ジェイン・エア(下)
シャーロット・ブロンテ作/大井浩二訳
目 次
二十二章
二十三章
二十四章
二十五章
二十六章
二十七章
二十八章
二十九章
三十章
三十一章
三十二章
三十三章
三十四章
三十五章
三十六章
三十七章
三十八章
解説
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二十二章
ロチェスターさまからいただいた休暇は、たったの一週間だったのに、わたしがゲイツヘッドを発ったのは、一ヵ月後のことだった。わたしとしては、葬式がすみしだい出発したかったのだが、ジョージアナがロンドン行きの準備ができるまで滞在してほしいといってきかない。やっと願いがかなって、妹の埋葬の指図やら、家事の整理のためにロンドンからやってきたおじのギブソン氏に招待されていたからである。ジョージアナは、イライザと二人きりになるのがこわいし、それに失意のときの同情や、心労のあるときの力づけや、準傭をするときの手助けなど、とても姉からは得られない、といった。そこでわたしは、ジョージアナの優柔不断な態度や、エゴイスティックな泣き言にはがまんにがまんを重ねながら、衣類の仕立てに荷づくりと、できるだけのことをしてやった。正直な話、わたしが働いている一方で、ジョージアナはなにもせずのらくらしていたのである。わたしは心のなかで考えた。「いとこ同士で二人きりで暮らす運命になっているのだったら、わたしたちはもっとちがった立場で生活をはじめるでしょうよ。わたしはおとなしく引きさがって、あなたのいいなりになるようなパートナーとはならないわ。あなたにも仕事のノルマをきめて、それをなしとげるように強制するし、できなければできないままにしておくわ。それに、あのまだるっこい、半分は本心と思えない不平不満のいくらかは、自分自身の胸にそっとしまっておくようにお願いするわ。わたしのほうがこんなふうに辛抱強くして、はい、はい、いっているのは、わたしたちの交渉がどうせごく一時的なものであるし、忌中というとりわけ悲しい時期にあたっているからにすぎないの」
やっとのことでジョージアナを送り出すと、こんどはイライザがあと一週間いてくれないか、といい出した。自分の計画には、時間と注意力のすべてを傾注しなければならない、というのである。イライザはどこか知らない土地へむかって出発しようとしていたので、終日、自室にこもって、なかからドアの鍵をかけ、トランクに詰めものをしたり、引き出しをからにしたり、書類を焼いたりして、ほかの者とはまったくの没交渉であった。わたしはイライザに家事の取りしきりや、見舞客の接待や、悔み状の返事書きなどをたのまれた。
ある朝、イライザはわたしに自由にしてもらっていいから、といった。それから、「それに、あなたの有能な仕事ぶりと分別のあるやり方には感謝しているわ」とつけ加え、「あなたのようなかたと暮すのと、ジョージアナと暮らすのとでは、ずいぶんとちがうものなのね。あなたは人生における自分の本分をはたして、他人に迷惑をかけたりはしないのだから。あすになったら」とイライザは言葉をつづけた。「わたし、大陸にむけて出発します。リール(フランス北東部の都市)の近くにある教団の建物――世間でいう修道院を生活の場として、平穏無事な毎日を送りますの。しばらくはカトリックの教義の検討と、その宗教の実際的なあり方の綿密な研究とに没頭するわ。もしそれが、いまわたしが内心そうではないかと思っているとおりに、万事が適切に、秩序正しくおこなわれることを保証するために計算しつくされた宗教であると判明したら、わたしはカトリックの信者になるし、修道女になるかもしれません」
このイライザの決心を聞いても、わたしは驚かなかったし、思いとどまらせようともしなかった。「あなたにうってつけの天職じゃないの」とわたしは思った。「あなたのプラスになることが多いことを祈るわ!」
別れぎわにイライザはいった。「さようなら、ジェイン・エア。お元気でね。あなたは分別のあるいとこだわ」
そこで、わたしもこういった。「あなただって、分別のあるいとこよ、イライザ。でも、あなたのもっている分別は、一年もすればフランスの修道院の壁のなかで、生き埋めになってしまうのね。でも、それはわたしのとやかくいうことではないし、あなたにはふさわしいことなのですから――わたしはあまり気にかけないわ」
「あなたのいうとおりよ」とイライザはいった。
こうしたやりとりのあと、二人はたがいにべつべつの道を歩むことになった。今後はふたたびイライザとその妹に言及する機会がないので、ここで語っておこうと思うが、ジョージアナはお金持ちで、上流社会のよぼよぼの老人という、願ったりかなったりの相手と結婚したし、イライザはやはり修道女となり、現在では、かつて修業期間をすごした上、財産を寄進したりもした修道院の院長を勤めている。
留守をしていたあとで(その期間の長短は別として)わが家へ帰る味がどのようなものであるか、わたしは知らなかった。そのような気分を味わったことがなかったからである。子どものころ、長い散歩のあとでゲイツヘッドの屋敷へ帰ることがどのようなものであるかは知っていた――それは寒そうな顔をしているとか、陰気な顔をしているとかいった理由で叱られるということであった。その後、教会からローウッドの学校へもどることがどのようなものであるかを知った――それはたっぷりの食事とあかあかと燃える暖炉の火を切望しながら、どちらも得られないということであった。いずれの場合にも、帰るということは、あまり愉快なことでも望ましいことでもなかった。ある一点にむかって磁石で引きつけられ、近づくほどに引力がますといったていのものではなかったのだ。ソーンフィールドへ帰ることについては、これからたしかめてみなければならない。
道中は退屈に――この上なく退屈に思われた。初日は五十マイル行ってから、宿に一泊。二日目もまた五十マイルであった。はじめの十二時間は、いまわのきわのリード夫人のことを考えていた。みにくく、色あせた顔が目に浮かび、奇妙に変わった声が耳に響いた。わたしは葬式の日のことを思った。ひつぎ、霊柩車、小作人や召使いたちの黒い行列――親族の数はすくなかった――大きく口をあけた納骨堂、静まりかえった教会、厳粛な葬儀。それからイライザとジョージアナのことを考えた。一人は舞踏場で衆目の的となり、もう一人は修道院の独房の住人となっている姿を思い描き、それぞれの人格や性格の特徴について、あれこれ考えながら分析してみた。こうした考えも、夕方、――という大きな町についたことで、立ち消えになってしまい、夜になると、わたしの考えは一八〇度に転回してしまっていた。旅寝の床についたとき、わたしは過去の回想から未来の予測に移っていたのである。
わたしはソーンフィールドに帰ろうとしている。だが、どのくらいの滞在期間になるのか? 長くはあるまい、という確信がわたしにはあった。留守のあいだにフェアファックス夫人からもらった手紙には、屋敷にきていた客たちも帰ってしまい、ロチェスターさまは三週間まえにロンドンへ出かけたが、二週間後には帰宅の予定、とあった。新しい馬車を買う話をしていたから、ロンドン行きは結婚式の準備のためではないか、とフェアファックス夫人は想像していた。夫人はまた、だんなさまとミス・イングラムとが結婚するというのは、いまだに奇妙に思われることだが、みんなの話や、夫人自身が目のあたりにしたことから判断して、挙式が間近であることにはもう疑問の余地がない、とも書いてあった。「それを疑うようなら、あなたは異常に猜疑心の強い人間ということになるわ」とわたしは心のなかで批評した。「わたしは疑ったりしないわ」
つぎに「では、どこへ行くべきか?」という疑問が浮かんだ。わたしは一晩中、ミス・イングラムの夢をみていたが、明け方のはっきりした夢のなかでは、わたしを入れまいとするミス・イングラムがソーンフィールドの門を閉め、わたしに別の道をさし示していた。ロチェスターさまは手をこまねいて傍観していた――わたしたち二人に皮肉な微笑を投げかけているようであったのだが。
わたしはフェアファックス夫人に、正確な帰宅の日取りを通知してなかった。ミルコートまで、二輪馬車や四輪馬車で迎えにきてほしくなかったからである。わたしは一人で、人目につかないように歩いて帰るつもりであった。事実、トランクを宿の馬丁にあずかってもらうと、六月の夕方の六時ごろ、ジョージ旅館から人目をしのぶようにぬけ出して、ソーンフィールドへの旧道を歩きはじめた。それは主に畑のあいだを通っている道で、いまではあまり人の行き来がなくなっていた。
光り輝く夏の夕暮れでも、華麗な夏の夕暮れでもなかったが、天気はよく、さわやかであった。道ぞいでは干草つくりの人びとが働いている。雲一つない青空とはとてもいえなかったが、豊かな未来を約束しているような空であった。空の青さは――青さの見えるところでは――おだやかで、澄みわたり、雲の層は高く、薄かった。西の空も暖かい色につつまれ、青ざめた光がさむざむとさしこむこともない――まるで大理石模様の霧のカーテンのむこうで、火がともされるか、祭壇が燃えるかして、そのカーテンのすきまから金と赤とが輝き出ている感じであった。
残された道のりが短くなるにつれて、わたしはうれしくなってきた。あまりのうれしさに、一度は立ちどまって、その喜びの意味を自分自身にきいてみたし、わたしが帰って行く先が、わが家でも、いつまでも休息の得られる場所でも、好意的な友人がわたしを捜し求め、わたしの到着を待ちわびている場所でもないことを、わたしの理性に思い出させもしてみた。「フェアファックス夫人はおまえのために、おだやかな歓迎の微笑を浮かべてくれるにちがいない」とわたしはいった。「アデールはおまえの姿を見れば、手を打って飛びはねるだろう。だが、おまえの頭のなかにあるのがその二人とはちがう人間であり、その人間がおまえのことを考えていないということを、おまえは百も承知しているのだ」
だが、若いということほどに片意地なものがあるだろうか? 経験がないということほどに盲目的なものがあるだろうか? この二つのものは、いまひとたびロチェスターさまにお会いできるという特権だけで(目をかけてもらえるかどうかはともかく)、十分な喜びではないか、といい切り、さらにこうつけ加えた――「急げ! 急げ! いられる限りは、あのかたといっしょにいるがよい。あと数日で、おそくともあと数週間で、おまえはあのかたと永遠に別れてしまうのだぞ!」と。そこでわたしは新しく生まれた苦悩を――認知する気にも養育する気にもなれない|かたわ《ヽヽヽ》の子を絞め殺して、ひたすら先を急ぎつづけた。
ソーンフィールドの牧草地でも、干し草をつくっている人びとがいた。というより、わたしが着いた時刻には、干草つくりの人びとは仕事をやめ、まぐわを肩に家路につこうとしていた。畑を一つか二つ通りぬけ、道路を横切れば、屋敷の門にたどり着く。生け垣には、なんとたくさんのバラの花が咲いていることか! でも、わたしには花などつんでいる暇はない。屋敷に着きたい一心なのだから。小道の上に葉のしげった、花ざかりの枝をなん本も伸ばしている、背の高いノバラのそばを通りすぎる。幅のせまい、石づくりの|踏み段《スタイル》が見える。そして、いまわたしの目にはいるのは――そこに坐っているロチェスターさま。手にノートと鉛筆をもって、なにやら書きものをしておられるロチェスターさま。
なるほど、ロチェスターさまは幽霊ではない。でも、わたしの全身の神経は、力が弱りきっている。一瞬、自分で自分が制しきれなくなっているのだ。これはなにを意味しているのだろうか? あのかたにお目にかかったとき、こんな具合にからだがふるえようとは――あのかたのまえに出たとき、声が出なくなったり、からだの自由がきかなくなったりすることがあろうとは、夢にも思っていなかった。身動きができるようになったら、すぐに引きかえすとしよう。赤恥をかく必要はないのだから。屋敷にはいる別の道を知っている。いや、別の道を二十知っていたところで、なんになろう。あのかたの目にとまってしまったいまとなっては。
「やあ!」ロチェスターさまは大声をあげ、もっていたノートと鉛筆をしまいこむ。「いよいよお帰りだな! さっさとこっちへきたまえよ」
さっさと行きたいと思うのだが、どんなふうに行っていいのか、わたしにはわからない。自分のからだの動きもわからないくらいで、ただただ冷静を装うことに――とりわけ、顔のぴくぴく動く筋肉を押えつけることに気を使っている――ところが、その筋肉は、生意気にもわたしの意にしたがおうとせず、わたしがかくそうと決心したものを表現しようとやっきになっている感じなのだ。しかし、わたしはヴェールをつけている――ヴェールがおりていることだから、なんとかごまかせば、落ち着きはらった態度がとれるかもしれない。
「やっぱりジェイン・エアだね? ミルコートから、しかも歩いてやってきたのかい? なるほど――例のいつものいたずらだな。馬車を迎えにこさせて、なみの人間のように通りから通りへ馬車の音を響かせて行こうとはせず、まるで夢かまぼろしみたいに、たそがれとともにきみの家の近所へしのびこんでくるとは。この一ヵ月というもの、一体なにをしていたのかね?」
「おばのところにいましたわ、死んだおばですけど」
「いかにもジェインらしい返事だな! 天使さま、このわたしをお守りください! この女はあの世から――死者の世界からやってきて、このたそがれのなかで二人きりで出会ったわたしに、そう申すのでございます! 思いきって、きみに手をふれれば、きみがうつつなのか、まぼろしなのか、はっきりするのだがね、妖精くん! ――だが、沼地で青い鬼火でもつかまえようとするほうがましなんだろうな。なまけ者め! このなまけ者めが!」とロチェスターさまは、一息いれてからつけ加えた。「まるまる一ヵ月もぼくのまえから姿を消すなんて! ぼくのことなんか、きれいに忘れてしまったのだろ、そうにちがいない!」
主人との再会が楽しいものであることは、わたしにもわかってはいた。ロチェスターさまがやがてわたしの主人ではなくなってしまうという不安や、わたしなどなんの意味ももっていない人間であるという確信で、その楽しさが台なしにされているとしても。しかし、ロチェスターさまには、まえまえから幸福をわかち合う能力がふんだんに備っているので(すくなくとも、わたしの印象ではそうだった)、わたしみたいによるべない迷い鳥にとって、その手でまきちらされたパンくずをついばむことは、それだけでたいへんなもてなしにあずかることであった。ロチェスターさまが最後に口にされた言葉は、わたしには大きな慰めであった。わたしに忘れられたかどうかが、なんらかの意味をもっていることを、暗示しているようであったから。それにロチェスターさまはソーンフィールドを「きみの家」といってくれた――本当にわたしの家であってくれればいいのに!
ロチェスターさまが|踏み段《スタイル》に坐ったままなので、わたしはそばを通してください、ともいいかねた。しばらくして、わたしはロンドンへは行かれなかったのですか、ときいてみた。
「行ってきたよ。どうやら、透視の目で見ぬいたらしいな」
「フェアファックスさんがお手紙で教えてくれましたわ」
「ぼくがなにをしに行ったかも書いてあったかい?」
「そりゃ、書いてありましたわ! ご用の向きはだれでも知っていますもの」
「馬車を見てくれなくちゃあね、ジェイン。ロチェスター夫人にふさわしいかどうか、きみの考えを教えてくれたまえ。あの紫色のクッションによりかかった姿が、ボウディシア女王(東ブリテンの一部族の女王。暴逆なローマ人に反抗したが、敗れて西暦六一年に自殺した。馬車にのった像がロンドンにある)にそっくりかどうかもね。ぼくが外面的にロチェスター夫人と釣り合うような、もうすこしいい男だったらいいのにと思うよ、ジェイン。きみは妖精なんだから教えてくれないか――ぼくをもっとハンサムな男にするまじないとか、ほれ薬とか、そういった類いのものをぼくにくれることはできないかい?」
「魔法の力でも不可能なことですわ」といってから、わたしは心のなかで、こうつけ加えた。「愛情にあふれた目がありさえすれば、ほかにまじないはいりませんわ。愛する者にとって、あなたは文句なしにハンサムですもの。それどころか、あなたのいかめしいお顔は、美以上の力をもっておりますわ」
ロチェスターさまはわたしが口に出さない考えを、わたしにはわからない洞察力で読み取ることが、これまでにもなん回かあった。いまの場合にも、わたしのぶっきらぼうな返事にはとりあわず、ロチェスターさま独特の、めったに見せることのない微笑を浮かべて、わたしに笑いかけていた。ロチェスターさまは、その微笑をありふれた目的のため使うのはもったいないと思っているようであったが、それは本当の太陽の輝きのような感情のこもった微笑であった――それがいま、わたしの上にふりそそがれている。
「さあ、どうぞ、ジャネット(ロチェスターはジェインに「ジャネット」と呼びかけることがある)」ロチェスターさまはわたしが|踏み段《スタイル》を通れるだけのスペースをあけながらいった。「早く行って、その歩き疲れた小さな足を友人の屋敷で休めてくれたまえ」
いまのわたしとしては、黙っていわれるとおりにすればよかった。これ以上よけいな口をきく必要はなかった。一言もしゃべらずに|踏み段《スタイル》を通りぬけたわたしは、そのままそっとむこうへ行ってしまうつもりであった。だが、ある衝動がわたしをしっかりととらえた――ある力がわたしをふりかえらせた。わたしはいった――わたしのなかのなにかが、わたしにかわって、わたしの意志におかまいなく、こういったのだ――
「ロチェスターさま、たいへんご親切にしていただいて、ありがとうございます。おそばにもどることができて、いつになくうれしい気持ちがしています。あなたさまのいらっしゃるところなら、どこでもわたしの家ですわ――わたしのたった一つの家ですわ」
わたしは足早にずんずん歩きつづけたので、ロチェスターさまがその気になったとしても、わたしに追いつくことはできないほどだった。アデールはわたしの姿を見ると、気も狂わんばかりに喜んだ。フェアファックス夫人は、いつもの飾らない人なつっこさで迎えてくれた。リアはにっこり笑い、ソフィまでが上機嫌で「|こんばんは《ボン・ソワール》」と挨拶した。これはまことに愉快なことだった。みんなから愛されるとともに、自分の存在がみんなの楽しみに貢献していると感じることほどに幸福なことはない。
その夜、わたしは未来に対して断固として目を閉ざし、近づいた別離とせまりくる悲哀をわたしに警告しつづける声に対して耳をふさいだ。お茶のあと、フェアファックス夫人が編物にとりかかり、わたしが夫人のそばの低い椅子に坐り、カーペットの上にひざをついたアデールがわたしにからだをすりよせ、おたがいに対する愛情が黄金色の平和の輪となってわたしたちを取りまいているように思われたとき、わたしたちが遠く離ればなれになったり、そうなる日がすぐにきたりすることがありませんように、とわたしは心ひそかな祈りをささげた。しかし、わたしたちがそんなふうに坐っているところへ、ロチェスターさまがまえぶれもなくはいってきて、わたしたちを眺めながら、和気あいあいとした一家団欒の図にご満悦のようすを見せたときには――老夫人には養女が帰ってきて一安心でしょうな、といってから、アデールにも「|イギリス人のママにしゃぶりつきそうにしてるね《プレタ・クロケ・サ・プティト・ママン・アングレーズ》」とつけ加えたときには――ご結婚後も、わたしたちみんなをどこかにかくまって保護してくださり、その太陽の輝きのようなおそばから追いはらうようなまねはなさるまい、という希望を抱きたい気持ちにさえなったのである。
わたしがソーンフィールド・ホールへ帰ってから、不安ながらもおだやかな二週間がすぎ去った。ご主人の結婚についてはなにも話がでないし、婚礼の用意がされている気配もない。フェアファックス夫人には、ほとんど毎日のように、なにかはっきりしたことを耳にしたかどうかをきいてみるのだが、いつも否定的な返事ばかりだった。夫人の話では、一度、花嫁のご入来の日取りを直接ロチェスターさまにおききしたところ、冗談をいいながら、例の変てこな表情をするだけだったので、どう受けとっていいのかわからない、ということだった。
とりわけ意外に思われることが一つあった。それは、往復の旅行がなされないこと、つまりイングラム・パークへの訪問がまったくおこなわれていないことであった。たしかに、イングラム・パークは二十マイル離れていて、州境にあるけれども、それくらいの距離は、熱烈な恋人にとってものの数ではあるまい。ロチェスターさまのように練達の、疲れを知らない馬の名手には、朝飯まえにひとっ走りの距離にすぎないのだ。わたしは抱いたりする権利のない希望を抱きはじめた。縁談はこわれたのではないか、結婚の噂はまちがいではないか、一方の、もしくは双方の気が変わってしまったのではないか、という希望を。わたしはロチェスターさまの顔を眺めて、悲しさやけわしさの色を見つけようとしたが、顔のかげりや険《けん》がこれほどに一貫して消えていたことがこれまでにあったかどうか、わたしには思い出すことができなかった。わたしと生徒のアデールがごいっしょしているとき、わたしのほうは元気を失って、どうしようもない重い気分に落ちいってしまうのに、ロチェスターさまは浮き浮きしているようでさえあった。これほどひんぱんにわたしをおそばへお呼びになったこともなければ、おそばにいるわたしに、これほど親切にしてくださったこともなかった――そして、ああ! わたしがあのかたをこれほどまでにお慕い申しあげたこともなかったのだ。
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二十三章
すばらしい初夏の日ざしがイギリス全土に輝きわたっていた。海に囲まれたこの国が、折りからなん日もつづいていたようなすみきった青空と明るい太陽とに恵まれることは、かりに一日だけでも珍らしいことであった。華やかな渡り鳥のように、南の国から大挙してやってきたイタリアの日ざしが、アルビオン(イングランドの古い名前)の断崖にとまって、羽を休めているかのようであった。干し草の取り入れもすっかり終り、ソーンフィールド周辺の畑は緑色に光っている。白い、からからに焼けあがった道。色濃い葉をふんだんに茂らせている樹木。生け垣や森は葉をたっぷりつけ、その色もあざやかで、あいだに点在する刈り入れのおわった牧草地の明るい色彩と、見事なコントラストをなしている。
バプテスマのヨハネの祭日(六月二十四日)の前夜、アデールはヘイ小道《レイン》での野イチゴつみに半日を過ごして疲れはて、日が暮れるとともにベッドにはいってしまった。寝つくまで見守っていたわたしは、そばをはなれて庭に足をむけた。
一日のうちで一番気持ちのいい頃あいであった――「一日はその強列な炎をばやきつくし」(イギリス詩人トマス・キャンベル作『トルコの女性』からの引用)というわけで、息づかいの荒い平野や焼けついてしまった山頂には、夜露がひんやりとおりている。太陽がまことに平淡な姿で――つまり、けんらんたる雲をたなびかせることもなく――沈んで行ったあたりにひろがっている、荘厳な深紅色。それは丘の頂上にあたる一点では、赤い宝石とかまどの炎の光となって燃えあがり、高く広くひろがるにつれて、その度合を一段と淡くしながら中空にまで達している。みごとな濃紺色の東の空にも独特の魅力があり、そこにしかないひめやかな宝石は、のぼりはじめたばかりの一つの星であった。やがては空を飾ることになる月も、いまはまだ地平線のかなたにかくれていた。
屋敷のなかの敷石道をしばらく歩いていると、かすかながら、かぎなれた匂いが――それは葉巻きの匂いであったが――どこかの窓からただよってきた。図書室の窓を見ると、手の幅くらい開いている。だれかに見られるかもしれないな、と思ったので、わたしは果樹園へ逃げて行った。邸内で、この場所ほどに人目にかからない、エデンの園のようなところはなかった。一面に木が茂っているし、花も咲き乱れている。片側は非常に高い塀で中庭からへだてられ、反対側にはブナの並み木があるので、芝生からはのぞけない。突きあたりには隠れ垣があり、それが果樹園と人影のない畑との唯一の境界であった。その隠れ垣のほうへのびる曲りくねった散歩道は、両側に月桂樹が植えられ、根元にベンチをめぐらした一本の西洋トチノキの巨木で行きどまりになっている。ここならだれの目にもとまらずに、行きつもどりつすることができる。このように植物の甘い汁がしたたり落ち、このように沈黙があたりを支配し、このようにたそがれがせまっている頃なら、わたしは永遠にこの木陰から立ち去らずにいることができるように感じた。だが、この果樹園の奥のほうの、草花と果樹とが配置されたあたりを縫うように歩いているうちに(そこへは、いまのぼりはじめた月が、この比較的ゆったりとした場所の上に投げかける光に誘われたのだ)、わたしの足ははたととまった――物音や人影のためではなく、またしてもただよってきた、なにかの先ぶれのようないい香りのせいであったのだ。
ずっとまえから、ノバラ、カワラヨモギ、ジャスミン、ナデシコ、バラなどは、芳香を夕べの供え物のようにただよわせている。この新しい香りは、灌木の香りでも草花の香りでもない。それは――わたしはよく知っている――それはロチェスターさまの葉巻の香りなのだ。わたしはあたりを見まわして、聞き耳をたてる。枝もたわわに実のうれている木々が目にとまり、半マイルむこうの森でさえずるナイチンゲールの鳴き声が耳にはいる。動く人影も見えず、近づいてくる足音も聞こえない。なのに、あのいい香りは強くなる一方である。逃げなければならない。灌木を植えた道につづく木戸にむかいかけると、ロチェスターさまがはいってくるのが見えるではないか。わたしはツタのかげの奥まったあたりに身をひそめる。長居はなさるまい。そのうちに、もときた道を引きかえすだろう。じっと坐っておれば、見つかりっこないのだ。
ところが、そうはいきそうにない――夕まぐれは、わたしの場合と同じように、ロチェスターさまにとっても快適であり、この古めかしい庭園も同じような魅力をもっている。ロチェスターさまはぶらぶら歩きながら、西洋スグリの枝をもちあげて、たわわになっているプラムほどの大きさの実を眺めたり、うれたさくらんぼを塀から取ってみたり、ひとかたまりになって咲いている花のほうへ身をかがめて、その芳香を吸いこんだり、花弁の上の露のしずくに見とれたりしている。大きな蛾が一匹、わたしのそばを音をたてて飛びすぎて、ロチェスターさまの足もとの草にとまる。それを見つけたロチェスターさまは、かがみこんでしげしげと眺めている。
「いまなら、こちらに背をむけているわ」とわたしは思った。「それに夢中になっているようすだし。そっと歩いたら、気づかれずにすりぬけられるのではないかしら」
わたしは、小石まじりのじゃり道を歩く音で気づかれては、と思って、芝生のへりを伝って行った。ロチェスターさまはわたしが通らねばならないところから一、二ヤードはなれた花壇に立っていた。蛾に心をうばわれているらしい。「うまく通りぬけられそうだわ」とわたしは思った。まだのぼりきっていない月の光で、庭園のほうへ長くのびているロチェスターさまの影を横切っていたとき、影の主はふりかえりもせずに、静かにいった――
「ジェイン、こいつを見にきたまえ」
わたしは音をたてていなかったし、ロチェスターさまはうしろに目をつけているはずがない――影に感じる力があるのだろうか? 最初、わたしはぎくっとなったが、やがてそばへ近づいた。
「この羽をごらん」とロチェスターさまはいった。「これを見ていると、ぼくは西インド諸島の昆虫を思い出すな。こんなに大きくて、けばけばしい色をした夜の虫は、イギリスではめったにお目にかかれないよ。ほら! 逃げてしまった」
蛾はひらひらと飛び去った。わたしもおずおずと引きあげようとしていたが、ロチェスターさまはあとをつけてきて、木戸のところまできたとき、こういった――
「まわれ右。こんな美しい晩に、家のなかで坐っているなんて、もったいないよ。その上、日の入りと月の出がうまい具合に出会っているというのに、ベッドにはいろうなどと思う者がいるはずはない」
わたしの欠点の一つは、すらすらとよどみなく返事をすることもできる舌がありながら、なにかいい抜けをしようとするときにかぎって、みじめにも口がきけなくなってしまうということだ。やっかいな苦境からぬけ出すために、さりげない言葉やもっともらしい口実をとくに必要としている大事なときにかぎって、そうした失敗をするのである。わたしはこんな時刻に、ロチェスターさまと二人きりで、うす暗い果樹園を散歩したりしたくはなかった。といって、自分一人になるための適当な理由も見つからない。おくれ気味にあとをついて行きながら、わたしの頭は逃げ口上を見つけ出すのに必死になっていた。だが、ロチェスターさま自身はひどく落ち着きはらっている上に、まじめそのもののように見えたので、わたしはろうばいしてしまった自分が恥ずかしくなってきた。悪は――現在の悪であれ、将来ふりかかってくる恐れのある悪であれ――このわたしの側にしか縁がないもののようである。ロチェスターさまの心は、なにも意識せず、すみきっているのだ。
「ジェイン」月桂樹が植えられた散歩道にさしかかり、隠し垣と西洋トチノキのほうへゆっくり足をすすめはじめたとき、ロチェスターさまはふたたび口を開いた。「夏のソーンフィールドは快適な場所じゃないかね?」
「そうですわ」
「この屋敷がある程度は気にいったにちがいないが――自然の美しさを見る目があり、ものに執着する相の発達しているきみのことだからな」
「たしかに、気にいっておりますわ」
「それに、これはどうなっているのかわからないけど、きみはあのお馬鹿さんのアデールにもかなり好意をもっているようだね。その上、あの単純素朴なフェアファックス夫人にも?」
「そうですわ。それぞれちがった形ですけど、お二人を愛しておりますわ」
「二人と別れるのはつらいかね?」
「ええ」
「かわいそうに!」ロチェスターさまはそういうと、ため息をついて言葉をきった。「人生というやつは、いつもこの調子なんだからな」とやがて口を開いていった。「居ごこちのいい安息の場に落ち着いたかと思うと、もう立ちあがって出発しろ、という声がしはじめる。休息時間がおわってしまうんだな」
「わたし、出発しなければなりませんの?」とわたしはきいた。「ソーンフィールドを出なければなりませんの?」
「そのとおりだよ、ジェイン。気の毒だがね、ジャネット、本当にきみにはそうしてもらわなくては」
これはショックだった。だが、このままおめおめと打ちのめされてはならない。「では、ご命令のありしだい、出発できるようにいたします」
「それがいまなんだな――今夜、命令しなくてはならんのだ」
「じゃ、ご結婚なさるのでございますね?」
「そうなんだ――まったくなんだな。いつもの頭のよさで、ずばりご名答というわけさ」
「すぐでございますか?」
「すぐにだともさ、ぼくの――つまり、エアくん。きみもおぼえているだろうが、長いあいだ独身をとおしてきたぼくが、この首を神聖な夫婦のきずなでしばって、きよらかな結婚生活にはいるつもりであることを――つまり、イングラムさんをこの胸にいだくつもりであることを、はじめてぼくが、というよりも『うわさ』がきみにはっきり教えたとき(あの女は大きくて、なかなかに抱き甲斐があるけど、そんなことは問題じゃない――わがうるわしのブランシュほどにすばらしい女性なら、いくら腕にあまってもかまいはしないのだから)、つまり、いまもいっていたように――ぼくの話をきくんだ、ジェイン! もっと蛾を捜そうとして、きょろきょろしているんじゃないだろうね? さっきの蛾はね、いいかい、『お帰り、お帰り、テントウ虫』(イギリスの古い童謡への言及)のテントウ虫にすぎなかったのさ。ぼくがきみに思い出してもらいたいのは、ほかならぬきみだったということだぜ、ぼくが尊敬しているきみのあの慎重さで――責任があると同時に他人まかせのきみの立場にふさわしい、あの先見の明と分別と謙遜にあふれた態度で――ぼくがイングラムさんと結婚したら、きみとアデールはさっさといなくなったほうがいい、などといい出したのは。この意見にこもっている類いの、ぼくの愛する人の品格に関する非難は大目に見ておこう。事実、きみが遠くへ行ってしまったらね、ジャネット、それを忘れるようにするつもりだ。ぼくが注目したいのは、きみの意見の賢明さだけなんだな。なにしろ、それは、ぼくがこれまで行動の規範にしてきたほどのものなんだから。アデールは学校へ行かねばならないし、きみにはね、エアくん、新しい仕事口を見つけてもらわねばならないんだ」
「かしこまりました。すぐに広告をだします。それまでのことでございますけど――」わたしは「新しい住み込みの仕事が見つかるまでは、ここにいてもよろしいでしょうか」というつもりであったが、長い文句を口にするのは賢明であるまいと思って、口をとざした。自分の声がまことに心もとなかったのである。
「一ヵ月かそこらで、ぼくは花婿さんになる予定ですからね」とロチェスターさまはつづけた。「それまでは、きみの仕事や落ち着き先を気にかけておくよ」
「ありがとうございます。それではあんまりで――」
「いやいや――気にすることはないよ。きみみたいな仕事ぶりの使用人の場合、雇い主にできる範囲のわずかばかりの援助なら、いくらでも要求する権利があるのさ。実をいうと、ぼくの家内になる人の母親の線から、きみにうってつけと思われる勤め口の話を聞いているんだ。アイルランドはコンノート(アイルランド共和国の北西部の一地方)のビターナット・ロッジ(「にがいクルミ屋敷」の意味にとれる)に住むディオニシウス・オゴール夫人(「胆汁《ゴール》のディオニシウス夫人」という意味にとれる。ディオニシウスは残忍で知られるカルタゴの王。カリカチュア的効果をねらったもの)の五人のお嬢さんを教える仕事だがね。アイルランドは気にいると思うよ。心のやさしい人たちばかりというじゃないか」
「遠すぎます」
「どうということないさ――きみのような才覚のある女性なら、船旅や道のりなんかものともしないだろ」
「問題は船旅じゃなくて、道のりがありすぎることです。それに海だって、わたしを遠ざける壁になります」
「なにから遠ざけるのかね、ジェイン?」
「イギリスからです。ソーンフィールドからです。そして――」
「そして?」
「|あなた《ヽヽヽ》からです」
思わず口をついて出た言葉だった。そして、わたしの意志にはおかまいなしに、涙がかってにほとばしり出ていた。しかし、声をたてて泣いたのではない。嗚咽《おえつ》はこらえていた。オゴール夫人とビターナット・ロッジのことを考えただけで、わたしの心に氷のやいばがつきささり、いまわたしが肩を並べて歩いている主人とわたしとのあいだにどっと押しよせる運命にあるかに思われる、さかまく荒海のことを考えると、心はさらにひえびえとしてきた。そして、なによりも冷たく感じられたのは、もっと大きな海――わたしと、わたしがごく自然に愛さずにはいられない相手とのあいだに割りこんでくる、財産や身分や習慣であった。
「遠すぎますわ」とわたしはくりかえした。
「たしかに、そうだな。きみがアイルランドのコンノートのビターナット・ロッジへ行ってしまったら、二度と会うこともないだろうな、ジェイン。これは文句なしにたしかなんだ。アイルランドはあんまり好きな国じゃないから、ぼくから出かけることは、絶対にないのさ。ぼくたちはいい友だちだっただろ、ジェイン?」
「はい」
「それに別れがせまったときには、友だち同士で、残されたわずかな時間をおたがいに仲よく過したくなるものさ。さあさあ――半時間かそこら、航海や別離のことをひっそりと語り合おうじゃないか。むこうの空では、星もきらきら光る姿を見せはじめることだから。ここにトチノキがあるし、古い根元にはベンチもある。さあ、今夜はここで静かに腰をかけていようよ。ぼくらは二度とふたたび、肩を並べて坐る運命ではないのだからね」
ロチェスターさまはわたしを坐らせると、自分も腰をおろした。
「アイルランドは遠いよ、ジャネット。親友のきみをそんな長旅に送り出すなんて、ぼくもつらいんだ。しかし、もっとましなことをしてやれないんだから、そうする以外に仕方がないじゃないか? きみとぼくとは、どこかでつながっていると思わないかい、ジェイン?」
この頃にはもう、わたしにはどんな返事もできなかった。胸がはりさけそうになっていたからだ。
「なんてことをきくのもね、きみのこととなると、ぼくはときどき妙な気持ちになるんだな――とくに、いまみたいに、きみが身近かにいるときはさ。ぼくの左の肋骨の下あたりに一本のひもがついていて、それがきみの小さなからだの同じ部分についているひもと、しっかりとけないように結びつけられている感じとでもいうかな(旧約聖書、創世記、第二章第二十一―二十二節に、神が男性のあばら骨で女性を創ったとある。なお、すでに果樹園をエデンの園にたとえ、このあとジェインをイヴになぞらえている点に注意)。あの波荒いアイルランド海峡と、二百マイル以上の陸地とがぼくら二人のあいだにそっくりはいりこんでくることになると、その二人の心を結びつけるひももぷつんと切れてしまうのではないだろうか。そうなれば、ぼくの心は血をふくのではないか、と不安な気持ちに駆られるんだ。きみは――きみはぼくのことなんか忘れてしまうだろうな」
「そんなこと、|絶対に《ヽヽヽ》ありませんわ――ご存じのように――」とまでいって、あとをつづけることができなかった。
「ジェイン、森で鳴いているナイチンゲールが聞こえるかい? ――耳をすましてみたまえ!」
耳をかたむけているうちに、わたしは発作的にすすり泣きの声をあげた。もうこれ以上がまんしつづけることができなかったからである。わたしはこらえ切れなくなり、はげしい悲しみに全身がうちふるえた。やっと口がきけたときにも、生まれなければよかった、ソーンフィールドなどへこなければよかった、という衝動的な願いを口ばしるにすぎなかった。
「ここを去るのがつらいからかい?」
悲哀と愛清によってわたしの内部にかきたてられた激烈な感情が優位を占め、完全に支配しようともがいていた。絶対的な権利を主張していた。克服し、生き、立ちあがり、ついには君臨する権利を。それに、そう、発言する権利を。
「わたしはソーンフィールドを去るのが悲しいのです。わたしはソーンフィールドを愛しています――ここを愛しているのは、わたしが充実した、心楽しい生活を――一時的にすぎないとしても、ここで送ってきたからです。踏みつけられることのなかったわたし。石に化することのなかったわたし。わたしは劣った精神の人間とともに葬り去られることもなく、輝かしいもの、力にみちたもの、高貴なものとの触れあいは、ほんの一目でも拒絶されることがなかったのです。わたしは、わたしが尊敬するかたと、わたしが喜びを見出すことができるかたと――独創的で、精力的で、包容力のある精神の持ち主と、面とむかってお話しすることができました。ロチェスターさま、わたしはあなたを知ったのです。あなたから永遠に引きさかれねばならないことが絶対的な事実であると感じるとき、わたしは恐怖と苦痛に打ちのめされるのです。出発が避けられないことは、わたしにもわかります。でも、それは避けられない死の姿を眺めるようなものなのです」
「どこが避けられない点だね?」ロチェスターさまはだしぬけにきいた。
「どこがって? わたしの目のまえにはっきり示されたではありませんか」
「どんな形で?」
「イングラムさまという形でですわ。上品で、お美しい女性――あなたの花嫁という形で」
「ぼくの花嫁だって! どんな花嫁だね? ぼくには花嫁なんていない!」
「でも、いまにできますわ」
「そうとも! ――できるとも! できるともさ!」ロチェスターさまは歯を食いしばった。
「ですから、わたしは行かねばなりません! ――ご自分でもそういわれましたわ」
「いかん。きみにはいてもらわねばならない! ぼくは誓うよ――この誓いはかならず守るから」
「わたしは行かねばならない、と申しあげておりますわ」わたしは激情にも似たものに駆りたてられて、いい返した。「あなたにとってなんの価値もないわたしが、ここにとどまることができるとお思いですか? わたしのことを自動人形《ロボット》とでも――感情のない機械とでもお思いですか? パンの一片を唇からもぎとられたり、のどをうるおす水の一滴をコップからまきちらされたりしても、がまんのできる女だとお思いですか? わたしが貧しく、名もなく、みにくく、背が低い人間だからといって、魂も心もない人間だとお思いですか? ――それは思いちがいというものです! ――わたしにだって、あなたと同じように魂があります――同じように豊かな心もありますわ! もしもわたしが神さまからすこしの美しさと、たくさんの財産をさずけられていましたら、いまわたしがあなたと別れがたい気持ちを味わっていると同じように、あなたにもわたしと別れがたい気持ちを味わせることができましたのに。いまのわたしは習慣とか、しきたりとか、さらにはうつせみの身を介して話しているのではないのです――わたしの魂があなたの魂に語りかけているのです。わたしたち二人が墓を通りぬけ、神さまの足もとに平等な人間として立っているかのように――いまの二人がそうであるように!」
「いまの二人がそうであるように!」とロチェスターさまはくりかえした――そして、「そうさ」とつけ加えると、その両腕にわたしをかき抱き、その胸にわたしを抱きしめ、その唇をわたしの唇に押しつけた。「そうなのさ、ジェイン!」
「ええ、そうですわ」とわたしは答えた。「でも、そうではないのです。あなたは結婚されたかた――結婚されたも同然のかたです。その相手の女性は、あなたよりも劣ったかた――あなたがなんの共感もおぼえないかた――あなたが本当に愛しているとは、とても信じられないかたなのです。あなたがそのかたを馬鹿にしておられるのを、わたしはこの目と耳でたしかめたのです。そんな結婚を、わたしは軽蔑します。だからわたしは、あなたよりもりっぱな人間なのです――手をはなして、行かせてください!」
「どこへだね、ジェイン? アイルランドかい?」
「ええ――アイルランドですわ。いいたいことを思いきり申しあげましたから、いまではどこへでも行けますの」
「ジェイン、おとなしくしたまえ。死にものぐるいになって自分の羽をかきむしっている、気ちがいじみた野生の鳥みたいにもがくのはやめたまえ」
「わたしは鳥なんかじゃありません。わたしをつかまえる網などありませんわ。わたしは自由な意志をもった、だれにも束縛されない人間です。その自由な意志で、いまわたしはあなたからはなれようとしているのです」
もう一度もがくと、からだが自由になった。わたしはロチェスターさまのまえに、まっすぐ立ちはだかった。
「じゃ、きみの意志がきみの運命をきめるわけなんだね。ぼくはきみにぼくの手と心をささげ、ぼくがもっているものすべてをきみと分かち合いたい」
「そんなの、茶番ですわ。わたしには笑いものにすぎませんのよ」
「ぼくのかたわらで一生を送ってくれたまえ――ぼくの心の友、この地上で最高の伴侶になってくれたまえ」
「その役目のかたなら、あなたはもうすでにお選びになっておられます。きめたとおりにせねばなりませんわ」
「ジェイン、しばらく黙っていたまえ。きみは興奮しすぎている。ぼくも黙るから」
月桂樹の散歩道から、風がそよそよと吹いてきて、西洋トチノキの枝をゆるがせた。その風もさすらうように吹きぬけて――遠くへ――限りなく遠いところへ吹きぬけて行って、やがて音もたえてしまった。そのとき聞こえてくるのは、ナイチンゲールの鳴き声だけであった。それに聞きいっていると、わたしはまた泣けてきた。ロチェスターさまはじっと坐ったまま、わたしをやさしく、真剣に見つめている。しばらくのあいだ、ロチェスターさまは口を開かなかったが、やがてこういった――
「ぼくのそばへおいで、ジェイン。説明しあって、理解しあおうよ」
「あなたのそばへは二度とまいりません。引きさかれたわたしです。いまさらもどれませんわ」
「だって、ジェイン、ぼくはきみを妻として呼んでいるんだよ。ぼくが結婚したいのは、きみだけなんだ」
わたしは黙っていた。からかわれていると思ったからである。
「おいで、ジェイン――ここへきたまえ」
「わたしたちのあいだには、あなたの花嫁が立ちふさがっていますわ」
ロチェスターさまは立ちあがると、一またぎでわたしのところへやってきた。
「ぼくの花嫁なら、ここにいる」
もう一度わたしを引きよせながら、ロチェスターさまはいった。「ぼくと対等の人間が、ぼくにそっくりの人間がここにいるからなんだ。ジェイン、ぼくと結婚してくれないか?」
それでもわたしは答えなかった。それでもわたしは、抱きしめている手をふりほどこうとしていた。わたしにはまだ信じられなかったのである。
「ぼくを疑っているのだね、ジェイン?」
「なにもかも」
「ぼくを信じないのだね?」
「これっぽっちも」
「きみの目にはぼくが嘘つきに見えるのか?」とロチェスターさまははげしい口調できいた。「疑いぶかい人だな、きみも。|いやでも《ヽヽヽヽ》納得させてやる。イングラムさんにぼくがどんな愛情を抱いているか? ゼロだ。それはきみも知っている。イングラムさんがぼくにどんな愛情を抱いているか? ゼロだ。ぼくは、その点をはっきりさせようと苦心したんだ。ぼくの財産が思っている額の三分の一もないといううわさが、あの女の耳にはいるようにしたのさ。結果はどうだろうかと、そのあとで顔を出してみたら、あの女と母親の両方からすげない態度を見せられたというわけ。ぼくは――イングラムさんと結婚する気はない――できもしないのだ。きみを――変てこりんなきみを――地上のものとも思われないきみをだよ! ――ぼくはぼくと一心同体のように愛しているんだ! きみに――貧しく、名もなく、背が低く、みにくいというきみに――ぼくを夫として受けいれてくれたまえ、と頼んでいるんだ」
「えっ! このわたしにですって!」と叫んだが、その熱心な態度――とりわけ、そのざっくばらんな態度のゆえに、わたしはロチェスターさまの真剣さを信じはじめるようになっていた。「この世の中で、友だちといえば、あなたしかいないわたしですのよ――あなたが友だちであるとしての話ですけど。あなたがわたしにくださる以外には、一シリングもないわたしですのよ」
「そのきみなんだ、ジェイン。きみをぼくのものに――ぼく一人のものにしなければならないんだ。ぼくのものになってくれるかい? すぐにイエスといってくれたまえ」
「ロチェスターさま、お顔を見せてください。お月さまのほうをおむきになって」
「なぜだい?」
「お顔の表情を読みたいからですわ――おむきになって!」
「ほら。くしゃくしゃの、なぐり書きのページにおとらず読みにくいだろうな。せっせと読んでくれたまえ。ただ急いでほしいんだ。苦しいのだから」
その顔は興奮しきっているだけでなく、まっ赤に上気していた。どこもかしこもはげしくけいれんし、目はあやしく輝いている。
「ああ、ジェイン、きみはぼくを苦しめている!」とロチェスターさまは叫んだ。「その探るようでいて、しかも忠実で寛大な目で、ぼくを苦しめている!」
「どうしてそんなことができるでしょうか? あなたに嘘いつわりがなく、あなたの求婚が真実のものであるのなら、わたしのあなたに対する気持ちは感謝と愛情だけですわ――そんな気持ちが人を苦しめるはずがありませんもの」
「感謝だって!」とロチェスターさまは叫んでから、荒々しい語調でつけ加えた――「ジェイン、ぼくの求婚をすぐに受けいれてくれたまえ。こういうんだ。エドワード――ぼくの名前を呼んでくれたまえ――エドワード、あなたと結婚します、と」
「本気なんですの? ――本当にわたしを愛してくださいますの? ――真実わたしを妻にと望んでいらっしゃいますの?」
「そうだとも。誓いを立てることできみが満足できるなら、誓ってもいい」
「それなら、あなたと結婚します」
「エドワードだ――ぼくのかわいい妻!」
「エドワードさま!」
「ここへおいで――ぼくに身をまかせたまえ」ロチェスターさまはそういうと、頬と頬をすりよせながら、まことに低い声で、わたしの耳に語りかけるようにつけ加えた。「ぼくを幸福にしてくれたまえ――ぼくはきみを幸福にするよ」
「神よ、お許しください!」しばらくしてロチェスターさまは言葉をついだ。「人間よ、ぼくのじゃまをしてくれるな。ぼくにはジェインがいる。ぼくはジェインをはなさないぞ」
「じゃまをする人間なんて、いませんわ。わたしには、とやかくいう親類などおりませんもの」
「そうだ――それが一番ありがたい点だ」
もしわたしがそれほど強く愛していなかったら、喜びにあふれたロチェスターさまの口調や表情を露骨すぎるものに思っただろう。だが、別離という悪夢からさめ、結婚という天国に招かれた気分でいたわたしは、そばに坐ったまま、なみなみとつがれてさし出された祝福の杯のことばかりを考えていた。なん回となく、ロチェスターさまは「幸福かい、ジェイン?」ときき、わたしもまた、なん回となく、「ええ、幸福ですわ」とくりかえすことがつづいた。そのあと、ロチェスターさまは、こうつぶやいた。「この行為の償いはできる――償いはきっとできる。ぼくは友だちのいない、冷たく、わびしい境遇にあるジェインを見つけたのではなかったか? これからはぼくが守り、いつくしみ、慰めてやろうというのではないか? ぼくの心には愛がなく、ぼくの決意には堅固さが欠けているとでもいうのか? この償いは、神の裁きの座でおこなわれるのだ。神がぼくの行為をお許しくださることを、ぼくは知っている。世間の判断――こんなものとは手を切ってやる。人間の意見――こんなものには目もくれるものか」
だが、この夜は一体なにが起こったというのだろうか? まだ月は沈んでいないのに、わたしたちは夜の闇につつまれていた。すぐそばにいるロチェスターさまの顔もさだかには見えない。それに、このトチノキはなにを悩んでいるのだろうか? 身をよじり、うめき声をあげている。風は月桂樹の散歩道でうなりを生じ、わたしたちの頭上をさっと吹きぬけて行く。
「なかにはいらなくては」とロチェスターさまはいった。「天気が変わったな。きみとなら朝まででも坐っていられるんだが」
「わたしだって、あなたとなら」とわたしは心のなかで思った。口に出していいさえしたかもしれない、わたしの眺めていた雲から、青ざめた閃光がさっときらめいたあと、ガラガラという雷鳴と、間近かで割れるような音とが響きわたりさえしなければ。わたしは雷光にくらんだ目を、ロチェスターさまの肩にかくすことしか思いつかなかった。どしゃぶりの雨が降りはじめた。わたしはロチェスターさまにせき立てられるようにして、散歩道から庭へと走り、家のなかに駆けこんだが、敷居をまたがないうちに、二人ともずぶぬれになっていた。玄関のホールで、ロチェスターさまがわたしのショールをはずし、わたしのほぐれた髪のしずくをはらいのけているところへ、フェアファックス夫人が自分の部屋から出てきた。最初は、わたしもロチェスターさまも、その姿に気づかなかった。ランプがついていて、時計がちょうど十二時を打っていた。
「ぬれたものはすぐに脱ぐんだよ。行ってしまうまえに、おやすみだ――おやすみだよ、ねえ、おまえ」
ロチェスターさまは接吻をくりかえした。わたしがその腕をはなれて、顔をあげたとき、そこに未亡人が青ざめた、こわいような表情で、口もきけずに立ちすくんでいた。わたしは笑いかけただけで、そのまま二階へ駆けあがって行った。「説明は別のときでもいいだろう」とわたしは思った。それでも、自分の部屋にはいったとき、ほんの一時的であれ、夫人が目撃した場面を誤解するのではないか、という考えが浮かんで、心が痛くなった。だが、やがて歓喜がほかのすべての感情をかき消してしまった。二時間におよぶ嵐のあいだ、風ははげしく吹き荒れ、雷鳴は近くで轟音をとどろかせ、稲妻はなん回となく射るようにきらめき、雨は滝のように降りつづけたが、わたしはちっともこわくなかったし、驚くことさえもなかった。その嵐のあいだに、ロチェスターさまは三回もわたしの部屋のドアまでやってきて、変わったことはないか、平気でいるか、ときいてくれた。それが慰めとなり、なににでも立ちむかう勇気をあたえてくれた。
朝になって、わたしがベッドをはなれないうちに、アデールがわたしの部屋へ駆けこんできて、果樹園の奥のトチノキの巨木がゆうべの雷にうたれ、まっ二つに裂けてしまっていると報告した。
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二十四章
起きあがって身づくろいをしながら、わたしは昨夜あったことを思いかえし、夢ではないかとあやしんだ。もう一度ロチェスターさまにお目にかかり、愛と約束の言葉をくりかえすのを耳にするまでは、とても現実だとは信じられなかった。
髪を結いながら、鏡にうつった自分の顔を見つめても、もうそれがみにくい顔には思えなかった。その表情には希望があり、肌の色には生気があふれている。目は喜びという名の泉を見やり、その照り輝くさざ波から光沢を借りてきたかのようである。わたしがこれまでわたしの主人とすすんで顔をあわせる気にならなかったのは、顔つきで不興を買うのではないか、と心配したからである。だが、いまのわたしは顔を主人のほうにむけても、その表情で相手の愛情がさめることはない、と確信している。わたしはたんすの引き出しから無地だが、こざっぱりとして明るい感じの夏服を取り出して身につけた。こんなに似合う洋服を身につけたことがなかったように思われたのは、こんなにしあわせな気分で洋服を着たことがこれまでになかったからであった。
玄関のホールへおりて行って、昨夜の嵐のあとに迎えた六月の輝かしい朝や、開けはなしのガラス戸からはいってくる新鮮な薫風の息吹きにふれても、わたしは驚かなかった。わたしがこんなに幸福なのだから、自然だってうれしいにちがいない。乞食女が小さな男の子をつれて――どちらも血色が悪く、ぼろをまとっていた――散歩道をこちらへむかってきていたので、わたしは駆けおりて行って、財布にありあわせのお金をぜんぶ――三シリングか四シリングかをあげてしまった。それの善悪はともかく、わたしの喜びのおすそわけをしてやらなければならないのだ。ミヤマガラスが鳴き、それよりももっとにぎやかな小鳥の声もうたっている。だが、喜びいさむわたし自身の心ほどに陽気で、音楽的なものはなかった。
フェアファックス夫人が悲しげな顔を窓からのぞかせ、きまじめな口調で「エア先生、朝食にいらっしゃいますか?」ときいたのには驚かされた。食事中も夫人は口数がすくなく、よそよそしい。だが、わたしはこのときも夫人の誤解をとくことができなかった。わたしとしては、ロチェスターさまが説明してくださるのを待たねばならないし、夫人にもそうしてもらうほかはない。食事をそこそこにすませて、二階へ駆けあがると、アデールが教室から出てくるのに出会った。
「どこへ行くの? 勉強の時間よ」
「ロチェスターさまが子供部屋へ行けって」
「どこにおられるの?」
「なかよ」といって、アデールはいま出てきた部屋を指さした。なかにはいると、そこにロチェスターさまが立っていた。
「ここへきて、おはようをいいたまえ」
わたしは喜んでまえにでて行った。いまのわたしの受けるのは、ただ単に冷たい言葉でもなく、握手でさえもなかった。わたしは抱擁され、接吻されたのである。それはごく自然なことに、わたしには思われた。このように深く愛され、愛撫されるのは、すばらしいことに思われた。
「ジェイン、きみの表情は花が咲いたようで、微笑にあふれていて、きれいだよ。けさは本当にきれいだよ。これがぼくの血色の悪い妖精なのかい? これがぼくの『|芥子だね《マスタード・シード》』(シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場する妖精の一人)なのかい? えくぼのできる頬、バラ色の唇、サテンのようになめらかなハシバミ色の髪、きらきら光るハシバミ色の目。この太陽のように明るい顔の女性がかい?」(読者よ、わたしの目は緑色なのだが、このまちがいはお許し願わねばならない。ロチェスターさまには、わたしの目が新しい色に染めなおされて見えたらしい)
「たしかにジェイン・エアですわ」
「やがてジェイン・ロチェスターになるのさ」とロチェスターさまはつけ加えた。「四週間先にはだよ、ジャネット。かっきり四週間だからね。聞こえてるのかい?」
聞こえてはいたけれども、わたしには十分に理解することができなかった。目まいがする。その言葉がわたしの体内に送りこんだ感情は、喜びと両立しない、もっと強烈なもの――わたしを打ちのめして、茫然とさせるていのものだった。恐怖といってもよいものだったと思う。
「赤くなっていたのに、こんどは青くなったよ、ジェイン。どういうわけだい?」
「新しい名前をつけられたからですわ――ジェイン・ロチェスター。ほんとに変な感じがしますわ」
「そうともさ。ロチェスター夫人というわけさ。ロチェスターの若奥さま――フェアファックス・ロチェスターのおさな妻」
「そんなこと、とても無理ですわ。ありそうなことに聞こえませんもの。人間はこの世では、完全な幸福を楽しむことなど、絶対にありません。わたしは並みの人間とちがった運命をさずけられて生まれたわけではありませんのよ。そんな運命がわたしにふりかかるのを想像するなんて、おとぎ話――白日夢ですわ」
「ぼくにはそれが実現できるし、また実現してみせるのさ。きょうからはじまるのだよ。けさは、ロンドンの銀行に手紙を書いて、保管させてある宝石類を送るように手配をしたんだ――ソーンフィールド家の夫人に代々伝わっている家宝だがね。一日か二日したら、きみのひざの上にまきちらしてあげられると思うよ。ぼくが貴族の娘と結婚しようとしている場合と同じように、あらゆる特権と、あらゆる心づくしがきみのものになるようにするからね」
「そんなこと! ――宝石なんか、いいですわ! そんなお話はうかがいたくもありません。ジェイン・エアに宝石だなんて、不自然で不思議に聞こえますもの。欲しくなんかございません」
「ぼくの手でダイヤモンドの鎖をきみの首にかけ、髪飾りは額につけてあげる――似合うだろうな。なんといっても、この額には生まれつき高貴さという特徴が刻みこまれているのだからね、ジェイン。このすらりとした手首には腕輪をとめ、この妖精みたいな指には指輪を重いくらいはめてやろう」
「どうか、どうかおやめになって! ほかのことを考えてください。ほかのお話をなさってください。それも口調をお変えになって。美人でも相手にしているみたいに、わたしに話しかけないでください。わたしはあなたにやとわれている、不美人の、クエーカー教徒(簡素な生活で知られる)みたいな家庭教師なのですから」
「ぼくの目には、きみが美人に見えるのさ。ぼくの心にかなった、思いどおりの美人なのさ――デリケートで、妖精のようで」
「手ごたえがなくて、とるに足らない、とおっしゃりたいのですね。夢をみておられるのですわ――でなかったら、皮肉をいっておられるのです。お願いですから、皮肉はいわないでください!」
「ぼくは世間の連中に、きみが美人であることをみとめさせるんだ」とロチェスターさまは話しつづけたが、そこに見られる新しい口調がひどく気がかりになってきた。ロチェスターさま自身が錯覚しているか、わたしを錯覚させようとしているか、そのどちらかに思われたからである。「ぼくのジェインをサテンとレースで着飾らせて、髪にはバラの花をなん本もつけてやる。ぼくが一番気にいっている頭には、この上なく高価なヴェールをかけてやるんだ」
「そんなことになれば、わたしということがわからなくなりますわ。わたしはもはやあなたのジェイン・エアでなくなり、道化の衣裳をつけたサル――クジャクの羽を借りたカケス同然になります。宮廷の女官みたいなドレスを着ている自分の姿など、見たくもありませんわ、ロチェスターさま、あなたが舞台衣裳でごてごてと飾りたてたところを拝見したくないのと同じように。わたしはあなたを心からお慕いしておりますけど、あなたを美男子などとは申しません。おべっかなどいえないほどに愛しているのですわ。わたしにおべっかを使うことも、おやめになってください」
しかし、ロチェスターさまはわたしの頼みなどにはおかまいなく、自分の話をどんどんすすめて行った。
「きょう早速に、きみを馬車でミルコートにつれて行こう。自分でドレスを選んでもらわなくちゃ。すでに話したとおり、四週間さきには結婚する。結婚式はすぐそこの教会で、ひっそりと取りおこなって、すんだらすぐにロンドンへ直行。ロンドンにしばらく滞在したあと、ぼくの宝物のきみを太陽にもっと近いところ――フランスのぶどう畑とイタリアの平野へおつれ申すという寸法だ。過去の物語や現代の記録にでてくる有名なものはすべてお見せして、その上、都会生活も味わっていただく。他人と比較することで、自分の値打ちがわかるようになっていただく」
「わたしが旅行を? ――あなたと?」
「きみはパリ、ローマ、ナポリ、それにフロレンス、ヴェニス、ウィーンに立ちよることになる。かつてぼくがさまよった土地には、きみにも一つのこらず足跡をしるしてもらいたい。ぼくがひづめのような足で踏みしめた場所を、きみの|空気の精《シルフ》のような足にも歩いてもらいたいのだ。十年まえ、ぼくは嫌悪と憎悪と激怒を道づれに、気ちがいのようになってヨーロッパを飛びまわった。こんどは、天使そのもののような人に慰められながら、癒され清められた気持ちで再訪するのさ」
これを聞いて、わたしは吹きだした。
「わたしは天使ではありませんの」とわたしははっきりいった。「死ぬまでは天使になりませんのよ。わたしはいつまでもわたしです。ロチェスターさま、わたしに天上のものを期待したり、強要したりなさってはいけません――そんなものは、わたしからは得られませんわ。わたしがあなたから得ることができないのと同じように。わたしはそもそも、あなたにそのようなものを期待していないのですから」
「なにをぼくに期待しているのかね?」
「しばらくは、あなたはいまのままでしょうね――ほんのしばらくのことですけど。やがて熱がさめ、気まぐれになり、最後には気むずかしくなって、わたしはあなたのご機嫌とりに一苦労することになりますわ。でも、このわたしにすっかりなれ親しまれると、あなたはまたわたしが好きになるでしょうね――|好きになる《ヽヽヽヽヽ》ので、|愛する《ヽヽヽ》のではありませんことよ。あなたの愛は半年か、半年たらずで、泡のように消えておしまいになるのよ。男性の書いたいろいろな本に、夫の熱愛がつづくのは、半年間が最大限だと書いてありました。でも、結局のところ、わたしは友だちとして、伴侶として、わたしの愛するご主人さまにとって、そう不愉快な人間にはならないものと思っておりますのよ」
「不愉快だって! またきみが好きになるって! きみのことなら、なん回でも好きになると思うよ。ぼくがきみを|好きである《ヽヽヽヽヽ》だけでなく、|愛している《ヽヽヽヽヽ》ことを――真実と熱情と誠実をこめて愛していることを、きみに告白させてみせるからな」
「それでも、気まぐれは気まぐれなんでしょ?」
「容貌だけでぼくの機嫌をとる女性の場合、連中に魂も心もないとわかれば――退屈で、平凡で、ことによったら低能で、がさつで、おこりっぽいといった面を暴露することがあれば、ぼくだってなにをしでかすかわからないよ。しかしだね、すみきった目や弁の立つ舌、炎のような魂、曲がることはあっても折れることのない――柔軟であると同時に堅固、すなおであると同時にしんのしっかりした性格をそなえた女性を相手にするときには、ぼくはすごくやさしいし、誠実だよ」
「そんな性格の女性に会ったことがおありですの? そんな女性を愛したことがありまして?」
「現にいま愛してるよ」
「でも、わたしのまえにはどうですの? わたしがなにかの点で、いまのむつかしい規準にあてはまっているとしての話ですけど」
「きみのような人は、はじめてなんだよ、ジェイン。きみはぼくを喜ばせるとともに、ぼくを支配してもいる――きみは自分を殺しているように見えるし、そのきみから伝わってくる、いかにも柔軟な感じが好きなんだ。そのソフトで、絹糸のかせの感じを指にからみつかせていると、腕から心臓にかけてしびれてしまうのさ。ぼくはきみに影響され――征服されている。その影響されている感じが、口でいえないくらいに心たのしいし、征服されるという経験には、ぼくが手中におさめるどんな勝利にもない魅力がこもっているんだ。なにがおかしいんだい、ジェイン? そんな不可解な、謎めかした表情をするのは、どういうわけだい?」
「わたし、考えておりましたのですが(こんなことを考えて、ごめんなさいね。ふと浮かんだだけですのよ)――わたし、美女に誘惑されたヘラクレス(ギリシャ、ローマの神話にでてくる怪力の英雄)やサムソン(旧約聖書に登場する大力無双のヘブライの勇士)のことを考えていましたの」
「そんなことを、このちびっこの、妖精めが――」
「シーッ! その口のきき方は、あまりりっぱとはいえませんわ。ヘラクレスとサムソンのおこないが、あまりりっぱでなかったのと同じですわ。でもね、もしこの二人が結婚していたら(ヘラクレスは実際には結婚していて、妻に殺される)、夫としてのきびしさで求婚時代のやさしさをうめ合わせていたにちがいありませんわ。あなただって、そうじゃないかと思いますのよ。いまから一年たって、あなたに都合の悪いおねだりや、機嫌よくかなえられないおねだりをわたしがした場合、あなたはどんなお答えをなさいますかしら?」
「いまなにかねだってごらん、ジャネット――どんなつまらないことでも。ぼくはせがまれてみたいんだ――」
「いいですとも! お願いごとはちゃんと考えておりますから」
「いってみたまえ! しかし、その顔で見あげて、にっこりされると、なんのお願いかもわからないうちに、いいよ、といってしまいそうだな。そうなると、こっちは馬鹿をみるだけだ」
「とんでもありませんわ。たったこれだけのお願いですもの。宝石を送らせるのと、わたしの髪にバラの花をかざるのは、おやめになって。そこにお持ちのありふれたハンカチに、金糸のレースのふち取りをするようなものですから」
「ぼくなら『純金に金めっきをする』(シェイクスピア作『ジョン王』第四幕第二場にでてくるセリフ)みたいなものというな。わかったよ。その願いは聞きとどけてやる――当分のあいだだけれどね。銀行に書き送った指図は取り消すことにしよう。しかし、きみはまだなんのおねだりもしていないぜ。プレゼントをひっこめてくれ、と頼んだきりなんだから。もう一回やってみたまえ」
「それじゃ、わたしの好奇心を満足させてくださいませ。一つ、とても好奇心をそそられることがありますので」
ロチェスターさまは不安そうな表情になって、「なんだね? なんだね?」と早口にいった。「好奇心というやつは、危険なことをせがむものだからな。願いごとならなんでもかなえてやる、という誓いをたてていなくてよかったな――」
「でも、このお願いなら、かなえてくださっても危険なことはありませんわ」
「いってみたまえ、ジェイン。そいつがただの秘密の詮索なんかじゃなくて、ぼくの土地の半分がほしいという願いであってくれるとありがたいんだが」
「今度はアハシュエロス王ね!(アハシュエロス王は紀元前六世紀のペルシャの富裕な王。王妃エステルに国の半分をあたえようといったことが、旧約聖書、エステル書、第五章第三節にでている)あなたの土地を半分いただいて、わたしになんの用があるというのです? わたしのことを土地に投資して、金もうけをしようとしている、ユダヤ人の高利貸とでもお思いですか? 土地なんかより、あなたの秘密のすべてをいただきたいですわ。わたしがあなたの意中の人というのでしたら、まさか秘密をかくしたりはなさらないでしょうね?」
「知る値打ちのある秘密なら、喜んでぜんぶ教えてやるよ、ジェイン。しかし、役にも立たない重荷だけは欲しがらないように頼むよ! 毒には手をださないことさ――本物そっくりのイヴになって、ぼくを困らせたりしないでくれよ!(イヴが禁断の木の実を食べ、アダムにもすすめた結果、二人が破滅することになった。旧約聖書、創世記、第三章参照)」
「なぜですの? たったいま、征服されるのは大好きだ、しつこくねだられるのはまことに楽しい、といっておられましたわ。わたしの力をちょっとためしてみるために、この告白を利用させていただいて、おだてたり、せがんだり――必要とあれば、泣いたり、すねたりしてみるのもいいとはお思いになりません?」
「そんな実験がやれるものなら、やってみるがいいさ。分を守らなかったり、生意気なまねをしたりしたら、なにもかもおしまいだからね」
「そうですの? すぐに手を引いてしまわれるのね。まあ、こわいお顔! 眉はわたしの指みたいにふとくなっているし、額ときたら、あるとっても風変わりな詩のなかで見かけた『青く重なりて、層をなせる雷雲』(出典不明だが、イギリス詩人ミルトンに類似の句があるといわれる)という表現がぴったりですわ。それが結婚してからのお顔じゃありませんかしら?」
「いまのその顔が|きみの《ヽヽヽ》結婚してからの顔になるのなら、ぼくはキリスト教徒として、ただの小妖精か、サンショウウオ(火中にすむことができると考えられ、火の精ともみなされる)みたいな人間との交際はさっそくにあきらめたほうがいいな。ところで、なにをききたいというのだっけ、おい? ――早くいえよ!」
「ほら、もうずいぶんと乱暴な口をきくようになりましてよ! でも、おせじより無作法のほうがずっといいわ。わたしは天使と呼ばれるより、|おい《ヽヽ》と呼ばれたい。おうかがいしたいのは、こういうことですの――なぜあんなに無理をして、イングラムさまと結婚したがっているふりをなさったのですか?」
「それだけかい? その程度ですむとは、ありがたい!」
そういうと、ロチェスターさまはよせていた黒い眉を開き、わたしのほうをにこにこ笑いながら見おろすと、わたしの髪をなでた。一難去って一安心、という感じであった。
「白状したっていいけど」とロチェスターさまは言葉をつづけた。「きみはすこし腹を立てるかもしれんよ、ジェイン――腹を立てたときのきみがすごい火の精になることは、ぼくも知っている。昨夜、運命に挑戦して、ぼくと対等の人間だといいはったとき、きみは冷たい月の光をあびて、赤く燃えていたものね。ついでにいっとくけど、ジャネット、愛の告白をしたのは、きみのほうだったよ」
「たしかにそうですわ。でも、本題にはいっていただきたいのですが――イングラムさまは?」
「なにね、イングラムさんに求婚しているふりをしたのは、きみにもぼくと同じように首ったけになってもらいたかったからさ。その目的を達するには、嫉妬を味方につけるのが一番だ、ということを知っていたんだ」
「ごりっぱですこと! いまのあなたは小さく見えますわよ――せいぜいで、わたしの小指の先くらい。そんなまねをなさるなんて、居ても立ってもおられぬくらい恥ずかしいことだし、スキャンダルになるほど不名誉なことですのよ。イングラムさまの気持ちはお考えにならなかったのですか?」
「あの人の気持ちといっても、つまるところは一つ、高慢なんだな。こいつの鼻はへし折っておく必要があるのさ。きみはやきもちをやいたのかい、ジェイン?」
「どうでもいいことですわ、ロチェスターさま。そんなことを知ったところで、ちっともおもしろくもありませんから。もう一度、まじめにお答えください。イングラムさまがあなたの不実な火遊びを知って、ショックをお受けになるとはお思いになりませんの? あのかたにしても、捨てられた、ふられた、といった気持ちになるのではないかしら?」
「とんでもない! ――それどころか、あの人のほうがぼくをふった、といったじゃないか。ぼくの金まわりが悪いと知って、あの人の情熱は一瞬のうちにさめてしまった、というより消えうせてしまったのさ」
「風変わりな、ひねくれた根性をお持ちですのね、ロチェスターさま。いくつかの点で、あなたのものの考えかたは非常識ではないかと思いますわ」
「ぼくのものの考えかたは訓練を受けたことがないんだ、ジェイン。野放しだったから、すこしひねくれてしまったかもしれんね」
「もう一度、まじめにお答えになって。わたしにくださった大きな幸福をかみしめていたいのですけど、すこしまえまでわたし自身が味わっていた、あのつらい苦しみに泣いているかたがほかにいるかもしれない、などと考えなくてもいいのですね?」
「いいともさ。かわいい人だな、きみは。きみと同じように純粋な愛をぼくに対して抱いている人間は、この世にだれもいないんだ――ぼくは、きみの愛情に対する信頼という油薬をぼくの魂に塗って、いい気持ちになっているんだよ(シェイクスピアの『ハムレット』にある「あのおべっかという油薬をあなたの魂に塗ってはならない」という表現をふまえている)」
わたしは肩に置かれている手に唇をあてた。わたしはロチェスターさまを心から愛していた――わたしの口ではとてもいい表わせないほどに――言葉の力ではとうてい表現しきれないほどに。
「なにかほかのことをせがんでごらん」やがてロチェスターさまはいった。「ねだられて、そのとおりにするのが、ぼくは楽しいんだから」
今度も頼みごとの用意はできていた。「結婚のご意志をフェアファックスさんにお話しくださいませんか。昨夜、ホールでごいっしょのところをあのかたに見られましたの。ショックを受けたふうでしたわ。こんど顔をあわせるまでに、あなたから説明していただきたいのです。あんないいかたに誤解されるのは、つらいことですから」
「部屋へかえって、帽子《ボンネット》をかぶってきたまえ」とロチェスターさまは答えた。「けさは、いっしょにミルコートへ行ってもらうつもりだから。きみがドライブの身じたくをしているあいだに、あのばあさんにはこういうわけだから、と話しとくよ。きみが恋のためにすべてを投げうち、しかもなに一つ後悔していないということをだね、ジャネット、あの人は知っているのかい?」
「あの人はわたしが自分の地位だけでなく、あなたの地位まで忘れてしまった、と思っているにちがいありませんわ」
「地位! 地位か! ――きみはぼくの心のなかに地位を占めているし、今後は、きみを侮辱しようとする連中の首を押さえつける地位にあるのさ――さあ、行きたまえ」
わたしはすぐに着がえをすませ、ロチェスターさまがフェアファックス夫人の部屋を出て行くのが聞こえると、大いそぎで駆けおりた。老夫人は聖書の指定日課(朝夕読む聖書中の一部分)の朝の部分を読んでいたらしく、テーブルには聖書が開かれたままで、その上に眼鏡がのっている。そのお勤めも、ロチェスターさまの婚約発表で中断されたきり、いまでは忘れられてしまったらしい。飾りもなにもない反対側の壁に釘づけになった夫人の目には、おとなしい人が思いがけないニュースに心を乱されたときに示す驚きの色が浮かんでいる。わたしの姿を見て、夫人はわれにかえり、無理に笑い顔を作ろうとしている感じで、お祝いの言葉を二言三言、口にしかけた。しかし、その笑い顔も消え、言葉もとぎれてしまった。夫人は眼鏡を取りあげると、聖書を閉じ、椅子をうしろへ引いた。
「すっかり驚いてしまいましてね」と夫人は話しはじめた。「なんと申しあげていいのか、わからないのですよ、エア先生。まさか夢ではないでしょうね? ときどき、一人で坐っておりますと、半分眠ったような状態になりましてね、ありもしなかったことをいろいろ空想したりするのです。うつらうつらしているとき、十五年まえに死んだわたしの夫が、部屋にはいってきて、わたしの横に坐り、昔と同じように、アリスとわたしの名前を呼ぶのを聞いたことが、これまでにも再三ありますのですよ。さあ、そこで、ロチェスターさまがあなたに結婚を申し込まれたというのは、まちがいなく本当の話かどうか、わたしに教えてくださいませんか? 笑ってはいけませんよ。でも、たしか五分まえに、ロチェスターさまがやってこられて、一ヵ月先には先生がだんなさまの奥さまになるといわれたように思ったものですから」
「ロチェスターさまはわたしにも同じことをいわれましたわ」とわたしは答えた。
「やっぱり! 先生はだんなさまを信じておられますか? お申し込みを承知されたのですか?」
「ええ」
夫人はとまどったような表情で、わたしを見つめた。
「思いもかけぬことでしたわ。だんなさまはプライドの強いかたです。ロチェスターの一族は、みんなプライドがありましてね。だんなさまの父上だけは、お金の好きなかたでしたけれど。それに、だんなさまは、まえから慎重なかただともいわれてきたのですよ。そのだんなさまが先生と結婚なさるおつもりなので?」
「わたしにはそういっておられますわ」
夫人はわたしをしげしげと眺めまわした。その目は、わたしの容姿のどこにも、疑問の解決になるような強烈な魅力が見つからなかったことを物語っている。
「わたしにはわかりかねることですわ!」と夫人はつづけた。「でも、先生がそうおっしゃるからには、きっとまちがいないでしょう。どんな結果になりますか、わたしにはわかりません。まったく見当がつきませんわ。大体、こういう場合には、地位とか財産が釣りあっているのが望ましいものですし、それにお二人のお年は二十もちがいますからね。だんなさまは先生のお父さまといってもおかしくないくらいですものね」
「ちがいますわよ、フェアファックスさん!」いらいらしてきたわたしは、大声をあげた。「父親みたいだなんて、とんでもないわ! 二人が並んでいるところを見て、親子だなんて一瞬でも思う人がいたら、お目にかかりたいわ。ロチェスターさまは二十五歳の人と変わらないくらい若く見えますし、事実、二十五歳の若さですわ」
「先生と結婚なさるのは、本当に愛情のためでしょうかしら?」
夫人の冷淡で、疑いぶかい態度にわたしの心は傷つけられ、目には涙があふれた。
「先生に悲しい思いをさせるのはいやですけど」と未亡人は言葉をつづけた。「先生はお若くて、男というものをあまりご存じないので、用心していただきたかったのですよ。『光るもの、すべて金ならず』という古い諺がありますが、こんどの場合、先生やわたしの思いもかけない事件がもちあがるような気がしてならないのです」
「なぜなの? ――わたしが怪物だとでもおっしゃるの? ロチェスターさまがわたしに真実の愛情をいだくことがありえないとでもおっしゃるの?」
「いいえ。先生は大変いいかたですし、最近はとみにごりっぱになられましたわ。ロチェスターさまも先生がお気にいりだとは思います。先生がだんなさまのペットみたいだということは、わたしにはまえまえからわかっておりました。だんなさまがあまり露骨に目をかけておられるので、先生のことがすこし心配になり、用心していただきたいと思ったこともなん回かありましたが、まちがいがあってはいけないから、と申しあげることさえ、気がすすまなかったのです。そんなことを口にすると先生はびっくりなさるでしょうし、お気を悪くされるかもしれないと思ったからです。それに先生は思慮がふかい上に、とても貞淑で、分別のあるかたですから、身を守ることは先生ご自身におまかせして大丈夫じゃないか、と考えたのです。ゆうべはどんなに心配しましたことか、とても口では申しあげられないくらいですよ。家じゅう捜したのに、どこにも先生はいらっしゃらないし、だんなさまのお姿も見えない。そうこうしているうちに、十二時になって、先生がだんなさまとはいってくるのが見えたのですから」
「まあ、そんなこと、いまさらもち出さなくてもいいじゃないの」わたしはしんぼうし切れなくなって、口をはさんだ。「なにもかもうまくいったんですから、それで十分ですわ」
「最後までうまくいってくれることを祈りますわ。でもね、申しあげときますけど、いくら用心してもしすぎるということはありませんからね。ロチェスターさまとのあいだに、ある距離を置くようにすることです。だんなさまだけでなく、ご自分をも信用しきらないことですね。だんなさまのような身分のかたが、家庭教師と結婚することは、世間にざらにあることではありませんから」
わたしは本当にむかっ腹が立ちはじめていた。そのとき、うまい具合に、アデールが駆けこんできた。
「つれてって――わたしもミルコートへつれてって!」とアデールは大声でいった。「ロチェスターさまは駄目っていうのよ。新しい馬車は、とってもゆったりしてるのに。わたしをつれて行くようにお願いしてね、先生」
「いいわよ、アデール」
わたしはアデールといっしょにそそくさと部屋を出たが、忠告がましいことをいう、うっとうしい夫人から逃げられて、ほっとしていた。馬車の用意もできていて、正面玄関にまわしているところだった。ロチェスターさまが敷石の上を行ったりきたりしているそばで、パイロットが前になったり後になったりしていた。
「アデールがいっしょに行きたいそうですが、いけませんかしら?」
「いけないといってある。ちびっこはいやだ! ――きみだけしかつれて行かんよ」
「できることなら、行かしてやりたいのですが、ロチェスターさま。そのほうがいいと思いますけれど」
「いいものか。じゃまになるだけだ」
ロチェスターさまは、表情といい、声といい、まことに近よりがたい感じだった。フェアファックス夫人の冷淡きわまりない警告と、水をさすような懐疑とが、わたしの心にこびりついている。なにやら非現実的で、不確かなものが、わたしの希望にまつわりついてはなれない。ロチェスターさまを動かす力をもっているという感じも、半分ばかり失いかけている。わたしはさからうことをやめ、いわれることに機械的に従おうとしたが、馬車にのるわたしに手をかしてくれたロチェスターさまは、わたしの顔に目をとめた。
「どうかしたのかい? 太陽の輝きが消えてしまったじゃないか。本当にあのおちびさんをつれて行きたいのかい? 置いて行くのは気がかりかい?」
「つれて行くにこしたことはありませんわ」
「じゃ、帽子《ボンネット》を取ってくるんだ。稲妻のように早くだぞ!」とロチェスターさまはアデールにむかって叫んだ。
アデールはいわれたとおり、精いっぱいのスピードを出した。
「ひと朝くらいじゃまがはいったところで、結局はどうということはないんだな。もうすこししたら、きみを――きみの考えや、きみとの対話や、きみとの生活を、死ぬまでぼくのものにするつもりなのだから」
馬車に乗せてもらったアデールは、とりなしてもらったことに感謝するつもりなのか、わたしに接吻しはじめたが、すぐさまロチェスターさまのむこう側の隅に追いやられてしまった。やがてアデールは、こちら側に坐っているわたしのほうに顔をのぞかせたが、となりの人にこうむつかしい顔をされていては、居ごこちが悪かったにちがいない。いまみたいにご機嫌がななめのロチェスターさまには、気がついたことを話しかけたり、ききたいことをたずねたりする気にもなれないでいるのだ。
「アデールをこちらへください」とわたしはたのんだ。
「うるさくするかもしれませんから。こちら側はゆったりしておりますのよ」
ロチェスターさまはアデールを、膝にのせていた小犬かなにかのように渡してくれた。「この子を学校へいれなくちゃあ」そうはいったが、顔はもう笑っている。
アデールがこれを聞きつけて、「|先生と別れて《サン・マドモワゼル》」学校へ行くの、ときいた。
「そうともさ」とロチェスターさまは答えた。「絶対に『|先生と別れて《サン・マドモワゼル》』さ。先生はおじさんがお月さまへつれて行く。おじさんが火山の頂きのあいだにある白い谷かどこかで、洞穴を捜したら、先生はそこでおじさんと、おじさんと二人きりで暮すんだよ」
「先生は食べものがないわよ。飢え死にさせるのね」とアデールが口をはさんだ。
「朝晩にはマナ(昔、イスラエル人が荒野で神からたまわった食物。旧約聖書、出エジプト記、第十六章第十四―三十六節参照)を先生のために集めるさ。お月さまの野原や丘は、マナで白くなっているんだよ、アデール」
「先生のからだを暖めなくてはいけないわ。火はどうなるの?」
「火ならお月さまにいくつもある山から立ちのぼっているよ。先生が寒くなったら、おじさんが山の頂上へつれて行って、噴火口の入り口に寝かせるさ」
「|まあ、ひどいわねえ《オ・ケル・イ・スラ・マル》――|ちっとも楽じゃないわ《ビュ・コンフォルタブル》! それに先生のお洋服、これだってすりきれるのよ。新しいのをどうやって手にいれるの?」
ロチェスターさまは困惑したような表情になった。
「さあてと! おまえならどうするね、アデール? 知恵をしぼって、いい手を考えてごらん。ドレスには白かピンクの雲でどうかな? 虹からは、すごくきれいなスカーフを切りとればいいよ」
「先生はいまのままがずっといいの」しばらく考えたあとで、アデールがきっぱりと答えた。「それに、先生はお月さまでおじさまと二人きりで暮らすのにあきてしまうわよ。わたしが先生なら、おじさまといっしょに行ってもいいなんていわないわ」
「先生はいいといったんだな。指きりをしたんだから」
「でも、先生をつれて行けないわよ。お月さまへの道はないんですもの。空気ばっかりですからね。おじさまも先生も飛べないんでしょ」
「アデール、あの畑を見てごらん」
馬車はソーンフィールド・ホールの門を出て、ミルコートにむかう平坦な道を軽やかに走っていた。前夜の雷雨のおかげで土ぼこりは立たなかったし、両側の低い生け垣や高い立ち木は雨に洗われて、緑色に光っていた。
「あの畑でね、アデール、おじさんは二週間ばかりまえのある夕方、おそくなってから散歩をしていたんだよ――果樹園の牧草地で、おまえが干し草づくりを手伝ってくれた日の夕方だったな。おじさんは刈りとられた牧草を集めるのに疲れたので、|踏み段《スタイル》に腰をかけて一休みしたんだよ。そこで手帳と鉛筆を取り出して、ずっと昔にふりかかった不幸な事件や、これから先は幸福になりますようにという願いごとを書きつけはじめたのさ。日の光が手帳のページから消えかけていたけれど、おじさんはどんどん書きすすめていたんだ。そのとき、なにかが道のむこうからやってきて、おじさんから二ヤードのところで立ちどまったんだな。目をあげてみたよ。それは小さくって、頭には小グモの糸みたいなヴェールをかぶっている。おじさんが手まねきをして呼びよせると、それはすぐにおじさんの膝のあたりへやってきたのさ。こちらからも話しかけないし、むこうも話しかけてこない、口にだしてはね。でも、おたがいに目を読んでいたんだよ。二人の言葉にならない会話は、こんなふうだったのさ――
「それは妖精でね、妖精の国からおじさんをしあわせにするためにやってきた、というんだな。いっしょにこの俗世間をはなれて、だれもいないところ――たとえば、お月さまみたいなところへ行かなくては、といって、ヘイの丘の上にのぼってきた三日月の先のほうに頭をこっくりさせたのさ。二人で住むことになる雪花石膏の洞穴や銀色の谷の話をしてくれたよ。おじさんはぜひ行きたいといってから、いまおまえが話していたように、空を飛ぶ翼がないけれどいいかい、とたしかめてみたんだ。
「『まあ』と妖精はいったよ。『なんでもないことですわ! このお守りがあれば、どんなやっかいなことでも消えてしまいますわ』そういうと、妖精はきれいな金の指輪をさし出したんだ。『わたしの左手の薬指にはめてごらんなさい。そうすれば、わたしはあなたのものになり、あなたはわたしのものになりますわ。いっしょに地上をはなれて、あそこで二人だけの天国を作りましょうよ』妖精はもう一度、お月さまにこっくりをしたんだ。その指輪がね、アデール、いまおじさんのズボンのポケットのなかに、一ポンド金貨に化けてはいっているのさ。でも、もうすぐまた指輪に変えるつもりをしているんだよ」
「そのお話と先生と、どんな関係があるの? 妖精なんて、わたしは好きじゃないの。おじさまは先生をお月さまへつれて行くとおっしゃってたのでは――?」
「先生は妖精さ」とロチェスターさまは意味ありげに小声でいった。そこでわたしはアデールに、そんな冗談を本気にしては駄目よ、といって聞かせた。アデールはアデールで、いかにもフランス的な懐疑精神を大いに発揮して、ロチェスターさまを「|大うそつき《アン・ヴレ・マントウール》」呼ばわりした上、いまの「|おとぎ話《コント・ド・フェ》」などいっさい信用しない、「それに、妖精などいるはずがないし、かりにいたとしても」、ロチェスターさまのところに現われて、指輪をくれたり、月でいっしょに住もうといったりするはずがない、といってきかなかった。
ミルコートですごした時間は、わたしにとっては、難行苦行ともいえる時間だった。ロチェスターさまはわたしを絹織物専門の店へ引っぱって行くと、ドレスを半ダース選ぶように、と命令した。わたしはこういうことが大きらいなので、またの機会に、とお願いしたが、その願いはかなえられない――いまやってしまえ、とのこと。なん回もせっせと小声で泣きついたおかげで、六着のところを二着にまけてもらったが、こんどはその二着を自分で見立てるといってきかなくなった。ロチェスターさまの目が華やかな織物の上を行ったりきたりするのを、はらはらしながら見守っているうちに、その目がいやというほどキラキラ光る紫水晶色のぜいたくなシルクと、とびっきり上等のピンクのサテンにとまった。わたしは、いっそ金のドレスと銀の帽子《ボンネット》を買ってもらったほうがましで、お見立ての品はとてもじゃないが着て歩けない、ということを、またぞろ小声でながながと説明した。さんざん苦労したあとでやっと説きふせて(石のように頑固な相手であったので)、地味な黒のサテンと真珠色のシルクに取りかえてもらった。
「きょうのところは、これでいいとするか。しかし、きみに花壇みたいにきらびやかな服装をさせたいという気持ちは捨てていないからな」
絹織物の店と、つぎに立ちよった宝石店からロチェスターさまをつれ出したとき、わたしはほっとした気分になった。わたしにいろいろ買ってくれればくれるほど、わたしの頬は困惑と屈辱でかっかとほてった。馬車にもどって、上気して、へとへとに疲れたからだを席によりかからせたとき、わたしは明暗とりどりの事件があわただしくつづいたためにすっかり忘れていたことを――おじのジョン・エアがリード夫人に書いた手紙と、わたしを養女にして、遺産を譲りたいという意向のことを思い出した。「どんなにわずかでも、あくせくしなくてもすむだけの財産があるということは、気の休まるものにちがいないわ」とわたしは考えた。「ロチェスターさまの着せかえ人形になったり、ダナエの生まれかわりみたいに、毎日、黄金の雨のなかで坐ったりするのは(父のために塔に閉じこめられていたダナエを、彼女に恋したゼウスが黄金のにわか雨となって訪問したというギリシャ神話に言及)、わたしにはとても耐えられない。屋敷へ帰ったら、さっそくマデイラに手紙を書き、ジョンおじさんに結婚の予定や、相手のことなどを知らせよう。いつかはロチェスターさまの財産をふやしてあげることができるという見込みがたちさえすれば、いまこうして養われていることも、がまんしやすくなるかもしれない」こう考えると、すこしは楽な気分になったので(考えたことは、その日のうちにまちがいなく処理しておいた)、わたしはあらためて主人でもあり恋人でもある人の目を見つめることにした。その目は、わたしが顔と目をそむけているにもかかわらず、まことに執拗にわたしの視線を追っていたのである。ロチェスターさまは微笑したが、その微笑は、回教国君主《サルタン》がしあわせがいっぱいで、でれでれしているときに、自分の黄金と宝石で飾りたてた奴隷に見せる類いのものであった。わたしは、わたしの手をさかんに求めている手をぎゅっとつかむと、赤くなるまで力いっぱい握りしめてから、むこうへ押しかえした――
「そんな目つきをなさらないで」とわたしはいった。「おやめにならないと、いつまででもあの古ぼけたロ―ウッド時代の洋服だけを着ていますからね。いま着ているフジ色のギンガムで結婚式にも出ますから――あの真珠色のシルクでは、ご自分の部屋着をお作りになればよろしいし、黒のサテンでチョッキがなん着分も取れますわよ」
ロチェスターさまは悦にいったように笑いながら、満足そうにもみ手をした。「ああ、ジェインは目も耳も楽しませてくれるからおもしろい!」と大声をあげた。「独創的というべきか? 小気味よいというべきか? カモシカみたいな目に、極楽の天女さながらの姿態といった、あのトルコ皇帝のハーレムに住む美女を全員くれるといっても、この一人のイギリス娘を手ばなすことはできないな!」
ハーレムが引き合いに出されたことが、またもやわたしのかんにさわった。「わたしにはハーレムの美女のかわりなど、勤まりっこありませんわ。ですから、そういった女性と同じ値打ちがわたしにあるなんて、お考えにならないでください。その種の趣味がおありになるのでしたら、さっそくスタンブール(イスタンブール市最古の地区)の奴隷市場《バザー》へお出かけになって、お手もとにあまった現金で、せっせと奴隷を買いこまれてはいかがかと存じます。ここではうまく使いこなせなくてお困りのお金のようですから」
「それで、きみはなにをするのだい、ジャネット、ぼくが人肉なんトン、黒い目を取りそろえていくら、といった買い物をしているあいだに?」
「わたしは宣教師になって、奴隷にされている人たちに自由を説いてまわる準備をしていますわ――ハーレムの美人とやらも、そのなかにはいっていますのよ。わたしはハーレムにはいりこんで、みんなを扇動して暴動をおこさせますの。馬のしっぽを三本つけた高官《パシャ》(昔、トルコの高官は、馬尾章をつけたが、位の高いほど数を増した。三本尾は最高級)のあなたは、わたしたちの手にかかって、あっというまに足かせをかけられてしまいますわ。わたしとしては、専制君主がこれまでに一度も承認したことがないほどに寛大な特許状にあなたが署名なさるまでは、あなたを自由の身にすることに同意できませんわ」
「きみの慈悲にすがることにするよ、ジェイン」
「ロチェスターさま、そんな目つきで哀願なさるなら、慈悲などもってのほかですわ。そんなお顔をなさっているあいだは、強制されればどんな特許状でも認めるでしょうが、放免されたらすぐにその足で、そこに書かれた条件を破るようなまねをなさるにちがいありませんから」
「ジェイン、きみは一体どうしたいというのだね? どうやら、聖壇のまえでの結婚式とは別に、二人だけの結婚式をあげさせようというつもりらしいな。特別の条件をつける魂胆なんだろうが――どんな条件かね?」
「くつろいだ気持ちでいたいということだけです。山のような恩義の重みで押しひしがれたくないのですわ。セリーヌ・ヴァランスについてお話しになったことを、おぼえていらっしゃいます? ――あなたが買いあたえたダイヤモンドやカシミアのドレスのことを? わたしはイギリス版のセリーヌ・ヴァランスになりたくありません。わたしはずっとアデールの家庭教師でいますわ。そうすればまかないつきで下宿ができる上に、年三十ポンドの収入がありますものね。わたしの着るものなんか、そのお金で間に合いますから、あなたからいただきたいのは、ただ――」
「ただ、なんだね?」
「あなたの愛情だけですわ。わたしのほうから愛情のお返しをすれば、貸し借りはゼロということになりますから」
「まったくの話、生まれつきの落ち着きはらったずうずうしさと、先天的に身についたまじりけのないプライドという点で、きみにかなう者はいないよ」
馬車はソーンフィールドに近づいていた。
「きょうはぼくと食事をしてくれるかい?」馬車が屋敷の門をくぐったとき、ロチェスターさまはそういった。
「いいえ、けっこうでございますわ」
「ぜひお聞かせ願いたいんだが、『いいえ、けっこうでございます』とは、どういうことかね?」
「これまであなたと食事をしたことはありませんから、いまになってしなければならない理由もないということですわ。いずれ――」
「いずれ、なんだい? きみはいいかけてやめるのが好きだな」
「いずれそうしなければならなくなりますわ」
「ぼくの食事の相手をするのをいやがるところをみると、ぼくが食人鬼か、吸血鬼みたいな食べかたをするとでも思っているんだな?」
「そんなことで、あれこれ想像したことはありませんわ。でも、あと一ヵ月はいままでどおりでいたいのです」
「家庭教師などというつまらん仕事は、すぐにやめてもらうよ」
「まさか! お言葉を返すようですけど、わたしはやめませんわ。いままでどおりに続けさせていただきます。日中はお目にかからないという、これまでの習慣は変えないつもりです。わたしの顔が見たいという気になられましたら、夜になってからお呼びください。そうすればおうかがいしますけど、ほかのときは駄目ですわ」
「ジェイン、こんなときには葉巻を一服するか、かぎたばこを一つまみやるかして、息ぬきをしたくなるよ。アデールなら『|体面をつくろうために《プール・ム・ドネ・ユヌ・コンテナンス》』というだろうな。ところが残念なことに、葉巻入れもかぎたばこ入れももってきていないんだ。しかし、よく聞くんだよ――小声で話すからね――たしかにいまは、きみという|ちび《ヽヽ》の暴君の天下だけど、やがてぼくの番になるのさ。きみをいったんこの手にしっかりつかんだら、わがものとして、扶養するために(結婚式の誓いの言葉に言及している)、ぼくはきみを――たとえていえばだな――こんな鎖につなぎとめてしまうんだ」(こういって、懐中時計の鎖に手をふれた)「そうともさ、ぼくのかわいい小さな者よ、ぼくはきみを胸につけるのさ、宝石をば失わざらんがために(スコットランドの詩人ロバート・バーンズの「かわいい小さな者」という詩の一行に言及している)」
ロチェスターさまがこういったのは、馬車をおりるわたしに手をかしてくれているときであったが、このあと、アデールを抱きおろしているうちに、わたしは家のなかへはいり、無事に二階へ退却することができた。
やがて夜のさだめの時刻になると、ロチェスターさまからの呼び出しがあった。わたしはさしむかいの会話ばかりで時間をつぶすまいと決心していたので、ロチェスターさまにやってもらうことをあらかじめ考えておいた。わたしは相手が美声の持ち主であることをおぼえていたし、歌をうたうのが好きであることも知っていた――歌のじょうずな人は、えてしてそういうものである。わたし自身は歌のほうはさっぱりで、ロチェスターさまの気むずかしい診断では、器楽のほうでも落第であったが、いい歌や演奏を聞くのは大好きであった。あのロマンスのひとときであるたそがれが、星をちりばめた青い旗をこうし窓のあたりにおろしはじめると、わたしはすぐに立ちあがり、ピアノのふたを開けて、どうか一曲うたってくださいとせがんでみた。ロチェスターさまは、このお天気屋の魔女め、歌はまた今度だ、といったが、わたしはこんないい機会は二度とありませんわよ、といいはった。
「ぼくの声が気にいっていたのかい?」とロチェスターさまはきいた。
「とってもよ」
あの持ち前の敏感な虚栄心を増長させるのは感心しなかったが、このときばかりは、便宜のためということもあって、なだめすかす気にさえなっていた。
「じゃ、ジェイン、きみの伴奏でなくては」
「いいですわ、ひいてみます」
わたしはちょっとひいただけで、すぐに|腰掛け《ストール》から追いやられ、「へたくそ」という名前をちょうだいした。ロチェスターさまはわたしをわきへ乱暴に押しのけると――まさにわたしの思うつぼであった――伴奏者のなわ張りをおかして、自分で伴奏しはじめた。歌だけでなく、ピアノの腕もりっぱであったのだ。わたしは窓ぎわの奥まったところへ足早に歩いて行った。そこに坐って、ひっそりとした樹木や薄暗い芝生を眺めていると、美しい曲にあわせて、声量ゆたかに、つぎのような歌(ブロンテ自作の詩)がうたわれた――
[#ここから1字下げ]
心の奥に燃えあがる
真実こめた恋なれば
はげしく強く、血の管に
いのちの流れ、そそぎこむ。
会うは望みぞ、いつの日も、
別離の痛み、いつの日も。
訪ねくる人、おそければ、
血潮は固く凍りつく。
愛するごとく愛される、
これぞ至福のわが夢か。
その夢を追い、ひたすらに
われは盲目《めしい》の人となる。
道さえもなき幾|山河《さんが》、
二人のいのち、わけへだつ。
危険なること、緑なす
大海原の波のよう。
はたまた盗賊《ぞく》のはびこれる
荒野や森の道のよう。
二人のなかを引きさくは
権勢、道義、嘆きと怒り。
危険にいどみ、妨害も
悪しき兆しもしりぞけて、
脅迫、攻撃、警告も
敢然として切りぬける。
虹は輝く、こつ然と、
夢かとばかり駆けるわれ。
さん然としてあらわれし
あれは驟雨《しゅうう》と光輝《ひかり》の子。
いまも苦悩の暗雲に
やさしく、きびしく照る光。
苦難はしげく、つらくとも
われにおそれるものはなし。
いまのわれには、おそれなし、
わが切りぬけしものすべて
はげしく復讐とげんとて
早く、きびしくきたるとも、
憎悪がわれを打ちすえて、
道義がわれを遠ざけて、
怒りに狂う権勢が
無限の敵意、誓うとも。
愛する人の小さき手は
まこととともにわれにあり、
聖き絆で二人をと、
誓いし言葉、またわれに。
愛する人の接吻《くちづけ》は
生死をともにという誓い。
至福の夢はわがものに
愛するごとく愛されて。
[#ここで字下げ終わり]
ロチェスターさまは立ちあがって、わたしのほうへやってきた。見ると、顔全体が燃えあがっているようで、ハヤブサを思わせる大きな目はらんらんと輝き、鼻や口もとなどの一つ一つに愛情と情熱がみちあふれている。わたしは一瞬、たじろいだ――が、つぎの瞬間には陣容を立て直した。甘い場面や大胆な愛のしぐさなど大嫌いなわたしが、両方の危険にさらされている。護身の武器を用意せねばなるまい――わたしは爪ならぬ舌をとぎすました。ロチェスターさまがわたしのそばへきたとき、わたしはとげのある口調できいた。
「今度はどなたとご結婚なさいますの?」
「ぼくの大事なジェインの口から、そんな変なことを聞かれるとはねえ」
「いいえ! ごく自然で、当然な質問だと思いますわ。いまのお歌では、未来の奥さまがあなたといっしょに死なれるとか。そのキリスト教徒とも思われないお考えは、どういう意味ですの? |わたしには《ヽヽヽヽヽ》あなたと死ぬ気など、さらさらありませんことよ――これだけは信じていただいていいですわ」
「ああ、ぼくが願っているのは、ぼくが祈っているのは、きみがぼくといっしょに生きてくれることなんだよ! 死なんか、きみとは無関係さ」
「大ありですわ。わたしだって、死ぬときがきたら死ぬだけの権利は、あなた同様にちゃんとありますのよ。ただ、死期のくるのを待つだけで、あなたに殉じて死に急ぐ気はありませんわ」
「勝手気ままなことを考えたぼくを、許してくれるかい? 仲直りのキスで、許してくれた証拠を見せてくれないかい?」
「いいえ、そっとしておいてほしいわ」
このとき、わたしの耳に「情のないやつめ」という声が聞こえ、それにつづいて「ほかの女なら、あんな歌の文句で賞めあげられるのを耳にしたら、骨の髄までとろけてしまうのにな」という言葉が飛びこんできた。
わたしははっきりいってやった――わたしはどうせ情のない女で、火打ち石のようにがんこですわ。これからも時どき、こんなわたしがお目にとまるでしょうよ。それに、これからの四週間がすぎ去るまでに、わたしの性格の、いろんな目ざわりな点をお見せするつもりですの。どんな愚かな取引きをなさったかが、はっきりおわかりのはずですわ。まだ取り消しのきく時間的余裕のございますうちにね。
「気を静めて、筋道の立った話をしてくれないか?」
「お望みというのなら、気も静めますわ。でも、筋道の立った話でしたら、いまのわたしの話こそそれにちがいないと自負しておりますの」
ロチェスターさまはいら立ったように、フン! とか、チェッ! とかいっている。「うまくいったわ」とわたしは思った。「お好きなように、ぷんぷんしたり、いらいらしたりなさってください。でも、あなたが相手の場合、これが一番いいやりかたではないか、と思いますの。わたしは口ではいえないほど、あなたを愛していますわ。でも、わたしは安っぽい感傷にひたりきるのがいやなんです。このウィットに富んだやりとりという針があれば、あなたが感傷の淵に落ちこむのを助けることもできますのよ。それに、この鋭い針の助けを借りれば、二人のあいだの距離を、おたがいの本当のプラスになる、一番適切な間隔に保つことができますもの」
わたしはささいなことを皮切りに、つぎつぎとロチェスターさまが相当に立腹するようにしむけていった。やがて、すっかり頭にきたロチェスターさまが部屋の反対側へすっこんでしまったとき、わたしはごく自然な、いつものうやうやしい態度で、「おやすみなさいませ」というと、横のドアからすりぬけるようにしてその場をはなれた。
このようにして始めた方針を、わたしは婚約期間のおわりまで取りつづけた。しかも、それは大成功をおさめた。ロチェスターさまがいつも気むずかしく、気短かであったことはたしかとしても、概していえば、この方針を結構おもしろがっていることがわかったし、わたしが子羊のように従順で、キジバトのようにものわかりのいい態度をとった場合、ロチェスターさまの横暴を助長させることになりこそすれ、その判断にかなうことも、良識を満足させることも、さらには趣味にあうことさえもなかっただろうということが、わたしにははっきりわかっていた。
ほかの人がいるところでは、わたしはいままでどおりに、うやうやしく、もの静かな態度を示したが、それは、ほかの態度をとる必要がなかったからである。わたしがそんな具合にロチェスターさまにさからったり、苦しめたりしたのは、夜のおしゃべりのときだけであった。時計が七時を打つと同時に、わたしのところへロチェスターさまからの迎えがくるという生活がつづいたが、わたしが姿を見せても、「|愛する人《ラヴ》」だの、「|最愛の人《ダーリン》」だのといった甘い言葉は口にされなかった。わたしのために使われる最高の呼び名は、「しゃくにさわる人形」、「意地悪な小人《ちび》」「小妖精」、「取り替えっ子(妖精が美しい子のかわりに残して行くという醜い子のこと)」などであった。また、抱擁ならぬしかめ面の歓迎を受けることになったし、握手のかわりに腕をつねられ、頬のキスのかわりに耳を強くひっぱられた。これでいいのだ。いまのわたしは、こうした乱暴な愛情の表現のほうが、もっと情のある態度などよりもずっと気にいっていた。フェアファックス夫人がわたしのやりかたに賛成していることもわかった。わたしに対する夫人の心配が消えてしまったことからも、わたしは間違っていないのだという確信がもてた。他方、ロチェスターさまはわたしのために骨と皮になる思いだといい、間近にせまっている時期がきたら、わたしのいまのふるまいに手ひどい仕返しをしてやるぞ、といきまいた。この脅迫に対してこっそり舌を出しながら、わたしは考えた。
「あなたをうまく操縦しているわたしですもの。これからだって、うまくやれるにちがいありませんわ。この手がきかなくなったら、あの手を考えるという具合に」
とはいえ、わたしの仕事は楽ではなかった。ロチェスターさまの気を悪くするよりは、気にいられたい、と思うことがなん回もあった。未来の夫はわたしの全世界になろうとしていた。地上の世界以上のもの、天国にかけるわたしの希望といってもよいものに。人間と白昼の太陽とのあいだに介在する日食のように、ロチェスターさまは、わたしと宗教に関するわたしのあらゆる考えとのあいだに立ちはだかっていた。当時のわたしは、神の造りたもうた一人の人間のゆえに、神そのものを見ることができなかった。その人間を偶像視していたからである。
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二十五章
一ヵ月の婚約期間は過ぎさり、もうすでに秒読みの段階にはいっていた。近づいた日を――婚礼の日を延ばすわけにはいかない。この日を迎えるための準備は、いっさい整っている。すくなくとも|わたし《ヽヽヽ》には、なにもすることがなくなった。荷づくりのおわったトランク類は錠がかけられ、ひもで縛られて、わたしの小さな部屋の壁ぎわに一列に並んでいる。あすのこの時間には、ロンドンへの道をかなり遠くまではこばれていることだろう。同じことは、このわたしにもいえる(それが|神のおぼしめし《ヽヽヽヽヽヽヽ》としての話だが)――いや、わたしというよりも、ジェイン・ロチェスターという見も知らぬ人間、というべきかもしれない。荷札を打ちつける仕事だけが残っていた。小さな四角の荷札が四枚、引き出しにはいっている。それぞれにロチェスターさまの自筆で、「ロンドン、――ホテル内、ロチェスター夫人」と宛名が書いてあったが、それを自分でつける気にも、だれかにつけてもらう気にもなれなかった。ロチェスター夫人! そんな人物など、いやしない。あすの、午前八時すぎになるまでは生まれないのだ。この荷物にロチェスター夫人の名を冠するのは、夫人のつつがない誕生がはっきりするまで待ってからのことにしよう。化粧台のむかいの戸棚のなかに、ローウッド時代の黒いラシャの洋服と麦わら帽子にかわって、夫人のものと称する衣類がすでにはいっているだけで十分であった。衣紋《えもん》掛けを占領して、わがもの顔にぶらさがっている婚礼衣裳の真珠色のローブや霞か霧のようなヴェールなどは、わたしのものではなかったからである。わたしは戸棚をしめ、なかにはいっている奇妙な、亡霊を思わせる衣裳が見えないようにしたが、日が暮れていたので――九時だった――部屋の闇のなかに幽霊そっくりの、かすかな光がはなたれていたことはたしかである。「一人ぼっちにするわよ、白い幻影《まぼろし》さん」とわたしはいった。「わたし、熱があるみたい。風の音が聞こえるわ。外へ出て、風にあたってくるわね」
わたしが熱っぽく感じていたのは、あわただしい準備のせいだけでも、大きな変化――あすからはじまろうとしている新しい生活への期待のせいだけでもなかった。わたしがこんなおそい時刻に、暗くなった庭へいそいそと出て行く原因になった、あの不安な興奮状態を生みだすのに、この二つの事情が一役買っていたことは否定できないとしても、それ以上に大きな、もう一つの事情が、わたしの精神状態に影を落としていたのである。
わたしの心は、奇妙な不安に支配されていた。わたしに理解できないことが起こっていたからである。その事件を知っているのも、目撃したのもわたしだけで、起こったのは昨晩のことであった。ロチェスターさまは、ゆうべからずっと家をあけていて、いまだにお帰りではない。三十マイルはなれた、小作が二軒か三軒の小さな領地に用事があって、出掛けていた――予定している海外旅行のまえに、じかに片づけねばならない用事であったのだ。そのロチェスターさまのお帰りを、わたしは待っていた。心の重荷をおろし、わたしを悩ましている謎の解明をお願いしたくてうずうずしていたのである。読者よ、ロチェスターさまの帰るまで、お待ち願いたい。わたしがロチェスターさまに秘密を打ちあけるとき、読者にもその話を聞いていただくことになるのだから。
わたしは風に追われて逃げこむ格好で、果樹園にむかった。一日中、はげしく吹きまくっていた南風であったが、雨は一滴も降らなかった。夜になっても吹きやもうとせず、かえってその勢いを強め、たけり声はいっそう高まるようであった。樹木は一様に同じ方向へなびいたきりで、身をねじらせようとすることはなかったし、大枝を動かして元にもどろうとすることも一時間に一回あるかないくらいであった。梢を北にねじ曲げようとする力が、それほどひっきりなしにかかっていたのである――南から北へ、つぎからつぎへと飛ぶように流れている雲の固まり。七月だというのに、その日は朝から、ほんの一かけらの青空も見えなかった。
風に追われて、虚空を吠えるように吹きぬける測り知れない大気の流れに心の重荷をあずけるように駆けて行くのは、一種あらあらしい爽快さがないでもなかった。月桂樹の散歩道をおりて行くと、トチノキの巨木の変わりはてた姿が目のまえにあらわれた。くろぐろと、真っ二つに裂けて立っているトチノキ。真ん中から二つに割れた幹は、口を不気味に大きくあけている。ひづめのように裂けていながら、右と左に倒れていないのは、頑丈な基部と強固な根のおかげで、地下の部分が分断していないためであった。木全体の生命力は破壊されている――もう樹液は流れることができない。裂けた幹の左右から出ている大枝は枯れはてている。どちらかの半分は、いや、両方ともに、この冬の暴風雨で地上に打ち倒されるにちがいない。がしかし、いまの段階では、見るかげもない姿ながら、まだ一本の樹をなしているといえるかもしれない――だが、完全な敗残の身であることに変わりなかった。
「おたがいにくっつき合っていて、よかったわね」わたしは怪物みたいな二つに裂けた樹が生きもので、わたしの話がわかるかのように語りかけた。「傷ついて、焼けこげてはいるようだけど、まだ生命力がすこしは残っているにちがいないわね。忠実で、正直な根にしっかりとくっついて、そびえているのだから。これからは緑の葉をつけることは二度とないでしょうよ――小鳥が枝に巣をかけて、楽しい歌をうたう姿を見かけることもないでしょうよ。愛と歓びの時期はおわったのですもの。でも、ひとりぼっちじゃないわよ。朽ちはてたおたがいを慰めあう相手が残っているんですものね」
わたしが大木を仰ぎ見たとき、その二つに裂けた木の股に切りとられた空の一角に、月がちらっと現われた。月面は血のように赤く、雲が半分かかっている。わたしのほうに当惑したような、陰欝な一べつを投げかけたかと思うと、つぎの瞬間にはまた吹きよせられた分厚い雲のあいだに姿を没してしまった。ソーンフィールドのまわりの風は、一瞬おさまったが、ずっとむこうの、森と湖の上を、激しい、重苦しくむせび泣く風が吹きわたっていた。聞くも悲しいむせび泣きの声に、わたしはまた駆けだした。
わたしは果樹園のそこかしこをさまよい歩き、リンゴの木の根元のまわりの草むらを一面におおっているリンゴを拾い集めた。それから、赤くうれたリンゴと青いリンゴにせっせと選りわけると、家のなかへはこびこんで、貯蔵室にしまった。それからわたしは、暖炉に火がはいっているかどうかをたしかめるために、図書室へ行った。夏ではあったけれど、こんな陰気な晩には、お帰りになったロチェスターさまが勢いよく燃えている暖炉の火をお喜びになることを知っていたからである。うまい具合に、しばらくまえにたきつけられた火が、あかあかと燃えていた。わたしは、ロチェスターさまのひじ掛け椅子を暖炉のまえの暖い場所に置き、そのそばへテーブルを引っぱって行った。カーテンをおろし、いつでも火がつけられるように、ろうそくを持ってきてもらった。こうした準備ができあがると、わたしはこれまでよりももっとそわそわしはじめ、じっと坐っていることも、家のなかにいることさえもできなくなった。図書室の小さな時計と、玄関のホールの古い掛け時計とが、同時に十時を打った。
「ずいぶん遅いのね!」とわたしはいった。「門までひとっ走り行ってみよう。お月さまも時おり顔を出しているし、道はかなり見通しがきくわ。もうお帰りかもしれないのだし、お迎えに出れば、気をもむ時間がなん分かすくなくなるじゃないの」
門をおおいかくすようにこんもりと茂っているなん本かの大樹の梢で、風がうなり声をあげていた。しかし、道は、右手も左手もわたしの目にはいるかぎり、しんと静まりかえり、人影一つなかった。時たま月が顔を見せたとき、雲の影が横切って行くだけで、道は長い、おぼろな一線にすぎず、動くものは点一つない単調さであった。
じっと見つめているうちに、子どもじみた涙で目がかすんだ――失望と焦燥の涙であった。恥ずかしくなったわたしは、その涙をぬぐった。わたしは立ち去りかねていたが、月は自分の部屋にとじこもったきりで、厚い雲のカーテンをぴったりと閉めてしまった。夜の闇が濃くなり、強風に吹かれた雨がざあざあと降りはじめた。
「お帰りになればいいのに! お帰りにならないかしら!」
わたしはヒポコンデリーみたいな予感におそわれて、そう叫んだ。お茶の時間までにはお帰りと思っていたのに、もう暗くなっている。一体、なにに手間取っているのだろうか? 事故でもあったのだろうか? 昨夜の事件が、またしてもわたしの頭をかすめた。わたしには、それが大きな不幸の前兆に思われた。わたしの希望はあまりに明るすぎて、実現できないのではないか、という気がしてくる。このところずっと幸せすぎる毎日だったので、わたしの運勢は盛りをすぎてしまい、今度は下り坂になるにちがいない、といった考えが浮かんでくる。
「とにかく、お屋敷へは帰れないわ」とわたしは思った。「あのかたがこんなひどい天候のなかを外出しているというのに、暖炉のそばで坐ったりなんかできないわ。気を使うよりか、手足を使ったほうがいい。もっと歩いて、お迎えに行きましょ」
わたしは歩きはじめた。足早に歩いたことは歩いたが、距離が伸びたわけではない。四分の一マイルばかりのところで、ひづめの音が聞こえてきた。馬に乗った人が全速力でやってくる。そばを駆けている犬の姿。不吉な予感など、消えてしまうがいい! ロチェスターさまだ。パイロットをしたがえ、メスルア号にまたがったロチェスターさまがやってくる。ロチェスターさまもわたしに気がついた。月が大空に青い原っぱを切り開き、そこを水のように光る姿で走りぬけていたからである。ロチェスターさまは帽子を取ると、それを頭の上でぐるぐるとふりまわした。わたしは駆けよって出迎えた。
「ほらね!」ロチェスターさまは片手をのばし、鞍から身をのりだすようにして叫んだ。「やっぱり、ぼくがいないと夜も日も明けないんだな。かくしたって駄目だ。ぼくの長靴の先に足をかけて、両手をかしたまえ。乗るんだよ!」
わたしはいわれるとおりにした。うれしさで身軽るになっているわたしは、ロチェスターさまのまえに、ぱっととび乗った。わたしは熱烈な歓迎の接吻を受けた上、勝ちほこったように得意満面で口にする言葉も聞かされたが、このほうは精いっぱいがまんすることにした。ロチェスターさまは喜びいさむ気持ちを押えるようにしてきいた。「こんな時刻に迎えにくるなんて、なにかあったのかい、ジャネット? なにか変わったことでもあったのかい?」
「いいえ。もうお帰りならないのではないか、と思ったのですわ。家のなかでじっと待っていられなくなったのです。とくに、この雨と風ですもの」
「まったくひどい雨と風だ! そういえば、きみは人魚みたいにびしょぬれだぜ。ぼくの外套にくるまりたまえ。しかし、熱があるみたいだよ、ジェイン。頬も手も燃えるように熱いよ。もう一度きくけど、本当になんにもなかったんだね?」
「いまは、なんでもありませんわ。心配でも、不幸でもありませんから」
「じゃ、いままでは心配で、不幸だったのかい?」
「ええ、まあ。でも、そのことはおいおいお話ししますわ。わたしの悩みをお笑いになるだけとは思いますけど」
「あすがおわったら、大笑いすることにするよ。それまではお預けだ。獲物が手にはいるかどうかもはっきりしないんだから。ここにいるのは、この一ヵ月間というもの、ウナギのようにつかみどころがなくて、バライチゴみたいにとげのあったきみなのかい? どこに指を置いても、ちくりとやられたんだからな。ところが、いまのぼくは、迷える子羊を一匹、両腕にかかえているらしい。きみはぼくという羊飼いを捜して、|おり《ヽヽ》からさまよい出てきたのだね、ジェイン?」
「ご用があったのですわ。でも、そんな自慢顔をなさらないで。さあ、お屋敷に着きましたわ。おろしてください」
ロチェスターさまはわたしを敷石の上におろしてくれた。ジョンが馬をつれて行った。わたしのあとから玄関のホールにはいってきたロチェスターさまは、大急ぎで乾いた着物に着かえて、図書室のぼくのところへもどってきたまえ、といってから、階段へむかいかけたわたしを呼びとめると、手間取らないことを約束させた。わたしもまた、手間取ったりはしなかった。五分後に、ロチェスターさまのところへ顔を出すと、食事をとっているところであった。
「そこに坐って、いっしょになにか食べたまえ、ジェイン。万事うまくいった場合、あともう一回食事をしたら、当分のあいだ、このソーンフィールドで食事をすることはないのだからね」
わたしはそばに腰をおろしてから、食欲がありませんの、といった。
「食欲がないのは、旅行に出かける予定になっているからかい、ジェイン? ロンドンへ行くことを考えているからかい?」
「今夜のわたしには、将来の見通しがつきかねますの。自分がなにを考えているかも、わからないくらいですから。世のなかのことがなにもかも現実でないみたいですわ」
「ぼくは別だよ。このとおり実体のある人間なんだから――さわってごらん」
「そのあなたが、なによりも幽霊みたいですわ。ただの夢にすぎませんの」
ロチェスターさまは笑いながら片手をのばすと、「これが夢かい?」といって、わたしの目のすぐまえにさし出した。丸みのある、筋肉質の、力強い手と、長い、たくましい腕であった。
「そうです。さわれるにしたところで、やはり夢は夢ですわ」そういうと、わたしは目のまえの手を押しさげた。「食事はおすみですの?」
「すんだよ、ジェイン」
わたしはベルを鳴らし、お盆を片づけてもらった。二人だけになってから、わたしは暖炉の火をかきたてると、ロチェスターさまの膝のそばの低い椅子に腰をおろした。
「真夜中が近いですわね」とわたしはいった。
「ああ。おぼえているかい、ジェイン、結婚式のまえの晩は、ぼくといっしょに起きている約束だよ」
「そうですわ。一時間か、二時間くらいなら、約束を守ります。ベッドにはいる気分にはどうしてもなれませんから」
「準備はぜんぶおわったのかい?」
「すっかりととのいましたわ」
「ぼくのほうもなんだよ。なにもかも片がついたのさ。あすは、教会から帰ったあと、半時間以内にソーンフィールドを出発するからね」
「わかりました」
「なんとまた不可思議な微笑を浮かべて、『わかりました』という言葉を口にするんだね、ジェイン! 両方のほっぺたが真っ赤に光ってるぜ! それに目も異様に輝いているじゃないか! 大丈夫なのかい?」
「と思いますわ」
「と思いますだって! 一体、どうしたんだね? ――どんな気分か、いってみたまえ」
「いえませんわ。言葉では、わたしのいまの気分をいいあらわすことができないのです。いまのこの瞬間が永久に終らなければいいのに、と願っていますの。つぎの瞬間がどんな運命をはらんでいるか、だれにもわからないのですから」
「それはヒポコンデリーというものだぜ、ジェイン。興奮のしすぎか、疲れすぎかだよ」
「あなたは冷静で、幸福を感じていらっしゃいますの?」
「冷静? ――じゃないな。しかし、幸福だよ――心の底まで幸福だよ」
わたしは目をあげて、ロチェスターさまの顔に幸福のしるしを読み取ろうとした。情熱的な、上気した顔であった。
「ぼくを信じるんだね、ジェイン。心の重荷があったら、それをぼくに打ち明けることで、楽な気分になりたまえ。なにがこわいのだい? ――ぼくがいいだんなさまにならないかもしれないというのかな?」
「そんなことは、考えてみたこともありませんわ」
「これからはいって行こうとする新しい世界――これから踏みだそうとしている新しい生活のことが心配なのかい?」
「いいえ」
「わからんな、ジェイン。悲哀と自信のいりまじったきみの表情と話しぶりは、ぼくをまごつかせて、苦しめるばかりなんだ。説明をして欲しいな」
「じゃ――お聞きください。ゆうべは外泊なさいましたわね?」
「そうだよ。それなら、ぼくにもわかっているさ。しばらくまえ、ぼくの留守ちゅうになにか起こったようなことをいっていたね――たいしたことではないだろうが、きみが悩んでいるのは、要するにそれなんだな。その話を聞こうじゃないか。フェアファックスさんがなにかいったりしたのかい? それとも、召使いたちの噂話が耳にはいったのかい? ――きみのデリケートな自尊心が傷つけられたのかい?」
「いいえ、そうではありませんわ」
時計が十二時を打った――わたしは図書室の時計が銀鈴のようなチャイムを鳴らし終え、玄関のホールの掛け時計がしわがれた、よく響きわたる音を打ち終わるまで待ってから、話しはじめた。
「きのうは朝からずっと、たいへんに忙しく、休みなしにばたばたしながらも、たいへんに幸福でした。わたしは、あなたがお考えのように、新しい世界についての不安にとりつかれて悩むなどといったことがないからです。あなたを愛していますので、あなたといっしょに暮らせるという希望がもてることを、すばらしいものに思っています――駄目、いまは抱いたりなさらないで。わたしの話の腰を折らないでください。きのうのわたしは神さまのみ心を信じきり、なにもかもがあなたとわたしのためになるようにはこんでいると思いこんでいたのです。ご記憶のことでしょうが、きのうはいいお天気でした――風も空も静かで、あなたの道中の平穏無事を気づかうことは、全然なかったのです。わたしはお茶のあと、あなたのことを考えながら、しばらくのあいだ敷石道で散歩をしました。頭のなかのあなたは、わたしのすぐ身近かにいらっしゃったので、現実のあなたがいなくても平気なくらいでしたわ。わたしは、わたしのまえに横たわっている人生のことを――|あなたの《ヽヽヽヽ》人生のことを考えました。わたしの人生などより、ずっと発展性のある、活動的な人生のことを。そのちがいは、小川の流れこむ海の深みと、ほそぼそと流れる小川の浅瀬とのちがいに匹敵するのです。道学者のかたたちはなぜこの世をわびしい荒野にたとえるのかしら、とわたしは考えました。わたしには、サフランの花が咲き乱れているように思えたからです(旧約聖書、イザヤ書、第三十五章第一節の言及)。日没とともに風が冷たくなり、空がかきくもったので、わたしはなかにはいりました。ソフィが着いたばかりのウェディング・ドレスを見にこないか、というので、わたしは二階にあがりました。ドレスの箱の底に、わたしはあなたからのプレゼントを見つけました――王侯貴族みたいにぜいたくなあなたが、ロンドンから送らせたヴェールですわ。わたしが宝石を頂戴しようとしないものですから、同じくらい高価な品をだましてでも受けとらせようという魂胆だろうと、わたしは思っていますけど。ヴェールをひろげながら、あなたの貴族趣味や、平民の出の花嫁を貴婦人にふさわしいもち物でごまかそうとなさるあなたの努力を、どうやってからかおうかと思案しましたのよ。いやしい生まれのわたしのヴェールにと思って用意してあった、刺繍《ししゅう》もしていない手製の四角なシルクのレースをお目にかけ、夫のところへ財産も美貌も系図ももってこないような女には、この程度の品で十分でないでしょうか、ときいてみようと思いました。そのときのあなたのお顔が目に見えるようでしたし、四民平等を唱えるあなたの腹立たしげな返事が――金持ちの娘や貴族の女などと結婚して、財産をふやしたり、地位を高めたりする必要なんか、さらさらないんだぞ、というあなたの毅然としたお言葉が聞こえてくるようでしたわ」
「ぼくの心を読みぬくあたり、きみは魔女だな!」とロチェスターさまが口をはさんだ。「しかし、あのヴェールには、刺繍のほかになにがあったのだい? すごく悲しそうな顔をしているけど、毒薬か短刀でも見つかったのかい?」
「いいえ、そんなんじゃありません。精巧で、華美なヴェールのほかにわたしが見つけたものといえば、フェアファックス・ロチェスターのプライドだけです。わたしがそれに驚くことがなかったのは、いつも見なれた悪の権化だったからですわ。でも、日が暮れるにつれ、風がでてきました。昨晩の風は、いまみたいな、激しく強くといった吹きかたではありません――ずっとずっと不気味で、『不機嫌な、うめくがごとき音をたて(ウォルター・スコットの物語詩『最後の吟遊詩人の歌』の一行)ていました。』あなたがお留守でなければいいのに、と思いました。この部屋にきてみましたが、あなたの坐っていない椅子と火のはいっていない暖炉を見ると、ぞっと寒気がいたしました。ベッドにはいってからも、しばらくのあいだは寝つかれません――不安と興奮がわたしを苦しめるのです。わたしの耳には、吹きつのる一方の強風が、悲しげな低い音らしいものをかき消しているように聞こえます。その音が家のなかなのか、外なのか、最初はわからなかったのですが、風が小やみになるたびに、かすかながら、悲しそうに聞こえてくるのです。やっとのことで、犬の遠吠えにちがいない、という考えが浮かんできました。それが聞こえなくなったときは、ほっとしました。寝ついてからも、夢のなかで暗い、風の強い夜のことを考えつづけていました。それに、あなたといっしょにいたいという思いも消えず、わたしは二人を引きはなしている壁を意識して、奇妙な、悲しい気持ちを味わったのです。眠りについてからも、はじめのうちはずっと、曲りくねった知らない道を歩いていました。真っ暗闇がわたしをつつみ、雨が弾丸のように降りつけます。面倒なことに、子どもを一人、預っているのです。まだ歩けないくらい小さくて、ひ弱な赤ん坊で、わたしの冷たい腕のなかでふるえながら、耳もとでぴーぴー泣いています。あなたがずっと先を歩いていると思ったわたしは、あなたに追いつこうとけんめいになり、お名前を呼んで、足をおとめしようと精いっぱい頑張りました――でも、わたしの動きは足かせをかけられたようで、声も言葉にならずに消えてしまいます。それに、あなたはずんずんと遠ざかって行く感じでした」
「そんな夢のために元気をなくしているのかい、ジェインは? ぼくはいま、きみの目のまえにいるじゃないか。神経質なお嬢さんだなあ! 夢にみた不幸なんか忘れて、現実の幸福だけを考えたまえ! きみはぼくを愛してるといったね、ジャネット。そうともさ――ぼくはそのことを忘れないし、きみも否定することはできないんだ。|あの《ヽヽ》言葉だけは、言葉にならずに消えてしまうことがなかった。ぼくには、あの言葉がはっきり、やさしく聞こえたのさ。ちょっとばかりまじめすぎる感じだったけど、音楽みたいにこころよい言葉だったよ――『エドワード、あなたを愛していますので、あなたといっしょに暮らせるという希望がもてることを、すばらしいものに思っています』――ぼくを愛しているかい、ジェイン? もう一度、いってくれないか」
「愛していますわ――心の底から愛していますわ」
「なんだか、変だな」ロチェスターさまは数分間、黙っていたあとで、口を開いた。「いまの言葉はぼくの胸をぐさりと突きさした。なぜだろう? きみがあんなに真剣に、宗教的な精魂をこめて口にしたこと、ぼくを見あげるきみの目が、信頼と真実と献身の極致であることが、その原因だと思う。聖霊かなにかがぼくの近くにいるような気がしてならないんだ。憎らしい顔をしろよ、ジェイン。どうすれば憎らしい顔になるかを知らないきみじゃない。例の野性的で、人なれのしない、挑戦的な笑い顔を見せたまえ。ぼくを憎んでいるといえよ――ぼくをからかって、いらいらさせてくれたまえ。ぼくの感情をゆさぶること以外なら、なにをしてもいい。いまのぼくは、悲しくなるよりも腹を立てたい気持ちなんだな」
「わたしの話がおわりましたら、気のすむまでからかって、いらいらさせてあげますわ。でも、最後までお聞きになってください」
「きみの話はおわったものと思っていたんだよ、ジェイン。きみがふさぎこんでいる原因は、夢だとばかり思っていたのに!」
わたしは首を横にふった。
「なんだって! まだあるのかい? しかし、たいしたことじゃないと思いたいよ。まえもっていっておくけど、ぼくは信じやすい性《たち》じゃないからね。つづけてごらん」
ロチェスターさまの落ち着かない物腰や、なんとなくそわそわして、いらだったような態度に、わたしは驚いた。だが、わたしは話をつづけた。
「もう一つ夢をみましたの。ソーンフィールド・ホールは陰鬱な廃墟と化し、コウモリやフクロウのすみかになっていました。豪壮な正面の部分で残っているのは、たいへんに高くて、たいへんにもろい感じの、骸骨みたいな壁だけのように思いました。月夜で、その壁にかこまれている草のおい茂った庭を歩きまわったのですが、そこここで大理石の暖炉につまずいたり、倒れた円柱の軒蛇腹《コルニス》の破片に足をとられたりしました。わたしはまだ、あの見知らぬ赤ん坊を、ショールにくるんで抱いていました。どんなに腕が疲れても、その子を下に置いてはいけなかったのです――その子の重みで、先へ進むことがどんなに苦しくなっても、わたしは抱きしめていなければならなかったのです。道のむこうから疾駆する馬のひづめの音が聞こえてきました。あなたにちがいない、と思いました。あなたは遠い国へ旅立って、なん年ものあいだいなくなろうとしているのです。わたしは薄い壁を、気ちがいのようになって、命がけでぐいぐいとよじ登りました。壁の上から、あなたのお姿を一目でも見たいと必死になっていたのです。足もとからは石がころがり落ち、つかまったツタの枝が折れ、抱いている赤ん坊が恐怖のあまりにわたしの首にしがみついて、息がつまりそうになります。やっとのことで、壁の上にでました。目にはいったあなたのお姿は、白い道の上の一点のようで、刻一刻と遠ざかって行きます。風がはげしくて、とても立ってはいられません。わたしは壁のせまい出っ張りに腰をおろすと、おびえきった赤ん坊を膝の上であやしました。あなたは道を曲がります。わたしは最後に一目見ようと、身をのり出しました。壁がくずれはじめ、わたしのからだは大きくゆれ、赤ん坊は膝からころがり落ちました。わたしはバランスを失って転落し、目をさましたのです」
「さあ、ジェイン、それでおしまいだ」
「ほんの序の口ですわ。これから本論にはいりますのよ。目をさますと、まぶしい光がさしていました。わたしは思いましたわ――あら、夜明けじゃないの! って。ところが、それはわたしの思いちがいでした。ただのろうそくの光だったのです。ソフィが部屋にはいってきているのだろうと思いました。ろうそくが一本、化粧台の上に立っていて、寝るまえにウェディング・ドレスとヴェールをかけておいた戸棚が開いています。衣ずれの音が聞こえました。わたしは『ソフィ、なにをしてるの?』といいました。返事はありません。そのかわりに、戸棚から人影があらわれ、ろうそくを取りあげると、高くかざすようにして、衣紋掛けにかかっている衣服を調べています。『ソフィ! ソフィ!』わたしはもう一度、叫びました。それでも、なんの返事もかえってこないのです。わたしはベッドに起きあがり、からだをまえに乗りだしました。まず驚きが、それにつづいて当惑が、わたしに襲いかかり、そのあとで、わたしの血管中の血が凍りついてしまったのです。ロチェスターさま、それはソフィではありませんでした。リアでも、フェアファックスさんでもありません。それは――いいえ、そのときもそう信じましたし、いまでもそう信じているのですが――それはあの正体のわからないグレイス・プールでさえもなかったのです」
「そのうちのだれかにちがいないんだがな」とロチェスターさまは口をはさんだ。
「いいえ、そうでないことは、断言できますわ。わたしのまえに立っている人影は、ソーンフィールド・ホールの敷地内で、わたしの目にふれたことが一度もないものでした。背丈といい、からだつきといい、はじめて見るものでしたから」
「どんなふうだったか、いってみたまえ、ジェイン」
「背の高い、大柄な女の人で、豊かな黒い髪をうしろに長くたらしているようでした。どんなドレスを着ていたかはわかりません。白くて、きちんとしたものでしたが、ガウンなのか、シーツなのか、経かたびらなのか、はっきりしないのです」
「顔を見たのかい?」
「はじめは見えませんでした。しかし、その女はやがて、掛けてあったヴェールをはずし、高くかかげて、長いことじっと見つめていましたが、今度はそれを自分の頭にかけると、鏡のほうをむきました。その瞬間、女の顔の造作の一つ一つが、暗い、たて長の鏡にはっきりうつるのが見えました」
「どんな顔つきだった?」
「ぞっとするほど恐ろしい感じで――ああ、あんな顔、見たこともありません! 変な色をした顔――残忍この上ない顔です。あのぎょろぎょろする赤い目と、黒ずんで、はれあがったすさまじい顔だちは、忘れようとしても忘れられませんわ!」
「幽霊は青い顔をしているものだよ、ジェイン」
「この女は、紫色をしていました。唇ははれあがって、黒くなっています。しわのよった額、血走った目の上にぐっとつりあがっている黒い眉。なにを思い出したか、いってもよろしいでしょうか?」
「いってみたまえ」
「あのぞっとするドイツの化け物――吸血鬼ですわ」
「ああ! ――そいつはなにをしたのだね?」
「気味の悪い頭にかけていたヴェールをはずすと、真っ二つに引きさいた上、床に投げすててから、足で踏みにじったのです」
「それから?」
「窓のカーテンをあけて、外を見ました。夜明けが近いのに気づいたのか、ろうそくを手に取ると、ドアのほうへむかいかけました。わたしの枕もとまできたとき、女は足をとめました。わたしをねめつけるらんらんと光る目――女はわたしの顔の近くまでろうそくをつき出すと、わたしの目のまえで吹き消しました。身の毛のよだつような顔がわたしの顔の上で、さっと赤らんだのはおぼえていますが、ここで意識を失ってしまったのです。わたしが恐怖のために気を失ったのは、今度で二回目です――生まれてこのかた、二回きりしかないのですけど」
「気がついたとき、だれがいたのかね?」
「だれも。でも、すっかり明るくなっていました。わたしは起きあがって、頭と顔を水にひたし、ぐっと一杯、水をのみました。からだに力がはいらないけれども、病気になったわけではないと思いました。そして、わたしの見た光景は、あなた以外のだれにも話すまいという気持ちを固めたのです。さあ、あの女は、一体なに者なのです? 教えてください」
「興奮しすぎた頭の産物さ。それにちがいないよ。掛けがえのないきみだから、たいせつにしなくてはいけないな。きみのような神経の持ち主は、取り扱いに注意しなくては」
「わたしの神経が狂っていたなんて、絶対にありませんわ。この目でしかと見たのです。実際に起こったことなのですから」
「じゃ、そのまえにきみがみた夢だが、あれも実際にあったことかね? ソーンフィールド・ホールは廃墟かい? きみとぼくとは、越えようのない壁で引きさかれているのかい? ぼくは、涙一つこぼさず――キスの一つもせず――一言の言葉もかけずにきみと別れようとしているのかい?」
「まだそうなってはいませんけど」
「いつかそうなるというのかい? ――だって、二人を解きがたく結びつけてくれる日は、もうすでに始まっているんだよ。二人が一心同体となってしまえば、そんな神経性の恐怖は二度と起こったりなんかしないさ。それだけは保証するよ」
「神経性の恐怖ですって! その程度のものと信じることができればいいのですが。いまはいっそう、そう信じたい気がいたしますわ。あなたでさえも、あの恐ろしい亡霊の謎をとくことができないのですから」
「ぼくにとけないということはだよ、ジェイン、それが現実でなかったということにほかならないのさ」
「でも、けさ起きだしてから、自分にもそういって聞かせ、さんさんと輝く日の光のなかで、いつも見なれた品々の明るいたたずまいから、勇気と安心を得ようと思って、部屋を見まわしたとき――そこのカーペットの上に――わたしの考えがまちがっていることをはっきり裏づけるものを――上から下へと真っ二つにさけたヴェールを(新約聖書、マルコによる福音書、第十五章第三十八節に言及)、見てしまったのです!」
わたしはロチェスターさまがぎくっとなって、身ぶるいするのを感じた。その両腕がさっと伸びて、わたしのからだを抱きしめた。「ああ、ありがたい!」とロチェスターさまは叫んだ。「ゆうべ、悪霊かなにかがきみのそばまできていたとしても、ヴェールが駄目になるくらいですんだのだから――ああ、どんなことになったのかもわからないのだからなあ!」
ロチェスターさまは短い息をしながら、あえぐこともできないくらいに固くわたしを抱きしめた。数分間の沈黙が流れたあと、ロチェスターさまは明るい口調でこういった――
「さあ、ジャネット、すっかり説明してあげようね。あれは半分が夢で、半分は現実であったのさ。女が一人、きみの部屋にはいったことは、ぼくも疑わない。その女はだよ、グレイス・プールだった――いや、そうであったにちがいない。あの女のことは、きみもあやしいといっている。きみが知っていることからいっても、そう考えるのは当然のことだ――あの女はぼくになにをしたか? メイスンになにをしたか? 夢うつつのきみは、あの女がはいってきたことや、その挙動に気がついた。しかし、きみは熱に浮かされて、一種の錯乱状態になっていたので、あの女には似ても似つかない、化け物のような面相を見たような気分になったのさ。長いざんばら髪や、はれあがった黒い顔や、異様に高い背丈などは、想像力の産物、悪夢の生みだしたものだな。腹いせにヴェールを引きさくというのは、実際にあったことさ。いかにもあの女らしいよ。そんな女をなぜ屋敷に置くのか、とききたそうな顔をしてるね。ぼくたちが結婚してからまる一年がたったら教えてあげるよ。しかし、いまは教えられないな。それで気がすんだかい、ジェイン? この程度の謎ときで満足してくれるかい?」
わたしは考えてみたが、実際のところ、これ以外の説明はちょっと無理なように思われた。満足したというのではないけれども、ロチェスターさまを安心させるため、そのようなふりをすることにした――ほっとした気持ちになっていたことは、まちがいなかったからである。そこで、わたしは満足しきったような微笑をかえした。それから、もうとっくに一時をまわっていたので、引きあげる用意にとりかかった。
わたしがろうそくに火をつけていると、ロチェスターさまは「ソフィは子供部屋でアデールといっしょに寝ているのじゃないかね?」ときいた。
「ええ」
「アデールの小さなベッドには、きみが寝るくらいのスペースがあるよ。今夜はあの子といっしょに寝るんだな、ジェイン。いま話してくれた事件のために、きみが神経質になるとしてもおかしくないし、それにぼくとしても、きみが一人で寝るのは感心しないんだ。子供部屋へ行くと約束してくれるね」
「喜んでそういたしますわ」
「それから、ドアの鍵はなかからちゃんとかけるんだよ。二階へあがったら、ソフィを起こすんだな。あす、早目に起こしてくれるように頼むことを口実にすればいい。八時までには着つけをして、朝食をすましておく必要があるんだから。さあ、もう陰気なことを考えるのはやめて。ふさぎの虫を追っぱらうんだよ、ジャネット。風が落ちて、静かなささやきに変わったのが聞こえないかい? 窓ガラスに打ちつけていた雨もやんでいる。ごらん――」(ロチェスターさまはカーテンをあけた)「きれいな晩じゃないか!」
たしかに、きれいな晩であった。空の半分は、一点のくもりもなく晴れわたっている。いまは西にむきを変えた風に追われるようにして流れている雲は、長い、銀色の列をなして東のほうへむかっている。月は静かに輝いていた。
「どれどれ」といいながら、ロチェスターさまはわたしの目をまさぐるように見つめた。「ぼくのジャネットの気分はどうかな?」
「穏やかな夜。わたしの心と同じですわ」
「今夜のきみがみる夢は、別れや悲しみではなくて、幸福な愛と楽しい結婚の夢だよ」
この予言は半分しか当たらなかった。悲しみの夢をみなかったことはたしかだが、喜びの夢もみなかったからである。つまり、わたしは一睡もしなかった。アデールを抱いたまま、わたしは子どもの眠りを――まことに穏やかで、落ち着いた、無邪気な眠りを見守りながら、夜明けを待っていた。わたしの生命は、わたしのからだのなかですっかり目をさまし、うごめいていたので、わたしは朝の光とともにさっと起きあがった。そばをはなれるとき、アデールがわたしにすがりついたことをおぼえている。その小さな手をわたしの首からはずしながら接吻してやったこと、いいようのない感情に駆られて涙を流したこと、すすり泣きがそのまだ安らかな眠りを乱してはと思って、そばをつとはなれたことなどを、わたしはいまもおぼえている。アデールはわたしの過去の生活の象徴に思われた。そして、着飾ったわたしがこれから会いに行こうとしている人物は、わたしの未知の将来の、恐れつつも敬愛する象徴であるように思われた。
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二十六章
わたしの着つけのため、ソフィは七時にやってきたが、仕上げにずいぶんと手間取ってしまった。わたしがあまりおそいのにしびれをきらせたらしいロチェスターさまが、なぜおりてこないのか、とききによこしたほどであった。ソフィはヴェールを(結局、飾りのない、四角なシルクのレースになってしまった)ブローチでわたしの髪につけているところであったが、わたしはその手の下を、大急ぎですりぬけた。
「お待ちください!」とソフィはフランス語で叫んだ。「鏡をごらんになって! 一度も見ていないのですよ」
そこで、わたしはドアのところからふり返った。ローブとヴェールをつけた姿が目にはいったが、いつものわたしとは全然ちがっていた。まるで赤の他人の姿を見るようであった。「ジェイン!」と呼ぶ声がした。わたしは駆けおりた。ロチェスターさまは、階段のあがり口のところで、わたしを迎えてくれた。
「ぐずだな。待ちくたびれて、ぼくの頭は火がついたみたいだぞ。ほんとに手間がかかるんだから」
ロチェスターさまはわたしを食堂へつれて行くと、全身を鋭い目つきで眺めまわしてから、わたしのことを「ユリの花のようにきれいで、ぼくの人生の誇りであるだけでなく、ぼくの目の望むとおりのもの」と表現した。それから、朝食を食べる時間は十分しかやらないからな、といいながら、ベルを鳴らした。最近やといいれた召使いの一人である従僕が、それに答えて出てきた。
「ジョンは馬車の用意をしているのか?」
「はい」
「荷物をおろしてきたな?」
「いまおろしているところです」
「おまえは教会へ行ってくれ。ウッド牧師と書記がそろっているかどうか、見てこい。帰ったら、報告するんだ」
読者もご存じのように、教会は屋敷の門をすぐ出たところにある。ほどなくして従僕がもどってきた。
「ウッド先生は法衣室で、法衣を着ておられます」
「馬車は?」
「馬に引き具をつけております」
「教会へ行くのに馬車はいらないが、もどってきたときにすぐ出発できるようにしておくんだぞ。トランクや手荷物は積みこんで、ひもをかける。御者も位置についているんだ」
「わかりました」
「ジェイン、用意はいいね?」
わたしは立ちあがった。新郎新婦の付添人や親類を待ったり、案内したりしなくてもよかった。ロチェスターさまとわたしの二人だけしかいない。フェアファックス夫人は、わたしたちが通りかかったとき、玄関のホールに立っていた。声をかけたい気持ちであったが、わたしの手は鉄のような手が握りしめているし、わたしを引きずって行く大股の足どりには、とても追いつけないくらいであった。それに、ロチェスターさまの顔を見ていると、どんな目的のためであれ、一秒のおくれも許されないような気になった。こんな目つきをした新郎――いちずに一つの目的だけを思いつめ、決然としてにこりともしない新郎は、ほかに例がないのではあるまいか。あれほどに断固とした眉の下に、あれほどに燃えるような、ぎらぎらと輝く目を光らせている人間がほかにいたとは、わたしにはとても思われない。
その日が晴れていたのか、くもっていたのか、わたしにはわからない。馬車道をおりて行きながら、わたしは空にも地面にも目をやらなかった。わたしの心はわたしの目といっしょになり、二つともロチェスターさまの肉体のなかへはいりこんでしまったかのようであった。歩いて行きながら、ロチェスターさまが凶暴で、残忍な視線を釘づけにしているかに思われる目に見えないなにものかを、わたし自身も見たかった。ロチェスターさまが雄々しく立ちむかい、抵抗しているかに思われる強力な思考を、わたし自身も感じ取りたかった。
教会の庭の門のところで、ロチェスターさまは立ちどまった。わたしがすっかり息をきらしているのに気づいたのである。「ぼくは愛するあまりに、残酷なまねをしているのだろうか? 一休みしよう。ぼくによりかかるんだね、ジェイン」
わたしはいま、目のまえに静かに立っていた神さびた灰色の教会や、尖塔のまわりを飛んでいた一羽のミヤマガラスや、そのむこうの赤みをさした朝の空の光景を思いだすことができる。緑色の土まんじゅうのこともおぼえているし、低い塚のあいだを歩きまわりながら、いくつかの苔むした墓石に刻まれた碑銘を読んでいた二人の見知らぬ男の姿のことも忘れてはいない。わたしがこの二人に気づいたのは、わたしたちを見かけると、教会の裏手にまわったからである。側廊のドアからはいって、式に立ち会うつもりにちがいないわ、とわたしは思った。ロチェスターさまは、二人の存在には気がつかないまま、わたしの顔をじっと見守っていた。顔の血が一瞬、引いてしまったらしく、わたしは額が汗ばみ、頬や唇が冷たくなるのを感じた。わたしが元気を回復すると(時間はいくらもかからなかった)、ロチェスターさまはわたしと肩を並べて、教会のポーチへの道をゆっくりと歩いて行った。
わたしたちは閑静で、質素な教会にはいった。白い法衣をまとった牧師が、書記をしたがえて、低い祭壇のまえで待っていた。あたりは静まりかえっていた。ずっとむこうの一隅で、人影が二つ、動いているだけであった。わたしの想像は当っていた。二人の見知らぬ男たちは、わたしたちよりも先に教会にはいってきて、ロチェスター家の納骨所のまえで、わたしたちに背をむけて立ちどまり、古めかしい、時の流れのしみついた大理石の墓標を手すりごしに見やっていた。内乱(十七世紀半ばのチャールズ一世と議会との紛争)のとき、マーストン・ムア(一六四四年、クロムウェルが王党軍を破った、ヨークシャー州西部にある荒野)で戦死したデイマー・ド・ロチェスターと、その妻エリザベスの遺骸を、ひざまずいた天使が守護している墓標であった。
わたしたちは聖餐壇の手すりのまえに立った。うしろからしのび足で歩く足音が聞こえたので、肩ごしにふりかえって見ると、例の見知らぬ男たちの一人が――一見、紳士ふうの男が、内陣をこちらへやってきていた。結婚式がはじまった。結婚の目的の説明がなされると(教会での結婚式の一部になっている)、牧師が一歩まえに進みでて、ロチェスターさまのほうへからだを傾けかげんにして、言葉をつづけた――
「あなたがた二人に命令いたしますが、あなたがたのどちらかでも合法的に結婚できない障害があることを知っているならば、(すべての人間の心の秘密があらわにされる、恐ろしい最後の審判の日に、神に答えるのと同じように、)いまここでそれを告白してください。あなたがたがよく知っているように、神のお言葉の許しなしに結婚した者は、神によって結ばれた者でないし、その結婚は法にしたがわないものであるからです」
牧師はここで、慣習にしたがって、言葉をきった。この宣告のあとの沈黙を破る答えが聞かれるのは、一体いつのことであろうか? おそらく、百年に一回もあるまい。やがて、祈祷書から目をあげようともせず、一瞬、息をとめただけであった牧師は、先をつづけかけた。すでに牧師の片手がロチェスターさまのほうへ差しだされ、その口が開いて、「あなたは、この女を妻としてめとりますか?」という言葉を発しようとしていた。そのとき、はっきりした声が、すぐそばで、こういうのが聞こえた――
「この結婚式はつづけることができません。障害があることを、はっきりと申しあげます」
牧師は言葉の主のほうに目をやったまま、おしのように立ちつくしていた。書記のほうも同じであった。ロチェスターさまは、足もとで地震でもあったかのように、かすかな身動きを見せたが、やがてすっくと立ちはだかると、顔も目もそむけることなく、「おつづけください」といった。
よくとおる低い声で、この言葉が口にされたあと、深い沈黙があたりを支配した。やがてウッド牧師はいった――
「いまの発言をとり調べ、真偽のほどをたしかめないことには、つづけるわけにはまいりません」
「式はこれまでです」と背後の声が重ねていった。「わたしには、この申し立てを証明することができます。この結婚には、越えることのできない障害が存在するのです」
ロチェスターさまは、この言葉を耳にしながら、意に介しようとしなかった。|てこ《ヽヽ》でも動かないように、身をこわばらせて立っている。わたしの手をにぎりしめているほかは、身じろぎ一つしない。にぎっている手の、なんと熱っぽく、力強いことか! ――この瞬間の、青ざめて、決然とした色を見せる、隆起した額のあたりは、切りだされた大理石と見まがうばかりではないか! その目のなんときらきら輝いていたことか――警戒しながらも、なおその下にはぎらぎらするものが光っていた!
ウッド牧師は困りはてたようであった。「その障害は、どんな性質のものですか?」と牧師はきいた。「乗り越えることのできるもの――説明すれば解決できるものでありましょうな?」
「とんでもありません」という返事であった。「越えることのできない障害と申しあげましたし、十分に考慮した上で発言いたしております」
こういうと、男はまえに進み出て、手すりによりかかった。男は一語一語を、低い声ではあったが、はっきりと、おだやかに、よどみなく口にしながら、話しつづけた。
「その障害は、すでに結婚がおこなわれているという一点にかかっております。ロチェスター氏には夫人がいて、しかも現在まだ生きておられるのです」
雷鳴にも打ちふるえたことのないわたしの神経が、この低い声で語られた言葉にはげしく打ちふるえた――氷や火を感じたことのないわたしの血が、その言葉の不可思議な暴力を感じとった。だが、わたしは冷静さを失わず、気絶したりする心配はさらさらなかった。わたしはロチェスターさまの顔を見つめ、わたしの顔を見つめさせた。その顔面は色を失った岩のようで、目は火花とも火打ち石とも思われた。なに一つとして否認せず、あらゆることに挑戦しているかに見えるロチェスターさま。口もきかず、微笑も浮かべず、わたしを人間として認めてもいないかのようで、ただわたしの腰のまわりに腕をかけ、わたしのからだを自分のかたわらに釘づけにするばかりであった。
「きみはなに者なんだ?」とロチェスターさまは闖入《ちんにゅう》してきた男にきいた。
「名前はブリッグズ――ロンドンの――街で開業している弁護士です」
「それで、きみはわたしに妻を押しつけようというのだな?」
「あなたには奥さんがいるということを思いだしていただきたい。あなたが否定なさっても、法律はその事実を認めているのですぞ」
「その妻という女のことを――名前やら、戸籍やら、現住所などを、教えていただきたい」
「いいですとも」ブリッグズ氏は一枚の紙を、ポケットからゆっくり取りだすと、事務的な、鼻にかかったような声で読みあげた――
「『西暦――年(十五年まえの年号だった)、十月二十日、英国――州ソーンフィールド・ホールおよび――州ファーンディーン屋敷《マナー》のエドワード・フェアファックス・ロチェスターが、ジャマイカ島スパニッシュ・タウンの――教会にて、商人ジョナス・メイスンとクリオール人(西インド諸島生まれのフランス人、スペイン人をさす)の妻アントワネッタの娘で、わたしの妹であるバーサ・メイスンと結婚したことを、わたしは確認するとともに、その事実を証明することができます。結婚の記録は、同教会の戸籍簿に記載され、その写しを一通、現在わたしが保管しています。署名者、リチャード・メイスン』」
「それは――それがほんものの書類であるとして――わたしに結婚歴があることを証明するかもしれないが、そこにわたしの妻として記載されている女が現在まだ生きているという証拠にはならない」
「三ヵ月まえまでは生きておられました」と弁護士はいい返した。
「どうして知っている?」
「その事実については証人がおります。その人物の証言は、いくらあなたでも否定できないはずです」
「その男をつれてこい――それとも、地獄へでも行ってしまえ」
「まず証人をつれてまいります――ここにきておられますから。メイスンさん、まえに出てくださいますか」
ロチェスターさまは、メイスンという名前を聞くと、歯をくいしばった。そしてまた、けいれんを起こしたかのように、はげしく身をふるわせた。すぐそばにいたわたしは、ロチェスターさまのからだのなかを、激怒か絶望の発作が駆けぬけるのを感じとった。これまでうしろのほうでぐずぐずしていた、もう一人の見知らぬ男が、やっと近づいてきた。弁護士の肩ごしにのぞきこんだ青ざめた顔――そう、やっぱり、あのメイスンであった。ロチェスターさまはふりむくと、メイスンの顔をにらみつけた。ロチェスターさまの目は、これまでなん回もふれたように、黒い目であった。その黒い目が、いまは陰にこもって、黄かっ色の、いや、血の色をした光をはなっている。上気した顔――オリーブ色の頬と血の気の消えた額は、胸の火が燃えひろがり、燃えさかったせいか、赤みを帯びている。ロチェスターさまはぶるっと身ぶるいをすると、たくましい腕をふりあげた――メイスンをぶんなぐることも、教会の床にたたきつけることも、残忍な一撃で息の根をとめることもできたであろう――だが、メイスンはちぢみあがって後しざりすると、「助けてくれ!」とかすかな悲鳴をあげた。軽蔑のあまり、ロチェスターさまはしらじらしい気持ちになってしまった――胴枯れ病にやられた樹木のように、腹立たしさがしぼんで消えてしまったロチェスターさまは、「|貴様は《ヽヽヽ》なにをいいたいんだ?」ときいただけであった。
聞き取ることのできない返事が、メイスンのまっ青な唇からもれた。
「まともに答えないと、ひどいからな。もう一度きくが、|貴様は《ヽヽヽ》なにをいいたいんだ?」
「もし――もし」と牧師が口をはさんだ。「神聖な場所にいることをお忘れなく」それから、メイスンのほうをむくと、おだやかな口調で、「あなたはこのかたの奥さんが現在まだ生きているかどうかをご存じなのですか?」ときいた。
「勇気を出すのです」と弁護士が声をかけた。「はっきり答えなさい」
「まだ生きていて、ソーンフィールド・ホールにおります」とメイスンはこれまでよりも歯ぎれのいい口調で答えた。「わたしはこの四月に、そこで会いました。わたしは兄なのです」
「ソーンフィールド・ホールにですと!」と牧師は叫んだ。「信じられない話ですな! わたしはこの土地に長年住んでいるが、ソーンフィールド・ホールにロチェスター夫人がいるという話は、ついぞ聞いたことがありませんから」
ロチェスターさまの唇が無気味な笑いにゆがむのが目にはいった。やがて、ロチェスターさまはこうつぶやいた――
「そうともさ――畜生め! そんな話が――そんな名前の女がいるという話が他人の耳にはいらないように、用心してきたのだからな」
ロチェスターさまは考えこんでいた――十分ばかり、自分自身と相談していたのだが、やがて決心がついたのか、はっきりとこういいきった――
「もうたくさんだ――なにもかも、いっぺんにぶちまけてやる、弾丸が銃身からとびだすようにな――ウッド、その祈祷書を閉じ、法衣もぬいでしまいたまえ。ジョン・グリーン」(と書記にむかって)「教会を出たまえ。きょうの結婚式は取りやめだから」
書記はいわれたとおりにした。
ロチェスターさまはずぶとい、むこう見ずともいえる口調で、話しつづけた――
「重婚とは、いやな言葉だ! ――だが、このわたしは重婚の罪をおかそうとしていた。しかし、運命がわたしの裏をかいたか、神がわたしに天罰をあたえたのか――おそらく、あとのほうだろうな。いまのわたしは悪魔も同然の男なのだ。そこにおいでの牧師さんなら、もっともきびしい神の裁きを受けてしかるべき男――つきることのないうじ虫や消えることのない火(地獄をさす。新約聖書、マルコによる福音書、第九章第四十八節などへの言及)にさえ値いする男というだろうな。みなさん、わたしの計画は破れてしまった! ――そこの弁護士と、その依頼人がいったとおりなのだ。わたしは結婚したことがある。しかも、わたしの結婚相手の女はいまも生きている! ウッド、きみはあの屋敷にロチェスター夫人などという女がいるという話は聞いたこともない、といってたな。だが、あそこに謎の狂人がいて、四六時ちゅう見張られているといううわさなら、なん回となく耳を傾けたことがあるのじゃないかな。あれが私生児で、わたしの腹ちがいの妹だと耳うちする者や、わたしに捨てられた情婦だとささやく者がいたはずだ。いまはっきり教えてやるが、あれこそ、わたしが十五年まえに結婚した妻なのさ――名前はバーサ・メイスン。そこの意志強固なご仁の妹君にあたる女だ。もっとも、やっこさん、いまは手足をふるわせ、顔面蒼白で、男どもがいかに剛毅であるかを示すいい見本となっているのだがね。しっかりするんだ、ディック! ――こわがらなくてもいいぜ! ――おまえをなぐるくらいなら、女をなぐったほうがましなんだから。バーサ・メイスンは気ちがいだ。気ちがいの家系なんだ――白痴と狂人が三代もつづいているんだからな! クリオール人の母親ときたら、気ちがいで、アル中ときているのさ! ――娘と結婚してからはじめてわかったことなんだが。それまでは身内の秘密など、おくびにも出さなかったのだからな。バーサは親孝行な娘らしく、両方の点で母親に生きうつし。わたしはチャーミングなパートナーに恵まれたってわけ――清らかで、かしこくて、しとやかで。わたしがしあわせな男だったとお思いになって結構――それはそれはすばらしい目に会ったのだから! ああ! わたしの経験が天にのぼるほどのものであったことが、わかってもらえればいいのだが! しかし、これ以上、みなさんに説明する必要はありませんな。ブリッグズ、ウッド、メイスン――わが家へみなさんをご招待申しあげる。プールさんが面倒を見ている患者、|このわたしの妻《ヽヽヽヽヽヽヽ》に会ってやってくれたまえ! ――わたしがだまされて結婚したのがどんな類いの人間であったか、その目でたしかめ、婚姻を破棄して、せめて人間らしいものに共感を求めるという権利がわたしにあるかないか、判断してくれたまえ。この女性はね」とロチェスターさまはわたしの顔を見ながら、話しつづけた。「ウッド、きみと同じように、いまわしい秘密のことを知らなかったのだ。すべてが公明で、法にかなったことと信じていたのだ。ぺてんにかけられた哀れな男、とっくの昔に下劣で、気の狂った、野獣と化してしまった女房にしばりつけられている男にだまされて、いつわりの結婚をすることになろうとは、夢にも思っていなかったのだ! さあ、みなさん、いっしょにきてくれたまえ!」
わたしの手をにぎりしめたまま、ロチェスターさまは教会を出て行った。三人の男たちもあとを追った。屋敷の表玄関には、馬車が待っていた。
「馬車置き場へもどしておくんだぞ、ジョン」ロチェスターさまはひややかな口調でいいつけた。「きょうはいらないから」
玄関をはいると、フェアファックス夫人、アデール、ソフィ、リアなどが進み出て、お祝いの言葉を述べようとした。
「むこうへ行ってしまえ――だれもかれもだ!」とロチェスターさまは大声をあげた。「お祝いなんか、やめろ! そんなもの、だれが聞きたい? ――こっちはごめんこうむる! ――十五年おそいのじゃないか!」
ロチェスターさまはずんずんと歩いて、階段をのぼったが、あい変わらずわたしの手をとったままであった。男のかたたちも、やはりついてくるように合い図されて、そのとおりにしていた。わたしたちは最初の階段をあがり、廊下を通りぬけると、三階へむかった。ロチェスターさまが親鍵を使って低い、黒いドアを開け、わたしたちは大きなベッドと十二使徒の絵のついた戸棚のある、例の壁掛けのかかった部屋にはいった。
「ここは知っているな、メイスン」と案内役のロチェスターさまがいった。「ここであいつにかまれて、刺されたのだからな」
ロチェスターさまが壁掛けをあげると、もう一つのドアがあらわれた。このドアも開けられる。窓のない部屋では、高い、頑丈な炉ごうしに守られた暖炉に火がもえていた。天井から鎖でつり下げられたランプ。暖炉のまえにかがみこんだグレイス・プールは、シチューなべで煮ものでもしているらしい。部屋の奥の、影が濃くなったあたりで、なにやら左右に走りまわっているものがある。それがなんであるか――動物なのか、人間なのか、ちょっと見ただけではわからない。どうやら、四つんばいになってうろついているらしく、見なれぬ野獣かなにかのように、飛びかかるようすを見せたり、うなり声をあげたりしている。だが、それは衣類をまとっていたし、たてがみみたいにぼさぼさした、白髪まじりのゆたかな黒髪が頭と顔をかくしていた。
「おはよう、プールさん!」とロチェスターさまはいった。「元気かね? きょうは病人の具合はどうだね?」
「まずまずではないか、と思います」グレイスは、煮たった料理を暖炉の内側の台に注意ぶかくのせながら答えた。「すこし癇《かん》がたっているようですが、凶暴なことはございません」
けたたましい叫び声が聞こえ、グレイスの楽観的な見かたが当っていないことを、はっきり物語っているように思われた。衣類をまとったハイエナは身を起こし、うしろ足ですっくと立ちあがっていた。
「ああ、だんなさまを見ております!」とグレイスが大声をあげた。「ここにいらっしゃらないほうがいいのでは」
「ほんの二、三分だよ、グレイス。二、三分だから、いさせてくれよ」
「では、ご用心をなさってください! ――ほんとうにご用心をお忘れなく!」
狂女はわめき声をあげた。ざんばら髪を顔からかきあげると、部屋にはいってきた者たちを狂暴な目つきでにらみつけた。その紫色の顔――そのはれあがった目鼻だちには見おぼえがあった。プール夫人がまえに進みでた。
「そこをどくんだ」ロチェスターさまはそういいながら、夫人を押しのけた。「いまはナイフをもっていないだろ? こっちも用心しているんだから」
「なにをもっているやら、わかったものではありません。油断もすきもならないのです。この女《ひと》の悪知恵を見ぬくのは、なみの頭の人間にはとてもできないことですから」
「ほっといたほうがいいようだね」とメイスンが小声でいった。
「どこへでも行っちまえ!」とメイスンの義弟が答えた。
「あぶない!」というグレイスの叫び声。三人の男たちは同時にさっととびのいた。ロチェスターさまはわたしを背中のうしろへぐいとひっぱって、かばってくれた。狂女は飛びあがると、ロチェスターさまののどを猛烈な勢いでひっつかみ、頬にかみついた。二人はもみあった。狂女は大柄で、夫におとらないくらいの身長があり、その上、肥満体ときている。もみあいながらも、男まさりの力を発揮するのである――スポーツマン・タイプのロチェスターさまののどをしめつけたことも一度や二度ではなかった。ロチェスターさまとしては、ねらい定めた一撃でやっつけることもできたであろうが、腕力をふるおうとはせず、ただ取っ組みあっているだけであった。やっとのことで、ロチェスターさまは女の両腕を押えつけると、グレイス・プールになわをもらって、うしろ手にしばりあげ、さらに手近かにあった別のなわで、女を椅子にくくりつけた。このあいだにも、女は猛烈きわまりないわめき声をはきちらし、無茶苦茶に突っかかることをやめなかった。やがてロチェスターさまは、見守っている人たちのほうにむきなおると、にがにがしげで、同時にまたわびしげな微笑を浮かべて、一同を見やった。
「あれが|わたしの妻《ヽヽヽヽヽ》なのさ。わたしが知ることを許されている唯一の夫婦の抱擁は、あれなのさ――わたしのいこいのひとときを慰めてくれる愛情の表現は、あれなのさ! そして、わたしが自分のものとしたかったのは、|この女性《ヽヽヽヽ》なのさ」(といってわたしの肩に手をかけた)「地獄の入り口に立っても、こんなに一生けんめいで、もの静かで、悪魔の気ちがい沙汰を臆することなく眺めている、この若い女性なのさ。あのぞっとするようなシチュー料理のあとの気分転換に、わたしはこの女性がほしかった。ウッド、ブリッグズ、二人ともこのちがいを見てくれ! このすんだ瞳を、あの女の血走った目玉とくらべてくれ――この顔とあの仮面と――この容姿とあの図体とをくらべてくれたまえ。福音を説くきみも、法律家としてのきみも、その上で、このわたしを裁くんだな。忘れてはいかんよ、あなたがたが裁くそのさばきで、自分も裁かれるということを!(新約聖書、マタイによる福音書、第七章第二節)もう行ってくれ! このだいじな宝をしまいこまねばならないから」
わたしたちは引きあげた。ロチェスターさまはちょっとのあいだあとに残って、グレイス・プールになにかとくわしい指示をあたえていた。階段をおりて行く途中、弁護士がわたしに話しかけてきた。
「あなたにはですね、とがめる所はなにもありませんよ。マデイラへ帰ったメイスンさんからこの話を聞けば、おじさんもお喜びになりますでしょうな――もっとも、まだ生きておられるとしての話ですがね」
「おじですって! おじがどうかしたのですか? おじとお知り合いですの?」
「メイスンさんがお知り合いでしてね。エアさんは、このなん年か、フンシャール(マデイラ諸島の首都。海港で、避寒地)でメイスンさんの会社の代理人をしておられるのですよ。おじさんが、ロチェスターさんとの結婚を考えているというあなたの手紙を受け取ったとき、ジャマイカへもどる途中、保養のためマデイラに滞在中のメイスンさんがたまたまおじさんといっしょにおられましてね。エアさんは、ここにおいでのわたしの依頼人がロチェスターという名前の人物と知り合いであることをご存じだったので、その手紙の内容をお話しなさったのですよ。あなたのご想像どおり、メイスンさんは驚いたり、悩んだりなさった末、真相を打ち明けてしまわれたのです。残念ながら、おじさんはいま病床にふせっておられますが、病気の性質やら――肺結核なんですよ――病気のすすみ具合から考えて、再起不能ではないでしょうか。そのため、おじさんはイギリスへ駆けつけて、あなたを|わな《ヽヽ》から救いだすことができなかったのですが、メイスンさんにさっそくに手を打って、いつわりの結婚をはばんでくれるよう、懇願されたわけです。そして、わたしに援助を依頼するよう、メイスンさんに指示されました。わたしのほうも迅速な処置を取りまして、手おくれにならずにすんだことをうれしく思っております――きっと、あなたも同じ気持ちでおられるとは思います。あなたがマデイラに着くまでに、おじさんは十中八九まで確実に亡くなっておられます。そうでなかったら、メイスンさんといっしょに行かれることをおすすめするのですが。そういうわけですから、イギリスにとどまって、エアさんからの手紙なり、エアさんについての消息なりをお待ちになるほうがいいと思いますよ。ほかに用がありますかな?」と弁護士はメイスン氏にきいた。
「いえ、いえ――帰るといたしましょう」という心配顔な答えが返ってきた。二人は、ロチェスターさまを待って挨拶することもなく、玄関から姿を消してしまった。牧師は教区の不遜きわまりない男と忠告か非難の言葉を、二言三言かわすために残っていたが、やがてその用事もおわると、帰って行った。
わたしは自室に引きあげると、その半開きのドアのところに立ったまま、帰って行く牧師の足音を耳にした。屋敷から客がいなくなると、わたしはドアを固く閉ざし、だれもはいってこないようにかんぬきをおろしてから、機械的にウェディング・ドレスをぬぎ、きのう、これが最後と思って着ていたラシャの洋服に着かえはじめた――泣いたり、嘆いたりするには、まだ冷静でありすぎたからである。それから腰をおろした。全身の力がぬけ、疲れきった感じであった。わたしはそばのテーブルに両腕を置き、その上に顔をふせた。いまやっと、考えることができるようになった。いままでのわたしは、聞いたり見たり動いたりするだけであった――案内され、引きずられて行くところならどこへでもついて行くだけであった――あいついで事件が降りかかり、さまざまな暴露がなされるのを見守っているばかりであったのだ。だが、|やっといま《ヽヽヽヽヽ》、|わたしは考えることができるようになっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
けさは、まことにおだやかな朝であった――あの狂女のところにいた短い場面は別であるとしても。教会での一幕も、騒然としたものではなかった。怒りの爆発や声高の激論があったわけでもなく、口論や反抗や挑戦もなければ、落涙や嗚咽とも縁がなかった。いくつかの言葉が口にされたあと、結婚に対して、おだやかに異議の申し立てがなされた。ロチェスターさまが発したいくつかのするどく、短い質問。それに対する返答と説明。証拠の提出。その事実を公然と確認するわたしの主人の言葉。そのあとでの生き証人との対面。闖入者たちの退散。それで、すべてがおわってしまったのであった。
わたしはいま、いつものように自分の部屋にいる――もとのままのわたしで、これといって変わった点はない。わたしを打ったり、傷つけたり、不具にしたりしたものは、なに一つとしてない。それなのに、きのうのジェイン・エアはどこへ行ってしまったのか? ――ジェイン・エアの人生はどこにあるのか? ――ジェイン・エアの将来はどうなっているのか?
情熱的で、夢みる女性であったジェイン・エア――あとすこしで花嫁になっていたジェイン・エアは、またもや冷たい、孤独な娘にもどってしまった。その人生は青ざめ、前途は荒涼としている。クリスマスの霜が真夏におり、白い十二月の吹雪が六月に荒れ狂い、氷がうれたリンゴにガラスのようにこびりつき、吹きだまりの雪が満開のバラを押しつぶしている。草刈り場や麦畑には、経かたびらのような氷が張りつめ、きのうは一面の花ざかりであった小道が、きょうは新雪のため跡かたもなくなっている。十二時間まえには、熱帯の森林みたいにかぐわしい葉をそよがせていた森が、いまでは冬のノルウエイの松林のように、荒涼として、原始のまま、白一色に広がっている。わたしの希望は死にたえてしまった――エジプトの国に生まれたすべての初生児《ういご》に一晩で襲いかかったような(旧約聖書、出エジプト記、第十二章第二十九節)、巧妙に仕組まれた運命によって打ちのめされてしまっていた。わたしは、きのうまであれほどに咲きほこり、輝きわたっていたわたしの願望を眺める。それはいま、こわばり、冷たく、鉛色になって――二度と生きかえることのない死体となって横たわっている。わたしはわたしの愛を眺める。わたしの主人のものであり――わたしの主人が創り出したあの感情を。それは、冷たいゆりかごのなかで病んでいる子どものように、わたしの胸のなかで打ちふるえている。それは病気と苦悩に取りつかれたままで、ロチェスターさまの腕を求めることも、その胸のぬくもりを感じることもできない。ああ、わたしの愛は二度とロチェスターさまにむかうことはできない。誠意がむざんにあしらわれてしまったのだから――信頼が足げにされてしまったのだから! ロチェスターさまは、わたしにとって、もう昔のロチェスターさまではない。わたしが思っていたようなロチェスターさまではなくなったからだ。わたしは、あのかたの不実を責めようとは思わないし、あのかたに裏切られたとも思いたくない。だが、あのかたに対するわたしの気持ちからは、清潔で、誠実な、というあのかたの特質は消えてしまっている。わたしはロチェスターさまのまえから去って行かねばならない。|そのことは《ヽヽヽヽヽ》、わたしにもよくわかっている。いつ――どのようにして――どこへ、という点になると、わたしにもまだわかっていない。だが、ロチェスターさま自身、わたしがソーンフィールドから早々に立ち去ることを望んでいることは、疑問の余地がない。あのかたがわたしに真実の愛情をかけることはできないように思われる。あのかたの愛は、ただの突発的な激情にすぎなかったのだ。それがじゃまされたいまとなっては、わたしを必要とすることもあるまい。いまのわたしは、あのかたのまえを横切ることさえもためらわねばならない。わたしの姿など、おぞましいばかりであるにちがいないからだ。ああ、わたしの目の、なんと盲目であったことか! わたしの行動の、なんと脆弱であったことか!
わたしは目をおおい、閉じている。さかまく暗闇がわたしのまわりでくるくる回るように思われ、反省が黒い濁流となって迫ってくる。すてばちになって、力をぬき、努力することもやめてしまったわたし。どこか大きな河の干あがった河床の上に横になっているらしい。遠くの山で洪水が起こりはじめたのを耳にし、奔流が押しよせてくるのを感じる。わたしには立ちあがる意欲も、逃がれる気力も欠けている。力なくのびてしまったまま、死ぬことを願っているわたし。そんなわたしのなかで、生あるもののように脈うっているたった一つの思い――それは神についての記憶であった。それは声にならない祈りを生みだす。その祈りの言葉は、ささやかれねばならないものであるかのように、光の消えたわたしの心のなかを行きつもどりつしているのだが、それをいってのける気力が見つからない――
「わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです」(旧約聖書、詩篇、第二十二篇第十一節)
迫りくる奔流。どうかさけて通ってください、と天に祈らなかったため――手をあわせることも、ひざを曲げることも、唇を動かすこともしなかったため――その奔流はやってきた。真っ向から、さからいがたい勢いで、それはわたしに襲いかかった。孤独なわたしの人生、失われたわたしの恋、消えてしまったわたしの希望、致命的な打撃をうけたわたしの信頼――これらすべてについての意識が、一つの重苦しい固まりとなって、この上なく強大な力でわたしの上にもろにのしかかっていた。この苦痛にみちた時間を説明することはできない。「大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。わたしは足がかりのない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました」(旧約聖書、詩篇、第六十九篇第一―二節)としかいいようがない。
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二十七章
午後のなん時ごろであったか、わたしは顔をあげて、あたりを見まわし、沈みかけたしるしに西日が部屋の壁に投げかける黄金色の光を眺めながら、「わたしはどうすればいいのだろうか?」と問いかけた。
だが、わたしの心のあたえた答えが――「即刻、ソーンフィールドを去るがいい」という答えが、あまりにだしぬけで、あまりにひどいものであったため、わたしは両耳をふさいだ。こんな言葉は、いまのわたしには耐えられないわ、とわたしはいった。「わたしがエドワード・ロチェスターの花嫁でないということは、わたしの苦悩の、ほんの一部分にすぎない」とわたしはいい立てた。「この上なく輝かしい夢からさめて、その夢のむなしさ、はかなさを知ったことは、ぞっとするほどいやなことだが、それには耐えることも克服することもできる。だが、すっぱりと、一刻の猶予もなく、完全にロチェスターさまと別れてしまうということは、とても耐えられない。そんなことは、わたしにはできないのだ」
がしかし、わたしの内なる声が、いや、できるとも、と断言し、そうすることになるのだ、と予言した。わたしはわたし自身のくだした決断と戦った。わたしを待ちうけていることがわかっている、新手の苦悩との恐るべき対決をさけるためなら、弱い人間になってもいいと思った。いまは暴君と化した良心は、情熱ののど笛をひっつかむと、おまえはそのきゃしゃな足を泥沼にちょっとつっこんだだけなのさ、とあざけり顔にいい、この鋼鉄の腕でもって、底知れない苦悩の底につき落としてやるぞ、と誓うのであった。
「じゃ、わたしをここから奪って行って!」とわたしは叫んだ。「だれかに力を貸してもらって!」
「だめだ。自分の力でここから立ち去らねば。だれも力を貸してはくれない。おまえはおまえ自身の手で、右の目をえぐりだし、右の手を切り落とさねばならない(新約聖書、マタイによる福音書、第五章第二十七―三十二節を参照)。おまえの心臓がいけにえとなり、おまえ自身がそれを突き刺す司祭となるのだ」
突然、わたしは立ちあがった。これほどに残忍な審判者のつきまとう孤独の恐怖――これほどにすさまじい声のみちあふれた沈黙の恐怖におびえていた。しゃんと立ちあがると、頭がぐらぐらする。興奮と空腹とで気分が悪くなっているのがわかった。朝食をとらなかったので、その日はまったく飲まず食わずであったのだ。やがて、わたしがここに引きこもってからずいぶんになるのに、使いの者がわたしのようすを見にきたり、下へおりていらっしゃい、といいにきたりしなかったことに思いいたって、わたしは奇妙な胸のうずきをおぼえた。アデールさえドアにノックをしてくれないし、フェアファックス夫人さえもわたしのところへきてはくれないのだ。
「運の切れ目が縁の切れ目というわけね」とつぶやきながら、わたしはかんぬきをはずして、部屋の外に出た。すると、なにかじゃま物にけつまずいて、わたしはよろけた。頭がまだぼんやりしている上、目もかすみ、足もしゃんとしていなかったのだ。すぐに立ちなおることができないまま、わたしは倒れた。だが、床の上には落ちなかった。さしのばされた手が、わたしをつかんでいる。目をあげて見ると――わたしを支えているのはロチェスターさまで、わたしの部屋の敷居ぎわに置いた椅子に坐っていた。
「やっと出てきたね」とロチェスターさまはいった。「じつは、ここで長いあいだ待ちかまえて、耳をすましていたんだ。しかし、物音一つ、泣き声一つ聞こえてこない。あと五分も、この死の静けさがつづいていたら、強盗みたいに鍵をこじ開けていたと思うよ。つまり、きみはぼくを避けるんだね? ――閉じこもったきりで、一人で泣こうというんだね? 痛烈な非難をしにきてくれればよかったのに。きみは情のはげしい人だから、ぼくは一悶着あるものと思っていたんだ。熱い涙の雨は覚悟していたものの、せめてぼくの胸の上に流してほしかった。それを受けとめたのは、なにも感じることのない床か、きみのぬれたハンカチであったのか。いや、ちがう。きみは涙などこぼしていないのだ! 青ざめた頬と、生気のない目は見えるけれど、涙のあとなど見えはしない。とすると、きみの胸は血の涙でも流していたのだろうか?
「ねえ、ジェイン。非難の言葉を口にしないのかい? 恨みがましいこと――胸を突き刺すようなことはいわないのかい? 感情を傷つけたり、かんしゃくを起こさせることはなにもいわないのかい? ぼくが坐らせたところに坐ったまま、きみは疲れはてた、かたくなな目でぼくを眺めているけれど。
「ジェイン、こんなふうにきみを傷つけるつもりは、まったくなかったんだ。たった一頭の小さい雌の小羊を飼っていた人が、自分のパンを食べ、自分の茶椀から飲み、自分のふところで寝て、娘のようにかわいいその小羊を、あやまって屠殺場で殺すことになったとしても(旧約聖書、サムエル記下、第十二章第三節)、いまのぼくほどにその血なまぐさい失敗を後悔することはないだろうよ。ぼくを許してはくれないだろうか?」
読者よ! ――わたしはその瞬間、その場で許していた。深い反省の色のあらわれた目。純粋なあわれみのこもった声。男性的なエネルギーにあふれた態度。その上、表情や態度のすみずみに、変わることのない愛情がうかがわれる――わたしはロチェスターさまのすべてを許した。もっとも、言葉や目に見える形ではなく、わたしの心の奥でのことにすぎなかったけれども。
「ぼくが悪徳漢であることは知ってるね、ジェイン?」
やがて、ロチェスターさまは重苦しい口調できいた――わたしがいつまでもおし黙ったままで元気がないのを驚きあやしんだためらしいが、わたしは自分の意志でそうしているのではなく、弱りきって力がないために、そういう結果になってしまったのだ。
「はい」
「じゃ、面とむかって、はっきりそういいたまえ――遠慮はいらないから」
「いえませんの。疲れている上に気分が悪くて。水がほしいのです」
ロチェスターさまはおののきにも似たため息をつくと、わたしを抱きかかえて、階段をおりて行った。最初は、どの部屋につれてこられたのか見当がつかなかった。わたしのかすんだ目には、すべてがもうろうとしていたが、やがて暖炉のぬくもりを感じて、わたしは生き返ったような気持ちになった。夏とはいえ、自室にいるあいだに氷のように冷たくなっていたからである。ロチェスターさまが唇のところまでもってきてくれたブドウ酒を飲んで、わたしは元気を回復した。それから、さし出されたものを食べおわってしばらくすると、本来のわたしにもどることができた。わたしは図書室にいた――ロチェスターさまの椅子に坐っているわたし――すぐそばにいるロチェスターさま。
「このまま、たいした苦痛もなしに死ぬことができれば本望だわ」とわたしは思った。「そうなれば、わたしの心の琴線をたち切ってまでして、ロチェスターさまの心の琴線をときはなすようなことをしなくてもすむのに。わたしはこのかたと別れなければならないらしい。別れる気などさらさらないわたしなのに――別れることなど、できはしないのに」
「気分はどうだい、ジェイン?」
「ずっとよくなりました。すぐになおりますわ」
「もう一度ブドウ酒を飲みたまえ、ジェイン」
わたしはいわれるとおりにした。ロチェスターさまはグラスをテーブルの上に置くと、わたしのまえに立ったまま、しげしげとわたしを見つめていた。突然、ロチェスターさまは、なにか名状しがたい激情にあふれた、わけのわからない叫び声をあげながら、まわれ右をすると、部屋のむこうへ足早に歩いて行ってから、またもどってきて、接吻をするかのように、わたしのほうへ身をかがめた。だが、いまでは抱擁が禁じられていることを、わたしは忘れてはいなかった。わたしは顔をそむけながら、相手の顔を押しのけた。
「おや! ――どういう意味だね?」とロチェスターさまは早口で叫んだ。「ああ、そうだったのか! バーサ・メイスンの夫とはキスなんかしないというんだな? ぼくの腕はふさがっていて、抱擁の相手はきまっていると考えているわけだ?」
「ともあれ、わたしには立ちいる余地も資格もありませんわ」
「なぜだね、ジェイン? きみがあれこれとしゃべる手間をはぶいてやる。こっちでかわりに答えるよ――ぼくにはすでに奥さんがあるから、と答えたいんだな、きみは――図星だね?」
「ええ」
「もしそう思っているのなら、きみはぼくについて変な考えを抱いているにちがいない。ぼくのことを下心のあるプレイボーイ――計画的に|わな《ヽヽ》をかけてきみをおとしいれ、名誉をうばったり、自尊心をひんむいたりするため、無償の愛を装っていた卑劣で低級な道楽者と見ているにちがいない。きみの返事はどうだね? なにもいえないようだね。第一に、きみはまだ弱っていて、息をするのもやっとだ。第二に、きみはまだぼくをとがめたり、ののしったりすることに慣れていない。その上、涙の水門が開きっぱなしで、なにかいおうとすると、涙がほとばしり出るんだな。また、きみにはお説教をしようとか、小言をいおうとか、いがみあいをやろうとかいう気がない。きみが考えているのは、どんな行動《ヽヽ》をとるか、ということで――問答無用と思ってるね。きみのことを知っているぼくなんだから――ちゃんと警戒しているんだよ」
「あなたに背くような行動をとるつもりはありませんわ」とわたしはいったが、声がふるえていたので、長くしゃべることは禁物だということがわかった。
「|きみの《ヽヽヽ》理解では、そうならないかもしれない――しかし、|ぼくの《ヽヽヽ》理解するところでは、きみはぼくを破滅させることをもくろんでいる。ぼくが女房もちだといってのけたのにひとしいんだからな、きみは――女房もちのぼくだから、ぼくを避け、ぼくから逃げようとしているんだ。たったいまも、ぼくのキスをこばんだじゃないか。ぼくとはいっさい手を切り、同じ屋根の下で、ただのアデールの家庭教師として暮すつもりをしている。ぼくがやさしい言葉をかけたとでもするかい。あるいはまた、きみの心にやさしさが生まれて、もう一度ぼくに傾くようになるとでもするかい。きみはこういうのさ――『あの人はわたしを情婦にしかけた男だわ。あんな男に対しては、氷にも岩にもならなくては』とね。やがてきみは、その氷にも岩にもなってしまうのさ」
わたしははっきりした、ふるえのない声を出して、こういい返した。
「わたしのまわりは、なにもかも変わってしまいました。わたしもまた変わらなければなりません――この点には、疑問の余地などございません。感情が動揺したり、さまざまな回想や連想といつまでも争ったりするのを避けるには、たった一つしか方法はありません――アデールには新しい家庭教師をつけねばなりませんわ」
「ああ、アデールは学校へはいるさ――それはもう解決ずみじゃないか。それに、ぼくはソーンフィールド・ホールにまつわるいまわしい連想や回想できみを苦しめるつもりはない――この呪われた屋敷――このアカンの天幕(旧約聖書、ヨシュア記、第七章第十九―二十六節。奉納物を取って、その天幕にかくしていたアカンは、家族もろとも石で撃ち殺され、火でやかれた)――ひろびろとした大空の光に、生けるしかばねの不気味さをもたらす、この無礼きわまりない地下納骨所――ぼくらが想像しているような悪魔の大軍よりも恐ろしい、ほんものの悪魔が一匹住んでいる、このせま苦しい石の地獄――ジェイン、ぼくはきみをここにとどまらせたりしないし、ぼくだってごめんだ。呪われた屋敷と知りながら、きみをソーンフィールド・ホールへつれてきたのが、そもそものまちがいだった。きみに会うまえから、ここが呪われていることをきみにはいっさい教えないよう、屋敷の者たちに命令してあったんだ。その理由は、どんな人間といっしょに住んでいるかがわかったら、アデールの家庭教師になり手がなくなるじゃないかと思ったのと、いろいろ計画したが、あの気ちがいをよそへ移す気持ちになれなかったというだけのことなのさ――もっとも、ここよりずっと人目につかない、かくれたところにファーディーン屋敷という古い別邸があるのだから、あの女をそこへ完全に住まわせることもできたわけだが、森のまん中にあって、環境が健康上よろしくあるまいと懸念されたため、良心のやつがしりごみしてしまったというわけなんだ。その屋敷の湿っぽい壁のおかげで、ぼくはすぐにでもあの女の面倒を見なくてもすむようになっていただろう。でもね、どの悪党にもお得意の悪事というものがある。直接手をくださずに暗殺するなんてのは、どんなに憎んでいる相手の場合でも、ぼくの趣味に合わないんだ。
「しかし、気の狂った女がそばにいることをきみにかくそうというのは、子どもに外套を着せて、ユーパスの木(猛毒をもった木で、数マイル四方の生物を殺害するといわれる)の近くに置くようなものだった。あの化け物の近くは、いまだけでなく、まえからずっと毒されている。だが、ソーンフィールド・ホールはたたむことにするよ。玄関のドアは釘づけにして、一階の窓には板がこいをつける。プールさんには年に二百ポンドやって、きみが|ぼくの妻《ヽヽヽヽ》と呼んでいるあのぞっとするような鬼ばばとここに住んでもらう。グレイスは金のためならなんでもする女だし、グリムズビー精神病院で看護夫をしている息子を呼びよせてやれば、話し相手になるし、|ぼくの妻《ヽヽヽヽ》なる人物が発作を起こし、使い魔にそそのかされて、夜、寝ている人に火をはなったり、ナイフで刺したり、肉を骨から食いちぎったりなどしようとするときには、母親のそばにいて手をかすこともできるからね」
「お言葉ですが」とわたしは口をさしはさんだ。「あなたはあの不幸なかたに残酷すぎますわ。あのかたのこととなると、憎しみをこめて――執念ぶかい敵意をこめて、お話しになっていらっしゃる。ひどいですわ――気がちがったのは、あのかたのせいではありませんのに」
「ジェイン、かわいいジェイン(こう呼ぶよ。だって、きみはそのとおりなんだから)、きみはなにをいってるか、わかっていないんだな。またまた、ぼくを誤解している。ぼくがあの女を憎むのは、あの女が気ちがいだからじゃないのだ。かりにきみが気がちがったとして、ぼくがきみを憎むとでも思っているのかい?」
「それは思いますわ」
「だったら、きみの考えちがいさ。きみにはぼくという人間がちっともわかっていないし、ぼくが抱くことのできる愛情がどんなものかもわかってはいないんだ。きみのからだは一つ一つの分子にいたるまで、ぼくのからだと同じようにいとおしいし、苦しいときや病んでいるときにも、そのいとおしさに変わりないんだ。きみの心はぼくの宝物であって、かりにこわれることがあっても、それが宝物であることに変わりはない。きみが発狂したりしたら、狂人用の拘束服などではなく、ぼくの両腕で身動きのならないようにしてあげる――きみに抱きつかれることは、きみが荒れ狂っているときでも、ぼくを喜ばせることになるのさ。きみがけさのあの女みたいに、無茶苦茶に飛びかかってきたら、ぼくはきみを抱擁で――きみをとり押えるだけでなく、きみに対する愛情にあふれてもいる抱擁で受けとめてやる。あの女の場合とちがい、きみにうんざりして逃げ出すようなまねはしない。落ちついているときのきみには、ぼくだけが看護人となって、世話をしてあげる。きみが微笑を返してくれなくても、ぼくはたゆむことのない愛情を抱いて、きみのそばを離れないし、きみの目がぼくに気づいてきらめくことがないにしても、ぼくはあくこともなく、その目に見いっているよ――しかし、なぜぼくはこんなことを考えているのだろうか? きみにソーンフィールドから移ってもらう話をしていたのに。きみも知っているように、用意は万端ととのっているから、いつでも出発できる。あす、発つようにしたまえ。もう一晩だけ、この屋根の下でがまんすることをお願いするよ、ジェイン。一夜あければ、ここでのみじめさや恐ろしさと、永久におさらばできるのさ! 行き場所はあるからね。そこは、おぞましい思い出や、やっかいなじゃま立てのない――虚偽や中傷さえもない、安全なかくれ場なんだから」
「ではアデールをおつれになってください」とわたしは口をはさんだ。「話し相手になりますわ」
「それはどういう意味だね、ジェイン? アデールは学校へいれるといったじゃないか。子どもを話し相手にする必要がどこにある? 自分の子どもでもないのに――フランス人の踊り子の私生児なんだぜ。なぜあの子のことにこだわるんだい? そうさ、なぜアデールをぼくの話し相手にさせたがるんだい?」
「どこかに引きこもるというお話しでしたわね。引きこもって、孤独になるのは、退屈なものですわ。あなたには耐えられないほど退屈なものですわ」
「孤独! 孤独だって!」ロチェスターさまはいらいらしたようにくり返した。「どうやら説明の必要があるらしいな。きみの顔にどんなスフィンクスめいた表情が浮かぶかは、ぼくにはわからない。|きみが《ヽヽヽ》ぼくの孤独のお相伴《しょうばん》をするんだ。わかってるね?」
わたしは首を横にふった。ロチェスターさまが興奮してきているので、このように黙って反対の意志表示をするのにも、かなりの勇気がいった。部屋のなかを足早に歩きまわっていたロチェスターさまは、突然、一箇所に根がはえたかのように、立ちどまった。わたしを長いあいだ、じっと見つめている。わたしは目をそむけると、暖炉の火に釘づけにしたまま、物静かな、冷静さを装った態度を取りつづけようとした。
「いよいよジェインの性格のからまりがお相手か」やがてロチェスターさまはそういったが、顔の表情から想像していたよりもおだやかな話しぶりであった。「これまでのところは、絹の糸巻きみたいに順調にやってきたが、いつかはねじれやよじれがでてくるものと、はじめから覚悟はしていた。それがこれなんだな。さて、立腹や、憤慨や、限りない苦悩に立ちむかうとするか! ああ、神さま! サムソンの怪力の万分の一でも発揮して、このもつれを亜麻糸のように断ち切ることができぬものか!(旧約聖書、士師記、第十六章第九節に、怪力のサムソンが自分のからだをしばった弓弦を「あたかも亜麻糸が火にあって断たれるように断ち切った」とある)」
ロチェスターさまはまた歩きはじめたが、やがてまたすぐに足をとめた。こんどは、わたしのまん前であった。
「ジェイン! 聞きわけてくれないか?」(ロチェスターさまは身をかがめると、唇をわたしの耳に近づけた)「でないと、暴力をふるうことになってしまうから」
その声はしわがれ、表情は耐えがたいいましめをふりちぎって、自由奔放な生活へまっしぐらに飛びこんで行こうとする人間のそれであった。つぎの瞬間に、狂気じみた衝動がもう一度あらわれたら、手のつけようのなくなることは目に見えていた。いまだけしか――過ぎ去って行くいまの瞬間だけしか、相手を抑えしずめるチャンスは残されていない。拒絶や逃亡や恐怖の身ぶりを見せれば、わたしの運命は――そしてロチェスターさまの運命も、決まってしまう。だが、わたしはこわくなかった。ちっともこわくなかった。わたしは身内にわきあがる力を感じ、説得することができるという自信で支えられていた。あぶない綱わたりのような危機ではあったが、それなりの魅力がないでもなかった。カヌーで急流を乗り切るインディアンの気持ちは、こうでもあろうか。わたしはロチェスターさまのにぎりしめた手を取ると、ひきつった指を一本一本ひろげながら、なだめるような口調でいった――
「お坐りになって。あなたの気のすむだけお話ししてさしあげますし、あなたのおっしゃりたいことは、筋道のとおったことでもとおらないことでも、ぜんぶ聞いてさしあげますわ」
ロチェスターさまは腰をおろしたが、いきなりしゃべりはじめるという段取りにはならなかった。それまでのわたしは、しばらくのあいだ、涙を相手に悪戦苦闘をつづけていた。涙を押さえつけようと、苦心惨憺していたのは、ロチェスターさまが泣きくずれたわたしの姿など見たくもないだろうと知っていたからである。だが、いまのわたしは思いきり自由に、思いきり長く泣いたほうがいいような気持ちになっていた。涙の洪水にロチェスターさまが当惑すれば、それまた結構というわけではないか。わたしはこらえることもなく、さめざめと涙を流した。
やがて、気をとり直してくれたまえ、と嘆願している声が聞こえてきた。あなたがそんなに興奮しているあいだは駄目です、とわたしは答えた。
「だって、ぼくは怒ってなんかいないよ、ジェイン。きみを愛する気持ちが強いだけなんだ。きみの青ざめた顔が、そんな思いつめた、凍りついたような表情で固くなっているのを見たら、とてもたまらなくなったのさ。さあ、泣きやめて、涙をふきたまえ」
そのやわらいだ声で、ロチェスターさまの気分が落ちついたことがわかり、逆にわたしのほうも、興奮が静まった。ところが、ロチェスターさまはわたしの肩に頭をのせようとしていた。だが、これを許してはいけない。そうなれば、わたしのからだを引きよせようとなさるにちがいない。これはいけないことなのだ。
「ジェイン! ジェイン!」とロチェスターさまはいった――わたしの全神経にまで伝わって行く、はげしい悲哀にあふれた口調であった。「つまり、きみはぼくを愛していないんだね? きみが重く見ていたのは、ぼくの地位と、ぼくの妻という身分だけだったんだね? きみの夫になる資格がぼくにないと思った途端、ぼくがヒキガエルかサルででもあるかのように、ぼくにさわられるのをいやがるんだな」
この言葉はわたしの心を切りさいた。しかし、わたしになにができ、なにをいえるというのか? なにもせず、なにもいわずにいるべきであったかもしれない。だが、このようにロチェスターさまの気持ちを傷つけたことで、悔恨の念にさいなまれたわたしは、わたしのために傷ついた箇所に鎮痛剤をつけてさしあげたいという思いを押えることができなかった。
「あなたを愛する気持ちに|変わりありません《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。いままで以上に愛していますわ。でも、その気持ちをあらわにしたり、それにおぼれたりしてはいけないのです。それを口にするのは、これが最後でございます」
「これが最後だって、ジェイン! なんてことだ! ぼくといっしょに暮らし、ぼくの顔を毎日見ることになるきみだというのに、ぼくのことを愛していながら、いつも冷たく、よそよそしくなれるというのかい?」
「なれませんわ。なれないことは、たしかですわ。ですから、たった一つしか取るべき道がないことを知っているのです。でも、それを申しあげると、あなたは腹をお立てになりますもの」
「ああ、いってみたまえ! ぼくがあばれたところで、きみには泣くという手があるじゃないか」
「ロチェスターさま、わたしは出て行かねばなりません」
「どのくらいかね? 二、三分もあれば、その髪を――すこし乱れている髪をなでつけることも、その顔を――上気しているみたいな顔を洗うこともできるんじゃないかな?」
「わたしはアデールやソーンフィールドを捨てて行かねばなりません。あなたともお別れせねばなりません。知らない土地で、知らない顔にまじって、新しい生活のスタートを切らねばならないのです」
「もちろんだとも。そのことはすでにいったはずだ。ぼくと別れるといった、気ちがいじみた話は聞きながしておく。ぼくの一部にならねばならないという意味だろう。新しい生活という点については、文句はない。きみはぼくの妻になるのだし、現にぼくは結婚などしていないのだから。きみはロチェスター夫人に――名実ともにロチェスター夫人になるのだ。ぼくたち二人が生きているかぎり、ぼくはきみにしか目もくれない。南フランスにあるぼくの持ち家へ行くんだ。地中海の沿岸にある白壁の別荘だよ。そこできみは幸福で、平穏で、汚れ一つない生活を送ることになる。ぼくがきみを誤った道に引きずりこもうとしている――きみを情婦にしようとしているなどという心配はしなくてもいい。なぜ首を横にふるのだね? ジェイン、聞きわけてもらわなくては困るよ。でないと、ぼくはまた、ほんとうにとり乱してしまうかもしれないんだから」
その声も手もふるえていた。大きな鼻孔がふくらみ、目はらんらんと光っている。それでも、わたしは思い切って口を開いた――
「奥さまは生きていらっしゃいます。それはけさ、あなた自身がおみとめになった事実なのです。あなたの希望どおりに、あなたといっしょに暮らすということは、わたしがあなたの情婦になるということです。そうでないというのは、詭弁です――嘘をつくことです」
「ジェイン、ぼくは気性のおだやかな男じゃない――きみはそれを忘れているな。ぼくはがまん強くもないし、冷静で、慎重な人間でもないんだ。ぼくときみ自身とに対するあわれみの気持ちがあるなら、指をぼくの手首にあてて、どんなに脈うっているかを調べてみたまえ。そして――用心することだな!」
ロチェスターさまは袖をまくりあげると、手首をわたしのまえにさしだした。頬と唇からは血の色が消え、土色に変わっている。わたしは進退きわまってしまった。さからわれるのをいやがっている相手にさからって、はげしい興奮状態におちいらせるのは、残酷というものだし、かといって、相手のいいなりになることは論外である。結局、わたしがしたことは、極限にまで追いやられた人間が本能的にやってのけること――つまり、人間よりも高い存在に助けを求めることであった。「神さま、お助けください!」という言葉が、思わずわたしの口をついてでてきたのである。
「おれも馬鹿な男だな!」突然、ロチェスターさまが叫んだ。「おれは結婚していないといい張るばかりで、ジェインにはその理由を説明していないではないか。ジェインがあの女の性格や、おれとのいまわしい結びつきにまつわる事情など、なんにも知らないということを忘れている。ああ、おれの知っていることがぜんぶわかれば、ジェインもおれに賛成してくれるにちがいない! ジャネット、きみの手をぼくの手に置いてくれるだけでいい――きみがそばにいてくれることを、見るだけでなく、さわることでもたしかめていたいのだから――そうすれば事件の真相を手短かに説明してあげる。聞いてくれるかい?」
「いいですわ。なん時間でもお好きなだけ」
「ほんの数分でいい。ジェイン、ぼくがこの家の長男でないことは――ぼくに兄がいたことは、聞いて知っていたかい?」
「まえにフェアファックスさんからうかがったことをおぼえていますわ」
「じゃ、ぼくの父がごうつく張りの握り屋であったことも聞いたかい?」
「そんなお話のようにうかがっております」
「とにかくだね、ジェイン、そんな父だったので、財産を分散させまいという結論に達した。土地財産を二つにわけて、かなりの部分をぼくに贈与することなど、考えることさえがまんならなかったので、父は全財産を兄のローランドに譲るべきだと決心したのだ。と同時に、父は息子の一人がすかんぴんというのにも、同じように耐えられない。ぼくには、金持ちの娘と結婚させて、財産を作ってやらねばならないということになる。頃あいを見て、父はぼくの結婚相手を捜し出してきた。西インド諸島の農園経営者で商人のメイスン氏は、父の古くからの知り合いだった。この人物なら確実で、莫大な財産をもっていると信じた父は、いろいろと調べてみた。メイスン氏には息子と娘が一人ずついることがわかり、しかもメイスン氏の口から、娘に三万ポンドの持参金をつけることができるし、またその意志があることも聞かされた。これでもう十分であった。大学を出たぼくはジャマイカへやられ、他人が求婚してくれてあった花嫁をめとることになった。ぼくの父は相手の持参金のことなど、一言もいわなかったかわりに、メイスンの娘はミス・スパニッシュ・タウンだと教えてくれたが、その言葉に嘘はなかった。会ってみると、ブランシュ・イングラムのタイプの女性で、背が高く、ブルネットで、堂々としている。ぼくの家柄がいいということで、娘の家族の者たちが乗り気になり、本人もやはりその気になる。なん回かのパーティでは、すばらしく着飾ったその娘がぼくのまえに引っぱり出される。一対一になることはめったになく、二人だけの会話というのはごくまれであった。娘はぼくをうぬぼれさせるようなことをいい、ぼくを喜ばせるために、その魅力と才能をふんだんにまきちらした。取りまきの連中は、娘をほめそやし、ぼくをうらやんでいるふうにさえ見える。ぼくは興奮して、ぼうっとなってしまった。官能は刺激され、無知で、うぶで、世間知らずであったぼくは、娘を愛していると思いこんでしまった。社交界の愚にもつかない競争と、青春時代につきものの性欲や無分別や盲目に追い立てられると、男というものは、どんな痴態でもいやおうなしに演じるものである。ぼくをけしかける親類の者たち。ぼくをあおり立てるライバルたち。ぼくを悩殺する娘。あれよあれよというまに、結婚式が取りおこなわれてしまっていたのだ。ああ――あのときのことを思うと、自尊心など消え失せてしまう! ――自嘲の念に押しつぶされて、苦しくなるのだ。ぼくはあの女を愛したことも、尊敬したことも、どんな人間であるかを知ることさえもなかった。あの女の性質に、長所の一つでもあるかどうかさえ、さだかでなかった。その心や態度のなかに、謙虚、寛容、率直、洗練などをみとめたわけでもなかった――にもかかわらず、ぼくは結婚してしまったのだ――がさつで、下劣で、モグラみたいに目の見えない、大馬鹿野郎のぼくだったのさ! それほどの罪をおかすことにはならなかっただろうな、かりにぼくが――いや、だれと話しているかを忘れないようにしなくては。
花嫁の母親には、会ったこともなかった。死んだものとばかり思っていたのだ。ハネムーンが終ってから、ぼくは自分のまちがいに気がついた。母親は気が狂っていて、精神病院に監禁されていたというわけさ。妻には弟もいたのだが、これがまったくのおしで、白痴ときている。兄にはすでにきみも会っているが(あの男の親類みんなを毛ぎらいしているぼくだけれど、あの男だけは憎めない。なにしろ、精神薄弱だというのに、愛情のかけらがすこしばかり残っていて、あわれな妹に関心をもちつづけているし、ぼくに対しても犬ころみたいな忠実さを見せたことがあるのだから)、あいつもそのうちに同じような状態になるだろうな。ぼくの父と兄のローランドは、こうしたことをぜんぶ知っていながら、三万ポンドのことしか眼中になかったので、ぐるになってぼくを陥れたのだ。
こうした事実を発見して、ぼくは胸くそが悪くなった。しかし、真実をかくすという背信行為は別として、こうした事実の発見を妻に対する非難の材料にする気はぼくにはなかった。妻の性格がぼくの性格と正反対であること、ぼくには耐えられない趣味の持ち主であること、その根性が下品で、低俗で、偏狭であって、はぐくみ育てても、高尚で豊かな心になる可能性がてんでないことなどがわかったときでさえ――この女とはただの一晩も、いや、たったの一時間も楽しくすごすことはできないということ、ぼくがどんな話題をもち出しても、すぐにげびている上に陳腐であるか、ひねくれている上に愚劣きわまりない形でねじまげられてしまうため、二人のあいだには快適な会話などつづけられそうにもないということがわかったとき――はげしい、無茶苦茶なかんしゃくをのべつ幕なしに爆発させたり、愚にもつかぬ、矛盾だらけの、きびしい命令で悩ましてばかりいるこの女にがまんできる召使いなどいるはずもないから、平和で、ゆったりした家庭を営むことなどできない相談だ、と気づいたとき――そのときでさえ、ぼくはがまんにがまんを重ねた。小言もいわず、叱責もしなかった。後悔と嫌悪の気持ちを、自分一人でのみこもうとした。根深い憎悪の念をぐっと押えつけていたのだ。
ジェイン、不愉快な話をこまごまと聞かせて、きみにいやな思いをさせたくない。ぼくのいいたいことは、激しい言葉を使えば、二言三言でいえるのだから。三階にいるあの女と、四年間いっしょに暮したぼくは、その四年のあいだ、ずいぶんとひどい目に会わされた。あの女の性癖は恐ろしいほどの速さで成熟発達し、芽をだした悪があっというまにはびこってしまった。その勢いがあまりにはげしいため、残酷な手段でしか押えることができなかったが、ぼくは残酷なまねなどしたくなかった。小人程度の知能しかないくせに――巨人なみの悪癖の持ち主ときているのだから! その悪癖は、なんと恐ろしい呪いをぼくにもたらしたことか! バーサ・メイスンが――あの恥さらしな母親の血をついだ娘がぼくを引きずりこんだ、あのいまわしく、下劣きわまりない苦痛の数々は、すべて放縦な上に上品さを欠いた女房にしばりつけられた男のさけられないものであったわけだ。
そのあいだに兄が死んだ。四年目のおわりには、父もあとを追った。そのときには、かなりの金持ちになっていたぼくだが――ぞっとするほど貧しい状態に落ちぶれていたといえる。見たこともないほどに下劣で、不潔で、心のくさった人間が、ぼくに結びつけられ、法律的にも、社会的にもぼくの一部とみなされていたからだ。しかも、その人間と縁を切ることは、どんな法律的な手段に訴えても不可能であった。|ぼくの妻《ヽヽヽヽ》が狂人であることを、なん人かの医者が発見していたからだった――不節制な生活のため、狂気の芽ばえの時期が早まったんだ――ジェイン、こんな話はいやなんだね。気分が悪いような顔色をしている――話のつづきは、またの日にということにしようか?」
「いいえ。いま、おすませになって。あなたがお気の毒ですわ――心から同情いたしますわ」
「ジェイン、ある種の人間からかけられる同情は、いや味と軽蔑のこもったプレゼントの類いで、こんなものは、それをさし出した人間にもろに投げかえしたって、かまやしない。そんな同情は、無神経なエゴイストにつきものの同情だ。それは他人の不幸を耳にして、わがことのように感ずる苦痛と、その不幸に耐えてきた人間に対して、わけもわからずに抱く軽蔑とをかけ合わせて生まれた合いの子にすぎない。だが、きみの同情はそうじゃないよ、ジェイン。この瞬間にきみの顔全体にあふれている感情――いま、きみの目からあふれるばかりになっている感情――ぼくがにぎっているきみの手をわなわなとふるわせている感情は、そんな同情なんかではない。かわいいジェイン、きみの同情は、愛に生をあたえようと苦悩している母であり、その苦悶は、聖なる情熱の陣痛にほかならない。それをこばんだりはしないよ、ジェイン。その愛という娘をすんなり生ませてやろうじゃないか――生まれ落ちるのを、ぼくの両腕が待ちかまえているんだ」
「さあ、先をおつづけになって、奥さまが狂人とわかったとき、どうなさったのです?」
「ジェイン――ぼくは絶望の淵に近づいていた。ぼくとその深淵をへだてているのは、わずかに残っている自尊心だけだった。世間の目から見れば、ぼくは恥辱で泥まみれになっていたにちがいないが、ぼく自身の目には潔白な人間であろうと決心した――だから、とことんまで、あの女の悪に染まることをこばみつづけ、あの女の精神的な欠陥とのかかわりは、いっさい断ち切ってきた。それなのに、世間はぼくの名前、ぼくという人間をあの女と結びつけて考えたし、毎日毎日、あの女の姿が目にはいり、あの女の声が耳にとびこんできた。あの女の吐く息が(むかむかする!)、いくらかでも、ぼくの吸いこむ空気にまざりあっている。その上、かつてあの女の夫であったという等ぼくの記憶――この記憶は、いまと同じく、そのときもまた、ぼくにとっていいようもなくおぞましいものであった。さらに、あの女が生きているあいだは、ほかの、もっとすぐれた女性の夫になることができないことも、ぼくは知っていた。それに、ぼくより五つも年上でありながら(あの女の家族とぼくの父は、年齢のことまでぼくに嘘をついていたのだ)、頭の弱いのと反対にからだは頑強この上ないときているので、ぼくが死ぬまでは死にそうになかった。つまり、ぼくは二十六歳で、お先真っ暗になってしまったのだ。
「ある晩、あの女の叫び声で、ぼくの眠りはやぶられた――(医者に発狂を宣告されてから、もちろん、あの女は監禁されていた)――西インド諸島特有の、やけつくような夜だった。この地方では、ハリケーンがやってくるまえにこういった夜がよくある。寝ていられなくなったぼくは、起きあがって窓を開けた。イオウの蒸気みたいな空気――さわやかさなど、どこにもない。ぶんぶんいいながらはいってきた蚊が、部屋のなかでにぶいうなり声をたてながら飛びまわっている。部屋からも聞こえる海鳴りの音が、地震みたいに重苦しくひびいている――黒雲が海の上一面にはりだし、熱くやけた砲弾みたいに大きくて赤い月が、波間に沈みかけている――嵐の胎動にうちふるえる世界に投げかけられた、血の色をした最後の光。ぼくの肉体は、この周囲の空気と光景の作用をうけ、ぼくの耳には、狂人がやめずにわめき立てている呪いの文句が充満している。その文句には、悪魔的な憎悪のこもったひどい口調とひどい言葉で吐きだされるぼくの名前も、ときおりまじっているのだ! ――本職の売春婦でさえも、あの女ほどにきたない口をきくことはあるまい。二部屋ははなれていたのに、それが一言残らず耳にはいってくる――西インド諸島の家屋のうすい壁ぐらいでは、あの女の狼を思わせる叫び声は、ほんのわずかしかさえぎられないのだ。
「ぼくはとうとう口走ってしまった。『こんな人生は、地獄じゃないか! この空気も――この音も、すべて底知れぬ奈落のものなのだ! おれには、力のあるかぎり、ここから自分を助けだす権利がある。この人の世の苦悩など、いまのおれの魂に重苦しくのしかかっている肉体が滅びると、それとともに消えてしまうのだ。狂信者の口にする焦熱地獄など、恐れるにたらぬ。未来の状態が現状より悪化するはずもない――この世を去って、神のもとに帰ろうではないか!』と。
「こういいながら、ぼくは弾丸をこめた一対のピストルのはいっているトランクのまえにひざまずいて、その鍵をあけた。ピストル自殺をとげるつもりであったのだ。だが、この考えが浮かんだのは、ほんの一瞬のことでしかなかった。気が狂っていたわけではないので、強烈で純粋な絶望にあふれた危機感も、自決への志向と計画を生みだしたあと、あっというまに消え失せてしまった。
「海のむこうから吹いてきたヨーロッパの風が、開けっぱなしの窓から勢いよくはいってきた。嵐になった。雨、雷、稲妻。空気もきれいになった。やがてぼくは、はっきりと一つの決意をかためた。ぬれた庭の、しずくがたれているオレンジの木の下や、雨に打たれたザクロやパイナップルの木のあいだを歩きながら、熱帯地方のけんらんたる曙光がもえあがるなかで――ぼくはこう考えたのだよ、ジェイン――いいかい、聞いてくれたまえ。そのとき、ぼくを慰め、取るべき正しい道を示してくれたのは、真実の知恵であったのだから。
「息を吹きかえした木の葉になおもささやきつづけている、ヨーロッパの甘やかな風。輝やかしい自由の雄叫《おたけ》びをとどろかせている大西洋。長いあいだ、干からびて、からからになっていたぼくの胸は、その音にあわせてふくれあがり、脈々と流れる血潮にみたされた――ぼくの全身は蘇生することを願い――ぼくの魂は清らかな一杯の水を渇望していた。希望がよみがえるのがわかった――再出発の可能性が感じられた。庭のつきあたりにある花におおわれたアーチから、ぼくは海を――空よりも青い海を見わたした。海のむこうには、なつかしい旧世界《ヨーロッパ》があった。明るい見通しが、このような形で開けてきたのだ――
「『行くがいい』と希望がいった。『もう一度、ヨーロッパで暮らすのだ。ヨーロッパなら、おまえがかぶっている汚名や、おまえがしばりつけられているきたならしい重荷は知られずにすむ。あの狂人はイギリスへつれて行って、しかるべき看護と予防の策を講じた上で、ソーンフィールドに閉じこめればいい。そうすれば好きな土地に旅をして、好きな相手と新しい関係をもつことができる。おまえのがまん強いのをいいことにしてきたあの女は――あれほどまでにおまえの家名をけがし、おまえの名誉を踏みにじり、おまえの青春を傷つけてきたあの女は、おまえの妻ではないし、おまえもまた、あの女の夫ではない。あの女が病状にふさわしい手当てを受けるような配慮をしてやりさえすれば、おまえは神と人とが要求する義務をすべてはたしたことになる。あの女の正体や、おまえとの関係は、忘却の淵に沈めてしまえ。そんなことをほかの人間に知らせたりする義務は、さらさらないのだ。あの女を安全で、安楽な状態に置き、あの変わりはてた姿をこっそりとかくしてしまったら、ほったらかしにしてしまうことだ』と。
「ぼくはこの言葉に忠実にしたがった。父と兄は、ぼくの結婚を知人に教えていなかった。なぜなら、結婚したことを報告するために書いた最初の手紙のなかで――結婚の結果に対するひどい嫌悪をとっくの昔からおぼえはじめていたことや、妻の一族の性格や体質から判断して、ぞっとするような将来がぼくのまえに開けていることを見てとったこともあって――ぼくはすでに、結婚を内聞にしておいてほしいという切なる願いを書き添えておいたからだ。やがてほどなく、父がぼくのために選んでくれた妻のみっともない行状は、むすこの嫁であることをみとめるにも顔を赤らめねばならないほどになってしまった。ぼくの結婚の公表を希望するどころか、それをひたかくしにしようとする父の熱心さは、ぼくにまさるとも劣らなかった。
「そこでぼくは、あの女をイギリスへつれてきた。あんな怪物といっしょの船旅は恐ろしいものであった。やっとソーンフィールドまではこんできて、あの三階の部屋へ無事に閉じこめたときは、まったくうれしかった。あの奥の秘密の部屋は、この十年間というもの、あの女のおかげで野獣のほら穴――悪鬼のかくれ家となっているのだ。付き添い人を見つけるのも一苦労だった。忠実さに信頼の置ける人間を選ぶ必要があったから。あの女のたわごとのために、ぼくの秘密がもれることは必至であったし、その上、数日――ときには数週間にわたって正気をとりもどすことがあり、そのときには明けても暮れてもぼくの悪口をいっているからだ。やっとのことで、グリムズビー精神病院にいたグレイス・プールをやといいれた。グレイスと医者のカーター(メイスンが刺されたり、かみつかれたりした晩に、手当をしてくれた男だ)の二人にしか、ぼくは事の真相を打ち明けていない。フェアファックスさんはなにか怪しいと思っているかもしれないが、事実についてはっきりしたことを知っているはずはない。グレイスは大体のところ、有能な付き添い人ではあったが、どうしても直しようがないらしい上、苦労の多い仕事にはやむを得ないともいえる、あの女自身の飲酒癖のせいもあって、看視の目がゆるんだり、だしぬかれたりしたりしたことも再三あった。狂人は狡猾非道で、見張りにちょっとした油断があると、それを確実に利用した。かくしもったナイフで、兄を刺したことが一回、部屋の鍵を手にいれ、夜になってからぬけ出したことが二回。最初のときには、寝ているぼくに火をつけようとしたし、二回目には、ぞっとするような姿で、きみのところへ顔を出したというわけだ。そのとき、あの女の怒りがきみではなくて、ウェディング・ドレスのほうにむけられたことを、ぼくはきみを見守っていてくれた神さまに感謝したい。ウェディング・ドレスを見て、自分の新婚時代の思い出が、かすかによみがえったためかもしれないが、一体、どんなことになっていただろうかと仮定することさえ、ぼくには耐えられないのだ。けさ、ぼくののど元に飛びかかってきたあいつが、あの赤黒い顔をぼくの小鳩の巣の上につき出している姿を想像しただけで、ぼくの血は凍りついてしまうのだ――」
「それで」ロチェスターさまが一呼吸置いたところで、わたしはきいた。「奥さまをここへかくまってから、どうなさいましたの? どこへ行かれましたの?」
「ぼくがなにをしたかって、ジェイン? ぼくは鬼火に身を変えたのさ。どこへ行ったかって? 沼地にただよう鬼火に負けないくらい自由奔放な放浪の旅に出たのさ。大陸にわたって、ありとあらゆる国を縦横に歩きまわった。ぼくの断固たる目的は、ぼくの愛することのできる、みめ美わしく、才たけた女性を――ソーンフィールドに残してきた鬼女とは正反対の女性を捜し求めることだった――」
「でも、あなたは結婚できない身ですわ」
「結婚できるし、結婚せねばならないというのが、ぼくの決心であり、確信であったのさ。きみの場合とはちがって、相手をだましてやろうという意図が最初からあったわけではない。率直に身の上話をしてから、堂々と結婚を申し込むつもりだった。ぼくが自由に恋愛できる身であることは、まったく当然の事実に思われたので、呪いを背負ったぼくであるにもかかわらず、ぼくの立場を理解した上で、ぼくを受けいれてくれる気持ちがあり、またそれのできる女性が見つかるということを、ぼくは信じて疑わなかったのだ」
「それで?」
「ジェイン、なにか聞きたいときのきみを見ていると、ぼくはいつもにやにやしてしまう。夢中になった小鳥みたいに目を見開いて、ときたま落ち着かないような動きを見せる。答えの言葉が思うように早く流れてこないので、相手の心の文字盤を読みたがっているみたいだ。しかし、先をすすめるまえに、その『それで?』はどういう意味か、教えてくれたまえ。きみがしょっちゅう使うそのさりげない文句のおかげで、ぼくはこれまでになん回となく、とめどのないおしゃべりをする羽目になってしまったのだから。なぜだか、ぼくにもよくわからないけれど」
「つまり、それでどうなりましたの? どんな手をお打ちになりましたの? その手を使った結果、どうなりましたか? という意味ですわ」
「なるほどな。それで、今回はなにが聞きたいのかね?」
「お好きな女性が見つかったかどうか。結婚の申し込みをなさったかどうか。返事はどうであったか、ということです」
「好きな女性が見つかったかどうか、結婚の申し込みをしたかどうかには答えることができるけれど、その返事はこれから『運命の書《ふみ》』(人の未来が記されているといわれる)に書きこまれることになっている。十年という長い年月のあいだ、ぼくは大都市から大都市へと移り住んで、放浪の生活を送った。ペテルスブルグ(いまのレニングラード)にもときどき行ったし、パリはもっと回数が多い。ローマ、ナポリ、フロレンスにも、ときたま出かけた。金はたんまりある上、旧家の出というパスポートをもっていたので、社交の場を自由に選ぶことができたし、ぼくの出入りをこばむ社交界もなかった。ぼくはイギリスの貴婦人《レディ》、フランスの伯爵夫人《コンテス》、イタリアの貴婦人《シニョーラ》、ドイツの伯爵夫人《グラーフィン》などのなかに理想の女性を追い求めたが、見つけることはできなかった。ときどき、ほんのつかの間、ぼくの夢が実現したことを知らせてくれる一べつに接したり、声を聞きつけたり、姿を見かけたように思ったこともあったが、それが思いちがいであることはすぐに明らかになった。ぼくが知性であれ、容姿であれ、完璧さを求めていたなどと思ってもらっては困る。ぼくが求めてやまなかったのは、ぼくにふさわしい女性――あの西インド諸島生まれの女と正反対の女性であったが、その願いはかなえられなかった。かりにぼくが自由の身であるとしても、ぼくが――ふつりあいな結婚のあぶなさ、こわさ、いやらしさを思い知らされているぼくが結婚を申し込みたくなるような女性は、その数多くの女性のなかにただの一人もいなかったのだ。失望のあまり、ぼくはむこう見ずになった。ぼくは道楽をやってみた――だが、酒色におぼれることは絶対になかった。それはぼくの嫌悪するものであったし、いまでも嫌悪している。それは、例の西インド諸島版のメッサリナ(?―四八。ローマ皇帝クローディアスの第三の妻。乱行で有名。)がもって生まれたものだ。これとあの女とに対する根深い嫌悪感が、楽しみにふけっているときにさえ、ぼくの大きなブレーキになっていた。放蕩に類する遊興は、あの女とあの女の悪にぼくを近づけるように思われたので、いっさいつつしんでいた。
「だが、ぼくは一人で暮らすことができなかった。そこで、情婦をはべらしておくことにした。最初に選んだのが、セリーヌ・ヴァランスであったが――あとで思い出して、われとわが身を軽蔑したい気持ちになる愚行の一例というわけさ。この女がなに者で、ぼくとの関係がどのようにしておわったか、きみはすでに知っている。この女には後釜が二人いた。一人はイタリア人でジアシンタ、もう一人はドイツ人でクララといい、どちらも並はずれた美貌で知られていた。だが、数週間もたつと、その美貌など、ぼくにはなんの意味もなくなってしまった。ジアシンタは貞操観念のない上に粗暴で、この女には三ヵ月であきがきてしまった。クララは正直で、おとなしかったが、ぐずで、無神経で、感受性に欠け、ぼくの好みにはほど遠い女だった。ちゃんとした商売をはじめられるだけの金を出してやって、この女ときっぱり手を切ることができたときには、ぼくはほっと一安心したものだった。だが、ジェイン、その表情から察したところ、きみはこのぼくについて、あんまりいい意見を抱いていないようだな。ぼくのことを冷酷無情で、身持ちの悪いプレイボーイと思っているのだろ?」
「たしかに、これまでにときどき思ったほどは、あなたのことが好きではなくなりました。そんな生活が――つぎからつぎへと女を変える生活がいけないものだという気は、ちっとも起こらなかったのですか? まるで当然のことでもしているような口ぶりですけど」
「ぼくにとっては、当然のことであったのさ。それでも、好きでやっていたわけではない。あれは卑劣な生きかただった。あんな生活にもどるつもりはいっさいない。情婦をこしらえるのは、奴隷を買うことについで悪いことなのだ。情婦も奴隷も、性質が劣っていることが多いし、それに地位からいえば、いつの場合でも劣った存在である。そのような劣った者と打ちとけて暮らすことは、品位にかかわることなのだ。いまのぼくには、セリーヌやジアシンタやクララとすごした月日を思い出すことさえいとわしい」
わたしはこの言葉に真実がこもっているのを感じた。そして、その言葉から、一つの明確な結論をひき出した。それは、もしわたしが前後の見さかいもなく、これまでに教え込まれてきたことをいっさい忘れはてて――どんな口実があるにしろ――どんな形で正当化できるにせよ――どんな誘惑があったとしても――このあわれな女性たちの後継者になるようなまねをすれば、いまロチェスターさまの心のなかで三人の女性の思い出を無残に打ちくだいているのと同じ感情のこもった目で、わたし自身が眺められる日がいつかはくるにちがいない、ということであった。わたしはこの確信を口に出しはしなかった。感じるだけで、十分であった。わたしがそれをしっかりと心に刻みつけたのは、それがいつまでも消えずに残って、試練に出合ったときのわたしの助けになってくれることを願っていたからであった。
「おや、ジェイン、『それで?』の声が聞こえないのはなぜだい? ぼくの話はおわったわけじゃないんだよ。こわい顔をしてるね。まだぼくのことを非難しているらしいな。だが、本論にはいらしてもらうよ。ことしの一月、情婦たちみんなと手をきったぼくは――徒労におわった、孤独な放浪生活の結果、すさみきった、とげとげしい心を抱いたぼくは――失望にむしばまれ、あらゆる人間、とりわけ|女と呼ばれる人種《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にむかっ腹を立てていたぼくは(才たけて、誠実で、愛情のある女など、夢のまた夢と思いはじめていたからだ)、所用で呼びもどされて、イギリスへ帰ってきた。
「ある冷たい冬の午後、ぼくはソーンフィールド・ホールをのぞむあたりまで馬を走らせてきた。見るもいやな場所だ! そこには平和も――楽しみも期待できなかった。ヘイの小道の、とある|踏み段《スタイル》に、一人静かに坐っている小柄な姿が目にはいった。その横を通りすぎながら、ぼくはそのまえに立っている枝を刈りこんだ柳の木ほどにも関心がなかった。その姿がぼくに対してもっている意味を告げる予感は、なに一つなかった。ぼくの人生を左右する存在が――善悪いずれかに味方するぼくの守り神が、まずしい姿に身をやつして、そこで待っていることを教えてくれる内なる声も聞こえなかった。メスルアが事故に会ったのを見て駆けつけてきたその人が、真剣なまなざしで力をかしてくれたときにさえも、ぼくにはそのことが理解できていなかった。子どもみたいな、ほっそりした姿! ベニヒワがぼくの足もとへぴょんぴょんと飛んできて、そのかぼそい羽にぼくをのせてやろうといったようなものだった。ぼくはぶすっとしていたが、そいつは立ち去ろうとしない。不思議なくらいのしんぼう強さで、ぼくのそばに立ちつくし、顔つきや口ぶりには、厳然としたところさえあった。助けの必要なぼくは、その手で助けてもらわねばならず、事実、その手をかりることになったのだ。
「そのひ弱な肩に手を押しあてたとき、なにか新しいものが――さわやかな活力と感覚がぼくの体内に音もなくわきあがってきた。幸いに、この妖精はぼくのもとへいやでも帰ってくるということが――眼下に見えるぼくの屋敷に住んでいる人間であるということが判明した。そうでなかったら、それがぼくの手の下をすりぬけるのを感じ、うす暗い生け垣のむこうに消えるのを見て、ぼくはいい知れぬ悔恨の念をおぼえたにちがいない。あの晩、ぼくは帰ってくるきみの足音を聞いていたのだよ、ジェイン。ぼくがきみのことを考えたり、きみの帰りを待っていたりしたことなど、きみは気づいていなかっただろうけれど。翌日、ぼくは――姿を見られないようにして――半時間ばかり、廊下でアデールと遊んでいるきみのようすを観察させてもらった。たしか、雪の日で、外へ出られなかったのだ。ぼくは自分の部屋にいたが、ドアが半開きになっていたので、声も聞こえたし、姿も見えていた。しばらくのあいだ、きみの注意はアデールにむけられていたが、それは表面的のことで、きみはほかのことを考えていたらしい。それでも、ぼくのかわいいジェインはなかなか辛抱強くアデールの相手になっていたよ。長いあいだ、あの子にお話をしてやって、喜ばせていたのだから。やっとのことで、あの子がそばにいなくなると、きみはすぐに深いもの想いにふけり、廊下をゆっくり歩きはじめた。ときどき、窓のそばを通りかかると、ふりしきる外の雪に目をやった。むせび泣くような風に耳を傾けることもあったが、また静かに歩きはじめて、夢想しているふうであった。そのきみの白日夢は、どうやら、暗いものではなかったらしい。ときおり、きみの目は楽しそうに光り輝いていたし、表情にもおだやかな興奮の色が見られたが、それはにがにがしく、気むずかしい、ヒポコンデリー的なふさぎの虫の存在を物語るものではなかった。むしろ、きみの顔つきには、はやる翼をひろげた魂が天駆ける希望を追って、理想の天国にまでいたろうというときに見せる、青春の甘やかな黙想がうかがわれた。玄関のホールで召使いに話しかけているフェアファックスさんの声に、きみの夢はさめてしまった。ジャネット、きみが自分自身に対して見せた独り笑いの、なんと奇妙であったことか! まことに意味深長な微笑で、辛辣さにあふれ、夢みるきみ自身の姿をあざ笑っているふうであった。それはこういっているかのようだった――『わたしのすてきな夢もたいへんに結構だけど、絶対に実現しない夢であることも忘れてはいけないわ。わたしの頭のなかには、バラ色の空や、緑と花のエデンの園があるけれど、目を外にむければ、踏みこえねばならないけわしい道が足もとに横たわり、避けることのできない暗黒の暴風がまわりに渦まいていることを、わたしははっきりと自覚しているのだわ』と。きみは階段を駆けおりて行くと、フェアファックスさんになにか用事はないかときいていた。週ごとにやる家計簿の整理かなにかであったと思う。ぼくのまえから姿を消したきみに、ぼくは腹を立てていた。
「ぼくはいらいらしながら、夜になるのを待った。夜になれば、ぼくのところへきみを呼ぶことができるからだった。きみの性格は珍らしい――ぼくにとっての話だが――、まったく新しいタイプのものに思われた。それをもっと深く掘りさげて研究し、もっとよく知りたいという気持ちになった。部屋にはいってきたとき、きみの表情や態度は内気そうであったが、それでいて自由闊達なところがあった。服装も風変わりで――いまのきみと同じようなものだった。ぼくはきみにおしゃべりをさせたが、そのうちに、きみが奇妙なコントラストにあふれていることに気がついた。きみの服装や行儀作法は、規則でしばられている感じだし、態度にもたえずおずおずしたところがあって、生まれつき洗練されてはいるものの、ちっとも場なれしていないため、なにか無作法なことや失敗をしでかして、へんに人目に立つのではないかと始終びくついている人間の態度そのままであった。ところが、話しかけられると、きみは鋭くて、人怖じをしない、きらきら光る目を相手の顔にそそぐ。きみの視線には、いつでも洞察力と説得力がこもっている。矢つぎばやの質問を浴びせても、てきぱきとしっかりした答えが返ってきた。あっというまに、きみはぼくという人間になじんだらしい――きみと、きみのがんこで、ふきげんな雇い主であるぼくとのあいだに一脈通じるものがあることに、きみは気づいたにちがいないと思うのだがね、ジェイン。楽しげなともいえる気やすさで、またたくまにきみの態度がほぐれるのを見て、ぼくは驚いてしまった。ぼくがいくら乱暴な口をきいても、きみの顔にはぼくのふきげんな態度に対する驚きや、恐怖や、いらだちや、不快の色が浮かんでこない。ぼくをじっと見つめて、ときおり笑いかけてくるのだが、そのなにげない、それでいて聡明さのあふれたしとやかさは、いうにいわれないものだった。ぼくは自分が目のあたりにしたものから、満足と刺激の両方をあたえられた。ぼくの見たものが気にいり、それをもっと見たいと思った。それでいて、ぼくは長いあいだ、きみをそっけなく扱い、きみの同席を求めることはめったにしなかった。ぼくは知的な意味での美食家だから、この新奇の、小気味よい女性と知り合いになるという悦楽を、できるだけ長く引きのばしたかったのだ。その上、しばらくのあいだ、この花は、無造作に手をかけたら、色あせてしまうのではないか――ここちよいフレッシュな魅力が消え失せてしまうのではないか、というぬきがたい不安に悩まされていたこともある。このころのぼくは、それがつかのまの、はかない花などではなく、不滅の宝石にきざみこまれた、輝やかしい花に似た形であることに気づかなかった。それに、ぼくが冷たくした場合、きみのほうからぼくを求めてくるかどうかを知りたい気持ちも働いていた――だが、きみは求めてこなかった。きみは教室にこもったきりで、机か画架《イーゼル》のように動きを見せない。たまに顔が会っても、礼を失しない程度に形ばかりの挨拶をするだけで、そそくさと通りすぎて行った。あのころのきみがいつも浮かべていた表情は、思いに沈んだ顔つきというところだったよ、ジェイン。病身なきみではないから、元気がないというのではなかったが、希望らしいものも、現実の楽しみといったものもないきみのことだから、浮き浮きしているわけでもなかった。ぼくのことをどう思っているだろうか――いや、はたしてぼくのことを思い出したりすることがあるだろうか、などと考えてみた。その点をはっきりさせるため、ぼくはふたたびきみの観察にとりかかった。きみが話をしているとき、きみの目には喜びがあふれ、態度にも暖かさがみなぎっている。根は人づきあいがいいんだな、とぼくは思った。きみの表情を暗くしているのは、静まりかえった教室――きみの生活の単調さであったのだ。ぼくは自分からすすんで、きみにやさしい態度を取ることにした。やがて、そのやさしさが情感をかきたて、きみの顔の表情はやわらぎ、声もおだやかになった。きみが感謝と幸福にあふれた口調で、ぼくの名前を呼んでくれるのがうれしかった。ジェイン、このころのぼくは、きみとばったり出会うのを楽しみにしていたものだった。きみの態度には、奇妙なためらいがうかがわれた。ぼくを見る目には、かすかな困惑の色が――いちまつの不安の色が残っていた。ぼくがどんな気まぐれを起こすのか――主人ぶって、きびしくしてやろうという気になるのやら、友人めかして、やさしくしてやろうという気になるのやら、きみにはわかりかねていたのだ。ぼくはもう、きみが好きになってしまっていたので、きびしい主人という第一の役柄をたびたび演ずることはできなくなっていた。ぼくがやさしく手をさしのばすと、きみの若々しい、もの思いに沈んだ顔は、ぱっと花が咲いたように明るくなり、幸福そのものの表情になる。このままぼくの胸に抱きしめてやれたら、という思いを抑えかねたことも、一度や二度にとどまらなかった」
「あのころのお話は、もうおやめになって」わたしは目に浮かんだ涙をそっと押しぬぐいながら、口をさしはさんだ。ロチェスターさまの言葉は、わたしには責苦であった。わたしのしなければならないことが――しかも、すぐにしなければならないことがわかっているだけに、こうした思い出話や、心情の吐露は、わたしの行動を困難にするばかりであった。
「そうともさ、ジェイン」というロチェスターさまの言葉が返ってきた。「過去に拘泥する必要がどこにあるのさ? 現在がこんなに確実であるのに――未来がこんなにも明るいというのに」
この思いあがった主張を耳にして、わたしは身がふるえた。
「きみにはもう事情がのみこめているはずだ――そうだろう?」とロチェスターさまは言葉をつづけた。「青年期と壮年期を名状しがたい不幸とわびしい孤独のうちに過ごしたぼくは、いま生まれてはじめて、心から愛せるものを見つけた――|きみを《ヽヽヽ》見つけたのだ。きみはぼくが共鳴できる人間だ――ぼくの良心だ――ぼくの守り神だ――ぼくはきみと強い愛情の絆で結ばれている。きみのことを人柄のいい、才能のある、かわいらしい女性だと思っている。ぼくの胸のなかに生まれた強烈で、誠意にあふれる情熱。これがきみのほうへ傾き、きみをぼくの生命の中心へ、根源へと引きよせ、ぼくの全存在できみをすっぽりとつつみこむ――純潔で、強力な焔となってもえあがったその情熱が、きみとぼくとを一つにとけ合わしているのだ。
「このことを感じ、このことを知ったからこそ、きみとの結婚を決心したのだ。すでに妻のある身ではないか、といったところで、それはむなしいたわ言にすぎない。おぞましい悪鬼がいるばかりであることは、きみもすでに知っているのだから。たしかに、きみをあざむこうとしたのはいけなかった。だが、きみの性格のがんこな点をぼくは恐れた。子どものときに植えつけられたきみの偏見がこわかったぼくは、思いきって秘密を打ち明けるまえに、きみをはっきり自分のものにしておきたかった。これは卑怯というものだ。ぼくは、いまやっているように、きみの高邁さ、寛大さに訴えるべきであった――きみのまえに苦痛にあふれたぼくの半生をさらけ出し――より高く、より有意義な人生を求める、ぼくの飢えにも渇きにも似た気持ちを説き明かし――誠実に、真剣に愛されさえすれば、ぼくにも誠実に、真剣に愛する決意《ヽヽ》ならぬ(決意といった言葉では弱い)、どうともしがたい性癖《ヽヽ》があることを明確にすべきであったのだ。そのあとで、ぼくの愛の誓いを受けいれてくれるように頼み、きみにもまた愛を誓ってもらうべきであった。ジェイン――それをいま誓ってくれたまえ」
沈黙が流れた。
「なぜ口をきかないのだね、ジェイン?」
わたしはきびしい試練を受けていた。わたしの生命の中枢部は、赤くやけた鉄の手でがっしりとつかまれていた。この苦闘と、暗黒と、灼熱にあふれた、恐るべき瞬間! わたしがいま愛されている以上に愛されたいと願うことのできる人間は、この世にたったの一人もいるはずがなかった。しかも、これほどにわたしを愛してくれている男性を、わたしは身も世もあらぬほどに崇拝している。にもかかわらず、その愛情と偶像を捨ててしまわねばならないわたし。わたしの耐えがたい義務をあらわしている、わびしい一語――それは「去れ!」であった。
「ジェイン、ぼくがきみになにを望んでいるか、わかってるね? これだけを約束してくれればいい――『あなたのものになりますわ、ロチェスターさま』ということだ」
「ロチェスターさま、あなたのものにはなりませんわ」
ふたたび長い沈黙が支配した。
「ジェイン!」ロチェスターさまはあらためて口を開いたが、そのおだやかな口調はわたしを悲哀で打ちのめし、わたしの全身は不吉な恐怖で石のように冷たくなってしまった――この低い声は、立ちあがろうとするライオンのあえぎにほかならなかったからである――「ジェイン、きみはおたがいにちがう人生の道を歩こうというのか?」
「ええ」
「ジェイン」(身をかがめて、わたしを抱きしめながら)「いまでもそのつもりかい?」
「ええ」
「これでもかい?」わたしの額や頬にやさしく接吻しながら、そういった。
「ええ」――わたしは抱きしめられているからだを、すばやく、きっぱりとふりはなした。
「ああ、ジェイン、ひどいじゃないか! これは――これは罪作りというものだ。ぼくを愛したって、罪にはならないというのに」
「罪ぶかいのは、あなたのいいなりになることですわ」
ロチェスターさまは眉をつりあげ、険悪な表情になった――その表情が顔全体にひろがっている。ロチェスターさまは立ちあがったものの、まだ自分を押えつけていた。わたしは椅子の背に手を置いて、からだを支えるようにした。ぶるぶると身がふるえ、恐怖にかられた――がしかし、わたしの覚悟はきまっていた。
「ちょっと待ってくれ、ジェイン。きみが行ってしまったあとの、ぼくの恐ろしい人生のことを、ちょっとでいいから考えてくれ。きみといっしょに、いっさいの幸福が奪われてしまう。そうしたら、あとになにが残る? 妻といっても、三階に気ちがい女がいるだけだ。いっそ、むこうの墓地に埋葬されている死骸でも相手にしろ、といってもらったほうがいい。ぼくはどうすりゃあいいんだ、ジェイン? 伴侶を、希望を、どこに求めればいいというんだ?」
「わたしと同じことをなさるのです。神さまと自分自身とを信頼するのです。天国を信じるのです。そこでの再会に希望をつなぐのです」
「つまり、ぼくのいうことをきかないというのだな?」
「ええ」
「つまり、ぼくをみじめな生と、呪われた死へ追いやろうというのだな?」
ロチェスターさまの声が高くなった。
「罪のない生をおすすめしているのです。安らかな死をお祈りしているのです。」
「つまり、ぼくから愛情と潔白を奪ってしまおうというのだな? ぼくをもう一度、情熱ならぬ肉欲へ――仕事ならぬ悪徳へ投げこもうというのだな?」
「ロチェスターさま、わたしは自分がつかみ取ろうとしないような運命を、あなたに押しつけることはいたしません。わたしたちは努力し、耐えるために生まれてきたのです――あなたもわたしもです。そうするほかはありません。わたしがあなたのことを忘れるまえに、あなたはわたしのことをお忘れになりますわ」
「きみのその言葉は、ぼくを嘘つき呼ばわりするものだ。ぼくの名誉に泥をぬるものだ。変わることなどあり得ないとぼくが断言しているのに、きみは面とむかって、ぼくがすぐに変わるだろうといっている。きみの判断がどんなにゆがんでいて、きみの考えがどんなにひねくれているかは、きみの行動がはっきり証明しているのだ! きみと同じ人間を絶望に追いやることが、たかのしれた人間の掟にそむくことよりもいいというのか? ――そむいたところで、傷つく人間の一人もいるわけではないのに。ぼくと同棲したからといって、迷惑のかかる心配のある親類や知人がいるわけでもあるまい」
この言葉にまちがいはなかった。ロチェスターさまが話しているあいだにも、ほかならぬわたしの「良心」と「理性」がわたしに反旗をひるがえし、あのかたにさからうなんて、罪悪というものよ、とわたしを責めたてた。両者は、かしましくわめいている「感情」におとらないほど、声高であった。その「感情」はこういっていた。
「ほら、いいなりになるのさ! あのかたのみじめさを考えてごらん。あのかたの危険を考えてごらん――一人ぼっちになったときの、あのかたの状態を思い描いてみることだよ。あのかたのむこう見ずな性質を忘れてはいけないね。絶望のあとに訪れる自暴自棄のことを考えてやらなくては――あのかたを慰め、救い、愛するのさ。愛していますわ、あなたのものになりますわ、ということだね。|おまえ《ヽヽヽ》を愛してくれる人間が、この世にいるというのかい? おまえのすることで、傷つく人間がいるとでもいうのかい?」
それでもなお、びくともしない答えが返ってきた――「わたしを愛しているのは、|わたし自身《ヽヽヽヽヽ》なのだ。孤独になればなるほど、友だちがいなくなればなるほど、心の支えがなくなればなるほど、わたしは自分を尊敬する。わたしは神さまが定め、人間がみとめた掟を守る。正気なときのわたしが――いまみたいに頭がおかしくなかったときのわたしが受けいれた節義を重んじる。掟や節義は、誘惑の存在しないときのためにあるのではない。いまのこの瞬間みたいに、その厳格さに対して全身全霊が謀叛を起こしたときのためにあるのだ。きびしいのが掟であり、節義であって、これを侵すことは許されない。個人的な都合でそれを破ってしまうことになれば、その価値は一体どうなるだろうか? 掟や節義には価値がある――わたしはずっとそう信じてきた。それをいま信じることができないというのは、わたしの頭が狂っているからだ――すっかり狂ってしまって、血管のなかを火が駆けめぐり、鼓動を数えきれないほどに心臓が高まっているからにほかならない。まえからもっている意見と、すでに固まっている決心――いまのわたしの拠りどころになるのは、これだけだ。ここにしっかりと足を踏みしめなければ」
わたしはそれを実行した。わたしの顔色をうかがっていたロチェスターさまは、そのことに気がついた。ロチェスターさまの怒りは絶頂に達し、あとがどうなるにせよ、しばらくはその怒りに身をまかせるほかはなかった。床を鳴らしてやってくると、わたしの腕をひっつかみ、ウエストのあたりをきつく抱きかかえた。ぎらぎらと光る目が、むさぼるようにわたしを見つめている。その瞬間、わたしは肉体的には、かまどの強い風と熱にさらされた麦の切り株みたいな無力感をおぼえた――だが、精神的にはまだ気骨が残っていたので、それゆえに結局は安全であることを確信していた。幸いなことに、精神には目という通訳が――無意識の場合が多いとしても、忠実なことには変わりのない通訳がついている。わたしは目をあげて、ロチェスターさまの目を見いった。その狂暴な顔を見ているうちに、わたしの口から思わず吐息がもれた。つかまれているところが痛かったし、ぎりぎりにまできた体力がいまにも崩れようとしていたからである。
「これほどに」ロチェスターさまは歯がみしながらいった。「これほどにひ弱でありながら、負けん気の強い女は、見たことがない。この手につかむと、一本のアシほどに頼りないというのに!」(こういいながら、押えつけたわたしのからだを力まかせにゆさぶった)「親指と人さし指でへし折ることさえできる。だが、へし折って、引き抜いて、押しつぶしたところで、なにになる? あの目をよっく見てみろ。あの目から顔をのぞかせ、勇気以上のものをもって――きびしい勝利の色を見せて、こっちに挑戦してきている、断固とした、手のつけようのない、自由奔放な姿を見るがいい。この肉体という檻《おり》をどんな目にあわせたところで、そのなかにいるあいつを――あの美しい野獣をつかまえることはできない! このささやかな獄舎を打ちくだき、引き裂いて、荒れ狂ったとしても、なかに捕えられている人間を逃がすことになるばかりなのだ。この家の征服者になることはできようが、土でできた住み家の持ち主はおれだといい出すまえに、そこの住人は天に逃れてしまうだろう。それに、ぼくが欲しいのは、きみという精神――意志とエネルギーと美徳と純潔をそなえた精神なのだ。そのもろい肉体だけではない。その気があれば、きみはほっといても、そっと飛んできて、ぼくの胸に顔を埋めてくれる。だが、無理やりにつかんだりすると、きみは香水みたいにぼくの腕をすりぬける――きみの芳香を吸いこむひまもないうちに消えてしまうのだ。おお! きたまえ、ジェイン、きてくれたまえ!」
こういいながら、ロチェスターさまはわたしをつかんでいた手をゆるめ、ただわたしの顔に見いっていた。その視線にさからうのは、狂おしいほどの抱擁の場合よりもはるかにむずかしかった。だが、いま負けてしまっては、愚の骨頂というほかはない。ロチェスターさまの怒りに敢然として立ちむかったわたしだ。その悲しみをもかわさねばなるまい。わたしはドアのほうへ歩きかけた。
「行くのかい、ジェイン?」
「行きます」
「ぼくを捨てるのかい?」
「はい」
「きてはくれないのだね? ――ぼくに慰めも、救いもあたえてはくれないのだね? ――ぼくの深い愛や、はげしい悲痛や、死にもの狂いの祈りは、きみにはまったく無意味だというのだね?」
なんという名状しがたいペーソスがその声にこもっていたことか! もう一度、「行きます」といい切ることの、なんと困難であったことか!
「ジェイン!」
「ロチェスターさま」
「じゃ、行きたまえ――反対はしないよ――しかし、あとに残るぼくが苦痛を味わっていることだけは、忘れないでくれたまえよ。部屋へ帰ったら、ぼくのいったことを、ゆっくりと考えるんだな。ジェイン、ちょっとでいいから、ぼくの受ける打撃のことを想像してくれ――ぼくのことを考えてくれ」
ロチェスターさまはむこうむきになると、ソファの上に倒れ伏した。「おお、ジェイン! ぼくの希望――ぼくの愛――ぼくのいのち!」という苦痛に打ちひしがれた言葉が、その唇からほとばしりでた。やがて、せつなく、はげしいすすり泣きの声が聞こえてきた。
わたしはすでにドアのところまできていた。しかし、読者よ、わたしは引きかえして行った――背をむけて立ち去ったときと同じように決然とした態度で、引きかえして行った。ロチェスターさまのかたわらにひざまずいたわたしは、クッションの上の顔をわたしのほうにむけると、その頬に接吻し、その髪を手でなでてやった。
「わたしの愛するご主人さまに神さまの祝福がありますように」とわたしはいった。「神さまがあなたさまを危害や害悪からお守りくださいますように――あなたさまに神さまのお導きと慰めがあたえられますように――わたしにお示しくださったこれまでの親切に対して、神さまから十分な報いがありますように」
「ジェインの愛が、ぼくにとってはなによりの報いだったろうに」とロチェスターさまは答えた。「その愛がないと、ぼくは胸が張り裂けてしまう。だが、ジェインはぼくに愛をあたえてくれる。そうだとも――気高く、惜しみなくあたえてくれるのだ」
その顔に、さっと血がのぼった。目は燃えるような光をはなっている。ロチェスターさまはさっとからだを起こすと、両腕をさし出した。だが、わたしはその抱擁をかいくぐると、いっきに部屋から飛び出した。
「さようなら!」ロチェスターさまと別れたとき、わたしの心は叫んでいた。それにつけ加えて、絶望がこういった――「永久にさようなら!」
その夜はとても眠れそうにないと思っていたが、ベッドにはいるなり、睡魔がおそいかかってきた。わたしは、その眠りのなかで、子供時代の場面へつれもどされ、ゲイツヘッド・ホールの、例の赤い部屋にいる夢をみた。夜は暗く、わたしの頭には、さまざまの奇妙な恐怖がきざみこまれている。ずっと昔にわたしを失神させた光が、この夢のなかにもあらわれ、部屋の壁をはうようによじのぼると、うす暗い天井の中央部でゆらめきながら漂っているように見える。わたしは頭をもたげて、じっと見つめた。天井は、高く、おぼろな雲に変貌し、その光は、雲間から顔をのぞかせようとする月がその雲に投げかける光に似ている。わたしは月の出を見守った――わたしに対する判決の言葉かなにかでも月面に書かれているかのように、なんとも奇妙な期待を抱いて、見守った。月は雲のなかから現われたが、こんなふうに姿を見せたのは、前代未聞のことであった。まず、まっ黒い雲の合い間から一本の手がにゅっと突きでて、雲を払いのけた。そのあとから、月ならぬ白い人間の姿が現われ、こうごうしい額を地球のほうにむけて、青空を背景に光り輝いた。それはわたしをじっと見つめた。それはわたしの魂に語りかけてきた。測り知れないほどに遠い声ではあったが、それがまた意外に近いところから、わたしの心にささやいた――
「娘よ、誘惑は避けるのですよ!」
「そうしますわ、お母さま」
そう答えたとき、わたしは恍惚にも似た夢からさめていた。まだ夜であったが、七月の夜は短い。夜半をすぎると、すぐ夜明けになる。「しなければならない仕事に取りかかるのに、早すぎるということはないわ」とわたしは考えた。わたしは起きあがったが、着がえの必要はなかった。寝るまえに靴をぬいだだけであったからだ。引き出しのどこを捜せば、下着類やロケットや指輪があるかを知っていた。こうした品を捜しているうちに、数日まえ、ロチェスターさまに無理に受け取らされた真珠のネックレスが見つかった。だが、それはそのままにしておいた。わたしのものではない。はかなく消えてしまった幻の花嫁の品なのだ。ほかの品物は一まとめにした。二十シリング(あり金ぜんぶ)のはいった財布《さいふ》をポケットにしまった。麦わら帽のひもをしばり、ショールをピンでとめた。手には荷物と、まだはく気のないスリッパをもって、しのび足で部屋を出た。
「さようなら、やさしかったフェアファックスさん!」わたしは夫人の部屋のまえをすべるように通りすぎながら、ささやいた。「さようなら、かわいいアデール!」と、子供部屋のほうへ視線をやりながら、わたしはいった。なかにはいって、アデールを抱いてやることなど、思いもよらなかった。わたしはさとい耳の持ち主をあざむかねばならなかったのだ。この瞬間にも、聞き耳を立てていないとはかぎらないのだから。
立ちどまったりせずに、ロチェスターさまの部屋のまえを通りすぎることができたかもしれないのだが、ドアのところまでくると、一瞬、わたしの心臓の鼓動がとまり、それとともに足もぴたっととまってしまった。眠っている気配はない。部屋の主は壁から壁へせわしなく行ったりきたりしている。わたしが耳をすましているあいだにも、なん回かため息が聞こえてきた。わたしがその気になりさえすれば、この部屋のなかに、わたしの天国を――つかのまの天国ではあっても――見つけることができる。なかにはいって、こういいさえすればよい――
「ロチェスターさま、わたしはあなたを愛しています。死ぬまで、あなたといっしょに暮らします」
そうすれば、恍惚の泉が、わたしの唇にわきあがってくるのだ。わたしの頭には、そんな考えがあった。
あのやさしいロチェスターさまは、いま眠れないままに、じりじりしながら夜明けを待っている。朝になったら、わたしを呼びによこすだろうが、わたしの姿はない。捜索の手をのばしても、失敗におわってしまう。ロチェスターさまは捨てられたのを、愛が拒絶されたのを感じ、苦悩のはてに絶望するかもしれない。こんな考えも、わたしの頭のなかにあった。わたしの手はドアのノブにのびたが、わたしはそれをとどめると、足音をしのばせて歩きはじめた。
重い心を抱いたまま、わたしは階段をおりて行った。なにをすべきかを知っていたわたしは、それを機械的にやってのけた。台所のくぐり戸の鍵を捜し、つぎに油のびんと羽毛を捜しだして、鍵と錠前に油をさした。水をすこし飲み、パンもすこしかじった。遠くまで歩かねばならないようであったからだし、このところショックを受けっぱなしの体力が弱まるのを防ぐためでもあった。これらすべてを、わたしはことりとも音をたてずにやってのけた。くぐり戸を開けて、外にでると、あとをそっと閉めた。あわい夜明けの光が庭を照らしている。大門は閉まっていて錠がおりていたが、くぐり門には掛けがねがかかっているだけであった。そこをくぐりぬけてから、それもまた閉めておいた。こうして、わたしはソーンフィールド・ホールの外に出たのである。
野原を通りぬけてから一マイルのところに、ミルコートとは反対の方向へのびる道があった。これまで歩いたことはなかったが、しょっちゅう目にとめては、一体どこへつづくのだろうかと考えていた道であったので、その方角に足をすすめることにした。いまとなっては、熟慮の余地などない。目を後方に転じることも、前方にやることすらもできない。過去であれ、未来であれ、一考することさえもかなわない。わたしの人生の最初のページは、天にものぼるほどに楽しく――死にたくなるほどに悲しくて、その一行を読むだけで、わたしの勇気はくじけ、気力はそがれてしまう。最後のページは恐ろしい空白で、洪水のすぎ去ったあとの世界に似かよっている(ノアの洪水への言及。旧約聖書、創世記、第六―九章)。
わたしは日がのぼるまで、野原や生け垣や小道を通りぬけて行った。さわやかな夏の朝であったと記憶しているし、屋敷を出たあとではいた靴がすぐに朝露にぬれたこともおぼえている。しかし、わたしはのぼる太陽や、ほほえみかける大空や、目をさましはじめた自然には目もくれなかった。美しい風景のなかを断頭台へと追いたてられる人間が考えるのは、道ばたにほほえんでいる花ではなく、首切り台とまさかりのことであり、骨と血管が切断されることであり、その道のはてにぱっくり口を開けている墓穴のことであるのだ。わたしの考えたのは、わびしい逃避行であり、宿のない放浪の旅であった――そして、ああ! 切ない思いで、あとに残してきた人のことを考えたのだ! 考えないわけにはいかなかった。いま、あのかたは――部屋のなかで――日の出を見つめている。やがてわたしがやってきて、あなたといっしょにいますわ、あなたのものになりますわ、というのを待ちわびている、とわたしは思った。あのかたのものになりたかった。あのかたのもとへ帰りたくて、帰りたくてたまらなかった。これからでもおそくはない。いまならまだ、あのかたにはげしい別離の悲哀を味わわせなくてもすむ。わたしの失踪には、まだ気づいていないにちがいない。引きかえして行けば、あのかたの慰めになることも――あのかたの誇りとなることもできる。あのかたを苦痛から救い、場合によっては、破滅から救うことができるかもしれない。ああ、あのかたが捨てばちになってしまいはしないか――わたしに捨てられるよりもずっとひどいことになりはしないか、という不安。それが、どんなにわたしをさいなんだことか! それはわたしの胸にささった、逆とげのある矢じりであった。引きぬこうとすれば、わたしの肉をかきむしり、「追憶」がそれを奥深く突きさそうとするたびに、わたしは気分が悪くなった。小鳥が草むらや雑木林でさえずりはじめた。夫婦仲のいい小鳥たち。愛のシンボルとしての小鳥たち。では、わたしは一体なんだろう? 胸の痛みに打ちひしがれ、道徳的に正しいことをせねば、と必死にあがきながら、わたしはわたし自身を嫌悪していた。自分の行為に対して自画自讃をしてみても、慰めは得られないし、自尊心までがなんの慰めもあたえてくれない。ロチェスターさまを傷つけ、苦しめ、捨ててしまったわたしだ。わたし自身の目にも、おぞましい存在にうつる。それでもなお、わたしは引き返すことができないし、もときた道を一歩もたどることができない。わたしを導いてきたのは、神であったにちがいないのだ。わたし自身の意志や、良心はどうかといえば、強烈な悲哀のために、一方は踏みにじられ、他方は息の根をとめられている。わたしはさめざめと泣きながら、一人ぼっちで歩きつづけた。狂乱状態にある人のように、休みなく足をはやめた。からだの内部からはじまって手足にまでおよんだ衰弱が、わたしをとらえ、わたしは倒れ伏した。ぬれた芝土に顔を押しあてたまま、わたしはしばらくのあいだ、地面に横たわっていた。このまま死ぬのでは、という不安――というか期待が、わたしの頭をかすめた。だが、わたしはすぐに身を起こし、四つんばいになってはい進んだあと、もう一度、立ちあがった――道にでたい、でなくては、という気持ちが猛然とわきあがっていた。
道にでたものの、わたしは生け垣の下に腰をおろして、一息いれねばならなかった。やがて、坐っているわたしの耳に車輪の音が聞こえ、乗合馬車のやってくるのが見えた。わたしは立ちあがって、手をふった。馬車がとまった。行き先をきくと、御者はずっとはなれた土地の名前を口にしたが、それはロチェスターさまに縁故のある人などいそうにもない土地であった。そこまでの運賃は、とたずねてみると、三十シリングとのことであった。二十シリングしかもち合わせがないというと、まあ、それでもいいとするか、と御者は答えた。その上、がら空きだから、なかへはいってもいいんだぜ、といってくれた。わたしが乗りこむと、ドアが閉まり、馬車はがらがらと走りはじめた。
やさしい読者よ、そのときのわたしが味わった気持ちを、読者が味わったりすることがありませんように! わたしの目からあふれでた、激しく、煮えたぎるような、悲痛にあふれた血涙が、読者の目から流れたりすることがありませんように。あのとき、わたしの唇からもれた、あれほどまでに絶望的で、苦悩にみちた祈りの言葉で、天にむかって訴えたりすることがありませんように。つまるところ、わたしみたいに、自分の行動が心の底から愛している者に不幸をもたらす結果になりはしないか、と恐れおののいたりすることがありませんように。
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二十八章
二日後。夏の夕暮れどき。ウィットクロスという名前のところで、御者はわたしをおろした。わたしのはらった運賃では、ここまでが精いっぱいである上、わたしにはただの一シリングも持ちあわせがない。馬車はもう一マイルも先へ行ってしまい、わたしはたった一人で取り残されている。いまのいままで、馬車の奥から荷物をおろし忘れたことに気がつかなかった。万一のことを思ってしまいこんであったのだが、置き忘れられた荷物は、あそこにいつまでもほったらかしになるにちがいない。こうして、いまのわたしは、まったくの無一物なのである。
ウィットクロスは町の名前どころか、小さな部落の名前でもない。四つ辻に、石柱が一本立っているだけである。遠くや暗がりでもよく見えるようにするためか、白く塗ってある。頂点から四本の矢印がでていて、そこに書いてある説明によれば、矢印のさしているいちばん近い町で十マイル、いちばん遠い町になると二十マイル以上もはなれている。これらの町の名前はよく知られているので、馬車からおり立ったのがどこの州なのか、わたしには見当がつく。さびしい荒れ野におおわれ、稜々たる山にかこまれた、中部地方の北にある州であることは、この目にもはっきりわかる。わたしの背後から左右にかけてひろがる広大な荒れ野。わたしの足もとの深い溪谷のかなたにそびえる山また山。このあたりは過疎地帯にちがいない。道を歩いている人の姿も見あたらない。東西南北にのびた道――幅のひろい、わびしげな白い道。どれも荒れ野を切り開いてできているので、すぐ道端にまでヒースがのび放題に生い茂っている。それでも、旅人がひょっこりやってこないともかぎらない。だが、いまのわたしは、だれの目にも見られたくない気持ちである。知らない人は、目的もなさそうな上に道にまよったふうのわたしが、この道標のあたりでうろうろしているのを見かけて、変に思うことだろう。あれこれきかれても、とても信じられない、疑惑をかき立てるばかりの返事しか、わたしにはすることができない。いまのこの瞬間、わたしを人間社会に結びつけている絆は、ただの一本もない――わたしを同じ人間仲間のいるところへ呼びよせてくれる魅力や希望は、ただの一つもない――わたしを見かけて、親切な思いをかけてくれたり、よかれと祈ってくれたりする人は、ただの一人もいないのだ。わたしの親類といえば、万人の母ともいうべき自然だけである。その母の乳房をさぐって、安らぎを求めることにしよう。
わたしはヒースのなかへわけいって、赤かっ色の荒れ野の斜面に深いうねをつけているのが見えるくぼ地にそって歩きつづけた。膝までくる黒ずんだ茂みを踏みわたり、曲りくねったうねぞいに進んでいるうち、人目につかない片隅に、黒いコケのはえた花コウ岩が見つかったので、その下に腰をおろした。わたしをとりかこむ、高い土手のような荒れ野。わたしの頭を守ってくれる岩。その岩の上には、大空がひろがっていた。
こんなところでも、わたしが落ち着いた気分になるまでには、かなりの時間がかかった。野生の牛が近くにいるのではないか、ハンターや密猟者に見つかるのではないか、といった漠とした不安をおぼえていたからだ。一陣の風が荒れ野を吹きわたると、突進してくる雄牛ではあるまいかと思って、顔をあげたし、千鳥の鳴き声を耳にしては、人間ではあるまいかと思った。だが、そうした不安が根拠のないものであることがわかり、夕暮れが夜の闇に変わるにつれて支配しはじめた深い沈黙に心が静められると、わたしの身内に自信があふれてきた。これまでのわたしは、思考が停止していた。耳をすましたり、目を見はったり、おそれおののいたりするばかりであったのだが、やっといま、思考能力がもどってきたのだ。
どうすればいいのか? どこへ行けばいいのか? ああ、なんとやりきれない問いかけであることか! どうすることも、どこへ行くこともできないというのに――人家のあるあたりへ出るまでには、この疲れはてて、わなないている足で、なんマイルも歩かねばならないというのに――冷たい慈善にすがらなければ、一夜の宿も得られないというのに――わたしの話を聞いてもらって、頼みごとの一つでもかなえてもらうためには、いやがる相手にしつっこく同情を求めねばならないばかりか、九分九厘まで拒絶を覚悟しなければならないというのに!
わたしはヒースにさわってみた。乾ききってはいたが、夏の日ざしを受けたせいで、まだ暖かみが残っている。空を見あげると、一面に晴れわたっていて、くぼ地の土手のすぐ上あたりには、やさしげな星が一つ、またたいている。夜露もふりしいていたが、神のお慈悲であるかのように、しっとりとしている。そよとの風もない。自然はわたしをやさしく慰めているようであった。よるべのないわたしは、自然に愛されているのをおぼえ、人間からは不信と拒絶と軽蔑しか期待できそうにもなかったので、子が親に対するような愛情をこめて、自然にすがりついた。今夜だけはすくなくとも、わたしは――自然の子どもであるわたしは、その客人となるのであり、母なる自然もまた、文無しで、宿代を払うことのできないわたしを泊めてくれるのだ。パンが一切れ、まだ残っている。昼ごろ、とある町を馬車で通りかかったとき、ひょっこりでてきた一ペニーで――最後の一枚の銅貨で買ったロールパンのかけらであった。わたしは、うれたコケモモの実がヒースのここかしこで、黒いビーズのように、光っているのを見つけ、一握りほどつみとって、パンといっしょに食べた。それまで痛いほどであった空腹は、この世捨て人を思わせる食事のおかげで、いやすまではいかないまでも、なんとかなだめすかすことができた。食事がすむと、夕べの祈りを唱えてから、横になることにきめた。
岩のそばのヒースは、ひどく密生していて、からだを横たえると、足がそのなかにかくれてしまう。両側に高くはえているせいで、夜風がしのびこんでくるすきも、ほんのわずかしかない。わたしはショールを二つに折ると、からだの上にかけて、シーツのかわりにした。コケのはえた地面の、すこし盛りあがったところが、わたしの枕になった。こうして、野宿をすることになったが、すくなくとも宵の口は、寒さをおぼえなかった。
わたしの休息は喜びにあふれたものであってもよかったのに、それをかき乱したのは、心の痛手であった。わたしの心は、ぽっかりとあいた傷口と、なかで吹きだしている血と、断ち切られた琴線のことを嘆いていた。ロチェスターさまとその運命を思ってふるえていた。せつないまでの同情をこめて、あのかたをあわれみ、やむことのない慕情を抱いて、あのかたを求めていた。左右の翼の折れた小鳥のように無力でありながら、あのかたのもとへ行こうと、無残な翼をむなしくふるわせてつづけていた。
こうした拷問にも似た思いに疲れたわたしは、起きあがって、ひざまずいた。夜になっていて、空には星が出ている。なにごともない、静かな夜。恐怖と顔をつき合わせるには、あまりにもおだやかな夜であった。わたしたちは、神が宇宙に遍在することを知っているが、その存在をわたしたちがもっとも強く感じるのは、神の創造物がもっとも雄大なスケールでわたしたちのまえに展開しているときにほかならない。そして、神の創造した星がひっそりと軌道を進んでいる、雲一つない夜空にこそ、無限の神、全能の神、遍在する神の姿を、この上なくはっきりと読みとることができるのである。ひざまずいたわたしは、ロチェスターさまのために祈った。空を見あげると、涙にかすんだ目に、壮大な天の川がうつった。それがなんであるかを――数知れぬ星の集団があわい光の跡のように、宇宙にひろがったものであることを思いだして、わたしは神の権勢と威力を感じた。神にはみずからが創ったものを救う力があることを信じる気持ちになり、大地が滅びることもなければ、その大地がだいじにしている人間の魂の一つが滅びることもないのだ、という確信が強まってきた。わたしの祈りは感謝の祈りに変わった。生命の源泉としての神は、魂の救済者としての神でもあった。ロチェスターさまに危険がふりかかることはない。神の子であるがゆえに、神の加護を受けることになるのだ。わたしはふたたび丘のふところにすがりつくと、やがて眠りに落ちて、悲しみを忘れてしまった。
だが、翌日になると、顔色の悪い、はだかのままの「欲求」が姿をあらわした。小鳥が巣を飛び立ってからだいぶたって――この上なくさわやかな朝の光のなかを蜜蜂がやってきて、朝露のかわかないうちにヒースの蜜を集めはじめてからだいぶたって――朝の長い影が短くなり、太陽が天と地にみちあふれるころになってから、わたしはやっと起きだすと、あたりを見まわした。
なんと静かな、暑い、申し分のない日であることか! この、一面にひろがる荒れ野は、黄金色の砂漠というべきではないか! いたるところに降りそそいでいる陽光。この荒れ野のなかで、荒れ野の世話になって暮らすことができればいいのに。岩の上を走って行くトカゲや、甘いコケモモのあいだで忙しそうにしている蜜蜂の姿が目にとまった。その瞬間、しかるべき食物とついの住み家とをここで見つけることができるのなら、蜜蜂にでも、トカゲにでもなるのに、と思った。だが、わたしは人間であり、人間としての欲求がある。その欲求をみたすものがなに一つとしてないところに、いつまでもぐずぐずすることはできない。わたしは立ちあがって、いまはなれたばかりのふしどをふりかえった。未来に希望のないわたしの願ったことは、ただこれだけ――昨夜のうちに、神さまが眠っているわたしの魂を取りあげることをおきめくださればよかったのに(新約聖書、ルカによる福音書、第十二章第二十節参照)。死がこの疲れはてた肉体を、運命との長い格闘から解放してくれていたら、あとは静かに朽ちはてて、この荒れ野の土と安らかにまじり合うばかりであったのに、ということであった。しかし、生命はまだわたしの手中にあり、さまざまの要求や苦痛や責任をともなっていた。わたしは、この重荷を背負い、欲求をみたし、苦悩に耐え、責任をはたして行かねばならない。わたしは出発した。
ウィットクロスにとって返したわたしは、高くのぼって、ぎらぎらと照りつけている太陽とは反対の方角へつづいているという理由で、一つの道を歩きはじめた。ほかの理由で行き先をきめる意志など、わたしにはなくなっていた。長いあいだ歩きつづけて、もうこれ以上は歩けないし、この耐えきれないほどの疲労に負けたとしても、良心に恥じることはあるまい、という気持ちになったとき――こんな強行軍はやめにして、路傍の石にでも腰をおろし、心身の働きを麻痺させている無感覚の状態にずるずると身をまかせたい、という気持ちになったとき、チャイムが――教会の鐘の音が聞こえてきた。
音の聞こえてくるほうへ目をやると、そこのロマンティックな丘のあいだに、小さな村と教会の尖塔が見えたが、その丘の変化する風景や姿に注意することを、わたしは一時間もまえからやめていたのであった。右手の谷間全体は、牧場と麦畑と森におおわれている。濃淡さまざまの緑や、よくみのった小麦や、うっそうとした森林地帯や、ひろびろとして明るい牧草地のあいだを縫うようにして、きらきら輝く小川が流れている。車のがらがらという音にはっとなって、前方の道に視線を移すと、荷物を満載した馬車が坂道を重そうにのぼっているのが見え、そのすこしむこうには、二頭の牛と、それを追って行く人の姿があった。人間の生活と、人間の労働がわたしの身近かにあった。わたしも負けずにがんばらねばならない。ほかの人たちと同じように、けんめいに生き、精出して働かねばならないのだ。
午後の二時ごろ、村にはいった。村の一本道のつき当りに小さな店があり、ウインドウにはパンがいくつか並んでいる。そのパンが一つ、欲しくてたまらなかった。あれが口にはいれば、いくばくかのエネルギーを回復できるかもしれない。あれがないと、もう一歩も先へ進めない。体力が欲しい、活力が欲しいという気持ちが、周囲に人間のいるところへきた途端に、わたしによみがえってきた。村の舗装路で空腹のために卒倒するなんて、みっともない話だ、と感じたのである。身につけているもので、あのロールパン一箇と引きかえにできるものはないかしら、と考えてもみた。小さな絹のハンカチを首に巻いているし、手袋もある。せっぱつまった人間がどんなふうにやるものなのか、わたしには見当もつかなかった。ハンカチなり、手袋なりが受けとってもらえるかどうかさえ、わからなかった。たぶん駄目だろうけれど、やってみるほかはあるまい。
わたしは店にはいった。女の人がいた。見苦しくない服装をしたわたしを見て、身分のある婦人とでも思ったのか、もみ手をしながら出てきた。なにをさしあげましょうか? わたしは、穴があったらはいりたいような気持ちになった。口がきけなくなって、用意していたお願いの言葉も出てこない。使いかけの手袋やしわだらけのハンカチをさし出す勇気はなかったし、その上、そんなことはとても馬鹿げたことに思えてきた。わたしはやっと、疲れているので、休ませてもらえないか、と頼みこんだ。客と思ったのがそうでなかったため、女はすげないひややかな表情でわたしの頼みをきいてくれた。わたしは女が指さした椅子に、へなへなとくずれるように坐った。ひどく泣きたい気持ちになったが、涙を流したりするのはお門ちがいのことだと気づいて、じっとがまんした。やがてわたしは「この村には、仕立て屋さんか、お針子さんがいますの?」ときいた。
「ああ。二、三人いるよ。それでちょうど間に合うくらいの仕事しかないんだよ」
わたしは考えた。わたしはぎりぎりのところまできている。最低の生活に直面させられているのだ。いまのわたしは、働き口もなく、友だちもなく、一枚の硬貨さえない人間の立場に置かれている。なにかしなければならない。なにを? どこかで頼みこまなければならない。どこで?
「ご近所で、お手伝いさんがいるというところをご存じありませんかしら?」
「さあ、知りませんねえ」
「この村の主な仕事って、なにかしら? みなさん、なにをなさってますの?」
「畑仕事をする者もいるがね。たいていは、オリヴァーさんの針工場か、ガラス工場で働いているよ」
「オリヴァーさんの工場では、女の人を使っていますの?」
「いいえ。男の仕事だからねえ」
「じゃ、女の人はなにをしてますの?」
「あたしが知るもんかね」という答えが返ってきた。「みんな、なにかかにかしているよ。貧乏人はなんとかして、食っていかねばならないからね」
女は、わたしの質問攻めにうんざりしたふうであった。たしかに、わたしには、この女にうるさくせがむ権利など、あるはずもない。近所の人が一人、二人と店にやってきた。どうやら、わたしの坐っている椅子がいるらしい。わたしはそこを立ち去った。
表通りに出たわたしは、両側に並んでいる家を一軒一軒眺めながら歩いて行った。だが、そのどれかを訪ねるにしても、口実が見つからなかったし、また、訪ねてみたいという気にもなれなかった。わたしは村のなかを、すこしばかりはなれたり、また舞いもどったりをくりかえしながら、一時間あまりも歩きまわった。やがて、すっかり疲れきったのと、ひどい空腹に耐えきれなくなったのとで、わたしは、とある小道にはいると、生け垣のかげにしゃがみこんだ。しかし、なん分もたたないうちに立ちあがって、またもや、なにかを――働き口か、すくなくとも、働き口を教えてくれる人を捜しはじめた。その小道をつきあたったところに、こぎれいな家が一軒立っていて、いかにもさっぱりした前庭には見事な花が咲きほこっている。わたしは足をとめた。この白いドアに近づいたり、ぴかぴか光るノッカーに手をふれたりする権利が、わたしにあるとでもいうのだろうか? 一体、どのような点で、この家に住んでいる人たちが、わたしに力をかしてくれる気になれるというのだろうか? だが、わたしは近づいて、ドアをノックした。顔つきのおだやかな、さっぱりした服装の若い女性がドアを開けた。絶望的な精神と弱りはてた肉体の持ち主にふさわしいような声で――あわれなまでに低く、口ごもりがちな声で、わたしはお手伝いさんは入り用でありませんか、ときいてみた。
「いいえ」と若い女性はいった。「うちはお手伝いさんを置いていませんのよ」
「なにか仕事のありそうなところをお教えくださいませんか?」とわたしは言葉をつづけた。「わたしは、この村ははじめてで、知り合いもおりません。仕事が欲しいのです。選り好みはいたしません」
だが、わたしの身になって考えたり、わたしの就職の世話したりすることなど、この若い女性の知ったことではなかった。それに、この女性の目には、わたしの性格や立場や身の上話がひどく疑わしいものに映ったにちがいない。若い女性は首をふると、「お役に立てなくて、申し訳ありませんけど」といった。白いドアは、いかにも静かに、丁重に閉められたが、わたしに門前払いを食わせたことには変わりない。そのドアがもうすこし開いたままになっていたら、わたしはパンを一片おめぐみください、といっていたにちがいない。それほどに、いまのわたしはおちぶれていたのだ。
あのみすぼらしい村に帰るのは、耐えられないことであったし、それに、村人の援助が得られるという見込みが立っているわけでもない。いっそ、あまり遠くないところに見えている森へ足をのばしてみたいという気になったのは、その奥ぶかい木かげがわたしをこころよく迎えいれて、かくまってくれそうに見えたからである。だが、わたしは、気分が悪いやら、力がぬけてしまうやら、どうしようもない空腹感に責めさいなまれるやらで、食物にありつくチャンスのある人家のあたりを、本能的にうろつきまわっていた。飢えというハゲタカが、こんなふうに、わたしの脇腹にくちばしやつめをつき立てているかぎり、孤独も孤独とはならないし、休息も休息とはならないのだ。
わたしは家並みに近づいてははなれ、また引きかえしては、そのたびにまた遠ざかった。頼みごとをする資格も、身寄りのない境遇に他人の関心をひきつけたりする権利もないという意識が、いつもわたしの足をひっぱっていた。ところが、このようにして、飢えた迷い犬みたいにさまよっているあいだにも、日は西の空に傾きはじめている。とある畑を横切っていたとき、前方に教会の尖塔が見えてきた。わたしは、それを目指して足を早めた。墓地の近くの、庭の中央部に、小さいながらも、りっぱな造りの建物が立っている。牧師館にちがいない。よそ者が知り合いのいない土地へやってきて、職捜しをするときには、牧師の紹介や援助を求めることがあるということを、わたしは思い出した。自分の力でなんとかやってゆこうとしている者に力をかすのは――すくなくとも助言してやるのは、牧師の仕事なのだ。ここなら、相談にのってもらう権利みたいなものがあるように思われた。そこで、新しく勇気をふるいおこし、わずかに残った元気をかき立てると、わたしは前へ前へと歩きつづけた。建物にたどりついて、わたしは台所のドアをノックした。老婦人がドアを開けた。ここは牧師館でしょうか、とわたしはきいた。
「ええ」
「牧師さまはいらっしゃいますか?」
「いいえ」
「すぐにお帰りになりますの?」
「いいえ。よそへ行っていますよ」
「遠くですの?」
「そう遠くはないよ――三マイルくらいかねえ。お父さんが急になくなって、お迎えがきたものでね。いまはマーシュ・エンドにおいでですよ。あと二週間はむこうにおとどまりじゃないかねえ」
「ここには女のかたは?」
「いいえ。あたしだけですよ。あたしゃ、家政婦でね」
読者よ、わたしは施しを受けられないために倒れそうになりながら、この家政婦に施しを頼みこむ気にはなれなかった。まだ乞食のまねはできない。またしても、わたしははうようにして、その場をはなれた。
もう一度、わたしはハンカチを取り出した――もう一度、あの小さな店にあったパンのことを考えた。ああ、一片でもいいのに! ほんの一口でもいい、この飢えの痛みをなだめすかすことができるなら! わたしは本能的に村を目指していた。例の店をもう一度、見つけると、なかにはいった。さっきの女のほかにも数人の人が店内にいたが、わたしは思いきって頼んでみた――
「このハンカチで、ロールパンを一つわけてくれませんでしょうか?」
店の女は、いかにもうさんくさそうにわたしを見た。
「だめだよ。うちじゃ、そんな商売はしませんからね」
絶望に近い気持ちになったわたしは、半分でいいから、と泣きついた。それでも、女はうんといわない。
「そのハンカチだって、どこで手にいれたものかねえ」
「手袋なら、いかがです?」
「だめだよ。そんなもの、あたしに用はありませんからね」
読者よ、こんな話をくどくどとつづけるのは、愉快なことではない。過去のつらかった経験をふり返るのは楽しいものだ、という人もいないではないが、ここで話題になっている時期を回想するのは、現在のわたしにとって、とても耐えられないことである。精神的な堕落が肉体的な苦痛とまざりあっている場合、その思い出はあまりにもみじめであるため、自分からすすんで長々と語ったりすることなどできる道理がない。わたしは、わたしに冷淡にした人たちを、ただの一人も恨みはしなかった。そうあって当然であったし、どうともしがたいことであると感じていた。普通の乞食でさえ、疑惑をまねくのが常であってみれば、身なりのいい乞食となれば、なおさらである。たしかに、わたしが頼んでまわったのは、仕事であった。だが、わたしに仕事の世話をするなど、他人の知ったことではない。わたしの顔を、そのときはじめて見て、わたしの性格など、なに一つとして知らない人間にしてみれば、まったく当然のことであった。そして、ハンカチと引きかえにパンをくれようとしなかった女性の場合、わたしの申し出を気味悪く思ったり、この物々交換では得にならないと考えたとしても、ちっともおかしくはないのだ。あとは要点だけを語ることにしよう。この話には、もうあきあきしているのだから。
夕暮れのすこしまえ、一軒の農家のまえを通りかかると、開けはなした玄関口に農夫が坐って、パンとチーズの夕食をとっていた。わたしは立ちどまって、こういった――
「パンを一片、くださいませんか? とってもおなかをすかしているものですから」
農夫はびっくりしたような目つきで、わたしを見つめたが、なにも答えずに、パンを一枚、分厚く切りとって、渡してくれた。どうやら、わたしが乞食などではなく、農夫の食べている黒パンが急に欲しくなった、気まぐれな女くらいに思ったものらしい。わたしは、農家の見えないところまでくると、さっそくに腰をおろして、パンにかじりついた。
屋根の下で一夜を明かすことは望むべくもなかったので、まえにふれた森のなかで一泊することにした。だが、その夜のわたしはみじめであったし、眠りもとぎれがちであった。湿った地面に、冷たい空気。その上、二度、三度と、わたしの近くを通りすぎるじゃま者がいたため、そのたびに寝場所を変えねばならなかった。わたしの味方になってくれる、安心感や落ち着いた気分はどこにもなかったのだ。朝がたになって、雨が降りはじめ、その日はずっと雨だった。読者よ、この日のことを詳しく話してくれ、などといわないようにお願いしたい。前日と同じように、仕事を捜したが、冷たくされたのも前日と同じであり、ひもじい思いをしたのも前日と同じであった。食物はたったの一回きりしか、わたしののどを通らなかった。とある小さな農家のおもてで、女の子が冷たいポリッジを豚のえさ箱に投げ捨てようとしているのが目にはいった。
「それ、いただけません?」とわたしはいった。
女の子は、わたしの顔を穴のあくほど見つめた。「母さん!」と大声をあげると、「このポリッジが欲しいという女の人がいるよ」
「いいさ、おまえ」と家のなかから声がした。「乞食女なら、やってもいいよ。豚も食べないんだから」
女の子は、ポリッジの固まりをわたしの手にあけてくれた。わたしは、それをむさぼるように食べた。
雨の日の暮色が深まるころ、わたしは一時間以上も歩きつづけていた、人影のない馬道で立ちどまった。
「わたしの力は、どんどん衰えているわ」とわたしはひとりごとをいった。「これ以上、歩くことのできないのがわかる。今夜もまた、野宿することになるのだろうか? こんなに雨が降りしきっているのに、冷たい、ぬれた地面を枕にしなければならないのだろうか? そうせざるを得ないようだ。わたしを招きいれてくれる家など、どこにもないのだから。でも、ほんとうに恐ろしいことだわ――こんなにまで空腹とめまいと悪寒をおぼえ、こんなにまでわびしい気持ちになり――こんなにまで夢も希望もない状態に置かれるなんて。だが、たぶん、わたしのいのちは、夜明けまではもたないだろう。それにしても、このさしせまった死に身をゆだねることができないのはなぜかしら? 一文の値打ちもない人生を失うまいとあがいているのはなぜかしら? ロチェスターさまがまだ生きておられることを知っているか、信じているかしているからだわ。それに、飢えと寒さで死ぬなどということは、人間が唯々として従うことのできない運命であるからだわ。おお、神さま! もうすこし、わたしを生かしてください! 力をおかしください――お導きください!」
わたしは、どんよりした目で、うす暗い、もやのかかった風景を、ぼんやりと眺めまわした。村からはすっかり遠ざかってしまったらしい。村は影も形もなくなっている。村のまわりの耕作地さえ、姿を消してしまっている。間道や裏道を通っているうちに、荒れ野のそばまで逆もどりしていた。いま、わたしと夕暮れにつつまれた丘とをへだてているのは、ごくわずかの畑であったが、この畑はヒースのおい茂った荒れ野を開拓して作ったとはいっても名ばかりで、その荒れ野におとらないほどに草ぼうぼうの、不毛の土地であった。
「そうだわ。村道や、人通りのはげしい道ばたで死ぬよりも、あのむこうで死ぬほうがいいわ」とわたしは考えた。「わたしの骨が貧民院の棺におさめられて、貧民用の墓で朽ちはてるよりも、この肉をカラスやワタリガラスに――このあたりにワタリガラスがいるとしての話だけど――ついばませるほうが、ずっとましだわ」
そこで、わたしは丘にむかって、足をはこんだ。そして、そこにたどりついた。あとは身を横たえることのできるくぼ地を見つけ、安全とはいわぬまでも、すくなくとも人の目にはふれていないという気持ちになればいい。だが、荒れ野は一帯が平坦であるように見えた。変化といえば、色彩の変化だけで、藺草《いぐさ》やコケが湿地におい茂っているあたりは緑色であったが、乾いた土にヒースだけのはえているところは黒くなっている。あたりは暗くなっていたが、それでもこの変化だけは見わけられた。日が薄らぐとともに色も薄らいでいたため、光と影の交錯として目にうつるだけではあったのだが。
わたしの目はなおも、いかにもわびしい風景のなかに消えている、陰鬱な丘陵地帯や荒れ野の境い目のあたりをさまよっていた。そのとき、ずっと遠くの湿地と丘陵のあいだの、ぼんやりとした一点で、ぴかりと光るものがあった。「鬼火だわ」一瞬、そう感じたわたしは、すぐに消えてしまうだろうと思っていた。ところが、その火は、遠のくでもなく、近づくでもなく、一つのところでじっと燃えつづけている。「たき火に火をつけたところかしら?」とわたしは考えた。それが燃えひろがるかどうか、じっと目をこらしてみたが、その気配もない。小さくもならないし、大きくもならない。そこで、わたしは「どこかの家の、ろうそくの明かりかもしれないわ」と考えた。「でも、かりにそうだとしても、あそこまでは絶対に行けないわ。ちょっと遠すぎるもの。それに、一ヤード先だとしても、一体、なにになるというのよ? ドアをノックしたところで、門前払いを食わされるのが関の山だもの」
わたしはその場にへなへなとくずれるように倒れふすと、顔を地面に埋めた。しばらく、そのままで横になっていた。夜風が丘の上を、そしてわたしの上を吹きぬけ、うなり声をあげながら遠くへ消えて行く。降りしきる雨に、わたしはまたしてもびしょぬれになっている。この身が冷たく凍りついて、硬直してしまいさえすれば――ここちよい死の麻痺状態が訪れてくれさえすれば、いくら篠つく雨が降ってもかまわない。わたしはそれを感じなくなっているのだから。だが、まだ生き身のわたしは、冷たい雨に打たれてぞくぞくしてきた。やがて、わたしは立ちあがった。
先ほどの光は、まだ見えていた。雨のなかで、ぼんやりとではあったが、消えることなく輝いている。わたしはまた、歩いてみる気になった。疲れきった足を、光のほうにむかって、ゆっくりと引きずって行った。その光に導かれて、わたしは丘を横切り、大きな沼地をわたった。冬ならばとても通れない沼地で、真夏のいまでさえも、どろが深く、足もともおぼつかなかった。わたしは、ここで二度ころげたが、そのたびに立ちあがっては、元気をふるい起こした。その光は、わたしにとって、最後の希望であった。どうしても行きつかねばならなかった。
沼地をわたると、荒れ野の上に一筋の白いものが見えた。近づいてみると、それは道路というか、踏みならした小道であった。まっすぐに、例の光のほうへのびている。その光は、いまでは、木立ちに――夜の闇をすかして見える枝ぶりや葉ぶりから察したところ、どうやらモミの木らしかったが、その木立ちにかこまれた丘と思われるあたりで輝いている。近づくにつれて、わたしの星は姿を消してしまった。わたしとのあいだに、なにかじゃま物がはいりこんだのである。わたしは片手をのばして、目のまえの、なにやら黒いものにさわった。ごつごつした石でできた、低い塀らしいとわかった――その上には、矢来らしいものがあり、内側には高い、とげだらけの生け垣がある。わたしは手さぐりで歩きつづけた。すると、また、白っぽいものが、わたしのまえでぴかりと光った。それは門――くぐり門であった。手をふれると、ちょうつがいでとめてある戸が開いた。両側には、黒い植込みが――ヒイラギか、イチイの植込みがあった。
その門をくぐって、植込みのあいだを通りぬけると、低くて、かなり長い家のシルエットが黒々と浮かびあがってきた。だが、あのわたしを導いてくれた光は、どこにも輝いていない。一面のまっ暗闇である。家の人たちは寝てしまったのか? どうやら、そうにちがいない。ドアを捜して、家の角を曲がった。と、あのなつかしい光が、地面から一フィートたらずの高さにある、ごく小さなこうし窓のひし形のガラスごしに、またさっと射しだした。その窓は、窓のある壁一面にツタかなにかのつる草がおい茂って、その葉がぎっしりとふさになっているため、ますます小さくなっているような感じである。このようにうまく人目がさえぎられ、せまくもなっているので、この窓にはカーテンもよろい戸もいらないと思われているようであった。身をかがめて、窓のところにかぶさっている葉の茂った小枝をはらいのけると、なかが丸見えであった。床に砂をまいてある(昔、れんがの床に砂をまく習慣があった)、きれいに磨きあげた部屋が、はっきりと見える。ピュータ(スズと鉛または銅などの合金)製の食器がなん列も並んだクルミ材の食器戸棚には、燃えさかる泥炭《ピート》の火の赤い輝きがうつっている。時計、モミ材の白いテーブル、数脚の椅子も見える。わたしの道案内になって輝いていたろうそくが、テーブルの上で燃えている。そのろうそくの明かりのもとで、かなりいかつい感じだが、まわりのすべてと同じように、ごしごしこすったみたいにこざっぱりとした、かなりの年輩の婦人が、靴下を編んでいた。
わたしは、こうしたものにはちらっとしか目をくれなかった――変わったところがなにもなかったからである。もっとわたしの興味をひくグループが、暖炉のそばにいて、あふれるばかりのバラ色の平和とぬくもりのなかに静かに坐っていた。それは二人の若い、上品な女性で――どこから見ても淑女であったが――一人は低い揺り椅子に、もう一人はもっと低い|腰掛け《スツール》に腰をかけている。二人ともクレープとボンバジーン(絹とウーステッドのあや織り)の喪服を着ていたが、その地味な服装が、ぬけるように白い首と顔の線を浮きあがらせているのが印象的であった。ポインター種の大きな老犬が、一人の女性の膝がしらにどっしりした頭をのせ、もう一人の膝の上には、黒猫が一匹、まるくなっていた。
このような女性のいる場所としては、そのそまつな台所は、まことに不つりあいというほかはなかった! 一体、なに者なのだろうか? テーブルのところに坐っている年輩の婦人の娘ではなさそうだ。その婦人がいかにもいなかっぽいのに対して、二人はデリカシーと教養にあふれている感じである。この二人のような顔は、これまでに見たこともない。がしかし、じっと見つめていると、顔の造作の一つ一つに見おぼえのあるような気がしてくる。美人というのではない――美人と呼ぶには、顔色がよくないし、表情が固すぎる。それぞれ一冊の本に読みふけっているのだが、もの思いに沈んだ顔には、きびしさが漂っているかに見えるほどである。二人のあいだにある台には、もう一本のろうそくと、二冊の分厚い書物がのっていたが、二人がその書物をしばしば参照しながら、手にもっている小型の本と対照しているらしいようすは、辞書の助けをかりて翻訳の仕事をしている人を思わせた。この光景は、そこにいあわせる人がみんな影で、明かりに照らされた部屋が一枚の絵であるかのような感じがするほど、しんと静まりかえっていた。あまりの静けさに、暖炉の火床から落ちる灰の音や、うす暗い片隅できざむ時計の音まで聞こえてくるようであった。いや、年輩の婦人の編み棒のかちかちいう音まで、聞きわけられるような気になった。そのため、やがて、この奇妙な沈黙が人の声で破られたとき、わたしの耳には、その声がはっきりと聞きとれたのである。
「ねえ、ダイアナ」と読書にふけっている女性の一人がいった。「フランツとダニエル老人が、夜いっしょにいるのよ。フランツがこわくなって、さめてしまった夢の話をしてるのね――お聞きになって!」
やがて、その女性は、低い声で朗読したが、わたしには、ただの一語も理解できなかった。わたしの知らない言葉であった――フランス語や、ラテン語ではない。ギリシャ語なのか、ドイツ語なのか、わたしには見当がつかなかった。
「ここ、迫力があるわね」その女性は、読みおえると、そういった。「気にいったわ」
もう一人の女性は、顔をあげて、相手の朗読に聞きいっていたが、暖炉の火をじっと見つめながら、いま読まれた部分の一行をくりかえした。後日、わたしはその言葉がわかるようになり、その本のこともわかったので、ここにその一行を書きつけておく。だが、はじめて聞いたときには、よく響く鐘を打つようなもので(新約聖書、コリント人への第一の手紙、第十三章第一節への言及)、まったくちんぷんかんぷんであった。
「『そのとき、星の夜のごとき姿をしたる者、進みいできぬ』すてき! すてきだわ!」その女性は、黒い、深みをたたえた目を輝やかせて叫んだ。「影の濃い、力量感にあふれた大天使のイメージが、目のまえにはっきりと浮かびあがってくるのね! この一行は、大げさな文章の百ページ分にも匹敵するわ。『われは、なんじらの思想をば、わが憤りの皿にかけ、なんじらの仕業をば、わが怒りの分銅にて計る者なり』(ドイツの詩人、劇作家シラーの『偸盗』(一七八一)第五幕第一場からの引用)ここのところ、好きだわ!」
二人はまた、黙りこんでしまった。
「そんな言葉を話す国があるのでございますか?」老婦人は、編み物から目をあげてきいた。
「そうよ、ハンナ――イギリスよりずっと大きな国なの。ほかの言葉はしゃべらないのよ」
「おやまあ、どうやっておたがいの話がわかるのやら、わたしにはさっぱり見当がつきませんねえ。お嬢さまがたのどちらかがそこへ行かれた場合、むこうのいっていることがおわかりになりますでしょうね?」
「いっていることのなん分の一かはわかるでしょうけど、とてもぜんぶはわからないわ――あたしたち、おまえが思ってくれているほどかしこくはないのよ、ハンナ。ドイツ語は話せないし、辞書の助けがないと、読めもしないのだから」
「それで、なんの役に立つのでございますか?」
「いつかドイツ語を――せめて、その基礎といわれるものでも、教えようと思っているの。そうなれば、いまよりも収入がふえますからね」
「それはそうでございましょうが、もう勉強はおやめになられたら。今夜はそれで十分でございましょうから」
「そうらしいわね。すくなくとも、わたしは疲れたわ。メアリーはどうなの?」
「くたくたよ。辞書だけを先生にして、言葉をせっせと勉強するなんて、結局は、骨の折れることなのね」
「そうよねえ。この難解だけど、とってもすてきなドイツ語みたいな言葉の場合は、とくにそうなのよ。お兄さまはいつお帰りかしらね」
「もうそろそろじゃないこと。ちょうど十時ですもの」(ベルトのところから取りだした小さな金時計を見ていた)「よく降るわねえ。ハンナ、悪いけど居間の火を見てきてくれない?」
老婦人は立ちあがって、ドアを開けた。そのむこうに廊下がぼんやりと見えていた。やがて、奥の部屋で火をかき立てる音が聞こえ、ほどなくして老婦人がもどってきた。
「ああ、お嬢さまがた! いま、あの部屋にはいって行くと、ほんとに悲しくなってしまいますね。主のいなくなった椅子がすみっこに片づけられているのは、まったくわびしいものでございますよ」
ハンナはエプロンで目をふいた。それまでも表情の固かった二人の若い女性の顔に、いまは悲しさがあふれている。
「でも、だんなさまは、天国へ行かれたのですから」とハンナは言葉をつづけた。「この世へお帰りくださいなどと祈ってはなりますまい。それに、まったくの大往生でございましたからねえ」
「わたしたちのことは口にされなかったというのね?」と若い女性の一人がきいた。
「その余裕がなかったのですよ、お嬢さま。あっという間でしたからね、お父さまは。前の日にも、すこしお加減が悪いようでしたが、たいしたことはありませんでした。セント・ジョンさまがお嬢さまがたのどちらかをお呼びしようか、とおききになりましたら、大笑いされておられましたから。あくる日にも――つまり、二週間まえのことですが――すこし頭が重いといわれて、床におつきになったのですが、それっきり目をおさましにならなかったのです。お兄さまが部屋へ行って、気がつかれたときには、もう硬くなりかけておられましたです。ああ、お嬢さまがた! お父さまは、古い血統をつぐ最後のかたでございましたよ――お嬢さまがたも、セント・ジョンさまも、亡くなったかたがたとはちがっておられるようですからね。もっとも、お母さまはお嬢さまがたによく似ておられて、本好きのところも同じようでございましたが。メアリーさまはお母さまに生き写しでございますよ。ダイアナさまは、お父さま似のようでございますがね」
わたしには姉妹が瓜二つに思えていたので、この年輩の召使(わたしは、ハンナが召使にちがいないと思うようになっていた)のいうちがいがどこにあるのか、一向にわからなかった。二人とも色白で、きゃしゃな体格であり、二人とも個性と知性のあふれた顔をしている。一人の髪の色が、もう一人よりもすこし濃いことはたしかであったし、ヘア・スタイルもちがっていた。メアリーはうす茶色の髪をわけて、すっきりと編んでいたが、ダイアナの髪はもっと黒くて、ふさふさしたカールが首のあたりをかくしていた。時計が十時を打った。
「お食事を召しあがりになりますね」とハンナがいった。「セント・ジョンさまも、お帰りになったら、お召しあがりになるでしょうから」
こういって、ハンナは食事のしたくに取りかかった。二人の若い女性は立ちあがり、居間のほうへ行くようすであった。そのときまで、この人たちを観察するのに夢中になり、その姿や会話に強い興味をかき立てられていたので、わたしは自分自身の置かれているみじめな状態のことを、忘れかけていた。それがいま、あらためて思い出された。その自分の境遇が、これまでになくわびしく、絶望的に思われたのは、コントラストが強すぎるためであった。身の上話をして、この家の人たちの心を動かしたり、わたしの飢えや悲しみが嘘いつわりでないことを信じてもらったり――放浪のわたしに宿をかしてくれるように頼んだりすることは、とてもできない相談ではあるまいか! 手さぐりでドアを見つけ、遠慮がちにノックしながらも、わたしは宿をかしてもらうなどということ自体、とてつもない妄想にほかならないと感じていた。ハンナがドアを開けた。
「なんのご用です?」ハンナは、手にもったろうそくの明かりでわたしを眺めまわしながら、驚いたような声でいった。
「お嬢さまがたに、お話したいのですけど」とわたしはいった。
「ご用があったら、あたしにいってもらいたいね。あんた、どこからきなさったね?」
「土地の人間ではありません」
「こんな時間に、なんの用があるのかね?」
「納屋かどこかで、一晩泊めていただきたいのです。パンもすこし、いただけたら」
不信の表情が、わたしがいちばん恐れていた感情が、ハンナの顔にあらわれた。「パンの一切れくらいなら、あげるよ」すこし間をおいてから、ハンナはいった。「しかしだね、浮浪者を泊めるなんてことは、できないね。とんでもないことだよ」
「お嬢さまがたにお話をさせてください。お願いです」
「だめ、だめ。お嬢さまがたが、あんたになにをしてやれるとおいいだい? いまごろ、うろつきまわっているなんて、いけないよ。うさんくさい感じだからねえ」
「でも、ここを追い出されたら、わたし、どこへ行けばいいでしょう? どうすればいいでしょう?」
「ああ、そんなこといって、どこへ行くか、どうすればいいかは、ちゃんと知っているんだろ。悪いことをしちゃいけないよ、いいかい。一ペニー、あげるから。とっとと、出てお行き――」
「一ペニーでは、おなかは大きくなりませんわ。それに、わたしにはもう、歩こうにも力がないのです。ドアを閉めないで! ――おお、後生ですから、閉めないで!」
「そうはいかないさ。雨が吹きぶっていることだし――」
「お嬢さまがたにお取りつぎください――お目にかからせてください――」
「とんでもない。あんたは、まっとうな女じゃないね。まっとうな女なら、そんなに騒ぎたてたりしないさ。とっとと行っておしまい!」
「でも、ここから追い出されたら、死ぬほかはありません」
「死ぬもんかい。なにかよくないことを企んでいるから、夜の夜なかに、他人さまの家のまわりをうろついているんだね、あんたは。この近くに、相棒でも――強盗だかなんだか知らないけど――いるんだったら、その連中にいっておくれよ、この家は女ばかりじゃないってね。男手もあるし、犬だって、銃だって、こと欠かないんだから」
こういうと、正直だが、がんこ一点ばりの召使は、ドアをばたんと閉め、なかからかんぬきをかけた。
頼みの綱も切れはてた。わたしの胸は、激しい苦悩の痛みに――きわみない絶望の苦しみに、引きさかれ、大きくあえいだ。わたしは芯の芯まで疲れはてていた。足をまえに踏み出すことさえできなかった。わたしは雨にぬれた戸口の上がり段に、くずれるように倒れた。うめき声をあげた――両手をもみ絞った――苦闘のはてに、涙をはらはらと流した。ああ、この死の幻影よ! ああ、この上ない恐怖のうちに近づいてくる、この臨終のときよ! ああ、この孤独の身よ――この人間社会から追放された身よ! 希望の錨《いかり》だけでなく、勇気の足場までもが、なくなっていた――すくなくとも、ある瞬間だけは。だが、やがてまた、わたしはその勇気の足場を取りもどそうと、努力しはじめていた。
「死ぬしかないわたしだが、わたしは神を信じている」とわたしはいった。「心静かに、神の意志の訪れを待つことにしよう」
この言葉は、わたしの心に浮かんだだけでなく、わたしの口をついて出てきた。そして、わたしの不幸のすべてを胸のなかに押しもどすと、それを奥ふかく――声一つたてず、ひっそりとしたままで、そこに閉じこめておこうと努力した。
「人はみな、死なねばならない」という声が、わたしのすぐそばで聞こえた。「しかし、すべての人間が、ここで飢え死にするあなたみたいに、なぶり殺しにも似た形で若死にする運命にあるとはかぎらない」
「その声は、だれ? どなたなの?」とわたしは反問したが、思いがけない声にぎょっとしてはいたものの、いまではなにが起こっても、助かる見込みなど立ちはしないという気持ちになっていた。すぐそばに、人影が立っていた――が、まっ暗闇であった上に、わたしの視力が弱っていたので、こまかいことまではわからなかった。その新来の人物は、大きな音をたてて、なん回もドアをノックした。
「セント・ジョンさまでございますか?」とハンナが大声できいている。
「そうだ――そうだよ。早く開けてくれたまえ」
「おやまあ、こんな大荒れの晩ですから、さぞかしぬれて、お寒いことでしょうよ! お帰りなさいませ――お妹さまがたも、ひどく心配しておられます。それに、悪い者たちが、近所をうろついているにちがいありませんよ。乞食女がきておりまして――おや、まだ、ぐずぐずしているんだね! ――そんなところに、寝ころがったりして。起きるんだよ! あきれたもんだ! とっとと行っておしまいったら!」
「もういいよ、ハンナ! この人に話があるのだから。おまえはりっぱに役目をはたして、この人を追いはらったのだから、こんどは、わたしにも役目をはたさせてくれたまえ。この人を家のなかへいれるという役目だがね。近くまで帰っていたので、おまえたち二人の話を聞かせてもらった。わたしの考えでは、なにか特別の事情があるらしい――調べるだけは調べてみなくては。娘さん、お立ちなさい。わたしの先に立って、家へはいりなさい」
やっとの思いで、わたしはいわれるとおりにした。やがて、わたしはあの磨きあげた、明るい台所のなかに――その暖炉のすぐそばに立っていた。ぶるぶるとふるえ、悪寒をおぼえながらも、わたしはいやというほど青ざめ、恐ろしげな格好をした、ぬれネズミの自分の姿を意識していた。二人の若い女性と、兄のセント・ジョンと、年輩の召使の四人が、わたしをじっと見つめていた。
「お兄さま、だれなの?」と若い女性の一人がたずねるのが聞こえた。
「わからない。戸口にいたんだ」という返事。
「まっさおな顔でございますね」とハンナ。
「土くれか、死人みたいな顔色よね。倒れそうよ。椅子に坐わらせたら」
事実、わたしは頭がくらくらして、へなへなと倒れかかったが、椅子がわたしを受けとめてくれた。まだ意識ははっきりしていたが、それでも口をきくことはできなかった。
「水をすこし飲んだら、元気になるかもしれないな。ハンナ、水をもっておいで。しかし、見る影もないくらいにやせてるな。やせ細って、血の気がまったくないじゃないか!」
「幽霊みたいね!」
「病気なのかしら? それとも、おなかをすかしているだけかしら?」
「おなかがすいているのだと思うわ。ハンナ、それ、ミルクなの? こちらへちょうだい、パンも一切れね」
ダイアナは(わたしのほうにかがみこんだとき、わたしと暖炉のあいだにはらりと落ちかかった長いカールで、ダイアナとわかった)、パンをちぎると、それをミルクにひたして、わたしの口先にまでもってきてくれた。その顔がわたしの目のまえにあったが、そこには、お気の毒に、という表情がうかがわれ、はげしい息づかいにも、同情がこもっているのを、わたしは感じとった。さりげない言葉にもまた、同じような鎮静剤を思わせる感情がみちあふれていた。「食べてごらんなさい」
「そうよ――食べるのよ」とメアリーもやさしい言葉をくりかえした。そして、そのメアリーの手がわたしのびしょぬれの帽子《ボンネット》をぬがせて、わたしの頭をささえてくれた。わたしは、さし出されたものを口にした。最初は、その元気もなかったが、やがてがつがつと食べはじめた。
「はじめは、たくさんやらないほうがいい――がまんさせなくては」とセント・ジョンがいった。「このくらい食べれば、もういい」
そういいながら、セント・ジョンは、ミルクカップとパン皿を片づけてしまった。
「もうすこし、いいでしょ、お兄さま――このむさぼるような目つきをごらんなさいよ」
「いまのところは、これくらいでいいのさ。話ができるかどうか、ためしてみるんだな――名前をきいてみろよ」
わたしは、口がきけるように思ったので、返事をした――
「名前は、ジェイン・エリオットです」
見つからないようにしなくては、とたえず思っていたので、わたしは偽名を使うことを、まえからきめていたのである。
「それで、どこに住んでいるのかね? 友だちは?」
わたしは黙っていた。
「連絡のとれる知り合いでも?」
わたしは首を横にふった。
「あなたの身の上について、なにか聞かしてくれませんか?」
どういうわけか、この家の敷居をまたぎ、家人と顔をあわせるようになって以来、わたしは自分が宿なしで、放浪の身で、広い世間から見捨てられた人間であるという気持ちがしなくなっていた。乞食のまねをすることはやめよう――本来のわたしの態度と性格にもどろう、という気になっていた。自分自身を再認識しはじめていたのである。そこで、セント・ジョンに身の上話をしろといわれたとき――いまは弱りきっていて、とても無理ではあったのだが――すこし間をおいてから、こう答えた――
「今夜は、くわしいことは申しあげられません」
「じゃ、わたしになにをしろというのかね?」
「なんにも」とわたしは答えた。わたしの体力では、短い受け答えをするのがやっとであった。
わたしの言葉を受けて、ダイアナがすぐに口を開いた。
「あなたに必要な手助けを、わたしたちがもうしてあげたという意味なの? あなたを荒れ野や、雨の降る夜空のもとへ追い出してもいいという意味なの?」
わたしはダイアナを見つめた。力と善意とにあふれた、すばらしい顔だちだわ、とわたしは思った。突然、勇気がわいてきた。ダイアナの同情にみちた視線に笑顔で答えながら、わたしはいった――
「あなたを信じますわ。わたしが行き暮れた野良犬であっても、今夜、この暖炉のそばから追いはらうようなまねはなさらないことを、わたしは知っています。ですから、わたしは安心しきっているのです。わたしのためなら、好きなようになさってください。でも、くわしい話は、お許しくださいませ――息がつづかないのですから――口をきくと、発作が起きそうになります」
三人とも、わたしを眺めまわすばかりで、なにもいわなかった。
「ハンナ」やっと、セント・ジョンが口を開いた。「しばらくは、ここに坐らせておやり。なにもきいては、いけないよ。十分たったら、そのミルクとパンの残りをあげるんだな。メアリーにダイアナ、居間へ行って、相談しようじゃないか」
三人は出て行った。かと思うと、すぐにまた若い女性の一人がもどってきた――どちらかはわからなかったが。暖炉のまえにぬくぬくと坐っていると、こころよい昏睡にも似た気分がしのびよってくる。引き返してきた女性は、ハンナになにやら指図をしている。やがて、わたしはハンナの助けをかりながら、やっとのことで階段をあがった。ずぶぬれの衣類がぬがされ、ほどなくして、暖かく、乾いたベッドがわたしを迎えてくれた。わたしは神に感謝した――言語に絶した極度の疲労のなかで、みちたりた感謝と歓喜の気持ちを味わいながら、わたしは眠りにおちていった。
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二十九章
このあとのおよそ三日三晩についての記憶は、いまではごくおぼろにしか残っていない。この期間に感じたことは、いくらか思い出せるが、なにを考えていたかは、ほとんどおぼえていないし、なにをしたかという点になると、すっかり忘れてしまっている。小さな部屋にいて、せまいベッドに寝ていることは、わかっていた。そのベッドに、根がはえてしまったみたいに、身動き一つせず、石のように横になったままのわたし。ベッドからわたしを引きはなすことは、わたしに死ねというようなものであったろう。わたしは時の流れに――朝から昼へ、昼から夜への変化に気づかなかった。だれかが部屋に出はいりするのは、わかっていた。それがだれであるかさえもわかったし、そばに立った人が口にする言葉も理解できたのだが、わたしには答えることができなかった。口を開けたり、手足を動かすことも、やはりだめであった。召使のハンナが、いちばん足しげくやってきた。そのたびに、わたしの心はかき乱された。この女は、わたしがいなければいいと思っている。わたしのことも、わたしの境遇もわかっていない。わたしに偏見をもっているのだ、とわたしは感じていた。ダイアナとメアリーは、一日に一、二回、部屋に顔を見せてくれた。二人は、わたしの枕もとで、こんなことをささやきあっていた――
「このかたをお世話してあげて、よかったわねえ」
「ほんと。一晩じゅう閉め出されていたら、朝には戸口で死体になって見つかっていたにちがいないわよ。どんな目に会ってきたのかしらね」
「想像のつかないような苦しみよ、きっと――やせ細って、青ざめた姿で放浪するなんて、かわいそう!」
「話しぶりから察したところ、教育のない人じゃなさそうよ。発音はすごくきれいだったし、ぬいだ洋服も、泥だらけで、ぬれてはいたけど、あまり古びていなかったし、品もよかったわ」
「変わった顔をしてるわね。肉がおちて、やつれてはいるけど、わたしは好きよ。健康で、生き生きしているときには、感じのいい顔だちだと思うわ」
こうしたやりとりのあいだ、わたしに親切をほどこしたことを後悔する言葉や、わたしを疑ったり嫌ったりする言葉は、ただの一言も聞かれなかった。わたしは、ほっとした気持ちになった。
セント・ジョンは、たった一度だけやってきて、わたしのようすを見てからいった。この昏睡状態は、長いあいだの極度の疲労に対する反動として生じたものだ。医者を呼んだりする必要はあるまい。自然のままにほっとくのが、なによりの薬になるにちがいない。どういうわけか、神経が一本残らず緊張しきっているので、しばらくは、全身をなにもせずに眠らせねばなるまい。病気があるわけではない。なおりはじめたら、回復は早いのではあるまいか。こういった意味のことを、セント・ジョンは言葉すくなに、落ち着いた、低い声で述べたあと、しばらく間をおいてから、ながたらしい意見を述べることに不なれな人のような口調で、こうつけ加えた――
「珍しい顔だちといえるな。下品な心や堕落した精神を表わしていないことは、はっきりしている」
「まるっきり、その反対よ」とダイアナが答えた。「ほんとうのことをいうとね、お兄さま、わたしはこのかわいそうな人に、心を引かれているのよ。わたしたちがいつまでもお世話してあげられればいい、と思っていますわ」
「それは、できない相談だな」というのが、セント・ジョンの返事であった。「そのうちに、この娘さんが周囲の者と仲たがいをして、無分別にも家出をしてきたらしいということがわかるよ。この人が意地っぱりでなければ、うまく元のさやにおさめることができるかもしれないがね。しかし、この顔に意志の強そうな線がでているところを見ると、御しやすい人間ではあるまいという気がしてくるよ」
セント・ジョンは、しばらくのあいだ、わたしの顔を見ながら立っていたが、やがてこうつけ加えた――
「分別のありそうな顔だが、とても美人とはいえないな」
「この人、ひどい病気なのよ、お兄さま」
「病気であろうがなかろうが、器量の悪いことに変わりはないさ。この顔には、優雅で、調和のとれた美というものが、まるで欠けている」
わたしの容態は、三日目にはずっとよくなり、四日目には、口をきいたり、からだを動かしたり、ベッドに起きあがったり、寝返りをうったりできるようになった。昼食時間と思われるころに、ハンナがオートミルとバターなしのトーストパンをもってきてくれた。わたしはそれをおいしく食べることができたし、食物の味もよかった――これまでのように、熱のため口にいれるものの味が悪くなるということもない。ハンナがいなくなると、これまでになく元気がでて、生き返ったような気持ちになった。やがて、寝たままでいるのにもあき、からだを動かしたいという衝動で、うずうずしはじめた。ベッドをはなれたいと思った。がしかし、なにを着ればいいのだろう? 地面に寝たり、沼地でころんだりした、びしょぬれの、泥にまみれた洋服しかない。そんな洋服を着て、世話になった人たちのまえに出るのは、恥ずかしかった。だが、そんなみじめな思いをしなくてもよかったのである。
ベッドのそばの椅子の上に、きれいに洗たくしてかわかしたわたしの持ち物がぜんぶ、のっていた。黒いシルクのドレスも壁にかかっている。泥のあとはふきとられ、ぬれたためにできたしわもアイロンをかけられて、ぱりっとした感じになっている。靴や靴下まで、きれいになり、人前にはいて出てもおかしくないようになっていた。部屋のなかに洗面の設備があったし、整髪用の櫛やブラシもそろっていた。わたしは、のろのろとした動作で、五分ごとに一息いれながら、やっと身じたくをととのえた。洋服がゆるくなっていたのは、すっかりやせてしまったためであった。だが、不格好なところをショールでごまかし、やっとまたこざっぱりとした、なんとか見られるような姿になって――わたしの品を落とすように思われて、いやでいやでたまらなかった泥のよごれ一つも、しわのあと一本もない服装で――手すりにもたれかかりながら、石の階段をはうようにしており、せまくて低い廊下を通りぬけると、やがて台所に行きついた。
台所には、やきたてのパンのおいしそうなにおいと、気前よくもえる暖炉の火のあたたかさがみちあふれていた。ハンナはパンをやいていた。周知のように、精神の土壌が教育によって耕されたり、肥やされたりしたことのない人間の場合、偏見を取り除くことはきわめて困難である。石ころにまじった雑草のように、根ぶかくはびこっているからである。たしかに、ハンナは、最初のうちは冷淡で、つんつんしていたが、このごろは、すこし打ちとけるようになっていた。そして、わたしが身づくろいをして、きちんとした服装で台所にはいってきたのを見て、にっこり笑いさえした。
「おや、起きてきたのかい? じゃ、もうよくなったんだね。なんだったら、暖炉のまえにあるあたしの椅子に腰をかけてもいいよ」
そういって、ハンナは揺り椅子を指さした。わたしはそれに腰をおろした。ハンナは、忙しそうに動きまわりながら、ときおり横目でわたしのほうをちらちら見ている。やけたパンをオーブンから取り出しながら、わたしのほうをふりむくと、ぶしつけに切り出した――
「ここへくるまえにも、乞食をしたことがあるのかね?」
わたしは、一瞬、むっとなった。しかし、怒ったところで仕方のないことだし、それに、ハンナの目にはわたしが乞食にうつったにちがいない、と思いなおして、おだやかな口調で答えたが、それでも、毅然とした態度を取ることは忘れなかった――
「わたしが乞食だなんて、見当ちがいですよ。わたしは、乞食なんかじゃありません。あなたや、ここのお嬢さまがたが乞食でないようにね」
しばらくして、ハンナはいった。「あたしには、さっぱりわからないね。あんたには家もなければ、山吹き色のものもないのじゃないかね?」
「家がないからといって、山吹き色のものが(お金のことだと思うけど)ないからといって、あなたのいっているような意味の乞食にはなりませんわよ」
「あんたは学問があるのかね?」やがてまた、ハンナがきいた。
「ええ、ありますとも」
「それでも、寄宿学校へいったことはあるまいね?」
「寄宿学校なら八年もいたわよ」
ハンナは目をまんまるくした。「それなのに、どうして自活できないのかねえ?」
「自活してきたわよ。これからも、ちゃんと自活できますわよ。そのグースベリ、どうなさるの?」ハンナがグースベリの実のはいったバスケットを取り出したので、わたしはそういった。
「パイにいれようと思って」
「こちらにかしてよ。摘んであげるから」
「いいって。なにもしてもらわなくてもいいんだから」
「でも、なにかしなくては。おかしなさいったら」
ハンナはいわれるとおりにしただけでなく、わたしのドレスの上にかけるきれいなタオルまでもってきてくれて、「よごすとたいへんだからねえ」といった。
「女中奉公には慣れていないようだねえ。手を見るとわかるよ。仕立て屋じゃなかったのかい?」
「いいえ、そうじゃないわ。さあ、もうわたしの過去のことなど、かまわないで。わたしのことで、気をつかうのは、そのくらいにしてくれないかしら。そんなことより、この家の名前を教えてよ」
「マーシュ・エンド(「沼地のはずれ」の意)と呼ぶ人もあれば、ムア・ハウス(「荒れ野の家」の意)と呼ぶ人もあるよ」
「それで、ここに住んでおられる男のかたが、セント・ジョンさまというのね?」
「いいえ、ここにお住みというわけじゃないですよ。ちょっと帰っておられるだけでね。ご自宅は、モートンの、ご自分の教区にあるのですよ」
「二、三マイル先の村?」
「そうですよ」
「それで、ご職業は?」
「牧師さま」
わたしは、あの牧師館で、牧師に会いたいといったときの、年とった家政婦の返事を思い出した。
「じゃ、ここはお父さまのお家というわけなのね?」
「そうですよ。先代のリヴァーズさまも、そのお父さまも、おじいさまも、そのまえのひじいさまも、みんなここにお住まいでね」
「すると、あのかたのお名前は、セント・ジョン・リヴァーズというのね?」
「そうですよ。セント・ジョンは、洗礼名というわけでしてね」
「それで、妹さんがたのお名前は、ダイアナ・リヴァーズに、メアリー・リヴァーズというのね?」
「ええ」
「お父さまは、お亡くなりになったのね?」
「三週間まえに、卒中でね」
「お母さまはいらっしゃらないのね?」
「奥さまは、なん年もまえに亡くなりなさったよ」
「あなたは、ご一家と長いあいだ暮らしているの?」
「ここに住むようになって、三十年になりますよ。三人とも、あたしがお育てしたのだから」
「ということは、あなたが正直で、忠実なお手伝いさんであったということになるわけね。その点はみとめてあげてもいいわよ、わたしのことを、失礼にも乞食だなんていったあなただけど」
ハンナはまた、びっくりしたような目つきで、わたしをまじまじと見つめた。
「あたしは、あんたのことをすっかり考えちがいしていたらしいよ。いんちきな連中がうろうろしているさいでもあるし、かんべんしてやってください」
「それによ」とわたしはかなりきびしい口調でいった。「あなたは、犬さえ閉め出せないような晩に、わたしを玄関から追いはらおうとしたのよ」
「そりゃ、たしかにむごいことをしました。しかし、一体、どうすればよかったというのです? あたしは、自分のことより、お子たちのことを気づかっていたのです。かわいそうなかたたちですよ! あたしのほかには、面倒をみてあげる者がいないのですから。すこしばかり手荒になるのも無理はないですよ」
わたしは数分間、こわい顔をして、押し黙っていた。
「あたしのことを、ひどい人間だと思わないでくださいよ」とハンナはまた声をかけてきた。
「でも、わたしはやっぱりひどい人だと思うわ。そのわけをいってあげるわね――あなたがわたしを泊めてくれなかったからでも、わたしのことをぺてん師と思ったからでもないの。たったいま、わたしに『山吹き色のもの』や家がないことを、わたしを非難するための材料に使ったからなのよ。これまでにも、恥じるところのないりっぱな人物のなかに、わたしと同じように無一物の人がいたのですからね。あなたがキリスト教徒なら、貧乏を罪悪だなんて考えてはいけないわよ」
「これからは気をつけます。そのことは、セント・ジョンさまからも聞かされているのですから。あたしはどうやら考えちがいをしていたようだ――あんたという人を、すっかり見なおしてしまったよ。あんたは、ほんとうにまっとうなかたらしいね」
「もういいの――かんにんしてあげるわ。握手しましょ」
ハンナは粉だらけの、がさがさした手を、わたしの手ににぎらせた。もう一度、まえにもまして人なつっこい微笑が、ハンナのいかつい顔に輝いた。その瞬間から、わたしたちは仲よしになったのである。
ハンナは、どうやら話し好きらしい。わたしがグースベリの実を摘んでいるそばで、パイ用のペーストをこねながら、亡くなった主人夫妻や、「お子たち」と呼んでいる若い人たちについて、こまごまと、とりとめのない話をしはじめた。
ハンナの話では、セント・ジョンの父親は、ごく平凡な人であったが、ちゃんとした紳士で、だれにもひけをとらない旧家の出でもあった。マーシュ・エンドは、建造以来ずっとリヴァーズ家のものであって、ハンナの証言するところでは、「建ってから、二百年くらいになりますか――ただの小さな、あばら家で、モートン谷にあるオリヴァーさんの堂々としたお屋敷とはくらべものにはなりませんがね。それでも、あたしは、ビル・オリヴァーのおやじさんが、針作りの職人であったことをおぼえてますよ。ところが、リヴァーズ家ときたら、モートン教会の保管室にある戸籍簿を見れば一目でおわかりになるように、ヘンリー王の時代に(ヘンリー七世とヘンリー八世は、一四八五年から一五四七年にかけて、イギリスを統治した)、紳士の身分であったのですから」とはいっても、ハンナもみとめているように、「亡くなったご主人さまは、ほかのかたたちと同じで――普通と変わったところはちっともなかったねえ。狩猟やら、農業やらのことに、それは熱心な人だった」だが、女主人は、ちがっていた。たいへんな読書家で、なかなかの勉強家でもあった。三人の「お子たち」は、この母親の血をひいている。この近辺で、三人にかなう者は、現在はおろか、これまでにもいたためしがない。三人とも、口がきけるようになるかならないころから、勉強が大好きで、かねてから「世間にザラにはないタイプ」といわれている。成人したセント・ジョンは、大学へ行って牧師になり、二人の娘は、学校を出るとすぐに家庭教師になった。ハンナが子どもたちから聞いた話では、数年まえ、信頼していた男の破産が原因で、父親が多額の金を失う羽目となり、いまでは三人に財産分けをするゆとりもなくなったので、自分たちで生活の道を切り開かねばならないとのことであった。三人がこの家で暮らすことは、このなん年間というもの、めったになかったし、今回も、父親が死んだために、二、三週間の予定で帰っているにすぎない。しかし、三人は、マーシュ・エンドやモートン、それにあたりの荒れ野や丘が大のお気にいりであった。ロンドンをはじめ、たくさんの大都会へ行ったこともあるのに、わが家ほどいいところはないと、いつもいっている。それに、兄妹の仲がたいへんにいい――口げんかや「いがみあい」は絶対にない。こんなに仲よく暮らしている家族は珍らしいですね、とハンナはいった。
グースベリの実を摘む仕事がおわったところで、わたしは、二人のお嬢さまとお兄さまはどこへ行かれましたの、ときいた。
「モートンへ散歩に行かれましたがね。半時間もすれば、お茶にもどられますよ」
三人は、ハンナがいったとおり、半時間たたないうちにもどって、台所のドアからはいってきた。セント・ジョンは、わたしを見ると、頭をさげただけで、そのまま行ってしまった。二人の女性は、足をとめた。メアリーは、わたしが階下におりてこられるほどに回復したのを喜んでいるといった意味のことを、言葉すくなに、やさしく、落ち着いた口調でいった。ダイアナはわたしの手を取ると、わたしを見つめながら首を横にふった。
「わたしがおりてきてもいいというまで、じっとしていなくては。まだ顔色もすぐれないようだし――それに、こんなにやせてしまって! かわいそう! ――ほんとうにかわいそうなかたね!」
ダイアナの声は、わたしの耳には、ハトの鳴き声のような響きをもっている。その目にじっと見つめられると、こちらもついうれしくなって見返してしまう。その顔全体に魅力があふれている感じであった。メアリーの顔も同じように理知的であり、顔だちも同じようにととのっている。だが、メアリーの表情はもっとひかえめで、態度にしても、おだやかではあるが、ずっとよそよそしい。ダイアナの場合、顔つきにも話しぶりにも、一種の威厳があふれていて、意志の強い人であることは歴然としていた。わたしには生まれつき、ダイアナのような、見せかけだけでない威厳の持ち主の命令に嬉々として従ったり、わたしの良心と自尊心の許す範囲内において、積極的な意志の持ち主の意見をすすんで聞きいれたりする癖があった。
「それに、こんなところで、なにをしていらっしゃるの?」とダイアナは言葉をつづけた。「ここは、あなたのいる場所ではないわ。メアリーとわたしは、台所に坐りこむことがときどきあるけれど、家に帰ったときくらい、思いっきり羽をのばして、自由にしていたいという気があるからなの――でも、あなたはお客さまよ。居間のほうにいらっしゃらなくては」
「ここでいいのですわ」
「ちっともよくはないわ――ハンナがばたばた動きまわって、あなたは粉だらけじゃないのよ」
「それに、あんまり熱い暖炉の火は、からだによくないわ」とメアリーが横から口をはさんだ。
「そうですとも」と姉のダイアナもいった。「さあ、いうとおりにするのよ」そういいながら、わたしの手をにぎったまま、ダイアナはわたしを立ちあがらせ、奥の部屋へ案内してくれた。
「ここにお坐りになって」わたしをソファに坐らせながら、ダイアナはいった。「着がえをすませてから、お茶の用意をしてきますからね。この荒れ野のなかの小さな家にもどったときの、わたしたち二人の特権なのよ――気がむいたときや、ハンナがパンをやいたり、お酒をしこんだり、洗たくをしたり、アイロンかけをしたりしているときなどに、わたしたちで食事の用意をすることも」
ダイアナがドアを閉めると、わたしは、本か新聞を手にもって、むかいに坐っているセント・ジョンと二人きりになった。わたしは、まず居間の、それから、そこに坐っている人物の観察にとりかかった。
居間は、かなり手ぜまで、家具もごく質素であったが、清潔整頓がゆきとどいていたので、いごこちは満点であった。光り輝くばかりの古風な椅子が数脚と、姿見みたいにぴかぴかのクルミ材のテーブル。しみのついた壁には、一昔まえの男女の、風変わりな、古色蒼然とした肖像画が二、三枚かかっている。ガラス戸のはいった戸棚には、数冊の本と、古めかしい陶器のセット。部屋には、余計な装飾品など一つもない――モダンな家具といえば、サイドテーブルの上にのっている、ペアになった裁縫箱と、シタン製の婦人用手文庫だけであった。すべてが――カーペットやカーテンをふくめて――十分に使いこまれているだけでなく、手入れも十分に行きとどいていた。
セント・ジョンは――壁にかかっている黒ずんだ肖像画みたいに身動き一つせずに坐り、目は読んでいる本のページに釘づけにしたままで、唇もおしのように閉じたきりである――まことに観察しやすい人物であった。人間ならぬ彫像であったとしても、これほどに容易ではなかっただろう。若くて――二十八から三十といったところであろうか――背が高くて、すらっとしている。顔は人目をひきつけずにはおかない。まことに彫りのふかい、ギリシャ人を思わせる顔。この上なく形のととのった、古典的な鼻。アテネ的としかいいようのない口と顎。イギリス人の顔が、セント・ジョンの場合ほどに古代人の典型に近づくのは、稀有のことであるにちがいない。これほどに調和のとれた顔の持ち主であるから、わたしのアンバランスな顔を見て驚いたとしても不思議はない。大きな青い目に、茶色のまつ毛。象牙のように白くて、ひろい額には、ふさふさした金髪がいかにも無造作に、ぱらりとたれさがっている。
こう書いてくると、読者はおっとりとした人物を想像するのではないだろうか? だが、当の本人から受ける印象は、おっとりとした人物、柔軟性のある人物、感受性のゆたかな人物、さらにはまた、おだやかな人物といった感じからもほど遠い。このように黙って静かに坐っているいまでも、鼻孔や口や額のあたりには、どことなく内に秘めた落ち着きのなさ、冷酷さ、はげしさといった資質があらわれているように見うけられる。妹たちがもどってくるまで、セント・ジョンは、わたしに一言も声をかけなかったばかりか、目をくれることさえもしなかった。お茶の用意のために、部屋を出たりはいったりしていたダイアナが、オーブンの上でやいた小さなケーキをもってきてくれた。
「それをお食べになって。おなかがすいているでしょ。ハンナの話では、朝からオートミルしか食べていないそうね」
わたしは遠慮しなかった。食欲がでてきて、おなかがきゅうきゅういっていたからである。セント・ジョンはやおら本を閉じ、テーブルのところへやってくると、席につきながら、絵に描いたような青い目で、わたしを真正面からじっと見すえた。その視線には、ぶしつけなまでの露骨さと、まばたき一つせずに相手をさぐってやろうという決意とがありありとうかがわれたが、そのことは、これまで他人のわたしから目をそむけていたのが、内気なためではなく、まったく意図的なものであったことを物語っていた。
「ずいぶんとおなかをすかしているのですね」とセント・ジョンはいった。
「そうなんです」
簡潔な言葉には簡潔に、率直な言葉にはかくし立てなく応じるのが、わたしの性分である――ずっと昔から、本能的に身についた性分であったのだ。
「この三日間、微熱のために食がすすまなかったのが、かえってよかった。いきなり食べたい放題に食べていたら、たいへんなことになっていたかもしれない。いまはもう、食べてもいいですよ。暴飲暴食はいけないが」
「いつまでも食いかかるようなまねはいたしませんわ」わたしは、いかにも取ってつけたような、品がいいとはいえない返事をしてしまった。
「そうですとも」とセント・ジョンは落ち着いた声でいった。「あなたの知人がどこに住んでいるかを教えてくだされば、こちらから連絡をとって、無事に送りとどけてあげられますよ」
「はっきり申しあげておかねばなりませんが、それはわたしにはできかねることです。家もなければ、友だちもいない、一人ぼっちのわたしなのですから」
三人はわたしを見つめたが、わたしを疑っているふうではなかった。そのまなざしには疑惑の影というよりも、好奇心のほうが強くうかがわれるように感じられた。これは、とくに若い女性二人についていえることであった。セント・ジョンの目は、文字どおりにすみきっていたが、比喩的な意味でも底知れない感じであった。その目を、自分の考えをあらわすための窓というよりも、他人の考えをさぐり出すための道具に使っているらしい。鋭敏さが慎重さとからみ合っている点は、相手を勇気づけるよりも、当惑させるのにはるかに適していた。
「ということはですね」とセント・ジョンがきいた。「あなたが天涯孤独という意味ですか?」
「そうです。わたしに結びついている人間の絆は、ただの一本もございません。イギリス中を捜しても、わたしが出はいりできるといえる家は、ただの一軒もございません」
「あなたの年ごろにしては、まったく珍らしい境遇ですね!」
このとき、セント・ジョンの目が、テーブルの上で組んでいるわたしの手にむけられたのに気づいた。なにをさぐっているのかしら、と思ったが、つぎの言葉を聞いて、捜していたものがなんであったかが、すぐにわかった。
「結婚の経験はないのですね? 独身なのですね?」
ダイアナが笑い出した。
「だって、お兄さま、せいぜいで十七か十八といったところなのよ」
「もうすぐ十九ですけど、結婚はいたしておりません。結婚だなんて」
わたしは顔がかっかとほてるのをおぼえた。結婚という言葉を耳にして、いろいろのつらい思い出が呼びさまされ、わたしの心は乱れた。三人ともわたしの困惑と動揺に気がついた。ダイアナとメアリーは、真っ赤になったわたしの顔から目をそらしてくれたが、もっと冷たくて、手きびしい兄のセント・ジョンは、自分の発言がかきたてた動揺のために、わたしが赤面するばかりか、流したくもない涙を見せるようになるまで、じっと見つめつづけていた。
「これまでどこに住んでいたのです?」とセント・ジョンはまたききだした。
「根ほり葉ほりきくのは失礼というものよ、お兄さま」とメアリーが小声でいった。
だが、セント・ジョンはテーブルに身をのり出すと、またしても有無をいわせぬ、刺すような目つきで、わたしに返事をするようにうながした。
「わたしが住んでいたお屋敷の名前や、ご主人さまのお名前は、絶対に申しあげられません」とわたしはきっぱり答えた。
「わたしの意見だけど、あなたさえその気なら、相手が兄であろうが、だれであろうが、あなたにはそれを秘密にしておく権利があるわよ」とダイアナがいった。
「しかし、あなたやあなたの過去を知らないのに、力をかしてあげるわけにいきませんよ」とセント・ジョンはいった。「だって、あなたは力をかして欲しいんでしょう?」
「それはそうです。でも、援助を求めていると申しましても、せいぜい――どなたか、ほんとうに情けぶかいかたにお願いして、わたしにできる仕事を、食べて行かれるだけの給料のもらえる仕事を見つけていただくだけのことです。ぎりぎりいっぱいの生活ができる程度でいいのですが」
「わたしは自分がほんとうに情けぶかい人間かどうか知りませんが、そんなりっぱな目的のためでしたら、およばずながらお力添えをいたしたいと思っています。そこでまず、あなたがどんな仕事をやってこられたか、なにがおできになるのか、を教えていただかなくては」
わたしはお茶を飲みおえていた。そして、そのお茶のおかげで、酒を飲んだ巨人もかくやとばかりに(旧約聖書、詩篇、第七十八篇第六十五節参照)、すごく爽快な気分になっていた。わたしの弱りきっていた神経の調子は一新し、この洞察眼のある裁判官のような青年を相手に、しっかりした声で話しかけることができるようになっていた。
「リヴァーズさん」わたしは、セント・ジョンのほうにむきなおると、わたしを見つめている相手を見かえしながら、はっきりと、すこしも臆することなくいった。「あなたや、あなたの妹さんがたは、わたしにたいへんな親切をほどこしてくださいました――人間が人間にほどこすことのできる最高のご親切です。あなたは、気高い慈悲のお心から、わたしのいのちを救ってくださったのです。このようなご恩をうけたわたしとしましては、いくら感謝してもしきれない気持ちですし、わたし個人のことを、ある程度までは打ち明けねばなるまいと存じます。わたし自身の心の平和を――わたし自身の精神的、肉体的な安全と、ほかのかたがたの安全を傷つけない範囲内で、ここに身をよせさせていただいている宿なしのわたしの過去をお話し申しあげることといたします。
「わたしは孤児で、牧師の娘でございます。両親とは、物心のつかぬうちに死にわかれました。わたしは、他人の家の居候《いそうろう》となって大きくなり、教育も養護施設で受けました。わたしが生徒として六年間、教師として二年間を過ごした、その学校の名前もはっきり申しあげます。――州のローウッド孤児院です。リヴァーズさんはお聞きになったことがおありかと存じますが? ――ロバート・ブロックルハースト牧師が、理事長をしておられますから」
「ブロックルハースト牧師のことは聞いたことがありますし、その学校を見たこともありますよ」
「わたしは一年ばかりまえにローウッドを退職しまして、家庭教師になりました。いい勤め口に恵まれて、幸福な毎日を送っていました。そのお屋敷を、ここへくる四日まえに、どうしても出なければならなくなったのです。そうしなければならなくなった理由は説明することができませんし、また、するべき性質のものとも思いません。なんの役にも立たないし――危険でもありますし、信じてもらえないかもしれません。わたしに罪とががあったわけではないのです。わたしは、あなたがたのどなたにもおとらず、青天白日の身なのです。いまのわたしは、不幸のどん底にあり、この状態はあとしばらくはつづくにちがいありません。なぜなら、パラダイスかと思ったそのお屋敷からわたしを立ちのかせることになった事件が、類いまれな、恐ろしい性質のものであるからです。そこを立ち去る計画をたてたとき、わたしが考えたのは、二つのこと――速く、ひそかに、ということだけでした。それを実行するために、わたしは、小さな包み一つをもっただけで、あとの荷物はぜんぶ置いて出ねばならなかったのですが、その包みも、あわてふためいていたため、ウィットクロスまで乗ってきた馬車に置き忘れてしまったのです。そのため、この近所まできたときのわたしは、まったくの無一物でした。二晩は野宿しましたし、二日間というもの、どこの家の敷居をまたぐこともなく、さまよい歩きました。そのあいだに、食物にありつけたのは、たったの二回だけでした。そして、飢えと疲労と絶望に追いつめられて、いまにも息を引き取ろうとしていたときだったのです、リヴァーズさん、あなたが玄関のところで、飢え死になんかしてはいけない、とおっしゃって、この家のなかに助けいれてくださったのは。そのあとで、妹さんがたがわたしのためにしてくださったことを、わたしはぜんぶ知っています――昏睡状態にあると思われているあいだにも、わたしの意識ははっきりしていたからです。ですから、あなたの福音伝導者にふさわしい慈善だけでなく、妹さんがたのたくまない、純粋で、やさしさにあふれた温情に対しても、わたしはかぎりない感謝の念をおぼえているのです」
「これ以上、お話させるのはよくないわよ、お兄さま」わたしが言葉をきると、ダイアナがいった。「まだ興奮してはいけないからだであることは、はっきりしてるのに。さあ、ソファへいらっしゃって、おかけなさいよ、エリオットさん」
わたしは、この偽名を呼ばれて、思わずぎくっとなった。新しくつけた自分の名前を忘れてしまっていたのである。なに一つとして見落とすことのないらしいセント・ジョンは、わたしの態度に気がついた。
「あなたの名前はジェイン・エリオットとかいうお話でしたね?」
「そう申しあげました。いまのところ、その名前で呼んでいただけると、つごうがよろしいのですが。でも、それは本名ではありませんので、耳にしましても、変な感じがするのです」
「本名はいわないつもりですか?」
「ええ。捜し出されるのを、わたしはなによりも恐れておりますの。その原因になる可能性のある告白は、いっさいいたさないつもりです」
「そのとおりだと思うわ」とダイアナがいった。「お願いですから、お兄さま、しばらくそっとしてあげてください」
だが、しばらくのあいだ考えにふけっていたセント・ジョンは、ためらったようすをいささかも見せず、いつものとおりの鋭さにあふれた口調で、また話しはじめた。
「あなたは、わたしたちの好意にいつまでも甘えたくはない。妹たちの温情、とりわけわたしの慈善《ヽヽ》とは、できるだけ早く手を切りたい気持ちのようにお見受けします(あなたが温情と慈善を区別していることは、よくわかっていますが、それに憤慨する気は毛頭ありませんよ――そのとおりなのですからね)。わたしたちにおんぶしたくはないのですね?」
「そうです。そのことは、すでに申しあげました。どんな仕事をするか、どんなふうにして仕事を見つけるか、それをお教えください。いまのわたしがお願いしているのは、それだけなのです。ですから、どんなにみすぼらしい小屋であってもかまいません、わたしを行かせてください――ただ、|そのときまでは《ヽヽヽヽヽヽヽ》、ここに居坐ることをお許しください。住む家もなんにもない無一物の恐怖を、もう一度味わうことを思うと、身ぶるいがいたします」
「もちろん、ここにいて|いただきますわ《ヽヽヽヽヽヽヽ》」ダイアナは白い手をわたしの頭にのせた。
「そうして|いただきますわ《ヽヽヽヽヽヽヽ》」メアリーは、生まれつきそなわっているように思われる、いかにもひかえめだが、誠実さのあふれた口調で、同じ言葉をくりかえした。
「このように、妹たちはあなたの面倒をみたがっています」とセント・ジョンはいった。「冬の風に追われて窓から飛びこんできた、凍死しかけの小鳥でも引き取って、かわいがるようなつもりでいるのです。|わたし《ヽヽヽ》としては、あなたに自活の道を講じてあげたい気持ちのほうが強いのです。また、そのための努力は惜しまないつもりをしているのですが、おわかりのように、わたしの生活の場はかぎられています。貧しい田舎の教区をあずかる、一介の牧師にすぎませんから、わたしの助力といっても、まことにささやかなものとならざるを得ないのです。ですから、あなたに小さい事の日をいやしめる気があるようでしたら(旧約聖書、ゼカリア書、第四章第十節)、わたしなどよりももっと有能なだれかに助けを求めることですね」
「ちゃんとした仕事で、このかたに|できる《ヽヽヽ》ものがあったら、なんでも喜んでやるから、といっていたじゃありませんか」とダイアナがわたしにかわって答えてくれた。「それに、お兄さまもご承知のように、助けてくれる人を選り好みするなんて、このかたにはできないのよ。お兄さまみたいなぶあいそうな人にも、がまんしなければならないのですから」
「仕立て屋にもなります。お針子にだってなります。ほかにいい仕事がないのなら、お手伝いさんにだって、子もり女にだってなりますわ」とわたしは答えた。
「わかりました」とセント・ジョンは、落ち着きはらった口調でいった。「あなたがそのような気持ちでいるのでしたら、わたしもあなたをお助けすることを約束します。仕事の合い間に、わたしなりのやりかたでね」
こういうと、セント・ジョンは、お茶のまえに読みふけっていた本を、また読みはじめた。わたしは、すぐにその場を引きあげた。これ以上話しをしたり、坐りつづけていることは、いまのわたしの体力が許さなかったからである。
[#改ページ]
三十章
ムア・ハウスの住人たちのことがわかってくるにつれて、わたしはますます好感を抱くようになった。二、三日のうちに、わたしの健康はすっかり回復して、一日中、起きていることも、ときには外出することもできるようになった。ダイアナやメアリーのしていることは、なんでもいっしょにやり、二人の好意に甘えてあれこれとおしゃべりもしたし、二人がいいといえば、いろいろな場合や場所で手伝わせてもらえるようになった。二人との交際には、わたしが生まれてはじめて味わう類いの、さわやかな喜びがあった――それは、趣味と感情と理想の完全な一致から生まれる喜びであった。
二人が愛読する本は、わたしも愛読した。二人が楽しむものは、わたしも楽しんだ。二人が賛成するものは、わたしも尊重した。二人は、森の奥にある自分たちの家を愛していた。わたしもまた、この灰色の、せまい、古ぼけた建物に――低い屋根、こうし窓、くずれかかった壁、モミの老樹の並木(山から吹きおろす風のために、どれも斜めに曲っている)、イチイとヒイラギがうっそうと茂っている庭(花を咲かせるのは、耐寒性の植物だけである)に、強いばかりか、つきることもない魅力を見いだした。二人は、家をとりまき、そのうしろにひろがっている紫色のヒースの茂る荒れ野にも――小石まじりの馬道が門のまえからたらたらとつづいている谷間にも、愛着を抱いていた。この馬道は、シダにおおわれた崖のあいだを通り、やがていくつかの荒れた、小さな牧草地をぬけて、うねうねとつづいている。ヒースの茂る荒れ野と境を接した牧草地には、荒れ地に生育する灰色の羊と、顔にコケみたいなちぢれ毛をはやした小羊の群が草をはんでいる――こうした風景に、姉妹は熱烈としかいいようのない愛着を抱いていたのである。わたしには、その熱愛ぶりが理解できたし、その強烈で、いつわりのない感情を、わたしもまた実感としてもつことができた。この地方独特の魅力が、わたしにもわかってきた。その孤独な姿のもつ、神聖な一面も感じ取ることができるようになった。起伏する土地のゆるやかな線が――丘や谷を飾っている、コケや、ヒースの花や、花をばらまいたような芝や、きらきら光るワラビや、にぶい色の花コウ岩などの自由奔放な色どりが、わたしの目を楽しませた。それらは、二人の姉妹の場合と同じ意味を、わたしに対してももっていた――その一つ一つが、純粋で、甘美な喜びの源泉であったのだ。はげしい風ややさしい風、きびしい日やおだやかな日、日の出や日の入り、月光の輝く夜や雲におおわれた夜は、姉妹を魅了したと同じように、この土地にやってきたわたしをも魅了した――姉妹をうっとりさせたと同じ魔力で、わたしの感覚をもつつみこんでしまったのである。
家のなかでもまた、わたしたちの気持ちはぴったりと一致した。ダイアナもメアリーも、わたしのおよびもつかない才媛で、わたしなどよりずっと本を読んでいた。だが、わたしも二人の先輩が歩いた知識の道を、熱心にたどって行った。貸してもらった本をむさぼり読み、昼間わたしが読んだ内容を、夜、三人で議論しあうと、この上なくみちたりた気分になった。おたがいに考えることが同じであり、意見の食いちがいもない。要するに、なにもかもが、完全に一致したのである。
わたしたち三人のなかに、一段格が上の、リーダー的な人間がいるとすれば、それはダイアナであった。ダイアナは、肉体的にいっても、わたしをはるかにしのぎ、美人で、活発であった。その元気いっぱいの態度には、わたしなどただ驚嘆するばかりで、とうてい理解することのできない、旺盛な生命力と、ふんだんな活力とがみちあふれていた。宵の口には、わたしもすこしはしゃべることができたが、勢いこんでぺらぺらと話したあとは、最初の元気はどこへやらで、ダイアナの足もとの|腰掛け《スツール》に坐って、その膝に頭をもたせかけたまま、わたしがかいなでしたにすぎない問題を徹底的に論じあっている、ダイアナとメアリーの言葉に交互に耳をかたむけざるをえなくなった。ダイアナは、わたしにドイツ語を教えてあげようといってくれた。わたしもダイアナになら習ってもいいと思ったが、教師の役がむこうの気にいるはまり役であったと同じに、生徒の役はこちらの気にいるはまり役でもあったのだ。わたしたちの性格はぴったりと一致し、その結果、二人のあいだには、愛情が――それも、比類なく強い愛情がめばえた。姉妹は、わたしに絵心があることがわかると、すぐに二人の鉛筆や絵の具箱を使わせてくれた。絵を描く腕前だけは、わたしのほうがすぐれていたので、二人は驚いたり、感心したりした。メアリーはなん時間も坐りきりで、わたしの筆のはこびを見守っていたが、やがて自分でも勉強してみたいといい出し、教えやすくて、頭のいい、まじめな生徒ぶりを発揮した。こうして、いそがしく、また、おたがいに楽しく暮らしていると、数日が数時間のように、数週間が数日のようにすぎ去った。
ところで、わたしと姉妹とのあいだに、ごく自然に、急速にめばえた友情も、セント・ジョンにまではおよばなかった。わたしとのあいだにいぜんとしてよそよそしさが見られた一因は、セント・ジョンが家をあけることが比較的多いということであった。その時間の大半は、教区のあちこちに住んでいる病人や貧困者への訪問にあてられているふうであったのだ。
どんな天候でも、この牧師としての訪問は欠かせないらしい。晴雨にかかわらず、午前中の勉強時間がおわると、セント・ジョンは帽子を手にもち、父の残したポインター種の老犬カルロをつれて、愛情に駆られてとも、義務に駆られてともとれる使命をはたしに出かけた――本人がそれをどちらに解釈していたか、わたしにはわかるはずもない。天気がひどく悪いときには、二人の妹があれこれいって行かせまいとした。そうしたとき、セント・ジョンは、にこやかなというよりも、むしろいかめしいといったほうがいい、独特の微笑を浮かべて、こういうのであった――
「風が一吹きしたから、雨がぱらついたからという理由で、このらくな勤めを休んだりした場合、そんな怠慢な態度が、わたしの計画している将来の仕事にとって、一体どんなプラスになるというのかね?」
こう反問されると、ダイアナもメアリーもため息をついたきり、しばらくのあいだ、いかにも悲しげなもの思いにふけるのであった。
だが、家をあけることが多かったというほかに、もう一つ、わたしとセント・ジョンの友情をはばむ事情があった。セント・ジョンは、無口で、たえずなにかに心を奪われている、沈思黙考型ともいえる人物であった。牧師としての仕事にも熱心で、生活態度や習慣にも非の打ちどころはなかったが、すべての誠実なキリスト教徒や実践的な博愛主義者にさずけられることになっている、あの精神的な静謐、あの内面的な充実感を楽しんでいるようすは一向に見られなかった。夕暮れどきなどに、窓ぎわに腰をおろすと、机と紙をまえにしたまま、本を読むこともものを書くこともやめ、頬づえをついて、なにともわからないもの思いにふけっていることがよくあった。だが、それが不安と興奮にあふれたもの思いであることは、セント・ジョンの目がたえずきらめき、瞳孔が大きくなったり小さくなったりしていることからもよくわかった。
それに、妹二人の場合とちがい、セント・ジョンにとっての自然は、喜びの宝庫ではなかったらしい。一度だけ(わたしが耳にしたかぎりでは、たった一度きりであったが)、岩だらけの丘に強い魅力を感じていると語り、黒ずんだ屋根や古めかしい壁をわが家と呼んで、これには生まれながらの愛情を抱いているとも語っていた。だが、その感情を口にするときの調子や言葉には、喜びの色というよりも憂愁の影がただよっていた。それに、セント・ジョンは、心をなごませてくれる沈黙をもとめてヒースの荒れ野を逍遙することはなかった――荒れ野がひめている数知れないやすらかな喜びを見つけようとしたり、それに思いをめぐらせたりすることは絶対になかったらしい。
このように口数がすくなかったので、しばらくたつまで、セント・ジョンの心をおしはかる機会に恵まれなかった。はじめて、この人物の器量がわかったのは、モートンの教会でおこなった説教を聞いたときであった。その説教をここで再現できればいいのだが、それはわたしの力にあまる。わたしが受けた印象を忠実に書き記すことさえも、わたしにはできないのだ。
その説教は、おだやかにはじめられた――事実、話しぶりや声の調子に関するかぎり、それは最後までずっとおだやかであった。やがて、熱烈に感じてはいるものの、きびしく抑えつけた激情が、歯ぎれのいい口調に息づき、力強い言葉をつぎつぎと吐き出しはじめる。その激情はしだいにつのって――圧縮され、濃縮され、抑制されて、強い説得力をもつようになる。この説教者の迫力に、聞く者の心は戦慄を、その頭は驚愕をおぼえるが、心や頭がやわらげられることはさらにない。その説教には、一貫して奇妙なにがにがしさが漂い、心のやすらぎとなるなごやかさが欠けている。神による選定、予定説、永遠の破滅といった、カルヴィン(ジョン・カルヴィン。一五〇九―六四。フランス生まれの宗教改革者)の教義へのきびしい言及がしばしばなされ、その一つ一つについて語る言葉は、最後の審判の宣告のように響きわたる。セント・ジョンの説教がおわったとき、わたしは、まえよりもすっきりとして、おだやかで、啓発された気分になるかわりに、いいようのない悲哀を味わった。わたしには――ほかの人もそうであったかどうかは知らない――それまで傾聴していた雄弁が、にごりきった失望のおりの沈んだ深淵から――心をかき乱してやまぬ、貪欲な願望と不安な野心という衝動のうごめいている深淵からほとばしり出たもののように思われたからである。セント・ジョン・リヴァーズという人間は――高潔で、良心的で、誠意にあふれてはいるが――あの「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(新約聖書、ピリピ人への手紙、第四章第七節)をまだ見いだしていない、とわたしは確信した。落ちた偶像と、失われた楽園をひそかになつかしんでは、心を痛めているわたしと同様に、この人もまた、あの神の平安を見つけてはいないのだ、とわたしは思った――最近のわたしは、そのなつかしむ気持ちには努めてふれないようにしているのだが、それはわたしの心を支配し、残忍なまでに責めさいなむのであった。
そうこうしているうちに、一ヵ月がすぎ去った。ダイアナとメアリーは、近いうちにムア・ハウスをあとにして、イギリス南部のはなやかな大都市で二人を待っている、いまとはまったくちがった、家庭教師としての生活の場にもどることになっていた。ダイアナもメアリーも、その職を得ている家庭では、裕福で高慢ちきな家族から下賤な使用人ぐらいにしか見られていない。二人の天分を一つでも知って、それを求めようとする者はいないし、二人の教養は、料理人の腕前か、召使いの趣味程度の評価しか受けていないのだ。セント・ジョンは、捜してくれる約束の仕事について、まだ一言もふれていないが、わたしとしては、一刻も早く、なんらかの仕事を見つける必要にせまられてきた。ある朝、二、三分間、居間で二人きりになったので、わたしは思いきって窓ぎわの奥まったところに近づいた――その一角には、テーブルや椅子や読書用の机が置かれていて、書斎のようになっている。どんな言葉で切り出していいか、よくわからないまま――セント・ジョンのようなタイプの人間が相手だと、その全身に張りつめている沈黙の氷をとかすのは、いつの場合でもむつかしいことである――話しかけようとすると、むこうから先に口火を切ってくれたので、肩の荷が軽くなった。
わたしが近づくと、セント・ジョンは目をあげて、「質問があるのですね」といった。
「はい。わたしに手がけることができるような仕事の話を、なにかお聞きになったかどうかを知りたいと思いまして」
「三週間まえに、ある仕事を見つけた、というか、作り出したのですが、あなたはこの家で、役に立っている上に、しあわせそうでもあったので――それに、どうやら、妹たちもあなたになついて、あなたとの生活が無上の喜びとなっていたので、あの二人がマーシュ・エンドをたつ日が近づいて、あなたがここを出なければならなくなる日まで、せっかくのあなたがたの楽しみのじゃまをしないほうが賢明ではないかと思ったのですよ」
「お二人は、あと三日でおたちですわね?」
「そう。二人が行ってしまったら、わたしはモートンの牧師館へ帰ります。ハンナもいっしょですので、この古い家は閉めることになります」
わたしは、セント・ジョンが自分からいい出した話をつづけるだろうと思って、しばらく待っていたが、どうやら、相手はまったく別のことを考えはじめたらしい。その表情は、わたしやわたしの仕事など、どこかへ行ってしまったことを物語っている。わたしとしては、当然のことながら、わたしに直接かかわりのある、せっぱつまった話題に、相手の注意をうながさざるを得なかった。
「お考えくださった仕事というのは、どんな仕事でしょうか、リヴァーズさん? ぐずぐずしていたので、もうその仕事につけなくなったというのでなければ、と思いますが」
「いえ、そうじゃありません。それをさしあげるわたしと、それを引き受けるあなたとのあいだできまる仕事なのですから」
セント・ジョンは、また黙りこんだ。話をつづけるのを、ためらっているらしい。わたしはいらいらしはじめた。一、二回、そわそわしたような動作をくりかえし、相手の顔を真剣な目つきで、さいそくするようにじっと見つめると、それが言葉と同じ効果を発揮して、それほど手間をかけることもなしに、わたしの思いが相手に伝わった。
「なにも急ぐことはありませんよ。率直にいって、飛びつきたくなるような話でも、金もうけになる話でもないのですから。説明に移るまえに、わたしがはっきり申しあげておいたことを、思い出してください。わたしが力をかしてあげるといっても、盲人がびっこの人を助けるくらいのことしかできない、と申しあげたはずです。わたしは貧乏です。父の残した借金を払ってしまいますと、わたしの手にはいる全財産は、このくずれかけのぼろ家と、裏手の枯れかけたモミの並木と、それに、おもてのイチイとヒイラギの植わっている、ネコの額ほどのやせた土地くらいのものであることがわかっています。わたしは無名です。リヴァーズ家は旧家ですが、生き残ったたった三人の子孫のうちで、二人は赤の他人の家に住みこんで糊口をしのぎ、いま一人は生まれた土地にあっても、みずからを根こぎされた人間とみなしています――生きているあいだだけでなく、死んだあとまでも。そうなのです、その運命を光栄に思い、また、そう思わざるを得ないのです。そして、現世の絆をいっさい断ち切ったしるしの十字架が肩に置かれる日を――わたしがまことにいやしい戦士の一人として参加している戦闘教会(現世にあって悪と戦っている地上のキリスト教会・教徒)の主であるキリストから、『立ちあがって、わたしについてきなさい!』(新約聖書、マタイによる福音書、第四章第十九節ほか)という言葉がいただける日を、ひたすら待ちわびているのです」
セント・ジョンは、こうした言葉を、説教をするときのように、おだやかな、低い声で口にした。頬は上気することもなく、目だけがらんらんと輝いている。セント・ジョンは言葉をつづけた――
「名もなく、貧しいわたしですから、あなたにさしあげられる仕事も、目立たない、貧弱なものです。|あなた《ヽヽヽ》には、みっともない仕事だとさえ思われるかもしれない――これまでのあなたの生活習慣は、世間でいう洗練されたものであり、趣味は理想を追う傾向があって、交際範囲は、どう見ても教養のある人たちに限られていたにちがいないということが、わかっているからです――しかし、|わたし《ヽヽヽ》には、人間社会をよくする仕事で、みっともない仕事などないように思われるのです。仕事に精出すキリスト教徒なら、耕すように命令された土地が不毛で、未開拓であればあるほど――労働に対する報酬がとぼしければとぼしいほど、その栄光は高まって行く、とわたしは考えます。そのような状況のもとで働く者の運命は、開拓者のそれなのです。福音書の最初の開拓者は、十二使徒たちでした――その指揮をとるのは、救世主たるイエス・キリスト、その人であったのです」
「と申しますと?」セント・ジョンがまた黙ったので、わたしはいった。「お話をつづけてください」
セント・ジョンは、話をつづけるまえに、わたしをじっと見つめた。まるでわたしの目や鼻や輪郭が、本のページに印刷された文字ででもあるかのように、わたしの表情を時間をかけて読んでいるふうであった。こうして読みぬいたあげくに引き出された結論のいくつかは、このあとのセント・ジョンの言葉からうかがい知ることができた。
「わたしのさしあげる仕事を、あなたが承知してくれて、しばらくはつづけてくださるだろう、と信じています。だが、いつまでも、ということはないでしょう。この窮屈で、息のつまりそうな――平穏無事で、ひっそりとした、イギリスの田舎牧師の仕事を、わたしがいつまでもつづけられないのと同じことなのです。あなたの性格には、わたしと同じで、無為に甘んじることを許さないなにかがまじっているからです。わたしの場合とはちがった性質のなにかですがね」
「説明していただけますかしら」セント・ジョンがまた口ごもったので、わたしはさいそくした。
「いいですとも。それに、わたしの申し出がどんなに貧弱で――つまらなくて――窮屈なものであるかも、お話しましょう。父が死に、自由にできる立場になりましたので、わたしは、いつまでもモートンにいるつもりはありません。一年以内には、この土地を去ることになると思います。ですが、|すくなくとも《ヽヽヽヽヽヽ》ここにいるあいだは、村をよくするために、わたしにできるだけのことをするつもりでいるのです。このモートンの村には、わたしが二年まえに赴任してきたときには、学校がありませんでした。貧しい家庭の子どもは、知識を身につけることなど、望むべくもなかったのです。わたしは、男の子のための学校を作りました。こんどは、女の子のための学校を作ってやりたいと思うのです。そのための建物は、すでに借りてありますが、それには教師用の宿舎として、二間だけの小さな家もついています。サラリーは年三十ポンド。その宿舎には、オリヴァーさんというお嬢さんの親切で、ささやかながらも、生活にこと欠かないだけの家具がついています。オリヴァーさんは、わたしの教区のただ一人のお金持ちであるオリヴァー氏――この谷にある針工場と鉄工場の経営者であるオリヴァー氏の一人娘なのです。このお嬢さんはまた、宿舎と学校の雑用を手伝わせるなら、という条件で、施設にいた孤児を一人ひきとって、教育費と衣服費を出してくださいます。先生は教えるのに忙しいから、雑用にまでは手がまわりかねるだろうというのです。その先生に、なっていただけますか?」
セント・ジョンは、せきこむような口調で、そう問いかけてきた。わたしが腹を立てるか、すくなくともせせら笑って、この話をことわるとでも思っていたらしい。多少の想像はついているにしても、わたしの思考や感情のすべてがわかっているわけでもないので、この新しい人生をわたしがどんなふうに受けとめるか、見当がつかなかったのである。たしかに、ささやかな人生ではある――だが、雨露をしのぐことはできるし、わたしの望んでいるのは、安全なかくれ家にほかならない。たしかに、こつこつとやらねばならない地味な人生ではある――だが、金持ちの家で、家庭教師をすることにくらべれば、これは自由な人生である。それに、他人にぺこぺこすることを考えただけで、恐怖がわたしの心を鉄のようにつらぬく。この人生は下劣ではない――つまらなくはない――品位をさげるような人生ではない。わたしの心はきまった。
「そのお申し出に感謝いたしますわ、リヴァーズさん。喜んでお受けいたします」
「しかし、おわかりいただけたのでしょうね? 村の学校なんですよ。生徒は貧乏な家庭の娘ばかり――作男の子どもたちで――よくても小作農の娘たちですから。編物、裁縫、読み書きに算術くらいしか、教えることはありません。絵画やフランス語といった、あなたの教養はどうなさいます? あなたの頭脳とか、感情とか、趣味とかの大半は、いったいどうなさるのですか?」
「いるときがくるまで、しまっておきますわ。くさるものではありませんから」
「じゃ、引き受けてくださる仕事の内容は、おわかりなんですね?」
「ええ」
セント・ジョンは、やっとにっこり笑った。にがにがしい微笑でも、悲しげな微笑でもなく、いかにもうれしそうな、心から満足したような微笑であった。
「それで、いつから先生になっていただけるのですか?」
「あす、宿舎へまいりまして、よろしかったら、授業は来週からということに」
「それは、ありがたい。そういうことにしてください」
セント・ジョンは立ちあがって、部屋のなかを歩きはじめた。やがて、立ちどまると、またわたしの顔をじっと見つめた。そして、首を横にふった。
「なにがお気に召さないのですか、リヴァーズさん?」
「あなたはいつまでもモートンにいる人じゃない。絶対にそうじゃないな!」
「なぜです? そういわれる理由は、なんでしょう?」
「あなたの目に、そう書いてあります。単調な人生の道を歩みつづけることを約束するような目ではない」
「わたしは野心家じゃありません」
「野心家」という言葉に、セント・ジョンはぎくりとした。そして、こうくりかえした。「あなたは野心家ではない。なぜ野心などという言葉を思いついたのです。野心家はだれなんです? わたし自身が野心家であることはよく知っていますが、どうして、それがわかったのです?」
「わたしは自分のことをいっていたのです」
「じゃ、野心家でないとしたら、あなたは――」
セント・ジョンは言葉を切った。
「なんでしょう?」
「情熱家といおうとしたのですが、あなたは、この言葉を誤解して、気を悪くなさったでしょうね。つまり、人間的な愛情とか同情が、あなたを強くつかんではなさない、ということをいいたいのです。あなたは、一人でぼんやり時間をすごしたり、刺激もなにもない単調な仕事に一日の労働時間をあてたりすることに、いつまでも満足できる人ではないと、わたしは思っています。それは、わたしが」セント・ジョンは語気を強めて、つけ加えた。「ここでの沼地に埋もれ、山に閉じこめられた生活――神からさずかった本性にそむき、天からたまわった才能を麻痺させたまま、役立てることもない生活に満足できないのと同じことなのです。わたしが矛盾したことをいっているのに、お気づきですね。みじめな運命に甘んじることを説き、『たきぎを切り、水をくむもの』(旧約聖書、ヨシュア記、第九章第二十一節)の仕事でさえも神につかえるりっぱな仕事であるといい聞かせているわたしが――神の命を受けた聖職者であるわたしが、焦燥のあまりに気も狂わんばかりになっているのですから。ともあれ、人間の性癖と理想とは、なんらかの方法で一致させねばならないのです」
セント・ジョンは部屋を出て行った。この短い時間に、過去一ヵ月に知った以上のことが、セント・ジョンについてわかったけれど、まだよく理解できない部分も残っていた。
ダイアナとメアリーは、兄と別れる日が近づくにつれて、ますます悲しげな表情を見せ、口数もすくなくなった。二人とも平静をよそおってはいるが、姉妹が戦わねばならない悲しみは、完全に押し殺したり、押しこめたりできる性質のものではなかった。今度の別離は、いままでとはまったくちがったものになるかもしれない、とダイアナはいった。セント・ジョンに関するかぎり、なん年も会えないことになるかもわからないし、これがながの別れとなる可能性もあるというのである。
「兄は、かねてから抱いている決心のために、いっさいを犠牲にするのです。はるかに力強い、自然のままの愛情や感情すらも。ジェイン、兄は一見おだやかですが、心のなかは火のように燃えているのです。おとなしい兄とお思いかもしれませんが、ある点では、死のように冷酷な人なのですよ。なによりもつらいことは、兄の断固とした決意をひるがえさせようと思っても、わたしの良心がそれを許そうとしないということなのです。ましてや、兄の決意を非難することなど、わたしには一瞬もできないのです。正しくて、りっぱで、キリスト教徒らしい決意なのですから。でも、それを思うと、わたしの心は、はりさけそうになりますの」
こういうと、ダイアナのきれいな目に、涙がどっとあふれた。メアリーも仕事をしながら、低くうなだれていた。
「わたしたちには、父もいなくなりました。やがて、わが家も、兄も失ってしまうのです」
そのとき、ちょっとした事件がもちあがった。それは、「弱り目にたたり目」ということわざを証明するためだけでなく、「港の口で船やぶる」といった類いの、いまいましい苦痛を、一家の苦難に上積みするため、運命の手でわざわざ引き起こされた事件のように思われた。セント・ジョンが、一通の手紙を読みながら窓の下を通りかかった。そして、部屋にはいってきた。
「ジョンおじさんが亡くなったよ」
姉妹は二人ともはっとしたふうであったが、ショックを受けたとか、口がきけなくなったというのではない。その通知は、二人の目には、悲しいというよりも、もっと重要な意味をもってうつったようであった。
「亡くなられたって?」とダイアナがくりかえした。
「ああ」
ダイアナは兄の顔に、さぐるような目をむけたまま、まばたき一つしない。「それで?」と低い声できいた。
「それでって、おまえ?」セント・ジョンは、大理石のような顔の表情をくずさなかった。「それでって? いや――どうということはないさ。読んでごらん」
セント・ジョンは、手紙をダイアナの膝の上に投げた。ダイアナはそれにちらっと目をとおすと、メアリーに渡した。メアリーは黙って一読すると、手紙を兄にかえした。三人は顔を見あわせ、三人とも同じように微笑した――いかにもわびしげで、もの思わしげな微笑であった。
「アーメン! それでも、わたしたち、まだ生きられるわ」とダイアナがやっと口を開いた。
「いずれにせよ、いままで以上に悪くなることはないものね」とメアリーもいった。
「ああもなっていただろう、こうもなっていただろうという夢がますます強く印象づけられて、|あるがままの現実の姿《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とのコントラストが、いやというほどはっきりしてくるだけのことだね」とセント・ジョンはいった。
セント・ジョンは手紙をたたむと、机のなかにしまってから、また部屋から出て行った。
しばらくは、だれも口をきかなかった。やがて、ダイアナはわたしのほうをむきなおった。
「ジェインさん、わたしたちや、わたしたちの秘密のことで驚いておられるでしょうね。おじのような、身近かな親類が死んだのに、平然としていられるわたしたちのことを、冷淡な人間に思っておられるでしょうね。でも、わたしたちは、このおじに会ったことがないし、なんにも知らないのです。母の弟でしたけど。父がこのおじと、ずっとまえに喧嘩をしておりましてね。父が投機に手を出して、財産の大半をなくしてしまったのは、このおじの意見を聞いたからなんですよ。二人は、たがいに罪のなすりあいをしたあげく、喧嘩別れとなり、二度と和解しなかったのです。その後、おじはもっと景気のいい事業をやるようになり、二万ポンドの財産を築いたとか。一生独身をとおしましたので、おじの近い親類といえば、わたしたち三人と、わたしたちと同じ続柄の者が、もう一人、いるだけですの。父は生前から、おじがわたしたちに財産をゆずれば、昔の罪はつぐなわれるという考えをもっていました。あの手紙には、おじの全財産がそのもう一人の親類に一ペニー残らず贈与されたということが書いてあるのです。リヴァーズ家のセント・ジョンとダイアナとメアリーが三等分して、三箇の形見の指輪を買うための三十ギニー(ギニーはイギリスの昔の金貨)だけは別なんですけど。好きなようにする権利がおじにあることは、いうまでもありませんが、それでも、そんな知らせが耳にはいると、三人ともほんのちょっぴりわびしくなりましてね。メアリーやわたしは、千ポンドずつもらったら、大金持ちになったような気分になっていたでしょうし、兄にしても、それだけのお金があれば、世のなかのためになることができたでしょうから、ずいぶんとありがたがったことと思いますわ」
こういう説明があっただけで、この話はそれきりになってしまい、セント・ジョンも妹たちも、それをむしかえすことはなかった。翌日、わたしはマーシュ・エンドに別れを告げて、モートンに移った。その翌日、ダイアナとメアリーも、遠いB――市にむかって出発した。一週間後には、セント・ジョンとハンナが牧師館へ引きあげた。こうして、その古い家は、住む人もなくなってしまった。
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三十一章
さて、わが家は――やっと、わが家といえるものを見つけたわたしなのだが――ささやかな家である。壁を白く塗り、床に砂をまいた小さな台所には、ペンキを塗った椅子が四脚にテーブルが一つ、柱時計、それに二、三枚の皿や鉢と、デルフ焼きのティーセットがはいっている食器棚。二階は、その台所と同じ大きさの部屋が一間で、モミ材のベッドとたんすが置いてある。小さなたんすだが、わたしのとぼしい衣類をいれるにはいささか大きすぎて、いっぱいになることはない――やさしい、気前のいい友だちの親切で衣類もふえ、必要な品だけはなんとかそろってはいるけれども。
夕暮れどきである。お手伝いさんとして働いてくれている孤児の少女には、お駄賃にオレンジを一箇あたえて帰らせた。いま、わたしは、一人で暖炉のまえに坐っている。けさ、村の学校をはじめたのである。生徒は二十名。だが、字の読めるのは、そのうちの三人だけで、字の書ける者や算術のできる者は一人もいない。数人は編み物ができ、すこし裁縫の心得のある者が二、三人。どの生徒も、地方なまり丸出しでしゃべる。目下のところ、生徒と教師とで、おたがいの言葉を理解するのに苦労しているありさまなのだ。生徒のなかには、無知なだけでなく、無作法で、がさつで、手のつけようのない者もいるが、そのほかの者はおとなしくて、勉強する意欲もあり、わたしに気にいられたいというようすを見せてもいる。こうした粗末な洋服を着た農家の子どもたちでも、なん代もつづいた良家の子女にまさるとも劣らない人間にほかならず、この子たちの心のなかにも、最高の家柄に生まれた者の場合と同じように、生まれながらの素質や洗練や知性や愛情の芽が存在する可能性のあることを、わたしは忘れてはならない。その芽をはぐくむことが、わたしの仕事なのであり、その仕事にあたることに、いくばくかの幸福を見つけだすにちがいない。わたしのまえに開けている人生に、わたしは多くの楽しみを期待してはいない。だが、精神を修養し、百パーセントに能力を発揮すれば、その日その日の生きがいになる程度の楽しみがもたらされることになるにちがいない。
きょうの午前から午後にかけて、あのむこうの殺風景な、みすぼらしい教室で時間をすごしているあいだ、わたしは心から楽しく、落ち着いて、満足した気分だったろうか? 自分をいつわらないためには、「ノー」と答えねばならない。わたしは、かなりわびしい思いをしていた。わたしは――そう、愚か者のわたしは、自尊心を傷つけられたような気持ちになっていた。社会的な地位があがるどころか、逆にさがるような方向へ足を踏み出したのではないか、という疑念に駆られた。目や耳にはいってくる周囲のものすべての無知と、貧困と、劣悪さにあわてふためいて、弱気になっていた。だが、こんな感情を抱いたわたしを、ひどく憎んだり、軽蔑したりするのはよしたがいい。そんな感情がよくないことはわかっている――わかったことで、大きな一歩を踏み出したことになるのである。今後は、この感情を克服するように努力しよう。あすはきっと、そのいくつかを克服できる。二、三週間もたてば、完全に抑えつけることになるだろう。二、三ヵ月もすれば、生徒の進歩と向上を目のあたりにする喜びで、嫌悪が満足にかわるということも不可能ではないのだ。
ところで、わたし自身に、一つ質問したい――どちらがいいことなのか? ――誘惑に負けて、情熱の言葉に耳を傾け、苦渋にみちた努力をすることも強くさからうこともなく、絹のようなわなにおとしいれられたまま、それを覆いかくす花のしとねに眠りこけ、南の国の、歓楽にあふれた別荘のぜいたくな雰囲気のなかで目をさますこと。つまり、ロチェスターさまの愛がなければ夜も日も明けない情婦となって、フランスあたりで同棲生活にはいっていること――あのかたは、わたしを――ええ、そうですとも、しばらくのあいだは、こよなく愛してくださっただろうと思うわ。|かつては《ヽヽヽヽ》わたしを愛してくださったかたですもの――わたしがあんなに愛されることは、もう二度とあるまい。わたしの美しさと若さと優雅さに、あんなやさしい賛辞がささげられることは、二度とふたたびないだろう――あのかた以外のだれの目にも、わたしにそのような魅力がそなわっているとはうつらないのだから。あのかたはわたしに愛情をかけ、わたしを誇りにしてくださった――そんなにしてくださるかたが、ほかにいるとはとても思われない。だが、わたしとしたことが、なにを血迷ったのだろうか? なにを口走っているのだろうか? 一体全体、なにを感じているのだろうか? マルセーユで愚者の楽園(想像上の幸福のこと)の奴隷になること――かりそめの幸福に恍惚となったかと思うと、つぎの瞬間には悔恨と恥辱の、この上なくにがい涙で息をつまらせている奴隷になることと、イギリス中部の健康な地方で、山のなかの気持ちのいい片すみにかくれ、自由で、誠実な田舎教師になることの、いったいどちらがいいことなのかと、わたしはきいているのだ。
やはり、まちがってはいない。いまのわたしは、人の道と法をひたすら守りつづけ、気違いじみた一瞬の、正気とは思えない衝動をさげすみ押しつぶしたわたしは正しかった、と感じている。神はわたしを正しい選択へとお導きくださった。そのようにお導きくださった神の摂理に、感謝の言葉をささげたい!
夕べの黙想がここまでたどりついたとき、わたしは立ちあがって、ドアのところへ行き、初秋の夕日と、村から半マイルはなれたわが家と学校のまえにひろがる静かな野原を眺めた。小鳥たちは、その日の最後の歌をうたっていた――
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「大気は甘く、露には香気あふれる」
(ウォルター・スコット作『最後の吟遊詩人の歌』からの引用)
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外を眺めながら、わたしは幸せに感じていたが、そのすぐあとで涙をこぼしている自分に気がついて驚いてしまった――なにゆえの涙なのだろうか? わたしをロチェスターさまから無理やりに引きはなした運命と、二度とお会いすることのないあのかたを思っての涙であった。わたしの蒸発がもたらした絶望的な悲哀と、破滅的な激怒のゆえに、いまのこの瞬間にも、あのかたが正道を踏みはずし、もとにもどる希望のなくなるまでに行きくれてしまうのではないか、と思ったための涙であった。そう思ったとき、わたしは美しい夕べの空と、わびしげなモートンの谷から顔をそむけた――|わびしげな《ヽヽヽヽヽ》という言葉を使うのも、わたしの目にはいる谷間の湾曲部に見えている建物としては、木の間がくれの教会と牧師館、それにいちばんむこうにある、富豪のオリヴァー父娘が住んでいるヴェイル・ホールの屋根しかなかったからである。わたしは目をおおい、石造りのかまちに頭をもたせかけた。だが、やがてまもなく、わが家の小さな庭と、そのむこうの牧草地とを仕切っている木戸の近くで、かすかな物音が聞こえたので、わたしは目をあげた。一匹の犬が――リヴァーズ家の老犬カルロであることは、すぐにわかった――木戸を鼻で押している。セント・ジョン自身も、腕組みをしたままで、それによりかかっていたが、眉にしわをよせ、わたしに釘づけにされた視線は、立腹しているかに思われるほどの真剣さがあふれている。わたしは、おはいりください、といった。
「いや、ゆっくりはできないのです。妹たちが残して行った、あなたあての包みをもってきただけですから。絵の具箱と鉛筆と紙がはいっていると思いますよ」
わたしは、そのうれしいプレゼントを受け取りに、セント・ジョンのほうに足をはこんだ。近づいてくるわたしの顔を調べているセント・ジョンの表情には、きびしさがあふれているように思った。わたしの顔に、涙のあとがはっきりと残っていたにちがいない。
「初日の仕事が、思っていた以上にきつかったのでは?」とセント・ジョンはきいた。
「まあ、とんでもない。それどころか、そのうちに、生徒さんたちとうまくやれるようになると思っていますわ」
「しかし、設備が――この小さな家や、家具やらが、あなたの期待を裏切ったのではないですか? どれもこれも、まったく貧弱なものですから。しかし――」
わたしは相手の言葉をさえぎった。
「わたしの家は清潔ですし、風雨に耐えることができますわ。家具にしても、これだけで十分ですし、不便は感じません。なにを見ても、感謝の思いがするだけで、失望などとんでもないことです。わたしは、カーペットやソファや銀の食器のないのを嘆くほどの、愚か者でも快楽主義者でもありませんわ。それに、五週間まえのわたしは、無一物だったのです――宿なしで、乞食で、放浪者だったのです。それが、いまでは、友だちや、わが家や、仕事に恵まれています。神さまの慈愛に、友だちの親切に、わが身の幸運に、驚いているわたしなのです。不満などありませんわ」
「しかし、孤独な生活に気がめいっているのでは? あなたのうしろの小さな家は、暗くて、さむざむとしているのではありませんか?」
「落ち着いた気分を味わう余裕はまだありませんし、さびしさにおそわれて、じっとしておれなくなるなんて、なおさらですわ」
「それは、よかった。口でいわれるとおりの満足を、心でも感じておられるといいのですが。いずれにせよ、良識のあるあなたのことですから、あのロトの妻(旧約聖書、創世記、第十九章第二十六節。主のいいつけにそむいてうしろをふりかえり、塩の柱にされる)の動揺と不安に負けるには、まだ早すぎることに気がつくでしょう。お会いするまえのあなたが、あとになにを残してきたのか、わたしはもちろん知りませんが、過去をふり返りたいという気持ちを起こさせる、いっさいの誘惑には、断固として抵抗なさるようにご忠告いたします。すくなくともあと数ヵ月は、あなたの現在の生活を、着実につづけてください」
「わたしも、そうするつもりでおりますわ」とわたしは答えた。
セント・ジョンは言葉をつづけて、「自分の性癖の働きを意のままに左右したり、自然の成り行きを変えたりするのは、並みたいていのことではありません。しかし、それが不可能でないことを、わたしは自分の経験で知っています。神はわたしたちに、わたしたちの運命を切り開く力を、ある程度まであたえてくださっているのです。わたしたちの活力が、手にいれることのできない栄養を要求するように思われるとき――わたしたちの意志が、たどることのできない道を求めて一生けんめいになるとき、わたしたちは栄養失調で死んだり、絶望のあまりに立ちすくんだりする必要はありません。口にいれたいと願っている禁断の栄養物と同じくらいに強力で――場合によっては、もっと純粋であるかもしれない、精神の糧を捜し求めさえすればいいのですから。運命によってはばまれている道にくらべれば、でこぼこが多いとしても、それにおとらずひろびろとした一本道を、冒険に踏み出そうとする足のために切り開いてやりさえすればいいのですから。
「一年まえのわたしは、絶望のどん底にありました。聖職についたのは、まちがいではなかったか、と思ったからです。無味乾燥な仕事に、死ぬほどの退屈感をおぼえたからです。わたしは、広い世間の、もっと活動的な生活を――文学者としての、もっと刺激にあふれた仕事を――芸術家の、著述家の、雄弁家の運命を切望しました。牧師以外の運命なら、なんでもよかったのです。そうです、政治家の、軍人の、栄光を追う者の、名声を愛する者の、権力に執着する者の心臓が、わたしの牧師補の法衣の下で鼓動を打っていたのです。この人生は、あまりにみじめだ。これを変えなければ、生きつづけることもできまい。そう、わたしは考えました。暗黒と葛藤の時期がひとしきりつづいたあと、光がさしこみ、救いがおとずれたのです。わたしの欝屈《うっくつ》していた人生が、いきなりさっと開けて、無限にひろがる平原のようになりました――わたしの才能は、立ちあがって、全力を結集し、その翼をひろげて、視界のかなたへ飛び去るがいい、という天の声を聞いたのです。神はわたしに使命をあたえてくださったのです。その使命を遠くにまでおよぼし、りっぱにまっとうするためには、軍人や政治家や雄弁家の最高の資格である、手腕と知力、勇気と雄弁のすべてが必要であったのです。こうした資格のすべてを、有能な宣教師は一身に具現しているからです。
「わたしは、宣教師になる決意を固めました。その瞬間から、わたしの精神状態は一変したのです。わたしのあらゆる能力を束縛していた足かせは、はずれて落ちてしまい、そのいましめの名残りとしては、ひりひりする傷の痛みだけになりました――しかし、これを癒やすのは、時間にまかせるしかないわけです。実をいうと、父はわたしの決意に反対していたのですが、その父も死んでしまったいまでは、わたしが取り組まなければならない本格的な障害は、なに一つとしてありません。二、三の問題をかたづけ、モートンの牧師の後任をさがし、若干の感情的なもつれをときほぐすなり、たち切るなりすれば――人間的な弱みとの最後の戦いなのですが、打ち勝つ自信はあります。打ち勝って|みせる《ヽヽヽ》と誓ったのですから――わたしはヨーロッパを去って、東洋へむかうのです」
セント・ジョンは、独特の、押えつけてはいるが、力のこもった声で、こういった。話しおえると、わたしの顔ではなく、沈みかけた夕日を見つめている。わたしもまた、その夕日に目をやった。セント・ジョンもわたしも、野原から木戸へと通じる小道に背をむけていた。そのため、その草のはえた小道を歩いてくる足音には、ちっとも気づかなかった。谷間を流れる小川のせせらぎが、そのとき、その場所に聞こえている、唯一のここちよい物音であったのだ。銀の鈴のようにやさしい、明るい声をかけられて、わたしたちがはっとなったとしても不思議はあるまい――
「こんばんわ、リヴァーズさん。それに、こんばんわ、カルロのおじいさん。友だちを見つけるのは、あなたよりカルロのほうが早いようですわね。わたくしの姿が野原のはずれに見えたら、もう耳を立てて、しっぽをふっていましたのよ。あなたは、いまでもわたくしに背をむけたままだというのに」
なるほど、そのとおりであった。セント・ジョンは、いまの音楽的な言葉を一言聞いただけで、雷電が頭上の雲を引きさきでもしたかのように、ぎくっとなっていたが、その言葉がおわっても、なおかつ、声の主に驚かされたときと同じ姿勢で、つまり、木戸に腕をかけ、顔を西の空にむけたままの姿勢で立ちつくしていた。そのセント・ジョンが、やっと、計算でもしたようにゆっくりした動作でふりかえった。そのかたわらには、わたしの目に幻影のようにうつるものが立っていた。セント・ジョンから三フィート足らずのところに、純白のドレスを着た人影が見えている――若さにあふれた、優雅な姿。ぽってりしてはいるが、その輪郭はいかにもすっきりしている。からだをかがめてカルロをあやしたあと、首をしゃんとのばして、長いヴェールをはらいのけると、完全無欠な美しさの顔が、セント・ジョンの目のまえに、ぱっと花のように開いた。完全無欠な美しさとは、強烈な表現だが、これを取り消す気も、割り引きする気もわたしにはない。イギリスの温暖な気候が形作った最高にかわいい容貌、イギリスの湿度の高い風と霧のかかった空が生み出し、みがきあげた、ユリやバラを思わせる最高に純粋な肌の色は、この場合、その表現にいかにもふさわしい。魅力にも欠けていないし、欠点の一つも目につかない。この若い女性の顔の輪郭は、ととのっていて、デリケートである。美しい絵画に見るような形と色をした、大きな、黒い、まるい瞳。きれいな目のまわりに、まことにソフトな魅力をあたえている、長い、影ぶかいまつ毛。墨《すみ》を引いたような、いかにもくっきりとした眉。いきいきとした色と光にあふれた美貌に、この上ない落ち着きをあたえトいる白い、すべすべとした額。卵形をした、みずみずしい、なめらかな頬。みずみずしいだけでなく、赤く、健康そうで、きれいな形をした唇。きず一つない、きらきら輝くととのった歯。小さな、えくぼのできる顎《あご》の先。きれいに結いあげた豊かな、ふさふさした髪――要するに、理想的な美しさを実現するためにそろっていなければならない美点がすべて、この女性の一身にそなわっていたのである。この美人を眺めながら、わたしは驚嘆し、心の底からうっとりした気分になった。この女性を創造したとき、自然はえこひいきをしていたにちがいない。天賦の才をさずけるときにつきものの、けちくさい継母根性を忘れはて、このお気にいりの女性には、おばあちゃんみたいな気前のよさで大盤ふるまいをしたのである。
この地上の天使を、セント・ジョン・リヴァーズはどう思っているのだろうか? うしろをむいて、この女性の顔に目をやったセント・ジョンを見たとき、ごく自然に、その疑問が頭に浮かんできた。そして、この疑問の答えを、その顔に求めたのも、同じように自然なことであった。だが、当人は、すでにこの妖精のような美女から目をはなし、木戸のそばにむれ咲いている、つつましいヒナギクを見つめている。
「美しい夕暮れですが、一人歩きにはおそい時刻ですよ」セント・ジョンは、花弁を閉じた花の、雪のように白いつぼみを足で踏みにじりながらいった。
「あら、わたくしは、きょうの午後、S――市(ヨークシャー州シェフィールドを指している)から帰ったばかりですのよ」(と二十マイルばかりはなれた大都市の名前を口にした)「あなたが学校を開かれたことや、新しい先生が着任されたことをパパから聞いたので、お茶がすんだあと、帽子《ボンネット》をかぶって、その先生にお会いするために、谷を駆けてきましたのよ。こちらが先生?」とわたしを指さしながらきいた。
「そうです」とセント・ジョンはいった。
「モートンがお好きになれそうかしら?」とその女性はわたしにきいたが、率直で、ナイーブな無邪気さにあふれた口調と態度は、子どもっぽいところはあったが、好感がもてた。
「そう思いますわ。好きになる理由がいろいろとありますので」
「生徒さんは期待なさったとおりに熱心でしたか?」
「それはもう」
「宿舎はお気に召しましたかしら?」
「すごく気にいりましたわ」
「家具の配置など、うまくできていましたかしら?」
「とってもよくできてましたわ」
「あなたのお手伝いに、アリス・ウッドを選んだのも、よかったかしら?」
「ほんとうに結構でしたわ。あの子は、すなおで、役に立ちますから」(とすると、このかたが、跡取り娘のミス・オリヴァーなのか、とわたしは思った。天賦の美貌だけでなく、財産運にも恵まれているとは! いったいどんな幸運の星が集まって、このかたの誕生をつかさどったというのだろうか?)
「ときどきうかがって、授業のお手伝いをしますわね」とこの女性はつづけた。「ときたまあなたをおたずねするのも、気分転換になりますから。わたくしは変化が好きなの。リヴァーズさん、S――市にいるあいだ、わたくし、|すごく《ヽヽヽ》楽しかったことよ。ゆうべはね、けさといったほうがいいかしら、二時までダンスをしてましたの。あの暴動以来(一八一二年、ヨークシャー州で職工団が起こした機械破壊の暴動を指している)、あそこには第――連隊が駐屯していますのよ。あの士官さんたちは、世界中でいちばん感じのいいかたたちですわ。あの町(シェフィールド市は、刃物類の生産で有名)のナイフみがきの青年や、はさみ売りの商人が束になってかかっても、かないっこないわねえ」
一瞬、セント・ジョンの下唇がつき出し、上唇がゆがんだように思われた。いずれにせよ、笑いながら話すミス・オリヴァーの言葉を聞いたとき、セント・ジョンの口は、きゅっと力強く結ばれ、顔の下半分は珍らしくきびしくて、角ばった感じであった。それに、ヒナギクの花から目をあげて、相手の顔を見つめている。それは、にこりともしない、さぐるような、意味深長な目つきであった。ミス・オリヴァーは、その目に答えて、また笑ったが、笑い声は、この女性の若さや、バラ色の顔色や、えくぼや、きらきら光る目に、いかにもふさわしかった。
セント・ジョンがおしだまったまま、深刻な顔つきで立っているので、ミス・オリヴァーはカルロを愛撫しはじめた。
「カルロはわたくしが好きよね。|だれかさんとちがって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、お友だちにこわい顔をして、よそよそしくしたりしないわね。口がきけるのなら、黙ってなんかいないわよね」
ミス・オリヴァーが、生まれつきのしとやかな物腰でかがみこんで、老犬の頭をなでていたとき、そのうしろにいる若い、気むずかし屋の飼い主の顔がさっと紅潮したのを、わたしは見逃さなかった。その目が突然の情炎に溶けそうになり、さからいがたい感動にきらめくのに、わたしは気がついた。このように頬を紅潮させ、目を輝やかせているセント・ジョンは、ミス・オリヴァーの女性美に対抗できるほどの男性美を発揮していた。一度だけ、その胸が波打ったが、それは、暴君の圧制に疲れはてたセント・ジョンの大きな心臓が、意志とは無関係にふくれあがり、自由を手にいれるため、思いきりよくジャンプしたような感じであった。だが、セント・ジョンは、棒立ちになった馬を押える決然とした騎手のように、その衝動を押えつけてしまったらしい。ミス・オリヴァーのさりげない誘いかけに対する答えを、言葉でも態度でも示そうとしなかった。
「あなたがちっともお顔を見せない、とパパがいってますわよ」ミス・オリヴァーは、セント・ジョンの顔を見あげながらいった。「ヴェイル・ホールをお見かぎりになったのね。パパは今夜はひとりぼっちで、あまり気分がすぐれませんのよ。わたくしといっしょに、パパのお見舞に行ってくださいません?」
「お父さまのおじゃまをするには、まずい時間ですよ」とセント・ジョンは答えた。
「まずい時間ですって! その反対ですわ。いまは、パパがちょうど人恋しくなるころですのよ。工場の仕事がおわって、なにもすることがないのですから。さあ、リヴァーズさん、|ぜひとも《ヽヽヽヽ》いらっしゃって。どうして、そんなに引っ込み思案で、暗い顔ばかりしていらっしゃるの?」
ミス・オリヴァーは、その問いに自分で答えることで、セント・ジョンが黙っているために生じた空白を埋めた。
「わたくし、うっかりしてましたわ」ミス・オリヴァーは、自分自身にあきれたというふうに、髪が美しくカールした頭を横にふりながら、大声をあげた。「なんて軽率で、思慮のたりないわたくしでしょ! |ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》ごめんなさいね。わたくしのおしゃべりのお相手なんかできない理由がいくつもおありのことを、わたくし、すっかり忘れていましたのよ。ダイアナとメアリーがいなくなったり、ムア・ハウスをたたんだりしたので、それで、あなたはそんなにさびしいお気持ちでいらっしゃるのね。ほんとうに、お気の毒に思いますわ。ぜひパパに会いにいらっして」
「今夜はだめです、ロザモンドさん。今夜はだめです」
セント・ジョンは自動人形《ロボット》みたいな口のききかたをしたが、このように断わることがどんな努力を必要とするかは、本人にしかわからないことであった。
「いいわ、そんなに強情をはられるのなら、わたくし、これで失礼しますわ。これ以上、ぐずぐずできませんから――露がおりはじめますのよ。おやすみなさい!」
ミス・オリヴァーは手をさし出した。セント・ジョンは、その手にちょっとさわった。「おやすみなさい!」をくりかえした声は、低く、こだまのようにうつろに響いた。ミス・オリヴァーはむこうへ行きかけたが、しばらくして、また引きかえしてきた。
「ご気分でもお悪いのですか?」
こうきくのも、無理のないことであった。セント・ジョンの顔は、ミス・オリヴァーのガウンのように白かったからである。
「すごくいい気分ですよ」
セント・ジョンは、そう答えると、一礼して木戸をはなれた。二人は、別々の方向へ歩きはじめた。ミス・オリヴァーは、妖精のように野原をはねて行きながら、セント・ジョンのほうを二回、ふりかえって見つめたが、セント・ジョンは、大股ですたすた歩きながら、ただの一回もふりかえらなかった。
こうした、他人の苦悩と自己犠牲の姿に接して、わたしの心は、自分のそういった問題だけに思いわずらうことができなくなってしまった。ダイアナ・リヴァーズは兄のことを「死のように冷酷な人」と呼んでいた。それは、誇張した表現ではなかったのだ。
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三十二章
わたしは、できるだけ積極的に、また良心的に村の学校の仕事をつづけた。最初は、まったくの重労働であった。けんめいの努力にもかかわらず、生徒とその性格を把握するまでには、若干の時間がかかった。教育というものをいっさい受けたことがなく、すべての能力が眠ったままであるために、生徒たちは、絶望的なまでに愚鈍に思われた。一見したところでは、だれもかれも一様に愚鈍であるように見えたのだが、わたしの誤解であったことはすぐにわかった。この生徒たちのあいだにも、教育のある人たちの場合と同じように程度の差があり、教師と生徒がたがいによく知るようになってくると、その差が目に見えてはっきりしてきた。わたしやわたしの言葉、わたしのきめた規則ややりかたなどに対する驚きの気持ちがしずまってしまうと、間のぬけた顔をして、ぽかんと口を開けていた泥くさい少女のなん人かが、まことにシャープな頭をもった生徒に目ざめて行くのがわかった。生徒の多くは世話好きで、気立てのいいこともはっきりしてくる。生徒たちのなかに優秀な才能だけでなく、生まれつきの上品さや抜きがたい自尊心が備わっていることを示す例をいくつも見つけ出して、わたしのほうも好感と賞讃の念を抱くようになる。やがて生徒たちは嬉々として勉学にはげみ、身なりをととのえ、規則正しく課業を修得し、しとやかで礼儀にかなった作法を身につけるようになった。ある場合などには、驚くほどに長足の進歩をとげることもあり、そのことに対して、わたしは正真正銘の、幸福にあふれたプライドを抱くことができた。さらにまた、若干の優秀な生徒には、わたしから個人的な好感をもちはじめ、その生徒たちもわたしに好意をよせてくれた。生徒たちのなかには、一人前の女性といってもいいくらいの、小作農の娘が数人まじっていた。この娘たちは、読み書きや裁縫がすでにできたので、文法と地理と歴史の初歩と、高度の裁縫技術とを教えてやった。この生徒たちのなかには、知識欲にもえ、向上心にもあふれた、まことに感心な者たちもいたので、わたしはその者たちの家を訪問して、夜おそくまで楽しく語りあったりした。そうした折りに、わたしは両親たち(農夫とその妻)から下へも置かないもてなしを受けた。この人たちの飾らない好意を受けいれ、それにお返しを――その親切に対して丁重この上ない謝意をあらわすという、この人たちがいつも接しているようには思われない形でお返しをすることは、まことに楽しかった。こうした返礼は、その人たちをうれしがらせたばかりか、大いに益するところもあった。お礼をいわれた本人が自分の目にえらくなったようにうつっただけでなく、自分に示された丁重な処遇にふさわしい人間になりたいという気持ちを抱くようになったからである。
わたしは、その界隈の人気者になったように感じた。外出するたびに、いたるところから心のこもった挨拶の声がかかり、人なつっこい微笑で迎えられた。だれもかれもの好意につつまれて暮すということは、それがかりに労働者風情から受ける好意にすぎないにしても、「おだやかにして、甘やかな日の光のなかに坐る」(アイルランド詩人トマス・ムア作『ララ・ルク』(一八一七)からの引用)ようなもので、その光を受けて、静謐な内奥の感情がつぼみをつけ、花と開くのである。人生のこの時期において、わたしの心は、憂鬱に沈むことよりも、感謝の念でふくらむことのほうがはるかに多かった。がしかし、読者にはいっさいを告白するけれども、この平穏無事な、この他人の役に立つ生活のさなかにありながら――昼間は、生徒たちにまじって、やりがいのある仕事に精出し、夕方のひとときは、一人みちたりた気分で、絵を描いたり本を読んだりしたあとで――夜になると、わたしは、奇妙な夢の世界へせきたてられていた。さまざまな色どりの、千々に乱れた、理想や興奮や激情にあふれた夢――その夢のなかの、冒険とどきどきするような危難とロマンティックな危機をはらんだ場面で、わたしはなん回となくロチェスターさまに出会ったが、いつもきまって手に汗をにぎるような危機一髪の状態にさらされているときである。そして、ロチェスターさまの腕に抱かれ、その声を聞き、目と目をあわし、手と頬にふれ、愛し愛されているという感覚が――ロチェスターさまのおそばで一生を送るという希望が、はじめてのときと変わらぬ迫力と情熱でよみがえってくる。やがて、ふと目がさめる。そのときになって、わたしは、自分がどこにいるのか、どんな境遇にいるのかを思い出す。それから、わたしはカーテンのないベッドの上に、からだをとどめようもなくふるわせながら起きあがる。このとき、静まりかえった暗い夜は、絶望に身もだえするわたしの姿を目撃し、激情に泣きくずれるわたしの声を耳にするのである。翌朝の九時までには、冷静さと落ち着きを取りもどし、一日のきまった仕事に取りかかる用意のできたわたしが、村の学校をいつものように開いていた。
ロザモンド・オリヴァーは、約束どおりに、わたしをたずねてきた。学校へやってくるのは、たいていの場合、朝の乗馬の道すがらであった。おしきせを着て馬に乗った召使いを一人ひきつれ、学校の玄関口まで小馬を走らせてくる。紫色の乗馬服をまとい、アマゾン(昔、黒海付近に住んでいたとされる勇猛な女族)ふうの黒いビロードの帽子を、頬にキスしながら肩のあたりまでふんわりとたれている長いカールした髪の上に優雅にのせているミス・オリヴァーの姿以上に優美な光景は、ちょっと想像できない。そういう格好で、ひなびた学校の建物にはいってくると、目がくらんだようになっている村の子どもたちの列のあいだをすべるように通りぬけるのである。ミス・オリヴァーは、たいていの場合、セント・ジョンが毎日の教義問答《カテキズム》の授業をしているときにやってきた。この女性の訪問者の目は、若い牧師の心をぐさりとつき刺したのではないか、とわたしは思う。本能的にというのか、ミス・オリヴァーの入来は、見ていなくてもセント・ジョンには感知できるらしい。教室のドアとぜんぜんちがう方角に目をやっていても、ミス・オリヴァーが姿をあらわすと、セント・ジョンの頬は紅潮したし、大理石を思わせる表情は、さすがにゆるむことはなかったが、それでもいうにいわれぬ微妙な変化を見せ、落ち着きすましているだけにかえって、はげしい筋肉の動きや射るような視線では表現できない、強烈な、押し殺された熱情があらわれていた。
もちろん、ミス・オリヴァーは自分がおよぼしている力に気づいていたし、セント・ジョンにしても、そのことをかくしきれないことがわかっているだけに、あえてかくそうともしなかった。キリスト教徒としての禁欲主義にもかかわらず、ミス・オリヴァーが近づいてきて話しかけたり、陽気に、はげますように、愛情にあふれた目つきさえ見せて笑いかけると、セント・ジョンの手はぶるぶるふるえ、その目はもえるように光っていた。口にはっきり出さないまでも、その悲しげな、決然とした表情は、こう語っているようであった。「わたしはあなたを愛していますし、あなたがわたしに好意をよせてくださることも知っています。わたしが沈黙を守っているのは、成功がおぼつかないからではありません。わたしの心をさし出せば、あなたはそれを受けいれてくださると、わたしは信じています。しかし、その心は、すでに聖なる祭壇にささげられ、そのまわりには、火が用意されているのです。それはやがて、いけにえとなって、焼きつくされてしまうほかはないのです」
すると、ミス・オリヴァーは、失望した子どもみたいに口をとがらせ、うれいの雲が、輝やくばかりのはつらつさに影を落とすのであった。ミス・オリヴァーはあずけてあった手を大いそぎで引っこめると、まことに英雄的で、殉教者的な顔をした相手から、一瞬、ふきげんな表情になって、つと遠ざかって行くのであった。セント・ジョンにしてみれば、そのように遠ざかって行った人のあとを追いかけ、呼びもどし、引きとめたい気持ちは山々であったにちがいないのだが、天国へ行く唯一のチャンスを捨てることも、真実と永遠のパラダイスへの唯一の希望と引きかえに、地上の愛の楽土を選び取ることもしなかった。それに、セント・ジョンは、その性格のなかにあるすべての要素――流浪者、野心家、詩人、聖職者といった要素を、たった一つの情熱の枠のなかに閉じこめておくことができなかった。ヴェイル・ホールのサロンと平和を取って、伝導のための戦いの激戦地を捨てることはできなかったし、また、その気もなかったのである。わたしは、このことを本人の口から直接知ったのだが、それは、いつだったか、多くを語ろうとしないセント・ジョンを強引に攻めたてて、その本心を聞き出したときのことであった。
ミス・オリヴァーは、すでになん回か、わたしの家をたずねてくれていた。わたしは、この女性の、秘密もかくしごともない性格をすみからすみまで知った。この人はコケティッシュだが、情知らずではない。他人に対してはきびしいが、どうにもならないほどに利己的でもない。生まれたときから蝶よ花よといつくしまれているが、甘やかされて駄目になったというのでもない。腹を立てやすいが、根はお人よしで、見えっ張りだが(鏡をのぞくたびに、まことにはつらつとした美貌がうつるのだから、やむを得ないことではあった)、きざっぽくはない。気前がよくて、金持ちを鼻にかけることもなく、天真爛漫で、なかなか頭もよく、陽気で、快活で、無分別なところもある。要するに、ミス・オリヴァーは、わたしのような同性の、冷静な観察者にとってさえも、非常に魅力のある女性であったが、とりたてて興味をひくところや、この上なく印象的なところがあるわけではなかった。たとえば、セント・ジョンの妹たちとは、ぜんぜんちがった気性の持ち主であった。それでも、わたしは、かつての生徒のアデールに対するのと同じような好感をもっていた。ただ、いつも指導と教育にあたっている子どもが相手の場合、同じ程度に魅力のある、おとなの知人の場合よりも、もっと親密な愛情がめばえるという点だけがちがっている。
ミス・オリヴァーは、愛すべき気まぐれから、わたしに好意を示してくれた。この人にいわせると、わたしはセント・ジョンに似ているらしい(もっとも、「あなたは、きれいで、格好のいいかただけど、あのかたの十分の一も美しくはないわ。だって、あのかたは天使ですもの!」というただし書きがついていることはたしかであったが)。しかも、わたしは、セント・ジョンのように、善良で、賢明で、落ち着きがあって、しっかりしているとのことである。ミス・オリヴァーは、わたしが村の学校の女教師としては「変わり種」であるといい切り、わたしの過去の経歴がわかれば、おもしろい伝奇小説《ロマンス》が一冊書けるにちがいない、ともいっていた。
ある日の夕暮れ、いつもの子どもらしい活発さと、わがままだが、いや味のない好奇心を発揮して、小さな台所の食器戸棚や、テーブルの引き出しをひっかきまわしていたミス・オリヴァーは、まず最初に、二冊のフランス語の本、シラー(第二十八章に言及されている)の本、ドイツ語の文法書と辞書を見つけ、そのつぎに、画材と、なん枚かのスケッチを見つけ出した。このスケッチのなかには、わたしの生徒の一人である、かわいらしい天童《ケルビム》のような少女の顔の鉛筆画や、モートン谷や周辺の荒れ野で写生したいろいろの風景画がまじっている。ミス・オリヴァーは、最初は驚いて棒立ちになっていたが、つぎには喜びで電気に打たれたようになった。
「この絵はあなたがお描きになったの? フランス語やドイツ語がおできになるの? あなたって、なんてすてきでしょ――まるで奇蹟みたい! S――市いちばんの学校の先生よりも絵がおじょうずだわ。パパに見せてあげたいから、わたくしの肖像画を描いてくださらない?」
「ぜひお願いしますわ」とわたしは答えた。
わたしは、これほどに完全で、輝くばかりのモデルの絵を描くことを考えて、芸術家がおぼえるようなうれしさにからだがぞくぞくとふるえた。この日のミス・オリヴァーは、ダークブルーの絹のドレスを着ていた。腕や首は肌もあらわで、アクセサリーといえば、自然な巻き毛のもつ気どらない優雅さを見せて肩の上に波うっている、クリ色のふさふさした髪だけであった。わたしは良質の厚紙を一枚、取り出して、注意ぶかく顔のアウトラインをスケッチした。わたしは、それに色を塗るのが楽しみでならなかったが、その日は時間がおそかったので、後日あらためてモデルになってくれるように頼んでおいた。
ミス・オリヴァーがよっぽどわたしのことを吹聴したとみえ、翌日の夕方、父親のオリヴァー氏自身がいっしょにやってきた――背の高い、顔だちのしっかりした、銀髪の中年男で、そばにいる美しい娘は、古色蒼然とした小塔の近くに咲く光り輝いた花のように見えた。父親は口数がすくなく、プライドの高い人物であったかもしれないが、わたしにはすごく親切にしてくれた。ロザモンドの肖像のスケッチがいたくお気に召して、この絵をぜひとも完成してほしい、といった。その上、あすはヴェイル・ホールへおこしいただいて、一夕をすごしてもらえまいか、ともいってくれた。
わたしはその招きに応じた。ヴェイル・ホールは、堂々とした大邸宅で、持ち主の富豪ぶりを顕著に物語っている。ロザモンドは、わたしがいるあいだ、ずっと上機嫌で、楽しそうであった。父親もあいそがよく、お茶のあと、わたしと四方山の話をしたときに、モートンの学校でのわたしの仕事ぶりを熱心な口調で賞めあげ、見たり聞いたりしたところから察して、わたしがいまの学校にはもったいなさすぎる先生だから、すぐにもやめて、もっといいところに就職するのではないか、とそればかり心配している、ともいった。
「そうですとも!」とロザモンドが大きな声でいった。「上流家庭の家庭教師になってもおかしくないくらい頭がいいのよ、パパ」
わたしは、イギリスのどんな上流家庭よりも、いまいるところがずっといいのですよ、と思っていた。セント・ジョンのことを――リヴァーズ家のことを語るオリヴァー氏の口ぶりには、尊敬の念がこもっていた。その話によると、リヴァーズ一族は、この界隈では、たいへんな旧家で、先祖代々、富豪であった。モートンの土地は、すべてリヴァーズ家のものであったし、いまでも、同家の当主は、その気になりさえすれば、トップクラスの名門と婚姻関係を結ぶことができるとのことであった。オリヴァー氏は、あんなりっぱな有為の青年が宣教師として赴任する計画をたてているのは、いかにももったいない。かけがえのない人生を反古にするようなものだ、といった。どうやら、ロザモンドの父親は、娘とセント・ジョンの結婚に異議を唱える気はないらしい。この青年牧師の素性や門地や聖職が、財産のない点を十分に償っていると考えていることは明らかであった。
十一月五日、休日。お手伝いの少女は、家の掃除を手伝ってから、一ペニーの謝礼に満足しきって帰って行った。わたしのまわりのものは、すべてしみ一つなく、ぴかぴか光っている――ごしごしこすった床、みがきあげた暖炉の炉ごうし、十分にふきこんだ椅子。わたし自身も身だしなみをととのえた。これからの午後を、好きなようにすごすことができるのだ。
二、三ページのドイツ語を翻訳するのに、一時間かかった。それから、パレットと絵筆を取りあげて、ロザモンド・オリヴァーの肖像画を完成するという、もっと楽であり、それゆえにもっと心のやすまる仕事に取りかかった。顔の部分はすでにできあがっていて、背景を塗りあげ、着衣に濃淡をつけさえすればよかった。あとは、ふっくらした唇に洋紅《カーミン》をちょっと加え、ふさふさした髪のそこここに巻毛を描きこみ、青いくまどりをつけたまぶたの下のまつ毛の影に、もっと濃い色を塗ることになる。こうした細部の仕上げにわれを忘れていたとき、一回だけみじかくノックする音がして、ドアが開き、セント・ジョン・リヴァーズがはいってきた。
「休みをどうすごしているか、ようすを見にきましたよ。考えごとをしていたのでは? していなかった? それは、結構です。絵を描いているあいだは、さびしくはないでしょうから。これまでは、辛抱強くやってこられましたが、実をいうと、わたしはまだ、あなたのことが心配でしてね。眠れない夜のためにと思って、本をもってきてあげました」
セント・ジョンは新刊書を――詩の本を一冊、テーブルの上に置いた。それは当時の、つまり現代文学の黄金時代の幸運な読者にしばしば提供された、あの純正な著作の一つであった(後出のように、この詩の本はウォルター・スコット作の『マーミオン』で、一八〇八年出版)。ああ! 当時にくらべると、いまの時代の読者は恵まれていない。だが、勇気をもたなくては! わたしは、なにも非難や不平の言葉を並べるために、ここで話を中断するのではない。わたしは、詩が死にたえたのでも、天才がいなくなったのでもないことを知っているし、|黄金の神《マモン》がその両者に対する生殺与奪の権を握ったのでもないことを知っている。詩も天才もともに、いつかふたたび、その存在を、その実体を、その自由と力を明らかにするにちがいない。その二つは、力強い天使として、いま天国に安座している! その死滅をめぐって、悪しき心の持ち主たちが勝ちほこり、弱き心の持ち主たちが泣きわめくとき、詩と天才はにこやかにほほえんでいる。詩が滅びたって? 天才が姿を消したって? いや、凡人たちよ、そうではない! 詩や天才をそねむ者の甘言にのって、そのような考えにふけってはならない。断じてそうではないのだ。詩と天才は、生きつづけているだけでなく、この世を支配し、救済しているのである。この両者の聖なる力がいたるところに及んでいなければ、あなたがたはいま、地獄に――あなたがた自身の低俗な生活という地獄的世界に身を置いていることになるであろう。
わたしが『マーミオン』(もってきてくれた本は、『マーミオン』だった)の輝やかしいページに熱心に目を通しているあいだに、セント・ジョンはからだをかがめて、描きかけの絵に見いっていた。背の高いからだが、突然、はっとしたふうにのびて、もとのとおりしゃんとなったが、口は一言もきかない。わたしが目をあげると、むこうから目をそらした。わたしには、セント・ジョンの考えていることがよくわかったし、その心をはっきりと読みとることができた。このとき、わたしはセント・ジョンよりも沈着で、冷静であった。一時的ではあれ、優位に立っているのだから、この人のためになにかできることがあれば、してあげてもいいわ、とわたしは思った。
「確固たる精神と自制心の持ち主だから、この人はあまりにも自分に対して酷なのだわ」とわたしは考えた。「感情や苦痛はいっさい内に閉じこめ――なにも語らず、なにも告白せず、なにも外に示さない。結婚してはならないと考えている、あのかわいいロザモンドの話でもすこししたら、この人のためになるにちがいない。話をさせてみることにしよう」
わたしはまず、「椅子にお坐りなさいな、リヴァーズさん」といった。だが、セント・ジョンは、例によって例のごとくで、ゆっくりしてはおれない、と答えた。
「そうでございますか」とわたしは心のなかでいいかえした。「よかったら、立ったままでいらっしゃい。でも、そうやすやすとは帰さないつもりをしていますからね。孤独がわたしによくないのなら、あなたにもよくないはずよ。あなたの本心を開かせる秘密のばね錠を捜し出すことができるかどうか、その大理石みたいな胸に割れ目を見つけて、同情という香油を一滴流しこむことができるかどうか、ためしてみますからね」
「この絵、似てますでしょ?」とわたしはだしぬけにきいた。
「似てるって! だれにです? あまりよく見なかったので」
「見てらしたわよ、リヴァーズさん」
セント・ジョンは、わたしがだしぬけに示したいままでにない、ぶしつけな態度にあっけにとられたらしく、びっくりした表情で、わたしを見つめている。
「あら、これはまだ序の口ですわよ」とわたしは心のなかでつぶやいた。「あなたがすこしばかり強情でもへこたれるつもりはありませんからね。とことんまでやる覚悟でいるのですから」
わたしはセント・ジョンにむかって、「この絵を穴のあくほど、じっと見ていらしたわ。でも、もう一度ごらんになるのに反対したりはいたしませんのよ」
わたしは立ちあがると、それをセント・ジョンに手渡した。
「よく描けた絵ですね。実にソフトで、きれいな色あいだし、デッサンもすっきりしていて、正確ですよ」
「ええ、ええ。そんなことは、わかってますの。でも、似てますかしら? だれに似てますかしら?」
ためらう気持ちを押えて、セント・ジョンは、「オリヴァーさんのようですね」といった。
「そうですとも。それにね、リヴァーズさん、うまく当ててくださったお礼に、この絵とそっくりの複製を念いりに仕上げて、あなたにさしあげますわ。そんなプレゼントでもあなたが受け取るといってくだされば、の話ですけど。あなたが見むきもしないような贈り物に、時間をかけて苦労したくありませんので」
セント・ジョンは、絵にじっと見いっていた。見ているうちに、それをもった手に力がこもり、ますます欲しくなるふうであった。
「よく似ている!」とセント・ジョンはつぶやいた。「目がよく描けているし、色も、光線も、表情も完璧だ。笑いかけている!」
「その絵の複製をもっていることは、あなたの慰めになるかしら? それとも、苦しみになるかしら? 教えてください。マダガスカルか、ケープ・タウンか、インドにいるとき、その記念の品をもっていたら、あなたの心が慰められるのでしょうか? それとも、それを見たために、いろいろのことを思い出して、気が弱くなったり、めいったりなさるのでしょうか?」
セント・ジョンは、そっと目をあげて、わたしのほうを、決断のつかないような、まよったような表情で、ちらっと見てから、また絵を眺めだした。
「その絵をいただきたいことは、たしかなのですが、それが妥当で、賢明なことかどうかとなると、また問題がちがってきますのでね」
ロザモンドがセント・ジョンを心から愛していることと、その父親が二人の結婚に反対しそうにないことをたしかめていたので、わたしは――セント・ジョンほどに高尚な考えの持ち主でないわたしは、心の底では、二人の結婚を積極的に推し進めたい気持ちになっていた。セント・ジョンがオリヴァー氏の莫大な財産を相続することになれば、熱帯地方の太陽のもとで、その天分を枯渇させたり、その体力を消粍させたりするようなまねよりは、もうすこしましなことにその財産を役立てるのではあるまいか? そんな確信が頭にあったので、わたしはつぎのように答えた――
「わたしの見るところでは、その絵のモデルそのものを早速に手にいれるほうが、もっと妥当で、もっと賢明なことに思われますけど」
このときには、セント・ジョンはすでに腰をおろしていた。絵をまえのテーブルの上に置き、額を両手で支える格好で、おおいかぶさるようにして、うっとりと見いっている。わたしのいまの思いきった発言に腹を立てても、驚いてもいないことがわかった。これまでずっと忌避してきた問題について、こうも率直に発言されることは――こうも自由に論じられるのを耳にすることは、セント・ジョンに新しい喜びとして――望外の助け舟として受け取られはじめていることさえも、わたしには読みとれた。よくあることだが、感情や悲哀の率直な話し合いを切実に必要としているのは、多弁な人ではなくて、無口な人のほうである。厳格この上ないように思われる禁欲主義者といえども、しょせんは人間なのであり、その人たちの魂の「沈黙の海」へ、大胆に、善意をもって「突入する」(いずれもイギリス詩人S・T・コウルリジの『老水夫行』からの引用)ことは、最大の恩恵をほどこしてやることになるのである。
「そのかたがあなたに好意をもっていることはたしかですよ」わたしはセント・ジョンの椅子のうしろに立っていった。「お父さまもあなたを尊敬なさっていますし。それに、かわいいお嬢さんですわ――すこし思慮が足りないようですけれど。でも、思慮ぶかいあなたなら、このかたの分まで間に合わせることができますもの。結婚なさるべきですわ」
「|ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》わたしに好意を?」
「ほんとうですとも。ほかのだれよりもですわ。いつもあなたのお話ばかりですのよ。あんなに楽しそうに、いつも口にしている話題は、ほかにないのですから」
「それを聞いて、たいへんうれしくなりました――たいへんにうれしいのです。あと十五分、そのお話をつづけてください」
こういうと、セント・ジョンはほんとうにポケットから時計を取り出して、時間をはかるためにテーブルの上に置いた。
「でも、つづけたところで、なんにもならないのでしょ? わたしに反論するための鉄槌を用意するなり、あなたの心をしばるための新しい鎖を鍛えるなりなさっているでしょうから」
「そんな固苦しいことは考えないでください。このとおり、すっかり軟化して、とけそうになっているわたしを想像してください。人間的な愛情が、わたしの心のなかで、ま新しい泉みたいにわきあがり、わたしがあれほど注意ぶかく、骨を折って準備した畑に――あれほどの精根をこめて、善意と禁欲的な計画との種をまいてあった畑全体に、甘やかな水をあふれさせているのです。いまではもう、甘露の大洪水となっています――若芽は水びたしになり、えもいわれぬ味の毒(シェイクスピア作『アントニーとクレオパトラ』第一章第五場からの引用)のために腐りかけています。いまのわたしには、ヴェイル・ホールの居間で、花嫁のロザモンド・オリヴァーの足もとの長椅子に寝そべっている自分の姿が見えています。花嫁は甘い声でわたしに話しかけています――巧妙な筆づかいであなたが見事にうつし取ったこの目で、わたしをじっと見おろしています――このさんご色の唇で、わたしにほほえみかけています。あの人はわたしのもの――わたしはあの人のもの――わたしには、このいまの生活と、この浮き世とがあれば十分なのです。しっ! なにもいわないでください――わたしの心には喜びがあふれています――わたしの五感は、夢見ごこちになっています――わたしがきめた十五分間を、静かにすごさせてください」
わたしは、したいようにさせてやった。時計はカチカチと時をきざみ、セント・ジョンの息づかいは早く、また低かった。わたしは黙って、立っていた。この静寂のなかで、十五分がすぎ去った。セント・ジョンは時計をもとにもどすと、肖像画を下に置き、椅子から立ちあがって、暖炉のまえにたたずんだ。
「さて、いまのわずかな時間は、恍惚と幻想にあてられました。わたしは、誘惑の胸にわたしの頭を休ませ、わたしからすすんで花でできたくびきに首をつっこんでみました。誘惑のさし出すさかずきも味わってみました。枕にした胸は熱くもえていました。しかし、花輪には、毒ヘビがいますし、さかずきの酒は、にがい味がします。誘惑の約束する言葉はむなしい――さし出すものは、いつわりです。わたしには、こうしたことがすべて見えるし、わかってもいるのです」
わたしは、あっけに取られて、セント・ジョンの顔をまじまじと見つめた。
「不思議なことですがね」とセント・ジョンは言葉をつづけた。「わたしはロザモンドを狂おしいまでに――まるで無上に美しく、上品で、魅惑的な女性に対する初恋みたいな強烈さで、愛していながら、同時にまた、この女はいい妻にはならない、わたしにふさわしい伴侶ではない、結婚後一年もたたないうちに、そのことがわかる、十二ヵ月の甘い生活のあとに、生涯にわたる後悔がやってくる、といったことを、冷静に、明瞭に意識してもいるのです。そのことが、わたしにはわかっているのです」
「ほんとに不思議なことですわ!」わたしは、そう叫ばざるを得ない気持ちだった。
「わたしのなかのなにかが、あの人の魅力を痛いまでに感じとっているのですが、別のなにかが、あの人の欠点に強く印象づけられていることもたしかなのです。それは、わたしが熱望するものに共感できないという欠点――わたしが従事することに協力できないという欠点です。苦しむ者、額に汗する者、女性の使徒としてのロザモンド? 宣教師の妻としてのロザモンド? 考えられませんよ!」
「でも、あなたが宣教師になる必要はありませんわ。その計画をきっぱりお捨てになればいいのです」
「捨てろですって! なにをです? ――わたしの天職をですか? 天国での館のために、地上に築いた土台を捨てろというのですか? 人類を向上させる――知識を無知文盲の国へ伝える――戦争と隷従と迷信と地獄の恐怖にかわって、平和と自由と宗教と天国の希望をもたらすという、栄光ある大望のため、すべての野心を打って一丸とした人びとのなかに数えあげられたいという、わたしの希望をですか? それをすべて捨てねばならないのですか? それは、わたしのからだを流れる血よりもだいじなものです。わたしの夢であり、生きがいでもあるのです」
かなり間を置いてから、わたしはいった――
「それでは、オリヴァーさんは? あのかたの失望や悲しみは、気にならないのですか?」
「オリヴァーさんは、いつも求婚者やおべっかを使う男たちにかこまれています。一ヵ月もたたないうちに、わたしの姿は、あの人の心から消え去ってしまうでしょう。わたしのことは忘れてしまって、わたしなどよりもはるかにずっと幸福にしてあげられる男性と結婚するでしょう」
「ずいぶんと冷たいいいかたをなさいますのね。でも、あなただって、ジレンマに苦しんでいらっしゃる。すっかりやせたではありませんか」
「そうじゃありません。わたしがすこしやせたとすれば、将来の見通しがつかず、出発がいつまでものびのびになっていることに不安をおぼえているからです。つい今朝がた、まえから到着を待ちわびていた後任の牧師から、あと三ヵ月はわたしと交替できない、という連絡がありました。その三ヵ月は、六ヵ月にのびる公算が大きいのです」
「オリヴァーさんが教室にはいってくると、あなたはぶるぶるふるえて、まっ赤になってしまいますのね」
またしても、驚きの表情が、セント・ジョンの顔をかすめた。男性にむかって、こんなに大胆な口をきく女性がいるとは、想像したこともなかったのだ。わたしとしては、この種の会話がかえって気楽であった。男であれ女であれ、強力な精神をもった、分別のある、洗練された人物を相手に話しあう場合、月並みな遠慮ぶかさという外濠をわたり、かくしごとという敷居をまたいで、その人物の本心という炉石のすぐそばに位置を占めるまで、心の安まる気がしないのである。
「あなたは|ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》変わっていますね」とセント・ジョンはいった。「それに、ものおじしない。あなたの目に、刺すようななにかがあるように、あなたの心には、なにか大胆なものがあるのです。しかし、わたしの感情をすこし誤解していらっしゃるようですから、その点をはっきりさせてください。あなたはわたしの感情を実際以上に深く、強いものと考えていらっしゃる。あなたがわたしにそなわっているといわれる同情心は、わたしが本来もっている同情心をはるかに上まわっているのです。オリヴァーさんのまえで顔を赤らめたり、からだがふるえたりするとき、わたしは自分をあわれんだりしてはいません。自分の弱さをけいべつしているのです。それが恥ずべきことであるのを知っています。それは、肉体が熱にうかされているのにすぎず、断じて魂のけいれんではないのです。|この魂《ヽヽヽ》は、波さわぐ海の底にしっかりと根をおろした岩のように、確固としているのです。あるがままのわたしを知ってください――わたしは冷たく、がんこな人間なのです」
わたしは信じられないわ、というふうに微笑した。
「あなたはわたしの心の秘密を無理やりに奪い取ってしまった。それはいま、あなたの手ににぎられている。生まれたままの姿でいるわたしは――キリスト教が人間の欠点をおおいかくしている、あの血できよめられた聖衣をぬぎすてたわたしは、冷たくて、がんこで、野心にもえる人間にほかなりません。さまざまの感情のなかで、わたしを永久に支配する力をもっているのは、骨肉の愛だけなのです。わたしを導いてくれるのは、理性であって、感情ではないのです。わたしの野心にはかぎりがないし、ほかの人間よりも高くのぼりたい、ほかの人間よりも多くのことをしたいというわたしの欲望は、みたされることがありません。わたしが忍耐と努力と勤勉と才能を高く評価するのは、これらを手段として、人間が偉大な目的を達成し、赫々たる名声を獲得することができるからなのです。わたしがあなたの生きかたを関心をもって見守っているのは、あなたのことを勤勉で、規律正しい、エネルギッシュな女性の典型と思うからであって、あなたの過去の経験や、現在の苦悩にふかく同情しているからではないのです」
「あなたは、自分がただの異教の哲学者だとおっしゃりたいのでしょう」とわたしはいった。
「いや。わたしと、理神論的な哲学者とのあいだに、こういうちがいがあります。つまり、わたしは信じる、キリストの教えを信じるのです。あなたは形容詞をまちがえていますよ。わたしは異教の哲学者ではなく、キリスト教の哲学者――イエスの宗旨の信奉者です。イエスの弟子として、わたしは、イエスの純粋で、慈悲ぶかい、温情あふれる教義を踏襲いたします。わたしはその教義を唱導いたしますし、布教につとめることを誓ってもいるのです。若いときに信者になりましたので、わたしの生まれつきの性質は、このように宗教によって教化されたのです――骨肉の愛という小さな芽から、博愛精神という、大きな影を投げかける巨木が育ったのです。人間としての正直さという、野生のままの、糸のような根から、神の正義という、公平な概念がはぐくまれたのです。とるに足らぬわが身のために権力と名声を得たいという野心から、主の王国をひろめたい、十字架の旗じるしのために勝利を獲得したい、という抱負が形づくられたのです。宗教は、これだけのことをわたしのためにしてくれるため、生来の素材を最大限に活用し、本来の性質を刈りこんだり鍛えたりしてくれたのです。しかし、宗教は本来の性質を根こそぎにすることはできなかったのです。いや、『この死ぬものが必ず死なないものを着ることになる』(新約聖書、コリント人への第一の手紙、第十五章第五十三節。死者を埋葬するときに読まれる文句)までは、それが根こそぎにされることはないのです」
こういうと、セント・ジョンは、テーブルの上のパレットのそばに置いてあった帽子を手にとった。そして、もう一度、例の肖像画に目をやった。
「|ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》美しいかただ!」とセント・ジョンはつぶやいた。「この人が『世界のバラ』と呼ばれているのも、まったく当然のことですよ!(ロザモンドは、文字どおりの意味が「世界のバラ」となる)」
「じゃ、それと同じ絵は描かなくてもよろしいですか?」
「なんの役に立つのです? 余計なことですよ」
セント・ジョンは、その肖像画の上に、一枚のうすい紙を置いた。それは、絵の具を塗るとき、その上に手を置いて、厚紙が汚れないようにしている紙であったが、そのなにも書いてない紙にセント・ジョンが突然なにを見つけたのか、わたしにはぜんぜん見当がつかない。とにかく、なにかが、その目をとらえたらしい。セント・ジョンは、それをひったくるように取りあげると、その端を見つめてから、今度はわたしのほうへ、口でいいあらわせないほど奇妙で、なんともわけのわからない視線を投げかけた。それは、わたしの姿と、顔と、ドレスを、すみからすみまで眺めまわし、一つ一つを頭に書きとめるみたいな視線であった。いっさいを、すばやく、するどく、稲妻のようになめまわしたのである。セント・ジョンの唇は、なにかいいたげに、開きかけたが、出かかった言葉の内容がなんであったにせよ、それを押えつけてしまった。
「どうかしましたの?」とわたしはきいた。
「なんでもありませんよ」とセント・ジョンは答えたが、その紙をもとにもどすとき、巧妙に端のところを細長くちぎり取ったのを、わたしは見逃さなかった。その紙きれは、手袋のなかに消えた。セント・ジョンは、そそくさと一礼すると、「さよなら」といって、姿を消してしまった。
「まあ!」わたしは、土地の言葉で、こう叫んだ。「それにしても、どうなっちゃってるのかしら!」
こんどは、わたしがそのうすい紙をじっくりと調べる番だった。だが、筆で絵の具の色をためしたあとが二、三ヵ所、うす汚れているだけで、ほかにはなにも見えなかった。わたしは、このなぞめいた一件を一、二分間、考えてみたが、解決できそうにもない上、それほど大したことでもあるまいと思ったので、頭のなかから追い出し、やがてすぐに忘れてしまった。
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三十三章
セント・ジョンが出て行ってから、雪がふりはじめ、一晩中、猛吹雪がつづいた。翌日は、膚を刺すような風が、目をくらませるような新雪をもたらし、たそがれどきまでに、モートンの谷は吹きよせられた雪に閉じこめられて、行き来ができないほどになってしまった。わたしはよろい戸をおろし、雪がすき間から吹きこんでくるのを防ぐため、ドアの下に靴ぬぐいをあてがい、暖炉の火をあかあかともえあがらせると、荒れ狂う暴風の押し殺されたような音に耳をかたむけながら、一時間近く、その火のまえに坐ってから、ろうそくをつけ、『マーミオン』を取り出して、読みはじめた――
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日は落ちぬ、ノラムの城の断崖に、
ひろく、ふかき、うるわしのトウィードの川面に、
わびしげなるチェヴィオットの山並に。
黄金の光のなかに輝きたつは
四囲を圧するいくつかの塔、天守閣、
それをばめぐる側面の城壁なりき。
(固有名詞は、いずれもイングランドとスコットランドの国境にある地名)
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その音楽的な響きに魅せられ、わたしはやがて暴風のことを忘れてしまった。
物音が聞こえた。風がドアをゆさぶったのだわ、とわたしは思った。だが、ちがっていた。掛けがねをはずして、凍りついたハリケーンのなかから――咆哮する暗闇のなかから姿を見せて、わたしのまえに立ちはだかったのは、ほかならぬセント・ジョン・リヴァーズであった。長身をつつんでいる外套は、上から下まで氷河のようにまっ白になっている。わたしは、肝をつぶしてしまった。こんな夜に、雪に閉じこめられた谷間からやってくる人がいようとは、夢にも思っていなかったからである。
「なにか悪いことでも?」とわたしはきいた。「なにかあったのですか?」
「いいえ。あなたはほんとうに驚きやすいかたですね!」
そう答えると、セント・ジョンは、外套をぬいで、ドアのところにかけ、はいってきたときに動かした靴ぬぐいを、そのドアのほうへすました顔で押しもどした。足踏みをして、長靴についた雪を落としている。
「きれいな床を汚しますよ。しかし、きょうのところは、勘弁してください」それから、暖炉に近づくと、「ここへたどり着くのは、一苦労でしたよ、まったく」といいながら、両手を暖炉の火にかざし、「腰までくる吹きだまりが一箇所ありましてね。幸い、まだ雪はやわらかいのですが」
「それにしても、なにをしにいらっしゃったのですの?」とわたしはきかざるを得なかった。
「せっかくきた者に、かなり冷たいご質問のようですね。しかし、きかれたからには、お答えしましょう。ちょっと、あなたとお話をしにきた、それだけのことです。ものをいわない本や、がらんどうの部屋にあきあきしましてね。それに、きのうから、話を半分しか聞かされていないため、あとの半分が聞きたくてうずうずしている人みたいな興奮を味わっているのですよ」
セント・ジョンは腰をおろした。わたしは、この人のきのうの行動と考えあわせ、すこし気がふれているのではないか、と真剣に考えはじめた。しかし、かりに精神異常であるとしても、この人の場合は非常に落ち着いた、冷静な異状ぶりであった。セント・ジョンは、雪にぬれた髪を額からかきあげ、青ざめた額と、同じように青ざめた頬を、暖炉の明かりにはっきりと浮かびあがらせたが、このときほどに、そのハンサムな目鼻だちが、大理石にのみで刻みこんだ顔のように見えたことはなかった。その額や頬に、苦労や心配のためにやつれた跡がはっきりと彫りこまれているのを見て、わたしははっと胸をつかれた。なにかわたしにも理解できるくらいのことはいうであろうと思って、相手が口を開くのを待っていたが、セント・ジョンはあごを手のひらにのせ、指で唇をさわりながら、考えにふけっている。その手が、顔と変らないくらいにやせ衰えているのが、印象的であった。わたしの心に、あるいはいわれのないものであるかもしれない、あわれみの気持ちがどっとわき起こり、口をきかずにはいられなくなった――
「ダイアナかメアリーが帰ってきて、あなたといっしょに暮せればいいのに、と思いますわ。ひとりぼっちというのは、どうしてもよくありませんし、あなたは健康にかまわなさすぎますから」
「そんなことはありませんよ。必要なときには気をつけていますし、いまも元気ですよ。どこか病気に見えますか?」
この言葉が、ぞんざいで、心ここにあらず、といった、いかにも気のない態度で口にされたところを見ると、わたしの気づかいなど、すくなくともセント・ジョン自身には、まったくよけいなものに思われているらしい。わたしは黙ってしまった。
セント・ジョンは相変わらず、指でゆっくりと上唇をさすりつづけ、その目は、夢みるような視線をあかあかともえる暖炉の火床にむけている。どうしてもなにかいわねばなるまい、という気がしたわたしは、しばらくしてから、背中のうしろのドアからはいってくるすき間風が冷たくはありませんか、ときいてみた。
「いえ、いえ」短くて、なにやらつんけんした答えがかえってきた。
「いいわよ」とわたしは考えた。「話したくなければ、黙っていらっしゃい。あなたのことなんか、ほったらかしにして、本を読ませていただきますから」
そこで、わたしはろうそくの芯《しん》を切って、『マーミオン』のつづきを読みはじめた。やがて、セント・ジョンが身動きをした。わたしの目は、すぐにその動きにひかれたが、相手はモロッコ皮(ヤギのなめし皮)の紙入れを取り出すと、そこから一通の手紙をひっぱり出して、だまって一読してから、折りたたんで、もとにもどし、またしても黙想にふけりはじめただけであった。こんな不可解な人物に目のまえにでんと坐っていられては、本を読むこともできないし、いらいらしてくるものだから、沈黙を守りつづけることもかなわない。つっけんどんにしたければするがいい。とにかく、わたしとしては、話すことにせねばなるまい。
「最近、ダイアナやメアリーから便りがありまして?」
「一週間まえにお見せした手紙が最後です」
「あなたの計画に、なにか変更したところはありまして? 予定よりも早くイギリスを出発せよという命令が出るようなことはありませんの?」
「残念ながら、ないようです。そんないい機会がわたしに恵まれることはありませんね」
ずっといなされてばかりなので、わたしは話題を変えることにした――学校と生徒のことを話してみようと思いついた。
「メアリー・ガレットのお母さんの病気がよくなって、メアリーはけさから復学しましたわ。来週は、ファウンドリー・クロウスから新入生が四人まいります――雪がふらなければ、きょうきていたのですけど」
「そうですか?」
「二人分の費用はロザモンドのお父さまが出してくださいます」
「あのかたが?」
「クリスマスには全校生徒にごちそうをしてくださるとか」
「知っています」
「あなたのご提案ですかしら?」
「いいえ」
「じゃ、どなたの?」
「お嬢さんだと思います」
「あのかたらしいお考えですね。ほんとうに親切なかたですわ」
「ええ」
ここでまた、ちょっと白けてしまった。時計が八時を打った。その音に目をさましたのか、セント・ジョンは組んでいた足をほどくと、しゃんと坐りなおしてから、わたしのほうをむいた。
「本を読むのをちょっとやめて、もうすこし暖炉のそばへきてください」
わたしは、いぶかしく思ったが、思ったところできりがつくわけでもなかったので、いわれるとおりにした。
「半時間まえ、わたしは、話のあと半分を聞きたくてうずうずしているといいました」とセント・ジョンはつづけた。「考えてみたら、わたしが語り手の立場にまわり、あなたを聞き手にしたほうが、問題をうまく扱えるのではないかと思います。そのまえに、わたしの話が、あなたの耳にはすこし陳腐に響くかもしれないということをお断りしておくのが、順序というものでしょうね。しかし、コケむした細部も、語り口が変わったために、多少の新鮮さを取りもどすということはよくあります。古めかしいか新しいかは別として、とにかく、話は簡単なのです。
「二十年まえ、一人の貧しい牧師補が――名前は、いまのところ、どうでもいいのです――あるお金持ちのお嬢さんを恋しました。そのお嬢さんも牧師補が好きになり、周囲の者の意見にも耳を傾けずに結婚しましたが、そのため結婚の直後、勘当にされてしまいました。二年たたないうちに、この早まった二人は死んでしまい、一つの墓標の下に並んで静かに葬られています(わたしは、その墓を見たことがありますが、それは、――州の、ある大きく発展しすぎた工業都市の、いかめしい、スモッグで黒くよごれた古い大教会を取りかこむ広い境内の敷石の一部になっていました)。あとに娘が一人、残されましたが、その娘は生まれ落ちるとすぐに、『慈善』の――わたしが今夜、はまりこんでしまいそうになった雪の吹きだまりのように冷たい『慈善』の膝に引きとられました。『慈善』はさらに、このみなし児をその子の母方の、裕福な親類の家へつれて行きまして、その子は、義理のおばさんに――今度は名前を出しますと――ゲイツヘッドのリード夫人に育てられたのです――ぎくっとなりましたね――物音でも聞こえたのですか? あれはきっと、となりの教室のたる木を走りまわっているネズミかなにかですよ。あれは修理して改造するまえは納屋でしたからね。納屋には、ネズミがつきものですよ。先をつづけます。リード夫人は、そのみなし児を十年間、育てました。その子が幸福であったかどうか、聞かされていないので、わたしにはわかりません。いずれにせよ、十年目のおわりに、夫人はその子を、あなたもご存じの学校へ――ほかならぬ、あのあなた自身が長年住んでいたローウッドの学校へいれたのです。そこでの、その子の成績は、抜群であったようです。あなたと同じように、生徒から先生になります――まったく、その子の過去と、あなたの過去とには、似かよった点があって、わたしは驚いているのですよ――その子は、家庭教師となるため、学校をはなれるのです。ここでもまた、あなたの運命との共通点がありますね。その子は、ロチェスター氏という人物が後見人をしている子どもの教育を引き受けるのですよ」
「リヴァーズさん!」とわたしは口をはさんだ。
「あなたの気持ちはわかりますよ。しかし、もうすこし、辛抱していてください。もう終わりにきていますから、最後まで聞いてください。ロチェスター氏の性格について、わたしが知っていることといえば、その若い娘に正式の求婚をしたこの人物には、狂人とはいえ、まだ生存している妻がいるということを、結婚の誓いをたてる段になって、娘が発見したという事実だけなのです。その後、この人物が取った行動や善後策については、まったく憶測の域を出ないのですが、ある事件が起こって、問題の家庭教師の動静を知る必要が生じたとき、その家庭教師が失踪してしまっていることがわかったのです――いつ、どこへ、どのようにして消えたのか、だれにもわかりません。夜、ソーンフィールド・ホールを出奔したのです。足取りをつかむために、あらゆる捜査の手が打たれましたが無駄でした。広範囲にわたって、くまなく捜しまわったのですが、その家庭教師についての手がかりは、ただの一つも得られません。しかし、その人物を見つけることは、一刻の猶予もならない重大事であったので、あらゆる新聞に広告が出されました。わたし自身も、弁護士のブリッグズ氏から、わたしがいまお話した詳細を記した手紙を受け取ったのです。おかしな話ではありませんか?」
「教えていただきたいのです。あなたはずいぶんといろいろご存じですから、教えてくれることが|できる《ヽヽヽ》にちがいないと思いますが――ロチェスターさまはどうなりましたの? いまどこで、どうしておられますの? なにをなさっていますの? お元気なのですか?」
「わたしは、ロチェスター氏については、いっさい知りません。その手紙は、いまわたしがふれた不法な詐欺行為を説明するために、この人物の名前をあげているだけですから。むしろ、あなたとしては、その家庭教師の名前を――その女性の出現を必要としている事件の内容をきくべきだと思いますよ」
「じゃ、ソーンフィールド・ホールへはだれも行かなかったのですか? だれもロチェスターさまに会わなかったのですか?」
「そのようですね」
「でも、手紙はロチェスターさまあてでは?」
「もちろん、そうです」
「では、その返事にはなんとありまして? その手紙をもっているのは、どなたですの?」
「ブリッグズ氏の話では、問い合わせの手紙に対する返信は、ロチェスター氏からではなく、ご婦人からだったそうですよ。『アリス・フェアファックス』と署名してあったとか」
わたしはぞくぞくと寒けがしたし、それにろうばいもしていた。わたしがいちばん恐れていたことが、現実になったらしい。あのかたは、十中八九までイギリスをはなれ、大陸にある、かつて出入りをしていた場所へ、自暴自棄になって突っ走ったにちがいない。そこにあのかたが求めた、激しい苦悩をいやす麻薬は――もえさかる情熱をかたむける対象は、どんなものであったろうか? この問いに答える勇気は、わたしにはない。ああ、わたしのかわいそうなご主人さま――一度は、わたしの夫になるばかりであったかた――いつも「愛するエドワード」と呼びかけていたかた!
「その男は、悪い人間だったにちがいありませんな」とセント・ジョンがいった。
「あなたのご存じないかたです――批判がましいことを口にするのは、おひかえください」とわたしは、語気するどくいいかえした。
「よくわかりました」とセント・ジョンはおだやかに答えた。「正直なところ、わたしの頭は、その人物とは別のことでいっぱいでしてね。わたしの話の結末をつけねばならないのです。あなたは問題の家庭教師の名前をききそうにありませんから、こちらから申しあげねばなりません――ちょっとお待ちを――ここにありますから――だいじな事柄が、誤解の生じる余地のないように、ちゃんと書きとめられてあるというのは、いつ見ても気持ちのいいものですからね」
ここでまた、紙入れがうやうやしく引っぱり出された。それを開けて、なかをごそごそやっているうちに、どの仕切りからか、いそいでちぎったらしい、くしゃくしゃの紙きれが出てきた。その紙の質と、紺青色や深紅色や朱色のよごれとから、例の肖像画にかけてあった薄紙の端からむしり取られたものとわかった。セント・ジョンは立ちあがると、それをわたしの目のすぐそばへもってきた。墨で書いた、わたし自身の筆跡の文字が「ジェイン・エア」と読める――いつか、ぼんやり考えごとをしているときに書いたものにちがいない。
「ブリッグズ氏の手紙には、ジェイン・エアという女性のことが書いてありました。新聞広告では、ジェイン・エアという女性がたずね人です。わたしの知っているのは、ジェイン・エリオットという女性――はっきりいって、わたしも怪しいとは思っていたのですが、きのうの午後になって、その疑惑がいっきょに確信に変わったのです。これをあなたの本名とみとめて、偽名のほうは捨てますね?」
「ええ――ええ。でも、ブリッグズさんはどこですの? そのかたなら、あなたよりもロチェスターさまのことにおくわしいでしょうから」
「ブリッグズ氏はロンドンです。この人がロチェスター氏のことをなにか知っているとは思われませんね。関心をよせているのは、ロチェスター氏のことではないからです。それにしても、あなたは、つまらないことばかり詮索して、かんじんのことを忘れていますよ。なぜブリッグズ氏があなたを捜しているか――どんな用件があるのか、きかないではありませんか」
「じゃ、その用件とは、なんですの?」
「あなたのおじさんにあたる、マデイラのエア氏が亡くなられて、その全財産があなたに遺贈され、あなたがお金持ちになったという事実を連絡することだけです――それだけですよ――ほかにはなにもありません」
「わたしが! お金持ちに?」
「そう、あなたが、お金持ちになったのです――りっぱな相続人ですよ」
沈黙が流れた。
「もちろん、本人であるという証明がいりますがね」やがて、セント・ジョンは言葉をつづけた。「やっかいな手続きじゃありませんよ。それがすめば、すぐにでも相続できるのです。あなたの財産は、イギリス政府の公債に投資してありますから安全です。ブリッグズ氏が遺言状と必要な書類を保管しています」
こうして、新しいカードがめくられることになった。読者よ、一瞬にして貧者から長者に引きあげられることは、いいことである――すごくいいことである。だが、それは、たちどころに理解したり、理解した結果として喜ぶことのできる問題ではない。それに、人生には、もっとスリルにあふれた、こおどりするようなケースがほかにいくらもある。今回のケースは、実質的で、現実世界の事件であって、そこには理想的なものはなに一つとしてない。これがひき起こす連想は、すべて具体的かつ現実的であって、同じことは、それに対する反応についてもいえる。財産がころがりこんだと聞いても、人は跳んだりはねたり、万歳を叫んだりはしない! さまざまの責任に思いをいたし、事務的な問題について熟考しはじめる。確実な満足の基盤に立って、ある種の深刻な不安が芽ばえてくる――つまり、わたしたちは、はやる心をぐっと押さえ、ものものしく眉をしかめて、幸福な事態について考えこむのである。
それだけでなく、遺産とか遺贈とかいった言葉は、死とか葬儀とかいった言葉と切りはなせない。わたしはおじが――たった一人の肉親が死んだことを聞かされた。このおじがいることを知ってからずっと、いつか会い見る日もあるだろうという希望を胸に抱いていたのだが、それもいまではかなわぬこととなってしまった。そして、その遺産は、わたし一人のところへ――わたしと、喜びにひたっているわたしの家族の者たちのところではなく、天涯孤独のわたしのところへころがりこんできた。それは、たしかに、大福音であった。独立して暮らせるだけの財産ができることは、すばらしい――そう、それをやっとわたしは感じとった――|そのよう《ヽヽヽヽ》に考えることで、わたしの心は大きくふくれあがった。
「やっと、くつろいだ表情になりましたね」とセント・ジョンはいった。「あなたがメデューサ(ギリシャ神話に出てくる三人姉妹の怪物の一人)に見つめられて、石になっているのではないかと思いましたよ――こんどは、その遺産の額をおききになりたいでしょうね?」
「どのくらいの額ですの?」
「ああ、ほんのちょっとですよ! いうほどの金額でないことはたしかですが――二万ポンドとかいう話ですよ――これしきの額が、なんだっていうんです?」
「二万ポンドですって!」
これはまた、気の遠くなるような話であった――せいぜいで四千ポンドか五千ポンドくらいにしか踏んでいなかったのだから。この新事実に、わたしは一瞬、本当に息がつけなくなってしまった、これまで笑い声を聞いたことのなかったセント・ジョンが、いまはじめて笑いながらいった。
「おやおや。あなたが殺人をおかしていて、その犯罪が発覚したことを教えてあげたとしても、そんなにびっくりした顔はしないでしょうね」
「金額が大きいですもの――なにかのまちがいとはお思いになりません?」
「まちがいっこありませんよ」
「数字を読みちがえたのかもしれませんわ――二、〇〇〇とあったのでは?」
「数字ではなく、文字で書いてありましたよ――二万とね」
わたしはまた、普通の食欲をもった人間が、百人前の料理の並べられたテーブルに、たった一人で坐って食べる羽目になったような気分を味わった。
セント・ジョンは立ちあがって、外套をまとった。
「こんなに大荒れの晩でなかったら、あなたのお相手にハンナをよこすのですが。あなたは、一人きりにして置けないくらい、すごくみじめそうな顔をしていますからね。ところが、ハンナは、残念ながら、わたしみたいにうまく吹きだまりを渡れないのです。足がそれほど長くはありませんから。そういうわけで、悲しみに沈んでいるあなたをそのままにして、帰って行かねばなりません。おやすみ」
セント・ジョンは、掛けがねをはずしかけていた。突然、ある考えが、わたしの頭にひらめいた。
「ちょっと、お待ちください!」とわたしは叫んだ。
「なんです?」
「ブリッグズさんがなぜあなたに、わたしのことで手紙をよこしたのか、考えてみると変ですわね。あなたのことを、どうして知ったのかしら? こんなへんぴなところに住んでいるあなたに、わたしを見つけだすための力をかすことができるなどと、どうして考えたのかしら?」
「ああ! それはわたしが牧師だからですよ。牧師をしていると、とてつもないことで相談をもちかけられることがありましてね」
掛けがねがまた、かちゃかちゃと鳴った。
「いいえ、それだけでは納得できませんわ!」とわたしは大声でいった。たしかに、そのあわてた、説明にならない答えには、わたしの好奇心を静めるどころか、ますます強くかき立てるなにかがあった。
「なんとも妙な一件ですわ」とわたしはつけ加えた。「もっとくわしくお聞かせ願わねばなりません」
「そのうちにまた」
「いいえ、今夜! ――今夜でなくては!」
セント・ジョンがドアからはなれたので、わたしはそのあいだに割りこんで立ちはだかった。セント・ジョンは困惑したような顔をしていた。
「一部始終をお話しくださるまでは、お帰ししませんわ!」
「いまここでは、話したくないのです」
「話していただきますわ! ――話してくださらなければなりませんわ!」
「ダイアナかメアリーに話させたほうがいいと思いますから」
このように相手がいやがるのを見て、どうあっても聞かねばなるまい、という気持ちに駆り立てられたことはいうまでもない。わたしの熱望は、かなえられねばならぬ。それも、一刻の猶予なく。わたしは、セント・ジョンにそういった。
「だが、まえに申しあげたように、わたしはがんこな男です。説得するのは、むつかしいですよ」
「だったら、わたしもがんこな女ですわ――はぐらかすのは、むつかしいですわよ」
「それに」とセント・ジョンは言葉をつづけた。「わたしは、冷たい人間です。どんな熱情でもよせつけないのですから」
「その反対に、わたしは熱い人間ですわ。火は氷をとかします。あの暖炉の炎は、あなたの外套の雪を、すっかりとかしてしまいましたのよ。その証拠に、とけた雪がわたしの家の床の上に流れ出し、踏みにじられた道みたいになっていますもの。この砂をまいた床をだいなしにするという、たいへんに不作法な悪行を許して欲しいとお思いでしたらね、リヴァーズさん、わたしの知りたがっていることを教えてくださらねばなりませんわ」
「いや、もう、降参しますよ。あなたの熱心さというよりも、そのしんぼう強い根性には負けました。休みなしにしたたり落ちる水滴で、石がすりへるみたいなものです。それに、あなたもいつかは知らねばならないのですから――いまでも、あとでも同じことですよね。あなたの名前は、ジェイン・エアですね?」
「もちろんですわ。その件は、もうかたづいていますわ」
「あなたは恐らく、わたしがあなたと同じ名前をもっていることを――わたしがセント・ジョン・エア・リヴァーズという名前であることを、ご存じないでしょうね?」
「ええ、初耳ですわ! そういわれて、ときどきお貸しくださった書物に書いてあったあなたのイニシャルに、Eという字があることに気がついたことを思い出しましたわ。でも、それがなんという名前の頭文字かは、おたずねしたことがありませんでした。でも、それがどういうことに? まさか――」
わたしは言葉を切った。にわかに浮かんできた考えは――はっきりした形をとりはじめて、あっという間に、強い、ゆるぎのない可能性として立ちはだかった考えは、われながら不安で、口に出すことはおろか、心に抱くことさえもできかねるものであった。さまざまの事情が組み合わされ、継ぎ合わされて、たちまちのうちにうまく脈絡がついてしまった。それまでは、いくつかの環を無造作につみあげたような格好であった鎖が、一本にまっすぐのばされた――どの環も完全であり、つながり具合も完璧である。わたしは、セント・ジョンが一言も口をきかないうちに、直観的に事のしだいを呑みこむことができた。だが、読者にはわたしと同じ直観的理解を期待することはできないから、セント・ジョンの説明をここでもう一度くりかえさなければなるまい。
「わたしの母の姓が、エアだったのです。母には兄弟が二人いましたが、一人は牧師で、ゲイツヘッドのジェイン・リードというお嬢さんと結婚しました。もう一人のジョン・エア氏は商人で、最近、マデイラのフンシャールで亡くなったのです。そのエア氏の弁護士であったブリッグズ氏から、この八月にきた手紙で、わたしたちのおじの亡くなったことがわかり、おじとわたしたちの父とが喧嘩別れのまま、ついに和解することがなかったため、わたしたちがいっさい無視されて、遺産のぜんぶが兄である牧師のみなし児に残されたことなども伝えられたのです。ブリッグズ氏はまた、二、三週間まえにも手紙を書いてよこしまして、その遺産相続人が行方不明になったことを知らせると同時に、なにか情報がはいってはいないか、と問い合わせてきたのです。一枚の紙きれにさりげなく書いてあった名前から、わたしは、その相続人を見つけることができたというわけです。あとは、あなたもご存じですね」
セント・ジョンはまた出て行きかけたが、わたしはドアに背を押しつけていた。
「わたしにもしゃべらせてください。ちょっとでいいから、息をついで、考える時間をください」
わたしは言葉を切った――セント・ジョンは、帽子を手にもって、いかにも悠然と、わたしのまえに立っている。わたしはあらためて口を開いた――
「あなたのお母さまは、わたしの父のお姉さまですのね?」
「ええ」
「つまり、わたしのおばさまになるわけですね?」
セント・ジョンは頭をさげた。
「わたしのおじのジョンは、あなたのおじさまのジョンであったのですね? あなたと、ダイアナと、メアリーとは、わたしがおじの兄の子どもであるように、そのおじさまのお姉さまの子どもなのですね?」
「否定の余地はありませんね」
「じゃ、あなたがた三人は、わたしといとこ同士なのですね? わたしたちはおたがいに半分ずつ、同じ血を引いているのですね?」
「わたしたちは、いとこ同士なのですよ、ええ」
わたしはセント・ジョンをつくづくと眺めた。兄が一人できたような気持ちであった。それは自慢することのできる兄――愛することのできる兄であり、二人の姉妹は、まったくの赤の他人として接したときでさえ、わたしにまじりけのない愛情と賞讃をかき立てるような資質の持ち主たちであった。ぬれた地面にひざまずいて、ムア・ハウスの台所の、低いこうし窓から、あれほどにも切ない、興味と絶望の交錯した気持ちで見守った二人の女性が、わたしの近しい縁者であった。玄関のところで死にかけているわたしを見つけてくれた、あのりっぱな青年紳士が、わたしの肉親であったのだ。身よりのない、あわれな人間にとっては、なんというすばらしい発見であることか! これこそが、財宝にほかならない! ――心にとっての財宝なのだ! ――純粋で、暖かい愛情にあふれた宝庫。これこそは、輝かしく、生気にみちた、浮き浮きしたくなるような祝福である! ――あの重苦しいだけの、黄金のプレゼントとはちがう。このプレゼントは、それなりに豊かで、歓迎すべきものではあるのだが、その重さのために人を白けた気分にさせてしまうのである。わたしは、突然、うれしくなって、手をたたいた――わたしの心臓は大きく動悸を打ち、血管ははげしく脈打っていた。
「ああ、うれしいわ! ――うれしいわ!」とわたしは大声をあげた。
セント・ジョンはにっこり笑った。
「つまらないことばかり詮索して、かんじんのことを忘れているといったじゃないですか? あなたは、遺産がはいったと話してあげたときには、こわい顔をしていたのに、いまはまた、つまらないことで、興奮しているのですね」
「それは一体《ヽヽ》、どういう意味ですの? あなたには、つまらないことかもしれません。あなたには、ご姉妹がいらっしゃるから、いとこの一人くらい、どうということはないでしょうね。でも、わたしは、まったくのひとりぼっちであったのに、いまは親類が三人も――あなたが数にいれて欲しくないというのなら、二人ですけど――わたしの世界のなかへ、大のおとなの姿で、生まれ落ちてきたのですから。もう一度いいますわよ、うれしいわって!」
わたしは、部屋のなかをすたすたと歩いたが、わたしが受けいれるひまも、理解や整理をするひまもないくらいに早くつぎつぎとわきあがってくる考えに――してもいいことやできることはなにか、したいことやすべきことはなにか、すぐにでも手がつけられることはなにか、といった考えに、息がつまりそうになって、わたしは立ちどまった。なんの装飾もない、のっぺりの壁に目をやっていると、昇ってゆく星がいっぱいの空に見えてくる――どの星もわたしのために、目的や喜びを照らし出していた。生命を救ってもらっていながら、いまのいままで、愛するという形のお返ししかできなかったかたたちの恩に、いよいよ報いることができる。そのかたたちは、くびきにつながれた生活を送っているが、わたしには、その生活から解放してあげることができる。そのかたたちは、ばらばらに離散してしまっている――わたしには、そのかたたちの一族再会を実現させることができるのだ。わたしのものとなった安楽な生活と、資産とは、そのかたたちのものでもある。わたしたちは、四人ではないのか? 二万ポンドを四等分すれば、一人あたり五千ポンドになる――十分すぎるほど十分な金額である。しかも、正義をつくすことになる――おたがいの幸福が保証されるのである。いまのわたしには、富が重くのしかかることはない。それはもはや、単なる金貨の遺産ではなかった――それは生命と希望と喜びの遺贈であったのだ。
こうした嵐のような考えにおそわれて、心ここにあらずという状態になっていたとき、わたしの表情がどんなふうであったか、わたしにはわからない。だが、やがてほどなくして、セント・ジョンがわたしのうしろに椅子を置き、そこにそっと坐らせようとしていることに気づいた。セント・ジョンはわたしに、気を落ち着けるのですよ、ともいった。わたしは、人の助けもいらないし、放心しているわけでもないですから、変なまねはなさらないでください、といってから、相手の手をはらいのけると、また部屋のなかを行ったりきたりしはじめた。
「あす、ダイアナとメアリーに手紙を書いて、すぐに帰るようにいってください。ダイアナは千ポンドもあれば、二人とも金持ちになったような気分になるわ、といってましたから、五千ポンドなら、ゆったりとした生活ができますわね」
「コップに水をもってきてあげますから、どこへ行けばいいか教えてください」とセント・ジョンはいった。「感情を静めるように、本気で努力しなければなりませんよ」
「つまらないことをいわないで! それにしても、この遺産は、あなたにはどんな影響をおよぼすことになるかしら? イギリスにとどまって、オリヴァーさんと結婚する気になり、平凡な人間らしく身を固めることになるかしらね?」
「うわごとをいってますね。頭が混乱しているのですよ。やぶから棒に、あの知らせを耳にいれたのがいけなかったのですね。あなたの力で押えられないほどに、興奮させてしまったのですから」
「リヴァーズさん! あなたって、じれったいかたですのね。わたしは、これでも理性を失っていませんのよ。誤解していらっしゃるのは、というか、誤解しているふりをなさっているのは、あなたのほうですわ」
「もうすこしくわしく説明してくださったら、よくわかるかと思いますが」
「説明ですって! なにを説明することがありますの? 問題の金額である二万ポンドを、わたしたちのおじの一人のおいと、三人のめいとで四等分すれば、一人あたり五千ポンドになるということが、おわかりにならないのですの? わたしが希望していることは、妹さんがたに手紙を書いて、お二人の手にはいった財産のことをお知らせしてください、ということですわ」
「あなたの手に、という意味ですね」
「この件についてのわたしの立場は、すでに申しあげました。ほかの立場は取ることができませんの。わたしは残酷なまでに利己的な人間でも、盲目的なまでに不当なまねをする人間でも、悪魔のように恩知らずな人間でもありません。それに、わたしは自分の家と、親類をもとう、と決心しているのです。わたしはムア・ハウスが好きで、ムア・ハウスに住みたいと思っています。ダイアナとメアリーが好きで、一生、ダイアナとメアリーのそばにいたいと思っています。五千ポンドのお金は、わたしを喜ばせ、わたしのためになりますが、二万ポンドのお金は、わたしを責め、さいなむことになるでしょう。それに、この二万ポンドは、法律的にはともかく、公正という点からいって、わたしのものにすることはできません。そういうわけで、わたしにとって、まったく不要なものを、あなたがたにさしあげるのです。この点について、反対や議論はなさらないでください。おたがいのあいだで了解しあって、すぐに決着をつけてしまいましょうよ」
「あなたは、一時の感情に駆られて、行動していますよ。こうした問題は、なん日もかけて考えなければ。それまでは、あなたの言葉をまともに受け取ることなど、できない相談ですからね」
「ああ! あなたの疑っていらっしゃるのが、わたしの真剣さだけでしたら、わたしも安心していられますわ。わたしの意見の正しいことは、あなたもおみとめですのね?」
「ある程度まで正しいことは、|たしかに《ヽヽヽヽ》みとめますよ。しかし、あまりにも世間の常識に反したことですからね。その上、あなたには、全財産を受け取る権利があるのですよ。おじが独力で築きあげ、だれにゆずろうとおじの勝手である財産を、おじがあなたに残したのですから。結局のところ、公正という点からいっても、あなたは、その財産を自分のものとすることを許されています。それを自分一人だけのものと考えても、良心に恥じるところはなに一つとしてないのですよ」
「わたしの場合、これは良心の問題であると同時に、感情の問題でもあるのですわ。わたしとしては、感情のおもむくままにふるまいたいのです。これまで、そんなことをするチャンスにほとんど恵まれなかったわたしですから。かりにあなたが、これからの一年間、議論と反対をくりかえして、わたしを悩ましつづけたとしても、わたしは一瞬、垣間見ることのできたいいようもない喜びを――大恩の万分の一にでもむくい、生涯にわたる友人をわたしのものにするという喜びを、打ち捨てることはできませんわ」
「いまは、そう思っていらっしゃる」とセント・ジョンは答えた。「お金をもつことの意味を、したがってお金持ちになる楽しさを、あなたは知らないからです。二万ポンドというお金があなたにとってもっている重要性について、まったくわかっていないからです。そのおかげで、あなたがつくことのできる社会的地位や、あなたのまえに開けてくる将来の見通しについて、ぜんぜんわかっていないからです。あなたは――」
「それに、あなたは」とわたしは相手の言葉をさえぎった。「わたしが兄弟や姉妹の愛情にどんなに飢えているか、ちっとも想像できないのですわ。わたしは家庭の味を知りませんし、兄弟や姉妹をもったこともありません。わたしはいまこそ、兄弟姉妹をもたねばなりませんし、また、そのつもりをしているのです。あなたは、わたしを身内の者とみとめ、世間に公表することをためらっておられるのではないでしょうね?」
「ジェイン、わたしはあなたの兄になりますよ――妹たちも、あなたの姉になります――だからといって、あなたの本来の権利を犠牲にすることを条件にしなくてもいいのです」
「お兄さまですって? そう、なん千マイルも遠くへだたったところにいるお兄さまですわね! お姉さまがたですって? 他人にまじってあくせく働いているお姉さまがたですわね! お金持ちになって――額に汗してかせいだのでも、手にする資格があるわけでもない金貨で、息をつまらせそうになっているわたし! 一文なしのあなたがた! なんとすばらしい平等、なんとすばらしい兄弟愛でしょう! なんと身近かな関係でしょう! なんと親密な愛情でしょう!」
「しかしね、ジェイン、あなたがあこがれている家族関係や家庭の幸福は、あなたが考えている方法以外でも実現できるのですよ。結婚すればいいのですから」
「また、つまらないことをおっしゃるのね! 結婚ですって! わたしは結婚なんかしたくありませんし、一生しませんわ」
「それはいいすぎですね。そんなとてつもない断言をするのは、あなたが興奮状態で行動している証拠です」
「いいすぎなんかではありませんわ。わたしは自分の気持ちがどうなのかを、結婚のことを考えただけで、ぞっとしたような気分になることを、知っていますわ。わたしを愛情の対象としてくれる男性は一人もいません。わたしはまた、単にお金のための、思わく買いの対象みたいに見られるのもいやです。それに、わたしは他人など――心が冷たくて、気のあわない、わたしとちがった人間など、欲しくはありません。わたしの欲しいのは、血のつながった人、完全に心がかよいあっていると感じることのできる人です。わたしの兄さんになると、もう一度、おっしゃってください。さっき、その言葉を口になさったとき、わたしは満足感と幸福感を味わいました。もう一度、くりかえしてくださいませんか、真剣なお気持ちでそういえるのでしたら」
「そういえると思いますよ。わたしは自分の妹たちをずっと愛してきたことを知っていますし、二人に対する愛情の基盤になっているものがなんであるかも知っています――それは、二人の価値への尊敬と、二人の能力への賞讃なのですが。あなたもまた、信念と才能をおもちです。あなたの趣味と習慣は、ダイアナやメアリーのそれに似ています。あなたの存在は、いつでもわたしに好感をあたえてくれますし、あなたとの会話から、これまでのしばらくのあいだ、心をやわらげる慰めを見つけ出すことができたのです。わたしの三番目の、一番年下の妹として、あなたをわたしの心のなかに受けいれる余地を、なんの抵抗もなく、ごく自然に作ることができるのではないかと思っています」
「ありがとうございます。今夜は、それだけで満足しておきますわ。もう、お帰りになったほうがよろしいのでは。これ以上長居をなさいますと、わたしを信用できないで、疑っているような言葉を口にして、またわたしの気分を害することになるかもしれませんから」
「ところで、エア先生、学校のほうは? 閉校にしなければなるまいと思いますが?」
「いいえ。かわりのかたを見つけてくださいますまで、わたしが先生役をつづけますわ」
セント・ジョンは、にっこり笑って賛成の意をあらわし、わたしと握手をしてから、帰って行った。
このあと、遺産に関する問題をわたしの希望どおりに解決するにあたって、わたしが経験した苦労や、わたしが用いた議論などの話をくどくどしく書き立てる必要はあるまい。わたしが自分に課した仕事は、たいへんに困難なものであったが、わたしの決心にみじんのゆるぎもなかったので――財産を四等分したいというわたしの気持ちが、ほんとうに固くて、微動だにしないことが、やっといとこたちにわかってもらえたので――いとこたちもまた、心のなかでは、わたしの意図が公正なものであることを感じとっていた上、わたしと同じ立場にあったら、わたしがしたがっているのとまったく同じことをしただろうということを、直観的に気づいていたにちがいないので――三人もやっとのことで折れて、この件を調停にかけることに同意した。これに選ばれた調停人は、オリヴァー氏と、もう一人の有能な弁護士であったが、二人ともわたしの意見に同意したので、わたしは所期の目的を達することができた。財産譲渡の証書が作成され、セント・ジョンとダイアナとメアリーとわたしの四人は、それぞれ安楽に暮らせるだけの財産を所有することになった(ただし、イギリスの法律は、二十一歳未満の未成年者が財産の譲与をすることを禁じている。ジェインは、この時点では未成年なので、著者ブロンテは女主人公の法律的な地位を無視していると考えられる)。
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三十四章
いっさいが落着したのは、クリスマスまえのことで、だれもが休暇にはいる季節が近づいていた。わたしはいよいよモートンの学校を閉じることになったが、わたしとしては、生徒たちとの別れが殺風景なものとならないように、なにくれと気をくばった。好運は、人間の心だけでなく、その手までも気まえよく開かせるものである。自分の手もとにたっぷりころがりこんできたときに、すこしばかりのおすそわけをすることは、異常なまでにわき立っている感情にはけ口をあたえることにほかならない。わたしは、まえまえから、村の生徒の多くがわたしに好感をもってくれていることを察して、うれしく思っていたのだが、別れるときになって、その印象の正しかったことがわかった。わたしに対する愛情が、ありのままに力強く口に出されたからである。この素朴な生徒たちの心のなかに、わたしがはっきりと座を占めていることを知って、わたしは深い満足感をおぼえた。わたしは、これから先も、毎週一回はかならず学校へやってきて、一時間の授業を受け持ってあげる、と約束した。
セント・ジョンがやってきたとき、わたしは――いまでは六十名にのぼる女生徒が、わたしのまえを一列になって通りすぎるのを見送ったあと、ドアの鍵をかけおえてから――その鍵を手にもったまま、最優秀の生徒五、六名と、とくに名残りを惜しむ言葉を二言三言、かわしていた。この生徒たちは、イギリスの農民階級によく見られる、礼儀正しくて、品位があって、慎みぶかく、博識な若い娘たちであった。ということは、最高の賛辞を呈することを意味している。なぜなら、結局のところ、イギリスの農民階級の教育や礼儀作法や品位は、ヨーロッパ随一であるからだ。この時期よりもあとになって、わたしはフランスやドイツの農婦の姿に接する機会があったが、そのなかの一番りっぱな者でさえ、モートンでのわたしの女生徒にくらべると、無知で、野卑で、無自覚であるように思われた。
「一学期間がんばってみて、働き甲斐があったと思っていますか?」生徒たちが帰ってしまってから、セント・ジョンはきいた。「若い、はつらつとした時期に、なにか本当にいいことをしたという気分は、楽しいものではありませんか?」
「たしかにそのとおりですわ」
「それに、あなたは、ほんの二、三ヵ月しか苦労していないのですよ! 人類の向上のための仕事に一生を捧げるのは、意義ある生きかたではないでしょうか?」
「そうですわ。でも、こうした生活をいつまでもつづけることは、わたしにはできません。わたしは、他人の能力を開発させるだけでなく、自分自身の能力を活用したいのです。いま、その活用のときがきています。わたしの頭やからだを学校にひきもどさないでください。学校から解放されて、ぞんぶんに休暇をとるつもりをしていますから」
セント・ジョンの表情が固くなった。「どうしたというんです? 急に目を光らせたりして、一体、どうなったというのです? なにをするつもりですか?」
「活動的になりますのよ。できるかぎり活動的に。そこで、まずあなたにお願いがあるのですが、ハンナにひまを出して、身のまわりのお世話をする人は別にやとってください」
「ハンナに用があるのですね?」
「ええ。いっしょにムア・ハウスへ行ってもらうためです。ダイアナとメアリーが、一週間後には帰ってきます。こちらにお着きになるまでに、万事をととのえておきたいのです」
「わかりました。わたしはまた、あなたが旅行にでも飛び立つのかと思っていましたよ。それならいいですよ。ハンナにあなたのお伴をさせましょう」
「それでは、あしたまでに準備するようにお伝えください。これが教室の鍵です。宿舎の鍵は、明朝、お渡しいたします」
セント・ジョンは鍵を受け取った。
「実にうれしそうに、鍵を渡しますね。わたしには、あなたのその陽気な態度がわかりかねますよ。いまやめようとしている仕事のかわりに、どんな新しい仕事を目論んでいるのかがわからないからです。一体、いまのあなたは、人生に対してどんな計画を、どんな目的を、どんな野心をもっているのです?」
「わたしの計画の第一は、|大掃除をすること《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》(この言葉の本当の意味がおわかりですかしら?)――ムア・ハウスを寝室から地下室まで|大掃除すること《ヽヽヽヽヽヽヽ》ですのよ。第二は、もとのようなぴかぴかになるまで、蜜ろうやオイルや、いやというほどたくさんの布切れで、磨きあげること。第三は、椅子やテーブルやベッドやカーペットを、数学的な正確さで配置すること。そのあと、すべての部屋の暖炉に火をあかあかと燃えあがらせて、石炭と泥炭《ピート》の代金で、あなたを破産寸前に追いやってあげますわ。最後に、妹さんがたが到着する予定日のまえの二日間を費して、ハンナとわたしは卵をかきまぜたり、干しブドウをえり分けたり、香辛料《スパイス》をすりおろしたり、クリスマス・ケーキ用の粉をまぜあわせたり、ミンス・パイ(干しブドウ、リンゴ、砂糖、香料などをひき肉にまぜたミンスミートをつめたパイ。クリスマスにつきものである)の材料を細かく刻んだり、その他の台所での儀式を厳粛に取り行なったりいたしますが、あなたのような門外漢がお相手では、その内容を言葉で伝えようとしても、不十分にならざるを得ませんわ。要するに、わたしの目的は、来週の木曜日までに、ダイアナとメアリーの受けいれ態勢を百パーセントにととのえておくことなのです。そして、わたしの野心は、お二人が帰ってみえたときに、理想の極致ともいうべき歓迎をしてあげることですわ」
セント・ジョンは、かすかに微笑したが、それでもまだ不満げであった。
「当分のあいだは、それでも結構ですがね。しかし、冗談でなしに、わたしは、最初の浮き浮きするような興奮がさめたら、あなたが家族的な愛情や家庭的な幸福などよりも、もうすこし高いところに目をやってくれるものと信じています」
「この世で最高のものにね!」とわたしは相手の言葉をさえぎっていった。
「いや、そうじゃないよ、ジェイン。この世は、目的達成の場ではない。そうしようなどと努めてはいけない。この世はまた、休息の場でもない。なまけ者になってはいけない」
「それどころか、わたしは忙しくするつもりでいますのよ」
「ジェイン、当分のあいだはかんべんしてあげましょう。新しい立場をぞんぶんに楽しんだり、この、親類の者にやっとめぐり会えたという喜びにふけったりする期間を、二ヵ月だけはみとめてあげましょう。だが、|そのあとは《ヽヽヽヽヽ》、ムア・ハウスやモートンや、わたしの妹たちとのつきあいや、文化的で豊かな生活の、利己的な平和や感覚的な快楽などのかなたに目をむけはじめるようになることを、わたしとしては望んでいます。あなたのエネルギーが、その強い力でもう一度、あなたの心をかき立てることを希望しているのです」
わたしはびっくりして、相手の顔を見つめた。
「セント・ジョン。そんなふうにいわれるなんて、意地悪としか思われませんわ。わたしが女王さまみたいに満足した気分になろうとしているのに、そのわたしの心をかき立てて、動揺させるなんて! なんのためなのです?」
「あなたが神からあずかっている才能を――いつか、神から詳細な報告書を請求されるにちがいない才能を、有益に使うためです。ジェイン、わたしはあなたの行動を綿密に、警戒の目で監視しますからね――このことはいまからいっておきますよ。そして、あなたが日常的な、家庭の喜びのなかに、必要以上の情熱をかたむけて没入して行くのを押えようとしますからね。人間の絆に、あまり執拗にすがりつかないこと。あなたの誠実と情熱を、しかるべき目的のためにとっておくこと。つまり、つまらない、一時的な目的のために浪費するのは慎しむこと。聞いていますね、ジェイン?」
「ええ。あなたがわけのわからないギリシャ語でもしゃべっておられるような気分で聞いておりますわ。わたしには、幸福になるだけの、しかるべき理由があると思いますし、幸福になる|つもり《ヽヽヽ》をしていますわ。さようなら」
ムア・ハウスのわたしは、幸福であったし、一生けんめいに働きもした。ハンナもまた、せっせと働いた。足の踏み場もないほどに混乱した家のなかで、わたしが陽気にやっているのを見て――わたしがブラシをかけたり、ほこりを払ったり、洗たくをしたり、料理をしたりするのを見て、ハンナは感心しきっていた。そして、一日か二日、「混乱の上にも混乱した」(ミルトン作『失楽園』からの一句)状態がつづいたあとで、自分たちが作り出した混沌に、すこしずつ目鼻がついてかたづいて行くのは、まことに楽しかった。それ以前に、わたしはS――市まで足をのばして、新しい家具をいくつか買いいれてあった。好きなように模様がえをしてもいいという白紙委任を、いとこたちから取りつけてあったし、そのための資金も別に用意されていたからである。わたしは、いつも使う居間や寝室には、ほとんど手をつけなかった。ダイアナやメアリーにとっては、この上なくハイカラな買いたての家具が目にふれるよりも、古くからある質素なテーブルや椅子やベッドに迎えられるのが、ずっとうれしいことにちがいないと思ったからである。それでも、二人の帰宅に精彩を添えたいというわたしの希望を実現させるには、なにか目先を変える必要があった。その目的にぴったりかなったのは、地味な色の、豪華な新しいカーペットとカーテン、そこここに並べてある、慎重に選びぬかれた磁器製やブロンズ製の古代ふうな装飾品、新しいカバーや鏡や化粧台用の化粧道具入れなどであった。新鮮な感じがする割りに、けばけばしいところがなかったからである。来客用の部屋や寝室は、古風なマホガニー材の家具と、深紅色の装飾用品をいれて、完全に改装してしまった。廊下には粗布《カンバス》を敷き、階段にはカーペットを敷いた。仕事がぜんぶおわったとき、この季節の戸外が、冬枯れと不毛なわびしさの典型であるのとは対照的に、ムア・ハウスの内部は、明るくて、慎ましやかで、居ごこちのいいムードの完璧な実例であるかのように思われた。
いよいよ、待ちに待った木曜日になった。いとこたちは、日暮れごろに着くことになっていたので、暗くなるまえに、一階と二階の暖炉に火がつけられた。台所はきちんと整頓され、ハンナもわたしも着がえをおわっていた。すべての準備が完了したのである。
セント・ジョンが一番乗りであった。いっさいの整理がおわるまで、ムア・ハウスには一歩も近づかないよう、あらかじめお願いはしてあった。だが、セント・ジョンにしても、不潔な上に、愚にもつかないごたごたが屋内で起こっていることを考えれば、それだけでおぞけをふるい、足が遠のいてしまう結果になったのである。セント・ジョンは台所で、茶菓子《ティー・ケーキ》の焼け加減を見ているわたしを見つけた。そして、暖炉の近くまでやってくると、「いよいよ、女中仕事に満足したのですね?」といった。わたしは、それに返事をするかわりに、わたしの労働の成果の総点検を、いっしょにしていただけませんかしら、といった。やっとのことで、セント・ジョンは家のなかを一巡してくれることになったが、わたしの開けるドアから、なかをのぞきこむだけである。階段をあがりおりしたあとで、あんな短時間に、これほどの模様がえをやってのけるのは、たいへんな重労働だったでしょう、とはいってくれたが、わが家の住み心地がよくなったことを喜ぶような言葉は、ただの一言も口にされなかった。
その沈黙ぶりに、わたしはげっそりしてしまった。この模様がえのために、なにか大事な昔の思い出がかき乱されてしまったのかもしれない、とわたしは思った。はたしてそうなのか、わたしは、当然のことながら、かなり気ぬけのした声で、たしかめてみた。
「とんでもない。それどころか、どの思い出にも慎重な配慮がなされていることに、わたしは気がついていますよ。ひょっとしたら、この問題に余計な頭を使いすぎたといえるかもしれませんね。たとえば、この部屋の配置ですが、これを考えるのになん分ぐらいかけたのですか? ――ところで、こういうタイトルの本はどこにありますかね?」
わたしは、その本が本棚にのっていることを教えてあげた。セント・ジョンはそれを取りおろすと、いつもの窓ぎわの一角へ引きこもって、活字に目をさらしはじめた。
さて、読者よ、これが、わたしの気にいらない点なのだ。セント・ジョンはいい人間にはちがいない。しかし、自分のことをがんこで、冷たい男だといっていたのは、おのれ自身をうまくいいあてた言葉ではあるまいか、とわたしは感じはじめていた。浮き世の人情や快楽になんの興味もおぼえない人物――人生のおだやかな喜びになんの魅力も感じない人物。セント・ジョンは、文字どおり、野心のためにのみ生きている男であった――それがりっぱで、偉大な野心であることは否定できないとしても。にもかかわらず、セント・ジョンは絶対に休息しようとはしなかったし、周囲の者が休息することも許そうとしなかったのである。その、白い石のようにおだやかで、蒼白な、ひいでた額を――勉学に没頭しているみごとな横顔を眺めやったとき、この人はいい夫にはなれまい、この人の妻になるのは、つらいことだ、とわたしは瞬間的に感知した。ミス・オリヴァーに対するセント・ジョンの愛情の性質も、霊感を受けでもしたかのように理解することができたし、それが観念的な恋愛にすぎないというセント・ジョンの意見にも、同意することができた。その愛情がおよぼす熱病のような力のゆえにみずからを軽蔑していることも、その愛情を押しつぶし押し殺そうとしていることも、それが自分の幸福なり、ミス・オリヴァーの幸福なりに永久につながって行くという考えを信用していないことも、わたしには会得することができた。わたしの見るところでは、セント・ジョンは、自然がその英雄を――キリスト教徒であると、異教徒であるとを問わず、その立法者や政治家や征服者を作り出しているのと同じ材料からできている人間であった。国家の大事業が頼みにすることのできる不動のとりでではあったが、一家団欒のなかにあっては、非常にしばしば冷たくて、ぶざまな円柱のように、陰気で場ちがいな存在であったのだ。
「この居間などは、あの人のいるべき場所ではない」とわたしは考えた。「ヒマラヤの高峰や、アフリカの叢林地や、疫病のはびこるギニア沿岸の湿地帯などが、はるかに似つかわしい。あの人が、平穏な家庭生活をさけるのも無理はない。そこは、あの人の本領を発揮できる場所ではないし、そこでは、その才能がよどんでしまう――のびることも、引き立って見えることもない。闘争と危険にあふれた場所においてのみ――勇気が証明され、エネルギーが発散され、忍耐力が試練にさらされる場所においてのみ、あの人は話すことや動くことができ、指導者や中心的人物になることができるのだ。この団欒の場においては、あの人よりも陽気な子どものほうがはるかにまさっている。あの人が宣教師の道を選ぶのは、当を得たことだわ――いま、それがやっとわかった」
「馬車がまいります! お二人のお帰りです!」と叫びながら、ハンナが居間のドアを開けはなった。それと同時に、老犬カルロがうれしそうに吠えたてた。わたしは走り出た。外はもう暗くなっていたが、馬車のがらがらいう音が聞こえてくる。ハンナはすぐにカンテラに火をつけた。馬車が木戸のまえにとまり、御者がドアを開けた。なつかしい姿が一人、また一人と降りてくる。つぎの瞬間、わたしは二人の帽子《ボンネット》の下に顔をうずめ、まずメアリーのやわらかい頬に、つづいてダイアナのふさふさとたれた巻き毛にふれていた。二人は笑いながら、わたしに接吻し、つぎにハンナにも接吻した。そして、うれしさのあまりに気が狂ったようなカルロの頭を軽く叩いてやりながら、「みんな元気なの?」とせきこむようにききただし、そうであることをたしかめてから、家のなかへ足早にはいった。
二人とも、ウィットクロスからがたがたゆられながら長旅をしてきたため、からだのふしぶしが痛み、いてついた夜風に吹かれてこごえきっていた。だが、威勢のいい暖炉の火に迎えられて、そのうれしそうな表情も明るくほころんだ。御者とハンナが荷物をはこびこんでいるあいだに、二人は兄はどこなの、ときいた。ちょうどそのとき、セント・ジョンが居間から姿をあらわした。二人は、いきなりその首に腕をまわした。セント・ジョンは一人ずつ静かに接吻すると、低い声で二人の帰宅を喜ぶ言葉を二言三言いってから、しばらくは妹たちの話に耳をかたむけていたが、やがて、すぐに居間でいっしょになれるだろうから、といって、避難の場へでも逃げるようにひっこんでしまった。
わたしは二階へあがる二人のため、ろうそくに火をつけてあったが、ダイアナはまず、御者の面倒を見てあげるように、という言葉をかけることを忘れなかった。それがすんでから、二人はわたしについてきた。二人は自分の部屋の模様がえと装飾とに――新しいカーテンと、さわやかなカーペットと、あざやかな色彩をほどこした磁器の花びんに満足したようすを見せ、感謝の言葉を惜しまなかった。わたしの飾りつけが二人の希望にぴったりと合致し、わたしのしたことが、二人のうれしい帰宅に生き生きとした魅力を添えることになったのを感じて、わたしはうれしかった。
その夜は、まことに愉快であった。わたしのいとこ二人は、浮き浮きした気分にあふれ、話をするにも意見を述べるにもよどみがなかったので、その雄弁ぶりはセント・ジョンの口数のすくなさをカバーする形になっていた。セント・ジョンとしては、妹たちに会って心から喜んではいたのだが、二人の熱狂的な感激やあふれでるような歓喜には同調できなかったのだ。この日の出来事は――つまり、ダイアナとメアリーの帰宅は、うれしかったのだが、その出来事にともなう、にぎやかなさんざめきや、歓迎の陽気なおしゃべりなどには、いらだっていたのである。セント・ジョンが朝になったら、もっと静かになってほしいと願っていることは、わたしにはわかっていた。お茶がすんで一時間ばかりして、夜の楽しみが最高にもりあがったとき、ドアをノックする音が聞こえた。ハンナがはいってきて、「こんな時刻ですが、若い男がやってきて、死にかけている母親に会っていただくため、リヴァーズさまをお迎えにきたと申しております」といった。
「その女の家はどこかね、ハンナ?」
「四マイルばかりはなれた、ウィットクロスの崖のずっと上です。途中にはずっと荒れ野やら沼地がつづいております」
「行ってやるから、と伝えなさい」
「行かれないほうがいいと思いますが。日が暮れてからでは、とても歩けないような悪い道ですから。沼地には、道なんか一つもありませんのですよ。それに、ずいぶんとひどい夜でございますし――こんな身を切る風は、はじめてでございますよ。あすの朝、出かけるから、とことづけられたほうがいいのでは」
しかし、セント・ジョンはすでに廊下に出て、外套を着ていた。そして、一言の異議や不平を唱えることもなく、行ってしまった。それが九時のことで、帰宅したときには、真夜中になっていた。セント・ジョンは寒さと疲れでげっそりしていたが、出かけたときよりも幸福そうな顔つきをしていた。義務をりっぱにはたし、努力を傾けたセント・ジョンは、自分に行動力と克己心がそなわっていることを実感して、まえよりもずっと自分自身に満足した気分になっていたのである。
このあとの一週間、セント・ジョンは忍耐に忍耐を重ねていたのでないかと思われる。クリスマスの一週間であったので、わたしたちは、これといってきめられた仕事をするわけでもなく、なごやかな家庭的雰囲気を楽しみながら遊んですごした。荒れ野の空気や、家庭内の解放感や、一家繁栄の曙光などが、起死回生の霊薬のように、ダイアナとメアリーの精神に働きかけ、二人は朝から昼まで、昼から夜まで、嬉々としていた。二人はいつもなにか話していて、そのウィットと、力強さと、独創性とにあふれた会話は、非常に魅力的であったので、わたしはほかのことはそっちのけにして、その会話に耳をかたむけたり、仲間にいれてもらったりした。セント・ジョンは、わたしたちのにぎやかなおしゃべりに文句をいったりはしなかったが、それを避けているらしく、ほとんど家にはいなかった。セント・ジョンの教区は大きい上、教区民が散在していたので、いろいろな場所に住んでいる病人や貧乏人を訪ねるのが、毎日の仕事になっていたのである。
ある朝、朝食をとっていたとき、二、三分間、すこし物思わしげな表情をしていたダイアナが、セント・ジョンにむかって、「まだ計画を変えてないの?」ときいた。
「変えてもいないし、変わりもしないさ」というのが、それに対する答えであった。そのあと、セント・ジョンは、イギリス出発が、来年に確定していることを教えてくれた。
「じゃ、ロザモンド・オリヴァーは?」とメアリーがいったが、どうやら、つい口をすべらせていってしまったという感じで、そういいはなった途端に、その言葉を撤回したがってでもいるようなゼスチュアを示した。セント・ジョンは手に本をもっていたが――この人には、食事中に本を読むという、人づき合いの悪い癖があった――その本を閉じると、目をあげた。
「ロザモンド・オリヴァーは、結婚することになっているよ。相手のグランビーという男は、サー・フレデリック・グランビーのあとを継ぐことになっているお孫さんで、縁故関係といい、世間の評判といい、S――市では有数の人物の一人に数えあげられているよ。この話は、きのう、ロザモンドのお父さんから聞いたんだ」
妹たちは、おたがいに顔を見合わせてから、わたしのほうに目をむけた。わたしたち三人は、そろってセント・ジョンに視線を送ったが、本人はガラスのように落ち着きすましていた。
「急いでまとめた縁談にちがいないわ」とダイアナがいった。「長くつきあったはずがありませんもの」
「しかし、二ヵ月はつきあってるよ。十月にS――市で開かれた慈善ダンス・パーティで会ったのだから。しかし、今回のように、二人の結婚があらゆる点で望ましく、なんの障害もない場合には、時間をかける必要もないじゃないか。サー・フレデリックからゆずられるS――の邸宅の改装がおわって、受け入れの準備がととのったら、二人はすぐに結婚式をあげるのだよ」
この話を聞いたあと、はじめてセント・ジョンと二人きりになったとき、わたしは、この一件で打撃を受けたかどうか、たしかめてみたい気持ちに駆られた。だが、セント・ジョンには同情を必要としているようすがほとんど見られなかったので、わたしはあらためて同情の言葉をかける気になれなかったどころか、これまでに思いきって口にしたことなどを思い出して、顔の赤くなるような気持ちを味わったのである。その上、わたしは、セント・ジョンに話しかけようにも、その要領がわからなくなっていた。またぞろ、かつての冷淡さの氷が一面にはりつめて、わたしの開放的な気分などは、その下に凍りついてしまっている。セント・ジョンは、わたしを本当の妹たちと同じように扱うという約束は守ってくれないし、わたしたちのあいだに、いつもちょっとしたことで、冷えびえとする違和感を生み出すようにしていたので、心のかよい合いが生まれる気配などはさらさら見られなかった。つまるところ、わたしはセント・ジョンの縁者とみとめられて、一つ屋根の下に住むようになっていながら、ただの村の学校の女教師としてしか知られていなかったころよりも、もっと大きな距離を二人のあいだに感じ取っていたのである。かつてあれほどまでに胸襟をひらいて語ってくれたことを思い出すと、いまのセント・ジョンのよそよそしい態度は、とうてい理解することのできないものであった。
こうした状況であったので、机にかがみこむように坐っていたセント・ジョンが、いきなり顔をあげて話しかけてきたときには、わたしもいささか驚いてしまった――
「ねえ、ジェイン、戦闘がおこなわれ、勝利が得られたのです」
こう声をかけられたものの、わたしはあっけに取られて、すぐには返事もできなかったが、一瞬ためらったあとで、こう答えた――
「でも、あなたの立場が、あまりにも大きな代償をはらって勝利を手中におさめた征服者の立場と同じではない、という自信はおありですの? もう一度そんな勝ちかたをしたら、あなた自身が破滅するのではありませんか?」
「そうは思いませんね。かりにそのような立場にあるとしても、どうということはないのです。そのような勝利を得るために戦場へ召されることは、二度とあり得ないからです。今度の戦いの結果は、決定的なものでした。わたしの道が、いま開けたのです。神に感謝をささげます!」
そういいながら、セント・ジョンは書類に目をもどすと、また黙りこんでしまった。
わたしたちみんなの(つまり、ダイアナとメアリーとわたしの)幸福感が落ち着いて、もっとおだやかな性質のものに変わり、いつもの習慣にもどった三人が、規則正しい勉強をはじめだすと、セント・ジョンも家にいることが多くなり、わたしたちと同じ部屋で、ときにはなん時間もずっといっしょにいることがあった。メアリーが絵を描き、ダイアナが百科全書的な知識を得るため(この企てに、わたしは感心したり驚いたりしたのだが)、つぎつぎと書物を読破し、わたしがドイツ語の勉強に没頭しているかたわらで、セント・ジョンは神秘的な研究に余念がなかった。それは、東洋のどこかの国の言葉の研究であったが、その修得が自分の計画に欠かせないものであると、本人は考えているのであった。
このように勉強しながら、いつもの一隅に坐っているセント・ジョンは、いかにも冷静かつ一心不乱であるように見えた。だが、その青い目が、まことに風変わりな外国語の文法書からはなれ、いっしょに勉強しているわたしたちのほうへさまよってきては、しげしげと観察するかのようにじっと見いっていることがよくあった。こちらと目が会うと、さっとそらせるのだけれども、またぞろ、その探るような視線が、わたしたちのテーブルのほうへちらちらと投げかけられる。わたしは、その意味を考えあぐねていた。わたしはまた、わたしには取るに足らないことに思われる機会に――つまり、わたしが毎週一回、モートンの学校へ出かけるときに、セント・ジョンが判で押したようにきまって、満足の色を見せるのにも驚かされた。いや、それどころか、当日、雪や雨がふったり、強い風が吹いたりして、天候がよくないため、二人の妹がわたしに学校へ行くのをやめさせようとすると、そのたびにセント・ジョンが妹たちの気づかいを一笑に付し、雨風に気をとられずに職務を遂行するように、とわたしを督励するのには、まったく途方にくれてしまった。
「ジェインは、おまえたちが思っているほどの弱虫じゃないよ」というのが、セント・ジョンの口癖であった。「わたしたちのだれにも負けないくらいに、山おろしや、にわか雨や、ちらちら舞うくらいの雪には耐えられるんだからね。この人のからだは、丈夫なだけでなく、弾力性にあふれている――からだの作りがもっと頑丈な人間なんかよりも、ずっと気候の変化に耐えるようにできているわけだ」
そこでわたしは、くたくたに疲れ、かなりひどく風雨にさらされて帰ってくることがあっても、泣き言はけっして口にしなかった。不平を並べると、セント・ジョンの機嫌が悪くなることを知っていたからである。いついかなる場合でも、不屈の精神を喜び、その欠如には極端な嫌悪を示すセント・ジョンであったのだ。
だが、ある日の午後、わたしはすっかりかぜをひいてしまったため、家にいることを許してもらった。モートンへは、二人の妹がわたしのかわりに行ってくれた。わたしは坐ってシラーを読み、セント・ジョンは、難解な東洋の巻き物の文字を判読していた。翻訳がおわって、練習問題に移ったとき、わたしはたまたま目をあげて、セント・ジョンのほうを眺めたが、そのときになってはじめて、たえず監視しつづけている青い目に、自分の姿がさらされていたことに気がついた。一体いつから、その目がわたしをためつすかしつ、くりかえし眺めていたのか、わたしにはわからない。あまりに鋭く、その上、あまりにも冷たい視線であったので、わたしは、その瞬間、迷信に取りつかれたような――なにか気味の悪いものといっしょに部屋に坐っているような気分を味わった。
「ジェイン、なにをしていますか?」
「ドイツ語の勉強をしていますわ」
「ドイツ語なんかやめて、ヒンズスタン語を勉強してもらえるとありがたいのですがね」
「本気でそんなことをいわれるのではないでしょうね?」
「そう命令したいくらいに本気なのですよ。理由をいってあげましょう」
やがてセント・ジョンは、ヒンズスタン語がいま自分の勉強している言葉であること、勉強が先へ進むにつれて、その初歩を忘れがちであること、生徒を見つけて、基礎をくりかえしくりかえし復習すれば、頭にしっかり叩きこむことができるので、たいへんに助かること、その生徒をわたしにするか、二人の妹にするかでだいぶ迷ったが、三人のうちで、わたしが一番長く一つの仕事をつづけてやれる人間であることがわかったので、わたしを生徒にすることにきめたことなどを説明してくれた。この希望をかなえてもらえないだろうか。どうせ、出発まであますところ三ヵ月そこそこなので、長いあいだ犠牲を強いることはないだろうから、ともセント・ジョンはつけ加えた。
セント・ジョンは、簡単に拒絶できるタイプの人間ではない。受けた印象は、苦痛であれ喜びであれ、すべて深くきざみこまれ、永久に消えることのない人間であることがわかっている。わたしは承諾することにした。ダイアナとメアリーがもどってきたとき、ダイアナは自分の生徒が兄の生徒になってしまっているのを知って、大笑いしていた。そして、いくら兄に説得されても、そんな決断は絶対にしなかったであろうという点で、ダイアナとメアリーの意見は一致していた。セント・ジョンは、おだやかな口調で、こう答えた――
「そんなことは、わかっていたよ」
セント・ジョンは、わたしの見るところでは、非常に忍耐強く、非常に寛大で、それでいて要求のきびしい教師であった。わたしに多大のものを期待していて、わたしがその期待に答えることができると、いかにもこの人らしいやりかたで、満足の意を十分に表明した。すこしずつではあったが、セント・ジョンはわたしにある種の影響力をもつようになり、そのために、わたしは精神の自由を奪われてしまった。セント・ジョンの賞讃や厚意が、その冷淡さ以上にわたしを拘束するようになったのである。セント・ジョンがそばにいると、わたしはもはや自由に話したり、笑ったりできなくなった。うんざりするほどに執拗な本能が、快活さ(すくなくとも、わたしの快活さ)は、このかたのお気に召さないものであるということを、わたしに思い出させたからである。まじめ一方の態度や仕事しか許されていないことを、くれぐれも思い知らされていたため、セント・ジョンのまえでは、ほかの態度を取ったり、ほかの仕事をつづけたりしようと努力しても、いっさいが徒労に帰してしまった。わたしは、すべてを凍りつかせる魔法にかかっていた。セント・ジョンが「行け」といえば行き、「こい」といえばきたし、「これをせよ」といえば、それをやってのけた(新約聖書、マタイによる福音書、第六章第九節)。だが、わたしは、この奴隷のような状態が気にいっていたのではない。セント・ジョンがわたしを無視しつづけてくれるのを願ったことが、なん回あったことか。
ある夜、寝室に引きあげる時刻になって、二人の妹たちとわたしとがセント・ジョンのまわりに立って、おやすみの言葉をかけたとき、セント・ジョンはいつものとおり妹たちには接吻し、わたしには、これまたいつものとおりに、手をさし出した。そのとき、たまたまはしゃいだ気分でいたダイアナが(|ダイアナは《ヽヽヽヽヽ》、兄の意志に抑えられてぎゅうぎゅういうような人間ではなかった。その意志は、別の意味で兄におとらず強固であったからである)、大声でいった――
「お兄さま! お兄さまはいつもジェインのことを三番目の妹だといっているのに、それらしく扱っていないじゃありませんか。ジェインにもキスしなくてはいけないわ」
ダイアナはわたしを兄のほうへ押しやった。わたしは、まったく余計なことをしてくれるダイアナだわ、と思い、どぎまぎして居ても立ってもいられないような気分を味わった。わたしがそのように思い、そのような気分を味わっているあいだに、セント・ジョンは首を曲げ、そのギリシャ的な顔がわたしの顔と同じ高さになり、その目がわたしの目を刺すように見いっていた――わたしは接吻された。大理石の接吻だの、氷の接吻だのいったものは存在しないのだが、かりにあるとすれば、聖職にあるわたしのいとこの挨拶は、そのいずれかのタイプに属しているといえるであろう。だが、実験的な接吻といえるものがあり得るとすれば、セント・ジョンのは、まさにその実験的な接吻であった。接吻したあとで、結果やいかに、とわたしの顔を眺めまわしているのである。その結果は、とくにどうというものではなかった。わたしには、顔を赤くしたりはしなかったという自信がある。もしかしたら、すこし青ざめていたかもしれないが、それはこの接吻が、足かせをかけられているわたしにはりつけられた封印のように感じられたからである。セント・ジョンは、その後、この接吻の儀を怠ることはけっしてなかったし、それを受けるわたしのきまじめで、押しだまった態度は、それにある種の魅力をそえる結果になっていたように思われる。
わたしはわたしでまた、セント・ジョンに気にいられたいという願望を、日ごとにつのらせていた。だが、そのためには、わたしの性質の半分を否定し、わたしの才能の半分を窒息させねばならないし、わたしの趣味を本来の傾向からねじ曲げ、わたしが生来、適性を欠いている仕事につくことを余儀なくされねばならないという実感も、日ごとに強まっていた。セント・ジョンはわたしを訓練することで、わたしの到達し得ないはるか高みにまで引きあげようとしていたが、そのかかげられた標準にまで達しようと心がけることは、わたしにとっては不断の苦痛にほかならなかった。そうした試みは、わたしの不ぞろいな顔の造作を、セント・ジョンの顔の端正で古典的な型にはめたり、わたしの変わりやすい緑色の目に、セント・ジョンの目の、海のような青い色と、落ち着きはらった輝きをあたえたりするのと同様に、不可能なことであったのだ。
しかしながら、現在のわたしを奴隷のように束縛していたのは、主導権を握っているセント・ジョンだけではなかった。このところしばらく、わたしが悲しげな表情を見せることは、まことにたやすいことであった。がんにも似た病気がわたしの心にどっかりと腰をおろして、わたしの幸福をその根っこから食いあらしていたからである――それは、不安という病気であった。
読者は、こうした境遇と運命の変化に取りまぎれて、わたしがロチェスターさまのことを忘れてしまった、とお思いかもしれない。だが、忘れたりすることは一瞬もなかったのだ。ロチェスターさまに対する思いは、いまもなお、わたしの心のなかに生きつづけていた。なぜなら、それは、日光が消し散らすことのできる蒸気のような妄想でも、嵐が吹き消すことのできる砂に書いた似姿でもなかったからである。それは、銘板に彫りこまれた名前であり、それが刻みこまれた大理石が残るかぎりは消えない運命にあったのだ。ロチェスターさまの消息を知りたいという切ない願いは、わたしがどこへ行ってもつきまとっていた。モートンにいるときには、毎晩、そのことを考えるために宿舎へもどったのであったし、いまのムア・ハウスの生活では、毎晩、そのことについて思い悩むために寝室へ引きあげるのであった。
おじの遺言書のことでブリッグズ氏と文通する必要が生じたとき、わたしはロチェスターさまの現住所とか健康状態について、なにか知っていないか、と問い合わせてみた。だが、セント・ジョンの推測したとおり、ブリッグズ氏はロチェスターさまのことについてはなに一つとして知らなかった。そこで、わたしは、フェアファックス夫人にあてて、同様のことを問い合わせる手紙をしたためた。この方法ならば、わたしの目的にかなうにちがいない、と自信をもって打った手であったし、すぐに返事がくるものと確信しきっていた。驚いたことに、二週間たっても、まったくの梨のつぶてであった。毎日、配達される郵便のなかに、わたしあての手紙が一通も見つからないまま、二ヵ月がすぎ去ったとき、わたしは身をさいなむような不安のえじきになってしまった。
わたしは、もう一度、手紙を書いた。最初の手紙が届かなかった可能性もあり得たからである。新たな努力のあとに、新たな希望が生まれた。その希望の火は、前回と同じように、なん週間かは光り輝いていたのだが、やがてまた、同じように薄れて、ゆらめきはじめた。ただの一行も、ただの一言も、わたしのもとに届かなかったのだ。半年間が待ちぼうけのうちにすぎ去ると、その希望の火も完全に消えてしまい、わたしは、文字どおり暗澹とした気持ちを味わうことになった。
まわりには、すばらしい春の日が輝いていたが、わたしにはそれを楽しむことができなかった。夏が近づいた。ダイアナはわたしを元気づけようとして、顔色のさえないわたしを、海辺へつれて行ってやれればいいのに、といってくれた。だが、それには、セント・ジョンが反対した。セント・ジョンにいわせると、わたしが必要としているのは、気ばらしなどではなくて、身をいれてやる仕事であり、現在の生活はあまりに無目的であるから、なにか目標がなければならないとのことであった。そのわたしに欠けているものを補うためででもあろうか、セント・ジョンはヒンズスタン語の授業を延長させ、その修得をこれまで以上に強要するようになった。そして、このわたしは、馬鹿な人間にでもなったかのように、セント・ジョンに反抗することなど、考えてみることもなかった――わたしには、反抗することができなかったのである。
ある日、わたしは、いつになく沈んだ気持ちで勉強に取りかかった。この意気消沈の原因は、痛切に味わされた失望であった。朝、手紙がきていますよ、とハンナに声をかけられて、それを取りに階下へおりて行ったとき、わたしは、長いあいだ待ちわびていた便りがやっととどいたにちがいない、と確信に近い気持ちを抱いていたが、それはブリッグズ氏からの、大して重要でもない事務的な手紙にすぎなかった。この切ない期待はずれに、わたしは涙を押さえることができなかったが、いま、こうしてインド人の筆耕が書き写した難解な文字や美辞麗句を熟読しているわたしの目に、またしても涙がこみあげてきたのである。
わたしはセント・ジョンに、そばへきて音読をするようにいわれた。いわれたとおりにしようとすると、声が思うように出てこない。言葉がすすり泣きにかき消されてしまうのである。居間には、セント・ジョンとわたしの二人しかいなかった。ダイアナは客間で音楽の練習をしていたし、メアリーは庭の手入れをしていた――すばらしい五月晴れの日で、空には雲一つ見あたらず、陽光がふりそそぎ、そよ風がここちよかった。わたしの相手は、わたしが取り乱すのを見てもすこしも驚かず、その原因をききただそうともしないで、ただこういっただけであった――
「ジェイン、もっと落ち着くまで、二、三分、待ちましょうね」
そして、わたしが気持ちの乱れを取り静めようとあせりにあせっているあいだ、セント・ジョンは、患者の病気に期待どおりあらわれた、十分に理解できている危篤状態を、科学的な目で観察している医者のような表情で机によりかかったまま、静かに、しんぼう強く坐っていた。わたしは、すすり泣きの声を押し殺し、涙をぬぐって、けさはからだの調子があまりよくない、といった意味のことをつぶやいてから、わたしにあたえられた課業に取りかかると、なんとか最後までやってのけた。セント・ジョンはわたしの本と自分の本をかたづけると、机に鍵をかけてから、こういった――
「さあ、ジェイン、わたしといっしょに、散歩に出かけましょう」
「ダイアナとメアリーに声をかけますわ」
「いや。けさの散歩の相手は、一人きりしかいらないし、それも、あなたでなくては。身じたくをしたら、台所のドアから外に出て、マーシュ峡谷《グレン》の奥へ行く道を歩いてください。すぐに追いつきますから」
わたしは、中庸というものを知らない人間である。生まれてからいままで、わたしと対立関係にある、積極的で、がんこな性格の持ち主との交渉において、絶対的な服従と徹底的な反抗以外の、中間的な態度を取ったおぼえは、ただの一度もない。いつの場合でも、ぎりぎりの瞬間までは、絶対的な服従を守りつづけるのだが、その瞬間がくると、ときには火山のような激しさで爆発して、徹底的な反抗に移るのである。だが、現在の状況は反抗を起こす根拠になるものでなく、現在のわたしもまた、反抗したいような心境ではなかったので、わたしは、セント・ジョンの命令を一つ残らず、すなおに実行することにした。十分後、わたしはセント・ジョンと並んで、峡谷の荒れはてた小道をたどっていた。
西風が吹いていたが、丘をこえてくる風には、ヒースと燈心草の甘い香りがあふれていた。空はぬけるように青い。峡谷を流れている小川は、すぎ去った春の雨で増水し、豊かな、澄みきった水面には、日光の黄金色と大空のサファイア色とが映えている。かなり歩いたあと、わたしたちは小道からはずれて、やわらかい芝草を踏みしめて行ったが、それはコケのようにやさしい感触のある、エメラルドのようにあざやかな緑色の芝草で、一面が小さな白い花でいろどられ、星の形をした黄色の花がちりばめられていた。そのうちに、丘はわたしたちを完全につつみこむ格好になった。峡谷は、その奥に近づくにつれて、くねくねと丘の内ぶところにまでつづいていたからである。
「ここで休みましょう」
セント・ジョンがそういったとき、わたしたちは、峠とおぼしきあたりの守りを固めている岩の大軍の、最初の落伍兵といった感じのある岩にたどりついていた。そのむこうでは、小川が滝となって勢いよく流れ落ちていたし、もうすこし行ったところでは、芝草や草花をはらい落とした山肌が、ヒースの衣裳と、岩石のアクセサリーをつけているだけであった――そこでは、山の野性が強調されて荒涼とした姿が浮かびあがり、そのさわやかな表情も渋面に取って変わられていた。そこでは、山が孤独のむなしい希望を、沈黙の最後のかくれ家を死守していたのである。
わたしは腰をおろしたが、セント・ジョンはわたしのそばに立ったままであった。峠を見あげたり、谷間を見おろしたりしているセント・ジョンの視線は、小川の流れにそって遠くへさまよったかと思うと、またもどってきて、小川に色どりを添えている雲一つない空全体にそそがれている。帽子をぬぎ、そよ風が髪をなぶり、額に接吻するがままになっているセント・ジョン。この土地の鎮守神と心をかよわせているかのようであり、その目はなにかに別れを告げていた。
「わたしは、もう一度この風景を見ることになるでしょうね」とセント・ジョンは声に出していった。「ガンジス河のほとりで眠るわたしの夢のなかで。さらにもう一度、もっと遠い未来のあるとき――いま一つの眠りがわたしに襲いかかるとき、もっと暗い川のほとりで」
なんと奇妙な愛情にあふれた、奇妙な言葉であることか! 祖国に対する熱烈な愛国者の情熱! セント・ジョンは腰をおろしたが、わたしたちは、半時間というもの、一言も口をきかなかった。セント・ジョンはわたしに、わたしはまたセント・ジョンに話かけなかった。半時間たったところで、セント・ジョンはまた口を開いた――
「ジェイン、わたしはあと六週間で出発します。六月二十日に出航する東インド商会の船に予約をしたのです」
「神さまがお守りくださいますわ。あなたは神さまのお仕事にたずさわるのですから」とわたしは答えた。
「そう、それがわたしの栄光であり、喜びなのです。わたしは、絶対に正しい神のしもべなのです。わたしは、人間の手に導かれて――わたしと同類の弱い虫けらのような人間の、欠陥だらけの法律や、誤りをまぬがれない支配に服従して出かけるのではありません。わたしの王は、立法者は、リーダーは、完全無欠な神なのです。わたしの周囲の者すべてが、同じ旗じるしの下に結集し、同じ壮挙に参加したいという念に燃えていないのが、わたしには不思議に思われます」
「あなたのような力が、万人に恵まれているわけではありませんわ。それに、弱い者が強い者といっしょに行進しようなどと願うのは、愚かなことですもの」
「わたしは、弱い者に話しかけたり、弱い者のことを考えたりはしません。わたしは、この仕事にふさわしい人間、それをなしとげる能力のある人間だけに語りかけるのです」
「そういった人間の数はすくないし、見つけるのも困難ですわ」
「そのとおりですよ。しかし、そうした人間が見つかった場合、その人間を奮起させることは――勧誘と説得を重ねて、努力してみようという気持ちを起こさせることは――その者の天分がいかなるもので、なにゆえにあたえられたかを教え示すことは――その耳に神の言葉を語りかけることは――神に選ばれた者の一人としての地位を、神の名において提供することは、正しいことなのです」
「その人間が本当にその仕事にふさわしいのでしたら、なによりもまず、その人間自身の心がそのことを教えるのではないでしょうか?」
わたしは、恐るべき魔力がわたしのまわりに形づくられ、わたしの頭の上にのしかかっているような印象を受けた。その魔力の実体を明らかにすると同時に、わたしを呪文にかけて金しばりにしてしまう、なにか運命的な言葉が聞かれるのではないか、とわたしのからだはうちふるえた。
「それで、|あなたの《ヽヽヽヽ》心はなんといっていますか?」とセント・ジョンはきいた。
「わたしの心は、なにもいいません――わたしの心は、なにもいいませんわ」びっくりしたわたしは、ふるえる声でそう答えた。
「じゃ、わたしがかわりにいってあげねばなりませんね」と容赦することを知らない低い声がつづけた。「ジェイン、わたしといっしょにインドへ行くのです。わたしの妻となって、わたしの仕事を助けるのです」
谷と空がぐるぐるとまわり、山が大きく持ちあがる! 神のお召しの言葉を耳にでもしたような気持ち――あのマケドニア人にも似た幻の使者に、「渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と懇願されでもしたような気持ちであった(新約聖書、使徒行伝、第十六章第九節。使徒パウロがこの幻を見る)。だが、わたしは、使徒などではない――わたしには、使者の姿を見ることができないし、その招きを受けることもできないのだ。
「ああ、セント・ジョン!」とわたしは叫んだ。「どうかご容赦ください!」
わたしの嘆願している相手は、義務と信じるものをはたすにあたって、情けも容赦も知らない人間であった。その相手は言葉をつづけていった――
「神と自然は、あなたに宣教師の妻としての運命をあたえているのです。あなたは容姿の面ではなく、才能の面で、神と自然の恵みを受けているのです。あなたは仕事のために作られた人間で、愛のために作られた人間ではありません。あなたは宣教師の妻にならねばなりません――いや、宣教師の妻にしてみせます。あなたはわたしのものになるべき人です。わたしはあなたを求めます――わたし個人の快楽のためでなく、わたしの神の仕事のために」
「わたしは、それにふさわしい人間ではありませんわ。わたしは神さまのお召しを受けていないのです」
セント・ジョンは、最初はこのように反対されることを計算にいれていたので、いらいらしたようすは見せなかった。それどころか、うしろの岩にからだをもたせかけて、腕を組み、表情一つ変えようとしなかったので、長時間にわたる抵抗に手こずらされる覚悟をしていることが――最後まで持ちこたえるだけの忍耐心をたっぷり用意していることが――それでも、最後は自分の勝利におわることを信じて疑っていないことが、わたしには読みとれた。
「ジェイン、謙譲はキリスト教徒としての美徳の基盤をなすものですよ。その仕事にふさわしい人間でない、というあなたの言葉は、正しいわけです。その仕事にふさわしい人間が、はたしているでしょうか? また、これまでに実際に神のお召しを受けた人間で、自分がそのお召しに値いすると信じた者がいるでしょうか? たとえば、このわたしですが、ただのちり灰にすぎません(旧約聖書、創世記、第十八章第二十七節への言及)。聖パウロとともに、自分が罪人《つみびと》のかしらであることをみとめているのです(新約聖書、テモテへの第一の手紙、第一章第十五節)。しかし、このように自分が卑劣な人間であることを知っていながら、わたしは気力をくじかれることはありません。わたしはわたしを導く神を知っています。その神が全能であるだけでなく、公正であることも知っています。大いなる仕事の達成の手段として、神が役にたたない無力な人間をお選びになったとしても、無限に蓄蔵された神の摂理は、その手段と目的のギャップを補ってくださいます。ジェイン、わたしのような考えかたをするのです――わたしのように信じるのです。あなたによりかかってほしいのは、『とこしえの岩』(旧約聖書、イザヤ書、第二十六章第四節。主なる神をさす)なのです。それがあなたの人間的な弱さという重みに耐えることのできる岩であることを、疑ってはなりません」
「宣教師の生活がどんなものか、わたしにはわかりません。宣教師の仕事について調べたことがありませんから」
「そのことなら、わたしが、このつまらないわたしが、あなたの必要としている助けをあたえることができます。わたしはあなたの仕事の時間割りをきめ、いつもあなたにつきっきりで、休みなしに助けてあげることができます。はじめのうちは、すくなくともそうすることができますが、やがてあなたは(あなたの力は、わたしにはわかっているのです)、わたしと同じように強く、有能になって、わたしの助けなどいらなくなるでしょう」
「でも、そのわたしの力ですが――この仕事のための力は、どこにあるのです? わたしには、そんな力が感じられません。あなたが話しておられるあいだにも、わたしの内部で語りかけたり、身動きをしたりするものは、なに一つとしてありません。わたしには、燃えさかる火や――躍動する生命や――忠告や激励をあたえてくれる声が感じられないのです。ああ、いまの瞬間のわたしの心が、光のさしこまない土牢にそっくりで、その奥に足かせをはめられてちぢみあがっている、恐怖という囚人がいることを、あなたにわかっていただけたら、と思いますわ――それは、あなたにいいくるめられて、わたしにはできそうもないことを手がける羽目になりはしないか、という恐怖なのです!」
「こうお答えしましょう――聞いてください。わたしは、わたしたちがはじめて会ったときから、あなたを見守ってきました。十ヵ月間というもの、あなたを研究の対象にしてきたのです。そのあいだに、あなたをさまざまのテストにかけたのです。わたしがこの目で見たり、引き出したりしたのは、なんであったでしょうか? 村の学校では、あなたが習慣や趣味にあわない仕事を、りっぱに、きちょうめんに、良心的にやってのけるのを見ました。あなたの仕事ぶりには、能力と才気がみなぎっていることや、きびしくしながらも相手の愛情をかちとることのできる人であることがわかりました。急に金持ちになったことを知ったときの、あなたの冷静な態度のなかに、わたしは、デマス(現世の生活にひかれて脱落した伝導者。新約聖書、テモテへの第二の手紙、第四章第十節)の悪にそまっていない心を読み取りました――金銭はあなたに不当な力をおよぼしていなかったのです。あなたの財産を四等分して、自分ではわずかに四分の一しか取らず、正義という抽象的な観念の要求に答えて残りの四分の三を放棄してしまったときの、あなたの決然とした、自発的態度のなかに、わたしは、自己犠牲の熱情と興奮に喜びを見いだす魂を見つけ出したのです。わたしの願いを聞きいれて、自分が興味をもっている勉強をやめ、わたしが興味をもっているというだけで、ほかの勉強に取りかかってくれたときの、あなたの従順な態度のなかに――それ以来ずっと、その勉強に打ちこんでいる、あなたのたゆまない、勤勉な態度のなかに――その困難な勉強に取り組んでいる。あなたの疲れを知らないエネルギーと動ずることを知らない沈着さにあふれた態度のなかに、わたしは、わたしの求めている性質がすべてそなわっていることをみとめるのです。ジェイン、あなたは従順で、勤勉で、公平無私で、忠実で、意志堅固で、勇気のあるかたです。まことにやさしく、まことに英雄的なかたです。自己不信はおやめなさい――わたしはあなたを全面的に信頼しています。インドの学校での教師として、インドの女性に力をかしあたえる者として、あなたの協力は、わたしにとって、はかり知れないほどに貴重なものとなるでしょう」
わたしをまわりから締めつける鉄製の屍衣。ゆっくりと、確実な足取りですすむ説得。わたしがいくら固く目を閉ざそうとも、この最後の言葉が、これまで完全にふさがれているかに思われていた道を、かなりはっきりとわたしにさし示していることは否定できない。一見いかにも漠然としていて、どうしようもないほどにつかみどころのなかったわたしの仕事が、セント・ジョンの話を聞いているうちに、すこしずつ固まりかけ、その手でうまく格好をつけられて、明確な形を取りはじめている。セント・ジョンは、答えを待っていた。わたしは、返事ができるようになるまで、考える時間を十五分だけください、といった。
「いいですとも」と答えると、セント・ジョンは立ちあがり、峠のほうへすこしのぼってから、ヒースがこんもりと盛りあがったあたりに身を投げて、横になったきり動かなかった。
「セント・ジョンがしてほしいといっていることは、わたしに|できないことではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そのことは、いやでもわかるし、みとめなければならない」とわたしは考えた――「ただし、命ながらえれば、の話ではあるけれども。わたしは、インドの太陽の下では、とても長生きできないのではないか、と感じる――そのときは、一体どうなるのか? セント・ジョンは、そんなことにかまう人ではない。わたしの死期がせまると、あの人は、落ち着きと威厳のあふれた態度で、わたしをあの人にあたえた神に、わたしをゆだねるであろう。そうなることは、目に見えている。イギリスをあとにすることで、わたしが愛してはいるが、空虚そのものの国をあとにすることになる――ロチェスターさまのいらっしゃらないイギリスなのだから。いや、かりにいらっしゃるとしても、それはわたしにどんな意味をもっているのか? どんな意味をもち得るというのか? いまのわたしの仕事は、ロチェスターさまなしで生きて行くことなのだ。なにかとてつもない事情の変化が起こって、わたしとあのかたとをもう一度結びつけてくれるのを待ちわびているかのように、だらだらと日を送り、日を迎えることほどに、馬鹿げていて、決断力のなさを示すものはあるまい。当然のことながら(いつかセント・ジョンがいっていたように)、失われた興味の対象にかわる新しい対象を人生に見つけなければならない。そのセント・ジョンがいま、わたしにさし出している仕事こそは、まさに人間が選ぶことのできる、あるいは神が人間にあたえることのできる、最高の栄誉にあふれた仕事ではあるまいか? それは、その目的の高貴さと、結果の崇高さのゆえに、根こぎされた愛情と叩きつぶされた希望が残した空虚感を埋めるのにもっともふさわしい仕事ではあるまいか? わたしは『イエス』といわねばならないと思う――それでいて、身のふるえを感じるのだ。ああ! セント・ジョンに同行することは、わたしの半分を捨て去ってしまうことになる。インドへ行くことは、早死にすることにほかならない。そして、インドにむかってイギリスをはなれたときから、墓地にむかってインドをはなれるときまでの時間は、どのようにしてみたされるだろうか? ああ、わたしには、よくわかっている! そのこともまた、わたしの心の目に、はっきりとうつっている。わたしの筋肉が痛くなるまで努力すれば、セント・ジョンにも|きっと《ヽヽヽ》満足してもらえるにちがいない――あの人の期待という円の、微細この上ない中心点から、一番外側の円周にいたるまで、満足させることができるだろう。|かりに《ヽヽヽ》わたしがセント・ジョンといっしょに行くことになれば――|かりに《ヽヽヽ》わたしがあの人の要求するような犠牲的行為をすることになれば、わたしは徹底した犠牲的精神を発揮するだろう。わたしはいっさいを祭壇にささげるだろう――身も心もささげて、完全ないけにえとなるだろう。セント・ジョンが、わたしを愛することは絶対にあるまいが、わたしの価値はなんとしても認識させねばならぬ。わたしは、あの人がまだ見たことのないエネルギーを、あの人が思ってみたこともない才能を、あの人に指し示してやるわ。そうですとも。あの人と同じように一生けんめい、骨身を惜しまずに働くことができるわたしなのだから。
「とすれば、セント・ジョンの要求に『イエス』と答えることは、不可能なことではない。一つだけ――一つだけ、恐ろしい項目をのぞくことができるならば。その項目とは――わたしに妻になって欲しいといいながら、あの人は、わたしに対する夫らしい愛情を、むこうの谷間で小川があわだちながら流れている、あのにが虫をかみつぶした巨人のような岩ほどにも抱いていないということである。あの人がわたしをたいせつにするのは、兵隊が優秀な武器をたいせつにするのと同じであって、それ以上のなに物でもない。あの人と結婚するのでないなら、わたしはそんなことで悲しむようなまねは絶対にしない。しかし、あの人が計算どおりに事をはこぶのを――平然と計画を実行に移すのを――結婚の儀式を取りおこなうのを黙認するといったことが、このわたしにできるのだろうか? あの人から結婚指輪を受け取って、愛情のさまざまな儀礼的な表現を耐えしのび(あの人がそうした儀礼を一つとして欠かさないことは、疑問の余地がない)、しかも、そこに一片の誠意もこもっていないことを知っている――そんなことが、このわたしにできるのだろうか? あの人がわたしにかける愛の言葉の一つ一つが主義のためになされる犠牲にすぎない、と知っていながら、それに耐えるといったことが、このわたしにできるのだろうか? そんなことはできないわ。そんな殉教者的な行為は、もってのほかといわざるを得ない。わたしはそんな目には、絶対に会いたくない。あの人の妹としてなら、いっしょに行ってもいい――妻としてなら、おことわりだわ。このようにお答えするとしよう」
わたしは小高い丘のほうに目をやった。セント・ジョンはそこに、倒れた円柱みたいにひっそりと横になっていた。顔はわたしのほうにむけられ、なに一つ見落とさないような、鋭い目が光っていた。セント・ジョンは立ちあがると、わたしのところへやってきた。
「インドへ行く覚悟ができましたわ。自由の身で行けるなら、の話ですけど」
「その答えには説明がいりますね。明確な答えではありませんから」
「あなたはこれまで、わたしの義理のお兄さまでしたし、わたしはあなたの義理の妹でした。このままの状態をつづけましょう。あなたとわたしは、結婚しないほうがいいのです」
セント・ジョンは首を横にふった。「義理の兄と妹というのは、この場合、つごうが悪いのです。あなたがわたしのほんとうの妹だというのなら、話は別です。わたしはあなたをつれて行って、妻帯したりはいたしません。しかし、現実には本当の兄妹ではないのですから、わたしたちの関係は、結婚によって清められ固められるべきです。そうでなければ、存在の可能性がなくなります。それ以外の方法は、現実的な障害がいろいろとじゃまをするのです。それがあなたにはわからないのですか、ジェイン? ちょっと考えてごらんなさい――あなたのすぐれた判断力が指針になってくれますよ」
そこでわたしは考えた。それでも、わたしのささやかな判断力が指し示したのは、わたしたちはおたがいを夫として、妻としては愛していないという事実だけであり、それゆえに、わたしたちは結婚すべきでないという結論が導き出されてきたのである。わたしは、そのことを相手に伝えた。
「セント・ジョン」とわたしはいった。「わたしはあなたをお兄さまと思っています――あなたはわたしを妹と思ってくれていますわ。このままの状態をずっとつづけましょうよ」
「それはできない――それはできないことなのだ」とセント・ジョンは短く、鋭く、決然とした口調でいった。「それでは十分でないのです。あなたはわたしといっしょにインドへ行くといいましたよ。いいですか――そういったのですよ」
「条件がついていますわ」
「そりゃ――そうです。大筋については――わたしといっしょにイギリスを発って、これからのわたしの仕事に協力するという点については、あなたも反対していない。あなたはすでに、手を鋤《すき》にかけたも同然ですよ(新約聖書、ルカによる福音書、第九章第六十二節)。あなたは言行の一致した人ですから、その手をひっこめることはあり得ません。あなたが目標としているのは、ただ一つ――どうすればあなたが手がけることになった仕事を、りっぱにやりとげることができるか、ということです。あなたの複雑多岐にわたる興味や感情や思考や願望や目的を一本化して、いっさいの配慮を一つの目的に投入しなさい。それは、あなたの偉大な主なる神の使命を効果的に――力強くやりとげるという目的です。そうするために、あなたが必要としているのは、協力者です――兄さんではありません。兄妹の絆は、はかないものです。しかし、あなたに必要なのは、夫なのです。わたしとしても、妹など欲しくはありません。いつ縁が切れるか、わかったものでないからです、わたしの欲しいのは妻です。わたしが生涯を通じて十分に感化することのできる、そして死ぬまで絶対にわたしのもとに引きとめることのできる、たった一人の協力者としての妻なのです」
わたしは、セント・ジョンの話を聞きながら、戦慄をおぼえた。わたしの骨の髄にまで、その影響力がおよぶのが感じられた――わたしの手や足がしっかりと押さえつけられるのが感じられた。
「わたし以外の女性をお捜しください、セント・ジョン。あなたにふさわしいかたをお捜しください」
「わたしの目的にふさわしい人――わたしの天職にふさわしい人、といいたいのですね。くりかえしていいますが、結婚の相手を求めているのは、取るに足らない私的な個人――人間的な利己心をもった、ただの人間ではないのです。宣教師なのです」
「では、わたしは、わたしのエネルギーをその宣教師に提供いたします――そのかたの望んでいるのは、ただそれだけで――このわたしではないのですから。わたしをさしあげるのは、肝心かなめの核に、つまらない|さや《ヽヽ》や|から《ヽヽ》を添えるようなものですわ。そんなものは、ご当人には不要でしょうから、わたしの手もとに置いておきます」
「そんなことはできない――また、許されることでもない。半分しかない供え物に神が満足なさるとでもお思いなのですか? 神が不完全ないけにえをお受け取りになるでしょうか? わたしが擁護しているのは、ほかならぬ神の大義なのであり、その神のみ旗のもとに、あなたを参加させようとしているのです。神の名において申しあげますが、中途半端な忠誠は受けいれられません。完全無欠な忠誠でなければならないのです」
「ああ! わたしは神さまになら、わたしの心をささげますわ。|あなたには《ヽヽヽヽヽ》不必要なものですから」
読者よ、この言葉を口にしたときのわたしの口調や、それに伴った感情の両方に、押さえられた皮肉のいくらかがこめられていなかったとは、わたしもあえて断言しない。このときまで、わたしはセント・ジョンを心ひそかに恐れていたが、それはわたしが相手を理解していなかったからである。セント・ジョンがわたしに畏敬の念を抱かせることができたのは、わたしに疑念を抱かせていたからである。それまでのわたしには、セント・ジョンのどこまでが聖人で、どこまでが俗人であるか、わかりかねていたのだ。だが、この話し合いで、いろいろのことがはっきりしてきた。わたしの目のまえで、性格分析がおこなわれたのである。わたしはセント・ジョンの人間的な欠陥のいくつかを目のあたりにして、それを理解した。このように、ヒースのはえた土手の上で、この眉目秀麗な人物をまえにして坐っていたわたしは、わたしと同じように誤りをおかす人間の足もとに坐っていることを理解した。セント・ジョンの冷酷さや横暴さをおおい隠していたヴェールが取れてしまったのだ。相手のなかにそのような資質が存在することを感じ取ったわたしは、この人もまた不完全な人間であると感じて、勇気がわいてきた。わたしといっしょにいるのは、対等の人間――わたしが議論することのできる人間――わたしが正しいと判断すれば反抗することもできる人間であったのだ。
わたしがさっきの言葉を口にしたあと、セント・ジョンは黙っていた。やがて、わたしは、思いきって相手の顔を上目づかいに見てみた。わたしにそそがれたセント・ジョンの目には、強い驚きと鋭い問いかけがあらわれていた。「この女は皮肉を、しかも、このわたしにむかって皮肉をいっているのか? これはなにを意味しているのか?」と問いたげな目であった。
「これが深刻な問題であることを忘れないようにしなくては」やがて、セント・ジョンはいった。「軽がるしく考えたり発言したりすると罪になりかねない問題なのです。ジェイン、神さまになら、あなたの心をささげるというあなたの言葉に、嘘いつわりはないと、わたしは信じています。わたしは、それ以外のことは望んでいないのです。あなたの心を人間界から切りはなして、造物主だけにささげまつるなら、そのときから、この地上における造物主の精神的な王国の日進月歩が、あなたにとって最大の喜びと熱望の的になります。その目的を押し進めることならなんでも、すぐに取りかかりたい気持ちになります。わたしたちが結婚という形で肉体的にも精神的にも結ばれた場合、あなたやわたしの努力にたいへんな刺激があたえられることになるのもわかるはずです。この結合関係だけが、人間の運命や目的に永久不変の持続性をあたえるからです。そして、いっさいのささやかな気まぐれ――いっさいの取るに足らない困難や感情の起伏――単なる個人的な嗜好の程度や種類や強さや弱さに関するいっさいの懸念といったものを乗りこえて、あなたはその関係を一刻も早く結ぼうとあせるのです」
「そうでしょうか?」とだけ、わたしは答えた。
わたしは美しく調和がとれているが、冷ややかな峻厳さという点では奇妙なまでに恐ろしい、セント・ジョンの顔を見つめた。威厳はあるが、せせこましい眉。輝きと深みと鋭さをそなえているが、けっしてやさしいとはいえない目。背丈のある、高圧的な容姿。そして、わたしは、|この人の妻《ヽヽヽヽヽ》になっているわたし自身の姿を頭のなかで思い描いてみた。ああ! 絶対にそんなことがあってはならない! この人の助手としてなら、同志としてなら、ふつごうな点はなに一つとしてない。その資格でなら、この人といっしょに海を渡ろう。その仕事のためなら、東洋の太陽の下で、アジアの砂漠のなかで、この人と苦労をともにしよう。この人の勇気と献身ぶりとエネルギーを賞賛し、それを見習うことにしよう。この人の統率におとなしくつき従おう。この人の絶ちがたい野望に静かな心で微笑を投げかけてやろう。この人のキリスト教徒的な側面とただの人間としての側面とを峻別し、前者を高く評価すると同時に、後者をこだわることなく許してあげよう。もちろん、こうした資格でのみ結ばれている場合でも、わたしはやはりしばしば苦しむにちがいない。わたしの肉体は、かなりきびしいくびきをかけられることだろう。だが、わたしの心と頭が束縛されることはあるまい。わたしにはいぜんとして、そこなわれることのないわたし自身に帰って行く可能性が――孤独なときには、もって生まれた、なに者にも隷属していない感情を相手に語りあう可能性が残されている。わたしの心のなかには、わたしだけのものであって、あの人がはいりこむことなど絶対にできない秘密の場所が残っているだろうし、そこには、あの人の冷酷さに枯らされることも、あの人の兵士を思わせる整然とした行進に踏みにじられることもない感情が、大切に守られて、みずみずしく成長するだろう。だが、セント・ジョンの妻になった場合――わたしは、いつもあの人のそばにいて、いつも牽制され、いつも抑制されている――生命の火を朝から晩までほそぼそと燃やすことを余儀なくされて、それをからだの内部で燃やすようにしなければならないばかりか、その閉じこめられた炎が生きるために必要な器官をつぎつぎにやきつくしても、声一つあげることができないのだ――|こんな生活《ヽヽヽヽヽ》には、とても耐えることができない。
わたしはここまで思いいたったとき、「セント・ジョン!」と大声でいった。
「なんでしょう?」とセント・ジョンは氷のように冷ややかな口調で答えた。
「もう一度、くりかえして申しあげます。わたしはあなたの同僚の宣教師としてなら、あなたに同行することに全面的に賛成いたしますが、妻としてならお断りいたします。わたしにはあなたと結婚して、あなたの分身になることなどできません」
「わたしの分身になってもらわなければなりません」とセント・ジョンは落ち着きはらっていった。「さもないと、わたしたちの取りきめは、いっさい無効になってしまいます。まだ三十にならない男性のわたしが、わたしと結婚してもいない十九の娘をつれてインドへ行くなどといったことが、どうしてできるでしょうか? わたしたちが――あるときは孤独のなかで、あるときは野蛮人たちのなかで暮らすわたしたちが、結婚もせずにいつまでもいっしょにいるなどといったことが、どうしてできるでしょうか?」
「やさしいことですわ」とわたしはそっけない口調でいってのけた。「そういう事情でしたら、わたしがあなたの本当の妹さんであると仮定するか、あなたと同じ男性の牧師であると仮定すればいいのですから、やさしいことですわ」
「あなたがわたしの妹でないことは、周知の事実です。あなたを妹として紹介することはできません。そんなことをすれば、あらぬ疑いをかけられて、わたしたち二人が傷つくことになります。それに、あとの場合にしても、あなたは男性なみの活発な頭脳の持ち主ですが、女心の持ち主でもありますし、それに――そんなことは不可能です」
「そんなことはありません」とわたしはいささか軽蔑の念をこめて、きっぱりといった。「ちっとも不可能なんかではありませんわ。たしかに、わたしには女心がありますけれど、それはあなたに関わりのないところでのことです。わたしが、あなたに対して抱いているのは、同志としての忠実さと、戦友としての率直と誠実と友愛とでもいえるものと、新改宗者が宗教の秘儀を伝えてくれる導師に示す尊敬と従順だけであって、それ以上のなにものでもないのです――ご心配は無用ですわ」
「わたしの望んでいるのは、それだ」とセント・ジョンは自分自身に語りかけるようにいった。「それこそが、わたしの望んでいるものなのだ。道をはばむ障害はいろいろとあるが、すべてなぎ倒してしまわねばならない。ジェイン、あなたはわたしとの結婚を後悔することはないでしょう。それだけはたしかです。わたしたちは|結婚しなければならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです。くりかえしていいます。ほかに方法はありません。結婚したあとで十分な愛情が芽ばえ、わたしたちの結びつきが、あなた自身の目にさえも正しいものにうつるようになるにちがいありません」
「愛情についてのあなたの考えを軽蔑しますわ」わたしは身を起こすと、岩に背中をもたせかけた格好でセント・ジョンのまえに立ったまま、そういいきらずにはいられなかった。「あなたがわたしにさし出している偽りの愛情を軽蔑しますわ。そうですとも、セント・ジョン、そんな愛情をさし出しているあなたを軽蔑しますわ」
セント・ジョンはわたしを食いいるように見つめ、そうしながらととのった形の唇をかみしめていた。おこっているのか、驚いているのか、いや、どんな気持ちでいるのかさえ、容易にはわからなかった。セント・ジョンは表情をいっさい変えずにいることができたのである。
「あなたからそんな言葉をかけられようとは、夢にも思っていませんでした。軽蔑に価するようなことをしたり、いったりしたおぼえはないのです」
わたしは、そのおだやかな口調に心をゆさぶられ、その高潔で、落ち着きはらった態度に圧倒されてしまった。
「わたしの失言を許してください、セント・ジョン。でも、わたしが興奮して不用意な発言をしたのは、ほかならぬあなたのせいなのですわ。わたしたちの考えかたが一致することのない話題を――わたしたちが議論してはいけない話題を持ち出したのは、あなたなのですから。愛情という言葉が口にされただけで、わたしたちのあいだには不和がかもし出されることになるのです――その愛情が結婚という現実の形を取らねばならなくなった場合、わたしたちは一体、どんなことをするでしょうか? どんな気持ちを味わうでしょうか? わたしのいとことしてのあなたに申しあげますが、結婚の計画はお捨てになってください――お忘れになってください」
「それはできない。これは、長いあいだ暖めてきた計画です。わたしの大いなる目的を実現させることのできる、唯一無二の計画なのです。しかし、いまはこれ以上あなたに頼みこむことはやめます。あす、わたしはケンブリッジに出発します。あそこには、いとまごいをしたい友人がたくさんいるのです。二週間は帰ってきません――そのあいだに、わたしの申し出を考えておいてください。それを拒絶する場合、あなたのこばんでいるのがわたしではなくて、神であることを忘れないでください。わたしという人間を介して、神はあなたに高貴な人生行路を開いているのです。わたしの妻としてでなければ、あなたはその道にはいることができません。わたしの妻になることを拒絶すれば、あなたは利己的な安楽と不毛な無明の世界につながる道に、あなた自身を永久に閉じこめることになります。いまからいっておきますが、その場合、あなたは、信仰を否定した、無神論者以下の人間の仲間に数えあげられることになるのを覚悟せねばなりませんよ!」
セント・ジョンは話しおえると、わたしから顔をそむけて、いま一度――
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「川に目をやり、丘に目をやりぬ」
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だが、先刻とちがって、いまのセント・ジョンの感情は、すべてその心のなかに閉じこめられている。わたしは、その感情が口にされるのを耳にする資格のない人間なのだ。肩を並べて家路をたどりながら、わたしは、相手の鉄のような沈黙のなかに、わたしに対する感情のすべてをはっきりと読み取ることができた。服従を期待していたのに反抗に出くわすことになった、冷酷で独裁的な性格の持ち主の失望――他人のなかに、とうてい共鳴することのできない感情と見解を見つけ出した、冷静で、確固とした判断力の持ち主の非難。つまるところ、一個の人間としてのセント・ジョンは、わたしを強引に服従させたかったのだ。わたしの片意地な態度にも実にしんぼう強くがまんして、反省と後悔のためのまことに長い時間をわたしにあたえてくれたのは、誠実なキリスト教徒としてのセント・ジョンにほかならなかったのである。
その夜、二人の妹に接吻したあと、セント・ジョンはわたしとの握手さえ忘れたほうがいいと思ったのか、黙って部屋から出て行った。わたしは――愛情はともかく、厚い友情をセント・ジョンに対して抱いていたわたしは、このあからさまな仕打ちに心を傷つけられた――あまりの切なさに涙が目にこみあげてきた。
「荒れ地で散歩をしていたとき、兄と喧嘩をしたのね、ジェイン」とダイアナがいった。「でも、追いかけるといいわ。兄はあなたがくると思って、廊下でぐずぐずしていますから――仲なおりしてくれますわよ」
こうした場合のわたしは、あまりプライドにこだわらない。もったいぶった態度を取るよりも幸福感を味わっていたいというのが、いつものわたしの考えである。そこで、わたしはあとを追って走り出た――セント・ジョンは階段のあがり口のところに立っていた。
「おやすみなさい、セント・ジョン」とわたしはいった。
「おやすみ」とセント・ジョンはおだやかな声で答えた。
「では、握手しましょうよ」とわたしはつけ加えた。
わたしの指にふれた相手の感触の、なんと冷たく、頼りなかったことか! セント・ジョンは、その日の出来事にひどく腹を立てていた。こちらから誠意を示したり涙を流したりしても、その心が暖められたり、動かされたりすることはあるまい。うまく仲なおりすることは――機嫌のいい微笑ややさしい言葉を引き出すことは、とても無理な相談であった。だが、それでもキリスト教徒としてのセント・ジョンは、忍耐強く、冷静であった。わたしが許してくださいますか、ときくと、セント・ジョンは腹が立ったことをいつまでも根にもつようなことはしないし、それに気を悪くしたわけでもないので、許すようなことはなにもない、と答えた。
そう答えると、セント・ジョンは、わたしを置き去りにして行ってしまった。わたしはいっそのことなぐり倒してくれればいいのに、という思いであった。
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三十五章
セント・ジョンは、前言をひるがえして、翌日のケンブリッジ行きを取りやめた。出発を一週間のばしたのだが、そのあいだずっと、善良ではあるが厳格な人間、良心的ではあるが執念ぶかい人間が自分の感情を害した相手に加えるきびしい罰がどんなものであるかを、わたしはつくづくと思い知らされた。敵意をむき出しにした行為一つ取るわけでも、非難の言葉一つ口にするわけでもないのに、セント・ジョンが刻一刻と、巧妙にわたしに印象づけることができたのは、わたしがすでにその好意の埓外に置かれているという確信であった。
といっても、セント・ジョンがキリスト教徒にあるまじき復讐心を抱いていたというのではない――わたしの髪の毛を一本でも傷つけるようなまねは、かりにそうすることが十分に可能であったとしても、しなかったであろう。性格からいっても信念からいっても、セント・ジョンは、下劣な復讐の喜びなどからは超越した人間であった。そして、あなたとあなたの愛情を軽蔑しますわ、といったわたしを許してはいたのだが、その言葉を忘れてしまったわけではない。わたしたち二人が生きているかぎり、その言葉が忘れられることは絶対にあるまい。わたしは、わたしにむけられたセント・ジョンの顔の表情から、その言葉が二人のあいだの空気にいつも書かれていることを悟った。わたしが口をきくたびに、その言葉はわたしの声にまじってセント・ジョンの耳に伝わり、そのこだまが、わたしに対する返事のすべてに響きわたっていた。
セント・ジョンがわたしとの会話を避けるようになったのではない。いつものとおり、毎朝、わたしを呼びよせて、自分の机にいっしょにむかわせさえした。わたしの察するところでは、表面的には平生といささかも変わらないようにふるまったり話したりしながら、その一方では、以前その言葉や態度にある種のきびしい魅力をあたえていた関心と満足の色を、いかに巧妙にすべての行為や語句から消し去ることができるかを誇示することで、セント・ジョンの内なる俗悪な人間が、純粋なキリスト教徒には理解することも共有することもできない喜びを味わっていたらしい。事実、わたしにとって、セント・ジョンはもはや生き身の人間ではなく、大理石になってしまっていた。その目は冷たく光る青い玉であり、その舌は言葉を発する機械であって、それ以外になにものでもなかった。
こうしたことは、わたしにとっては、すべて拷問であった――巧妙をきわめた、おわることのない拷問であった。それがかき立てつづけるゆるやかな憤怒の火と、わななく悲哀の責苦のために、わたしはいやというほど悩まされ押しつぶされてしまった。わたしは――この人物の妻になったりしたら――やがてこの太陽のさしこまぬ底ぶかい水源のように純粋な善人が、わたしの血管から一滴の血を抜き取ることも、みずからの水晶のような良心に一点の罪けがれを残すこともなく、わたしを殺すことになるのではないか、と感じた。わたしがこのことを痛感したのは、セント・ジョンと和解しようと努力しているときであった。わたしの悲哀に対して、なんの同情も示されないのである。|この人《ヽヽヽ》は仲たがいをしたことで苦しんだり、仲なおりをすることを望んだりはしなかった。二人で顔をつき合わせて読んでいる本の上に、わたしの涙がはらはらとこぼれ落ちたことも一度ならずあったが、その涙がセント・ジョンに対してなんの効果ももたなかったのは、その心が文字どおり石か金属でできていたためだろう。他方、妹たちに対しては、セント・ジョンはいつもよりすこしやさしくしていたが、わたしが完全に見捨てられ見はなされた人間であることを、冷淡な態度だけでは十分に納得させることができないのではないかと思って、それにコントラストの力を加えているかのようであった。こうしたセント・ジョンのやりかたは、悪意によるものではなく、主義に基づくものであった、といまのわたしは確信している。
セント・ジョンの出発の前日、日没ごろに庭を散歩している姿を見かけ、その姿を見ているうちに、いまでこそ仲たがいをしているこの人がかつてはわたしの命の恩人であったことや、わたしとは近い親類であることを思い出したので、わたしはよりをもどすための最後の努力をしてみようという気になった。わたしは庭に出て、小さな木戸によりかかっているセント・ジョンに近づくと、単刀直入に話した。
「セント・ジョン、あなたがまだおこっていらっしゃるので、わたしはとてもつらいの。お友だちになりましょうよ」
「わたしたちは友だちのはずですがね」セント・ジョンは、わたしが近づいたときに見ていた月の出に目をやったまま、そっけなく答えた。
「いいえ、セント・ジョン、わたしたちは昔のようなお友だちではありませんわ。あなただって、ご存じのはずです」
「友だちじゃないって? それはちがう。わたしとしては、あなたに悪意をもつどころか、ひたすら幸福を祈っていますよ」
「それは信じますわ、セント・ジョン。あなたが他人に悪意など抱けない人間であることは、よくわかっていますから。でも、あなたの親類の者として、わたしはあなたが赤の他人にかける類いの博愛よりも、もうすこしたくさんの愛情をかけて欲しいと思いますわ」
「そりゃ、そうです。あなたのお気持ちはごもっともです。それに、わたしがあなたを他人視しているなんて、とんでもないことですよ」
冷ややかな、落ち着きすました声でいわれたこの言葉に、わたしは強い屈辱と当惑をおぼえた。わたしに語りかける誇りと怒りの衝動に身をゆだねていたら、わたしはさっさと相手を置き去りにして行ってしまうところだったが、わたしのなかのなにかが、この二つの感情以上に強くわたしに働きかけていた。わたしはこのいとこの才能と信念を深く尊敬していた。その友情は、わたしにとってかけがえのないものであったし、それを失うのはひどくつらいことであった。仲なおりのための努力を、そうやすやすとやめることはできない。
「こんなふうにわたしたちは別れなければならないのかしら、セント・ジョン? それに、あなたはインドへ渡るとき、あとに残るわたしには、いままで以上にやさしい言葉をかけてはくださらないのですね?」
するとセント・ジョンは月にくるりと背をむけて、わたしのほうにむきなおった。
「わたしがインドへ渡るとき、あなたがあとに残るですって? なんてことを! あなたはインドへは行かないのですか?」
「あなたと結婚しなければ行けない、とおっしゃいましたわ」
「それで、わたしとは結婚しないというのですか? 例の決心は変えていないのですか?」
読者は、この種の冷淡な人間が氷のような質問のなかに盛りこむことのできる恐怖がどんなものであるかを、わたしと同じようにご存じだろうか? その立腹がいかに大なだれの起こるさまに似かよっているかを? その不興がいかに凍りついた海の氷のはげしくひび割れるさまを思い出させるかを?
「ええ、セント・ジョン、あなたとは結婚しませんわ。例の決心は変えておりませんわ」
なだれがぐらっと起こりかけ、前方にすこしすべりはじめたが、まだどっと崩れ落ちるにはいたっていない。
「もう一度ききますが、結婚をことわる理由はなんです?」
「まえには、あなたがわたしを愛してはいないから、とお答えしました。いまは、あなたがわたしに憎しみに近い気持ちを抱いていらっしゃるから、とお答えします。わたしがあなたと結婚した場合、あなたはわたしを殺すでしょう。現にいまもわたしを殺しているのですから」
セント・ジョンの唇と頬が青ざめた――文字どおり蒼白になった。
「|わたしがあなたを殺す《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――|わたしがあなたを殺している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? あなたはそんな言葉を口にしてはいけない――どぎつい、女性らしさのない、まやかしの言葉ですから。精神が不幸な状態にあることを物語っている、きびしくとがめられてしかるべき言葉です。とても許すことのできないように思われる言葉です。仲間の罪を七十七たびまで許すのが人間のつとめである、という事実がないならば(新約聖書、マタイによる福音書、第十八章第二十二節の「七たびを七十倍するまで」が正しい)」
もはや万事休すである。まえにセント・ジョンをおこらせたときにつけた心の傷跡を消し去ることを熱望していながら、その執拗きわまりない心の表面に、はるかにずっとふかい、新しい跡をきざみこみ、それを灼きつける結果におわってしまったのだから。
「これで、ほんとうに憎まれることになるでしょうね。あなたと仲なおりをしようとしても、無駄ですわ。あなたを永遠の敵にしてしまったことがわかりますから」
この言葉があらためてまた、相手を傷つけることになった。真実にふれる発言であっただけに、ますますひどい逆効果を生んだのである。あの血の気を失った唇が、一瞬、けいれんしたかのようにぴくぴくとふるえた。わたしは鋼鉄のような怒りに油をそそいだことを悟った。わたしの心はきゅっとしめつけられた。
「あなたはわたしの言葉をまったく誤解していらっしゃいますわ」わたしはセント・ジョンの手をさっとつかんでからいった。「あなたを悲しませたり苦しめたりする気は、わたしには毛頭ないのです――本当に、そんな気はないのですから」
セント・ジョンはいかにもにがにがしく微笑した――いかにもきっぱりした態度で、わたしの取っている手をひっこめた。それから、かなり間を置いて、「つまり、あなたはわたしとの約束を反古にして、インドへ行く気などさらさらないというのですね?」
「いいえ、あなたの助手としてならまいりますわ」とわたしは答えた。
長い長い沈黙がつづいた。このあいだに、セント・ジョンの心のなかで、人間としての自然な感情とキリスト教徒としての理想とのあいだにどのような格闘がつづけられたか、このわたしには知るよしもない。ただ、奇妙な光がその目にきらめき、異様な影がその顔を横切るだけであった。セント・ジョンはやっと口を開いた。
「あなたのような年頃の独身女性がわたしみたいな年齢の独身男性に同行しようとすることが、どんなにとてつもない話であるかは、すでに説明しました。たしかわたしは、そのような計画にあなたが二度と言及するのを手びかえると思われるような言葉で、はっきり説明しておいたはずです。それをあなたがあえてやってのけたのを、わたしは残念に思いますよ――あなたのためにね」
わたしは相手をさえぎった。明白な非難と思われるものはなんであれ、わたしにたちどころに勇気をあたえたのである。
「常識の線を守ってくださいね、セント・ジョン。あなたのおっしゃっていることは、ナンセンスじみていますわ。わたしの発言にショックを受けたふりをなさっているのよ。本当はショックなんかちっとも受けていないのに。あなたのような優秀な頭脳の持ち主が、わたしのいったことの意味を誤解するほど鈍感だったり、うぬぼれが強かったりするはずはありませんもの。あらためて申しあげますけど、わたしは、あなたさえよければ、あなたの牧師補になります。でも、奥さんになるのはごめんこうむります」
セント・ジョンはまた青黒い顔色になったが、さきほどと同じように、激情を完全に押えつけていた。そして、はっきりした口調で、おだやかに答えた――
「わたしの妻でもないような、女の牧師補など、わたしには絶対にふさわしくありません。要するに、あなたはわたしといっしょに行きたくないようですが、あなたの申し出が本心から出たものでしたら、ロンドンにいるあいだに、既婚の宣教師で、奥さんが助手を捜しているかたに口をきいてあげましょう。あなたは自分の財産があるから、協会(一七〇一年創設の海外伝道協会のことだろう)の援助を受けなくてもやって行けるし、同時にまた、わたしとの約束を破って、参加する契約を結んだグループから逃亡したという汚名をまぬがれることができますからね」
読者もご承知のように、わたしは正式に約束したおぼえもなければ、契約を取り結んだおぼえもない。セント・ジョンの言葉は、この場合あまりにもきつすぎるし、いささか独断のそしりをまぬがれない。わたしは答えた――
「今回のケースは、汚名だの、約束の不履行だの、逃亡だのいったこととはいっさい無関係ですわ。わたしには、インドへ行かねばならない義理など、爪のあかほどもありません。とりわけ、見も知らない人といっしょになんか。あなたとなら、思いきったこともやってのけたでしょう。あなたを尊敬し、信頼し、それにお兄さまのように愛してもいますから。だけど、わたしがいつ、だれと行くにせよ、あの気候ではとても長生きできないだろうということは、よくわかっておりますわ」
「ああ! あなたは自分自身のことが心配なわけだ」とセント・ジョンは唇をゆがめるようにしていった。
「そうですわ。神さまからさずかった命は、捨てるためのものではありません。それに、あなたがわたしに望んでいることをするのは、自殺行為にもひとしいというふうに、わたしは思いはじめています。その上、イギリスを去る決心をはっきり固めるまえに、わたしは、イギリスにいたところで、イギリスから出て行く以上の役に立ちはしないということを確認しておきたいのです」
「どういう意味です?」
「説明しようとしても仕方のないことですわ。でも、わたしが長いあいだ痛いほどの疑惑をおぼえている点が一つありまして、その疑惑がなんらかの方法でとけてしまうまでは、わたしはどこへも行けないのです」
「わたしには、あなたの心がどちらをむき、なににすがりついているかがわかっています。あなたが心をひかれて、じっと胸にひめている問題は、法にそむいている上に、不浄なことなのです。あなたはそれをずっと昔に押し殺すべきであったし、いまそれについて語ろうとするあなたは、顔を赤らめてしかるべきなのです。ロチェスター氏のことを考えていますね?」
それは真実であった。わたしはそれをみとめたしるしに黙っていた。
「ロチェスター氏を捜しに行くつもりですか?」
「あのかたがどうなったかを調べねばなりません」
「じゃ、あとわたしに残されている道は、お祈りのときにあなたのことを思い出して、あなたの魂が地獄に落ちたりすることがないよう、一心不乱に神に祈ることだけですね。わたしは、あなたのなかに神に選ばれた人間の一人を見つけ出したように思っていたのですが。だが、神の見るところは人とは異なるのです(旧約聖書、サムエル記上、第十六章第七節)。|その神の《ヽヽヽヽ》みこころがおこなわれますように(新約聖書、マタイによる福音書、第六章第十節)」
セント・ジョンは庭の木戸を開けると、そこを通りぬけて、谷のほうへと遠ざかって行った。やがて、その姿は見えなくなった。
居間にもどって見ると、ダイアナがひどく考えこんだ表情で、窓べに立っていた。ダイアナはわたしよりもずっと背が高かったので、わたしの肩に手をかけると、かがみこむようにして、わたしの顔をしげしげとのぞきこんだ。
「ジェイン、このところ、いつもそわそわしていて、顔色もよくないわよ。きっとなにかあるのね。兄とあなたとのあいだにどんな問題があるのか、わたしに話してください。この窓から、半時間もあなたのようすを見守っていたのよ。こそこそと監視したりして、ごめんなさいね。でも、わたしは、長いあいだ、わたしにはとても見当のつかないことを、あれこれ想像していましたのよ。兄は変人ですから――」
ダイアナは言葉をきった――だが、わたしが口をきかなかったので、すぐにまたしゃべりはじめた――
「あの兄は、あなたのことで、なにかとても変な了見を抱いているにちがいないわ。だれにも見せたことのない興味ありげな目つきで、兄はまえからあなたを特別扱いしていましたからね――なんの目的かしら? あなたを愛しているのだといいけど――そうじゃないの、ジェイン?」
わたしはダイアナの冷たい手を、わたしの熱い額に押しあてた。「それが、そうじゃないのよ、ダイアナ」
「じゃ、兄があんなふうにあなたを目で追いかけているのは――しょっちゅうあなたと二人きりになり、明けても暮れてもあなたを自分のもとに引き止めているのは、なぜかしら? メアリーとわたしは、二人とも兄があなたとの結婚を望んでいるという結論を出していたのよ」
「結婚は望んでいるのですわ――わたしに求婚なさいましたから」
ダイアナは手をたたいた。
「わたしたちが望んだり考えたりしていたとおりになったわ! それで、あなた、兄と結婚なさるわね、ジェイン? そうなれば、兄もイギリスにとどまるでしょうから」
「ところが、そうはならないのよ、ダイアナ。お兄さまがわたしに求婚なさったたった一つの目的は、インドでのお仕事に協力できる適当な仲間を見つけることなのよ」
「まあ! 兄はあなたのインド行きを望んでいるのね?」
「ええ」
「気ちがい沙汰だわ!」とダイアナは大声をあげた。「あなたはあの土地では三ヵ月も生きられないわ、絶対よ。どんなことがあっても行っては駄目よ。まさか承知したのではない――でしょ、ジェイン?」
「結婚はおことわりしたの」
「それで、兄の機嫌をそこねたというわけね?」
「すっかりそこねてしまったの。二度と許してはもらえないと思うわ。それでもね、わたし、妹としてならお伴をしてもいいといったのですよ」
「そんなことをいったなんて、気ちがいじみた愚行よ、ジェイン。あなたの手がける仕事のことを――疲労の連続のような仕事のことを考えてごらんなさい。疲労のために、からだの丈夫な人でさえ死ぬ国よ。それに、からだの弱いあなたなのに。兄は――あなたも知ってのとおりの人だから――あなたに不可能なことまでせっせとやらせるでしょうよ。兄といると、熱いさかりでも休ませてもらえないわ。それに、なおいけないことに、兄が無理じいすることを、あなたががんばってやってのけようとすることは、わたしにもわかっているのよ。あなたに兄の求婚をことわる勇気があったなんて、びっくりしたわ。やっぱり、兄を愛していないのね、ジェイン?」
「夫としてわね」
「でも、兄はハンサムだわよ」
「その反対に、わたしはこんな不器量ときてるでしょ、ダイアナ。わたしたちはお似合いでないの」
「不器量ですって! あなたが? とんでもないわ。あなたみたいにきれいで、心のやさしい人がカルカッタで生きたまま火あぶりになるなんて、もったいないわよ」
そういうと、ダイアナは兄に同行するなどといった考えはいっさい捨てるよう、あらためてわたしに懇願した。
「事実、そうなるにちがいないの。たったいま、わたしが牧師補として働きます、という申し出をくりかえしたところ、お兄さまはわたしのつつしみのなさにショックをおぼえた、といっておられましたから。独身のわたしがお兄さまのお伴を申し出たのは、なにかとんでもないことをしでかしたことになるように思っていらっしゃるらしいの。最初から、あのかたのなかに兄を見つけ出すことを願っていて、いつもそのように思ってきたわたしだというのに」
「兄があなたを愛していないなんていうのはなぜなの、ジェイン?」
「その点は、お兄さまの言葉をお聞きになってよ。結婚を望んでいるのは、お兄さま自身ではなくて、仕事のほうなのだ、とくりかえし説明しておられるのよ。お兄さまはわたしに、わたしが仕事のために作られた人間で、愛のために作られた人間じゃない、とおっしゃったわ。それは、たしかに、そのとおりなの。でも、わたしの意見では、かりにわたしが愛のために作られた人間でないならば、結婚のために作られた人間でもないということになるはずなのよ。役に立つ道具ぐらいにしか見られていない男性に一生つなぎ止められるなんて、おかしなことではないかしら、ダイアナ?」
「耐えられないことだわ――不自然なことだわ――問題外だわ!」
「それにね」とわたしは言葉をつづけた。「いまのわたしはセント・ジョンに妹としての愛情しか抱いていないけど、それでも、無理やり奥さんにさせられた場合、あのかたに対して、どうにも避けられない、奇妙な、拷問にも似た愛情を抱くことになる可能性も想像できないではないの。たいへんな才能に恵まれたかたですし、表情や態度や話しぶりには、一種英雄的な華麗さがときどきうかがわれますからね。そうなった場合、わたしの運命はいいようもなくみじめになるでしょうね。あのかたはわたしに愛されたいとお思いにならないのですし、わたしが愛情を表現したりすると、それがあのかたの要求しない、わたしに似つかわしくもない、まったく余計なものであることを、わたしに思い知らせようとなさるでしょうね。わたしには、それがわかりますの」
「でも、兄はいい人間よ」とダイアナはいった。
「お兄さまはいいかたですし、りっぱなかたですわ。でも、ご自分の大きな考えを追い求めるあまりに、凡人の感情や要求を無残にも忘れはてておられるのです。ですから、凡庸な人間は、お兄さまを敬遠するほうが賢明というものですわ。行く手に立ちふさがっていると、踏みつぶされてしまいますから。お兄さまのお帰りですわ! わたしは失礼しますわね、ダイアナ」
セント・ジョンが庭にはいってきたのを見たわたしは、そういうと、大いそぎで二階にあがった。
だが、わたしはもう一度、夕食のときに顔をあわさねばならなかった。食事のあいだ、セント・ジョンはいつもとまったく変わらない、落ち着きはらったようすをしていた。わたしに声をかけることはまずあるまいと思っていたし、結婚の計画をこれ以上追求することはやめてしまったものと思いこんでいた。だが、そのあとで起こったことは、二つともわたしの考えちがいであったことを示していた。セント・ジョンは、いつもとまったく同じ態度で、ということは、最近いつも見せるようになっていた態度で――つまり、ばかに丁寧な物腰でわたしに話しかけてきた。わたしによってかき立てられた怒りを、聖霊の力をかりて静めた上、いまではあらためてわたしを許していると信じていたにちがいない。
お祈りのまえにする夕べの聖書朗読に、セント・ジョンは黙示録の第二十一章を選んだ。いつの場合でも、セント・ジョンの唇からもれる聖書の言葉に耳をかたむけるのは楽しかった。神のお告げを伝えるときほどに、その見事な声が美しく、かつまた豊かに響きわたることはなかったし、その態度の高貴な素朴さが印象的になることもなかった。そして、今夜、一家の者にかこまれて坐ったとき(五月の月がカーテンのかかっていない窓からさしこんでいたので、テーブルの上のろうそくの光はいらないくらいであった)、そのセント・ジョンの声はますますおごそかな調子をおび、その態度にはますます感動的な意味がこもっていた――大きな古い聖書にかがみこむようにして坐ったまま、セント・ジョンはそのページに記された新しい天と新しい地の未来について語った――そして、人とともに住むようになった神が、人の目から涙をまったくぬぐい取ってくださることを告げ、先のものが、すでに過ぎ去ったがゆえに、もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもなくなってしまうことを約束した(新約聖書、ヨハネの黙示録、第二十一章第一―四節)。
そのあとにつづく言葉をセント・ジョンが口にしたとき、わたしは異様な胸の高鳴りをおぼえた。声にあらわれたかすかな、いいあらわしがたい変化で、その言葉を読みあげているセント・ジョンの目がわたしにむけられたことを感じたときは、なおさらであった。
「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし」ゆっくりと、はっきりした口調で読みあげられた。「おくびょうな者、信じない者……には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」(同章第七―八節)
今後、セント・ジョンがわたしのために恐れている運命がなんであるかが、わたしにはわかった。
熱烈な願望とまざりあった、おだやかで、抑制のきいた勝利の色が、この章の最後の栄光にあふれた数節を朗読する声にはっきりとあらわれていた。この読み手は、すでに自分の名前が「小羊のいのちの書」(同章第二十七節。小羊とはキリストを指す)に記されていることを信じ、地の王たちが光栄と名誉をたずさえてくる聖都エルサレムにはいることを許されるときを待ちわびていた。そして、その都は、日や月がそれを輝らす必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都の明かりだからである(同章第二十三―四節)。
この章のあとでささげられた祈りのなかに、セント・ジョンの全精力が集中されていた――そのきびしい情熱がいっさい目をさましていた。セント・ジョンは一心不乱に神に祈り、勝利をおさめる決意を固めていた。セント・ジョンは、心弱き者のための力と、群をはなれたさまよえる羊のための導きを、さらには俗世と肉体との誘惑のゆえに命にいたる細い道(新約聖書、マタイによる福音書、第七章第十四節)を踏みはずしている者たちが、ぎりぎりの瞬間にでもその道に立ちかえることを祈っていた。そして、火のなかから取り出された燃えさし(旧約聖書ゼカリア書、第三章第二節。地獄の責苦から救われた人間のこと)と同じ恩恵を嘆願し、要求し、主張していた。真剣な態度は、いつの場合でもかぎりなく厳粛なものである。この祈りを聞きながら、わたしは最初、セント・ジョンの真剣さに驚くばかりであったが、やがて、それがつづけられ、高められるにつれて、感動をおぼえ、ついには畏敬の念をおぼえるにいたった。セント・ジョンはみずからの目的がりっぱで、すぐれていることを、心の奥底から感じていたのであり、それを弁じ立てる言葉を耳にする者もまた、それを感知せざるを得なかったのである。
お祈りがおわったとき、わたしたちは、翌朝早く出発することになっているセント・ジョンと別れの挨拶をかわした。ダイアナとメアリーは兄に接吻してから、部屋を出て行った――どうやら、小声でほのめかされた言葉に従ったものらしい。わたしは手をさし出して、楽しいご旅行であることを祈りますわ、といった。
「ありがとう、ジェイン。すでにお話しましたように、わたしは二週間後にはケンブリッジから帰ります。つまり、二週間だけ、あなたの考える時間が残されているわけです。わたしが人間としての矜持《きょうじ》の声に耳をかたむけるなら、これ以上わたしとの結婚についてあなたにとやかくいうべきではないでしょう。しかし、わたしはわたしの義務の声に耳をかたむけ、わたしの第一義的な目標を――すべてのことを神の栄光のためにはたすという目標を、たえず目のまえにかかげています。わたしの主は、しんぼう強さをもっていました。わたしもそれに見習います。わたしには怒りの器(新約聖書、ローマ人への手紙、第九章第二十二節。天罰を受けるべき人間のこと)としてのあなたを地獄に引き渡すことができません。時宜を失しないうちに、後悔するのです――決心するのです。わたしたちは昼のあいだに働くように命じられていることを――『夜が来る。すると、だれも働けなくなる』(新約聖書、ヨハネによる福音書、第九章第四節)と警告されていることを忘れないように。生前によいものを受けていた富める者の運命を忘れてはなりません(新約聖書、ルカによる福音書、第十六章第十九―三十一節。この世でゆたかな生活をしていた金持ちが、黄泉の国で苦しむことになる)。神があなたに、あなたから取り去ってはならない、あの良いほうを選ぶ力をおあたえくださいますように!(同書、第十章第四十二節。永遠の魂の生活を選ぶことを指す)」
セント・ジョンは、最後の言葉を口にしながら、わたしの頭に手を置いた。その話しぶりは、熱意がこもっていて、おだやかであり、その目は、愛する女性を眺めやる恋人の目にはほど遠く、迷える小羊を呼びもどす牧師の――というよりもむしろ、みずからに託された魂を見守る守護天使のそれにほかならなかった。才能に恵まれた人間にはすべて、感情家であるか否かを問わず――狂信者であれ、野心家であれ、独裁者であれ、誠意にあふれてさえいるならば、崇高きわまりない瞬間があって、相手を制覇し、威圧することができる。わたしはセント・ジョンに対して尊敬の念をおぼえた――それは、これまでわたしが長いあいだ避けてきた問題へとわたしをいっきょに押しやるほどの力にあふれた、強烈な尊敬の念であった。わたしは、セント・ジョンと争うことをやめたい――この人の意志の奔流に飛びこんで、その存在の深淵にまではこび去られ、そこにわたし自身の存在を埋没してしまいたいという気持ちに駆られた。わたしはいま、この男性にしっかりとつかまえられているが、かつて一度、形こそちがえ、ほぼ同じ程度にしっかりと別の男性につかまえられたことがあった。いずれの場合にも、愚かなのはわたしであった。まえの場合、いいなりになってしまっていたら、主義節操にかかわる失敗をすることになっていただろうし、今度の場合、いいなりになってしまっていたら、思慮分別にかかわる失敗をすることになっていただろう。時間という静謐な媒介をへだてて、この危機をかえり見ている現在、わたしにはそのように思われるのだが、その時点では、みずからの愚行に気づいてはいなかった。
わたしはわたしの導きの師の手にふれられたまま、身じろぎもせずに立ちつくしていた。わたしの拒絶は忘れられた――わたしの恐怖は克服された――わたしの抵抗は麻痺してしまった。「不可能事」が――つまり、セント・ジョンとの結婚が、急速に「可能事」にと変貌している。いっさいが急転直下して、一変してしまおうとしている。宗教の呼びかけ――天使の手まねき――神の命令――巻き物が巻かれるように消えうせてしまった生――開けはなたれて、かなたなる永遠を見せてくれている死の扉。永劫の安泰と至福のためなら、現世のいっさいをいますぐ投げうってもいいように思われた。うす暗い部屋には、幻影がみちあふれていた。
「いま決心できますか?」と宣教師はきいた。その問いかけはやさしい口調でなされ、同じようにやさしい仕草で、わたしのからだは、そのほうへ引きよせられた。ああ、このやさしさ! このやさしさには、あらあらしさのなん倍もの説得力がこもっている! セント・ジョンの激怒には抵抗することのできたわたしが、同じ人物のやさしさのまえでは、一本のアシのように柔軟になっている。だが、いま屈服したとしても、いつかまた、これまでのわたしの反抗を反省することを余儀なくされる日が、やはり確実にやってくるということを、わたしはずっと意識しつづけていた。セント・ジョンの性質は、一時間の厳粛なお祈りくらいで変わるはずがない。いまはただ高揚しているだけのことなのだ。
「確信がありさえすれば決心できるのですけど」とわたしは答えた。「あなたと結婚することが神さまのおぼしめしであるという確信がつきさえすれば、いまここで、あなたとの結婚をお誓いしますわ――あとがどうなるかにはかまうことなく!」
「わたしの祈りは聞きいれられた!」とセント・ジョンは叫んだ。そして、わたしが自分のものであることを主張するかのように、わたしの頭にのせていた手に力をこめ、わたしを愛して|でも《ヽヽ》いる人のように、わたしのからだに手をまわした(あえて|でも《ヽヽ》といっておく――わたしはその有無から生ずるちがいを知っていた――愛されるということがどんなものであるかを感じたことのあるわたしなのだから。だが、いまのわたしは、相手と同じように愛情はいっさい度外視して、義務のことだけを考えていたのだ)。わたしは、わたしの心の目のかげりをはらいのけようと、けんめいになっていた。その目のまえに、暗い影がいぜんとしてかかっていたからである。わたしは正しい行動をとることだけを――ただそれだけを、真剣に、強烈に、熱意をこめて念じた。「お示しください――わたしの進むべき道をお示しください!」と神に嘆願した。わたしはこれまでになかったほどに興奮しきっていた。このあとに起こった事件が、その興奮の産物であるか否かは、読者の判断におまかせするほかはない。
家のなかは、しんとしていた。セント・ジョンとわたし以外の者が、みんな寝静まっていたためにちがいない。一本のろうそくが燃えつきようとし、部屋には月光がみちあふれていた。わたしの胸は早鐘を打つようで、その鼓動が耳に聞こえていた。突然、わたしの心臓は、それをさっと走りぬけ、いっきょに頭と手足にまで達した、名状しがたい感動をおぼえて、ぴたっととまった。その感動は、電撃とはちがっていたが、電撃にまさるともおとらないほどに強烈で、不可思議で、ショッキングであった。それは、わたしの五感に働きかけた。これまでのわたしの感覚の活動といえば、昏睡するのが精いっぱいであったのに、いまやっと、その状態から呼び起こされ、目をさますことを余儀なくされているという感じであった。わたしの五感はなにかを期待して、起きあがった。目と耳は待ちもうけ、わたしの全身の肉はうちふるえていた。
「なにが聞こえたのです? なにが見えたのです?」とセント・ジョンがきいた。
わたしにはなにも見えなかった。ただ、どこかで叫ぶ声が聞こえただけであった――
「ジェイン! ジェイン! ジェイン!」
ただ、それだけであった。
「ああ、神さま! あれはなんでございますか?」とわたしはあえぎながらいった。
わたしは、「あれはどこでございますか?」というべきであった。部屋のなかでも――家のなかでも――庭のなかでもないように思われたからである。それが聞こえてくるのは、まわりの空気からでも――足もとの地面からでも――頭の上あたりからでもなかった。たしかに、わたしの耳には聞こえた――それがどこで、どこから聞こえたかについては、永遠に解き得ない謎である! それはまた、人間の声であった――わたしの知っている、わたしの愛している、わたしにはなじみのふかい声――エドワード・フェアファックス・ロチェスターの声であった。その声は、苦痛と悲哀にあふれていた――はげしく、不気味な、せっぱつまった口調で話しかけていた。
「まいりますわ!」とわたしは叫んだ。「お待ちになって! おお、わたし、まいりますわ!」
わたしは飛ぶようにしてドアへむかい、廊下を見すかした。そこには暗闇があった。わたしは、庭に走り出た。そこには空虚があった。
「どこですの?」とわたしは大声をあげた。
マーシュ・グレンのむこうの山々が、かすかなこだまを返してよこした――「どこですの!」わたしは耳をすました。風が低いため息のような音をたてて、モミの木立を吹きぬけた。あるのはただ荒れ野の孤独と、真夜中の沈黙だけであった。
「迷信よ、行っておしまい!」門の近くの黒いイチイの木のそばに、その迷信の幻影が黒々と立ちあらわれたのを見たとき、わたしは自分の考えを口にした。「これは、おまえのまやかしでもなければ、おまえの幻術でもない。これはまさしく自然のなせる業《わざ》なのだ。自然が目をさまして、奇蹟ならぬ最善の仕事をなしとげられたのだ」
わたしは、わたしを追いかけてきて、引きとめようとしたセント・ジョンの手をふりはらった。今度は、|わたし《ヽヽヽ》が主導権を握る番であった。|わたしの《ヽヽヽヽ》力が大挙して活動を開始していた。わたしはセント・ジョンにむかって、質問や意見はさしひかえてほしい、といった。自分一人にならなければならないし、またそうするつもりだから、むこうへ行ってくれないか、とも頼んだ。セント・ジョンは、すぐいうとおりにしてくれた。命令の言葉に十分な気迫がこもっている場合、それは相手を服従させずにはおかない。わたしは階段をあがって自室にもどり、鍵をかけると、ひざまずいて、わたしなりのやりかたで祈りをささげた――セント・ジョンのやりかたとはちがっていたが、それなりに効果のある祈りであった。わたしは、万物の主の間近にまでせまり得たような気持ちになった。わたしの魂は、感謝のあまり、その足もとにがばとひれ伏した。わたしは感謝の祈りをやめて立ちあがった――心はきまっていた――なに一つ恐れることのない、晴れやかな気持ちを抱いて――ただ夜明けだけを待ちわびながら、わたしは横になった。
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三十六章
夜が明けそめた。わたしは朝の光とともに起きだした。そして、一、二時間かけて部屋のなかと、引き出しや洋服だんすのなかを片づけて整理したが、しばらく留守をするあいだ、見苦しいままにしておくのがいやであったからである。その途中、セント・ジョンが自室を出る音が聞こえた。足音がわたしの部屋のまえでとまったとき、ドアがノックされるのではないか、と心配した――だが、ノックはされず、一枚の紙片がドアの下からさしこまれた。わたしはそれを手に取った。そこには、つぎのような言葉が書いてあった――
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「昨夜、あなたはあまりにも突然、行ってしまわれました。もうすこしいてくださったら、あなたの手をキリスト教徒の十字架と天使の冠に置くことができたでしょう。二週間後のきょう、わたしが帰宅したとき、あなたの明確な決意が聞かれるものと期待しています。そのあいだ、誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱していると信じますが、肉体が弱いように思われますから(新約聖書、マタイによる福音書、第二十六章第四十一節ほか)。わたしはいつもあなたのために祈っています。では――セント・ジョン」
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わたしは心のなかで答えた。「わたしの心は熱して、正しいことをしようと意気ごんでいますし、わたしの肉体も、神のみ心がはっきりさし示されるならば、そのみ心をりっぱにはたすだけの強さをそなえていると思いますわ。とにもかくにも、わたしの肉体は、この疑惑の雲からぬけ出る道を捜し――たずね――さぐり出す力を、はればれとした確信の陽光を見つけ出す力をもたねばなりませんの」
六月一日だというのに、空一面が雲におおわれた、底冷えのする朝だった。窓には雨がはげしく打ちつけていた。玄関のドアが開き、セント・ジョンが出て行く音が聞こえた。窓からのぞくと、庭を横切っている後姿が見えた。霧につつまれた荒れ野を通って、ウィットクロスにむかうのである――そこで、乗合馬車を待つことになっていた。
「二、三時間したら、わたしもあなたにつづいて同じ道をまいりますわ」とわたしは思った。「わたしも、ウィットクロスで乗合馬車を待ちますの。わたしにもまた、永久にイギリスを去るまえに会いたい人が、安否をたずねたい人がいるのです」
朝食までには、まだ二時間あった。その時間をつぶすため、わたしは部屋のなかをそっと歩きまわりながら、わたしの計画に現在のような方向をあたえることになった奇怪な一件のことを考えた。わたしは、わたしの経験したあの心の感動を思い出した。わたしには、その感動を、それにまつわるいわくいいがたい奇怪さとともに思い出すことができた。わたしは、わたしが耳にした声を思い出した。いま一度、それがどこから聞こえてきたかを問うてみたが、まえと同様に答えは得られなかった。外界からではなく――わたし自身の内部から出てきた声のようであった。あれは、単に神経の受けた印象――心のまよいにすぎなかったのだろうか? そうは考えられなかったし、そうは信じることもできなかった。それよりもインスピレーションに似ていたからである。わたしを襲った不可思議な感情的ショックは、パウロとシラスの獄舎の土台をゆり動かした大地震のようであった(新約聖書、使徒行伝、第十六章第二十六節)。それは、魂という獄舎の戸を開けはなち、その鎖を解きはなってしまった――眠りをさまされた魂は、ぱっと起き出して、ふるえおののきながら、耳をすましていた。そのとき、わたしの驚きあわてた耳の上に、わたしのうちふるえる心のなかに、わたしの精神を通りぬけて、叫び声が三回、響きわたった。だが、わたしの精神は、恐怖の色も動揺の色も見せなかった。わずらわしい肉体とは無関係に、とくに許されて努力した行為の成功を喜ぶかのように、歓喜の色を示していたのである。
「いく日もたたないうちに」と瞑想をやめたわたしはいった。「昨夜わたしに呼びかけたように思われる声の主のことを、なにか知ることができる。手紙はなんの役にも立たなかった――今度は、手紙のかわりに、わたしがじかに行って調べるのだわ」
朝食の席で、わたしはダイアナとメアリーに、旅行に出ることになったので、最低四日間は留守にすることを告げた。
「一人旅なの、ジェイン?」と二人はきいた。
「ええ。このところしばらく、ある知り合いのことが気にかかっているので、その人に会うか、安否をたしかめるかしてきたいの」
二人は「あなたにはわたしたち以外に知り合いはいないはずではないの」といってもよかった。事実、わたしはなん回かそういってきたのだから、二人としてもそう思っていたにちがいない。しかし、純粋な思いやりを生まれつきそなえていたので、二人はとやかくいったりはしなかった。ただ、ダイアナが本当に旅行しても大丈夫なのか、ときいただけであった。そして、わたしの顔色がひどく悪い、といった。わたしは精神的な不安があるだけで、どこも悪いところはないし、その不安もすぐに解消すると思う、と答えた。
その後の準備をすすめるのは簡単であった。質問やら憶測やらで悩まされることがなかったからである。いまは計画を打ち明ける段階ではない、というわたしの言葉を聞くと、親切で分別のある二人は、わたしが黙って計画を実行することを許してくれた上、わたしに自由に行動する権利をあたえてくれたのだが、同じ状況のもとにあったら、わたしも二人にその権利をみとめたであろう。
わたしは午後三時にムア・ハウスを発ち、四時をすこしまわったころ、ウィットクロスの道しるべの下に立って、わたしを遠いソーンフィールドまではこんでくれる乗合馬車の到着を待っていた。そのわびしげな道と荒涼たる山の沈黙をやぶって、遠くからやってくる馬車の音が聞こえてきた。それは、一年まえの夏の日暮れがた、わたしがまさにこの場所におり立ったときの馬車であった――夢も希望も目的もない、あのわたしが! 手をあげると、馬車はとまった。わたしは乗りこんだ――今回は、料金をはらうために全財産をはたいたりする必要はない。ソーンフィールドへの道をもう一度たどることになったわたしは、家路をいそぐ伝書鳩にも似た気分を味わっていた。
三十六時間におよぶ旅であった。火曜日の午後にウィットクロスを出発した馬車が、馬に水を飲ませるため、道ばたの旅館のまえにとまったのは、木曜日の早朝のことであった。旅館は、緑色の生け垣やひろびろとした畑や牧草のはえた低い丘陵のある風景のまん中にあったが(イギリス北中部にあるモートンのきびしい荒れ野とくらべて、その姿のなんとおだやかで、その色彩のなんと青々としていたことか!)、その風景は、かつてなれしたしんだ人の容貌のように、わたしの目にはうつった。そう、この風景の特徴には見おぼえがあった。わたしは、目的地の近くにきていることを確信した。
「ここからソーンフィールド・ホールまではなんマイルありますの?」とわたしは旅館の馬丁にきいた。
「野原をこえて行くと、ちょうど二マイルですな」
「わたしの旅はおわったのだわ」とわたしは考えた。
わたしは馬車をおりると、トランクを馬丁にあずけて、わたしが取りにくるまで保管してくれるように頼み、料金とチップを御者にはらってから、歩き出そうとした。明るい太陽に旅館の看板がきらめいていたが、金文字で「ロチェスター・アームズ」と読めた。わたしの心はおどった。わたしはとっくの昔に主人の土地へ足を踏みいれているのだ。だが、その心もまた重くなった。こんな思いに打たれたからである――
「おまえの主人は、ひょっとしたらイギリス海峡のむこうへ行っているかもしれない。それに、おまえが急いでいるソーンフィールド・ホールにいるとしても、そのそばにはだれがいるのか? 気の狂った妻だ。おまえは主人とはなんの関係もない。おまえは主人に話しかけたり、その所在を捜したりするようなまねをしてはならない。これまでの努力は水のあわになったのだ――これ以上先へ行かないほうがいい」とわたしの心の声が執拗に忠告していた。「旅館の人にようすをきいてみることだ。おまえの知りたいことはぜんぶ教えてくれるし、おまえの疑念をいっぺんに解いてくれる。あの男のところへ行って、ロチェスターさまがお屋敷にいるかどうかきいてみるがいい」
これは、まことに当を得た提案であったが、わたしには、どうしてもそのとおりにすることができなかった。わたしは、返事を聞いて、絶望に打ちのめされるのがこわくてたまらなかった。疑惑を長びかせることは、希望を長びかせることになる。希望の星の光のもとで、もう一度あのソーンフィールド・ホールを見ることができるかもしれない。わたしのまえに|踏み段《スタイル》があった――そこにあるのは、ソーンフィールドを逃げ出した朝、あとを追いかけてきた復讐の女神に懲らしめられたわたしが、目も見えず、耳も聞こえず、気ちがいのようになって駆けぬけた野原にほかならなかった。わたしは、どの道を通って行くことにきめたのかも十分にわからないうちに、もう野原のまん中に出ていた。なんと早く歩いたことか! ときには走っていることさえも! あのなじみぶかい森を早く一目でも見たいと、どんなに待ちのぞんだことか! 見おぼえのある一本一本の樹木や、そのあいだに垣間見えるなつかしい牧草地や丘陵を、どんなにうれしい気持ちで眺めやったことか!
やっと森が目のまえにそびえてきた。黒くむらがっているミヤマガラス。朝の静寂を破るやかましい鳴き声。奇妙な喜びに駆り立てられて、わたしは先をいそいだ。もう一つ野原をこえ――小道を縫うように通りぬけて行くと、裏庭の塀が――裏手にある台所や食品貯蔵室などが見えてきた。屋敷そのものは、まだミヤマガラスの森にかくされている。
「まず第一に、屋敷の正面を眺めねばならない」とわたしは決心した。「そこなら、くっきりと浮かびあがった胸壁の高貴な姿が、いきなり目にとびこんでくる。ご主人さまの部屋の窓さえも見わけることができる。もしかしたら、窓べに立っておられるかもしれない――早起きのかただから。ひょっとしたら、いまごろは果樹園のなかか、正面の敷石道を歩いておられるかもしれない。お姿を見ることさえできれば! ――ほんの一瞬でもいい! その場合、狂喜しておそばへ駆けよるようなまねをしないと断言できるだろうか? わたしにはわからない――わたしにはたしかなことがいえない。それに、かりにそうするとして――それがどうだというのか? あのかたに神さまの祝福がありますように! それがどうだというのか? あのかたのまなざしがわたしにあたえてくれる人生を、わたしがもう一度だけ味わったからといって、だれが傷つくというのか? ――わたしはうわごとをいっているのだわ。もしかしたら、いまのこの瞬間、あのかたはピレネー山脈か、南の国の潮汐《ちょうせき》のない海にのぼる太陽を見つめているかもしれないというのに」
わたしは、果樹園の低い塀づたいに歩いて行って、角をまがった。とそこに、石の球ののった二本の石柱が両側に立った門があり、牧草地へ通じていた。柱の一つに身をひそめれば、そのかげから屋敷の前景全体をこっそりとのぞき見ることができる。わたしは、寝室の窓のよろい戸があがっているかどうかをたしかめたい一心から、用心ぶかく顔をつき出した。胸壁、窓、長く横にのびる建物の前面――このかくれ場所は、すべてを一望におさめることができる位置にあった。
こうやってなかをのぞきこんでいるわたしの姿を、頭の上を飛んでいるカラスはじっと見守っていたかもしれない。一体、そのカラスたちはわたしのことをどう思ったのだろうか? はじめはすごく慎重で、臆病であったわたしが、やがてすごく大胆で、むこうみずになっていった、と思ったにちがいない。最初ののぞき見が、やがて長い凝視に変わる。さらに、かくれ場所から姿をあらわして、牧草地のほうへさまよい出て行く。突然、豪壮な屋敷の真正面に立ちすくんだきり、大胆な視線を長いあいだ建物にそそいでいる。「はじめの内気なようすは、なんのまねだったのかな?」とカラスたちはきいたかもしれない。「いまのまぬけた無警戒ぶりはどういうんだろう?」と。
読者よ、たとえ話を一つ、お聞きねがいたい。
一人の男が苔むした土手で眠っている恋人を見つけ、目をさまさないようにして、その美しい顔を一べつしたいと望む。男は音をたてないように用心しながら、しのび足で草の上を歩いているうちに、ふと足をとめる――恋人が身動きしたように思ったからである。男は、どんなことがあっても見つかりたくないので、あとずさりする。あたりは静まりかえっている。男はまた進み出て、恋人の上にからだをかがみこませる。その顔には、うすいヴェールがかかっている。男はそれを取り、さらに低くかがむ。このとき、男の目は、美しい姿を――休息している暖かく、花の開いたような、かわいらしい美人の姿を期待している。その最初の一べつの、なんとすばやかったことか! だが、まばたき一つしない目! なんという男の驚愕! さっきまで、指一本ふれようとしなかった姿体を、なんと突然、あらあらしく両腕に抱きしめることか! 名前を大声で呼び、恋人のからだを手からはなして、狂ったように見いっている男! 男がこのように抱きしめ、叫び、見つめているのは、自分がどんな声を発しようとも――どんな動きを見せようとも、その声や動きで恋人の目をさます心配がもはやなくなってしまったからである。美しい寝顔で眠っていると思っていた恋人が、石のように死にたえていることに男は気づいたのである。
わたしは、おどおどした喜びをこめて、広大な屋敷に目をやった。その目にうつったのは、黒々とした廃墟であったのだ。
たしかに、門柱のかげに身をひそめたりする必要はなかった! 部屋のこうし窓のほうをのぞき見て、そのうしろに人の気配がありはしないか、などと心配する必要はなかった! ドアの開く音が聞こえはしないかと耳をすましたり、敷石道やじゃり道に足音がしはしないかと考えたりする必要はなかった! 踏みあらされて見る影もなくなった芝生や庭。ぽっかりと大きな口を開けている表玄関。建物の正面は、かつてわたしが夢のなかで見たように、非常に高く、しかもいまにもくずれてしまいそうな感じの、貝がらを思わせる壁にすぎず、ガラスのない窓が一面に穴をあけた格好になっている。屋根も胸壁も煙突もない――どれもこれもごっそりと落ちこんでしまっている。
そして、あたりには死のような静寂と、わびしい荒野の孤独が支配していた。ここの住人にあてた手紙に、一通の返事がこなかったとしても不思議はない。教会の側廊にある納骨堂に手紙を書き送るのと変わりなかったのだ。不気味に黒ずんだ石が、ソーンフィールド・ホールがいかなる運命によって崩壊したかを物語っていた――それは火災であった。だが、出火の原因は? この惨事にまつわる因縁話は? しっくいと大理石と材木のほかに、この火災で生じた損失は? 家財の損害だけでなく、人命の損害もあったのか? とすれば、それはだれであったか? 身の毛のよだつ質問だが、それに答える者は、ここにはだれ一人としていない――ものいわぬ痕跡やおし黙った証拠さえも見あたらない。
崩れ落ちた壁のまわりや、荒廃した内部を歩きまわっているうちに、この惨禍が近ごろに起こったものでないことを示す証拠が集まった。冬の雪があの空虚なアーチ型の入り口から吹きよせられ、冬の雨があのうつろな窓に打ちつけたように思われる。ずぶぬれになったがらくたの山のなかから、春の植物が芽をふいていたし、石と倒れたたる木のあいだのあちこちに、いろいろの草花がもえ出していたからである。そして、ああ、いままでずっと、この廃墟のあわれな主人は、どこにいたのか? どこの土地に? だれの世話を受けて? わたしの目は、思わず知らずのうちに、門の近くにある灰色の教会の尖塔にむけられた。「あのかたは、ご先祖のデイマー・ド・ロチェスターといっしょに、せま苦しい大理石のついの住みかに同居なさっているのだろうか?」とわたしは問いかけた。
こうした質問に対して、なんらかの答えがあたえられねばならない。わたしがそれを見つけることができるのは、旅館をおいてほかになかった。ほどなくして、わたしはそこへ引きかえした。旅館の主人が自分でわたしの朝食を部屋へはこんできた。わたしはたずねたいことがあるので、ドアを閉めて、腰をおろしてくれるように頼んだ。だが、主人がその依頼に応じてくれたものの、わたしはどう切りだしていいのかわからなかった。ひょっとして聞かされるかもしれない答えが、こわくてたまらなかったからである。とはいえ、廃墟の風景をあとにしてきたばかりであるだけに、わたしにもいささかながら悲惨な物語に対する心構えができていた。主人は人品のいい中年男であった。
「ソーンフィールド・ホールは、もちろんご存じですわね?」とわたしはやっと口を開いた。
「はい、お客さん。昔、あそこに住みこんでおりましたから」
「そうなの?」わたしのいた頃ではないわ、見おぼえのない顔だもの、とわたしは思った。
「わたしは、故人になられたロチェスターさまの執事をしておりました」
故人になられた! わたしはこれまでずっと避けようとしてきた打撃を、力いっぱい受けたような思いがした。
「故人になられたですって!」とわたしはあえぎながらいった。「亡くなられたの?」
「わたしの申しておりますのは、ご当主のエドワードさまのお父上のことです」と主人は説明した。
わたしはやっと息がつけるようになった。わたしの血はまた体内を流れはじめた。エドワードさまが――|わたしの《ヽヽヽヽ》ロチェスターさまが(どこにおられようと、あのかたに神さまの祝福がありますように!)すくなくとも生きておられる――つまり、「当主」(なんと喜ばしい言葉だろう!)をしておられる、という言葉にすっかり安心したわたしは、これからの話はどんなことでも――なにが飛び出すかもしれない話でも、比較的冷静に受けとめられそうな気になった。墓石の下にいるのでさえなければ、ロチェスターさまが地球の裏側にいると聞かされても耐えられるように思われた。
「ロチェスターさまは、いまもソーンフィールド・ホールにお住まいですか?」とわたしはきいた。答えはもちろんわかっていたのだが、現在の住所を直接ききただすのは、あとまわしにしたいような気持ちであったのだ。
「いいえ、お客さん! ――めっそうもないことで! あそこには、だれも住んでおりません。お客さんは、この土地ははじめてのかたのようですね。土地のかたでしたら、去年の秋の出来事を耳になさっているでしょうから。ソーンフィールド・ホールは、まったくの廃墟になっておりますよ。秋の取りいれのころに、焼け落ちてしまいましてね――恐ろしい災難でございました! あんなにいっぱいあった貴重な家財が灰になってしまいまして、家具類は一つもはこび出せないほどでした。火事が起こったのは真夜中で、ミルコートから消防が駆けつけたときには、建物は一面の火の海でしたよ。それは恐ろしい光景でした。わたしはこの目で見ましたがね」
「真夜中ですって!」とわたしはつぶやいた。そうだ、ソーンフィールド・ホールでは、いつでも真夜中が魔の時刻なのだ。「出火の原因はわかっていますの?」とわたしはきいた。
「世間ではなにかと取り沙汰しておりましたよ、お客さん。なにかとね。実をいうと、その件ははっきりしていて、疑いの余地はないと思いますね、わたしは。お客さんはたぶんご存じないでしょうな」主人は椅子をテーブルのほうにすこし引きよせると、声を落として、話しつづけた。「あの屋敷に、女の人が一人――その――女の気ちがいが一人、かくまわれていたことは?」
「その話なら、すこし耳にしたことがありますわ」
「その気ちがい女は、厳重に監禁されていたのですよ、お客さん。そんな女がいるなんてことは、なん年ものあいだ、だれにもはっきりとは気づかれなかったのですからね。姿を見かけた者もありませんでした。そんな女がソーンフィールド・ホールにいることを、噂で聞いて知っているだけだったのです。それが一体だれで、なに者であるかということは、推測もむつかしかったのです。エドワードさまが外国からつれてきた女だというのが、世間でのもっぱらの評判で、エドワードさまの情婦にちがいない、という者もおりました。ところが、一年まえに、奇妙なことが――まことに奇妙なことが起こったのでございます」
わたしはそのとき、自分の話を聞かされるのではないか、とびくびくしていた。そこで、主人を本筋に引きもどそうとした。
「それで、その女の人は?」
「その女はですよ、お客さん」と主人は答えた。「なんとロチェスターさまの奥さまであることがわかったのです! そのことは、まことに不思議なしだいで明るみに出ましてね。ソーンフィールド・ホールには、家庭教師の若い娘がいましたが、ロチェスターさまがその娘にぞっこん――」
「それよりも火事のお話は?」とわたしは言葉をさしはさんだ。
「その話はおいおいいたします――エドワードさまがその娘にぞっこんほれこんでしまわれましてね。召使たちの話では、だんなさまほどに首ったけになった人を見たことがないそうで、その娘のあとをいつも追いかけていたそうです。召使たちはエドワードさまをよく観察していたのですが――お客さんもご存じのように、召使というのは、そういうものでして――だんなさまは、その娘でなければ夜も日も明けなかったのでございますよ。だんなさま以外には、その娘を大した美人に思う者はだれもいなかったのですけれどね。その娘は、とても小柄な人で、子どもみたいだったと申します。わたし自身は会ったことはありませんが、女中のリアがその娘の話をしているのを聞いたことがありましてね。リアは結構その娘が気にいっていました。ロチェスターさまは四十歳くらいで、この家庭教師は二十たらず。あのかたの年輩の男が若い娘に恋しますと、魔法にでもかかったようになるものでしてね。なんと、その娘と結婚なさろうとされたのです」
「そのへんのところは、またいつかお聞かせ願うとしますわ。いまは、ある特別の事情があって、火事の話をぜんぶうかがわせていただきたいのです。その気ちがいの奥さまが火事に関係しているかもしれないと考えられたのですか?」
「お客さんのおっしゃるとおりですよ。火をつけたのが、あの気ちがい女以外のなに者でもないことは、もうはっきりしております。この女の面倒は、プールさんという女が見ておりました――そういった仕事にかけてはベテランで、信用の置ける人でしたが、一つだけ欠点がありましてね――乳母とか寮母とかいった連中によく見られる欠点なんですが――|自分用のジンを一本《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|手近かに置いてあって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ときたま、ちょっとやりすごすのですな。楽とはいえない生活ですから、無理もないことですが、それでも危険なことに変わりはありません。プールさんが水割りのジンをひっかけて眠りこけているすきに、魔女みたいにずるがしこい気ちがい女は、プールさんのポケットから鍵束を取り出すと、部屋から抜け出して、屋敷のなかをあちこち歩きまわり、頭に浮かんだとてつもない悪事を片っぱしからやってのけたのです。あるときなどは、夫のロチェスターさまをもうすこしで焼き殺すところだったという話ですが、真偽のほどは存じません。しかし、この火事の晩、その気ちがい女は、となりの部屋のカーテンに火をつけ、それから二階におりてきて、その家庭教師が使っていた寝室へ行って――(どういうわけか、事のしだいが呑みこめて、家庭教師をうらんでいたようです)――そこにあったベッドに火をつけました。幸い、そこにはだれも寝ている者はありませんでした。その二ヵ月まえに、家庭教師は姿を消していたのです。ロチェスターさまは、かけがえのない唯一無二のものでもあるかのように、その家庭教師を捜されたのですが、杳としてその消息は知れなかったのです。失望のあまり、ロチェスターさまは短気に――手がつけられないほど短気になられましてね。もともと、けっしておだやかなかたというのではなかったのですが、娘がいなくなってからは、狂暴になってしまわれたのです。それに、一人きりになろうとなさいましてね。家政婦のフェアファックスさんを、遠くはなれた夫人の知り合いのところへやってしまわれたのですよ。でも、豪勢なやりかたをなさいましたよ。夫人に終生年金をおくるようにきめられたのですから。また、夫人もそれだけの値打ちがあるかたでしたよ――なかなかよくできた人でしてね。ロチェスターさまが後見していたアデールというお嬢さんは、学校へいれられました。だんなさまは上流階級のかたとの交際をぷっつりやめられて、世捨て人みたいに、ソーンフィールド・ホールに閉じこもってしまわれたのです」
「まあ! イギリスを出られたのではないですか?」
「イギリスを出る? とんでもないですよ、お客さん。ロチェスターさまは、屋敷の敷居をまたごうともなさらず、夜になってから、庭や果樹園のあたりを幽霊そっくりの姿で歩きまわられるのですが、まるで正気を失った人間みたいでした――いや、ずばり正気を失っていたのじゃないか、というのがわたしの意見なんですよ。なにしろ、あのちびっこの家庭教師に行き会うまえのだんなさまほどに、快活で、大胆で、シャープなかたはいらっしゃらなかったですからね、お客さん。あのかたは、世間にときどきいる人間とちがって、酒やトランプや競馬にうつつをぬかすというようなかたではありませんでした。それに、とびぬけて美男子というのではありませんが、だれにも負けない勇気と意志の持ち主でしたよ。わたしはだんなさまを子どものころから存じあげていますがね。わたしとしては、エアさんという家庭教師がソーンフィールド・ホールにくるまえに、海にはまっていてくれたらよかったのに、とときどき考えるのですよ」
「じゃ、ロチェスターさまは火事のとき、屋敷にいらっしゃったのですね?」
「ええ、ええ、おられましたとも。ロチェスターさまは、階上《うえ》も階下《した》も一面の火の海になっているなかを、屋根裏部屋まであがって、召使いたちをベッドから叩き起こし、階下へおりるのに力をかしてやったのです――それから、気の狂った奥さまを座敷牢から助け出すために、もどって行かれました。そのとき、みんなは大声をあげて、気ちがい女が屋上にいることをだんなさまに知らせました。女は胸壁の上につっ立って、両腕をふりまわし、一マイル先まで聞こえるくらいの大声をあげていました。わたしは、この目でその女を見ましたし、その女の声を耳にしました。大柄な女で、長い黒い髪をしていましてね。立ちはだかった女の髪が炎にあおられて、なびいているのが見えました。わたしも目撃しましたし、ほかにも数名目撃した者がいるのですが、ロチェスターさまは天窓から屋上へあがって行きました。わたしたちの耳に、『バーサ!』と呼びかけるだんなさまの声が聞こえました。だんなさまが女に近づくのが見えました。そのときです、お客さん、女は一声大きくわめいてから、ぱっと飛びおりました。つぎの瞬間、女のからだは敷石の上でぺちゃんこになっていたのです」
「死んだのね?」
「死んだ? ええ、女の脳みそや血がとび散っている敷石と同じように、死にたえた姿になっていましたよ」
「まあ、ひどい!」
「お客さんがそうおっしゃるのも無理はありませんよ。ぞっとする光景でしたね!」
主人は身をふるわせた。
「そのあとは?」とわたしは相手をうながした。
「はあ、お客さん、そのあと、屋敷が焼け落ちました。いまでは、壁がほんのすこし残っているだけです」
「ほかに亡くなられたかたは?」
「いらっしゃいません――いらっしゃったほうが、よかったかもしれないのですがね」
「どういう意味ですの?」
「お気の毒なエドワードさま!」と主人は急に叫び声をあげた。「こんなことになろうとは、夢にも思っていませんでしたよ! 最初の結婚を秘密にしていた上、奥さまが生きていらっしゃるのに、別の女と結婚しようとした罰だ、という人もいますがね。しかし、わたしとしましては、だんなさまがお気の毒に思いますなあ」
「生きているとおっしゃったのでは?」とわたしは叫んだ。
「ええ、ええ、生きておられますよ。でも、死んだほうがよかったじゃないか、というのが大方の意見なんです」
「なぜですの? どうしてですの?」
わたしの血は、またしても凍りかけた。
「どこにいらっしゃいますの?」とわたしはたたみかけてきいた。「イギリスにいらっしゃいますの?」
「はい――はい――イギリスにおられます。イギリスをはなれることはできまいと思いますよ――いまは動くことのできない身なのですから」
この苦悶は、一体、なんだろうか? しかも、主人はその苦悶を長びかせようと決心しているらしい。
「まったくのめくらになってしまわれたのです」と主人はようやく口を開いた。「ええ――まったくのめくらなのです――あのエドワードさまが」
わたしは、もっと恐ろしいことを予測していた。ロチェスターさまが発狂したのではあるまいか、と思っていたのだ。わたしは勇を鼓して、そんなひどいことになった原因をきいてみた。
「なにもかもだんなさまの勇気のせいですね。人によっては、親切のせいだという見方をするでしょうね、お客さん。ほかの者がみんな避難してしまうまで、だんなさまは屋敷をはなれようとなさらなかったのです。奥さまが胸壁から身を投げたあと、だんなさまはやっと中央の階段をおりてこられたのですが、そのとき、すごく大きな音がしましてね――なにもかも、くだけ落ちてしまったのです。だんなさまは、崩れ落ちた建物の下から救い出され、生命に別条はなかったのですが、目もあてられないほどの大怪我でした。一本の梁材が、だんなさまのからだの一部をかばうような形で落下したのですが、片方の目はとび出し、片手は完全に押しつぶされていたので、外科医のカーター先生がすぐに切断しなければなりませんでした。もう一方の目は焼けただれていて、この目の視力もなくなってしまいました。いまのだんなさまは処置なしの状態ですよ――目が見えない上に、片輪になったのですから」
「どこにいらっしゃいますの? いまはどこでお暮しですの?」
「ここから三十マイルはなれたファーンディーンですよ。だんなさまの所有地に別宅がありましてね。たいそうさびれた場所です」
「だれがいっしょですの?」
「ジョンじいさんと、かみさんです。ほかの人間は置こうとなさらないものですからね。だんなさまは弱りきっておられるという話ですよ」
「お宅にはなにか乗り物はありますの?」
「二輪馬車がありますよ、お客さん。すごくりっぱな馬車ですがね」
「すぐに用意させてください。お宅の御者がきょうの日暮れまでに、わたしをファーンディーンまで乗せて行ってくれたら、あなたと御者の両方に、普通の倍の料金をはらいますわよ」
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三十七章
ファーンディーンの別邸は、相当に古めかしく、ほどほどの大きさであったが、建築的にはこれといった取りえのない建物で、森の奥に埋もれていた。この建物のことは、まえに話に聞いたことがある。ロチェスターさまがよく話題にしていたし、ここに出かけられたこともときどきあった。狩猟鳥を飼っておく森のために、お父さまがこの地所を購入されたのであった。ロチェスターさまは屋敷を他人に貸したがっていたが、不便な上に健康に適さない土地にあるため、借り手がつかなかった。そこで、ファーンディーンの屋敷は住む人も家財の備えもないままに放置され、狩猟シーズンにやってくる地主の寝泊りのため、二、三の部屋に家具がはいっているだけであった。
わたしはこの屋敷に、日が暮れる直前にたどり着いたが、くすんだ空、冷たい風、ふりしきる身にしみいるような小雨、と三拍子そろった夕まぐれであった。約束どおり二倍の料金をはらって馬車と御者をかえしたあと、わたしは最後の一マイルをてくてくと歩いて行った。屋敷のすぐ近くまできているのに、その姿がいっこうに見あたらない。それを取りかこむ陰欝な森の樹木が、それほどに暗く密生していたのである。両側に大理石の柱のある鉄製の門で、どこからはいればいいかはわかったが、それを通りぬけた途端、わたしはびっしりと立ち並んだ樹木のうす暗がりのなかにはいりこんでいた。草ぼうぼうの小道が一本、さながら森の教会の側廊といった感じでのびていて、両側の柱をなすのは年をへた、こぶだらけの幹であり、頭上のアーチをなすのはその枝であった。すぐにも建物に行きあたるだろうと思って、わたしはこの道を歩きはじめたが、それはどこまでもはてしなくつづく、つづらおりの道であった。建物や庭は影も形も見えない。
わたしは、道をまちがえて、迷ったのではないか、と思った。森の暗がりと、迫りくる夕闇とがわたしをつつみはじめた。ほかに道はないかと、わたしはあたりを見まわした。だが、道らしいものはなにもない。あるのはただ、からみあった枝と、円柱を思わせる幹と、うっそうと茂った夏の葉だけであった――どこにも開けたところはなかった。
わたしは歩きつづけた。やっと道の前方が開け、木がすこしだけまばらになってきた。やがて柵が、つづいて建物が見えた。――いまのうすぼんやりした光では、立木と見わけがつかないくらいであった。朽ちかけた壁は、それほどにしけって、緑色になっていた。掛けがねがかかっただけの門をはいると、わたしは、半円状にひろがる森の中心に位置する囲い地のなかに立っていた。そこには花も花壇もなく、草地を取りかこむ幅のひろいじゃり道があるだけで、これが森という重苦しい枠組にはめこまれた形になっていた。前面に二つのとがった破風を見せている屋敷。せまいこうし窓。玄関口もせまく、地面から一段高いだけであった。全体が、ロチェスター・アームズの主人がいっていたように、「たいそうさびれた場所」という印象であった。平日の教会のような静けさで、森の木の葉にぱらぱらとふりそそぐ雨の音だけが、この近辺で聞こえる唯一の物音であった。
「こんなところに暮している人がいるかしら?」とわたしは思った。
いや、ここでもやはり、なんとか暮している人がいた。物音が聞こえてきたことで、それがわかった――そのせまい玄関のドアが開きかけて、だれかが家のなかから出てこようとしている。
ドアはゆっくりと開いた。人影がうす暗がりのなかにあらわれ、階段の上に立ちどまった。帽子をかぶっていない男であった。その男は、雨がふっているかどうかをたしかめるふうに、片手をさしのばした。あたりは暗くなっていたが、わたしにはそれがだれだかわかった――それはほかならぬわたしの主人、エドワード・フェアファックス・ロチェスターであった。
わたしは足を、息さえもとめて、じっと見守りながら立ちつくしていた――姿を見られることなしに相手を観察しようとしたのだが、ああ、ロチェスターさまには、わたしの姿は見えないのだ! これはまえぶれぬきの出会いであり、恍惚が苦悩にしっかりと押えつけられている出会いであった。絶叫しようとする声を殺し、いそいで駆けよろうとする足をとどめるのは、むつかしいことではなかった。
ロチェスターさまのからだは、あい変わらず頑丈そのもので、がっしりしていた。背中もまだしゃんと伸びているし、髪の毛もまだまっ黒である。顔つきも変化したり、肉がおちたりしたあとはない。一年間くらいでは、どんな悲しみでも、その強健な体力を消耗させ、男ざかりの旺盛な精力を損傷させることはできなかったのだ。だが、その顔の表情に、わたしは一つの変化をみとめた。絶望と憂愁に閉ざされた表情――虐待されたあとで足かせをはめられたのを悲しみ、それを根にもっているため、あぶなくて近づけない野獣か猛禽を思わせる表情であった。ワシが黄金色のくま取りのある目の光を残忍な人間によって奪われ、鳥かごにいれられたら、このめしいたサムソン(旧約聖書、士師記、第十六章第二十一節。サムソンについては既出)さながらのロチェスターさまのような表情になるのだろう。
そして、読者よ、この失明して、猛り狂っている人物を、わたしが恐れたとお思いだろうか? ――だとすれば、読者にはわたしという人間が十分にわかっていない。すぐにでも、あの岩のような額と、その下できゅっと一文字に結ばれている唇に、思いきって接吻してあげたい、というやさしい願いが、わたしの悲しみとまざりあっていた。だが、いまはそのときではない。まだ声をかけるのはやめておこう。
ロチェスターさまは一段しかない階段をおりると、草地のほうへ、ゆっくりと、手探りするように歩きはじめた。かつての威風ある歩きぶりは、どこへ行ってしまったのだろうか? やがて、どちらへ曲がればいいのかわからなくなったかのように、立ちどまった。顔をあげて、まぶたを開き、うつろな目で、精いっぱいの努力をしながら、空を、そして円形演技場ふうになった森を見やった。ロチェスターさまにとって、いっさいが空虚な暗黒であることは、歴然としていた。右手をのばした(切断されたほうの左腕は、胸のあたりにかくしている)。手にふれたもので、自分のまわりになにがあるかを知ろうとしているらしい。だが、手にふれるものは、まだ空間ばかりであった。森は、ロチェスターさまの立っているところから、数ヤードはなれていたからである。ロチェスターさまは努力することをやめると、腕を組んだまま、無帽の頭に降りしきっている雨のなかで、静かに、一言も口をきかずに立ちつくしていた。このとき、どこからともなく、ジョンが近づいてきた。
「だんなさま、わたしの腕におつかまりになりませんか? ひどいどしゃぶりでございます。なかにおはいりになってはいかがですか?」
「かまわないでくれ」というのが、それに対する答えであった。
ジョンは、わたしの姿には気づかないまま、引きさがった。ロチェスターさまは、今度はそこいらを歩こうとしたが、駄目であった――いっさいが、あまりにもふたしかなのである。やがて、手探りで家のほうへ引きかえすと、なかにはいってドアを閉めた。
そこで、わたしは家に近づいて、ノックした。ジョンのおかみさんがドアを開けてくれた。
「こんにちわ、メアリー」とわたしはいった。
メアリーは、幽霊でも見たみたいに、ぎょっとなった。わたしはメアリーの気を落ちつかせた。「こんなおそい時刻に、こんなさびしいところへくるなんて、ほんとうにあなたなのですか?」というせきこむような問いに答えるかわりに、わたしは相手の手を取った。それから、そのあとについて台所へ行くと、そこにはあかあかと燃える暖炉のそばにジョンが坐っていた。わたしは二人に、わたしがソーンフィールド・ホールを出たあとに起こったことはぜんぶ耳にしたこと、ロチェスターさまにお会いしにきたことなどを手みじかに物語った。それから、わたしが馬車をかえした通行税の徴収所まで行って、そこに置いてきたトランクを取ってきてくれるよう、ジョンに頼んだ。そのあと、帽子《ボンネット》とショールをぬぎながら、今晩、このお屋敷に泊めていただけるかしら、とメアリーにきいてみた。その用意をするのは面倒だけれども、できないことはないという話であったので、わたしは「泊めていただくわ」といった。ちょうどそのとき、居間のベルが鳴った。
「居間へ行ったら、ご主人さまにお会いしたいという人がきている、と伝えてくださいな。わたしの名前をいってはいけませんよ」
「お目にかからないと思いますよ」とメアリーは答えた。「だれにも面会謝絶なんですからねえ」
メアリーがもどってきたとき、わたしはロチェスターさまがなんといわれたかをたずねた。
「名前と用むきをいってほしいんですって」とメアリーはいった。そして、コップに水をいれ、それをろうそくといっしょに盆の上にのせた。
「ベルを鳴らしたのは、そのためですの?」
「ええ。お目が不自由なのに、暗くなると、いつもろうそくをもってこいと、おっしゃるのですよ」
「そのお盆をわたしにかして。わたしがもって行きますわ」
わたしは盆をメアリーの手から受け取った。メアリーは、居間のドアを指さした。わたしの手の盆はゆれ、コップの水がこぼれた。わたしの心臓は肋骨にあたって、早鐘を打っていた。メアリーは居間のドアを開けてくれた上、わたしがはいったあとを閉めてくれた。
その居間は陰気な感じだった。一握りの火がほったらかしにされたまま、暖炉のなかでほそぼそと燃えていた。そして、その暖炉の火にからだをかがみこませ、頭を高い旧式のマントルピースにもたせかけている、この部屋のめしいた主の姿が目にはいった。老犬のパイロットは、じゃまにならないようにわきにはなれて横になり、うっかりして踏まれるのを警戒してか、からだをまるくしていた。わたしがはいって行くと、パイロットは耳をぴんと立て、つぎの瞬間、ワンと一声ほえるとくんくん鼻を鳴らしながらはね起きて、わたしのほうへ飛びかかってきた。そのため、手にもった盆がもうすこしで落ちそうになった。わたしは、それをテーブルに置くと、パイロットの頭をなでてやりながら、小声で「寝てなさい!」といった。ロチェスターさまは、なにを騒いでいるのだろうか、とふりかえって|見ようとした《ヽヽヽヽヽヽ》が、なにも|見えなかった《ヽヽヽヽヽヽ》ので、もとのほうにむきなおると、ため息をついた。
「メアリー、水をおくれ」
わたしは、いまでは半分しか水のはいっていないコップを手に、ロチェスターさまに近づいた。まだ興奮のおさまらないパイロットは、わたしについてきた。
「なにごとだね?」とロチェスターさまはきいた。
「お坐り、パイロット!」とわたしはもう一度いった。
ロチェスターさまは、水を唇へもって行きかけた手をとめて、耳をすましているようであったが、飲みおえてから、コップを下に置いた。
「そこにいるのは、メアリーだね?」
「メアリーは台所におりますわ」とわたしは答えた。
ロチェスターさまは、さっと片手をさし出したが、わたしがどこに立っているかがわからないため、わたしにさわることはできなかった。
「だれだ? そこにいるのは、だれだ?」とロチェスターさまはきいたが、その見えない目で|見よう《ヽヽヽ》としているかのようであった――なんとまた、むなしく、切ない努力であったことか!「答えてくれ――もう一度、口をきいてくれ!」とロチェスターさまは有無をいわせない、大きな声で命令した。
「もうすこしお水を召しあがりますか? コップの水を半分ばかりこぼしてしまいましたから」
「|だれだ《ヽヽヽ》? |なに者だ《ヽヽヽヽ》? だれがしゃべっている?」
「パイロットはわたしを知っていますわ。ジョンもメアリーも、わたしがここにいることを知っていますわ。今夜、きたばかりですのよ」とわたしは答えた。
「なんてこった! ――なんという妄想に襲われたのだ? なんという甘い狂気につかまったのだ?」
「妄想ではありません――狂気ではありません。あなたの強い精神が妄想に襲われることはありませんわ――あなたの健康な肉体が狂気につかまることはありませんわ」
「そういう言葉の主はどこにいる? 声だけなのか? ああ、見ることは|できない《ヽヽヽヽ》としても、感じるだけは感じなければならない。さもないと、この心臓はとまり、この頭脳ははりさけてしまう。そこにいるのがなに者であれ――だれであれ、この手にふれて、たしかめないことには、ぼくは生きていることができない!」
ロチェスターさまはあたりを手さぐった。わたしは、そのあてどなく動く手を取ると、わたしの両手でつつみこんだ。
「まさしくあの人の指だ!」とロチェスターさまは叫んだ。「あの小さな、すんなりした指! それにまちがいなければ、あの人のほかの部分があるにちがいない」
たくましい手が、にぎりしめているわたしの手をふりはなした。わたしの腕はつかまれ、わたしの肩が――首が――腰が――いや、わたしの全身はその手にからみつかれ、ぐいと抱きよせられた。
「ジェインかい? |なに者《ヽヽヽ》だね? これはジェインのからだつきだ――これはジェインの背格好だ――」
「そして、この声もジェインの声ですわ」とわたしはあとをつづけた。「ジェインのすべてがここにありますわ。その心だって。あなたに神さまの祝福がありますように! また、こうしておそば近くへくることができて、うれしいですわ」
「ジェイン・エア! ――ジェイン・エア!」としか、ロチェスターさまはいわなかった。
「ご主人さま」とわたしは答えた。「ジェイン・エアでございます。あなたを見つけ出しました――あなたのもとへもどってまいりました」
「ほんとうかい? ――正真正銘のジェインかい? 生きているぼくのジェインかい?」
「わたしにさわっていらっしゃいますわ――わたしを抱いていらっしゃいますわ、まがいようのないほどにしっかりと。わたしは死体のように冷たくも、空気のように頼りなくもございませんでしょう?」
「生きている、ぼくのかわいいジェイン! たしかに、これはジェインの手足だし、これはジェインの顔だ。しかし、あんなにみじめな思いをしてきたぼくが、こんな幸福にひたれるはずがない。これは夢なのだ。夜、なん回となくみてきた夢のなかで、ぼくはもう一度、いまのようにジェインを胸に抱きしめ、こんなふうに接吻した――ジェインがぼくを愛してくれていると感じ、ぼくを捨てて行ってしまうことなどあるまいと信じていた」
「きょうからは、そんなまねはけっしてしませんわ」
「けっしてしませんわ、とこの幻はいうのか? だが、目をさますと、いつもそれが根も葉もない絵空ごとであるとわかった。ぼくはよるべない、見捨てられた人間だった――ぼくの人生は、暗く、孤独で、希望がなかった――ぼくの魂は渇いていながら、渇きをいやすことを禁じられていた――ぼくの心は飢えていながら、飢えをしのぐことを許されなかった。いまこうして、ぼくの腕のなかで休らっているおとなしく、やさしい夢よ、きみもまた飛んで行ってしまうだろう。まえに訪れたきみの仲間の夢がみんな逃げて行ってしまったように。しかし、行ってしまうまえに、ぼくに接吻してくれたまえ――ぼくを抱いてくれたまえ、ジェイン」
「こうですか――これでいかがですか!」
わたしは、かつては輝きわたっていた、いまでは光の消えてしまっている目に、わたしの唇を押しあてた――わたしは、その額にたれかかった髪をはらいのけ、そこにもまた接吻した。ロチェスターさまは、突然、はっと目ざめたふうであった。いまのことはすべて現実であるという確信にとらえられたのだ。
「きみだね――ジェインだね? じゃ、ぼくのもとに帰ってきてくれたのだね?」
「そうですのよ」
「きみは死んで、みぞのなかや、川の底に横たわっているジェインではないね? 赤の他人のなかで泣き悲しんでいる、宿なしのジェインではないね?」
「いいえ。いまのわたしは、ひとり立ちのできる女ですわ」
「ひとり立ちだって! ジェイン、どういう意味だね?」
「マデイラのおじが亡くなりまして、五千ポンドの遺産を残してくれましたの」
「ああ、そいつは実際的な話だ――いまのことは現実なんだな!」とロチェスターさまは叫んだ。「こんな夢をみたりはしないだろうな。それに、やさしいだけでなく、相手に生気と刺激をあたえる、あのジェイン独特の声も聞こえてくる。ぼくのしおれはてた心をはげまし、生命力を吹きこんでくれる声だ――なんだって、ジェイン! ひとり立ちのできる女になったって? 金持ちになったんだって?」
「大金持ちですのよ。あなたがここに置いてくださらないなら、わたしはお宅のすぐそばにわたしの家を建てることもできますわ。夕方などに、人恋しくなったら、わたしの居間へきて、坐ってくださってもいいですわよ」
「しかしね、ジェイン、金持ちになったいまのきみなら、面倒をみてくれる友だちがいて、ぼくみたいなめくらの片輪者につかえることには反対するのではないかね?」
「金持ちになっただけでなく、ひとり立ちのできる女にもなったと申しあげました。だれにも文句をいわせませんわ」
「そのきみがぼくのそばにいてくれるというのだね?」
「そうですわ――あなたが反対なさらなければ、の話ですけど。あなたの隣人にも看護婦にも家政婦にもなってさしあげます。あなたはさびしそうですから、話し相手にもなってさしあげます――本を読んだり、いっしょに散歩したり、おそばに坐ったり、世話をやいたり、あなたの目と手になったりしてあげます。ご主人さま、そんなに陰気な顔をなさるのはおやめになって。わたしの生きているあいだは、あなたをひとりぼっちにするようなことはいたしません」
ロチェスターさまは答えなかった。真剣な――なにかに心を奪われたような表情になっていた。そして、ため息をつくと、ものいいたげに口を開きかけたが、また閉じてしまった。わたしは、すこしばつが悪かった。わたしが話し相手になりましょう、お力になりましょう、と申し出たのは、あまりにも出すぎたふるまいであったかもしれない。女のわたしとしては、慣習の壁を飛び越すのが性急にすぎたのかもしれない。そして、ロチェスターさまも、セント・ジョンと同じように、わたしの無分別なふるまいをはしたないものに思ったのかもしれない。たしかに、わたしがいまのような申し出をしたのは、ロチェスターさまがわたしを妻にと望み、やがて求婚されるであろうと思ったからである。いまにも、きみはぼくのものだ、といってくれるのではないか、という期待が――あらわにされなくても、そのたしかさには変わりのない期待が、わたしの心を浮き浮きさせたのであった。だが、そういった内容を暗示する言葉は一言も口にされず、表情が暗くなる一方であるのを見ていると、わたしは突然、わたしがすっかりかんちがいをしていて、知らないうちに道化役を演じていたのではないか、ということに思いいたった。そこで、その腕に抱かれているからだを、そっと引きはなそうとした――ところが、ロチェスターさまはわたしを熱烈に、もっとぴったりと引きよせた。
「だめ――だめだよ、ジェイン。行ってはいけない。だめだったら――ぼくはきみのからだにさわり、きみの声を聞き、きみがいてくれることの楽しさを――きみに慰められることの甘やかさを感じた。その喜びを手ばなすことは、ぼくにはできない。ほんのわずかのものしか残されていないぼくだ――きみを自分のものにしなくては。世間の連中は笑うだろう――ぼくのことをたわけたやつ、自分勝手なやつ、というだろう――だが、それがどうしたというんだ。ぼくの魂そのものが、きみを求めている。その要求をかなえてやらなければ、ぼくの肉体に致命的な復讐が加えられることになるのだから」
「でしたら、わたしはあなたのおそばにいますわ。そう申しあげたのですから」
「そうだった――しかし、きみはぼくのそばにいてくれるというが、きみとぼくとでは、その意味の解釈がまるでちがっている。きみはおそらく、ぼくの手となり、椅子となる決心を――やさしい看護婦となって、ぼくの世話をする決心を固めることができる(きみには、愛情ぶかい心と、惜しむことを知らない精神があって、きみがあわれみをかけている者のためなら、どんな犠牲をもいとわないという気持ちになるのだから)。そして、ぼくがそれに満足しなければならないことは、疑問の余地がない。どうやら、ぼくは、きみに対して父親としての愛情しか抱くことができないらしい。そうは思わないかい? さあ――いってくれたまえ」
「あなた好みの考えかたをいたしますわ。あなたがそれがいいと思われるなら、わたしはあなたの看護婦にしかなれなくても不平は申しません」
「しかし、きみはいつまでもぼくの看護婦でいるわけにはゆかないよ、ジャネット。きみは若い――いつかは結婚しなくては」
「結婚なんて、興味ありませんわ」
「そうはいかんよ、ジャネット。ぼくが昔のぼくだったら、きみに興味を抱かせてみせるんだが――しかし――目の見えない、うすのろめ!」
ロチェスターさまは、またもとの暗い表情にもどった。その逆に、わたしは元気を回復し、新しい勇気がわいてきた。いまの最後の言葉で、わたしは問題のありかを見ぬくことができたが、それは、わたしにとって、問題にもなににもならなかったので、さきほどの気まずい思いから完全に解放された気分になった。わたしは、もう一度、陽気な口調で話しはじめた。
「もうそろそろ、だれかがあなたを人間にもどす仕事に、手をつけてもいいですわね」といいながら、わたしはロチェスターさまのふさふさした、長いあいだはさみをいれたことのない頭髪をかきわけた。「だって、いまのあなたはライオンか、その類いの動物に変身しているみたいですもの。あなたには、野に追われたネブカデネザル王(旧約聖書、ダニエル書、第四章第三十三節)に似かよったところがありますわ。ほんとうですのよ。あなたの髪の毛はワシの羽を思い出させますわ。あなたのつめが鳥のつめのようになっているかどうかは、まだたしかめていませんけど」
「この腕には、手もつめもないのさ」というと、ロチェスターさまは切断された腕を、胸のあたりから引っぱり出して、わたしの目にさらした。「ただの切り残しさ――見るもぞっとするな! そうは思わないかい、ジェイン?」
「それを見ると、胸が痛みます。その目を――その額のやけどのあとを見ると、胸が痛みますわ。でも、一番困ってしまう点は、それをいっさい承知していながら、あなたを愛しすぎ、あなたをたいせつにしすぎる危険があるということですわ」
「ジェイン、この腕や、焼けただれた顔を見て、きみが吐き気をもよおすのではないかと思っていたのだが」
「まさか? そんなことをおっしゃらないで――あなたの判断力にけちをつけるようなことを申しあげるかもしれませんから。それでは、ちょっと行かせてくださいね、火をもっと盛大に燃やし、火床の掃除をしますから。強い火になったら、わかりますの?」
「ああ。右の目で、炎が――ぼんやりと赤いものが見える」
「では、このろうそくは?」
「すごくぼやけているけどね――一本一本が、光る雲みたいだな」
「わたしが見えますの?」
「いや、ぼくの妖精の姿は見えないね。しかし、きみの声を聞き、きみのからだにさわっているだけで、ぼくは感謝感激しているんだよ」
「夕食はなん時にあがりますの?」
「ぼくは夕食は食べないんだ」
「でも、今夜はすこしでもおあがりくださらなければ。わたしがおなかをすかせているのですから、あなただって、そうにちがいありませんわ。お忘れになっているだけですわよ」
メアリーにきてもらい、部屋はやがてもっと明るい感じに整えられた。わたしはまた、ロチェスターさまのためにさっぱりした食事を用意した。わたしの胸はおどり、食事中から食後にかけての長時間、嬉々として、気楽に話し合うことができた。ロチェスターさまといると、自分を抑制して窮屈な思いをしたり、陽気に、はつらつとしていたいという気持ちを押えつけたりしなくてもよかった。気にいられていることを知っているので、いっしょにいると、自由自在にふるまえることができたのである。わたしの言葉やしぐさの一つ一つが、ロチェスターさまを慰め、元気づけているように思われた。そう感じることの喜ばしさ! それは、わたしの全存在に生命と光明をもたらした。ロチェスターさまといるときのわたしは、充実した生活を送ることができたし、わたしといるときのロチェスターさまもまた、充実した生活を送ることができた。目こそ見えなかったが、その顔には一面に微笑がたゆたい、その額には喜びの光がさし、柔和で暖かみをおびた相好になっていた。
夕食がすむと、ロチェスターさまは、いままでどこにいたとか、なにをしていたとか、どうやってぼくを見つけだしたとか、あれこれ質問をしはじめた。だが、わたしはほんの断片的な返事しかしなかった。詳細を語るには、その夜はあまりにもおそかった。それに、相手の心の琴線にふれて、大きな精神的動揺をあたえることは――その心に新しい感情の泉を切り開くことは、わたしの望むところではなかった。いまのわたしの唯一の目的は、ロチェスターさまを元気づけることであった。すでにふれたように、ロチェスターさまが元気づけられていることはたしかであったが、ただ思い出したようにそうなっているだけのことであった。一瞬でも会話がとぎれて、沈黙が流れると、ロチェスターさまはそわそわしはじめ、わたしのからだにさわり、「ジェイン」と呼ぶのであった。
「きみは正真正銘の人間なんだろうね、ジェイン? たしかなんだね?」
「たしかに、そう信じておりますわ、ロチェスターさま」
「じゃ、こんな暗い、陰気な夜、きみが忽然と、ぼくのわびしい炉ばたに出現することができたのは、どういうわけだろうか? コップ一杯の水を召使から受け取ろうとして手をのばしたら、その水をきみがわたしてくれた。ジョンのかみさんが答えるだろうと思って問いかけたら、きみの声が耳もとでしゃべっていたのだから」
「メアリーのかわりに、わたしがお盆をもってはいってきたからですわ」
「それに、いまこうしてきみとすごしている時間そのものにも、魔法がかけられている。ぼくがこれまでの数ヵ月間、どんなに暗く、孤独で、希望のない生活をだらだらとつづけてきたか、だれにもわかるまい。なにもせず、なにも期待しない、夜と昼とを混同した生活。感じるのはただ、火が消えてしまったときの寒さと、食べることを忘れたときの飢えだけ。そして、やむことを知らない悲しみと、ときどき襲ってくる、もう一度ジェインをこの目で見たいという、めくるめくばかりの願い。そう、ジェインをこの手に取りもどしたいという気持ちは、失った視力を取りもどしたいという気持ちよりも、はるかにずっと強かった。そのジェインがいまぼくのそばにいて、ぼくを愛しているといってくれているなんてことが、あり得るのだろうか? きたときと同じように、いきなりぱっといなくなってしまうのではないだろうか? あすはもう、ジェインの姿を見つけることができないのではないか、とぼくはそれが心配になっている」
つぎつぎと口にされるまとまりのない考えとはまったく無関係の、平凡で、実際的な返事が、こうした精神状態のロチェスターさまにとっては、なにものにもかえがたい安心感をあたえる最良の返事にちがいない、とわたしは確信した。そこで、わたしはロチェスターさまの眉を指でさわりながら、この眉は焼けこげているので、もとのように太く、黒々とした眉になるよう、なにか薬をつけてあげますわ、といった。
「やさしい妖精のようなきみが、なにかと親切に世話をやいてくれたとしても、なんの役に立つというのだろう? ――いざというときになって、きみはまたぼくを見捨ててしまうのだから――影のように姿を消してしまって、どこへどのように行ったか、ぼくにはわからず、そのあとは見つけ出すすべもなくなってしまうのだから」
「そこにポケット用の櫛をおもちですの?」
「どうしようというのだい、ジェイン?」
「このぼさぼさの黒いたてがみをとかすのですわ。おそばでとっくり拝見したところ、あなたって、ずいぶんおっかないかたですのね。わたしのことを妖精《フェアリー》とおっしゃいますけど、あなたはどう見ても小怪物《ブラウニー》(スコットランドの伝説に出てくる。茶色か黄褐色であり、色白でエレガントな妖精とは対照的)にそっくりですわ」
「ぼくを見ると、ぞっとするかい、ジェイン?」
「とっても。昔からそうでしたわよ」
「ふん! どこに暮していても、きみの口の悪いのはなおっていないな」
「でも、わたしがいっしょに暮していたのは、いいかたたちですのよ。あなたなど、およびもつかないくらいですわ。なん百倍もいいかたたち。あなたが生まれてからいままで一度も抱いたことのない思想や意見をもっていて、あなたよりもずっと洗練された、気品のあるかたたちでしたわ」
「一体だれと暮していたんだね?」
「そんなふうにからだをよじると、頭の毛がぬけてしまうじゃありませんか。そうなれば、わたしが生き身の人間であることを疑わなくなるとは思いますけど」
「だれと暮していたんだね、ジェイン?」
「今夜は申しあげられませんわ。あしたまでお待ちくださらなければ。話をしり切れトンボにしておくのは、それを話しおえるため、わたしが朝食のテーブルにあらわれることを保証するようなものですのよ。ついでながら、そのときは、コップ一杯の水だけもって、あなたの炉ばたにあらわれるといったことがないように、注意いたしますわね。ハムのフライはもちろんのこと、すくなくとも卵一つはもって行くようにしなくては」
「この、おとなぶりをする取り替えっ子め――妖精の子に生まれていながら、人間に育てられたりして! きみは、この一年間というもの、一度も味わったことのない気持ちを、ぼくに味わせてくれる。サウルにつかえているのが、ダビデでなくてきみだったら、ハープの力をかりなくても、悪霊を退散させることができただろうな(旧約聖書、サムエル記上、第十六章第二十三節)」
「ほら、さっぱりして、あかぬけがしてきましたわ。では、これで失礼させていただきます。三日間、旅行のしつづけだったので、疲れているみたいですの。おやすみなさい!」
「一言だけ聞かしてくれたまえ、ジェイン。きみが暮していた家には、女の人きりしかいなかったかい?」
わたしは笑いながら、その場を逃げ出したが、階段を駆けあがりながらも、笑いがとまらなかった。「いいアイディアだわ!」とわたしは大喜びで考えた。「ここしばらくは、この手であのかたをやきもきさせて、ふさぎの虫を追いはらってしまえばいいのだわ」
翌朝、早くから起き出して、部屋から部屋へと歩きまわっているロチェスターさまの足音が聞こえてきた。メアリーがおりて行くと、すぐに「ジェインさんはいるのか?」ときいている声が聞こえてきた。そのあとで、「どの部屋にお泊めしたんだ? その部屋は乾燥していたのか? もうお目ざめか? なにかいり用のものはないか、きいてくるんだ。それに、いつおりてくるかも」ともきいていた。
わたしは、朝食のしたくがあることを思い出して、すぐにおりて行った。そっと足音をしのばせて部屋にはいると、わたしがいるのに気づいていないロチェスターさまの姿を見ることができた。たしかに、あの活力にあふれた精神が肉体的な欠陥に屈服しているさまを目のあたりにするのは、いたましいことであった。椅子に腰をおろしているロチェスターさま――身じろぎ一つしないが、やすらいだ気分でいるわけではない。明らかに、なにかを待ちわびている。そのダイナミックな容貌を特徴づけている、いまでは習性となった悲しみが刻みこんだしわ。その顔つきは、火をともされるのを待っている、明かりの消えたランプを思い出させた――だが、悲しいかな! それに火をつけて、いきいきとした表情の光を輝やかせることは、ロチェスターさま自身にはもはやできなくなっている。その役目は、他人まかせにしなければないのだ! わたしは陽気に、さりげなくふるまうつもりをしていたが、力の強い人間がその力を奪われているのを見て、胸を突かれる思いがした。それでも、わたしは精いっぱい快活な口調で話しかけた――
「明るい、晴れあがった朝ですわ。雨があがって、さわやかな光がさしていますのよ。すぐに散歩にまいりましょうね」
わたしの言葉は、輝きを呼びさました。ロチェスターさまの顔に光がさしてきた。
「ああ、ぼくのひばりさんは、やっぱりいてくれたんだね! ここへきたまえ。どこかへ行って、姿をくらましたんじゃないね? 一時間まえ、きみの仲間のひばりが一羽、森のずっと上のほうで歌っているのが聞こえていたけど、その歌声には音楽がなかったな。のぼる朝日に光がなかったのと同じなんだな。ぼくの耳には、この世の音楽は、すべてぼくのジェインの舌に集中しているように聞こえる(その舌が生まれつき静かな舌でなくてよかったよ)。ぼくの感じることのできる太陽の光は、すべてぼくのジェインのからだのなかにあるのさ」
この、わたしに頼りきっていることを告白する言葉を耳にしたとき、わたしの目に、涙がこみあげてきた。止まり木に鎖でしばりつけられた王者のワシが、餌をはこんできてくれるよう、スズメに泣きついているみたいなものであった。だが、めそめそしてなんかいられない。わたしは、しょっぱい涙の粒をふりはらうと、いそがしく朝食のしたくに取りかかった。
午前中の大半は、戸外ですごした。わたしは、しめっぽい荒涼とした森からロチェスターさまをつれ出して、さわやかな野原へ行った。そして、野原がどんなに緑色に輝いているか、野花や生け垣がどんなにみずみずしいか、空がどんなに青く光っているかを説明した。わたしは、ロチェスターさまが腰をかけるために、人目につかない、美しい場所にある、かわいた切り株を見つけ、そこに坐ったロチェスターさまにいわれるままに、その膝に腰をかけた。わたしたち二人は、はなれているときよりも、いっしょにいるときのほうが幸わせなのだから、それをいやがったりする理由はないではないか? パイロットはわたしたちのかたわらに寝そべり、なにもかも静まりかえっていた。ロチェスターさまは、わたしを両腕に抱きしめると、急にしゃべりはじめた。
「ぼくを見捨てて行くなんて、ひどい、ほんとうにひどい人だな! ああ、ジェイン、きみがソーンフィールド・ホールから姿を消したことがわかり、どこにもきみを見つけ出すことができなかったとき――きみの部屋を調べて、お金も、お金のかわりになるものも、いっさいもち出さなかったことをたしかめたとき、ぼくはどんな気持ちを味わったことか! ぼくがあげた真珠のネックレスは、手もつけずに小箱にはいっているし、トランクはハネムーン用に準備したまま、ひもと鍵がかかっている。無一物の無一文で、ぼくの恋しい人はどうしているのだろうか、とぼくは考えた。一体、あの人はどうしているだろうかって。さあ、聞かしてくれたまえ」
こうせき立てられて、わたしは、過去一年間にわたしが経験したことを話しはじめた。三日間にわたる放浪と飢餓に関する部分は、かなり表現をやわらげたが、それは、ありていをぜんぶ話すと、余計な苦痛を相手にあたえることになると思ったからである。わたしが口にしたごくわずかなことが、思った以上にふかく、ロチェスターさまの誠実な心をかきむしったのである。
「自活の道も立っていないまま、あんなふうにぼくからはなれて行ったりせず、どうするつもりでいるかを相談してくれればよかったのに。なにもかも打ち明けてくれれば、無理に情婦になれ、などといったりしはしなかったさ。なるほど、絶望のあまり暴力をふるいかねないように見えたかもしれないが、正直なところ、きみのことを心から、やさしく愛していたので、きみの暴君になるようなまねはしなかったよ。きみに友だち一人いない、広い世間へ飛び出して行かれるくらいなら、ぼくの財産の半分をきみにあげただろうよ、接吻一つのお返しさえ要求せずにさ。ぼくに告白した以上に、いろいろと苦しい思いをしたにちがいないな」
「とにかく、どんな苦労を味わったにせよ、ほんの短期間のことでしたから」とわたしは答えた。
それから、わたしは、ムア・ハウスに住むようになったこと、学校教師の仕事にありついたことなどを話しはじめた。当然のなり行きとして、遺産相続の話や、親類が見つかった話も、そのあとで出てきた。セント・ジョン・リヴァーズの名前が、わたしの話の途中で、なん回となくくりかえされたことはいうまでもない。わたしが話しおえるとすぐに、その名前が話題になった。
「じゃ、そのセント・ジョンという人が、きみのいとこなんだね?」
「ええ」
「その人のことをなん度も話していたけど、その人が好きだったのかい?」
「とってもいいかたですよ。いやでも好きになりますわ」
「いいかただって? それは、つまり、人品いやしからぬ、品行方正な五十男という意味なのかい? そうでないとすると、どういう意味なのだい?」
「セント・ジョンは、まだ二十九歳ですのよ」
「フランス人のいう『|まだ若い《ジュヌ・アンコール》』というわけだな。背の低い、のろまな醜男かい? いいことを積極的にするよりも、悪いことには手を染めない、といったくらいが取り柄の人間かい?」
「疲れを知らない精力家ですわ。非凡な、気高い仕事を生き甲斐にしていますの」
「しかし、頭はどうかね? かなり弱いだろうな? 本人はいいことをいっているつもりでも、その話を聞いたら肩をすくめたくなるのでは?」
「口数はすくないですね。でも、いざとなると、いつでも要領を得たことをいいますのよ。頭のほうは一流だと思いますわ。がんこですが、精力にあふれていますの」
「じゃ、有能の士というわけだね?」
「文句なしに有能ですわ」
「十分な教育のある人物?」
「セント・ジョンには最高の、深遠な学問がありますわ」
「その男の態度は、きみの趣味にあわないといったように思うけど? ――道学者めいてて、牧師然としているのでは?」
「態度のことは、まだお話しておりませんわ。でも、わたしの趣味がよほど悪ければ別ですけど、あわないはずはありませんのよ。洗練されていて、温厚で、紳士的ですから」
「その人物の風体は――風体についてのきみの説明がどんなふうだったか、忘れてしまったが――首につけた白いカラーで窒息しそうになり、底の厚い編み上げ靴をはいてお高くとまっている、青二才の牧師補といったところだろ、ええ?」
「セント・ジョンは、着こなしがいいですのよ。それに、ハンサムですわ。背が高くて、色白で、目が青い上に、横顔はギリシャ的ですの」
(わたしに聞こえぬように)「畜生め!」――(わたしにむかって)「その人物が好きだったんだね、ジェイン?」
「そうですの、ロチェスターさま。好きでしたの。でも、その質問なら、まえになさいましてよ」
もちろん、わたしには相手の心の動きがわかっていた。嫉妬がロチェスターさまの心をとらえ、刺すような苦痛をあたえていたのだが、その苦痛は、かえって好都合であった。食いいるような憂欝の牙のことを、一時的にせよ忘れさせたからである。だから、わたしは、その嫉妬の蛇をすぐにはなだめようとしなかった。
「もうぼくの膝の上に坐ってなんかいたくないでしょうね、エアさん?」
つぎに発せられたこの言葉は、いささか思いがけないものであった。
「なぜですの、ロチェスターさま?」
「いまきみが描きあげた人物像から浮かびあがってくるコントラストは、圧倒的としかいいようがない。きみの言葉は、典雅なアポロ(太陽神、光、音楽、詩、男性美などをつかさどる)的人物をまことに見事に浮き彫りしている。その人物が――『背が高くて、色白で、目が青い上に、横顔はギリシャ的』な人物が、きみの想像のなかには住んでいるのだ。それなのに、きみの目が眺めまわしているのは、ヴァルカン(火と鍛冶の神)みたいな人間――色黒の、肩幅のひろい鍛冶屋そっくりの男で、おまけにめくらで、手なしときているからな」
「そんなこと、考えたこともありませんわ。でも、そういわれてみると、たしかにヴァルカンにそっくりですわね」
「それなら――そこをどいてもいいのだよ、エアさん。しかし、そのまえに」(まえよりもいっそうきつく抱いて、わたしを引きとめた)「一つ、二つ質問に答えていただけるとありがたい」
ロチェスターさまは言葉をきった。
「どんな質問ですかしら、ロチェスターさま?」
そこで、こんな調子の反対尋問がはじまった――
「セント・ジョンは、きみがいとことわかるまえに、きみをモートンの学校の先生にしたんだね?」
「はい」
「きみはその男にいつも会っていたね? その男もときどき学校へきただろうね?」
「毎日きましたわ」
「その男はきみの教育方針に賛成しただろうね、ジェイン? ――才能のあるきみのことだから、適切な方針だったにちがいないが?」
「賛成してくれましたわ――ええ」
「その男は、きみという人間のなかに、思いがけないものをいろいろと見つけただろうな? きみの才芸のいくつかは群をぬいているからね」
「その点はわかりませんわ」
「学校の近くに小さな宿舎があったという話だが、その男はそこへきみに会いにきたかね?」
「ときどき」
「夜も?」
「一回か二回」
沈黙が流れた。
「いとこ同士であることがわかってから、その兄妹とどのくらい同居したのかね?」
「五ヵ月です」
「リヴァーズが身内の女性とすごす時間は多かったかね?」
「はい。奥の居間がセント・ジョンの書斎でもあり、わたしたちの書斎でもありましたから。セント・ジョンは窓べに陣取り、わたしたちはテーブルをまえにしていました」
「その男はよく勉強したかね?」
「すごくしましたわ」
「なんの勉強かね?」
「ヒンズスタン語です」
「きみはそばでなにをしていたかね?」
「はじめは、ドイツ語を教わりました」
「その男が教えたのかね?」
「ドイツ語はおできになりません」
「その男はきみになにも教えなかったのかね?」
「ヒンズスタン語をすこし教えてくれました」
「リヴァーズがきみにヒンズスタン語を教えたって?」
「はい」
「妹たちにも教えたのかね?」
「いいえ」
「きみにだけかね?」
「わたしにだけです」
「きみが教えてくれといったのかね?」
「いいえ」
「その男が教えたがったのだね?」
「はい」
またしても沈黙。
「なぜ教えたがったのかね? ヒンズスタン語がきみのどんな役に立つというのかね?」
「セント・ジョンはわたしをインドへつれて行くつもりでした」
「ああ! 問題の核心にふれてきたな。その男はきみと結婚したかったのだね?」
「わたしに結婚を申し込みました」
「それは嘘だ――ぼくを苦しめるための、ずうずうしい作りごとだ」
「お言葉でございますけど、嘘もかくしもない事実ですわ。求婚されたのは一回きりじゃありませんし、目的をとげようとするしつこさは、あなたにまさるとも劣らないくらいでしたのよ」
「エアさん、くりかえしていうけど、きみはそこをどいててもいいのですよ。同じことをなんべんいわせるのかね? さっきから行ってもいいといっているのに、どうしてのうのうとぼくの膝の上にのっかってなんかいるのかね?」
「お膝にのっていると、いい気持ちになるからですわ」
「いいや、ジェイン。ぼくの膝にのっていて、いい気持ちがするはずがない。きみの心は、ぼくからはなれているんだ。そのいとこ――そのセント・ジョンのもとへ行ってしまっている。ああ、いまのいままで、ぼくのかわいいジェインはぼくだけのものだ、と思っていたのに! ぼくを捨てて行ったときでさえ、ぼくを愛してくれていると信じていた。そう信じることが、あんなに切ないときにも、いささかのやすらぎとなっていた。長いあいだはなればなれになっていても、別離の身を思って熱い涙を流していても、ぼくは、ぼくの嘆き悲しんでいる当の相手が別の男を愛していたなんて、夢にも思っていなかったのさ! しかし、いまさら泣き言をいったところで、なにになる。ジェイン、そこをどきたまえ。さっさとリヴァーズと結婚したまえ」
「じゃ、ふり落としてください――押しのけてください。自分からどくようなまねはいたしませんわ」
「ジェイン、いつ聞いても、きみの話しぶりには心をひかれるな。それを聞くと、あらためて希望がわいてくる。いかにも真実にあふれているように聞こえるのだから。それを耳にすると、ぼくは一年まえにもどったような気持ちになる。きみがほかの男性に心を移したことなど忘れてしまう。しかし、ぼくはたわけ者ではない――行きたまえ――」
「どこへ行けばいいのです?」
「好きなところさ――きみの選んだ夫といっしょにさ」
「だれのことをいっていますの?」
「よくわかってるじゃないか――そのセント・ジョン・リヴァーズさ」
「セント・ジョンは、わたしの夫ではありませんし、将来もそうなることはありませんわ。わたしを愛してはいないのですし、わたしもまた愛してはいないのです。セント・ジョンが愛しているのは(セント・ジョンにも人を愛することが|できることはできる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のですが、あなたのような愛しかたではありませんのよ)、ロザモンドという美しいお嬢さんですわ。わたしとの結婚を望んだのは、そのお嬢さんとちがって、わたしが宣教師の妻になるにふさわしい人間だと思ったからにすぎないのです。セント・ジョンは、りっぱだし、偉いにはちがいないのですが、きびしいのです。わたしには、氷山のように冷たく思われるのです。セント・ジョンは、あなたとちがった人間です。そばにいても、近くにいても、いっしょにいても、わたしは幸福になれないのです。わたしを気ままにさせてくれることも、思いやりをかけてくれることもないのです。わたしになんの魅力もおぼえていません――わたしの若さに対してさえもですわ――知的な面で役に立つ点を一つ二つ見つけているだけのことですのよ。それでも、わたしはあなたのもとを去って、セント・ジョンのところへ行かねばなりませんの?」
わたしは思わず身ぶるいすると、目こそ見えないが、愛してやまないわたしの主人に、ひしとすがりついた。ロチェスターさまはにっこり笑った。
「なんだって、ジェイン! それは本当かい? きみとリヴァーズとの間柄は、本当にそんなのかい?」
「もちろんですわ。いやですわ、嫉妬なさることなんかありませんのに! ちょっとあなたをからかって、悲しみを軽くしてさしあげたかったのですわ。腹を立てているほうが、悲しみにふけっているよりもいいと思ったものですから。でも、あなたを愛することをわたしに望んでおられるなら、の話ですけど、わたしがどんなに強くあなたを愛しているかがおわかりになりさえすれば、あなたとしても誇りにあふれた満足感を抱くことができると存じますわ。わたしの心は、すべてあなたのものです。それは、あなた以外のだれのものでもありませんし、かりに運命がわたしのからだをあなたから引きさくことがあるとしても、心だけはいつまでもあなたのおそばをはなれませんわ」
わたしに接吻しながらも、苦渋にみちたさまざまの思いのために、ロチェスターさまの顔はまた暗くなった。
「焼けただれたこの目! 片輪になったこのからだ!」とロチェスターさまはくやしそうにつぶやいた。
わたしは愛撫することで、その気持ちを慰めようとした。ロチェスターさまの胸のうちが読みとれたので、わたしがかわりに口にしてあげたかったが、それはとてもできないことであった。一瞬、わたしから顔をそむけたとき、一筋の涙が固く閉ざされたまぶたからあふれ出て、男らしい頬をしたたり落ちるのが見えた。わたしは胸がはりさけそうになった。
「ぼくは、ソーンフィールドの果樹園にある、雷に打たれたトチノキの老木と変わらない人間なんだ」やがてロチェスターさまはいった。「こんな残骸みたいなぼくが、つぼみをつけかけたスイカズラのようなきみに、この朽ちはてたからだをさわやかな緑でつつんでくれたまえ、などとどんな権利があっていえるだろうか?」
「あなたは残骸なんかでは――雷に打たれた木なんかではありませんわ。あなたは新緑と活力にあふれていますわ。あなたの頼みがあろうとなかろうと、あなたの根元にはひとりでに草木が生いしげりますわ。あなたの慈味にあふれたこかげが喜ばしいからです。そして、その草木は成長するにつれて、あなたによりかかり、あなたに巻きつきますわ。あなたの力が、とっても安全な支えとなるからです」
ロチェスターさまは、わたしの言葉に慰められて、ふたたびにっこり笑った。
「友だちのことをいっているんだね、ジェイン?」とロチェスターさまはきいた。
「ええ、友だちのことですわ」とわたしは口ごもり気味に答えた。友だち以上の者を頭に置いていたことは、わたしにもわかっていたが、ほかにいうべき言葉を知らなかったのである。そのわたしにロチェスターさまが力をかしてくれた。
「ああ! ジェイン。だが、ぼくの欲しいのは妻なんだよ」
「そうでございますか?」
「そうとも。驚いたかい?」
「もちろんですわ。一度もうかがったことがありませんもの」
「驚いた上に、気を悪くしたのかい?」
「場合によりけりですわ――つまり、あなたの選ばれる相手によりけりですわ」
「その相手は、きみに選んで欲しいんだよ、ジェイン。きみがきめてくれたとおりにするから」
「それではお選びください――あなたをだれよりも愛している女性を」
「すくなくともぼくは選ぶよ――ぼくがだれよりも愛している女性を。ジェイン、ぼくと結婚してくれるかい?」
「はい」
「きみに手を引いてもらわなければならない、あわれなめくらの男だよ?」
「はい」
「二十も年上で、きみに世話をやいてもらわなければならない片輪の男だよ?」
「はい」
「ほんとうかい、ジェイン?」
「ほんとうでなくてなんでしょう」
「ああ! かわいいジェイン! きみに神の恵みと報いがありますように!」
「ロチェスターさま、わたしが生まれてこのかた、善行をつんだことがあるとすれば――りっぱな意見をもったことがあるとすれば――真摯で潔白な祈りをささげたことがあるとすれば――まっとうな願いを抱いたことがあるとすれば、それがいまこうして報いられたのです。あなたの妻になることは、わたしにとって、この世で最高に幸福な人間になることなのですから」
「喜んで犠牲をはらうきみだからさ」
「犠牲ですって! わたしがなにを犠牲にしていますの? 飢えを犠牲にして食べ物を手にいれ、期待を犠牲にして満足を手にいれているのですわ。たいせつなかたをこの腕に抱き――愛するかたに唇を押しあて――信頼するかたに身をゆだねるのを許されること――これが犠牲をはらうことでしょうか? もしそうなら、たしかにわたしは喜んで犠牲をはらっていることになりますわ」
「それに、喜んで欠陥だらけのぼくにがまんしたり、不完全なぼくを大目に見てくれたりしているよ、ジェイン」
「そんなことは、わたしにとって、なんでもないことですわ。ほんとうにあなたのお役に立つことができるので、わたしはいまのあなたのほうが好きですわ。誇り高くて、人に頼ることを知らなかったころのあなたは、他人にものをあたえたり、庇護してやったりする以外の役は、すべて軽蔑なさっていましたから」
「これまでのぼくは、力をかしてもらうことが――手を引いてもらうことがいやだった。これからは、もういやになったりはしないと思うよ。召使に自分の手を握らせるのは好きじゃなかったが、ジェインの小さな指でつつみこまれるのは、いい気持ちだからな。ぼくは召使にしょっちゅう世話をやかれるよりも、ひとりぼっちでいるほうがよかったが、ジェインのやさしい看護は、永遠の喜びになるだろうな。だが、ジェインはぼくにふさわしい人間だが、ぼくはジェインにふさわしい人間なのだろうか?」
「わたしという人間の、すみからすみまでぜんぶにふさわしいかたですわ」
「そんなわけなら、待つことはこれっぽっちもないさ。すぐに結婚式をあげなくては」いかにも熱っぽい顔つきと口ぶりであった。昔のままのせっかちが頭をもたげている。
「一刻の猶予もなしに、二人は一心同体にならねばならないよ、ジェイン。結婚の許可書を受けさえすればいい――そこで、ぼくらは結婚する――」
「ロチェスターさま、いま気がついたのですけど、お日さまがとっくの昔に頭の上を通りすぎていますわ。それに、パイロットもお昼ごはんを食べに帰ってしまいましたわ。その時計を見せてくださいね」
「きみのベルトにつけて置くといいよ、ジャネット。これからは、きみがもっていてくれたまえ。ぼくには入り用のない品だから」
「そろそろ午後の四時になりますのよ。おなかはすいていませんの?」
「きょうから数えて三日目は、ぼくたちが結婚式をあげる日だよ、ジェイン。上等のドレスや宝石なんか、今回はどうでもいい。あんなものは、爪のあかほどの値うちもないのだから」
「お日さまが雨のしずくをかわかしてしまいましたわ。風がやんで、ずいぶんと暑くなりましたわよ」
「ジェイン、きみにあげた小さな真珠のネックレスが、いま、ぼくのスカーフの下の、日焼けした首に巻きついていることを知っているかい? かけがえのない宝物のような人を失った日から、その人の思い出として、ずっと身につけているんだよ」
「森をぬけて帰りましょうね。そこの道が一番日かげになっていますから」
ロチェスターさまは、わたしにはおかまいなく、自分一人の考えにふけっていた。
「ジェイン! きみはぼくのことを、神をないがしろにするけしからん男に思っているかも知れないが、いまのぼくの胸は、この地上の恵みぶかい神に対する感謝の気持ちでいっぱいになっているよ。神の見る目は人間の目とちがって(旧約聖書、サムエル書上、第十六章第七節への言及)、はるかにすみきっているし、神の裁きは人間の裁きとちがって、はるかに賢明である。ぼくはあやまちをおかした。ぼくの汚れを知らない花をけがし、その清純さに悪の息を吐きかけようとしたのだが、全能の神は、その花をぼくから取りあげてしまった。かたくなに反逆しつづけるぼくは、その天の配剤を呪わんばかりであった。その神慮に屈服するどころか、それに戦いをいどみさえした。天罰はてきめんにくだり、災難がどっとふりかかってきた。ぼくは死の陰の谷を歩むことを余儀なくされた(旧約聖書、詩篇、第二十三篇第四節)。神罰《ヽヽ》は力が強い。ぼくはたったの一撃で、永久に打ちのめされてしまった。きみも知ってのとおり、かつてのぼくは自分の力を鼻にかけていたのだが、無力な子ども同然に、他人の助けにすがらなければならなくなった現在、そんな力が一体なにになるというのだろうか? このごろになってね、ジェイン――ついこのごろのことだけれど、ぼくは、ぼくの宿命のなかに神の手を見て取り、それに感謝するようになった。良心の呵責と、悔恨の念を――造物主と和解したいという願いを経験するようになった。ときには祈りをささげるようになった――まことに短い祈りなんだが、心からの祈りであることに変わりはない。
「なん日かまえ――いや、数えてみればわかるが――四日まえのことになる。月曜日の夜だったから――ぼくは名状しがたい気分に襲われた。悲しさが狂乱に取ってかわり、切なさが陰欝に取ってかわった。ずっとまえから、どこにもきみを見つけることができないのは、きみが死んだということにちがいない、という気持ちになっていた。その夜おそく――十一時から十二時までのあいだであったと思うが――わびしい眠りの床につくまえに、ぼくは神に祈った。もしそれがみ心にかなうようなら、わたしをすぐにでもこの世からお召しください。そして、ジェインに再会する希望がまだ残されているあの世へ行くことをお許しください、と祈ったのだ。
「ぼくは自分の部屋にいて、窓ぎわに腰をおろしていた。窓が開いていて、かぐわしい夜風が心を静めてくれたが、星は見えなかったし、もやがぼんやりと光っていることで、月が出ているな、とわかるだけであった。ジャネット、ぼくはきみに会いたかった。ああ、ぼくは全身全霊をあげて、きみに会いたかったのだ! 苦悩に打ちひしがれた、つつましやかな態度で、ぼくは神におたずねした――これほど長いあいだ、悲しみ、悩み、苦しんでも、まだ十分ではないでしょうか。いま一度、至福と平和を味わうことは、すぐには許されないのでしょうか、と。ぼくは、自分が耐えてきた苦難のすべてに価する人間であることを否定しなかった――しかし、もうこれ以上はとても耐えられないのです、と申しあげたのだ。そのとき、ぼくの心からの願いの、アルファでもオメガでもあるものが、ぼくの口をついて、ひとりでに出てきた、『ジェイン! ジェイン! ジェイン!』という言葉になって」
「大きな声でおっしゃったのですか?」
「そうだよ、ジェイン。だれか聞いている人がいたら、ぼくのことを気ちがいと思っただろうな。それほどまでの狂気と精魂をこめて口にしたのさ」
「そして、それは月曜日の夜の、真夜中近くでしたか?」
「そうだよ。だが、時間なんか問題じゃない。奇怪なのは、つづいて起こったことなのだ。ぼくのことを迷信ぶかいやつだと思うだろうが――ぼくの血のなかに、迷信ぶかい要素が流れていることは、いまも昔も変わらないのだがね。しかし、これは事実なんだよ――すくなくとも、これからしゃべろうとする言葉が、ぼくの耳に聞こえてきたことは事実なんだから。
「ぼくが『ジェイン! ジェイン! ジェイン!』と叫んだとき、ある声が――その声がどこから聞こえてきたかはわからないが、それがだれの声であったかは、ぼくにわかっている――『まいりますわ。お待ちになって!』と答えたのだ。そのすぐあとでも、ささやくような言葉が、風にのって聞こえてきた――『どこですの?』って。
「できることなら、その言葉がぼくの心のなかにかき立てた概念や心象の話をしたいのだが、いいたいだけのことを口にするのは、とてもできない相談だ。ファーンディーンは、このとおり、うっそうとした森のなかに埋もれていて、物音ははっきり聞こえないし、反響も残さないで、そのまま消えてしまう。『どこですの?』という言葉は、山あいで語られたとみえ、山から響いてきたこだまがその言葉をくりかえすのが聞こえていた。そのとき、ぼくの額をなでる風が、ひときわ冷たく、さわやかになったように思われた。どこか、荒涼とした、わびしい土地で、ぼくとジェインとが出会っているとでもいった感じだった。ぼくたちの魂が会っていたにちがいない。その時刻には、きみはなにも知らずに眠っていたはずだからね、ジェイン。ひょっとしたら、きみの魂が肉体をぬけ出して、ぼくの魂を慰めにきていたのかもしれない。あれは、たしかにきみの声だった――ぼくがこうして生きていると同じくらいたしかなんだが、あれはきみの声だったよ!」
読者よ、わたしがあの神秘的な呼び声を聞いたのも、月曜日の夜――真夜中近くのことだった。そっくりそのままの言葉で、わたしはその呼び声に答えたのであった。わたしはロチェスターさまの話に耳をかたむけるだけで、わたしのほうからはなにも打ち明けなかった。この暗合は、かるがるしく口にしたり論じたりすることを許さないほどに恐ろしく、また説明不可能なもののように、わたしには思われた。わたしが一言でも口外すれば、その話は聞き手の心に強い印象をあたえずにはおかないものになったであろうが、その聞き手の心は、すでに受けた一連の苦悩のゆえに、ともすれば陰気になりがちであったのだから、さらに色濃い超自然の影を落としたりする必要はなかったのである。そこで、わたしは、これらのことをことごとく心に留めて、思いめぐらしていた(新約聖書、ルカによる福音書、第二章第十九節)。
わたしの主人は言葉をつづけて、「ゆうべ、きみがあんなに突然、ぼくのまえに姿を見せたとき、きみが単なる声と幻以上のものであるとは――あのとき、真夜中のささやき声と山のこだまが消えてしまったと同じように、やがて沈黙と空無に帰してしまう声と幻以上のものであるとは、どうしても信じられなかったが、いまのきみなら、それを不思議に思わないだろうな。ぼくはいま、神に感謝している! 単なる声と幻以上のものであることがわかったのだから。そうとも、ぼくは神に感謝しているのだ!」
ロチェスターさまは、わたしを膝からおろして、立ちあがった。そして、うやうやしく帽子を取ると、見えない目を地にふせて、黙祷をささげた。聞こえてきたのは、祈りの最後の言葉だけであった。
「天罰のさなかにも、慈悲をお忘れにならなかったことを、わが造り主に感謝いたします。今後とも、これまで以上に清浄潔白な生活を送るための力をおさずけくださるよう、わが主イエスにつつしんでお願いいたします!」
それから、わたしに引いてもらうために、手をさし出した。わたしは、そのいとおしい手を取ると、一瞬、唇に押しあててから、わたしの肩にまわした。ずっと背の低いわたしだったので、ロチェスターさまの杖の役にも、案内人の役にも立つことができた。わたしたちは森をぬけて、家路についた。
[#改ページ]
三十八章
読者よ、わたしはロチェスターさまと結婚した。ひっそりとした結婚式で、出席していたのは、わたしたち二人に、牧師と書記だけであった。教会からもどってから、わたしは屋敷の台所へはいって行った。メアリーは食事のしたくをしていて、ジョンはナイフをといでいた――
「メアリー、わたしはけさ、ロチェスターさまと結婚しましたの」
家政婦とその夫は、二人とも礼儀正しく、冷静であったが、このタイプの人間には、珍らしいニュースを、いつでも安心して伝えることができる。耳がかん高い叫び声でつんざかれたあと、驚きの言葉の洪水でつんぼになってしまう危険がないのである。メアリーが顔をあげたきり、じっとわたしを見つめたままであったことはたしかであるし、焼きかけの二羽のひな鳥にたれをかけていたひしゃくが、三分間、宙でとまったままになっていたこともたしかである。ナイフをとぐジョンの手もまた、同じ三分間だけ、ぴたっととまっていた。だが、メアリーは、ロースト・チキンのほうにもう一度かがみこむと、こういったきりであった――
「そうですか? それはまあ!」
しばらくしてから、メアリーはこうつけ加えた。「だんなさまとお出かけになるところは見かけましたがね、結婚式のために教会へ行かれたとは知りませんでしたよ」
そういうと、メアリーはせっせとたれをかけている。ジョンはと見ると、歯を見せてにやにや笑っていた。
「こうなるのじゃないかな、とメアリーのやつにはいってありましたがね。エドワードさまのおやりになることは」(ジョンは昔からいる召使で、主人のことを部屋住みのころから知っていたので、洗礼名で呼ぶことがよくあった)「エドワードさまのおやりになることは、わしにはよくわかっておりましたよ。いつまでもお待ちになるまいということも、はっきりわかっておりました。エドワードさまはいいことをなさったようですな。おめでとうございます!」
そういうと、ジョンは前髪をなん本か引っぱって、敬意をあらわした。
「ありがとう、ジョン。ロチェスターさまが、あなたとメアリーにこれをあげて欲しいそうですよ」
わたしはジョンの手に、五ポンド紙幣を握らせた。それから、あとの言葉は聞かずに、そのまま台所から出て行った。しばらくして、台所のまえを通りかかったとき、こんな言葉が耳にはいってきた――
「あのかたなら、大家の令嬢なんぞより、ずっとだんなさまにつくしてくれるわね」
「あのかたは飛びぬけた美人じゃないが、頭はよう切れなさるし、なかなかいい気だてをしていらっしゃるからなあ。だんなさまの目には、さぞかし美人にうつることだろうて。だれが見てもわかることだものな」
わたしは早速ムア・ハウスとケンブリッジに手紙を書いて、わたしのしたことを報告し、なぜそのような行動に踏みきったかを、詳細に説明した。ダイアナとメアリーは、わたしの取った処置に無条件で賛成してくれた。ダイアナは、蜜月時代《ハネムーン》がおわるまでは待ってあげるけれども、それがすんだらすぐに会いに行くつもりをしている、といってきた。
この手紙を読んで聞かされたロチェスターさまがいうのに、「それまで待ってもらったりはしないほうがいいな、ジェイン。そんなことをしていたら、おそくなってしまうよ。なにせ、ぼくらの蜜月《ハネムーン》は、ぼくらが生きているかぎり照り輝くのだから。その光は、きみの墓か、ぼくの墓の上でうすれるだけなのさ」
わたしのしらせをセント・ジョンがどんなふうに受けとめたか、わたしは知らない。結婚を知らせたわたしの手紙には、とうとう返事がこなかった。半年後、手紙がとどいたけれども、それにはロチェスターさまの名前は見あたらなかったし、わたしの結婚のことにもふれていなかった。だが、その手紙はおだやかな内容で、まじめ一点ばりではあったが、やさしさがこもっていた。それ以来ずっと、セント・ジョンからの音信は、ひんぱんではないが、きちんきちんとつづいている。それによると、セント・ジョンは、わたしが幸福であることを願うとともに、この地上で神をもたない生活を送り、現世的なことばかり思いわずらっている人間の仲間になっていないことを信じているのである。
読者はアデールのことを忘れてしまわれただろうか? わたしは忘れていなかったので、やがてロチェスターさまにお願いして許しを得ると、アデールのいれられている学校へ会いに出かけた。わたしとの再会に狂喜しているアデールの姿に、わたしは心を動かされた。顔色がよくないし、やせてもいる。本人も楽しくないといっている。調べてみると、この年齢の子どもには、学校の規則がきびしすぎるし、カリキュラムの程度も高すぎることがわかったので、わたしはアデールを自宅へつれて帰った。わたしとしては、もう一度この子の家庭教師になるつもりであったが、そのつもりが実行できないものであることはすぐにわかった。いまでは、わたしの時間と保護を必要とする人間がもう一人いた――わたしの夫が、それらを独占していたのである。そこで、わたしはアデールのために、まえの学校ほど方針がきびしくなく、ひんぱんにようすを見に行って、ときにはつれて帰ることのできる距離にある学校を捜し出した。また、生活を楽しくするのに役立つものは、なに一つとして欠かさないように配慮してやったので、アデールもすぐに新しい学校に慣れ、すっかり幸福になって、勉強のほうも相当にすすんだ。成人するにつれ、この子のフランス的な短所はイギリスの健全な教育によって大いに矯正され、学校を卒業したときには、すなおで、気だてがよくて、折り目正しいアデール、好感のもてる、心のやさしい友人としてのアデールに変わっていた。アデールは感謝の念から、わたしやわたしの家族の者のことを気づかってくれているので、昔、わたしができる範囲の親切をなにかしてやったことがあるとしても、それはずっとまえに、十分に報いられているのである。
わたしの話も終わりに近づいた。わたしの経験した結婚生活に一言だけふれ、この物語に名前がひんぱんに出てきた人物の運命を一わたり眺めてから、おしまいということにしたい。
わたしが結婚して、現在では十年になる。最愛の夫との生活を、最愛の夫のためにのみ送ることの意味を、いまのわたしは知っている。わたしは自分がこの上なく幸福な――いかなる言葉でもいいあらわせないほどに幸福な人間であると思っているが、それは、わたしたち夫婦が完全におたがいの生命になっているからである。わたしほどに自分の伴侶に近しい存在となった女性、わたしほどに徹底して夫の骨の骨、夫の肉の肉(旧約聖書、創世記、第二章第二十三節)となった女性はこれまでに例があるまい。わたしは、夫エドワードといっしょにいてあきることを知らないし、夫もまた、わたしといっしょにいてあきることを知らないが、それは、おたがいの胸のなかで打っている心臓の鼓動にあきることがないのと同じである。したがって、わたしたちは明けても暮れてもいっしょにいる。いっしょにいることは、わたしたちの場合、一人きりのときと同じように自由であると同時に、人前でいるときと同じように陽気であることを意味している。わたしたちは、朝から晩まで話しあっているといってもよい。おたがいに話しあうことは、はるかに活発な、相手に聞こえる形で思考することにほかな轤ネい。わたしは夫に百パーセントの信頼をささげ、夫はわたしに百パーセントの信頼をあたえている。わたしたちは、性格が寸分の狂いもなく一致していて、その結果、完全に琴瑟相和しているのである。
結婚当初の二年間、ロチェスターさまは、盲目の状態がつづいた。二人があれほどにぴったりと引きよせられたのには――二人があれほどにしっかりと結びつけられたのには、この事情が一役買っていたのかもしれない。というのも、当時のわたしは、ロチェスターさまの目になっていたのである(現在でもやはり、その右手のかわりは勤めているのであるが)。わたしは文字どおりロチェスターさまの「目のひとみ」(旧約聖書、申命記、第三十二章第十節など)であった(夫にもしばしばそう呼ばれていたのである)。ロチェスターさまは、わたしを介して自然を眺め、わたしを介して書物に接した。そして、わたしはロチェスターさまのかわりに目をこらして、野原、樹木、町、川、雲、日光――わたしたちのまえの風景や、わたしたちのまわりの天候の印象を言葉に移しかえ、もはや光がその目に残せなくなったものを、その耳に音で刻みつける作業をうむことなくつづけた。わたしはまた、本を読んで聞かせたり、行きたいというところへ手を引いて行ったり、してもらいたいということをしてやったりしたが、それにあきるということは絶対になかった。そして、こうして相手につくすことに、わたしはこの上ない充実感と、この上ない満足感にあふれた喜び(悲しい喜びであったにせよ)を見出した――なぜなら、このようにつくすことを要求するロチェスターさまが、いたいたしい恥辱感やじめじめした屈辱感を味わっていなかったからである。ロチェスターさまは、わたしをほんとうに愛していたので、わたしの世話になることになんのためらいもおぼえなかったのであり、ロチェスターさまを心から愛しているわたしにとって、その世話をすることが、わたしの最高に楽しい願望をかなえることになると感じてもいたのである。
二年目もおわりに近いある朝、ロチェスターさまは手紙の口述筆記をしているわたしのところへやってきて、身をかがめると、こういった――
「ジェイン、首のまわりにぴかぴか光るアクセサリーをつけているかい?」
わたしは、金でできた時計の鎖をつけていたので、「ええ」と答えた。
「それから、うす青いドレスを着てるかい?」
そのとおりであった。やがてロチェスターさまは、しばらくまえから、片方の目をくもらせていた白濁がうすらいでいるように思っていたが、それがいま、はっきりたしかめられた、といった。
わたしたちはロンドンへ行った。ロチェスターさまはある著名な眼科医の診断を受け、その結果、片方の目の視力が回復した。いまでも、とくにはっきり見えるわけではなく、読み書きもたくさんはできないが、それでも、手を引かれることなしに歩きまわれる。もはや大空はかつてのような空白ではないし、大地もまた、かつてのような空虚ではない。その腕に長男を抱いたとき、かつての自分と同じ目が――大きな、きらきら光る、黒い目がその子に伝わっているのを見ることができた。そのときにもまた、ロチェスターさまは、神が裁きを慈悲でやわらげられたことに、真心こめて感謝したのである。
こうして、夫エドワードとわたしは、幸福にあふれているが、わたしたちの最愛の人たちも幸福になっているので、なおさらである。リヴァーズ家のダイアナもメアリーもともに結婚していて、むこうとこちらとで、年に一回ずつ、交互に訪問しあっている。ダイアナの夫は海軍大佐で、勇敢な士官であると同時にやさしい男性でもある。メアリーの夫は牧師で、兄さんの大学時代の友人だが、その深遠な学識と高邁な理想からいって、この縁組にふさわしい人物である。フイッツジェイムズ大佐もウォートン牧師もともに妻を愛し、愛されている。
さて、セント・ジョン・リヴァーズはイギリスを去って、インドへむかった。自分で選んだ道に足を踏みいれ、いまもなおその道をつき進んでいる。これほどに決然とした、不屈の開拓者が、さまざまの難関や危険のなかで働いたためしはこれまでにもない。強靱で、忠実で、献身的なセント・ジョンは、精魂と情熱と誠実にあふれて、インド人のためにけんめいに働いている。インド人の向上のために苦難の道を切り開き、それをはばむ教義や階級《カースト》の偏見を、巨人さながらになぎ倒しているのである。セント・ジョンは、厳格であるかもしれないし、過酷であるかもしれないし、いまだに野心的であるかもしれない。だが、その厳格さは、魔王《アポリオン》の襲撃から巡礼者の群を護衛する勇士グレートハート(ジョン・バンヤン作『天路歴程』に登場する勇敢なキリスト教徒)の厳格さである。その過酷さは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(新約聖書、マルコによる福音書、第八章第三十四節)といわれたキリストのためにのみ説いている使徒の過酷さである。その野心は、地からあがなわれた者たち――神の御座のまえに立っている純潔な者たち――神の小羊としてのキリストによる最後の偉大な勝利の一翼をになう者たち――召された、選ばれた、忠実な者たち(新約聖書、ヨハネの黙示録、第十四章第三―五節と第十七章第十四節への言及)の最前列に位置を占めることを目ざしている、高潔この上ない精神の野心にほかならない。
セント・ジョンは結婚していないが、これからも結婚することは絶対にあるまい。いままででも、自分一人で十分に仕事をはたすことができたからであるし、その仕事もおわりに近づいているからである。セント・ジョンの輝やかしい太陽は、日没へと急いでいる。最近に受け取った手紙を読んで、わたしの目から人間的な涙があふれたが、わたしの心には神聖な喜びがみちみちていた。セント・ジョンは絶対確実なほうびを、あの朽ちない冠(新約聖書、コリント人への第一の手紙、第九節第二十五節)を期して待っている。つぎには、善良にして忠実な僕《しもべ》が主とともに喜ぶべく、ついに召されて行った(新約聖書、マタイによる福音書、第二十五節第二十一―二十三節への言及)と伝える、見知らぬ人の手で書かれた手紙がとどくことを、わたしは知っている。だが、それを嘆き悲しむ理由がどこにあるだろうか? 死の恐怖がセント・ジョンの臨終を暗くすることはない。澄明な精神と、不屈の熱意と、確固たる希望と、不動の信仰をもちつづけるだろう。セント・ジョン自身の言葉が、それを裏づけるあかしとなっているのである――
「主はわたしに予告してくださいました。日一日と明確になるのは、主の語りかける言葉――『しかり、わたしはすぐに来る』であり、刻一刻と熱烈になるのは、わたしの答える言葉――『アーメン、主イエスよ、きたりませ』(新約聖書、ヨハネの黙示録、第二十二章第二十節。聖書のおわりから二つ目の節に当る)であるのです」 (完)
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解説
一 シャーロット・ブロンテの生涯
〔作者としての特異性〕
小説というものの読者に訴える力がリアリティにあるとするならば、『ジェイン・エア』は、まさに世界的に最も力の強い作品の一つということができよう。一旦この作品の世界に入りこむや否や、われわれは、もはや現実のわれわれではない。この小説がカラ・ベルという匿名で出版されて間もない一八四七年十二月、当時のイギリス批評界に君臨しようとしていたG・H・ルイスはいった。「小説家に必要な条件はほとんど余さずこの作家はそなえている。人物をとらえる力、その描写力、独創力、情熱、そして人生についての知識」話の筋が独特の面白さをもって発展しながら、最後までわれわれを魅了するばかりでなく、「その本を閉じてのちも、その魔力は続くのである」それから七十年以上もたって、一九二五年に出た『一般読者』の中で、ヴァジニア・ウルフは、やはり同じように、『ジェイン・エア』の力強さをのべている。われわれは、いやおうなく、この作者の示す道に従って行かざるを得ない。文字通り、読者は、シャーロット・ブロンテの天才、激情、怒りにとりつかれざるを得ないのである。もしわれわれが、ヴィクトリア朝(一八三七―一九〇一)、特にその前半の時代的性格を知り、それが当時の小説にいかなる制約を与えたかを考慮にいれるならば、F・R・リーヴィスをして小説の伝統における「一種の突然変異」といわしめたエミリー・ブロンテの『嵐が丘』ほどではないにしても、われわれのシャーロット・ブロンテに対する驚きは、一そう大きいものとなるであろう。彼女が時代的な色彩を全く超越していたのではないにしても、それよりも独自の個性の作家としての特色がはるかに濃厚である。ヴィクトリア朝社会の影響をうけたというよりは、限られた生活環境の影響をより大きくうけた作家であったという方がよい。そして、また時代精神よりも、むしろ遺伝的特性により大きく支配された作家でもあった。
〔出生と環境〕
シャーロット・ブロンテは、一八一六年四月二十一日に、イギリス北方、ヨークシャーのウェスト・ライディングで、その土地の牧師補の職についていたパトリックとその妻マライアとの間の三女として生まれた。このパトリックがアイルランドの出身であること、そして母マライアがコーンウォール(昔ローマ軍のために英国原住民が追われて行ったイングランドの最西端)出身の女であったことから、シャーロットが両親からケルト族の血を受けついでいることを、ここで先ず注意しておこう。ケルト族というのは、一般に、流暢で、激情的で、ロマンチックで、多芸多情で、詩的で、高慢であることを特徴とするといわれる。
シャーロットが四歳になる一八二〇年に、一家はホーワスに移り、ここが、いわばブロンテ一家にとっての生と死、ブロンテきょうだいのあらゆる人生ドラマの本舞台となるのであるが、それだけにまた、このヨークシャーの環境がどういうものであったかを考える必要がある。『嵐が丘』の読者なら、あるいは想像できようが、そこには、海抜二千フィートにも上る、いわゆるヨークシャー・ムアが連なっている。それは、ほとんど樹木が生えず、ヒースの生い茂っている不毛の曠野高原なのである。人間は、単純素朴、鈍重緩慢で、喜怒哀楽を容易に顔にあらわさない。このようにほとんど真っ向うから相反し合うような、遺伝的要素と環境的要素とが、いかにシャーロットの中で、相剋し、調和していたのであろうか。激しい情熱と、冷徹なストイシズムの対立、あるいは融合として、それは、『ジェイン・エア』の重要な特色を形づくるようになっていくのである。
シャーロットが五歳のとき、母親が癌のために死んだ。そのとき、八歳のマライアを始めとして、子どもたちが六人いた。シャーロットより二つ上のエリザベス、弟のブランウェル、そしてエミリーとアン。この死を契機として、母の姉、ブランウェルおばが母がわりをつとめるようになるが、彼ら子どもたちは子ども同士で、自ら別の世界をもつようになった。そしてその中で、先にいったような相反する要素の上に加わったのは、本に親しむ習慣であった。父親も母親も共に、相当の文学的素質をそなえた人間であって、もともと彼らの中には文学的な性向がうけつがれていたのでもあるが、それは母の死後、父親もおばも、しょせんは彼らとは別世界の存在であることを知るにおよび、そして、遊び仲間とてない、きょうだい同士だけの孤独さの中で、ますます助長されていくのである。しかも、それは、ただの孤独ではなかった。墓石累々たる広い墓場にとりかこまれ、常にじめじめとした不健康な空気がただよう中での孤独である。母親の死には、すでにその空気の影響があったのかもしれないが、シャーロットは、その後、相次いで二人の姉の死を経験しなければならなくなるのである。
〔教育、そして死の経験〕
一八二四年に、貧乏な牧師の教育費負担軽減の一策として、カウアン・ブリッジに牧師の娘たちのための学校が設立され、その年の七月に、ブロンテ氏は、長女のマライアと次女のエリザベスとをこの学校につれていき、ついで八月と十一月には、シャーロットとエミリーとをここへ入学させた。手もとにあるノートン版の『ジェイン・エア』に収録されている十項にわたるこの学校の入学規定を見ると、確かに費用は安かったと思われるが、非常に厳格なルールによって運営されていたことがよくわかる。そして、そこには例えば、聖書、祈祷書、並びに裁縫用具一式は必携のことだとか、生徒は全員同一の服装を着用のことだとかといったようなことがこまごまと定められていて、それから『ジェイン・エア』におけるローウッドの学校を思い出すことは極めて容易である。事実、この学校の経営者ケアラス・ウィルソンがブロックルハーストのモデルであることは、ギャスケル夫人の『シャーロット・ブロンテの生涯』以来、疑いのないところとなっているのである。子どもの心情を全く無視し、肉体的な苦痛をかえって強制するような苛酷な寄宿学校の生活が、特に体質的に繊細であったばかりか、はしか上がりで弱っていたブロンテ姉妹に堪えられようはずがなかった。マライアとエリザベスとが相次いで肺結核のために死んだ。『ジェイン・エア』の中におけるエレン・バーンズは、このマライアの肖像である。
〔白昼夢の世界〕
二人の姉を失って、残された四人のブロンテきょうだいは、その後、いよいよ彼らの白昼夢の世界に入りこむようになる。空想が孤独の世界における唯一のよりどころになるということは、よく見られることである。たまたま父親から買ってもらった木製のおもちゃの兵隊を主人公として彼らはたちまち彼らの空想の王国をこしらえた。それは、アフリカ沿岸にあって、「グレート・グラスタウン」がその中心であり、シャーロットが名づけたウェリントン公爵が、王としてそこに君臨した。四人のきょうだいは、やがて二組に分かれ、エミリーとアンは、また別にゴンダル王国をつくるようになるのであるが、シャーロットと弟のブランウェルは、更にアングリア王国をつくり、ザモーナ公とノーサンガーランド公という二人の色が黒く、情け無用の、悪魔的な魅力をもった人物をつくり出し、彼らのロマンスを、悪魔的な行為を、特にシャーロットは、ぼう大な字数の詩や散文に書きつづったのである。そして、それは彼女にとって、現実において抑圧されていた願望の存分な成就でもあったのである。しかし、その空想の世界に耽溺したままで、現実に目ざめることを知らなかったブランウェルは、当然のこととしてやがて人生の破綻を来すことになる。(この男の生涯を描いたものとして、デュ・モーリアの『ブランウェル・ブロンテの地獄の世界』という伝記小説〈一九六〇〉がある)
この遊びは、シャーロットがロー・ヘッド塾に入ったために一八三一年一月から翌年の六月にかけて中断の形となるのであるが、その一年半の在学の間に、シャーロットは、エレン・ナッシーとメアリ・テイラーという、二人の生涯の親友を見出すことになる。この親交を通して、シャーロットに関する「真実」をつかむ上において、貴重な手がかりが残されたことは特記されるべきであろう。というのは、エレンに宛てた四百通以上ものシャーロットの手紙が、彼女によって今日に残されているからである。
そして、シャーロットが、彼女の生涯における一大事件を経験するベルギーの首都ブリュッセルへ行く気持をいだいたのには、メアリ・テイラーの影響があったようである。一八四一年に、彼女は、それまでやってきた家庭教師としての仕事では、もはや生活が成り立たないことを感じ、エミリーと共同で、自分たち自身の学塾を開くことを思い立った。が、折しも、ベルギー、オランダを旅行中のメアリからの手紙に刺激されて、教師の資格取得の目的もあって、急遽エミリーと共にブリュッセルの学校へ勉強に赴くことになるのである。
〔エジェの学校〕
彼女が入ったのは、ブリュッセルにあったエジェ寄宿学校。これは、実際には、エジェ夫人が実権をもって運営していた女子教育の機関であった。エジェ氏は、また別のアテネ・ロワヤールという男子の学校の文学教師として有名であって、その仕事の合間に妻の学校へも指導に来ていた。彼は、牧師の娘として、自ら人を教えるための学業を修めにきたシャーロットとエミリーに対して、大いに同情し、特別にフランス語の指導を与えた。そのときに彼女らの書いたフランス語のエッセイのいくつかは、『ブロンテ協会会報』に収録されて、貴重な資料として今日に残っている。しかもエジェは、エミリーには音楽の教師として、シャーロットには英語の教師として学校に留まることを勧めた。ちょうどその頃、一八四二年十月に、先にいったメアリ・テイラーの妹マーサが病死した。続いて、ホワースから、ブランウェルおばの訃報が届いた。そのために彼女らは、急遽、エジェのもとを離れなければならなくなったのである。
エミリーが、このブリュッセルでの経験をどのように感じていたのか、ほとんど不明である。しかし、シャーロットは、エジェ氏を愛してしまったことに自ら気がついた。そのエジェとはどういう人間であったのか。色黒で、怒りっぽく、頑丈な、厳しい、有能な教師。しかし「小柄の黒い小男」。狂ったハイエナ的なところがある反面、親切で、馬鹿みたいに世話ずき。こういったのがシャーロットの印象であったようである。この男の中に、彼女が彼女のザモーナを見たとしても不思議ではなかった。それだけに彼女は、一八四三年一月によろこび勇んで二度目にブリュッセルを訪れるのであるが、今度はエジェの生徒としてではなく、教師としてであって、その立場の違いがもたらす現実の重味、エジェ一家の彼女に対する態度の変化、特にエジェ夫人の冷たい態度等々で、大いなる幻滅と失望とを味わわされるのである。
〔エジェとの離別ののち〕
一八四四年の元旦にブリュッセルを離れてからのち、七月頃から書かれた何通かの手紙は、彼女が、いかにエジェ氏に魅惑されていたかをよく物語っている。いく度の手紙にも何の音沙汰もなかったために、彼女はついに絶望的に書いている。エジェ宛の最後の手紙である。「あなた様にお手紙を書いてはいけない、ご返事も下さらないとなれば、私のこの世に生きるたったひとつのよろこびもおしまいでございます。……毎日毎日お手紙を待ちわび、毎日毎日失望におそわれては……食欲も睡眠もうばわれるばかりでございます――やせ細る思いでございます」(一八四五年十一月十八日付)時に、シャーロットは二十九歳。彼女の生涯におけるたった一度の真剣な熱烈な恋であった、ということができよう。そしてこの師に対する恋慕をもとにして、彼女の処女作『教授《プロフェサー》』が生まれ、ジェイン・エアとロチェスターの関係が創り出され、そして最後にその心情は『ヴィレット』に仮託されたということについては、多くを語るまでもない。
〔文学活動〕
かつての幼年時代の白昼夢が、彼女たちの文学的揺藍であったとするならば、一八四五年は、ブロンテ姉妹が、文学者としての第一歩を踏み出した年であった。彼女たちは、先ず、エミリーがそれまで秘かに書き綴ってきた詩を集め、その上にそれぞれの作品を加えて、一冊の詩集にまとめることを思い立った。その結実として『カラ―エリス―アクトン・ベル詩集』(シャーロット、エミリー、アン・ブロンテの最初の文字をとってつけられた筆名)が一八四六年五月に出版されたのであるが、売れたのはたった二冊、甚だかんばしからぬ結果であった。しかし、作品が要するに活字となったこと自体に、彼女らは大いなる刺激を感じた。そして、それから『嵐が丘』が書かれ、アンの『アグネス・グレイ』が書かれた(共に出版は一八四七年十二月)。シャーロットがエジェ寄宿学校での経験を土台として書いた『教授』は、七つもの出版社から拒まれて、ついに彼女の生存中には日の目を見ずに終わった(一八五七年に出版)。が、その次の『ジェイン・エア』は、スミス・エルダー出版社がその出版を快諾したばかりか、一八四七年十月にこれが世に出されるや否や、人気沸騰、ここにカラ・ベルの名は、一躍文学界の注目をあびることとなった。中でも当時ディケンズと並んでいたサッカレーの賛辞は彼女を満足させて余りあるものがあったにちがいない。たちまちにして第二版が出た(一八四八年一月)が、それにこの偉大な作家への献辞がついているのは、こういう事情によるものである。
シャーロットは、次いで一八四九年に『シャーリー』を出し、一八一二年のラダイト暴動事件などを取り扱った。その社会小説的特色によって、ハリエット・マーティノーや、『メアリ・バートン』という社会小説で知られ、後に彼女の伝記を書くことになるギャスケル夫人の賞賛を得る。次に『ヴィレット』(一八五三年)が書かれる。これは大衆的な人気は余りないかも知れないが、批評家によっては、シャーロットの代表作と見なされる作品である。シャーロットのブリュッセルでの経験がその題材になっている点では『教授』と同じだが、はるかにオリジナリティに富んでおり、特に女性の孤独感のとらえ方においては、抜群の真実感を伴った作品である。
〔結婚と死〕
シャーロット・ブロンテは、きょうだいの中で一番長く生き、作品を一番多く書いた。といってもそれは、せいぜい三十九年の生涯であり、作品の数といっても最後の断片『エマ』を入れ、詩集を含めても僅か六篇にすぎないのである。その間に、母、姉、妹、弟、友人、いかに多くの死を見てきたことか、そして、いかに生活のためにたたかって来たか。またいかに弟ブランウェルのために迷惑し悩んだか。一人の女性として、余りにもわびしい、辛い、薄倖な生涯であったといえるのではないだろうか。しかも女性としての愛の充足もついに感じることがなかったのではないだろうか――少くとも彼女の本性が求めていた形においては。というのは、彼女は、一八五四年六月二十九日に、ホーワスの牧師補アーサー・ベル・ニコルズと結婚するのであるが、それは、シャーロットのエジェに対する思慕、ジェイン・エアとロチェスターとの関係から考えられる男女間の愛とは、およそかけ離れた愛による結びつきであり、そこには一抹の悲哀さえ感じられてならないのである。彼女は、それまでに、二度求婚された(親友のエレン・ナッシーの兄ヘンリーからと、アイルランド出身の牧師ブライスから。共に一八三九年)ことがあるが、いずれも「強くひきつけられるもの」を感じ得る相手ではなかった。そして、一八五五年三月、結婚後わずか九ヵ月で彼女は死んだ。原因は、弟や妹たちと同じく肺結核であったということである。しかし、現代医学の眼から見れば「妊娠中過敏症」が、その一因であった、という説もある。要するに、その短かい間の結婚生活にも、何となしに淋しさが感じられるのである。
二 『ジェイン・エア』について
〔面白さの条件〕
先ず「面白さ」という小説の基本的条件に照らしてみた場合に『ジェイン・エア』はどうであろうか。先にあげたG・H・ルイスは、この作品の日頃の好評がいささか気にさわって、「クローカー(キーツの「エンディミオン」を酷評したことで有名な批評家)ばりの手きびしいこきおろしをするつもりで」これを読みにかかった。「ところが読むにつれて、わたくしたちは、評判のこと、批評のことなどすっかり打ち忘れて、困難に困難を重ねるジェインと一心同体となり、彼女がついにロチェスターと結ばれるようになったときには、朝の四時頃になっていた」つまり、さすがのきびしいルイスにとっても、この小説にはよほどの面白さが感じられたのである。
その面白さは、ルイスの批評の中に自ら語られているように、ジェインの運命に対するわれわれの期待や不安、そして共感から生ずるものであるが、同時にこのように読者を最後まで緊張状態に縛りつけ、たえず好奇心をかり立てるためには、何よりも作者のストーリー・テリングの才能がなければならないことはいうまでもない。シャーロット・ブロンテは、この点においての天才でもあった。
そして、『ジェイン・エア』独得の興味を語ろうとすれば、そのヒロインの性格・個性を第一に考えなければならない。この個性がここでは物語の面白さの原動力をなしている。あらゆる因習に反した、異常なまでに強いジェインの個性であればこそ、ゲイツヘッド、ローウッドの寄宿学校、それからロチェスター邸へとつながる彼女の遍歴はあり得るのだし、またそれが生きて来るのである。
物語に興味を与えるために、ストーリー・テリングの才能と合わせて、作者の想像力が大切なのはいうまでもない。これによって物語は真実味を与えられる。時には探偵小説もどきのサスペンスがあり、ゴシックロマンス風の謎と不気味さを感じさせるのも、シャーロット特有の想像力の働きである。しかも、それらを越えて、ユニークな真実性があるのである。『ジェイン・エア』は、その題材において必ずしも新奇ではなかった。孤児の境遇や、冷酷非道な学校教師等の問題であれば、ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』や『ニコラス・ニクルビー』にも見られることであり、この作品のいわゆる「リアリズム」の面からいえば、ブロンテ自身が強調しているように、サッカレーにその先駆的な例を見ることができるのである。しかし、シャーロットは、ディケンズともサッカレーとも異なった斬新な分野をもつ。それは何か。一言でいうならば、それは、彼女が感情の世界にリアリティを与えたということである。あるいは、彼女が個我の深淵にまで達するヴィジョンをそなえていたということである。そしてそこにおいて、普遍的、非個性なリアリティではなく、特殊な個性的な、内的世界が創造されるのである。Q・D・リーヴィスもいっているように、ジェインの実在性《ポジティヴ》こそ、人物としてオリヴァーにまさるゆえんだといえるであろう。
〔ロマンティシズムとリアリズム〕
このことは、ブロンテが散文よりも詩の領域に、よりコンジーニアルな作家であったということであり、その点で、彼女がロマン主義詩人に心酔していたことを思い出す必要があろう。
十八歳のとき彼女は、友人のエレン・ナッシーに対する読書上の助言としてあげた作家の中に、スコット、バイロン、ワーズワース等当時流行のロマン派の詩人の名前をあげている。そして十八世紀古典派のアレクサンダ・ポープに関しては、あまり高く評価していないことに注意しておこう。事実彼女は、スコットとバイロンが最も好きであった。子どもの頃のアングリア王国の英雄、ザモーナ公や、アレクサンダ・パーシがバイロニックな悪魔的魅力をもつ人物であったことは、先にものべた通りである。それが、この作品の中のロチェスターにつながることはいうまでもない。そしてスコットへの傾倒は、この作品の三十二章、三十四章を始め、ギャスケル夫人の『シャーロット・ブロンテ伝』からも十分にうかがえるのである。
だからブロンテにとっては、ロマンチックな情熱こそ、その文学の生命となるのである。人生の真実は情熱である。情熱は詩である。「詩なくして偉大な芸術家であり得るのだろうか」「情熱という人生の最高の分野」に欠けたジェイン・オースティンが、一体どうして立派な小説家たり得るのだろうか、と彼女は、オースティンをほめたG・H・ルイスに対して疑問を投げかけたのである。
しかしこれを直ちに、アングリア時代の延長だと言うべきではない。ブロンテは、その白昼夢の世界での陶酔が、危険であることを、弟ブランウェルの破滅を通して、誰よりもよくさとっていた。その焼けつくような土地を離れて、彼女は今や、「灰色に落着いた夜明けの光のさす冷静な土地」へ向かうのである。天涯孤独な、しかも不器量な、家庭教師で生活を営むという、従来のヒロインと較べると、およそヒロインらしくないジェイン・エアは、こうしたリアリズムへの覚醒によって生まれて来るのである。シャーロットは、彼女の描く主人公が、「平凡で質素」であるように、現実を飛躍しないように、「美女や上流階級の女性と結婚さえすることのないように」「アダムの子はアダムの子としての運命をもつように」ということを自らにさとした、と一八五七年につけた『教授』の序文はいっている。
ジェイン・エアも、決してシンデレラであってはならなかったのである。そこに設定された境遇から、当時の社会的条件の中において、当然予測されるような現実の苛酷さが課せられるのでなければならなかったのである。これは、すべての試練と困難と葛藤を経たのちに、めでたしめでたしの大団円となるというようなコンヴェンションを打ち破った小説である。
〔情熱と個性〕
ジェイン・エアの存在を支えるものが、因習的によく用いられていた天稟の美質だとか、読者の同情だとかいうのではなくて、その性格の積極性であり、個性の主張であることはすでにいい得たつもりである。これは、彼女が特に十九世紀イギリスの社会的風潮――無力な存在に対する偏見、賤視虐待の傾向と当然の軋轢《あつれき》を予測させる。この小説の最初の部分における陰鬱な十一月の天候、それからジェインがたどる『イギリス鳥類史』の内容が、いかに彼女の孤独さと、将来の人生における苦闘とをたくみに象徴していることだろうか。彼女は、ゲイツヘッドのリード家において、皆からの嫌われ者であった。その人生の最初から彼女は、隷属か、それとも反抗かの瀬戸際に立たされ、しかもその境遇や容貌からいって、そのいずれを選ぼうとも、妥協のないものになるであろうことを読者は感じる。そして、彼女にとっての指針となるのは、彼女の感情である。「わたしは、そこ(ゲイツヘッド・ホール)のだれとも似ていなかった。リード夫人や子どもたち、それに夫人のお気にいりの召使いたちとも、しっくり合う点がぜんぜんなかった。わたしはこの人たちに愛されていなかったが、実をいえば、わたしの方でも愛していなかったのだ」(第二章)
こういう感情への忠実さが、既成の秩序に対して破壊的であることはいうまでもない。未知の世界に対する不断の憧憬が生ずるのも当然である。恋愛感情が常識を破るのも当然である。
ジェインの心の中に不思議な、さからい難い恋愛感情をひき起こすロチェスターは、気むずかしいばかりでなく、醜男である。しかし「あばたもえくぼ」(第十七章)である。深い情熱と情熱、強い個性と個性とが感応し合った例だといえよう。これがシャーロットにとっては、恋愛の理想であったのであり、これによってエジェと自分との間の願望を充足させているのかも知れない。
このように内面的魅力を感じ得、自らもそれをそなえたジェインを、ロチェスターを間にして、イングラムと対照させることによって、作者は「美しさ」に関する因習に更に強く対抗することになる。シャーロットは、『教授』の序文にもある通り、才色兼備型のヒロインを認めないのである。傲慢で、浅薄で、虚栄心のために生きるイングラムが必ずしも美女の代表であるということを認めるわけにもいくまいが、ここでは論理の問題ではない。シャーロットは、因習の眼にはかくれていた個性を発見し、その中で秀でた才能と、激しい生命力、情熱を見出しているのである。リード家の娘の一人ジョージアナに対する彼女の軽蔑感もこういう観点から見るべきであろう。
〔自己とのたたかい〕
だが、シャーロットは、既成の秩序や、因習社会との間にだけ相剋軋轢を設定しているのではない。先にいったような現実性への覚醒と執着そのものが、すでに彼女の中に相剋を用意していたことを考えるべきであろう。そしてジェインが、現実をとびこえてはならないだけに、彼女の中にその情熱と対抗すべき要素があったと考えなければならないのである。その最たるものとしてピューリタンの道徳的|羈絆《きはん》があった。
感情や情熱が譫妄《せんもう》に陥らないようにするためには、理性と判断力の舵が必要である。この理性と判断力の指導原理として、われわれは、シャーロットの宗教的自制力を認めることができるのである。彼女は、ロチェスターとの関係において、宗教的道徳上の「掟」の挑戦をうけたとき、その強烈な感情を抑制する方を選ぶのであり、それによって、かけがえのない恋人を破滅の淵に陥れるのを辞さないのである。狂人の妻をもたされたとき以来の絶望感と、長い間の浪費からの回生の望みと、「ゴム」のような無感覚から、血肉のある人間への回復の希望を、自分の上に託している恋人を、ジェインは、その「掟」のためにふり切ってしまうのである。その「掟」に背いたところで誰一人とがめるものがいるわけではない。しかし「わたしを愛しているのは、|わたし自身《ヽヽヽヽヽ》なのだ……わたしは自分を尊敬する」(第二十七章)と、彼女の中に厳然たる声がひびくのは、いうまでもなく、結婚の規制に関して特に厳格であったヴィクトリア朝の宗教的道徳律に対するシャーロットの服従を意味する。例え狂っているにしても、妻のある男との結婚は許されないのである。宗教的な掟の至上命令を知らない今日の読者の感覚には、ジェインにおけるこのコンフリクトは、滑稽なくらい仰々しく、また歯がゆく感じられるかもしれない。
しかし、宗教が羈絆ではあり得たとしても、もしそれが、愛情や情熱を人間の重要な部分として存在することを認めないような、ストイシズムを前提とするものであるならば、それはシャーロットの本質に対立するものである。ブロックルハースト氏、セント・ジョン・リヴァーズに対するジェインの態度を通してそれがあらわされている。
ジェインがセント・ジョン・リヴァーズの宗教的呪縛にかかることはあったかも知れない。しかし、彼女が「一家団欒の中にあって……冷たくて、ぶざまな円柱」(第三十四章)を彼に感じるとき、そのイメージは、かつて「黒い柱」のように彼女の眼に映ったブロックルハーストの黒衣の硬直な姿と全く同じように感じられる。つまり高尚な宗教的使命はあるが人間性はない。たとえ尊敬はできたとしても愛することはできない。そのセント・ジョンの妻になることを想像して、ジェインはこう考える。「わたしは……生命の火を……からだの内部で燃やすようにしなければならないばかりか、その閉じこめられた炎が生きるために必要な器官をつぎつぎにやきつくしても、声一つあげることができないのだ――|こんな生活《ヽヽヽヽヽ》には、とても堪えることができない。」(第三十四章)。こうして、シャーロットは、宗教という仮面の奥のエゴティズムをとりだして示しているのである。Q・D・リーヴィスも指摘しているように、そこには、エミリー・ブロンテの嵐が丘と、スラッシュクロス・グレンジとの対照に比すべきものがある。そして、ここでもし、シャーロットの宗教感覚を考えるとするならば、われわれは、ジェインのヘレン・バーンズに対する共感からそれをうかがうことができるであろう。つまり教理的というよりは情緒的心情的であるということである。
明らかにこういう宗教的な教訓にそって、『ジェイン・エア』の結末は設定されているように思える。ジェインとロチェスターとの結婚が可能になるためには、狂った彼の妻は死ななければならなかったし、彼は、神の世界を見ることのできる人間に昇華されなければならなかった。ソーンフィールドを崩壊させた火は、額面通りに死と生とを象徴する。そして、彼の失明は第三十七章の内容からうかがえるように、彼の神への敬虔の眼を開かせたといえよう。これはあたかも、最初の章の『イギリス鳥類史』によって象徴されたはげしい風波を経たのちの静謐《せいひつ》といえよう。こういう慎ましい、飛躍のない生活、それが最も現実らしい現実に近づこうとしたシャーロットのとったひとつの形であったのである。
〔社会的役割〕
最後に、この作品が副次的に生み出した重要な問題がある。
ジェイン・エアは、先にもふれたように、その生涯のすべての段階において拘束からの解放、自由を渇望して止まない女性である。それは、彼女が女性として感じる拘束であり、女性として希求する解放である。第十二章にあるようなジェインのプロテスト――女はおとなしいものだというのが通念だが、感じる力も、才能をのばしたい欲望も男と同じだし、同じように努力もしたい。因習に反抗して行動したり、学んだりする女性を見て、けなしたり、物笑いにするのは心がなさすぎるというものだ、というプロテストは、特にその当時として、大胆な発言であり、重要な社会的問題の提起でもあった。そして上にのべたような情熱も、結局はこの自由を得ようとする情熱であり、事実、彼女は、セント・ジョンからも、ロチェスターからもその自由を獲得したということになるのである。
シャーロット・ブロンテが果して社会的意図をもって、この作品を書いたかどうかは別問題である。社会の片隅で見出されたような平凡より以下の女性の中における強烈な個性を描き、それが周囲の因習や偏見と激しく衝突し合うとき、そこには自ら時代に先がけた婦人の自由の主張という社会的に重要な役割が伴なったのである。因《ちなみ》に、J・S・ミルの婦人解放の書『婦人隷属論』(あるいは『女性の解放』)が出たのは一八六九年、『ジェイン・エア』の二十二年後である。 (松村昌家)
〔訳者略歴〕
大井浩二(おおい・こうじ) 一九三三年高知県生まれ。大阪外国語大学教授、神戸女学院大学教授を経て、現在、関西学院大学文学部教授。アメリカ文学専攻。主要著書『アメリカ自然主義文学論』『ナサニエル・ホーソン論――アメリカ神話と想像力』『美徳の共和国――自伝と伝記のなかのアメリカ』『ホワイト・シティの幻影――シカゴ万国博覧会とアメリカ的想像力』『手紙のなかのアメリカ――「新しい共和国」の神話とイデオロギー』『アメリカ伝記論』『センチメンタル・アメリカ――共和国のヴィジョンと歴史の現実』。訳書にホーソン『緋文字』、ブルース・J・フリードマン『マザーズ・キス』、ヘミングウェイ『危険な夏』、ソール・ベロー『フンボルトの贈り物』など。