ほかに何の方法があるだろう? 今でこそ、あのまことしやかな外観のもとに、なお愛のひそんでいるのを見わけられなかったといって痛恨しているわたしではあるが、最初わたしには、そのまことしやかな外観だけしかわからずに、アリサが昔の彼女ではなくなったといって非難していたのだった……否、そのときでさえ、ぼくは君を非難してはいなかった。そして君の気持のわからなくなったことを思って、絶望し、泣いていたのだった。君のはげしい恋心を、それによる沈黙の謀計や残酷な技巧などで推しはかることのできる今、君につらくあつかわれたということで、それだけさらに君を愛しなければならないのだろうか……
軽侮? 冷淡? いや、やっつけるべきものといっては何もなかった。そうだ、戦うべき対象さえ何ひとつなかったのだ。そして、わたしはときどき躊躇《ちゅうちょ》し、こんな情けない気持こそは、ことによると自分自身が作りだしたものではないかと疑ってみた。それほど原因は微妙をきわめ、またアリサにしても、巧みにそれがわからないようなふりをしていた。いったい何を嘆くべきであったろう? わたしにたいする彼女の態度は、いつにもまして愛想《あいそ》がよかった。これほどまでの親切、これほどまでの行きとどいた心づかい、それは今まで見られなかったことだった。そうしたわけで、最初の日には、わたしはほとんどだまされかけていた……平たく引きつめた新しい髪のゆい方にしても、表情を見あやまらせるほど顔をこわばらせていたにしても、それがはたしてどうだというのだ。手ざわりの荒い、くすんだ色の、似合わない胴着《コルサージュ》が、彼女の優美な体の線をぎごちなく見せていたにしても、それがはたしてどうだというのだ……なおそうとさえ思えば、あしたにも、彼女は進んでなおすにちがいない、あるいは、わたしが頼みさえしたらなおしてくれるにちがいない、とわたしは盲目的に信じていた……それよりも、わたしは、二人のあいだのいつもの習慣とまったくちがって、これほどまでに親切にされ、これほどまでに周到な心づかいをしめされることを心配していた。そして、そこには、熱情というよりむしろ理知のひらめき、それに、口にするのもはなはだつらいことではあるが、愛情よりも礼儀が見いだされているのではないかとおそれていた。
夜、客間へはいっていったわたしは、いつものところにピアノのなくなっているのを見て|はっ《ヽヽ》とした。がっかりしたようなわたしの声を聞いて、
「ピアノはなおしにやったんですの」と、いかにも落ちつきはらった声でアリサが言った。
「だからわしが幾度も言ったじゃないか」と、ほとんど叱《しか》りつけるようなきびしい調子で叔父が言った。「今まで間にあっていたんだから、ジェロームが帰ってから送りだせばよかったのだ。お前が急いだりするんで、みんなの大きな楽しみが一つ減ってしまったじゃないか……」
「だってお父さま」と、彼女は赤らめた顔をかくそうとして顔をそむけて、「このごろすっかり|ぼこぼこ《ヽヽヽヽ》になってしまって、ジェロームだって、何もひけないにきまってますわ」
「お前のひくのを聞いていると、たいして悪くなったようにも思われなかったが」と叔父が言った。
彼女は、しばらくのあいだ、陰のほうへ身をかがめ、安楽椅子《いす》の|おおい《ヽヽヽ》の寸法をはかっているようだったが、やがて急に部屋を出ていったと思うと、しばらくしてから、ようやく叔父が毎晩飲むことにしている煎じ薬《チザーヌ》をのせた盆を手にして部屋にもどってきた。
彼女は、その翌日も、その髪かたちなり胴着《コルサージュ》なりをかえなかった。彼女は、家の前に据《す》えられたベンチで父親のそばに腰をおろして、前の日の晩やりかけていた縫い物、というよりは、むしろつぎはぎ仕事をつづけていた。彼女は、そばのベンチや、テーブルの上に置かれた、はきふるしの靴下《くつした》や半靴下のいっぱいはいっている籠《かご》のなかから、仕事を取り出していた。それから幾日かすると、今度はナフキンや敷布のつぎはぎがはじまった……そして、そうした仕事にすっかり心を奪われて、彼女の唇《くちびる》からは表情が失《う》せ、その目からは光が失せていた。
「アリサ!」最初の晩、わたしは、しばらく前から彼女に自分の眼差《まなざ》しを気づかれないようにしてじっと彼女の顔を見つめていたが、そのほとんど別人と思われるほどのいかにもわびしげな容貌《ようぼう》の変りかたに驚いて、思わずもこう叫んだ。
「なに?」と言って、彼女は顔をあげた。
「聞えるかどうかと思ったのさ。ぼくのことなんか忘れちまったようだからさ」
「いいえ、わたしはちゃんとこうしているのよ。でも、ここのつくろいには、よほど気をつけなくてはいけないの」
「縫ってるそばで、何か読んであげてはいけないかしら?」
「でも、しっかり聞いていられそうもないんですもの」
「なんで、それほど気を取られる仕事をはじめたんだ?」
「だって、どっちみち誰《だれ》かがしなければならないんですもの」
「でも、こうした仕事でたべている貧乏な女たちもいるんじゃないか。まさか倹約のつもりで、こんなむくいのない仕事をしているんじゃないだろう?」
彼女はすぐに、どんな仕事にしても、これほど興味のもてるものはない、ずいぶん前からほかの仕事を手にしていないし、そうした仕事をするためには、すっかり手がだめになってしまっている、とはっきり言った……そして、そう言いながらも、彼女は微笑して見せていた。このときほど、彼女の声のやさしさが、わたしにとって情けなく聞きとれたことはなかった。彼女の顔は、≪あたりまえのことを言ってるんですわ、何を悲しんだりなさるの?≫とでも言っているかのようだった。――そして、わたしの心のあらゆる抗議は、唇までのぼらず、咽喉《のど》のところでとまってしまった。
翌々日二人でばらを摘んだあとで、彼女は、わたしがことしまだはいったことのなかった彼女の部屋まで、その花を持ってきてはくれまいかと言った。わたしはたちまち、なんという希望に勇み立ったことだろう? というのは、わたしはとかく滅入《めい》りがちになるのを、われとわが心に責めたてたからのことなのだった。わたしの心は、彼女からのただ一言さえあったら、たちまち癒《い》やしてもらえるにちがいなかった。
わたしはこれまで、感激なしにその部屋へは足を踏みいれたことがなかった。そこにはなにかしら快いなごやかさがあり、それがすぐにアリサを思わせてくれるのだった。窓掛けや、ベッドのまわりのカーテンの青いかげ、磨《みが》きあげられたマホガニーの家具、それに整頓《せいとん》、簡素、静けさなど、すべてはわたしに、彼女自身の清純さと、その考えぶかい美しさとを物語ってくれるのだった。
その朝、わたしはベッドのそばの壁に、わたしがイタリアから持ってきてやった二枚の大きなマサッチオの写真のかかっていないのを不審に思った。そしてそのわけをたずねかけたとき、わたしの目は、ふとすぐそばの棚《たな》の上、そこに並べられた彼女の愛読書に注がれた。この小さな文庫は、一部はわたしの贈ってやった書物、一部は二人していっしょに読んだ書物によって、だんだんにできあがっていったものだった。わたしは、それらの書物がすっかり取りのけられ、そのかわりに、彼女に軽蔑《けいべつ》してもらいたいと思うような卑俗な信仰に関するくだらない小冊子の並べられているのに気がついた。ふと目をあげたわたしには、笑っているアリサ――そうだった、わたしをながめながら笑っているアリサの顔が見えたのだった。
「許してちょうだい」と、彼女はすぐに言った。「だって、お顔を見ていたらおかしくなってきたんですもの。だって、わたしの書棚を見ながら、急に変な顔をしたりして……」
わたしは、冗談を言う気持になれなかった。
「だって、アリサ、君はいまこんな本を読んでいるのかね?」
「ええ。おどろいた?」
「だって、滋味の多い食物になれた頭脳の持ち主だったら、胸がむかむかして、こんな無味乾燥なものは味わえないだろうと思ったんだ」
「あなたのおっしゃることがわかりませんわ。これはみんなつつましい人たちで、一所懸命にその思うところを言って、わたしと率直に話をしてくれるんですの。そして、わたしには、こういう人たちといっしょにいるのがうれしいんですの。わたしには、はじめからこうした人たちがけっして美しい言葉の|わな《ヽヽ》に身をまかせたりしないだろうこと、わたしはわたしで、こうした人たちのものを読みながら、うわついた賞賛などしていい気持になったりはしないだろうことがわかっていますの」
「では、もうこんなものしか読まないのかい?」
「だいたいね。もう五、六カ月も前から。それにもう、あまり本を読むひまもないんですもの。ほんとうのことを言うと、ついこのあいだ、前にあなたから教えていただいて感心したことのある、ある大家の作品を読み返してみようとしましたの。でも、それはわたしに、あの聖書のなかにある、自身の身丈《みのたけ》を一尺のばそうとする男とおんなじことをしているようにしか思われなかったんですの」
「で、君にそんな変な考えを起させた≪大家≫って?」
「その人がそうさせたっていうわけじゃありませんわ。ただ、それを読みながら、そんなことを思っただけ……それはパスカルでした。たぶん、あんまりりっぱでないところを読んだんですわね……」
わたしは、じれったいといった身ぶりをした。アリサは、うまく活《い》けられないでいる花から目をあげようともしないで、まるで読本でも暗唱するかのように、はっきりした、そして単調な声で話していた。わたしのした身ぶりを見ると、彼女はちょっと話しやめた。そしてまた、おなじ声音で話しつづけた。
「あのおおげさな物言いにはびっくりしてしまいますわ。それに、あの努力にも。しかも、それが証明しているものといったら、なんとわずかなものでしょう。わたしには、ときどきパスカルの悲壮な調子にしても、それは信仰の結果というより、むしろ懐疑から出ているのではないかと思われますの。完《まった》き信仰というものは、あんなに涙を流したり、またあれほど声をふるわせたりするものではないと思いますわ」
≪そのふるえ、その涙こそ、彼の声を美しくさせているものなんだ≫わたしは、そう言い返そうとしたが、それだけの勇気がなかった。というのは、今のアリサの言葉には、今までアリサにあってわたしの好きだったものを何ひとつ見いだせなかったからだった。わたしは今、彼女の言葉を思い出すままに記しておく。あとから粉飾なり理屈なりをつけ加えるようなことはしていない。
「もしあの人が、現世の生活から、まず自分のよろこびというものを取り除いておかなかったとしたら」と、彼女は言った。「そうした生活のほうが、秤《はかり》にかけると、よほど……」
「よほどなんだと言うんだい?」と、わたしはこの不思議な言葉に驚きながら問い返した。
「あの人の説いてるような、ああした漠然《ばくぜん》とした至福よりも、よほど重みのあるものになってきはしまいかと思われますの」
「では、君はパスカルのいうような至福を信じないというのか?」と、わたしは叫んだ。
「そんなことはどうでもいいの」と、彼女は答えた。「駆け引きをしているなんて疑われないためには、それがむしろ漠然としたものだったほうがいいと思いますわ。なぜって、神を慕う魂が徳のなかにはいっていくのは、それは何かむくいを得ようといった気持からではなくって、天性の尊い心持からなんですもの」
「パスカルのような尊い精神がそこにとじこもっているあのひそかな懐疑主義にしても、じつはそこから生れているんだ」
「懐疑主義ではありませんわ、ジャンセニスムですわ」と、彼女は微笑しながら言った。「でも、わたしには、そうしたものなどどうでもよかったの。ここにいるようなつつましい人たちは」――と言って彼女は書物のほうを振りかえった――「自分がジャンセニストだか、クイエティストだか、それとも何かほかのものなのだか、それを言ってみろと言われたらずいぶん当惑するだろうと思いますわ。こうした人たちは、ちょうど風に吹かれる草の葉のように、悪心もなく、悩みもなく、これといった美しさもなく、ただ主の御前《みまえ》に頭《こうべ》をたれているんですの。この人たちは、自分たちを取るに足りないものと思っていますの。そして自分たちにいくらか値打ちがあるとしたら、それは神の御前に自分たちを無にすることによって、はじめて得られるものだということを知っていますの」
「アリサ!」と、わたしは叫んだ。「君は、なぜ自分で自分の翼をもぎとろうとするのだ?」
彼女の声が、相変らずいかにもおだやかであり、自然であっただけに、わたしの叫んだ言葉はおかしいほどおおげさに思われた。
彼女は、首を振りふり、ふたたび微笑してみせた。
「近ごろパスカルを読んで得たすべてのものは……」
「何なのだ?」彼女が口をつぐんでいるのを見て、わたしはたずねた。
「それは≪命を救わんとするものはこれを失うべし≫という、あのイエスさまのお言葉でした。そのほかのことは」と、前より微笑を強めながら、じっと真正面からわたしを見つめて、「ほんとを言えば、わたしにはもうほとんどそれがわからなくなってしまいましたの。こうしたつつましい人たちとしばらくいっしょにいたあとでは、偉い人たちの気高さに出会ったりすると、すぐ、不思議なほど息切れがしてくるんですの」
どぎまぎしたわたしは、これにたいしてなんと答えていいかわからなかった……
「もしきょう、君といっしょに、こうした説教や感想集のようなものを読めと言うんだったら……」
「いいえ、あなたにこんなものをお読ませしたりはできませんわ」と、彼女は言葉をはさんだ。「だって、あなたは、そんなことよりもっとりっぱなことのために生れておいでになったんですもの」
彼女は、淡々とした調子で、二人の生活をまったく隔ててしまうこうした言葉が、どれほどわたしの心を傷《いた》めるかをさえ念頭においていないかのように語りつづけた。わたしの頭は火のように燃えていた。わたしは、もっと言いたいことを言い、そして泣きたかった。わたしの涙を見たら、彼女は折れたかもしれなかった。だが、わたしは、暖炉の棚に肱《ひじ》をもたせ、顔を両手のなかに埋《うず》めながら、もはや何ひとつ言わずにいた。彼女は彼女で、わたしの苦しみを知らないでか、それとも見て見ぬふりをしてなのか、落ちつきはらって花をそろえていた……
そのとき、食事を知らせる第一の鐘が鳴りわたった。
「あら、とても|おひる《ヽヽヽ》には間に合わなくなるわ。はやくいらしって」
そして、まるで遊びごとの話ででもあるかのように、
「つづきはまたあとで」
この話は、あとになってもふたたび取りあげられることはなかった。わたしには、いつもアリサがつかまえられなかった。彼女がわたしからかくれるようにしていたからではなく、いつもなにかしら不意の用事が、差し迫った重要な用事といった形をとって、いやおうなしに起ってきたからのことだった。わたしは自分の順番を待っていた。そして、わたしの順番はと言えば、ひっきりなしに起る家事上の仕事とか、納屋《なや》の仕事の監督とか、小作人の家や、ますます彼女が熱心さを加えていく貧乏人たちへの訪問とか、そうしたことのあとでやっとまわってくるのだった。わたしのためには、残った時間、ごくわずかな時間だけしか振り当てられていなかった。わたしには、いつもせかせかしている彼女だけしか見られなかった。だが、わたしは、そうしたこまごました仕事をもった彼女を見て、また彼女のあとを追うことを進んで思いとまっていたからこそ、彼女からどれほどうとまれているかをたいして感じないですんだのだった。彼女とのちょっとした話にも、わたしにはますますそのことが感じられた。アリサといくらか話をするひまがあったときでも、そのときの彼女の話には全然筋が立っていないで、まるで相手が子供ででもあるかのような話しぶりだった。彼女は、うわの空のようすで、微笑を浮べながらすばやくわたしのそばを通りぬけていった。そしてわたしには、彼女が、まだ見たこともない人ででもあるかのように、ますます遠いものに思われてくるのだった。それだけではない、わたしには、彼女の微笑のなかに、おりおり、何か人をばかにしたような、少なくとも皮肉といったものがうかがわれるように思い、こうして彼女は、わたしの希望をはぐらかしては喜んでいるのだとさえ思った……かと思うと、わたしはたちまち、そうした誹謗《ひぼう》がましいことは考えまいと思い、自分自身彼女から何を期待していたのか、いったい彼女のどこがいけないのかさえもわからなくなって、とどのつまり、われとわが身がいけないことにしてしまうのだった。
あれほど幸福を期待していた幾日も、こんなふうにして過ぎ去っていった。わたしは、こうして毎日毎日ののがれ去っていくのをぼんやり見まもっていたが、べつにその日数をふやそうとも、また時のたつのをおくらせたいものとも思わなかった。それほど一日一日がわたしの苦悩を深めていっていたのだった。だが、ちょうどわたしの出発しようという前々日、アリサといっしょにあの泥灰石《でいかいせき》の廃坑の前のベンチのところへ行ったとき――それは霧のない地平線にかけてすべての物が微細な点までひとしく青みがかって見わたされ、過去の日のきわめて取りとめのない思い出まではっきり思い起せるような、澄みわたった秋の夕暮れのことだった――わたしは愚痴を言わずにはいられなくなって、どういう幸福を失った悲しみから、きょうこれほどまでに情けない気持になっているのかを話してやった。
「だって、このわたしにどうしてあげられるかしら」と、すぐに彼女が言った。「あなたは、いま、影に恋をしておいでなのよ」
「影にではないんだ、アリサ」
「心に描いておいでの姿に」
「ああ、ぼくはそんなものをつくりだしているんじゃないんだ。アリサはぼくの恋人だった。ぼくは今、そのアリサに呼びかけてるんだ。アリサ、アリサ、君はぼくの恋するひとだったんだ。あのころの君は、いったいどうなってしまったんだ? 君は、自分をどうしてしまったんだ? 君は、自分をどうさせてしまったんだ?」
彼女は、しばらくのあいだ返事をしなかった。そして、静かに花をむしりながらうなだれていた。やがて、
「ジェローム、なぜあなたは、率直に、わたしを前ほど好きでなくなったっておっしゃらないの?」
「なぜって、それはほんとではないんだからだ」と、わたしは憤然として叫んだ。「なぜって、君を今ほど好きなことはなかったんだから」
「わたしが好き……それでいて、昔のわたしのほうをなつかしがっていらっしゃるのよ」そう言って、彼女はつとめて微笑してみせ、心もち肩をすぼめてみせようとした。
「ぼくは、ぼくの恋を過去のものとして扱うわけにはいかないんだ」
わたしは、大地が足もとに口をひらいたように思った。そして、あらゆるものにしがみつこうとしていた……
「恋にしたって、ほかのものといっしょに過ぎ去って行ってしまうのよ」
「でも、ぼくの恋の気持だけは、死ぬまで君を思ってるんだ」
「それもだんだん薄れていくわ。あなたが愛していると言っておいでのそのアリサも、もうあなたの思い出のなかに住んでいるばかり。そのうちには、アリサを愛していたこともあったっけ、ぐらいにしか思い出されない日が来るんですわ」
「君の言うことを聞いてると、さもぼくの心のなかで、何かが君に取って代ってしまいでもしたか、それとも、ぼくがもう君を愛してはならなくなったとでもいったように聞えるじゃないか。君は、君自身ぼくを愛していたことを忘れてしまったのかしら? でなくって、どうしてぼくをこんなに苦しめてうれしがっていられるんだ?」
わたしの目には、血の気の失《う》せたアリサの唇《くちびる》のふるえているのが見えた。彼女は、ほとんど聞きとれないほどの声でつぶやいた。
「いいえ、いいえ、アリサの心は変ってなんかいないことよ」
「それなら、何も変っていないはずじゃないか……」こう言って、わたしはアリサの腕を取った。アリサは、さらにしっかりした調子で言った。
「一言ですっかり言えるのよ、なぜあなたは、それを言おうとなさらないの?」
「何さ?」
「わたしは年をとってしまったのよ」
「ばかな……」
わたしはすぐに、もしも彼女が年をとったのなら、わたしにしても年をとったのだ、二人のあいだの年のちがいはすこしも変っていないのだ、と言い返した……だが彼女は、はやくも冷静にもどっていた。唯一《ゆいいつ》の機会も過ぎてしまった。そして言い争いをしたことから、わたしはすっかり分《ぶ》が悪くなっていた。わたしは途方にくれてしまった。
わたしは、彼女とわたし自身とにたいする不満をいだき、わたしが今なお≪徳≫と呼んでいるものにたいする漠然とした憎悪《ぞうお》と、いつも自分の心についてはなれないものにたいしての忿懣《ふんまん》の気持に駆られながら、それから二日ののち、フォングーズマールをあとにしたのだった。ああして最後に話し合ったとき、しかもそのとき、わたしの恋する気持があまりにも興奮しすぎていたために、わたしはあらゆる情熱を費《つか》いはたしてしまいでもしたような気持だった。アリサの言葉の一語一語は、はじめはなんとかそれに反対してみたものの、わたしの抗弁が沈黙してしまったそのあとでは、それはいかにも生き生きと、さも勝ち誇ったもののようにわたしの心の中に残っていた。そうだ、彼女の言ったことは正しかった! 自分はもう≪影≫だけしか愛していなかったのだ。わたしのかつて愛していたアリサ、そしてなお愛しつづけていたアリサは、もういなくなってしまったのだ。そうだ、二人はすっかり年をとってしまったのだ。わたしがぞっとせずにはいられなかったあの恐ろしい幻滅にしても、それは結局、ありのままに立ちもどったことにほかならないのだ。たといわたしがゆっくりと彼女を高めてやり、彼女の身のまわりを自分の好みで飾ってやり、彼女を自分のための一つの偶像に仕上げてやったにしても、今やそうした辛苦から、疲労以外の何ものが残されているのだ?……アリサは、一人になるやいなや、たちまち彼女の水準、その平凡な水準にまでさがっていってしまったのだ。そしてこのわたしも、その水準のところにいる自分自身を見いだしたのだ。しかしわたしとしては、もう、そこまでさがっていった彼女を愛する気持にはなれないのだ。ああ、ひたむきな努力によって彼女を位置させてやっていたあの高さ、そこまで自分自身も追いつきたいと思っての徳行のための苦しい努力、それも今となってはどんなに愚劣な、ばからしいものに思われたことだろう。あれほど気位を高く持っていなかったら、二人の恋もどんなにか楽なものでありえたろうに……このうえは目的のない恋に執着してみたところで、なんの意味がありえよう。それは意地をはるというものだ。忠実ではないのだ。忠実だとしたら、それはまちがったことへの忠実なのだ。今、いちばん賢明なことは、自分のまちがったことを認めることではないだろうか……
おりもおりアテネ学院へ推薦されたわたしは、べつに野心もなく、興味といってもなかったが、ただ、出発することを、さも逃れることのようにうれしく思って、すぐさまそれを承諾した。
ところが、わたしはまた、ふたたびアリサに会うことになった……それは三年ののち、夏の終りに近いころのことだった。それに先だつ十カ月前、わたしは、彼女から叔父の死んだことを知らされていた。ちょうどそのころ、パレスチナに旅をしていたわたしは、そこからすぐに、彼女にかなり長い手紙を出した。だが、それにたいしては返事がなかった……
ル・アーヴルにいたわたしが、いったいどういう口実をつくってわざとらしくないようにしてフォングーズマールへ行ったのだったか、それも今では忘れてしまった。わたしには、そこで彼女に会えるだろうことはわかっていたが、彼女がひとりでないだろうことが心配だった。わたしは、自分の行くことを知らせてやらなかった。普通の訪問のようにして顔を出すのもいやだったわたしは、はっきりしない気持のままに歩いていった。はいろうか、それとも彼女に会わずに、会おうともせずに、そのまま帰ったものだろうか?……そうだ、そうしよう。わたしは一人で、あの並木道のなかを歩くことにしよう。そして、彼女が今でもまだ掛けにくるであろうあのベンチに腰をかけてみることにしよう……そしてわたしは、自分が立ち去ったあとで、自分の来たことを彼女に知らせるため、どんなしるしを残しておいたものだろうか、そんなことまで考えていた……そんなことを考えながら、わたしはゆっくりした足取りで歩いていった。そして、彼女に会うまいという決心がつくやいなや、今まで心をしめつけていた苦しいほどの悲しみは、ほとんど快いほどのしんみりした気持にかわっていった。もう並木道のところまで来ていたわたしは、見つけられてはいけないと思って、農家の中庭を仕切っている土手にそった下みちの、その一つにそって歩いていった。わたしは、そこから庭中がすっかり見わたされる、土手の一つの場所を知っていた。わたしは、土手の上に登った。わたしの知らない植木屋が小みちの草を掻《か》いていたが、やがてわたしの目から見えないほうへ行ってしまった。新しい一つの木の柵《さく》が中庭をとざしていた。わたしの通る足音を聞いて、犬がほえたてた。ずっと向うの、並木道の|はし《ヽヽ》まで行ったわたしは、庭の土塀《どべい》のところに出るなり、右へ曲った。わたしは、ちょうど今までの並木道と並行した|ぶな《ヽヽ》の林のあるあたりまで行こうと思った。そのとき、菜園の小さな入り口の前に通りかかったわたしは、急にそこから庭のなかへはいってみる気持になった。
木戸はしまっていた。だが、中からかけられた|かけがね《ヽヽヽヽ》は、たいした手ごたえもなく、肩をあてて一押ししたらひとたまりもなく開いてしまいそうなものだった。ちょうどそのとき、人の足音が耳にはいった。わたしは土塀のかげに身をかくした。
誰《だれ》が庭から出てきたのか、それは見えなかった。だが、わたしはその音をきき、それがアリサであるのを感じた。彼女は少し前へ出て、弱い声で、
「ジェローム、あなた?」と、呼んだ。
激しく鼓動を打っていたわたしの心臓は、はたととまった。そして、咽喉《のど》がふさがって一言も声を出せずにいるひまに、彼女は前より高い声で繰り返した。
「ジェローム、あなたなの?」
彼女が自分の名を呼んでいるのを聞くと、胸を引きしめられるような激しい感動で、わたしはそこにひざまずいてしまった。そして、そのままなおも返事ができずにいると、アリサは幾足か前へ進んで土塀を曲り、そしてわたしは、自分の体に触れたアリサを感じた――わたしは、彼女をすぐに見るのが恐ろしいとでもいうように、腕で顔をかくしていた。彼女は、しばらくのあいだわたしのほうにかがみこんでいた。そしてわたしは、彼女のほっそりした両手をキスで埋めていた。
「なぜ、かくれていらしったの?」彼女は、いかにもさりげなく、三年間会わずにいたのがわずか数日のことにすぎないとでもいうような調子で言った。
「どうしてぼくということがわかった?」
「待ってたんですもの」
「待っていた?」驚いたわたしは、ただ聞き返すように彼女の言葉を繰り返すよりほかになかった……そして、わたしがそのままひざまずいているのを見ると、
「ベンチのところへ行きましょう」と、彼女が言った。
「ええ、わたしには、もう一度あなたにお会いできることがわかっていましたの。三日このかた、わたしは毎晩ここまで出てきては、きょうの夕方のようにあなたのお名前を呼んでいましたの……なぜ返事をなさらなかった?」
「君に見つからなかったら、ぼくは会わずに立ってしまうところだったんだ」わたしは、はじめわたしを打ちのめした感動にたいして、しっかり心を保とうとしながら言った。「ル・アーヴルに来たんで、あの並木道を歩いたり、庭のまわりをまわったり、おそらく今でも君が来て掛けるだろうと思われたあの採掘場のベンチに腰掛けてみたいと思っただけなんだ。それに……」
「三日このかた、わたしがここへ来て何を読んでいたかごらんになって」彼女はそう言ってわたしの言葉をさえぎった。そして一束の手紙を出してみせた。わたしはすぐに、それがイタリアから彼女に書き送ったわたし自身の手紙であることを見てとった。そのとき、わたしは彼女のほうへ目をあげた。彼女は驚くほど変っていた。その痩《や》せ方や色艶《いろつや》のわるさに、わたしの胸は恐ろしいほどしめつけられた。彼女は、わたしの腕によりかかり、もたれながら、なにかしらこわいとでもいったように、それとも寒いとでもいったように、しっかり体をくっつけていた。彼女は、まだ第一期の喪に服していた。帽子代りにかぶっている黒いヴェールは、彼女の顔に枠《わく》をつくっていて、それがことさら彼女を蒼白《あおじろ》く見せていたにちがいなかった。彼女は微笑を浮べていた。だが、まるで消え入りそうなようすだった。彼女がいま、フォングーズマールにひとりなのかどうか知りたかったわたしは、そのことをたずねてみた。そうではなかった。ロベールもきていた。ジュリエット、エドゥワール、またその三人の子供たちも、ここで八月をすごしたということだった……わたしたちは、ベンチのところへ来た。二人は腰をおろし、しばらくは、ただ平凡なことをたずねあっていた。彼女は、わたしに仕事のことをたずねた。わたしは、気のりのしない受けこたえをした。わたしは彼女に、今やっている仕事がもうなんの興味も引かなくなっていることを察してもらいたかった。わたしは、かつて彼女がわたしを絶望させたように、彼女を失望させてやりたかった。だが、それに成功したかどうかはわからなかった。少なくも彼女は、そうしたそぶりさえ見せなかった。わたしとしては、恨みと愛との気持からで、できるだけ冷淡な調子で口をきこうとした。しかも、感動のあまり、ときどき声のふるえるのを、われとわが心に腑甲斐《ふがい》なく思っていた。
さっきから一片の雲にかくれていた入日は、ほとんどわたしたち二人の真向う、地平とすれすれのところにふたたび姿をあらわし、何ものもないこの野面《のづら》を、その打ちふるえる豪華な輝きで満たし、二人の足もとに開いている狭い谷を、たちまちあふれる光で埋めたが、やがてその姿をかくしてしまった。わたしは目がくらんで、じっと黙りこんでいた。今は恨みも消え、またもや輝きかえる陶酔に身を包まれ、それが身内にしみ透《とお》ってくるように感じていた。そして、わたしの心には、ただ愛の声だけしか聞えなかった。わたしにもたれてうつむいていたアリサは、やがて体を起した。彼女は胴着《コルサージュ》から、薄手の紙に包んだ小さな包みを取り出し、それをわたしのほうへ差し出しそうなようすを見せたが、ちょっとためらってからやめてしまった。そして、わたしが驚いてじっと見つめているのを見ると、
「ねえ、ジェローム、ここに、あの紫水晶《アメチスト》の十字架がはいっていますの。よほど前からあなたに上げたいと思っていたので、三日前の夕方からいつも持ってきていたんですの」
「それをぼくにどうしろというんだ」わたしは、かなりぶっきらぼうに言ってのけた。
「わたしの記念に、あなたの女のお子さんのために取っておいていただきたいの」
「女の子だって?」なんのことともわからず、わたしはアリサを見つめて言った。
「落ちついてわたしの言うことを聞いてちょうだい。いいえ、そんなにじっと見つめないで。それでなくてもお話ししにくいんですもの。でも、これだけはどうしてもあなたにお話ししておきたいのよ。ねえ、ジェローム、あなたもいつかは結婚なさるでしょう?……いいえ、黙っていて。どうかわたしの言葉をさえぎらないで。わたしは、あなたに、せめてわたしがあなたをこの上なく愛していたことをおぼえていらしっていただきたいの……そして、よほど前から、三年前から……わたし、あなたのお好きだったこの小さい十字架を、あなたのお子さんが、わたしの記念に下げてくださる日の来ることを考えていたんですの。誰からの贈り物とも知らずに……そして、そのお子さんにつけてくださるかしら……わたしの名を……」
声が出なくなって、彼女は言葉を切った。わたしはほとんど喧嘩腰《けんかごし》で叫んだ。
「では、なぜ君が自分でぼくの子供にやらないんだ?」彼女はまた話しつづけようとした。彼女の唇は、泣きじゃくる子供の唇のようにふるえていた。だが、彼女は泣いてはいなかった。アリサの眼差《まなざ》しの不思議な光は、彼女の顔を、この世のものとも思われぬ天使のような美しさで満たしていた。
「アリサ! ぼくが誰と結婚するというんだ? ぼくが、君以外、誰も愛せないことを知ってるくせに」こう言いながら、とつぜん、わたしは、夢中になって、ほとんど荒々しく彼女を抱きしめ、その唇をむさぼるようにキスしたのだった。わたしは、しばらくのあいだ、わたしにすっかり体をまかせ、わたしにもたれながらなかば仰向けになっている彼女をかかえていた。わたしの目には、彼女の眼差しのかげるのが見えた。やがて、そのまぶたはとざされ、そしてわたしは、くらべるもののないほどの、はっきりした、さわやかな声を耳にした。
「わたしたちおたがいを憐《あわ》れまなければ! どうか二人の恋を傷つけないで」
おそらく彼女は、もっと言いつづけていたのだろう、≪未練がましいことはなさらないで≫と。それでなければ、それはわたしが、わたし自身に言った言葉かもしれない。それはわたしもおぼえていない。が、ともかく、わたしはとつぜん彼女の前にひざまずき、彼女を、つつましい気持で自分の腕に抱きしめながら、
「それほどぼくが好きなんだったら、なぜぼくを退けつづけていたんだ。ねえ、ぼくははじめ、ジュリエットが結婚するのを待っていた。ぼくには、君もジュリエットの幸福になるのをねがっていることがわかっていた。ところで、ジュリエットは幸福になった。それは、君自身ぼくに言ったことではなかったろうか。ぼくは、長いこと、君がお父さまのそばで暮していたいんだろうと思っていた。だが、今はぼくたち、この世に二人きりになったんじゃないか」
「ああ、昔のことを思い返すのはよしましょうよ」と、彼女はささやくように言った。「もうページはめくられてしまったんですわ」
「まだだ、アリサ」
「いいえ、もうその時はすぎてしまいましたの。恋をすることによって、二人が恋そのものよりもっとすぐれたものをながめることができるようになった日から、そうした≪時≫はわたしたちから離れていってしまいましたの。あなたのおかげでわたしの夢は高められ、人の世の満足などは、むしろそれをそこねかねないもののように思われだしてきましたの。わたしはよく、わたしたちいっしょになっての生活が、どんなだったろうと考えてみましたわ。二人の愛にしても、それが少しでも完全なものでなくなるが早いか、おそらくわたしには……それに耐えられなくなったろうと思いますの」
「君は、二人が、おたがいなしで生活するときのことを考えたことがあるかしら?」
「いいえ、一度も」
「今こそ君にもわかるだろう。三年このかた、ぼくは君なしで、つらい思いをしてさまよいつづけてきたんだ……」
夜が近づいていた。
「寒くなってきましたわ」彼女は、立ち上がりながらそう言うと、わたしにその腕が取れないほど、ショールでしっかり体をつつんだ。「あなたはあの聖書の一節をおぼえていらっしゃる? ほら、あの気になっていた、そしてはっきりその意味がわからないのではないかとおそれていた――≪神は我らのために勝りたるものを備え給《たま》いし故《ゆえ》に、彼ら約束のものを得ざりき≫」
「君はいつもその言葉を信じている?」
「信じなければならないんですもの」
わたしたちは肩を並べて、しばらくは口をきかずに歩いていった。彼女は言った。
「勝りたるもの! ジェローム、あなたそれを考えてみたことがおありになる?」彼女の目からは、たちまち涙があふれ出た。それでもその口は、
「勝りたるもの」と繰り返していた。
わたしたちは、ふたたび、さっき彼女の出てくるのを見た菜園の木戸のところに来ていた。彼女はわたしのほうを振り向いて、
「さようなら!」と言った。「もうここまでにしてちょうだい。さようなら、愛するお友だち。これからあの――≪勝りたるもの≫がはじまりますの」
彼女は、腕をのばし、両手をわたしの肩にのせ、さも引きとめるといったような、それでいて行けといったようなようすで、目には言いがたい愛の思いをみなぎらしながら、ちょっとのあいだわたしを見つめていた……
木戸がしめられ、そのうしろで|かんぬき《ヽヽヽヽ》の引かれる音を耳にしたとき、わたしはなんとも言えない絶望感におそわれ、戸にもたれて倒れてしまった。そして、闇《やみ》のなかで、長いこと、泣きじゃくっていた。
だが、あのとき、彼女を引きとめ、木戸をおして、そしておそらくはわたしを拒まないであろう家のなかへ、遮《しゃ》二無二《にむに》はいっていったのだったら、そうだ、今にして昔を今に思い返してみたところで……ああ、とてもそんなことはできなかった。今のわたしの気持のわからない人には、その時までのわたしの気持にしても、とうていわかりうるはずがないのだ。
やみがたい不安の気持から、わたしは数日してからジュリエットへ手紙を書いた。わたしは、彼女に、フォングーズマールへ行ったこと、そして、アリサの顔色のわるかったこと、痩せたのがとても心配に思われるといったようなことを書いてやった。わたしは彼女に、アリサに気をつけてくれるように、アリサ自身からはもらえそうもない便りを、彼女から知らせてもらいたいと頼んでやった。
だが、一月とたたないうちに、わたしは次のような手紙に接した。
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ジェロームさま
きょうはたいへん悲しいことをお耳に入れなければなりません。わたしたちのアリサはもうこの世の人ではないのです……ああ、あなたが手紙にお書きだった心配が、じつはみんなほんとうのことになってしまいました。数カ月このかた、はっきり病気というわけでもなしに、アリサはだんだん衰弱していきました。でも、わたしの頼みを聞き入れて、ル・アーヴルのA……先生の診察を受けることを承知しました。先生からは、わたしあてに、たいしたことはないというお手紙がありました。ところが、あなたがお訪ねになってから三日目に、アリサはとつぜんフォングーズマールを出ていきました。わたしは、ロベールからの手紙ではじめてそれを知ったのでした。アリサはめったに手紙をよこさないので、もしロベールが知らせてくれなかったら、アリサの家出についてもまったく知らずにいたかもしれません。手紙が来なくても、すぐ心配したりはしなかったでしょうから。わたしはロベールに、みすみすアリサを出してやったこと、パリまでついていってやらなかったことをはげしく責めてやりました。じつは、それからというもの、アリサの在りかはまったくわからずじまいでした。わたしがどんなに心配したか、あなたもおわかりくださいますわね。会うこともできず、手紙の出しようもないのですもの。ロベールは、数日たってパリへ出かけはしましたが、なんの手がかりもつかめませんでした。あの子ときたら、熱心さが足りないのかと思われたほど、とてもとても|ぐず《ヽヽ》なんですもの。とどのつまり、警察に知らせなければなりませんでした。そういつまでも、こうした苦しい不安のままではいられませんでしたから。で、主人が出かけていきました。そして、苦心のすえ、やっとアリサが身を寄せていた療養院をさがしあてました。でも、それはもう手おくれでした。わたしは、アリサの死を告げる院長からの手紙と、アリサに会うことさえできなかったという主人の電報を同時に受け取りました。最後の日、アリサはわたしたちに知らせるため、一枚の封筒の上にわたしたちの家の番地を書きました。そして、もう一枚の封筒のなかには、その最後の意志を記して、ル・アーヴルの公証人のところへ送った手紙の写しを入れておいたのでした。手紙の一部は、あなたに関するものと思います。いずれ近くお知らせしましょう。主人とロベールとは、一昨日の埋葬式に連なることができました。柩《ひつぎ》についていったのは、二人だけでなく、療養院にいた幾人かの患者たちも、ぜひ式に連なり、遺骸《いがい》を墓地まで送りたいと言ってくれたのでした。わたしは、五人めの子供の出産が迫っていたので、残念ながら身を動かすことができませんでした。
ジェロームさま、この痛ましいお知らせが、あなたにどんなに深い悲しみをもたらすであろうかお察しします。そして、これを書いているわたしも、胸が張り裂けそうな思いです。二日以来床についているため、思うように書けません。とはいいながら、おそらくわたしたちだけがほんとに知っていたと言っていいアリサのことをお知らせするのに、ほかの人を、主人にしろロベールにしろ、わずらわしたくないと思ったのでした。いまでは、ほとんど家のなかの老いたる母とでもいったようになってしまったこのわたし、そして降り積った灰のため、燃えさかる過去の思い出もすっかり包まれてしまっているこのわたし、今だったらもうあなたにお目にかかりたいと思ってもいいでしょう。いつか、お仕事かお遊びのついでにニームのほうへおいでになることがおありでしたら、どうかエーグ・ヴィーヴまでお越しください。主人も、お目にかかれたらよろこびましょうし、そして、二人して、アリサのことをお話ししましょう。さようなら、ジェロームさま。悲しい思いをこめてのキスをお送りします。
[#ここで字下げ終わり]
数日たって、わたしはアリサがフォングーズマールの家を弟に遺《のこ》したということ、だが部屋にあったすべての物、それから特に示したいくつかの家具はジュリエットに送ってほしいと望んだことを知った。わたしはわたしで、近くわたしあてに密封した書類を受けることになっていた。それから、最後に会ったとき、わたしが拒んだ小さい紫水晶《アメチスト》の十字架は、彼女自身そのくびに掛けてくれと言い、それがそのとおりになされたことをエドゥワールから知らされた。
公証人からわたしの手もとにまわされた封印された封筒には、アリサの日記がはいっていた。そのなかから、相当なページを写し取ることにする。わたしは、それになんの注釈もつけずに、ここに写すことにする。わたしがそれを読みながら思いふけったさまざまなこと、また、言おうとしたところで自分の口からは結局不完全にしか語ることのできないであろう心の動転、諸君はそれを十二分にご想像くださることと思っている。
[#改ページ]
アリサの日記
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[#地付き]エーグ・ヴィーヴにて
おとといル・アーヴル出発。きのうニーム着。わたしの初旅! 家政や炊事の心配もなく、それに引きつづく軽い無聊《ぶりょう》の気持のなかで、きょう一八八×年五月二十三日、わたしの二十五歳の誕生日に、この日記を書きはじめる。べつにたいした興味からではなく、自分の伴侶《はんりょ》とでもいったような意味からである。というのは、わたしは今、この変った、ほとんど外国と言っていいような、なじみのない土地に来ていて、おそらく生れて初めて、ひとりぼっちの気持になっている。この土地がわたしに語りかけようとするものは、むろんかつてノルマンディーがわたしに物語ったものや、またわたしがフォングーズマールで飽かず聞き入っているものとなんらちがってはいないだろう――なぜかといえば、主はいずこにあっても異なりたもうことがないからなのだ――だが、この南の国がわたしに話しかける言葉は、わたしがまだ耳にしたことのないものであり、わたしが驚いてそれに聞き入っているのである。
[#地付き]五月二十四日
ジュリエットはわたしのそばの長《なが》椅子《いす》の上でうつらうつら寝入っている――ここは、イタリア風のこの家に風情《ふぜい》を与えている開け放しの回廊で、庭へつづく敷砂をした前庭とすれすれの高さになっている……ジュリエットは、長椅子に掛けたままで、ずっと向うのほう、さまざまな羽色をした家鴨《あひる》の群れが羽ばたき、二羽の白鳥が泳いでいる池のほうへかけて、芝生の起伏が谷をなしていっているのを見ることができる。どんな夏にも涸《か》れたことがないと言われる流れが池に注ぎこんでいて、それはだんだん荒れ茂った林になっている庭のあいだを走りのがれ、乾いた荒地《ガリーグ》と葡《ぶ》萄園《どうえん》のあいだにせばまり、やがてまったく姿を消してしまっている。
……お父さまは、きのう、ちょうどわたしがジュリエットのそばについていたあいだに、エドゥワール・テシエールさんから、庭や、農園や、酒倉や、葡萄畑を見せていただいていたので、わたしは、けさ早くから、はじめて一人で、庭園のなかのいろいろなものを発見に出かけることができた。その名前がわかったらと思われるたくさんな見も知らぬ草や樹木。わたしは、昼食のときその名をきいてみようと思い、その一つ一つの小枝を折りとった。なかには、ジェロームがヴィラ・ボルゲーゼかドリア・パンフィリーかで感心したという|そよご《ヽヽヽ》の木があって……それはわたしたちの住む北フランスの木とはとても縁遠い――いかにもようすのちがった|そよご《ヽヽヽ》の木だった。それはほとんど庭のはずれにあって、林のなかの、狭い、神秘的な空地を囲んで立ち、踏む足ざわりのやわらかな芝生の上にたれかかって、ニンフたちの合唱を誘っている。ここに来てみると、フォングーズマールにいたとき、あれほど深くキリスト教的だった自分の自然観が、われにもあらずいくらか神話的になってくることにおどろき、恐れをいだく。だが、こうしてわたしにひしひしと迫ってくる恐怖の気持も、それはやはり信仰から出てくるものなのだった。わたしは hic nemus(ここにあるは聖《きよ》き森なり)と、低くつぶやいてみた。空気はすきとおっていた。そして、気味のわるいほど静かだった。オルフォイスやアルミデスのことを考えていると、たちまち一羽の鳥のきわだった声が、すぐそばで、いかにも感動をゆさぶる調子で、いかにも清らかに、ちょうど自然全体が今それを待っていたと思われるような調子で聞えた。わたしの胸はひどく動悸《どうき》を打っていた。わたしはしばらく一本の樹《き》にもたれていたが、やがて誰《だれ》も起きださないうちに家に帰った。
[#地付き]五月二十六日
ジェロームからは相変らず手紙が来ない。ル・アーヴルあてに出したとしても、こっちへまわってくるはずなのに……この不安な気持は、ただこの日記にだけ打ち明けられる。きのうボーまで行った遠足にしても、また三日以来つづけているお祈りにしても、わたしの気持を片時たりともまぎらしてはくれなかった。きょう記すべきことといってはほかにない。このエーグ・ヴィーヴへ来てからの不思議に憂鬱《ゆううつ》な気持には、おそらくほかになんの原因もないのだろう。それでいて、その憂鬱はわたしの心の底深くひそんでいて、さもずっと前からそこにあったもののように思われ、そして、かつてわたし自身誇っていた歓喜の気持も、じつはこの憂鬱を外から押しかくしていたものにすぎないように思われる。
[#地付き]五月二十七日
自分をいつわる必要がどこにあるだろう? わたしがジュリエットの幸福を喜んでいるのは、じつは理屈の上からのことなのだ。わたしがあんなに望んでいた彼女の幸福、わたし自身の幸福を犠牲にしてまでもと望んでいたその幸福、それがなんの苦もなく得られ、しかもそれが、彼女とわたしでそうあらねばならないと考えていたようなものとはだいぶちがったものであるのを見て、わたしの心は悩んでいる。なんと複雑なのだろう。そうだ……彼女がその幸福をわたしの犠牲の外に求めたこと、彼女が幸福になるためにわたしの犠牲を必要としなかったことによって、わたしの利己主義の気持が逆にひどく傷つけられたように思っていることがよくわかる。
そして、わたしはいま、ジェロームから便りのないということが、わたしにどれほど不安な気持をひき起しているかを考えて、そうした犠牲が、ほんとにわたしの心のなかで行われたのだろうかといぶかしんでいる。わたしは、もう主からそうした犠牲を求めていただくことのできない意味において、辱《はずか》しめられたもの、といったような気持になっている。わたしには、とてもそんなことができなかったというのだろうか?
[#地付き]五月二十八日
こうして自分の悲しみを分析するというのは、どんなに危険なことだろう! わたしはすでに、この日記に執着している。今まで抑えていたつもりの思わせぶりが、また勢いを取りもどしたというのだろうか?そうだ、わたしは、この日記を、自分の魂にその前でおめかしをさせるための、うぬぼれ鏡にしてはならないのだ。わたしは今、はじめ考えていたような、単にひまつぶしのためにでなく、悲しさゆえに筆を取っているのだ。悲哀は一種の≪罪の状態≫であり、それはわたしが久しく忘れていたところのもの、わたしの憎むところのもので、そこから自分の魂を|単純なものに立ちもどらせ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》たいとねがっているものなのだ。この日記も、心の中にふたたびあの幸福を取りもどすため、わたしに力をかすものでなければならない。
悲哀は一つの錯綜《さくそう》だ。わたしは、いままで一度も、自分の幸福を分析してみようとしたことはなかった。
フォングーズマールにいたときも、ひとりぼっちだったことに変りはないし、もっと孤独だったとさえ言えるだろう……それなのに、なぜそれを感じなかったのだろう。イタリアからジェロームの便りをもらったとき、わたしはあの人がわたしなしで物をながめ、また暮していたことをそのまま受け容《い》れ、心のなかであの人を追い、あの人の喜びをわたしの喜びとしていたのだった。ところが今、わたしは自分とはうらはらにあの人を呼んでいる。あの人がいないと、新たに目に触れるすべてのものが、わたしにとってわずらわしく思われる……
[#地付き]六月十日
はじめたばかりで、長いことこの日記の筆をおいていた。リーズちゃんの誕生、ジュリエットのそばでの長時間にわたる夜の看護、ジェロームあてにだと書けることでも、この日記に書こうという気持には全然なれない。わたしは、どの女にも共通の、≪書きすぎる≫というあのたまらない短所を避けたいと思う。この日記を自己完成に進む|うつわ《ヽヽヽ》と考えることだ。
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このあとには、書物を読みながらの心覚えとか、書き抜きとかがつづいていた……そして、ふたたびフォングーズマールでの日付で、
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[#地付き]七月十六日
ジュリエットは幸福だ。自分でもそう言っているし、そう見える。わたしとしては、それを疑う権利もなければ、理由もない。……それなのに、いま彼女のそばにいて、この不満、不快といった感情が心に浮ぶのはなぜだろう? おそらくそれは、その幸福がいかにも実際的なものであり、たやすく手にはいり、しかも≪注文どおり≫にできているために、それが魂をしめつけ、窒息させるように思われるからなのだ……
そして、わたしはいま、自分のねがっているものが幸福そのものなのだろうか、それともむしろ幸福への歩みなのだろうか、と考えている。ああ主よ、あまりにすみやかに到達できるような幸福から遠ざけたまえ! わが幸福をして、主のいますところまですさらせ、その来たることをおくれさすすべを教えたまえ。
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数多くのページがこの後のところで破り去られている。おそらくそこには、あのル・アーヴルでのつらかった再会のことが記されていたにちがいない。日記は、ようやく翌年になってつづけられている。日付は書かれていないが、それはたしかに、わたしのフォングーズマール滞在のあいだに書かれたものなのだ。
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ときどき、あの人の話を聞いていると、自分の考えを見ているような気持がする。あの人は、わたしに向ってわたしを説明し、わたしというものをあばいて見せてくれる。あの人なしで、はたして、わたし自身がありうるだろうか。わたしは、ただあの人がいるために存在しているのだ……
ときどきわたしには、自分があの人に感じているものが、いわゆる恋なのだろうかと考えてわからなくなる。一般に人が恋について述べているものと、わたし自身の考えるものとは、それほどちがっているのだ。わたしは、そんな言葉は口に出さずに、また自分では愛していることに気づかずにあの人を愛していたいと思う。とりわけ、あの人に知られることなしに、あの人を愛していたいと思う。
あの人なしで暮さなければならないとなったら、何ひとつわたしに喜びをあたえてくれるものはなくなってしまう。わたしの徳も、まったくあの人の気に入られたいがためにほかならない。それでいて、あの人のそばにいると、その徳が崩れそうになってくる。
わたしはピアノのレッスンが好きだった。それというのも、毎日少しずつ進歩してゆくように思われたからだった。それは、わたしが外国語で書物を読むときの楽しさを説明してくれるだろう。それは自国語よりも外国語のほうが好きだとか、外国の作家にくらべて、わたしの尊敬するわが国の作家たちに遜色《そんしょく》があるとかいったわけではない。ただ意味や感情をたどる場合の軽い困難、さらにみごとにその困難に打ち克《か》ってゆくときの、自分でも気のつかない得意な気持といったものが、知識の上の楽しみに加えて、それなくしてはすまされない何かしら魂の満足とでもいったようなものをつけ加えてくれるからにほかならないのだ。
いかに幸福なことであっても、わたしには進歩のない状態を望むわけにはいかない。わたしには、神聖な喜びとは、神と融合することではなく、無限にして不断の神への接近であるように思われる……もし言葉を弄《ろう》することを恐れないなら、わたしは≪進歩的≫でないような喜びを軽蔑《けいべつ》する、と言ってもいいだろう。
けさ、わたしたち二人は並木道のベンチに腰をおろしていた。二人は何も口をきかず、また何を言う必要も感じなかった……すると、とつぜん、あの人はわたしに来世を信じているかとたずねた。
「だってジェローム」と、わたしはすぐに叫んだ。「わたしにとって、それは希望以上のことですわ。それはもう、一つの確かなことなんですの……」
すると、わたしには、こう叫んだ言葉のなかに、急にわたしの全信仰が注ぎこまれてしまったように思われた。
「あの……」と、あの人はつけ加えた……そしてしばらく言葉をきっていたあとで、「もし信仰がなかったら、君の行いは今とちがったものになっているかしら?」
「そんなことはわからないわ」と、わたしは答えた。そしてつけ加えて、「あなただって、たとい自分でどう思っていても、いったん熱烈な信仰を吹きこまれたら、そうするよりほかに仕方がなくなってくると思うわ。もしそうでなかったら、わたし、あなたを好きになれないでしょう」
いいえ、ジェローム。いいえ。わたしたちの徳が努力を傾けるのは、それは将来の|むくい《ヽヽヽ》といったものを思ってではないんですの。わたしたちの愛が求めているのは、将来の|むくい《ヽヽヽ》ではないんですの。自らの辛苦にたいする報酬といった考えは、よき魂にとって、それを傷つけるものなんですわ。徳は、そうした魂にとっての装飾物ではありませんの。それは、そうした魂の美しさの形そのものなんですの。
お父さまのお加減がまた少しよくない。たいしたことはないように思うが、三日以来、また牛乳だけにもどっておしまいだった。
きのうの晩、ジェロームが自分の部屋へ帰ってしまってから、お父さまはわたしといっしょに起きていらっしったが、ちょっとのあいだ、わたしを残して出ていらしった。わたしは長《なが》椅子《いす》の上に、腰をかけてというよりも、わたしとしてめったにないことに、なんということなしに身を横たえていた。笠《かさ》にさえぎられて、燈火は、目や体の上のほうまではとどいていなかった。わたしは、着物の裾《すそ》からはみだし、ランプの光に照らされている自分の足の爪先《つまさき》を機械的に、じっとながめていた。お父さまは帰っていらっしゃりながら、しばらくドアのところに立ちどまり、微笑するような、悲しいような、不思議なようすで、じろじろわたしを見ていらしった。わたしは、なんとも知れず|きまり《ヽヽヽ》の悪い思いで立ち上がった。すると、お父さまは、手まねで、「そばに来てお掛け」とおっしゃった。そして、もうずいぶん夜もふけていたのに、お別れになってから一度も伺ったことのないお母さまの話をおはじめになった。お父さまとお母さまと結婚されるまでのこと、どれほどお母さまを愛していらしったか、また最初お母さまがお父さまにとってどんな存在だったかということを話してくだすったのだ。
「お父さま」と、とうとうわたしは口をはさんだ、「なぜまた今夜、そんなお話をなさるんですの。なぜまた今夜にかぎって、そんなお話をなさる気持におなりになったんですの。おっしゃってちょうだい……」
「それはだよ、さっき客間にはいってきて、長椅子に横になっているお前を見たとき、わたしには、一瞬、お母さんを見ているような気持がしたからなんだ」
わたしが、こうしてくどくど書くのは、ちょうどその同じ日の夕方……ジェロームが、立ったまま、わたしの肩ごしにこごみこむようにしてわたしの掛けている安楽椅子によりかかりながら、いっしょに本を読んでいたからなのだ。わたしには、ジェロームの姿は見えなかったが、その息づかいが感じられ、その体の|ぬくみ《ヽヽヽ》やふるえが伝わってくるように思われた。わたしは、なおも本を読んでいるようなふりをしていた。だが、もう何ひとつ頭にははいらなかった。行も目にはいらなかった。なんとも異常な胸のときめきに襲われて、わたしは、今のうちにと、大急ぎで椅子から立ち上がらなければならなかった――わたしはいいあんばいに、あの人に気づかれずに、しばらく部屋を離れることができた……だが、しばらくしてから、わたしがひとりぼっちで客間の長椅子の上――そこにすわっているわたしをお父さまがお母さまに似ているとおっしゃった長椅子の上――に横になっていたとき、わたしはちょうどお母さまのお身の上を考えていたのだった。
悔いの思いとでもいった身内に湧《わ》き起る過去の思い出に責められながら、不安な、胸苦しい、みじめな気持で、わたしは一晩中安眠できなかった。主よ。悪のすがたをもてるすべてのものを憎むべきことを教えたまえ。
気の毒なジェローム! もしあの人が、ただちょっと体を動かしさえすれば十分だったということを、そして、わたしのほうでもそれを待ちうけているということを知っていたら……
わたしがまだ幼かったとき、すでにわたしはあの人のために美しくなろうとねがっていた。今にして考えてみると、わたしが≪完璧《かんぺき》を志した≫というのも、すべてあの人のためなのだった。それなのに、その徳を全《まっと》うするため、あの人のいることが妨げになるとは。ああ主よ、これこそ主の御教《みおし》えのなかにあって、何よりもわたくしの魂を戸惑いさせるところのものでございます。
美徳と愛とが融《と》け合っているような魂があったとしたら、それはどんなに幸福なことだろう! おりおりわたしには、愛するということ、できるかぎり愛し、ますます愛するということをほかにして、はたして美徳というものがありうるだろうか疑わしくなってくる……わたしにはときどき、悲しいかな、徳というものはただ愛にたいする抵抗だとしか思われなくなる! あろうことか! きわめてあるがままの心の|傾き《ヽヽ》を、あえて≪美徳≫と呼ぼうというのだろうか! ああ、心をさそう詭弁《きべん》よ! もっともらしい誘惑よ! 幸福の陰険なまぼろしよ!
けさ、ラ・ブリュイエールを読んでいると、こんなことが書いてあった。
≪人生には、往々にして、われらに禁じられてはいても、せめてそれの許されることを望むことが当然であるような、親しみぶかい快楽、こころよい|いざない《ヽヽヽヽ》がある。こうした大きな魅力は、徳をもってそれをしりぞけうるといった魅力がないかぎり、なかなか克服しにくいものである≫
わたしは今ここに、なんの必要があって弁解などを考えついたのだろう? それは、愛にもまして力強い、より優しい魅力が、ひそかにわたしをひきつけているからだろうか? ああ、愛によって、そして愛を立ちこえて、わたしたち二人の心を導くことができるのなら!……
ああ、今わたしには、このことがわかりすぎるほどわかっている。神とあの人とのあいだには、わたしだけが障害になっているのだ。もしあの人がわたしに言ったように、最初あの人のわたしにたいする愛が、あの人を神のほうへ導いたのだとすれば、今あの人の妨げになっているものも、またその愛の気持なのだ。あの人はわたしにこだわり、神よりもわたしを愛し、しかもわたしは、あの人にとって一つの偶像になってしまい、あの人が美徳へ向ってもっと深く歩み入ろうとするのを引きとめている。わたしたち二人のうち、どちらかがそこへ到達しなければならないのだ。そして、主よ、わたくしの怯懦《きょうだ》な心は、とても愛に打ち克つことができないのでございます。どうかわたくしに、あの人にもうわたくしを愛さなくなるよう説きさとす力をおあたえください。そういたしましたら、このわたしの功徳《くどく》のかわりに、さらに立ちまさるあの人の功徳を主の御前に捧《ささ》げることができましょう……それに、今、わたくしの心があの人を失うことで泣き悲しむにいたしましても、やがて、主のうちにあの人を見いだすことになるのではありますまいか……
主よ、お聞かせくださいまし、いかなる心にもまして、彼の心ほど主に値したものがございましたろうか? 彼こそは、わたくしを愛することよりもっとすぐれたことのために生れてきた人ではございますまいか? それに、もしあの人がわたくしのために立ちどまったとしても、わたくしはあの人をそれだけ愛することになりましょうか? 雄々しかるべきことが、幸福のなかにあっては、なんと萎縮《いしゅく》してしまうことでございましょう!……
[#地付き]日曜日
≪主は我らのためにより勝りたるものを備え給《たま》いしかば……≫
[#地付き]五月三日 月曜日
幸福はそこにある、ごく手近に、とるがままに……とらえるためには手をのばせばいい……
けさあの人と話しながら、わたしはとうとう犠牲をやりとげることができた。
[#地付き]月曜日 夕
あの人はあした立つ……
なつかしいジェローム、わたしはいつもあなたをかぎりないなつかしさをもってお愛ししているのです。でも、わたしからは、そのことをもうけっして言うことができますまい。わたしは自分の目や唇《くちびる》や心にあたえている束縛がもうたまらなくつらいものになっていて、あなたとお別れすることが解放であり、また苦い満足でもあるのです。
わたしは、理性をもって行動しようとつとめている。だが、いざとなると、わたしを動かしていた理性は、見失われてしまう。さもなければなんだか狂気じみたもののように思われてくる。わたしはもはやそれを信じてはいないのだ……
わたしにあの人から逃げさせる理性? わたしは、もうそんなものを信じない……それでいて、わたしは、悲しく思いながら、そしてなぜ逃げるのか自分にもわからずに、あの人から逃げている。
主よ、ジェロームとわたくしと二人で、たがいに助けあいながら、二人ともあなたさまのほうへ近づいていくことができますように。人生の路《みち》にそって、ちょうど二人の巡礼のように、一人はおりおり他の一人に向って、≪くたびれたら、わたしにおもたれになってね≫と言えば、他の一人は≪君がそばにいるという実感があれば、それでぼくには十分なのだ≫と答えながら。ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです――二人ならんでは通れないほど狭いのです。
[#地付き]七月四日
もう六週間以上もこの日記をあけなかった。先月、その幾ページかを読み返してみながら、わたしは、うまく書こうという、ばかげた、そしてよこしまな心づかいで書かれていたことを発見した……それも≪あの人≫のせいなのだ……
≪あの人≫なしで生きる手だてにと思って書きだした日記のなかで、わたしは、やっぱり≪あの人≫あてに手紙を書いていたのだ。
わたしは≪うまく書けている≫と思われるページを破り捨ててしまった。(その意味は、わたし自身にはよくわかっている)。わたしは、あの人のことが書かれているところをすべて破り去るべきであったろう。わたしは日記全部を破り去るべきだったろう。……だが、わたしにはできなかった。
そして、その幾ページかを破ってしまったことについてさえ、いくらか傲慢《ごうまん》な気持がしたのだった……傲慢な気持、わたしの心がこうまで病んでいなかったら、それも笑ってしまえたことだろうに。
ほんとにわたしは、大きな手柄《てがら》を立てたといったような、そして、破ったものがさもたいしたものででもあるといった気持だった。
[#地付き]七月六日
わたしは書棚《しょだな》から本を追放しないわけにはいかなかった……
本から本へとわたしはあの人から逃げていくが、それでもあの人を見いだす。あの人なしに開くページにさえ、それを読んで聞かせてくれるあの人の声が聞える。わたしには、あの人の興味を持つものだけしか好きになれない。そして、わたしの考え方はあの人のそれとおなじ形をとって、昔二人の考え方を喜んでごっちゃにしていられたころとおなじく、今やそのどちらがどちらとも区別できないようになっている。
ときどきわたしは、あの人の文章の調子から抜けだすため、わざとへたに書こうとする。だが、あの人に反抗することが、すでにあの人を気にかけていることなのだ。わたしは、当分のあいだ、読むのは『聖書』(それにたぶん『キリストにならいて』も)だけ、そして書くものは、読んだもののなかで重要な文句だけを、毎日この日記のなかに書きとどめることにしようと決心した。
[#ここで字下げ終わり]
『日々の糧《かて》』と言ったようなものが、このあとに続いて記されていて、七月一日にはじまる毎日の日付に、一つずつ章句が書き添えられていた。ここには、何か注釈の書き加えられている部分だけを写しとることにする。
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[#地付き]七月二十日
≪汝《なんじ》の有《も》てる物をことごとく売りて、貧しき者に分ちあたえよ≫わたしには、ジェロームのためだけに用意している自分の心を、貧しい者のためにあたえなければならないことがわかっている。そして、そうすることは、同時にジェロームにもそうするように教えることではないだろうか……主よ、どうかその勇気をあたえたまえ。
[#地付き]七月二十四日
わたしは『心の慰め』を読むことをやめてしまった。わたしは、その古い文章にかなり興味をもっていたが、同時にそれは、わたしの心をまぎらしてしまうものであり、そして、そこに味わうほとんど異端的な喜びは、わたしがそこに求めようとしていた修養とはなんのかかわりもないものなのだ。
また『キリストにならいて』を読みはじめた。しかも、いくら読んでもわかりにくいラテンの原文にはよらないことにした。わたしは、今読んでいる訳文に署名のないのをうれしく思う――なるほどプロテスタントのものにはちがいないが、表題には≪あらゆるキリスト教団体にかなえる≫と書いてある。
≪汝徳を求めることにより、汝自らいかなる平安を得、また他の者にいかなる喜悦をあたうるかを知らば、汝さらに心して努むることとならん≫
[#地付き]八月十日
主よ、わたくしがあなたへ向って、幼きものの信仰の感激と、その世ならぬ天使の声をもって呼びかけたてまつるとき……
これはすべて、たしかにジェロームから受けたものでなく、あなたさまからお受けしたものでございます。
それなのに、あなたは、なぜあなたとわたくしとのあいだに、いたるところにあの人の姿をお見せになるのでございましょうか。
[#地付き]八月十四日
この仕事を仕上げるため、あますところ二カ月のみ……主よ、救《たす》けたまえ!
[#地付き]八月二十日
わたしにはよくわかる、自分の|悲しみゆえ《ヽヽヽヽヽ》によくわかる、犠牲はまだわたしの心のなかに成し遂げられてはいないのだ。主よ、この悦《よろこ》び、今まであの人だけがわたしに教えてくれたこのよろこびを、どうかあなたさまからだけのものにおさせください。
[#地付き]八月二十八日
なんという平凡な、なんという情けない徳に立ちいたったことだろう。あまりに自らに求めすぎるのだろうか。――これ以上、そんなことに苦しみたくない。
いつも神へ力を求めるとは、なんと卑怯《ひきょう》なことだろう! あらゆるわたしの祈りは、今やすべて泣き言にすぎない。
[#地付き]八月二十九日
≪野の百合《ゆり》を見よ……≫
この簡単な言葉が、けさ、わたしを、何をもってしてもまぎらすことのできないほど悲しい気持に沈めてしまった。わたしは野のほうへ出ていった。そして、われ知らず繰り返しつづけていたこの言葉は、わたしの心と目を涙でいっぱいにしてしまった。わたしは、農夫が鋤《すき》の上にかがみこんで労作している、広い、すがれた野をながめていた……
≪野の百合……≫されど主よ、その百合はどこにあるのでございましょう?
[#地付き]九月十六日 午後十時
またお会いした。あの人はこのおなじ屋根の下においでになる。芝生の上にあの人の部屋の窓からの燈火がさしている。わたしがこの幾行かを書いているとき、あの人も起きているのだ。そして、あるいはわたしのことを思っているのかもしれない。あの人は、ちっとも変っていない。自分でもそう言っていた。わたしもそう感じている。わたしには、あの人にわたしのことを思い切らせるため、そうなろうと決心した自分自身を、あの人に見せることができるだろうか……
[#地付き]九月二十四日
ああ、身の毛のよだつような対話。わたしの心は危うく崩れそうになっていながら、表面だけは、みごとに無感覚と冷淡とをよそおいおおせた……きょうまでというもの、わたしはあの人から逃れることで満足していた。ところが、けさ、わたしには、主がきっと克服する力をあたえてくださるにちがいない、戦いを避けてまわるのは卑怯であると思うことができた。ところで、わたしは勝利を得たのだろうか? ジェロームは、前ほどわたしを愛さなくなってくれただろうか……ああ、それこそは、わたしが常に望みながら、同時におそれていることでもあるのだ。……今までに、これほどあの人をいとしく思ったことがない。
そして主よ、あの人をわたくしから救うため、もしわたくしのいなくなることが必要というのでしたら、そうなさってくださいまし……
≪わが心の中、わが魂のうちに入りて、わが苦悩を負い、また主が受難によりてなお足らざりし苦しみを、わが身のうちにあって堪えしのびたまえ≫
わたしたちはパスカルの話をした……いったいわたしは何を話したというのだろう? なんという恥ずかしい、ばかげた言葉を口にしたのだろう? わたしは、それを口にしながらすでに悩んでいたが、今夜は、それを神を冒涜《ぼうとく》したかのように悔んでいる。わたしは、あの|ずっしり《ヽヽヽヽ》した『パンセ』を手にした。すると、ひとりでに、ロアネス嬢への手紙のくだりが開いた。
≪自ら進んで引かれるままになっているときには、人は束縛を感じません。しかし、それにあらがい、遠ざかろうとするとき、はじめて激しい苦しみを感じます≫
この言葉は、いかにも直截《ちょくせつ》にわたしの胸をついたので、わたしには、その先を読みつづけるだけの力がなくなった。だが、また別のところを開くと、さらに今まで知らなかったみごとな部分を見いだした。わたしはそれを写しておいた。
[#ここで字下げ終わり]
日記の第一冊はここで終っている。これにつづくさらに一つの日記は、たしかに破り去られたにちがいない。なぜかと言えば、アリサの遺《のこ》した書類のうち、日記は、それから三年ののち、やっぱりフォングーズマールで――九月――すなわち二人が最後に会ったときの少し前からふたたび書きはじめられていたからだった。
最後の日記は、次のような言葉ではじまっている。
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[#地付き]九月十七日
主よ、あなたを愛したてまつるためには、わたくしにあの人が必要なことはご存じです。
[#地付き]九月二十日
主よ、あなたにこの心を捧《ささ》げたてまつりますため、どうかわたくしにあの人をおあたえくださいまし。
主よ、せめてもう一度お会わせくださいまし。
主よ、わたくしは、あなたさまにこの心を捧げることをお約束いたします。そのかわり、愛の心よりするわたくしの願いをおききとどけくださいまし。その上は、わたくしの残りの生命《いのち》を、あなたのみにお捧げいたすばかりでございます……
主よ、こうしたはしたない祈りをお許しくださいまし。わたくしには、あの人の名を唇から遠ざけることができないのでございます。そして、心の苦しみをも忘れられないのでございます。
主よ、あなたさまへお呼びかけいたします。苦しんでいるわたくしを、どうかお見すてくださいますな。
[#地付き]九月二十一日
≪汝ら我が名によりて願うことは……≫
主よ、あなたさまの御名《みな》においてなど、どうしてそんなことができましょう……
でも、たとい祈りを口にしませんでも、わたくしの心の錯乱した望みをわからなくおなりのあなたさまでいらっしゃいましょうか?
[#地付き]九月二十七日
けさからとても落ちついている。ほとんど夜っぴて静思と祈祷《きとう》とにすごした。わたしには、とつぜん、子供のころ聖霊について空想していたような、光り輝く平安といったものがわが身を取り巻き、わが身の上に降りてくるように思われた。だが、そうした悦びの気持も、じつは神経の興奮から来たものではないかと思って、そのまますぐ床についてしまった。そしてわたしは、そうした至福の気持が消えないうちに、間もなく眠りに落ちてしまった。けさになってもその気持はそのまま残っている。わたしは今、あの人が来てくれるという確信を持っている。
[#地付き]九月三十日
ジェローム! わたしの親友。わたしはまだ≪きょうだい≫と呼んでいるけれど、きょうだいよりもずっとずっとわたしは愛している……わたしは、あの|ぶな《ヽヽ》の林のところで、何度あなたの名を呼んだことだろう……毎日毎日、日暮れになると、わたしはあの菜園の木戸を出て、もう薄暗くなっている並木道を歩いていく……たといとつぜんあなたのご返事が聞え、わたしの目がすばやくひとわたり見まわすあの石の多い土手のうしろからあなたの姿があらわれ、あるいは、わたしの来るのを待ちながら、あのベンチに腰をおろしておいでのあなたの姿が遠くから見えたにしても、おそらくわたしはびっくりしたりはしないだろう……かえって、あなたの姿の見えないことのほうが不思議なのだ。
[#地付き]十月一日
まだである。太陽は、たとえようもなく澄みきった空のなかへ沈んでいった。わたしは待っている。わたしには、やがてこのベンチの上に、あの人と腰かけられるであろうことがわかっている……もう声が聞える。わたしには、自分の名があの人の口にのぼるのを聞くのがたまらなくうれしい……あの人がベンチにかけるのだ! わたしは、自分の手を、あの人の手のなかにまかせよう。わたしは、額をあの人の肩の上にのせるだろう。わたしは、あの人のそばにいて息をつくだろう。きのうも、あの人の手紙を幾通か、読みかえそうと思って持ってきた。だが、心はあの人のことでいっぱいで、それらの手紙も読まずにしまった。それにわたしは、あの人の好きな紫水晶《アメチスト》の十字架、いつか夏のころ、あの人にいてほしいと思っているあいだ、毎晩身につけていたあの十字架を、やっぱりここに持ってきている。
わたしは、その十字架をあの人に渡したい。わたしは、よほど前からこんなことを夢みている。あの人が結婚して、そして、わたしが初めて生れる娘、その小さいアリサの名付親になり、それを贈り物にするときのことを……わたしとしたことが、なぜそのことをあの人に言えずにいたのだろう。
[#地付き]十月二日
空高く巣をつくった小鳥とでもいったように、きょうのわたしの心は、軽く、そして晴れやかである。きょうこそあの人はやってくるにちがいない。そう感じられる。それがわたしにはわかっている。大きな声で、みんなにそのことを言ってやりたいほどだ。そのことを、ここにも書かずにはいられない。もはや喜びをかくしておこうとも思わない。ふだん気が散っているロベール、わたしのことにまったく無関心なロベールまでが、ちゃんとそれに気がついたのだ。わたしはたずねられて困ってしまった。なんと答えていいかわからなかった。これから夕方まで、どういうふうにして待ったものか……
何やら透明な帯のようなものが、どちらを見てもあの人の姿をとても大きく見せていた。そして恋の光の数々を、わたしの心の上のたった一つの焦点に集めている。
おお、待つということはなんと気疲れさせるものだろう!……
主よ、わたくしの前に、あの幸福の大きな扉《とびら》を、たとい細めになりとしばらくおあけくださいまし。
[#地付き]十月三日
すべては消えた。ああ、あの人はわたしの腕のなかから影のように逃れていった。あの人はそこにいた! あの人はそこにいた! わたしはまだあの人を感じている。あの人を呼んでいる。わたしの手は、わたしの唇《くちびる》は、むなしく闇《やみ》の中にあの人を求める……
祈ることも、眠ることもできない。わたしはふたたび暗い庭のなかへ出た。部屋のなかにいても、また家のどこにいても、わたしは恐ろしかった。わたしの悲しい気持は、わたしをふたたびあの木戸のところまで行かせた。わたしは、その向うにあの人をおいたまま、木戸をしめてしまったのだった。わたしはふたたび、愚かしい希望をいだいて木戸をあけた。もしもどってくれていたら! わたしはあの人を呼んだ。わたしは闇のなかをさがし求めた。そして、わたしはあの人にあてて手紙を書くため、家にはいった。わたしには、そうした悲しさが我慢できない。
何があったというのだろう? 何をあの人に言ったのだろう? わたしは何をしたのだろう? なんの必要から、あの人のまえで、いつも自分の≪徳行≫のことを誇張したりしたのだろう? わたしが心の底から承知できないような≪徳行≫だったら、そんなものになんの値打ちがあるだろう。わたしは、主がわたしの唇から言わせようとなさった言葉に、こっそりそむいていたのだった……自分の心に満ちあふれていたものを、何ひとつ口に出せなかった。ジェローム、ジェローム、おそばにいれば胸が張り裂けそうになり、といって離れていれば死にそうになるわたしの悲しいお友だち、さっきわたしが言ったことのうち、わたしの恋心が言わせた以外のすべての言葉はみんな忘れてしまってちょうだい。
書いた手紙も破いてしまった。そしてまた書きなおした……もう夜が明けかかっている。鼠色《ねずみいろ》で、涙にしめって、わたしの心のように悲しげな夜明け……農園のほうで物音が聞えだした。そして、今まで眠っていたあらゆるものが、今またふたたび生活をはじめる……≪いざ起《た》てよ。ときは至りぬ……≫
手紙は出さないことにする。
[#地付き]十月五日
わたしからすべてを剥奪《はくだつ》しておしまいだったねたみぶかい神さま、どうかわたしの心もお奪いください。これからは、あらゆる情熱もわが心をはなれて、もはや何ひとつそれを動かすものもありますまい。どうかこうしたわたくしの悲しい残骸《ざんがい》に打ち克《か》つ力をおあたえくださいまし。この住居も、この庭も、はげしくわたくしの恋心をそそりたてます。わたくしは、ただあなたさまだけにしかお会いできないところへ逃れたいと思っております。
自分の持ちものを、あなたさまの貧しい人々のために処分する力をわたくしにおあたえください。たやすく売り払うことのできないこのフォングーズマールだけは、これをロベールにやることをお許しください。遺言状も書くには書いたが、それに必要な様式はほとんど知らない。わたしの底意をかぎつけてジュリエットとロベールとに知らせたりしてはと思って、きのう公証人とも十分話し合うことができなかった……遺言状はパリへ行ってから完全なものにするつもりだ。
[#地付き]十月十日
ここへ着いたときには非常に疲れていて、初めの二日間寝ていなければならなかった。それにはおよばないと言うのに呼んでこさせた医者は、どうしても手術の必要があると言う。反対してみても仕方がない。だが、わたしは、そうした手術をおそれていること、それに≪いくらか力がつく≫まで待ってもらいたいということをわけなくのみこませてやれた。
名前も住所もかくしとおすことができた。わたしは事務所に十分な金を預けておいた。それはここに入れてもらうためと、それに主が必要とお考えになるであろうあいだ、ここにいるため、文句が出ないようにと思ってだった。
部屋も気に入っている。完全に清潔だということだけで、壁の装飾は十分だ。ほとんどうれしいような気持になれたのに、われながらびっくりした。これというのも、今のわたしには、この世の生活に未練がないからにちがいない。今のわたしは、神さまだけで満足すべきであり、神さまの愛は、それがただわたくしたちの心全体を領しているとき、はじめて無上のものになるからにちがいないのだ……
わたしは、聖書以外の本は何も持ってこなかった。だがきょう、そのなかに書かれたいかなる言葉にもまして、あのパスカルの取りみだしたすすり泣きが心をうつ。
≪神ならぬものは、わが期待を満たすを得ざるなり≫
ああ、わたしの軽率な心がねがっていたあまりに人間的な悦《よろこ》び……主よ、主がわたくしを絶望に投げ入れたもうたのは、この叫びを発せしめようとお考えだったためでしょうか?
[#地付き]十月十二日
御国《みくに》よ、きたれかし。わが心のなかに、御国よ、きたれかし。そして主お一人がわたくしの心の上に臨みくださいますよう。そして、わたくし全部の上に臨みくださいますよう。わたくしは、いまや惜しみなくわが心をさしあげようと思っております。
なんだかとても年をとったように疲れていながら、わたしの心はいつも不思議な子供らしい気持を保っている。部屋のなかのものがみんなきちんと整頓《せいとん》され、枕《まくら》もとにぬいだ着物がちゃんと畳んでないと眠れなかった子供のころをそのままの気持……
こういうふうにして、わたしは死ぬための準備をしておきたい。
[#地付き]十月十三日
破る前に、もう一度日記を読み返してみた。≪己《おの》が身に感ずる悩みにいたずらに心をまかすというは、雄々しき心の人にふさわしからぬことなり≫この美しい言葉は、たしかクロティルド・ド・ボーが言ったものだと思う。
日記を火中に投じようとしたとたん、なにかしら警告といったようなものに引きとめられた。そしてわたしには、もうこの日記が自分のものでなく、自分にはこれをジェロームに渡すことなく処分してしまう権利がなく、これはジェロームのためだけに書かれたものだというように思われてきた。そうした不安や疑いの気持も、きょうになると、いかにもばかげていて、それはたいしたものと考えるべきでなく、ジェロームにしても、そんなことに心を乱されたりはしないように思われてきた。主よ、この日記のなかから、わたくし自身達することのできなかった徳の頂にひたすらあの人を押し上げたいと狂おしいまでに望んでいる女心のつたないひびきを、どうかあの人に汲《く》みとらせてあげてくださいますよう。
≪主よ、わがいたり得ぬこの磐《いわ》の上に、ねがわくは我を導きたまえ≫
[#地付き]十月十五日
≪歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙……≫
人の世の歓喜のうえ高く、またあらゆる苦悩をこえて、そうだ、わたしはそうした輝きわたる歓喜を感じる。わたしは、自分の達することのできない岩が≪幸福≫と名づけられていることを知っている……わたしには、もし幸福に達するためでなかったら、自分の生涯《しょうがい》がむなしいものであることもわかっている……ああ、だが主よ、あなたは、我を捨てた純潔な魂に、それを約束してくだすったではありませんか。≪今よりのち《ヽヽヽヽヽ》、主の中に死する死者は幸福《さいわい》なり≫と、尊いお言葉が語っております。わたしは、死ぬまで待たなくてはならないのだろうか。ここにいたってわたしの信仰はゆらぐ。主よ、わたくしは、主へ向って声をかぎりに呼びたてまつる。わたくしは、闇のなかにおり、黎明《れいめい》を待っております。わたくしは、死ぬまであなたさまにお呼びかけ申しております。どうかわたくしの心の渇《かわ》きを癒《い》やしにきてくださいますよう。その幸福を思うとき、わたくしの心はたちまち渇きをおぼえます……それとも、すでにそれが得られたもののように思うべきでございましょうか? そして、黎明に先だち、日の昇るのを知らせるというより、気短かな思いでそれに呼びかけている小鳥とでもいったように、夜の白むのを待たず、歌わなければならないのでございましょうか?
[#地付き]十月十六日
ジェローム、わたしは、あなたに完全な歓喜を教えてあげたいのです。
けさがた、わたしは嘔吐《おうと》の発作に打ち倒されてしまった。そのすぐあと、とても弱ったのを感じたわたしは、一時はこのまま死んでいけそうだと思った。ところがそうではなかった。最初、わたしの身内には大きな平静がおとずれた。やがて、わたしは、肉体と魂との戦慄《せんりつ》、一つの苦悶《くもん》に襲われた。それはちょうど、わたしの一生の、とつぜんな、そしてあからさまな≪啓示≫ででもあるかのようだった。わたしははじめて、この部屋の壁の、ひどくむきだしなのに気がつきでもしたようだった。わたしはおそろしくなった。今こうやって書いているのも、気を落ちつかせるため、気を安めるためなのだ。ああ、主よ、主をけがしたてまつる言葉を口にすることなく、どうか最後まで行き着けますように!
わたしは、まだ起きあがることができた。わたしは小児のようにひざまずいた……
わたしはこのまま、ふたたび自分の独りであることを思い出さないうちに、すぐさま世を去りたいと思っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
去年、わたしはふたたびジュリエットに会った。彼女からの最後の手紙、アリサの死をつたえた手紙のあったときからかぞえて、すでに十年以上もたっている。ちょっとプロヴァンスのほうへ旅をしたわたしは、ついでにニームに寄ってみることにしたのだった。フーシエールの大通り、喧噪《けんそう》な市街の中央、テシエール一家はなかなかりっぱな家に住んでいる。あらかじめ訪問のことを手紙で知らせておきはしたものの、閾《しきい》をまたいだとき、心はかなり躍っていた。
女中が出てきて客間に通された。そして、しばらくすると、ジュリエットが姿をあらわした。それを見て、わたしはプランティエの伯母かと思った。まったくおなじような物腰、おなじような|かっぷく《ヽヽヽヽ》、おなじようにせかせかした愛想《あいそ》のよさがあった。彼女はたちまち矢つぎ早に問いかけた。こちらの返事もろくろく聞かずに、わたしの職業のこと、パリの住居のこと、仕事のこと、交際のこと、なんの用があって南仏《なんふつ》に来たのか、なぜエーグ・ヴィーヴへ行かないのか、会えば、さぞエドゥワールも喜ぶだろうに、などと……それから彼女は、家族のことを話してきかせた。夫のこと、子供のこと、弟のこと、最近の収穫のこと、売れなやみのこと……ロベールが、フォングーズマールを売り払ってエーグ・ヴィーヴに移り住んでいることも教えられた。そして、彼が、今でもエドゥワールの片腕をつとめ、おかげでエドゥワールは旅行ができ、事業の取引き面に専心でき、ロベールはロベールで、作地のほうに居残って、苗の改良や拡張方面をやっているということなどを教えられた。
そのあいだ、わたしは、不安な気持で、何か昔を思い出させるものがないかと見まわしていた。わたしは、客間の新しい家具のあいだに、フォングーズマールにあった家具のいくつかをはっきりみとめた。だが、ジュリエットは、わたしの心の奥にふるえるこの過去に気がつかないのか、それとも、わざとそこからおたがいの気持をはずさせようとしてでもいるかのようだった。
十二と十三になる、二人の男の子が、階段のところで遊んでいた。彼女は、子供たちを引き合せようと、二人を呼んだ。一番上のリーズという名の女の子は、父といっしょにエーグ・ヴィーヴへ行っていた。もう一人の十歳になる男の子は散歩に出かけていて、やがて帰ってくるだろうということだった。アリサの死んだ知らせと同時に、近く生れるはずだとジュリエットの手紙にあったのはこの子だった。このお産は、楽にいかなかった。ジュリエットは、産後ずいぶん長いこと苦しんだ。そして、去年になって、またもや思い返したように女の子を生んだ。彼女の話しぶりでは、どうやらほかの子供たちよりかわいく思っているらしかった。
「その子の寝ているわたしの部屋は、すぐお隣りなんですの」と、彼女は言った。「見にいらっしゃい」そして、彼女のあとについていくと、「ジェローム、手紙でおねがいできなかったんですけれど……この子の名付親になってくださらない?」
「もちろんお望みだったら、ぼくは喜んで承知するが」わたしはちょっと|びっくり《ヽヽヽヽ》して、揺籃《ゆりかご》の中をのぞきこみながら言った。「で、名前は?」
「アリサ……」と、ジュリエットは低い声で言った。「いくらか似ているとお思いにならない?」
わたしは、言葉もなくジュリエットの手を握りしめた。小さいアリサは、母親に抱き上げられて、ぱっちり目をあけた。わたしは、自分の腕に抱きとった。
「あなたも、いいお父さまにおなりになれるのに!」とジュリエットはつとめて笑おうとしながら言った。「いつまでひとりでいらっしゃるつもり?」
「いろいろなことが忘れてしまえるまで」わたしの目には、顔を赤らめた彼女が見えた。
「早く忘れたいと思っていらっしゃる?」
「いつまでも忘れたくないと思ってるんだ」
「こっちへいらっしゃいな」と、とつぜん彼女が言った。そして先へ立って、狭い、そして、もう薄暗くなっている部屋のなかへはいっていった。部屋の戸は、一方は彼女の部屋へ通じ、一方は客間へ通じていた。「すこし暇があると、ここにとじこもることにしていますの。家中で、いちばん静かな部屋ですの。ここにいると、なんだか生活から逃れることができるような気がして」
この小さな部屋の窓は、ほかの部屋の窓のように、町のざわめきのほうへ向ってはあいていないで、植え込みのある中庭とでもいったほうへ向っていた。
「掛けましょう」と言って、彼女は安楽|椅子《いす》にがっくり身を落した。「わたしの考えどおりとすると、あなたは、いつまでもアリサの思い出に|みさお《ヽヽヽ》を立てるおつもりなのね」
わたしは、しばらく答えなかった。
「というより、アリサが考えていたようなものにたいしてなのさ……殊勝だなんて考えられては困るんだ。ぼくには、そうするよりほかに仕方がないんだ。ほかの女性と結婚したって、つまりは愛しているようなふりしかできないだろうから」
「あら」彼女は、それを気にとめないようなようすで、やがてわたしから顔をそむけると、何か失われたものをさがしでもするように床に目を落していた。「では、あなたは、希望のない恋を、そういつまでも心に守っていられると思って?」
「そう思うよ、ジュリエット」
「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいるだろうと思って?」
夕闇《ゆうやみ》は灰色の潮《うしお》のようにさしてきて、一つ一つのものに迫り、一つ一つの物をおぼらせ、そして、それらのものは、影のなかでよみがえり、低い声音で、過ぎ去った日のことを物語ってでもいるようだった。わたしは、ジュリエットがすっかり道具を運ばせてきている、かつての日のアリサの部屋を思い浮べていた。ジュリエットは、いま、わたしのほうへ顔を振り向けていた。その顔立ちも、もう見わけられなくなっていて、あるいは目を閉じているのではないか、はっきりしたことはわからなかった。とても美しく思われた。そして、二人は何も言わずにじっと黙っていた。
「さあ!」と、とうとう彼女が言った。「目をさまさなければ……」
わたしは、彼女の立ち上がるのを見た。そして、彼女は一足前へ進むと、力なく、そばにあった椅子の上に倒れてしまった。彼女は両手を顔にあてた。泣いているらしかった……
ランプをもって女中がはいってきた。
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ジッドの生涯《しょうがい》と作品
[#地付き]新庄嘉章《しんじょうよしあきら》
少年時代[#「少年時代」はゴシック体] アンドレ・ジッド Andr・Gide は一八六九年十一月二十二日にパリで生れた。父はパリ大学の法学部教授。ジッド十一歳の時父が死んだので、教育はもっぱら母や、伯母や、かつて母の家庭教師であったアンナ・シャクルトンなどの女手によって行われた。八歳でアルザス学院に入学したが、病的な臆病《おくびょう》や感情の昏迷《こんめい》のために頭脳の働きが鈍く、成績は常に不良であった。またその頃《ころ》から自涜《じとく》の悪癖があった。それに加えて生来病弱であったために幾度か退学し、学業の習得は不規則であった。
しかし、少年ジッドの暗い精神に光が全然なかったわけではない。動植物に対する愛情は、幼い魂にとっては極めて自然な現象であるが、自伝的作品『一粒の麦もし死なずば』に描かれてある少年ジッドのそれは、異常なまでに強かった。これは、その後ジッドの心の中に大きく発展する、美しいもの、弱いものに対する共感の萌芽《ほうが》とみて差支《さしつか》えないであろう。感受性の強い少年にありがちな神経障害が少年ジッドの心身の正常な成育に大きな妨げとなったことは事実だし、また家庭の厳格な清教徒的な雰《ふん》囲気《いき》が、美しいものや自然なものに向おうとする心に少なからぬ掣肘《せいちゅう》を加えたことも否《いな》めない。だが、要するに、少年ジッドの魂は長い蛹虫《ようちゅう》状態にあったのである。
この蛹虫状態は、二つ年上の従姉《いとこ》マドレーヌ・ロンドーに対する清純な愛情によって、その殻《から》から脱《ぬ》け出るにいたった。従姉が自分の母の不義を知って深い悲しみと絶望におちいった時、少年ジッドは子供心に、彼女を守ることこそ自分の義務であると感じた。この強い衝撃が、少年の暗い精神に一条の光を射《さ》し入れたのである(『一粒の麦もし死なずば』や『日記』では、マドレーヌはエマニュエルとなっている)。
こうして、少年ジッドはおもむろに蛹虫状態を脱し、十五、六歳になると読書欲も旺盛《おうせい》になってきた。父の書斎は父の死後|鍵《かぎ》をかけられていたが、ようやく母に許されて、そこに出入りできるようになった。だが母は、少年が好きな本を選びとるのは許したが、自分の前で大声に読むことを要求した。少年ジッドが最初に選んだのはテォフィル・ゴーチエの詩集だった。当時ゴーチエは慣習的なものに対する軽蔑《けいべつ》、解放などを代表した詩人のように一般に考えられていた。彼がこれを選んだことには、母への挑戦《ちょうせん》もあったが、自分自身への挑戦もあったのだ。この自分自身への挑戦はのちに『法王庁の抜穴』のラフカディオや『贋金《にせがね》つかい』のベルナールなどにも現われている。
ジッドの精神に非常に大きな影響を与えたギリシャの詩人を発見したのもこの頃であった。彼はルコント・ド・リールによってギリシャの詩を知ったが、その頃マドレーヌもホメーロスの『イーリアス』やギリシャ悲劇を読んでいた。このことは少年ジッドのギリシャ礼讚《らいさん》にさらに拍車をかけることになった。奇妙なことに、ジッドがこうした異教的熱情に燃えたのは、ちょうど彼のキリスト教準備時代の最中においてであった。この二つの相反するものが、たがいに邪魔することなしに両立していたことは、実に不思議である。当時のジッドはけっして生ぬるい洗礼志望者ではなく、むしろ狂熱的な求道者だったのである。
青春の危機[#「青春の危機」はゴシック体] 一八九一年、二十二歳のジッドは、従姉マドレーヌに対する恋愛を中軸として、精神的不安や懊悩《おうのう》などを断片的に日記風に書いた『アンドレ・ワルテルの手記』を発表した。これは、抒情《じょじょう》的な美しさはあるにしても、小説的構成の全然ない、おそろしく不器用な作品だったので、少数の具眼者に辛《かろ》うじて認められたにすぎなかった。この作品の失敗と、マドレーヌからの求婚拒絶という二重の打撃を受けて、彼は深い絶望におちいった。
また、この頃ジッドは、彼の一生で一番|混沌《こんとん》とした時期にはいっていた。これまでは、子供の頃から自分にきびしく課していた清教徒的な克己主義が彼の魂の平静を保っていた。ところが青春の目覚めとともに、それが逆になってきた。肉体の純潔を保とうとすることが、想像の奔放自在を誘発して、かえって魂を不潔にすることになった。神に従うことが、魂の均衡を破って、不安を自分に与えることになった。ここに彼は乾坤一擲《けんこんいってき》の試みをしなければならなくなった。すなわちキリスト教との訣別《けつべつ》である。
一八九三年十月、ジッドは友人の画家ポール = アルベール・ローランスとともにアフリカのアルジェリアに向って出発した。彼はこの旅行において、過去のあまりにも病的な不安、浪漫主義などをすてて、均衡と充実と健康とを求めようとしたのである。いわゆる古典主義に対する最初の憧憬《しょうけい》だったのである。だが、この憧憬と過去のキリスト教的理想とは相容《あいい》れないものであった。出発にあたって、ジッドは故意に荷物の中に聖書を入れなかった。これまで一日として聖書を手ばなしたことのない彼にとっては、これは重大な決意を要することであった。
この旅行の途中、ジッドは肺を病み、一冬をビスクラで過した。そして春がオアシスに蘇《よみがえ》ってくるとともに、彼の健康も恢復《かいふく》してきた。彼は一度死の影から脱け出して、真実の生を生きはじめてきたように感じた。そして蘇生《そせい》の喜びを胸にひめてパリに帰ってきたが、パリの文壇は息苦しかった。かつては憧憬の対象であったサロンも、今は死のにおいにみちているように感じられた。人々が、彼の心のうちで行われた変化に気づかずに、相変らず観念的な議論をつづけていることに、彼の自尊心はおそらく傷つけられたにちがいなかった。彼は自分の変化を語りたくてむずむずしていた。だが誰《だれ》もきこうとしてはくれなかった。彼らが満足しているものの貧弱な惨《みじ》めさに対する彼の憐憫《れんびん》は憤《いきどお》りと変った。もしもこの苦悩を『パリュード』の中に諷刺《ふうし》的に描く逃げ道がなかったら、彼自身も告白している通り、自殺に導かれたかもわからない。
ジッドはこうしたパリを一刻も早く脱け出たいと思い、同じ年(一八九四年)の秋、スイスのヌーシャテルにのがれ、さらに冬になると、ジュラ山中の一寒村ラ・ブレヴィーヌにこもった。だが、樅《もみ》の木が自然全体にカルヴァン風な陰鬱《いんうつ》さと峻厳《しゅんげん》さとを与えているこの森林地帯に、彼は恐怖をおぼえ、さらに憎悪《ぞうお》をおぼえるようにさえなった。そうした彼の心におのずと湧《わ》き起ってくるものは、アフリカの灼熱《しゃくねつ》の太陽に対するノスタルジーであった。彼は憤りをこめて、毎日、醜い自然を踏みにじりながら長い散歩をした。そしてその散歩をしない時には、『パリュード』を書きあげるために仕事机にかじりついていた。それというのは、これを書きあげたら、何はさておいてもアルジェリアにふたたび旅立つのだと、かたく心に決めていたからである。そして翌一八九五年一月、ふたたびアルジェリアに向った。
従姉との結婚[#「従姉との結婚」はゴシック体] ジッドは一八九五年五月に母を失った。彼の母は非常に厳格な女性で、ジッドは母のそばにいると息苦しさをおぼえるほどであったが、母の死はやはり大きな衝撃であった。彼はその心の空虚をマドレーヌとの結婚で埋めたいと思った。
一八九一年、マドレーヌは彼の求婚を拒絶したが、これには三つの理由が考えられる。まず第一に、ジッドの母は、幼い頃から姉弟《きょうだい》のような愛情で結ばれている二人の結婚にはっきり反対していたので、従順なマドレーヌは何よりもその意志を尊重したものにちがいない。第二に、自分の母の不義によって深く心を傷つけられていた彼女は、結婚生活に極度の恐れと不信を抱いていたにちがいない。第三に、極端なまでに謙遜《けんそん》深い彼女は、自分は従弟《いとこ》の思っているような理想的な女性ではない、従弟は実際のものとは違ったイメージを抱いて、幻に恋しているのではないか、と心ひそかに恐れていたのにちがいない。
だが、そうしたマドレーヌも、ジッドの必死な求婚には心を動かさずにはいられなかった。そこでその年の十月に、ノルマンディのエトルタで結婚式をあげ、アルジェリアへ新婚旅行の途にのぼったのである。
しかし二人の結婚生活はけっして幸福なものではなかった。この秘密は、彼の死後一九五一年に公刊された『今や彼女は汝《なんじ》の中にあり』(邦訳名『秘められた日記』)の中にくわしく述べられている。ジッドは生来異常な性欲の所有者で、同性愛的な趣味を持っていたが、さらに、結婚当時は性欲に対して極端に無知で、マドレーヌのような清純な女性には肉体的な欲望はないと思いこみ、彼女の肉体を所有しなかった。そして彼女のほうでは、夫の欲望の欠如を、自分の魅力の不足のせいにして、人前から身を引く生来の傾向をさらに深めていった。こうして、この不自然な出発はふたたびやり直されることなく、その間には、マルク・アレグレとの同性愛事件などもあって、夫婦は心から愛し合いながらも、その結婚はいわゆる「|白い結婚《マリアージュ・ブラン》」に終始し、ジッド夫人は処女妻としてこの世を送ったのである。
なお、このマドレーヌはジッドの生涯に大きな位置を占めていた。例えば『アンドレ・ワルテルの手記』のエマニュエル、『背徳者』のマルスリーヌ、『狭き門』のアリサに彼女がその濃い影を落しているのは周知の事実で、彼女はジッドのすべての文学的創造の源泉であったと言っても過言ではあるまい。
文壇における位置[#「文壇における位置」はゴシック体] ジッドは第一回のアルジェリア旅行の経験をもとにして、生命の頌歌《しょうか》ともいうべき一種の散文詩『地の糧《かて》』と、生命の解放の悲劇『背徳者』を書いた。『背徳者』は、蘇った自分の生命を享楽《きょうらく》するために愛妻の生命まで犠牲にする物語で、これは彼の試みた最初の本格的な物語作品である。この作品によって文壇の一角に席を占めはしたものの、彼の存在はまだけっして大きなものではなかった。この作品が正当に評価されるまでには、まだ十年の歳月を待たねばならなかった。彼は元来多作|濫作《らんさく》する作家ではなかった。一つの作品を仕上げると、次の作品が生れるまでには、相当長い期間の麻痺《まひ》状態がつづいた。実際、『背徳者』を書きあげたのち、『狭き門』が脱稿するまでには、七年の歳月が経過している。清教徒的な克己主義の悲劇であるこの作品は、一九〇九年に、彼が顧問格となって、ジャック・コポーやジャン・シュランベルジェなどとともに創刊した「ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ」(通称「|N《エヌ》・|R《エル》・|F《エフ》」)の復刊第一号より第三号にわたって掲載され、好評を博した。
この雑誌は別に新しい特定の主義主張をかかげたものではなく、各自の内的完成によって芸術のモラルを打ち立てようという誠実さを持っていて、当時の商業主義に毒されていた文壇に新風を吹きこんだ。そしてこの雑誌を中心として、彼の周囲には、アラン = フルニエ、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、ヴァレリー・ラルボー、ジュール・ロマン、ジャック・リヴィエール等の若い有望な人々が集まった。
こうして、孤独であった彼の周囲はようやく賑《にぎ》やかになったが、その反面、かつての僚友であった幾人かがカトリック教に改宗して離れていった。まず第一にフランシス・ジャムが改宗を宣言し、「きみの忌《いま》わしいニーチェ主義をすてたまえ」としばしば勧告した。しかし、ジャムの勧告はけっして高圧的なものではなかったが、ここに強引に改宗を強制する友がいた。それはポール・クローデルであった。だが、ジッドは頑《がん》としてそれをきき入れなかった。そして一九一四年に『法王庁の抜穴』が「N・R・F」に発表されるに及んで、二人の離反は決定的なものとなった。ジッドはこの皮肉の利《き》いた茶番(ソチ)の中で、動機のない無償の行為を敢行する自由人ラフカディオを創造する一方、迷妄愚昧《めいもうぐまい》にみたされた宗教界を揶揄《やゆ》した。カトリック教にこりかたまったクローデルがどんなに憤慨したかは想像にかたくない。
第一次世界大戦中の四カ年間は、ジッドは文学的作品には手を染めず、ひたすら日記を書き綴《つづ》っていた。そして、しばらくすてていた福音書を取り出して、これに読み耽《ふけ》った。その折々のキリストに対する叫びかけや、自分の心に語りかける独白を整理したものが『汝もまた……?』である。こうした福音書への沈潜は、彼の改宗を熱望する人々にひそかな期待を抱かせたが、彼はついに改宗しなかった。「わたしはカトリック教徒でも新教徒でもない。ただ単にキリスト教徒だ」と言って、福音書の自由解釈に専念した。一九一九年に発表された『田園交響楽』は、この『汝もまた……?』の中で行われた彼の内心の対話の劇化であると言えよう。
社会問題への開眼《かいげん》[#「社会問題への開眼」はゴシック体] 一九二五年、ジッドは自分のただ一つの小説と称して、いわゆる純粋小説をめざした実験的作品『贋金つかい』を書きあげると、マルク・アレグレとともにコンゴ旅行の途にのぼった。彼はこの旅行において、これまで予期していなかったものを発見した。それは貪婪苛酷《どんらんかこく》なフランス植民政策の犠牲となっている哀れな原住民の悲惨な状態であった。これは間もなく彼の心をとらえ、ついにこの旅行の主要な関心事となった。この折の旅行記『コンゴ紀行』はひろく世論を巻きおこし、議会の問題とまでなった。この旅行は彼にとっては大きな転機だった。以後彼の目は大きく社会問題に開かれていった。だがこれは、彼の精神の変化ではない。実はこれは彼の精神の必然的な進展だったのである。虚偽や不正に対する憎悪、圧迫されているものに対する愛、真実追求の欲求、これは終始変らぬ彼の精神の態度である。
一九二九年にジッドはふたたび文芸作品を発表した。それは『女の学校』である。これは翌一九三〇年に発表された『ロベール』および一九三六年に発表された『ジュヌヴィエーヴ』(『未完の告白』)とともに三部作をなすものである。これは偽善を批判し、誠実を追求した、いかにもジッドのものらしい作品であるが、第三部が未完で終ったことでもわかるように、この時期の彼はやはり社会問題に強く心をひかれていたのである。
共産主義への共感と批判[#「共産主義への共感と批判」はゴシック体] その後ジッドの思想は次第に左傾して、一九三二年には共産主義への転向を宣言して、世を驚かせた。この転向は一見唐突のようであるが、当時の人々が言ったような「改宗」ではなかった。彼の転向は大体二つの面からみることができる。第一は、個人主義的モラルの必然的な進展であり、第二は、現在のキリスト教に対する反撥《はんぱつ》である。「真に理解された個人主義は共同体に奉仕すべきである」と言って、彼は社会的個人が自由に生きうる世界を共産主義社会に求めた。また、共産主義は結局キリスト教のキリストに対する離反から生じたものであり、もしキリスト教がキリストの精神を全的に生かしていたならば、共産主義の存在理由はなかったであろう、と彼はみたのである。
こうした彼が現実のソ連を目のあたりにみる機会が訪れた。一九三六年六月、ゴーリキーの病篤《あつ》しの報に接して、彼は急遽《きゅうきょ》飛行機でモスクワに向ったが、ゴーリキーは彼の到着した翌日永眠した。その葬儀ののち、彼はソ連の各種の社会施設や文化施設を見学してまわった。そのうち彼の心の中に、強い共感とともに、批判の気持が動いてきた。彼はソ連を愛すればこそその若干の欠陥を摘発しなければならないと思った。中でも、文化鎖国主義、新しい官僚主義、画一主義は、彼を反撥させずにはおかなかった。人間主義の上に立つモラリストである彼の思考は、ソ連の現実的な政治主義と鋭く対立したのである。彼の『ソヴェト旅行記』は好意ある忠言者の立場から書かれたものではあったが、その潔癖性がソ連を強く刺激して、「プラウダ」紙その他から一斉《いっせい》にジッド攻撃の矢が放たれた。フランスにおいても同然であった。
晩年[#「晩年」はゴシック体] 晩年のジッドの生活はけっして静かな平和にみたされたものではなかった。一九三八年四月、彼は愛妻マドレーヌを失った。この衝撃は大きかった。マルク・アレグレとの同性愛問題、友人の画家の娘エリザベート・ヴァン・リセルベルグとの肉体関係など、ジッド夫妻の間には数々の葛藤《かっとう》があったにせよ、心から愛し合っていた二人だったので、ジッドは限りない哀惜と深い孤独に苦しんだ。
妻の死の打撃からやっと立ち直ったと思う間もなく、翌一九三九年第二次世界大戦が勃発《ぼっぱつ》し、翌年パリが陥落した。一九四四年にパリは解放されたが、彼がパリの旧居に落ちついたのは一九四五年のことで、その間、南仏《なんふつ》や北アフリカのテュニス、アルジェなどを転々としていて、心のやすまるいとまもなかった。
一九四七年十一月、スウェーデンのアカデミーは、ジッドに同年度のノーベル文学賞を授与する旨《むね》を発表した。選定理由には、「ジッド氏は広範囲な、かつ芸術的にも貴重なその著作において、人間性の諸問題と諸状態とを、恐れを知らぬ真理愛と心理学的鋭さとを以《もっ》て提示した」と述べられてある。
こうした栄光に包まれた老ジッドも、その後健康すぐれず、宿痾《しゆくあ》の肺結核をスイスや南仏やイタリアで静かに養っていたが、一九五一年二月十九日、八十二歳の長い生涯《しようがい》を閉じた。そして二十二日、ジャン・シュランベルジェ、ロジェ・マルタン・デュ・ガールなどの旧友、村人などの手で、愛妻マドレーヌの眠っているノルマンディのキュヴェルヴィルの小さな墓地に葬《ほうむ》られた。
ジッドに対する評価[#「ジッドに対する評価」はゴシック体] ジッドの作品はそれぞれ、彼が人間性の自由を探し求めて彷徨《ほうこう》したその巡礼の途上に打ち立てられた道標である。従ってそこには、完成したものはみられない。しかし、それは単なる未完成ではない。時代とともに悩み、時代とともに成長した発展途上の未完成である。ジッドは常に動いていった。そして、常に成長するものの味方であった。固定した、発展のない完成の敵であった。そうしたジッドの態度を最もよく言いあらわしていると思われるトーマス・マンの言葉をあげておこう。「ジッドは小説の分野における大胆な実験者であった。彼は正しいと信じたことを宣言した。彼は純粋なモラリストであった。短見な道学者は彼に非難を投げかけたけれども、彼は精神の好奇心の極点を持ちつづけていった。彼の場合におけるような高度の好奇心は、懐疑主義となり、この懐疑主義はさらに創造力と変ってくる。彼はこの好奇心を、彼の好きな先人ゲーテとともに分け持っていた。彼はゲーテのように、絶え間ない衝動によって動かされ、探求の方に絶えず押しやられていた。魂の平穏無事や逃避は、彼のとらないところだった。不安、創造的な懐疑、無限の真理探求が、彼の領分だった。そしてこの真理の方へ、英知と芸術とによって与えられたあらゆる方法を以て、進もうと努力したのだった。」
実際、二十世紀の大作家で、ジッドほど評価のまちまちな人も少ない。一方では「現代の良心」として尊敬されながらも、他方では「危険な背徳者」として攻撃されている。しかし、彼に対する正しい評価が定着するまでには、なおしばらくの時が必要であろう。いずれにせよ、ジッドが人間性の自由を追い求めた偉大な個人主義者として二十世紀に残した足跡はけっして小さなものではなかった、と言うことはできるであろう。
[#地付き](一九七四年二月)
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『狭き門』について
[#地付き]山内義雄《やまのうちよしお》
ジッドは、一九〇一年十月『背徳者』を書きあげた後、一九〇五年にいたる四年間、小説方面の筆を断っている。ジッド自身の言葉によると、これこそまさに、作者としての一種のおそろしい≪麻痺《まひ》状態≫の時期だったのである。『狭き門』は、こうした四年にわたる沈黙の後、一九〇五年にいたって着手された。そして、不健康にわずらわされながら遅々として進行をつづけた後、一九〇八年にいたって書きあげられた。つまり、ジッド三十六歳から三十九歳にかけての作品である。
これに先立って公《おおやけ》にされた『背徳者』の場合とおなじように、ジッドはこの作品を≪小説《ロマン》≫とよばずに≪物語《レシ》≫と呼んでいる。けだしジッドによれば≪|小説《ヽヽ》は小説家の観点によって少しも限界を付せられることがあってはならぬ。すなわち|物語《ヽヽ》に見られるような狭い限界を無視し、それからすっかりはみ出してしまうものでなければならない≫と考えることに出《い》でている。ジッドが≪わが最初の小説《ロマン》≫と呼んだ『贋金《にせがね》つかい』にたいして考えるとき、『狭き門』はまさに彼のいわゆる≪物語≫の名にふさわしい作品であり、そして、見事な均斉《きんせい》の上に立つ構成力と、ジッド独特のおどろくべき清澄度《せいちょうど》を示した文体とをもってして、まさに古典的|完璧《かんぺき》への到達を見せている。読者はよろしく、ジャック・リヴィエールの評言≪これについては語りたくないほどな書物、読んだことさえ人に話したくないほどな書物、あまりに純粋であり、なめらかなるがゆえに、どう語っていいかわからないほどな作品。これこそまさに一息に読まれることを必要とする作品。愛をもって、涙をもって、ちょうどアリサがある美しい日に、ぐったりと椅子《いす》に腰をおろして読むように≫とあるのを思い起すべきであろう。
ただし、この作品は、『背徳者』が、書物と、道徳と、法律と、慣習と、あらゆる文化人的要素をふるい落して、本能的、原始的な生の歓喜と、≪使いみちのない≫大きな自由とを回復した主人公ミシェルを描くことにより、異教的風土の極北に位置する作品とよばれているのにたいし、地上の恋をすて、ひたすら天上の愛にあこがれるアリサを主人公としたものであることによって、ともすれば清純なキリスト教的風土を謳歌《おうか》した作品としてのみ読みとられるかたむきがある。だが、これこそは、ジッド自身の、その生成発展の一時期におけるきわめて痛烈な内心検討の実験の記録であり、代々プロテスタントの家に生れたジッドが、キリスト教的先入観による≪自己犠牲による徳の追求≫をその極限の場合において考え、これにたいして鋭い批判をこころみたものであることを忘れてはならない。すなわち、ジッド自身、その誕生八十年を迎えたのを機として試みたラジオ・インタビューにおいて、質問者ジャン・アムルーシュに答えているように、この作品は、ジッドの精神の発展過程において、彼がはじめて≪人間の終局目的は、神の問題を少しずつ人間の問題に置き換えるにある≫という結論に到達した時期に書かれたところのものなのである。
この作品のアリサのモデルは、彼の自伝的作品『一粒の麦もし死なずば』によっても推測されるように、一部分、後年彼の妻となった従姉《いとこ》マドレーヌであり、このことから『狭き門』もまた彼の半自伝的作品と考えることができるだろう。前記のインタビューにおいても、ジッドは人物のモデルを現実世界に取ったことから、人物描写の単純化のため、思わぬ苦心をなめさせられ、これに原因して作の進行もきわめて遅々たるものがあり、その前半の部分において何回となく書き直しをした事実について述べている。
『狭き門』は、脱稿をまって、一九〇九年二月、「N・R・F」誌復刊第一号から第三号にわたって分載され、つづいて同年メルキュール・ドゥ・フランス社から単行本として刊行を見、後にガリマール発行の定本『ジッド全集』に収録されている。
わが国におけるこの作品の翻訳としては、最初竹友|藻風《そうふう》氏による部分訳がこころみられ、一九二三年拙訳『狭き門』の完訳がなされた。これには石川|淳《じゅん》氏による跋文《ばつぶん》が附《つ》けられていた。当時、ジッドの名さえほとんど知るもののなかったわが国において、それはまさに最初のジッド紹介の重要な文献と称すべく、しかも、それは、その後刊行された石川氏のいずれの文集にも収録されていないことから、特にこの文庫本中におさめることにした。
聖書からの引用にあたっては、かつて行われた旧訳新約聖書の訳文によった。けだし、わたくしがはじめてこの作品翻訳の稿を起した当時は、もっぱら旧訳による聖書が行われ、現行の改訳聖書がようやく刊行を見るにいたった時期にあたっている。わたくしがことさらに旧訳聖書によったのは、一つには初訳当時の思い出をなつかしんでのことであるとともに、一つには旧訳聖書が、わが国翻訳史上に銘記すべき名訳たることを思ってのわたくし一個の敬仰《けいぎょう》の念に出たものにほかならない。
[#地付き](一九六二年四月)
[#改ページ]
[#地付き]石川《いしかわ》 淳《じゅん》
一九〇九年、アンドレ・ジッドは『狭き門』の一篇《いっぺん》を公《おおやけ》にした。評家の説によると、ジッドの文は此処《ここ》に至って一つの峠に達したのである。彼の文は、渾々《こんこん》と迸《ほとばし》る泉でもなく、飄々捉《ひょうひょうとら》え難《がた》き風でもない。それは、一字一字に鑿《のみ》の閃《ひらめ》きを宿して、人の心の壁に刻み附《つ》ける浮彫りである。『狭き門』に至るまで、ジッドの著作は十数巻を算する。其処《そこ》には、言葉と言葉とがぶつかり合い、文字と文字とが犇《ひしめ》き合って、或《ある》いは動き、或いは静まりながら、各句各行が目に見えない鉤《かぎ》に繋《つな》がれ※[#「田/(田+田)/糸」、unicode7e8d]々《るいるい》として一基の塔をうち樹《た》てている。ジッドと共にこの塔へ上る者は、『狭き門』に於《おい》て一段と作者の鑿の冴《さ》えを認めるであろう。その冴えこそは、「葉蔭《はかげ》を洩《も》れて水に沈む日の光」である。
ジッドは、ボードレールに関するファゲの説を駁《ぱく》した論文の中で、こう言っている。「ボードレールの世に残っているのは、その形式の完成に因《よ》るのである。芸術家が世に残るにはこれ以外の理由があろうか。」この言は、今後のジッド自身の上にも当てはまりそうである。ジッドの文には、何人《なんぴと》の追従も許さない一家の風格を存している。彼は幾多の段階を経て、次第に完成の道へ進んでいる。この道程の中に於て、人は『狭き門』を見遁《みのが》すことが出来ないであろう。
試みに、この書の第一|頁《ページ》を開くがよい。冒頭の数行の中だけでも、作者の特異の匂《にお》いが感ぜられるではないか。
第七章の初め、花咲く庭の茂みの中にアリサとジェロームとの出会いを叙するあたりは、読む人の心にも行く春の影を宿すであろう。
また第八章に及んで、菜園の戸を押し入らんとして跫音《あしおと》に身を潜めるジェロームや、その名を呼びつつ庭内より現われるアリサの姿を想《おも》えば、巻を掩《おお》って瞼《まぶた》を閉じるも、なお瞼に秋霜《しゅうそう》の気を感ずるであろう。
その他どの頁にも、紙を透して抒情《じょじょう》詩人の面《おもて》を見る。其処には、同じ作者の『地の糧《かて》』(一八九七)に示されたような一切を焚《た》き尽す火の色はないとしても、澄みわたった水の音が聞える。『背徳者』(一九〇二)に新しい源を発して『イザベル』(一九一一)へ落ちようとする流れの高鳴である。かくてタンクレッド・ドゥ・ヴィザンの云《い》った如《ごと》く、「ジッドの作より、人は、我々の官能|理智《りち》及び意志に遍《あまね》く及ぶ情熱の教育を抽《ひ》き出すことを得る」であろう。
『狭き門』に於てジッドの文が一つの峠に達したことは、既に述べた。彼の想は如何《いかが》であろうか。
これより先、ジッドは、『地の糧』に於て一つの飛躍をなした。この作はジャック・リヴィエールによれば、『パリュード』(一八九五)の解決であり、ルネ・ラルーによれば、ジッドの著作の序文に当るものである。それは「至る処《ところ》に於て神を求め」て、「他のものが発表をしたり勉強をしたりしている間に、反対に、頭で覚えたことを悉《ことごと》く忘れるために、三年の旅行をした男」の記録である。
ジッドの赴こうとした傾向は、大体この作に依《よ》って窺《うかが》われよう。だが、ジッドの想は其処に達するまで、時には波を打ち、時には渦《うず》を捲《ま》いている。その間を切り抜けようとして『パリュード』の主人公は「私は polders を書く」と云った。果して泥沼《どろぬま》に埋立てられて、新しい土の香に『地の糧』が芽ぐみ出た。「私」がその言を食《は》まなかったことは、ジッドにとって、又我々にとって、深い悦《よろこ》びである。
しかし、ジッドの心の動きは風に吹かれる葦《あし》である。見る人の眼《め》が明らかでないと、その影は忽《たちま》ち逃げて行ってしまうであろう。彼の心は、『地の糧』の中の言葉を借りれば、「四辻《よつつじ》に開かれた宿屋だった。はいろうと思うものが、はいった。」ジャック・リヴィエールが「調和を保った騒ぎの中に多数のエトランジェが出合う住家」と評したのも、けだしこの意であろう。だが、この「宿屋」なり「住家」なりにあっては、物皆が絶えず動きながら、一つの口から流れ出るその流れに乗って、しかも迸る勢いを抑えて静かに衷懐を歌い出るのがアンドレ・ジッドの姿である。
己れを抑えることは、ジッドの特徴の一である。人は彼の作品を通じて、彼の経歴や実生活を窺うことが出来ない。エドモンド・ゴスの云った通り、「彼は自分の作中に自分自身の事を自由に物語る人ではない。」このことは、ジッドの作品についてジッドの姿を求めることを少しも妨げない。彼自らシャルル・ルイ・フィリップに関する講演の中で、「一人の作家を知るに、その作品以外のものを求める要があろうか」と云っている。ただ、彼の作中の「私」の後には、いつも手綱を引き締めた作者が居る。彼は、軽々しく己れを物語らない。己れの内に在るものが無反省に外へ現われることを禁ずるのである。
そのジッドが、しかも緊張の極に達した『地の糧』の後に於て、覚えず己れの内に潜むものを洩らしてしまった。それが『狭き門』の一篇となって現われたのである。これについて次にジャック・リヴィエールの説を借りる。
「『狭き門』はジッドの全著作中、彼の制御を受くることの最も少なかったものである。彼は殆《ほとん》ど意に反してこの作を書いた。と云うよりも、この作が、彼に背き、彼を抑えつけ、彼の意を蔑《ないがし》ろにして、彼の想に写り出たのである。この作の我々に示すものは、ジッドが云うことを禁じ得なかったもの、彼の心の奥にあって、彼がもう消えてしまったと思った時に復《また》上って来たところのものである。」
『狭き門』はそれ以前の諸作とは稍々《やや》趣を異にするものである。従って、タンクレッド・ドゥ・ヴィザンの気遣った如く、『狭き門』の賞讚《しょうさん》を以《もつ》て直ちに前作十数巻を軽侮するものがあるかも知れない。しかし、各時代各作品に現われた相を通して見ることが、作者の真の姿を知る道であり、かつ一人の作家を観察するに当って最も興味のある点である。軽率にこれを推し彼を貶《けな》すのは短見と云うべきであろう。
『狭き門』の中には、何人も気が附くであろう如く、二つの悩める魂の対立がある。其処には、恋の成就《じょうじゅ》に於てのみ安心の境を見出《みいだ》すことを信じかつ願うジェロームと、恋をも捨てて偏《ひとえ》に狭き門に入ろうとするアリサとが居る。それは、アリサさえ手を伸ばせば容易に遂げられる恋である。アリサはその恋を捨てる。そして犠牲に悩む。彼女の行為には何の目的もなく何の効果もない。彼女は、人は幸福のために作られていないと信ずる。
人の世に幸福を求めない彼女は、何処《どこ》にそれを求めようとするのか。何処にも求めないのである。天上の大歓喜に浸ろうともしないのである。彼女は犠牲の悦びさえも感じようとしない。人は最後まで、心の底からほほ笑む彼女の面を見ない。彼女は当てもなく身を鞭《むち》うって苦しむ。その点が「ジッドの作中に於て唯一《ゆいいつ》のプロテスタントの風・≪ふうぼう≫」を備えるものと評される所以《ゆえん》である。ジッドは、そのニーチェに関する論説中に、次の如く述べている。
「彼(ニーチェ)は殉教者を以て否認する。――その著作十二巻にわたって唯々一の論戦あるのみである。試みにこれを開けば、何処《いずこ》を読むも頁|毎《ごと》に皆同様である。感激だけが新たになり、病気がこれを援《たす》ける。少しも平静がない。彼は絶えず憤怒《ふんぬ》と熱情とを漲《みなぎ》らせる。プロテスタンティスムは此処《ここ》に達すべきだったのか。――私はそう信ずる。――それ故《ゆえ》に私は彼を讚美する。――全《まった》き解脱《げだつ》に達した人として。」
ジッドがニーチェの中に湧《わ》き上がるのを見たこの力は、孤独の闇《やみ》に消えて行くアリサの胸の奥にも潜んでいたのではあるまいか。それは、彼女の場合に於て、内へ内へと燃え入る炎となったのである。
ジッドはなお、「私はニーチェが|自ら狂人になった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と云いたい。」と書いている。アリサの陥った運命も、全く避くべからざるものではなかった。それは、彼女自ら選んだ道である。
この度《たび》、『狭き門』が、山内義雄《やまのうちよしお》の手によって日本語に移植された。
レミ・ド・グルモンによると、よき翻訳は思想の流を定める consolidateurs の業である。山内はこの役目を以て自ら任じたのであろうか。それとも、アリサの心根に感ずるところがあったのか。或いはジェロームと共に己れを語り出《い》でたのか。そのいずれであるかを、彼に問う要はあるまい。彼もまた答えまい。そのひまに、彼は、『東方所観』に謳《うた》われた南清の名も知らぬ寺院に想いを馳《は》せて、「かの七天の聞きとりがたき声色を伝え、聞えざるひびきも此処へ来て滴《しずく》の如く懸《かか》る」風鐸《ふうたく》の音に耳を澄ますことであろう。
[#地付き](一九二三年五月)
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年譜
一八六九年(明治二年)十一月二十二日、パリのメディシス街一九番地に生れる。父のポール・ジッドは、南仏《なんふつ》ユゼスの生れで、パリ大学法学部教授。母のジュリエット・ロンドーは北仏ルーアンの生れ。
一八七七年(明治十年)八歳 アルザス学院に入学。内気な頭脳の働きの鈍い生徒で成績は不良。麻疹《はしか》のため退学し、ノルマンディのラ・ロック = ベニャールの別荘で保養。動植物や音楽に興味をもつ。
一八七九年(明治十二年)十歳 アルザス学院に復学。数名の生徒とともにヴデル先生の家に寄宿。
一八八〇年(明治十三年)十一歳 十月二十八日、父を失う。病気のためまたもや退学。転地療養する。
一八八二年(明治十五年)十三歳 十二月末、伯母マチルドの不義と従姉《いとこ》マドレーヌの苦悩を知り、はげしい衝撃をうける。
一八八三年(明治十六年)十四歳 アンリ・ボーエル(『一粒の麦もし死なずば』のリシャール先生)の家に半寄宿。このころから日記をつけはじめる。
一八八四年(明治十七年)十五歳 アルザス学院に再入学したが、三カ月後ふたたび退学。ゴーチエ、ハイネ、ギリシャ古詩などを読む。また聖書を耽読《たんどく》。マドレーヌに思慕の念をいだきはじめる。
一八八七年(明治二十年)十八歳 アルザス学院の修辞学級に入学。このころから文学的才能があらわれる。ゲーテを読みはじめる。
一八八八年(明治二十一年)十九歳 アンリ四世校に転校。スピノザ、ライプニッツ、デカルト、ニーチェ等の哲学書を読みふける。アンリ四世校退学。独学で大学入学資格試験の準備をはじめる。
一八八九年(明治二十二年)二十歳 七月の大学入学資格試験に失敗したのち、十月の追試験で合格。しかし大学に進む意志はなく、文学者として生きる決意をかためる。
一八九〇年(明治二十三年)二十一歳 一月、ヴェルレーヌをブルーセ病院に見舞う。三月一日、マドレーヌの父が死去し、彼女とともに通夜《つや》。八月、『アンドレ・ワルテルの手記』を完成。十二月、ヴァレリーを知る。
一八九一年(明治二十四年)二十二歳 マドレーヌに求婚して拒絶される。パリ大学哲学科に登録したが、すぐに退学。ピエール・ルイスの紹介で、エレディア、マラルメのサロンに出入りする。『アンドレ・ワルテルの手記』を匿名《とくめい》で発表したがほとんど無視される。『ナルシス論』出版。ワイルドを知る。
一八九二年(明治二十五年)二十三歳 『アンドレ・ワルテルの詩』を匿名で出版。十一月、兵役につくが、肺結核と診断されて一週間で除隊。
一八九三年(明治二十六年)二十四歳 フランシス・ジャムを知る。『ユリアンの旅』『愛の試み』出版。十月、友人のポール = アルベール・ローランスとともにアルジェリアに旅行。過去の不安|懊悩《おうのう》をすてて、健康と生命の充実を求める。
一八九四年(明治二十七年)二十五歳 旅先で肺を病み、一冬をビスクラですごす。健康を回復し、イタリアを経てパリに帰るが、パリの空気に息苦しさをおぼえ、スイスに赴き、ラ・ブレヴィーヌにおちつく。その間に『パリュード』を書く。
一八九五年(明治二十八年)二十六歳 ふたたびアルジェリアに赴き、ワイルドに会う。五月三十一日、母を失う。六月十七日、マドレーヌと婚約を結び、十月八日、エトルタの寺院で結婚式をあげる。『パリュード』出版。ポール・クローデルを知る。
一八九七年(明治三十年)二十八歳『地の糧《かて》』出版。アンリ・ゲオンを知る。
一八九九年(明治三十二年)三十歳 『鎖を離れたプロメテ』『旅日記(一八九五―一八九六)』『フィロクテート』『エル・ハジ』出版。当時領事として中国に赴任していたクローデルと文通をはじめる。
一九〇二年(明治三十五年)三十三歳 『背徳者』出版。最初の小説的作品であったが一般には不評。
一九〇三年(明治三十六年)三十四歳 モーリス・バレスを擁護するシャルル・モーラスを相手に、いわゆるポプラ論争が行われる。『サユール』『プレテクスト』出版。ジャック・コポーを知る。
一九〇六年(明治三十九年)三十七歳 『アマンタス』出版。クローデルにすすめられてキリスト教徒になったジャムと仲たがいする。
一九〇七年(明治四十年)三十八歳 『放蕩《ほうとう》息子の帰宅』発表。
一九〇八年(明治四十一年)三十九歳 『書簡を通してみたドストエフスキー』発表。十一月、モンフォール主幹の「N・R・F」誌の創刊に参与したが、レオン・ボッケの『反マラルメ論』をめぐって意見が合わず、身をひく。この雑誌は一号で廃刊。
一九〇九年(明治四十二年)四十歳 二月、ジャック・コポー、ジャン・シュランベルジェ、アンリ・ゲオンらとともに「N・R・F」を復刊。『狭き門』を三号にわたって連載、これを出版。この作品で一般に認められる。
一九一〇年(明治四十三年)四十一歳 『オスカー・ワイルド』出版。
一九一一年(明治四十四年)四十二歳 『イザベル』『続プレテクスト』出版。
一九一二年(明治四十五年・大正元年)四十三歳 プルーストから『スワン家のほうへ』の出版を依頼されたが拒絶する。
一九一三年(大正二年)四十四歳 ロジェ・マルタン・デュ・ガールを知る。十一月、春陽堂から和気律次郎訳『オスカー・ワイルド』出版。スチュアート・メイスンの英訳からの重訳だが、これが日本における最初のジッド紹介。
一九一四年(大正三年)四十五歳 一月、プルーストに手紙を送り、『スワン家のほうへ』の出版拒絶を詫《わ》び、改めて出版を懇請。『法王庁の抜穴』が「N・R・F」に発表されると、宗教界を揶揄《やゆ》されたことにクローデルは憤慨し、二人の不仲は決定的となる。『重罪裁判所の思い出』出版。
一九一五年(大正四年)四十六歳 このころから宗教的危機におそわれ、福音書を読みふける。
一九一六年(大正五年)四十七歳 宗教的不安を「緑色の手帳」(『汝《なんじ》もまた……?』の原稿)に書きはじめる。このころから彼の同性愛的傾向のため家庭生活に破綻《はたん》がはじまり、苦悶《くもん》する。『一粒の麦もし死なずば』を書きはじめる。
一九一七年(大正六年)四十八歳 同性愛の相手だった当時十七歳のマルク・アレグレ(のちに映画監督になる)と一夏スイスに滞在。
一九一八年(大正七年)四十九歳 夏、マルク・アレグレとともにイギリスに逃避。その留守にマドレーヌは彼からの手紙を全部焼く。コンラッドの『台風』を翻訳、出版。
一九一九年(大正八年)五十歳 『田園交響楽』出版。新奇なものを期待していたダダイストたちは失望する。『贋金《にせがね》つかい』を書きはじめる。
一九二〇年(大正九年)五十一歳 『コリドン』匿名で出版。『一粒の麦もし死なずば』上巻十二部私家版をつくる。『アントニーとクレオパトラ』翻訳。
一九二一年(大正十年)五十二歳 『一粒の麦もし死なずば』下巻十三部私家版をつくる。八月、エリザベート・ヴァン・リセルベルグと南仏イエール海岸で同棲《どうせい》。十一月、アンリ・マシスは「ルヴュ・ユニヴェルセル」誌でジッドの背徳性を攻撃する。
一九二三年(大正十二年)五十四歳 四月、エリザベート・ヴァン・リセルベルグとの間に娘カトリーヌ誕生。『ドストエフスキー』出版。アンリ・ベロノ、『ルクレール』誌でジッドを攻撃する。六月、新潮社から山内義雄《やまのうちよしお》訳『狭き門』出版。これが日本におけるジッドの作品の最初の完訳。
一九二四年(大正十三年)五十五歳 『アンシダンス』出版。『コリドン』を著者名を明示して出版。
一九二五年(大正十四年)五十六歳 六月、『贋金つかい』脱稿。七月、マルク・アレグレとともにコンゴに旅立ち、植民地の惨状をみる。
一九二六年(大正十五年・昭和元年)五十七歳 『贋金つかい』『贋金つかいの日記』出版。著者名を明示した市販本『一粒の麦もし死なずば』出版。
一九二七年(昭和二年)五十八歳 『コンゴ紀行』出版。
一九二八年(昭和三年)五十九歳 『チャド湖より帰る』出版。
一九二九年(昭和四年)六十歳 『女の学校』『偏見なき精神』出版。
一九三〇年(昭和五年)六十一歳 『ロベール』『ポワチエ不法監禁事件』『ルデュロー事件』出版。
一九三一年(昭和六年)六十二歳 「ラティニテ」誌はジッドの影響について、ヨーロッパ各国の作家にアンケートを出し、その回答を発表。
一九三二年(昭和七年)六十三歳 『日記(一九二九―一九三二)』を「N・R・F」誌に連載し、その中で共産主義やソ連への共感を表明する。十二月、ルイ・マルタン = ショーフィエ編集の『アンドレ・ジッド全集』が刊行されはじめる(一九三九年第十五巻目で戦争のため中断)。
一九三三年(昭和八年)六十四歳 三月、共産党の機関紙「ユマニテ」にナチ抗議の文章を発表。パリにおける反ナチ連盟の会合で「ファシスム」と題して講演。九月、反戦・反ファシスム世界青年会議の名誉議長となる。
一九三四年(昭和九年)六十五歳 一月、ドイツ国会放火事件で逮捕されたディミトロフの釈放を要求するため、アンドレ・マルローとともにベルリンに赴き、ゲッベルスに抗議書を提出する。
一九三五年(昭和十年)六十六歳 真理同盟主催で「ジッドと現代」という討論会開催。モーリヤック、マルロー、フェルナンデス、マシス等参加。ジッドも出席して質問に答える。その記録『ジッドと現代』出版。『新しき糧』出版。
一九三六年(昭和十一年)六十七歳 六月、瀕死《ひんし》のゴーリキーを見舞うためと、ソヴェト作家大会に出席するためソ連に向う。赤の広場でゴーリキー追悼の演説をする。八月、帰仏。十一月、『ソヴェト旅行記』出版。ソ連の一面の欠陥をついたため、「プラウダ」に反論が掲げられ、フランスでも左翼陣営から手厳しい非難をうけた。『未完の告白』出版。
一九三七年(昭和十二年)六十八歳 『ソヴェト旅行記修正』出版。ジッドに対する極左陣営の攻撃はさらに激しくなる。
一九三八年(昭和十三年)六十九歳 四月、マドレーヌ夫人を失い、深い哀惜の念と孤独感におそわれる。『今や彼女は汝の中にあり』(邦訳『秘められた日記』)を書く。これは一九四七年限定出版され、一九五一年、ジッドの死後公刊された。『ショパンに関するノート』出版。
一九三九年(昭和十四年)七十歳 ギリシャ、エジプト、セネガルを旅行。『日記(一八八九―一九三九)』出版。第二次世界大戦はじまる。
一九四〇年(昭和十五年)七十一歳 パリ陥落のため、難を避けて南仏にのがれる。
一九四一年(昭和十六年)七十二歳 対独協力を明らかにしたドリュ・ラ・ロシェルの「N・R・F」と絶縁する。
一九四二年(昭和十七年)七十三歳 五月、北アフリカに渡る。ジャン = ルイ・バローに依頼された『ハムレット』の翻訳完了。
一九四三年(昭和十八年)七十四歳 『架空会見記』出版。
一九四四年(昭和十九年)七十五歳 『日記(一九三九―一九四二)』出版。
一九四五年(昭和二十年)七十六歳 パリに帰る。コメディ・フランセーズでジッド訳の『アントニーとクレオパトラ』上演。フランクフルト市からゲーテ勲章をおくられる。
一九四六年(昭和二十一年)七十七歳 『テゼ』出版。ジャン・ドラノワ監督で『田園交響楽』映画化される。十一月、ジャン = ルイ・バロー演出でジッド訳の『ハムレット』上演。
一九四七年(昭和二十二年)七十八歳 六月、オックスフォード大学より名誉博士号をおくられる。『劇作全集』発刊(全八巻、一九四九年完結)。十一月、ノーベル文学賞受賞。
一九四八年(昭和二十三年)七十九歳 『ジャム―ジッド往復書簡集』出版。
一九四九年(昭和二十四年)八十歳 一―四月、ジッドとジャン・アムルーシュの対談がラジオで放送される。五月、病重くなりニースの病院に入院。サント = ジュヌヴィエーヴ博物館で生誕八十年記念展覧会開催。『秋の断想』『クローデル―ジッド往復書簡集』出版。
一九五〇年(昭和二十五年)八十一歳 『日記(一九四二―一九四九)』出版。マルク・アレグレ、映画『ジッドとともに』を製作。
一九五一年(昭和二十六年)八十二歳 二月十九日、パリのヴァノー街の自宅で逝去《せいきょ》。同二十二日、シュランベルジェ、マルタン・デュ・ガールなどの旧友、村人などの手で、マドレーヌの眠るキュヴェルヴィルの小さな墓地に葬《ほうむ》られる。
一九五二年(昭和二十七年)『しかあれかし、あるいは賭《かけ》はなされた』(邦訳『死を前にして』)出版。ローマ法王庁はジッドの全著作を禁書とする。
一九五五年(昭和三十年)『ジッド―ヴァレリー往復書簡集』出版。
一九六八年(昭和四十三年)『ジッド―マルタン・デュ・ガール往復書簡集』二巻出版。一九六九年のジッド生誕百年を記念するため、「アンドレ・ジッド友の会」がつくられる。会長はジャン・ランベール夫人(ジッドの娘カトリーヌ)、名誉会長はアンドレ・マルロー。
[#地付き]新庄嘉章 編