先史時代への情熱
目次
忘れようにも忘れることのできない私の夫、ハインリヒ・シュリーマンが他界してから、まだ何週間とたたないころ、私は、F・A・ブロックハウス氏から、夫の著書『イリオス』に収められている「自伝」の部分を、いっそう広く世に普及させるため、単行本としてあらためて出版したい、という申し出を受けました。そのとき私は、なんのためらいもなく、この計画はお断りすべきではないと感じたのです。それと申しますのも、夫の生涯とその仕事が、そしてまた、いまや、加うるにその突然の死が、同学のかたがたはもとよりそのような知合いの範囲をはるかにこえて、世界のすみずみにまでひきおこした、まぎれもない共感のかずかずに対し、ぜひとも報いなければならないと思ったからであります。
しかし、そればかりではありません。私どもがどのように手探りしながら、トロイアやミケーネで発掘の仕事を始めたか、あるいはまた、私どもの労苦がかちえた成功は、いったいどのようにして実ったか――などということを、苦悩にうち沈みながらも、あらためて思いだしてゆきますと、それは私にとって、いわば悲しい喜びというべきものでもあったのです。ただ、私自身が事にあたったのでは、筆のすすまぬときもあろうかと思い、ブロックハウス氏の計画を現実に実行する段においては、かつてトロイアに滞在中、夫と親しく接しておられたアルフレート・ブリュックナー博士にすべてを一任することにいたしました。そんなわけで、本書がここに「自伝」として完成をみたのは、ひとえに同氏のお力によるものであることを、最後に申しそえておきます。
一八九一年九月二十三日
アテネにて
ソフィア・シュリーマン
〔一八二二〜六六年〕
私はこの書物を私自身の身のうえ話で書き始めようと思うが――ハインリヒ・シュリーマンはその著『イリオス』(一八八〇年)の序文の冒頭を、このように書き始めている――私があえてそうしようと思いたったのは、もちろん、うぬぼれのためからではなく、後年における私の仕事が、いかに幼少のころに受けたもろもろの感銘に左右されているかということ、いや、それどころではない、ことごとくその必然的な帰結であったということを、いささかでも明らかにしておきたいと願ったからにほかならない。
つまり、私にいわせれば、後年トロイアやミケーネを発掘した鍬(くわ)や鋤(すき)に象徴されるもの、それは幼年期に最初の八年をすごしたドイツのある小村で、はやくも鍛えられ、磨かれていたといってもよかったのである。したがって、私はまずそれから語ろうと思う。しかしながら、貧しい子どものころにたてられた私の大計画は、人生の秋になってはじめて実現されるはこびとなった。そしてそれはなにをおいても、それまでに私が獲得した資力のたまものであったから、いかにして私がそれを徐々にたくわえていったか――そのいきさつをここに語るのも、けっして無用のこととは思われないのである。
幼年期の感銘
私は一八二二年一月六日、メックレンブルク=シュヴェリーン〔ドイツの北部〕の小都市ノイブコウで生まれた。父のエルンスト・シュリーマンは、そこで新教派の牧師をしていたが、翌一八二三年には、同じ大公国のヴァーレンとペンツリンの間にある小村、アンケルスハーゲンに、やはり牧師として招かれていった。そのため私は、このアンケルスハーゲン村で、それから八年ばかりをすごしたのである。もともと私は、神秘的なもの、不可思議なものといえば、なににでもすぐひかれてしまう傾向があったが、それを真の情熱にまで燃えあがらしめたのは、じつにこの村におこる、さまざまな奇怪な出来事にほかならなかった。
たとえば、わが家の離れには、父の前任者であったフォン・ルッスドルフ牧師の「幽霊が出る」という噂もあったし、また、うちの庭のすぐ裏手にある、「銀の小皿」と呼ばれる小さな池では、真夜中になると、銀の皿をかかえた若い女の幽霊が立ち現われるという噂もあった。そのほか、その村には、堀をめぐらした小さな丘(おそらくキリスト教以前の異教時代における墳墓と思われる)、いわゆる巨人塚とおぼしいものが見られたが、伝説によると、この墓には、ある年老いた盗賊騎士がその愛児を金の揺りかごに入れて葬ったといわれている。
さらにまた、地主の庭にある古い円塔の廃墟の近くには、莫大な財宝が隠されているとの言伝えもあった。幼い私は、これらの財宝はすべて現実に存在するものだ、とかたく信じて疑わなかったので、父がお金の不足をこぼすのを聞くたびに、
「それなら、どうしてあの銀の皿だの、金の揺りかごだのを掘りだして、お金持にならないの?」と、ふしぎそうに尋ねたものである。
なお、アンケルスハーゲンには、古い中世の城もあったが、その城については、厚さ六フィートの城壁の中を秘密の通路がはしっているばかりか、シュペック近郊の深い湖の底にまで達する、ゆうに七千五百メートルにもおよぶ地下道すらあるといわれていた。そしてそのあたりには、世にも恐ろしい幽霊がさまよい歩く、との噂があって、村人たちは、この妖怪の話となれば、きまってふるえあがるのであった。
ところで、この城にはつぎのような古い伝説がまつわっている。
――すなわち、かつてヘニング・フォン・ホルシュタインという名まえの盗賊騎士がここに住んでいたが、この男は通称を「ヘニング・ブラーデンキルル」〔「あぶり屋のヘニング」という程度の意〕といい、ところかまわず強盗掠奪をはたらいていたので、この地方一帯でひどく恐れられていた。そこで、メックレンブルク公は、その盗賊の居城のそばをどうしても通らなくてはならない商人たちを、その暴行から保護するために通行証を与えたのであるが、これが腹にすえかねて、復讐を決意するにいたったへニングは、ある日のこと、偽りの恭順をよそおって、メックレンブルク公を自分の城に招待した。公はその招待を受けいれ、約束の日がくると、たくさんの従者を従えて出発した。ところが、客を殺害しようという主人の計略を知ったウシ飼いが、通り道の、とある草むら(そこは私の家から約四分の一マイルぐらいのところにある丘の陰にあたる)に隠れて、公を待ちうけ、ヘニングの悪だくみをばらしてしまったのだ。公はただちにひき返して事なきをえたが、その丘に現在「ヴァンテンベルク」〔「待居山」という意〕という名がつけられたのは、この事件のためだといわれている。
さて、盗賊騎士は、ウシ飼いに自分の計画を妨げられたことを知ると、この男を生きながらにして大きな鉄なべに入れ、じりじりと焼いたばかりか、さらにこの哀れなウシ飼いが断末魔の苦しみにのたうつところを、左足でいやというほど蹴りあげて、最後のとどめをさしさえしたのだった。伝説はじつにこのように伝えている。そしてこれを聞くと、メックレンブルク公はさっそく手勢をひきつれて、くだんの城を包囲し、攻撃した。それでさしもの盗賊騎士ヘニングも、もはや万策尽き果て、みずから生命を断ったのであるが、そのまえに、彼の財宝を残らず大きな箱にしまい、彼の庭の丸い塔(今日でもその跡は見える)のすぐそばにそれを埋めたのであった。――
じつは、わが家の教会墓地にある長い一並びの平たい石が、この罪人の墓の遺跡だということで、そこからは、何百年もの間、黒い絹靴下をはいた左足が、切っても、切ってもはえ出たという話だった。寺男のプランゲはもとより、墓掘り人のヴェッラートまでも、
「わしらの子どものじぷんには、その足を切りとっては、その骨でもって木の上のナシをたたき落としたもんだ。もっとも今世紀になると、どうしたわけか、急にその足がはえなくなっちまったがね」と、真顔で断言したものだ。もちろん私も、単純な子どもごころからこの話をすっかり信じていたが、信じたにとどまらず、たびたび父に向かって、
「おとうさんが自分でその墓を掘らないのなら、ぜひこの僕に掘らせてよ。どうして足がはえなくなったのか、そのわけが知りたいんだ」と、やたらとくいさがるしまつだった。
ところで、その城の後壁にとりつけられた陶製の浮彫りもまた、私の感じやすい心に強烈な印象を与えたものの一つである。それはある男を表わしたもので、民間では、ヘニング・ブラーデンキルルの像だと信じられていた。そして、その浮彫りにはどうしても色がつかないところから、そこにはあのウシ飼いの血がしみこんでいるのだ、とさえいわれていたのである。また広間にゆくと、壁のなかに塗りこめられた暖炉の跡が見えたが、それこそ、かつてウシ飼いが鉄なべの中であぶられた場所とみなされていた。だが、いくら壁の中に隠そうとしても、この恐ろしい暖炉のさかいめだけは、どうしても、消し去ることができないと伝えられており――こんなところにも、邪悪な行為をけっして忘れさせまい、とする神の啓示がうかがい知られるのであった。
なおそのほかにも、近くのルームスハーゲンの地主フォン・グントラハ氏が村の教会のそばの丘を掘りおこしたところ、古代ローマ時代の非常に強いビールのはいった大きな木樽が見つかった、という童話じみた噂話も、当時の私には文句なく信じられたのであった。
私の父は、文献学者でも考古学者でもなかったが、古代の歴史に対しては異常なほどの興味をもっていた。父はよく夢中になって、ヘルクラネウムやポンペイ〔ともに古代ローマの都市、ヴェスヴィオ噴火で埋没した〕の悲劇的な末路の話を聞かせてくれたものだが、どうやら、そのような場所で行なわれる発掘に立ち会えるほど、金と暇をもてあましているものこそ、この世でもっとも仕合せな人間なのだ、と心底から思っていたらしい。また父は、ホメロスに出てくる英雄の活躍や、トロイア戦争の出来事なども、いくたびか感にたえぬような口吻(こうふん)で話してくれたものだが、そんなとき、私はいつもトロイア事件の熱烈な擁護者であった。したがって私は、父から、あのトロイアはすっかり破壊され、もはやこの地上から跡かたもなく消えうせてしまった、と聞かされたときには、じつにもの悲しい思いにとらえられた。
しかし一八二九年、つまり私がまだ八歳のときのこと、クリスマスの贈物として、私は父からゲオルク・ルードヴィヒ・イェッラーの『子どものための世界史』という本をもらったが、そのなかには、トロイアの巨大な城壁やスカイア門〔トロイア城塞の主門〕の挿し絵もあれば、また、燃えあがるトロイアの町のなかを、エーネアス〔トロイア王族のひとり、トロイア没落のおりの唯一の生存者といわれる〕が父親のアンキセスを背負い、幼いアスカニアの手をひいて逃げてゆく光景も描かれていたのだった。この挿し絵を見出したとき、私は思わずおどり上がって叫んだ。
「おとうさん、おとうさんはまちがっていたんだ。イェッラーはたしかにトロイアを見たんだよ。そうでなければ、こんな絵をかけるはずがないじゃないか」
ところが父はこう答えたのだ。
「いいかい、ハインリヒ、この絵はただのつくりものなんだよ」
「それなら、あの大昔のトロイアには、この絵にかいてあるような頑丈な城壁はなかったっていうの?」
「いや、それはあったさ」
そこで私はこのあいまいな返答にいい返した。
「おとうさん、もしそういう城壁が昔あったというんなら、ぜんぜんなくなってしまうわけはないじゃないか。きっと、それは何百年ものほこりや石の下に隠れているんだよ」
もちろん、父はこのとき同意しなかったけれども、私が自分の考えをどこまでも曲げなかったので、とうとうふたりの間には、いつか私が自分でトロイアを発掘してみたらよい、ということに意見の一致をみたのである。
ミンナ
「喜びであれ、悲しみであれ、心に満つる思いは口よりあふれ出(い)ず」〔聖書の句〕とでもいおうか、わけても子どもの口はおさえがたいもので、以来、私は遊び友だちをつかまえては、トロイアのことだとか、私の村にふんだんにある神秘不可思議なことだとかばかりを、相手かまわずさかんにしゃべるようになった。彼らがそんな私をいちようにあざ笑ったのは、いうまでもない。だが、アンケルスハーゲンから約四分の一マイルほど離れたツァーレンという村の小作人の娘で、ルイーゼ・マインケとミンナ・マインケというふたりの少女だけは別だった。ルイーゼは私より六つ年上だったがミンナは同い年であった。この姉妹には、私をあなどろうなどというそぶりがすこしも見られなかったばかりか、むしろふたりは、いつもかたずをのむ面もちで私の奇妙な物語に熱心に耳をかたむけたのである。とくにミンナは、私のもっともよき理解者となり、私の遠大な未来計画のすべてに真剣に相づちをうってくれた。やがてミンナとの間にほのかな愛情が芽ばえ、子どもらしい単純さから、それがさらに永遠の愛と誠実を誓いあう間がらに育っていったのも、このような事情があったればこそといわなければならない。
一八二九年から三〇年にまたがる冬の間、私たちは、ふたりがともに参加するダンスの授業(それは私の小さな許嫁(いいなずけ)の家か、わが牧師館か、または例の古ぼけた幽霊城かで行なわれた)のおかげでしばしば顔をあわせたが、その授業が城で行なわれたときには、私たちはきまって、あのヘニングの血染めの石像や、あの忌まわしい暖炉のぶきみなさかいめや、城壁の中の秘密の通路や、地下道の入口などを、いつまでも飽きずにながめいったものである。また、ダンスの授業が私の家であるときには、私たちは表の墓地へ出て、例のヘニングの足は、やっぱりもうはえてこないものか、などと調べてみたり、あるいはまた、一七〇九年から九九年まで私の父の前任者として勤務したフォン・シュレーダー父子(父親のほうはヨーハン・クリスティアーンといい、息子のほうはゴットフリーデリヒ・ハインリヒといった)の手で書かれた古い教会記録簿を、畏敬と讃嘆の念をこめて読みふけったりもした。とりわけ大昔の誕生、結婚、死亡の目録には、私たちはとくべつの魅力を感じたものだ。なお、ときには、わが牧師館のすぐ隣の家まで出むいて、息子のほうのフォン・シュレーダー牧師の娘にあたる、八十四歳の老女をたずねては、村の昔のことを質問したり、彼女の先祖の肖像画を見せてもらったりもしたが、なかでも、一七九五年に他界したという彼女の母、オルガルタ・クリスティーネ・フォン・シュレーダーの肖像がもっとも私たちをひきつけた。それは一つには、芸術的にすぐれた作品と思われたためでもあるが、またその肖像には、どこかミンナと似かよったところがあったからでもあった。
それから私たちは、片目、片脚で、そのために通称を「ペーター・フュッパート」〔「ちんばのペーター」の意〕といった村の仕立屋ヴェッラートのところへもよくいった。この男はまったくの無教育者ではあったが、驚くほど記憶力がよく、たとえば私の父の説教なども、一度聞けばその全部をすっかりそのままくり返すことができるほどであった。もしも学校で教育を受ける道が開かれていたなら、さぞかしりっぱな学者になったであろうと思われる。このような記憶力のおかげで、この男はいろいろな逸話を無尽蔵にたくわえていたが、そのうえ機知にも富み、それらの逸話を驚くべき弁舌の才でとうとうと物語るすべも心得ているときていたから、私たちがおおいに知識欲をかきたてられたのも当然であった。私はここにそのうちの一つを披露(ひろう)することにしよう。
つまり、それはコウノトリに関する話であるが、彼、ヴェッラートは、冬になると、コウノトリがどこへゆくのか、かねがね知りたくてたまらなかった。そこで、まだ私の父の前任者、フォン・ルッスドルフ牧師が健在であったじぶんのある日、彼は、いつもうちの納屋に巣をつくっていたコウノトリを一羽つかまえると、その足に一枚の羊皮紙をしばりつけ、寺男のプランゲに頼んでつぎのような文句を書いてもらった。
「当方、メックレンブルク=シュヴェリーン州アンケルスハーゲン村の役僧プランゲならびに仕立屋ヴェッラートは、本書状をもって、これなるコウノトリが冬に巣をいとなむ家の持主たる貴下に、御地の名まえをこの鳥に託してお知らせいただきたくせつに願いあげ候」と。
ところが、翌年の春、彼がくだんのコウノトリを再び捕えてみると、その鳥の足には別の羊皮紙がゆわえつけてあって、へたくそなドイツ語で、つぎのような詩が書かれていたという。
シュヴェリーン・メックレンブルクなど知り申さぬ。
コウノトリがいたその土地は、
ザンクト・ヨハネス地方と申し候。
と、こういった調子の逸話なのだが、もちろん、私たちはこの話を頭から信じ、ザンクト・ヨハネスとやらがいかにも神秘的に聞こえたあまり、その土地がどこにあるかを知るためなら、生涯の幾歳月をかけてもかまわない、と心底から思ったほどである。実際のところ、こうした類の逸話でもって、地理に対する私たちの知識がとくに豊かになろうはずはなかったが、それでも、地理を学びたいという欲望だけは、それによっておおいにあおられたし、ひいては、なんであれ、神秘的なものへの情熱が高められる結果になったことは事実である。
それはそうと、ダンスの授業からは、ミンナにしても、私にしても、なんの利益もえられなかった。それは、この芸術に対して、私たちが所詮(しょせん)、素質をもちあわせていなかったからかもしれないし、あるいはまた、私たちが重大視していた考古学上の研究や将来の計画にすっかり心を奪われていたからかもしれないのだが、いずれにせよ、私たちふたりは、ダンスのほうはすこしも覚えなかったといってよい。
ともかくこのころには、ミンナと私との間で、先ゆきなさねばならぬ、もっと大事なことが決まっていた。つまり、おとなになったらすぐさま結婚をすること、そしてそれから、このアンケルスハーゲン村のすべての神秘、たとえば、例の黄金の揺りかごだとか、銀の皿だとか、ヘニングの莫大な財宝とその墓だとかを探究し、そして最後に、あの伝説のトロイアを掘り起こそう、ということなどが決まっていたのである。なにしろ私たちにとって、過去の遺跡を捜しながら、全生涯をおくるということ以上にすばらしいことは、他にまったく想像することもできなかったのだ。
実際、トロイアは実在する、というかたい信念は、多事多難な私の全生涯をとおして、一度も私を見捨てなかったが、それだけはじつにありがたいと思っている。しかしながら、私たちふたりが描いた子どもの夢は、それから五十年の後、人生の秋になってはじめて実現されたばかりか、そのときにはミンナと手をたずさえることも許されなかったのである。彼女はすでに、遠く、遠く離れていた。私を待っていたのは、無残にも、そのような運命でしかなかったのだ。
ところで、私の父は、ギリシア語は知らなかったが、ラテン語にはよく通じていて、暇さえあれば、いつも私にそれを教えてくれたものだが、私の愛する母は、私がわずか九歳になったか、ならないころに世を去った。これは、私と六人の姉弟にとって、つぐなうことのできない損失であり、なによりも大きな不幸であった。
だが、不幸はそればかりではなかった。母の死についで、さらに別の重苦しい災難〔父の身持ちに対する世間の冷視〕がかさなっておこり、その結果、知人という知人が突如われわれに背を向け、わが家との交際を絶つにいたったのである。もちろん、マインケ家とても例外ではなく、当然のことながら、私はミンナと会えなくなった。もうミンナと会うことができない、もはやミンナは私の手から失われた――こう思うと、それだけで他のいっさいの悲しみが圧しつぶされた。この圧倒的な打撃は、母の死よりも千倍も大きく、やがて私に母の死さえ忘れさせてしまったほどだ。私はそのころミンナに似たオルガルタ・フォン・シュレーダーの肖像の前にたたずみながら、毎日なん時間も、かつてミンナとともにすごした楽しかった日々を思いだしては、ひとり悲嘆の涙にくれたものであった。当時の私には、未来のすべてが暗く、うっとうしいものに思われ、もはや、この村のどんな神秘も、それどころか、あのトロイアですらも、しばらくはすっかり魅力を失ってしまった。
かくも打ちひしがれた私のようすに気づいた父は、私を二年ばかりの予定で、メックレンブルクのカルクホルスト村にいる叔父、フリードリヒ・シュリーマン〔父の兄弟で、この村に牧師館をもつ説教師であった〕のもとにおくった。この地で私は一年の間、ノイシュトレーリツ出身の試補カール・アンドレスを師とする幸運に恵まれたが、彼は非常にすぐれた言語学者で、その指導のもと、私の進歩はめざましいものがあった。そのため、翌一八三二年になると、むろんまだ完全を望むことは不可能にしても、まがりなりにも、トロイア戦争のおもな事件だの、オデュッセウスやアガメムノンの冒険だのをラテン語で書けるようになり、それをクリスマスの贈物として父に呈上するところまでこぎつけていた。
さて、そのまた翌年、つまり十一歳のとき、私はノイシュトレーリツの高等学校(ギムナジウム)へ入学し、第三学級の生徒となった。しかるに、ちょうどそのころ、私の家はまたしても一つの不運〔父の停職をさす〕に見まわれたのである。こんなことでは、先ゆき何年も高等学校、大学へと私に仕送りをつづけるなど、とてもおよびもつくまいと懸念されたので、私はわずか三カ月で例の高等学校をやめ、ただちに同じ町の実科中学校へ第二学級の生徒として移った。やがて一八三五年の復活祭には第一学級に進級し、三六年の春、十四歳で卒業すると、私はすぐさま実務についた。すなわち、メックレンブルク=シュトレーリツの小都市フュルステンベルクへいって、エルンスト・ルードヴィヒ・ホルツという人が経営する小さな小売店に徒弟としてはいったのである。
こうして私は、いよいよノイシュトレーリツからその町へ旅立つことになったが、その二、三日まえのある日(ちょうど一八三六年の聖金曜日にあたっていた)、宮廷楽士C・E・ラウエの家で、偶然にも、ここ五年以上もまみえる機会のなかったミンナに会った。今にしていえば、これが彼女との最後の出会いとなったのだが、それだけに、私はこの日の出会いを永遠に忘れないだろう。彼女はすでに十四歳で、五年前とくらべると、もうすっかりおとなびていた。そして黒い簡素な服をまとっていたが、こうしたなにげない装いこそ、彼女の魅力的な美しさを、いっそうひきたてているように思われた。ふたりの目と目がぶつかったとき、私たちは思わず涙ぐみ、どちらからともなく駆け寄って、ただ声もなく夢中であい擁するばかりであった。何度も言葉を交(か)わそうと努めはしたものの、興奮があまりにも大きかったので、ふたりとも、とうとうひとことも発することができなかったのである。まもなく、ミンナの両親が部屋にはいってきたため、私たちは、無量の思いをいだいて無言のまま別れなければならなかった。
だが、このときの興奮から私が立ち直るためには、ずいぶん長い時間が必要であった。そしてその興奮が去ると、私はミンナがいまだに私を深く愛していることを、はっきりと確信することができ、それによって、こんどは、私の野望が火のように燃えあがった。つまり、その瞬間、私は無限のエネルギーを身のうちにやどしながら、たゆまぬ精進によってかならず出世してみせよう、そして自分こそミンナに値するものであることを示そう、と深く心に期したのである。そのころ私が一途(いちず)に神に願ったことは、他日私がひとかどの地位を獲得するまで、どうか彼女が結婚しないでいてくれるように、というひとことに尽きるのだ。
貧苦とたたかう
私がさきに述べたフュルステンベルクの小売店に奉公したのは、五年と半年の間であった。その間に、この店の主人は、ホルツ氏から、その後継者、テーオドル・ヒュックシュテット氏へとかわったが、私の仕事のほうはいっこうにかわり映えがしなかった。私は毎日店に出て、ニシン、バター、いも焼酎、牛乳、塩、コーヒー、砂糖、油、脂ろうそくなど、こまごました雑貨品の小売にあたったほか、焼酎醸造所のために、ジャガイモを圧しつぶしたり、店を掃除したり、というような徒弟仕事をくり返していたのだった。なお、この店についていえば、年間の総売上げが三千ターレルにも満たない、けちな商店で、一日に十ターレルから十五ターレルほども雰細雑貨が売れれば、たいした繁盛のように思われていた。
したがって、このような環境では、社会の最下層の人としかつきあえなかった。そのうえ私は、朝の五時から夜の十一時までむちゃくちゃに働かされていたので、もとより勉強する暇などぜんぜんなかったばかりか、子どものころに覚えたわずかな知識までも、どんどん失われてゆく一方であった。だが、それにもかかわらず、学問に対する愛情だけは私のもとにとどまっていた。私はこれまで、一度だってそれを失ったことがないのである。
そういえば、そのころのある晩、そんな私にとって永遠に忘れられぬ事件がおこった。それは、近所に住む、ヘルマン・ニーダーヘッファーという粉屋の職人が、ひどく泥酔してふらふらと店にはいってきた晩のことだ。このヘルマンは、メックレンブルク州レーベルの新教派牧師の息子だが、品行不良のためノイルピンの高等学校を卒業まぎわに放校されたという、いわくつきの人物で、その後は父親の意向によって、ギュストロウの粉屋デットマンのもとに徒弟としてあずけられ、二年間そこにとどまった後、今では、粉屋の職人として諸所方々を転々と遍歴していた。このような境遇への不満のためか、この若者は、その間にすっかり酒におぼれこんでしまったが、しかし、殊勝にも、敬愛するホメロスだけはけっして忘れたことがなかったと見え、その晩にも、へべれけに酔いつぶれながら、この詩人の詩句を百句以上も、あふれるばかりの情感をこめて朗々とうたって聞かせたのである。
むろん私は、その一語も理解することはできなかったが、いかにも旋律的なギリシア語の響きには、かつてないほどはげしく心をゆり動かされた。その崇高な詩句とひきかえ、わが運命があまりにもみじめなために、熱い涙が知らぬまに頬を伝わった。そこで私はさらに彼を促して、その詩を三度もくり返し読んでもらった。そしてその礼として、彼に焼酎を三杯(当時の私としては全財産を投げださなければ買えなかった)もおごって、なんら悔いるところがなかったほどだ。それ以来、私は、神の恵みにより、いつかはギリシア語を学べる身分になれるように、とひたすら祈りつづけたのであった。
にもかかわらず、そのみじめな卑しい地位からいっこうにぬけだせないまま、日が過ぎていった。だが、やがて突然、思わぬことから、その出口が開かれたのであった。というのは、ある日のこと、重い樽を持ち上げたとき、私はふいに胸に激痛を覚え、それから血を吐いて、もはや店の仕事を果たすことができなくなったのである。こうして店を追われた私は、やけくそな気持で、あてもなくハンブルクまで歩いていった。すると、そこで年収一八〇マルクの職にありつくことができたが、吐血と激しい胸痛とのために、重労働まではとても手に負えなかったので、じきに雇主たちも、私がつかいものにならぬ人間であることに気がついた。そういうわけで、それからは、どんな職も、ありついてから一週間とたたないうちに、かならず失ってしまうのだった。
もはや私にはこのような奉公がつとまらないことは、火をみるよりも明らかであった。だが、どんな卑しい仕事でもいい、とにかく日々のパンをかせぐ手だてがほしかったのだ。そこで私はやむをえず、船の中になにか働きぐちはないものかと捜し始めた。そして私の亡き母の幼友だちであった、人のよい船舶ブローカー、J・F ヴェントにたよったところ、彼の推薦によって、さいわい小さな二檣帆船(ブリック)「ドロテア号」の船室給仕におさまることができた。なおこの船は、ヴェネズエラのラ・グァイラへゆくはずになっていた。
こうして私は「ドロテア号」の乗組員となったのであるが、私の貧乏はなにも今に始まったことではないにしても、このときには、まさに文字どおりの無一文であった。たとえば、ウールの毛布を買おうとしても、一文ももち合わせがなかったため、一張羅の上着までも手離さなければならないしまつだったのだ。が、それはともかく、一八四一年十一月二十八日、わが「ドロテア号」は順風に帆を揚げてハンブルクの港を出帆した。しかし、それからあとは、ふてぎわの連続で、まず数時間後には風向きが変わり、われわれはまる三日も錨(いかり)をおろしたまま、ブランケネーゼ近くのエルベ川に浮かんでいなければならなかった。四日めにやっとまた順風が吹き始めたので、われわれはクックスハーフェンを過ぎて公海に出ることができたが、ほっとしたのもつかのまのことで、ヘルゴラント島沖にさしかかったかと思うと、またしてもふいに風が西へ向きを変え、それから十日もの間、ずっと西風が吹きまくっていた。絶えまない逆風に抗して、船はけんめいに走ったが、前進したらしい気配はほとんど認められず、そうこうするうちに、十二月十一日の夜ふけのこと、とうとうわれわれは、テクセル島〔オランダ近海〕の沖合いで、暴風雨のために岩礁〔「デ・エイランチェ・グロンド」という〕に打ち上げ、難破してしまったのである。
それからは、荒れ狂う風波のなかを、九時間という長い間、われわれの小さなボートは翻弄されつづけ、いくたの危険にさらされたが、やがてわれわれ九人の乗組員は、かろうじて難をまぬがれた。幸運にも、ボートに打ちつける激浪のあおりで、テクセル海岸にほど近い、とある砂州に投げ上げられたからであった。こうしてすべての危難が去ったのだが、この瞬間こそ、私が心から神に感謝しつつ、いつまでも忘れることのできない歓喜の瞬間にほかならない。
いまや、どこの海岸にせよ、ともかく私が「異国」の地に身を横たえていることだけは、確かな事実であった。そういえば、その異国のどこからか、一つの声が聞こえて、しつこく私の耳にささやきかけるような気がした。今こそおまえが一か八か決断すべき時だ、さあ、この満潮に達した潮流を利用せよ、とその声はいっているように思われた。ところが、なんとその日のうちに、この虫のいい予感が裏書きされたのである。というのは、船長をはじめ、仲間のすべてが難破のおりに持物をそっくり失ったのにひきかえ、ふと見ると、私のトランク〔その中には、シャツ、靴下、日記帳、ヴェント氏からもらったラ・グァイラあての紹介状などがはいっていた〕だけは、ふわふわと海面にただよっているではないか。もちろん私は、そのトランクを無事のまま引き上げることができた。
やがて、われわれはテクセルのゾンダードルプ領事とラム領事とに迎えられ、非常に親切なもてなしを受けた。彼らは、われわれ乗組員をハンブルクへ送りかえしてやろう、と申し出てくれたが、私自身としては、いうにいえない不幸をなめさせられた、あのドイツへはどうしても帰りたくなかったので、この申し出をきっぱりと断わった。だが、そのかわり私は、このままオランダにとどまりたいのだが、ついては、募兵に応じるために、ぜひともアムステルダムへいかせてくれ、と強い希望のほどを打ちあけた。なにしろ、そのときの私ときたら、まったくの無一文で、さしあたり兵隊になる以外には、生計をたてる見込みがぜんぜんなさそうに思われたからである。そこでなんとかアムステルダムへの渡航費がほしかったのだが、両名の領事も、私の強引な無心に動かされ、ついに二グルデンほど恵んでくれた。
かくて私はオランダの首府、アムステルダムへ向かうことができた。こんどは風が真南に向きを変えていたので、私を乗せた小船は、エンクフイセン市で一日待たなければならなかっただけで、それからは順調な航海をつづけ、ちょうど三日めに、めざす都に着いた。まさしく着のみ着のままの私が、船中ひどい難儀をなめさせられたのはいうまでもないが、アムステルダムに着いてからも、事情はいっこうに変わらなかった。幸福の女神はいっかな私にほほえもうとはしなかったのである。
すでに冬が始まっていた。着ようにも上着はなく、寒気は仮借なく私をいためつけた。予期に反して、入隊の望みも早急にかなえられる見込みがなかった。私は当時、グラールマン夫人という人が経営するラムスコイの安宿に泊まっていたが、そうこうするうちに、テクセル島とエンクフイセンで寄付してもらった、なにがしかの持ち金もまた、アムステルダム駐在のメックレンブルク領事クヴァック氏からもらった二グルデンも、またたくまに食いつぶしてしまった。もはや進退きわまった私は、その場をきりぬける窮余の策として仮病を装ってみたところ、それがみごと図にあたり、入院することで、いちおうはからくも食いつなぐことができた。
それにしても、幸運というものは、どこに転がっているかわからない。というのは、まえにも話したことのある、あの親切な船舶ブローカー、ヴェント氏が、はからずも私をこの苦境から救いあげてくれたのである。じつをいうと、私はテクセルに滞在中、この男に難船の事実と、こんどはアムステルダムで運だめしをしたいという意向とを、手紙で知らせておいたのであったが、その手紙が彼に届いたのが、僥倖(ぎょうこう)にも、たまたま彼が多数の友人と祝宴を張っているさなかのことで、あいつぐ私の災難の知らせは、並みいるものの同情心をひどくかったらしく、その場で彼が集めてくれた募金はなんと二百四十グルデンにも達したのであった。そういういわくつきの寄金が、いまクヴァック領事の手をとおして私のもとに届いたのであるが、そればかりではなく、ヴェント氏が私をアムステルダム駐在のプロシア総領事W・へプナー氏に推薦してくれたおかげで、私はまもなく、F・C・クイエンという人の事務所に勤め口をうることができたのであった。
刻苦勉励
この新しい職場で私に与えられた業務は、機械的な仕事のくり返しにすぎなかった。ただ手形に捺印してそれを町で現金にかえたり、手紙を郵便局へだしにいったり、取りにいったりするだけでよかったのである。そのため、しばらくなおざりにしていた教養方面のことにも、あらためて心をくばれるだけの時間的な余裕ができて、私にはかえって好つごうであった。
まず手はじめとして、私が志したのは習字である。私はそのためにブリュッセルの有名な書家マネーの弟子となったが、二十回ほども授業をうけただけで、読みやすい筆跡を十分ものにすることができるようになった。そこで、つぎに私は、自分の地位をもっと向上させる目的で、けんめいに近代語の学習ととりくんだ。なにしろ、当時は年に八百フランしか収入がなかったというのに、そのうち半分を学習につぎこんでしまったのである。したがって、生活費のまかないに、並みたいていでない苦労を要したことはいうまでもない。
だいいち、月に八フランの間借り生活では、きたない屋根裏住いがいいところで、むろん暖房設備もあるわけがなく、私はそんなところで、冬は寒さにふるえ、夏はやけつくような暑さとたたかわなければならなかった。食事も同じようにみすぼらしかった。朝はライムギのかゆ、昼は十六ペニヒ未満の粗食と相場がきまっていたのだ。しかしながら、つらつら思うに、貧苦にあえぎながらも、必死になって努力すれば、かならずやそこから脱けだせるもので、学習への刺激剤としては、このような確信にまさるものはあるまい。まして私にはミンナに値する人間になろうというせつなる願いがあった。いわばこの願いこそ、私の心に不屈の勇気を呼びおこし、それを育てあげる原動力にほかならなかったのである。こうして私は、異常なほど熱意を燃やして英語の学習に打ちこんでいった。すると、この学習をつづけているうちに、私のような境遇のものにふさわしい、ある簡単な方法がみつかった。つまり、必要に迫られたともいえるのだが、後に他の多くの言語を学ぶようになると、これがどんな場合にも、ひどく役にたつ方法であることがわかった。
この簡単な方法とは、なによりもまず、まちがっても翻訳などしないで、ただくり返し音読すること、また、毎日かならず授業をうけなければならないが、そのつど興味ある対象について作文し、それを先生の指導によって改め、改めたら、しかと記憶にとどめて、つぎの授業のときには、前日になおされたものを暗唱してみること――ざっとこんなぐあいであった。ところで、私の記憶力はといえば、子どものころから訓練しておかなかったせいか、あまりよいほうとはいえなかったが、それでも、その欠点を補うために、私は一瞬もおろそかにしなかったばかりか、盗めるかぎりの時を盗みさえしたのだった。たとえば、いっときも早く正しい発音をものにするために、日曜日にはかならず、二回は英国教会の礼拝にかよい、英語の説教に耳をかたむけるかたわら、そのあとを一語一語ひそかに口ずさんだものである。また、使い歩きのときなど、雨が降っていても、本を手ばなしたことはないし、郵便局などで、ぼんやりと時をすごしたこともなく、つねにすこしでも暗記することを怠らなかった。こんなふうに努力した甲斐(かい)あって、私の記憶力はめきめきと強くなり、ものの三カ月もたったころには、あらかじめ三回ぐらい注意ぶかく通読しておけば、二十ページやそこらの英文ぐらいなら、師(テイラー氏とトンプソン氏)の前で、よどみなく暗唱できるまでに私は上達していた。
こうして私は、ゴールドスミスの『ウェークフィールドの牧師』も、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』もくまなく暗記してしまったのであるが、興奮しすぎて眠れないことがあっても、そんな時間もむだにはすごさず、寝るまえに読んだものを、床の中でもう一度そらんじてみることにしていた。もともと夜のほうが昼間より記憶力が冴(さ)えるのは当りまえだが、私の経験でも、夜中に反復練習することによってすばらしい効果があがったものだから、これはじつによい方法だと思っている。が、それはさておき、結局のところ、私は半年で英語の基礎知識を徹底的に修めることに成功したのである。
英語が終わると、私はまた同じ方法をフランス語にも適用して、これをそのつぎの半年で習得し、フェネロンの『テレマクの冒険』や、ベルナルダン・ドゥ・サンピエールの『ポールとヴィルジニー』なとを暗記してしまった。そこで、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語など、矢つぎばやに新しい語学ととりくんでいったのであるが、修練とはおそろしいもので、このように一年の間、倦(う)まず休まず猛勉をつみかさねたあとでは、私の記憶力は見ちがえるほど旺盛となり、これらの言語を習得するのに、もはやあまり手まがかからなくなっていた。ともかく、六週間とたたないうちに、どの言葉でも流暢に話したり、書いたりすることができるようになったのである。
ところで、私のその後の健康状態であるが、大声でさかんに朗読したせいか、それとも、しっとりとしたオランダの空気が幸いしたためか、いずれにせよ、私の胸の疾患は、アムステルダムに滞在して一年もたつと、いつのまにか消え去り、以後、再発しなくなっていた。
しかし、健康の回復とともに、学習への情熱がますます盛んになると、その反面、私は単調な給仕の仕事にいや気がさし、しだいに仕事を怠けるようになった。とくに、私に与えられた業務が、どうも私にはふさわしくないと思い始めるにいたって、この傾向はいっそう著しくなっていった。だが、このような私の自己評価にもかかわらず、給仕の仕事も満足にこなせぬものに、それ以上のポストがこなせるはずはない、というのが上役たちの意見であったらしく、このクイエンの事務所にいる間、私には昇進の機会が一度も与えられなかったのだ。
ところが、一八四四年三月一日のことだったが、ついに私の脱出の願いがかなえられた。というのは、マンハイムにいるルイス・シュトルと、ブレーメン在のI・H・バルラウフというふたりの友人の斡旋(あっせん)によって、私はさいわいアムステルダムのB・H・シュレーダー商会という商社の事務所に、通信員兼簿記係として入社することができたからである。私の新しい俸給は年に千二百フランという約束であったが、まもなく私の熱心さが認められ、雇主は、いっそう精励するようにと、さらに八百フランの追加給をはずんでくれた。商会のこうした気まえのよい処遇をきっかけとして、それ以後とんとんと私は幸運に恵まれたわけで、このときの厚遇には、私はいつまでも感謝の念を失うまいと思っている。
ともかくこの厚遇のおかげで、私はまずロシア語の学習にとりかかることができたのである。この言葉をものにすれば、商会にとって私がもっと有用な人物になるであろう、というふうにも思ったからだ。しかるに、やっと入手することのできたロシア語の書物といえば、古ぼけた文法書と、辞書と、それから『テレマクの冒険』のつたない翻訳との三冊だけであったし、また教師にしても、ずいぶんと骨をおってはみたものの、どうしてもみつかりそうになかった。なにしろ当時アムステルダムには、ロシアの副領事タンネンベルク氏を除いて、ロシア語のわかる人はひとりもいなかったうえ、唯一の希望であった当のタンネンベルク氏にしてからが、いくら教えてくれと頼んでも、うんといってくれなかったからだ。こういうわけで、私は教師をえないまま、文法書だけをたよりに、この新しい勉強を始めたのであるが、やはり数日をへずして、ロシア文字とその発音とを覚えこんでしまった。そこで私は、またもまえに述べた方法によって、短い文章や物語をつくっては、それらをかたっぱしから暗記していった。添削をしてくれる人がいなかったため、出来映えたるや、まことにおそまつをきわめたにちがいないが、それでも、頭のなかにたたきこんだ『テレマクの冒険』のロシア語訳を尺度として、実際的な練習をつみかさねながら、しだいに誤りをおかさないようにしようと、そういう努力だけは怠らなかった。だが、こうしてひとりだけで学ぶよりも、誰でもいいから、とにかく『テレマクの冒険』の朗読を聞いてくれる相手がそばにいれば、もっとすみやかに上達できそうに思われてきた。そこで私は、ひとりの貧しいユダヤ人を週四フランで雇い入れたのであるが、その男は、ひとこともロシア語がわからないというのに、毎晩二時間ずつ、私のもとでロシア語の朗読を聞かされたのであった。
ところで、困ったことには、普通のオランダ家屋というものは、天井がたいてい一重の板ばりで、ときには一階にいても、四階の話し声が筒ぬけに聞こえてしまうというぐあいなのだ。私の下宿もその例外ではなかったから、私の大きな朗読の声は、ほかの間借人たちをおおいに悩ましたらしく、家主に苦情ををいい、その結果、ロシア語を勉強している間だけでも、私は二回も下宿を追いだされる羽目になったのである。しかし、それくらいの不便で、私の熱意がくじけるはずはなく、またも六週間の後には、私のロシア語はものの役にたつ手紙を書けるまでに上達していた。ちなみに、私がはじめて書いたロシア語の手紙は、モスクワで大きくインド藍を扱う商社〔M・P・N・マルーティン兄弟会社〕のロンドン代理人、ウァシリー・プロトニコフというロシア人にあてたものだが、このプロトニコフが、インド藍の競売に立ち会うために、たまたまアムステルダムを訪れたときには、彼とばかりではなく、マトヴェイエフ、フロロフといったロシア商人たちとも、私はシュレーダー商会の代表者として、けっこう不自由なく彼らの母国語で言葉を交(か)わせるようになっていた。
さて、ロシア語の学習が一段落すると、私はこれまでに覚えた語学をもとに、諸外国の書物を読みあさって実力の養成に努めた。
一八四六年の一月、ロシア語の実力をみこまれた私は、商会の代理人としてペテルスブルク(現サンクトペテルブルク)へ派遣され、またモスクワへゆく機会にも恵まれたが、どちらの土地にあっても全力をあげて商売にあたったので、数カ月をへずして、社長はおろか、私自身すらびっくりするほどの成果をあげた。いまや私は、この新しい地位によって、シュレーダー商会のために欠くべからざる人物となったばかりか、押しも押されもせぬ独立をもかちえたのであった。要するに、いちおうは出世をとげたわけである。
もはやはやる心をおさえるすべもなく、私はさっそく、マインケ家の知合いとしてまえにも紹介したことのある、ノイシュトレーリツのC・E・ラウエに手紙を送り、あれから自分はかくかくしかじか(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)の経歴をふんできたのだが、どうか私の代理として、すぐにもミンナに結婚を申しこんでほしい、と依頼した。それから一カ月たって私は返事を受けとった。だが、そこには、つい二、三日まえ、ミンナはほかの男と結婚した、と書いてあるではないか。なんということだろう、私は激しい驚愕に打ちのめされた。いかなる非運といえども、たった今、なめさせられた、この幻滅ほどに耐えがたくはあるまいとも思われた。私はもはやどんな仕事にも手をつける気にはなれず、どっとばかり、病の床にたおれてしまった。
床の中にあっても、ミンナと私との間の遠い思い出が、絶えまなくつぎつぎと私の心によみがえってきた。もちろん、ふたりで少年時代に描いた、あの甘い夢も、壮大な計画も、ありし日のままに浮かびあがった。それにしても、ようやくそれらを実現できそうな明るい気配が見え始めてきたというのに、あろうことか、今はそのミンナがいないのである。そしてミンナが参加できないとあっては、すべては色あせ、残骸と化すほかはない。私たちふたりの夢を私が単独で実行するなどということが、どうして考えられよう。それだけに、いまさらいっても、せんないこととはいえ、ペテルスブルクへ赴任するまえに彼女に結婚を申しこまなかった迂濶(うかつ)さが、悔やまれてならないのであった。しかし、そんなことをしたら、もの笑いの種になるのが関の山であったろう、と私は一方では、なんどもなんども我とわが身にいい聞かせた。なにしろ、アムステルダム時代の私はといえば、主人の機嫌ひとつでどうにでも左右されるような、はなはだたよりない身分であったし、また、ペテルスブルクへ赴任することになったからといって、そこへゆけば、成功まちがいなし、などという確たる保証があろうはずもなかったからだ。
それはさておき、あのミンナが他の男のもとで幸福になれるなんて……それはまるで、私がほかの花嫁をもらって幸福になるようなもので、そんなことは絶対にありうべきことではないと私には思われた。思えば、十六年もの長い間、私は彼女をえようと、ただそのためにのみ努力をつづけたといえるのだが、こともあろうに、その念願がかなって、ついに彼女がわが手にはいらんとした瞬間に、その私の手から彼女をもぎとってしまうとは、運命はあまりにも残酷ではないか。そうだ、私たちふたりは、誰しも夢の中ではよく経験する奇妙な状態、つまり、自分では一生懸命に誰かを追いかけているつもりなのに、いざ追いついたと思うと、その瞬間には、かならず相手に逃げられている――そんな奇妙なぐあいになってしまったのである。
いずれにせよ、当時の私には、ミンナを失った傷心に打ち勝つなどということは、とうてい不可能のように感じられていた。だが、ありがたいことに、時がたつにつれて、私の傷ついた心もしだいに癒されていった。時がそのふしぎな作用を行使してくれたのであろう。それからもなお長い年月、私は失ったものを惜しみつづけはしたけれども、やがて徐々に立ちなおって、本来の商人生活に没頭することができるようになっていった。
大商人として
私のペテルスブルクでの生活が、そもそもの始めから非常な幸運に恵まれていたことはまえにも話したとおりであるが、一八四七年の初めごろには、私はすでに大商人と認められて商業組合(ギルド)に登記された。こうして独立した商人として新しい活動にいそしむかたわら、アムステルダムのシュレーダー商会との関係はあい変わらず保ちつづけ、ほぼ十一年の間、私はその代理人をやめなかった。なお、アムステルダムにいたころインド藍の知識を徹底的にのみこんでおいた私は、それからももっぱらこの品物の取引にあたることにしていた。
一八五〇年の春、私は前年カリフォルニアに移住した弟のルードヴィヒ・シュリーマンをたずねて、その地へいった。一年ごしの音信不通が気にかかったからであったが、不幸にして、彼は異郷で死んでいた。ついでに私はしばらくその地に滞在し、やがて七月四日をむかえたが、その日はカリフォルニアが州に昇格する日で、この記念すべき日に、その地に滞在中のものはすべて滞在の「事実によって」自動的にアメリカの国籍をうることになった。そこで私もまた当然、合衆国の市民となったのである。
さて、それはともかく、私の事業はますます発展し、一八五二年の終りごろには、私はモスクワにインド藍の卸売をする支店を設立するまでになっていた。ついでながら、その支店の管理には、はじめはアレクセイ・マトヴェイエフが、ついで彼の死後は、その下男であったユチェンコという男があたったのであるが、私がこのユチェンコをば、第二級とはいえ、ギルド所属の商人の地位に格上げしてやったのは、およそ支配人はろくな使用人とはならないのに反し、有能な使用人はとかくよい支配人になりやすい、という私の経験にもとづいた処置で、これはまちがっていなかったのだ。
事業の発展とともに、私の身辺はますます多事多忙をきわめ、ペテルスブルクでの明け暮れは、文字どおり目がまわるほどであった。したがって、語学の勉強など、とてもおよびもつかぬありさまであったが、一八五四年ごろになると、仕事もどうやら軌道にのり始め、再び念願の語学にとりかかれる時間ができるようになって、私はとりあえずスウェーデン語とポーランド語を習得した。
ところで、神の摂理とでもいおうか、私の生涯には、一再ならず、ある不可思議な力で、まるで偶然のように、あるべき不幸をまぬがれた思い出がある。一八五四年十月四日の朝も、そのような不可思議な過去の一こまとして、生涯かけてけっして忘れることができないであろう。
ちょうど世はクリミア戦争をむかえていた。そのため、ロシアの港は封鎖され、ペテルスブルク行きの商品は、すべてプロシアのケーニヒスベルクかメーメルを経由、陸路で運送されなければならない状態にあった。私あての荷物も例外ではなく、数百箱のインド藍と他の大量の商品が、アムステルダムから二艘の蒸気船に積まれて、メーメルの私の代理店、マイヤー商会に送られたのも、そこから陸路でペテルスブルクへ輸送されるためにほかならなかった。そのころ、アムステルダムでインド藍の競売に立ち会わなければならなかった私は、それが済みしだい、当該貨物の運送を監督するためにメーメルへ向かう予定であった。そして十月三日の夜遅く、私はケーニヒスベルクのホテル・ドゥ・プリュッセに着いたが、翌朝、寝室の窓からふと目をやると、近くにそびえる「緑の門」という塔の上に、鍍金(めっき)した大きな文字で、つぎのような不吉な銘文が輝いているのに気がついた。
運命は月に似て、そのすがた常なし。
満つれば欠けて、とどまるを知らず。
私はべつだん迷信にとらわれるたちではなかったが、それでもこの銘文の文句は妙に私の心をとらえ、その強い印象のために、私はある漠然とした不安に胸をおののかせたのであった。だが、驚いたことに、この予感は的中した。私は郵便馬車でさらに旅をつづけたのだが、やがてティルジトのすぐつぎの町まできたとき、なんと目ざすメーメル市は、ついきのうのこと、恐るべき大火によって灰燼に帰してしまった、と人の噂に聞いたのである。近づくほどにその噂が事実で、町の惨状は予想外にひどいものであることがわかった。町は、さながら巨大な墓地のように横たわっていた。煙で黒ずんだ壁や煙突は、まるで大きな墓石のごとく、いいかえれば、現世の諸行無常を物語る暗鬱な象徴のように突っ立っていた。もうだめだ、あらかた絶望しながらも、私はなお余燼のくすぶる廃墟の間にマイヤー氏を捜しまわった。そしてとうとう目ざすマイヤー氏の姿はみつかったが――
「私の貨物はどうした?」と私がせきこんで聞くと、相手は黙然と、まだくすぶりつづける彼の倉庫を指さし、たったひとこと、「あそこに埋まっています」と答えたのだ。
一瞬、私はがーんと苛烈な衝撃をうけた。思えば、八年有余というもの、私はペテルスブルクを本拠にひたすら財をきずくために働き、そうして営々ときずきあげられたものは、いまや十五万ターレルにも達していたが――無惨にも、これであとかたもなく消えうせてしまったのである。ああ、なんたることか。私はしばらくの間、驚愕と失意のために己を失っていたが、諦めがやってきたのか、やがてこのような損失感にも慣れてしまうと、衝撃からも立ちなおることができた。いうなれば、破産が確かな事実であるだけに、かえって、心の落ちつきをとり戻しやすかったとさえいえるのだ。
しかも、救いとなる条件もなくはなかった。というのは、当時、私はクリミア戦争勃発直後の不安定な世情を考慮して、その取引はすべて現金で行なっていたので、いっさいを失いこそすれ、誰にも債務を負ってはいなかったからである。負債がないという意識は、とにかく私には大きな鎮静剤であった。それに、いざというときには、ロンドンとアムステルダムのシュレーダー商会から信用貸しをしてもらえることはまちがいなかったから、いずれはかならず、この損失を補償することができるだろう、とも私はかたく信じていた。
さて、その日の夕方のこと、そんな悲壮な思いにつつまれながら、私は焼けこげたメーメルからペテルスブルクへと向かうべく、郵便馬車に揺られていた。が、そのうち、黙っていられない性分の私は、とうとう同乗の客たちに自分の災難をあれこれと話し始めたのだが、やがてだしぬけに、聞き手のひとりが私に名まえをたずね、私が名のると、その男は、えたりとばかりつぎのように叫んだのである。
「シュリーマンさん、あなたはなにも被害など受けておりません。そうです、あなたおひとりがなんでもなかったのですよ。申し遅れましたが、わたしはマイヤー商会の一番番頭をしておるものですが、シュリーマンさん、あなたの貨物を積んだ船がメーメルに着いたとき、わたしどもの倉庫はもういっぱいだったので、しかたなしに、あなたの貨物を倉庫のすぐわきに急造した木造小屋に入れたのです。ところが、その木造小屋だけは助かったものですから、請けあいますが、あなたの商品はその中にそっくり残っているはずです。ええ、まちがいありませんとも」
この急転直下の吉報に、私は数分の間、声もなく立ったまま、あふれ落ちる涙をぬぐうこともできなかった。現に見た、あの完膚なきまでの災害から、この私だけが無事であったなどとは、まさに夢のようで、とても信じられない話ではないか。だが、事実はまさしく番頭のいうとおりであったのだ。あとで聞いたことだが、町の北部にあるマイヤー商会の倉庫からあがった火の手は、ハリケーンもどきの激しい北風にあおられて、見る見るうちに町全体をなめ尽くしてしまったというのに、さいわい奇跡的にも、発火点の風上わずか二、三歩のところに位置していたあの木造小屋は、そのためになにひとつ被害をうけずにすんだ、というわけなのであった。
私はこうして、ただひとり災厄をまぬがれたばかりではなく、この災害が逆に幸運をもたらしたとは、やはり摂理のしからしむるところであったろうか。私は絶好の売りどきとばかりに、火災をまぬがれた商品を放出したのだが、それはきわめて有利な値だんで売りさばかれたのである。また、クリミア戦争真っ最中のこととて、世の資本家たちはおおむね事業の拡張を手びかえていた。こういう情勢を意識的に利用したわけではないにせよ、私はさきの利益をつぎからつぎへと投資し、インド藍はもとより、塗料や、硝石、硫黄、鉛などといった戦争資材までも大きく取引しつづけたところ、結果として思わぬ利得をあげ、一年とたたぬうちに、財産を二倍以上にもふやすことができたのであった。
さて、商売のほうがこのように順調に進んでいたのにひきかえ、語学のほうはとんと停滞したままで、私がかねがね学びたいと思っていたギリシア語への渇望も、この状態ではなかなかかなえられそうになかった。というのは、戦前は戦前で、このすばらしい言語に魅せられたあまり、肝心の商売がおるすになっては一大事と思われたし、また、戦時中は戦時中で商売が忙しすぎ、新聞をさえ読むことができないといったしまつで、まして書物を手にするどころの騒ぎではなかったからである。
しかし、ついにその時はきた。一八五六年の一月、休戦の第一報がペテルスブルクに届いたのだ。もはや年来の願望のおさえがたく、私は待っていたとばかり、さっそくこの新しい勉学にとびついて全力をそれに傾注した。余談ながら、私がついた先生は、はじめはニコラス・パッパダケスという人、つぎはテオクレトス・ヴィンポスという人であったが、ふたりともアテネ出身のギリシア人で、後者のごときは後にアテネで大主教をつとめたほどの人物である。
こんどもまた、私はかつて編みだした独特な方法に従って学び始めたが、そのやりかたでは、まず第一に、ロシア語の場合よりずっとむずかしそうな印象などに屈せず、ともかく短期間のうちに単語を覚えこむ必要があった。そのため私は、『ポールとヴィルジニー』の近代ギリシア語訳を手に入れると、それを読みすすむかたわら、一語一語を注意ぶかくフランス語の原本と照合して調べた。そうすると、一回読み終わったときには、私はすくなくともこの本に出てくる単語の半分は自分のものにしていたが、二回めには、あらかた全部を覚えこみ、たいして、辞書のやっかいにならずともすむようになっていた。こうしてわずか六週間という短時日の間に、私はまたしても近代ギリシア語という難関を突破し、つづいて三カ月とたたないうちに、さらに古代ギリシア語をもものにすることができた。むろんホメロスなど、二、三の古典作家のものを十分に読みこなせるまでに熟達したのであるが、わけてもホメロスのものは、ことのほか感激して以後なんども読み返したことを、ここにつけ加えておこう。
さて、それから二年の間、私はもっぱら古代ギリシア文学に読みふけったもので、おもな古典作家といえば、この期間にほとんどあまさず目をとおしてしまった。とくに『イリアス』と『オデュッセイア』にいたっては、いったいなんど読んだかわからないぐらいだ。ところが、ことギリシア文法というだんになると、私が覚えたのはたかだか、名詞変化と動詞の規則変化、不規則変化ぐらいのもので、要するに、文法規則などを習得するために、ほんのわずかでも時間を費やそうとはしなかったのである。なにしろ、考えてもみたまえ、八年余にわたる長い高等学校時代に、やれ、あそこはああだ、ここはこうだ、と退屈きわまりない文法の規則に苦しめぬかれたあげく、いったいどれだけの少年が、満足にギリシア語の手紙を書きうるにいたったであろうか。ひとりもいないではないか。
私にいわせれば、こんな語学教育などは、百害こそあれ、一文の値うちもないと断ぜざるをえないのだ。だいたい文法を完全にマスターするには、ただただ、実地訓練あるのみと私はいいたい。すなわち、古典の散文を注意ぶかく、しかも数多く、なんども読み返すうちに、そのなかの典型的な例文をおのずから暗記する、といった方法によってのみ、それは可能となるのである。これは、簡単といえば、きわめて簡単な方法かもしれないが、私はこうして古代ギリシア語を今日の生きた言葉として学んだものだから、どんな話題についても、すらすらと書くこともできれば、ペらペら話すこともできるようになり、しかも、けっして忘れないという自信がある。このような方法によれば、文法書に書いてあるか、ないかは別として、すべての文法上の規則に通じてしまうというのが私の信念だが、もしも私の説が信じられず、私のギリシア語の文章に誤りがあるというのならば、遠慮なくそれを指摘してみたまえ。私はたちどころに、私のいかなるいいまわしについても、それはこれこれの古典作家からとったものだという事実を朗読によって示しながら、私の表現方法の正しさを証拠だてることができるであろう。
ところで、この間、商売のほうもたえず順調な針路をすすみ、ペテルスブルクにおいても、モスクワにおいても、すべてが思いどおりにはかどった。ただ、恐るべき商業危機が襲来した一八五七年には、さすがの私も、若干の打撃に見まわれはしたものの、本来、商人としては用心ぶかいほうであったため、大過なくその危機をきりぬけたばかりではなく、その惨憺たる不況の年においてすら、結局はいくばくかの利益をあげさえしたのだった。
そこで翌五八年の夏になると、私はまたぞろ語学熱にとりつかれ、敬愛する友、ルートヴィヒ・フォン・ムーラルト教授とともに、二十五年もの間休んでいたラテン語の学習にとりかかった。近代ギリシア語はおろか、古代ギリシア語までできるようになっていた今では、ラテン語を修めるのに、もはやたいした苦労や時間のかかるはずもなく、アラビア語を除いては、長かった私の語学遍歴にも、これでようやくいちおうの終止符がうたれることとなったのである。
新しい出発のために
この一八五八年には、これまでに私が獲得した財産だけでも、私の年来の宿願を果たすのに、もはや不足はあるまいと思われたので、この機会に私は商売からすっかり手をひき、新しい人生への第一歩を踏みだそうと思った。そこでまず念願の世界旅行を試みたのであるが、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、イタリアと旅行したあと、そこからエジプトへ渡り、エジプトではナイル川をさかのぼってヌビアの第二瀑布までいってみた。この旅すがら、私がアラビア語を学べる好機をのがさなかったことはいうまでもなく、さらに砂漠を横ぎってカイロへ、カイロからイェルサレムへと旅をつづけたうえに、イェルサレムからはペトラを通って、ほとんどシリア全土を周遊するかっこうとなったから、私としては、その間ずっと、アラビア語の実際的な知識を身につける機会に恵まれたわけである(もっともこの言語の本格的な研究に私がとりくんだのは、後にペテルスブルクへ帰ってからのことだ)。さて、シリアからひきあげると、翌一八五九年の夏のことであったが、あい変わらず旅の途上にあった私は、スミルナ〔トルコの都市〕、キクラデス〔エーゲ海上の群島〕、アテネを訪れ、アテネからはイタケ島へ渡ろうと思っていた。ところが、ちょうどその直前に、私はおりあしく熱病におかされて病床の身となった。
悪いときには悪いことがかさなるもので、病気でたおれると同時に、私はペテルスブルクから、あまりかんばしくない知らせをも受けとっていた。その知らせによれば、私に対して巨額の負債を負ったまま以前に倒産したステパン・ソロヴェエフという商人が、ふたりの間でむすばれた四年以内の年賦返済という協定を破って、第一回めの支払期日を守らないばかりか、さらに私を相手どって商業裁判所に訴訟をおこした、というのだった。私はとりあえず、病をおしてただちにペテルスブルクへ帰らないわけにいかなかった。すると、陽気が変わったせいか、熱病はけろりとなおり、訴訟のほうも、思ったより簡単に私の勝訴となって、万事めでたくおさまったかに見えた。ところが、そこへやっかいなことがもちあがった。つまり、相手のソロヴェエフが元老院に控訴したのでる。そして元老院までくると、ふつう判決は早くて三年ないし四年以上はかかるばかりでなく、その間には当事者の出席までが要求されるのであった。そこで、その埋めあわせのために、私自身としてははなはだ不本意ながら、一度は手をきったはずの商売取引を再び始めなければならなかった。
こうして一八六〇年から、あらたに、しかも以前より大規模に取引が開始されたのであるが、その年の五月から十月までの間だけでも、私が輸入した商品の価格は、じつに一千万マルクをくだらなかった。それは主としてインド藍とオリーブ油であったが、私はそのほか、つぎの年には、かなり大がかりに、もめんの取引にも手をだしたところ、それが偶然の成りゆきから、すなわち、アメリカに南北戦争がおこって南部諸港が封鎖されたおかげで、思わざる莫大な利益をうむ結果となった。しかし、まもなくもめんの値段が急騰するにおよんで、私はいちはやくこの商売に見きりをつけ、そして翌一八六二年五月からは、海路による輸入が許可されることになった茶に目をつけ、これを大きく取引し始めた。だが、六二年から六三年にかけての冬、ポーランドに発生した革命のどさくさまぎれに、ユダヤ人どもが厖大な量の茶をロシアに密輸し始めるにおよび、高い輸入税を支払うことを余儀なくされていた私には、もはや太刀打ちができなくなった。そのため私は、まだ六千箱も残っていた在庫品を、わずかな利益にしかならなくても、とにかく売りさばいてしまうと、茶の取引からも身をひいたのである。
こうして私は、それからも臨機応変、いろいろと取引の材料を変えていったが、たえず神の庇護に恵まれたとでもいおうか、なにに手をだしても、私の商売はことごとくすばらしい成功をおさめ、一八六三年の末ごろには、私の財産はまったく不動のものとなった。いまや、少年時代から心にいだきつづけてきた、あの理想の実現に、全力をあげて専念できる条件が熟したように思われた。顧みれば、商人としての生活がどんなに多忙をきわめた時期にあっても、私はあのトロイアを、そしてそれをいつかは掘りおこそう、と三十何年もまえに父やミンナと申しあわせたあの誓いを、かつて、つかのまも忘れたことはなかったのだ。そういえば、私の心のなかになお残っていた金銭への断ちがたい執着も、じつは、生涯の大目的を、ぜがひでも達成せんとの悲願から発したものにほかならなかったし、またそのうえ、私が一度はやめた商売に不本意ながら再び手を染めたのも、ソロヴィエフとの長たらしい訴訟のためにやむをえない成りゆきというほかはなかった。ところで、その訴訟事件であるが、それも、元老院が相手かたの控訴を却下した結果、一八六三年には無事に、かたがつき、その年の十二月に私は最後の支払い額を受けとることができた。いまや、理想達成への足がかりは完全に整ったわけで、私はただちに事業を解体すると、いよいよ半生の夢の実現にとりかかる手はずとなったのである。
しかしながら、考古学という新しい主題に全身全霊をささげるまえに、私はもうすこし世界を見聞しておきたいと思った。そこで一八六四年の四月、私はまずチュニスへの旅にのぼって、その地でかのカルタゴの遺跡を実見におよび、そこからエジプトを経てさらにインドへ渡った。そしてセイロン島、マドラス、カルカッタ、ベナレス、アグラ、ラックノウ、デリー、ヒマラヤ山脈、シンガポール、ジャワ島、コーチシナ〔現在ではヴェトナムの一部をなす〕のサイゴン――といった順序で矢つぎばやに周遊し、そのあと二カ月ばかりシナに滞在したが、その間には、香港(ホンコン)、広東(カントン)、廈門(アモイ)、福州、上海(シャンハイ)、天津、北京(ペキン)と歩きまわり、あの有名な万里の長城にまで足をのばした。また、シナのつぎには日本にも立ち寄り、横浜と江戸を訪れる機会をえた。そして、その横浜から小さなイギリス船に乗ると、太平洋を越えてカリフォルニアのサンフランシスコへ渡ったのであるが、この航海にはじつに五十日間を要し、その間に私は最初の著書『シナと日本』〔一八六六年刊行〕を執筆したのであった。さて、サンフランシスコに着くと、私はそこからニカラグアを経て合衆国の東部へ旅をつづけたから、結局、合衆国の大半の州を通過したことになる。それからなおハヴァナとメキシコ市を訪れたが、それでようやく私の周遊が終りを告げ、一八六六年の春から、私は考古学に専念するため、パリに腰を落ちつけることになったのである。つけ加えるまでもなく、この研究はそれ以来、かなり短いときたまのアメリカ旅行によって中断されたほかは、生涯とだえることなくつづけられるのであった。
〔一八六八〜六九年〕
イタケ
「ついに私は、ある半生の夢を実現できる境涯に達したのだ。私にとってあれほど深い関心の的でありつづけた、あの伝説の諸事件の舞台を、また、その冒険によって少年の私をあれほど魅惑し、元気づけてくれた、あの英雄たちの祖国を、いまや私は時間を気にする必要もなく、思うぞんぶん、実地検分することができる身分になったのである。かくて一八六八年四月、あこがれの旅路についた私は、ローマとナポリを経て、コルフ、ケファロニア、イタケ〔いずれにもギリシア西岸に近いイオニア海の島〕の諸島へ渡り、オデュッセウスゆかりの地、イタケにおいては、徹底的な調査をさえ試みた」とシュリーマンは、この古跡巡礼への門出にあたって書いている。
ところで、そのイタケ島には、アエトス山という山があるのだが、その山の頂を古代色豊かな周壁がとりまいているところから、土地の人々は、これこそオデュッセウスの城塞に相違ない、とみなしていた〔ホメロスではイタケがオデュッセウスの故郷とされているのだが、はたして今日のイタケがそのイタケであるかどうかは、疑問視するむきが多い。もちろんシュリーマンはこの点でも生一本にすぎるぐらいホメロスによりかかっている〕。シュリーマンがまず第一に発掘の鍬をおろしたのは、この山の上においてであったが、彼がどうしてこの場所を掘り始めようと思いたったか、あるいはまた、発掘をしながら、彼がどんなことを考えていたかは、その著『イタケ、ペロポネソス、トロイア』〔一八六九年〕のなかでつぎのように述べられている。
「アエトスの頂上は、ほとんど一面といっていいほど、大きな水平の石でおおわれていたが、それでも、数メートルずつ間隔をおいて、あちこちに灌木や雑草がはえているところをみると、ここにも、どうやら土壌があるらしいことはわかった。そこで私は、地面の状態いかんによっては、ただちに発掘を始める決心をした。ただあいにくと、この日になんら道具のもちあわせがなかったため、せっかくやりかけた調査も、翌日まで延期しなければならなかった。
うだるように暑い日で、私の寒暖計は摂氏五十二度をさしていた。じりじりと渇きが咽喉(のど)を焼きこがすというのに、私の手もとには、酒はもとより、一滴の水もなかった。だが、今、私が立っているところは、ほかでもない、あのオデュッセウスの宮殿の遺跡ではないか。そう思うと、身うちには鬱勃(うつぼつ)と感激がわきあがり、いつか私から、炎熱も渇きも遠のいてしまった。忘我の境地というのか、しばし私は、夢中になって地形を調べてみたり、『オデュッセイア』をひもといては、この場所を舞台とした感動的な場面の叙述を読み返したりしていた。また、一望のもとにひろがる景観にも目を見はらないわけにはいかなかったが、そのみごとさたるや、つい一週間まえ、シチリアのエトナ山頂からながめおろした展望にまさるとも、けっして劣りはしなかった。
さて、翌七月の十日、私は朝早く海水浴をすませると、四人の人夫を伴って五時に宿をたった。七時ごろ、われわれはアエトスの頂上についたが、満身すでに汗びっしょりであった。私はまず人夫たちに山上の雑草をむしらせ、それから、おもむろに北東の一隅を掘らせた。私の推定では、オデュッセウスが夫婦の臥床(ふしど)をつくる材料にしたという、あのすばらしいオリーヴの木、また彼がその寝室を建てた場所にもあたる、あのオリーヴの木が立っていたのは、このあたりのはずであったからだ。『オデュッセイア』第二十三巻には、こう書いてある。
『庭の中に葉茂るオリーヴ樹が高く繁りて、柱のごとく強く生い立つ。このまわりにわれは密に並べたる石にて部屋を建てて、ついにしあげ、その上を堅固に屋根ふき、かつ密に組み立てられた扉を設けた。かくして後、長き葉のオリーヴ樹の枝葉を切りさり、根本より上へと幹をあら削りして、手斧にてそのまわりを巧みに滑らかにし、つぎに準縄に従ってまっすぐにし、かくして寝台の柱を巧みにこしらえ、錐(きり)にてすべて穴をあけた。しかるとき、われはそれを元にして、臥床を削り作って、ついにしあげ、黄金、銀ならびに象牙を象眼し、紫に輝くウシの革ひもを張った』
だが、今ここに姿を現わしたものは、単なる瓦や陶器のかけらばかりで、それ以上はなにも出てきそうもなかったが、やがて、七十センチほども掘ったろうか、そのあたりで岩面が現われた。見ると、その岩面には、たしかにあのオリーヴの木の根がくいこんだと思われる形跡が、いく筋も縦横に認められはしたが、その点を除いては、ここで考古学上の収穫を望むことは、もはや諦めなければならなかった。
そこで私は、こんどはその隣接地を掘らせてみた。おそらく城壁の一部であったと思われる二個の切り石が、そこで発見されたからであるが、三時間も掘りつづけたあげく、ついに人夫たちは、そこに小さな建物の下層部分らしいものを掘りあてることに成功した。ところが、その石材を調べてみると、いずれも器用に削ってあるうえ、白セメン卜でしっかりと接合してあるので、残念ながらこの建造物は、目ざす時代よりずっと後代のもの、すなわちローマ時代のものと断定せざるをえなかった。
さて、人夫がこの発掘にとりくんでいる間、私自身はといえば、できるかぎり丹念に、宮殿の敷地と考えられるところを調べまわっていた。すると、一端がわずかに曲線を描いているように見える石材が 一個見つかったので、まわりの土をナイフで取り除いたところ、その石は半円形をしたものであることがわかった。私はなおもナイフで掘りつづけたが、そうすると、まもなく、その平らな側面のほうには、いわば小規模の石垣とでもいおうか、小石がいくつも積みかさねてあって、そのため全体が結局は円形になっていることに気がついた。この発見に気おいこんだ私は、さっそくこの円形のものをえぐりだそうと思ったのであるが、まわりの土壌には、石灰化した骨の灰とおぼしい白い物質が混じっており、そのためか、土壌が石と変わらぬぐらい堅くなっていたので、ナイフでは目的を達することができなかった。そこで、こんどは鍬で掘ってみた。と、まだ十センチも掘らないころ、私の鍬は一個の美しい、しかしきわめて小さな壺にぶつかり、それを打ちこわしてしまった。案のじょう、その中には人間の灰がはいっていたのだ。
私はいよいよ慎重に掘りつづけたが、その結果、種々雑多な奇妙な形をした壺を二十個ばかり取りだすことに成功した。横に寝るような形のものもあれば、縦に立つような形のものもあった。だが、いかにも残念なことに、まわりの土が堅いうえ、適当な道具がなかったために、私は取りだすさい、それらの壺をあらかたこわしてしまい、完全な状態で発掘しえたのは、わずか五個にすぎなかった。いちばん大きなものでも、高さが十センチにも満たないというぐらい、どれも小さな壺であったが、そのうちの二個には、掘りだした当初は、なんとも美しい絵がかいてあったと思ったのに、ひとたび日光にさらされるや、その絵はたちまちかすんで見えなくなってしまった。そのほか、この小さな家族墓地ともいえる地底からは、刃の曲がった、ひどく錆びついた犠牲用の庖丁だとか、口に二つの笛を加えた陶製の女神像だとか、さらには鉄の剣のかけらだとか、イノシシの牙だとか、いくつもの小さな獣骨だとか、あるいは、青銅の糸を組みあわせてつくった取っ手だとかが発見された。もしも、これらのものに銘文でも刻みこまれていたら、私はその研究のために、貴重な何年かをささげても悔いなかったであろうが、残念ながら、銘文らしいものはぜんぜん認められなかったのである。
そんなわけで、これらの発掘品の年代を決定することはむずかしいが、たとえば、壺についてみても、ナポリ博物館にある、クメー出土の最古の壺〔クメーはイタリアにおけるギリシア最古の植民地。紀元前八、九世紀ごろ〕にくらべて、はるかに古いものであることだけは、一見して確かなように思われるし、また、無傷で掘りだした、あの五個の小壺のなかにだって、オデュッセウスやペネローペ〔オデュッセウスの妻〕の、あるいは彼らの子孫たちの骨灰がはいっていないともかぎらないのだ」
このようにシュリーマンは語っているが、彼はホメロスを信じるのあまり、不覚にも、発見者たるの喜びにひたっているのだった。それから七年の後に、彼はトロイアとミケーネで支配者たちの財宝を発見したのであるが、もしもそのあとでこんど発掘を行なっていたならば、イタケの支配者の墳墓も、もっと壮大なものでなければならないと考えたことであろう。だが、惜しいことに、イタケに関するかぎり、彼の名誉回復の機会はついに訪れなかったのである。それはともかく、彼はこの日の発掘の模様を、さらにつぎのように書きつづけている。
「五十二度という炎熱下、陽に照りつけられながらの発掘作業ほど、渇(かつ)にさいなまれる苦役はない。われわれはもちろん、水とブドウ酒を用意してはいたが、ブドウ酒のほうは、ボルドー酒などよりは三倍も強いイタケの地酒のせいか、どうにかまにあったものの、水のほうとなると、大がめ三個分のたくわえもまたたくまに飲み尽くし、あらためて二回も補給しなければならない始末であった。
それでも、やがて四人の人夫は、ホメロス以後のものとおぼしい、さきの建造物を掘りだし、私もそれと同時に、例の小さな円形墓地の発掘をすませていた。私のほうが値うちの高い収穫をあげたのはいうまでもないが、人夫たちとてけっして怠けていたわけではなく、大量の土砂をせっせと運びだしたのは事実で、たとえ彼らの手でうがたれた穴が再び大気中の塵埃でふさがるとしても、そのときまでには、ゆうに一千年以上の歳月が流れ去っているかもしれないのだ。
時刻はちょうど正午であった。われわれは朝の五時からなにも食べていなかったので、頂上から約十五メートル下方の一本のオリーヴの木陰で、さっそく弁当をひらくことにした。弁当といっても、堅いぱさぱさのパンと、わずかばかりのブドウ酒と、三十度は十分にあろうという生ぬるい水と――それだけの食事であった。しかしながら、今、私が味わいつつあるものは、このイタケの土地の産物にほかならなかったし、しかも、私が現に占めている場所こそは、その昔、オデュッセウスとその愛犬アルゴスとが、二十年ぶりの再会に涙をしぼった〔『オデュッセイア』第十七巻〕といわれる、あの宮殿の庭と同じ場所ではなかったか。そしてまた、このあたりでは、あの神のごときブタ飼いエウマイオスが、かの有名な言葉、
『すべてを支配するゼウスは、人がひとたび奴隷の境涯におちたとなると、その者から徳性の半ばを奪いたもうからである』〔『オデュッセイア』第十七巻〕
を語ったのである。それを思うなら、いかにそまつな食事でも、まずいはずはなかった。とにかくオデュッセウスの城跡でとった、このときの食事ほどに、私の食欲をそそったものはたえてなかったことを、私は断言してはばからない。
食事がすむと、人夫たちは一時間半ほど休憩をとったが、私はその間にも、万一を期待しながら、鍬を手にして周壁にとりまかれた宮殿の敷地内をあちこちと調べ歩いた。そして地面の状態から推して、なにか発見できそうに思われる個所とみれば、あとで人夫たちに掘らせるため、かたっぱしから目じるしをつけておいた。まもなく、人夫たちも仕事を再開し、夕刻の五時ごろまで作業をつづけたが、その甲斐(かい)もなく、成果はすこしもあがらなかった。しかし、私はなお希望を捨てず、翌朝再び発掘をくり返すつもりで、道具を山の上に置いたまま、いったん麓の町、ヴァティへとひきあげた。そこに着いたのは、もう夜の七時ごろであった」
こうしてシュリーマンは、イタケのあちこちを踏査してまわったのだが、どこへいっても、この島の地形が『オデュッセイア』の記述と一致するように思われたのであった。たとえば、ぶこつなキュクロプス式の城壁の中では、かのエウマイオスの家畜小屋が認められたし、また海岸では、パイアケス人たちが、まどろむオデュッセウスを横たえたといわれる、ニンフの鐘乳洞〔『オデュッセイア』第十三巻〕が見出されたのである。そのうえ彼は「ラエルテスの農場」〔オデュッセウスの父ラエルテスは農場を営んでいた〕をも見出したのだが、そこへいったときの模様を、彼はつぎのように物語っている。
「まもなく私はラエルテスの農場に着いたが、そこで腰をおろして休みながら、『オデュッセイア』の第二十四巻を読もうと思った。ところが、ここイタケの首府には、今後どれほど多くの人々が訪れるかしれないというのに、今では外人ひとりの到来ですら、ゆうに一つの大事件であるらしく、私がまだ腰をおろすか、おろさないかのうちに、村人たちがいっせいに私のまわりに押し寄せてきた。そしてつぎつぎと質問の矢をあびせかけたのである。私は、それにいちいち答えるかわりに、『オデュッセイア』を読んで聞かせるのがいちばんよいと考え、一語一語を彼らの方言に訳しながら、その第二十四巻を二百五句から四百十二句まで朗読してやった。そこには、ホメロス固有の、あの神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる調子で、いいかえれば、今を去ることじつに三千年まえの、彼らの光輝ある祖先たちの格調高い言葉によって、わが子を失った老いたる王ラエルテスの悲嘆が、また、死んだとばかり思っていた愛息オデュッセウスと、彼が二十年ぶりに再会したときの大いなる喜びがうたわれていた。その物語を所も同じこの場所で聞かされたとあっては、村人たちの感動が限りもなく深かったのも当然であろう。誰の目からも、期せずして涙があふれ出ていた。そして私の朗読が終わると、男といわず、女といわず、子どもまでも、みんなこぞって私のもとに駆け寄り、『おお、あんたはわしらをとても喜ばせてくれなすった。ありがとうよ。ほんとにありがとう』と、ギリシア語でいいながら、私を抱きしめさえしたのだった。彼らはそれから意気揚々と私を村へ連れていき、先を争って私に歓待を申し入れるのであった。あまりのことに狼狽した私は、とにかくいずれまた訪問するから、とかたく約束して、どうにかその場をのがれることができたような次第である。
朝の十時ごろであったろうか、私はようやくアノゲ山〔ホメロスの昔は「ネリトス」といっていた〕に達し、その山腹を歩きつづけること一時間半ほどで、美しいレウケ村に到着した。すでに私の来訪が知らされていたものとみえ、僧侶を先頭に、住民たちはほとんど総出で、村から相当へだたったところまで私を出迎えたばかりか、満面に喜びをたたえてさかんに歓迎の意志表示をしつつ、私がひとりひとりと握手をかわすのを見とどけるまでは、どうにも気がすまぬといったようすさえみせた。それからわれわれは村に向かったのだが、着いたのはすでに正午のことで、私としては、またこれから、かつて谷間だったといわれる場所だとか、城市(アクロポリス)があったといわれるスタヴロス村だとか、アノゲ山頂ある聖女修道院だとかを訪れる予定があったので、正直のところ、このレウケ村にはあまり長居をしたくはなかった。だが、ここでも私は、村人たちのせつなる頼みによって、『オデュッセイア』の何個所かを朗読せざるをえなかった。そこで、誰にもわかるように、私は村の中央、プラタナスの木の下にあったテーブルの前に立つと、それを演壇にして大きな声で第二十三巻の一句から二百四十七句までを読みあげた。このくだりには、女のなかでもことのほか貞潔で、かつ非の打ちどころもない、あのイタケの妃ペネローペが、二十年の別離の後に、ようやくいとしい夫、オデュッセウスと再会するにいたるいきさつが物語られている。私はこのくだりについては、これまで数えきれぬほど読んだものだが、なんど読み返しても、そのたびに、新たな感動に心を揺すぶられたものである。おそらくそれと同じ感銘を、いまやこの壮麗な詩句は私の聴衆にも与えたのであろう。誰も彼も泣いていた。私も泣きながら朗読した。やがて朗読が終わっても、いまだ興奮から醒めやらぬ村人たちは、ぜひ翌日までとどまるように、としきりにひきとめたが、先を急ぐ私は、やむなくそれを謝絶し、かろうじてこの殊勝な人々と袂(たもと)をわかつことができた。もちろん、あっさりと立ち去れたわけではなく、そのまえに、彼らと盃を汲みかわし、そのひとりひとりに別れの接吻をしなければならなかったのである」
ペロポネソス半島
四十六歳のシュリーマンは、このように感激に胸をおどらせつつ、かつてホメロスがうたった土地をつぎつぎと遍歴したのであるが、ふしぎなもので、ホメロスを信じる彼の素朴な感覚にあうと、どの場所も、今日の環境のなかから、そのありし日の姿を彷彿(ほうふつ)と浮かびあがらせるのであった。
さて、イタケの調査を終えたシュリーマンが、そのつぎの目的地として選んだのはミケーネとティリンスとの城塞であった。この二つの町は、ペロポネソス半島のアルゴリス地方に肩を並べて位置していたが、まずはとりあえず、トロイアと戦ったギリシア軍の将、アガメムノンの町ミケーネに赴いた彼は、いまなお三千年まえの昔と同じく、獅子がその上であたりを見張っているにちがいない城門のあたりでしばし足をとめた。そのとき彼は、パウサニアス〔小アジアの出身で、紀元後一七〇ごろ、考古学にとって重要な文献とされる『ギリシア周遊記』十巻を著わした〕の言葉を思いだしたのであるが、そのパウサニアスによれば、これまで一般に考えられていたのとは違って、アガメムノンやアトレウス〔アガメムノンの父〕の墓は、町をとりまく広いほうの城壁ではなく、じつは城塞をとりまく狭いほうの城壁の内がわにあるべきではないか、と、ふとそんな考えをおこしたのであった。そしてそんなふうに思いながら、彼は眼前に横たわる瓦礫の山にじっと目をそそいでいた。この瓦礫の山こそ、かつてそこにくりひろげられた英雄たちの栄華のうえに、時とともに積みかさねられていったもので、その下には、黄金に富むミケーネの財宝が深く隠されているかもしれないのだった。彼がその発掘を企てたことは、いまさらいうまでもなかろう。
しかしながら、なんといってもシュリーマンの関心は、『イリアス』と『オデュッセイア』のおもな舞台となった土地に呪縛されていた。したがって、このたびは、これくらいでこの課題とは訣別して、なにはともあれ、トロイアへと道を急ぐことにした。かくて彼は、まずピレウス〔アテネの外港〕に出ると、そこから船でわざわざコンスタンティノープルまでゆき、着いたその日のうちに、またもコンスタンティノープルからダーダネルス海峡へとあと戻りした。当時はそこへ直行する船便がなかったからである。
トロイア
ダーダネルス海峡から上陸したシュリーマンは、まず第一に、そのころ一般にホメロスの町イリオン〔トロイアの別名〕のありかと考えられていた、ブナルバシ〔現今ではピナルバシという〕という村に向かった。このブナルバシのかたわらには、スカマンデルという川が小アジアの西北隅につながる平地へと流れこんでいるのであったが、その上手(かみて)のけわしい丘にこそ、あのホメロスにうたわれたペルガモスの城塞があったと信じられていたのである。このように信じられるにいたったそもそもの動機は、トロイアの女房たちや美しい娘たちがそのきらびやかな衣装を泉の中ですすぎ洗った、というくだりが『イリアス』〔第二十二巻〕のなかに見られるからのことで、直接には、それに目をつけたフランスのある学者が、前世紀の末ごろ、この丘のあたりに、それとおぼしい温泉と冷泉とを一つずつたしかに見たと報告したところからであった。そのうえ、かの有名なプロシアの将軍モルトケまでが、旅の途中ここに立ち寄ったおりの書簡のなかで、「もしも絶対によじ登ることのできない砦を築く必要があるとすれば、いかなる時代においても、この丘をおいて他にふさわしい場所はあるまい」ときめつけたことも、ブナルバシ説をひろめる一因となった。だが、この問題に関するかぎり、この将軍も結局は兜をぬぐ羽目になったのである。
ところで、シュリーマンは、このブナルバシに着いたときの印象をつぎのように書きつづっている。
「私は白状するが、幼少のころから夢にまで見たトロイアの広大な平野を目のあたりにしたとき、こみあげる感動をおさえることができなかった。ただ、一見したところ、その平野がなんとなく細長すぎ、また、ブナルバシの丘がいささか海から離れすぎているように見えたために、私はつぎの瞬間には、ブナルバシをかつてのトロイアとみなす、おおかたの考古学者らの考えにはなにかむりがあるのではないか、という疑問を感じた」と。
いうまでもなく、この疑問は、ホメロスの作品に関する、彼の精密な知識にもとづいていた。彼はみずからも語っているように、ホメロスの言葉といえば、その一言半句にいたるまで、いわば一種の福音書とも仰ぎ、それへの信仰が強固なために、たとえば『イリアス』の詩句にみられる地形の描写なども、単なる詩的空想の産物にすぎないとする、世の学者たちの躊躇逡巡に対しては、それを頭から無視するという態度に出ていたのである。なにはともあれ、ホメロスの文章からにじみ出てくる、あの飾りけのない真実味に対する大らかな陶酔こそ、この男の人生に新しい内容を盛りつけたものにほかならなかったから、ホメロスがうたいあげたトロイア戦争の事実について、その一つでも疑うなどという大それたことをしでかすならば、己を奮いたたせてくれる詩人の誠実な精神に対して、許しがたい冒涜(ぼうとく)をおかしでもしたように感じられたのであろう。
それはともかく、『イリアス』によれば、ギリシア人とトロイア人との戦いは、船の停泊地からプリアモスの町、トロイアヘ、そこからまた停泊地へと、その間を日に何度も移動したとされている。そこでシュリーマンは、その叙述をもとに、かのイリオン〔トロイアの別名〕としては、海岸から三時間もへだたるブナルバシよりは、もっと海に近いところがふさわしい、と推定したのだった。そういえば、スカマンデルがわの斜面がほとんどよじ登ることのできない天嶮(てんけん)といってもよい、この丘の城壁のまわりを、アキレスがヘクトル〔プリアモスの子〕を追跡して三回もまわった〔『イリアス』第二十二巻〕などということは、どうしても考えられるはずがない。また、この地方をつぶさに調査したところ、従来あると考えられていたような、温泉と冷泉とが実際にあったわけではなく、そのかわりに、まったく同温度の泉が四十ばかり散在しているにすぎない、ということも明らかになった。だが、これだけでは十分な確証をつかんだとはいえないので、彼はここでも、ただちに鍬をとることにした。
はたして結果は思ったとおりで、ブナルバシの丘の頂上にある小さな城塞の内がわにおいても、外がわにおいても、くまなく発掘をすすめたにもかかわらず、そこからは、トロイアを期待させるどんな成果も現われはしなかったのである。
ところで、この荒涼たる辺地にあって、シュリーマンはどのような生活をおくったであろうか。このあたりでは、どの小屋にも毒虫がのさばり、そのために他国者(よそもの)は野宿せざるをえないほどであるから、彼がなめた辛酸のほども推察できようが、前述の彼の著書のなかにも、その一端とはいえ、まざまざとそれを物語ってくれる数行がある。
「夕方の五時ごろ、私はようやく小さな内城を出ると、そのかみトロイアがあった場所とみなされている全地域を、あらためて南から北へと縦断した。そしてそれが終わると、スカマンデル川の岸辺におりて、そこでオオムギのパンと川の水だけという簡単な食事をとった。ところが、暑さのためか、そのパンがかちかちに干からび、もはや割ることすらできない状態だったので、私はしかたなく、しばらくそれを水の中に浸しておいた。十五分もすると、それはまるでケーキのように柔らかくふやけ、私はけっこう満足して頬ばったのであるが、それと同時に、川の水もすくって飲んだ。ところが、その水を飲むのが、また一仕事なのだ。なにしろコップ類がぜんぜんないときていたから、水を飲むたびに、腕でからだを支えて川の上にかがみこまなければならなかったし、しかもその腕が、肘のあたりまでずるっと泥濘の中に吸いとられるというしまつだった。が、それにもかかわらず、このスカマンデルの水が飲めるということは、私にとってなんともうれしいことで、飲みながらも、私は、いつの日か何千という人々が、この聖なる川をながめ、その水を味わうためとあれば、欣然(きんぜん)としてさらに大きな苦労も耐えるにちがいない光景に、しみじみと思いをいたしたのである」
シュリーマンはこう書いているが、その昔、英雄たちが戦い荒らしたかもしれないこの川に対する、かくも熱烈な思いいれも、それを語ったのが彼であってみれば、けっしてその場かぎりの空しい美辞麗句とはいえなかった。事実、後にヒッサリックの発掘に従事するようになってからも、彼はもっと新鮮な近くの泉などは眼中におかず、熱病発作の再発によって身にしみてその有害なことを悟るまでは、個人用としては、わざわざスカマンデル川まで水を汲ませにいかせたということだ。
話が横道にそれたが、要するに、ブナルバシはトロイアではなかったのである。それでは、いったいトロイアはどこにあるのか。再び『イリアス』を引合いにだせは、そこにもその名が見える二つの川、つまりスカマンデル川とシモイス川との谷間にはさまれた台地の突端にあたる、ヒッサリックという低い丘はどうであろう。位置のうえからいえば、そこはヘレスポント〔ダーダネルス海峡の古い名称〕からわずか一時間のところ、問題とされるすべての地点のうちで、もっとも海に近いところなのだ。シュリーマンはこの地についてつぎのように述べている。
「トロイア平野にひとたび足を踏みいれ、そこに横たわるヒッサリックの美しい丘を目のあたりにすれば、誰でも文句なく驚嘆の念にうたれるであろう。とにかくこの丘なら、内城をもつ大きな都市を担うにふさわしい、自然の条件に恵まれていると思われるのだ。たしかにこの場所は、城塞でかためさえすれば、ゆうにトロイアの全平野を支配するにたりるであろうし、また、この地方のどこを捜しても、この丘と比肩しうるような条件をそなえた地点は見あたらないのである」と。
ここで、地形についてさらに概観するに、この低い丘からは、眼下に横たわる平原を一望しうるばかりでなく、海岸にそってゆるやかにつらなる丘陵はもとより、はるか海のかなたにたたずむサモトラケ島の聖山にいたるまで見わたされ、また、内陸に視線を転じれば、はるかイダ山〔ヒッサリック東南方六百マイル、海抜一七六七メートル〕のたたずまいまで見ることができるのだ。したがって、この丘の頂に築かれた城塞ならば、『イリアス』の記述にそむかず、あたりに平地を従えている、といってもまちがいにはならない。おそらく、ここに建てられていたはずのスカイア門の屋上からなら、かのプリアモスやヘレネたちが、戦場に波打つギリシア軍の隊伍をながめおろし、敵の有名な将軍たちの姿を見つけられた〔『イリアス』第三巻〕としても、おかしくはなかったであろうし、また、この丘からなら、夜のしじまをぬって、トロイアの凱歌が海辺に設けられたアガメムノンの幕舎にまで選ばれもしたにちがいない。
ところで、このヒッサリックの丘は、あらかたダーダネルス駐在のアメリカ領事フランク・カルヴァート氏の所有地であるのだが、そのカルヴァート氏が、おりにふれてここトロアス地方をなんどか掘り返すうちに、はからずも、この丘についてある重要な事実を確認するにいたっていた。すなわち、この丘が今日このようにひろがったのは、後期ギリシア時代、ないしはローマ時代の神殿とか、より大きな建造物とかが崩解した結果にほかならない、という確証をつかんだのである。この確認によって、ここが後の新イリオン設立の地であることだけは、もはやまちがいのないところとなった。しかしカルヴァート氏は、それだけに満足せず、さらに進んで、この丘の中心部には、プリアモスの居城がひそんでいるかもしれない、とまで論証したのであったが、この点について彼の意見に賛同したものといえば、ごく少数の孤立状態にあった学者ばかりで、じつに惨憺たるありさまであった。
では、シュリーマンはどうかといえば、もちろん、みずから研究した結果ではあるが、世に行なわれているブナルバシ認定説はしりぞけられるべきものであると確信し、さらにまた、このヒッサリックの丘のみが、『イリアス』に描かれた場面にふさわしい、と信じるにいたっていた当事者として、断固、カルヴァート説を受けいれたのはいうまでもなく、一八六九年の初めに発表された『イタケ、ペロポネソス、トロイア』という著書のなかでも、この問題にふれてつぎのように書いたのである。
「プリアモスとその息子たちの宮殿の遺跡に達するためにはミネルヴァやアポロの神殿跡に達する場合と同様、この丘にある人工的な部分を、ことごとく取り除いてしまわなければなるまい。そうしたあかつきには、トロイアの城塞はヒッサリックの丘そのものばかりではなく、隣接する台地の上にも相当ひろがっていたものであることが、かならず明らかになろう。というのは、アガメムノンの大宝庫はいうにおよばず、オデュッセウスの宮殿にしろ、ティリンス城塞にしろ、ミケーネの城塞にしろ、その廃墟にあたってみれば、およそ英雄時代の建造物は、どれも非常に大きなものであったことが、はっきりとわかるからである」と。
思えば、アキレスとヘクトルとの戦場を見んものと、これまでいかに多くの旅行者がこの地方に立ち寄ったことであろう。しかしながら、彼らがそれで何を探究したかとなると、たかだか、この地をひとわたり視察するにとどまり、いわば上っつらをなでるという以上には出なかった。だが、シュリーマンは違っていた。彼の場合、ホメロスへの信仰という彼独自の強みがそなわっていたおかげで、とことんまで発掘すれば、いかに遠い伝説の世界とはいえ、かならずや眼前に姿を現わさずにはおくまい、という確信がさずけられていたのだ。こうして彼は、ここであらたに大きな課題にぶつかったわけで、こんどは、それを解くことに、その全身全霊をうちこむ仕儀となったのである。
彼はこの生涯の大事業をまえに、これまでの研究をまとめて古代ギリシア語で学位論文を書くと、旅行報告とともに、それを故郷メックレンブルクのロストック大学に送った。そしてその論文によって、彼はまもなく哲学博士の学位をさずけられた。
〔一八七一〜七三年〕
発掘の経過
一八七一年十月十一日、シュリーマンは、コンスタンティノープル駐在の合衆国公使の仲介によって、トルコ朝廷の勅令をとりつけると、ただちにヒッサリックの丘を掘り始めた。彼のいわゆる四大発掘期の第一期が開始されたのである。そしてこの第一回トロイア発掘の作業は、以後まる十一カ月ものあいだ営々とつづけられ、一八七三年にいたって、ようやく一段落を告げたわけであるが、この期間といえども、厳寒、酷暑の候には作業を休まなければならなかったし、また、この地方特有のかずかずの祭日〔住民は混血のため、ギリシアの祭日にも、トルコの祭日にも休暇をとる〕や、春と秋に多い雨の日などにも、とかく仕事が妨げられがちであったことを思うと、この丘の四方八方からこれほど大がかりに大発掘溝を掘り進めえたことは、まことに驚異に値するといわなければならない。これはひとえに、指揮者たる彼にそなわった比類のない忍耐力のたまものであり、また同時に、その忍耐心を部下にも浸透させることのできた彼の人がらのおかげでもあった。
だが、彼がこのヒッサリックの丘に鍬をいれたのは、この年がはじめてではない。じつは、前章で述べたトロイアへの最初の旅行につづいて、彼は前の年にもここへ舞いもどって、発掘を試みたのであった。しかしそのときには、その地域を所有するトルコ人の地主から過大な賠償金を要求されたばかりではなく、その場所を再び牧羊地として使用できるように、仕事がすみしだい発掘溝を埋めてほしい、というむりな注文をすら受けるしまつで、やむをえず、わずか五メートルほど土砂を掘りさげただけで作業を中止しなければならなかったのである。したがって、成果のほうも、せいぜい後期ギリシアの城壁を掘りあてたにすぎなかった。
さて、話は前後するが、このたびの「聖なるイリオン」行きには、愛妻ソフィア〔一八六九年に結婚、シュリーマンは六八年には最初の妻と別れている〕も、はるばるアテネからつき従っていた。シュリーマンは、このように書いている。「私はそこへ妻のソフィアを同伴していった。彼女は、アテネ生まれのギリシア人で、やはり心からホメロスに心酔していたので、この大事業の遂行に欣然として加わったのである」と。
ところで、この大事業遂行のために、彼らが最初に宿泊を余儀なくされたのは、トルコ人村のチブラクにある一軒のそまつな粘土小屋であった。それでも、やがて彼らは、ヒッサリックの丘〔この丘の中から彼らはプリアモスの宮殿を復活させるつもりであった〕そのものの上に二、三軒の簡素な木造小屋を建てて、そこにひき移ることができた。ついでながら、これらの家屋は、夫妻のためばかりではなく、現場監督のものがとまったり、また、ときには技師や製図家がとまるときの住居としても使用されたのであった。
それはともかく、さえぎるものもない平原に横たわるこの丘の上は非常に風が強く、ホメロスがイリオンをばエネモエッサ〔風邪が強いの意〕と呼んだのも、けっして意味のない形容詞ではなかったことを、彼らは今にして思い知らされたのである。冬の間は、トラキアから吹きおろす北風(ボレアス)が氷のような冷気を運んでくるため、シュリーマンにいわせると、「トロイア発見という大事業に対する燃えるような情熱を除いては、からだを暖めるものは、なにひとつなかった」ほどであった。しかし、夏ともなれば、さわやかな微風が海上から待望の涼気をもたらし、うだるような熱気に打ちひしがれた平原や、そのなかに散在する沼地から立ちのぼる、厚い靄(もや)を吹き払ってくれる。いうまでもなく、丘のすぐ下はダーダネルス海峡である。そしてそこには、くる日もくる日も、大きな汽船が地中海から黒海へと向けてさかんに往来しているというのに、ここヒッサリックの丘の上では、このような世間的なものすべてに背を向けたまま、ふたりの人間がひそかに、現代文明から遠く離れた古典的な国々の、いとも古い歴史の証人を呼びさますことに没頭しているのであった。
また、海辺の低い丘陵には墓塚が望まれたが、それらは、ありし日の誇り高い一族が築いたもので、その中には、アキレスや、パトロクロスや、アイアス〔三人ともギリシア軍の勇士〕などの屍が、さらにまたトロイア諸侯の屍がおさめられていた。そしてこれらの記念物についても、ふたりはいずれ、そのなかに実際なにがはいっているかを調査するつもりであった。
さて、こうして発掘が開始されたのであるが、作業日ともあれば、イダの山頂が太陽の最初の光で輝き始めるころ、歩いて数時間はかかろうという周辺の村々から、おもいおもいの服装をしたギリシア人やトルコ人が、三三五々、徒歩だの、ロバだので発掘場に集まってくる。そしてこれらの人夫たちが勢ぞろいすると、そこでやおら名簿が読みあげられる。これがじつに楽しいひとときで、この機会にシュリーマンは、ひとりひとりに気のきいたユーモアを交えて話しかけたので、人夫たちのほうも、その結果しごく満悦そうに仕事に出かけるというあんばいであった。しかもその人夫たちときたら、たいていが発掘主によってユーモラスな名まえをつけられていたため、いっそうおかしみが増したわけであるが、彼はこのことについてつぎのように書いている。
「人夫がこう多くては、いちいちその名まえを覚えているわけにいかないので、私は、見たところ……らしいと思われる印象にしたがって命名することにした。たとえば、敬虔にみえるとか、軍人らしいとか、あるいは学者ふうだとかといったような外見によって名まえをつけたのである。そこでいきおい、托鉢僧だとか、坊さんだとか、巡礼者だとか、分隊長だとか、博士だとか、校長だとか、というような名まえができあがった。そして、私にいったんそういう名まえをつけられたとなると、その男は、私の人夫であるかぎり、誰からもその名まえで呼ばれるのだった。こうして私のもとには、読むことも、書くこともできない博士たちが、ぞくぞくと誕生したのである」と。
それでもすべての人夫がこんなぐあいに呼ばれたわけではない。ギリシア人についていえば、シュリーマンとかなり親しいものには、アガメムノンだとか、ラオメドンとか、エーネアスだとかといったような格調に富んだホメロスの人物の名まえがつけられたし、また、みすぼらしいトルコ人であったにもかかわらず、勤務期間中だけは昇格して、パシャ〔トルコの高官に与えられる称号〕と呼ばれたり、エフェンディ〔閣下、先生という程度の敬称〕と呼ばれたりしたものも少なくなかったのである。
それはそうと、この第一回発掘期における人夫の数は、百人から百五十人の間を上下していた。その人夫たちの指揮と監視には、三人の監督係があたっていたが、シュリーマンとて、彼らにだけ任して安閑としていたわけではなかった。それでなくても作業がなかなか彼の思うようにはかどらなかったからだ。そこでいきおい彼はあらゆる現場に出むいて、叱咤激励しなければならなかった。シュリーマンばかりではない。ソフィア夫人もまた、二十人から四十人にもおよぶ人夫の陣頭指揮をひきうけたのであった。そして、とくに重要かつ困難な課題にぶつかったとき、たとえば、瓦礫の山の中からこわれやすい物品を無事に取りださなければならないような場合には、彼らみずから道具を手にして、泥まみれの作業をもいとわなかったのである。
ところで、息づまるほどに孤独で、しめっぽいこの地方にあっては、旅のヨーロッパ人といえば、それだけでたちまち土地ぐるみの関心の的となりがちなもので、その見識をみこまれては、やたらと問題をもちこまれる傾向があった。ましてや、シュリーマン夫妻のようにくる日もくる日も、子細ありげに財宝捜しととりくんでいれば、彼らへの関心の度合いは、まことにひとしおのものであったと想像される。しかも彼らのいとなみたるや、いわば、かつてこの地を支配した偉大な王たちの伝説を、再びよみがえらせるためのものであった。してみれば、ネオコリ、イェニシェール、レンケイなど、近在諸村の人々にとって、ヒッサリックの丘がいつか巡礼の地となったのはいうまでもないことだが、しかしそれは、たんに好奇心のためばかりではなかった。
シュリーマンは持ち合わせの薬で、この土地の病人をなんども治療してやったので、そのあらたかな効験のためにも、人々は集まってきたといえるのである。彼の持薬とは、ヒマシ油、アルニカ、キニーネの三つであるが、そのうちのどれかで、けっこう治療はまにあい、すくなくとも、土地の治療師がどんな病気の処置にも使う、いかがわしい放血などよりは、よほどききめがあった。だが、後にフィルヒョウ〔ルードルフ・フィルヒョウ、一八二一〜一九〇二年。病理学ならびに人類学の権威、政治家としても活躍した。一八七八年の第二回トロイア発掘以来、シュリーマンのよき協力者となった〕がトロイアに滞在するようになってからは、もちろんシュリーマンの医者としての声望はうすれ、さすがのエフェンディ・イアトロス〔シュリーマンは今日でもトロイアの人々からこう呼ばれている〕も、「ホ・メガロス・イアトロス」、つまり「大先生」と呼ばれるフィルヒョウにはかなわなかった。事実、フィルヒョウはみずから、シュリーマンの著書『イリオス』〔一八八〇年〕の付録のなかで、第二回発掘のおり彼が医者としてどんな働きをしたかを、ありありと描いているのである。
さて、シュリーマンは、いったいこの丘のなかからなにを見出そうとしたのであろう。彼がそこに求めたものは、ギリシアの伝説として伝わる、あの十年にわたるトロイア戦争の歴史的信憑(しんぴょう)性であり、はたまた、ホメロスが『イリアス』のなかでうたったプリアモスの王城の描写には、なにひとつ偽りがなかったのだというまぎれもない証拠を、廃墟のなかから掘りだすとともに、それを文明世界のまえに突きつけることであった。そのために彼は、まず手はじめに、女王ヘカベ〔プリアモスの妃で、ヘクトルやパリスらの母〕とトロイアの婦人たちが、どうか私どもの町にあわれみを垂れたまえ、と祈ったといわれる、あのイリオンのアテネ神殿〔『イリアス』第六巻〕と、ポセイドンとアポロンの作とされる、あの大城壁とを掘りあてようと思った。彼の推定によれば、アテネ神殿は丘の中央、もっとも高い頂のあたりにあるはずであり、一方ポセイドンの城壁は、何千年もの土砂におおわれながらも、それが存在したそもそもの地盤の上で、いまなお丘の周囲をぐるりととりまいているはずであった。なぜならば、このような王城が建てられる以前には、この丘には住居が営まれていなかったであろうことが、ホメロスの詩句から推論されそうに思われたからである〔この考えが誤っていたことは、やがて石器時代の遺物が掘り出されたことからもうかがえよう〕。ちなみに『イリアス』の第二十巻には、プリアモスの六代まえの祖先、ダルダノス王の時代には、トロイア人の種族はもっと内陸のほう、マツの木の多いイダの山麓に在んでいた、というふうに書いてある。
それはともかく、発掘が始まる以前のヒッサリックの丘は、長さ約二百メートル、幅約百五十メートルの楕円形をしていた。北がわと西がわとは、メンデレとトゥムブレクスの谷に急傾斜でおちこみ、南がわと東がわとは、かすかな勾配でいつのまにか台地につながっている。じつはこの台地の突端がヒッサリックなのであるが、いまやシュリーマンは、もっとも距離の短い個所で丘を切断すれば、その真ん中に神殿が姿を現わすであろうと考え、丘の中軸を北から南へとつらぬく一本のトンネルを掘ろうと企てた。こうして鍬と鋤で北から広大な発掘溝をつくり始めたのであるが、そうすると、はたせるかな、二メートルまで掘ったとき、大きな切り石からなる後期ギリシア様式の基礎壁にぶつかった。それは長さ二十メートル、幅十四メートルぐらいはあろうという、なにかの建造物の一部分らしく、そこには銘文も刻まれていたが、それによると、この建物はどうあまくみても、リシマコス〔アレクサンダー大王の帝国のうちでヘレンスポントを間にはさむ地方を統治していた領主。つまり紀元前四〜三世紀〕の時代における市庁舎、すなわちブーレウテリオンとみなされるべきふしがあった。なお、この王についていえば、当時衰微をきわめていたイリオンの地に、再び堅固な周壁をめぐらし、周辺の町々から多くの住民を移住せしめて、強力な国家を打ち建てたのは、このリシマコスにほかならなかったといってよい。しかし、それはそれとして、シュリーマンがあくまでも目ざしてやまないのは、この丘の底にまぎれもなく存在するはずの、あの伝説のトロイアに尽きていた。したがって、この貴重なるべき後期ギリシアの基礎壁も、終局の目標のまえには、どうしてもとりこわさないわけにはいかなかったのである。
伝説の城塞を目ざして
ところで、目的とするその地盤に達するには、どれほど深くまで発掘の手をのばさなければならなかったか。その点については、表面下二メートルのところで口を現わした、一つの井戸がはからずも教えてくれたのである。というのは、その井戸〔それは石材を石灰で接合してつくられていたから、やっとローマ時代のものとみてよかった〕をつぶしながら、じつに十七メートルの深さまで壁面工事を掘り下げたところ、そこでようやく井戸が底をついて、その下に岩盤が現われたのだが、そこに一つの小さなトンネルがうがたれているのを見ると、この驚くべき深い岩盤のすぐ上にも、また家屋の壁が発見されるであろうことがわかったからにほかならない。
それにしても、この丘には、いったいどういう歴史がかつては存在したのであろう。つぎからつぎへと多くの種族がここに移り住んでは、再びつぎつぎと滅びさっていったにちがいない。あたかも、あたりの平地を見おろすこの丘の利点を知った後世の種族に、気まえよくその席をあけ渡すためのように。
が、それはさておき、この丘の底に深い秘密がひそんでいることは、いまや明らかな事実であった。だが、いかなる方法によるにせよ、それをあばきだすことは容易な業ではない。おそらくシュリーマンとて、そのためには、おびただしい労力と資金が必要であることくらい百も承知していたであろうが、そんなことて尻ごみするような男ではなかった。彼はその不退転の気構えをつぎのように書いている。
「障害は限りなくあったが、それは私の渇望をいや増しに増すばかりであった。私は、ようやく目前にせまったあの大目的に、ぜがひでも到達したいと望んでいるのだ。『イリアス』はまぎれもない事実をうたったもので、偉大なギリシア民族から、その栄誉の冠を奪うなどということは絶対に許されない。私はそれを実証したいのである。そしてそのためなら、どんな苦労もいといはしないし、どんな出費も惜しいとは思わない」と。
ところで、くり返すようだが、かつての居住地の深さについては、今ではすでにはっきりと見当がついていた。その結果、彼としては、この丘にはブナルバシとはぜんぜん違った財宝が見出されるはずだ、という確固たる証拠をつかんだも同然であった。
こうして埋もれた地盤にしだいに近づいていったが、近づくにつれて、彼が強烈な興奮と焦燥のとりこになったのは、いわずと知れたことだ。その地盤に達すれば、彼のホメロスへの心酔が事実によって裏書きされるかもしれないのだった。したがって彼は、その妨げになるものと見れば、かたっぱしから取り除くことをためらわなかったのである。
やがて、ヘレニズム時代とローマ時代の建物の土台を取りだしてからは、その下をいくら掘っても、人夫たちの鍬はたいした収穫をあげなかった。たとえば、もっと小さな石を固着せずに積みかさねただけの、貧相な廃壁ぐらいのもので、そのあたりでは、壺のかけらこそ散発的に発見されはしたものの、それらも、紀元前六世紀から四世紀ころのギリシアの陶器と同じような絵のかいてある壺だったから、もっともっと深く掘らなければならない、という啓示としてしか役にたたなかった。
そういうわけで、さらに掘りつづけ、深さ四メートルから五メートルのところまで達すると、この包含層が終わって、その下には、これまでとはまったく趣を異にした遺物が現われた。すなわち、土壌の中にこわれた陶器が混じっていたのであるが、それらには、ギリシアの壺がもつ、あの美しくそりかえった形態も、彩色された模様もなく、灰色とか、黒とか、赤とか、黄色とかいう、単色のままの陶土を均一におおう独特な光沢のほかに、飾りといえるものはなにひとつなかったのである。もちろんこれらの容器には、ギリシアの陶工が飽くこともなくその民族の英雄物語を表わした絵なども見られなかった。
しかしそのかわり、これらの壺の作者は、全体をいとも珍奇な形につくるのが得意だったように見うけられる。たとえば、つぎのような容器がある。過度に細い口ばし形の首をもち、多くは一つずつでなく、二個ずつつなぎ合わせてつくられた球形の甕(かめ)だとか、ホメロスによく出てくるデパス・アンフィキュペルロン〔二個の取っ手をもつ杯の意〕と同じ形のために、シュリーマンをひどく喜ばせた、二つの突き出た取っ手のある細長い杯だとか、直径が約二メートルもある大きな楕円形の鉢だとか、その中で人夫がひとりぐらい現代のディオゲネス〔ギリシアの哲人、つねに桶を住みかとしていた〕然としてらくに寝とまりできそうな、巨大な陶製の甕(かめ)だとか――これらは、大きさの点だけでも製作者の技能に敬意をはらわざるをえないようなものだが、このような巨大なもののほかにも、細かい用事のために、最上の陶土でつくられた、きわめて小さい、優雅な道具類もあったことを付記しておく。
ところで、これらの器がすべて非常に古い時代のものであることは、それらが出土した層の深さから、もちろん十分に推論することができたが、しかし、ほかにも根拠がなかったわけではない。というのは、他の地方で発見された先史時代の出土品と同じく、これらも、大部分がまた轆轤(ろくろ)によらないで、手でつくられた形跡がうかがえたからである。したがって、これらの容器には、どうすれば胴体が一本の脚だけでうまく支えられるか、とか、どうすれは胴体から口と取っ手の線が美しくぬけだしてゆくか、とかいうことを示してくれる、あの後世のギリシア人の形態感覚がまだしみついていなかった。
いうなれば、ここて発見されたものは、もっとずっと、ぶこつな形をしていたのだ。たとえば、甕についてみても、その球形の胴体がじかに台面に接するというぐあいだった。たとえ脚がついていても、脈絡もない三つの台脚を無造作に胴体にくっつけたような形でしかなかった。それに取っ手はといえば、たいていの場合、一かたまりの陶土を容器におしつけたうえ、ひもを通すための穴をあけたという程度だった。しかしながら、かくもぶこつであったにもかかわらず、多様な形態と色彩を見たたけで、あるいはまた、ときに著しく細心にわたっている製作方法を見ただけで、これらがある高度に発達した民族の文化的遺物であることだけは、もはや疑う余地がなかったのである。
それでは、それはいかなる民族であったか。従来の科学では、これらの記念物から明確な答えをひきだすことは不可能であった。それもそのはず、ここにいま出現したものは、誰も見たことのない、まったく新しいものばかりなのだ。そこで、発見者シュリーマンは、その想像力をはたらかせて、彼の愛着するホメロスのなかに答えを求めたのである。
そうすると、かなりつじつまのあう解釈ができた。たとえば、発見された壺のうちもっとも特殊なものを例にとれば、その口のあたりには、きわめて古代的な様式で、一対の大きな丸い目と、鼻と、額の下べりのようなものが彫られているばかりか、ふたは帽子のかたちをまね、胴体には小さな丸があって、乳頭とへそを暗示しているように見えた。ところで、ホメロスは女神アテネを「フクロウのごとき目をもてる」と形容しているが、好つごうなことに、この奇妙な壺が発見されたのは、ホメロスによると、かつてアテネの神殿が建っていたとされる場所にほかならなかった。シュリーマンが躍りあがって喜んだのはいうまでもない。彼はこれらの壺によって、フクロウのごとき目をした女神アテネの肖像を、しかも、トロイア人のつくった太古の肖像を手にいれたと信じたからだ。そのほか、細長い大理石やスレートの小板も、その上端には同じような原始的な顔の模写が見られたので、やはり同じ女神の崇拝を裏書きするもののように思われた。彼はこれらすべてを、女神アテネの偶像だと思いこんだのである。
ところが、このように、ホメロス文化の名ごりをとにかく指摘しうる記念物はまだいいとしても、それとは別に、もっと解明しにくい発掘品もあって、どうにも不可解な謎を課したのであった。一例として、いく千となく瓦礫の中から現われた、穴のあいた小さな球状の陶製品をあげておこう。これらは、今日の考古学では〔紡錘の〕はずみ車とみなされているものだが、シュリーマンは、その独特な形態と、ゆたかな彫刻模様とについていろいろ思案をめぐらしたあげく、これは要するに、女の仕事の守護神であるアテネへの奉納品だと考えた。しかし、それらにはなお、主としてアジアの記念碑や崇拝によく用いられる「まんじ」〔卍〕の印があるのを知ると、高名なインド学者らの説を援用して、はずみ車に丸い穴があいているのは、われわれアーリア人の祖先がいだいていた中心太陽の思想を表わすものであり、その上にほどこされた模様は聖火を象徴するものだと解釈した。しかしながら、この点については、違った考えかたもないわけではない。たとえば、エミール・ビュルヌフ〔一八二一〜一九〇七年。当時アテネのフランス考古学会会頭、後にシュリーマンの協力者となる〕の説を紹介すると、彼は、ここに刻まれている文字のような唐草模様は、周知のギリシア文字以前に存在したギリシア=アジアのアルファベットで書かれた銘文であると説明し、シュリーマンの発見したある壺の模様にいたっては、それはまぎれもなく中国の文字だといいはったくらいであった。だが、今のところは、このやっかいな問題に対する賛否の態度を決めないでおこう。われわれはただ、発掘品が発見者のまえに呈示した世界の異様さを物語るために、このような例をあげたまでにすぎないのである。
なおそのほかにも、あまり洗練されていない石の道具、たとえば、閃緑岩でできたハンマーだの、アジアの奥地からとりよせたとおぼしい軟石でつくった斧だの、燧石(すいせき)製の鋸(のこぎり)のような刀だの――こういった原始的な石器類が毎日つぎつぎと廃墟の中から出てきたのであるが、実際にこれらのものも、プリアモスと彼の技倆にたけた家臣たちとの、光輝ある国家の遺物といってもよいのであろうか。
このような疑念は、当然のことながら、発見者のたかぶった心にもたびたび侵入した。しかし、だからといって、そのために彼の志がくじかれたわけではない。ちなみに、このような原始時代の文化にはじめて接したときの、そのあたるべからざる意気ごみについて、彼はつぎのように書き表わしている。
「私の要求はじつにつつましいものである。造型美術の作品を見出そうなどという、大それた期待は露ほどもなかった。私の発掘の目的は、はじめからただ一つのことに限られていたのだ。つまり、トロイアを発見することである。ところで、問題のトロイアだが、その王宮の建築地については、これまでいく百もの学者たちによって、いく百もの書物が書かれてはいるけれども、それを実際に発掘して確かめようと試みたものは、ただのひとりもいないのだ。私はそれをやりとげたいと思う。だが、たとえその仕事がうまく達成できなくても、その仕事をとおして先史時代の闇の奥底にまではいりこみ、偉大なギリシア民族の最古の歴史のなかから、興味あるなんページかをあばきだして、それでいささかでも学問に寄与することができさえすれば、私は心から満足する。したがって、石器時代の遺物を掘りあてたからといって、それがために落胆するなどということはありえない。それどころか、はじめてこの地を踏んだ人々が生活していた場所にまでおし進みたいと、ただますます渇望するばかりである。今の私としては、あと五十フィートも掘らなければいかんということになれば、みずからそこまで掘ってみるくらいの気概がある」と。
さて、彼の発掘溝は丘のなか深く、しだいに切りこんでいったが、こうして深く進むにつれて、十メートルをこえる深い地底から、調査のすんだ土砂を運びだすことは、ますます至難の業となった。また、高くそばだつゆるい土壁に囲まれた地底で作業をつづけることも、いよいよ危険の度を増していった。あるときなど、六人の人夫がくずれ落ちる土壁の下敷きになったこともあるが、もしちょっとした奇跡がなかったならば、大事にいたっていたかもしれない。やがて、灰だの、数かぎりない燃えかすだのの混じった、ある大きな層にぶつかった。そこで、それを掘り返すことは掘り返したが、そのときには城壁とみなしうるきめ手はなにひとつ認められなかったので、ばらばらの石材などをどんどん運びだしてしまった。しかし、あとで気づいたことだが、これも城壁の一つ〔トロイア第三市とみなしうる〕であったのである。残念ながら、そのことは、後にほかの場所で、加工されていない石材で築かれた、同じ種類のあらっぽい建造物の実体がわかったときに、はじめて明らかになったのである。
最初の成功
ところで、丘の短い中軸を北から南へつらぬく大発掘溝の模様は、これまで語ってきたとおりであるが、シュリーマンは、この発掘溝だけにたよっていたのでは、とうてい目ざすアテネ神殿の基礎壁に到達しえないと悟ったので、別の方面からも、中心部へ向かって溝を掘り始めていた。むろん地主のカルヴァート氏から、発掘に関する許可をえてからのことであったが、まず西北部で始められた作業は、まもなく、一つの収穫をあげた。つまり、地表のすぐ下で一枚の美しい浮彫り板にぶつかったのである。そこには、頭上に光輪の冠をいただいた太陽神ヘリオスが、着物を風にはためかせながら、四頭立ての馬車に乗って朝の蒼天を飛び駆けるさまが描かれていた。なお、現在では、この浮彫りを、ヘレニズム時代の遺物、やはりその時代のアテネ神殿と関係のある遺物とみなしている。しかし、それはさておき、南方ないし西南方においては、もっと価値のたかい発見があった。
では、その方面の発掘について語ろう。南方では、人夫たちが丘の横腹に六十メートルばかり掘りこんだころ、ある強大な壁に打ちあたったのである。これは岩盤からすぐにそびえ立つ、非常にぶあついもので、いくらか傾斜しながらも、高さはゆうに六メートルほどにも達していた。しかも、そのまわりの瓦礫を調べたところでは、かつてはもっと傲然と立っていたものにちがいないと思われた。つなぎ目に泥をつめただけで、自然石を固着せずに積みかさねてつくった、そのあらっぽい建築様式といい、その地点といい、まわりで発見された各種の物品といい、すべて太古の時代にふさわしい風格をそなえている。そればかりか、左右どちらを見ても、その壁はまだまだずうっとつづいているらしい形跡があった。ああ、とうとう目ざす太古の地盤に達したのである。これこそその地盤の上に建てられたもので、もしもこれが城壁であるとすれば、ポセイドンとアポロンとがトロイア王のために築いたといわれる、あの大周壁にちがいない、と彼は考えずにはいられなかった。だが、これで作業が終わったわけではなく、壁のすがたをさらにはっきりと見定める必要があった。そこで、高さ十五メートルにもおよぶ土砂を運びだし、三十メートルばかり前進すると、ちょうど丘の西南のあたりで、その城壁の頂に通じてゆく、広い堂々たる斜路(ランペ)に出くわしたのである。
横道にそれるが、この斜路については、おもしろい逸話がある。というのは、古代の建造物はいい建築材料になるとばかり、うっかりしていると、土着民にどんどん持ちだされてしまう危険があったので、シュリーマンは、そこの大きな床石まで盗まれては一大事と、この道は昔キリストがプリアモス王の城へゆくときに通ったものだ、という伝説を人夫たちの間にひろめたのである。事実、この原始的な風格をそなえた斜路が、城門へ、またさらに城主の宮殿へと通じる道であったことだけは、よもやまちがいがなかったであろうから、そのかぎりでは、シュリーマンのつくり話も、まんざら嘘ではなかったといえる。が、それはともかく、いまや、その宮殿に至る道を開く時が、いよいよきたのだった。そのためにシュリーマンは、百人からの人夫をこの地点に集め、焼けこげた礬土(ばんど)の堆積〔それが城壁と城門との上層部の乾燥煉瓦にあたっていたことは、後になってわかったことだ〕の中へ溝を掘らせていった。そうすると、この堅牢な城塞こそは、かつて大火災によって滅亡したものにほかならぬ、という動かぬ証拠を握ることができた。
とすれば、これこそ、あの潰滅したトロイア〔これはトロイア第二市で、もちろんプリアモス時代のものではなかった〕にちがいないのだ! 十年の間荒れ狂ったトロイア戦役の種子ともいえる、女のなかでもことのほか美しいヘレネが、トロイアの王と長老たちに神の後裔とされる敵の英雄たちのすがたをさし示したのは、ほかならぬこの城門の上から〔この記述は『イリアス』第三巻にみられる〕というべきなのだ。ここがそのスカイア門なのである。いまこそ、すべての忍耐、すべての労苦が報いられたと思われた。ようやく現実のものとなりそうな古代の伝説への感激が、発見者シュリーマンの胸中で高らかに凱歌をあげていたが、彼は、そのおさえがたい興奮のほどをつぎのように書いている。
「この記念物は、神聖にして崇高、ギリシア民族の英雄的ほまれを物語るものだ。これが、今後すえ長くヘレスポントを航行する人々の目をひきつけ、いく世、いく世代にわたっても、知識欲に燃える若者たちの巡礼の地となって、学問万般への、とりわけ壮麗なギリシア語とギリシア文学への、絶えざる感激の原泉とならんことを! また、これが機縁となって、一日も早くトロイアの周壁がその全貌を現わさんことを! 私はそう祈ってやまない。そしてその周壁についていえば、それはかならずや、この高楼と、北がわで私が掘りおこした壁とにつながっているはずで、その発掘には、もはやそれほど手間をとらないはずである」と。
ところで、このときシュリーマンをなによりもかりたてたのは、ともかく城塞の内部を知りたいという、強い衝動であったが、事実その内部では、およそ火災の跡に出あわないところはないといってよかった。こうしてまず門を越えると、そのすぐ近くで、一軒の家屋の貧相な壁がすがたを現わしたことは、いかにも子細ありげに思われた。それは、あまり大きくない部屋がいくつかあるという程度のものであったが、門に対する位置加減がよかったため、この建物こそプリアモスその人の館にちがいない、と彼は推論してはばからなかった。しかしながら、やはり後年の発掘のさいにわかったことだが、じつはこの家からして、第二市、すなわち焼けた町の建物ではなく、その町の廃墟の上に建てられたものにほかならなかったのである。それに、だいたいトロイアの宮殿ともなれば、すべてこれよりもはるかに堂々としていなければならないのだ。だが、はからずも、この建物のすぐそばで、それとは別の大きな収穫があったために、さしあたっては、その推定が正しいように思われる結果となった。そしてこの収穫が、ひろく世間で「トロイアの財宝」と呼んでいるものである。
さて、この「トロイアの財宝」について語るためには、西方から掘りこんだ発掘溝に目を転じなければならないのだが、こちらの発掘溝も、さまざまな周壁にはばまれながら、やがて一八七三年の五月には、例の大城塞のつづきとみなしうるものにぶつかっていた。それからあとの詳しいいきさつについては、シュリーマン自身がつぎのように語っている。
「私たちは、この大周壁へと突進をつづけ、しだいにそれを掘りあげてゆくうちに、たまたま、城門からほんのすこし西北にそれたあたり、つまり古い家屋のすぐ隣で、ある大きな、奇妙な形をした銅製品に出くわしたのであるが、その内がわでは、なにか黄金でもきらきらと輝いているような気配が感じられた。たちまち私の全神経はそれに吸いつけられた。見ると、その銅器の上には、厚さがゆうに五フィートもあろうか、石灰化した、赤や、褐色の堅い瓦礫の層がおおいかぶさり、しかもその上にはまた、トロイア潰滅の直後に建てられたものとおぼしき、厚さが五フィート、高さが二十フィートもある城壁がのしかかっているのだった。おそらくこの発見物は、考古学にとってはかりしれぬ価値をもつにちがいない。私はなんとしてもそれを救いだそうと決意した。だがそのためにはなによりも人夫たちの貪欲から守らなければならず、しかも慎重に、急いで事を行なう必要があった。そこで、まだ弁当の時間には早かったにもかかわらず、私はすぐさま休憩の号令をかけさせ、人夫たちが休息と食事に気をとられている間に、大きなナイフで石のように堅固な周囲から財宝を切り離し始めたのである。この仕事は、非常な労力を要したばかりではなく、生命にとって極度に危険でもあった。というのは、あの大城壁が、その下で作業をする私の上に、いつくずれ落ちてくるかしれなかったからだ。しかしながら、それぞれが無限の価値をほのめかす、かくもおびただしい財物を目のあたりにしていると、私は向こうみずになり、危険だなどとはすこしも考えなかった。だが、それでも、私が首尾よく財宝を運びだせたのは、ただひとえに、妻が手を貸してくれたおかげといわなければならない。妻は、私が掘りだした物品を、そのつどショールにくるんでは、せっせと運び去ってくれたのであった」と。
なんポンドもある黄金の杯、大きな銀の甕、黄金の王冠、腕輪、いく千もの金の小板を苦心してつらねた首輪――こういった財宝がここで掘りだされたのであるが、それらはどう見ても、この地に君臨したある強大な支配者の、豪華な所有物であったとしか考えられないものだ。
こうして、空想的な少年時代の夢が、およそ前例のないほどみごとに実をむすぶときがついにきたのであった。思えば、長い年月が流れ去った。だが、シュリーマンは、いまこそその宿願を遂げて、かつてホメロスが叙事詩にうたいあげたものを、とうとう両手の中にしっかりととらえたのである。彼はそう信じていた。事実、彼がとどまっていたところは、すでにプリアモスの壮大な城塞の区域内にほかならなかった。したがって、彼の考えによれば、この不運に終わった王の財宝は、こんどはすべて彼自身の所有に帰したのである。
ところで、このような成功をおさめたあとともなれば、彼がいささか満腹感におそわれたとしても、むりからぬ話といえよう。そこで一八七三年六月十七日、彼は発掘品もろともアテネへひきあげた。彼の気持としては、もはや永久にこの仕事とは別れるつもりだったのである。が、それはさておき、アテネに着くや、彼はさっそく発掘事業の公表にとりかかり、はやくも一八七四年の正月には、『トロイアの遺跡』なる著書を書き終えた。これはだいたいにおいて、彼がヒッサリックから「タイムズ」に送った報告文をまとめたもので、その付録としては、発掘状況および発掘品に関する、二百枚以上の写真版からなるアトラスが添えられていた。
〔一八七四〜七八年〕
発掘以前
ペロポネソス半島はアルゴスの谷のもっとも奥まったところ、山越えてコリントへ通じる道が始まるあたりに、シュリーマンのつぎの目的地、ミケーネは位置している。そこには、巨大な岩山が二つそそり立っているが、その間の狭い谷間に高くもりあがる丘の上に、かつて支配者たちの城塞が築かれていたのだった。なお、その城壁については、それが粗大な石材ではなはだ堅牢につくられたものであったところから、すでに古典時代のギリシア人からして、キュクロプス族〔独眼の巨人族『オデュッセイア』第九巻にも登場する〕の超人的なしわざとみなしていたらしい。
ところで、ミケーネにまつわる伝説によれば、まずペルセウスとその一族が、そのつぎには、ペロプス〔ペロポネソス半島という名称はこの王の名まえに由来している〕の子孫、たとえば、アトレウスやアガメムノンらが、この城砦からその領国一帯を統治していたといわれる。しかしながら、はるかな大昔、ほど近いアルゴスの町が繁栄したあおりで、さしものミケーネの栄光も色あせてしまったのである。その結果、ミケーネの宮殿に残された貴重品は、塵芥のなかに埋もれた破片にいたるまで、ことごとくもち去られてしまい、その廃墟には、後にそこにささやかな住居をいとなんだ人々すら目をくれなかった、一文の値うちもない陶器のかけらが山と積もるばかりであった。
だが、やがて宮殿の上構えが崩壊しさると、その廃墟もいつか平らな土砂の堆積となり、それから数百年をへた後、その上にギリシアの神殿が一つ〔紀元前七世紀のドリア式神殿〕建つことになった。このように伝説は伝えるのであるが、にもかかわらず、この周壁の石材だけは、内部からかすがいや漆喰(しっくい)などによって接合されていないというのに、その大きさと重さとのために、いかなる破壊にも動じることなく、往時はもとより、今日においても、古代的かつ異国的な豪華さを物語る驚嘆すべき証人として残っている。そういえば、山腹に掘りこまれた、あの穹窿(きゅうりゅう)形の地下墳墓〔いわゆる「アトレウスの宝庫」〕も破壊ををまぬがれていた。
ともかく、長さが二メートル余もあろうという巨大な石でつくられていたうえ、接合状態もきわめて良好なこの城壁は、あのトロイアの城壁〔そこにスカイア門があるはずだとシュリーマンは思っていた〕とは、まったく違った性質のものといわなければならない。なぜならば、トロイアの場合、その石材が小さいうえに、固着されていないため、うっかりしていると、土地のものにやすやすともち去られてしまう危険があったのに反して、ここミケーネの遺跡となると、その強大さのゆえに、いかなる、ばか力によっても、微動だにしないからであった。
ミケーネとはおおよそこのような場所であったが、さて、われらのシュリーマンは、ヒッサリックの仕事にいちおう終止符を打つと、もう矢も楯もたまらず、この地へと食指を動かしていた。じつのところ、内心ではまだ、かのプリアモスの居住地に断ちがたい未練を覚えていながら、そのトロイアにとってもっとも手ごわかった敵の本陣、つまり、ホメロスが「黄金に富む」とたたえたミケーネの遺跡をば、ぜひとも瓦礫の中から解放したいという欲求にかられ、もはやそれに打ち勝つすべを知らなかったのである。
そんなわけで、一八七四年二月の末ごろ、トロイア発掘に関する著書が完結をみた直後のことだが、はやくもシュリーマンはミケーネのアクロポリスで試みに竪穴(たてあな)を掘って、廃墟の深さを確かめる仕事にとりかかっている。そしてその二日めには、古代のものらしい、陶土製の小さな雌ウシの頭を発見したことが、フランス語の日記のなかに記されているが、同じ日付の日記を見ると、さきにトロイアの顔壺から、フクロウのごとき目をした女神アテネの顔をかんぐったのと同じ伝で、彼が「これはウシのごとき目をしたヘラの偶像ではあるまいか」と自問したようすが手にとるようにわかるのだ。また別の日には、彼は人夫をふたり連れてヘライオン〔ミケーネの東南約四キロ〕へ、つまり、アルゴスの守護神ヘラの太古の神殿へと赴いたのであるが、そのときのことも、やはり日記のなかに書かれている。
「じつに寒い日であった。そのためか、ふたりの人夫のうち、ひとりは発熱を理由に働こうとせず、もうひとりもはじめのうちこそ働いたが、まもなく作業をつづけることをしぶり始めた。そこで結局、私ひとりが働かなければならないようなしまつだった」と。
こうしていくばくかの調査をしただけで、シュリーマンはいったんアテネへ引きあげた。だが、彼はそこで、ある不愉快な知らせに接しなければならなかった。すなわち、トルコ政府が彼を相手に訴訟をおこしたことを聞いたのである。むろんトロイアで獲得した発掘品に関することで、なんとその半分をひき渡せというのだった。この要求に根拠があるか、ないかは、にわかに決めがたいとしても、とにかく発見者シュリーマンが、その空想力のすべてをあげて、この間までの苦しかった労働の成果に愛着をいだいていたことだけは、疑うことのできない事実であった。にもかかわらず、いまやその半分がコンスタンティノープルにもち去られてしまうかもしれないのだ。ましてや、その地に整備された博物館でもあればまだしも、現実には、発掘品をとりあげてみたところで、その道の研究になんら益する見込みがないとあってみれば、彼の無念のほども推して知るべしであろう。が、それはさておき、裁判の経過やら、今後のトロイア発掘をめぐる交渉の経過やらについて、シュリーマンはつぎのように報告している。
「裁判は一年にわたって行なわれたが、結局のところ、トルコ政府に対する一万フランの賠償金の支払いが私に課される、という裁判所の判決で終わった。しかし、この判決に服するのをいさぎよしとしなかった私は、一万フランを支払うかわりに、一八七五年の四月、五万フランをトルコの文部大臣に贈るとともに、この金は帝室博物館のために使用してもらいたい、と強調しておいた。そしてその趣意書のなかで、私はさらに、トルコ当局と親善を保つことは、私の熱望するところであり、相互の協調によって、おたがいがともに必要としあえるような時が一日も早くくることを望んでいる、と伝えることも忘れなかった。そのためかどうか、私の贈与は、時の文部大臣サフヴェート・パシャ閣下に、このうえない好意をもって受けいれられ、私としてもおおいに気をよくしたような次第であった。そこで一八七五年十二月の末、トロイア発掘に関する新しい勅令をとりつけるために、私は思いきってみずからコンスタンティノープルまて出むいていった。すると案のじょう、頼みとした私の知合いたち、たとえば、合衆国弁理公使マイナード閣下、イタリア大使コルティ伯閣下、サフヴェート・パシャ閣下、大尚書アリスタルケス・バイ閣下らの有力な支援によって、わけてもアリスタルケス・バイの熱意と活躍とによって、まさにくだんの勅令が発行される手はずとなったのだが、惜しくもその寸前、私の請願は議会によって却下されてしまったのである。
ところが、これで私がおさまるわけはなく、私の胸中を察した大尚書アリスタルケス・バイが、時の外務大臣ラシド・パシャ閣下〔五年間シリア総督をしたこともあり、やがて一八七六年六月に暗殺された〕という、なかなか教養のある人物に紹介してくれたのを機会に、この有力者をトロイアとその古代遺物に熱中させるべく、私としてあらんかぎりの努力をかたむけたところ、はたしてそれが功を奏し、この人のとりなしに動かされた宰相マームード・ネディム・パシャ閣下の命令によって、まもなく私に勅令が交付されるはこびとなった。こうして、一八七六年四月下旬のこと、私はついにこの重要な書類を受けとることができたのであるが、それを手にするや、私はもはや間髪をおかず、発掘をつづけるために、ダーダネルスへと旅立った。
だが、残念なことに、ここでもまた新しい障害が待っていた。というのは、この地の総督イブラヒム・パシャというわからず屋が、私がここで仕事をつづけることをどうしても承知しなかったからである。理由は明らかでないが、察するところ、三年まえに私が仕事を中止してからというもの、その発掘のあとを見んものと、この地を訪れる多数の旅行者に対して、いちいち勅令のようなものを交付しなければならないのが気にくわぬからであるらしかった。もっとも、私が作業を再開すれば、当然そんな必要はなくなってしまうのだから、これも実際にははなはだあやふやな根拠というほかはない。しかし、それはともかく、さしあたりこの理不尽な男は、まだ私の勅令の裏書きを見ていないということを口実に、なんと二カ月もの間、私をダーダネルス海峡に釘づけにしたのだった。それでも、やがてその口実も効を失ったとみえ、彼はようやくのこと、しぶしぶと発掘開始の許可を与えはしたが、付帯条件として、イゼット・エフェンディとかいう人物を、私が監視人として受けいれることを要求したばかりではなく、あろうことか、その男には私の仕事の邪魔をすることだけを課したのである。
こんな状態では、とうてい作業をつづけられないのは当然のことで、強く後ろ髪をひかれはしたものの、もはや見切りをつけるべしと判断した私は、さっそくアテネへ引きあげた。そしてアテネに帰ると、そこから『タイムズ』あてに手紙を書き、そのなかで私は、このイブラヒム・パシャの不当な妨害を文明世界の良識に訴えた。この手紙が公表されたのは一八七六年七月二十四日のことだが、その記事はコンスタンティノープルの新聞にも現われ、その結果、その年の十月になると、くだんの総督イブラヒムは、あわれ他州へ左遷される浮き目をみたのであった」
このようにシュリーマンは語っているが、この報告によると、彼はまるで、一八七六年の中ごろまで、トロイア発掘に関する交渉にだけかかずらわっていたかのような印象をうける。ところが、じつはさにあらず、その間にも、この疲れを知らぬ男はいわば東弄西走の活躍をしていたのである。たとえは、ギリシア本土全体にわたる大旅行を試みたのもその一例で、そのおりには、伝説によって名の知れた場所とあれば、どんな僻地をも訪れては、そのつど現地で親しく伝説にあたり、その結果を日記帳〔このたびはギリシア語で書かれた〕に詳しく書きこんでいる。だが、もちろんそれだけではない、その合い間には、イギリス、ドイツ、イタリアをまわって各地の博物館を訪れ、いろいろな先史時代の記念物と彼のトロイア発掘品とをくらべているし、そうかと思うと、一八七五年十月にはシチリアにもすがたを現わし、その地に残る古代フェニキアの要塞モティエの発掘に従事しているほどであった。もっともこの地では、紀元前五世紀ごろの出土品が、もっと古い時代に関心のある彼を満足させなかったらしく、何日か掘っただけで、あっさりその作業をうちきったところなど、いかにもほかに課題のある身にかなった措置ともいえる。また、その翌年の四月には、コンスタンティノープルとは目と鼻のさき、マルマラ海にのぞむキジコス〔今日のカプ・ダゲ島にあった通商の要地で、ミレトスによって開かれた〕をも訪問して発掘にあたったのであるが、ここでも、彼がぶつかったのがローマ時代の構築物にすぎなかったため、わずか数日で発掘を思いとどまったということだ。
ミケーネの墳墓
ところで、シュリーマンは、一八七六年の七月下旬から、そろそろ本格的にミケーネの発掘にとりかかっていたのであるが、それを報告するに先だって、さきに引用した自伝にもうすこし耳をかたむけることにしよう。
「これで邪魔ものも、かたづいたことだし、私がその気にさえなれば、いよいよ妨げなしに、トロイアの発掘をつづけることができたはずであるが、じつをいうと、すでに七月の末ごろから、私はミケーネの発掘を再開していたので、その地に残る王侯の墳墓を徹底的に調査し終えるまでは、いまさらこの新しい仕事から手をひくわけにいかない状態にあった。そんなわけで、トロイアのほうはいちおうあとまわしにし、ミケーネの発掘をやり遂げたわけであるが、そこで私がおさめた成功が、いかにめざましいものであったか、また、私がギリシア国民を富ましめた財宝〔シュリーマンはミケーネの発掘品をすべてギリシアに寄贈した。それらはアテネの博物館におさめられている〕が、いかに莫大で、驚異的であったかは、よく知られているとおりである。
私は確信するが、これからは、この己を捨てた私の仕事の成果に接し、じきじきその研究を行なわんものと、未来の果てにいたるまで、世界のすみずみから、あまたの旅行者がとうとう(ヽヽヽヽ)とギリシアの首都を目ざして集まってこよう」
このようにシュリーマンは、意気軒昂として自負に満ちあふれた言葉を語っているが、この言葉が真実で、その成果にふさわしいことは、なんぴとといえども、疑うことができないのである。たとえば、彼がいかにしてミケーネの墳墓の豊富な調度類を掘りあてたか――そのいきさつがもっとよくわかるように、もうすこし発見者が興奮をおさえて語ってくれたら、と思う読者がいるのはしかたのないところだが、そのような人でも、この点では断じて例外ではない。だが、このような自負が正しいか、否かについては、もっと慎重に判断をくだしたいという人がいたら、当然のことながら、発掘の現場を支配していたもろもろの事情をも、ぜひ考慮にいれてからにしてほしいものだ。したがって、いよいよ作業の模様を語るべき時がきたように思われる。
さて、ミケーネにおけるシュリーマンの作業は、三カ所で同時に始まっていた。その第一のものは、城塞の外がわ、丘の横腹に設けられた大穹窿(きゅうりゅう)墓を掘りだす作業であったが、この大穹窿墓については、シュリーマンも、ギリシアの古代ベデカー〔旅行案内書の意味〕にあたるパウサニアスと同じく、ペロプス一族〔ペロプスの子孫、アトレウスやアガメムノンなど〕の宝庫にちがいないと考えたのである。というのは、十九世紀の初めころ、トルコの一高官がいわゆる「アトレウスの宝庫」を掘り返したところ、「むかしむかし」の物語でいう黄金の財宝を発見していたからのことで、シュリーマンがこれに勢いをえたとてふしぎはあるまい。
ところで、それよりもっとアクロポリス寄りのところにも、同じようなくずれかけた造営物があるのに目をつけたシュリーマンは、そこの瓦礫の下においても、まったく同じ収穫に出くわすにちがいないとの見当をつけ、そこで作業を行なったのであるが、その発掘を指揮したのは、彼ではなく、夫人のソフィアであった。彼女は、内室〔穹窿室といってもよい〕の中央部を徹底的に掘らせるかたわら、墓の入口にいたる細い通路の部分でも、後世の内部構築が現われて、ギリシアの監督官スタマタキス氏から文句が出るぎりぎりのところまで、土砂を取り除かせたのである。
この作業の収穫はといえば、まずなによりも、入口の部分を占める建築上の細部を、いくつか見つけたことといわなければならない。もちろん、大きな扉はぜひともあけなければならないが、その縁の部分は、極彩色で飾られていた形跡があるうえ、なにか細工のようなものがほどこされていた。また、その両がわを見ると、暗灰色の雪花石膏(アラバスター)でつくられた、溝のある半柱が立っているばかりか、その柱の上には、青灰色の大理石からなる蛇腹までついているのだった。なお、この蛇腹に円盤があるのは、木造建築につきものの梁(はり)の頭をまねたもので、この地へきて石造りに変わったとはいえ、いまだに木造時代の名ごりをとどめたものといえる。それからさらにこの蛇腹の上方を仰げは、囲壁の中にぽつんと残された三角形の部分に、大きな赤色大理石の板がはめこまれていた。しかしながら、このような建築上の収穫がいくつもあがったにもかかわらず、ここからは、黄金の財宝と呼ぶに値するものはなにひとつ出てこなかったのである。だいたいこの建築物を宝庫とみなすのが誤っていたのだが、そのことは、それから一年をへて、アッティカで発掘を行なったさいに、はっきりと自覚されるにいたったのだ。余談にわたるが、そのアッティカのある穹窿墓のごときは、その中にまだ人手に触れていない屍を蔵していたので、まわりの造営がなされたのは、それらを豪勢に葬るためにほかならぬことを、まざまざと示唆していたのだった。
それはそうと、第二の課題、すなわち、土砂の中に埋ずまった城塞の主門を取りだす課題は、シュリーマン自身がやり遂げた。いうまでもなく、掘りだされたこの主門の上では、ギリシア彫刻のもっとも古い作品とみなされる獅子があたりを見張っていた。今日でも、ミケーネの城塞まで達しようとすれば、かのアガメムノンが出入りしたのと同じ敷居、つまり、この獅子門をくぐらなければならないのである。
しかしながら、もっとも重要で、またもっとも報いられるところの多かった発掘は、第三の課題にもあたる、獅子門のすぐ内がわで行なわれた作業にほかならなかった。このあたりでは城塞がもっとも低い位置になっているのだが、シュリーマンは、まえにも話した一八七四年の試掘のさい、このあたりでこそ、岩盤がもっとも深く土砂におおわれていること、いいかえれば、なにかの造営が見出されるとすれば、このあたりをおいてないことを確かめておいた。そのうえ、パウサニアスによれば、どうやら支配者の墓は城塞の内がわにある公算が大きい、とも彼はみていたのであった。そんなわけで、この場所でも発掘を始めたのであるが、はたせるかな、三メートルから五メートルぐらいは掘ったろうか、まだいくらも作業をしないうちに、きわめて古代色ゆたかな浮彫りのほどこされた墓石を三つばかり掘りあてたのである。彼がパウサニアスに感謝したのはいうまでもない。その浮彫りを見ると、からみあう渦巻模様の間に、戦車に乗った男が、戦争か、あるいは狩りをしている図が描かれていた。そこで、彼がなおも発掘をつづけると、やがてこれと同じ種類の墓石が、さらに二個もみつかったのであるが、このときの感想を、彼は八月二十七日の日記に英語でつぎのように書きつけている。
「おそらくこれらの墳墓は、パウサニアスがいったものとは違うらしい。なぜならば、彼がミケーネを訪れた紀元一七〇年ごろには、後期ギリシア時代にいとなまれた都市ですら、すでに四世紀ほども前に地上から消えうせていたとみなければならないからである。したがって、当時でも、後期ギリシアの都市の上には、厚さ一メートルにもおよぶ瓦礫の屑が積もっていたはずで、アクロポリスの低い台地ともなれば、今日と同じほど土砂におおわれていたと思われる。してみると、彼の時代においても、今日と同じく墳墓は四メートル、ないしは五メートルも土砂の中に埋まっていた、といわなければならないのだ」と。
パウサニアスの言葉とひきくらべつつ、彼はこのように一度は成果を疑ってはいるが、そのすぐあとには、つぎのような解釈をつけ加えている。
「それでも、アイギストス〔アガメムノンの妃クリュタイムネストラの情夫〕とクリュタイムネストラの手で殺害された、あのアガメムノンとその従者たちの墳墓について、パウサニアスがいっていることを注意ぶかく読めば、彼がこれらの墓を城塞の外がわにではなく、内がわに見たということだけは、よもや疑うわけにいかないではないか」
彼はこう思いなおし、その後もひきつづいて、あたりの地面〔そこには注目すべき壺のかけらが無数に混じっていた〕を掘り返していったところ、そのうち、なにか石塀のようなものにぶつかった。それは、背の高い石板をまるくつなげたようなもので、さきほど発見した五つの墓石をば、大きな弧を描いて二重にとりまいていたのである〔いわゆる円形の墓域〕。
さて、シュリーマンが欣喜雀躍、この円形をした墓域の掘りだしにかかったのは、いわずと知れたことだが、その仕事があらかた完了したころ、彼はトルコ政府の命令によって、ブラジルの皇帝ドン・ペドロをトロイアの遺跡に案内することになった。そのため、しばらくミケーネを留守にすることを余儀なくされたが、二週間ほどの後には、光栄にも、この高貴な人にミケーネの発掘をも見てもらうことができた。が、それはともかく、この間、ギリシア考古学会は、シュリーマンの委嘱により、さきの墓石をすっかり運びだして、カルヴァティ村〔古代ミケーネの遺跡の入口にある村〕の出土品を所蔵する博物館に陳列していた。ところが、こうして墓石が取り去られてみると、シュリーマンの著書にも書いてあるように、それらは、それ以前に考えていたのとは違って、岩床の上にではなく、じつは、墳墓をつくるべく垂直に岩の中にうがたれた竪穴の上に、というよりも、その竪穴を満たしている土壌の上に、立っていたものであることがわかったのだ。この新しい発見にいっそう奮いたって、彼はそのような五つの竪穴をずんずん掘っていったが、どのくらい掘ったろうか、死者を埋葬したあと、犠牲をささげるおりに祭壇として用いられたものとおぼしい石台を掘りあてた。そしてそれを取りのけ、さらに表面下六メートルまで掘り進むと、そこで鍬がどん底の岩床にぶつかったのである。ところが、見よ、そこに現われた五つの墓〔後に、もう一つ発見された〕の底部には、まるでおとぎ話のような、おびただしい黄金の装身具を身にまとった屍が、合わせて十五体〔後の発掘によって合計十九体となる〕ばかり長くのびて横たわっているではないか。シュリーマンはしばし声もなく呆然と立ちつくしていた。
黄金の財宝
ところで、これらの墓が支配者一族の墳墓であったことは、その装備のみごとさからいって、いささかも疑う余地がないであろう。そこに横たわる男たちの顔面には、死者の顔をかたとった黄金の仮面が置かれていたし、その胸は、豊かな渦巻模様で飾られた黄金の板でおおわれていた。また、女たちの衣装を見ても、多すぎるぐらい黄金がきらめいていた。そのことを裏づける手だてには事欠かないが、たとえば、女の屍が三体葬られていたある墓から、おおよそ七百個も発見された、指の長さほどの、文様豊かな黄金板を見るがよい。それらは、まるで鱗(うろこ)のように王族の婦人たちの衣服を飾っていたものにちがいないのだ。だが、そればかりではない、女たちは、腕輪だの、耳輪だの 冠だの、すべて黄金製のものをつけていたうえ、それらにもまた、多種多様な装飾がほどこされているありさまで、まことに目もくらむばかりであったが、ひるがえってその髪の毛を見れば、水晶製の留針(ピン)はもとより、当時としては贅沢(ぜいたく)かぎりないガラス製の留針までもさしており、その首には、奇妙な動物の図だの、王族たちの生活場面だのをふんだんに彫りつけた宝石類が、いく重にもまきつけてあるというぐあいだった。
しかし、これらの屍をさらによく調べてみると、当時の遺族たちは、それらに世にも豪華な美服をまとわせることだけで、事たれりとしたわけではないことがわかる。殊勝にも彼らは、死んだ王族をして、ただ高貴な風采をしただけで、冥界へ移り住まわせるべきではないと思ったようだ。なぜならば、どの屍のもとにも、当人がきたるべき冥界での生活に必要とするものが、用意万端ととのえられていたからである。すなわち、屍が男であれば、そのかたわらに置かれた、陶製だの、青銅製だの、銀製だのの甕(かめ)に、高価な香油やオリーヴ油が入れられていたうえ、金銀の杯や、黄金の笏(しゃく)や、剣帯までが黄金製という、金銀を巧みに象眼した剣などが、彼に従って墓の底におさまっていたし、女たちの屍のもとには、黄金の小箱だとか、黄金の小筒だとか、あるいはまた、説明こそまだつかないが、なにかの象徴らしい黄金の秤だとか、そんな類のものが整然と置かれていたのであった。
こうしてシュリーマンは、再び類を絶する成果をおさめたのであるが、思えば、それもひとえに、ホメロスに対する、あの熱狂的な信仰に負うものといわなければならない。前章で語ったとおり、彼はすでにトロイアにおいても、貴金属からなる王侯の財宝を掘りあてていた。そこへ今またミケーネの発見が加わったとあれば、彼の自負がいかに大きくても、大きすぎることはあるまいし、その得意のほどもしのばれようというものだ。
それにしても、かの大いなるトロイアの財宝でさえ、ひとたびここミケーネで掘りだされた品々とくらべれば、その豊富な形態のまえに、なんと非芸術的に色あせてしまうことであろう。けだし、トロイアの工匠たちは、杯や甕(かめ)を、ただ高価な材料から、彼らの単純な技巧で、できるかぎりの大きさと、また重さとにつくりさえしたら、それで支配者へのつとめをいわば十分に果たしたといえたのにひきかえ、ミケーネの財宝となると、それとは比較にならぬほど進歩した文化の遺物ということができた。つまり、原始民族にあっては、屋内労働がかぎられていたせいか、生活に欠くべからざる道具類といえば、ひとたび加工されたあげくでも、またつぎの目的につくりなおすことができるように、しごく簡単な形をしているのが普通なのであるが、ここで見出されたものは、そのような原始的な開化の程度をはるかにこえた文化の遺物なのだ。
いうなれば、ミケーネの人々は、すでに一つの芸術を有していた。そしてこの所有を誇るかのように、彼らはあらゆる日用品が、豊かな線の戯れによって好ましく装われ、はなやかに飾られることを、彼らの芸術家や工人たちに要求したものとみえる。したがって陶工たちは、その手仕事によって、美しい形の容器をつくったうえに、つやのある色彩でもつれあう線模様、とくに丸く輪をなす渦巻を描き、さらにまた、海藻だとか、貝殻だとか、カタツムリだとか、多足類だとかいったような、海岸で目につく風変りな生きものの図さえ描いているのだ。
また、これよりはいちだんうえともいうべき黄金細工術になると、さらに高度の主題にいどんでいた。たとえば、貴族の装身具に用いられる金の延べ板には、どれを見ても、流麗そのものといった文様が、ゆたかに打ちこまれていたが、それにとどまらず、金銀、エナメルの象眼細工によって、刀身はすべて絢欄(けんらん)躍如たる図像で飾られ、さらに黄金の指輪には、狩猟だの、戦闘だのの光景や、神事とおぼしきものの解しがたい図などが彫りつけられており、そのいずれも、工匠たちの名人芸をあかすよすが(ヽヽヽ)にほかならなかった。なお、王がその支配の象徴をつけるべきことを命じた場合には、貴金属のなかに、両刃の斧でたたかう闘牛の図が刻まれたのであるが、そこには、動物の形態についての正しい理解が、いや、それどころか、ギリシア芸術の最盛期を思わせる熟達がそなわっていたといえるのである。
またもシュリーマンは、歴史と芸術とにとって、一つの新しい世界を発見したのであった。かくも贅を尽くした王侯のはなやかさが、未曽有の先史文化であったことは、すでに論をまたない。が、それはともかく、これらの豪華な品々は、紀元前一〇〇〇年以降のギリシア人の目には、いちように異国的な、というよりは、むしろアジア的〔もちろん今日のアジアではない〕な印象を与えたにちがいない。事実、出土品の細部を観察すると、古代ミケーネ人と東洋(オリエント)やエジプトとの直接の関係を物語るものが、数多く見られるのだった。この点については、チャールズ・ニュートンという考古学者が、ロードス島のある墳墓から、「ミケーネ式」の壺と、紀元前一四〇〇年ころのエジプトの宝石細工とがいっしょに発見された事実を報告しているが、シュリーマンもそれを読んで注意を喚起されたことがある。そしてその点に注意しつつ、あらためてミケーネに目を転じれば、ここでも遺物層の深さが、上述の年代に劣らぬ古い年代にかなう深さをもっていた〔このことは年代がわかるものとしては最古の、ギリシアの他の記念物と対照的だ〕。したがって、ここに出土したものは、疑いもなく、ホメロス以前にミケーネを支配した一族の遺品とみなされるのだが、見ようによっては、彼らの装飾品のなかにも、ホメロスの詩から拾いあげることのできる描写と、驚くほどに符合するものが少なからずあったのである。たとえばネストル〔トロイアで戦ったギリシア軍の知将〕がわが家からトロイアへもっていった、あのネストルの杯の取っ手は四羽のハトで飾られていた、と『イリアス』〔第十一巻〕に書いてあるが、ミケーネの墳墓の一つからは、その二重の取っ手の上に黄金のハトをとりつけた杯が見つかったのだ。
してみると、これらの記念物をおさめる墓は、もしかしたら、かのパウサニアスが見たのと同じもの、すなわち、アガメムノンやその従者たちの墓ではあるまいか。シュリーマンはついにこう考えるにいたった。しかしながら、ここでふり返って、彼の日記からさきに引用した部分を思いだしてみよう。そこには、作業を始めた当初は、このように推定するのはまちがいである、と彼が考えていたらしいふし(ヽヽ)がはっきりと現われていた。なにしろパウサニアスの時代、つまり後期ギリシア時代にも、くだんの墓地はすでに深く土砂におおわれていたため、これについてあれほど詳細にわたる知識がえられるはずはない、というわけなのだ。ところが、このように書いたじぶんには、彼はまた、まばゆいほどに輝く王侯の豪華さを目のあたりにしていなかった。だが、いまやシュリーマンは、実際にそれを見たばかりではなく、「クリュタイムネストラは自分の殺した夫に対して疎略な埋葬をした」との伝説にふさわしく、屍のいくつかがいかにも大急ぎで葬られたらしい形跡を、しかと見とどけたようにも思ったのである。事ここにいたっては、彼の血の中にひそむ旺盛な空想力がわきたつのも必至で、もはや彼の本性は、ここに発見した墳墓はパウサニアスが見たのと同じものだ、と結論して疑うことを知らなかった。勝ち誇ったような気分、もうじっとしていられなかった。なにはともあれ、彼はギリシア国王につぎのような電文をうった。
ギリシア国王ゲオルゴス陛下
無上の歓喜をもって陛下に報告します。私はこのたび、宴会のさいクリュタイムネストラとその情人アイギストスとに殺された、あのアガメムノンをはじめ、その従者カッサンドラ、エウリュメドンらの墓としてパウサニアスが伝える墳墓を発掘しました。これらの墳墓は、上記の貴人たちにのみふさわしい、平行に石板を築いてつくられた二重の円形に囲まれています。そのうえ私は墳墓の中から、太古のものと断言できる、莫大な純金の財宝をも発見したのです。これらの財宝はそれだけでもゆうに大博物館を満たすにたりるほどで、こんどは世界最大の驚異として、未来永劫、全世界から数千の異邦人をギリシアの国にひきよせるでありましょう。申しおくれましたが、私は大いなる満足をもって、これらの財宝をすべて敬愛おくあたわざる貴国に寄贈いたします。もとより学問への純粋な愛によって働く私としては、これらの財宝にいささかの要求ももっておりません。願わくは、私の寄贈が貴国のはかりしれぬ繁栄の礎石とならんことを。
一八七六年十一月十六〜二十八日
ミケーネにて ハインリヒ・シュリーマン
同じ年の十二月、シュリーマンはミケーネにおける発掘を打ちきった。例外といえば、ただ彼の技師ドロシノスが、翌年の春もう一度その地へ赴いて城塞の見取図を作成するとともに、かの墓域の近くをあらたに掘ったことだけであった。この発掘は、むろん小規模ではあったが、それでもかなり見るべき成果を伴ったのである。
ところで、シュリーマン自身のほうはこの期間に、以前から仕事の経過を公表する発表機関としていた「タイムズ」への報告文をしあげ、さらに著書『ミケーネ』をまとめる仕事にかかっていた。また、ギリシアに譲渡された彼の発掘品はといえば、ギリシア考古学会が責任をもって、それらを統合し、整理して、美しい博物館にしあげる仕事をひきうけていた。そのうえ、それらは写真にとられ、図にかかれもしたので、その結果、シュリーマンの新しい著書『ミケーネ』は、かっこうの挿し絵をうることとなり、いささか荒唐無稽な挿し絵をおさめていた『トロイアの遺跡』とくらべて、はるかに権威ある体裁をととのえることができた。しかし、この間、彼は著述にかかりきっていたというわけではなく、研究資料が豊富なあまり、つぎつぎと生じてくる多くの疑問点について、当地の親しい学者たちと意見を交換するために、しばらくイギリスに滞在したこともある。いうまでもなく、この自力で身を立てた男(セルフメイドマン)は、ホメロスとその叙事詩とに対する信仰のたまものとして、今日の成功をかちえたのであるが、そのことがこの国において、もっとも熱烈な喝采を博し、また、もっともあつい感謝によってこたえられたということは、シュリーマンの胸に忘れがたい感銘を刻みつけた。他の国のことをいうのはおこがましいが、古代の伝説などは、それにはたして歴史的な真実があるか、どうかがまず吟味されなければならぬ、と考える批判的な感情が勝ちをしめ、その必然的な結果として、シュリーマンの発掘品に対して慎重な態度がとられているような国〔主としてドイツ〕もあったのだ。それにひきかえ、このイギリスでは、グラッドストーンのような高名な政治家までが、序文を書くことを快くひきうけたばかりか、さらにその序文のなかで、まぎれもなくアガメムノンやカッサンドラの墳墓が、シュリーマンの手によって発見されたことを論証しようとさえしているのである。
それはともかく、この『ミケーネ』は、一八七七年の暮れに、英語版とドイツ語版とが同時に出版された。しかし、シュリーマンとしては、そのフランス語版のために、翌年になっても、なおしばらくの間、これととりくまなければならなかったことを、最後に付記しておく。
〔一八七八〜八三年〕
第二回発掘
実際に鍬や鋤を手にして、ホメロスの叙事詩の舞台を掘りだす仕事が、シュリーマンの終生の目的となっていたことは、これまでもくり返し述べてきたところだが、そうして掘りあてた記念物がなによりも雄弁に語っているように、伝説の地、トロイアやミケーネで、まぎれもなく驚嘆に値する歴史が演じられたという証拠を、彼がすでに十分につかみだすことができたのは、なにをおいても、その類(たぐい)まれな堅忍不抜のたまものといわなければならない。とにかくシュリーマンは、いったんこうと目標を決めたとなると、それに向かってわき目もふらず驀進(ばくしん)するといった、いとも強靭(きょうじん)な気性の持主だから、このような成功をおさめたあとでは、ますます活力がもりあがるのを覚えないではいられないのであった。なにしろ、仕事が終わったあとの休息だの、気晴らしだのは、彼のあずかり知らぬ無用の長物といってもよかったのだ。日常生活でもほとんど休養時間などを必要としないシュリーマンとしては、事業のほうも、つぎつぎととぎれずにつながっていかないと気がすまないのであろう。事実、ミケーネの墳墓に関する仕事がいっさい完了すると、彼はまたもじっとしていられず、さっそくつぎの事業、トロイアの発掘を再開すべく、ヒッサリックの丘へと急いだのである。
ところで、シュリーマンが前回、トロイアの発掘地域を去ったのは一八七三年の夏のことだが、そのとき彼は、彼の成果に啓発された、どこかの学術団体が、ヒッサリックにおける発掘の継続をひきうけてくれればありがたい、と心ひそかに期待していた。しかしながら、進んでこの難事業をひきうけるものが現われるはずはなく、ついに彼の願いはかなえられないままに終わっていた。そこで、前回と同じく、彼がみずからトロイアへ出馬して、作業にあたらざるをえない仕儀となったのである。ところが、彼が一八七六年に苦心惨憺とりつけたトルコの勅令〔このいきさつは前章に詳しい〕は、わずか二年だけ有効で、この間に期限がきれていた。したがって、あらためて勅令を手に入れるために、彼は再び以前の苦労をくり返す羽目に追いやられていたが、さいわいにも、コンスタンティノープル駐在のイギリス公使、オーステン・ヘンリー・レイヤード卿が熱心にとりなしてくれたおかげで、この問題はあんがいはやくかたづいた。しかし、勅令交付までの期間を無為にすごすまいとしたシュリーマンは、その間に再びイタケ島を訪れ、今をさる十年まえに、オデュッセウスの城塞や、フォルキスの洞穴や、エウマイオスの家畜小屋などの遺跡にあたるとみなした場所〔第二章参照〕を、あらためて調査するという活躍ぶりをみせている。
さて、それはともかく、いよいよトロイアの発掘を再開することになったシュリーマンは、そのときの模様をつぎのように語っている。
「私は一八七八年の末ごろ、あまたの人夫、荷馬車を引き具して、再びトロイアの地に乗りこんだ。そこには、私はもとより、私の監督係や召使たち、および来訪者たちがとまるために、部屋を九つ備えた木造バラックを、まえもって建てさせておいたが、到着すると、つまらない遺物をしまったり、食堂として用いたりする木造バラックを一戸と、さらに木造の納屋を二戸建て増した。その一つは、トルコ帝室博物館と私との間で分配されるはずの発掘品を保管するためのもので、その鍵はトルコの役人があずかることにしていたが、もう一戸のほうは、発掘に用いるいろいろな道具をおさめておくためのものであった。そのほか、台所と召使部屋のついた石造りの小屋だの、私の護衛係の住居だの、ウマ小屋だのも建てることを忘れなかった。ついでながら、私はこれらの家屋を、平地へと急角度で傾いている、ヒッサリックの西北の斜面に建てさせたのである。
つぎに私の護衛係についていえば、彼らは十人全部がルメリアの避難民で占められており、私は彼らに四百十マルクも月給を支払わなければならなかったが、そのかわり、それだけの値うちは十分にあったと思われる。というのは、当時トロアス地方には盗賊が跋扈(ばっこ)していたが、彼らはそういう災難から私をまもってくれたばかりではなく、発掘のさいも人夫たちへの監視を怠らず、彼の手綱をしっかりとしめていてくれたからである」と。
ところで、こうして作業が開始されると、シュリーマンはまず、前回にやりかけた仕事、つまり、あの大斜路(ランぺ)の上手(かみて)、西門のすぐ内がわで発見していた建物を、すっかり土砂の中から掘りだすことにその主力をかたむけた。なお、この建物は、どの部分もきわめて貧相であったにもかかわらず、その付近からおびただしい財宝が出てきたばっかりに、彼が早計にもプリアモスその人の宮殿と考えたことは、すでに第三章で話したとおりだが、そこで発掘をつづけたところ、またしても、規模こそ劣りはしたものの、やはり黄金の装飾品が相当見つかったので、当面は、かつての推定がまちがいではなかったように思われた。それでも、学会や嘲笑家連中がわいわい騒いだのに驚いたのか、さすがのシュリーマンも大事をとって、これからは、この建物をば「トロイア最後の王、または首長の家」と呼ぶだけの配慮ははらったのである。
しかし、すでに冬が始まっていた。そのため、十一月の末ごろには、作業を一時中止するのやむなきにいたり、シュリーマンもヨーロッパに滞在することにしたが、それもしばらくのことで、二月の末になると、またもトロイアには活気がみなぎり始めた。寒さもものかわ、また薄暗い朝のうちから、護衛係に守られつつ、四キロほどもへだたる海岸へとウマを駆っては水を浴び、日の出まえにはいそいそとヒッサリックへ帰ってくるという、シュリーマンの日常が再び始まったのである。もちろん、そのヒッサリックにおいては、百五十人からの人夫によって発掘がどんどん進められていった。
それはそうと、その発掘の成果を、誰か権威ある学者の目で吟味してもらいたい、というのがシュリーマンのかねてからの願いであった。この点にも彼の面目が躍如としているのだが、それはさておき、彼がかつてミケーネから、いく人かの学者、わけてもベルリンのルードルフ・フィルヒョウ〔第三章参照〕にあてて、ぜひ発掘現場を尋ねてほしい、と招待状をだしたときには、彼の願いは実をむすばなかったけれども、このたびはそれがかなえられ、先史時代の発掘地については、ドイツ最高の権威ともいうべきフィルヒョウが、パリのエミール・ビュルヌフとともにトロイアを訪れて、発掘作業の仲間に加わったのである。
このような学会の重鎮が彼の仕事に熱烈な関心をよせてくれたことに、シュリーマンが心底から歓喜したのはいうまでもあるまい。やがて、ひとりの目よりふたりの目のほうがよく見える、という古くからの諺がみごとに実証された。つまり、ふたりの学者が新しい視点をもちこんだおかげで、シュリーマンの仕事は、規模においても、意義においても、ひときわ光彩を増したのである。たとえば、彼らは、トロイア平野の地質学的性状を実地に調べあげた結果、その平野がヒッサリックの麓(ふもと)一帯に生じたのは、トロイア戦役が終わってからあとのことだ、とみなす懐疑派のデメトリオス〔トロイアの位置についての最古の懐疑者といえる〕の説を完膚なきまでに打ちくだいた。また、このフィルヒョウとともに、シュリーマンは古代史の記念物に富むトロアス地方をめぐり、イダの山頂にまで足をのばしたこともある。そればかりか、ドイツ大使ハッツフェルト伯がイギリス公使レイヤード卿と共同でトルコ朝廷に請願書をだして、トロイア平野に散在する大きな墓塚の発掘に関する、シュリーマン待望の勅令をとりつけてくれたのも、じつはフィルヒョウの仲介に負うものといわなければならないのである。
ところで、墓塚といえば、一八七三年にも、シュリーマン夫人がいわゆるパシャ丘(テペー)に発掘溝を堀りこみながら、墳墓らしいものをなにひとつ見出さなかったという経験がある。そこで、発掘が許可されると、前回の失敗を挽回すべく、シュリーマンはただちにヒッサリックの周辺に作業をひろげたが、いくつかの小規模な発掘のかたわら、無数にもりあがる墓塚の中でも、ひときわ他を圧する二つの墓塚、すなわち、ウチェク丘(テペー)とベシク丘(テペー)にも手をつけた。この二つは、陸と海をともに睥睨(へいげい)する位置、ヒッサリックから一時間半ほどへだたるベシク湾岸の高地にそそり立っているが、一方は八十フィート、他方は五十フィートの高さを誇るだけあって、全体のスケールがあまりにも巨大なために、いくら土塊を取り除いても、その核心に達することはとうてい不可能のように思われた。そのため、彼は垂直の竪穴と、水平のトンネルとをいくつか掘ってみたのだが、多大の労力を費やし、いくたの危険を冒したにもかかわらず、墳墓そのものを発見するにはいたらなかった。ただ、ウチェク丘の中心部では、多角形の石材を丸く敷き並べた上に、四十フィートもあろうか、堂々たる櫓(やぐら)状の壁面が立っているのにぶつかった。それでも、残念ながら、墳墓とおぼしいものには、このたびもまったく出あわなかったのである。ここにいたっては、シュリーマンもついに見切りをつけ、これらの丘(テペー)は、古代ギリシアの風習によく見られる、死者の名誉のためにつくられた仮の墓、つまりケノタフェにすぎず、屍は実際にはほかの場所に埋められているのだ、と考えるよりしかたがなかった。
こうして周辺で作業が行なわれている間にも、ヒッサリックの丘において発掘が進められていたことは当然で、さいわいにも、こちらのほうは着々と成果をおさめつつあった。ここでは、以前に発見した例の大周壁のまわり一帯において、土砂〔ますます多量に堀りだす必要があった〕をいわば層序的に取りだしながら、あの火災によって滅び去った形跡のある居住地の層を、前回よりいっそう大々的に掘りだそうとしていたのだ。その結果、この焼市〔後に第二市と確定された〕を第三市とみなすという思い違いがあったことは別として、この作業の過程で、ヒッサリックの丘に残る居住地の層をいくつか確認しえたことは、大きな成果といわなければならない。たとえば、かのいわゆる「首長の家」〔シュリーマンはこれを焼市のものと考えていた――第三章参照〕が存在する層の下を掘り返すうちに、丘の上からはみださんばかりに、やがていちだんと古い居住地の壁がすがたを現わしたうえ、さらにその六メートル下には、およそヒッサリックの地に住んでいた人々のなかで、もっとも古いと思われる人々の家屋の遺物が保持されていたことが、シュリーマンによって白日のもとにさらされたのである。
成果の検討
一八七九年の七月、シュリーマンはトロイア発掘の第二期を終え、同時にドイツへ赴くと、これまでの習慣にたがわず、すぐさま成果の仕上げにとりかかった。そしてこの仕事は、翌年の末にいたってようやく完結をみたのであったが、彼はその間、できるだけ出版を急がせるために、三カ月ばかりライプツィヒ〔出版元のブロックハウス書店の所在地〕に滞在したこともある。こうして世に現われた、彼の長年にわたる研究活動の結実ともいうべき『イリオス、トロイア人の都市と国土。トロアスとくにトロイアの建築地における研究と発見』なる新しい著書は、シュリーマンの以前の著書、とりわけ前回の『トロイアの遺跡』とくらべて、疑いもなく著しい前進を示している。なにしろ、新聞〔「タイムズ」をさす〕に掲載された報告文の集成にすぎなかった前著では、やむをえない成行きとはいえ、日ごとに発掘状況が移り変わるにつれて、熱狂しやすい著者の心のなかでも、いちいち見解が揺れ動いたあとが目につきすぎたのであるが、それにひきかえ、こんどの『イリオス』においては、トロイア人の都市と国土とについて、昔からわかっていたものと、彼の全発掘事業によって明らかになったものとを、秩序ただしく総括しようという著者の意欲が、はっきりと看取されるのであった。したがって、彼の親友フィルヒョウが彼をたたえてつぎのように語ったのも、まことにむべ(ヽヽ)なるかなと首肯されるのだ。フィルヒョウは『イリオス』の序文のなかにこう書いている。
「シュリーマンはこれまで宝掘りと呼ばれてもしかたない一面をもっていたが、多年にわたる真摯(しんし)な研究の成果を、歴史家や地理学者の記述と照らしあわせ、詩人や神話学者の架空的な伝承と比較校合した努力のはてに、今こそれっき(ヽヽヽ)としたひとかどの学者に育ったのである」と。
さて、われわれもここでこの大著をひもといてみよう。まず序文には、シュリーマンのような特異な経歴の持主としては至当の措置といおうか、われわれが本書の第一章にその大部分を引用した自伝がかかげられている。そして本文にはいると、第一にトロアス地方の地理的状況が概観され、第二にその地の人種学的考察が行なわれたあと、トロイアの歴史が語られ、さらにトロイアの位置に関する新たな解明がなされるというぐあいであったが、そのつぎに著者はいよいよ、一番下の地盤にいとなまれた居住地からはじめて、時代的な順序、この地ではとりもなおさず層序的な順序に従いながら、発掘品の状況を整然と論じている。この場合彼は、高さ十メートルにおよぶ廃墟の山を、重なりあう六つの都市に区別したのであるが、そのいずれも、その調度類が単純なために、まだ先史時代に属するものであると判断した。こうして先史時代の考察が終わると、最後には、もっとも新しい都市、つまり、第六市の上にいとなまれた、ギリシア時代とローマ時代のイリオンの模様が語られているが、それについても、アテネ神殿の彫刻品はもとより、銘文の刻まれた記念物が豊富に援用されている。なお、すぐれた発掘品の挿し絵が惜しげもなく挿入されたことは、読者の理解に対する適正な配慮といえよう。が、それはともかく、こうしてはじめて、思いもよらぬほどの太古にまで、この地において人類の歴史がたどられることが、確かな論拠のもとに歴然と照らしだされたのである。
それにしても、シュリーマンはあくまでも熱血の人であった。科学的な論述にふさわしい型にいくらはまろうとしても、この書の行間には、個人的な欲求からこの道に足を踏みいれた、いわば独創的な人物をにおわせる息吹きが濃密にしみ出ていた。すなわち、彼が敬愛するホメロスへの忠実を守っていたことは、ここでもやはり例外ではなく、たとえ彼の発見物がホメロスの時代を何千年さかのぼるものであっても、それらを観察するさいには、ホメロスの詩が依然として眼鏡(めがね)の役を果たしていたことに、変わりはなかったのである。また、本書の冒頭でも紹介したとおり、彼は序文のなかで、幼少期の感銘が彼の生涯の方向に大きく作用したことを語っているが、このような学術書にあるまじき叙述のしかたも、この男のてこ(ヽヽ)でも動じない強い気性がわかってみると、あんがい、偽りのない真実を打ちあけるもののように思われてくる。なお、その序文を読めば、五十年もまえ、父の物語を聞いてから彼の念頭をついぞ離れなかった、あのホメロスの伝説はいうにおよばず、北ドイツの彼の故郷、アンケルスハーゲンにあった巨人塚の記憶も、彼をこの美に満たされた古典時代の地にひき寄せたことがわかるのである。そういえば、かの巨人塚でも、この地と同じく、石製だの、陶製だのの、いとも原始的な道具類が見出されたではないか。
このような面からも推察されるように、シュリーマンはホメロス心酔者であったばかりか、情熱的な先史学者でもあったというべきなのだ。たとえば、取っ手にひもを通すための穴が、水平にではなく、垂直にあいているような、珍しい容器が見つかっただけで、彼は喜びのあまりわれを忘れたものである。したがって、どこかの博物館などで、そのような原始的な壺が、より技巧的な後世の容器と同じ棚に陳列されていたりすれば、彼は血相を変えんばかりの調子で苦情を唱えるのであった。この点について彼はつぎのように書いている。
「私はこのような例にかなり接したが、そのうちブローニュ・シュル・メール博物館所蔵の華麗な手づくりの壺について述べるなら、そこの館長は、こともあろうに、それをローマ時代の素焼き(テラコッタ)の間に並べていた。彼の浅はかさかげんときたら、ローマのものが寄ってたかってもかなわないほど、この壺の値うちが高いことをまったく知らないのだ。この記述が彼に届いて、あのオイノコエ〔水差しの一種〕にやがてふさわしい場所を占めさせてくれるよう、私は祈ってやまない」と。
この言葉と関連することだが、シュリーマンは、ヨーロッパのどんな僻地の博物館をも訪れて、トロイアの発掘品と比較できる遺物を捜しまわったのである。いうまでもなく、どこにどんな遺物が所蔵されているかの消息をうるためには、彼のさかんな文通と、広い交友とがおおいにものをいった。そのうえ、仕事の意義にすっかり夢中になっていたためか、彼はたびたびの旅行中、その驚くべき語学の才によって、どんな人とも発掘品について語りあう機会をのがさなかったし、また、そのさい聞いた珍しい話は、なんでも記憶にとどめておいた。そんなわけで、著書『イリオス』のなかで意見を発表している人の数はかなり多い。たとえば、トロイア出土の陶製の大樽については、ビスマルク公〔一八七九年七月にシュリーマンはキッシンゲンで会った〕までが発言しているし、遠く中国から、アシャンティ人〔西アフリカの技芸にたけた種族で、当時イギリスと戦争した〕からの分捕り品にも、トロイアの〔紡錘の〕はずみ車に刻まれていた、あの「まんじ」〔卍〕の印が見られたことを報告した人さえあるくらいだ。しかしながら、この意義ある著述を完璧なものにしようと、あまたの専門学者たちが提供してくれた援助にまさるものはなかった。イギリスの東洋学者セース〔一八四六〜一九三三、ヒッタイト王国を発掘した〕を例にとれば、彼は、トロイアのはずみ車や小シリンダーに彫りこまれている模様を、文字と解すべきか、否かという難問ととりくんでいる。そして文字と解すべしと結論したのだが、そのためにセースは、ギリシア人が文字を知る以前にも、トロイアにはアルファベットが、小アジア一帯で用いられていたアルファベットがあったことを、論証しようとしたのである。ちなみに、この考えは、その後いくたの不信を招いたにもかかわらず、後の発掘〔一八九〇年〕のさいに、疑う余地のない銘文の刻まれたはずみ車が発見されたおかげで、強力な援軍をうることになったものだ。また、ハインリヒ・ブルクシュ〔一八二七〜九四〕というドイツのエジプト学者は、シュリーマンの求めに応じて、エジプトの銘文に表われている、紀元前一〇〇〇年代の小アジア種族の消息を詳細に検討しているし、この道の専門家で、トロアス地方の住人ともいえるアメリカ人、フランク・カルヴァート〔第二章参照〕も、ヒッサリックから四キロばかりへだたる彼の所有地、ティンブラで試みた発掘の結果を報告している。
このほかにも、それぞれの専門においてシュリーマンの著書を補った学者の数は五指にあまる。だが、とりわけふたりの学者、フランスのエミール・ビュルヌフと、ドイツのルードルフ・フィルヒョウとの、親身の協力を無視するわけにはいかない。ビュルヌフは主として、発掘地域の見取図と、その地質学的研究とによって、著者の原稿に精彩をあたえたが、フィルヒョウのほうは、自然科学と先史学という二つの領域にまたがる、汲み尽くせぬほどの広い学識によって、また、ギリシア文学と英雄伝説とに対する、シュリーマンと類を同じくする感激に支えられた洞察力によって、原稿作成の過程でも援助を惜しまなかったのである。
おそらく、シュリーマン自身を別とすれば、『イリオス』の序文を書くのに、このフィルヒョウほどふさわしい人物はいなかったであろうし、また彼ほどみごとな序文を書けるものもいなかったにちがいない。あたたかくも美しい彼の言葉には、かの地でなされた偉大な業績についての、明確な評価がこめられているばかりではなく、その無類の難事業を成し遂けた男の人がらについても、限りない敬意がはらわれているのだった。このことは、シュリーマンの仕事がこれまで各方面から軽視と嘲笑を浴びせられてきたことを思えば、けっしてよけいなこととはいえないのである。
事実、その序文の一節はつぎのようにいっている。
「今日では、シュリーマンがその事業を始めるにあたって、正しい前提から出発したか、正しくない前提から出発したか、などと問う必要はいささかもない。なにはともあれ、すでに明らかになった偉大な成功が、彼の正しさを雄弁に物語っているではないか。なるほど、静かに考えてみれば、彼の前提はたしかに大胆すぎたかもしれない、それどころか、恣意的であったともいえるであろう。あるいは、ホメロスの不滅の詩の魅惑に彼の空想があまりにも呪縛されすぎたきらいもないわけではない。だが、それにもかかわらず、このような心情の欠陥とでもいうべきものにこそ、彼の成功の秘訣がひそんでいたのである。私は尋ねるが、このように狂信的ともいえる強い信念につらぬかれた男のほかに、いったい誰が、これほど長期にわたる大事業を企てたであろうか。実際のところ、このような人物をおいては、自分の財産をこれほどにも投じて、尽きるところを知らないかのように重なりあう、あのトロイアの廃墟の層を、はるかな底に横たわる最古の地盤にまで掘り尽くしたものはなかったであろう。もしも空想が発掘の鍬を鼓舞しなかったならば、焼市は今日もなお地下の隠れ所に眠っているにちがいないのだ」と。
それでは、このフィルヒョウの言葉と照合すべく、『イリオス』の末尾を飾るシュリーマン自身の、いかにも彼らしい言葉をここに引用するとしよう。
「私はこの著述を終わるにあたって、私が行なったような、実際に鍬や鋤を手にとりながらの歴史研究が、学者たちの注意をひいて、今後いよいよ発達し、一日も早く、偉大なギリシア民族の暗黒の先史時代を、残るくまなく明るみにひきだしてくれるように、と心から希望してやまない。そればかりか、このような鍬と鋤による研究をとおして、崇高なホメロスの詩に描かれた出来事はけっして架空の物語ではなく、実在の史実にもとづいたものであることが、ますます明らかにされるとともに、さらにすすんで、すばらしいギリシアの古典作家たち、わけても、あらゆる文学の光り輝く太陽ともいうべきホメロスの研究に対して、すべての人々がひとしおの愛情を覚えてくれるように、とせつにせつに望んでいる。
いまや私は感無量、己を捨ててやり遂げた仕事の報告をひたすら謙虚に、文明世界の裁きにゆだねる次第である。もちろん私としては、あの生涯の大目的の達成に、これでいささかでも近づいたと自負しているが、もしもそれがおおかたの賛同をえられるならば、私にとってそれにすぎたる満足はないし、また私の功名心にとっても、それにまさる報いはないであろう」
後日譚
このようにシュリーマンは『イリオス』をむすんでいるが、ここで発掘品に関する彼の処置に話を移せば、彼は自伝の部分でつぎのように語ったことがある。
「私がトロイアで掘りだした遺物の大収集には、はかり知れぬ価値があることはいうまでもないが、私としては、それらを売って金にかえるつもりは、もうとうない。したがって、もちろん生存中にどこかに寄贈しようとは思っているが、たとえそれが果たせなくても、私の死後、私の遺言によって、私がもっとも敬愛する国の博物館に贈られるように取りはからいたい」と。
それにしても、彼がこのように語ったとき、はたしてどの国が彼の念頭におかれていたのであろうか。それは彼の祖国ドイツであった、などとにわかに保証できるだろうか。考えてもみたまえ、今をさる四十年まえ、やけくそ半分に、船の給仕としてヴェネズエラへ渡ろうとしたとき、彼は祖国に背を向けていたではないか。だが、ロシアでは、彼は成功をつかんでいたし、アメリカでは市民権をえていた。そのうえ、理想主義的な志向が冷静に打算する商才と混和している点で、彼はアメリカ気質と気脈を通じているといえなくもない。また、ギリシアについていえば、古代ギリシアの伝説と文学への熱狂にはこばれて、今ではそこに住居をかまえている。そうかと思うと、イギリスでは、彼の研究がもっともさかんな喝采を博し、二年このかた当地のサウス・ケンジントン博物館にトロイア収集品が陳列されているばかりでなく、七〇年代に現われた彼の著書は、まず第一に英語で書かれるならわしであった。そういえば、いつでも気軽に旅に出られるシュリーマンにとっては、ゆくとして故郷ならざるはなしといったありさまでもあったのだ。とすれば、彼がもっとも敬愛する国とは、いったいどの国であったろう。
ところが、現実には、シュリーマンのトロイア発掘品は、今日あらかたベルリンの博物館におさめられている。それはとりもなおさず、彼の祖国愛のあかしであるとはいえないにせよ、トロイア記念物に関するあらゆる問題に立ちいったドイツ人学者フィルヒョウが、この問題についてもシュリーマンを動かした結果であり、またシュリーマンがこの友にささげた友情と尊敬のたまものである、ということはできよう。いずれにせよ、彼はトロイアの財宝を大半ドイツに寄贈したのであるが、一八八一年一月二十四日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世は、この寄贈に報いる意味で、つぎのような言葉をたまわっている。
「君によって贈られたトロイア収集品は、ことごとく政府の管理下におかれ、将来は、今造営中のベルリン民族学博物館において、この卓抜せる記念物を陳列するのに必要なだけの特別室を占めるべきこと、また、その保管にあてられた室には、水久に寄贈者の名が冠せられるべきこと――余はこのように定め、これが実現を誓うものであるが、同時に、祖国への君の熱烈な愛着を表わす、このたびの寄贈に対しては、学問の進展のためにも衷心(ちゅうしん)より謝意を表するのに、けっしてやぶさかではない。願わくは、君が今後とも、その私心のない学術活動をとおして、祖国の名誉にひときわ輝きあらしめんことを」と。
このように皇帝は、われらが一介の研究者に対し、尊敬と感謝を惜しみなく表明したが、それにつづいて、彼の血と汗の結晶、トロイア収集品を展観することになったベルリン市も、彼に名誉市民の称号を与え、彼をビスマルクやモルトケと並ぶ名士の一群に加えたのである。シュリーマンの満足、さこそとしのばれよう。そういえば、彼がしばしばベルリンに滞在し、これまでよりドイツ語を用いて文章を書くことか多くなったのも、このじぶんからといえるのである。
ところで、齢(よわい)六十に達し、事業がかくも成功し、実をむすんでしまえば、たいていの人なら甘んじて隠退してしまうにちがいない。しかし、シュリーマンは違っていた。およそ隠退など、彼の人がらには水と油のように合わないのだ。絶えず仕事に駆りたてられ、鍛えぬかれていた彼のからだは、年齢的な衰えなど、微塵もうけつけていなかったのである。それもそのはず、生まれつき不断に活動していないと気がすまないといった質(たち)のシュリーマンは、せっかく新たな認識を獲得しても、それがつぎの未知をきわめるための出発点にすぎないというような、したがって、いくら研究を深めても、終わるところを知らないというような、真の学者だけがもつ体質をはぐくんでいたからである。
そんなわけで、『イリオス』の印刷が終わったかと思うと、彼はもう活動を始め、一八八〇年の十一月と十二月には、ソフィア夫人とともに、ボイオティアのオルコメノスで、いわゆる「ミニアスの宝庫」の発掘に励んでいる。
しかし、それはさておき、再びトロイアヘ目を転じよう。かえりみれば、シュリーマンの働きによって、伝説にうたわれたトロイアの位置としては、あのヒッサリックの地にましてふさわしいところはないということが、そしてまた、その地には、驚くべき太古の歴史が演じられたということが、もはや疑う余地のない事実として証明されていた。そればかりか、あの強大な周壁、焼けただれたあとをとどめる深い層――これらのものは、トロイア戦役の歴史的真実性をまざまざと語りかけているようにも思われた。だが、それにもかかわらず、このトロイアはなんと小さいことか!
もっとも長いところですら、二百メートルにも達しないありさまなのだ。これでは、たとえ七階建てのビルディングを建てたとしても、とうてい三千からの多人数は収容しきれなかったであろう。しかるに、『イリオス』の著者シュリーマンは、プリアモスのトロイアはこのヒッサリックの丘だけにかぎられていた、という見解にたてこもっていた。その結果として、ホメロスが聖なるイリオンをば「道幅ひろく堂々たる町」とたたえたのは、むろんこの詩人の時代には、それ以後の居住地の廃墟の下にうずもれてしまっていた歴史的事件の舞台を、詩人がいかにも伝説らしく、詩的自由を駆使して誇張したまでにすぎないのだ、と推論せざるをえなかった。したがって、もしもシュリーマンの仕事にまだ隙間が残されているとすれば、まず第一にこの点を指摘しなければならないのであるが、事実、『イリオス』が出版されてから、批判がもっとも活発に集中したのも、この点にほかならなかった。人情としても、太古の「首長の家」が、今日のトルコの百姓家のようにみすぼらしかったとは、誰しも信じたくないのではあるまいか。
じつをいうと、この点においては、シュリーマン自身もやがて動揺をきたしてきた。だが、思えば、どこであれ、彼がひとたび鋤を打ちこみさえすれば、ホメロスへの彼の信仰はかならず裏書きされたものだ。それならば、これからだって……こう思いたったシュリーマンは、一八八二年、またも満々たる自信のもとヒッサリックへ向かっていった。その丘の隣接地域一帯をいっそう徹底的に掘り返して、ホメロスによって描かれたプリアモスの町のすがたに、それ相応の広さをさずけようと志したのである。ついでながら、彼はその前年にも、ひょっとしてトロイア人の居住地がほかにあったら、と万が一を危惧しつつ、数週間トロアス地方を歩きまわったことがある。はたしてそれは杞憂(きゆう)に終わり、ヒッサリックほどに遺物層が堆積している場所はないと確信されたので、彼としては、もはやこの地以外では発掘をすまいと覚悟をかためていたのであった。
第三回発掘
こうして、トロイアにおけるシュリーマンの第三期発掘が開始されたのであるが、この一八八二年をもって、彼の仕事とその成果とは、以前とはいささか異なる様相をおびることになった。すなわち、新しい方法が導入されたのである。とにかくシュリーマンといえば、すでにトロイアとミケーネの財宝発見者としてゆるぎない名声を博していたというのに、その名声におぼれることなく、彼が己の研究に残されていた隙間に気づき、それを埋めるべく努力をはらったことは、学問に対する彼の慧眼と誠意を示す最上のよすがといわなければなるまい。
では、その隙間とはなにか。われわれも知るとおり、これまでシュリーマンは、廃墟から現われたものなら、たとえ〔紡錘の〕はずみ車のように数の多いものであろうと、石槌や偶像のような粗製品あろうと、あるいはまた、彼がさいわい手に入れることのできた黄金の財宝であろうと、なんでもかまわず集めまくっては、それぞれの意義と用途を解明しようと全力を傾倒したばかりでなく、フィルヒョウやその他の、信頼できる助言者にも恵まれていた。このように充実した状況であったにもかかわらず、なお隙間が残されていたのは、ふつうの場合、先史学の資料源としては、せいぜい離散した墓ぐらいを考えればよかったのに反して、ここトロイアにおいては、強大な周壁をふくむ大きな造営物が残っていたため、建築家の目をとおして、その成立の歴史とか、ありし日の外観とかを確かめる仕事がどうしても必要とされたからであった。かくて新しい難関が彼の前に立ちはだかり、彼はこの当面の課題を解くにふさわしい人物を捜す必要に迫られたわけだが、じつにこの点でこそ、シュリーマンの幸運と、また人を見る目とがいちじるしく実証されたのである。
すなわち、周知のように、彼はヴィルヘルム・デルプフェルト〔一八五三〜一九四〇、シュリーマンの協力者のひとりで、後にアテネのドイツ考古学研究所長〕に白羽の矢をたて、彼との協力体制をつくりだすことに成功したのだった。ここでデルプフェルトを紹介すれば、この少壮学者はベルリンで建築監督試験に及第すると、オリンピアにおけるドイツ帝国の発掘〔これは一八七五年より八一年までつづけられ、建築家も、美術史家も、銘文学者も協同で出土品にあたるという大がかりなものであった〕に加わり、五年の間アルティス〔オリンピアの神域〕で修練をつんだという人物で、古代の建造物については、かなりの眼識をみがいていたものと推察された。そこで、ウィーンのさる建築家とすでに関係の切れていたシュリーマンは、このデルプフェルトが一八八二年の初め、ドイツ考古学会所属の建築家としてアテネに赴任したところをつかまえ、彼を説得して、あらたな発掘期の仲間にひきいれたというわけなのだが、この一件こそ、上述の隙間を埋めることに、彼がいかに真剣であったかを如実に物語っている。
さて、このたびの発掘は、一八八二年の三月に始まり、その年の七月に完了した。今回もまた、おびただしい先史時代の調度類が瓦礫の中から取りだされたが、まず第一の収穫としては、建築家の協力のたまものとして、建造物に関して立ちいった解明がなされたことをあげなければならない。たとえば、かの「町の首長の家」は、あの大周壁をめぐらした城塞を含む、焼けただれた層の建物ではなく、そのいちだん上の層の建物であること、いいかえれば、下から数えて二番めの層、つまり第二市が焼けた町で、これまでシュリーマンが思っていたように、第三市が焼市ではないことなどが、デルプフェルトをはじめとする専門家の目をとおして、はじめて明るみに引きだされたのであった。それはそうと、この丘にはくり返しくり返し居住地がいとなまれ、そのつど先住者の家々がこわされ、取り払われていったことは、まえにも話したところであるが、そのためか、この丘の廃墟のなかには、それらの居住地が残した基礎壁の網の目が、まるで迷宮のように縦横にはしっている。もちろん、素人(しろうと)には見わけがたいほどの複雑さだ。しかしながら、専門家の協力をえて、それらを注意ぶかく清掃し、測定してみると、ある構築の輪郭が、他の一段と下の構築からはっきりと区別されるべきものであることが明らかになる。そしてそのような洞察の結果を見取図に仕上げ、これらの時代的にも空間的にも隣りあう構築物を、その図のなかでたがいに区別してゆくうちに、ついに迷宮の謎が解けたのである〔トロイア市の層がほぼ確認されたことをさす〕。
また、この調査の過程で、周壁の内部には、間口が狭く、奥行が深い大きな建物が、いくつか一律的な様式で軒を並べていたらしいこと、そればかりか、そのうちもっとも大きく豪華なものが、中央にそびえて他を圧していたらしいことも、はじめて確認されるにいたった〔いわゆるメガロン〕。このような様式の建物は、どの層にも反復して現われたものだが、そこには前室と、大きな長方形の内陣とか認められたため、もっとも単純なギリシアの神殿と似ているように思われた。ただ、よく見ると、これらの建物には、あのギリシアの円柱が立っていた形跡はなかった。だいたい加工された石材など、ほんのわずかに見られたという程度で、敷居を別とすれば、粘土煉瓦製の壁のいちばんはずれのところで、壁の張り板をのせる台として用いられているにすぎなかった。そして屋根はといえば、遺物から察するところこれも粘土を堅くつき固めた以上のものではなかったらしい。したがって、これらの建物は、材料の点から判断すれば、いかにも百姓くさい単純なものとしかいえなかったが、それでも、その広い各部屋、あたりを睥睨(へいげい)する丘の上の位置、また、それらを保護するために築かれた強大な周壁――こういった要素を考慮にいれるなら、なにか誇らかな、支配者一族の権勢を物語る風格をも欠いていなかった。
が、それはともかく、おおよその輪郭がギリシアの神殿と似かよっていたところから、シュリーマン一行がこれらをさしあたり神殿とみなしたとしても、いぶかるいわれはあるまい。しかし、あとでティリンスの発掘〔第六章参照〕のさいにわかったことだが、これらの建造物こそは、王とその一族の宮殿にほかならなかったのである。
ところで、この大規模な造営が確認されたおかげで、トロイアの最盛期には、民衆の住居が丘の上になかったことだけは、もはや疑う余地がなくなっていた。してみると、各種の破壊作用〔長い年月だとか、新しい居住地だとか、鍬のしわざだとか〕によって、たとえ今日では一軒の家も見あたらないとしても、とにかく一般民衆が住居をいとなんでいた「下町」が近くに存在していたとみなければならない。ところが、丘の後ろの台地を綿密に調査すると、事実、かなり深い層の中から、非常に古い破片がたくさん見出されたのである。つまり、このあたりにかつて下町が存在したとみてよかったのである。これを総括すれば、ヒッサリックの丘の上には、城塞だけが、ホメロスにいわせれば、ペルガモスの城塞だけがあったのであって、民衆の住むイリオスの町は麓一帯に大きくひろがっていた、ということになる。したがって、ホメロスがイリオスをば「道幅ひろく堂々たる町」とうたったからといって、詩的誇張のそしりはすこしもあたらないのであった。
このようなことを、シュリーマンは今回の作業によって確認することができたのである。建築家たちの協力によって、あらたに掘りあてたこれらの財宝は、一八七三年にこの地で掘りだした黄金の財宝とくらべて、いささかも遜色がなかった。なるほど、それらは紙の上に、いいかえれば、見取図の上に表わされただけの財宝ではあった。しかし、だからといって、その値うちが減殺されるとはかぎらない。それどころか、そのために信じられぬほど大昔の建築様式に明るい光が投げられたことを思えば、この上なく意義ぶかい収穫とこそいわなければならなかったのだ。
なお、この発掘期間中にも、シュリーマンはヒッサリック以外で試掘にたずさわっている。すなわち、前回と同じく、英雄の墳墓をいくつか発見しようと思ったのであるが、あるときの作業のごときは、遠くダーダネルス海峡のかなた、トラキアのケルソネスの先端にある、いわゆるプロテシラオス〔ギリシア軍の勇士のひとり、トロイア上陸のさいヘクトルに殺された〕の塚にまでおよんでいる。ここでも彼はトロイアと同じ陶器類に出あって、おおいに気おいたったものの、その興味ぶかい事実をさらにつきとめようとしたやさきに、残念ながら、近くのトルコ要塞の司令官から待ったをかけられた。そして、「私の費用で、あなたがたのほうで調査をつづけてくれないか」というシュリーマンの申し出もついにむなしく、この墓塚での発掘は、まもなく中止を余儀なくされたのであった。
また、余談にわたるかもしれないが、このたびの発掘の成果を評価する場合、トルコ文部省が任命した監視委員の絶えざる圧迫のなかで、作業を行なわなければならなかったという事実も、度外視することは許されない。この委員にあたる砲兵隊長ときたら、シュリーマンが発掘の目的としているのは、ダーダネルス海峡のほとりに散在する要塞〔これらはヒッサリックから歩いて一時間はかかる距離にあるのだ!〕の配置図を描くことにほかならない、とまで思いこんでいたらしく、測量器具の使用を禁じたばかりか、さらに恥ずかしげもなく、「自分も哨兵たちも、建築家が測量をしているのか、記録をとっているのか、図をかいているのか、まったく見当がつかない」とさえぬかしたのである。このくらいだから、シュリーマンが学問的な意図をどんなに力説しても、また、ドイツ大使館がいかに抗議しても、この頑迷な砲兵隊長に対してはいささかも、ききめのあろうはずはなく、発掘中になにかを書くことが禁じられたのはもとより、シュリーマンが報告するところによると、もしこれに違反したら、建築家たちを逮捕してコンスタンティノープルへ連行する、とまておびやかされるしまつであった。あるときなど、ビスマルク公じきじきの依頼が伝えられたが、その甲斐もなく、わずかに手ごころがゆるめられたにすぎなかった。ただ、発掘もすんだ年の暮れになって、あらたにコンスタンティノープルに赴任したドイツ大使、フォン・ラドヴィッツ氏の尽力で、おそまきながら、見取図作成を許すむねの勅令が、トルコ皇帝によって直接に下賜されたのである。
こうして作成された見取図がシュリーマンの新しい著書、つまり、この発掘の成果をまとめた『トロイア』〔正確には『トロイア、一八八二年におけるトロイアの建築地およびトロアスの各地での私の最新の発掘の成果』という〕に飾られたのはいうまでもないが、さらにこの本には、さきに名をあげたセースの序言もかかげられている。ちなみに本書は、翌一八八三年の末に刊行された。
〔一八八四〜八五年〕
新たな計画
ミケーネから、二、三時間ほど南へ下って、平坦な海岸のほど近くに出ると、わりあい広い盆地のなかに、長さこそふつりあいに細長いが、あまり高いとはいえない丘が横たわっている。このあたりがティリンスで、この丘の上に、かつての支配者の居城が廃墟をさらしていたのである。したがって、その丘も周壁にとりまかれているが、その周壁たるや、ミケーネの場合と同じく、なにか荒々しい風格をそなえていたため、やはり、伝説の王プロイトスの命をうけたキュクロプス族のしわざにちがいない、と昔語りに伝えられていた。だが、たがいに位置が近いために、このティリンスがやがて強大なミケーネ王国に従属するようになったのは、いわば必然のいきおいともいうべきで、伝説によれば、ティリンスの人へラクレスも、ミケーネのエウリュステウス王に仕えたとされている。
ところが、そのミケーネがほど近いアルゴスに滅ぼされるにおよんで、ティリンスも滅亡の運命をわかち、その古い王城はひたすら荒れ果てるにまかせられた。つまり、後世の住人によって手が加えられなかったわけなのだが、そのような状態が早く訪れたおかげで、このティリンスにおいては、かのトロイア〔そこでは居住地がくり返しいとなまれた〕よりも、紀元前一〇〇〇年代の支配者の居城のすがたが、はるかにはっきりとあばきだされることになったのである。
さて、このような輪郭をもったティリンスの廃墟に、シュリーマンがはじめて鍬を打ちこんだのは、すでに一八七六年八月にさかのぼるが、おりしも、ミケーネで幸運をつかむ直前のことであった。そのとき、彼は一週間ばかり台地を掘り返して、二、三の建築上の遺跡にぶつかるという成果をあげてはいたが、もちろん、それらの価値に彼がすぐさま気づいたわけではない。したがって、ティリンスの発掘は当分おあずけをくらっていたのだが、前章で話したとおり、建築上の収穫に開眼させられた第三回トロイア発掘が終わってみると、彼の脳裡には、あらたにティリンスの造営の考古学的値うちがちらつき始めたのである。そんなわけで、著書『トロイア』のドイツ語版と英語版とを完成し、『トロイア』と『イリオス』を一冊にまとめたフランス語の本〔題名は『イリオス』という〕を一八八四年の春に仕上げると、シュリーマンはまたもや新しい開拓地、ティリンスへとはやる心をおさえることができなかった。
さいわい、ギリシア政府からはすでに許可がおりていたので、彼としては、いつでもその地の全面的な発掘にとりかかれる態勢にあった。しかも、建築学的な部門を担当する人物としては、こんどもデルプフェルトという卓越した専門家の協力を期待することができた。こうして満を持して、その年のうちに発掘は開始され、翌八五年〔この年には、シュリーマンの委託によって、デルプフェルトひとりが作業にあたった〕にいたって完了したが、まるまる作業に費やされた期間は、合計四カ月半であった。
その間、シュリーマンは、ティリンスから徒歩で一時間ほどへだたるナウプリアという町に居を定めていた。そしてここでも、この精力絶倫の活動家は固有の生活様式をあみだしていたらしく、著書『ティリンス』〔一八八六年刊〕の序文のなかに、それを推測させる興味ぶかい場面をいくつか書きつけている。たとえば、つぎのような記述がある。
「そのころ私は、毎朝三時四十五分に起き、熱病予防のために四グラムのキニーネを服用すると、かならず海水浴をすることにしていた。そのため、さっそく港へ出かけてゆくのだが、そこに着くのは四時ごろであったろうか、その時刻には、私の雇った船頭(日当として一フラン払った)がすでに待機していて、私を乗せると沖合へ漕ぎだしていった。そして港の外へ出たころ、私はざんぶと海中に飛びこみ、五分から十分ぐらい泳ぎまわったあげく、なんとも爽快な気分でボートに帰るのであった。ただそこには梯子がなかったため、ボートに帰るのがひと苦労で、そのつど船頭のオールをたよりによじ登らなければならなかったのだ。それでも、長い間の訓練がものをいったのか、私はまだ一度も落ちたことも、怪我(けが)をしたこともない。さて、水浴が終わると、私は近くのコーヒー店『アガメムノン』で、ミルクなしの苦いコーヒーを一杯すすることにしていたが、この『アガメムノン』というのが気のきいた店で、いつでも早朝から開店していたばかりではなく、なんでもおそろしく値上がりしていた時勢だというのに、昔のままの安い値だんでコーヒーを売っていたのだった。しかも、その間に一頭の良馬(一日六フランで借りることにしていた)が私のために用意されるというあんばいで、私はコーヒーを飲み終わると、そのウマの背中で二十五分ばかりゆらゆらと揺られながら、心地よくティリンスへゆくことができたのである。なお、こうしてティリンスに着くのは、いつも日の出まえのことで、到着すると、私はすぐさまデルプフェルト博士を迎えにウマを送り返したものだ。
それからいよいよ作業が始まるのであったが、デルプフェルトと私とは、人夫たちの第一休憩時間、すなわち朝の八時に、かつてのティリンス宮殿の中、一本の柱礎に腰をおろして、朝食をとるならわしであった。その場合、私が以前勤めていたシュレーダー商会からどっさりと送られたシカゴ・コンビーフの貯えがあったので、パンだの、新鮮な羊乳のチーズだの、オレンジだの、樹脂入りの白ブドウ酒〔レツィナト〕だの、われわれの食事には、ひとしお豪勢な味わいが添えられていた。ついでながら、このレツィナトというやつは適当な苦みがあってキニーネとは合い口がよく、これより強い赤ブドウ酒にくらべて、暑さにも持ちがいいうえ、仕事の緊張をほどよくほぐしてくれるものだ。しかし、それからはまた作業で、われわれがそのつぎに休息するのは、人夫たちの二度めの休憩時間(はじめのうちは一時間だけであったが、酷暑の時期にはいってからは、一時間四十五分に延長された)、つまり正午からであった。そしてこのときには、城塞の南端にある脱穀場の二つの石がわれわれの枕代りをつとめてくれた。およそ働いて疲れたときほど、よく眠れることはないものであるが、この真昼時の、野天の午睡とても例外ではなく、ぎらぎらと遠慮会釈なく照りつける太陽(インド帽以外にはさえぎるものがなかった)、堅い石の寝床――こういった悪条件にもかかわらず、その場所がティリンスのアクロポリスとあっては、私が他のいつにも増して快い眠りをむさぼったのも当然であろう。もちろん、この休憩時間はもっぱら午睡にあてられたため、われわれが二度めの、しかも最後の食事にありつくのは、夕がた帰宅してから、ホテルの簡易食堂で、というのが定石であった」
このようにシュリーマンは、ティリンスでの日常生活を語っているが、その間、発掘作業のほうはどのように進行していたであろう。いうまでもなく、その昔パウサニアスがほのめかした言葉からも推察されるように、ここでもはかり知れぬ労力と知力が消費されなければならなかった。パウサニアスはこの王宮の遺跡についてこういっているのだ。
「ティリンスの唯一の遺物である周壁は、キュクロプス族によって築かれた。それは加工されていない石でつくられているが、どの石も非常に大きく、二頭一連のロバで引っぱっても、その最小のものでさえ一歩も動かすことができないくらいである」と。
しかしながら、いまやシュリーマンは、ただ茫然とながめるかわりに、実際に鍬や鋤を手にして土砂の下に眠っている遺跡にいどみ、長い研究生活でみがかれた彼の鋭い観察眼はもとより、専門家の知能をも動員しつつ、掘りだされた廃墟の状況を識別するすべを心得ていた。そのおかげで、今日のわれわれは、ギリシアの地における最古の王城の一つ、このティリンスの宮殿について、パウサニアスの時代とは比較にならぬくらい多くのことを知ることができるのである。
宮殿
それでは、われわれもここで、シュリーマンとデルプフェルトの著書『ティリンス』を手引きとして、この城塞の中に足を踏みいれるとしよう。もちろん、順路を守って、まず斜路(ランペ)から上らなければならない。すると、まるで自然の猛威によって築かれたような、粗大な威厳に満ちあふれた周壁が両がわからのしかかる部分、つまり城塞の主門にゆき着くが、それを通って、しだいに上り坂となる薄暗い通路へと折れてゆけば、昔はミケーネの獅子門と同じ形をしていたものとおぼしい城門の跡に到達する。そしてそれを通り越すと、道はわずかに広くなるが、それでもわれわれは、いまだに大城壁の狭い陰に閉じこめられている。しかしそのまましばらく進むと、前庭に達し、やがて左手の城壁の中に、天井の低い歩廊が口をあけているのが見えるが、それは、かつて城塞の衛兵隊がたむろしていた場所であるとともに、その奥の厚い周壁の内部に設けられた倉庫への出入口でもあったのだ。さて、ここで右方に目を転じれば、その大きさにおいて、われわれをいまなお取り囲んでいる城壁の貫禄にひけをとらない第二の門構えがある。そこには、円柱にささえられた歩廊さえ設けられていたと推測されるが、それを通りすぎると、そこはすでに城内、つまり、城主の宮殿に属する広い外苑になっている。そしてさらに宮殿衛兵所のいく部屋かをあとにしたところで、城主その人の住居に通じる優美な門の前に出るというぐあいである。
ところで、このように門がいくつも重なっているのは、この城塞の主が、あたかもトルコの皇帝(サルタン)のように、人民大衆とは無縁な生活をいとなんでいたことを物語るもので、おそらく、この宮殿の内部には、これらの門のほかにも、さまざまな段階の衛兵所や宮内官詰所を突破しなければ、そこにゆき着くことができないような暮らしがくりひろげられていたにちがいないのだ。いうまでもなく、これほどにも関所が多ければ、この丘の上に現実に宮廷が栄華を誇っていた時代には、平民が外苑を越えて、ティリンス王のもとにまかり出るなどということは、およそ能うべくもない暴挙であったといわなければなるまい。だが、同じ平民でも、現代に生きるわれわれは、シュリーマンの成果に手をひかれながら、王の友であった貴族たちのように彼に近づくことができる。
さて、そのためには、この広い外苑から、例の門の前面歩廊にいたる踏段を上り、その後部歩廊に通じる扉を通り抜けなければならない。すると、再び広い中庭がわれわれを取り囲むが、そこは、かつて快適な飾りつけを豊富にかかえこんでいたものとみえ、いよいよ城主の住居が近いという雰囲気をただよわせている。たとえば、その地面は清楚なたたきでおおわれていたし、また、その四方には木柱にささえられた歩廊がめぐらされていたうえ、さらにそれらの柱の上には、彩色された長押(なげし)が影をかざすようにそそり出ていたのだった。したがって、この隔絶された空間の静寂感は、なにかわれわれと親しい造営を引合いにだせば、回廊をめぐらされた修道院の中庭になぞらえられるのではなかろうか。が、それはさておき、その歩廊の前、宮殿に通じる扉と向かいあうところには、祭壇が見える。ここで王は、彼の一族の守護神〔その手から一族の祖先が犠牲用の斧を受けとったわけだ〕のために、犠牲のウシを殺し、そのくぼみの中へ血を流したのである。だが、このように限られた場所にいたのでは、人民や国土が彼のまなざしに映るはずはなく、ただ南国の明るい空の色ばかりが望まれたにちがいない。しかしながら、ゆくりなくここにたたずんで、ありし日をしのんでもいられないのだ。なにしろ、われわれの目ざす目的物は、すでに手にとるほどの近さにせまってきたではないか。事実、その祭壇のすぐ向こうには、誇らかに、またきらびやかに、王の広間〔いわゆるメガロン〕へとつながる玄関歩廊がそびえ立っていたのである。
これでいよいよ王の住居に到達したわけだが、まずこの玄関から見てゆくと、そこには、国内の芸術家はおろか、ひろく、国外からも呼び寄せられた芸術家たちが、支配者のために、ふるえるかぎりの技能をふるったとおぼしい形跡が十分にうかがえる。たとえば、上にゆくほど太くなる円柱には、一面に装飾模様が刻みこまれ、壁柱にかぶさる珍しい木材には、優美をきわめた青銅の円花飾り(ロゼッタ)が列をなして飾られていたというぐあいだが、これだけではない、壁脚はと見れば、雪花石膏(アラバスター)の透明な白が輝くばかり、しかも、そこに彫りこまれた律動的な文様からは、ちりばめられた青い模造ガラスが、本物の宝石そこのけのきらめきをあげていたし、そうかと思うと、壁そのものも、多彩な壁画(いろいろな架空の動物の間で、ウシ狩りだとか、戦闘だとかを演じている光景を描いたもの)でおおわれていたのだった。このようにこの場所の豪華さは目をみはるばかりであったが、われわれとしては、そろそろ先を急いで、そこから広間へはいらなければならない。だが、大広間の手まえには前室があり、そこへはいる通路としては、広い両開きの扉が三つ並んでいるが、そうして前室へはいると、正面と側面と、二つの扉が見られる。たぶん外国からきたものは、からだを洗い清め、香油を塗りたくり、衣装をととのえてから王の前にまかり出るために、あらかじめその側面戸から浴室へいったのであろう。一方、その正面の扉には、緞帳(どんちょう)がおおいかぶさっていたが、そのひろい石製の敷居をまたげば、すでに大広間で、かつてはそこに、上のほうから、すなわち、中央が高くもりあがっている板天井の側面にうがたれた天窓から、わずかに鈍い光がさしこんでいたにちがいなかった。また、その屋根は四本の細い円柱によってささえられ、それらの柱の真ん中には、色どりで飾られた円形の炉が据(す)えてあったが、そこからは、そのかみ王たちを暖めた煙が天窓へと立ち上っていったことだろう。
ところで、こうしてついに肝心要(かんじんかなめ)の大広間を見物できた以上、われわれの目的は十分に遂げられたといえるかもしれない。だが、さらに足を運ぶなら、このひときわ豪華な支配者の部屋のまわりに、それより小さな部屋がいくつも雑然と並んでいることに気がつくはずだ。たとえば、一本の廊下によって婦人部屋11がそれとつながっているうえ、召使部屋や、管理事務所のようなものもそれに付随しているというぐあいである。もっとも、婦人部屋についていえば、そこは他の部分と密接していながらも、それ自体でまとまった形をそなえ、小規模とはいえ、あの王の住居と同じように、中庭と広間と小室とを従えているのであった。
しかしながら、われわれが見てきた以上の配置だけで、この壮大な城塞がすべて描写され尽くされたわけではない。またほかにも、暗門〔秘密に城外へ出る道〕だとか、櫓(やぐら)だとか、倉庫だとかといった重要な施設があったばかりか、これらすべてのものを包み、かばっている大周壁も、隙間なく検分するだけの値うちをもっているのだが、筆者としてはさしあたり、そのような全体的な配置までも明らかにするためには、著書『ティリンス』に添えてある前掲の見取図を参照してもらいたいと思う。それにしても、シュリーマンとデルプフェルトが、廃墟の模様をまさぐり検討したあげく、いかに明瞭に、紀元前一〇〇〇年代〔紀元前一四〇〇年ころ〕の城塞のすがたを再現することに成功したが――この点については、以上の描写だけでも、もはや十分納得されたことと信じている。
ミケーネ文化について
さて、この発掘の過程で、建築技術上の細部とか、装飾様式とかが慎重に吟味されたことはいうまでもないが、その結果、このティリンスの城塞が、多くの点でミケーネの城塞や墳墓と一致していることが明らかになった。すなわち、この両者が同じ偉大な文化時代〔つまり、ミケーネ文化がエーゲ海周辺を支配した時代〕に生まれたものであることが、明白な事実として確証されたのである。思えば、八年まえのミケーネ発掘によって、シュリーマンは、墳墓の中から、以前には誰も見たことのない世界、いいかえれば、太古の死者崇拝にまつわる尊厳な世界と、王たちの装身具から照り輝く豪華な世界とを、われわれの眼前によみがえらせることに成功したのだが、このたびのティリンス発掘によっては、ほかならぬその王たちが住まっていた住居を再生することができたのであった。
だが、こうして二つの廃墟から掘りだされたこの文化時代の消息は、それだけでとだえてしまったわけではない。というのは、ひとたびその時代の建築様式や、工芸の特色などに注意がおよんだとなると、それからは、エーゲ海沿岸の諸地方、たとえば、アッティカ、ボイオティア、テッサリア、またはエーゲ海の諸島や、小アジアの海岸において、それどころか、エーゲ海のかなた、キプロスだの、ナイルの三角州だの、シチリアだのにおいても、いわゆる穹窿墓や竪穴墓をはじめとして、「ミケーネ」様式の調度類や容器などが発見されない年は、一年もなかったといってもよかったからだ。
シュリーマン自身についていえば、彼もボイオティアのオルコメノスから、同時代の遺跡をつまびらかに紹介している。すなわち、ティリンスの発掘が終わった翌年、一八八六年に、彼はデルプフェルトとともにその地へ二度めの旅〔第五章で述べたように、オルコメノス第一回発掘は一八八〇年、夫人とともに行なった〕を試みると、ミケーネの「アトレウスの宝庫」にそっくりではあるが、ただ、はるかに豪華な設備を有している当地の穹窿墓〔いわゆる「ミニアスの宝庫」〕を、前回よりも大々的に掘り返したのである。そのさい、大穹窿室と隣接する墓室を清掃してみると、暗緑色のスレート板でつくられている墓室の天井が、まるで緞帳のように、渦巻模様や円花飾り(ロゼッタ)のごとき線形装飾で、つまり、すでにエジプトの記念物によってよく知られている装飾様式で、一面におおわれていることがわかったのだが、これなども、同じ文化期の消息を伝える有力なよすがであった。
だが、それはともかく、たとえどこであれ、「ミケーネ」時代の遺物に出あう場合には、豪華さをくりひろげることへの、いいかえるなら、貴金属や宝石をふんだんに用いることへの、偏愛にも似た愛好が認められたし、また、それらの文様を見ると、線形装飾であると、図像的表現であるとを問わず、同じ固有の様式感がたたえられていた。しかも、さきに述べたとおり、キプロス島からシチリアにかけて、あるいは、テッサリアからギリシア半島の南部にかけて、このように似かよった記念物が発見されたということは、とりもなおさず、ある特定の時代に、地中海沿岸のこの地域一帯において牛耳をとっていた民族の、きわめて盛んな海上交通と、高度の繁栄との結果であったといわなければならないのだ。とすれば、その民族は、いずれの民族であったろうか。はたしてギリシア人であったろうか〔あとにも出てくるように、ミケーネ文化の担い手は、ギリシア人であった〕。
それはそうと、ホメロスの『オデュッセイア』〔第十九巻〕には、「鉄は人の心をひきつける」と書いてある。だが、じつをいえば、「ミケーネ」様式の記念物といっしょに、鉄製の道具とか、武器とかが出てきたためしがないという事実、そしてまた、その時代の人々が比較的柔らかな貴金属を加工するさい、いかに堪能(かんのう)な技倆をみせたとしても、まだ青銅製の道具か、ときにはむしろ石製の道具を用いていたにすぎないという事実――こういった事実を斟酌(しんしゃく)しただけで、この時代の文化が、叙事詩がほのめかすかにみえる鉄器文明〔ドーリア人の侵入、つまり紀元前一〇〇〇年ごろからギリシアに鉄器文明が始まる〕にくらべて、少なからず古いものであることは論をまたない。にもかかわらず、シュリーマンがこの文化期と、叙事詩の時代〔というよりは、むしろ過去の時代として、ホメロスの叙事詩のなかにうたわれている英雄たちの時代といったほうがよい〕とのもろもろの関係を指摘したからといって、べつに非を鳴らすにはあたるまい。事実、叙事詩がたたえているような「黄金に富む」ミケーネのすがたは、彼の発掘品によってみごとに実証されたではないか。あるいは、ネストルの杯と生き写しのものが、かつてミケーネの墳墓から出てきたし、今またティリンスにおいては、ホメロスの詩にうたわれた支配者の館と驚くほどに特徴が一致している宮殿が発見されたではないか。たとえば『オデュッセイア』には、王の男子用広間で求婚者たちが酒盛りをひらいた〔第二巻〕、とか、男子用広間にファイアケス族の王〔アルキノオス〕がオデュッセウスを迎えたとき、そこの炉の近くの柱にもたれて、王妃アレテが糸をつむいでいた〔第七巻参照〕、とかいうようなくだりが見られるばかりか、オデュッセウスの宮殿にも、ペレウスの宮殿にも、中庭にゼウスの祭壇がまつられ、その中庭のまわりには、音のこだまする柱廊がめぐらされていた、と書いてあるが、いまやそのような場所が、ティリンスにおいても、そっくり同じ形で、相互に同じ関係を保ちながら、見出されたのである。男子用住居と女子用住居との相互関係にしても、ホメロスに記されているのとまったく同じとはいえないにせよ、ほぼ同じようなぐあいにへだてられているのだ。
しかしながら、このようなミケーネ文化と叙事詩との関係は、なかんずく、アカイア人のもっとも富裕な王が居城をおいていたとされる場所、つまり、シュリーマンが黄金の財宝を掘りあてたミケーネにおいてこそ、もっとも顕著に指摘できることで、王族のものとみられる記念物が掘りだされた層の中で、いちばん新しいものでもまだ徹頭徹尾くだんの文化に属するものであったことは、彼の発掘はもちろん、その後ギリシア考古学会によってひきつがれた発掘によっても、はっきりと確証されるにいたっていた。
とにかくこれらの事実によれば、目下の遺物が伝説の記述と一致するように思われるのである。もちろん、歴史の本をひもとけば、ミケーネ王国が滅んだのはホメロス以前の時代とみなされるし、われわれとしても、これらの城塞は叙事詩の時代にすでに荒廃にさらされていた、と考える点ではなんら見解を異にしない。しかし、だからといって、シュリーマンは実際にアトレウス家の城塞に出くわしたのだ、と結論するのをためらったり、あるいは、ホメロスの伝説はまぎれもなくその時代の王族たちをしのばせるものだ、と解釈するのをはばかったりする理由にはなるまいと思う。
ところで、これらの事実を根拠として、シュリーマンをはじめ、その他の専門家たちは、どのような結論をくだしたであろう。およそのところ、彼らは、東部地中海沿岸および島々における「ミケーネ」文化は、ホメロスのトロイア戦役の時代、すなわち、ホメロスのいうアカイア人の時代に端を発したのであるが、いわゆる歴史時代になると、さしも繁栄をほしいままにした彼らの国家も崩解してしまい、別なギリシア種族がそれにとってかわった、というふうに考えたようだ。この点については北ギリシアの山地に住んでいた種族がペロポネソスに移動してきたという、いわゆるドーリア人侵入〔紀元前一二〇〇年ごろから始まる〕の消息が援用されたことはいうまでもない。彼らの説明によれば、粗暴な山岳民族が高度に洗練されていたアカイア人を征服したというのだった。そういえば、疑いもなくギリシア的と認められる、いくらか後世の服装や調度のほうが、事実として、ミケーネ時代のものよりもはるかに簡素で、非芸術的に見えることだし、また、とくに貴金属の加工という点では、紀元前一〇〇〇年直後の芸術的力量のほうが、以前の時代に比していちじるしく劣っていることでもあるから、このような説明でも、さほど的をはずれていなかったといえよう。
いずれにせよ、シュリーマンの発見によって明るみにひきだされたこの文化の担い手は、まさしくギリシア人、いいかえれば、あのアカイア人であったと認めたにしても、彼らの支配者の居城には、東方からきわめて強い影響力がはたらいていたらしく、彼らはほとんどしらずしらず東洋(オリエント)の圧倒的な趣味に屈してしまって、民族的特性の意識を呼びさます段階には、まだいたっていなかったように見うけられる。なによりの証拠に、フェニキアのアスタルテ〔豊饒と戦いの女神、イシュタールともいう〕の像が、あるミケーネ侯妃の衣服を飾っていたし、また、ミケーネの貴人たちがまとった衣服の特徴ともいえる、あのおびただしい黄金の装飾に用いられた金にしても、まさかギリシアの土地から産出したとは考えられないのだ。じつのところ、金は小アジアの産とみなすべきものだが、それと同じような例をあげるなら、衣服や装飾につかわれていた、あの模造ガラスや磁器なども、フェニキア、あるいはエジプトの発明品で、ともにギリシアで育ったものとはいえないのである。それどころか、象眼細工がほどこされた秀逸な短剣の一つには、あろうことか、川辺のパピルスの草むらで水鳥をねらうネコの図が彫られていたが、これは、ナイル河畔でしか見られない光景といってよい。
このようにギリシア以外の土地をしのばせる例は無際限にあげられるが、とにかく、実際にこのような類似現象が見られるのは、出土品の性質からみて、フェニキア、またはエジプトあたりの製品が大量に輸入された結果であろう、と考えれば説明がつくばかりではなく、当時は東方の影響がギリシア全土にわたって支配的であったのだ、というだけでも一応の説明にはなるはずである。
ところが、シュリーマンの事業に目をひらかれた学者たちのなかには、この現象を解明するにあたって、たぶんこれらの発掘品は、ギリシアの地がまだカリア人だの、小アジアの海岸を故郷とする他の民族だのによって占められていた、前ギリシア時代とでもいうべき時代の名ごりであろう、などというおかど違いの推定をしたものも少なくなかった。それでは、シュリーマン自身はどうかといえば、この点でも彼は彼一流の大胆さの片鱗を示して、カドモス〔テーベの王〕、ダナオス〔アルゴリスの王〕、ペロプス(エリスの王、アトレウス、アガメムノンらの祖〕などといったギリシアの最古の王たちが、それぞれフェニキア、エジプト、フリュギアなどから移住してきたと伝える伝説を根拠に、この東洋(オリエント)への依存という事実を説明したのであった。
それにしても、以上の概説から推察されるとおり、ミケーネ、ティリンス、オルコメノスにおいてシュリーマンが行なった発掘の成果は、ギリシア古代の歴史、にとってはいうにおよばず、地中海諸国すべての歴史にとっても、根本的な意味をもつといえる東洋(オリエント)の問題が、あらたに呈示されるきっかけをつくったのである。そこで、このミケーネ時代の記念物を求めて新たな発掘をすれば、そのつど多大の教訓によって報いられるのだが、事実がそうであればこそ、今後さらに適正な地点で努力をつみかさねてゆくなら、これまで語ってきた諸問題が解決されるのはもとより、いつかは、ギリシア精神の生成をば、ホメロスとは関係もない遠い時代、いうなれば、ギリシア民族がはじめてギリシアの大地を踏んだ黎明(れいめい)の時代にまで、はるかにたどれる日がくるのももはや夢ではあるまい、と痛いほど実感されてくる。
そういえば、「ミケーネ」時代には、ギリシアの住民がはなはだしく東洋(オリエント)に依存していたという事実は、上述のように、今日のわれわれを新たな事業へと駆りたてるばかりではない〔本書は一八九〇年代に書かれたことを注意せよ〕。じつは、ティリンスの発掘を終えた直後のシュリーマンにも、なにはともあれ、当面はもっと東方に近い地点にこそ鍬を打ちこむべきである、と思い知らせたのであった。
〔一八八五〜九〇年〕
晩年の生活と探究
どうか思い起こしてほしい、いまやまばゆいばかりの栄光につつまれているシュリーマンにも、かつては、一小売店の徒弟としてこきつかわれ、貧乏し、胸を病み、放浪し、とにかくパンをうることにのみ腐心しなければならなかったような日々があったことを。だが、今では、発掘の仕事から帰るたびに、彼はアテネ随一を誇る豪勢な邸宅に住まい、これまでにかちえた莫大な財貨の山に囲まれつつ、心ゆくばかりの生活を享受できる境涯にあった。といっても、誤解しては困る。停滞することを知らない彼としては当然のことながら、鋼鉄のように鍛えられた肉体と英知のほとばしるままに、また、ありとあらゆる国々にわたって広くはぐくまれた知的な交友のなかで、ホメロスの太古にささげる研究にいそしんでいたことは、亳(ごう)も変わりがなかったのである。
ところで、今までもシュリーマンの人となりについては何回となく語ってきたが、とりわけ晩年の彼をきわだたせる特異な面については、あらたに紹介しておく値うちがあろう。というのは、遠大な目的にむかって多大の成功をおさめた、独特な、てん(ヽヽ)として小ゆるぎもしない個性のつねとして、彼もいわば一種の魔力のようなものを身辺にかもしだしていたからである。たとえば、教養ある人々に深い感銘を与えた彼の数奇な閲歴、その輝かしい事業――これだけでも、人々を彼のもとにひきよせるのに十分であった。したがってアテネを訪れたものは、イギリス人であれ、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、あるいは、どこの国民であっても、アクロポリスと博物館を見学した後には、ほとんどかならずシュリーマン邸にも足を運んだものだ。なお、その家は、シュリーマン夫婦がトロイア発掘のさいに住家とした、あの貧相な木造小屋にあやかってか、「イリーヴ・メーラトロン」〔「イリオンの小屋」という意味のつもり〕と命名されていたが、われわれもとにかく客にまじって、この壮大な、風変りな邸にはいってみよう。
まず入口の鉄格子(てつごうし)には、トロイアの記念ともいうべきフクロウと「まんじ」〔卍〕の印が飾られているが、さらに驚いたことには、そこでわれわれを迎えるふたりの召使が、ベレロフォン〔天馬ペガサスにまたがってキメラを殺したコリント王子の名〕、テラモン〔ペレウスの兄弟の名〕と名づけられていたのだ。また、階段の踊り場のモザイクには、ミケーネの金銀細工が模倣されているし、円柱にささえられた階段部の壁からは、大きな金文字でホメロスの詩句が照り輝いているというぐあいで、どの部分にも、興味津々たる造作が凝らされているのだが、残念ながら、われわれとしては主人に会うべく、主人の居間やら、書斎やら、図書室やらの設備がある最上階へと急がなければならない。
さて、その最上階へ上ると、張出し窓から、アテネのアクロポリスが一望のもとに見渡されるという寸法で、夕暮れともなれば、沈みゆく夕陽が、紫色だの、金色だのに、アクロポリスを燦然とくまどる光景が見られるにちがいない。だが、ふり返って部屋の中に目を移せば、そこには、なにかさかんに活動している主人のすがたが見える。新しい発掘にそなえて手紙を交換しているところだろうか、財産の管理にでもたずさわっているのであろうか、それとも、古代ギリシアの作家とか、古代ギリシアの衣装をまとった現代作家とかを読んでいるところであろうか――いずれにせよ、いついっても、彼は忙しげに働いていたものだ。しかしながら、彼はいつでもわれわれを愛想よく迎えてくれ、学問のあるものと見れば、彼のもっとも愛する言葉、つまりギリシア語で話しかけてくる。もっとも、ギリシア語とはいっても、ただのギリシア語ではない。それは、彼の耽溺してやまない古代ギリシア語の作品、とくにホメロスから、彼がみずからつくりあげた固有のもので、このように、ギリシアを定住の地と定めてからも、なみの現代ギリシア語を顧みず、ホメロスの世界をねばり強く、彼独自の方法で極めたあげくの語法で忠実を守りとおしたということは、やむことのない彼の自主性をよく表わしているではないか。
それでも、客がこういう特殊な会話に加わることができなければ、どこの言葉であろうと、その人の母国語でもてなすのに、シュリーマンとしてはむろんなんの不自由も感じないのだった。こうして客を手あつくもてなすこと――これは、ギリシア古来の美徳として、シュリーマンがホメロスの世界から汲みとったものにほかならないが、この点では、生っ粋のギリシア人であるソフィア夫人も、彼にひけをとらなかったといってよい。なにしろ、この夫妻の場合、その思い出にも、その理想にも、一分のずれも見出されなかったのだ。たとえば、夫がその豊かな記憶の宝庫から恍惚としてホメロスの詩句を朗吟すれば、妻は彼がやめた先を暗唱することができるという調子なのであった。
しかしながら、妻とふたりの子ども――これがまた、女の子はアンドロマケ〔トロイア王子ヘクトルの妻の名にちなむ〕、男の子はアガメムノンと名づけられていた――にとりまかれた、このアテネにおける家族団欒のなかに、彼はいつでもとどまっていたわけではない。もちろん、晩年になってからは、さすがに家庭の人としてすごすときがやや多くなったかもしれないとはいえ、シュリーマンにとっては、そのような時期は所詮(しょせん)、新しい仕事の準備をととのえるための幕間にすぎなかった。すくなくとも夏の間は、彼はここにいたためしがなく、アテネでいう「ヨーロッパ」に出かけて、友人のもとや、パリとベルリンにある別荘ですごすのが普通であったが、そのほか、一八八六年のうちだけでも、キューバにある財産を管理するために大西洋を渡ってゆくとか、数日間ロンドンへも旅行するとか、といったふうに、ほとんど席のあたたまる暇もなかったほどである。
ちなみにこのロンドン行きについていえば、あるイギリスのジャーナリストが、ティリンスの「宮殿」なるものは、ビザンティン時代〔紀元後四世紀から十四世紀ころまで〕に城塞の廃墟に建てられた教会と同時代のものにすぎない、つまり、シュリーマンのティリンス宮殿説などはとんでもない出たらめである、という意見を発表したのはまだしも、イギリスの建築学の長老ペンローズまでがこれに賛意を表わすにおよんでは、もはや黙っていられるはずがなく、シュリーマンはさっそくデルプフェルトを伴ってロンドンへいったわけなのだが、この問題のためにとくに会議を召集してもらうと、そこで一席ぶっておおいに自説を弁明したのであった。ところが、一目瞭然、疑う余地のない事実をまえにして、この専門家がたちどころに彼の主張になびいたのはいうまでもない。そして結局のところ、シュリーマンはイギリス王室建築家協会から大金牌を贈られるという栄誉にも浴したのである。
それはさておき、その年から翌八七年にまたがる冬期には、彼はエジプトにまで遠征してナイル川を航行している。ちょうど、長い間、根(こん)をつめた仕事〔そのころ彼は著書『ティリンス』やら、『イリオス』と『トロイア』の合本やらにとりくんでいた〕が終わったときで、さすがの彼もいささか疲れをおぼえ、旅の孤独のうちに休息を味わおうと思ったのであろう。それにしてもこのエジプトのような、いとも古い歴史と記念物にみちみちた土地では、太古の伝説や歴史に対する彼の愛着が、ゆくりなく瞑想と快感にひたりきることができたのである。畏友フィルヒョウは、エジプトにおけるシュリーマンについて、
「ホメロスの詩が生まれた時代にも、いや、ひょっとしたらトロイアが栄えていた時代にさえ、エジプトの文化はすでに何千年も経過していたかもしれないというのに、その文化の証人が今日でもなお保持されているという事実――これはシュリーマンにとって片時も忘れられない事実で、なにを見るにつけても、彼はこれに思いをいたさないわけにはいかなかった」と語っているが、おそらくシュリーマンは、肝に銘じたエジプト王朝の厖大な年数を、現地の遺跡の前に立って口ずさんだだけでも、もはや酔うような気分にひたったにちがいない。
ところで、彼がはじめてエジプトの土を踏んだのは、一八五八年のことだ。そのおりシュリーマンは、船長との契約にあたってひどくぼられた経験から、土地の言葉を学ぼうと思いたち、第一章の「自伝」にも紹介されているように、旅すがらアラビア語の学習に打ちこんだのであるが、いうまでもなく、かつて彼があみだした独特な方法を採用したので、またたくまに通訳を必要としなくなったばかりか、そのあとのシリア旅行にさいしては、アラビア語で日記を書けるところまで漕ぎつけていた。そのため、三十年後の今日でも、言葉の不自由というものは感じずにすんだのだが、ただ、彼のギリシア語への熱愛はいよいよ度を増したものとみえ、このたびの旅行の模様は、アラビア語でなく、ギリシア語で詳しく日記に書きとめられている。
それによると、彼ははじめのうちこそ、ひとりの召使を、転地療養させる目的でアテネから伴ってきたようだが、やがてある小さな町でその召使とも別れを告げたから、それからはまったくのひとりで、三カ月にわたる旅路の明け暮れをすごしたという。したがって、借りきった帆船で、ナイル川をルクソール〔ナイル河畔の上部エジプトにある古都テーベの遺跡〕までさかのぼり、そこからまたあともどりする間、彼の話し相手といえば、帆船のアラビア人乗組員しかいなかったことになる。そんなある日のこと、彼は船上の生活をつぎのように書いている。
「いろんな争いごともあれば、風なぎや逆風で船の前進がはばまれるという不愉快な事故もあるにはあるが、そんなことはともかく、要するに私としては、時が早くたつのだけがやりきれない。ひとりぼっちなのに、どうしてこんなに早く時がすぎ去るのか、自分でもふしぎでならないのだが、事実だからしかたがないのだ。たぶん、日課があまりつまりすぎていることも、その一因ではないかと思われる。なにしろ、このところ、およそつぎのような日課なのである。七時起床、そのあと三十分と一時間の甲板を散歩する時間がつづくが、その間にお茶の時間があって、卵を三つ食べる。そして散歩のつぎが読書の時間、つまり、一時間はアラビア語の書物を、つぎの二時間はエウリピデス〔ギリシアの悲劇作家〕を読むといったぐあい。それから昼食と、一時間ほどの散歩、そしてつぎは四時半まで学術書を読む時間。四時半から六時までが散歩の時間、つぎに夕食をすますと、一時間半、砂漠のすがすがしい風をあびながら甲板をぶらつく。それから就寝だが、そのまえに日記をつける――と、こういったぐあいで、あっというまに一日が終わってしまうのだ」と。
そしてその日記のなかに、彼はありありと、具体的に、その国の建設状況だの、住民の風俗だのを書きつけ、また、目にすることのできた各種の記念物をありのままに描写している。そのほか、この日記でとくに目立つ点といえば、夢に見たことが書きとめられていることで、じつをいうと、シュリーマンにおいては、夢はこれまでもかなりの役割を演じていた一面ではあったが、このたびは、とりわけ近親者が夢に現われるたびごとに、その内容がいちいち細かく述べられているのだった。
さて、こうしてシュリーマンは、いったん家族のもとへもどったのであるが、このピラミッドの国、エジプトへの旅はなかなか彼の気にいったらしく、つぎの冬にも、彼は同じ旅をくり返している。もっとも、こんどはひとりではなく、フィルヒョウもいっしょにいった。そしてそのフィルヒョウの追憶記〔「ガルテンラウベ」という雑誌の一八九一年四号および七号〕のおかげで、われわれは、シュリーマンという人物がどのような印象を砂漠の人々の胸に刻みつけたかを、かなり客観的につかむことができる。たとえば、僧侶や裁判官のように、彼らの言葉、アラビア語を読むことはもとより、書くことも、話すこともできるシュリーマンが、夜は、彼らの集会の真ん中、族長の小屋の前に茂るシュロの木陰で、朗々とコーランの数節を暗誦して聞かせたさまが、また、この白人に驚嘆の目を注ぎながらも、いつか恍惚境にさらわれていった信者たちの一群が、最後には頭を下げ、額を地べたにこすりつけるばかりにして祈祷を唱え始めたようすが、そこにはまざまざと描かれているのである。
それはそうと、もちろん、このような視察旅行から帰ると、シュリーマンは再びその本性を現わして、新しい事業に対する力が身内にもりあがるのを感ぜずにはいられなかった。それもそのはずである、ヌビアで見た神殿の壁画にはラムセス二世〔紀元前十三世紀ごろのエジプト王〕とその一族が描かせたものとされる戦闘の光景が、すなわち、北方民族、ヒッタイト人〔インド・ゲルマン人種であるが、ほぼ今日のシリアを中心としてヒッタイト帝国を建設し、紀元前十五世紀ごろ最盛をきわめた〕に対する戦闘、とくにオロンテス河畔の町カデシュ〔シリア北部〕に対するエジプト軍の包囲のありさまが、なまなましく語られていたからで、すでに久しい以前から、イギリスの東洋学者セースをとおして、トロイアの文化とこれらの諸民族との間の関係について、また、彼自身の発掘成果をとおして、いわゆる「ミケーネ文化」とこの地方との密接な関係について、ひそかに注意をはらっていたシュリーマンとしては、それらの壁画の前にたたずみながら、激しいときめきに胸をしめつけられたのも必至というべきであろう。そこで、一度はカデシュを発掘する計画をたててはみたものの、メソポタミア地方にペストが発生したために、はからずも、その計画は水泡に帰してしまった。
だが、先刻承知のとおり、これぐらいの挫折に意気阻喪(そそう)するようなシュリーマンではない。彼はただちにつぎの計画、つまり、クレタのクノッソス〔ミケーネ文化に先だつクレタ文化の中心地、後にエヴァンスの発掘によって解明された〕を発掘する準備にとりかかっていた。彼の見とおしては、かつて「ミケーネ」文化が東洋(オリエント)からギリシアへ侵入するのを仲介した橋脚が、そこで見出されるにちがいないと思われたのである。そんなわけで、彼はデルプフェルトとともにクレタ島へ渡り、現地でその廃墟を調査してまわったのだが、そこでも、ティリンスの場合と同じく、宮殿の廃墟がほとんど表面に現われているのを見て、ギリシア人の最初の海上支配者ミノス王の城を、またも掘りだすことができそうだという確かな見当をつけた。しかし、土地の購入に関する交渉やら、発掘品の所有権をめぐる交渉やらが長びいているうちに、あいにくその地に暴動〔クレタ島は十七世紀からトルコ領で、二十世紀初頭ギリシアに合併されるまでは絶えず暴動が起こっていた〕が勃発してしまったので、残念ながら、この企ても再び砂上の楼閣に終わるめぐりあわせとなった。
だが、このころ、ひとりの男〔すべての反対者のうちでもっとも資格に欠けたもの〕の手で、トロイア問題について新たに攻撃の火ぶたがきられたおかげで、シュリーマンがもう一度、愛するトロイアの地へ舞い戻る機会をえたことは、じつに不幸中の幸いであったといわなければならない。
トロイア第四回発掘
では、そのいきさつを語ろう。妙な話だが、自分では一度もヒッサリックの廃墟を目撃したことがないくせに、何年もまえからいくつも論文を書いては、そのなかに、シュリーマンの初期の著書から不正確な陳述を拾い集めながら、シュリーマンのいうトロイアの城塞なるものは、ほんとうは一大火葬場にすぎないのだ、と断定して恥じないという軽薄な男がいた。ベッティヒァーという軍人あがりのディレッタントであったが、不当にもその男は、そのような論証をもっともらしくみせるために、シュリーマンとデルプフェルトは、実情をくらます偽りの写真や、偽りの叙述を提供した張本人であるばかりか、太古の宮殿を発見したという自分たちの考えに矛盾するような現物は、なんでも故意にこわしてしまったのだ、とまで難くせをつけたのである。
シュリーマンがこの挑戦をうけて立つ気になったとしても、ふしぎはあるまい。考えてもみたまえ、かのトロイアには、彼の血と汗がしみこんでいたのではないか。そこで彼は一八八九年の夏、このベッティヒァーと対決すべく、パリで開かれた人類学会議〔この会議にベッティヒァーはトロイア問題に関する一書を提出した〕に乗りこんだ。ところが、なんと驚くべきことに、その会議の席上、あるフランスの高名な考古学者がベッティヒァーの著作の支持者にまわったのである。これほどまでにこの著作がのさばり、問題を紛糾させているのを目のあたりにして、ついにたまりかねたシュリーマンは、このとき、とっさに意を決し、あわよくば鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、この反対者をして兜を脱がしめんものと、遺跡を前にして研究集会を開くことを提案したのであったが、それを機会に、そこで改めて大規模に作業を始める計画もたてたという次第なのだ。「パラス・アテナ万歳!」〔シュリーマンとしてはトロイア万歳のつもりだろう〕と、彼は闘志満々、さっそくデルプフェルトにその決意を伝える手紙を書きだした。
さて、問題の会議はその年の十二月初旬にヒッサリックで開かれた。その場合、例の反対者が最後まで承服しなかったという不如意な現象を除けば、会議はまずまずの成果をあげ、とくに証人として出席した専門家連中〔ウィーンのニーマン教授やプロシア王国陸軍少佐シュッテッフェンら〕が、彼とデルプフェルトの見解を支持してくれたことは、なによりの収穫というべきで、シュリーマンとしては、満足と安堵をもって会議を閉じることができた。
そしてシュリーマンによる四度めの、いいかえれば、最後のトロイア発掘も、フォン・ラドヴィッツ大使を通じてトルコ政府の許可が手にはいった翌年の春、つまり一八九〇年の三月一日には、予定どおり再開されるはこびとなった。なにはともあれ、彼はスカマンデル平野を一望のもとにおさめる、このひろびやかな高台に戻れるのがうれしかった。なぜならば、この丘こそは、いわば彼の情熱の培養基にほかならなかったし、また、すでに彼の故郷になっていたともいえるからである。したがって、彼が土地のぐあいも、住民のようすもくまなく銘記していたのはもとより、土地の人々のほうでも、なつかしげに彼のすがたをふり仰ぐのであった。
こうして彼はいそいそと仕事を始めたのだが、新たな成果に対して、彼が大きな期待をいだいていたのはいうまでもないとしても、この発掘の期間においては、ホメロスの描写とたがわぬ場所にまぎれもなく城塞が保持されているという事実、この二十年にわたる苦闘の成果というべきものを、ベッティヒァー流のなまくら論法ぐらいでは、もはやびくともしないほど確固不動たらしめることにも、彼は同じように重点をおいていた。
そのため、できるかぎり多くの権威に発掘現場を見てもらうことが、彼の新しい課題となった。要するに、彼の晩年には、これまでの業績を万人のもとに敷衍(ふえん)しようという意図が、とくにはっきりときわだつにいたったといわなければならない。たとえば、ブロックハウス書店の勧告をいれて、彼の発掘事業とその成果とを、カール・シュッフハルト博士の手で一冊の書物〔『トロイア、ティリンス、ミケーネ、オルコメノス、イタケにおけるシュリーマンの発掘――現代科学の光に照らして』という良書、一八九〇年刊行〕に概括することを承諾したのも、その現れということができる。また、発掘地域のすぐそばに、十四人からの来訪者が宿泊できる宿営地〔人はこれを戯れにシュリーマノポリス、つまり、シュリーマンの町と呼んだ〕を建設させたのも、同じ動機にもとづいた新規のプランであった。ところが、最初の月のうちに、そこはどの部屋も満員の盛況というありさまで、シュリーマンはうれしい悲鳴をあげたものだ。もっとも、かのベッティヒァーがあい変わらず破廉恥な攻撃文を新聞紙上に発表しつづけていたためもあって、三月の末に、前回よりも大規模な、二度めの国際会議を開催しようと彼が思いたったことも、それにあずかって力があったかもしれない。
もちろん、この会議もまた、シュリーマンとデルプフェルトの説をあっさり承認するという結果に終わった。なんといっても、明々白々たる実物を前にしては、異論が幅をきかす余地がなかったのである。が、それはともかく、この会議にはフィルヒョウもかけつけていたので、会議が終わると、シュリーマンはこの親友と連れだって、十年まえと同じく、遠くイダの山頂にまで騎行を試みた。だが、この遠乗りのおりに、彼ははじめて耳の不調を訴えた。そこでフィルヒョウか診察してみたところ、それはもうかなり進行した病気で、両耳の骨の腫脹がひどいため、難手術を必要とするであろうが、とにかく手術をうけるべき状態にあることがわかったのである。それ以後も、シュリーマンはときおり難聴を訴えはしたけれども、彼自身、まさかこれが不吉な兆候だとは気づくはずもなく、また、まわりの人たちにしても、六十八歳にしては旺盛すぎるほど活気のあふれた彼の物腰から、その病苦の深さを推しはかるなどということは、まさに不可能にちかかった。いうなれば、それほど、彼は発掘に打ちこみ、入れかわり、立ちかわり現われる来客の応接に暇(いとま)がなかったのだ。なお、つけ加えておくが、やがて例のヒッサリックの「住居地」も拡張されて、そこに妻や子どもたちの住居をととのえることができるようになったため、彼はその仕事にも嬉々として精をだしたのであった。
それでは、ここらでわれわれも、シュリーマンとデルプフェルトが始動する発掘現場を訪れるとしよう。さいわいにも、このたびは前回とちがって、見取図の作成を妨げるトルコの役人もついていなかったので、以前とはうってかわり、のびのびと作業に打ちこむことができたのだが、彼らは主として二つの課題に立ち向かっていた。その一つは、いわゆる第二市を徹底的に清掃することであったが、つぎの課題は、その外がわの地域をあらたに掘り返す仕事であった。そうすれば、この太古の城塞の上につみかさねられた歴史の層が、そしてまた、城塞と下町とのつながりぐあいが、もっと詳しく確かめられるのではないか――そんなふうに期待されたからである。
そこでまず、この二番めに古い城塞の領域に注意を向けるなら、その領域における作業の過程で、ヒッサリックの丘にある八つ、または九つの住居層のうち、この第二の層のなかだけでも、増築の時期が三つに区別できることがわかった。すなわちいちばん内がわで、もっとも小さな円形をつくっているいちばん古い周壁が、こんどはじめて探りだされた結果、城主たちがその後二度ばかりこの円形を拡張したこと、もっと正確にいえば、新しい城壁を外がわにつくりながら、二度ばかり城塞内部の面積を大きくしていったことが確認されたのである。もちろん、このように城壁をひろげたり、そのつど門を改築したりする工事と関連して、宮殿の新築も行なわれなかったはずはないとみるのが自然であろう。そういえば、宮殿についても、遺跡の見取図をつくってみると、すこしずつ位置をずらしながらではあるが、古い基礎壁の上につぎの建造物を重ねていった形跡が截然とたどられたのだ。といっても、同じ層内の改築であるだけに、それらの基礎壁の重なり合い交わり合う網の目は、ひときわ見わけがたい様相を呈し、ちょっと見には、いちばん上の網の目しか目にはいらないほどの錯綜を示していた。
こうしてこの城塞は、大城門の各部分を通り越しても、ティリンスの場合と同じく、内部でもう一つの小楼門をくぐらなければ、支配者一族の大メガロンが軒をつらねて建っている中庭には出られないほど、広大なスケールを誇っていたことがわかったのだが、このような大規模な造営が絶えずくり返され、拡張されたという事実をみただけでも、その昔、ダーダネルス海峡を見おろしつつ、この城塞が経たであろう有為転変の歴史が、要するに、太古の人々の喜怒哀楽に富む歴史のすがたが、おぼろげながら想像できるというものだ。とはいえ、すでに土砂の中深く埋もれていたこの第二市の城塞について、その隆盛時代をはっきり何千年代と示すことになれば、おのずから話は別であった〔デルプフェルト説では第二市は紀元前二五〇〇〜二〇〇〇年ごろとされている〕。
今日のわれわれですら、当時ここに住んでいた民族の名まえを知らないありさまである。したがっていくら空想力豊かなシュリーマンでも、この点ではしだいに諦めていかざるをえなかった。たとえば、彼の著書をみても、この城塞が時とともにその全貌を現わすのにつれて、これらの居住地の発見物とホメロスとの関係がいくらかずつ稀釈になってゆくのであるが、それもしかたのない、いや、それどころか、科学的に正しい態度であったといわなければならない。なるほど、はじめはこの城塵がプリアモスの居城とされたことを思えば、いささか寥々たる隔世の感をさけられないにしても、歴史的なむすびつきがなくなったからといって、この廃墟に落胆のまなざしを注ぐのはいわばおかど違いで、われわれとしても、ある地中海民族のもっとも古い住居形式が、他に類例のないほど大規模に、ここに認められる可能性が提示されたのであるから、ますます勢いをえて然るべきではなかろうか。
しかし、じつをいえば、トロイアの遺跡は、このようにまったく時代のない、すべての関連を無視した状態のままに放置されたわけではない。というのは、この最後の発掘を飾る大きな収穫として、シュリーマンの不屈の事業によってすでに門を開かれた二つの先史文化、すなわち、古代トロイア文化とミケーネ文化との関係が、ある程度まで明らかにされたからである。
そこで第二の課題、つまり、第二層の城塞をとりまく周壁の外がわで行なわれた作業に視線を移せば、シュリーマンがその地域である一カ所を掘らせたところ、別の住居地の層がすがたを現わしたのであった。ところで、すでに露呈していた城壁そのものも、昔はさえぎるものもなくカスマンデルとシモイスの谷を見はらしていたにちがいないとすれば、この十六メートルの高さにまでそびえ立つにいたった廃墟の山は、どうしても、いわゆる第二市より新しいものとみなければならなかった。なお、このような廃墟への建造は、ローマ時代になって終りを告げたものとみえ、いちばん上には、ローマ時代のものとすぐに認められる城壁が露出している。そしてそれから下へ、さきの城壁の地盤に至るまで、六つの居住地の層を縦にたどることができるというわけだ。
それはそうと、第二市没落のあとにつづく三つの層の住民たちは、シュリーマンの調査によれば、その古い城塞そのものの住民と同じく、原始的で、ぶこつな調度品をもっていた。ところが、この城塞が破壊された後、ここに四回めの居住地、つまり第六層の居住地がいとなまれると、このような事態はがらりと変わってくる。なぜならば、瓦礫の山が八メートルの高さに達して、かつては古い城壁の基礎工事をすっかり埋め尽くしていたこのあたりでは、それ以下の層とは比較にならぬほど優雅な容器類が数多く取りだされたからである。では、どうしてこのような進歩が生じたのであろうか。そのことは、山と積まれた発掘品そのものがなによりも明確に解いてくれる。
とりあえず、それらを二種類の陶器にわけてみると、その一つは、明色の陶土でつくられた豊富な文様のある壺で、シュリーマンがミケーネで驚くほどたくさん発掘したのをはじめ、その後、地中海地域の各所で掘りだされたものと、まったく同じ範疇に属するものであった。これらが概して輸入品とみなさるべきことは、まえにも話したとおりであるが、トロイアについても、その点は例外ではなく、そのきめこまやかに精製された陶土とその形態の優美さとは、はるかに分量の多い第二の種類のものとは著しい差異を示している。なお、この第二のものは、かなり発達を遂げてはいるものの、それ以下の層の発掘品によってすでに知られている、トロイア本来のものともいうべき陶器との、一見してそれとわかる関係をいまだにひきずっていたのである。
ここにいたっては、ミケーネ品の輸入がトロイアの陶器製造にエポックを画したのだ、と推測してもさしつかえあるまい。だが、ひるがえって、ひとまずトロイア最古の住民たちの陶器製造を思い返すなら、彼らがその壺や鉢を、家内労働として女や奴隷たちにつくらせていたらしいことは、第三章からも容易に推察されよう。そしてこのような製作方法は、第六層、つまり、ミケーネ式の壺がまばらに見出される居住地の時代になっても、じつは根本的に変わったわけではなく、すでに固有の製造技術が発達していたことはまちがいないとしても、当時の陶工たちは、轆轤(ろくろ)をわずかに用いた点を除けば、個々の家でもあやつれるような、ごく簡単な技術を行使していたにすぎなかったのだ。ところがそこへ海のかなたから、商人たちがどっとばかり船で押し寄せ、ヘレンスポントの海岸に彼らの驚嘆すべき品々をひろげながら、それらの、技術的にも、様式的にも、高度に洗練された杯だの、甕だの、壺だのを、地中海沿岸すべての国々のためにつくっている一大製作所の話を物語った。なにしろ、そこに陳列されたものときたら、あらゆる技術上の手段をほしいままにできるわれわれ近代人でさえも、ときには最高の尊敬をはらわざるをえないような様式の品々であったから、たまらない。この国に刺激が与えられ、競争意識がよび起こされたとしても、むりからぬ成りゆきであろう。
こうしてトロイアの陶工たちは、陶土をより純粋に、より堅くこねあげ、より純粋な色彩を選び、容器により美しい、統制のとれた形態を与え、焼きかたにもくふうを凝らし、そして容器のまわりには、より豊富な線形装飾をからみつかせたうえ、全体を釉(うわぐすり)のような均一な光沢でおおうすべを身につけていったのである。にもかかわらず、当時のトロイア製品はミケーネ製品そのものの優美さと華麗な色彩には、また遠くおよばなかった。とにかくこの地方では、昔からあまりぱっとした装飾の冴えは見られなかったのだが、その点は別としても、トロイアの陶工たちには、かの優美な容器を生んだミケーネの土地からえられるような、きめの細かい陶土や、その他の資材が欠けていたのかもしれなかった。しかしながら、そうはいっても、もっと上の層の発掘品を見ればわかるとおり、この時代の陶工たちこそ、その後、五百年以上も存続したうえ、紀元前七世紀から六世紀ごろこの地方に住んだギリシア人をもいわば支配していた陶器製作業に、確固たる基礎をおいた人々にほかならないのである。
なるほど、陶用轆轤は考古学的知識の宝角(たからづの)〔豊饒の象徴である〕である、とシュリーマンもつねに語っているように、陶製品を観察することによって、いまやもののみごとに太古の謎の一角があばかれたわけだが、トロイアの地がミケーネ時代にかちえた隆盛をあかしたてるものは、これらの出土品ばかりではない。じつは、別の手がかりもえられたのだ。というのは、この時期の居住地は、目下のところ、わずか数百平方メートルの小地域にわたってたどられたにすぎないとはいえ、それでもすでに、後期ギリシア時代とローマ時代の建造物を除いては、これまでヒッサリックの廃墟の中で見られたいかなる建造物よりも、はるかに堂々たる建物の遺跡がそこで掘りだされたからである。つまり、デルプフェルトは、基礎壁の厚さが一・六メートルもあろうというメガロンの輪郭を見わけたばかりではなく、そのすぐ隣でも、土台の幅がゆうに二メートル以上もある第二の建物を見出していたのだった。このように強大な建物があばきだされた以上、この第六層の住居地をば村落ふうなどとは呼びえないこと、もはや歴然として明らかではないか。また、これと関連して、トロイア平野のもっとも壮大な記念物といってよい、例の大きな墓塚から、「ミケーネ式」のものと同時にヒッサリックで見出された単彩の壺類がかなりたくさん出土した、というシュリーマンの主張も、あなどりがたい意味をもっている。もしもそれが事実なら、これらの英雄の墳墓もまた、トロイアの支配者たちが経験した、この第二の繁栄期の遺物とみなしてもよいのではあるまいか。
それでは、以上の所説をまとめつつ先へ進もう。まずシュリーマンは、上記の第六層から最初に出土したミケーネ式の取っ手つきの甕を、トロイアの遺物の年代を決める準備具としておおいに歓迎したが、これはまちがっていなかったのである。もっとも、それを輸入した年代をはっきりと示す段になれば、まだかなり考慮をはらうべき余地が残されてはいる〔近年エジプトでなされた発見によると、ほぼ紀元前一五〇〇年から一〇〇〇年の間と決めることも可能のようだ〕。つぎに、かつては、出土品がいっそう単純で、原始的であるという、それだけの理由から、トロイア「第二市」はミケーネやティリンスよりも著しく古い文化をもっていた、と推断するよりしかたがなかったにもかかわらず、今では、トロイアの地層そのものから、そのことがわかるようになった。その証拠に、第二市の城塞とミケーネ時代の城塞との間に横たわる、三つの住居地が識別されたおかげで、その間に流れたであろう長い時の経過が、痛切に感得されるのだ。ただ、それが実際にどれだけの期間を意味するかは、もっと立ちいった根拠が示されるまでは、推測することすらできないのである〔デルプフェルト説では第六市は紀元前一五〇〇〜一〇〇〇年ごろとされる。したがって第二市からは約一〇〇〇年が経過している〕。
それにしても、第二市の城塞と、ミケーネ時代の城塞とは、どちらもギリシアの叙事詩の発展時代、いいかえれば、ホメロスが活躍していた時代よりも古いことだけは、動かぬ事実である。したがって、あらためてつぎの問題が提起される。すなわち、ホメロスのいうアカイア人に滅ぼされたプリアモスの町は、はたしてどちらであったろうか。古いほうの町であろうか、それとも、アトレウス家の本拠、ミケーネの発掘をとおして、われわれにも、その最高の発展が知られているあの「ミケーネ文化」の痕跡が、かずかず認められるほうの町であろうか〔ホメロスのトロイアは後にデルプフェルトによって第六市と推定された。しかし最近のブレーゲン説では第七市Aとされている〕。この問題の解決はもう指呼の間にせまっていたが、さしあたりシュリーマンは、それを翌年まで延期しなければならなかった。だが、その翌年がくるよりも早く、唐突の死が、この疲れを知らぬ探究者の精進に終止符を打ったのである。
死
三月に始められた作業は、完結をみないうちにおり悪しく夏にさしかかり、ヒッサリックの丘には、またも耐えがたい熱気が襲ってきた。そこでシュリーマンは、七月三十一日、その地の作業を中止するのやむなきにいたったのであるが、そのときには、翌年の三月一日を期して、再び発掘をつづける考えであった。しかしながら、やがてどんな意気ごみも無に帰してしまったとは、ただただ痛恨のいたりというほかはない。
が、それはさておき、アテネに引きあげたシュリーマンは、いつもの習慣に従い、デルプフェルトと共同で、まず今回の発掘に関する短い当座の報告〔一八九二年刊行〕を書き、家事上の問題もいくつか、かたづけたが、ドイツで治療をうけていた夫人が子どもたちとともにアテネに帰着すると、かねてからフィルヒョウに勧められていたとおり、ハレのシュヴァルツェ教授のもとで耳の手術をうけるべく、その年〔一八九○年〕の十一月十二日に家を出た。もはやまぬがれられないとみて、さしも強気のシュリーマンも観念したのであろう。五日間の汽車の旅が終わり、目ざすハレ駅に着くと、彼はその足で診察に駆けつけた。そしてつぎの日には、早くも手術が執行され、両耳の病根ともいうべき骨の肥大が除去されたのであった。しかし、体力の消耗を感じなかったのか、彼は危険をも顧みず、十二月十二日にはもうハレを発っている。それからは、ライプツィヒの彼の発行者ブロックハウスのもとへ急行し、ついで一日ほどベルリンに立ち寄って、フィルヒョウとともに、同地の民俗学博物館にあらたに陳列された彼のトロイア収集品を視察したり、翌年に行なうべき旅行のプランを語り合ったりしているかと思えば、十五日にはすでにパリにきているというように、健康人そこのけのテンポで旅をつづけたのである。しかし、またも激痛がぶり返したらしく、ついに彼もその地で医者の門をたたきはしたが、新たな診療が必要だと告げられると、痛さなどはどこ吹く風と、またたくまにパリからナポリへと旅立ってしまった。
そのナポリでは、博物館の新しい購入品やら、ポンペイの最近の発掘成果やらを見ようと思ったのだが、それからはまっすぐに帰宅するつもりで、すでに本人からも、アテネの家族にあててまもなく帰るむねを通告していた。しかし、彼が帰るかわりに、同じ月の二十六日には、突然、思わぬ悲報が家族に届いたのである。そこには、お宅の主人はナポリでゆき倒れた、炎症が耳から脳に波及しているため、もはや医者にも見限られたまま、昏睡状態におちいっている、と書いてあった。そして、彼が息をひきとった、という知らせが追いかけてきたのは、それから何時間もたっていなかった。
シュリーマンの遺骸は、彼の長年の友デルプフェルトと、ソフィア夫人の長兄とによってアテネに持ち帰られた。さっそく未亡人に弔意を伝えた人は数えきれないほど多かったが、シュリーマンがトロイアの出土品を贈ったドイツ帝国の君主、ヴィルヘルム二世もそのひとりであった。そして明けて一月四日は、葬儀のとり行なわれる日で、その日の午後、故人がしばしば老若の友を集めて愉快な会合を催したシュリーマン邸の広間には、弔問客がぞくぞくとつめかけ、この偉大な男に最後の敬意を表わした。それらの人々の中央、柩の枕もとには、彼を学術的事業へと鼓舞したホメロスの胸像が立っていた。また、棺の周囲は、彼の業績に感謝する人々の手で美しく装われていた。すなわちフリードリヒ皇后、ギリシア王室、ベルリン市、アテネの学術諸団体をはじめ、たくさんの友人、知人たちの名まえがそこに読まれたのだ。そのうえ、ギリシアの大臣、知名人はもとより、なんと国王ゲオルゴス、皇太子コンスタンティンまでが、感謝の意を表するために親しく葬儀につらなっていた。思えば、シュリーマンの全生涯は、この民族の栄誉を輝かすためにささげられたといっても過言ではなかったし、事実また、彼らのもっとも古い過去が、すでに思いもよらぬすがたにおいて開かれていたのである。したがって、彼らとしては、この故人の尊い寄与に対して、いくら手あつく報いても報いたりない気持であったのだろう。このような気持はギリシア史跡総監カヴァディアス氏と、ギリシア考古学者の長老で、詩人でもあるリゾス・ランガベー氏とが、それぞれ弔辞のかたちで涙ながらにいい表わした。また、合衆国公使スノーデン氏も、この自国の市民に弔辞をささげて、アメリカ民間人のねばり強い気性をかくもあざやかに発揚したことをほめたたえた。そして最後に、シュリーマンの仕事をつねに誠実に支援してきたデルプフェルトが、友人として、またドイツ学会の代表として、つぎのような訣別の言葉で故人の屍に呼びかけたのである。
「安らかに眠りたまえ、君はもはや十分に果たせり」と。
ああ、生涯けっして休もうとしなかったのに、その彼も今は、生前に選んでおいた場所〔アテネ市の南部〕で眠ることを余儀なくされ、E・ツィラー教授の設計によって建てられた、古代ギリシア様式の墓標の下に横たわっている。すでに寂として声なく、草葉の陰に休らう彼の遺骸に向かっては、パルテノンの建つアクロポリスが、ゼウス・オリンピア神殿の柱たちが、紺青のサロニカ湾が、さらにその海のかなた、ミケーネとティリンスを背後に率いるアルゴリスのかすんだ山なみが、静かに挨拶をおくっている。
本書は、トロイアの発見者として名高いハインリヒ・シュリーマンの『自伝』の全訳である。原典は一八九二年に初版の刊行をみたが、それが呼びおこした深い感銘のために、その後いくたびかドイツ本国において版をかさねたのはもとより、あまたの国々に翻訳紹介されるという輝かしい経歴を誇っている。ただし、自伝とはいっても、厳密な意味での自伝は、シュリーマンの著書『イリオス』〔一八八一年〕の序文から抜粋された第一章だけで、それ以下のより大きな部分は、彼の死後、未亡人に委嘱された第三者の手によって構成されたものである。
したがって、この『自伝』は、六十歳になんなんとする本人が、自力で身をたてた個性の本質を、じかに、熱っぽく語り明かしてくれる部分と、必要な資料をすべて手におさめたうえ、それらを操作するすべをも心得た第三者が、なお明らかにされるべき問題にまで照明をあてつつ、抑制された筆でこの魅力的な人物の活動とその成果の全貌を物語ってくれる部分とから成り立っているわけで、とりわけシュリーマンのような、人間と事業とが不可分にむすびついた人物の全体像を呈示するには、じつに当をえた、妙味あふれる出来映えの書物ということができよう。ただ、残念なことに、本書から材料を汲みとった心ない伝記作者たちのために、シュリーマン自身は、死後もさまざまな誤解をこうむる羽目に追いやられてしまった。たとえば、彼の特異な人生行路や、驚くべき語学の才や、黄金の発掘品のきらびやかさばかりが強調されたり、あるいは、彼の重要な側面ともいうべき、ホメロスへの熱烈な心酔にしても、いたずらに驚嘆されて正しく評価されないという傾向が助長されたのである。しかし、いまやわれわれは、本書から直接に彼の偽らぬ偉大さをとらえることができるはずだ。
つぎに翻訳についても一言したい。じつは、原文の持ち味を生かしたいという気持から、はじめはできるだけ原文に即した翻訳を仕上げてみたのだが、その発表を控えなければならなかったのは、そのような訳文では、よほと注意ぶかく読まないと、全体の関連を見失ってしまうような危険が感じられたからである。いいかえれば、ときとして飛躍や圧縮が、つまりは叙述の節約が認められたからにほかならない。考えてみれば、シュリーマンのような独特な人間の生涯を語ろうとする本書においては、原文の持ち味は二の次として、なにはともあれ、仕事の経過や意味を明瞭にするほうが大事なのではあるまいか――そこで訳者は、全体に対する綿密な考察を行なった後、かなり思いきってそれらの間隙を埋め、若干の重複をけずるという、多大の緊張を要する労作をつけ加えざるをえなかった。といっても、翻訳者の当然の責務として、原文で採られている叙述の順序を変えたり、内容を別ものにしたりするような出すぎたまねは、絶対に避けたつもりである。そんなわけで、この翻訳を評論する場合には、以上の点を念頭においていただかなければならない。とにかく訳者としては、単なる翻訳を上まわる、以上のような労作を積みかさねることによって、本書の内容がひときわ正当なかたちで読者に伝わる道を開いたものと自負している。もちろん、力およばなかった点については、快く叱正を受けいれるのにけっしてやぶさかではない。
ところで、シュリーマンの数奇な閲歴はいうにもおよばず、発掘の動機や経過、またその成果なども、本書が余すところなく語ってくれる仕組みであるから、あらためてくり返す必要はないが、ただ彼の業績については、ここで言及しておく値うちがあろうかと思う。というのは、信頼できる証拠がそろっているにもかかわらず多くの偉人たちと同じく、彼のイメージもその点では長い間、不安定な状態におかれていたからである。いうまでもなく、彼に対する誤解や非難は主として、彼がアマチュア好事家の出身で、ホメロスの叙事詩『イリアス』に描かれたトロイア戦役の伝記に空想力をあおられ、まるで執念のかたまりのように私財を捨てて伝説の舞台に突進していったという、そもそもの大前提に、また、そこに達するためには、貴重な遺跡もしばしば破壊して顧りみなかったという仕事の進めかたに、そればかりか、遺物を吟味するさい、ホメロスの詩句をあまりに信じすぎ、批判すべき場合にも、空想に身を任せすぎたという成果の検討のしかたに向けられていたのだった。しかも事実としてシュリーマンは、トロイア第二市をプリアモスの町と即断したり、ミケーネで掘りあてた財宝をただちにアガメムノンの遺品と思いこんだり、というような過失をいくつもくり返した。しかしながら、本書のなかでフィルヒョウも語っているように、そのような前提や空想力をいまさら責めるにはあたらないのである。なにしろ、大きな成功がそれらの欠陥を補って余りあるばかりか、そこにこそ成功の秘訣があったといっても過言ではないからだ。
彼の業績の細部にわたっては、訳文のなかに挿入した訳者の簡単な注が役だつはずであるが、たとえば、トロイアについてみても、彼の死後、デルプフェルトやブレーゲンの精密な検討によって、シュリーマンが正しい前提から出発し、ほぼ正しい結論に達したことが確認されている。つまり、今日では、彼が発掘した城塞の一つで、伝説のトロイア戦役を思わせるなんらかの事件があったにちがいない、と一般に考えられている。こういえば、シュリーマンはいかにも個人的な好みから幸運なサイコロを投げた人のように聞こえるかもしれないが、彼がそのような成功をうるために、孤独な執念に閉じこもらず、フィルヒョウやデルプフェルトといった専門家の協力をすすんであおいだ事実も見のがしてはなるまい。ともかく、彼がトロイアを発見し、ミケーネの墳墓を掘りあてたにとどまらず、ティリンス王城の廃墟を子細に研究してミケーネ文明の輪郭を把握し、さらにそこからクレタのクノッソスをへて、ヒッタイト人やエジプト人のオリエント文化にいたる連絡線までまさぐろうとしたことの意義、すなわち、古代ギリシアの生成に関する今日の歴史書の記述におおかたの基礎をおきえたことの意義は、専門家でなければ理解できないという性質のものではないのである。本書は、そのような業績へのたちいった展望を与えながら、同時に、情熱のすべてをあげて遠大な目標にいどみかかったこの偉人の歩みをとおして、人生の意味や生きかたについて、尽きざる教訓を提供してくれるであろう。
なお、本書を訳出するにあたっては、早稲田大学教授平田寛氏より、いくたの有益な助言を頂戴した。心から感謝の意を表する次第である。
一九六二年十一月
◆先史時代への情熱◆
ハインリヒ・シュリーマン/立川洋三訳
二〇〇四年九月十日