みずうみ
シュトルム/高橋義孝訳
目 次
みずうみ
ヴェローニカ
大学時代
解説
[#改ページ]
みずうみ
老人
ある晩秋の午後、身なりのきちんとした老人が一人、ゆっくりと道を下って行った。散歩を終えて帰るところらしい。昔はやった止め金つきの靴《くつ》が埃《ほこり》をかぶっている。金の握りのついた長い籐《とう》のステッキをかかえている。過ぎ去った青春の俤《おもかげ》をそのままに宿しているような黒い眼《め》は、雪白の頭髪と奇妙な対照をなしている。老人はその黒い眼であたりを静かに眺《なが》めたり、夕陽《ゆうひ》の靄《もや》に包まれた眼下の町を見下ろしたりする。――よその土地から来た人のようにも見える。行き交《か》う人たちの中にも、この老人に会釈《えしやく》する者はごく稀《まれ》だったから。とはいえ大抵の人は、老人の厳粛な眼にわれ知らず見入ってしまうという風だった。老人はやがて破風《はふ》作りの高い家の前に立ち止り、もう一度街の方を見やってから玄関に入って行った。玄関の鐘が鳴ると、わきの部屋の、玄関に向った覗《のぞ》き窓の緑のカーテンが掲げられ、年寄った家政婦の顔がさしのぞいた。老人は籐のステッキをあげて合図した。「あかりはまだいい」言葉には多少南の訛《なまり》がある。家政婦はカーテンを元に戻《もど》した。老人は広い玄関を通って、陶器の花瓶《かびん》をいれた、大きな槲《かしわ》材の戸棚《とだな》が壁に沿って並んでいる広間を横ぎり、真向いのドアから小さな廊下に入った。そこには後屋《こうおく》の階上の部屋部屋へ行ける狭い階段がある。老人はこの狭い階段をゆっくりと登って行き、二階のドアを開き、ほどよい大きさの一室に入った。部屋の中は居心地よさそうで、静かだった。一方の壁はほとんど整理箱や本棚で覆《おお》われており、もう一方の壁には人物画や風景画が懸《か》かっている。緑の覆いの掛かっているテーブルの上には、書物が二、三冊、ページをあけたままに置いてある。テーブルの前には、赤ビロードを張った、どっしりとした肱掛椅子《ひじかけいす》がある、――老人は、帽子とステッキとを部屋の片隅《かたすみ》に置いて、肱掛椅子に腰を下ろした。両手を組んで、散歩の疲れを癒《いや》そうとする風である。――その間、あたりの夕闇《ゆうやみ》は色を濃くして行った。ついに月かげが窓ガラス越しに壁の絵の上に落ちた。明るい少しずつゆっくりと動いて行く月光を、老人はわれ知らず追っていた。と、飾りけのない黒い額縁に入った小さな肖像画が照らしだされた。「エリーザベト」と、老人が低く呟《つぶや》く。この呟きとともに時代が一転する。老人はいながらに幼い日々へとたち帰って行く。
幼な馴染《なじみ》
ほどなく愛くるしい少女がやってきた。名はエリーザベト、五歳くらいだろう。少年の年はちょうどその倍であった。少女は頸《くび》に紅絹《もみ》を巻いている。それが鳶色《とびいろ》の眼によくうつった。
「ラインハルト、さあお休みよ、一日じゅう。それからあしたも学校なしね」
ラインハルトはそれまで小脇《こわき》にかかえていた石板を素速く玄関のドアの陰に置いて、二人は家の中を駆けぬけて、庭に出る。更に庭木戸から外の草地へ出た。学校の思いがけぬお休みが二人にはひどくうれしかった。少年はエリーザベトに手伝ってもらって草地に芝生で家をこしらえていた。二人して夏の夕方をその中で過そうというのだ。けれどもまだベンチがなかった。少年は早速仕事に取りかかった。釘《くぎ》、金鎚《かなづち》、入用な板切れはもうととのっていた。一方、エリーザベトは堤に沿って歩いて行って、野生のぜにあおい[#「ぜにあおい」に傍点]の輪になったたね[#「たね」に傍点]を自分のエプロンの中に集めた。鎖と頸飾りを作ろうというのだ。さてラインハルトは、幾度か釘を打ちそこねたが、やっとベンチを仕上げて、芝生の家から外へ出てきた。見るとエリーザベトは、もうずっと向うの、草地のはずれの方に行っている。
「エリーザベト、エリーザベト!」呼ばれて戻ってくる少女の巻毛がひるがえる。「おいでよ」と少年が言う。「とうとう家ができたぜ。暑くなっただろう。中へお入りよ。新しいベンチに腰かけようよ。僕《ぼく》が何かお話をしてあげる」
二人は中に入って、新しいベンチに腰を下ろした。少女は拾い集めたぜにあおい[#「ぜにあおい」に傍点]の輪形のたね[#「たね」に傍点]をエプロンから取りだして、紐《ひも》に通す。少年は話を始める。「昔々、あるところに三人の紡《つむ》ぎ女がいました――」
「あら」と少女が言う。「そのお話なら、あたし全部知っててよ、いつもおんなじお話じゃいやだわ」
そこでラインハルトは三人の紡ぎ女のお話をやめにして、ライオンの洞穴《ほらあな》の中へ投げこまれた可哀《かわい》そうな男のお話をすることにした。「いいかい、夜なんだよ、それは。真っ暗なんだよ、そうしてライオンたちは眠っているのさ。だけど、時々眠りながらあくびをして、赤い舌を出すんだ。そうすると、その男は、もし朝になったらどうなるだろうって、こわくってこわくってしようがないのさ。そうしたら、急に自分のまわりがぱっと明るくなったのさ。ひょいと見たら、眼の前に天使様が立ってるんだ。天使様は、手でおいでおいでをして、そうしてまっすぐ岩の中へ入って行くのさ」
少女は熱心に聞いていた。「天使様なの」ときく。「じゃ、羽根が生えてるの?」
「僕は今、そういうお話をしているんだよ、これはお話だよ。天使なんていやしないんだよ」
「あら、いやだ」少女は少年の顔をまともに見つめる。けれども少年がこわい顔をして自分を見るので、少女は半信半疑のていである。「じゃ、どうして天使様天使様って、みんなが言うの。お母様も、伯母様も、それから学校の先生も」
「知らないよ、そんなこと」
「じゃあね、ライオンもほんとうはいないの?」
「ライオン? ライオンはいるさ、当り前だよ。インドにいるさ。インドじゃ坊さんが車につないで砂漠《さばく》を走って行くのさ。僕は大きくなったらインドへ行くんだ。インドはここより千倍もきれいなんだぜ。インドは冬なんかないんだぜ。君も僕と一緒に行くんだよ、いいかい?」
「ええ、行くわ。だけどあたしのお母様も一緒に行かなくちゃ。あなたのお母様も、よ」
「駄目《だめ》だよ。僕たちが大人になった時は、もうお母様たちはお婆《ばあ》さんになって、一緒になんか行けるもんか」
「でも、あたし、一人でなんか行くと叱《しか》られるわ」
「大人になったら叱られるもんか。大人になったら、君は本当に僕の奥さんになるんだろう、そうしたらほかの人は君を叱ったりなんかできないさ」
「だけど、そんなことをしたら、お母様が泣いちゃうわ」
「行ったって、また帰ってくるんだよ」と少年は激しく言った。「ちゃんと言いたまえ、僕と一緒に行くのかい? 君が行かなきゃ、僕は一人で行く。そうしたら、もう帰ってこないよ」
少女は泣きだしそうになった。「そんなにこわい顔をしちゃいやあよ、インドへ行くわ、一緒に」
少年は有頂天になって少女の両手をつかんで、草地へ引っぱって行った。「インド、インド」と歌いながら、少女と一緒にぐるぐる踊った。少女の頸に巻いた紅絹がひらひらした。が、突然少年は少女の手を放して、真面目《まじめ》くさって言った。「でも、どうせ駄目だ。君はこわがりだから」
――「エリーザベトや! ラインハルト!」庭木戸で呼ぶ声がする。「はあい」とてんでに返事をして、二人は手に手をとって家へ駆け戻って行った。
森にて
こんな風にして二人は一緒に幼い日々を送り迎えた。少年は少女がおとなしすぎるので時々もどかしく思うことがあった。少女は少年が乱暴すぎるので時々困ることがあった。だからといって仲違《なかたが》いすることもなかった。冬はそれぞれの母親の狭い部屋の中で、夏は藪《やぶ》や野原で、遊べる時間ならほとんどいつも一緒に遊んだ。――ある時、エリーザベトがラインハルトの面前で先生に叱られたことがある。少年は怒って石板を机に叩《たた》きつけた。先生の注意を自分に向けようとしたのだ。先生はそれに気づかなかった。けれども少年には地理の授業が全くの上の空になってしまった。少年は、熱心に授業を聞く代りに長い詩を書いた。詩の中で、自分を若い鷲《わし》に、先生を老いぼれ鴉《からす》に、エリーザベトを幼い鳩《はと》に擬した。鷲は、自分の翼が一人前になった時に老いぼれ鴉に復讐《ふくしゆう》してやると誓った。少年詩人の眼には涙が浮んできた。自分がひどく気高く思えた。家に帰って、うまく一冊の、白い紙がたくさん綴《つづ》り込まれた羊皮紙装の手帳が見つかった。少年はその手帳の最初数ページに、自分の処女作を丹念に書きしるした。――少年はそれから間もなく転校した。新しい学校では、同年配の友達がたくさんできた。けれどもエリーザベトとの交際がそのためにとぎれるというようなことはなかった。少年は今度は、いままで幾度も少女に話して聞かせた話の中で、最も少女の気に入った話を書きとめておこうとした。そんな時、自分の考えをその話の中へ織りこもうと思うことも幾度かあったが、なぜかわからずそれをしかねるのが常であった。そこで少年は自分がかつて聞いたままを克明に書いていった。それから少年はでき上がった原稿を少女に与えた。少女はそれを自分の手箱の引出しの一つに大事にしまいこんだ。時々夜分などに少女は少年のいる前でその原稿を取りだして自分の母親に読んで聞かせる。少年にはそれがうれしかった。楽しかった。
七年の歳月が流れた。少年は上の学校へ行くために故郷の町をあとにすることになった。ラインハルトなしの毎日がやってくるというようなことは、エリーザベトには想像もできなかった。ある日少年に、いままでどおりお話を書いてあげようと言われて、少女は喜んだ。少女の母親に出す手紙に同封して送るというのである。読んだら、それをどう思ったか、返事をくれというのである。出発の時が迫った。だがその前に羊皮紙装の手帳は詩の数を増していた。手帳の白いページはもうそろそろ半分近く詩で埋まっていた。少年にこんな詩集を作らせたのも、またその詩の多くを書かせたのも、実はエリーザベトであったのに、この手帳だけはエリーザベトに内緒にしてあった。
六月だった。ラインハルトの出発は明日に迫った。もう一度、一緒に一日を楽しく過そうということになった。相当な人数で近くの森へピクニックに行くことになった。森のところへ行くまでの小一時間ばかりの道は馬車だった。森に着くとみな馬車を降りて、お弁当を入れたバスケットも下ろして、あとは徒歩で、最初まず樅《もみ》の林を抜けて行った。冷え冷えとして、小暗く、細い針葉が地面を覆っていた。半時間ばかり歩くと薄暗い樅の林が終って、気持のいい山毛欅《ぶな》の林に入った。明るい、緑の世界である。葉の茂った枝の間から、時おり陽ざしが落ちてくる。頭の上を枝から枝へ栗鼠《りす》が跳ぶ。――山毛欅の老樹が幾本か、空の透けて見える樹冠の屋根をこしらえている場所で一行は足をとどめた。エリーザベトの母親がバスケットの一つを開いた。一人の老紳士がお弁当の配給係を名のり出た。「さあ、若い諸君はわしのまわりに集まりたまえ。よろしいか、わしの言うことをよく聞きたまえよ、お昼までのつなぎに、小麦パンを二つずつ諸君に配給する。バターは持ってこなかったのだから、パンにつけて食べるものは諸君が自分たちで捜さねばならん。森の中には苺《いちご》がたくさんある。といっても、自分でうまく見つけなければ駄目だ。見つけられないものはパンだけ食べるわけだ。人生とはそうしたものなのだ、諸君。わしの言ったことがよくわかったかね」
「わかりました」と少年少女は叫んだ。
「よろしい、さてまだわしの話は終らない。われわれ大人たちはもうこれまで充分に人生を味わってきた。だから今は留守番に回ろう。つまりここの、この大きな木の下にいる。そうして馬鈴薯《ばれいしよ》の皮をむいて、火を起して、お昼の用意をする。十二時になったら卵をゆでておく。その代り諸君は、見つけた苺を半分はわしたちに提供してくれたまえ。デザートがないといけないからね。では、諸君の自由にどこへでも出かけて行きたまえ。そうして、しっかりやりたまえ」
少年や少女はいろいろなおどけた顔をした。「ちょっと待ちたまえ」と老人がもう一度言った。「これはわしが言うまでもないことだが、見つけられなかった者はむろん出す必要もない。しかし注意しておくがね、そうだからといってわしたちからもらえると思ってはいかんよ。さあ、今日一日の教訓はこのくらいでよかろう。その上に苺がうまく見つかったら、諸君は今日の人生の優等生といったところだね」
みなも老紳士の言葉に同感で、二人三人と組になって苺捜しに出かけた。
「一緒に行こう、エリーザベト」とラインハルトが言った。「苺のあるところを知っているんだ。おかずなしのパンなんか食べさせやしないよ」
少女は麦藁《むぎわら》帽子の緑色のリボンを結び合せて腕にかけた。「じゃ行きましょう、籠《かご》はこれでできたわ」
それから二人は森の奥深く分け入った。木陰は湿っぽくて見通しがきかず、しんとしている中を、姿は見えぬが頭上で鷹《たか》が鳴く。深い灌木《かんぼく》の茂みでは、ラインハルトがまず先に立って、エリーザベトのために邪魔になる枝を折ったり、蔓草《つるくさ》をわきにのけたりして道を作らなければならない。エリーザベトは遅れたとみえて、後ろからラインハルトの名を呼んでいる。ラインハルトは後ろを振返る。「ラインハルト、待って頂戴《ちようだい》、ねえ、ラインハルト!」最初、少女の姿は見えなかったが、漸《ようや》くにしてかなり離れたところで灌木のために行き悩む少女の姿が見えた。愛くるしい頭が羊歯《しだ》の葉越しにわずかに見える。そこで少年はまた元へ戻《もど》って、羊歯や灌木のごたごたした中を通り、少女をどうやら草木の少ない空地《あきち》へ連れだすことができた。寂しい野花の間を青い蝶《ちよう》が飛んでいた。ラインハルトは少女の上気した顔から湿った髪の毛をかき上げてやった。麦藁帽子をかぶせようとしたが、いやがってかぶろうとしない。それを強《た》ってかぶせた。
「どこにあるの、あなたが言った苺っていうのは」少女は立ち止って、深い息をした。
「ここにあったんだ。けれどがま[#「がま」に傍点]にやられたらしいね。それともてん[#「てん」に傍点]かしら。いや妖精《ようせい》が食べちゃったのかもしれないよ」
「本当にね、葉がまだあるんですものね。だけど、妖精なんて、そんなことを今言っちゃいやだわ。ね、もっと奥の方へ行ってみましょうよ、まだちっとも疲れてはいないことよ、あたし」
小川が流れていた。その向うはまた森だった。少年は少女を抱き上げて、小川を越えた。暫《しばら》くすると、仄暗《ほのぐら》い木陰から、また広い空地へ出た。「きっとここにあるわよ」と少女が言う。「ほら、いい匂《にお》いがするでしょ」
陽《ひ》のよく当っているそこの空地を捜したが、苺は見つからなかった。「苺の匂いじゃない。エリカの匂いなんだよ、これは」
えぞ苺とひいらぎ[#「ひいらぎ」に傍点]がそこら一面に生《お》い茂っていた。地面の空いたところを短い草と代る代るに覆《おお》っているエリカの強烈な匂いがあたりに立ちこめている。「寂しいところね、みんなはどこにいるのかしら」
少年は帰路のことを考えてはいなかった。「そうだね、風向きを調べてみようか」少年は手を上にあげた。しかし風はなかった。
「あら、話し声が聞えるみたいよ。ちょっと向うの方を呼んでごらんなさい」
ラインハルトは手をすぼめて口に当てた。「おおい、こっちだよう」――「こっちだよう」と返事がする。
「ね、返事をしているわ」少女は手を叩いた。
「違うよ、返事じゃない。こだま[#「こだま」に傍点]さ」
エリーザベトはラインハルトの手をつかんだ。「こわいわ、あたし」
「こわいことなんかあるもんか。とてもすてきじゃないか。あすこの、木の下の草のところへ行って坐《すわ》りたまえ。少し休もうよ。みんなはすぐ見つかるさ」
エリーザベトは枝を張った山毛欅《ぶな》の木陰に腰を下ろして、四方八方に耳をすました。二、三歩離れたところにある木株の上にラインハルトは腰をかけた。そして黙って少女の方を見やった。太陽はちょうど彼らの真上にあった。燃えるような、真夏の暑さだった。小さな、黄金色《こがねいろ》に輝く、鋼色《はがねいろ》の羽虫が翅《はね》をぶんぶんいわせて空中の一カ所に動かずにいる。あたりはそんな羽虫のかすかな顫音《せんおん》に満ちている。そして時おり、森の奥深いところで啄木鳥《きつつき》が木を叩く音がする。いろいろな野鳥の鋭い鳴き声がする。
「ほら、鐘の音よ」
「どこに」
「後ろの方。ね、聞えるでしょ。お昼なのよ」
「じゃ町は僕たちの後ろの方なんだな。それなら、ここをまっすぐ突き抜けて行けばみんなのところへ行けるんだ」
二人は帰路についた。エリーザベトはもう疲れていたので、苺捜しは断念した。やがて木々の間から、みんなの談笑する声が聞えてきた。地面の上に拡《ひろ》げられた白布が光っている。それが仮の食卓なのだ。その上には苺が山のように積まれていた。例の老紳士はボタン穴にナプキンをはさんで、熱心に焼肉を切りわけながら、少年や少女たちに向ってお説教の続きをやっていた。
「あ、遅刻組がやってきた」と、少年たちは木々の間にラインハルトとエリーザベトの姿を見つけて叫んだ。
「さあ、こっちへおいで」と老人が呼びかけた。「ハンカチをお空《あ》け、帽子を引っくりかえして、獲物をお見せなさい」
「僕たちの獲物は、お腹《なか》がすいたのと、喉《のど》がかわいたことです」
「それが獲物の全部なら」と老人は答えて、二人の方へ食べものをいっぱいに盛った皿《さら》を差上げて見せびらかした。「お二人には、その空腹と渇きで我慢してもらおうかな。約束を覚えておいでだろう、ここでは、働かざる者は食うべからず、だ」とはいうものの、むろん二人にも御馳走《ごちそう》は与えられた。そこでいよいよ食事になった。ねず[#「ねず」に傍点]の藪の中では鶇《つぐみ》がないて食事の伴奏をした。
こうして、その日は過ぎた。――とはいえラインハルトが全く手ぶらで帰ってきたわけではない。なるほどそれは苺ではなかったが、やはり森の中で生れたものを彼は持ち帰った。少年は家に帰ってくると、お馴染《なじみ》の羊皮紙装の手帳にこんな詩を書きつけた。
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ここ山の斜面の
そよとも風なき
木陰にいこえる
やさしの姿。
麝香《じやこう》の褥《しとね》に
匂やかに坐《ざ》せば
青くきらめく
羽虫のうなり。
森のしじまに
まなこ賢く
ひかり流るる
鳶色《とびいろ》の巻毛。
耳をすませば
郭公《かつこう》の声――
さながらに森の女王の
まなここそこれ。
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つまりエリーザベトは、ラインハルトの可愛《かわい》い幼な馴染であったばかりでなく、明けそめる少年の生活の、一切の愛らしい素晴らしいものの象徴でもあった。
道のべに乙女子《おとめご》のいて
クリスマス前夜がきた。――まだ日は暮れていなかったのに、ラインハルトはほかの大学生たちと一緒に市庁地階の料理店の古い槲《かしわ》のテーブルに坐っていた。地下室でもう暗かったので、壁のランプには灯《ひ》が入っていた。けれども客はまばらで、給仕たちはのんびりと壁の柱にもたれている。この広間の片隅《かたすみ》には、バイオリン弾きと、ジプシーらしいツィター弾きの少女が控えていた。それぞれの楽器を膝《ひざ》に置いて、所在なさそうにぼんやり前を見ている。
学生たちのテーブルではシャンパンの栓《せん》を抜く音がした。貴公子然とした若い学生が、なみなみとつがれた杯をツィター弾きの少女に差しだして呼びかけた。「乾《ほ》したまえ、わがボヘミアの君よ!」
「ほしくないんです」と少女は身動きもしない。
「じゃあ歌えよ」貴公子はこう言って、銀貨を一枚、少女の膝に投げた。少女は指でゆっくりと黒い髪をかき上げた。バイオリン弾きの男が何事か少女の耳にささやいた。けれども少女はぐいと顔を仰向《あおむ》けて、顎《あご》をツィターにささえて、「いやあよ、あんな人のためなら」と言った。
ラインハルトは杯を手にさっと立って、女の前へ進み出た。
「何の御用」と女は手きびしかった。
「君の眼《め》が見たいのさ」
「あたしの眼があんたに何の関係があって」
ラインハルトは眼をきらきらさせて女を見下ろした。「君の眼はね、嘘《うそ》をつく眼さ」――女は掌《てのひら》を頬《ほお》に当てて、探るように相手を見つめた。ラインハルトは杯を口に当てて、「君の美しい、罪深い眼のために!」と言って杯を傾けた。
女は笑って、うなじを起した。「頂戴!」女はその黒い眼でラインハルトの眼をじっと見つめながら、ゆっくりと杯を乾した。それから絃《いと》の上に指を滑らせ、和音をひとつ出して、歌い始めた。低い、情熱的な声だった。
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今日のみわれは美しく
明日は消《け》ぬべしわがかたち
今日のみ君と語らえど
明日は死に行くわれひとり
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伴奏のバイオリンが速いテンポで合いの手を弾いていた最中に、外から別の学生がやってきて仲間に加わった。
「ラインハルト君、迎えに行ったら、君はもう出たあとだったんだね。だがクリスマスの贈物が届いていたぜ」
「クリスマスの? そんなものはもう僕《ぼく》のところへ来やしないんだ」
「何を言ってるんだ、部屋じゅう、樅《もみ》の樹《き》と茶色のビスケットの匂いでいっぱいだったぜ」
ラインハルトは杯を放して、学帽をつかんだ。
「どうするの」と女がきいた。
「すぐ戻ってくる」
女はいやな顔をした。「行っては駄目《だめ》」と低く言う眼には表情があった。
ラインハルトはためらった。「すぐに戻ってくる」と彼は繰返した。
女は笑って、靴《くつ》のつま先でラインハルトを突いた。「お行きなさいよ、ろくでなしね、あんたは。あんた方は何人いたって、みんなろくでなしさ」女はついとわきを向いた。ラインハルトはゆっくりと階段を上がって行った。
外はもう暮れかかっていた。上気した顔に冬の夜気がすがすがしかった。そこここの窓からは、蝋燭《ろうそく》をともしたクリスマス・ツリーの輝きが漏れて、小さな笛やブリキのラッパの音に交じって、子供たちの歓声なども聞えた。物乞《ものご》いの子供たちの群れが家から家へ歩いて行って、玄関先の階段を上がって、せめて家の中の賑《にぎ》やかな様子を垣間《かいま》見ようとしたりする。たまさかはまた戸口がさっと開いて、そういう小さい客たちの群れが怒鳴りつけられて、明るい家の中から外の暗い小路《こうじ》へ追い出される。玄関の小さなホールで吉例のクリスマスの歌をうたっている家もある。澄んだ少女の声もまじっている。ラインハルトはそういう歌に耳もかさず、通りから通りへただ一途《いちず》に下宿へ急いだ。下宿に着いた時はもうすっかり夜になっていた。せわしなく階段を上がり、部屋に入る。甘美な香気が彼を迎えとった。懐《なつか》しさがこみ上げてきた。故郷の家で迎えるクリスマスの母の部屋のような匂いだった。震える手で明りをつけると、机の上に大きな包みがのっている。中からはお馴染のクリスマスの茶色のビスケットが出てきた。砂糖で彼の名前の頭文字《かしらもじ》を散らしたのもまじっている。むろんエリーザベトのしたことだ。小さな包みもあった。開いてみると、上等の刺繍《ししゆう》した下着、ハンカチ、カフス、最後に母とエリーザベトからの手紙が出てきた。あとの手紙の方を先に開いた。エリーザベトはこんな風に書いてよこした。
「きれいなお砂糖の頭文字をごらんになれば、誰《だれ》がビスケットを焼くのをお手伝いしたかおわかりでございましょう。カフスの刺繍をいたしましたのも同じ人間でございます。こちらのクリスマスはたいそう寂しくなることでございましょう。母はいつも九時半には紡《つむ》ぎ車を片づけてしまいます。この冬はあなたがいらっしゃらないので、とても寂しゅうございます。それから先週の日曜日には、あなたが下さいました紅雀《べにすずめ》も死んでしまいました。私はとても泣いてしまいました。けれども面倒はよくみてやったと思っております。生きていた時は、午後、陽《ひ》が籠《かご》に当る頃《ころ》になりますとよく鳴きました。御存じのようにあんまり一所懸命に囀《さえず》りますので、黙らせようとして母がよく布をかぶせたりいたしました。ですからますますお部屋の中がひっそりして参りました。ただ時々あなたのお友達のエーリヒさんがお訪ね下さいます。あなたがいつかおっしゃったでしょう、エーリヒさんはご自分の着ている茶色のオーバーによく似ているって。それでエーリヒさんが家へいらっしゃいますと、私いつもそのことを思いだして、おかしくって仕方がございません。でもどうか母にはおっしゃらないで下さいませ。きっとすぐ怒りますでしょうから。お母様にクリスマスの贈物をして差上げようと思っております。当ててごらん遊ばせ。とてもお当てにはなれません。この私を差上げます。エーリヒさんがコンテで私の似顔を描《か》いて下さいました。三度モデルに坐《すわ》りました。そのたびにまる一時間でございました。ほかの人が私の顔をそんな風に隅から隅まで知ってしまうというのは本当にいやでございます。ですから描かれるのはいやだと申しましたのでございますが、母がどうしても、と申すものでございますから。きっとラインハルトさんのお母様がお喜びになるだろうから、と申すものでございますから、私も承知したのでございます。
けれどあなたはどうして約束をお守り下さらないのでございましょう。童話をちっとも送って下さらないのですもの。お母様にも幾度かそのことを申上げたのでございますが、お母様はあなたがお忙しくて、そんな子供じみたことしている暇がないのだといつもおっしゃいます。でもそうでございましょうか。ほかに何かわけがおありなのでございましょう」
それから母親の手紙を読んだ。二通みな読み終えて、ゆっくりと畳んでわきへ置くと、耐えがたい望郷の念が湧《わ》いてきた。彼は暫《しばら》く部屋の中を行ったり来たりした。彼は初め低い声で、それからはっきりとは聞きわけられないような声でこう口ずさんだ。
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道知らず迷いさまよい
うたてくも佇《たたず》み立てば
道のべに乙女子のいて
家路はこなたとわれに教えぬ
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それから机の引出しをあけて、金をいくらか取りだし、また外へ出た。――外はその間に先ほどよりも静かになっていて、クリスマス・ツリーの灯も燃え尽き、物乞い歩く子供たちの群れももうなかった。風が寂しい通りを吹き抜けて行く。老いも若きもそれぞれの家の中に寄りつどっているらしい。クリスマス前夜の第二部が始まっていた――。
ラインハルトが市庁地階の料理店の付近まで来ると、バイオリンの音とツィター弾きの少女の歌う声とが下から聞えてきた。と、下の料理店の戸口の鈴が鳴り、黒い人影が一つ、幅の広い薄暗い階段をよろめき上がって来る。ラインハルトは家陰に身を隠して、人影をやり過してから急いでそこを通り過ぎた。暫くして明るい宝石商の店先に来た。そこの店で赤い珊瑚《さんご》を鎖にした小さな十字架を買い求めて、もと来た道をまた引返した。下宿の近くまで来ると、見すぼらしい身なりの小さな女の子が一人、大きな家の戸口の所にいて、扉《とびら》をあけようとしてあけられずに困っている。「あけてやろうか」ときいても返事はしなかったが、それでも大きなドアの把手《とつて》を放した。ラインハルトは苦もなくドアを開いたが、「駄目だよ、追いだされてしまうよ。いいから僕と一緒においで。クリスマスのビスケットをあげるから」と言ってやった。ドアを元どおりに締めて、少女の手をとった。少女は黙ってラインハルトの下宿までついてきた。
部屋の明りは出しなにつけ放しにしておいてあった。「さ、これをあげよう」と、せっかく送ってきた菓子のまる半分をその女の子のエプロンに入れてやった。しかし砂糖で自分の頭文字の散らしてある分はやらなかった。「さあ、家へお帰り、それをお母さんにもおあげ」少女はおずおずと青年を見上げた。思いもかけぬ贈物に喜びかつ驚いて、ものを言うことをしかねたというていである。ラインハルトは扉をあけて、明りで女の子の足もとを照らしてやった。すると女の子はまるで小鳥のように、お菓子を持って階段を駆け下りて、家の中から外へ走り出た。
ラインハルトは煖炉《だんろ》の火をかき立てて、埃《ほこり》をかぶったインク壺《つぼ》を机の上に置いた。腰を下ろすと、母とエリーザベトとにあてて、夜どおし手紙を書き続けた。クリスマスのビスケットの残りは手がつかずにそばに置いてある。けれどもエリーザベトから贈られたカフスは早速つけた。
白い粗《あら》ラシャの上着にはひどく釣合《つりあ》いが悪かった。やがて冬の朝の太陽が凍《い》てついた窓ガラスにさして、向い合せの鏡は蒼白《あおじろ》い真剣な彼の顔を映しだした。それでも彼はまだ手紙を書き続けていた。
帰省
復活祭にラインハルトは故郷へ帰った。到着した日のあくる朝、エリーザベトを訪れた。ほほえんで迎えに出た美しい、あでやかな乙女を見て、ラインハルトは「大きくなったねえ」と言った。エリーザベトは顔を赤らめたが、何も言わなかった。挨拶《あいさつ》に彼が握った手も、そっと引こうとした。これは以前にはないことだった。何か二人の間によそよそしさが入ってきたような具合だった。――それからさき幾日かの滞在中、毎日のようにエリーザベトを訪れたが、これだけはいつも変らなかった。二人だけで一緒にいる時などには、気づまりな沈黙がくる。ラインハルトにはそれがいやで、何とかしてこの沈黙をなくそうとあせった。休暇の間じゅう、何か一定の楽しみを持とうと思って、彼はエリーザベトに植物学の手ほどきをし始めた。植物学は大学に入って最初の数カ月、熱心に勉強したのである。エリーザベトは何によらずラインハルトに従うのがつねだったし、その上勉強好きだったので、喜んでそれに同意した。そこで週に何回も畑や荒野へ植物採集に出かけて、昼頃には緑色に塗った採集用の胴乱を草や花でいっぱいにして帰ってくる。するとそれから少ししてラインハルトがエリーザベトの家へやってきて、共同の採集物を一緒に分類した。
そんなわけである日の午後、ラインハルトがエリーザベトの部屋へやってくると、彼女は窓ぎわに立って、これまでついぞそこに見かけたことのない、金色に塗った鳥籠に新しいはこべ[#「はこべ」に傍点]の草を差入れている。籠の中にはカナリアがいて、羽ばたきして、高い声で鳴きながらエリーザベトの指をつつく。以前はそこにラインハルトの贈った小鳥が籠に入れて吊《つ》ってあったのだ。「紅雀が死んでカナリアに生れ変ったの?」と冗談めかして尋ねた。
「まさか、あなた」と、肱掛椅子《ひじかけいす》で糸を紡いでいた母親が言った。「あなたのお友達のエーリヒさんが今日のお昼、エリーザベトにとおっしゃって、お屋敷からお届け下さったのよ」
「お屋敷からって?」
「あら、御存じないの?」
「何をです」
「エーリヒさんはひと月前からイムメンゼーのお父様の御別邸をいただいて、そっちにいらっしゃるんですよ」
「でも、小母《おば》さんは僕にそれを一言も話して下さらなかったじゃありませんか」
「そういうあなただって、御自分のお友達のことを一言だっておききにならなかったわ。よくもののわかった、いい人ですことね、あの方は」
母親はお茶の支度をするために席をはずした。エリーザベトはラインハルトに背を向けて、まだカナリアの小屋を作ってやるのにかかりきりだった。「ね、お願い、ちょっと待ってて頂戴《ちようだい》、すぐ済みますから」――いつになくラインハルトが返事をしないものだから、エリーザベトは後ろを振向いた。突然青年の眼の中には、これまで一度も見たことのないような沈痛な色が浮んだ。「どうかして?」エリーザベトは近寄ってきた。
「どうって?」青年はぼんやりときき返した。少女の眼に見入るその眼は夢をみているようだ。
「悲しそうだわ、あなたは」
「ねえ、エリーザベト、僕は黄色い鳥はきらいなんだ」
少女は呆《あき》れて彼を見守った。合点《がてん》が行かないのだ。「あなたは変り者ねえ」
彼は少女の両手をとった。少女はとられるがままにしていた。ほどなく母親が戻《もど》ってきた。
お茶が済むと母親はまた紡ぎ車に向った。若いひと二人は隣室へ行って、採集した植物の整理に取りかかった。雄しべの数を数える、葉や花を丁寧に拡《ひろ》げる。各種類について標本を二つずつ作る。乾燥させるために、それを一つ折版の本のページの間にはさむ。天気のいい、静かな午後だった。隣室からは紡ぎ車の唸《うな》りが聞えてくる。時おりラインハルトが植物の種類の分類名を言ったり、エリーザベトのラテン語のまずい発音を直したりする低い声がするだけである。
「こないだの鈴蘭《すずらん》がまだあたしにはないのよ」採集した植物の区分けや整理が終った時にエリーザベトが言った。
ラインハルトはポケットから小さな白い羊皮紙装の手帳を出した。そして半乾きの鈴蘭を取りだして、「じゃ、これをあげておこう」と言った。
ページには何かいっぱい書いてあるので、エリーザベトが尋ねた。「また童話をお作りになったの?」
「童話じゃない」こう言いながら彼は手帳を相手に渡した。
詩ばかりだった。長いのでもせいぜい一ページくらいだった。エリーザベトはページを一枚一枚繰ってゆく。表題だけを読んでいるようだ。「彼女が先生に叱《しか》られた時に」「二人が森で迷った時に」「復活祭のお伽噺《とぎばなし》に添えて」「初めて彼女が手紙をくれた時に」、ほとんど全部がそういう調子の表題である。ラインハルトは探るようにエリーザベトの様子を見守った。ページを繰ってゆくにつれて、エリーザベトの色の白い顔にはぽっと赤みがさし、それが次第に顔全体へ拡がっていった。その眼を見ようとしたが、エリーザベトは面《かお》を上げず、しまいに手帳を黙って彼の前に置いた。
「そんな風に返さないでくれたまえ」
彼女はブリキの胴乱の中から茶色の若枝を一本抜きとった。「あなたのお好きなこれ、ここに入れておくわ」と言って、手帳を彼の手に渡した。――
休暇の最後の日、出発の朝がきた。エリーザベトは母親に願って、ラインハルトを旅行馬車の停留所まで見送る許しを得た。停留所は街を二つ三つへだてたところにある。外へ出るとラインハルトは彼女に腕をかした。姿のいい少女と並んで、彼は黙って歩いて行った。停留所に近づくにつれて、ラインハルトの心の中には、永い別れを告げる前に何かある大切なことを言っておかなければならないような気持が強くなってきた。自分の将来の生活の一切の幸福や一切の価値がかかってそこにあるような何かだった。しかし言葉が見当らない。それが気がかりで、自然歩みがのろくなっていった。
「遅れてしまうわ、教会の鐘がもう十時を打ったことよ」
そう言われても彼は足を速めなかった。そしてとうとう吃《ども》りがちにこう言った。「ねえ、エリーザベト、これからさき僕《ぼく》たちは二年間も会えないことになるんだけれど――君は僕がまた帰ってきた時も、今と同じように僕を好いてくれるかしら」
少女は頷《うなず》いて、優しく相手の顔を見返した。――「あなたのこと、弁護したくらいなのよ」暫く間をおいてエリーザベトはこう言った。
「僕のこと? 誰《だれ》にそんなことをする必要があったの?」
「お母様よ。ゆうべ、あなたがお帰りになってから、あたし、お母様とまだ永いことあなたのお話をしていたのよ。お母様は、あなたがもう昔のようじゃないっておっしゃるの」
瞬時、ラインハルトは黙っていた。が、少女の手をとって、そのあどけない眼を真剣に見つめた。「僕は昔のままの僕なんだ。よく覚えていてくれたまえ。どう、エリーザベト」
「ええ」彼は相手の手を放して、一緒に足速に最後の通りを歩いて行った。別離の時が迫るにつれて、ラインハルトの顔はますます明るくなっていった。そしてエリーザベトが追いつけないほど足速に歩いた。
「どうしたの、ラインハルトさん」
「僕には秘密があるんだ、美しい秘密が」きらきらと眼を輝かせてエリーザベトを見つめる。「二年たって、僕がまたここに帰ってきたら、それを教えてあげる」
旅行馬車の停留所に来た。ちょうど発車まぎわだった。ラインハルトはもう一度エリーザベトの手をとった。「じゃあ、さようなら、エリーザベト。忘れてはいけないよ」
エリーザベトは頷いて見せた。「さようなら」ラインハルトは乗りこんだ。馬車は動きだした。
馬車が街角を曲った時、ラインハルトはゆっくりと帰って行くエリーザベトの、愛らしい後ろ姿をもう一度見やった。
ある手紙
それから二年に近い月日が流れた。ある日、ラインハルトが書物や書類の間にうずまって、ランプを前に、共同研究をやっている友人の来訪を待って坐《すわ》っていると、誰かが階段を上がってくる。「おはいり」――下宿の女主人だった。「お手紙ですよ、ヴェルナーさん」手紙を渡してお内儀《かみ》さんは部屋を出て行った。
二年前に故郷へ帰って以来、彼は一度もエリーザベトに文通しなかったし向うからも手紙はこなかった。今来た手紙もエリーザベトから来たものではない。母の筆跡だった。封を開いて読むとこんな文面だった。
「あなたの年頃には、ほとんど一年ごとに万事様子が変るのです。若い人は気持が柔軟で弾力に富んでいるからです。こちらでも何かと変ったことがあります。わたしがもしあなたの気持を誤解しているのでなければ、その中にはあなたを悲しませることもあります。昨日ついにエーリヒさんがエリーザベトさんから結婚の承諾の返事をもらったようです。この三月《みつき》ばかりのうちに、二度も話をもちだしたようですが、今まで向うから返事がもらえずにいたのです。エリーザベトさんがどうしても心を決めかねていたのです。それでも今度はとうとう承知されました。何といってもまだまだ若い人ですから。御祝言《ごしゆうげん》も間近いことと思います。式を済ませると、エリーザベトのお母さんも一緒に当地をお去りになるでしょう」
イムメンゼー
再び歳月が流れ過ぎた。――ある暖かい春の日の午後、下り坂になった木陰の森の道を、陽《ひ》やけして元気のよさそうな顔つきの若者が歩いていた。真剣な灰色の眼《め》で遠くの方を熱心に見やっている。この単調な道がどう変るかと待ち受けているといった風だ。しかしその変化はいつまで歩いていても起らなかった。荷馬車が一台、下の方からゆっくり上がって来た。「もしもし、ちょっと伺いますが」と旅人は荷馬車を引いて行く百姓に声をかけた。「イムメンゼーへ行くのには、これを行けばいいんですね」
「ああ、どこまでもまっすぐに」と男は手で円い帽子をちょっと動かした。
「まだよほどありますか?」
「なに、つい鼻の先でさ。煙草《たばこ》一服すう間でさ。邸《やしき》はその水ぎわだ」
百姓は通り過ぎた。旅人は足を速めて木陰の道を歩いて行った。十五分ばかり行くと、突然左手の木立が尽きて、道は山腹にかかった。立ち並ぶ槲《かしわ》の大樹の梢《こずえ》がやっと届くくらいの高さに道が走っていて、その梢の向うには陽をうけて広々とした展望がひらけた。眼下はるかに湖がひっそりと濃紺の水を湛《たた》えている。その周囲はほとんど緑の、陽に照らされた森だが、ただ一カ所は森が切れて、遠いかなたが見はるかせる。が、それも青|霞《がす》む山々で区切られていた。斜めの向う側に、緑一色の森の中に、雪のようなものが拡がっていた。果樹の花だ。赤瓦《あかがわら》を葺《ふ》いた白壁の邸宅が水に接してその中に聳《そび》えていた。煙突のところから一羽の鸛《こうづる》が飛びたって、湖上を悠々《ゆうゆう》と輪を描いて飛んだ。――「イムメンゼー」と旅人は叫んだ。やっと目的地に辿《たど》りついたといった様子である。じっと立ち止って身動きもせず、足もとの木々の梢越しに向う岸を眺《なが》めた。湖面には、邸の影が映って、かすかに揺れている。それから突然彼はまた歩き始めた。
道は険しい下りになった。そのために再び木下道《このしたみち》になり、湖への眺望《ちようぼう》も失われた。ただ時おり、差交わす枝の間にきらりと湖面が光った。そうこうするうち、小道はまたつま先のぼりとなり、両側は木立がなくなった代りに、今度は葉を茂らせた葡萄《ぶどう》畑の丘が道に沿って延びていた。小道の両側に、満開の花をつけている果樹には、唸りを立てて蜜蜂《みつばち》が群がっていた。茶色の外套《がいとう》をきた恰幅《かつぷく》のいい男が旅人に向って歩いて来た。すぐ近くまで来た時、男は帽子を振って、「やあ、ようこそ、ラインハルト君、よく来てくれたねえ」と快活に呼びかけた。
歩み寄った二人は握手した。「君は昔の君なんだろうね」と、エーリヒは真面目《まじめ》な旧友の顔を間近に見ながら言った。
「僕でなくってさ、エーリヒ君。君だって昔の君だ、ただ昔の君よりもどうやら少し快活になったようだぜ」
この言葉を耳にすると、うれしそうな微笑がエーリヒの単純な顔を一層明るくした。「そうなんだよ、君」エーリヒはもう一度手を相手に差しのべた。「僕は、あれから大きな当り籤《くじ》を引当てたんでね。ほら、例のね」こう言って彼は手をもみ合せて、うれしくて堪《たま》らぬといった風である。「驚くぜ、あれが。全然御存じないんだからな、君が来ることを」
「驚く?」とラインハルトが言う。「誰がさ?」
「エリーザベトがさ」
「え? 君、言ってなかったのか、僕が来るってことを」
「そうなんだ、君。君が来ようとは夢にも思っちゃいないんだ、あれも、あれのおっ母《か》さんも。その方がよけいうれしかろうと思ったんで、君を手紙で招待したことは全然内緒にしてあったのさ。こうしてこっそり事を運ぶってのが、ほら、君も知ってのとおりの僕の伝だからね」
ラインハルトは気が重くなった。邸に近づくにつれて胸苦しさが増す。左手はもう葡萄園が終って、その代り広い菜園が下の湖畔のあたりまで続いていた。鸛がいつの間にか舞い降りていて、畑の中を悠然と歩き回っていた。エーリヒは手を打ちながら「こら」と叫んだ。「またあれがうちの小さい豌豆《えんどう》を盗んでいる」鳥はゆっくりと舞い上がって、新しい建物の屋根を目がけて飛び去った。その建物は菜園の端にあって、壁は結びつけられた桃や杏《あんず》の木の枝で一面に覆《おお》われていた。「あれがアルコール工場だ。二年ほど前に僕がこしらえたんだ。農作工場の方は、これはいくつかあるが、亡《な》くなったおやじの代にできたもので、すまい[#「すまい」に傍点]の方はじいさんの代からもうあったのさ。そんなわけで、少しずつ前進してきたというのかね」
両側は田舎《いなか》びた農作工場で区切られ、母屋《おもや》を後ろに控えた広い前庭に着いた。母屋の両翼には高い庭塀《にわべい》が続いており、その後ろには水松《いちい》の黒っぽい生垣《いけがき》が列を作り、ところどころに接骨木《にわとこ》の枝が花をつけて前庭に垂れていた。陽光と仕事とで顔をほてらせた男たちが前庭をつっきって来て、二人に挨拶《あいさつ》した。エーリヒはそういう男たちに用事を言いつけたり、仕事のことをきいたりした。――邸に着いた。玄関は天井が高く、冷え冷えとしていた。突き当りを左に折れると、玄関よりもやや暗い側《わき》廊下に出た。エーリヒがそこのドアを開いて、二人は庭に面した大きな部屋に入った。向い合せの窓のどれもが葉を茂らせた樹木に覆われていたので、両側から緑の暗さに包まれている。しかし正面には観音開きの高いドアがあり、それが大きくあけ放してあったから、部屋の中には春の陽ざしが差込んで、きちんと区画のしてある花壇と、高い生垣の並んでいるのとが見えた。庭の中央には幅の広い道が一直線に通っていて、その先が湖、更にその向うには対岸の森が見える。二人が部屋に入って行くと、風が芳《かぐ》わしい香《かお》りを運んできた。
庭に出るドアの前はテラスになっている。テラスには白い服を着た、まだ少女めいた女の姿があった。女は立ち上がって、部屋に入ってきた人を迎えた。しかし半分も歩かないうちに釘《くぎ》づけにされたようにぴたりと立ち止った。そして身じろぎもせずに客を見つめた。客は微笑とともに手を差しのべた。「あら、ラインハルト! まあ、あなたでしたの。――お久しぶりねえ」
「お久しぶりです」と、言ったが、あとが続かない。女の声を聞いた時、ラインハルトは胸のあたりがかすかに疼《うず》いたからだ。見ると女は、幾年か昔、故郷の町で別れを告げた時のままに、ほっそりと優しい姿である。
エーリヒは喜色満面のていでドアのところに立ち止ったままでいた。「どうだい、エリーザベト、まさかと思ったろう? 夢にも思わなかっただろう」
エリーザベトは姉弟のような眼つきで夫を見た。「ありがとう、あなた、御親切だわ」
エーリヒはほっそりした妻の手をとって、撫《な》でさすった。「さてこうしてやって来てくれたからには、ちょっとやそっとのことでは帰すまいよ。ずいぶん久しぶりだったんだからねえ。故郷《うち》にいるように寛《くつろ》がせなくちゃあね。ね、おまえ、ごらん、すっかり上品になって、まるでよその人みたいじゃないか」
エリーザベトがおずおずとラインハルトの顔に視線を投げた。「永いこと別れ別れでいたから、そう思われるのさ」とラインハルトが言った。
ちょうどその時、エリーザベトの母親が鍵籠《かぎかご》を腕にかけて入ってきた。「まあ、ヴェルナーさん、どなたかと思ったら。本当にお懐《なつか》しい」――それから尋ねたり尋ねられたりの話がなだらかに進んだ。女二人も椅子《いす》にかけて手仕事をする。ラインハルトは出された食べ物に手をつける、そばに坐ったエーリヒは大きな海泡石《かいほうせき》のパイプをふかしながら話に熱中した。
翌日はエーリヒの案内で畑や葡萄の丘、ホップ園やアルコール工場を見物して歩いた。万事きちんと整っていて、畑で働いている者も、汽鑵《ボイラー》のそばで働いている者も、みな健康で満足そうな顔つきをしていた。正午には庭に面した大きな部屋に集まった。その日は主人側の手の空《す》き具合に応じて顔ぶれは違ったが、とにかくみなで一緒に過した。ただ夕食前の二、三時間は、午前中の二、三時間と同じようにラインハルトは自分にあてがわれた部屋に閉じこもって仕事をした。実はもう数年前から民謡の蒐集《しゆうしゆう》を始めていて、今その蒐集を整理して、できればこの付近のものを新たに収録して自分の蒐集を豊富にしようと思っていたのだ。エリーザベトはどんな場合にも優しく親切だった。彼女はエーリヒのいつも変らぬ心づかいをほとんど卑屈と言っていいほどの態度で感謝していた。ラインハルトはそういうエリーザベトを見て、このしとやかな若夫人が、あの昔の快活な少女なのだろうかと訝《いぶか》ることもあった。
滞在二日目から夕方の時間は湖畔の散歩にあてられた。道は庭のすぐ下を通っていた。庭のはしの突き出た崖《がけ》の上にはベンチが高い白樺《しらかば》の木陰に置かれてある。エリーザベトの母親はこれを夕焼けベンチと呼んでいた。西向きで入日を眺めるのに好都合だったからだ。――ある夕方、ラインハルトはこの道を散歩から帰ってきたおり、俄雨《にわかあめ》に襲われた。水ぎわの菩提樹《ぼだいじゆ》の下に雨やどりをしたが、やがて大きな雨の滴《しずく》がしたたり落ちてきたので、ずぶ濡《ぬ》れのまま諦《あきら》めて、ゆっくりと帰路に着いた。暗くなってきた。それに雨も次第に激しくなってくる。夕焼けベンチのあたりまで来ると、濡れて仄《ほの》かに光る白樺の木立の間に白い服を着た女の姿があるような気がした。じっと動かず、彼が近づいて行くと、彼の方を向いて、誰《だれ》かを待ち受けている様子に見える。どうやらエリーザベトらしい。そこで足を速めて、一緒に庭を抜けて帰ろうと思って、そこまで行こうとすると、エリーザベトはゆっくりと向きを変えて、小暗い脇道《わきみち》に姿を消してしまった。彼はそれを不可解に思った。しかしまた同時にエリーザベトに対して怒りに近いものを感じた。とはいえ、果してそれがエリーザベトであったかどうか、その辺のこともよくはわからない。が、直接彼女に尋ねてみることは差控えた。それで帰り着いた時も、ひょっとエリーザベトが庭の木戸から入ってこないものでもなし、それを見るのはいやだったので、庭に面した部屋へは入って行かなかった。
母の言葉に
それから二、三日たったある日の夕刻、この時刻のならいで家じゅうの者は庭に面した大きな部屋に寄り集まっていた。扉《とびら》はあけ放ってあった。陽《ひ》はすでに湖のかなたの森の中に没していた。
その日の午後、田舎にいる友人からラインハルトにあてて民謡が少し届いていた。それを披露《ひろう》してもらいたいと彼はせがまれた。彼は部屋へ行って、丸めた原稿用紙を手にすぐ戻《もど》ってきた。何枚かの紙にきれいに書かれた草稿らしい。
テーブルを中にみな席に着いた。ラインハルトの横がエリーザベトだった。「手あたり次第に読んでみましょう、実は僕《ぼく》もまだ全部に眼《め》を通していないので」
エリーザベトが丸めた紙を展《の》べひろげた。「譜だわ、これは。あなた歌って下さらなくちゃ、ラインハルト」
そしてラインハルトは最初ティロールの舞踏歌を二つ三つ、時々低い声で面白い節をつけながら朗読した。一座の気分が晴れやかになった。「でも、こんなきれいな歌を一体誰が作ったんでしょうね」とエリーザベトが言った。
「そんなことはわかるじゃないか、すぐに。床屋だとか仕立屋の職人だとかいった気さくな連中さ」とエーリヒが言った。
「作られたというようなものじゃないんだね、こういう歌というものは。ひとりでに生れてきたのさ、空気の中からひとりでにね」とラインハルトも言った。「そうして国中を蜘蛛《くも》の糸のようにふわりふわりと四方八方へ漂い歩いて、いたるところで同時に歌われるのだ。こういう歌の中には僕たちの生活の本当の姿があるんだと思う。だから実は僕たちがみんなで寄ってたかってこしらえた歌と言ってもいいんだろう」
ラインハルトは別の一枚を取りあげた。「われ高き峰に立ちて……」
「わたし、知っててよ、その歌」とエリーザベトが口をはさんだ。「ちょっと最初を歌いだして頂戴《ちようだい》。わたし、合せてみるわ」それから二人は、人間が案じだしたとは到底思われないほどに神秘的な、あのメロディーを歌った。ラインハルトのテノールに、エリーザベトのやや含み声のアルトが和した。
母親はその間も熱心な針仕事の手をやめない。エーリヒは手を組んで、神妙に耳を傾けている。歌が終った時にラインハルトは黙って草稿紙をわきへ置いた。――湖の岸べからは、夕暮れの静けさの中を家畜の群れの鈴の音が響いてくる。思わずも聞き入ってしまうような音だった。すると澄みきった少年の歌声が流れてきた。
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われ高き峰に立ちて
深き谷間を見下ろしぬ――
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ラインハルトはほほえんだ。「ね、そうだろう。こんな風に口から口へ伝わって行くんだ」
「この辺じゃよくあれを歌うのよ」とエリーザベトが言う。
「そうだ」とエーリヒが応ずる。「あれは牛飼のカスパルだ。仔牛《こうし》を追って帰るところだ」
みなはそれからまだ暫《しばら》くの間、鈴の音が農作工場の建物の後ろへ消えてしまうまで聞き入っていた。「あれが人間みんなの心の底に眠っている歌なんだね」とラインハルトが言った。「ああいう歌は森の奥に眠っているんだ。それを誰かが見つけだしたんだね」
彼はまた別の一枚の原稿を引っぱりだしたところだった。
闇《やみ》の色は濃くなっていた。赤い夕映えの光が湖の彼岸の森の端に泡《あわ》のように懸《か》かっていた。ラインハルトが原稿を拡《ひろ》げると、エリーザベトはその一方の端を手で押えた。そして一緒にのぞきこんだ。ラインハルトが読み始める。
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母の言葉にしたがいて
思わぬ人にとつぐ身の
想《おも》いを懸けしかの人を
とく忘れよと母は言う
忘れかねたるかの人を
うたてき母のこころかな
かほどにわれを悲しむる
いまは罪ともなりはてし
この恋はもときよき恋
せん術《すべ》もなきわが身かな
かつてうれしく誇りかに
思いしもののいたずらに
なりにし今日の夢ならば
荒野のはてを行きゆきて
さすらい人となりてまし。
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読んでいるうちにラインハルトは紙がかすかに震えるのを感じた。ラインハルトがこの歌を読み終えると、エリーザベトはそっと椅子を後ろへずらして、黙って庭へ下りて行った。母親の眼がその後ろ姿を追った。エーリヒがついて行こうとしたが、母親は「外に用事があるんですよ」と言ってエーリヒをとめた。
さて外の庭や湖では夕闇がいよいよ濃くなりまさっていた。蛾《が》が唸《うな》りを立ててあけ放しになっているドアのあたりを飛び過ぎる。部屋の中へは花や草木の香りが次第に強く流れ入ってくる。湖の方からは蛙《かわず》の鳴き声が聞えてくるし、窓のつい向うでナイチンゲールが一羽、また庭の奥では別のが一羽、鳴いている。木々の梢《こずえ》の上高く月があった。ラインハルトは、エリーザベトのほっそりした姿が木下道《このしたみち》の間に消えたあたりをそれからも暫くは見つめていたが、原稿をまた巻き集めて、そこにいた人たちに挨拶《あいさつ》して、家の中を抜けて湖岸へ下りて行った。
森は静かに、その黒い陰を遠く湖上に投げていた。湖心のあたりにはおぼろな月の光があった。時おり木々の間にかすかなざわめきが聞える。風ではない。夏の夜の吐息なのだ。ラインハルトは岸べ伝いに歩いて行く。石を投げれば届きそうなところに白い睡蓮《すいれん》の花が一つ見える。急に、その花の近くへ行ってみたくなった。ラインハルトは服を脱ぎすてて、水に入った。深くはなかったが、尖《とが》った植物や石ころのために足が痛かった。かなり進んだが、泳ぐのに適した深さにならない。が、突然ぐっと深くなって、水が渦《うず》を巻いて水面下にもぐったラインハルトの頭の上を覆《おお》った。もう一度水面に首を出すのには暇がかかった。それから手足を動かして暫くは円を描いて泳いだ。そうしてやっと自分がやってきた方角の見定めがついた。睡蓮の花もまた眼に入った。大きな光る葉の間にぽつりと寂しく花咲いている。――彼は花を目がけてゆっくりと泳ぎ始めた。そして時々水中から腕を上へあげてみた。したたり落ちる水の滴《しずく》に月影が宿っていた。けれども白い睡蓮の花と自分との間の距離は依然として同じように思われた。が、岸べだけは次第に靄《もや》の中に輪郭をぼかしてゆく。それでも彼は泳ぐことを中止せず、相変らず同一の方向をとって進んだ。ついに睡蓮の間近に来ることができた。白銀の花弁が月光の中にはっきりと見定められた。同時に網か何かで体が巻かれるような気がした。ぬらぬらする茎が水底からのび上がって、彼の手足にからみついた。水は気味悪く黒々と拡がり、後ろの方では魚の撥《は》ねる音がした。突然不気味で堪《たま》らなくなった。そこで蔓草《つるくさ》を力いっぱいに振りちぎって、息を切らして岸べ目がけて泳ぎ戻った。岸べから湖面を振返ると、睡蓮は最前と同じように、暗い水の面に遠く寂しく浮んでいた。――ラインハルトは服を着て、ゆっくりと家へ戻った。庭から部屋へ入って行くと、エーリヒと母親とが明日出かけるちょっとした商用旅行の相談をしているところだった。
「こんなに遅くどこへ行っていらっしゃったの」と母親に尋ねられた。
「僕ですか? 実は睡蓮のそばへ行ってみようと思ったのですが、駄目《だめ》でした」
「訳のわからないことを言う人だね、君は」とエーリヒが言った。「一体、君と睡蓮とはどんな関係があるんだ」
「いや、昔、一度知っていたんだが。それもずいぶん昔のことになってしまった」
エリーザベト
翌日の午後、ラインハルトとエリーザベトは、湖の向う岸にある森の中や崖縁《がけぷち》伝いに散歩した。エーリヒに言いつかって、夫と母親とが旅行に出ている間、エリーザベトはラインハルトを案内して付近の景色のいいところを見せて歩いた。ことに対岸から邸《やしき》を眺《なが》められる場所へ案内しようというのであった。そこここと歩き回って、エリーザベトは疲れてしまい、垂れ下がる枝陰に腰を下ろした。ラインハルトも向い合せの木の幹に身をもたせた。森の奥で郭公《かつこう》が鳴いている。突然彼は、以前にもこれと寸分|違《たが》わぬことがあったのを思い起した。彼は不思議な微笑を浮べてエリーザベトを見つめた。「苺《いちご》を捜しに行きましょうか」
「苺の時期じゃありませんわ」
「でも、もうそろそろでしょう」
エリーザベトは黙って頭を振った。そして立ち上がった。それから二人はまた道を続けた。そうして並んで歩いている間に彼は幾度となく彼女の方を見やった。エリーザベトの歩きぶりは美しく、まるで体が着ているものに運ばれて行くようだったから。彼は思わずも何度か足をとどめて、エリーザベトの姿全体をはっきりと眺めようと思った。そのうちに眺望《ちようぼう》のよくきく、一面にエリカの生えた空地に出た。ラインハルトが身をこごめて、地面に生い茂った草の中から何かを摘みとった。再び起したその面《かお》は、激しい苦痛の表情を湛《たた》えていた。「この花を知っていますか」と彼はきいた。
彼女は訝《いぶか》しげに相手を見た。「エリカでしょう。森でよく摘んだわ」
「僕はうちに古い手帳を一冊、持っているんだが。歌や詩のようなものをよくそれに書きつけてね。もうとうの昔にやめてしまいましたが。その手帳の間にもエリカが一本はさまっているんです。むろんもう枯れ凋《しぼ》んだ……。誰《だれ》がそれをくれたのか、知っている?」
彼女はものも言わずにただ頷《うなず》いた。けれども眼を伏せて、ラインハルトが手に持っているエリカばかりを見つめていた。二人はその姿勢で永いこと立っていた。彼女が眼をあげてラインハルトを見た時、その眼は涙にあふれていた。
「エリーザベト、あの青い山々の後ろにある僕たちの青春、あれはどこへ行ってしまったんだろう」
二人はもう何も話さなかった。黙ったまま並んで湖岸へ下って行った。むしむしして、西に黒い雲が出た。エリーザベトは足を速めながら、「夕立よ」と言った。ラインハルトは黙って頷いた。二人は岸に沿って足速に、さっき乗ってきた小舟の置いてある場所へ急いだ。
湖上を渡る間、エリーザベトは舟べりに手を置いていた。ラインハルトは彼女から眼を放さずに小舟を漕《こ》ぎ続けた。しかし彼女はラインハルトを見過して、どこか遠くの方を見ていた。そこでラインハルトの視線は下へ滑って、彼女の手の上にとまった。青白い手は、口の語らぬそのことを彼に語り告げていた。夜ごと、傷ついた心臓の上に置かれる女の美しい手をとかく襲いがちな、ひそかな痛苦の残した痕《あと》を彼はそこに見てとった。――相手の視線を自分の手の上に感じたエリーザベトはゆっくりと手を舟べり越しに水の中へ滑らせた。
邸に帰り着いた時、研屋《とぎや》の車が母屋《おもや》の前にとまっていて、黒い頭髪を垂らした男が一心に輪砥石《わといし》を足で踏みながら、口の中でジプシーの歌をうたっていた。輓具《ばんぐ》をつけた犬がその横に寝そべって、口ではあはあ息をしていた。玄関の土間にはぼろをまとった、美しい顔だちの若い女が立っていて、入ってきたエリーザベトに物乞《ものご》いの手を差しのべた。気がふれているらしい。
ラインハルトがかくしに手を入れるのに先手を打って、エリーザベトは財布の中身を全部その女の拡げた掌《て》に入れてやった。そうすると、エリーザベトはくるりと後ろを向いて、そのまま二階の階段を上がって行ってしまった。嗚咽《おえつ》の声がラインハルトの耳に聞えた。
引きとめようとしたが、思い返して、彼は階段の下にとどまった。若い乞食《こじき》女はまだ土間につっ立っている。もらった施しの金を握りしめたまま、身じろぎもせずに。「何か、もっとほしいのかね」とラインハルトがきいた。
乞食女はびっくりして、「いいえ、何も」と言い、彼の方を振返り、ゆっくりと玄関口を出て行った。虚《うつ》ろな視線を彼にぴたりと向けながら。彼はある名前を呼んだ。しかしそれはもう乞食女の耳には入らぬらしかった。頭を垂れ、胸のところに腕を組んで、若い女は玄関先の広場を下って行ってしまった。
[#ここから2字下げ]
明日は死に行く
われひとり
[#ここで字下げ終わり]
古い歌のひとふしが耳に聞えてきた。彼ははっと息をとめた。その一瞬が過ぎると、彼は身をひるがえして、自分の部屋へ上がって行った。
仕事にかかろうとしたが、頭のまとまりがつかない。小一時間も無駄をしたあげくに、庭に面した部屋へ降りてきてしまった。誰もいず、冷え冷えとした緑のかげりがあるばかりだった。エリーザベトの縫物台の上には、その日の午後、頸《くび》に巻いていた赤いスカーフがのっていた。彼はそれを手にとったが、胸苦しさにまた元へ戻《もど》した。落着くことができなかった。そこでまた湖へ下りて行って、小舟のともづなを解いた。彼はもう一度向う岸へ渡って、ついさっきエリーザベトと一緒に歩いた道を全部もう一度歩いてみた。再び家に帰った時はもう暗かった。玄関の前で馬車馬を草地へ引いて行く馭者《ぎよしや》に出会った。短い旅行からエーリヒと母親とが帰ってきたところだった。玄関に入ると、エーリヒが広間の中を行ったり来たりする足音が聞えた。ラインハルトはエーリヒのところへは行かずに、ほんの暫《しばら》く立ち止って思案したが、静かに階段を上がって自分の部屋にこもった。窓ぎわの肱掛椅子《ひじかけいす》に腰を下ろして、ナイチンゲールの声に耳を傾けるような格好をした。小鳥は下の水松《いちい》の生垣《いけがき》で鳴いていた。しかし聞えるのは自分の心臓の鼓動ばかりだった。階下《した》ではみな寝静まったらしい。夜は更《ふ》け静まって、時は流れた。しかし彼はそれに気づかなかった。――何時間、そうして坐《すわ》っていただろう。ついに立ち上がって、あけ拡げてあった窓に身をもたせかけた。夜露が木の葉からしたたり落ち、ナイチンゲールの声もやんだ。――東が仄《ほの》かに白みそめて、そこはかとない暁の光が夜の紺色にとって代る。さわやかな風が立って、ラインハルトの熱い額を撫《な》でた。最初の雲雀《ひばり》が囀《さえず》りながら空へ舞い上がった。――ラインハルトはついと窓ぎわを離れて、書き物机に歩み寄り、鉛筆を手探りに探り当てて、腰を下ろして何事かを一枚の白紙に書きつけた。それが終ると帽子とステッキとを手にとり、紙はそのまま残して、そっとドアを開き玄関へ下りて行った。――隅々《すみずみ》にまだ夜明けの暗さが漂っていた。大きな飼猫《かいねこ》が茣蓙《ござ》の上に寝そべっていた。何ということもなしに手を差しのべると、背中を逆立てた。が、外の庭では小枝に雀《すずめ》たちがもうおしゃべりを始めて、朝がやってきたことをみなに告げていた。その時階上のドアが一つ、開く音がした。誰か階段を降りてくる者がある。見るとエリーザベトだった。エリーザベトは彼の腕に手を置いて、唇《くちびる》を動かした。しかし言葉は聞えない。「もう二度と来ては下さらないのね」と、やっと言う。「わかっているわ、嘘《うそ》をおっしゃらないで。もうあなたは二度と再び来て下さらないのね」
「そうです」とラインハルトが答えた。彼女は手を下げて、それ以上もう何も言わない。彼は玄関の扉《とびら》の方へ歩いて行き、もう一度それから振返った。エリーザベトは同じ場所にじっと立ったまま、虚ろな眼《め》つきで彼を見ていた。ラインハルトは一足あとに戻って、両腕を差しのべたが、思いきったようにくるりと後ろを向いてドアを押し開けて外へ出た。――外はすがすがしい朝の光のうちにあった。蜘蛛《くも》の糸に宿った朝露の珠《たま》が陽《ひ》にきらめいていた。ラインハルトは後ろを振返らなかった。足速に前へ前へと歩いて行く、その彼の背後に静かなやかた[#「やかた」に傍点]は次第に小さくなって行き、彼の前には大きな、広い世界が開けていった。――
老愁
月影はもう窓ガラスになく、部屋の中は暗くなっていた。老人はそれでも手を組んだまま依然として肱掛椅子に倚《よ》って、呆然《ぼうぜん》と宙を見つめている。彼を包む濃い闇《やみ》は、見る間に広々とした暗い湖に変ってゆく。黝《くろ》い水が一点、眼前に拡《ひろ》がるとみると、その後ろには更に同じ黝い水面が開け、次第に深く、次第に遠く湖が拡がってゆき、その最後の、老人の眼にもうほとんど見定めがたいはるかな水面に、広やかな葉に囲まれて、寂しく白々と睡蓮の花が咲いていた。
ドアが開いて、明るい灯影《ほかげ》がさした。「ちょうどよかったね、ブリギッテ」と老人が言った。「さあさあ、それをここへ置いてもらおう」
それからまた老人は椅子を書き物机に引寄せ、拡げ放しになっている書物の一冊を手にとって、かつて彼がその青春の力を傾けた学問の世界に没頭した。
[#改ページ]
ヴェローニカ
一 水車小屋にて
復活祭前の日曜日を控えた四月の初めだった。すでに西に傾いた太陽の柔らかな光は、山腹を走るなだらかな下り道のほとりに萌《も》えだした若緑を照らしていた。この時、この道を市《まち》で最も声望のある弁護士の一人が、連れの書記とただおりおり短い言葉を交《か》わしながらゆっくりと下って行った。中年の、落着いた特色のある顔だちの男である。彼らの目あては、そこからほど遠からぬところにある水車小屋であった。水車の所有者は、老齢と病気とに苦しめられて、自分の息子に代を譲るので、相続の書類を作ってもらおうというのであった。
この二人から数歩後ろに離れて別の一組が歩いていた。まだういういしい美しい弁護士夫人と、元気のある理知的な顔つきをした若者だった。青年は夫人に話をしかけるが、夫人はこれを聞いていないように見えた。夫人はものを言わずに黒い眼《め》で前方をぼんやりと見つめ、誰《だれ》か人が自分のわきにいるのに気づかぬといった様子だった。
粉挽《こなひ》きの家が下の谷間に見えだした時弁護士は後ろを振返った。「ねえ、君」と彼は言った。「君は筆跡がいいから、ちょっと契約書を作るのを習ってみてはどうだ」
しかし従弟《いとこ》は手を振って肯《がえん》じなかった。「かまわないで下さいよ」と言いながら、青年は連れを物問いたげな眼つきで眺《なが》めた。「目下奥さんと面会時間中なんだから」
「それじゃヴェローニカ、いいからあんまり洗いざらいしゃべるんじゃないよ」
若い夫人は夫の言葉をうべなうようにただ頭を下げたばかりだった。――彼らの後ろからは市のいくつかの教会の夕べの鐘が響きを送ってきた。白い絹帽子の下に黒い髪の毛をかき入れた手をすぐ胸の上にずらせて十字を切りながら、彼女は小声で「御告《みつげ》の祈り」を口ずさみ始めた。従兄《いとこ》同様新教の家庭に育った若い男は、いらだたしい表情を浮べて夫人の唇《くちびる》の単調な動きを追い眺めた。
建築家だったこの青年は、二、三カ月前にある教会の新築の仕事でこの市に来て、爾来《じらい》ほとんど毎日従兄の弁護士の家の客となっていた。彼は従兄の年若い妻とすぐに親密になった。一つには二人とも年が若かったからであり、また一つには彼に絵心があったからでもあった。絵は義姉《あね》も熱心に器用に描《か》いた。そこで青年は、彼女にとっては友人ともまた同時に先生ともなった。だがほどなく、二人が夜並んで坐《すわ》っていると、青年の眼は彼女の前におかれてある絵に注がれるよりも、絵を描く小さな手を眺めるようになり、またいつもならすぐに鉛筆を投げてしまう彼女が、彼の眼につかまってしまったように眼を上げることもせず、今では黙っておとなしく仕事を続けた。それがついには、別れぎわにおやすみを言い合う時、手と手とを少しずつ永く握り合い、指と指とが少しばかりきつく組み合されるようになってきたことも、二人にはほとんど気づかれぬようだった。大抵は仕事のことで頭をいっぱいにしていた夫はまたそれを格別気にもかけていなかった。妻が好きな道に刺激と興味とを見いだしたのをむしろ喜んでいた。彼自身はその点で妻に対してどうしてやることもできなかったからである。ただ一度、若い建築家が帰って行ったばかりの時、夫は妻の眼の中の夢みるような表情に驚いて、自分の前を通りすぎようとする妻の手を捉《とら》えてこう言った。「いや全くお前の妹たちが言うとおりだね」――「なあに、あなた」――「なるほど、こうして見るとよくわかる、お前の眼はまるで小娘のようだ」――妻は面《かお》を赤らめて、夫に引寄せられて接吻《せつぷん》を受けても黙ってじっとしていた。――
今日は天気がいいので、ヴェローニカとルードルフとは、すすめられるがままに、仕事で近所の水車小屋へ出かける夫について出てきたのである。
昨日三人でいた時に、ヴェローニカは夫に請《こ》われるままに、ルードルフの指導を受けて仕上げた絵を一枚見せた。しかしその時からヴェローニカとルードルフとの間は何か以前とは違ってきている。ルードルフはこれをひどく鋭敏に感じとった。それで今彼は、自分の弟子が少々ほめられすぎるくらいにほめられたのに対して、自分がなぜああまでやっきになって鋭い非難を加えたのだろうと、その場のことをもう一度思い返してみた。
ヴェローニカはもうとうにお祈りを済ませていた。しかしいくら待っても自分に視線を向けてはくれなかった。
「あなたは何か僕《ぼく》を恨んでいるんですか」と彼はとうとう言いだした。
若い夫人は眼に見えぬほどかすかに頷《うなず》いた。しかし口はしっかり結ばれたままである。
青年はじっと夫人を見つめた。夫人の額には相変らず小さな反抗の色が漂っていた。「僕は、なぜあんなことになったかは、あなたによくわかっていると思うんですが。それとも、あなたにはわからないんでしょうか」
「あなたがわたしをいじめたということだけは、よくわかっていますわ。――それから、あなたが」と彼女は言いそえた。「わざとわたしをいじめようとなすったということも」
青年はちょっと黙ってから、ためらいがちに尋ねた。「一体あなたは、向い合せに坐っていた年をとった男《ひと》の賢明な眼に気がつかなかったんですか」
夫人は横からちらりと青年を見やった。
「僕は自分でああしなければいけなかったんですよ。――ゆるして下さい。――ほかの人があなたを非難するのを、とても僕は聞いてはいられなかったんです」
ヴェローニカの眼が曇った。長い黒い睫毛《まつげ》が頬《ほお》に影を落した。が、彼女は一言も返答しなかった。
それからすぐ一行は水車小屋に着いた。弁護士は粉挽きの息子に案内されて家の中に入って行き、ヴェローニカとルードルフとは家のそばにある庭へ行った。けれども二人は黙ったまま長い小道を先へ歩いた。二人とも、さりげなくちょっとした言葉を口に出そうと努めてはいたのだが、そこにはまるでお互いに腹を立てて、息苦しいというような様子さえ見えた。
二人は庭の中を歩きつくすと、狭い小橋を渡って水車小屋の一番端にある下の戸口の中に入って行った。水が非常な勢いで流れていた。――水車の響きと流れ落ちる水の音とが外から聞えてくる一切の物音をのみこんでしまうので、かえってそこは夕闇《ゆうやみ》の色の濃い中に不思議な別世界をなしていた。ヴェローニカは、水車の溝《みぞ》に通ずる反対側の扉《とびら》の中に入って行き、足もとの夕陽《ゆうひ》にきらめく水を躍らせて轟々《ごうごう》と回っている水車の輪を眺めた。ルードルフはそのあとを追わず、部屋の中の大きな車輪のわきに立ったまま、陰鬱《いんうつ》な眼差《まなざ》しを絶えずヴェローニカの上に注いでいた。――とうとうヴェローニカがこちらを振向いた。何か言っている。唇の動くのが見える。けれども何を言ったのかルードルフには全く聞きとれなかった。
「聞えませんよ」ルードルフはこう言って、頭を横に振った。
ヴェローニカの方へ行こうとすると、向うから部屋の中に戻《もど》ってきた。彼女は、ルードルフの立っている横の車輪の歯が髪の毛にさわりはせぬかと思われるほどに近寄って部屋の中を横ぎろうとした。夕陽に照らされた眼が、まだものをよく見ることができなかったからである。しかし手をつかまれて、急いでわきの方へ引寄せられるのを感じた。面を上げた時、ヴェローニカの眼はルードルフの眼に見入った。二人とも口はきかなかった。突然、呆然《ぼうぜん》とした状態が影のように二人を覆《おお》った。頭の中は水車の響きで轟々と鳴っている。表からは車輪が下にふるい落す水の単調な音が聞えてくる。――しかし次第に青年の唇が動き始め、声の響きをすっかりのみこんでしまうひどい物音に幸いされて、酔ったような誘惑の言葉をささやいた。その言葉はヴェローニカの耳には達することがなかったが、口の動き、顔色の情熱的な蒼白《そうはく》さから意味はよくわかった。彼女は頭を後ろにのけぞらせ、眼を閉じた。ただ口のみは微笑を浮べて、わずかにまだ彼女が生きていることを告げ知らせていた。彼女はこんな風にして、面を隠すすべもなく彼に向け、手は忘れたように握られたまま、まるで羞《は》じらいのために縛られてしまったように立っていた。
そのとき突然物音がぴたりとやんだ。水車がとまり、頭の上を粉挽きの小僧が歩いて行く足音が聞えた。車輪から水が池にしたたり落ちるあざやかな音が、外から聞えてくる。青年の唇は動かなくなった。そしてヴェローニカが身を退けても、青年は押しとどめようとはしなかった。戸口から外へ出てしまった時、青年はふたたび言葉を見いだしたように見えた。彼は彼女の名を呼び、切願するように腕を差しのべた。彼女は振向きもせず頭を横に振って、ゆっくりと庭を通って粉挽きの家の方へ歩いて行った。
ただ寄せかけてあった扉を開いて部屋の中に入ると、部屋の反対側に置かれてある寝台に、年老いた粉挽きが手を組み合せて横になっているのが見えた。寝台の上の壁には木の十字架像が懸《か》かっていて、薔薇《ばら》の花輪が下がっている。おりしも子を抱いた若い女が入ってきて、掛布団《かけぶとん》の上にかがみこんだ。「ただ呼吸《いき》が苦しいんですよ」と女が言った。「食べ物もおいしくなくなってしまってね」
「一体先生にはどなたをお願いしているんだね?」書類を一枚手にして寝台のわきに立っていた弁護士が尋ねる。
「先生?」と女は鸚鵡《おうむ》返しに答える。「先生なんかよびはしません」
「それはよくないじゃないか」
若い女は困ったような笑い声を出した。「これは老衰病だからね」女は肥《ふと》った子供の鼻をエプロンでふきながら言う。「先生をおよびしたって仕方がありません」
ヴェローニカは息をのんでこの問答を聞いていた。――老人は咳《せき》をしだして、手を眼のところへやった。
「では、ここに書いてあるとおりで何の異存もないんだね、マルティン」夫が改めて口を切った。
しかし、病人はそれを聞いていないらしく見えた。
「おとっつぁん」と若い女が言った。「いま弁護士さんが読んだとおりでいいかどうかって言うんだよ」
「むろん、それで万事間違いありませんや」
「で、それはよくよく考えてみた上でのことなんだね」と弁護士が尋ねた。
老人は頷いた。そしてこう言った。「全くね、儂《わし》は苦労のしつづけだったが、まあ息子にはそうさせたくはありませんでな」
息子はそれまで部屋の隅《すみ》で煙草《たばこ》をふかしていたが、ここで口をはさんだ。「それに隠居分にとっておいた財産《もの》があったっけ」息子は、こう言ってから二、三度咳払いをした。「そっちもまだこれから大分減るこったろう」
弁護士は灰色の眼をがっしりした百姓に向けた。そして寝台のそばで遊んでいる子供をさして尋ねた。「それはお前さんの息子か、ヴィースマン?」――「そうだったら、もっと何か言いたいこともあるんだろうから、部屋から外へ出したらよかろう!」
男は口をつぐんだが、ほとんど脅嚇《きようかく》的な色を表わした眼で弁護士を睨《にら》んだ。
老人は荒くれた手で掛布団をこすり、静かに言った。「なあヤーコプ、それもあんまり永いことじゃあるまいよ。――だが」と老人は弁護士の方を向いて言いそえた。「村のしきたりどおり、とむらいを出してもらうんですが、それも銭《ぜに》を出さなくても済むっていうわけにはいかないからね」――
若い夫人は、その間じゅう戸口のとこに立っていたが、入ってきた時と同じように音をさせずに姿を消した。
外の庭の向うに、粉挽きの小僧と話をしているルードルフの姿が見えたが、ヴェローニカは顔をそむけて、水車小屋の下を小川に沿って通じている小道を歩いて行った。眼はぼんやりと遠方に注がれている。目前の山々に夕闇の色が濃く立ちこめてきたのも、またそこここを歩き回っている間にいつのまにやら山々の後ろに月がのぼって静かな谷間《たにあい》を照らしだしたのにも気がつかぬ様子である。むきだしにされた醜い人生、これは彼女のかつて知らぬものだった。果てしのない荒涼たる道、その終りには死が待っている。ヴェローニカは、自分がこれまで夢の中に生きていて、いまになって慰めのない現実の中に足を踏み入れたがさてどういう風に自分をその中で始末していいものか見当がつかぬといった気持だった。
家の方から夫の自分を呼ぶ声が聞えてきたのは、もうかなり遅くなってからだった。戻ると夫は戸口で待っていた。――帰りみち、黙って夫の横を並んで歩きながら、自分の上にいたわるように注がれている夫の眼に気がつかぬようであった。「驚いたろう、ヴェローニカ」こう言って夫は彼女の頬を撫《な》でた。「けれども、ああいう人たちの物指《ものさし》はまた別なんだからね。家の者にも手きびしいが、あれでまた自分の身に対してはもっと手きびしいのだ」
妻は夫の静かな横顔をちらりと見て、また眼を伏せ地面を見ながら、おとなしく並んで歩いて行った。
ルードルフも同じように黙りこくって、年をとった書記と並んであとから歩いてきた。彼の眼は月の光を浴びた若い夫人の手に注がれていた。あの手は、ついさっきぐったりと自分の手に握られていたのだ。そして、別れぎわの挨拶《あいさつ》をする時、一瞬の間であろうともう一度あの手を握ることができればと考えていた。――ところがそうはいかなかった。というのは一行が町に近づいてきた時、ヴェローニカは黒っぽい色の手袋をはめてしまったからである。これはいつもヴェローニカが正装をする時にだけしか着けないものだった。
ついに家に辿《たど》りついた。夫人はいきなり手袋をはめたままの手で彼に握手をした。あとになってからルードルフはそれを不満げに思い返した。はっきりした声で「おやすみなさい」と言って扉を開いたヴェローニカは、夫より一足先に家に入り暗い廊下に姿を消してしまった。
二 復活祭前の日曜日
復活祭前の日曜日の午前が近づいてきた。街は近隣の村々から繰りだしてきた人たちでいっぱいだった。家々の玄関先には日を浴びた新教徒の子供たちがそこここに立って、旧教教会の開かれた門の方を眺《なが》めていた。復活祭の大行列の日である。――鐘が鳴りだした。行列がゴチック式の門の下に見えて、狭い道に練りだした。先頭は黒い十字架を手にした孤児たちで、これに白い紗《しや》の頭巾《ずきん》をかぶった尼僧《にそう》たちが続き、それから市の諸学校の生徒が並び、最後は市民や田舎《いなか》から出てきた連中、老若男女が果しもなく長い列を作って、みんながみんな歌いつつ祈りつつ、一番の晴着をつけて、男たちや少年たちは帽子を手に持って頭にはかぶらない。その上をほどよく間隔をおいて、人の肩に担《にな》われた大きな聖画板が聳《そび》えている。橄欖《かんらん》山上のキリスト、番卒に卑《いや》しめられるキリスト、行列の中ほどには一段と高く大十字架が捧《ささ》げられて、一番最後は聖墓の図である。
市の婦人連はこの公《おおやけ》の行列には加わらぬことになっていた。
ヴェローニカは下着をつけただけで寝室の鏡台の前に坐《すわ》っていた。前には、旧教教会の所属員に許されている金縁の小さな聖書が開かれたままになっていた。読んではいないらしい。長い黒髪はほどけて白い寝間着に垂れ下がり、手はべっこう[#「べっこう」に傍点]の櫛《くし》を持ったままじっと膝《ひざ》の上におかれていた。
近づいてくる行列の物音が聞えてくると、彼女は頭を起して、耳をそばだてた。鈍い人の足音や、単調な祈祷《きとう》の声が聞える。――
「聖母マリア、恵みのおん母」という言葉が窓の外に聞える。すると行列の後ろの方から鈍くそれを繰返すのが聞える。「われら哀れなる罪びとの、今、また死の時に恵みを垂れたまえ!」
ヴェローニカは、この聞きなれた言葉を小声でともに誦《ず》した。椅子《いす》を後ろにずらせ、両腕を下にさげて部屋の中央に立ち、眼《め》はじっと窓の方を見つめている。――あとからあとから人が現われては消え、それとともに声も変り、画板が次から次へと窓の外を担《かつ》がれて通って行く。――と突然胸の裂けるような音があたりを貫いた。大ラッパの響きの下に、厳《おごそ》かな法衣をまとった位の高い僧侶《そうりよ》やミサの僧たちに囲まれ、大勢の人々にとりまかれた受難道具が近づいてきたのである。飾り紐《ひも》が揺れはためき、天蓋《てんがい》についている黒紗がひるがえるその下には、花にうずもれた亡《な》き主の御姿《みすがた》が横たわっていた。大ラッパは、最後の審判へ人々を呼び集めるように鋭く鳴り渡った。
ヴェローニカは相変らずじっと動かない。膝はわなわなと震えて、ぎゅっと歪《ゆが》められた黒い眉毛《まゆげ》の下には、蒼白の面《かお》に眼が虚《うつ》ろな光を湛《たた》えている。
行列が通りすぎると、ヴェローニカは最前腰を下ろしていた椅子のわきに崩《くず》れ伏した。そして、両手で顔を覆い、口にルカ伝の一節を唱えた。「父よ、我は天に対し又《また》なんじの前に罪を犯したり。今より汝《なんじ》の子と称《とな》えらるるに相応《ふさわ》しからず」
三 懺悔《ざんげ》台にて
キリスト教の出現を奇蹟《きせき》とみるよりも、むしろ人類の精神的発展が生んだ自然の産物とみる人は次第に多くなってゆき、一つの団体をかたちづくっている。弁護士はそういう人たちの仲間だったので、自分では教会へ出かけて行くことがなかったが、妻は教会に行かせていた。そして妻の幼い頃《ころ》からの、また妻の実家の習慣を許して、妻がいつかは次第に独立の精神的解放に到達するだろうと考えていた。けれどもヴェローニカは二年前いまの夫のところにかたづいてきてからというもの、教会へ懺悔に出かけたり聖餐《せいさん》を受けに行ったりするのはただ復活祭の時だけであった。その頃が近づくと妻がしめやかになり、うわべは何かぼんやりとして家の中に立ち居するようになることはすでに夫にもわかっていたので、ついこの間まであれほど夢中になって絵を描《か》いていたのに、あの夕方の散歩以来それがふっつりやんでしまったのを見ても格別気にもとめていなかった。だが時が流れ、五月の太陽がもう暖かく部屋の中にさし入るようになっても、まだヴェローニカは懺悔に出かけることを延ばしていた。ところが妻の顔色が日増しに蒼《あお》ざめてゆき、眼の下には寝られぬ夜の証拠であるところのうっすらとした隈《くま》が現われてきたので、夫もついに気づかずにいるわけにはいかなくなった。
そんな風である朝のこと、夫が何気なく寝室に入って行くと、妻は物思いに耽《ふけ》って窓べに立っていた。
「ヴェローニカ」夫は妻に腕をかけた。「しゃんとするように、何とかしてみたらどうだね」
妻は、自分の考えていることをみんな夫に知られてしまったとでもいうように震え上がった。しかし気を落着かせようとして、言った。「どうぞお願いですから、あなた」彼女は夫の手をとって、そっと扉《とびら》の外へ連れ戻した。
こうしてまた自分一人になってしまうと、着物をきて、祈祷書を手に、ほどなく家を出て行った。
ヴェローニカは暫《しばら》くのちにラムベルトース教会の中へ入って行った。やがて正午が近かった。大きな堂宇の窓の外には、もう若葉をつけた菩提樹《ぼだいじゆ》の小枝が緑の陰をつくっていた。窓の色ガラスに屈折した一条の陽光は、聖壇にある聖遺物|匣《ばこ》の扉を照らしているばかりだった。本堂内の椅子には思い思いに人々が、腰をかけたり跪《ひざまず》いたりして、これから済まそうという告白の心用意に祈祷書を拡《ひろ》げていた。懺悔台から聞えてくるささやくような声音《こわね》、時にはまた深い吐息、衣《きぬ》ずれの音とか床の舗石《しきいし》を忍び足に渡る音、そんなもののほかには物音とてなかった。――ほどなくヴェローニカも、聖母マリアの像に遠くない懺悔台の一つに跪いた。マリアは慈悲深く微笑を湛えて彼女を見下ろしている。黒ずくめの衣服が今日は余計顔の蒼白《あおじろ》さをきわ立たせている。中年の恰幅《かつぷく》のいい懺悔|聴聞僧《ちようもんそう》は、懺悔人と自分をへだてる格子《こうし》に頭をもたせかけていた。
ヴェローニカは懺悔を始める時の文句を中音に唱え始めた。「哀れな罪深き私は」、声が次第に乱れてくる。「神、また神の御代《みがわ》りなる御聴聞僧の前に告白いたします」――が、言葉は次第に淀《よど》みがちになり、口ごもり、ついに彼女は黙ってしまった。
聴聞僧の黒い眼は、静かに、疲れの色さえ見せて彼女の上に注がれていた。懺悔はもう一時間以上も続いていたからである。「御主の御心《みこころ》に悔い改められるがよい」僧の声は柔らかだった。「罪はわれらを殺し、懺悔はわれらを救いあげてくれる」
ヴェローニカは何とか考えをまとめようとする。するとそのたびに、あの日の夕方以来幾度となくそうだったように、水車の響きが心の中に聞えてくる。しめやかな夕闇《ゆうやみ》の中で自分はルードルフの前に、両手をとられたまま、抑えがたい内心の動きに駆られて眼を閉じ、羞《は》じらいのあまり逃げることもできず、ましてやそのままにしていようという気もなく立ちすくんでいた。――唇《くちびる》が動く、言葉は出てこない。どうあせっても駄目《だめ》だった。
僧は暫く黙っていた。それからふさふさとした黒い髪の頭を上げて、また言った。「勇気をお出しなされ。主の御言葉を思われよ。『精霊を受けよ。汝ら誰《だれ》の罪をゆるすとも其《そ》の罪ゆるされ、誰の罪をとどむるとも其の罪とどめらるべし』」
ヴェローニカは面を起した。僧衣をまとった男の赤らんだ顔、太くて頑丈《がんじよう》な頸《くび》がすぐ眼の前にある。もう一度懺悔を始めてみる。しかし抑えようのない反抗心がむらむらと起ってくる。道ならぬことを始めようとでもする時のような懼《おそ》れが起ってくる。何事かを告白しようとして教会へ足を向けた時よりも、更に気が重くなっていた。――彼女は愕然《がくぜん》とした。今自分の心の中で反抗しているものは、まさに自分が拒もうとした恐るべき罪過の誘惑ではないのか。――苦しい悶《もだ》えのうちに彼女は頭を目の前に置いてあった祈祷書の上に傾けた。
一方聴聞僧の面持《おももち》には疲れの色が消えうせていた。彼は言葉を尽して懇々と厳粛にまた切々と説教し始めた。その声は低かったが朗々と響いた。もしこれがいつもだったならば、彼女は身も世もない思いをしたことだろう。けれども今は、説教のもつどんな力も子供の頃からのどんなならわしも、新たに目ざめた感情の敵ではなかった。――彼女の手は帽子の上へたぐりあげてあったベールをまさぐった。「おゆるし下さいまし、お坊様!」彼女は口ごもった。そして黙って頭を振りベールを下ろして、十字も切ってもらわずに立ち上がり、足速に椅子の間を歩いて行った。裾《すそ》が椅子にさわって音を立てた。着物を体に押えつけた。いろいろなものが寄ってたかって自分をこの教会の中に引きとめておこうとしているような気がしたのである。
外の玄関のところまで来て彼女は深く息を吸いこんだ。頭がくらくらする。子供の時分から自分を導いてきてくれた手を、いま押戻《おしもど》してしまったのだ。今となっては、何にたよるべきかはもうわからない。そしてあてどもなくぼんやりと陽《ひ》のあたった広場に立ちつくしていると、そばに子供の声を聞いた。小さな陽にやけた手が、桜草をぎっしり結《ゆわ》えて花束にしたのを、買ってもらおうと差しだしている。――そうだった、外は春なのだ。彼女はそれをまるで忘れていたような気がした。すると心のどこかで窓が開いたような心持がした。
子供の方に身をかがめて花束を買いとり、これを手にして彼女は市門の方へ足を向けた。陽は舗石の上に明るく照っていた。あけ放たれた家の窓からはカナリアの高い囀《さえず》りも聞える。――ゆっくり歩いて行くと、とうとう町はずれに来てしまった。市門を一歩出ると、町はそこに尽きて道は斜めに走って丘に続いている。呼吸《いき》が軽やかになった。道のわきに拡がっている緑の畑地は眼を喜ばせ、時おり起る微風は、山裾に咲く桜草の匂《にお》いを運んでくる。畑地が尽きるところに針葉樹の森が始まり、そこからはつま先のぼりの道となって歩くのには骨が折れる。もっともヴェローニカは子供の頃から山登りには慣れていた。坂道をのぼりながら、彼女は時々足をとどめて松の木陰から陽を浴びた谷間《たにあい》を眺めた。谷は道が進むにつれて次第に足もとに深くなって行く。
頂上に着くと彼女は野生のティミアンの中に腰を下ろした。このあたりはただ一面のティミアンだった。森のかぐわしい空気を吸いながら、眼は地平はるかに霞《かす》んでいる碧《あお》い山々の上をさまよった。思いだしたように春のそよ風が樅《もみ》の梢《こずえ》を吹きぬけてくる。すると風に乗って森の奥から鶇《つぐみ》の声が聞えてくる。かと思うと空のどこかからか、姿は見えないが鋭い猛禽《もうきん》の鳴き声も聞えてくる。
ヴェローニカは帽子を脱いで、頭を手にささえた。
こんな風に一人ぼっちでひっそりとしているうちに時が流れた。近寄ってくるものは、額を撫《な》でる清らかな微風と、遠くから聞えてくる動物たちの鳴き声ばかりだった。――時おり、頬《ほお》に紅の色がさす、そして両の眼が大きく見開かれて輝きを増す。
やがて市の方から鐘の音が流れてきた。彼女は頭をもたげて、これに聞き入った。鋭くせわしげに鳴る。
彼女は「|いこいやすらえ《レクイエスカト》!」と小声に言った。ラムベルトース教会の鐘の音が聞きわけられたからである。それは教区の人々にこう告げているようだった。「神の子らの一人のもとに、神は恐ろしき御使を遣《つか》わされた」
山の麓《ふもと》には墓地があった。――父の墓じるしの石の十字架が見えた。父はちょうど一年以前、牧師の祈りを受けつつ彼女の腕に抱かれて永遠の眠りについたのだ。そこから更に向うの、水が光って見えるところには、彼女が子供の時から幾度か恐る恐る出かけて行ったことのある寂しい一画があった。そこには、教会の掟《おきて》によって、自殺した者とサクラメントを受けられずに死んだ者とが葬《ほうむ》られていた。――今となっては自分が葬られる場所はそこよりほかにはない。復活祭の懺悔の時はむなしく過ぎてしまったからである。
痛ましい表情がヴェローニカの口辺に表われた。だがそれはすぐに消えた。彼女は身をすっくりと起した。心がしっかりと、またはっきりと決ったのである。
まだそれから暫く眼は市の上に注がれ、陽を浴びた家々の屋根の上に何かを捜すようにさまよっていた。やがて眼を返して、やってきた時と同じように樅の間を通って山を下り始めた。ほどなくまた緑の畑地の間を歩いて行く。急いでいるように見える。しかし姿勢は正しく、足どりもしっかりしている。
こうしてヴェローニカは家に帰ってきた。――女中から夫が自分の部屋にいることを聞き知った。扉をあけると、静かに机の前に腰を下ろしている夫の姿が見えた。ヴェローニカは閾《しきい》のところにためらって立ち止った。「フランツ」彼女の声はかすかだった。
夫はペンを措《お》いた。「どうした」と彼女の方に向き直って言った。「遅かったね。そんなに目録がどっさりあったのかい」
「からかわないで頂戴《ちようだい》」ヴェローニカは夫のもとに歩みより、その手をとって請《こ》うように言った。「懺悔《ざんげ》はしませんでしたの」
夫は訝《いぶか》しげに彼女を見た。彼女は夫の前に跪いてその手を口に押しあてた。「フランツ、あたしあなたに悪いことをしてしまいました」
「俺《おれ》に?」夫は両手でヴェローニカの頬を優しくはさんだ。
ヴェローニカは頷《うなず》いて、深い苦悩の表情で夫を見上げた。
「それじゃ今、俺に懺悔をしようというのだね」
「いいえ、あなた、懺悔はいたしません。お縋《すが》りしたいの――あなたにだけ。ですから――あたしを助けて頂戴。それからできたら、このあたしをゆるして頂戴」
夫は暫く真面目《まじめ》な眼つきで妻を凝視していたが、腕をかして妻を抱き起し、自分の胸に抱いた。「お話し、ヴェローニカ」
妻は身じろぎしなかったが、口は話し始めた。夫は妻の唇を見つめていた。妻は自分の体が夫の腕にひしひしと抱かれるのを感じた。
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大学時代
ローレ
私は、同じ年頃《としごろ》の少女たちとつき合うなかだちになってくれるような姉妹をもたなかった。が、舞踏講習会には通った。これは週二回、市役所の広間で催された。市役所の建物はまた市長の邸宅でもあった。大の仲好《なかよ》しだった市長の息子をも含めて、男の講習生は八人で、そろいもそろって市のラテン語学校の第二学級生徒だった。が、女子の講習生のことになると、初めのうちはどうにもならないような障害があった。身分相応の女の子を八人集めるという見込みが立たなかったからである。
けれども市長の息子のフリッツにうまい考えがあった。以前市長夫妻のところに使われていて今でも宴会などには必ず市長夫人に呼ばれてやってくる料理女が、ある繕い仕立屋にかたづいていた。その亭主《ていしゆ》というのは、フランス名前の肌《はだ》の黄色い痩《や》せた男で、仕立台で針を運ぶよりも居酒屋にみこしを据《す》えるのを好んでいた。夫婦は町はずれの、向い側が城の庭になっている片側街に住んでいた。ちっぽけな家の前には大きな菩提樹《ぼだいじゆ》があって、戸口のわきにあったたった一つの窓をほとんど覆《おお》い隠していた。われわれには馴染《なじみ》の家で、いつも木犀《もくせい》と葵《あおい》の鉢《はち》の後ろに坐《すわ》って針仕事をしているきれいな娘めあてによくそこの前を歩いたものだった。娘はわれわれ少年の空想|裡《り》には、相当重要な役割を演じていたのである。フランス人の仕立屋の一粒種で十三になる美しい少女だった。着物なども、ものは粗末だったが、母親の丹精でいつもこざっぱりとしていた。小麦色の肌と黒くて大きな眼《め》はフランス人である父親の血を受けた証拠だった。今でも覚えているが、黒い髪をこめかみのところに撫《な》でつけてお下げにしているのは、そうでなくとも可愛《かわい》らしい顔をことさら魅力あるものにしていた。フリッツと私との間には、このレノーレ・ボールガールを第八番目の舞踏生徒にしてしまおうという相談がまとまった。むろんいろいろの困難はあった。フリッツと私とがこれを切りだすと、ほかの小さな令嬢や「お嬢様」たちは妙に口数が少なくなり真面目《まじめ》くさってしまったが、とにかく市長夫人が可愛い息子に説き伏せられ、われわれの味方になってくれたので、小さな淑女たちのしかめ[#「しかめ」に傍点]面《つら》も、それより一層|手剛《てごわ》いお母さん方の断固たる抗弁も、しっかり者の市長夫人のあけすけなさっぱりした態度の前には一たまりもなかった。
そんな次第でフリッツと私とは、ある日の午後フランス仕立屋の小さな家に出かけて行った。――とにかく私は、出入りの指物師《さしものし》の息子と絶交状態にあったのを考えては幾度か残念に思っていた。というのはこの友達の妹というのはほとんど毎日のようにあのボールガールと行き来していたからだ。私はまたもう一度旧交をあたためて、指物を習いに彼の父親の仕事場に出かけようかとも考えてみた。実際クリストフはちゃんとした少年で決して馬鹿《ばか》ではなかったのだが、奇態に中学生、彼がいやらしいアクセントで口にするいわゆる「ラテン語学校の生徒」をひどく憎んでいたのである。また時々クリストフは同志の友達と一緒になって練兵場でラテン語学校生を相手に大喧嘩《おおげんか》をやらかした。もっとも喧嘩をしたからといって、別にけりがつくようなことでもなかったわけである。
今はそういう橋渡しも要らなかった。われわれはもう仕立屋の前に来て、十一月の風に散りしかれた菩提樹の黄色い葉を踏んで低い戸口に歩み寄った。鈴を鳴らすとお内儀《かみ》さんが台所から出てきて、白いエプロンで丁寧に手をふいてからわれわれ二人を小さな居間に招じ入れた。
この肥《ふと》ったブロンドのお内儀さんがほっそりとした黒髪の少女の母親だとは思われなかった。少女は、われわれが入って行くと針仕事をほうりだして、好奇心と困惑の表情を浮べて銭箱のそばに身を寄せた。フリッツが来意を告げると少女はさっと顔を赤らめた。みるみる眼は輝いて大きくなった。だが母親が黙りこくって、むずかしげに頭を振った時、こっそりその後ろへ回って寝室に通じているかと思われる扉《とびら》から姿を消してしまった。――われわれが入って行った時少女が坐っていた縫物台を見ると、リボンやこまごました女の子らしい品物の間に一足の華奢《きやしや》な布靴《ぬのぐつ》が置いてあった。九分どおりでき上がっているが、まだ縁どりがしてない。いままでそれをやっていたらしかった。ひどく小さな靴だった。それを見ると、おそらくそれをはくことになっている小さな足を子供心に想像せずにはいられなかった。もうこの小さな足が踊りながら私の足のまわりを飛びはねて、ちょっとじっとしていてくれと頼んでも、ここかと思えばあすこへ行ってしまって、私を絶えずからかっているような気さえしてきた。
私がとりとめもない空想に耽《ふけ》っているうちに、ボールガールのお内儀さんは代表格のフリッツとああでもない、こうでもないと問答を重ね始めたが、市長夫人の名前も出てきてからは、次第に譲歩的になってきた。
「あすこにもうダンス靴まであるじゃないか」とフリッツが言う。「ボールガールさんは靴も作るのかい?」
お内儀さんは頭を振り振り答えた。「ねえ坊ちゃん、御存じでしょう、うちの人はほんとにねえ何でも屋なんですよ。ほらこの春でしたか、あなたの懐中時計までお直ししたじゃありませんか。――あの靴もね、娘にクリスマスにやろうというんで、もうこしらえてしまったんです」――「それでね、マルグレート、僕《ぼく》のお母さんは行李《こうり》いっぱいきれいな古い着物を持ってるからね、あれでローレの着物を作ればいいだろう。一枚で四着分はとれるだろうから、いくらでもできるじゃないか」
ローレの母親は微笑を浮べたが、また真面目な顔つきになった。「どんなもんでしょうかね、わたしにはわかりませんが、けれども市長様の奥様がせっかくそうおっしゃって下さるんだから」
少女はいつの間にか戻《もど》ってきていて、母親の横にいた。私は彼女が白い襟布《えりぬの》をつけてきたのを見のがさなかった。それに赤い珊瑚《さんご》のイヤリングもさっきまでは下げていなかったようだった。
「どうだい、ローレ?」とフリッツが尋ねる。お内儀さんは相変らずむずかしい顔つきで決心がつかぬようにぼんやりしている。「僕たちと踊る気はないか」
少女は答えなかった。その代り両手で母親の頸《くび》をはさんで何事かささやく。顔は次第に赤くなっていった。
「ねえ、坊ちゃん」お内儀さんはしつっこくからみつく娘をそっと押しやった。「このお話を最初わたしだけにして下さったんだったら、考えようもあったでしょうけれどね。もう娘の耳に入ってしまったんですから、せがまれてどうにもなりません」
こうしてわれわれは勝利を得た。「じゃあ、水曜の夜、七時だよ」フリッツは帰りぎわに念を押した。母親と娘とが戸口まで送ってきた。――暫《しばら》くしてから振返ると、少女だけがまだ戸口に立っていて、二、三度われわれの方に頷《うなず》いてみせたが、それから急いで家の中に入ってしまった。
舞踏講習会
フリッツが私に話してくれたところによると、その翌日ボールガールのお内儀さんが彼の母親を訪ねてきて、一緒に永いこと衣裳《いしよう》部屋の中をかきまわしていたが、やがて大きな包みをかかえて帰って行ったということだった。
舞踏の講習は水曜日の夜だった。私は靴屋と服屋とがぎりぎりに間に合せてくれた止め金つきのエナメル靴と上着を身につけて、市役所の広間に出かけてみると、もうみんな集まっていた。男友達は窓べで年とった舞踏の先生をとりまいていた。先生は指でバイオリンをはじいて、生徒たちの希望にこたえていた。女の生徒たちは、三々五々腕を組んで広間の中を行きつ戻りつしていた。
その中にはレノーレの姿はなかった。よその上品な家に来ていても、何のわだかまりもなく自由に振舞い、レノーレのことなど一向気にもとめぬ娘たちは、威勢よくおしゃべりを続けていたが、レノーレだけは一人離れて戸口のそばに立ったまま、憂鬱《ゆううつ》な眼つきでほかの娘たちを眺《なが》めていた。
子供たち以上に利己的で残酷なものはない。しかし、私が広間に入って行くあとからすぐに市長夫人が現われて、広間の人々に挨拶《あいさつ》し、フリッツのいわゆる将軍式にひとわたりあたりを眺めると、ローレのところに歩み寄ってその手をとった。夫人は舞踏の先生に向って言った。
「組み合せがうまくゆきますように、ちょっと小さい紳士方をお並ばせ下さいまし」――先生がわれわれを並ばせている間に、夫人は娘たちの方へ出かけて行って同じことをやり始めた。金髪の郵便局長の娘が一番背が高かった。ほかの少女たちよりも、ほとんど頭だけくらいは高かった。この娘がわれわれと向い合せに壁のところに立たされると、次に背の高いのが誰《だれ》であるかがちょっとわからなくなってしまった。市長夫人はこう言った。「さあね、シャルロッテさん、あなたかしら、それともローレかしら。どっちも同じようね」侍従でお役人の娘シャルロッテは一歩退いて、「ローレさんの方がお高いわ」とあっさり答えた。
「あら、何を言うの、そんなに引っ込まないで、いいから出ていらっしゃい。ちょっとローレさんと背比べをやってみて頂戴《ちようだい》」
それでこの小さな淑女は前に出て、仕立屋の娘と背中合せになって背比べをしなければならなかった。しかし――私は注意深く見ていたが――シャルロッテは仕立屋の娘の黒い髪の頭に自分の頭がさわらぬようにしていた。
シャルロッテの服は明るい色地だったが、レノーレの方は赤と黒が縞《しま》になった毛の服を着て、頸には白い紗《しや》を巻いていた。この着物はあまり地味すぎて、なじめない感じだったが、よくうつっていた。
市長夫人は二人の少女を見比べて言った。「シャルロッテ」と夫人は言った。「あなたはこれまでなんにでも一番だったんだけれど、お気をおつけなさいよ、その娘はあなたを追い越しそうに見えてよ」
この言葉を聞いてレノーレの黒い眼がきらりと光ったように思われた。
暫くしてそれぞれ組が決った。私は少年組の第二番目で、ローレと組んだ。ローレは私に手を握られた時、微笑した。「うんと踊ってシャルロッテを負かしてやろうよ」と私は言った。――われわれは嘘《うそ》を言わなかった。最初はマズルカの練習だった。そして授業時間も終りに近くなった頃《ころ》、ある旋回がどうしてもうまくゆかなかったので、老先生は弓でバイオリンの胴を叩《たた》きながらこう叫んだ。「ボールガールさんにフィリップ君! 二人でひとつお手本に踊って下さい」先生が歌いかつ弾くのにつれて、われわれは踊った。――彼女は実に踊りいい相手だった。誰が踊っても、彼女とならしくじるようなことはなかっただろう。けれども老先生は幾度も「すてきすてき」と叫んだし、また授業の最初から安楽|椅子《いす》にもたれて注意深く一座に眼を配っていた市長夫人もこのありさまにすっかり満足して、安楽椅子の上で反身《そりみ》になってにこにこしていた。
シャルロッテ嬢は私の友達のフリッツの相手と決っていた。きかぬ気の性質だったので、フリッツが初めのうち仕立屋の娘に熱中していたのを何とかしてやめさせようとしているように見えた。これを見て私は悪い気がしなかった。さてこうなってみるとローレのことを他人事《ひとごと》とも思えなくなり、その美しさや上品さというものに対して無関心ではいられなかった。ローレの競争相手で、一分のすきもないように身なりのととのったシャルロッテがローレをじろじろと眺めているので、私もその視線のあとを追ってゆくと、ローレのパトロンたる市長夫人のたった一つの手ぬかりを発見することができた。手袋が大きすぎるのだ。大きいばかりか幾度も洗った代物《しろもの》であることは明らかだった。
翌日、学校が終るとどうにもじっとしていられなかった私は、箪笥《たんす》にしまってあった自分のブリキ製の貯金箱を引っぱりだして、一所懸命にこれを振って、銅貨と一緒にターレル銀貨を狭い隙間《すきま》から振りだした。それから一軒の店に駆けつけて、やや照れくさいのを我慢して言った。「小さい白手袋がほしいんですが」
店員は私の手を一見しただけで番号をさとった。「六番ですね」そして売場台の上に手袋の箱を置いた。「五番を下さい」私の声は小さかった。
「五番ですか。――合いますまいよ」こう言いながら、五番の手袋を私の手にはめそうにした。
顔がほてった。「僕のじゃないんです」こうは言ったものの、私は妹がいてくれればこんなことは頼めるのにとはなはだ残念でならなかった。しかし私の目の前にひろげて置いてある白い絹紐《きぬひも》つきの小さな手袋は素晴らしかった。二組買って、店を出てから、通りで一人の少年をつかまえた。「これをローレ・ボールガールのところへ持っていってくれないか。これは舞踏用の手袋ですがよろしくって市長さんの奥さんがおことづけになりましたって言ってくれ。そうしたら、僕はこの角で待っているから、返事は僕にしてくれ」
十分後少年は戻ってきた。
「どうだった」
「お内儀さんに渡してきました」
「なんて言った?」
「そんなにいただいちゃ多すぎる、市長さんの奥さんは今朝も一組お届け下さったのにって言っていましたよ」
「しめた」と私は思った。「わからないで済んだぞ」
次の舞踏講習の時、ローレは新しい手袋をはめていた。私がやったやつか市長夫人が届けさせた方かわからなかったが、しなやかな手頸《てくび》にぴたりとはまっていた。それで、地味な服を着たローレが一座の中では一番上品に見えた。
***
さて講習は順調に進んだ。マズルカが終ると組舞踏の番がきて、フリッツとローレとは同じ組で踊った。――そうこうするうちにもローレはなかなかほかの娘たちとは親しくなれないようだった。ただ娘たちの中で一番|年嵩《としかさ》の、それにおそらく一番利口な背の高いイェンニとローレとが並んで坐《すわ》り話をしているのを二、三度見かけたことがある。二人はまた帰りみちも少しの間は同じなので、イェンニがたまにはローレと腕を組むようなこともあっただろう。時に老先生がバイオリンを持ってローレのそばへ行き、自分が若かった頃にはやったバレエの跳躍をやって見せてこの愛弟子《まなでし》に舞踏の奥義を示そうとしたりする時以外は、舞踏の合間々々大抵ローレは一人ぼっちだった。そんな時よく彼女の方をぬすみ見ると、うわべはあまり気がないようなふりで老教師の言うことを聞いていて、ただ時おり黒い眼《め》を上げて先生を見たり、また先生のやって見せる動作の一つを、静かにほんの形だけ真似《まね》たりしていた。けれども、皆が列について、先生のバイオリンが鳴りだすと、様子が変る。むろんローレは、踊りの足どりや旋回などをちっとも考えていないように見え、その眼はどこか遠いところを眺めているように見受けられたが、気持はまるで現在から離れているようで、口にはほほえみを浮べていた。それから小さな足は音もなく軽々と床の上を滑っていた。――ひと回りして彼女の方へ手を差しのべるような時など、私はよくこうきいた。「レノーレ、何をぼんやりしているんだよ」――「あたし?」と彼女は答える、そうしてはわれに返ったような様子で気短かに黒い髪の毛をかき上げる、が踊りの具合で再び遠くへ離れ離れになってしまうのである。――今でも私はジルヒャー編曲の外国歌謡集の中のスペイン舞曲を聞くといつでもレノーレのことしか考えられない。
舞踏講習が始まってからというもの、私はフランス仕立屋からことさら慇懃《いんぎん》に敬意を表されるようになって、正直の話やや当惑の気味だった。通りであろうと散歩みちであろうと、私に会いさえすれば、私を引きとめてできるだけ声高に永々と話を始めようとする。一番初めに会った時すでに彼は自分の祖父がルイ十六世の生きていた当時チュイルリー宮殿で煖房焚《だんぼうた》きをやっていたことを話して聞かせた。
「全くね、ムッシュー・フィリップ」こう言って溜息《ためいき》をついて瀬戸物の嗅《か》ぎ煙草《たばこ》入れを私に差しだす。「落ちぶれれば落ちぶれるものでさ。――けれどもうちのローレだけはね――おわかりでしょうな、ムッシュー・フィリップ」――ポケットから色染めの市松模様のハンカチを出して、小さな黒い眼をふく。「全くの話が! ごらんのとおりわたしはやくざだが、あの娘はな――あれはわたしの宝石なんで。わたしの心の神様なんでさ」こう言っておいて眼を細めて、情愛のこもった眼つきで私を見る。まるでその落ちぶれた一家へ私を引取ってもいいというような眼つきだった。
そのうちに講習最後の時間が迫ってきた。これは小舞踏会になる予定だった。子供たちの両親も招待されていた。成績を見てもらおうというのだ。私の家では母だけが出席することになった。父は医者でその地方の衛生官だったので、商売がら社交的な集りにはいつも出られなかった。日が暮れるともうじっとしてはいられなかったので、定刻以前に私はもう広間に入って行った。今日は壁の燭台《しよくだい》にもシャンデリアにも全部|蝋燭《ろうそく》がともっていた。あたりを見回すと、こちらに背を向けてローレがたった一人で窓ぎわに立っている。ローレは、戸がしまる音に明らかにはっとした。みれば黄金の腕輪をはずそうとしてあせっているようだ。近寄ってみると留め金がはずれないで困っているのだ。
「そのままにしておけばいいじゃないか」
「でもあたしのじゃないのよ、これは」ローレは困って答えた。「イェンニがここへ忘れていったのよ」
彫りの細《こまか》い花模様の、鈍いヴェニス金の腕輪が色の浅黒いすんなりとした手頸にはまって美しくきらめいている。
「そのままでいいんだ」私は低い声で言った。
ローレは悲しげに頭を振って、改めて留め金のところを指でいじり始めた。
「さあ、それじゃ駄目《だめ》だ。こっちへ出してごらん、手伝ってやろう」――私は手の中に彼女の細い手のかすかな重味を感じた。私はためらった。眼は魔法にかかったようだった。
「ねえ、早くして頂戴、お願いよ」少女は眼を伏せて真っ赤になって私の前に立っていた。
とうとう留め金がはずれた。ローレは黙って黄金の腕輪を窓の縁に並んでいる花瓶《かびん》の間に置いた。
それから間もなく広間は込んできた。ボールガール夫人も強《た》ってせがんで自分の子供が出る晴れの催しに少なくとも給仕人という格で参加することになっていた。糊《のり》をきかせて洗ったばかりの頭巾《ずきん》をつけて、菓子の籠《かご》と大きな盆とを交替に持って彼女は賓客の間を行き来した。――そのうち今晩のために招かれて一つテーブルに腰をかけていた四人の楽師たちが楽器を鳴らし始めた。老舞踏教師はバイオリンの胴をこつこつと叩く、ローレはマズルカを踊るために私に手を差しだした。――それからわれわれは全く夢中になって踊った。彼女の体は私の腕にぴたりとついて小さな足はこれ見よがしに床を踏んだ。私もまるで酔ったようになって楽の調べに身をゆだねた。それはいわば傷《いた》ましい情熱だった。というのは、今夜かぎりでおそらくもう二度と二人が一緒に踊ることはないからであった。
その時になって気がついたが、ローレの服は薄手の明るい花模様の毛織物だった。これも出は明らかに市長夫人の衣裳《いしよう》部屋らしい。なぜならこの薔薇《ばら》の花束の色模様は去年の冬、胸の張ったちょっと銅みたいな色の頬《ほお》をした市長夫人が着こんで世間の人たちをおかしがらせたものだった。ところがローレが着ると細かな模様が本当に生きて、小麦色の元気のいい少女の顔に、すてきによくうつった。
マズルカは終った。ローレは再び黒髪の頭とほっそりした両腕を垂れた。私はその席に連れ戻《もど》した。――フリッツとシャルロッテも踊り終えて、ローレのすぐわきに腰を下ろした。ちょうどその時ボールガール夫人がお茶とお菓子とを持ってやってきた。娘に言葉はかけなかったが、シャルロッテの次に自分の娘にも茶菓を差しだした時、ちらりと娘を眺《なが》めた彼女の眼には微笑と誇りかな色とが漂った。小貴婦人はその少し前から持ち前のなげやりな態度でこの母子《おやこ》をじろじろ眺めていたが、砂糖を茶碗《ちやわん》に落しながらこう言った。「ローレさんは今晩はとてもおきれいね、ボールガールさん」
お世辞を言われてお内儀《かみ》さんは丁寧に腰をかがめた。「ねえ、お嬢様、市長様の奥様がいろいろとなにして下さいましてねえ」
「ああそう。――だからなのね。――薔薇模様がね」――そうしてシャルロッテはしげしげとレノーレの頭のてっぺんから足の先まで眺めた。レノーレはこの視線にこたえようとした。しかし眼が曇った。涙の粒が一つ、頬を伝って下に落ちるのが見えた。
シャルロッテはこれに気づかなかったらしい。彼女はあけ放しになっている戸口の方に気をとられていた。驚いたことには、そこにかたまって見物している奉公人の間にフランス仕立屋の頭が出てきたのである。上々の御機嫌《ごきげん》のていと見えて、瀬戸物の煙草入れをひねり回しながら、黒い眼にうれしさを湛《たた》えて広間の中に見入っていた。
「あれは、ローレさん、お父様でしょう」シャルロッテは指で戸口をさしながら尋ねた。
レノーレは父親の姿を認めて震え上がった。「お母さん」と叫んで、まだわれわれの前で何かしていた母親の腕をわれ知らずといった格好でつかんだ。
ボールガール夫人は、懸命に合図している夫の姿を認めても、それに格別驚かされもしないようだった。だが改まった様子でこう言った。「うちから出てきなすったんだよ。お前が踊るところをまあいっぺん見ようというんでさ」
私が思わずも眼をやると、ローレが戸口の方へ歩いて行く間に、市長が先を越して仕立屋のそばに寄って、中へ入ってポンスを一杯やってはどうだとすすめた。しかし仕立屋は動こうとしなかった。「どういたしまして、私のような者が、市長様」彼はこう言って平身低頭し更に一足後ろにさがった。「仮にじじいのようにルイ十六世の御殿に仕えてでもおりましたならとにかく。――まずとんでもないことでございます」
市長が行ってしまってから、フリッツが杯を一つ持って彼のところへ行った。「御健康を祝します、親方」彼は愛想がよかった。「今度は僕《ぼく》がローレと踊りますよ。ローレは大したもんだ」
だがその時ほかの少年たちがてんでに杯を持ってわいわい集まってきた。みんな彼と杯を打合せ、彼が杯を合せるたびごとにやってみせるお辞儀を真似て、ありとあらゆる滑稽《こつけい》なお世辞を浴びせかけた。
ローレはじっと立ったまま動かない。そして、父親から眼を放さない。しかし私は、歯ぎしりする音を聞いた。
楽師が調子を合せ始めると、ほかの少年たちはみな広間へ戻ったが、私はまだローレと一緒に戸口に立っていた。
仕立屋は私に手を差しのべた。「おや、これはムッシュー・フィリップ。全く可愛いきれいなお子さんたちばかりですがな、しかしここだけの話だが――何といってもあなたとうちのローレだ。あなたとローレですぞ、ムッシュー・フィリップ!」こう言って仕立屋の小さな黒い眼は惚《ほ》れ惚《ぼ》れと優しく娘の顔に注がれた。そして、やむにやまれぬという格好で長い腕を広間の方へ差しのべて、胸に娘を抱きよせた。「いい子だ、|わしの宝石だ《モンピジユー》」とささやく。少女は父親に接吻《せつぷん》して、両腕を優しくかなしい思いをこめて父の頸《くび》に巻きつけ、小さな頭をその肩にもたせかけた。だがやがて身をふりほどいて父の両手をとり、何事か小声できっぱりと言った。何を言ったのか私にはわからなかったが、娘の眼は物を請《こ》うように父親の眼を見つめ、小さな片方の手は時々父親の苦しみをやわらげようとするかのように、震えながらその痩《や》せた頬を撫《な》でていた。初めのうち仕立屋は微笑を浮べたまま、そんな馬鹿《ばか》なとでもいうように首を振っていたが、次第にそれまでこの場所に彼を安らかに置いておいたうれしそうな落着きの色が眼の中から消え始めた。「わかった、わかった、お前はこの可哀《かわい》そうな年寄りのお父さんを愛してくれるんだ」こう呟《つぶや》いたが、組み舞踏の音楽が始まると、娘の手を握って、もう広間の方などには眼もくれず、黙って長い廊下を帰って行ってしまった。
その時フリッツがやってきて、相手のローレを連れて行った。――ローレは常に変らぬ手堅さで踊ったが、この踊りの身のこなし方には、いつものような夢想的なのんびりしたところがなく、むしろ優美な真面目《まじめ》があった。合間がくると垂れ下がったつややかな黒い髪の毛を両手で撫でつけながら、化石したようにぼんやりと自分の前を眺めている。相手のフリッツが何か冗談を言っても、耳に入らぬらしかった。
われわれが習ったものは組み舞踏でみんな出はらってしまった。けれども踊りたい気持はそれで終りにはならなかった。プログラムにはその上にまだワルツ、スコットランド円舞、急速円舞などがあった。その上にまだコティリヨンまで添えてあった。私はローレのことを念頭において、そのためにわざわざリボンや新鮮な花束を今晩の会に提供しておいたのである。
けれどもローレはもう広間にはいなかった。ほかの娘たちは母親のところへ行って、飾り紐《ひも》や頭のリボンなどを直してもらっていた。ちょうどボールガール夫人が新たに飲物や菓子などを持って広間の戸口に姿を現わした。お内儀さんも娘の姿を見かけなかった。そこでフリッツを捜すと、彼は隅《すみ》の楽師たちがいるテーブルのそばにいて、空《から》のコップを並べてまたポンスをついでいた。「ローレはどこにいるんだい」
「知らないよ」彼は吐きだすように答えた。「なんだってああ口をきかないんだろうな。僕なんかには何も言いはしない」
私はフリッツを廊下へ引っぱりだした。支度部屋へ行ってみると、ローレとぶつかった。マントを着込んで、黒い絹帽子をかぶっている。「ローレ!」私はその手をとろうとしたが、ローレはこれを避けて、われわれのそばをすりぬけた。
「行かせて頂戴《ちようだい》。うちへ帰るんですから」
そのまま彼女は表玄関の重たい扉《とびら》をあけて、鉄の手摺《てすり》のついた石の階段を下りて行った。フリッツと一緒に外の舗石《しきいし》の上に出た時には、身軽な華奢《きやしや》な体が暗闇《くらやみ》のためにもう見わけられないほど遠のいていた。
「ほうっておけよ」とフリッツが言った。「それとも、君、雁《がん》猟をやる気があるかい」
気は大いにあった。しかしどうやっていいかがわからなかった。――仕方がないのでわれわれはまた広間にとって返した。ボールガール夫人もいったん家へ帰ったが、また空《むな》しく戻ってきた。気分が悪くなって、もう床に入って、父親がそばについているということだった。
舞踏会の後半はこんなわけで少しも面白くなくなってしまった。ローレと踊るつもりだったコティリヨンが始まろうとする時、私はこっそり抜けだして、悲しく家路についた。
氷|滑《すべ》り
正月が過ぎた。もうかなり前から私は自分のオランダ式スケート靴《ぐつ》のなめらかな鋼鉄底に色目を使っては、まだ旧式の角の切れた底金を使っている友達に対してやや優越感を覚えていた。けれども今やっと結氷期に入った。
ある日曜日の午後だった。市《まち》からあまり遠くないところにある中くらいの湖、水車池はもう氷が張り輝いていた。市の連中の過半数がこの湖のまわりの冬のすがすがしい空気の中に集まっていた。老若それぞれ二人づれでスケート靴をはいている。中には牛の骨を靴に縛りつけている者もある。そしてみんなが氷滑りという高尚《こうしよう》なスポーツの練習をしていた。――岸べ近くの氷上に天幕が張られその後ろの陸地には火が焚《た》かれて釜《かま》がかかり、種々雑多な温かい飲物が調えられた。暖かに身をくるんだ少女を乗せた押し橇《ぞり》がそこここに人込みから広い氷面へつきだされる。だが誰《だれ》もが岸べ近くを滑っていた。湖心はまだ氷が薄いらしかった。
私はスケート靴をはくと、たった一人で岸に沿って滑って行った。――戻ってくると、天幕のそばには舞踏講習会のほとんど全員が集まっていた。小さな淑女たちは危なげに手を前へつきだして、新しいクリスマスの外套《がいとう》に身をくるんで人の滑りちらしたあたりを滑っている。フリッツはすでに前の晩、木で彫った鹿《しか》の頭のついている黄色い橇を粉挽《こなひ》き小屋まで持ちこんでいたが、その時はちょうどシャルロッテを乗せてひと滑りして帰ってきたところだった。するともう別の舞踏講習会の仲間だった少女が素晴らしい虎《とら》の毛皮の下の席に坐《すわ》りこんでしまった。ところがフリッツは二の足を踏んでいる。女のお相手は気骨が折れるとみえて誰か手助けしてくれる者はないかと物色中のようだった。が私は早々に方向を変えた。というのは、ずっと向うに職人階級のお内儀《かみ》さん連や少女たちがひとかたまりになっていて、その中にレノーレ・ボールガールの姿が見えたからだ。ローレとはあの晩以来会っていなかったのである。若い娘たちは、うちの出入りの指物師の徒弟に軽い押し橇に一人ずつ乗せてもらっている。その橇が以前友達だったクリストフのものであることはすぐわかった。妹の姿も見かけた。しかしクリストフはいない。輝かしい氷面が彼を遠くへ誘ったものらしい。実際彼は市の少年仲間ではスケートの最も上手な一人だったから。
私はどうしたら体裁よくレノーレの世話をやくことができるかと思いまどっていたので、暫《しばら》くの間はあちこちと滑り回った。けれども私がそばへ行くと、決ってレノーレは私を避けてほかの人たちの間に隠れてしまう。ちょうどその時さっきの徒弟が遠くから戻ってきた。「ローレの番だぜ」と言うが、レノーレは行きたがらぬ。「まあそれより何かお飲みなさいよ」と言って徒弟の手に何か握らせた。
これを耳にするや否《いな》や、私はとっさに計画を立てた。私は何事にももう気をとられていないというようなふりをして、できるだけ速く天幕の方へとって返した。天幕のすぐそばへ来た時、フリッツの母親に呼びとめられた。「フィリップ」私をからかって、拇指《おやゆび》で私が今しがたやってきた方をさしながら言うのだ。「あなたまたレノーレをつかまえようと思うなら――ほら、あすこにいてよ」
「もちろん、つかまえてやろうと思うんですよ」と私は答えて、その前を滑り過ぎた。
「そうでしょうともね。だけどあなた方のことならもう一切ごめんらしいわよ」
もう私はその時かなり離れていた。そして葡萄酒《ぶどうしゆ》を売る大きな天幕の前へ来た。それからすぐ例の徒弟のバルテルもやってきた。私は財布をはたいて、ポンスとソーセージをのせたバター・パンを用意しておいた。「これ、食えよ」私は両方とも彼の前へ押しだした。「女の子たちの世話も楽じゃないね」
少年があまりがつがつ食べるので、とても用意しておいただけでは足りなかった。「ねえ、バルテル、僕がおまえと代ってみてはどんなものだろう」
バルテルは額の汗を手でぬぐい、落着いて食べ続ける。そして私が計画の内容を説明するのを聞いて、ただ時々承諾のしるしに頷《うなず》いてみせた。食べ終るとバルテルは自分の仲間のところへ戻って行った。それからほどなく、ローレが毛皮のついた黒絹の帽子をかぶり、両手を小さなマフに入れて橇に坐っているのが見えた。バルテルがのろのろと重そうに湖の縁を押して行く。――彼らが人込みから抜けだした頃合《ころあい》を見計らって、私は自分のなめらかな底金の靴で音をさせずにそのあとを追った。そしてまたたく間に追いついてバルテルと交替した。私は小おどりしたいほどだったが、歯をくいしばって耐えた。軽い橇は翼を生やしたように光る湖面の風を切って滑って行った。
「バルテル、速いわねえ」とローレが言う。
私はちょっと休んだ。ばれたかなと思って、できるだけバルテルの錆《さ》びたスケート靴の音を真似《まね》ようとした。しかし心配は要らなかった。ローレは両手をますます深くマフの中に入れて、のびのびと上半身を後ろにもたせかけるので、毛皮帽子が私の腕のところにきた。「もっと速くしてよ、バルテル」と彼女は言ったが、もうそれなりバルテルとは言わなかった。
われわれは普通ひとが滑る区域をもう通り越していた。風は少しもない。はるか岸べに並んで生えている葦《あし》は霜枯れて斜陽のうちに光っていた。橇はどんどん湖心へ進んで行った。足もとを見ると、くねくねした藻《も》の生えているのが氷を透かして見える。
しかし私は湖心へ行きたかった。そして、われ知らず橇を湖心に向けた。われわれを岸べからへだてる空間は次第に大きくなって行く。振返ると、わずかに岸べの葦のきらめきばかりしか見えなかった。暗い湖の面は遠く離れた対岸まで不気味に拡《ひろ》がっていて、しっかりした厚い氷が張っているのか、あるいはただ湖水がじっと淀《よど》んで氷のように見えているのか、ほとんど見わけはつかなかった。ついに湖心に来た。スケートの跡は全く絶えている。黒い深みの上に橇ばかりが捨てられたように漂っている。薄い水晶のような氷の下には、もう藻の枝葉などは見ることもできない。なぜなら、この辺の深さは底が知れないということだったから。ただ時々足の下の暗いところを何かさっと通りすぎるものがあるような気がした。――ひょっとすると、湖の一番深いところに棲《す》んでいて、湖が犠牲を求める時にかぎって姿を見せるという柩魚《ひつぎうお》ではなかっただろうか。――「もしそうだったら」と私は思った。「もし氷が破れたら」私の眼《め》は、愛らしい少女の体をくるんでいる黒っぽい着物を通してその中のものを見ようとした。――
私は更に橇の向きを変えて、今度は直線に滑らせて行ったが、私の位置を橇の中央から動かさないように気をつけた。岸が迫って狭い流れとなる方角には、もう遠方に橋の形がそれと見わけられた。橋は灰色の大気の中に影のように懸かっていた。
「戻してよ、バルテル。寒くなったわ」
私はこれを意に介しなかった。「後ろを振返ったっていい」と考えて、ますます速力を出して前方へ進んだ。今となっては、彼女が振返って見るのが待ち遠しかった。しかしローレはさっき自分で言ったことをもう忘れてしまったらしい。頭を垂れて、一層ぴったりと外套に身をくるんだ。――橇はなおも進んだ。時々足もとがかすかに揺れ、疾走する重荷の下で薄い氷の坂が上がったり下がったりするような気がした。しかし私は恐れなかった。初めての氷がどれほどの重さに耐えるかはよくわかっていた。
その間に短い冬の日はほとんど終ろうとしていた。もう陽《ひ》は西の地平線に傾いていた。寒気が増して、氷がぴんぴん鳴った。とその時どんどん厚みを増して行く氷が凄《すさま》じい音を立てて、それが一方の岸から他方の岸へ、次第に暗くなって行く不気味な湖の上に轟《とどろ》き渡った。
ローレは身をのけぞらせて、甲高い悲鳴をあげた。
「驚いちゃいけないよ」私は小声で言った。「何でもないんだ。夕方の空気のせいなんだ」
彼女は後ろを振向いて、戸惑ったように私を見つめた。
「まあ!」彼女は叫んだ。「なんだってあんたがこんなところに」
「そんなにこわい顔をしないでくれよ」私は彼女の手をとろうとした。
彼女は身を引いた。「バルテルは?」
「元のところだ。僕《ぼく》が君をずっと押してきたんだ」
ローレは立ち上がった。「降ろしてよ」眼から涙がほとばしり出た。
私はそれをきかずに、ただ橇を町の方へ向け戻《もど》した。「ローレ、僕が君にどんなことをしたというんだい」
ローレは小さな拳《こぶし》をかためて私の胸を衝《つ》いた。「お上品なお嬢さんたちのところへいらっしゃいよ。あんた方とおつきあいは真っ平よ。あんたもそうよ、あんた方の誰ともごめんだわ」
私は何かむらむらとした。そして両腕でローレをつかんで、座席にぐいと押し据《す》えた。
「静かにおしよ、ローレ」声が震えた。「でなけりゃ、もういっぺん向きを変えるぜ。夜になってもかまわずに、押して行って橋をくぐって川をどんどんどこまでも滑って行くから。氷があろうと、なかろうと、僕にはどうだっていいんだ」
ローレはその間、ほとんど私の言うことを聞いていないような様子で、わきを向いて湖の上を眺《なが》めていた。だがじっと坐って、私に押されるがままにしていた。ただ妙なことに、それから間もなく幾度も繰返して同じ方向へこっそり視線をやる。私もその方向を眺めてみた。すると人が一人、そう遠くもないところからわれわれ目がけて疾駆してくるのが眼に入った。たった今しがたのことも、もう見てしまったに違いない。なぜならどうもわれわれに追いつこうとして懸命になっているからだ。
それが誰であるかはすぐわかった。私の遊び仲間で、ラテン語学校生徒の大敵、クリストフだった。これから先どうなるかも言わずと知れていた。問題はただ二人のうちどっちが速いかだけだった。
「速く」ローレは毛皮の頭巾《ずきん》を後ろへ下ろした。黒い髪の毛があらわになった。「追いつかれちゃうわよ」
私は返事どころではなかった。夢中で更に足を速めたが、息がせいせいしてきて、それまでに永い間もう滑っていたので、力が次第に尽きはじめた。追跡者がぐんぐん迫ってくるのが音でわかる。クリストフは休まず黙りこくって追いかけてくる。と突然私はすぐわきに彼のスケート靴《ぐつ》が鋭く氷に食いこむ音を聞いた。大きな手が私の手の横に出て橇の柄《え》を握った。「半分よこせ、フィリップ」彼はこう言いながらもう一方の手で私の胸をつかんだ。
私は彼の手を払いのけて、橇を突いた。橇はそのままわれわれをあとに残して遠くへ滑った。だがその瞬間、私は拳固《げんこ》でなぐられて、氷の上に仰向《あおむ》けに倒れて後頭部を打った。ぼんやりと橇の滑る音が聞えていたが、やがて私は意識を失った。
もっとも私はいつまでもそのままではいなかった。あとでクリストフから聞いたのだが、クリストフがやがて後ろを振返ってみたところ、私が追ってこないので、その場にとって返した。ところが二人とも相当にびっくりして、ローレが橇から降りて、私がその代りに乗せられた。――そういうことすべてはただぼんやりと私にわかっていた。半ば夢み、半ば醒《さ》めているような具合だった。時々二人の交《か》わす言葉がきれぎれに耳に入る。「マントは着ておいでよ、ローレ」クリストフの声だ。――「いいのよ、要らないわ。歩くんだから」――と同時に何か暖かいものが私の体にかけられた。橇はゆっくり動いた。するとまた意識が朦朧《もうろう》としてくる。私のそばで誰かが小声に泣き続けているような気がした。
やっと正気に返ってみると、私は粉挽きの家の長椅子《ながいす》の上に寝かされていた。粉挽きは湖の岸のすぐわきに家を建てて住んでいた。ローレは、その間やはりここまで来ていた母親と一緒に帰らされていた。クリストフの方は居残って、粉挽きのお内儀《かみ》さんの指図で私の頭の湿布の世話をしていた。私が眼をあけると、彼は膝《ひざ》の間に素焼きの鉢《はち》をかかえてすぐ横の椅子に坐っていた。ちょうど湿布の麻布を換えようとするところだった。私が眼をあけたので、彼は手を引っ込めて、おずおずとこう尋ねた。「俺《おれ》でいいかい、フィリップ」
私は身をまっすぐに起して、気を落着かせようとした。頭が痛んだ。「いや」私は言った。「君の世話は要らない」
「誰か町から呼んできてやろうか」
「帰れよ。僕はもう一人で家へ帰れるから」
クリストフはためらいがちに腰を上げて、鉢をテーブルの上に置いた。
それからすぐ部屋の扉《とびら》がきしんだ。彼は把手《とつて》に手をかけた。だが、出て行きはしなかった。そっちの方を見ると、古い友達のクリストフは、本当に神妙な悲しそうな眼つきで私を見つめていた。
私はちょっとの間迷った。「クリストフ」私は立ち上がって、彼の方へ手をのべた。「もし時間があるんなら、もう少し僕と一緒にいてくれ。僕をささえて、一緒に町へ帰ってくれないか」
彼の面《かお》にはさっと喜びの色が走った。彼は私の手をつかんで、これを振った。「馬鹿《ばか》なことだったね、フィリップ」
三十分ばかりして、もうすっかり暮れてから、二人はゆっくり町へ戻った。
***
しかしこの一件は簡単に片づかなかった。あくる日も私は起きられず、氷の上でひどく倒れたことを両親に打明けなければならなかった。
その次の日の夕方、私はもうほとんど正常に復していたが、母が羽毛張りの小箱を持ってきて眼の前のテーブルの上に置いた。磨《みが》きのかかったツェドレア材である。「あのクリストフ・ヴェルナーが持ってきたのよ。あなたにと思って、自分でこしらえたんだそうですよ」
私は箱を手にとった。きれいな出来だった。蓋《ふた》には小さな絵の彫りまでしてある。
「それから容体はどうだってきいていましたよ。湖でまた仲直りをしたの?」
「仲直りですか、お母さん。――そういえばそうかもしれませんけれどね」私は微笑した。
さあそれから優しい母親に責め立てられて、あの小さな冒険の一部始終をすっかり白状してしまった。母はうるさく問いつめたり、優しく非難したりして私の話を聞いた。――しかし母が言ったように、ラテン語学校生徒と指物師の徒弟とは旧交をあたためた。そして週に二回、時刻を定めて、私は規則正しく老指物師ヴェルナーの仕事場に通って、老師匠の指図を受けながら指物の初歩だけでもと習いだしたのである。
城の庭にて
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かしこに鳴ける鶇《つぐみ》にも
こころ動かす春はあり
地に萌《も》えいずる精霊に
やさしき春の声はあり
夢にも似たる人の世も
花咲く春よさながらに
[#ここで字下げ終わり]
春になった。ナイチンゲールは時々このあたりにも飛んではくるが、海から吹きつける西北の風がまたすぐこれを追い戻してしまうものだから、春を告げるのはむしろ古い城の庭の木立に来て鳴く鶇だった。二すじの街路に囲まれた城の庭は市の保護下にあった。その正面入口と向い合って、広い市場通りに沿って並んでいる家々の庭の後ろの芝地には、昨日メリーゴーラウンドが組み立てられた。というのは、春になったからばかりではなく、一週間にわたる歳《とし》の市《いち》が開かれるからでもあった。手まわしオルガン弾きたちも町に入りこんできた。それにハープ弾きの娘たちもやってきた。赤い学生帽の学校生徒たちは互いに腕を組んで、方々に店をひろげた屋台小屋の間をうろつき回り、ふだんこのあたりへは姿を見せぬ東洋の娘たちの視線を懸命に捉《とら》えようとした。――むろん市が立つ間は、ラテン語学校もほかの学校と同じに休みなのである。――私は心からこの祭日を楽しむことができた。それに私はつい最近最上級へ進んでいたし、そのために赤い学生帽をかぶっていたばかりか、特に考案された黒の飾り紐《ひも》つきの上着を着こんでいた。だからしてまたもう市役所地階の明るい酒場の入口につっ立っている必要もなくなったのだ。そこにはいつも一番きれいで愉快な連中が集まって音楽とダンスを楽しんでいた。私もそうしようと思えば、あの階段を下りて行って、外国の娘たちと踊ることができるのだ。そうしたからといって、もう誰《だれ》もとやかくは言いはしないのだ。――けれどもそんな時にかぎって時おりたった一人で郊外へ出かけてみたくなるのだった。祭のいろいろな楽しみはちゃんと然《しか》るべきところにあって、いついかなる時でもそれに与《あずか》ることができる、こう思いながら暫《しばら》くの間その楽しみの数々をあとに残して郊外に出るという気持なのである。
今日もそれだった。いっぱしの昆虫《こんちゆう》学者だった父の助けを受けて、二、三年前私は蝶《ちよう》の蒐集《しゆうしゆう》を始めて、これまでずっと熱心に続けていた。昼食後私は自分の部屋へ行って、壁にもう三つも懸《か》かっている採集品のガラス箱の一つの前に立った。午後の陽ざしはアルグス蝶の碧《あお》い羽根やきべりたては[#「きべりたては」に傍点]蝶のビロードのような褐色《かつしよく》の羽根にえも言われず美しく輝いていた。これまで捉えようとしていつも捉えられずにいたきいちご[#「きいちご」に傍点]蝶を捜しにまたちょっと出かけてみようかという気が起った。実際このきれいなオリーブ色の蝶は、静かな森の草地が好きで、好んで日当りのいい藪《やぶ》に羽根を休めているので、このあたりのように樹木の少ない地方ではめったに見つからなかったのである。――私は釘《くぎ》に懸かっていた網をはずして、下へ降り、母親に白パンを一きれポケットに、また水筒には葡萄酒《ぶどうしゆ》と水とを入れてもらって家をあとにした。やがてメリーゴーラウンドを通りすぎて城の庭に向った。城の庭の木立はもう若葉を装っていた。そこから更に正面入口と向い合せになっている裏門を抜けて郊外に出た。夜来の雨はあがって、空気はなごやかに澄んでいた。遠くを眺めると、地平線のかなたの砂丘には風車がぐるぐる回っていた。
そこから道はまだ少々城の庭の外側に沿って走っているが、それが終るところから、私は畑地の中を縦横に走っている野道や小道をあてもなく歩き回った。地所を仕切っている石や砂の堤の上にただごく稀《まれ》に野《の》薔薇《ばら》とかかぐわしい花などを咲かせる叢《くさむら》が見える。けれども朝な朝な荒い潮風がまともに吹きつけてくるこのあたりのことであるから、まだほんの若葉を綻《ほころ》ばせているにすぎなかった。私はのんびりと足に任せて歩いて行った。道端の草や赤く咲いているいらくさ[#「いらくさ」に傍点]の間にちらちらするようなものに気をつけるというよりも、遠いところに眼をさまよわせた。
そんな風にして知らないうちに午後ももう半ばが過ぎた。水車のある湖の岸べに来て草の中に坐《すわ》って、簡単な弁当を食べていると、市《まち》から四時を告げる鐘の音が聞えてきた。足もとに暗く大きく拡《ひろ》がっている湖面からは気持のいい冷たい風が吹きつけてくる。――今では深みの上に漣《さざなみ》の立っているあの湖心のあたりで、ローレは私に自分の外套《がいとう》をかけてくれたのだ。私は瞳《ひとみ》を凝らして、今日は行ってみることもできぬ湖心のあたりを暫く眺めやった。水の面にあの時の場所を見つけだすのは容易なことではなかった。――
そうだった、私はきいちご[#「きいちご」に傍点]蝶を見つけようと思って出てきたのだ。ところがどこを見ても藪もなければ、風のあたらぬ静かな一角もないようなこの辺でそれが見つかるはずはない。私は、二、三年前年上の少年に連れられて鳥の卵を捜しに行ったことのある別の場所を思いだした。そこはどの農場の囲いの土手にもさんざし[#「さんざし」に傍点]やはしばみ[#「はしばみ」に傍点]の藪が茂っていた。そこここの茨《いばら》には円花蜂《まるはなばち》が串刺《くしざ》しになっていた。博物で教わったところによるとそれは百舌《もず》の仕業《しわざ》だそうだ。ほどなく生垣《いけがき》から百舌の飛びたつのが見られ、また厚い葉の間に茶の斑点《はんてん》のある卵を隠した巣も見つかった。ああいう生垣の中にこっそりと安全に小さな珍しいきいちご[#「きいちご」に傍点]蝶も棲《す》んでいるのだろう。一緒に行った少年は、そのあたりをジートラント(低地)と呼んでいたが、これは窪地《くぼち》というほどの意味だったのだろう。けれどもそのジートラントはどこなのか?――私が今日町から出てきたような方角で町からほぼ一マイルばかりのところに始まる広い荒野の近くだということしかわかっていなかった。
暫時《ざんじ》思案してから私は地面の網をとりあげて、また歩きだした。岸がせばまって谷のようになっている道を抜けて、野面《のづら》を広々と見渡すことのできる丘に出た。けれどもうち続く野の面には、鈍い春の陽《ひ》に光る平らな、何も生えていない土手ばかりしか見えなかった。よく荒野の縁に立っているような家の見える方角に私はとうとう何か叢みたいなものが見つかったように思った。――そこまで行くには少なくとも三十分はかかる。しかし今日は歩きたいのだ。そこで元気にその方角に向って歩き始めた。時々道を黄蝶や橙《だいだい》蝶が飛んで横ぎる、灰色のラインオイレなんかが草の茎にとまっている。けれどもきいちご[#「きいちご」に傍点]蝶の気配すらなかった。
とはいえそろそろもう低地に入ってきたらしい。というのは風が次第に収まってきて、暫く前から両側は深いさんざし[#「さんざし」に傍点]の垣つづきだった。二、三度、かすかな風が起って強い香《かんば》しい匂《にお》いがした。どこから運ばれてくるのかはわからなかった。藪に遮《さえぎ》られて眺望《ちようぼう》がきかなかったからだ。すると突然右手の土手が凹《へこ》んだ。目の前には丘のようになった荒野の一部が現われた。きいちご[#「きいちご」に傍点]の蔓《つる》とこけもも[#「こけもも」に傍点]の藪がそこここの地面を覆《おお》い、中ほどの黒い水たまりのわきにはたった一本、陽を一面に受けて、すらりとした木が立っていた。枝いっぱいの、目もさめるような新緑の間には、いたるところに白い小さな花が簇《むらが》り咲いている。梢《こずえ》には無数の蜜蜂《みつばち》が群がって、ハープのような響きを立てている。町の庭園にも、遠い森でもいままでにこういう樹《き》はまだ見たことがなかった。私は呆《あき》れてこれを眺めた。あたりの寂寥《せきりよう》の中に、この木はまるで奇蹟《きせき》のように立っていた。
そこからはところどころに貧弱な畑が散らばっていて、その先は見渡すかぎり褐色の荒野の草原が拡がっている。地平をかたちづくる線は陽炎《かげろう》となってゆらめいている。眼《め》のとどくかぎりは人の姿もなく動物も見えない。――私はその美しい木の陰に行って、水たまりの横の草に身を横たえた。甘美な孤独感がひしひしと迫る。遠くには優しい夢みるような荒野ひばりの声がする。頭の上では蜜蜂が花の間に唸《うな》っている。時に風が起って、私のまわりに芳香の雲を吹き寄せる。それ以外には何の物音もしない。水たまりの縁には蝶が飛んでいた。けれども私はそれに見向きもせず、網も横に投げだされたままになっていた。――私は最近眺めた一枚の絵を思いだした。このあたりのように限りもなく広々とした場所に、太古創造の日の人かと思うような牧人が一人、粗《あら》い山羊《やぎ》の皮を腰に巻き、杖《つえ》にもたれて立っている。その足もとには一人の美しい乙女《おとめ》が坐っている。牧人は乙女を見下ろしている。乙女の大きい黒い眼は清らかな落着きを見せて、明るい寂しい朝景色に見入っている。――「孤独」という題だった。――私は眼を閉じた。すると、その乙女が虚空《こくう》から私のもとにやってくるに違いない。その乙女と共にいれば、すべての欲求を忘れ、すべてのひそやかな憧《あこが》れも鎮《しず》められるというような気がした。「ローレ!」私はこうささやいて、両腕をなごやかな大気の中へ差しのべた。
その間に太陽が没した。目の前の荒野は夕焼けに染まっている。蜜蜂の唸りがしなくなった。もう飛び去ったのだ。私の手は網をつかんだ。――しかしこんな子供の玩具《おもちや》なんかはもうどうでもよかった。私は飛び上がって、葉をいっぱいにつけた小枝の、届くかぎり高いところに網をひっかけた。それから、酔いしれた目の前に仕立屋の娘の幻を描きながら、ゆっくり家路についた。
***
城の庭の門から外へ出た時は、もうかなり暗くなっていた。向うのメリーゴーラウンドのところには灯《ひ》がともっていて、笑い声や話し声が私のいる方へ聞えてきた。それに交じって、輪のたくさんはまっている鉄の棒に当る剣の音もする。私は足をとめて、広場を囲む菩提樹《ぼだいじゆ》の隙間《すきま》から、賑《にぎ》やかな混雑に見入った。ちょうどメリーゴーラウンドが回っている最中だった。椅子席《いすせき》にも木馬にも空いたところはないらしい。そのまわりを老若男女の物好きな見物人がとりまいている。しかしまわり方が次第にゆるやかになり、木の葉越しに、乗っている人の顔かたちもかなりはっきりとわかるようになった。
私は思わず足を進めて、そのまわりにめぐらしてある針金の柵《さく》のところまで行った。――茶色に塗った木馬に跨《またが》っているのは、友達のクリストフの妹だった。その後ろにもう一人、すらりとした少女が、ちょっとだらしない格好で横向きに木馬に乗っている。こちらの方へ近づいて来ながら首をまわして、ほほえみを浮べて場内を眺《なが》めている。――ローレだった。私は何とはなしに全身がこわばった。ローレの方でも私を見つめた。しかしほんの一瞬間、困ったような表情で私を見つめただけだった。すぐにわきを向いて、着物の乱れを直した。小さな拳《こぶし》に握っている重い鉄の剣も伊達《だて》に持っていたのではないらしい。切先《きつさき》まで輪がいっぱいにはまっていた。
そのうちに親方が出てきて、次の回に乗る者の金を集め始めた。ローレは体を起して、親方に自分の剣を見せた。「今度はただね!」こう言って、剣を逆さにして、男の手の中に輪を滑りこませた。
男は頷《うなず》いて次の椅子に向った。そこでは大勢の子供たちが一番いい席の奪い合いで喧嘩《けんか》をしていた。――再びローレの方を眺めると、クリストフの妹がそばに立っていたが、背中をこちらに向けているので、私には気づかなかったらしい。
「ローレ、あんた一緒に帰る」こう言っているのだ。「あたしもう帰らなくちゃ」
ローレはすぐに答えない。落着かぬ視線を私の方へ投げる。私は動こうとしなかった。しかし眼でローレに答えたが、口ではほとんど聞きとれぬくらいに「まだおいでよ」とささやいた。
「さあ、何とか言ってよ。もう八時が打ったわよ」とせき立てられる。ローレはそれまでぶらぶらさせておいた鐙《あぶみ》に再び足をかけた。そして私の方に眼を注ぎながらこう答えた。「まだいるわ。今度はただで乗れるんだから」そして小声でつけ加えた。「きっとお母さんがここへも寄るつもりなのよ」
私はそれが嘘《うそ》だということを悟った。顔がほてって耳ががんがん鳴る。小さな嘘つきは、突然自分と私の上に秘密のベールを投げかけたのだ。こんなにうれしがらせるような承諾を受けたのは生れて初めてのことだった。これまでただそういうようなものもこの世にあろうかと、頭の中だけで幾度か考えていたにすぎなかったのである。
クリストフの妹は帰って行った。手まわしオルガンがまた鳴り始め、老いぼれ馬に鞭《むち》が鳴り、その間に大部分の席を占領していた百姓の若者や娘たちの歓呼のうちに、メリーゴーラウンドは再び動きだした。ローレは私の方を振返った。剣は鞍《くら》の前輪に差して、手をつかねて何やらものを思うような様子をしている。頸《くび》に巻いた赤いきれを風になびかせて、次第に速度を増す回転につれて、軽やかな体が私の前を通りすぎた。視線をとらえたかと思うと、もう彼女は遠く離れている。明るい色の着物ばかりが、どんどん濃くなって行く闇《やみ》の中に、暗いランプの光を浴びて、二度三度私の眼前に現われては消えた。――突然、がちゃんという音がした。椅子に坐っていた娘たちが金切声をあげた。木馬はとまってしまった。
「皆さん、お静かに願います」親方はこう怒鳴ってから、手下と二人で、故障の個所《かしよ》を調べに梁《はり》の上へのぼって行った。とんとんかちかち音がするが、簡単には直りそうもない。退屈になった私は、ローレの姿を捜したが見つからない。そこで身動きのならぬ人込みから抜けだし、外を回って反対側の方へ行き、声をかけながら人を押しわけてどうやらまた柵の前に出て、ローレのすぐわきに来た。ローレはもう木馬から下りていて、人を捜すような眼つきであたりを眺めていた。
暫くしてから、手に弄《もてあそ》んでいた剣をまた鞍の前輪に差しこんで、台から下へ飛び下りそうにした。しかしローレが着物をたくっている間に、私は台の上へこっそりと上がった。
「ローレ、今晩は」
「今晩は」声は低かった。
百姓の若者たちは次第に大声になって金を返せと怒鳴りだす。その間に私は彼女の手をとって人込みの外へ連れだした。けれども私の厚かましさはそこまででおしまいになった。ローレは手を引っこめてしまい、二人は言葉少なにぎごちなく街を歩いて行った。そのはずれにローレの両親の家があった。――ちょうど城の庭の入口のあたりにさしかかった時、通りの向うから何か声高にしゃべりながらひとかたまりの人がやってくる。同期生中一番のあばれ者たちの声もする。われわれは思わず足をとめた。
「城の庭を抜けよう」
「でも遠すぎるわ」
「いやそんなに遠くはないさ」
二人は門をくぐって広い道に折れた。この道の両側は低い茨の生垣で、そこを行くと葉の厚く茂ったしで[#「しで」に傍点]の木陰道になる。あたりは前の方も生垣の後ろも、手入れのしてある、木の立っていない庭園ばかりだったので、かなり暗くなっていたが、横を歩いて行く少女の姿を眺める妨げとはならなかった。こうして今、こんなに静かなところで彼女が私のそばにいるということは、私をぞくぞくさせた。
古い庭の中には、われわれ以外には人影は全くないようだった。砂の上を歩いて行く自分たちの足音の一つ一つが聞えるほど静かだった。
「僕《ぼく》につかまらないか」
ローレは首を振った。
「どうしてさ」
「いや――もし誰《だれ》か来たら大変だわ」
しで[#「しで」に傍点]の木陰道のところにきた。ここはひどく暗かった。というのは両側のすぐそばも、同じような木陰道になっていて、その間に散在している芝生の上にも濃い闇が立ちこめていた。ローレが横を歩いているのも、その息づかいと軽やかな足音とで知られるばかりで姿は見ることができなかった。この日の午後、自分がきいちご[#「きいちご」に傍点]蝶《ちよう》を採りに出かけていたことを思うと、全くおかしかった。「さあとうとうつかまえたよ」と私は言って暗闇に力を得て垂れているローレの手をとらえた。そしてしっかりと握った。ローレは振払おうとはしなかったが、体の震えているのはよくわかった。私もまた子供ながらに心臓が破裂しそうにどきどきした。
そうやって二人はゆっくり歩き続けた。町の方からは、手回しオルガンの鈍い音と、相変らず続いている歳《とし》の市《いち》のどよめきとが聞えてくる。われわれの前方の、並木道の尽きるあたり、遠くにはまだ茜色《あかねいろ》の夕空がかすかに残っていた。私はローレの手を腕にかかえて、それからまたこれを握った。その時目の前の道の上を何か駆けすぎた。鼠《ねずみ》をとりに出かけたはりねずみ[#「はりねずみ」に傍点]だったのかもしれない。――ローレはちょっと驚いて、私に身をすりよせた。そして、私が、ほとんど無意識のうちに彼女を抱きかかえた時、小さな頭が私の肩にもたれてくるのが感ぜられた。
それからわれわれは短い接吻《せつぷん》をした。すると何がなしに二人とも気でも狂ったように、暗い木陰から打開けたところへとびだして行った。こんな風にして、まだ彼女の手を握ったまま、並木道の終りに至り、小さな門をくぐって野の道に出た。そこをまっすぐ行くと町はずれの家のあるところだった。われわれは肩を並べて足速に歩いた。できるだけ速く、こうして一緒にいることを終らせてしまおうとでもいうように。
「お父さんが捜しているわ。もうずいぶん遅いんでしょう」ローレは面《かお》を上げずにこう言った。
「多分そうだろう」そして二人はますます足を速めた。
野道が終って、町はずれの家のあるところに着いた。仕立屋の窓から菩提樹の葉がくれに漏れる灯の光に照らされて、あまり遠からぬ泉のそばに少女が一人立っているのが見えた。もうついて行ってはならぬ。けれどもローレが舗道に足を踏み入れた時、このまま彼女を行かせてしまってはならぬという気がした。
「ローレ」私は言葉に窮した。「まだちょっと言いたいことがあるんだ」
彼女は一足|戻《もど》った。「なあに?」と尋ねる。
「もう少し待ってくれよ」
彼女はこちらを向いて、私の前に静かに立った。両手で髪を梳《す》き、頸巻きをしっかり締め直している。が、私は何をどう言っていいものか暫《しばら》くわからずにいた。頭の中はぼっと霧がかかったようだった。「ローレ、まだ僕のことを怒っているかい」
彼女は地面を見つめて、首を横に振った。
「明日もまたここにいてくれるかい」
ローレは瞬時ためらった。「ふだんはよる外へ出られないのよ」
「ローレ、そりゃ嘘だ。そうじゃないだろう、本当のことを言ってくれよ」
私は手をとった。が、彼女はまたそれを引っ込めた。
「ねえ、ローレ、言ってくれよ。――言いたくないのかい」
それでもまだ暫くは黙りこくって立っていたが、やがてまともに私をじっと見た。「わかっているのよ、あたしは」声は小さかった。「あんたはやっぱりいつかはあのお上品な娘さんたちと結婚するんでしょう」
私はつまった。こういう抗議が出ようとは思ってもみなかった。そういう遠大な事柄《ことがら》は一度も考えてみたことがないし、それに対して何と答えていいかわからなかった。
すると不意にローレの低い声で「おやすみ」と言うのが耳に入った。それから玄関の扉《とびら》が用心深く押しあけられ、呼鈴がかすかに鳴っているのが聞えた。そして私は向きを変え、ゆっくりと城の庭の中を通って帰って行った。
まず両親の居間へ食事をしに行かずに、私はこっそり二階の自分の部屋へ入った。私は酔ったように枕《まくら》の上に身を投げた。十五分ばかりして部屋の戸のあく音がした。半ば眼《め》をあけて見ると、母がランプを持って私の寝台へやってきた。私の上にかがみこんだが、私は眼をつぶって、自分の夢を追い続けた。別れぎわは大してふるわなかったにしても、私は幸福の緒《いとぐち》をつかんだような気がした。そして私の生涯《しようがい》は末永くこの緒からほぐれてゆくに違いない、というような気がした。
その夜はどうあっても一人ぼっちでいたかったが、それだけにあくる朝は無性に人が恋しかった。私はこれまでに味わったことのない自由と優越の感情を覚え、これを他人の前でも感じてみたかったのだ。朝食を済ませ、小うるさい母の質問をどうやらこうやらはぐらかしてしまうと、クリストフの仕事場へ出かけて行った。クリストフは懸命になってマホガニーの小さい被《き》せ板をくり削っていた。「なんだい、そのきれいなのは」と私はきいた。
「針箱さ」と彼は顔を上げない。
「針箱? 誰のだ?」
「レノーレ・ボールガールのさ。妹のやつがレノーレの誕生日に贈ろうっていうんだ」
私はわきから彼の顔を見た。私の顔には自惚《うぬぼ》れた微笑がこみあげてくる。「ローレは君の恋人なんだろう、クリストフ」
善良な少年の角ばった顔は、この意地の悪い質問に、額のきわまで真っ赤になった。彼は自分が照れたのに腹を立てたらしい。「ダンス講習なんかに引っぱりださなければよかったんだ」彼はこう言いながら、小刀で激しく被せ板を削った。
「やきもちを焼いてるじゃないか、君は」
これには答えず、彼は半ばひとりごとのように呟《つぶや》いた。「これが俺《おれ》の妹ならなあ」――
さてこれが私の唯一《ゆいいつ》の勝利となってしまった。というのは、それからのち何とかして二人きりでローレに会おうとしても駄目《だめ》だったから。夏の間にも二度三度、庭の後ろの舗道で、日曜の午後などにローレに出会うことはあったが、いつでもクリストフ兄妹《きようだい》が一緒で、ローレに付き添っている彼の様子には、ラテン語学校の生徒全体にローレを見せびらかしているような昂然《こうぜん》たるものがあり、またローレの方でも、私が話をしだすと、あからさまに連れの二人をせきたてて先へ歩かせようとするのだった。
ミヒャエリスの歳の市が始まって、またメリーゴーラウンドがかかった時、ひょっとしたらと思って、毎日々々日暮れになると私は広場に出かけて行った。そして何かと新しい口実を設けてはフリッツをまこうとしたので、フリッツは不平たらたらだった。それというのも時たま交じっている少女たちの間にすらりとしたローレの姿を見つけようというからなので、そのためにこそフリッツをまいて一人で出てくるのだが、いつも駄目だった。そうしては寂しく城の庭の暗い道を抜けて引き返しながら、過ぎ去った幸福の追想を悲しく味わったのである。
しかし冬の初めに、父の意志でこの市《まち》のラテン語学校をやめさせられ、中部ドイツにあるギムナジウムで更に勉強を続けることになったので、そういうこと一切は突然終末を告げた。――あの蝶を採る網は、今でもまだ荒野の果ての花咲く木にかかっているだろうか。――私は知らない。あれ以来二度とあすこへ行ったことはないから。それからまたきいちご[#「きいちご」に傍点]蝶も、今日に至るまでまだ一羽もつかまらずにいる。
大学にて
それ以来幾年かが流れすぎた。
強制的な僧院学校を卒業して、私は久しぶりに故郷の両親の家で秋の二、三週間を過した。古い大勢の友達の中で、まだ故郷の市に踏みとどまっていたのはクリストフだけだった。ほかの連中は、フリッツもそうだが、みんなもう巣立っていた。はるばると海を渡って愉快な大学生活に入った者もあり、商人の暗い事務室に入った者もあり、てんでんに運命と境遇のまにまにどこかへ行ってしまった。今では恰幅《かつぷく》のいい、ちょっとずんぐりした若者になったクリストフも、旅に出ようとしていた。一人前の職人になって腕をみがきに諸国へ修行に出かけようというのである。しかしその前にわれわれ二人は、彼の父親の仕事場でもういっぺんだけ一緒に仕事をした。私が大学へ持って行くことにしてあった素晴らしい煙草《たばこ》容器が、共同の仕事の成果だった。――母から聞いて知ったのだが、あのしっかり者のボールガールのお内儀《かみ》さんもとうとう一年ばかり前にぽっくり逝《い》ってしまい、その死後まもなく娘のローレは、お内儀さんの遺言によってわずかばかりの財産の一般相続人と定められていた未婚の年老いた叔母のもとへ引移ったということだった。この叔母というのは、この地方の大学のある町に住んでいた。菩提樹《ぼだいじゆ》のある小さな家は、お内儀さんの死後負債もあって売られてしまい、フランス人の仕立屋はある親方の下に職人として入りこんで、気楽になれて喜んだということだ。ある日曜日の午後、墓地の隅《すみ》のベンチにかけている老人に出会った。とびだした頬骨《ほおぼね》の上にある皮膚は、以前よりも更に黄色かった。黒い髪の毛ももう真っ白になっている。咳《せ》きこんでいたが、陽《ひ》に当っているのは体にいいらしかった。「おや、ムッシュー・フィリップ」彼は私の姿を認めて、長い骨ばった手の二本指を差しのべた。というのはその手で例の古い瀬戸物の煙草入れを握っていたからだ。「あの頃《ころ》はな――あの頃はこうじゃありませんでしたな、ムッシュー・フィリップ」溜息《ためいき》まじりにこう言うのである。「うちの賄方《まかないかた》もあそこの、黒い十字架の下へ入っちまいましたわい。それからあのローレはな」――老人は二、三度|唾《つば》をのみこんでから、たっぷりひとつまみやった。――「お聞きでもござんしょうが――いやがりましてね、この爺《じい》さんを一人でおいてゆくのをいやがりまして。無理無体にあの娘《こ》の小さな手を振りきってやりました。どうなりますものか、この年寄りと一緒ではな。あれはあれなりに仕合せにならんことには」老人はうなだれて、両手を力なく膝《ひざ》に置いた。「娘のよこした手紙をお目にかけましょうか。ねえ、ムッシュー・フィリップ、あなたは学者様だ。どうです、この小ぎれいな手跡《て》は。いじらしいことが書いてあるじゃござんせんか。子爵《ししやく》の奥さんだってこれほどにはゆきますまい」――暫くこんな風に老人は話し続けた。
あれ以来、私は仕立屋に会わない。なぜかというと、それから二、三日して、まずさしあたり外国の大学で法律の勉強を始めるために旅立ったからだ。それから半年ばかりして、私が仕立屋に会ったことを話しておいた母から来た手紙によると、ルイ十六世の宮廷に仕えた煖炉焚《だんろた》きの孫、ムッシュー・ボールガールもまた黒い十字架の下の人となったそうである。
***
それから三年ののち私はまた故郷《くに》の大学に舞い戻って、試験前の一年を勉強することになった。フリッツとは前の学期にハイデルベルクで一緒だったが、あくる秋にはやはり帰って来ようとしていた。しかし旧友のクリストフも大学を出ていた。クリストフは、今では大きな家具商の第一席の職人だった。ある日の午後、私は公園で一杯のビールを前にしてたった一人で坐《すわ》っているクリストフの姿を見かけた。見たところぼんやりと葉巻の煙をふかしている。立派な金髪の頬|髯《ひげ》をはやして、なり[#「なり」に傍点]も堅気に小ぎれいだったので、すぐそばへ寄るまでは彼だということがわからなかった。黙って肩に手を置くと、反抗的な調子でくるりと首をねじって私を見た。というのは、私ももう昔のようにラテン語学校の、色のついた帽子をかぶってはいなかったにしても、おそらくは相変らず彼の好かぬらしい「ラテン語学校生徒」の一人だということは、誰の眼にも明らかだったからだ。ところが私だとわかると、みるみる驚いた喜びの色が眼に溢《あふ》れてきた。「フィリップ君か」彼は私が差しだした手を、まるで少女のようにおずおずととって、素ぶりとは反対に心をこめて固く握り返した。――われわれは永い間話しこんだ。故郷《くに》のこと、両親や同年輩の誰彼のことなどを話し合った末に、私はあの忌《いま》わしい氷滑りを思いだして、子供の頃二人で愛し合っていたローレのことも尋ねてみた。
ローレはまだ叔母にあたる年老いた裁縫師の家にいて、叔母と一緒に市《まち》の上流の家庭へお針女《はりめ》として出かけていたのだ。しかしクリストフの返答は次第に言葉少なになってゆき、しまいにはやや気ぜわしく話題を変えようとした。私はローレに対する恋の気持を故郷の埃《ほこり》と一緒にもうとうの昔に払い落してしまったつもりでいたのだが、実直なクリストフは今でも昔と変らず美しい少女を愛し続けているらしく見えた。
ところが私も、つもりだけだったようだ。――それから暫《しばら》くして私は親しい女性たちとこの市が面している湾の向うの、当時人足のしげかった遊覧地へ遠足したことがあった。午後も過ぎて、われわれは岸べ沿いに帰りの船を求めて歩いていた。――二|艘《そう》の小舟が、もうあらかた客を乗せて出るばかりにしていた。われわれから三十歩ほども離れたところにもやっている小舟のわきに、下宿している家の居間で時々見かける年とった、せむしのお針女が立っていて、その横にはちょっと人目を惹《ひ》くような娘の姿があった。片足を小舟の舟べりにかけて、まさに乗りこもうとしていたが、われわれ一行が目にとまったものだから、突然ためらった。暫く見なかったが昔のままの黒いドイツ人ばなれのした眼と私の眼とがかち合った。レノーレ・ボールガールだということがわかった。背は高くなっていて、小麦色の頬の下には娘ざかりの紅がさしていた。しかし相変らずその身ごなしには、その昔私が子供心にも夢中になったあの婀娜《あだ》な投げやりなところがあった。胸がどきどきしてきた。連れの女性たちのこともほとんど忘れてしまった。というのは、その黒い瞳《ひとみ》は、何か私に請《こ》うように、こちらを見ていたからだ。お針女が何か話しかけている。船頭は船頭で相当にいけぞんざいな言葉でせきたてている、それがはっきりと聞えてきた。けれどもローレはそのまま身じろぎもせず、夢をみているようにじっと私の方を眺《なが》めていた。
暗い衝動に駆られたようにもう私は二、三歩その小舟の方へ歩いていた。しかし私は耐えた。クリストフのことを考えたからだ。彼の実直な碧《あお》い眼が私を見ているような気がふとした。「あれにはもう乗れませんね」と私は連れの女たちに言った。それからわれわれはわきの方の別の小舟に乗ろうとして水ぎわを歩いた。――しかし私はもう一度ローレの方を振返って眺めた。ローレは頭を胸に垂れて、漸《ようや》く小舟に乗りこもうとしていた。小舟は夕陽の黄金色《こがねいろ》に染まって動かぬ水の面に浮んでいた。
帰りの船で私は舵《かじ》のところに腰を下ろし、口数は少なかったが、心のうちは波立っていた。連れの若い婦人たちがどうにかしておしゃべりの仲間に引入れようとしても駄目で、私の眼は時々かなり離れたところを漕《こ》いで行く前方の小舟に注がれていたのに違いない。
「まあ、あなたは今日は駄目なのねえ」と一人が言う。「あたしたちのきれいなお針さんのせいらしいわね!」
「ローレはあなたのとこへ伺っているんですか」私は半ばうつつでこう尋ねた。
「あらまあ、どうして名前を御存じなの」
「故郷が同じなのです。ダンス学校で教わったマズルカの踊り初《ぞ》めがローレだったんです」
「あら、そうなの。――今でも大学生とよく踊るんだそうですのよ」
ローレの話はこれで終った。しかしなぜクリストフが話したがらなかったかがこれでわかった。
とはいえその後、冬の間クリストフが公《おおやけ》の場所でローレをともなっているのをよく見かけた。大抵は例のせむしのマリーエ、あるいは年寄りの婦人に付き添われていた。この年寄りこそ、哀れなフランス仕立屋からその死ぬ少し前に彼の心の宝石を奪った例の叔母さんなるものに違いなかった。
***
まだ正月中のことだったと思うが、ある晩部屋にいると外の街路で人が騒いでいる。窓をあけると、通りすぎる人群れの中に大学生の赤い帽子もちょいちょい交じっている。街燈《がいとう》の光でついに大学の守衛の一人の姿が見つかった。
「どうしたんだ、ドーゼ君」私は下へ呼びかけた。
「ドクトル様、なぐり合いがございましたんで」――ドーゼは、われわれ二人にだけ知られている理由から私をいつもドクトルと呼んでいた。
「ふうん。じゃまた踊り場でかい」
「むろんさようで」
踊り場というのは、ダンス場付きの料理屋で、そこでは大学生と職人たちの昔ながらの啀《いが》み合いが時には腕力|沙汰《ざた》に発展するのがつねだった。だが今度のは相当のものだったらしい。なぜならドーゼはそれをおそろしく拳《こぶし》を振りまわしてほのめかしたからだ。
「やられたのは誰《だれ》だい?」私は更に問い続けた。
老人は口に手を当てて私にささやいた。「しかるべき奴《やつ》がやられましてね、ドクトル様」ちょうどそこを通りかかったある知合いの人が、この話を小耳にはさんでこう答えてくれた。「ラウ伯爵ですよ。職人たちが月賦《げつぷ》を払ったんです」
「ラウ伯爵」というのは、教授連の講義に出席するのは稀《まれ》でも、決闘場には頻繁《ひんぱん》に顔出しをし、居酒屋には必ず出かけているという、美しいが乱暴な若者だった。大学にいる時はとにかくある役割を演ずるが、実人生では跡かたもなく消えてなくなるといった人間の一人だった。この男は職人たちの思い者に手を出すので彼らからひどく憎まれていたが、反面また比較的若い大学生たちの間ではこわもてがしていた。もう諸方の大学を渡り歩いて、あるところでは放校処分にあったりしていたが、今度はわれわれの地方の大学に籍をおこうという気になったのである。学資金の高額なのと、借金が更にそれに輪をかけたものであったのとで、ほどなくいろいろな噂《うわさ》がたてられた。彼が身につけてきた「ラウ伯爵」荒くれ伯爵という綽名《あだな》は、ある意味ではぴったりしていた。というのは、彼は暴力政治の昔を思わせたし、いずれにしてもまた弱い者を自分の欲望のためには遠慮|会釈《えしやく》なくしぼりあげるという古い貴公子風なところが遺憾なくその性分に伝わっているらしかったからだ。
私はこの男をよく知りもしなかったし、またそういう人間には興味もなかったので、窓を閉じて床に入り、その事件をそれ以上は考えなかった。
ところが次の日の午後、改めてその事件を思い起させられることになったのである。――コーヒーを飲み終えて、ソファに腰を下ろし、ローマ法のある論題を読んでいると扉《とびら》をノックする者がある。
「お入り」と答えると、用心深くややためらってクリストフが恰幅《かつぷく》のいい姿を現わした。
「君一人かい」とクリストフがきく。
「ごらんのとおりさ、クリストフ」
彼はちょっと黙った。「実はこの町を出て行かなくてはならないんだ、それも今晩だ。行く先は遠いんだ、ラインの叔父貴のところへね。この叔父というのがめっきり老いこんじまって、万事を仕切れる職人が一人要るんだよ。ところが困ったことに、持ち合せじゃ路銀に足りそうもないんだ。人からもらうのはいやだしね」
相手の言葉が終らぬうちに私は机のところへ行き、わずかな金を卓上に並べて数えた。「これでいいか、クリストフ」
「ありがとう、フィリップ」そして彼は金を大切に財布にしまった。財布は少々の金貨銀貨が入っていた。その時になって初めてクリストフが黒の日曜日用の服を着こんでいるのに気がついた。
「おい盛装じゃないか、一体いままでどこにいたんだい」
「実はね」気づかわしげに広い額を手で撫《な》でながら、「警察に行ってきたところなんだ」と言う。
「じゃ旅券はもうもらったんだね」
「そうだ、放逐証明書なんだよ」
私は不審に思って彼を見つめた。
「踊り場の不始末からさ」
私はとっさに了解した。「そうか! あれは君だったのかい。なんだ、どうしてすぐわからなかったのかなあ」
「むろん俺《おれ》がいたのさ、フィリップ」
「ローレも君と一緒だったのかい」
彼は頷《うなず》いた。
「で、あのラウ伯爵をやっつけちゃったのか」
満足させられた憎悪《ぞうお》の微笑が彼の口辺に漂った。「俺だったとみんなが言うのさ」
中学生たちの古い敵は、これをいかにも満足げな調子で言うので、事態はもう疑う余地を残さなかった。
私はふきだした。「じゃ話してくれたまえ。どういうことだったんだ」
「そうさね、フィリップ――俺がローレと一緒に歩いてるのは、君も知ってるだろう」
「君たちのどっちにも異存なく、というわけなんだね」
「まあそんなところだ。――あれもはしっこい女でね、叔母さんが亡《な》くなれば、まだ少々のものも手に入るし」
私は微笑して彼を見た。「ねえクリストフ、あの娘《こ》もそう気が多いってことはあるまいしさ、君にしたって何もそうむきになるいわれはなかったんじゃないのかい」
彼はちょっと眼《め》を落した。「それはわからない。二人の間はうまくいっていたんだよ、ローレと俺は。――踊り場へ出かけたのも、ただローレがそう言ったからなんだ。――するとあの背の高い生白《なまつちろ》いやつが来たんだ。もうずっと前からローレに眼をつけていながら、ほかの女とこそこそやっていたんだ。そして特にローレと踊りたいと言ったんだ」
「その様子が厚かましいというわけだったのかい」
「厚かましい?――あいつは顔からしてそもそも厚かましいんだ」
「で、ローレはどうしたんだ」私は鋭く彼を見つめた。「例の洒落者《しやれもの》と喜んで踊ったというのか」
クリストフは額に皺《しわ》を寄せて、眼を曇らせた。
「それはわからない」彼の声は低かった。――「あれがいけなかったんだよ、君たちが昔あの娘を君たち仲間の舞踏練習会でさ、臨時雇いの下男みたいな役をさせたろう」
彼は手を差しだした。「さようなら、フィリップ、金は送る。便りはあんまりしないかもしれない。けれど一年たって無事だったらまたこの町へ来るよ、さもなければ故郷《くに》の方にね」
彼は去った。――そこでまた中断された仕事に没頭しようとしたが駄目《だめ》だった。どうなるとも知れぬ幼な友達の行末が心にかかってならなかった。彼は口にこそ出さなかったが、あの少女を思いつめていて、何とかしてローレと添い遂げたいの一心だったということはわかりすぎるくらいにわかっていた。
それから間もなく下へ昼食に降りて行った。昼食は下で家人と一緒にとることにしていたのである。時間が早すぎたらしく、まだ家の者は誰もいなかった。だがせむしのマリーエが隣室に来ているのに会った。体の小さなお針女は白い布の山にうずまって黙って一人でせっせと針を運んでいた。――ちょうど今気がかりになっているクリストフとローレの二人と、この女がよく一緒にいるのはかねて見かけていたから、昨夜の事件の起りを詳しく聞けはしないかと思って、それを話してみた。
マリーエは薄い唇《くちびる》を尖《とが》らせて言った。「初めからわたしはこうなるだろうと思っておりましたんですよ。あの指物師《さしものし》さんは全くいい人なんですがね、ただあの娘《こ》にあうと、から意気地がなくってねえ。――あの娘と踊り場なんぞ行って、どういう気だったんですかねえ」
私は更に問いつめた。
マリーエは、布の山をどかして、私のために椅子《いす》を空けた。――「パッフェン横町のちっぽけな家を御存じでございましょう」言われるとおりに私が腰を下ろすと、マリーエはこう話しだした。
「もう何年になりますか、ローレの叔母にあたるあのシュミーデン婆《ばあ》さんが貸馬屋から隣の家を買いとりましてね、もっとも貸馬屋じゃ商売が商売なもんですから、裏手の空地は売ろうとは申しませんでしたので、売った方の家の空地と自分の空地とがくっついたわけでございます。ただその真ん中にちょっとした芝生がありまして、そこならシュミーデン婆さんが洗濯物《せんたくもの》を干したり晒《さら》したり、むろん充分とは申せませんが、かまわなかったのでございます。あの婆さんは、私の亡くなりました母の姉の子でございます。私は堅信礼を受けましてからこの方、よくあの人と一緒によそさまのお宅へお針に出向いて参ったのでございます。
「さよう、去年のマルティニのちょっと前でございましたろうか、絹の洗い張りするものがたくさんございましたものですから、昼が過ぎますとすぐシュミーデン婆さんのところへ出かけましたのでございますが、途中であの指物師に出会いまして、挨拶《あいさつ》だけで別れましたが、後ろから笑いながらこう申すのでございます。『仕事が終ったら、洗濯ばさみをつける手伝いに伺いますよ』もうローレとは行き来しておりましたので、あとでローレにそう申しますと、ローレはそれを大して気にもとめていないようでございました。
「午後遅くなりましてから、もううちの中でいたしますことは済んでしまいましたので、外へ出まして、円い芝生のところにございます杙《くい》に細引きを張り渡そうと存じました。ローレは着物の裾《すそ》を編上靴《あみあげぐつ》の上までたくし上げ黒い髪を耳の後ろに撫でつけまして、小さい木の踏台を持っては杙から杙へと歩いておりました。シュミーデン婆さんはその間、部屋の中で椅子にかけて昼寝でございました。私は、――私は何分にも不自由な体でございまして、手をかそうにも大したことはできなかったのでございます」
ここで話し手は曲った体をできるだけまっすぐにしようとした。
「私は洗濯|籠《かご》のわきにございました庭石の上に腰を下ろしまして、となりの馬丁が厩《うまや》の前で金栗毛《きんくりげ》にブラシをかけておりますのを見物しておりました。――私は馬が好きでございましてね、父が馭者《ぎよしや》だったものでございますから。――ほんとにいい馬でございまして、暗い馬小屋からこう日向《ひなた》に頸《くび》を出しますと、たてがみがまるで金物《かなもの》のようでございましたっけ。もっとも肢《あし》の様子で、隣の貸馬ではないことが知れました。――『あれはどなたの馬なの』と尋ねました時、ローレはちょうど踏台を私の横の一番しまいの杙のところへ持って来ておりました。――『あれ?』つま立って細引きを横木にからませながら申しますには、『よそから来た大学生のよ。名前は知らないわ』――ローレの方を見上げましたが、こっちは見ずに相変らず細引きを巻きつけておりました。それで私がもう待ち切れなくなって参りました時、後ろで『ローレさん、もういいでしょう!』と声がするではございませんか。
「ローレは両腕を下ろして急いで裾を直しておりました。私が後ろを振返ってみますと例の顔色の蒼《あお》いお上品な学生さんが目の前に立っていらっしゃる。ローレは何も言わずに踏台から飛び下りて私のそばに参りました。――そのお若い方も立ったなりで、よくまあ飽きもしないでと思われますほどにじっとローレばかり見つめていらっしゃるのでございます。私はやれやれと思いまして、何でもかまわず金栗毛のことを大声で話しだしましたので、その方もしまいには私に御返事をなさいましたが、いつの間にやら私どもは裏庭に来てしまっておりました。馬は肢で地面を掻《か》いて、賢そうな眼で自分の主人を見ておりますと、ローレは馬のそばに寄りいかにも乗ってみたそうな様子で、平手で馬のつやつやした頸を撫でておりました。するとお若い方がこうおっしゃるのでございます。『こいつは馬鹿《ばか》におとなしいんですよ。どうです、ローレさん、厩には婦人用の鞍《くら》もありますよ』――ローレはかぶりを振りましたが、息をはずませて、さも乗りたそうなのでございます。大学のお方もそれとお察しだったのでございますね、目まぜをなさいますと馬丁が鞍を置き、軽い手綱《たづな》がつけられました。さてローレはもうぼっとしたようなありさまでございましたっけが、馬丁が馬の横に木の足台を置きますと、大学の方はそれをどけておしまいになりまして、『何だ、ヨハン、よせ』とおっしゃいまして、まるで当り前のことのようにローレを片方の腕でおかかえになり、もう片一方の手を前につき出されまして『さあ、ここにしっかりお乗りなさい!』とおっしゃって、突きさすような眼でローレを見つめていらっしゃいました。ローレはまるで言いなりにならなくてはならないような具合に自分の足をその手の上にのせたのでございます。その方はちょっとためらっておいでのように、確かそうお見受けしましたが、それもつかの間のことでございまして、さっとローレを持ち上げて馬に乗せておしまいになりました。
「ローレは途方にくれたようで眼を伏せておりましたが、おとなしくあの方に手綱を握らせていただいておりました。金栗毛は頭を振って一層高くいななきます、あの方が優しく二、三度絹のようにつやつやした頸をお撫でになって、一方の手をローレの鞍の後ろにお置きになり、もう一方の手に手綱をお握りになってゆっくりと円い芝地のまわりを馬と一緒にお歩きになりました。
「こう申してはなんですが、この二人の様子はそれはまあ立派なもので、馬に乗りましたローレの様子を見ましては、誰《だれ》もこの上品な娘が貧乏なお針女で仕立屋の娘だとはおそらく思えなかったことでございましょうよ。
「暫《しばら》くいたしますと、もっと速くしてもらいたくなったんでございますね、手綱を引きしぼりますと馬は速歩に移りまして、例のお若い方は芝生の中へお戻《もど》りになりました。けれどもじっとローレばかり見ておいでになり、手に鞭《むち》をお握りになって、ぐるぐると馬が回りますのと同じに体をお回しになって、うっとりされたようにローレの頭の、風になびく黒い髪の毛から、足の先までただもうじろじろと眺《なが》めておいでなのでございます。馬に乗っておりますものですから着物の下からは小さな足がまる見えになっておりましたので。そうしてはローレと馬との両方に声をおかけになります。馬はだんだん速く駆け、息づかいも荒く汗をたらたら流しております。ローレはそれに目もくれず、身も軽々と乗っておりまして、にこにこして大学のお方ばかり見ておりましたが、まあまるで自分が鞍の上に落ちもせず坐《すわ》っていられますのは大学のお方がじっと見つめていらっしゃるからだというような風でございました。
「暫くはそんな風にして過ぎましたが、私としましては、もし婆さんが外に出て参りましたらまずいことになるがと存じ心配でございました。いい按配《あんばい》に出ては参りませんでした。すると突然|鳩《はと》のひとむれが大きな音で羽根をばたばたさせまして裏庭の上を飛びすぎましたので、馬がびっくりしてしまいまして、ひと跳びいたしました。さあ大変ローレが落ちると思いました、がそういうことはなく馬の頸にしがみついておりました。ただ顔がまるで死んだ人のようにまっさおになってしまいました。お若い方は『ほおら、ヴィルギニーエ』と大声でおっしゃいまして、とんでお行きになり、ローレを腕におかかえになってちょっとの間じっと顔をごらんになりましてからそっと地面にお降ろしになったのでございます。――それと同時でございました、裏庭の戸の開く音がいたしましたので、てっきりお婆さんかと存じましたが、振返って見ますと、あの指物師だったのでございます。――もしこれがお婆さんでございましたなら、私もああまでいやな心持にならずに済んだことでございましょう、全く指物師のヴェルナーさんは石になったような様子でございました。『もう今日はおしまい、ヴェルナーさん』と私が申しましても、うわの空でございましてね、ただ『今晩は、マリーエさん』と声が上ずっておりまして、まるで口がきけなくて言葉が喉《のど》のところでつまってしまったというような風でございましたっけ。――『御一緒に帰りましょうよ』私がまた言葉をかけますと、『ありがとう、でもお連れさんがあるようですね』と申すのでございます。それからローレの方を見向きもせず、また何も言わずに、くるりと後ろを向いて、出口からさっさと通りへ行ってしまったものでございます。
「ローレは息をはずませる馬の横にじっとつっ立ったままでございました。『あれは何だというんです』大学生の方がお尋ねなので『ヴェルナーさんと申しまして、大きな家具店の職人|頭《がしら》の方でございます』と私が返事をいたしました。実際その大学生がヴェルナーさんを見送ったその顔つきは人を小馬鹿にしておりまして、癪《しやく》にさわるったらございませんものでしたので」
語り手は仕事を終えて、立ち止り布をまとめた。隣室では家人が食卓に集まっていた。「それからどうしたんだね」私は尋ね続けた。「それからでございますか。私はそれから暫くいろいろに言ってローレと話をしたのでございます。なんと申しましても、指物師にはローレを諦《あきら》めることができっこございませんし、ローレにしたところが、気でも違ったのでなければ、あの人との間柄《あいだがら》がどんなものかはわかりきっていると申すものでございますからね。きれいで家柄のいい若い方たちには、つまりはローレも手が届きかねるわけなのでございます」
われわれは食卓についた。けれどもせむしのマリーエの話は私の心を重苦しく覆《おお》った。――ローレとクリストフ。私にはこの二人が添い遂げられようとは考えられなかった。
散歩
復活祭が過ぎてから私は母|罹病《りびよう》の報を得て家へ呼び帰された。八月の声を聞いてやっと母は癒《い》え、あとは父一人に任しておいても、なごやかな空気を吸って病人も回復するだろうという見込みがついたので、また大学に戻ってきた。四月、旅に発《た》った時は、広い湾内の氷もまだほとんど溶けてはいなかったが、今度帰ってきてみると、もうどこを歩いても夏木立だった。
帰ってきた翌日の午前だった。まだ知人の誰とも会ってはいなかった。私は気が重くて、寂しい小屋の真ん中につっ立っていた。机の上のインク壺《つぼ》は乾いているし、埃《ほこり》をかぶった書物を見てあまり愉快なものではなし、床に置いてあるトランクも、中身を半分だけ出したままで、これもまた部屋の調子をよくしはしなかった。けれども陽《ひ》はガラス窓からさし入って、私を外へ誘っていた。そこでほどなく私は子供の頃《ころ》から好んでいたようにただの一人で、広やかな楡《にれ》の並木道の葉陰を歩いて、岸べから少し高いところを海沿いに通じている道を散歩した。
頭上には、陰気な円天井のように大きな木が覆いかぶさっていたが、両側の木の葉や草の上、またこのあたりどこでも緑につつまれて散在している四阿《あずまや》の窓には明るい朝の陽が輝いていた。時おり、木の間隠れに湾内の海がきらきらと光って眼《め》を射る。――すがすがしい空気を胸いっぱいに吸いながら、私はゆっくりと歩いて行った。ただ時々知らぬ人に行き会うばかりだった。まだ散歩時間にはなっていなかったからである。
次第に庭園もまばらになり、両側は楡ではなくて、ほっそりとした若い山毛欅《ぶな》になり、そこを少し行くと冷え冷えとした森になる。左手は山、右手には木の間隠れに海が見下ろせる。行手の藪《やぶ》では銀の鈴を振るようなあとり[#「あとり」に傍点]の鳴き声や、くろうたどり[#「くろうたどり」に傍点]の誘う声がする。その間にも絶えず葉ずれのささやきとはるか下の方からは海のざわめきとが音楽のように聞えてくる。と突然私はこのあたりの森の中にあった無人にひとしい一軒の家のことを思いだした。数年前、中学生だった私は休暇に親類の大学生を訪ねたおり、そこへ行ったことがある。その時聞いたのだが、一儲《ひともう》けしようとしてある料理屋の主《あるじ》がこの家を建てたのだそうだ。ところが何分不自由な場所なものだから客が思うように寄りつかず、事は失敗に終って、建物をひと手に渡した。新しい持主は当時一人の給仕に店をどうにかこうにか仕切らせていた。
背の高い顔色のあおい給仕を私はよく覚えていた。高い山毛欅《ぶな》に囲まれて、山の腹にあった平家建の建物がありありと心に浮んでくる。正面中央を占める柱廊玄関で私はあの時生れて初めての火酒《かしゆ》を飲んだのだ。それから観音開きの扉《とびら》を通って暗い大きな広間に足を入れた。広間の後ろ側の窓は森を見晴らしていた。私はふとあの寂しい場所にもう一度行ってみたいと考えたが、ひょっとするともう取払われているかも知れず、またあっても見つからぬのではないかと危ぶまれた。
とやこう思い続けて、ふと眼を上げると、左手に木々の間を山に通じている小道が見つかった。私はちょっと立ち止った。そういえばあの時もこんな小道を登った記憶がある。それからゆっくりその小道を歩いて山に登って行くと、行手の木々の幹の間に灰色のスレート屋根が見えだし、また少しすると小さい柱廊玄関の柱頭と、その両側にある窓の上部とが現われてきた。そこから二、三歩行ったところから広い石段になり、登りつめると平らな小さい広場に出ることができた。
この建物だった。森の真ん中で、この上もなく静かな陽光を浴びている。ここではほとんど時がたっていないようにみえた。壁もあの頃と同じように、もともとは赤味を帯びた漆喰《しつくい》の上には、剥《は》げて地面に落ちていないところには一面に緑の苔《こけ》が生え、木の柱の裂け目には茶色の菌類が繁殖している。今でもやはり小さな玄関の半開きになった二枚の扉の両脇《りようわき》には、暗緑色のベンチが一つずつ置いてある。――私はそのベンチの一つに腰を下ろして、木々の間から下の海を眺めた。おりから漁船が一|艘《そう》陽に照らされて海面を滑って行った。――ここには人は住んでいないらしい。ことりともしない。背中になっている家の中にも物音はしない。蜂《はち》が一匹、ぶうんと唸《うな》って飛びすぎたばかりだ。石段の草のふちには二羽の黒っぽい蝶《ちよう》がひらひらしていた。
暫くしてから腰を上げて広間に入ってみた。思ったよりもずっと陰気だった。窓のすぐ前に生えている木は、屋根より高く枝を拡《ひろ》げているらしい。杖《つえ》で草を叩《たた》いてみたが、高い天井に音が反響するばかりで誰も出てこない。――左手の部屋を覗《のぞ》くと玉撞台《たまつきだい》がぽつんと一台置いてあった。だが広間の右手にもドアがあるので、それをあけてみた。狭い廊下があり、そこを行くとまた外へ出てしまった。――建物にぴたりと寄り添って球ころがしの遊戯場がある。その横にかなりの年の男が、緑色のエプロンをかけて、芝生の上に眠りこんでいた。どうもこの男は、あの昔の給仕らしかった。――杖でさわると男は眼をあけて飛び起きた。「これはこれは、どうも夜が遅いものでございますから」
私は訝《いぶか》しげにこの男を見つめた。
男は私を頭のてっぺんから足の先までじろじろと見ながら更に言葉を続けた。「御存じじゃございませんので? 学生組合の方々が復活祭からこっちここへ宴会場を移されましたんで」
知人の大部分は組合に入ってはいたが、私はついうっかりしていた。
ビールとパンを誂《あつら》えて、二人は広間にとって返した。――あけ放しの扉から陽がさしこむと、床の中央に黒ずんだ血痕《けつこん》が二つ三つ見えた。宴会ばかりではなく、喧嘩《けんか》騒ぎもまたこの山の中に移されたということがはっきりわかった。――「どうしてあれを洗い落さないんだね」
「申しわけございません。が、洗ってもあとからあとからでございますんで。あれはあの事件のやつでございますよ。――いやでござんしたね、今の今まで血気さかんなお若い方だったのが、急に静かになってまっさおになりますんですからな」
軍人の貧しい未亡人の一人息子が殺されたあの事件を私はすぐに思いだした。帰省の旅に出て間もなくのことで、そのためにひとしきりはこの小さな地方全体が大騒ぎをした。
広間を出て、また緑色のベンチに腰をかけながら、ここに最後の忌《いま》わしい痕《あと》を遺《のこ》し去った哀れな熱情的な若者のことを考えた。
やがて注文の朝食が運ばれた。「今晩でございましたら何かございますが」給仕は皿《さら》とビールのコップを卓上に置いた。「舞踏会でございます。そんな時は支配人が女コックをこちらへよこしますんで」
「舞踏会?」私は驚いた。「誰が踊るんだい、こんな森の中で」
「へえ」相手はちょっと小馬鹿にしたような眼つきで私のあまり当世風でない身なりを見た。「御立派な学生さん方のお催しで」
なるほどそういえば帰省中にもらった友達の手紙にそんなことがあった。「それを魔女の安息日と名づけている。相当なものだろうと思う」という言葉があったが、その意味が今のみこめた。ただどこでやるのかその場所をいままで忘れていたまでである。
もっとも給仕はこの魔女の安息日という言葉が気に入らぬらしく見えた。しかし私がまだ根掘り葉掘り尋ねているうちに、若い大学生が二人山を登ってきた。どちらもあまりよく知らない人たちだ。二人は私を気にとめずに、もう一方のベンチに腰をかけて、はっきりとアクセントをつけた言葉で、しかめ面《つら》をしててんでにビールを注文した。それから給仕が引っ込んでしまうと、時々口笛や大|欠伸《あくび》の合いの手を交じえて、今晩に迫った舞踏会の話が断片的な言葉で話されだした。確かに一人は入学したての新米で、これがやや先輩の相手に説明してもらっているのだ。踊りに来る女性たちが片端から手短かに辛辣《しんらつ》な言葉で紹介される。真っ先がしがない踊りの師匠の娘と飲んだくれの警察官の娘で、この二人が勧進元だった。そのあとに続いて、男友達や両親のない娘たちの名前がずらりとあがる。いずれも昼の間は自分たちの腕で乏しいパンを稼《かせ》いでいる人たちだった。
その間、私は黙って朝食をしたため、横の床の上を恐れもせずにとびはねているあとり[#「あとり」に傍点]にパン屑《くず》を投げてやった。小鳥はそれをついばんだ。
「見ものはまずこの伯爵《はくしやく》夫人だろうぜ」年嵩《としかさ》の方が小さな鬚《ひげ》を捻《ひね》って言う。
若い方はよくわからないので質問する。
相手は笑った。「ルートヴィヒ君、そいつは普通のお針女さ。だがそいつが黒い瞳《ひとみ》で冷やかにじろりと見たとなると。――いや大した代物《しろもの》なんだ」
「伯爵夫人というのはどういうわけなんですか」
「そのいわれはね――ラウ伯爵の思い者だからさ」
この言葉を聞いて私は何とはなくぎょっとした。よっぽどこの若い法螺吹《ほらふ》きにもっと詳しく尋ねてみようと思ったが、ふと思いだしたのは出がけに「せむしのマリーエ」を下宿の奥さんの小部屋で見かけたことだった。
私はすぐ帰途について、三十分ほどしてから下宿でマリーエと膝《ひざ》をつき合せた。
「で、あんたはもうここ暫くレノーレには会っていないというんですね」私はこう尋ねた。
相手はちょっと黙った。「もうあの娘とは一緒に出かけないものですから」と、仕事から眼をそらそうとしない。
「でもいままで仲よしだったんでしょう」
「いままではね、そうでございました」――マリーエは仕上がった縫い目を針で二、三度こすった。「けれども外であの娘が大学生たちと踊るようになりましてからはね。――もう年とった叔母のところにもいられないことでございましょうし、また遺言状も書き換えられるんじゃございませんかしら」
「やっぱりそうか」と私は思った。――クリストフは旅立ってから少しして金を戻《もど》してよこしていた。短い文面によると、伯父の家では大いに歓迎され、伯父夫婦のみならず少し年のいっているその娘からも喜ばれ、その上仕事はしごく順調に進んでいるということだった。それ以来、クリストフのこともレノーレのことも私は別に詳しく聞いてはいないのだ。
「だがいつからそんなことになったんです」相手はせっせと仕事を続けていた。
「さようでございます」こう言ってちょっとの間縫物に針を差した。「降臨祭の二週間ほど以前だったでございましょう、もうよほど前からローレは不機嫌《ふきげん》でございましたので、私は初めは多分|許婚《いいなずけ》の指物師がまだ何とも言ってよこさないせいだろうくらいに考えておりました。けれども時々何かこうあの指物師との婚約がいやになって、自分でもどうしてそうなったのかよくわからないでいるといった風を見せておりました。私でございましょうと、誰《だれ》かお上品な大学生さんたちでございましょうとも、ぶっきら棒な言葉で失礼なことを言って平気の平左なのでございます。一番いけませんのは、踊り場の音楽が聞えてくる時でございました。何分もう踊りには出かけませんとはっきり指物師に約束させられたのでございますからね。――さてある晩のこと、戸口の前のベンチにかけておりますと、ちょうど遠国から帰って参りましたばかりの仕立職の甥《おい》が二、三人の仲間と一緒に私どものところへやって参りました。ラインを下って参りましたのだそうで、そこの二つ三つの市《まち》でも働いていたのだそうでございます。市の名も言っておりましたが。みんなにいろいろきかれまして甥は話し役でございました。――すると仲間の一人がこうきくのでございます。『じゃ君はクリストフ・ヴェルナーにも会ったんだね』――『むろんさ。あいつはうまくやったぜ』――『どうしたんだ』と別の一人が尋ねますと、『どうしたって? 親方の娘をもらったのさ、その娘は、ほれ――わかるだろう』指でお金勘定の真似《まね》をしてみせるのでございます。これを聞きまして私はまあ心配で心配で。『馬鹿《ばか》だね、お前さんは。何を下らないおしゃべりをしているんだよ』――『伯母さんこそ妙ですぜ。なにしろあたしは、クリストフが自分の祝言《しゆうげん》のベッドに鉋《かんな》をかけているそばに立って見ていたんだ』――これを聞きますとローレはついと席を立って帽子を手にとり、一言も言わず振返りもしないで、通りを歩いて行ってしまったのでございます。『どうしたんだ、あの娘は』と甥が尋ねますので、『知らないよ、あたしは』と答えたのでございますが――実際私には何もわからなかったのでございます。あの娘《こ》と指物師の間は、まあそう熱い方でもございませんでした。それと申しますのも夢中だったのはヴェルナーさんの方でございまして、あの娘がヴェルナーさんのお申しいでにうんと申しましたのも二度もとっくり考えての上のことでございました。とは申せ、あの立派な大学のお方とのことも私は存ぜぬではございませんでしたが、まあああまであの我儘《わがまま》な娘を夢中にしていたとは少しも考えておらなかったのでございます。
「それからまだ暫《しばら》くは若い者の相手になりまして甥の申しますことを上の空で聞いてもおりましたが、なんと申しましてもあの娘のことが心配になりますものでございますから、話もほどほどに切りあげてしまった次第でございます。
「こちらから出かけてみますと、案の定もう叔母の家に帰っておりました。そこでは小さな裏部屋をあてがわれていたのでございます。そうして部屋の真ん中にまっさおな顔色で棒立ちになり、唇《くちびる》をきっと噛《か》んでおりました。まあ血が顎《あご》に流れているではございませんか。引出しも小箱もみんなあけっぱなし、身のまわりの床の上には網布やリボンがいっぱいにばらまかれております。『ローレさん、あんたはまあどうしたというの』こう申してみましたが、耳には入らない様子でございました。――『踊り場でダンスがあるのは日曜日?』と尋ねるではございませんか。――『踊り場? そんなことはどうだっていいじゃありませんか』『行って踊るのよ』――『まあ、あの人がなんて言うでしょうね』――『あの人がどう言おうといいじゃないの』――こんなことを言ううちにも帽子をかぶり、化粧|箪笥《だんす》からショールを取りだしまして、いつもお金をためていた小箱をあけるんでございますよ。――むろん、ずいぶんとお化粧の方にかけてはおりましたが、裸でお嫁に行きたくはないと申す殊勝な考えがあったのでございますね。ところがそのお金を包んである紙を破きましてお金を手提《てさ》げにばらで入れてしまいました。『一緒に行く?』ときくのでございます。『買物をしなくちゃならないの』――何を買うのか存じませんでしたが、なんだか気の毒なので、一緒に出ることにいたしました。またひょっとしたら踊りの方を思いとどまらせようとも考えましたのでね。けれども何を申しても駄目《だめ》でございました。せかせかと町へ急ぎまして、返事もしなければ、私の方に向いてもくれないのでございます。
「私どもは広場にある洋服屋に入りましたが、ローレは一番厚手の絹紐《きぬひも》や一番新しい薄手の服地《ジヤコネツト》を出させるのでございます。このジャコネットと申しますのは、ローレがほんに時たま町のよいお家《うち》の方々のためにお仕立てしたことのあるものでございます。そこらを引っかきまわし、引っくりかえしておりますと、店員さんが別の品を一つ持ちだして参りまして、『あの地をおもとめ下さいましたのでございますから、ひとつこれはいかがなものでございましょうか、もしお値段がお気に召さないと申すのでございませんのならば、と存じまして』明るいすき通った布の下に手を入れて見せるのでございます。『値段はどうだっていいのよ』――私はそっと袖《そで》を引っぱりました。こういうお高いものを自分のに買おうとしていることがよくわかりましたので。私はそっと申しました。『ねえ、あんた、こんな華奢《きやしや》な高いものを買いこんでどうするつもりなのさ』――けれどもてんで受けつけません、さっさと要るだけ布を切らせて、きれいなお金を売場の上に並べるではございませんか。まるでもうどれほどの辛《つら》い目をみて、今日までこれだけのお金をためてこなければならなかったかと申すことをけろりと忘れてしまったような具合なのでございます。『ほうっておいて頂戴《ちようだい》』私がその腕を押しとどめますと、こうでございます。『あたしだって、一度はお上品になってみたいのよ。この町一番の器量よしにだってあたし、まんざら負けていやしないつもりよ』――
「それからうちへ帰りまして、その夜は夜明し、それから二、三日ぶっつづけにお針をつかいまして、とうとうその上品な着物を仕立てあげてしまったのでございます」
語り手はまた口を切る前に新しい糸を針に通した。「次の日曜日の夜、もうかなり遅くなっておりましたっけが、白《しら》百合《ゆり》の花を一つ黒い髪にさしまして、踊り場へ出かけて参りました。
「これはみんな甥の口から聞きましたことでございます。甥もやはり踊りときたら夢中の方でございましてね。――ずいぶん永いこと踊らずに坐《すわ》っていたそうでございますよ。なにしろ若い職人衆の方ではてんで寄りつきませんし、大学の方々がお申込みになると、自分から次々とお断りしていたというのでございます。でございますから、ローレのために、またすんでのところで一悶着《ひともんちやく》起りそうだったのでございましょう。あの顔色の蒼《あお》い、御身分の高い大学生の方、あの方はなんと申しましたっけね」――
「ラウ伯爵だ」
「それそれ、その方もおいでになっていらっしゃったのだそうでございますが、一向にローレのことを気にかけぬようなふりをなすっていらっしゃいました。けれどもしまいにはローレのところへおいでになったそうで。なにしろそのまあきれいなことと申しましたら、まるで東洋からやってきたとでも申すようだったそうでございますよ。伯爵様が席の近くに寄っていらっしった時、ローレは真っ赤になりまして全身震えていたそうで、やっと立ち上がりまして伯爵様と握手をいたしましたが、あの娘を御覧になる眼《め》つきと申しましたら、まるでもう食いつきそうだったと甥が申しておりました。踊りの相手はその晩ずっとそのお方でございまして、楽師たちがバイオリンをしまいますまで、踊りの床から席へは戻らなかったそうでございますから」
せむしのマリーエは黙った。ただもう一度「全くねえ」と言った。その様子は、頭の中で自分の話を教訓的にまとめているようだった。それから、一層熱心に仕事を続けていった。
もう知識は充分だった。そして今度は自分の眼で見て確かめるために、その晩の「魔女の安息日」に出かけて行く決心をした。
森を訪れて
もうあたりは暗かった。山を登って小道はどこだったかと捜し歩いたが、森の空気はむしむししていた。
石段を登りきった時、思わず足をとめた。すぐ横で、木々の間を白い服の少女たちが二、三人すりぬけて、わきの方から家の中へ消えて行った。ちょうどダンスの合間だったらしい。中からは楽師たちがバイオリンの調子を合せる音が聞えてきた。あけひろげた玄関の扉《とびら》のところは、大学生や少女たちの出入りで賑《にぎ》わっていた。どうもすぐ中へ入って行く元気が出てこない。心には、愛らしい少女の頃《ころ》の姿が浮んでくる。哀れな父親の頸《くび》にかじりついていた彼女、一途《いちず》に思いつめた少年の情熱をあれほど頑固《がんこ》にしりぞけた彼女、私の胸の中には、突然苦しい戦いが起った。それが同情であるか嫉妬《しつと》であるかは、ほとんど自分にもわからなかった。
ついに私は小さい玄関の段を二段上がって、気づかれぬようあけ放ってある扉の柱の陰に立った。まだ休憩時間が続いていたが、賑やかさは依然たるもので、広間の壁ぎわに置かれたテーブルや隣の室に大学生たちが陣取って、しゃべったりビールのコップを打合せたりしていると、少女たちも笑いながらあちらこちらを動き回る。時々陽気な叫び声が広間に響きわたる。
少女たちの中にはきれいな顔をしている者がいた。大きな情熱的な眼をした若々しい眼の少女たちだった。その眼は屈託のない人生の享楽《きようらく》やちらりと通りすぎる憂《うれ》いの色を見せたりしてかえって魅力を増していた。貧乏とはいいながら、みんな身なりはさっぱりしていて、明るい色の透き通るような服を着て、入念に編まれた髪には花や新しい花冠をつけていた。
乙女たちの念入りなのに比べると、青年たちの方はお話にならなかった。ことに若い連中や組合のいわゆる「頭株」の二、三の者は乙女たちを前において無遠慮にも足をテーブルやベンチの上に長々と伸ばしたりしていた。
私はローレの姿を求めた。ローレは反対側の玉撞《たまつ》きの部屋で、二人の若い娘にはさまれて坐り、さかんに話しかけられながら、無関心に前方を見つめていた。
髪には白《しろ》薔薇《ばら》をさしている。この季節には珍しい。しかし頬《ほお》からは若々しい赤味はもう失《う》せていた。優しい蒼白い頬には、もう以前のような色艶《いろつや》がなかった。
ラウ伯爵《はくしやく》の姿も認められた。疲れたように肢《あし》を打合せて広間の別の側に坐っていた。――私は彼の近くに立っていた。楽師たちが楽器を手にとった時、年の若い学生の一人が彼のところへやってきておずおずと言った。「今度はローレと踊らせてくれませんか」
「別の時にしてくれ、新米君」ラウ伯爵は、美しい蒼ざめた顔を後ろの壁にもたせかけた。音楽が始まった。けれどもローレを迎えに立ち上がろうとしない。不精に手を上げて、ローレに向って指で何やら合図した。ローレは怒ったような眼つきでこれにこたえて、立ち上がりもせず、顔をささえていた手で眼を覆《おお》った。ラウ伯爵は額に皺《しわ》を寄せ、広間を横ぎってローレの前にやってきた。――それでも面《かお》を起そうとしないので、ローレの体に腕をかけて、ぐいと抱き起してしまった。吐きだすように何か激しく二言三言いったようだ。遠かったので何と言ったのかはわからなかった。それから二人は他の組の先頭に立って、踊りが始まった。
ローレは女として立派に発育していたが、それでもラウ伯爵の胸までしかなかった。私はじっとこの一組から視線を逸《そ》らせなかった。ローレはがくりと頭を後ろにのけぞらせ、まるで抱かれているようで、ほとんどつま先だけで踊っていた。男は上半身をローレの上にかがめて、若々しい猛禽《もうきん》のような眼で、じっとローレの顔を見つめている。ローレは両眼を閉じてまともに男に顔を向けていた。踊りが終ると元の席へ連れて行ってやり、するりと腕から椅子《いす》にかけさせた。
今度はしかし休みの間が短くて、ほどなく広間がざわめきだし、急速調の音楽が始まった。各々《おのおの》の組がばたばたと並んだ。
踊りが新たに始まった。あたりをかまわぬ笑い声や叫び声が輪舞する人々の間から発せられる。床のどす黒い血痕《けつこん》の上を滑ってゆく小さくて軽快な乙女らの足は次第にあわただしくなった。ついに回転になって、これを乱暴にやるものだから可哀《かわい》そうな娘たちはみんな是非もなく倒れてしまった。
と突然合図でもあったかのように音楽がはたりとやむ。男の踊り手は笑いながら、倒れた乙女たちの上を飛び越える。乙女たちは顔を上気させて起き上がり、額にかかった髪を撫《な》でつけたり、念入りに着こんだ晴れの衣裳《いしよう》についた塵《ちり》を払い落そうとしている。――こういう乱暴が、破壊を好む子供心の名残《なご》りであるか、あるいはまた自分を左右する力を持った者に対して反抗するという、誰《だれ》にもあるような衝動からくるのか、私は知らないが――大学の青年たちは面白がって乱暴にも婦人を辱《はずか》しめているように見受けられた。
私はずっとローレに注意していたが、さっきラウ伯爵に連れられてきた席にぽつんと坐ったなりだった。この踊りには誰もすすめにさえ来ないように自分で仕向けていたものらしい。
前の踊りが踊りだったので、おそらく対照的に選ばれたものと思うが、その次は静かな組舞踏がひどく厳《おごそ》かに踊られた。その間に私は顔見知りの一人と隣室へ入った。そこには大勢の古株連中がいた。やがてわれわれは、めいめいにビールのコップを前に控えて、さし迫った試験の予測できぬいろいろの成行きという、誰もが一様に関心を持った話題に熱中した。
隣の広間で音楽がやんだ時、そこへ更に二組三組踊っていた男女がやってきて加わった。ラウ伯爵もローレも交じっていた。――ローレは男の横にかけている、男は献立表を吟味している。間もなく給仕が料理を二、三品とシャンペンを一壜《ひとびん》持ってきて両人の前に据《す》えた。コルクは音のしないように静かに抜かれた。――ラウ伯爵は絶対に音をさせてシャンペンのコルクを抜かせなかった。――泡《あわ》立つ酒が杯につがれる。あっさりした料理を食べていた他の女たちは、こっそり肱《ひじ》で男たちをつついた。そして私の注意もほどなくもっぱらこの一組にばかり惹《ひ》かれた。――ローレは蒼白《そうはく》な顔を一方の手でささえ、なみなみとつがれた杯の台にもう一方の手を忘れたように置いていた。男は悠々《ゆうゆう》とシチューを食べては、黙って酒を飲んでいたが、とうとうこう尋ねた。「食べないのかい、ローレ」
ローレは頭を振った。
男はちょっとローレを見た。「食べないのか。――じゃまあ」とゆっくりつけ加える。「勝手にしろよ」こう言ってしまうと彼は自分で酒をついで、食事を続けた。
ローレはその間に自分の杯を口へ持ってゆき、おいしそうに飲みほしてから、相変らず頭をぐったりと手にささえたまま、壜をとり空《から》の杯の上に傾けた。酒は少しずつ杯に流れ入って、急には泡も立たなかった。ローレは絶望的な表情で、まるで自分のいのちが壜から流れでるのを眺《なが》めるかのようにこれを見つめていた。泡が杯にあふれて、酒がテーブルにこぼれ更に床に流れ落ちても素知らぬ顔つきだった。ただもう一方の手の指は、絹のような黒い髪の毛にますますかたく食い入っていった。
乳臭いきれいな学生が一人、請《こ》うように自分の空の杯をローレに差しだしてささやいた。「美しい御婦人。おこぼれを頂戴したいものですね」
ローレは面を起さなかった。けれども唇《くちびる》をちょっとぴくりとさせたのが見えた。
「何だ、何だ、新米君」それまでせっせと飲んでいた古参学生の一人が尋ねた。「やや、浪費、浪費」と彼は突然叫んで、ローレの腕を押えた。
酒が自分の横の床に流れ落ちると、ラウ伯爵はただちょっと体をずらせた。「ほうっておきたまえ、この娘はいつもこうなんだ。――ねえ、そうじゃないか、ローレ」彼はこう言いながら笑って彼女の方に向いた。「俺《おれ》たち二人はね、俺たちは浪費通さね」
ローレは壜を置いて、深い憎しみのこもった眼で彼を見た。それから立ち上がって、広間へ通ずる扉の方へ行った。しかし彼もすぐに立ってそのあとを追った。怒りを抑えた表情が彼女の整った美しい面立《おもだ》ちを歪《ゆが》めている。「どうするんだい」彼はこうささやいて、腕をぎゅっとつかんだ。彼女は立ちどまったが、男の手をふり放そうという様子は見せない。ただそのきらきらする黒い眼が男を詰問《きつもん》するように軽蔑《けいべつ》するように睨《にら》んでいる。暫《しばら》くは男もそのままの状態でいたが、手を放して短い笑いを漏らしながら元の席に帰り、残りの酒を杯に傾けた。――見ていると、ローレは広間の扉を通って、踊っている人たちの間を抜けてどこかへ行ってしまった。
胸がしめつけられるようだった。私は隅《すみ》の自分の席から一切をはっきりと見守っていた。やがて私は立って広間へ行き、ローレの姿を捜し求めた。
踊っている者の間にはいない。人の間を縫って行くと、窓ぎわのくぼみのところに立ってうわべは無関心に人の騒ぎをじっと見つめている彼女を見いだした。顔の色は、髪に飾った白薔薇と選ぶところがない。
私はそばへ寄って、こう話しかけた。「もうきっと私を御記憶ないでしょうね」
一瞬さっと顔を赤らめて、ローレは低い声で答えた。「いいえ、存じておりますわ」
「踊りましょうか、ローレさん」
私に手を差しのべながら面を深く伏せたので、眼を見ることはできなかったが、小さな白い歯が唇に深く食い入るのが見えた。
こうしてわれわれは踊った。けれども二、三度まわり歩いたにすぎない。というのは彼女も私の目的が踊りにあるのではないことに感づいたからだ。ほどなくわれわれは、左右へ大きく開かれた出入口の大扉の前に並んで立った。私は思わず外を見た。外は真っ暗で、近くにある山毛欅《ぶな》の幹だけが室内の光を反射してぼんやりと光っていた。けれどもすがすがしい夜気が流れてくる。後ろからはバイオリンが鳴り床に足をする音が聞えてくるが、同時に外では森の木々が夢みるように葉ずれの音をさせていた。
ローレは私の横で、口をきかずに眼を床に落したまま立っている。――私は思いきって尋ねた。「クリストフはどうしているでしょうね」
ローレはぎょっとして、何かわからぬことを呟《つぶや》いた。しかしその蒼白の頬にはぱっと赤味がさした。
「あいつがここにいるとしたら、なんて言うでしょうな」
息づかいがせわしくなるのがわかる。だらりと下げた手でひきつったように着物をまさぐっている。「ねえ、お願いですから」声は低い。「場所が悪いわ、今は駄目《だめ》よ、そのお話」
「じゃどこへ行きましょう。ローレさん、僕《ぼく》の言うことをきいてくれますか」
ローレは私をうち仰いだ。「外へ参りましょう。すぐ出てきますわ。この踊りが済んだら出てしまいましょう。――さっき隣の部屋でお見かけした時から、そうお願いしようと思っておりましたのよ」
われわれはもう一度踊った。それから彼女を座席へ連れ戻《もど》し、私はもう一方の扉から狭い廊下を通って外へ出た。――遠雷の音がする。段を二つ降りて外へ出ると、稲光りがして、一瞬木々の幹が下の海の方まで見渡され、海面のきらりと光るのがはっきり見わけられた。
私は家をひと回りして、ボーリング場のところで彼女を待った。すぐに白い着物が仄《ほの》かに現われ、乙女の軽い足音が聞えて、深い息をつきながら、ローレは私の前に来て立った。――かくして私はまたもや暗い闇《やみ》の中で、夏の夜をとうとうローレと二人きりになることができた。しかし二人は昔の二人ではなかった。私が口をきらぬ先に、ローレは手提げから紙を一枚取りだした。おりしも稲妻の光で、それが手紙であることがわかった。「クリストフから来ましたの」私が思わず出した手の中にローレはその手紙を置いた。
「なに、クリストフから」私は叫んだ。「いつ届いたんです」
「今日よ」声はかすかである。
「でもやっぱり踊りに来てしまったんですか」
返事がない。
「読んでもいいんですか」
「そうしていただこうと思っていたの」
私は広間の裏手の窓べに歩み寄った。――レノーレはゆっくりついてきた。手紙を読んでいる間、彼女は私から眼《め》を逸《そ》らせなかった。
長い手紙で、クリストフは御無沙汰《ごぶさた》の言いわけをしていた。彼は伯父の商売を引受けてはみたが、何分にも伯父の娘が、ある金持の煙突掃除の親方と結婚するかどうかに万事がかかっていたので、すべて宙ぶらりんの状態にあったのだそうである。ちょうど故郷《くに》のおせっかいな仕立屋が訪ねてきてくれた時なども、もう伯父の娘の婚礼部屋の家具にとりかかっていたのに、話がまた元に戻ったりして、心配もしたが、今では万事が好都合に落着して、祝言《しゆうげん》も済み、自分もちかぢかこの市《まち》で親方の資格をとることになった。だからぜひこっちへ来てもらいたい、迎えには出かけられないので、というのだ。「返事のあり次第」と手紙が結んである。「旅費は送ります。もう勘定をして封がしてあります。家はすぐわかるでしょう。戸口の前の緑のベンチの横には、ちょうど故郷のあなたの家と同じように菩提樹《ぼだいじゆ》が一本立っています。伯父の娘夫婦のために私が自分で調度を整えた小部屋は、この菩提樹の葉陰にすっかりつつまれています」――
私は手紙を畳んで、ローレに戻した。しかしローレは首を振った。「どうか、返事はあなたからお出しになって」頬《ほお》に涙が流れ落ちる。そして、かすかに切なそうにこうつけ加えた。「あの人の気持は変らなかったんだわ」
「じゃ自分で出かけないんですか」
彼女はありありと哀願するような絶望の色を浮べて私を見つめた。私はいまの言葉を悔いた。
「ローレ、それじゃもうどうしても駄目なんですか」
ローレは額を窓ガラスに押しつけて頭を下げた。白《しろ》薔薇《ばら》はまだ黒髪を飾って匂《にお》っている。「貧乏な馬鹿《ばか》な人だったけれど」声は忍び泣きに変った。「なんていったってあたしのお父《と》っつぁんと、あの人のほかは誰もこんなにあたしのことを思ってくれる人はなかったんだから――今度だって決して怒りはしないでしょう」
どちらも口をきかなかった。私は知らぬ間にローレの手をとっていた。ローレはそれを引っ込めようとしなかった。――すると家の反対側の、玄関の方からラウ伯爵のローレと呼ぶ声が聞えてきた。
ローレは震え上がった。「ローレ、あの男と縁を切ってしまうことはできないんですか」
ローレは悲しそうにまじまじと私を見た。「できてよ、むろん」口のあたりには微笑が浮んだような気がした。しかしそれは、何かたくらみを隠した微笑だった。――また呼んでいる。声が次第に近くなる。
彼女は急いで涙をぬぐった。「さようなら、フィリップさん、お達者で」小さな手は私の手を握りしめた。そして彼女は行ってしまった。
それからどのくらい、木々の間を行ったり来たりしていたかわからない。広間で音楽がはたとやみ、その代りに森の奥深くに巣食っている大きな梟《ふくろう》の声を耳にした時になって、私はやっとわれに返った。
さて私が石段を降りて小道を帰って行くために、玄関前の広場を通りかかった時、ローレの姿がもう一度見えた。ローレは柱廊下に立って、腕を柱に巻いて、木々の間から海を見下ろしていた。おりしも稲妻がして、海面はきらりと光った。
海辺にて
寝床に入っても永いこと寝られず、私の母の力をかりてローレをどこかよそへ逃がしてやる計画を考えたり、またそうするように説き伏せるのはまったく難事中の難事だろうなどと思いわずらっていた。
翌朝遅く目をさますと、フリッツ・ビュルガーマイスター――われわれは子供の時と同じように今でもフリッツのことを市長《ビユルガーマイスター》フリッツと呼んでいたのだ――が寝床のそばに立っていて、昔ながらの誠実な眼つきで私に笑いかけていた。――やがてわれわれはソファに並んで腰を下ろし、彼はすぐさまハイデルベルクに残してきたわれわれ二人の友達の噂話《うわさばなし》を始めた。しかし私はろくにそれを聞いていなかった。昨夜のことが頭を放れなかったのである。
それから少したって、私が言いだして二人は家をあとにして、岸べ沿いに涼しい楡《にれ》の並木道を並んで歩いていた時、私は胸にあったことをすべてフリッツに打明けて、ローレに対してどう思っているか、またこれまでローレとはどういう風な付き合いをしてきたかなどを話してしまった。フリッツは黙って聞いていたが、ただ時々道にころがっている石を蹴《け》とばしたり刀を持っているように手で空《くう》を切ったりして、小声に何やら悪口を呟いていた。
もっともそれは身ぶりばかりでは終らなかった。一週間後、フリッツはラウ伯爵と決闘をした。しかし相手の危険な突きが一本決って、フリッツは傷を受け、今でも怒りだすとその額に赤い筋が出てくるのである――
並木道が終って、料理屋の方へ曲る小道のあるあたりまで来ると、下の岸べに人だかりがしているのが木々の間から見えた。すぐ水ぎわで、遠くからは何かわからぬものを陸に引上げている最中のようだった。その時、漁夫のなりをした男が下からこちらの道へ上がってきた。すれちがいに私はきいてみた。「下の方では何かあったのかね」
「縁起でもないんで、旦那《だんな》。若い女の身投げでさ」
「ローレ」私は思わず口走って、友の手をつかんだ。
フリッツは驚いて怒鳴った。「下らんことを言うなよ」
しかしわれわれは口にこそ出さないが、もしやという気持で木の間を縫って岸べに降りた。下からは人々の話し声が聞えてくる。「何が不足だっていうんだろうな」荒くれた声がする。「いいうちのお嬢さんに違いないが。――晴着を着て身を投げたんだな」再び静かになった。波ばかりが朝の大気の中に音を立てていた。
木の間から浜べへ出ると、ちょうど真向いに湾内の広い海面いっぱいに反射する朝日で眩《まぶ》しくてならなかった。――入水《じゆすい》した娘もこの朝日に照らされて身を横たえていた。漁師たちはわれわれが近寄るのを見て、道をあけた。われわれははっきり目の前に娘の亡骸《なきがら》を見ることができた。もう疑う余地はなかった。蒼白《そうはく》の小さな顔は岸べの砂の上にやすらっていた。着物の下からは、踊り靴《ぐつ》をはいた小さな足が出ている。じっと動かない。藻《も》や貝が黒髪についている。髪からはまだ水がしたたっていた。白薔薇は見えない。海の中を漂っていたのだろう。
***
あの朝以来、幾年かの時が流れすぎた。――大学町の墓地の片隅の、高い草の中には、白い大理石の碑が一つ建っている。碑には「レノーレ・ボールガール」と刻まれている。――ドイツ各地に住んでいる三人の同郷人がこれを建てたのであった。
[#改ページ]
解説
[#地付き]高橋義孝
テーオドール・シュトルムTheodor Stormは、北ドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタインの町フーズムに一八一七年、弁護士の子として生れ、弁護士、判事、知事としての世俗的な職業に携るかたわら幾多の傑作を書き、一八八八年ハーデマルシェンの隠栖所《いんせいじよ》に七十一歳で没した。『みずうみ』Immenseeは一八四九年、彼が三十二歳の時の作品であるが、現在のものは多少それとは異なっている。文学的活動のごく初期の、しかものち最も有名になった作品である。それはこの小編が、いつの世にもある年代の人々の心をしっかりと捉《とら》える何ものかを持っているからである。
『ヴェローニカ』Veronikaは一八六一年、シュトルムがハイリゲンシュタットの地方裁判所判事時代に成立した作品である。
『大学時代』Auf der Universit閣は一八六二年の作、彼自身の少年時代の諸体験がキール大学在学中彼の知った一事件に織りまぜられている。
シュトルムは北ドイツの人間である。シュトルムの作品は、北ドイツの作品である。そして愛と死の関係をシュトルムほどにこまかに描きだした作家は少ないだろう。リヒャルト・ワーグナーを除いては。シュトルムのどの一行にも、死の予感が漂っていて、それが事件に薬味の役割をつとめている。死の予感をこれほどさまざまなニュアンスにおいて描いた作家も少ない。しかし実際の生活は小市民的に健康なものであったらしい。トーマス・マンの鋭いシュトルム論はこの一見矛盾した事情を見事に解明している。一読の価値がある。
本書に収めた三編中、『みずうみ』の訳出にあたっては東京大学教授国松孝二氏の訳書『みずうみ』に多大の恩恵を蒙《こうむ》った。心からの謝意を表する次第である。
[#地付き](一九五三年初夏)
この作品は昭和二十八年八月新潮文庫版が刊行された。