みずうみ/三色すみれ
目次

みずうみ
三色(さんしき)すみれ
アンゲーリカ
解説
みずうみ

老人

ある晩秋の午後、身なりのりっぱな老人がひとり、とぼとぼと道をくだっていった。散歩の帰りらしく、流行おくれのスナップのついた靴はほこりだらけだった。小脇(こわき)には、金のにぎりのついた長い籐(とう)のステッキをかかえている。失われた青春をそっくりすくい入れたような黒みがかった目は、雪のように白い髪の毛と奇妙な対照をなしているが、老人はその黒みがかった目で、あたりを静かに見まわしたり、夕日の靄(もや)につつまれて眼前によこたわる町を見おろしたりした。――どうやらよその土地からきた人らしく、すれちがう人たちのなかにも、この老人に会釈(えしゃく)をする者はあまりいなかった。とはいえ、その真剣なまなざしに思わず注目させられる人も、すくなくはなかった。やがて老人は、高い破風(はふ)づくりの家の前に立ちどまり、くり返し町のほうをながめてから玄関にはいっていった。戸口の鈴(すず)を鳴らすと、なかの部屋の、玄関に面したのぞき窓のグリーン色のカーテンがめくられて、ひとりの老婦人が窓のうしろから顔をのぞかせた。老人は籐(とう)のステッキをあげて合図をした。「まだ明(あか)りはいらないよ!」そのことばには、いくらか南独のアクセントがあった。家政婦はもとどおりカーテンをおろした。老人はひろい玄関を通ってから、瀬戸物の花瓶(かびん)をかざった大きなカシワの戸棚が壁ぎわにならんでいる居間をよこぎり、真向かいのドアをぬけて、小さな廊下(ろうか)に出た。そこから狭い階段が家の裏がわの階上の各部屋へ通じている。老人はこの階段をゆっくりとあがり、階上のドアをひらいて、ほどよい大きさの一室にはいった。部屋のなかは居心地がよさそうで、しずかだった。一方の壁は、ほとんど書類棚や本棚でうずまり、もう一方の壁には人物画や風景画がかかっている。みどり色のテーブルクロスをかけた机の上には、書物が数冊、ひらいたまま散らばっていて、机の前には、赤いビロードのクッションのついた、どっしりとした安楽椅子(あんらくいす)がおいてある。――老人は、帽子(ぼうし)とステッキを片すみにおいてから、安楽椅子に腰をおろした。両手を組みあわせて、散歩の疲れをいやそうとするかのようである。――そうやってすわっているうちに、あたりはだんだんと暗くなってきた。やがて、一条(ひとすじ)の月の光が窓ガラス越しに、壁の絵の上にさしこんできた。その明るい線が少しずつゆっくりと動いてゆくのを、老人の目はわれ知らず追いつづけた。と、簡素な黒い額縁(がくぶち)のはまった小さな肖像画が照らしだされた。「エリーザベト!」と、老人はひくい声でつぶやいた。そう言ったかと思うと、時代は変わって、老人は幼いころに立ちかえった。

幼な馴染(なじみ)

まもなく、かわいらしい姿をした小さい女の子が、彼のそばへ歩みよってきた。エリーザベトといって、年は五つぐらい。彼自身はその倍の年齢だった。少女はえり首に赤いスカーフを巻いている。それがトビ色の目によく似合っていた。
彼女は声をかけて、
「ラインハルト、あたしたちお休みよ、お休みよ! 一日じゅう学校なしね。あしたもよ」
ラインハルトはもう小脇(こわき)に石板(せきばん)〔筆記用の板〕をかかえていたが、それをすばやく玄関のドアのかげにおくと、ふたりで家のなかをかけぬけて庭に下り、庭木戸から草地へとびだした。思いがけぬ学校の休みが、ふたりにはたいへんありがたかった。ラインハルトはエリーザベトに手伝ってもらって、草地に芝生(しばふ)の家をこしらえたのだった。ふたりで夏の夕方をこの家のなかで過ごそうというわけだったが、まだベンチができていなかった。そこでラインハルトは、さっそく仕事にとりかかった。釘(くぎ)やハンマーや必要な板切れは、もうそろっていた。一方、エリーザベトは土手沿いに歩いていって、野生のゼニアオイの輪形のたね(・・)をエプロンのなかに集めた。それで鎖(くさり)とネックレースをつくるつもりだった。ラインハルトは釘をいくつも打ちそこねたが、それでもとうとうベンチを仕上げて、また外の日なたに出てきた。見るとエリーザベトは、もうずっと向こうの、草地のはずれに行っている。
「エリーザベト! エリーザベト!」
ラインハルトに呼ばれてもどってくる少女の巻き髪が、風になびいた。
「おいでよ。いよいよ家ができたぜ。君、すっかり暑くなっちゃったろう。なかへおはいりよ。ふたりで新しいベンチに腰かけよう。ぼくがなにかお話をしてあげる」
と、ラインハルトは言った。
それから、ふたりでなかにはいって、新しいベンチに腰をおろした。エリーザベトは小さな輪形のたね(・・)をエプロンからとりだして、それを長い結び糸に通した。ラインハルトは話をはじめた。
「むかし、むかし、あるところに、三人の糸くり女がいてね――」
するとエリーザベトが、
「あら、そのお話なら、あたし聞かなくても知っているわ。いつもおんなじお話じゃだめよ」
そこでラインハルトは仕方なく、三人の糸くり女の話をやめにして、そのかわりに、ライオンの洞穴(ほらあな)の中へ投げこまれたかわいそうな男の話をしてきかせた。
ラインハルトは言った。
「それがね、夜だったんだよ。いいかい? まっくらがりの夜でね、ライオンたちは眠ってたのさ。それでも、眠りながら、ときどきあくびをしちゃ、ぺろぺろ赤い舌を出すもんだから、もし朝になったらどうしようかと思って、その男はびくびくしていたの。そうしたら、急にあたりがぱっと明るくなってね、顔を上げてみると、目の前に天使が立っているんだよ。天使はその男に、おいでおいでって手招きをして、それから、まっすぐ岩のなかへはいっていったんだ」
エリーザベトは注意ぶかく聞いていたが、このとき口をひらいて、
「天使ですって? いったい、その天使には翼(つばさ)があったの?」
ラインハルトはこたえて、
「そりゃただ、そういうお話にすぎないさ。天使なんて全然いやしないんだよ」
「まあ、ひどい、ラインハルト!」
と言って、少女はじっと少年の顔を見つめた。けれども、少年にしぶい顔でにらみつけられると、いぶかしそうにたずねた。
「いったい、どうしてしょっちゅう、天使さま天使さまって、みんなが言うの? おかあさまも、伯母(おば)さまも、それから学校でも?」
「そんなこと、ぼくにはわからないよ」
「だけど、ねえ、ライオンだっていないんでしょう?」
「ライオン? ライオンがいないかって! インドにいるさ。インドじゃ坊さんたちがライオンを車につないで、ライオンにひかれながら砂漠(さばく)をわたってゆくんだぜ。ぼくは大きくなったら、いちど自分で行ってみるつもりなんだ。なにしろ、ぼくたちの国よりか、何千倍も美しくって、まるで冬のない国なんだから。君もいっしょにおいでよ。行くの?」
「ええ行くわ。でも、そのときは、おかあさまもいっしょでなきゃだめよ。あなたのおかあさまも、よ」
「だめ、だめ。そのときは、おかあさんたちは年をとりすぎちゃって、いっしょになんか行けるもんか」
「だけど、あたしひとりじゃ行かせてもらえないわ」
「もらえるように、きっと、してあげるよ。だって、そのときには、君はほんとうにぼくの奥さんになるんだろう。そうしたら、ほかの人たちが君に指図(さしず)することなんかできやしないさ」
「でも、あたしのおかあさま泣いちゃうわ」
すると、ラインハルトは語気を強めて、
「またもどってくるんじゃないの。ちゃんと言ってごらん、ぼくといっしょに出かける気かい? いやなら、ぼくひとりで行く。そうしたら、もう帰ってこないよ」
少女はいまにも泣きだしそうになった。
「そんなにこわい目をしないでよ。あたし、いっしょにインドへ行くわ」
ラインハルトは夢中になってうれしがりながら、エリーザベトの両手をつかんで、草地へつれだした。そして、「インドへ、インドへ!」と歌いながら、少女といっしょにぐるぐる踊りまわった。エリーザベトのえり首に巻いた赤いスカーフが、ひらひら風にひるがえった。しかし、それから、ラインハルトは急にエリーザベトの手を放し、真顔になって言った。
「でも、どうせできはしないだろう。君には勇気がないんだもの」
――「エリーザベト! ラインハルト!」と、そのとき、庭木戸のほうから呼ぶ声がした。「はあい! はあい!」と、ふたりの子どもは返事をして、手に手をとりながら、家へかけもどっていった。

森にて

こんなふうにして、ふたりの子どもはいっしょに暮らしつづけた。少年はエリーザベトをおとなしすぎると思うことがよくあったり、少女のほうではラインハルトを乱暴すぎると思うことがよくあったが、しかし、だからといって仲たがいをすることもなかった。遊べる時間というほどの時間はたいてい、いっしょに過ごした。冬は、それぞれの母親の狭い部屋の中で、夏は、林の中や野原で過ごした。――いつだったか、ラインハルトの面前で、エリーザベトが先生に叱られたときには、ラインハルトは腹だちまぎれに机を石板でたたいた。先生のいきどおりを自分のほうに移すためだった。が、先生はそれに気がつかなかった。しかしラインハルトは、地理の授業にすっかり熱意を失ってしまい、そのかわりに、一つの長い詩をつくった。そのなかで自分自身を若い鷲(わし)にたとえ、先生を老いぼれの陰気な鴉(からす)にたとえた。エリーザベトは白い鳩(はと)だった。鷲は自分の翼(つばさ)が大きくなったら、さっそく老いぼれの陰気な鴉に報復をしてやろうと誓うのだった。少年詩人の目には涙がにじんできた。自分で自分がひどくえらくなったような気がした。家にもどると、白い紙をたくさんとじこんだ羊皮紙装の小型のノートをうまく手に入れ、そのはじめの数ページに、自分の最初の詩を丹念(たんねん)に書きしるした。――それからまもなく、ラインハルトは別の学校へ移った。この学校であらたに、いく人も、同じ年ごろの少年の友だちができた。けれどもそのために、エリーザベトとの仲が割(さ)かれるというようなことはなかった。このころラインハルトは、いままでなんどもエリーザベトに話してきかせた童話のうちで、いちばんエリーザベトの気に入った話を書きとめ始めた。書いているうちに、ときどき、自分自身の考えをいくらか織りこみたいような気を起こすこともあった。けれども、なぜかしら、それをしかねるのが常だった。それで、かつて自分が聞いたとおりの話をそっくりそのまま書きしるした。それから、その草稿をエリーザベトに渡した。エリーザベトはそれを自分の手文庫のひき出しのなかに大事にしまいこんだ。そして、ときどき夕方などに、ラインハルトのいる前で、それらの話を、ラインハルトの書いたノートから自分の母親に読んできかせたが、それを聞いていると、ラインハルトは胸が安まる心地(ここち)よさをおぼえた。
七年の歳月が流れた。ラインハルトは上の教育をうけるために町を離れることになった。これからラインハルトと別れ別れの毎日がやってくるというようなことは、エリーザベトには想像もできなかった。それだけに、ある日のことラインハルトから、ぼくはいままでどおり君のために童話を書くよ、母あての手紙に同封して送るつもりだから、そのときにはぜひ君のほうでも、読後の感想を書いて返事をくれたまえと言われたときには、うれしかった。出発が近づいた。しかし、それよりまえに、なお多くの詩が羊皮紙装のノートの中に書きつけられた。これだけはエリーザベトにも秘密にしておいたが、そのノートも、それから白紙のほとんど半分に近いページをしだいに埋めていった大部分の詩歌も、それをつくらせたのは当のエリーザベトだったのだ。
六月だった。ラインハルトの出発は明日にせまった。そこで、もういちど、みんなで一日を楽しく過ごそうというわけで、かなりの人数で近くの森へピクニックに出かけることになった。森のへりまでの一時間ばかりの道は馬車で行った。それからお弁当入れのバスケットをおろして、あとは歩いて進んだ。まずモミの林をよこぎらなければならなかった。林の中はひえびえとして、薄暗く、こまかい針葉(しんよう)が地べた一面に散りしいていた。半時間ほど歩いてから、モミ林の暗がりを出て、すがすがしいブナの木立ちの中にはいった。ここはなにもかも明るく、みどり色だった。ときおり、葉の茂った枝の間から、ちらちらと日光がさしこんできた。一匹のリスが頭の上を枝から枝へと飛び移っていた。――何本かのすごく年を経たブナの梢(こずえ)が、空の透いて見える木の葉の丸屋根をかたちづくっている場所で、一行は足をとめた。エリーザベトの母親がバスケットの一つをひらいた。ひとりの老紳士が糧食係(がかり)の役を買って出た。
「みんなわたしのまわりに集まってくれたまえ、若い諸君!」
と、紳士はさけんだ。
「これからわたしの申しわたすことを、よく聞いてくれたまえ。朝飯として諸君のひとりひとりに、ただの小麦パンを二つずつ配給する。バターは家においてきたから、パンに添えるものは、めいめい自分でさがしてもらおう。森の中にはオランダイチゴがいっぱいある。といっても、それを見つけだせる者にとってはだ。ぶきっちょな者は、パンだけですますことだな。人生というものは万事そうしたものだ。わたしの話、わかったかね?」
「ハイ、わかりました!」
若い人たちがさけぶと、老人はことばをつづけて、
「よろしい、ところでだ、わたしの話はまだ終わったわけじゃない。われわれ老人は、もうこれまでずいぶんと人生をかけまわってきた。だから、こんどは留守(るす)番役にまわろう。というのは、つまり、ここの、この大きな木の下にいるということじゃな。そうしてジャガイモの皮をむき、火をおこして、食卓の用意をしよう、十二時になったら卵もゆでておこう。そのかわり諸君は、われわれがデザートのサービスもできるように、諸君のさがし集めたオランダイチゴを半分は進呈してくれなければいかん。それでは、西へでも東へでも自由に出かけてくれたまえ。ちゃんとしないといかんよ!」
若い人たちは、さまざまにひょうきんな顔つきをした。老紳士はもういちど声をかけて、
「待ちたまえ! これは言うまでもないことだが、イチゴの見つからん者は、イチゴを出す必要もない。しかし、そういう人はわれわれ老人からもらえると思ってもいかんよ。このことを、諸君のさとい耳のうしろに、しっかり書きつけておいてくれたまえ。さて、きょう一日は、これでじゅうぶん、りっぱな教訓を得たわけだ。このうえさらにイチゴが手にはいれば、きょうのところ、諸君は人生の合格者といえるだろう」
若い人たちは老紳士のことばに同感で、ふたりずつ組になってイチゴさがしに出かけ始めた。
「おいでよ、エリーザベト、ぼくはね、イチゴのあるところを知ってるんだ。ただのパンなんか君に食べさせやしないよ」
と、ラインハルトは言った。
エリーザベトは麦わら帽子のグリーン色のリボンを結びあわせて、帽子を腕にぶらさげた。
「では、行きましょう。籠(かご)ができたわ」
と、彼女は言った。
それからふたりで、森の奥へ奥へとはいっていった。しめっぽい、見通しのききにくい木陰をすすんだ。そこはすべてがひっそりとしていて、ただ頭上の空に、目には見えないけれど、数羽の鷹(たか)がけたたましく鳴いているばかりだった。それからふたたび、おい茂った潅木(かんぼく)の中を通りぬけた。すきまもないくらい茂っているので、ラインハルトは先に立って、枝をへし折ったり蔓(つる)を押しのけたりしながら、道をつくらなければならなかった。そのうちに、うしろのほうで、自分の名を呼ぶエリーザベトの声が聞こえてきた。ふり返ると、彼女の声がした。
「ラインハルト! 待ってよ、ラインハルト!」
姿は見えない。が、ようやく、ほど離れたところで潅木と争っている彼女の姿が目にとまった。すっきりとした頭が、わずかに羊歯(しだ)の葉ずえの上に浮かんでいる。そこで、もういちどひき返し、ごたごたとからみあった羊歯や潅木のなかをかき分けながら、エリーザベトを空(あき)地につれだした。そこには青い蝶(ちょう)が、わびしげな森の花々の間を、ひらひら舞っていた。ラインハルトはエリーザベトのほてった顔から、しっとりと濡(ぬ)れた髪の毛をかき上げてやった。そのあとで麦わら帽子をかぶせようとしたが、エリーザベトはいやがった。それでも、せがまれると、さすがに拒みはしなかった。
やがてエリーザベトは立ちどまり、ふかぶかと息をつきながら、
「だけど、あなたのおっしゃったオランダイチゴって、いったいどこにあるの?」
「ここにあったんだ。けれど、ガマのやつに出し抜かれたらしい。それとも、貂(てん)かな。いや、ひょっとすると、妖精(ようせい)かもしれないよ」
「そうね、まだ葉が残っているわ。だけど、こんなところで妖精の話をするのはよして! さあ行きましょうよ。あたし、まだちっとも疲れてないわ。もっと先をさがしてみましょうよ」
と、エリーザベトは言った。
目の前に小さな川が流れていた。その川の向こうはまた森だった。ラインハルトは両腕にエリーザベトを抱きあげて、川をわたった。しばらくすると、ほの暗い木陰から、ふたたび広い空(あき)地に出た。
「ここには、きっとイチゴがあってよ。とてもいい匂(にお)いがするもの」少女が言った。
ふたりはさがしながら、日あたりのよい空地をすすんで行った。しかし、一つも見つからないのだ。
「だめ! これはエーリカの匂いだよ」
と、ラインハルトは言った。
そこら一面に、エゾイチゴとヒイラギとがおい茂り、地べたの空(あ)いたところを短い草とかわりばんこに蔽(おお)っているエーリカの強烈な香りが、あたりにみなぎっていた。
「さびしいところね。ほかの人たちはどこへ行ったのかしら?」
エリーザベトはつぶやいたが、ラインハルトは、帰り道のことなど考えてはいなかった。「待ちたまえよ。どっちから風が吹いてくるかな?」と言って、彼は片手を高くあげた。しかし、そよとの風もなかった。
「シッ! みんなの話し声が聞こえるみたいだわ。ちょっと、向こうのほうを呼んでみてちょうだい」
ラインハルトは手をすぼめて口にあてがい、「オーイ、こっちだよう!」とさけんだ。――「こっちだよう!」と声がかえってきた。
「返事をしているわ!」
と、エリーザベトは言って、手をたたいた。
「いや、なんでもない。ただのこだま(ヽヽヽ)だよ」
エリーザベトはラインハルトの手をつかんだ。
「あたし、こわいわ!」
「なあに、こわいことなんかないよ。すてきな所じゃないか。あすこの木陰になった草ンなかにおすわり。すこし休もうよ。ほかの連中は、きっと見つかるさ」
エリーザベトは、枝を張った一本のブナの木の下に腰をおろして、注意ぶかく八方に耳をすました。ラインハルトは、そこから数歩離れた一つの切株(きりかぶ)の上に腰をかけて、無言のまま彼女のほうを見やった。太陽はふたりの真上にかかっていた。燃えるような真昼の暑さだった。きらきらと金色にかがやく、はがね色の小さな羽虫がいくつも、羽を振りながら宙に舞い、ブンブン、ブンブン、まわりにかすかな音をたてていた。ときどき、森の奥から、啄木鳥(きつつき)の木をたたく音や、ほかの森の鳥たちのけたたましい鳴き声が聞こえてきた。
「あれ! 鐘の音がするわ」
「どこに?」
ラインハルトがたずねると、
「あたしたちのうしろのほう。きこえるでしょう、お昼よ」
「それなら町はぼくらのうしろにあるわけだから、その方向へまっすぐ歩いてゆけば、きっと、ほかの連中に会えるよ」
そこでふたりは帰路についた。イチゴさがしは、エリーザベトが疲れてしまったので、あきらめることにした。やがて、木立ちの間から、まぶしく地面に光る白い布(ぬの)も見えた。それは食卓だった。その上には、オランダイチゴが山のように盛られていた。例の老紳士はボタンの穴にナプキンをはさみ、せっせと焼肉を切り分けながら、若い人たちに訓話のつづきを聞かせていた。
木立ちの中をやってくるラインハルトとエリーザベトの姿を見つけると、若い人たちがさけび声をあげて、
落伍(らくご)兵がかえってきたぞ!」
「こっちへ来たまえ!」
と、老紳士が声をかけた。
「――ハンケチをあけて、帽子をひっくりかえしてごらん! さて、なにを見つけたか、拝見させてもらおう」
「持ちかえったのは、空腹とのど(・・)のかわきです!」
と、ラインハルトが言った。
すると老人は、山盛りの大皿をふたりのほうへさしあげて、
「それが全部なら、当然また、その空腹とのど(ヽヽ)のかわきで我慢(がまん)してもらわねばならんな。申し合わせたことは覚えているだろう。ここでは、怠け者には食べさせるわけにはいかんのでな」
しかし、さすがに老人も、しまいには願いを聞き入れてやった。そこでいよいよ食事が始まった。ツグミが杜松(ねず)の藪(やぶ)から鳴いて、食事の伴奏をした。
こうして、その日は過ぎた。――それにしても、ラインハルトには、見つけたものがまるっきりないというわけではなかった。それはオランダイチゴなどではなかったけれども、やはり森の中で育ったものだった。彼は家に帰ってくると、おなじみの羊皮紙装のノートにこんな詩を書きつけた。

ここの山腹には
そよとの風もなく
しなだれる枝の
その下に乙女は憩(いこ)う

あたりいっぱいに
タチジャコウソウのかんばしい香り
青い羽虫が ぶんぶんと
宙に舞ってきらきら光る

寂として音もない森
この子のかしこい目つき
とび色の髪の毛に
日の光が流れまつわる

遠くのほうから郭公(かっこう)の声
わがこころは思う――
この乙女こそ森の女王の
黄金(おうごん)のまなこ持てりと

こうして彼女は、ただに彼のかわいい人となったばかりでなく、ほのぼのと明けそめる彼の生活の、あらゆる愛らしいものやすばらしいものの表現ともなった。

道のべに乙女子(おとめご)は立ちて

クリスマス・イブがやってきた。――まだ日暮れまえだというのに、ラインハルトはほかの学生たちといっしょに、市庁舎の地下酒場の古いカシのテーブルに陣取っていた。この地下室はもう薄暗かったので、壁のランプには火がともしてあった。けれども、客の集まりはまばらで、給仕たちは手持ち無沙汰(ぶさた)そうに壁の柱にもたれていた。この穴蔵のような酒場の一隅には、流しのバイオリン弾(ひ)きの男と、ジプシーらしい顔だちのきれいなキターラ(琴に似た弦楽器)弾きの少女とが腰をおろしていた。ふたりとも楽器を膝(ひざ)の上にのせたまま、興ざめたようにぼんやりながめているふうだった。
学生たちのテーブルで、ポーンと、シャンパンのコルク栓(せん)を抜く音がした。「飲みたまえ、わがボヘミアの君よ!」と、貴公子ふうの若者が声をかけながら、なみなみとついだコップを、キターラ弾きの少女にさしだした。
「ほしくないんです」
と、少女は姿勢をくずさずに言った。
「そんなら歌えよ!」
貴公子はさけんで、銀貨を一枚、少女の膝(ひざ)に投げこんだ。少女は指でおもむろに黒い髪の毛をかきなでた。バイオリン弾きの男が、その彼女に耳打ちをした。が、いきなり顔を仰向(あおむ)け、あごをキターラにささえて、「こんな人のために弾(ひ)くのいやよ」と、言った。
ラインハルトがコップを手にしたまま、すっくと立ちあがって、彼女の前にやってきた。
「なんのご用?」
と、彼女はぶっきら棒にたずねた。
「君の目が見たいんだ」
「あたしの目があんたになんのかかわりがあって?」
ラインハルトは目をきらきら光らせながら、彼女を見おろした。
「ぼくにはよくわかるんだ、君の目はうそっつきの目さ!」
彼女は手の平にほほをもたせて、うかがうような目つきでラインハルトを見まもった。ラインハルトはコップを上げて口にあてた。「君の美しい罪な目のために!」こう言って彼は飲んだ。
彼女は笑って、顔を起こした。
「ちょうだい!」
そして、黒い目でラインハルトの目をじっと見すえながら、ゆっくり残りを飲みほした。それから、絃をはじいて三和音を出し、低い情熱的な声で歌いはじめた。

あたしが美しいのは
きょうのこの日だけよ
明日は、ああ明日は
なにもかも消えてしまうのよ!

あなたがあたしのものであるのは
いまのこの時間だけよ
死ぬときは ああ死ぬときは
あたしひとりなのよ!

バイオリン弾(ひ)きが合いの手を入れている間に、新しい客がやってきて、学生の仲間に加わった。
「ラインハルト、君を迎えに行ったんだけど、もう出かけたあとでね。でも、クリスマスの贈物がとどいていたぜ」
「クリスマスの贈物? そんなものは、もうぼくのところへ来やしないよ」
冗談(じょうだん)じゃない! 部屋じゅう、モミの木と栗(くり)色のケーキの匂(にお)いでいっぱいだったぜ」
「どうするの?」
と、少女がたずねた。
「じきにもどってくる」
彼女は眉間(みけん)にしわをよせた。「行かないでよ!」と、低い声で言って、なれなれしげに彼を見つめた。
ラインハルトはためらったが、「そうはいかないんだ」と、こたえた。
彼女は笑いながら、つま先で彼を小突いた。
「行っちまいなさい! ろくでなし! あんたたちときたら、みんなそろいもそろって、ろくでなしばかりさ」
そう言って、ぷいと横を向いている間に、ラインハルトはゆっくりと地下酒場の階段をあがっていった。
表(おもて)の通りは濃い夕やみの色につつまれていた。ラインハルトは熱い額(ひたい)にさわやかな冬の空気を感じた。そこここの窓からは、ローソクをともしたモミの木の明るい火影(ほかげ)がもれ、ときどき、小さな笛やブリキ製のラッパのにぎやかな音にまじって、子どもたちのはしゃいだ声が聞こえたりした。乞食(こじき)の子どもたちの群れが、家から家へとわたり歩いたり、階段の手摺(てすり)にのぼって、窓越しに、へだてられた奥のきらびやかな光景を垣間(かいま)見ようとしたりした。ときによると、いきなり戸口がさっとひらいて、どなりつける人の声が、そうした小さな客たちの一群を、明るい家の中から暗い小路へ追い出すこともあった。そうかと思うと、よその玄関で、むかし変わらぬクリスマスの歌がうたわれ、それにまぎれて、澄(す)んだ少女の声が聞えてきた。ラインハルトはそれらの声にも耳をかさず、なにもかも素通りにして、町から町へとすたすた歩いていった。下宿に着いたときには、もうすっかり夜になっていた。つまずきながら階段をあがって、自分の部屋にはいった。気持ちのよい香りが鼻にただよってきた。なつかしさがこみあげてきた。郷里の庭で迎えるクリスマスの母の部屋のような匂(にお)いだった。ラインハルトは、ふるえる手で明りをつけた。見れば、机の上に大きな包みがのっている。ひらくと、おなじみの栗(くり)色のジンジャケーキが出てきた。そのケーキのいくつかには、砂糖で彼の名まえの頭(かしら)文字が散らしてあった。こんなことをするのはエリーザベトのほかにはない。それにつづいて、刺繍(ししゅう)をした上等の下着の小さな包み、ハンケチとカフス、最後に母とエリーザベトの手紙が出てきた。ラインハルトはあとの手紙のほうを先にひらいた。エリーザベトはこんなふうに書いていた。

「きれいなお砂糖の文字は、ケーキをこしらえるお手伝いをしたのが誰なのかを、きっとあなたに語ってくれることでしょう。あなたのためにカフスの刺繍をしたのも、同じ人ですのよ。こちらでは、こんどのクリスマス・イブは、ほんとにひっそりしたものになることでしょう。母はいつも九時半には糸くり車を部屋のすみに片づけてしまいますし、この冬は、あなたがいらっしゃらないので、とてもとてもさびしい冬ですわ。それに、先週の日曜日には、あなたからいただいた紅雀(べにすずめ)までが死んでしまいました。わたくし、ずいぶん泣きましたわ。だって、ずっと大事に世話をしてやっていたんですもの。それまではいつも、午後になって籠(かご)に日ざしをうけると、鳴いていました。あなたもごぞんじのように、母はあまり精いっぱいにさえずる紅雀を黙らせようとして、よく布(ぬの)ぎれを上からかぶせたりいたしましたわ。その紅雀もいなくなったので、ますますお部屋の中はひっそりしてまいりました。ただときどき、あなたの昔なじみのエーリヒさんがたずねて来てくださるだけですの。いつでしたか、エーリヒさんのことを、茶色のオーバーに似た男っておっしゃったことがありましたわね。あの方(かた)が戸口からはいっていらっしゃいますと、わたくし、いつでもそのことを思い出さずにいられませんの。そしておかしくてたまりませんわ。でも、母にはおっしゃらないでくださいませ。おっしゃったら、すぐいやな顔をすることでしょうから。――わたくし、あなたのおかあさまにクリスマスの贈物をさしあげるんですけど、当ててごらんなさい! 当たらないでしょう? わたくし自身をさしあげますのよ! エーリヒさんが黒のパステルでわたくしを描いてくださいました。そのために、もう三度もモデルになりましたわ。それも、毎回、まる一時間すわっているのです。ほかの人に自分の顔をこまかに覚えられてしまうのは、いやでいやでたまらないので、気もすすまなかったのですけれど、ウェルナーの小母さまがさぞ喜んでくださることだろうからって、母がすすめるものですから。
でも、あなたは約束を守ってくださらないのね、ラインハルト。ひとつも童話を送ってくださらないのですもの。わたくし、いくどもあなたのおかあさまに苦情を申しましたわ。すると、いつでもおかあさまは、あなたがお忙しくて、いまはそんな子どもじみたことをしている暇がないんだっておっしゃるの。でも、わたくしには信じられませんわ。きっとほかに事情がおありなのでしょう」

それからラインハルトは、母の手紙も読んだ。そして二通の手紙を読みおえて、それをまたゆっくりとたたんで、わきにおいたとき、たえがたい郷愁に襲(おそ)われた。彼はしばらく部屋の中をあちこちと歩きまわり、はじめは低い声で、それから、いくらか聞きわけられるような声で、ひとり口ずさんだ。

おろかにも迷いにけりや
行き悩みてありしとき
道のべに乙女子(おとめご)は立ちて
家路をばさして教えぬ

それから、斜面机のところに歩みよって、金をいくらか取りだし、ふたたび通りへおりていった。――通りはいつのまにか、さきほどよりも静かになっていて、クリスマス・ツリーの明りも燃えつき、わたり歩いていた子どもたちの影も絶えていた。さびしい町通りを風が吹き抜け、老いも若きもわが家に楽しく集まっているらしい。クリスマス・イブの第二部が始まっていた。
ラインハルトが市庁舎の地下酒場の近くにさしかかると、バイオリンをかき鳴らす音とキターラ弾(ひ)きの少女の歌う声とが、地下から聞こえてきた。と、下の酒場のドアの鈴(すず)がチリリンと鳴って、黒い人影がひとつ、幅のひろい薄暗い階段を、よろよろとあがってきた。ラインハルトは家かげにかくれてから、すたすたとそこを通り過ぎた。しばらくして、明るい宝石商の店先にやってきた。そこの店で、赤い珊瑚(さんご)のくさりのついた小さな十字架を買い求めてから、ふたたび、もと来た道をひきかえした。
下宿の近くまで来たとき、ふと見ると、みすぼらしいぼろ(・・)をまとった小さな女の子がひとり、ある家の高い戸口のところにたたずんで、ドアをあけようとしてあけられずに困っている。「手伝ってあげようか?」と言っても、女の子はうんともすんとも返事をしなかったが、それでもドアの引き手を放した。ラインハルトは早くもドアをひらいたが、「だめだ、君、追い出されるかもしれんな。ぼくといっしょに来たまえ! ぼくがクリスマスのケーキをあげよう」と言って、ふたたびドアをしめると、小さな女の子の手をとった。女の子は黙ったまま彼の下宿についてきた。
部屋の明りは、出しなに、ともしたままにしておいた。「さあ、ケーキだよ」と言って、彼は大切な全部のケーキの半分を、その女の子のエプロンに入れてやった。ただ、砂糖文字の散らしてあるのだけは、どれもやらなかった。「それでは、家に帰って、おかあさんにも分けてお上げ」女の子は、はにかんだような目つきで彼を見あげた。こういう親切さには不慣れなために、なんとも返事がしかねるというふうなようすだった。ラインハルトはドアをあけて、足もとを照らしてやった。すると、女の子はケーキを持ったまま、小鳥のように階段をかけおりて、家の中から外へ走り出た。
ラインハルトはストーブの火をかきたて、ほこりだらけのインキ壺(つぼ)を机の上においた。それから腰をおろし、母とエリーザベトにあてて、夜どおし手紙を書きつづけた。クリスマスのケーキの残りは、まだ手をつけずにそばにおいたままだが、エリーザベトの手製のカフスは袖(そで)口につけていた。それが白い粗(あら)シャツの上着とくらべて、じつに奇妙に見えた。こうして彼は、冬の朝日が凍(い)てついた窓ガラスにさして、向かい合わせの鏡の中に青白い真剣な顔を映しだしたときにも、まだ机に向かっていた。

ふるさと

復活祭(ふっかつさい)がはじまると、ラインハルトは故郷へ旅立った。着いた日のあくる朝、彼はエリーザベトをおとずれた。にこにこしながら迎えに出た美しい、すらりとした少女の姿を見ると、ラインハルトは「ずいぶん大きくなったね!」と言った。エリーザベトは顔を赤らめたが、なにも言わなかった。あいさつをしながら彼が握りしめた手も、そっと引き抜こうとした。彼はいぶかしそうに彼女を見つめた。これは以前にはないことだった。なにか両人の間によそよそしいものが入ってきたような感じだった。――この状態は、彼が帰郷してから、すでにかなりの日を重ね、毎日のようにエリーザベトをおとずれるようになってからも、変わらなかった。ふたりだけでいっしょにいると、ときどき話がとぎれて苦しい沈黙がつづくので、そんなときには、彼はそわそわして予防線を張るようにつとめた。休暇の間、なにか一定の楽しみを持ちたくなって、彼はエリーザベトに植物学を教えはじめた。植物学は、大学の生活を始めるようになった最後の数か月間に、熱心に研究した学問だった。エリーザベトは、なににつけても彼のいうことに従う習慣だったし、そのうえ勉強好きでもあったので、すすんでそれに同意した。そこで週に数回、野原や森林へ採集に出かけた。そうして正午ごろに、みどり色の採集用胴乱(どうらん)を草や花でいっぱいにして帰ってくると、ラインハルトは数時間後にふたたびエリーザベトの家へやってきて、共同の採集物をふたりで分けあった。
そうした目的で、ある日の午後、ラインハルトがエリーザベトの部屋にはいってゆくと、彼女は窓ぎわに立って、これまでそこに見かけたことのない、金色に塗った鳥籠(かご)に摘みたてのハコベの草をさし入れていた。籠のなかには一羽のカナリヤがいて、羽ばたきをしたり、高い声で鳴きながらエリーザベトの指を突っついたりしていた。以前はそこに、ラインハルトの贈った小鳥が籠に入れて吊(つる)してあったのだ。
「ぼくのかわいそうな紅雀(べにすずめ)が死んでから、カナリヤに生まれ変わったの?」
と、ラインハルトは快活にたずねた。
すると、安楽椅子(いす)にかけて糸をつむいでいた母親が口をひらいて、
「そんなことは、紅雀にはありませんよ。あなたのお友だちのエーリヒさんが、きょうのおひる、エリーザベトにとおっしゃって、お屋敷からとどけてくだすったんですよ」
「どの屋敷からです?」
「あら、ごぞんじないの?」
「何をです?」
「エーリヒさんは一月まえから、インメン湖のほとりにあるおとうさんのご別邸をゆずりうけて、そっちにいらっしゃるんですよ」
「でも、小母さんはぼくに、ちっともそんな話をしてくださらなかったじゃありませんか」
「おやおや、そういうあなただって、ご自分のお友だちのことをちっともお聞きにならなかったわ。あのかたは、よくもののわかった、いい青年ですことね」
母親はコーヒーの支度をするために出ていった。エリーザベトはラインハルトに背を向けたまま、あいかわらず、カナリヤの小屋を作ってやるのにかかりきりだった。「お願い、ほんのちょっとよ。すぐすみますわ」と、彼女は言った。――いつになくラインハルトが返事をしないので、彼女はふり返った。彼の目には、だしぬけに、ついぞ見たことのないような沈痛な色が浮かんでいた。
「どうかして、ラインハルト?」
と、彼女は彼のそばへ歩みよってきた。
「ぼくが?」彼はぼんやりと聞き返して、その目で夢見るように彼女の目を見つめた。
「とても悲しそうよ」
「エリーザベト、ぼくは黄色い鳥がきらいなんだ」
彼女はおどろいて彼を見つめた。相手の言う意味がわからなかったのだ。「あなたは変わり者ね」と、彼女は言った。
ラインハルトは彼女の両手をとった。彼女は静かにとられるがままにしていた。まもなく母親がまたはいってきた。
コーヒーがすむと、母親は糸くり車に向かった。ラインハルトとエリーザベトは、採集した植物の整理をするために、隣の部屋へ行った。それから、雄しべの数をかぞえ、葉や花をていねいにひろげ、各種類について標本を二つずつ、乾燥させるために、二つ折り判の本の紙と机の間にはさんだ。うららかな静かな午後だった。ただ、隣の部屋で母親の糸くり車がブンブンまわる音を響かせ、ときどき、ラインハルトが植物の種類の分類名を言ったり、エリーザベトのまずいラテン語名の発音をなおしたりする低い声が聞こえるだけだった。
「こないだからスズランが、まだあたしにはなくてよ」
採集した植物の全部の所属がきまり、整理がすんだときに、エリーザベトは言った。
ラインハルトは小型の白い羊皮紙装のノートをポケットから出した。そして、生(なま)かわきのスズランを取りだしながら、
「では、これを君のにしたまえ」
エリーザベトは紙面いっぱいに字が書いてあるのを見て、たずねた。
「また童話をお作りになったの?」
「童話じゃないよ」
と、彼はこたえて、そのノートを彼女にわたした。
なかは詩ばかりだった。それも、せいぜい一ページぐらいの長さの詩が多かった。エリーザベトは一枚一枚とめくっていった。表題だけを読んでいるらしかった。「彼女が先生に叱られたときに」「ふたりが森で迷ったときに」「復活祭のおとぎ話に添えて」「はじめて彼女が手紙をくれたときに」ほとんどすべてが、そういう調子の題だった。ラインハルトはさぐるように彼女のようすを見まもった。つぎつぎとページをめくってゆくうちに、すっきりとした彼女の顔に、ぽうっとほのかな赤味がさし、それがしだいに顔全体にひろがっていった。彼はその目を見ようとしたが、エリーザベトは顔をあげず、しまいにノートを黙って彼の前においた。
「そのまま返さないでおいてくれたまえ!」
と、彼は言った。
彼女はブリキの胴乱(どうらん)の中から、茶色の若枝を一本とりだした。「あなたのお好きな草をはさんでおくわ」と言って、ノートを彼の手にわたした。――
とうとう、休暇の最後の日、出発の朝がやってきた。エリーザベトは母親にせがんで、ラインハルトを駅馬車のところまで見送ることを許してもらった。駅馬車の発着所は、彼女の家から町を二つ三つへだてたところにある。表(おもて)に出ると、ラインハルトは彼女に腕を貸した。こうして彼は、すらりとした姿の少女とならんで、無言のまま歩いていった。目的の場所に近づくにつれて、ラインハルトの胸の中には、これからながい別れを告げるまえに、なにか大切なことを彼女に話しておかなければならないような気持ちが、しだいにつのってきた――それは、自分の将来の価値や幸福のすべてを左右するような何かだった。にもかかわらず、その思いを切りだすことばが浮かんでこないのだ。それが気になって、だんだん彼の歩みはのろくなってきた。
「遅れるわ。聖母マリア教会の鐘が、もう十時を打ってよ」
そう言われても、彼は足を速めなかった。とうとう、しまいに口ごもりながら言った。
「エリーザベト、これから二年のあいだ、君とはまったく会えないことになるんだけど――――君は、ぼくがまた帰ってきたときも、いまのようにぼくを好いていてくれるかしら?」
彼女はうなずいて、優しく彼の顔を見返した。――「あたし、あなたのことを弁護したくらいなのよ」すこし間(ま)をおいて彼女はこう言った。
「ぼくのこと? だれにそんなことをする必要があったの?」
「うちのおかあさまによ。昨晩、あなたがお帰りになってからも、ながいことおかあさまとあなたのお話をしたのよ。おかあさまは、あなたがもう昔のようないい人じゃないっておっしゃるの」
ラインハルトは一瞬の間黙っていた。しかし、それから彼女の手をとって、真剣に彼女の無邪気な目を見つめながら、
「ぼくはいまでも、昔のままのぼくなんだよ。そのことを堅く信じてくれたまえ! 信じてくれる、エリーザベト?」
「ええ」
ラインハルトは彼女の手を放して、いっしょに急ぎ足で、最後の町を通りぬけていった。別れが近づくにつれて、彼の顔はうれしそうになった。その歩きかたは、彼女の足には早すぎるくらいだった。
「どうしたの、ラインハルト?」
「ぼくには秘密があるんだ、美しい秘密が!」
そして、きらきらと目を輝かせながらエリーザベトを見まもった。
「――二年たって帰ってきたら、教えてあげるよ」
そのあいだに、駅馬車のところに着いた。ちょうど発車まぎわだった。ラインハルトは、もういちど彼女の手をとった。
「じゃあ、お元気で、エリーザベト! 忘れないでくれたまえよ」
彼女はうなずいた。
「ご無事でね!」
ラインハルトは乗りこんだ。馬が車をひきだした。
馬車が町角をまがるとき、もういちどラインハルトは、すごすごと道をひき返してゆく彼女の愛らしい姿を見やった。

ある手紙

それからおよそ二年ほどたって、ラインハルトはランプを前に、書物や書類の中にうずもれながら、共同研究をやっている友人の来訪を待ちうけていた。だれかが階段をあがってきた。「おはいり!」――下宿の女主人だった。
「お手紙ですよ、ウェルナーさん!」
それから、ふたたび部屋を出ていった。
ラインハルトは、このまえ帰郷して以来、エリーザベトには手紙を書いたことがなかったし、彼女からも、手紙はもらったことがなかった。この日の手紙も、彼女のくれたものではなかった。母の手でしたためられたものだった。ラインハルトは封を切った。すぐつぎのような文面が読みとれた。
「あなたの年ごろには、ほとんど一年ごとに、新しい希望がわいてくるものです。若い人はみじめな思いなぞしたがらないからです。こちらもずいぶん変わりました。わたしがもしあなたの気持ちを誤解しているのでなければ、たぶんそのことは、なによりもあなたを悲しませることでしょう。エーリヒが昨日とうとう、エリーザベトから承諾の返事をもらったのです。この三月ばかりのうちに、二度も問い合わせたのに、そのままで返事がもらえずにいたのです。エリーザベトとしては、ずうっと決心がつきかねていたわけです。でも、とうとう承諾をしてしまいました。なにしろ、まだまだ若いのですから、結婚式も間(ま)近いことと思います。式をすませたら、エリーザベトのおかあさんも、いっしょに当地をお去りになるでしょう」

インメン湖

ふたたび何年かの月日が流れた。――ある暖かい春の日の午後、下り坂になった木陰の森の道を、日焼けして元気のよさそうな若者が歩いていた。真剣な灰色の目で遠くのほうを一心に見ている。そのようすは、もうそろそろこの単調な道に変化が起こるかと期待しているふうに見うけられたが、しかしその変化は、まだまだ起こりそうになかった。ようやく一台の手押し車が、下からゆっくり上がってきた。旅びとは通りかかった農夫に声をかけて、
「もしもし! うかがいますが、インメン湖へは、この道をゆけばいいんですね?」
「ああ、どこまでも、まっすぐにな」
と、その男はこたえて、まるい帽子を手でちょっとずらした。
「まだよほどありますか?」
「なあに、つい鼻の先でさ。タバコの半ぷくもすわんうちに、もうみずうみじゃ。お屋敷はその岸っぺただす」
農夫は通りすぎた。旅びとは足を速めて木下道(このしたみち)を歩きつづけた。十五分ほどすると、いきなり左手の木陰がつきて、道は山腹にかかった。百年を経たカシワの大木の梢(こずえ)がようやくとどくくらいの高さに道が走っていて、その梢の向こうに、さんさんと日の照っている広大な風景がひらけた。はるか目の下に、みずうみがひっそりと紺碧(こんぺき)の水をたたえている。その周囲はほとんど、日ざしをうけた緑(みどり)の森だが、ただ一か所だけ森がとぎれて、はるか遠くまで展望がきいた。が、それも最後は青い山々で区切られていた。はす向かいにあたる緑一色の森の中に、雪のようなものがひろがっていた。果樹の花だった。その手まえの高い水ぎわの上に、赤瓦葺(がわらぶ)きの白壁の邸宅がそびえていた。一羽のコウノトリが煙突から飛び立って、ゆっくりと湖上に輪をえがいた。――「インメン湖だ!」と、旅びとはさけんだ。やれやれ目的地に着いたといったようすで、じっと立ちどまったまま身じろぎもせず、足もとの木々の梢越しに、向こう岸をながめた。そこの湖面には、邸宅の影が映って、かすかにゆらゆらと揺れていた。やがて急にまた彼は歩き始めた。
山沿いの道は足もとがあぶないくらいの下り坂になった。そのため、下の木々がふたたび陰をつくるようになったが、同時に、湖水への眺望をさえぎってしまった。みずうみはただときおり、木の枝のすきまにちらちら光って見えるだけだった。やがてまた、ゆるやかな上り道になった。いまは右手にも左手にも林はなくなり、そのかわりに、葉を茂らせたぶどう畑の丘が道に沿ってのびていた。道の両側には、いっぱいに花をつけた果樹がつづき、蜜蜂がブンブン唸(うな)りながらむらがっていた。茶のオーバーを着た風采(ふうさい)のよい男が、旅びとのゆくてからやってきた。すぐ近くまで来ると、男は帽子を振って、明るい声でさけんだ。
「やあ、よく来てくれたな、ラインハルト君! よく来てくれたよ、インメン湖荘まで!」
「こんにちは、エーリヒ! 君の歓迎に感謝するよ!」
と、こちらも相手に声をかけた。
それからたがいに歩みよって、手を握りあった。エーリヒは昔の学友のあらたまった顔をまぢかに見て、
「いったい君なのかね?」
「むろんぼくだよ、エーリヒ。君だってそうだろう。ただ昔のいつもの君よりか、どうやら少し快活になったようだぜ」
このことばを聞いたとき、うれしそうな微笑がエーリヒの単純な顔をなおよけいに明るくした。エーリヒは、もういちどラインハルトに手をさしのべて、
「そうなんだよ、ラインハルト君! なにしろ、あれからぼくは大当たりのクジをひきあてたもんでね。君も知っているはずだ」
それから両手をもみあわせて、いい気持ちそうにさけんだ。
「こいつは寝耳に水だぞ! 思いもかけていないんだから、全然まったく!」
「寝耳に水? いったいだれが?」
ラインハルトがたずねると、
「エリーザベトさ」
「エリーザベト? 君はぼくが訪問するってことをエリーザベトさんに話さなかったのかい?」
「ひとことも、ラインハルト君、君が見えるなんてことは思ってもいやしないよ。あれのおっかさんにしたってそうだ。君を手紙で招待したことは全然内緒にしてあるんだ。それだけ喜びが大きいからね。いつでも、こうしてこっそり計画をたてるのがぼくの癖(くせ)だったけれど、君も知っているだろう」
ラインハルトは考えこんだ。屋敷に近づくにつれて彼の息づかいは苦しくなってくるようだった。道の左手は、もうぶどう園がつきて、そのかわりに、ひろびろとした菜園が下の湖畔のあたりまで続いていた。いつのまにか、コウノトリが舞いおりていて、野菜畑のなかをいかめしいようすで歩きまわっていた。エーリヒが手を鳴らしながら、「こらッ! コンパスの長いエジプト鳥め、またも、うちの小さい豌豆(えんどう)をくすねてるな!」とさけんだ。鳥はゆっくりと舞いあがって、あたらしい建物の屋根の上へ飛んでいった。その建物は菜園のはしにあって、外壁は、からめ上げた桃(もも)とあんず(ヽヽヽ)の枝で一面におおわれていた。
「あれはアルコール工場なんだ。つい二年まえにぼくがつくったものでね。農場付属の建物のほうは、なくなったおやじの代にあたらしくできたもので、住宅のほうはおじいさんの代からすでにあったのさ。そういうわけで、少しずつ前進してきたというのだね」
と、エーリヒは言った。
そんなことを話しているうちに、ふたりは広い前庭に着いた。前庭は両側が田舎(いなか)びた農場の付属建物で区切られ、その奥に母屋(おもや)があった。母屋の両方の翼棟(よくむね)には高い庭塀がつづいており、そのうしろには、黒っぽい水松(いちい)の生垣(いけがき)が幾列も見え、ところどころにニワトコの枝が花をつけて前庭にたれていた。日光と労働とで顔をほてらせた男たちが、前庭を突っ切ってきて、ふたりにあいさつをした。エーリヒはその男たちの誰彼(たれかれ)に用事を言いつけたリ、仕事のことを聞いたりした。――やがて邸宅に着いた。玄関は天井が高く、ひえびえとしていた。その突きあたりを左に折れて、やや玄関よりも暗い片廊下(ろうか)に出た。エーリヒがそこのドアをひらいて、ふたりは庭に面した大きな広間にはいった。広間は、むかいあった窓がどちらも葉の茂みにおおわれているため、両側とも、みどり色がかったほの暗さに包まれていた。それでも、正面には高い観音開(かんのんびら)きのドアが二つあって、それが大きく開放されていたので、春の日の光がいっぱいにさしこみ、整然とした花壇と高い生垣(いけがき)とがいくつも並んでいる庭が見わたせた。庭の中央には、まっすぐな幅の広い道が通っていて、そこからは、みずうみやさらに対岸の森までが眺められた。ふたりが広間にはいってゆくと、すきま風がほのかな香りをはこんできた。
庭に面したドアの外のテラスに、まだ少女めいた白い服の女の人が腰をおろしていた。女は立ちあがって、はいって来たふたりを迎えようと歩みよった。が、その中途で、根がはえたように立ちどまり、身じろぎもせずに客を見つめた。客は微笑を浮かべながら彼女のほうへ手をさしのべた。彼女は声を高めて、
「ラインハルト! まあ、あなたでしたの!――ずいぶんお久しぶりねえ」
「お久しぶりです」
そう言ったが、あとが続かなかった。彼女の声を聞いたとき、ラインハルトはかすかなうずきを胸に感じたからだった。それに、顔をあげて見ると、目のまえに立っている彼女は、幾年か昔、故郷の町で別れを告げた当時と変わらぬ、あのたおやかなやさしい姿だったのだ。
エーリヒは、ドアのところに立ちどまったまま、よろこびに顔を輝かせていた。
「どうだい、エリーザベト? じっさい、思いもかけなかったろう、全然まったく!」
エリーザベトは、妹のような目つきで彼を見つめた。
「あなたってほんとに親切なかたね、エーリヒ!」
エーリヒはその彼女のほっそりした手をとって、なでさすった。
「さて、こうして来てくれたからには、そうすぐには帰さないことにしよう。ずいぶん長いあいだ離れていたんだからね。また土地っ子になってもらおう。ごらん、見るからに上品になって、まるでよその人みたいじゃないか」
エリーザベトのおどおどした視線が、ちらりとラインハルトの顔をかすめた。
「そりゃただ、ぼくらが長いこといっしょにいなかったせいだよ」
と、ラインハルトは言った。
このとき、母親が鍵籠(かぎかご)を腕にかけて、戸口からはいってきた。母親はラインハルトの姿を見ると、「ウェルナーさん、まあ、思いがけない珍客ですこと」と言った。――それから、たがいにたずねたり答えたりして、なだらかに話は進んだ。女たちは腰をおろして手仕事をはじめ、ラインハルトは出された茶菓に手をつけた。一方、エーリヒはがっちりした海泡石(かいほうせき)〔灰白色の軽い鉱物〕のパイプに火をつけ、ラインハルトのそばにすわってスパスパふかしながら話にふけった。
あくる日、ラインハルトはエーリヒに連れ出されて、畑やぶどう山やホップ園やアルコール工場を見てまわった。すべてがよく整備されていて、野良(のら)で働いている者も、ボイラーのそばで働いている者も、みんな健康な満足した顔つきをしていた。正午になると、家族は庭に面した広間に集まった。その日は、主人側の余暇に応じて顔ぶれはちがったが、とにかく皆でいっしょに過ごした。ただ、夕食まえの数時間は、午前中のはじめの数時間と同じように、ラインハルトは自分にあてがわれた部屋にとじこもって仕事をした。彼は数年まえから、民間に伝承された詩歌の蒐集(しゅうしゅう)をはじめていたので、いまその蒐集を整理し、できればこの付近のものをあたらしく収録して増補しようと思いたったのだった。――エリーザベトはどんな場合にもやさしくて親切だった。彼女はエーリヒのいつも変わらぬ心づかいをほとんど卑屈に近い感謝の気持ちをもって受けいれていた。そういう彼女を見て、ラインハルトは、あの昔の快活な少女がこんなしとやかな妻になるなんて予想もつかないことだと考えることがあった。
滞在の二日目から、夕方には湖畔の散歩をすることにした。道は庭の直ぐ下を通っていた。庭のはしの突き出た崖(がけ)の上にはベンチが一つ、高い白樺(しらかば)の木陰においてあった。エリーザベトの母親はこれを夕焼けベンチと呼んでいた。場所が西向きで、夕日をながめるのにいちばんよく利用されるからだった。――ある夕方、ラインハルトは、この道を散歩から帰ってくる途中、にわか雨に襲(おそ)われた。水ぎわの菩提樹(ぼだいじゅ)の下に雨やどりをしたが、まもなく大粒のしずくが木の葉のすきまからしたたり落ちてきて、ずぶ濡(ぬ)れになったので、あきらめて、すごすごとまた帰路についた。あたりは暗くなりかけていて、雨もしだいに強く降ってきた。夕焼けベンチに近づいたとき、ほのかに光る白樺の木立ちの間に、白い服を着た女の姿が見わけられるような気がした。じっと立ったまま身じろぎもしない。近づいてみると、どうやら彼のほうを向いて、誰かを待ちうけているようなようすだった。エリーザベトにちがいないと、彼は思った。ところが、そこまで行って、それからいっしょに庭を抜けて帰ろうと思って、いそぎ足に歩みよると、相手はゆっくりと向きを変えて、小暗いわき道へ姿を消してしまった。彼はそれが腑(ふ)に落ちず、エリーザベトにたいして怒りに近いものを感じた。とはいえ、はたしてそれがエリーザベトだったかどうか怪しいとも思った。が、それを彼女に問いただしてみることにも気おくれを感じた。それどころか、帰りついたときも、ひょっとしてエリーザベトが庭に面した広間の戸口からはいってこないものでもなし、それを見るのはいやだと思ったので、広間へは入っていかなかった。

母の願いは

それから二、三日して、もう日暮れに近いころ、家族の者はこの時刻のならわしで、庭に面した広間に集まっていた。どのドアもあけ放してあった。太陽はもう、みずうみのかなたの森かげに沈んでしまっていた。
その日の午後、田舎(いなか)に住む友人からラインハルトあてに民謡が少しばかり送ってきていた。それを披露(ひろう)してもらいたいとせがまれた。ラインハルトは自分の部屋へ行って、それからすぐ、まるめた草稿を手にしてもどってきた。何枚かの紙にきれいに書かれた草稿らしい。
皆はテーブルをかこんで席についた。エリーザベトはラインハルトの横だった。
「手あたり次第に読んでみましょう。ぼく自身まだ目を通していないんです」
エリーザベトがその原稿をひろげた。
「楽譜がついているわ。あなた歌ってくださいな、ラインハルト」
言われてラインハルトは、まずチロールの即興歌を二つ三つ、ときどき低い声でおもしろい節(ふし)をつけながら朗読した。一座には晴れやかな気分がみなぎった。
「でも、こんないい歌を作ったのは、いったい誰なんでしょうね?」
エリーザベトがたずねると、エーリヒが口をひらいて、
「そりゃ、こういう歌だもの、聞いたらわかるじゃないか。仕立屋の職人とか理髪屋とか、いずれそういった陽気な連中さ」
ラインハルトは言った。
「こういう歌は作られるというものじゃないんだね。生まれてくるものだよ。天から降ってきて、国じゅうを蜘蛛(くも)の糸のようにあちこち浮かびまわって、いたるところで同時に歌われるのだ。こういう歌には、ぼくらのほんとうの悩みや行動がうかがわれるのだ。まあ言ってみれば、ぼくらがみんなで協力して出来あがったようなものだね」
ラインハルトは別の一枚を手にとった。
「高き峰(みね)にわれ立ちて……」
「その歌なら、あたし知っててよ! ちょっとはじめから歌ってくださらない。ラインハルト! あたしも合わせてみるわ」
それからふたりは、人間が案じ出したとは信じられないほどに神秘的な、あのメロディーを歌った。エリーザベトはやや含み声のアルトで、ラインハルトのテノールに合わせた。
母親はそのあいだ熱心に針仕事をつづけた。エーリヒは手を組んで、神妙に耳を傾けていた。歌がおわると、ラインハルトは黙って草稿の紙をわきにおいた。――みずうみの岸べから、夕暮れの静けさをやぶって、家畜の群れの鈴(すず)の音がシャランシャランと響いてきた。皆は思わず知らず耳をそばだてた。すると、澄(す)んだ少年の歌声がきこえてきた。

高き峰にわれ立ちて
ふかき谷をば見おろしぬ……

ラインハルトはほほえんだ。
「ね、聞こえるだろう? ああいうふうに口から口へ伝わってゆくんだ」
「この地方では、よくあれを歌うのよ」
と、エリーザベトが言った。
「うん、あれは牛飼いのカスパルだ。子牛を追って帰るところだ」エーリヒが応じて言った。
皆は、なおしばらくのあいだ、鈴(すず)の音が農場付属の建物のうしろに消えてしまうまで、耳をそばだてていた。
「自然そのものの歌なんだね。ああいう歌は森の奥に眠っているんだ。そいつを誰だか知らないが見つけ出したというわけなんだね」
ラインハルトはそう言って、あらたに一枚の原稿をひっぱり出した。
すでに夕やみの色は濃くなっていた。赤い夕映えが泡(あわ)のように、みずうみのかなたの森のうえを染めていた。ラインハルトは原稿をひろげた。エリーザベトはその一方の端(はし)を手でおさえて、いっしょにのぞきこんだ。ラインハルトが読みはじめた。

母の願いは
ほかの男のひとに私がとつぎ
かたく心に誓ったひとを
きっぱり忘れてしまうことだった
母の胸はせつなかった
私は母に訴えた
あんまりひどい仕打ちですと
これで私の面目もつぶれ
いまは罪となってしまいました
もうどうにもならない私!

私の誇りも喜びもどこへやら
この身につづくのは悩みばかり
ああ こんな思いをするよりは
乞食(こじき)の姿でさまよい歩きましょう
赤茶けた荒野のはてまで!

読んでいるうちにラインハルトは、目だたぬくらいに紙がふるえるのを感じた。エリーザベトは、ラインハルトが読みおえると、そっと椅子(いす)をうしろへずらして、無言のまま庭へおりて行った。母親の視線が、そのうしろ姿を追った。エーリヒがついて行こうとしたが、母親が「エリーザベトはそとに用事があるんですよ」と言ったので、そのままになった。
そとの庭やみずうみでは、夕やみがいよいよ濃くひろがっていた。あけ放しになっているドアのあたりを、蛾(が)がパタパタと飛びすぎ、部屋のなかへは花や草木の香りがますます強く流れこんできた。湖水からは蛙(かえる)のやかましい鳴き声がきこえてくるし、窓の下で鶯(うぐいす)が一羽、また庭の奥では別のが一羽、鳴いていた。木々の上の空には月が出ていた。ラインハルトは、エリーザベトのすらりとした姿が木下道のあいだに消えたあたりを、それからもしばらく見つめていたが、やがて原稿を一つにまるめて、その場にいる人たちにあいさつをすると、家のなかを抜けて湖岸へおりていった。
森はひっそりとして、その黒っぽい影を遠く湖上に投げていたが、湖心はもの憂げな月の薄明りに照らされていた。ときおり木々のあいだに、さらさらと葉ずれのような音がした。しかし、風ではなかった。夏の夜の吐息にすぎなかった。ラインハルトは岸べに沿って歩きつづけた。と、石を投げればとどきそうなところに、白い睡蓮(すいれん)の花がひとつ目にとまった。にわかに、その花をまぢかに見たくてたまらなくなった。服をぬぎ捨てて、水のなかにおりた。浅かった。さきの尖(とが)った植物や石が足を傷つけた。かなり進んだが、泳ぎを必要とする深さにはならなかった。そのうち、急に足が底につかなくなり、ブクブクと沈んでゆく彼の頭の上で水がうずをまいた。ふたたび水面に浮きあがるまでには、かなり暇がかかった。あとは手足を動かして、ぐるぐる泳ぎまわり、ようやく、さきほど水にはいった場所の見定めをつけた。まもなく、睡蓮の花もまた見つかった。ぴかぴか光る大きな葉のあいだに、ぽつんとさびしく咲いている。――彼はゆっくり泳いでいった。そして、ときどき水中から腕をあげると、したたり落ちるしずくが月光にきらめいた。しかし、自分と花との距離は、いつまでたっても変わらないように思われた。ただ岸だけは、ふり返るたびごとに遠のいて、ぼんやりとかすんで見えた。それでも彼は自分の計画をあきらめずに、同じ方向をとって元気よく泳ぎつづけた。ようやく花のまぢかまで来ることができた。銀色の葉が月光のなかにはっきりと見わけられた。が、同時に網(あみ)か何かでからだがからみこまれるような気がした。ぬるぬるした蔓(つる)が水底から上までのびていて、それがあらわな手足にまつわりついたのだった。えたいの知れぬ水が黒々と周囲によどみ、うしろのほうでピチピチと魚のはねる音がした。とつぜん、こんな水のなかにいるのが不気味でたまらなくなった。そこで蔓草を力まかせにひきちぎり、息を切らせながら大急ぎで、岸をめざして泳ぎもどった。岸べから湖上をふり返ると、睡蓮(すいれん)の花はさっきと同じように、どす黒い水のおもてに遠くさびしく浮かんでいた。――ラインハルトは服を着て、のろのろと家へひきかえした。庭から広間へはいってゆくと、エーリヒと母親とが、明日出かけることになっている短い商用旅行の準備をしているところだった。
「こんなに夜遅くどこへ行っていらしたの?」
と、母親が声をかけた。
「ぼくですか? じつは睡蓮のそばへ行ってみようと思ったんですが、だめでした」
「またわからんことを言うぜ! いったい、君と睡蓮とどんな関係があるんだい?」
エーリヒが言うと、ラインハルトは答えて、
「まえに知っていた花でね。でも、もうずいぶん昔のことだ」

エリーザベト

翌日の午後、ラインハルトとエリーザベトは、みずうみの向こう岸にある森の中や突き出た崖(がけ)の上を散歩した。エリーザベトはエーリヒにいいつかって、彼と母親の留守(るす)中、この付近の景色のいいところを、ことに、対岸から屋敷そのものを眺められる場所を、ラインハルトに紹介することになったのだ。ふたりでそこここと見てまわるうちに、とうとうエリーザベトは疲れてしまい、おおいかぶさる枝陰に腰をおろした。ラインハルトは立ったまま彼女と向かい合わせの木の幹にもたれた。そのとき森の奥で郭公(かっこう)の鳴く声がきこえた。ふと彼は、以前にもこれとまったく同じようなことがあったと思い返した。彼は妙な薄ら笑いを浮かべながらエリーザベトを見つめた。
「オランダイチゴをさがしに行きましょうか」
「イチゴの季節じゃありませんわ」
「でも、もうじきでしょう」
エリーザベトは無言のまま首を振った。それから立ちあがった。そして、ふたりはまた散歩をつづけた。こうして並んで歩いて行くうちにも、彼はいくどとなく彼女のほうへ視線をそそいだ。エリーザベトの歩き方が美しくて、まるで着物に運ばれてゆくように見えたからだった。彼は思わず知らずなんども一歩おくれては、エリーザベトの姿全体をつくづくと見た。そのうちに遠くまで眺望のきく、一面にエーリカのおい茂った空地(あきち)に出た。ラインハルトは腰をかがめて、地面に生(は)えている草の一つを摘みとった。ふたたび顔を上げたとき、そこには苦痛の表情が漂(ただよ)っていた。「この花、知っています?」と、彼はたずねた。
彼女はいぶかしげに彼を見つめた。
「エーリカでしょう。森でよく摘んだわ」
「ぼくはうちに古いノートを一冊持っているんだが、昔はよく、いろんな歌や詩のようなものをそれに書きこんだものです。しかし、もうずっと前からやめてしまいました。そのページのあいだにもエーリカが一本、はさまっているんです。でも、枯れしぼんだエーリカでね。それをぼくにくれたひとは誰だか、知っています?」
彼女は押し黙ってうなずいた。けれども目は伏せたまま、ただ、ラインハルトが手に持っているエーリカを一心に見つめた。ふたりはその姿勢でながいこと立っていた。彼女が目を上げて彼を見たとき、その目には涙があふれていた。
「エリーザベト、あの青い山々の向こうに、ぼくらの青春はあるんだね。あれはどこへ行ってしまったんだろう?」
ふたりはもう何も話さなかった。無言のまま並んで湖岸へ下っていった。蒸し暑くて、西の空に黒い雲が出た。「夕立が来そうよ」と言いながら、エリーザベトは足を速めた。ラインハルトは黙ってうなずいた。ふたりは岸沿いに急いで、さっき乗ってきた小舟のところにたどりついた。
湖上をわたるあいだ、エリーザベトは、舟べりに片手をおいていた。ラインハルトは漕(こ)ぎ続けながら彼女から目を離さなかった。しかし彼女はラインハルトを見すごして、どこか遠くのほうをながめていた。そこでラインハルトの視線は下へすべって、彼女の手の上にとまった。その青白い手は、顔が秘して語らなかったことを彼に語り告げていた。夜ごと、悩める胸の上におかれる女の美しい手に跡をとどめがちな、あの人知れぬ悲しみの影を彼はそこに見てとった。――エリーザベトは相手の視線を自分の手の上に感じると、しずかにその手を舟べりから水のなかへすべらせた。
屋敷に帰りついたとき、鋏研(はさみと)ぎ屋の車が母屋(おもや)のまえにとまっていて、黒い髪をたらした男が、せっせと円形の砥石(といし)を足で踏みながら、口のなかでジプシーの歌の節(ふし)をつぶやいていた。そのそばには、引き具をつけた一匹の犬が寝そべって、荒い息をついていた。玄関には、美しい顔だちの若い女がぼろ(・・)をまとったまま立っていて、エリーザベトに物乞(ご)いの手をさしのべたが、気ちがいらしかった。
ラインハルトがポケットに手を入れるよりも先に、エリーザベトはせかせかと、財布(さいふ)の中味を全部、その女乞食(こじき)のひろげた手の平にあけてやった。それから、くるりと向きなおって、二階への階段を上って行ってしまった。すすり泣きの声がラインハルトの耳に聞こえた。
ひきとめようと思ったが、考えなおして、そのまま階段の下にふみとどまった。乞食の女はまだ玄関に立ちどまっている。もらった金を握りしめたまま、身じろぎもせずに。「まだ何かほしいのかい?」と、ラインハルトはたずねた。
若い女乞食はぎょっとしたように肩をすくめて、「いいえ、もう何も」と言い、それから、彼のほうを振り返り、うつろな目で彼を見つめながら、すごすごと戸口のほうへ歩いていった。ラインハルトはある名まえを呼んだ。しかし、それはもう女乞食の耳には入らなかった。うなだれ、胸のところに腕を組んで、若い女乞食は前庭をよこぎって下って行ってしまった。

死ぬときは ああ死ぬときは
あたしひとりなのよ!

むかし聞いた歌のひと節(ふし)が耳に響いていた。彼はハッと息をつめた。が、それも一瞬のことで、すぐにぷいとそっぽを向くと、自分の部屋へ上がっていった。
腰をおろして仕事にかかろうとしたが、まるで考えがまとまらない。小一時間もむだな努力をつづけたあげく、下の茶の間へおりていった。誰の姿も見えず、ひえびえとした緑(みどり)のほの暗さがあるばかりだった。エリーザベトの縫物台の上には、その日の午後、えり首に巻いていた赤いスカーフがのっていた。彼はそれを手にとったが、苦しくなったので、また元へもどした。気持ちが落ちつかなかった。で、みずうみへおりて行って、小舟のともづな(ヽヽヽヽ)を解いた。向こう岸へ漕(こ)ぎわたって、ついさっきエリーザベトといっしょに歩いた道を全部、もういちど歩いてみた。ふたたび家に帰ったときは、もう暗かった。前庭で、馬車馬を草地へつれて行こうとする御者(ぎょしゃ)に出あった。ちょうど短い旅行からエーリヒと母親とが帰ってきたところだった。玄関にはいると、エーリヒが庭に面した広間の中をあちこち歩いている足音が聞こえた。ラインハルトはエーリヒのところへは行かずに、ちょっと立ちどまってから、そっと階段を上って自分の部屋へもどった。窓ぎわの安楽椅子に腰をおろして、なんとなく鶯(うぐいす)の声に耳を傾けるようなふうをした。下の水松(いちい)の生垣(いけがき)のなかで鳴いているのだが、聞こえるのは自分の心臓の鼓動ばかりだった。階下では皆が寝しずまって、夜はしんしん(ヽヽヽヽ)とふけていった。しかし彼はそれに気がつかなかった。――そうやって何時間もすわっていたが、ついに立ちあがって、あけ放した窓に身をもたせかけた。夜露(つゆ)が木の葉のあいだからしたたり落ち、鶯(うぐいす)も鳴きやんでいた。しだいに東が淡いオレンジ色に染めなされて、しののめの光が夜空の紺色を奪っていった。さわやかな風が立って、ラインハルトの熱い額(ひたい)をなでた。最初の雲雀(ひばり)がさえずりながら空へ舞いあがった。――ラインハルトはくるっと向きなおって、机のそばに歩みより、鉛筆を手さぐりでさぐりあてると、腰をおろして、一枚の白紙に何事かを二、三行書きつけた。それが終わると、帽子とステッキを手にとり、紙はそのまま残して、用心ぶかくドアをひらき、玄関へおりていった。――朝のほの暗さがまだ隅々(すみずみ)に漂っていた。大きな飼い猫が茣蓙(ござ)の上に寝そべっていた。なんということもなしに手をさしのべると、背中を立てた。が、そとの庭では、もう雀たちが小枝にジュッジュッと鳴きはじめて、夜が明けたことを皆に告げていた。そのとき階上のドアが一つ開く音がした。誰か階段をおりてくる者がある。顔を上げて見ると、エリーザベトだった。エリーザベトは彼の腕に手をかけて、唇(くちびる)をうごかした。しかし、ことばは聞きとれなかった。ようやく最後に、
「もう二度と来てはくださらないのね。わかっているわ。うそをおっしゃらないで。もう二度とふたたび来てはくださらないのね」
と、彼女は言った。
「そうです」と、ラインハルトは答えた。彼女は力なく手をおろして、それっきり何も言わなかった。彼は玄関のとびらのほうへ歩いてゆき、それから、もういちど振り向いた。エリーザベトは同じ場所にじっと立ったまま、生気のない目つきで彼を見ていた。ラインハルトは一歩ふみ出て、両腕を彼女のほうへさしのべたが、やがて無理に背を向けて、戸口から出ていった。――そとはすがすがしい朝の光を浴びていた。蜘蛛(くも)の巣にかかった露(つゆ)の玉が、さしはじめた朝日にきらきら光っていた。ラインハルトはうしろを振り返らなかった。さっさと前向きに歩いていった。その彼の背後に、ひっそりとした屋敷がしだいに小さくなってゆき、前面には、大きな広い世界がひらけていった。――

老人

月影はもう窓ガラスにはなく、部屋のなかは暗くなっていた。それでも老人は手を組んだまま、あいかわらず安楽椅子(いす)にもたれて、ぼんやり宙を見ている。彼を包む濃い暗やみは、しだいに広々とした暗いみずうみに変わっていった。一脈のどす黒い水が眼前につらなると見るまに、それはしだいに深く遠くなってゆき、その最後の、老人の目にはほとんど見定めがたい遠い水面に、広やかな葉にかこまれて、さびしくぽつりと、白い睡蓮(すいれん)の花が浮かんでいた。
部屋のドアが開いて、明るい火影(ほかげ)がさしてきた。
「よいときに来てくれたね、ブリギッテ! 明りは机の上においてもらおう」
そう言ってから、老人はまた椅子を机のそばにひきよせて、ひろげたままになっている書物の一冊を手にとって、かつて彼が青春の力を傾けて打ちこんだ研究に没頭した。
三色(さんしき)すみれ

大きな家のなかはひっそり閑(かん)としていた。けれども、玄関にいてさえ、すがすがしい花束の香りがした。両開きのドアが、階上へ通じる広い階段の反対側に見えているが、その奥から、さっぱりとした身なりのお手伝いの婆(ばあ)さんが出てきた。婆さんは、いかにも得意そうなもったいぶったようすで、うしろのドアをしめて、ゆっくりと灰色の目であたりの壁をながめまわした。ここでも塵(ちり)ひとつ見のがしはしないぞというふうに。だが、間もなく得心がいったようにうなずくと、こんどはイギリス製の古い柱時計のほうをちらりと見た。その時計のオルゴールは、ちょうど二度目の歌をおえたところだった。
「もう半だ! 先生のお手紙では、八時には、おそろいでお着きになるということだったっけ」
そうつぶやいてから、婆さんはポケットに手を入れて大きな鍵(かぎ)束をさぐりあてると、家の裏手の部屋へ姿を消した。――ふたたび、ひっそりとなった。ただ時計の振子(ふりこ)の音が、広い玄関のなかや階上へ響くばかりだった。玄関口の上の窓からは、まだ一条(ひとすじ)の夕日の光がさしこんで、時計のケースを飾る金メッキの三つの擬宝珠(ぎぼし)〔欄干の飾り〕の上にきらめいていた。
やがて二階から、小刻(きざ)みの軽い足音がして、十歳くらいの女の子が階段の踊り場にあらわれた。この子も晴着姿になっていて、赤と白の縞(しま)の服が、小麦色の顔と、つやつやした黒いお下げの髪にマッチしてよく見えた。一方の手を手すりにかけ、その手に頭をのせて、ゆっくりゆっくりすべりおりるかたわら、黒っぽい目を真向かいの部屋のドアに夢みるようにそそいでいる。
女の子は、ちょっと玄関に立ちどまって耳をすました。それから、そっと部屋のドアを押しあけ、重いカーテンをかきわけて、こっそり中へはいっていった。――部屋のなかは、もう薄暗くなっている。奥ゆきのあるこの部屋の二つの窓は、高い家並(やなみ)にせせこましくかこまれた通りに面しているからである。ただ、わきのソファーの上あたりで、濃い緑色のビロードの壁掛(かべか)けをバックにしたヴェニス製の鏡が銀色に光っているばかりだ。このさびしさのなかでは、鏡は、すがすがしいバラの花束の姿を映しだす役目しか持っていないらしい。その花束は、ソファーの前におかれたテーブルの大理石の花瓶(かびん)にいけてある。しかし、まもなくその鏡の枠(わく)のなかに、黒っぽい子どもの頭があらわれた。さっきの女の子が爪(つま)立って、ふくよかな絨毯(じゅうたん)をふみつけながら忍びよってきたのだった。女の子は、花瓶のそばまでくると、たえずドアのほうを振り返りながら、せかせかと、かぼそい指を花の茎(くき)のなかへさしこんだ。そしてやっと、開きかけの苔(こけ)バラを一輪、首尾よく花束からもぎとることができたが、とげ(・・)に気をつけなかったため、手に傷をして赤い血をしたたらせた。女の子はあわてて――もう少しで血が高価なテーブル・クロスの模様のなかへ落ちるところだったからだ――その血を唇ですいとった。それから、もぎとったバラを握りしめたまま、さっきのようにそっと忍び足に、ふたたびドアの重いカーテンをかきわけて玄関へ出ていった。ここで、もういちど耳をすますと、さきほどおりてきた階段をかけのぼり、さらに廊下づたいに最後のドアのところまで走っていった。そこの窓の一つに、夕日を浴びながら風を切るようにすいすいと飛ぶ燕(つばめ)の姿が見えた。女の子はその窓からちらりと外を見ると、ドアのノッブに手をかけて押しあけた。
そこは父親の書斎で、これまで父親の不在のときは足をふみ入れたことのない部屋である。まわりには高い書棚があって、たくさんの本がいかめしくずらりと並んでいる。ひとりっきりになった女の子は、ためらいがちにうしろのドアをしめたが、このとき、ドアの左手にある窓の下で、けたたましく吠(ほ)える犬の声がした。女の子は真剣な顔ににっこり微笑を浮かべると、すばやく窓ぎわへ行って外を見た。下には、広い芝生と茂みの二つに区分けをされて、大きな庭がひろがっている。しかし、仲よしの犬はもう、どこかへ行ってしまったらしく、どんなに目でさがしても見つからなかった。するとまた女の子の顔には、しだいに影のようなものがさしてきた。ほかの用事でこの部屋に来たからには、犬のネロなぞになんの関係があろう!
この部屋には、さっき女の子がはいってきた戸口と向かいあって、もう一つの西向きの窓がついている。その横の壁ぎわには、ちょうど日の光が腰をおろした人の手もとにさしこむような位置に、考古学者の必要とするような資料をそろえた大きなデスクがあって、ローマやギリシアの青銅製品やテラコッタ、古代の神殿や家屋の小さな模型、そのほか遺跡から発掘された物品などが、デスクの飾り台をうずめていた。その上の壁に、青い春風から抜けだしたように見える、ある若い女の等身大の胸像画がかかっていた。ブロンドのお下げ髪が、すっきりとした額(ひたい)に青春の冠(かんむり)のようにたれている。――彼女の友人たちは、「優雅な」という古風なことばをわざわざさがしだしてきて、彼女にささげたほどである。――彼女がまだこの家の入口で、おとずれる人たちをにこやかに迎えていたころには。――いまでも彼女は、こうした絵姿となって、青い子どもじみた目で壁から見おろしている。ただ口もとに、かすかな悲しみの影がただよっているようだが、それは生前には見られなかった影だ。画家は、これを描いた当時にもその点を非難されたものだが、彼女の死後には、それが誰にもなるほどと思われるようになったのである。
黒い髪の女の子は、足音を忍ばせて近よると、いかにも心からなつかしそうに、その美しい女の肖像をじっと見つめるのだった。
「おかあさま、あたしのおかあさま!」
女の子はつぶやくように言ったが、しかしそのつぶやきには、同時に母親にしがみつこうとするような激しさがこもっていた。
美しい顔は、前のように血のかよわぬままに壁から見おろしている。だが、女の子は猫のようにすばしこく、その手まえの椅子からデスクの上へよじのぼると、すねたように唇を突き出して絵の前に立ち、ふるえる両手をのばして、もぎとったバラを金色の額ぶちの下(枠(わく)のあいだへさしこんだ。それから、すばやくまた元のところにおりて、デスクの鏡板に残った足あとを注意ぶかくハンケチでふきとった。
それにしても女の子は、さっきおずおずと足をふみ入れた部屋から、ふたたび出て行くのがむずかしそうだった。すでに二、三歩戸口のほうへ歩きだしたかと思うと、それからまたひき返したのだ。デスクの横の西側の窓が、こんなに彼女をひきつける力を持っているらしかった。
この窓の下にも庭があった。もっと正確に言えば、荒れ庭があった。もちろん広くはない。おい茂る藪(やぶ)で見えないところ以外には、まわりに高い壁をめぐらしてあるのだ。窓の向こう側の壁ぎわには、明らかにこわれかかった戸のない葦葺(あしぶ)きの小屋があり、そのまえには、まだ一脚の庭椅子がおいてあって、みどりの織物のようなセンニンソウにほとんどおおわれている。昔は小屋と向かい合ったところに、背の高い一群のバラが咲いていたにちがいないが、それも今では枯れた柴(しば)のようになって、色あせた突っかい棒にだらりとたれさがり、その下に、大輪のバラから落ちる花びらが雑草のうえにまき散らされていた。
女の子は窓敷居に腕をもたせかけ、あごを両手でささえて、待ちこがれるような目つきで下を見おろした。
むこうの葦葺きの小屋には、二羽の燕(つばめ)が出たり入ったりしていた。おそらく小屋のなかに巣をつくったのであろう。ほかの鳥たちは、もうねぐら(ヽヽヽ)に帰ってしまっていた。ただ駒鳥(こまどり)が一羽、花の落ちたキングサリのいちばん上の枝にとまって、なおしきりと鳴きながら、黒い目で女の子を見つめていた。
「ネージーちゃま、どこへいらしてたんです?」
やさしい年よりの声がして、その手が子どもの頭をなでさすった。
お手伝いの婆(ばあ)さんが、いつのまにか部屋に入ってきていたのだった。女の子は振り向いて、ものうげな表情で婆さんを見つめた。
「アンネ、もいちどあたし、おばあちゃまのお庭にはいらしてもらえないかしら!」
婆さんはそれには返事をしなかった。ただ口をむすんで、二、三回、同意のしるしのようにうなずいてみせた。それから声をかけて、
「さあ、いらっしゃい! まあ、なんて顔をなさるんです! もうじきにお着きですよ、おとうさまと新しいおかあさまが!」
そう言いながら、婆さんは女の子を抱きよせて、髪の毛をなでつけたり、服をつまんでひっぱったりして、身なりをととのえてやった。
「あら、いけませんね、ネージーちゃま! 泣いたりなぞするものじゃありませんよ。こんどのおかあさまは、おやさしい、そのうえきれいなお方ですってさ。あなただってきれいなお人は大好きなんでしょう!」
このとき、車のガラガラという音が通りから響いてきた。女の子はぴくりと身をすくめた。しかし、婆さんはその手をとって、すばやく部屋から連れだした。――まだ間(ま)に合って、玄関先に乗りつける車を見ることができた。ふたりの若いお手伝いさんが、もう玄関のドアをあけて待っていた。
――さっきの婆さんのことばは、まちがっていないようだった。謹厳(きんげん)な顔つきから、ネージーの父親であることがすぐにわかる四十歳くらいの男に助けられて、若い美しい婦人が車からおりた。彼女の髪も目も女の子の髪や目と同じくらいに黒っぽかった。この婦人が継母になったひとなのだが、ちょっと見たのでは実母だと思われるかもしれなかった。ただ若すぎるので、そうでないことがわかるのだ。婦人はにこやかに会釈(えしゃく)をしながら、その目でさぐるようにあたりを見まわしたが、すばやく夫に引立てられて階下の部屋へはいっていった。そこの部屋では、すがすがしいバラの香りが彼女を迎えた。
夫は彼女をふくよかな安楽椅子にすわらせながら、
「いっしょにここで暮らすことになるんだよ。なにしろ新しい家に来たのだから、ひとまず気が落ちつくまで、この部屋を離れないことだな!」
彼女は心をこめて彼を見あげた。
「だけどあなたは――そばにいらしてくださらないの?」
「ぼくは家の最上のお宝をつれてくる」
「そうだわ、ルードルフ、あなたのアグネスをね! さっきはどこにいたのかしら?」
彼はもう部屋を出ていた。さきほど家に着いたとき、父親の彼はネージーがアンネ婆(ばあ)さんのかげにかくれて出て来なかったのを見のがしはしなかった。いま、そのネージーが迷子(まいご)のように玄関のたたき(ヽヽヽ)に立っているのを見つけると、彼は両腕に抱きあげて、そのまま部屋へつれてきた。
「さあ、ネージーが見えましたぞ!」
彼は女の子を美しい継母の足もとの絨毯(じゅうたん)の上におろしてから、まだ何か用事がありそうに部屋から出て行った。彼はふたりだけにしておいてみたかったのだ。
ネージーはゆっくり起きなおると、無言のまま若い夫人の前に立った。ふたりは不安そうにさぐるような目つきで見あった。夫人のほうは、当然よろこんで迎えてくれるはずだと決めこんでいたのであろう、やがて女の子の両手をとると、まじめな口ぶりで、
「あなたもわかってるでしょうけど、こんど、わたしがあなたのおかあさまになったのよ。仲よくしましょうね、アグネス!」
ネージーは横を見て、はにかみながらたずねた。
「だけど、ママと呼んでもいいでしょう?」
「ええ、もちろん、ママとでもおかあさまとでも、あなたのお好きなようにおっしゃいな!」
女の子は、きまり悪そうに彼女を見あげて、やるせなげに答えた。
「あたし、ママってなら言えるわ!」
若い夫人はちらりと女の子に視線を投げて、黒っぽい目で、なお黒っぽいその子の目をひたと見つめた。
「ママとなら言えても、おかあさまとは言えないの?」
「おかあさまはなくなったんですもの」
と、ネージーは低い声で言った。
思わずも心がぐらついて、若い夫人はその子を両手で突き放した。が、すぐにまた熱っぽく胸に抱きよせて、
「ネージー、おかあさまでもママでもおんなじことじゃないの!」
ネージーはしかし、なにも答えない。ネージーは死んだ母親を、いつも「おかあさま、おかあさま」と呼んでいたのだ。
――ふたりの問答は終わった。ふたたび主人が部屋に入って来たのだった。彼は幼い娘が若い妻の胸に抱かれているのを見ると、満足そうにほほえんだ。
「ところで、さあ今から、女主人としてこの家の部屋をみんな見てもらおうか!」
と、彼は若い妻に手をさしのべながら、晴れやかに言った。
それから、いっしょに出て行った。階下の部屋や、炊事場(すいじば)や地下室を通り、つぎに広い階段をあがって大きな広間にはいり、階段の両側の廊下に面した小部屋や寝室にもはいっていった。
もう夕方も暗くなりかけていた。若い妻は、しだいに重く夫の腕にしなだれかかった。目の前でドアが開くたびに、新しい重荷が彼女の肩にかかってくるかのようだった。陽気に話しかける夫のことばにも、ますます口数少なく答えるようになった。しまいに書斎の入口にたったときには、とうとう彼も口をつぐんでしまって、押し黙ったまま肩にもたれかかっている美しい顔を、自分のほうへ仰向(あおむ)かせた。
「どうしたの、イーネス? うれしそうに見えないね!」
「いいえ、とんでもない、うれしく思っていますわ!」
「じゃあ、はいりなさい!
ドアをあけると、やわらかい光が流れてきた。西の窓から、小さい庭の茂みのかなたに傾いた夕日の金色の光がさしこんでいる。――この光に照らされながら、亡妻の美しい肖像が壁から見おろしていた。その下のいぶし金の額ぶちにさしこまれている、すがすがしい赤いバラが、まるで燃えるように見える。
若い妻は思わず手を胸にあてて、無言のまま、このあでやかな生き生きとした肖像をじっと見つめた。しかし、そのときにはもう、夫の腕が彼女をしっかりと抱きしめていた。
「あれはぼくを幸福にしてくれたが、こんどは、あんたがそうしてくれなければね!」
彼女はうなずいたけれど、口はきかなかった。息をつくのが苦しそうだった。ああ、この先妻のひとはまだ生きているのだ。やはり一つ家に、彼女らふたりを入れる余裕はなかったのだ!
さきほどネージーがいた時のように、いままた、北側にある大きな庭から、けたたましく吠(ほ)える犬の声が聞こえてきた。
若い妻は、夫のやさしい手にひかれて、そちら側の窓べに歩みよった。
「この下を見てごらん!」
と、彼は言った。
大きな芝生地をかこんでいる下の小道に、黒い毛並みのニューファウンドランドがうずくまっていた。その目の前にネージーが立って、黒いお下げを犬の鼻先でぐるぐるまわしながら、しだいにその輪を狭めている。すると犬は顔を仰向(あおむ)けて、ワンワン吠(ほ)える。それがおもしろくてネージーは笑い、あらたにその遊びを始めるのだった。
この無邪気ないたずらをじっと見ていた父親も、ほほえまずにはいられなかった。が、そばの若い妻は、にこりともしないのだ。一瞬、彼は暗く顔をくもらせて、「これが実の母親だったらなあ!」と、胸のなかで思った。しかし、口先では大きな声で、
「あれはうちのネロだよ。あれとも近づきになってもらおう、イーネス。あれとネージーとは仲よしでね、あんな図体(ずうたい)をしながら人形の車の前につながれることもあるんだよ」
彼女は彼の顔を見あげた。
「このうちには、ずいぶんいろんなものがありますのね、ルードルフ。勝手がわかるようになれたらいいんですけど!」
放心したような調子のことばだった。
「イーネス、夢みたいなことを言ってるね! ぼくらと子どもなんだから、世帯はぎりぎりの少人数じゃないか」
「ぎりぎりの?」
力なく鸚鵡(おうむ)返しに言った彼女の目は、いま犬とともに芝生のまわりをかけまわっている女の子のあとを追っていた。それからいきなり、不安に襲(おそ)われたように夫を見あげ、その首に抱きついて、すがるように言った。
「お願い、わたしをしっかり抱いて! つらいわ、わたし」

幾週、幾月かが過ぎていった。――若い妻の心配したことは現実に起こりそうもなかった。家の取締りは自然に彼女の手でおこなわれるようになったのだ。召使いたちは、愛想がよくて上品な彼女の人柄に心服したし、外来の客も、いまは主人と同格の夫人がふたたび家の中をおさめていることを感じた。もちろん、洞察力(どうさつりょく)の強い夫の見た感じはちがっていて、イーネスの家事のさばき方は、彼女に無縁な他家の世話でもまかせられているようで、念に念をいれて良心的な代理人としての管理義務をはたしているのが、よくわかるのだった。ときおりイーネスが情熱的になって、彼女は彼のもの、彼は彼女のものだと、はっきり確かめずにいられないかのように彼の胸にしがみつくことがある。そういうときは、経験者だけに不安をおぼえるのだった。
ネージーにたいしても、もっと親密な関係ができたわけではなかった。内心の声――愛と賢明(けんめい)の――に命じられて、若い妻は、なくなった母親のことをネージーと話すようにつとめた。継母の彼女がこの家に入ってからというもの、ネージーはかたくなに母親の思い出を生き生きとよみがえらせつづけたからである。だが――問題は、二階の夫の部屋に掲(かか)げてあるあのあでやかな肖像で――イーネスの心の目さえも、あれを見るのを避けたほどである。もちろん、これまで幾度となく、思いきってネージーを両手で抱きよせたことはあったが、あとがうまくいかなくて、つい黙りこんでしまうのだ。口が言うことをきかないのである。すると、そのときまでイーネスの感動ぶりを見てうれしそうに黒っぽい目を輝かせていたネージーは、またもや、しょんぼりと立ち去ってしまうのだった。奇妙にもネージーは、この美しいひとにかわいがられることを熱望していたのである。けれどもネージーには、うちとけた会話のキーポイントとなる呼びかけのことばが見つからないのだった。一方の呼び名なら――とネージーは思った――言ってもいいけれど、もう一つの呼び名は言うわけにいかないのだ。
このあとのほうの気がねは、イーネスも感じていた。だが、この気がねはたやすく解消されそうに思われて、いつも彼女の考えはこの点に立ち返ってしまうのだった。
こうして彼女は、ある日の午後、居間で夫のそばに腰をおろして、かすかな音をたてながらサモワールから立ちのぼる湯気を見つめていた。
ルードルフは、ひととおり新聞に目を通すと彼女の手を握りしめた。
「ばかに神妙にしているね、イーネス。きょうは、ただの一度も話しかけてくれないじゃないか!」
「わたし、ちょっと申したいことがあるんですけど」
と、イーネスはためらいがちに言って、その手を彼の手から放した。
「じゃあ、話してごらん!」
しかしイーネスは、なおしばらく黙っていた。が、ついに口をひらいて、
「ルードルフ、あなたのネージーにわたしをおかあさまって呼ばせていただきたいの!」
「あの子はそう呼んでいないのかい?」
彼女は首を横に振って、この家に着いた当日起こったことを話した。
彼は静かに彼女の話に耳を傾けていたが、やがて言った。
「それは子どもの心が本能的に見つけだした抜け道なんだね。それをぼくらはありがたく思って、認めてやるわけにいかないのかな?」
若い妻はそれには答えないで、ただこう言った。
「そんなことをしたら、あの子は、いつまでたってもわたしになついてこないわ」
彼はふたたび彼女の手をとろうとしたが、彼女は手をひき放した。
「イーネス、自然が拒むものは求めないことだね。ネージーにおまえの子どもになってくれとか、おまえにあれの母親になってくれとか、そんな要求は持ち出さないがいいよ!」
涙が急に彼女の目にあふれてきた。
「だけど、やはりわたしには、あの子の母親になる義務があるわ」怒気(どき)を含んだような声だった。
「あの子の母親に? いや、イーネス、そりゃいけないよ」
「では、どうしたらいいんです、ルードルフ?」
――この問いに応ずる手近な答えがわかっていれば、彼女は自分で答えたことだろう。彼はそれを察して、考えこみながら彼女の目をのぞきこんだ。ぜひとも助けになることばを見つけなければというように。
彼女は彼の沈黙を誤解した。
「どうぞおっしゃって! なにも返事をしてくださらないのね」
「なに、イーネス! おまえの血を分けた子どもが膝(ひざ)にいるようになればいいさ!」
彼女は身を守ろうとするようなしぐさをした。しかし彼は言った。
「そのうち、そういう時が来るさ。おまえは自分の目からあふれる喜びが、おまえの子どもの最初の微笑をよび起こし、小さい魂がおまえにひきつけられるのを感じるよ。――ネージーの上にも、むかし二つの幸福な目が輝いたことがあってね。そのときあの子は、自分のほうへかがめられた背首にかわいい腕をからませて、『おかあさま!』と言ったっけ。――あの子がもう誰にもおかあさまと言えないからって、腹を立てるものじゃないよ!」
イーネスは彼のことばをほとんど聞いてはいなかった。彼女の考えは、ただ一点だけを追っていた。「あの子はおまえの子どもではない、とおっしゃれるのなら、どうしてまた、おまえはぼくの妻ではない、とおっしゃれないんです!」
それでケリになった。夫の述べる理屈なぞ、彼女になんのかかわりがあったろう!
彼は彼女を抱きよせて、なだめようとつとめた。彼女は彼に口づけをして、涙に濡(ぬ)れた目で彼を見つめた。けれども、それで彼女の気持ちが救われたわけではなかった。――

ルードルフが立ち去ると、イーネスは大きな庭へ出ていった。庭にはいるとき、ネージーが教科書を手にして広い芝生のまわりを歩いている姿が見えたが、イーネスはネージーを避けて、庭の塀(へい)づたいに通っている茂みのなかの抜け道をたどっていった。
ネージーはちらりと目を上げた。そのとき、抜け道を歩く継母の美しい目に悲しみの色がただよっているのを見てとったネージーは、学課の復習をつづけるうちにも、磁石(じしゃく)にひかれるように、しだいに自分もまた抜け道へはいっていった。
ちょうどイーネスは高い塀にとりつけた小門のまえに立っていた。小門には、藤(ふじ)色の花をつけた蔓(つる)草がほとんど一面にからみついている。その門をぼんやりした目つきでながめていたが、やがてまた静かに歩きはじめようとするところへ、向こうからやってくるネージーの姿が見えた。
彼女は立ちどまって、
「ネージー、これはどういう意味のご門なの?」
「おばあさまのお庭へ行くご門よ!」
「おばあさまのお庭へ?――おじいさまもおばあさまも、とっくにおなくなりになったんじゃないの!」
「そうよ、もうとっくの昔にね」
「それで今はどなたのものなの、このお庭は?」
「あたしたちのお庭よ!」
ネージーはわかりきったことのように答えた。
イーネスは美しい顔を茂みの下へもぐらせて、門の鉄の引手をガチャガチャ動かしはじめた。ネージーは、この労苦が報いられるのを待ち受けるかのように、無言のままそばに立っていた。
「この戸はカギがかかってるわ!」
若い妻はそうさけんで手を放すと、指についた錆(さび)をハンケチで拭(ふ)きとった。
「これが、おとうさまのお部屋の窓から見える荒れたお庭なのね?」
ネージーはうなずいた。
――「あれ、向こうで鳥が鳴いているわ!」
いつのまにか婆(ばあ)さんが庭に入って来ていた。ふたりの声が塀(へい)のところから聞こえたので、あわててそばまで来たのだった。「お客さまでございます」と、婆さんは知らせた。
イーネスは、やさしくネージーのほほをなでてやった。そして立ち去りながら、
「おとうさまは怠けものの庭師さんね。わたしたちふたりでお庭にはいって、きれいにしなくてはだめなのね」
――家にはいると、ルードルフが迎えた。
「今夜、ミュラーの四重奏団の演奏があるんだね。ドクトル夫妻が見えて、すっぽかさないようにと言ってるよ」
ふたりで来客の部屋にはいったあと、しばらく音楽の話がにぎやかに続けられた。それからも、まだいろいろと家事のことで手間がかかって、荒れた庭は、きょうのところ忘れ去られてしまった。

音楽界の夕べ。――逝(ゆ)ける巨匠たち、ハイドンやモーツァルトの曲が聴衆の耳をかすめてすぎ、ベートーヴェンのハ短調四重奏曲の最後の和音も響かなくなったところである。それまでは音だけが高く低く荘厳(そうごん)な静けさのなかで輝いていたのに、いまは、ぞろぞろと出てゆく聴衆の雑談の声が広いホールのなかをうずめていた。
ルードルフは若い妻の椅子の横に立って、彼女のほうへかがみこみながら言った。
「終わったんだよ、イーネス。それとも、まだ何か聞こえるのかい?」
彼女は、演奏者が去って譜面台だけが残っている舞台のほうへ目をそそいで、まだ耳をすましているように見えた。が、夫の言葉を聞くと手をさしのべて、「帰りましょう、ルードルフ」と、立ち上りながら言った。
戸口で、かかりつけの医師夫妻にひきとめられた。イーネスがこれまでに親しくつきあるようになった人といえば、この夫妻だけである。
「いかがでした?」
と、ドクトルは心から満足したような表情で軽く頭を下げながら、あいさつをした。
「ところで、うちへお寄りになりませんか、途中なんですから。こういう会のあとでは、もうしばらくごいっしょにいないと気がすまないのでしてね」
ルードルフはきげんよく同意の返事をするつもりだった。が、このとき、そっと袖(そで)を引かれるような気がして、見れば、妻が哀願の色をこめた目を自分にそそいでいるのだった。ルードルフには妻の気持ちがよくわかった。
「その決定は上級裁判所にたのんでみてくれませんか」
と、彼は冗談めかして言った。
するとイーネスはなかなか承知しようとしないドクトルを、いずれまた日を改めてとことわって、強引(ごういん)に納得(なっとく)させてしまった。
医院のそばで夫妻に別れを告げると、イーネスは解放されたように、ほっと息をついた。
「きょうはドクトル夫妻の何が不足だったの?」
ルードルフはたずねた。
イーネスは夫にぴったりと寄り添って、
「いいえ、なんにも。だけど、今夜はとても楽しかったわ。これであなたと二人っきりになれるわ」
夫婦はすたすたと足を速めて家に向かった。
「ほら、下の居間には、もう明りがついているよ。アンネ婆(ばあ)さんが、もうお茶の支度をしてくれたんだろう。おまえの言ったとおりだ。他人のうちより、やっぱりわが家のほうがいいね」
彼女は軽くうなずいて、そっと彼の手を握りしめた。――それから夫婦は家にはいっていった。イーネスは勢いよく部屋のドアをあけて、カーテンをはね返した。
以前はバラの花瓶(かびん)がおかれていたテーブルの上に、いまは大きな青銅のランプがともって、ほそい腕を枕に俯伏(うつぶ)に眠っている黒い髪のネージーの頭を照らしていた。絵本の端(はし)がその下から、わずかにはみ出ている。
若い妻はぎょっとしたように戸口に立ちすくんだ。ネージーのことはすっかり忘れていたのだ。いとわしい幻滅の影が彼女の美しい唇(くちびる)のあたりをちらとかすめた。そして、夫に部屋のまん中までつれこまれたとき、吐き出すように言った。
「まあネージー! まだこんなところで何をしているの?」
ネージーはハッと目をさまして、とび起きた。「待っていようと思ったの」と言って、あいまいな微笑を浮かべながら、ぱちぱちとまたたく目を片手でこすった。
「いけないアンネね。もうとっくにお寝間へ入っていなくちゃならないのに」
イーネスはぷいと横を向くと、窓ぎわへ歩みよった。涙が目にあふれてくるのがわかった。さまざまのにがい思いが――郷愁や、自分自身への哀れみや、愛する夫の子どもにたいする自分の冷たさを悔いる気持ちなどが、ほぐしがたくごたごたと胸に入り乱れた。いま自分の心に襲(おそ)ってくるのは何なのか、彼女にさえもわからなかった。しかし、苦しみから来る快(こころよ)さとひねくれた気持ちにかられて、彼女はわれとわが心に言いきかせた――自分の結婚には青春が欠けているのだ、自分はまだこんなに若いのに、と。
ふり向くと、部屋のなかはがらん(ヽヽヽ)としていた。――あてにしていた楽しい時間は、どこへ行ってしまったのだろう?――その時間を追い立てたのは自分自身だということを、彼女は考えてみなかった。
――ネージーは、わけのわからぬ継母の態度をおびえたような目つきで見守っていたが、そっと父親の手で連れ出されたのだった。
我慢(がまん)することだ!」ルードルフはネージーを抱きかかえるようにして階段を上るとき、自分自身に言いきかせた。そして彼もまた別の意味で、こう言い添えた――「なにしろ、あれはまだあんなに若いのだから」
一連の考えと計画が頭に浮かんできた。ルードルフは機械的に部屋のドアをあけたが、そこはネージーがアンネ婆(ばあ)さんといっしょに寝るところで、もう婆さんが待っていた。ルードルフはネージーに口づけをして、
「おとうさんからママにおやすみを言ってあげようね」と言い、それから妻のところへおりて行こうとしたが、ふたたび引き返して、廊下(ろうか)の突き当たりにある書斎へはいっていった。
デスクの飾り台の上にはポンペイの青銅製の小さなランプがおいてある。これは最近ようやく手に入れたもので、ためしに油が入れてあった。それをおろして火をともすと、ふたたびいつもの場所においた。上には亡妻の肖像画がかかっている。そして、デスクの鏡板の上の花をうけたコップをランプのそばに並べた。こんなことをほとんど夢中でやってのけたが、そのようすは、頭と心が働いているあいだ手にも仕事をさせる必要があるかのようだった。それから、すぐそばの窓ぎわに歩みより、開き窓を両方ともあけた。
空には雲がいっぱい出ていた。月光は下までとどかなかった。下の小さな庭には、どす黒いかたまりのような藪(やぶ)があって、おい茂っている。葦葺(あしぶ)きの小屋へ行く小道がそこの黒いピラミッド型の針葉樹のあいだを通っていて、そのあたりだけ、ほのかに白い砂利(じゃり)が光っていた。
こういう静寂(せいじゃく)にとざされて下をながめている男の幻想の中から、亡妻のなつかしい姿が浮かんできた。下の小道をぶらついている。彼はその彼女と並んで歩いているような気がした。
「おまえの思い出で私の愛する力を強めてくれ」
彼はつぶやいたが、亡妻は答えず、美しい青白い顔をうつむけたままである。彼は亡妻が身近にいるのだと思うと、快いわななきを覚えた。しかし相手は話しかけてなぞくれないのである。
そうだ、いま自分はこの二階にひとりっきりでいるのだと、このとき彼は思った。死はどこまでも厳粛(げんしゅく)である。それを疑いはしなかった。彼女がいた時期は、もう過ぎ去ったのだ。――しかし彼の目の下には、かつての日のように、いまも彼女の両親の庭があった。本から目を離して窓の外をながめたとき、はじめて彼はそこの庭に、十五歳くらいの少女の姿を見たのだった。ブロンドのお下げ髪をしたその少女は、まじめな彼の思慮を日ましに奪い去り、さいごに妻として彼の家の敷居をまたぐことになったのだ。そして、独身のときにもまさる多くのものを報いてくれたのである。――幸福と楽しい仕事の年月が彼女とともにおとずれてきた。両親が早くなくなって家が売られたときにも、小さな庭だけは手放さずにおいて、境界の塀(へい)に小門をとりつけて、自分たちの家の大きな庭につないだのだった。もうそのころには、この小門は、からみついた蔓(つる)草にかくされてほとんど見えなくなっていたが、別に手をつけないで蔓草の茂るがままにしておいた。それというのは、この小門をくぐって夏をすごすのに快適な場所へ行ったからで、そこへは友人たちもめったに通したことがなかった。――葦葺(あしぶ)きの小屋は、かつて彼がここの窓から、まだ少女の彼女が学校の勉強にふけっている姿をのぞいたことのある場所だが、そこには、黒っぽい分別くさい目をした女の子が金髪の母親の足もとにすわっていた。彼は仕事から顔を上げると、人生の満ちあふれた幸福に見入るのだった。――しかし、ひそかに死神が、その種(たね)をまいていた。ある六月の上旬のこと、病気の重くなった妻のベッドは、となりの寝室から夫の書斎へはこびこまれた。彼女は、かつての幸福の園(その)から開いた窓越しに吹きこむそよ風にふれたがったのだ。大きなデスクはわきへよせられ、彼の考えはすべて彼女にそそがれた。――外では、めずらしくうららかな春がよみがえっていた。桜の木は、雪のように白い花につつまれていた。われにもなく胸の迫る思いがして、彼は軽い妻のからだを布団(ふとん)から抱きあげて、窓ぎわへはこんでいった。
「そら、もういちど見てごらん! じつに美しいながめだ!」
しかし妻は、かすかに首を振って、
「もうわたしには見えませんわ」――
まもなく臨終の時がおとずれた。彼女の口からもれるつぶやきは、もう意味がわからなかった。目の光もしだいに弱くなっていった。ただ苦しそうな痙攣(けいれん)が唇(くちびる)を動かしているだけで、断末魔の荒いうめくような息づかいが、たえだえに聞こえた。しかし、それもいよいよかすかになって、蜜蜂(みつばち)のうなり声のような甘やかさに変わった。それからもういちど、燐光(りんこう)のようなものが見開いた目の中にひらめくと、安息がおとずれた。
「おやすみ、マリー!」――しかし、もう彼女には聞こえなかった。
――さらに一日たって、静かな、けだかい姿は棺(かん)に納められ、階下の広い薄暗い部屋におかれた。家の召使いたちが、そっと部屋に入ってきた。彼はアンネ婆(ばあ)さんに付き添われた子どもと並んで立っていた。
「ネージーちゃま、こわくなんぞないでしょうね?」
婆さんがたずねると、ネージーは死の崇高(すうこう)な息吹(いぶ)きにふれて、こたえた。
「いいえ、アンネ、あたしお祈りをしているの」
やがて、彼女と同行ができるのも、これが最後だという時をむかえた。ふたりの望みどおり、司祭も見えず、鐘の音も響かなかったが、神聖な明けがたで、ちょうど最初の雲雀(ひばり)が空へ舞いあがっていった。
それはもう過ぎ去ったことだ。しかし彼は、まだ消えぬ悲しみの中で彼女を失わずにいた。目には見えなくても、彼女は彼とともに生きつづけていた。けれども、いつしかその面影(おもかげ)も消え去った。彼はやるせない思いで、しばしば彼女をさがしたが、見つかるのも稀(まれ)になっていった。はじめて彼には、自分の家の中ががらん(ヽヽヽ)として荒れ果てているように思われた。すみずみにも、以前には見られなかったような薄暗がりがただよっていた。身のまわりは異様に変わってしまい、彼女はどこにもいなかった。
――月がむら雲の裂け目からあらわれて、下の荒れ庭を明るく照らした。彼はずっと同じ場所に立って、頭を窓の桟(さん)にもたせかけていた。が、その目はもう、ほかの景色など見てはいなかった。
そのとき、うしろのドアが開いて、美しいけれど、どことなく陰(かげ)のある女がはいってきた。
かすかな衣(きぬ)ずれの音が耳に伝わった。彼はふり向いて、さぐるように彼女を見つめた。
「イーネス!」
彼は、はじけるような勢いで呼んだが、しかし歩みよろうとはしなかった。
イーネスは立ちどまったままだ。
「どうなすったの、ルードルフ? わたしを見て、びっくりなさったの?」
彼は首を横に振って、無理にほほえみながら、
「さあ、下へ行こう」
しかしイーネスは彼に手を握られているうちに、ランプに照らされた肖像と、そのわきの花に目をそそいでいた。――とっさに合点(がてん)がいったような表情が彼女の顔をかすめた。
「あなたのお部屋は、まるで礼拝堂みたいですのね」
彼女のことばには、冷たい、ほとんど毒々しいくらいの響きがこもっていた。
彼にはすべてがのみこめた。
「イーネス、死んだ人たちは、おまえにとっても神聖な存在じゃないか!」
「死んだ人たち! それはそうですとも、神聖な存在ですわ! だけど、ルードルフ」
――彼女はふたたび彼を窓ぎわへ引っぱっていった。彼女の手はふるえ、その黒い目は興奮のためきらきら光っていた――
「うかがいますけど、わたしは今ではあなたの妻ですのよ。それをどうして、この庭はしめきって、誰にもはいらせようとなさらないの?」
イーネスは片手で下のほうをさした。白い砂利(じゃり)が黒いピラミッド型の茂みのあいだに、ほのかに幽霊のように光っている。大きな蛾(が)が、ちょうどその上あたりを飛び去っていった。
彼は黙って見おろしていたが、やがて言った。
「あれはお墓さ、イーネス。それとも、おまえがその気なら、過去の庭と言ってもいい」
しかし彼女は、けわしい目つきで彼を見つめた。
「わたしにはよくわかっています、ルードルフ! あれは、あなたがあの方(かた)のそばにいらっしゃる場所なんです。あそこの白い小道を、あなたがたは参歩なさるんです。あの方は死んではいらっしゃらないのですから。つい今も、あの方のそばに寄り添って、妻のわたしのことを悪くおっしゃったのよ。不実だわ、ルードルフ、あなたは幻影でわたしとの結婚をほろぼしておしまいになるのね!」
彼は黙って腕を彼女のからだにまわし、なかば力ずくで、窓ぎわから彼女をひき離した。それからデスクの上のランプを手にとって、肖像のほうへ向けて高くかざした。
「イーネス、ちょっとだけあれを見ておくれ!」
すでにこの世を去ったひとの無邪気な目が見おろしている。にわかにイーネスは、さめざめと涙を流して、
「ああルードルフ、わたし、なんだか悪い女になってゆくようですわ!」
「そんなに泣かないでくれ。ぼくも悪かったけれど、おまえにも辛抱してほしいんだ!」
彼はデスクのひき出しをあけて、とり出した一つのカギを彼女の手にわたした。
「おまえの手であの庭をふたたびあけてもらおう、イーネス! ――まず最初におまえにあそこへはいってもらえば、たしかにぼくは幸福だ。もしかすると、あれの心とおまえの心がふれあい、あれにやさしい目つきでじっと見つめられてるうちに、おまえもじつの妹みたいにあれの肩にもたれかかることになるかもしれないよ!」
彼女は身じろぎもしないで、じっとカギを見ていた。あいかわらず手の平(ひら)にのせたままである。
「どうしたの、イーネス、おまえにあげたものを受けとりたくないのかい?」
彼女は首を振った。
「まだいただけないわ、ルードルフ、まだだめだわ、もっとあとで――あとで。そのときには、いっしょにはいって行きましょう」
そして、美しい黒っぽい目ですがるように彼を見あげながら、そっとカギをデスクの上においた。

粒(つぶ)の種(たね)は地に落ちたが、芽を出す時はまだ遠かった。
十一月であった。――ついにイーネスは疑わなかった。自分も母親になる、血肉を分けた子の母親になるということを。しかし、この自覚とともに襲(おそ)ってくるうっとりと酔ったような気持ちには、まもなく他の思いがまじってきた。不気味な暗黒のように、その思いは彼女の上にのしかかり、そのなかから、しだいに一つの考えが毒蛇(どくじゃ)のようにかま首をもたげてきた。彼女はその考えを追い払おうとつとめ、家のすべての守護神にとりすがって救いを求めたが、しかしその考えは、たえず彼女を追いつづけて、ますます手に負えないものになってきた。わたしはただ赤の他人のようにそとからこの家にはいってきただけのことではないのか。この家はわたしがいなくても円満な生活が営まれていたのだ。――二度目の結婚――いったい、そんな結婚があるのだろうか。最初の結婚、ただ一度きりの結婚が、最後の死までつづかなければならないのではないか。――ただ死までと割りきれるものではない! もっと先まで――永遠につづかなければならないのだ! もしそうとするなら……?――彼女の顔は火のようにほてってきた。われとわが心を切り刻む思いで、冷酷きわまることばを追った。――わたしの子ども――それはじつの父親の家にいながら、押入りみたいな、私生児みたいなものではないのか!
イーネスは打ちのめされたように歩きまわった。若い身の幸福も悲しみも彼女ひとりが背負っていた。そして、まずいちばんに幸福も悲しみも共にしようと言ってくれた男に、いぶかしげな目つきで気づかわしそうに見つめられると、まるで断末魔の苦しみに襲(おそ)われたように唇(くちびる)がとじてしまうのだった。
――夫婦の寝室には、重いカーテンがおろしてあって、ただそのカーテンの狭いすきまから、一条(ひとすじ)の月光がさしこんでいるばかり。イーネスは雑念に悩まされるうちに眠りこんだが、やがて夢に見舞われた。夢のなかで彼女は思った。わたしはいつまでもいられる身ではない、この家を出て行くよりほかに道はないわ、小さな包みだけは持って行くことにしよう、そして遠く――おかあさんのおそばへ帰ることにしよう、もう二度ともどりはしないわ! 庭の後壁になっている松のうしろに、野原へ出る小さな門がある。カギはポケットに入れてある。出て行くことにしよう――すぐに――。
月影は寝台から枕の上へ移り、彼女の美しい顔は青白い月光にくまなく照らし出された。――彼女は立ちあがり、音もなくベッドからおりて、素足のまま目のまえの靴をはいた。それから白の寝巻き姿で部屋のまん中に立った。黒っぽい髪の毛は、夜の習慣どおり、二筋に長くといて胸の上までたらしている。しかし、いつもは弾力のあるからだが、今夜はがっくりとなっているように見える。まだ眠りの重荷にのしかかられているかのようだ。目隠しで物をさがすみたいに両手を伸ばしながら、すべるように部屋のなかを歩いていったが、包みも、カギも手に持ってはいない。椅子(いす)の上にぬぎ捨ててある夫の衣服に指でさわったときには、なにか別の考えでも浮かんだように、ちょっとためらったが、すぐに、そっと重々しく部屋の外に出ると、さらに階段をおりていった。やがて下の玄関でガチャリと音がした。庭戸の錠前(じょうまえ)をあけたのだ。冷気が流れこんできて、夜風が彼女の胸にたれる重い解(と)き髪を吹きあげた。
――どういうふうにして暗い森を通り抜けてしまったのか、それはわからなかった。が、とにかく今は、どの茂みの陰(かげ)からも人の足音が聞こえてくるのだった。追っ手どもが背後に迫っているのだ。目のまえに大きな門がそびえている。ほそい両手にうんと力をこめて一方のとびらをあけると、寂(じゃく)とした果てしない荒野が目のまえにひろがった。とつぜん、大きな黒犬がむらがって、まっしぐらに彼女めがけて突っ走ってくる。白い息を吐く口から赤い舌がだらりとたれているのが見え、たけり吠(ほ)える声がいよいよ近く――ますますはっきりと聞こえてくる――
と、彼女は半ばとじた目をひらいて、しだいに正気をとりもどしはじめた。ちょうど大きな庭のなかに立っていて、片方の手はまだ鉄の格子戸(こうしど)の引き手にかけたままだ。風が彼女の軽やかな夜着をもてあそび、入口のわきの菩提樹(ぼだいじゅ)から、黄色い落葉が頭上にぱらぱらと散ってくる。――それにしても――あれは何だったのかしら?――向こうのモミの木の陰(かげ)から今でも聞こえてくるのは、さきほど確かに聞いた犬の吠(ほ)える声である。なにやら枯れ枝を押し分けてくるものがある。その音がはっきりと聞こえる。死の恐怖が彼女を襲(おそ)ってきた。――またもや犬の吠える声がする。
「ネロ、あれはネロだわ」
そうつぶやいたが、しかし家の黒い番犬とまだ仲よしにならない彼女は、うっかり実在の犬と夢にみた猛犬とを一つにしてしまった。いまその犬が芝生(しばふ)の向こう側から、まっしぐらに自分に飛びかかってくるのが見えた。けれども犬は彼女の前まで来ると、べったりと伏せて、クンクン鳴きながら、彼女の素足を舌でぺろぺろなめるのだ。まぎれもなく喜びの表現である。と同時に中庭のほうから足音がして、まもなく彼女は夫の腕に抱かれた。彼女は安らかな思いで顔を夫の胸に埋めた。
犬の吠える声に目をさましたルードルフは、そばの彼女のベッドが空(から)っぽになっているのを見て、ひどく驚いた。とっさに、どす黒い水が彼の心の目のまえに光った。沼は庭の裏手の千歩ばかり離れたところにある。そこの野道の両側には、榛木(はんのき)がこんもりと茂っている。数日まえと同じように、沼の緑(みどり)の岸べにイーネスといっしょに立っている自分の姿が見える。彼女は葦(あし)の中までおりてゆくと、道ばたで拾い集めておいた小石の一つを深みへ投げこむ。その姿も見えた。「もどっておいで、イーネス! そこはあぶないんだよ」声をかけたが、彼女はやはりじっと立ったまま、ものうげなまなざしで、黒い水面にゆっくりと描かれる波紋を見つめているのだった。ついに彼は彼女を抱きかかえるようにして連れかえった。そのとき彼女は「あそこは底なしなのかしら?」とたずねた。
階段をかけおりて中庭へ出るとき、こうしたすべてのことが、あわただしくルードルフの頭の中をかけめぐった。――あのときも庭を通って家から出ていったのだが、いまの彼女は、まだ寝巻きのままで、美しい髪の毛は、なおも木の枝からしたたり落ちる夜露(つゆ)にしっとりと濡(ぬ)れているのだ。
彼は、庭へおりてゆくまえにひっかけた肩掛けを彼女にまとわせた。
「イーネス、どうしたのだ、どうしてこんなところへやってきたんだ?」
ひどく動悸(どうき)が打っていたので、ことばづかいも荒々しく吐き出すように聞こえた。
彼女はわなないた。
「わたしにもわかりません、ルードルフ……出て行きたくなったんです――夢をみて。ルードルフ、きっと恐ろしいことだったのだわ!」
「夢をみたって? いや、じっさい、夢をみたんだよ!」
くり返して言うと、重荷でもおろしたかのように深く息をついた。
彼女は軽くうなずいただけで、子どものようにたわいなく寝室へもどされて行った。
彼がやさしく腕から離すと、彼女は口をひらいて、
「あなた、オシみたいに黙ってらっしゃるわ。きっと怒っていらっしゃるのね?」
「なにも怒ることはないよ、イーネス! ぼくはおまえのことが心配だったんだ。以前にもそんな夢をみたことがあるのかい?」
はじめは首を振っていたが、まもなく思いついて、
「そうだわ――一度ありました。ただあれは、こわい夢でもなんでもなかったわ」
彼は窓べに歩みよって、カーテンを引いた。月光が部屋じゅうに流れこんできた。
彼は彼女をベッドのふちにすわらせ、自分も並んで腰をおろしながら、
「おまえの顔を見ないと気がすまないんだ。そのときどんないい夢をみたのか、話してくれない? 高い声で話さなくてもいい。このやわらかい光の中でなら、どんな低い声でも聞こえるからね」
彼女は顔を彼の胸に押しつけて、下から見あげた。そして考えこみながら話しはじめた。
「そんなに聞きたいっておっしゃるなら、話しますわ。あれはたしか、わたしの十三回目のお誕生日だったかしら。幼いイエス様に夢中になって、もうお人形なぞ見たいとも思わなくなったんです」
「幼いイエス様に、イーネス?」
「ええ、そうなの、ルードルフ」
彼女は落ちつきを求めるかのように、なおもしっかりと彼にしがみついて、
「母がわたしに一枚の絵を、それも幼いイエス様を抱かれた聖母マリア様の絵をくれましてね。その絵はきれいな額(がく)ぶちに入って、居間の勉強机のうえにかかっていました」
「知っているよ。今でもそこにかかっているね。おかあさんはあの絵を手離したくなかったのだね、幼いイーネスの思い出のために」
「やさしい母でしょう!」
彼はさらに強く彼女を抱きしめて、
「その先を聞かせてくれる、イーネス?」
「ええ、もちろん! だけど、恥ずかしいわ、ルードルフ」
それから低い声で、ためらいがちに話しつづけた。
「その日は、ただ幼いイエス様に見とれて過ごしました。お昼すぎにお友だちが見えてもそうなんです。こっそり抜け出していって、ガラスの上から小さいお口に接吻(せっぷん)をしました――まるで生きていらっしゃるみたいに見えるんですもの――絵のマリア様のように抱っこしてあげられたらと思いましたわ!」
彼女は口をつぐんだ。最後のことばのところでは、ぼそぼそとつぶやくような低い声になってしまった。
「そのあとは? どうも話すのがつらそうだね」
「いいえ、ルードルフ! だけど……その日の夜になって、たしかに夢のなかでも起き上がったらしいの。翌朝、うちの人たちがわたしのベッドを見たら、その絵を抱きしめたまま、こわれたガラスの上に顔を伏せて寝こんじまってたというのですから」
しばらく部屋のなかは死のような静寂(せいじゃく)にとざされた。
「それで、こんどは?」
彼はなにか思わせぶりにたずねて、つくづくと心をこめて彼女の目を見つめた。
「いったい何にそそのかされて、今夜はぼくのそばから出て行ったの?」
「こんどはですか、ルードルフ?」
彼は彼女の全身が小刻みにふるえているのを感じた。と、にわかに彼女は彼の首に抱きついて、息苦しそうな声で、不安におびえたような混乱したことばをつぶやいた。意味はわからない。
「イーネス、イーネス!」
彼は彼女の美しい悲しげな顔を両手に抱いた。
「お願いです、ルードルフ! わたしを死なせてください。だけど、わたしたちの子どもだけは見すてないで!」
彼は彼女の前にひざまずいて、両手に口づけをした。彼に聞こえたのは子どもが生まれるという知らせだけで、そのことを伝えた怪しげなことばは耳に入らなかったのだ。暗い影はすっかり彼の魂から消え去った。彼はたのもしげに彼女を見あげながら、低い声で言った。
「さあこれで、きっと何もかも変わってくるよ!」

月日はさらに流れた。しかし暗黒の力はまだ打ち負かされはしなかった。イーネスは出産のこまごまとした用意にネージーの赤ちゃん時代の残り物を使ったが、気乗りはしなかった。小さい帽子やセーターを黙々と熱心に縫いながらも、たびたび涙がふり落ちてくるのだった。
――ネージーもまた、なにか異常なことが起こりそうな気配を察しないわけではなかった。大きな庭に面した階上の一つの部屋が、とつぜん錠(じょう)をおろされて出入りできなくなった。その部屋には、これまでネージーのおもちゃ類がしまってあったが、カギ穴から中をのぞいてみると、薄暗がりと、おごそかな静けさにとざされているようだった。それから、廊下(ろうか)に出された人形箱をアンネ婆(ばあ)さんに手伝ってもらって屋根裏へ運んだとき、グリーン色の琥珀(こはく)織りカバーのついた揺り籃(かご)をさがしてみたが、見あたらなかった。その揺り籃は、ネージーの覚えているかぎりでは、この屋根裏の勾配(こうばい)をつけた明り窓の下にあったのだ。ネージーは好奇の目を光らせながら隅々(すみずみ)までさがしまわった。
「どうして監督さんみたいにうろうろしていらっしゃるんです?」
と、婆さんがことばをかけた。
「だって、アンネ、あたしの揺り籃(かご)がないもの。どこへ行ったのかしら?」
婆さんは、ずるそうな微笑を浮かべてネージーを見つめた。
「ねえ、どうなさいます、もしコウノトリがネージーちゃまの弟の赤ちゃんを連れてきたら?」
ネージーは戸まどって見あげた。しかし、こんなふうに婆さんに話しかけられて、ネージーは十一歳の体面を傷つけられたような気がした。
「コウノトリが?」ネージーはさげすんだように言った。
「ええ、もちろんですよ」
「そんなことあたしに話さないでちょうだい、アンネ。ちっちゃい子どもならほんとうにするかもしれないけど、あたしはちゃんと知ってンのよ、ばかな話だわ」
「そうですか?――よくごぞんじだっておっしゃるのね、おしゃまなお嬢さま、では伺(うかが)いますけど、もしコウノトリが連れてこなかったら、どこから赤ちゃんたちはやってくるんでしょう? コウノトリは、もう何千年も昔から赤ちゃんのお世話をしてきたのですよ」
「神様のとこからやってくるのよ。とつぜんやってくるのよ」
と、ネージーは興奮して言った。
「これは恐れ入りました! 今どきの子どもは、なんてお利口(りこう)さんなんでしょう! でも、おっしゃるとおりです、ネージーちゃま、たしかに神様がコウノトリの役目をお取り上げになったのでしょうよね――きっと神様がお一人で赤ちゃんのお世話をなさるんでしょうよ。――でも、とにかく、そんなにとつぜんやってくるとして、あなたは、弟の赤ちゃんがお好き――それとも妹の赤ちゃんがお好き?――うれしいと思いますか、ネージーちゃま?」
ネージーは、旅行カバンの上に腰をおろしている婆さんのまえに立って、微笑で真剣(しんけん)な顔を輝かせていたが、やがて考えこむようすだった。
「さあおっしゃって、ネージーちゃま、うれしいと思います?」
と、婆さんはふたたびたずねた。
とうとうネージーは口をひらいて、
「そうよね、あたし、小さい妹がほしいわ。おとうさまもきっとお喜びになってよ。だけど……」
「なにが、だけど、なんです、ネージーちゃま?」
「だけど……」
ネージーはくり返して、それからまたちょっと思案するように、ぷつりとことばをとぎった。
――「その赤ちゃんは、そうなったら、やっぱりおかあさまがないのね!」
「なんですって?」
婆さんはすっかり驚いてさけぶと、大儀(たいぎ)そうにカバンから立ちあがった。
「赤ちゃんにおかあさまがない、とね! ネージーちゃま、あなたはお利口(りこう)さんすぎて婆やにはわかりませんよ。いらっしゃい。下へまいりましょう!――ほら、二時が打ってますよ! さあ、早く学校へ行くお支度を!」

もう最初の春の嵐が家のまわりで騒いでいた。出産の時が近づいていた。
――「もしわたしがこのまま死んでも、彼はわたしのことを忘れないで思い出してくれるかしら?」
と、イーネスは思った。
そして、おどおどした目つきで部屋のドアのそばを通りすぎた。彼女と彼女の未来の運命を黙々として待ちうけている部屋だ。足を運ぶのにも音をたてないようにする。なにか彼女の夢を驚かす恐ろしいものが、その部屋のなかに潜んでいるかのように。
やがてこの家に、赤ちゃんが、二番目の女の子が生まれた。そとからは、薄緑(うすみどり)色の小枝が窓をたたいていた。しかし部屋のなかには、若い母親が色も青ざめ、面(おも)やつれをして横たわっていた。日に焼けた暖かいほほの色は消えてしまっているが、目にはからだを焼きつくす火が燃えている。ルードルフはベッドに付き添って、彼女のほっそりした手を握っていた。
この部屋の反対側では、アンネ婆さんが揺り籃(かご)のお守(も)りをしていた。イーネスはそのほうへ大儀(たいぎ)そうに顔を向けると、弱々しい声で言った。
「ルードルフ、もう一つお願いがあるの!」
「もう一つ? ぼくはまだいくらでも頼まれるつもりでいるんだよ」
イーネスは悲しげに彼を見た。それも瞬時のあいだで、それからまたもや、せわしげに揺り籃(かご)のほうへ目を走らせた。ますます息づかいが荒くなってきたが、彼女は口をひらいて、
「あなたもごぞんじのはずだけれど、わたしの肖像画が一枚もないの! あなたは口癖(くちぐせ)のように、おなじ描いてもらうなら、大家でなければだめだっておっしゃってたけど……もう大家の手を待ってなぞいられないわ。――写真屋を呼んでくださればいいのよ、ルードルフ。すこしわずらわしいことかもしれないけれど、でも――あの子は、もうわたしを覚えていてはくれないでしょう。せめて母親の生前の顔ぐらい知らせておきたいと思うの」
「もうすこし待っておくれ!」
ルードルフは自分の声に元気のよい調子をつけようとつとめた。
「今すぐでは、とても無理だよ。ほほが元のようにふっくらと肉がつくまで、待つんだな!」
イーネスは掛け布団(ぶとん)の上につやつやと這(は)っている黒い髪を両手でなでつけながら、血走ったような目つきで部屋の中を見まわした。
それから、布団の上にしゃんと起きなおりながら、
「鏡を! 鏡を持ってきてくださいな!」
ルードルフはとめようと思った。しかし、それよりも早く、婆さんが手鏡を持ってきてベッドの上においた。病人は、せわしげにその鏡を手にとって自分の顔を写してみたが、たちまち深い驚きの色をあらわした。ハンケチをとって鏡面を拭(ふ)いてみたけれども、変わりはなかった。病苦にやつれた顔が、ますます他人の顔のように彼女を見返すばかりだった。
イーネスは急に声をたてて、
「これは誰? これはわたしじゃありません!――おお、いやだ! 肖像画なんていらないわ、わが子に幽霊顔なんか見せられないわ!」
イーネスは鏡を落として、やせ細った両手で顔をかくした。
そのとき、泣き声が彼女の耳にはいってきた。それは、無心に揺り籃(かご)のなかで眠っているわが子の泣き声ではなかった。いつのまにかネージーが忍び入って来ていたのだった。ネージーは部屋のまん中に立って、悲しげな目つきで継母をじっと見ていたが、そのあいだも、むせび泣きながら唇(くちびる)をかみしめていた。
イーネスはネージーに気がつくと、たずねた。
「泣いてるの、ネージー?」
しかし返事はしない。
「どうして泣いてるの、ネージー?」
と、イーネスは怒り気味にくり返した。
ネージーの顔は、いっそう険(けわ)しくなった。
「おかあさまのことでよ!」
このことばが食ってかかるような勢いで、小さい口からとび出した。
病人は一瞬ハッとして口がきけなかった。が、まもなくベッドから腕をさしのべて、思わず近よってきたネージーを強く胸に抱きしめた。
「ネージー、おかあさまのことを忘れないようにしなさい!」
すると、二つの小さな腕がイーネスの首にからみついて、ただイーネスにだけわかるような声で、
「あたしの好きな、やさしいママ!」
「わたしはあなたの好きなママなの、ネージー?」
ネージーは返事をしなかった。ただ強く、枕に顔が埋まるほどにうなずいた。
「では、ネージー、わたしのことも忘れないでね! わたし、忘れられるのはいやよ!」
病人は打ちとけて幸福そうにささやいた。
――ルードルフは身じろぎもしないでこの成り行きをじっと見ていた。無理に妨げる気になどなれなかった。いのちの縮まるような不安と、ひめやかな喜びとが、かわるがわる襲(おそ)ってきた。が、そのうちに不安な思いが強まってきた。イーネスは布団(ふとん)のうえに仰向(あおむ)けに倒れていた。もう口はきかなかった。眠っていた――だしぬけに。
ネージーは、そっとベッドから離れて、妹の赤ちゃんの揺り籃(かご)のまえに膝(ひざ)を突いた。布団からはみ出しているちっぽけな手に、すっかり感心して見とれていたが、かわいい赤い顔がくしゃくしゃになって、ぎごちない、かぼそい人間の声が出されると、うっとりと目を輝かせた。ルードルフは静かに歩みよって、ネージーの頭をなでさすってやった。ネージーは振り向くと、父親の片方の手に口づけをした。それからまた妹の赤ちゃんをしげしげと見るのだった。――
時間は過ぎていった。そとは真昼の光で明るかった。窓のカーテンは、さらにぴったりとしめられた。もう長いこと、彼はふたたび愛妻の枕もとに付き添って、なんとなく期待をよせていた。いろいろな考えや姿が脳裡(のうり)に浮かんだり消えたりしたが、彼はそれらをとらえようとはせず、自然にまかせていた。以前にも一度、いまのような経験があるので、薄気味が悪く、まるで生きているのが二度目のように思われる。こんども黒い死の木が目のまえにそそり立って、家全体に暗い枝をかぶせるのが見える。不安におびえて病人のほうへ目をやるが、イーネスはすやすやと眠っていて、胸も安らかな息づかいで高まったり低まったりしている。窓の下の、花をつけたニワトコの木の枝で、小鳥がしきりと鳴いているが、それも耳には入らない。いまは、あてにならない希望を追い払うことで精いっぱいだった。
午後、医師がやってきた。眠っている病人のほうへ顔を近づけて、なまぬくい息のかかったその手をとった。ルードルフは緊張してドクトルの顔をのぞきこんだが、その顔は意外だという驚きの色が浮かんだ。
「遠慮はいらない! ほんとうのことを教えてくれたまえ!」
しかし、友人のドクトルは彼の手を握りしめた。
――「助かったよ!」――この一語だけを彼はしっかり胸におさめた。とつぜん、小鳥の鳴き声が聞こえてきた。あふれる生命が満潮(みちしお)のように押しよせてきた。「助かったのだ!」――彼はすぐに彼女をも大きな闇(やみ)のなかに失ってしまっていたのだった。今朝の強いショックが原因で、きっとイーネスはだめになるだろう、と思っていたのだ。ところが、

それは身の救いとなって
上へひきあげられたのだ!

詩人シラーのこのことばのなかに、彼は自分の幸福のすべてが盛りこめられていると思った。このことばは彼の耳のなかで音楽のように響きつづけた。
――あいかわらず病人は眠っていた。あいかわらず彼は枕もとに付き添って待っていた。この静かな部屋のなかで光っているのは、ほの暗いベッド・ランプだけだった。そとの庭からは、小鳥の鳴き声のかわりに夜風の騒ぐ音が聞こえてきた。ときどきハープのような音で吹き上げてきては、さっと過ぎてゆく。若い枝が軽く窓をたたく。
「イーネス!」
と、彼は声をひそめて言った。「イーネス!」どうしても彼女の名まえを口に出さずにいられなかった。
すると、彼女は目をひらいて、つくづくと長いこと彼を見つめた。あたかも眠りの底からまず彼のもとへ魂が浮かびあがってくるかのように。
やがて、ようやく口をひらいて、
「あなたなのね、ルードルフ? わたし、また目をさましたのね!」
彼は彼女をじっと見た。いくら見ても見飽きないくらいだった。「イーネス」と、彼は言ったが、その声には卑屈に近い調子さえこもっていた。
「ぼくはこうしてすわって、もう何時間も重い荷のように幸福を頭でささえているんだよ。おまえも手伝っておくれ、イーネス!」
「ルードルフ――」彼女は元気そうに起きなおっていた。
「おまえは生きられるんだよ、イーネス!」
「誰がそうおっしゃって?」
「おまえをみてくれたドクトルさ、ぼくの友だちの。彼は誤診(ごしん)をするような男じゃないんだ」
「生きられる! このわたしが! 生きられる!――あの子のために、あなたのために!」
――急に記憶がよみがえったようだった。夫の首に抱きつくと、その耳へ口をすりつけて、「それからあなたの――あなたがたの、わたしたちのネージーのために!」と、声をひそめて言った。
それから彼の首を離して、両手をとり、やさしく愛情にあふれた声で、
「ずいぶん気が楽(らく)になったわ! どうしてか、今まではあんなに心につらいことばかりだったけれど、まったく、うそみたいだわ!」
そして彼にうなずいてみせながら、「どうぞ見ていてください、ルードルフ。 これからはいいわ! だけど――」それから顔を上げて、自分の目を彼の目へぐっと近づけた。――「わたしもあなたの過去に仲間入りをさせていただくわ。あなたの幸福をみんなわたしに話して聞かせてください! そして、あの方(かた)のすてきな肖像画を、わたしたちふたりの部屋にかけましょうよ。あなたがわたしにお話をしてくださるとき、あの方にもぜひそばにいていただきたいの!」
彼は幸福に酔った人のような目つきで彼女を見つめた。
「そうだ、イーネス、あれにもそばにいてもらおう!」
「それからネージーだわ! わたしのあの子に、あなたから聞いたおかあさまのお話をしてきかせるわ。――あの子の年に向いたお話だけを……」
彼はただ黙ってうなずいてみせた。
「ネージーはどこにいますの? わたしあの子に、もう一度おやすみのキスをしてやりたいわ!」
「もう眠ってるよ、イーネス。夜なかだからね!」そう言って、やさしく彼女の額(ひたい)をなでてやった。
「夜なか! では、あなたもおやすみにならないといけないわ! だけど、わたしは――笑わないで、ルードルフ――おなかが空(す)いちゃって。なにか食べないと! それがすんだあとで、あの揺り籃(かご)をベッドのほうへよせてくださらない、すぐそばまでよ、ルードルフ! そしたら、わたしもまた眠るわ。眠れそうなの。大丈夫よ、安心して行ってくださいな」
彼はまだ居つづけた。
「そのまえにまず喜ばせてもらいたいんだ!」
「喜ばせて?」
「そうだよ、イーネス、まったく新しくね。ぼくは食事をするおまえを見たいんだ!」
「まあ、あなた!」
――その望みがかなえられると、ルードルフは婆さんとふたりで揺り籃(かご)をベッドのそばまで運んできた。
「じゃあ、おやすみ! ぼくはもう一度、ぼくらの結婚式の日を夢みて寝こむような気がするよ」
彼女はしかし幸福そうにほほえんで、揺り籃のなかの赤ちゃんを指さした。
――それからまもなく、あたりは静かになった。といっても、黒い死の木が家の屋根に枝をひろげたわけではない。遠い金色の穂のなびく畑から、眠りの象徴である赤いケシの花がやさしくゆらゆらと頭を下げたのだった。さらに豊かな取りいれの時が迫っていた。

こうしてまたバラの季節がめぐってきた。――大きな庭の広い道には、陽気な仲間がひきとめられていた。ネロは、どうやら出世したらしい。というのは、つながれている車が、こんどは本物の乳母車だからである。そして、ネージーにふとい首輪の留め金をしっかりと締められているあいだ、辛抱強くじっと動かずにいるのだった。アンネ婆さんが乳母車の幌(ほろ)のほうへ顔を近づけて、布団(ふとん)のすそをつまんでしわ(・・)をのばしている。その布団の上には、まだ名まえをもらわないこの家の赤ちゃんが大きな目をパッチリと見ひらいている。が、早くもネージーは、「ハイ、シッ、ネロや!」と声をかけた。すると、小さな隊商は威風(いふう)堂々と日課の散歩に出発した。
ルードルフは、まえよりも美しくなって自分にもたれかかったイーネスといっしょに、この光景をほほえみながらながめていた。が、やがて、ふたりだけの道を歩きだした。わき道にそれて茂みを抜け、庭の塀(へい)づたいに行くうちに、まもなく小門のまえに出る。門は、やはりまだしまったままになっているが、蔓(つる)草は以前ほどからみついてはいない。突っかい棒がしてあるので、ほの暗い木の下道でも行くようにして小門のところに出るのだった。ふたりは小鳥たちのさかんな鳴き声に、つと(・・)耳をそばだてた。向こうの、まだ踏み荒されないひっそりとした場所だ。まもなくイーネスは、ほっそりした両手にうんと力をこめて、無理にカギをこじあけると、ガチャンと閂(かんぬき)がはずれた。奥で小鳥たちの騒ぐ声がしたが、やがて静まり返った。小門が手の幅くらいに開いている。しかし、内側には花をつけた蔓(つる)草が一面にからみついていて、イーネスがどんなに力を振りしぼってあけようとしても、ギーギーきしむ音をたてるばかりで、小門は動かないのだった。
「あなた、あけて!」
とうとうこう言って、微笑を浮かべながら、ぐったりと疲れきったように夫を見あげた。
男の手にかかると、門はいっぱいに開いた。それからルードルフは、ひきちぎれた蔓(つる)草を用心しながら両側へ押しのけた。
と、目のまえに、明るい日光をうけて砂利(じゃり)道が白く光っていた。しかしふたりは、まだあの月の夜でもあるかのように、新緑の針葉樹の立ちならぶ道をそっと歩いていった。はびこる雑草の中から何百というバラといっしょに咲き出ている大輪のバラのそばを通り、砂利道の突き当たりのこわれかかった葦葺(あしぶ)きの屋根の下へ出たが、その手まえの庭椅子(いす)にも、いまでは一面にセンニンソウがからみついていた。小屋のなかには、去年の夏と同じように、燕(つばめ)が巣をつくっていて、こわがりもしないで、ふたりの頭上をすいすいと飛んで出たり入ったりした。
ふたりは何を語りあっただろうか。――イーネスにとっても、いまではここが神聖な地域であった。――ときどきふたりは黙りこんで、匂(にお)やかな戸外でひらひら飛んでいる昆虫類の羽音に一心に耳をかたむけた。何年か前にも、ルードルフは同じような羽音を聞いたのだ。いつもそうだった。人間は死ぬ。いったい、これらの小さな音楽師たちは、永遠に生きるのだろうか。
ふたたびイーネスが口をひらいて、
「ルードルフ、わたし、一大発見をしましたわ! わたしの名まえInes のイーを末尾へまわしてごらんなさい! そしたらどうなります?」
「ネージーNesi だ! うん、これは、ふしぎな暗合だね」
と、彼はにっこり笑って言った。
「ねえ! そういうわけでネージーは、もとをただせばわたしの名まえなのね。ですから、わたしの子があの子のおかあさまの名まえをもらっても、おかしくないんじゃないかしら?――マリー――聞いていても気持ちのよい、やさしい名まえだわ。ね、そうでしょう、子どもたちがどんな名まえで呼ばれるかっていうことは、どうでもいいことじゃないわ!」
彼はちょっと黙っていた。それから、しみじみと彼女の目を見つめながら、
「この事をもてあそぶのは、やめにしよう! いや、イーネス、たとえだね、わが子がどんなにかわいくても、その顔で彼女の面影を塗りつぶすようなことはしたくないんだ。こんどの子どもには、マリーでもなく、またイーネスでもない名まえをつけたいよ――おまえのおかあさんはイーネスがいいとおっしゃるけどね。イーネスもまたぼくにとっては一度だけのもので、二度とこの世にはないのだ」
しばらくしてから言い添えて、
「こんなことを言うと、おまえは、頑固(がんこ)な夫を持ったと思うだろうか?」
「いいえ、ルードルフ、ただ、さすがにあなたはネージーのほんとうのおとうさまだと思いますわ!」
「するとおまえは、イーネス?」
「気ながに見ていてください。――わたしだって、きっとあなたのほんとうの奥さんになってみせますわ!――だけど――」
「まだ、だけど、がつくのかい?」
「すこしも悪い意味じゃありませんわ、ルードルフ!――だけど――いつか時がたって――どうせ一度は終わりが来るんですものね――わたしたちがみんな、あなたは信じてなぞいらっしゃらないかもしれないけど、でも希望ぐらい持ってらっしゃるでしょう――あの方(かた)がわたしたちより先に行ってらっしゃるところへ行っても……」
そう言ってから、彼女は伸びあがって彼の首に抱きついて、
「わたしを振り落とさないでほしいの、ルードルフ! そんなことをしないで。わたし、あなたから離れないから!」
彼は彼女をしっかりと抱きしめて、
「いちばん手近なことから始めよう。それが自他ともに人間の教えることのできるいちばんよいことなんだからね」
「それは何?」
「生きることだよ、イーネス。できるだけ美しく、できるだけ長く!」
このとき子どもの声が小門のほうから聞こえてきた。かぼそい、胸にしみこむような、まだことばにもならない声と、それからネージーの力のこもった、明るい「ハイ!」「シッ」という声だ。そして忠犬ネロにひかれ、お手伝いの婆さんに番をされて、この家の楽しい未来が、過去の庭のなかへと進んでくるのだった。
アンゲーリカ



数年まえから、彼はひそかに彼女の美しい顔だちに見とれてきたのであった。いまでもそうなのだが、彼がほとんど毎日のように彼女の母親の家に出入りをしているあいだに、まったく彼女は大きくなったものだ。しかし、青春期も終わろうとするころにようやく職についた彼は、いつ家庭を持てることやら、その見こみは永久に立たないか、でないまでも、世間の慣習や感じが許す年月のうちにはむずかしそうだった。かといって、青春期も終わりを告げようとする今になって何か別のことをやってみるなどということも、彼の教養の程度と資力が許さなかった。――こうしたことを彼はすべて自覚していた。ときには、もし彼女がいつか自分のものになってくれるというような場合、この愛人の心身の衰えてゆくのをどうして防いだものかと、その手段を考えてみることもあったが、これといういい考えも浮かばなかった。彼の故郷のこの州では、そうした心身の衰えは、彼とおなじ階級にある女性たちの宿命になっていたのである。彼はいろいろと将来のことを考えたあげく、とうとう、自分の生活を彼女の生活から切り離してしまおうと言う気にまでなった。あれはまだ彼女が一人前(いちにんまえ)の女になりきらず、ういういしい少女らしさがまだまだ堅いつぼみに包まれていたころだったが、あの当時にも彼はしばしば、彼女のさしのべた手から自分の手をおずおずと引っこめたものだった。そのわけが彼女には、いくら考えてもわからなかった。
しかしアンゲーリカが、だんだん大きくなり、一人前の女になって、彼女の目も彼の目を求めはじめ、彼の視線にふれるとハッと目をそらすようになったとき、また彼のほうでも、彼女を失うかもしれないという不安がしだいにつのってきて、ときどき、彼女を奪(うば)ってゆく男の姿までが目に見えるような気がしてきたとき、とうとう、どんな分別も意思の力をも超越したあの瞬間がおとずれたのだった。愛がそのとき、ふたりのあいだに悲しい不思議を成就(じょうじゅ)したのだ。――
月が庭の上の空にかかっていた。しかし月の光は、彼と彼女の息もつけぬ秘密を押し隠している植え込みの、葉の茂みのなかまではとどかなかった。やがてふたりは、ささやきあった。それもきれぎれの気まり悪げなことばで、あいまいにしかつぶやかれなかったが、それでも意味はよくわかった。彼女は軽やかに、しかもしっかりと、彼の胸に抱かれていた。とつぜん彼は、現在のすべてを越えて、自分の生涯のはてまでも見はるかした。そしてそこでも、いまのように彼女を抱いているにちがいないと思った。しかし世間には、生まれつき手近なことにはこまごまと根気よく心をくばるくせに、なにか異常なことをやりとげるという信念に欠けた人たちがいるものである。それは、彼らに空想力が欠けているために、およそ実行してこそ実(み)を結ぶさまざまの可能なことが目に見えないからであるが、彼もそうした人間の一人だった。――彼は少女をやんわりと腕からはなし、そばのベンチに腰をおろした。そして彼女の若々しい顔をじっと見つめていたが、彼の頭はまたしても、どうにもならないきびしい現在をくよくよと思い煩(わずら)うのだった。
アンゲーリカは彼の膝(ひざ)にもたれかかるようにして立っているうちに、だんだんと本能的に、彼が黙っているのは心配ともだえの現われだと感じてきたのであろう。それをしずめようとするかのように、手のひらで彼の目をふさいだ。
彼はその手を払いのけて、
「アンゲーリカ、ぼくをめくらにするのはよしてくれたまえ、君のためにもね! ――君も知ってるだろう、それとも知らないかな。近ごろは地上に人間がどんどんふえて、めいめいが満足な暮らしさえできなくなっているんだ。君だって、これまでたびたび膝(ひざ)を突き合わせてぼくらの話したことを思い出してくれたら、ぼくがどういう仲間の一人だか、わかってくれるだろう」
彼女は額(ひたい)を彼の額にかしげて、首を振った。
「わからないの、アンゲーリカ?」
「わからないわ。それはどんなこと、エールハルト?」
と、遠慮がちにたずねた。
エールハルトは気を落ちつけようとして、ちょっと口をつぐんだ。が、やがて、はっきりと彼女にすべてを話した。不遇(ふぐう)だった過去のことばかりでなく、将来の味気ない乏しい生活のことをも、まるでもう過ぎ去ったことのようにきっぱりと語ってきかせた。
彼は彼女の両手がふるえているのを感じた。しかし、そのために惑わされることもなく、つけ加えて言った。
「ぼくらふたりのあいだに起こったことは、ほんとうは起こらないほうがよかったんだね。だって、君のこれからの生活を築く上になんの利益にもならないんだもの。ぼくらはお互い同士のものだなぞと、おもてだって言える時はないだろう。今だってないし、将来だって、事情が変わらないかぎり、そうだと思う。だのに――アンゲーリカ、ゆるしてくれたまえ、ぼくは一瞬そんなことを何もかも忘れてしまったんだ!」
彼は彼女の手をはなした。ふたりのあいだには少しすきまができていても、もう触れあわなかった。
「なにもぼくに言うことはないの?」
「なにもないわ!」
と、彼女は言った。彼は彼女の涙のしずくを手のうえに感じた。
「いまさら仕方のないことだわ――でも、あたしたち、やはり希望を失ってはいけないのね」
彼がそれにことばを返さないうちに、庭の木戸から母親の呼ぶ声がした。ふたりは家にもどるために立ちあがった。しかし、茂みの出口のところまで来て、満月の光に彼の額(ひたい)が照らされたとき、にわかにアンゲーリカは彼の首に抱きついて、じいっと澄(す)んだ目で彼を見ながら、くちびるを彼のくちびるに押しつけた。
「あなたのものよ!」
そう言って、ほほの涙を指先(ゆびさき)でぬぐいとりながら、身をふりはなして、ぷいと庭のほうへ走りだした。彼女の美しい姿は、ほのぼのとした月明(あか)りにまぎれて、彼の目から消えていった。

こうして、この瞬間が、ふたりを結ぶくさり(ヽヽヽ)の最初の一環(かん)となった。ふたりは、自分らの持前(もちまえ)の力がこのくさり(ヽヽヽ)をささえてゆけるかどうか思い煩(わずら)うことはなかった。彼の腕に身も心もゆだねたという気持ち、彼の愛と尊敬とを永久にかちとったという安心感は、第三者にたいして、なにか自分が高められたような意識を彼女に与えた。彼女の歩きぶりは、さらにしっかりしてきたし、ほかの男たちと話をするときにも、これまでよりいくらか高めに顔を上げるようになったのである。しかし、人の前でも手を握りあったり、かばいあったりすることを妨げる苦渋(くじゅう)な人生が、いつのまにかふたりをへだてる深淵(しんえん)となっていった。この深淵のふちを乗り越えて、ふっと、せつなく求めあって空(むな)しく腕をさしのべるかと思うと、つぎの瞬間には、子どものように途方に暮れて、恨めしそうに向かい合うのだった。そのあいだにもときどき、ちらと、ほとんど見わけ難いほどに、火花の燃えあがることがあって、ふたりを絶えず、あの暗い逆(さか)らい難い本能のたけり狂う境地へ誘うのであった。
日も暮れかかっていた。ボートはなめらかに音もなく湖上をすべっていった。漕(こ)ぎ手は、ただ長い間(ま)をおいて、暇(ひま)つぶしのように、オールを水のなかへもぐらせた。ボートに乗っている若者たちの一行は、横手の湖上を見わたしながら、水面に浮かぶ白鳥たちに声をかけたり誘いをかけたりした。白鳥たちはいかめしいようすで、だんだんと遠く、空を染める夕映(ゆうば)えのなかへ泳ぎ去っていった。アンゲーリカとエールハルトは肩をならべて舟べりに腰かけていたが、みんなから離れた存在だった。あたりはひっそりとして、湖上には風もなく波も立たなかった。ただときどき下から泡(あぶく)が水面にのぼってきて、きらりと光ったかと思うと消えていった。アンゲーリカはそのほうを指(ゆび)さして、わけを問いたそうにみえた。
「神秘だね!」
と、エールハルトは言った。
「神秘?」
「水の底に、なにか花が咲いているんだよ!」
彼女はひたと彼を見つめた。その目のまっ黒い奥までが彼には見えそうだった。やがて、にっこりと笑った。その彼女のくちびるは赤かった。そして息づかいは夏の空気のように重苦しかった。エールハルトは片手を舟べりから水のなかへすべらせた。彼女の片手もそれにならった。こんなにしてふたりは、指のあいだから水をくぐらせながら手を握りあい、いのちの不思議と鼓動(こどう)を感じあった。
空には星がちらほらとまたたきはじめた。みずうみは夕映(ゆうば)えの明るさからほの暗くかげってきた。少女たちは両手を膝(ひざ)において、いっしょに歌をうたいだした。まだ湖上に残っているほかの数隻(せき)のボートも近づいてきて、かすかなオールの音をたてながら彼らのあとにつづいた。
しだいにひえびえとしてきて、夕風が起こった。エールハルトは座席から毛布をとって、アンゲーリカの膝にかけてやろうとすると、彼女はふっと思い出したように向こう側の席に移った。で、毛布は偶然のようにふたりのあいだに落ちた。顔をあげて見ると、ひとりの年増(としま)の婦人の視線がじっと自分の上にそそがれていたが、やがてその視線はアンゲーリカのほうへ移っていった。エールハルトはなんとなく不快に思った。もっとも、この感じは、見覚えのないその婦人のさぐるような目つきからきたのか、それとも、いまアンゲーリカがその婦人に話しかけた気軽な声の調子からきたのか、それは彼自身にもわからなかった。
しばらくしてボートは岸についた。一行はボートからおりて、陸路をてくてくと、まだ半時間もはなれた町へ帰っていった。途中で休憩(きゅうけい)ということになって、男女がごちゃごちゃに入りまじって、うしろをモミの森でかばわれた狭い芝生の斜面に腰をおろした。足もとのはるか下の、急傾斜をなした牧草地のかなたに、どす黒いブナの森のかたまりがあった。そのあたりから、ときどき稲光(いなびか)りがした。そのあいまに蝙蝠(こうもり)が飛んだ。エールハルトはかなり長い列の一端にすわり、アンゲーリカは申し合わせたように他の一端に腰をおろしていた。彼が芝生に腕を突いてあおむけになると、ベールを透かしたようにぼんやりと、アンゲーリカの背首と明るい服の輪郭(りんかく)が見えた。髪にさしている白いバラの花だけが、いくらか際立(きわだ)って輝いている。いまそのバラに手をあてがい、指(ゆび)で髪をいじっているところだった。――またもやピカリと光った。「あらッ!」と少女たちがさけんだ。そのとき、彼女たちのうしろを飛んで、バラの花がエールハルトのそばへころんできた。アンゲーリカがあおむけになっていた。一瞬の稲光りで、彼はにっこりと笑っている彼女の顔と、花を投げてよこしたその手を見てとった。やがてまた、あたりは暗くなって、ぽつりぽつりと雨つぶが落ちてきた。遠くの空で、ごろごろと雷(かみなり)が鳴った。
おそくならぬうちに町に着けるようにと、みんなは立ちあがった。なんとなく甘い、むっとするような夏の香りが、道に沿った牧場から漂(ただよ)ってきた。エールハルトはみんなのうしろからのろのろと歩いていったが、夢うつつの意識の底で、あの向こうの暗がりからおしゃべりの声を伝えてくる若い娘たちの一人は、完全に、しかも世間の誰にも知られずに、自分のものなのだと思った。
家に帰りつくと、いつもの机の前にすわって、近いうちに手渡さねばならぬ仕事にとりかかった。窓はあけ放されていた。もう雷雨は遠のいていた。ただときたま夜風が吹いてきて、目のまえにおいた紙をめくりたてた。
ふと彼はアンゲーリカが身近にいるような気がして、思わずふり返った。しかし部屋のなかはガランとしていて、いつものように静かだった。時計の針は、もう真夜中をさしている。――彼が身近にいるように感じたのはアンゲーリカではなかった。それは目のまえの机の上におかれたバラの香りにすぎなかった。

アンゲーリカの母親が娘の将来にいだく望みは、過去の自分とおなじように、娘が人妻となり母親となるのを見たいという単純なものでしかなかった。そういう道義上の関係も、それを純潔に完全に実現するには、その自然の糸口として情熱が必要だという、あの若い者に特有の感情などは念頭にないのだった。だから母親は、そういう望みをかなえてくれそうな社交場へアンゲーリカが出かけてゆくのを見てもイヤな顔をしなかったし、すすんでそういうチャンスをつくってもやったのである。アンゲーリカ自身も、若い者の官能的な感受性や美意識からいって無理のないことながら、自分のからだのように柔軟で、肌(はだ)に合った衣装をつけることを好んだ。で、あの人はあきらめているけれど、自分の心はそっくりあの人のものでありたいという気はあっても、ときどき、ほかの男たちからも見つめられることがあると、幸福なうぬぼれの気持ちをおさえることができないのだった。エールハルトはそれにひきかえ、人前(ひとまえ)では見せられないなれなれしさを、たとえ相手が女であってもアンゲーリカが示すことがあると、不快なねたみを覚えて、それをおさえようとしてもおさえきれなかった。彼の居合わせるところで彼女のことが、別に親しい仲でもない第三者のようにうわさをされると、悲しい思いがした。アンゲーリカという名がいわれるだけで、彼は肉体的な苦痛でも感じるように身がすくむのだった。
彼女はダンスが好きだった。けれどもエールハルトは不如意な生活のためにそういう楽しみから締め出されていたので、彼女にも思いとまらせようとした。すると彼女はそれを、男のわがままで、わけもなく青春の感情をいじけさせるのだというふうに感じないではいられなかった。わけても彼と彼女との関係では、そういったあきらめの埋め合わせをするだけの力がなかっただけに、なおさらのことだった。
このよな対立が知らぬまに深まり、鋭くなるにつれて、アンゲーリカの心の安定は乱され、たまに二人きりでいるときにも素直に彼に耳を貸すという気がうすれてきた。そうこうしているうちに秋祭りの日が近づいてきた。その日には、若い人たちが市役所のホールに集まって晩にダンスをするのが慣例になっていた。誘われないうちからアンゲーリカは、「あたしは行かないわ!」と言っていた。ところがあとになって、踊りにゆく若者たちが数人やってきて、アンゲーリカをダンスに参加させてもらえないかと母親に頼んだ。母親は娘に相談もせず知らせもせずに快諾した。そうなると、アンゲーリカとしても申し出をことわるほんとうの理由を打ち明けるわけにいかない立場にあるため、なぜおかあさまは年よりの気まぐれで勝手にきめておしまいになったのと、まともに母親に食ってかかることもできなかった。で、けっきょく娘は折れて出るよりほかなかった。が、アンゲーリカはこの譲歩とダンスに加わる喜びとを、一方では愛人にたいする秘密な罪のように感じるとともに、また一方では、いやでも愛人にたいしてある腹立たしさを覚えずに入られなかった。それはつまり、自分をこんな気分にさせたのは彼なのだから、いわば押しつけられた楽しみとはいえ、やはり浮かぬ気持ちで踊ることになるだろうという腹立たしさである。

祭りの晩の二、三日前のこと、エールハルトはこうした事の結果を、第三者と話をしているときに聞きこんだのだった。恋いこがれる者の勘(かん)で彼は、たちまち事の次第をさとった。とはいえ、というよりか、それだからこそ、すべてのことが機微(きび)の機微までわかっている彼だけに、そんな場合アンゲーリカは、けっきょく二人を仲たがいさせようと思っている母親の意志に是非もなく従うよりほかなかったのだ、と自分でもきめてかかろうとつとめたけれども、むだだった。――彼は彼女を訪れようと思っているところだったが、事情を知ると、思いとまった。いまさらどうにもしようがないことがはっきりしたからである。で、もうこのことでは何も言うまい、また彼女の口から確かめることもすまい、それよりも、これから起こるであろうことを、そっくりそのまま避け難いこととして成り行きにまかせようと思った。
祭りの晩になったとき、エールハルトはいつもの机に向かって、仕事の山に埋もれながら、無理にも没頭しようとしていた。ところがまもなく、ふだんは静かな通りを市役所へ向かって走ってゆく馬車の音にさまたげられた。エールハルトは立ちあがって窓ぎわへ歩みよった。そとは暗かった。ただ客馬車がせわしなく走りすぎるたびに、そのランタンが向こう側の家並(やなみ)の壁にチラと光を投げるだけだった。エールハルトはあて推量をして、アンゲーリカもあの下の通りの暗がりを飛ぶように過ぎてゆくのではあるまいかと思った。彼は息をつめて、下の町のほうから響いてくる車輪の音にいちいち耳をすました。いよいよそれが迫ってきて、早くも馬のひずめの音が敷石の上にパカパカと響くと、彼は気を張りつめて客馬車の窓をうかがい、ぼんやりと照らし出された後部の座席をすばやく見通そうとした。しかし彼の目のとらえ得たものは、ひとかたまりの薄ぎぬと、白のドレスか、それとも花束のほのかな輝きだけだった。最後の馬車が通りすぎても、彼は窓をあけたまま長いこと町のほうに耳をすましていたが、もう車輪の音も聞こえなくなると、ふたたび机に向かい、やっとの思いでまた仕事にかかった。その仕事のあいまに耳に入るのは、まだ通りを往(ゆ)き来(き)する人々の足音だけで、やがて夜もふけると、近所で店をしめたり表戸(おもてど)をとざしたりする音がした。それから、かすかに別の音が彼のところへ――数時間まえに馬車の走ってゆくのが見えたあたりから――伝わってきて、とりとめもなく彼の考えのなかへはいりこんだ。彼はペンをおいた。あれは音楽だな、と思った。やがてその音は、もっとはっきり聞こえてきた。風が起こったからか、それとも、向こうの会場のとびらの一つが開かれたからであろうか。彼は仕事の手をやめた。仕事ができなかった。自分の青春が果てしない遠くの空へ去ってしまい、悲しげな身ぶりで自分のほうへ腕をさしのべているように思えた。
何時間かが過ぎた。彼はようやく机から立ちあがったが、そんなに長いこと彼の心の目が焦(こ)がれあこがれて見まもっていたのは、あのアンゲーリカの美しい、たおやかな姿にほかならなかった。そうと気がついたとき、彼はいうにいわれぬ、思いもかけぬ幸福感につつまれた。なにが起ころうと彼女は彼から失われてはいなかったのだ。時計の針は、はるかに真夜中を過ぎていた。ふたたび町のなかは騒がしくなり、始発の馬車の音が響きはじめた。とっさに決心をすると、もどかしげに服を着かえ、通りへおりていった。すこし前に起こったことなどもう念頭になく、アンゲーリカに会うということのほかは何も望まず、なんにも考えなかった。
市役所の窓々は暗闇の遠くまで輝いていた。音楽が聞こえ、カーテンには踊り手たちの影がちらちらと見える。エールハルトは立ちどまりもせずに、正面のポーチの下まではいっていったが、ちょうどそのとき、明るく照らし出された広い階段のまえに一台の馬車がとまった。階上のとびらがあけたてされ、やがて、階段の手すりにさらさらと衣(きぬ)ずれの音がして、一人の若々しい女性が足どりも軽く、一段一段と階段をふみながらおりてきた。白いベールでかくした顔を少しあおむけているので、ブロンドの髪がこめかみから背首にたれかかっている。まぎれもなく、アンゲーリカだった。女中が一人うしろについているだけで、ほかには誰もいない。彼女が入口のたたき(ヽヽヽ)をまたいだとき、彼は暗がりから出て、彼女のほうへ歩みよると、馬車に助け乗せようとして手をさしだした。彼女はびっくりしたように大きく目をみはり、「エールハルト!」とさけんだ。そして思わず、わなわなと片手を彼の手のほうへのばしかけたが、ハッとわれに返ったように、その手をひっこめた。若い顔のかたちが変わった。彼はおどろいて、彼女のほうへ両腕をさしだした。が、彼女は絹のトッパーをぴっちりと肩のあたりでかき合わせて、
「いいえ、いけません! こんなところに、なんのご用?」
と、声を高めて言った。
エールハルトは口がきけなかった。――「君を、君を、アンゲーリカ!」と、ようやくそれだけさけんだが、もうおそすぎた。風がポーチを吹きぬけるばかりで、アンゲーリカを乗せた馬車はもうそこには見えなかった。

あくる日の午後、エールハルトは役所の仕事を片づけてから、どうにもならない衝動(しょうどう)にかられて、町に近い湖畔(こはん)にある小さな村へ出かけていった。この郊外へは、しばしばアンゲーリカと彼女の母親のお伴(とも)をして出かけたものだが、そういうときは、水ぎわのささやかな飲食店に立ちよって、そこから一帯のゆかしい風景をさぐったのだった。――もう午後もおそかった。しかし太陽は、まだあたたかく金色に輝いていて、あたりの空気は秋らしい落葉の強い匂(にお)いにみたされていた。道は湖畔に沿って針葉樹のなかを通っており、みずうみのほうから、さわやかなそよ風が吹きわたってきた。小半時間も歩いてブナの木(こ)の間(ま)から出たとき、やや離れたところに、けばけばしい色どりの骨組(ほねぐみ)とブラインドのある例の飲食店の建物が見えた。その店の前に、湖面にむかって二人の女が腰をおろしていた。まもなく、それはアンゲーリカと彼女の母親であることがわかった。
彼は一瞬、ふたりのそばへ行ったものか、それとも木立のなかへとって返して別の道をたどったものか、と迷ったが、もう気づかれたかもしれないと考えて、そばへ行くことにした。
彼と母親とのあいだに平凡な会話が取りかわされたあと、母親は店のなかへはいっていった。いくらかの勘定(かんじょう)を払って、いっしょに帰途につくためである。
エールハルトはアンゲーリカと向かいあってすわっていた。店のドアがしまって母親が奥にはいると、エールハルトはじっと訴えるように、アンゲーリカの顔を見まもった。彼女はひどく青ざめていて、美しい顔のかたちが際立(きわだ)ってとげとげしく見えたほどだった。
夕風が起こった。と、そよ風に運ばれて、湖水のはるか遠くから音楽の響きが伝わってきた。彼は両腕をテーブルの上にぐっとのばしていたが、目を輝かせて、
「音楽だ! 酔いごこちにさせられるね。――なんだか何もかも再現されそうな気がするよ。」
アンゲーリカは彼の目を見つめた。ほかにしようがなかったのだ。しかし彼が、手袋もはめずにテーブルの上におかれた彼女の手のほうへ自分の手をさしのべると、彼女はつと(・・)立ちあがって、狭い芝生(しばふ)をよこぎり、みずうみのほうへおりていった。エールハルトは彼女の連(つ)れになった。ふたりは口もきかず、ただぼんやりと湖上をながめていた。あたりはひっそりとして、はるか向こうに漕(こ)いでいるボートのオールの音が聞こえるほど静かだった。芝生(しばふ)にはムギワラギクがたくさん咲いている。その一本を摘みとって、アンゲーリカにさしだした。彼女はそれに目もくれないで受けとると、指(ゆび)先につまんで、ゆっくりとねじまわすのだった。こうしてふたりは肩をならべて、芝生から小石の上へ、それから砂浜へとおりていった。そして靴の先が水にぬれるところまで来て、ようやく立ちどまった。
ここまで来たとき、エールハルトは口をひらいた。
「アンゲーリカ、きのうのあれがお別れだったの?」
彼がどんなにつらそうな口ぶりだったかは、彼女も感じたにちがいない。
返事はしないで、じっと足もとの水を見ながら、じめじめした砂地にパラソルの先で穴をあけていた。
「返事をしておくれよ、アンゲーリカ!」
彼女は顔をあげないで手のひらをひらくと、彼からもらった花をポサリと水のなかへ落とした。
彼はひと声どなりつけたくなったが、歯を食いしばってその声を押し殺した。やがて、くるりと向きなおると、岸づたいに二、三百歩あるいてから、船着場(ふなつきば)につないであるボートに乗り移って、ちょうど向こう側から漕(こ)ぎもどってくる係りの男を待った。
はやくも暮色(ぼしょく)が立ち込めてきた。あたりの森はけむり、対岸はもう深くかげっている。しばらく彼はこの青いたそがれの色をながめていたが、やがて、いま去ってきたばかりの場所を今いちど振り返らずにはいられなかった。アンゲーリカはもういなかった。しかし、おもむろに岸べづたいに目をそそいでいると、すぐ近くを自分のほうへやってくる彼女の姿が見えた。まるで追われるように、平らな砂地の上をかけてくる。思わず彼はボートを陸へ近よせたが、そのあいだに彼女は彼のそばへ跳びこんできて、荒々しく彼の両腕を握りしめた。着物がオールの柄(ほぞ)でやぶけるのもかまわなかった。なにか話しかけようとするのだが、緊張(きんちょう)と苦悩のために息がつけないのだ。彼女は口ごもった。脈が速(はや)く打っている。まるで途方に暮れた子どものように、ハンケチを彼の両手に巻きつけ、ほてった顏でおびえたように彼を見あげるのだった。
「落ちついて、落ちついておくれ!」
エールハルトはそう言って、ふるえる手で彼女の熱っぽい髪の毛をなでてやった。この瞬間、こないだからの悩ましい気持ちが吹っとんで、にわかに彼女の心の分裂と動揺とが重荷(おもに)のように彼の心にのしかかってきた。彼はただ、あふれるような熱情にかられて自分にしがみついてきた彼女を、おずおずと両腕に抱きかかえるばかりだった。



その後しばらくのあいだ、エールハルトはなるべくアンゲーリカに会わないようにしていた。そのかわりに、つとめて生活環境の改善をはかった。他人の恩義をうけることは、彼の気性(きしょう)からいってつらいことにちがいないが、それさえもいとわなかった。エールハルトは卑劣な性格の男ではなかったからだ。しかし、そうやってつとめてみても、なんの得(とく)にもならなかった。――で、とうとう別のことをこころみたが、それはうまくいった。彼の願いにたいして、近く当地での官職を免ぜられ、だいぶん遠方の土地でふたたび同じ官職につけるという保証をえたのである。
ところが、アンゲーリカのほうでは、のっぴきならぬことになっていた。ある若い医師が、あきらかに母親の好意につけこんで、かなり以前から娘のアンゲーリカを妻にもらいたいと強く申し込んでいたが、いよいよ近いうちに、なんとか返事をしなければおさまりがつかぬことになったのである。
そういうある日の午後、エールハルトはアンゲーリカをたずねて行った。彼は自分の出発のことをあらかじめ彼女に言い含めておこう、またいいおりをみて、自分たちの別れがやむをえないことを話しておこう、と思ったのだ。彼がなじみ深い家の玄関にはいってゆくと、ちょうど階段からおりてきた当の若い医師に出あった。こうした場合の癖(くせ)で、エールハルトは医師にことばをかけた。けれども相手は、うんともすんとも言わず、黙って会釈(えしゃく)をしたまま、いかにもそそくさとすれちがって去っていった。
エールハルトは考えこみながら、階段をあがっていった。――居間(いま)にはいると、アンゲーリカは、蓋(ふた)をあけたピアノの前に腰かけていたが、弾(ひ)いているのではなかった。彼女の顔には、またしても、いつぞや彼を驚かしたことのある例のきつい表情があらわれていた。あいさつをすると、顔もあげないでうなずき、キーの上にのせた片手を膝(ひざ)に落とした。部屋のなかはひっそりと静まりかえっていた。ただ、エールハルトの姪(めい)にあたる小さい女の子が、手持ち無沙汰そうにソファーに腰かけているアンゲーリカの母親の膝の上で、琥珀(こはく)の珠数玉(じゅずだま)をもてあそんでいたが、そのジャラジャラという音がするだけだった。
老母は目のまえに立っている女の子の頭越しに、娘のアンゲーリカをチラッと見たが、アンゲーリカの顔は見えなかった。エールハルトがテーブル越しに手をさしだしたときにも、老母は姿勢をくずさなかった。
「わたしはさびしいお婆さんになりますよ、エールハルト!」
老母は、しばらく彼の手を握りしめながら言った。
彼は返事のしようがなかったが、うっかり「アンゲーリカ」と口に出してしまった。
「アンゲーリカ!」
と、老母はくりかえしてから、声を低めて、
「あの子もさびしくなりましょう。――でも、あの子はそう願ってるんですよ!」
こうつけ加えながら、老母は悲哀と情愛のこもった表情で、おとなしく遊びつづけている女の子の髪をなでてやった。
アンゲーリカはこのことばを聞いて、つと(・・)立ちあがると、女の子をぎゅっと腕に抱きあげ、自分の金髪をもっと明るい女の子の金髪に押しつけながら、無言のまま隣室へはいっていった。
あとに残った二人のあいだに、しばらく気づまりな沈黙がつづいた。
やがてアンゲーリカの母親が話しだそうとしたとき、エールハルトがさえぎって、「もういいんですよ」と言いながら、いかにも言いづらそうに目を伏せた。
「――ぼくは行きます。きょう、あすっていうわけじゃありませんが、二、三週間のうちには。そして、もう永久に帰りませんよ。用意はすっかりできているのです。ぼくにぜひとも去ってくれとおっしゃるのは当然なことかもしれません」
このことばにたいして、老母が満足と感謝の気持ちを述べたいらしいことは疑うべくもなかったが、エールハルトはさらにつづけて、
「しかし、一時間ほど前にこのおうちを出て行った男のひとだって、やはり立場は同じだろうと思いますがね」
老母は遠慮がちに、
「まあ行ってらっしゃい、エールハルト。神さまのお助けで、また何もかもよくなりましょうよ」
エールハルトは途方に暮れて、なにか理解し合えることばでもさがすように、あたりを見まわした。けれども、彼とこの老母との意思を通(かよ)わせるようなことばは、どこにも見つからなかった。
五時ごろだった。お手伝いさんがお茶の道具を運んできた。ふたたびアンゲーリカも居間(いま)にはいってきて、女の子を腕からそっと床(ゆか)におろした。エールハルトは今すぐに立ち去る決心がつかなかった。アンゲーリカの態度から、自分のさっきのことばにたいする確証を得たいと思ったのである。で、そのままいることにして、つとめてほかのことを話しはじめた。アンゲーリカはお茶の支度をし、女の子は彼と彼女のあいだを歩きまわった。
しかしアンゲーリカは、家の用事をすますと、女の子を膝(ひざ)に抱きあげた。そして、まもなくその子をつれて席をはずし、アカシヤの木陰の窓べにすわって、両腕で女の子を抱きしめながら、ひそひそとつぶやいたり何か話を聞かせたりした。それで、彼女が彼からも母親からも話しかけてもらいたくないことがよくわかった。

そのときからアンゲーリカは以前にもまして、その子を身のまわりにおくようになった。――ある晩、エールハルトはその子を迎えにやってきた。彼の姉のもとへつれ帰るためである。しかしその子は、もうお手伝いさんに付き添われて送り出されたあとだった。彼の鳴らしたベルの音で玄関のドアをあけたアンゲーリカが、そう彼に話した。彼はちょっとためらった。
「おはいりにならない?」
と、彼女はノッブに手をかけながらたずねた。
彼は辞退して、
「姉が待っているし、それに、ぼくはただあの子のことで来ただけなんだから」
「まだ追いつけてよ。つい今しがた出かけたばかりですから」
彼はアンゲーリカにおやすみと言って、段々をおりると、姉の家の前に出るまで、そそくさと通りを歩いていった。――ところで内的な体験は、外的な体験のしばらくあとで始まることがよくあるものだが、エールハルトも今になってようやく、さっきのアンゲーリカはいつもの彼女とはちがっていたことに気がついたのだった。彼は今はじめて、彼女の声の調子をはっきりと耳によみがえらせ、玄関の豆ランプのどんよりした光に照らし出された彼女の姿を、ありありと目に思い浮かべた。彼はぎくりとした。というのは、もしあのときアンゲーリカに誘われるままに家にはいっていたら、喜ばれるどころではなかったかもしれないということが、とっさにわかったからである。
姉の家についてみると、女の子はもうだいぶん前に帰宅して、母の膝(ひざ)に抱かれながらおしゃべりをしていた。エールハルトは、そのそばへ行って話を聞かせてもらった。
「おばちゃんとこに、よそのおじちゃんが来てたかい?」
彼がたずねると、女の子はうなずいて、
「お医ちゃちゃまよ! いいおじちゃんなの! ボンボンをくれたわよ」
と、もったいぶって言った。

ふたりっきりでいる瞬間が、愛人同士にふたたびおとずれた。庭の茂みが、真昼の太陽と人目からまたもや彼と彼女をまもってくれた。しかしふたりは、以前のように手をとり合うことはしなかった。この茂みには、ふたりとともにかくされている秘密などあり得ないらしかった。
「それで、もういちどあの人が君に求婚するようなことになったら、どうするの?」
エールハルトはたずねた。このときふたりは、庭の小さな石のテーブルをはさんで立っていた。
「あの人がわたしに求婚をくり返すなんてことはないと思うわ」
「でも、もしくり返すとしたら?」
「あなたはわたしを苦しめるのね!」
と、彼女は言いながら、小枝を一本ポキッと指で折りとると、彼から数歩はなれて、わきの茂みのなかへはいって行った。
「ねえ、アンゲーリカ! そんなことは起こるはずがないと言ってくれたまえ! だって、もしそんなことになったら、もう引っ込みがつかないんだから」
「でもわたし、今みたいな生活をいつまでもつづけるってわけにいかないわ。どうすればいいのかしら?」
「ぼくに一つだけ答えてくれたまえ――あの人は君にとってほかの誰よりも大切なの?」
返事はなかった。しかし一滴の血が歯のあいだからふき出て、彼女のくちびるにしたたった。――これを見たとき、怒りのような感情が胸にこみあげてきた。彼は返事をうながすように彼女の胸をゆすぶった。が、彼女はこう言っただけだった。
「あなたったら、なに一つわたしのためにしてくださらないもの。――そんなことをわたしに要求する権利なんてないはずよ」
「アンゲーリカ!」
彼はさけんだが、しかし彼女は、ものうげな無表情な目つきで彼を見るばかりだった。彼は顔を彼女の両手のなかに埋めて、「君はぼくを愛してくれるね、アンゲーリカ!」と、ささやくように言った。が、彼女はもう彼を振りきっていて、もはや聞いてなぞいなかった。

そのうちに、これまで彼女から遠ざかっていて、本能的に彼女に近寄ることをしなかった多くの男たちが近づいてきた。彼女はその誰彼に心をなびかせた。といってもそれは、彼女の心がエールハルトの愛にたいして不実になったためでもなく、また彼女の官能が彼女の心を裏切ったためでもなくて、彼女がそれを望んだからである。人生がそういう行路(こうろ)を教えるのだと信じたからである。
こうしてアンゲーリカの美しい堅実な心はくずれてゆき、愛はひたすら愛人にそそがれねばならぬ、情愛のわずかなきざしさえ愛人に終始しなければならぬ、という気持ちが失われていった。
彼女の身なりも変わってきた。以前は、これなら彼の気に入るとわかっている色合いや生地(きじ)のものを着るようにし、またこまごました装身具もそういうものを選んでいた。そして、こうした心得にたいする喜びを彼の目のなかにさぐったものだった。ところが今では、彼女の身につけたスカーフや色けのものは、彼が見るのもイヤだといったものばかりだし、その両手も、これまでは彼のために手入れをされていたのが、なおざりにされるようになったのだ。
アンゲーリカは、そのために彼が悩むのを見た。それも、およそ人間に胸の張り裂けるような思いをさせるひどい悩みだった。彼女にはそれがわかっていながら、すこしも改めなかった。もう彼の心を気づかうなんて必要がなくなったからである。つねに日常の平凡なことにまぎれて現われる新奇なものの魅力が彼女をとらえた。彼女は他の男が自分への求愛にしくじって、その顔に不快や悲しみの色を浮かべることがあると、なんとなく気の毒な思いをして心を動かされたが、その同じ瞬間に、そっくり彼女のものになっているエールハルトの顔がいかにも苦しそうにゆがみはじめるのを見落としていた。
彼はそんな晩を沈黙と情(なさけ)ない気持ちで過ごしたあとで、よく彼女にむかって、そういう悲痛な思いをした人間の激情や悲哀のこもった調子で話しかけるのだったが、彼女はたいてい黙っているか、または同じように激越(げきえつ)な調子で返事をした。しかし愛の理解は、どちらからも消え去っていた。お互いにじっと見かわしても、はてしない怨恨(えんこん)と、いや、それ以上に限りない苦痛をおぼえるのだった。ふたりは、かつてのように、わたしはあなたのもの、あなたはわたしのもの、という幸福にひたれない苦しみに消え入りそうな思いをした。お互いに救われようとすることばが、ふたりのくちびるの上や目のなかに浮かぶことはあっても、もはやそのことばが見つからないのだ。こうして、しだいに二重のアンゲーリカが生まれてきた。どちらのアンゲーリカも、たおやかな痩(や)せぎすの姿と、彼が何よりも好きな明るいブロンドの髪の女だが、一方のアンゲーリカは、彼の目、彼のくちびるに見とれて、身も心も彼のものになっているのに、他方のアンゲーリカは、彼の心など露(つゆ)ほども理解せず、彼に腕や背首をさわられたりすると、まるで恥知らずの男にでもさわられたようにそっぽを向くのだった。彼は胸に悲痛のさけび声をつまらせながら、この最愛の姿のなかに何かよそよそしいものが潜んでいるのを知った。
新任地へ向かって出発する前の日の晩おそく、エールハルトは、もういちどアンゲーリカと彼女の家で会った。別れるとき、彼女は子どものころからしなれてきたように、階段をおりて玄関まで彼を送ってくれた――それに、これが最後だが、手に手をとって。――やがて、彼女がまだ別れのことなど自覚もしないうちに、早くもエールハルトは、「さようなら、アンゲーリカ!」と言って、彼女に見送られるあいだに暗がりのなかへ姿を消してしまった。が、なにか言い忘れたことで彼女にぜひ知ってもらいたいことでもあるように、急にまたひき返してきた。しかし、彼はただこう頼んだだけだった。
「もうしばらく立っていてくれたまえ、アンゲーリカ! そして……」
と、低い声でつけ加えて、
「家にはいるとき、あまり手荒くドアをしめないでくれたまえよ!」
アンゲーリカはうなずいた。そして、こんどは彼もほんとうに立ち去った。
たいていの家々では、もう明りが消えていた。彼の歩く音だけが敷石の上に高くひびいた。――通りをだいぶん下手(しもて)まで来たとき、玄関の鈴(すず)の音が聞こえてきた。彼は自分の幸福のとびらがうしろでしまったかのように、ハッと身をすくめた。



こうした出来ごとのあくる年、社会情勢に一つのシュトゥルム・ウント・ドラング〔疾風怒濤(しっぷうどとう)〕の時代が出現して、個人の境遇のこれまでの評価がすべてくつがえされてしまった。エールハルトは新任地の第二の故郷で、ただ時たま、ありふれたアンゲーリカのうわさを聞くだけだった。彼は彼女とかかわりのない将来のことを考えようとつとめたが、それでもやはり、たえず、ほとんど無意識のうちに、なにか途方もない偶然が起こって、とどのつまり彼女が自分のものになってくれないかと期待をかけずにはいられなかった。ところが、実際にその偶然が起こったのである。エールハルトは事情が急転して、これまで役所関係で望んでいたよりもはるかにましな境遇におかれそうになったのだ。エールハルトはこうした状況の変化を確実に知るやいなや、旅装をととのえ、夜を日についで馬車を飛ばし、ついに前住地の町についた。国道に面した町の庭々のそばを走りすぎるころには、もうあたりは暮れかかっていた。車窓をかすめすぎるどの木にも、どの木戸にも見覚えがあった。それに、彼のいちばんなじみ深い木戸はひらいていて、植込みの奥の庭のベンチまでが見えた。しかし、そこには人影はなかった。馬車はガラガラと通りすぎていった。
まもなく、ある旅館に泊まった。すべて事がきまるまでは姉にも会うまいと思ったからである。
旅行服の着がえをすますと、彼はほの暗い町へ出かけていった。そして、胸にひしめくさまざまの思いや想念を無理にも払いのけようとつとめながら、小路(こうじ)から小路へと息もつかずにせかせかと歩いた。それというのも、数分後には身をもって飛びこんでゆくはずの、あふれるばかりの現実を空想で出し抜くのはよくないことだと思ったからである。ようやく、案内知った家のまえに立った。二階の二つの窓は、彼が最後にここを訪れた当時と同じように今も明るく輝いている。以前もしばしばそうだったが、今も、引かれたカーテンにはアカシヤの木陰が映っていて、ここではすべてが元(もと)と変わらないことをそれとなく告げているようである。
玄関の鈴(すず)を鳴らすと、まもなく家のなかで誰かが階段をおりてくる足音が聞こえた。彼は「アンゲーリカだな」と思った。
しかし、それは彼女ではなかった。以前には見かけたことのないお手伝いの若い女がドアをあけて、彼の用向きをきいた。アンゲーリカのことをたずねると、
「お嬢さまはドクトルさまとごいっしょに芝居へお出かけになりました」
そういう返事である。
「ドクトルさまって、どなた?」
「お嬢さまの婚約者のかたなんです」
「ああ、そう!」――しかし、女中の目が自分の顔をさぐっているように思われて、彼はつけ加えた。
「その、お嬢さんの婚約者って、なんというかたです?」
彼に告げられた名まえは、あの最後のころにあんなに苦しい口争いのもとになった男の名まえだった。それを思い出すうちに、むらむらと激しい怒りが胸にこみあげてきた。エールハルトはガス灯の明りのもとで、紙入れのなかから一枚の名刺をとりだすと、自分の名の下に「幸福を祈ります」と書きつけた。
しかし、それを手わたす直前に、急に手をひっこめると、びっくりしている相手の目のまえで名刺をひきちぎり、ことづても残さず名も告げずに旅館へとひき返していった。
まもなくまた馬車に乗ると、午後と同じように町の庭々のそばを走り過ぎていった。例の木戸は今は月光に照らされて、その影をそとの道に投げている。庭のほの暗い茂みのあいだに例の小さいベンチがぽつんとおかれたままになっているが、それにも月光がほそい帯(おび)のようにさしている。――アンゲーリカはどこにいるのだろう?――かつて彼女はあそこにいたのだ。いま実体のない月光がさしているあそこに、あのたおやかな姿が、あの白い衣装があったのだ。彼女は彼の首に抱きつき、抱きつかれた彼は彼女のくちびるに触れると、どんなに立ち去ろうと思っても、立ち去る力が抜けてしまうのだった。――たえ難い、むなしいさまざまの考えが彼を襲(おそ)ってきた。もしあのとき自分が立ち去っていたら、いまごろはどうなっているだろう? それとも、あのとき自分は立ち去ることができなかったのだから――もし一歩もこの町から離れなかったとしたら? もし意地ずくでも彼女を腕に抱きしめて離すまいとする向こう見ずの勇気が出ていたとしたなら?――そしたら、アンゲーリカはどうなっていただろう? すべてはどんなことになっていたのだろう?
とっくに町はうしろになっていた。馬車はひた走りに静かな田舎(いなか)へと出ていった。エールハルトは片すみにからだを押しつけるようにして乗っていた。そして、月光が馬車の窓からさしこみ、そとの事物が影のようにかすめすぎるあいだ、冷酷(れいこく)なほど鋭い心で自分の性格の弱さと罪の深さをかえりみるのだった。

時は過ぎていった。エールハルトは毎日のように職務に精を出したが、どの日もどの日も同じだった。というわけは、この人の胸には一か所だけ死んだところがあって、何事が起ころうと、他の人が何をうれしがろうと、すべてを単調な灰色に変えてしまったからである。
こうしたある晩秋の夕べ、エールハルトは自分の広い部屋にひとりとじこもって、片ほほを突きながら、本や書類でいっぱいのデスクに向かっていた。ランプがともっていて、ひっそりと静かだった。ただときおり、そとを吹く風と、おそくうれた果実の庭に落ちる音とがするだけだった。やがて顔を起こすと、カーテンを引かない窓を透(す)かしてそとの暗がりをながめた。それも、ずいぶん長いことながめていたが、やがて目をそむけると、こんどは、部屋の片すみに蓋(ふた)をしたままになっているピアノに目をそそいだ。その上に数通の手紙がおいてある。うちに帰ったときは薄暗かったので、つい見落としてしまったのだ。彼はそれらの手紙を目のまえにおいて封を切った。見ず知らずの人の、どうでもいい名まえのものにまじって、ただ一通だけ見覚えのある筆蹟の手紙があった。それはある友人の、久しく見たことのない文字だった。彼は封を切ることをためらいながら、じっと上書(うわが)きとスタンプを見つめた。胸の動悸(どうき)が耳に聞こえるほど高鳴り、手紙が手に重たく感じられる。けれども、とうとう封を切って読んだ。最初のページをめくると、次のページにはこんなことが書いてあった。
「アンゲーリカの縁組みは、式をあげる前に相手の婚約者が死んだので取り消しになったよ。さあ、君の幸福をつかみに帰ってきたまえ!――」
文字は彼の目のまえでぼやけ、便箋(びんせん)は彼の手のなかでふるえた。やがて、たえ難い哀愁(あいしゅう)が襲(おそ)ってきた。郷愁が幼子(おさなご)の声で哀願するように忍びよってきて、彼を夢うつつの迷路へいざなっていった。孤独の境遇を抜けだして遠くはるかに――静かな庭のなかへ――明るい真昼の日光にさんさんと照らされたみずうみを超えて――ほの暗い森の小道の夕暮れのなかへと、いざなっていった。そこの森では、月光が葉かげをもれるだけで、彼女の姿はほとんど見えず、ただ、そっと彼のうしろへのばした彼女のほっそりとした手を自分の手に感じるだけだった。――それから、幼い、ごく幼いころにさかのぼって――彼女は髪を彼のほほに押しつけながら、いつぞやこんなことを思い出させたことがあったが――彼女の両親のうちの一室へ。そこでは、金髪をおさげにした幼い青白い顔の少女が、本を読んでもらいながら自分の低い椅子(いす)を彼の膝(ひざ)もとへずりよせ、熱心に耳を傾けながら彼を見あげている。そのうちに、彼は自分の手を少女のかわいい頭の上においたが、しまいには、その子にせがまれるままにそっと自分の膝に抱きあげてやったのだ。――それからまた、そんな彼女を見たわけではないけれど――しんみりとしたときの告白によると――この情熱的な少女は、偶然にも身近に自分の好きな男がいるのを意識すると、まんじりともせずに夜を泣きあかし、もうそのころから神を宿していた小さな胸に、かわいい両手を押しあてたのだった。――そして、のちには、身も心も彼のものになりきって、彼を見おろすようにして顔をぐっと近づけ、上から髪をたらしかけると、彼も彼女のからだにしがみついて、ただ一つに溶けあいながら、見かわす目と目のなかに消え入りそうな思いをしたのだった。
彼は膝(ひざ)をついて、両腕を彼女のほうへさしのべると、胸のうずきと熱い思いのために口もろくにきけないで彼女の名を呼んだ。――しかし彼の呼んだ彼女は来なかった。もはや来るはずもなかった。思い出の愛の夕映(ゆうば)えに今いちど照らし出された魅惑(みわく)的な彼女の姿は、わずかにただ彼の胸のなかに見いだされるだけだった。
ランプはもう、ともってはいなかった。どんよりした月がのぼっていて、部屋のなかをのぞきこんだ。彼は立ちあがると、手文庫を開いて、ひきだしからひと包みの手紙をとりだし、くくってある紐(ひも)をほどいた。それから、いま読んだばかりの手紙をとって、他の手紙をかさねると、また元(もと)の場所に包みをしまいこんだ。
それがすむと、窓をあけて、ぐっと身を乗りだした。雨が降っていて、大つぶのしずくが彼の髪のなかや、熱っぽいこめかみに落ちかかった。そんなにして、しばらく身じろぎもせずにぼんやりしていた。ただ、身うちにひそかな血の騒ぎを感じ、機械的に目の下の木の葉のざわめきに耳を傾けるばかり。しかし、これまでもしばしば彼を正気にもどしてくれた自然が、こんども彼を助けにきてくれた。自然は彼に無理もいわず、なに一つ求めもしない。そして、しだいに彼を冷静にしてくれた。やがて、自分の感覚と心をとりもどしたとき、エールハルトは、今こそ自分はアンゲーリカを失ったのだ、自分と彼女との関係も今こそ永遠に幕をとじ終わりを告げたのだ、と思った。(完)
解説

人と文学

〔故郷〕
テオドール・シュトルムTheodor Storm は、一八一七年九月十四日、デンマークと境を接するシュレースヴィヒ・ホルシュタイン(この公国は、一七七三年以来デンマーク領になっていた)の北海沿岸の町フーズムに生まれた。後年のシュトルムが自作の『聖ユルゲンにて』のなかで、「わたしの生まれた町は殺風景な小さな町にすぎない。木のない海べの平地にあって、家々は古ぼけて黒ずんでいる。それでもわたしは、いつも住み心地のよい所だと思ってきた」と述べているのは、このフーズムの町のことである。
父親のヨーハン・カジミール・シュトルムは農家の出だが、ハイデルベルクとキールの各大学で法律学を修めたのち、一八一五年にフーズムの町にきて弁護士を開業した。もっとも、同じ弁護士といっても、ゲーテやホフマンの父親などとはちがって、シュトルムの父親は文学的素養も関心も浅く、長男が小説家として有名になってからも、ほとんどかえりみなかったといわれる。しかし、あのたくみな話術の才はこの父親からうけついだのである。
一方、母親のルーツィエは、宗教的な偏見(へんけん)をもたない町の旧家の出で、この名門の家には、昔を語る古い道具類がたくさんあった。そんな関係で、幼少のころのシュトルムは、この母の実家で過ごすのが何より楽しかったという。彼は美しいテノールの声の持ち主で、またピアノが上手(じょうず)だったが、そのような音楽にたいするセンスは、生まれつき快活な美人の母親からうけついだのだった。

〔学窓と青春〕
シュトルムの一家は、一八二一年の夏に母の実家へ移り住むことになったが、その五年後の二六年に、シュトルムは町の九年制の古典語学校にはいり、ついで中部ドイツのリューベックのギムナジウムに進む。ここでも彼は、もう十八歳になっていたけれど、あまり学校の成績はよくなかったらしい。ただ、彼自身の語るところによれば、二つ年上の友人フェルディナント・レーゼから大きな文学上の影響をうけ、はじめてゲーテの『ファウスト』や、ロマン派のアイヒェンドルフやハイネ、つづいてエドゥアルト・メーリケの抒情詩などに親しみ、後年の詩人としての下地をつくるようになった。シュトルムはこの文学上の恩人の思い出を五十年後に書いている。
このころ即興詩をつくりはしたが、もちろん、未来のすぐれた抒情詩人を予想させるようなものではなかった。
一八三七年の復活祭の日に、リューベックの「修道院めいた窮屈(きゅうくつ)」なギムナジウムを去って、公国内のキール大学にはいり、法律学を専修することになった。これは父親の希望に従ったのである。キールはそのころ、人口もリューベックのわずか半分の一万二千ぐらいの町で、はつらつとした精神的な活気に乏しく、いったいにバルト海の沈んだ空気がみなぎっていた。そのせいか、ここに集まった学生たちの気質もひっこみ思案で、概して享楽的(きょうらくてき)な一面ばかりが強く、彼らの話題といえば酒と女と決闘ぐらいなものだった。シュトルムは後年の小説(『みずうみ』や『大学時代』)のなかで、そのような学生たちの暗くよどんだ世界を再現して、そのころ感じた作者の幻滅の悲哀を暗示的に読者に語っている。
まる一年後に、彼はドイツ最大のベルリン大学へ移り、法律学の研究をつづける。ここでふたたび旧友のフェルディナント・レーゼと落ちあって、文学同好のグループの一員に加わったりしたが、しかしシュトルム自身はこの首都の生活に満足するよりも、むしろ郷里の「灰色の海べの町」に絶えず郷愁をおぼえながら暮らした。それでも一年半のあいだふみとどまって、一八三九年の秋、ふたたびキール大学へもどっていった。このときようやくシュトルムは、これまでむなしく求めてきたもの、すなわち精神的な励ましと友情にありつくことができた。それは、のちに有名な歴史家となったテオドール・モムゼンと彼の弟(のちの古代言語学の大家)を知ったことで、当時この兄弟も文学に熱をあげていたのである。そして一八四三年、この三人が共同して『三人の友の歌集』を出版したり、あるいはまた、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの国内に埋もれた伝説や童話の聞き集めにも力をあわせたりした。
前述の歌集の出版と月日が前後するけれど、同じ四三年の二月、二十六歳のシュトルムは、すでに郷里の町フーズムにもどっていて、四月には弁護士を開業していたのである。

〔愛と結婚〕
シュトルムは五十五歳のときに、「わたしは非常に感覚的な、情に熱しやすい性格の男なのだ」と告白しているが、じっさい若いころの彼は、そういう一面が特に強かったようである。そして、あのすぐれた美しい抒情詩をうんだのだけれども、そのわりに情熱的な若いシュトルムはあまり知られていない。二十歳のときに、エンマ・Kという娘と恋におちて婚約しながら、すぐにまた解消するという事件があった。が、これは一つのエピソードにすぎない。
別にベルタ・フォン・ブーファンという少女に熱烈な恋をした。前述の『三人の友の歌集』に収載されたシュトルムの大部分の抒情詩は、このベルタとの愛の体験から生まれたものである。彼を泣かせたベルタは、後年の名作『みずうみ』(一八四九年)のエリーザベトや『海のかなたより』(一八六三―六四年)のイェンニーのモデルだともいわれている。シュトルムはこのベルタを、一八三六年のクリスマスの日にハンブルクの親類先で知ったが、このとき彼女は、まだ十一歳そこそこの、目の大きな丸顔の小娘であった。彼は一八四二年の十月、あきらめかねてこの少女(まだ十六歳未満だった)に求婚したけれども、けっきょく冷たく拒まれた。彼の失望落胆がどんなに大きかったかは、今さら説くまでもあるまい。
しかしまもなく、といっても一八四四年五月のことだが、従妹(いとこ)のコンスタンツェ・エスマルヒと婚約を取りかわすことによって、彼はベルタにのまされた煮え湯の思い出を、どうにか忘れ去ることができるようになった。コンスタンツェの父親はゼーゲベルクの市長で、彼女の母親がシュトルムの伯母(おば)にあたった。
シュトルムは十九歳のころのコンスタンツェのことを、しとやかで聡明(そうめい)な「十人並以上の美しい女性」という表現で賛美しているけれど、しかしこの彼女への愛は、彼の性格から想像されるような激しい情熱ではじまったわけではなかった。つまり、顔や姿態の感覚的な印象に根ざす官能的な魅力とは別に、なにか本質的に深くお互いを結びつけるものがあって、そこからシュトルムの彼女への愛が、しずかに永続的に燃えつづけたという形のものだった。その点が、これまでの対女性関係とちがったところである。
この二人の結婚式は、一八四六年九月十五日にあげられた。ところが、この結婚は、不幸にも最初から重い試練となってシュトルムにかぶさってきた。というのは、別に妹の友だちのドロテーア・イェンゼンと断ちがたい関係がつづけられたからである。彼女はフーズムの堅気な良家の娘で、年もコンスタンツェよりも三つ下の美しいブロンド髪の持ち主だったが、しかし顔だちは特別にいいというわけではなかった。が、一面、非常に素直で献身的で、好きな人のためなら身命を捨てても惜しまぬという犠牲の精神に徹したところがあって、すでに十歳のころからシュトルムを慕(した)っていたといわれる。こうした事情を知ったコンスタンツェは、しばらくドロテーアを同居させて三角関係的な愛情問題の解決をはかろうとつとめたけれども、うまくはいかなかった。その官能性において他のドイツ抒情詩の追随をゆるさぬシュトルムの灼熱(しゃくねつ)の恋愛詩は、このドロテーアにささげられたものである。彼女は一八四八年のはじめごろ、ひとりの道を選んでフーズムを去っていったが、それからもオールド・ミスで通し、十八年後の三十七歳のとき、その一年まえにコンスタンツェを失った詩人に迎えられて後妻となった。この当時の複雑微妙な親子関係を心理的に写実的に描いた傑作が、一八七三年の『三色(さんしき)すみれ』である。

〔時代と詩人〕
シュトルムが個人的な家庭の問題で悩まされていたころ、ヨーロッパの政治情勢は嵐のうずの中にあった。一八四八年のパリの二月革命は、ベルリンとウィーンに起こる三月革命の危険信号であった。そしてドイツの革命にとって、いわゆるシュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題が重要な役割を演じた。当時この公国の対外的地位には複雑なものがあって、シュレースヴィヒはデンマークの一部で、政治的にはドイツから完全に切り離されていたのに反し、ホルシュタインとラウエンブルクはドイツ連邦に所属しながら、しかも同時にデンマーク王国の一部になっていたのだ。デンマークの意図は、この公国を完全に自国の領土に併合することにあったが、これにたいする公国の独立運動には国家としての目的が欠けていた。それは、まだドイツが統一国家になっていなかったからである。
一八四八年三月末、レンツブルクにシュレースヴィヒ・ホルシュタイン臨時政府が樹立された。あとには軍事的手段による解決の道しかなかった。だが、公国軍は優勢なデンマーク軍にじりじりに押されて、一八五〇年七月二十四日と二十五日におこなわれた戦闘で撃滅(げきめつ)された。このときロシアとオーストリアの反動政府が介入して、一八五一年のはじめ、ホルシュタインはオーストリア軍に、シュレースヴィヒはデンマーク軍に占領されることになったのだ。シュトルムの愛国心が燃えあがったのは、この前後である。彼は幾編かの政治詩のなかで、自国の独立運動を支持する憂国の心情を吐露(とろ)したが、それがたたって、一八五二年の五月、ついに弁護士の職を奪われ、就職口を公国外にさがさなければならなくなった。妻のコンスタンツェは、すでに二人の息子の母親になっていたが、翌五三年の十月、さいわいにシュトルムはプロイセンの陪席判事の職にありつくことができた。こうして同年の十二月、郷里のフーズムを離れて新しい任地先のポツダムへむかっていった。

〔流離と郷愁〕
シュトルムは、このような追放同然の境遇の変化を口ぐせのように「不幸」とよんだけれど、しかし詩人としてはすでに名をあげていた。すなわち一八五一年には、詩文集『夏物語と歌』の本を、五二年には最初の『詩集』を出したのだ。彼はもともと抒情詩人として世に認められたいと思っていたが、それがじっさいそうなったのである。彼をドイツ有数の抒情詩人にしたのは、前にも書いたとおり、ロマン派のアイヒェンドルフとハイネとメーリケであった。
若いシュトルムの創作の特色になっている豊かな抒情性は、初期の短編小説にも明らかに認められる。のちに、作者自身が文学史家のエーリヒ・シュミットに語ったように、彼の短編小説は抒情詩から生まれたのである。そう思って読むと、いっそう初期のシュトルムの持ち味がわかってくる。彼は好んで、返らぬ青春の日のロマンチックなあこがれや追憶や悔恨(かいこん)の世界を描くけれど、その底流には、つねに美しい詩的情調と人生の哀感がただよっている。そして、それが作者自身の郷土フーズムへの愛着あるいは郷愁と結びついて、さらにしみじみとした感動をよび起こすのである。この初期の短編小説を代表する『みずうみ』は、一八五一年に稿を改めて発表され、たちまち、彼をドイツの文学界と結びつけた。
一八五三年十二月十日、シュトルムはポツダムの区裁判所の陪席判事となる。毎日仕事に追われたが、そのくせ五四年の八月までは無給、あとは不規則な手当てが出されるという状態で、毎月の家賃を支払うのにも不自由を感じた。彼はこの窮境をある手紙のなかで訴えている。こういうところは一八一五年ごろのロマン派のホフマンとそっくりである。それでも創作欲に燃えて、五五年のはじめに苦心作『アンゲーリカ』を完成したし、また同年の夏には南ドイツへ旅をして、この一回きりの旅先で、日ごろ敬愛するシュツットガルトのエドゥアルト・メーリケを訪れて二日間をすごした。それが、せめてもの慰めだったかもしれない。
あくる一八五六年の六月と七月に、はじめて賜暇(しか)を得て郷里のフーズムにもどる。このとき、ドイツ中部の小都市ハイリゲンシュタットの地方裁判所判事に栄転の通知をうけたが、ここで彼は、その後八年間の月日を送ることになるのである。もっとも、この都市はシュトルムの気に入って、友人のブリンクマンや素描家のルードヴィヒ・ピーチュに出した手紙のなかでも、「フーズムに住めないぼくは、ハイリゲンシュタットを永住の地にしたいと思う」と書いている。
だが、シュトルムの望郷の念に、さらに帰心矢のごとき思いを燃え立たせるきっかけをつくったのは、やはりシュレースヴィヒ・ホルシュタインの独立運動であった。デンマークはこの公国を、特にシュレースヴィヒを、あくまでも自国領土に合併しようと試みていたが、途中からプロイセンとオーストリアの両大国に干渉されて、ともかくシュレースヴィヒから手をひくことになったのだった。その結果、シュレースヴィヒのフーズムの議会は、いち早くシュトルムを知事に選出して、彼に帰郷をうながした。この呼びかけにたいして、むろん当人もためらうわけはなかった。こうして一八六四年三月、シュトルムは十年におよぶ他郷での生活に別れを告げて、ふたたびなつかしのフーズムへ帰っていった。

〔二重生活〕
しかし、その後の知事としての生活は、まかせられる仕事が多すぎて目のまわるような忙しさで、ゆっくりとペンをとる余裕などなかった。かてて加えて、一八六七年一月には、せっかくデンマークから独立したシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国が、こんどは完全にプロイセンの一州に編入されてしまったのである。これはプロイセンのビスマルクの老獪(ろうかい)な政策によるものであったが、もともとビスマルクのプロイセンの支配に好感をいだかなかったシュトルムは、ここでますます政治にイヤ気がさしてきた。というわけで、その後まもなく、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の司法と行政の分離がおこなわれたとき、彼は、ためらいなく行政職の知事の椅子をすてて、ささやかな区裁判所判事の地位をえらんだ。そこにシュトルムらしい潔癖と一本気なところがあらわれている。
この公国内の政変と並行するようにして、彼の家庭的な悩みも深くなっていった。まず一八六五年五月には、愛妻コンスタンツェが七人目の子どもをうみ落として死んだのだ。このことから、彼のキリスト教の教義に対する不信感が生まれたともいわれる。しかし、その後数週間たって、ロシアの作家ツルゲーネフからバーデン・バーデンへ招きをうけたのは、一つの救いだったかもしれない。このツルゲーネフとの交遊は晩年までつづけられ、お互いに文通をしたり著書を贈りあったりしている。どちらも抒情詩人から出発した作家だ。
前にも述べたとおり、シュトルムは愛妻を失った翌年の六月十三日、古くからの愛人ドロテーア・イェンゼンと再婚して、ひとまず男やもめとしての身辺の不自由さから免れることができた。だが、先妻の七人の遺児たちをかかえて、なにかと苦労が絶えなかった。ことに三人の息子のうち、長男のハンスのことではシュトルムもずいぶん悩まされたらしい。この長男は大学の医学部へ進むようになってから、しだいにグレだして、完全なアルコール中毒にかかり、けっきょく実地の医業にも失敗して死んでしまったのだ。また三男のカルルは、父親の大きな期待を裏ぎって、ある田舎町のしがない音楽教師になり終わってシュトルムを嘆かせた。一八七四年の『静かなる音楽家』という、やはり写実主義的な作風の小説は、このカルルのことを扱ったものである。
シュトルムの短編小説は、再婚後、しだいに作風が変わってきて、それまでのリリシズム豊かな詩的情調を重んずる作風から心理的な写実主義に移っていったが、その過渡期の頂点に立つのが、前記の『三色すみれ』であろう。もっともシュトルムは、いわゆる人気作家にはなれなかった一人で、ただ『みずうみ』だけが大成功をおさめて、存命中に三十版を重ねている。

〔生と死〕
一八八〇年の四月、退官したシュトルムは、ホルシュタインの小村ハーデマルシェンに移り、翌八一年の五月、この村にあらたに建てた「老年別荘」に家族といっしょに住むことになった。この家の書斎は、必要な書物でぎっしりつまっているほか、窓からは、南東と北東のはるか遠くまで野や山がながめられて、老後を文筆一本で送るのにふさわしい場所だった。ここで、彼の晩年の小説と多くの手紙が書かれたのだ。シュトルムが長く規則的に文通した人たちのなかでは、評論家エーミール・クーと若いゲルマニストのエーリヒ・シュミットのほかに、小説の大家パウル・ハイゼとゴットフリート・ケラーの名があげられる。ハイゼとは、すでに五〇年代のはじめにベルリンで顔見知りになっていた。このハイゼの推薦(すいせん)で、シュトルムは一八八三年にバイエルンの「マキシミリアン文芸勲章」を授けられたが、彼は子どものように喜んで、これを誇りにしたという。
一八八六年の半ばごろから八八年の二月まで、シュトルムは大作『白馬(はくば)の騎士』の仕事をつづけた。ときどき中断したのは、他の短編の執筆や病気――肺炎と肋膜(ろくまく)炎の併発に妨げられたからである。この病気は快方にむかっていったけれども、まもなく、彼の命(いのち)とりとなる病気が続発した。診断の結果は「胃ガン」であることがわかった。しかし、「生きたい、まだまだ生きたい」という望みにとりつかれていたシュトルムは、死がまぢかいという自覚に耐えることができなかった。さいわいに、彼の弟(この人も医者だった)の機転で、それは誤診だと説明された。これに勇気づけられて、ようやく『白馬の騎士』を完成することができたのだった。
こうして八八年の七月四日、シュトルムは七十一歳で永眠した。遺体は七月七日、フーズムの聖ユルゲンの墓地に葬られたが、宗教的な公(おおや)けの儀式はすべてはぶかれた。それはシュトルムが二十五年まえに発表した「臨終の人」という詩のなかで、そのことを要望していたからである。

作品鑑賞

『みずうみ』について
〔文体のリズム〕シュトルムの出世作『みずうみ』にまず感じられるのは、なんともいえない哀調を帯びた文体のリズムである。このリズムが読後もしばらく胸に尾をひいて響くのだ。こういうリズムのことを、おそらく作者自身に深く根ざした「肉体的なリズム」というのであろうか。それが、やわらかい、感覚的な静的な、きめの細かい文章とぴったり調和して、水と油の感じをあたえないところに、この小説の大きな長所があると思う。そういえば、この一作が発表されるや、まもなく同時代の作家テオドール・ファンターネが惜しみない賛辞をおくって、「まったく完全な出来ばえの小説である」と激賞したのは、そういう長所を大きく買って未来のシュトルムを激励したかったからなのであろう。
〔感傷と甘さ〕ところで、この小説は感傷的で甘いという批評をよく聞くし、また事実そのとおりなのだが、しかしよく考えてみると、こうした内容の小説から、その感傷と甘さを取り去ったら、いったいあとに何が残るかということである。はじめに登場する主人公は、ただ回想の過去を背負って、ようやく現在に生きている孤独なラインハルトという老人で、その心境はじつにわびしく、人生の無常感でとざされているのだ。そのような老人に、返らぬ若き日の恋人のおもかげを見つめる感傷の涙が浮かばないとしたら、うそである。とすれば、作者がこの老人の心境にふさわしい甘さで全体をつらぬいて、そこにもの悲しい哀愁のふんいきをかもし出したというのは、じっさいの問題として当然のことだといわねばなるまい。
いったいにわれわれは、感傷――センチメンタルといえば、すぐに何かめめしい安っぽい感情のように解して軽蔑(けいべつ)する傾向があるけれども、それはまちがっていると思う。さすがにわが萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)は、そんなことはいわなかった。いや、むしろ、センチメンタルほど貴重なものはこの世界にないはずだ、とさえ断言したが、それは朔太郎が真正の抒情詩人だったからである。その意味では、シュトルムも真正の抒情詩人で、抒情詩から出発して短編作家になった事実を思い合わせると、この『みずうみ』こそは、その情感味豊かな美しい抒情詩群の一種の集大成と見られなくもない。
〔人物の特殊性〕さて、この作を読みながら各人物に気をつけていると、主人公のラインハルトはいうまでもなく、ヒロインのエリーザベトや彼女の母親にしても、またエリーザベトの夫になるエーリヒにしても、特にきわだった性格の人間というよりも、むしろ、のんびりした地方的な気質の人たちであることがわかるのである。かれらの関心は、もっぱら各自の個人的な家庭生活に集中され、そこでの人間的な喜びや悩みや悲しみがおもな内容になっている。ただ、地下酒場に出てくる情熱的なジプシーの少女と、ぼろをまとった哀れな女の子に当時の社会生活の一端をうかがわせるものがあって、なんとなく官能的な頽廃(たいはい)のムードと、じめじめした貧困の暗さとが感じられるのだが、それも点景的な意味あいの人物であって、かれらが作の表面に押し出ているわけではない。そして、ラインハルト以下の人物が、その人柄に相応したしんみりした情景をくりひろげて、しみじみとした人生の哀感をただよわせてくる。もっとも、作者のねらいはそこにあったと思われるので、その点ではみごとに成功していると評しても過言ではあるまい。
ここでヘタに、肌(はだ)合いのちがった勇ましい雄弁な政治活動家や社会運動家が現われて、わがもの顔に立ちまわったりしたら、せっかくの静かなふんいきがぶちこわされ、この人物たちの愛情ひとすじに生きる独自の世界がひっかきまわされて、妙にチグハグな感じをあたえ、けっきょく独自でも静かでもなくなってしまうだろう。
もっとも、この作が完成された一八四九年前後のシュレースヴィヒ・ホルシュタインは、じっさいには政治問題、すなわちデンマークからの独立問題をかかえて内憂外患がかさなっていたのだが、そしてこの国家的な重大問題には、シュトルムの性格として無関心ではいられなかったはずだけれど、それがこの作にはいささかも反映されず、前に述べたような個人的な家庭内の問題に限られたというのも、作者の意図があまりに身近な政治問題などから離れて、純粋に「芸術のための芸術」的な作品をうみだして別天地をつくることにあったのだ。そうもいえるだろう。
〔回想と時間〕ただ最後に、この作品の難点をいわせてもらえば、全体が甘いなりに甘くまとまりがついているのは別として、老人の思い出に一つ二つと浮かんでくる場面と場面の時間的な関係があいまいで、はっきりしていないことである。手っとり早くいって、ラインハルトがエリーザベトと仲よしになった幼少時代から、その彼女が他の男の妻になってラインハルトに再会する日までには、およそ二十年ばかりの月日が流れているはずだけれど、それが作品の上ではちょっと判別できないほどに、場面と場面のあいだにギャップがありすぎるのだ。それは作者が、つれづれな老人の断片的な回想という特殊性に重きをおくと同時に、その記憶に残るもっとも印象的な鮮明なシーンだけを取りあげて、読者の心眼に強く訴えようとしたがためで、悪くいえば、作者として必要な説明をはぶいたということにもなるけれど、しかしここには、その短所を補ってくれるものがあることも忘れてはなるまい。それは何かといえば、作者自身のいだく限りない人生の孤独感である。それが巻末に近づくにしたがって、ひしひしと読者の胸に迫ってきはしないだろうか。

『三色すみれ』について
〔静と動〕この作品がシュトルムの中期を代表し、また作風もロマンチックな情調主義から心理的な写実主義に変わってきていることは前に書いたとおりだが、文体もそれだけにひきしまって、前期の小説に見られたような牧歌調のやわらかい女性的なことばの表現から、キビキビした動的な力感を盛りあげた表現に映っていることが目につく。ここには、文章が綴られた年代からいっても二十四年のへだたりがあって、作者が五十も半ばをすぎて人生観の深みを加えるとともに、ようやく短編作家として円熟の域に達したことがわかる。
〔一つの劇〕それに小説の手法からいっても、ちょっと前にも述べたとおり、まったく古典ドラマの法則を踏襲して首尾照応しており、個々の場面に必要な説明を入れて必然的なつながりを持たせながら時間的なギャップを感じさせないところは、まさに堂に入ったものである。
たとえば、劇の序幕にあたる部分、すなわちお手伝いの婆さんとネージーがこの家の主人と継母のイーネスを向かえるまでの、なにかひと波瀾(はらん)起こりそうな暗示をあたえる場面の設定からはじまって、つぎにネージーとイーネスの「おかあさまとママ」の呼び名をめぐる心理的な問答の場面に「葛藤(かっとう)」のモメントを伏在させ、そしてそれが次第に継母とままこの不信や疑惑を深めさせて、あの十一月の、自分もまた母になろうとするイーネスの絶望的な心境にいたるクライマックスの場面、つづいて出産後の三者の和解を示す明るい大詰め、とこう見てくると、いかにも目のまえに整然と統一された一つの劇を見る思いがするのである。
〔心理的な会話〕また、ここに登場する人物の会話も、ただ通り一ぺんの、事件の筋を運ぶだけの役割しか持たない浅はかな内容のものに堕さないで、その人物の個性までも浮き上らせるような深みのある心理的な会話になっている点にも注意する必要があろう。たとえば、「おかあさまとママ」の呼び名をめぐる問答のところで、イーネスが、「ママとならいえても、おかあさまとはいえないの?」とたずねると、ネージーが低い声で「おかあさまはなくなったんですもの」と答えるが、この短い二人の対話を読んでも、継母のあせり気味な、自分の立場を無理に相手に押付けようとする気持ちと、まま子の強情なまでに亡(な)き母を慕う気持ちとが、はっきり言外にくみとられて、今後の二人の深刻な対立やいがみ合いが予想されるではないか。これは、初期の『みずうみ』とくらべて、格段の違いである。あの『みずうみ』では、人物の会話は、概してその場のふんいきを出すだけのものに終わっていて、会話者の個性にまで深く立ち入った表現になっていなかったと思う。
〔血と肉〕ここでふと思い出したが、晩年のゲーテが自作の『若きウェルテルの悩み』にふれてエッカーマンに語った『対話』のなかに、「あれは自分の血と肉から生まれたような作品で、いま読み返しても恐ろしい気がする」という意味のことばがあるが、さしずめシュトルムのこの作についても、そういうことがいわれるかもしれない。そもそも彼がこの小説を書く動機となったのは、むろん作者自身の家庭生活とその苦しい体験であって、それを事件の細部においてなまなましく生かしていることが一読してわかるからである。
しかし、同じ個人的な「私」の生活を描くといっても、シュトルムはわが国のいわゆる「私小説家」と同日には語られない作家で、そこには多分に想像力も働いて、この作に登場する幾人かの人物も適当な距離をおいて見ていることがわかる。つまり、現実を正視する目をとぎすましながら、あまりに個人的な感情にもおぼれず、かといって冷酷に突っ放すという立場にも立たず、ときにはユーモラスな空想のつばさを伸ばしながら、この「小世界」をあたたかく人間味豊かに描いている。そこに写実小説としてのこの作品のよさがあると思う。
〔生命への意欲〕ところで、この小説の大詰めに近いあたりで、夫のルードルフがあらたに立ち直ったイーネスにむかって、「いちばん手近なことからはじめよう。……生きることだよ。できるだけ美しく、できるだけ長く」とさとす場面があるが、このことばなどは、じかに作者自身の偽らぬ心の声を聞くようで、いつまでも耳に響く気がする。もっとも、この人生を美しく長く生きるということは、だれしもが一応はいだく願望であり、また理想でもあろう。が、シュトルムにおいては、それが特に切実で、痛いくらいにわれわれの耳を打つのが不思議である。このたくましい生命への意欲に燃えたシュトルムに、うわべは弱いように見えて、ほんとうは強い性格の別のシュトルムが感じられはしないだろうか。

『アンゲーリカ』について
シュトルムはアレキサンダー・ドゥンカーという人にあたえた一八五五年七月の手紙のなかで、「この物語は心理的な作品で、すくなくとも退屈な思いをさせないで読んでもらえるでしょう」と書いたが、その翌月の八月にエッドゥアルト・メーリケに出した手紙や、また五六年のはじめに旧友のモムゼンにあたえた手紙のなかでは、この小説を活字にして発表したことを後悔して、いましばらく手文庫の底にあたためておけばよかった、どうも私はこの作品のなかで主観的になって、あまりに自分を出しすぎたような気がする、という意味のことを述べている。これは、作者としてまことに謙虚な告白で、また一部の批評家(たとえばフランツ・クーグラーなど)からもそのことを指摘されて、あまり高く買われなかったといういきさつもあるが、しかし案外、読者にはこれが受けたという皮肉な反面もあった。
いずれにしても、この小説は同じ初期の『みずうみ』などとだいぶん手法がちがって、前にも書いたとおり、はじめから読者を人物の複雑な心理分析の世界へひきずりこんでゆくのである。訳者はこれを読んだとき、かつてフランスの心理小説を知ったときのような新鮮な驚きと魅惑(みわく)をさえ感じたのだが、この新しい試みは、物語ぜんたいの悩ましいような重苦しいような気分とうまくマッチして成功していると思う。
ただし、ここに登場するエールハルトもアンゲーリカも消極的な性格の人間である点では、前作の『みずうみ』の諸人物と共通していることも争えない。しかし、この消極性が何に起因するかということに考えをめぐらすと、そこに両作の根本的なちがいが自然と思い浮かんでくるであろう。それは一言にしていえば、彼らが悪い不幸な時代に生まれあわせたということである。その悪い時代の経済的な圧迫が、せっかく熱烈にくりひろげられた個人の感情生活を絶えずおびやかして悲しい破局へと追いこんでゆく。すなわち、ここでは、個人対社会の避けがたい深刻な関係からかもし出される人間の悲劇が、直接われわれの現代にも通じるなまなましい実感をもって演出されているのだ。同時にここに、一八五〇年代の暗い世相が作者自身の人生観に投げた深い影が認められるのだが、こうした影響の現われを言いがかりにして主観的すぎるとこきおろすのは、どうかという気がする。
ともあれ、こうしてシュトルムは、いままでの情調主義的な静的な環境描写の作家の域を出て、時代と社会の大きな波のまにまに漂(ただよ)わされる人間の運命に傾倒する心理派の作家へと脱皮していったのだ。(訳者)
◆みずうみ/三色すみれ◆
シュトルム/石丸静雄訳

二〇〇四年一月二十五日 Ver1