たったひとつの冴えたやりかた
THE STARRY RIFT
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア James Tiptree, Jr.
カバー・挿絵 川原由美子/浅倉久志訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)人間《ヒューマン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|最初の接触《ファースト・コンタクト》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)H2[#「2」は下付き小文字]O
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目次
第一話 たったひとつの冴えたやりかた
第二話 グッドナイト、スイートハーツ
第三話 衝突
訳者あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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[#地から2字上げ]デネブ大学の大図書館にて
主任司書のモア・ブルーは、フンフン鼻を鳴らして奥にひっこみ、古文書貸出し専用の円形コンベヤーに向かう。フンフン鼻を鳴らすのはなかば体質的なものだが――モアは水陸両生だ――あとの半分は、新しい利用者、あきれるほど楽天的なふたりの若いコメノへのあてつけでもある。このふたりは、“雰囲気をつかみたいので”連邦草創期の人間《ヒューマン》のファクト/フィクションを選択してもらえないかという。選択だと! モアの学生時代には、選択は自分でしたものだ。もっと骨の折れるやりかたで。ところが、このふたりは、他人の脳をあてにしている。
まあいい、望みをかなえてやろう。今学期は、このたぐいの依頼がやたらに多い。たぶん、やる気満々の講師が“濃縮された”講座を企画したのだろう。モアは聞こえよがしにくしゃみをして、リードアウトのキーをたたく。
受付デスクにもどってくると、若いコメノのカップルは上腕をカウンターについて、身をのりだしている。真剣さの現われだ。もう片方の上腕をおたがいにからみあわせているのは、おそらく交尾の願望の現われか。モア・ブルーのきびしい爬虫類的な顔がふっとなごむ。実をいうと、彼はロマンスに弱い。それにコメノにも弱い。この種族は、奇特なことに、読書と、エイリアンの心理研究を好む傾向がある。技術系の学生が数字だらけのテープをせっせと走査するのばかりが目立つ学内で、古文書の手ざわりを好み、現実の問題が生きた心臓と脳の中にひそんでいることを知っている学生と出会うのは、わるくない気分だ。
「ご存じだろうが」とモアはいう。「ヒューマンは、ファクト/フィクションと名づけたものに長い伝統を持っている。つまり、重要な事件や時代をとりあげて、既知のディテールのすべてをそこにぶちこみ、ドラマティックな物語に再構成するわけだ。それによって歴史が記憶しやすくなると、彼らは主張している。わたしもそのとおりだと思う。いずれにせよ、選択範囲はおそろしく広くなるわけだ」
「だから、あなたのお力を借りたいんですよ」背の高いほうのコメノが美しいアクセントの銀河共通語でいう。「ちょっと目録をのぞいただけで、迷子になってしまいました。いくら要約がついていてもね」
「もちろん力は貸すよ。まず手はじめに、このかわいい物語を選んでみた。これはヒューマンが超光速航行を普及化する以前の時代、連邦からきみたちの星域を隔てているあの巨大な〈リフト〉の周辺部を、彼らが探険しはじめたころの話だ。実は、〈リフト〉近辺を舞台にした物語群を意識的に選んだんだよ。きみたちにとってはなじみぶかい舞台だし、また、おそらくきみたちの研究課題になっているだろう例の有名な物語と、時代がほぼ似かよっているからだ。ほら、〈殺された星〉の爆発前線が惑星ダミエムを通過したときの、あの物語――しかし、あっちは連邦から見て反対側で起こったことだから、それと比べれば、いくつかの興味ぶかい特異点や対照点も目につくだろう。もう、ダミエムと〈星ぼしの涙〉のことは知ってるね? 『輝くものなんとか』という題の物語だ」
「『輝くもの天より墜ち』――ええ、知ってます。あれはほかの種族に対するヒューマンの行動の一例ということでした。実をいうと、ぼくたちはあの物語からヒューマンに興味をひかれたんです。でも、あれはとても局部的な話でした――ぼくたちは、あれとまったくべつの星域の出来事を知りたいんです。その物語には、たとえばムームの輸送路線のことが出てくるでしょうか?」
「いや。前超光速時代には、すべての文化の伝播が信じられないほどのろかったことを認識してほしいね。あれは、ジーロや、きみの種族が超光速航行を普及させたずっとあとのことなんだ」
「あら、そうなんですか! 技術史をちゃんと知ってないとだめなんですね!」小柄なほうのコメノが感心したようにいう。
モアは微笑する。これがほかの場合だったら、歯をむいたその微笑は威嚇に見えたことだろう。「ときどき思うんだよ、利用者に正しいサービスをするためには、大学のすべてのコースをとるべきじゃないかとね……。さてと、貸出しの限度は一回一冊だ。しかし、これだけでもずいぶん考える材料はあるはずだよ。まったく異常な視点から書かれているから」
「しかし、全部が真実なんでしょうか?」小柄なコメノが心配そうにたずねる。
「そこがすばらしいところなんだ――この物語の大半は、ヒューマンの幼い女性が自分で口述した実在のテープから採集されている。外挿の部分も、ほかの情報源に裏づけられた、高度に予測可能な主観的反応の集まりだ。この事件は、ヒューマンの最も異常なファースト・コンタクトのひとつでね、しかも、それに関係したエイリアン自身の言葉も採録されている……。もちろん、いまではイーアドロンのことはよく知られている――きみたちも防疫隔離規定のことは、もう聞いたかもしれない」
「はい、聞きました」と背の高いコメノがいう。「それじゃ、ここにはその説明まではいってるんだ! ぼくたちのために、すてきな古文書を見つけてくださったんですね、ブルーさん。なんとお礼をいっていいか」
「ええ、ほんとに!」と彼の友人も声を合わせる。
「こんどきみたちがくるときには、これとおなじぐらいすてきなものを用意しておくよ。そのあとには、フィナーレとしてとびきりのがある」
「ああ、ありがとう、ありがとう!」しっぽを音高く儀式的に打ちつけると、ふたりの学生は古代のテキストを抱きかかえて、出口のほうに急ぐ。
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第一話 たったひとつの冴えたやりかた
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宇宙の英雄たち! 星野《せいや》の探険家たち!
読者よ、問題をひとつ――
ひとりの子供がいるとしよう。黄色い髪、だんご鼻にンバカス、人の顔を穴のあくほど見つめる緑のひとみ、金持ちのはねっかえり娘、当年とって十五歳。ホログラムの押しボタンに背がとどくようになってから、ずっとこの子が夢見てきたのは、|最初の接触《ファースト・コンタクト》の英雄たち、遠い星ぼしの探険家たち、人類種族《ヒューマニティー》の恒星時代の夜明けに活躍した偉人たちだ。この子はディスカバリー計画の歴代乗員の名前を、すらすら暗唱できる。連邦宇宙のかなり正確な星図をスケッチできるし、連邦基地の番号をそこにふることもできる。五十あまりの既知の異種族それぞれについて、だれがファースト・コンタクトに成功したかを答えることができる。それに、ハン・ルー・ハンが最後に残した言葉もそらでおぼえている。そのときまだ十六歳だったこの少年英雄は、琴座九十一番星ベータでエイリアンの火炎兵器をものともせず、船長とパイロットを安全な場所までひっぱりだしたといわれる。
この子は数学もかじっている――そう苦労もせずに。それにしょっちゅう宇宙港をうろつき、声をかけてくれる相手と片っぱしから友だちになり、同乗をせがんだおかげで、いまでは十四種類の宇宙船の操縦系統をマスターしている。発育のほうはおくてで、胸の小さなふくらみは少年といっても通るぐらい。性教育を受けてはいても、恋だの性愛だのは、この子から見て、おとなたちが夢中になるばかげた遊びでしかない。だが、この子にジュニア宇宙服を渡してみたまえ、たった七十秒で装着完了、安全フックも含めてだよ。
さて、この子、このコーティー・キャスが――フルネームはコーティリア・カナダ・キャスだが、みんなはコーティーと呼んでいる――
さて、この子が、十六回目の誕生日のプレゼントに、頑丈な小型スペース・クーペを両親からもらったとしよう。
ここからがいよいよ問題――
この子はその宇宙船で、星のびっしりつまった内部星域をちょこちょこ飛びまわり、母親が予想したように、クラスメートや一家の知り合いを訪ねたり、それとも、父親が心配したように、自分の腕をひけらかすため、重力渦ビーコンのひとつふたつを突っ切ってみせるだろうか?
この子が? どうかな?
それとも――もよりの艤装《ぎそう》業者に直行し、クレジットカードの残高の大半をはたいて、補助燃料タンクと長距離センサーをクーペに積みこみ、ノズルまで満タンにしたあげく――一家おかかえの会計士からよけいなせんさくをされないうちに――もよりの連邦辺境、つまり、居ながらにして未知の宇宙空間と星ぼしをながめることのできる連邦基地九〇〇のまだむこう、〈北部大星溝《グレート・ノース・リフト》〉へトンズラするか?
たいした難問じゃなかったな、こりゃ。
連邦基地九〇〇の司令は、中央展望通路をひょこひょこ遠ざかっていく黄色い髪を見まもる。
「あの子の両親に知らせるべきだな。受信人払いの超C通信で」と司令はつぶやく。「むこうはリッチだ。支払い能力はある」
「どういう理由で?」と副官がきく。
ふたりの視線を背に浴びながら、その小さい人影はピンと背をのばして歩み去っていく。通路の雑踏の中を背の高いパトロール隊長が通りかかる。ふたりの視線のむこうで、少女はくるっとふりかえり、隊長を見つめる。女らしい品さだめの目つきではなく、無意識に目をまるくした子供っぽいあこがれだ。それから少女は、窓のむこうのまばゆいばかりに華麗な展望をまたながめる。連邦基地九〇〇が掘りぬかれているアステロイドのこの側からは、うまいぐあいに〈リフト〉の末端が見える。
「理由か。おれの直感だ。あの子は、まるで発生場所をさがしているトラブルのような気がする」司令は悲しそうにいう。「理由はそれさ。あの子の話はどうも信じられん。そう、身分証明はきちんとしてる――あの子があの艇の持ち主で、操縦法も、航宙法規もちゃんと心得ていることは疑いの余地がない。それに、自分の行きたいところへ行く許可をもらう権利だってある――二、三日のことなら。しかし、未知の星ぼしを見てみたいというただそれだけのことで、はるばるこんな辺境まで遠出するのを、あの子の両親が許したとはとても信じられん……。理由はそれさ。もし、両親がそれに承諾を与えたのなら、どうしようもない低能だ。もし、あの子がおれの娘だったら――」
司令の声はしりすぼみになる。それが感情的な過剰反応なのは、彼自身にもわかっている。
少女の両親に連絡するだけの正当な理由は、どこをさがしてもない。
「両親はきっと承諾したんでしょうよ」と副官がなだめるようにいう。「でなけりゃ、あそこまでの装備を買ってやるはずがない。あの補助燃料タンクと長距離センサーを見ましたか」
(コーティーは、このふたりに嘘をついたわけではない。自分がここへくることに両親は反対しなかった、と話してから――そりゃそうだろう、両親は夢にもそんなことを予想していないのだから――あどけなくこうつけたしたのだ。「ねえ、あの補助燃料タンク見ました? あれがあったら、長い旅からでもまちがいなくおうちへ帰れるからって、つけてくれたんです。あ、そいから、CC‐1って船名にしたんだけど。ちょっと官有船っぽい感じがしすぎるかな〜」)
司令が厭世的に鼻を鳴らして、その話題にけりをつけるのをしおに、ふたりはオフィスの中に視線をもどす。さっきのパトロール隊長がそこに待っている。連邦基地九〇〇ピカ一の巡回補給チームの帰還が遅れているため、そろそろ行方不明の公式発表をして、本格的な捜索を開始しなければならない。
コーティー・キャスは基地の地上区を通りぬけて、燃料補給所にむかう。そこで出港許可と辺境星域の立体星図《ホロチャート》をもらわなければならない。ついでに、タンクもいっぱいにするつもりだ。もし、チャートが目的でなければ、ひきとめられるのが心配で、いきなり外へとびだしていったかもしれない。しかし、許可がおりたいまでは、はじめて見る豪華な連邦辺境基地のながめをたのしむ余裕も生まれている――目的地への出発が遅れないかぎりは。この少女が長いあいだ夢見てきた本当の目的地――それは人跡未踏の自由な宇宙空間と、まだ名もない未知の星ぼしなのだ。
どこの辺境基地も魅力たっぷり。居心地のいい、正気の支えになってくれる場所でないとだめなのを、連邦政府は苦い経験からまなんでいる。だから、遠くにある基地、長旅の必要な基地ほど、設備がぜいたくで、待遇もいい。連邦基地九〇〇の大部分は、長円軌道をめぐる、空気のない、大きな岩を掘りぬいた内部にあるが、世界有数の大富豪でもうらやましがるほどの庭園やプールがととのっている。いまコーティーの見ている小劇場のディスプレイは、世界初演を謳《うた》ったショーと音楽で、しかも基地要員は入場無料だ。彼女が通ってきた道すじには、半ダースものエキゾチックな小さいレストランがある。地図で見ると、岩の内部にも、スポーツやダンスのホールや、ひろびろとした私室が設けられている。曲がりくねった通路は、どこにも美しい植込みがあり、すてきな装飾がほどこされている。これも最近の発見だが、毎日の勤務につくのに、たくさんの道すじを自由に選べるほうが、ストレスの解消に役立つのだ。
こうした辺境基地を建設するのは、一から十まで連邦の仕事。しかし、それを維持していくためには、連邦のかけがえのない資源――人員――が必要になる。ここ連邦基地九〇〇では、その人員の大半が人間《ヒューマン》だ。ほかの四つの宇宙航行種族が、連邦の南部と東部に集中しているために、そうならざるをえない。この北のさいはてで、これまでコーティーの目についたエイリアンは、スウェインのカップルが一組だけ。彼らの緑色がかった甲羅は、故郷の宇宙港でもすでにおなじみ。本当にエキゾチックなエイリアンに、ここでお目にかかるのはむりというものだ。
しかし、あの〈リフト〉の周辺部には、いったいどんな生き物が、そしてどんな種族が住んでいるのか?――そしてそのむこうの未知の対岸には? コーティーは燃料補給所へ行く前に、もう一度だけそれを見ておこうと立ちどまる。この窓からだと、〈リフト〉はすばらしくよく見える。北の天頂にそって横たわる、異様で不規則な黒雲のようだ。
もちろん〈リフト〉にもまったく光がないわけではない。ほかと比較して星の数がすくない空間というだけである。科学者たちも、べつだんそれをたいした謎とみなしてはいない。基本的な濃度構造の中の定常波か乱流、銀河系の渦状腕とそのあいだの裂け目、これらを創りだしたものとおなじ勾配を持つ、散らばったひとつのかたまり。これに似たリフトは、未踏の星野のひろがりの中に数多く見いだされる。たまたまこのリフトは、連邦宇宙といういびつな球体にとって、便利な北の境界を形づくってくれているだけのことだ。
探険家たちは、〈リフト〉のあっちこっちに突入した結果、その対岸では、星ぼしの濃度がまたもとにもどっているらしいことを、すでにつきとめている。おそらく惑星系と思われるものも、いくつか発見されており、一度か二度は、エイリアンの発信電波と思われるものも、可聴範囲の極限でキャッチされたことがある。しかし、対岸からは、どんな生物も種族もやってきたためしがなく、一方、じょじょに南と東へ拡張をつづける〈五十種族連邦〉は、わざわざ新しいコンタクトをもとめにでかけなくてもいいほどの満腹状態にある。というわけで、〈リフト〉はこれまでほとんどほったらかしにされてきた。〈リフト〉が近くにあるおかげで、コーティーも、中央星域にある故郷の太陽と惑星ケイマンズ・ポートから、こんなに短時間で本当の辺境へやってこられたといえる。
コーティーは、もうこれっきりというように、あこがれのまなざしを〈リフト〉に送ってから、更衣廊下にとびこむ。そこには彼女の小さい宇宙服が、本物の航宙士用の中にまじって吊るされている。そこからアステロイドの地上デッキに出ると、CC‐1が新しい隣人のそばで小さく見えるのに気づく。大型パトロール・クルーザーが到着したのだ。興奮を抑えて、教えこまれたとおりていねいに船体検査をすませ、タグボートに合図して、燃料補給所までの曳航をたのむ。そこで積みこめるのは、酸素と水、それに食料――ただし、標準糧食だけ。クレジットの口座にはかなりの預金があるので、ぜいたく品さえがまんすれば、たっぷり補給はできる。
燃料補給所でコーティーはもう一度外に出て、自分でタンクのひとつひとつをチェックする。ここの主任は、フェースプレートがバラ色に輝くほど血色のいい大柄な婦人だが、この少女の熱心さに思わずにっこりする。実際の補給をやっているのは若い作業員で、ずらりと並んだ補助タンクを見て、コーティーをからかう。
「〈リフト〉の横断でもする気かい?」
「たぶんつぎのときに……いつか、きっとね」コーティーも笑いかえす。
そこへニュースがはいる。さわやかな声でアナウンスがはじまる。巡回補給船九一四B‐Kが行方不明となった。第一段階捜索がまもなく開始される。全宇宙要員は、標準型補給タグに注意せよ。長いタンクの列を曳航しているので、見分けやすい。最後に目撃されたのは、エース・ランディング付近。
「訂正、訂正。エース・ランディングではありません。最後に立ちよった集積所はRD一八、北一七・五〇、西一五・三〇」声がくりかえす。「第九B‐Z象限の奥、交信範囲外にある惑星です。補給船は、RD三〇、北三〇・二〇、西四二・二八の新しい惑星系へむかう途中でした。
このコースの交信範囲内にある全船舶は、毎正時、最低一分の聴信当直をおこなってください。なにか聞こえたら、ただちに基地との交信範囲内までひきかえすこと。基地からは、エース・ランディングからのコースにそって偵察艇を一隻派遣します」
アナウンサーはすべての座標をもういちどくりかえす。コーティーは、タブレットを持っていないので、手首の内側にマーカーでその座標を書きとめる。
「交信範囲外にいる船は、どうやって報告してくるんですか?」とコーティーは主任にきく。
「メッセージ・パイプを使うのよ。ちっちゃなちっちゃな宇宙船みたいなものでね、三回だけ超Cジャンプができる。交信範囲外で作業するときは、寄港のたびにそのパイプを発送するわけ。もうじき、あの象限にも通信中継所ができると思うけどね」
「巡回補給船九一四B‐Kか」若い作業員がいう。「ボーニイとコーの船だ。あのふたりは、どっちかってえと――あんまり――おつむにリベットがそろってねえからな」
「ボーニイとコーはどこも悪くないわよ!」ただでさえ赤い主任の顔がいっそう赤くなる。「あのふたりはどこかのインテリみたいに利口じゃないかもしれないさ。でも、自分の仕事は百パーセント完全に果たしてる。それに、あのコンビのどっちかは――それとも、たぶんふたりともかな――ホロチャートの製作には超人的な才能を持ってる。あのふたりが調査したあっちこっちの象限のチャートを見れば、B‐Kの訂正がどれほどたくさんあるかがわかるはずよ。あの仕事で、これからもおおぜいの命が救われるんだよ! それに、あのふたりにはさもしさとかうぬぼれなんて、これっぽっちもありゃしない。連邦のために、補給船の給料だけで自発的にその仕事をやってるんだよ」主任は口調をゆるめ、自分のいいたいことが伝わったかどうかをたしかめるように、ちらとコーティーを見る。「司令があのふたりを定期便からはずして、北に新しい集積所を作る任務を与えたのも、そういうわけ。……いま、近くの巡回補給をやってるのは、ランドの双子さ。あのふたりなら音楽でもって、退屈な長旅をがまんできるからね」
「すみません」と作業員がいった。「おれ、そんなこと知らなくて。あのふたり、えらく無口だもんだから」
「そう、あのふたりは無口だよね」主任はにやりと笑う。「さてと、お嬢ちゃん、満タンになったようね。あと、小物入れにまで詰めこんでいきたいっていうなら別だけど。ところで、食料はどうするの?」
基地の中にもどって、最後のブリーフィングを受けにチャート部へはいったとき、コーティーははじめて補給所主任のいった意味をさとる。連邦基地九〇〇の星域周辺部を表わすどのチャートにも、小さい光の文字で“B‐K”と記された訂正箇所がある。コーティーは、チャートの中で、そのコンビ――なんて名前だっけ? えっと、ボーニイとコー――の旅した長いループ状のコースをたどっていくことができる。その付近だけが精密に記入されているからだ。塵雲、重力異常、アステロイド群、連星系の中の新しい主星――どれにもつつましいB‐Kの文字がある。基本になったチャートは、初期の探険家たちの仕事の寄せ集め――ポンスという人物が、二、三十の惑星系に、自分のサインを大きくいれており(B‐Kは、その中の六つを訂正している)、そのほかに“L”がひとつと、たくさんの“YBC”と、それからコーティーには読めないたくさんのサインがある。彼らの名前も、どんな冒険をしたかも、ぜひ知りたくなる。
「このSSって?」と彼女は部長にきく。
「ああ、金持ちのおっさんで、最終戦争の勇士さ。うろおぼえの近道をジャンプしたら、とんでもない場所へ出て、燃料が切れちまった。救助がくるまで四十五標準日も立往生。で、気をとりなおして、いっしょにいた仲間とチャート作りにはげんだわけ。時代遅れのスタティックパイロットにしちゃ、いい線いってる。ほら、SSってサインはぜんぶこの点のまわりにかたまってるだろ? 先生、ここへ腰をすえてたのさ。もし、この近くへ行くことがあったら、おそらく半径にミスがあると思っといたほうがいい。だけど、そんなに遠くまで行く気はないよな、きみ?」
「どうかなあ」コーティーは時間かせぎをする。この部長はあたしのことを基地司令に報告するだろうか、と考えながら――「たぶん、そのうちにね。あたしがチャートをたくさんほしいわけはわかるでしょ。ながめて空想してみたいから」
部長は同情をこめてククッと笑い、料金の計算をはじめる。「これだけあれば、ずいぶんたくさん白昼夢が見られそうだ」
「うん」相手の注意をそらすために、彼女はたずねる。「“ポンス”ってだれ?」
「前任者の時代だ。本物の地球型惑星を発見したというメッセージをよこしたあと、消息がたえた。このあたりで」
部長は北西の縁を指さす。そこにGO型太陽が一列に並んでいる。「このあたりには、よさそうな惑星がたくさんありそうだ。いちばん遠くの惑星は〈消えた植民地〉のあったところさ。そうそう、もしもそんな遠くまで行くことがあればの話だが、よくおぼえといてくれ。絶対にその惑星へは近づくな。北三五・一二――つまり、北緯三十五分十二秒――西三〇・四〇――度数は省略してある。このあたりでは度数は定数だ――北緯八十九度西経七十度――第九〇〇基地から見ると、どの星もそこらにかたまってるってこと。それからRD、つまり視線距離《レイディアル・ディスタンス》が――三十二B(十億)キロ。ぼくがここへきた直後に、なにかの接触伝染病で、植民地は全滅した。そこで警報衛星を設置したんだ。……さてと、それじゃ、目的地を申告してもらおうかな。その付近のチャートだけはただであげる。そのほかは有料」
「推薦するとしたら、どこですか? あたしの最初の旅に」
「きみの最初の旅ね……。このあたりでたったひとつのビーコン・ルートをたどって、エース・ランディングへ行ってはどうかな。ビーコンがふたつ、ジャンプ三回。すてきな場所だよ――小屋に、淡水湖に、その他いろいろ。定住者はいないが、岩石収集家がひとり、いつも仲間と長期休暇をそこで過ごすことにしている。スコープを持っていけば、ごきげんだよ。見える星はどれもこれも未探険のものぼっかり。それに、うまくいけば、ちょうど交信範囲内だし」
「どうしてあっちこっちに交信範囲外の場所があるんですか? よくその言葉を聞くけど」
「〈リフト〉のせいなんだ。密度のちがいからきた相対論的効果。ああ、もちろん、電波はキャッチできるがね、雑音というか、ひずみ因子がひどいんだ。〈リフト〉そのものへはいると、電子装置さえ調子が狂うという説もある」
「その小屋の宿泊料はいくら?」
「無料。めしと寝袋持参ならね。空気と水は理想的だよ」
「もうすこし先まで足をのばすかもしれないけど。スコープで、なにか面白そうなものを見つけたら」
「グリーン。じゃ、帰ってきたときにチャート料を精算しよう。だけど、そのへんを飛びまわるなら、ここの渦流状況だけは気をつけたほうがいい」マーカーをホログラムの中へつっこみ、エース・ランディングの北を指す。「だれもまだたしかめてないんだ。これが小さい渦の集まりなのか、それとも重力井戸の大渦巻なのか。それに、忘れないでほしいが、ホロチャートってやつは、隣りとうまくつながりにくい――」彼は第二のチャートを最初のディスプレイの横にくっつける。いくつかの星が、ずれてダブって見える。
「うん、気をつけます。それと、行方不明のB‐Kの船からの信号も、聞きのがさないようにします」
「たのむよ……」部長の計算した請求金額で、コーティーのクレジットはぎりぎり底をつく。「早く見つかってほしい。黙ってどこかを出歩くなんて、あの連中らしくないんだが……。グリーン。はい、どうぞ」
コーティーは領収チップをなでながら、「まだプラスね」と歯を見せる。「ゼロすれすれだけど」
まだ宇宙服をつけたまま、カセット・チャートのはいったバッグをひきずって、コーティーは中央通廊の大展望窓から最後の見おさめをする。ここで決断が必要だ。実をいうとその決断はふたつあって、最初のひとつはあまり気がすすまない――両親にいちおう連絡をとらなければならないが、交信をチェックするだれかに、こっちの本心をさとられてはまずい。もういまごろはきっと両親が、中央星域ぜんたいに問い合わせを出しているはずだ。コーティーは一瞬顔をしかめたあと、名案を思いつく。ケイマンズ・ポートの近くの惑星にいる姉は、かなりの資産家と結婚しているから、受信人払いの超C通信ぐらいは苦にせずひきうけてくれそうだ。それにこれなら筋もとおる――よし、きめた。
通信室は、ふたつ先のドアだ。
「だいじょうぶよ」と彼女はポーナという係員にうけあう。「義理の兄がそこの惑星の銀行家なの。そこの大きな天体名鑑で調べてみて。名前はジャヴェロ、ハンター・ジャヴェロ」
慎重を期して、ポーナはそうする。名鑑の情報では、この奇妙な少女の依頼を聞いてもだいじょうぶらしい。コーティーはマーカーをなめなめ、こう書く――
“こんにちは、おねえさま。びっくりしないで! あたし、いま連邦基地九〇〇にいます。すてきなとこです。ちょっとこの近所を見物してから、帰りにそちらへ寄ります。父と母に元気だと伝えてください。船は快調だし、すごく感謝してるって。ラブ。コーティー”
できた! これならだれにも怪しまれないで、両親を安心させられる。もし万一、父が連邦基地九〇〇に通信してきたとしても、そのときはもうここにいない。
いま、出口のほうへ向かいながら、コーティーは自分にいいきかせる。こんどは大きいほうの決断。行く先をどこにしよう?
そう、チャート部長の助言にしたがって、エース・ランディングでのんびりしながら、空をながめてこれからの旅を計画するのもいいな。やっと宇宙空間の巨大さと、未知の戦慄を実感しはじめたところ。もし万一、チャートにも出てない重力渦巻につかまえられたら? 前にも一度経験はあるけど、あのときは渦巻が小さかったし、優秀なパイロットが操縦してた。(両親にも打ち明けていない飛行のひとつだ)。どのみち、旅はこれ一回きりじゃないし。
でも、考えてみると、あたしはいまここにいて、ちゃんと準備もできてる。それに、こんど出発するときは、両親がおいそれと承知してくれないかも。だったら、できるときにやりたいことをぜんぶやっちゃったほうが賢明じゃないかな?
たとえば、どんなこと?
コーティーの耳は、チャート部長がGO型太陽のつらなりのことを話したのを、聞きのがしていない。それに、あの気のどくなふたり組は、最後にその太陽のひとつを目ざす途中で行方不明になった。その座標は手首の内側に書いてある。もし、あたしがあのチームを見つけたら! それとも――もしあたしがすてきな地球型の惑星を見つけて、その名づけ親になれたら!
最初から水平ではなかった決断の天秤は、ここでぐっと黄色の太陽のイメージのほうへかしぐ――コーティーは走りだしたい気分をようやく抑え、斜路の縁をくぐりぬけて外に出る。
それでもまだ最後に残っていた慎重さにせっつかれて、コーティーは思いだす。目的地をどこにするにしても、最初の一行程だけは、エース・ランディングへのビーコン・ルートにしておかないとね。最初のビーコンの方向転換点でゆっくり考えて、そこで本当に決心をつけよう。
CC‐1はすでに燃料補給所から誘導されて、標準推進開始エリアの縁まで出ている。彼女は斜路をのぼって、艇に乗りこむが、自分がしあわせなハミングをはじめたのにも気づかない。さあ、やるぞ! いよいよ、ほんとのほんとの旅のはじまり!
ベルトを装着し、上昇の用意をしながら、スナック糧食をとりだし、歯で封を切る。予算がたりなくて、基地ではなにも食べなかったのだ。コースを設定し、推進にはいるまでには、このスナックも消化されるはず。満腹のままで冷凍睡眠にはいることに、コーティーは迷信的な嫌悪をいだいている。冷凍睡眠のあいだはぜったいになにも起こらないはずだし、赤ん坊のときからそれに慣れているのだが、おなかの中に異物の塊があると考えると、どうも気になる。自分の一部にならないうちに、どうして食べ物が停滞状態にはいれるのか。もし食べ物のほうで、かってにのどから外へとびだしたいと考えたら?
というわけで、コーティーはスナックを頬ばりながら、連邦基地九〇〇をはるか下におきざりにして、ホロチャートのデータをコンピューターに入力する。これから自分の人生でいちばん生きがいのある部分がはじまると思うと、うれしくてしょうがない。見なれない星ぼしの輝きの中、前部観測窓に暗い〈リフト〉をおいて、ビーコンAL九〇〇‐1へのコース設定をすませ、艇の心臓である大型超C変換機が、冷却過程を開始した音に耳をすます。超C推進ユニットは、まず絶対零度近くまで過冷却しなければならない。そこで半分も理解できない奇跡がおこり、相反重力場がかきみだされて、CC‐1は彼女を乗せたまま、相対論的速度で目標へ転送されるのだ。
冷却を告げる最初のカチッという音やカーンという音が船体の中にひびくのといっしょに、コーティーは宇宙服をハンガーにかけ、小型の睡眠カプセルをひらき、中にはいって自分で自分に注射を打つ。ふたを閉める彼女の気持ちは、むかしの地球の子供が、クリスマスの朝に目をさますのをたのしみにして、眠りにつくのと似ている。冷凍睡眠さんありがと、と彼女はねむけまじりに考える。あんたがあたしたちに星ぼしを与えてくれたのね。最初の勇敢な探険家たちのことを考えてもごらん。あの人たちは、まともに生きて年をとらなきゃいけなかったんだ。目をさましたままで、何日も、何ヵ月も、何年も……。
[#挿絵(img/rift_026.jpg)入る]
コーティーが目をさますと、そこは一見おなじ星野のようだが、カプセルを閉め、覚醒注射をされたおしりをさすっているうちに、〈リフト〉のながめがちがうのに気づく。
〈リフト〉は前より大きくなって――大きくなったなんてもんじゃない、船のまわりがぜんぶそうだ! 闇の触手がすぐ背中まで伸びている。いまいる場所は、〈リフト〉の中へとびだしている周辺部の星群のひとつ。星野は、ふたつみっつの燃えさかる太陽をべつにすると、あまりぱっとしない――それもそのはず、ここは近くに星ぼしがないんだ! というより、ごく近くにわずかな数の星があるだけで、ふつうなら中距離の星ぼしがある場所にぽっかり穴があいている。その奥に、遠いかすかな星ぼしのタペストリーがあるだけ。
船内はノイズでいっぱい。はっきり目がさめるのにつれて、理解が生まれる。ビーコン信号と、質量接近探知機が、ピーピー、ガーガーわめきたてているのだ。コーティーは両方の音量を下げ、ビーコンの位置をさぐりあて、そこをめぐる低速軌道に船をのせる。このビーコンは、連邦基地九〇〇とおなじく大きなアステロイドの上に設けられているので、船を安定させる重力は充分にある。
これでよし、と。もし、エース・ランディングへ行くつもりなら、ビーコンAL九〇〇‐2に座標設定して、もう一度冷凍睡眠にはいればいい。でも、もしあの黄色の太陽たちを見たければ、チャートを呼びだして、どの太陽かへむかう安全な二、三行程のコースをきめる必要がある。
たとえ途中にじゃまな天体がなくても、いきなり目的地の座標をセットして、そこへ直行するわけにはいかない。もし強い重力場の中へ突入するおそれがあったり、アステロイド群やその他の宇宙空間の危険物にでくわすおそれがあるときには、超C推進が自動的に切れて、冷凍睡眠からパイロットをたたきおこすようになっているからだ。だから、強力な天体や、既知のトラブルをできるだけ遠く離れて通りすぎるような通路を見つけなければ。
決心しなさいったら。……でも、考えてみると、ここで安定軌道をとったときから、もう決心はついてたようなもんじゃない? ビーコン2の座標をうちこむだけなら、そんなに時間はいらないもん……。そう。あたしの行きたいのは、どこかハンパじゃないとこ。エース・ランディングの山小屋なんかが見たくてここへきたんじゃない。見たいのは、あの未知の黄色の太陽たち。……それに、ひょっとしたら、そうしたほうが役に立てるかもしれない。たとえば、行方不明のあのチームを見つけるとか。その可能性がないわけじゃないわよ。まずエース・ランディングへ行って、そこから小きざみに前進するのが冴えたやりかたかな――でも、ほんとに冴えたやりかたは、いままでに習いおぼえたことを活用して、つぎからの旅を禁止されるようなへまをしでかさないこと。グリーン、ゴー!
そのあいだにも、コーティーはカセットを装着して、例のGO型太陽へのコースを整理するのにいそがしい。チャート部長が予告したように、端と端がうまくつながらない。一枚用の安いフレームにむりやり二枚のホロを押しこもうとしているとき、質量接近探知ツイーターが鳴りだす。
いつでも小隕石から身をかわすか、それとも横にそらすかまえで、コーティーはちらと目をあげる。驚いたことに、前方に現われたのは、見まちがいようのない人工物体だ。船? それがしだいに大きくなる――しかし、思ったほど大きくならない。この接近速度では……。完全に横を素通りしそう。でも、なんだろ、これ? ちっちゃなエイリアンをいっぱい乗せた、ちっちゃな神話の宇宙船のイメージが、頭にうかぶ。
すごく小さい――なんだ、手でも拾えるぐらいじゃない! ほとんど無意識に、彼女はCC‐1の姿勢をかえ、その物体と平行にする。芸のこまかい加速なら自信がある。その物体は、艇がにじりよるにつれて、スピードをますように思える。追跡熱にうかされて彼女は、「だめよ、逃げちゃ!」と口ばしり、その用途には不向きなマニピュレーター・アームをくりだす。
そうするのと同時に、その物体がなんであるかをさとる。しかし、すっかり興奮しているので考えなおすひまもなく、それをあざやかに空間からすくいあげる。すこしためしてから、アームをひねって貨物室へほうりこみ、エアロックを閉じ、空気を補充する。
あれはメッセージ・パイプ! 神様だけが知ってるどこかから、連邦基地九〇〇宛てに送られたものだ。パイプは、あたしとおなじようにビーコン‐1でコースをかえるつもりで、だからあんなにゆっくり動いてたんだ。あたしのやったことは犯罪? 公式通信の妨害行為にはなにかの刑罰があるのかしらん?
とにかく、もうスープの中にスプーンつっこんじゃったんだから、思いきって飲んじゃえ。手でさわれるほどパイプがあったまるまでには、まだしばらくかかりそう……。そこで、コーティーはチャートの作業をつづける。メッセージをちょっとのぞいてから、また旅に送りだしてやればいい。それぐらいの時間、ここに留めといたところで、べつに問題はないはず――パイプが使われるのは、発信者が交信範囲外にいるからで、べつにスピードが速いからじゃない。
あのパイプをもう一度発送できることは、まちがいない。さっき見たところでも、表面にびっしり取扱い方法が書いてある。連邦の宇宙装具はどれも、緊急事態がおきたさい、素人でも扱えるように作ってあるんだ。
気のせくままに、コーティーはチャートの作業をすませ、パイプをとりだしにいく。まだおそろしく冷たいので、手袋をはめなければならない。パイプの小さいハッチの留め金をはずしたとたん、金色のこまかいほこりが雲のようにただよい出る。そっちに気をとられて、中のカセットをとりだししなに、うっかり手首が金属にふれる。あちっ!
ひどい凍傷にならなきゃいいけど、と思いながら、自分の手をながめる。目につくのは、奇妙なほこりのついたかすり傷だけ。赤くはなっていない。しかし、前腕の内部で神経がピクピクするのが感じられる。ん? おかしい! ちょっと傷をさすってから、こんどはもっと注意ぶかくカセットをとりだす。標準型の記録カセットだ。まもなく彼女はそれを自分の音声再生機にはめこむ。
出てきた声はおそろしく濁ってぼやけているので、よく聞きとれるように、もう一度もとにもどして再生する。
「補給偵察チーム九一四B‐Kより報告」と聞きとれる。興奮の中で彼女はその番号に気づく。つうことは、行方不明のあの船じゃんか! たいへんだあ。すぐに基地へ転送しなくっちゃ。でも、あとの残りを聞くぐらいはいいんじゃない。
声は、新しい集積所を北三〇・二〇、西四二・二八、RD三〇に設けた、と告げる。例の黄色の太陽群の惑星のひとつで、コーティーが手首の内側に書きとめておいた座標とおなじだ。
「九五パーセント地球型」声がすこし明瞭になったように思える。
さらに声は、その太陽群の中に新しく発見された高度に地球型の惑星、北一八・一〇、西二八・三〇、RD三〇に立ちよってから、補給任務をつづけて連邦基地へ帰る予定だと告げる。
「だけど――あー――」声はいったん口ごもって、またつづける。
「三〇・二〇でちょっと事件があって。エイリアンがそこにいたんです。いまから、あー、ファースト・コンタクトの報告をしますが、彼らは――」
第二の声がだしぬけに割ってはいる。
「おれたちはマニュアルどおりにやりました! ファースト・コンタクトのマニュアルどおりに」
「そうです」最初の声がつづける。「うまくいきました。彼らは本当に友好的でした。銀河共通語の単語もいくつか知ってました。それに信号も。けど、彼らは――」
「難破船だ、難破船! あれのことを話せよ」もうひとりの声がいう。
「あ、そうだ。難破船がありました。旧式の巡回補給船。すごい旧式のやつ。救助標識が見えなくて、その上に大きなものが生えてました。ポンスの船だと思います。だから、ひょっとしたら彼のファースト・コンタクトかも」それとわかるほど落胆した口調になって、「でも、それは上がきめることだから……とにかく、彼らは一種の手当をやってくれました。ほら、利口になるクスリみたいなもんです。それには二日かかって、そのあいだはずっと眠ってました。それから外に出されたら、なんでも――ほんとになんでもわかるんです! まるで――あんな経験は生まれてはじめてでした。みんながしゃべってるけど、いってることがぜんぶわかるんですよ。ねえ、見てください。おれたちがどんなによくしゃべれるようになったか。とにかく、彼らはおれたちをてつだって、平らな土地を見つけてくれました。そこへすてきな燃料集積所をつくったんです。おれたちは――」
「彼らの外観!」ともうひとりの声が割ってはいる。「おれたちのことはもういい。彼らのことを話せよ。どんなかっこうだとか、どんなことをするとか」
「わかったよ。えーと、大きな白い体で、ふわふわした毛がいちめんに生えてます。それから足は六本――おもにうしろの四本を使って歩いてます。上の二本は腕らしい。胴体は長くて、細長い白い猫に似てます。大きな猫みたい。立ちあがると、こっちよりも背が高い。それに彼らは……」ここで声はしゃべりにくそうに口ごもる。「彼らには、なんていうか……あそこがふたつあるんです。つまり、二組ってことです。中にそういうものもいます。それから、顔は」――ほっとしたように声がつづける――「顔はおっかないです。ものすごい歯! はじめて彼らが寄ってきたときは、オタオタしました。それとでっかい目。ヒューマンの目と動物の目のあいのこみたいです。猫の目。でも、彼らの行動は友好的でした。こっちの信号に返事をよこしたもんだから、外にでたんです。そのときでした、彼らがおれたちをつかまえて、自分の頭をこっちの頭にくっつけたのは。それから手を放して、なにかがちがうというような身ぶりをしました。ひとりが、“ポンス”というのが聞こえました。それから、“ラッシュリー”とか“レスリー”とか――」
「あれだよ、レスリーはポンスといっしょだったんだ」第二の声がいった。
「そうだった。それから、またおれたちはつかまえられて、動けなくなりました。そのときです、手当をされたのは。なにかが体の中へはいったみたいで。まだあの声がきこえるんです。コーもそういってます……。えーと、それから、ある島には、子供たちとか、そのほかの動物が走りまわってました。彼らの話だと、その手当を受けないと、子供たちはおとなみたいにならないというんです。子供のことを“ドロン”といってます。手当したあとは“イー・アー・ドロン”になるんです。おれたちが話しあった連中がそうです。なんだかややこしいけど。イー・アーも、ひとつの種族らしいんです。でも、姿が見えません」彼の声が――こちらがボーニイにちがいない――そこでいったんとぎれ、「これだけだったかな?」と、小声でたずねているのが聞こえる。
「うん、まあな」もうひとりの声――コー――が答える。「そろそろでかけようぜ。まだもう一ヵ所、寄っていかなくちゃ。……おれ、なんだか気分がよくないよ。早く帰りたい」
「おれもだ。おかしいな。さっきはあんなにいい気分だったのに。じゃ、巡回補給船九一四B‐K、送信を終わります……。これはおれたちがいままでに送ったいちばん長い報告じゃないかな。あ、そうだ、いくつかチャートの訂正。スタンバイねがいます」
座標の訂正がえんえんと読みあげられたのち、録音はそこで終わる。
コーティーはじっとすわったまま、いまの説明を頭の中で整理しようとする。新しい種族とのコンタクトがあったのは明らかだ。むこうは友好的らしい。だが、どうもなにかがひっかかる――これからそっちへとびこんでって、大きな白い六本足の動物と会い、“利口になる手当”をされるなんて、あたしはまっぴらごめん。ボーニイとコーは、どっちかというと――おめでたいほうだったらしい。ひょっとしたらなにかの方法でだまされて、いいように利用されたんじゃない? けど、なぜなのか、どうしてなのか、見当もつかない。あたしの手にはおえないよ……。
もうひとつはっきりしてるのは、この報告を大至急基地へ届けなくちゃいけないってこと。ボーニイとコーの航路を追っていく予定の船があったんじゃなかったっけ? だったら、その船も猫の惑星へ着くことになる。そこの座標は――コーティーは手首を見る――北三〇・二〇などなど。まいったな、どうする? ひきかえさなくちゃいけない? これを届けるためにひきかえしたら、せっかくの旅がパーになっちゃう。ばーか、なぜあたしはよけいなおせっかいをして、ひとの仕事までかかえこんじゃったんだ?
あ、待って。もし、この報告がそんなにいそぐなら、ここから基地を呼びだして、メッセージを中継するほうが、早いはずよ。最後の一行程が節約できるんだから。それなら、妨害したってことで叱られなくてすむ! まだここは交信範囲内かもしれないし。
コーティーはトランスポンダーの出力を上げて、連邦基地九〇〇の呼びだしをはじめる。ようやく声が応答するが、ノイズの中でほとんど聞きとれない。抑制器をいじると、いくぶん声がはっきりしてくる。
「連邦基地九〇〇、こちらはCC‐1、現在位置ALビーコン1。聞こえますか? メッセージ・パイプを傍受しました。発信者は巡回補給船九一四B‐K、あのボーニイとコーの乗っていた行方不明の船です」彼女はもう一度たずねる。「聞こえますか?」
「了解、CC‐1。補給船九一四B‐Kからのメッセージが傍受された。そのメッセージは?」
「長すぎて、読んでるひまがないんです。でも聞いて――だいじなことだから。ふたりはある惑星へ行く途中でした。座標は――ちょっと待って――」彼女は録音を検索して、その座標を知らせる。「その前にふたりがいたのはあの北三〇・二〇の惑星です――あとの座標はそっちでわかりますよね。あそこには新しい種族がいるの! たぶん、ファースト・コンタクト。でも聞いて。ふたりの話がどうもひっかかるんです。だから、メッセージの全文を聞くまで、あそこへは行かないほうがいいと思います。パイプはいますぐ送ります」
「CC‐1、一部聞きとれなかった。北三〇・二〇の惑星がファースト・コンタクトなのか?」
ひずみ効果で、通信の声がとぎれとぎれになる。コーティーはできるだけ明瞭な口調でさけぶ。「そうよ! そのとおり! でも、行っちゃだめ。くりかえします、あそこへ――行っては――だめ――B‐Kのメッセージを聞いてからにして。これから――すぐに――パイプを――送ります。聞こえた?」
「復唱する。……B‐Kのメッセージをうけとるまで、北三〇・二〇、西四二・二八の惑星に近づくな。パイプをすぐに送る。グリーン、CC‐1?」
「ゴー。もし、パイプの送りかたがよくわからなかったら、持って帰ります。CC‐1、送信完了」
コーティーはうるさい雑音の渦の中でそうしめくくると、パイプに注意をもどし、それを送りかえそうとする。
しかし、カセットを音声再生機からとりだす前に、B‐Kの目ざしていた惑星の座標をもう一度チェックする。北一八・一〇、西二八・三〇。RD三〇。それだと、ファースト・コンタクトの惑星よりも近い。そうだ、あのふたりも帰り道にそこへ寄るといってた。コーティーは、最初の座標をメモに写しとってから、手首の数字を新しいそれに書きかえる。ボーニイとコーの捜索を手伝う気なら、そっちへ直行したほうが――でも、もちろんまだ決心したわけじゃない。まくりあげた袖をおろしかけて、まだ腕が妙な感じなのに気づくが、凍傷の跡はどこにも見つからない。二、三度腕をさすると、その感じは消える。
「興奮で、モロ鳥肌立ったりして」とつぶやく。
コーティーはまだ子供っぽい癖が抜けきっておらず、ひとりになると、声を出して自分に話しかけたくなる。子供のころ、ひとりぼっちでいることが多かったからだ、と自分では思っている。宇宙おもちゃやホログラムがあれば、よろこんでいつまでも遊んでいる子供だったから。
メッセージ・パイプをもう一度コースに乗せる手続きは、ばかばかしいほど簡単だとわかる。金色の粉をきれいに吹きはらってから、カセットをもう一度中におさめ、観測窓の横から排出する。コーティーが夢中で見まもる前で、ちっちゃなちっちゃな宇宙船は、連邦基地九〇〇から発信されている誘導電波に同調して、ゆっくり方向転換する。それから、満足したのか、するりと動きだし、しだいにスピードをまして遠ざかっていく。あれならまちがいない。ビーコン1から連邦基地九〇〇への最終行程にとりかかったんだ。かわいーい! これまであんなパイプがあるなんて聞いてなかったけど、ほかにもあたしの知らないすてきな辺境のガジェットが、まだいっぱいあるんだわ、きっと。
それが遠ざかるのを見送りながら、コーティーはふとやましい気持ちになる。ほんとはもっと基地の近くへひきかえして、メッセージの全文を読んで聞かせるべきだったのかも。あのふたりがいまごろなにかのトラブルにまきこまれて、一秒をあらそう事態だとしたら? でも、ふたりともおちついたようすだった。すこし疲れてる感じはしたけど。それに、どこかへ立ちよるたびにメッセージ・パイプを送りだすのが、いつもの手順だって聞いた。もし、あの訂正事項のどれかが重要だとしても、あたしにはうまく読みあげられそうもない。その前に声が疲れて出なくなっちゃう。あれでいいんだ、ボーニイの報告をそのまま送ったほうが。
コーティーはコースの決定にとりかかり、そこでさっき自分に嘘をついていたことに気づく。もう決心はついてる。B‐Kが向かっていた惑星へ行って、できたらふたりをそこで見つけたい。ひょっとしたら、ふたりは動けないほど気分がわるくなったのか、それともべつのエイリアンと面倒なことになったのか。それとも、船が故障したのか。……帰りが遅れているのにはどんな理由でも考えられるし、あたしがむこうへ行けば、役に立てるかもしれない。それに、いまではメッセージ・パイプの取扱いにもくわしくなったから、惑星の表面から送りだせるはずがないのは知ってる。いったん大気圏の上に出なくては送れない。だから、もしボーニイとコーが離昇できないほど気分がわるいのなら、救難信号も送れないはず――すくなくともメッセージ・パイプでは。
コーティーはホロチャートを調べながら、この推論をなかば自分にむかってしゃべりつづける。まったく新しいコースをきめて、コンピューターに入力するのは、思っていたより大仕事だ。学校でやったたくさんの問題は、簡単な自然の通路があるものを選んであったにちがいない。「あーあ、まあったく……また消さなきゃ。ここもアステロイドの通り道だなんて。助けて! この調子だと、永久にこのビーコンから離れられそうもないな――探険家なんて、きっと一生の半分はチャートをにらんで過ごしてんだ」
そうつぶやくうちに、コーティーは船内で奇妙な小さいこだまに似た音がするのに気づく。
まわりを見まわすが、キャビンの中はピカピカした補給品のケースでぎっしり詰まっている。
「あれで音響効果がくるっちゃったかな」とつぶやく。それにちがいない。でも、それにしては奇妙なずれがあるようだ。たとえば、「助けて!」という言葉がとても小さく澄んで聞こえたので、しばらくそばの棚をキョロキョロ目でさがしてみる。ひょっとしたら、連邦基地にいたときに、口のきけるペットかなにかが中へはいりこんだのかしらん? だったら、たいへん。すぐ冷凍睡眠にいれてやらないと死んじゃう。
しかし、それ以上はなにごともおこらず、やっぱり反響のぐあいだろうと思いなおす。そして、ようやくのことで、北一八・一〇の惑星系への安全な三行程のコースができあがる。専門家ならもっと短くてエレガントな二行程のコースを作れるにきまっているが、予想もしない障害物にでくわして、途中でたたきおこされるなんて危険はおかしたくない。そこでコーティーは、充分修正を重ねたいくつかの赤色矮星と、そのほかかろうじて目に見える天体にそったコースを選ぶ。このてのチャートは生きた歴史みたいなもんね、と彼女は思う。故郷にあったような、名前もはいってないホロチャートとはものがちがう。ああいうチャートは、年に百回もチェックされてるし、それに安全な航路の周辺しかそろえてない。でも、このてのチャートからは、むかしの探険家たちの作業の跡が読みとれる。たとえば、あのポンスもそう――彼は長年かかって、やっと黄色の太陽たちへのルートを見つけた。それから、三〇・二〇へ着陸するとき、地面に激突して死んだ……。でも、こんなことしてるのは時間のむだだ。彼女はマークしたカセットをコンピューターへの入力順に装着し、最初のカセットをスタートさせる。やっと未知への旅のはじまり!
コーティーは冷凍睡眠カプセルの準備をすませ、中にとびこむ。リラックスしたとき、まだ奇妙な感覚が残っているのに気づく。なにかに、それともだれかに、つきまとわれている感じ。
「たぶん、あたしも宇宙会員のひとりになったんじゃないかな」ロマンチックに自分にそういいきかせ、小さな“CC”の修正がひとつはいった未来のチャートをまぶたにえがく。フフ! 彼女は暗闇の中で眠そうに笑い、すてきな気分になる。まるで体がバラ色にほてるような感じに包まれて、夢のない眠りにおちこむ。
こうして未知の宇宙空間を、道に迷ったり帰還不能になったりする心配もなく、無意識状態で出発できるのは、すべてのジャンプ船に装備されたすばらしい単純な小道具のおかげだ――それは船尾にある低速度撮影航跡記録装置で、休みなく時を刻みつづけ、背後の星野を記録していく。この装置は星野内での運動によって加速され、星野が静止したとき、休息状態になって減速する。だから、パイロットが自分のルートを取り消したいときには、適当なカセットを選んで、それを自動誘導コンピューターへいれるだけでいい。コンピューターは、往路の星野シーケンスとおなじものが見つかるまで検索をつづけ、それからいくらか時間はかかるが、まちがいなく船をそれがやってきたコースにそって帰還させるのだ。
コーティーは目ざめ、カプセルからとびだして、まったく新しい星野をながめる――まっくろな〈リフト〉の腕を背景に、金色に輝く太陽の群れが作りだす巨大なスプロール。中でいちばん近い星が、北一八・一〇だ。計算どおり! 推進は、もよりの重力場の手前で中断されている。あとは長い噴射推進を使うことになる。
[#挿絵(img/rift_041.jpg)入る]
日の出のような興奮が彼女の全身を浸す。やったあ! はじめてのソロ・ジャンプ!
そして、心のよろこびといっしょに、またあの体のほてりが感じられ、そのあまりの強さに、一瞬とまどう。たしかに肉体的なものだ。まるで自己刺激器具のブーンといううなりみたいだけど、ふつう自己刺激で感じるような、べとべとした不快感はない。生理の先生は、性的緊張のやわらげかたを教えるとき、不快感はそのうちなくなるといったが、コーティーはあまりそれを使ったことがない。いま彼女は思う。先生のいったとおり、純粋な興奮はセックスを活発にするらしい。「もー消えちゃってよ」とコーティーは苛立たしげにいう。これから噴射推進をスタートさせて、惑星のありそうなところまで近づかなければいけないのに。
発進するのを待ちかねたように、彼女はスコープをのぞき、惑星をチェックする。ある! ひとつ――ふたつ――よっつ――あそこだ! この距離からでもわかる青緑と白! ボーニイとコーの話では、高度の地球型。これよ、まちがいない、と古代地球のホログラムしか見たことのないコーティーは思う。でも、地球型じゃない部分って、どんなことかな、とすこし気になる――気候の不順とか、なにか主要な生物がいないとか? そんなことはかまわない――七五パーセント以上の地球型なら、良質の空気と水が存在するわけだから、保護装備なしで暮らせる。あんなきゅうくつな服を着こまなくても、外に出て、新しい世界を探険できる! でも、ボーニイとコーはもうそこへ着いてるかしら?
その惑星からの軌道距離にはいったら、周回しながら、標準探査パターンをとらなくてはならない。連邦の制式船には、そのためのレーダー反応装置がついている。だが、この小艇には、本格的な探査スコープがない。だから、肉眼を使って、もっと狭いコースをたどるしかない。ひまがかかりそうね、とためいきをつく。
コーティーは、自分が足を組んで、なんとなく体をくねくねさせたり、あっちこっちをかいているのに気づく。ったくもう、ひどいもんね、このセックスの氾濫は! しかし、心のほうはおちついていて、本当の幸福感に近い。すてき。ただ、気が散って困るけど……。進入までの時間をのんびり待とうと、座席の背にもたれかかったとき、またしても船内に異物の存在が感じられる。道づれ、仲間。あたし、頭がおかしくなったのかな? 「おちつきなさい」きっぱりと自分にいいきかせる。
一瞬、完全な沈黙……その中から、ちっちゃな、ちっちゃな声がはっきりという。
「ハロー……ハロー? どうか怖がらないで。ハロー?」
声のやってくる方角は、彼女のうしろの頭上だ。
コーティーはうしろをふりかえって見上げ、つぎにそこらじゅうを見まわすが、なにも新しい発見はない。
「ど、どこにいるのよ〜」彼女はきく。「あんただれ?」
「わたしはとても小さな生物です。あなたはわたしの命を救ってくれました。どうか怖がらないで。ハロー?」
「ハロー」コーティーは間をおいて答え、あたりをしきりに見まわす。まだなにも見えない。
それに、うしろを向いても、声はやはりうしろから聞こえる。怖さはぜんぜん感じない。ただ、強烈な興奮と好奇心にかられているだけだ。
「なんのこと? あたしがあんたの命を救ったって〜」
「わたしは、あなたがメッセージ・パイプと呼んでいるあの人工物の上にくっついていたのです。もうすこしで死ぬところを助かりました」
「そう、よかったね」だが、いまになってコーティーはちょっぴり怖じ気づいている。小さい声が話しかけたとき、自分自身の喉頭と舌が――まるでその言葉を自分でしゃべっているように――動いているのを、はっきり感じたのだ。どうなってんの、ぜったいに頭がおかしいわ、これは幻覚! 「あたし、ひとりごといってんだ!」
「ちがう、ちがう」その声が――彼女の声が――力づけるようにいう。「あなたが思ったとおり――あなたの言語器官を使っています。どうか許してください。わたしの器官を使っても、あなたには聞こえないので」
コーティーはこの言葉を疑わしげにかみしめる。もしこれが幻覚なら、ずいぶん手がこんでいる。こんなことははじめてだ。もしかしたらこれは現実で、エイリアンの一種のテレキネシス?
「でも、どこにいるのよ? どうしてここへ出てきて姿を見せないの?」
「そうできないのです。いま説明します。どうか怖がらないと約束して。わたしはなにも傷つけていませんし、あなたがいやなら、いつでも立ちのきますから」
コーティーはだしぬけにあることを思いつき、コンピューターのほうを鋭く見やる。ファンタジー・ショーで、エイリアンの心がコンピューターにとりつくという筋のホロを見たことがある。知っているかぎりでは、現実にそんなことのおこったためしはない。でも、ひょっとして――
「あたしのコンピューターの中?」
「あなたのコンピューター?」よほど意外だったのか、声はクスクス笑いに似たものをひびかせる。「ある意味ではそうです。わたしがとても小さい生物なのはいいましたね。わたしは空洞にいます。あなたの頭の中の」いそいでつけたす。「どうか怖がらないでくれますか? わたしはいつでも出ていけますが、そしたら話しあうことができません」
「あたしの頭の中!」とコーティーはさけぶ。どういうわけか、笑いだしたくなる。まじめに返事しなくちゃ、とわかっていても、考えられることはひとつ――鼻の奥のかったるい感じはこれだったのね。「どうやってあたしの頭の中にはいったのよ?」
「あなたが助けてくださったとき、わたしはなにを考える能力もなかったのです。わたしたちには原始的な向性があって、体を見つけるとそこへもぐりこみ、頭のほうへ進んでいきます。正気づいたとき、わたしはここにいました。つまり、故郷では、わたしたちは宿主の動物の脳に住んでいるのです。というより、わたしたちが彼らの脳なのです」
「あたしの体の中を通ったって? あ、そうか――手首のあそこから?」
「はい。きっとそうです。いまはぼんやりした、原始的な記憶しかありません。あのう、わたしたちはとても小さくて。いつも住んでいるところは、たしかあなたがたが分子間の空間、それとも原子間の空間と呼んでいるところです。わたしたちが通りぬけても、なにも傷はつきません。わたしから見ると、あなたの体はひろびろとして、穴がいっぱいです。ちょうど、あなたの風景があなたにとってそうであるようにね。あなたの目を通してそれをながめるまで、こんなにたくさんの大きな固体があるとは知りませんでした! それから、あなたが冷たくなったあとで、われにかえってあたりをさぐり、そして、言語中枢を解読したのです。長い長い時間でした。とても……淋しかった。あなたが目をさましてくれないのじゃないかと……」
「そう……」コーティーはいまの言葉をじっくり考える。自分がこのすべてを空想したのでないことには、かなりの確信がある。これは現実にちがいない。だが、彼女に思いつける言葉はこれだけだ。「あたしの目も使ってるの?」
「わたしは第二接合点にある視神経に根をのばしています。安心してください、ごくそうっとですよ。それから、あなたの聴覚器官にも。これは、わたしたちが最初にやることで、原始的なプログラムのひとつです。それから、宿主を怖がらせないように、幸福感をあたえます。いま、あなたは幸福な気分でしょう? ちがいますか?」
「幸福?――ねえ、ちょっと、こんなことをしたのはあんた? やあね、もしあんたがやったんだったら、やりすぎよ。あんたのいうような“幸福”は、そんなに感じたくないんだ。すこし弱めてくれない?」
「そうですか? すみません。ちょっとお待ちを――わたしの動きはのろいので」
コーティーは待つ。あらゆることを一度に考えるので、頭の中は大混乱になる。まもなく、気の散る原因だった体のほてりがぐっと減ってくる。ほかのなによりも、このことひとつで、新しい住人が現実の存在だと信じられてくる。
コーティーはゆっくりたずねる。「あたしの心が読めるの?」
「あなたが言葉を形づくるときだけです」彼女自身の声が答える。「心内発声、ですか? あの長く冷たい時間を使って、わたしはあなたの語彙《ごい》と言語を勉強しました。わたしたちには、コミュニケーションに対する原始的な衝動があります。たぶん、すべての生物がそうでしょう」
「活動のとまった、眠ってる脳から言語をマスターするなんて、すっごい離れわざね」コーティーは考えぶかげにいう。エイリアンが使っているときの自分の声に、はっきりしたちがいがあるのは自分でもわかる。ふだんの声よりも高くて、しぼりだすような感じ――それに、文字で読んで知ってはいても、ふだんは使わないような単語がまじる。
「はい、さいわい、時間はたっぷりありましたから。でも、あなたがなかなか目をさまさないので、ずいぶん心配にもなり、落胆もしました。あれだけの勉強がむだになるのかと思って。あなたが生きているとわかって、とても幸福です! 努力が報われたという理由だけでなく――生命があったことが……。ああ、そういえば、前にも一度、あなたの種族との接触の機会がありました。でも、あなたの脳はずいぶんちがいます」
この思いがけない出来事に、いくらめんくらい、動転していても、コーティーはけっしてまぬけではない。“故郷”とか“宿主”という単語が、ボーニイとコーの報告とつながってくる。
「あんたが乗ってきたメッセージ・パイプを送ったふたりは、あんたの母星を訪ねたの? つまり、ふたりのヒューマンが――あたしの種族が――これよりも大きい船でやってきたんじゃない?」
「ああ、そうです! わたしは順々に彼らといっしょになった仲間のひとりでした! ちょうどわたしがその片方を訪問しているとき、彼らが帰ることになったのです」声に抑制がまじる。
「あなたの脳は、ほんとにずいぶんちがいますね」
「ありがと」とコーティーはまのぬけた返事をする。「あたしが聞いた話じゃ、あのふたりは――あのふたりのヒューマンは――それほど頭脳明晰じゃなかったらしいわ」
「頭脳明晰? ああ、そうです……。わたしたちもいくらか修理してみましたが、あまり効果はありませんでした」
コーティーの混乱した思考がひとつにまとまる。あたしがこうやって話しあってる相手はエイリアン――それも、もしかしたらすごく有害で、おそらくは危険なエイリアン。それがすでにあたしの頭に侵入してる。
「あんたは脳寄生体ね!」とコーティーは大声でさけぶ。「あんたは知性をもった脳寄生体で、あたしの目で物を見たり、あたしの耳で音を聞いたり、あたしの口でしゃべったりしてる。まるであたしをゾンビみたいに使って――それに、ひょっとしたら、あたしの脳ぜんたいをのっとるつもりなんだ!」
「ああ、やめて! お、おねがいです!」コーティーは自分の声がふるえるのを聞きとる。「わたしはいつでも出ていけます――そうしてほしいですか? それに、なにも――ほんとになにも――傷つけていません。ごく小さいエネルギーしか使いません。それに、あなたの血液供給本管にすこしたまっていたゴミも掃除しておきましたから、ふたりでもありあまるぐらいです。わたしはほんのときどき、わずかな栄養素しかほしがりません。でも、立ちのけといわれるならそうします。ただ、その過程にはすこし時間がかかります。わたしが前より深くはいりこんだ上に、道案内をしてくれる師匠がいません。でも、もしそうおのぞみなら、いまからすぐにきた道をひきかえして、立ちのくことにします……。たぶん――も、もうこれだけ元気をとりもどしたら、あなたの船にくっついていても、もっと長く生きられるでしょう」
その悲しみはコーティーにも伝染する。その声のもつひびきから、小さい、怖じ気づいた生物が、宇宙の冷たい牢獄の中で悲しそうにふるえているイメージがよびおこされる。
「それはあとできめようよ」コーティーはいくぶんつっけんどんにいう。「その前に、あたしの脳をかってにいじったりしないと、名誉にかけて約束できる?」
「もちろんです」彼女自身の声が憤然と答える。「こんなに美しい脳を」
「でも、どうしたいわけ? これからどこへ行くつもり?」
「いまは、ただ故郷に帰りたいだけです。これまでは、どこかヒューマン世界の中央部へ行けば、だれかわたしを母星のノリアンまで、本来の宿主のところまで運んでくれる人が見つかるのではないかと思っていました」
「でも、最初は? どうしてボーニイとコーから離れて、あのメッセージ・パイプにのっかる気になったのよ?」
「ああ――からっぽの宇宙空間がどれだけ大きいかを知らなかったのです。故郷でも宿主の体の外に出て長い旅をすることがあるので、そんなものかと思っていました。ブルルルッ! わたしの知らないことはまだたくさんあります。わたしがとても若い生物なのがわかりますか? まだ、教育がすっかり終わっていません。師匠は、わたしのことをばかだとか、むこうみずだとかいいます。わたしは――冒険をしたかった!」小さな声がだしぬけに力強く積極的になる。「いまでも冒険をしたいと思いますが、それにはもっと準備が必要だとわかりました」
「はん。ねえねえ、わかる? あたしも若いの。つまり、似たものどうしってこと。あたしも、やっぱり冒険がしたくて、ここへやってきたんだ」
「ではわかってもらえますね」
「うん」コーティーはにやりと笑い、ためいきをつく。「そうね、あんたを連邦基地まで運んだげてもいいわよ。きっとあんたの惑星へ探険隊を出すことになると思うんだ。あたしたちにとってはファースト・コンタクトだもん。つうのは、ヒューマン以外の新しい種族との出会いってこと。これまで五十ぐらいの種族と出会ったけど、あんたみたいなのははじめて。だから、きっとそっちまで行くと思うわ」
「ああ、ありがとう! ほんとにありがとう!」
コーティーは、にわかに波が押しよせるのを感じる。肉体的な快感、衝動――
「おいこら、またやったわね。やめなさい!」
「あ、すみません」ほてりがひいていく。「感謝を表わす原始的な反応です。快感を与えるための。つまり、ふだんのわたしたちの宿主は、とても愚かなので、肉体的感覚でこちらの感謝を表わすしかないのです」
「わかった」そのことを考えているあいだに、コーティーはあることに気づく。
「それじゃ、もし宿主があんたの気にいらないことをした場合、お仕置きとして苦痛を感じさせることもできるんじゃない?」
「できるでしょう。でも、わたしたちは苦痛を好みません。デリケートな脳がめちゃくちゃになりますから。それもわたしがまだ受けていないレッスンのひとつです。一度だけそうしたことがありますが、それはわたしの宿主が遊んでいて、危険な崖のそばへ近づきすぎたときでした。でも、宿主がうしろへさがったあと、すぐ快感でなだめました。わたしたちがそれを使うのは緊急事態だけです。宿主が自分を傷つけようとするときとか、そんなことはめったにありませんが。……それとも……待って、思いだしました。宿主が、あなたがたのいう喧嘩をはじめるときです。……なかなか複雑でしょう?」
「わかった」コーティーはくりかえす。不安な気持ちで、こうさとる――この若いエイリアンの乗客は、思ってる以上に、あたしを支配する力をもってるのかも。あんまり冴えた状況じゃないな。でも、相手はすごい善意のかたまりで、こっちに危害を加えるつもりなんか、これっぽっちもないらしい。コーティーは肩の力をぬく――でも、そんなものが自分の脳の中に――ぎゃは!――いるなんてことをあっさり気持ちの中で受けいれたのは、もしかしたらこのエイリアンにあやつられてるせいかも……と疑念がきざすのを抑えきれない。もしかしたら、ほんとに冴えたやりかたは、いますぐ出ていって、とこの乗客に要求することかも。あたしから追いだされても、彼女はどこかほかに住みいい場所を見つけられるかな? たぶん、見つかるよ。もすこし連邦基地に近づけば。
それより、ボーニイとコーがむかってる惑星を訪ねる計画、どうするつもり? もしあのふたりのいた形跡でも見つかれば、すごく連邦基地の役に立つ。それに、ここまできといて、なにも見ないで帰るなんて、ばっかみたいじゃない?
自分自身との議論にまもなく決着がつく。そして、若々しい食欲が頭をもたげる。彼女はスナック・パックをとりだし、惑星への噴射コースを設定し、ぱくつきながら、連邦基地へひきかえす前になにをするつもりかを説明する。その道草について、彼女の乗客はなにも抗議しない。
「ありがとう。わたしを運ぶことにしてくれて、ほんとにありがとう」チーズをかじりながらなので、彼女の声はちょっとしゃべりにくそうだ。
コーティーが冷凍カプセルをあけると、金色のきらめきが目につく。あの金色のほこりが、まだ冷たい表面にくっついているのだ。それをはたきおとすと、中の一部が顔のほうへただよってくる。
「ところで、この金粉みたいなのはなに? あのメッセージ・パイプの中にもあった。あんたといっしょにやってきたのよ。これが見える? やだ、足にもくっついてる」彼女は片方の足をのばす。
「はい」と彼女の“もうひとつの”声が答える。「それは種子です」
コーティーは自分自身との奇怪な会話に慣れてくる。こんなショーを見たことがあるのを思いだす。腹話術師が動かす人形。「あたしは腹話術師の人形」と苦笑しながら思う。「だけど、腹話術師でもある」
口に出しては、こうたずねる。「どういう種子なの? なんの種子?」
「わたしたちの種子です」つかのま心がざわめいたかのように、ためいきにも似たひびき、それとも感情。それから、きびきびした声が答える。「待って。忘れていました。その種子がくっつかないような化学物質を放出しましょう。それをひきつけているのは――生命フェロモンです」
「そんな単語、自分でも知らなかった」コーティーは見えない道づれにいう。「あたしが眠っているうちに、よっぽど語彙をよく調べたのね」
「ええ、ええ。努力しました」
一瞬後、コーティーはかすかに皮膚が赤らんでピリピリするのを感じる。これが“化学物質”? 不安を感じるいとまもなく、それは消えてしまう。そして、うかんでいた粉が――それとも種子が――まるで静電気にはねのけられたように、下に落ちたのに気づく。
「あざやか」コーティーはもうすこし食べてから、コース設定をすませる。「それで思いだした。あんた、自分の種族をなんと呼んでるの? それと、あんたにも名前があるはずよ。おたがいをもっとよく知りあわなくちゃ!」彼女はふたり分の笑い声をあげる。不安な感じはすっかりけしとんでいる。
「わたしの種族の名はイーア、またはイーアドロン。個人的にはシロベーンと呼ばれています」
「よろしくね、シロベーン! あたしはコーティー・キャス。コーティーと呼んで」
「よろしくね、コーティー・キャス・コーティー」
「ちがう。ただのコーティーでいいの。キャスというのは家族の苗字」
「ああ、“家族”。その意味が、わたしたちにはふしぎでなりませんでした。あのヒューマンたちと会ったときに」
「うん、よろこんで説明するわよ。けど、それはあと――」コーティーは自分をさえぎる。「つまりさ、あの恒星をまわってる惑星へこれからゆっくり近づいてくから、説明の時間はたっぷりあるのよね。それより、あんたの話を先に聞きたいな、シロベーン。だって、あたしが体を提供したげてるんだもん。それぐらいは当然だと思わない?」
「はい。利己的にならないように気をつけます。こんなによくしてもらっているのに」
この返事で、コーティーは自分の乗客が、まだ年若い、子供といってもいいような生物なのを実感する。これまでどうも調子がくるったのは、この相手があたしの頭の中で見つけたむずかしい単語のせい。でも、いまのシロベーンは、あたしが自分にお行儀よくしろといいきかせるときとそっくり。もう一度コーティーは優しく笑いだす。もしかしたら、あたしたちは星野へ冒険をさがしにでかけたふたりの子供――もしかしたら、ふたりの女の子? こんな思いがけない道づれができるなんて、すてきじゃない。いくら本を読んだり星をながめたりするのが好きでも、宇宙の旅の大半は、冷凍睡眠にはいってるときをべつにして、じっとすわって待つだけの孤独な時間だってことが、ようやくわかりはじめてきたところだから。もちろん――とコーティーはやましい気分で思いだす――このあたりの比較的すくない恒星の座標が正しいかどうか、チャートでチェックしなけりゃいけないのかも。けど、きっとそれはボーニイとコーがやってるだろうし――なんてったって、あのふたりからすると、ここの太陽まで二度目の旅なんだもん。最初のときは、惑星があることを見つけただけ。それに、新しいエイリアンがいるとわかったことは、すごく重要だし。
コーティーはのんびりと座席の背にもたれてたずねる。「ねえねえ、あんたの惑星はどんなとこ? どんなふうに見えるの? それと、あんたらの宿主だけど――どんなぐあいなの? そもそも、どうしてそんな方法が発達したわけ? そうだ、待って――あたしにイメージを見せてくれる? あんたの故郷のイメージ」
「ああ、むりです。わたしの能力では、そんな芸当はできません。言葉を話すだけで精いっぱい」
「じゃ、故郷のことを残らず話して」
「はい。でも、最初におことわりしておきますが、わたしたちはなにも持っていません――つまり、あなたがたのような道具とか、テクノロジーはありません。わたしたちの持っている技術は、心のそれだけです。あなたがたのしていることには、ただただ驚くばかりです。あなたの種族がなしとげたことは、奇跡です! あなたがたの使う装置をのぞくと、遠い世界が見えました――別世界が! それに、あなたがたはそこを訪れるのを、まるでわたしたちが湖や樹木農園へ行くように気軽にしゃべっています。すばらしい!」
「うん。ヒューマンのテクノロジーは進んでる。ほかの種族もそうよ。たとえば、スウェインとか、ムームとか。けど、あたしはあんたらのことが知りたいのよ、シロベーン! まずはじめに、このイーアとイーアドロンのことを説明して」
「ああ。ええ、もちろんそうします。つまりですね、わたし個人、ただのわたしだけだとイーアです。でも、ふだんの宿主はドロンという種族で、その中へはいるとわたしはイーアドロンになります。イーアだけでは、なにもないのとおなじです。なにもできずに、原始的な向性をたよりに、宿主がやってくるのをじっと待つしかありません。あなたがわたしを見つけたときのように、ひとりきりでいるのは、イーアにはめったにないことです――なにかニュースを聞いたり勉強したりするために、ほかのイーアドロンを訪問するときだけです。そのときは、自分の大部分をそこにおいて、つまり、自分のドロンの中に残して出ていって、あとでまたそこへもどってきます。わたしはまだ若いので、ほとんど完全に自分を切り離し、あのヒューマンたちの訪問者のひとりとして、いっしょに行くことができました」
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「そうか――ボーニイとコーが出発したときは、ほかのイーアもいっしょについていったの?」
「はい――すくなくともひとりずつ」
「それをあんたらはなんと呼ぶわけ――イーアヒューマン?」コーティーは笑う。
しかし、彼女の道づれはその笑いに加わらない。
「彼らはとても年とっていました」と自分自身が小さくつぶやくのが聞こえる。つぎのつぶやきは、こんなふうに聞こえる。「旅の長さをまったく知らずに……」
「そこであんたはあのふたりのメッセージ・パイプに乗ってきたわけね。わあぉ――やるじゃない! シロベーン、あたしがあれをひろってよかったね。それであんたが助かったんだもん。うれしいよ」
「わたしもです、大好きなコーティー・キャス」
「でも、そろそろマジな話をしなくちゃ。そのへんてこなシステムだけど、そこの惑星でそんなふうにべつの体の中に脳を持ってるのは、あんたの種族だけなの? あ、ちょい待ち。ぜんぶ録音しとこ。もう一度こんな話をくりかえすなんていやだもん。いま、新しいカセットをいれるからね」
コーティーは準備を終わり、それからまえおきをつけたほうが本職っぽいんじゃないか、と思いつく。
「こちらはコーティー・キャス、CC‐1の船内で録音中。現在無名の惑星に接近中で、その座標は――」彼女は必要な座標と、標準時での日付と時間、それにボーニイとコーが最後にこの惑星に向かったという報告のあったことをつけくわえる。
「その前に、ふたりは北三〇・二〇の星に着陸し、そこの生物とファースト・コンタクトがあったと報告してます。この報告は、あたしがここへくる前に、メッセージ・パイプで連邦基地へ送られたものです。いま、わかったんだけどふたりがその惑星を出発したとき、その生物もいっしょについてきたみたいです。正確にいうと、目に見えないイーアという生物がすくなくともふたり、ボーニイとコーの頭の中にはいってました。それからいくつかの種子と、もうひとりのとても若いイーアも。この若いイーアは、本人にいわせると、冒険がしたかったらしいんです。彼女はその旅がどれだけ長くつづくかを知らずに、メッセージ・パイプにはいってきたので、あたしがふたをひらいたときはもう死にかけてました。彼女は――あたしはいちおうその生物のことを“彼女”といってるけど、たとえ性別があるにしても、まだなんにもわかってません――彼女は、メッセージ・パイプをあけたときに、あたしの体内へ移動して、いまはあたしの頭の中です。そこにいて、あたしの目と耳から見たり聞いたりし、あたしの声を使ってしゃべります。これから彼女に、故郷の惑星、ノリアンのことをインタビューしてみます。忘れないでほしいんだけど、聞こえるのはぜんぶあたしの声――でも、あたしは聞き役にまわってます。シロベーンが」それが彼女の名前ですけど――あたしの声でしゃべるときは、じきに区別がつくと思います。声が高いし、ちょっと絞りだすような感じがあるし、それにあたしが本で読んだだけみたいなむずかしい単語を使いますから。あたしがここまで冷凍睡眠にはいってたあいだに、彼女は言葉を勉強したんです。じゃ、シロベーン、あたしに話したイーアとイーアドロンのことを、もう一度くりかえしてくれる?」
コーティーは、自分自身の声がしゃべりはじめるとき、すこし力をぬいたほうがいいことを、すでにわきまえている。彼女の聞いている前で、シロベーンはすてきな短いまえおきをつける――「はじめまして、ヒューマンのみなさん、どうかよろしく!」それから、イーアとイーアドロンのシステムについて話しつづける。
「ところで」とコーティーはいう。「さっき、あたしは彼女にこうたずねるところでした。その惑星では、べつの動物の中に、なんていうか、自分の脳を持ってる生物は、イーアだけなの?」
「いいえ、ちがいます」とシロベーンの声がいう。「わたしたちの、あー、動物界ではありふれたことです。実をいうと、そのほかのやりかたがあると聞いて、いまも驚きがさめません。でも、ほかの動物では、いつもふたつが密接にくっついています。たとえばエンクァアロンの場合、エンは生まれるときもクァアロンといっしょなら、交尾するときも、子供を生むときも、死ぬときもいっしょです。それはすべてのエンについて――というのがその脳生物の名前ですが――いえることです。ただ、わたしたちイーアだけはちがいます。イーアだけはドロンとかけ離れているために、ドロンが死んでも死にません。……でも、年とったエンダラミンが――これはイーアドロンにいちばん近い動物ですが――生まれたばかりのダラミンたちに頭をくっつけているのを見たことがあります。ちょうどエンが新しい体にはいりこもうとするときのようでした。いっぽう、生まれたばかりのダラミンたちと組になっているエンの種子は、困ったようにそばでうろうろしていました。ときたま、年とったものがうまく新しい体にはいりこむこともあるようです」
「じゃ、イーアは自分のとりついた体が古くなったとき、新しい体へ移れるんだ! すると、あんたらは不老不死ってこと?」
「いいえ。イーアもやはり年をとって死んでいきます。でも、ごくゆっくりです。一生のあいだには、たくさんのドロンを使うことになります」
「へーえ。じゃ、こんどはあんたらの社会とか政府、それにどんなふうに食物をとるかとか、そんなことを話して。イーアドロンの中にも、金持ちと貧乏人、召使と主人があったりする?」
「いいえ、わたしがそれらの単語を理解しているとしての話ですが、そんなものはありません。でも、農園はあって――」
こんなふうに行きあたりばったりの質疑応答をつうじて、コーティーはシロベーンがノリアンと呼んでいる緑と金色の惑星と、その太陽アネラの全体像をまとめていく。すべてを支配しているのは、大きな白いイーアドロンで、彼らは戦争を知らず、最も初歩の通貨制度しか持っていない。気候はとても温和なので、住居は、夜のもやと霧雨を防ぐほか、おもに装飾の用途しかない。まるで天国のような世界だ。ボーニイとコーを驚かせた彼らの恐ろしい歯ならびは、すでに忘れられた時代、おそらく肉食性であったろう過去の名残りである。彼らはいま植物の産物や果実を食べている。(ここでコーティーは、むかしの地球でも、ある種の草食性の霊長類がやはり獰猛《どうもう》な感じの犬歯をもっていたことを思いだす)。
物質的なテクノロジーの面で、イーアドロンは車輪を発明しており、農園の産物と、数すくない建築材料を運ぶのに使っている。火を使うことは大昔から知っているが、料理でたまに使うほかは、火をただのおもちゃと思っている。いまの彼らの大きな関心は、言語を書き記すコードの発達にあるらしい。彼らはそのアイデアをポンスとレスリーをつうじて知った。それは大きなたのしみと興奮の源である。もっとも一部の年長のイーアは、これまで種族の記憶として奉仕してきたので、この革新にはすこし不満を唱えている。
この説明の途中で、コーティーはある考えを思いつき、シロベーンの話が一段落するのを待って、こうさけぶ。
「ね、聞いて! あ、いけね、こちらはコーティーです――あんたはあたしの動脈を、つまり血管を掃除したといったじゃない。それから、ほかの宿主も治療するんでしょ。だから、あんたらが――つまり、あんたの種族が――自分でそんな治療のできないあたしたちみたいな種族の治療師になる気はない? あたしたちはそんな治療師のことを医者と呼んでるの。でもね、ヒューマンの医者は、体の中へはいりこんで本当に悪いところを治したりできないから、病人の体を切ったり貼ったりしなきゃならないのよ。だったらさ、あんたが連邦の中をあっちこっち旅して、病人を訪問すれば、治療ができるじゃない?――あ、そうか、それより大きなクリニックを作ればいいんだ。そしたら、ヒューマンも、ほかの種族も、みんなあっちこっちから集まってくる。イーアに体の中にはいってもらって、血管とか、腎臓とか、とにかく悪いとこをぜんぶ治してもらいにね。それにさ、病人がちゃんとお金をはらってくれるし――あんただって連邦のクレジットがほしいでしょ――それに、みんなからだいじにされるしさ! あんたらは連邦の中でも、いちばん有名で、貴重な種族になれるよ!」
「おお、おお――」とシロベーンの声が息を切らして答える。「あなたがたの感嘆のさけびはよく知りません。でも、わたしたちならこういいます――」彼女は翻訳不能の興奮のさえずりを出す。「ほんとに驚きました。もしそうできたら――」
「まあ、そのことはあとで話そうよね。ところで、あんたがヒューマンのことを知ったのは、ボーニイとコーの脳の中に、あんたのいう訪問をしたとき。そうでしょ?」
「はい。でも、もし、わたしに師匠やほかのイーアドロンを訪問した経験がなければ、どうやって傷をつけずにそこへはいりこみ、そこに住みつけばいいのか、よくわからなかったでしょう。というのは、ドロンの脳がきまった形のない物質だからです。どこへ行ってなにを食べても、宿主の脳に害はありません。というより、その脳を形づくるのがイーアの仕事です。……それと、忘れていましたが、わたしの師匠は年よりでした。それに、師匠は、ヒューマンのポンスとレスリーの中に住んだこともありました。ほら、激しい着陸をして死んだあのふたりのヒューマンです。わたしたちにも彼らを治療するすべはなかったけれども、苦痛をとりのぞくことはできました。彼らは死ぬまえに交尾したようですが、種子は出てきませんでした。わたしの師匠は、あなたがたの脳がどんなに発達し機能しているかを話してくれましたよ。いまでもわたしたちは、その驚きからさめていません」
「なぜあんたらはほかのイーアドロンを訪問するの?」
「ある主題について、短時間で多くのことを知るためです。わたしたちは巻きひげをのばします――たしか、あなたがたが菌類植物に使う用語をあてはめれば、菌糸体でしょうか。ごく細い糸と節でできていて、ほかの生物の脳に浸透します――いま、あなたの脳の中にいるわたしも、きっとそんなふうに見えるでしょう――そして、ある方法で影のパターンを作りだして、すべての情報を手にいれるのです。たとえば、歴史とか、風景の形とか。そして、そこから立ちのくときには、それをそのまま持っていきます」
「じゃ、あたしの頭の中でそれをやって、ヒューマンと連邦のことがぜんぶわかるってわけにはいかないの?」
「ああ、それは怖くてできません。あなたの言語パターンひとつをとっても、その複雑さに怖じ気づいてしまいます。わたしは細心の注意をはらって仕事を進めました。あなたが眠っているあいだ、あんなに時間があったのがさいわいでしたよ。もっとこまかい微妙なもの、感情に直結したことは、とてもいじりまわす勇気がなかったのです」
「ふーん、お心づかいありがと……」コーティーはインタビューをそこでぐずつかせたくないので、思いつくままに質問する。「イーアに社会問題はあるの? 全種族の気にかかるようなトラブルとか、ジレンマは?」
この質問に、イーアはめんくらったようすだ。「さあ、その質問がよく理解できたかどうかわかりませんが、ないと思います。そうそう、イーアドロンのふたつのグループのあいだで、わたしたちがエイリアンにどれだけの関心を持つべきなのか、激しい議論がかわされてはいますが、これはポンスのときからつづいているものです。年長の顧問団が――年とった賢者たちのことをそういうのでしたね?――それに判定をくだそうとしているところです」
「つーと、どっちの派も、顧問団の判定にしたがうわけ?」
「ええ、当然です。記憶から消されますから」
「わあぉ!」
「それに……それにファレスという果樹の不足の問題もあります。でも、それはまもなく解決されるでしょう。そうそう――あなたのいう社会問題がひとつありました。イーアは個人的に非常に長命なので、交尾して新しく子を生むのを嫌う傾向がしだいに高まっています。交尾はとても、えーと、破壊的なのです。とくにドロンの体にとっては。それで、だれもがそのままで生きていたがります。年長者たちは交尾欲を抑える方法をおぼえました。たとえば、わたしとそのきょうだいの誕生は、ひとつの季節で一回きりの出産でした。いまでも種子はたくさんとびまわっています――あなたも見たとおりに――でも、ただ浪費されていくだけです。浪費……たしか、あなたがたのことわざにも、自然について、それにあてはまるようなものがあったようですね」
「はん? あ、あれか――“自然の悪名高い浪費癖”――ちがう?」
「そうです。でも、わたしたちの種子はとても長生きします。とても。それに、あなたも見たあの金色の外皮は、ほとんどあらゆるものに対して抵抗力があります。だから、よけいな心配はいらないのかもしれません」
彼女の情報源は、それ以上この話題にふれたがらないようだ。コーティーは沈黙がおりるのを待ちかねたようにいう。「待って、あたしたちの、じゃなかった、あたしののど、このままだと、じきにふさがるか、焼けついちゃう。水!」コーティーは水筒をとって水を飲む。「しゃべりすぎてのどが痛くなるなんて、冗談かと思ってた。そうじゃないみたい。ねえ、なんとかしてくれません、シロベーン先生?」
「炎症をおこした患部を遮断して、あとは時間の経過にまかせるしかありません。痛みを止めることはできますが、もしこれ以上のどを使ったら、症状がもっと悪化します」
「もうお医者になった口ぶりね」コーティーはかすれ声でつぶやく。「じゃ、ここでやめよか――あーあ、もうひとつあんなメッセージ・パイプがあったらいいのに! いてっ!……それから、なにかおやつを食べて――そうだ、蜂蜜があったっけ、よかった――それからお昼寝。冷凍睡眠だと体が休まらないのよね。あんたもいっしょに眠らない、シロベーン?」
「いい考えです」これはひどく痛い。
「ねえったら、あたしの首を動かすだけにできないかな。こうやれば“イエス”、こうやれば“ノー”」
しばらくはなにもおこらない。それからコーティーは自分の首が軽くうなずくのを感じる。まるで妖精の指が、あごとひたいをなでたような感じだ。イエス。
「すっごい」かすれ声でいう。「いてて」
彼女はレコーダーをとめ、もう一度スコープで青と緑と白の惑星をのぞき――まだ、ずいぶん先だ――警報をセットし、それからパイロット用の椅子の上で気持ちよさそうに体をまるめる。
「おやすみなさい、シロベーン」と彼女は痛みをこらえてささやく。返事がささやきで返ってくる。「あなたもね、大好きなコーティー・キャス」
興奮のせいか、コーティーは警報が鳴る前に目がさめる。惑星はちょうど肉眼でもよく見えるようになりかけている。しかし、シロベーンに話しかけようとして、まったく声が出ないのに気づく。救急箱をさがして、トローチをとりだす。
「シロベーン」とささやく。「ハロー?」
「え――あ、なに? ハロー?」シロベーンがやっとささやきかえす。
「声が出なくなっちゃった。よくあるんだ、そういうこと。いまに治るわ。けど、惑星へ着いてもまだこんな調子だったら、あんたになにか記録方法を考えてもらわなくちゃ。できるでしょ?」
「はい、そう思います。でも、わかってほしいのですが、あとでもっと痛みがひどくなりますよ」
「グリーン」
「え?」
「グリーン……つまり、“了解した”ってこと。ね、あんたにはわるいけど、質問はあとにしてくれない。いまはちょっとだまってて」
「待ちます」
「ゴー」
「え?」
「やだな、グリーン、ゴー――“了解したからその方針で行く”って意味」それだけいうのがコーティーには精いっぱいだ。
「ああ、くだけたいいかたですね……とてもむずかしい……」
「シル、あたしは死にそうなのよ。たのむから、もうだまって。グリーン?」
痛いクスクス笑い。「ゴー」
スナック・パックにはいっていた熱い紅茶が、いくらか効きめを現わす。そのあいだに、この強制された沈黙で、はじめてコーティーは考える時間ができる。いうまでもなく、彼女はこの出来事の目新しさに夢中で、シロベーンの種族がほかの種族に対して、およそこれまで想像もつかなかったような、驚くべき医学的助力ができるという考えに、すっかりわくわくしている。もし、むこうにそうする気持ちがあれば。そして、もし恐ろしい群衆の殺到がなければ。しかし、それはえらい人たちの考える問題だ。
そして、いかにも子供らしく、コーティーは自分の帰還がまきおこすにちがいないセンセーションのことをたのしみに考える――本当の生きた新しいエイリアンを頭の中にかかえて! でも、困ったな、みんなにはシロベーンが見えない――もしかして、あたしの頭がおかしくなったと勘ちがいされて、精神病院にほうりこまれたらどうしよう? 基地へもどる前に、そのことをシロベーンと話しあわなくちゃ。彼女、きっと自分の存在を証明するような方法を思いついてくれる。
おかしいな、どうしていつもシロベーンのことを“彼女”と考えるのかしら、とコーティーはふしぎに思う。たんなる自己投影? それとも――なんてったって、あたしたちはずいぶん密接な接触をしてるんだからね――これも、シルの“原始的な向性”のように、深い本能的な知覚のひとつ? なんにしろ、そのへんがはっきりして、もしシルが若い“彼”だったりしたら、ものすごいショックよ、こりゃ。……それとも、“それ”だの“それら”だったらどうしよう。ボーニイはドロンのことをなんといってたっけ? 中には二組の“あそこ”を持ったものがある? きっと彼は生殖器のことを控え目にそういったんだ。両性具有者だっていいたかったにちがいない。ぎゃは。しっかし、それでイーアがどうこうってわけじゃないけど。
もう一度声が出るようになったら、そのへんもはっきりさせなくちゃ。それまでは、女の子どうしなんてロマンチックな固定観念をあんまり持たないことね。
こう考えているうちに、自分の頭の中に――しかも、脳の中に――住まわせることにした生物について、ほんのわずかなことしかわかっていないのに気づき、コーティーは酔いのさめた気分になる。もし、いつでも立ちのけるというシルの言葉がほんとなら……。酔いのさめた気分といっしょに訪れたのは――というより、表面にうかびあがったのは――かすかな、そこはかとない不安感。前からずっとそれが心の奥にあったことに、コーティーは気づく。まだなにか裏がある、すべてが語られたわけではない、という奇妙な感じ。おかしいな、シルに悪意があるとも、ひそかに悪いことをたくらんでいるとも思えない。ちがうよ。シロベーンはいい子だ、これ以上いい子はないほど……。コーティーのレーダーと知覚は、はっきりそう告げている。なのに、まだその感じはなくならない――というより、考えれば考えるほど強くなっていく。つまり、なにかがときどきこのエイリアンを悲しい、用心ぶかい気持ちにさせるらしい――シルにとって不安ななにかにそっとふれはするが、深くはさぐらずにそのままにしておく感じ。
でも、神々も知ってる。あたしとシルは、文字どおり話せることはぜんぶ話した。シルは声がかれるまで質問に答えてくれた……。しかし、コーティーの満たされない気持ちは、まだつづいている。待って、この気分がいちばん強くなったのはいつだったっけ?……メッセージ・パイプの中の種子が話題になったときがそのひとつ。もしかしたら、種子が話題になったたびにかな。えっと、種子は浪費されてる――というのは死んでいくって意味。そして、種子は生き物。包嚢にはいった、新しい生命の完全なはじまり。花粉のように、配偶子だけのものじゃない。シロベーンにとっては胚芽か、ことによったら赤ちゃんに相当するのかもしれない。あたしだって、死ぬとわかってる何百人もの赤ちゃんのことを考えることになったら、きっとおちこんじゃうもんね。
原因はそれかな? シルが悲しいことを考えたがらないから? まあ、筋はとおってるみたい。それとも、待って――シル自身はどうなの? もしかしたら、交尾したかったのに、いまはそうできなくなったから――それとも、すでに交尾したのかな? メッセージ・パイプの中に種子があった謎がそれで解ける? うへ! シルはもう性的に成熟した年齢なのかしらん? どうしてだか、そうは思えないけど、でもあたしは彼女のことをほんのわずかしか知らない――第一、シルが女かどうかってことも。
考えこみながらも、コーティーの目は前部観測窓に吸いつけられている。そこでは、惑星がしだいしだいに大きくなる。もう疑問をこねくりまわすのはそれぐらいにして、機会があったらシルにたずねることだけ、頭にメモしとこ……。あとしばらくで、コーティーは噴射をとめ、反重力に切りかえ、近接軌道の探査パターンにはいる操作をしなければならない。これから追加軌道をいくつもまわって、肉眼と、視野の狭い民間用レーダースコープで、できるだけの捜索をすることになる。暇のかかる仕事だ。小型の宇宙クーペが重要な探査作業には不向きなことを、彼女はまたしても残念に思う。
ここまで近づいても、その惑星はテラのホログラムにとてもよく似ている。両極にふたつの大きな氷冠があるが、青い大洋の中の大陸塊は三つしかない。それに、寒そうな感じがする。雲のカバーは薄いかすみのような絹雲《けんうん》だ。そして、北の極冠の南側は、かなりの緯度にわたって平らな灰緑色の陸地で、いりくんだ浅い湖沼群を除けばのっぺらぼう。その水面が、反射角がかわるにつれて、銀色から黒に変化していく。まるでエキゾチックな絹織物、とコーティーは思う。あんな平原を専門用語でなんていったっけ? ツンドラ、それとも、ミズゴケ湿原?
直線もカーブもなく、ダムも、どんな人工物の気配もない。この世界にはまったく知的生物がいないように見える。
おやっ、あれはなに? ちかちかする光が、影になった惑星のカーブをまわってくる。まだ太陽の光をキャッチできるほどのうんと外側。あれは反射光。ゆっくり回転してるみたい。コーティーは速度をおとし、スコープにはりつく。大きなソーセージ型タンク! あんなタンクは、巡回補給船のもの以外に考えられない。ボーニイとコーが、着陸前に軌道に残していったものにちがいない。出発のときにまたそれを回収していくつもりで。つうことは、ふたりはまだここにいる。ああ、よかった。だったらこの長い退屈な捜索にもはりあいがある。
コーティーはCC‐1のセンサーを総動員して、まだ距離の遠いうちからパターンを描きはじめる。長い退屈な仕事になりそうだ。なにかまぐれの幸運にでもぶつからないかぎりは。
その幸運にぶつかった! 二度目の8字形軌道で、北極の氷冠のすぐ南に、巨大な黒い帯が見つかる。焼け焦げの跡。この原因は落雷、それとも火山? それとも、隕石の落下?
ちがう。……つぎの通過のさいに焼けこげの中央線が見える。北へいくにつれて幅がひろがり、自然物の衝突ではぜったいにできないようなジグザグが見分けられる。彼女はレコーダーのスイッチをいれ、ささやき声で焼けこげと、軌道上のタンクについて報告する。
三回目の通過で、彼女は確信する。焼けこげの跡の北端に、きらっとなにかが光る。
「ああ、かわいそうなふたり! きっと病気だったんです。ロケットでコースを修正しなくちゃならないぐらいに……シル! シロベーン! おきてる?」
「ああ――ハロー?」彼女の声がもぐもぐいう。眠そうな自分の声を聞くのは、妙な感じだ。「ねえ、のどをなんとかしてくれない? 報告しなきゃならないの。あのふたりが見つかったみたいよ」
「ああ。はい。待って……わたしは栄養が必要らしくて……」
「ごえんりょなく。あたしのおごり」
つかのま、コーティーはシルが吸血鬼のように血をすすっているところを想像する。でも、ちがう。シルはもっとうんと小さい。それよりは、微生物が、そばを駆けぬける赤血球を一個か二個つかまえるってほうが当たってる。へんてこ……。コーティーは、そのことでなんの不安も感じない。シルは、血液の流れをよくしたという。事実、コーティー自身もすてきな気分だ。とてもはりきった元気な気分。イーアドロンはきっとすばらしい治療師になるよ、と彼女は思う。
焼けこげの端にあるきらめきは、まちがいなく宇宙船だ。スコープが彼女に見せたものは、大型の連邦補給船。コーティーは連邦周波数で呼びだしをかけるが、応答はない。探査パターンを打ちきり、反重力で着陸の準備をする。奇妙な船体のそばの平原が適当に思える。だけど、あのふたりが噴射を使ったのは、ほかにも理由があるのかも、と彼女は思う。あのふたりは、すごく経験をつんだ、惑星間パイロットだ。たぶん、この土地には奇妙なマスコンかなにか、コース修正の必要な要素があるんじゃない? 警戒をつづけて、もし、コースが不安定になったら、いつでも噴射できるように用意しとこ。
二度目に補給船を呼びだしたとき、彼女は声をとりもどしたのに気づく。のどのぐあいが、急にすっかりよくなっている。
「あら、ありがと、シル」
「コーティー、なぜ着陸するのですか?」
「あんたがおいてきたヒューマンたちが、あの平原のどこかにいるからよ。あんたが立ちのいてから、消息が絶えちゃったの。公式に行方不明。つまり、みんながさがしまわってるってこと。いま、あたしはあのふたりの船を見つけたけど、呼びだしても応答してこない。着陸して、いったいなにがあったか調べなくちゃね。これで、あんたもはじめての惑星を見物できるわよ」
このニュースを聞いても、小さい乗客はよろこぶようすがなく、ただこうくりかえす。「着陸しないといけないのですか?」
「そうよ、もち。なにはおいても、あのふたりには助けが必要だから」
「助け……」シロベーンの声が、奇妙な、苦いニュアンスをこめてくりかえす。
しかし、コーティーはいそがしさにとりまぎれて、そのことを考えるひまがない。「シル、あんたが立ちのいたとき、あのふたりはどんな状態だった?」
「ああ……」彼女ののどからためいきがもれる。「わたしはなにが正常か見わけがつくほど、あなたの種族をよく知りません。わたしが立ちのいたとき、彼らはこれから冷凍睡眠にはいろうと話しあっていました。あの通信装置がまもなく送りだされるとわかっていたので、わたしはいそいでいたのです。前にもいったように、外に出るには時間がかかります。イーアの知覚にもどるのといっしょに、ふたりのヒューマンは大きすぎてわたしには知覚できなくなりました――たとえば、彼らの声の音波も聞きわけられなくなったのです」
コーティーはそのことを考えながら、濃い大気の中へゆっくり船体を沈めていく。この艇の融除《アブレーション》防止装置は、そんなに性能がよくない。
「シル、あんたらのテクノロジーって、あたしたちのと差がないのね。分子からモルのスケールまで行ったり来たりするなんて!」
「はい。むずかしい学習でした。最初はとても怖くて。みんな訪問のしかたを教えられたときは」
「ほかにもボーニイとコーにとりついたイーアがいたっていったわね?」
「はい……でも、うまくコンタクトがとれませんでしたし、そのイーアたちがすべてをコントロールしていたのです。メッセージ・パイプが送りだされると知ったときに、わたしが外に出ようと考えたのは、そのためですよ」
コーティーはニヤッと笑う。「その気持ちわかるよ、シル。けど、すごい危険をおかしたもんね」
コーティーは妖精の手が強く自分の首をうなずかせるのを感じる。「あなたは命の恩人です」
「よしてよ。知らずにやったのよ、こっちは。でも、知ってたら、やっぱりあのときあんたをひろってたと思うな。シロベーン、あんたを宇宙空間で死なせるなんて、ぜったいにいや」
いわくいいがたい温かみとほんとうの幸福感が、彼女の内部にじんわりひろがる。コーティーはさとる。あたしとこの小さいエイリアンの乗客のあいだには、ほんとの友情があるんだ、と。
レコーダーは、まだふたりの会話を記録しつづけている。しかし、もちろん、そこに彼女の感情は示されない。惜しいことに。
「記録のためにいっときます」とコーティーはあらたまった口調でいう。「あたしは、あー、主観的な理由だけど、このエイリアンがあたしに対して誠実な友情をもっていると信じます。つまり、ただの方便じゃなくって、このあたしに対する友情。それはたいせつなことだと思います。あたしもシルに対しておんなじ気持ちです」
CC‐1を着陸させるときがくる。コーティーは細心の注意で、小さな艇を大きな補給船の真上に近づけ、そのわきへあざやかに着陸する。なにもトラブルはない。それから見ても、ボーニイまたはコーは、ひどく悪いコンディションで着陸したのにちがいない。
大気テストの結果はグリーンと出るが、いちおう念のために宇宙服を着こんで外に出ることにする。ドアがひらいたとき、彼女ははじめて巡回補給船をじっくり見る機会にめぐまれる。
「タラップがだしっぱなし」彼女はレコーダーにいう。「それに、ドアも半びらき! まずいな。中へはいってみます……。ハロー! だれかいますか?……うわっ!」
彼女の声がとぎれる。足音、ドアがひきあけられるキーッという音。
「あきれた、すごい散らかりよう。タラップの上には手袋がおっこちてるし――中は長いこと掃除しなかったみたい。よごれたお皿と、カセット、それに宇宙服が一着――ちがった、二着――デッキの上に山になってます。ぬいでそのまま、とびだしていった感じ。まいったな、これはきっとトラブル……だれかここでゲロを吐いたな……例の金色の種子があっちこっちにたくさんくっついてます」
コーティーはキャビンの中を歩きまわり、冷凍睡眠カプセルや、そのほかおとなの体がはいりそうな場所を順々に調べて報告する。ふたりの姿はない。大きな貨物庫も、これからどこかへ運ぶ予定の補給品のカートンがひとつあるだけで、あとはからっぽだ。
コーティーは外に出てきていう。「ふたりをさがしてみようと思います。ここの地面は泥炭地みたいに柔らかくて、下等植物らしいものが生えてます。ところどころ踏みにじられた跡があります。その一ヵ所から足跡が」――コーティーは方角をたしかめる――「よりにもよって、北へのびてます。大気はヒューマンに好適。酸素がいっぱいです。あたしはヘルメットをぬぎました。これからふたりの足跡をたどります。でも、なにかのトラブルにでくわしたときの用心に、この記録を先に送っといたほうがいいと思います。この中にはシルの惑星についての話がすっかりはいってます。あーあ、これを地表から送れたらいいのにな。もう一度、大気圏の上まで上昇するしかないわ。こっちの船のメッセージ・パイプをいくつかあたしの船へもらっていきます。以上です。これがたったひとつの冴えたやりかた」
[#挿絵(img/rift_078.jpg)入る]
コーティーはためいきをつき、録音をとめて、自分の艇へひきかえす。
離昇準備をしながらいう。「ずいぶん静かじゃない、シロベーン。だいじょうぶ?」
「はい。でも、わ、わたしはこわい」
「なにがこわいの? 未知の惑星の上を歩くのが? 聞いて、もし万一、大きい獰猛な野獣に出会う場合を考えて、携帯火器を持ってきたの。でも、ここにそんなものがいるとは思えないな。肉食獣の食べそうなものがないもん」
「ちがいます……この惑星がこわいのではありません。わたしがこわいのは……あなたがここで発見するものです」
コーティーは艇を高速の単一軌道に乗せ、またすぐ地上へひきかえすつもりで操作しながら、いくらかうわの空でたずねる。「それはどういう意味、シル?」
「コーティー、わが友」――自分の声が自分の名前を呼ぶのを聞くのは、ちょっと気味がわるい――「あなたが捜索を終わるまで待つことにします。たぶん、わたしのまちがいでしょう。そう願っています」
「ふーん。グリーン。もしあんたがそうしたいんならね」コーティーはメッセージ・パイプをあけるのに夢中だ。「やんなっちゃうな。ここにもあの金粉があるわよ。これを掃除するにはどうしたらいい? 殺したくないし――この種子もあんたみたいに宇宙空間でも生きられるっていったわね――でも、連邦基地へ野ばなしにするのはまずいと思うの。どう?」
「だめです! だめです!」
「だからさ、あんたの種子にはわるいけど、このパイプから出てってもらいたいの。どうすればいい?」
「熱です。高熱」
「は……あ、そうか、わかった」コーティーはレコーダーのスイッチをいれ、いま自分がなにをしているかを話す。「これからメッセージ・パイプを食品加熱器にいれて、ヒーターの温度を一二〇度Cにします。それぐらいなら、カセットは傷まないから。……よし、いまからはさみでひっぱりだします。あらら、熱に近づいただけで、レコーダーから種子がふたつ出てきたわ。そうよ。きみたち、みんなおんもへ出て出て。えっと、いまからカセットをはずして送るので、録音は終了。これからまた惑星にもどって、ボーニイとコーをさがす予定。CC‐1通信おわり」
「こうしといてよかったわ」コーティーはシルにそういいながら、メッセージ・パイプのふたを閉め、外に排出しようと、エアロックの中におく。「さあ、空気を出して、と。――ほら、メッセージ・パイプが出てきた! 基地の電波がここまで届いてるといいけど……。うん、だいじょうぶみたい。やったね! あんな小さいくせして、自分の行先をちゃんと知ってる。バイバイ、じゃ元気で……。おかしいな、あたしたち、どっからもうんと遠くへきちゃった感じ。宇宙の冒険家になるのも、ちょっとうす気味わるいもんだね」コーティーは艇を着陸モードにいれながら考える。「これから、あの知らない惑星をハイキングして、ふたりをさがしてみよ。はっきりいって、もう死んでるんじゃないかな……」
ややあって――「シロベーン?」
「はい?」
「ほんとによかったな、あんたがここにいてくれて。ね、あんたの種族ができること、もひとつあるかも。……つまりさ、お金もうけの方法。長い旅をする宇宙航路の人たちの道づれになってあげるわけ」
「ああ……」
「ただの冗談……でもなかったりして」
まもなく、ふたりは惑星上の見捨てられた巡回補給船のそばにもどる。コーティーは惑星用の全天候服に着替え、ブーツをはく。外はよく日が当たっているが、肌寒い。一週間ぶんの携帯食糧を荷づくりし、土地はスポンジのように湿ってはいるが、水も持っていくことにする。それから肩にレコーダーをクリップどめして、新しいカセットを注意ぶかくはめこむ。
それから長い時間がたち、コーティーが行方不明と公表されたあと、その新しいカセットが、いまはいくらかくたびれた感じになって、連邦基地九〇〇の副官から司令の手にわたる。これから司令の会議室で、一団の人びとを前に再生されるところだ。
数週間前、コーティーがいったん惑星を離昇して送りだしたあの通信は、これより前に基地に届いた。基地のスタッフはシロベーンとイーアのこと、イーアドロンとドロンのことを、のこらず聞いた。そして、シロベーンの母星であるノリアンのいろいろな特徴も、彼女がボーニイとコーといっしょに経験した短い旅のことも。前回の報告は、コーティーと脳の乗客が、ボーニイとコーが乗り捨てた船のある、あの無名の惑星へもどるところで終わっていた。
会議室に集まったグループの中には、基地の職員でない顔がひとりまじっている。
最初の通信が届いたとき、司令はキャス家に急を知らせ、コーティーの父親が駆けつけたのだ。父親の顔はすっかりやつれている。もうすでに怒りの言葉を吐きつくしたあとだ――とりわけ、救助隊を派遣する計画がないと聞かされたあとで。
「きみにとっては実に好都合だろうな、司令」と、そのとき彼は罵倒したものだ。「年端のいかない女の子に、いやな仕事をまかせっぱなしにして、よく平気でいられるよ。行方不明になった部下をさがすのも、わたしの娘をあそこから救いだして、くそいまいましい脳寄生体から解放してやるのも、本来きみの責任だぞ。そもそも、あの子をあそこへ行かせるべきではなかったんだ! もし、わたしがこの怠慢を報告しないと思ったら、大きな――」
「どうすればわたしが彼女をとめられたというんです、キャスさん? 彼女は自分の自由意志で、だれにも相談せずにあの捜索にでかけた。もし、彼女があそこへでかけたことについて、だれかが責められるべきだとすれば、それはあなただ。お嬢さんに宇宙船を買いあたえた以上、それに乗って彼女がどこへ旅行するかも、あるていど監督する責任があった。わたしのほうは部下に対する責任がある。したがって、連邦市民が自発的な旅行にでかけるのを、危険を承知でほかの船で追いかけさせたりしては、弁明の余地がありません」
「しかし、あのくそいまいましいエイリアンは娘の――」
「そう。はっきりいえばですな、キャスさん、あなたのお嬢さんは、すでにいわば汚染されている。しかも、彼女自身が、その微生物のもつ大きな移動能力と、接触汚染の可能性について、証拠を与えてくれた。その前に彼らと接触をもった基地要員は、すでに命を失った可能性が高い。だから、どうです、すこしおちついて、お嬢さんの報告を聞こうじゃないですか。うまくいけば、あなたの心配が根も葉もないものだ、とわかるかもしれない」
父親はしぶしぶそれにしたがう。
「このメッセージ・パイプも、やはり加熱されています」副官がいう。「プラスチックにその跡があります。そこから推測すれば、これを送ったときの彼女は、健全な精神状態で、おそらく自分の艇の中にいたと思われます」
ガンガン、キーキーという雑音の中で、再生がはじまる。
「出発の前に、もう一度ボーニイとコーの船をのぞくことにしました」とコーティーの声がいう。「ひょっとしたら、伝言かなにかが残ってないかと思って」
レコーダーのスイッチが切れて、またはいる。
「船内をさがしてるところです」コーティーがいう。「伝言らしいものはありません。ホロカメラはキャビンに向けてあるけど、スイッチが切ってあります。待って、きっと連邦政府がなにかのモニターをのせてるはずだから。船殻のそばをさがしてみます」
カチッ――オフ、オン。
「もうひとつのホロカメラが、船首にあるみたい。作動音がきこえました。……どうしたら、そばへ行けるかな? そうだ、外から行けるかも」オフ、オン。「ヤッホー! あったよお。低速モードにはいってます。船のまわりの地形を探知したからじゃないかな。あたしの艇へ持って帰って、再生してみます」
カチッ――オフ。
司令がもぞもぞ体を動かす。「彼女が発見したのは、惑星記録カメラだろう。あのふたりが、そんなもののあることを知っていたかどうかは疑問だ」
副官がいう。「パイプの中にあったべつの小さいカセット、あれですな、きっと」
レコーダーはまだスイッチがはいったままだ。「とても小さい」とコーティーがしゃべっている。「ありゃ、ここにもあんたの種子がいっぱいよ、シロベーン。きっとカセットが大好きなのね。いま、機械にかけるところです――さあ、スタート。わあ、すっごーい――シロベーン!」
「あれはわたしの故郷です」そういうコーティーの声は、いまではみんなにも聞きわけられる。エイリアンがコーティーののどを使っている声だ。「ああ、美しいふるさと!……でも、びっくりしました。どうしてこんなことが――」
「それはあと」コーティーが自分自身をさえぎる。「あとで好きなだけ見せたげるよ。いまは早送りしなくっちゃ。この惑星が見えるところまで。もしかすると、あたしたちのさがしているふたりも写ってるかもね」
「はい――ああ、あれが師匠です――」
「ごめん。ゆっくり見たいのは山々だけどさ。早送りするわよ」あわただしいカチッカチッという音。それに、コーティーのシロベーンの声が、小さい意味不明のつぶやきとなってまじる。
「ほら、いまふたりが出発したんだわ。これからはずうっと星の世界。星野しか写らない」あわただしい操作音。「たのむわよ、おしまいにならないで」
「だいじょうぶ」と副官がいう。「このてのカメラは、星野の中の急激な運動に反応する仕組みです。順調に星野の通過がつづいて運動がのろいときは、低速モードにもどる。一時間に一コマ――それとも、一日に一コマだったかな、忘れた。とにかく、通過する岩石とかそんなものが、瞬間的にカメラをスピードアップするだけです」
「これだわ」コーティーの声がいう。「GO型太陽の長い行列。……たぶん、ふたりはいまこの惑星に向かってんだ。スコープがないとなんともいえないけど――あ! 大きくなってきた。やっぱ、まちがいなし。……近く、近く……これから軌道にはいるとこ。でもシル、見てよ、あのフレームの震えかた。だれが操縦してるのか知らないけど、まともじゃないな……。あ、あっ――いまのはパイロットの交代かな、それとも、ロケットに切り替えたのかな。わ、ひでえ……まるで砂利の袋みたいに落っこってく。こっちはちゃんと着陸できたの知ってるからいいけど。……こんどは煙、煙しか見えない。噴射がはじまったんだ。下へ――炎が見える。このカメラはきっと運動に反応するのね。いまひとやすみ。でも、いつまでかわかんない。シル、あんたにはあんまり意味がないと思うけど、とにかく煙が薄れるまで待って――ああ! あそこ、あれはあたしたちが船のまわりで見た風景じゃない?」
エイリアンの声がささやきかえす。
「また動きだした――あれはタラップの端ね。いま、ひとりが下りてくる――そしてもひとり――どっちがどっち? 背が高くてやせてるほうをボーニイにしよ。あら、どうしたんだろ、ふたりともふらふらしてる。ほら、ああやって手袋をおっことしたんだ。それに、ほら見て。船のまわりの焼けこげの外にある草地、どこもぜんぜん踏まれた跡がないでしょ。もちろん、そう。いまはじめて外へ出ていくとこね――あ、ボーニイのほうがころんだ! 冷凍睡眠の影響? 早く目をさましすぎたとか? そうじゃないみたい。あのふたりは病気よ。見て、コーの顔にへんなものができてる。鼻の上。ああやって、しょっちゅう掻いてる。ふたりとも、立ちどまってあたりを見る気もない。こりゃまずいよ、シル。……こんどは焼け跡の上でふたりとも四つんばいになっちゃった。ああ、なんとかしてあげたいな。ねえ、あの金色の雲が見える? あんたの胞子みたいなのが、タラップのそばにあるでしょ?」
間。何度か、小さい「おお」という嘆声とつぶやきがもれる。
「おきあがった。やけどしてなきゃいいけど――あ、走りだした、っていうより走ろうとしてる! 船から離れて。あの踏みにじられてた場所。でも、まだいまは踏みにじられてないけど。うわ。ボーニイが――コーも――服をぬいでる! なにするんだろ、水浴び? でも、そんな場所はどこにも――あ! あ、待って、なによこれ? やあだ! ちょっと! なにする気? 航宙士にはちゃんと規律があるんじゃなかった? 知らなかったよお、偵察チームがセックスするなんて」
「するもんか」司令がうなるようにいって、みんなをおどろかす。
部屋の中のみんながもぞもぞする中で、コーティーの声がとぎれがちにつづく。
「なんだかすっごくへんな感じ……あたし、こんなの見たくない。学校でデモ・チームがやってみせたときみたいに、幸福そうじゃないんだもん。……ふたりとも、勝手がよくわからないのかな。……気がくるったような顔。ひとりなんか口をがばっとあけて、どなってるのか、悲鳴をあげてるのか。ひどいざま。……この録音を聞いてる人、ごめんなさい。悪口いうつもりじゃないの。でも、これは不気味よ、醜悪っていうか。……早くやめてほしいな、ほんとに。うえ、やだあ――」彼女の声は、いまにも絶叫にかわりそうにふるえている。
「おお、おお、おお――」しかし、いまはっきりとすすり泣きをはじめたのは、もうひとつの声だ。録音は、混乱したさけびがまじりあって、聞きとりにくい。「シル! どうしたのよ? なにかあった?」そして、「おお、わたしは怖かった、わたしは怖い。おお、コーティー、おそろしいことに――」
「そう、これはひどいわ。ヒューマンはふつうあんな交尾のしかたじゃないのよ、シル」
「ちがいます」シルの声がいう。「そのことではありません。わたしがいうのは、わたしたちが――おお、おお――」そして、またすすり泣きがはじまる。
「聞きなさいったら、シル!」コーティーはエイリアンの涙をのみこみ、彼女をさえぎる。「あんた、まだあたしに話してないことがあるんでしょ! なにが怖いのか、いますぐいっちゃえ。でないと――この頭を思いきりなぐりつけて、あんたをふるいおとしちゃうぞ。わかる?」
強烈な打撃音がひびき、それからだしぬけに鋭い悲鳴があがる。
「こら――なにすんのよ――やったわね、シル。ぜったいにあたしを傷つけないとかいっといて――」
「ああ、ごめんなさい」エイリアンの声が訴える。「ついうろたえました。あなたが自分を傷つけるといったので――」
「それとも、あんたを傷つけるって? ね、その気になったら、あたしはかなりの苦痛でもがまんできるわ。だから、いますぐ白状なさい。あのふたりになにがあったのか。ほら、またふたりが倒れた。早くいえ!」
「それは――それは幼生たちです」
「幼生たちって?」
「幼いイーア――ふ、船の中のしゅ、種子から生まれた……」
「でも、あのふたりの脳の中には、おとなのイーアがいるっていったじゃない。そしたら、あんたがあたしにそうしたみたいに、種子を遠ざけられるはずでしょ?」
「彼らは――おお、コーティー、前にいったように、彼らはとても年とっていました。彼らは死んで、そのあとに種子がはいってきたのにちがいありません。彼らがだんだん弱ってきたのは知っています。だから、わたしは怖くなって、そ、外にでたんです。ヒューマンたちが冷凍睡眠にはいる前に……ああ、コーティー、おそろしいことです――わたしはどうしたらいいか――」
「おちつきなさい、シル。わかるように説明して。種子はどんなことができるの?」
「種子は体内にはいると孵化《ふか》します――孵化して幼生たちが生まれてきます。師匠がいなくて、だれも訓練するものがないと、まるで野獣そっくりです。どんどん成長します。そして食べます――なんでも食べます。そのあと、冷凍睡眠のあいだに、その一部が成熟したのにちがいありません。先生もいないし、だれも規律を教えるものがいないし……。ああ、みんなも種子と胞子がいずれは宿主をさがしもとめることに気づくべきでした。ふたりのヒューマンといっしょにでかけた訪問者たちがもう年をとりすぎていることに、気づくべきでした。で、でも、だれも気がつきませんでした。その旅がどれほど長いか、どれほど遠いかに……。その旅がどれほど長くかかるかに気づきはじめたとき、わたしはなにか悪いことがおこるという予想がつきました。でも、わ、わたしにはなにもできなかった。みんなはわたしのいうことなど聞いてくれません。それで、わ、わたしは逃げだしました」エイリアンは、すすり泣きでコーティーをしゃくりあげさせる。
「そうなの……」コーティーの長い吐息。「ああ、なんてかわいそうなふたり。つまり、幼生たちがあのふたりの脳を食べつくしているってわけ?」
「は、はい、そう思います。まるでドロンのように。いいえ、もっと悪い。教師がいないのですから」
「するとあのセックスも――あれも成熟したイーアがふたりにそうさせたわけ?」
「はい! そうです! 野獣のように。わたしたちはそれを抑えるようにきびしく躾けられました。その方法を教えられました。完全なイーアになるには、うんと訓練が必要です。わたしもまだ充分に訓練されたとはいえません。……ああ、あのまま宇宙空間で死んでいればよかった。そしたら、こんなことを見ないですんだのに――」
「なにいってんのよ。しっかりしてよ、シル。これはあんたの責任じゃない。宇宙空間になじみがないものに、その距離の長さなんて理解できないもん。たぶんみんなも、故郷の長い旅とおんなじようなもんだと思ってたのよ……。あっ見て――ふたりが立ちあがったわ。ほら、おたがいを支えようとしてる。でも、足がうまく立たないみたい。たぶん、運動中枢をやられたんだ。ふたりは――あの小道を北へ歩きだす。でも、まだこのときは小道じゃなかった。あんなふうにふんづけたから小道ができたんだ……。あたしたちもあっちへ行ってみようよ、シル。もし、ふたりがもどってくるのが写らなければね。それはじきにわかる。カメラがとまったのは、このすぐあとだもん。これがいつごろのことだか、わかればいいのにね。太陽がちょっとちがって見えるし、植物の色もちがうみたいだけど、それはカメラのせいかも。もういっぺん早送りしてみる。シルったら、泣くのよしなさいよ。あんたの責任じゃないんだから」
レコーダーのカチッカチッという音がつづく。
「ない。ない」コーティーの声がいう。「なにもない。ふたりは帰ってこなかったのかも。ない――待って、あれはなに? ああ、驚いた、航跡じゃんか。あたしたちの艇が着陸するところ。へーえ! 自分たちの姿なんか見たくないよね? じゃ、このカセットもいっしょに送ることにしましょ」
カチッ。
司令の部屋では、副官がレコーダーを一時停止させる。
「みなさん、はっきり聞こえたかね?」
口ぐちに肯定のつぶやきが返る。
「これでコーティーの小さい友人の種族が持つ可能性について新しい手がかりがつかめたと思う」医学の専門家がいう。「万一、彼女のおこなった加熱処理でも、このパイプや前回のそれが完全に清掃されていない場合にそなえて、金色の粉のようなものがそこらにないか、全員でよく注意したほうがいい。彼女の最初の処置は実に賢明だった」
彼が話しおわらないうちに、司令は照明の光度を上げている。みんなが自分の体を見まわし、気のせいで金粉に見えるほこりをはたきおとすあいだ、がさごそと音がする。
「神々よ、もしだれの警告もなくて、パイプいっぱいのあれがここで野ばなしになっていたとしたら!」と異生物学者がつぶやく。「ふむ……ボーニイとコー」
「そうだ」司令は異生物学者の言外の意味を理解する。「もし、あのふたりの船が離昇した形跡があれば、われわれはつらい決断をせまられることになる。あの種子が宇宙船の外側にくっつくことも、充分ありうるからだ。それでは再生をつづけて、つぎの問題を検討しようか」
「了解」副官は天井灯を消し、もう一度レコーダーをスタートさせる。
「あたしたちは、ボーニイとコーが残した足跡を追って、北へ進んでいます」とコーティーの声がいう。「約五キロ歩きました。足跡はとてもはっきりしてます。いちめんに生えたこの植物だかなんだかが、とてもデリケートで弱いからです。動物にその上を歩かれたり、食べられたりするようにはできてません。でも、足跡はそんなに新しくない。ところどころに新しい植物が生えてきてるから。まだ動物や鳥は見つかりません。植物のようなものと、あとはときどき弾丸みたいな速さで飛んでくる虫だけ。かなり寒くて、静かで、うす気味のわるいとこです。地形は平らに近いけど、あたしたちの歩いてる方角からすると、前に上空から見たあの湖のどれかにたどりつくんじゃないかと思います。
シロベーンはボーニイとコーがああなったことにすっかりうろたえて、あんまり口をききません。彼女の責任じゃないと、あたしは口をすっぱくしていってるんだけど。さっきの彼女の話でもわかるでしょ――あれからすると、おとなのイーアたちは、あたしたちが彼らとおなじように、種子に免疫になれると思いこんでたにちがいないんです――あたしたちがあんまり完全な生物に見えたから。つまり、最初からこんなふうに生まれてくる、まるごとの単一生物がいるってことが、彼らにはなかなか信じられないんです。それと宇宙船……あたしたちは、とてもたくさん強力で荒っぽい道具を持ってます。だから、ヒューマンがドロンのように傷つきやすいなんて、彼らは夢にも思わなくて……。シル、あたしが自分の仲間に話してることを聞いた? だれもあんたに責任があるなんて思やしないわよ。たのむからしっかりしてちょうだい。この原始的なツンドラ地帯だかなんだかは、とっても淋しいんだからさ」
「あなたがわたしの命を救ってくれたというのに」と、悲しそうなシロベーンの声。
「そんなこと! ねえ、聞いて――シル、それだったら、あんたもあたしの命を救ってくれたのよ。まだ気がつかない?」
「わたしが? どうして?」
「あのメッセージ・パイプの上にいてくれたからじゃない、おばかさん。あそこは種子でいっぱいだったわ、おぼえてる? もし、あんたが自分の命を危険にさらしてあそこにいなかったら、もしあんたがあそこで種子をあたしに近づけないようにしてくれなかったら、あたしもボーニイやコーの二の舞いだったわ、きっと。幼生があたしの脳を食いつくしてたはずよ。さ、元気を出してくれる? あんたもあたしの命を救ってくれたの。ねえ、シルったら、返事してよ。ハロー?」
「ハロー……ああ、大好きなコーティー・キャス――」
「そうよ、そうこなくっちゃ。聞いて、きょうのハイキングはここらでやめとく。このブーツ、あんまりはきよくないもの。このちょっと先に小高い丘があるでしょ。あそこなら、すこし乾いてるかもね。平らな場所をさがして、寝袋とスクリーンを用意するわ――あの弾丸虫に命中されたくないもん。それに、この太陽は沈まないみたい。ここはいま夏なんでしょ。自転軸の傾斜がきつくて」コーティーはクスクス笑う。「話に聞いた、真夜中の太陽の国! あたし、いまそれを見てるんだ。こちらはコーティー・キャス、未知の行先にむかって前進中。放送をおわります」
「キャスさん、あなたのお嬢さんは、驚嘆すべき女性ですな」司令がしみじみと感想をのべる。キャスは鼻を鳴らす。しげしげと父親の顔をのぞいた司令は、その目が涙に濡れているのを見てとる。
録音は、目をさましたコーティーの二言三言からはじまる。どうやら彼女は――彼女たちは――無事に一夜をすごしたらしい。
「グリーン、これから出発。さてとシル、気分はよくなったでしょ。あたしのことも考えてよ。泣き虫ウィリーをひきずって――これはいつもめそめそしてる人のことだけど――この淋しい惑星の上を歩いたりするなんて、もう最低。ねえ、なにか歌を知らない? 知ってたら、聞かせて!」
「歌?」
「も! 世話が焼けるわね。ま、いいか。説明したり、実演したりするだけで気がまぎれるもん。でも、聴衆のみなさんにはご迷惑でしょうから」
カチッ。
すぐに彼女の声がもどってくるが、疲れたようすだ。
「あたしたちは合計十八時間歩きました」彼女はいう。「歩行計によると、船から六十一キロ離れたことになります。足跡はまだはっきりしてます。あたしたちは、氷冠から南へのびた氷河の腕のひとつに近づきました。低い雲が一列に見えます――そう、その中に虹が!――まるでミニチュアの気象前線みたい。あのふたりは、まっすぐそっちへ向かっていったようです。シルの話だと、種子には寒さに対して原始的な向性があるんですって。もし、そこが充分に寒ければ、種子はうんと長い長いあいだ生きられるんです。だから、うんと長い長いあいだ、だれもこの惑星にはこないほうがいいと思います。よし、じゃ前進」
カチッ――オフ。カチッ――オン。
「前方に氷河の縁と雪の吹きだまりが見えます。あれがそうみたい――つまり、死体……。氷河の下から冷たい風。いやな臭い」
カチッ……カチッ。
「ふたりを見つけました。ひどい状態」声は疲れきっている。「できるだけのことはしました。ふたりともカチンカチンに凍ってます。氷の縁の下へ這いこんでたんです。そこは氷が地面から浮いて洞窟みたいになって、光が濃い緑色の割れ目からさしこんでます。なにかにおそわれたようすはないけど、ふたりとも鼻の上に大きな気味のわるい穴があいてます。ちょうど副鼻腔のあるところに。
ふたりの苗字を知らないので、スレートみたいな岩の上をひっかいて、こう書きました――“勇敢な航宙士、ボーニイとコー、連邦基地九〇〇”
あ、そうだ――ふたりも、おなじような岩の上にメッセージを書きのこしてました。こう書いてあります――“きけん。ボクラはかんセんした。ちメイてき”子供が書いたみたいな字。たぶん……あれが……ふたりの脳を食べつづけてたんです。
それから、このへんには種子がいちめんに散らばってます。雪の上の金粉みたいに。影がおちると、雲になって舞いあがります。シロベーンの話だと、若いイーアが作った新しい種子と胞子だそうです。若いイーアはあのふたりがまじわったときにまじわって、ふたりがここへ歩いてくるあいだに種子が育ちました。とにかく、ふたりの顔の穴は、新しい種子がひとかたまりになって、外へとびだしたときにできたものです。
拡大鏡で種子の集団をのぞいてみました。金色をしてるのは、外皮か鞘みたいなもの。シルの話だと、外からは不浸透性に近いそうです。種子の中にも差があります――あるものはうんと大きくて、中身が詰まってるみたい。ほかのはからっぽの殻みたい。シルがいうには、競争で宿主にとりつくとき、大きいのがほかのをうちまかして、一番乗りした大きい種子があとをひとり占めするとかって」……ためいき。
「えーと、それでぜんぶだったかな? そうだ、もひとつ追加しとくと、あの穴が死の原因だったとは思えません。原因はきっと体の中でおこったことです。ほかにはころんだときのすり傷やあざのほかに、外傷は見あたりません。ふたりは……ふたりはおたがいに手をにぎりあってました。あたしは死体をととのえたけど、それだけはそのままにしておきました。
これでぜんぶだと思います。ここで眠りたくないな。今夜のうちに、できるだけ船のほうへひきかえします。いまは夜じゃないのかも。太陽が沈まないっていったけど、空がきれいな赤っぽい色に焼けるんです。シルはすっかりおちこんで、めったに口をききません……。じゃ、なにか大事件でもおこらないかぎり、これで放送終了」
副官がレコーダーをとめる。
「これでぜんぶ?」とひとりがきく。
「いやいや。ここまでの報告がはっきり聞きとれたかどうか、それをたしかめたかっただけだ。ボーニイとコーの状態を、みんなしっかりつかんでくれたか? ドクター、なんならあのへんをもう一度再生しようか?」
「いや、いまはけっこう」と医学部長が答える。「おそらく、多数の胚を作りだすのにはよぶんなエネルギーが必要で、その結果、あのふたりの最後の歩行中に、寄生体が栄養物を――脳細胞と血液を――どんどん消費しはじめたんだろう。正確な死因は、トラウマと、低体温と、栄養失調と、出血の組み合わせか。それとも、ひょっとすると、寄生体が生命に不可欠な脳構造を侵したのか。それがわかるのは、いずれ――いや、永久にわからんだろうな」
「ほかに意見は?」と副官が“説明会”ふうの口調できく。
コーティーの父親があいまいな咳ばらいをするが、なにもいわない。部屋の中に、口にされない疑問のかずかずが大きくわだかまっている気配なのに、だれも発言するものはない。
「では、先をつづけよう、フレッド」と司令がいう。
「了解」
「あたしたちは船にもどって休息中」とコーティーの声がいう。「シル、ずいぶん長く黙ってるじゃない。だいじょうぶ? 幼生たちのしたことを見て、まだショックがおさまらないの?」
「ええ、そうです」
「だったら、それは考えないようになさいよ。あたしにだってそうできたんだから、あんたにもできる。やってごらん」
「ええ……」
「気のない返事ね。聞いて、これから連邦基地までの長旅をするのに、くらーい泣き虫さんを頭の中にかかえていくなんていやよ。冷凍睡眠の中でも、頭がおかしくなっちゃう。だから、もすこし明るくなれない? ほら、いっしょに歌をうたったときは、たのしかったじゃない。とにかく、あのふたりに起こったことは、ずっと前の話。もうすんだこと。悔やんだところで、いまさらどうしようもないことなの」
連邦基地の一室で、コーティーの父親はむかし自分が娘に与えた助言のひとつをそこに見いだし、まばたきして涙をこらえる。
「それにあたしたち、役に立つことをしたわ――それも、すっごく貴重なことを。だって、この惑星で無事なのはあんたとあたしだけ。そうでしょ? だからさ、たぶんあたしたちは、なにも知らずにここへ調査にきたかもしれないだれかの命を救ったのかも」
「あむ、む……」
「そのとおりだ」と司令がいう。
「もちろん、それはヒューマンの命でしかないけどさ、でもあんたを悲しませてるのもヒューマンの命でしょ、シル。だったら、これでおあいこじゃない? それに、あのふたりは、最初あんたの惑星でほんとにたのしい思いをしたんだし。ねえ、故郷へ帰ったらどんなにいい気分かを考えてごらん。それとも、あのノリアンの景色を見せてあげたら、すこしは気分がよくなるかな?」
「ええ……でも、わかりません」
「シル、あんたには匙《さじ》を投げたわ。それとも、ほかのなにかが気になってるの? なにかが匂うなあ……。とにかく、あたしたちはここでできることをぜんぶやりました。いまからCC‐1を離昇させます。ボーニイとコーの最後のチャート・カセットも回収ずみ。パイプの中へいっしょにいれます。それから船首カメラのカセットも。ほかになにも貴重品は残ってないと思います。ドアを閉めて、入口に立入禁止と書いときました。もし、基地のみなさんがあの船を回収するつもりだったら、火炎放射器を持っていくほうがよさそう。それとも、イーアといっしょに行くか。これはあたしの意見だけど、危険をおかす価値はないと思います。まだ船の外側に種子がくっついてるかもしれないし、それが行先までそのまま運ばれていっちゃいますから。あ、そうだ、考えてたんだけど――〈消えた植民地〉が全滅した疫病って、もしかしたらこれだったんじゃない? 空から降ってきた種子。だったら、この太陽の大集団ぜんたいが危険ってことね。ひどいわ、大打撃。……そうだ、いずれシルとあたしのふたりで調べてみようっと! シル、故郷へ帰って、たっぷり休息をとったら、あたしといっしょにもう一度旅へ出てみない? もし、みんなが許してくれたらだけど――でも、許してくれると思うな。だって、あたしたちは種子に免疫のあるたったひとつの偵察チームだもん! ただね、あたしの家族が……。それで思いだした。あたしの父はもう連邦基地へ問い合わせを出してるかもしれません。もし、父と母に伝言を送ってくれる人がいたら、受信人払いで、万事順調、いまから帰るって伝えてください。ありがと。あたしのアドレスはケイマンズ・ポート。むこうには記録がぜんぶあります。シル、あたしたちにできることがもひとつあるわ――あたしの家族に会いたくない? そしたら、家族がどういうものか勉強できるしさ、ノリアンへ帰って偉い師匠になれるよ。家族もきっとあんたに会いたがると思うな……たぶんね。グリーン。いまから船を離昇させます」
カチッ。カチッ。
「いま、上空です。これから連邦基地に帰還のため、最初の行程のコース設定をする予定。わあぉ、黄色の太陽がずらっと並んで、すっごくきれい。でも、シルはまだおちこんだままです。原因が、あの惑星で見たことだとは思えません。シル、どう見てもあんたはなんかあたしに隠してるな。なんなの?」
「いいえ、べつに――」
「シル! あんたはあたしの脳を使って考えてる。だから、あたしにはピンとくるの。あたしがふたりでできることを提案するたびに、悲しみみたいなものが押しよせてくる。それに、あんたが口をきかないときは、なにか大きなものがのどの奥につっかえてるような気がする。どうしても話してよ、シル。いったいなんなの?」
「それは……ああ、わたしは自分が情けなくて!」
「ほーら、やっぱりなにか隠してた! なにが情けないの? いいなさいよ。シル。いわないと、あたしは――ふたりいっしょにぶんなぐっちゃうぞ。いいなさいったら!」
[#挿絵(img/rift_101.jpg)入る]
「情けない」小さい声がくりかえす。「わたしは怖いです、怖いです。わたしの訓練は……。もしかしたら、わたしは自分の思っていたほど完全に発達していないのかもしれません。どうしたらとめられるか、わからないんです――おおおお」コーティーの声が嘆く。「ここに師匠がいてくれたら!」
「はん?」
「いやな感じがします。ああ、大好きなコーティー・キャス、それが強まるいっぽうです。とても抑えきれません!」
「なにが?……まさか、例の原始的な発作が起きそうだなんていうんじゃないわね? あの交尾の――?」
「いいえ。それとも、ひょっとしたら、イエス……。ああ、わたしは――」
「シル、いいなさい」
「いいえ。だいじょうぶです。いままでの訓練をぜんぶ思いだして、自分をとりもどします」
「シル、その心配はわかるけど……でも、はっきりいってさ、あんたはひとりなのよ――あたしたちはひとりぼっち。もし、そんな気持ちにとりつかれたとしても、まじわりようがないわ」
「知っています。でも――」
「じゃ、いいじゃない。早く出発すれば、それだけ早く連邦基地に着くんだし、あんたも早く故郷へ帰れる。まず最初にぐっすり眠りたいけど、もしあんたが心配をかかえてるようなら、まっすぐ冷凍睡眠カプセルへはいろうか。あんたもすこし眠ったほうがいいと思わない? こんど目がさめたら、気分がよくなってるかも」
「いいえ、だめです! だめです! 寒さはいけません! 寒さでわたしたちは刺激されます」
「そうね、忘れてた。でもさ、目をさましたまんまじゃ、あたしはとうていあんな長い光年を生きのびられない!」
「だめです――冷凍睡眠だけは!」
「シル。シロベーンさん。いますぐすべてを告白しちゃったほうがいいんじゃない? あんたが恐れてることを」
「でも、まだ確信がなくて――」
「あるていど確信があるから、こんなに何日もおちこんでるんでしょうが。さあ、なにがこわいのか、はっきりコーティーに話してちょうだい。大きく深呼吸して――ほら、あたしが代わりにやったげる――それじゃスタート。はい!」
「そうしたほうがいいようです」エイリアンの声が、かぼそくはあるが新しい決心をこめていう。「前に話したことがあるかどうかおぼえていませんが――もしイーアがひとりのときに交尾期がめぐってきた場合、わたしたちはそれでも……繁殖できるのです。あなたがたの言葉を使えば――胞子によって。胞子は種子と似ていますが、ただ、親とまったく同一です。イーアはそれを成長させて、種子とおなじようにそれを生みます。あなたも見たように。それからイーアは自分自身にもどります」胸にわだかまっていたことを打ち明けてほっとしたのか、シルの言葉は奔流のようにあふれだしてくる。「もちろん、これはめったにないことです。そんな気分になりかけたときには、自分でそれを抑えるように教えられています。わたしは――これまで一度もそうなったことがありません。もしそうなったら、いそいで師匠をさがして、その抑えかたをまなぶか、それとも師匠が若いものを訪問して、それをとめることになっていました。でも、いま、師匠は遠く離れたところにいます! これがそのはじまりの気分でないことを、わたしは願ってきましたが、消えてくれないばかりか、どんどん強くなってきます。ああ、コーティー、わが友、わたしはこわくてなりません――心配でたまりません――」声は尾をひいて消え、大きなすすり泣きになる。
コーティの声がゆっくりという。「そうか、まいったな。つまり、あんたが心配してるのは、もうすぐ自分がその交尾欲みたいなものにとりつかれて、あたしの頭の中で胞子を作るんじゃないかってこと? そして、穴をあけるんじゃないかってこと?」
「は、はい」エイリアンは明らかに悲嘆にくれている。
「ちょっと待って。そのとき、あんたはお酒に酔ったヒューマンみたいに、頭がおかしくなって、自分でなくなるの? うん、そんなことわかるわけないわね。でも、あんたがよ、あの躾けられてない幼生みたいに行動するのかな? ね、どんなことすると思う?」
「たぶん――むやみに食べはじめるでしょう。おお、お、お――わたしを冷凍睡眠の中へひとりでおかないでくれますか?」
「まいったな。よく考えてみるね」
カチッ――副官がレコーダーをとめる。
「ここでしばらくこの若い女性のジレンマを考えてみるべきだと思う。それからエイリアンのジレンマも」
異生物学者がためいきをつく。「この衝動またはサイクルは、明らかにそう稀なものではないらしい。幼生たちにそれを克服する訓練がほどこされている点から見ても。ただし、その訓練は、師匠が近くにいることが条件になる。しかし、それは正常な成熟の一部または段階とは思えない――それよりも偶発現象と見たほうがよさそうだ。たぶんこの場合は、ふたりのヒューマンが躾けられていない幼生たちに感染したという経験によって、それが促進されたんじゃないかな。イーアが自分たちの原始的なシステムの一部とみなしているものが、それで目ざめたんだろう」
「ふたりがイーアの惑星、えーと、ノリアンへひきかえすとしたら、どれぐらいで行けるだろう?」とだれかがきく。
「おそらく間に合わんな」司令がいう。「かりに彼女が思いきった決断をして、冷凍睡眠なしに旅をしたとしても」
「あの子はあの怪物を始末しなくちゃだめだ!」コーティーの父親がたまりかねたようにさけぶ。「自分の頭に穴をあけても、ひっぱりださなくちゃだめだ。だれかあの子のところへ行って、手術してくれんのか?」
その声は否定の沈黙に迎えられる。一同がいま耳にしている瞬間は、よくもわるくも、すでに遠い過去のものになっているのだ。
「前にエイリアンは立ちのくことができるといった」副官がいう。「ふたりがその解決法に気づいたかどうか、聞いてみよう」副官はレコーダーをスタートさせる。
彼の考えを読みとったかのように、コーティーの声がいう。「あたしはシルに、発作がおさまるまで外に出て、居心地のいい場所に閉じこもってられないかとききました。でも、彼女がいうには――あんたから話して、シル」
「わたしはしばらく前から立ちのこうと努力してきました。もっと早いうちなら、簡単にそうできたでしょう。でも、いまでは、わたしの全身が、コーティーの脳の中、分子構造とそして――原子でしたか?――原子構造の中に深く根をおろしてしまいました。そこで、自分自身の各部分を切り離そうとしたのですが、ひとつの部分を切り離したと思ったら、前に切り離した部分がまたくっついているのです。わ、わたしはまだ小さかったころから、この技術をまだあんまりくわしく教えられていません。コーティーといっしょにいるあいだに、わたしはずいぶん大きくなったようです。なにをやってもうまくいきません。ああ、ああ、もしほかのイーアがここにいて手をかしてくれさえしたら! そしたら、わたしはどんなことでもします。自分を半分に切ることだって――」
「くそいまいましいガンのくせに」コーティーの父親がうなるようにいう。彼はこの若いエイリアンに同情できない。自分の娘に対する脅威としか思えない。
「でも、大好きなコーティー・キャス、わたしにはできません。それに、もう疑いの余地はなくなりました。この恐ろしい衝動をそなえたわたしの原始的な一部はどんどん成長をつづけています。いくら全力でそれと戦ってもだめです。まもなく、わたしは負けそうです。なにかあなたにできることはありませんか?」
「あんたに対してはないわ、シル。あたしになにができるっていうの? でも、教えて――その発作がおさまったあと、そして、あんたが、その、あたしの脳を食べつくしたあとには、あんたはもとの自分にもどって、うまくいくわけ?」
「おお――わたしがうまくいくわけがありません。あなたを殺してしまったと知りながら! 自分の友だちを殺すなんて! わたしの一生は恐ろしいものになるでしょう。わたしの種族がわたしを受けいれてくれたとしても、わたしは生きていけません。これは本気ですよ、コーティー・キャス」
「うーん、ちょっと考えさせて」レコーダーがカチッと切れ――またオンになる。コーティーの声がもどってくる。「つまり、状況はこうね――もし、連邦基地へひきかえす計画を実行したら、むこうへ着いたとき、あたしはゾンビになってるか、それとも死んでるかで、あんたはみじめになる。それに、この艇内は胞子でいっぱい。あたしはたぶん着陸の操作ができなくなってるけど、だれかが途中まで迎えにくる手はある。でも、この艇内へはいった人たちはあんたの胞子に感染して、すっかり事態が解決するまでにはおおぜいの人が死ぬことになるしさ、それに、たぶんだれもあんたを故郷の惑星へ連れていく気にならないわ。うぐ」
エイリアンの声がこだまを返す。
「いっぽう、もしこれからノリアンに直行した場合は、うまくその近くまで行けても、そのころにはあんたが胞子を作ってるし、あたしの脳は食べつくされてるから、艇を着陸させて、あんたを外に出すのはむり。結局、あんたは死んだヒューマンとたくさんの胞子といっしょに閉じこめられて、どことも知れない目的地まで永久に旅をつづけることになる。だれかが途中であたしたちを発見すればべつだけど、そのときはもうひとつのシナリオに切りかわるだけ……。シル、どこにも逃げ道はなさそうよ。あたしにわかってるのは、まもなくこの艇が空飛ぶ時限爆弾にかわって、どこかの非イーア生物が近づくのを待つだけになるってこと」
「はい。それはうまい表現です、わが友コーティー」かぼそい声が悲しげにいう。「おお!」
「どうしたの?」
「強い衝動にかられました――あなたを傷つけたくなって……。やっとのことで抑えましたが。おお、コーティー! 助けて! わたしは野獣になりたくありません!」
「ねえ、シル……それはあんたの責任じゃないよ。考えたんだけどさ、そうできるうちに、おたがいにさよならをいっとくほうがいいんじゃない?」
「なるほど……なるほど」
「大好きなシロベーン、なにがあっても忘れないで――あたしたちが大の親友だったこと、それからいっしょに冒険をして、おたがいの命を助けたことを。それから、これも忘れないで。もしあんたがこれからあたしになにかひどいことをしても、あたしはそれがほんとのあんたじゃないって知ってる。それはあたしたちふたりのちがいから生まれた、たんなる偶然の事故なんだから。あ……あたしね、あんたほど大好きな友だちはいなかったよ、シル。じゃ、さよなら、もしできたら、そのことをたのしい気持ちで思いだしてね」
すすり泣きが聞こえる。「さ、さよなら、大好きなコーティー・キャス。わたしのためにこんなひどいことがおきたのが悲しくてたまりません。あなたとお友だちになれて、わたしの一生は、夢にも思わなかったほど明るいものになりました。もし、生きのびることができたら、わたしの種族にヒューマンがどれほど親切ですばらしい生き物であるかを話します。でも、そんな機会はおそらくこないでしょう。コーティー・キャス、いずれにしても、わたしはあなたといっしょに命を終えるつもりです。ヒューマンにもうこれ以上の迷惑をかけたくありません」
「シル……」コーティーは考え考えしゃべる。「もし、いっしょに行くっていうのが本気なら、方法はあるわ。いまのは本気?」
「は、はい。はい」
「ていうのはね、あたしたちに起こったことだけじゃなく、この艇はだれにとっても脅威になると思うんだ。ヒューマンにしろなんにしろ、そのそばへ近づいたものに。だから、そんなことにさせないのがあたしたちの義務。そう思わない? それに、あたしはゾンビになって生きながらえたくなんかない。それに、あそこに美しい黄色の太陽が見えるでしょ。あの惑星にいるあいだ、あたしたちが昼も夜もながめていたあの太陽が……まるであたしたちを待ってるみたいじゃない……シル?」
「コーティー、よくわかります」
「もちろん、あたしのしたかったことはまだいっぱいあるわ。あ、あんたもそうでしょ――でも、もしかしたら、これが、お、大きな仕事なのかも――」
レコーダーが、つかのまぼやけた音にかわる。
「なにかが消去された」副官がいう。
まもなくそれはもとにもどり、コーティーの声がいう。「――あんな声を聞かせたくなかったの。問題は、あたしたちがもう決心したってことです。だから――うっ! う、う、う――うっ! なに?」
「コーティー!」小さな声が絶叫する。「コーティー! わたしはもう――わたしはもういままでの自分でないようです。なにかがあなたを傷つけて、とめたがっています――あなたを冷凍睡眠にはいらせたがっています――いま、それと戦っていますが――ああ、許してください、許して――」
「ううっ! うん、許すわよ、でも――痛いっ! 待ってよ、ちょっとだけ待って。いまコースを設定したら、カプセルの中へとびこむから。とにかく、コンピューターだけはセットしないと。わかってちょうだい」
解読不能の音がエイリアンからもれる。それから、みんなが驚いたことに、若いヒューマンのハミングの声が部屋を満たす。
「あの曲なら知ってる」コンピューター部長がだしぬけにいう。「古い歌だ――待ってくれ――思いだした。〈太陽のまっただなかに〉だ……彼女は、暴走しはじめた寄生体を刺激せずに、いまからなにをするかをわれわれに伝えようとしているんだ」
「ひと言も聞きもらすな」と司令がわかりきったことをいう。
まもなくハミングが歌詞に切りかわる。小声の一小節――そう、〈太陽のまっただなかに〉だ。それが鋭い悲鳴とともに終わる。
「ちょっと、シル、やめてよ、おねがい――」
「わかってます! わかってます!」
「これがすんだら、すぐに冷凍睡眠にはいるからさ。そう痛くしないでよ、このドッペルゲンガー。そんなことして、あたしが計算をまちがえたら、みんな胞子のフライになるのよ――うううおーっ! あんた、アマチュアにしちゃ、そ、相当なすご腕ね、シル」
声は恐ろしい苦痛のさけびをおしころしているようだ。司令は、遠いむかし、最終戦争で、若い軍医助手として、重傷のパトロール員を手当したときのことを思いだす。
「あとは、フリビライザーのグーゴル処理をしなおさなくちゃ。高重力場へ突入しないようにね」とコーティーはいう。「そんなことになったら困るでしょ?」
彼女自身の声がうなるように答える。「早く」
「いまのは古いジョークだ」コンピューター部長が口をはさむ。「“フリビライザーのグーゴル処理”――要するに、自動操縦の手動切り替え装置を無効にするといってるんだ。ああ、なんとしっかりした子だろう」
「それと、いまからこのメッセージ・パイプを送らなくちゃならないわ。これはあんたのためなのよ、シル。これを聞いたら、あんたがいろいろすばらしいことをしたのがわかるわ。まず加熱してと――あっ、ううっ――おねがいだからやらせてよ、シル――おねがいだからこれだけ――」
オーブンを乱暴にあけるような音にまじって、断続的にコーティーの悲鳴が聞こえる。彼女の父親は、椅子の肘掛けをギイギイきしむほどきつく握りしめる。
「知ってるわよ、あたしだって。あの大きな黄色の太陽がかなり熱く明るくなったのはね。でも、心配しないで。あのそばを通過すると、旅がまる一行程も短縮できるの。これがたったひとつの冴えたやりかた。ハン・ルー・ハン、だれか聞こえる? ほら、いま船首のブラインドをおろした。
さてと、ボーニイとコーのカセットもパイプにいれたと――うわっ!――船首カメラの小さいカセットはどこだったかな? シル、あんたの原始的な片割れにいってやってよ。そんなジャブをよこすたびに、よけい仕事が遅れるだけだって。おねがい、たのむから――ああ、あった。それに胞子も出てきた――つまり、中にはいってた種子が――……。このパイプ、熱い!
さあ、いよいよさよならをいうときね。これをパイプにいれて、カプセルにはいればおしまい。パイプが、うまくこの重力場の中から抜けだせるといいけど。そうだ、できるだけ長くこれからの行先を見とどけたいな。苦痛をがまんできるあいだは、目をあけてよく見なくちゃね」
カセットを扱う大きな音。
「さよなら、みなさん。あたしの家族に……ああ、パパとママ、愛してます。たぶん、連邦基地のだれかが説明してくれると思うけど――ううっ!! おう……おう……もうだめ……ねえ、シル、あんたはさよならをいう相手がないの? あんたの師匠は?」
混乱した発声、それからかすかに――「ええ……」
「シルのことを忘れないで。彼女はすてきだわ。ヒューマンのために、異種族のために、こうしてくれたの。あたしをとめようと思えばそうできたのに。それだけは信じて。……さよなら、みなさん」
大きな音といっしょにレコーダーは沈黙する。
「ハン・ルー・ハンか」異生物学者が沈黙の中で静かにいう。「琴座で飛行任務についていたあの少年だ。“これがたったひとつの冴えたやりかた”――彼はその言葉を残して救出作戦にでかけ、そこで命をおとした」
司令が咳ばらいする。「キャスさん、われわれはあの付近を調査するため、偵察チームを派遣します。しかし、お嬢さんとその乗客が、接触汚染の危険を防止するために船を太陽へ突入させようとした計画が、失敗したと信じられる理由はどこにもない。あのメッセージの最後では、彼女にもその熱が感じられるほど、太陽に接近していた。それに、このメッセージ・パイプが、ほんの数日先に送られた前回のそれよりもこんなに遅れて届いたのは、重力の影響にちがいない。さらにその上、彼女は念をいれて、自動操縦の船が恒星と衝突するのを防ぐ補助手動装置を切り離しています。キャスさん、ほかの人びとに大きな危害をおよぼすような、恐ろしく苦しいジレンマに直面したとき、あなたのお嬢さんは勇敢で名誉ある選択をされた。われわれは彼女に感謝しなくてはなりません」
沈黙がおり、みんな若くすばらしい生命のとつぜんの終結に思いをめぐらす。ふたつの若くすばらしい生命。
「しかし、さっきの話では、このメッセージを送ったとき、あの子はまだ元気だったはずだ」コーティーの父親は、乱れさわぐ気持ちにかられて最後の抗議をする。
副官が答える。「キャスさん、わたしはこういったんです――彼女は健全な精神状態で、おそらく自分の艇の中にいたと思われる、と」
「あの子の母親がこの場にいないことを神々に感謝しなければ……」
「彼女がめざした星がどれか、正確にわかるか?」司令がチャート部長にきく。
「わかります。B‐K座標は信用できますから」
「それでは、もし異議がなければ、天体名鑑の中でその星を新しく命名しようか」
「コーティーの星」と通信部長がいう。一同が立ちあがり、部屋を出ていこうとする。
「コーティーとシロベーンの星だ」と静かな声がいう。「みなさん、もうお忘れかね?」
「キャスさん、しばらくおひとりになりたい気持ちでしょう」司令がいう。「わたしにご用があれば、いつでもどうぞ。オフィスにいますから」
「ありがとう」
司令は副官を連れて部屋を出ていき、専用の小食堂でだまりがちな昼食をとる。コーティーのメッセージを聞くため会議室へはいる前から頭にあったいろいろの問題のほかに、いまでは新しい問題がふえている。いつどこでイーアとコンタクトするか、有望なGO型太陽のそばの宙域で、彼らの種子または胞子の危険の程度をどのように判断するか。〈消えた植民地〉の疑問。その星域を防疫隔離するかどうか。そして、これまでのメッセージ・パイプで、連邦基地そのものに種子が侵入している可能性はあるかどうか。それに、シロベーンがコーティーを免疫にした化学物質のサンプルも、かなり優先順位が高くなりそうに思える。
しかし、それらの現実的な考えの背後に、ひとつのイメージが、明るく若々しいハミングの声を伴奏にして、彼の心の目にうかぶ。それはふたりの子供のイメージ――ひとりはヒューマン、もうひとりはエイリアン――そのふたりが手をたずさえて、まっしぐらに、見知らぬ太陽の焦熱地獄へ突進していくシルエットだ。
[#改丁]
[#地から2字上げ]図書館にて
モア・ブルーはふたりの若いコメノがやってくるのを見て、微笑をうかべる。古文書は、刺繍したバッグの中にていねいに包みこまれている。
「どうだった? 気にいったかね? ご希望にそえたかね?」とモアはたずねる。
「すてきでした!」とコメノの若い娘が息を吐く。「それに、思ってもいませんでした。あんなに若いヒューマンの女性が、なんていうか、あんな――」
「あんな冒険をやってのけられるとは!」と彼女の連れがあとをひきとる。からみあったふたりの上腕に、優しい力がこもる。「でも、とても悲しいお話。おしまいのところが」
「ほんとにヒューマンは、あの星を彼女にちなんで命名したんですか?」
「ああ、したよ。あのとき、もっと強調しておけばよかった。こういう脚色された記述の中で、事実として書かれているものは、まさしく事実なんだ。きみたちは第三の物語でも、これによく似た命名にでくわすはずだよ――みんな、事実だ」モアは古文書の包みをほどき、それをていねいにわきへとりのけてから、別の古文書をとりだす。こちらは前のよりすこし厚い。
「さあ、これがつぎのテキストだ。やはり〈リフト〉周辺部を舞台にした物語だが、内容はがらりとちがう。純粋なヒューマンの相互作用で、対話の大部分は、関係者へのインタビューから外挿するしかないものだった。だが、あっというまに書きあげられたらしい。というのは、登場人物のひとり――いや、ふたり――が、あとでかなりの名声をかちえたからだ。きみたちはヒューマンのグリッド・ワールドがどんなものか知ってるだろう?」
ふたりのコメノはひたいにしわをよせる。「えーと……ヒューマンのエンターテインメント放送がはじまった惑星ですか?」小柄な女性が思いきっていう。
「そのとおり。それだけでなく、独立したひとつの文化でもある。その名前は、派手なもの、センセーショナルなもの、そしてたぶん、なんとなくまやかしくさいものの代名詞になった。グリッドは連邦ぜんたいをおおい、共通の言語、ゴシップ、有名人、ジョーク、スキャンダルでそれをひとつにまとめるのに大きく役立った――それに類似したものは、われわれにはなかった……これまでは。この物語の時代には、超光速通信はほとんど知られていなかったし、超光速航行も非常事態のさいに使われていただけだ。しかも、いまわれわれが使っているシステムとはまったくちがう。もちろん、これらの物語に、たとえば数百光年離れたところで起こっていたダミエムの物語と関係づけられるような、正確な年代を与えるのはむずかしい。なぜなら、しばらくのあいだ、ヒューマンはスウェインやダールディッガーン――あの種族が悲劇的な自爆をとげる前だが――といった他種族からテクノロジーの一部を借用していたからだ。とにかく、この物語には、ヒューマンの異常な動機づけのいくつかが見いだせる――彼らの古いグリッド・ショーに近いものをね。それに、〈暗黒界〉の連中の恐ろしさをはじめて味わえることにもなる」
「すごいな。彼らについては、とても好奇心があるんです。でも、大学の教科書には、“この時代、いわゆる〈暗黒界〉からきたヒューマンがもめごとを起こした”というような、漠然とした記述しかありません。そんなものでなにがわかります?」
「そのとおり。ああ、もうひとつ。もし、コメノの生理に関するわたしの記憶がたしかなら――ヒーローの選択が、なぜあれほど感情的に苦しいものであったかを、ヒューマン学の専門家にたずねたほうがいいね。インタビューアーも執筆者も、気がせいたのか、やや排他的になって、ほかの生殖方法をとる種族にもわかりやすくする努力をおこたったようだから」
背の高いほうのコメノが考えぶかげにいった。「イムグレンノ教授から、ヒューマンの生殖反応の話をすこし聞いたことがあります。あの教授にたのめば、きっと助言してもらえるでしょう。おもな特徴は、その強烈さだと思いましたが」
「かわいそうな生き物」と小柄な女性が口をはさむ。「こういうと排他的なのはわかっていますが、わたしは双性の種族がいつもきのどくになるんです……あ、ごめんなさい、ブルーさん。どうかあなたの種族の慣習を侮辱したと思わないでください。失礼なことをいっちゃいました」
「いやいや、とんでもない」モアはにこやかに答える。「たしかにわたしの種族も双極性だが、九十パーセントの期間は中性モードで過ごすからね。そのあいだは、すべてのカップリング、トライプリング、その他、あらゆる情熱が、ひどく縁遠い、熱病的なものに思えるんだ。ぜんぜん気を悪くしたりしないよ」
赤いにこ毛の生えた若い娘は、モアでさえとろけそうになる微笑をうかべ、そして、未来の連れあいは彼女の上腕をなでる。「遍《あまね》きものの驚異は偉大なるかな」と彼女はつぶやく。
反対側からゴロゴロと音が聞こえる。そこには大柄なムームの学生が、いらいらして順番を待っているところだ。ゴロゴロいうのは、複合食道が不機嫌に立てるうなりだ。コメノの青年は新しいテキストの上にいそいで雨よけのラッパーをかけかえ、ムームにむかって上品に会釈する――ムームは例によって、なんの返事もしない。モアとコメノのカップルは面白そうに顔を見あわせる。ムームの無作法さは、全銀河系に知れわたっている。それが許されているのは、彼らがほとんどほかの種族とつきあわないから――そして、推進船の技術者としては、抜群の腕前を発揮して、信頼がおけるからだ。
「その物語がきみたちの期待にそうといいんだがね」とモアはふたりにいう。「忘れないでくれ。もし、それがヒューマンの恋愛と交尾の習慣にちょっとかたよりすぎるように思えても――第三の物語はだいじょうぶ。きみたちのために特に念入りに選択したものだから」
ふたりはムームのゴロゴロという新しいうなりにうながされながら、モアに礼を述べ、新しい宝物をだいじそうに抱きかかえて帰っていく。
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第二話 グッドナイト、スイートハーツ
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ブワッ・ブワッ・ブワッ、ピー、ブワッ――
遠いはるかな宇宙空間。レイブンは冷凍睡眠カプセルにおさまり、生きた人間《ヒューマン》としてはもっとも死に近い状態で、夢のない眠りをむさぼっている。と、覚醒注射の針が、無感覚な尻をつき刺す。やがて、しとねばりのカプセルが、優しく彼をゆりおこす。レイブンは起きなおる。冷凍睡眠の名残りである頭の中の薄膜が、たちまちのうちに溶けていく。
連邦基地九〇〇を出てから、もうどれぐらいだ?
パネルが教えてくれる。レイブンが冷凍睡眠にはいっていたあいだに、このサルベージ船ブラックバード号は、〈北部大星溝《グレート・ノース・リフト》〉の縁にむかって長い旅に出発し、あらかじめコンピューターに入力されたパトロール・コースをたどりながら、新しく立体星図《ホロチャート》に記載された、〈リフト〉のそばの五つの植民惑星をめざしていることを。
さっきからのブワッ・ピーは、ふたつの信号だとわかる。
ひとつは未確認船舶からのけたたましい“燃料切れ”の信号。
もうひとつは連邦基地九〇〇からの呼びかけ。ここまでくると、有効交信範囲すれすれだ。レイブンは、“燃料切れ”の音量をしぼって、基地からのささやきをききとろうとする。
「――おたくにまかせるよ、ブラックバード」連邦基地九〇〇が宇宙雑音の中から語りかける。「もし|生死の問題《エル・ディー》じゃなかったら、こっちを呼んでもあと三十日はかかるといってくれ。じゃ、宝の山でしっかり儲けろ!」
「了解。ありがとう」レイブンは交信を終わりながら、おかしくなる。燃料切れの船がなんで“宝の山”なんだ? それにしても、声のでっかい船だぜ。
発信中の船との距離を調べてみて、冷凍睡眠にはいりなおすまでもないとわかる。ありがたい。むこうのタンクをいっぱいにしてやったあと、ブラックバード号の燃料をどこで再補給するかは、これからいく途中で考えよう。
むこうがよくある修理回収の必要な難破船でなかったのが残念。“レイブンの難破船”といえば有名で、買い手も多い。
もよりの燃料集積所は、新しい五つの植民惑星のうち、カンブリアという名の惑星とわかる。追加メモによると、連邦基地九〇〇は、およそ百日前にカンブリアとの接触を失ったとある。これはなんとでも解釈できる。移民たちが通信機器のメンテナンスにうといのは、周知の事実だから。
とはいえ、このまえもレイブンは至近通過船に三度も目をさまされている。とすると、〈暗黒界《ブラック・ワールズ》〉の連中か、小惑星の稀金属ラッシュからおちこぼれたこわし屋一味か、それとも神々のみぞ知るなにかが、この扇区で活動中なのか。しかし、あいつらも燃料集積所には手を出さないだろう。連邦ご自慢の干渉防止用爆発装置には、さすがのワルどもも敬遠して近づかない。
しかし、植民地はお人よしで無防備だし、おまけに植えつけ、灌漑と排水、気候の順不順、土着動物の飼いならしといったことで頭がいっぱいだ――そのうちにだれかが空から乗りこんできて、びっくり仰天してもあとの祭り。ヒューマンのならず者の襲来は、ひとり乗りの船で眠っている男にとってもうれしくはない。しかし、特製の警報プログラムが、そんな不意打ちからレイブンを守ってくれる。そればかりか、おそってきた宙賊一味を、船ごとつかまえ、密封して、これまで二度も連邦基地へひきわたした実績がある。
それを思いだして、レイブンはにやりと笑い、くしゃくしゃの黒い髪をうしろにはらいのけたあと、Gを強めて、軽く準備運動にとりかかる。連邦基地九〇〇で食べた誕生祝いのごちそうを消化するためだ。冷凍睡眠による体のこわばりはない――もともと冷凍睡眠は、体がこわばったり、どうかしたりするものじゃない。その逆で、もう七十年近くを過ごしてきたそのカプセルの中では、生理的にはまったくなにも起こらなかったと同然だ。そう、年もとらない。休息もとれない――疲れたままで眠れば、疲れたままで目がさめる。だから、冷凍睡眠にはいる前に、かならず仮眠をとる習慣にしている。
カプセルの下側に両足の爪先をひっかけて腹筋運動をしながら、レイブンは考える――七十標準年。それに加えて、目ざめていた三十年。連邦基地九〇〇で祝ったのは、パネルの隅の小さなテラ時計――人類と、それを生んだ惑星との最後のきずなのひとつ――でかぞえて百回目の誕生日だ。なのに、レイブンはまだ青年といっても通る。三十歳の男のバイタリティーと肉体。しわのない皮膚。つまりはそれが生活年齢だ。
そのことでめんくらう人たちも、中にはあるらしい。連邦基地でのレイブンは一種の歴史的有名人だったが、ときたま、好奇心にみちた、不安な視線を感じたことがある。たいていの場合、そうなるのは、ついうっかりして、まるできのうの出来事のように、最終戦争の話をしたときだ。レイブンにとっては、事実そうなのだからしかたがない。その後につづくのは、頭の中の空白の歳月。政府から押しつけられた特別慰労リハビリテーションの期間だ。
リハビ療法は、とてもそれをかかえて生きていけない戦争のトラウマ的な記憶に対する、連邦の解決策だった。レイブンはそのことに感謝している。自分でも記憶をあまり掘りおこさないようにしている。見当もつかない戦功でもらった勲章は、売りはらってしまった。見知らぬ、肌さむい小さな既視感《デジャ・ヴュ》のうずきをもたらすような人間や場所とのつきあいは、用心ぶかく避けて通ってきた。
この星ぼしの谷間で、割のいいサルベージと救難の商売をはじめたのは、そんなわけだった。連邦宇宙が、この北のさいはてでほつれていって〈リフト〉に移行するここでは、仕事からつぎの仕事までの時間と距離がすごく長い。パトロール隊も、レイブンがここで働くのを歓迎してくれる。レイブンと、高推力で頑丈なこの小型万能タグボートは、どんな状況にも対処できる――ときには対処不能と思われる状況でも切りぬけられる――コンビとして、信頼も高い。そうして稼いだクレジットの大半は、ブラックバード号改良のため、新しい高性能のハードとンフトにつぎこまれる。それに、この虚空の中では――とくにいまは――リハビ療法の成果を反古《ほご》にするようなものにでくわす危険もない。
小惑星をめぐるあの空前の稀金属ラッシュのあとは、予想どおり景気が下り坂になった。しかし、九〇〇扇区では、まだけっこう跳航ミスだの、燃料切れだのが発生する。そのほかにも、中古のおんぼろ移民船でとびだした探険家とか、一立方光年の中にたったひとつしかない船や岩に、わざわざ衝突する正真正銘のうすのろとか。おかげでレイブンも、余分にクレジットを稼がせてもらえる。
いい生活だ――トレーニング用グリップを握りながら、レイブンはそう思う。すてきな生活だ。それに、最高の誕生パーティーだった。おおぜいの新しい友人もできた。つぎに会うとき、むこうはみんな白髪になっているだろうが、それにはもう慣れている。いまのこの生活には、なんの不満もない。
質量接近探知機がチャイムを鳴らす。燃料切れの船がスコープ可視範囲にはいったという知らせだ。
さっきの“宝の山”というジョークの意味はたちまち明らかになる。むこうはべらぼうに豪華な自家用ヨット。金色の渦巻装飾のはざまに〈マイラU号〉と船名が読める。レイブンは視覚走査で念入りに船体を調べる。宇宙空間でエンコしただけで、べつに損傷はなさそうだ。動力はまだすこし残っているらしい――船内に明かりが見える。レイブンは最新購入のぜいたく品、ジェーン年鑑プログラムを持ちだして検索のすえ、マイラU号の船主がパヴェル・パラディン男爵閣下であることを知る。見てくれも、名前のひびきも、匂いも、リッチそのもの。
インペラー推力を使って相手の船すれすれに近づき、金色に彩られた舷窓のまわりをゆっくり一周する。操縦席では、オレンジ色の服を着た男が眠っているようす。副操縦席に若い女の姿が見える。ラウンジには、肘掛け椅子にすわったおぼろな人影が二つ三つ。
若い女が彼を認めたようだ。けだるそうに手をふっている。
レイブンはマイラU号の磁力|捕捉装置《グラップラー》を見つける。まもなく、延長トンネルをむこうの主エアロックにすっぽりかぶせ、宇宙服を着こむ。
エアロックの横にも金色の装飾があり、スピーカー・グリルが埋めこまれている。
「準備完了! あけろ!」と彼は呼びかける。「燃料を届けにきた」
返事がない。だれの動く気配もない。
もう一度呼びかけるが、結果はおなじ。いったいどうなってるんだ。
そこで彼は気づく。ふざけやがって。これもやはり金細工の来客用ホロカメラ。そこからおすと、この連中は船から船を訪ね歩き、社交三昧で暇をつぶしているのだろうか。それがこんな宇宙のはずれでなにをしている?
彼はグラブをはめた手でホロカメラのボタンを押し、あらたまった口調でいう。
「マイラU号? こちらは回収救難官のレイブン。燃料補給にきました」
それでも動きがない。
さらに二度、もっとぞんざいな口調でどなってみる。それからグラブをぬぎ、聴診器をとりだす。難破船探査には欠かせない道具で、イヤホーンがヘルメット内部に合体している。マイラU号の冷えきった外殻を素手でふれないように気をつけながら、ふたりの――いや、三人の――声をつきとめる。三人ともが、あのまぎれもない単調な大声。会話じゃない。
そうか、そうか。くだまき屋かよ。
レイブンは聴診器を袖にしまいこみ、しばらく考える。いくらどなっても聞こえないはずだ。くだまき屋どもの椅子が舷門のすぐそばにあって、しかも、すこぶるハイなご気分らしい。
くだまき、正式にはタラカ・タラカと呼ばれるそのドラッグを、レイブンは一度もためしてみたことがない。一匹狼の|宇宙船乗り《スペーサー》は、自分の頭を極度に大切にするものだ。ただ、くだまきを使うと、あらゆる単語が――どんな単語も――いいようのない魅惑に満ち、セクシーで、謎めいて感じられることだけは知っている。くだまきの常用者の中には、じっとすわって内心の声に耳をかたむけるものも、すこしはいる。しかし、大部分はやたらにしゃべりまくる――とめどもないたわごとの洪水で、ほかのことにはおかまいなし。しかも、それが大声。くだまきの副作用のひとつで、耳が遠くなるからだ。そばにいると、たまったもんじゃない。
そういえば、さっきの女はいちおう注意力があったようだし、きっと交信機もそばにあるはずだ。
レイブンはブラックバード号の中にひっこむ。わめきつづけるマイラU号の遭難信号をカットするため、レシーバーはしぼったままだ。顔をしかめて、また音量を上げる。
「マイラ! マイラU! 燃料を持ってきた。さっきから舷門をたたいていたんだぞ。その小うるさい信号を切って、舷門をあけろ。こちらは回収救難官のレイブン」
たちまち信号がやむ。スピーカーが、ためいきとクスクス笑いにまじって、やわらかな女性の声をひびかせる。やがてマイラU号の舷門が音もなくひらき、鏡張りのエアロックが現われる。クリーム色のカーペットは大きな金色のモノグラム入り。レイブンはブーツに目をやり、しぶしぶひと拭きをくれる。
エアロックにはいる。舷門は背後で閉まり、鼓膜といっしょに胃もぴょこんとなる。重力変化のせいだ。気圧調整は速い。すぐに内扉がひらき、耳が割れるようなくだまき屋どもの独白がレイブンをおそう。マイラU号のGは低く、ひろびろとしたラウンジはおおかたの照明を消してあるので、星野の光がまぶしくさしこんでいる。片方には、水栽培の発光植物の豪華なディスプレイ。夢の中みたいだ――巨大な安楽椅子からの、かすれた、騒々しい声がつや消しだが。レイブンは彼らの姿を見分ける。しゃべっているのは、均整のとれた体格で、いい身なりをした、年かさの男ふたり。あとのひとりは、刺繍入りの一種のローブをはおった、もっと若い、小太りの――いや、はっきりいって太りすぎの――男で、ぼんやり宙を見つめている。三人とも、レイブンがはいってきたのに気づかない。
レイブンはヘルメットをうしろに上げ、春風を思わせる甘くて新鮮な空気を吸いこみ、ふわふわと操縦席へ歩いていく。ラウンジを出て、目には見えないが、クモの巣に似た手ごたえのあるカーテンを通りぬけると――背後の物音がばったりとやむ。プライバシー・バリヤーだ。知らないまに、もう民間にも普及したらしい。ありがたいことに。
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操縦席のうしろの補助席にたどりついたとき、さっき外から見たときは眠っていた男が目をさましたらしく、オレンジ色のひだべりに包まれた長い両腕で伸びをする。レイブンから見えるのは、銀灰色のゆたかな頭髪だけだが、やがて相手はふりむいて、鷹のように鋭い容貌と、垂れたまぶたを明らかにする。そこから受ける感じは、短気な性格、かなりの高齢にもかかわらず、まだ衰えを見せない倣岸《ごうがん》な精力家。
女もふりむいて、彼の接近を見まもる。レイブンには、大きい銀の雲のようにひろがった髪と、小さく青白い顔しか見えない。しかし、その女から受ける印象のなにかが、たちまち気になる。彼女からわざと目をそらし、レイブンは男に話しかける。
「あなたが――えーと、パラディン男爵閣下ですか」
「そうだが?」疲れた声、命令するのに慣れた声。
この相手にマイラU号の船主である証拠、またはパラディン男爵である証拠を要求するのは、なんとなく無意味に思える。レイブンの心の一部は、そんな自分を責める。〈暗黒界〉の悪党どもがその気になれば、マイラU号を乗っ取って、乗客をドラッグ漬けにし、こんな芝居で燃料を手にいれるぐらい、わけないだろう。しかし、そんな可能性はすくない、と彼は自分の心にいいきかせる――それに経験からいっても、〈暗黒界〉の連中とはタイプがちがう。とはいっても、ある程度の用心をしておくにこしたことはない。
「回収救難官のレイブンです。この船は燃料切れだと解釈していますが」
女の輝かしい頭がいきおいよくうなずく。パラディン男爵が、うるさそうにのどの奥でひと声うなる。
「それでは、タンクをいっぱいにする前に――といっても、そちらが補給を希望された場合にかぎりますが」――パラディン男爵の眉が意外そうにひくつく――「一、二、はっきりさせておきたいことがあります。第一はタンク漏れ、あるいはポンプ故障の可能性。そこでおたずねしますが、燃料が切れたときに、当然だという感じがしましたか、それとも、消費の速さが意外でしたか」
パラディン男爵は、この質問をまじめに検討しているようすだ。
「当然だろうな。最後に補給したのは第一〇五基地だった」
レイブンは驚いて口笛を鳴らす。「それでここまでジャンプを? よけいな詮索かもしれませんが、なぜビーコン・ルートを使わなかったんです?」
鷹を思わせる顔にさっと怒りがのぼり、またひいていく。「まったくよけいな詮索だ。しかし……あのころとは万事がかわったな……こっちが予想していた以上に」
「パヴェルは近道を知っていたのよ」かたわらの女が、例のお色気たっぷりな、吐息まじりのささやき声でいう。こんどはクスクス笑いのあとかたもない。レイブンはもう偽者の疑いを持てなくなる。
「おっしゃるとおり、当然なようですね」レイブンは同意する。「では、この若いご婦人と席を交代して、いくつかの機能をチェックしてよろしいですか。ちなみに、そうするのが規則でしてね。この辺境では、たとえミリリットルでも燃料浪費の危険をおかすと、あとでお目玉を食らうので」
「どうぞやってちょうだい」
女は立ちあがる。しかし、いやいや彼女に目をやったレイブンは、ある違和感におそわれる。彼女の動作には、ピチピチはずむような若さがなく、成熟した女の流れるようなしとやかさがある。それに、明るい操縦席の照明で、もっとほかのものも見える――かすかなひとすじの白い線――いや、毛すじほどの白い線がいくすじか、あごから上に走って髪の毛の中に隠れ、下は肩まで伸びてそこを横ぎっている。ほとんど目につかない線。なにか恐ろしい事故の傷痕だろうか。こんな美容外科手術があるとは聞いていない。女はうしろの補助席にすわり、そこはかとない芳香が、いやおうなく彼の鼻をくすぐる。
「なにとなにをチェックするか、いちおう先にいっておきましょうか」
「いや、作業をはじめてくれ。わたしは早く眠りたい」
男爵のうしろで、女が落胆のつぶやきをもらす。メイン燃料ポンプのまわりに逆流バイパスをつけながら、レイブンはふと考える。この女もパイロットなのか、それとも、もっか見習中なのだろう。
彼は点検表にしたがって作業を慎重に進める。マイラU号は装備のととのった船で、ホースに漏れがないか、空気を送りこんでたしかめる装置も、ポンプの詰まりをとり除くための逆流ポーチもそろっている。しかし、新造船ではない。
「わたしの見当ちがいかもしれませんが、こうした長旅をされるのは、ひさしぶりのことじゃありませんか」
「そのとおり」
老人が点検項目に関心を見せなかったにもかかわらず、レイブンは綿密に手順を追っていく。作業に熱中すると、気がおちついてくるようだ。
「最終戦争の末期に、しばらく……宇宙部隊の任務についたことがある」と老人が低い声でいう。レイブンは相手をふりかえりたくなる気持ちを抑える。この男は、思っていたよりもはるかに高齢のようだ。はるかに。
「任務につかれたのは、この扇区ですか」レイブンは圧力計の動きを待っている。
「この近くだ。たまたま、わたしはむこうにいる戦友と――」老人の唇が皮肉にゆがむ――「ふたりの戦友といっしょに、グーラート星系のながめを体験してな。あの星系の名を聞いたことはあるかね?」
「この目で見ましたよ。信じられないながめです」
グーラート星系は連邦宇宙の驚異のひとつ――色とりどりの太陽の集団が織りなす、とほうもない密集軌道のダンスで、そのながめはヒューマンの精神に説明のつかない主観的効果をおよぼすといわれている。
「ともかく、年がいもなく軽はずみな提案をしたわけさ。わたしが操縦するから、もう一度だけみんなでノスタルジックな観光旅行をしてみないか、とな。そうしてよかった――記憶は裏切られなかった。きみのような青年にはわからんだろうが。当節そういうものはすくない」
マイラU号の圧力計の示度はかわらない――よし。レイブンは“青年”といわれたことに苦笑しかけて、すぐ真顔にもどる――なんといっても、パラディン男爵はその歳月のすべて、または大半を実際に生きてきたのだ。こっちが眠っているあいだに。
「よかったですね」これは心からの感想だ。「点検結果はすべてグリーン。さっそく補給にかかれます。ただ、その前に、ビジネス面でわたしについて知ってもらっておきたいことがあるんですが」
鷹の顔から懐旧の表情があとかたもなく消える。
「いままでわたしがやったことは、ここまでの旅の経費も含めて、すべて連邦政府から弁済されます。しかし、わたしはパトロール隊員じゃなく、いわゆる提携自営業者です。“回収救難官”の肩書は本物ですがね。辺境星域には、免許のあるもの、ないものとりまぜて、何人もの自営業者がいます。閣下、あなたがいまおられるところは、冷たい空虚な深宇宙です。ここでは連邦軍の船舶も真空なみに薄く分散しています。事故現場へ到着するにも、暇がかかります。連邦基地九〇〇――この扇区の基地――から、わたしはこう伝えるようにいわれました。もし、官有船が燃料補給にくるとすれば、約三十標準日はかかる、と」
「それで?」パラディン男爵が氷のような口調でたずねる。女がうんざりしたようにつぶやく。「三十日も!」
「要点はふたつです。第一に、いまの件についても、また、わたしの身元についても、あなたはわたしの言葉を信じるよりないわけです。身分証めいたものはここにありますがね。しかし、それより交信機を使ってわたしの話の真偽を基地にたしかめてほしい――いや、ぜひともそうしていただきたい。もし、ここから通信が届かなければ、もっと近くまでもどってから基地に確認をとるという約束をしていただきたい。それでわたしのほうは後ぐされがなくなります――もしあなたがこの種の接触のことを報告して、事実と相違していた場合は、軍がさっそく牽引ビームで偽者をつかまえにくるわけです。それに、そうしておけば、あなたもとやかく――つまり、ちょっと人がよすぎると――いわれなくてすむ。わたしがH2[#「2」は下付き小文字]Oをタンクに詰めこんでいく可能性もないわけじゃないですからね」
これを聞いて、垂れたまぶたの下から目がきらりと光るが、パラディン男爵は身ぶりで女を通信室へ行かせる。話をつづけながら、レイブンは彼女の低い声を聞きわける。雑音は多いが、連絡がとれたようだ。
「第二に、もし生死にかかわる問題であれば、軍は三十日の期間よりもっと早くここへやってきます。超Cジャンプ船に装備を積み、いそいで出動させるからです。ただし、これは事実でないとだめ。せんだって虚報を出した男は、まだ戦隊の営倉にぶちこまれてますよ……愛人の頸動脈を切ったんですが」
最後のひと言は、パラディン男爵だけに向かって小声でつけたしたのだが、女にも聞こえたらしく、レイブンがひたすら避けている例の煙った瞳で、こっちをふりかえる。
「ま、そういうわけで――もし連邦基地の約二倍の価格でもよければ、いますぐに補給します。納税者はわたしを食わせてくれません。だから、即配達ができるかわりに、単価は八十。それとも、連邦基地の補給船を待つのであれば、三十九で手にはいります」
長い説明のあいだ、パラディン男爵は、はじめは鼻であしらうような態度だったが、レイブンがどんどん話を進めるにつれて、冷徹な容貌に興味の光を宿し、一、二度まばたきをする。レイブンは推測する――この相手は、長い習性から目新しい商売にはなんでも夢中になり、おそらくもうすでにこっちの年間総収入から、必要経費、純利益までを計算しおわっているのだろう。
パラディン男爵は舷門にちらと目をやる。そこではブラックバード号の針のように細い船首が、かすかに前後に揺れている。マイラU号からの振動の影響だ。
「もちろん、きみのを買う。だが、この船のタンクは大きい上に、故郷に帰るにはそれでもぎりぎりだ。満タンにするためにきみがあのしろものでお代わりをとりにもどるようだと、とても待ってはおれんぞ」
レイブンはにやりと笑う。「あなたのおっしゃる“あのしろもの”は、空飛ぶ燃料補給所ですよ、閣下。ありとあらゆる中空部分に、圧縮燃料が詰まってる。しかも、基地で満タンにしてきたばかりです。そのうちいつか、ばかでっかいかがり火にかわる日もくるでしょうが」
「まあ、縁起でもない」女がつぶやく。
「こうしましょうか。もし満タンにすこしでも欠けたら、お代はけっこう。なんなら、約束のしるしに指紋を記録しますよ」
老人は手を横にふった。「それにはおよばん。すぐはじめてくれ」
「了解。では、道具をとってきます。おふたりでいまの情報を確認しといてください。わたしの身分証が盗品であるという可能性も忘れずに。そういえば、ブラックバード号だって盗品かもしれない――とんでもない話ですが」
舷門にひきかえそうと、軽快に船尾へむかったレイブンは、またくだまき屋どもの声にでくわして顔をしかめる。
「あべこべ、足踏み、握手、雨雲、綾織、跡継ぎ、蟻塚……」痩せて頭の禿げた、青い部屋着姿の男が安楽椅子からそうわめくと、レイブンからは背中しか見えない椅子から、「……成功……抵抗……栄光……傾向……閉口……」とこだまが返る。長いローブを着たふとっちょは、まだ無言のままだ。この男だけは年が若く、どう見ても最終戦争の勇士とは思えない。パラディン男爵もこの男の存在を説明しなかった。奇妙だ。
エアロックにはいったレイブンは、瞳の光をとらえる。ふとった顔がまっすぐこっちを見ている。しかし、一瞬の印象で、気のせいかもしれない。扉が閉まるときには、むこうの顔はうつろな陶酔にもどっている。
ブラックバード号にひきかえし、計器、レンチ、潤滑剤、高圧漏斗などのくっついた補給用ベルトを装備するうちに、レイブンは自分がすこしふるえているのに気づく。いったいどうしたんだ? どうってことのない燃料補給、しかもおいしい仕事なのに……。だが、自分ではその理由がわかっている。あのいまいましい女。まさか、あの女がリハビ療法となにかのかかわりを――
そのことは考えるな。
しかし、レイブンの心は、輝く磁石にひきつけられるように、彼女にひきつけられる。その磁場が、ひとすじの冷たい霧を、背中と股ぐらに送りつける……その磁石がある渦流の中に彼をいざない、そこではすべての方角、すべての理性が、過去と現在の混沌といりまじる苦痛の中に失われ……やめろ!
ヘルメットを平手でたたくと、大股にマイラU号へとってかえし、この船のタンクについて、なにかあらかじめ知っておくべき特別なことがあるかとたずねる。
「いや、ないと思う」パラディン男爵は、服のベルトから象牙色の細長いチップをはずしてさしだす。「文字合わせ錠だ」
燃料タンクに文字合わせ錠? マリーナの生活というやつは!
「では、ここの非常口をひらくことにします」レイブンは副操縦席のソファーをくるっとまわして、舷門とブラックバード号の反対側にある円筒形のクロール・スペースを露出させる。「そのほうがアンカップリングの手間がはぶけるので。ちょっとのま、隙間風がはいりますが、よろしいか」
「短時間なら」
「こんな通路があるなんて知らなかったわ!」と女がさけぶ。
レイブンは残念そうに首をふる。「このハッチ、ひどくグリスをほしがってる」ベルトから容器をひとつはずし、グリスを塗りはじめる。
「わたしも外に出たい!」女がだしぬけにいう。「おねがい、レイブンさん。けっしてじゃまはしませんから」パラディン男爵のほうへにこやかに歩みよって――「パヴェル、ねえ、おねがい――キャビンにこもりきりだと、なんだかうっとうしくて――外に出ないと気がへんになりそう――」ささやきの最後のほうは、レイブンには聞きとれない。
パラディン男爵はひどく不機嫌な顔になるが、これしかいわない。「命綱をつけていきなさい。ちゃんと固定するんだぞ」
「ええ、ええ、そうしますとも。約束するわ! ありがとう、いとしいパヴェル――」彼女は老人の耳のうしろに軽くキスすると、ベンチの一端で船体に固定されたプライバシー保護繭《コクーン》をひらく。あっというまに、彼女はその中に隠れる。
レイブンはこうなった運命をのろう。とんでもない話だ。お断わりだ。タンクをほったらかしにしてさっさとずらかろうか、と激しい衝動にかられる――三十日ぐらいどうってことはない……。しかし、ふたつの理由から、自分がそうしないのはわかっている。ひとつは自分の良心。もうひとつは、プライバシー保護繭《コクーン》の中から、これまで見たこともないような宇宙服を着こんで現われたもの。
その宇宙服は分厚く透明度の高いプラスチック製で、しかるべき戦略要点だけがきらきら光る銀色の装飾で隠されている。見たところ、女が身につけているのはそれだけだ。
「空気ボンベは?」と思わず声が出る。
「ここ」女はほほえみながら、細い腰にくっつけた小さな容器を軽くたたく。
「あの容器から、特殊な酸素発生バクテリアがヘルメットの中にスプレーされるんだ」パラディン男爵が説明する。「効力は二十四時間。切れたら容器を交換すればよい」
「なるほどね」レイブンは自分の声がうわずっているのを感じる。
「きみに彼女の安全の責任を負えとはいわん。人のいうことを聞くような女ではない」パラディン男爵がいう。「だが、もし彼女が無傷で帰ってこなかったら、きみのいう“かがり火”が燃えることになるぞ」
「ご心配なく」とレイブンはいいかえす。「宇宙多幸症《スペース・ハッピー》になった友人たちを、おおぜい見てきました……奥の手も少々こころえてますよ」最後のひと言を老人だけに聞こえるようにつけたし、にやりと笑う。
「え、なに?」と女がききかえす。
「おしゃべりはやめて、もう出発の時間です。じゃ、わたしが固定しましょう」グラブとヘルメットを装着したレイブンは、彼女の命綱を自分のベルトにつなぎながら、彼女の腰がいまにも折れるのではないか、もしかすると自分は体に火をくくりつけたのではないか、という妄想におそわれる。彼女のヘルメットのほとんど目に見えない止め金を再点検すると、背景を作った髪の毛が、もだえながら外にはみだしてくるようだ。
「交信テストを」宇宙服の無線機をつうじて話しかける。
「ただいまテスト中」女の声が彼の耳だけに返ってくる。だしぬけに、彼女が歌いだす。古い古い歌の一、二小節。レイブンはよろよろとあとずさり、ベンチで身を支える。彼女のスピーカーはよくある種類の薄っぺらなサウンドでなく、上品で、甘く、ゆたかな声を運んでくる。
「もういい、もういい」レイブンは相手をさえぎり、腰をかがめ、ハッチのネジを完全にゆるめていく。注意ぶかい手つきだ。外側のバッグは、長いこと使われていないようだから。
キャビンの空気が揺らぐ。外ではバッグがポンと音を立て、しっかりひらく。探知できるような漏れはない。
「じゃ、わたしのあとからきて、わたしがやるとおりにやってください」
彼は片方の手すりをつかんでバッグの中まで這いすすみ、手まねで彼女にもう一方の手すりを使えと教える。つぎに外側から臨時ハッチ・カバーをかぶせる。しっかり閉じたところで向きをかえ、バッグのジッパーをひらく。シューッと空気が出ていく。彼は片手でバッグをたたみはじめる。厄介な仕事だ。彼女がおずおずとそれをてつだう。帰船のさいにまた使えるよう、バッグを円形スロットに収納しおわると、両足をひきだし、磁石靴を船殻にくっつける。彼女もそれにならう。彼は相手がしっかり自分の足で立つまで、手すりを放さない。つぎに彼女の命綱を手すりに巻きつけ、自分も立ちあがる。
ふたりは自由の身となって、星ぼしの中に立つ。
壮麗きわまりないながめ。見知らぬ太陽が、手でさわれるほど近くにまぶしく燃えている。レイブンは、しばらくそこに平和な気分で立っていたいと思う。磁石靴に軽く支えられて、宇宙のまっただなかで魂を洗い清めたいと思う。だが、それより……それより燃料を入れなくては。この女を世話しなくては。いま、彼女はすぐそばに立って、こっちを見あげている。そんなにおれを見つめるなよ、知らない女……。あの宇宙服は見た目よりも暖かいにちがいない、と彼は客観的な気分で考える。なおいっそう客観的な気分で、彼女がすばらしい美人であることを意識する。
「さあ、これでよし。じゃ、宇宙空間での動きぶりを見せてください。えーと、お名前は……」
「わたしはイリエラ」彼女はうわの空でいう。
記憶のベルがかすかなチャイムを鳴らす。レイブンはひたいにしわをよせる。「あんまりグリッド・ショーは見ないんだが……しかし、そういえば、たしか――」
女は口をとがらす。「ああ、やめてちょうだい! ここまできて、そんなことを――おねがい、ただのわたしにならせてもらえない?」
謎が解け、レイブンは大きな安堵を味わう。そうか、あのイリエラか。不滅の女優のひとり、銀河系最大のグリッド・スターのひとり、すべての男性の胸を――そして女性の胸をも――ときめかす女王。あの神秘の美女、超自然の美女、秘密の中の秘密を約束するようなあの微笑――イリエラ。あの顔、両肘の上にあごをのせたあの顔の写真は、二、三回の長い冷凍睡眠の前に、連邦基地九〇〇のいたるところに貼ってあった。あれほどむきだしの、あれほどたおやかな肘はほかになかった……。あのときは基地訪問をそこそこに切りあげたっけ……。これを見たら、おそらく連邦の人間の半分が、おまえと立場をとっかえたがるだろうな。
だが、レイブンとしては、マイラU号のタンクをいっぱいにしなければならない。つめたい背骨のうずきにかかずらっている暇はない。
「わかりました、イリエラさん。じゃ、そこから手すりのそばまでいって、わたしのまわりを一周してくれませんか。どんなふうにでもかまいませんが、ゆっくりと」
レイブンが命綱をたぐりよせているとき、心からの笑い声が耳にとびこむ。「ペットのプーンタみたいな気分!」
イリエラは若い娘のようにご満悦で、まず磁石靴でそろそろ歩きだすと、しだいに大胆な動きになって、とうとうジャンプをこころみ、遠いほうの手すりにとびついたあと、両足の爪先をピンとのばしたまま、逆立ち“歩き”で一周をしめくくる。
「グリーン、グリーン。ちょっと待って。いまからこの船の上を越えて、ブラックバード号のホースをとりにいきましょう」
「それがあなたの船――ブラックバード号? 大鴉《レイブン》と――ブラックバード!」彼女はひどく息をはずませている。心臓病?
「そうです。しかし、もう跳ねまわらないように。わたしが火あぶりにされます。あなたの友人に」
「ああ、パヴェルのこと? 彼、優しいわよ。野次馬は追っぱらってくれるし」
彼が腕をとり、ふたりは静かに歩きだす。しかし、レイブンがちらと目をやるたびに、彼女は奇妙な期待のこもった表情で、まともに見つめかえしてくる。どういうわけだ? この女は、自分にふしぎな催眠力があるとでも思っているのか。こっちが足もとにひざまずくのを待っているのか。おあいにくだな。目で彼女をはねつけながら、レイブンは大型ヨットのそばに寄りそうブラックバード号にむかう。ふたりでそこにたどりついたあと、ふと気がつくと自分の船を軽くなでている。まるでしばらく置きざりにしてあった生き物にそうしてやるように。
「ねえ、できたら中をのぞいてみたいわ」と女がいう。レイブンは彼女の命綱をブラックバード号でなく、マイラU号の凝った細工の手すりに固定してから、燃料ホースの巻きをほどいて、マイラU号の第一補給栓へとひきのばしていく。イリエラは、間近にある青緑色のふたつの太陽に照らされて、光り輝いている。
「たいして見るものはないですよ」レイブンは答える。「もし見たければ、こっちへきてどうぞ」
かたわらにきた彼女が、まばゆい星明かりの中で身をかがめたとき、レイブンは見てとる――彼女のうなじと肩だけでなく、露出された肌のいたるところ、脇腹、太腿、上腕から肘にかけて、また肘から手首にかけて――いたるところに毛すじほどの傷痕の網模様が走っているのを。左右対称の人工的な傷痕、この光のいたずらがなければ見えなかったであろう傷痕。その瞬間に、まだ信じられない気持ちで、これほど残酷に彼女を痛めつけた事故がなんであるかをさとる。
もっとも強烈で、容赦ない、極度の打撃――
老齢。
レイブンが見ているのは、想像もしなかった美容外科手術の傑作だ。目の前にいる女性は、最初思ったより年かさであるだけでなく、たいへんな大年増でもある。彼女の顔をあっちこっちで見たのはいったい何年前のことだったろう? 四十年前、五十年前?
もしこれが重力のある場所なら、レイブンは驚きによろけていたかもしれない。だが、ここではそうはならずに、両手がひとりでに動いて、ブラックバード号のホースをマイラU号の吸入バルブに連結しおわる。ひとつ身ぶるいして、作業の結果を点検する。グリーン。そのあいだ、イリエラはブラックバード号の中を見物にでかけ、なにかさけんでいる――ああ、そうか、副操縦席がないのにびっくりしているのだ。レイブンはもごもごと答えてから、やっと彼女をふりかえる勇気を出し、さっきの光のいたずらがなくなったのに気づく。線はまた消えている。
しかし、傷痕があるという事実はかわらない――疑いもなく、それにともなうものは、最先端の臓器交換技術と、若返り療法、復元療法。徹底的かつ猛烈な、青春への執着、老化の拒否だ。いまようやく、さっきよりも冷静に相手を見られる気分になって、彼は巧妙な縫いこみや引きしめのすべてが――ほんのわずかではあるが――ずれていることに気づく。こちらではすこしひっぱりすぎ、あちらでは小さなこぶやカーブが生まれ、その結果は、たしかに美女ではあるが、おなじ美女ではない。
おなじって、なにと?
レイブンはあやうく恐怖のさけびをもらしそうになり、その言葉をはらいのけ、そんな考えを押しつぶそうとでもするように、タンクのバルブを閉じる。同時に、彼女がこういうのが聞こえる。
「ねえ。あなたはクローン?」
まだしもヒッポグリフ([#ここから割り注]頭が鷲で翼を持った馬[#ここで割り注終わり])かと質問されたほうが、理にかなっているように思えたろう。渦巻く思考の中から、声が出る。「いや……」
「どうしても知りたい! いったいどういうこと? なぜわたしがわからないの、レイブン? それほどわたしは変わった? 髪をブリーチしたのは知ってるはずよ。だから、あなたはきっと別人よね、あのレイブンとは――」
そのとたん、彼にできる返事はひとつしかなくなる。彼女の足もとに体を投げだし、片腕で彼女の脚をかかえ、片手を手すりにかけて、ヘルメットの中で涙にむせび、言葉にならないさけびをもらす。「おう――おう――おう――おう――いやだ! よしてくれ! ああ!――イーラ、ぼくのたいせつな、いとしいイーラ――」
イリエラは彼の上から身をかがめ、すすり泣きながら、彼の激情がおさまるまで、「ああ、神様」と何度も何度もくりかえす。「でも、どうしてなの、レイブン? どうして?……だから、クローンかとたずねたのよ」
のろのろと彼は答える。「長いあいだ……眠っていたんだ。ずっと眠っていたんだ、あれから」まだ信じられないといいたげに、「ねえ――きみがいるのは、いや、いたのは、フェアヘイブンの連邦工科大だろう? フェアヘイブン大学?」
「わたしはフェアヘイブンの連邦工科大にいたわ」彼女は重々しく答える。「あなたといっしょに――あなたは二年後輩だった」
「で、きみは大学をやめて――」
彼女が悲しそうにうなずく。
彼の唇はひとりでに動きだす。「“夜は千の目を持つ。昼の持つ目はひとつ。されど人生の灯《ひ》は、きみの……去りし……日に……消えぬ”。あのとき、きみはグリッド・ショーの世界にいってしまった」
かんだかい警報がさっきから彼の耳にはいっている。タンクがいっぱいになったという知らせ。レイブンはぎくりとしてなかばわれに返り、ノズルを補助補給栓に移しかえる。しかし、目はいっときも彼女から離れない。瞳孔のひらききった彼のダーク・ブルーの目が、彼女のほうからは漆黒に近く見える。光がまた変化して、いまのレイブンが見ているのはひとりの若い娘、昔の恋人だ。この長いまつげの下からおれの魂を暖めてくれたこの目。ひそやかな微笑をうかべたこのふくよかな長い唇。非のうちどころのないのどと肩の曲線、そしてありえないほど高くゆたかに張りきったバスト。まろやかなヒップと太腿、そこから花柄《かへい》のようにすらりと伸びた、片手でもつかめそうなほど細い腰。髪の毛さえもが、つかのまの影の中で、あの煙った黒にもどったように見える。
「リハビ療法であなたの一部が消されてしまったのね……とてもつらい部分が」
レイブンはいま思いだす。あの戦争は、自分自身をてっとりぼやく始末するのに、いちばん体裁のいい方法に思えたものだ。だが、成功しなかったらしい。
[#挿絵(img/rift_149.jpg)入る]
「あなたを傷つけてしまったわ……ごめんなさい、レイブン――」
思わず知らず、レイブンは彼女を抱きすくめている。じゃまっけな宇宙服ごしに、彼女を砕けそうなほど抱きしめ、やわらかな曲線を愛撫している。リハビ療法で細かい記憶は失われたが、苦痛は失われていない。
「きみは初恋の人だった。これまでに愛した女性はきみひとりだ」
イリエラも彼を抱きしめる。まるで傷ついた子供のように、レイブンは彼女の優しさを感じとる。
だが、船体のむこうでは、また補給完了の警報が鳴りだしている。それがこの再会のわびしいむなしさをよみがえらせる。
「ちくしょう、あのタンクめ。そうだ、きみを運んでいってやろう」
レイブンは彼女の腰を抱きかかえ、なにかの野獣のように船殻の上を走りだす。
レイブンが彼女を立たせ、バルブにとりつくのを待って、イリエラがいう。「わたしのルックス、こののろわれた、いまいましいルックス。それがすべてをだいなしにしたんだわ……だから、わたしの娘、というよりわたしのクローンも、あんなふうに――」
「きみはクローンを作ったのかい?」
「ええ。千年も前にね。あの子は外の世界に出たがったわ。植民地にいきたがったわ。そこで、グリッド・ワールドに目をつけられないうちに、そうさせてやったの」
「どこの植民地?」
「フリートダウン。でも、それからよそへ移ったようね。なにかがあって」
フリートダウンは隣りの扇区にある惑星だ。その惑星のどこかに、真珠色の肌を日焼けさせ、長い指を労働ですりへらした、ひとりの中年女がいるのだろう。トラクターに乗った自分のホログラムを故郷に送って……。おれは知りたくない。
それらの瞬間のどこかをさまよいながら、彼はいつしかふたりの男になっている。
ひとりは、表面的には正常なレイブン。そのレイブンはマイラU号を満タンにしおわり、イリエラを導いて非常口にひきかえし、自分のまわりをバッグで包んで、ジッパーを閉じる。それから臨時ハッチのネジをゆるめ、マイラU号の空気がバッグを満たすのを感じる。臨時ハッチをすべらせて収納し、彼女に手をかして、パラディン男爵が待ちかねているだろう船内にもどる。
もうひとりのレイブンは、自分の全人生が変化したのを知っており、どんな作業のあいだにも彼女から目を離せない。リハビ療法で遮断されていた記憶の中の光景が、頭の中で渦巻き、ほとんど――あとひと息のところまで――明瞭になってくる。こちらのレイブンは、ハッチの前で彼女にたずねずにはいられない。「あのバラをおぼえてるかい?」
こちらのレイブンは、彼女がわずかに眉をよせて、「ええ、もちろん……」と答えたとき、本当はおぼえていないのを知って、心からすこし血を流す。おおぜいの、おおぜいの男が、彼女にバラを贈ったにちがいない。しかし、あのときは年四回の奨学金の一回分をそっくりはたき、最後の愛のいとなみのために、ぜいたくを承知で本物のテラ産のバラを山ほど届けたのに……自分の手が絹のようになめらかな腰をつかみ、自分の体が彼女の上にかぶさる。みずみずしい乳房の上でつんととがった、一対のピンクのバラのつぼみ、おなかの下の黒く縮れた茂みにかこまれた、ひときわあざやかなピンクの花びらにわけいる……その感触……。
こうしたことを思いだすレイブンは、最後の瞬間に身をかがめてささやく。「あとで行くよ……なんとかして」
「待ってるわ」イリエラはあのまばゆい微笑といっしょにささやきかえす――いま思いだせるのは、あの当時の彼女もやはりなにかをわきまえ、なにかふしぎな経験に満ちた秘密の場所からきたようであったこと……。
彼女が先になって、ふたりは通路を這いもどる。どれほど外が美しかったかを、嘆息をまじえてパラディン男爵に語る彼女の声が聞こえる。そして――「ねえ、想像できて? レイブンさんとわたしはおなじ大学を出てるのよ」
「ずいぶん前の話ですよ」と“正常”なレイブンがいう。「錠をお返しします」腰をかがめて象牙色のチップをさしだす。
「彼女は、きみの祖母であってもおかしくない年だ」パラディン男爵は、繭の中へ着替えにはいるイリエラを見送ってつぶやく。「さて、これでいよいよ出発できるか」
ちょうどそのとき、計器のひとつがいまにもチャイムを鳴らしそうに雑音を発する。だが、雑音はすぐに消えていく。レイブンは眉をよせる。
「この質量接近探知機は、最近よくこんな音をだしますか?」
「ああ……出すね。岩塊かな?」
「おそらく。それとも、探知範囲のすぐ外に宇宙船がうろついているのか」
「ほう?」
「たぶん、なんでもないと思いますがね。ただ、ここは連邦セントラルから遠く離れた辺境だし、こういう扇区には、えてして悪党どもがうろついているものです」
「おもしろそうだこと」イリエラがからかうようにいう。
繭から出てきた彼女は、ひらひらの多い小さなショート・スーツに着替えている。それを見てレイブンは心臓がふるえだしそうになる。むかし彼女の着ていた服にとてもよく似ているからだ。しかし、もうひとりの理性的なレイブンが、そのふるえを抑えつける――あのスポーツ・スーツはラーヴァの綿毛の毛皮から作ったものだ。おまえの全財産がふっとぶぜ。
「ばかをいっちゃいけません」とレイブンは優しく彼女をたしなめる。
「となると、ますます出発をいそがねば」とパラディン男爵がいう。
「そのとおりです。それと、絶対に――くりかえしますが、絶対に、知らない相手を船内にいれたり、隙を見せたりしないこと。この船は、クレジットの山がむきだしでほうりだしてあるようなものですからね」
パラディン男爵はむっとした表情になるが、いちおう丁重に答える。「ご注意ありがとう。さてそれでは、腰を上げてでかけるとするか」
「了解」レイブンは相手に請求金額を伝え――マイラU号は、むこうが最初にいったとおり、燃料の大食漢だ――パラディン男爵は、双方のクレジット・コンピューターに登録するため、自分のクレジット・チップをとりだす。レイブンは道具類を集め、急いで自分の船にもどろうとする。出発を見送りたくはない。ただ、最後にもうひと目だけイリエラを見ておきたいという欲望だけは、抑えきれない。きっとパラディン男爵もそんなことには慣れているだろうと、彼はたかをくくる。おかげで船を出しなにも、ドラッグの効力が薄れてきたなという印象だけで、くだまき屋どもの声がほとんど気にならない。
マイラU号のエンジンがまだスタートしないうちに、レイブンはいそいでブースターをかけ、その場を去る。
しかし、いったん標準探知範囲外に出ると、レイブンは減速停止して、特殊遠距離探知機を作動させる。そう、このふとったエコーは加速しながら去っていくマイラU号だ――そして、なんだこれは! 大きくすばやい第二のエコー――途上捕捉《インターセプト》コースに乗った、正体不明の大型船。
レイブンは悪態をつく。そして、もっと大声でもう一度――あれほど注意しておいたのに、マイラU号が減速しかけている。減速、減速、そして停止。腹立たしげに見まもるうちに、ふたつのエコーがひとつに溶けあう。いったいパラディン男爵は、イリエラと彼自身をどんなトラブルにまきこむ気だ?
それほど心配することもないだろう、とレイブンは自分にいいきかせる――たとえば、道に迷った移民船かもしれない。だが、もしそうなら、なぜむこうは信号を出さなかったのか? こっちが遠ざかるまで、どうしてあのへんでうろついていたのか? そう、もしかすると、未知の二隻の船に接近していくのが怖かったのでは。ありうる。しかし、あんなふうにまちがいなくヨットのほうをえらんで近づいていくのはおかしい……。もっとも、こっちの知ったこっちゃない。パラディン男爵のしたいようにさせろ。
だが、恋人が乗っているのだ。ほうっておけるわけがない。自分自身と議論しているうちにも、両手は操作卓の上を動きまわり、ブラックバード号をあやつって、反転姿勢をとらせている。そこで理性が妥協点を見いだす。これは、買ったばかりでまだためしていないブラックバード号の新装備を――先方に知られずに接近できるレーダー・バリヤーを――テストする絶好の機会だ。よし……。
すでにブラックバード号はひきかえしのコースに乗り、先方の探知範囲に近づきつつある。そこで減速してインペラー推進にかえ、バリヤーを働かせる。それを正しく使うためには、標的へまっすぐに近づかなければならない。バリヤーの遮蔽面積が小さいからだ。ブラックバード号が小さい探知不能の円の中にはいるように、注意ぶかくコースを安定させ、ドッキングした二隻の船へと静かに近づいていく。その作業にすっかり精神集中しているため、奇妙な音にしばらく気づかない――先方のトランシーバーから出ているらしい、高くて一様なハム。ようやく気づいたとき、それがほとんど可聴帯域を超えているとわかる。なにかの作動不良?
注意ぶかく位置をたもったまま、彼はそのハムを分析機にかけ、それがいくつかの波長の複雑な和音で、完全に一定していることを知る。しかも、発生源は二隻の船だ。
もしレイブンがいまのように年をとっていなければ、その安定した電磁和音のおそるべき意味を理解できなかったかもしれない。しかし、彼はそのことをよく知っている連中と戦ったことがある。たとえいまでは法律で禁じられていても、最終戦争の不快な考案品がまだ使われていることも知っている。
レイブンは送信機のコイルをあけ、細心の注意でその周波をコピーしはじめる。もし、その周波についての推測が当たっているならば、完全なコピーをしないと、何人かの人間が無残な死にざまをとげることになるだろう。
満足のいったところで立ちあがり、ブラックバード号の豊富なストックの中から、もっと大出力の電波送信機を二個さがしだす。それをあけて、その多重周波の最高のコピーを作る。完全なコピー。完全でなくてはだめだ。注文した特性に合わせてそれを作動させ、マスター・コピーをソファーの下に隠してから、スティックタイトをひと缶とりだして、アームつきのかぎ爪をゆるめ、作戦準備にとりかかる。
そのあいだにも、ブラックバード号を超強力な吸収場の背後に隠しておくため、必死の努力がつづく。もはや、新装備の試験というようなゲームではない。
有視界飛行で、ドッキングされた二隻の船の間近までくる。むこうがこちらに気づいていないのが、信じられないほどだ。もっとも、こっちの電波送信がセンサーを妨害している上に、むこうもいろいろと忙しいのだろう。
レイブンは未知の船をじっくり観察する。昔は移民船だったのかもしれない――焼け焦げと汚れになかば隠れて、船名が読みとれる――〈ニュー・ホープ号〉。しかし、いまや新しい希望からはほど遠い。移民船には見まがいようのない特徴があるものだ――すばらしく清潔で、幸運を祈るメッセージや大言壮語が船体に書きこまれている。だが、この船はどす黒く汚れ、メンテナンスも悪い――愛情のない持ち主の下で、駄馬になりさがっている。
レイブンは思いがけない幸運に恵まれたことに気づく。ニュー・ホープ号がマイラU号の船首から接近してドッキングしたので、二隻は船首と船尾がいれちがいになったかっこうで漂っているのだ。こうしてくっついているかぎり、どちらも逃げられない。それこそブラックバード号の狙いでもある。いま、彼の船は二隻の上にふわりと近づいている。行動のときだ。
レイブンは回転ブースターに点火し、ブラックバード号を二隻の船のまわりで回転させながら、難破船回収ケーブルをくりだす。センサーに電磁波のピークが記録される――どちらの船内でも警報が鳴りだしたのにちがいないが、時すでに遅しだ。一周をすませたときには、千Gの重力場から大型客船をひきだせるほどの強度を持った双撚《ふたよ》りのケーブルで、二隻の船が縛りつけられている。しかも、一周のあいだに、かんじんの仕事をすませてある――アームの先のかぎ爪で、どちらの船の外殻にも送信機を貼りつけておいたのだ。これで中のみんなはしばらく安全だろう――絶対に助けてやるからな!
いま、長い経験で身についた手際で、彼はマイラU号の非常口の前に逆噴射停止し、作業トンネルの縁をその上から固定する。大きな磁力かぎ爪がハッチをつかんで中へひきよせ、プラスチック・バッグを破る。焼け焦げ、腐食した難破船のハッチと連結するときによく使う手だ。中からは驚いてわめく声、悪態をつく声が聞こえる。委細かまわず、すでに催眠ガスを装填《そうてん》した射出銃を構え、キャニスターをまっすぐ中へ発射する。それからハッチににじりより、マイラU号の内部、ニュー・ホープ号とドッキングした主エアロックの方角めがけてもう一発ぶっぱなす。
あっというまに、マイラU号の内部の声は静まる。
レイブンはヘルメットのフェースプレートを閉ざし、背後のトンネルに作業カーテンを張り――ブラックバード号にまで催眠ガスを充満させることはない――トンネルの先で最後の身動きの気配がおさまるのを待つ。
これでもうだれもが眠りこけたはずだ――宇宙服を着こんでいるやつさえいなければ。ここまでは、まだほんのわずかな時間しか経過していない。もしあの周波のコピーがまちがっていたら、捕虜が致命的な状況におかれるまで、あと三分の余裕しかない。
レイブンは大きなバッグをとりだし、それをふくらませて射出銃の先端にくっつける。それからわっと接近の物音を立て、バッグを内扉のむこうから見えるように近づける。
バーン――ガチン! なにかがバッグめがけて発射され、鋭い刃物がバッグを切り裂いて、銃身にぶつかる。くそっ――恐れていたとおり、襲撃者の中に宇宙服を着たやつがいて、扉のわきで待ちかまえているのだ。
しかし、レイブンにはまだ奥の手がある。むこうの宇宙服が標準型なら、しめたもの。サルベージ作業には、しばしば接近不能の穴から物をひっぱりだすことが必要になる。いま銃を発射し、ナイフで切りつけてきた相手は、きっと船殻のそばにくっついているにちがいない。
レイブンはうしろに手をのばして、釣り道具をとりだす――実は鞭のようにしなるメタル・ロッド。リールには超合金ラインが巻いてあり、その先に自動式の鋭いミニかぎ爪がついている。あざやかなひと振りで、三つまたの返しのついたフックをスピンさせながら通路の中へ送りこむと、右まわりに強くあおり、さっき反撃のきたマイラU号の内部をひと掃きする。その動作は目にもとまらない。二掃き目でなにかがひっかかる。足をふんばってぐいとひっぱり、ロッドを支柱につっこんでから、リールを巻きとりはじめる。リールのギアは小惑星を軌道からひっぱりだせるほど強力だ。二、三回転で、じたばたもがく相手の宇宙服につつまれた片足を、舷門までひっぱりだすのに成功する。宇宙服の生地が裂けはじめる。片手が現われ、ナイフでむなしくラインを挽き切ろうとする。
レイブンは交渉の手間などかけない。すでに小さいエアゾール容器を射出銃の先に装填している。これはサルベージ用の道具ではなく、パトロール隊にいる友人からもらったとっておきだ。正式名称は“服剥がし”だが、ふだんは“キン剥がし”と呼ばれている。
宇宙服の裂け目がひろがるのを待って、レイブンはエアゾールのノズルでそこを狙い、ナイフではらいのけられる前に、たっぷり二吹きほどくれてやる。そして待つ。
心臓がふたつ鼓動を打ったころ、声高なののしりが聞こえ、ナイフが音を立ててトンネルのわきに落ちる。相手はグラブをぬぎすて、宇宙服の裂け目に手をつっこみ、大きくそこをひき裂く。脚がけいれんし、手が激しくそこを掻きむしり、もう片手がつかのま現われて、股ぐらの止め金を荒っぽくひきあける。まもなくむこうは宇宙服を脱ぎすてるだろうが、それにはかぎ爪とラインがじゃまになる。時間を節約するために、レイブンはかぎ爪をはずし、ラインをリールに巻きとる。
相手はからまった宇宙服の中で手足をじたばたさせて、舷門から後退する。体をかきむしるのと、服をぬぐのをいっしょにやろうとしているらしい。ようやくのことで、ヘルメットをかぶった顔を舷門の開口部にくっつけてくる。レイブンは相手の口がぱくぱくしているのを見てとるが、言葉は聞こえない。口のうしろには、宇宙焼けした黒い肌と、うすよごれた金髪が見える。レイブンは肩をすくめる。
相手はフェースプレートをもぎとってわめく。「ドレンチをよこせ、この野郎。さもないとみんなを殺すぞ!」“ドレンチ”は、服剥がしの猛烈なかゆみをとめる、極秘の治療薬だ。レイブンはまた肩をすくめる。そんなことより、相手の手首にくっついた送信機に興味がある。思ったとおりだ。こいつらは首輪奴隷商人。だから、死に物狂いなのだろう。首輪奴隷の売買に対する連邦の罰則は死刑だ。
奴隷用の首輪は、電波に対して敏感な異星の合金で作られている。一定の周波を受信しているかぎり、首輪はのびた状態をたもつ。もし、その周波が切られると、首輪は急激に収縮し、犠牲者の空気と血液の供給をとめてしまう。首輪を力ずくではずそうとしても、やはり収縮が起きる。奴隷使いは、ばねスイッチのついた電波送信機を持ち歩いているが、手をゆるめたとたんにスイッチが切れるので、攻撃されるおそれがない。この悪質な装置は最終戦争中に敵側の捕虜収容所で使われたあと、すべて破棄されたと考えられていた。だが、この襲撃者たちは、どこかでそれを手に入れたのにちがいない。発見者には、連邦から多額の賞金が出ることを、レイブンはふと思いだす。しかし、そのことは考えようとしない。
さっきコピーした周波はうまく働いてくれているのだろうか、それとも、捕えられた人たちは窒息死しかけているのだろうか。
もうこれ以上は待てない。さっきどなったとき、相手は催眠ガスを肺いっぱいに吸いこみ、その場にくずおれて眠りこんでいる。レイブンはその上を跳びこえ、ふりむいて、ほかに宇宙服を着た相手が待ち伏せしていないことをたしかめ、つぎに奴隷商人の袖から送信機をもぎとる。思ったとおり、送信機にはばねスイッチがついていて、手を離したいまは“オフ”になっている。レイブンはそれを握りしめて“オン”にしてから、スイッチをロックする――これで、もし手遅れでさえなければ、危機は避けられたわけだ。息をはずませて立ちあがり、マイラU号の内部を見まわす。
ラウンジの大きなソファーの上には、何人かが並んで横たわっている――レイブンは、パラディン男爵のオレンジ色の服、イリエラの顔を隠した青白いゆたかな髪、そして、あとの三人を見てとる。眠っているのか、死んでいるのか。彼はそっちに近づく。
イリエラは首輪をはめられていない――白いのどはまったくの無傷で、甘美に脈うっている。しかし、パラディン男爵のひだべりのついたシャツの襟は、細い金属の輪で残酷に締めつけられている。もっとも、窒息の徴候はなく、正常に呼吸しているようすだ。レイブンは送信機を握った手をそうっとゆるめ、船殻に貼りつけた複製にコントロールをゆだねる。パラディン男爵の首輪は収縮しない。では、あのコピーでよかったのだ。しかも、首輪をゆるんだ状態にたもてるだけの、充分な出力がある。これなら、もうあわてなくていい。
さっきの男のほかに、もうふたりの襲撃者が近くで床の上にのびている。三人ともむさくるしい黒シャツを着ているところを見ると、これが一種の制服なのだろうか。
捕虜を自由にする前に――レイブンは用心ぶかい男だ――まず時間をさいて、使い捨て注射器のパックをとりだし、襲撃者のひとりひとりに当分面倒を起こさせないだけの量を注射することにする。さっき彼をおそおうとした金髪の男には、ドレンチをくれてやるまでもない。眠っているまにかゆみはおさまるはずだ。彼は相手の服装を見苦しくないようにととのえてやる――レイブンは|宇宙船乗り《スペーサー》の掟に忠実な男でもある。
倒れた体から体へと駆けまわるうちに、彼らをこの場で殺すだけの理由が、法的にも実際的にもりっぱにあるという考えが頭をかすめる。そのほうが空気と、水と、よけいな手数を節約できるはずだ。しかし、むかしなじみの良心のとがめが働き、黒い注射器を見送って、代わりに赤い麻酔剤を使う気になる……。それに、連邦はこの野獣どもの生け捕りを望んでいるかもしれない。首輪の供給源について尋問するためにも。
手を動かしながらも、彼は宙賊の船と連結しているひらいたエアロックに、たえず目をくばる。あの中にはなにがいるともかぎらない。安全第一を心がけて、催眠ガスのキャニスターをもうひとつニュー・ホープ号の中に発射してから、捕虜の救助にとりかかる。
最初は分子崩壊キットをとりにいこうかとも考える。しかし、その前に、後期の模造首輪についての古い噂を、ここで確認しておこう。彼はパラディン男爵をひっぱって起きなおらせ、のどのまわりの細い輪に電波送信機を近づける。ほどなく輪はゆるくなってずり落ち、さらに伸びひろがり――やがて、頭からすっぽりはずれる。これでよし! やはり、これはエイリアンの作った本物ではなく、あとでヒューマンがこしらえた模造品だ。すでに連邦は、〈暗黒界〉のひとつにあった模造工場の場所をつきとめ、破壊した。その製造過程はむずかしく、稀少触媒が要求される。もしかするとこれは新しい供給源から出たものではなく、最初の製品の一部かもしれない。だが、その判断は連邦にまかせておこう。
レイブンはみんなから首輪をはずして、ソファーの上に寝かせていく。その中には、あえて手をふれる勇気のない、ほっそりした、あでやかな睡眠者も含まれている。彼女は完全に意識を失ってはいないらしく、かすかに抗議の声をもらす。まもなく目ざめそうだ。レイブンは操縦席から半透明のスカーフを拾いあげ、すわった彼女の体を覆ってやる。
「もうだいじょうぶだよ、イーラ」ちょっとのまフェースプレートをひらいて、彼女にささやく。「ぼくがきたからにはもうだいじょうぶだよ、いとしいイーラ」
ふたりのもとくだまき屋は、レイブンの頭の中にある典型的な連邦セントラルの金持ち老人のイメージと、ぴったり一致する。彼らの皮膚は金をかけた健康に輝き、いまは力のない筋肉も金をかけたトレーニングに鍛えられている。かすかな傷痕は、のどの贅肉が目立たないように切りとられたり、目の下のたるみがひきつめられたりした名残りだ。ひとりは白髪頭、もうひとりはスタイリッシュな無毛の頭。無毛の男だけが首輪をつけられている。襲撃者は首輪の持ち合わせがたりないのかもしれない。レイブンは送信機を持ってきて、その首輪をはずしてやる。
レイブンが心おぼえに“ふとっちょ”と名づけた男は、いちばん端に横たわっている。刺繍入りのローブは乱れ、ふとった首すじには残酷に首輪が食いこんでいる。たぶん恐怖か苦痛でもがいたためだろう、とレイブンは判断し、それをはずしてやる。それといっしょに、奇妙な剃髪の跡が脳天にあるのを目にとめ、たぶんこの男は一種の僧侶か信仰治療師で、老人たちのだれかに付きそってきたのだろうと、見当をつける。
みんなを自由の身にすると、レイブンは首輪をポケットにおさめ、つぎの仕事にとりかかる――ニュー・ホープ号の中身だ。
宙賊船のほうからは、いままで手がふさがっていたあいだも、探知できるような物音は聞こえない。レイブンはそうっとマイラU号のエアロックににじりより、そこからニュー・ホープ号につうじる、短くきたないトンネルに足を踏みこむ。こちらの照明はうす暗く、重力は弱い。動力不足なのだろう。延長ミラーを使って、だれも待ちぶせていないのをたしかめ、細長く人けのない部屋に出る。左には操縦席があり、船尾側の端には緩衝材のようなものの山がある。船殻のきわには、いくつかの睡眠カプセル。そこか、排泄室の中にだれかが隠れているかもしれない。有機物の臭気がフィルターからはいりこむのを感じて、レイブンは鼻にしわをよせる。奴隷商人どもは、かなりの期間ここで寝起きしていたにちがいない。
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レイブンは操縦席に目をこらし、黒い袖につつまれた片腕がだらんと垂れているのを見てとる。見まもるうちに、その腕がかすかに動く。レイブンは新しい催眠ガスのキャニスターをひらいて投げつける。腕がびくっとふるえて、それっきり動かなくなる。
レイブンはわきのほうへとびのき、聴診器を船殻の下部にあてがい、じっと耳をすまして待つ。いったいおまえはハンターなのか、獲物なのか。それはまだわからないが、どちらにしても、しんぼうが肝心だ。
何秒かが経過する。なにもない。静寂。ぐったりしたパイロットが、一度ごろごろといびきを立てたほかは。
レイブンが切りあげようとしたとき、それが聞こえる――なにかが緩衝材のそばの船殻とすれあう音。レイブンは体を凍りつかせ、耳をそばだてる。やわらかな、ひきずるような物音がまた聞こえ、そのあと、カチッと船殻にあたる音がする。
よし。
レイブンは、聴診器が空気中の受信器として働くよう、ベルトにひっかけ、溶接トーチをとりだし、緩衝材に炎を当てていぶし火を燃やす。
「この山に火をつけた」レイブンは見えない相手にむかっていう。「もし、焼かれたくなかったら、這いだしてこい。両手をひろげて、なにも持ってないのを見せろ」
山が揺れ、ほっそりした黒シャツ姿が片手を床について這いだしてくる。もうひとつの手は、レイブンの見たところ、非常用ノーズマスクのホースをつかんでいるらしい。山の下からすっかり抜けだしたのは、片方の肩に空気ボンベをかついだ若い女だ。
もし、ボンベの中身が酸素だったら、この女は死んでいたところだと、レイブンは遅まきにさとる。壁から消火器をはずし、長らく使われなかったノズルでいぶし火の上に泡を塗りたくる。
「しばらく眠ってもらおうか」とレイブンはその若い女にいう。「眠っているうちに傷つけたりはしない。約束する。そのマスクを下において、呼吸しろ」
女はマスクの上から大きいよく光る目を彼に向け、心臓が二、三拍うつあいだ見つめる。それからボンベの空気を深く吸いこみ、マスクを下にずらして激しくさけびだす。
「わたしはあいつらの仲間じゃないわ! 捕虜なのよ! 助けて! あいつらを近づかせないで――」
だが、結局は呼吸するしかない。みだれた黒い髪の下で首がうなだれ、その場にくずおれて眠りこむ。
新しい謎だ。レイブンは背骨のおののきを感じながら、女の上にかがみこむが、首輪も武器も見あたらない。溶接トーチをしまい、弱い重力の中で女の細い腰をかかえあげ、フェースプレートからよごれた髪のひとすじをはらいのけて、肩にかつぎあげる。
見たところ、パイロットはあれから動いた気配がない。レイブンは女をエアロックの中にほうりだし、船首にむかう。操縦席の人影は黒シャツを着ているが、首輪をつけられている。第二の謎。この男は襲撃者か、それとも捕虜か。まあいい、こいつがだれにしろ、悪魔の発明をつけたままにはしておけない。レイブンは送信機をとりだして首輪をはずす。副操縦席にすわり、連結された船が漂っている最中に危険域にとびこまないよう、慎重な空間走査をしたあと、ニュー・ホープ号の計器の示度をすばやく読みとる。そうではないかと思っていたとおり、燃料が残りすくなだ。ほかはすべて正常。
彼はパイロットをかかえあげようとしてから、自分のヘルメットをポンとたたく。
「おれもぼけてきたな!」そうひとりごちて、操作卓に向きなおる。たちまち航跡記録装置のありかを見つけ、カセットをひきだしてポケットにほうりこむ。これで襲撃者がどこからやってきたかわかるはずだ。
パイロットの――もしこの男がパイロットだとすればだが――体重は軽い。しかし、ふたりの捕虜をマイラU号に運んで、おたがいの姿が見えないようべつべつの安楽椅子に縛りつけおわると、さすがのレイブンも疲れはてる。パラディン男爵とその乗客たちは、ぼつぼつ目をあけ、身動きをはじめている。マイラU号の空調システムは良好。レイブンはヘルメットをうしろに上げ、みんなと向かいあった椅子に腰をおろす。
ふたりの老人とふとっちょは寝ぼけたつぶやきをもらすが、パラディン男爵だけは、重そうなまぶたの下からそろそろと目をひらいてレイブンに気づき、ラウンジ内を見まわし、横になった宙賊たちをへて最後にイリエラの上に視線を落ちつける。片手をそっとのどにあて、またレイブンに視線をもどす。レイブンはうなずく。
「もどってきました……。首輪ははずしたほうがいいと思って。知らない相手が近づいても船を止めるなといった意味が、これでわかりましたか」
パラディン男爵の顔はくもるが、答える口調はおちついている。「ありがとう……。やつらは若い女を連れていて、その女がしゃべるほうをぜんぶひきうけていた。イーラに口説かれてな――まあいい、船主はわたしだ。そう思って止まった。止まったことを、いまでは心から後悔しているよ」
「それならいいんです」目ざめが近づいたのか、なにかをつぶやきはじめた女のほうに、レイブンはあごをしゃくる。「交渉したのはあの女ですか? あの女は捕虜なのか、それともやつらの仲間なのか、そのへんについてなにかご意見は?」
「捕虜だろうな。彼女は泣いてわれわれに許しを乞うていた。そのうちに、やつらのひとりになぐり倒された」
「うう」と若い娘は弱々しい声をもらす。「ええ、そうよ――あいつらはボビーを痛めつけたわ。あの首輪を使って……。あたし、がまんできなくて。それにこの船、燃料が切れかかってたの。もし、あなたの船が止まらなかったら、あいつら、どうしたかはわからない。でも、ジャンゴが燃料をもらうだけだというから――」
「ジャンゴ?」とレイブンがききかえす。
「ジャンゴマン。あいつよ」彼女はあざのできたあごで、レイブンがさっきフックをひっかけた金髪の男を示す。「あいつがリーダー……。あら! 縛ってない!」
「縛ってあるのも同然だ」レイブンは答える。「正気づくまでにはがんじがらめにしておくよ」
若い娘がそれでもまだ恐ろしそうにそっちを見つづけるので、レイブンは立ちあがって宙賊たちの両手両足をうしろにまわし、壁の手すりに縛りつける。そのあいだに、パラディン男爵も立ちあがり、マイラU号のぜいたくな救急箱の中を物色する。レイブンは男爵の脛にひどいレーザー火傷があるのを、オレンジ色の絹布ごしに見てとる。男爵の友人のひとり、青い部屋着姿の無毛の男が、自分の前腕部をおさえてそのそばにいる。宙賊は、ふたりに首輪をはめる前に、レーザー銃でおどしたにちがいない。レイブンはすばやく宙賊どものポケットをあらため、ぶっそうな小さいレーザー拳銃を見つける。それを首輪といっしょに、作業ポケットにしまいこむ。
パラディン男爵は、友人と自分の傷にタンニン酸ゼリーを厚く塗りつける。レイブンはほっとする。傷痕が黒くなるが、やけどに対する唯一の効果的な手当だ。この救急箱の中身をそろえたのは、分別のあるだれからしい。
レイブンは立ちあがって伸びをする。宇宙服の長時間着用には慣れているが、戦争ごっことなると話がべつだ。コンデンサーにまで汗がしみとおっている。
「では、はじめますか。まず、この娘から話を聞くことにしましょう。きみ、こんどは本当の話をたのむよ」
「嘘なんかついてないわ!」彼女は抗議する。「あいつらに、燃料が切れたといわされたけど――でも、それは事実だし」
パラディン男爵が鼻を鳴らす。「おおぜいの女子供を乗せた移民船だと思わせたこともか」
「あ、あれはジャンゴマンが――」
「わかった。話を聞こう」レイブンが苛立たしげに口をはさむ。なぜかその若い娘と目を合わせることができない。「きみはどこからきたんだ?」
「カンブリア。ボビーもあたしも、あそこの生まれなの。あいつらが――ジャンゴマンとその仲間が――着陸したのは、もういつだかおぼえてないけど、ずうっと前のことだったわ。あ、あいつらは何人もの人を殺して、あたしたちをさらっていった。カンブリアには宝石用原石の鉱脈があるの。あいつらは、身代金のつもりでせっせと原石を掘れ、とみんなにいいつけたわ。でないと、もどってきてまた何人かを殺すって。それから植民地の通信機をぶっこわして、救助をたのめないようにしたの」
「すると、あれはきみたちの船か? ニュー・ホープ号は?」
ぐすん、と彼女はしゃくりあげた。「あ、あたしたち、べつの植民地の希望だったわ。フリートダウン――き、〈消えた植民地〉の。ほとんどみんながあの恐ろしい脳寄生体にやられたあとで、子供たちは、未感染のおとなといっしょに船で送りだされて……。あいつらが殺したのは、そのおとなたち。あたしの母も……。あいつら、みんなをあっさり撃ち殺したのよ、まるで――まるで虫けらみたいに――」
「わかった。きのどくに」レイブンはカンブリアへ燃料補給に寄らなかった自分の幸運に感謝する。へたをすれば、もどってきた宙賊につかまったかもしれない。「やつらの基地はどこだ? やつらはどこへきみたちを連れていった?」
「ちゃんと空気のある基地なんて、ないみたい。へんてこなものの上で暮らしてるわ。どこか遠くで、ある星のまわりをまわってる大きな廃品置場みたいなとこ。そこにあるのは、古い船とか衛星とかで、それがひとつにくっついてる。中には空気のはいってるものもあるわけ。水栽培の農場もあるし。でも、汚なくて、ひどいとこだったわ」
その話に、レイブンの耳はほてり、ぞくぞくしてくる。こっちの早とちりでなければ、ジャンゴマンと仲間の悪党どもがでくわしたのは、現実よりも神話に近いとされている、伝説的な宇宙の宝島のひとつ、サルベージ業者の夢だ。噂によると、この宇宙のあっちこっちには重力の中和点があり、何千年ものあいだに漂ってきたガラクタが、じょじょにそこへ溜まり溜まっていくという。いま、おまえが聞かされたのは、実在するそのひとつだ! しかも、ポケットの中には、そこへ行く道すじがちゃんとおさまっている。ただ、この事件がおおやけになれば、おそらく連邦政府の船がそこへ一番乗りをすることになるだろうな……。レイブンは頭をふって、夢想からさめる。
「そこには何人ぐらいの宙賊がいた?」
「ジャンゴマンとスティーアとミッキー、それだけよ、あたしたちが見たのは。それにカンブリアに残って――し、仕事を監督しているやつがひとり。あたしたちは冬に備えて収穫にかかるとこだったんだけど、あいつらはそれをほったらかしにして、原石を掘らせたの」
「で、ここにいるボビーは?」
「船の操縦をやらされたわ。あいつらの手がはぶけて――三人とも戦えるから……彼、だいじょうぶ?」彼女の顔はよごれきっているので、面立ちもさだかでない。
「けがはなさそうだ」とレイブンがいう。だが、ボビーがまだ麻酔の残る声で呼びかける。「ぼくはだいじょうぶだよ、レーン。きみは? だれかがぼくらを助けてくれたのかい?」
「ええ、そうみたい」娘は自信なさそうにいう。「だと思うけど」
「もし、きみの話が事実とわかれば、なにも心配することはないんだよ、レーンさん……それがきみの名前だね?」
「ほんとはイレーンだけど、みんなはレーンといってるわ。ねえ、おねがい、あたしたち、カンブリアへ帰してもらえません?」
「いずれそのうちにね、レーンさん。まず、連邦軍がカンブリアへいって、まだ悪党どもがいるかどうかをたしかめることになる。前もって通信連絡のしようもないし」
「そ、そうね……」
「レイブン、そんな冷たいことをいわないで」イリエラがとつぜんさけぶ。「わたしにその子をあずけてもらえない? かわいそうに、地獄のような目にあってきたんだもの。まず、その子とボビーのワイヤーをわたしにほどかせてちょうだい」
「どうぞ」レイブンは気乗り薄に返事をする。「さて、これで事実は出そろったと思います。討議の時間です」
イリエラはすでに若い娘に近づいて、レイブンの作った結び目をほどこうとしている。しぶしぶレイブンも立ちあがって手をかし、その娘とパイロットを自由の身にする。だが、自分がなにかを忘れているように思えてならない……なにか危険なことを……。それに、その娘のことでなんとなく心がさわぐ。その娘がイリエラといっしょに小部屋へ姿を消すと、ほっとした気分になる。
「討議の必要はなかろう」パラディン男爵が、もどってきたレイブンにいう。「お手数だが、この悪党どもをわたしの船から引きだして、料金を請求してもらえんか。なるべく早く家路につきたい。もうすでに、かなり手間を食ったことでもあるしな」
「それはどちらもお考えちがいですよ、閣下」とレイブンは答える。「連邦市民として、危難におちたほかの市民を助けるのに、料金はもらえません。それに、もしわたしが今回の救助作業で体を張った料金を請求したとしたら、あなたのような富豪にも払いきれないでしょう。つぎに、市民であるあなたの義務は、この事件をもよりの連邦基地に報告することです。つまり、九〇〇にです。そんなに長く拘束はされないし、どのみち、ビーコンを使う以上、あそこは帰り道です。ただ、ぜひとも報告に立ちよってください。それに、この二隻を連邦基地九〇〇に送り届けるなら、すこし燃料を返してもらうことになりそうです。それと、ブラックバード号には睡眠カプセルがひとつしかない。そちらの睡眠カプセルを貸してもらう必要があるかもしれません。もうひとつ、公式警告にさからって市民たちの生命を危険にさらしたかどで、あなたを告発しようと思えばできますが、まったくの無経験という事情を考慮して、それは不問にしておきます」
パラディン男爵がいきりたつ。「なんたることを――」
「パヴェル! パヴェル!」イリエラが小部屋から顔をだす。「ねえ、レイブンさんがわざわざひきかえしてきてわたしたちを救ってくださったことに対して、みんなで感謝すべきじゃありません? あの首輪が――」
それまで沈黙していたほかの男たちが口をひらく。「まったくだね、イリエラ」無毛の男が、自分の首すじをさすりながらいう。「イリエラのいうとおりだよ。パヴェル。われわれは礼儀を忘れていた。きっとショックでおかしくなっていたのだろう。レイブンさん、どうかわたしの謝罪と感謝を受けいれてほしい。あなたが単身でどうやって救助に成功されたのか、それをうかがうのがたのしみだ。申し遅れたが、わたしはキャメロン・ディ・コナーです」
あとのふたりも声を合わせる。「おみごとな離れわざでした」と年の若い、ふとった男がほめそやす。この男の名前はロイとわかる。もうひとりの年かさの男は、ダンタと名乗る。
パラディン男爵も、さっきより礼儀正しい態度になり、感謝の言葉を述べてからつけたす。「しかし、やはり早く帰郷せねばならんのだよ」
「わかりました。連邦基地に着いたら、手続きをいそいでもらうよう、わたしからもいいそえましょう」とレイブンは答える。
こうして、さらに話しあいと作業を経たのちに、問題は片づいたかたちだが、やがてふたつのショックがまた万事をかきみだす。
最初のショックは小さい――マイラU号の睡眠カプセルのうちのふたつが、ジャンゴマンの銃からの発射物でやられているという事実だ。ひとつは非常口のすぐうしろにあるカプセル。それをひらいてみて、とても使えないほど損傷がひどいことがわかる。
「きっと炸薬弾《さくやくだん》だ」キャメロン・ディ・コナーがしみじみとした口調でいう。「考えたくもないな、もし中にだれかがいたらどうなっていたことか」
「目をさまさずじまいですよ」レイブンはいう。「ジャンゴマン、なぜ睡眠カプセルをねらった? これに恨みでもあるのか」
白い髪の宙賊はすでに正気づいて、宇宙焼けした黒い顔から眠そうな目で一同を見つめている。ジャンゴマンは〈暗黒界〉独特の妙にかんだかい、母音をひきのばすようなしゃべりかたで答える。
「どんなまぬけにもわかることだが、船内での銃弾は危険だ」その口調は、レイブンが予想していたよりも教養がある。「カプセルが手ごろな待避壕になるだろうが」
「フム。じゃ、こんどあの中で眠るときは――」レイブンは思わずそこで言葉をとぎらす。第二のショックがおそいかかる。
イリエラがもじもじするレーンの手をひいて、小部屋から出てくる。さっきまでイリエラは、レーンが体を洗い、新しい服に着替えるのを、そこでてつだっていたのだ。
「見てちょうだい、みなさん!」イリエラは娘を前に押しやる。
そして、レイブンは見る。
ふたりのイリエラ――というより、イリエラと、金髪のにせもの。
おお、神々よ……。
レイブンは椅子の背をつかみ、雷に撃たれたように昔の恋人を見つめる――まさしく初恋の人イーラ、黒い髪も、この若々しさもあのときのままだ。彼は傷ついた野獣のように頭をふる。どうしてこんなことがありうるのか、理解できない。イリエラが興奮してしゃべっている内容が把握できない。
「わたしのクローンなの!――いいえ、実は孫クローン。わたしのクローンの、そのまたクローン! わたしのクローンは、あの植民地へ行ったイランドラだけど、彼女、あそこが全滅の悲劇に見舞われる前に、自分のクローンを作っていたんですって。そして、これがあの子の――わたしの――イレーンってわけ。ねえ、レイブン、彼女かわいいでしょう?」
“かわいい”という形容詞は的はずれだ、とレイブンは思う――しかし、よくよく見ると、たしかに彼女はかわいい――まっさらの、新鮮な、本物の若い女。新しく作りかえられた若いイリエラ。
しかし、このイリエラには、フェアヘイブン大学の記憶がない。このイリエラには、若いレイブンを愛し、捨てた記憶がない。このイリエラは、バラの花を見たことがない。
彼女のそばにおくと、イリエラはまるで――まるで別人に思える。しかし、彼女こそレイブンが愛した……いまも愛している……イリエラだ。ふたりの恋人の出現に、彼はあたふたし、どぎまぎする。こんなにも美しく、こんなにも若々しく、こんなにもかわいい――彼は頭が混乱しかけているのを感じ、早くブラックバード号にもどりたくなる。
しかし、一同の目と耳の前では、うわべをつくろい、たとえ小声でも調子を合わせなければならない。「はい……驚きました」
「これで事情がかわったわね」とイリエラがいう。そこで計画が練りなおされる。ニュー・ホープ号には、あまりぱっとしないが、いちおう機能している睡眠カプセルが五つある。マイラU号の残りが五つ。それに、ブラックバード号にレイブンのがひとつ。
「じゃ、ブラックバード号をニュー・ホープ号のうしろにつないで、大きい船のタンクがからになるまでわたしが操縦していきましょう。それから前後を逆にして、こんどはブラックバード号が連邦基地までひっぱっていく。ジャンゴマンとボビーはわたしが預かります。それからこの――この娘も。閣下の船は、ふたりの子分を預かってください。それと、もしできれば、わたしの船に志願者をふたりよこしてくれませんか。切り替えの時期がくるまで、まだしばらく目をさましていなければならない。いま、みんなをカプセルに入れてしまうと、燃料切れの警報で目がさめることになり、安全期間をおかないと、冷凍睡眠にもどれません」
「わたしが行くわ!」イリエラがさけぶ。「ぜひそうさせてちょうだい、パヴェル。これはかわいいクローンとゆっくり話しあえるたった一度のチャンスですもの! 血肉をわかちあった相手なのよ。ああ、なんて幸福なんでしょう!」
「わたしも行きます」意外にも、ふとったロイが志願する。
「しかしな、カード・ゲームが」キャメロンがいう。「四人目をどうする?」
「むしろ、こちらで女ふたりを預かりたいね」パラディン男爵が冷たくいいはなつ。
「しかし、ラマ・ロイ――」と白髪頭のダンタがいいかける。この男が、精神的助言者兼四人目のカード・プレイヤーとしてロイを連れてきたことを、レイブンはすでに知らされている。
「忘れないでください」とふとったロイは静かにいう。「この男たちがこれから向かう先は、連邦政府の裁きによる確実な死です。彼らのリーダーと話しあう機会を、みすみす見逃すわけにはいきません。もし、わたしにすこしでも治療力があるなら――」
「あるとも、ラマ・ロイ。もちろん、あなたにはある」ダンタが口をはさむ。
「その猶予期間を利用して、できるだけ彼の心根を変えるのが、わたしの務めです」
それがあまりにも厳粛で確信をこめた口調なので、ふとった顔が、一瞬まったく別人のように見え、ほかの一同はだまりこんでしまう。さっきの話しあいのあいだに、ロイが口実をもうけて宙賊どもに水を恵んでやったことを、レイブンは思いだす。
「できれば、わたしも女性たちをそちらで預かってもらいたいところです」レイブンはきっぱりした口調でパラディン男爵にいう。「しかし、率直にいって、わたしも睡眠をとりたい。最初の飛行のあいだ、目をさましている三人の悪党をいっしょに乗せていく自信はありません」
ダンタとキャメロンが、よくわかるというようにつぶやきをもらす。「承知してもらえますか? この船を切り離す前に、あのふたりを安全にカプセルの中へ入れてしまうようにしますが」
「それにはおよばん、それにはおよばん」パラディン男爵が憤然と答えるが、ほかのふたりがわきからいう。「ありがとう、レイブン。そうしてもらえると助かるよ」
宙賊のひとり、スティーアが、期待をこめて口をひらく。「おれのゲームの腕はなかなかのもんですぜ、だんながた」
さすがにこの場ではだれも返事をしない。レイブンはふと思う。熱心なカード・プレイヤーがいつまでこの誘惑に抵抗できるものだろうか。たとえその提案が、法律的には死人に近い男からのものであっても。
「これできまった」とレイブンはいう。「じゃ、わたしは外に出て、二隻を切り離します」
こうして、まもなく一行は連邦基地への旅に出発する。先頭は、すでに大きい船から切り離されたマイラU号。ふたりの宙賊は、手足を縛られ、睡眠カプセルに押しこめられている。マイラU号は自分の航跡記録を逆にたどりながら、ある星ぼしの配置までもどり、そこで連邦基地ビーコンを見つけるわけだ。もう一組のクルーのために、航跡記録のコピーが作られ、ブラックバード号を船尾につないだニュー・ホープ号が、豪華ヨットのあとを追っていく。
ニュー・ホープ号の操縦区画では、ふたりの女が大きなパイロット用ソファーの上で、いっしょに体をまるめている。そのうしろには、補助席として運びこまれた睡眠カプセルの上に、レイブンが腰かけている。そのベンチのもう一端にはボビーがいる。体を洗い、ダンタからもらったボヘミア・クラブのロゴ入りの新しいシャツを着ているが、浮かない表情だ。大きな貨物室の中では、ラマ・ロイがジャンゴマンと話しあっているが、その声はかすかなざわめきとしか伝わってこない。
ふたりの女がおしゃべりをしている。
「――それにね、連邦セントラルを見ないことには、ほんとに人生を生きたといえないわ」イリエラが孫クローンに説明している。「偉大な連邦ぜんたいの核心なんですもの! ヒューマンと、ありとあらゆる種類のエイリアン、それに――え、なんですって? まだエイリアンを一度も見たことがないの?」
「ええ」美しい黒髪の娘は恥ずかしそうに答える。宙賊にさらわれ、おもちゃにされてきた娘は、相手の語る文明生活の種々相にただ呆然としているようすだ。
「ねえ、どうしましょう、レイブン。なんとかしなくちゃ」
「連邦基地にも、エイリアンのひとりやふたりはいるかもしれないよ」レイブンは眠そうに答える。奇怪な幸福感が、彼をどっぷりと浸している。初恋の人、永遠に失われたはずの恋人がここにいる。その恋人がふたつの肉体に宿っている事実は、かえって幸福感をいっそうゆたかに、いっそう完全にしているように思える……まるで自分が恋人の命をつかんでいるような気分。
連邦基地への報告をすませたら、ふたりに付きそって旅をしようかと、彼は計画をもてあそぶ。イリエラが若い娘の目に点じたあの光は、植民地の生活にもどらせても、すぐにはおさまらないだろう。それなら、休暇をとってふたりに同行してはなぜいけない? 預金の残高は充分にたりる。ラーヴァの綿毛のコートにさえ近づかなければ。
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「ああ、ムームとスウェインのことね」イリエラが高慢に一蹴する。「わたしのいうのは、本物のエイリアン」
「見てみたいわ」レーンが目をまるくしていう。「とても物知りなのね……」
「でも、ぼくらは寄り道なんかできないよ」ボビーが鋭く口をはさむ。「早く故郷へ帰って、収穫をてつだわなきゃ……。もし、まだ作物が残っていればだけど」
「そうだったわ」レーンがいう。「どうしよう……」
「心配しなくていいよ」レイブンはふたりに教える。「住民が攻撃を受けたときには、連邦が救援部隊をよこして、万事をうまく立てなおしてくれるんだ」
「ほんとに?」ボビーは信じられないようすだ。「でも、ぼくらは助力を期待するなと、くどいぐらいに教えられました」
「そうなんだ。それが植民地の根本原則。自力でやっていくというのがね。連邦は、もし植民地が滅びかかっても、よそへ避難させるだけしか手をかさない。しかし、植民地をそれらから守るように委託されている種類の災害、たとえば宙賊やエイリアンの攻撃があった場合はちがう。きみらをもう一度立ちなおらせるのが連邦の義務だ。わかるか? きみらは観光旅行にでかけていいんだよ。収穫のほうは、連邦基地からのおおぜいの志願者がやってくれる」
「あなたもきてくれるわね、レイブン?」イリエラがたずね、あの信じられないほど美しい、愛情とからかいの混じった微笑をうかべる。
レイブンは鼻を鳴らす。大きな後部船室から聞こえるつぶやきに、片耳をそばだてていたのだ。ブラックバード号の作業トンネルは、古い移民船の船尾出口と連結してある。レイブンは、万一ロイが放浪熱にうかされる場合を考えて、そのトンネルを閉鎖してしまおうか、とも思う。いや、だいじょうぶ。ロイの肥満体では、とてもあの作業エアロックをくぐれない。
「よかった!」ボビーがそれとわかるほど陽気になる。あくびをして――「なんだかきゅうに眠くなってきましたよ。あっちの船へもどって、カプセルの中でしばらく仮眠してもいいですか。あそこで――あそこであいつらは眠っていたんです」
「いいよ。じゃ、送っていこう」レイブンはこのふたりの捕虜が無実であることを、もうほとんど疑っていない。しかし、体を動かさないと、自分も眠ってしまいそうだ。
薄暗い後部船室までくると、ジャンゴマンが手足を縛られたまま、たったひとつの舷窓のそばにある睡眠カプセルの上で横になっているのが見える。ジャンゴマンは、かたわらのふとった宗教家を無視して、舷窓に顔を向けている。ロイは祈るように両手を組んでカプセルに腰かけ、宙賊の背中に向かって話しかけているようすだ。
ボビーはブラックバード号がつながれている船尾エアロックのそばで、睡眠カプセルのひとつをえらぶ。「これがぼくの使っていたやつです」ボビーは蓋をあけ、中にはいる。レイブンは蓋がきっちり密封されることをたしかめる。
「じゃ、切り替えのときに起こすからな。ぐっすり眠れ」
「ひさしぶりに安心して眠れますよ、レイブンさん」ボビーはきまじめな口調でいう。「あなたにはなんとお礼をいっていいかわかりません」
「終わりよければすべてよし、さ」レイブンは軽く受けながす。それよりも、いま見てきたものをチェックしたい。
しかし、船首にひきかえそうとする彼を、ロイが呼びとめる。
「レイブンさん。できることなら、このかわいそうな男の縛《いまし》めのひとつをゆるめてやってはもらえませんか? ごらんのように、痛がっているようですから」
「このかわいそうな男は」とレイブンは冷たく答える。「おおぜいの人びとをいたぶり、犯し、殺したんだ」
「待ってください。いくら動物でもこんな扱いはしないでしょう」
ジャンゴマンはどこが痛いのかを見せようとせずに、外の星野《せいや》をながめつづける。だが、レイブンは、うしろ手に縛ったジャンゴマンの片腕を、自分が不必要にきつく締めすぎたのを見てとる。手が青黒く腫れている。
「わかった。じゃ、こいつを動物と呼ぶんだな……。おい、ゆるめてほしいなら、前にかがめ」
ジャンゴマンは返事しない。うるさい音を締めだしたそうに、まぶたを閉じる。
「そうなさい、ジャンゴマンさん」とふとった僧侶が懇願する。「ほっとくと、その腕をなくすことになりますよ」
これを聞いて、宙賊はばかにしたように笑いだす。しかし、それで呪縛《じゅばく》が解けたのか、レイブンがワイヤーを切りやすいように、体を前にかがめ、かんだかい、鼻にかかった、妙に教養のある声でいう。「肉体は弱いものだ」
「それがわかりましたか、わが兄弟よ?」ロイは熱心にたずねる。「では、あなたは〈行路《こうろ》〉の第一歩をふみだしたのです」
「〈行路〉?」そうか、とレイブンは思いあたる。南方のヒューマンとエイリアンのあいだでひろまっている新興宗教の僧侶、行路導師だ。しかし、行路導師は、清貧の誓いを立てるきまりがある。レイブンがいままでに会った行路導師はたったひとりだが、ごく粗末な灰色の衣を着ていた。いっぽう、ロイの着ているこの刺繍入りの僧服は、清貧とおよそ縁がない。行路導師も近ごろは好景気なのか。
「肉体はごみだ」宙賊はレイブンに縛めをゆるめてもらいながら、蔑むようにいう。「あそこの」――と星野にあごをしゃくって――「あれが真実だ。あそこにおれは属している。おれひとりが」その声は不安をはらんでいるが、眠そうではない。
レイブンはワイヤーを結びなおしていう。「一匹狼にしては、ずいぶんおおぜいの人びとにとりまかれていたもんだな。しかも、その人びとをおまえは死に追いやった」
「人びとは家畜さ」宙賊は超然と答える。顔を星野にめぐらし、肩ごしに問いかける。「やつらがおれを……始末するときは……どうだろうな、おれの遺体をあそこへ打ちあげてくれると思うか」
「最後の望みをひとつだけかなえてくれるかもしれん。おれは釈然としないが」
ふとった僧侶は悲しそうに首をふるが、まだあきらめない。
「星ぼしは美しい……それは事実です。しかし、まだわかりませんか、ヒューマニティーを否定すれば、あなたは星ぼしの美しさを味わう感覚をも否定することになるのですよ」
レイブンはふたりを残してそこを去る。
女たちのところへひきかえす途中、後部船室がせばまって船首部につながる通路で立ちどまり、船体の上部と両側をライトで照らしてみる。あいたほうの手でかなてこをとりだし、あっちこっちをつついたりたたいたりして、確認のつぶやきをもらす。
「どうしたの?」イリエラがけだるい声でたずねる。
「レーン。きみはこの船がつぎはぎ細工なのを知っていたか?」レイブンは狭い通路のわきにぶらさがった、すりきれたプラスチック・カーテンをいじりながらたずねる。「だれかが補給タグボートの船尾に、古い貨物用ブースターを溶接したんだ。これはその作業中に使われた、古いエアシールだよ」
「知らなかったわ」レーンがいう。「カンブリアへ行ったときのあたしはまだ子供だったし、はじめてこの船が使われたころは、まだ生まれてなかったから」
「とにかく、そういうことなんだ。それで推進装置の位置も、そのほかのことも説明がつく……。うんと大昔のことだろうな。空気が漏れてるんだよ。ハイGターンをやるときは、ここにいたくない」
「ジャ、ジャンゴマンは、よくそのカーテンを閉めてたわ。自分ひとりになりたいときとか――それとか――」若い娘はそこで目につくほどの身ぶるいをする。このカーテンのうしろでなにがあったかは、想像するのもおぞましい。レイブンは怒りにかられる。
イリエラがレーンを優しく抱きしめる。「忘れなさい、いい子だから。もう、みんな忘れるのよ。なにもなかったの……すっかり忘れられるようにしてあげるから――」
レーンはイリエラを期待の目で見つめ、微笑のつぼみをひらかせる。美しい微笑。しかし、この娘には――たまたまとほうもない美をさずかった、この純真な植民地育ちの娘には――イリエラの魔法がない。彼女の中には皮肉屋も、小悪魔も住んでいない。黒い巻き毛がイリエラの肩に垂れかかる。きっと疲れきっているのだろう。
「赤ちゃん」とイリエラが愛情をこめていう。「信じられないことを教えてあげましょうか。わたしがいまのあなたぐらいの年で、あなたと瓜ふたつだったころ、レイブンとわたしは恋仲だったのよ」
レーンの黒い瞳がひらく――けげんそうな表情がその顔を横ぎる。しかし、疲れきった娘には、その複雑な事情がよくのみこめない。レーンはあいまいな微笑をうかべ、黒い髪がイリエラの首すじにふりかかる。
レーンが眠りにおちるまで、イリエラは愛情のこもった指で黒髪をなでてやり、レイブンを手招きする。彼は身をかがめる。
「おぼえているわ――おぼえているわよ、あのバラを」イリエラがささやく。銀の髪がふしぎそうに、自分自身を責めるように揺れる。「あなた、あなた……。わたしはなんという大ばかだったのかしら……」
「そんなことはない」レイブンは胸がつまる。必死でほかの話題をさがそうとし、それを見つける。
「ハイGターンといえば、前方のあの小星系にかなり近づいてきたようだよ」
彼はスコープをのぞき、惑星のあるらしい一対の小さな太陽を目にする。マイラU号がすでに姿を消したのは、その方向だ。
「ええ」とイリエラがいう。「わたしたちが警報で目をさましたのは、たしかあそこを出たときだったわ。パヴェルは航跡をそっくりそのまま逆にたどっているのよ。ずいぶん近道を使ったから!」また、あの魅力的な低い笑い声。
イリエラのいう航跡は、誘導コンピューターにはいっている。あらゆる宇宙船の船尾には、低速度撮影カメラが規則で備えつけられ、これが往路のあいだ、ずっと背後の星野のながめを記録している。往路をひきかえすには、その記録をとりだして、誘導コンピューターに入力するだけでいい。さっきレイブンがポケットにいれたのは、宇宙の廃物の山からここまでの、ニュー・ホープ号の航跡記録だ。そのことを思いだして、彼はポケットの上をポンとたたく。これがおまえのつぎの目的地だ――いや、ちがう、そうじゃない。もし、イリエラといっしょに旅をするなら。まあ、廃物のほうはそのあとでいいさ。連邦基地へ帰れば、このカセットも提出しなけりゃならないだろう。だが、コピーをとっとけばいい。ああ、その廃物の山にはどんな宝があることか! 彼はためいきをつき、そこに眠る古代の船のことを想像する……。
前方の星系のそばをかすめる問題は、もっと先で考えればいい。いまは仮眠をとるときだ。しかし、ソファーへいくのもめんどうだし、このカプセルの上で横になろうか……。迷っているうちに、燃料をチェックしておいたほうがいい、と気がつく。予想よりも長もちしているようだが、もしあの星系の重力場で燃料が切れて、推進を切りかえる羽目になったらやっかいだ。
彼は操縦席のソファーに移り、ニュー・ホープ号のリードアウトを念入りに調べはじめ――そして、メイン・タンクのリードアウトの先にべつの計器があるのを見つける。補給タグボート自身の古いタンクの表示計だ。あはっ! すると、ニュー・ホープ号が使える独立したタンクが、べつにあるわけか。彼はいったん接続を切り、古いタンクを直接使用できるように再調整をすませる。まだ加速はつづいている。これでニュー・ホープ号の燃料タンクがからになっても、推進装置は自動的に補給タグボートのタンクに切りかわるわけだ。事実、この補給タグボートは、もし切り離されても、自力で飛行できる。酸素と水までが、ここにストックされている……。
うしろにもたれて、ニュー・ホープ号の改造の可能性を考えているうちに、レイブンは自分がうつらうつらしているのを意識する。眠気の中で、子守唄をうたうイリエラの美しい声に聞きほれる。ふたたび、思いだそうとして思いだせない、あのふしぎな幸福感がしのびよる。おぼろげな意識で、ふとった僧侶が船首にやってきたのを感じる。うがいの音、水のはねる音までが心地よい。
――ふと気がつくと、おお、神々よ!――彼は生涯最大の不快なショックに手荒く揺りおこされる。
なにかするする滑るものがひたいにふれ、眠気まじりの彼の手を避けて、首すじに這いおり――そして首を締めつける! だれかが背後から逃げだし、彼のつかんだ布地が手から離れ――女たちが悲鳴をあげ――そしていまやはっきり目ざめてみると、奴隷首輪としか思えないもので、自分が窒息しかかっているのに気づく。
そうっと首すじをさぐった手に、細い鎖のようなものがふれる――鎖を使った、新型の奴隷首輪! 服の縫い目やスティックタイトの中へ簡単に隠しておけるやつだ。
いま、おそまきに、彼は自分が忘れていたことを思いだす――ジャンゴマンの破れたシャツをもっとよく調べておくべきだった。
そのことが頭を横ぎるあいだに、体のほうは反射的に動いて、共犯者をとらえようとする――あのふとっちょがなかば宙にうかびながら、狭い通路をくぐって船尾へ逃げようとするのに、両手をのばしてとびかかる。レイブンは相手に追いすがろうとする――だが、首にはまったものが仮借なくのどを締めつけるので、止まらずにはいられない。
船内にこだまするのはあざけりのこもったジャンゴマンの笑い声だ。両手が自由になった宙賊は、足の縛めをほどく手を休め、この勝利に高笑いする。
「勝敗逆転だな、ええ? そう力むなよ、若造」
ジャンゴマンは小型送信機らしいものをふりかざし、もう一度大笑いしてから、足の結び目をほどきにかかる。
レイブンはやり場のない怒りに言葉も出ない。ばらばらな疑問が頭の中を駆けめぐる。あのでぶの僧侶は、なぜおれたちを裏切ったのか。金のためか――女たちの身代金めあてか。それとも、なにかの方法でジャンゴマンにそそのかされたのか。とにかく、おれはいったいどうすればいい? どうすれば、この危機を切りぬけられる? それに、女たちは――
ノーズコーンの通路からあとずさると、きゅうに首の圧力がすこしゅるむのが感じられる。そうか! ニュー・ホープ号の外殻にくっつけてある送信機に近づいたからだ――もうずいぶん大昔のような気がするが、あれがまだ動いているのか! あれが電波を送りつづけているかぎり、ジャンゴマンにもおれは殺せない。しかし、まもなくあの出力も切れるだろう。そのときはどうする?
まるで彼の心を読んだように、ジャンゴマンが呼びかける。
「おまえにやってもらう仕事があるぜ、若造。あのヨットを呼びだして、おれがやつらのスケを押さえたと知らせろ。ひきかえして、ここへこいというんだ。連邦基地に通報なんかしやがったら、おまえもあのスケどもも、命はないぞ」
首輪がピクッと縮み、宙賊が自分の力を見せつけようとしているのがわかる。レイブンは激しく息を詰まらせるふりをする。それがおさまると、おとなしく交信室にむかう。
「レイブン、レイブン、なにがあったの? どうすればいいの?」とイリエラがたずねる。ひと足先に事情を察したレーンはすすり泣いている。
「待ってくれ。まだわからない。どじを踏んだ……。マイラU? マイラU? こちらニュー・ホープ」
パラディン男爵の声がかすかに聞こえたとき、接近警報がけたたましく鳴りだす。レイブンは警報を切って、反射的にスコープをのぞく。ジャンゴマンがわめくように質問をぶつける。その声はさっきよりも近い。片足でぴょんぴょん跳びながら船首へやってきたのか。レイブンの結び目に手を焼いているのにちがいない。
「岩塊だ!」レイブンはどなる。しかし、実は岩塊ではない。いま、じょじょに気づいたのだが、それはレイブンにとって天の助けかもしれないもの――一対の太陽のかなたに浮かぶ巨大な暗いガス・ジャイアントだ。ここに絶好の重力井戸がある。もし、おまえがすばやく考え、行動できるなら、そして、非常な幸運が味方してくれるなら……。無謀だが、たったひとつのチャンス。ほかにチャンスはない――その上、これだって失敗の要素は一ダースもある。
「いまから岩塊を迂回する」と彼はジャンゴマンにどなる。ありがたいことに、相手は船の操縦をひきつぐ気がなさそうだ。
「よし、わかった」その声はすぐそばから鋭くひびく。意外にも、その声はスピーカーから出てくる。ジャンゴマンは古いインターホンを見つけたのにちがいない。「それがすんだら、女どもをこっちへよこせ、レイブン。ひとりずつだぞ。まず新入りを味見してみる。泣き虫女には飽きた。あの銀髪にいっとけ。おれのやりかたはな、優しさの中に織りまぜた一定量の……苦痛だ」
この忌まわしい言葉を語る口調がひどく異様なので、あの宇宙服の中にはドラッグも隠されていたのではないか、と疑いがわく。レイブンはおのれをののしる。このおめでたい、とんまな道化師。あれを見逃すとは。
だが、自分のうかつさを責めているひまはない。彼は慎重な操作でニュー・ホープ号の船首をまっすぐガス・ジャイアントに向け、全力推進に切り替える。
「なにをやってるんだ、レイブン?」ジャンゴマンの声がひびく。
「いったろう。このでっかい岩塊をよけてるんだ」ジャンゴマンは、スコープをのぞいてたしかめようとするだろうか。
「さっきのメッセージを送信しろ」
「了解」レイブンは安堵で息がつまりそうだ。「マイラU? 悪いニュースがある」ジャンゴマンが船を乗っ取ったこと、ロイが寝返ったこと、自分が首輪をつけられた捕虜であること、ジャンゴマンが女たちを身代金のかたに抑えていることを、レイブンは簡潔に伝える。「もし連邦基地に通報したら報復すると、やつはおどしている。だから、すぐにひきかえしてくれ。くりかえす――ランデブーのためにひきかえせ。あとからこちらの座標を知らせる。送信おわり」
「ジャンゴマン、座標を計算しようか。むこうの船と出会いたいんだろう?」
力線表示機は、すでにガス・ジャイアントの重力の引きが、加速の一要素になったことを示している。ガス・ジャイアントが真正面にあるため、船内ではそれに気づかれないだろう。しかし、いちかばちかの賭けを成功させるために充分近づくには、まだ時間がかかる。そのために、座標も知っておきたい。
レイブンはコンピューターを操作しながらマイクをふさぎ、それまで恐怖の目で彼を見まもっていたイリエラを手まねきする。
「いいかい、イリエラ――」香水の匂う頭が近づくのを待って、低くささやく。「まもなく派手なターンにとりかかる。それで、きっとあのブースターをもぎ離せるはずだ。きみたちふたりはしっかりつかまる用意をしてくれ。それから――宇宙服を着ろ」
その言葉で、イリエラは彼女の宇宙服にちらと目をやり、そこでレイブンは第二の失敗に気づく。致命的な失敗。そこには彼女の宇宙服があり、彼のもある――だが、レーンのは睡眠カプセルにはいったままだ。宇宙服は二着、人間は三人。嘘だ、まさかそんなことが。
レイブンは麻痺したように宇宙服を見つめる。間欠的におそう息苦しさで頭がずきずき痛み、死ぬほどくたびれきって、この打撃が信じられない。麻酔薬を盛られたようなうめきをもらしたとき、レーンもふたりの視線を追い、事情をさとったらしいのがわかる。
宇宙服は二着、人間は三人。
その恐ろしい論理が彼をぶちのめす。思わず女たちの顔を見くらべる――そして、むこうがそのことにも気づいたのをさとる。
ふたりの女のどちらかをえらぶのだ。
それしかない。
生涯で最も長い一瞬間、レイブンの心は千々に乱れる。外の世界からすればまばたきひとつのあいだだが、頭の中を百もの考えがかすめる。まだこれからの長い一生を控えた若い女と、たっぷり人生を生きた高齢の女――なにも知らないナイーブな娘と、彼の恋人、バラのことをおぼえている初恋の人、裕福な本物のイリエラ――移民の女の健康な若々しい笑みと、夢にまでとりついた魔法の笑み――初対面の女と、あまりにも近しい女――とはいえ――
その間にも、百もの出来事がいっせいに起きたように思える。レイブンの指は反射的に船の空間座標をひきだす。ジャンゴマンがどなっている。レイブンは、まだ理性の残った自分の一部がこう答えるのを聞く。「いまからコースをかえて、この岩塊をめぐる周回軌道にはいりたい。許可してくれ。それだと、むこうもこっちを見つけやすい。いいな?」
「ぬかるなよ、若造」
レイブンは自分の声が座標をマイラU号に伝えているのを聞き、かすかな確認の返事を聞きとる。
だが、彼の魂ぜんたいを占めているのは、目前の選択の恐怖だ。ふたりの女が彼を見つめている。イリエラのささやきが聞こえる。「彼女をとりなさい、レイブン。わたしの孫を。わたしはもう充分――」レーンがそれをさえぎる。「だめ! そんなのいや! イリエラをえらんで。彼女はあたしの――」だが、レイブンは耳をふさぐ。そんなことを“議論”できない。ふたりのうちのどちらかが真空の中で死ぬのを、ノーズコーンが分離したとき、ひとりがいやおうなく死んでいくのを、どうして正視できよう? どっちだ? どっちにする?
だめだ。えらべない。
全身全霊がそれを拒否する。どっちも死なすな。
それは、おれが死ぬという意味か?
もしおまえの宇宙服を貸しあたえれば、当然そうなる。
それしか方法はないのか?
いや、あるはずだ。なんとかこのどたんばを切り抜けなくては。不可能を可能にしなくては。方法はあるはずだ。どんな方法? こうしているうちにも、あの惑星はぐんぐん近づいてくる。すでに船はその重力場の中に深くはいりこんだ。行動しなくては。……だが、なにをする? ある記憶がひらひらと頭をかすめる。それに賭ける価値はあるか?
挫折のどん底で、行動が大爆発する。
「きみたちのどちらか、操縦できるか? だめなら、いそいで覚えろ。ターンをはじめるぞ」
レイブンは身をかがめ、操作卓をたたき、ニュー・ホープ号を荒っぽいUターンに持ちこむ。重力がきりきり舞いする。負担のかかった金属の悲鳴とうめき、それにジャンゴマンの怒声の中で、レイブンは体を乗りだし、レーンをかかえあげて操縦席にすわらせる。「しっかりつかまれ。船の進路をこのままにたもつんだ。軌道に乗ったら、そこの遭難信号《メーデー》を発信しろ。このノーズコーンの中は真空になる。だれかが助けにくるまで、じっとしてるんだ。それから――」彼はふたりの女にそれぞれの宇宙服を投げ与える。「――それを着ろ! 早く!」
「だめよ、レイブン。いけないわ! やめて!」ふたりの女は、遠心力でたたきつけられながらさけぶ。
「だまって着るんだ。それからイリエラ、きみはおれが出ていったら、このカーテンを引け。それですこしはちがう」
溶接箇所のはずれる亀裂音ときしりが、連結部分から聞こえる。ボルトがふっとんだ穴からは、すでに空気が激しく外へもれだしている。回転のGで彼は船殻に強くたたきつけられるが、反動を利用してすでにたわみかけた通路にとびこみ、結合部にできた隙間を、手にしたかなてこで二、三度すばやくこじあける。
「よし、カーテンを閉めろ。愛してるよ。早くしないか、ふたりとも――このばかやろう!」
いうが早いか、レイブンは生涯でいちばん長い疾走のスタートを切る。
後部船室を抜けて、めざすのはブラックバード号。ふとった人影が口をあけ、よろよろ近づいてくる。なかば壁につかまり、なかば惰力で滑ってくるそいつのみぞおちを、すれちがいざまにけとばす。まわりではブースターの外殻がへこたれかけ、外へ吸いだされる空気が彼にさからい、そして外の送信機との距離が遠ざかるにつれて、いまいましい首輪が縮んでくる。
ジャンゴマンは、先まわりして影の中だ。宙賊はもうとっくに送信機から手をゆるめている。それでも捕虜の足がとまらないのをふしぎがり、送信機をいじって貴重な時間をむだにしてから、まだ片足にワイヤーをひきずったまま、レイブンにとびかかる。だが、もう遅い――レイブンは思いきり跳躍して、むこうがひっかけてきた足をかわし、その横をすりぬける。その瞬間、首輪がさらにきつくなる。ひとすじの糸になった空気をようやく吸いこみ、狂おしい逃走をつづける。もう、ブラックバード号のひらいたトンネルが前方に見える。
背後で宙賊が立ちどまり、銃弾がそばをかすめるのを、レイブンは耳より体で感じる。すぐ横で睡眠カプセルが破裂する。ああ、神々よ! ボビーが中にいるのに。中にいたのに。死。だが、死人にかまっている余裕はない――あと一歩。
――遅すぎたか? 鎖がのどをぐいと締めつけ、首がちぎれそうになる。悪夢の苦痛――瀕死の体に残された力をふりしぼって、レイブンはトンネルの中に体をねじこみ、作業ドアを閉め、ブラックバード号の中にとびこむ。生か死か。
長く、息苦しい一瞬のあと、彼はかろうじてさとる――自分が生きていること、賭けに勝ったことを。死の首輪はすでにゆるんでいる。ブラックバード号のソファーの下からやってくる和音に浸されている。遠い遠い過去にレイブンがそこに隠した大型送信機が、まだ電波を出しつづけているのだ。
あとどれぐらい? つぎの瞬間にとまるのか、それとも一時間後か? 回転するブースターの殻につながれて、混乱の極にある船内で、レイブンはそんな推測を断ちきり、送信機をとりあげて、ゆるんだ首輪の鎖を首からはずす。
自由! だが、こわれたブースターは、彼を死にひきずりこもうとしている。すぐ下にある惑星の灼熱したガスが、空気の中に強くにおう。レイブンはもがきながら操縦席にはいり、ちらと一度上を見てから、操作卓にとりつく。惑星の弧の上にスパークが見える――切り離されたノーズコーンの噴炎が、惑星の縁に隠れるところだろうか。もし、万事がうまくいけば――もしあのふたりがすばやく宇宙服を着こみ、もし燃料が切れていなければ――ふたりともぶじのはずだ。本当におれは彼女たちを助け、不可能を可能にしたのだろうか?
[#挿絵(img/rift_200.jpg)入る]
そのあいだにも、彼の両手は自動的に回転ブースターと逆推進ブースターを作動させる。これでブラックバード号の船首は、文字どおりネジをゆるめるようにして、ニュー・ホープ号の船尾であったものからはずれるだろう。ふりまわされながら、彼は手がかりと足がかりにつかまる。さあ、あとはあのかよわい作業トンネルのハッチが、閉まったままで持ちこたえてくれるかどうかだ。船首にいって、正規のエアロックを閉めるひまはない。
ハッチはもちこたえてくれる。だしぬけにブースターのふとった影が、口を大きくあけたまま、舷門からはずれておちていく。ジャンゴマンと、ふとった腹黒い裏切り者のロイは、あの中で死んだか、それとも死にかけている――やつらが犠牲者に与えようとしたよりは楽な死にざまだ。それに、かわいそうなボビーの銃弾にひきさかれた死骸。まあ、あの若者は幸福な気分で眠りにつき、二度と目ざめなかったと思うしかない。どう考えても、全員を救う手だてはなかったのだから。
そう考えて、レイブンはねじれ回転をやわらげ、ブラックバード号を独立したハイG推進にもどして、巨大な惑星の引きから逃れようと上昇に移る……。リラックスして、じっと待つよりほかにすることがないのは、ここ何日ぶりかのことだ。
抑えつけられていたパニックが彼の背骨をつかみ、膝を曲げ、両肘をがたがたふるわせ、みぞおちをぎゅっと縮めて吐き気の塊を作る。これまで考えるひまもなかったかずかずの想念が、いまになって彼を揺さぶり、腹の上に汗の流れを作り、歯がガチガチ鳴るほどの身ぶるいを起こさせる。体内の血が勝利感で泡立つのと同時に、抑えられた不安で凝固する。さまざまな光景が頭の中で交錯する――ボビーの破裂した睡眠カプセルが、イリエラの銀髪とまじりあう。ロイの刺繍入りの僧服からはみでたたいこ腹がレーンの若々しい両脚の上にかぶさり、パラディン男爵の鷹の目がパネルの計器をなかば隠してしまう――彼はかなてこが船の連結部分をもぎはなす手ごたえを感じ、そのおなじ手でイリエラのやわらかな肉体を宇宙服ごしに感じる。いがらっぽい催眠ガスが思い出のバラの香りとまじりあい、自分の声が耳にこだまする。そして、そのすべての上から、自分が選択をこころみたあの瞬間の恐ろしい、不快な永遠がかぶさってくる。もういい、もうたくさんだ! やめろ!
ひとり乗りの船がさらに上昇をつづけるあいだに、彼はまだふるえのとまらない体をむりやりおちつかせ、ブラックバード号の空気を大きく吸いこみ、そしてまたひと呼吸する。両脚をリラックスさせようとつとめる。その脚は、まだニュー・ホープ号の船内で生命を賭けたレースをしているようだ。さっきの反動からきたその混乱を、体内からじわじわとひろがる奇妙な気分が静めてくれる。ふるえる指が通信機をいじり、しだいにおちつきをとりもどして、彼の聞きたいものに同調する。これはなんだ? よくわからずになおも両手を動かすうち、やがて、聞きたかったものがとつぜんそこから現われる――まぎれもない遭難信号《メーデー》のエコー。
この巨大惑星の裏側のどこかで、ふたりの女がSOSを宇宙空間に送りだしている。彼女たちもぶじだったのだ。
レイブンはまだ信じられない気持ちだが、証拠はそこにある。ひとつ、とんまな大失敗をやったかわりに、おれはいちかばちかの大ばくちを打ち、彼女たちふたりを救ったのだ。初恋の人は生きている。あとは遭難信号《メーデー》の位置をつきとめ、ふたりのところへもどるだけでいい。
パネルには小さな緑色のキーがさしこんである。もし、その旅の途中で緊急な仕事がとびこむ場合のために、手をすかしておきたいなら、このキーが自動的に探索作業をやってくれる。これもまだ使っていない便利な新製品のひとつだ。
しかし、指がその緑のキーにのびかけたとき、レイブンはふいにさとる。さっきから心の中にひろがって、心臓を刺しつらぬく苦痛と恐怖を忘れるのに役立ってくれた、あの新しい奇妙な軽い気持ちがなんであるかを。
それは――解放感だ。
自由とはこういうものだ。古いソファーの曲面のすべてが、彼にそう語りかけている。なんとのんきで、なんと単純で、なんと軽やかな気分だろう! なんの心労もない。しかも、無限の富をひそめたあの廃物の山が待っている。そのありかを知っているのはおれだけだ!
小さな緑のキーを押したとたんに、そのすべては消えるだろう。もちろん、そのかわりに愛の至福が――しあわせな選択の謎が――連邦セントラルでの贅をきわめた人間生活のスリルと快楽が――忘れられた夢のすべてが実現する。それに、なにも取り返しがつかなくなるわけじゃない。自由はまたとりもどせる。しかし……しかし……いまのおれはその自由をつかんでいるのだ。このキーを押すまでは。
自分の手がさぐっているポケットに、廃物の山までのニュー・ホープ号の航跡記録があるのに気づいて、腹立たしげにその手を止める。そこで、ある考えが浮かぶ。この航跡記録も、連鎖の最後の一環がなければ役に立たない。つまり、いまいる位置から、三隻の船が出会い、ニュー・ホープ号の航跡がはじまった位置までの航跡が。しかし、ここへくる途中、ブラックバード号は船尾のホロカメラをほったらかしにして曳航されていた。操縦はニュー・ホープ号でおこなわれていたからだ。あのカセットは終わってしまったろうか? どのみちたどりつけない無限の富を惜しがってみても、しょうがないだろう。これ以上ばかな考えをひねくる前に、まずそれをたしかめてみたらどうだ。どのみち、早く宇宙服を着て、作業トンネルを閉鎖しなければいけないのだから。
スペアの宇宙服をいそいで着こむあいだにも、ふたつの考えが浮かぶ。第一に、彼女たちはきっとおまえが死んだと思っているだろう。落下するブースターからブラックバード号が切り離されるのを見たはずはない。そんなことが可能だと思ってもいない――事実、九分九厘不可能だったのだから。
とすれば、いま彼女たちは、おまえの死を悼みながら、半分にちぎれたノーズコーンの中で、パトロールかパラディン男爵が到着するのを、不安な気持ちで待っているはずだ。そう考えただけで、レイブンは矢もたてもたまらず、そっちへ駆けつけたくなる。すべてをなげうって、不必要に恋人たちを苦しめている心痛を終わらせてやりたくなる。だが、その衝動は薄れていく。作業エアロックをしっかり閉じてから、船尾への連絡通路を這いすすみ、航跡記録装置へ。その途中で、第二の考えが浮かぶ――正確には考えというより、ただ一瞬の痛切な認識だ。宇宙空間で沈黙した船がどんなに発見しにくいものか! とりわけパイロットが発見されるのを望まない場合には……。もちろん深い考えではないが、いまは妙に心にひっかかってくる。フム。
船尾のカメラに近づいたとき、カチッという音が聞こえる――あの曳航のあいだも、航跡記録装置はずっと機能していたのだ! それに、カセットも終わっていなかった! つまり、失われた一環は手もとにある――いますぐ、ここからスタートすれば、その誘導テープにしたがって、マイラU号とニュー・ホープ号に出会った場所までもどることができる――そこからニュー・ホープ号の記録を逆にたどれば、レーンとボビーの話にあった、巨大なあのなんとやらにたどりつける!
彼がカセット・ホルダーに手をのばしたとき、カメラがチャイムを鳴らし、ブザーが鳴りだす。記録が終わったという知らせだ。
間一髪! ここをのぞきにくるのがもう二、三分おそければ、見つかるものは、いつどこで終わったか不明のたんなる中断記録だけ。なんの役にも立たなかったろう。
かすかにわななく手で彼はそのカセットをひきぬき、新しいカセットを装着する……。さっき語りかけてくれたのは、幸運の神々か?
だが、ふたつの貴重な航跡記録を手にして操縦区画にもどったとき、なにかが聞こえたように思える。なんだろう――笑い声? 星ぼしの中の甘美な笑い声だ。幻の恋人たちがおれを笑っているのか。彼女たちはそれほどおれの気持ちに確信を持っているのか。それとも、連邦基地と華やかな連邦セントラルへ帰還できるうれしさで笑っているだけなのか。レイブンは星野のかなたを見つめ、そこに煙った瞳を見いだす。その瞳が遠い太陽にかわり……そしてまた瞳にもどる。
自由と愛、愛と自由が、脳の中でせめぎあう。だが、早く睡眠をとらなければ。でないと、このままうたたねをして、どことも知れないコースに迷いこむおそれがある。パネルの画面をクリヤーするあいだにも、頭の中でさまざまな思いが馳せめぐる――
ふたりの女が、死にむかってとびこんでいく男を自分の目で見たあと、いつまで待ってくれるものか? しかも、どんな権利があって、おまえはあのふたりがいまも自分のものだといいきれる? あのふたり、いや、その中のひとりさえも? 全宇宙に著名な美女――彼女がセントラルに近づくにつれて、その取り巻きがまわりに集まってくる――彼女となにかの関係をもつ何百人もの連中、医者、着付け師、デザイナー、彼女を育ててきたグリッド・ワールドのお歴々。ただの男がイリエラを独占するのは、もうむりだ。彼女自身がなんと考えていようと。せいぜいおまえが期待できるのは、その行列のしんがりについていくことだけじゃないのか。たとえ、いまの彼女があのバラをおぼえているとしても、結局はそんなところにおちつくのでは?
そしてレーンは? いったいおまえは彼女についてなにを知っている?――あの子は自分のことさえよくわかっていない年ごろだ。彼女に光りまばゆい世界を見せ、バラについて教えることはできる。イリエラを愛したように、彼女を愛することはできる。しかし、もしグリッド・ワールドがあの美しさに目をつけたら? それとも、植民地で育った子供時代が彼女の体にしみこんでいて、いずれはまたカンブリアにひきよせられたら? 苦しみあえぐ若い植民地に住みつき、老いていくよそもの――レーンと結ばれた場合、おまえの前途に横たわる運命は、それではないのか?
だが、彼女は――彼女たちは――すばらしく美しい。かつておれを満たし、燃えあがらせた愛は、いまも強く心の中に残っている。永久に失われたと思っていた愛。リハビ療法がおれの愚かな若い命を救うために、おれから盗みとった愛。それをもう一度失うことに耐えられるか?
しかし、そう考えるあいだにも、一種のもやが忍びよってくる。たぶん、リハビ療法のもやだろう。そのもやが、早く出発しろ、この手ごわい選択の謎から肉体的に遠ざかり、星野《せいや》の中へさまよいこめ、とうながしている。きっとこれは睡眠に飢えた、いやおうない欲求の一部だ。
苦痛とはちがった心のうずきといっしょに、彼はあの至福の感情を思いだす。ふたりの女のうしろで補助席にすわり、恋人を、いや、恋人たちをとりもどしたことにひたすら幸福だったあの瞬間。ひょっとしたら、あの瞬間こそがそれではなかったのか。生涯忘れられない、純粋でまざりけのない幸福、失われた愛の極致と充足では? いや、そんなはずはない、と彼は抗議する。しかし……。
遠いかなた――にもかかわらず、すぐ身近で、遭難信号《メーデー》のエコーが、まるで太古のローレライの呼び声のように彼をいざなう。幻の女たちのほっそりした指が、優しくレイブンの心の琴線をかきならす……。どうしても、いまこの場で決定しなければ。
彼の片手は小さな緑のキーのそばをうろつき、もうひとつの手は誘導テープをつかんで、ブラックバード号のコンピューターにさしこもうとしている。幻の瞳が星野の中にぼうっと光る。その星は、古い、古い歌を甘やかに、ゆたかにハミングしている。レイブンの心臓は、生まれたばかりの動物が立ちあがろうとするように、胸の中で、せまりよる眠りのもやの中で、ぐらりとよろめく。
彼は決定をくだす。
それから長い歳月ののち、満ちたりた、まだ若々しい回収救難官が、ブラックバード号のキーボードをたたき、むかしの小唄を呼びだした――
[#ここから2字下げ]
夜は千の目を持つ
げにも眺めうるわし
されど自由なくして
心の日の出ぞむなし
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
([#ここから割り注]作者註――フランシス・ウィリアム・ボーディロンの詩に手を加えたことをお詫びします[#ここで割り注終わり])
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#地から2字上げ]図書館のデスク
「これは、これは!」若いコメノのカップルが近づいてくるのを見て、モア・ブルーはいう。「さて、第二の物語は気にいったかね? 風変わりだったろう?」
「ええ、ほんとに。驚きました。人間《ヒューマン》にはさまざまな側面があるんですね。ちょうどぼくたちのように。それにユーモアまであるとは!」
「そうなんだ。ヒューマンのユーモアは有名だよ。状況が笑いを許すかぎり、ヒューマンはそれを欠かさない。ところでこんどは」――と分厚い束をとりだして――「とびきりのごちそうだ! これがきみたちにとって未知の物語ならいいが。ヒューマンとジーロのファースト・コンタクトが、生きた物語として書かれていることを知っていたかね? それに、コメノの種族がその中に登場することを――もっと大きく登場しないのは残念だが、ともかく出てくる。しかも、きみたちの歴史の中のある悲劇的な瞬間にだ。きみたちの種族の言葉そのものが!」
「へーえ――それはすばらしい。でも、なぜぼくたちがさがしたときに見つからなかったのかな? 相当念をいれて調べたつもりですが」と青年がいう。
「こういうと顔が青くなるが」とモアは答える。「わたしが見つけたとき、このテキストぜんたいは〈探険の歴史〉の部にファイルされていた。その理由はいまにわかる。しかし、ファクト/フィクションのリファレンスをいくら見ても、これについては出ていない。だれかがあのファイルをもっと整理しなくちゃだめだ」
「なんてご親切な。そんなにくわしく調べてくださったんですか」小柄なコメノの娘が賞賛をこめていう。彼女は前に出した自分の片手にたえずちらちら目をやっているようだ。モアははたとその理由に気づく――美しいコメノの結婚コロネットが、その手首に飾られているのだ。青年もおなじものをつけているが、こちらはもっと控え目な態度をたもっている。
「そうか、そうか。これはお祝いをいわなくちゃいけないね!」心のこもった祝辞と答辞がとりかわされるあいだ、いっときヒューマンの歴史は忘れられる。モアはほんとうに喜んでいる――もともとロマンスに弱いところへもってきて、仲よく勉強するこの若いカップルに非常な好感をいだいているからだ。
「ぜひ、わたしたちの第三性《サード》にも会っていただきたいな」と娘が恥ずかしそうにいう。「わたしの名づけ親なんです。きっとあなたも彼が好きになりますよ。学者なんです。異種族美術の。あのカリックリー博士です」
「ああ、お噂はかねがね聞いているよ」モアは、自分の本能が正しかったことをさとる。この若いカップルは、非常な名家の出だ。
「あなたがコメノでなくて残念です」と娘はいたずらっぽくいう。「もし、あなたがコメノだったら、あなたにおねがいしていたところですわ! だって、あなたに一部の責任があるんですからね」
これを聞いて、モアはほんとうに青くなる。彼の種族では、これが顔をあからめることに相当する。いまの彼が中性モードにあるだけではない。コメノという種族は、ふだんの上品さとうらはらに、生物学的儀式に非常な情熱を発散することで有名だからだ。
「ああ、これはどうも……ありがとう」と彼はつぶやく。
「気にしないで。冗談ですから」
「しかし、あなたにも責任の一部はあるんですよ――というより、この前貸してくださった物語がね」青年が微笑すると、純白の鼻づらがとても美しく輝いて見える。「ぼくは――ぼくは、あのレイブンというヒューマンがイリエラにいだいた愛の中に、自分の感情のこだまを見つけて、卒業といっしょに彼女を失うんじゃないかという恐ろしい可能性に目ざめたんですよ」彼の上腕は未来の花嫁の手をにぎりしめる。
娘が音楽的な声で笑う。「だから、わたしは絶対に自分のクローンを作らないように気をつけます。でないと、彼がわたしたちふたりをおきざりにして、どこかへ逃げだすかもしれないから!」
「冗談にもそんなことはいうな」青年はきびしくたしなめて、また彼女を抱きしめる。それから、新しいテキストに目をやる。「で、ぼくたちの種族がここに出てくるんですって? おかしいな――コメノとヒューマンのファースト・コンタクトがどんなものだったか、思いだせない」
「わたしはおぼえてるわ」と娘が真剣な口調にもどっている。「〈暗黒界《ブラック・ワールズ》〉のヒューマンとのそれよ」彼女は身ぶるいする。
「しかし、それはひどい!」
「そう」とモアはいう。「社会生活への順応を誤ったヒューマンがどんなことをやってのけるかは、もうわかるだろう。以前から、わたしはヒューマンを、異常なほど柔軟で影響されやすい種族とみなしてきた。きみたちにもいまにわかるが、ヒューマンは、この事実と、それが作りだす危険を切実に認識している。この物語は、ヒューマンの最終戦争直後のものだ……舞台はおなじ〈リフト〉星域だが、時期はもっと早い。三つの中でこれがいちばん古いんだよ。
しかし、この物語には信憑性《しんぴょうせい》がある――大部分は、通信文やニュース報道、そのほかこの事件の記録からじかに採録したものだし、最後のヒューマンとジーロの対決のくだりも、生存者との深層面接から注意ぶかく再構成したものだ。それに、きみたちがよく知っているジールタンに舞台をとった、ジーロだけが登場するくだりも三つ四つある。執筆者たちは、この物語を書きあげるにあたって、事件の当事者だったジーロのひとりから大きな助力を仰いだ――実をいうと、彼女はこのテキストの中で言及されている若い女性なんだ。そのことからも、ヒューマンのくだりの迫真性がおしはかれるだろう」
「もちろんです! なんとすばらしい」
「この女性はゆたかなユーモア感覚の持ち主でね。それが時代を超えて伝わってくる」
「どれもがそうです」青年は第三の物語の分厚い束を、ていねいに大型の防水バッグにいれる。「つまり、すべての感情がこっちに伝わってきます。人びとは――いつの時代にも、やはり人びとなんです、ちがいますか? すばらしい名案だと思いますね、こんなふうにして歴史の断片を綴っておくのは。もうこれからは、星図を見るたびに、それぞれの星におおぜい住んでいる人びと、現実の風変わりな、感情ゆたかな人びとのことを考えずにはいられないでしょう」
「ヒューマンの思いつきなんですか?」と娘がたずねる。
「一般にはそういわれているね。たしかに、ヒューマンはほかのどの種族よりも厖大な分量を残した。しかし、根気よくさがせば、おそらくほかにも先例は見つかるだろう。ほかのあらゆることとおなじように」
「ええ。はじめてここへきて、あなたにお手数をかけたときから、わたしたちはひとつの大きな教育を受けたように思います。それまでは、ひとつかふたつのパラグラフ、なにかの華々しい事件を想像してたんです。こんなふうにして、遠い過去の、だけどちゃんと肉づけされた人びとに会えるとは、思ってもみませんでした。わたしは日付とか、場所とか、どの種族がどんな超光速航行技術を持ってたかとか、そんなノートがなくなったあとも、いつまでもあの人びとをおぼえてると思います! それに」――若い娘は鱗の生えたモアの手を恥ずかしそうににぎる――「あなたのことは忘れません。ね、そうよね?」
「もちろんだよ」青年は微笑する。「この無個性的な大図書館が、ヒューマンの歴史と同様、あなたのおかげで、ぼくたちにとって生きたものになったんですから」
モアは自分の副鼻腔と心臓をしずめようと、猛烈に鼻をフンフンいわせる。自分の仕事を愛している上に、こんな瞬間には、大学ぜんたい、そしてデネブぜんたいをも愛したくなるのだ。例のムームの天体物理学専攻生がこっちへ近づいてくるのを見て、モアはほっとする。このままだと、この場にふさわしくない感情で、鱗がカチカチ鳴りだすところだ。
「それでは、感謝はほどほどにして、最後の物語を読んでくれたまえ」彼はふたりにそういうと、光り輝く歯を見せる。それは彼の遠い先祖を、故郷の惑星ハード・エッグズで支配的地位にのしあげることになった歯だ。「それと同時に、きみたちの幸福をねがう、わたしの最高にあたたかい気持ちを受けとってほしい。ご存じのように、わたしは長命な種族の出身だ――いずれは、きみたちの子孫のだれかに読書指導をする喜びが味わえるかもしれない」
「あら、それはすてき!」と娘がさけぶ。「ほんとにそうなったら、どんなにすてきでしょう! じゃ、さよなら、ブルーさん、さよなら。こんどまたお会いできるときまで!」
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第三話 衝突
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宇宙の旅で痛めつけられたメッセージ・パイプが、豆宇宙船そっくりに到着シュートをそろそろと上昇する。やがて、センサー・キャップが通信アンテナにふれる。何光年ものかなたから、そのメッセージ・パイプを連邦基地九〇〇に呼びよせたアンテナに。
接触の瞬間、深い地下の通信室でピーッと信号が鳴りひびく。この基地の大量の設備施設は、すべて結晶質の大アステロイドの内部にある。九〇〇は古い辺境基地のひとつだから、果てしない宇宙空間の孤立環境でたのしい生活が送れるようにと、およそあらゆる便利でぜいたくな設備がととのっている。
ピーッという音で、通信係士官のポーナはあきらめの吐息をつく。いそがしい一日がやっと終わるところだったのに。地上バブルの中の通信助手がセンサー・キャップをはずし、到着物をシュートから送りこむのを、彼女は待つ。
待つあいだに、午後の定期的な受信を選りわける。航法チャート部に五通、医務部に不急メッセージが二通、テラフォーミング部に二通、植民地サービス部に長いのが三通、それに巡回中の一艦長から整備部に宛てた個人的な感謝状。もうひとつ、〈リフト〉の遠い北東端にある連邦基地三〇〇からとびこんだ司令宛ての特別情報。
ポーナは特別情報にざっと目を通す。そこに出ているのは、〈暗黒界《ブラック・ワールズ》〉のしわざとおぼしい活動だ。〈暗黒界〉は、最終戦争のあとに連邦加入をこばんだ、人間《ヒューマン》が大半を占める惑星グループである。おおぜいの悪党に避難所を与えることになったその文化は、相当に不愉快なものだ。〈暗黒界〉は連邦の境界外にあるため、定期航路が通ってないが、そこの鉱山から出る宝石用原石をほそぼそと輸出するルートはある。この情報は九〇〇には無関係だが、司令はそれをニュースのひとつとして掲示板に発表するにちがいない。
メッセージ・パイプがどすんと届いたとき、ポーナの目は、厚い膜になった宇宙錆と、ソバカスのようなへこみとすり傷にひきつけられる。このパイプはずいぶん長旅をしたらしい。〈リフト〉の奥からでもやってきたのか? それとも、どこかの巨大惑星を手さぐり状態で迂回しているうちにできた傷なのか?
それはわからない。通信室は、こうした奇妙なものに慣れている――ときにはセントラルのガキどもがどこかの辺境基地を驚かしてやろうと、「暴風接近中!」とか「ハスとダリアより愛をこめて」とか、おかしなメモを入れた手作りのパイプを送ってよこすこともあるぐらいだ。
しかし、これはいたずらじゃない。古い古い本物――ことによると、ポーナがここの勤務につく前に、なにかの飛行任務《ミッション》から発送されたものだ。彼女はパイプからカセットをひっぱりだし――送り手がいそいで装填《そうてん》したせいか、ひっかかってなかなかはずれない――届け先と優先度を知るために再生してみる。
男の声がいう。「報告その一、R‐R‐1より基地へ。ビーコン・アルファにて。録音者トーラン航法士」ポーナにとってはなんの意味もない名前。
相手はつぎに標準日付を知らせ――あれま、二十年以上もむかし!――さらに、艇の空間座標を早口に告げる。天体名鑑を調べなくても、その座標は〈リフト〉の深部だとわかる。いったい、この相手は何者だろう? 星図作成任務ではない。このパイプには、チャート部の黒と黄の目立つ横縞がはいってない。もしかして行方不明船舶?
「いまビーコン・アルファの設置を終わった」とトーランはつづける。「ビーコンは、大きな青い太陽の第十惑星で周回軌道に乗った。この太陽の質量はソルの約四・五倍、光度は二・五〇。これよりコースに十三度の変更を加え、銀河系北東部に向かう。コンピューターでは、その方角に電磁波通信の集中が見られるからだ。〈リフト〉対岸の未知生命体システムの活動中心にちがいない」
〈リフト〉対岸!
なーるほど、とポーナはようやくさとる――R‐R‐1はリフト・ランナーの略、最初の〈リフト〉横断探測船! まだわたしが子供のころに出発した船。だとすると、これはさっそく司令に知らせなきゃ。自分で届けよう。そうすれば、内容の一部をいっしょに聞けるかも。
興奮の中でさえ、ポーナは思わず苦笑をうかべる。パイプの二十年もの長旅の果てに、いまさらあわてるなんて愚の骨頂。とはいえ、パイプは〈リフト〉からの唯一の通信手段だ――〈リフト〉特有の濃度勾配の変化のおかげで、どんな電磁波通信も、ほんの短距離をわたるうちに、聞きとれないほど歪んでしまう。
ポーナはほかの定期通信を配達するためにメッセンジャーを呼ぶ――ちょっぴり残念な気がしないでもない。優秀な通信係士官はだれでもそうだが、ポーナもゴシップ好き。毎日、勤務時間のあとでおこなう巡回配達がたのしみなのだ。ポーナは、いま顔を出したばかりの夜直職員に手早くひきつぎをすませる。それから中央展望通廊への近道にいつも使う体育用のらせん階段をいそいで登っていく。基地司令のオフィスがそこにある。
大展望窓まできて、つかのま足をとめ、外をながめる。ああ、なんて美しいながめ! 荒涼としたアステロイドの表面から見える壮麗な星野《せいや》と、それをばっさり断ち切っている〈リフト〉の黒い大河。〈リフト〉は地平線と平行し、そのほとんど全長にわたって伸びている。幅は約二〇度、長さは全天のほぼ半分。ごく少数のまばゆい星だけが、対岸からの薄もやのような星明かりの中に見分けられる。
〈リフト〉は、もちろん空間の裂け目でも溝でもなく、星のわりあい少ない領域であるにすぎない。銀河系の渦状腕のあいだにある星の少ない領域とおなじ性質のものだ。こうした急激で局部的な濃度減少は、スコープであっちこっちに見いだすことができるが、この〈リフト〉の特徴は、じょじょに拡大中の連邦宇宙という球にとって、それが北の境界の役目を果たしていることだ。〈リフト〉のために、連邦宇宙は北側がひどくひしゃげた形をとり、九〇〇はセントラルからそれほど遠くないのに、まぎれもない辺境になっている。
数次にわたる探測隊が、〈リフト〉の奥深く分けいり、その対岸でふたたび渦状腕の正常な星野がはじまっていることをすでにつきとめた。探測船のセンサーは、まぎれもなく人為的な通信を感知した。しかし、その付近の恒星のどれにも惑星がないことも確認された。知的生物の発見には、完全な〈リフト〉横断が必要であることは明らかだ。いまから一世代前に、その時機が熟したと判断されて、リフト・ランナー1号が出発したのである。
飛行任務としては、風変わりなところはなにもない――女性二名、男性三名の乗員ぜんぶが多重技能者である上に、中のひとりは鋭敏な感応者だ。あとは、豊富な補給品と、ファースト・コンタクト用の備品。船体そのものは制式の偵察船だが、それを改装して、予備燃料タンクと、超長距離センサー、それに広域スペクトル放射線探知機をとりつけてある。また、ビーコンを数個積みこんでいる。コース変更のたびに、ほかの船が追尾できるよう、そこへ設置しておくためだ。もちろん、船尾にとりつけられた制式の低速度撮影航跡記録ホロカメラが作動をつづけており、それは帰路のコンピューター誘導に役立つ。
このリフト横断船のただひとつの特徴は、乗員が冷凍睡眠で非常に長時間を過ごすことだ。しかし、これすらべつにレコード破りではない。不本意ながらそうなった場合も含めて、もっと長い冷凍睡眠の記録はこれまでにも何度かあるし、なんの副作用も認められていない。目につくのは、非常事態とおよそ不似合いな冷凍睡眠者たちの若々しさだけ。というのも、冷凍睡眠中は、だれも年をとらない――それにまた、なんの生体活動もない――からだ。
いま、その探測船の最初の報告が届いたわけである。オフィスの戸口に司令の副官がいるのを見て、ポーナは足どりを早める。仕事熱心な専門家にありがちなことで、ポーナは自分の顔にうかんだ表情にも、また、みんなの微笑と好奇の視線を航跡のようにひきずって歩いていることにも、まったく気づいていない。副官のフレッドは、彼女の顔を見て、やはりためいきをつく。彼にとってもきょうは長い一日。莢いっぱいのスフェルミニにつきそって、この大きな基地を案内してまわったのだ。
副官はドアをひらいてポーナを招きいれる。
「あら、どうもありがとう、フレッド。司令はいらっしゃる?」
「お待ちかねだよ。きみの顔を見たとたんにピンときた」
「え?」出鼻をくじかれた彼女は、相手の言葉の意味をしばらく考えてからあきらめる。「フレッド、〈リフト〉横断船からの第一信が届いたのよ! すぐ聞きたいだろうと思って」
「〈リフト〉横断船か……うん! もちろんだ」
ふたりは中にはいり、司令に迎えられる。司令は、灰色の髪、がっしりした体格の女性で、鋭い目と感じのよい笑顔の持ち主だ。
「あとでメッセンジャーが、連邦基地三〇〇からの〈暗黒界〉に関する情報を持ってきます。でも、こっちは退勤前にお届けしたほうがいいと思って」
フレッドはすでに音声再生機をひらき、カセットに手をさしだしている。
「あ、わたしがやります」とポーナがいう。「パイプにまっすぐはいってなかったんです。どこも傷んでないみたいだけど、なにしろデリケートな製品ですから」
「どうぞどうぞ」
司令の鋭い目は、ポーナのわくわくした興奮を見てとり、この娘に同情をよせる。「どう、いっしょにここで聞いていきたい?」
「ああ、はい!」まぶしいばかりの微笑にでくわして、司令はこの娘をからかった自分が恥ずかしくなる。おかしなものね、と彼女は思う。若く美しい女のほうが、老いて疲れた女よりも、はるかに切実な好奇心があるとは。
録音されたトーラン航法士の声がしゃべりだす。すでにポーナが聞いた部分がくりかえされるうちに、副官が眉をよせる。トーランが青い太陽の特性を述べおわったところで、ちょっと間があく。
「不安な声だ」とフレッドがいう。
司令がうなずく。
ポーナは鋭く自分を責める。なぜそれに気づかなかったのかしら? いわれてみると、たしかにそんなふうに聞こえる。息づかいも、口調も。それに、通信のスタートでも、トーランは慣例を破って略号を使っている――おまけに、いそいでつっこんだカセット。わたしはよほど頭に血がのぼってたんだわ。でも――なにかのトラブル? なにかの事故? ああ、どうかそんなことがありませんように!
トーランはコース変更を知らせて、報告をつづける。「ところで、あそこの通信活動は予想した以上だ。なにか大事件が起こってるのかもしれない」
司令の両眉がぐいと上がり、眉根がくっつく。一心に耳をかたむけているが、視線のほうは音声再生機より遠いむこうを見つめているようだ。
トーランが息をつぐのを待って、司令はぽつりとフレッドにつぶやく。「この乗員たちは、どこまでの状況説明を受けて出発したのかしらね」フレッドは考えぶかげに彼女を見て、首をうなずかせる。
しかし、つぎの言葉が、ポーナの頭からすべてを追いはらう。トーランがもう一度大きく息をつぎ、ふいにこう口走ったのだ。「なにか奇怪なことが起こってる――だが、どう説明すればいいのかわからない!」
奇しくもおなじ瞬間――ただし、これほどの莫大な距離を隔てた二点で同時性が確認されるかどうかは疑問だが――〈リフト〉の対岸では(こちら側にくると、〈リフト〉は〈闇の川〉と名前が変わる)、やはりみんながもうひとつのメッセージに耳をかたむけている。ただし、ヒューマンが発信したものではない。このメッセージもやはり自動的にその目的地、この場合は〈調和圏《ハーモニー》〉の本拠、惑星ジールタンに届いたばかりだ。しかし、こちらはそれほどの長旅でなく、それほど長い時間もかかっていない。メッセージの発信地は、〈闇の川〉の遠い北東端にある植民地集団。これらの植民地は、有力種族のジールタンではなく、やはり〈調和圏〉に属するコメノという種族のものだ。
それを聞いているのは、ジールタンの顧問団。明るい午後の日ざしを浴びて、大テーブルのまわりに集まり、ひとつしかない大きな目で、奇妙な形のメカニズム、危険な旅を物語る傷痕だらけのそれを、熱心に見つめている。
「助けてくれ!」と録音されたコメノの声がさけぶ。「大霊《たいれい》の名にかけて助けてくれ!」
それは究極の訴えだ。顧問たちは威厳ゆたかな頭をもたげ、身をこわばらせて、異種族の声に聞きいる。
「助けてくれないと、われわれは死ぬ――ほかの、ほかのおおぜいも死ぬ。おそってきたのは未知のエイリアンだ。やつらは空から植民地に下りてきて、われわれを捕え、殺し、子供らを人質にとって、われわれをこき使っている。やつらにおそわれた世界は、どこも占領されるか、全滅した。このメッセージを送るのに何年もかかり、何人もの命が失われた。これがそっちに届くころには、われわれは死んでいるかもしれない。襲撃者どもは、〈闇の川〉の南から、東端をまわって侵入してきた。あらゆる面で不快な生物で、ジューマン、またはジューマノールと自称している。
〈調和圏〉の名において、どうか援軍を送り、あの怪物どもをやっつけてくれ。われわれはやつらといっしょに死んでもかまわない。やつらに支配されて生きるより、死んだほうがましだ。やつらがこれだけで満足するはずはないんだから」
メッセージが終わるのを待ちかねたように、顧問団長が老いた脚で痛々しく立ちあがる。
「いますぐ総会を召集しよう。幼い執政官にも臨席を仰がねばならん」長老は悲しみから生まれた灰色の滲出物《しんしゅつぶつ》を目からぬぐいとる。「おそろしいことだ。おそろしい……。こんな言葉を口にすることになるとは思わなかったが、最終戦争の恐怖兵器のすべてを破棄しなかったことを、わしは大霊に感謝したい」
長老の言葉の意味が胸につき刺さり、テーブルをかこんだ一同は思わず息をのむ。
こちら連邦基地九〇〇の司令室では、いまトーランがふしぎな言葉を吐いたカセットを、三人のヒューマンが鋭く見やる。
「奇怪だ」とトーランはくりかえす。「でも、いわなきゃならない。こんなことが現実に起こってるといったら……いま、ほかのみんなは冷凍睡眠にもどっているし、いそぐ必要はない。でも、できたらだれがこれを聞いているのか知りたいもんだ。もし、基地司令がまだラベスンさんなら、感応者や幻覚のことをどう思ってるかはだいたいわかる。信じてくれ、ほんとにこんなことは報告したくないんだ。しかし、そうするしかない」
司令はごくかすかな微笑をうかべる。彼女の苗字はヨーンという。
トーランはまた大きな息をつく。
「えーと、コースを変更すべきだというコンピューターの判断で、予定どおりにわたしは覚醒し、ビーコンの設置と、スコープのホログラム撮影にとりかかった。だがその前に、規定どおり、万事異状ないかどうかをチェックした。全計器はグリーン、ゴー。だが、乗員の点検にとりかかったときだ、最初の奇妙なことが起きたのは。まずわたしはキャシーを、じゃなかった、エカテリーナ・クー中尉を調べた。彼女の生命信号は良好だった。
ところが――なんていうか、だれかが自分の代わりに物を考えてる感じで、ささやくようにこんなひとりごとをいったんだ――「彼女のぶちは色が薄すぎるな」
ぶち。カプセルののぞき窓ごしに彼女を見ていたんだが、もちろんわたし同様、ぶちなんかあるわけがない。そりゃまあ、ソバカスならたくさんある。しかし、こっちのお目当ては、もっと大きな斑点、直径三、四センチもある濃褐色のものだ。とくに鼻すじの上には、どうしてもひとつほしい。そこで、はっと気がついた。おれはどうかしてる、まだ寝ぼけてるのか――キャシーにぶちがあるはずだなんて、いったいどこから思いついた? だが、これにはなにか意味があるらしい。
そこで、ほかのみんなを点検にいった――ところが、だれを見てもやはりどこかに違和感がある。皮膚の色がちがうんだ――たいていの場合、白すぎる。それに、アッシュ船長の首すじを見たとき、完全にちがうという気がした。聞いてくれ、わたしは気が狂ってない。かりに狂ってるとしても、それはわたしだけじゃない。いまにわかる。とにかく、船長の首すじを見たとき……いや、とてもいえない」
トーランが唾をのみこむ音がする。
「妙なことに、水がすごくまずい……くそ、飲まなくちゃだめだ。じゃ、いっちゃおう――どう思ったかというと、船長に小さい腕がもう二本よぶんにないとおかしいと……。首のつけ根のあたり、鎖骨の上に小さい腕が二本あるはずだ。それに、首も短かすぎる。
待った――そっちの考えはわかる。だけど、しばらく待ってくれ。
とにかく、そういったもろもろの考えをおしころした――ほかにもあるんだよ、ディンガーとシャーラのことで。顔とか目、そう、とくに目が。しかし、だれの生命信号もグリーンだ。わたしはすっかり怖じ気づいた。アッシュ船長を起こして、自分が勤務不適格なのを知らせようかとも思った。
というのも、妙な考えがわいてくるだけじゃないんだ。ひどくぶきっちょになってる。冷凍睡眠から出たばっかりというのは、すこし反射運動がにぶるんだが、それともちがう。物をとろうとしたとき、ありもしない手をのばそうとしたり、自分の背が思ったより低いのに気がついたり――なによりまずいのは、いいにくいことなんだが……自分の体をしょっちゅう……しっぽで支えようとする。つまり、動物のようなしっぽでだ。頭の中にひとつのイメージがうかんだが、それは前に見たことのある動物みたいだ。ルー、またはカンガルーという名で、三本目の脚に似た太いしっぽがある。本当なら自分はそんな外見のはずだ、そんな動物のはずだという気がした。
まあ、ぶきっちょでも仕事のほうはなんとかこなせた。ビーコンも設置したし、コンピューターが決めたコースの前方を調べて、GO型太陽の密集星域を発見した。そこから大量の信号活動が伝わってくる。もちろん、歪みがひどくてなにも聞きとれないが、ヒューマンとあまり変わらない音声がキャッチできた。
そのころには、気分もいくらか正常にもどっていた。ただ、ペンを使おうとするたびに、ありもしない手でつかもうとするんだ。つまり、アッシュ船長にあるはずだと思った、あの小さい手と腕でね。そんなわけで、自分自身についていよいよ決断をくださなければと思ってるところへ、宇宙塵のシャワーがぶつかってきて、大きめのやつが貨物室に穴をあけた。警報が鳴りだし、みんなが目をさました」
トーランはまた間をおく。なにかにむせているような音が聞こえる。司令の助手のリアルーンが書類の束をかかえて静かにはいってくる。司令はうなずいて、彼女を部屋に残らせる。
「失礼。さて、みんなで点検したが、なんでもなかった。船尾スコープのすぐわきに、ほんの小さい穴があいただけだ。ここで提案したい。どうか記録してくれ。あそこはもっと補強すべきだ。宇宙塵が船尾スコープ被覆からある角度ではねかえると、薄い接合部分に命中するおそれがある。この船に起きた事故がまさにそれだ。しかし、密封剤が用意してあったので、本格的な修理が七分たらずで完了した。つぎにわたしはコースを再設定した、空気漏れの噴流で、毛すじほど横にそれたからだ。
それよりも、なぜ七分もかかったかをいいたかった。つまり、ほかのみんなも動きがぎごちなかったからだ。冷凍睡眠中のわれわれは、なるだけちゃんと服を着こむようにしている。万一、真空警報で目ざめたとき、起きあがってすぐ集合できるから。ところが、みんなの悩みはそれだった。アッシュ船長とシャーラは服にむかって毒づいていたし、ディンガーはこういった。「どこかのおふざけ屋がまたよけいな名案を思いついたらしいぞ。どこへしっぽをしまえばいい?」だが、いいかけた途中で口をつぐんでしまった。するとキャシーが、「あなたも?」という。みんながいそいで空気漏れを点検しようととびだした。ところが、ふたりほどはピョンピョン跳躍するんだ。もし無重力でなかったら、首の骨を折ったかもしれない。キャシーがいちばん重症のようすだった。両手を脇にくっつけて、肩をくねらせ、どうしてヘルメットがひとりでにずり落ちてこないのかとふしぎそうに、「おお、おお、おお」といいつづけた。しかし、警報に、空気漏れに、この混乱で、わたしもパニック寸前だった。自分が幻を体感するだけでなく、見たり聞いたりもしてるらしいと思った。
やがて、空気漏れの修理がおわり、規定どおりにみんなが持ち場の点検にはいったところで、船長をわきにひっぱっていって、正直に話した。自分が妙なものを感じたり見たりしていること、ひょっとしたら冷凍睡眠の精神的影響かもしれないこと。船長はながーいあいだなんにもいわずに、わたしの顔を見つめるだけだった。まるで目の焦点がきまらないように。それから、とつぜんみんなに向きなおると、こうたずねた。「諸君の中で、なにか異常な主観的現象に気づいたものはいるか?」
だれもがためていた息をきゅうに吐きだす感じだった。ディンガーがいった。「やっぱりそうか! はい、もちろん!」みんながいっぺんにがやがやしゃべりだすのを聞いてみると、だれもがわたしとおなじような感覚を味わっていたことがわかった。つまり、もともとないはずの手やしっぽがあるような気がしたり、ほかのみんなの姿を奇妙に思ったり……。すると、キャシーがいった。「わたしは“まだらあるもの”! ぶじにむこうへ着いたら、わたしが儀式をおこなうわ!」そういいながら、泣き笑いしている。まったく不気味だった――なにかがわれわれの心にとりついたのか。シャーラはこんなことさえいった。「ひきかえしましょうか? 計画中止?」」
トーランは、奇怪な出来事を物語ろうとして、荒い息をついている。また水を飲む音が聞こえる。
「水もいやな味がする。ふつう、冷凍睡眠のあとでは、いくらでも水が飲みたいもんだが……まあ、それはおいとこう。
それまであまり口をきかなかったアッシュ船長が、あらたまった口調でいいはじめたんだ。「よろしい。すると、だれもがまったくちがう種類の肉体を持ってるような錯覚を経験しているわけだ。こんな現象の噂を一度聞いたことがあるが、いまのところはこれしか思いだせない。ある空間領域を通過したあと、その現象はしだいに薄れていった。この現象は、この空間領域ではふつうのことなのかもしれない。それによってやや手間どりはしたが、べつに任務遂行を妨害されてはいない。そこが重要だ。遅かれ早かれ、だれかがこの宙域を探測しなくてはならない。せっかくここまできたんだ。わたしはこのまま進みたい。しかし、みんなの中には、わたしよりも強く影響されたものがいるようだ。だから、投票できめよう。ディンガニャール中尉?」
そこでディンガーは賛成票を投じ、ほかのふたりもそうしたが、わたしは自分の番がきたとき、条件がある、と答えた。「はっきりとはわかりませんが、キャシー――クー中尉――の身に若干の危険があるような気がします」ここでつけくわえておくと、キャシーは正規の感応者だ。特性表ではわたしも準感応者ということになっているが、あまりたよりにならない。
アッシュ船長はしばらく考えてから、計画中止を要請するほどそれを強く感じるかとわたしにたずねた。ご存じのように、この種の投票は全員一致を要求される。これはわたしがこれまでに直面したいちばんむずかしい決断だった。しかも、キャシーはわたしに不安をいだかせないよう、にこにこ笑いながら、「だめよ、トリー、わたしのためにやめたりしないで」という。わたしは、「棄権」と答えた。これなら中止にはならない。決定はくだった。みんなはまたカプセルの中にもどった。
問題をこれ以上ややこしくしたくなかったので、わたしはこの事件のことを送信していいかとアッシュ船長にたずねなかった。しかし、コース変更と空気漏れのことを報告しなければならないのは、わかりきったことだ。船長は、わたしがあとのこともつけくわえると推測しているだろう。
これでだいたいぜんぶだと思う。あ、もうひとつ――いまキャシーの冷凍睡眠カプセルを見てきたが、一瞬、鼻の上に大きなぶちがある、と断言したくなった。耳にはこんな声が聞こえてきた。「もし、ぶじに着陸したら、プールの儀式をする役は彼女だ」わたしはひどく恐ろしくなった――だが、同時にうれしい気持ちにもなった。彼女にとってはすばらしいことだという気がした。しかし、そんなはずはない。できることならひきかえしたかった……ああ、神々よ、どうかわたしを狂わせないでください……自分では狂っていると思わないが、重症の狂人は自分でそれと気づかないそうだ。しかし、船長の話では……」
トーランはあとの言葉をのみこみ、冷静にあとをつづける。
「いまからチャート部のために、ビーコン・アルファからここまでの星野ホログラムをはずしてきて、これといっしょに発送する。次回の報告は、目標までの中間点でおこなう予定。以上リフト・ランナー1号のトーラン中尉、通信終わり」
司令室ではつかのま沈黙がおりる。やがて司令が咳ばらいして、ポーナとリアルーンに向きなおる。
「これからわたしがなにをいうかは、ふたりとも見当がつくわね。トーラン中尉の報告の信頼性を判断するにたる証拠は、ここにはない。それに、そんな証拠を入手できるまでには何年もかかる。だから、彼または乗員一同が経験したいわゆる主観的現象――ぶち、しっぽ、儀式、小さい腕、違和感、その他――については、いっさい口外しないこと。不用意なひと言が漏れても、リフト・ランナーが帰還するまでに誇張されて、リフトの奥へいくとしっぽが生えてくるという噂になるかもしれない。まだなんともいえないけど、すくなくともわれわれが行き来している距離ではそんなことはないはずよ。じゃ、ポーナ、わたしが発送できるように、いまの要約を作ってちょうだい。ビーコンのこと、青い太陽のこと、空気漏れのこと、など。ただし、控室の音声再生機を使って、カセットから一瞬たりとも目を離さないこと。リアルーンが手つだってくれるわ。リア、しっかりたのみますよ。
さあ、それじゃみんなごくろうさん。心配は、この報告を受け取る人たちにまかせましょう。たぶん、いまごろは万事がグリーンにもどり、乗員たちは一世紀分もの話題をかかえてもどってくるかもね。リア、もうわたしのほうは用がないから」
司令がいつものすてきな微笑をうかべると、ふたりの若い士官はオフィスを出ていく。
司令と副官はしばらく沈思黙考にふける。やがて、彼女がためいきをつき、ぽつりぽつりとしゃべりだす。「フレッド、一時間前までのわたしたちは、この銀河系で孤独といってもよかった。いまは……好むと好まざるとにかかわらず、隣人と出会うことになった。わたしにはわからないわ……アッシュがあのまま突きすすんだのが、果たして賢明だったのかどうか。こちらからメッセージを送ることさえできればね」
「対岸での通信量に関するトーランの報告が気にかかるんですな? むこうにあるのが分散した世界ではなく、連邦と対抗するような連合勢力ではないかという」
「そう……それと、あー、例の主観的現象ね。わたしはトーランに会ったことがあるの。一度だけで、それもごく短時間だったけど、そのときの印象からすると、堅実な性格だわ。もし、全員があの現象を経験したとすれば、思いつける説明はただひとつ――あそこには一種の念力ビームが念力場を投射できるほど精神的に強力な異種族がいることになる。もちろん、この問題は適任の専門家に持ちこむつもりだけど、ある種の精神作用という線からはどうしても逃れられそうもない。率直にいって、すくなからず不気味ね」
「あれがなにを指しているのかわかれば、かなり参考になるんですがね。アッシュが前に一度そんな現象の噂を聞いたといった、あれが。あっちこっちに当たってみましょう」
「ああ、名案ね。それで手がかりがつかめるかもしれない」司令はちらと微笑して、また真顔に返る。
その顔を見ていたフレッドが感想を述べる。「つまり、こういうことですか……もし相手が敵意ある反応を示したらなにが起きるか? それとも、もし相手がこっちまでやってきたら?」
彼女は重々しくうなずく。「フレッド……わたしはいま、われながら恐ろしいことを考えていたの。西の果てに廃棄したあの戦争資材の中で、まだ使用できるものはどれぐらいあるのか? 自分がそんな疑問を持つなんて信じられない」
めったに個人的な同情を見せない副官が、めずらしく彼女の力強い手を優しくさする。戦争の最終段階を生きぬいてきたものにとって、その考えがどれほどいとわしいものであるかを、副官はよく知っている。
「とにかく、まだ時間はあります。セントラルの参加のもとに、この問題を司令会議に非公開議案として提出する手もありますし」
彼女は顔をしかめる。「トーランみたいな気分だわ。彼らがしっぽや小さい腕の話を本気にとってくれると思う?」
「スターハイム司令やキャブリスコ司令のような人たちは、この問題を把握するだけの想像力を持ってますからね」フレッドは彼女を安心させるようにいう。「それに、わたしが内密の情報網を使って、各基地の副官に予備知識を与えておいてもよろしい」にやりと笑う。
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「ありがとう、フレッド」彼女はデスクの上のありもしないゴミをはらいおとしてから、背すじをのばす。「ベテランの副官ならではの心強い鎮静能力ね……いつも思ってるのよ、あなたを副官に持つことができて、とても幸運だったと」
「わたしも、あなたとコンビを組めたこの歳月をたのしんできましたよ」副官はおもおもしく答え、ふたりは帰る準備をはじめる。
何光年ものかなた、はるかなジールタンの首都は、ちょうど早朝だ。通信局長のカナックリーが出勤したところ。夜勤の職員はもういない。ほかの官庁がひらいて、文書の往き来がはじまるまで、しばらくは静かな時間がつづく。昼勤の職員がつぎつぎに持ち場につく。カナックリーは一階に残って、さわやかに晴れた朝を味わう。
窓の外の屋根つき道路は、出勤してくる政府の職員でこみあっている。その大半はジーロだ。ほかに少数の異種族も目につくが、これはおそらく古文書/歴史局の職員か、大使館員だろう。
とつぜんカナックリーは、外務局の友人、ジラノイを見つける。この年下の女性は、いつものようになにかで気分がうきうきしているらしく、かなりのスピードで跳躍してくる。カナックはガラス質の窓をたたく。
意外にも彼女は向きをかえ、まっすぐに入口へやってくる。彼に用があるらしい。カナックリーは大きな二重扉の輪縁を大きく押しひろげる。
「ねえ、カナック、大ニュースよ!」
「きみのはいつも大ニュースだからな。こんどはなに?」
「あら、いけない! ごあいさつを忘れちゃった。どう、お元気? レイロイも変わりない? それからご両親も?」
レイロイは彼の新妻で、まもなく共同親になる予定だ。カナックリーはジラノイにみんなが元気だと告げる。
「それより、大ニュースというのは?」
「それなの! かわいそうなコメノの人びとを救援するために、艦隊が東へ派遣されたのはご存じ? もちろんよね」
「ゆうべ、報告を受け取った」カナックリーはきまじめな口調にもどって答える。「〈調和圏〉の境界付近に、破壊された惑星がひとつ見つかったらしい。ジラ、この紛争は思ったよりも大きくなりそうだ」
彼女もつかのま真顔にもどる。「それでわたしの計画はいっそう有望になったわ、カナック。つまりね、宇宙軍としては戦闘艦艇の燃料と食料を維持するために、補給艦隊を派遣しなきゃならない。総司令部は、その母艦に六つの空席を割り当てたの。そこでわたしがそのひとつに志願したってわけ! きっと採用されるわ。ねえ、カナック、すごいでしょう?」
彼はたじたじとなる。「驚いたね、ジラ――いったいなんのために?」
「ジューマン語の勉強のため! すくなくとも、できるだけ勉強したいわ、あいつらみんなを大霊のもとへ送りかえす前にね。ねえ、名案だと思わない? だれも知らないうちに、わたしがあのエイリアンの言語と文化の専門家になってやるの!」
カナックリーは皮肉な口調でいう。「専門家はいいが、またえらく不愉快な分野を選んだもんだな。それに、やつらはまもなく絶滅するだろう。宇宙軍としても、あの種族をいつまでも大霊から隔離して、のさばらせておくつもりはないだろうから」
「でも、どこかにもっとおおぜいのジューマノールがいるはずよ。つぎにそれと出会ったときは、きっとわたしが必要になる。まだわたしは若いから、それまで気長に待てるしね」
「しかも、その旅のあとで、きみはぼくよりまたいちだんと若くなるわけか。何年ぐらい冬眠するんだ?」
「合わせてほんの七年ぐらい。帰ってくれば、すぐに慣れるわよ」
「きみが心からそうしたいなら止めはしない。しかし、やっぱりどうかしてると思うな」
「わたしにとっては、なにかほんとに特別なものになれるチャンスだわ」ジラノイは大きな目を情熱的に輝かせて、熱心にいう。「ありふれたものじゃなく、たとえささやかでも自分の名を挙げるチャンス! でも、らくな仕事じゃないわよ。わたしは幻想なんか持ってない。失敗するかもしれない。相手はあの恐ろしい生き物だし――それに宇宙軍の規律も……」彼女は目をそらし、彫りの深い頭と、先の反った鼻づらをふるわせる。「それに、あなたに会えなくなるのは淋しいわ、カナック。ううん、正直いって、大半の期間は冬眠してるわけだけど――でも、眠ってないときは、あなたのいないのがすごく心細いと思う。助言を仰ぎたい問題が、きっといっぱい持ちあがるはずだわ。あなたはエイリアンに対してすごい直感を持ってるもの――ほんとはあなたが外務局にはいって、わたしの上司になるべきだったのよ。でも、あなたの下で働いてたら、きっとわたしは困り者だったでしょうね、いつも気ままにとんでもない方角へとびだしていったりして! じゃ、お体に気をつけてね。あとで、お宅に寄ってもいいかしら、レイロイにさよならをいいに」
「もし寄ってくれなかったら、彼女が気をわるくするよ、ジラ」
つぎつぎに職員の顔がそろう。仕事をはじめる時間だ。カナックリーに戸口まで送られる途中で、ジラはいう。「そうだわ! 万事が順調にいけば、わたしが帰るころには、あなたの赤ちゃんが生まれて、学校へ通いはじめるのね。最初のころを見られないなんて、くやしい」
「もし万事が順調にいけばね」
「そうなるわよ! わたしにはわかるの」
ふたりは愛情をこめてしっぽを打ちあわせ、ジラは上腕で彼に投げキスを送ってから、急いで外に出る。
カナックリーのオフィスは三階だ。彼は昇降機をやめて、自分の足を使おうときめる。体調をととのえておかないと。長い階段を登る途中で、育児嚢《いくじのう》がすこしかゆくなってくる。腹のあたりもなんとなく重たい――自分の体内で性動物が育っていることを、それで思いだす。予想以上に発育が速いようだ。やがて生まれてくる性動物が丈夫で健康だというしるしだろうか?
二階を通りすぎたところで、一瞬、静かな恐怖にとらえられる。間近にせまったムルヌーの誕生が、苦痛にみちた恐ろしい試練として、心に大きくうかびあがる。避けることも、遅らせることも、早めることもできない試練。性動物はこの体内でうごめき、こっちの気持ちとはかかわりなく、勝手に成長している。しかし、階上へと跳躍をつづけるうちに、つかのまの恐怖は薄れていく。新しい父親がしばしばそうした気分を味わうことは、保健の授業で教わったとおりだ。
気持ちを切りかえて彼は考える。それより、生まれてくる性動物はどんな姿だろう? どんな体色だろう? 自分のようなぶちか、母親のレイロイのような白か、それとも、よくある金茶色か? 白ならいいのに。白なら自分も興奮するから、最後の生殖行動がすんなり運ぶだろう。しかし、白はいちばんめずらしい色だ。それを願うのは虫がよすぎる。たとえ白でなくても、レイロイさえ白ければ充分じゃないか。
そのあとに、あの神秘的な最終産物、ふたりの未来の子供が生まれてくる。かりにその子がレイロイのように白ければ……。どんなにかわいいことか! もし、性動物が――そのころには性動物でなく、乳母と呼ばれているだろうが――白なら、生まれてくる子も白の確率が高い。まあ、どんな色でもいい。自分のようなぶちでさえなければ。
だが、このすべてはなんと神秘的なことだろう! おそろしく複雑なくせに、おそろしく精密だ。もし最終段階にたどりつけたら、それこそ最高のスリルだぞ!
三階まできて、彼はむかし父からもらった子供用の性の入門書のことを思いだし、ふっと微笑する。まるできのうのことのように、その本が記憶によみがえる――『生殖について知っておきたいこと』
そこには彼の属するジーロ種族の独自性が、こう書かれていた。「生殖のために三人のパートナーを必要とする種族はほかにもありますが、第三のパートナーが最初のペアによって生みだされるのはジーロだけです。このことは、美しいジールタン惑星に住むどの動物にもあてはまります。
第一段階は、男性と女性の特別な体の接触からはじまります。これは、みなさんの親たちが教えてくれるでしょう。ふたりが遺伝物質を交換すると、男性の育児嚢の中で胎児が育ちはじめます。これは一般に“性動物”と呼ばれているムルヌーの胎児です。ムルヌーはジーロ種族の中でとても重要な役目を果たしていますが、ジーロではありません。みなさんはまだ赤ん坊のころにお守りをしてくれたムルヌーのことをおぼえているでしょう。ムルヌーはとても発育が速く、男性の育児嚢の中にある乳頭を離せるようになると、さっそく生まれてきます――生まれたときは、にこ毛の生えた小さく弱々しい生き物ですが、どんどん成長していきます。
約三年でムルヌーは完全なおとなになりますが、ジーロの父母とはあまり似ていません。背が低くて、顔や耳はまんまるく、上腕はあまり発達しないし、尾は短いままです。ここで、もとの男女のペアは、まずムルヌーと、そしてつぎはおたがいどうしで、また特別な体の接触をします。かならず、もとのペアでないといけません。もし、パートナーの片方または両方がちがうと、なにも起こらないか、それとも怪物が生まれてきます」(カナックリーは、むかしこのくだりを読んだときに感じた、あの怖いもの見たさの気分を思いだす)
「この二度目で最後の接触のあいだに、また遺伝情報が交換されて、こんどは母親の育児嚢の中でジーロの胎児が育ちはじめます。この胎児は、父母からの完全な二組の遺伝子のほかに、父母から出てムルヌーを経由した、不完全だけれども重要な第三組の遺伝子を持っているのです。
それから約一ヵ月後に、小さなジーロの赤ん坊は、母親の育児嚢の中にある乳頭を離して、ムルヌーの育児嚢の中に移動します。ムルヌーはいまでは乳母と呼ばれますが、それは母親のよりもずっと濃い、特別な乳が出るからです。幼いジーロはムルヌーの育児嚢の中でふつうの赤ん坊の大きさに育つと、乳頭を離してムルヌーの腕の中まで這いあがってきます。
ムルヌーはこの赤ん坊を昼も夜も優しくあやしつづけ、まもなく赤ん坊はいつも育児嚢の外で過ごすようになります。ムルヌーは、食べることや眠ることを忘れるほど、赤ん坊のためにつくします。まもなく赤ん坊が這うようになると、ムルヌーは歩きかたや、そのほか、自分の知っている簡単なことを教えこみます。しかし、もうこのころにはムルヌーはどんどん老化して、体が弱っています。ジーロの子供が保育園にはいるころには、ムルヌーは隅のほうにしりぞいて、まもなく静かに老衰死をとげます。保育園の一年目がおわるまで乳母にめんどうを見てもらえるのは、よほど運のよい子供だけです。
むかしの未開時代、人びとはムルヌーをまるでロボットか動物のようにつめたく扱いました。ムルヌーが年をとると、残酷にも家から追いだして死なせました。けれども、いまのわたしたちはムルヌーをわが種族の名誉ある一員とみなし、その能力に見あうだけの教育をして、彼らの育児の努力に愛情で報いています。一部のムルヌーは驚くほど利口ですが、言葉はうまくしゃべれません。これはムルヌーの口と喉の構造が、わたしたちとちがっているからです。
これからほかの種族と出会うとき、きっとみなさんはこの奇妙な第二の生命形態に恵まれた幸運に感謝したくなるでしょう。独立して生活できないムルヌーは――もちろん、ムルヌー同士の生殖はできません――幼いわたしたちを愛し、育てるためにだけ生きているのです」
こんな問題で頭がいっぱいのカナックリーは、うわの空で自分のオフィスにはいって、大きなデスクの前にすわる。助手がそのあとについてきて、考えこんでいる上司が顔を上げるのを待つ。
「局長」と助手が声をかける。はっとしてカナックリーは顔をあげ、やましそうな笑みをうかべる。「局長、指示をおねがいします。宇宙軍の交信が急増したので、なんとか処理の方法を考えなければならないんです。見てください」――ローリング・スタンドの上の大きな山を示して――「もうすでにこんなありさまです」
「わかった」カナックリーはやましい思いにかられる。「すべての受信物を使いが運ぶわけにはいかない。わたしの考えはこうだ。あー、ナブラニーン大佐と連絡をとり、こちらに一小隊をおいて、軍関係の受信をその場でえりわけてもらおう。これなら、急を要する通信が遅れるおそれはない」
「責任を追及されるおそれもないわけですね」と助手がしたり顔でいう。「すばらしい」
「すぐに手配するよ」とカナックリーはいう。一日のはじまりは順調だ。
ヒューマンの連邦基地九〇〇でも、順調な毎日がつづく。各部門の仕事はとどこおりなく運び、何ヵ月もの平凡な作業の節目節目に、興味の高まる時期がやってくる。植民地サービス部がお膳立てをととのえ、門出を見送った三つの新しいヒューマン植民地と、宇宙航行種族スウェインの植民地からは、最初の明るい報告が届きはじめたところだ。連邦の政策方針として、人口過剰と環境劣化を防ぐため、補給を維持できるかぎり、次代の子孫のはけ口を新しい惑星に求めることになっている。〈リフト〉周辺部には、有望な星系が数多く発見されつつある。
テラフォーミング部は、四つの新世界の改造を依頼され、しばらくは九〇〇と新候補地のあいだで交信量が急増する。チャート部と航法部が有望なGO型太陽のグループを発見する過程で、星図上のかなりの空白部分が埋められていく。外務局は連邦内部からのひきもきらない訪問客のほかに、近く西部から連邦に加入する予定の水生種族を迎えることになる。彼らを収容する移動式水槽の設計で、技術部は頭が痛い。
兵站補給部は九〇〇の偵察船隊と工作船隊のサービスを受け持っている。補給部は船隊の航行能力を維持し、旧型船を最新装備に改装する。明らかに未知の種族、おそらくは絶滅した種族のものと思われる、一隻の非常に古い遺棄宇宙船が発見されて、注目を集める。小さい研究開発部のオフィスでは、メッセージ・パイプを惑星表面から発送できないものかと、ある着想にとりくんでいる。これは長年の悲願で、もしそれが可能になれば、派遣部隊が宇宙航行中でなくても、連絡がとぎれずにすむわけだ。そのアイデアはがぜん有望になり、研究チームはデータを添えた報告を連邦セントラルに送って、そこの巨大な知的資源に助力を求める。
そして、グリッド・ワールドの新しい両性具有のスーパー・スターを歓迎するため、基地の全職員がしゃかりきになっている――連邦の方針で、辺境基地には最新最高のエンターテインメントが最初に紹介されるのだ。彼/彼女の一座は、いく晩かのショーを演じたあと、基地職員の中に何人かの恋愛病患者を残して去っていく。
いっぽう、長い歳月のあいだに、こうした熱っぽい活動に混じって、暗いニュースもちょろちょろとはいりこんでくる――はるか東の連邦基地三〇〇からの〈暗黒界〉の活動状況に関する報告が、じょじょに数をましているのだ。未知の艦隊またはその足跡を目撃したという報告が幾度か、また、とつぜん植民惑星との通信が途絶し、行ってみると、天災かそれとも未知の惑星破壊ミサイルによって、惑星がこっぱみじんになっているのが発見されたことが二度ある。ヨーン司令の眉間に新しく小さい縦じわが刻まれる。
やがてリフト・ランナー1号から新しいメッセージ・パイプが到着する――黄と黒の縞のパイプであるところからしても、その内容はチャート部にしか関係のないものだ。探測船はビーコン・アルファと目標との中間点にあり、行く手の電磁波通信の中心をめざしてわずかにコース修正をしたところらしい。目標にはいまや仮称がつく。コンピューター分析でわかったのだが、そこからの発信の冒頭にいつも“ジール・タン”という音節がくっつく世界だ。ビーコン・アルファで乗員に発生した幻覚と関係のありそうなメッセージは、どこにも含まれていない。ただ、アッシュ船長のこんな走り書きのメモがあるだけだ――“全員グリーン――S・Q・A”これは|以前の状態のまま《ステータス・クオー・アンテ》の意味。しかし、その“以前”は、出発以前なのか、それともビーコン・アルファ以前なのか? 答はだれにもわからない。
ヨーン司令は、リフト・ランナー1号の第一信が暗示したもの、つまり、未知の発生源からの精神感化力が、まだ心配でならない。副官はあのときの約束を果たす。彼がほかの基地司令のオフィスに根回しをしておいたおかげで、司令会議の席上、彼女がその問題を持ちだしたときも、真剣な反応がはねかえってくる。どこの世界にもいる二、三の超頑固者は別として、みんながその現象には厳重な警戒が必要であること、もしそんな能力を持っているのが敵対種族だとしたら、連邦にとって非常な脅威であることで、意見が一致する。セントラルは、そうした念力の脅威に対応するため、研究方法についての提案を出すようにと、全関係者に依頼する。
この精神感化力に信憑性を与えたのは、連邦基地九〇〇の副官が発掘したある興味ぶかい事実だ。副官があのとき司令とかわしたもうひとつの約束は、アッシュ船長が言及した噂をさぐってみることだった。あれから、|宇宙船乗り《スペーサー》やパイロットのネットワークをつうじて、副官は数多くの照会を送る。その答がもどってくる――赤イモリ効果だ。
以前、はるか南方への探測任務に出発した一隻の船が、星のない空間領域、〈リフト〉の断片のような小宙域を横断したことがある。そこで乗員は幻覚におそわれた。自分たちがトカゲのような形で、真赤な体色をしている、あるいはしているはずだ、と。つまり、地球で赤イモリ、またはイモリの幼生として知られる小動物の巨大版だ。
この効果は、乗員がふつうの星野にもどってくると消失したが、なにか実在するものの現われにちがいなかった。というのは、べつのコースをとってその宙域を横断したべつの船の乗員も、やはりそれにでくわしたからだ。この現象との三度目の遭遇では、綿密なチャートが作成された。しかし、その宙域には、太陽のノヴァ化の残骸である白色矮星がふたつある以外、なにも見つからなかった。
「こうは考えられない?」とヨーン司令はたずねる。「破壊された惑星に、むかし、どこかの種族が住んでいた。彼らは、そうした力場を作りあげ、投射する能力があった――もしかすると、投射されたのは彼ら自身の体型かもしれない。そして、その力場か、または力場の名残りが、あの静かな、星のない宙域に残っている、と?」
「ありうる話だ」とべつの司令が答える。「みんなでセントラルにおうかがいを立ててはどうかな? あそこへ強力な感応者をふたりほど派遣してみたい、と。しかし、異様だな、絶滅した種族が残していった印象を受け取っているとすれば……」
ということで、この問題はそのままになる。
しかし、ヨーン司令は悪夢にうなされる。彼女は感応者ではないが、きわめて先見の明に恵まれているので、忍びよる無形の恐怖から逃れられない。その悪夢はこんなふうだ。美しい緑の惑星のいくつかに、世界をひきさき、すさまじい高熱であらゆる生物を灰にかえるミサイルを備えた、エイリアンの暗黒艦隊が飛来する。そして、その艦隊を攻撃するべつの艦隊、そしてさらにべつの艦隊。やがてそのうちに、どの種族も、めいめいの手、ひれ、ひれ足、翼、かぎ爪で武器をとり、みんながみんなを相手どって戦いをはじめる……。おのれのあずかり知らない発端から起こった猛火、すべての生命が滅びるまでは終わらない猛火の中で死にたえていく、罪のないヒューマンとエイリアンの顔。破壊された惑星や、爆発する太陽の深淵の中で焼け焦げ、分解され、毒におかされ、おしつぶされ、血みどろの断片に変わり、溶岩に焼かれて微塵になっていく。行方不明になり、死に、抹殺され、永久に動かず、沈黙する……。
たいていの場合、司令はこうした悪夢を、はるか東方での破壊に関する謎めいた、不安な報告と結びつける。しかし、彼女にはわかっている。その悪夢の核心は、ジール・タンという名であるかもしれない惑星めざして、こうした邪悪のことをつゆ知らずに前進をつづけている、小さいヒューマンの生命の火花であることが。
それとおなじ歳月を経て、見かけは若々しいジラノイが、侵略者ジューマノールの言語をまなぶために志願した、東方への旅からもどってくる。彼女は夕暮れどきに自分のオフィスに到着し、手がすくのを待って旧友のカナックリーを訪ねる。
「ジラ! きょう着陸したあの戦艦に乗ってるんじゃないかと思っていたんだ。ぶじにもどってきてくれてうれしいよ!」
「それよりカナック、あなたは元気? レイロイも変わりはなくて? 話したいことが山ほど――」銀河系一円で、星を旅する友人たちの再会につきものの現象に、ふたりはとらえられる。あいさつと、質問と、ニュースの断片と、話すことがありすぎて一口にはいいつくせないもどかしさ。カナックリーの子供のこと、ジラノイの仕事のこと、その日の出来事――すべてがごっちゃになり、やがてカナックリーがようやく筋のとおった質問をする。「ジラ、この歳月に見合うだけのジューマン語が、マスターできたかい?」
ジラノイはようやくおちつく。「ええ、その答は、絶対にイエス。でも、苦労したわ、ひどい苦労。からっぽの六角形の金属の檻に隔離された生物相手に、どれだけの対話が記録できると思って? 宇宙軍が捕虜を閉じこめているのはそんな場所なの。なにかの品物を指さして、その名前をたずねることもできない。こっちで品物を持っていかないかぎりはね。ところが、艦隊の規則はすごく厳重――独房へはいるたびに、身体検査をされるわけ。捕虜は奴隷商人たちで、おそろしく不愉快なタイプ。でも、さいわい、彼らの中に、コメノの奴隷からジールタンの単語をかなり聞きおぼえているものがいたの。
そのうちに、捕虜たちがばたばた死にはじめたわ。原因は――これが信じられる?――水の欠乏なの! 彼らには大量の水が必要らしい。もし、わたしが居合わせなかったら、それさえわからずじまいだったはずよ。とにかく、なにがなんだかわからないうちに、わたしの最高の研究対象のひとりも含めて、何人かが死んじゃった。そのあと、どれほどの量の水が――しかも毎日――必要であるかがわかると、戦艦の研究室でも、とてもそんなには作れないと音をあげてしまった。そこで、研究用にひとりだけ選べといわれたの。残りは大霊に加わるように送りだすから、と。
でも、そこをたのみこんで、どうしても録音したいから、二日間だけ捕虜をいっしょに集めて、自由にしゃべらせてほしい、と説きつけたの。とうとうクリムヒーン艦長も折れて、ふたりだけは残していいといってくれた。そこで、充分な水といっしょに、男性と女性と思われる一組を残すことにしたわけ。それからは、言語学習用具を使って、万事がすごく順調になったわ。たとえば、集団でのおしゃべりがすっかり翻訳できたしね。でも、スラングや罵言がとても多くて、協力者がいなけりゃとても翻訳はむりだったと思うわ。
捕獲した船から新しい捕虜が送られてきたときには、わたしもすこしぐらい実際の会話ができるようになってた。わたしたちの学習用具はとても優秀よ、カナック。あれがこうした試練にさらされたのははじめて――まったく未知の、関連性のない言語にね! 提案したい改良点はいくつかあるけど」
「きみはあのときの情熱をすこしもなくしてないんだな、ジラ。さてと、そろそろオフィスを閉める時間だ。それに、うちへきてもらうときの食事の手配をしとかなくちゃね」
「わあ、うれしい!」ジラは階段をピョンピョン下りながら、大きな目につかのま考えぶかげな光をやどらせる。「カナック、あいつらはとても不愉快な生物だわ、あのジューマノールは。中の何人かは、早く大霊のもとへ送りこんでほしい、殺してほしいと思うほどおぞましい。あいつらがかわいそうなコメノの人びととその植民地になにをしたかを見たら、あなたもきっとそんな気になると思う。最大の恥辱を与えてもたりないぐらい……。大霊は復讐心を燃やすなと教えておられるけど、あのような生き物にもそれをあてはめなきゃいけないかと、疑問がわいてきて。ふーっ! まあ、それはともかく、あなたにもよろこんでもらえると思うのは、わたしの仕事が実際に宇宙軍のために役立ったこと。クリムヒーン艦長の部下が捕虜を尋問した結果、むこうの基地のありかがわかったのよ。それに、生命科学の面でとても興味ぶかい事実がひとつ。ジューマノールは、自分らとその近縁の生物が、なんと塩水から発生したと主張してるの。あの体ときたら、まるで袋のように塩水でいっぱい。そのくせ、あいつらは完全な陸生動物なの。ねえ、ふしぎじゃない? それに、ほんとに〈闇の川〉の対岸からやってきたらしいわよ」
「驚いたな」
「それにね、カナック」――子供のように、上腕の下に頭をひっこめて――「わたし、感状をもらったのよ。すごくりっぱなのを。すてきでしょ?」
「ほう。やったじゃないか、かわいいジラ」カナックリーは戸口へむかいながら、しっぽでいたずらっぽく彼女をたたく。「おや! ごらんよ。雨だ!」
「ええ。でかけるときから、空模様がおかしかったわ。雨具を持ってきたのよ」
「まずいな。聖廟《せいびょう》に寄ってから、自分の駅へ帰るつもりだったのに」
「あら、まだ〈幸運の道〉には屋根がないの?」
「そうなんだ。ねえ、どうしても寄っていきたいんだよ。きみの雨具は丈夫かい? それとも、屋根つきの道路で待っててくれる?」
「だいじょうぶ。わたしも聖廟に寄って、そこから自分の駅に帰るわ」
「よかった」
ふたりは尾袋とブーツを着け、フードつきの外套をきっちり閉じる。
屋根つき道路は、もちろんこみあっている。ふたりはその上の露天の近道を通ろうと、もよりの階段にむかう。その近道は、聖廟の前を通るので、〈幸運の道〉と呼ばれている。聖廟は、ジールタンの大教団にとってつごうのよい礼拝の場だ。カナックリーとジラは、ふたりともこの宗教を寛容なやりかたで信奉している。
〈調和圏〉には数多くの宗教があるが、最終戦争の血なまぐさい恐怖のあとで、ある宗教を他より上位においたりしないように考慮がはらわれた。そこでようやく合意が得られ、ある普遍的な概念に最大の敬意をはらうことになった。それがすべてを結びあわせる大霊だ。
カナックリーの心は、ひとつの話題からけっして遠く離れることがない。霧雨の中を用心ぶかく跳躍しながら、彼はジラにうちあける。「子供は白なんだよ」
「まあ、なんて美しい! 気をつけて、カナック、そこの床が濡れてるわよ……。乳母の体色は?」
「うん、性動物としてはふしぎなクリーム色でね、なかなか美しい。耳と足の先は赤だ。きみのような赤。遺伝的にはまったくの珍種だよ。白い子供を願うのはむりだとあきらめていたんだが、そのあとで」――ここでカナックリーは鼻づらのまわりをぽっと染める――「そのあとで、乳母の色がずいぶん薄れてきた。それに子供のほうは最初から白かった。自分の目が信じられなかったよ」
「すてきじゃない」彼女は水たまりを跳びこえる。「あなたがふさぎこんでたのを思いだすわ。きっと自分に似たぶちの子が生まれてくるといいはったわね。わたしには理解できなかった。だって、大霊はぶちのある子をとりわけ好まれると教えられてきたもの。それに、レイロイもそれを望んでるんじゃないかと思って」
「ああ。ぼくのぶちね。実をいうと、ぼくが|宇宙船乗り《スペーサー》にならなかったのは、このぶちのせいなんだ」
「え、どういうこと? それは初耳よ」
「ああ、もし興味があるなら、話してもいい。ただし、どこか乾いた場所でね」
カナックリーの心は、子供時代に舞いもどる。スペーサーになるための訓練を受けたいと申しでたとき、親たちはきっぱりとそれをあきらめさせたのだ。
「考えてもごらん」と彼が名前の一部をもらった母親のカナックロイがいった。「もしかりに遠いどこかへの飛行任務があったとしましょう。おまえはきっと参加する。もしかりにそれが儀式に価するような大成功だったとしてごらん。おまえは乗員の中でもとびぬけて“まだらあるもの”なのよ。きっとそのチャンスにとびつくわ」
「もしかりに、その船が大きなマッグレッグの実になったら、と考えてごらんよ!」若いカナックは軽薄にそういいかえしたものだ。「いいじゃないか、ぼくが大霊のもとへとても名誉ある方法で帰れるのなら! うちには妹もいるんだし――」
「ああ、たしかにそうだ」と父親が割ってはいる。「しかし、たまたまわたしたちは、大霊がいま現在の乾いた姿で生みだされたこの小さい表現をとても愛しているんだ。せがれよ、わたしの気持ちも母さんの気持ちとおなじだ。言語とコードを勉強しろ、おまえはそっちも好きなんだから。宇宙の任務はあきらめなさい。最近では、あれもほかのとおなじように、なんのへんてつもない仕事になったんだよ」
そこでカナックリーは親たちのいうことを聞いた。それ以来めったにそのことを後悔したことはない。現在の〈調和圏〉の平穏な状態では、父親がいったとおり、宇宙はそれほどスリルがない。いっぽう、通信局長としては、スペーサーだったらとても望めないような宇宙とエイリアンの情報を、毎日扱っているのだから。
ふたりは聖廟に近づく。
ジラノイがさけぶ。「ああ、見て! 美しいわ――わたしが留守にしたあいだに、ずいぶん大きくなったみたい!」
一段高い巨大な供物床《くもつどこ》は、まさしく華麗で、もう完成が近い。おおぜいの人びとがここに足を運び、高水準の芸術を作りあげたように見える。
ふたりは雨を避けて廟内にはいり、控え階段で自分たちの色合いを見ようと尾袋をはずす。カナックリーのしっぽの先端には、こころよくやわらかい緑色をした、粉末のような排泄物がくっついている。さて、これをどこに置いたものか? 彼はぜひとも幸運な配置にしたいと思い、巨大な供物のデザインを注意ぶかく調べる。
日の出の側には、だれかが――というよりも、あるグループが――暗赤色の線でひとつの構成部分を作りあげている途中だ。ほかにも、それとの対称を考えた配置がある。それらをじゃましてはいけない。あざやかな青い結晶の山と一本のオレンジ色の線のあいだに、やっと彼は下書きじみたまだらを見つける。あそこだ。
彼はうしろを向き、大きな尾の先端の開口部をそっとデザインの上にさしだして、未完成部分に近づける。ここからがむずかしい。彼が注意ぶかくしぼりだし、軽く吹きだすと、緑灰色の糞の小さな雲が、自分のえらんだ場所にぴたりとおちつく。うまいぞ――美しい。さて、こんどは長い尾をひっこめるときに、手前の図柄の上へ緑の結晶をこぼしたり、空気を吹きだしたりしてはいけない。さいわい、空気中の湿気がすべての供物をあるていど固めて、巨大な敷物をかなり安定させている。彼はぶじに尾をひっこめ、出来ばえを検分する。すてきだ!
いっぽう、ジラノイはうしろのほうではじまりかけた大きな金色の三角に、黄色の粉末をつけたしている。黄色はたいへんめずらしい。たぶん、それは長くつづいた船内食のせいかもしれない。
外に出る前にふたりはちょっと立ちどまり、そこに表現された多様性の中の統一、大霊に捧げられた生命のエッセンスの調和を鑑賞する。中には、この儀式芸術に没頭しすぎる人もいるようだ、とカナックリーは思う。敬虔《けいけん》な信徒になると、何週間も風変わりな食事をつづけて、めったにない色彩、菫色《すみれ》や、朱色や、ときには白色の結晶糞を生みだしたりする。しかし、それはすこし精神を偽るものかもしれない。結局は、自己に正直になることが眼目なのだから。彼は自分のやわらかく輝く灰緑色のまだらが、その隣りの青とオレンジをひときわ映えさせていることにすっかり満足する。誠実、謙虚、そして調和。
ふたりが出ようとしたとき、どこかの乳母が女の子を連れて駆けよってくる。
「しずれー、しずれー」と乳母はもったいぶった口調でいい、襟の中から鑑札のついた首輪をひっぱりだす。カナックリーはそれを手にとって読む――
[#ここから2字下げ]
この子供と乳母の名は、フィッツロイとチャンロです。保護者は基地保全局のアンブルボイ三世とプラジーンの夫妻です。もし、ふたりになにかがあった場合は、TH‐O‐八六またはEM‐&‐一一七にご連絡ください。ご助力を深く感謝します。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]調和の中にて、アンブルボイ三世
乳母のチャンロは、カナックリーがその番号をメモに書きとめるのを、いらいらしながら待っている。彼が首輪をもとにもどすと、チャンロは外を指さして心配そうに、「あめ! あめ! たいへん!」といい、子供の裂けた雨外套を見せる。
女の子は三歳ぐらいだ。興奮した大きな目でジラとカナックリーを見つめ、小さな尾で地面をたたいている。カナックリーが聖廟の通話機とむかいあうあいだに、その子は自分の尾をもちあげてジラノイに見せる。かなり大きく赤いやけどができて、そこにあざやかな緑色をした幼児の糞が結晶しはじめている。どうやら親たちがめったにない雨の確率を見くびって、雨具をよく調べずに外出させたらしい。
ジラはその傷をカナックリーに見せる。カナックリーは通話機でアンブルボイ三世の番号をまわしているところだ。連絡がつくと、先方はくどいほど礼をいう。
「いますぐそこへ行きます。でも、カナックリーさん、それまで待っていてくださることはありませんわ。その乳母はあまりよくしゃべれませんが、とても責任感が強うございますから。そこで待っているようにおっしゃってください――あ、それより、わたしがじかに乳母と話しますから、どうぞおでかけください。ほんとにありがとうございました――」
しかし、通話機の位置が高すぎてチャンロには届かない。結局、ふたりはそこに残って、手をかしてやることになる。カナックリーは送話器をおろし、乳母のやわらかい、ジーロに似た手ににぎらせてやる。老化のためにその手はもう黒ずんでいる。
「アンブロボさん? あめ! あまーぐ、あな」乳母は切迫した口調で訴える。ムルヌーが人びとのしぐさをまねるところは、とてもかわいい。
アンブルボイが乳母に指図しおわるのを待って、ふたりは送話器をもとにもどしてやる。
「あんがと。わたし、これつかえる!」と乳母は誇らしげにカナックリーにいう。「でも、うんとたかい」
「そう。よかったね」ふたりは乳母のやわらかな肩を軽くたたき、小さなフィッツロイに手をふってから、雨の中に出ていく。いまではさっきより降りが激しくなって、ひとつひとつの雨滴が見分けられないほどだ。雨雲の下縁からは、沈みかかった夕陽が、高い官庁の建物のあいだを網の目のように縫う歩道に黄金と青の影を投げかけている。美しい……。美しいジールタン、大霊の園《その》。
ジラノイは、そろそろ彼と別れて、帰宅のために輸送駅にむかわねばならない。名残り惜しい別れのあと、カナックリーは両側の建物に灯がともるのを見ながら、ひとりピョンピョンと道をいそぐ。近くにはジラの勤める外務局がある。その前を通りすぎるとき、巨大な立体ディスプレイに明かりがともる。〈調和圏〉に加入したすべての種族とその星系を色別に示した星図で、中でもジーロの緑色はいちばん数が多い。星ぼしを結びあわせる定期輸送ルートの細い金色の線。その大きくきらびやかな蜂の巣形の輝きが、〈闇の川〉をかたどった南の長く黒い帯の上にどっしりすわっているところは、とても印象的だ。
[#挿絵(img/rift_259.jpg)入る]
ちょっと足をとめてそれをながめたカナックリーは、すでにいちばん東端のコメノの植民地群に、小さな赤い閃光信号がつけたされたのに気づく。ジューマンの侵入を示したものにちがいない。それが不気味にひろがりつつあるように見えるのは、気のせいだろうか。
そのむこう、〈闇の川〉の末端をまわりきった先から、未知の領域がはじまる。ジューマノールはそこからやってきたのにちがいない。ジラの話では、ジューマン基地をさがすために、いま艦隊はその領域へはいる権限を求めているとか。そう、いくら飛び火を足で踏み消しても、火元をひろがるままにまかせておいてはなんにもならない。しかし、カナックリーは心がひるむのを感じる。戦争の可能性が暗示されるだけでもおそろしい。カナックリーの世代は、幼いころにおこなわれた〈偉大な平和〉の儀式をおぼえている。あのときには、戦闘艦隊が空気のないさいはての岩塊へと無人のままで送りだされ、そこで永久の眠りにつくことになった。それがいまふたたび飛び立つとしたら、なんとおそろしいことだろう。しかし、ほかにどんな選択の道がある? 容赦ない富の獲得のために、植民地をひとつずつひそかに滅ぼしていく悪逆非道なジューマンの侵略者ども――やつらをどうしても食いとめなければ。
しかし、そのむこうにはなにがあるのだろう? ひょっとすると、やつらはただの先導者で、その背後には野蛮なエイリアンの一大帝国が報復力を秘めて待ちかまえているのでは?
暗い考えをはらいのけるように首をふって、カナックリーは自分の駅へ急ぐ。宇宙軍の感状をもらうなんて、かわいいジラノイはたいへんな活躍をしたらしい。きっとクリムヒーン艦長からの感状だろう。クリムヒーンは、いま宇宙港にもどってきた大戦艦の艦長であるだけでなく、全艦隊の副司令官も兼ねている。彼がもどってきたのは、増援要請のためと、議会で熱弁をふるって、未知領域への作戦拡大を承認させるためだ。艦長はかわいいジラとあの言語研究に大きな関心を寄せているのだろう。
カナックリーが輸送駅の屋根の下にとびこむと、彼の居住区行きのモノレール車がちょうどはいってくるところだ。よかった。それに、かわいいジラのためにもよかった。東方でのおそろしい戦争も、すくなくとも友人のためにはなってくれたわけだ。ジラの計画に対する自分の考えはまちがっていた。いまになってみると、彼女の専門分野の選択は実に賢明だった。
カナックリーの背後、聖廟のむこうに、通信局の夜間照明がこうこうとともっている。夜勤職員が、朝の交代に備えて、カナックリーのデスクの上に定期通信のひとつをおくところだ。〈闇の川〉のほとり、南方のジーロ世界から届いたばかりのそのメッセージは、こんな情報を伝えている。一隻の未確認船が探知されたが、その船はこちらの信号に応答を拒んでいる。応答能力がないのかもしれない。その船は明らかに〈闇の川〉からきたものと思われる……。
いっぽう、連邦基地九〇〇のカレンダーはさらに日々を刻みつづけ、その期間に見合ったさまざまな胸おどる出来事をもたらす。しかし、そのすべては、いまや極東宙域でますます不気味さをましてきた紛争の報告におおいつくされている。三〇〇の偵察船のセンサーがたえず報告してくるのは、探知範囲のかなたにある捕捉しにくいなにかの存在――高速で目的をもって移動するもの、漂流岩塊やその他の自然現象ではけっしてありえないものの存在だ。さらに三つの植民地が沈黙し、駆けつけてみるとどの世界もあとかたもなく破壊されているのがわかる。超遠距離での電磁波交信が探知される。連邦に敵意を持つ生物の活動がますます接近しつつあるという可能性が、しだいに濃くなってくる。
これらの凶報がセントラルに届くと、反応がよびさまされる。九〇〇は、長らく南方の死んだ惑星上で見捨てられていたY級戦艦を回収するため、遠征隊が派遣されたことを知らされる。連邦基地三〇〇は、偵察船のうち四隻を急いで武装化したほか、六隻の新鋭船がセントラルで建造中だ。
これらの活動の前には、セントラル研究所での技術革新の胸おどる噂も影が薄い。関係者たちは、この新技術が新しい最終戦争での軍事利用に間にあうのではと、複雑な気持ちにかられる――ただし、未知の敵がその技術を持っていなければだが。
連邦基地九〇〇では、年老いた副官が引退する。後任は、三世代前に九〇〇で副官を務めていた男のクローンだ。特に実績のあった副官のクローン化は恒例になっている。彼らの成功の理由は、なによりもその気質にあるし、副官の仕事は基地の平衡状態をたもつ上できわめて重要だからだ。彼のニックネームもやはりフレッド。これはすべての副官に対するくだけた呼び名だ――連邦統制司令代理(Federation Regulatory Executive Deputy)の略である。
ヨーン司令は、悪夢にうなされてはいても、まだ引退を考える年ではない。彼女がまだその地位にあるうちに、リフト・ランナー1号から送られた第三のメッセージ・パイプが到着シュートからころがりでる。
下の階では、あのポーナがいまでは通信部長をつとめている。いまも少女のように興奮しやすい心臓を高鳴らせて、彼女は傷だらけのパイプをひらき、カセットを音声再生機にかける。
ふたたびトーラン航法士の声。その声は驚くほど若々しい――長い歳月のあいだ、冷凍睡眠にはいっていたからだ。「リフト・ランナー1号より連邦基地九〇〇へ。第三信。現在本船は〈リフト〉北縁部にあり、ジール・タンと仮称した惑星に接近中。むこうの電磁波交信はきわめて活発で――」
早く司令に知らせなければ。すぐに電話で予約をとりつけると、ポーナは体育用の階段を小走りに駆けあがる。定期通信の処理は助手にまかせてある。トーランの声の調子を、ポーナは考えてみる。前よりおちついてはいるが、なにか気がかりなことがあるらしい、と判断する。
何十年か前の場面が、ふたたび司令のオフィスでよみがえる。今回は、もう白髪まじりになったリアルーンが、最初から招きいれられる。司令は新任の副官にいう。
「フレッド、おぼえているわね、あなたが着任したときの状況説明で、リフト・ランナー1号について話したことは。ビーコン・アルファからの第一信では、乗員が自分たちの体型はどうもおかしい、または変化するべきだ、という気分、それとも幻覚に悩まされていた。補足すれば、体が小さく、背が低すぎる上に、もう一対の小さい手と腕がなく、また、体を支えたり、跳躍したりできるほど強力な太い尾がないということ。このときは、トーランひとりの報告だった。ほかの乗員もそれと似た悩みを持っているという話だったけど、果たしてそれが事実なのか、それともトーランだけが幻覚をいだいているのか、こちらとしては確認の方法がなかった。しかし、体型はちがうけれども、これに似た現象が、南方のやはり星のない宙域で起こっていることを、あとでわたしたちは聞きだした。
リフト・ランナーの第二信は、アッシュ船長の“以前の状態のまま”という報告を除くと、技術的なものに限られていた。そして、いま第三信がきた。ポーナの話では、すでに〈リフト〉北縁部の星野にたどりついて、コンピューターが選んだ目標、電磁波通信活動の中心に近づいている。グリーン? よろしい、でははじめましょう」
トーランの声が聞こえる。非常におちついた、かたくるしい口調だ。
「この白色恒星の第四惑星が、送受信を含めた通信活動の中心と確認できた。“ジール・タン”という音節が、通信の冒頭にはっきり聞きとれる。また、この惑星とふたつの大きな月のあいだにも大量の交信があり、ヒューマン世界とおなじように、産業の一部が惑星外に移されたことを暗示している。
このあたりの空間は高密度だ。ジールタンと交信を行なっている星系を、すくなくとも十五認めた。宇宙船相互間の交信も当然ありうると思うが、本船はまだ信頼性を有する探知範囲にはいっていない」
「すごくかたくるしいと思いません?」ポーナがささやく。「彼、前回の埋め合わせをしてるんでしょうか」
「かわいそうに」と司令はいう。「正気を疑われていると思ってるのかもね」
「――ひとつ、きわめて意味深長な現象がある」とトーランは語りつづける。「規則的な間隔をおいて一日一回――この惑星の公転周期は、ほぼ二十三標準時間だ――すべての交信がきゅうにとだえ、ジール・タンがひとつの強力な通信を発生する。この通信はただちに中継されて、外部の各星系へ再放送される。これまで数えただけでも、中継所は五つもある。おそらくこれは政府によるニュース放送だろう。このことは、本船のセンサー探知範囲外にまでひろがった、巨大な惑星連合組織であることを暗示している。
それ以上に重要なのは、中継と再放送の速度だ。よりくわしい計測ができるまでの暫定的結論だが、どうやら彼らは超光速通信の手段を持っているらしい」
「ヒューッ!」と副官が口笛を吹く。司令は表情だけをひきしめる。
「惑星に接近するあいだ、しばらく報告を中断する。本船は、周回軌道範囲内まで接近した上、標準ファースト・コンタクト信号を発信する計画だ。もし、敵対反応がなければ、らせん降下して、適当な場所に着陸する。以上トーラン航法士――」
背景でべつの声が聞こえ、それを受けてトーランがいう。「ああ。えー、残念だがやはりいっておこう。以前の幻覚だか、なんだか――あれはまだ残っている。まるで自分の体の上から架空の体の殻をかぶっているような感じだ。しかし、それらの症候を無視することに慣れてきた。アッシュ船長がいうように、それは任務遂行の支障にはならない。キャシーは――エカテリーナ・クー中尉は――居住宙域にはいってから、症候がしだいに弱まってきたというか、耐えやすくなったように思う、といっている」いまでは、彼の声もすっかりくだけた感じだ。「あそこにはだれかが住んでいるという感じが強くする。ジール・タンの住民の姿は、われわれが感じるものと似ているにちがいない、という気がする――保証のかぎりではないが。
では、もっと接近するまで報告を中断する。この機動操作で往路の割当て燃料が底をつくが、ここは本船が到達できる最高の目標だ。もし、なにかの理由でもっと燃料が必要になれば、ビーコン・アルファにひきかえし、そこで補給を待てばいい……。以上トーラン航法士、通信おわり」
再生機からカチッ、カチッと音がする。とつぜん、もっと低音の声がしゃべりはじめる。
「こちらは指揮官のアッシュ船長。接近をつづけるあいだに、トーラン航法士が前に報告した例の主観的現象の確認をしておいたほうがよいと思う。架空の体の殻をかぶった感じだという彼の表現は、実に適切だ。わたしの場合、自分に、えー、筋肉質の、あー、しっぽがあり、しかもそのしっぽが体を支えるだけでなく、押しすすめることもできるほど強力だという幻覚が強いため、船内の微弱なGの中でもときどき足をつまずかせることがある。本来のヒューマンの体に、まるでどこか故障がある、それともなにか欠けた部分があるような気がするんだ。さて、ここで全乗員の奮闘ぶりを賞賛しておきたい。とくにトーラン中尉は、単身でこんな症候にでくわしたにもかかわらず、深刻な混乱とストレスをもたらす危機に立ちむかい、着実に忍耐づよく義務を遂行してくれた。以上アッシュ」
女性の声がそれに代わる。
「こちらシャーラ中尉、言語学および兵站担当。トリーがいったことはぜんぶ本当です。わたしにもみんなの姿がへんてこに見えます。腕が二本たりないし、顔がちがうし、目がひとつよぶんだし、しっぽがない――不気味です。それに、自分の架空の手でなにかを持ちあげようとすると、きっと――いいえ、やめときます。ほかのみんなもおんなじめにあってます。以上シャーラでした。あ、そうだ、アッシュおやじは最高です」
べつの女性が交代する。
「クー中尉、副操縦士、感応者。そう、そのとおりです。わたしはほかのみんなより強くそれを感じたらしくて。一時は体が動かないほどでした。なにもかも妙な感じで。でも、いまはずいぶん正常にもどって、動きがぎごちないだけです。ただし、まだ声は聞こえるし、ときどきなにをいってるかもわかります。たとえば、大霊のことで」彼女の声がひとりでに奇妙な崇敬《すうけい》か畏怖《いふ》の調子をおびる。「ほかの人たちも、やっぱり幻聴があるといってます。ささやきやつぶやきみたいな声で、自分には理解できるはずだという感じがするそうです。ここの生物の性質がひとりでにこっちへ伝わってくるというのが、わたしなりの強い確信です……。以上キャシー・クー」
最後のひとりは、エンジニアと準医師を兼ねたディンガニャール中尉だ。
「そう、あれはすべて事実だ。わたしも惑星の重力場にはいったら、やたらにころびそうな気がする。このタイプの体の持ち主は、ふだんピョンピョン跳んでいるのではないかと思う。それとも、しっぽを使った三足歩行かもしれない。ひょっとすると、われわれ本来の腕に相当する下腕も、体を支えるのに使われているのかもしれない。それと、だれかがいうべきだったが、水を必要な量だけ飲むのに骨が折れる。腐食性で、飲むと危険な気がするんだ。この生物が何者であるにしろ、ドライなタイプらしい……。それだけだ。まもなくこの現象も薄れてくれるものと切に願っている。船長も、ほかのみんなもすばらしい。以上ディンガー」
音声再生機がカチッと音を立てる。
司令が満足げにうなずき、息を吐きだすと、ふわふわした灰色の髪が揺れる。
「いまのでトーランの報告が確認された」と副官がいう。
「ええ……でも、正直な話、どちらかといえば、航法士の発狂のほうがありがたかったわ。これが暗示するものよりはね。それに、超光速通信」
再生機がまたしゃべりだす。トーランだ。
「七十五標準時間後。接近完了。減速して着陸軌道にらせん降下中。惑星からはいかなる種類の反応も認められない。一、二日前、外惑星を通過したときには、呼びかけの信号らしいものを受信した。いまからこの惑星で最もよく使われている周波帯に重点をおいて、標準ファースト・コンタクト用の呼びかけ放送を開始する。この宙域での全通信をコンピューター解析してみたが、映像信号はまだ認められない。もしかすると、そのテクノロジーがないのかもしれない。しかし、超光速通信の存在はますます確実に思えてきた。
おっと。こいつはどうやら応答信号だ。発信の冒頭に、かなりうまく模倣した“リフト・ランナー1号”のフレーズがある。しかし、それ以上はなにもわからない……。むこうはいろいろな言語をためしているようだ。しかし、うっすらなじみのあるものさえ、見あたらない。ただ、音声そのものはヒューマンのそれにより似ている……それに、こっちがそれを理解できるはずだという、例の奇妙な感覚がある。
宇宙港がふたつ見える。大きいほうは最大の都市の近く、または内部にある。そこへ着陸する予定。この惑星には、海や川がどこにも見あたらない。一方の極になにかの氷の一種と思われる粉塵があるだけだ。もし、都市を見たり、通信を聞いたりしなかったら、生物の住みそうもない場所といいたいところだ。
いまスコープで見えたが、宇宙港に戦艦が一隻はいっている。その戦艦に、ミサイル発射管らしいものが認められる。そのほか、武装偵察艇と思われる小船舶も……。宇宙港にはほかにも大型船舶が数隻停泊、いたるところに活動が見られる。待ってくれ――例のニュース放送らしいものがはじまった!」
トーランは間をおく。
「要約すると、こういうことになりそうだ。本船が接近しているのは、大きな文明、おそらくは非常に巨大な文明で、緊密な組織を持ち、しかも武装している。おそらくどこかで戦争をしているのだろう。おそらく超光速通信、もしかすると超光速推進を持ち、しかも接近する相手を特殊な精神効果で混乱させる。ヒューッ……。妙だな、なんだか冗談をいっちゃいけないような気分だ。なんといえばいいのか、敬虔な感情がわいてきた。たぶん、わたしのあてにならない感応力のせいか――いや、キャシーもそれを感じると手まねしている」
いったん言葉を切ってから、トーランは奇妙なゆっくりしたアクセントでいう。「大霊の……大霊の……園……。えー――」
「以上」とアッシュ船長の声が横から鋭く割りこむ。
「はい……了解」とトーランがいう。「では……これを発送します」
再生機がカチッと音を立てる。
「これでぜんぶだと思います」とポーナがいう。「あとで念のために最後まで再生してみますが、いまのはカセット・コントロールが自動的に切れた音です。パイプには、ほかに星野ホロが何枚かはいっていました。チャート部に届けておきます」
沈黙がおりる。
「巨大組織で、武装していて、技術的にも進歩した種族」と司令が重い口調でいう。「しかも、こちらはまったく彼らとコミュニケーションができない。この接触が友好的に進むこと、敵意をかきたてたり、悪印象を残したりしないことが絶対に必要だわ。ところが、こちらからとびこんでいったのは、そんな訓練も指示も受けていない五人のスペーサー。ああ、神々よ――この飛行任務を立案したのがだれであれ、なんと近視眼的だったことか!
もし、コミュニケーションさえできれば――いいえ、すでにできていれば、これはみんな過去のことになっているはずだわ。起こるべきことはすでに起こっているはず……。われわれはすぐ防衛に着手すべきなのか? くそ、じれったいわね、いまこの瞬間にいったいなにが起こってるんだろう?」
ポーナとリアルーンは、ふしぎそうに、いくらか怖じ気づいて司令を見つめる。この司令が冷静さを失ったのを見るのは、どちらもはじめてだ。おそろしい危険、本当に重大な局面がせまっているのが、実感としてひしひしと伝わってくる。
そのあいだに、副官が司令にぼそぼそと話しかける。司令はしばらくの努力のすえ、目に見えておちつきをとりもどし、微笑をまじえながらふたりをちらと見やる。
「もういいわ、お嬢さんがた。わたしは心配性のお婆さん。忘れないで――わたしは心配することで給料をもらってるの。あなたたちはちがう。とにかく、こちらは待つしかない。前向きにね。
ポーナ、この報告のコピーを作ってくれない? ただし、体幻覚の部分はぜんぶはぶくこと。それをきょうの夕食の前に、大ラウンジの掲示板に発表するから。それからリアルーン、わたしたちはさっきのアムラビとの交信にもどりましょう、グリーン? フレッドとちょっと打ち合わせをすましたら、すぐにそっちへ行くから」
一同に笑顔がもどる。
ふたりの女性は部屋を出ていきしなに、司令がこうしゃべっているのを聞く。「フレッド、セントラルとほかの基地司令へ緊急送信するために、この報告の要約を暗号文にしてくれない? それから副官仲間の口コミもぜひ忘れずに」
「ジールタンより全〈調和圏〉と二〇ウランタンにごあいさつします。きょうのリポーターはファヴォニーンです。大霊の園より、みなさんに幸運な朝を! 時刻はちょうど〇七〇〇時、きょうはすばらしい快晴です。
きょう最初のニュースは、きのうの速報のつづきです。東部艦隊のクリムヒーン艦長は、着陸後ただちに議会と懇談にはいり、東部コメノ領域における最近の情勢について論議をかわしました。ジューマン襲撃者による残虐行為は、思ったよりもはるかに広範囲におよんでいるようすです。クリムヒーン艦長は、戦艦ガーディアン号で急いでジールタンにひきかえし、ジューマノールがコメノ植民世界を屈服させるために用いた野蛮な方法の詳細を、写真とともに持ち帰りました。この写真は、最新のデジタル技術によって、この放送のあと、各地の新聞社に送られ、そこで印刷されます。この破壊と、コメノの被害者の悲惨な状態を見て、怒りをおぼえない人はいないでしょう。まず子供たちを人質にとり、その人質を段階的に虐待するところをコメノールに見せつけて、重要な農業を放棄させ、宝石を掘らせるようにしむけるというのが、襲撃者どもの常套手段です。もうひとつの残酷な方法は、囚人にきゅうくつな首輪をはめ、もし襲撃者どもの思いどおりに働かないと、電波信号で首輪を収縮させ、不運な囚人を窒息死させるというものです。しかも、作物を放棄すれば、いずれは囚人が餓死することはわかりきっています。こうした方法で、彼らは囚人に体力の限界を超えた労働を強制し、文字どおり使いつぶしてしまうのです。しかも卑劣なジューマノールは、けっして危険をおかしません。宝石の鉱脈が掘りつくされたとき、彼らは生存者全員を殺し、通信機器をすべて破壊しました。このために、この非道な暴挙の知らせは、長いあいだほかの〈調和圏〉に伝わらなかったのです。
しかし、占領された植民世界に対するわが艦隊の最近の作戦は、成功をおさめました。船を持たなかった十人あまりの襲撃者が捕まり――ジューマノールは船舶不足のようです――そして、囚人たちはぶじに救出されました。また、脱出したコメノールの集団がふたつ発見され、瀕死の状態で救助されました。彼らが必要としているものはたくさんあります。難民救済に協力したい方のために、コメノール救済募金が各地の外務局に設置されます。もちろん、ジーロ政府も全力をつくす考えです。しかし、コメノ植民地の救済と再建には、多大の努力と費用がかかるでしょう。
ジューマノールの捕虜から得られた情報のひとつは、ジューマン基地の正確な位置です。ジューマノールの大密集星域は、明らかに〈闇の川〉の東部と南部、未知の宇宙空間にあります。現在、クリムヒーン艦長は、この怪物どもの本拠を一掃するため、この情報に基づいて進撃作戦を開始する許可を求めています。もちろん、このニュース放送では、未決定の問題についてどちらかを支持することが禁じられていますが、わたし個人の希望として、艦長の勇敢な努力が実を結ぶのを願うことは、許されるのではないかと思います。大霊は復讐を求めるなと命じておられますが、われわれの家庭を破壊的な野獣から守ることは禁じておられないはずですし、わたしはジューマノールを野獣とみなしているからです。全ジールタンを代表して、わたしは〈調和圏〉のコメノのみなさんに心からの同情を寄せるものであります。
ああ――また聞きですが、ここで行政上層部に関する興味ぶかい情報があります。どうやらわれらが幼い執政官はこれらの事件を深く憂慮され、自分も艦隊に参加して一役果たしたいとおっしゃったとか! 約束された地位によって、危険のない仕事に閉じこめられているこの勇敢な少年の気持ちは、よくわかります。
速報! いま宇宙港から報告がはいりました。未確認の軽偵察艇タイプの非ジーロ船が、ジールタンに着陸しようと軌道飛行中。この船は、こちらの呼びかけに対して応答できないようすです。というより、彼らは未知の言語で応答しています。もし、わが同盟種族の中で、これに似た行方不明の船、おそらくは道に迷った個人所有の船がありましたら、どうかもよりの通話機で、行政府の惑星間連絡番号GO‐一‐一一一九に報告してください。くりかえします、番号はGO‐一‐一一一九です。
それでは、昨夜マンホーのエレジーアでおこなわれました全〈調和圏〉テールボール試合の結果と、ペルルータンの……」
リフト・ランナー1号からの第三信が連邦基地九〇〇に到着してわずか五日後に、第四信がシュートをくだってポーナの手にはいる。数分後には、彼女は司令のオフィスに駆けつける。いつものメンバーがそこに顔をそろえている。
「リフト・ランナー1号より連邦基地九〇〇へ」とトーランの声。「この報告はジール・タンに着陸するために接近中からはじまったが、もう一度宇宙空間へもどるまで発送できなかった。
いまわれわれは、あー、見かたによっては、その、奇妙に思われそうなことをやりおわったところだ。それについて話すのは、それをする以上に奇妙な気がする。とにかく、降下の最中に、キャシーが――クー中尉が――非常な混乱状態におちいったんだ。なにかをいいたそうにして、しきりにわれわれの顔を見てから、一種のトランス状態にはいった。そう、感応者によくあるあれだ。とうとうアッシュ船長が、なにか問題があるのか、と彼女にたずねた。
「なにもかも!」と彼女はさけぶようにいった。「というより、わたしたちに! すべてがちがうのよ。聞いてちょうだい、もしここでみんなに警告しなかったら、わたしは一生自分を許せないわ。なんといってもそれが自分の仕事。だから、探測に同行して、むこうの気配をさぐるわけでしょう? わたしに感じられる気配は、こういうこと。もし、いまの姿のままで着陸したら、おそろしい危険に見舞われる。殺されるかもしれない。わたしたちへの――わたしたち本来の姿への――憎悪がすごく濃密なのに、ほかのだれも感じないのがふしぎなぐらい。そこらじゅうから、憎悪が押しよせてくる! あなたはなんにも感じない、トリー?」と彼女はわたしにきいた。
実はわたしもそれに似たものをずっと感じてはいたが、ただ、自分の感応があてにならないのを知っているからね。そのことをいうと、彼女はひどく安心したようにためいきをついた。「やっぱりね。アッシュ船長、わたしは全員が外観を変えるべきだと正式に要請します……その方法も考えてあります」そういって、テントの包みを指さした。わかるだろう、例の細長くて薄い、先のとがった円筒形のケースだ。
「まず地上服を出して、それにこのテントの支柱ケースを縫いつけるんです。なんなら、詰め物をしたあと、心棒を腰にくっつけて、中にさしこんでもいいわね。これは柔軟だから。胸のあたりにも詰め物をして、服の中で腕組みしてるように見せる。それから、目もなんとかしなくちゃ。メーキャップ。そう、べつにジーロそっくりに見えなくてもいいのよ――あら、どこでこんな言葉を拾ったんだろう? そうか、ジール・タンからきた言葉――でも、つまり、ジーロイドに見せたいわけ。ちょうど、むかしのテラのまわりの種族がヒューマノイドであったように。わかる?」
「はあ?」とディンガーが聞きかえした。アッシュ船長はじっとキャシーを見つめているだけだ。
「くっつけるって――どこに? なんのために?」とディンガーがたずねると、シャーラがいった。
「きまってるじゃない。しっぽに見せかけるためよ。いま感じているとおりに」
まあ、こんな調子で議論は堂々めぐりしたが、最後に船長が断をくだした。キャシーはそのために同行したんだから、彼女のいうことを聞くべきだ、と。わたしの裏づけもあるていど効果があったんだろう――率直にいって、これは非常な名案だと思った。下界にいるのが何者であっても、いまの姿で出会いたくはなかった。しかも、冷凍睡眠から目覚めてからというもの、毎日毎日、存在もしないしっぽを動かしたり、よけたりしているし、よぶんの腕がないことをつい忘れるぐらいだったから。
そこでわれわれは彼女の指示どおりに降下中の時間を使うことにして、万事はうまく運んだ。くっつけたものは本物のしっぽのように見えた。もちろん、物をつかむ力も、支える力もないが、まるで生きているように柔らかくつきだしている。シャーラがこらえきれなくなって笑いだすと、みんなも笑いころげた。だが、実をいうと、とても自然な感じだった。キャシーは、自分の顔の二、三ヵ所に、まだらを描きいれた。そこにあるべきだと、わたしが思った場所に。
では、着陸するまで報告を中断し、あとは日誌をつけておいて、つぎに離陸してから発送しようと思う。大気圏内から宇宙空間へ発送できるパイプ、あれがいつもの予告じゃなく、早く実際に開発されればいいのに! ここで新しく報告するものはなにもない。宇宙港に停泊しているのが戦艦であることが確認されただけだ。スコープで、装甲とミサイル発射管が発見された。小さい発射管はからっぽだが、惑星破壊兵器と思われる八基の大型ミサイルを搭載している。そうそう、観察をつづけているあいだ、天候は完全に安定していた。よく晴れて乾燥しており、雨はまったく降らない。以上トーラン」
再生機がカチッと鳴る。
ポーナはいまのしっぽのアイデアがおかしくて、なかば笑顔で司令をふりかえるが、年上の女性の表情を見て真顔にもどる。司令はかすかに首をうなずかせている。心からあいづちを打っているかのようだ。
「もしなにか手ちがいが起きても、むこうがあの船を連邦と結びつけずにすむ可能性がこれでできましたな」と副官が小声でいう。司令はこっくりとうなずく。
トーランの声がもどってくる。
「さて、われわれはジール・タンに着陸した。八時二十四分十五秒、テラ時間で一一〇〇時、ここでは早朝だ。
降下中に、ここにある船舶をじっくり観察した。推進装置は明らかにわれわれのとはちがうし、燃料タンクも巨大だ。おそらく燃料効率が低いのだろう。例の戦艦には、牽引ビームのヘッドらしいものがある。
さて、われわれはごく冷淡に迎えられた。まったくの無関心。きっとここの連中は未確認エイリアン船を受けいれるのに慣れているんだ。大気標本をテストしたところ、非常に乾燥してはいるがグリーンとわかったので、舷門をあけ、タラップを半分おろした。全員が、例の修正をほどこした作業服を着ている。ディンガーがしっぽを実にうまく仕上げてくれた。
シャーラとわたしは、規定どおりファースト・コンタクト用資料をえらんだ。トーキー・ブックの初級セットを三組と、上級セットを三組。言語コミュニケーションはまったく期待できない気がする。トーキー・ブックは役に立つかもしれない。小さい手持ちのビデオ・カセットで、ボタンを押すたびに、こっちのしゃべった単語が動く映像になってスクリーンに示される。初級セットをおぼえこめば、代名詞も、前置詞も、時制も、なんのお飾りもないピジン銀河共通語をマスターできるわけだ。問題は、それを使うために、こっちもそれをおぼえなければならないこと。われわれはいまそれを勉強中だ。
シャーラとわたしは、リフトの連邦側から魚眼レンズで撮った星野の連続写真と、スコープによるジール・タンの接写をカメラからとりはずした。アッシュ船長は、ここの連合組織の明らかな規模と未知の性質を考えて、連邦基地九〇〇の所在をはっきり示しているホロはとりのぞくべきだといった。そこで、連邦側から見て〈リフト〉周縁部に近い、無難なものからはじめることにした」
これを聞いて、司令は安心したように息をつく。
「いまのところ、われわれが見たのは宇宙港の職員だけだ。彼らは停泊位置を指示すると、こちらが舷門をあける前に立ち去ってしまった。指示された場所は、あまり使われていないのか、大きな地衣類のようなものにおおわれていた。彼らの体形は、こちらから見えたかぎりでだが、予想どおりだった――われわれより背が高く、大柄で、一対のよぶんな上腕があり、目はひとつしかなくて大きく、先のとがった長く太い尾で体を支えている。皮膚には、ちょうどビロードのように、ごく短いにこ毛が生えている。その毛は、たいてい茶色っぽい金色だ。できるだけたくさん、ホロを撮影しておいた。
おや――宇宙港の係官かなにかが、公用車らしいものでやってくる。車はわれわれのよりもっと丸みがあって、頭上スペースが大きくとってある。車体の横には、大きな花輪を連結した紋章がある。中にはひとりしか乗っていない。いま車から出てきた。アッシュ船長は、うしろから掩護《えんご》されて、タラップの上であいさつする予定だ」
カチッという音といっしょに声がとだえ――そしてまたはじまる。
「いやあ、いまのは見ものだった! われわれはタラップを下までのばし、打ち合わせどおりに整列した。すると係官はピョンピョン跳びながら船長に近づき、おまえたちなんかめずらしくもない、とでもいいたそうに、われわれをぞんざいに見まわした。アッシュ船長は敬礼し、銀河共通語でごく短いあいさつをしたが、係官はひとことも理解できないようすだった。船長のあいさつがおわると、相手はちんぷんかんぷんの言葉をならべたが、たぶん「よろしく」という意味なんだろう。
それから係官はまっすぐ船長のほうに跳躍した。むこうは船長が一歩さがり、われわれが道をあけて、船内へ通すものと期待していたようだった。しかし船長は、このだんなを船内へ入れたくなかったので、小声で“密集しろ”と命令し、われわれにうしろを固めさせておいて、彼の前に立ちはだかった。エイリアンは口の中でなにかつぶやき、服からバッジらしいものをとりだして、中へはいる権利があるというようにそれをつきつけた。しかし、船長はわれわれをしたがえて一歩も動かないし、ディンガーは内扉を閉めきった。
エイリアンは、苛立ったようにぶつぶつなにかをいった。船長が標準手続きを守らないという小言だろう。しかし、船長は、大きな金色の連邦パイロット身分証をとりだし、それをかざしていった。「はいる・だめ、三本足さん」
事態がややこしくなりかけたとき、べつの車がやってきた。この車にもやはりおなじ花輪の紋章がついていたが、こっちのほうが大きく、運転手もいる。その車の中から、長い青色のローブを着たエイリアンがふたりと、あざやかなオレンジ色の制服らしいものを着たもうひとりが現われた。
宇宙港の係官は彼らになにか苦情をいいはじめたが、船長はそれをさえぎって、また短い公式のあいさつをした。今回も相手はちんぷんかんぷんのようすだ。そこで船長は、例の資料を相手に見せろと、シャーラとわたしに命じた。わたしたちはそうした。まずわたしがホロを見せ、それが連続的に撮影されてジール・タンで終わっているところを説明してみた。つぎにシャーラがトーキー・ブックを見せると、むこうはすっかり夢中になった――やはりビデオ技術が存在しないらしい――しかし彼らはでたらめにボタンを押すだけで、まったく学習意欲がない。とうとう船長が、そのセットをさしあげよう、と手まねで教えた。
すると、制服の上役とローブ姿のふたりが――僧侶かな?――その品物をだれがもらうかについて口論をはじめた。船長は、しかたなくもうひと組のホロとトーキー・ブックを進呈することにした。これで手元にはひと組しかなくなった。船長は、この連中がべつべつの官庁か、べつべつの指揮系統に属しているらしいと考えたのだ。
この世界のお偉がたにお目どおりがかなうまでには、かなり手間どりそうな気がする。
しかし、シャーラはこの会見から、ずいぶん多くのことをさぐりだした。この惑星の名はたしかに“ジールタン”で、彼らは“ジーロ”または“ジーロール”という――この言葉では、複数形を作るのに、単語の語尾をのばしてrの音をつけるらしい。シャーラはそのほかにも“はい”と“いいえ”それにおそらくは“この”に当たる単語を見つけ、質問では、われわれとおなじように語尾を上げることも発見した。彼らのしゃべる言葉が非常になじみぶかく聞こえる理由のひとつはそれだと思う。こうした発見を、シャーラは小型カセットに録音している。万一、われわれの報告がこれだけしか届かず、代わりのだれかがもう一度彼らと会うことになる場合に備えてだ」
リアルーンが小さく息をのむ。司令は彼女の頭を軽くなでて、静かにいう。「彼らはぶじに離昇したのよ、リア。パイプが届いたということはね」
司令はすばやく再生機に向きなおる。トーランがまたしゃべりだしたのだ。
「――妙なことが起きた。シャーラが、われわれはヒューマンだ、と彼らに教えたとたんに、ローブを着たひとりがとつぜんさけびだした。「ユー・マンズ――ジューマノール? ジューマノール――」あとの言葉はうまくいえない。彼らはhの音が発音しにくいようだ、とシャーラはいう。とにかく、むこうはくちぐちに否定の声を出した。つまり、おまえたちがヒューマンのはずはない、といってるようなんだ。それでもシャーラがつっぱると、制服の上役がひどく興奮してきたので、彼女は映像で説明をはじめた。そのときだ、実に奇怪なことが起きたのは。
それまでのキャシーは、あたりの面白そうなものを、片っぽしからこっそり撮影していた。ところが、きゅうにカメラをわたしに押しつけると、車にもどろうとする彼らのあとを追って走りだしたのだ。
「儀式!」とキャシーはさけんだ。「儀式を忘れないで!」そういうと、襟を大きくはだけた。胸と肩いちめんにぶちが描きこんであるのが、われわれにも見えた。キャシーは空を見あげ、奇妙な声でなにやらさけんだ――エイリアンの言葉で。わたしにもいくらか意味がわかる気がした。真上の空にむかって呼びかけているらしい。
[#挿絵(img/rift_283.jpg)入る]
ローブを着たエイリアンたちにも、その言葉は通じたようだった。ふりかえって、ひとりが頭を下げ、なにか答えた。制服の上役は、彼らの“はい”に相当する言葉をいった。それから三人は車に乗りこんで、さっさと帰ってしまった。
宇宙港の係官は、この話しあいのあいだ、遠慮がちにうしろにさがっていた。いま、彼もキャシーになにかいうと、太陽を指さして、午後を意味するように、手をぐるっとまわした。それから自分の車に乗りこんでひきあげていった。
このときには、キャシーは熱い大地にひざまずいて、両手で顔をおおっていた。最初は泣いているのかと思ったが、アッシュ船長が駆けよって助けおこすと、彼女が微笑しているのが見えた。体をふるわせて、まるでうれし泣きしてるようなんだ。顔には不気味な喜びの表情が現われていた。
船内にもどるのを待って、わたしは彼女にきいてみた。「あれはいったいなんだったんだい、キャシー?」しかし、その答はもうわかってるような気がした。
「感謝の祈り」とキャシーはいった。「無事到着のね」
「そのとおり」とディンガーがいった。いってから身ぶるいして、目をぱちぱちさせた。
「ここにはふしぎな精神感化力があるようね」シャーラが小型カセットを再生機に入れながらいった。「いまのエイリアン語を練習してみるわ。はっきりわかったのは――“あなたはだれですか?”」シャーラの発音はうまいものだった。
ここで船長が発言の合図をした。いまからそれを録音する」
船長の声が、低く重々しくひびく。
「この世界では、われわれの尺度からすると非合理的なものが、ちゃんと作用しているらしい。われわれが、このわたしも含めて、ここでふだんと変わりない状態をたもてるかどうかは、自信が持てない。さて、この現象にはいくつかの説明が考えられる。しかし、解答はまだ出ていない。自分が何者であるかを、そして、ヒューマンの経験ではまったく目新しいものと接触していることを、たえず心においておこう。もうひとつ、なにがあっても自然界の理法がくつがえるはずがないことも。だから、このまま作業をつづけ、その場その場に対処していこう。
しかし、とっさの場合にいつでも出発できるよう、準備だけはしておくほうがいいと思う。問題は多分に相手しだいだ。われわれとコミュニケーションができるような通訳を、むこうが見つけられるかどうか。いまのところ、その可能性はすくない。もし、見つからなければ、明日の正午にここを出発すべきだと思う。ここにどんなものがあるかがわかった以上、あとは連邦が、もっと装備のととのった第二次探険隊を派遣してくれるだろう。
それまで、われわれとしては、この世界についてできるだけたくさんの観察記録を集めなければならない。シャーラの基礎資料を充実させるため、宇宙港事務所まで遠征して、もっと言語サンプルを収集する価値はあるかもしれない。そうすれば、故郷の専門家たちにとっても、たしかな手がかりができる」
再生機がカチッと鳴り、こんどはトーランの声がもどる。
「あれからしばらくあと。とにかく、みんなはいちおうおちついた。しばらくはなにも起こらなかった。ディンガーとわたしは外へ出て、地衣類や昆虫の標本を、できるかぎり採集した。全員が感じているのは、どこもすっかり乾燥しきってることだ。地面までが妙な反応をする。ここで土の上に唾を吐くと、唾が煮えたぎるんだ。
ディンガーが植物の予備分析をした結果、テラ型の正反対であることがわかった。ここの植物はCO2[#「2」は下付き小文字]、つまり炭酸ガスを放出する。大気中の炭酸ガス濃度が高い理由は、たぶんそれだろう。ディンガーは、植物のそばに顔を持っていくと、特殊な匂いがするという。生命科学部はきっとここの生化学現象に夢中になることだろう。
われわれは何隻かの船の離着陸を観察し、通信を傍受した。そのあと宇宙港事務所へでかけようかと思っているとき、タラップのそばに大型車がやってきた。車には建設資材が積みこんであった。職長らしいのがアッシュ船長になにかさけんだあと、作業班が外に出て、タラップのすぐむこうになにかを作りはじめた。べつに船に接触しているわけでもなく、じゃまになるわけでもないので、船長はだまっていた。やがて、それが明らかに臨時の低い足場であること、われわれの見るかぎり、なんの脅威でもなさそうなことがわかった。足場の上に、彼らは大きな盆をとりつけた。ちょうど子供用の浅いプールのようなものだ。つぎに、トラックの上から、われわれが化学薬品を入れるのに使うような、かご入りの大型ガラス瓶をいくつもおろし、それにはいった透明な液体を盆の中にあけはじめた。いまもまだそれがつづいている。あの用心ぶかい扱いかたから判断すると、腐食性の液体にちがいない。
船長とシャーラはそれを調べにいった。むこうは近づくなとでもいうように手をふっている。シャーラはサンプル採取用の繊維片を持っていたので、その端をちょっぴり液体に浸した。ふたりはそれを船内に持ち帰ってくるところだ」
「もし、あの連中のこわごわの手つきを見なかったら」とアッシュ船長の声が聞こえる。「あの液体はてっきり水か、温和な塩基性溶液に思えるところだ。いま、ディンガーがいそいで電気泳動測定をしている」
「ねえ、船長」とトーランの声がする。「また新しい代表団がやってきましたよ。ライブで録音しますか?」
「グリーン。じゃ、ディンガー、そっちをたのむ。ほかのみんなはわたしといっしょにこい」
「五人のエイリアンが外に出てくる。ローブを着ているのはさっきのふたりらしいが――ちがう、こんどのほうが大柄で、年よりだ。あとの三人は、なにかの器具を手に持っている――楽器かな? みんなが外に出た。
エイリアンが足場のそばに並んだ。そちらにも声が聞こえると思うが――」
まぎれもないエイリアンの声が、遠くからなにかしゃべっている。それとも、詠唱なのかもしれない。
やがて――ムーウー、フーララ、ラアアーアアーフー――とつぜん彼らの音楽が、再生機から大音響でとびだしてくる。トーランが負けまいと声をはりあげる。
「中のふたりは楽器に合わせて歌っている――ああ、なんてこった――」そして、むせび泣くような音楽の合間に、くちぐちにわめくヒューマンたちの声がする。
「妙な気分だ――こりゃまずい――」
「音楽だ! あのいまいましい音楽を止めろ!」
「わたしの儀式! わたしの儀式なのよ、わからない? 通してちょうだい!」
「キャシー! キャシー、やめて! おう――」
「キャシー、だめだ、あそこへすっぱだかで行くなんて――」
「クー中尉!」とアッシュが大喝する。「とまれ!」
「彼女をとめて!」
混乱した声と物音が、そうぞうしい音楽の中で遠ざかっていく。「キャシー、キャシー――」
「あれは水だ」とディンガーの声がさけぶ。「ただの水だ!」
わめき声、バシャッ、ザブンと水のはねる音、けたたましい音楽のひびき、そのあいだを縫って、かんだかい女性の声がさけぶ。「てつだって! てつだって! わたしを押さえつけてちょうだい――」また水のはねる音。「彼女をひっぱりだせ! ひっぱりだせ!」船長がさけぶ。「よしきた――」音楽がさらに大きくなる。
はるか彼方、連邦基地九〇〇の司令室で、聞き手たちが再生機を見やり、おたがいに顔を見あわせるあいだに、不可解な大騒ぎの中で刻々と時が過ぎていく。
やがて、タラップに重い足音がひびく。音楽がやむ。
「彼女を医務室に運べ」とアッシュの声がする。
「もう呼吸がとまってから――えーと――」
足音が通りすぎたあと、だれかがレコーダーを切る。
まもなく、またカチッと声がはいる。
「あれから約三時間後だ」ふるえをおびたトーランの声がする。「アッシュ船長が説明する」
「エカテリーナ・クー中尉は死んだ」アッシュがこわばった声でいう。「溺死だ。回復不能の脳損傷が起こる前に蘇生させることができなかった。死の原因は、なかば本人にある。あの水槽の中にとびこんだとき、まず彼女は比較的浅いタンクの中でうつぶせになって溺れようとした。それが失敗すると、上から押さえつけてくれとわれわれに助力をもとめた。彼女はこんなことをいった。「てつだってちょうだい。わたしがここで死なないと、儀式はだめになる! これがわたしのチャンス!」彼女は、自分の死がなにかよい目的を果たすと感じていたらしい。
だが、われわれはそれにさからって、彼女をひっぱりだそう、すくなくとも頭だけは水面上にたもとうとした。だが、足場がせまい上に水槽の中がつるつるすべるのと、こっちの動きがぎごちないために――しかも、キャシーの――いや、中尉の」――船長は声をつまらせる――「長い髪がじゃまになって、結局はうつぶせになった彼女の上体をいっそう水中へ押しこむかっこうになってしまった。あのエイリアン音楽がわれわれの知覚と行動に与えた影響は、非常なものだった。あれによって、一時的な精神錯乱が生じたんだと思う。
ずいぶん長い時間が経ったあと、やっとわれわれは彼女の肺が水でいっぱいなのに気づいた――水中でわざと息を吸ったのにちがいない――すでに呼吸は停止していた。ようやくエイリアンの音楽もやんだ。われわれは急いでキャシー……クー中尉を船内の救護装置へ運びいれた。しかし、さっきもいったように、もう手遅れだった。
われわれは彼女の遺骸を適当な冷凍区画におさめ、短い葬儀をおこなった。最後に一言すると、クー中尉が任務遂行中に死亡したことには疑問の余地がない。この任務に対する彼女の献身ぶりは完璧なものだった。高度感応者である彼女は、この宙域特有の有害な精神感化力を特に受けやすかった。彼女の身に起こった不幸は、将来ここへ派遣する人員を選ぶさいの警告と受け取るべきだ。といっても、感応者を避けよという意味じゃない。むしろ逆に、彼女の鋭敏な知覚は貴重な役割を果たしたと思う。しかし、あの自己破壊の行動様式が精神に刷りこまれた場合は、指揮官たるものが細心の注意をはらわねばならない。
いまかえりみると、ビーコン・アルファにいるときから、すでにこの儀式の要領の一部が、クー中尉に知覚された、あるいは刷りこまれたことは明らかだ。しかも、それは彼女だけではない。われわれ全員が、程度の差はあっても、そうした出来事を予想し、それを歓迎すると同時に恐れてもいた。この儀式はエイリアンの慣習で、安全な旅に感謝して生贄《いけにえ》を捧げるものらしい。トーラン中尉も、エイリアンの影響力が強かった時点で、“まだらあるものが選ばれる”と口走ったことがある。また、非常に名誉な条件のもとで、なにか偉大な超自然の力――大霊と名づけられたもの――に合流する、または死んでそのもとへもどるというのが、全員の心に感じられた共通の印象だった。このエイリアンの生命力は、われわれ全員の心に彼らの思考パターンがあるていど刷りこまれるほど強烈だ。
しかし、あの音楽演奏のような異常な条件がないかぎり、われわれはまだヒューマンとして機能できるし、任務遂行の能力もあると信じている。本船は明日ここを出発するつもりだ。それまでには彼らも銀河共通語の通訳を連れてくることだろう。もしここにそんなものが存在するならだが。つけくわえると、乗員のだれひとりとして、この先、あのような異常事態が発生する予感は持っていない。
最後にひとこと。クー中尉その他が早くから示していたこの儀式の予感を真剣に受け取らなかったことで、わたしは深い自責の念にかられている。彼女の死の間接的原因のひとつは、この問題に関するわたしの怠慢であったといえる。以上アッシュ報告おわり」
司令の目が沈痛になる。
「一日目にあんなふうにして乗員のひとりを失うとは」と副官がいう。
「彼の責任じゃないわ」とリアルーンが抗議する。「彼女が子供用プールの中で溺死するつもりだなんて、だれにわかります?」
「そのための船長ですよ」司令は手短にいうと、再生機に向きなおる。すでにトーランの声が流れはじめている。
「――からの追加報告。われわれがあの――混乱の中で、しかも麻痺した精神状態の中で、やはり気づかずにいられなかったことがある。それはエイリアンも非常に興奮していたことだ。上役も、作業員たちも、そばに寄ってきて、まるで自分の目が信じられないように、われわれの濡れた足や腕を指さし、われわれが実際にタンクの中にいたことをたしかめた。彼らは、水しぶきが上がるたびにうしろへとびのいて、湿った、煮えたぎっている場所にふれないよう、極度の注意をはらっていた。明らかに、水はこの連中にとって危険な物質だ。キャシーが水の中へはいるだけで死ぬと、彼らは予想していたらしい。しかも、すっかり混乱したあげく、クー中尉のヒューマン本来の、あー、裸体を見ても、水による損傷と考えたらしい。つまり、ほかのわれわれはしっぽのついた作業服を着たまま、よぶんな腕を中に折り畳んでいるように見せかけていたからだ。
むこうからだれかがやってこないかぎり、われわれとしては、きょうはもうコンタクトをこころみる予定はない。いまからタラップを引きあげ、ここの一G弱の重力を利用して、しばらく熟睡しようと思う。無重力の中では、だれもよく眠れない。このカセットはここで終わり、新しいカセットに移る。以上トーラン」
ポーナが立ちあがる。「第二のカセットはここです」彼女は再生機をひらく。
「どうもよくわからないな」と司令は考えこむ。「アッシュは完全に機能しているようだけど、なんとなく……百パーセントふだんの彼じゃないような気がする。なぜかは聞かないでちょうだい。たぶん、わたしは彼に、存在もしない通訳のことなんか忘れて、さっさと離昇してほしいと思ってるのかもしれない……。でも、せっかくあそこまでたどりついた以上、巨大な新しいエイリアン連合のことをもっと知りたいと思うのは人情だろうしね。すくなくともその規模や範囲ぐらいは」
フレッドが、よくわかるというようにうなずく。「これで、着陸前の第三信で暗示されたことが、ぜんぶ確認されましたな。あの戦艦は作動可能です。民間用に改装されたなら、惑星破壊ミサイルを搭載しているはずがない。とすると、彼らはどこかでなにものかと戦っているか、あるいは戦う準備をしている。ひょっとすると、以前のわれわれがそうだったように、まだ宗教戦争が存在するのかもしれない。
いっぽう、三〇〇扇区からは、いくつかの惑星が消えたという報告が届いている。それとほぼ時をおなじくして、おそらく惑星破壊ミサイルを持ったエイリアンの戦艦がここにいる。いまの報告以後、そこでなにが起こっているかは、神々のみぞ知る……。われわれとしては、彼らがすでにトラブルで手いっぱいで、これ以上の戦争を望まないことを期待するしかない。それとも、将来の同盟者としてわれわれを歓迎してくれることをね。探測船の乗員が、到着したときのように、さりげなくあそこを出発できれば万々歳ですが」
「うん」と司令がつぶやく。「フレッド、乗員がヒューマンだと名乗ったときに最初のグループが示した反応を、あなたはどう思う? ヒューマンがどんな姿をしているかを、むこうはすでに知ってるんじゃないかしら? たとえば、ヒューマンにはしっぽがないということが、むこうの常識だとしたら?」
「用意ができました、司令」とポーナがいう。「報告の後半です」
そして再生機がまわりだす。
こちらは遠いはるかなジールタン。キャシー・クーが亡くなったその日の夜。外種族語部のジラノイは、友人である通信局長のカナックリーに宛てて、速達を録音している。カナックリーは目の炎症で欠勤中だ。
「ねえ、カナック、なにもかもぶちまけてしまわないとわたしは破裂しそう! ひょっとすると、病気で寝てるあなたには、これが気晴らしになるかもしれません。あなたが手紙を読める状態じゃないのは知ってるので、こうしました。レイロイとかわいい坊やによろしく。では、腹立たしいニュースを聞く準備をしてください。
問題は、着陸したばかりの例のエイリアン船について、行政局がしたこと――というより、しなかったことです! 正直いって、地だんだを踏むほどくやしくてたまらないけど、なるべく冷静にしゃべることにします。おまけに、たいへんな謎をかかえることにもなったから、きっとあなたにも興味があると思うんです。
通信局からわたしにまわしてくれた写しのことは覚えてますね? エイリアンの船が接近中に呼びかけてきた放送の写し――ありがとう、カナック、あなたがいなければここは最大エントロピーに直行してしまったかも! さて、わたしはその一部の意味をつかむことができました。ただし、アクセントはとても奇妙でした。
中で“ユーマン”という単語が何度か出てきますが、これは“ジューマン”の一形態かもしれません。また、彼らは“連邦”に言及していますが、これはあの東方のジューマノールが恐れていたものだと思います。なにか、わるいものです。そして、“ウイ・カム・イン・ピース”というのは、その船が遠くにいる船団のピース、つまり一部分ということかもしれません。はっきりしてるのは、この放送がジューマン語に似てること、というより、ジューマノールその他の種族が使ってる、もっと大きい言語じゃないかと思うんです。とにかく、わたしは行政局に速達を出して、ジューマンとの類似性を見つけたことを知らせ、録音された言語をそっくりぜんぶ、最高優先度で送ってほしいと依頼しました。話のわかる上司のグラヴィーンさんに、そうする許可をもらったんです。ジューマノールは非常にあくどいやつらだから、よく見張るようにともつけたしました――もちろん、公式用語を使って。
その速達は、いまごろどこか上層部の役人の未決箱の中でぼろぼろになってることでしょう――議会から下の全上層部が、まるっきりのぐずで能なし。即刻クビにすべきです。彼らときたら、あらゆるものを完全停止状態にするのが――ごめん、どこまで話しましたっけ? あ、そうか。
そんなわけで、宇宙港にはなにも連絡が届いておらず、ただのD級応接をしていたところ――そうそう、エイリアンは武器検査を拒んだそうです――やがて、エイリアンは儀式を要求したんです。明らかに彼らは長旅をしてきたようすでした。〈闇の川〉を渡ってきたと主張したとか。もちろん、わたしはそんなこと信じてません。第一、彼らの船にはそれだけの燃料タンクがないんです。でも、話が先に飛びました。
とにかく、儀式は――楽師が三人しかおらず、プールは子供の砂場ぐらいの小さなものでした。ありそうな話でしょう? 応接部はつぎのデュセダンに開かれる全〈調和圏〉会議のため、資金をけちってるんです。この儀式で、エイリアンのみんなが、選ばれたものといっしょに水の中へはいりました。しぶきを上げて、あっさり中へとびこんだんですよ! 想像できます?
これは水に耐性があるってこと――ジューマンの特質です。ジューマノールは、彼らの世界のすべての生物が水から発生したと主張してます――ご存じ? 不気味でしょう? これを聞いたとき、ジューマンにまちがいないと、わたしは思いました。いったいどうなってるんでしょう。こっちは〈闇の川〉の東で彼らをさがしまわってるというのに、船に乗った彼らが堂々とこっちの玄関先に着陸するなんて!
でも、わたしはグラヴィーンさんにたのんで、写真を何枚かとりよせてもらいました――運転手が報道機関へ売るつもりで写真をとってたんです――それで見ると、このエイリアンたちはジューマノールとまるでちがいます。わたしたちを漫画にしたようなんです。尾がなんとなくだらんとして、体色もわるくて。
そうそう、カナック、たいせつなことを忘れてました。エイリアンは、応接団への贈り物として、とてもすばらしい工芸品を二組ずつよこしたんです! どちらのセットにも、旅のあいだに一定の間隔をおいて星野を撮った、広角ホログラムが含まれてました。そのひとつをわたしは星図局で見ました。ホログラムの終着駅はそこだったんですよ。星図局員にいわせると、最初の何枚かは〈闇の川〉の対岸から撮影したように見えるが、もちろん偽物か、それとも外挿だとか。でも、すばらしい画質でした。星図局でもすごく貴重なものだといってます。もうひと組がどこにあるかは知りません。というより、見当はつきます。どちらもおなじものならいいんですが。
でも、もっとすばらしいのは第二の工芸品で、だからこそ、泣きたくなるほどくやしいんです。小さい折りたたみ式のカセットで、その一端にスピーカー、もう一端にピカピカのプレートがあります。ボタンを押すと、スピーカーが何度もひとつの単語をくりかえします。すると――いいですか――プレートが明るくなって、そこに動く写真が現われるんです。その単語がなにを意味するかを見せるわけです。あるときはホログラム、あるときは図形だったり絵だったりします。大ざっぱな見当で、約百五十種類のイメージがはいってるようです。とても精巧にできていて、こちらの最先端技術よりもずっと進歩してます。それがなんの道具かというと、言葉の教師とひとつのメッセージを兼ねたもの。これには確信があります。
さて、泣きたくなるのはここからです。歓迎団は、これらの品物を、おそらく普通便で議会に送ったんです。しかも、ようやく到着したとき、まぬけな議員たちはなんとそれをおもちゃにして時間をつぶした! それで遊んでたんですよ。まるで個人的な贈り物をもらったみたいに! 美しい絵が見たさにボタンをでたらめに押すだけで、なんにもおぼえず、それがメッセージだということも気がつかなかった! ああ、カナック、これががまんできますか? 幼い執政官もいっしょでしたが、彼はまだ許せます。だって、ほんの子供なんですから。でも、ほかのみんなはおとなです――種族の中でも最高の賢者とみなされている人びとなのに!
というわけで、げんにエイリアンの船がそこにいて、彼らからのメッセージもちゃんと届いたのに、それが年とったまぬけどもとひとりの子供のおもちゃになってたわけです。これは実話よ。
さて、ほっとけばこれがいつまでつづいたかは、神々のみぞ知るです。でも敏腕なグラヴィーンさんがそのことをかぎつけ、執念深く塵埃《じんあい》層に――これはわたしが上層部につけたあだ名です――穴をあけつづけたので、ようやく二、三の議員が、ひょっとするとこのしろものは専門家に見せたほうがいいのでは、という名案を思いつきました。そこでホログラムの一組が星図局に送られたわけ。それからカセットのひとつが研究開発局に届きましたが、さっそく局員がそれを分解してこわしてしまいました。結局、グラヴィーンさんが第二のカセットをとりよせてくれたので、これからひと晩かけて調べてみるつもり。このカセットには、百あまりの単語と絵がおさまってるようなんです! ああ、これがこわれたカセットとおなじものだったらいいんですが――でも、こうなっては永久にそれを知るすべはない、ちがいます?
これらの品物が旅の途中で作られたものでないのは、ひと目でわかります。ということは、よそものと接触したときのために、あらかじめそれを製造した、故郷の政府があるわけです。ここからまたいろいろなことが暗示されます。カナック、これは直感だけど、これまではよくわからなかったことが、ぜんぶひとつにつながりはじめたようなんです。たとえば、東方のジューマノールのことと、この船が到着したこと――やっぱり、宇宙軍もこの問題に参加すべきじゃないでしょうか。
そこで思いきって、クリムヒーン艦長と連絡をとってみるつもりです。彼は戦艦をここへ帰還させた司令官で、生きた光明ですから。つけたしておくと、下級士官のだれかがエイリアンの武器を検査にいったけど、なにも見つからなかったようです。でも、わたしはこういいたいの。もし彼らのテクノロジーがここまで進んでいるなら、わたしたちが彼らの武器を見ても、それとわかるでしょうか? ふしぎなことに、わたしが心配なのはあのちっぽけな船の武器じゃありません。その背後にある大きなものです。仕入れたばかりの軍事用語でいうと、この問題は戦術的ではなく戦略的なんです。つまり、もっと大きくて、底が深くて、たぶん間接的なものなんです。
というのが、カナック、おやすみ前のおとぎ話でした。なぜわたしが腹を立てたかわかりますね? だれがこんなことを予想したでしょう? わたしがあなたと別れて東方へ行ってまで勉強しようとした、名も知れない、おそらくは絶滅した言語、それが帰郷してわずか一週間後に、ここの大着陸場にとびこんでくるなんて!
ゆっくり休んで、早くよくなってください。もう一度、レイロイとかわいいカンリーによろしく。あなたの友人ジラより」
連邦基地九〇〇の司令室では、遠い過去のメッセージの後半が再生機にかけられている。しゃべっているのはトーランだ。
「キャシーのことでみんながおちこんだ。シャーラとわたしは彼女の所持品を集め、それを保管した。タラップを収納したあと、濡れた作業服をぬいで、キャビンの中に干した。ひさしぶりの湿気が気持ちよかった。外ではなにも起こらないので、食事のあと早めに就寝することにして、エアロックからもう一度宇宙港を見まわした。
まだ話してないと思うが、宇宙港は屋根つきの道路にとりかこまれていて、そこから枝わかれした屋根つきの小道が、舗装された駐機場へと伸びている。ここの連中は、ひどく雨を用心しているにちがいない。これまでに見たかぎりでは、高い絹雲がうかんでいるだけで、天候の変化は皆無だ。大気中に多量の砂塵があるため、夕焼けはすばらしく美しい。それをながめているうちに、明かりがついた。道路の端にある宇宙港事務所はいそがしそうだ。例の軍艦は、待機灯しかつけていない。
朝になって、われわれは離昇準備をはじめ、キャビンの備品を固定し、船尾カメラから星野ホロを出してコンピューターにいれ、もし必要があれば自動誘導ですぐに飛びだせるようにした。キャシーの所持品がまた出てきた。彼女が死んだことはまだ信じられない。あそこに冷たくなって眠っているとは……。どうも失礼。
とにかく、外ではまったく活動の気配がなかったが、正午すこし前に大きな幕僚車がやってきた。車のドアには政府の紋章らしいものがついていて、オレンジ色の小旗が二本、前に立ててある。運転手は外の席にすわっていた。大物かもしれない。
車からおりたのは、オレンジ色の制服を着た大きな男性だった。ほかの制服の連中よりもきらびやかな服装で、勲章らしいものが並んでいた。そのあとから、地味な制服に階級肩章をつけた小柄な男性が出てきたが、これは副官らしい。つぎに、もうひとまわり小柄な、赤っぽいエイリアンが出てきた。一種の絹に似た服を着ているところを見ると、女性だろう。この推測が当たっていたのは、あとでわかった。
彼女は外に出ると、まっすぐ船に近づいて、船腹をしっぽでひと打ちした。バシン!――われわれはエアロックを細くひらいた。すると、彼女が呼びかけた。「ハルー! ハルー、ハルー! おまえ・でる? わたし・はいる」
おお、神々よ、むこうはとうとう銀河共通語の通訳を連れてきた! われわれはいそいで舷門をあけ、タラップをおろした。彼女はピョンピョンとタラップを登ってアッシュ船長の前に立つと、手袋をはめた上腕をさしだした。
「わたし・ジラノイ」彼女は自分を指さした。「ジラ。じょ〜せい」
「ハロー、ジラ」とわれわれがいうと、彼女はうれしそうに笑って、体をゆすりながら、こっちの名を聞いてまわった。そのあいだに、わたしはいそいでもう一台のレコーダーを準備した。きっとピジン銀河共通語で長い話しあいがあると予想し、それをべつのカセットに入れれば、全記録をそのままそっちへ送れると思ったんだ。ここでは要約だけを報告しておく。
彼女は大柄なエイリアンをクリム・ヒーンなんとかと紹介した。なんとかはたぶん“艦長”というような肩書きだろう。彼女が“ぐん〜かん おや〜だま”と説明したからだ。アッシュ船長は握手しようとしたが、彼女は手袋をはめたまま、その手をはらいのけた。「だめ、だめ! キファ! わるいキファ」
ここでシャーラが食堂の棚にある水筒を指さしてたずねた。「キファ?」
「そう」とエイリアンはいった。「みず。みず・ジーロに・わるい」この意味はわかった。むこうはわれわれの皮膚の水分を恐れているのだ。
「彼女のアクセント、どこかへんよ」とシャーラがいった。「それに、親玉なんて単語を知ってる。基本語の中にはない単語なのに」
このときには、むこうの副官を除いて、みんなが船内にはいっていた。艦長は副官を車へ帰らせたんだ。食堂のテーブルをかこんで、みんながなんとか着席した。むこうは体が大きい上に、しっぽがじゃまな感じだった。わたしはトーキー・ブックの拡大リファレンスと、〈リフト〉全域とその両側を示す大型ホロを用意した。これでジラは大喜びしたらしく、われわれと大差のない笑い声を立てた。もっとも、最初はてっきり息がつまったのかと思った。彼女は気立てのよさそうな若い娘だ。拡大映像を見て、「すごい! きれー!」とさけんだ。
アッシュ船長が、われわれは連邦から平和な探測任務でやってきたヒューマンだと、公式に自己紹介した。「わたしたち、ここ・くる・なにある・見る」と船長は自分の目を指さし、つぎに手をぐるっとまわした。「ジールタン・おおきい!」
しかし、ジラはきゅうに笑いやめて、ひとつしかない大きな目で船長を見つめた。クリムヒーン艦長もだ。
「ユーマン? ジューマノール? ちがう!」とジラはさけんだ。それから一気にまくしたてた言葉を、つぎにまねしてみる。「おまえたち・ジューマノール・ない! わたし・ジューマノール・しってる! ジューマノール・みな・ころす。コメノわくせー・くる、わるいこと・する。みな・つかまえる、ダイ〜モン、ザラ〜ナブス・ほり・させる、コメノ・ころす。ジーロふね・くる、ふね・ないジューマノール・ふたり――さんにん・つかまえる。ジーロール・ジューマノール・ころす、もっと・さがす。おおぜいジューマノール・さがす、みな・ころす! ふね・さがす、ジューマノール・ふける、ジーロール・つかまえる。ジューマノールきち・さがす、ぶっとばす――プッッェー! ジューマノール・ふね・ほしい、ダイ〜モン・ほしい。ジューマノール・みな・ころす! そう!」
とにかく、こっちはノックアウト・パンチをくらったようなものだった。
「いまのは〈暗黒界〉のアクセントだわ」とシャーラがさけんだ。
それが鍵だった。べつのカセットで、長いやりとりを聞いてもらえばわかるが、やっとそこでわれわれにも謎がとけた。〈暗黒界〉のヒューマンが東方で彼らの領域に侵入し、コメノールという彼らの同盟種族を捕えたり、殺したりしている。ジーロはコメノールの救助に駆けつけ、〈暗黒界〉のヒューマンを追跡し、殺している。ジラはそこでかたことの銀河共通語をまなんだ。彼女は一種の公式通訳官だ。
とにかく、全ジールタンが、ジューマノールといわれるものを憎んでいる。話の途中でジラは立ちあがって、車のほうへひきかえし――このカンガルー人たちは、その気になるとすごいスピードで走れる――キッド革を折りたたんだような印刷物をかかえてもどってきた――日刊新聞だ。その一面と見開きに、大きな写真が載っていた。ひとつは、先のとがった髪型の、明らかに〈暗黒界〉出身のヒューマンがうずくまり、カメラにむかってスタン・ガンを構えてるところ。撮影者は艦隊に同行していたにちがいない。もうひとつは、見るもむざんな死体の山か、それとも瀕死の生き物の群れだ。彼らはなかば小柄なジーロ、なかば大きなウサギに似ている。
「コメノール」とジラがいった。「ジューマン! プフェッ!」
そう、こんな写真が公開されているところへ、ヒューマン本来の姿で着陸したものなら、おそらくその場でリンチにされていたろう。キャシーとわたしがキャッチした感情はそれだったにちがいない。たしかにキャシーはわれわれの命を救ってくれた……だが、これからどうすればいいのか?
この間、大柄なクリムヒーン艦長は、すこしも親密な態度を見せなかった。あらゆるものにきびしい目を走らせ、ジラがしゃべってる最中に立ちあがって、制御装置や計器パネルを調べはじめた。アッシュ船長は静かにそれを監視していた。
ふたりの女性同士が、ほかのだれよりもずっとうまくコミュニケーションできることも明らかになった。当然だろう。シャーラは言語学者だし、ジラもそうらしい。しかも、ジラは前に銀河共通語をしゃべる連中と話をした経験がある(われわれは彼女にトーキー・ブックの上級セットを贈った)。そこで、アッシュ船長はシャーラにこう説明させた。われわれはよい連邦からきたよいヒューマンで、人びとを殺したり、奴隷にしたりしないし、ダイヤモンドもザラナヴェスもほしがらない。それに、ジラが会ったヒューマンは連邦の出身ではなく、その外にある〈暗黒界〉の連中で、われわれも彼らを憎んでいるのだ、と。
[#挿絵(img/rift_305.jpg)入る]
これには反応があった。ジラが考えぶかげにいった。「わたし・わかる。あん〜こっかい。そう」
だが、そこでジラは見当はずれの方向へそれていった。「ジューマノール・おまえたちに・わるいこと・する・だろー」と彼女はさけんだ。「おまえたち・ユーマノール、ナ・アロワティーラくる・したい・だろー! おおぜい・ナ・アロワティーラ・くる――よい、よい! なぜ・おまえたち・にせことば・つかうか。ジューマノールことば・つかうか?」
これを理解するにはシャーラも苦労した。どうやらジラは、われわれのことを〈暗黒界〉に迫害された種族で、彼らの同盟か、連合か、とにかくアロワティーラが意味するものに保護を求めにきた、と思ったらしい。だが、シャーラとしては、われわれのいう“ユーマン”が“ジューマノール”とおなじかどうかという疑問を未解決にしておくだけでせいいっぱいだった。
“ジューマノール”というのは、彼らが〈暗黒界〉の連中をさすときに使う言葉なんだ。
アッシュ船長は、大型ホロで連邦のありかを教え、〈リフト〉横断の旅をペンで書きこんでいった。すると、クリムヒーンはそのペンをとって、東方にあるいくつかの星系を示した。
「ジューマノール・ここ」そういうと、けわしい目でアッシュを見つめながら、東のほうからリフトの南の縁にそってジールタンまで、ペンで線を書きこんだ。「おまえたち・ナ・これ・ここ・くる・だろー」皮肉な口調だった。
「ちがう! ちがう!」とわれわれみんながいった。
しかし、クリムヒーンは委細かまわず立ちあがり、外に出て、タラップを下りた。副官となにか打ち合わせをしているのが見えた。副官は車内電話らしいものを手にとった。その瞬間、わたしはピンときた。
「どうも気にいらんな」とアッシュ船長がつぶやいた。まさに同感だった。
しかし、もどってきたクリムヒーンはひどく愛想のいい態度で、短いスピーチをした。いっしょに町へきて、政府の高官たちに会ってほしいという意味の招待だ。ジラは大喜びだった。「おまえたち・ジールタン・みる、それ・よい! おまえたち・ばっちり・アロワティーラ・みる!」ジラは銀河共通語と〈暗黒界〉のスラングをチャンポンにしてさけんだ。「おまえたち・くる・みる・よい!」
あきあきするほど長く船内で缶詰になっていたので、これはかなりの誘惑だった。アッシュ船長は招待を受け、シャーラとわたしが同行し、ディンガーがあとに残って留守番をすることになった。
外に出て車まで行くと、クリムヒーンはわたしを運転手の隣りにすわらせた。彼はひどく丁重だった。わざわざ自分でドアの開け閉めまでやってくれた。
こっちはそのことに気をとられていたので、にせのしっぽをドアにはさまれたことに気づくのが一瞬遅れた。本当なら、がまんできない痛みのはずだ。あわてて顔をしかめ、ぎゃっとわめいた。しかし、もう遅い、遅すぎる。このでかぶつは、これがにせものだと疑ってるのか? むこうはそんなそぶりをちらとも見せない。だが、いまふりかえってみると、わたしやディンガーをしきりにこづいたり、わざとぶつかってきたりしたようだ。あのときは、場所がきゅうくつなせいだと思っていたが……。たいへんだ――これはまずい! どうやって船長に知らせよう? 船長は、囲いのある後部席に、クリムヒーンと、副官と、ふたりの女性といっしょに乗っている。
しかも、車は走りだしている。もうすでに宇宙港のまんなかだ。空はくもっている。ジラがうれしそうになにかをシャーラに説明しているところへ、とつぜんアッシュ船長の通話器からけたたましい信号音が鳴った。ディンガーの声が聞こえた。
「メーデー! メーデー! 彼らがタンクから燃料を抜きとろうとしてる!」
ちょうどその瞬間、わたしの横にいた運転手が悲鳴をあげた。すごい悲鳴だ。風防に雨の粒が二、三滴当たった。運転手は車を急停止させて、幌をひろげはじめた。
「みんな外へ! 急いで逃げろ!」アッシュ船長がさけんだ。
われわれは車からころがりでると、全速力で逃げだした。だが、ふつうならそんな努力はむだだったろう――この連中はやけに走るのが速い。うしろをふりかえる気はなかったが、スタン・ガンのビームらしい音が耳もとをかすめた。右手の屋根つき道路にいたオレンジ色の制服――兵士たち――が、われわれの行く手をさえぎろうと離着場にとびだしてきた。
しかし――嘘のような幸運で――ものすごい雷鳴とともに宇宙港ぜんたいがぱっと明るくなり、どしゃぶりの雨が降ってきた。われわれは走りつづけた。だが、兵士たちはあわてて立ちどまり、いそいで屋根の下へひきかえして、雨具をひっぱりだしはじめた。うしろからの追跡の音もしなくなった。
われわれの船までくると、噴射管のそばに三、四人の兵士がいて、やはり雨具を着こもうとしていた。タラップは半分ひきあげてある。兵士のひとりがこっちを狙って撃とうとしたが、まだ雨具を半分しか着てないので、やけどが気になるようだった。げんにひとりは苦痛の悲鳴をあげていた。しかし、べつの大男はほとんど雨具を着おわっていた。そいつが道をはばんだ。
頑固な平和主義者であるわりに、アッシュ船長のボディー・フックは強烈だった。船長が大柄な相手をぶちのめしたとたん、ディンガーがその真上へタラップをおろした。われわれはそれを駆けあがり、船長は操縦席にとびこんだ。ディンガーは準備を完了させていた。わずか二分で船は離昇し、ジールタンをあとにした――できれば永遠に。
わたしは一秒のむだを承知で、ジラがあまりひどいやけどをしてなければいいがと考えた。下を見おろすころには、もう宇宙港は消えかかっていた。すでに雨がやみ、入道雲は眼下で消えかかっていた。ここではこうした雷雨がどこからともなく発生して、またすぐにやんでしまうらしい。
船がコースに乗るのを待って、ディンガーは留守中のいきさつを話した。あの一団の兵士が現われて、船を包囲したのだという。むこうは外部燃料キャップを見つけ、それをひらいて、ホースで燃料を吸いとろうとした。船内からは、流出がとめられない。ディンガーは外に出てやめさせようとしたが、むこうの隊長が武器を抜いて彼の頭につきつけ、船内にはいれと手まねした。
そこでディンガーは船内にはいり――排水用のホースをつかむと、彼らからは見えないように舷門までのばしていった。舷門をびしょ濡れにしたあと、タンクの補給エリアを泡だらけにした。ディンガーのおかげで燃料の大部分は救われた――彼らは燃料タンクをからっぽにして、船をわれわれの牢獄にするつもりだったんだ。それにもちろん、あのすばらしい夕立が、うまいぐあいに間にあってくれたわけだ。
離昇と同時に彼らのホースはふっとんだ。いずれ船外活動でキャップをとりかえるまで、緊急チョークで間に合わせている。しかし、燃料はかなり失われた。計算してみなくちゃならない。
燃料の見積もりができしだい、できるだけ早くこのメッセージを送るつもりだ。それに――まいったな――ディンガーがいうには、スコープで見ると、戦艦の周囲で活動が認められる。追跡してくるつもりだろうか? それだと、綿密な計測が必要になる。ぼけっと見物してはいられない。リフト・ランナー1号、一時通信おわり」
巨大な距離のむこう、そして時間のあとで、連邦基地九〇〇の再生機がカチッと鳴る。オフ――オン。
「あれから四十五分後。巨大船舶の離昇が確認された。われわれは三十九分のリードで、戦艦に追跡されているらしい。
燃料のチェックはすませた。基地に帰るには燃料がたりない。くりかえす、たりない。しかし、ビーコン・アルファまではひきかえせる……。いずれにしてもおなじことだ。もし、むこうがどこまでも追ってきた場合、惑星破壊兵器を備えたあの戦艦をひきつれて連邦にもどりたくはないと、アッシュ船長は考えている。もちろん、むこうがその前に追いついて、牽引ビームで本船を捕獲するかもしれない。クリムヒーンの狙いはそれだと思う。もしそうなったら、つかまる前にメッセージを発送するように努力する。あらゆる種類の警報をセットしておいて、つねにメッセージ・パイプを最新の状態で準備するつもりだ。しかし、そちらがリフト・ランナー1号から得られる報告はこれで最後になるかもしれない。
万事がうまくいけば、われわれが一足先にビーコン・アルファに着き、そこで回避と時間稼ぎのゲームをやりながら、救助がくるのを待つことになるだろう。えーと、船長から話があるそうだ」
「こちらはアッシュ」と低い声がする。「こんなことを録音するのはたいへん残念だが、この平和的な探測任務の結末は、いわれのない敵対行動を受けて、いのちからがら逃げる結果になった。ここで指摘しておきたいが、〈暗黒界〉を監視する立場にある三〇〇扇区で、なにか重大な変事が起こっている。わたしが出発した時点での〈暗黒界〉に関する報告では、惑星外活動はなにも認められず、人口は減少しているらしい、とされていた。しかし、わたしに判断できるかぎり、〈暗黒界〉はすでにそのころからコメノと呼ばれる種族に対する襲撃を開始していたのだ。また、彼らがコメノ星域内の好適な惑星に移住をはじめた可能性もあり、さきほどの“人口の減少”はこれが原因かもしれない。この〈暗黒界〉の活動が、〈リフト〉の南縁全域、さらにおそらくはそのむこうに住む族にも、ヒューマンへの敵意を植えつけている。これは不愉快な提案だが、わたしはつぎのように強く勧告したい。〈暗黒界〉の一味を鎮圧するか、抹殺すること――そして、エイリアンに、〈暗黒界〉の一味と、連邦および連邦に属するヒューマンとの区別を、はっきり認識させるような方策をとること。
さて、もしかりにビーコン・アルファへ救助にきてくれるならば、ジーロの武力をどうか過小評価しないでほしい。それまでの経過時間にもよるが、彼らはすでに増援をたのんでいるかもしれない。なによりも、われわれの任務がもとで、さらにおおぜいのヒューマンの命を危険にさらすことは避けたい。
この苦境の原因は、ジーロの感情が明らかであるのに、しかも、感応者が早くからヒューマンが“憎むべきもの”とみなされていると警告していたのに、なおかつヒューマンであることを主張した、わたしの過失にあると判断されてもやむをえない。
この飛行任務で得られた有用な情報、とくにわたしの意図が成功したときに得られるであろうすべての情報は、かならずそちらへ送るつもりだ。それには、万一われわれが追いつかれ、捕えられた場合、相手の燃料所要量、スピード、その他の飛行特性と、ジーロ種族の能力も含まれるだろう。われわれを救助するために、これ以上の生命を危険にさらすのは、人道的な目的を除いて、なんの役にも立たない。それを考えた結果、わたしは強く主張する。自分の良心にこれ以上ヒューマンの死を背負いたくないというわれわれの希望を、どうか重視してもらいたい。
それではいまから、シャラーナ、ディンガニャール、トーランの各中尉に、条件づきの、できればプライベートなお別れを述べてもらうことにする……。わたしの配偶者はいま冷凍睡眠中だが、わたしが帰還しなかった場合の希望をすでに記録しているはずだ。
以上ルーソ・アッシュ船長」
連邦基地九〇〇では、ポーナが司令に目くばせされて立ちあがり、再生機のスイッチを切る。
「残りはあとまわしにしましょう。彼らが捕獲されたことを知らせるようなメッセージが届くまで」と司令は静かにいう。「それとも、よほど長い時間が経って、彼らの命が失われたと信じるしかなくなった場合まで」
四人のヒューマンは、しばらく黙りこくってすわっている。司令はこぶしの上にあごをのせ、深刻な表情だ。フレッドがポーナとリアルーンを帰らせようとしたとき、司令が口をひらく。「これは……最悪の結果ね。わたしの気持ちは前に述べたとおり。フレッド、今夜ふたりで綿密な計画を立てる必要があるわね。
それまでに、ポーナ、あなたは第一信、第二信、第三信の発送と到着日時を正確にチェックして、リフト・ランナー1号がいつごろビーコン・アルファに到着できるかを、そこから割りだしてちょうだい。それから、チャート部にはこの全旅程の星野ホロがそろってるはず。わるいけどちょっと足をのばして、わたしがチャート部としての最高の到着予測をほしがってる、と伝えてちょうだい。それと――これが重要なんだけど――ここからビーコン・アルファまでの距離も。これで、ふたつの独立した予測が得られる。あの探測船が、アルファのまわりで、戦艦やそれ以上の強敵をよけながら、何年も救助を待ちわびるなんて状況だけは、絶対に起こらせたくないわ。
それとリアルーン、チャート部にいって、アルファ付近のクローズアップをひと組作らせてちょうだい。そうすればもし探測船からの通信がなくても、救助隊がすぐに発見できると思うから」
「それだけでしょうか、司令?」
「それだけよ。ありがとう」
ふたりが部屋から出ようとしたとき、司令がこういうのが聞こえる。「フレッド、もしかりにわたしたちがきのうから着手していたとしても、やはり遅すぎるわ。ひょっとするともう手遅れかもしれない……。どうかな――セントラルから出た例の噂。ひょっとして、彼らが実用になるものをすでに開発しているなら……ぜひともそれが必要だわ。さっそく、いくつかの窓口をガンガンたたいてみましょう。最優先扱いの、生死にかかわる問題として」
そのメッセージが上空で録音されているあいだに、はるかかなたのジールタンでは、異種族語部のジラが、友人のカナックリーのオフィスに通話をかけている。
「ねえ、カナック――胸のわくわくする大ニュース! いよいよ本格的な任務で宇宙へでかけます! ちゃんとお別れをいって発ちたいんだけど、クリムヒーン艦長が、三十ストル以内に乗艦しないとおきざりにしていくぞ、ですって。もちろん、たったひとりしかいないジューマン語通訳をおきざりにできるはずがないけど、わたしのせいで出発を遅らせたくないしね。
それというのも、エイリアンの船のスピードをだれも知らないの。もちろん、大戦艦ならすぐに追いつけるはずだけど、艦長は追跡をなるべく早くすませて、東部戦線へひきかえしたいわけ。
ああ、あなたにくわしく話せたらなあ! 彼らが雷雨の最中に逃げだして、離陸していったときのあの騒ぎときたら! 雨にうたれて、わたしは二ヵ所も大きなやけどをこさえたけど、もうだいじょうぶ。一部始終はこんど帰ったときにゆっくり話します。でも、彼らが逃げだして、わたしはむしろうれしい。クリムヒーン艦長はすごく厳格で疑いぶかいのよ。本当の戦争に出ると、みんなあんなふうになるのかもしれないわね。彼らの燃料を奪って、罠にかけるつもりだなんてこと、なにも話してくれなかった。
いま、あなたにかけたのは、お別れをいうほかに、ひとつだいじな用があったからなの。ふと思いついたんだけど、もし感謝の生贄《いけにえ》を捧げる必要がある場合のために、選ばれたものを連れていくべきじゃないかと思って。たいへんな冒険をした場合も、帰ってきたときに儀式をする必要があるわけでしょう。わたしの直感だと、どうもそうなりそうなの。エイリアンは抵抗するかもしれないし、なにがどうなるかわからない。ここだけの話だけど、クリムヒーン艦長が考えてるよりも、この追跡は長くかかりそう。それに、彼が思っているより、彼らが遠くからきたこともまちがいない。あのエイリアンは意外なことだらけなんだもの!
そこで考えたんだけど、あなたのうちの乳母のトムロ。カンリーが学校へ通うように大きくなったいまでは、もうずいぶん年とって弱ってるでしょう? それに、トムロならある程度の教育があるから、大霊のもとへ美しい名誉の帰還ができるのをよろこんでくれるんじゃないかしら? あなたはどう思って?
よかった。きっと賛成してもらえると思ったの。じゃ、もしよければ、宇宙港へ行く道で、トムロを迎えにそちらへ寄るわ。レイロイにもさよならがいえるしね。
わたしはトムロが大好き。最後までだいじにめんどうを見ます。トムロもわたしを好いてくれてると思うの。そうじゃない、カナック?
よかった! じゃ、いそいで準備しなきゃ。想像できる? はじめてあの恐ろしいジューマンの言葉を研究しに東方へ行ったときは、戦闘任務に参加してエイリアンを追跡することになるなんて、夢にも思わなかったわ。さよなら、カナックリー、さよなら。レイロイに伝えてもらえる? 尾飾りをふたつほどバッグに詰めたら、すぐにおじゃまするって。ええ、わかった――つぎに帰ってくるときには、耳がもげるほどみやげ話を聞かされるのを覚悟しててね! じゃ、さよなら、お元気で!」
また、何年もが過ぎる……。
宇宙の闇の中、空虚な〈リフト〉の深みの中で、ビーコンの無音の声が泣きさけぶ。
その声にひきよせられて、ヒューマンの船という銀色の魚が近づく。減速をはじめる。そのビーコン――ビーコン・アルファ――は、大きな氷惑星のまわりをめぐり、氷惑星はもっともっとのろい軌道で、大きな青い太陽のまわりをめぐっている。
しかし、その小さい船はひとりではない。その背後、ほとんどセンサーの範囲ぎりぎりに、もっと大きい船がつづいている。ジールタンからきたジーロの戦艦が一隻、容赦なくあとをつけてくるのだ。
小さい船内では、四人のヒューマンの体が冷凍睡眠カプセルからころがりでる。最初に頭にうかぶのは、不安。自分たちを目覚めさせたものは警報か? 戦艦がせまってきたのか? だが、警報装置は静かなもの。増幅されたビーコン・アルファの呼びかけだけが、ブリッジの中にひびいている。
ディンガニャール中尉はスコープにとびつき、冷凍睡眠の最後のもやを目からぬぐいとる。すばやくあたりを走査し、質量接近探知機に目をやり、宇宙レーダーを回転させて、またスコープにもどる。
「うまくまいたぞ!」と彼はさけぶ。「ビーコン・ベータでの観測は正しかった。むこうはこっちのスピードに追いつけない。やったぜ、大成功」
「これはずいぶん有利だ」大喜びするみんなにむかって、アッシュ船長が醒めた口調でいう。疲労から休息をとる必要にせまられて、最後に戦艦の速度を記録したとき、コンピューターは追手をひきはなせる可能性がかなり高いと予測した。当時はそれがただの確率だった。いま、それが現実になったのだ。
しかし、それは救済ではない。アッシュがいうとおり、たんに有利なだけにすぎない。ビーコン・アルファで戦艦とがまんくらべをするときに有利なだけだ。相手を完全にまいたり、どこかへこっそり隠れたりできる望みはない。リフト・ランナー1号は、ほとんど未踏の空間にイオンの航跡を残している。いくら反転迂回を重ねて隠れても、遅かれ早かれ敵はこっちを見つけるだろう。
「これからどうします?」とディンガーがきく。
「コースからそれて、あの惑星のかげに隠れて待つ」とアッシュがいう。「それから、あいつと鬼ごっこだ。ビーコンをめぐり、惑星をめぐり、あの恒星をめぐり……救助の到着を待つ。ただ、それがむりなんだ。それだけの燃料がない。だから、わたしの計画はこうだ。しばらく回避運動をつづけ、そのあいだに相手の旋回半径、加速能力、その他の飛行特性をできるだけつかむ。そして、もしむこうが真剣にわれわれを捕えるつもりなら……そこで和平交渉をこころみる」
「むこうはこっちが燃料不足なのを知ってるかもしれない」ディンガーが意見を述べる。「それとも、むこうも燃料不足かもしれない。しかし、よほど燃料に不足してないかぎり、和平交渉に応じるでしょうか?」
「むこうの補給船はまもなくやってくると見なければならんだろうな」アッシュはいう。「もしわたしがあの艦長、クリムヒーン艦長の立場なら、〈リフト〉内部へはいることがわかったとたんに、まず増援と補給を要請しただろう。超光速通信があるなら、なおのことだ。だから、こっちがなにをするにしても、増援が到着する前にやらなくてはならない」
「それで?」
「切り札はひとつある」アッシュはゆっくりという。「スピードと機動性にかけてはこっちが上だから、体当たり攻撃はできるだろう。つまり自爆だ。それによって、連邦への脅威のひとつをおそらく抹殺できる。もちろん、破片はあとに残るから、むこうの増援部隊はなにが起こったかを推測できる。しかし、かんじんの司令官がいない。いっぽう、こっちは事前にその意図を基地に伝えておくわけだ。しかし、本当にそれでいいのか? きみたちに投票してもらおう。捕獲されないうちに、体当たりをすべきかどうか? それが意味するものをよく考えてほしい。それによって、戦争の危機がより近づくことにならないか、と」
沈黙がおりる。水のない惑星にあるエイリアン監獄での長い歳月と、尋問と、基地からの救助隊到着の可能性、自分の生活と希望を、みんなが秤にかける。
ディンガーがやっと口をひらく。「わたしは体当たりに賛成です」
「賛成」とシャーラがいう。「プフーッ!」
「こんな見かたもできます」とトーランがいう。「むこうの増援部隊がここへ到着したとき、なにがあったか見当がつかないかもしれない。こっちがなにかの超兵器を持っていたと思いこんで、うまく怖じ気づいてくれるかもしれない。わたしも体当たりに賛成です。一、二度狙いがはずれてもやりなおせるだけの燃料があるうちに」
「では、それを記録にとどめておこう」アッシュがおもおもしくいう。「トーラン中尉、いまの計画を連邦基地九〇〇あてのメッセージにしてくれるか。あの戦艦の性能についていくらかのデータをつけたすことができた時点で、さっそくそれを発送しよう。シャラーナ中尉、和平交渉のメッセージをピジンで作文するのに、きみの力が必要だ。全体的な調子は、戦争でなく平和。彼らを基地に招待し――できれば、例の惑星破壊兵器を除外してだが――そのあとで交易をすすめる。手はじめに、われわれの映像テクノロジーと、むこうの超光速通信。それらをぜんぶメッセージに含められるか?」
「あの小さなジラなんとかが乗りこんでいて、あの上級セットで勉強してくれていればね。彼女がそうしてない場合を考えて、簡単なものにしましょう」シャーラは副操縦席に近づく。「あれっ、びっくりした!――ねえ、感じません? あの架空の体もしっぽもすっかりなくなってる!」
「そういえばそうだ!」
「すばらしい!」
「わあ、すてき、もうあんなぶきっちょな思いをしなくてすむ!」シャーラはあざやかに側転をやってのける。冷凍睡眠カプセルのおさまったその小部屋は、くるくる回転している。この回転が最低限の重力を供結し、長い睡眠のあいだも乗員の健康をたもってくれる。
「それはどうかな」と冗談好きのディンガーがいう。「しっぽがなくて、物たりない思いをするかも。あれはそれなりに面白かった」
「明らかにジーロの感化力の外に出たらしい」とアッシュがいう。「だが、なぜだろう? あの効果はこのビーコンではじまった。いや、待てよ――いま本船はこの惑星をめぐる軌道の基地側にいる。ひょっとすると、まったくの偶然で、われわれはビーコンをちょうどその、えー、感化力の限界ぎりぎりに設置したんだろうか?」
「この世はふしぎでいっぱいだ」とディンガーがいう。
「ひとつ仮説があります」と目に見えて明るくなったシャーラがいう。「ひょっとして、われわれヒューマンも力場を発生してるのかも! そう考えて、なぜいけないんです? もしわたしたちのいる場所が、ふたつの力場の重なるところだとすれば、とても明確な境界ができるんじゃないでしょうか? ひょっとしたら、それが前後に微妙に揺れてるのかもしれないし」
アッシュ船長はソフトウェアの中をさぐっている。「ここにE&Eプログラムがある。回避《イヴェイジョン》と脱出《エスケープ》だ。相手の船の機動性と、どんな制約があるかを見きわめるまでは、手動操縦でいくしかないだろう。むこうが小火器を積んでないかぎり、狙撃される心配はない。あの惑星破壊ミサイルは大きくてのろまだから、小さくて敏捷な目標には命中しない。おそらくむこうは牽引ビームでわれわれをとらえるつもりだと思う。その射程と威力は未知数だ。いちおう大事をとって、連邦製の一・五倍と見積もっておこう……。しばらくはあまり睡眠がとれそうもないな。すくなくとも、全員いっしょには」
「むこうはビーコンをふっとばすかもしれない。押しつぶすかもしれない」スコープにとりついたまま、ディンガーがつぶやく。「しかし、また新しいビーコンを設置すればいい。もし、むこうがわれわれの隠れ場をなくすために惑星を破壊したら、その破片が目印になってくれる……しばらくはね。ああ、神々にかけて、こんな状況は罪悪ですよ。ここには、会合と交易のできるすばらしい惑星がいくつもあって、しかも、ちょうど中間点なのに……」
「こうなってしまったのさ」アッシュが暗い口調でいう。
「さっきの仮説だけど」とシャーラがいう。「まだなっとくがいかないんです。ヒューマンも感化力の場を投射できないわけがないと思うんだけど」
「もしそうなら、あのとき、エイリアンの訪問客がなにかいっただろうと思うが」トーランがメッセージ・パイプの準備をしながらいう。
「それはどうかしら」シャーラは動じない。「こんな現象は、ほんとになにもない空間でしか現われないのかも。それに、〈リフト〉を越えて、連邦のほうへやってきたものはだれもいない。例の赤イモリ効果も、〈リフト〉の一部のようにからっぽな空間で起こった。そういいませんでしたか、船長?」
「たぶんそうだと思うが、確信はないな。その仮説はいい線だと思うよ、シャーラ、しかし……」
「でも、エンジンがスタートしないうちに速度を測るな、ですか? ママの口ぐせ。わかってます……。でも、ほかの種族にある能力は、ヒューマンにもちゃんとあると思いたいんです。そうだわ――もしかすると、どの種族も力場を発生してるのかもしれない。強弱の差はあってもね――だけど、それが感知できるのは、よほど低濃度の空間に近づいたときだけなんだわ!……もし、あっちの船にいるジーロが、架空のヒューマンの体を感じてるとわかったら――その仮説を最初に聞いたのがここだということを忘れないでね。じゃ、わたしは仕事にかかります。あのおっかない追手がおっつけ姿を現わしそうだから」
「もし現われたら」とアッシュがディンガーにいう。「その方角をきっちり記録しておいてくれ。増援部隊がどこから現われる確率が高いか、それでわかる」
「メッセージにこれまでの記録を口述しおわりました」とトーランがいう。「もし和平交渉が失敗した場合、体当たり攻撃する意図も含めて……。あの大きな青い太陽を“エカテリーナ”と命名することに、みなさんご異議は?」
みんなが賛成する。しかし、いま貨物室に冷凍され、生命もなく横たわっている若い女性のことを考えて、一時的な高揚状態は消える。行く手にある運命はわびしい――ほとんど未知の敵との生死を賭けた操縦の腕くらべ、しかもそれが自爆による死で終わる可能性は大きい。安全な避難所、けっして敵をそこに誘導してはならない故郷が、わりあい近くにあるというのに。その上、すべてがあまりにも不必要で不可解だ――本来なら友好的に接触できたはずの異種族を敵にまわしたこと、すべての上に重くたれこめる星間戦争のおそろしい見通し――ディンガーのいったように、これは罪悪だ。その罪悪に対して、自分たちはまったく無実だ、悪運に動かされる駒だ……あの小柄な通訳がいった言葉――“ジューマノール・みな・ころす!”が、一同の頭の中にこだまする。
「きたぞ!」ディンガーが計器を指さす。「やってくる……もしむこうのセンサーがこっちなみの性能なら、まもなく減速がはじまる……。よぶんな赤外線がかすかに感知できる――貨物室の人員によるものかも」
「冷凍睡眠中の海兵隊かな」とアッシュがいう。
「視界はおそろしく良好――あと一、二分で例のミサイル発射管が見分けられそうだ」
このころには、大戦艦は肉眼対象になっている。リフト・ランナー1号がビーコンを通過するときにたどったコースを、一路|驀進《ばくしん》してくる輝かしい小片。
「こっちを探知して、まっすぐ接近してくるまで待とう」アッシュがいう。「それから、約一七五度の角度で離脱し、惑星をあいだに挟み、つぎの惑星のまわりをUターンして、またむこうの接近を待つ。ミサイルのデータがわかりしだい、トリーに知らせてくれ。こっちが回避運動にはいったあとで、敵の反対側からパイプを発送する。グリーン?」
「グリーン」
彼らは待つ。戦艦はすでに減速をはじめており、逆噴射の炎が巨大な夜の花のように咲く。ディンガーは小型ミサイル発射管を見てとる。からっぽだ。この戦艦は、八基の惑星破壊兵器と思われるものしか装備していない。
「航法にちょっとむらがあるな」アッシュが批評をくだす。
敵が大きくターンをする。明らかに獲物の航跡をさがしているらしい。見まもるうちに、むこうはひとつのコースを定める。こっちがはっきり見えるのにちがいない。またもや閃光。それが消えたとき、むこうがまっすぐこっちにむかっているのが見える。しかし、狙いは正確でない。エイリアンのパイロットは二度も――いや、三度もコース修正をする。アッシュは首をひねる。
敵の戦艦が観測窓の中でしだいに大きくなるのを待って、アッシュがいう――「急発進の用意」さらにむこうが大きく迫ってくると、とうとうシャーラは待ちきれなくなって、不安そうにアッシュをふりかえる。アッシュは鷹のように操縦装置の上で身構えたままだ。さらに大きく、近く――そしてとつぜん、加速の巨大な拳が一同をはじきとばす。アッシュが推力のありったけを使って戦艦とすれちがい、いまむこうがたどってきたコースを逆にひきかえしたのだ。
「むこうはあの惑星を一周するだろう」アッシュはそういって、うしろをふりかえる。敵の戦艦がまさしくそうしているのを一同は見てとる。そして、その動きがどこかぎくしゃくしていることも。
「もう惑星のそばには停止しない。むこうのターンを楽にしてやるようなもんだ」アッシュが眉をよせていう。リフト・ランナーが加速して惑星のそばを離れたとき、戦艦はやっとターンを終わり、あとを追ってくる。
「メッセージ・パイプ発送しました」トーランがいう。「相手の力場の外で発射できたと思います」
しばらく直線飛行がつづくあいだに、戦艦はどんどんひき離されていく。「燃料さえあればな」とアッシュがつぶやく。「この競走も面白かったろうに……。よし、むこうの船尾にくっついて、話しあいをはじめよう。わたしのスピーチはできたかね、シャーラ?」
ビーコンの呼び声が薄れかかる。ディンガーが感度を上げる。
「ビーコンを見失いたくはないな」とアッシュ。追跡者を見ながら、北東へ針路をかえはじめる。それにならって戦艦のジェットが閃光を放ったとたん、アッシュは反対側のスラスターを全開にして一八〇度反転、そのまま加速する。
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「さあ、お手並み拝見といくか」敵にむかって小さくつぶやく。
戦艦はまだ見当はずれの方向へターンしながらすれちがう。アッシュは、もう一度反転して、また乗員をキャビンの中へはじきとばす。一回の修正――それだけで小さい船は戦艦の背後へぴたりとくっつく。「こんなにあっさりいくはずはないんだが」アッシュは不審そうに眉をよせて、感想をのべる。
「へんな話ですが……」トーランがいいかけて、ためらう。
「うん、どうした? なにか感じるのか?」
「よくわかりません。ただのトラブル、かすかな。かすかな……。ああ、くそっ、たぶんわたしは気がくるったんだ」
「いや。むこうの反応は正常じゃないよ」
シャーラがメモ・プレートをアッシュに渡す。「これがスピーチの草稿です。どの単語も、初級セットにあるものばかりです」
「うん……ありがとう。こりゃまるっきり赤ん坊の片言だな、ちがうかね?」
「ピジンはほとんどひとつの言語ですよ。彼らの“ジューマン”と“ユーマン”の区別を利用してみたんです。それがこっちの強みですから。それと、むこうが再解読できるように、あとで全文をくりかえしたほうがいいと思います。といっても、二度も読みたくないでしょうから、録音してください――スピーチをはじめるときにそのスイッチを押して――あとで再生すればいいんです」
「グリーン。訂正を要する箇所はなにもなさそうだ。よし、はじめよう」アッシュは親指で通話機のスイッチをいれる。「リフト・ランナー――こちら・連邦・船・リフト・ランナー。連邦・ユーマノール、ジーロ・戦う船・呼びかける。連邦・ユーマノール・おまえたち・呼びかける。答・待つ。ジーロ船。聞こえるか? クリムヒーン艦長、聞こえるか?」
受信側からは、なにか足をひきずるような、耳ざわりな物音だけで、なんの応答もない。それと、かすかなうめきに似た声。「すくなくとも、むこうはピックアップをひらいてる」とトーランがいう。
「クリムヒーン艦長?」とアッシュはくりかえす。それからすばやく送話機を手でふさぎ、みんなにいう。「いいか、みんな……できたら、これは聞かないようにしてくれ。自分がまぬけになった気分だ」
「了解」一同はそれぞれの仕事にもどり、アッシュはスピーチにとりかかる。だが、聞くまいと努力しても、アッシュの威厳にみちた口調はいやでも耳にとびこむ。
「わたしたち・話しあい・したい。わたしたち・おまえたち・話しあい・したい、わたしたち・戦う・したくない。なぜ・おまえたち・戦うか? なぜ・おまえたち・連邦・戦争するか? 連邦・戦争・したくない、仲なおり・したい。連邦・わるいこと・しない。わたしたち連邦・〈暗黒界〉ジューマノール・おなじない。〈暗黒界〉ジューマノール・わるいこと・する。人びと・つかまえる、人びと・殺す。ダイモン、ザラナヴェス・人びと・掘る・させる。わたしたち・ダイモン・ほしくない。わたしたち・ジーロ・仲よくしたい。わたしたち・〈暗黒界〉ジューマノール・戦う……」さらにスピーチはつづき、交換訪問の招待がはじまる――「おまえたち・連邦くる、ハロー・いう。連邦・ジールタンくる、ハロー・いう」そして最終的な交易の可能性と、戦争の惨禍の警告。
さっき赤ん坊の片言だとばかにしたのに、アッシュはこのスピーチに情熱をそそぎこむ。「おまえたち、わたしたち・つかまえる、わたしたち・殺す。連邦くる、おまえたち・つかまえる、おまえたち・殺す。おまえたち、連邦・くる、基地・こわす、みんな・殺す――連邦、ジールタン・くる、ジールタン・こわす、人びと・殺す。おまえたち、連邦・くる、もっと・基地・こわす――連邦、おまえたち・くる、もっと・ジーロ・惑星・こわす、もっと・殺す――ジーロ・大きい、連邦・大きい! 人びと・ぜんぶ・殺す! 戦争・戦争・戦争・長い・戦争。わるい・わるい・戦争、終わり・ない。なぜ・戦争・はじめるか? わたしたち・話しあい・したい、仲なおり・したい」
彼が話しているうちに、スピーカーからかすかな物音が聞こえる。呼びかけをやめずに、アッシュはトーランに、もっとそばへきて、スピーカーに耳をくっつけろ、と手まねで命じる。「いま・話・二回・する」アッシュはスピーチを終わり、レコーダーを送話機につなぐ。「疲れた! なにが聞こえる、トリー?」
答えるかわりに、トーランは音量を上げる。なにも聞こえない――やがて、子供っぽい声がいう。「たすけー!」
アッシュは送話機をとる。「なに? もっと・いえ!」
「たすけー」と小さい声がさけぶ。「くる・たすけー? おーきー・ひーとびと・びょーき。おーきー・ひーとびと・とても・とても・びょーき……。いま・たいれー・いく……くる・たすけー」
なにかが倒れたような音がする。もう声は聞こえない。
ヒューマンたちは顔を見あわせる。「いったいあれはなんだろう?」
「なにかの計略?」とシャーラが疑う。
「もしも罠なら、実に巧妙だ」アッシュは送話機に向きなおる。「おまえはだれだ? 身元を……身元を明らかにしろ。リフト・ランナーに呼びかけているのか?」
しかし、その小さい声、子供っぽいがヒューマンの子供ではない声は、ただ弱々しくこうくりかえすだけだ。「たすけー……くる・たすけー」
「われわれにそっちの船へきてほしいのか?」
答はなく、なにかをひっかくような音だけがする。
アッシュはためいきをつき、一同をふりむく。「どうもなにかの事故があったようだ。しかし、敵の罠かもしれない。諸君全員の命を危険にさらすわけにはいかん」
「わたしは救助に投票します」とシャーラがいう。
「賛成」とディンガーがいう。「とにかく、体当たりよりゃましだ」
「まいったな、もう」トーランはコインをはじくふりをして、掌の下をのぞく。「賛成」
「そうか……じゃ、グリーン」とアッシュ。「ただ、武器は持っていこう」
「武器――」ディンガーが戸棚をさぐる。「どこへスタン・ガンをおいたっけ? あった!」
「それともうひとつ」アッシュが船長らしい口調でいう。「あっちのジーロが〈暗黒界〉のヒューマンにしか会ったことがないことを認識しておこう。彼らは〈暗黒界〉のやりくちを知っている。やつらのやりくちをまなんだかもしれず、独特の手のこんだ策略を心得ているかもしれない。もしこれが罠だとしたら、こっちはむこうが牽引ビームでやるはずのことを、無料でやってやることになる――わざわざこっちから出向いていくんだからな。さて、もしむこうが楽な方法で、つまり、人質をひとりかふたりとって、さらに協力をとりつけようとしたら?」
小さくつぶやきながら、一同はそのことを考える。
「きみたちはどうか知らんが、もしむこうがこの中のだれかを傷つけはじめた場合、わたしが抵抗をつづけられるかどうかは保証できない。たとえば、失明させるとか……」
「こんどだけはわたしの勝ちですね、船長」とシャーラがいう。「人質となると、まずわたしが狙われると思いました。そこで、例の緊急用品を思いだしたんです」彼女は自分のあごをなでる。「でも、これつけてると、物が食べにくいんですよね」
「例の義歯をはめたのか?」アッシュは驚く。「いや、そいつはお手柄だ。どうかそれを使う必要が起きませんように。よし――トリー、ディンガー、われわれもそれを見習おう。みんな、自決カプセルはもってるな?」
「はい」
「そいつをいまはめてしまおう。シャーラ、ちょっと操縦を代わってくれ――あの船からのささやきを聞きのがすな。むこうがじっとしてくれてりゃいいが」
三人は立ちあがり、用具戸棚にむかう。
もどってきた三人は、自己解放の小道具のはまった口を、ためしに動かしてみる。「ホロ・グリッドのスターみたいな気分だ」とディンガーがぐちる。「こいつは実用的なんでしょうな」
「うん」アッシュがうけあう。「それに、神々もわれわれの味方だ。あの船は加速しなかった。どうやらこっちをたよりにしているらしい」船長は、リフト・ランナーを戦艦に接舷させようと、操作をはじめる。
「むこうの通話機はまだひらいてます」とシャーラが報告する。「でも、聞こえたのは、乱れた足音が遠くへ消えていっただけ……あ、待って――だれかがうめきました。うんと小さく」
「芸術的だ」アッシュは皮肉な感想を述べる。「あの舷門のサイズを見てくれ。こっちのフランジがうまくかぶさるといいがね」
戦艦は依然としておなじコースを進みながら、静かに横揺れしている。それとも、よろけている。相手と動きを合わせ、こっちの小さい舷門の縁を相手の船に固定させるには、アッシュのもつ技術のすべてが必要だ。
その作業が完了したとたん、つながった船殻を通して、ガーンと大音響が伝わってくる。観測窓のそばで宇宙服を着こんでいたシャーラは、戦艦の大型ミサイルのひとつが無音の炎とともに発射されるのを見てとる。一同が見まもるうちに、ミサイルは虚無へのコースをひた走りに去っていく。
「だれかが病気で頭がおかしくなったらしい」アッシュがいう。「それに、敵意も……。よろしい。エアロックをあけて前進だ。むこうの舷門をあけたら、銃の安全装置をはずせ」
しかし、戦艦の舷門をあけるのは、そう容易でないことがわかる。立ち入りを許してくれるはずの非常ハンドルがきかない。
「舷門をあけろ! あけろ!」アッシュがどなる。
「船外活動で、窓からのぞいてみますか?」シャーラがたずねる。
しかし、舷門の内側でカチッという音が聞こえる。子供っぽい声がさけぶ。「あける! わたし・あける」
やがて、とうとう舷門がゆるむ。彼らは静かにそれをあけ、大きい、静かな、からっぽのエアロックにはいる。つながった船の境界を横ぎったとたん、ほとんど地上なみの重力が彼らをよろめかせる。
「人工重力だ」ディンガーがささやく。「運のいいやつら」
内扉は半びらきだ。酸素の濃い空気が中から漂いだす。アッシュはスタン・ガンを構えて内扉を押しあける。左右をうかがい――つぎに眼前の光景に目を見はりながら立つ。ほかの三人はそのうしろにかたまる。
大きなブリッジはほとんどからっぽだ。右前方に、床が一段低くなった操縦席があり、ふたりのジーロがなかば座席からはみだして倒れている。左側には、照明のついた植物栽培棚がある。水を恐れる種族が作ったものなので、水耕式ではないが、なんとなく異状があるようだ。彼らのすぐ前では、小さいクリーム色のにこ毛をしたエイリアンがひとり、弱々しく床を這って植物栽培棚に近づこうとしている。息が苦しそうだ。巨大な冷凍睡眠カプセルがいくつか、使用中のライトがついて、奥の船殻のそばに並んでいる。
「ハロー!」とアッシュがいう。「わたしたち・くる・たすける。ここの・あー・わるいこと・なにか?」
しかし、床の上の生き物はなにも答えず、いっそう激しく息をあえがせる。
ディンガーとシャーラがそっちに近づく。大昔のおもちゃ、クマのぬいぐるみに似た、かわいい生き物。しかし、ピンク色の口はひらき、顔はいまにも窒息しそうにゆがんでいる。彼らの質問に答えもせず、ひたすら植物の棚へ這っていこうとする。
「てつだってあげる」とシャーラがいう。ふたりはどちらも手袋をはめた片手をエイリアンの上腕の下にあてがい――この生き物の形は大きなジーロに似ているが、身長は半分ぐらいしかない――植物のトレーが並んだ棚まで運んでやろうとする。頭を持ちあげられた生き物が抗議の声をもらすので、ふたりはまた相手を床におろし、トレーのほうへひきずっていくことにする。
いったんそこまでくると、その生き物はだしぬけにふたりの手からすりぬけ、立ちあがって、地衣類に似た赤っぽい植物の中に鼻づらと頭をうずめ、深呼吸する。
「この仕組みに、なにか異常が起きたんだ――ほら、このへんはすっかり枯れかかってる!」ディンガーが並んだ植物の上で手をふると、だしぬけにそれらが彼の腕のあとを追うようにして倒れ、ぼろぼろに崩れて粉になる。「ただの土ぼこりが立ってるだけだったのか!」
「問題は、これらの植物が放出するものの不足にちがいない。見ろ、応急の収集管がそこに作ってある」アッシュは棚の前にそった長い空気取入れ口を指さす。それが漏斗形のダクトにつづいている。「あれが操縦席まで伸びてるんだ」
「この植物が放出するのはCO2[#「2」は下付き小文字]ですよ」ディンガーがいう。「炭酸ガス。すくなくとも、前に調べたときはそうでした。筋がとおるな。いいですか、あのファンがガスを棚の前縁まで送りだす。炭酸ガスは空気より濃いから、この収集管の中に溜まって流れていく。彼らは大気中のCO2[#「2」は下付き小文字]を必要としているにちがいない。ところが、なにかがこの仕組みに起きて、CO2[#「2」は下付き小文字]の不足で死にかけてるんです」
「炭酸ガスを含んでるものはなに?」とシャーラが現実的な問いかけをする。「わかった――わたしたちの吐く息!」フェースプレートはひらいたままだ。彼女は息をあえがせている小さいエイリアンのそばにしゃがみこみ、その鼻づらに軽く息を吐きかけてみる。ふいに相手はむさぼるように息を吸いこみ、彼女の鼻にくっつきそうなほど顔を近づける。
アッシュ船長とトーランは、操縦席の大柄なエイリアンを調べてきたところだ。
「ジラとクリムヒーンだよ」とトーランはふたりに教える。「どっちもなかば意識がある。あの収集管につないだ鼻マスクを着けているんだ。クリムヒーンは銃の一種をしっかり握りしめている」
「あのマスクはあんまり役に立ってそうもないな」とディンガーがいう。「まだ枯れてない植物はほんのわずかですよ。彼らの症状は炭酸ガスの欠乏。いまからこのホースを二本はずすから、めいめいで息を吹きこんでください。われわれの吐く息には約四パーセントの炭酸ガスが含まれている。これは彼らの大気の組成に近い。もし五パーセント以上なら、こっちに影響があったはずです」
「大気分析では三・六パーセントだった」アッシュが彼の言葉を裏づける。
ディンガーはジラのホースを中央パイプからはずす。「ほらよ、トリー」
トーランはホースをつかみ、息を吹きこむ。彼の吐息が届くと、ジラはけいれんのように息を吸いこみ、また吸いこむ。一分ほどで目がひらき、ふしぎそうに彼らを見あげる。口が動く。「ジューマノール!」とジラは弱々しくさけぶ。「わるいこと・する・だめ!」
「われわれ・ユーマンズ、ジューマノールない」アッシュが教える。「われわれ・わるいこと・しない」
ディンガーは大柄な艦長のホースをすでにはずしている。それをアッシュにさしだして、皮肉な引用句をつけたす。「地位には特権あり」アッシュはホースを受け取り、まもなくクリムヒーンが身じろぎして正気づく。
クリムヒーンの最初の行動は、ホースを顔からもぎ離し、アッシュに武器をつきつけることだ。「つかまえる!」
「まったく、もう」とディンガーがあきれ顔でいう。クリムヒーンが息をつまらせ、ふたたびぐったり意識を失うのを待って、アッシュは銃をとりあげ、それを制御盤の上におく。ディンガーは大柄なエイリアンにすこしずつ息を送りこむ。
「船長、しばらくこの大将をお願いしますよ」とディンガーがいう。「わたしは補給品をとりにいってきます――消火器、水耕用の炭酸ガスのボンベ。ほかに思いつくものがあったらなんでも」
「ひとつ……思いついた。しかし、だれかが……船外活動しなくちゃならない」トーランが息を吹きこみながらいう。「船のベントのまわりに……くっついたドライアイス。もし……あれが日蔭にあれば」
ディンガーは戦艦の大きな観測窓に駆けよる。「ほんとだ、うまいぞ。応急装置をこさえるまでは、それでなんとかもつだろう。トリー、きみは天才だ。どうしておれが思いつかなかったんだろう!」
「ほんの……まぐれさ」トーランがいう。「口移しの人工呼吸を……これから二年間もつづけるんだと思うと……つい脳が刺激されてね」
そのあとはてんてこまいになる。会談ができるように、エイリアンたちの呼吸装置をいちおう準備しなくてはならない。トーランが頭に描いた長期人工呼吸は、緊急事態のときしかだめだとわかる。ヒューマンの息に含まれる水蒸気で、エイリアンの鼻づらに痛々しいやけどができるのだ。ジラが患部を見せる。クリムヒーン艦長は侮蔑的でストイックな態度をくずさず、無言でヒューマンのあらゆる動きを見まもっている。炭酸ガスのレベルが回復すると、ジラはしばらく補給なしでもだいじょうぶなことに気づき、艦内の医薬品をさがしに行くと申しでる。“はな・よいもの”つまり、やけどの軟膏をさがしにいくためだ。
しかし、立ちあがって、いそいで床を横ぎろうとしたジラは、いつものなめらかな動き、軽快な跳躍が、足をひきずった走りかたに変わっているのに気づく。おまけに上腕はだらんと垂れたままだし、しっぽはのろのろとしか動かない。
「なぜ・わたし・おまえたち・おなじか?」とジラはたずねる。「ジューマノール・おなじか? うで・ない! みる――おまえたち・おなじ!」ジラはクリムヒーン艦長を示す。見ると、艦長はふだんなら活発な上腕を組んで、体にくっつけている。そう、艦長がさっき武器を構えたのは、力仕事用の大きな下腕だったし、しっぽはいまも垂れたままだ。
「ヒューマンになった幻覚を見てるんだわ!」とシャーラがさけぶ。「ね?」
「たしかにそのようだ」とアッシュが認める。
ジラが艦尾の壁の引出しから軟膏の瓶を持ってくるのを待って、ヒューマンたちはこの空間で前に自分たちが味わった正反対の効果を、彼女に説明しようとする。「ジールタン・いる・とき・われわれ・おまえたち・おなじ・思う」クリムヒーンは無言でこのやりとりに聞きいっている。「われわれ・おなじ・しっぽ・作る・思う」
この考えの一部はむこうに伝わったようだが、“感覚”に相当する共通の単語が見つからない。
ジラがまた息をあえがせはじめ、軟膏を持ったまま仰向けに倒れたとき、彼女の幻覚は強烈になり、トーランの目にも、赤い肌の娘がデッキを駆けていくイメージがちらつく。ジラはまたホースをつかみ、彼の息をむさぼるように吸いこむ。わが命の息、とトーランは思い、つかのま強い保護意識を感じる。このかわいい生物は故郷を遠く離れ、自分の命をエイリアンのなすがままにゆだねているのだ。トーランはにっこり彼女に笑いかける。ひょっとすると、表情もいくらか通じるかもしれない。種族間戦争という考えがクリムヒーンの背後におぼろげに見える。言語道断な考え。
クリムヒーンは横柄な態度でジラからやけどの軟膏を受け取るが、CO2[#「2」は下付き小文字]が下のほうに溜まっているから頭を低くしろという助言を、かたくなに拒む。しかし、ジラのほうは聞きわけがよく、一段低い操縦席のカーペットの上に、しっぽを手でどかして、心地よさそうに横になる。
「ここにはしぜんに重いガスが溜まる」とディンガーがいう。「一段高くなくてよかった。もしそうだったら、ふたりとも死んでいたよ」
ガスを集める漏斗の中に消火器の泡を吹きつけながら、ディンガーは説明する。
「あのダクトの中にのろい回転のファンがある。炭酸ガスは重力で流れこみ、それをファンがむこうへ押しだす。よし。これでためしてみよう。いま息を吹きこんでいるホースの端を中央のパイプにはめこむんだ。もし、量が充分なようだったら、シャーラ、きみの患者もここへ連れてきて、つないでやってくれ。鼻マスクがそこらにもひとつころがってたと思う」
一同はそうする。この仕組みはうまく動くようだ。ただし、ヒューマンがだれかそばにいて、CO2[#「2」は下付き小文字]の補充をしなくてはならない。シャーラがふしぎな小さいエイリアンをこっちへ運んでくる。その大きな目からは青っぽい粉があふれでている。「鼻が痛いからだと思うわ」とシャーラがいう。「トムロという名前なの」
シャーラの吐息でできたトムロの鼻のやけどに、ジラが軟膏を塗ってやる。「これ・ムルヌー」とジラはみんなに教える。「ムルヌー、ジーロの、えー、こども・そだてる。ムルヌーは・ジーロ、でも・おなじない」ジラはトムロに告げる。「よい・ムルヌー。じき・しぬ」
「わたし・よぶ。わたし・たすけー・たのむ」トムロは弱々しく、だが誇らしげにいう。
「トムロがあんたらの命を救ってくれたのよ」シャーラは憤然としていう。「つまり、トムロ・おまえたち・死ぬない・助ける」
「そう。よい・トムロ。としより・じき・しぬ」
謎は依然として残る。
空気植物になにが起こったのかも、やはり謎だ。ジラがいおうとしているのは、こういうことらしい。植物がとつぜん花を咲かせ、結実し、そしてそのサイクルの終わりに枯れてしまった。これは明らかにまれな出来事らしい。
「おそらく彼らは冷凍睡眠にはいるか、すぐにジールタンにもどるつもりだったんだ」とトーランがいう。「ジラは、あの植物がまた生えてくるといってるらしい。事実、芽が出てきているようだ……。もし、あの棚ぜんたいが再生すれば、危機を脱するんじゃないかな」
「それで思いだした」ディンガーがおでこをたたく。「脳よ、目ざめろ!」彼は急いで大きな舷門からリフト・ランナーにとってかえす。そのあいだに、トーランとシャーラはトムロに鼻マスクをつけてやり、中央ダクトからの空気を吸えと教える。
ディンガーが大きなプラスチックの包みを持ってもどってくる。中身は彼が宇宙港で採集した植物だ。
「空気に・よいか? あそこ・植えるか?」と彼はエイリアンの艦長にきく。
クリムヒーンはいくらかうちとけて、肯定のしるしにあごを動かす。ジラは大喜びだ。「おお、よい! おお、よい! これ・たす、もっと・くる・はやい!」ジラはすり足で近づいて、ディンガーが最初の一株を植えるのをてつだい、自分の鼻をその中にうずめる。「ジールタン」と愛しげにいう。「うつ〜くしー・ジールタン」そこで息をあえがせて、また操縦席にもどらねばならない。
「おまえ・銀河語・話す・もっと・うまい」トーランがいう。
「わたしたち・まなぶ、わたしたち・はたらく・まなぶ」とジラは答える。「ねむる・まえ」
「よろしい」それまで無言で、ブリッジとその構造を丹念に調べていたアッシュがいう。「いま・わたしたち・話しあい・するとき。わたし・話・したい。おまえたち・聞く。あー、おまえたち・わたしの・話・聞く・したいか?」クリムヒーンへの質問はしばらく宙に浮くが、やがてエイリアンは不承不承に肯定のうなずきをよこす。
アッシュは、クリムヒーンが冷凍睡眠カプセルのほうにちらちら目をやるのに気づく。その中にはおそらくほかの乗員がはいっているのだろう。植物に妙な徴候が現われはじめたときに、彼らがカプセルの中にはいったことは、ジラもほのめかしている。右端のふたつは暗いままだ。その隣りの明かりのついたカプセルが、クリムヒーンには気がかりらしい。アッシュは歩みよってそれを指さす。「困る・こと?」
クリムヒーンはそっけなく“ノー”のしるしにあごを動かす。しかし、ジラは、「マロリーン・びょーき」と答える。長い胸に手をあて、羽ばたくようなすばやいしぐさをして、同時に息をあえがせるまねをする。「はこ・はいる・はやい・ない」
クリムヒーンは、ジラが敵に告白したことを、不機嫌なうなりでとがめる。
アッシュは考える。もともと心臓に不安がある場合、窒息状態におかれれば、特に危険だ――このエイリアンにも体液を循環させるためのポンプ器官が備わっているとしてだが。大半の種族にはそれがある。
しかし……。「もうひとりふえてもCO2[#「2」は下付き小文字]はたりるかな?」と彼はディンガーにきく。「時間の予測はつくか?」
ディンガーは、収集管の中でゆっくり沈んでいく泡のレベルを鋭い目で見て、残量を計算する。
「そうだな……四人で二日。四十八時間ぐらいですか。しかし、そこでなにか手を打たなければ。たとえば、みんなにカプセルにはいってもらうとか」
アッシュはクリムヒーンのそばにもどり、自分の息の水蒸気からエイリアンを守るだめに、プラスチック・シートを顔の前にかざしていう。
「クリムヒーン艦長。わたしたち・助ける・したい。わるいこと・しない。病気・人びと」――ジラがやった心臓と羽ばたきの身ぶりをまねて――「病気・人びと・眠り箱・なか・いる・よくない。わるい。わたし・言葉・本当、わかるか?」クリムヒーンは彼をきびしく見つめる。「もし・箱の・そと・出る、わたしたち・よい空気・四ジーロで・二日・ある。四ジーロで・二日ある。さて――おまえたち・二番の・船」――彼は相手のきたコースを指さす。「おまえたち・燃料・船、二日の・中・くる・思うか? その船、おまえたちに・よい・空気・もっと・あるか?」
増援のくることをいいあてられて驚いたとしても、クリムヒーンはそんな気配を見せず、鼻マスクの上の大きいひとつ目で、アッシュをじっと見つめるだけだ。
「しかたがない」アッシュはためいきをつく。「ほかの・やりかた・ためす。いま・おまえ・どれだけ・空気ある・知ってる……わたしたち・箱・あける、マロリーン・助ける・よいか?」
「船長」ディンガーがエイリアンの身じろぎを見て、眉を寄せる。「彼はあの鼻マスクに固定されて、居心地がわるいんじゃないでしょうか。ドライアイスをとってきますから、それを袋に入れて持ち歩けるようにすれば?」
「名案だ」
「わたしもいっしょにいくわ」シャーラがいう。「宇宙服も着たままだしね」水蒸気でエイリアンにやけどさせないように、いちばん簡単な方法として、少々動きにくくても、宇宙服をぬがないことにしているのだ。
ふたりはリフト・ランナーの船外作業用出口を使おうと、大きな舷門から出ていく。トーランは、ふたりがなにをしにいったかをジラに教え、いくつかの身ぶりで“シー・オー・ツー”という名前を教える。その身ぶりを見て、ジラは笑いだす。ジールタンでの記憶にある彼女のほがらかな笑い声が失われていないのを知って、トーランはうれしく思う。自分がジラをエイリアンというよりは若い女性として考えていることに気づく。彼女の作業服は、ほかのジーロのとはちがって、絹に似たなかなか魅力的なものだ。
ディンガーとシャーラは、深い断熱タンブラーを四つと、キルトの袋にはいったドライアイスのかけらを持って、もどってくる。
「あと二時間以内に船を動かさないと、ベントが日なたに出てしまいます」とディンガーが警告する。
シャーラは、ドライアイスが液体にならずに、じかに気体に変わることを説明しようとするが、昇華という概念は彼らの言語能力のかなたにある。エイリアンたちは、凍ったCO2[#「2」は下付き小文字]を知らないらしい。
「しかたがないよ、化学者でも技術者でもないんだから」とトーランがいう。「われわれだって、固体酸素を見たことのあるものがどれだけいる?」
彼らはエイリアンにそれぞれドライアイスのタンブラーを渡し、必要なだけそれを吸うようにと教える。「つめたい! とても・つめたい! さわる・だめ!」
しかし、ジラはもうすでに謎の物質をつついている。かんだかいさけびをあげて、彼女は指を口につっこむ。シャーラは彼女を抱きしめ、軟膏を渡してやる。その指は意外なほどヒューマンの指に似ている。
「わたし、わるいこと・する」とジラはいう。「こども・おなじ」クリムヒーンがかすかに鼻を鳴らす。彼は鼻マスクをはずし、用心ぶかくタンブラーを持って、せいいっぱいの威厳をたもちながら、病気のマロリーンのいる冷凍睡眠カプセルへすり足で近づく。
ディンガーの思惑どおり、動きまわる自由をとりもどして、クリムヒーンはいくらか抑制が解けたようすだ。「そう」とクリムヒーンはゆっくりいう。「あける」彼はうしろにさがり、ヒューマンがそれにならうのを待つ。
アッシュはうしろにさがりながら、ジーロの増援に関する推測がいまや裏づけられたのを感じる。二日以内に――もしかするともっと早くに――こちらは数で圧倒され、おそらく速度でも圧倒され、その上砲火を浴びるだろう。まずい。
ジラは大きな冷凍睡眠カプセルの仕組みをトーランとディンガーに教え、ボタンを押して覚醒と開放のサイクルに入れる。明らかにこのカプセルはヒューマンのそれとちがって、中の居住者を外にほうりだしたりしないようだ。サイクルが完了すると、頑丈な外蓋が持ちあがり、軽い内側のカバーを露出する。おそらくそれがマロリーンに解凍の注射か、なにかの処置をしたのだろう。しかし、内側のカバーが持ちあがりかけて、またもどる。マロリーンには中からあけるだけの体力がないのだ。ディンガーがカバーをつかんでそれをひらくと、赤っぽいエイリアンが身をよじり、息をつまらせかけている。ディンガーはドライアイスのタンブラーをエイリアンの鼻の下にさしだし、頭を支えてやる。ジラがかがみこんで、はげましの言葉をささやく。CO2[#「2」は下付き小文字]を吸って、マロリーンは楽になったらしく、また横になる。見るからに健康状態はよくない。ビロードのような茶色のにこ毛が荒れて色つやがなくなり、大きい目はうつろで、なかば閉じている。
ディンガーはすでに聴診器をとりだしている。まずジラの服の上から胸に当てて、正常な心臓の鼓動を聞いてから、マロリーンの胸に移る。
「うーん。まずい。もしこれがヒューマンなら、手のつけようのない重体といいたいね。心臓が弱っていて、鼓動が不規則だ。ときどき、めちゃくちゃに脈が速くなる」彼はジラとクリムヒーンにたずねる。「この船、心臓・よい・クスリ・あるか?」
「な、ない……」クリムヒーンは否定的にあごを動かす。
「この船、病気・見る・人・だれか?」
ジラは冷凍睡眠カプセルの中を指さす。「マロリーン」
「なるほど。船長、マロリーンは船医らしい……。もしこれがヒューマンなら、ジギタリスをのませるところですがね。ただ、あの薬がジールタンにあるとは思えない。もともとは地球産植物の成分ですから。しかし、このまま見殺しにするよりは、なにかの手を打ったほうがいいかもしれない」
ディンガーは救急箱から瓶をとりだす。
「クリムヒーン艦長、これ・ヒューマンの・クスリ、心臓に・よい。しかし、ジーロに・よいか・わからない。わるいもの・ちがう。ほら――」彼は錠剤をふたつに割って、その半分をのみこむ。「この船、ジーロに・よい・クスリ・ない。彼の・病気・とても・わるい、生きる・むり。わたし・これ・ためす、よいか?」
クリムヒーンは冷凍睡眠カプセルに近づいて、中をのぞきこむ。ディンガーは相手が聴診器をまんざらふしぎがっていないのを見て、それをさしだし、自分で聞いてみろと手まねする。聴診器を当てたクリムヒーンは、ヒューマンが見てもそれとわかるような、悲しい表情をうかべる。
「わたし、これ・ためす、よいか?」とディンガーが念を押す。
クリムヒーンのまぶたが垂れる。ゆっくりと彼はあごをうなずかせる。肯定だ。それから身をかがめ、ジーロ語でマロリーンになにかいう。短く沈痛な言葉を。
「かわいそうに」シャーラがささやく。「彼、お別れをいってるらしいわ」
「あの中では死なせたくないな」アッシュがいう。「シャーラ、ジラがいたあの操縦席に、彼を寝かせる場所を作ってくれ。あそこならいちばんいい空気が溜まる」
ディンガーはなんとかエイリアンの口にジギタリスを一錠含ませ、ジラはそれをのみこむようにと説得する。マロリーンは、とまどいと絶望のこもった目つきで周囲を一度見まわすが、すでに衰弱しきっていて、自分が邪悪なジューマノールとみなしているエイリアンになぜ手当を受けているのか、疑う気も起きないようすだ。マロリーンは目を閉じる。一同がカプセルから彼をそっと持ちあげ、一段低い操縦席まで運んでも、目をひらこうとしない。彼は宇宙服をなかば着こんでいる。みんなは彼を楽にしてやろうと宇宙服をぬがせ、薄い枕を頭の下にあてがって、いちばん低い場所に寝かせる。きゃしゃな体格で、年はかなり若いようだ。ディンガーが鼻マスクをひっぱってきて、彼の顔の上に固定し、ジラが十回息をするごとに、そっちから吸入するように教える。しかし、患者が理解したかどうかは疑わしい。
[#挿絵(img/rift_349.jpg)入る]
あと、できるのは待つことだけだ。だが、刻一刻と例の増援の船、または船団が近づいてくる。アッシュ船長は、いまからクリムヒーンと和平交渉をはじめなければならない。
クリムヒーンは操縦席にもどり、マロリーンのようすを見られるように向きをかえている。アッシュが段差のある床に腰をおろす。
「クリムヒーン艦長。一番、わたしたち、おまえたち・つかまえる・しない。わたしたち、おまえたち・助けるため・くる、それだけ。そして、わたしたち・話しあい・したい。戦う・しない。おまえたち・病気・ない・とき、わたしたち、わたしたちの・船・帰る」――彼は指さし、身ぶりする――「そして、わたしたち・帰る。おまえたちに・シー・オー・ツー・ぜんぶ・やる。わたしたち・帰る。おまえたち・帰る。好き・ところ・帰る。わかるか?」彼は丁重さを伝えようと努力しながらきく。
しかし、話しながらも、アッシュはそんなことができないのに気づく。クリムヒーンをいまの心境のままで解放すれば、恐ろしい危険がある。クリムヒーンはだれかを、それともなにかを追って、連邦基地を発見し――問答無用でそれを破壊し――さらに意気揚々と連邦の中を馳《は》せめぐって、ミサイルがなくなるまで手当たりしだいに植民地を破壊していくだろう。かりに、いったんジールタンにもどっても、戦闘艦隊を率いて、また舞いもどってくるかもしれない……。だめだ。なんとか彼の心をやわらげ、うちとけさせなければ。
「おまえ・連邦・くる、連邦・見る、ハロー・いう・して・ほしい。連邦、おまえに・わるいこと・しない。おまえ・つかまえる・しない。連邦、平和・ほしい。戦う・しない。戦争・しない――」ここでアッシュは、さっきだれにも聞いてもらえなかったスピーチの短縮版をこころみる。
クリムヒーンは無感動にそれを聞いている。うわの空で、なにかほかのことに気をとられているようすだ。それがマロリーンのことならよいが、とアッシュは思う。
そのあいだにシャーラは立ちあがって、自分たちの船にいく。やがて、ホログラムをいっぱいかかえてもどってくる。「彼、基地を見たがるかもしれません」と彼女はアッシュに耳うちする。「ついでにリフトの星野写真も持ってきました」
これでアッシュはある考えを思いつく。クリムヒーンの前に大きなホログラムを出し、息がかからないように注意しながら、彼のそばに寄る。
「艦長、見る。ここ・わたしたち・いる。ここ・ジールタン。そして、ここ――シャーラ、なんていったっけな?――ここ・アロワティーラ」アッシュはリフトの北側に大きな円を描く。「そして」――と南側におなじような円を描いて――「ここ・連邦。わたしの・基地・ここ、もっと・基地・ここ・ここ・ここ」――彼は遠い南東のほうを指さす――「ここ・〈暗黒界〉・ジューマノール。〈暗黒界〉、連邦・ない。わるい・人びと。連邦、〈暗黒界〉・戦う。そして、ここ」――その対岸を示して――「ここ、おまえたちの・船たち・いる・だろう。おまえの・船たち、ジューマノール・戦う。そうか?」クリムヒーンは一度まばたきするだけだ。「とにかく、わたし、そう・思う。さて、いいか。おまえたち・家・帰る・一番・よい・方法――」いけない、艦長の銀河共通語の語学力を超えてしまったようだ。だが、ジラが二人のそばにきて通訳をはじめる。
「おまえ、九〇〇へ・わたし・いっしょ・くる、ハロー・いう。それから、おまえ、連邦の・東・いく、ここ・ここ・ここ・基地・ハロー・いう。燃料、空気、そのほか・いる・もの・もらう。それから、ここ・おまえの・船たちへ・帰る。長い・道・帰る・より・もっと・よい――」彼はジールタンへのコースと、遠い南東をまわってジーロの世界にもどるコースをペンでたどってみせる。「こちら・長い、わかる? 連邦・通る・帰る、もっと・早い。もっと・よい。わかる?」
クリムヒーンはトランス状態から覚めたようだ。「それ、よい・かんがえ」と慎重な口調でいう。しかし、アッシュはそこにある底意をかぎつける。このエイリアンは、まったく仮定の質問に応答した感じだ。アッシュは不安な気持ちですわりなおす。
「彼に基地のホロを見せてやってくれ、シャーラ。しゃべり疲れたよ」
ジラの協力で、シャーラは彼に華やかなホログラフをつぎつぎに渡していく。「これ、てっぺん・港……。これ、一番の・門。……これ、集会所、あー、集まるところ……これ、一番・えらい・人、司令……これ、アッシュ船長の・妻――妻、わかる、ジラ? そう。いま・彼女、つめたい・眠り・中・いる……食べる・ところ……ここ、くる・見る・ハロー・いう・人びと・いる・ところ。おまえ、このところ・くる・したい?」
ジラはエキゾチックな光景を見て、うれしそうな声をあげつづける。だが、クリムヒーンは来賓室を批判的な目でちらと見て、噴水を指さす。「これ……みず?」
「そうだわ、忘れてた――おまえ・ほしい・ない、わたしたち・すぐ・とめる」
ショーは終わる。アッシュは立ちあがって、クリムヒーンと向かいあう。
「さて、おまえ・どう・思う、クリムヒーン艦長? おまえ、わたしと・連邦・くる、連邦・通る・おまえの・船たちへ・帰る、したいか?」
意外にも、クリムヒーンはふたたび肯定のしるしに首をかしげ、さかしげに、「よい・かんがえ」という。しかし、こんどもやはりうわの空のようだ。とにかく、アッシュとしては、根本問題について、いうべきことをいいつくしている。あとは基地の外交官にひきついでもらうしかない。さて、こんどは実際的な問題――燃料だ。
クリムヒーンの燃料補給船のほうが、先に到着するのは明らかだ。こちらの補給がくるのは……何年先になるかわからない――そのことは考えるな。とすると、クリムヒーンを説得して、二隻をドッキングさせ、燃料補給がすんでから、連邦基地までの曳航をたのまなくてはならない。いったん加速がつけば、宇宙空間では曳航についての問題はない。この大戦艦なら、充分それができる。
「よろしい。さて、どうして・わたしたち・基地・いくか?」と彼は話を切りだす。「わたしたち・燃料・ない、おまえたち・燃料・ない。連邦の・船・ここ・くる。しかし、おまえの・二番・船・くる、もっと・早い」
クリムヒーンはとつぜん熱心に耳をかたむけはじめる。アッシュは両手を使って、二隻の船をつなぐしぐさをする。「おまえ、あの・大きい・門、おまえの・燃料・船・使う・したい・だろう?」どこでどうやって二隻を連結するかというややこしい質問をアッシュがはじめたところで、ディンガーが口をはさむ。
「そろそろこっちの船を動かさないとだめです」とディンガーはいう。「太陽、船の・上・くる、わるい。シー・オー・ツー・なくなる!」
ジラとシャーラの助けをかりて、その考えが説明され、どこで二隻の船を連結するかという問題は、いまやすっかり熱心になった艦長にゆだねられる。クリムヒーンはドライアイスのタンブラーをかかえて舷門にいき、ドッキング機構を調べる。しばらく内部の複雑な機構を検討しているようすだが、ひきかえしてきて、操縦席の横と背後にある船殻を指さす。
「これ、あー、こまる・ときの・もん。おまえ・ふね、ここ・くる」
「非常口だ。彼はわれわれのエアロックがうまく合うと思ってる。よかった! しかも、影の側にある。じゃ、すぐに船を移動させましょう、船長」
「グリーン。よし、ディンガー、きみとおれとでやれるだろう。クリムヒーン艦長、わたしの・船、いま・ここ・くる、よいか?」
「よい」熱のこもったあごの動き。
そして、数分のうちに、トーランとシャーラはエイリアンのブリッジの中でふたりきりになり、大きな舷窓から、とても小さく見えるリフト・ランナーが離れていくのを見送る。
淋しい時間が過ぎたあと、戦艦の艦首のほうでガリガリすれあう音が聞こえる。彼らは操縦席のうしろに行き、装置類と詰め物をどかして、非常出入口をむきだしにする。そのむこうから、ガリガリ、ガーンと音が聞こえる。
「あけろ!」とアッシュのくぐもった声がする。彼らが扉をあけると、リフト・ランナーのドッキングされたクロール・スペースが現われる。
アッシュ船長が、ごきげんな表情で艦内に這いこんでくる。「作業完了。あれなら重力渦の中でもだいじょうぶだろう。この艦は古いが、装備はしっかりしてるよ。クリムヒーン艦長、おまえの・船、よい・船!」
しかし、クリムヒーンはすでに背を向けて、センサー・バンクを熱心に調べているところだ。ふたたびこっちを向いたとき、ぼんやりしたようすはすっかり消えて、見ちがえるようにいきいきしている。彼は送話機をとりあげ、ジーロ語でひとことさけぶ。受信機からかすかな声が応答する。
「わたしの・ねんりょう・ふね・くる」彼の目は奇妙な光をおびている。
「よかった!」とシャーラがいう。「これで・わたしたち・みんな・連邦・基地・いく。いつ・はじめるか?」
アッシュ船長は無言で、クリムヒーンを見つめる。
クリムヒーンはのっそり立ちあがる。
「おまえ・けいかく・よい」と厳粛にいう。「おまえ・けいかく……とても・よい――おまえに・よい。おまえたち・ジューマノール・わたし・つかまえる、ふね・ふたつ・つかまえる。おまえに・とても・よい。しかし、わたし・おもう、だめ!」
電光石火の動きで、彼はシャーラの首すじに腕を巻きつけ、つぎの瞬間には彼女の頭に小さな武器をつきつけている。
「おまえ……いま……ねむり・はこ・なか・はいる。そう! おまえ、わたしたち・つかまえる・おもう。わたし、おまえたち・つかまえる。おまえたち、ジールタン・いく!」
驚きにうたれた沈黙の中で、ジラノイがさけぶ。「だめ! これ、なに・ためか?」そこでジーロ語に切りかえ、クリムヒーンに激しく抗議する。
「くそっ、遍《あまね》きものにかけて!」ディンガーがうんざりしたようにさけぶ。
アッシュ船長はすでにスタン・ガンをひきぬいている。だが、クリムヒーンはシャーラを盾にしている。シャーラの頭に武器をつきつけられていては、手も足も出ない。それに、たとえこの戦艦を奪いとれたとしても、燃料がない。しかも、敵の増援が近くまできている。とうてい逃げられない。
膝がなえるような気分で、一杯食わされた自分に憤怒をぶつけながら、アッシュは冷静に考えようとする。これまでの努力は水の泡だ――このエイリアンの艦長の考えかたは、最初とまったく変わっていない。まだこっちが〈暗黒界〉の同類だと信じている。たとえいくぶんの懐疑をいだいているとしても、それはヒューマンをジールタンへ連れ帰ろう、そこですべてを――ジーロの支配下で――はっきりさせよう、という艦長の意図を強める役にしか立たない。
むこうへ連れていかれれば、何年もの監禁と尋問。おそらく、二度と故郷の土は踏めないだろう。自分も部下たちも、それに耐えられはしないだろう。そう、それを避ける方法、最後の手段はある。アッシュの舌は毒薬のはいった義歯をまさぐる。しかし、事態はそこまできたのだろうか?
いったん冷凍睡眠カプセルにはいることに同意すれば、抵抗の方法はなくなる。つぎに目が覚めれば、そこはジールタンで、監視がついているだろう。それに、リフト・ランナーには燃料がない。あの船で逃げられる見込みはない。ということは、なんの見込みもないということだ。
さらにわるいことに――連邦の救援がここへきて、なにも見つからなかった場合、きっと乗員が殺されるか捕えられたと考えるだろう。そのとおりだ――自分たちは捕えられる。連邦は、ジーロが東方星域だけでなく、ここでも敵対行動をとったと考える。そこで連邦は再武装し、報復を計画する……。つまりは、リフト・ランナーが銀河戦争をひきおこすことになるのか? どうやらそうらしい。
いったいどうすればいい? できるだけ長く話しあいをつづけるほかに、なにができる? この愚鈍なほど猜疑心《さいぎしん》の強いエイリアンの軍人相手に。しかも、すでに一度失敗している話しあいを。
もし、それがこんども失敗したら、いよいよ口の中の致命的な小カプセルをかみくだくしかなくなる。
こんな考えがアッシュの頭を駆けめぐるあいだに、クリムヒーンが口を切る。「わたし、じゅう・ほしい。ジラノイ!」
ジラは驚きと落胆の表情で、この光景を見つめている。彼女はジーロ語で抗議しかけるが、大柄なエイリアンは腕にぐいと力をこめる。シャーラがたまらず悲鳴をあげ、強力な下腕に首を締められて、息をつまらせる。
「だめ! だめ!」ジラがさけぶ。クリムヒーンはジーロ語で鋭く彼女になにかを命じ、腕にいっそう力をこめる。しぶしぶジラはアッシュに近づき、手をさしだす。アッシュは武器を渡す。
「あと・ふたつ」とクリムヒーンがいう。ディンガーとトーランも、スタン・ガンをひきわたす。
「よし! おまえたち、ねむり・はこ・なか・はいる! はやく・いく。ナ、わたし・この・ひとつ・ころす。この・ジューマン・ころす!」
「彼の……脅迫を……きかないで」とシャーラがとぎれとぎれにいう。「そのまえに……わたし、死ぬわ」
「はなし・だめ!」クリムヒーンがどなる。「いく!」
しかし、アッシュは静かにいう。「まだ最後の手段はとるな、シャラーナ中尉。クリムヒーン! わたし、行く・しない。おまえ、わたし・殺す・したいか? なに・よい・こと・あるか?」
「わたしも・行かない」とディンガー。トーランもいう。「いやだ」
「いく!」クリムヒーンは、シャーラがまた悲鳴をあげるまで力をこめる。
「クリムヒーン艦長」とアッシュはやけくそでいう。「おまえ、ヒューマン・知ってる・ない。わたしたち・死ぬ・したい・とき、わたしたち・死ぬ。もし・おまえ・わるいこと・する、わたしたち・死ぬ。おまえ、死んだ・ヒューマン・四つ・小さい・船・ひとつ・持つ――連邦・おなじ船・おまえに・やる――なに・よいか? もし・おまえ、シャーラに・わるいこと・する、シャーラ・死ぬ。なぜ・わるいこと・するか? われわれは、そのくそったれな命を助けたんだぞ――わたしたち、おまえ・死ぬ・ない・助ける、わたしたち・シー・オー・ツー・ぜんぶ・おまえ・やる。なぜ・おまえ・戦争・するか?」
クリムヒーンは、うるさいハエが飛んできたかのように、二度まばたきをするだけだ。ジラが彼に早口で語りかける。皮肉なことに、クリムヒーンは上腕に持ったヒューマンのタンブラーから息を吸わなければならない。
「そう、しぬ・よい」と彼はいう。だが、確信が揺らいできたようだ、とアッシュは思う。
ちょうどそのとき、ディンガーがさけびをあげる。
「おい、マロリーンを見ろ!」そういうと、クリムヒーンとシャーラのそばの操縦席にむかう。
みんながそっちをふりむく。マロリーンが身動きし、片方の肘をついて起きあがるところだ。ディンガーは聴診器を若いエイリアンの胸に当て、口笛を吹く。「驚いた――心臓が回復したぞ! ほとんど正常だ」
彼はクリムヒーンとシャーラを見あげる。シャーラはこのすきにクリムヒーンの腕の下に手をいれ、マロリーンを見おろそうとしている。
ディンガーは聴診器をさしだす。「ほら、クリムヒーン艦長、聞くこと・する。彼の・心臓・よい……わたし・もうひとつ・心臓・クスリ・やる・思う。よいか?」
クリムヒーンは聴診器を受けとり、シャーラを押しつぶしそうになるのもかまわず、マロリーンの上にかがみこむ。ディンガーは聴診器の先を患者の胸に当てる。クリムヒーンは一心に聞きいる。やがて彼は背をのばし――シャーラもいっしょに背をのばす――そしてひとりごとのようにいう。「しんぞう・よい」彼はマロリーンを見おろし、なにかジーロ語でつけたす。まぎれもなく表情がなごみ、微笑に近いものになったのを、みんなが見てとる。このエイリアンの艦長は、乗員を深く気にかけているのか、それともマロリーンとなにか特別な間柄なのだろう、とアッシュは思う。
クリムヒーンが向きをかえて、戦闘司令所にもどろうとしたとき、足もとの小さな生き物にもうすこしでつまずきそうになる。トムロだ。
「たーかう・だめ!」とトムロは訴える。「たーかう・だめ。これ・よい・ひーとびと。ころす・だめ」
クリムヒーンはジーロ語で鋭く叱りつけるが、小生物は聞かない。「トムロ、たーかう・しってる!」とすすり泣きながらいう。「たーかう・わるい」
ジラはトムロを優しくひきよせ、ディンガーのそばにもどって、マロリーンにジギタリスをもう一錠のませるのをてつだう。マロリーンは質問らしいものを口走る。“ジューマノール”というひとことが聞きとれる。
シャーラは、クリムヒーンに首を締められたまま、とつぜん口を切る。「ジューマノールない! わたしたち・ユーマン」
この対決における自分の支配力の弱まりを感じて、クリムヒーンが怒りの唸りを発する。「ユーマノール――ジューマノール。おまえたち・かたち・ジューマン・おなじ、おまえたち・ことば・ジューマン・おなじ、おまえたち・におい・ジューマン・おなじ、おまえたち・からだ・みず・ジューマン・おなじ――」
「ちがう!」シャーラが身をよじりながら、それをさえぎる。「たぶん・わたしたち・かたち・ジューマン・おなじ、ことば・ジューマン・おなじ、たぶん・わたしたちの・体・水・ある――でも、わたしたち・におい・ジューマン・ちがう! ジューマン・におい・わるい!」彼女はかすかにいたずらっぽい笑みをうかべて、大柄な相手を見あげる。
「はなし・おわり!」腹立ちまぎれに、クリムヒーンは彼女の首をぐいと締めつけ、その勢いで彼女の下あごがもちあがる。カチッと歯のかみあう音がする。
「さて――」とクリムヒーンがいいはじめるが、ほかのみんなの視線が彼の腕に捕えられた女性に集まっているのに気づいて、言葉を切る。クリムヒーンが目を下にやったとき、シャーラの足から両肩にかけて激しいけいれんが走る。首が横にかしぐ。「う、う、う」とためいきをつく――奇妙な悲しい声だ。クリムヒーンは腕の力をゆるめる。支えを失ったシャーラは、彼の足もとの床にくずおれる。
最後のけいれんに全身をゆり動かされて、彼女はあおむけに横たわる。口から吐瀉物《としゃぶつ》がひとすじ泡になってこぼれだす。
「ああ、なんてことを――おまえが殺したんだぞ!」ディンガーがさけんで、床に身を投げだし、彼女の胸に耳を押しあてる。
トーランがジラのそばに歩みよる。ジラは恐怖の目で床の上を見つめている。「か、かのじょ・しんだ?」トーランはうなずいて口をひらこうとするが、そこでアッシュ船長の声にさえぎられる。
ショックと悲しみの中で、アッシュは必死に考えをめぐらしている。「くだくだしい説明はよそう」慎重に言葉をえらびながら、彼は鋭い口調でいう。「これは恐ろしい出来事だ。しかし、シャーラもこれがなにかの役に立つことを願っていると思う。これが平和か悲惨な戦争かを決める賭けであることを、シャーラは知っていた……。クリムヒーン艦長――わたし・話した――わたし・話す、おまえ・ユーマン・知ってる・ない。わたし・話す、シャーラ・わるいこと・しない、彼女・死ぬ。これで、ユーマンたち、ジューマノール・ないこと・わかるか? わたしたち・病気・友だち・助ける――」アッシュは、この光景を大きな目で呆然とながめているマロリーンのほうに手をふる。「なぜ・おまえ、わたしたち・友だち・殺すか?」
床に倒れた姿を見つめながら、ついさっきまであんなに生き生きして陽気だった若い娘に過去形を使う結果になったことで、アッシュは声をつまらせる。涙にかすんだ目で、いくらかクリムヒーンがおちつきをなくしたのを見てとる。しめた。「ジラ」と彼はたずねる。「おまえの・言葉で・事故・なんと・いうか? ほしくない・もの・くる・ときの・こと?」
混乱し、鼻をすすりながら、彼女はヒューマンのトーキー・ブックを調べる。「まち〜がい? わたし、まち〜がい・おもう?」
「わたし、この・ユーマン……ころす・したい・ない」クリムヒーンが不承不承に認める。
「そのとおり。おまえ、わたしたち・殺す・したい・ない・だろう?……。ジラ、彼に・話す・ほしい。もし・彼・いまと・おなじこと・する、これ・わたしたち・みんなに・くる。そして、連邦と・戦争・くる。わるい・戦争。彼・いま・すること、とても・大きい。彼・大きい・考え・しない・だめ。彼に・話す・ほしい、わたしたちと・連邦・くる・よい。話す・ほしい、どんな・まちがい・彼・するか。それで・戦争・なくなる――平和・くる!」
「よい」ジラはCO2[#「2」は下付き小文字]を吸いこんでから、大柄な艦長にむかって、ひびきのよいジーロ語で堂々とまくしたてる。艦長は耳をかたむけているようすだが、彼女が何度も連邦のことをくりかえすのを聞いて、きゅうにわめきだす。
「れんぽー! れんぽー! わたし、れんぽー・みる・ない、わたし、れんぽー・くる・ない! わたし、れんぽー・しってる・ない。おまえの・れんぽー・おおきい・マッグレッグ・だろー! わたし、よっつ――みっつ・ジューマノール・みる、ナ・ユーマン。おまえたち、わたし・ジューマノール・きち・いく・ほしい・だろー。わたし、れんぽー・いや!」
アッシュは必死にかんしゃくをこらえる。「ちがう。連邦・大きい、アロワティーナと・おなじ。もうひとつ・まちがい・する、だめ! 連邦、わるい・戦争・する、大きい・船・ある。しかし、連邦・戦争・ほしくない。連邦、友だち・ほしい」
クリムヒーンもさすがに考えなおしたのか、ディンガーとトーランがシャーラの死体をととのえて、そばについているのを見やり、マロリーンをちらとながめる。
「ともだち・なにか?」
「わたし・わかる」とジラノイがいう。アッシュは、トーキー・ブックを作っただれかに感謝する。ジラがいま説明できるように、その単語を収録しておいてくれただれかに。たとえクリムヒーンがシャーラの急死という直接の影響力の中で、こちらの計画に同意しても、その同意はいつまたひるがえるかもしれない。たとえば、増援がここにやってくれば。そのあとも、途中ひっきりなしに説得をくりかえさなければならないだろう。ああ、もし連邦の船さえここに……。だが、そのことは考えるな。ここの責任者はおれしかいない。
「ともだち・なる」ジラが話しおわるのを待って、彼はふたたび説得をはじめる。「ともだちは・これ――わたしたち・ここ・くる・とき、おまえたち・病気。おまえたち・死ぬ・前。わたしたち、おまえたち・殺す・船・とる・とても・らく、とても・早い。しかし、わたしたち、おまえたち・つかまえる・おまえたち・殺す・するか? わたしたち、わるいこと・するか? ちがう! おなじ・ともだち、わたしたち・よいこと・みんな・する。わたしたち、おまえたち・死ぬ・ない・助ける・はたらく。マロリーン・見る・よい! わたしたち、ともだち・おなじ・する、わたしたち・連邦・おなじ・する。いま、おまえ・連邦・くる、ハロー・いう、わたしたち・よい・人びと・見る・してほしい。おまえ・ジールタン・こと・話す、ともだち・なる。それだけ、それで・ぜんぶ! ああ、これでもわからないのか、この頑固おやじ――われわれがともだちにならなければ、おそろしい戦争になるんだぞ! 長い・長い・戦争、みんな・死ぬ。ジールタン・死ぬ……。わたしたち、おたがい・信じる・しないと・だめ――おたがい・信じる・しないと・死ぬ!」
クリムヒーンはしばらく無言だ。それからたずねる。「しんじる・なにか?」
「信じる……」アッシュはまわりで渦巻く水がますます深くなるのに、鉛のように重い木ぎれしかつかまるものがないのを感じる。そして、クリムヒーンがなにかに気をとられた感じで、銃口をこちらの頭に向けているのを、ぼんやりとさとる。ままよ。「信じるは――わたし、おまえの・話・本当・わかる。おまえ、わたしの・話・本当・わかる。そして、わたし、おまえ・よいこと・したい・わかる。おまえ、わたし・よいこと・したい・わかる……。そうだ! わたし、おまえに・信じること・見せる。もし・おまえ・連邦基地・いく・いう、わたしたち・眠り・箱・なか・はいる。わたし、おまえの話・本当・信じる。わかるか?」
クリムヒーンはしきりに考えこむ。「おまえ、それ……するか? ねむり・はこ・なか・はいるか?」
アッシュは片手をあげる。「もし――もし・おまえ・連邦基地・いく・いう。わたしたち、おまえの・話・本当・信じる。ジールタン・行く・ない・信じる。わたしたち・箱・なか・はいる。さあ、おまえ、どう・いうか?」
おれは気でもくるったのか、とアッシュはいぶかる。すべてをこのエイリアンの気持ちひとつに賭ける気か? まあ、もし失敗した場合は、いつでもあのくそったれな義歯を使えばいい。クリムヒーンの心を読もうと、彼は相手をじっと観察する――だが、見当がつかない。わかっているのは、このエイリアンが、命を救ってもらった直後に、こっちをおそったということだけだ。
クリムヒーンも、鋼鉄の視線で彼を見つめかえす。それからマロリーンのほうに目をやると、その表情がわずかに変わるが、それがどんな変化なのかはわからない。
「れん――」とクリムヒーンがいいかける。
しかし、彼がなにをいおうとしたかは、わからずじまいになる。
切りさくような閃光が舷窓にあたり、人工重力が激しく動揺する。みんながふりかえって外をのぞく。
まだ不明の距離のむこうにうかんでいるのは、ピカピカの金属球だ。そこから触角に似た二、三本の装置がとびだしている。一同が見つめるうちに、両方の船の通話機が、パチパチ、ブーンと雑音を発する。
クリムヒーンは、ふしぎな船を見つめたまま、すばやく音量を絞る。
「ハロー?」と連邦の声がいう。若くて興奮した声だ。「おーい、リフト・ランナー聞こえるか? 連邦超光速試作船XK5号よりリフト・ランナーへ。きみたちが救援を必要としてると聞いた」
声はさらにくだけた調子になる。「三十六時間の一周旅行はどうだ? ぼくは、けさ基地で朝食をとってきたんだぜ。ああ、ところでそのでっかいお仲間はだれ?」
「“超光速”!」ディンガーは理解が早い。「遍《あまね》きものにかけて! 長いこと留守にしていたうちに、そんなものができたのか……。ああ、シャーラ、シャーラ……かわいそうに」
仰天した両方の船長がまだ応答できずにいるうちに、むこうはくぐもった奇声をもらす。「なんだこりゃ――なにが起こったんだろう? まるでよぶんな腕が生えたみたいだ――それにしっぽも!」
アッシュ船長はほんとうにひさしぶりに、深い安堵の吐息をつく。
「わたし・思う」と彼はクリムヒーンにいう。「これで・おまえ・わたしたちの・連邦・見る・だろう!」
「というようなわけなの」ヨーン連邦基地司令は、ひさしぶりに訪ねてきた珍客にいう。
「クリムヒーンの燃料補給船が到着してドッキングをすませ、空気植物を植えかえたあと、わたしたちは三隻の船で彼らをここへ輸送したわ。クリムヒーン艦長は副長を目ざめさせ、信号を出しながらここまでくるようにと命じた。そうすれば途中でランデブーできるってわけ。それから、九〇〇をじっくり視察したあとで、いったん自分の艦へもどりたいと申しでたわ。超光速通信を使って、東方の艦隊と連絡をとり、連邦植民地への攻撃を中止させるために。
もちろん、シャーラがあんなふうに故郷の間近まできて死ぬなんて、むごい話よね。でも、クリムヒーン艦長がほんとうにあのことで心を痛めていたのをご存じ? 葬儀の席で、彼はだしぬけに胸から大きな勲章をはずして、それを彼女の掌にのせたのよ。誠心誠意のしぐさだったわ――それに適切でもあったしね。われわれが〈暗黒界〉の同類でないことを彼に確信させ、彼の種族とわれわれとの戦争を回避する上で、シャーラの死は大きな役を果たしたんだもの。
もちろん、こっちは全力をあげて、クリムヒーンに賓客の待遇をしたわ。それに病院のスタッフも、マロリーンのために大きなロール・ベッドを用意して待ちかまえたの。彼はめきめきと回復したわ。すてきな好青年だった。それにしてもふしぎよね、ジギタリスが彼の心臓に効くとは! でも、明らかに、彼らの肉体の神経電気学的な側面は、われわれとよく似ているらしい。それ以外は、〈リフト〉のこちら側のどんな生き物とも大きくかけ離れているけどね。すばらしい謎。ガスや塵雲の中から生命がめばえるなんて。
彼らの生殖方法ももうひとつのすばらしい謎だわ。最初はほんとに肝を冷やしたのよ――あのかわいいムルヌーのトムロが、基地の入口でばったり死んだときには! でも、これは彼らの儀式の一形態としてうけいれられたらしくて。彼らはそのまわりに集まって、平和への感謝を捧げる長い歌をうたった。それでわれわれもみんなでそれに加わったわ。
ここでの彼らの宿泊については、栄養補給部が彼らの口に合う食物の合成に成功してからは、なんの問題もなくなったの。もちろん、居住区には、適量のCO2[#「2」は下付き小文字]を含む乾燥しきった空気を送るように調節して、スペアのタンクもたくさん用意しておいた。おまけにポータブルのボンベも開発したんだけど、彼らのほうはドライアイスのタンブラーを持って散歩するのにすっかり満足してるようすだったわ。そこで、そのうしろから、たくさんのドライアイスを持ったお供をつけることにしたわけ。公式の通訳には――シャーラはほんとに気の毒!――すてきな娘をひとり見つけて、まもなく彼女はむこうのふたりと意気投合するようになったわ。クリムヒーン艦長がなかなかのユーモアの持ち主だったなんて、信じられる?
ここでの歓迎ぶりに彼はすっかり満足したらしくて、自分の戦艦が東へ直行するあいだに、超光速船で連邦の一周旅行をする気になったの。ジラはトーラン中尉に、あなたもいっしょにきて、ふたりで作りかけていたジーロ=ヒューマン語ハンドブックを完成させるのをてつだってほしい、とたのんだわ。聞くところによると、はじめてのジーロ=ヒューマン・ロマンスも生まれそうな雲行きらしい。それに通訳も同行したわ。でも、わたしは彼らをここに呼びもどすつもり。排他主義というのかな、この九〇〇に、ジーロ研究の中心地という優位をたもたせたくてね……」
司令は自分のプライドにくすくす笑い、ふたりで飲んでいたエルドラド[産ワインの瓶をとりあげる。
「お代わりはいかが? よかったら、こちらも――」彼女は皿に盛ったモルブリーズをすすめる。
「交易は大いに有望なようですな」と客がいう。「いまの話では、むこうには映像テクノロジーがないらしい。だが、そのいっぽうで、人工重力と超光速通信の技術があって、こっちの超Cジャンプ船とべつの原理にもとづいているらしい……。もちろん、超Cジャンプはおそろしく費用がかさむ。経費くそくらえの最初の栄光時代のあと、セントラルは生死のかかった緊急事態のためにそれをとっておくことにした。それを低廉化する方法がジーロに見つからないかぎり、彼らもおなじことをしなくちゃならんでしょう」
「もちろん。でも、問題は、超光速通信と輸送の両方が実現したいま、偶発事故による戦争発生の可能性が大幅に減ったことだわ……ああ、神々よ! なんという祝福!」
司令は椅子の背にもたれ、真剣な目で客を見つめる。
「われわれがどれほど戦争の危機に近づいていたかわかる? もし、十ほどの小事件が――まぐれの幸運が――なかったら、いまごろは〈調和圏〉との戦争が起こっていたでしょう。アッシュ船長が思っていた以上に、戦争の危機はせまっていたのよ。ヒューマンがあのジーロの同盟種族に非道行為をはたらいたことを、アッシュは知っていたけど、ジーロの艦隊がすでに三〇〇扇区で連邦の惑星を破壊していることは知らなかった。もし、おたがいに対する見かたを変えるような出来事が起こらなかったら、双方がきっと全面戦争に突入していたわ」
司令はためいきをつき、ワインをすする。
「わたしがしみじみ感じるのは――いいえ、髪の毛が逆立つほどこわいのは――この宇宙ぜんたいの大きなバランスの、いつ崩れるかもしれない脆《もろ》さ。もし、あの小事件のどれかひとつがちがったふうに起きていたら――たとえば、あの夕立がちょうどあのときに降ってこなかったら――きっとひどい戦争になっていたでしょう。
あのエイリアンの娘が〈暗黒界〉の言語をまなぼうと思いたったこと、彼女があのときに帰郷していたことが、そのあとのすべてを可能にした。全体の命運を左右するような大問題が、その瞬間その瞬間には、個人のささやかな行動の上にのっかっているようだった。あのふしぎな小生物のトムロさえもが、やわらかな手でその重荷をかかえていたんだわ。勇敢にも敵に救助を求めて、船内に入れようとしたときにね。
あのかわいそうなキャシーの死も、ジラを彼らのところへ呼びよせるのに一役を果たした。それから、シャーラがあの義歯をかみくだいて、ひと思いに死んだことによって、あの頑固なクリムヒーンが考えなおすことになった。そういえば、いつかあのことで彼の心の悩みを解いてやらなくては……。
それに、もしマロリーンがあんな家柄――クリムヒーンの妹の息子、彼らの家系のたったひとりの子供――でなかったら……。彼があの艦に乗っていたのは、まぐれの幸運だったわ。それに、ジーロには未知の植物からとったあの薬品がマロリーンの病気に効いたのも、まぐれの幸運だった。まぐれの幸運といえば、あの超光速船がちょうど間にあったのも――」
「しかし、あれを間に合わせるために、あなたは星ぼしや太陽を動かすほどの努力をした」と彼女の客は口をはさむ。「それはまぐれとはいえませんよ」
「ええ、ある一瞬には、わたしもそのささやかな個人のひとりだったと思うわ……。そう、おびただしい数の小事件が、巨大な天秤をかたむかせたわけよね」司令は、ここ長年のいつよりもくつろいだ感じでためいきをつき、微笑をうかべる。
「そして、アッシュ船長のあの不屈の意志を、けっして忘れちゃいけないわ。惑星破壊ミサイルを積んだ戦艦の中で、彼を敵だと考えている、あの頑固な、愛国的な艦長に、根気よく何度も説得をくりかえしたことを……。乾杯しましょうか、銃を頭につきつけられても、ピジン銀河語で“信じる”という単語を定義しろという難題から一歩もひかなかった男に!」
[#改丁]
[#地から2字上げ]図書館にて
それから何日かあと、例のふたりのコメノの学生がプールに近づく。プールの中では、主任司書代理が、水生種族の利用者のために防水カセットのテストをしているところだ。
「あら、ごめんなさい」と彼女はプールの壁につけたスピーカーをつうじていう。「ブルーさんは、この十日間ご出張なの。ある骨董品《こっとうひん》のコレクションの鑑定をなさってます。もし伝言があったら、メイン・カウンターの端にブルーさんの名前のはいったレコーダーがありますから、それにどうぞ。返却ボックスはあそこよ」
ふたりは礼を述べて、メイン・カウンターにむかう。背の高いコメノの青年は、返却する文書の束を、〈モア・ブルー――専用〉と記された容器の中へていねいにおさめる。レコーダーがそのわきにある。
「きみが話せよ」と青年はいう。「いつもぼくはつっかえるから」
「わたしはいつも早口すぎるのよね」彼女は笑う。「わかった。やってみる」彼女は小型マイクを手にとる。「ブルーさん? モア・ブルーさん? こんにちは! こちらはコメノのふたり、ギルダリーとロザヴァンです。お借りした三番目の物語を返しにきたんですが、お留守でがっかりしました。でも、これだけはいえます。あれはほんとにすてきなごちそうでした――歴史的にも個人的にも。あれを読んで、わたしは――ロージーは――背すじが寒くなりました――わたしの一族は、あの植民地にいたんです。危機一髪で〈暗黒界〉の襲撃から救われた、あの植民惑星のひとつに! それに、歴史的にもあれはすばらしいものでした――あの小さい船、リフト・ランナーが、ヒューマンを殺そうとしている広大な〈調和圏〉のまんまんなかに着陸するなんて。そして、なにもかもがのんびりしてる上に、混乱してるために、またそこから脱出できるなんて! それに、ジラがとってもすてきです。それに、あのスリル――何世紀も昔のことなのに、若いヒューマンのキャシーが死にかけるときの水しぶきとさけび声が実際に聞こえてくるところ。それに、あの雷雨と、かわいそうなヒューマンが走っていくところ――おわかりですね、途中でわたし、クリムヒーン艦長にすっかり反感をもってしまったんです。彼は〈調和圏〉に最善と思ったことをしてるだけなのに。でも、あんまり頑固すぎるとは思いません? ああ、でも、それはささいなことですよね。実をいうと、わたし、小学校の生徒のように胸をわくわくさせてるんです。だから、おちついて、隠された意味のすべてを真剣に考えるなんてことをしてません。
そうね、こんな熱にうかされたおしゃべりは、きっとご迷惑でしょう。ただ、ギルディーとわたしからの大きな感謝を、どうか受けとってください。もし、あなたさえよければ、近いうちにあらためてお礼にうかがいます。
あ、それから、よければもうひとつ――あのう、わたしたちは共同研究論文の献辞のことで、微妙な問題をかかえてるんです。ふつうはチューターに献辞を捧げるしきたりですよね――でも、ギルディーとわたしはべつべつのチューターについてるし、ふたりともほかの先生たちから助言を受けています。だから、こうすれば問題は解決するんじゃないかと思うんです。つまり、ひとつのパラグラフの中に、お世話になった先生たちの名前をぜんぶ書いておいて、正式な献辞は、とりわけ啓発を受けたあなた、モア・ブルー博士に捧げるわけ。そうしてもいいですか? それなら、なにもかもうまくいくし、だれからも苦情はでないし、それに――それに、わたしたちは心からそうしたいんです。おまけに、これはまちがいない事実ですものね――あなたはほかのだれにもできない助力をしてくださった。しかも、あなたとしては、そこまでなさる必要はなかった。勝手に自分でさがせ、とおっしゃってもよかったんです。もしそうだったら、わたしたちはなにも見つけられなかったでしょうけど。どうかご承諾ください。あなたがお帰りになったあとで、またご返事をうかがいにきますから。
では、ギルディーにもお礼とさよならをいわせます――さあ、ギルディー、あなたの番よ――それじゃ、愛をこめて、ロザヴァン」
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訳者あとがき
ちょうど本書の翻訳が終わりにさしかかっていたある日(正確には一九八七年の五月二十一日)の朝、寝耳に水のニュースがとびこみました。原作者のジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(本名アリス・シェルドン夫人)が亡くなったという知らせです。しかも、その死にかたがただごとではありません。弁護士に電話をかけて後事を託したのちに、病気で寝たきりだった最愛の夫ハンティントン・シェルドンを射殺、おなじベッドの上でみずからの頭を撃ちぬいた。夫は失明の上にアルツハイマー病の疑いもあり、彼女の心臓疾患も悪化していた。彼女は七十一歳、夫は八十四歳。取調べに当たった警察の発表によると、どうやらふたりのあいだには、かねてから自殺の取り決めがあったらしい……。
そんなこととはつゆ知らず、ついその前日には、わからないところを原作者に問い合わせようかと、のんきなことを考えていたばかり。自殺決行が五月十九日早朝といいますから、すでにこのとき、もうティプトリーはこの世にいなかったわけです。
いま現在自分が訳している本の著者が死んだと知らされる経験は、もちろん今回がはじめて。ティプトリーが実は女性だったというスクープが発表されたとき、だれもがびっくり仰天したことを思いだしました。しかし、ぼくにとっては今回のほうがやはりショックの度合いは大きく、作品の中で“老い”と“死”に触れた部分がいやでも目について、平静な気持で訳せなくなってしまいました。
ドラマチックな死でしめくくられたこの作家のなみはずれたドラマチックな生涯については、すでに大野万紀氏が、本文庫から一足先に出た短篇集『愛はさだめ、さだめは死』のすぐれた巻末解説「センス・オブ・ワンダーランドのアリス」で詳しく書かれているので、ここではくりかえさないことにします。興味のある方は、SFマガジン八七年十月号の「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア・インタビュー」も併せてお読みください。
いま、ぼくの前には、やっと最近手にはいった『ジャングルの国のアリス』Alice in Jungle Land(一九二七)という本があります。これはティプトリーの母、作家で探険家でもあったメアリー・ヘイスティングズ・ブラッドリーが、家族ででかけた最初のアフリカ旅行の経験を、娘のアリスの目を通したかたちで書きつづったものです。たくさんのさし絵を描いているのはその幼いアリス・ヘイスティングズ・ブラッドリー、つまり、のちのティプトリーその人で、女子大在学中から画家としてひとりだちしていたという才能をすでにうかがわせて、幼い子供の絵とは思えないほど達者なスケッチです。
かねてからアフリカにあこがれていたティプトリーの父母は、したしくつきあっていた有名な探険家カール・エイクリーがウガンダ地方のマウンテン・ゴリラ狩りをもくろんでいるのを知って、出資と交換条件に自分たちも同行させてくれないかと持ちかけ、話がまとまりました。幼いアリスを含めた一行六人は、一九二二年の夏シカゴを出発、イギリスを経由して船でケープタウンに着き、鉄道でヴィクトリア瀑布へ、さらにルアラバ川の上流へと向かいます。めざすのは、タンガニーカ湖からキブ湖を経てウガンダにはいり、ナイロビにいたるコース。もちろん、トラックもなにもなかった時代のこと。鉄道の終点から先は、小舟と二本の足で進むしかありません。長期間のサファリをつづけるためには、二百人のポーターが必要でした。一行は野生動物の生態を映画におさめながら、お目当てのゴリラに出会います。アリスたちは野生のゴリラを実際に見た最初の白人女性になったのです。このときにエイクリーとアリスの父がしとめたゴリラの剥製は、いまもニューヨークのアメリカ自然史博物館に展示されているとか。ついでながら、アリスの母は、とつぜんライオンにおそいかかられたときも、冷静に銃で相手の心臓を撃ちぬいたほどの気丈な女性でした。
活発でおませな少女だったアリスにとって、このはじめてのアフリカ旅行は、毎日思いがけないことが起こり、三度の食事がいつも野外のピクニックになる、たのしいおとぎの国の旅でした。挿入された何枚かの写真には、フランス人形のようにかわいい彼女が、子象の背に乗ったり、チンパンジーと仲よくすわったり、丸木舟に乗ったり、現地の子供たちからふしぎそうに見つめられたり、キクユ族のダンスに仲間いりしたりしているところが記録されています。印象的なのは、帰国が決まったあと、ふたたびアフリカを訪れる日を夢見ながら、ヘルメットをかぶって川べりに腰かけている、ちょっぴり淋しそうなアリスの姿でした。
話をもとにもどして、本書は The Starry Rift という原題で一九八六年に発表されたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの最新作。長篇の体裁をとってはいますが、共通の背景を持った連作中篇集というほうが正しいでしょう。いまではこれが彼女の遺作になってしまったわけです。ここには、つねにSFの最先端を独走していたあの実験的、野心的、衝撃的な作風はありません。その代わりに、十歳のときからSFファンだったティプトリーのノスタルジアとも思える昔なつかしいスペース・オペラの世界が、現代風に味つけされて、円熟した筆致でくりひろげられています。
まず「たったひとつの冴えたやりかた」では、大宇宙にあこがれるひとりの少女が、誕生祝いに両親から贈られたスペース・クーペをこっそり遠距離用に改造して、遠い星々をめざす冒険の旅に出発します。まるでハインラインのジュヴィナイル物を思わせるシチュエーションですが、主人公コーティー・キャスのこの行動の裏には、幼いころアフリカでキャンプから逃げだして草むらの中に隠れ、母親の組織した捜索隊に連れもどされたという作者の経験が投影されているのでしょう。元気少女コーティーのけなげな活躍によって、書評者に「この小説を読みおわる前にハンカチがほしくならなかったら、あなたは人間ではない」とまでいわしめたこの中篇は、一九八六年度のヒューゴー賞ノヴェラ部門の大本命でした。事実、第三次投票までは首位を走っていたのですが、オーストラリアン・バロットという複雑な投票方式のなせるいたずらか、最後にきて逆転され、ゼラズニイの「北斎富嶽二十四景」“24 Views of Mount Fuji, by Hokusai”に名をなさしめてしまいました。
つぎの「グッドナイト、スイートハーツ」は、サルベージ船の船長を主人公に、初恋の女性との再会、宇宙海賊の襲撃と、パルプSFまがいのシチュエーションがくりひろげられますが、もちろんそこはこの作者のこと、ただの冒険活劇で終わるはずがなく、“とげだらけのボンボン”と形容された結末の皮肉な味わいが、ほろ苦い余韻を残しています。
このふたつの中篇は、SFマガジンの八七年一月号と六月号にそれぞれ掲載されたものですが、そのさい美しいイラストレーションで作品に花を添えてくださった川原由美子さんに、この文庫版のカバーと挿絵を飾っていただけることになりました。訳者にとってはなによりの喜びです。
最後の「衝突」は、三篇の中でもいちばん長い力作で、ここではおなじく古典的な異星人とのファースト・コンタクトがテーマになっています。この物語では、人間たちよりも、むしろ異星人のかわいい女性通訳が大活躍を演じますが、よくある万能通訳器のような便法にたよらず、かたことの銀河共通語によるもどかしいコミュニケーションの過程を克明に描いているのが見どころです。これは第一話にもいえることですが、タイム・ラグのある録音報告で事件の経過を知るしかない基地のようすと、事件の起こりつつある現場との、あざやかな場面転換のテクニックも見逃せません。
最初に書いたように、作者の死を知らされたあとで、これらの物語を読みなおしてみると、コーティーや、レーンや、ジラの若さに対するカウンター・ポイントのように、老いと死の影が見え隠れしているのに気づきます。そして、イリエラや、ヨーン司令や、デネブ大学図書館の老司書の描写に、作者アリス・シェルドンの心境が投影されているようにも思えるのです。
その最初の図書館のくだりで、『輝くもの天より墜ち』という記録への言及がありますが、これは作者のお遊びで、一九八五年にティプトリーが発表した同題の長篇 Brightness Falls from the Air(未訳)を指したもの。もちろん、舞台は本書とおなじく、人間がヒューマンという一宇宙種族として扱われる連邦宇宙です。ノヴァ爆発の最後の波が通過しようとする辺境の惑星ダミエム。その現象を見物にきた観光客のあいだに起こる事件が、孤島ミステリー風に描かれます。ダミエムの原住民である美しいヒューマノイド種族が苦しみを受けたさいに出す分泌液が、ヒューマンにとって無上の珍味であることがわかり、“星ぼしの涙”という名で珍重された結果、種族の受難につながっていった……。その悲劇が物語の背景になっています。
おそらくティプトリーには、まだまだこの未来史を大きく築きあげていく構想があったのでしょう。それが作者のとつぜんの死によって中断されてしまったことは、かえすがえすも残念でなりません。
最後に、各篇の初出リストを掲げておきます。
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第一話「たったひとつの冴えたやりかた」“The Only Neat Thing To Do”F&SF誌一九八五年十月号
第二話「グッドナイト、スイートハーツ“Good Night, Sweethearts”F&SF誌一九八六年三月号
第三話「衝突」“Collision”アシモフSF誌一九八六年五月号
[#ここで字下げ終わり]
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底本:「たったひとつの冴えたやりかた」ハヤカワ文庫SF、早川書房
1987(昭和62)年10月15日発行
1999(平成11)年2月15日14刷
入力:iW
校正:iW
2007年12月10日作成