長距離走者の孤独
シリトー/丸谷才一・河野一郎訳
目 次
長距離走者の孤独
アーネストおじさん
レイナー先生
漁船の絵
土曜の午後
試合
ジム・スカーフィデイルの屈辱
フランキー・ブラーの没落
解説(河野一郎)
シリトー著作年譜
[#改ページ]
長距離走者の孤独
[#地付き]河野一郎 訳
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感化院《ボースタル》へ送られるとすぐ、おれは長距離クロスカントリー選手にさせられた。齢《とし》のわりにはひょろ長く、骨ばっていたんで(今でもそうだが)、きっと体格を見こまれたのだろう。それに正直なとこ、どのみち嫌《きら》いなことじゃなかった。走ることは、むかしからわが家では重んじられていたからだ――とりわけおまわりから走って逃げることは。競走ならむかしから得意だった。大股《おおまた》ですたこら走ったもんだ。だが問題は、どんなに足が早かろうと、また事実自分でいうのもおかしなもんだが、かなりうまくやったつもりだったのだが、あのパン屋の一件のあと、とうとう警察《サツ》にパクられてしまったことだ。
感化院に長距離クロスカントリー選手をおくとは、いささかおかしなことだと思うかもしれない――長距離クロスカントリー選手を野っ原や森へ走らせたりしちゃ、腹いっぱいつめこんだ感化院の臭いめしのつづくかぎり、さっさと遠くまで逃げちまうだろうって。ところがそれは違うんだ、そのわけを話そう。まず第一に、おれたちを見張ってやがる奴《やつ》らは、なかなかどうして、ふだんぽけっとして見えるような二本棒じゃないということ。第二に、このおれは、走ってる最中にずらかるようなまぬけじゃない。とんずらをきめこんだつもりでまたパクられるのは、ど阿呆《あほう》のやることだ、だれがその手を食うものかってんだ。人生で物を言うのはずるさだ。そのずるさも、できるだけ抜け目なく使わなきゃだめだ。はっきり言っておこう――奴らはずるいが、おれも負けずにずるいと。もし≪奴ら≫が≪おれたち≫と同じ考えを持ってりゃ、たちまち仲よくやってゆけるだろう。だけど奴らはおれたちと意見があわない、おれたちも奴らと意見があわない。だから今みたいなぐあいだし、これからだってこうに違いない。たしかなのは、おれたちはどいつもこいつもずるいということ、だからわれわれのあいだには、これっぱかしの愛情もありゃしない。問題は、奴らはおれがずらかったりしないのを知っていることだ――奴らはあのこわれかけた屋敷の中に蜘蛛《くも》みたいにすわり、気どった小がらすみたいに屋根の上にとまり、タンクの上から観戦しているドイツ軍の将軍みたいな格好で、小径《こみち》や野原を見張ってやがるんだ。そして奴らから見えない森のかげをおれがとことこ走ってるあいだも、いずれ小一時間もすればおれの箒頭《ほうきあたま》があの垣根《かきね》に沿ってぴょこぴょこ走ってくのが見え、門衛に報告するものと思いこんでやがるんだ。なぜなら、霜のおりた凍りつくような朝、五時に起き、石の床の上にぶるぶる震えながら立ち、ほかの連中は起床のベルが鳴るまでまだもう一時間眠れるというのに、マラソン練習許可証を手に握り、いくつも廊下を抜けて下へおり、大きな表門のところまで出てきて、(この気持ちがわかってもらえるかどうか)まるでこの世で最初で最後の人間みたいな気持ちを味わいたいからなんだ。この世で最初の人間みたいな気がするのは、ほとんど丸はだかで、シャツとパンツだけの姿で凍りついた野っ原へ追い出されてしまうからだ――真冬のさ中に地上へおろされた最初のあわれな奴だって、木の葉で着物を作ったり、翼竜《よくりゅう》の皮をはいで外套《がいとう》を作るくらいは知っていたはずだ。ところがおれはどうだ、こちこちに凍りつき、身体《からだ》を暖めるものといっては、朝めし前に二時間ばかし走ってくるよりないときている。羊肉《マトン》の脂《あぶら》をぬたくった一切れのパンだってありゃしないんだ。奴らはおれを競技大会のために訓練させているんだ。豚みたいな顔をして、乙にすましやがった紳士淑女の――2たす2もわからなきゃ、ぺこぺこかしずく女中なしじゃどうにもならない――連中がやってきて、スポーツこそ堅気な人生を送るべく導いてくれ、むずむずする指先を、店の錠前や金庫の把手《とって》やコイン式ガス計量器《メーター》をこじあける針金から遠ざけてくれる絶好のものである、てな演説をぶっていく日のためにだ。おれたちが競馬馬みたいに、走ったり跳んだりでへとへとになったあと、奴らは青いリボンの切れはしとカップを賞品としてくれるのだ。ただおれたちは、競馬馬ほどよく面倒をみてもらえないのが馬と違うところだ。
というわけで、おれはシャツとパンツだけで出口に立ち、乾いたパン屑《くず》一つはいってやしない胃袋をかかえ、地面の霜の花を見つめている。泣きだしたい気持ちだろうって? おあいにく。この世で最初の人間みたいな気持ちがしたからって、泣きたくなるもんじゃない。あの寮の中に三百人もの連中と閉じこめられているよりか、五十倍もいい気分だ。それより、気分のよくないのは、ときどきこの世でおれが最後の人間みたいな気分でそこに立つときだ。あとに残してきた眠りこけている三百人が全部死んでしまい、おれだけがこの世でたったひとり残った人間みたいな気がするのだ。奴らはあんまり眠りこけてるもんだから、夜のうちにひとり残らずおっちんじまい、おれひとりだけがあとに残り、藪《やぶ》や凍った池をのぞきこむとき、気温はますます冷たくなり、おれの赤い両腕はもちろん、見わたすかぎりすべてのものが何千マイルにもおよぶ氷におおわれ、陸も海もずっと天まで凍りついているのが見えるような気がしてくる。だからおれはこんないやな感じは蹴《け》とばし、この世で最初の人間のように行動するのだ。そう思うと気分はよくなり、この気分が十分身体じゅうにみなぎるのを待ちかねて出口からぴょんと飛びだし、韋駄天走《いだてんばし》りに駆けだすのだ。
おれは今エセックスの感化院へきている。施設としちゃ上等なとこだそうだ。少なくともノッティンガムからここへやってきたとき、院長はそう言った。「ここの施設にいるあいだ、われわれはきみを信頼したい」と言いやがった、仕事などしたことのない百合《ゆり》みたいに白い手で新聞の皺《しわ》をのばしながら。おれは逆さになった新聞の大きな活字を読んでいた――デイリー・テレグラフ紙。「もしきみがフェアプレイでやってくれるなら、われわれもきみに対してフェアプレイでいこう」(まったくの話が、テニスの試合でもおっぱじまりそうに聞こえるじゃないか)それにまたこんなことも言いやがった――「われわれは勤勉な作業と、よい運動選手がほしいんだ。もしきみがこの二つをわれわれに与えてくれるならばだ、われわれもきっときみの力になり、誠実な人間としてふたたびきみを社会へ送り出すことを約束してもいい」まったくおれはおかしくてどうにかなりそうだった、特にこのあとすぐ、特務《とくむ》曹長《そうちょう》づらをした奴の吼《ほ》えるような声が、おれと他の二人に気をつけの号令をかけ、まるで近衛《このえ》連隊のように行進させてつれ出したときには。そして院長が、≪われわれ≫はきみにこうしてもらい、≪われわれ≫はきみにああしてもらいたいといっているあいだ、おれはまわりを見まわし、いったい何人ぐらいああいうお目付役がいるんだろうと考えていた。むろん、何千という奴らがいることはわかっていたが、とにかくその部屋には一人しかいなかった。たしかに何千何万という奴らがいたんだ。梅毒《かさ》にかかったこの国じゅうに、店にも、会社にも、停車場にも、車の中にも、家にも、居酒屋にも――きみらや奴らみたいな有法者《ヽヽヽ》が、おれやおれたちみたいな無法者を見張り――そしておれたちがちっとでもわるさをしたらさっそく警察《サツ》に電話しようと、手ぐすねひいていやがるんだ。ところがそのわるさというのが、はっきり言やあどこにでも待ち受けてるんだ。おれはまだしたいだけのわるさをしちゃいないし、とても死ぬまでにしきれないだろう。もし有法者《ヽヽヽ》たちが、おれのわるさをとめたいと思ってるなら、時間のむだというものだ。いっそのことおれを壁の前に立たせ、一斉《いっせい》射撃でやってくれたほうが気がきいてるというもんだ。おれやそのほか数百万の連中のわるさをやめさせるには、それしか方法はないんだ。おれはここへきてから、いろいろ考えてきた。おれたちが|せんずり《ヽヽヽヽ》をやってやしないか、しっかり働いてるか、≪運動≫をよくやってるかなど、奴らが一日じゅうスパイしたとこで、おれたちが腹の中で考えてることはX光線みたいには見通せっこないんだ。おれはいろんなことを自分に問いかけ、これまでの自分の人生をいろいろと考えてみる。そういうのが好きなんだ。けっこう気晴らしにもなるんだ。おかげで知らないうちに時間はたってくれるし、町の悪童連が言ってたほど感化院も住みにくくなくなってくる。それにこの長距離ランニングの楽しみは最高だ。走ってるあいだはとてもよく考えごとができて、夜ベッドに横になってからよりずっといろいろ学べるからだ。それにともかく、感化院一の走者になるんだぞと考えながら走るのはすてきだった。ほかのだれよりも速く、五マイルをまわってこれるんだ。
というわけで、このおれこそ世界に生み落とされる最初の人間なんだぞと自分に言い聞かせ、まだ鳥たちも囀《さえず》りだす勇気が出ない早朝の霜をおいた草の中へぴょんと飛びでるや否《いな》や、おれは考えはじめる、そしてそれが楽しいのだ。おれは夢見心地で走路をまわり、曲がっていることも知らずに小径や細道の角を曲がり、川があることも知らずに小川を飛び越え、姿も見えない早起きの乳しぼりにおはようと呼びかける。気分をこわす相手もいなければ、ああしろこうしろとか、入りやすい店があるから隣の通りから裏口に忍びこめとか命令する奴もいないで、たったひとり、この世の中に飛びだせる長距離走者だということはありがたいことだ。ときどきおれは思うんだ、門を出て小径をとことこ走り、小径の終わりのあのつるんとした顔の、ほてい腹の樫《かし》の木のとこで折り返してくる二時間くらい、これまで自由なことはなかったと。すべては死んでいるがすばらしい――生きてから死んだんでなく、生きる前に死んでいるのだから。おれはそんなふうに眺《なが》める。そりゃ最初のうちはよく、こちこちに凍りついたみたいな気がすることがある。手も足も肉体もまるで感じがない。いくら見ても、霧を通して見ても、足の下に大地が見えないとなれば幽霊なみだ。おふくろに出す手紙に、霜がひどくて身にこたえると弱音を吐く奴らもいるだろう。だがおれはそんなことは書かない。なぜなら三十分もすればすっかり暖まり、やがて大通りに出てバス停留所のそばの小麦畑のあぜ道にさしかかるころには、まるでだるまストーブみたいにポッポと熱く、尻尾《しっぽ》をピンピンふりまわすわん公みたいにしあわせな気分になっているだろうからだ。
すばらしい人生だ、とおれは自分に言い聞かせる、もしポリ公や感化院のボスや、そのほかけちな面《つら》をしやがった有法者《ヽヽヽ》にさえ負けなけりゃ。タッ、タッ、タッ。ハッ、ハッ、ハッ。ペタッ、ペタッ、ペタッ――堅い土の上を足はひた走る。シュッ、シュッ、シュッ、腕と脇《わき》が潅木《かんぼく》のあらわな枝にふれて鳴る。おれは十七、奴らがここから出してくれるとき――おれがずらかって、事情が変わってこないかぎりは――どうせ奴らはおれを兵隊にやろうとするだろう。軍隊と今いるこことどこが違うというんだ? だまそうたってだまされるもんかってんだ、くそったれ。うちの近所にある兵舎を見たことがあるが、鉄砲を持って外に歩哨《ほしょう》が立ってなけりゃ、あの高い塀《へい》と今おれのいるこことどこが違うかわかりゃしない。そりゃ兵隊連中は、週に何度かしゃばへ出てきて、ビールを一杯ひっかけるだろう。だから何だというんだ。おれだって、週に三日は朝早く長距離練習に出られるし、そのほうが酒を飲むより五十倍もいいというもんだ。最初奴らから、長距離の練習には、自転車にのっかった警備が横につくようなことはないと聞かされたとき、おれはとても信じられなかった。奴らはここを進歩的近代的施設と呼んでいた。だけどおれはだまされやしない。今までいろいろ聞いてきた話からして、ここだってただこんなふうに駆けさしてくれるほかは、よその感化院と変わらないことはわかっていたからだ。どんなことをしようが、感化院は感化院なんだ。だがとにかく、空《すき》っ腹《ぱら》でこう朝早くから五マイルも駆けさすなんて少々ひどいと言ってごねてやった。そしたら奴らはおれに、それも悪くはないんだと思わせるように丸めこんできやがった――そう悪くないぐらいは最初っからわかってたんだ――そしてあげくにおれが、それじゃやりましょう、何とか全英長距離クロスカントリー競技ボースタル・ブルーリボン賞杯を獲得するよう努力しますと言ってやると、えらいぞなんて背中を叩《たた》きやがった。そして今では院長の奴め、持ってるかどうか知らないが、持ってるとすりゃ自分の競馬馬に話しかけるみたいな調子で、視察にまわってきておれに言いやがる――
「どうだ、調子はいいかね、スミス?」
「はい、院長」とおれは答える。
奴は半白の口ひげをひょいとはじき――「走るほうはどうだ?」
「夕食後、トレーニングのつもりで構内を軽くまわることにしてます」とおれは答えてやる。
太鼓腹で出目金《でめきん》の院長野郎は、それを聞いてにこにこしやがる――「そりゃいい。きみならきっとあのカップを取ってきてくれるだろう」
おれは声をひそめて誓う――「くそっ、取ってたまるかい」なあに、だれがあのカップなんか取ってやるもんか、ちょび髭《ひげ》をひねくりまわすふうてん院長が、いくらおれに期待をかけてやがったって。どだい、奴のくそばかげた期待ってのは何なんだ? おれは自問自答してみる。タッ、タッ、タッ、ペタペタペタ、小川を越え、ほとんどまっくらで夜霧の凍りついた小枝がちくちく脚を刺す森の中へ。おれにはどうだっていいことなんだ、ただあいつにとってだけ問題なんだ――ちょうどおれで言や、競馬の予想新聞を買って、まるで知らない、見たこともない、たとえ見たってどうってこともない馬に金を賭《か》ける体《てい》のものなんだ。奴にはそれくらいの意味しかないんだ。おれはきっとあのレースには負けてやる、おれは競馬馬じゃないからだ、そいつを奴に知らしてやるんだ、しゃばへ出る前に――もしレースの前にずらからなきゃ。そうとも、やってやるぜ。おれだって人間なんだ。あいつにはわからんような考えだって、秘密だって、力だってちゃんと腹の中に持ってるんだ、奴はふうてんだから気がつきゃしないだけで。このおれが院長のことをふうてん野郎だなんて言っちゃ笑われるかもしれない――ろくすっぽ字も書けないおれなのに、奴は大学の先生みたいに、読み書きも足し算もできるんだから。だけどおれのいうことに間違いはないんだ。奴はふうてんだが、おれは違う。なぜなら奴がおれみたいな人間を見通すより以上に、こっちは奴みたいな人間をお見通しなんだ。そりゃまあ、おれたちはどっちもずるい、だけどおれのほうがよっぽどずるいし、八十二で豚箱でおだぶつかもしれないが、それでも最後は勝つつもりだ。なぜならおれは奴なんかよりはるかに人生を華やかに太く生きるつもりだからだ。奴はきっと本だってべらぼうに読んでるに違いない。それどころか、自分で書いた本だってあるかもしれない、だけどおれはちゃんと知ってるんだ、今おれがここにすわってるのと同じくらい確実に知ってるんだ、おれが今ここに書きつけてることは、奴なんかの書くことよりだんちに値打ちがあるってことを。だれが何と言おうとかまやしない、とにかくそれが事実というもんだ。奴がおれに話しかけ、おれが奴の軍人づらをのぞきこむとき、おれは生きており、奴は死んでいることがわかるんだ。奴はドアの釘《くぎ》みたいに死んでやがるんだ。十ヤードも走ってみろ、奴はおっちんじまうだろう。おれの腹の中で起こってることを、十ヤードでものぞきこんでみろ、やっぱしそれでも死んじまうだろう――ぶったまげて。ともかく今のところ、奴みたいな死んだ野郎が、おれみたいな連中の上にのさばってやがるし、これからだってきっとそうだ。だけどそうだからって、そうさ、おれはやっぱし今までどおりのおれのほうがいい――いつも逃げてまわり、店先から煙草《モク》を一箱とか、ジャムを一|瓶《びん》とかいただいてくるほうが――だれかを見張り、足指の爪《つめ》から上すっかり死んでるよりか。だいたい人間てのは人より偉くなったりしちゃ、たちまちあんなぐあいに死んじまうんだろう。まったくの話が、こんなことを言えるのも、数百マイルも長距離をつっ走ってきたからこそだ。尻《しり》のポケットから百万ポンド札が出てこないのと同様、最初っからそんなことが言えるわけはないんだ。しかしともかく、いくら考えなおしてみてもそれに違いないんだ、今までだってそうに違いなかったし、これからだってそうに違いない。院長の奴《やつ》があのドアをあけ、やあ諸君おはようって言いやがるたびに、ますます確信は深まるばかりだ。
せっせと走りつづけ、まるで葉巻を十本、身体《からだ》じゅうのあちこちにおっ立てたみたいにポッポと白い息の煙が出ていくのを見ながら、おれははじめてここへきたとき、院長のやった短い演説のことをまた考えてみる。誠実。誠実を旨《むね》としてもらいたい。いつかの朝など、走りながらあんまり笑いすぎたもんで、いつもよりか十分も遅れてしまった。立み止まって、ちくちく脇腹の痛むのがおさまるまで待たなきゃならなかったからだ。おれの戻るのがあんまり遅かったもんで、院長はすっかり心配して、おれを医者のところへ行かせ、レントゲンをとらせ、心臓検査をやらせやがった。誠実を旨とすべし、か。まるでこう言ってるみたいじゃないか――わしと同じように死にたまえ、そうすりゃ、おまえの楽しく薄汚い家を捨てて、感化院だろうが監獄だろうが、どこへはいろうが少しも苦にはならんものだ、と。誠実を旨とし、週に六ポンドももらえるけっこうな仕事に本腰を入れることだ。いや、毎朝こやってさんざん長距離練習をやっていても、まだほんとのとこ、奴がどういうつもりであんなことを言いやがったのか、おれにはわからない。どうやらわかりかけてはきたものの――どうもおれの気に入らないことらしい。つまりいろいろすっかり考えた末、奴はおれみたいな生まれと育ちの人間には、とうていあてはめられないことを望んでやがるということがわかったからだ。それにも一つ、院長のような人間にわかりっこないのは、おれは今だって誠実だということだ。これまでだって誠実以外の何ものでもなかったし、これからだってそうだということだ。おかしく聞こえるかもしれない。だがそのとおりなんだ、なぜならおれはおれなりに誠実とはどういうことか知っているし、奴はただ奴なりの解釈しか知らないからだ。おれはおれの考えてる誠実がこの世で唯一《ゆいいつ》のものだと思っているし、同様に奴も、奴の考えてるのがこの世で唯一のものだと思ってやがる。それだからこそ、こんなへんぴなとこにおったった、塀と垣《かき》で囲った汚らしいばかでかい田舎屋が、おれみたいな連中を入れとくのに使われてきたんだ。もしおれが支配者なら、わざわざこんな建物をおったてて、ポリ公や院長やめかしこんだ女どもやブン屋や軍人や議員なんかを入れる面倒はしやしない――そうとも、おれなら奴らを壁の前に立たせて、ダダダダッと一斉射撃だ、むかしなら奴らがおれたちみたいな連中にやったと同じに。つまり、誠実ということの意味が奴らにほんとうにわかったらそうなるんだ。だけど奴らにはわかっちゃいないし、これからだってわかりっこないんだ、まったくの話が。
感化院へきて一年半ほどして、おれはようやくずらかることを考えた。感化院の住み心地がどうだったか、あまりくわしくは書けない。建物のようすを描写したり、一部屋にどれくらいの汚い椅子《いす》や板張りガラスがはまっていたかなど、書きしるす|こつ《ヽヽ》を知らないからだ。それにそれほど不平を並べることもできない――はっきり言って、おれは感化院ではぜんぜんつらい思いをしなかったからだ。さしずめおれの返事は、軍隊はどれくらいいやだったかと訊《き》かれて、仲間の一人が答えた返事と同じだ。そいつは言ったものだ――「いやじゃなかったぜ。食わしてくれ、着せてくれ、死物狂いで稼《かせ》ぎでもしなきゃ手にはいらねえほどたっぷりの小遣い銭までくれ、たいていは仕事もさせてくれず、ただ失業手当支給所へ週に二回行くだけだもんな」つまり、おれの言いたいのもだいたいそんなところなんだ。その点で感化院はあまり苦にならなかったし、何の不平もなかったので、どんな物を食わしたか、寄宿舎のようすはどうだったか、待遇はどうだったかなど、書き立てる心要もない。だけど他の面から、じわじわしめてきやがる。いや、腹を立てさせられたわけじゃない、腹なら生まれたときから立ちっぱなしだ。奴らはあれこれ奥の手をちらつかせて、おれをおどそうとしやがるんだ。監獄《ゴク》だとか、最後には縛《しば》り縄《なわ》だとか、いろんなものを持ってやがる。まるでどしんとどやしつけて外套《がいとう》をはぎ取ろうとしたとたん、相手がナイフをすばやく取り出し、近寄ると豚みたいに串刺《くしざ》しにしてやるぞと構えられ、たじたじとなる体《てい》のものだ。そのナイフはつまり感化院で、刑務所《ムショ》で、絞首台の縄だ。だけどひとたびナイフを見りゃ、素手で戦うのがどういうものか、少しはわかろうというものだ。どうしたってわかっちまうんだ、なぜならこっちにはそんなナイフなど手にはいりっこないし、素手で戦ったってどうにもならないにきまってるからだ。それでもこんなことにかまっちゃいられない。ナイフがあろうとなかろうと、そいつに向かって飛びかかってゆくだけだ。何とか相手の手首と肘《ひじ》に同時に手をかけ、ぐいぐいしごいてナイフを落とさせるだけだ。
つまり、おれを感化院へ送ることによって、奴らはナイフを見せつけたことになり、おれもこれまで知らなかったことを、つまりおれと奴らとのあいだは戦争状態だということを知ったのだ。むろんこんなことは前から承知だった、なぜなら以前|更生寮《リマンド・ホーム》にいたとき、そこの仲間たちが、感化院にいる兄弟たちのことをいろいろ話してくれたからだ。だけどあのときは、子猫《こねこ》のように、ボクシングのグラブのように、織り機のバネのように、ちょっとふれただけですぐにおれの関心から離れてしまった。だが今や奴らにナイフを見せつけられたからには、今後また万引でもやらかすかどうかはともかく、おれには自分の敵がどいつであり、戦いとは何かがわかっている。落としたいなら、原爆でもバカスカ落とすがいい――おれはそんなのを戦争と呼ばないし、兵隊服を着て出かけて行く気はさらさらない。おれはもっと違った戦争をやっているからだ、奴らに言わせりゃお遊びみたいな戦争を。奴らの考えてる戦争は自殺みたいなもんだ、戦争に行って殺される連中は自殺未遂で豚箱へ叩きこんじまうがいいんだ、どうせあわてて応召したり、召集されたりする連中はそんな気持ちでいやがるんだから。おれはちゃんと知ってるんだ、ときどき、いっそ死んじまったらどんなにいいだろうと考えたこともあるからだ。その点いちばん簡単なのは、応召して死ねるでっかい戦争を望むことだった。だけどおれはすでに自分自身の戦いを戦っており、生まれながら戦いにまきこまれているし、ダートムア刑務所で攻撃をかけ、リンカーン監獄では半殺しに遭い、ボースタル感化院の無人地帯に捕えられた≪古つわもの≫たちの、どんなドイツ軍の爆弾よりでかい音をたてる話を聞いて育ってきていた。そんな気持ちは卒業していたんだ。政府の戦争はおれの戦いじゃない。おれには何の関係もないことなんだ、なぜならおれの気になるのは、おれ自身の戦いだけだからだ。今でも覚えているが、十四のとき、おれは三人のいとこといっしょに田舎へ出かけた。三人ともだいたい同じ年ごろで、後にみな別々の感化院へ行き、そのあと別々の連隊にはいったが、じきにそこから脱走し、別々の監獄へ行ってたぶん今もそこにいるはずだ。ともかくあのとき、おれたちはみなまだ子どもだったが、ある夏、胸のむかつく熱いタールの道路から逃げだし、気晴らしに森へ行こうということになった。おれたちは垣根をのり越え、途中でいくつかすっぱいりんごをちょうだいしながら野原を越えて行ったが、やがて一マイルほど先に目指す森が見えた。コリヤーズ・パッドの先までくると、垣根のかげで別の一団の若い連中が中学生声で話しているのが聞こえた。おれたちはそっと忍び寄り、藪《やぶ》の中からのぞいてみた。連中はバスケットや水筒やナプキンからとびきり上等のご馳走《ちそう》をいっぱいひろげ、飲み食いの最中だった。七人ほどもいただろうか、午後からママやパパに送り出されてきた坊っちゃん嬢ちゃん方だ。そこでおれたちは鰐《わに》みたいに腹んばいになって垣根を抜け、連中を包囲し、車座のまん中へとびこみ、焚火《たきび》を蹴散《けち》らし、横っつらをぶん殴り、食い物を全部ひったくって、チェリー・オーチャードの野原を抜け森の中へ駆けこんだ。おれたちが略奪しているあいだに現われた男が一人、あとから追いかけてくる。おれたちは無事に逃げのび、たらふくこの掘出し物を腹につめこんだ。何しろもう腹ぺこで死にそうだったもんで、薄切りレタスや、ハムサンドや、クリームのたっぷりかかったケーキに、顎《あご》が食い入るのも待てないくらいだった。
ともかく、おれたちに蹴散らされる前のあのまぬけな小僧たちの気分で、おれは人生を渡ってゆくつもりだ。だけど奴らは、あんなことになろうとは夢にも思っちゃいなかった。ちょうどおれたちに口をとんがらかして誠実だの何だのごたくを並べるこの感化院の院長が、何もわかっちゃいないのと同じようなもんだ。だけどおれは、いつでもちゃんと知っているんだ、うかつにもいい気になってひろげた楽しいピクニックを、大きな靴《くつ》がいつなんどき踏みつぶすかもしれないってことを。たしかにおれも、このことをすっかり院長に話し、用心させてやろうかと思ったこともある。だけど奴の面《つら》を見ると気が変わり、勝手に自分で気がつくか、おれが味わったと同じ苦い経験をすりゃいいと思いなおした。おれは何も冷酷な人間じゃない(実を言えば、これまでにもこっちの景気がいいときには何ポンドか金を恵んでやったり、嘘《うそ》をついてやったり、煙草《モク》をくれてやったり、追われてるときにはかくまってやったり、何人か助けてやったこともあるくらいだ)、だけどよけいな忠告を院長の奴にしてやって、独房に入れられるような危《ヤバ》い真似《まね》をしてたまるかってんだ。やさしい気持ちがあったとしたら、それをどういう連中にとっといてやるかはちゃんとわかっているんだ。どうせどんな忠告をしてやったところで、ちっとも院長のためにはなりゃしない。忠告してやったほうがよけい早くつまずくのが|おち《ヽヽ》なんだ、そうなりゃざまあみろってとこだが。しかし当分のあいだは事のなりゆきにまかせるとしよう、それもここ一、二年のあいだに学んだ処世術だ。(手に握ったこのちびた鉛筆で、書いていく早さでしか考えられないというのはありがたいことだ、さもなきゃこんな試みは、もうずっと以前に投げだしてしまっていただろう)
朝の一周コースを半分ほど走りきり、凍傷にかかった夜が明け、|ぶな《ヽヽ》や|かえで《ヽヽヽ》のあらわな小枝から痰《たん》のようにわずかな陽《ひ》の光が見え、近道になる潅木《かんぼく》におおわれた急な土手からパッと飛びおり、くぼんだ小径《こみち》へとびこんでちょうど道のりの半分まできたことを知り、まだあたりには人影もなく、見えない田舎家の厩《うまや》で鳴くぶちの子馬のいななきのほか物音も聞こえないとき、おれはいちばん深遠な、いちばん突拍子もないことを考えはじめるのだ。いつだったかラジオで聞いた『失われた世界』に出てくる翼竜《よくりゅう》みたいにピューッと全速で飛び、きんたまを抜かれた若い雄鶏《おんどり》みたいにがむしゃらに、身体じゅうバラバラになりそうにひっかきながら、も少しで気を失いそうになりながらおれが土手を滑走しているところを見たら、首か踝《くるぶし》でも折りやしないかと、院長の奴めきっと発作でも起こしやがるだろう。だけどおれはやらずにはいられないんだ。これこそおれにとっては唯一の冒険だし、唯一の興奮だからだ。いちばんすばらしい一瞬なのだ、なぜならそうやって飛んでいるあいだは、おれの頭には思想も言葉も情景も何一つはいってこないからだ。からっぽなんだ、生まれる前みたいにまるでからっぽなんだ、だけど気を失うことはない、きっとどこか心のずっと奥のほうには、おれを死なせたくない、おれを傷つけたくないものがあるからだろう。深く考えるなんてことはくそばかげたことなんだ、考えたってどうなるものでもないからだ。だけどこの半分の地点を通ったときのおれは深遠な気分だ、早朝の長距離練習はこれこそ人生だと――ちっぽけな人生だが、およそあらゆる不幸や幸福や出来事に取り囲まれた人生だと――感じさせてくれるからだ。そして、こうして毎朝毎朝走りつづけたあげく、人生はひとたびうまくスタートさせれば、どういう結果になるかなど自然にわかっちまうという気がしたものだ。しかしおれは例によってまちがっていた。まずポリ公につかまり、ついでおれ自身の悪い頭につかまり、あのたくさん設けてある|わな《ヽヽ》にうまくひっかからずに逃げることはできなかった。早晩いつだって足をすくわれてしまうんだ、知らないうちどんなにたくさんうまく飛び越えていたところで。今ふり返ってみりゃ、あの大きな並木がみな枝を口にあてがい、お互いに目くばせをしてやがった。それをおれは何も気づかず、土手をピュッと飛びおりてったというわけだ。
U
何もおれはこんなことを自分に言い聞かせるつもりはない――「あんなことはやらなきゃよかった、そうすりゃ感化院なんかへぶちこまれることはなかった」などと。いや、おれがこのマラソン頭へ言い聞かそうとしているのは、せっかくおれが警察《サツ》の奴《やつ》らに、あんなことはぜんぜんやった覚えはないと言い張ってる最中に、運に見放されたのはまったくついてなかったということだ。時は秋、霧深い夜で、ふつうならテレビの前に根が生えたみたいにすわりこんでるか、映画館のビロード張りの|ばん《ヽヽ》とした椅子にすわってるはずのおれと相棒のマイクは、街をほっつき歩いていた。何しろおれは六週間も、まるきり仕事なぞやってなかったもんで落ちつかなかったのだ。どうしてそんなに長いことボケッとしてたのかと訊かれてもむりはない、ふつうなら、おれは仲間の連中とフライス盤に向かい、やせた身体で懸命に汗を流しているはずなんだから。だけど、おやじが喉頭癌《こうとうがん》で死んだので、おふくろのところに保険金とおやじの働いていた工場からの給付金が、≪おくやみ≫とか何とかそんな言葉で、大枚五百ポンドもころがりこんできたのだ。
ところで、おれはだいたいそういう考えだし、きっとおふくろも同じだったんだろうが、いくらバリッとした青い五ポンド札の束があったって、そいつがそこいらの店主の銭箱へとびこみ、それと交換にカウンターごしにとびきり上等な品が渡されなきゃ、生きてる仏さんにはどうってことはないもんだ。というわけで、金がはいるとさっそく、おふくろはおれと五人の兄や姉をつれて町へ行き、新しい服を買ってお人形みたいにめかしこましちまった。そのあとおふくろは二十一インチのテレビと、古いのはおやじが死んだときの血だらけで洗っても落ちないもんで、新しい絨毯《じゅうたん》を買い、いっぱい買いこんだ食い物の袋と新しい毛皮のコートをかかえてタクシーで家へ帰った。ところがどうだ――とても信じちゃもらえないだろうが――そのあくる日、おふくろのパンパンにふくらんだハンドバッグの中には、まだ三百ポンド近くが残ってたもんだ。となりゃ、だれが仕事なんかに行くかってんだ。かわいそうなのは死んだおやじだ、とうとう一度も陽の目を見られず、一人で苦労して、こんな大金を残して死んじまったんだから。
毎晩毎晩、おれたちは片手にハムサンド、もう片手には板チョコ、そして足のあいだにはレモネードの瓶《びん》をおいてテレビの前にすわり、そのあいだおふくろは、どこぞのいい男を二階へひっぱりこんで、注文仕立ての新しいベッドの中だった。まったくほしい放題金があったあの二、三カ月のおれたちくらい、しあわせだった家族もあるまい。やがて金がなくなると、特に何を考えるでもなく、おれは――おふくろには新しい就職口を捜しにだと言って――街をほっつき歩いた。まあはっきり言やあ、すっかり身についたお大尽暮らしがいついつまでも永遠につづくよう、また五百ポンドでも手にはいらないもんかと考えてたってわけだ。なぜなら、違った生活に馴《な》れる早さというものは驚くばかりだからだ。まずテレビの広告はおれたちに、世の中にはおれたちが夢に見たよりどんなに多くの買いたい品が、店の飾り窓をのぞくときもどうせ買う金がないもんで全部は見なかった品が、あるかということを教えてくれた。それにテレビはそんな品を、おれたちが考えていたより二十倍もよく見せてくれた。映画館で見る広告ですらつまらん退屈なものに見えた。そんなものは親しくわが家でお目にかかっていたからだ。せんには店に並んだ動かない品物を見てふんと鼻先であしらったものだが、急にそれらの真価がわかりだしてきた。画面を飛びまわり、ピカピカ光り、肉まんじゅうみたいな顔の小娘が夢中でマニキュアをした手で飛びついたり、口紅を塗った口がパックリかぶりついたり、何しろ死んだみたいな新聞やポスターのけちな広告とはてんで違うからだ。半分|蓋《ふた》のあいた箱や罐《かん》などがそこいらを自由に飛びまわり、さあ早いとこさらってくれと言わんばかりじゃないか。ちょうど店の窓ごしに鍵《かぎ》のかかってない金庫が見え、店のおやじが何も警戒せずお茶を飲みに行っちまってるみたいな感じだ。その点じゃ、テレビの映画もなかなかイカした。現金《ゲンナマ》をいっぱいつめこんだ鞄《かばん》をかかえ、(最後の瞬間までは)うまくずらかってそいつを使えそうな泥棒《どろぼう》を追っかけるポリ公から、目を離すことができなかったからだ。おれはいつでも、犯人《ホシ》がうまくずらかり、分け前を思う存分使ってくれりゃいいと願い、パンチを画面の中へぶちこみ(どうせ映画館のぼろスクリーンの端きれぐらいの大きさしかないんだから)、刑事《デカ》を|首固め《ハーフネルソン》で締め上げ、現金《ゲンナマ》の袋を持ってずらかる奴を追えないようにしてやりたくて、ウズウズする手を抑えておくのが一苦労だったもんだ。ギャングが二、三人銀行員を殺したときでも、つかまらなきゃいいと願っていた。まったくあのときほど、犯人がつかまらなきゃいいと思ったことはなかった、もしつかまりゃ当然電気椅子だろうし、おれはたとえどんなことをした人間でも、電気椅子にだけはかけてやりたくなかったからだ。というのも前に何かの本で、電気椅子にすわってもすぐには死ねないで、すわったままじわじわ焼け焦《こ》げるって話を読んだことがあるからだ。ところでポリ公たちが悪漢を追っかけてるとき、おれたちはうまいテレビ遊びを考えだした――ポリ公がでっかい口をあけ、奴をつかまえろとか何とかどなっているとき、音量をぐっと下げてしまい、口だけ金魚か|さば《ヽヽ》か|はや《ヽヽ》みたいにパクパク動くのを眺《なが》め、身ぶりの真似をしてやるのだ。それがあんまりおかしいもんで、まだ寝室へ持ちこんでなかったまっさらな絨毯の上で、家じゅうが発作を起こしそうになったくらいだ。だけど、どこぞの保守党議員の奴が、またわが党に投票してくれれば、いかにすばらしい政府になるだろうかとしゃべくっているときに、それをやったときは最高だった――だぶだぶたるんだ顎がもごもご動き、パクパクムニャムニャ、あげた両手は口ひげをひねり、花がしおれてやしないかたしかめようとボタン穴にさわってばかし。それを見りゃ、奴らの言ってることは全部口先だけだってことがわかるってもんだ。ことにおれたちが音を消してしまったため、うんともすんとも聞こえてこないとなりゃ特にそうだ。感化院の院長の奴が、はじめておれに話しかけたとき、おれはあのときのことをありありと思い出してしまい、笑うまいとして死ぬほどの苦しさを味わったもんだ。まったく、あのテレビのビックリ箱を|ねた《ヽヽ》にさんざんイカレたことばかしやって遊んだもんで、おふくろはおれたちのことをテレテレ坊主《ぼうず》と呼んだもんだ。
相棒のマイクは初犯なので――ともかく警察《サツ》に知れたのはこれがはじめてだったので――保釈で出た。それにおれのそそのかしがなければ、奴ひとりではやらなかっただろうと警察じゃ見たのだ。この男は(何もはいってないみたいに見せようとポケットに両手をつっこみ、そこへ入れる半クラウン銀貨でも捜しているように首を垂れ、破けたメリヤスセーターを着こみ、髪の毛を目の上へパラリと垂らしてご婦人に近づき、腹がへってるんで一シリング恵んでくれないかと頼みこむ)マイクのような善良な若者にとっての脅威である、なんておれのことを言いやがった――しかもおれがあの犯行のかげの頭脳であり、決断へと追いやる導きの光であるなどとぬかしやがったが、天地神明に誓ったっていい、おれはそんな大それた人間じゃない、あんなとこへ金を隠しておくなんて、まったくおれには蚊なみの頭しかないってことだ。そしておれは自分のばかさかげんで身をほろぼし(正直言えば前に更生寮にいたもんで――もっともそれはまた別の話で、それを話したってこの話と同様退屈だろうが)、感化院へ送られたというわけだ。ともかくおれはマイクが無事にずらかってくれて嬉《うれ》しかったし、とぼけたおれみたいなのと違って、奴がいつでもずらかってくれればいいと願うばかりだ。
こうしてこの霧深い夜、おれたちはテレビの前から重い腰をあげ、表戸をピシャリとしめ、汽笛のこわれたのろい曳船《ひきぶね》みたいに広い通りへ出て行った。とにかくまわりじゅうべらぼうな冷たい霧で、どこから家並みがはじまってるのかもわからなかったからだ。おれは外套《がいとう》もなしで決死行へ飛びだした――大あわてにいろんなものを買いこんだとき、おふくろの奴が買い忘れ、あとでおれの外套はと念を押そうと思ったときには、もう金はすっからかんだったのだ。というわけで、おれたちはあったまるために『いかれ男のピクニック』を口笛で吹き、今度はどんなことがあったってすぐに外套を買うぞ、とおれは自分に言い聞かせていた。マイクも同じ考えだと言い、そのほかに、何年も前学校の医務室でもらった針金の枠《わく》のかわりに、金ぶちの新しい眼鏡を買うんだとつけ加えた。最初マイクの奴は霧が深いことがわからず、電柱や自動車にぶつかるたびにおれに手を引かれ、さかんに眼鏡を拭《ふ》いていたが、アルフレトン街の明りが蛸《たこ》の目みたいに見えはじめると、さすがに眼鏡を取ってポケットへ入れ、仕事にとりかかるまで二度とかけなかった。二人合わせても半ペニー二個も持っていなかった。腹はへってなかったが、フィッシュアンチップスの店の前を通ったときには、一、二シリング持ってりゃなと思ったものだ、塩と酢と揚げ油のいい匂《にお》いをかぐと、口の中がつばきでいっぱいになったからだ。まったくの話が、おれたちは町のはじからはじまで歩き、おれたちの目は、財布か時計でも落ちてやしないかと地面に釘《くぎ》づけになってなかったとすりゃ、きょろきょろ家の窓や店の戸口を見まわし、忍びこみやすくガッポリちょうだいできそうなところはないかと、うの目たかの目だった。
二人ともそこまで口に出して言いはしなかったが、考えていたのはまさにそんなことだった。どうしてもわからないのは――今ここにこうやってすわってるのと同じくらいたしかに、今後もとうていわかりっこないのは――いったいどっちが先に、あのパン屋の裏庭に眼《ガン》をつけたかということだ。そりゃまあ、おれだったと自分で言うのは簡単だ。だけどほんとのところ、はたしてマイクが先だったかおれだったかわからないんだ、なぜならおれは、マイクの奴がおれの脇《わき》をつついて指さすまで、あいた窓に気づかなかったからだ。「おい見たか?」と奴は言った。
「見たさ、忍びこもうぜ」とおれは言った。
「だけど塀《へい》はどうすんだい?」とマイクもさすがにちょっと気がかりそうに、小声で言った。
「きさまに肩車さ」
マイクの目はすでにの塀ほうを向いていた。「届くかい?」彼が生気を見せたのはこのときだけだった。
「まかしときなって。きさまのがっしりした肩にのっかりゃ、どこにだって届くさ」とおれは事もなげに答えた。
マイクはおれにくらべりゃちびだったが、着ているけちなごばん縞《じま》のメリヤスセーターの下には、鉄みたいに堅い筋肉が隠れていた。奴が眼鏡をかけ、両手をポケットにつっこんで通りを歩いてるところを見りゃ、とても蝿《はえ》一匹殺せそうに思えないが、おれはけんかのときはいつも奴の敵方にまわりたくなかった、なぜなら奴は何週間もつづけて口ひとつ利《き》かず――テレビの前に根が生えたみたいにすわってるか、カウボーイの本でも読んでるか、それとも眠ってるかなんだが――それがとつぜんバサッ――土曜の夜の最終版フットボール予想新聞を先に行って買ったとか、バスの停留所で列の前へ割りこんだとか、隣のかわい子ちゃんのことをうっとり夢みてるときに往来でぶつかったとか、まるで何でもないことでいきなり相手を半殺しだ。前にいつだったか、おかしな眼《ガン》をつけたといって見ず知らずの奴につかみかかるのを見たことがあるが、あとでわかったところでは、そいつはもともと斜視で、その日この界隈《かいわい》へ越してきたばかり、だれもそのことを知らなかったのだそうだ。仕事が仕事でなきゃそんなことはどうだっていいんだが……おれと奴が仲間でいられた唯一《ゆいいつ》の理由は、おれも丸ひと月でも口を利かなかったからだ。
奴は機関銃でもつきつけられたみたいに両手をあげ、一斉《いっせい》掃射されるみたいに塀のところへ寄った。おれは奴のことを踏み段か梯子《はしご》みたいに、奴の上へよじのぼった。奴は伸ばした両手の掌《てのひら》を開いて横につき出し、車の下へさしこんだ万力スパナみたいにおれがその上へのっかれるように立った。息ひとつ、身ぶるいひとつしやがらない。とにかくおれはぐずぐずしていなかった。口にくわえていた上衣《うわぎ》を取ると、そいつをガラスを植えこんだ塀の上へ(長年石をぶつけられギザギザのだいぶとれたガラスのあまり鋭くないあたりへ)投げかけ、あっという間にもう上へまたがっていた。それから向こう側へ飛びおりた。地面におりたときは両脚が喉《のど》へ食いこんじまい、まるで高いとこからパラシュートで飛びおりたみたいな衝撃だった。十二フィートの塀から飛びおりるみたいなもんだと前に友だちから聞いていたが、これこそまさにパラシュート着地だった。やっとおれは起き上がり、マイクのために門をあけてやった。いちばんの難関を突破したもんで、奴はまだにこにこし、元気いっぱいだった。気のきいた感化院|小唄《こうた》で言う「来たり、破れり、押し入れり」ってやつだ。
いつものとおり、おれは何も考えなかった。仕事中はいつも何も考えないんだ。酒を盗みだすときでも、ポケットの中身をいただくときでも、鍵をこじあけるときでも、閂《かんぬき》を持ち上げるときでも、骨ばった両手とひょろ長い両脚をむりやり押しこんで何かを動かそうとしているときでもそうなんだ。肺が息をしてスースーハーハーいってるのも感じないくらいだし、口をしっかり閉じてるかぽかんとあいてるかも、腹がすいてるかどうかも、|かいせん《ヽヽヽヽ》がむずむずするかどうかも、Mボタンが外れてるかどうかも気がつかず、ただもう汚い言葉を糞《くそ》みたいに吐きだし、夜ふけの最後の霧の中に唾《つば》を吐きだすだけだ。自分でもさっぱりわからないのだ。こんなときはたして考えごとをするもんかどうか、とうていわかるもんじゃない。どやって窓をあけたらいいだろうかとか、どやってドアをこじあけたらいいだろうかで夢中になっているときに、考えたり、気にしたりできるはずがないというもんだ。感化院へ行ってから何日も何日も手帳を持っておれに質問をしやがった四つ目玉の、白い上っぱりを着た奴がわからなかったのもその点だ。おれもあのときは今ここに書いてるように説明できなかったし、かりに説明できたにしても、奴にはわからなかっただろう、なぜならおれ自身、この今だってはたしてわかっているかどうかわからないからだ、努力だけはたしかにしているつもりだが。
というわけで、気がついたときにはパン屋の事務所の中におり、マイクの奴がまずマッチをすり、ありかをたしかめてから金庫を取りあげるのを見守っていた。奴はピカピカの銀貨みたいな注文仕立ての笑いを角刈り頭の顔に浮かべながら、ぺしゃんこに押しつぶしてしまいそうに両手で金庫をつかみにかかった。「出よう」と奴はカラカラ音がするほど頭を振っていきなり言った、「ずらかろうぜ」
「もっとあるかもしれないぞ」とおれは、デスクの引出しを五つ六つあけてみながら言った。
「ないさ」と、まるでもう二十年もこの道の年季がはいっているみたいに言いやがった、「これで全部いただきだ」と言って金庫を叩《たた》いてみせやがる、「これだけさ」
おれはまたいくつか引出しをあけてみた。伝票やら帳簿やら手紙やらがいっぱいつまっていた。「これだけってどうしてわかるんだ、ぼけなす?」
奴は登場を待っている闘牛みたいに、おれのそばを乱暴に通りすぎた。「どうしてって、そうにきまってるからさ」
良かれ悪《あ》しかれ、おれたちは協力して行動をともにしなきゃならなかった。おれは真新しいタイプライターのほうを見てよだれが出そうだったが、すぐ足がつく品《ネタ》だとわかっていたので、投げキスを一つしてマイクのあとを追った。「待てよ、急ぐことはねえんだ」とおれはドアをちゃんとしめながら言った。
「そんなにいそいじゃいねえよ」と奴は肩ごしに答えた。
「この現金《ゲンナマ》をぼちぼち使ってくのにどうせ何カ月もかかるんだからな」とおれは中庭をつっ切りながら小声で言った――「だけどあの門をあけるのにあんまりきしらせるなよ、警察《サツ》にたれこむ奴《やつ》らが聞き耳をたててるからな」
「おれをそんなとんまだと思うんかい?」と奴は、街じゅうに聞こえるぐらいギイギイ門をきしらせながら言いやがった。
マイクはどうか知らないが、そこでおれは考えはじめた、あの金庫をジャンパーの中に隠して、どうやって無事に通りを抜けて帰ろうかと。表通りへ出るなり、奴は金庫をおれの手に押しつけやがったからだ。どうやら奴も考えはじめたのかもしれない。つまりそれでわかることは、自分でいろいろ考えなきゃ、他人の考えることはわかるもんじゃないということだ。だけどそのときのおれの考えだけを言や、熱いブローランプをもってきたってびくともしないような、ちょっとした怖《おそ》ろしさを感じてただけで、たいしたことは考えちゃいなかった。そんなに腹をふくらましてどこへ行くんだ、ともしポリ公に訊《き》かれたら、どう答えたもんかと。
「それは何だね?」とポリ公は訊くだろう、おれは答えてやる、「大きくなっちまったんだ」「大きくなったとはどういうことかね、きみ?」ポリ公はポリ公らしい言い方で言い返すだろう。おれは咳《せ》きこみ、世にもものすごい、腹わたをよじられるような苦しみを味わっているように身体《からだ》をかかえ、病院へ行く途中みたいに目をつり上げてやろう、マイクの奴は無二の親友みたいにおれの腕を取ってくれるだろう。「癌《がん》なんだ」とおれは息もたえだえに言ってやる、そう聞きゃポリ公の野郎も、とぼけた頭でちっとは怪しむだろう。「きみの齢《とし》でかね?」とか。そこでおれはもう一度うめき声をあげ、やっこさんがとんでもない弱いものいじめのポリ公だということを(まあだめだろうが)思い知らせてやるんだ――「うちは癌の血統なんだよ。おやじは先月癌で死んだし、どうも感じじゃ来月はおれらしいんだ」「何だね、お父さんは腹に癌ができたのか?」「いや喉だけどさ。だけどおれのは胃なんだ」うめいて咳きこむ。「ともかく、癌にかかったんなら、こんなふうに出歩いててはいかん、病院にはいってなきゃいかん」そこでおれは腹を立てる――「今そこへ行くとこじゃないか、きさまにくどくどうるさく訊問《じんもん》されなきゃ。そうだろ、マイク?」ポリ公が警棒を外《はず》すと、マイクはうむとつぶやく。すると、うまいぐあいにポリ公は急に親切になりやがって、早く行けと言うだろう、病院の外来は十二時にしまるから、よかったらタクシーを呼んでやろうか、てなことを言って。きみたちが望むなら呼んでやってもいい、むろん金もわしが払うから、てな調子で。だけどおれたちは言ってやる、その必要はないよ、きさまはポリ公だけどいい奴だ、ともかくおれたちは近道を知っているから、あばよ、てなぐあいだ。ところがおれたちが角を曲がりかかると、奴のいかれた頭にも、あれじゃ病院と逆の方角だということがわかってくる、そこでおれたちを呼び戻す。そこでおれたちは韋駄天走《いだてんばし》りだ……もしこれでも考えの部類にはいるものなら。
おれの部屋に上がると、マイクはさっそく例の金庫を金鎚《かなづち》とのみでこじあけ、気がついたときにはまるでクリスマスのお茶どきみたいに、めいめいに七十八ポンド十五シリング四ペンス半ずつの金が、おれのベッドの上いっぱいにひろげられていた――ケーキにカステラ、サラダにサンドイッチ、ジャムパイに板チョコといったとこだ。どれもみなマイクとおれとで半分ずつに分けた。なぜならおれたちは仕事も平等、分け前も平等というのがいちばんだと思っていたからだ、おやじがもうろくして働けなくなり、息切れして議論もできなくなるまではいってた組合の仲間と同じに。あの気の毒なパン屋みたいな連中が、町じゅうどの角《かど》っこにもあるでっかい大理石造りの入口の銀行に、有り金をすっかりしまっといたりしないのはまったくありがたいことだ、とおれは思った。どんなにどっさりコンクリを使い、どんなにたくさんの鉄筋や鉄の箱から銀行ができていようが、どんなにおおぜいのポリ公が青い出目金《でめきん》目玉を銀行にすえていようが、あのパン屋が金庫を信用しているというのはすばらしいことだ――たくさんの店主連中が、金庫のことを古風だと考え、銀行を使うことでモダンぶろうとしているというのにだ。銀行などへ入れられちゃ、マイクやおれたちみたいな誠実で正直で勤勉で良心的な二人組には、まるでチャンスがなくなっちまうというもんだ。
さてきみらだって、おれだって、だれだって、ちっとでも想像力のある人間なら考えるだろう、おれたちが文句ない手ぎわで仕事をやってのけ、パン屋の店は少なくともおれたちの住んでるとこから一マイルは離れており、だれも見たものはなし、霧は深く、それに現場には五分といなかった事実を考えりゃ、ポリ公連中にはぜったい尻尾《しっぽ》をつかまれっこないだろうと。ところがそこできみらはまちがってるし、おれもまちがってるし、だれもみなまちがってるというわけだ、どれほどたっぷり想像力があったにせよ。
それでも、マイクとおれは金をまき散らさなかった、そんなことをしようものならたちまち、何か|がめ《ヽヽ》てきたなと世間の奴らに感づかれてしまうからだ。それじゃまるきりまずいってことだ、おれたちんとこみたいな裏通りにも、どんな了簡《りょうけん》かポリ公に義理立てしやがる妙な奴らがいやがるからだ。世間にはけちな野郎がいやがって、かりにたった二ペンスよけい持ってるだけでも、すきを狙《ねら》って横取りされそうだと思や、便所の金具を盗むとこを見つけただけで、自分らの便所でもないくせ人を豚箱へ入れさせかねない――自分らの二ペンスを取られまいとしやがって。そんなわけで、おれたちは羽振りがいいのを気《け》どられるようなことは何一つしなかった。半年ほど前、工場の事務所をやった仲間の一人みたいに、下町へ行ってまっさらのマンボ・スタイルを新調におよび、ボンゴのドラムを一式買ってきたみたいな真似《まね》は。大丈夫、おれたちは半ぱなシリング銀貨やペニー銅貨だけを取り出し、札は束に丸め、裏庭のドアをあけたとこにある雨樋《あまどい》の中へつめこんでおいた。「あすこならだれも捜しゃしないだろ。一、二週間あすこへないないして、それから週に三、四ポンドずつちびちび小出しに出すって寸法だ。とんだ悪党かもしんないが、|とうしろう《ヽヽヽヽヽ》じゃねえもんな」とおれはマイクに言った。
数日後、私服の刑事《デカ》が戸を叩いた。おれに用だそうだ。十一時だったがおれはまだベッドの中だった。おふくろの声が聞こえたもんで、気持ちのいいまっくろけのシーツから出なきゃならなかった。「男の方がおみえだよ。早くおし、帰ってしまわれるよ」
おふくろが相手を裏口に引きとめている声が聞こえた。あんなによく晴れてましたのにねえ、けさは早くから雨が降りそうで、とか何とかぺちゃくちゃしゃべっている――相手はうんとかいいやとか、気短かに吐きだすように言うだけで何も答えない。おれは急いでズボンをはき、いったいどうして奴がきたんだろうと考えていた――刑事《デカ》だということはわかっていた、「男の方がおみえだよ」と言や、わが家ではそれにきまっていたからだ――それにもしマイクのとこへも同時に行ってることがわかってりゃ、当然お目当ては、刑事《デカ》の靴《くつ》から二、三十センチ先の、裏戸の外にある雨樋につめこんだ百五十ポンド相当の紙束だということがわかったはずだ。裏口じゃ、おふくろがまだ私服をつかまえてぺちゃくちゃやっていた。おれのためを思ってなんだ、何をやってんだ中へ入れりゃいいのに。だけどよく考えてみれば、中へ入れたりすりゃ、外へ立たしとくよりよけい怪しまれるかもしれない、なぜなら奴らは、おれたちが奴らの横柄《おうへい》さを毛嫌《けぎら》いしてることを知ってるし、そのおれたちが愛想よくするときには何か臭いってことを知ってやがるからだ。とにかくおふくろは年季がはいっているからな、と、おれはギイギイきしむ階段をドカドカおりてゆきながら思った。
前に見たことのある奴だった――奴こそは感化院《ボースタル》のバーナードに中折帽をかぶせ、更生寮《リマンド・ホーム》のロナルドに長靴をはかせ、保護監督《プロペイション》のピートにけちなレインコートを着せて、三カ月の≪別荘≫生活が歩いてるみたいな(これはみなおれの新しい相棒が作った感化院小唄の文句だ、全部教えたっていいが、今のこの話には関係がない)奴なんだ、あの雨樋が尻《しり》っぺたへつめてるだけの金すらポケットへ入れたことのない刑事《デカ》だった。顔はペンキ刷毛《ばけ》みたいな口ひげまでヒットラーにそっくりだ。ただ背の高さが百八十センチ以上もあるもんで、ヒットラー以上の悪玉に見える。だがおれはしゃんと背を起こし、相手のまぬけた青い目をじっとのぞきこんでやった――ポリ公を見ればいつもそうしてやるんだ。
それから奴はいろんなことを訊き出しはじめた。うしろからおふくろが加勢してくれる――「この子はね、ここ三月ほどそこのテレビから離れたことがないんですからね、何かさぐり出そうたってむだですよ、だんな。どっかほかを当たったほうがいいね。そんなとこにボケッと立ってられたりしちゃ、うちの家賃の中から取ってる地方税と、わたしの給料袋から出ていく所得税の無駄遣《むだづか》いというもんだよ」――というのはお笑いだった、おれの知ってるかぎり、おふくろがそんなものを払ったことはないし、これからだってきっと払いっこないからだ。
「どうだ、パプルウィック街がどこにあるかは知ってるだろう?」と刑事《デカ》の奴は、おふくろのほうは気にもとめずに訊いた。
「アルフレトン通りを抜けたとこじゃないのかい?」と、おれは協力的ににこにこしながら答えてやった。
「あの通りを半分ほど行った左側に、パン屋があるのは知ってるな?」
「そいじゃ、パブの隣だね?」おれは白っぱくれて訊いてやった。
奴はつっけんどんに言いやがった――「ばかこけ」ポリ公ってのはきまってこうすぐに腹を立てやがる。そしてけっきょくたいていは損をしやがるんだ。「そいじゃ知らねえよ」おれはゴングに救われ、答えてやった。
奴は長靴を戸口のところへごりごりすりつけた。「この前の金曜の晩はどこにいたね?」ふたたびリングへもどったが、こいつはボクシング試合よりこたえた。
はたしておれがやったかどうか確信がないくせに、おれに罪をきせようとする奴の態度が気にくわなかった。「今言ったパン屋にいたとでもいうんかい? それとも隣のパブのほうかい?」
「ちゃんと返事をせんと、感化院に五年間ぶちこまれるぞ」奴の立ってるところは寒かったのに、奴はレインコートのボタンをはずしながら言った。
「おれはおふくろが言ったように、テレビの前にかじりつきっぱなしだぜ」おれはやけになって誓ってやった。だが奴はばかげた質問をだらだらつづけやがる――「きみの家にテレビがあるのかね?」
奴みたいな訊き方じゃ二つの|がき《ヽヽ》だってひっかからなかったろうし、そんなことを訊かれたって他《ほか》に答えようはありゃしない――「アンテナでも倒れてるっての? それとも中へはいってテレビを見たいかい?」と言ってやった。
奴はその返事にいっそうむっときたらしい。「きみがこの前の金曜日、テレビをつけて聞いてたんでないってことはわれわれにもわかってるし、きみだってよく承知のはずだ、ええ、そうだろう?」
「あるいはね。だけど聞いちゃいなかったけど|見て《ヽヽ》たぜ、ときどき冗談に音を消して見ることがあるからな」台所でおふくろの笑っているのが聞こえた。マイクのとこのおふくろも、もし刑事《デカ》があっちへも行ってれば、同じようにやってくれてるといいんだが。
「いや、きみが家にいなかったことは、われわれにはよくわかっとる」奴はまたクランクをまわし、エンジンをかけてきやがった。それに奴らはきまって、≪わたし≫とか≪おれ≫とか言うかわりに、≪われわれが≫≪われわれは≫とくる――たった一人の相手に対して、こっちには味方がたくさんいるんだぞという気がして、元気と正義感がわいてくるしくみだろう。
「証人だっているぜ」とおれは言ってやった――「おふくろで一人、おふくろの彼氏でもう一人。二人いりゃ十分じゃないのかい? 一ダースだって捜してくるさ、盗みにはいられたのがパン屋なら十三人だって」
「嘘《うそ》はいいかげんにするんだな」奴は≪パン屋の一ダース≫のしゃれに気がつかない。いったい政府も、どこからおまわりの屑《くず》ばかしかき集めてくるんだろう? 「知りたいのは、あの金をどこへしまったかということだ」
腹を立てるな、腹を立てるな、とおれは自分に言い聞かせていた――おふくろがコーヒー茶碗《ぢゃわん》と皿を並べ、ベーコンを揚げるためフライパンをストーブの上へかける音を聞きながら。おれは一歩下がり、執事のように中へ招き入れるしぐさをした。「はいって家ん中を捜すんだね。捜査令状を持ってるんなら」
「いいかね、きみ」と奴は、鼻持ちならない横柄な成上がり者根性をむき出しに言いやがった――「へらず口は利《き》いてもらいたくないんだ、本署までくりゃ、青あざと目のまわりの黒い隈《くま》がみやげにもらえるんだぞ」奴がからかってるんでないことはおれにもわかっていた、そんな荒療治もあることはすっかり聞いて知っていたからだ。そのうちいつか、奴や奴の仲間のポリ公連中が黒い隈をこしらえ、蹴《け》とばされりゃいい気分だ。そうならんともかぎらない。思ってるより早くその時期がくるかもしれん、ハンガリー事件みたいに。「あの金はどこなんだ、正直に言えば保護観察で出してやる」
「どの金だい?」と逆に訊いてやった、その手は前にも経験ずみだからだ。
「知ってるだろうが」
「おれが金のあり場所を知ってるみたいに見えるかい?」と、おれはシャツの破れ目から拳《こぶし》をつき出しながら言った。
「盗まれた金だ、きさまのよく知ってるはずの。わしをペテンにかけようたってだめだぞ、むだな真似はやめるんだな」
「三シリング八ペンス半だったかい?」とおれは訊いた。
「手くせの悪いならず者め、自分の物でない金を盗むとどうなるか教えてやるぞ」
おれはくるりとふり向いてどなった――「おっかあ、電話でおれの弁護士を呼び出してくんないか?」
「知恵がまわるじゃないか、ええ? しかしこの決着をつけるまでは引き下がらんからな」と、奴はえらくよそよそしく言いやがった。
「いいかい」おれは誤解された悲しさに、靴下まで涙でびしょびしょに濡《ぬ》らしそうなようすで訴えた――「こうやって話し合ってるのもいいさ、なんだかゲームみたいで。だけどいったいどういうことなのか聞かしてくんないかな。とにかく今起きたばかしだろ、そしたらあんたが戸口に立ってて、聞いたこともない金をやれ盗んだのなんのってんだからね」
奴はなぜか、おれをコーナーに追いつめたみたいに打ってかかってきた。「だれが金のことなんか言ったね? わしは何も言わんよ。何でそう金が気になるんかね?」
「きさまじゃないか、どのおまわりもそうだけど、金のことが頭にこびりついてんのは。パン屋のことだって」こいつめとうとう頭がおかしくなってきやがった、今に口からあぶくでも吹きだすんじゃないかと思いながら、おれは答えた。
奴は顔をしかめた。「わしはきみの答えがほしい――金はどこだ?」
さすがにおれも、こいつにはうんざりしかけていた。「じゃ、取引きをしよう」
フラッシュみたいにパッと顔を輝かせたところをみると、こりゃうまいぞと思ったらしい。「どういう取引きだね?」
そこでおれは言ってやった――「おれの持ってるだけの金を出すよ、全部で一シル四ペンス半だけどさ、こんな訊問《じんもん》をやめて朝めしを食わせてくれんなら出すぜ。ほんとに、腹ぺこで死にそうなんだから。きのうから一口も食べてないんだもんな。腹がゴロゴロいってんのが聞こえるだろう?」
奴《やつ》はあんぐり口をあけたが、それでもなお三十分ほど、おれをしぼりつづけた。映画なんかでよく言う、職務訊問てやつだ。だがおれのほうが点を稼《かせ》いでいることはわかっていた。
やがて奴は出て行ったが、午後になって家宅捜索に戻ってきた。何一つ見つかりゃしなかった、ビタ銭一枚。奴はまたいろいろ訊《き》きやがったが、おれは始めっから終わりまで嘘、嘘、嘘ばかし並べてやった。嘘なら眉《まゆ》ひとつ動かさず、いくらだってつきつづけてやれるんだ。奴は何もおれをあげる証拠を握っちゃいなかったし、二人ともそれを知っていたのだ、さもなきゃ、とうのむかしに本署へつき出されていたはずだ。ただ奴は、おれが前《せん》に塀《へい》をのり越え忍び込んだ罪で更生寮に入れられてたことがあるもんだから、ねばってただけなんだ。マイクもおれと同様しぼられていた。奴がおれの親友だってことは、この近所のポリ公ならみんな知っていたからだ。
暗くなると、おれとマイクは明りを暗くしテレビを消したうちの客間に集まった。マイクは揺り椅子《いす》に寝そべり、おれは長椅子に長く伸び、二人とも安タバコをふかしていた。ドアには鍵《かぎ》をかけ、カーテンを引いて、おれたちは雨樋《あまどい》につめてある金のことを話し合った。マイクの考えじゃ、金を全部取り出し、二人でスケグネスかクリーソプスへ逐電《ちくでん》し、ゲームセンターで楽しみ、波止場近くの下宿で王様みたいな暮らしをし、それから手がうしろへまわる前に大ぶるまいをすべきだと言う。
「バッキャロー、寝ぼけんない、おれたちがパクられてたまるかってんだ、それにいい目もみようてんだぜ、先へ行って」とおれは言ってやった。二人とも行きたいのは山々だったが、映画にも出かけないほど慎重だった。
朝になると、年とったヒットラーづらが今度は仲間を一人つれてまたおれを訊問し、その翌日も二人してやってきて、何とかおれから訊き出そうと躍起《やっき》になってやがったが、おれはびくともしなかった。こういうと自慢しているようだが、たしかに奴はおれの中に好敵手を見いだしたようだし、こっちもどんなに長くつるしあげられようが、訊問に屈服するようなおれじゃない。奴らは今度もまた二、三度家宅捜索をやりやがった。おかげで、何か確証を握ってるんじゃないかという気がしたが、実際はそうじゃなく、奴らのはまったくの山|かん《ヽヽ》だったのだ。奴らは家を古靴下みたいに逆さにし、中をひっくりかえして捜しまわり、上から下まで、表から裏まで調べまわったが、当然何一つ見つかりゃしなかった。刑事《デカ》の奴め、とっつきの部屋の(もう何年も使ったことも掃除したこともない)煙突までのぞきこみ、アル・ジョルソンそっくりのまっ黒けの顔でおりてきて、流しでじゃぶじゃぶ洗わなきゃならないざまだった。うちの死んだ婆《ばあ》さんがおふくろに残してったでっかい葉蘭《はらん》の鉢《はち》のまわりをコツコツ叩《たた》いてまわり、それをテーブルから持ち上げてテーブル・クロスの下を調べ、また脇《わき》においてテーブルをのけ、絨毯《じゅうたん》の下の床板を調べたりもしたが――とんまなふうてん野郎どもは、とうとうその鉢植えの土をぶちまけてみることを思いつかなかった。そこを捜してみりゃ、仕事をやった晩埋めといた、くしゃくしゃにつぶれた金庫が見つかったはずだ。金庫と言や、あれはまだあすこにあるんだろう。そしてこの木はどうして以前ほど伸びないんだろう、とおふくろがときどき小首をかしげてる時分だろう――一握りの分厚い黒い金属が根っこのあたりにわだかまっていて、木が伸びりゃふしぎというもんだが。
奴が最後にうちのドアを叩いたのは、ある雨降りの朝九時五分前、おれはまだいつものようにふんわかしたベッドに眠りこけていた。おふくろはちょうど働きに出てしまっていたので、おれはちょっと待っててくれるようにどなり、だれだかを見に下へおりていった。すると奴が百八十センチの長身をずぶぬれにして立っている。そこでおれは自分でもけっして許せない一生の不覚をとってしまったのだ――奴に肺炎でも二人前起こさせ死なせてやろうと思ったおれは、雨がかかるから中へはいってくれと言わなかったのだ。その気なら、奴は自分でおれを押しのけて中へはいってくることもできたろうに、おそらく戸口で訊問するのになれっこになっており、たとえ雨が降っていたにせよ自分の陣地を変えることで勇気をくじかれたくなかったのだろう。ろくでもないことにこだわって意地悪をしてやったことでなく、ちょっとした意地悪のおかげで身をほろぼす羽目になったのがおれはくやしい。おれは奴を二十年ぶりに再会した兄貴みたいに扱い、むりやり家の中へ引きずりこみ、お茶とタバコぐらい出してやり、前の晩見てもいない映画のことを話し、手術のあと奥さんはどうだい、あの手術をやるのにあすこの毛は剃《そ》ったんかいてなことでも訊き、にこにこ満足しきってる相手を戸口から送り出すべきだったのだ。中へなんか入れてやるもんか、何の用があるのか言いたいだけ言わしといてやろう、とおれは思った。
奴はドアのちょっと脇に寄って立っていた。そこのほうがいくぶん濡れないためか、それともおれを違った角度から眺《なが》めたいためか、ともかくいつも嘘ばかしついてる野郎の顔を、同じ側から眺めているのは退屈だと思ったんだろう。「ちゃんと目撃者の証言があるんだ」と奴はひげをひねって雨を拭《ぬぐ》いながら言った――「あるご婦人が、きみときみの相棒をきのう見かけ、あのパン屋へはいってくのを見た二人組にぜったいまちがいないと言っとるんだ」
奴がまだハッタリをきかせていることはわかっていた、なぜなら、マイクとおれはきのう顔すら合わしていなかったからだ。しかしおれは心配そうな顔つきをしてやった。「それじゃそのご婦人というのは、だれにしろ、善良な市民の敵だな、おれが最近行ったことのあるパン屋と言や、おふくろに頼まれて、切ったパンを|つけ《ヽヽ》で買いに行った、通りをずっと行ったとこのだけだもんな」
奴はこれには食いついてこなかった。「だから金がどこにあるか知りたいんだ」――まるでおれが何も答えなかったみたいな口ぶりだ。
「金ならきっと、けさおふくろが、勤め先の売店でお茶を飲むのに持ってったろ」雨はザンザンひどい降りだった。中へはいらなきゃ雨に洗い流されてしまうんじゃないかと思った。だけどおれは知らん顔でつづけた、「たしかゆうべテレビの上の花瓶《かびん》の中へ入れといたんだ――おれの全財産の一シル三ペンスなんだ、けさタバコを一箱買おうと思ってとっといたんだけどさ、それが今見るとねえんだよ、てんで頭へきちまったな。これで一日もつと思ってたのに、煙草《モク》がなきゃ人生の生きがいもねえってもんだよ、なあ?」
こっちのペースになりかけ、おれはいい気になりはじめた。これでいよいよ嘘のつきおさめだ。ここでぐいぐいつきつづけりゃ、奴らは尻尾《しっぽ》をまいて退散だ――マイクとおれはそのうち海岸へ出かけ、さんざん楽しい目をし、ゲーム台でフットボールをしたり、ぐっと楽しませてくれそうな淫売《いんばい》を二人手に入れるって寸法だ。「それにこの陽気じゃ、煙草《モク》ひろいもだめだしな」とおれはしゃべりつづけた――「すっかりグショグショになっちまうもんな。そりゃもちろん火のそばでかわかすって手はあるぜ、だけどさ、なんてったって味が変わっちまうもんな。雨水ってのはひでえよ、まるで味も何もない馬糞《ばふん》に変えちまうんだから」
おれはからっぽの脳味噌《のうみそ》の奥のほうで考えはじめた、どうしてこのおいぼれ刑事《イヌ》め、おれのおしゃべりを途中でやめさせ、こんな|よた《ヽヽ》を聞いてる暇はないと言わないんだろう。だが奴はもうおれのほうを見てはいなかった。そしてスケグネス行きの夢は、おれの|どたま《ヽヽヽ》の中でこっぱみじんに砕けてしまった。奴が何を見つめているか気がついたときには、お伽話《とぎばなし》の鬼じゃないが土の中へ消えちまいたかった。
奴は|あれ《ヽヽ》を見ていたのだ、かわいい大事な五ポンド札を。おれはへらず口を叩きつづけるより仕方なかった――「とにかく何てったって|ばん《ヽヽ》とした煙草《モク》を手に入れることだよ、やっぱし新しい煙草《モク》は雨に濡れてかわかしたやつなんかよりてんでいいもんな、いや金が見つからなくてどんな気持ちだかわかるよ、だれのポケットにはいったって一シル三ペンスはやっぱし一シル三ペンスだもんな、ともかくどっかで見つけたら、すぐあしたにでも電話して、あり場所を教えてやるぜ」
おれは発作でも起きるんじゃないかと思った――三枚の紙幣が水の流れに押しだされ、さらにもっとあとからもつづいて出てくるのだ。流れ出すと最初はぺちゃっと地面に貼《は》りつき、それからまるで生きもののように、この怖《おそ》ろしい空模様から逃れ、もとの乾いた居心地いい樋の中へ戻りたがっているかのように、風と雨に押され曲がり角でかしぎながら押し流されてゆくのだ。おとなしく戻ってくれ、とどんなにおれは心に念じたことか。ヒットラーづらはこれをどう受け取っていいかわからず、ただまじまじと地面を見つめるばかりだ。おれはどうせもうたいして役に立たないことはわかっていたが、しゃべりつづけるより仕方なかった。
「いやたしかに、金ってやつはなかなかはいってこないもんで、半クラウン銀貨がバスの座席やごみ入れにころがってるってことはないんだからやんなっちまうよ。ゆうべだっておれのベッドの中には何もはいっちゃいないんだ、はいってりゃわかるだろ? あんなもんがベッドにはいってて眠れるわけがないもんな、何しろ堅いんだから、ともかく最初のうちは……」ヒットラー野郎が事情を飲みこむまでずいぶんと時間がかかった。札は十シリング札の色もまじえてどっと中庭じゅうに流れ出し、やがて奴の手ががっしりとおれの肩にかかった。
V
太鼓腹の出目金《でめきん》院長は、太鼓腹の出目金淫売女房の隣にすわった太鼓腹の出目金国会議員に言った、全英長距離クロスカントリー競技のボースタル・ブルーリボン賞杯を取ってくれるのはこの青年だけです――おれは腹の中で大笑いしてしまったが、太鼓腹の出目金野郎に望みを与えるようなことはひとことも言わなかった。もっとも黙ってたところで、どうせ院長の野郎はその沈黙をいいことに、もうカップがほかのいくつかのかびの生えたトロフィーといっしょに、自分の部屋の本棚《ほんだな》の上にのっかったつもりでいるだろうことはわかっていた。
「晴れてここを出た暁には、プロになって走るかもしれませんよ」院長の奴がこう言うのをおれ自身の耳で聞いて、おれは初めてそんなことが、走って金になるなんてことがあるのを知った。日当をもらって走り、ハッハッと一息ついて一シリング、やがては一つあえいで一ギニー、そして三十二の齢《とし》には、肺はレースのカーテンみたいにスカスカになり、心臓は肥大し、両脚は静脈瘤《じょうみゃくりゅう》にかかった豆の茎みたいになって、早くも老いて引退なんてことが。だけどおれは女房をもらい車を持ち、にこにこ笑ってる長距離づらを新聞にのせてもらい、剃刀《かみそり》の替刃を買いお茶でも一杯飲もうと下町のデパートへはいると、おれに気づいてわっと押し寄せてくるミーハー連中から送られてくる山のようなファンレターの返事を、すごい美人の秘書をやとって書かせるのだ。たしかにそれは考えてみるに足ることだった。おれのほうを向き、「どうだね、スミス君、そういうことは?」とまるでおれの意見も聞く必要があるような顔つきで言ったとき、たしかに院長はおれの心をとらえたことを知っていたのだ。
ずらりと並んだ太鼓腹の出目金連中はおれのほうをにこにこ見やり、並んだ金魚の口が開いて、金歯をゆらして見せた。おれは奴らのほしい答えをくれてやった、切り札はまだまだあとまで取っておくつもりだからだ。「ぼくは大いに結構です」とおれは言った。
「そうか、きみ。そりゃよかった。それでこそ立派だ。えらいぞ」
「さあそれじゃ、きょうはあのカップをわれわれのために取ってきてくれ。そしたらわしもきみにできるだけのことをしよう。自由世界のだれにも負けないようトレーニングもさせてやろう」と院長。おれは頭の中で懸命に駆け、世界じゅうの奴らをみんな打ち負かしている図を描いた。みんなをはるかうしろに引き離し、おしまいにはおれひとりだけが大きなだだっぴろい荒野《ムア》をとことこ駆けつづけ、すばらしいスピードで丸石や葦《あし》の藪《やぶ》のあいだを駆けてゆく、と、とつぜん、パン、パーン――どんなに速く走る人間よりも速い弾丸が、木のかげに隠れた警官の小銃から発射され、おれの完全な駆けっぷりにもかかわらずおれを射《う》ち抜き、おれの腹を引き裂き、おれはどうと倒れるのだ。
太鼓腹の連中は、おれがもっと何か気のきいたことを言うものと期待していた。「ありがとうございます」とおれは言った。
下がってもいいと言われ、おれは観覧席の階段をおり、競技場へ出た。クロスカントリーはもうはじまろうとしており、ガンソープからきた二人の選手は早くもスタートラインにつき、白いカンガルーみたいに飛びだす用意ができていた。競技場の眺めはすばらしかった――まわりじゅうに大きな模擬店のテントが立ち、万国旗ははためき、家族席が並び(といってもこれはからっぽだった、開会日がどんなものか知っている父兄はいなかったからだ)、少年たちはまだ百ヤード競走の予選をやっており、お偉方の紳士淑女連中は模擬店を見て歩き、青い制服のボースタル少年ブラスバンドが演奏していた。スタンドの上では、われわれの灰色の上衣《うわぎ》とまじって、ハックナルの茶色の上衣、そしてシャツの上衣をまくったガンソープの一団。青空には陽《ひ》がいっぱいにさし、これ以上の上天気は望めなかったし、この一大ショウは二、三日前映画で見た『アイヴァンホー』の一場面みたいな気がした。
「さあ、スミス、早くこい」と体操教師のローチがおれを呼んだ――「大レースに遅れてもらっちゃ困るからな。ま、きみのことだ、たとえ遅れたって追いつくだろうが」他の連中はこの言葉をやじり、ぶうぶう不平を鳴らしたが、おれは知らんふりをして、ガンソープからきた奴とエイルシャムの模範囚のあいだに位置をとり、膝《ひざ》をつき、走る途中噛《か》む草の葉を何枚かむしり取った。たしかに大レースだったのだ、パタパタはためくユニオン・ジャック旗の下の大スタンドで見守っている奴らにとっては。院長が待ちに待っていたレースだったのだ。奴や出目金野郎ども全部が、ポケットに持ってるだけの金を、今後五年間にもらう給料の全部を、百対一でおれに賭《か》けていてくれるのをおれは願っていた。奴らがたくさん賭ければ賭けるほど、おれはしあわせだった。なぜなら、奴らが祭り上げた優勝候補は今ここに消え去り、息がつまろうとつまるまいと、高笑いをして消えてゆこうというのだ。おれの両膝はぐっと押しつけられたひややかな地面を感じた。横目で見ると、ローチが片手を上げている。ガンソープ選出の少年は、まだ合図が鳴る前にぴくりと動いた。だれか早まって歓声をあげた奴がある。メドウェイの選手は前かがみになった。ズドン、おれは飛びだした。
おれたちは競技場を一周し、みちみち歓呼を浴びながら、半マイルの楡《にれ》の並木道を走った。門を出て小径《こみち》へさしかかったあたりで、おれはどうやら他をリードしているらしい気がしたが、たしかめてみる気もしなかった。五マイルのコースは、白ペンキで門柱や木の幹や牧場の柵《さく》や石にはっきりしるしがつけてあり、水筒と救急箱を持った少年が半マイルごとに立っていて、落伍者《らくごしゃ》や気絶者を待っていた。最初の柵を越えたあたりで、べつに努力もしなかったが、おれはまだ先頭から二番目だった。マラソンの秘訣《ひけつ》を知りたければ教えてもいいが、要はけっして急がず、たとえ急いでいても、急いでいることを他の走者にぜったい気どられないことだ。長距離競走じゃ必ずいつでも、他の連中にペースをあげていることを気どられずに追いつくことができるものだ。そして前にいる二、三人に追いつくためこの手を使ったなら、あとで他の奴らがいくら急いでも問題にならないくらいのダッシュができるというものだ、それまでは本気で急ぐ必要はなかったからだ。おれは規則正しいてくてく歩きのリズムにのって走った。やがてそのリズムはあまりにもなめらかになり、走っていることも忘れてしまい、両脚が上がったり下がったり、両腕が出たり入ったりしていることもわからないくらいになり、肺も動いているようには思えないくらいだったし、心臓までいつも走りだしに感じるいやなドッキンドッキンをやめている。つまり、おれはぜんぜん競走なんかしてなかったからだ。ただ走っているだけなのだ。それにどういうわけか、競走していることを忘れ、走っていることも忘れててくてく歩きをやって行くようになると、いつも勝つことがわかっていた。というのも――柵やら田舎家の角やなんかで――そろそろコースの終わりに近づいてることがはっきりわかると、おれはラストスパートをかけるのだ。ともかくそれまではまるっきり走っちゃいないんだし、まるっきりエネルギーを使っちゃいないんだから、そりゃもうものすごい大スパートだ。こんなことができるのも、ずっと考えてきたからだ。競走をやる連中の中でも、おれひとりだけじゃないだろうか、考えることに忙しくて、走っていることも忘れてしまうなんて走り方をするのは。他の若者の中にも同じようなやり方をする奴《やつ》があるかどうか知らないが、きっとないに違いない。玉石を敷いた歩道や、草を短く刈った競技場のトラックよりも走りぐあいがよく、あまりなめらかすぎないんで考えごとをするにはもってこいの、車の跡のついた小径を風のようにつっ走りながら、その日の午後のおれは水を得た魚のように得意だった。競走ではだれにも負かされっこないが、きょうは自分からレースに負けてやるつもりだったのだ。というのも、はじめてここへはいってきて、院長がおれに誠実であれとか何とか言いやがったとき、院長の奴には誠実というのがどんな意味なのかわかっちゃいなかったからだ。わかってりゃ、ランニングとパンツと暑い陽差しを着て、このレースに入れて走らせとくはずはなかっただろうし、もしおれが奴の立場にいたとすりゃ奴をおっぽりこんだに違いないところへ、おれをおっぽりこんだに違いない――つまり石切場へおっぽりこんで、背中がへし折れるまで石を切らせたろうというもんだ。少なくとも、ヒットラーづらの私服野郎のほうが、院長よりは誠実だった、なぜならともかくあの野郎はおれに恨みをいだいてやがったし、おれのほうでも同様だった。だもんでおれの事件が裁判所へ持ち出されたときには、朝の四時におまわりがうちの玄関を叩《たた》き、へとへとに疲れきってるおふくろをベッドから叩き起こし、九時半きっかりに裁判所へ出頭するよう念を押していきやがった。まったくあんないやがらせは聞いたこともないが、おれに言わせりゃ、誠実だ。ちょうどおふくろがそのおまわりの奴にずけずけ思ったことを言ってのけ、今までに聞いた悪態を洗いざらい並べ立ててののしり、三十分はたっぷりかかって近所じゅうをすっかり起こしてしまったときの言葉が誠実だったのと同じなんだ。
おれは緑の草と|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》の匂《にお》いをかぎながら、くぼんだ小径に縁どられた野原の端をとことこ走りつづけ、二本足で走るよう訓練されたホイペット犬の血統を引いているような気がした。ただもっとも、前方におもちゃの兎《うさぎ》は見えなかったし、うしろにペースを保つための棍棒《こんぼう》もひかえてはいなかったが。おれはすでに汗でシャツの黒くなったガンソープ選出の選手を抜き、柵で囲った雑木林の角をちらと前方に見ることができた。そこではこのレースに勝つためにおれが抜かなきゃならない唯一《ゆいいつ》の男が、中間点に辿《たど》りつこうと全速力で走っていた。やがて奴の姿は林と藪に隠れて見えなくなった。他の選手も見えない。おれにもクロスカントリー長距離走者の孤独がどんなものかがわかってきた。おれに関するかぎり、時にどう感じまた他人が何と言って聞かせようが、この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さであり現実であり、けっして変わることがないという実感とともに。おれのうしろの走者はうんと遅れているに違いない。あまりにも静かだし、霜のおりた冬の朝五時よりもまだひっそりと、物音も物の動く気配もない。ちょっと信じられないような気がしたが、ともかくわかっていたのは、なぜ走ってるのかなど考えず、ただせっせせっせと駆けなきゃならないことだった。とにかく知らない野を抜け、不気味な森へはいり、上り下りも知らぬうち丘を越え、落ちたが最後心臓がおだぶつの小川を飛び越えて、どんどん走らなきゃならないんだ。観衆はやんやの喝采《かっさい》で迎えてくれるだろうが、決勝点はけっして終わりじゃない、おまえは息をつく暇もなく、まだまだ先へ走らなきゃならないからだ。そしてほんとうに立ち止まるのは、木の幹につまずいて首の骨をへし折るか、それとも古井戸に落っこちて、永遠に暗闇《くらやみ》の中に沈んでしまうかのときなんだ。そこでおれは考えた――たかがこんな競走なんてお笑いに、おれが縛られてたまるもんか、ただ勝ちたい一心に走るだけじゃないか、ちっちゃな青いリボンをもらうためにとことこ駆けるだけじゃないか、奴らが何と言おうと、そんな人生ってあるものか。おまえはほかの奴のことなんか考えず、おまえ自身の道を行くべきなんだ、水差しとヨードチンキの瓶《びん》を持って、おまえがもしころんで傷でもしたら――たとえおまえがころんだままでいたくとも――助け起こし、また走らせようと待ちかまえている奴らが引いたコースを走るんでなく。
森を抜け、先頭の奴をいつのまにか抜いて、おれはどんどん走りつづけた。ペタッパタ、ペタッパタ、トントコ、トントコ、ガサッペシャ、ガサッペシャ、また広い野原のまん中を横切る。まるでグレイハウンド犬みたいな楽な駆け方でリズミカルに走り、まだ半分もきてはいないが、勝つ気ならもうこのレースはいただいたも同然だし、そうしろというんなら十マイルだって十五マイルだって二十マイルだって駆けつづけ、ゴールでぶっ倒れることだってできるんだ。院長の奴が望んでやがる誠実な人生とやらは、けっきょくそういうことなんだ。つまり――この競走に勝って、院長の言う誠実な人間になれってことだ。おれは最高の気分でとことこ走りつづけた。ずんずん先へ進むのが楽しかった、走ると気分は良かったし、今では好きになってきている考えごともできたからだ。だがただ走りきるだけでなく、この競走には勝たなきゃならないことを思い出すとやりきれなかった。二つに一つなんだ、レースに勝つか、それともただ走るだけ走るか。おれにはその二つともできることがわかっていた、なぜならおれの両脚はずんずん調子よく前へ進めてくれたし――もう藪いちごの土手をおり、くぼんだ小径を抜ける近道へさしかかっていたし――まだまだ遠くまで運んでくれるだろう、おれの脚は電線でできてでもいるようにたやすく帯電し、わだちや木の根を踏みつづけてくれたからだ。しかしおれは勝つつもりはないのだ、なぜかと言や、一等になった褒美《ほうび》におれのほしいのは、一世一代のでっかい銀行ドロをやっておまわりにパクられないことだ。ところが勝ったってまるっきり反対の余徳にしかありつけやしない。どんな体《てい》よいあしらいを受けようが、けっきょく奴らの白手袋をはめた強い手と、にたにた笑う口の中へすっぽり駆けこみ、そこで石切りの苦役の一生を終えなきゃならんというわけだ、ただ、奴らから命令されてやるのではなく、おれのやりたいやり方で石を切るのが違うだけで。
おれの頭に浮かぶもう一つの真剣な考えは、次の生垣《いけがき》のところで左へ折れ、そこへ隠れて競技場のゴールからじわじわ逃げだすことだってできるぞということだ。こんなふうな草地なら、三マイルや六マイル、いや十二マイルくらいは走り通せるし、大きな道路をいくつか越えるから、おれがどの道を行ったかは奴らにもわかるまい。そしてたぶんいちばん最後の大きな道で、暗くなったら手を上げてトラックを呼びとめ、警察《サツ》へ密告しないような奴にただで北のほうへ乗っけてってもらうという段取りだ。いやしかし、それはやめだ、おれはまぬけじゃないと言っただろう? あとたった六カ月だというのにずらかる馬鹿《ばか》もないというもんだ。それに、どうしてもずらかりたい理由もなし。おれはただ、有法者《ヽヽヽ》たちや太鼓腹野郎たちに対して、ちょっとばかし復讐《ふくしゅう》してやりたいだけなんだ。あのでっかいいきな座席で背伸びさせ、おれがこのレースに負けるとこを見せつけてやりたいんだ、もっともこれに負けたりすりゃ、刑期のあけるまでまちがいなく、汚いくそだめ掃除や台所仕事をおっつけられるだろうとわかっていたが。おれなんか、ここのどいつにとっても、ビタ一文の値打ちもありゃしないんだ、そしてそれが、おれの知っている唯一の方法で誠実になろうとして得る感謝のすべてなんだ。というのも、院長がおれに誠実にやれと話したとき、それはおれの流儀でなく奴の流儀で誠実にやれということだったんだ。そしてもしおれが、奴の望む誠実さを発揮し、奴のため競走に勝ってやれば、奴は残りの六カ月をできるだけ楽しいものにしてくれるというわけだ。だが、おれの流儀で誠実にやるというのは――そんなことが許されてるはずもなし、ちょうど今のようにうまい方法を見つけたときは、およそありとあらゆる汚い手を使った罰をくらうのがおちだろう。それにおれのような見方をすりゃ、奴もあながち責められまい。これは戦争だからだ――前にもそう言っただろう?――だから奴の急所を殴りつけてやりゃ、奴だって殴り返してくるにきまっているんだ、もう前々から奴自身が競技大会の午後の終わりに立ち上がり、イアウイッグ卿《きょう》とか何とかそんな名前の腰ぬけ野郎からおれがカップをもらうとき、背中をどーんと叩く段取りまですっかり決めていたのに、おれがあのカップを手に入れてこなかったことに対して。だからおれは奴のいちばんの急所を殴りつけてやるんだ、そうすりゃ奴も黙ってはいるまい、全力で復讐をしてくるだろう、だがおれはそれで楽しいんだ、おれのほうが先に攻撃をかけ、おれのほうが前々から計画していたからだ。なぜこの考えが今までのどれよりいいように思えるのか、そいつはわからない。たしかにいいような気がするんだから、どうしてだかは知っちゃいない。この考えで行動するまでには長い時間がかかったような気がする――今までの無頼生活では時間もくつろぎもなく、ようやく今になって考えがまともになってきはじめたからだ。ただ問題はしばしばブレーキがきかないことだ、頭がひきつれと凍傷と潜行性|麻痺《まひ》をいっしょくたにしたものにかかったような気がし、くぼんだ小径の藪いちごの中へ、しゃにむにとびこむことによって休ませなきゃならないときでも。こうしたすべては院長みたいな連中にまずくらわしてやるつもりのアッパーカットなんだ、奴の競走はけっして勝ちゃしないということを(もしできることなら)見せつけてやるためのものなんだ。いずれはだれか何も知らぬ奴が一着になるだろうが、しかし最後にはおれみたいなのが、黒焦《くろこ》げになった奴のこぼれ骨をひろい、感化院の廃墟《はいきょ》のまわりをいかれたみたいに踊りまわり、院長の運命はきわまるというわけだ。つまりはこの物語も競走みたいなものなんだ、ここでもおれは院長のお気に召すような勝者になりおおせるつもりはない、いや、おれは院長がろくにわけもわからず言いやがったとおり誠実にやるつもりだ、たとえこの物語を読み、だれのことを言ってるのかわかったとしても、奴が自分の側の物語を持って対抗してくることはあるまいが。
おれはちょうど今くぼんだ小径から、膝《ひざ》をつき肘《ひじ》をつき、どさりと落ち、藪にひっかかれて這《は》い出てきたところだ。レースの三分の二は終わり、おれの胸の中では一つの声がラジオのようにささやきつづけている――霜の朝最初に地上におりた人間みたいないい気持ちを十分に味わい、夏の午後、地上で最後の人間みたいなひどい扱いようをされるのがどんなものかも味わったなら、そのときこそおまえはついに地上でただ一人の男になるのだ。善悪にいっさいこだわらず、こいつだけは裏切らない良い乾いた大地をペタペタ地下足袋で踏みつけてゆくがいい――その言葉は、こわれた鉱石受信機からこぼれ落ちるようにひびいてくる。そして腹わたのつまった殻《から》の中では何かが起こりかけてるみたいで気になる。何がどうしたのかわからないが、心臓の近くでは何やらゴロゴロいってやがる。まるで錆《さび》だらけのねじ釘《くぎ》のいっぱいつまった袋が腹の中でゆるみ、足を踏みだすたびにそいつをガサガサゆすっているみたいだ。ときどきおれはリズムを破り、右手を前からまわして左肩の肩胛骨《けんこうこつ》にさわってみる、そこに突きささった感じのナイフをこすり取ろうとするように。だけど、何も心配するほどのものでないことはわかっている、時には心労とまちがえることもあるほど、考えごとをしすぎるせいだということはわかっているのだ。ときどき、おれは世界じゅうでいちばんの心配屋だと思うことがあるくらいだからだ(こんな物語を書いたことでも想像はつくだろうが)、考えてみりゃおかしなことだ、おふくろは心労なんて言葉の意味も知らないんだから、これはおふくろゆずりのものじゃない。もっともおやじは、だれもいなかったあの朝、寝室を血だらけにしておっちんじまうまで、一生心配のしつづけだったが。あのときのことはけっして忘れないだろう、忘れようたって忘れられるもんじゃない。見つけたのはおれだったし、おれでなきゃよかったとしじゅう思ったもんだ。フィッシュアンチップスの店でひとしきりスロットマシンをやり、レモンの絵を三つそろえてせしめた小銭をチャラチャラさせながら、しんと静まりかえったわが家へ意気揚々と帰ってきて、家の中へ一歩踏み入れたとたん、どうも何かようすがおかしいと思ったものだ。おれは頭を炉棚《ろだな》の上にかかった冷たい鏡にもたせかけて立ち、目をあけまい、石のように冷たくなったおれのつらを見まいとした――なぜなら玄関をはいって以来、まるでドラキュラ吸血鬼にとりつかれたように、白墨みたいに血のひいた顔をしていることは自分でもわかっていたからだ。ポケットにはいった戦利品の小銭までが、わざとらしく静かにしていやがった。
ガンソープはほとんどおれに追いついてきた。小鳥たちは野ばらの生垣から歌い、二、三羽のつぐみが稲妻のようにいばらの茂みの中へとびこんだ。隣の畑では小麦が背高く伸び、もうじき大鎌《おおがま》や刈取機で刈り取られるところだ。しかしおれは走っているあいだはキョロキョロしないことにしていた、ペースが狂うといけないからだ。そこで乾草の山のところですべてをうしろへ忘れ去り、腹の中の釘にはかまわず大拍車をかける決心をした。まもなくガンソープも小鳥たちもずっとうしろになってしまっていた。もう最後の一マイル半へ、マーガリンを切るナイフのように切りこむのも間近だった。だが、とつぜん駆けこんだ二本のとがり杭《ぐい》のあいだの静けさは、ちょうど水中で目をあけ、水底の石を眺《なが》めているみたいな感じで、またまたあの朝おやじがくたばった家へ戻ったときのことを思い出させた。奇妙なことだった、あのとき以来まるで考えたこともなかったし、あのときもそう深く考えなかったことだからだ。なぜだろう? おそらくこうした長距離競走をやりながら、いろいろ考えるようになって以来、何でも考え、胃袋や腹わたを悩ます習慣になっていたからだろうが、今いかれたマラソン頭の中で、どの草の葉のうしろにも血まみれのおやじの姿が見えてくると、何だか考えるのがいやになったみたいな気がする、けっきょくいいことかもしれないが。おれは痰《たん》をぐっと飲みこみ、ともかく走りつづけ、感化院を建てた奴らや運動競技をののしってやる――ペッタラペッタ、バッタバッタ、グシャペタ、グシャペタ、グシャペタ――奴らはおそらくそもそもの最初から、およそ勝ち目のなかったおれの頭に回想のスライドをさしこんでおき、おれには背を向けてきたに違いないんだ。ただこうやって、何でも頭に浮かぶことを走り方に移していってのみ、おれはまともなおれらしくやってゆけ、奴らを負かすこともできるのだ。こうして今や先のことまで考えたからには、もう勝つことはわかっているのだ、グシャペタの最後には。そんなわけでともかくちょっとためらってから、おやじがどうなっているかも、おやじがどうにかなっていたらどうするかも考えずに、おれは一段ずつ二階へ階段を上がっていった。だが今おれは、物ごころついて以来、おふくろがおやじを追いこんだあさましい人生を思い返すことによって、そのつぐないをしているのだ。まだおやじが生きてて元気だった時分から、おふくろは違った男を次々に引きこみ、おやじが知っていようといまいとまるで平気だったもんだ。たいていおやじはおふくろが思ってるほどとんまではなく、呪《のろ》い、吼《ほ》え、殴り倒してやるとおどかし、おれが行っておやじの手をとめなきゃならなかった。それくらいの目に遭って当然のおふくろだったが。何という生活だったろう、家族のだれにとっても。いや、何もぐちをこぼしてるんじゃない、ぐちをこぼすくらいなら、このけちな競走に勝ったほうがましだからだ。勝つつもりはまるでないんだ。もっとも、スピードを落とさなけりゃ知らぬ間に勝ってしまいそうだ。そしたらおれはどうなるというんだ?
足裏の小石の新しい感触が、鉄のような脚の筋肉にひびいてくるのを感じながら、万国旗と場内の走路に向かって走るにつれ、競技場のざわめきと音楽が聞こえてくる。いぜん釘袋はガラガラいってやがるが、まだけっして息切れなどしてはいないし、その気にさえなれば、まだまだ疾風のように最後のひとっとびをすることだってできるんだが、すべてはちゃんとコントロールされているのだ。おれはよく知っているのだ、おれのスピードとスタイルに比肩できる長距離クロスカントリー走者は、イングランドじゅう捜したっていやしないことを。わがよぼよぼ院長野郎、腐った死にぞこないのじじいは、空いたドラム罐《かん》みたいにポカンとしてやがる。奴《やつ》はおれとおれの競走生活から栄光を与えてもらい、持ったことのない血と脈打つ血管を注入してもらい、おれがあえぎあえぎよろめくようにゴールへ辿《たど》りつくところを太鼓腹の仲間に目撃させ、こう言いたいのだ――「そうれ、やっぱしうちがあのカップを取りましたでしょうが。賭《かけ》はわたしの勝ちですよ。やはり誠実にやり、わたしの与える賞をもらうように努力するのが賢明だと少年たちも知っとるんですな、よう知っとるんですな。この分じゃこれからも誠実一路でやってくれるでしょう、わたしのしつけのおかげで」すると奴の仲間たちは思うだろう――「なるほど、彼は青年たちにまっとうな生き方を教えている。勲章ぐらいは当然もらうだろうが、ひとつわれわれで勲位でももらえるよう努力してみるか」――小鳥たちが囀《さえず》りだしたちょうどこのとき、おれははっきり自分に言い聞かせることができた、あの顎《あご》のない背骨のない有法者《ヽヽヽ》たちがどんなことを考えようが言おうが、おれはてんで知っちゃいるもんかと。今奴らはおれの姿をみとめ、やんやと喝采《かっさい》してやがる。競技場のまわりに象の耳みたいにおかれた拡声器は、おれがうんとリードを保ち、この分では負ける気づかいはありませんと大ニュースをがなりたてている。だがおれはまだ、おれのおやじが死んでいった無法者の死のことを考えている。医者たちが病院へつれて行こうとすると、とっとと出てけとどなりつけた(血だらけのモルモットみたいに、キイキイ噛《か》みついた)おやじのことを。おやじは奴らを追い出そうとしてベッドに起き上がり、骨と皮だったくせに、ねまきのまま階段のところまで追いかけて行ったものだ。薬を飲まなきゃいけないと言い聞かせようとした医者たちの誘いにはのらず、おふくろとおれが通り向こうの薬草店で買ってきた鎮痛薬を飲んだだけだった。今になっておれにははじめてわかるのだ、おやじがどんなに太い胆《きも》っ玉《たま》を持っていたかが。あの朝おれが病室へ行ってみるとおやじはねまきをはだけ、皮をひんむかれた兎《うさぎ》みたいな格好でうつ伏していた。白髪頭《しらがあたま》をやっとベッドの端にのせ、床の上にはおそらく身体《からだ》じゅうにあっただけの血が全部流れ出ていただろう、爪先《つまさき》から上まで全部血まみれなんだ、リノリウムの床と絨毯《じゅうたん》がほとんどすっかり血につかり、薄く桃色に染まっていた。
おれは走路を駆けて行った、大動脈をボールダーダムのようにせきとめられた心臓と、木工の万力に挟《はさ》まれたみたいにギリギリしめつけてくる釘袋をかかえ、しかし両足は鳥の翼のように軽く、両腕はいつでも競技場をひとっとびに飛んで獲物をさらってくる猛禽《もうきん》の爪《つめ》のように鋭く。ただおれには、そんな見せびらかしをするつもりはなく、まかりまちがってもレースに勝つつもりはなかった。今ゴールへ向かって走りながら、おれは乾いた暑い日の香りをかぎ、仲間が芝刈機の前に取りつけた罐から空けた草の山のそばを走りぬける。おれは樹《き》の皮を指先で少しばかりはぎ取り、口の中へ放《ほう》りこむ、そして気持ちの悪くなるまで、走りながら木と埃《ほこり》とたぶんは|うじ《ヽヽ》虫もいっしょに噛み、飲みこめるだけ飲みこんでやる、ちっちゃな小鳥がおれに囀りかけたからだ――せめてもうちっと生きつづけろよ、だけど六カ月のあいだは、あの草の匂《にお》いもかげなきゃ、あの埃っぽい樹皮の味も味わえないし、この美しい小径《こみち》を踏むこともできないだろうよって。こんなことを書くのは面目ないが、おれは何だかべらぼうな気持ちになって泣けてきてしまった、だいたい泣くなんてべらぼうなことは、二つ三つの|がき《ヽヽ》時分このかた、経験したこともなかったんだが。おれは今ガンソープの奴が追いつくようスピードを落としている、それも走路がちょうど競技場へはいるあたりで――ちょうど奴らに、特に観覧席に並んだ院長やその仲間の連中に、おれのやってることがよく見えるところでだ、まるで足踏みしているみたいな走りぶりなんだ。いちばん近くの席にいる奴らも、まだ何が起こっているかに気がつかない。おれがゴールにとびこむ瞬間を待って、まだやけになって応援してやがる。おれは考えつづける、いったいうしろのガンソープの野郎め、いつになったらフィールドへやってきやがるんだろう、おれだって一日こうやって待ってるわけにはいかないんだ、おれは考える、ちきしょう、おれはとことん|つき《ヽヽ》に見放され、あのガンソープの野郎め途中でくたばっちまい、その次の奴がやってくるまでここで三十分も待ってなきゃなんないんだろうか、だけどたとえそうだとしたって、おれは動きゃしないぞ、あの最後の百ヤードを走ってやるもんかってんだ、たとえ草の上へどっかりあぐらをかいちまい、院長や顎なしのお偉方連中がおれをひっぱり起こし、ゴールまで運んでったって。そんなことをすりゃ規則違反だからな、奴らがそんなことをするはずがないってもんだ、(おれが奴らだったらやるだろうが)規則を破るほど気のきいた奴らじゃないんだから――規則ってったって、どうせ奴らが勝手に作りやがったものなんだが。いや、おれはどんなことがあったって奴らに見せつけてやるんだ、誠実とはどういうことかを。もっとも奴にはきっとわかるまい、もし奴や奴みたいな奴らがわかったとすりゃ、みんなおれの側についてることになり、そんなことは不可能だからだ。ちきしょう、おれはこの決心をつらぬいてやるぞ、おやじが苦しみをこらえ、医者どもを階段の下へ蹴落《けお》としたみたいに――もしあのときおやじにあれだけの度胸があったんなら、今おれにもこれくらいの度胸はあるはずだ。おれはここでガンソープやエイルシャムの奴があの芝地を走ってきて、ゴールに張られた物干づなにとびこむまで、待っててやるんだ。おれ自身があの物干づなに到達するのは、おれが死んで、向こう側に安楽な棺桶《かんおけ》が用意されたときだ。それまでは、おれはどんなに苦しくとも、自分ひとりの力で田野を駆けてゆく長距離走者なんだ。
エセックスの少年たちは顔色を変えてどなり、おれに早く走れと叫び、腕をふりまわし、総立ちになり、おれたちは数ヤードしか離れていないんだから、おれたちがあのロープまで走ってってやると言わんばかりのようすを見せた。ど阿呆《あほう》め、とおれは思った、ゴールにへばりついてやがる、だけどおれにはわかっていた、彼らは口ではああ叫んじゃいるが、ほんとはおれの味方だし、これからも味方だろう。ただ奴らは、警察《サツ》でも刑務所《ムショ》でも拳《こぶし》を引っこめておくことができないんだ。彼らは今おれに声援することで、大いに楽しんでるんだ。おかげで院長の奴は、彼らが真底から自分の側についていると思いこんでやがるが、もし奴に良識のかけらでもありゃ、そんなばかげたことは考えなかったろう。今や観覧席では紳士淑女連中が叫び、立ち上がって、おれに早くゴールへはいれとさかんに手を振っているのが見える。「走れ! 走れ!」ときざな声でわめいてやがる。だがおれは、目も見えず耳も聞こえずまるで阿呆みたいにその場に立ったきりだ。まだ口の中で木の皮を噛み、赤んぼみたいにおいおい泣きながら立ちつくしていた。とうとう奴らをやっつけたことで、嬉《うれ》し泣きに泣けてきたのだ。
なぜなら、そのときどよめきが聞こえ、ガンソープの連中が空中に上衣《うわぎ》を放り上げているのが見え、おれのうしろでペタペタ聞こえていた足音がしだいに近づき、とつぜん汗の臭《にお》いと、息もたえだえのあえぎをつづけている両肺がおれのそばを通りすぎ、すっかりばてちまい、よたよた左右にふらつき、頭のおかしくなったズールー族みたいにぶつぶつ何やら口走り、おれが九十歳ででっかい布張りの棺に足をつっこむようになるときの幽霊みたいな格好で、あのロープめがけてふらふら走ってゆく姿が見えたからだ。おれ自身奴を声援してやりたいくらいだった――「さあ行け、さあ行け、早くとびこんじまえ。あの紐《ひも》で身体をぐるぐる巻きにしちまうがいい」だが奴はもうすでにゴールに達していた。そこでおれも奴のあとからとことこ走りだし、まだゴールの手前にあるときから耳が|があん《ヽヽヽ》としはじめ、ゴールにつくなりへたへたと崩れてしまった。
そろそろこのあたりで打ち切ろう。だがおれがもう走ってないと思わないでくれ、どのみちおれはしじゅう走っているんだ。感化院の院長はやはりおれの思ったとおりだった、まるでおれの誠実さを尊重してはくれなかった。おれも奴にそんなことを期待してたわけじゃなし、奴に説明して聞かせようとしたわけでもないが、ただもし奴にも教養があるものなら、多かれ少なかれ、それくらいのことはわかっただろうというまでだ。奴はりっぱに仇討《あだうち》をしやがった、というか、したつもりでいたのだ、なぜなら毎朝おれに大きなせわしい台所からごみ入れを庭の隅《すみ》まで運んで捨てさせ、午後には菜園のじゃがいもや人参《にんじん》に、台所の捨て水を撒《ま》かせたからだ。夜には何マイルも何マイルも床の拭掃除《ふきそうじ》をさせやがった。しかしどうせ六カ月のことだから辛抱はできた。それが奴にはわからなかったのだ、もしわかったならもっといやな目に遭わせただろう。しかし今ふり返ってみればあれはあれでよかったのだ、何しろいろんな考えごとができたし、それに仲間たちはみな、おれがあのレースにわざと負けたことを知り、おれのことを大いにほめそやしてくれたし、院長には罵声《ばせい》を(腹の中で)浴びせたものだ。
仕事にはへこたれなかった。どちらかと言えば、多くの点で頑丈《がんじょう》になったくらいで、出所したときには院長の奴も、せっかくこらしめようと思ったのが何にもならなかったのを知ったというお粗末。というのも、出所すると今度はおれを軍隊に入れようとしやがったが、体格検査に通らなかったというわけだ。そのわけを話そう。あの最後のレースと六カ月の重労働のあと感化院を出ると、おれはすぐさま肋膜《ろくまく》をやってしまい、その結果おれに関するかぎり、院長のレースにはまんまと敗れたが、自分のレースには二度勝ったことになった、なぜならあのレースをやらなきゃこの肋膜にはかからなかったろうし、かかったおかげでカーキ色服を着ずにすみ、しかもウズウズする指先がやりたがってる仕事のさまたげには一向ならないときているからだ。
おれは出所し、ふたたび仕事に熱を入れはじめたが、刑事《イヌ》どもめ、ついこないだの大仕事がおれだとは気づきやがらない。六百二十八ポンドのいただきで、まだそれで食ってるんだが、それというのも、その仕事はおれひとりでやったからだ。そのあと、これをすっかり書き記《しる》す余裕ができたし、もっとでかい、だれにも金輪際《こんりんざい》話すつもりはない仕事をやる計画を立て終わるまで、何とか食いつなげるだけの金はあるだろう。手口や隠し場所は、感化院の床をモップを押してまわるあいだに、すっかり考えておいたのだ。一見誠実に真面目《まじめ》に働いているような見せかけをつくろい、そのあいだに、今度しゃばに出たらぜひやってみなければならない仕事の手口を、でしゃばりなポリ公にあげられた場合はどうしようかという対策まで、剃刀《かみそり》のようにとぎすませておいたのだ。
かくする一方(最近読んだ本でさかんに使っていた言いまわしだ、まるで役に立たない本だった、どいつもこいつも最後は決勝点で終わり、一つも参考になることはなかったからだ)、おれはこの物語を友人の一人に渡し、もしおれがまたパクられた場合には、これを本か何かにしてくれと頼んでおくつもりだ。これを読んだときの院長の顔が見たいからだ、と言っても、読んでくれたらの話で、どうせ読む気づかいはないようなものだが。もしかりに読んだところで、いったい何が書いてあるのか、奴にはどうせわかりっこないだろう。それにもしおれがつかまらなけりゃ、この物語を渡しておく奴はけっしておれを密告《サ》したりしないはずだ。うちの近所にずっとむかしから住んでる奴で、おれの仲間だ。それだけはよくわかっている。
[#改ページ]
アーネストおじさん
[#地付き]丸谷才一 訳
よごれたレインコートを着て、無精ひげをのばし、ここ一カ月洗ったこともないような顔の中年男が、道具のはいった布の袋を小脇《こわき》にかかえて公衆便所から出てきた。舗道の端に立ち止って縁なし帽にちょっと手をやり――男の身につけているもので一番きれいなのはそれだった――なにげなく左右を見やり、車の流れが途切れたところで道を渡る。この男の名前と職業は、ひとの口にのぼるときはいつもいっしょで、仕事に関係のないときもそうだった。つまり彼は、椅子張《いすば》り職人のアーネスト・ブラウン。彼は毎晩下宿へ帰る前に、都心近くの公衆便所の世話をしている男のところに、念のため、道具一式をあずけておくのだった。自分の部屋に道具を持ち帰ったのでは、なくしたり盗まれたりするおそれがあると思っていたからで、万が一そんなことにでもなれば、たちまち暮してゆけなくなるからだ。
十時半を告げるチャイムが市会議事堂の時計から響きわたる。劇場の上空では青空が、秋の雲の切れ目でかろうじて小さな位置を守っている。裏切り者の風は突風を吹きつけ、新聞紙やタバコの空箱を、泥《どろ》のたまった溝《みぞ》にそってころころ転がしていた。すきっ腹のアーネストは朝食の用意ができたわけで、そこでカフェの入口をくぐった。はいるとき本能的に頭を低くしたが、戸口の梁《はり》は彼の身長の一フィートも上にあった。
長いひろびろとした食堂はほぼ満員だった。アーネストはここへ普段なら九時に朝食をとりにやってくるのだが、前の日にある居酒屋の三点セットを修理して十ポンドもらい、そのままサルーン・バーにはいって、腰を落ちつけ、じっくりと飲みふけるあのひとりぼっちの男たちに特有の飲み方でビールのジョッキをつぎつぎに傾けたのだ。おかげで今朝は、麻酔のきいた至福の眠りから自分を引きずり起すのがつらかった。彼の顔は蒼白《あおじろ》く、目は不健康そうな黄いろをしており、口を開くと、まばらに残った数本の歯が唇《くちびる》の奥にあらわれる。
群がって立っている六、七人の騒々しい連中のあいだをすりぬけて、彼はカウンターの前に出た。そこはあまたの手を宿す傷痕《きずあと》だらけの港。コーヒーわかしの列を二つの岬《みさき》にたとえれば、そのあいだに広がる、侵略のあとのとりちらかった浜辺のようなところ。大柄《おおがら》の肥《ふと》ったブルネットは忙しそうだったから、壁に大きな白い文字で書き出してある献立表に彼はいそいで目をはしらせ、おずおずと手で合図した。「紅茶を一杯ください」
ブルネットが彼のほうを向いた。かっ色のばかでかい注口《つぎぐち》から紅茶がだぶだぶっと流れ出た――ミルクの表面に浮んだ一筋の髪の毛を思わせるような|ひび《ヽヽ》のいったカップのなかへと――そのあとからスプーンがかちんと音をたてて湯気のなかへ飛びこむ。「ほかには?」
彼は遠慮がちに声を出した。「それにトマトつきのトースト」突き出された配膳盆《はいぜんぼん》を持ち上げると、彼はゆっくり後ずさりして人込みを抜け出し、それから向きを変え、あいている隅《すみ》のテーブルに向って歩いた。
ほかほかした食欲をそそるにおいが盆から立ちのぼった。彼はナイフとフォークを取りあげ、すこしのむだもない職人の手さばきで、トマトを盛ったトーストの一角を切りとって、ゆっくりと口に運び、まわりにすわっているほかの客たちにはほとんど目もくれずに、うまそうに食べた。そのナイフとフォークの動き、一枚のトーストの幾何学的な裁断、唇の|そり《ヽヽ》と|ねじれ《ヽヽヽ》、これらのひとつひとつが加わって複雑で規則的な運動を作りあげ、それが大きな満足感を彼にもたらした。彼はゆっくり、静かに、満足して味わい、ひたすら自分だけを意識して、食物によって身体《からだ》が暖められ、元気になってくるのを感じていた。スプーンとカップと受皿の悠長《ゆうちょう》な動きが、混雑したカフェの遅い朝食どきの耳慣れた騒音を生み出し、それはさまざまのリズムを伴ってあちこちから流れてくる音楽のようであった。
長年、彼はひとりで食事をしてきたが、今なお孤独に慣れていなかった。ひとりでいることに彼はなれっこになることができず、いつかこの呪文《じゅもん》もとけるだろうと期待して一時的に自分を適応させているにすぎなかった。アーネストは自分の過去をろくに覚えていなかった。生は彼の奥深くで動いていて、彼はその進行にほとんど気づかないほどであった。彼を過去のことに引きよせる強烈な思い出はこれといってないが、ただひとつの例外は、第一次大戦のとき塹壕《ざんごう》と塹壕のあいだの鉄条網のここかしこで死んだ者、死にかけた者たちのことであった。そのあとにつづく幾年か彼の唇をたえず二つのセンテンスが支配してきた――「おれはこうしてイギリスにいるべきじゃない。あの連中といっしょにフランスで死んでるべきなのだ」時が彼からこうしたセンテンスを奪いとり、あとには言葉のない曇ったイメージだけが残された。
人びとは彼をまるで幽霊であるみたいに、血のかよった人間でないように扱った――すくなくとも彼にはそんなふうに思われた――そしてそれ以来、彼はひとりで生きてきた。妻は彼のもとを去った――彼の気性に愛想がつきたからだそうだ――また彼の兄弟もよその町へ行ってしまった。彼らのところを訪ねてみようかと、あとになって考えたこともあるが、しかしけっきょくはやめにしてしまった。たとえこうした孤立の身でも、それを甘受し、あくまでも前進しようとする意志だけが価値あることに思えたからである。きわめて漠然《ばくぜん》とした感じ方ではあったが、彼の青春の残骸《ざんがい》や墓標、昔の友人たち、たしかな手で彼を招きよせる良き時代の色香、そうしたものの探索に戻ってゆくのは死に等しいことのように思われた。このままほっておくのがいちばんいいのだと彼は自分に言い聞かせた。なぜなら、死んだあと――それがいつのことにせよ――彼がそうしたものたち全部にまたお目にかかるのだという考えが、なんとなく本当のことのように思えたからだ。
砲弾衝撃《シェル・ショック》によって頭が変になったのだとしても、彼の身体にピンクの傷痕ひとつ残ったわけではない。したがって戦争中に起ったことは恩給手帳をもらう正当な理由にすらならなかったし、だいいち「戦傷」などという言葉は彼自身考えてみたことすらない。もうどうだっていい、ただそれだけだった。歳月の車輪が彼を引き裂き、そうして生を耐えうるものにしたのである。次の戦争が起きたとき、はじめは彼の背中の重荷にはならなかった。そして彼が身分証明書とか配給通帳を持っていないために――それらを脱走兵たちに喜んでくれてやったために――罰金を払わねばならなかったり、刑務所で過さねばならなかったりしたときですら、こういう廃人同様の、しかしとにかく何とか生きてはゆける暮しから彼が引き上げられることはなかった。砲火と炸裂《さくれつ》する爆弾の打ちつづく悪夢のような時間は、アパートの地下室でうつろに壁をみつめている彼に、長いあいだ押えられていたぼんやりしたイメージをよみがえらせ、気ちがいじみた二つのセンテンスの脈絡のない単語を彼の心に投げこむこともあった。しかし、時の物差しをあてがってみれば、彼の生活は相変らずであったし、戦争はじきに終り、そしてふたたびすべてがどうでもよくなった。彼はソファや椅子などを相手に器用な仕事をしながら手から口への暮しをし、ひとのことはいっこう気にかけなかった。仕事を見つけるのがむずかしく、生活が苦しい時分にも、彼は大して気にもとめなかったが、暮しが楽になって十分な金がとれるようになった今でも、彼はほとんどその変化に気づいていなかった。稼《かせ》いだものはみなビールに費《つか》い、新しいコートやら丈夫なブーツが必要だなどと一度として考えたことはなかった。
彼はトーストの最後の一切れを皿から口に運び、それから紅茶の残りかすが歯にあたって動いてゆくのを感じとった。噛《か》み終えてからタバコに火をつけ、まわりにすわっている連中をもう一度ほのかに意識した。時刻は十一時で、この天井の低いカフェからしだいに人気《ひとけ》がなくなり、わずかに十二、三人の客が残っているだけである。ひとつのテーブルでは競馬のことが、また別のテーブルでは戦《いくさ》のことが話題になっているのを彼は知っていたが、言葉は耳に流れこむだけで、心のなかへは理解の音程を下げてはいってきたから、その穏やかで満ち足りた状態が乱されることはなかった。そして彼はぼんやりと室内の椅子の型や配置を見ていたのだ。二時まで仕事はないはずなので、それまでこうしてすわっていることにした。だが、長居を正当化してくれる食べものが何ひとつテーブルにないことにとつぜん当惑し、お茶とケーキを注文しにカウンターへ向った。
彼が立って待っていたとき、二人の小さな女の子が店にはいってきた。一人はテーブルにゆき、もう一人の年かさのほうがカウンターのところへきて立った。彼が自分の席に戻ってみると、そこには年下の子がすわっていた。彼はまごつき、はにかんだが、それでもやはり腰をおろし、お茶を飲み、ケーキを四つに切った。少女は彼をみつめ、上の子が湯気の立った二杯の紅茶をカウンターから持ってくるまで、そうしていた。
彼らはおしゃべりしたり紅茶を飲んだりして、アーネストの存在をまったく無視していた。そしてアーネストは彼らのひそやかな、子供っぽい生気がしだいに彼自身のなかに浸入してくるのを感じた。彼は自分が場ちがいの人間であるような感じをいだきながら、ときどき二人のほうをちらと見たが、見たといってもぶしつけな見方をしたのではなく、少女たちに向けた彼の視線は、優しくにこやかなものであった。年かさの少女は十二歳くらいで、大きすぎて身体に合わない茶色のコートを着ている。彼女はひっきりなしにしゃべったり笑ったりしていたが、顔色のよくないことに彼は気づいた。それに大きなまるい目にしても、貧乏な家のほったらかしにされている子供によくある陽気な感じだと気がつかなければ、きれいだと思うこともできたろう。
年下の少女はそれほど元気がなく、姉のおしゃべりに短いそっけない言葉で答え、微笑するだけである。彼女はお茶を飲みながら同時に両手を暖め、すっかり飲みほしてしまうまでカップを下に置かなかった。ほそい赤い指をカップにまきつけ、彼女はお茶の葉をのぞきこんでいたが、しだいに二人の話は途切れてきた。そして少女らが黙りこむと、その場を占めるものは外の通りを走る車の騒音と、店内の、昼食時に予想される混雑にそなえてブルネットが食器を洗う音だけになった。
アーネストは、今日の午後することになっている仕事に模造クロースがなんヤードいるかを、心のなかで計算していた。が、下の子が話しはじめたとき、彼は聞くとはなしにその言葉に耳をかたむけていた。
「ね、アルマ、お金があるのなら、あたしケーキがほしいわ」
「もうお金はないわよ」と姉のほうがいらいらして答えた。
「ちゃんとあるくせに。ケーキを食べさせてよ」
彼女は頑《がん》として受けつけず、ほとんど攻撃的ですらあった。「それじゃ、いつまでもそう言ってたらいいわ。二ペンスきり持ってないんだから」
「それでケーキが買えるじゃないの」と、下の子がからのカップに指をからませながら言い張った。「歩いたって遠くないんだから、帰りのバス賃はいらないわ」
「歩いてなんか帰れません。雨が降るかもしれないじゃない」
「降らないわ」
「そりゃ、あたしだってケーキがほしいわよ。でもあたしは、てくてく歩いてなんかいきませんからね」と、姉のほうが相手の理屈を完全にやっつけ、これで話は終りだというみたいな言い方をした。下の子はあきらめて何も言わず、うつろな目で前方を見ている。
アーネストは食べ終えてタバコを取り出し、テーブルの脚の鉄の留め具でマッチをすり、深く息を吸いこんで、口のへんでタバコの煙を遊ばせた。月の光の下の穏やかな潮流のように、陸地に流れこみ砂浜をおおう一筋の流れのように、鋭い孤独感が彼をとらえ、その激しい苦痛は彼が泣くことをも許さぬものとなった。二人の少女は彼の目の前で自分たちのことにすっかり心を奪われていて、ケーキを買うかどうか、あるいはバスに乗って帰るかどうかを議論しつづけている。
「だけど」と年上のほうが説きつけていた、「歩いて帰ったら寒いわよ」
「そんなことない」ともう一人が言ったが、言った言葉に確信を持ってはいない。彼女らの声の響きは彼に、どんなに彼が孤独であるかを語りかけ、そしてそのひと言ひと言がさらに多くの孤独を味わわせることになったから、彼はすっかりみじめになり、むなしい気持になっていた。
時間はゆっくりと過ぎていった。まるで、時計の分針が一定の角度のままで動かないよう、釘《くぎ》づけされたみたいだった。少女たちはおたがいに顔を向けあっていて、彼のほうには注意を払わなかった。彼は自分の殻《から》のなかに引きこもり、世界の空虚さを感じ、そして故障したコンヴェヤー・ベルトの上の品物のように、どうやらずっとさきのほうまで意味もなく並んでいるこれからの一日一日を、どう過したらよいかと考えた。彼はいままでにあったことを思い出そうとした。そして三十年の空白を発見してうろたえた。彼が背後に見ることができたものは灰色の霧だけであり、前方に見ることができたものといえば、同じくいつ晴れるともわからぬ濃い霧だけで、しかも何かが隠されているというわけでもなさそうだ。彼はカフェを出て、空虚な日々の経過をこれからさきはっきり区別してくれるような、何か仕事を見つけたかった。が、動く気にはなれなかった。彼は誰かの泣き声を聞いて、そうした考えを振り払い、そして、年下の子が両手を目にやって泣いているのを見た。「どうかしたのかね」と彼はテーブルにかぶさるようにして、優しく問いかけた。
年上の少女がきびしい口調でかわりに答えた――
「なんでもありません。馬鹿《ばか》なまねしてるだけなんです」
「だけど、この子が泣いてるからには何かわけがあるんだろう。どうしてかね」とアーネストは静かに、なだめるように言い返して、彼女のほうにいっそうかがみこんだ。「どうしたの、言ってごらん」そのとき彼は何かを思い出した。彼は現実と夢とがまざりあったなかから一本のたしかな糸をたぐるように、その何かを引き出し、心のなかに浮び出た漠然とした言葉にすがりついた。少女たちの会話が、回想の入り組んだ過程を経て彼のもとに届いた。「ぼくが何かごちそうしてあげよう」と彼は思いきって言った。「いいだろう?」
少女は小さなこぶしを目から離して見上げ、姉のほうは憤然として彼をにらみつけ、そして言った――「わたしたちは何もほしくありません。もう出てゆくところですから」
「いや、行ってはいけない」と彼は叫んだ。「君たちここにじっとして、ぼくが何を買ってくるか見ててごらん」彼は立ち上がり、ささやきあっている二人を残してカウンターへ歩いて行った。
彼はお菓子の皿と二杯の紅茶を持って戻ってきて、黙って見ている少女たちの前にそれらを並べた。下の子はすでにほほえんでいた。そのまるい目は熱を帯び、魅せられた様子であったが、それでもいくらか心配げに彼の手の動きをいちいち追っている。上の子はまだ敵意を見せていたけれど、それも、彼の手の自信にみちた動きやら優しい言葉、彼の顔にあらわれた親切な表情などによってしだいにやわらいだ。彼はこの善行にすっかり夢中になっていたが、それは同時に、今や悪夢の思い出のようなものとはなっていても、まだ彼の記憶にある、あの孤独感との戦いでもあったのだ。
二人の子供たちは彼の魔力にかかり、やがてケーキを食べ、お茶をすすりはじめた。彼らはたがいに視線をかわし、それから、前にすわってタバコをふかしているアーネストの顔をちらと見た。カフェはまだがらんとしていて、食事中の数人の客たちは自分のことで頭がいっぱいだったり、早く食事をすませて出てゆくことに忙しかったりして、店の隅《すみ》のこの小さなグループにはほとんど注意していない。やっと自分と少女たちのあいだの空気が親しめるものとなったので、アーネストは話をしかけた。「学校へ行ってるの?」と彼が訊《き》いた。
姉のほうがみずから指揮をとって、質問に答えることになった。「ええ、でも今日は、かあさんの用事で街まできたんです」
「すると、おかあさんは働きに出てるのだね?」
「ええ」と彼女は教えてくれた。「一日じゅう」
アーネストは勇気づけられた。「それで食事は作ってくれるのかい?」
彼女はまた、しぶしぶ答えた。
「夕飯だけ」
「お父さんはどうしてるの」と彼はつづけた。
「死んだわ」と妹が、口いっぱいにケーキを詰めこんだまま、はじめてはっきりものを言った。彼女の姉は、だめよといった顔つきで妹を見て、おまえは言ってはいけないことを言った、指図なしに勝手にしゃべってはいけないのに、ということをわからせた。
「それで午後からは学校へゆくのだろう?」とアーネストがまたはじめた。
「ええ」と姉がかわりに答えた。
その相変らずのきびしい牛耳《ぎゅうじ》り方に彼はほほえんだ。「で、君たち名前はなんていうの?」
「アルマ」と彼女は答えた、「それからこの子はジョーン」彼女は小さく顎《あご》をしゃくって妹をさし示した。
「おなかをすかせることがよくあるの?」
彼女は食べるのをやめ、何と返事してよいか決めかねて彼のほうをちらっと見た。「いえ、そんなでも」と彼女はどっちつかずの返事をして、二つ目のお菓子をたいらげていた。
「でも今日はそうだったんだね?」
「ええ」と彼女は言って、くしゃくしゃになったケーキの包み紙を床に落すのといっしょに外交辞令も投げ捨てた。
彼はしばらく何も言わず、こぶしを唇《くちびる》に押しあてていた。「ね、いいかい」――彼がとつぜん、また口を開いた――「ぼくは毎日ここへ食事にきてるんだ、ちょうど十二時半ごろ。だから君たち、もしおなかがすくようなことがあったら、ぼくに会いにやってきたまえ」
彼女たちはこれに同意し、帰りのバス代として六ペンスもらい、彼にありがとうを言って別れた。
そののち何週間も、彼女らはほとんど毎日のように会いにきた。ときには、彼に金がなく、すき腹を一杯の紅茶で満たすことがあっても、アルマとジョーンは五シリングする、もっと歯ごたえのあるものを食べて満足していた。しかし彼は幸福であり、ひもじそうに卵やベーコンやお菓子の上にかがみこんでいる彼女らの姿を眺《なが》めては、限りない満足を覚えていた。彼はとても落ちついた気持になり、ついにはすばらしい生き甲斐《がい》を感じるようになったから、ひとりぼっちだったころ、誰かに話しかける望みといえば居酒屋へ飲みにゆくことでしかなかったころのことなどは、ほとんど思い出さなかった。彼は幸福だった。彼には、世話をやく「かわいい娘たち」がいるのだから。
彼はあり金をはたいて彼女らにプレゼントをするようになり、そのため下宿代を払えないこともよくあった。彼は相変らず服を新調しないでいた。以前は、彼の金はすっかりビールについやされたが、今ではそれが少女たちのプレゼントと食事に費《つか》われ、そして彼は古いよごれた同じコートを着つづけ、シャツにはカラーをつけないままだった。彼の縁なし帽も、もうきれいだとは言えなかった。
毎日、アルマとジョーンは学校からそのまま都心に向うバスに駆け乗り、そして数分後には息を切らせ、ほほえみながら、アーネストが待っているカフェにあらわれるのだった。何日も何週間もたつうちに、アルマは、アーネストが自分たちといっしょになるのをどれほど心待ちにしているか、自分たちと会ってどんなにうれしがるかに気づき、また一日でもゆかない日があると――そういうことはまれになってきたが――どんなにみじめな思いをするかに気がつくようになり、それとともに彼女はますます多くのプレゼント、食べ物、お金、を要求するようになった。とはいえそれは格別あどけない、子供っぽいやり方でされたから、満足しきって、ほかのことはすっかり忘れているアーネストにはわからなかったけれど。
だが、毎日カフェにきている幾人かの客たちは、少女たちが彼にあれこれとねだっている様子やら、いつも彼が常軌を逸した親切さでいうことを聞いてやり、これが本当はどういうことか一向にわかっていない様子を、いやでも目にしないわけにゆかなかった。彼は子供たちの要求を一度だって疑問に思ったことはなかった。なぜなら彼にとって、自分の本当の娘にも等しいこの二人の少女は、彼の愛する唯一《ゆいいつ》の人間だったから。
アーネストは食べはじめようとして、二、三ヤードさきのテーブルに向っている、服装のきちんとした二人の男たちに気づいた。彼らは前の日も、そのまた前の日も同じ場所にすわっていたのだ。だが、それについて彼がそれ以上考えないうちに、ジョーンとアルマがはいってきて、彼のテーブルを目ざしていそぎ足で歩いてきた。
「こんにちは、アーネストおじさん」と彼女たちが明るい声で言った。「今日のお食事はなあに?」アルマはチョークで書いた壁の献立表のほうを見て、どんな料理ができるかを読もうとした。
食べるのに気をとられていた彼の無表情な顔が一変し、幸福の微笑が彼の頬《ほお》や目や唇の曲線を染めた。「お好みしだいさ」と彼は答えた。
「でもいったい何ができるの」アルマが不機嫌《ふきげん》な声をあげた。「あんな字、読めやしない」
「カウンターへ行って訊いてみればいいさ」と彼は笑いながら助言した。
「それじゃお金をちょうだい」と言って彼女は手を出した。ジョーンはそばに黙って立っていたが、彼女にはアルマほどの自信がなく、臆病《おくびょう》そうな顔をしていた。それに彼女は、アーネストと自分たちのあいだのこうしたいつもの金銭の取引がいまだに理解できなかったから、何となしに落ちつかず、そしていつの日か、こうしてお金をもらうために立って待っていると、アーネストが驚いた表情で、(それが当然だから)あげるものはなにもないという、そんなことになるのを恐れていた。
彼は最近、時代ものの三点セットを修理して、その代金を今朝受け取ったばかりだったから、アルマは五シリングをもらい、二人でカウンターへ食事を注文しに行った。彼女らが料理を待っているあいだに、二人の身ぎれいな、この二、三日アーネストをじっと見まもっていた男たちが立ち上がり、彼のところにやってきた。
彼らのうち一人のほうだけがしゃべり、あとの一人は黙って見ていた。「あの二人の女の子は君の娘さんか親類か何かかね」と一人が訊《たず》ね、カウンターのほうに首を振った。
アーネストは顔をあげ、ほほえんだ。「いや」と彼は穏やかな声で説明した、「あの子たちはただの友達だけど、何か」
男の目は険しく、そしてはっきりしたしゃべり方をした。「どういう友達かね」
「ただの友達さ。なぜ? あんたたちはどういう人だね」彼は、はずれることを期待しながらも半ば想像した理由のため、一種の罪悪感みたいなものが心に広がるのを感じ、身ぶるいした。
「おれたちのことなどどうでもよい。こちらの質問に答えてくれればいいのだ」
アーネストはわずかに声を荒らげたが、男の傲慢《ごうまん》な目を見返す勇気はなかった。「なぜだ」と彼は叫んだ。「いったいあんたたちとなんの関係がある。なぜこんなことを訊くのだ」
「われわれは警察のものだ」と男はにこりともせずに言った、「おまえがあの女の子たちに金をやって間違ったことを教えている、そういう訴えがきてるのだ」
アーネストは笑いたかった、それはみじめさからくるものであったが。しかし、その笑いが二人の刑事を怒らせるのを恐れた。彼は口を開いた――「でも……でも……」――そして、つづけることのできない自分に気がついた。言いたいことはたくさんあったが、何ひとつ声にすることができない。やがて彼の目つきは当惑している獣のようになってくる。
「いいか」と男が力をこめて言った、「われわれはでもでも≠ネんて話を聞きにきたのじゃない。おまえのことはみんなわかってるんだ。おまえが誰かということもわかってる。実を言うとなん年も前から知ってるんだ。そこでわれわれの頼みだが、あの女の子たちにかまうな、今後いっさいかかわりあいになるな、ということだ。いい年したおとなが小さな子供にお金をやってはいかんのだ。自分のしてることがわからんのかね、もっと分別を持ちたまえ」
アーネストはやっと大声で抗議した。「あの子たちとは友達だと言ってるじゃないか。おれは悪いことなんかしていない。あの子たちの面倒をみてやって、プレゼントしたり、自分の娘みたいに思ってるだけだ。あの子たちだけがおれの友達だ。だからといって世話をやいてはいけないというのか。あんたたちはどうしておれたちを引き裂こうとするのだ。いったい何様だと思ってるんだ。ほっといてくれ……ほっといて」彼の声は上ずって弱々しい挑戦《ちょうせん》の悲鳴になっていた。そして混雑したカフェの客たちが振り返り、なんの騒ぎが持ちあがったのかと問いたげに彼をじろじろみつめていた。
二人の刑事はすばやく、的確に、しかもあわてた様子もなく行動した。それぞれ彼の両側に立つと、彼を持ち上げるようにして歩かせ、彼の手首をしっかりと握ったまま、カウンターのそばを通って出口へ向った。アーネストがカウンターのわきを通りすぎるとき、お盆を手に持った少女たちが恐怖と驚きの表情で、連れてゆかれる彼を見ているのが目にはいった。
男たちは通りの突きあたりまで彼を連れてゆき、そこで立ち止って、二、三秒、話をした。彼の手首はまだつかまえられたままで、彼らの指がますます食い込んできた。
「いいか、よく聞けよ、おまえのようなやつの面倒はもうごめんだがな、もし二度とあの子たちに近づいたら、判事の前に立たされることになるぞ」相手の声の調子は、強い力で、アーネストを気が狂う一歩手前まで追いやった。
彼は無言で立っていた。言いたいことは山ほどあるが、言葉が彼の唇にのぼってこない。恥辱と憎しみで唇はどうしようもなくふるえ、言葉を口にすることが不可能だった。「われわれは穏やかに頼んでいるのだ」と刑事がつづけた、「あの子供たちにかまわないでくれと。わかったかい?」
「ああ」とアーネストは答えないわけにゆかなかった。
「よろしい。では、ゆきたまえ。そして二度とあの子たちといっしょのところを見せないでくれ」
彼はただ、足もとから大地がすべり去り、恐ろしい津波が彼の心に押し寄せるのを意識していた。そして我慢ならないあの空虚なものが、彼の内部のどことも知れぬ小さな一点から流れ出るのを感じた。それから彼はあらゆるものに対する憎しみでみたされ、次いで、自分のまわりでのあらゆる動きに対して激しい憐《あわ》れみをいだき、そして最後に自分自身に対するいっそう激しい憐れみの気持でいっぱいになった。彼は泣き叫びたかったが、それもできなかった。彼はただこの恥辱から歩き去ることしかできなかった。
それから彼は一足ごとに苦しみを振り落していった。やりきれない気持が渦《うず》を巻いて消えてゆき、かつて味わったことのない深い感情がそれにかわった。真昼の雑踏にまじって舗道をゆく彼の足どりには、このとき、たしかな目的がこめられていた。そしてスウィング・ドアを押して、立てこんだ騒々しい酒場に足を踏み入れたとき、彼にはもう何もかもどうだってよいと思われた。美しい、たっぷり餌《えさ》のついた罠《わな》に吸いよせられるように、彼の視線はビールのジョッキにじっと注がれたが、やがて、これが唯一最善の忘却へと彼を導いてくれることになる。
[#改ページ]
レイナー先生
[#地付き]河野一郎 訳
生徒たちがいくらか静かになったので、レイナー先生は教室の窓から外を眺《なが》め、玉石敷きの通りごしに、ハリソン洋品店の窓の中をのぞきこんだ。つのぶち眼鏡のおかげで鋭くなった視力で、先生は新入りの女店員が木綿糸のはいった小さな引出しを取ろうと、両腕を頭の上へのばすのを見守った。腕をのばしたため、紺色の服に包まれた乳房は平たく引きのばされ、女店員の胸はほとんどぺしゃんこに見えた。レイナー先生はすわっている丈の高い腰かけの横木に、ちょっと靴《くつ》をこすりつけた。窓から外がよく見え、通り向こうのハリソン洋品店に働く娘たちをとっくりと観察できるよう、管理人に金をつかませ長い脚をつけさせたのだと、休憩室の冗談のたねになったことのある腰かけだった。だが生徒たちは、もうたいていレイナー先生の長い放心状態にはなれており――そのあいだ勝手な真似《まね》ができたからだが――今さらこの周知の理由をさかなに、あざ笑おうという気持ちも余裕も持たなかった。
ぺしゃんこ胸の娘が、二階の背広売場へ上がって行ってしまうと、小柄《こがら》でぽっちゃりとした、何とか及第点をやれそうな大きな胸の別の娘がカウンターのまん中へやってきて、色とりどりのネクタイを箱から出し、はいってきたばかりの客の前に車輪の輻《や》のようにひろげて見せた。しかしこの娘の魅力は、まだ先生の好みには合わず、ふたたび先生は、あらゆる点で申し分なかった娘の消えたことを悲しんだ。通りと店を背景に、その二つのあいだの動きをぼんやりと凝視の中にとらえながら、先生はあの娘の面影《おもかげ》を思い起こしてみた――それは困難なことだった、人の顔は先生の記憶に長くはっきりとは残らなかったからだ。あの娘が死んでから、まだ十日にしかならなかったが。
十八歳だった(と先生は思い出していた)、背は高すぎず、短い栗色《くりいろ》の髪の下の顔だちは男っぽかった。茶色の目、ふくよかな頬《ほお》と整った口もと――まるでヴィーナスのようだ、いやヴィーナスよりももう少し美しい、と先生の心の目は何度もくり返し賞《め》でたものだ。娘は茶色のセーターと茶色のカーディガンを着ていた。おかげで、上半身のようすはいらだたしいほどちらとしかうかがえなかったが、ある夏の日、カーディガンをぬいできた彼女は、顔と同じ古典的な胸のふくらみと、心持ち幅ひろい腰を――だが、いくらかずんぐりした脚と肉づきのいいふくらはぎには似合いの腰を――現わした。彼女がただ、カウンターから店の二階へ通じている階段の上り口まで歩いてゆくのを見るだけで、味気ない数学をお得意の金言まじりで説明してのけるレイナー先生の講義は、しどろもどろの気のぬけたものとなり、クラスはほとんど自習時間のようになって生徒たちを喜ばせた。
記憶で完成できぬところは想像力がおぎない、長年つちかわれた妻も家族も知らぬ官能の忘我に身をまかせ、先生は明確な面影を再現してみた。眼鏡をかけなおし、乾いた歯の裏側を舌でなめずり、もう一度|椅子《いす》の横木に足をこすりつけた。歩くとき、あの娘は身体《からだ》のすみずみの魅力へつながる、すばらしい身のこなしで全身を運んだものだ。靴の中の踵《かかと》や、たっぷり巻かれた一巻きの生地《きじ》に埋まった指先までが、目のあたり見えるようだった。大きなトロリーバスが一台、緑色の正面を見せて通りをころがってゆき、二階席と一階席のまん中を飾っているけばけばしい広告にのせて、レイナー先生の幻影を運び去った。
にわかに夢を破られ、先生はタバコを手さぐりしたが、まだ休み時間までには三十分ほどあった。十時になって、生徒たちが次の地理の授業に行くまでは、まだこのクラスのお相手をしなければならないのだ。耳にざわめきがなだれこみ、船になだれこむ冷水のように先生を現実に沈めた。ろくに読み書きもできぬ、いちばん年かさの暴れん坊グループで、遠からずこのあたりの工場で働きはじめようとすでに浮き足立っている、がさつな十四歳のろくでなし連中だった。窓に向いていた顔を、先生がぐるりとこちらへ向けたのを見て、いちばん乱暴者のブリヴァントはやっと静かになったが、ざわめきはいぜんつづいていた。ただ一つ実行可能な手は、残されたあと数カ月、連中をできるだけおとなしくさせておき、そして門を開き自由に放してやることだ――タバコに、フットボールに、酒に、女に、さまよい歩く都会の密林にあこがれた若い獣のような彼らを、広い世界へこぼれ出させてやることだ。生活のためやむなく面倒をみてきた学園の森から、学籍簿のページをめくり、ひとたび生徒たちを忘却の領域へ追いこんでしまえば、あとはもう教師の責任ではないのだ。彼としては、本質的に勉強ぎらいの、勉強とは無縁の生徒たちを相手に、できるだけのことをしたことになるのだ。
「よおし」と、レイナー先生は大きなはっきりした声で叫んだ、「少し静かにしろ」ざわめきはまだつづいていたが、服従の空気がクラスをおおった。レイナー先生は厳格な規律屋ではなかったが、二十五年の教壇生活のおかげで、説得力のある威厳たっぷりな声を身につけていた。生徒たちを殴ることはあまりなかったが、若僧ではないからその気になればいつでも殴れるだろう、とだれもが思っていた。中年の拳《こぶし》のかげには若い未熟な拳のおよばぬ力がひそんでいるのを、生徒たちもはっきり感じていたのだ。したがって、レイナー先生が静かにと命じると、生徒たちはたいてい静かになってしまった。
「聖書を出して、出エジプト記第六章をあけたまえ」と先生は言った。
きれいなのはほとんどない四十五の手が、どの本を開くときもやるように、どういうわけかいっせいにうしろから聖書を開き、前のほうへページをくってゆくのを、先生はじっと見つめていた。ときおりどぎつい色の挿絵《さしえ》が、パラパラページをめくるクラスのあちこちでチラチラするのが見えた。片肘《かたひじ》で額を支え、丈の高い机に寄りかかった先生には、ブリヴァントが隣の席の少年に何やらささやくのが見え、隣の子のくすくす笑うのが聞こえた。
「ハンドレー」と、レイナー先生はきびしい調子を装って訊《き》いた――「アロンというのはだれだったね?」
クラスの中ほどから、小柄な少年が立ち上がった――「聖書に出てくるアロンですか、先生?」
「そうだ。ほかのだれだと思ったんだ、阿呆《あほう》」
「知りません、先生」と少年は答えた。ほんとうに知らないのだろうか、それとも阿呆と呼ばれた腹いせだろうか。
「宿題になっていた章を、きのう読んでこなかったのか?」
この質問にならば答えられた。「はい、読みました、先生」と明るい答えが返ってきた。
「それじゃ、アロンというのはだれだね?」
少年の顔はもはや明るくなかった。言いわけをしながらもかき曇ってきた。「忘れました、先生」
レイナー先生は、ゆっくりと片手で額をなでた。こんどは方針を変えることにした。「ばかッ!」とどなったのだ。あまりの大声に、少年はとび上がった。「まだすわってはいかん、ハンドレー」少年はまた立ち上がった。「聖書のこの部分は、もうひと月もかかって読んでるんだよ、答えられないはずはない。それじゃ――モーセの兄はだれだったね?」
ブリヴァントがうしろから、おどけた歌を口ずさんだ。
「神モーセに言いたまいけるは
イスラエルの子孫《ひとびと》は長鼻を持つべし
ただしアロンには角鼻を
あわれなハンドレーには
ガス計量器《メーター》を与えん」
低いざわめきがレイナー先生の耳に届き、ブリヴァントのまわりにすわったいくつかの顔が、ふきだすまいと苦しげにこらえているのが見えた。「答えたまえ、ハンドレー、モーセの兄はだれだったね?」と先生はくり返した。
思いがけぬ霊感の光明に、ハンドレーはいかにもうれしそうな顔つきになった。ざれ歌の意味がやっとわかってきたのだ。「アロンです、先生」
「それでは」――とレイナー先生は、ようやくわかりかけてきたねというふりをしながら――「アロンというのはどんな人だったね?」
ブリヴァントがひやかし半分小声ではやしたてるのを聞き、試練が終わったものと思いこんでいたハンドレーは、敗北にうつろな顔を上げた。「知りません、先生」
生徒たちには聞こえぬがっかりした溜息《ためいき》が、レイナー先生から洩《も》れた。「すわりたまえ」と先生はハンドレーに言った。ハンドレーは待ってましたとばかり大いそぎですわり、机の蓋《ふた》がガタガタ音をたてた。ハンドレーは解放され、こんどはロビンソンの番だった。彼は約一ヤード離れた机から立ち上がった。「アロンというのはどんな人だったか、言ってみたまえ」とレイナー先生は命じた。
ロビンソンは、机の蓋の下にもう一冊開いた聖書をしのばせておくことを考えるほど、なかなか頭のいい少年だった。「祭司長で、モーセの兄でした、先生」と、彼ははっきり答えた。
「よろしい、すわりたまえ。いいか、ハンドレー、よく覚えておくんだぞ。ロビンソン、きみはどの王家《ハウス》グループだったかな?」
ロビンソンはうやうやしくにやつきながら、もう一度立ち上がった。「バッキンガムです、先生」
「合格の星を一つ取りたまえ」
緑色の星を成績図表に貼《は》りつけたあと、レイナー先生は生徒の一人に朗読を言いつけ、その単調な読み声がかなり進んだころ、ふたたび丈の高い椅子と洋品店の窓との距離に橋わたしをしようと、顔を外へ向けた。そして、現在あの店で働いている娘たちの顔や姿を組み合わせ、また溶かすことによって、近ごろ死んだあの娘の肉感的な面影をふたたびとらえようとしてみた。こうして玉石敷きの通りを越え、まっすぐハリソン洋品店の中へ向かい、十五の齢《とし》で働きに現われ、結婚のため二十《はたち》でやめてゆく娘たちに目を向ける習慣は、先生をこの学校にとどまらせている大きな支えになっていた。レイナー先生はすでに、郊外に働く若い娘たちの鑑定家となっていた。移動のはげしい労働と結婚の市場は、先生を移り気な恋心をもてあそぶ男に仕上げ、一つ一つの大きな情熱も、次の娘がやってきて前の娘の後釜《あとがま》にすわると、往々にして忘れ去られた。一人一人の≪いい娘《こ》≫は、先生の胸に合格の星印となって留《とど》められ、一連の思い出を残して去ってゆく。するとそのあとに新しい≪いい娘≫が、変わりやすい心の通貨を保証する確実な収入印紙のように現われるのだ。それぞれの記憶はこうして更新され、どの記憶も消え去ることはなかった。
だが、この前の娘は最上だった。車の行き交うむさくるしい町並みを背景に現われた彼女は、さしずめはき溜めに鶴《つる》といったところだった。先生はあの娘の働くのを、話すのを、また雨の日の午後には、ぼんやり夢見るようにカウンターのところに立つのを見守った。いちばん前列の少年は、予言者のように朗読をつづけており、そのまわりではさわがしくなったつぶやきの海が高まりはじめていた。レイナー先生の追憶の幕は開かれ、あの娘の古典的な美しさと年ごろの秘密をあらわしているボードレールの詩の一節、「|小心にして好色、か弱くして逞しく《テイミド・エ・リベルチーヌ・フラジル・エ・ロビユスト》」を思い出していた。だが、じっと外を見つめるこわばった顔を積んだトロリーバスの二階席が、その血にひたった文句を引きずり去るとともに、彼女の面影も消え去った。白い水差しを持ったお茶運びの少年が、土地周旋業者の事務所からひょいと姿を現わし、赤信号待ちの車やトラックのあいだを巧みにすり抜け、口笛を吹きながらずっと先の喫茶店へはいって行った。
朗読をつづける少年の、予言者のような単調な声を取りまく騒音の海は、とうてい規律の許さぬほど高まり、とうとう波の一つは少年の言葉を流し去り、別の物音が教室じゅうをおおった。ふと見ると、ブリヴァントが立ち上がり、力いっぱい前の席の少年を蹴《け》とばしている。やられたほうも負けてはいず、両の拳をふり上げた。
老いつつある赤ら顔を、デスクごしに生徒たちのほうへつき出したレイナー先生のはげしい一喝《いっかつ》で、たちまち教室内は静まった。「ブリヴァント、出てきたまえ」と先生は叫んだ。「好色にして逞《たくま》しく」――その文句は浮かび出てこようとしてあがき、力つき、白い十字架をそえられて運び去られた。
ブリヴァントは、気がかりそうな少年たちの列のあいだを、だらしない歩き方で出てきた。黒板に近づきながら、「あいつが先に殴ったんです」と言う。
「よし、こんどは先生がおまえを殴ってやる」レイナー先生は教卓の蓋をあけ、細い杖《つえ》を取り出しながら言い返した。相手はくるりとうしろをふり向き、仲間たちに目くばせし、陥《お》ちこむことになった苦境への軽蔑《けいべつ》を示しながら、残忍な目つきで先生を見つめた。十四になる大柄な少年で、長い下水管のようなズボンをはき、灰色の手編みのシャツを着ている。
「殴らんでくれよ。おれ、殴られるようなこと何もしてねえもん」
「手を出せ」レイナー先生は、顔をまっ赤にしながら言った。小心《テイミド》か。いや、そんなことはない。これでせいいっぱいこらえているのだ。ほんのしばらくでもこいつの頭から、いかれた考えを叩《たた》き出してやるのだ。
だが、さし出されるべき手はいっこうに出てこない。ブリヴァントはじっと立ったままだ。レイナー先生はもう一度命令をくり返した。クラスじゅうの目がそそがれ、通りを行き交う車の騒音も、ほとんど聞こえぬほどの小さなささやき声を隠しきれなかった。ブリヴァントはいぜん手をあげようとせず、レイナー先生の忍耐ぎりぎりの時間がたっぷりとたった。
「そんなので、殴らんでくれよ」と、ブリヴァントはまたくり返した。半ば閉じたその青い目がキラリと光る。
逞しく。目には目をだ。娘のからだは、尻《しり》の上にひろがったセーターの裾《すそ》の線は、静かに破壊された。意趣返しをしてやりたい衝動は抑えたものの、はげしい怒りがこみあげ、レイナー先生を行動へ駆りたてた。外をバスが通ったとき、先生はブリヴァントのそばまで歩み寄り、満身の力をこめて杖を振りおろし、何回か背中をどやしつけた。「どうだ、これでもくらえ、ごうまんなぐうたらの低能児めが」
ブリヴァントは驚いて飛びのき、それ以上杖がふりおろされる前に相手の意表をつき、拳を固めてはげしく殴りかかってきた。二人は組打ちの形となり、どちらも相手から離れて打ちかかろうと押しのけあった。レイナー先生は両脚を開いて立ちはだかり、机のほうへブリヴァントを押しつけようとしたが、ブリヴァントは自分より力のまさっている敵の動きを予測しており、さっと身を引いたため、二人は机のあいだでつかみあうことになった。「なんでおれをそんなに殴るんだよォ」と、ブリヴァントは歯をくいしばって言った。「おれを殴る権利があんのかよォ」彼はとつぜん、レイナー先生の腕の下にかかえこまれていた頭を抜くと、両の拳で殴りつけてきたが、大きく的をはずれ、机の並んだ上をキリンのように首からふっとんだ。レイナー先生はすばやく相手の退路をさえぎり、しっかりと腕をつかみ、まっ赤な顔で|はった《ヽヽヽ》とにらみつけ、荒々しく手をねじり上げるなど、すべてを一瞬のうちにやってのけ、一押しして放免してやった。しかし相手の出方にそなえて、杖は手から離さなかった。
だがブリヴァントは、休戦の摂理を認めたのであろう、「うちの兄貴を呼んできて片をつけてやっからな」と言っただけで席にすわった。経験がレイナー先生の味方だった――理屈に合った結論を出そうと、いざこざを引きのばしたところで仕方がない、めんどうに輪をかけるだけだ。この対等の争いで、双方とも顔をつぶさなかったのを見てとった先生は、ただブリヴァントに行儀よくしろと警告するだけで満足した。先生はふたたび、デスクのうしろの丈の高い椅子にすわった。何を気に病むことがあろう? ブリヴァントやその他の連中は、あと二カ月もすればおおかた卒業していってしまうのだ。二カ月くらいのあいだは、何とか手綱を抑えておけるだろう。そして休暇の後には、さらにたくさんのブリヴァントが、エスカレーター式教育に乗ってこの教室へ上がってくるはずだ。
十時五分前だった。残りの時間が平穏にすごせるよう、先生は聖書を取り出し、よく通る落着いた声で読みはじめた――
「エホバ、モーセに言いたまいけるは(ここでクスクス笑いが聞こえた)、今|汝《なんじ》わがパロになさんところのことを見るべし。能《ちから》ある手の加わるによりて、パロ彼らを去らしめん。能《ちから》ある手の加わるによりて、パロ彼らをその国より逐《お》い出《いだ》すべし」
十時半にやってきたのは、次の数学のクラスだった。生徒たちは教科書を開き、五十四ページの練習問題をやってみるよう命じられた。多くの教科書のページが、インキのいたずら書きにおおわれ、挿絵《さしえ》のところには卑猥《ひわい》な言葉が書きこまれ、老練な水夫の腕の刺青《いれずみ》のように、解答欄をも飾っているのが見えた。あと一カ月もすれば、どのページも活字が読めぬほどになってしまうだろう、あと十二カ月はもたせねばならない本だが。このクラスはさっきのクラスよりは年下で、その反抗も、まだ教科書に落書きするところまでしかいっていなかったのだ。
だがそれも、容認せねばならぬことだった。首を右のほうへ傾け、先生は教室内のざわめきを忘れ、通りごしに、洋品店で働いている娘たちを眺《なが》めた。そうなのだ、あの最後の娘は、記憶にある中ではいちばんいい娘だった。とうとうのぼせ上がりを癒《い》やすため、ある夕刻、先生は娘が店を出てくるのを待ち受け、話しかけてみることに心をきめた。よい考えだった。だが、先生の決心は遅すぎた。すでに一人の青年が彼女の帰りを待ち受け、どうやらバスの停留所まで送りはじめていたからである。あの店をやめていった娘たちも、大半はそうした世間並みな運命にめぐり合わせたためだった。(「小心にして好色、か弱くして逞しく」――先生にはあの文句が忘れられなかった)結婚した娘もあり、また先生の観察では、妊娠して姿を消した娘もあった。支配人とけんかをし、くびになったらしいのも何人かいた。だが、あの最後の娘は、デートをするようになった例の若者の手で殺されたことが、ある晩街角の信号灯の光をたよりに開いた新聞に報じられていた。
二階建のトロリーバスが三台、一列につながってやってきたが、先生はまだあの娘の面影《おもかげ》をカウンターのところに見ていた。
「静かに!」と先生は、目の前の四十の顔にどなった。「こんど話をしたものには杖をくれてやるぞ」
その言葉に、クラスはしんと静まった。
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漁船の絵
[#地付き]丸谷才一 訳
二十八年間、郵便配達をしてきた。と、この書きだしで我慢してくれよな。こうあっさり書くと、こんなに長いあいだ郵便配達をしてたってことが、何か大事なことみたいに見えるかもしれないが、でも、こんな事実に、べつだん意味なんてないんだ。それにけっきょくのところ、あっさり書いたせいでこれには何か大事な意味があるんだと勘ぐる奴《やつ》がいようと、おれの知ったことじゃない。どう書いたらいいか、知りたいとも思わないな。字引なんぞ引いて、小むずかしい言葉を使って書きだせば、むやみやたらにそういう言葉を使うことになるのが落ちだ。わずか二つか三つのセンテンスのうちに、同じ言葉を何べんもくりかえすなんてことになりかねない。字引で覚えた言葉なんかまぜて、これから書くものをばかげたものにする――そんなことだけはよそう。
結婚したのも二十八年前だ。こいつは、どういうふうに書こうと、どういうふうに読もうと、とても大事なことだ。つまり、長つづきのする職についたとたん、結婚したってわけで、おれがはじめてありついたまともな勤め口というのが郵便局なのだ(その前は、走り使いと、ビール工場の下働きをしていた)。就職してすぐ結婚しなきゃならなかったのは、職についたら結婚すると約束してたからだ。それに、あいつは、おれに約束を忘れさせるような女じゃなかった。
最初の給料日の晩、あいつを呼んで、
「どうだい、スネーキー・ウッドの森へゆかねえか?」
といった。何しろ生意気ざかりだし、うきうきしていたし、約束なんかすっかり忘れてたから、あいつが、
「ええ、いいわ」
といったとき、変だなんて思いやしなかった。秋の終りのころで、木の葉がまるで雪みたいに音をたててたことを思い出す。頭の上ではかさかさ鳴ってたし、地面では濡《ぬ》れていたっけ。満月の晩で、そよ風が吹いてるなかを、腕を組んで、楽しい気分で、果樹園まで歩いて行った。不意にあいつが立ち止って、おれのほうに向いた。骨は太いけど、スタイルのいい、きれいな顔だちの女だ。
「森へゆきたいの?」
いったいなんてことを訊《き》くんだ! おれは笑って、
「そんなこと判《わか》ってるだろう。ゆきたくねえのかい?」
おれたちは歩きつづけた。が、すぐにあいつは立ち止って、
「ゆきたいわ。でも、覚えてる? 職がめっかったら、どうする予定かってこと」
何の話だろうと思った。が、忘れちゃいなかった。
「結婚するよ」
とおれはいってから、あわてて、
「結婚式の金はねえんだけど」
「いいのよ、それは」
とあいつはいった。
まあ、そういうわけだった。あいつは、おれが今までキスしたなかで一番すばらしいキスをしてくれた。それから、おれたちは森へ行った。
おれといっしょに暮して、あいつは最初からしあわせじゃなかった。それに、おれだってそうだった。あいつの知ってる人がみんな――たいていは家族の者だ――何べんも、おれたちの結婚は五分間しかつづかないといった、なんて話を新婚早々されちゃあ、しあわせな気持になれないのは当り前だ。最初の五カ月が終るころには、みんなの意見が正しいと納得がいったから、おれとしても、あまりいいかえせなくなった。でも、悩んだというわけじゃない。おれはいつだって、どんなことがあっても腹を立てない男なんだ。実をいえば――認めたがらないやつが大勢いると思うけれど――結婚てえことは、ある家とあるお袋から、別の家と別のお袋へ引っ越すってえことにすぎない。話は簡単なんだ。給料袋のゆくえだっておんなしだった。毎週金曜の晩、給料袋を渡し、煙草銭《たばこせん》と映画代五シリング返してもらう。まるで、結婚式と披露宴《ひろうえん》の費用を、なしくずしに払わせられてるようなもんだ。おまけに、一生のあいだ毎週、給料を運びつづけなくちゃならぬ。月賦《げっぷ》というやつは、これから思いついたんじゃないかな。
でも、おれたちの結婚は、みんなが予言した五分間よりはつづいた。六年間つづいたんだ。おれが三十、むこうが三十四の年に、あいつは出て行った。問題なのは、夫婦|喧嘩《げんか》のときに――口喧嘩、きたならしい罵《ののし》りあい、それからいろんな食器を投げつけあったりなんかしてると――あんまり辛《つら》い気持になって、まるでおれたち二人が最初に出会ったときから、今までずっと、こんな喧嘩と苦しみ以外は何もしなかったみたいな、そして、いっしょに暮してるかぎり、いつまでもこんな具合につづくみたいな気持が、喧嘩の最中にしてくることだった。実は、今になって思えば――それにその当時だって、ときどきはそう思ったんだが――いっしょに暮してると、ひどく楽しいことが多かったんだが。
おれが、あいつがいなくなる前に、夫婦としてのおれたちの生活は終ったということを考えたのは、ある日、ものすごい大喧嘩をやったからなんだ。ある晩、|お茶《ティー》のあとで、テーブルの両端にすわっていた。皿は空《から》になってたし、腹はいっぱいになってたから、それから起ったことにはどうにも弁解の余地はない。おれが夢中になって本を読んでたとき、ちょうどキャスィーが椅子《いす》に腰かけたんだ。
だしぬけにあいつが、
「愛してるわ、ハリー」
本を読んでるときは誰だってそうだが、おれはちょっとのあいだ、その言葉が聞きとれなかった。すると、
「ねえ、ハリー、こっちを見て」
顔をあげて、ほほえむ。それからまた本を読みつづけた。たぶん、おれが悪かったんだろう。何かいえばよかったんだろう。でも、とてもおもしろい本だったんだ。
「本ばかり読んでると、眼《め》に悪いわ」
と、おれをまたぞろ狂熱のインドから連れもどした。
「そんなこと、あるもんか」
といったきりで、顔をあげないでいた。若くて、まだ顔がきれいで、情熱的で、身体《からだ》のたるみだした三十女だが、怒りだしたら執念ぶかいのなんのって、とてもかわせるもんじゃあない。
「父ちゃんはいつもいってたわ。本を読む奴は馬鹿《ばか》だって。うんとこさ勉強しなきゃならないのが、馬鹿の証拠だって」
この言葉に気を悪くしたので、我慢して本を読みつづけることができなくなったが、読んでるふりをしながら、
「本の読み方を知らねえから、そんなこというのさ。本を読める男に焼餅《やきもち》やいてたんだろう」
「あんたが頭に詰めこんでるようながらくたに、焼餅なんか、やく必要ないわよ」
とあいつは、一語一語、おれにはっきり判らせるように、ゆっくりといった。もう活字なんか眼にはいらない。嵐《あらし》が近くなった。
「お馬鹿さん、君はどうして、本を読もうとしねえんだ?」
実際、本を手にとることがない女だった。まるで毒みたいに本を憎んでいた。
あいつはせせら笑って、
「あんたみたいな馬鹿じゃないもの。それに、いろいろ忙しいし」
おれは叱《しか》りつけた。といっても、悲しませたくないとまだ思っていたから、おだやかな口調で、もうすぐこの章が終るからといったんだ。
「うん、とにかく、読みつづけるのを邪魔しないでくれよ。この本、おもしろいんだ。それに、おれはくたびれてる」
でも、こんなふうに頼んでも、あいつはまた始めるのだ。
「くたびれてる? いつも、くたびれてるのね」
笑い声をたてて、
「くたびれティム! オンボロ郵便袋をさげて街を歩くんだもの、何か、気ばらしにまともなことをしなきゃならないのに」
喧嘩をつづけたくはなかったが、向うが何かいえば、こっちもいいかえして、ぐずぐず長びかせていた。
が、少したつと、本がひったくられたのだ。
「この本きちがい!」
と金切り声をあげて、
「本、本て、本のことばかり。本読み亡者《もうじゃ》め!」
そして本を、石炭の上に投げ、火かき棒で、奥の燃えているほうへぐいぐい押し込む。
腹が立ったから、殴りつけた。きつくじゃなかったが、とにかく殴った。とてもいい本だし、それにだいいち、図書館から借りたものなので、弁償しなきゃならないのだ。あいつは戸をピシャンと閉めて、家から出て行った。そして次の日まで、おれはあいつに会わなかった。
あいつが出て行っても、そうひどく悲しいとは思わなかった。もうこりごりだ。子供がなかったのが幸いさ。一ぺんか二へん、妊娠したけど、うまくゆかなかった。二回ともひどいヒステリーを起した。妊娠してないときよりももっとすごいんだ。子供があったほうがよかったかもしれないな。まあ、こういうことは誰にだって判らない。
本を焼いてから一月《ひとつき》あとで、あいつはペンキ屋とかけおちした。万事あっさりと話がすんだ。大きな声も出さなかったし、殴りあいもしなかったし、それにだいいち、しあわせな家庭をだめにしたわけでもないんだ。ある日、仕事から帰って来ると、書き置きがあっただけ。
「出てゆきます。もう帰りません」――炉棚《ろだな》の時計に、たてかけてあった。その紙きれには、涙のあとなんかなかった。保険通帳の一ページに、鉛筆で、それだけしか書いてない。その紙は今でも札入れの奥にしまってある。どうしてだか判らぬのだが。
あいつがかけおちしたペンキ屋というのは、テラスの向うにある家に住んでいたのだ。ペンキ屋はそれまで二、三カ月、失業保険で食っていたのだが、急に、二十マイルばかり離れた町で職についた、という噂《うわさ》をあとで聞いた。近所の連中は、一年ぐらい前から二人があやしかったという話を、おれに聞かせたくてたまらない様子だった――もちろん、かけおちが終ってからだ。あいつらがどこへ逃げたのか、誰ひとり知らなかった。たぶん、おれが追いかけてゆくと思ってたんだろう。でも、そんな考えは一ぺんだって思いつかなかったな。だって、どうすりゃあいいんだ。男をぶん殴って、キャスィーを、髪をつかんで引きずって来るか。やなこった。
こんなふうに、生活ががらりと変っても、いっこう平気だったなんて書けば、そりゃあもちろん嘘《うそ》になる。六年間も同じ家に暮した女なら、たとえどんなに喧嘩ばかりしていたって、やはり、いなくなれば寂しい。それに――おれたち二人には、やはり楽しいときもあったんだし。あいつが突然いなくなると、家も、壁も、天井も、それから家のなかのいろんなものも、何か違う感じになってしまった。それに、おれの心のなかまで、どっか違ってきたんだ。もちろん、おれは必死になって、万事は昔のままだ、キャスィーがいなくなったって何ひとつ変りゃしないと、思おうとしたけどね。それでも、最初のうちは、時間はのろのろと流れてゆくだけ。自分がまるで、片足で歩くことに慣れようとしている男みたいな気がした。しかし夏になって、宵《よい》の時刻が長くつづくころになると、どういうわけなのか、楽しい気持になったんだ。あんまり楽しくって、悲しいとか寂しいとかいって悩んじゃいられないような気持になった。世界はどんどん変ってゆく。おれだって変ってゆく。
つまり、いろんなものを我慢することができるようになった。たとえば、毎日、昼になると局の食堂でたっぷり食べるというような具合に。朝食のときはゆで卵を作った(日曜日にはベイコンをそえた目玉焼だ)。それから毎晩、|お茶《ティー》のときには、何か冷たくて腹にこたえるものを食った。慣れてみると、こういう暮しもまんざらじゃなかった。ちょっぴり寂しかったが、すくなくとも落ちつけたし、まあ、なんとなく月日がたった。あいつがいなくなった当座のように、寂しくってもの思いに耽《ふけ》るなんてこともなくなった。それに、いつまでも、そんなことにかかずらわっちゃあいられなかったし。日中、配達してるとき、いろんな人に会ったから、夜になっても、それから週末の間も、人に会わなくたって平気だった。ときどきクラブに出かけてチェッカーを指したし、街へ行って飲屋《パブ》にはいり、半パイントのビールをゆっくり飲むこともあった。
十年間、こんな具合さ。あとで知ったことだが、キャスィーはペンキ屋といっしょにレスターに住んでたのだそうだ。それからノッティンガムに戻ってきた。ある金曜日の晩――給料日だから金曜日だ――おれを訪ねてきた。つまりこれはあいつにとって、いちばんいい時間だったわけさ。
おれは裏の門によりかかって、パイプをふかしていた。その日は、受持地域でひどく忙しくって、いらいらしたのだ。いったん手渡した手紙をつき返されることなんか、何度もあった。受取人がいないというので、引っ越しさきを訊くと、知らないという。そうかと思うと、たっぷり十分もかかってベッドから出てきて、書留のサインをする――だから、おれはあのときいつもの二倍もくつろいだ気分で、秋の一日の終りを楽しみながら、裏庭の通用門のところでパイプをふかしていたんだ。空は明るい黄いろで、屋根やアンテナのすぐ上のところだけ緑いろに見えた。煙突からは夕食の支度の煙が出ていたし、たいていの工場のモーターは、もう、とまっていた。子供たちが電柱と電柱のあいだを走る音や、犬の吠《ほ》える声が、ずっと向うから聞えてくる。ちょうどパイプを喫《す》い終ったので、たたいて灰を落し、なかへはいって、ゆうべ読み残した、ブラジルのことが書いてある本を読もうと思った。
女が角を曲って、庭をこっちへやって来た。おれにはすぐ、あいつだってことが判った。みょうな気がしたな。十年ぐらいじゃ、人間を変えちまうには短かすぎるから、誰なのか判らないなんてことはないが、たしかにそうだと思うまでに二回も見なくちゃならぬ――十年てのはそのくらいの年月なんだ。その二回の短い瞬間は、まるで胃のところを一発、がんとやられたようだった。テラスも、そのなかにいる人間も、みんな自分のものだといわんばかりの昔の歩き方とは、違っていたな。このまえ見たときよりも、歩き方がすこしのろくなっていた。この十年間に、雄鶏《おんどり》が歩くみたいないつもの歩き方をして、しょっちゅう壁にぶつかってたせいかもしれぬ。あまり自信がないみたいだったし、それに前よりも肥《ふと》っていた。夏のワンピースの上にオーバーをひっかけていた。きれいな色の茶いろい髪だったのに、金髪に染めている。
あいつに会って、嬉《うれ》しくも悲しくもなかったが、あれはたぶんショックのせいだろう。というのは、おれはずいぶんびっくりしていたからだ。もういちど会うことを期待してなかったわけじゃない。判ってもらえるかな?とにかくあいつのことを、なんとなく忘れていたんだ。あいつがいない暮しに慣れてくるにつれて、おれたちの結婚生活は、一年に、一月《ひとつき》に、一日に、いやそれどころか、夜明け前の闇《やみ》にきらめく光みたいなほんの一瞬に、変ってしまったんだ。
記憶なんてものは、十年もたつとすっかり薄れて、夢みたいになってしまう。歩き方は違っても、何か気のきいたことはいうだろうと思った。「犯罪の現場にもっと早く戻って来ると思ってたんじゃない? ハリー」とか、「知らぬは亭主ばかり、と思ったでしょう」とかいうような。
ところが、突っ立ったままだった。
「こんばんは、ハリー」
といったきりで、おれが通用門のところへ行ってあけてやるのを待っている。
「ねえ、ずいぶん久しぶりね」
空《から》のパイプをそっとポケットにすべりこませながら、門をあけた。
「やあ、キャスィー」
と声をかけ、さきに立って、庭をずんずん歩いた。あいつは、台所にはいるときオーバーのボタンをかけた。まるで、はいろうとしてるのじゃなく、出てゆこうとしてるみたいな感じだった。
炉のそばに立って、
「あれからどうしてる?」
と訊《たず》ねた。
あいつは、まるでおれのほうを見たくないように、ラジオに背を向けていた。おれもけっきょくのところ、だしぬけに訪ねて来られてすこしばかし動顛《どうてん》してたんだろう。自分じゃ気がつかなかったが、動顛してるところを見せたかもしれない。というのは、すぐにパイプに煙草を詰めたからだ。普段だったら絶対しないことなのに。いつもは、片方のパイプがすっかり冷えてしまってから、もう一方に火をつけることにしている。
あいつはただ、
「まあね」
といったきりだった。
「どうして、腰をおろさないんだい? キャスィー。じきに火をおこすよ」
あいつは、まわりにある昔なじみのものを見る勇気がないように、うつむいてばかりいた。まわりのものは、あいつが出て行ったときのままなのだ。でも、やはり見ていたらしい。
「一人でちゃんとやってるわね」
といったのだから。
「どんな様子だと思ってたんだい?」
と、皮肉な口調にならないようにして訊ねた。口紅はつけない女だったのに、口紅をつけていたし、頬紅《ほおべに》も、それからたぶん白粉《おしろい》もつけていたろうと思う。そのせいで、そういうものを何もつけないのとはまた別な感じで、老《ふ》けて見えた。ほんのちょっとの変装なのに、十年前のあいつをおれから――そしてたぶんあいつからも――隠す役目は果していた。
「戦争になるらしいって噂ね」
と、ぽつんと言った。
おれは椅子をテーブルから引いて、
「さあ、かけろよ、キャスィー。足がくたびれる」
といった。これは昔おれたちがしょっちゅう使った文句なのだ。でも、なぜあのときこの文句が出て来たかは、おれには判《わか》らないんだが。
「いや、おれはちっとも驚かねえな。あのヒットラー野郎は、手前の頭に弾をぶちこまれたくって仕方がねえのさ。ドイツ人はみんなそうらしいや」
視線をあげると、あいつは壁にかかってる漁船の絵をみつめていた。帆を半分張っている、茶いろっぽい錆《さび》いろの船だ。もの悲しい日の出の景色で、あまり遠くない浜辺には魚の籠《かご》を肩にかついだ女が歩いている。キャスィーの兄が結婚祝いにくれた一組のなかの一枚なんだが、他の二枚は夫婦|喧嘩《げんか》のときに破けてしまった。あいつはこの、残っている漁船の絵が大好きだった。おれたちは上機嫌《じょうきげん》のときには、この絵のことを、艦隊の生き残りなんて言ったものだ。
「どんな具合だい」
おれは知りたかったのだ。
「無事に暮してるかい?」
「ええ」
といわれても、昔みたいにおしゃべりじゃないこと、それから声に張りがなくって、いきが悪いことが、どうにも気になった。でも、出て行ったときのままの昔の家で、久しぶりにおれと会うせいなんだろうと思った。ラジオがある。十年前と違うのはそれだけなんだから。
「勤めてるのかい?」
といってみた。あいつは、おれのすすめた椅子《いす》には腰かけたくないみたいだった。
「アンバーゲイトのホスキンズでね。レース工場なのよ。週給四十二シリング。悪くないわ」
椅子に腰かけて、オーバーのボタンをすっかりはめた。おれは、あいつが漁船の絵をまた見てるのに気がついた。艦隊の生き残り。
「よくもねえさ。どうせ飢餓賃金しか払ってくれねえからな。どこに住んでるんだい? キャスィー」
根もとのあたりに灰いろが見える髪を撫《な》でつけながら、
「スニーントンに家があるの。小さいけど、家賃が週に七シリング半なのよ。騒々しいけど、気に入ってるわ。あたしって、そういうたちなのねえ。ほら、『一パイントのビールと、一クォートのやかましい音』って、あなたがしょっちゅういったでしょ?」
おれはにやりと笑って、
「おや、覚えてたかい」
しかし、あいつの顔つきはいきいきしたものじゃなかった。笑いをかがり火みたいに燃えあがらせる、あのユーモアの光が、眼《め》に全然ないんだ。眼のまわりの皺《しわ》だって、今じゃあ、老けたことと年月がたったことを示してるだけだ。
「ちゃんと暮してるって聞いて、嬉しいよ」
あいつはそのときおれを正面からはじめて見て、
「あなたって、興奮すること、決してなかったわね、ハリー」
「うん」
とおれは正直に答えた。
「まあ、なかったな」
「興奮すればよかったのに」
と、あいつは変にぼんやりした調子で、
「そしたら、あたしたち、あんなことにならなくてすんだのに」
「もう遅すぎるよ」
と、激しい口調でいってから、
「喧嘩やごたごたは嫌《きら》いだったからな。平和がおれの主義さ」
「チェンバレンみたい!」
あいつが冗談をいったので、おれたちは二人とも笑った。
そして彼女はテーブルの真ん中にある皿を動かし、肘《ひじ》をテーブル・クロースの上にのせた。
「この三年間、一人で暮しを立ててきたのよ」
おれのよくないところなんだろうが、ときどき好奇心が湧《わ》いてくる。
「じゃあ、あのペンキ屋はどうしたんだ?」
と、ごく自然に訊《き》いてしまった。咎《とが》めるようなことをされたという気持がもともとないから、あんなことが訊けるのだ。女房がかけおちした――それだけのことだ。べつに、大変な借金を残していっておれを困らせたというような話じゃない。おれとしてはこの女に、いつだって、好きなことをさせておきたいんだ。
本が一冊、ソースの瓶《びん》にたてかけてあり、ほかにもう二冊、サイドボードに置いてあるのを見て、
「ずいぶんたくさん、本を持ってるわね」
といった。
「閑《ひま》つぶしさ」
と答えて、マッチをすった。パイプの火が消えていたから。
「本が好きなんだな、おれは」
あいつはしばらくのあいだ何もいわなかった。三分間ほどだったということを覚えている。食器棚《しょっきだな》に置いてある時計をおれはじっと見ていたからだ。ラジオがニュースをやってたんだが、一番いいところは聞きのがした。戦争になりそうだというニュースなので、なかなかおもしろかったんだ。他に何もすることがないので、戦争のことを考えながら、あいつがしゃべるのを待っていた。
「鉛毒で死んだの。ひどく苦しんだわ。まだ四十二だったのに。病院に入れられてから、一週間で死んだわ」
かわいそうにともいえなかったが、いい気味だと思うこともできなかった。だいいちおれは、その男を知らないのだ。
「君の喫う煙草《たばこ》は、たしかなかったと思うけどな」
といいながら、もしかしたらあるかもしれぬと思って、ないことは知ってるくせに、マントルピースの上を探した。巻煙草を探すためあいつのそばを通ったとき、あいつは椅子をずらした。
「いや、いいんだ。手がとどく」
「いいのよ。持ってる」
といって、ポケットのなかをさぐり、くしゃくしゃにつぶれた五本入りの箱を出した。
「喫わない? ハリー」
「いらない。この二十年、巻煙草は喫わねえんだ。知ってるじゃないか。おれがどういうわけでパイプをやりだしたか、忘れたかい?おれたちが仲よくしはじめたころだったぜ。君が、誕生日のお祝いにパイプをくれて、パイプを喫うほうが立派に見えるなんていったじゃないか。だから、あれ以来ずっとパイプ党さ。すぐ慣れちまってね。今じゃとても気に入ってる。もう離せねえよ」
まるで昨日のことみたいな気がする? でも、たぶんおれはあんまりしゃべりすぎた。だって、あいつは煙草に火をつけながら、すこし神経質そうにしていたから。なぜなのか判らない。べつにおれの家にいる必要ないのにいるせいかな?
「ねえ、ハリー」
と、漁船の絵を見ながらいった。ちょっとうなずくようにして、絵を見ている。
「あの絵がほしいわ」
まるで、今までこんなにほしいものはなかったような口ぶりだ。
「悪い絵じゃねえな」
と答えたような気がする。
「壁に絵をかけとくのはいいもんだ。べつに、見なくたってね。友達みたいなもんさ。見てなくても、そばにあるだけでいいんだ。ほしかったら、持っていっていいぜ」
「本当?」
といった。その口調は、おれがあいつにはじめて、かわいそうだという気を起したくらいだった。
「もちろんさ。持ってけよ。おれが持ってたって、どうってことはねえ。他の絵をかけたっていいし、戦争の地図を貼《は》ったっていいもんな」
その壁には、絵はそれきりだった。下のサイドボードに結婚写真が飾ってあったけれど。しかし、あいつを厭《いや》がらせると悪いと思ったから、結婚写真のことは思い出させないようにした。おれだって、べつにセンチメンタルな理由でとっておいたわけじゃない。燃してしまえばよかったのだ。
「子供はいるのかい?」
「いいえ」
と興味のなさそうな返事だった。
「でも、絵をもらっていっちゃ悪いわね。そんなに好きなんだもの」
おれたちは長いこと、向い合って腰かけていた。あいつに絵のことをこんなに悲しそうにいわせる、いったいどんなことがこの十年のうちに起ったのだろう。外が暗くなってゆく。ぺちゃくちゃしゃべってないで、さっさと持ってけばいいのに。それで、もう一ぺん、持ってゆけとすすめ、絵を壁からおろし、裏の埃《ほこり》をはらい、ハトロン紙で包んで、それから郵便局で使っているいちばんいい紐《ひも》でゆわえてやった。
「ほら」
といって、お茶のポットやなんかをどけ、それをテーブルの上の、あいつの肘の近くに置いてやると、
「あんたって、優しい人なのね、ハリー」
「優しい? 嬉《うれ》しいね。絵が一枚ぐらい、あったってなくたって、どうってことはねえさ。おれには、ね」
今にして思えば、あのときおれたちは、いっしょに暮してる時分には知らなかったやり方で、おたがいに相手をやっつけてたというわけだ。電気をつけた。部屋のなかのいろんなものがはっきり見えると、あいつが不安そうにしたので、電気を消そうかというと、
「あら、いいのよ」
荷物をかかえて立ちあがりながら、
「もう帰る。そのうち、また来るわね」
「来たくなったら、おいでよ」
来て悪い理由は何もなかった。敵同士というわけじゃねえもんな。あいつはオーバーのボタンを二つはずした。それをはめないでいるほうがずっと着心地がいいみたいな感じだった。それから、手を振って、
「じゃ、またね」
「さよなら、キャスィー」
部屋にいる間じゅう、あいつが一ぺんも、ほほえんだり笑ったりしなかったことを思い出したので、にっこりと笑ってやったのだが、そのお返しに来たものは、おれのよく知ってる、顔いっぱいに笑うこだわりのない微笑じゃなくて、唇《くちびる》と唇とを離しただけの気のない微笑だった。もうあんな笑い方はしないんだろう、と思った。何しろ四十を過ぎてるんだからな。
こんなふうに、あいつは出て行った。おれも間もなく本を読みはじめた。
それから二、三日たってからのある朝、郵便を配達しながらセント・アンズ・ウェル・ロードを歩いていた。店があるとたいてい一つ一つ立ち止るものだから、おれの巡回は時間が長くかかる。雨が降っていた。かなりの霧雨で、外套《がいとう》をつたわって雨水が流れるし、ズボンも膝《ひざ》の下はぐっしょり濡《ぬ》れていたから、早く局の食堂でお茶を飲みたくって仕方がない。ストーブがよく燃えてればいいなと思っていた。こんなに手間どってなければ、喫茶店にはいって休むところだった。
ちょうど食料品店に手紙を一束渡して出て来たとき、隣の質屋のショウ・ウィンドウに漁船の絵が見えた。二、三日まえ、キャスィーにやったやつだ。どう見ても間違いない。古物の水準器、翼のとれた模型飛行機、錆《さ》びたハンマー、鏝《こて》、革紐《ストラップ》のとれたヴァイオリン・ケースなどにもたせかけてある。金いろに塗った額の左下|隅《すみ》には、見覚えのある傷までちゃんとありやがった。
ほんの一瞬だけど、とても信じられなくて、どうしてこれがここにあるのか判らなかったが、そのとき、結婚の最初の日のことが、それから、贈り物がいっぱいのっていたサイドボードが、眼に浮んだ。すると、この、他人の暮しの残骸《ざんがい》のなかからおれを見ている三枚一組の絵の生き残りが、いろんな贈り物のなかから迫って来る。あれがとうとうここへ来て、がらくたになりさがったわけだ、と考えた。あいつはあの晩、家へ帰る途中、売ったにちがいない。質屋は金曜の晩、遅くまであけてるんだからな。細君たちが亭主の背広を、週末用に請け出せるように、というわけだ。でなきゃあ、今朝売ったばかりなのかもしれぬ。おれは、たった三十分おくれて巡回して来たのかもしれない。とにかく、ひどく困ってるにちがいない。キャスィーの奴《やつ》、かわいそうに、と思った。どうして、一シリングか二シリング貸してくれと言わねえんだろう?
どうしようという気はべつになかった。そんな気は全然なかった。ただ、なかへはいって行って、カウンターのところに立ったまま、よぼよぼした白髪《しらが》のけちん坊が二人の痩《や》せた女の質草の包みをよりわけるのを待っていた。二人の女は、爺《じじい》に、一番いいものを持って来たのだということを信用させようとして、くどくどしゃべっている。おれはじりじりしてたぜ。店のなかは、雨のなかからはいって来たもんだから、古着や黴《かび》の臭《にお》いがぷんぷんするし、それに、普段より巡回に手間どってるんだ。戻らないうちに食堂がしまってしまう。朝の|お茶《ティー》が飲めなくなる。
とうとう、爺がよたよたやって来た。手を出して、
「手紙は?」
「爺《じい》さん、そういうことじゃねえんだ。ウィンドウに置いてある絵が見てえ。船が描《か》いてあるやつさ」
二人の女は、受け取った何シリングかを勘定したり、質札を財布につっこんだりしながら出て行った。爺が絵を、まるで五ポンドもの値打があるような手つきで持ってきた。たしかにあの絵だと判《わか》ったときはショックだった。が、すこしたつと、ほっとしたような気になって、間違いないかどうか念入りに調べた。裏に書いてある値段が、どうもはっきりしない。
「いくらかね?」
「四シリング」
景気のいい値段だ。が、かけひきする気はなかった。もっと安くすることはできたろうが、五分もかかって何のかんのと言い合うよりは、これより一シリング高く買うほうがいいみたいなもんさ。だから、金を渡して、あとで絵を受け取りに来ると言った。
四シリングなんてばかげてる、と雨のなかをびしょびしょ濡れて歩きながら独り言をいった。泥棒爺《どろぼうじじ》いめ。あいつ、かわいそうなキャスィーには一シリング半しかやらなかったにちがいない。漁船の絵のせいで、ビール三パイントぶんの金を費《つか》ってしまった。
どうしてかは判らないが、次の週またあいつが来るだろうと当てにしていた。木曜日にやって来た。時刻も、服も同じだった。夏のワンピースに、茶いろいオーバーで、ボタンがきちんとかけてあるのを見ると、あいつがどんなに神経質になっているか判るような気がした。来る前に一杯か二杯、酒を飲んでたらしく、おれの家にはいる前に外の便所に寄った。おれは仕事から遅く帰ったので、まだ|お茶《ティー》をすませてなかったから、お茶をつきあわねえかと訊いた。
「あまり、ほしくないわ。さっき飲んだばかり」
という返事だった。
石炭いれの石炭をすっかり炉にくべて、
「火のそばへ寄れよ。今夜はめちゃくちゃに寒いや」
あいつは、今夜は寒いといって、それから壁の漁船の絵を見あげた。おれは、あいつがどういうだろうと思って、こうなるのを待ち構えていたんだ。ところが、絵がもとどおりにかかってるのを見ても、ちっともびっくりしない。おれはすこし、がっかりした。
「今夜はゆっくりできないの。八時に、人に会うもんだから」
としかいわない。絵のことには一言も触れない。
「かまわないよ。仕事のほうはどうだい?」
「おかしくって」
となげやりに答えた。おれが場ちがいな質問をしたみたいな調子だ。
「首になったの。女工長に、どっかへ行っちまえなんていったもんだから」
「ふーん」
と、おれはいった。気持を隠したいときは、いつも「ふーん」というのだ。でも、これは安全な言葉だ。「ふーん」というときは、いつだって、もう他の言葉は出てこないからな。
失業したので、もういちどおれといっしょに暮したいのかもしれぬと思っていたのだ。向うが望むのなら、そうしてもいい。こうなった今でも、べつに遠慮なんかしない女だと思ったが、こっちから切り出すつもりはなかった。たぶん、よくは判らないけど、あれがまずかったのだ。
「かわいそうに。首になるなんて」
と、おれはいった。
あいつはまた絵をじっと見ていた。そして、けっきょくこういった。
「半クラウン貸してくれない?」
「いいとも」
ズボンのポケットから金を出して、半クラウンをつまみ出し、あいつに渡した。ビール五パイント。あいつは何といえばいいのか判らぬらしかった。心のなかの音のない響きに合わせて、足を小きざみにゆすっている。
「どうもありがとう」
「なあに、気にするなよ」
と、おれは笑顔でいった。あいつが煙草をほしがるのじゃないかと思って、巻煙草を一箱、買っておいたことを思い出した。つまりこれほど、またやって来るのを当てにしていたわけさ。
「煙草、どうだい?」
あいつは煙草を受け取ると、おれが火をつけてやるより早く、マッチを靴《くつ》の踵《かかと》でこすってつけた。
「来週、半クラウン返すわ。給料もらったら」
ばかげた言い草だ、とおれは思った。
「首になったとたん、新しい口がみつかったのよ」
と彼女は、まるでおれの心のなかを読んだみたいに、こっちが何もいわないうちにいう。
「すぐにみつかったの。今は勤め口がいっぱいあるわ。前より給料いいのよ」
「じきに、工場がどこもかしこも、軍需工場になるぜ」
彼女が、手当みたいなものをおれにせびることもできるはずだ、という考えが浮んだ。だって、おれたちはまだ、法律上は結婚してるわけだからな。そうすりゃ、半クラウン借りることなんかない。当然の権利というわけだ。しかし、何もわざわざ思い出させてやる手はない。だいいち、そういわれたとしても、大したことはしてやれないと思う。何しろこんなに長いあいだ独身――ということになる――でいるもんだから、倹約して二ポンドも三ポンドも貯《た》めるなんてことはできやしなかった。
「帰るわ」
とあいつはいって立ち上がり、オーバーのボタンをかけた。
「じゃあ、お茶は飲まねえか?」
「ええ、飲まないわ。スニーントンゆきのトロリー・バスに、乗り遅れないようにしなくちゃ」
戸口まで送ろうといったら、
「いいのよ。大丈夫」
といいながらおれを待って、立ったまま、サイドボードの上の壁の絵を見ている。
「あれ、いい絵ねえ。とっても好きだったわ」
おれは古い冗談をいった。
「うん、艦隊の生き残りさ」
「だから、好きなのよ」
十八ペンスで売っ払ったことはおくびにも出さない。
おれはみょうな気持で、あいつを送り出した。
あいつは戦争中、毎週木曜日の晩に、だいたい同じ時間にやって来た。天気の話や、戦争の話や、あいつの仕事やおれの仕事のこと、つまりあまり大事じゃないことを、おれたちはすこしばかりしゃべった。おれたちはしょっちゅう、部屋のなかの離ればなれの位置から炉の火を眺《なが》めながら、長いあいだ椅子《いす》に腰かけていた。つまり、おれは炉のそばにいたし、キャスィーはすこし離れて、たったいま食事がすんだという感じで、テーブルのところにいた。二人とも、固苦しくしゃっちょこばってじゃないけど、しゃべらないでいた。おれが|お茶《ティー》を入れることもあったし、そうしないこともあった。いま考えてみると、こういうときにビールを飲んでもよかったような気がするが、そういう気は全然起らなかった。あいつにはそれがもの足りなかったろうと思う、なんて意味じゃない。だって、そんなものがおれの家に置いてあるなんて、あいつとすれば思いもかけないことだったろうから。
冬になればしょっちゅう風邪をひくたちで、寝ているほうが早くよくなることは判りきってるのに、あいつは一ぺんだって訪ねて来るのを欠かしやしなかった。燈火《とうか》管制でも、空襲でも、平気でやって来た。ひっそりと、ぶっきらぼうに、おれたち二人はくつろいだ気持で向い合い、そして、また会おうといって別れた。たぶんあれが、おれたちが一番しあわせだったときかもしれない。戦争中の、長い長い、うんざりするような夜、こうしていっしょにいるせいでどんなに助かったことか。
あいつはいつも同じ茶いろのオーバーを着ていたが、それがぐんぐんみすぼらしくなっていった。そして帰るときにはいつも、きまって、二シリングか三シリング借りていった。立ち上がって、
「あのう……半クラウン貸してよ、ハリー」
貸してやる。ときどきは冗談をいう。
「これで酔っぱらっちゃ、だめだぜ」
が、これには何とも答えない。まるで、こういうことで冗談をいうのは行儀が悪いと思ってるみたい。もちろん一ぺんだって返してもらわなかったが、それでも惜しいとは思わなかった。貸してくれといわれて厭《いや》とはいわないもんだから、ビールの値段があがるにつれて借金の額もふえ、三シリングになり、三シリング半になり、とうとうあいつが死ぬ前には四シリングになった。あいつを助けてやれるのは嬉しかった。それに、他に誰ひとり助けてやる人はいないんだからな、と自分で自分にいいきかせたものだ。住所を訊《き》いたことなんか一度もなかった。もっとも、あいつのほうで一ぺんか二へん、今でもスニーントンのほうにいるような話をしたことはあった。それにあいつを外で、酒場や映画館で、見かけたこともなかった。とにかくノッティンガムというのは大きな街だ。
やって来ると、あいつはきまって、サイドボードの上の壁にかかってる、あの艦隊の生き残りの漁船の絵を、ときどき、ちらっちらっと見た。そして、何度も、とてもきれいだと思うとか、ぜったい手放しちゃいけないとか、日の出や船や女が実に真に迫っている、とかいい、すこし間を置いてから必ず、自分のものにして持っていたらどんなに嬉しいだろう、と謎《なぞ》をかけたけれど、それをすればけっきょく、質屋ゆきになることが判ってたから、おれは何もいわなかった。絵を持ってゆかれるくらいなら、半クラウンじゃなくて五シリング貸してやるほうがよかった。でも、最初の何年間かは、半クラウン以上はいらないような様子だったのだ。何だったらもっと貸してもいいぜと、一度いったこともあったが、あいつはそれに返事もしなかった。売って金にするため絵がほしかったのか、自分の家に飾りたかったのか、おれには判らない。それとも、質に入れて、それを誰かに買わせ、もうおれたち二人のものじゃなくするというのが狙《ねら》いだったんだろうか。
しかしとうとう最後に、はっきり、絵がほしいと切り出したし、それほど熱心なら、断わる理由はべつになかったのだ。あいつがはじめてやって来た六年前のときのように、おれは埃《ほこり》をはらい、何枚かのハトロン紙に丁寧に包み、郵便局の紐《ひも》でゆわえて、くれてやった。あいつは小脇《こわき》にかかえて、嬉《うれ》しそうだったが、家から出るときの様子はなんだかのろのろしているみたいだった。そんな気がした。
でも、この前と同じことになった。二日か三日たってから、質屋のウィンドウでまた見かけたのだ。何年間もそこに並んでる、古ぼけたがらくたのなかにまじってた。今度は、買いもどしにはいってゆきはしなかった。そうすればよかったと思う。そうしてれば、二、三日あとで、キャスィーがあんな事故に出会わなくてすんだわけだから。でも、判らないな。事故が起らなかったら、他のことが起ってたろう。
彼女が息を引きとる前には、会えなかった。晩の六時に、トラックにひかれたらしい。警察がおれをジェネラル病院へ連れて行ったが、あいつはそこでもう死んでいた。めちゃくちゃになっていて、実際は病院に運ぶ前にもう出血がひどくて死んでたらしい。医者の話によると、ひかれたとき、すこし酔ってたという。身のまわりの物を見せられたなかに、漁船の絵があったが、めちゃめちゃになってたし、血で汚れていて、あの絵だということがなかなか判らなかった。その晩遅くなってから、ごうごう燃える火にくべて、絵を焼いた。
あいつの二人の兄弟、そいつらの細君たちと子供たちがいなくなって、今までみんながキャスィーが死んだのはおれのせいだといった空気を漂わせていたのが薄れたとき、ひとりぼっちだとしみじみ思いながら、墓のそばに立っていた。眼玉《めだま》が溶けるくらい泣きたいと思った。しかしそうはゆかない。顔をあげたとき、今まで見たことのない男が一人いるのに気がついた。よく晴れた冬の午後で、でも、ものすごく寒い日だった。だから、さっきまでは、キャスィーのことを考えないようにするには、かちんかちんに堅い地面に、あいつがいま眠っている穴を掘らなきゃならぬかわいそうな連中のことでも気にとめるしかなかった。ところが、もう一人知らない奴がいる。ぐしょぐしょ涙を流している。五十五ぐらいの男で、上等のグレイの背広を着て、腕には黒い布を巻いている。むくむく肥《ふと》った寺男が、その男の(それから、おれの)肩に手を触れて、もうすっかり終りましたから、というまで、動かなかった。
この男が誰なのか、訊く必要はないと思った。この直感は正しかった。キャスィーの家(それはまた、こいつの家でもあった)に行ったら、この男が荷物をまとめてて、それからすぐ、一言も挨拶《あいさつ》しないでタクシーで行ってしまったのだ。でも、近所の人たちの話では(実際、近所の連中というのは何でも知ってるものだ)こいつとキャスィーはこの六年間いっしょに住んでたのだそうだ。信じられるかい? おれとしては、この男がキャスィーを、その六年間の前よりもしあわせにしてくれたのだったら嬉しいと思うだけだ。
あれからずいぶんたったが、壁に別の絵をかけようとは思わなかった。たぶん戦争の地図で間に合うだろう。壁があんまりがらんとしている感じだが、そのうち政府が地図を配るだろうと当てにしている。まあ、実をいえば、今のところ何もいらないんだ。部屋のそっち側にはサイドボードがあるし、その上には今でも、あいつが一ぺんもほしがらなかった結婚写真がある。
そして、心のなかに積み重ねてある、こういう何枚かの古写真を見てると、こういう写真を手放しちゃいけなかった、キャスィーを出てゆかせちゃいけなかったと、悟りはじめるのだ。あんなふうにするなんて、おれはまったく馬鹿《ばか》で頓馬《デッド》だったと思うこともあった。そして、運が悪くてこうなったのだから、心に残るのは馬鹿のほうじゃなくて頓馬《デッド》という言葉で、それは鱈《たら》や穴子の骨みたいにひっかかって、ときどき夜ベッドでそのことを考えてると、気が狂うほどくやしくてやりきれなくなる。
おれの生活には目的ってものがなかった、という気がしだした。それに、もう、信仰のほうへ向うのも、大酒飲みになるのも、手おくれになっている。なんのために生きてきたのか? そう思った。おれには判らない。いったい何が目的だったろう? でも、真夜中に、寂しくってやりきれないときでも、自分のことはちょっぴり、キャスィーのことはたっぷり、おれは考えた。おれが苦しんだよりもっとずっとひどい苦しみ方をあいつはしたんだ、ということが判った。そして――アスピリンがひどい頭痛をおさえるくらいの短い時間そう思ってるだけなんだが――おれが生きてきた目的はあんなささやかなやり方でキャスィーを助けてやったことだ、と思うようになった。
お前は生れつき頓馬《デッド》だ、としょっちゅう自分にいいきかせた。誰だって|死んでる《デッド》のさ、とおれは答えた。実際|死んでる《デッド》んだ、とおれはいいつづける。たいていの奴は、おれに判りはじめたことが判っちゃいねえ。それにしても、判ったってどうしようもないころになって、やっと判るなんて、おれはひどく恥ずかしい。もう今となっちゃあ、万事手おくれだ。
ところがここまで来ると、真っ暗な闇《やみ》のなかから晴れやかな考え方が、鎧《よろい》を着た騎士みたいにあらわれてきて訊《たず》ねる。もしお前があの女を愛していたのなら……(もちろん、おれはものすごく愛していた)……もしそれが愛として思い出すことのできるものなら、そんならお前たち二人にできるのは、ただあれだけのことだったのだ。さあ、お前は愛していたか?
鎧を着た騎士は暗闇のなかへ戻ってゆく。はい、愛していました、とおれはそこで答えるんだ。でも、おれたちは二人とも、|愛のために何もしなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だから、いけなかったんです。
[#改ページ]
土曜の午後
[#地付き]河野一郎 訳
ぼくは前に、自殺しようとする男を見たことがある。あの日のことはけっして忘れないだろう。ある土曜の午後のことだった。家じゅうみんなして映画を見に行ってしまい、なぜだかぼくだけが留守番だったので、ぼくはふてくされうんざりした気分で家の中にすわっていた。むろんまだそのときは、本物の人間が首吊《くびつ》りするなんていう、映画でさえ見られないものをまもなく見ることになろうとは、夢にも思っていなかった。ぼくはまだ小さな子どもだったから、その場面をどんなに楽しんだか、想像していただけるだろう。
何かにうんざりしたとき、うちの連中くらいふきげんな顔になる家族を見たことがない。タバコがないとか、紅茶にサッカリンを使わなきゃならないとか、それともまるで何でもないことで、おやじがえらいふきげんな殺気立った顔になり、今にも炉辺の椅子《いす》から立ち上がりとびかかってくるのではないかと、おそろしくなったぼくは家から逃げだしたこともある。おやじは火の上へのしかかるようにして、ただじっとすわっているのだ。油のしみこんだでかい手のひらを目の前に向かい合わせにひろげ、肉づきのいい肩を前かがみにし、焦茶《こげちゃ》の目でじっと火を見つめている。そしてときたま、藪《やぶ》から棒に汚い言葉を、こんな汚いのがあったかと思うようなひどい言葉を口走るのだ――こいつがはじまると、退散する潮時というわけだ。もしおふくろが家にいたりすると、事態はいっそうこじれてくる。「何だってそんな不景気な顔してんのよ、あんた?」などと、自分のやったことに文句があるのかと詰問《きつもん》するみたいにきついことを言うからだ。そしてあれよと言う間もなく、おやじはテーブルいっぱいのっかった鉢《はち》や皿をひっくりかえし、おふくろは泣きながら家をとび出してゆくという段取りだ。おやじは暖炉の火の上へまたかがみこみ、ののしりつづける。みんな一箱のタバコのせいなんだ。
いつだったか、これまでに見たこともないくらいおやじがふさぎこんでるのを見て、とうとうおやじの奴《やつ》も、頭がいかれて静かになっちまったかと思ったことがある――そしたらそこへ、蠅《はえ》が一匹、おやじから一ヤードくらいのとこまで飛んできた。とたんにおやじの手がのび、蠅をつかむと、半殺しのやつをごうごう燃えている火の中へポイと投げこんだもんだ。そのあと、おやじはいくらか機嫌《きげん》がよくなり、お茶を入れたりなんかした。
つまり、うちの連中のふきげんな顔は、もとはみなおやじから出たものなのだ。年じゅう苦虫づらのおやじがいりゃ、うちじゅうそうなったって当然じゃないだろうか? ふきげんな顔というものは、家族の血の中に流れているものだ。仏頂づらの家族もあれば、そうでないのもある。だがわが家には、まさしくむっつり顔がそなわっていた。だからぼくらがうんざり顔のときには、ほんとにうんざりしていたのだ。なんでぼくらがあんなにうんざりしたのか、またうんざりしたときなんであんなむっつり顔になったのか、だれにもわかったもんじゃない。世間には、うんざりしたってまるきり顔に出さない連中もある――何だか妙にうれしそうな顔つきでいるのだ、まるでたった今、身におぼえのない罪で叩《たた》きこまれていた刑務所から無罪釈放になったみたいな、八時間も下らない映画をぎゅう詰めになってすわって見ていたあげく、やっと映画館から出てきたみたいな、半マイルも先からあれに乗ろうと駆けてきたバスが、あきらめて走るのをやめたとたん、行く先の違うやつだとわかったみたいな――ところがぼくの家では、だれか一人がうんざりすると、ほかの連中にとってどえらい迷惑になるのだ。いったい何が原因だろう、とぼくも何度自分に問いかけてみたかわからない。だけどたとえ何時間もすわって考えたところで(と言や聞こえはいいが、正直なところ考えごとなどするぼくじゃないが)、答えは何も出てこない。ともかく、ぼくはじっと長いあいだすわって考えこむ、するとそのうちおふくろは、おやじみたいに暖炉の火の上におおいかぶさる格好ですわっているぼくを見て言うのだ、「何だってそんな仏頂づらしてんのよ?」そう言われるとぼくも、ほんとにおやじみたいなうんざりむっつり顔になって、テーブルじゅうの鉢や皿をひっくりかえすようになってはと、考えごとを中止しなけりゃならない。
たいていは、そんなふきげんな顔をするほどの理由は何もなかった気がする――どうやら一家の血筋のせいだったのだ。だれのせいでもなく、むっつり顔をしたと言ってだれを責めるわけにもゆかないのだ。だが、この土曜の午後のぼくは、あまりふきげんな顔をしていたものだから、競馬の|賭け《ノミ》屋から戻ってきたおやじまでが訊《き》いたものだ――「どうしたんだ、ええ?」
「気分がわるいんだよ」と、ぼくはちょっとした嘘《うそ》をついた。映画に行けないからふくれてるんだなどと答えたら、きっとおやじはてんかんの発作でも起こしていただろう。
「顔でも洗ってくんだな」とおやじは言った。
「洗いたくないよ」とぼくは言ったが、それは本音だった。
「そいじゃ、外へ行って、いい空気でも吸ってこい」とおやじはどなった。
ぼくは大あわてで言われたとおりにした。いい空気を吸ってこいと言われたときには、おやじのそばから退散する潮時だということを知っていたからだ。だが外の空気は、長屋のはずれでガンガンやっている憎たらしい大きな自転車工場やなんかで、いっこうに新鮮ではなかった。どこへ行っていいかわからなかったぼくは、長屋の敷地内を少しばかり歩き、どこやらの家の裏木戸の近くに腰をおろした。
そのとき、ぼくはこの長屋へ来てあまり長くないその男を見たのだ。痩《や》せて背の高い、牧師みたいな顔の男だったが、平たい帽子をかぶり、ちょろりと垂れた口ひげを生やし、まる一年まともな食べ物をたべてないみたいにしょぼくれて見えた。そのときはぼくも、こんなことにそれほど気をとめていなかった。しかし男が長屋の敷地の端を曲がったとき、亭主の自転車か一張羅《いっちょうら》の背広を質入れに持ってくときのほか、一日じゅうどんなときでもそこに立っているうるさい噂好《うわさず》きの女が、「あんた、その縄《なわ》をどうすんのさ?」と男に向かって叫んだのをおぼえている。
男は返事をした――「こいつでおれの首をくくろうてんだよ、奥さん」このとてつもなくうまい冗談に、女はまるでこんなうまいしゃれは聞いたことがないみたいに、いつまでもけたたましくゲラゲラ笑いつづけたが、その翌日には、肥《ふと》った顔で泣きべそをかくことになった。
男はタバコをふかし、輪にした真新しい縄を手にしてぼくのそばを通ったが、通りすぎるにはぼくをまたいで行かなきゃならなかった。男の靴《くつ》はもう少しでぼくの肩をはぎ取りそうになり、気をつけとくれよとぼくは言ったが、男には聞こえなかったようだ、こちらをふり向きもしなかったからだ。あたりに人影はほとんどなかった。子ども連中はまだみな映画から帰らず、親たちは下町へ買物に出かけて留守だった。
男は長屋の敷地内を歩いて、自分の家の裏口まで行った。映画に行きそびれ退屈していたぼくは、男のあとからついて行った。つまり、男が裏口をちょっとばかりあけたままにしておいたので、扉《とびら》を押して中へはいってみたのだ。ぼくは拇指《おやゆび》をしゃぶりながら、もう片方の手はポケットに入れたまま、そこに立って男のようすをじっと見ていた。ぼくがいることは知っていたに違いない、目がさっきよりは自然に動いていたからだが、しかしいっこう気にするようすはなかった。「おじさん、その縄でどうすんの?」とぼくは訊いた。
「おれの首をくくろうってんだよ、坊や」と男は、これまでにも一、二度やったことがあり、やる前にこんな質問を受けることもよくあることだというような口ぶりで答えた。
「なんで、おじさん?」男はぼくを、うるさい小僧だと思ったに違いない。
「なんでって、やりたいからよ」と男は、テーブルの上の鉢や皿を全部片づけ、部屋の中央へテーブルを引きずって行きながら言った。それからテーブルの上に乗り、縄を電燈《でんとう》のところへしばりつけにかかった。テーブルはギィギィ音をたて、あぶなっかしかったが、何とか目的は達したようだった。
「そいじゃもたないよ、おじさん」とぼくは言った――映画館にすわって、ジャングル・ジムの続きものを見ているよりか、ここにいるほうがどんなによかったかしれないと思いながら。
だが男はさすがに腹を立て、ぼくのほうを向いた。「うるせえな、坊主《ぼうず》」
あっちへ行けと言われるのかと思ったが、言われなかった。男はその縄で、船乗りか何かだったみたいにえらいしゃれた輪を作り、しっかりむすびながらもしゃれた口笛を吹いていた。やがてテーブルからおりると、テーブルを壁のほうへ押しやり、椅子を持ってきた。いっこうにふきげんな顔もしていない。うちの連中がうんざりしたときのふきげんな顔には及ばない。うちのおやじが週に二回見せるふきげんな顔の半分ほどもふきげんな顔つきをしていたら、この男はもう何年も前に首をくくっていただろう、とぼくは思わないではいられなかった。ところが男は、このことはもう十分に考えたことで、これが最後の仕事だと言わんばかり、念入りに縄ごしらえをしていた。だがぼくは、男の知らないことを知っていた、男の立っていたのはぼくのいたところと違っていたからだ。ぼくには縄がもたないだろうとわかっていたので、もう一度そう言ってやった。
「うるせえな、黙ってろ、でないと外へ蹴《け》とばすぞ」と、男はおだやかな調子で言った。
ぼくは首吊りを見逃したくなかったので、黙っていた。男は帽子を取ると食器棚《しょっきだな》の上へおき、上衣《うわぎ》をぬぎ襟巻《えりまき》を取り、ソファの上へひろげてのせた。十六歳の今ならおそろしいと思うだろうが、そのときのぼくは少しもおそろしくなかった、興味でいっぱいだったからだ。まだ十歳だったぼくは、それまで首を吊る現場を見る機会はなかった。ぼくらは、ぼくとその男の二人は、男が縄を首に巻く前から仲よくなってしまったのだ。
「ドアをしめてくれ」と言われ、ぼくは言われたとおりにした。「齢《とし》のわりにはいい坊主だな」ぼくが拇指をしゃぶっているあいだに、男はそう言い、ポケットをさぐって中にはいっていたもの全部を取り出し、手にいっぱいつかんだがらくたをテーブルの上へ投げ出した――タバコの箱に薄荷《はっか》、質札、古い櫛《くし》、そして数枚の銅貨だった。男は銅貨を一枚ひろい上げ、それをぼくにくれて言った――「な、坊や、よく聞くんだ。おれは首をくくるからな、おれがぶら下がったらこの椅子を思いっきり蹴とばして、押しのけてもらいてんだ。いいな?」
ぼくはうなずいた。
男は首のまわりに縄をかけ、かけてからもう一度、よく合わなかったネクタイのように取りはずした。「なんでそんなことすんの、おじさん?」とぼくはまた訊いた。
「もううんざりだからよ」と、男はとても悲しそうな顔で言った。「それに、どうしてもそうしたいからだ。女房の奴は出てってしまうし、仕事はねえしよ」
ぼくはその言葉にさからおうとは思わなかった、男の口ぶりからして、どうしても首をくくるより仕方ないことがわかっていたからだ。そのうえ、男の顔にはおかしな表情があった――ぼくに話しかけるときも、ぼくのことはまるで目にはいっていないようなのだ。うちのおやじの見せるうんざりした顔つきとはまるで違っていた。違っていたからこそ、残念なことにうちのおやじは首吊りなどしないのだろう、なぜならおやじは、この男みたいな表情を浮かべることはないからだ。おやじはじいっとこちらの顔を見つめる、おかげでこちらはたじたじとなり、家からとび出してしまう。ところが、この男の表情はこちらをつき抜けてしまう、したがってまともに向かい合っても平気だし、何の危険もないことがわかっている。だからぼくにはわかるのだ、うちのおやじは首などくくりっこないことが――仕事にはしじゅうあぶれていたが、とうていおやじには首を吊るのにふさわしい顔つきができないからだ。おふくろがまず家出でもしちまえば、あるいはおやじもやるかもしれない。しかし、いや――とぼくはかぶりを振った――おやじはおふくろにみじめな暮らしをさせてはいるが、家出はちょっと考えられない。
「椅子を蹴っとばすのを忘れねえだろうな」と念を押され、ぼくは忘れないよとかぶりを振ってみせた。両の目玉をとび出させ、ぼくは男の一挙手一投足を見守った。男は椅子の上へ立ち、相変わらずしゃれた口笛を吹きながら、縄を首のまわりへ今度はうまく巻きつけた。ぼくはその結び目をもっとよく見たいと思った、仲間にボーイスカウトにはいってる奴がいて、どんな結び方だったかと訊くに違いないからだ。もしあとで教えてやれば、奴もお返しにジャングル・ジムの続きもの映画で何が起こったかを話してくれ、おふくろの口ぐせの、お菓子は食べりゃおしまいだよ、がおしまいでなくなり、二度いい目が見られるってわけだ。だがぼくは、うるさく訊かないほうがいいと思い、自分のコーナーに引っこんでいた。男は最後に、しめった汚らしいタバコの吸いさしを口からはなし、火のない火格子《ひごうし》の中へほうり、それが炉の奥の黒い壁に当たるのを目で追っていた――まるで電気屋が、これから電燈の故障の修理にとりかかろうとでもするように。
とつぜん、男の長い脚がもがき、両足が椅子を蹴ろうとした。ぼくは約束どおり手助けをしようと、ノッツ・フォレスト・チームでセンター・フォワードをやってでもいるように、駆けて行って椅子を蹴とばしてやった。椅子はソファのとこまですっとんで行き、ひっくり返りながら、男の襟巻を床の上へ引きずり落とした。男は鳥を追っ払っている案山子《かかし》のように両腕をパタパタやり、ほんのちょっとぶらんこしていたが、口にふくんだ下剤をむりやり飲みこもうとでもしているように、喉《のど》で妙な音をたてた。
ついでまた別な物音が聞こえ、思わず上を見上げると、映画で見る地震の揺れはじめそっくりに、天井に大きなひび割れができはじめ、電球が宇宙船のようにぐるりぐるりまわりはじめた。ぼくの目がくらくらしかけたとき、何てことだろう、どえらい物音とともに男は床の上へ落ちてきた。身体《からだ》じゅうの骨を全部バラバラにしちまったのではないかと思ったくらいだ。男はひどい腹痛におそわれた犬のように、ちょっとばかりヒクヒクやっていた。それから静かになってしまった。
ぼくはいつまでも男のようすを見ていなかった。「あの縄じゃもたないって、言ってやったのになあ」男の家を出てゆきながら、ぼくはひとりごとを言いつづけ、へまをやった男がしゃくで舌打ちをしつづけていた。両手をポケットの奥深くへつっこんだぼくは、あいつが何もかもぶちこわしてしまったのにほとんど泣きださんばかりだった。失望のあまりぼくは木戸を思いきりバタンとしめ、木戸は蝶番《ちょうつがい》からはずれそうになった。
もうほかの連中も映画から帰っているだろう、もう何もふさぎこんでいることはないのだ。うちへ帰ってお茶を飲もうと思いながら中庭を戻りかけたとき、おまわりがそばを通りすぎ、さっきの男の家のほうへ向かって行った。おまわりは前かがみになっていそいでおり、だれかが密告したに違いなかった。男が縄を買うところでも目撃し、おまわりに耳打ちしたに違いない。それともひょっとすると、長屋のはずれのあのおいぼればばあが、とうとう感づいたのかもしれない。それともあるいは、あの男が自分でだれかに話したのかもしれない、なぜなら首吊《くびつ》り自殺を図ったあの男は、自分でも自分のやっていることがよくわかっていなかったからだ、ことにぼくが目撃したあの目の表情では。だけど、ともかくああなったのだから仕方ない、やれやれ、きょうびは満足に首をくくれる奴もいやしないんだ。おまわりのあとについて男の家のほうへ取って返しながら、ぼくはひとりごとを言っていた。
引き返してみると、おまわりは小刀で男の首の縄を切っているところだった。おまわりが水を飲ませると、男は目をあけた。ぼくの好かないおまわりだった、なぜならぼくの仲間を二人、公衆便所から鉛管を盗んだ罪で感化院へ入れやがったからだ。
「何で首なんかくくりたくなったんだ?」とおまわりは、男をすわらせようとしながら訊《き》いた。男はほとんど口も利《き》けず、電球が割れて傷ついた片手から血を流していた。あの縄じゃもたないことはちゃんとわかっていたんだ、それなのにあいつはぼくの言うことを聞き入れなかった。どのみちぼくは首をくくることなどないだろうが、もしもやりたくなったときには、電燈なんかからでなく、木か何かからやるよう気をつけるつもりだ。「どうなんだ、なんでこんなことをやったんだ?」
「なんでって、やりたかったからだよ」と男はしわがれ声で答えた。
「自殺未遂の罪で、五年の刑はくらうぞ」とおまわりは言った。ぼくはすでに家の中へしのびこみ、先ほどと同じ隅《すみ》っこで拇指をしゃぶっていた。
「そんなこと知っちゃいるもんか」まともなおびえた表情を目に、男は言った。「おれはただ、自分で首をくくりたかっただけよ」
「ところが、そいつは法律違反なんだ」とおまわりは、手帳を取り出しながら言った。
「ばかいっちゃいけねえ。おれの命じゃねえか、ええ?」
「おまえはそう考えてるかもしれんが、そうじゃないんだ」とおまわりは答えた。
男は手から血を吸いはじめた。ほんの小さな掻《か》き傷で、こちらからは見えなかった。「そいつは初耳だったな」
「初耳なら教えといてやる」とおまわりは男に言った。
もちろん、ぼくは首吊りの手助けをしたことなどおまわりに言わなかった。こう見えたって、きのうやきょう生まれたんではないからだ。
「自分の命も自由にならねえなんて、結構な話じゃねえか」男は、のっぴきならない立場に追いこまれたのを見てとって言った。
「そのとおり、自由にはならんのだ」まるで手帳に書いてあるとおりを読み、楽しんでいるようなおまわりの口ぶりだった。「おまえの命じゃないんだ。自分の命を奪うことは犯罪になる。自分を殺害することだからな。自殺ということだからな」
男は、おまわりの言葉の一つ一つが、きっかり六カ月ずつの刑を意味するようにこわばった顔をした。ぼくはほんとのところ、男のことをかわいそうに思った――だけど、あいつもぼくの言ったことさえ聞いて、あんな電燈なんかに頼らなければよかったのだ。木からぶら下がるとか何とかすりゃよかったのだ。
男はおまわりといっしょに、おとなしい仔羊《こひつじ》のように長屋の庭を歩いてゆき、ぼくたちはみんな、これで首吊り事件もけりがついたと思った。
ところが二日後、ニュースがぼくたちの耳にとびこんできた――イヴニング・ポスト新聞にのるより早くとどいたもんだ、なぜならぼくらの長屋に、毎晩病院で配膳《はいぜん》と皿洗いをやっている女がいたからだ。ぼくはその女が長屋のはずれで、だれかにしゃべっているのを聞いてしまった。「まったく何てこったろうね。あたしはさ、警察にしょっぴかれてったからには、あの人ももうばかな考えは忘れちまったろうと思ってたんよ。ところがそれが大まちがい。世にふしぎの種はつきまじ、ってけどさ。ベッドのそばについてたおまわりさんがおしっこに行ってるすきに、病院の窓から身投げよ。おどろいた話じゃないの。死んだかって? 死んだもいいとこよ」
彼は身体ごと窓ガラスにぶつかり、石のように下の道路へ落ちたのだ。ある意味で、ぼくはとうとうやってのけたあの男をかわいそうに思ったが、またある意味ではうれしかった、なぜなら彼はポリ公やみんなに、はたしてそれが彼の命かどうかを証明してみせたからだ。それにしても信じられないことだった、考える頭も持たぬ奴《やつ》らが彼を六階も上の病室へ入れ、その結果、木からおっこちるより確実におだぶつになったというのは。
ときどきめっぽうふきげんになるぼくにとって、この事件はいい教訓だった。胸の中に黒い石炭袋がずしんとはいったみたいな感じも、そのため顔にあらわれるふきげんな表情も、これから首をくくりそうだとか、二階建バスの下に身を投げ出すとか、窓から外へとび出すとか、鰯《いわし》の罐詰《かんづめ》の罐で喉首をかっ切るとか、ガス・オーブンの中に首をつっこむとか、半腐れの南京袋《ナンキンぶくろ》みたいな身体を鉄道線路に投げそうだとかを意味するものじゃない――なぜなら、それくらいふきげんなときには、椅子《いす》から動くことだってできるものではないからだ。ともかく、ぼくは首をくくりたくなるほどふきげんになることはないだろう、あの何とかいう男が電燈からぶら下がった図を思い出せば思い出すほど、首吊りなんて今だってこれからだって、あまりイカすとは思えないからだ。
今ぼくは何よりも、ふさぎこんでへたばってしまいそうだったあの土曜の午後、映画へ行かなかったことをうれしく思っている。なぜならぼくは、自殺などするつもりは毛頭ないからだ。嘘《うそ》じゃない。ぼくは百五歳のもうろくじじいになるまで生きつづけ、いよいよ死ぬときは、大声でわめきながら一目散に外へとび出すつもりだ――今いるこの地上にいつまでもいたいからだ。
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試合
[#地付き]河野一郎 訳
ブリストル市はノッツ郡を相手に戦い、勝利を収めた。キックオフの瞬間から、レノックスはなぜだかノッツが負けそうな気がしていた。べつだん、地元選手ひとりひとりの技について予言的な知識を持っていたわけではなく、観衆のひとりとして、彼自身の気持ちがも一つ盛り上がってこなかったからだ。悲観主義にこり固まった彼は、そばに立っていた機械工の友人フレッド・アイアモンガーに言ったものだ――「あいつらが負けやがることは、最初っからわかってたんだ」
ブリストル軍が決勝点をあげ、試合の終わるころになると、選手たちの姿はかろうじて見えるていどになり、ボールも競技場のあちこちで蹴《け》とばされころがる霧の球《たま》になった。ポークパイや、ビール、ウィスキー、タバコ、そのほかさまざまな土曜の夜の楽しみを広告している観覧席の上の広告看板も、午後の明るさとともに薄れ去った。
一シル三ぺンスの席だった。レノックスはボールに目をすえ、あちこちへ蹴とばされる球の動きを追おうと懸命になっていたが、ぼんやりかすんだ選手から選手へと十分ほど目を移したあげくとうとうあきらめ、大きな弧を描いて両側に伸び、傾斜屋根のずっと向こうで薄ぼんやり合流しているそそり立つ観覧席に、ぎっしりとつめかけた見物客を眺《なが》めようとした。だがこの努力もむなしいことがわかると、レノックスは拳《こぶし》を視力の弱い目にこすりつけ、痛みを与えればもっと視力が出るとでもいうように、ぎゅっと目を押しつぶした。むだだった。その結果得られたのは、開いた目蓋《まぶた》の前に踊る四角い灰色のかたまりだけで、それが消えたあと、視力はいっこうによくなっていなかった。この悩みのおかげで、おもちゃのガラガラを鳴らし帽子や襟巻《えりまき》を振り、試合が新たな展開を見せるたびに大声をあげているフレッドやまわりの連中よりも、彼は試合に冷淡な態度をとっているように見えた。
レノックスの視力が一時的に奪われていたあいだに、ノッツ軍のフォワードはブリストル軍のゴール周辺に攻撃をかけ、右に左にとパスをしながら前進していた。ノッツ軍のひとりの見事なキックに、やったぞと早まった声があがり、重苦しい灰色の空におおわれた、ためらうような喝采《かっさい》のどよめきとなった。「何だ、何だ?」とレノックスはフレッドに訊《き》いた。「だれだ、得点したのは? だれかやったんか?」
フレッドは最近所帯を持ったばかりの、レノックスより若い男で、土曜の午後用の一張羅《いっちょうら》のスポーツコートを着こみ、ギャバジンのズボンにレインコートを羽織り、黒い髪の毛を油でぺったりなでつけていた。「とんでもねえや」とフレッドは笑った――「いいシュートをやったことはたしかだけどよ」
レノックスがもう一度選手たちに目の焦点を合わせたころには、戦いはノッツ軍のゴール前へ移っており、ブリストル軍が得点をあげようとしていた。選手がひとりフィールドを駆けてゆくのが見え、踏みしだかれ湿った芝生を走るその靴音《くつおと》までが、彼の想像の中で聞こえた。一かたまりの敵軍が一列になり、ボールをドリブルしながら、そのあとを急ぎ足で追った。とつぜん、ボールをとらえたその男が前へとび出し、まるでどの観客にもどの選手にも存在しなかった一瞬の時間のあいだに、ゴールポスト前の聖なる不可侵地帯へ向けて発射されたように、だれをも引き離し駆け抜けるのが見えた。レノックスの心臓は鼓動をとめた。腹立たしいことに、それまでわざと視界をさえぎるように目の前でゆれていた、樫《かし》のように動かぬ二つの肩のあいだから彼はのぞいてみた。低く垂れた雲の上から操られている操り人形のように、反対側からやってきたこしゃくなセンター・フォワードが片脚を引き、はげしく球を蹴とばすのが見えた。「あぶないぞ」と言うだけの余裕がレノックスにもあった。「奴《やつ》をとらえるんだ、薄のろ。得点させるな」
ゴールキーパーは、守備を固めたゴールの定められた領域内を歩きまわる一匹の動物から、両腕両脚をひろげて跳ぶ猿《ましら》となり、ついで弧を描いて飛ぶ一本の棒となり――球をとらえそこね、球は片隅《かたすみ》へとび、彼のうしろの網のひだの中に消えた。
一瞬、騒音はなりをひそめ、競技場にぎっしりつめかけた群衆には、沈黙がきたように思えた。苦戦だが引分けに持ちこめるだろう、とだれもが心の中できめていた。だが今や、地元のノッツ軍の敗れたことが明白になったのだ。ブリストル軍の花形選手があれほど近くにいたことに気づかず、あるいは最後のどたん場で地元スター選手の奇蹟《きせき》を期待していた三万の観衆の失望と喜びの大きなどよめきは、人で埋まった土手を駆け上がり、外の街路へあふれ出し、そこではとつぜんはじけ出てきた大観衆の騒ぎに驚いた町の人びとが、どちらのチームが得点したかを推測した。
敵の得点だろうが無得点引分けよりはいい、出した入場料だけの楽しみはいただいてやろうというのか、フレッドは狂ったように笑い、ぴょんぴょん跳び上がり、喝采とも騒々しい腹立ちの叫びともつかぬ声をあげつづけていた。「ええ、おい、どうだい、信じられるかい? 九万五千ポンドって賭金《かけきん》が、霧みたいに消えちまったんだぜ!」と彼はレノックスに言った。
自分でも無意識のうちに、レノックスはタバコを一本取り出し、火をつけた。「しょうがねえな、負けちまいやがって。こんな試合がとれなくてどうするってんだ」といまいましげに言ったあと、低い声で、もっとよく物が見えるよう眼鏡を買わなくては、とつけ加えた。彼の視力はすっかり弱っており、両目の視線とも目の前のごく近いところで交差し、焦点を結んだ。映画へ行っても、最前列にすわらなければならなかったし、通りで仲間に出会っても、けっして先に気づくことはなかった。フットボールの試合に出かければ、まさに破滅ものだった。むかしは選手ひとりひとりの顔まではっきりと見え、競技場を取り巻いた観客の顔もひとりひとり見分けられたのを思い出したが、彼はそれでもまだ、眼鏡なんか必要ではないと思いこみ、いずれ視力は回復してくると思っていた。この目が原因で起こったもっと耐えがたい出来事は、みんなが彼のことを≪藪《やぶ》にらみ≫と呼びはじめたことだった。彼の働いている自動車修理工場でも、ついこのあいだお茶の休憩時間に工員たちが腰をおろしたとき、部屋に彼がいないのを見て、仲間の一人が言ったものだ――「藪の奴どこへ行った?お茶がさめちまうのにな」
「何てこった」とフレッドは、まだだれもゴールを陥《おと》されたのを知らないかのように叫んだ。「あんなのってあるかい」喝采と不満の声は、しだいに静まりはじめていた。
「あのゴールキーパーの奴め、とんでもねえ野郎だ」とレノックスは帽子を目深《まぶか》に引きおろし、悪態をついた。「けちな風邪にもかかれねえ|ど《ヽ》阿呆《あほう》だ」
「ありゃ運のいい得点だったな」とフレッドはしぶしぶ言った、「奴らが勝つのもまあ当然だったかもしれねえや」――敗戦という悲劇の圧倒的な力が、彼の新婚早々の身体《からだ》と心にしみこんでくるにつれ、興奮も徐々にさめてきたのだ。「こんなことなら、女房とうちにいりゃよかった。うちにいりゃ暖《あった》かかったろうし。うまく頼みこみゃ、暖炉のそばの絨毯《じゅうたん》の上で、毛まんじゅうだって食わせてもらえただろうしな!」
笑い声と目くばせは、まだ個人的な敗北に沈みこんでいたレノックスに向けられていた。「近ごろおまえの考えることときたら、そのことばかしじゃないか」と彼はしかめ面《つら》で言った。
「まあな、だけどそうたっぷりやらせてもらっちゃいねえんだ」だが、寒いばかりか、がっかりするようなフットボール試合に出てきても上機嫌《じょうきげん》でいられるくらい、十分にさせてもらっていることは明らかだった。
「なあに、そんなのはじきに変わっちまうさ。みててみろ」とレノックスは言った。
「心配ご無用って」フレッドはにやりとして言った。「それに、じっとして家にいるよりか、けちな試合のあとのほうがいいもんな」
「まったく、けちな試合とはよく言ったもんだ」レノックスは腹立ちに唇《くちびる》を噛《か》んだ。「ひでえチームだ。あれじゃ、息で吹く紙のフットボールをやったって負けちまうだろう」ノッツ軍選手のように、黒と白に染めわけた分厚い毛の襟巻にくるまり、昼から地元軍に喉《のど》のかれるまで声かぎりの声援を送っていたうしろの婦人は、敵側の得点にほとんど泣き出さんばかりだった。「反則だよ! 反則! あんな汚い奴らはフィールドから追い出しちまいな。ブリストルへ追い返しゃいいんだよ。反則だよ! あんな反則ってあるもんかね」
まわりじゅうの観衆は、みんな寒さにかじかんだ足を踏みならしていた。クリスマス前にせめて一度、地元軍に勝ってもらいたいという希望一筋に、すでに一時間以上かろうじて寒さをせきとめていたのだ。ひときわきびしさをましてきた寒風と、いともたやすく奪われたゴールを前にして、レノックスはほとんど足の感覚を失い、感覚を甦《よみがえ》らせたいと思う意欲もなくしていた。フィールドでの動きは今や散漫なものになっていた、試合時間はあとわずか十分しか残っていなかったからだ。両軍は一かたまりになって一方のゴールへ向かい、見えないボールのまわりに散開し、フィールドを遠ざかってゆき、決定的な結果も得られずまた戻ってきた。両チームとも、あらゆる努力はすでに手足や肺から消え去り、現在の得点を試合の最終得点として受け入れているように思えた。
「やられたよ」とレノックスはフレッドに言った。試合を苦い最後まで見届けようという連中のあいだを抜け、観客はぞろぞろ帰り支度をはじめた。試合終了の笛が鈍く吹かれる瞬間まで、楽天家たちの堅固な心は、疲れきった選手たちの奇蹟的な甦りを願っていたのだ。
「おれはいつ帰ってもいいぜ」とフレッド。
「おれもだ」とレノックスはタバコの吸いさしを床へ投げ捨て、落胆と嫌悪《けんお》に顔をゆがめながら階段をのぼりはじめた。いちばん上までのぼったところで、最後の一瞥《いちべつ》をグラウンドに投げた。二人の選手が走っており、他の連中はしだいに濃くなってくる夜霧の中に立ちつくし――もうどうしようもなかった。彼は出口のほうへおりて行った。街の通りへ出たとき、うしろではどっと人波のあふれ出す試合終了の笛が吹かれ、大喝采が起こった。
通りにそってすでに街燈《がいとう》がつけられ、バスを待つ行列が半暗闇《はんくらやみ》の中で急に伸びていった。レインコートのボタンをかけ、レノックスは急ぎ足で通りを横切った。フレッドは遅れてあとから追い、人食い怪獣のように舗道のへりに近づき、頭上の鋼鉄線から青い火をパチパチ散らしながら、人びとの群れを街の中心部へかっさらってゆくトロリーバスをよけた。「ともかく、あのひでえ試合のあとじゃ」とレノックスは、相棒が近くまでくると言った、「女房の奴が何かうまい物をお茶に用意しててくれることだけが望みだよ」
「おれはもっと望みが大きいな」とフレッド。「おれは食い物に文句はつけねえほうだから」
「そうだろうよ」とレノックスはひやかした、「愛情を食って生きてりゃな。キャットフードをつき出されたって、はい結構な夕食でしたって言うんだろうから」二人は初年兵徴募センターのそばを折れ、メドウズ地区へはいった――黒ずんだ家並みと小さな工場をかかえた古い郊外地だ。「そりゃ、おめえの勝手な想像さ。ただおれはさ、食い物のことにあまりうるさいほうじゃねえってだけの話よ」とフレッドは言い返した。いささかむっとしてはいたが、希望にあふれていた彼は、本気で怒ることはできなかった。
「うるさかったってどうにもなんねえさ」とレノックス。「ともかくきょうびの食い物ときた日には、腐ってやがるからな。冷凍か罐詰になってやがって。自然のままのなんて何一つありゃしねえ。パンだって喉がつまりそうだしな」喉までつまってきそうなのは霧もだった。霜に重みをかけられ、夜霧は濃さをまして辺りにたゆたい、フレッドにレインコートの襟を立てさせた。道の同じ側へやってきた一人の男が、あざけるように言った――「あんな試合ってあるかね?」
「生まれてこの方、あんなのははじめてだよ」とフレッドは答えた。
「どうせいつもあんな調子さ」レノックスは批評めいたことを言うのがうれしかった。「一線級の選手はぜんぜん出てきやしねえんだから。出てきもしねえ奴らに何で給料なんか出してんのかわかんねえよ」
このもっともな論法に、男は笑った。「しかし、来週の試合には一線級を出すらしいぜ。それで一泡《ひとあわ》ふかせてやれるだろう」
「そう願いたいもんだよ」霧の中へ消えてゆく男に、レノックスは声をかけた。そしてそのあとフレッドに、「悪いチームじゃねえもんな」だが、レノックスの考えていたのはそのことではなかった。その前日勤め先の工場で、彼のことを事務の女の子の前で藪にらみと言ったにやけ男をぶん殴り、そのため監督の前へ呼ばれたことを思い出していた。もう一度こんなことがあったらくびにする、と監督は言ったものだ。どのみち、彼のほうから退職を願い出ないとも限らなかった。おれが職に困ることはないはずだ(と彼は腹の中で思った)、シリンダーからピストンをはずし、カムシャフトや連結ロッドを分解し、ふたたびエンジンに生命をふきこみ爆発させる前に、何千という予測される欠陥を調べあげる自分の能力と、|かん《ヽヽ》の確かさには自信があったからだ。一軒の家の戸口から、小さな男の子が声をかけてきた――「得点はどうだった?」
「負けたよ、二対一で」と彼はそっけなく答えた。少年がその知らせを持って中へ駆けこみ、ドアをバタンと叩《たた》きつける音が聞こえた。両手をポケットにつっこみ、くわえタバコで歩きつづける彼のレインコートの上に、ときたまタバコの灰がこぼれ落ちた。明るく灯《ひ》のともった店から魚フライの匂《にお》いがただよいだし、彼に空腹感をおぼえさせた。
「今夜はおごりはなしだ。こんな天気の日にうってつけの場所があるんだが」とフレッドはぶつぶつ言っていた。メドウズ地区は、二人のうしろに響くいくつもの靴音のためうつろに感じられ、つぶやき声は敗れた試合の話に熱をこめていた。どの街角にも人だまりができ、ともされたガス燈を夜霧の中の弱々しい味方に、さかんに議論しあい、通りかかる娘たちをからかっていた。ひんやりと湿っぽい裏庭の臭《にお》いがごみ箱の臭いとまざりあった横丁へはいり、二人はそれぞれの家の木戸を押した。
「じゃな。ひょっとしたら、あしたパブで会おう」
「あしたはだめなんだ」すでに自分の家の裏口まで来ていたフレッドは答えた。「自転車の修理をしなきゃなんねえんだ。エナメルを塗って、新しいブレーキ片を取りつけてやろうと思ってさ。こないだもブレーキが利《き》かねえもんで、も少しでバスにペチャンコにされるとこだったもんな」
門の掛け金がガチャガチャいった。「じゃ、そのうちまた会おう」とレノックスは裏戸をあけ、家の中へはいってゆきながら言った。
彼は黙ったまま小さな居間を通りぬけ、客間でレインコートをぬいだ。「おい、こっちにも火を入れろ。かび臭くてしょうがねえ。これじゃ半年とたたんうちに、服がみんなだめになっちまうのも当たり前だ」彼は客間から出てきながら言った。彼の妻は暖炉のそばにすわり、電光のように青い二つの毛糸玉を膝《ひざ》にのせ、編みものをしていた。レノックスとおなじ四十歳だったが、容色も衰え、欲求不満からぶくぶく肥《ふと》っていた。いっぽう彼のほうはおなじ理由から、痩《や》せて筋張っていた。十四歳の娘をかしらに、三人の子どもたちは食卓につき、お茶を飲み終えるところだった。
レノックス夫人は編みものをつづけた。「入れるつもりだったんだけど、暇がなくて」
「アイリスにやらせりゃいい」と食卓につきながら、レノックスは言った。
娘は顔をあげた。「あたし、まだお茶を終えてないのよ、お父さん」その声の甘えるような調子が彼の癇《かん》にさわった。「そんなものはあとで飲みゃいい。火を今すぐ入れるんだ。いいか、ぐずぐずしてんじゃない、地下室から石炭を取ってこい」と彼はこわい顔で言った。
娘は動かず、母親は甘やかされた子どものような頑固《がんこ》さですわりつづけた。レノックスは立ち上がった。「もう一度言わせる気か?」娘の目に涙が浮かんできた。「早くやれ。言われたとおりするんだ」と彼は叫んだ。子どもをいじめるのはよしてちょうだいという妻の嘆願を無視し、彼は腕力で片をつけようと手をふり上げた。
「いいわよ、行きゃいいんでしょ。ほら、いま行くわよ」――娘は立ち上がり、地下室の入口のほうへ行った。彼はもう一度すわりなおした。きちんとお茶の支度のととのった目の前の食卓を眺《なが》めまわし、テーブル・クロスの下で両手をしっかりと握りしめた。「お茶には何を食わせる気だ?」
彼の妻は、また編みものから目を上げた。「天火の中に燻製《くんせい》にしんが二つはいってるわ」
彼は身動きせず、ナイフとフォークをいじくりながら、むっつりとすわっていた。「それがどうなんだ? 食わせてもらうのに、一晩じゅう待ってなきゃなんねえのか?」
彼女は黙って天火から皿を取り出し、それを夫の前に置いた。皿には湯気の立っている褐色《かっしょく》のにしんが二切れのっていた。「そのうち、こういうみじめったらしい食い物はやめてもらおうぜ」と彼は、細長い白身を骨からはがしながら言った。
「それ以上、あたしにはどうもできません」と答えたものの、彼女の辛抱強さも夫の不平をとどめる手だてにはならなかった――もっとも辛抱以外にどんな手があるのか、彼女にはわからなかった。夫はそのことを感じとり、いっそうこじれてきた。
「そうだろうよ」と彼は言い返した。娘が火を起こしている客間から、石炭バケツのガタガタいう音が聞こえてきた。ゆっくりと、彼は食べもしないにしんを小さく切りわけた。残りの二人の子どもたちは、口も利けず、じっと父親のようすを見守りながらソファにすわっていた。彼は皿の片側に骨を、もう片側に身をよりわけた。猫《ねこ》が脚に身体をこすりつけてくると、彼はリノリウム床の上へ魚の肉片を落としてやったが、十分に食べたころを見はからい、力まかせに足蹴《あしげ》をくれたため、猫は食器棚《しょっきだな》に頭をぶち当てた。猫は椅子《いす》の上へ跳び上がり、びっくりした緑色の目で彼のほうを見ながら、身体をなめはじめた。
彼は息子のひとりに六ペンスを与え、フットボール・ガーディアン新聞を買いに行かせた。「いそいで行ってくるんだぞ」と彼はうしろから声をかけた。彼は皿を押しのけ、切りきざんだにしんのほうをうなずいてみせた。「これはいらん。だれかを使いにやって、菓子パンを買ってこさせろ。それから、お茶も新しくいれるんだ」と言ったあと、つけ加えた――「ポットのは煎《せん》じ薬《ぐすり》みたいだ」
これは調子にのりすぎだった。なんで土曜の午後を、こんなにめちゃめちゃにしてしまうのだろう? 彼女のこめかみでは、怒りがはげしく脈打った。狂ったように打つ胸の鼓動を感じながら、彼女は叫んだ――「菓子パンがほしけりゃ、自分で買ってくりゃいいじゃないの。お茶だって自分でいれりゃいいのよ」
「男はな、一週間働いてくりゃ、お茶を飲みたくなるんだ」彼は女房をにらみつけながら言った。そして、息子のほうをうなずいてみせながら――「坊主《ぼうず》に菓子パンを買いにやらせろ」
少年はすでに立ち上がっていた。「行かないで。すわっといで」と彼女は息子に言ったあと、「自分で買ってくりゃいいでしょ」と夫にやりかえした――「あたしがちゃんとテーブルに出しといたお茶はね、だれが飲んだって文句の出るしろものじゃないんだから。何も悪いとこなんかありゃしないのに、何さ、大さわぎして。きっと試合が負けたんでしょ、そうでもなきゃ何でそんなふきげんな顔してんのか、わけわかりゃしない」
このすさまじい長広舌におどろいた彼は、立ち上がって彼女をなだめにかかった。「何だって? 何をやらかそうてんだい?」
彼女の顔はまっ赤になった。「いま聞いたでしょ。ほんとのことを言われりゃ、ちっとは薬になるんじゃないの」
彼は魚の皿を取り上げ、わざと念を入れ、それを床に投げつけた。「みろ、おまえのけちなお茶なんかはな、こうしてやりゃいいんだ」
「何よ、とんちき、薄ばか」と彼女は金切り声をあげた。
彼は一度、二度、三度と女房の顔をひっぱたき、床に殴り倒した。小さな男の子は泣きだし、上の娘は客間から駆けこんできた……
隣に住むフレッドと若妻は、薄い壁ごしにこの騒ぎを聞いていた。人声が高まり、椅子のガタガタ動く気配は聞こえていたが、ひときわ甲高い悲鳴のクライマックスにいたるまで、二人はべつだんたいしてあやしみもしなかった。「すごい騒ぎじゃないの」と、ルービーはフレッドの膝の上からすべりおり、乱れたスカートをなおしながら言った――「ノッツ軍がまた負けたというだけで。よかったわ、あんたがお隣さんみたいじゃなくて」
ルービーは十九歳だった。梨《なし》のようにぼってりとし、腸詰めのような丸味はない彼女は、結婚後一カ月にしかならなかったがもう妊娠していた。フレッドは彼女の腰に手をまわして引きとめた。「たかがあんな試合なんかでくよくよするおれじゃねえよ」
ルービーはその手をふりほどいた。「よかったわ。もしそうだったら軽蔑《けいべつ》するわよ」
何か食べ物を取りに、ルービーが台所へ行っているあいだ、フレッドはにやにや意味のない笑いを浮かべ暖炉のそばにすわっていた。隣家の騒ぎはすでに静まっていた。ドアがバタンバタン音をたて、外を行ったり来たりする足音がさかんに聞こえたあげく、とうとうレノックスの女房は子どもたちをつれ、これを最後と出て行ってしまったのだ。
[#改ページ]
ジム・スカーフィデイルの屈辱
[#地付き]河野一郎 訳
ぼくの心は風見鶏《かざみどり》みたいなもの、向きを変えてやろうという奴《やつ》でもあれば、手もなくひきずられふりまわされてしまう。だが、そのぼくにも一つだけ、何としても守りたいおきてがある――やたらと長いばか話だが、ずばりさっそく話すとしよう。
ジム・スカーフィデイルにまつわる話を。
十五の齢《とし》になったからといって、すぐさま親の膝《ひざ》もとを離れる必要もないことは、今さら聞かせてもらうまでもない。だが法律の認めるところではないにしろ、だいたい十五になるのを待たず一本立ちできなきゃ本当ではないのだ、この梅毒《かさ》っかきの希望と栄光の国ではだれもが。
つまり、いつまでもおふくろのエプロンの紐《ひも》にぶら下がっていてはいけないということだ、ぶら下がっていたい手合いのごまんといることはたしかだが。ジム・スカーフィデイルはそういう弱虫野郎の一人だった。彼はあまり長くぶら下がっていたため、とうとうほかのものにはいっさいなじめなくなってしまい、何とか態度をあらためようとしたときには、どうやらエプロンの紐と女の靴下留《くつしたど》めの区別もつかなくなってしまったらしいのだ――泣きべそをかきかきおふくろのところへ追い返されてくるに先だち、準美人級の新しい女房に、その点をいやというほど頭に叩《たた》きこまれたに違いないのだが。
ともかく、ぼくはあんなふうになるつもりはない。抜け出せる出口が見つかりしだい――たとえ食ってゆくのにコイン式ガス計量器《メーター》から小銭を盗むことになろうと――ぼくはとび出すつもりだ。学校でも、算数の問題をやるかわり机の下に隠した地図に目をすえ、いずれその時がきたとき(ボロボロに破れた折畳み地図を尻《しり》のポケットに入れて)辿《たど》るはずの道をあれこれ計画するのだ――まず自転車でダービーへ、ついでバスでマンチェスター、汽車でグラスゴー、車を盗んでエディンバラ、そしてヒッチハイクでロンドン入りという段取りだ。赤い道路が走り、茶色い山やいろんなすばらしい大都会の書きこまれた地図を見はじめると、ぼくはやめられない――となりゃ、ろくすっぽ足し算のできないのも道理だろう。(むろん、どの町もよく考えてみりゃ同じだということは先刻承知だ――ちっとでも隙《すき》を見せようものなら、たちまち最後のビタ一枚までかっさらおうと狙《ねら》っている泥棒《どろぼう》でいっぱいの、同じような宿泊所《ホステル》。運さえよけりゃ、仕事でいっぱいの同じような工場。同じかびだらけの裏庭が並び、夜中にいきなり明かりをつけると、ごきぶりと|しみ《ヽヽ》でいっぱいの家々。だが、まるきり同じだろうと、またいろんな点で違っていることもたしかだ)
ジム・スカーフィデイルはおふくろさんといっしょに、ぼくらの住む一角にぼくらと同じような家に住んでいたが、ジムのとこは自転車工場にうんと近かったというか、実のところ工場とはべったり隣り合わせだったから、よくもあのすさまじい騒音に辛抱できるものだと、ぼくはふしぎでならなかった。まるで工場の内部にいるのも変わりはなかっただろう、それほどどえらい騒音だった。いつだったか、食料品屋のテイラーさんが一週間分の食料注文のことで会いたいと言ってるのを、おふくろさんに伝えにジムの家まで行ったときも、伝言を伝えているあいだじゅう、隣の工場ではエンジンと滑車がドッタンスッタン音をたて、鉄の圧搾機《あっさくき》が今にも壁をぶち抜き、スカーフィデイル家に新しい作業場を作ろうとでもしているように、ドカンドカンやっているのが聞こえた。ジムにあのような道を歩ませた原因が、奴のおふくろさんだけでなくこの騒音にあったとしても、ぼくは少しも驚かないだろう。
ジムのおふくろは、家の中を新しいピンみたいにきれいにしておくのが趣味の、百八十センチは優にあろうかというおっかないばあさんで、蒸しプディングとアイルランド風シチューを、目ん玉のとこまでつまるくらいジムに食わせていた。自分の思いのままにやらなきゃ気のすまないたちで――つまり、たいてい自分の望みどおりのものを手に入れ、自分の欲求は正しいと思いこんでいたのだ。ご亭主はジムが生まれてまもなく、肺病でさんざん咳《せ》きこんだあげく死んでしまい、そのあとスカーフィデイル夫人は自分と息子のジムの生活を支えるため、タバコ工場で働きはじめた。工場勤めはかなり長いあいだつづけていたが、その後失業給付を受けながら生活のやりくりをしてゆくのは、たしかに大変なことだったに違いない。日曜の朝になると、ジムはいつもいっぱし背広などを着こんでいたものだ――うちの近所の連中など、だれも持ってないような|ばん《ヽヽ》としたやつだった。ところが、ぼくらのだれよりうんと食わせてもらっていたくせに、ジムはちっぽけな奴で、二十七歳の彼は半分飢え死にしそうな十三のぼくと同じくらいの大きさしかなかった(きっともう発育がとまっちまったのだろう、とぼくは思ったものだ)。折しも戦争中だったが――ぼくの家では、なつめやしのジャムやオクソを配給でたっぷり食わせてもらえるもんで、こんな豪勢な暮らしはないみたいに思っていたが――ジムは目が悪いので兵隊にはとられず、おふくろさんは大喜びだった。ジムのおやじは、第一次大戦で腹いっぱい毒ガスを吸っちまったからだ。というわけで、ジムはおふくろさんと家に残ったが、そのあげくが、兵隊に行ってドイツ軍に粉々に吹っとばされるよりみじめな結果になったのだ。
戦争がはじまってまもなくだった、ジムは結婚してわれわれみんなを驚かせた。
ジムがおふくろさんに結婚の心づもりを打ち明けたときの騒動のすさまじかったこと、そのさわぎは住宅街のはずれまで聞こえたものだ。おふくろさんはまだ相手の娘の顔も知らず、それががまんならないとがなりたてていた。親に隠れてこそこそ女に言い寄り、ひとことの予告もなく藪《やぶ》から棒に、今から結婚しますもないじゃないか。恩知らずってもんだよ、父親がいないのにりっぱに育ててやろうと、お母さんはどれだけおまえのために尽してきたか。おまえのために、どれだけ奴隷《どれい》のように働いてきたか、考えておくれよ! 考えてるのかい! そこをよく考えとくれよ! (いやまったく、あのけんまくだけはぜひ聞いてもらいたかった)くる日もくる日も、お母さんは指先のすりへるまでタバコ工場で働き、すっかりへとへとになって夜帰ってくると、それからおまえの夕食を作り、ズボンをつくろい、部屋の掃除をしてきたんだよ――考えても涙が出るじゃないか。それなのに、おまえはそのお返しに何てことをしてくれたんだい? (おふくろさんの財布でも盗んだんだろうか?――とぼくは、息切れのためちょっと言葉のとぎれたあいだにすばやく考えた――シーツを質に入れて、その金で飲んだくれたか、猫《ねこ》を溺《おぼ》れさせたか、おふくろさんが窓辺に置いている鉢植《はちう》えを鋏《はさみ》でちょん切ったかしたのだろうか?)否《いな》、家へ帰ってくるなり、いきなり結婚すると言いだしたことが問題だったのだ。お母さんはね、何も結婚することを問題にしてるんじゃないんだよ――そうですとも、そんなことを言ってるんじゃまるっきりないんだよ、若い男はいつかは身を固めるのが当然だもんね――あたしはね、おまえがもっと前に、相手の娘さんを顔見せにつれてきてくれなかったことを言ってるの。どうしてそうしてくれなかったんだい? おまえは自分のお母さんが恥ずかしかったのかい? 相手の娘さんに見せても恥ずかしくない、りっぱなお母さんだとは思わなかったのかい? おまえさんは娘さんをつれてきたくなかったのかい、自分のうちへ?――おふくろさんが≪うち≫と言ったときの言い方がまたすごかった、聞いていたぼくの血まで凍りついたくらいだ――上から下まで毎日きれいに掃除してあるのに、いやだというのかい?おまえは自分の家まで恥ずかしがっているのかい? それともおまえ、その娘さんのことを恥じてるのかい? ああそう、そういう種類の娘なのかい? だって、それじゃわけがわからないじゃないのさ、まるっきり。それにだいいち、卑怯《ひきょう》だよ、おまえのやり方は。おまえはそれでいいと思ってるのかい、ジム? ええ、どうなの? そう、あんたはそう思ってるかもしれないけど、お母さんは思わないね、あたしだけでなくほかのだれだってもさ。
おふくろさんはちょっとのあいだ、どなったりテーブルをドスンドスン叩いたりするのをやめたが、つづいて上水道の噴水がはじまった。卑怯じゃないというんだね――おふくろさんは泣きに泣いて靴下までビショビショにしてしまった――おまえがまだ小さかったころ、学校へやるのに毎朝おまえを起こし、オートミールとベーコンの朝ごはんを食べさせ、外套《がいとう》を着せて雪の中へ出してやるのに、お母さんはどんなに苦労し汗を流したかしれないんだよ。その外套だって、近所のどの子が着てるのより上等だったんだよ、みんなどこの親だって、失業手当を飲みしろに使ってしまったのに――(と彼女はそんなことまで言った、たしかにそう言ったのだ、話し声を聞き逃しっこないところからぼくはちゃんと聞いていたから――うちのおやじなんか、失業手当から一ペニーだって飲みしろにまわしたことはないのに、ぼくらは半分飢え死にしかかっていたもんだ……)それに、おまえのかげんがわるくて、お医者を呼びにいったことも何度あったかわかりゃしない、とおふくろさんの金切り声はつづいた。よく考えとくれよ。だけど、どうせわがままなおまえのことだ、そんなことは考えてくれやしないだろうよ、それもこれもあたしが甘やかしすぎたむくいなんだ、違うかい? ええ?
涙はとまった。せめておまえ、好きな人ができました、結婚を申し込んでるんですって、ひとこと言ってくれる世間並みの礼儀くらいあったってよかったじゃないの。まったく、いつの間にこそこそやってたんだろうね、おまえのことにはあれほど目を光らせてたのに。おまえを週に二回、生協青年クラブなんかへやるんじゃなかった、とおふくろさんは叫んだ、息子がどこでチャンスをつかんできたかがとつぜんわかったのだ。そうだったんだね。読めた、てっきりそうだったんだ。それなのにおまえは、将棋《チェス》をさしてるだの、みんなが政治の話をしてるのを聞いてるだけだのと、嘘《うそ》ばかしついて! 何が政治さ! いちゃつきごっこのことなんだろ、ええ? はじめて聞いたね、そんなのは。あたしの若かったころには別な呼び名があったけど、そんなお上品な名じゃなかったよ。ほんとだよ、人をばかにして。それに何だい、おまえは、よくも図々《ずうずう》しく外套着たまんまで立ってられるね、その結婚話とやらを引っこめようともせずに。(引っこめようにも、まるでそのチャンスを与えてもらえなかったのだ)いいかい、ジム、よくもおまえ結婚だなんて考えられたね(とふたたび、涙の蛇口《じゃぐち》がひねられ)、お母さんにこんなにまで尽してもらって。おまえはまるでわかってないんだね、お父さんが亡《な》くなってからこれまで長いあいだ、親子いっしょにいられるようお母さんがどんなに犠牲を払い、どんなに働いてきたか。ともかく、それじゃ一つだけ言っておくけど(蛇口はきっちりと閉じられ、大きな指を振りふり)、その女をお母さんのところへ顔見せにつれといで、それでもし及第点をやれなきゃ、そんな女は追っぱらって、別の男でも捜させるんだね、まだ結婚したいようなら。
いやまったく、覗《のぞ》き見していた場所からおりたとき、ぼくは身体《からだ》じゅうふるえがとまらなかった。むろん、ジムみたいにこたえたわけじゃないが、ぼくならおふくろさんの眉間《みけん》に一発くらわし、一目散に家をとび出していただろう。ジムだけの稼《かせ》ぎがありゃ、国じゅうどこへだって行けただろうに、ばかたれめが。
その晩ジムの家で起こったことを、どうして近所じゅうみな知っているのか、またどうしてぼくが、ジムのおふくろの言葉を一語一語すっかり物語れるのか、ふしぎに思われるかもしれない。つまり、それはこういうわけだ――ジムの家は工場にくっついていて、工場の屋根とジムのとこの食器置き場の窓のあいだに出っ張りがあり、煉瓦塀《れんがべい》二つくらいの隙間ができていたので、痩《や》せっぽのぼくはそこへ身体を押しこみ、盗み聞きすることができたのだ。食器置き場の窓はあいており、台所へ通じているドアもあいていたので、部屋の中で起こったことは残らず聞きとれた。しかも、家の中の奴らはだれも気づかなかった。ぼくがこの場所を発見したのは八歳のとき、近所の建物に片っぱしから猿《さる》みたいにのぼったころのことだ。スカーフィデイル家に盗みにはいろうと思えば造作はなかった――ただ、いただいてくるだけの値打ちもんは何もなかったし、おまわりはきっとすぐさまぼくにとびかかってくるだろうから、思いとどまったまでの話だ。
ともかく、この一件は近所じゅうが知ってしまったが、だれもが驚いたのは、ジム・スカーフィデイルの決意は固く、おふくろさんに牛耳《ぎゅうじ》られているつもりも、結婚の妨害をされっぱなしになっているつもりもないことだった。いくらか酔ったジムが、相手の娘を口やかましい母親に引き合わせにつれてきた次の晩、ぼくはまたいつもの場所に陣取っていた。娘をつれてくるという約束だけは、ジムから取りつけたらしかった。
どういうわけか、近所の連中はみな、バスフォードあたりの出の、あわれっぽいぼてっとした寄り目の小娘を想像していた――鵞鳥《がちょう》に「ばあ」も言えないようなおどおどした、貧相で血のめぐりの悪い薄のろ娘を。ところが、みんなはあっけにとられてしまった。食器置き場の窓から覗きこんだぼくもそうだった(スカーフィデイル夫人は度はずれた外気愛好者だったのだ、これは一言書き加えておかねばなるまい)。ともかくぼくは、あんなキザな話しぶりをする女は見たこともなかった。まるでどこぞの事務所からまっすぐ出てまいりました、ってな調子なのだ。この分じゃ、クラブで政治の話をしてたっていうジムの言葉も、まんざら嘘じゃないかもしれないという気がした。
「こんばんは、はじめまして」と、中へはいってきた娘は言った。その目の光り具合や物腰からすると、生まれつきそんなキザな話し方の女だったのかもしれない。いったいジムのどこに惚《ほ》れこんだのか、ぼくにも怪訝《けげん》でならなかった――世間じゃだれも知らないが、ジムにいくらか遺産のあるのがわかったのか、それとも競馬でごっそり儲《もう》けることでもわかっていたのだろうか。だがいや、ジムにそんな幸運はついていなかった。ジムのおふくろさんも、ぼくと時を同じくして同じ思いだったのだろう。だれも握手をしなかった。
「おすわんなさい」とジムのおふくろさんは言って、娘のほうをふり向き、はじめてじっとけわしい目つきで相手を見つめた。「うちの息子と結婚したいんですって?」
「はい、そうですの」と、娘はいちばんいい椅子《いす》に、しかしさすがに居心地わるそうに固くなってすわりながら答えた――「もうすぐ結婚するつもりでおります」そのあと、娘はもっと打ち解けた態度に出ようとした。ジムが仔犬《こいぬ》のような目で、彼女に見とれていたからだ。「あたくし、フィリス・ブラントと申しますの。フィリスと呼んでくださって結構ですわ」娘はジムを見やり、ジムは娘ににっこりとした。母親にとてもやさしくしてくれたのが嬉《うれ》しかったのだ。ジムはにこにこしつづけた、まるで勤め先の便所の鏡で、昼からずっと笑い方を練習してきたみたいに。フィリスもにっこりし返した、まるで生まれてこの方、そんなふうな笑い方専門にやってきたみたいに。どこもかしこもにこにこ笑いばかり、だがまったく無意味な笑いだった。
「まずしなきゃならないのは」とジムが、おだやかな愛想のよい言い方ながら、思いきって口を切った――「指輪を買うことだ」
やりとりのようすがぼくにははっきりと見えた。ジムのおふくろはにわかに顔がまっ青になった。「まさか、|そういう《ヽヽヽヽ》ことになってんじゃないでしょうね? ええ、どうなの?」
そんなことでびくともするフィリスではなかった。「妊娠などしてませんわ、もしそのことをおっしゃってるのでしたら」
スカーフィデイル夫人はぼくが盗み聞きしているのを知らなかったが、ぼくと考えは同じだったに違いない――この話の落とし穴はどこにあるのだろう、というわけだ。だが落とし穴などないことは、すぐにぼくには明らかになった。少なくともぼくらの考えていたような落とし穴のないことは。もしこのことが、ぼくにわかったのと同時にスカーフィデイル夫人にもわかっていたなら、その晩それ以上大きな言い争いは――三人が三人とも虎《とら》みたいにいがみあうという争いは――なかったろうし、かわいそうに、おそらくジムの奴もあれほど急いで結婚はしなかっただろう。
若い二人がいっしょになってひと月ほど後のある日、ジムのおふくろはうちのおふくろに庭のはずれでぐちをこぼした。「ともかくまあ、あの子が勝手に作った寝床だから、作った本人を寝かせるよか仕方ないと思いましてねえ、たとえ|いらくさ《ヽヽヽヽ》の寝床だとわかったところで――あたしはきっとそうなるよって、あの子に言っといたんだけど」
だがだれもが願ったのは、ジムが末長くその寝床に寝てくれることだった、なぜならスカーフィデイル夫人みたいに横暴な努力屋には、もともとみんな反感を持っていたからだ。うちの近所に住む連中が努力屋でなかったというのではない――みな何やかやであくせくやってる連中ばかりだった。あくせくがいやなら、ぶっ倒れてのたれ死にするより仕方なかったからだ。ところがジムのおふくろときた日には、プラカードでもかつぎまわっているみたいなのだ――わたしは努力屋ですが、しょせん出来が違うのでだれよりも一段上にいます、と書いたやつを持って。彼女が努力屋だということは、一マイル離れたところからだってわかったし、みんなが嫌《きら》っていたのもその点だった。
しかし、自分の息子についての判断では彼女が正しかった。腑抜《ふぬ》け男、とけなす連中もあった。見場《みば》の悪くない女房をもらっておきながら(もうしばらくあの寝床のシーツのあいだにはいっていればよかったものを)、ジムはさほど長く自分の作った寝床に寝ていなかった。六カ月とたたぬうちに、彼は戻ってきてしまった。いったいどんな支障ができたのだろう、とぼくたちはみないぶかったものだ――スーツケースをぶら下げ、紙包みを二つかかえ、スーツケースの中へ入れて皺《しわ》になってはと、結婚したときに着ていた一張羅《いっちょうら》の背広を着て、貧乏神みたいな格好でとぼとぼ帰ってくる彼の姿を見ながら。ようし、これはひとついそいでいつもの覗き場へ行って、ジムとキザな奥さんとのあいだに何があったか調べ出さねば、とぼくは心ひそかに思った。そうなのだ、ごくざっくばらんなとこを言えば、ぼくらはみなジムがおふくろのところへ戻ってくるものと思っていたのだ、かわいそうに、戻ってこないですみゃいいとは願っていたが。結婚して最初の三カ月、ジムはほとんど母親のところへ顔を出さず、このことからみんなは、ジムもとうとう落ち着いたらしい、結婚生活がうまくいってるらしいと思った。だが、ぼくの考えは違っていた。なぜなら、結婚したての男は、ちょくちょく両親に顔を見せに戻ってくるのがふつうだからだ――もししあわせにやっているなら。それが当然というものだ。ところがジムは寄りつかず、あるいは寄りつくまいとしており、それはつまり彼の女房が、母親に会いに行くことを極力おさえているということだ。ところが、最初の三カ月がすぎると、彼はいっそうしげしげと――この順序が逆ならわかるが――実家へ帰ってくるようになり、時には夜も泊まってゆくことがあった、ということは、フィリスとの争いがますますはげしくなってきつつあるということだった。この前帰ってきたときには、頭に包帯を巻いており、フェルトの中折帽をかしいだ冠《かんむり》のようにちょこんとのっけていた。
ジムが裏戸をあける前にいつもの覗き場所に辿《たど》りついたぼくには、彼が中へはいってくるところも、おふくろさんの見せた歓迎ぶりも目撃できた。おふくろさんは利口だった、これだけは特筆しておかねばならない。もしその気さえあれば、ジムの結婚ぐらいほんのちょっぴりの策略で何十ぺんでもとめられたに違いない。ところが――「だから言わんこっちゃない。お母さんの言うことを聞いてりゃ、こんなことになんなかったのに」などとはひとことも言わない。ただジムに口づけをして、お茶をいれてやっただけだった。手持ちの札《カード》をうまく使えば、息子をいつまでも家に置いておけることを知っていたからだ。薬罐《やかん》の湯がわくまでのあいだに息子の寝場所をととのえ、いま息子が必要としているに違いない十分ほどの静かな時間を与えてやろうと、スーツケースと包みを取り上げ二階の彼の部屋へ運んでゆくおふくろさんの顔には、嬉しさがありありと出ていた――思わずこみ上げてくる微笑をどうしようもないといったようすだった。
だが、あわれなジムのほうも一見に値した。ひどく不景気な顔をし、どう見たって四十五歳以下には見えない老《ふ》けこみようで、たったいま日本軍の捕虜収容所から釈放されてきたように、ぼんやりと――気でも狂ったみたいに――まだちっちゃな子どもだったころ、|おまる《ヽヽヽ》にまたがって眺《なが》めたと同じ絨毯《じゅうたん》のつぎを眺めていた。ジムはもともといつも苦痛を顔にねじこまれたような奴《やつ》だったが――きっと生まれつきああだったのだろうが――今はまるで目に見えない大ハンマーがしじゅうそのあわれっぽい顔の前にぶら下がっていて、今にも鼻づらめがけて打ちおろされてくるみたいな顔つきだった。気のきいた娘と結婚しておきながら、すっかりぶちこわしてしまうなんて、ぼくの胸は心痛に血を流したことだろう――もし彼がとんでもない阿呆《あほう》だということを知らなければ。
彼はそのまま十五分ほどじっとすわっていたが、母親がベッドをととのえ部屋をしつらえている二階から聞こえてくる家庭らしい(ぼくにはよく聞こえている)物音は、一つとして耳にはいってないようだった。掃除など手っとりばやく片づけてくれりゃいいのに、とぼくは願いつづけたが、おふくろさんにはおふくろさんなりのもくろみがあるらしく、めめしい息子のために鏡の埃《ほこり》を払ったり、壁の絵をこすったりをつづけた。
やがて、顔じゅうを微笑に(だが笑顔はできるだけ隠そうとしながら)階下へおりてきたおふくろさんは、チーズパンをテーブルの上へ並べたが、ジムは一口も手をつけず、息子にたっぷり夕食を食べさせてやろうといつもの椅子にすわり見守っている母親を前に、紅茶|茶碗《ぢゃわん》に三杯つづけざまにお茶だけをあおった。
「ほんとだよ、お母さん」とジムは、母親が彼のおしゃべりを聞こうと、テーブルの反対側へやってきて彼のほうを見つめるのを待ちかねたように話しはじめた。「この半年のあいだ、ぼくはどんなに辛《つら》かったか。もう二度とあんな目に遭いたくないよ」
ダムが崩れてきたようなものだった。事実、よく映画で見るようなダムの擁壁《ようへき》のひび割れが、そっくりそのまんまジムの額に現われた。ひとたび彼が話しはじめたあとは、もう引きとめようもなかった。「それじゃ、お母さんにすっかり話してごらん」――そんな誘いは不必要だった。ジムはゼリーのようにふるえており、ぼくもときどき何が起こっているのかわかりかねた。正直なところ、ぼくは胸が痛み、とてもジムのしゃべった言葉どおりに再現することはできない。彼が語りつづけるうちに、ぼくはほんとうにジムがかわいそうになってきた。
「お母さん」と彼は、紅茶の中にバタつきパンをひたしながら、うめくように言った。あのお上品な奥方が相手では、とうてい食卓でこんな真似《まね》もできなかっただろう。「あいつはぼくに、犬みたいなみじめな暮らしをさせたんだ。いいや、犬小屋にはいってときどき古い骨を齧《かじ》ってられる犬のほうが、あいつといっしょのぼくよりいい身分だったろう。はじめはうまくいってたんだよ、なぜってあいつは、ぼくみたいな労働者は善良で誠実でどうのこうのって考えを持ってるもんだから。本から仕入れた考えなのか、それともぼくとは違う労働者を前に知ってたのかどうかわからないけど、きっと本で読んだんだろう、ぼくは覗いたこともないけど何冊か本を持ってたし、ほかの男がいたって話は聞いたこともないから。あいつは前からいつも言ってたんだ、考えてみりゃ今の世の中には、思いきり身体を使う仕事をやってる人間はあまりいないから、素手を使って生活してゆくぼくみたいな男と所帯を持って、いっしょに暮らしていけるのはすばらしいことだって。出世したい一心から、上役のまわりをはいずりまわってる会社勤めの男なんかと結婚したら死んでしまう、なんてさ。だからぼくはきっとうまくいくと思ったんだよ、お母さん、ほんとにそう思ったんだ、だってそんなうまいことばかし言うからさ。おかげで金網工場もまんざらでないように思えてきて、あっちの機械からこっちの機械へ、|糸巻き《ボビン》を運ぶ作業もそれほど気にならなくなってきた。ぼくはフィリスと暮らせてしあわせだったから、あいつもぼくを相手にしあわせだろうと思ってた。最初のうち、あいつは結婚前よりよけいぼくのことをちやほやしてくれ、ぼくが夜うちへ帰ってくると、政治だの本だの何だのの話をしてくれた――ぼくみたいな人間のために世の中がどうできてるかとか、赤んぼみたいにしゃべくるばかりで世の中のことは何も知らず、みんなの役に立つことは何一つできない、財産作りに熱心な資本家野郎なんぞにまかしておかず、われわれが世の中を動かさなきゃならんとか言って。
だけどさ、一日くたくたになるまで働いて帰ってくりゃ、とてもじゃないけどくたびれて政治の話なんかできるもんじゃないよ、お母さん。それなのにあいつはいろいろ質問をはじめて、そのうち期待してたような答えがぼくにできないのがわかりはじめると、かんしゃくを起こすんだ。そりゃもういろんなことを訊《き》いたよ、ぼくの生立ちとか、おやじのこととか、うちの近所の連中のこととか……だけど何を訊かれても、ぼくはあまり答えられないんだ、あいつの知りたがってるようなことは。おかげで、ちょっとした悶着《もんちゃく》のはじまりさ。はじめのころはちゃんと弁当も作ってくれ、うちへ帰ると熱いお茶と着換えが待っていたのに、そのうち毎晩|風呂《ふろ》にはいれと言いだすんだ。何しろへとへとで風呂へはいる気力もなかったしさ、服も着換えられないくらいへたばって帰ることも多かったから、それも悶着のたねなんだ。ぼくは作業服を着たまんまですわり、静かにラジオを聞いたり新聞を読んだりしたかったんだよ。いつかなんかぼくが新聞を読んでると、フットボール試合の結果ばかし見てると言って腹を立てたあいつは、新聞の下のとこへマッチで火をつけ、ぼくは炎がも少しで顔のとこへくるまで気がつかなかった。びっくりしたよ、そりゃもう、こっちはまだしあわせな生活がつづいてるものと思ってたんだから。そのあとあいつは冗談にまぎらし、新しい新聞を買いに行ってくれたから、ぼくももうそれで片はついたもの、何でもない気まぐれな悪ふざけだったんだろうと思った。ところが、それからまもなく、ぼくがラジオで競馬の実況を聞いてると、あいつは騒音にがまんできない、聞くんならもっといい番組にしろって、プラグを引き抜いたままどうしても返してくれないんだ。
うんそりゃ、はじめはとてもよくしてくれたよ、ちょうどお母さんみたいにさ、だけどそのうち家事はいっさいいやだなんて、一日じゅう本ばかし読むようになってさ、ぼくがへとへとで倒れそうになって帰ってきたって、テーブルの上にはタバコの箱が一つと糖菓《タフィー》だけで、お茶時だってのに何一つのってないんだ。最初はやたらと甘かったくせに、そのうち皮肉ばかし言うようになり、ぼくの顔を見るだけでもがまんできないなんて言うんだ。『あら、お偉い野蛮人のお帰りね』――ぼくが仕事から帰ってくると、それが挨拶《あいさつ》なんだ。そしてお茶はどこだって訊くと、ぼくの知らないむずかしい言葉で返事をよこすんだ。『自分で用意なさいよ』ってすましてるし、いつだったか、テーブルにのってたあいつのタフィーを一つつまんだら、火掻《ひか》き棒を投げつけるんだ。腹ぺこだって言ったら、返事がひどいじゃないか――『そう、そんなら、テーブルの下へ這《は》っておいで、何かあげるから』って。ほんとだよ、お母さん、実際にあったことの半分も話せないよ、きっとお母さんだって聞きたくないだろうから」
(聞きたくないなんてとんでもない、とぼくは思った。ぼくには舌なめずりしているおふくろさんの姿が見えた)
「全部話しておしまい」とおふくろさんは言った――「胸の中から吐き出しておしまい。ほんとにずいぶん辛抱してきたようだねえ」
「そのとおりだよ。あいつがぼくのことを何てってののしったか。髪の毛も逆立つくらいひどいもんだった。まさかあんな女だとは思わなかったけど、そのうちぼくにもわかってきた。あいつはいつも素っ裸で暖炉の火の前にすわるんで、だれか近所の人が玄関へきたら困るから服を着てろよって言ったら、あたしはただおまんまのタネをあっためてるだけよ、ってカラカラ笑うんだけど、その笑い方を聞くと、ぼくは足がすくんでしまうんだよ、お母さん。あいつがそんな態度に出ると、ぼくは逃げださなきゃならないんだ、そのままうちにいたりしちゃ、何か投げつけられてひどい目に遭うからさ。
今あいつがどこにいるか、ぼくも知らないんだ。あんたの顔なんか二度と見たくない、川へとびこむなり何なりしてくれりゃいいって、荷造りして出て行っちまったから。ロンドンへ行ってほんとの生活を見たいって、前からやいのやいの言ってたから、きっとロンドンへでも行ったんだろ。台所の棚《たな》のジャム瓶《びん》に四ポンド十シリング三ペンス入れてあったのも、あいつの出て行ったあとなくなっちまった。
だからさ、お母さん、ぼくには何も、どうすりゃいいかもわからないんだよ。もしお母さんが置いてくれるなら、またここでお母さんと暮らしたいと思うけど。食費として、きちんと週に二ポンド出すし、お母さんの面倒を見るよ。もうあんな目にだけは遭いたくないんだ、とてもがまんできないもの。あんなおそろしい経験をしたら、もう二度とうちを出られないよ。ぼくを引き取ってくれたら、こんどはほんとに親孝行するからさ。お母さんのためにきっといっしょけんめい働くし、もう二度と心配なんかかけないよ。お母さんによくするし、ぼくを育てるのにかけた苦労に、少しでもお返しするよ。こないだ勤め先で、来週から十シリング昇給になるって話を聞いたから、もしぼくを置いてくれたら、新しいラジオを月賦《げっぷ》で買って、頭金を払うからさ。だから、どうかいさせておくれよね、お母さん、ほんとにひどい目に遭わされてきたんだもの」
そのあと、おふくろさんのべっちゃりした口づけに胸糞《むなくそ》わるくなって、ぼくは猿《さる》が止まるみたいな高い止まり木からおりてしまった。
大きな赤ん坊ジム・スカーフィデイルは、そのまま家にとどまった。母親から家にいてもいいと許可をもらったあとのジムは、生涯《しょうがい》でいちばんしあわせそうだった。悩みごとはいっさい消えた、と大まじめで言ってのけるありさま。ばかだなおまえも、ひげそり道具を鞄《かばん》につめて家をとび出しゃいいのに、と言ってやったところで受けつけるもんじゃない。ぼくもそのことをはっきり言ってやったが、どうやら彼はぼくのことを、自分以上にいかれた奴と思っただけのようだ。彼のおふくろさんは、これで永久に息子を取り戻したと思い、ぼくらもみなそう思ったが、ところがどっこい、ぼくらは的はずれもいいとこ、一マイルははずれていた。まったくの目無しでもないかぎり、結婚後の彼がむかしのジムでないことがわかっただろう――彼はふさぎこむようになり、けっしてだれにも話しかけず、だれひとり、おふくろさんですら、彼が毎晩どこへ出かけて行くのか訊き出せなかった。顔はぼってり白くなり、ねずみみたいな砂色の髪の毛もごっそり抜け落ち、六カ月もたつとほとんど丸禿《まるはげ》になってしまった。いくつかあったそばかすまでが白くなった。冬だろうが夏だろうが、真夜中になるとどこへ行っていたのかこっそり戻ってくるのだが、いったい何をやっているのか、だれにもわからなかった。よたをとばしているふりをして、ずばりと「どこへ行ってたんだい、ジム?」と訊いても、彼は何も聞こえなかったようなふりをするばかりだった。
それから二年ほど後だったろうか、ある月の明るい晩、おまわりがうちのほうへやってきた――ぼくは寝室の窓からその姿を見つけた。おまわりは角を曲がり、ぼくは見つかる前にさっと身を引いた。おまえもとうとう年貢《ねんぐ》のおさめどきだぞ、とぼくは自分に言い聞かせた、バッキンガム通りの空き家から鉛管を盗んできたのがばれたんだ。おまえも|どじ《ヽヽ》をふんだな、まぬけ野郎めが(何で今ごろになっておぞ気をふるったのか、ぼくはもうやたらとおそろしかった)、ことにあれを売って、クーキーの奴からたった三シリングと銅貨一枚しかもらえなかったとなりゃなおさらだ。いずれおまえは感化院行きだと言ってたろ、そら見ろ、おまわりがおまえをとらまえにやってきたじゃないか。
おまわりがぼくの家を通りすぎてしまっても、ぼくはまだ、あれは家の番号をまちがえただけなんだ、きっと今すぐに戻ってくるぞと思っていた。だが、おまわりの求めていたのはスカーフィデイル家の玄関だった。ドン、ドン、ドンのノックの音に、やっとぼくもこんどはぼくがお目当てでなかったのを知った。二度とやるまいこの危険、とぼくは心ひそかに歌っていた――あやうく逃れられたのが嬉《うれ》しくてならなかったのだ――罰当たりな鉛管には当分手をつけずにおいといてやらあ。
おまわりが名前をたしかめると、ジムのおふくろは悲鳴をあげた。ぼくのいたところまで、おふくろさんの言っているのが聞こえてきた――「まさかあの子が、車にでも轢《ひ》かれたんじゃないでしょうね?」
そのあと、言葉は聞こえなくなってしまったが、一分ほどすると、おふくろさんはおまわりといっしょに出てきた。ぼくには街燈《がいとう》の光に照らされたその顔が見えた。何かひとことでもささやきかければ、たちまちぶっ倒れ息の根まで絶えてしまいそうな、大理石みたいにこわばった顔だった。おまわりが彼女の腕を支えねばならなかった。
すべてはその翌朝、明らかになったが――うちの近所じゃ聞いたこともないような奇妙な事件だった。押込みや妻子の不法遺棄、放火やら侮辱やら泥酔《でいすい》、あるいは女をつかまえ一儀におよぼうとしたとか、扶養料を払わないとか、ラジオや洗濯機《せんたくき》を月賦で買いこみ、払えなくなって売りとばしたとか、密猟だの、家宅侵入だの、よそ様の車を運転し去っただの、自殺を図っただの、やれ殺人未遂、暴行|殴打《おうだ》、ハンドバッグのひったくり、万引、詐欺《さぎ》、偽造、そうかと思えば勤め先の品物をちょろまかしたの、殴り合いの立ちまわりをやったのと、いずれこぞってつまらぬ悪ふざけで刑務所《ムショ》に入れられた連中は多い。だがジムは、ぼくも少なくともうちの近所では聞いたことがないような、とてつもないことをやらかしたのだ。
しかも彼は、それを何カ月もやっていたというのだ。バスに四マイルも乗って、だれにも顔を知られてないところへ行き、明かりのついたビール店に近い暗い通りをえらび、そこで父親の晩酌《ばんしゃく》の酒瓶をかかえて帰ってくる、十か十一の少女を待ち伏せるのだ。そして頭のいかれたジムは、ごみ捨て場近くの隠れ場所からとび出し、相手の胆《きも》をつぶしておいて、いろいろわるさをするのだ。なんでそんなことをしたのか、ぼくにはわからない、まったくもってわからない。しかし彼がやったことはたしかだし、そのため手がうしろへまわったこともたしかなのだ。あまりたびたびやったので、いずれはだれかが罠《わな》でもかけたに違いない――運に見放されたある晩、とうとうとっつかまった彼は、十八カ月間臭いめしを食うことになった。裁判官から浴びせられたはげしい非難は、ちょっとした聞きものだった。かわいそうに、きっとジムの奴は、どこへ顔を向けていいかわからなかったのだ。裁判官の中にだって、ジム以上ではなくとも、あれくらいのことをやってきた連中は多いに違いないのだが。「われわれは被告を刑務所に収容せねばならない」と裁判官は言ったもんだ――「それは幼い少女たちを守るためのみならず、被告自身の利益のためでもある。被告のごときいまわしい輩《やから》から、市民は守られねばならないのだ」
その後、うちの近所でジムの姿を見かけたことはない。だれも顔を知る者のない土地に落ち着こうというのだろう、おふくろさんは彼の刑期のあけるころ、ダービーの町に新しい家と勤め先を捜してきたからだ。ともかくぼくの記憶にあるかぎり、うちの界隈《かいわい》で町じゅう全部の新聞にでかでかと名前の出たのは、ジムひとりだった。しかもあんな事件で新聞ダネになるだけの根性が(というのは少々まやかしのような気もするが)あったとは、だれも想像だにしなかっただろう。
それだから、ぼくはだれでもジムのように、あまり長くおふくろのエプロンにぶら下がっていてはいけないと思うのだ――そうでないと、みんなジムみたいになっちまいかねないからだ。だからこそ、ぼくは授業中も足し算などやらず、(ダービーシャーを抜けてマンチェスターの町へはいり、そこからグラスゴー、さらにエディンバラへ、そして途中でおやじとおふくろにこんちはを言っといて、ふたたびロンドンへ南下、てな計画を考えながら)机の下に入れた地図を眺《なが》めるのだ、なぜなら足し算の練習なんか大きらいだし、それにコイン式ガス計量器《メーター》からせしめてくる小銭の勘定くらい、すでにりっぱにできるからだ。
[#改ページ]
[#地付き]
フランキー・ブラーの没落
[#地付き]河野一郎 訳
マジョルカ島に借りた今にも崩れそうな家の二階の一室、ぼくの書斎と呼ばれるようになった部屋にすわり、ぼくはまわりの書棚《しょだな》の本に目をやる。色とりどりの背表紙を見せ埃《ほこり》をかぶった本が何列も何列も並んだところは、この部屋だけでなく建物全体に、ひときわりっぱな雰囲気《ふんいき》をそえており、ときたま訪ねてくる客が酒の合間にしかつめらしくかがみこみ、本の表題を読むときの気持ちまで察せられようというものだ――
「ギリシア語辞典に、原語のホーマー。彼はギリシア語まで知ってるのか! (どういたしまして、この本はみなぼくの義兄のものなのだ)シェイクスピアに金枝篇《きんしへん》、テープや紙を栞《しおり》にはさんだ聖書ときたか。彼は聖書まで読むらしい! ユーリピデスや何やらに、かびの生えかかったベデカ旅行案内書が十数冊と。妙な本を集めるものだな! プルーストが十二巻! おれなどとてもこんなに読めんな。(ぼくだってご同様)ドストエフスキーか。いやこいつは驚いた、まだ今でもドストエフスキーを読む奴《やつ》があろうとは」
などなど、ぼくの一部となったさまざまな書名が持ち出され、ぼくの本当の人格というあらわな茎を――まだこうした本にお目にかかる前の、というか、まるきり書物などにご縁のなかった時分のぼくを――おおい隠していた葉が見せつけられる。ぼくはたびたび、こんな飾り葉を一枚一枚自分からひっぺがし、口と心臓とからその影を引きずり出し、メスで切りこまざき、混乱した頭脳から追い出してしまいたいと思う。だが、それは不可能なことだ。大理石の棚の上に、にやつきながらのっている時計の針を、もとに戻すことはできない。その文字盤を叩《たた》きこわし、忘れ去ることさえできないのだ。
きのうぼくらは、この谷の少し先に住む友人の家を訪ねた。町の騒音から遠く離れたところなので、目を半ば閉じ、半ば熟した|かりん《ヽヽヽ》の木の下に置いたデッキチェアに頭をもたせかけ、まだ両手に残るもぎ取ったオレンジの香りをかぎながらテラスにすわっていると、山の斜面の松林からカッコーの声が聞こえてきた。
このカッコーは、外科医のメスもなしえないことをやってのけた。長い歳月をつき抜け、まだ書物も、書物から得たはずの知識も持たなかった無邪気な時代へ、ぼくをふたたび投げ返してくれたのだ。やさしく鋭い、笛のようなカッコーの歌声によって、ぼくはとつぜん手近な過去の地平線をすべて飛び越え、ふたたびフランキー・ブラーの王国内へつれ戻されたのだ……
ぼくらは戦いに向かって進撃をつづけ、ぼくはフランキー軍の一員だった。|にわとこ《ヽヽヽヽ》の枝を鉄砲のようにかつぎ、ポケットには敵の額《ひたい》をめがけ宙を切ってビュンビュン飛んでゆくよう念入りに選んだ、すべすべの平たい石がずっしりとつまっていた。ぼくのゴム底ズック靴《ぐつ》は底豆を作りかけ、ズボンのお尻《しり》にはつぎはぎが、靴下には穴があいていたに違いなかった――十四の齢《とし》まで、靴下に穴のあいてなかったことはちょっと思い出の中にないからだ。
点呼をとるとわが軍の勢力は十一人だったが、槍《やり》の穂先のついた百八十センチもある鉄パイプをになえ銃《つつ》の姿勢でかつぎ、錆《さび》だらけのごみ入れの蓋《ふた》を楯《たて》にしたフランキーは、百人隊の隊長といってもおかしくなかった。敵軍にこちらの兵力を大きく見せるため、フランキーはぼくらを二人ずつに分け、橋を越え野っ原を越えて進撃させた。何しろ十五の齢から近所の悪童連を指揮しているのだから、フランキーはなかなかの戦略家だったのだ。
あのころ、フランキーの齢は二十から二十五のあいだだったに違いない。だれもたしかなことは知らないようだった。わけてもフランキー自身がいちばん知らないようで、彼の両親もその点はひた隠しにしておくつもりらしかった。いったいいくつなのとぼくらが訊《き》いても、フランキーは「百五十八さ」などと、とんでもないでたらめを答えてよこす。当然、訊くほうはあらためて別の質問をしかける――「じゃ、学校を出たのはいつなのさ?」時には、彼はさも人を小ばかにしたように答える――「学校なんて行ったこたあねえよ」あるいは、得意げににやりとして答えることもある――「出たんじゃねえ、ずらかっちまったんだ」
ぼくは半ズボンでフランキーは長ズボン、したがって彼の背丈が何メートル何十センチあったのか、ぼくにはわからなかった。見たところ、えらい大男のように見えた。目は灰色で髪は黒く、もしその目とせまい額《ひたい》のしわのあたりに、前思春期のどことなく不安定な気配がなければ、おおむねハンサムで通るととのった顔だちをしていた。身体《からだ》つきと体力の点では、一人前の男として欠けるところは一つもなかった。
一兵卒のぼくらは、当然彼に≪将軍≫の称号をたてまつったが、当人は特務曹長《とくむそうちょう》と呼んでくれと言い張った。父親が第一次大戦で特務曹長だったからだ。「おれのおやじは、あの戦争で名誉の負傷をしてよ」とフランキーは、ぼくらの顔を見るたびに言ったものだ――「勲章と砲弾ショックをもらって帰ったもんだ。そんだから、こんなおれができたってわけよ」
フランキーは≪こんなおれ≫であることを喜び、得意だった。知能の遅れているおかげで、同じ年ごろの若者のように一日じゅう工場で働き、生活費を稼《かせ》ぐ必要もなかったからだ。それよりも彼には、うちの通りに住む十二歳の悪童連を率い、別の地区の同じ年齢のグループと一戦をまじえさすほうが性に合っていたのだ。ぼくらの通りは、古めかしいボロ家がパラパラ並んだ町はずれの一本通り、ところが敵の住んでいるのは、長い通りが三本も走っている新しい住宅街で、その通りのおかげでぼくらは側面を包囲された形になり、二つ三つのグラウンドと市民菜園のほか、猫《ねこ》の額《ひたい》みたいな遊び場しか残らなくなってしまった――そのためぼくらは深い恨みをいだいていたのだ。この住宅街には、町のまん中のスラム街から移ってきた連中が住んでおり、つまり敵もぼくらに劣らず獰猛《どうもう》だったわけだが、ただ奴らには、フランキーのような知恵の遅れた二十歳の戦闘指揮者はついていなかった。住宅街の住人たちは、まだ以前スラム街にいたときの習慣から抜けきっておらず、そのためぼくらはあの一角を≪ソドム≫と呼んでいた。
「きょうはな、一発ソドムに攻撃をかける」ぼくらが閲兵のため整列すると、フランキーは言った。彼はソドムという言葉の聖書に使われている意味を知らず、町議会のつけた公式の名だと思っていた。
ぼくらは二人と三人ずつの組になって通りを行き、リーン川にかかった橋の上で縦隊を組んだ。途中でぶらぶらしている子どもたちに出会ったときには、フランキーはぼくらにすぐさま包囲を命じ、もしそいつらが補充兵としてわが隊に加わることを拒否したときには、次の三つの手段のうちどれかをとるのが常だった。第一は、物干用の綱で相手を縛りあげ、力ずくで行動をともにさせる。第二は、言うことを聞かないとひどい目に遭わせるぞとおどし、自発的についてこさせるようにしむける。第三は、彼のおそろしい手で相手の顔を殴りつけ、家へ泣いて帰るか、安全な距離まで逃げてくやしまぎれの悪態を浴びせてくるにまかせる。ぼくは第二番で加わった口で、冒険と楽しみが得られることから隊員として名をつらねていた。ぼくのおやじはよく言ったものだ――「あのフランキー・ブラーのとんちき野郎とほっつき歩いてるとこを見つけたら、おまえの横っつらをはっ倒してやるからな」
フランキーはしじゅう警察といざこざを起こしていたが、かりに年齢は無視するとしても、正確には≪非行少年≫とは言えなかった。感化院《ボースタル》へぶちこむぞと年じゅうおどされていたが、そのおどけた挙動からは、≪社会の邪魔者≫という以上の栄誉ある称号は得られず、施設のご厄介《やっかい》にはならずにすんでいた。彼のおやじさんは、第一次大戦で負傷したため年金をもらっており、おふくろさんはタバコ工場で働いていたので、両方の収入を合わせて親子三人、ぼくらのだれよりいい暮らしをしていた。ぼくらのおやじときた日には、いつまでたっても失業手当支給事務所とご縁が切れなかったからだ。家によっては半ダースからの子どもがいるというのに、フランキーはひとりっ子だったという点については、生まれたフランキーを見た父親が、もうこれ以上危険は冒《おか》すまいと決心したという噂《うわさ》もある。そのほか、ブラー氏が年金をもらっている傷は子種に関係があるらしい、という噂もささやかれていた。
敵を蹴散《けち》らしたあと森の中で野営をし、盗んできた芋を焼きながら焚火《たきび》を囲むときなど、ぼくらはよくフランキーに、第二次世界大戦がはじまったらどうするつもりかと訊いたものだ。
「入隊するさ」と、彼はあいまいな答え方をした。
「入隊ってどこへ?」と、だれかが敬意をこめて訊き返す。彼にできない読み書きがぼくらにはだいたいできるという事実より、やはりフランキーの齢と力のほうが物を言ったからだ。
だがフランキーは返事がわりに、訊いた少年に木ぎれを投げつけた。何を投げても狙《ねら》いをはずさぬ男で、肩でも胸でも、狙って当たらないことはめったになかった。「上官殿と言え!」と彼は、怒りに両腕をふるわせながら吼《ほ》えた――「罰として、おまえは森のはじへ行って歩哨《ほしょう》に立ってろ」傷を受け罰を受けた少年は、杖《つえ》と石ころをしっかり握りしめながら、藪《やぶ》をかきわけこそこそ姿を消した。
「どこへ入隊するのでありますか、上官殿?」と、もっと気のきいた兵卒が言った。
敬意を表され、フランキーはご機嫌《きげん》だった――
「シャーウッドの森連隊だ。おれのおやじのいた隊だ。おやじはフランス戦線で、一日に六十三人もドイツ兵をやっつけて勲章をもらった。おやじは待避壕《たいひごう》にいて」――とフランキーの話は、『西部戦線異状なし』と『ベンガルの槍騎兵《そうきへい》』を見てきて以来、ぐっとリアリズム満点になっていた――「機関銃をかまえていた。ドイツ兵は夜明けにやってきた。奴らを見つけたおやじは撃ちはじめた。奴らはあとからあとからやってくる、だけどおやじは銃口も吼えろとばかり撃ちまくった――ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――戦友はもう全員戦死だ。おやじにも弾丸が一発くいこんでいたが、銃は放さなかった、ドイツ兵は蠅《はえ》みたいにバタバタ倒れてゆく、まわりじゅう死体の山だ、やがてドイツ軍の進撃をくいとめるためシャーウッド連隊の援軍が到着したとき、おやじの銃の前には六十三人の死体がころがっていた。それでおやじは勲章をもらって、英国へつれて帰られたというわけだ」
フランキーは、半円形に取り巻いたぼくらを見まわした。「どうだ、きさまらどう思う?」と、まるで彼自身がその武勇伝の主人公で、ぼくらが話を疑っているかのように荒っぽい訊き方をした。やがて、全員が彼のおやじさんの手柄《てがら》にしかるべき評価を与えると、彼は言った――「ようし。そいじゃ全員、焚火の火が消えんよう、たきぎを捜してこい」
フランキーはひどく戦争に興味を持っていた。よくぼくの手にペニー銅貨を握らせては、イヴニング・ポスト紙を買いに行かせ、中国やエチオピアやスペインでの最新の戦況を読んでくれと言った。彼は自分の家の壁に寄りかかり、灰色の目で通り向こうの屋根を見つめながら、ぼくが息をつこうとして休むたびに言うのだ――「つづけてくれ、アラン、も少し読んでくれ。そのマドリードの記事をも一度頼む……」
フランキーは大男ながら勇敢な男で、ぼくらを整列させると、鉄道線路の土手に面した野っ原の窪地《くぼち》に待避させた。ソドムの町への道は、この土手で守られている形だった。そしてぼくらは一時間ほども待つのだ、地面に顔を押しつけ、棒を握りしめ、ポケットに入れた石ころの音をさせないよう懸命のぼくら十数人は。もしだれかが身動きでもすると、たちまちフランキーから小声のおどしが飛ぶ――「こんど動いた奴は、おれの投げ棒で叩きのめしてやるからな」
ぼくらは土手から三百ヤードのところにいた。身体の下に敷いた草はやわらかく香《かぐ》わしかった。こいつはベラドンナよりおそろしいんだから、おれのほかだれも真似《まね》してはいけないと言いながら、フランキーはそれを口いっぱい入れて噛《か》んだ。おまえらが口に入れようものなら、五秒きっかりで死んでしまうぞ、おれはどんな毒でも免疫になっているから平気だが、と彼は言うのだ。彼の体内には、こんなものにやられない魔力があり、つまり魔法使いだから平気だが、そうでない人間が口に入れたりしたら、この草は腹わたを焼き焦《こ》がしてしまうのだそうだ。
急行列車が停車場を出、カーブで速力を早め、ソドムの町の薄赤い屋根を視界からさえぎった。ぼくらは草のあいだから首を出し、客車の数をかぞえた。そのとき、ぼくらは敵の姿を認めた。何人かが線路の上に立ち、棒をふりまわし、土手下の水たまりにふざけ半分乱暴に石を投げこんでいる。
「ソドムの奴らだぞ」とぼくらはささやいた。
「静かに」とフランキー。「何人見える?」
「わかんないよ」
「八人だ」
「まだもっとやってくるよ」
「奴らをドイツ兵だと思え」とフランキー。
敵勢は斜面をおり、ひとりひとり、ぼくらの側へ手すりをのり越えてきた。彼らは土手の上で気勢をあげ、お互いに声をかけあっていたが、野っ原までくると鳴りを静め、距離をつめまとまって歩いてきた。ぼくには九人まで数えられたが、そのほかにも数人が大胆にも鉄道線路を越えてやってくる。ぼくは味方の勢力が十一人だったことを思い出し、突撃の合図を待ちながらも、自分に言い聞かせつづけていた――「もうすぐだ。もうすぐだぞ」
フランキーは最後の命令を低い声でつぶやいた。「おまえらは左へ行け。おまえらは右だ。おれたちは正面をやる。奴らを包囲しちまいたいんだ」彼の認めている唯一《ゆいいつ》の軍事的勝利は、敵を包囲し捕虜にすることだった。
彼は鉄の槍をしごき楯をふりまわしながら、立ち上がっていた。ぼくらも彼とともに立ち上がり、一列に散開し、丸くかたまった敵軍の輪の中へ腕の許すかぎりすばやく石を投げこみながらゆっくりと前進した。
典型的な小ぜりあいだった。わが軍の巨人ゴリアテに対抗すべきダビデを持たなかった敵側は、狙いのはずれた小石をパラパラと投げ、斜面を鉄道線路のほうへ駆け上がり、あわてふためき柵《さく》をのり越えて退却した。その何人かに石が命中した。
「捕虜にしろ!」とフランキーはどなったが、敵はもう少しのところでうまく逃げてしまった。しばらくのあいだ、野っ原と土手のあいだを石が飛び交い、わが側面部隊も前進をはばまれ、敵の包囲はできなかった。やがて敵軍は線路のところから歓声をあげた――線路のあいだにたっぷり敷かれた、おあつらえ向きの小石にありついたのだ。だがぼくらの足もとには草しかなく、ポケットが空《から》になってしまえば補給は望めなかった。もし彼らが勢いを盛り返し逆襲に出てきたなら、橋のところで石を捜すまで、半マイルは退却しなければならないだろう。
フランキーはとっさにこのことを悟った。同じ戦術的形勢は前にも経験していたからだ。味方の何人かは直撃弾を受けた。あとずさりしはじめた者もある。目を切られた負傷者も出た。ぼくの顔からも血が流れていたが、ぼくはかまいつけなかった。血や少々の痛みより、けんかしてきたなと、家へ帰ってからおやじのでかい拳《こぶし》でこっぴどく殴られるほうがおそろしかったからだ。(「こんにゃろう、またフランキーの野郎にくっついて行きやがったな」ボコン。「おれから何て言われてた? あいつと遊ぶなって言われてたんじゃねえのか?」ボコン。「おまえは親の言いつけも守れねえんだな、ええ?」ボコン。「フランキー・ブラーなんぞとつき合ってちゃな、フランキーのばかさかげんを笑えねえんだぞ、いいか?」ボコボコン)
味方は浮き足立っていた。ぼくのポケットも軽く、石はほとんど残っていなかった。両腕も石の投げすぎで痛んだ。
「みんな突撃の用意はいいか?」とフランキーがどなった。
彼の命令に返事は一つしかなかった。命令とあらば、かまどの火の中へでもともにとびこんだだろう。ひょっとするとフランキーは、光栄ある勝利ないしは敗北というすばらしい気分を味わいたいがため、ぼくらを退却の許されぬ、そうした不利な戦況へつれこんだのかもしれない。
「はい!」と、ぼくらは声を合わせて叫んだ。
「ようし、行くぞ」彼はあらんかぎりの声をふりしぼってどなった――
「トツゲキィ!」
大股《おおまた》の彼は、あっという間に百ヤードばかりつっ走ってしまい、早くも柵をよじのぼっていた。ソドム軍の投げる石が、彼の楯にガランガラン音をたててぶち当たる。指揮官の象徴的な槍もごみ入れの蓋《ふた》も持たないぼくらは、上の土手にいる敵をめがけ最後の石の狙いをつけながら、じりじりと前進した。
右と左とからぼくらが柵によじのぼったときには、フランキーはすでに傾斜を半分ほど駆け上がり、敵軍の面前数ヤードのところにいた。彼は手にしたおそろしい鉄パイプの槍を敵の目の前でふりまわしながら、もっといそげ、包囲しろ、と側面部隊を叱咤《しった》しつづけていた。いくらかぐずぐずしていたぼくらも、にわかに両翼へ襲いかかり、フランキーが正面から攻撃をかけているあいだに、弾丸の補給をすべく一気に鉄道線路まで駆け上がった。
敵軍は算を乱し、反対側の傾斜を駆けおり、ソドムの町の通りへ、ずらりと並んだピンク色の家の中へと逃げ帰った。彼らの家の玄関の扉《とびら》は、すでに傷だらけ、それに噂では、連中は暖房の石炭を風呂場《ふろば》へしまい(もっともこれだけは、台所に近くてさぞ便利だろうと、ぼくらもひそかにうらやんだものだが)、裏庭には密猟用のかすみ網を張っているということだ。
子どもたちをけんかに引きこみ、目には隈《くま》を、服にはかぎ裂きを、頭には裂傷を負わせてくれるフランキー・ブラーをののしる言葉が品切れになると、ぼくらの通りに住むご婦人連は彼をズールーと呼んだが、当のフランキーはそれを勇敢さと無謀さの同意語と思いこみ、賞讃《しょうさん》のレッテルと受け取った。「なんであんなズールーなんかと走りまわんだよ?」と母親は、亭主の古いワイシャツを裂いて包帯か眼帯を作ってやりながら、子どもに返事を要求した。するとたちまち、槍《やり》をしごきごみ入れの蓋をふりまわし、手下どもを率いて一戦まじえようと跳びはねている、荒くれたフランキーの姿が目のあたり描き出されるということになる。捕虜をつかまえると、フランキーはそいつらを立木や垣根《かきね》の杭《くい》に縛りつけさせ、手下に命じてそのまわりで戦勝踊りを踊らせるのが常だった。時には御大みずから、おそろしい戦いの装束で踊りに加わることもあったが、踊りが終るとこんどはそのそばに焚火を起こさせ、捕虜は全員火あぶりの刑だなどと叫ぶ。あるときなど、すんでにこのおどしを実行しそうになったため、隊員の一人があわてて取って返し、フランキーのおやじさんに、すぐ来て息子を説得し捕虜を釈放してやってくれと頼みこんだ。そこでブラー氏と二人のおとなが、その一人はぼくのおやじだったが、橋の階段を大股でおりてきた。おとなたちは大いそぎで野っ原をやってきた――ちびでずんぐりの眉《まゆ》の黒いクリスさんと、|せいうち《ヽヽヽヽ》みたいな髯《ひげ》をした禿頭《はげあたま》のブラーさんだ。だが、急を告げに行ったのと同じ少年が、フランキーの陣地へこっそりと戻り、そこでも急を告げていたため、フランキーをねじ伏せうちへつれて帰ろうと三人のおとなが到着したときには、蹴散らされた焚火の跡と、まだ立木にくくりつけられたままのすっかりおびえた、しかし無傷の捕虜が二人残っているばかりだった。
戦争の近づくにつれ、フランキーのテロ行為が倍加したことは事実だったが、その多くは人目につかず見すごされた――戦雲の重苦しく垂れこめた夏で、人の心にも余裕がなかったからだ。彼はよく手下を市民菜園へつれて行き、道具小屋に押し入り、農器具やら草花の種やらを、狂気じみたはげしさで畑じゅうにまき散らし、レタスの球やパセリの上へ芝刈り機を押してまわり、首のちょん切れた菊をそこいらじゅうに散らかした。彼の気に入りのスポーツは、道具小屋の外に立って思いきり槍を投げつけ、鉄の矢じりで薄い羽目板を突き通すことだった。
防毒マスクを手にするというめずらしさも、すでにぼくらは卒業していた。ある日、フランキーはぼくらを野っ原を越えての侵略作戦につれ出し、防毒マスクをかぶって攻撃をかけることになった――森の上にかかった白い雲は、森の向こう側にあるドイツ軍|塹壕《ざんごう》からのイペリット・ガスでいっぱいだという想定だったが――取っ組みあいをするうち、マスクはすっかりこわれてしまい、家へ引き揚げる前に一つ一つ焚火の中へうやうやしく投げこんだ。ボロボロになった残骸《ざんがい》を持ち帰って見せるよりは、なくしたと言うほうを選んだのだ。
数多くの窓ガラスが破《わ》られ、ごみ箱がひっくりかえされ、自転車のタイヤの空気が抜かれ、殴りこみが犠牲ばかり大きな勝利に終わり、頭を割られて帰る隊員が続出し(どうしたわけか、フランキーはにわかに用兵の才をなくしてきたのだ)、あげくにフランキーは、家の前の通りも安心して歩けなくなってきた。おやじさんの古いパイプにタバコを――ぼくらが吸いさしを拾い集め献上したタバコの屑《くず》を――つめこみ、彼は通りのまん中を歩いてゆく、するととつぜん、怒り心頭に発したおかみさんが家の戸口から物干棒をふりまわしながら飛び出し、狂ったようにフランキーを殴りにかかるのだ。
「ズールーのとんちき野郎、あたしゃね、おまえがゆんべうちのごみ箱をひっくりかえすとこを見たんだよ。いい年してからどこまでばかなんだろ。これでもくらえってんだ、これでもか、これでもか!」
「おれじゃねえったら。神かけておれじゃねえったらよォ!」フランキーはおかみさんの攻撃を避けるため、両腕を頭の上に組み、飛んで逃げだしながら大声で抗弁する。
「こんどうちの近くへやってきてごらんよ、バケツ一杯水をぶっかけて頭をひやしてやっから、嘘《うそ》じゃないよ」とおかみさんは、そのあとを追いかけるように叫んだ。
安全地帯までくると、あっけにとられ腹立ちとくやしさに血を煮えたぎらせながら、フランキーはうしろをふり返る。そして知っているかぎりの汚いののしりの言葉を浴びせ、バタンと戸をしめて中へ姿を消すのだ。
フランキーの没落の原因となったのは、戦争の勃発《ぼっぱつ》だけではなかった。原因の一端は、彼の性質にロマンチックな一面があり、それが戦争ごっこ以外の形をとって現われたためだった。夏の夕刻になると、彼はよく通りのはずれに立ち、タバコ工場から出てくる若い娘たちを待ち受けたものだ。工場では二千人の娘が働いていたが、その四分の一ほどが毎日夕方になると、そこを通ってうちへ帰ったのだ。
彼はたいてい、いつもの黒いコール天のズボンをはき、つぎの当たった上衣《うわぎ》とおやじの襟《えり》なしワイシャツを着て、ひとりで立っていたが、手下の年かさのがそばについていても、いっこう彼独特の求愛のじゃまにはならなかった。うちの通りでいちばんよくひびく口笛が吹けた彼は、娘たちが二人三人ずつ腕を組んで通りすぎるとき、それをうまく音楽的に用いた。
「よう、ねえちゃん! つき合わねえか?」
肩をすくめたり、軽蔑《けいべつ》したように首をふったり、笑い声や鋭い口答えなどの返事が返ってきた。
「こんばんおれとデートはどうだい? 映画でもおごってほしかねえかい?」と彼は大声で笑いながら声をかける。
彼を避けるため、通りの反対側へ行ってしまう娘がいたりすると、彼のとっておきのからかいの餌食《えじき》となる――
「よう、べっぴんさん、そのうち訪ねてっていいかい?」
どっとあがる笑い声にふちどられ、いろんな返事が投げ返されてくる――
「五ポンドいただくよ!」
「お兄さん、気はたしか? 寝言はよしてよ!」
「八時にグラント劇場で待ってるわよ。きっと忘れないでよ、あたしは忘れっから!」
彼にとっては最高の、おとなの気晴らしだった。しかしフランキーはただ、このあたりの二十歳の若者たちのやっているとおりをもっと大げさにまね、自分の年齢にふさわしい演技をしていたにすぎなかった。こうした独特の求愛の仕上げは、めったに手下をつれて行ったことのないリーン川と鉄道線路にはさまれた沼地の、葦《あし》の茂みの中でなされた。彼はただ一人(口笛を吹いて誘いをかけた娘は、淡い面影《おもかげ》として心にとどめ)、おたまじゃくしをつかまえる人目につかぬ小径《こみち》を辿《たど》り、だれからも見られぬ秘密の場所に横になるのだった――行李柳《こりやなぎ》と|にわとこ《ヽヽヽヽ》と樫《かし》の木林の自称森の王者は。この秘密行から、彼は罪悪感と楽しい記憶に青ざめ、おどおどした目つきで戻ってきた。
夏のあいだ彼は毎晩、最初はおおぜいの手下といっしょに、後には(通りかかる工場帰りの娘たちに浴びせる言葉は、もはや罪のないものではなくなっていたので)ただ一人で街角に立ったが、とうとうある晩おまわりがやってきて、永遠に彼を街角からつれ去ってしまった。同じ夏の数カ月のあいだに、何百という割栗石《わりぐりいし》満載のトラックが、毎日毎日沼地の端まで行っては積み荷を投げ落とし、やがてフランキーの秘密の隠れ場所も消し去られ、その上にはまた新たなタバコ工場を建てるがっしりした土台ができてしまった。
心臓《ハート》型をしたくもの巣だらけのスピーカーから出てくるチェンバレン首相の沈んだ声に耳を傾け、おやじとおふくろが思案げに首をふっていた日曜の朝、ぼくは通りでフランキーに出会った。
いよいよ戦争のはじまった今、いったいどうするつもりかとぼくは彼に訊《き》いた。徴兵適齢期にある彼の年齢から考えて、いずれは彼も世間の他の連中といっしょに召集されるだろうと思ったのだ。フランキーは沈みこみ元気がないように見えた――これも戦争のせいだろう、みんなの顔に見られてしかるべき真剣な表情なのだ、とぼくは解釈した。ぼく自身の顔には浮かんでいそうもなかったが。ぼくはまた、彼が話すときどもりがちなのにも気づいた。きょうばかりは、だれも物干棒で殴りにくる者もあるまいと本能的に知っていたのか、彼はどこかの家の壁に背をもたせかけ、舗道にすわりこんでいた。
「ただ召集令状のくるのを待つだけさ」と彼は答えた――「令状がくりゃ、シャーウッドの森連隊にはいるつもりだ」
「もし召集されたら、ぼくは海軍だな」彼がいっこう、前大戦におけるおやじさんの武勇伝を話しはじめないので、ぼくは口をはさんだ。
「軍隊へ行くなら、何てったって陸軍だよ、アラン」と、彼は立ち上がりパイプを取り出しながら、強い確信をこめて言った。
沈みこんでいた彼が、にわかににやりとした。「ようし、いい考えがある。昼めしを食ったら仲間を集め、ニューブリッジの先まで演習に行こう。戦争がはじまったからには、みんなをいつでもお役に立てるようにしとかなきゃならんからな。少しばかり訓練をしておくんだ。ひょっとすると、ソドムの野郎どもにも会えるかもしれんしな」
その日の午後、隊伍《たいご》を組んで行進するあいだに、フランキーはぼくらの将来についての計画を物語った。ぼくらが十六歳くらいになって、まだ戦争がつづいていたなら――当然つづいているだろう、彼のおやじさんも言ってるように、ドイツ軍は手ごわいからだ、しかしドイツ軍の将校はまず兵隊を第一線に送ってくるから、奴《やつ》らに最後の勝利は望めっこないが――そのときは彼がぼくらを町の初年兵徴募センターへつれて行き、全員を同時に登録させる。そうすれば彼が――フランキーが――ぼくらの小隊の指揮官になるだろうというのだ。
すばらしい考えだった。全員の手が高々と賛成を表してあげられた。
ニューブリッジから向こうの戦場に敵影はなかった。ぼくらは欄干に沿って一列に並び、言葉もなく町の発展の新しい証拠を見守った。牧草地も市民菜園も、今ではソドムの新しい家並みから伸びている広い街路によって、発展の中心から切り離され、そこにはすでにたくさんの車や市営の二階建バスが走っていた。
ソドム軍の姿は見えなかったので、フランキーは隊員三人を溝《みぞ》や窪地《くぼち》に隠れさせ、残りの部隊に捜索を命じた。次の訓練は罐詰《かんづめ》の罐を切株の上に置き、五十メートル離れたところから石を投げて叩《たた》き落とす標的練習だった。フェンシングの練習とレスリング試合をやったあと、ソドム軍が六人鉄道線路のところに姿を見せたが、荒っぽい小ぜりあいのあげく、あっという間に捕虜として捕えてしまった。しかしフランキーは、彼らを長く捕虜にしておくことも、痛めつけることも望まず、シャーウッドの森連隊への忠誠を誓わせて釈放してしまった。
七時になると、ぼくらは二列縦隊を作り、引き揚げることになった。もう遅いから、早く帰らないとお茶の時間に間に合わなくなる、と文句を言うものがあり、フランキーはこのときただ一度だけ、当然不服従とみられるその申し出に負けたのだ。彼はこの苦情を聞き入れ、炭坑へ通じている鉄道の支線を横切り、ぼくらの行軍を早く切り上げることにきめた。丘の上の工場やむさくるしい通りは、夜中に嵐《あらし》でもきそうなくすんだ黄褐色《おうかっしょく》の暮色に染まり、町の上にかかった雲は薄赤く燃え、現実離れした深い沈黙に包まれているようだった。ぼくらはまともに身をさらし、遠くの信号小屋にいる鉄道員に姿を見られ、話し声を残らず聞かれているような気がした。
ぼくたちは一人ずつ、針金の柵《さく》をのり越えた。フランキーは藪《やぶ》の中にうずくまり、行く手に障害がないと見ると、今だ行けと命令を下した。飛び出すのは一度に一人ずつだった。ぼくらは機関銃を持った番兵の前を通りすぎるように背をかがめ、六本の線路を飛び越えた。六つ目の線路と柵とのあいだに障害物が、修理小屋と道具置き場をかねた一台の車輛《しゃりょう》の形で置かれていた。あの中にはだれもいないとフランキーは断言していたが、ぼくらが全員線路を越え、中にはすでに野っ原を駆け抜け小道のほうへのぼっているものもあったとき、ふとふり返ってみると、鉄道員が一人小屋の入口から出てきて、ちょうど柵のほうへ行きかけていたフランキーを引きとめるのが見えた。
何か言い争っている低い声だけで、はっきりした言葉は聞き取れなかった。ぼくは行李柳のあいだにしゃがみ、何やらきついお小言でも言っているのか、鉄道員がフランキーの胸もとに指をつきつけているのを眺《なが》めていた。やがてフランキーは宙で両手をふりはじめた――野っ原から手下たちが全員見守っている(はずの)ところで、こんなふうに呼びとめられるのはがまんならないというように。
と、はっと思った瞬間、ぼくはフランキーが上衣のポケットからウィスキーの小瓶《こびん》を取り出し、それで鉄道員の頭を殴りつけるのを見た。不自然な静けさの中で、ゴツンという物音と、相手のあげる驚きと怒りと苦痛の叫びが聞こえた。フランキーはくるりと背を向けると、縞馬《しまうま》のように柵を飛び越え、ぼくのほうへ駆けてきた。そばまで来てぼくの姿を見ると、彼は狂ったように叫んだ――
「逃げろ、アラン、逃げるんだ。向こうから求めてきやがったんだ。奴が悪いんだ」
ぼくらは逃げた。
その翌日、ぼくはうちのきょうだいたちといっしょに市営バスに乗せられ、ワークソップへつれて行かれた。わずかな手回り品を紙袋につめ、ほかのおおぜいの子どもたちといっしょに、爆撃を避けるため疎開《そかい》させられたのだ。ただ一つの致命的打撃で、フランキーは手下を洗いざらい持ってゆかれ、フランキー自身も瓶で鉄道員を殴ったかどで警察署へつれ去られた。彼は不法侵入罪にも問われていた。
戦争のはじまりは、ちょうどフランキーのいわゆる思春期の終わりと時期が重なっていたようだ――もっともその後も、思春期の名残りはたびたび彼の行動に現われた。たとえば、いいカウボーイの映画をやっていないかと、彼は煙幕や燈火《とうか》管制の中を、いぜんとして町の端から端まで歩きまわっていた。
ぼくはその後二年間、フランキーに会わなかった。ある日、以前ぼくらの住んでいた通りで、手押し車を押している男を見かけた。男はフランキーだった。手押し車には、毎朝暖炉に火を起こすとき、家庭の主婦が丸めたイヴニング・ポスト紙の上へひろげてのせる焚《たき》つけの類《たぐい》の薪《まき》の束が、山のように積まれていた。さして話題もなく、それに自分よりうんと年下の人間と話しているところを見られるのを恥じてでもいるように、フランキーはぼくにへり下った態度をとった。べつだんあからさまな態度に出ていたわけではないが、ぼくはそれを感じ、十三歳だったぼくはそれを腹立たしく思った。時勢ははっきりと変わってしまっていたのだ。ぼくらはもう仲間同士ではなかった。ぼくはもう一度、むかしの雰囲気《ふんいき》にはいりこもうとして言ってみた――
「陸軍へはいる努力はしてみたかい、フランキー?」
今にして思えば、軽率なことを言ったという気がするし、彼の気を悪くしたかもしれなかった。そのときは気づかなかったが、答えた彼のむっとしたようなようすを覚えている。
「そりゃどういう意味だい? もうちゃんとはいってるぜ。一年前に入隊したんだ。おやじも軍へ戻ったよ――特務曹長《とくむそうちょう》で――おれはおやじの中隊だ」
立ち話はあっけなく終わった。フランキーは次の戸口へ手押し車を押してゆき、積んでいた薪をおろしはじめた。
その後は十年以上、彼に会わなかった。そのあいだに、ぼくもマラヤに駐留などし、フランキー・ブラーとやった子どもっぽい遊びや、ニューブリッジの向こうでソドム軍を相手に戦った大激戦のことなど、すっかり忘れていた。
それにぼくは、もうもとの町には住んでいなかった。卑《いや》しい身分から身を起こした――とでもいうのか。疎開さわぎも終わり、その後爆弾が降ってくるようになったころから、どうしたわけかぼくは読書好きになり、とうとう文士のはしくれになってしまったのだ。
ある冬の夕刻六時ごろ、ぼくは実家を訪ねるためむかしの通りを歩いていた。と、だれかがぼくを呼ぶのが聞こえた。
「アラン!」
だれの声かはすぐにわかった。ふり返ってみると、フランキーが映画の看板の前に立ち、それを読もうとしていた。齢《とし》は三十五ぐらいになるはずだったが、もうむかしのような槍《やり》をふりまわす大男の面影はなく、むしろぼくの背丈に近く、ずっと痩《や》せ、顔にはまぎれもない柔和な表情が浮かび、白いマフラーをきちんと中へたくしこみ、帽子をかぶり黒い外套《がいとう》を着たところは、人品卑しからぬ感じさえした。外套の襟《えり》の折返しに、緑色のリボン付メダルをつけていることから、この十年間ときおり風の便りに聞いていた噂《うわさ》が確かめられた。彼はぼくら少年部隊の特務曹長から国防市民軍の一兵卒となり、父親の中隊で伝令をやっていたのだ。汗をかいたせまい額《ひたい》の上に鉄かぶとをのせ、草の葉の一枚一枚までよく知っている田野を、通信を持って走りまわっていたのだ。
彼はもはやぼくの指揮官ではなかった――握手をかわしながら、ぼくたちは双方ともすぐさまその事実に気づいた。独力でやっているフランキーの薪販売業はその後繁盛し、今では小馬に荷車を曳《ひ》かせて町内をまわっていた。裕福ではなかったが、一城のあるじだった。ぼくらの階級の率直な野心は、自分が大将になってやることだった。彼は同志を率いていた自分の時代の終わったことを知っており、おそらくは話し合ううち、ぼくこそ新しいリーダーかもしれないと思ったのであろう――彼の恥ずかしそうな態度も、それで説明がつくような気がした。
ごみ入れの蓋《ふた》と鉄パイプの槍を手に、大部隊を率いて情け知らずの投石合戦に突入させたあの当時以来、彼もぼくもそれぞれ異なった道を辿り成長してきていたが、しかしそれだけでなく、彼にはぼくの知らない何かが起こっていた。同じ階級の出であり、いわば同じ少年時代をへてきたぼくらには、それぞれの違った濃淡と色合いに葉のほうはいくらかしおれていたにせよ、それとわかる共通の根のようなものがあって当然だった。しかしぼくらには何の接触点もなく、その後はいりこんだ社会でよく言う≪高められた意識≫を身につけていたぼくは、その原因がぼくだけでなく、フランキーの中の何かにあることに気づいていた。
「よォフランキー、その後どうでえ?」とぼくは、もはやそんな言葉を使う権利のないことを知りながらも、むかしの口調が懐《なつ》かしくて訊いた。
彼の口ごもりはひどく、むかしならどもりと軽蔑《けいべつ》して呼ばれたところだった。「もうよくなったよ。病院に一年はいってたあと、ずっと気分もいいし」
ぼくは不自由な足か折れた腕か傷でも見つけようと、失礼にならぬようすばやく相手を眺めまわした。病院へ行ったというからには、当然そういったことが原因だろうと思ったのだ。「病院にはいってたって、どうかしたのかい?」とぼくは訊いた。
返事をしようとして、彼の口ごもりはいっそうひどくなった。どんな口調で答えていいかわからず、一瞬ためらっているのが感じられたが、けっきょく彼はほとんど誇らしげな、真剣そのものの声で答えた。「ショック療法を受けにさ。それで病院にはいったんだ」
「何のためのショック療法なんだい、フランキー?」彼の話の意味がまるで理解できなかったぼくは、おだやかにこう訊いたが、そのうちフランキーの受けたに違いないおそろしい仕打ちが、ちらと心をよぎりはじめた。それにつけてもぼくは、フランキーの炭坑と森の世界に手出しする白衣をまとった狂った妨害者たちをなぎ倒し、彼らの憎しみと出しゃばりを拭《ぬぐ》い去れるだけの力をほしく思った。
フランキーは外套の襟を立てた。夕闇《ゆうやみ》の中で雨が降りはじめてきたのだ。「つまりさ、アラン」と彼は、分別くさい世間並みな顔つきになって言った――「うちのおやじと大げんかをやらかして、そのあと気を失ってしまったんだ。けがをさしたんで、おやじの奴ポリ公を呼びやがった。警察《サツ》じゃ医者を呼んで、その医者に病院へ入れなきゃいかんと言われたってわけさ」そこを『病院』と呼ぶことまで教わっていたのだ。むかしの彼ならば、腹をかかえて笑いとばしたことだろう――「ふうてん病院じゃねえかよ!」と。
「でも、もうよくなってよかったな」と慰めたあと、長い沈黙のあいだに、ぼくはフランキーの世界は結局ふれることのできないものであり、良心的・科学的・組織的に探りを入れる連中には、おそらくそこへ到達はできても、心を隠れ家へ追いこむのが関の山で、包んでいる肉体は破壊できても、彼のような心を痛めつけることはとうていできないだろうと思った。解剖ナイフをもってしても、けっしてはいりこめないジャングルのような部分があるのだ。
フランキーは立ち去りたそうにしていた。雨が気にかかっていたのだ。ふと彼は、なぜぼくを呼んだかを思い出し、黄色の地に太く黒々と書かれた広告文字のほうを向いた。「ありゃサヴォイ劇場の広告かい?」と彼は、ポスターのほうをうなずいてみせながら訊いた。
「そうだよ」
彼は弁解がましく言った――「おれ、眼鏡を忘れてきたんだけどよ、アラン。今晩は何てえのをやってっか読んでみてくれないか?」
「いいとも、フランキー」ぼくは広告を読んでやった――「ゲイリー・クーパー主演、サラトガ本線《トランク》」
「おもしれえかな? カウボーイのやつか、恋愛もんか、どっちだろうな?」
ぼくは知っていたので教えてやった。ショック療法を受けたあとでは、どっちのほうを好むだろうか、とぼくは考えた。悪魔の住みついた彼の暗黒世界のどの部分に、電撃ショックは浸透したのだろうか? 「あの映画は前に見たよ」とぼくは答えた――「一種のカウボーイ映画さ。最後にすごい列車の衝突場面が出てくるぜ」
そのとき、ぼくは見たのだ。別れぎわに、ぼくがあまり強く手を握ったので、フランキーは驚いたようだった。ぼくの説明する映画の要点は、呪《まじな》いのように作用した。彼の目の中に、もう何年も前に見たのと同じ輝きが現われたのだ――槍と楯《たて》を手にすっくと立ち上がり、「トツゲキィ!」と絶叫し、飛び交い降りそそぐ棒きれと石の中へ飛び出して行ったときの輝きが。
「おもしろそうだな。おれ向きの映画らしい。いっちょう見てくっか」
帽子を目深《まぶか》に引きおろし、喉首《のどくび》がちゃんと外套の襟に隠れているかを確かめてから、楽しい空想をかき立てられた彼は降りしきる雨の中へ歩み去った。
「元気でな、フランキー」街角を曲がる彼にぼくは叫んだ。治療がすっかり終わるころには、あの男のどれだけが残るだろうか、とぼくは考えていた。霊感を吹きこまれた彼の秘められた心に、その広大な地下の貯水池に、穴をあけすっかり乾《ほ》してしまうことがはたして医者たちにできるものだろうか?
ぼくは彼のうしろ姿を見守った。彼は信号を無視し、雨に濡《ぬ》れた幅広い通りを斜めに横切り、バスを追いかけていって無事に飛び乗った。
本に囲まれたぼくは、それ以来フランキーには会っていない。それはぼく自身の大きな部分に別れを告げるようなものだった――永遠に。
[#改ページ]
解説
[#地付き]河野一郎
シリトー 生立ち
アラン・シリトー(Alan Sillitoe)は一九二八年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに生まれた。町はずれには、ロビンフッドで名高いシャーウッドの森があり、D・H・ロレンスを生んだ炭鉱町イーストウッドまでは、十マイルたらずの距離である。父親はなめし革工場に働く労働者で、「外の空気は、長屋のはずれでガンガンやっている憎たらしい大きな自転車工場やなんかで、いっこうに新鮮ではなかった」(一四九ページ)と、ここに収めた短編の中でも書かれているように、シリトー一家は有名なラーレー自転車工場に隣り合った(便所が屋外にある)長屋に住んでいた。シリトー自身、後に彼の少年時代をこう回想している――
「いちばん強烈な記憶は金の苦労であり、金がないためのみじめさ、おやじの落胆、おやじとおふくろの言い争いだった。食べ物も十分ではなかったが、日曜には肉屋で売れ残りの皮みたいな肉にありつけた。学校では牛乳をもらえたし、給食センターというところへ行けば、子どもたちはパンとココアを食べさせてもらえた。このことを恥ずかしくは思わなかった――わが家はうちの通りでいちばんの貧乏家族だということを、うすうす感じてはいたが」
学校は「好きでもなく嫌《きら》いでもなかった」が、すでにこのころから、四人のきょうだいにいろいろおもしろい話をして聞かせるのが得意だった。十四歳で学校を出ると、すぐラーレー自転車工場やベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、後に『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地となった。十九歳でイギリス空軍に入隊し、無電技手としてマラヤへ派遣されたが、そこで肺結核にかかって本国へ送還され、一年半にわたる療養生活を強《し》いられることになった。このサナトリウムでの隔離生活が、その後のシリトーの進路を大きく変えることになった。
療養生活と転機
「それまで、ぼくは≪おとな≫の本をほとんど何も読んでいなかった。ところが、むりやり実生活から遠ざけられているあいだに、心の痛手をやわらげるべく、ぼくは何百冊となく本を読みあさった。その短い期間に、中学から大学まで進学した他の若い連中の大半に追いついてしまった。その後の数年間で、読書量では彼らを追い越したかもしれない。この時期に、ぼくはまた創作もはじめた――大部分は詩だったが、短編小説も一つ二つ書いた。二十一の齢《とし》に最初の小説を書いた。十七日間で十万語を書いてしまったのだ。だがそれがいかに拙劣で、無学をさらけ出し、文法もでたらめで、ロレンスやらハックスレーやらドストエフスキーやら、その他そのころ読んでいた作家の調子そっくりなのに気づいたのは、それから数年後だった。言いかえれば、それは失敗作だったのだ、『土曜の夜と日曜の朝』の前に書かれた半ダースほどの他の作品と同じように……」(ロングマン社版『土曜の夜と日曜の朝』序文より)
彼は書くことを学びながら読むことをも学び、『兵士シュヴェイクの冒険』『ノストロモ』『トム・ジョーンズ』『嵐《あらし》が丘』『パルムの僧院』など、広く世界の文学に親しみ、カミュの『異邦人』『反抗的人間』『ペスト』などからも、「それまで知らなかった思想と描写の節約を学んだ」。
やがて病の癒《い》えたシリトーは、軍人恩給で南フランスへ行き、そこからスペイン領のマジョルカ島へ移って数年をすごしたが、そこで英詩人のロバート・グレイヴスと知り合い、そのはげましで、彼のもっともよく知っているノッティンガムの下町を舞台にした作品を書くことになった。
作家シリトーの誕生
マジョルカ島で書き上げた二編の小説のうち、第一作『土曜の夜と日曜の朝』
(Saturday Night and Sunday Morning,1958)は、「かりに彼がこれ以上何も書かなかったとしても、英国小説史上に名を残したであろう」(アンソニー・ウェスト評)と、圧倒的な讃辞《さんじ》をもって迎えられ、新聞の書評も、「D・H・ロレンスの≪プロレタリアートの主人公≫が現われ書店を驚かせて以来、三十年がたった。今ロレンスを生んだ地方から、ロレンス自身も驚いたであろう主人公を持つ新しい作家が現われた」(サンデー・エクスプレス紙)と絶讃した。この処女作は作家クラブ賞を受賞、後に映画化されて海外にまで非常な反響を呼んだ。第二作が、ここに訳出した短編集『長距離走者の孤独』(The Loneliness of the Long-Distance Runner,1959)で、前作にまさる傑作と評され、ホーソンデン賞を獲得、若いトニー・リチャードソン監督の手によって映画化された。新進作家としての地歩を築いたシリトーは、その後今日までぜんぶで七冊の詩集、六冊の短編集、十七冊の長編小説のほか、ソビエト旅行記、童話、戯曲などを世に問うているが、『華麗なる門出』(A Start in Life,1970)では、十八世紀フランスの作家ルサージュの『ジル・ブラース』を下敷きにし、同じく十八世紀初めに書かれたフィールディングの名作『トム・ジョーンズ』をも意識しながら、現代の悪漢《ピカレスク》小説というジャンルに挑戦《ちょうせん》し、スウィフト以来の笑いと喜劇精神を見事に現代に復活させている。
≪怒れる若者たち≫とシリトー
シリトーの英文壇への登場は、『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』のキングスレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインなど、いわゆる≪怒れる若者たち≫
(Angry Young Men)と呼ばれる一派と時を同じくしていたため、彼もそのもっとも|いき《ヽヽ》のいいメンバーの一人と見なされることが多い。しかし、このグループの中心となった作家たちは、おおむねオックスフォード大学出身のインテリで、それぞれ各地の赤煉瓦《あかれんが》大学で英文学や哲学を講ずる大学人であったため、当然彼らの≪怒り≫は、工場労働者の息子として生まれ、みずからも熟練した工場労働者であったシリトーの怒りとは、質を異にしていた。社会と個人の相剋《そうこく》も、既成の権威への不信も、彼らはいわば体制側から観念的にとらえ、体制の変革とともにいつしかその≪怒り≫も消えてしまった。
しかしシリトーの主人公たちは、≪怒れる若者たち≫が怒らなくなった後もなお怒りつづけ、『土曜の夜と日曜の朝』のアーサー・シートンにしても、『長距離走者の孤独』のコリン・スミス少年にしても、いずれも社会が彼らのまわりに築いたさまざまな規制の垣《かき》への反撥《はんぱつ》と、その垣根を守る偽善的な権力者に対するアナーキックな憤《いきどお》りから、法律と道徳と責任が劃《かく》した境界ぎりぎりの線をあやうく歩きつづけ、他人の女房を寝取り、公衆便所の鉛管を盗むという不道徳行為に全生命を賭《か》けることで、権威へのささやかなプロテストを試みる。だが彼らの行動は、現在の階級から抜け出し、あるいは積極的に体制を破壊しようとする方向には向かわない。反体制的反抗ではなく、≪非体制的≫な反逆とでも言うべきであろうか。
作品の主人公たち
労働者階級の生活を労働者側から描いた作品は、これまでにも例がなかったわけではないが、いずれもロレンスの『息子と恋人』のように、貧困な環境に生まれついた若者の向上心を描いたものであった。しかしシリトーの作品ではじめて、官能の追求に明け暮れる自然人としての平凡な若者が描かれ、近代的福祉国家の底辺をなす下層労働者階級の断面が赤裸々にえぐり出された。彼の作品が読書界のみならず、広く一般に大きな社会的波紋をひろげ、「労働者階層を映す鏡として、この短編集――『長距離走者の孤独』――は数冊の社会科学研究書にも匹敵する」と評されたのも故《ゆえ》なしとしない。
シリトーの作品に現われる主人公たちは、妻子に逃げられた孤独な中年男であろうと、パン屋の手提げ金庫を盗み出す感化院出身の不良少年であろうと、いずれも第一次大戦の砲弾ショックや、第二次大戦の食糧不足、空襲、戦後の耐乏生活など、戦争の影を長く重くひきずっている。しかし、≪怒りをこめてふりかえり≫はするが、旺盛《おうせい》な生活力に支えられた彼らには、ドライサーの『アメリカの悲劇』の主人公クライド・グリフィスのような、さし迫った深刻味はない。それどころか、感化院と同僚の女房の寝室とパブと、そして彼の技能を高賃金で求めている工場とのあいだをけんめいに行き来する、この賭事とけんかと情事と盗みの常勝者の後ろ姿には、むしろ颯爽《さっそう》としたさわやかささえ感じられる。
『長距離走者の孤独』
シリトーの作品には、大きく分けて二つの傾向のものがある。一つは、作者自身の体験にもとづき、主としてノッティンガムの煤《すす》けた裏町を舞台に、工場労働者やその家族の生活を借り物でないノッティンガム方言を駆使して天衣無縫に描いたもので、一見八方破れの感はあるが、たくまざるユーモアと悲哀感《ペイソス》に裏打ちされているのが特色である。『長距離走者の孤独』をはじめ、『土曜の午後』『ジム・スカーフィデイルの屈辱』『フランキー・ブラーの没落』などがこの範疇《はんちゅう》にはいる。これに対して、『漁船の絵』や『アーネストおじさん』『レイナー先生』などは、飄逸味《ひょういつみ》のあふれた前者にくらべると、ずっと沈んだ語り口で物語られ、より短編小説らしいまとまりを持たせられている。
個々の作品について簡単に解説をこころみると――
『長距離走者の孤独』は、権威に抵抗する青年の反抗心を、「本物の経験と本能的な正確さ」(マンチェスター・ガーディアン紙評)で描いた傑作で、ノッティンガム地方の方言が正確にリズミカルに使われている。これを書き上げたときのいきさつを、作者はこう語っている――「一九五七年の春、田舎の別荘の窓辺に立っていたぼくは、白いランニングシャツとパンツ姿の一人の男が、窓の外を駆けて行くのを見た。男は丈の高い垣根をまわり、森に向かって姿を消した。ぼくは大きな紙を取り出し、そこへただひとこと、『長距離走者の孤独』と書きつけた。そして紙を片づけ、それきりそのことは忘れてしまった。一年後、スペインの港町にいたぼくは、英国へ引き揚げようと荷造りをしていた。スーツケースを軽くしようとして不要な書類をより分けていたところ、ふとあのひとことを書きつけた紙が出てきた。ぼくは荷造りを放《ほう》り出し、たちどころに八千語を書き上げ、残りの半分は英国へ帰ってから完成させ、『長距離走者の孤独』と題名をつけた」
『アーネストおじさん』は、孤独な中年男の心にともった善意と愛情の灯《ひ》が、世間の≪良識≫の干渉によって消されてしまう物語。
『レイナー先生』では、工場街の中学校で教鞭《きょうべん》をとる中年教師の救いのない倦怠《けんたい》と挫折《ざせつ》感が、女店員への淡い憧憬《どうけい》を通じてほとんど抒情《じょじょう》的に描き出されている。
『漁船の絵』は、質入れされた一枚の漁船の絵をめぐって、別れた妻への愛情がにじみ出ている抒情性豊かな小品。ロマンチック・リアリズムとでも名づけたいシリトーの一面が、よくあらわされた作品である。
『土曜の午後』シリトーの短編作品では、少年か中年男かが主人公の場合が多く、そのどちらを主人公に選ぶかで作品の色調《トーン》が違っているが、ここではその両者が、異常な状況の下で組み合わされている。深刻な題材でありながら、ユーモラスな語り口に救われ、個人を埋没させてしまう非情な社会への見事なプロテストを完成させている。
『試合』フットボール試合で地元軍が負けたのをきっかけに、つみ重なっていた家庭内の不満が一気に噴き出してしまうという物語。一九三〇年代とはすでに異なり、五〇年代のこの労働者の家庭では、豪勢ではないにせよ、まともな夕食があるじの帰りを待っており、彼にはそれをはたき落とす余裕すらある。したがって、持って行き場のない主人公のうっぷんは、彼を取り巻く社会へは向かわない。単調な生活の積み重なりに耐えられなくなった彼は、みずから築いた平和な家庭を壊してしまうが、壊した先にも出口はなさそうだ。
『ジム・スカーフィデイルの屈辱』では、労働者階級に観念的な幻想と同情を抱《いだ》いているジムの若妻が、諷刺《ふうし》的に描かれている点に注目したい。
『フランキー・ブラーの没落』は学童|疎開《そかい》や市民菜園、配給生活など、第二次大戦中の英国市民生活の一端がうかがえて興味深い作品。作中、フランキーに「アラン」と呼ばれている少年は、もちろんアラン・シリトー自身であろう。作家になったこと(「疎開さわぎも終わり、その後爆弾が降ってくるようになったころから、どうしたわけかぼくは読書好きになり、とうとう文士のはしくれになってしまったのだ」――二二六ページ)、マジョルカ島に滞在していることなども、すべて作者自身の背景と一致する。知能の遅れた永遠の少年フランキーから、電気ショック療法によって純真な心を叩《たた》き出し、≪まともな≫人間に変えようとする社会に、作者の悲しいまでのいきどおりが感じられる。流行作家として世に迎えられ、生まれ育った下町から今は遠ざかってしまった作者の、郷愁ないしは懺悔《ざんげ》を読み取ることも可能であろうし、≪階級≫という言葉が何回か使われ、現在の境遇に照れているような作者の素顔がのぞいているのも興味深い。
(一九九二年三月 横浜にて)
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シリトー著作年譜
(*印は未邦訳)
●『土曜の夜と日曜の朝』 小説 一九五八
Saturday Night and Sunday Morning
●『長距離走者の孤独』短編集 一九五九
The Loneliness of the Long-Distance Runner
●『将軍』小説 一九六〇
The General
●『鼠《ねずみ》、その他の詩』* 詩集 一九六〇
The Ratsand Other Poems
●『ドアの鍵《かぎ》』小説 一九六一
Key to the Door
●『屑屋《くずや》の娘』短編集 一九六三
The Ragman's Daughter
●『愛から醒《さ》めて、その他の詩』* 詩集 一九六四
A Falling out of Love and Other Poems
●『ロシアの夜とソビエトの朝』 旅行記 一九六四
Road to Volgograd
●『ウィリアム・ポスターズの死』小説 一九六五
The Death of William Posters
●『燃える樹《き》』小説 一九六七
A Tree on Fire
●『マーマレード・ジムのぼうけん』童話 一九六七
The City Adventures of Marmalade Jim
●『グスマン帰れ』短編集 一九六八
Guzman,Go Home
●『ヴォロネズ近郊の愛』* 詩集 一九六八
Love in the Environs of Voronezh
●『すべての市民は兵士』(ルース・フェインライトとの共著)* 戯曲 一九六九
All Citizens are Soldiers
●『華麗なる門出』小説 一九七〇
A Start in Life
●『ニヒロンへの旅』小説 一九七一
Travels in Nihilon
●『素材』 小説 一九七二
Raw Material
●『ノッティンガム物語』短編集 一九七三
Men Women and Children
●『嵐』* 詩集 一九七四
Storm:New Poems
●『見えない炎』小説 一九七四
The Flame of Life
●『私はどのようにして作家となったか』随筆集 一九七五
Mountains and Caverns:Selected Essays
●『やもめの息子』小説 一九七六
The Widower's Son
●『ビッグ・ジョンと星』* 童話 一九七七
Big John and the Stars
●『蚤《のみ》の名剣士』* 童話 一九七八
The Incredible Fencing Fleas
●『三つの戯曲』* 戯曲 一九七八
Three Plays
●『ストーリーテラー』 小説 一九七九
The Storyteller
●『ルシファー北の雪』* 詩集 一九七九
Snow on the North Side of Lucifer
●『農場のマーマレード・ジム』* 童話 一九八〇
Marmalade Jim at the Farm
●『悪魔の暦』短編集 一九八一
The Second Chance and Other Stories
●『彼女の勝利』* 小説 一九八二
Her Victory
●『消えた飛行艇』* 小説 一九八三
The Lost Flying Boat
●『サクソンの岸辺』* 旅行記 一九八三
The Saxon Shoreway
●『マーマレード・ジムと狐《きつね》』* 童話 一九八四
Marmalade Jim and the Fox
●『旅立ち前の太陽』* 詩集 一九八四
Sun Before Departure
●『丘から降りて』* 小説 一九八四
Down from the Hill
●『人生はいつまでも』* 小説 一九八五
Life Goes On
●『潮と石塀《いしべい》』* 詩集 一九八六
Tidesand Stone Walls
●『渦《うず》をのがれて』小説 一九八七
Out of the Whirlpool
●『アラン・シリトーのノッティンガム州』* 旅行記 一九八七
Alan Sillitoe's Nottinghamshire
●『通りのはずれ』* 短編集 一九八八
The Far Side of the Street
●『開かれたドア』* 小説 一九八九
The Open Door
[#地付き](集英社ギャラリー「世界の文学5」より、河野一郎編)