ジェイン・エア(上)
シャーロット・ブロンテ作/大井浩二訳
目 次
一章
二章
三章
四章
五章
六章
七章
八章
九章
十章
十一章
十二章
十三章
十四章
十五章
十六章
十七章
十八章
十九章
二十章
二十一章
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
ジェイン・エア……小柄で、やせて、青白く美人とはいえないが、すぐれた才能と知性を持つ個性の強い女性。幼いころ孤児となり、ゲイツヘッドの伯父の家に引きとられるが、冷遇を受けローウッド慈善院に追いやられる。十八歳で家庭教師についた屋敷でロチェスターとの運命的な出会いが始まる。
セアラ・リード……ゲイツヘッドの女あるじ。ジェインの伯父の未亡人。ジェインを引きとった夫との約束にもかかわらず彼女を邪険にあつかい、我が子たちを盲愛する。
ジョン、イライザ、ジョージアナ……リード夫人の子ども。
ベシー・レヴン……リード家の召使い。
ブロックルハースト……ローウッドの理事長。独断にこりかたまった偽善者。
マライア・テンプル……ジェインが敬愛する美しいローウッドの院長。
ヘレン・バーンズ……同院の上級生。
エドワード・ロチェスター……ミルコート一帯の地主。英知と熱情をそなえた中年紳士。仕組まれて彼は不幸な結婚をしている。
フェアファックス夫人……ロチェスター家の家事をとりしきる召使い。
アデール……ロチェスターが後見をしているパリ生まれのみなし児。
バーサ・メイスン……ロチェスターの狂人の妻。
セント・ジョン・リヴァーズ……モートンの旧家出の牧師。宣教師を天職として全うする冷静で強い意志を持つアポロのような美男。のちにジェインといとこ同士であることがわかる。
ダイアナ メアリー……セント・ジョンの妹。
ロザモンド・オリヴァー……同地一帯の地主の娘。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
一章
その日は、散歩などとてもできそうになかった。午前中に一時間、みんなで落葉した灌木の林をぶらついたことはたしかだが、昼食《ディナー》のあとは(来客のないときのリード夫人は、食事を早くすませるのだった)、冬のつめたい風が陰欝な雲や、身にしみとおる雨を吹きおくってきたため、屋外の運動をつづけるなど、まったくの論外となってしまった。
わたしはほっとした。ながい散歩、それも底冷えのする午後のながい散歩は大の苦手だったし、冷えびえとしたたそがれ時に家路につくのは、いやでいやでたまらなかった。手足の指はかじかむし、保母のベシーにはがみがみいわれて胸のなかは切なくなるし、リード家のイライザやジョンやジョージアナには体力的に劣ることを思い知らされて、みじめな気持ちになるばかりであったからだ。
そのイライザとジョンとジョージアナは、いま客間で、母親《ママ》にまつわりついている。夫人は炉ばたのソファにゆったりとよりかかり、三人の愛児にかこまれて(このときばかりは、喧嘩もしなければ泣き声も聞こえてこない)、この上なく幸福そうな表情である。だが、このわたしは夫人に爪はじきされ、仲間にいれてもらえない。わたしをじゃま者あつかいしなければならないのは残念だが、わたしがもっと打ちとけた、子どもらしい性質と、もっとかわいらしくて、はきはきした態度――いってみれば、もっと明るくて、素直で、自然なものを身につけようと一生懸命になっていることを、ベシーの口から聞かされるなり、夫人自身の目でたしかめるなりするまでは、不平不満のない、幸福な子どもにだけさずけられている特権のおこぼれにあずからせてやるわけにはゆかない、と夫人はいうのだった。
「あたしのことを、ベシーがなんて告げ口したんです?」とわたしはきき返した。
「ジェイン、あたしゃね、理窟をこねたり、文句をいったりする人間はきらいだよ。それに、おまえみたいに目上の者にからんだりする子どもなんて、ほんとにいけすかないからね。どこかへ行って、おとなしく坐っといで。ちゃんとした口がきけるようになるまで、ものをいうんじゃないよ」
客間のとなりに朝食用の小部屋があったが、わたしは、そこへこっそりもぐりこんだ。そこには本棚があった。やがてわたしは、挿し絵のいっぱいはいっている本を一冊選んで、引っぱり出した。それから、窓の下の腰掛けによじのぼると、両足を身近かに引きよせ、回教徒みたいに足を組んで坐った。赤い厚手の毛織りのカーテンをからだがかくれるあたりまで引っぱると、周囲からは二重に隔離された格好になった。
真紅のカーテンのひだで、右手の視野は完全にさえぎられていたが、左手はぴかぴかの窓ガラスなので、わたしは荒涼たる十一月の外気から守られると同時に、それに接することもできた。ときおり、本の頁をくりながら、わたしは午後の冬景色をじっと見つめた。遠くには、一面にぼんやりとかすむ霧と雲。近くには、ぬれた芝生と暴風雨に打たれた灌木の眺め。やみなしにふる雨が、吹きつづける悲しげな突風にはげしく追いたてられている。
わたしは本に目をうつした――トマス・ビュイック(一七五三―一八二八。イギリスの木版彫刻家)の『イギリス鳥類史』(一七九七年刊)だった。全体的にいって、この本の活字の部分には、あまり興味はなかったが、序文のなん頁かは、おさな心にもまったくの白紙あつかいはできない思いがしていた。それは、海鳥の棲息地、つまり海鳥だけが棲息している「わびしい岩場や」、大小の島々が点在するノルウェー海岸を、最南端のリンデネス岬、別名ネイズ岬からノース岬(ノルウェーの最北端)にかけてあつかっている部分であった――
[#ここから1字下げ]
その地方では、北海が大渦となって
極北の地の、陰欝な裸の島々のまわりに
わきかえる。大西洋の大波は
風荒きヘブリディズ島になだれこむ。
(イギリス詩人ジェイムズ・トムソンの『四季』から。ビュイックに引用されている)
[#ここで字下げ終わり]
それに、ラップランド、シベリア、スピッツベルゲン、ノヴァ・ゼンブラ(ともに北氷洋上の島)、アイスランド、グリーンランドなどの荒涼とした陸地を描写する一文、「北極地帯の広大な土地、陰欝な空間のひろがる人跡未踏の地域――数百年にわたる冬期の堆積ともいうべき凍結した氷原が、アルプスの二倍、三倍の高さになって極点をとりかこみ、極寒の数知れない困難が集中している、雪と氷の貯蔵庫」なども素通りにはできなかった。このような死の色をした銀世界について、わたしはわたしなりのイメージを抱いていた。それは、一般に子どもの頭のなかにおぼろに浮かぶ中途半端な概念と同じで、まことにあいまいなイメージであったが、奇妙に印象に残っている。こうした序文の文章は、あとにつづく挿し絵と関連があり、しぶきをあげる大海原にぽつねんとつき出した岩、さびれた海岸に打ちあげられた廃船、沈没寸前の難破船を雲間から照らしている青白く凍てついた月の絵などを意味ぶかいものとしていた。
人っ子ひとりいない墓地、碑名を刻んだ墓石、墓地の入り口、二本の木、くずれた壁でとりかこまれた低い周囲、夕暮れどきであることを示す、顔をのぞかせたばかりの三日月などを描いた絵に、どのような情趣がまつわりついていたのか、いまのわたしには知るすべもない。
べた凪《なぎ》の海で船足のとまった二隻の帆船を、わたしは幽霊船だと信じていた。
泥棒の背おった荷物の上に悪魔がでんとあぐらをかいている絵(そういった内容の昔話がある)は、大いそぎで通りすぎた。見るも恐ろしかったからである。
角をはやした黒いものが、岩の上にどっかりと腰をおろして、はるか足下の絞首台に押しかけた群衆を眺めている絵も、同じようにこわかった。
どの絵にも物語があった。わたしの未発達な理解力や不完全な感情からすれば、神秘的であることが多かったが、それでもまことに興味津々たる物語で、ときたまベシーがしてくれる冬の夜話にまさるとも劣らないおもしろさがあった。ご機嫌がいいときのベシーは、子供部屋の炉ばたへアイロン台をもってくると、そのまわりにわたしたち一同を坐らせ、リード夫人のレースのふち飾りにアイロンをかけたり、ナイトキャップの|へり《ヽヽ》にフリルをつけたりしながら、昔からのおとぎ話や、もっと古くからの民謡、さらには(あとになって判明したことだが)『パメラ』(サミュエル・リチャードソンの小説。一七四〇年刊)や『モアランド伯ヘンリー』(一七六六年に出版されたヘンリー・ブルックの原作を、ジョン・クェズリーが改作して、一七八一年に刊行)などからとった愛と冒険の物語を、熱心に耳をすましているわたしたちに聞かせてくれたのである。
ビュイックの本を膝にのせたまま、わたしは幸福にひたっていた。すくなくとも、わたしなりに幸福であった。ただ、じゃまがはいることだけが心配であったのだが、そのじゃま者は意外に早くやってきた。わたしのいる朝食室のドアが開いたのだ。
「わあっ! ふさぎ屋め!」とジョン・リードのどなる声が聞こえたが、一瞬、静かになったのは、部屋ががら空きらしいのに気づいたためである。
「あいつめ、どこへ行きやがったかな?」とジョンがつづけていった。「リジー! ジョージー!」(と妹たちに声をかけてから)「ジェインのやつ、ここにいないぞ。ママにいいつけてやれよ、雨降りに外出しやがったって――ひでえ野郎だ!」
「カーテンを引いてあって、よかった」とわたしは思った。そして、このかくれ場所がジョンに見つかりませんように、と懸命に祈っていた。たしかに、ジョン一人なら、見つかるはずもなかったにちがいない。目ざとくもなかったし、頭の回転がいいわけでもなかったからだ。だが、ドアから顔をのぞかせたイライザは、即座にこういった。
「あの子、きっと、窓の下の腰掛けよ、ジャック(ジョンの愛称)」
わたしは、すぐに出て行った。ジャックに引きずり出されると思っただけで、身がすくんだからである。
「なにか用?」わたしはおどおどして、ためらいがちにきいた。
「『なにかご用ですか、リードの坊ちゃま?』というんだ」という返事がかえってきた。「こっちへきてみろよ」
ジョンはひじかけ椅子に腰をおろすと、自分のまえにきて立て、という合図をした。
ジョン・リードは小学生で、十四歳だった。まだ十歳のわたしよりは、四つ年上というわけ。年齢の割には大柄で、肥満児だった。皮膚の色は悪く、不健康そのもの。のっぺりした顔に、しまりのない目鼻がつき、四肢はずんぐりして、手や足は馬鹿でかい。いつも満腹になるまで食事をとっているため、胆汁障害を起こし、目がどんよりとかすんでいる上に、頬の肉はたるんでいる。いまごろ学校に行ってないのはおかしいのだが、「虚弱体質」を理由に母親が家へつれもどってから、一ヵ月か二ヵ月はたっている。学校のマイルズ先生は、家から送ってくるケーキやキャンデーの量が減れば、きっと健康になりますよ、といっているのだが、そのようなきびしい意見に耳をかさないのが、母親の情というものであり、ジョンの血色の悪さは、勉強のしすぎと、ひょっとしたらホームシックのせいかもしれないという、もっとお上品な口実のほうを取りたがっていた。
ジョンは母親や妹たちに対して、それほど愛情をもっているわけでもなく、わたしに対しては、はっきり敵意を抱いていた。わたしはおどされたり、なぐられたりしたが、それも週に二、三回とか、日に一、二回といった程度ではなく、のべつ幕なしというありさまであった。わたしの全神経はジョンを恐れ、わたしの骨についている肉という肉はすべて、ジョンが近くにくるとちぢみあがってしまう。ときには、ジョンによってかき立てられる恐怖感のために口がきけなくなることがあったが、それはおどしや乱暴に対して泣き寝入りしなければならなかったからである。若主人の不興を買ってまでも、わたしの肩をもとうとする召使いはいなかったし、この問題に関して、リード夫人は知らぬ、存ぜぬの一点ばり。わたしをぶつジョンの姿は、夫人の目にはいらなかったし、わたしを毒づくジョンの声は、夫人の耳に聞こえなかった。夫人の目をぬすんでやる場合が多かったとはいえ、目のまえで堂々とわたしをぶったり、毒づいたりすることもときおりはあったのだけれど。
いつもいいなりになっているわたしは、ジョンの椅子のまえにすすみ出た。ジョンは三分間ばかり、舌のつけ根を痛めもせずに、思いきりあかんべえをしてみせた。やがてなぐりかかってくることは、わかっていた。わたしは、恐れおののきながら、いまにも一撃を加えようとする相手の醜悪な顔にじっと見いっていた。そんな思いが、わたしの顔から読みとれたのだろうか、ジョンは、ものもいわず、だしぬけに、いきなり力いっぱい打ちかかってきた。わたしはよたよたとなったが、バランスを取りもどすと、相手の椅子から一歩か二歩、あともどりをした。
「いまのは、ちょっとまえ、ママに横着な口返事をした罰だぞ」とジョンはいった。「それに、カーテンのかげにこそこそかくれていた上、二分ばかりまえに、変な目つきをした罰だ。このネズミ野郎め!」
わたしはジョン・リードの悪口雑言にはなれっこになっていたし、それに応酬しようなどとは夢にも思わなかった。どうすれば、この侮辱的な言葉のあとにつづく拳骨をがまんできるか、そればかりを考えていたのである。
「カーテンのかげで、なにをしてたんだよお?」とジョンがきいた。
「本を読んでました」
「その本を見せてみな」
わたしは窓ぎわに引きかえして、例の本をもってきた。
「おれたちの本を読む権利なんか、おめえにはないんだぜ。おめえは居候《いそうろう》だって、ママがいってたぞ。おめえは文なしだろ。おめえのおやじの遺産なんて、ゼロだもんな。おめえは乞食をしてて当然。おれたちみたいな、生まれのいい子どもたちとこの家で暮らして、おれたちと同じ飯をくったり、ママの買った着物をきたりするなんて、そもそもおかしいのさ。さあ、おれの本棚を引っかきまわした罰に、痛い目にあわしてやる。本棚は、|はっきり《ヽヽヽヽ》おれのものなんだから。この家のなかのものは、ぜんぶおれのものだ。二、三年でそうなることは、たしかなんだ。ドアのそばへ立つんだ。鏡と窓からははなれてな」
わたしは命令にしたがった。はじめはジョンの目的がわからなかったが、例の本を構えて投げつけようとしている姿が目にはいったとき、わたしはあっと悲鳴をあげて、本能的にとびのいた。だが、すでに手おくれであった。飛んできた本が命中し、わたしは倒れた。頭がドアにあたって、切れた。傷口から血がでて、激痛が走った。わたしの恐怖心は峠をこし、ほかのさまざまの感情がわきあがってきた。
「いじめっ子の、乱暴者!」とわたしはいった。「あんたなんか、人殺しみたい――奴隷をこき使う監督みたい――ローマの皇帝みたい!」
わたしはオリヴァー・ゴールドスミス(一七二八―七四。イギリスの詩人・小説家・劇作家)の『ローマ史』(一七六九年刊)を読んで、ネロ(三七―六八。ローマ皇帝)やカリギュラ(一二―四一。ローマ皇帝)などの暴君に関するわたしなりの意見ができあがっていた。それに、この暴君たちとジョンとの対比を、心ひそかに試みたこともあったのだが、このように口外してしまおうとは、夢にも思っていなかった。
「なんだと! なんだと!」とジョンはどなった。「あいつ、そんなことを、おれにむかっていったのだな? イライザもジョージアナも聞いたな? ママに絶対いいつけてやる。だがな、そのまえに――」
ジョンは、まっしぐらに突っかかってきた。わたしは、髪の毛と肩がひっつかまれるのを感じた。ジョンにつかみかかられたわたしは、死にもの狂いになって応戦した。わたしの目には、ジョンが、暴君そのもの、人殺しそのものにうつった。血が一、二滴、頭から首筋にしたたり落ちるのがわかり、かなりの激痛をおぼえた。この痛いという感覚が、一時的に恐怖心を上まわったため、わたしは半狂乱になって、ジョンに立ちむかった。両手がなにをしでかしたか、よくはおぼえていない。だが、ジョンはわたしのことを「ネズミ野郎めが! ネズミ野郎めが!」とののしり、大声でわめきちらしていた。そのジョンには、すぐに味方がやってきた。イライザとジョージアナが、二階にあがっていたリード夫人を呼びに駆けて行ったため、ベシーと、小間使いのアボットをつきしたがえた夫人の登場とあいなったのだ。わたしたちは引きわけられた。わたしの耳にはいった言葉――
「まあ、まあ! ジョン坊ちゃまにとびかかるなんて、なんてお転婆なんでしょ!」
「こんな、かんしゃくを絵に描いたような子、見たことないわ!」
つづいて聞こえたリード夫人の言葉――
「この子を、|赤い部屋《レッド・ルーム》につれてって、閉じこめておしまい」
わたしのからだは、あっという間に四本の手でひっつかまれ、二階へはこび去られてしまった。
[#改ページ]
二章
わたしは、途中ずっと暴れつづけた。そんなことは、わたしとしては、はじめての経験だったが、ベシーやアボットがわたしに対して抱いている悪感情に拍車をかける結果になってしまった。実をいうと、わたしはすこし取り乱していた。というよりも、フランス人流に、われを忘れていた、というべきかもしれない。一瞬の反抗のために、思いがけない刑罰をうける羽目になったことを知ったわたしは、暴動をくわだてた奴隷と同様、捨て鉢な気持ちから、毒くわば皿まで、の心境になっていたのである。
「この子の腕をおさえててよ、アボットさん。気ちがい猫もいいとこよ」
「ほんとに、しようのない子ねえ!」と小間使いは大声でいった。「男の子を、しかも恩人の坊ちゃんをぶつなんて、エアさん、あんたも大変なことをしでかしたものよねえ! 若だんなさまじゃないのよ!」
「だんなさまだって! あの子が、あたしのだんなさまだっていうの? あたしは召使いなの?」
「とんでもないわよ。あんたなんか、召使い以下よ。働かずに食べてるんだもの。ほら、そこに坐って反省しなさい」
そのときにはもう、二人はわたしをリード夫人にいいつけられた部屋へつれてきていた。椅子へ無理に坐らされたわたしは、バネ仕掛けのように、発作的にとびあがろうとしたが、二人の両手がわたしをさっとつかまえてしまった。
「おとなしく坐っていないと、しばりつけますよ」とベシーがいった。「アボットさん、あんたのガーターをかしてよ。あたしのじゃ、すぐに切れてしまいそう」
アボットはむこうをむくと、わたしをしばるための|ひも《ヽヽ》を、ふとい脚からはずしはじめた。いましめの|ひも《ヽヽ》が用意されていることや、それが屈辱に輪をかけることを知って、わたしの興奮もすこしばかりおさまった。
「ガーターなんか、はずさないで」とわたしは叫んだ。「じっとしてるから」
その証拠を示すために、わたしは両手で椅子にしがみついた。
「ほんとに、じっとするわね」とベシーがいった。わたしが言葉どおりにおとなしくなったことをたしかめてから、ベシーはわたしを押さえていた手をゆるめた。それから、ベシーとアボットは腕組みをして立ったまま、わたしの正気が信じられないかのように、陰気な、疑わしげな目つきで、わたしの顔を眺めまわしていた。
「まえには、こんなことはなかったのに」やがてベシーは、小間使いのほうにむきなおって、そういった。
「でも、猫をかぶってたのよ」と小間使いは答えた。「あたしは、この子について思ってることを、奥さまになん回も申しあげたけど、奥さまもあたしと同じ意見だったものね。この子は、こすっからい小娘だよ。この年で、こんなにすれた女の子には、お目にかかったことがないわ」
ベシーは返事をしなかったが、やがて、わたしにむかってこういった。
「ねえ、奥さまのお世話になってることを忘れたら駄目。あなたを養っていてくださるんだから。奥さまに追い出されたら、施設にはいらなきゃならないのよ」
こういって聞かされても、わたしにはなにもいうことがなかった。はじめて耳にする話でもなかったし、もの心がつくかつかないころにも、この手のことがくりかえしほのめかされていたことをおぼえている。居候のわが身を非難する言葉は、わたしの耳には単調なお経の文句みたいになっていたが、いかにもつらく切ない文句でありながら、その意味は半分もわかっていなかった。アボットが口をはさんだ――
「それにさ、お嬢さまや坊ちゃんたちと対等の身分だなんて、思っちゃ駄目よ。おやさしい奥さまが、ご自分のお子たちといっしょに育ててくださってるからといってもさ。ここのお子たちは大金持ちになるけど、あんたはいつまでも文なしだものね。ひかえ目にふるまって、あのかたたちの気にいられるようにするのが、分相応というものよ」
「あたしたちがあれこれいうのも、あなたのためを思ってのことよ」とベシーがいや味のない声でつけ加えた。「役に立つ、いい子だっていわれるようになさいな。そうすれば、いつまでもこの家に置いてもらえるかもしれないよ。でもね、かんしゃくを起こして、乱暴したりすると、奥さまに追い出されてしまいますからね、きっとよ」
「それにさ」とアボットがいった。「天罰だってあたるわよ。この子は、暴れてるさいちゅうに、神さまに打ち殺されるかもしれないわね。そのときは、どこへ行くことになるかしらね? さあ、ベシー、この子をほっといて行きましょ。この子みたいな根性、あたしならまっぴらだわ。エアさん、一人になったら、お祈りすることね。反省しないと、煙突からおりてきたこわいものに、さらわれてしまいますよ」
二人はドアを閉めて鍵をかけると、行ってしまった。
|赤い部屋《レッド・ルーム》は来客用の寝室で、使われることはめったになかった。いや、絶対になかった、といってもよい。なにかの拍子にゲイツヘッド・ホールに客が殺到して、屋敷の部屋という部屋を総動員しなければならないときは別だったけれども。とにかく、これは屋敷のなかでいちばん広く、いちばん立派な寝室であった。ふとい、どっしりしたマホガニー材の柱でささえられたベッドには、真紅のダマスク織りのカーテンがかかり、それが部屋の中央に鎮座しているさまは、天蓋のついた祭壇を思わせた。よろい戸をおろしっぱなしの二つの大きな窓は、同じ布地の花綱と掛け布のために半分しか見えない。カーペットの色は赤で、ベッドの足元にあるテーブル掛けも深紅色。壁はソフトな、うすい黄茶色で、ピンクがかっている。洋服だんす、化粧台、椅子の類いも、黒々とみがきあげた古いマホガニー製だった。こうした周囲の濃厚な色調のなかで、ベッドの上に山とつんだマットレスや枕だけが、雪のように白いマルセーユ織りのカバーをかけられて、ぽっかりと浮かびあがり、純白に光り輝いている。これに劣らず人目をひいたのは、ベッドの枕元にあるクッションつきのゆったりした安楽椅子だったが、これまた純白で、そのまえに足台もついている。白い玉座みたい、とわたしは思った。
この部屋は、めったに火をたかないせいで、冷えきっていた。子供部屋や台所から遠いため、静まりかえっていたし、人の出入りがまれであることがわかっているせいか、おごそかな趣きもあった。女中だけが土曜日ごとにやってきて、鏡や家具から一週間分の目だたないほこりをはらっていた。リード夫人自身は、ほんのときたま思いだしたように姿を見せて、洋服だんすの秘密の引き出しにしまってあるものを調べたが、そこにはいろんな証書類、宝石箱、夫人の亡き夫の細密画などがしまってあった。そして、この夫人の亡き夫という言葉のなかに、|赤い部屋《レッド・ルーム》の秘密が――この部屋に豪奢さとはちぐはぐなわびしさをただよわせている魔力がひそんでいるのである。
リード氏は九年まえに死んでいたが、そのリード氏が最後の息を引きとったのは、この部屋であったし、正装した遺骸が安置されたのも、ひつぎが葬儀屋の者にはこび出されたのも、すべてこの部屋であった。その日からというもの、この部屋には陰欝な聖域といった雰囲気がただよっていて、足を踏みいれる者もまれになってしまった。
ベシーといじわるのアボットが、わたしを釘づけにしていった椅子は、大理石の|暖炉の前飾り《マントルピース》のそばにある低い長椅子だった。目のまえには、例のベッドが高くそびえ、右手には、背の高い、黒光りのする洋服だんすがあって、その鏡板の光沢が、やわらかい不規則な反射光線のために変化して見える。左手には、よろい戸のおりたままの窓。二つの窓のあいだには、大きな姿見があって、がらんどうの豪華な寝室をうつし出している。わたしは、あの二人がドアに鍵をかけたかどうか、ふたしかだったので、立ちあがる元気が出ると、さっそくたしかめてみた。やっぱり鍵はかかっている。これほどに頑丈な牢獄はないといってもいい。もどりぎわに、姿見のまえを通らねばならなかった。わたしの目は、魅せられたかのように、思わず鏡の奥底に見いった。そのうつろな幻影の世界では、すべてが現実世界よりも冷たく暗かった。鏡のなかからわたしをじっと見つめている変てこな子どもの姿は、顔と腕を暗がりにしらじらと浮かびあがらせ、一面が静まりかえったなかで恐怖にらんらんと輝く目を動かしていたが、それは正真正銘の亡霊という感じであった。わたしの印象では、ベシーの夜話のなかで、|しだ《ヽヽ》のはえた、さびしい荒野の谷間からやってきて、行きくれた旅人の目のまえに姿を見せることになっている、妖精とも小鬼ともいえる小さな化け物のように思われた。わたしは、もとの椅子に腰をおろした。
この瞬間、わたしは迷信にとりつかれてしまった。だが、まだ完全にいいなりになったわけではない。わたしの血はいぜんとして煮えたぎっていたし、あの暴動をくわだてた奴隷にも似た気分のために、わたしはまだまだ強烈な興奮状態に置かれていた。現在のみじめな状況にすくみあがるまえに、奔流のように押しよせる過去の記憶をせきとめねばならなかったのだ。
ジョン・リードの横暴な暴君ぶり、姉妹の高慢ちきな冷淡さ、母親のみせる嫌悪の表情、召使いたちのとるえこひいきな態度――なにもかにもが、にごりきった井戸のどす黒い沈殿物みたいに、わたしのかき乱された心のなかにわきあがってきた。わたしがたえず苦しみ、たえずおどされ、たえず非難され、いつまでも悪者にされるのは、いったいなぜなのか? なぜわたしは人に気にいられることができないのか? 他人の好意を得ようとしては失敗するのは、いったいなぜだろうか? イライザは、強情なわがまま娘なのに、みんなから尊敬されている。ジョージアナは、甘やかされ、度しがたい意地悪で、あげ足とりばかりする横着者なのに、だれからも大事にされている。ジョージアナの美しさや、ピンク色の頬や、金色のカールが、見る人すべてに好感をあたえるため、いたずらをしても、そのたびに大目にみてもらえるのかもしれない。ジョンは鳩の首をしめたり、くじゃくの雛《ひな》を殺したり、羊に犬をけしかけたり、温室のぶどうの実をちぎったり、温室にある最高級の植物からつぼみをもぎとったりしたが、罰を加える者はおろか、さからう者さえもいなかった。ジョンは母親を「ばばあ」呼ばわりすることもあるし、自分と同じように色黒の母親の悪口をいって、その頼みなどには鼻もひっかけない。絹のドレスを破ったり汚したりするのは、いつものことだった。それでも、ジョンは母親にとっては、「あたしのかわいい息子」なのだ。わたしは失敗のないようにつとめ、いいつけられたことはちゃんと守るようにしている。それなのに、わたしは朝から昼まで、昼から晩まで、生意気な子、うるさい子、ぶあいそうな子、ずるい子といわれっぱなしなのだ。
なぐられた上にころんだので、わたしの頭はまだずきずき痛み、血も流れている。ジョンがわたしを気まぐれになぐりつけたのに、だれもとがめなかった。いわれのない暴力をさけようとして、わたしがジョンにはむかってゆけば、周囲からいっせいに非難をうけることになる。
「不公平よ! 不公平だわ!」とわたしの理性はいった。苦悩という刺激の働きで、一時的におとなびた口をきく力をさずけられたのである。「決意」もまた、同じようにかき立てられて、しのびがたい圧迫から逃げだすための、なにか新手の方法――たとえば、家出をするとか、それが無理なら、死んでしまうまで飲み食いをいっさいしないとかいった方法を取れ、とそそのかすのだった。
この暗い午後、わたしの魂は、混乱のきわみに達していた! わたしの頭のすべては激動し、わたしの心のすべては蜂起していた! だが、この内なる戦いは、なんという暗黒、なんという度しがたい暗愚のなかで戦われたことか! わたしは、内奥から休みなくくりかえされる問いかけ――|なぜ《ヽヽ》わたしがこのように苦しまねばならないか、という問いかけに答えることができなかった。時間的な距離をおいたいま――なん年たったかは明記しないとしても――わたしには、その理由がはっきりとわかっている。
わたしはゲイツヘッド・ホールの不協和音的存在であったのだ。わたしは、そこのだれとも似ていなかった。リード夫人や子どもたち、それに夫人のお気にいりの召使いたちとも、しっくり合う点がぜんぜんなかった。わたしはこの人たちに愛されていなかったが、実をいえば、わたしのほうでも愛していなかったのだ。だれとも心がかよいあわない人間に、この人たちが愛情をかけねばならない道理はなかった。気質や能力や性癖の点で正反対の変わり者。役たたずの上に、ご機嫌うかがいもできない余計者。この人たちのあしらいに対しては怒りの芽を、意見に対しては軽蔑の芽を心にひめている有毒分子。それが、わたしだった。わたしが陽性で、才気があって、むとんじゃくで、おねだりをして、かわいらしい、とびはねる女の子だったら――寄るべのない食いかかり者である点には変わりないにせよ――リード夫人も、もっと気持ちよく、わたしの存在にがまんしてくれたにちがいないということを、いまのわたしは知っている。子どもたちも、もっとうちとけた仲間意識を発揮してくれたかもしれないし、召使いたちにしても、わたしを子供部屋の「身代りの子羊」(旧約聖書、レビ記、第十六章第二十二節)に仕立てあげることは、あまりなかったかもしれないのだ。
|赤い部屋《レッド・ルーム》の日ざしがかげりはじめた。四時をすぎて、雲のたれこめた午後は、陰欝なたそがれ近くになっていた。まだ休みなく階段の窓に打ちつけている雨の音や、ゲイツヘッド・ホールの裏手の林で吹き荒れている風の音が聞こえる。わたしのからだは刻一刻と、石のように冷たくなり、意気消沈するばかりである。例によって例のごとくの屈辱感や自己不信やみじめな絶望感が、消えかかった激怒の燃えさしに水をかける。いけない女の子だとみんなはいうが、やっぱりそうなのかもしれない。たったいま、断食をして死んでやろうなどと、とてつもないことを考えていた。あれは、疑いもなく、罪悪になる。それとも、わたしはいま、死にかけているというのだろうか? ゲイツヘッドの教会の聖壇所の地下にある納骨堂が、わたしを招き寄せている休息の場なのだろうか? その納骨堂には、リード氏が葬られているという話を聞いている。ここで、連鎖反応的にリード氏のことが頭に浮かんできて、恐怖がつのる一方であるのに、ほかのことは考えられなくなってしまった。わたしはリード氏を記憶していない。ただ、氏がわたしと血のつながりのあるおじ、つまり、母の兄であって、両親を失ったわたしをゲイツヘッド・ホールに引き取ってくれた上、いまわのきわに、わたしを実子として養育するという約束を夫人にさせたことは、わたしも知っていた。リード夫人は、この約束を破ってはいないと思っているだろうし、夫人の性格の許す範囲内ではたしているといえるかもしれない。だが、血のつながらない、夫の死後はなんのゆかりもなくなってしまった余計者を、ほんとうに好きになれというのは無理なことである。かわいくもない他人の子どもの親代りになるという、いやおうなしの約束に身をしばられ、気心のしれないよそ者に、いつまでも一家の団欒に割りこまれる羽目になった夫人としては、まことにうんざりする思いであったにちがいない。
とてつもない考えが浮かんできた。リード氏が生きていたら、わたしをかわいがってくれたにちがいない――わたしはそう信じていたし、そのことを一度も疑ったことはなかった。いま、白いベッドや影の色が濃くなりはじめた壁を見つめながら――ときおり、おぼろに光っている鏡のほうへ、魅せられたように視線を投げかけたりもしながら坐っているうち、臨終の言葉が守られないと、死者は墓のなかで安らかに眠っておれなくなるという話が思い出された。約束を破った人を罰し、苦しめられている人の仇を討つために、この世にもどってくるとか。リード氏の霊魂は、妹の子どもに加えられている不正のかずかずに悩まされて、ついの住み家を――教会の納骨堂か、死者の住む未知の世界かにあるついの住み家をぬけ出して、この寝室にいるわたしの目のまえにあらわれるのではないか。わたしは涙をふき、すすり泣きの声を押えた。悲嘆にくれたようすを見せたりしていると、わたしを慰めるために、超自然界からの声が聞こえてきたり、暗闇のなかから後光につつまれた顔があらわれて、異様なあわれみのこもった視線でわたしをのぞきこんだりするかもしれない。
理窟の上では慰めのたねとなるはずのこの考えも、実現されれば恐怖をかき立てるにちがいないのだ。わたしは懸命になって、その考えを押えつけようとした――心の弱さを見せまいとがんばった。目にかかった髪をはらいのけると、わたしは顔をあげ、勇を鼓して暗い部屋のなかを見まわしてみた。その瞬間、一筋の光が壁を照らし出した。あれは、よろい戸のすき間からでもさしこんできた月の光なのだろうか? いや、月の光なら静止しているはずなのに、あの光は動く。じっと見守っていると、それはするすると天井にまでのび、わたしの頭の上できらめいた。いまのわたしなら、この一筋の光は、どう考えても、芝生を横切っている人が手にしているカンテラの明りであると、容易に察しがつく。だが、そのときは、なにか恐ろしいことが起こると信じこんで、気がどうてんしていたために、その矢のように早い光を、あの世からやってきた亡霊の先ぶれと思いこんでしまった。心臓は早鐘をつき、頭に血がのぼった。耳を聾《ろう》する物音は、はげしい羽ばたきに思われた。なにかがわたしの近くにいるみたいだった。わたしは息苦しくなり、窒息するのではないかと思った。もうがまんできない――思わず大声をあげた――ドアに駆けよると、死に物ぐるいになって錠をゆさぶった。ドアのむこうの廊下を走ってくる足音が聞こえ、鍵がまわり、ベシーとアボットがはいってきた。
「エアさん、具合でも悪いの?」とベシーがきいた。
「なんて気味のわるい声を出すんでしょ! からだの芯までこたえたわ!」とアボットが大声でいった。
「出してちょうだい! 子供部屋に帰らせてちょうだい!」とわたしも大声をあげた。
「なぜなの? 痛いところでもあるの? なにか見えたの?」とベシーがくりかえしきいた。
「おお! 光が見えたので、幽霊が出るかと思ったの」
そのとき、わたしはベシーの手をしっかりつかんでいたが、ベシーはその手をふりはなそうとはしなかった。
「わざと大声を出したのよ、この子は」アボットは、いまいましそうに、そういった。「それに、あの悲鳴ときたら! どこかが痛くてたまらないのならともかく、あたしたちみんなを、ここへ引きよせたかっただけだものね。この子のずるいいたずらなんか、知りつくしてますよ」
「いったい、どうしたっていうの?」と別の声が居丈高《いたけだか》にきいた。リード夫人が廊下のむこうからやってきたのだ。ナイトキャップが大きくゆらぎ、ガウンのきぬずれの音もそうぞうしい。「アボットにベシー、あたしがじきじきにくるまで、ジェイン・エアを|赤い部屋《レッド・ルーム》にいれておくように命令したはずじゃないの」
「エアさんが大きな悲鳴をあげたものですから、奥さま」とベシーが弁解した。
「その子をはなしなさい」という答えがかえっただけであった。「おまえも、ベシーの手をはなすんだよ。そんなまねをしたって、出られっこないんだから。あたしゃ、子どもの小細工は大きらいさ。いんちきなんぞ、なんの役にも立たないことを教えるのが、あたしの仕事だからね。あと一時間、ここにいるんだよ。いいつけをちゃんと守る、ほんとにおとなしい子になるまでは、けっして出してあげませんからね」
「ああ、おばさま、かんにんしてください! かんべんしてください! 辛抱できないのです――この罰だけは、いやなんです! 死にそうなんです、もし――」
「おだまりったら! そんなにわめきちらして、ほんとに、気持ちが悪くなるじゃないか」
それは、夫人の実感であったにちがいない。夫人の目にうつったわたしは、お芝居のうまい、おませな子だった。わたしは、敵意にあふれたかんしゃくと、下劣な気質と、油断のならない不誠実さのかたまりみたいな子どもだと、本気に思われていたのである。
ベシーとアボットが引きさがると、リード夫人は、目のまえで気が狂ったようにもだえ、はげしく泣きじゃくっているわたしに業をにやしたのか、問答無用とばかりに、いきなりわたしをつきとばすと、|赤い部屋《レッド・ルーム》に閉じこめてしまった。夫人がさっさと立ち去るのが聞こえた。夫人が行ってしまった直後に、わたしは発作かなにかを起こしたらしい。人事不省のうちに、その場はおわってしまったのだ。
[#改ページ]
三章
つぎにわたしの記憶に残っているのは、いやな悪夢でもみているような気持ちで目をさましたとき、目のまえに、ふとい黒い横棒がなん本もついた、真赤にもえるまぶしい光が見えたことだった。それに人声も聞こえたが、その声はうつろに響き、強風か急流に押し殺されたかのようだった。興奮と、不安と、すべてを圧倒する恐怖とで、わたしの心身の機能は混乱しきっていた。やがて、だれかの手がわたしにふれ、わたしの上半身を起こそうとしているのに気がついた。こんなにやさしくかかえられ、支えられたのは、生まれてはじめての経験だった。枕か腕かわからなかったが、それに頭をもたせると、ゆったりした気分になった。
五分ばかりたつと、雲みたいなもやもやがすっと消えた。自分のベッドにいて、さっきの真赤にもえる光が、子供部屋の暖炉の火であることがはっきりしてきた。夜になっている。ろうそくが一本、テーブルの上でもえ、洗面器をもったベシーが、寝台の足元に立っている。枕元の椅子に腰をかけた男の人が、わたしのほうをのぞきこんでいた。
部屋にいるのは、見なれぬ人で、ゲイツヘッド・ホールの人間でも、リード夫人とつながりのある人間でもない。それがわかったとき、わたしは、口ではいえないやすらぎをおぼえ、安全に保護されていることを確信して、気持ちが落ち着いた。ベシーから顔をそむけると(ベシーがいてくれるほうが、アボットなんかより、ずっとましではあったけれど)、男の人の顔をしげしげと見つめた。知っている人だった。ロイド先生といって、召使いなどが病気になったとき、リード夫人が往診をたのむ薬剤師だった。夫人や子どもたちは、ちゃんとした医者にかかっているのである。
「さあ、おじさんがわかるかな?」とロイド先生はきいた。
わたしは先生の名前を口にすると同時に、手をさし出した。ロイド先生は、その手を取ると、にこにこしながら、「だんだんによくなるよ」といった。それから、わたしを寝かせると、ベシーにむかって、この子が朝までゆっくり休むように注意してくださいよ、といいつけた。そのほかにも若干の指図をしてから、ロイド先生は、あすもくるから、といい残して帰って行った。わたしは、悲しくなった。ロイド先生が枕元の椅子に坐ってくれているあいだ、わたしは友だちに守られているような気分になっていた。だが、ロイド先生がドアを閉めて行ってしまうと、部屋全体が暗くなり、わたしの心は、また沈んでしまった。いいようのない悲しみが、心に重くのしかかってきた。
「ねえ、眠れそうなの?」ベシーが、かなりやさしい声できいた。
返事もろくにできない気持ちだった。そのつぎには、きつい言葉をかけられるのではないか、と思ったからである。「眠ってみるわ」
「なにか飲みたくない? 食べたいものは?」
「ほしくないわ、ベシー」
「じゃ、あたしも寝ましょうかね。十二時をまわったことだし。でも、夜なかに用ができたら、あたしに声をかけてくださいね」
これはまた、なんというやさしさであることか! それに勇気づけられたわたしは、思いきってきいてみた。
「ベシー、あたし、どうしたのかしら? 病気になったの?」
「|赤い部屋《レッド・ルーム》で泣いてるうちに、気分が悪くなったみたいよ。すぐによくなりますからね、きっとよ」
ベシーは、ちかくの女中部屋へ行った。わたしの耳に、こんな言葉が聞こえてきた。「サラ、子供部屋で、あたしといっしょに寝てよ。今夜は、あのかわいそうな子と二人きりでいる気に、どうしてもなれないの。死ぬかもね。あんな発作を起こすなんて、信じられないことだもの。なにかを見たんじゃないかしらね。奥さまも、きびしすぎたわよね」
サラがベシーといっしょにやってきた。二人は床についたが、寝つくまでの半時間ばかり、小声でひそひそ話しあっていた。二人の会話は断片的にしか聞こえなかったが、その断片からでも、話題になっていることははっきりと推察することができた。
「白衣のものがあの子のそばを通りすぎてから、消えたのよ」――「あとにつづく大きな黒い犬」――「寝室のドアにはげしいノックが三回」――「教会の墓地にあるだんなさまの墓の上で光るもの」――
二人は、やっと寝ついた。暖炉の火も、ろうそくも消えた。だが、わたしは、その長い夜の時間がすぎてゆくあいだ、身の毛もよだつ思いで目を大きく見開いていた。耳も目も心も、恐怖にはりつめている。それは、子どもにしか感じられない類いの恐怖だった。
この|赤い部屋《レッド・ルーム》の事件のあと、ひどい病気や長びく病気にかかったわけではない。それは、わたしの神経にショックをあたえただけのことであったが、そのショックの余波を、わたしは今日にいたるまで味わいつづけているのだ。そうですとも、リード夫人、あなたのおかげで、わたしには精神的なはげしい痛みの後遺症が残っている。だが、わたしはあなたを許さねばなるまい。あなたはなにをしているのか、わからずにいたのだから(新約聖書、ルカによる福音書、第二十三章第三十四節)。わたしの心の琴線をひきちぎっておきながら、わたしの悪癖を根治してやっているくらいにしか思っていなかったのだから。
翌日の正午までには、わたしは寝床をはなれて着がえをすませ、子供部屋の暖炉のそばで、ショールにすっぽりとくるまって坐っていた。からだが弱り、力がぬけてしまっているのを感じた。だが、わたしの最悪の病気は、言語に絶した精神のみじめさであった。沈黙の涙をさそい出してやまぬみじめさ。塩からい涙を一滴ぬぐうと、またぞろ新しい涙が頬をつたう。心がうきうきしてもいいはずなのに、とわたしは思った。リード家の子どもたちは、出はらっていないのだから。みんな母親と馬車で出かけて留守なのだ。アボットも、別の部屋で縫い物をしている。ベシーは、いそがしそうに動きまわって、おもちゃのあとかたづけや、引出しの整理をしながら、ときおり、いつになくやさしい言葉をかけてくれる。朝から晩まで文句をいわれ、感謝もされずにこき使われる生活になれているわたしにとって、このような状態は、平和にあふれたパラダイスのはずであった。ところが、わたしの疲れはてた神経は、どんな静けさにもいやされず、どんな楽しみにもなごまない状態にあったのだ。
ベシーは台所におりて行き、明るい絵のついた陶器の皿にフルーツ・パイをのせてあがってきた。一羽の極楽鳥が昼顔とバラのつぼみの花輪に巣をつくっている絵は、かねてからわたしの心に、熱狂的といってもよい賞賛の気持ちをかき立てていた。これまでにもなん回となく、その皿を手に取って、こまかく調べさせてくれるように頼んでみたが、そのたびに、おまえなんかにとんでもない、とつっぱねられていた。このかけがえのない皿が、いま、わたしの膝の上に置かれ、そこにのっている丸い、おいしいパイをお食べなさい、とやさしい言葉がかけられる。なんの役にも立たない親切! しょっちゅう頼んでいるのに、なかなかかなえられなかった願いごとと同じで、いまとなっては手おくれというほかはない! わたしにはパイが食べられないし、極楽鳥の羽や、花輪の色彩も奇妙に色あせて見える。わたしはパイを皿ごと押しやった。ベシーが、ご本はどう、ときいてくれた。その|ご本《ヽヽ》という言葉にひょいと刺激されて、わたしは書庫から『ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト作。一七二六年出版)をもってきてくれるように頼んだ。この本はなん回読んでもおもしろかった。わたしはこれをノンフィクションだと思い、おとぎ話などにはない、味わいぶかいおもしろさを見つけ出していた。というもの、ジギタリスの葉や鐘形の花のかげ、西洋マツタケの下、古い壁の片隅をおおっているカキドオシの根元などをいくら捜してみても、おとぎ話にでてくる妖精が見つからなかったので、わたしはとうとう、妖精はみんなイギリスから逃げだして、森がもっと自然のままに生いしげった、人口のすくない未開発国へ行ってしまったのだ、という悲しむべき真実をうけいれる気持ちになっていたのである。それにひきかえ、リリパットやブロブジグナグ(『ガリヴァー旅行記』にでてくる小人国と大人国)を、地球上の確乎たる地域であると思いこんでいたわたしは、いつの日にか、長い航海をして行けば、小人国のちっちゃな野原や家や樹木、こびとの住民たち、小さな牛や羊や鳥などを、また大人国の森ほどの高さの麦畑、巨大な猛犬や怪物みたいな猫、それに塔のように高い男女などを、この目ではっきり見ることができるということを信じて疑わなかった。だが、この愛読書を手にしたいま――頁をめくって、その見事な挿し絵のなかに、これまでならかならず見つけ出した魅力をさぐってみても――すべてが無気味で、荒涼としていた。巨人たちがぞっとするような大鬼なら、小人たちは悪意にみちた恐ろしい小鬼、ガリヴァー自身はものすごい危険地帯をさまよっている、孤独無援の人間であった。わたしは本をとじると、読みつづける気力もないまま、手をつけずにテーブルの上へ置いてあったパイのそばにもどした。
部屋の掃除と整頓のおわったベシーは、手を洗ってくると、きれいな絹やサテンの端切れのつまった小さな引出しを開けて、ジョージアナの人形の新しい帽子を作りはじめた。作りながら、ベシーは歌をうたった。それは、
[#ここから1字下げ]
むかし、むかし、そのむかし、
流浪の旅にいでしころ
[#ここで字下げ終わり]
という歌であった(一八四〇年ごろに発表されたエドウィン・ランスウォード作のはやり歌)。
わたしは、この歌をなんどか聞いたことがあり、そのたびに楽しさで心がはずむ思いがした。ベシーが美声の持ち主であったからだ。すくなくとも、わたしはそう思っていた。だが、ベシーがきれいな声で歌っていたにもかかわらず、今日のわたしは、その歌のメロディのなかに、いうにいわれぬ悲しみを聞きつけた。仕事に夢中になっているベシーは、ときおり、|くりかえし《リフレイン》の部分をじつにゆっくりと、長く引っぱるようにうたう。「むかし、むかし、そのむかし」が、葬式のときの賛美歌の、いちばん悲しいリズムのようにきこえる。ベシーは、別の民謡《バラッド》をうたいはじめたが、これがまた、まことにあわれな歌であった(この民謡はブロンテ自身の作といわれる)。
[#ここから1字下げ]
足をひきずり 五体はつかれ
旅路はながく 山またけわし
月なき夜が、わびしくせまる
親のない子の、行く道さきに
ひろき荒野に 灰色の岩
われはなにゆえ かくもひとりぞ
ひとはつめたく ただ天使のみ
親のない子をやさしく守る
遠くかすかに 夜風が吹いて
雲ひとつなく 星もきよらか
加護と望みと なぐさめだけは
親のない子に すくいの神が
こわれ橋から 足ふみはずし
きつね火のゆえ 沼地にまよう
み胸にだきて 父なる神は
親のない子に 夢とめぐみを
家もよるべも ないわれなれど
われをはげます ひとつの思い
天はわが家ぞ 休らぎの場ぞ
親のない子に 神はともがら
[#ここで字下げ終わり]
「さあ、ジェインさん、泣いちゃ駄目よ」歌いおえると、ベシーはいった。それは、火に「燃えるな!」というようなものだった。だが、ベシーには、わたしをさいなんでいる病的な苦悩など、わかる道理もなかった。午前中にまた、ロイド先生がやってきた。
ロイド先生は、子供部屋にはいるなり、「おや、もう起きてるね! どうだね、ベシー、この子のようすは?」といった。
ずっとよろしいですよ、とベシーは答えた。
「それにしては、あんまり元気のない顔だな。ここへおいで、ジェインさん。ジェインといったね、名前は?」
「はい、ジェイン・エアです」
「さてと、あんたは泣いてたね、ジェイン・エアさんよ。わけを話してもらえんかな? 痛いところでもあるかね?」
「そんなことはありませんわ」
「まあ! 奥さまと馬車で外出できなかったから、泣いてるんだと思いますよ」とベシーが口をはさんだ。
「まさか! そんなことですねるようなねんねじゃあるまい」
わたしもそう思った。ベシーの根も葉もない話に自尊心を傷つけられたわたしは、すぐにいいかえした。「そんなことで泣いたりしたことは、これまでに一度もないわ。馬車で外出するなんて、大きらいですもの。あたしが泣くのは、自分がみじめだからよ」
「あら、いやな子ね、あんたって!」とベシーがいった。
親切な薬剤師は、すこしとまどったらしい。目のまえに立っているわたしを、穴があくほどに見つめた。その目は小さく、灰色だった。あまり光る目ではなかったが、いまから思うと、やはり鋭かったのだろう。気むずかしい顔の割りには、人がよさそうだった。わたしの顔をしげしげと見つめてから、ロイド先生はこういった――
「きのう病気になったわけは?」
「ころんだんですよ」とベシーがまた口をはさんだ。
「ころんだ! そいつはまた、赤ちゃん並みだな! その年になって、ちゃんと歩けないのかい、この子は? どう見たって、八つか九つにはなっているはずだが」
「あたし、なぐり倒されたの」こんなぶっきらぼうな説明が思わず口をついて出てきたのは、またしても自尊心が傷つけられ、痛手を受けたせいだった。わたしは、「でも、病気になったのは、そのせいじゃないわ」とつけ加えた。ロイド先生は、かぎ煙草をつまんで、ふんふんとかいでいた。
ロイド先生がかぎ煙草いれをチョッキのポケットにしまいかけたとき、召使いたちの食事の合図のベルが鳴った。それがなんのベルであるか、ロイド先生は知っていた。
「あれは、あんたを呼んどるのじゃろ、ベシー。下へ行ってもいいよ。あんたがもどってくるまで、ジェインさんの話し相手になっているから」
ベシーは、あとに未練が残るらしかった。だが、行かないわけにはゆかない。ゲイツヘッド・ホールでは、食事の時間の厳守がやかましくいわれていたからだ。
「なぐり倒されて、病気になったのじゃなかったね? じゃ、なぜなのかね?」ベシーが行ってしまうと、ロイド先生はさきの質問をくりかえした。
「日がくれるまで、幽霊の出る部屋に閉じこめられていたからよ」
ロイド先生は笑い、それと同時に顔をしかめた。「幽霊! じゃ、やっぱり、あんたは赤ちゃんだな! 幽霊がこわいかね?」
「リードおじさんの幽霊は、こわいわ。あの部屋で亡くなったし、棺にいれたのも、あそこですもの。ベシーだって、だれだって、夜は、なんとかあの部屋へ行かないようにしてるの。ろうそくもつけずに、あたしをあそこに閉じこめるなんて、ひどいわよ――こんなひどいこと、あたし、一生忘れないわ」
「そんなことだったのかい! それで、そんなに自分がみじめなのかね? こんなに日が照っていても、こわいのかな?」
「いいえ。でも、やがてまた夜になるでしょ。それに、あたし、不幸なの――ほかのことでも、とっても不幸なの」
「ほかのことって、なんだね? 一つか、二つ、おじさんに教えてくれないかな?」
わたしは、この問いかけに、あますところなく答えたくてたまらなかった。だが、その答えを口にすることの、なんとまたむつかしかったことか! 子どもには感じる能力はあるが、その感じたことを分析する能力はない。かりに頭のなかで部分的な分析ができたとしても、その分析の結果を言葉にいい表わすすべを知らないのだ。しかし、わたしの悲しみを、他人に語ることで発散させる最初で最後の機会を失いたくなかったので、わたしは一瞬とまどいはしたものの、舌たらずではあるが、できるかぎり真実に近い返事をしようとがんばった。
「まず第一に、あたしには両親をはじめ、男のきょうだいも女のきょうだいもいないの」
「親切なおばさんと、いとこたちがいるじゃないかな」
わたしは、また一呼吸おいたが、やがて、味もそっけもない口調で、こういいきった――
「だって、ジョン・リードはわたしをなぐり倒したし、おばさんはわたしを|赤い部屋《レッド・ルーム》に閉じこめたのよ」
ロイド先生は、またかぎ煙草いれを取り出した。
「ゲイツヘッド・ホールは、すごくきれいな屋敷だと思わないかい? こんなりっぱなお屋敷に住めるのを、感謝しないのかい?」
「あたしの家じゃありませんものね、ロイド先生。それにアボットさんの話では、ここに住む権利は、あたしよりも召使いのほうにあるようなの」
「やれやれ! こんなすてきな屋敷から出て行きたがるような、そんなおばかさんじゃないだろうな?」
「ほかに行くところがあったら、大喜びで出て行きますわ。でも、あたしはおとなになるまで、ゲイツヘッドから逃げ出せないのよ」
「もしかしたら、逃げられるかもしれんよ――先のことはだれにもわからんさ。リード夫人のほかに親類はいないのかね?」
「いないと思いますわ、先生」
「お父さんのほうの親類もいないかい?」
「わからないわ。まえにリードおばさまに聞いたことがあるけど、エア家の姓を名のる貧乏で、身分の低い親類はいるだろうけど、そんな連中のことは、なんにも知らないよ、といってました」
「そんな親類でも、もしいたら、その人のところへ行ってみたいかい?」
わたしは考えこんだ。おとなには貧乏はおぞましい。子どもの場合には、なおさらである。子どもは勤勉で、仕事に精出す、尊敬すべき貧乏というものを、あまり知ることがない。貧乏という言葉を、いきなりぼろ服や、粗食や、火のきえた暖炉や、無作法や、人格をおとしめる悪徳などと結びつけて考えてしまう。わたしにとって、貧乏は堕落と同義語であった。
「行きたくないわ。貧乏人の仲間にはなりたくないの」とわたしは答えた。
「あんたに親切な人たちでも、いやかい?」
わたしは首を横にふった。どうして貧乏人に親切心が発揮できるのか、わたしにはわからなかった。それに、貧乏人のようにしゃべり、貧乏人の生活態度を身につけ、教育も受けず、大きくなってから、ゲイツヘッド村のぼろ家の玄関口で子供に乳をのませたり、洗濯したりしているのをときどき見かける貧乏な女たちのようになるのは、おことわりだった。わたしは、身分を捨てて自由をかちとるほどに思いきりがよくなかった。
「だって、あんたの親類は、そんなにひどい貧乏なのかい? 労働者なのかい?」
「わからないわ。あたしに親類がいるとしても、乞食同然の連中だろうって、リードおばさんもいってるの。あたし、乞食にはなりたくない」
「学校へは行きたくないかい?」
わたしはまた考えこんだ。学校がどんなものか、ほとんど知らなかった。ときどきベシーが、学校では若い女性がさらし台に坐ったり、背中に矯正板をつけたりして容姿をよくするとか、たいへんにおとなしく、お固くしていなきゃならないとかいった話をしていた。ジョン・リードは学校ぎらいで、先生の悪口をいっている。だが、ジョン・リードの好き嫌いは、わたしの判断の基準にはならない。それに、学校はしつけがやかましいところだというベシーの話(ゲイツヘッド・ホールに奉公するまえに住みこんでいた家庭の令嬢たちから聞きかじったのだ)はいささか空おそろしかったが、その令嬢たちが身につけたという才媛ぶりについての話のほうにも、やはり劣らぬ魅力があるように思われた。ベシーは、その令嬢たちが風景や花の絵をきれいに描くこと、歌がうたえて、いろんな曲が弾けること、財布が編めて、フランス語の本の翻訳ができることなどを吹聴していたが、その話を聞いているうちに、負けるものか、という気持ちになってくる。それに、学校へ行けば、すべてが一変するかもしれない。それは長い旅行、ゲイツヘッド・ホールからの解放、新しい生活のスタートを意味しているのだ。
「学校へは、ぜひ行ってみたいわ」わたしはあれこれ考えたあとの結論を口に出した。
「なるほど、なるほど。これからのことは、だれにもわからんからな」こういって、ロイド先生は立ちあがると、「この子は転地させにゃなるまい。神経をやられてるからな」と、ひとり言のようにつけ加えた。
そのとき、ベシーがもどってきた。それと同時に、じゃり道をかけてくる馬車の音が聞こえた。
「あれは奥さまかな、ベシー?」とロイド先生はきいた。「帰るまえに、ご相談したいことがあるからね」
ベシーは、朝食室へどうぞ、といって、ロイド先生を案内して行った。あとで起こったことから察すると、リード夫人に会ったとき、薬剤師はわたしを学校へいれてみては、という意見を出したらしい。この意見がさっそく取りあげられたことは疑問の余地がない。ある晩、わたしがベッドにはいったあと、ベシーとアボットは子供部屋で裁縫をしていたが、わたしが寝ついたと思ったのか、アボットは、この問題にふれて、「奥さまはね、あの性悪の厄介者がいなくなればせいせいするとさ。あの子、いつでもみんなをじろじろ見てて、よからぬ計画でも立ててるみたいだもんね」といった。どうやら、アボットはわたしのことをガイ・フォークス(一六〇五年、ジェイムズ一世殺害の陰謀をたてる)の卵くらいに思ってくれていたらしい。
やはりこの晩、アボットがベシーに話していたことから、わたしは、父が貧乏な牧師であったこと、母が周囲の反対を押しきって、身分のひくいと思われている父と結婚したこと、この親不孝に激怒した祖父が、母を着のみ着のままで勘当したこと、結婚後一年たって、教区のある大きな工場町の貧民街を訪ねた父が、そこで流行していた腸チフスにかかったこと、父の病気が母にも感染して、二人とも一ヵ月以内に前後して死んでしまったことなどを、生まれてはじめて耳にした。
この話を聞いたベシーは、ため息をつきながら、「ジェインさんもかわいそう。同情してやらなくちゃあね、アボットさん」といった。
「そうねえ」とアボットは答えた。「あの子がかわいい、感じのいい子だったら、かわいそうな身の上に同情できるわ。でも、あんなヒキガエルみたい子は、どうしても好きになれないものね」
「あんまり好きになれないことはたしかね」とベシーも調子をあわせた。「とにかく、ジョージアナお嬢さんみたいにかわいい子が同じ身の上だったら、もっと人の同情をひくんだけどさ」
「そうよ。あたしは、ジョージアナお嬢さんが大好きなの!」アボットは熱っぽい口調で叫んだ。「かわいいたらないの! ――長いカールに、青い目。すごくきれいな肌の色。絵に描いたみたい! ――ベシー、お夜食にチーズ・トーストをいただきたいわね」
「賛成――焼き玉ねぎをつけてよ。さあ、下へ行きましょ」
二人は行ってしまった。
[#改ページ]
四章
ロイド先生との話や、いま書いたベシーとアボットのないしょ話から希望をいだいたことが動機になって、わたしは元気になりたいという気持ちをもちはじめた。変化が身近かにせまっている――その変化を、わたしはだまって待ちのぞんでいた。だが、それはなかなかやってこない。なん日か、なん週間かがすぎ去った。もとの健康なからだになったのに、わたしが明けても暮れても考えている問題は、いっこうに話題にされなかった。リード夫人は、ときおりこわい目つきでわたしを見るだけで、話しかけてくることは、めったになかった。わたしの病気以来、これまでになくはっきりした境界線を、わたしと自分の子どもたちとのあいだに引いていた。わたしは小部屋をあてがわれて、ひとりで寝ることになった。食事もひとりぼっち。いとこたちはいつも客間にいるのに、わたしは子供部屋から出てはいけない、といいつけられた。だが、わたしを学校へいれる件については、夫人は一言も口にしない。にもかかわらず、夫人がいつまでもわたしとひとつ屋根の下で暮せないことを、わたしは直観的に確信していた。わたしにむけられる夫人の視線には、いままでにもまして、取りのぞきようのないまでの、根深い嫌悪がこもっていたからだ。
イライザとジョージアナは、いいつけどおりにふるまっているらしく、わたしにはできるだけ口をきかないようにしている。ジョンは、わたしを見かけるたびに、舌で頬をぷっとふくらます。わたしになぐりかかろうとしたこともあった。だが、まえにもわたしのかんしゃくを爆発させることになった、例の深い怒りと懸命な反抗の気持ちにかりたてられたわたしが、さっと飛びかかってゆくと、ジョンは逃げるが勝ちと思ったのか、わたしの悪口をいい、わたしに鼻の骨を折られたとわめきながら逃げて行った。事実、わたしはジョンの顔のつきでた部分をねらって、思いっきり力をこめた拳骨を一発、お見舞いしたのだ。この一発のせいか、わたしの形相のせいなのか、とにかく相手がひるんだのを見てとったわたしは、一挙に形勢逆転をはかりたい気持ちが大いに動いたのだが、敵はとっくに母親のもとへ行っている。「あの意地悪のジェイン・エア」が気ちがい猫みたいにとびかかってきたときのようすを、涙ながらに話す声が聞こえてきた――と、ジョンの言葉を、かなりとげとげしい声がさえぎった――
「あの子の話は、おやめよ、ジョン。近寄るんじゃない、といっといただろ。目なんか、くれなくてもいいの。おまえにしろ、イライザやジョージアナにしろ、あの子と遊ぶのは、母さん、いやですからね」
これを聞くなり、階段の手すりに寄りかかっていたわたしは、自分でもなにをいっているか、ろくに考えもしないで、いきなり大声をあげた。
「その子たちと遊ぶのは、こっちから願いさげだわ」リード夫人はかなりふとっていたが、この不意打ちの、大胆不敵な言葉を耳にした途端、階段をすいすいと駆けあがってくると、旋風のようにわたしを子供部屋へ引きずりこみ、ベッドの端にわたしをどんと坐らせてから、日が暮れるまでに、そこから動いたり、一言でも口をきいたりしたら、ひどいからね、ときつい口調でいいわたした。
「リードおじさんが生きてたら、おばさんになんていったかしら?」
思いがけず口をついてでた問いかけだった。思いがけず、というのは、わたしの意志はそのような言葉に賛成していないのに、舌のほうで勝手にしゃべったという感じであったからだ。わたしの内部の、抑えきれないなにかが、そういわせたのである。
「なんですって?」
リード夫人は低い声でいった。いつものひややかで、落ちついた灰色の目が、恐怖に似た表情でくもっている。わたしの腕をつかんでいた手をはなすと、わたしが子どもなのか、悪魔なのか、まるで見当がつかないといったふうに、じっと見つめている。こうなったからには、とわたしも覚悟をきめた。
「リードおじさんは天国にいらっしゃって、おばさんのなさることや考えることは、いっさいお見通しだわ。あたしのパパやママだって、同じことよ。おばさんがわたしを一日中とじこめたり、わたしのことを死んでしまえばいいなんて思ってることは、ちゃんと知れているのだから」
リード夫人は、すぐに気をとりなおすと、わたしを思いっきりゆさぶり、横っ面をピシャリピシャリと打ってから、ぷいっと出て行ってしまった。このお仕置きが中断されたあとへは、ベシーがやってきて一時間もお説教をしたが、わたしほどに性悪で、手のつけようのない子どもは、どこの家を捜しても見つかりっこないということを、そのお説教ははっきりと証明していた。わたしも、ベシーの言葉を信じてみようかなという気になった。わたしの胸でわき立っているのが、悪い感情ばかりであるのに気づいたからである。
十一月、十二月がすぎ、一月も半ばになった。ゲイツヘッド・ホールでは、クリスマスと新年が、例年どおりのお祭り気分で、にぎやかに祝われた。プレゼントが交換され、晩餐会や夜会がもよおされた。わたしがどんな楽しみからものけ者にされていたことは、いうまでもない。わたしは毎日、イライザとジョージアナの着つけを見守り、モスリンのドレスに深紅色の|飾り帯《サッシュ》をつけ、髪をきれいにカールさせた二人が客間へおりて行くのを見送った。やがて階下から流れてくるピアノやハープの音、行ったりきたりする執事や従僕の足音、飲み物や食べ物がわたされるときにふれあうグラスや陶器の皿の音、客間のドアの開閉につれて断片的に聞こえてくるがやがやという人声などにじっと耳をすます。そうすることだけが、わたしに許された楽しみのすべてであった。この暇つぶしにもあきると、わたしは階段の踊り場から、だれもいない、静まりかえった子供部屋へひきあげたが、そこでは、ちょっぴり悲しかったにせよ、みじめな気分ではなかった。実際のところ、わたしには人前に出たいという気持ちなど、さらさらなかった。出たところで、人目にとまることは、めったにないからである。ベシーがやさしくて、話し相手になってくれさえすれば、紳士や淑女のいっぱいいる部屋で、リード夫人のとげとげしい視線にさらされるよりも、ベシーと二人きりで静かに夜をすごすほうが、わたしにはずっと楽しいことに思われたかもしれない。だが、ベシーは、イライザやジョージアナの着つけがおわると、台所とか女中頭の部屋とか、わやわやとにぎやかなあたりへ姿を消してしまう。たいていの場合、ろうそくをもって行ってしまう。あとに残ったわたしは、人形を膝にのせ、暖炉の火が消えかかるまで坐っている。ときたま、暗い部屋には、わたしのほかに恐ろしいものはなんにもいないことをたしかめるため、あたりを見まわす。やがて暖炉の残り火がにぶい赤色にかわると、結び目やら|ひも《ヽヽ》やらを盲めっぽうにひっぱりながら大いそぎで着がえをすまし、寒気と暗闇をのがれてベッドにもぐりこむ。ベッドのなかへは、いつも忘れずにわたしの人形をつれて行く。人間はなにかを愛さずにはいられない動物であり、ほかにすてきな愛の対象物のないわたしは、|かかし《ヽヽヽ》のおもちゃみたいにみすぼらしい、色あせた人形を愛し育てることに喜びを見つけようとしていた。わたしは、そのおもちゃを、感覚のそなわった生き物かなにかのように思って溺愛したが、そのこっけいなまでの熱心さは、いま思い出してみると不思議なくらいである。人形をわたしの寝巻きにくるんで、はじめて眠りにつくことができたし、それがやすらかに、暖かそうに横になっているのを見ては、人形もしあわせにちがいないわと思って、わたし自身、いささか心楽しい気持ちになるのであった。
来客が帰ってしまって、ベシーの足音が階段に聞こえだすのを待っているあいだの、なんと長く思われたことか。その時間になるまでにも、ベシーは指ぬきやはさみをさがしにきたり、場合によっては夜食がわりの食べ物――ロール・パンやチーズ・ケーキなどをもってきてくれたりした。そんなときのベシーは、わたしが食べてしまうまで、ベッドに腰をおろしている。わたしが食べおわると、わたしの首のあたりを寝具にくるみこんで、二回キスしてくれてから、「おやすみ、ジェインさん」という。こんなふうにやさしいときのベシーは、美しくて親切で、世界中でいちばんいい人に思われた。わたしはベシーの思いやりのある愉快な態度がいつまでもつづき、わたしをいじめたり、しかりつけたり、こき使ったりすることがないように(なにかというと、そんな目にあっていたので)、心の底からお祈りした。いまから思うと、ベシー・リーは生まれつき才能に恵まれた女性であったにちがいない。なにをやらせても器用で、話術にかけては抜群だった。すくなくとも、ベシーのおとぎ話がわたしにあたえた印象からは、そう判断できる。その容貌や容姿についての、わたしの記憶が正しければ、ベシーは美人でもあった。黒い髪、黒い目、非常にととのった目鼻だち。顔の肌がきれいで色つやのいい、ほっそりした若い女性であったと記憶している。ただ、ベシーはお天気屋で、せっかちであった上、その道義や正義などについての考えは、あまり感心できないものであった。こんなベシーではあったが、わたしはゲイツヘッド・ホールのだれよりも、この人物が好きであった。
一月十五日の、朝九時ごろであった。ベシーは階下で朝食をとっていて、いとこたちもまだ母親に呼ばれていなかった。イライザは、帽子《ボンネット》と暖かい庭着を身につけて、にわとりに餌をやりに行こうとしていた。餌をやるのは、イライザの好きな仕事だったが、にわとりの卵を女中頭に売りつけてもうけたお金をためるのも、それにおとらず大好きだった。イライザには商才だけでなく、お金をがめつくためる癖があり、そのことは卵や若鶏の商売だけでなく、球根や種子やさし木を庭師に法外な値段で売りつける点にもあらわれている。庭師のほうは、リード夫人に、娘が花壇でできたものを売りたいといえば、ぜんぶ買いとるようにといいわたされているのだ。イライザは、いいかせぎになるのなら、自分の髪さえも売りかねなかった。もうけたお金はどうしたかというと、はじめのうちは、ボロ布や古い|巻き毛用の紙《カールペーパー》につつんで、人目につかない片隅などにかくしてあったが、このへそくりの一部が女中に見つかってからは、だいじなお宝を失うことになっては大変と思いだしたイライザは、母親に高利貸なみの高い利息――五割か六割の利息で預けてもいいわ、といい出した。しかも、その利息は、小さな帳簿に細大もらさぬ正確さで書きつけておいて、四半期ごとにきびしく取りたてているのだ。
ジョージアナは高い椅子に坐り、鏡にむかって髪を結っていた。巻き毛といっしょに編もうとしている造花と色あせた羽飾りは、屋根裏部屋の引き出しで見つけたものだった。わたしは、自分の寝具をかたづけていた。食事からもどってくるまでに、ちゃんとしておくよう、ベシーにきつくいわれていたからだ(このごろでは、ベシーがわたしを子供部屋係りの助手みたいに使うのはいつものことで、部屋の掃除や、椅子のちり払いなどをやらされた)。ベッドカバーを掛け、寝巻きをたたみおえたわたしは、窓の下の腰掛けのところへ行って、そこにちらばっている絵本や人形の家具を整頓しはじめたが、だしぬけにジョージアナが、あたしのおもちゃにさわらないで、といったので(人形用の小さな椅子や鏡とか、豆つぶみたいな皿やカップは、ジョージアナのものだった)、わたしはあとかたづけをやめた。やがて、ほかにすることがないまま、わたしは窓ガラスに一面の模様をつけている霜の花に息をはきかけはじめた。霜の花のとけたところから、ひどい霜のためにすべてが化石したように静まりかえっている庭をのぞくつもりだった。
この窓からは、門番の小屋と馬車道が見わたせたが、窓ガラスをおおった銀白色の霜の花を、のぞき穴の分だけとかしたとき、うまいぐあいに門が開いて、一台の馬車ががらがらとはいってくるのが見えた。わたしは、それが馬車道をのぼってくるのを、なに気なく見守っていた。ゲイツヘッド・ホールでは馬車は珍しくないが、わたしの興味をひく訪問者をつれてきたためしはない。館のまえで馬車がとまると、やがて玄関のベルが響きわたり、新来の客はなかにとおされた。こうしたことは、わたしにはなんのかかわりもないので、わたしはぼんやり見ているだけであったが、やがて窓ぎわの壁に釘づけにされた冬枯れの桜の小枝で鳴いている、一羽のおなかをすかした駒鳥の姿に気づいて、わたしの目はいきいきしはじめた。テーブルの上には、朝食に食べたパンとミルクが残っている。わたしはロール・パンのくずをこなごなにすると、それを敷居の上に置くため、窓を引っぱり上げようとしていた。ちょうどそのとき、ベシーが階段をかけあがって、子供部屋にとびこんできた。
「ジェインさん、そのエプロンをはずすのよ。そんなところで、なにをしてるの? 今朝は、もう顔と手を洗ったわね?」
わたしは、返事をするまえに、もういっぺん窓を引っぱった。パンが駒鳥にとどくようにしてやりたかったからだ。窓があがった。わたしはパンくずを、石の敷居の上や、桜の枝の上などにばらまき、窓をしめてから、こう答えた――
「まだよ、ベシー。はたきかけがおわったばかりだもの」
「世話ばかりかける、のんきな子ね! それに、なにをしてるのよ? なにかいたずらでもしてたみたいに、顔が真赤よ。なぜ窓を開けたりなんかしてたの?」
わざわざ返事をするにもおよばなかった。ベシーは説明などきく暇がないほどにせいているらしく、わたしを洗面台へひっぱって行った。わたしの顔や手は、せっけんと水とごつい布地のタオルでごしごしこすられたが、ありがたいことにじきにおわった。髪には固いブラシがかけられ、エプロンもぬがされた。やがて、階段のおり口までせかし立てられたわたしは、朝食室に用があるから、すぐおりて行くように、といわれた。
わたしに用があるのはだれか、リード夫人がいるかどうか、などときいてみたかったのだが、ベシーはとっくの昔に姿を消し、子供部屋のドアは閉まっている。わたしは階段をゆっくりとおりた。三ヵ月近くというもの、わたしはリード夫人のまえへ呼び出されたことがなかった。長いあいだ子供部屋にこもりっきりだったので、朝食室や食堂や客間は足を踏みいれるのもはばかられる、恐ろしい世界になっていた。
わたしは、だれの姿も見えない廊下に立っていた。目のまえに朝食室のドアがあったが、わたしは足がすくみ、身体がふるえて動けない。あの当時のわたしは、理不尽なお仕置きが生みだした恐怖心のため、みじめったらしい臆病者になりさがっていたのだ! 子供部屋へ引きかえすのもこわいし、客間のほうへ足を踏み出すのも恐ろしい。わたしは覚悟がつかないまま、そわそわしながら十分間もその場に立ちすくんでいた。朝食室のベルがはげしく鳴って、はじめてわたしの心はきまった。はいって行かねば|ならない《ヽヽヽヽ》のだ。
「あたしに用って、いったいだれかしら?」ドアの把手を両手でまわしているあいだ、わたしは自分に問いかけていた。かたい把手で、一秒か二秒、いくらまわしてもびくとも動かない。「この部屋には、リードおばさんのほかにだれがいるかしら? 男かしら、女かしら?」やっと把手がまわり、ドアが開いた。なかにはいって、ていねいにおじぎをしてから、顔をあげた。わたしの目にはいったのは――まさに黒い柱だった。すくなくとも、一目みたときには、そう思われたが、実は、カーペットの上にすっくと立っている、姿勢のまっすぐな、細身の、黒服を着こんだ人物であった。てっぺんにあるこわい顔は、円柱の上部へ柱頭がわりにとりつける、人面の彫刻を思わせた。
リード夫人は炉ばたの、いつもの席に坐っていて、わたしに近くへ寄れ、という合図をした。いわれたとおりにすると、夫人は「お話し申しあげたのは、この子供でこざいますわ」といって、その石柱みたいな客にわたしをひきあわせた。
この客は(男の人であったが)、わたしが立っているほうを、ゆっくりと振りむくと、もしゃもしゃの眉毛の下で光っている、二つの詮索好きそうな目で、わたしを眺めまわしてから、重々しく、低い声で、「小柄ですな。おいくつかな?」といった。
「十歳でございます」
「そんなになりますかな?」信じられないといった口調で答えると、あと四、五分は、わたしから目をはなさなかった。やがて、その人物は、わたしにむかっていった。
「名前をいってごらん」
「ジェイン・エアと申します」
この言葉を口にしながら、わたしは目をあげた。背の高い人だな、と思ったが、当時のわたしが、ずいぶんと小さかったせいもある。頭の造りが大きく、骨格と同じように、ごつごつしていて、しゃちこばっていた。
「ふむ、ジェイン・エアか。いい子かな?」
この問いには、とても「イエス」とは答えられない。わたしを取りまく小さな世界は、「ノー」という意見なのだから。わたしは沈黙を守った。わたしのかわりに、リード夫人が答えてくれたが、とんでもない、というふうに首を横にふりながら、こうつけ加えた。「その点は、いわぬが花というものでございますわ、ブロックルハースト先生」
「それは残念なことで! この子と、すこし話してみますかな」その先生は、まっすぐにのばしたからだを二つに折るようにして、リード夫人のむかいにあるひじかけ椅子に腰をおろした。「ここへきなさい」
わたしは、カーペットの上に足をふみ出した。先生はわたしを、直立不動の姿勢で、真向いに立たせた。わたしの顔とほぼ同じ高さに見えるようになった先生の顔の、ものすごさ! りっぱな鼻! 大きな口! おそろしい出っ歯!
「いうことを聞かない子どもを見るほど、悲しいことはないな」と先生は話しはじめた。「とくに、いうことを聞かない女の子は、そうだな。悪い人間は、死んでからどこへ行くか、知ってるね?」
「地獄へ行きます」わたしは即座に、型どおりの答えをした。
「じゃ、地獄とはなにかね? 説明してごらん」
「火だらけの穴です(旧約聖書、詩篇、第百四十篇第十節)」
「その穴に落ちこんで、永久に火あぶりになりたいかね?」
「なりたくありません」
「そうならないようにするには、どうしなきゃならんのかね?」
一瞬、わたしは考えた。やがて、わたしが口にした答えは、「からだを丈夫にして、死なないことです」という、すんなりと受けいれられるはずのない言葉であった。
「どうすればからだを丈夫にできるのかね? きみより小さな子どもが、毎日のように死んでるよ。一日か二日まえにも、五歳になる子の葬式をしたがね――いい子だったから、その子の魂は、いまごろは天国へ行っている。きみの命が召されたとしても、きみの魂が天国にあるといえるかどうか、あやしいものだね」
その疑念をはらすことは、とてもできそうになかったので、わたしはカーペットに根をはやしたような二本の大きな足に目をやったきりで、ため息をついた。どこか遠くへ行ってしまいたかった。
「そのため息が心からのもので、りっぱな恩人にご迷惑のかけっぱなしであったことを後悔しているのならいいのだが」
「恩人! 恩人ですって!」わたしは心のなかでいった。「世間の人はリード夫人のことを、わたしの恩人という。だとしたら、恩人って、いやらしいものだわ」
「朝晩、お祈りをしてるかね?」質問はつづけられた。
「はい、しております」
「聖書は読むかね?」
「ときどき読みます」
「おもしろいかね? 聖書は、好きかね?」
「ヨハネの黙示録と、ダニエル書と、創世記と、サムエル記と、出エジプト記のほんのちょっとと、列王紀と歴代志のところどころと、ヨブ記と、ヨナ記とが好きです」
「じゃ、詩篇は? これも好きだと思うが」
「きらいです」
「きらいだって? これは、おどろいたな。わたしには、きみよりも年下の男の子がいるが、詩篇を六つも暗記しているよ。ショウガ入りのビスケットを食べるのと、詩篇の文句をおぼえるのと、どっちがいいか、きいてごらん。『そりゃ、詩篇のほうさ! 詩篇をうたっているのは、天使だもの!』と答えて、『ぼく、地上の天使になりたいな』というから。この子は、子どもらしい信仰心のごほうびに、ビスケットを二つもらうわけだよ」
「詩篇は、おもしろくありません」とわたしはいった。
「きみの心が曲っている証拠だな。心がいれ変わるよう、神さまにお祈りせにゃいかんよ。新しい、きれいな心をください。石の心をのぞいて、肉の心をくださいとな(旧約聖書、エゼキエル書、第三十六章第二十六節)」
どうすればその心をいれ変える手術ができますか、と質問しようとしたとき、リード夫人が口をはさんで、わたしに、お坐りなさい、といった。夫人は、ひとりでぺらぺらとしゃべりはじめた。
「ブロックルハースト先生、三週間まえにさしあげたお手紙にも書いたかと存じますけど、この子の性格や気質は、ぜんぜんあたくしの好みに合いませんの。この子にローウッドの学校への入学許可をおあたえの上、院長先生をはじめ諸先生がたに、この子をきびしく監督し、とりわけ、この子のいちばんいけない欠点であります、人をだます癖に用心するよう、お命じくだされば、まことにありがたいと存じます。あたくしがこんなことを、おまえに聞こえるところでいうのはね、ジェイン、おまえがブロックルハースト先生をだますようなことがあってはいけないからなんだよ」
わたしがリード夫人を恐れ、憎んだとしても不思議はあるまい。わたしを残酷なまでに傷つけるのが、夫人の本性だったし、夫人のいるところでは、わたしはどうしても幸福になれなかった。どんなに一生懸命にいうことを聞いても、どんなに夫人の気にいられようとつとめても、わたしの努力は拒絶され、さきほどのような言葉で報いられるばかりだった。今回は、その中傷の言葉が赤の他人のまえで口にされただけに、わたしの胸に深く食いいった。夫人がわたしを送りこむことにした新しい人生から、すでに希望の光が奪われてしまっていることに、おぼろげながら気づいた。夫人がわたしの行くさきざきに、嫌悪と無情の種子をまきちらしているのを感じたが、この感じを口にいいあらわすことはできなかった。わたしはブロックルハースト先生の目のまえで、ずるがしこい不良少女に一変させられてしまった。どうすれば、この傷つけられた名誉を回復できるのか?
「どうすることもできないのだわ」とわたしは思った。やっとのことですすり泣きをおさえ、わたしの苦悩を示すばかりの、無力な涙をぬぐい去った。
「たしかに、子どもが人をだますというのは、悲しむべき欠点です」とブロックルハースト先生がいった。「それはうそをつくのと同類でして、うそつきどもはみんな、火と硫黄がもえさかっている池に投げこまれる運命にありますからな(新約聖書、ヨハネの黙示録、第二十章第十節)。しかし、この子はちゃんと監督いたしますよ、リードさん。テンプル先生はじめ、ほかの先生にも話しておきますから」
「あたくしは、この子がこの子の将来の生活にふさわしい教育を受けることを願っておりますの」わたしの恩人といわれる人物はつづけた。「役に立つ人間、いつまでも謙虚な人間になることでございますわ。学校のお休みのときですけど、先生の許可がいただけますなら、ずっと学校ですごさせたいと思いますが」
「まことに賢明なご判断と存じますな、奥さん」とブロックルハースト先生は答えた。「謙遜はキリスト教徒としての美徳でありまして、ローウッドの生徒には、とりわけふさわしい美徳であります。そこで、わが校では、この美徳の涵養《かんよう》に、とくに意を用いるよう、命令してあります。わたしはかねてから、生徒の高慢という世俗的感情を効果的に抑制する方法を研究しておりましたが、つい先日、わたしの成功を示す、喜ぶべき証拠に接することができました。次女のオーガスタが母親といっしょに学校へ参観に行っておったのですが、帰宅しましてから、こういったものです。『まあ、パパ、ローウッドの女生徒は、みんなおとなしくて、質素なのね! ひっつめ髪に、長いエプロン、上着の外側には小さなリンネルのポケットでしょ――貧乏人の子といってもいいくらい! それに、わたしやママのドレスを眺めるの、シルクのガウンなんて見たことがないみたいに』」
「そういう雰囲気、あたくし、大賛成でございますわ」とリード夫人が答えた。「イギリス中をさがしたとしましても、先生の教育方針以上にジェイン・エアみたいな子にうってつけのものは見つからなかったと思いますわ。一貫性ですかしら、ブロックルハースト先生。あたくし、なに事であれ、一貫性を重要視しておりますの」
「奥さん、一貫性はキリスト教徒として第一の義務であります。ローウッドの施設にかかわりのあるあらゆる制度において、それが守られております。質素な食べ物、粗末な衣服、地味な設備、質実剛健の気風。一貫性こそが、ローウッドの学舎と生徒たちの基本原則となっております」
「安心いたしましたわ、先生。この子がローウッドの生徒として入学を許可され、身分と将来にふさわしい教育を受けることになるものと信じて、よろしゅうございますね?」
「よろしいですとも、奥さん。この子をえりぬきの苗木の養樹場へおいれしましょう――この子も選ばれた身の、はかりしれない特権を感謝するにちがいありません」
「じゃ、この子を、できるだけ早く入学させることにしますわ、ブロックルハースト先生。正直申しまして、荷重になりはじめました責任を、肩からおろしたくてたまらないものですから」
「お気持は、よくわかりますよ、奥さん。それじゃ、これにて失礼を。一、二週間たったら、ブロックルハースト・ホールに帰る予定です。副監督をしている友人が、それまでは手放そうとはしないでしょうから。テンプル先生には、わたしから新しい生徒が入学することを知らせておきますから、受け入れに支障はありませんでしょう。それじゃ」
「失礼いたしますわ、ブロックルハースト先生。奥さまや、上のお嬢さま、それからオーガスタさまにセオドアさま、それにブロートン坊ちゃまにもよろしくお伝えくださいませ」
「そのように伝えますよ、奥さん。それから、きみ、ここに『子供の手引き』という本があるからね。お祈りをするときに、読むんだな。とくに、『虚偽と詐欺の行為にふけった不良少女マーサ・G――の恐ろしい急死の物語』のところを読みなさい」
こういいながら、ブロックルハースト先生は表紙をとじつけた、うすいパンフレットをわたしの手にわたし、ベルをならして馬車を呼んでから、立ち去った。
リード夫人とわたしの二人きりになった。沈黙のうちに数分がたった。縫い物をつづける夫人、それを見守るわたし。リード夫人は当時、三十六、七であった。がっしりした骨格の女性で、いかり肩の上にがんじょうな手足をしていた。背は高くなく、肥満体というほどではなかったが、かなりふとっている。顔は大きめで、下あごはたいへんに発達して、骨ばっている。せまい額、大きくて突き出したあご先、かなりととのった口と鼻。うすい眉毛の下では、情容赦しない目が光っている。皮膚の色は黒く不透明で、髪は亜麻色にちかい。からだは釣り鐘みたいに丈夫で故障がない――病気のほうで敬遠するほどだ。一家の女主人としても厳格で、頭がよく働き、家族も雇い人も小作人も、すべて完全に掌握している。ときたま夫人の権威に反抗して、小馬鹿にしているのは、子どもたちくらいのものである。夫人は着こなしがよかったし、押し出しや身のこなしをうまく使って、しゃれた衣裳をひき立たせるようにしている。
夫人のひじかけ椅子から二、三ヤードはなれた低い椅子に腰をかけたまま、わたしは夫人の姿を観察し、その顔色を読んでいた。わたしの手には、うそつきの急死のことを書いたパンフレットがあった。その物語を読めといわれたのは、それがわたしにふさわしい警告であるからにほかならない。たったいま起こったことが、リード夫人がわたしについてブロックルハースト先生にいったことや、二人の会話の一部始終が、わたしの頭になまなましく残り、ひりひりと刺すようであった。わたしは一語一語を明確に聞きとると同時に、敏感に感じとってもいたのだ。いまになって、腹立たしさが、わたしの身うちに燃えあがってきた。
リード夫人は縫い物から目をあげた。その目をわたしの目にそそぐと同時に、それまでせっせと動かしていた手を、ぴたりととめた。
「この部屋から出てお行き。子供部屋へもどるのよ」と夫人は命令した。
わたしの表情か、表情以外のなにかが、気にさわったにちがいない。夫人の口調は、おさえようとはしているものの、はなはだしくいら立っていた。わたしは立ちあがって、ドアまで行き、また引きかえしてきた。部屋を横切って、窓のところへ行ってから、夫人のすぐそばまで近づいた。
|いいたいこと《ヽヽヽヽヽヽ》をいわねばならない。いままで踏みつけられてきたわたしだから、いまこそ開きなおらねば|ならない《ヽヽヽヽ》。だが、その手段はなにか? 敵にむかって復讐の矢をはなつ力が、わたしにあるというのか? わたしは全精力をふるいおこすと、それをつぎの遠慮も会釈もない言葉に投入した。
「あたしは、人をだましたりしないわ。だますような人間だったら、|奥さん《ヽヽヽ》のことを好きだっていいます。でも、はっきりいいますけど、あたしは奥さんがきらいです。ジョン・リードをのけたら、世界中で奥さんがいちばんきらいです。うそつきのことを書いたこの本は、奥さんの子どものジョージアナにあげればいいわ。うそをつくのは、あの子で、あたしじゃありませんからね」
リード夫人は、仕事の手をとめたままだった。氷のような目も、わたしの目に冷ややかにそそがれたままであった。
「いいたいことは、それだけかい?」夫人は、子どもに話しかけるときの口調というよりも、おとなの喧嘩相手に話しかけるような口調でいった。
夫人の、その目、その声が、わたしの反感のすべてをかき立てる。抑えきれない興奮をおぼえたわたしは、全身をわなわなとふるわせながら、言葉をつづけた――
「奥さんが、あたしの親類でなくてせいせいしてるの。あたしの目の黒いうちは、奥さんのことをおばさんと呼んだりしないわ。おとなになっても、会いにきたりはしません。奥さんをどのくらい好きだったか、奥さんがどんな扱いをしてくれたか、などとたずねる人がいたら、あたし、いってやるわ。奥さんのことを考えただけで、胸が悪くなるって。むちゃくちゃに虐待されましたって」
「よくもそんなことがいえるわね、ジェイン・エア」
「よくもですって、奥さん? よくもいえるですって? |ほんとのこと《ヽヽヽヽヽヽ》だからじゃないの。奥さんは、あたしが感情なんかない人間で、愛情のひとかけら、親切のひとかけらがなくてもやっていける、と思っている。でも、それで生きていけるはずがないわ。奥さんには、あわれみというものがないのよ。奥さんに押しこまれたことは――乱暴に、力いっぱい|赤い部屋《レッド・ルーム》に押しこまれて、鍵をかけられたことは、あたし、死ぬまで忘れないわ。あたしは、もだえ苦しんでいたのよ。あたしは、苦しさで息がつまりそうになって、『許してちょうだい! 許してちょうだい、リードおばさん!』と泣きさけんでいたのよ。しかも、奥さんがあのお仕置をしたのは、奥さんの意地悪な息子があたしをぶった――なんにもしてないあたしをなぐり倒したからじゃありませんか。他人にいろんなことをきかれたら、ありのままの話をしてやるわ。世間は奥さんのことをりっぱな女だと思っているでしょうが、奥さんは悪い人よ。冷酷無情な人よ。|奥さんこそ《ヽヽヽヽヽ》、人をだましているのよ!」
こういいきってしまわないうちから、わたしの魂は、これまでに感じたこともない奇妙な解放感と勝利感で、大きくふくらみ、狂喜しはじめた。目に見えない縛《いまし》めが断ち切れてしまったような、もがき苦しんでいるうちに思いもかけぬ自由の世界へ出てしまったような、そんな気持ちだった。いや、こんな気持ちになるのも、無理からぬことだった。リード夫人のおびえたような顔。膝からずり落ちた縫い物。両手をあげ、身体を左右に動かして、いまに泣きだしそうに顔をゆがめている夫人の姿。
「ジェイン、おまえは勘ちがいをしてるよ。どうかしたんじゃないかい? どうしてそんなにぶるぶるふるえるのさ? 水はいらないかい?」
「いりませんわ、奥さん」
「ほかになにかほしいものはないかい、ジェイン? いいかい、あたしゃ、おまえのお友だちになりたいんだよ」
「奥さんなんかに、なってほしくはないわ。奥さんはブロックルハースト先生に、あたしが不良少女で、人をだます癖があるといったわね。あたし、ローウッドへ行ったら、奥さんがどんな人間で、どんなことをしたか、みんなに教えてやるわ」
「ジェイン、こういったことは、おまえにはわからないことなのよ。子どもは欠点をなおしてもらわなくちゃ」
「人をだますなんて、あたしの欠点じゃないわ!」わたしは腹立ちまぎれに大声をあげた。
「でも、すぐかんしゃくを破裂させるじゃないか。それは、おまえだって、みとめるだろ。さあ、もう子供部屋へおかえり――いい子だからね――すこし横になってみたら」
「あたし、奥さんにいい子呼ばわりされるおぼえはないわ。横になるなんて、まっぴら。あたしを、すぐ学校へやってよ、奥さん。こんなところに住みたくなんかないから」
「やっぱり、すぐに学校へいれるとするかねえ」夫人は小声でつぶやきながら、縫い物をまとめると、部屋からぷいと出て行ってしまった。
わたしは一人きりになった――戦場に残った勝利者というわけ。こんなに熾烈な戦いははじめてだったし、勝利もはじめて手中におさめたものだ。わたしはカーペットの上の、ブロックルハースト先生が立っていたあたりに、しばらく立ちどまって、征服者につきものの孤独をたのしんだ。最初、わたしは一人でほくそえみ、得意顔をしていた。だが、この強烈な喜びも、速くなっていた脈搏がおさまったのと同じように、あっけなく消え失せてしまった。わたしがやったみたいに、年長者と喧嘩をしたり、怒りの感情を無軌道に発揮したりした子どもは、あとになってかならず、良心の呵責《かしゃく》やあと味の悪さを経験するものだ。きらめき、なめつくす、生き物のような野火につつまれたヒースの丘が、リード夫人を責めさいなんだときのわたしの精神状態にふさわしい象徴だったといえる。とすれば、野火の消えたあとの黒く朽ちはてたヒースの丘こそは、その後のわたしの精神状態を象徴するにふさわしかったといえるのではないか。半時間の沈黙と反省の結果、わたしは気ちがいじみた行為と、憎み憎まれている自分の索莫たる立場に気づいたのである。
わたしは、生まれてはじめて、復讐の味らしいものを知った。それは香りの高いブドウ酒に似て、口あたりはまろやかで、独特の風味をもっているが、そのあと味は、かえって毒薬をのまされたような気分にも似て、金っ気が強く、舌ににがい。わたしはリード夫人の許しを乞いたい気持ちでいっぱいだった。だが、許しを乞いに行けば、夫人は旧に倍する軽蔑的な態度でわたしを拒絶することになり、そうなった場合、激情にかられやすい直情型なわたしは、またしても興奮することになるのではないか。経験と本能で、わたしにはそれがよくわかっていたのだ。
わたしは、毒舌の才とはちがった、もっと気のきいた才能を働かせたい、陰欝な憤慨みたいに悪魔的でない感情をはぐくむ糧を求めたい、という気持ちにかられた。そこで、一冊の本――アラビアの物語だった(『アラビアン・ナイト』のことと思われる)――を手にとり、腰をかけて読みはじめた。書いてあることが、一向に理解できない。わたし自身の物思いが、わたしと、いつもならひきずりこまれてしまう本の頁とのあいだに、ふわふわと浮かんでいるだけである。わたしは朝食室のガラス戸をあけた。灌木の林は静まりかえっている。黒霜(植物の葉や芽を黒くする)は、陽光にも風にもとけず、庭一面に勢力をのばしている。わたしは上着のすそで頭と腕をすっぽりつつむと、植え込みの奥まったあたりへ散歩に出かけた。だが、静かな木立ちや、地面にころがっている松かさや、すぎし日の風に吹き寄せられてうず高くなったまま、いまではひとかたまりになっている秋の紅葉の残骸などは、わたしの心をなぐさめてはくれない。木戸に寄りかかって、冬枯れの野原に目をやったが、草をはむ羊の姿もなく、みじかい草は寒気にやられて白っぽくなっている。ひどく陰気な日であった。「雪もよい」の、どんよりとした空が、おおいかぶさっている。ときたま白いものが、ちらついたが、凍てついた道や白一色の野原に落ちてもとけなかった。子どものわたしは、うらさびしい気分になって、「どうすればいいの? ――どうすればいいの?」となん回もなん回もつぶやきながら、立ちつくしていた。
ふいに、よく通る声が「ジェインさん! どこなの? お昼ごはんですよ!」と呼んでいるのが聞こえてきた。
ベシーであることは、ちゃんとわかっていたが、わたしは身動き一つしなかった。ベシーは庭の小道を軽やかな足どりで歩いてきた。
「いけない子ねえ! 呼ばれたら、すぐくるものよ」
ベシーは、いつものように、すこし気むずかしい顔をしていたが、いろんな物思いにふけっていたあとだけに、ベシーがきてくれたことで、心が軽くなるように思われた。正直なところ、リード夫人につっかかって勝利をおさめたわたしは、保母の一時的な立腹など、あまり気にならない心境だった。いや、ベシーの若やいだ陽気さに、とっぷりとひたってみたい気持ちにさえなっていた。わたしは両腕でベシーを抱くようにして、「ねえ、ベシー! おこらないで」といった。
この所作は、ふだんのわたしが見せたことのない、ざっくばらんで、ものおじしないものであった。これが、どうやらベシーの気にいったらしい。
「あなたって、おかしな子ねえ、ジェインさん」ベシーはわたしのほうを見おろしながらいった。「落ちつきがなくって、一人ぼっちが好きで。学校へ行くんだったわねえ?」
わたしはうなずいた。
「このベシーをほったらかしにして行っても、悲しくなんかないのでしょ?」
「ベシーは、あたしがきらいでしょ? いつもおこってばっかりだもの」
「それは、あなたが妙ちきりんで、こわがりで、はにかみ屋だからよ。もっとずうずうしくならなきゃあ」
「いやあね! もっとぶたれろというの?」
「そんなこと、いうもんですか! それでも、あなたがかなりひどい仕打ちを受けていることはたしかよね。先週、あたしの母親がきてたけど、自分の子どもだけは、あなたのような目には会わせたくない、といってたものねえ――さあ、なかへはいりましょ。それに、いいことがあるのよ」
「いいことなんて、うそでしょ、ベシー」
「まあ! なにがいいたいの? そんな悲しそうな目で、あたしを見たりして! 実はね、奥さまもお嬢さまがたもジョン坊ちゃまも、午後はお茶に呼ばれていなくなるの。あなたはあたしとお茶をいただくというわけ。あなたのために小さなケーキを焼いてくれって、料理番に頼んであげますからね。それから、あなたのたんすの整理を手伝ってくださいよ。もうすぐトランクの荷造りをすることになりますからね。奥さまは、一日か二日のうちに、あなたを出発させるおつもりなのよ。もって行きたいおもちゃを選び出しときなさいね」
「ベシー、あたしがここにいるあいだは、あたしを叱らないと約束して」
「ええ、いいわよ。でも、うんといい子でいなくちゃ。あたしをこわがっては駄目よ。あたしがすこしくらいきつくいったって、びくびくしないでね。かえって頭にきちゃうから」
「もう二度と、ベシーのことをこわがったりしないわ。ベシーの気心が知れたからよ。それに、あたしには、もうすぐ、こわい人たちができるんですものね」
「その人たちをこわがったら駄目。またきらわれることになりますからね」
「ベシーがきらってるみたいに?」
「きらったりするものですか。ほかのだれよりも、あなたのことを好きなんだから」
「態度にあらわさないのね」
「ずいぶんはっきりいう子ねえ! あなたのしゃべりかた、すっかり変ったわよ。そんなに思いきって、ずけずけいえるようになったのはなぜなの?」
「そりゃ、すぐにベシーと別れるからよ。それに――」わたしとリード夫人とのあいだに一幕あったことを口にしかけたが、このことはなにもいわないほうがいいだろうと、思いなおした。
「それに、あたしと別れるのが、うれしいといいたいのでしょ?」
「とんでもないわ、ベシー。ほんとをいうといまは、悲しいくらいの気持ちよ」
「いまはだなんて! 悲しいくらいの気持ちだなんて! あたしのかわいいお嬢ちゃまは、ほんとにすずしい顔でおっしゃるのですねえ! このベシーにキスしてくださいとお願いしても、とてもしてはくださらないでしょうね。したくないくらいの気持ちだわ、とかなんとかいったりして」
「よろこんでキスしてあげるわ。頭を低くしてよ」
ベシーは身をかがめた。わたしたちは、たがいに抱きあった。はればれとした気持ちになったわたしは、ベシーについて家のなかへはいった。その日の午後は、むつまじい平和のうちにすぎた。夕方になって、ベシーはわたしの心を奪ってしまうようなお話をいくつかしてくれた。たいへんにきれいな歌もいくつかうたってくれた。わたしのような者にとってさえ、人生には陽光のきらめきがあったのだ。
[#改ページ]
五章
一月十九日の朝、時計が五時を打つか打たないうちに、ベシーがわたしの部屋へろうそくをもってきた。わたしは、とっくの昔に起きだして、着がえもほとんどすましていた。ベシーがはいってくる半時間まえに起きだして、ベッドのそばの小さな窓からさしこんでくる、月の入り直前の半月の光で顔をあらい、服を身につけたのである。この日、午前六時に正門まえを通過する駅馬車でゲイツヘッドを出発する予定だった。まだベシーだけしか起きていない。子供部屋で火を起こし、わたしの朝食の用意にとりかかってくれる。旅に出るまえの子どもは、あれこれ考えて興奮しているので、食がすすむことはめったにない。わたしも、例外ではなかった。ベシーは、心づくしのミルクパン(煮たてた牛乳にパンをひたしたもの)を一さじでも二さじでも食べるようにいってくれたが、どうしても食べられないのがわかると、ビスケットを数個、紙につつんで、わたしのかばんにいれてくれた。わたしがオーバーと帽子《ボンネット》を身につけるのにも手をかしてくれる。ベシーがショールに身をつつんだところで、二人そろって子供部屋をあとにした。リード夫人の寝室のまえを通りかかったとき、ベシーは「なかにはいって、奥さまにご挨拶しなくてもいいの?」ときいた。
「いいの、ベシー。ゆうべ、ベシーが食事におりているあいだに、奥さんがベッドにはいっているわたしのところへやってきて、あしたの朝は、あたしや、おまえのいとこたちを起さなくてもいいからね、といったの。あたしゃ、おまえのいちばんの友だちだったから、人さまにもそういい、あたしにも感謝しなきゃいけないよ、ともいったわ」
「それで、あなたはどう答えたの?」
「答えるものですか。おふとんで顔をかくして、壁のほうをむいちゃった」
「そりゃ、ひどいわ、ジェインさん」
「ひどいことなんかないわ、ベシー。ベシーの奥さまは、あたしの友だちなんかじゃないわよ。敵なんだもの」
「まあ、ジェインさん。そんなこと、いっちゃいけないわ」
広間《ホール》を通りぬけて、正面玄関に出たとき、わたしはこう叫んだ。
「さようなら、ゲイツヘッド!」
月が落ち、まっ暗だった。ベシーのさげたカンテラの光が、ぬれた石段や、最近の雪どけでぐしゃぐしゃになっているじゃり道できらめいた。刺すような寒さの、冬の朝だった。馬車道をいそぐわたしの歯が、かちかち鳴った。門番の小屋に明かりが見える。小屋についてみると、門番のおかみさんが火を起こしているところだった。まえの晩に運んであったわたしのトランクが、繩でしばって戸口に置いてある。六時に二、三分まえだった。六時になってすぐ、遠くに聞こえる車輪のがらがらいう音で、駅馬車の近づいていることがわかった。わたしは戸口へ出て、馬車のランプが闇のなかをつっ走ってくるのを見守った。
「あの子はひとり旅かね?」と門番のおかみさんがきいた。
「そうよ」
「どこまで行くのかね?」
「五十マイルむこうよ」
「なんて遠いんだろうねえ! あんな子どもを、そんな遠くまで、一人で送り出して平気だなんて、リードの奥さまにもあきれるねえ」
駅馬車がやってきた。正門まえにとまった馬車は、四頭立てで、屋根の席に乗客がのっている。車掌と御者が、おいそぎ願います、と大声をあげた。トランクが引っぱりあげられ、ベシーの首にすがりついて接吻していたわたしは、引きはなされてしまった。
「この子の世話、よろしくお頼みしますね」わたしを馬車のなかへ抱きあげてくれた車掌に、ベシーが大声でいった。
「いいとも」という答えがかえってきた。馬車のドアがぱたんとしまり、「オーライ」とどなる声が聞こえて、馬車は動きだした。こうして、わたしはベシーやゲイツヘッドに別れを告げた。こうして、わたしは未知の世界へ、当時のわたしの目には遠く神秘的にうつった世界へ、めくるめく勢いではこばれて行ったのだ。
この旅行の記憶は、ほとんどない。その一日が異常なまでに長く思われたこと、なん百マイルもの道のりを走りつづけたように思われたことだけはおぼえている。馬車はいくつかの町をすぎてから、とある、それも非常に大きな町でとまった。馬がはずされ、乗客は昼食のためにおりた。わたしも宿屋へつれて行かれた。車掌はすこし食べないか、といってくれたが、食欲がぜんぜんない、と答えると、両側に暖炉のある大きな部屋に、わたしを置き去りにして行ってしまった。天井からはシャンデリアがさがり、壁の上のほうには、楽器をいっぱい並べた赤い小さな張り出しがある。わたしは、この部屋を長いあいだ歩きまわったが、なにか異様な気持ちがして、だれかにかどわかされるのではないか、と気が気でなかった。人さらいがいることを信じていたからだが、この人さらいの悪事はベシーの炉ばたの夜話にいつも登場したのである。やっとのことで、車掌がもどってきた。わたしをもういちど馬車に押しこむと、わたしの世話係りは車掌席におさまり、角笛を吹き鳴らした。馬車はL―町(後出のロートンの町をさす)の「石だらけの道路」(バイロン作『チャイルド・ハロルドの遍歴』の第三曲参照)をがたごとと駆け抜けた。
午後は雨模様になり、霧もすこしでた。夕暮近くになって、わたしはゲイツヘッドからどんどんと遠ざかっていることを、やっと実感しはじめた。馬車が町なかを通りぬけることもなくなった。窓外のようすも変わった。高い灰色の丘陵が、地平線にそびえている。宵闇がこくなるころ、馬車は樹木がうっそうと茂った谷間をくだっていた。夜の闇があたり一面をすっぽりつつんでからだいぶたって、木の間を吹きぬける烈風の音が聞こえてきた。
その音を子守歌に、わたしはとうとう眠ってしまった。だが、いくらも眠らないうちに、馬車ががたんととまって、目がさめた。馬車のドアが開くと、召使いふうの女の人が外に立っている。その人の顔とドレスが、ランプの明かりで見えた。
「ジェイン・エアという女の子は、乗っておりませんか?」とその人はいった。わたしが「はい」と答えると、かかえおろしてくれた。わたしのトランクが手渡され、馬車はあっという間に走り去った。
長いあいだすわっていたので、からだの筋肉がこっている。馬車の騒音と振動で、頭もぼんやりしている。わたしは元気を出して、まわりを見まわした。雨と風と夜の闇が、周囲を圧している。だが、目のまえに壁があり、その壁のドアが開いているのが、おぼろげながらわかった。わたしが新しい案内人といっしょに、そのドアをくぐると、案内人はドアをしめて、鍵をかけた。建物が――建物が遠くへひろがっているので、いく棟もの建物というべきだろうが――見えはじめた。窓がたくさんあって、そのいくつかには明かりがともっている。わたしたちは幅の広い、水たまりのできたじゃり道を通りぬけ、とあるドアから建物のなかへはいった。召使いはわたしを廊下から暖炉に火のはいっている部屋へ案内すると、わたしを一人きりにして出て行った。
わたしは暖炉のまえに立って、こごえた指を暖めてから、あたりを見まわした。ろうそくはなかったが、ゆらゆらゆれる暖炉の明かりが、壁紙をはった壁や、カーペットや、カーテンや、ぴかぴか光るマホガニー材の家具などを、思い出したように照らしている。この部屋は面会室で、ゲイツヘッド・ホールの客間ほどに広くも豪奢でもなかったが、なかなかいごこちがよかった。壁にかかった絵の画題はなんだろうか、と頭をひねっていたとき、ドアが開いて、ろうそくをもった人がはいってきた。すぐうしろに、別の人がいた。
最初にはいってきた人は、黒い髪、黒い目、青白い広い額の、背の高い女性だった。上半身をショールにつつみ、威厳のある顔つきで、風采も堂々としている。
「この子はまだ小さいのに、付き添いもいないのですね」その女性は、ろうそくをテーブルの上に置きながらいった。わたしを一、二分、じっと見つめてから、こうつけ加えた。
「すぐに寝かしたほうがいいようね。疲れているようだから。疲れたでしょう?」そういいながら、わたしの肩に手をのせた。
「すこし疲れました」
「それに、おなかもすいているにちがいないわ。寝るまえに、夜食を出してやってくださいね、ミラー先生。あなた、ご両親に別れて学校へはいるのは、これがはじめてなの?」
わたしは、両親はいないと答えた。両親はなん年まえに死んだのか、年はいくつで、名はなんというか、読み書きや裁縫がすこしはできるか、などときかれた。その女性は、人さし指でわたしの頬にやさしくふれると、「いい子におなりなさいね」といった。わたしはミラー先生といっしょに、その場を引きさがった。
いま別れたばかりの女性は、二十九歳くらいだろうか。いっしょに歩いている先生は、いくつか年下らしい。最初の女性の声や表情や態度は、印象的だった。ミラー先生はもっと平凡で、血色はいいのだが、表情が気苦労でやつれている。歩きぶりや動作には、明けても暮れても仕事の山をかかえている人みたいに落ち着きがない。助教師みたいな顔つきだと思っていたら、あとになって、やっぱりそうだとわかった。この先生に案内されたわたしは、曲りくねった大きな建物のなかの部屋や廊下をつぎからつぎへと通りぬけた。この建物の、わたしたちが通ってきたあたりには、水を打ったような、気味のわるいくらいの静けさがみなぎっていたが、そこをあとにすると、急におおぜいの人ががやがやいう声が聞こえはじめた。やがて、大きなモミ材のテーブルを左右に二つずつ並べた、幅も奥行きもある部屋にはいった。どのテーブルにも、二本のろうそくに火がともされ、テーブルのまわりのベンチには、九つ十からはたちまで、さまざまの年齢の少女たちのグループが腰をおろしている。ろうそくのほの暗い光でみると、数えきれないほどの少女たちがいるように思われたが、実際には八十名をこしていない。少女たちの制服は、茶色のあらいウーステッド製のワンピースで、スタイルはまことに古めかしい。それにリンネルの長いエプロンをつけている。ちょうど勉強の時間で、少女たちはあすの授業の予習をしているところだった。わたしが耳にしたがやがやいう声は、暗唱している全員のひそひそ声が一つになったためのものとわかった。
ミラー先生はわたしにドアのそばのベンチに腰をかけるよう合図すると、長い部屋のまえへすすみ出て、大声でこういった――
「級長は教科書を集めて、かたづけなさい」
四人の背の高い少女が、それぞれのテーブルから一人ずつ立ちあがり、ひとまわりして教科書を集めて、かたづけた。ミラー先生が、また指示をあたえた――
「級長は夜食の盆《トレイ》をもってきなさい」
背の高い少女たちは出て行った。やがて引きかえしてきたときには、それぞれの手に盆をもっている。盆の上には、なにかよくわからない食べ物が、数人分ずつ並べられ、盆のまん中には水さしとコップが一つずつのっている。食べ物がみんなに渡された。水のほしい者は一ぱいずつのんだが、一つのコップをみんなで使う。わたしの番になったとき、のどがかわいていたので、水だけはのんだが、食べ物には手をふれなかった。興奮と疲労のせいで、食欲がなかった。だが、その食べ物が、うすい燕麦《オート》の堅焼きビスケットをなん人分かに割ったものであることは、そのときになって気がついた。
夜食がすんで、ミラー先生が祈祷の文句を読みおわると、生徒たちは二列になって、二階にむかった。このころになると、疲れがどっと出ていたため、わたしは寝室のようすには、まるで気がつかなかった。ただ、教室と同じように、ずいぶんと奥行きがあることだけは目にとまった。その夜は、ミラー先生と同じベッドで休むことになっていた。先生はわたしが服をぬぐのを手伝ってくれた。横になるときにちらっとみると、長いベッドの列があって、ひとつのベッドに二人ずつ、すばやくもぐりこんでいる。十分後には、たった一つの明かりも消され、静けさと真の闇のなかで、わたしは眠りにおちた。
その夜は、あっという間にすぎた。疲れていたので、夢さえみなかった。いちどだけ目をさましたとき、はげしく吹きあれる突風と篠つく雨の音が聞こえ、ミラー先生がわたしの横で寝ているのに気がついた。つぎに目を開けたとき、鐘がやかましく鳴っていた。少女たちは起き出して、着がえをはじめている。夜はまだ明けていない。部屋では、燈心草ろうそく(燈心草の芯を獣脂につけて作った細いろうそく)が一、二本もえている。わたしもいやいや起きあがった。刺すように寒い。からだがふるえるので、やっとのことで着がえをすませ、あいた洗面器で顔をあらったが、寝室の中央に並んだ洗面台には、六人に一つの割でしか洗面器がないので、なかなかあかない。また鐘が鳴った。全員が二列縦隊に並び、そのままの形で階段をおりて、明かりのくらい寒い教室にはいった。ここでミラー先生は祈祷の文句を読みあげ、それがおわると大声で命令した――
「クラスごとにわかれなさい」
たいへんな騒ぎが数分間つづき、ミラー先生は「お静かに!」、「お行儀よく!」を再三再四、大声でくりかえした。騒ぎがおさまってみると、生徒たちは四つのテーブルのまわりにおかれた四脚の椅子をかこむよう、四つの半円をつくって並んでいる。全員、手に本をもち、あいた椅子のまえのテーブルには、それぞれ聖書みたいな大きい書物がのっている。このあとの数秒間というもの、おおぜいが小声でしゃべるざわめきがずっとつづいた。ミラー先生は各クラスのテーブルのあいだを歩きまわって、このとりとめのないざわめきを静めようとしていた。
遠くのほうで鐘がチリンチリンと鳴った。すぐに三人の女性が教室へはいってきて、それぞれのテーブルへむかい、椅子に腰をおろした。ミラー先生はドアにいちばん近い、四番目の椅子に坐った。そのまわりには、最年少の子どもたちが集まっている。わたしはこの下級クラスへ呼ばれ、どんじりに坐らされた。
こうして日課がはじまった。その日にふさわしい特祷(キリスト教の祈祷書のなかにある)の復唱。聖書の文句の暗唱。このあと聖書の数章がながながと一時間にわたって読みあげられる。この勤行がおわるころには、夜は完全に明けはなれていた。あきることを知らない鐘が、四度目に鳴った。クラスの全員は整列して、朝食のために別の部屋へむかった。食べ物がもらえそうな気配を察したときのわたしの、どんなにうれしかったことか! まえの日にほとんど食事をしていなかったので、空腹のあまり、気分が悪いくらいであったのだ。
食堂は大きな部屋で、天井が低く、陰気だった。二つの長テーブルでは、あたたかい料理のはいった皿から湯気が立っていたが、そのにおいときたら、鼻をそむけたくなるようなものだったので、わたしはがっかりしてしまった。そのにおいが、この料理をのみくだす羽目になっている者たちの鼻にとどいたとき、不平の表情がいちように浮かんだのを、わたしは見のがさなかった。行列の先頭にいた、上級クラスの背の高い少女たちの群から、ささやき声が聞こえた――
「気持ちが悪くなるわ! またポリッジ(オートミルなどで作ったおかゆ状の食事)が焦げたのよ!」
「お静かに!」と叫ぶ声がした。ミラー先生の声ではなく、上級クラス担当の先生の声だった。小柄な、色の黒い女性で、身なりはこぎれいだが、気むずかしそうな顔つきをしている。この先生が一つのテーブルの上席を占め、もう一つのテーブルの上席には、もっと若くて健康そうな女性が坐っている。昨夜はじめて会った女性を捜したが、見つからない。どこにも姿が見えなかった。ミラー先生は、わたしの坐っているテーブルのいちばん端の席につき、あとでフランス語の先生とわかった、変な外国人ふうの中年女性が、もう一つのテーブルの同じ位置に着席していた。食前の長いお祈りのあと、賛美歌がうたわれ、召使いが先生用のお茶をもってきた。こうして食事がはじまった。
ひもじくて、目がまわりそうになっていたわたしは、わたしにあてがわれた食事を一さじか二さじ、味のことなど考えもしないで、がつがつ食べた。だが、はげしい空腹感がひとまずおさまると、むかつくような食べ物を手にしていることがわかってきた。焦げついたポリッジは、くさったじゃがいも並みのまずさで、餓死に瀕した人間でさえ、たちまち吐き気をもよおすのだ。だれもかれもスプーンをのろのろと動かしている。どの少女も食べ物を口にいれ、のみこもうとつとめているのがわかったが、たいていの場合、その努力をすぐにやめてしまうのだった。朝食はおわったが、朝食らしい朝食をした者はだれもいない。なにも食べなかったのに、食後の祈りがささげられる。賛美歌をもう一度うたってから、わたしたちは食堂を出て教室にむかった。わたしは最後に食堂を出たグループにいたが、テーブルの横を通りかかったとき、先生の一人がポリッジの皿を取りあげて、味をみているのが目にはいった。その先生は、ほかの先生がたの顔を眺めた。どの顔にも不快な表情が浮かび、そのうちのふとった先生がつぶやいた――
「食べられたものじゃないわ! なんていうことでしょ!」
授業が再開されるまでに十五分あったが、そのあいだの教室は、まことにみごとな混乱ぶりだった。この十五分間だけは、大声で自由にしゃべってもいいことになっているらしく、生徒たちはその特権を行使していたのだ。話題はもっぱら朝食のことに終始したが、朝食の悪口をあからさまにいわない者は一人もいなかった。かわいそうな生徒たち! そうする以外に、うさ晴しをする方法がなかったのだ。教室にいるのは、ミラー先生だけであったが、先生をかこんだ上級生の一群は、真剣な、むっつりした表情で話している。だれかがブロックルハースト先生の名前を口にするのが聞こえたが、ミラー先生は、いけません、というふうに首を横にふった。だが、先生は、みんなの憤懣《ふんまん》をなだめようとはしなかった。先生自身も同じ気持ちでいたにちがいない。
教室の時計が九時を打った。ミラー先生は円陣を組んだ生徒の群からぬけ出すと、教室の中央に立って、大声をあげた――
「お静かに! 席について!」
生徒たちは、規律にしたがった。五分もたつと、混乱しきっていた教室は見事に規制され、バベルの塔を思わせる喧噪(旧約聖書、創世記、第十一章、第四―九節)もおさまって、かなり静かになった。上級クラスの先生がたも時間どおりに席についた。それなのに、みんなはまだだれかを待っているようだった。教室の両側に並んだベンチに着席した八十名の生徒たちは、身動きひとつせずに、まっすぐ坐っている。だれもかれも飾りけのない髪をうしろにひきつめ、巻き毛一本見せていないさまは、まことに奇妙な集団という感じだった。しかも茶色の制服はハイ・ネックで、えりもとにはせまい|えり布《タッカー》がついているし、制服の胸に縫いつけてあるリンネルの小さなポケット(スコットランド人の財布の形をしている)は、裁縫用具いれの用に立てることになっている。全員がウールの靴下と、しんちゅうの|止め金《バックル》のついた、いなか仕立ての靴をはいている。このような服装をした生徒の二十名以上は、十分に成長した少女、というよりも一人前の若い女性だった。その服装は、この生徒たちには不似合いで、いちばんの美人でさえも、へんてこな格好になっていた。
わたしは生徒たちを眺めつづけた。ときには、先生がたも観察した――これは、と思う先生は一人もいない。ふとった先生は、すこし下品だし、髪の黒い先生はいかにもこわい感じがする。外国人の先生は、厳格そうな上にグロテスクときている。ミラー先生にいたっては、おかわいそうに、顔は紫色で、日に焼けて、過労気味なのだ――わたしが顔から顔へ視線を移していたとき、ぜんぶの生徒が、まるで一本のバネではじかれたかのように、いっせいにぱっと立ちあがった。
なにが起こったというのだろうか? 号令を聞いてもいない。わたしはあっけにとられてしまった。生徒たちは、わたしが落ち着きをとりもどさないうちに、また着席した。ところが、こんどは全員の視線が一点にそそがれている。そこで、みんなの目を追ってみると、昨夜、わたしをむかえてくれた人の姿が、そこにあった。そのかたは長い教室のうしろの暖炉のまえに立っていたが(暖炉は教室のまえとうしろにあった)、二列に並んだ生徒を、黙ってにこりともしないで見まわした。ミラー先生が近づいて、なにやら質問をしたらしい。返事を聞いた先生は、自分の席にもどると、大声でいった――
「上級クラスの級長は、地球儀と天体儀をとりに行ってきなさい!」
この命令が実行にうつされているあいだに、ミラー先生の相談をうけた女性は、ゆっくりと教室のまえのほうへ歩いて行った。その足どりを目で追ったときの、感嘆と畏敬の念を、いまだに失わないでいるところをみると、わたしには、骨相学でいう「人を敬愛する相」が相当に強いようである。昼間の明かりのなかで見ると、この女性は背が高く、色白で、スタイルもよかった。虹彩に柔和な光をたたえた茶色の目と、念いりに線描きしたような長いまつ毛が、広い額の白さを引き立たせている。こめかみのあたりには、焦げ茶色の髪がひとかたまりのまるい巻き毛になっている。この髪型が当時の流行で、ヘア・バンドや長くした巻き毛はすたれていた。紫色の生地のドレスも、流行の線にそったもので、黒いベルベットのスペイン風の|飾りつけ《トリミング》がアクセントになっている。ベルトには、金時計(当時、懐中時計は現在ほど大衆化していなかった)が光っていた。この人物の描写を完璧にしたいと思われる読者は、洗練された目鼻だち、青ざめてはいるがはればれしい顔の色、それに貫禄のある態度と身のこなしをつけ加えてみるがいい。テンプル先生の顔かたちについての正確なイメージを、すくなくとも言葉による表現では最高の鮮明さで、抱くことができるにちがいない。この先生のマライア・テンプルという名前は、後刻、教会へもって行くようにいいつけられた祈祷書に書いてあったのを見て知ったのだ。
ローウッドの院長先生(この女性がその院長先生であった)は、テーブルの上に置かれた地球儀と天体儀のまえに坐ると、上級クラスの生徒をまわりに呼び集めて、地理の授業にとりかかった。下級の各クラスも担当の先生に呼ばれ、歴史や文法などの暗唱が一時間つづいた。つぎは書きかたと算術で、音楽はテンプル先生が上級生の一部に教えた。授業の区切りは教室の柱時計でつけていたが、その柱時計がやっと十二時を打った。院長先生は立ちあがると、こういった――
「生徒のみなさんに一言申しあげたいことがあります」
授業がおわったので、教室はすでにがやがやしはじめていたが、先生の声で静かになった。先生はつづけた――
「あなたがたの朝食は、食べられないものでした。おなかがへっていることでしょうね――チーズをつけたパンの昼食を、みなさんに出すようにいいつけておきました」
先生がたは、驚いたような表情でテンプル先生のほうを見た。
「これは、わたしの一存で取りはからいます」
テンプル先生は、ほかの先生がたに説明するような口調でつけくわえると、そのまま教室から出て行った。
やがてはこびこまれたチーズをつけたパンがくばられると、生徒一同は歓声をあげて喜び、元気を取りもどした。やがて「校庭へ出なさい!」という号令がかかった。生徒は一人残らず色キャラコのひものついた粗末な麦わら帽子をかぶり、灰色のフライズ(片面だけに毛羽のある厚い外套地)の外套をまとった。わたしも同じ身ごしらえをすると、生徒の流れにしたがって戸外へ出た。
校庭の敷地は広かったが、たいへんに高い塀でかこまれた囲い地だったので、まわりの景色はぜんぜん見えなかった。一方の端には屋根のついたベランダがあり、いくつもの小さな畑に区切られた中央部の土地のまわりは、ゆったりした散歩道が取りかこんでいる。この畑は生徒が世話をする花壇に割りあてられ、どの花壇にも持ち主がいた。満開どきには、さぞかしきれいだろうと思われたが、いまは一月の下旬なので、一面に茶褐色の冬枯れだった。わたしはあたりを見まわしながら、思わずぞっと身ぶるいがした。戸外での運動には寒すぎる日だった。雨降りというほどのことではないが、しめっぽい黄色の霧のために、暗くなっている。足もとの地面は、昨日の豪雨のためにまだぐしゃぐしゃである。元気のある生徒たちは走りまわって、動きのはげしいゲームをやっていたが、やせて顔色のよくない生徒たちは、ぞろぞろとベランダに集まってきて暖をとっていた。濃霧が、がたがたふるえているからだにしみいるとみえ、その生徒たちのあいだから、うつろに響く咳が、しきりにわたしの耳にはいってきた。
わたしは、まだだれとも口をきいていなかった。わたしに目をとめる者もいないようだった。わたしは一人ぽつねんと立っていたが、この孤立感にはなれっこになっているわたしだ。それほど気がめいることもなかった。わたしはベランダの柱によりかかり、灰色の外套をぴったりまとうと、からだのそとのしみいるような寒気と、からだのなかの食いいるような空腹感を忘れるために、周囲を眺めたり、ものを考えたりすることに熱中していた。そのときに考えたことは、あまりに漠としていて、断片的だったので、ここに書き記すまでもあるまい。わたしには、自分の置かれている状態が、ほとんどわかっていなかった。ゲイツヘッド・ホールと過去の生活は、はかり知れないかなたへ流れ去ったかにみえる。現在はあいまいとして、未知というほかはない。未来については、憶測すらも不可能であったのだ。わたしは修道院を思わせる校庭を見まわし、校舎を見あげた。大きな建物だったが、半分は古く灰色で、あとの半分は新築早々だった。この新しい部分は、教室と寝室になっていたが、|縦仕切り《ムリオン》のあるこうし窓から明かりをとっていたので、外観は教会のようだった。玄関にかかった石の銘板には、つぎのような文句が刻んであった――
「ローウッド慈善院《インスティチューション》――本校舎は、西暦――年、この州のブロックルハースト・ホールに住むネイオミ・ブロックルハーストにより改築せらる」
『このように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい』――マタイによる福音書、第五章第十六節
この文句をなん回となく読みかえしたわたしは、これには説明があってしかるべきではないか、と感じた。意味を十分に理解することができなかったのだ。わたしがまだ「インスティチューション」という単語の意味を考え、前半の文句と後半の聖書からの引用との関係をつきとめようとしていたとき、すぐうしろから咳が聞こえた。わたしは振りかえった。そばの石のベンチに、一人の少女が坐っている。本にかがみこむような姿勢で、読書に夢中になっているらしい。わたしの立っているところから、本の題名が見えた――『ラセラス』(イギリスの文豪サミュエル・ジョンソンの教訓小説。一七五九年刊)となっている。変な感じの題名なので、興味をひかれた。頁をめくるとき、少女がなにげなく目をあげたので、わたしはいきなり声をかけてみた――
「その本、おもしろいの?」わたしは、いつか貸してくれないか、と頼みこむつもりになっていたのだ。
「わたしは好きよ」少女は一、二秒わたしをさぐるように見てから答えた。
「どんな本なの?」とわたしはつづけてきいた。このように初対面の人に自分から話しかけるずうずうしさを、いったいどこで身につけたのか、いまのわたしには知るよしもない。こんなことをするのは、わたしの性質や習慣にそぐわない。だが、相手の少女が本を読んでいたことが、わたしの心の琴線にふれて、気持ちが通じあったのではないかと思う。わたしも、低俗で幼稚なレベルだったとはいえ、読書は好きだった。かたい本、内容のある本は、読みこなすことも、意味をつかむこともできなかった。
「見てもいいわよ」少女はそういうと、本をわたしのほうにさし出した。
わたしは本を見せてもらった。ぺらぺらとめくってみただけで、題名ほどにおもしろそうな内容でないことが、はっきりわかった。『ラセラス』は、わたしの次元の低い趣味にはあわぬ、退屈な本らしい。妖精の話や妖鬼の話はぜんぜん出てこない。この活字のぎっしりつまった頁には、人目をひくすてきな趣向などこらされていないみたいであった。わたしは本を少女にかえした。少女はだまって受けとると、そのまま一言も口をきかずに、さきほどのわき目もふらない勉強ぶりにもどろうとした。わたしはずうずうしくも、もういっぺんその少女のじゃまをした――
「玄関にかかっている石板の文句の意味だけど、教えてくれない? ローウッド・インスティチューションって、なんなの?」
「あなたがいま生活している、この建物のことよ」
「じゃ、なぜインスティチューションというの? ほかの学校《スクール》とちがうところが、どこかあるの?」
「ここは半分は貧民学校《チャリティ・スクール》なのよ。あなたもわたしも、ほかの人も、みんな救済児童というわけ。あなたは孤児なんでしょ。パパかママがいないんじゃないの?」
「パパもママも死んでしまって、わたしは二人の顔も知らないのよ」
「とにかく、ここにいる子はみんな片親か両親がいないので、ここは孤児を教育するための慈善院《インスティチューション》と呼ばれているわけね」
「あたしたちはお金をはらわないの? ただで生活できるの?」
「一人あたり年に十五ポンド、わたしたち、というか、わたしたちの身内の者がはらうのよ」
「じゃ、なぜあたしたちのことを救済児童だなんていうの?」
「十五ポンドじゃ、食費と授業料がまかなえないから、不足分を寄付に頼ってるからよ」
「だれが寄付してくれるの?」
「この近在やロンドンに住んでいる、いろんな慈善家たちよ」
「ネイオミ・ブロックルハーストって、だれなの?」
「あの銘板に書いてあるように、新館を建てた女の人よ。そのかたの息子さんが、この学校のいっさいの監督と管理をしてるの」
「なぜなの?」
「この施設の会計をにぎっている理事長だからよ」
「じゃ、この学校は、懐中時計をもった、わたしたちにチーズをつけたパンをあげるとおっしゃった、背の高い先生のものじゃないのね?」
「テンプル先生のこと? とんでもないわ。そうであってほしいのだけど。あの先生は、なにをなさるにしても、ブロックルハースト先生に対して責任を取らねばならないの。わたしたちの食べ物や衣類は、ブロックルハースト先生がぜんぶ買うのよ」
「その先生は、ここに住んでるの?」
「いいえ――二マイルむこうの大きな屋敷に住んでるわ」
「いいかた?」
「牧師で、人のためになることをたくさんするそうよ」
「あの背の高い先生のお名前、テンプル先生といったかしら?」
「ええ」
「ほかの先生がたは、なんというお名前?」
「頬の赤い先生が、スミス先生。裁縫の担当で、裁断をなさるのよ――着物類は、ドレスでも、外套でも、ぜんぶわたしたちで作るからなの。髪の黒い小柄な先生は、スキャチャード先生で、歴史と文法を教え、中級の暗唱も担当なさってるわ。それから、ショールをかけ、ハンカチを黄色いリボンでからだの脇に結びつけている先生は、マダム・ピエロというの。フランスのリールのお生まれで、フランス語の先生よ」
「先生がたを好きなの?」
「まあまあね」
「髪の黒い、小柄な先生も好きなの? それから、マダム、なんといったかしら? ――あなたのように発音できないわ」
「スキャチャード先生は気がみじかいの――おこらせないようにすることね。マダム・ピエロの人柄も悪くはないわ」
「でも、テンプル先生が最高でしょ――そうじゃない?」
「テンプル先生は、とてもいい先生だし、頭もすごく切れるの。抜群ね。ほかの先生がたよりも知識が豊富なんですもの」
「あなた、この学校、長いの?」
「二年になるわ」
「あなたも孤児?」
「ママがいないの」
「ここにいて、しあわせ?」
「あなたったら、ちょっと聞きすぎよ。いままで答えてあげたことで、だいたいのことはわかったでしょ。あたし、いまは本を読みたいの」
だが、このとき、昼食の鐘が鳴った。みんな校舎へもどった。食堂にみちているにおいは、食欲をそそらない点では、朝食のときにわたしたちの鼻を大いに楽しませてくれたにおいにまさるとも劣らなかった。昼食は二つの馬鹿でかい錫めっきの容器にいれて出されたが、腐敗したあぶら身のにおいがぷんぷんする湯気が立ちのぼっている。安物のじゃがいもと、変なくさりかけの肉のこま切れとのごった煮であることがわかった。この料理をかなりたっぷり盛った皿が、生徒の一人ひとりにくばられた。わたしは食べられるだけしか食べなかったが、毎日の食事がこんな調子なのだろうか、と心のなかで考えていた。
昼食がすむと、わたしたちは、すぐに教室へひきあげた。授業がはじまり、五時までつづけられた。
その日の午後の、きわだった事件といえば、わたしがベランダで話をした少女が、スキャチャード先生の不興を買って、歴史の授業から追い出され、広い教室のまん中に立たされたことくらいだった。そのみせしめは、とくにこのような年上の少女の場合――例の女の子は十三歳か、それ以上に見えた――たいへんな不名誉ではないだろうか。あの少女も困りはてて、大いに恥いったそぶりを見せるのではないか、とわたしは思った。ところが、驚いたことに、その少女は泣くことはおろか、頬を赤らめもしない。全生徒の注目のまとになって、さすがにきびしい表情ではあるが、落ち着きすまして立っている。「どうして、あんなにおとなしく――あんなに平然とがまんしていられるのかしら?」とわたしはみずからに問うてみた。「あたしがあんな目にあったら、地面に穴が開いて、あたしをのみこんでくれることを祈ると思うわ。あの女の子は、みせしめに関係のないこと――いまの立場などに関係のないこと、自分の周囲や目前にないことを考えているみたいだ。白日夢の話を聞いたことがある――あの子は、白日夢をみているのかしら? 目は床に釘づけになっているけど、床なんか目にはいっていないと思うわ――あの子の視線は内面にむけられている。心のなかに没入しているのだわ。あの子の見ているのは、追憶の世界にちがいない。現実の世界なんかじゃないわ。あの子は、どんな子なのだろうか――いい子だろうか、悪い子だろうか?」
午後五時になってすぐ、わたしたちは、コーヒーが小カップ一杯と、黒パンが半切れの食事をもう一度とった。わたしは、あてがわれたパンをたいらげ、コーヒーをおいしく飲んだ。もう一人前あったら、ごきげんであったろう――まだまだおなかをすかしていたのだ。このあと、半時間の休憩、勉強時間、コップ一杯の水と一片の燕麦《オート》のビスケットの夜食、祈祷、就寝とつづいた。これが、ローウッドでのわたしの第一日であった。
[#改ページ]
六章
起床のあと、燈心草のろうそくで着がえをすます点では、翌日も前日と変わらなかった。ただ、この朝は、水差しの水が凍りついていたため、洗顔の儀は省略せねばならなかった。昨夕から天候が悪化し、身を切るような北東の風が、寝室の窓のすき間から一晩中ひゅうひゅうと吹きこんできて、寝床のわたしたちをふるえあがらせただけでなく、水差しの水まで凍らせてしまったのだ。
一時間半におよぶ長い祈祷と聖書の朗読がおわらないうちに、寒さで死んでしまうのではあるまいか、とわたしは思った。やっと朝食の時間になったが、今朝のポリッジは焦げてはいない。質のほうもまずまずだが、量がすくない。わたしの割りあて分の、なんとすくないことか! この二倍もあればいいのに、と祈らずにはいられなかった。
その日、わたしは最下級の第四学級へ編入され、正規の生徒としての学科目と仕事があてがわれた。これまでは、ローウッドの学校行事を傍観する側にいたにすぎないのだが、いよいよ参加する側にまわることになった。暗記の経験がほとんどないため、最初のうちは授業が長たらしい上にむつかしく思われた。科目がつぎからつぎへ変わるのにも、面くらってしまった。午後の三時ごろ、スミス先生がわたしの手にふち飾り用のモスリンを二ヤール、針や指ぬきなどといっしょに渡しながら、教室の静かな片隅に坐って、これにふち取りをしなさいといってくれたときにはほっとした。この時間には、生徒の大半が同じような縫い物をしていたが、一クラスだけ、スキャチャード先生の椅子のまわりに立って、朗読をしていた。教室が静まりかえっていたので、授業の内容だけでなく、一人ひとりの生徒の朗読ぶりや、でき栄えに対するスキャチャード先生の講評などが手にとるようにわかった。それはイギリス史の授業であったが、朗読している生徒のなかに、ベランダで知りあった少女の姿も見えた。その授業のはじまったとき、その子はクラスの最前列にいたのに、発音のミスか句読点の見落しのため、いきなり最後尾へ落とされてしまった。そんな目立たない席についていても、スキャチャード先生は少女をたえず目のかたきにすることをやめない。先生がのべつ幕なしにあびせかける言葉は、こんな調子であった――
「バーンズ」(これが少女の名前らしい。この学校の生徒は、よその学校の男生徒のように、みんな名字で呼ばれている)「バーンズ、片方の足首をくねらせて立ってますね。すぐにつま先をまっすぐにしなさい」、「バーンズ、あごの先をつき出したりして、みっともないですよ。ひっこめなさい」、「バーンズ、首をしゃんとのばしなさいといってるでしょ。わたしのまえで、そんな態度は許しませんよ」など。
ある章を二回朗読すると、本を閉じさせて、生徒たちに質問するというやりかたであった。この日の授業は、チャールズ一世(一六〇〇―四九。一六二五―四九、イギリスとアイルランドの王。断頭台で処刑される)の治世に関するもので、トン税やポンド税や造船税などについていろいろきかれるが、たいていの生徒は答えられない。だが、どんなにこまごました難問でも、バーンズの手にかかると、あっけなく解決してしまう。その記憶のなかには、授業の内容がぜんぶおさまっていると見えて、いかなる点に関しても即座に答えることができたのだ。わたしは、スキャチャード先生がバーンズの注意力に感心するのを、いまかいまかと待ちうけていたが、賞めたりするどころか、先生は突然こういって、バーンズをしかりつけた――
「きたならしい、虫のすかない子ねえ! 今朝、爪を洗わなかったのね!」
バーンズの答えは聞かれない。なぜ押しだまっているのか、わたしにはわからなかった。
「水が凍っていたから、爪も顔も洗えなかったと、なぜ言いわけしないのかしら?」とわたしは思った。
そのとき、スミス先生に糸かせをもっているように、といいつけられたので、わたしはバーンズから目をはなした。先生は糸を巻きとりながら、わたしにぽつりぽつりと話しかけた。わたしは、まえに学校へ行ったことがあるか、ししゅうや裁縫や編物ができるか、などときかれた。わたしは、スミス先生の用事がすむまで、スキャチャード先生の動作の観察をつづけることができなかった。わたしが自分の席にもどると、そのスキャチャード先生がなにやら命令をしているところだったが、その命令の意味がわたしにはわからなかった。だが、バーンズはすぐに教室を出て、書物をしまってある奥の小さな部屋へはいって行った。三十秒ほどでもどってきたが、その手には、一方のはしをしばった小枝の束をもっている。この気味の悪い道具を、バーンズはスキャチャード先生にうやうやしくおじぎをしてさし出すと、いわれるまえに、だまってエプロンをはずした。先生はその小枝の束で、バーンズの肩のあたりを十二回、いきなり、それも力まかせに打ちすえた。バーンズの目には、一滴の涙も浮かばなかった。この光景に接したわたしの指が、役立たずの無力な怒りにうちふるえ、裁縫をつづけることができなくなったというのに、バーンズのうれい顔は、いつもの表情を、ほんのすこしもくずしていなかった。
「なんて強情なんでしょ!」とスキャチャード先生は叫んだ。「あんたのだらしなさには、つける薬もないようね。このむちを始末しときなさい」
バーンズはいいつけにしたがった。わたしは書庫から出てくるバーンズをじっと見つめた。ポケットにハンカチをしまいかけたところで、やせた頬には涙のあとが光っていた。
ローウッドでは、夕方のみじかい休憩時間が、一日のうちで最高に楽しい時間に思われた。五時にかきこむ半片の黒パンと一口ほどのコーヒーは、おなかのたしにはならないとしても、元気の回復には役立つ。長い一日の緊張からの解放。教室も午前中より暖かい感じがするのは、まだはこびこまれないろうそくのかわりをある程度までさせるため、二つの暖炉の火をすこしばかり強くもやしてもいいといわれているためである。赤っぽい薄明かり、公認の大騒ぎ、おおぜいのがやがやいいあう声などが、甘やかな解放感をあたえてくれるのだ。
スキャチャード先生が生徒のバーンズをこらしめるのを目撃した日の夕方、わたしは、いつものように、ベンチやテーブルや大笑いをしているグループのあいだを歩きまわった。友だちはいなかったが、さみしいとも思わなかった。窓ぎわを通るときには、ときたまよろい戸をあげて外をのぞいた。ふりしきる雪で、下のほうの窓ガラスには、すでに吹きだまりができかけている。窓に耳を押しあてると、室内のにぎやかなさんざめきのほかに、戸外を吹く風の悲しげなうなり声を聞きつけることができた。
かりにわたしが幸福な家庭とやさしい両親に別れを告げたばかりであったとすれば、この時刻には、流離のうれいをきわめて痛切に味わったことだろう。あの風はわたしの心を悲しませ、この夕暮れの大騒ぎはわたしの平静をかきみだしたことだろう。だが、家も親もない身のわたしは、その風と大騒ぎとに、異様な心のたかぶりをおぼえた。わたしは分別と落ち着きを失って、風よ、もっと吹き荒れろ、夕闇よ、深い暗黒に変われ、喧騒よ、叫喚にまでたかまれ、といった気持ちになっていた。
ベンチを飛びこえたり、テーブルの下にもぐりこんだりしながら、わたしは片方の暖炉に近づいて行った。そこの、高い針金の炉格子《フェンダー》のそばで、バーンズがひざをついて坐っているのが見つかった。わき目もふらず、口をきこうともせず、一冊の本だけを相手に周囲から孤立しているバーンズ。その本を、燃えさしのおぼろな明かりを頼りに読んでいる。
「やっぱり『ラセラス』なの?」わたしはバーンズのうしろにまわってきいた。
「そうよ。いま読みあげたところよ」
そういってから五分後に、バーンズはやっと本を閉じた。わたしはうれしくなった。
「この子から、やっと話を引き出せるわ」とわたしは思った。わたしは、その少女のそばの床に腰をおろした。
「あなたは、なにバーンズというの?」
「ヘレン・バーンズよ」
「遠くからきたの?」
「ずっと北のほうよ。スコットランドとの国境の、すぐそばだわ」
「帰るつもりはある?」
「帰れたらね。でも、だれにも将来のことはわからないから」
「ローウッドを出たいんじゃないの?」
「いいえ。とんでもないわ。わたしがローウッドに送られてきたのは、教育を受けるためよ。その目的を達しないうちに帰ったら、なんにもならないじゃないの」
「でも、あのスキャチャード先生、あなたにずいぶんひどいじゃないの?」
「ひどいって? ひどいことなんかないわ。あの先生はきびしいのよ。わたしの欠点が気にいらないだけなのよ」
「あたしがあんな目にあったら、あの先生がきらいになるわ。反抗してやるわ。あんなむちでたたかれたら、逆にうばいかえして、あの先生の鼻のさきでへし折ってやるのに」
「まさかそんなことはしないでしょうけど。でも、ほんとにそんなことをしたら、ブロックルハースト先生はあなたを退学させるわ。そんなことになれば、身内のかたに悲しい思いをさせることになるわよ。自分だけしか感じない痛みをじっと耐えしのぶほうが、軽率なまねをして、かかわりのある人みんなに面倒をかけるよりも、ずっとずっといいわ――それに、善をもって悪にむくいよ、と聖書にもあるでしょ」
「でも、むちでたたかれたり、おおぜいのいる部屋のまん中で立たされるなんて、不名誉じゃないかしら。あなたは、ずいぶんと年上でしょ。あたし、あなたより年下だけど、がまんできないな」
「それでも、どうにも仕方のないことは、がまんするのが、義務というものよ。がまんするような運命にあるものを|がまんできない《ヽヽヽヽヽヽヽ》といったりするのは、弱い人間か、ばかな人間のすることよ」
わたしはバーンズの話を聞いて感心してしまった。わたしには、この忍耐論が理解できなかったし、ましてや、むちを加えた相手に対してバーンズが示している寛容の精神など、理解することも共感することもできなかった。にもかかわらず、ヘレン・バーンズは、わたしの目に見えない光にてらして、物事を判断しているように感じられた。ヘレンが正しく、わたしがまちがっているのかもしれない。だが、いまはこの問題をふかく考えたくなかった。わたしは、ペリクスのように、(新約聖書、使徒行伝、第二十四章第二十五節)そのためのいい機会がくるまでのばすことにした。
「あなたには欠点があるといったわね、ヘレン。どんな欠点なの? あなたは、あたしの目には、いい人に見えるけど」
「じゃ、外観でものを判断しちゃいけないという教訓を、わたしから学ぶことね。わたしは、スキャチャード先生のお言葉にもあったように、だらしないの。整頓はめったにしないし、すぐに乱雑にしてしまうわ。不注意なの。規則を忘れるの。学校の勉強をしなくちゃならないときに、余計な本を読むの。きちょうめんでないの。ときどき、あなたみたいに、規則一点ばりのやりかたについて行くのは|がまん《ヽヽヽ》がならないわ、といったりするの。こんな点がすべて、スキャチャード先生にはじれったいのでしょうね。先生は生まれつききれい好きで、きちょうめんで、こまかい点に口やかましいかただから」
「それに、意地悪で、残酷よね」とわたしはつけ加えた。だが、ヘレン・バーンズには、わたしのおまけの文句が許せなかったらしい。むっつりと押しだまっていた。
「テンプル先生も、スキャチャード先生みたいに、あなたにきびしいの?」
テンプル先生の名前がでた途端、ヘレンのこわい顔にやさしい微笑が、ふと浮かんだ。
「テンプル先生は、やさしさのかたまりみたいなかたよ。だれにでも、学校で最低の生徒にだってさえ、きびしくするのは、先生には苦痛なの。先生はわたしの失敗に気がついても、やさしく口にされるのよ。わたしが賞められてもいいようなことをしたら、ふんだんにお賞めの言葉をかけてくださるわ。わたしが救いがたい欠陥人間であることを示すなによりの証拠に、先生の、あんなにやさしく、あんなに筋のとおった忠告でも、わたしの欠点をなおすことができないし、わたしがなに物にもかえがたいほどに珍重している先生のお賞めの言葉でさえも、いつまでも注意ぶかくしよう、用心ぶかくしよう、という気持ちを、わたしに起こさせることができないの」
「変だわねえ」とわたしはいった。「注意ぶかくするなんて、とってもやさしいのに」
「|あなた《ヽヽヽ》なら、きっとそうだと思うわ。今朝、授業中のあなたを見てたけど、全神経を集中させていたわ。ミラー先生が学課の説明をしたり、質問をしたりしているあいだ、あなたはほかのことを考えたりしていなかったみたいよ。ところが、わたしは注意力がどうしても散漫になるのね。スキャチャード先生の話を聞いて、内容をせっせと吸収しなきゃならないときに、先生の声さえ耳にはいらなくなることが、しょっちゅうなの。夢心地になるとでもいうのかしら。ときには生まれ故郷のノーサンバーランド(イギリス北東部の州)に帰っていて、わたしのまわりに聞こえる物音が、わたしの家の近くのディープデンを流れる小川のせせらぎのように思えることがあるわ――そんなときに当てられたりすると、目をさましてもらわなきゃならないの。小川の夢をみていて、現実の授業はなにも聞いていないので、立ち往生してしまうのよ」
「でも、今日の午後は、すばらしい解答ぶりだったわよ!」
「あれは、まぐれ。朗読の材料がおもしろかったからよ。今日の午後は、ディープデンの夢なんかみないで、正しいことをしたいと願っている人間が、チャールズ一世がときどきしたような、ちっとも正しくない愚行を演じることができるのはなぜかしら、と考えていたの。あれほどの誠実と良心をもった王さまが、王位のもつ特権に目がくらんでしまったのは、いかにも残念なことだわ、と思ったの。あの王さまに先見の明があって、いわゆる時代精神の動向を見ぬく力があったとしたら! でも、わたしはチャールズ一世が好きよ――尊敬しているわ――無残に殺された、かわいそうな王さま! そうよ、いちばんの悪者は、王さまの敵方だわ。流す権利のない血を流したのですもの。王さまを殺すなんて、なんてことをしたんでしょ!」
ヘレンの話は、ひとりごとに変わっていた。わたしに十分理解できない話であることを――わたしが議論されている問題について無知か、無知に近いことを、忘れてしまっている。わたしはヘレンをわたしのレベルに引きおろした。
「じゃ、テンプル先生の授業のときにも、あなたは神経を集中できないの?」
「いいえ、できるわ。集中できないことは、めったにないわよ。なぜって、テンプル先生のお話は、たいていの場合、わたしの考えていることなんかより、ずっと新しいんですもの。先生のお言葉には、不思議なくらいに賛成できるし、先生が教えてくださる知識は、十中八九まで、わたしが知りたいなあ、と思っていることなの」
「それじゃ、テンプル先生にはいい子なのね、あなたは?」
「積極的な意味ではないけど、そういえるわね。わたしはいい子になろう、なんていう努力はしないの。好きなときに、好きなことをする行きかたなのね。こんな子は、いくらよくても賞めるに値いしないのよ」
「大いに値いするわ。あなたはよくしてくれる人には、いい子になるのだわ。あたしも、絶対そうありたいと望んでいるの。意地悪で、正しくない人たちに親切にしてやったり、いうとおりにしてやったりしたら、その悪い連中は好き勝手なことをするようになるわ。こわいもの知らずになるから、心がけをいれかえるどころか、ひどくなる一方でしょうね。わけもないのにぶたれたりなんかしたら、こちらも力いっぱいぶちかえさなくちゃ。絶対、そうすべきよ――ぶった人間がもうこりごりと思うくらい力いっぱいにぶちかえさなくちゃ」
「その考えも、おとなになったら、変わるのじゃないかしら。あなたはまだ、教わることがいっぱいある子どもですものね」
「でも、あたし、こう思うのよ、ヘレン。どんなことをしてでも気にいられたい人に、徹底的に憎まれたら、あたしのほうもその人を憎まなくちゃあ。不当な罰を加えられたら、加えた人に反抗しなくちゃあ。愛情をかけてくれる人を愛したり、受けて当然と思う罰をいさぎよく受けたりするのと同じように自然なことよ」
「異教徒や未開人は、そのような考えを信じているけど、キリスト教徒や文明人はみとめていないのよ」
「どうして? わたしにはわからないわ」
「憎悪を完全に打ち負かすのは暴力でないし、傷口をいちばん確実にいやすのは復讐でないわよ」
「じゃ、それはなになの?」
「新約聖書を読んで、キリストの言葉、キリストのおこないを勉強することね――その言葉をあなたの掟に、そのおこないをあなたの手本にすることね」
「キリストは、どういってるの?」
「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを呪う者を祝福しなさい。あなたがたを憎み、あなたがたの善意につけこもうとする者によくしてやりなさい(新約聖書、マタイによる福音書、第五章第四十四節その他に言及している)」
「そうなると、あたしはリードの奥さんを愛さなきゃならないけど、そんなことはできないわ。息子のジョンを祝福しなきゃならないけど、それも不可能だわ」
こんどは、ヘレンのほうから説明を求めてきた。わたしはさっそく、苦しみと怒りの物語を、わたしなりのしゃべりかたでまくしたてはじめた。興奮すると語気が荒く、毒舌になるわたしは、情け容赦なく、感じるがままにしゃべった。
ヘレンは辛抱強く、最後まで聞いてくれた。話しおわってからなにかいい出すだろうと思っていたら、なにもいわない。
「だからね、リードの奥さんは冷酷無情な悪い女でしょ?」とわたしはいらいらしてきいた。
「あなたに不親切だったことは、たしかね。つまり、スキャチャード先生がわたしの性格をきらわれるみたいに、その奥さんはあなたの性格が好きになれないからなのよ。それにしても、奥さんがしたり、いったりしたことを、よくもそんなにくわしくおぼえていられるわねえ! 奥さんのひどい仕打ちは、よっぽど深い印象をあなたの心にあたえたとみえるわ! どんなに虐待されても、わたしの心には、それほどの傷あとは残らないわ。あなたの場合、その奥さんのひどい仕打ちを、そのためにかき立てられた腹立たしい気持ちといっしょに忘れてしまったほうが、ずっと幸福になれるのじゃない? 敵意を抱いたり、虐待されたことをいつまでも根にもったりして、この短い人生を送ってはいけない、とわたしは思うわ。わたしたちは、この世では、例外なく、欠陥を背負っているし、また背負わなければならないの。でも、この堕落しやすい肉体を捨て去ることで、その重荷を捨て去ることができるにちがいないときが、やがておとずれるわ。そのときがくれば、わたしたちの堕落と罪悪は、このわずらわしい肉体とともに消滅し、あとに残るのは、精神の輝きだけになるの――このさわることも感じることもできない生命と思想の本源は、創造主の手をはなれて人間のなかに吹きこまれたときと同じように、罪やけがれのない姿で、もとの場所へもどって行くのだわ。もう一度、こんどは人間よりも高い次元の存在に移るためかもしれない――最下位の色あせた人間から最高位の天使へと、栄光の度合いを強めながら、光り輝くためかもしれないわ! その逆に、人間から悪魔に堕落させられることは、絶対にないんじゃないかしら? そうよ、そんなことは、とても考えられないわ。わたしには、もうひとつ信じていることがあるの。この信条はだれに習ったものでもないし、他人に話したこともめったにないの。でも、それは、わたしの大好きな信条で、わたしは、それにすがって生きてもいるのよ。この信条だと、みんなに希望があたえられるからなの。『あの世』だって、いこいの場――地獄でも奈落でもない、すばらしい休息所になるのよ。それに、この信条があるので、わたしは罪びとと罪との区別をはっきりつけることができるわ。わたしは罪を憎むけれども、罪をおかした人を心から許すこともできるの。この信条があるので、わたしは人をうらむ気持ちで心を悩ますことも、堕落に対してはげしい嫌悪感をおぼえることも、ひどい仕打ちのために押しひしがれることも、絶対にないわ。わたしは、最後の日を待ちのぞみながら、落ち着いた生活を送っているのよ」
最後の言葉をいいおわったとき、いつもうなだれているヘレンの首が、一段と低くなった。その表情から、わたしと話しつづけることよりも、自分の心との対話を願っていることがわかった。だが、バーンズは瞑想にふける時間を、十分にあたえられなかった。やがて級長をしている、がさつな上級生がやってきて、ひどいカンバーランド(イギリス北西部の州)なまりで、どなりつけた――
「ヘレン・バーンズ、いますぐ、引き出しを片づけて、縫い物をたたんでおいで。でないと、スキャチャード先生にいって見にきてもらうよ!」
瞑想に逃げられたヘレンは、ため息をついて立ちあがると、ぐずぐずしないかわりに返事もしないで、級長のいいつけにしたがった。
[#改ページ]
七章
ローウッドでの最初の三ヵ月は、三年にも三十年にも思われたし、それに心楽しい日々というわけでもなかった。新しい規則と珍しい学課になれ親しむため、さまざまの困難を相手に、うんざりするような戦いがつづいた。規則や学課でへまをするのではないかという心配が、わたしの受けねばならなかった肉体的苦痛以上に、わたしを苦しめた。その肉体的苦痛にしても、けっして並みたいていではなかったのだが。
一、二月から三月にかけては、深い雪や、雪どけのあとの通行不能に近い道路のために、教会へ行くとき以外は、校庭の塀の外へ一歩も足を踏み出すことができなかった。だが、わたしたちは、そのせまい校庭のなかで、一日に一時間は、外気に身をさらさねばならなかった。わたしたちの衣服では、きびしい寒さから十分に身を守ることができない。靴も深靴でないため、雪がはいりこんできて、とけてしまう。足と同じように、手袋のない手はかじかみ、霜やけにかかっている。毎晩、足が充血してくると、霜やけが気の狂いそうなくらいかゆくなったことや、朝、はれあがって、ひりひりする、かさかさのつま先を靴にいれるのが、ひどい苦痛であったことを、わたしはよくおぼえている。その上、食糧不足にも悩まされた。旺盛な食欲をもった育ちざかりの子どもたちなのに、食べ物はひ弱な病人が生きてゆくのにも足りないくらいだった。この栄養不足が原因となって、一つの悪習が生まれ、下級生をいじめぬくことになった。腹ぺこの上級生が、機会あるごとに、下級生に配分された食べ物を、すかしたりおどしたりして巻きあげるのである。このわたしにも、お茶の時間に出されたかけがえのない黒パンの切れはしを、くれといってきかない二人の上級生に分けあたえ、もう一人の上級生には一杯のコーヒーを半分まで飲まれてしまって、自分は残りの半分を、こらえきれない空腹のためにあふれ出た人知れぬ涙とともに飲みほしたことがなん回かあったのだ。
この冬の季節には、日曜日のくるのが憂鬱だった。わたしたちは、学校の後援者が牧師をしているブロックルブリッジ教会まで、二マイルも歩かねばならなかった。学校をでるときにすでに冷えていたわたしたちのからだは、教会に着くころには冷えきってしまい、朝の礼拝のあいだに、全身が麻痺したようになってしまう。昼食にもどれるような距離ではないので、いつものけちくさい食事の量とまったく変わらない、申しわけ程度の冷肉とパンが、午前と午後の礼拝の合い間にくばられた。
午後の礼拝がおわると、わたしたちは吹きさらしの山道を通って帰ったが、北方の雪におおわれた山頂から吹きおろす、冬の身をきるような寒風に、顔の皮膚がちぎれそうになってしまった。
わたしはテンプル先生が、肩を落として歩くわたしたちの行列のそばを、寒風にはためく格子縞の外套をからだにぴったり巻きつけるようにして、軽やかな早い足どりで歩いていたことを思い出す。先生は、わたしたちが元気をふるい起こし、先生の言葉でいえば「不屈の兵士のように」前進するよう、口先の説教だけでなく身をもって実践する形で激励してくださった。ほかの先生がたは、おかわいそうに、たいていすっかりへばってしまって、他人を元気づけるどころの騒ぎではなかった。
学校に帰りついたわたしたちは、あかあかともえる暖炉の明かりとぬくもりを、どんなに欲しいと願ったことか! だが、すくなくとも下級生は、手をさしだすことさえもできなかった。教室の二つの暖炉のまわりを、あっという間に上級生が二重にとりかこみ、そのうしろでは、こごえきった腕をエプロンにつつんだ下級生が、なん人ずつかにかたまって、うずくまっていた。
せめてもの慰めは、お茶の時間に出される、いつもの二倍の大きさの黒パンだった――半片ではなく、まるまる一切れで、申しわけ程度ながら、うすくバターをぬってある、というけっこうなおまけまでついている。これは、安息日から安息日にかけて、わたしたち全員が待ちわびている週に一回のご馳走だった。わたしは、たいていの場合、このたっぷりな食事の半分を、なんとか自分用に確保することができたが、残りの半分は、手放してしまわねばならない羽目になるのであった。
日曜日の夕方は、教義問答《カテキズム》と、マタイによる福音書の五、六、七章(山上の垂訓に関する部分)を暗唱したり、ミラー先生が読みあげる長たらしい説教を拝聴したりしてすごした。先生もあきあきしている証拠に、あくびを押さえきれなかった。こうした行事のあいだに、五、六人の下級生がユテコの役を演じるという(新約聖書、使徒行伝、第二十章第九節。青年ユテコはパウロの話を聞いているうちに、三階から転落する)、幕あい狂言的なハプニングがなん回となくあった。睡魔におそわれて、三階からではないにしても、第四学級のベンチからころがり落ち、抱きかかえてみると、半死半生の状態になっているのである。これをなおすには、その生徒たちを教室のまん中へつき出して、説教のおわるまで、そこに立たせておくしかない。ときには、足がいうことをきかなくなって、へなへなと折り重なるように坐りこむことがあるが、そんなときには、級長用の高い腰掛けをつっかい棒がわりにするのだった。
わたしはまだ、ブロックルハースト先生の学校訪問のことにふれていない。実をいうと、この人物は、わたしの入学後の一ヵ月近く、自宅を留守にしていたのだ。友人の副監督の家での滞在が長びいたためだろうが、先生の姿が見えないことは、わたしにとっては大助かりだった。いまさら指摘するまでもなく、先生の来校を恐れる理由が、わたしなりにいくつかあったのだが、その先生がいよいよ学校へやってきたのである。
ある日の午後(ローウッドへきてから、三週間たっていた)、石板を手にもって、二けた以上の割り算の答えを考えあぐねながら坐っていたとき、なにげなく窓のほうを見あげた目に、通りかかりの人の姿がうつった。そのひょろ長い人物の正体が、わたしにはほとんど直観的にわかった。二分後、教室の全員が、教師もふくめて、いっせいに起立したとき、だれの来訪をこのようにして迎えているのか、顔をあげてたしかめるまでもなかった。教室を大股ですたすたと横切ってから、やはり起立していたテンプル先生とならんで立ったのは、ゲイツヘッド・ホールの暖炉のまえの敷物の上で、わたしを無気味な、ふきげんな表情でねめつけた、例の黒い柱だった。わたしは、この建築物の一部のような人物を、横目でちらりと眺めた。やっぱり、わたしの勘はあたっていた。それはまさしくブロックルハースト先生で、フロックコート型の外套のボタンをきちんとかけた先生は、まえに見たときよりもずっと丈が高く、細身で、堅苦しい感じであった。
わたしがこの人物の出現にろうばいしたのには、それだけの理由がいくつかあった。わたしの性質その他に関するリード夫人の裏切り的な発言や、わたしの悪癖についてテンプル先生はじめ諸先生がたに報告しておくというブロックルハースト先生の約束は、忘れようとしても忘られなかった。わたしは、最初から、この約束が実行されるのを恐れていた――わたしはくる日もくる日も、わたしの過去の生活や言動に関する情報をもたらして、わたしに生涯、悪い子の烙印を押すことになる「待たれる人」の出現を警戒していたのだ。その人物が、いまここにきている。テンプル先生のとなりに立っている。先生の耳に、なにやら小声でしゃべっている。わたしの悪事を暴露しているにちがいない。わたしはテンプル先生の目を、苦痛と不安の気持ちで見守り、その黒い瞳が嫌悪と軽蔑のこもった視線をわたしのほうに投げるのを、いまかいまかと待ちうけていた。わたしは、耳もじっとすました。たまたま教室の最前列に坐っていたので、ブロックルハースト先生の話していることは、たいてい耳にはいってきた。その話の内容から、すぐにどうという心配のないことがわかって、わたしはほっとした気分になった。
「テンプル先生、わたしがロートンで買ってきた糸は、お役に立つと思いますよ。キャラコのシュミーズを縫うにはもってこいの品だという気がしたものだから。その糸にあわせた針も選んどきましたからな。スミス先生には、かがり針の控えは取り忘れたが、来週、なん包みかとどくから、と伝言願いましょうか。どんなことがあっても、一人の生徒に、一度に一本以上は渡さないようにとも、伝えてもらいたいですな。二本以上渡したりしたら、ぞんざいになって、すぐになくしますからな。それにと、ああ、院長先生! ウールのストッキングには、もっと注意してほしいですな! ――このあいだ学校にきたとき、裏の庭へ行って、物干し綱に干してある衣類を調べたのだが、ぜんぜん修理のできていない靴下がなん本もありましたぞ。穴の大きさから見たところ、しょっちゅうつくろっているようではなかったですな」
ここでブロックルハースト先生は一息いれた。
「おいいつけどおりにやらせます」とテンプル先生はいった。
「それにですな、院長先生」とブロックルハースト先生。「洗濯婦の話では、生徒のなかに|えり布《タッカー》を週に二枚使う者がいるとのこと。多すぎますな。規則では一枚になっておりますぞ」
「その点は、わたくしがご説明いたします。アグネス・ジョンストンとキャサリン・ジョンストンが、先週の木曜日、ロートンの友だちのところへお茶に呼ばれましたものですから、お呼ばれ用にきれいな|えり布《タッカー》をつける許可を、わたくしがあたえました」
ブロックルハースト先生は首をうなずかせた。
「ま、一回くらいはよろしいとしましょう。だが、そういったことが、たびかさならないよう、注意していただきますぞ。それに、もう一つ、驚いたことがありますな。管理婦と帳簿を整理していたとき、チーズをつけたパンの昼食が、この二週間に二回も生徒たちにくばられておることが判明しましたぞ。これは、どういうことですかな? 規則を調べたが、チーズをつけたパンの昼食など、どこにもでておらん。だれがそういう新しい規則をつくりましたかな? どういう資格でやりましたのかな?」
「その点につきましては、わたくしに責任がございます」とテンプル先生は答えた。「朝食がひどいできで、生徒たちに食べられるようなものではありませんでした。わたくしには、昼食時まで生徒にひもじい思いをさせることが、どうしてもできなかったのでございます」
「院長先生、ちょっとお待ちを! ――先生もご存じのとおり、ここの生徒に対するわたしの指導方針は、ぜいたくやわがままの習慣をつけさせることでなく、困難に耐え、辛抱づよく、私利私欲を捨てることのできる人間に育てることでありますぞ。かりに、食事がまずいとか、料理が煮えていないとか煮えすぎているといった、食欲を減退させる事件がたまたま起こったとしましても、食べられなかった料理の埋め合わせに、それよりもおいしいご馳走を出したりして、事件の解決をはかってはなりません。そんなことでは、生徒の肉体を甘やかせ、本学院の目的にもそむくことになりますからな。この種の事件は、一時的な欠乏に対して忍耐心を発揮せよ、と激励することで、生徒たちの道徳教育に活用すべきでありますぞ。そうした場合には、一場の演説をすることも適切ではありませんかな。賢明な教師ならば、この機会をとらえて、原始キリスト教徒の苦難、殉教者の苦悩、十字架を負うて、わたしにしたがいなさい、と弟子たちにいわれた主キリスト自身の訓戒(新約聖書、マルコによる福音書、第八章第三十四節。ルカによる福音書、第九章第二十三節)、『人はパンだけで生きるものではない。神から出てくる言葉によって生きるものである』という主キリストの戒めの言葉(新約聖書、ルカによる福音書、第四章第四節)、さらには『わたしのために飢えかわいている人たちは、さいわいである』という主キリストの慰めの言葉(新約聖書、マタイによる福音書、第五章第六節ほか)などに言及するでありましょう。いや、院長先生、焦げたポリッジのかわりにチーズつきのパンを生徒たちの口にいれてやれば、生徒たちの下劣な肉体を肥やすことになるかもしれないが、その不滅の霊魂を飢えさせる結果になっていることに、先生はすこしも気づいていないのですぞ!」
ブロックルハースト先生は、もう一度、言葉をきった――自分自身の感情に胸がいっぱいになったのかもしれない。テンプル先生は、相手の話がはじまったときには下をむいていたが、いまは真正面をじっと見すえ、生まれつき大理石のように白い先生の顔は、その大理石の冷たさと硬さをも帯びているようだった。とりわけ、ぎゅっと結んだ口は、彫刻家ののみでしか開けられないようであり、額はすこしずつ石のような冷厳さに変わっていった。
その一方、両手をうしろにまわしたブロックルハースト先生は、暖炉のまえの敷物に立って、全生徒を威厳のある態度で見まわしていた。突然、先生は、目にまぶしい光かショックでも受けたように、まばたきをすると、テンプル先生のほうをむきなおって、これまでよりも早口でこういった――
「テンプル先生、テンプル先生、いったい――あのちぢれっ毛の子は、いったい|なに者《ヽヽヽ》です? 赤毛の、ほら、ちぢれっ毛の――すっかりちぢれている子がおりましょう?」
ステッキをのばして、そのけしからん生徒のほうをさしたが、先生の手はぶるぶるふるえている。
「あれはジュリア・セヴァンでございます」テンプル先生の受け答えは、冷静そのものだった。
「ジュリア・セヴァンですと! それで、あの子が、いや、あの子にかぎらないが、ちぢれっ毛をしているのは、どういうわけですかな? この学院のあらゆる規則と方針を無視して、こんなにもあからさまに俗世間の風習にしたがうとは、なにごとです? この福音主義の慈善施設において、あの子は頭の髪をちぢれっ毛だらけにしているのですぞ」
「ジュリアの髪は自然にカールしているのでございます」テンプル先生はますます冷静に答えた。
「自然にですと! そうでしょうな。しかし、わたしたちは自然にしたがってはなりません。わたしはこの子たちが自然の子ならぬ、神の子になることを願っておるのですぞ。それなのに、あのふわふわした髪の毛はどうです? 髪の毛はみじかく、地味に、質素に結ってほしいことは、これまでにくりかえしはっきり申しあげてきたはず。テンプル先生、あの子の髪は切ってしまわねばなりませんな。明日、散髪屋をよこすとしましょう。ほかにも髪を自然のままにのばしすぎている生徒がなん人かいるようですな――あの背の高い子、あの子にまわれ右をするようにいってくれますか。最上級クラス全員に、起立して、壁のほうをむくように命令してください」
テンプル先生がハンカチを口にあてたのは、思わず唇をゆがませることになった苦笑をぬぐい去るためだったろうか。それでも、先生は命令をくだした。最上級クラスの生徒は命令の内容がわかると、いわれたとおりにした。ベンチからからだをすこしのけぞらせると、こうした処置への批判を目くばせやしかめ面であらわしている上級生の顔を眺めることができたが、それがブロックルハースト先生に見えないのは、まことに残念だった。もし見えていたら、杯や皿の外側は自分勝手にできても、その内側にまで干渉することは想像以上にむつかしいということを感じただろう(新約聖書、マタイによる福音書、第二十三節第二十五節への言及)。
ブロックルハースト先生は、この生きたメダルの裏側ともいうべき生徒の頭部を五分ばかり、精密に検査してから、判定をくだした。その言葉は、運命の弔鐘のように、先生の口からもれた――
「このまげに結った髪はぜんぶ切ってしまわねばなりませんぞ」
テンプル先生は抗議したいふうだった。
「院長先生」とブロックルハースト先生はつづけた。「わたしのお仕えしている主の王国は、この俗世間とは無縁であります。わたしの使命は、この生徒たちにひそむ煩悩を抑圧することであり、おさげ髪や高価な衣裳ならぬ羞恥心と自制心で身をつつむように教えることであります。わたしどものまえにいる若い者たちは一人残らず、髪を編んでおさげにしておるが、それを編む気持ちにさせたのは、ほかならぬ虚栄心であります。くりかえし申しますが、この髪は切ってもらわねばなりませんぞ。考えてもごらんなさい、髪の手入れについやした時間と、それから――」
ブロックルハースト先生は、ここで話の腰を折られた。女性ばかりの見学者が三人、教室にはいってきたためである。この三人は、もうすこし早くやってきて、先生の服装に関する講義を聞いたほうがよかったと思いたくなるほどに、ベルベットやシルクや毛皮できらびやかに盛装している。一行のうちの若い二人は(十六歳と十七歳のきれいな少女たちだったが)、そのころ流行していた、ダチョウの羽毛のついた灰色のビーバーの帽子をかぶり、このチャーミングな帽子のつばの下からは、念入りにカールさせたふさふさの髪がたっぷりたれさがっている。年かさの女性は、アーミンの毛皮でふちどりをした、高価なショールにすっぽりと身をつつみ、前髪にはフランス流にカールさせたかつらをつけている。
この三人の女性は、ブロックルハースト夫人とその令嬢として、テンプル先生からていねいな挨拶をうけ、教室の正面にある貴賓席へ案内された。三人は、尊敬する夫であり父である人物といっしょの馬車でやってきたのだが、ブロックルハースト先生が管理婦との用事をすませたり、掃除婦に質問したり、学院長に説教したりしているあいだ、二階の部屋をすみからすみまで調べあげていたらしい。さっそく、シーツ類の管理と寮の監督を担当しているスミス先生に、感想や非難の言葉をかけはじめている。だが、なにをいっているかに耳をすます余裕は、わたしにはなかった。わたしの注意は、ほかの事件にひきつけられ、釘づけになってしまっていたのである。
それまでは、ブロックルハースト先生とテンプル先生のやりとりを盗み聞きしようとしながらも、身の安全をはかる用意はおさおさ怠っていなかった。うまく相手の目をごまかしさえすれば大丈夫、と思っていたのだ。そのために、わたしはベンチに深く腰をかけ、せっせと割り算をしているようなふりをしながら、うまく顔がかくれるような具合に石板をもっていた。この裏切り者の石板が、なにかの拍子にわたしの手からすべり落ちて耳ざわりな音を立て、あっという間に全員の視線がわたしに引きつけられるようなことにならなかったら、わたしは見つからずにすんでいたかもしれない。もうだめだ、と観念したわたしは、真っ二つに割れた石板をひろいあげるため前かがみになりながら、全身のエネルギーを集中して、最大のピンチにそなえた。そのピンチはおとずれた。
「不注意な生徒だな!」とブロックルハースト先生はいってから、すぐに「おや、新入生か!」とつづけた。そして、わたしがほっと一息つく間もなく、「この子には忘れずに一言いっておかねばならん」さらに声高に――わたしには、なんと声高に思われたことか! ――「石板を割った子を、まえにだしたまえ!」
わたしは、自分では身動き一つできなかった。全身がしびれたようになっている。だが、わたしの両側に坐っていた二人の上級生が、わたしを立ちあがらせ、鬼のような裁判官のほうへ押しやった。それからテンプル先生にブロックルハースト先生のすぐ足もとまでつれて行かれたが、テンプル先生は小声で、こう注意してくださった。
「こわくなんかないのよ、ジェイン。わざとでないことは、先生にはわかってますよ。しかったりはしませんからね」
このやさしい言葉は、わたしの胸に、短剣のようにつきささった。
「あと一分したら、先生はわたしを偽善者と思いこんで、軽蔑なさるだろう」とわたしは考えた。こう確信すると、リードとブロックルハーストの一味に対する衝動的な怒りで、わたしの血はおどり狂った。わたしは、ヘレン・バーンズ的な人間ではないのだ。
「その腰掛けをもってきなさい」
ブロックルハースト先生は、級長の一人が立ちあがったばかりの、非常に高い腰掛けを指さしていった。腰掛けがはこばれてきた。
「この子を、それにのせなさい」
わたしは腰掛けにのせられたが、のせたのがだれか、わたしにはわからない。こまかい点に気がつくような状態ではなかったのだ。わたしにわかっていることといえば、複数の人間にブロックルハースト先生の鼻の高さにまでかかえあげられ、先生の姿がわたしから一ヤード以内のところにあり、花が開いたような玉虫織りのオレンジ色と紫色のシルクの外套と、雲みたいな銀色の羽毛とが、わたしの目の下にひろがり、波うっていることだけであった。
ブロックルハースト先生は「えへん!」といった。
「おまえたちも」と先生は家族のほうをむいていった。「テンプル先生も、ほかの先生がたも、生徒の諸君も、みんなこの子が見えていますな?」
もちろん、見えているはずだった。わたしのほうにむけられた、全員の天日レンズのような目で、わたしは皮膚が焦げるような思いをしていたのだから。
「ごらんのように、まだ年端もゆかぬ少女です。ごく普通の子どもの姿をしていることも、おわかりですな。神は慈悲深くも、わたしどもすべてにおあたえくださった姿を、この子にもおあたえになっている。この子が注意人物であることを示す、きわだった奇形はどこにもない。この子がすでに悪魔の召使い、手先になっていると、どこのだれが思うでありましょうか? ところが、まことに悲しいことに、それがこの子の正体でありますぞ」
ここで一呼吸あった――そのあいだに、わたしは麻痺しきった神経に活をいれようとした。すでにルビコン河は渡られたのだ(シーザーは「さいは投げられた」といってルビコン河を渡った)。このもはや避けることのできない試練に、気強く耐えねばならない、と感じはじめていた。
「生徒諸君」黒い大理石みたいな牧師は、ペーソスをこめて語りつづけた。「悲しく、憂鬱なことを申しあげねばなりません。神の小羊のなかの一匹であるべきこの子が、子どもながら見捨てられた人間であることを、真の羊の群れの一員ではなく、あきらかに|もぐり《ヽヽヽ》であり、変わり種であることを諸君に警告するのが、わたしの義務であります。諸君は、この子に用心せねばなりません。この子のまねなど、絶対にしてはなりませんぞ。必要とあらば、この子とつきあわなくてもいいし、遊びの仲間にしてやらなくてもいいし、口をきいてやらなくてもいい。先生がたに申しあげますが、この子は十分に監督せねばなりません。言動にはたえず注目して、言葉を慎重に吟味し、行動をこまかく調べあげ、この子の魂を救うために体罰を加えねばなりませんぞ。まったくのところ、そのような救済が可能ならば、の話ではありまするが。実は(こういう話になると、舌がもつれて口ごもってしまうのでありますが)、この年端もゆかぬ少女は、キリスト教国に生まれていながら、梵天《ブラーマ》に祈りをささげ、クリシュナ神像(この像をのせた山車にひき殺されると極楽往生ができるという迷信がある)のまえにひざまずく数多くの異教徒の子どもたちよりも悪い人間であります――この少女はですぞ――うそつきでありますぞ!」
ここでまた十分間、話が中断した。このころまでにすっかり正気をとりもどしていたわたしは、ブロックルハースト家の女性三人がハンカチを引っぱりだして、目にあてるのを眺めやった。中年の女性は、からだを前後にゆすり、若いほうの二人は、「ほんとにショックね!」とささやきあっている。
ブロックルハースト先生は、また話しはじめた。
「そのことを、わたしはこの子の恩人から耳にいたしました。そのかたは、みなし子になったこの子をひきとって、実の娘同様に育てあげた、信仰心の厚い、慈悲深い女性でありますが、その恩人の親切さ、寛大さに対して、この子は、けしからんことに、まことにひどい、ぞっとするような忘恩行為でむくいたのであります。その結果、さすがによくできた後見人も、癖の悪いこの子が手本になって、実のお子さまの純真さが汚されてはならないという配慮から、とうとうこの子をお子さまがたから引きはなす決心をなされたのであります。そのかたは、この子をいやすために、当学院へよこしたのでありますが、かつてのユダヤ人が病人をベテスダの池に送った(新約聖書、ヨハネによる福音書、第五章第二―九節)のとまったく同じであります。先生がた、院長先生、この子のまわりの水をよどませないようにお願いいたしますぞ」
このように重々しい口調で話しおえると、ブロックルハースト先生は、フロックコート型の外套の上のはしのボタンをかけ、家族の者になにやらささやいた。夫人と令嬢たちは立ちあがり、テンプル先生に一礼してから、このおえらがたの一行四人は、威風堂々と教室から出て行った。わたしの裁判官は、ドアのところでふりかえると、こういった――
「あの子は、あと半時間、その腰掛に立たしておくのですぞ。それから、今日は寝るまで、だれもあの子と口をきいてはなりません」
そういうわけで、わたしは高いところに立たされたままになった。自分の二本の足でさえ、教室のまん中に立たされる恥辱には耐えられないと語ったわたしが、不名誉きわまりない台の上で、衆目にさらされることになったのだ。わたしの味わった気持ちがいかばかりであったか、言葉では表現することはできない。だが、万感がこみあげて、息がつまり、のどがしめつけられそうになったとき、一人の少女がやってきて、わたしのそばを通りかかった。通りすがりに、その少女は目をあげた。その目は、なんと不思議な光にあふれていたことか! その光は、なんと奇妙な感動をわたしの体内に送りこんでくれたことか! その新しい感情が、どんなにわたしをはげましてくれたことか! 殉教者か英雄が、奴隷か犠牲者のそばを通りかかり、通りすがりに力をかしあたえたのにも似ていた。わたしはこみあげてくるヒステリックな興奮をおさえつけ、首をしゃんとのばすと、腰掛けの上にゆったりとかまえて立った。ヘレン・バーンズは、裁縫のことでスミス先生にちょっとしたことをききに行ったのだが、ばかげた質問だといって叱られ、自分の席にもどる途中、もういっぺんわたしの横を通りかかったとき、にっこりと笑いかけてきた。なんという微笑! いまだに、その微笑をおぼえているし、それがすぐれた知性とほんとうの勇気からほとばしり出る微笑であったことも、いまのわたしにはわかっている。その微笑は、天使の顔から反射する光のように、ヘレンの特徴のある顔の輪郭や、やせた顔や、くぼんだ灰色の目を明るく照らし出していた。にもかかわらず、そのとき、ヘレン・バーンズの腕には「だらしない子」のバッジがついていた。ほんの一時間まえ、お手本にしていた練習帳をインキでよごしたヘレンが、その罰としてスキャチャード先生から、あすの昼食はパンと水だけですからね、といい渡されるのを耳にしていた。人間の不完全さは、いかんともしがたいものではないか! すみわたった天体の表面にも、やはり斑点はつきものではないか! スキャチャード先生のような人間の目は、そのような微小な欠点しか見ようとせず、こうこうと輝く天体の光そのものにはめくらも同然なのだ。
[#改ページ]
八章
命令された半時間のおわらないうちに、時計が五時を打った。授業はおわり、みんなはお茶のために食堂へ行ってしまった。わたしは思いきって、腰掛けをおりた。日はとっぷりと暮れている。わたしは教室の片隅にかくれて、床の上に坐った。わたしをそれまで支えていた呪文がとけはじめ、やがてその反作用で、いいようのない悲しみがおそいかかってきた。わたしは、床の上にがばと倒れ伏した。こんどばかりは、わたしも泣いた。ヘレン・バーンズはそばにいないし、わたしの心の支えになってくれるものはなにもない。一人きりのわたしは、悲しみに身をゆだね、涙が床板をぬらした。これまでのわたしは、ローウッドでいい子になり、いっぱい勉強するつもりだった。たくさんの友だちをつくり、尊敬される人間、愛される人間になろうとしていた。すでに目に見えて進歩してもいる。わたしの学級の首席になったのは、その日の朝のことだった。ミラー先生はわたしを激賞してくださった。テンプル先生は満足げに微笑して、絵を教えてあげよう、同じような進歩のあとがあと二ヵ月もつづけて見られるようなら、フランス語の勉強も許可してあげよう、と約束してくださった。その上、生徒仲間にも心よく受けいれられている。同年の者たちからは対等の扱いを受け、だれからもいじめられなかった。そのわたしが、またしても押しつぶされ、踏みつけられて、はいつくばっている。わたしの再起は、はたして可能なのだろうか?
「不可能だわ」とわたしは思った。ひたすら死ぬことを願った。この願いを、すすり泣きながら、断片的に口にしていたとき、だれかが近づいてきた。わたしははっとして身を起こした――ヘレン・バーンズが、またわたしのそばにきてくれている。消え残りの暖炉の火が、長い、がらんとした教室を、こちらへむかってやってくるヘレンの姿をかすかに浮かびあがらせている。わたしの分のコーヒーとパンをもってきてくれたのだ。
「さあ、なにか食べなくちゃ」とヘレンはいった。
だが、わたしはコーヒーもパンも押しのけた。一滴のコーヒー、ひとかけらのパンでも、いまの状態では、のどがつまってしまうような気がしたからだ。ヘレンは驚いたとみえ、わたしをじっと見つめた。わたしは、どうしても興奮した気持ちを押さえることができず、ただ大声で泣きつづけた。ヘレンは、わたしのかたわらの床に腰をおろすと、両腕で膝小僧をだきかかえ、顔を腕の上にのせた。その格好で、インド人のように黙りこくっている。さきに声をかけたのは、わたしのほうであった――
「ヘレン、みんなからうそつきと思われている子と、どうしていっしょにいるの?」
「みんなからですって、ジェイン? だって、あなたがうそつきだという話を聞いたのは、たったの八十人よ。世界には、なん億という人間が住んでいるというのに」
「でも、あたしとなん億もの人間と、どんな関係があるというの? あたしの知っている八十人の人間が、あたしを軽蔑しているのよ」
「ジェイン、そうじゃないわよ。あなたを軽蔑したり、きらったりする人は、この学校には、一人もいないと思うわ。たくさんの人が、あなたに同情しているはずよ」
「ブロックルハースト先生の話を聞いたあとで、あたしに同情する人なんか、ありっこないわよ」
「ブロックルハースト先生だって、神さまじゃないことよ。尊敬されている大先生でさえないわ。あの先生は、ここではあんまり好かれてないの。好かれようという努力を、ぜんぜんしていないのね。先生があなたのことを特別にひいきしたりしていたら、あなたのまわりには、露骨に敵意を示す者や、ひそかに敵意をいだく者が、あらわれていたでしょうよ。ところが、実際はその逆だから、たくさんの人があなたに同情したい気持ちになっているわけ。先生も生徒も、最初の一日や二日は、あなたのことを冷たい目で見るでしょうが、心のなかには、やさしい感情をかくしているのよ。あなたがりっぱなふるまいをねばり強くつづけていけば、やがて、この人たちのやさしい感情が、一時的に押さえつけられていただけに、かえってはっきりとあらわれてくることになるのよ。それにね、ジェイン」――ヘレンは、口をつぐんだ。
「どうしたの、ヘレン?」わたしは自分の手をヘレンの手ににぎらせながらいった。ヘレンは、わたしの指を、そっとこすってあたためながら、また話しはじめた――
「かりに世間の人みんなから憎まれ、悪い人間と思われたにせよ、あなた自身の良心が、あなたをりっぱな人間とみとめ、あなたの無罪を証明してくれるなら、あなたにはちゃんと友だちがいるわけなのよ」
「そうよね。自分をりっぱな人間と思わなきゃならないことは、わたしにもわかってるの。でも、それだけじゃ、足りないわ。ほかの人たちに愛されないくらいなら、あたし、生きるよりも死ぬほうをとるわ――ひとりぼっちの、愛されないあたしなんて、がまんならないわ、ヘレン。いいこと、あなたなり、テンプル先生なり、とにかくあたしが愛している人から、ほんとうの愛情を得るためなら、あたし、この腕の骨を折られたって、牛のつのでほうり上げられたって、けり癖のある馬のうしろに立って、そのひづめで胸を打ちくだかれることだって、喜んでやってみせるわ――」
「なんてことをいうの、ジェイン! 人間同士の愛情を、あなたは高く買いすぎているわ。あなたって、感情的になりすぎるし、猛烈すぎるのよ。あなたの肉体をお作りになって、そこに生命をさずけられた神さまの手は、無力なあなた自身や、あなたと同じように無力な人間とは別の、精神のよりどころを、あなたにあたえてくださっているの。この地上のほかに、わたしたち人類のほかに、目に見えない世界が、霊魂の王国があるの。その世界は、いたるところにある世界なので、わたしたちのまわりにもあるのよ。その霊魂は、わたしたちを守れと命令されているので、わたしたちを見守ってくれているわ。わたしたちが苦痛と屈辱のうちに一生をおわりそうになったり、いたるところで軽蔑に打ち負かされたり、憎悪に打ちひしがれたりしても、天使がわたしたちの受ける責苦を見ていて、わたしたちの潔白をみとめてくれるのよ(わたしたちが潔白だったら、の話だけど。ブロックルハースト先生がリード夫人からの受け売りでくりかえした、説得力のない、大げさな非難があなたと無関係であることは、わたしにはわかってるのよ。あなたの情熱的な目や、さわやかな額には、誠意が読みとれるのですもの)。神さまは、わたしたちを十分なほうびで報いてくださるために、魂が肉体からはなれる瞬間を待っておられるだけなの。とすればよ、生はあっけなくおわってしまうのに、死は確実に幸福への、栄光への門出となっているのに、わたしたちが、苦悩に打ちひしがれて、降参してしまうなんてことがあってはならないのだわ」
わたしは、なにもいわなかった。ヘレンの言葉で、気持ちがすっきりしたからである。だが、ヘレンのおかげで得られた落ち着きには、いうにいわれぬ悲哀が影を投げかけていた。ヘレンの言葉を聞きながら、わたしはなんとなく悲しい気持ちになったが、その気持ちがなにに由来するのか、わたしにはわからなかった。話しおえたヘレンが、すこし息をきらせ、みじかい咳をするのを見て、わたしはヘレンに対する漠然とした気づかいをおぼえ、自分自身の悲しみを、一瞬忘れてしまった。
わたしはヘレンの肩に頭をよせかけ、両腕を腰のあたりにまわした。ヘレンもわたしを引きよせ、二人はただだまって、じっとしていた。そのままの姿勢で、しばらく坐っていると、まただれかが教室へはいってきた。折りから吹き起った風に、厚い雲が空から追いはらわれて、月が素顔をあらわした。近くの窓からさしこんでくる月の光が、わたしたち二人と、近づいてくる人影をすっかり照らし出したので、それがテンプル先生であることは、すぐにわかった。
「あなたを捜しにきたのよ、ジェイン・エア」と先生はいった。「先生の部屋にきてくれないこと。いっしょにいるヘレン・バーンズもきていいわよ」
わたしたち二人は、院長先生のあとについて行ったが、先生の部屋につくまでには、いりくんだ廊下をいくつも通りぬけたり、階段をあがったりしなければならなかった。部屋には、暖炉の火があかあかともえ、いかにも快適な感じであった。テンプル先生は、ヘレン・バーンズに暖炉の片側にある低いひじかけ椅子にかけるようにいってから、ご自分ももうひとつのひじかけ椅子に腰をおろすと、わたしをかたわらに呼びよせた。
「もうすんだわね?」先生はわたしの顔を見おろすようにしていった。「泣くだけ泣いて悲しさも消えてしまったでしょ?」
「悲しみが消えるなんて、絶対にないと思います」
「どうしてなの?」
「あたしの受けた非難は、根も葉もないことだからです。それに、これからは、先生をはじめ、みんながあたしのことを悪い人間だと思うからです」
「よい人間と思うか、悪い人間と思うかは、あなたの努力しだいできまるのよ。いつまでもいい子でいてくれたら、先生はなによりもうれしいの」
「ほんと、テンプル先生?」
「ほんとですとも」そういって、先生はわたしのからだに腕をまわした。「それからね、ブロックルハースト先生があなたの恩人だといってらしたかたはだれなの、先生に話してくれない?」
「あたしのおじの奥さんの、リード夫人です。おじは亡くなって、あたしの面倒は、その奥さんが見ることになったのです」
「じゃ、その奥さんは自分からすすんで、あなたを引きとったわけじゃないのね?」
「ちがいます、先生。いやだけども、仕方なしにそうしたのです。でも、あたしのおじは、召使いたちがしょっちゅう話しているのを聞いたのですが、死ぬまえに、あたしの面倒をいつまでも見ることを、奥さんに約束させたのです」
「ところでね、ジェイン、あなたも知ってるでしょうけど、知らなかったら先生が教えてあげるけど、悪いことをした人が訴えられたとき、その人はいつでも自分の弁護をすることを許されているのよ。あなたは、うそつきだといわれたでしょ。先生のまえで、できるだけじょうずに自分の弁護をしてごらんなさい。あなたがおぼえていることで、ほんとうと思われることはなんでもしゃべっていいの。でも、創作したり、誇張したりしてはいけないのよ」
わたしは、心の奥底で、できるだけひかえめに、できるだけ正確に話そう、と決心した。二、三分、じっくりと考えて、話の内容にきちんと筋道をつけてから、わたしは先生に悲しい子供時代の一部始終を語った。泣き疲れていたので、この悲しい物語を語りつぐわたしの言葉は、いつもとくらべて、ぐっと押えられていた。また、やたらに怒りをぶちまけてはいけない、というヘレンの忠告を守って、わたしの話に登場したうらみ、つらみは、いつものなん十分の一かであった。このような、抑制のきいた、簡潔この上ない語り口だけに、かえって信憑性がたかまったらしい。しゃべりながらも、テンプル先生が全面的に信用してくれているのが感じられた。
この話のなかで、わたしは例の発作のあと、ロイド先生の診察をうけたことにふれた。|赤い部屋《レッド・ルーム》での、わたしにとっては身の毛のよだつ思いのするエピソードを、忘れることができなかったからだ。だが、このエピソードをくわしく語っているうちに、わたしの興奮は、わずかながら常軌を逸したものになってしまった。リード夫人は許してちょうだい、と泣きわめいているわたしをはらいのけ、暗い、幽霊の出る部屋にふたたび閉じこめたが、あのときのわたしの心をとらえてはなさなかった苦痛の衝撃をやわらげるものは、なに一つとして、わたしの思い出のなかになかったからである。
わたしは話しおえた。テンプル先生は二、三分、だまったままでわたしを見つめてから、やおら口をひらいた――
「ロイド先生のことは、先生もすこしは知っています。先生からお手紙をさしあげて、むこうからの返事が、あなたの申し立てと一致したら、全校生徒のまえで、あなたにかけられた疑いを晴らしてあげますからね。先生にはね、ジェイン、あなたはもう悪い人間なんかじゃありませんよ」
先生はわたしに接吻をすると、わたしをかたわらに引きとめたまま(そこに立っているわたしは、すっかり満足していた。先生の顔、ドレス、一つか二つの装身具、白い額、輝くような巻き毛のふさ、はれやかな黒い目などをじっと見つめながら、子どもらしい喜びにひたっていたからである)、ヘレン・バーンズに声をかけはじめた。
「今夜の調子は、どうなの、ヘレン? きょうは、咳がたくさん出たの?」
「そんなでもありませんでしたわ、先生」
「胸の痛みは?」
「すこしはいいようです」
テンプル先生は立ちあがると、ヘレンの手をとって、脈をはかった。それから、先生はまた自分の椅子にもどったが、坐りながら低いため息をつくのを、わたしは耳にした。先生は二、三分、考えこんでいたが、元気をかき立てるかのように、明るい声でいった――
「そう、あなたがたは、今夜は、先生のお客さまだったわね。お客さまのような、おもてなしをしなくては」
先生はベルを鳴らした。
「バーバラ」先生はベルに答えて顔をみせた召使いにいった。「まだお茶がすんでないのよ。お盆をもってきてね。この二人の若いお嬢さんがたのカップも忘れないで」
やがて、お盆が運びこまれた。わたしの目には、暖炉のそばの丸い小さなテーブルに置かれた、陶器のカップやきらきら光っているティー・ポットが、なんと見事に思われたことか! お茶の湯気と、トーストのにおいの、なんとかぐわしかったことか! だが、トーストの量が、ほんのわずかで、一人前程度しかないことに気づいて(おなかがすきはじめていたので)、わたしはがっかりしてしまった。テンプル先生も、そのことに気がついて、こういった――
「バーバラ、バターつきのパンを、もうすこし持ってきてくれないこと? これじゃ、三人分に足りないわ」
バーバラは出て行ったが、すぐに引きかえしてくると、「先生、ハーデンさんは、いつもの分量をさしあげたといっておりますが」
ついでにいっておくと、ハーデン夫人というのは、学院の管理婦で、ブロックルハースト先生の眼鏡にかなった、鯨骨と鉄とだけでできているような女性であった。
「まあ、仕方がないわねえ!」とテンプル先生は答えた。「これだけで間にあわさなきゃならないようね、バーバラ」やがて女中が引きさがると、先生はにこにこしながら、「さいわいなことに、今回だけは、先生の力でなんとか足りない分の埋めあわせができるのよ」
ヘレンとわたしをテーブルに招きよせ、わたしたちのまえに一杯のお茶と、おいしそうだが、一口分くらいしかないうすいトーストを並べてから、先生は立ちあがって、引き出しを開けた。やがて、そこからとり出した紙包みが開けられると、わたしたちの目のまえに、かなり大きな種《シード》入りケーキがあらわれた。
「お二人にすこしずつもって帰ってもらうつもりをしてたのだけど」と先生はいった。「でも、トーストがほんのわずかだから、いま食べなくちゃあね」
そういいながら、先生はケーキを気まえよく厚手に切りはじめた。
その夜、わたしたちは、神さまのお酒や神さまの食べ物のごちそうになっている気持ちだった。このもてなしで、最高にうれしかったのは、たっぷりと出されたおいしいごちそうで、ぺこぺこのおなかをいっぱいにしているわたしたちを見守っている、女主人《ホステス》役の先生の満足しきった微笑だった。お茶がおわり、お盆がさげられると、先生はわたしたちを、また暖炉のそばに招いてくれた。わたしたちが先生の両側に坐ると、先生とヘレンとのあいだに会話がはじまったが、その会話を聞くことを許されたのは、この上ない名誉といわねばなるまい。
テンプル先生は、いつもどことなくおしとやかで、態度にも品位がただよっている上に、言葉づかいにもあかぬけのした上品さがあって、もえあがったり、興奮したり、夢中になったりして、常軌を逸することがない。先生にそなわっているなにかのために、先生を見る者、先生の話を聞く者すべての喜びは、畏敬の念で抑制され、純化されることになってしまう。このとき、わたしは、そのような印象をうけた。だが、ヘレン・バーンズの場合、わたしはひたすら驚嘆してしまった。
元気を回復させる食事、あかあかともえる暖炉の火、そばにいて、やさしくしてくれている尊敬する先生、あるいは、これらにもまして、ヘレン自身の特異な性格に見られるなにかが、内なる力のすべてをかき立てていた。その力は目をさまし、火ともえている。それは、最初は、いつ見ても青ざめて生気のなかった頬の明るい光となって輝き、つぎには、うるんだような目のきらめきとなって光ったが、その目は、突然、テンプル先生の目よりも、はるかに個性のある美しさを――すてきな色とか、長いまつ毛とか、引いた眉の美しさではなく、意味と動きと輝きにあふれた美しさを帯びはじめている。やがて、ヘレンの唇に魂がのりうつり、言葉があふれはじめたが、その源がどこにあったのか、わたしにはわからない。十四歳の少女の心には、純粋で、豊かで、熱烈な雄弁の、あふれるような泉を内包するに足る大きさと、力強さとがそなわっているのだろうか? そのように思わせるところが、この、わたしにとっては忘れられない夜の、ヘレンの会話にはあった。ヘレンの魂には、長寿をまっとうした多くの人間が生きると同じだけを、ほんのつかの間に生きようと、いわば生き急いでいる感があった。
二人は、わたしが耳にしたこともない事柄について語りあっていた。過去の民族や時代。遠くはなれた国。発見されたり、予測されたりしている自然界の謎。二人は書物について話したが、その読書量の、なんと多かったことか! なんとたくさんの知識を身につけていたことか! また、二人はフランス人の名前やフランスの作家にもくわしいようだった。だが、テンプル先生がヘレンに、お父さんから教わったラテン語を、たまには思い出す機会があるのかとたずね、本棚から一冊の本をぬき出してきて、ヴァージル(紀元前七〇―一七。古代ローマの国民的詩人)からの一頁を読んで訳すようにいわれたとき、わたしの驚きは、そのクライマックスに達した。ヘレンは先生のいいつけどおりにした。例のわたしの「人を尊敬する相」は、朗々と読みあげられる一行ごとに、発達していった。ヘレンが読みおえた途端、就寝時間をしらせる鐘が鳴った。一分の遅刻も許されない。テンプル先生は、わたしたち二人を抱きかかえると、その胸に引きよせるようにしていった。
「あなたがたに、神さまの祝福がありますように!」
先生は、わたしよりもすこし長くヘレンを抱き、行かせるのをためらっていた。先生の目がドアまで見送ったのは、ヘレンのほうであり、もう一度、悲しそうなため息をついたのは、ヘレンのためであった。ヘレンのために、先生は一滴の涙を、頬からぬぐっていた。
寝室に着いたかと思うと、スキャチャード先生の声が聞こえてきた。生徒の引き出しを調べていた先生は、ヘレン・バーンズの引き出しを開けたところだった。寝室にはいったとき、ヘレンは鋭い叱責の言葉に迎えられ、あすは、きちんと折りたたんでなかった品物を半ダースばかり、肩にピンでとめておくようにいいつけられた。
「ほんとに、はずかしいくらいごちゃごちゃにしてあったの」ヘレンは、わたしに小声でささやいた。「かたづけるつもりでいて、忘れていたの」
翌朝、スキャチャード先生は、ボール紙に大きな目立つ字で「だらしない子」と書くと、それを魔除けかなにかのように、ヘレンの広い、おっとりした、知性と温情にあふれた額にしばりつけた。ヘレンは、それを夕方までつけていたが、いらいらしたり、憤慨したりしたようすも見せず、罰を受けて当然というふうだった。授業がおわって、スキャチャード先生が教室から出て行った途端に、わたしはヘレンのところへ飛んで行って、その紙をひきはがし、暖炉の火のなかに投げこんだ。ヘレンには無縁のはげしい怒りが、朝からずっと、わたしの心のなかでもえつづけ、熱い、大粒の涙が、たえ間なくわたしの頬を焦がしていた。ヘレンの、あきらめきった、悲しげな姿を見ると、わたしの心は、耐えられないほどに痛んだのである。
いままで書いてきた一連の出来事があって一週間ばかりたったころ、ロイド先生に手紙を出してあったテンプル先生のもとへ、返事がとどいた。その内容から、わたしの話の裏付けが取れたらしい。テンプル先生は、全員を呼び集めると、ジェイン・エアに対する非難を調査した結果、その嫌疑を完全に晴らすことができて、なによりもうれしいと思います、と報告した。そのあと、先生がたは、わたしに握手をもとめて、接吻してくれたし、居並ぶ級友たちのあいだでは、よかったわねえ、という声がささやかれた。
こうして、やっかいな重荷をおろしたわたしは、あらゆる難関を自力で突破して行く覚悟を固め、そのときから一新した気分で勉強にとりかかった。わたしはこつこつとはげみ、努力相応の成果をあげることができた。生来、記憶力はよくなかったが、それも訓練で強くなり、知力も働かせるほどに鋭くなった。わたしは、数週間で上のクラスにすすみ、二ヵ月たらずのうちに、フランス語と絵の勉強をはじめてもいい、というお許しがでた。わたしは、フランス語の「|存在する《エートル》」という動詞の最初の二つの時制をおぼえたと同じ日に、生まれてはじめて一軒の小屋を写生した(余談だが、そのスケッチの小屋の壁は、傾斜している点では、ピサの斜塔をはるかにしのいでいた)。その夜、寝床についたわたしは、日頃から内なる渇望をなだめすかすために思い描いていた、ほかほかのロースト・ポテトとか、白パンと新鮮なミルクとかいった、バーミサイドの夕食(空想上の食事の意。『アラビアン・ナイト』のなかで、珍味といつわって、からの皿で乞食をもてなした人物の名に由来する)のしたくをすることを忘れてしまった。そのかわり、わたしは、暗闇のなかに浮かびあがった理想的なスケッチ(いずれもわたし自身の手になる作品である)を眺めて、満ち足りた気持ちになった。鉛筆で自由に描いた家や樹木、美しい岩山や廃墟、カイプ(一六二〇―九一。オランダの風景画家)を思わせる家畜の群れ。バラのつぼみの上で舞いあそぶ蝶や、熟れたさくらんぼをついばんでいる小鳥や、若いツタの小枝でつつまれた、真珠のような卵のおさまっているミソサザイの巣などのきれいな絵。わたしはまた、その日、マダム・ピエロに見せてもらった、ある小さなフランス語の童話の本を、はたしてすらすらと訳せるようになるだろうか、と思案してみたが、この問題に対する満足すべき答えがでないうちに、やすらかな眠りにおちてしまった。
「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる(旧約聖書、箴言、第十五章第十七節)」――ソロモンの名言といわねばなるまい。
なにかと苦労は多かったが、ローウッドの生活を、ゲイツヘッドや、そこでのぜいたくな毎日と取りかえたいという気持ちは、いまのわたしにはさらさらなかった。
[#改ページ]
九章
だが、そのローウッドの苦労というか、苦難も、やがて影をひそめだした。春が近づいた。というよりも、すでにとっくの昔にやってきていた。冬の霜は見られなくなった。雪どけがはじまり、身を切るような風もやわらいでいる。一月の寒気にすりむけ、はれあがって、びっこを引くようになっていたわたしのかわいそうな足も、四月のやわらかな微風でいやされ、はれもひきはじめている。朝晩の、カナダを思わせる気温のために、血管のなかの血までもが凍りつくようなことはもうない。いまでは、遊び時間を校庭ですごしても平気になり、太陽が顔を出した日などには、たのしく愉快な気分にさえなりはじめることもある。褐色であった花壇には、青いものが芽をふき、日一日とさわやかになってゆくさまは、夜、花壇をさまよった「希望」が、ひと朝ごとに輝きをます足跡を、去りぎわにのこしてゆくのではないか、と思われるほどであった。いろいろな花が、葉のあいだから顔をのぞかせている。スノードロップ、クローカス、紫色の桜草、金色の目をした三色スミレ。木曜日の午後(半ドンなので)、散歩に出ると、道ばたの、生け垣の下に、もっとかわいらしい花がいっぱい咲いているのが見つかる。
わたしはまた、はてしない喜び、地平線のはてでやっとおわるような楽しみが、すべて校庭の高い、忍びがえしのついた塀のむこうにあることにも気がついていた。この喜びとは、緑蔭に恵まれた大きな谷間をとりかこむ気高い山頂や、黒い石がいっぱいの、小さなうずがきらめいている、陽光をあびた谷川を眺める喜びである。この同じ風景も、無情な冬空の下で、霜にいてつき、雪につつまれてひろがっているのを眺めたときには、なんとちがった姿を見せていたことか! あの頃には、死のようにつめたいかすみが、東風の吹くにまかせて、あの紫色の山頂のあたりをただよい、川沿いの牧草地や低地にまで舞いおりてきて、谷川の凍りついた霧とまざりあっていた。その谷川も、あの時分には、荒れ狂う濁流であった。はげしい雨や乱舞するみぞれで、なん回となく水かさを増しながら、森をきりさき、冬空に怒号をはなっていた。両岸にまたがる森――|あの森でさえも《ヽヽヽヽヽヽヽ》立ち並ぶ骸骨の観があるにすぎなかったのだ。
四月から五月になった。明るい、おだやかな五月だった。青い空と、さわやかな太陽と、やさしい西風か南風に恵まれた毎日の連続。植物は旺盛に繁茂する。ローウッドの自然は、そのゆたかな髪をときはなったかのよう。一面が緑におおわれ、花開らいている。骸骨のようだったニレやトネリコやオークの巨木が、堂々とした生命力をとりもどす。森の草木は、奥まったあたりで、さかんに芽をふいている。数えきれない種類のコケが、くぼみにあふれ、足の踏み場もないほどに咲きみだれている野生の桜草は、太陽が地面にあるかのような不思議な錯覚を起こさせる。わたしは、桜草のあわい金色の輝きが、うす暗くなったあたりで、この上なく甘やかな光をまきちらしているのを見たこともある。こうした自然を、なん回となく、心ゆくまで楽しんだのだが、わたしは自由で、だれにも監視されず、たいていの場合、一人きりだった。このような思いがけない自由と愉悦には、それだけの理由があったわけで、これから、それについて語ることにしたい。
丘や森のふところに抱かれ、小川の岸べにそそり立っていると書けば、快適な住宅用地の説明をしたことになるのではあるまいか? たしかに、快適さでは満点にちがいない。だが、健康的かどうかになると、まったく別問題なのだ。
ローウッドの土地がある、例の森の谷間は、霧と、霧がはぐくむ病菌の発生地だった。この病菌が、春の訪れとともに目をさまし、孤児院のなかにしのびこんで、過密な教室や寄宿舎にチブス菌をまきちらしたため、五月にならないうちに、学院は病院に早変わりしてしまったのである。
飢餓にちかい状態と、感冒をほったらかしにしてあったのが重なって、生徒の大半は、チブスにかかりやすくなっていた。八十名の生徒のうち、四十五名もが一度に倒れてしまったのだ。学級は閉鎖され、規則もゆるめられた。数すくない健康な生徒たちには、放縦にちかい自由があたえられた。病気にかからないためには、運動量をふやす必要があることを医者が主張したためだが、そうでなくても、生徒を監視したり制止したりする余裕のある先生は、だれ一人としていなかった。テンプル先生などは、全神経を病人に集中させ、病室に住みこんでいるありさまで、そこをはなれるのは、夜、二、三時間の休息をとるときだけだった。ほかの先生がたは、この伝染病の巣から引き取ってやろうといってくれる知り合いや親類のいる、一部の幸運な生徒のための、荷造りや出発の準備に忙殺されていた。すでに病いに倒れ、死ぬために自宅へ帰るような生徒の数も多かった。学校で息を引きとり、そそくさとひっそり埋葬された者もいる。病気の性質上、ぐずぐずすることは許されなかったのだ。
こうして、病気がローウッドに住みつき、死の訪れがくりかえされるようになった。塀の内側には、悲哀と恐怖がみち、部屋にも廊下にも、病院を思わせるにおいがたちこめ、薬品や線香で死臭を消そうとする努力も徒労におわっている。だが、このあいだにも、戸外では、輪郭のはっきりした丘や美しい森の上に、雲ひとつない五月の太陽が、さんさんと輝いていた。校庭も、輝くばかりの花ざかりだった。木のように高くのびたタチアオイ。花をつけたユリ。満開のチューリップとバラ。小さな花壇のふちは、ピンク色のハマカンザシと深紅色の八重咲きヒナギクでにぎわっている。朝晩には、ノバラが香料か、リンゴにも似た芳香をはなっている。だが、こうした香りのいい宝石のような花々も、ときたま、納棺用の一握りの草花に化けるくらいで、ローウッドに住む者の多くにとっては、まったく無用の長物であった。
わたしは、ほかの健康な生徒たちと、美しい風景と季節を心ゆくまで満喫した。わたしたちは、朝から晩まで、ジプシーみたいに森のなかを自由にさまよった。好きなことをやり、好きなところへ行った。その生活は、これまでより楽しくもあった。ブロックルハースト先生の一家が、ローウッドの近辺に足を踏みいれようとしないため、会計の監査は十二分におこなわれない。気むずかし屋の管理婦も感染を恐れて、逃げ出してしまうありさまであった。後任の管理婦は、ロートン診療所の看護婦長だったが、新しい勤務先の方針に不慣れなため、かなりふんだんに必要品をあてがってくれた。それに、給食をうける者の数がへっていて、病人がほとんど食事をしないため、わたしたちの朝食の量は、まえよりずっと多くなった。ちゃんとした昼食の用意をする時間がないときなど(こんなことは一度や二度ではなかったが)、管理婦は大きく切った冷たいパイや、分厚く切ったチーズつきのパンをくれたので、わたしたちはこれをもって森へ出かけ、それぞれに一番お気にいりの場所を選ぶと、ぜいたくな食事に舌つづみを打った。
わたしの行きつけの場所は、谷川のまん中に白く、乾いた姿を見せて浮かんでいる、なめらかな大きい石で、そこへは水をざぶざぶ渡って行かねばならなかったが、そんな冒険を、わたしははだしでやってのけた。この石は、わたしと、その頃のわたしの親友であった、もう一人の少女とが、ゆったりと坐れるだけの大きさがあった――その少女は、メアリー・アン・ウイルソンといい、かしこくて、観察力が強かったが、わたしがこの少女との交友を楽しんだのは、ウイットとオリジナリティに富んでいるというだけでなく、わたしを楽な気分にさせる態度の持ち主であったからだ。この少女は、なん歳か年上で、わたしよりも世間のことにくわしかったので、わたしの聞きたいことを、あれこれと教えてくれた。メアリー・アンといると、わたしの好奇心はみたされた。メアリー・アンも、わたしの欠点にはずいぶんと甘く、わたしの発言を押えたり禁じたりすることはなかった。むこうに話術があれば、こちらには分析癖があり、むこうが話し好きなら、こちらは質問好きというわけで、二人のあいだは、実にしっくりといった。たがいに交際することで、たいした向上はしなかったにせよ、大いに楽しむことはできたのである。
ところで、ヘレン・バーンズは、どこへ行ってしまったのか? この楽しい、解放された日々を、なぜわたしはヘレンとすごさないのか? わたしはヘレンのことを忘れてしまったのか? それとも、わたしは、純粋なヘレンとの交友にあきてしまうほどに駄目な人間なのか? たしかに、いま紹介したメアリー・アン・ウイルソンは、わたしの最初の友人にははるかにおよばない。おもしろおかしい話をしてくれるか、わたし好みの痛烈で、きびきびしたうわさ話をやりとりする相手というにすぎなかった。それに反して、わたしがこれまでヘレンについて語ってきたことが真実であるとすれば、ヘレンこそは、その交際相手となる特権をあたえられた人びとに、はるかにずっと高邁なものを味わわせることのできる人物であった。
読者よ、うそではないのだ。その事実を、わたしは知っていたし、感じてもいた。わたしは、いまだに欠点の多い、埋めあわせとなる長所のすくない欠陥人間なのだ。しかし、わたしがヘレン・バーンズにあきるなどといったことは、絶対になかったし、強烈な、やさしさと尊敬にあふれた愛情をひたむきに抱きつづけていたのだが、そのような愛情にわたしの心がゆさぶられたのは、はじめての経験であった。また、そうあってしかるべきではなかったろうか? いついかなるときでも、どんな状況にあっても、ヘレンのわたしに対するおだやかで、忠実な友情が、不機嫌な表情でそこなわれたり、立腹した態度でかき乱されたりすることは絶対になかったのだから。だが、そのヘレンは、いまは病床にあった。わたしのまえから姿を消し、二階の、どことも知れない部屋に移されてから、なん週間かたっている。チブス患者といっしょに、建物の、病室にあてられているところにいるのではない、ということは話に聞いていた。ヘレンの病気は結核で、チブスではなかったからだ。そして、わたしは愚かにも、結核が軽い病気で、時間をかけて看病すれば、かならずよくなると思いこんでいた。
こうしたわたしの考えは、たいへんに暖かい、天気のいい日の午後、階下におりてきたヘレンが、テンプル先生につれられて校庭に出て行ったことが一、二回あるという事実で、いっそう強められていた。しかし、この場合にも、ヘレンに話しかけることを許されたわけではない。教室の窓から、それもぼんやりと、姿を見かけただけであったが、ヘレンはショールにすっぽりとくるまり、すこしはなれたベランダの下に坐っていた。
六月のはじめのある夕方、わたしはメアリー・アンと、ずいぶん遅くまで、森のなかに残っていた。いつものように、二人きりになって、遠くまでさまよっていたのだ。あまり足をのばしすぎて、道にまよってしまい、ブナやクリの実を餌に、野性化した豚の群れの世話をしている夫婦者の住んでいる森の一軒家で、道をきかねばならないほどだった。わたしたちが学院にもどったときは、すでに月の出をすぎていた。校庭の入り口に、医者のものとおぼしい小馬が立っている。ベイツ先生が、夕方の、こんな時間に来診しているところをみると、重態の患者がいるにちがいない、とメアリー・アンがいった。メアリー・アンは建物にはいったが、わたしは、二、三分あとに残って、森で掘りおこしてきた一握りの植物の根を、わたしの花壇に植えた。朝まで置くと、しおれてしまうと思ったからだ。移植がおわってからも、わたしはしばらくは立ち去らなかった。露がおりて、いろいろの花の香りが甘くただよっている。すごく静かで、暖かい、ほんとうに気持ちのいい夕暮れであった。まだ真っ赤にもえている西の空は、あすもまた快晴であることを、はっきりと約束している。暗い東の空に、荘厳きわまりない月がのぼっている。わたしは、これらのものを眺め、子どものように楽しんでいたが、突然、これまで夢にも思ったことのない考えが心に浮かんだ――
「こんなときに、病いの床にあって、死の危険にさらされているなんて、どんなに悲しいことだろうか! この世は、楽しい――この世から召されて行くのは、さびしいことだろう。だが、行かねばならないところとは――いったい、だれが知っているのか?」
そのときになってはじめて、わたしの心はこれまでに天国と地獄について教えこまれていたことを、真剣に理解しようとしていた。生まれてはじめて、わたしの心は、当惑のあまりにたじろいだ。うしろを、左右を、前方を眺めやったわたしの心は、生まれてはじめて、まわり一面に底知れぬ深淵のあることを知った。わたしの心が感知したのは、それが立っている一点、つまり現在だけであった。ほかのすべては、形のない雲、なにもない深みだった。わたしの心は、足を踏みはずして、その混沌のなかに落ちこむことを考え、戦慄をおぼえた。このわたしをはじめておそった考えにふけっていたとき、玄関のドアが開く音が聞こえ、ベイツ先生と、看護婦が一人、出てきた。先生が馬にまたがって立ち去るのを見送ったあと、その看護婦が、ドアを閉めようとしたとき、わたしはそばに駆けよった。
「ヘレン・バーンズは、どんな具合なの?」
「すっかり弱ってるわ」という返事。
「ベイツ先生は、ヘレンの診察にこられたのね?」
「そうよ」
「それで、先生はどういっておられるの?」
「ここにいるのも長くはあるまい、といっておられるわ」
この言葉は、きのう、わたしの耳にはいっていたら、ヘレンがノーサンバーランドの実家へ送り帰されようとしている、という意味にしか響かなかったであろう。ヘレンが死にかけているという意味があるなどとは、夢にも思わなかったにちがいない。だが、いまのわたしには、すぐにわかった。ヘレン・バーンズは余命がいくばくもなく、この世から霊魂の世界へ――そのような世界があるとして――つれ去られようとしていることが、はっきりと理解できた。わたしは、ぞっとするようなショックをうけ、はげしい悲しみでからだがふるえた。ヘレンに会いたいという気持ちが――どうしても会わねばならないという気持ちがわいてきた。わたしは、ヘレンがどの部屋に寝ているか、きいてみた。
「テンプル先生のお部屋よ」と看護婦は答えた。
「話をしに行ってもいい?」
「あら、駄目よ、あなた! とんでもない。あなたも、教室にはいる時間よ。露がおりているのに外にいたら、チブスにかかりますよ」
看護婦は玄関のドアを閉めた。わたしは、横の入り口から教室にはいったが、うまい具合に間にあった。九時になっていて、ミラー先生が、寝る時間ですよ、と生徒たちに声をかけているところだった。
それから二時間後の、十一時ごろだったろうか、わたしは――眠られなかったし、寄宿舎が静まりかえっているところから、仲間が深い眠りにつつまれていると思ったので――そっと起きあがると、寝巻きの上に制服を羽織り、靴をはかずに寝室をぬけ出して、テンプル先生の部屋を捜しはじめた。その部屋は、建物の正反対にあったが、わたしは道順を知っていたし、雲ひとつない夏の月の光が、廊下の、ここかしこの窓からさしこんでいたので、部屋を見つけるのはむつかしくなかった。ショウノウと焼き香酢のにおいで、チブス病舎の近くにきたことがわかると、わたしは用心した。徹夜の看護婦に足音を聞きつけられないよう、ドアのまえは足早に通りすぎた。見つかって、追いもどされるのがこわかった。ヘレンに会わねば|ならない《ヽヽヽヽ》――ヘレンを生きているあいだに抱かねばならない――ヘレンと最後の接吻を、最後の言葉をかわさねばならなかったから。
階段をおり、階下の建物の一部を横切る。二つのドアを、音もたてずに、うまく開けたてしたところで、別の階段に出た。この階段をのぼりつめると、わたしの正面にテンプル先生の部屋があった。鍵穴と、ドアの下とから、光がもれている。あたりは水を打ったような静けさ。近づいてみると、ドアがすこし開いている。息苦しい病室に、新鮮な空気をいれるためらしい。ぐずぐずするのはいやだったし、むやみに気がせいたので――心も五感も刺すような激痛にうちふるえていた――わたしはドアを押しあけると、なかをのぞきこんだ。わたしの目は、ヘレンを捜しながら、死の影を見つけることを恐れていた。
テンプル先生のベッドのすぐそばに、小さなベッドがあり、白いカーテンが半ばかかっている。寝具の下に寝ている人のからだの線が見えるが、顔はカーテンでかくれている。校庭で話しかけた看護婦が、安楽椅子に腰をおろして、眠っている。テーブルの上では、芯を切ってないろうそくが一本、うす暗くもえている。テンプル先生の姿はなかった。チブス病舎でうわごとをいいだした患者のもとへ呼ばれていたことを、あとで聞いて知った。わたしは部屋のなかへはいると、小さなベッドの横で立ちどまった。手がカーテンにかかったが、カーテンを開けるまえに、声をかけてみよう、と考えなおした。死体を見つけたらどうしようと思って、まだびくびくしていたのだ。
「ヘレン!」わたしはそっとささやいた。「起きてる?」
ヘレンは身動きをすると、自分でカーテンを開けた。青白く、やつれてはいるが、いかにもおだやかな顔が、わたしの目にはいった。ほとんど変わっていないヘレンの姿に、わたしの恐怖は、いっぺんに消えてしまった。
「ほんとにあなたなの、ジェイン?」ヘレンは、いつものやさしい声できいた。
「ああ!」わたしは思った。「この人は、死んだりしないわ。みんな、考えちがいをしているのよ。死にかけている人が、こんなにおだやかなしゃべりかたや顔つきをするものですか」
わたしはベッドに近づいて、ヘレンに接吻した。その額は冷たく、頬は冷たいだけでなく、やせこけている。手も手首も同じだったが、その微笑は、以前と変わりなかった。
「なぜここへきたの、ジェイン? 十一時をまわったでしょ。五、六分まえに、十一時を打つのが聞こえたわよ」
「あなたに会いにきたのよヘレン。あなたの病気が重いと聞いたので、あなたとお話をするまで、寝つけなかったの」
「じゃ、お別れにきてくれたのね。ちょうど間にあったのじゃないかしら」
「どこかへ行くのね、ヘレン? 家へ帰るの?」
「ええ。わたしの永遠の家へ――わたしの最後の家(旧約聖書、伝道の書、第十二章第五節)へ行くの」
「いやよ、ヘレン、いやよ」わたしは、悲しくて、口がきけなくなった。わたしが涙をのみこんでいるあいだに、咳の発作がヘレンをおそったが、看護婦は目をさまさなかった。発作がおさまると、ヘレンは、しばらく、ぐったり横たわっていたが、やがて小声でいった――
「ジェイン、あなた、素足なのね。ここに横になって、わたしの掛けぶとんをかけるといいわ」
わたしは、いわれたとおりにした。ヘレンはわたしに腕をまわし、わたしはヘレンにぴったりとよりそった。ヘレンは、長いあいだ黙っていたが、やはりささやくような声で、話しはじめた――
「わたし、とってもしあわせよ、ジェイン。わたしが死んだと聞いても、悲しんだりしては駄目。きっとよ。悲しむことなんか、なんにもないの。わたしたちは、いつかは死ななければならないのだし、わたしをつれ去って行く病気にしても、苦しくなんかないの。おだやかで、ゆったりした病気なの。わたしの心は、やすらかよ。わたしの死を、嘆き悲しんでくれる人なんか、いないわ。わたしにはパパしかいないけれど、再婚したばかりだから、わたしがいなくても悲しんだりはしないと思うの。若いうちに死ねば、つらい目に会わなくてもすむわ。わたしには、世わたりの素質も才能もないのだし。どうせ、へまばかりしていることでしょうからね」
「でも、どこへ行くの、ヘレン? あなたには、見えるの? あなたには、わかってるの?」
「わたしは、信じてるの。わたしには、信仰があるの。わたしは、神さまのもとへ行くの」
「神さまって、どこ? 神さまって、なに?」
「わたしやあなたを作られたかたよ。神さまは、自分がお作りになったものは、けっしてこわしたりなさらないの。わたしは、神さまのお力に絶対的にたよっているし、神さまの思いやりを全面的に信じてもいるの。わたしが神さまのもとへつれもどされ、神さまの姿がわたしのまえにあらわれる、あのかけがえのない瞬間の訪れを、わたしはいまか、いまかと待ちわびているのよ」
「じゃ、ヘレン、あなたは天国というものがあることを信じてるのね? わたしたちが死んだとき、魂がその天国へ行くということを信じてるのね?」
「わたしは、来世を信じきっているわ。神さまに思いやりのあることも信じているわ。わたしの魂を神さまにささげても、わたしはなんの不安もおぼえないの。神さまはわたしの父よ。神さまはわたしの友人よ。わたしは神さまを愛しているし、神さまもわたしを愛してくれているにちがいないわ」
「じゃ、ヘレン、あたしが死んだら、あなたにまた会えるのね?」
「あなたも、わたしと同じ幸福の世界へくるわ。同じ偉大な、万人の父に迎えられるわ。きっとよ、ジェイン」
もう一度、わたしは質問をしたが、それは、頭のなかだけで、口にはださなかった。「その世界は、どこにあるの? ほんとうにある世界なの?」
それから、わたしはヘレンを両腕で、それまで以上にきつく抱きしめた。ヘレンが、これほどいとおしく思われたことはなく、手ばなすことなどできそうにもなかった。わたしは、顔をヘレンの首のあたりに埋めたまま、横になっていた。やがて、ヘレンは、まことにやすらかな口調でいった――
「ほんとにいい気持ち! さっきの咳の発作で、すこし疲れたわ。眠れそうなの。でも、行かないでね、ジェイン。そばにいてほしいの」
「いてあげるわよ、|大好きな《ヽヽヽヽ》ヘレンのことだもの。だれがなんといったって、ここにいるわ」
「ねえ、寒くない?」
「寒くないわ」
「おやすみ、ジェイン」
「おやすみ、ヘレン」
ヘレンはわたしに、わたしはヘレンに接吻した。二人とも、すぐに眠りについた。
目をさますと、夜は明けていた。変にからだが動くので、眠りからさめたのだが、目をあげてみると、だれかの腕のなかにいる。わたしを抱いているのは、例の看護婦で、わたしを寄宿舎へつれて行くため、廊下を渡っているところだった。わたしは、自分のベッドをはなれた罰を受けなかった。みんな、ほかに考えごとがあったらしく、わたしがあれこれ質問しても、そのときは、なにも説明してくれなかった。だが、一日か二日たってから、明け方に自室へ帰ったテンプル先生が、小さなベッドで寝ているわたしの姿を見つけたという話を聞かされた。わたしはヘレン・バーンズの肩に顔をおしあて、首に両腕をまきつけていた。わたしは眠っていた。だが、ヘレンは――息たえていたのである。
ヘレンの墓は、ブロックルブリッジ教会の墓地にある。死後の十五年間、それは草のはえた塚におおわれているだけであったが、現在では、ヘレン・バーンズの名前と、「われは復活すべし」というラテン語の文字をきざんだ、灰色の大理石の銘板が、その場所をはっきりと示している。
[#改ページ]
十章
わたしはこれまで、数ならぬ身にふりかかった事件のいくつかを、詳細に記録してきた。わたしの人生の最初の十年間に、ほぼ同数の章をあてた勘定になっている。だが、これを世間並みの自叙伝にするつもりはない。わたしの記憶に語りかけるのは、その記憶の返答がある程度おもしろいとわかっている場合だけにかぎることにしたい。というわけで、八年の年月を、黙ってやりすごそうと思うのだが、前後の事情をはっきりさせるために、ほんの数行の説明だけはどうしても必要になってくる。
例のチブスは、ローウッドを蹂躙《じゅうりん》するという仕事がおわると、しだいに退散して行った。だが、あまりの暴威と、多数の犠牲者を出したことで、退散のまえから、世間の目が学院にむけられるようになっていた。この伝染病の原因が究明され、世間の人を激怒させるような事実がつぎつぎと明るみに出てきた。非衛生的な所在地。生徒の食事の量と質。調理に使われる塩分をふくんだ、悪臭のある水。生徒の劣悪な衣類や設備――こうした事実がすべて表面化し、表面化したことで、ブロックルハースト先生の名誉を傷つける結果になったが、学院にとっては、願ったりかなったりであった。
もっといい環境に、もっと便利のいい建物を建てるため、州の富裕な慈善家数名から、多額の寄付があった。新しい規約が制定され、衣食の面での改善がおこなわれた。学院の基金は、委員会が管理、運営することになった。ブロックルハースト先生は、財産と家柄の関係でないがしろにできないため、理事長の地位にとどまっていたが、その職務を執行する場合、もっと寛大で、思いやりのあるかたがたの助力をあおぐことになった。また、ブロックルハースト先生の視学としての職掌も、分別と厳格、安楽と節約、同情と高潔を、それぞれどのように結びつけるべきかを心得ているかたたちが分担した。学院は、このように改善され、時がたつにつれて、ほんとうに役に立つ、りっぱな教育の場となった。わたしは、その再建後も八年間、学院の人間としてとどまっていた。六年間は生徒として、二年間は教師としてであったが、わたしは、この両方の資格で、学院の価値と重要性を立証することができるのだ。
この八年間、わたしの人生は、変化にこそとぼしかったが、ぼんやりしていたわけでもなかったので、ふしあわせというわけでもなかった。一流の教育機関が、わたしの手のとどくところにあった。いくつかの学科が好きな上に、すべての学科にいい成績をおさめたいという気持ちがあり、先生、とりわけ好きな先生を喜ばせることも楽しかったりして、わたしは勉強に意欲をもやし、利用できる便宜は最大限に活用した。やがて、わたしは最上級クラスの首席になり、さらには教師のポストをあたえられた。そして二年間は、熱心に教職についていたのだが、二年目のおわりになって、わたしは一変してしまった。
テンプル先生は、さまざまの変転にもかかわらず、それまでずっと学院長の地位にあった。先生のご指導で、わたしの学識の最良のものは身についたのであり、先生との友情あふれる交際は、わたしの不断の慰めだった。わたしの母親的存在であり、指導者であり、のちには友人ともなった先生。その先生が、この時期に結婚し、結婚相手(このような妻にふさわしいといえる、りっぱな牧師だった)といっしょに、遠くはなれた州へ移ってしまい、その結果、わたしの手のとどかない存在になってしまったのだ。
先生がいなくなった日から、わたしはそれまでのわたしではなくなった。先生とともに、安定感というか、ローウッドをわが家のように思う親密感が、いっさいなくなってしまった。わたしは先生から、先生の性質の一部と、習慣のほとんどを吸収し、ずっと調和のとれたものの考えかた、ずっと抑制された感じかたといえるものが、わたしの心を支配するようになっていた。わたしは義務と規律に忠実な人間、おとなしい人間になり、自分でも、満足していると思いこんでいた。人目には、いや、平生は自分自身の目にさえも、教養ある、温厚な人間にうつっていたのだ。
だが、運命は、ネイズミス牧師の姿をかりて、わたしとテンプル先生のあいだにはいりこんできた。わたしは、結婚式の直後、旅行着の先生が駅馬車に乗りこむのを見送り、その馬車が丘をのぼって、頂上のむこうへ消えて行くのを眺めた。やがて自室に引きこもったわたしは、先生の結婚式を祝うために半ドンとなった午後のほとんどを、そこで一人きりですごした。
部屋にいても、わたしは歩きまわっているだけに近かった。自分では、失われたものを惜しみ、それを取りもどす方法を考えているつもりだった。だが、あれこれ思案することをやめて、目をあげたとき、日がすでに傾いて、とっくに夕暮れになっていることに気がついたとき、わたしは新しい事実を発見しはじめていた。部屋を歩きまわっているあいだに、わたしは変革のプロセスを経験したのではないか。わたしの心は、テンプル先生から拝借していたものを、すべて脱ぎすててしまった――いや、先生のおそば近くでなれ親しんでいた静穏な雰囲気を、先生自身がわたしから奪い取ってしまったのではないか――いまのわたしは、生まれながらの世界にとり残され、昔のわたしの感情のうごめきを感じはじめているのではあるまいか。精神の支柱が奪い去られたというよりも、行動の動機が失われたという感じであった。おとなしくしている力が働かなくなったのではなく、おとなしくしていなければならない理由がなくなってしまったのだ。これまでの数年間、わたしの世界はローウッドのなかだけにかぎられ、わたしの経験はローウッドの規則と組織だけにかかわっていた。いま、わたしは、現実世界が広大であることを思い出した。希望と恐怖、感動と興奮にあふれた、多彩な活動の場が、広やかな空間に足を踏み出す勇気のある者、危険のまっただ中で、人生の真の知識をもとめる勇気のある者を待ちうけているのではないか。
わたしは窓ぎわに行くと、窓をあけて外を眺めた。建物の両翼。校庭。ローウッドの村はずれ。起伏の多い地平線。わたしの目は、ほかのすべてのものを素通りして、いちばん遠くの、青い山脈に釘づけになった。あれを乗りこえることはできないものか。岩とヒースの山にかこまれた世界は、すべて刑務所か、流刑地に思われる。わたしは、山のふもとをとりまくようにして、やがて山あいの峡谷に消えている白い道に目をやった。なんとしても、あの道を、もっとむこうへたどって行きたい! その同じ道を、馬車で旅したときのことが思い出された。夕暮れどきに、あの丘をくだってきたことも。わたしがローウッドにはじめてきた日から、ずいぶんと長い年月がたったように思われる。それ以来、この土地を一度もはなれたことがない。休暇はいつも学校ですごした。リード夫人がわたしをゲイツヘッドへ呼んでくれることは、たえてなかった。夫人や子どもたちがわたしを訪ねてくれたことは、さらにない。手紙にしろ、伝言にしろ、わたしと外界をつなぐパイプは、なに一つとしてなかった。学校の規則、学校の仕事、学校の習慣と考え方、学校に関係のある人間の声、顔、言葉、衣服、好ききらいの感情――わたしが人生について知っていることといえば、これだけだった。そのわたしが、いま、これだけでは十分ではあるまい、と感じはじめている。八年間の単調な生活に、たった半日であきあきしてしまったのだ。わたしは自由がほしかった。自由をもとめてあえぎ、自由を願って祈った。だが、その祈りも、そのときかすかに吹いていた風に吹きちらされたらしい。わたしは自由をもとめる祈りをやめ、もっとひかえ目な祈りを、変化と刺激を願う祈りを口にした。がしかし、この嘆願も、茫漠たる虚空に吹きやられてしまうようであった。「それならば、せめて新しい仕事でもおあたえください」わたしは絶望に近い気持ちで、そう叫んだ。
そのとき、夕食の時間を知らせる鐘が鳴り、わたしは階下へおりて行った。
わたしは就寝時間まで忙しく、たち切られたままの思考の鎖をつなぎとめることができなかった。その時間になっても、同室の先生が、世間話をいつまでもだらだらとつづけるため、考えたくてたまらない問題もなかなか考えられない。早く寝いって、黙ってくれればいいのに! さきほど窓ぎわに立っていたときに浮かんだ考えにもどって行きさえすれば、なにか、新天地を開くような名案が生まれて、わたしを解放してくれるように思われてならなかった。
同僚のグライス先生が、やっといびきをかきはじめた。先生は、ウェールズ生まれの鈍感な女性だったが、わたしはそれまで、この先生のいびきをかく癖を、近所迷惑に思わないことは、ただの一度もなかった。だが、今夜ばかりは、その高いびきのはじまりが大歓迎を受けることとなった。こうして、じゃま者から解放されると、わたしの消えかけていた考えが、すぐさまよみがえってきた。
「新しい仕事! これにはなにかがあるのだわ」とわたしはひとりごとをいった(もちろん、頭のなかで、という意味で、声に出してしゃべったわけではない)。「たしかに、これにはなにかがあるのだわ。変に甘い響きのない言葉だもの。『自由』、『興奮』、『享楽』といった言葉とはちがう。これらは、たしかに、響きのいい言葉だ。だが、わたしには、言葉以上のなに物でもない。空虚で、刹那《せつな》的で、耳をかたむけるのも、時間の浪費にすぎない。でも、『仕事』という言葉! これには、事実の裏付けがあるにちがいない。だれだって仕事をすることができる。わたしも、ここで八年間、仕事をしてきた。いまのわたしがほしいのは、ちがう場所での仕事なのだ。それくらいのことも、自分の意志でできないのだろうか? この計画は、実行できないのだろうか? できるわ――できますとも――この目的は、けっして実現不可能ではない。わたしに、目的達成のための手段を見つけ出す、俊敏な頭脳がありさえすれば」
わたしは、その頭脳に活をいれるつもりで、ベッドの上に起きあがった。冷えこみのきつい晩だった。わたしは、肩にショールを羽織ると、全力を傾倒して、もう一度、思案《ヽヽ》しはじめた。
「なにをわたしは望んでいるのか? 新しい環境のもとでの、新しい顔にかこまれた、新しい家での、新しい仕事。この仕事を望むのは、それ以上のものを望んでもかなえられるはずがないからだ。新しい仕事を捜す場合、世間の人はどうするか? 友人に頼むだろう。だが、わたしには友人がいない。世間には、友人のいない人は、いくらもいるはず。その人たちは、自分で仕事を捜し、自分のことは自分で始末するにちがいない。とすれば、どんな手を使うのか?」
わたしには、わからなかった。いっこうにピンとこないのである。そこで、わたしは、わたしの頭脳に、解答を、しかも至急に見つけ出すように命令した。頭脳は、大車輪で働きはじめた。頭やこめかみの血管が、はげしく脈うっているのがわかった。だが、半時間近く、頭脳を働かせても、混沌としているばかりで、努力の結果はいささかもあらわれない。無駄な骨折りにかっとなったわたしは、ベッドからおりると、部屋をひとまわりした。カーテンを開けると、星が一つ、二つ見えていた。ぞくぞくするような寒さで、わたしはまたベッドにもぐりこんだ。
わたしが起きあがっているあいだに、親切な妖精が、捜しあぐねていたヒントを、枕の上に落としておいてくれたにちがいない。横になった途端、それがさりげなく、ごく自然に、わたしの頭に浮かんできたのだ――「職捜しをしている人は、広告を出す。おまえは、『――州ヘラルド』に新聞広告を出せばいいのだ」
「どうすればいいの? 広告の出しかたなんか、なんにも知らないのに」
こんどは、答えがすらすらとはねかえってきた――
「まず、広告文と広告料を、『――州ヘラルド』の編集者あての手紙に同封する。それを、できるだけ早い機会に、ロートンのポストに投函する。連絡先は、ロートン郵便局気付J・E・としておく。投函後、一週間ばかりしてから、返事の有無をたしかめに行く。あとの行動は回答まかせにする」
わたしはこの計画を、二度、三度とくりかえし復唱した。それから、頭のなかで十分に咀嚼して、実行できるようにきちんと整理すると、安心して眠りにおちた。
夜明けとともに起きだしたわたしは、起床の鐘が鳴るまえに、広告文を書きあげ、封筒にいれ、あて名を書きおわった。その内容は、つぎのようであった――
「当方、経験豊富な若い女性(わたしは二年間、教職にあったのではないか?)、十四歳未満の子女の家庭教師を希望(わたし自身が十八歳そこそこなので、これ以上自分の年齢に近い生徒の指導は、適当であるまいと考えたのだ)。正則イギリス教育の尋常科、およびフランス語、図画、音楽の教授資格あり(読者よ、現在では貧弱に思われる資格リストも、当時はかなり多角的と見られていたのだ)。連絡先、――州ロートン郵便局気付J・E・」
この手紙は、終日、わたしの、鍵のかかった引き出しにしまいこまれていた。お茶のあと、わたしは自分と、一、二の同僚の先生がたの用事をしたいので、ロートン行きの許可をくれるよう、新任の学院長に申し出た。許可はすぐにおり、わたしは出かけた。歩いて二マイルはある上、雨模様の夕方だったが、まだまだ日は長かった。わたしは一、二軒、店に立ちより、手紙を郵便局でそっと投函してから、大雨のなかを帰途についた。雨が洋服からしたたり落ちたが、心は軽やかであった。
つぎの一週間の長かったこと。だが、すべての地上のものと同じく、その週もようやっとおわりを告げ、あるのどかな秋の日暮れ頃、わたしはふたたびロートンへの道をたどっていた。ついでながら、この道は、絵のように美しく、谷川の流れと平行して、この上なく見事な谷間の曲線にそってくねくねとつづいている。だが、この日のわたしは、草地や谷川の魅力よりも、目的地の小さな町で、わたしを待ち受けている手紙があるかどうか、そればかりを考えていた。
この日、わたしは、靴の寸法をとることを口実にしてあった。そこで、その用事をさきに片づけることにして、それがおわってから、靴屋から郵便局へと、清潔で静かな通りを横切った。郵便局員は、鼻の上に角《つの》ぶちの眼鏡をかけ、両手に黒い手袋をはめた老婦人が一人いるだけだった。
「J・E・あての手紙、きてますか?」とわたしはきいた。
老婦人は眼鏡ごしにわたしをじろっと見つめてから、引き出しを開けると、そのなかにはいっているものを、長いあいだ、ごそごそとかきまわした。その時間があまり長いので、わたしの希望はくじけそうになった。老婦人は、やっとのことで取り出した一通の書類を、五分ちかくも眼鏡のまえでためつすがめつしてから、カウンターのこちら側にさし出した。さし出しながら、もう一回、せんさく好きな、うさんくさい目つきで眺めている――それはJ・E・あての手紙であった。
「これ一通ですか?」とわたしはたずねた。
「これきりだよ」と老婦人は答えた。わたしは、それをポケットにいれたままで、家路についた。その場で開封することはできなかった。門限は八時で、すでに七時半になっていたからである。
学院に帰ると、いろいろの用事が待ちかまえていた。勉強時間には生徒につきっきりだったし、お祈りの言葉を読み、生徒を寝つかせるのも、わたしの番だった。そのあとは、ほかの先生がたとの食事。やっと一日の仕事がおわって、部屋へ引きあげてからも、グライス先生から逃げだすわけにもゆかず、また、そのお相手。燭台のろうそくは、残りわずかで、もえつきてしまうまで先生のおしゃべりがつづくのでは、と気が気でなかった。でも、幸いなことに、満腹するまで食べた夕食のために眠気をもよおした先生は、わたしの着がえがすまないうちから、もういびきをかきはじめていた。ろうそくは、まだ一インチばかり残っている。わたしは手紙を取り出した。封印《シール》は頭文字のF。封を切った。簡潔な文面であった。
「先週の木曜日、『――州ヘラルド』に新聞広告を出されたJ・E・さんが、広告文にあったとおりの学識経験者であり、人物と能力を保証するたしかな身元保証人がいるならば、家庭教師に採用いたしたいと存じます。生徒は一名だけ、十歳未満の少女。年俸、三十ポンド。身元保証書、住所氏名、その他の詳細は、左記にお送りください。――州ミルコート近郊ソーンフィールド、ミセス・フェアファックス」
わたしは、この手紙を、時間をかけて調べてみた。筆跡は古風で、あまり明確とはいえない。中年をすぎた婦人のものらしい。この点が、まず気にいった。このように自分一人で、だれの意見も聞かずに行動したために、なにかとんでもないヘマをやらかすことになるのではないか、という不安が、わたしの心につきまとっていた。とりわけ、わたしの努力の結果が、見苦しくなく、妥当で、フランス語でいう「|やましいところがない《アン・レーグル》」であることを願う気持ちが強かった。というわけで、中年をすぎた夫人というのは、わたしの計画している仕事にとって、まことに好都合の要素ではあるまいか、という気がした。ミセス・フェアファックス! 喪服に、|未亡人用の帽子《ウィドウズ・キャップ》(黒い薄布で作った帽子。うしろに長いたれがついている)の女性のイメージが浮かんでくる。堅苦しいだろうが、不親切ではあるまい。貫禄のある、中年すぎのイギリス婦人の典型。ソーンフィールド! これは、うたがいもなく、夫人の屋敷の名前だ。こざっぱりした、きちんと整った住まいにちがいないが、屋敷の正確な見取図となると、いくら努力してもイメージがわいてこない。――州ミルコート。わたしは、忘れかけていたイギリス地図の勉強をしなおした。なるほど、そうか。その州や町が、どこにあるかもわかった。――州は、わたしが住んでいるへんぴな州よりも、ロンドンへ七十マイルは近い。この点、わたしの好みにあっている。わたしは、生気と変化にあふれたところへ行きたくてたまらないのだ。ミルコートは、A――河畔にある大きな工業都市。結構にぎやかな町にちがいない。そのほうが、ますますいいではないか。すくなくとも、いまの生活とは段ちがいであるだろう。といって、高い煙突やもうもうと立ちのぼる煙のことを考えて、うっとりしたわけではない――「ともあれ、ソーンフィールドは、町からずっと離れていることだろう」わたしは、自分にそういい聞かせた。
このとき、燭台のろうそく差しが倒れ、明かりが消えてしまった。
翌日から、新しい手段を取らねばならなくなった。ここまでくると、わたしの計画は、わたし一人の胸におさめておくわけにいかない。計画を実現させるためには、公表しなければならない。昼休みに、学院長に面会を求めたわたしは、面会を許されたときに、現在の二倍のサラリーをもらえる、新しい就職口が見つかりかけていることを報告し(わたしのローウッドの年俸は、わずか十五ポンドだった)、この旨をブロックルハースト先生か、委員会のどなたかに連絡の上、そのかたたちの名前を身元保証人としてあげてもいいかどうかを確認してほしい、と頼みこんだ。学院長は、よろこんで仲介の労をとろう、といってくれた。翌日、学院長がブロックルハースト先生のところへ、この件をもちこんだところ、わたしの本来の後見人であるリード夫人に一筆せねばなるまい、との話。そこでリード夫人に問い合わせることになったが、夫人からは「好きなようにしたらよろしい。おまえのことには、ずっとまえから、いっさい干渉しないことにしている」という内容の返事があった。この手紙が委員のあいだで回覧され、あきあきするほど手間どったあげくに、やっと、いい就職口があったら移ってもよろしい、という正式の許可がおりた。それに、ローウッドでは、教師としても生徒としても、つねに品行方正であったから、学院の視学たちが署名した、人物と能力の証明書をただちに交付する、という保証もしてもらえた。
そういうわけで、一週間ばかりのちにこの証明書を受け取ったわたしは、その写しをフェアファックス夫人に送った。夫人からの返事には、申し分ない、とあり、わたしが夫人の屋敷で家庭教師の職につく日を、二週間後のきょうから、と指定してあった。
わたしは準備に忙殺され、二週間は、あっというまにすぎてしまった。わたしの衣裳など、困らない程度にあったとはいえ、それでもたいした数ではなかったので、トランク――八年まえにゲイツヘッドからもってきたトランクにつめるのは、最後の一日だけで十分であった。
トランクにロープがかけられ、荷札が打ちつけられた。半時間もすれば、運送屋が取りにきて、ロートンまではこぶことになっている。わたし自身は、あすの朝早くたって、ロートンで駅馬車に乗る予定。黒いウーステッドの旅行着にブラシをかけ、帽子《ボンネット》と手袋とマフの用意もできている。引き出しもぜんぶあらためて、忘れものがないことをたしかめた。することがなにもなくなったので、腰をおろして、休もうとした。だが休めない。一日中、立ちづめであったのに、一睡もすることができない。異常に興奮している。今夜、わたしの人生の一幕がおわり、あすは、新しい一幕がはじまろうとしている。その幕あいに、どうして眠っていられようか。わたしは熱っぽいまなざしで、その劇的な変化を見守らねばならないのだ。
廊下を、眠りをかき乱された幽霊みたいにうろついていると、召使いが捜しにきて、「先生、階下《した》に面会人ですよ」といった。
「運送屋さんよ、きっと」そう思ったわたしは、たしかめもせずに階段をかけおりた。台所へ行こうと、ドアが半開きになっている奥の面会室、つまり教員用の応接室のまえを通りかかったとき、だれかが走り出てきた――
「あのかたにちがいないわ! ――どこでだって、わかるんだからね!」その人は、通せんぼうしながら、わたしの手を取って、叫んだ。
わたしは相手を見つめた。りっぱな身なりの召使い、といった感じの女性だった。奥さまふうだが、まだ若い。なかなかの美人で、髪も目も黒く、いきいきした血色をしている。
「さあ、だれでしょう?」その女性は、聞きおぼえのある声で、見おぼえのある微笑を浮かべていった。「まるっきり、お忘れになったのじゃないでしょうね、ジェインさん」
つぎの瞬間、わたしは夢中で相手に抱きつき、接吻していた。「ベシー! ベシー! ベシー!」これしか、わたしにはいえない。ベシーも泣き笑いの表情である。二人で面会室にはいった。暖炉のそばに、格子じまの上着にズボンの、三歳ばかりの少年が立っている。
「うちの子ですの」とベシーはすぐにいった。
「じゃ、結婚したのね、ベシー?」
「ええ。五年近くまえに、御者のロバート・レヴンと。そこにいるボビーのほかに、女の子が一人いて、ジェインといいますのよ」
「じゃ、ゲイツヘッドには住んでないのね?」
「門番の小屋に住んでます。門番のおじいさんがやめたものですから」
「そう。で、みなさん、お元気? 消息を聞かせてよ、ベシー。でも、そのまえに、おかけになって。ボビー、ここへきて、わたしの膝に坐らない?」だが、ボビーは母親ににじりよるほうがよかったらしい。
「背もそう高くなっていないし、それほどふとってもいませんね」とレヴン夫人は言葉をつづけた。「学校では、ちゃんとした面倒をみてもらえなかったのでしょうね。あなたはイライザさんの肩にもとどきませんよ。ジョージアナさんときたら、あなたの倍ほどの幅がありますよ」
「ジョージアナはきれいになったでしょうね、ベシー?」
「それはもう。去年の冬、お母さまとロンドンへ行きましたが、みなさまに大もてでしたのよ。ある貴族の坊ちゃんと恋愛をなさいました。ところが、むこうの親類一同が結婚に大反対というわけ――ところが、どうです、その坊ちゃんとジョージアナさんは、駈け落ちをしようとなさったのです。それがばれて、つかまってしまいましたがね。ばらしたのは、イライザさんなんです。やきもちをやいたのだと思いますよ。いまでは、お二人は犬と猫みたいな仲で、明けても暮れても喧嘩ばっかり」
「そうなの。ジョン・リードは、どうなったかしら?」
「それが、お母さまのご希望と裏腹に、行状がよろしくないのですよ。大学にはいりましたが、その、なんというんですか――落第なさいましてね。おじさまがたは、法律を勉強して、弁護士になってもらいたかったようですけど。でも、あんな道楽者では、とても|もの《ヽヽ》にならないと思いますよ」
「いまは、どんな感じなの?」
「すごいのっぽですよ。男まえだ、なんていう人もいますけどね。でも、唇がとっても厚いの」
「それで、リードの奥さんは?」
「でっぷりしましてね、顔はくったくがなさそうですが、心のなかは、あんまりゆったりしていないと思いますよ。ジョンさまの品行に、お腹立ちでして――お金を湯水のように使いますからね」
「奥さんのいいつけできたの、ベシー?」
「とんでもありませんよ。でもね、まえから、お会いしたいと思ってましたからね、あなたからお手紙があって、よその土地へ移られるというお話を聞いたものですから、あたしの手のとどかないところへ行ってしまうまえに、一目でもお目にかかりたい、と思ったんですよ」
「がっかりしたでしょう、ベシー」わたしは、笑いながら、そういった。ベシーの目には、敬意こそこもっているが、賞賛の色がいっこうにうかがわれないことに、気づいたからである。
「いいえ、ジェインさん、そんなことはありませんよ。すっかり上品になられて。どことなく気品があるし。こんなふうになられるなんて、夢にも思わなかったものね。子どものころは、お世辞にも美人とはいえませんでしたから」
わたしは、ベシーの飾り気のない返事を聞いて、微笑した。ベシーのいうとおりだわ、と感じたものの、正直なところ、その言葉の趣旨に無関心ではいられなかった。十八ともなれば、だれしも人に気にいられたいと願うものだが、自分の容貌が、その願いをかなえてくれそうにもないことを思い知らされれば、心中おだやかではあるまい。
「でも、あなたは頭がよろしいから」とベシーが、なぐさめ顔でつづけた。「なにができます? ピアノはひけますの?」
「すこしだけよ」
その部屋に、ピアノが一台、置いてあった。ベシーはピアノのところへ行って、ふたをあけると、一曲ひいてくれないか、といった。わたしがワルツを一、二曲、ひくと、ベシーは聞きほれている。
「リードのお嬢さまがたも、こうはひけませんよ!」とベシーは大喜びだった。「勉強では、あのかたたちに負けるあなたではないって、あたしはまえからいってましたもの。絵は描けますの?」
「炉棚の上にかかっている絵は、わたしの描いたものよ」
それは水彩の風景画で、委員会に仲介の労をとってくれたお礼に、学院長に贈ったもので、学院長が額ぶちにいれ、ガラスをはめるようにはからってくれたのである。
「まあ、きれいですわねえ、ジェインさん! イライザさんの絵の先生が描いたのよりも、ずっとりっぱですよ。お嬢さまがたが、足もとにもよりつけないことは、もちろんだし。フランス語も勉強なさったの?」
「そうよ、ベシー、読むことも話すこともできるのよ」
「それからモスリンや麻布《カンバス》にししゅうもおできになる?」
「できますとも」
「まあ、たいへんな教養を身につけたのね、ジェインさんは! こうなるとは、わかっておりましたのよ、あたしには。あなたは、親類にかまってもらえなくても、ちゃんとやって行けます。一つ、お聞きしたいことがあるのですが――お父さまの親類のエア家のかたから、なにか連絡がありまして?」
「ぜんぜんよ」
「ところで、あなたもご存じのように、リードの奥さまは、エア家のかたたちが貧乏で、乞食同然だなんて、いつもいってましたでしょ。たしかに、貧乏かもしれませんが、リード家と同じ紳士の家柄だ、とわたしは信じておりますわよ。といいますのは、かれこれ七年まえになりますが、エアと名乗る男のかたがゲイツヘッドにお見えになって、あなたに会いたい、と申されたのですよ。奥さまが、五十マイルはなれた学校へ行っていないといわれますと、ずいぶんがっかりなさったようでした。逗留できなかったからですよ。外国旅行に出かけるご予定で、船が一両日中にロンドンを出航する予定とか。いかにも紳士らしいかたでしたし、お父さまのご兄弟じゃないかと思いますよ」
「その外国旅行の行き先は、どこだったの、ベシー?」
「なん千マイルもはなれた島で、ブドウ酒の産地とか――使用人がしらがいってましたけど――」
「マデイラ?」
「そう、そうでしたよ――たしかにマデイラでした」
「それで、行ってしまわれたのね?」
「はい。お屋敷には、なん分もおられませんでしたよ。奥さまが、ずいぶんとおうへいな態度を取りましてね。あとで、そのかたのことを『ずるがしこい商売人』なんて、いってましたわ。うちのロバートの話では、ブドウ酒業者じゃないかって」
「そうかもね」とわたしは答えた。「ブドウ酒業者の使用人か、代理人かもしれないわね」
ベシーとわたしは、あと一時間ばかり、昔話に花を咲かせたが、やがてベシーの帰る時間になった。翌朝もう一度、ロートンで駅馬車を待っているあいだに、わたしはベシーに四、五分だけ会うことができた。わたしたちはいよいよ、その町の宿屋であるブロックルハースト・アームズの玄関で別れ、別々の道をたどることになった。ベシーは、ゲイツヘッド行きの馬車を待つため、ローウッド峠へむかって出発し、わたしは、不案内なミルコート郊外での、新しい仕事と新しい生活へわたしをはこんでくれる馬車の客となったのである。
[#改ページ]
十一章
小説の新しい章は、芝居の新しい場面のようなものである。これから幕を開けるので、読者には、ミルコートのジョージ旅館《イン》の一室に目をやっていると想像してもらわねばならない。旅館の部屋独特の、大柄な模様の壁紙、カーペット、家具、炉棚の上の置物、ジョージ三世(一七三八―一八二〇。イギリス王。一七六〇年に即位。晩年、発狂)と英国皇太子《プリンス・オブ・ウエールズ》(一七六二―一八三〇。のちのジョージ四世。一八二〇年に即位。一八一一―二〇、ジョージ三世の摂政)の肖像や、ウルフ将軍(ジェイムズ・ウルフ。一七二七―五九。イギリスの将軍。ケベック攻略で戦死)戦死の図などの版画。これらは、天井からつるされた石油ランプの明かりと、あかあかともえている暖炉の火に照らされて、読者の目にはっきり見えている。わたしは、暖炉のそばに、外套と帽子《ボンネット》をつけたままで坐っている。テーブルの上には、わたしのマフと雨傘。うすら寒い十月の風に十六時間もさらされたために冷えきって、感覚のなくなったからだをせっせと暖めているわたし。ロートンを発ったのが午前四時で、いまちょうどミルコートの時計が八時を打つ音が聞こえてくる。
読者よ、わたしはいかにものんびりとくつろいでいるように見えるが、心のなかではやきもきしているのだ。駅馬車がここに着いたとき、だれか迎えにきていると思っていた。下足番がわたしのために置いてくれた木製の踏み板をおりながら、わたしの名前が呼ばれるのではないか、ソーンフィールドへわたしをはこぶために待っている馬車らしいものが見えるのではないか、ときょろきょろあたりを見まわしたが、それらしいものは、なんにも見えない。給仕に、エアという女性をたずねてきた者はないか、ときいてみたが、だれもこないという返事。というわけで、旅館の個室へ案内を頼むよりほかに手の打ちようがなかった。ここで、こうして待ちながらも、さまざまの疑心暗鬼にわたしの思いはみだれている。
世間知らずの若者にとって、この世でたった一人というのは、まことに異様な気持ちがするものだ。すべてのきずなが切れたまま波風のまにまにただよい、めざす港につけるかどうかも定かでないが、かといって元の港へは数多くの障害にさまたげられてもどれない。そんな気持ちも、冒険の魅力で甘やかになり、自負の熱気で暖められるのだが、同時にまた、不安の動悸がそれをかき乱すことになる。わたしの場合、三十分たっても、まだひとりぼっちだったので、不安がつのる一方であった。ふと思いついて、ベルを鳴らしてみた。
「この近くに、ソーンフィールドというところがありますの?」わたしはベルに答えてやってきた給仕にきいた。
「ソーンフィールドねえ? わかりかねますので、帳場で聞いてまいります」
給仕は姿を消したが、すぐにまたあらわれた――
「エアさまでいらっしゃいますか?」
「そうですけど」
「お待ちのかたがいらっしゃいます」
わたしは飛びあがった。マフと雨傘をもって、旅館の玄関へいそぐ。開いたままのドアのそばに、一人の男が立っていて、ランプに照らし出された通りには、一頭立ての馬車がぼんやりと見える。
「これが、あんたの荷物かね?」
男は、わたしの姿を見ると、玄関のトランクを指さしながら、かなりぶっきらぼうな口をきいた。
「ええ」
男がトランクを積みこんだ馬車は、軽二輪馬車だった。わたしもつづいて乗りこむ。男が馬車のドアを閉めるまえに、ソーンフィールドまでの距離をきいてみた。
「六マイルくらいかな」
「時間にして、どのくらいかかりますの?」
「一時間半てところかな」
男は馬車のドアを閉めると、外側にある御者台によじのぼった。馬車が動きだした。ゆっくりした速さなので、考えごとをする時間はたっぷりある。やっと旅路のおわりに近づいて、ほっとしているわたし。エレガントとはいえないが、乗りごこちのいい馬車。わたしはふんぞりかえって、気楽な瞑想にふけった。
「召使いや馬車の質素な点から判断して、フェアファックス夫人は、あまりみえっぱりではないらしい。ますます好都合だわ。ごりっぱなかたたちと暮らしたのは、たったの一回しかないけど、ひどくみじめな思いをさせられた。夫人は、わたしの生徒になる女の子と二人きりの暮らしかしら。もしそうなら、それに夫人がほんのすこしでもやさしい人なら、きっとうまくやって行けるわ。できるだけのことをやってみよう。残念なのは、いくらできるだけのことをやっても、それが報いられるとはかぎっていないこと。たしかに、ローウッドでは、いまと同じ決心をして、その決心を守ったおかげで、みんなから気にいられた。でも、リード夫人の場合、わたしの最善の努力はいつも鼻であしらわれたことが忘れられない。神さま、フェアファックス夫人が第二のリード夫人なんかでありませんように。でも、そうだったとしても、なにもいっしょにいなきゃならない義理はないんだから。万一の場合には、また新聞広告を出せばいい。もうどのあたりまできたのかしら?」
わたしは窓をあけて、外に目をやった。ミルコートが、馬車の背後に見える。町の明かりの数から察すると、かなりの規模の町で、ロートンよりはずっと大きいようだ。見わたしたところ、どうやら馬車は共有地にさしかかっているらしいが、あたり一帯に人家が点在している。ローウッドとはちがった土地、人間は多いが風光に恵まれず、活気にあふれてはいるがロマンティックな趣を欠いた土地へやってきたというのが、わたしの印象であった。
道路は悪く、夜霧が出ていた。御者は馬をずっと並み足で歩かせたので、一時間半の予定が、まちがいなく二時間にのびている。ようやっと、御者台の男はふりむいていった――
「さあ、ソーンフィールドは、ついそこですぜ」
わたしはもう一度、外に目をやった。教会のまえを通りかかっている。夜空を背景に、ずんぐりした塔が見える。十五分ごとに打ち鳴らす鐘が、ちょうどいま鳴っている。丘の中腹では、村か部落のあるあたりに、細長い銀河のようなともし火も見えている。十分ばかりたって、御者は馬車をおりると、両開きの門をあけた。馬車が通りすぎたあとで、門が閉まる音が聞こえた。車道をゆっくりのぼって行くと、建物の大きな正面が見えだした。ろうそくの明かりが、カーテンのかかった張り出し窓からもれているだけで、あとは闇につつまれている。馬車が玄関にとまると、女中がドアを開けた。わたしは馬車をおりて、なかにはいった。
「こちらでございます」と女中はいった。
わたしは女中について、まわりに高いドアのある四角い玄関の広間《ホール》を通りぬけた。案内された部屋は、暖炉とろうそくの、二重照明であったため、それと対照的な暗闇に目が二時間もならされていたわたしには、最初はずいぶんとまぶしかった。しかし、なれるにつれて、ぬくぬくとした、感じのいい場景がわたしの目にとびこんできた。
居ごこちのよさそうな、こぢんまりとした部屋。あかあかともえる暖炉のそばの丸いテーブル。背の部分の高い、古風なひじかけ椅子。その椅子には、実に品のいい中年すぎの婦人が、|未亡人用の帽子《ウィドウズ・キャップ》、絹の喪服、それに雪のように白いモスリンのエプロン姿で坐っている。わたしの想像していたとおりのフェアファックス夫人だが、思っていたほどの威厳はなくて、ずっとやさしい顔をしている。編物に夢中になっている夫人。足もとにすまして坐っている大きな猫。要するに、平和な家庭の理想像に必要なものは、なに一つとして欠けていない。新米の家庭教師にとって、これ以上に気楽なスタートは、ちょっと想像できないのではないか。圧倒されるような偉観も、まごまごするような威厳もないのだから。ともあれ、わたしがはいって行くと、老婦人は立ちあがり、いそいそと、やさしい物腰で、わたしを迎えてくれた。
「よくいらっしゃいました。馬車の旅には退屈なさいましたでしょ。ジョンは、ほんとにゆっくりですからね。寒いでしょ、暖炉のほうへおいでください」
「フェアファックス夫人でいらっしゃいますね」とわたしはいった。
「ええ、フェアファックスでございます。どうぞ、お坐りになって」
夫人は、わたしを自分の椅子に坐らせると、わたしのショールをはずしたり、帽子《ボンネット》のひもをほどいたりしはじめた。わたしは、あまり気をつかわないでください、といった。
「まあ、いいじゃありませんか。手がかじかんでいらっしゃるでしょうから。リア、ニーガス酒(ブドウ酒、湯、砂糖、香料をまぜた熱い飲み物)を作って、サンドイッチを一切れか、二切れ、切ってきておくれ。ほら、貯蔵室の鍵だよ」
そういいながら、夫人はポケットから、鍵のいくつもついた、いかにも主婦のもち物らしいキー・ホールダーを取り出して、召使いに渡した。
「さあ、さあ、もっと火のそばにお寄りになって」と夫人は言葉をつづけた。「お荷物を持参になったんでしょ?」
「はい、奥さま」
「お部屋にはこばせましょうね」そういって、夫人はそそくさと出て行った。
「まるでお客さまあつかいだわ」とわたしは思った。「まさか、こんな歓迎を受けようとは。冷淡で、ぎごちない出迎えしか、当てにしていなかったのに。話に聞いている家庭教師のあつかいとは、まるでちがう。でも、喜ぶのは、まだ早いわ」
夫人がもどってきた。リアのもってきたお盆をのせるため、テーブルの上の編物の道具や、一、二冊の本を手ずからかたづけるだけでなく、わたしにもニーガス酒とサンドイッチを手渡してくれる。こんなに世話をやかれたことは、今までに一度もなかったし、それも目上の、雇い主ときているので、わたしはめんくらってしまった。それでも、夫人のほうは、身分不相応なことをしているというふうには見えなかったので、わたしもだまって親切に甘えたほうがよくはないか、という気になった。
「今夜、フェアファックスさまにお目にかかれますのでしょうか?」わたしは、夫人にすすめられたものをすこし食べてから、きいた。
「なんて、おっしゃいまして? すこし耳が遠いものですから」夫人は、そういうと、わたしの口に耳を近づけてきた。
わたしは、同じ言葉を、もっとはっきりくりかえした。
「フェアファックスさま? ああ、ミス・ヴァランスのことでしょ! あなたのお教えになる生徒の名前は、ヴァランスというのですよ」
「あら! じゃ、奥さまのお子さまでは?」
「いいえ――わたしには子どもはおりませんの」
わたしは、最初の質問につづけて、そのミス・ヴァランスと夫人との関係をたずねるべきであったかもしれない。だが、矢つぎばやの質問は失礼にあたることを思い出した。それに、いずれ聞けるにちがいない、という気持ちもあった。
「ほんとによかったですわ――」夫人は、わたしのむかいに腰をおろすと、猫を膝に抱きあげながら、話をつづけた。「あなたにきていただけて、ほんとによかったですわ。話し相手がふえて、ここの、これからの生活が楽しくなりますもの。そりゃ、ここは、いつでも楽しいところにはちがいありませんよ。ソーンフィールドといえば、昔ながらのりっぱなお屋敷で、最近では、ほったらかしになっているかも知れませんが、それでもやっぱり一目置かれておりますのよ。とはいっても、冬になりますと、どんなに恵まれた住まいにいても、ひとりぼっちは、みじめなものでございましてね。ひとりぼっちと申しますのは――そりゃ、リアはいい子ですし、ジョン夫婦も、とってもできた人たちですよ。でもね、この三人は、召使いでございましょ。対等に口をきくのは、はばかられるというわけでして。しかるべき距離を置かないことには、威厳がたもてませんもの。たしか、去年の冬でしたが(ご記憶でしょうが、たいそう寒い冬で、雪がふらないときは、雨と風でしたわね)、十一月から二月にかけて、肉屋と郵便配達夫以外、この屋敷をたずねる者はただの一人もいないというありさまでした。毎晩毎晩、一人で坐ってましてね、すっかりふさぎこんでしまったのですよ。ときたま、リアにきてもらって、本を読ませたのですが、かわいそうに、あの子、本を読むのは、あまり好きじゃないらしくて。窮屈がっておりましたですよ。春と夏は、ましでしたがね。お日さまが出て、日が長くなると、ずいぶん変わるものですねえ。それから、この秋のはじめごろ、かわいいアデール・ヴァランスさんが乳母とやってきましたでしょ。子どもがいると、家がいっぺんに明るくなるものですわね。それに、こんどは、あなたがお見えになったので、若やいだ気分になると思いますわ」
夫人のおしゃべりを聞いているうちに、わたしはすっかり打ちとけた気分になった。椅子を夫人のほうにすこし引きよせると、わたしは、ご期待どおりの、いいお話し相手になれれば、ほんとうにうれしいですけど、といった。
「でも、今夜は、おそくまでお引きとめしてはいけませんね。もう十二時を打っておりますし、一日中、旅をしてこられたのですから。お疲れでしょうね。足が暖まったら、寝室へご案内しましょ。わたしのとなりの部屋を、用意させときましたから。せまい部屋ですけど、おもての広い部屋よりも、こちらのほうがよろしいじゃないか、と思いましてね。むこうの部屋は、家具はよろしいですよ。でも、暗くて、さびしくて、わたしなど、あんなところではとても眠れませんわ」
わたしは、部屋の割りふりにまで気をつかっていただいて、と礼をいい、長旅で疲れきっていたので、さっそく休ませていただきますわ、といった。夫人はろうそくを手にとり、わたしはそのあとについて部屋を出た。夫人はまず、玄関のドアがしまっているかどうか、たしかめに行き、錠前から鍵を抜きとってから、さきに立って階段をあがりはじめた。踏み台と手すりはオーク材で、階段の横にある窓は高く、格子窓になっている。その窓も、寝室のドアが並んでいる長い廊下も、個人の住宅というよりも教会にふさわしいように思われる。やけにひんやりとした、地下室を思わせる空気につつまれた階段と廊下。だだっ広い、人けのない場所に特有の、気のめいるような雰囲気がただよっている。そのせいか、やっとわたしの寝室に案内されたとき、こぢんまりした、普通のモダンな家具つきの部屋であることがわかって、ほっとした気持ちになった。
フェアファックス夫人が、やさしく「おやすみ」をいって、立ち去ったあと、わたしは、ドアを閉め、あたりをゆっくり見まわした。あの大きな玄関のホールや、暗い、ゆったりした階段や、長い、冷たい廊下から受けた不気味な印象が、わたしの部屋の、もっと明るいたたずまいで打ち消されたような気分になると、丸一日におよぶ肉体的な疲労と精神的な不安のあとで、やっと安全な港についたのだわ、という実感がわいてきた。にわかに感謝の思いが胸にせまり、わたしはベッドの横にひざまずくと、感謝の言葉を、当然ささげるべきである神にささげた。わたしは、立ちあがるまえに、「これからさきも、わたしをお助けください。身にあまる親切をなにくれと受けましたが、ご恩がえしをする力を、わたしにおさずけください」と祈ることを忘れなかった。その夜は、ベッドにはいっても、頭をなやますいやなことがなかったし、一人きりの部屋にいても、恐ろしいことはなかった。疲労と、安心感とで、わたしはすぐに、ぐっすり眠ってしまった。目をさますと、夜がすっかり明けはなれていた。
太陽は、派手なブルーのさらさ木綿のカーテンのすき間からさしこみ、ローウッドのむき出しの床やモルタル塗りのしみだらけの壁とは似ても似つかぬ、壁紙をはった壁やカーペットをしきつめた床を照らし出している。寝室全体が光り輝いているようで、心がわくわくしてきた。若者には、外観が大きな影響をおよぼすものである。わたしは、これまでになくすてきな人生の段階が――|とげ《ヽヽ》や苦労ばかりでなく、花と満足も得られる段階がはじまろうとしているのを感じた。活動の場が変わった上、はじめて前途に希望がわいてきたこともあって、わたしのあらゆる能力が目をさまし、色めき立っているように思われた。それが期待していたのはなにか、ずばり指摘することはできないにせよ、なにか楽しいこと――今日とか、今月ではないにしても、未来の、いつかある時期におとずれる、なにか楽しいことであったことはまちがいない。
わたしは起きあがり、念いりに服装をととのえた。質素な身なりはやむを得ないとしても――わたしの洋服で、あっさりした仕立てでないものは一枚もなかった――わたしは生まれつききちんとした格好をしているのが好きであった。風采にかまわなかったり、他人にあたえる印象に神経を使わなかったりするのは、わたしの性分にあわない。それどころか、わたしはいつも、できるだけ自分をよく見せたい、まずい顔ながら、できるだけ好感をあたえたい、と願っていた。ときには、美人に生まれなかったのを残念に思い、バラ色の頬、まっすぐな鼻、小さな、さくらんぼのような唇にあこがれたこともある。高い背丈、端麗な容姿、均整のとれたからだが理想だったので、ちびで、血色がさえない上に、不細工で、ひと癖もふた癖もある顔をしているわが身を不幸に思ったりした。それにしても、わたしがそのような理想や不満を抱いたのは、なぜだろうか? いわく、いいがたしで、自分でもはっきり口にすることはできなかったが、一つの理由が――ちゃんと筋の通った、当然というほかない理由があったのだ。しかしながら、髪をきれいにとかし、黒いドレス――クエーカー教徒ふうだが、からだにぴったり合う点だけがとりえの服――を着て、清潔な白い|えり布《タッカー》をつけると、これならフェアファックス夫人のまえに出ても見苦しくないだろうし、初対面の生徒がおぞけをふるって逃げ出すようなこともあるまい、という気になった。窓を開け、化粧台の上がきちんと片づいているのをたしかめてから、わたしは思いきって寝室をあとにした。
マットを敷いた長い廊下を通りぬけて、オーク材の、つるつるすべる階段をおりると、玄関のホールにでた。そこで、ちょっと立ちどまって、壁にかかったなん枚かの絵(胴よろいをつけた、こわい顔の男の絵や、髪粉をふったかつらと、真珠のネックレースをつけた貴婦人の絵があったことを記憶している)、天井からさがっている青銅製のランプ、精巧な彫刻をほどこしてある上に、手あかと時代がついて黒光りしている、オーク材のケースにはいった大時計などを眺めた。なにもかも、まことに堂々としていて、圧倒されそうであった。当時のわたしは、豪奢な雰囲気にそれほど不慣れであったのだ。半分がガラスになっている玄関のドアが、開けはなしになっていたので、敷居をまたいで、外に出てみた。さわやかな秋の朝。早朝の太陽が、褐色になった林や、まだ緑色のままの野原を、うららかに照らしている。わたしは芝生のほうへ歩きながら、目をあげて屋敷の正面を眺めた。三階建てで、かなりの大きさだが、すごく大きいという感じはしない。貴族の別邸というよりも、領主の邸宅といったところか。屋上に胸壁があるせいで、外観は絵に描いたようである。その灰色の正面が、みやまがらすの棲む森を背景に、ぽっかり浮きあがっている。このとき、その森の住人たちが、かあかあと鳴きながら飛び立ち、芝生と庭をひと飛びして、隠れ垣で境を接しているひろびろとした牧草地におりて行った。その牧草地に立ち並んでいる、オークみたいに強くて、こぶが多くて、ふとい|さんざし《ソーンツリー》の老木を見ただけで、この屋敷の「|さんざしが原《ソーンフィールド》」という名前の由来がたちどころに納得できる。そのむこうには、丘陵地帯がある。ローウッド周辺の丘とちがって、高くもないし、活気にあふれる世界をしゃ断する障壁的な存在でもないが、それでも静まりかえった、わびしい丘がつづき、それにかこまれたソーンフィールドは、ミルコートのようなにぎやかな土地のすぐ近くに見つけようとは夢にも思わなかった、僻地の趣を呈している。とある丘の中腹に、屋根が木の間がくれに見えている寒村がだらだらとのびている。この地区の教会は、ソーンフィールド・ホールの近くにあり、その古ぼけた塔の先端が、屋敷の建物と門とのあいだの丘ごしに見えている。
おだやかな風景やおいしい新鮮な空気を楽しんだり、みやまがらすの鳴き声にうっとりと聞きいったり、建物の広い灰白色の正面を眺めたりしながら、フェアファックス夫人のような、ひとりぼっちの老婦人が住むにしては、なんと大きな邸宅だろうか、と考えていたとき、当のフェアファックス夫人が玄関に姿を見せた。
「まあ! もう外に?」と夫人はいった。「早起きでいらっしゃいますこと」
わたしがそばへ歩いて行くと、夫人は愛想のいい接吻と握手で迎えてくれた。
「ソーンフィールドはいかがです?」と夫人はきいた。
わたしは、すっかり気にいった、と答えた。
「そうですね。感じのいいところでございますよね。ただ、ロチェスターさまが永住する気をおこしてくださるか、そうでなくても、もっとひんぱんにきてくださらなければ、ようすがおかしくなるのじゃないかと心配でして。大きな家と、りっぱな庭には、主人にいてもらわなくてはねえ」
「ロチェスターさま!」とわたしは大声をあげた。「どなたですの?」
「このソーンフィールドの、ご主人さまですよ」と夫人は落ち着いて答えた。「だんなさまがロチェスターというお名前のこと、ご存じではなかったのですか?」
わたしが知るはずがない――まったく寝耳に水なのだから。だが、老婦人は、その人物の存在が周知の事実であって、だれもかれもが本能的に知っていなければならない、と思いこんでいるらしい。
「わたし、ソーンフィールドは奥さまのものだと思ってましたのよ」とわたしはつづけた。
「わたしのものですって? あら、まあ、あなた! なんてことを! わたしのものだなんて。わたしは、ただの家政婦――管理人ですよ。そりゃ、わたしは、ロチェスター家の母方の遠縁にあたります。すくなくとも、わたしの死んだ主人が、そうでございましてね。主人は牧師でして、ヘイの村を――むこうの丘の、小さな村をあずかっておりましたが、門の近くの、あの教会は、主人の教会でしたのよ。ご当主のロチェスターさまのお母さまがフェアファックス家の出で、わたしの主人とは、またいとこでございましてね。と申しましても、わたしは、この縁故をたてに、どうのこうのいったりはしません。まったくの話、わたしとは無関係でございますものね。わたしは、自分のことをごく平凡な家政婦と思っておりますよ。だんなさまは、いつもご親切ですし、それ以上に望むことは、なんにもございませんです」
「じゃ、お嬢さん――わたしの生徒さんは?」
「あのお嬢さまの後見を、ロチェスターさまがなさっていますのよ。家庭教師を捜す件も、だんなさまのご依頼でした。だんなさまはお嬢さまを、この――州で養育なさるおつもりじゃないかと思いますよ。ほら、お嬢さまが乳母とまいりますわ。乳母のことを、『|子守り《ボン》』と呼んでおられるようですね」
これで、謎がとけた。この愛想のいい、親切な未亡人は、身分のある婦人どころか、わたしと同じ使用人にすぎない。だからといって、夫人に好感がもてなくなるわけでもない。それどころか、これまでよりもいっそう気にいったくらいである。夫人とわたしのあいだが対等であることは、動かしがたい事実であって、単に夫人のへりくだった態度に由来するようなものではない。ますます好都合ではないか――わたしの立場が、それだけ自由になるわけだから。
この新しい事実に考えこんでいると、お供をつれた一人の少女が、芝生を駆けてきた。わたしは、このわたしの生徒に目をやったが、むこうは最初、わたしに気がつかないようだった。まだほんの子どもで、七歳か八歳くらい。きゃしゃな骨格。青白い、小づくりな顔。ふさふさした髪の毛がカールして、腰のあたりまでたれている。
「おはようございます、アデールさん」とフェアファックス夫人はいった。「このかたにご挨拶なさいませ。お嬢さまの先生になって、やがてお嬢さまをかしこい人にしてくれるかたですよ」
少女は近づいてきた。
「|このかたが、わたしの家庭教師《セ・ラ・マ・グヴェルナーント》?」少女は、わたしを指さしながら、乳母にきいた。乳母は、「|はい、そうでございますよ《メ・ウィ・セルテンマン》」と答えた。
「外国のかたですの?」フランス語を耳にしたわたしは、びっくりしてきいた。
「乳母は外国のかたでしてね。アデールさんも海のむこうのお生れで、たしか、六ヵ月まえまでは、生まれた土地をはなれたことがないはずですよ。はじめてここへこられたときは、英語が話せなくて。いまでは無理をすると、すこしは話せますけどね。わたしには、なにをいっておりますやら。フランス語とちゃんぽんなものですから。でも、あなたなら、お嬢さまのいってることがよくわかると思いますよ」
幸いなことに、わたしにはフランス婦人について、フランス語を勉強したという強みがあった。わたしは、あらゆる機会をとらえて、マダム・ピエロと会話をすることにしていた。それだけでなく、この七年間、毎日欠かさずフランス語の一節を暗誦していた――アクセントには特に気をつかい、先生の発音にできるだけ似せるようにつとめた。その結果、フランス語はある程度すらすらと、正確に使えるようになっているし、マドモワゼル・アデールを相手にしてとまどったりする心配はない。アデールは、わたしが家庭教師であることを聞かされると、わたしのところへきて握手をした。朝食のために家のなかへつれて行く途中、フランス語ですこし話しかけたところ、アデールは、はじめは言葉すくなに答えていたが、やがて、食事についてから、わたしの顔を十分ばかり、大きな薄茶色の目でじっと見つめたあと、突然、ぺちゃくちゃとしゃべりはじめた。
「あーら!」アデールはフランス語でいった。「先生のフランス語、ロチェスターさんと同じくらいにおじょうずよ。あたしは、ロチェスターさんにも、先生にも、お話ができるのね。ソフィも同じことよね。喜ぶと思うわ。ソフィの話がわかる人、ここにはだれもいないの。マダム・フェアファックスは、英語きりでしょ。ソフィって、あたしの乳母よ。ソフィは、煙のでる――すごい煙よ――煙突のついた、大きなお船にのって、あたしといっしょに海を渡ってきたの。あたしは船に酔って、ソフィも酔って、ロチェスターさんも酔ったの。ロチェスターさんは、サロンとかいうきれいなお部屋のソファで寝たけど、ソフィとあたしは、別のお部屋で小さなベッドに寝たのよ。あたしはベッドからおっこちそうになったわ。棚みたいなベッドなの。それで、先生――先生のお名前は?」
「エア――ジェイン・エアよ」
「エール? あら、やだ! いえないわ。それからね、あたしたちのお船は、朝、まだ夜があけないうちに、大きな町についたのよ――とっても大きな町で、まっ黒いお家があって、煙だらけなの。あたしがせんに住んでいた、きれいな明るい町とぜんぜんちがうのよ。ロチェスターさんが、あたしをだっこして、板をわたって、陸にあがったの。ソフィはあとからついてきて、あたしたちが三人で馬車にのったら、美しい、大きなお家についたのよ。このお家よりも大きくて、りっぱで、ホテルというのよ。あたしたちは、そこに一週間ばかりいて、あたしとソフィは木がいっぱいで、緑色の、広いところを毎日、散歩したけど、そこは公園《パーク》(ロンドンの、ハイド・パークのこと)というのよ。そこには、あたしのほかにも、小さい子がいっぱいいて、きれいな鳥のいるお池(ハイド・パークにあるへび形の池のこと)があって、その鳥に、あたし、パン屑をあげたのよ」
「そんなに早口にしゃべられても、おわかりになりますの?」とフェアファックス夫人がきいた。
わたしには、よくわかった。マダム・ピエロの早口になれていたからである。
夫人は言葉をつづけて、「お嬢さまに、ご両親のことを、一つ二つきいていただければありがたいですわ。おぼえておられますかしらね?」
「アデール」とわたしはいった。「いまお話していた、きれいな明るい町にいたとき、どなたと住んでたの?」
「ずっとせんは、ママと住んでいたのよ。でも、ママはマリアさまのところへ行っちゃった。ママはあたしに、歌や踊りを教えてくれたのよ。詩の暗唱をすることもよ。男のひとや女のひとがいっぱい、ママのところへきたのよ。あたしは、みなさんのまえで踊ったり、お膝に坐って歌ったりしたの。楽しかったわ。これから、あたしのお歌を聞かせてあげましょか?」
アデールは朝食を食べおわっていたので、わたしは、教えられた芸の実例を披露することを許してやった。すると、アデールは、椅子からおりてきて、わたしの膝にのった。すまし顔で、両手をからだのまえに組みあわせると、カールした髪をうしろにゆすりあげ、天井を見あげながら、あるオペラのなかの歌をうたいはじめた。それは、男にすてられた女の歌であった。恋人の背信を嘆き悲しんだあと、女は自尊心の助けで気をとりなおし、わたしをいちばん光る宝石と、いちばん派手なドレスで飾りたてておくれ、とまわりの者にいいつける。その夜の舞踊会で不実な男に会い、捨てられたって平気だということを、陽気な態度で見せつけてやろうと決心する女心。
こうした内容の歌を選んで、子どもにうたわせるのは、いかにも奇異な感じだった。そのような見せ物あつかいは、色恋と嫉妬の歌を、子どもがまわらぬ舌でうたうのを聞いておもしろがるためだろうが、悪趣味もはなはだしい。すくなくとも、わたしにはそう思われた。
アデールは、その小歌曲《カンツォネッタ》を実にたくみな節まわしで、しかも七、八歳の子どもらしいあどけなさを見せながらうたった。うたいおわると、アデールはわたしの膝から飛びおりて、「先生、こんどは詩の暗唱をしてあげますね」といった。
アデールは、気どったポーズを取ると、「ラ・フォンテーヌ(一六二一―九五。フランスの詩人)の寓話、『ネズミの同盟』」といった。それから、めりはりのある声と適当な身ぶりで、句読点や強勢に注意しながら、この小品を暗誦したが、この年齢の子どもにしては、まことに珍しく、十分な訓練を受けたことを物語っていた。
「そのお話は、ママが教えてくださったの?」
「ええ。ママはいつも、こんなふうにいってたわ。『|じゃ、どうしようというんです《カヴェ・ヴ・ドン》? |一匹のねずみがいいました《リュイ・ディ・アン・ド・セ・ラ》。|教えてくださいよ《パルレ》!』ママはあたしに手をあげさせるの――こんなふうによ――この質問のところで、声をあげるのを忘れないためなの。こんどは踊ってみせましょうか?」
「もういいわ。でも、ママがマリアさまのところへ行ってしまったというお話だけど、そのあとは、だれと暮らしてたの?」
「マダム・フレデリックと、そのご主人よ。マダム・フレデリックは、あたしの世話をしてくれたけれど、親類じゃないことよ。貧乏だと思うわ。ママのお家ほど、りっぱじゃなかったもの。あたし、そこには長くいなかったわよ。ロチェスターさんがイギリスへ行って、いっしょに暮らさないかい、といわれたので、あたしは、いいわ、と答えたの。ロチェスターさんなら、マダム・フレデリックよりもまえに知ってたし、あたしにやさしくて、きれいなドレスやおもちゃをくださったわ。でも、いいこと、ロチェスターさんは約束をやぶったのよ。あたしをイギリスへつれてきてから、ご自分はまた行ってしまって、あたしにお顔を見せてくれないんですもの」
朝食のあと、アデールとわたしは図書室へ席を移した。教室に使うように、というロチェスターさまの指示が出ていたらしい。大半の書物は、鍵のかかったガラス張りの本棚にしまいこまれているが、一つだけ開いたままの本棚があって、そこには初等教育に必要と思われる本ぜんぶと、娯楽本位の読みもの、詩集、伝記、旅行記が数冊、それに小説本が若干、並んでいる。家庭教師が自分の楽しみに読むには、この程度で十分、とロチェスターさまが判断されたのだと思う。事実、これだけあれば、当座の読みものには事欠かなかったし、ローウッドで、ときたま落ち穂でも拾うみたいにしてやっと身につけた、一握りの断片的な知識にくらべると、ここの書物は、娯楽と知識の大収穫を約束しているように思われた。この部屋には、新品の、いい音を出す竪型ピアノがあり、画架《イーゼル》、地球儀、天体儀なども置いてあった。
アデールは教えやすい生徒だが、勉強には熱心でないことがわかった。規則正しい仕事と名のつくものには、いっさい慣れていない。はじめからぎゅうぎゅうつめこむのもどうかと思ったので、おおかたはわたしがしゃべって、アデールにはすこしだけ勉強させ、正午近くになったところで、乳母のもとへ帰してやった。それからわたしは、昼食時間まで、アデールの使うスケッチを二、三枚、描いてすごそうと思いたった。
わたしがスケッチブックと鉛筆を取りに階段をのぼりかけると、フェアファックス夫人が声をかけてきた。
「朝の授業は、おすみのようですね」
夫人は、両開きのドアが開けはなしになっている部屋にいた。声をかけられたわたしは、その部屋へはいって行った。広い部屋で、豪華な感じである。紫色の椅子とカーテン、トルコじゅうたん、クルミ材の鏡板をはった壁、ステンドグラスがあざやかな一つの大きい窓、上品な装飾用刳形《モールティング》のついた高い天井。フェアファックス夫人は、食器台の上に並べられた、紫色のみごとなクリスタルガラスの花びんをふいていた。
「きれいなお部屋ですわねえ!」わたしは、あたりを見まわしながら、叫んだ。この半分もりっぱな部屋さえ、見たことがなかったのだ。
「そうでしょ。ここは食堂でしてね。風と光をすこしいれようかと、窓を開けたところですよ。めったに使わない部屋は、なにもかも湿っぽくなりましてね。あそこの客間なんか、地下室のようですよ」
夫人は広いアーチ型の入り口も指さしたが、それは部屋の窓と対《つい》になっていて、窓と同じようにタイア紫(骨貝からとった紫色の染料)で染めたカーテンがかかっているが、いまは輪《ループ》でしばってある。幅の広い二段の階段をあがって、そこへ行き、なかをのぞきこんだとき、わたしはおとぎの国を垣間見たように思った。なかの光景は、世間知らずのわたしの目には、それほどに輝いて見えたのだ。だが、そこは要するに、たいへん美しい客間であり、そのなかに婦人用の小室があるというだけのことであった。そのどちらも、床にはみごとな花輪を並べたような白いカーペットが敷きつめてある。どちらも、天井には白いぶどうと、ぶどうの花をあしらった雪のように白いモールディングがほどこされ、その下には、火ともえる深紅色の長椅子と足のせ台のセットがあって、あざやかなコントラストをなしている。炉棚は、パロス島産の青白い大理石製で、その上に並んでいる置き物は、きらきら光る紅玉《ルビー》色のボヘミアン・ガラスでできている。いくつかの窓と窓のあいだにある大きな鏡には、部屋全体の雪と炎が交錯して映し出されている。
「どの部屋も、ほんとにきれいにかたづいていますのね、フェアファックスさん!」とわたしはいった。「ほこりはないし、麻布《ズック》の家具カバーもかかっていないし。空気がひんやりしているだけで、そうでなかったら、毎日、人が出入りしているように思いますわ」
「ところが、エアさん、ロチェスターさまがお帰りになることはめったにないことですけど、いざご帰館となると、いつでも突然で、前ぶれなしですのよ。それに、家具やなんかにカバーがかかっているのをご覧になったり、着いてからばたばたかたづけられたりすると、ご気分を悪くなされるようでしたので、いつでも使えるよう、部屋の用意をしておくのが一番だと思いましてね」
「ロチェスターさまって、きびしくて、気むずかしいかたですの?」
「とくに、というほどではありませんけど。でも、だんなさまにも、紳士としての趣味や習慣がおありですから、万事それにかなっていることを、お望みなんですのよ」
「あなたはだんなさまがお好き? だんなさまは、みんなから好かれてますの?」
「それは、もう。ロチェスター家は、このあたりでは、昔から尊敬されていますのよ。この近辺の土地は、目のとどくかぎり全部といってもいいくらい、ずっと大昔から、ロチェスター家のものなんですからね」
「ふーん。でも、土地はともかくとして、あなた、だんなさまがお好き? だんなさまという人間は、好かれているの?」
「|わたしとしては《ヽヽヽヽヽヽヽ》、いいご主人さまだ、と申しあげるほかはありませんわね。それに、小作人たちからも、まっとうで、度量の大きい地主に思われていると、わたしは信じておりますのよ。だんなさまが小作人と生活をともにされたことは、めったにありませんけど」
「でも、だんなさまには、人と変わったところはありませんの? つまり、性格はどうなんです?」
「ああ! 申し分のない性格だと思いますよ。すこし風変わりなところは、あるかもしれませんがね。だんなさまは、あちこち旅行なさって、ずいぶんと世間を見ておられるようですよ。頭のきれるかた、と申しあげてもいいのでは。でも、わたし、だんなさまとお話したことは、あんまりないのですよ」
「どんな点が、風変わりなんです?」
「なんて申しますか――口ではいいにくいのですが――とくにどうというわけではないのですが、だんなさまに話しかけられたときに、感じるのですよ。冗談なのか本気なのか、機嫌がいいのか悪いのか、わかりかねることがありましてね。つまり、だんなさまは、底の知れないかたなのですよ――すくなくとも、わたしには、そう思えますの。でも、そんなこと、どうでもよろしいですわ、とってもいいだんなさまなんですから」
フェアファックス夫人の口からは、夫人の主人でもあり、わたしの主人でもある人物について、たったこれだけのことしか聞き出せなかった。世の中には、性格をスケッチしたり、人間や事物の特徴を観察、描写したりすることに、からっきし駄目な人種がいるものだ。どうやら、フェアファックス夫人は、このタイプの人間らしく、わたしの質問は夫人をとまどわせるばかりで、いっこうに話を引き出せない。夫人の目から見れば、ロチェスターさまはあくまでもロチェスターさまで、紳士で、地主で――それ以外のなにものでもない。夫人は、もう一歩つっこんで、疑問を抱いたり、詮索したりすることはしない。ロチェスターさまの正体について、もっとはっきりしたことを知りたがっているわたしに対する驚きの気持を、かくそうともしないのだ。
二人で食堂を出たとき、夫人が、屋敷のほかのお部屋をご案内いたしましょう、といい出した。わたしは、夫人について階段をあがりおりしながら、ただただ感嘆していた。どれもこれもきれいに片づいた、りっぱな部屋ばかりであったからだ。とりわけ、表に面して並んでいる大寝室は、見事だと思った。三階の部屋のいくつかは、暗くて、天井が低かったが、古めかしい感じが気にいった。ここには、かつて階下の部屋に備えつけてあった家具類が、流行の変わるにつれて、つぎつぎとはこびこまれていた。せまい窓からさしこむほの暗い光が、数百年まえのベッドを照らし出している。オーク材やクルミ材の櫃《ひつ》は、シュロの枝や天使《ケルブ》の顔などの珍しい彫刻があるため、ユダヤ教の経典をおさめる聖櫃と同じタイプのように見える。列をなしている古めかしい椅子は、背の部分が高く、幅もせまい。腰掛《スツール》けの類は、さらに古色蒼然としているが、クッションの部分には、二世代もまえから棺のなかで朽ちはてている人間の指がほどこした、消えかかりの刺しゅうの痕跡が、それでもまだはっきりと残っている。こうした骨董品のせいで、ソーンフィールド・ホールの三階には、過去のすみか、記憶の聖堂といった趣がただよっている。この奥まった部屋の静かで、ほの暗い、古風なムードも、昼間なら悪くはないのだが、幅の広い、どっしりしたベッドのどれかで一夜をすごしてみたいという気にはなれそうにもない。オーク材のドアがぴったり閉まるようになっているベッドがあるかと思えば、不思議な花や、もっと不思議な鳥や、この上なく不思議な人間などの模様が一面に厚ぼったく刺しゅうされた、昔のイギリスふうの精緻なカーテンでかこまれたベッドがあった――こうしたものすべてが、青白い月の光に照らされたら、さぞかし不気味に思われることだろう。
「ここの部屋は、召使いのかたたちの寝室になってますの?」
「いいえ。屋敷の奥に並んでいる、もっと小さな部屋を使ってますのよ。ここには、だれも寝ていません。ソーンフィールド・ホールで幽霊がいるとしたらですよ、ここらへんに出るのじゃありませんかしらね」
「そう思いますけど。ということは、幽霊はいないということ?」
「そんな話は聞いたこともありませんよ、わたしは」夫人はそういって、にっこり笑った。
「幽霊が出るといういい伝えは? 伝説とか、怪談とかはどうです?」
「あるものですか。でもね、ロチェスター家は、代々、おとなしいというより、血気さかんな一族だったと聞いておりますよ。それだからこそ、いまはお墓で静かに眠っておられるのかもしれませんけど」
「そうねえ――『人生というはげしい|おこり《ヽヽヽ》のあとで、やすらかに眠っている』(シェイクスピア『マクベス』第三幕第二場)」とわたしはつぶやいた。「こんどは、どこへいらっしゃるの、フェアファックスさん?」夫人がむこうへ行きかけていたからである。
「屋上ですよ。屋上からの景色をごらんになりません?」
わたしはまた、夫人のあとについて、すごくせまい階段を通って屋根裏へ行き、屋根裏からははしごをのぼり、落とし戸をくぐって屋上に出た。すると、わたしの目の高さに、みやまがらすのすむ森があらわれ、巣のなかをのぞきこむことができるくらいであった。胸壁から身をのり出すようにして、はるか下を眺めながら、わたしは地図のような地どりの敷地を見わたした。屋敷の灰色の礎石をぴったりと取り巻いている、ぴかぴかのビロードのような芝生。年老いた樹木が点々と立っている、公園のように広い野原。灰かっ色のひからびた森。その森をつっ切る、おいしげった草が遠目にもわかる上、葉をつけた立ち木よりもコケの緑があざやかな小道。秋の日ざしをうけて憩っているような、門のそばの教会や、道路や、静かな丘陵。青地に真珠色の大理石模様が浮かんだ、快晴の空と接している地平線。この景物のどれ一つとして、珍しいものはないが、どれもこれも心をなぐさめてくれる。景色に背をむけて、ふたたび落とし戸をくぐると、はしごをおりて行く足もとがほとんど見えない。わたしが見あげていた、丸天井のような青空や、楽しい気持ちで見わたしていた、この屋敷を中心に展開する森や牧草地や緑の丘の陽光をあびた光景にくらべると、屋根裏は、地下の納骨所のように、まっ暗であった。
フェアファックス夫人は、落とし戸をしめるため、ちょっとおくれた。わたしは、手さぐりで屋根裏からの出口を見つけ、せまい屋根裏用の階段をおりはじめた。階段をおりたところの長い廊下で、わたしはすこしまごまごしたが、この廊下は三階の部屋を表側と裏側とに二分している。せまくて、天井が低い上に、うす暗く、遠くのはしに小さな窓が一つあるだけ。両側に並んだ小さな黒いドアがぜんぶ閉っているため、「青ひげ」(六人の妻を殺害した残酷無情な男)の城かなにかに出てくる廊下に似ている。
この廊下をそっと歩いていると、このように静まりかえったところで耳にしようとは夢にも思わなかった笑い声が、いきなり耳にとびこんできた。奇怪な笑い声。はっきりしていて、わざとらしくて、陰にこもっている。わたしは立ちどまった。笑い声もやんだが、それは一瞬のこと。やがて、まえよりももっと高く響きわたった。はじめのときは、はっきり聞こえてきたけれども、声そのものはすごく低かったのだ。その笑いは、人けのない部屋のすべてにこだまするようなかん高い音を響かせながら消えていった。だが、それは、たった一つの部屋から聞こえてきたのであり、わたしには、その声のもれてきたドアを指さすことさえできるくらいだった。
「フェアファックスさん!」とわたしは大声をあげた。屋根裏用の階段をおりてくる夫人の足音が聞こえたからだ。「あの大きな笑い声が聞こえました? だれなんです?」
「たぶん、召使いかだれかでしょ」と夫人は答えた。「グレイス・プールかもしれませんね」
「聞こえたのですね?」わたしは、かさねてきいた。
「ええ、はっきり聞こえましたよ。グレイスの笑い声は、しょっちゅう、聞こえますのよ。ここの部屋のどこかで、裁縫をしておりましてね。ときどき、リアがいっしょになって、二人で騒ぎ立てることがよくあるのですよ」
ふたたび、例の笑い声が、低く、はっきり区切るように響きわたり、やがて、わけのわからないつぶやきに変わった。
「グレィス!」フェアファックス夫人が大声をあげた。
正直なところ、グレイスなどという人間が返事をしようとは、思ってもいなかった。この笑い声ほどに、悲劇的で、超自然的な笑い声を耳にしたことがなかったからである。これがまっ昼間であって、奇怪な高笑いのほかに幽霊の出そうな状況がまったく見られない、という事実がなかったら――恐怖をかき立てるような時でもところでもない、という事実がなかったら、わたしは迷信的な恐怖に取りつかれていたにちがいない。だが、この事件は、驚きの気持ちを抱いたりしたわたしのまぬけさ加減を、はっきりと思い知らせてくれた。
わたしにいちばん近いドアが開いて、一人の召使いが出てきた――三十歳から四十歳くらいの女性で、がっしりして、肩のはった体格。赤毛で、いかつい、不細工な顔をしている。これほどにロマンティックでない幽霊、これほどに幽霊らしくない幽霊は、ちょっと想像できないほどであった。
「騒ぎすぎますよ、グレイス」とフェアファックス夫人はいった。「いいつけを守るのですよ!」
グレイスは、だまっておじきすると、なかへ引っこんだ。
「あれは、裁縫をさせたり、リアの女中仕事の手伝いをさせるためにやとっている女ですよ」と未亡人は言葉をつづけた。「気にいらない点がないとはいえませんが、仕事はよくしてくれましてね。それはそうと、新しい生徒さんの勉強ぶり、けさはいかがでしたの?」
こうして、会話はアデールのことに移ったまま、わたしたちが階下の、明るく活気にあふれたあたりへくるまでつづいた。玄関のホールにいるわたしたちを迎えに、アデールが駆けてきて、フランス語で叫んだ――
「お二人とも、お食事ですよ!」それから、「わたし、はらぺこよ」とつけ加えた。
フェアファックス夫人の部屋へ行くと、食事が用意され、わたしたちを待ちかまえていた。
[#改ページ]
十二章
わたしがソーンフィールド・ホールで順調なスタートを切ったときに約束されたように思われた、平穏な教師生活への期待は、まわりの土地や人間に親しむようになっても、裏切られなかった。フェアファックス夫人は、見かけどおりの、性質のおだやかな、心のやさしい女性で、かなり教育もある、平均的な知性の持ち主だった。わたしの生徒は、元気な子だったが、気ままに育てられた甘ったれ子だったので、むら気を起こすときもあった。だが、生徒のことはいっさいわたしにまかされている上、わたしの教育方針を妨害するような、ばかげた横槍は、どこからも出なかったので、この子は、やがて気まぐれを起こすことをやめ、おとなしい、よくいいつけをきく子になった。この子には、普通の子どものレベルより一インチでも抜きんでることができるような、すぐれた才能も、性格の特徴も、とくに発達した感情や趣味もなかったが、そのかわり、レベル以下に引きおろすような、欠陥も悪癖もなかった。ほどほどに進歩のあとをみせ、わたしに対しては、それほど深いともいえないだろうが、あけすけな愛情をいだいてくれたので、わたしのほうでも、相手の無邪気な態度や、陽気なおしゃべりや、気にいられようとする努力に触発されて、おたがい同士、満足してつきあっていける程度の愛情をおぼえるようになった。
ついでながら、いまのようないいかたは、子どもには天使のような性質があるとか、教育者は子どもに対して偶像崇拝的な献身をする義務があるとかいった大まじめな理論を信奉しておられるかたがたからは、冷酷無情に思われるかもしれない。だが、わたしは親のエゴイズムをおだてあげたり、もっともらしい言葉をおうむ返しにくりかえしたり、うそ八百の加勢をしたりするために書いているのではない。わたしは、真実を語っているにすぎないのだ。わたしは、アデールの幸福と成長を心の底から祈り、アデール自身に対しても、おだやかな愛情を抱いていたが、それはわたしが、フェアファックス夫人の親切に感謝したり、夫人とのおつきあいに、夫人が示してくれる心づかいとか、夫人のひかえめな気質や性格につりあった喜びを見出していたのと、いっこうに変わりなかったのだ。
わたしは、あら捜しの好きな人の非難のまとになることを覚悟の上で、つぎのことをつけ加えておく。ときたま、ひとりで敷地のなかを散歩するとき、門のところへ行って、むこうにのびている道を門のあいだから眺めるとき、あるいは、アデールが乳母とたわむれ、フェアファックス夫人が貯蔵室でゼリーを作っているあいだに、三つの階段をあがり、屋根裏の落とし戸をもちあげて屋上に出て、はるかむこうのひなびた野原や丘、ぼんやりした地平線に目をやるとき――そういったとき、わたしは、この限られた世界のむこうにまでとどき、いそがしい世界、都市、聞いたことがあるだけで、まだ見たことのない、活気にあふれた地域をも見ることのできる透視の目がほしくてたまらなかった。そういったときには、実際的な体験を、いま身についている以上にしてみたい、わたしの同類との交際や、さまざまな性格の人間との接触を、この土地で可能な以上にしてみたい、という気持ちがわいてきた。フェアファックス夫人の美点や、アデールの美点を、高く評価しないわけではなかったが、わたしはほかの、もっと生気にあふれた美点の存在を信じてうたがわなかったし、その信じてうたがわないものを、この目でたしかめてみたかったのである。
わたしを非難するのはだれであろうか。数多くの人がわたしを非難するにちがいないし、わたしは足ることを知らない人間、といわれるだろう。だが、わたしにはどうすることもできないのだ。この落ち着かない気持ちは、わたしの生得のものであって、痛いほどにわたしの心をかき乱すときさえもある。そうしたとき、わたしの唯一の慰めは、三階の廊下を、その場所の静けさと寂しさに守られた格好で行きつもどりつしながら、想像のなかに浮かんでくるさまざまの明るいヴィジョンを――たしかに、そのヴィジョンは、数も多く、輝きわたっていた――わたしの心の目で注視することであった。心痛をつのらせると同時に、心に生気をみちあふれさせてもくれるはげしい感情の動きで、わたしの胸を大きく高鳴らせることであった。とりわけ、最高の慰めとなったのは、けっして終ることのない物語――わたしの想像力が作り出し、あくことなく語りつづける物語で、わたしがあこがれていながら、現実の世界では経験したことのない、事件や生活や情熱や感情のすべてで息づいていた――に、わたしの心の耳をかたむけることであった。
人間は平穏無事な生活に甘んずべきである、などといってみても仕方がない。行動を求めるのが人間の本性であり、それが見つからなければ、自分から作り出すことさえも辞さない。なん百万という人間が、わたしよりもずっと単調な宿命にしばりつけられ、なん百万という人間が、みずからの運命に、静かなる反抗を試みている。政冶的反逆のほかに、いかに多くの反逆が、この地上に生をうけた数多くの人間のあいだではげしく沸き立っているか、だれも知らない。女性は概して、非常におとなしいと見られている。だが、女性にも男性と同じ感情があり、男性諸氏と同じように、みずからの才能を生かさねばならないし、働き甲斐のある場を求めてやまない。女性だって、きびしすぎる束縛や、よどみきった沈滞に出会えば、男性とまったく同様に悩み苦しむのだ。はるかに恵まれた立場にある男性側が、女性はプディング作りや靴下編み、ピアノのお稽古や袋物の刺しゅうに専念すべきだなどというのは、狭量もはなはだしい。従来の慣習で十分とされてきた以上のことをしてみよう、学んでみようとする女性を、非難したり嘲笑したりするのは、軽率のそしりを免れない。
このように、ひとりぼっちでいたとき、グレイス・プールの笑い声がなん回となく聞こえてきた。はじめて耳にしたときにぞっとなった、あの響きわたるような、低い、ゆっくりした、ハハハ! という笑い声と同じであった。それに、笑い声よりも不気味で、奇怪なつぶやき声も聞こえた。ぜんぜん物音を立てない日もあったが、わたしには合点のいかない物音を立てる日もあった。ときたま、わたしはグレイスの姿を見かけた。水鉢や皿や盆をもって部屋から出てくると、台所へおりて行き、やがてまたもどってきたときには、たいていの場合(おお、ロマンティックな読者よ、あからさまな真実を語ることをお許しねがいたい)、黒ビールのびんをかかえている。グレイスの容姿を見るたびに、その口からもれる奇怪な笑い声やつぶやき声がかき立てた好奇心に、水をかけられるような思いがした。いかつい目鼻立ちの上に、落ち着きすましていて、興味をそそる点はいささかもない。なん回となく、話を引き出そうとしてみたが、口数がすくないとみえて、たいていの場合、そのようなわたしの努力は、「はい」か「いいえ」程度の、そっけない返事で、かわされてしまった。
そのほかの同居人たちは、ジョン夫婦も、女中のリアも、フランス人の乳母のソフィも、みんな感じがよかったが、これといって目立つ点はなかった。ソフィとはフランス語で話し、その生まれ故郷のフランスについて、あれこれ質問してみた。だが、描写力がない上に話しべたときているので、たいくつで、一貫性を欠いた答えがかえってくることが多く、こちらの質問をうながすどころか、むしろ抑えることをねらっているかのようだった。
十月、十一月、十二月がすぎた。一月の、ある日の午後、フェアファックス夫人から、アデールがかぜを引いたので、一日、休みにしてほしい、と頼まれた。アデールもぜひ夫人のいうとおりにしてほしいと熱心にいうので、わたしも、子どものころ、たまさかの休日がどんなにありがたかったかを思い出し、こういった点で柔軟性を示すのも悪くはあるまいと考えて、休みにしてやった。その日は、寒さこそきびしかったが、快晴で、おだやかな天気だった。わたしは、昼までの長い時間を、図書室に坐りきりで、あきあきしはじめていた。ちょうどそのとき、フェアファックス夫人が手紙を書きおわり、投函すればいいようになっていたので、わたしは帽子《ボンネット》と外套を身につけると、それをヘイの村までもって行く仕事を買って出た――二マイルの道のりは、冬の午後の散歩にはうってつけである。出かけるまえに、アデールがフェアファックス夫人の部屋の暖炉のそばの小さな椅子に、ぬくぬくと腰をかけているのをたしかめ、遊び相手の、いちばんいいろう人形(いつもは、わたしが銀紙につつんで、引き出しにしまってある)と、人形にあきたときに読む童話の本をあてがい、「早く帰ってきてね、わたしの親友の、大好きなマドモワゼル・ジャネット」とフランス語でいうアデールに接吻してやった。
凍りついた地面、ひっそりした大気、人影のない道路。わたしはからだが暖まるまで早足で歩き、暖まってからは、その時刻、その場所にたゆたっている楽しさを味わったり分析したりしながら、ゆっくり歩いた。三時だった。教会の鐘が、鐘楼の下を通りかかったとき、鳴った。この時刻は、しだいにせまってくる夕闇と、すべるように沈みながら青白く輝いている太陽に、魅力がある。ソーンフィールドから一マイル、わたしの歩いている道は、夏は野バラ、秋は木の実と黒イチゴで知られ、現にいまでも、サンゴ色の野バラとサンザシの実を二つか、三つ、大事そうにつけている。だが、この道の、冬場の最大の魅力は、人けがまったくない点と、木の葉を落として静まりかえっている点にあった。そよ風が吹いても、ここでは物音一つ聞こえなかった。風にざわめくヒイラギやときわ木は一本もなく、丸裸になっているサンザシやハシバミのやぶは、道の中央部の、白い、すりへった敷石と同じように静まりかえっている。道の両側は、はるかむこうまで、一面の牧草地だけだが、いまは草をはむ牛の姿もない。ときたま、生け垣でがさごそやっている茶色の小鳥が、散り忘れたアズキ色の朽ち葉に見える。
この道は、ヘイまでずっとのぼり勾配になっている。半道まできたところで、わたしは、牧草地の柵をこえるようにした|踏み段《スタイル》に腰をおろした。外套をからだにぴったりとまきつけ、両手をマフにとおしていたので、寒さは感じられなかったが、身をきるような酷寒であることは、土手道にはりつめた氷がはっきり物語っている。二、三日まえの急な雪どけの折りに、いまはすっかり凍りついている小川が、この土手道にあふれ出たものらしい。わたしの坐っているところから、ソーンフィールド・ホールが見おろせた。胸壁のついた、灰色の屋敷が、足もとの谷間の中心に大きく浮かびあがり、みやまがらすのすむ暗い森が西の空にそびえている。太陽が、木々のあいだにかくれ、そのむこうに深紅色の、さわやかな姿を没するまで、わたしはじっと坐っていた。それから、わたしは東のほうを振りむいた。
わたしの頭上の山の端に、月がかかっていた。のぼりかけた月は、まだ雲のように青白かったが、刻一刻と輝きをましながら、二、三本の煙突から青い煙を出している、木のまがくれのヘイの村を見おろしていた。村まで、まだ一マイルはあったが、森閑とした静けさのなかで、村の生活のかすかなざわめきを、はっきりと聞きつけることができた。わたしの耳には、小川のせせらぎの音も聞こえてきた。どこの谷の、どこの森の奥を流れる小川とも知れなかったが、ヘイのむこうにはたくさんの丘があり、たくさんの小川が谷間をぬって流れているにちがいない。この夕暮れの静けさのせいで、いちばん近くの小川がさらさら流れる音も、いちばん遠くの小川がざわざわ流れる音も、同じように耳にはいってきたのである。
このこころよいさざなみとも、ささやきともいえる音を、耳ざわりな音が、いきなりかきみだした。ずっと遠いのに、いやにはっきり聞こえる、かつ、かつ、という歯ぎれのいい音。この金属音のため、さざなみのたゆたう、やわらかい水音は、消し去られてしまった。絵でいうなら、前景に強いタッチで黒々と猫かれた、重量感のある岩塊や、カシの巨木のいかつい幹のために、コバルトブルーの山や、明るく日のさす地平線や、さまざまの色彩のまじりあう交錯した雲などの、おぼろにかすむ遠景がぼやけてしまうのに似ている。
その騒々しい音が土手道に聞こえはじめ、一頭の馬が駆けてきた。道が曲りくねっているため、馬の姿は見えないが、こちらに近づいてくる。わたしは柵の|踏み段《スタイル》から立ちあがろうとしていたが、道幅がせまいものだから、馬をやりすごすため、坐ったままでいることにした。当時のわたしは若かったので、明暗さまざまの空想が、わたしの心に巣くっていた。子供部屋で聞いたおとぎ話の思い出も、ほかの愚にもつかない空想にまじっている。そうした思い出がよみがえってくると、思春期の若者は、子供時代には考えられなかった活力と生気を、その思い出につけ加えるのである。だんだんと近づいてくる馬が、宵闇のなかから姿を見せるのを、いまかいまかと待ちうけながら、わたしは、「ガイトラッシュ」という名の、イギリス北部に棲息する幽霊が登場するベシーの物語のいくつかを思い出していた。この幽霊は、馬や騾馬や大きな犬の姿をかりて、人通りのない街道に住みつき、いまわたしのほうにせまっている馬のように、行きくれた旅人におそいかかることもあるといわれる。
馬はすぐそこまできているが、まだ姿は見えない。そのとき、馬のかつ、かつ、という音とは別に、生け垣をさっと駆けぬける音が聞こえたかと思うと、ハシバミの幹のすぐそばを、大きな犬がすべるように走りぬけて行った。その犬は、白と黒のぶちなので、木立ちを背景にくっきりと浮かびあがっている。その姿は、ベシーの話に出てくる「ガイトラッシュ」のイメージそのものであった――毛が長くて、頭が大きい、ライオンのような動物。だが、それは、わたしのそばを、おとなしく通りすぎた。立ちどまって、わたしの顔を、犬とは思われないほどにかしこい、不思議な目で見あげるのではないかという、わたしの期待に近い気持ちは裏切られた。つづいて馬がやってきた――堂々たる駿馬で、背にはだれかを乗せている。男が、人間が乗っていることで、あっという間に、魔法はとけてしまった。「ガイトラッシュ」は、ものを背に乗せることはない。いつもひとりきりのはず。しかも、わたしの意見によれば、幽霊は、ものいわぬ動物の死体に寄生することはあっても、ごくありふれた人間の姿に宿る気を起こすことはめったにない。ならば、これは「ガイトラッシュ」ではない――ミルコートへの近道を取っている、ただの旅人にほかならないのだ。男は通りすぎ、歩きかけたわたしは、二、三歩行って、ふりかえった。つるっとすべる音、「なんてこった、畜生め!」というわめき声、それに、どたりと倒れる音にわたしの注意が引きつけられたのだ。人馬もろともに倒れている。土手道に張りつめている氷でスリップしたものらしい。駆けもどってきた犬は、落馬した主人の姿を見つけ、馬のうめき声を聞きつけると、夕暮れの丘にこだまするまで吠えたてた。吠え声は、図体に似あって、いかにもふとく、よく通る。犬は地面に倒れた主人と馬のまわりでくんくんやっていたが、やがてわたしのところへ走ってきた。こうするよりほか、仕方がなかった――助けを求めようにも、ほかにだれもいなかったのだ。わたしは犬のあとについて、旅人のところまで歩いて行ったが、そのころには、旅人も馬からからだをふりはなそうとあがいていた。いかにも元気そうなあがきぶりだったので、たいしたけがもしていないだろうとは思ったが、一応きいてみることにした――
「おけがはありません?」
そのとき、男はなにやら毒づいていたようだが、はっきりしたことはわからない。とにかく、お決まりの文句でもとなえていたとみえて、すぐにはわたしの問いに答えられなかった。
「なにか、できることはございません?」わたしはかさねてきいた。
「きみ、よこへどいていたまえ」
男は、そういいながら、まず膝まで起きあがり、それからすっくと立ちあがった。わたしは男のいうとおりにした。それと同時に、馬は起きあがろうとして、足を踏みしめ、ひづめの音を立てはじめた。この馬の動作とともに、犬がやかましく吠えたてたが、わたしを数ヤードはなれたところへ追いやったのは、実はこの犬の鳴き声であったのだ。だが、わたしは、一部始終を見とどけるまで、この場を立ち去るつもりはなかった。結局、首尾は上々で、馬は立ちあがり、犬も「お坐り、パイロット!」の声で静かになった。旅人は、身をかがめて、けがの有無をたしかめるかのように、足やすねをさわっている。どこか痛めたところでもあるとみえ、わたしがさっきまで坐っていた|踏み段《スタイル》のところへびっこをひいて行って、腰をおろした。
いまから思うと、わたしは役に立ちたい、すくなくとも、おせっかいをやきたいという気持ちでいたらしい。もう一度、男のほうへ引きかえした。
「おけがをしておられて、人手がおいりようでしたら、ソーンフィールド・ホールか、ヘイ村へ、だれかを呼びに行きますけど」
「ありがとう。一人で、なんとかやれるんじゃないかな。骨は折れていないし――ただの捻挫なんだから」
男はもう一度、立ちあがって、足の具合を調べていたが、その結果、「うっ!」と思わずうめき声をもらした。
薄日がまだ消え残っている上、月の光が明るくなりはじめていたので、男の姿をはっきり見ることができた。毛皮の襟と、鋼鉄製の留め金のついた、乗馬用の外套に身をつつんでいる。こまかい点まではわからなかったが、中背で、胸幅はかなり広い、といったあらあらの特徴はつかめた。浅黒い顔は、造作もいかめしく、うれいに沈んでいる。目と、ひそめた眉は、さすがに腹立たしげな、いらいらした表情を見せている。男は、若いとはいえないが、さりとて中年でもない。年のころは、三十五くらいだろうか。わたしは恐怖はもちろんのこと、はずかしいという気持ちもほとんど感じなかった。この人物がハンサムで、二枚目的な青年紳士だったら、いやな顔をしている相手に質問をしたり、乞われもしない手助けを申し出たりして、道草を食うようなまねはしなかっただろうと思う。わたしはそれまで、ハンサムな青年に出会ったおぼえがなかったし、言葉をかけたりしたことはただの一度もなかった。たしかに、わたしは、美とか、優雅とか、勇気とか、魅力とかに対して、観念的な意味では、崇拝や尊敬の気持ちを抱いていた。だが、こうした要素が現実の男性に具体的な形をとっているのに出会えば、それらが、わたしの内部のなに物とも共鳴しないし、またし得ないことを、直観的に悟ったであろうし、火であれ、いなずまであれ、光にあふれてはいても性にあわないものならなんでも避ける人間がいるように、わたしも、その要素を敬遠したであろう。
わたしが話しかけたとき、この初対面の男がにっこり笑って、愛想のいい態度を見せていたら――わたしが、手をかしましょうか、といったとき、この男が機嫌よく礼をいって断っていたら、わたしはさっさと先を急いでしまい、もう一度、声をかけてみなければなるまい、といった気持ちには、さらさらならなかっただろう。だが、この旅人の、しかめ面と、そっけない態度を見て、わたしの気分は楽になった。男が、もういいから、と手をふったとき、わたしは、その場に立ちつくしたまま、こういった――
「時間はおそいし、人通りもありませんので、馬にちゃんとお乗りになれることがわかるまでは、とてもほったらかしにはできませんわ」
わたしがそういったとき、男はわたしを見つめた。それまでは、わたしのほうには目もくれなかったのだ。
「きみこそ、家へ帰るべきじゃないかな」と男はいった。「この近所に住んでいるとしての話だが。きみはどこからきたのかね?」
「このすぐ下ですわ。月が出ておりますので、おそくなっても、こわくはございませんわ。なんでしたら、ヘイ村まで走って行ってもよろしいですのよ――どうせ、手紙を出しに行くところですから」
「すぐ下に住んでいるというと――あの胸壁のある家のことかね?」
男はソーンフィールド・ホールを指さした。屋敷は、月が白い光を投げかけているせいで、森からくっきりと、青白く浮かんでいる。森は、西の空とは対照的に、いまでは、ひとかたまりの黒い影に見えている。
「はい、そうです」
「だれの家かな?」
「ロチェスターさまの家ですわ」
「ロチェスター氏を知ってるかね?」
「いいえ、お目にかかったことはありませんわ」
「じゃ、留守なんだね?」
「そうです」
「どこへ行ったか、知ってるかね?」
「存じませんわ」
「きみは、もちろん、ソーンフィールド・ホールの召使いじゃないな? きみは――」
男は言葉をきると、例のごとく質素この上ない、わたしのドレスをじろじろ見た。黒い|毛織り《メリノ》の外套に、黒い毛皮《ビーバー》の帽子《ボンネット》。どちらも小間使い用の半分以下の品であった。男がわたしの正体をきめかねているふうだったので、わたしのほうから教えてやった。
「わたし、あの家の家庭教師ですの」
「えっ、家庭教師!」男はくりかえした。「おれとしたことが、うっかりしておったな! 家庭教師とは!」
もう一度、わたしのドレスは、しげしげと見つめられた。二分後、男は|踏み段《スタイル》から立ちあがって、歩きかけたが、顔に苦痛の色が浮かんでいる。
「助けを呼んできてくれ、などと頼むことはとてもできないが、かまわなかったら、きみの手をちょっとかしてくれないか」
「いいですわ」
「ステッキがわりになるような傘を、もってはいないだろうね?」
「もっていませんわ」
「馬の手綱をとって、こっちへ引っぱってきてくれたまえ。こわくはないね?」
一人きりだったら、馬にさわったりは、こわくてとてもできなかっただろうが、やれといわれると、いわれたとおりにしてみる気になった。わたしはマフを|踏み段《スタイル》の上に置くと、背の高い馬に近づいて、その手綱をつかもうとした。ところが、癇《かん》の強い馬で、わたしを首のそばに寄せつけようとしない。わたしはなん回も手綱を取ろうとしたが、うまくゆかないし、そうしながらも、地面を踏み鳴らしている馬の前足がおそろしくてたまらなかった。旅人は、しばらく黙って見守っていたが、とうとう笑い出してしまった。
「山をマホメットのところへもってこれないとなると、マホメットを山のほうへつれて行くほかはないようですな(回教の祖マホメットは、奇蹟を見せるように、といわれて、山にこちらへこいと命じるが、山は動かない。これは人命を山くずれから救おうという神意であるといって、マホメット自身、山のほうへ行くことにする)」と男はいった。「きみ、こっちへきてくれたまえ」
わたしは男のところへ行った――「申しわけないが、どうしても、きみの力をかりなくてはならんので」というと、男は、わたしの肩にずっしりした手をかけ、わたしにかなりの体重をあずけるようにして、馬のところへびっこをひいて行った。いったん手綱に手がかかると、それをすぐさま巧みにあやつって、ぱっと鞍にとび乗ったが、そのとき、捻挫した足がねじれたとみえ、顔をぎゅっとしかめた。
男は、かみしめていた下唇をゆるめると、「こんどは、鞭を取ってもらえないか。そこの生け垣の下にころがっているから」
わたしは鞭を捜し出した。
「すまなかった。さあ、手紙を大いそぎでヘイへもって行って、できるだけ早く帰ってきたまえ」
かかとの拍車がふれると、馬は一瞬、ぱっと棒立ちになったが、つぎの瞬間には、さっと駆け出していた。そのあとを追って、犬が勢いよく走り出し、人も馬も犬もあっという間に消えうせてしまった――
[#ここから1字下げ]
烈風に吹きまくられる
荒野のヒースのごとく
(アイルランド詩人トマス・ムアの『聖歌』から引用)
[#ここで字下げ終わり]
わたしはマフを取りあげて、歩きはじめた。ふってわいたかと思うと、もうおわってしまった出来事。ある意味では、取るに足らない、ロマンスのかけらもない、つまらない出来事。だが、それは単調な生活に、たった一時間ではあったが、変化の色どりをそえてくれた。わたしの力が必要となって要求され、わたしから、その力をかしあたえた。なにかをしたという満足感。まことにささやかな、かげろうのような行為ではあったが、それが積極的な行為であったことに変わりはない。わたしは、受け身一方の生活にあきあきしていたのだ。それに、あの初対面の男の顔は、記憶の画廊にもちこまれた新しい絵といった感じで、そこにかかっているほかの絵に、それと似たものは一枚もない。第一の理由は、それが男性の顔であったこと。第二の理由として、浅黒く、頑丈な、いかめしい顔であったことがあげられる。その顔は、わたしがヘイの村にはいり、郵便局で手紙を投函したときにも、まだわたしのまえを去らなかった。ソーンフィールドまでの下り坂を、足早に歩いているあいだも、その顔はわたしのまぶたに残っていた。例の|踏み段《スタイル》まできたとき、わたしは、一瞬立ちどまって、あたりを見まわしながら耳をすました。土手道を駆けてくる馬のひづめの音が、また聞こえるのではないか、馬にのった外套の男と、「ガイトラッシュ」に似たニューファウンドランド犬の姿が、もう一度、見えるのではないか、という気持ちだったのだ。だが、わたしの目に見えたのは、わたしのまえにある生け垣と、月の光をあびて、静かに、まっすぐそびえ立っている、一本の刈りこまれた柳の木だけであった。わたしの耳に聞こえたのは、一マイル先のソーンフィールド・ホールを取りかこむ木立ちのあいだを、思い出したように吹きぬけている風のかぼそい音だけであった。その風の音の聞こえてくるあたりを見おろして、建物の正面をさぐるように眺めていたわたしの目は、一つの窓を照らしている明かりをとらえた。わたしは、おそくなったことを思い出し、道をいそいだ。
わたしは、ソーンフィールドへもどって行きたくなかった。ソーンフィールドの敷居をまたぐことは、沈滞したムードに逆もどりすることであった。静まりかえった玄関のホールを横切り、陰気な階段をあがって、わたしにあてがわれたわびしい部屋にたどりつき、そのあと、あの落ち着きすましたフェアファックス夫人と顔をあわせ、夫人とたった二人きりで冬の夜長をすごすことは、散歩でかき立てられた、あわい興奮に水をかけてしまうことを――そしてなんの変哲もない、平穏すぎる生活、という目に見えない足かせを、わたしのさまざまの能力に、もう一度、つけさせることを意味している。その生活の、安全と安楽という特権そのものが、わたしにはありがたいと思われなくなりはじめていた。競争のはげしい、不安定な人生の嵐に翻弄され、つらく、きびしい経験を重ねたあとで、いまわたしが不平を鳴らしている平穏な生活を切望するように教えこまれることが、当時のわたしには、この上なく大きなプラスとなったにちがいない! そう、長い散歩が、「あまりにも安楽な椅子」(イギリス詩人アレキサンダー・ポウプの『愚人伝』にある文句)に坐りあきた人間のためになるのと、まったくかわらなかった。当時のような状況にあったわたしが、じっとしておれない気持ちになったのは、椅子に坐りきりの人間の場合と同じように、ごく自然なことであったのだ。
わたしは、門のあたりをぶらついた。芝生の上でためらってもみた。敷石の上を、行きつもどりつしてもみた。玄関のガラス戸のシャッターがおりていて、なかをのぞきこむことはできなかった。わたしの目も魂も、陰鬱な建物から――それは、光のさしこまない小さな密室がいっぱいの、灰色の穴ぐらのように、わたしには思われたが――わたしのまえにひろがっている空――一点の雲さえない、青い海のような空へと、ひきつけられているみたいだった。その空をおごそかにのぼって行く、まるい月。山のうしろから出てきた月だが、その山の頂を下へ、下へとひきはなし、底知れないほど深く、測り知れないほど遠い、真夜中のようにまっ暗な天頂をめざして、たえず上をあおぎ見ているかに思われる。その月のあとを追いかける、うちふるえるような星の群。その星を見たとき、わたしの心もうちふるえ、わたしの血管はもえあがった。だが、ごくささやかなことが、人間を地上に引きもどすのである。わたしには、玄関のホールの時計が鳴るだけで、十分であった。わたしは月と星から目をはなすと、くぐり戸を開けて、なかにはいった。
玄関のホールは暗くなかった。高くつるした青銅製のランプに照らされているだけではない。あたたかい光が、ホールと、オーク材の階段のあがり口のあたりにみちあふれている。この赤みがかった光は、大食堂からもれてくる光だったが、その両開きのドアは開けはなされ、暖炉のここちよくもえる火が、大理石の炉石や真鍮の火ばしや火かき棒などに反射したり、紫色のカーテンや磨きあげられた家具類を、いかにも気持ちのいい明かりのなかに浮かびあがらせているのが見えた。マントルピースのそばに集まっている人びとの姿も、浮かびあがっている。わたしが、その姿に目をとめ、なん人かのにぎやかな話し声を耳にして、アデールの声がまじっているように思った途端、ドアが閉まった。
わたしはフェアファックス夫人の部屋へいそいだ。この部屋でも暖炉に火がはいっていたが、ろうそくの明かりはなく、フェアファックス夫人の姿も見えない。そのかわり、道で出会った「ガイトラッシュ」を思わせる犬にそっくりの、大きな、黒と白のぶちの、毛の長い犬が一匹、敷物の上にきちんと坐り、暖炉の火を真剣な表情で凝視しているのを見つけた。あまりよく似た犬だったので、わたしは近づいて行って、「パイロット」と声をかけた。
すると、その犬は立ちあがり、わたしのところへやってきて、鼻をくんくん鳴らした。わたしが頭をなでてやると、大きなしっぽをふった。だが、一人きりでこの犬といるのも、気持ちが悪かったし、どこからやってきた犬なのかも、わからない。わたしはベルを鳴らした。ろうそくがいり用だったし、このものいわぬ訪問客のこともきいてみたかった。リアがはいってきた。
「この犬は、どうした犬なの?」
「だんなさまといっしょにまいりました」
「どなたとですって?」
「だんなさまです――ロチェスターさまです――たったいま、お着きになりました」
「まあ、そうなの――それで、フェアファックスさんは、ごいっしょなの?」
「そうです。それに、アデールさまも。みなさま、食堂ですわ。ジョンは、お医者さまを呼びに行っております。だんなさまが、事故にお会いになりましてね。馬が倒れて、足首をくじかれたのです」
「馬はヘイ村へ行く道で倒れたの?」
「ええ、坂をおりてくる途中ですって。氷ですべったという話ですわ」
「そうなの! ろうそくを、もってきてくださる、リア?」
リアはろうそくをもってきてくれた。リアのあとから、フェアファックス夫人がはいってきて、いま耳にした知らせをくりかえしたあと、外科医のカーター先生がきて、ロチェスターさまのところにいるとつけ加えた。それから夫人は、お茶の用意をいいつけるために、そそくさと出て行き、わたしは、着がえをするために二階へあがった。
[#改ページ]
十三章
ロチェスターさまは、外科医のいいつけを守って、その夜は早く、床についたらしい。翌朝も、すぐには起き出さなかった。やっと階下へおりてきたと思ったら、仕事をかたづけるのが目的だった。すでに土地の管理人と、小作人が数人、ロチェスターさまと話をするためにやってきて、待ちかまえていたのである。
アデールとわたしは、図書室を明け渡さねばならなくなった。訪問客の応接室として、毎日使われることになったためである。二階の一室に火がたかれたので、そこへ授業に使う本をはこびこみ、新しい教室に模様がえした。わたしは、朝のうちに、ソーンフィールド・ホールが一変してしまったのに気づいた。教会のような静けさは、もはやなくなり、一時間か二時間ごとに、ドアをノックする音や、ベルを鳴らす音が響きわたっている。玄関のホールをひんぱんに横切る足音。いろいろな調子でしゃべっている、階下の聞きなれない声。外の世界が、一本の小川のようになって、屋敷のなかを流れている。主人がかえってきたソーンフィールド・ホール。わたしには、このほうがずっと好ましかった。
その日、アデールを教えるのは、なまやさしいことではなかった。勉強に身をいれることができない。しょっちゅう教室の入り口まで駆けて行って、ロチェスターさまの姿が一目でも見えないかと、階段の手すりごしに見おろしている。かと思うと、あれこれ口実をつけて、階下におりて行こうとするが、アデールに用のあるはずのない図書室へ顔を見せるのが目的であることは、わたしにもすぐピンときた。わたしがすこし腹を立てて、おとなしく坐っていなさい、といいつけると、こんどは、「お友だちの、ムシュウ・エドアール・フェアファックス・ド・ロチェスター」(アデールは、そう呼んでいたが、ロチェスターさまの洗礼名を聞くのは、これがはじめてであった)のことを、休みなしにしゃべりつづけ、どんなプレゼントをもってきてくれたかな、とそればかり口にしている。どうやら、昨夜、ロチェスターさまから、ミルコートからの荷物が着いたら、気にいりそうなもののはいった小箱が見つかるはずだ、と聞かされたためらしい。アデールはフランス語でいった。
「つまり、その箱に、わたしへのプレゼントがはいっている、という意味よね。先生の分もあるかもしれないわ。ロチェスターさんは先生のことを話してましたわよ。先生のお名前をきいてたわ。先生は小柄で、かなりやせていて、すこし顔色が悪くはないかって。はい、と答えておいたわ。だって、そのとおりですものね、先生?」
わたしとアデールは、いつものとおり、フェアファックス夫人の部屋で昼食をとった。午後は、荒れ膜様で、雪がふったので、わたしたちは教室ですごした。夕暮れになって、わたしはアデールに、本とやりかけの仕事をかたづけたら、階下へ走りおりて行ってもいい、といった。階下が比較的静かになった上、ドアのベルが鳴らなくなったことから、ロチェスターさまがひまになっただろう、と見当をつけたからである。一人になったわたしは、窓ぎわに歩いて行ったが、そこからはなにも見えなかった。たそがれと雪片とで、あたりの見通しが悪くなり、芝生の灌木さえもわからなくなっている。わたしはカーテンをおろすと、暖炉のそばにもどった。
真っ赤にもえる|おき《ヽヽ》のなかに、いつか見たことのある、ライン河畔のハイデルベルクの古城の絵に似ていないでもない風景を思い描こうとしていると、フェアファックス夫人がはいってきた。この夫人の入来で、わたしがつなぎあわせていた|おき《ヽヽ》のモザイク画のイメージは、ばらばらになってしまい、孤独なわたしの心を去来していた、いくつかの重苦しい、不愉快な考えも、退散してしまった。
「ロチェスターさまは、今夜、客間であなたと、あなたの生徒さんに、お茶をごいっしょ願えたらありがたい、といっておられます」と夫人はいった。「一日中ずっと、お忙しかったものですから、あなたにいままでお目にかかれなかったのですわ」
「お茶は、なん時になりますの?」とわたしはきいた。
「そう――六時ですね。だんなさまは、田舎にもどっておられるときは、早寝早起きなんですよ。そろそろ着がえをなさったほうがいいですね。いっしょに行って、お手伝いいたします。ろうそくを、おもちしましょ」
「着がえをしなきやいけないかしら?」
「ええ、そのほうがいいですよ。わたしなど、ロチェスターさまが帰っておられるときは、夕方になると、かならず着がえますのよ」
着がえなどという儀式のおまけは、いささかオーバーに思われた。だが、わたしは自室にもどると、フェアファックス夫人の助けをかりて、それまで着ていた黒のラシャのドレスを、黒のシルクのドレスに着がえた。これは、明るいグレーのドレスをのぞくと、わたしのいちばんいい洋服で、余分なものといえば、これ一着きりだった。その明るいグレーのほうは、わたしのローウッド的な服装観によれば、あまり上等すぎて、大礼服としてしか着られないことになっている。
「ブローチをおつけになったら」とフェアファックス夫人がいった。
わたしには、テンプル先生からお別れの形見にいただいた真珠の装身具が一つ、あるだけだったが、それをつけてから、わたしたちは階下へおりて行った。わたしは知らない人と同席するのは不慣れであったので、このように格式ばった形で、ロチェスターさまのまえに呼び出されるのは、ちょっとした難行であった。フェアファックス夫人を先に立たせて食堂にはいり、そこを横切るときも、夫人のかげにかくれていた。わたしたちは、アーチ型の入り口(このあいだとちがって、カーテンはおりていた)をくぐって、奥のエレガントな部屋にはいった。
火のついたろうそくが、テーブルの上に二本と、マントルピースの上に二本。盛大にもえる暖炉の火の光と熱のなかで、ぬくぬくと横になっているパイロット――そのそばにアデールがひざまずいている。けがをした足をクッションにのせ、長椅子にからだをなかばもたせかけるようにして、ロチェスターさまは、アデールと犬を見やっていた。その顔を、暖炉の火がまともに照らし出している。例の旅人の顔にまちがいなかった。ふとい、真っ黒な眉。黒い髪を横になでつけているため、いっそう角ばって見える四角な額。格好のよさもさることながら、性格をよくあらわしている、意志の強そうな鼻にも、見おぼえがあった。おこりっぽい性質を示しているかに思われる、ふくらんだ鼻孔。断固とした口と、あご先と、上下のあご――そう、三つとも、まことに断固としていて、見まちがえようはなかった。外套をとったロチェスターさまの体躯は、角ばっている点で、顔のかたちと調和しているように、わたしは思った。スポーツマンの場合にいう「いいからだ」とは、こういうからだのことかもしれない――背丈はないし、優雅でもないかわり、胸幅が広く、ウエストがひきしまっていた。
ロチェスターさまは、フェアファックス夫人とわたしがはいってきたのに、気づいていたにちがいない、だが、わたしたちに目をとめたくない心境であったと見え、わたしたちが近づいても、顔をあげようとしなかった。
「だんなさま、エアさんでございますが」夫人は、いつものおだやかな口調でいった。
ロチェスターさまは頭をさげたが、それでも、犬と少女とから目をはなそうとしない。
「エアさんに坐っていただきなさい」とロチェスターさまはいった。不自然で、ぎごちない会釈にも、せっかちでいて、そのくせ格式ばった口調にも、「エアさんがいようが、いまいが、おれの知ったことかい? いまのところ、話しかける気はないんだから」とでもいいたげなところがあった。
わたしは、すっかり気が楽になって、腰をおろした。あかぬけがした、上品な応待を受けていたら、わたしはどぎまぎしていたことだろう。そのお返しをするために、わたしのほうでも、負けずに上品で優雅な態度をとることなど、とてもできそうになかった。だが、無愛想で気まぐれな相手だと、なにも遠慮をしなくてもすむ。それどころか、むこうの気まぐれな態度に対し、おつにすまして黙っておれば、こちらが有利になってくる。それに、これまでの風変わりなやりかたが、わたしの好奇心をかき立てた。これから、いったいどんな態度に出るのか、興味津々であった。
さて、その態度だが、彫像のようであった。つまり、口もきかなければ、身動きもしない。フェアファックス夫人は、だれかが愛想よくしなければ、とでも思ったのか、やおらしゃべりはじめた。いつものようにやさしく――いつものように、ありきたりの言葉で――夫人は、一日中、仕事に追いまくられ、捻挫した足の痛みで苦労したにちがいないロチェスターさまを慰め、さらに、忍耐強く、ねばりのある仕事ぶりを賞めそやした。
「フェアファックスさん、お茶をもらいましょうか」夫人にかえってきた言葉は、たったこれたけだった。
夫人は、大あわてでベルを鳴らした。お茶の盆が運びこまれると、夫人は茶わんやスプーンなどを、そそくさと手ぎわよく並べはじめた。わたしとアデールはテーブルについたが、ロチェスターさまは寝椅子をはなれない。
「お茶わんを、ロチェスターさまに渡していただけます?」フェアファックス夫人はわたしにいった。「アデールさんですと、こぼすかもしれませんから」
わたしは、いわれたとおりにした。ロチェスターさまがわたしの手から茶わんを受けとったとき、アデールは、わたしのためにおねだりする絶好のチャンスと思ったらしく、フランス語で大声でいった。
「おじさま、おじさまのお話しになった小さな箱には、エア先生へのプレゼントもあるのでしょ?」
「だれがプレゼントの話をしてる?」ロチェスターさまは、不愛想な声でいった。「プレゼントを当てにしてたのかね、エアさん? きみはプレゼントが好きかね?」こういいながら、わたしの顔をしげしげと見つめた。暗く、腹を立てた、刺すような目だった。
「よくわかりませんわ。プレゼントをいただいた経験は、ほとんどございませんので。楽しいもののように、世間では思われておりますわ」
「世間では思われております! だが、|きみ《ヽヽ》はどう思うのかね?」
「ご満足いただけるお返事をするには、時間をいただかなくてはなりませんわ。プレゼントには、いろんな面がございますでしょ? ですから、プレゼントの性質について意見を述べるまえに、すべての面を検討してみなくてはなりません」
「エアさん、きみはアデールよりも世間ずれがしてるね。あの子は、ぼくの顔を見るなり、『プレゼント』をくれ、と大騒ぎをするが、きみはいやに遠回しないいかたをするじゃないか」
「それは、プレゼントを受ける資格があるかどうかについて、アデールほど自信がないからですわ。アデールには、昔からの知りあいという意味で請求することができますし、これまでの習慣からいっても、おねだりする権利がありますわ。アデールの話では、これまでもずっと、いろいろなおもちゃをいただく習慣になっていたそうですから。ところが、わたしがプレゼントをいただいた場合、その理由の説明に苦しみますわ。わたしは縁もゆかりもない人間ですし、お礼をいわれるようなことは、なにもしておりませんので」
「いや、弱気になって遠慮ばかりすることはないな! アデールのテストをしてみたんだが、きみはずいぶんとがんばったようだね。この子は、頭のきれる子でないし、才能もない。その子が短時間に、たいした変わりようだ」
「それでもう、わたしに『プレゼント』をくださったことになりますわ。どうもありがとうごさいます。学校の教師には、なによりの贈り物でございますのよ、教え子の進歩ぶりを賞められるということは」
「ふん!」ロチェスターさまはだまってお茶をのんだ。
「火のそばへきたまえ」お茶の盆がさげられ、フェアファックス夫人が編み物をもって、部屋の片すみに引きさがると、ロチェスター氏はいった。
そのとき、アデールは、わたしの手をとって部屋のなかを歩きまわり、壁にとりつけたテーブルや、小型の戸棚の上に並べてあるきれいな本や置き物を見せてくれていた。わたしたちは、そうするのが義務であるかのように、ロチェスターさまのいうとおりにした。アデールはわたしの膝の上に坐りたがったが、パイロットと遊ぶように、いいつけられた。
「きみがこの家にきて、三ヵ月になるわけだね?」
「はい、そうです」
「それで、きみの出身校は?」
「――州のローウッド学院でございます」
「ああ! 慈善団体の施設だね――その学校に、どのくらいいたのかね?」
「八年間です」
「八年間! きみは不死身だな。あんなところは、その半分もいただけで、どんなに丈夫なからだでもへばってしまうだろうと思っていたんだが! きみが別世界の人間みたいなようすをしているのも、無理はないな。どこで、そのての顔をもらってきたのやら、と考えていたんだ。昨夜、きみがヘイ村へ行く道にあらわれたとき、どういうわけか、おとぎ話を思い出してね、馬に魔法をかけたのじゃないかい、とききたいくらいだったな。いまでも半信半疑なんだ。きみの両親は?」
「いませんわ」
「最初からいなかったんじゃないかな。両親の記憶はあるかい?」
「ありませんわ」
「だろうと思ったよ。やっぱり、あの|踏み段《スタイル》に坐って、きみの仲間を待っていたんだね?」
「仲間?」
「緑色の服を着た連中さ。連中にうってつけの月夜だったからな。土手道に、あのけしからん氷をはらせたのは、ぼくが、きみたち妖精の踊りの輪をつっきったからじゃないのかね?」
わたしは首を横にふった。「緑色の服を着た者たちは、百年まえに、みんなイギリスから出て行ってしまいました」わたしは、ロチェスターさまと同じ、大まじめな口調でしゃべった。「ですから、ヘイ村へ行く道や、そのまわりの野原には、あの者たちの影も形もこざいません。夏の月も、秋の月も、冬の月も、あの者たちの踊りさわぐ姿を照らし出すことは、もはや絶対にあるまいと思います」
フェアファックス夫人は、編み物を膝の上に落とし、いったいなんの話をしているのやら、というふうに、眉をあげてびっくりした表情をしている。
「それはともかく」とロチェスターさまは、話しつづけた。「両親がおられないとしても、どなたか、親類はいるでしょうな。おじさんなり、おばさんなり?」
「いいえ。会ったこともありませんわ」
「じゃ、家は?」
「家もありません」
「兄弟とか姉妹は、どこに住んでるのかね?」
「兄弟も姉妹もいませんわ」
「ここへ、きみを推薦したのは、だれかね?」
「自分で新聞広告を出しまして、フェアファックスさんが、それに応じてくださいました」
「そのとおりでございますわ」わたしたちがなにを話しているか、やっとのみこめた夫人が、そういった。「神さまのお導きで、このかたを選ぶことができたのを、わたしは、毎日感謝しておりますです。エアさんは、わたしにとって、得がたい話し相手ですし、アデールさんには、親切で、よく気のつく先生でございますわ」
「なにもわざわざ、この人を売り込むようなまねをしなくてもよろしい」とロチェスターさまはいった。「いくら賞めても、そんなものに左右されるぼくじやない。ぼくは自分で判断する。この人は、まず手はじめに、ぼくの馬をひっくりかえしたんだ」
「はあ?」と、フェアファックス夫人。
「足の捻挫のお礼も、この人にいわにゃならんのだからな」
未亡人はきょとんとしていた。
「エアさん、町に住んだことはあるかね?」
「いいえ」
「交際範囲は広いかね?」
「ローウッドの生徒と先生くらいのものですわ。それと、現在は、ソーンフィールドのみなさまがたです」
「本はよく読んでるかね?」
「わたしの目にふれた程度の本だけですわ。数も多くありませんし、内容も高度ではございません」
「つまり、尼さんの生活をしてきたわけだ。宗教的な作法やなんかは、十分に訓練されているにちがいない――たしか、ローウッドの理事長をしているのは、ブロックルハーストという人だと思ったが、あの人は牧師じゃないかな?」
「そうです」
「それで、きみたち女生徒は、その牧師を崇拝したでしょうな、尼さんがいっぱいの修道院で院長が崇拝されるみたいに?」
「とんでもありません」
「いやに、冷たいんだな! とんでもないって! どういうこった! 見習い中の尼さんが、司祭を崇拝しない? ばち当たりに聞こえるね」
「わたしはブロックルハースト先生がきらいでした。先生をきらっていたのは、わたし一人じゃありません。先生はきびしいかたで、おうへいなだけでなく、おせっかいです。生徒の髪の毛を切ったり、節約のためといって、使いものにならない、安物の針を生徒に買いあたえたりしたのです」
「節約の意味を取りちがえているのね」やっとまた、わたしたちのやりとりの内容をつかめた、フェアファックス夫人が、そういった。
「で、先生の罪というのは、その一事につきるのかね(シェイクスピア作『オセロ』第一幕第三場からの引用)」とロチェスターさまはきいた。
「委員会が設置されるまえの、あの先生が食糧関係の仕事をひとり占めしていたころ、生徒のわたしたちに、ひもじい思いをさせました。週に一回は、長いお説教で、わたしたちをうんざりさせましたし、夕方の朗読の時間に、先生が書いた本のなかから、急死や天罰に関する部分を読んだので、わたしたちはベッドへはいるのが、こわくなりましたわ」
「ローウッドへはいったとき、きみはいくつだった?」
「十歳くらいです」
「そして、八年間、そこにいたんだね。ということは、きみはいま、十八歳か?」
わたしは、そうです、といった。
「算数というやつは、便利だねえ、きみ。算数の力をかりないと、きみの年をあてることもできないくらいなんだから。きみみたいに、顔の造作と表情とがぜんぜん食いちがっている場合、年をあてるなんて、できない相談だよ。それでと、ローウッドでは、なんの勉強をしたのかね? ピアノはひけるかね?」
「ほんの少々」
「そりゃ、そうだろう。きまり文句というやつだからな、それは。図書室へ行きたまえ――つまり、その、よろしかったら、ということなんだが。(命令口調は、ごめんこうむりたい。『こうしろ』といったら、そのとおりになる生活に慣れているもんだから、一人くらい新しい人間がふえたからといって、昔からの癖をかえるわけにはいかんのですからな)――とにかく、図書室へ行きたまえ。ろうそくを忘れずに。ドアは開けはなしておくこと。ピアノのまえに坐って、なんでもいいから、一曲ひきたまえ」
わたしは部屋を出て、いわれたとおりにした。
「もういい」二、三分すると、ロチェスターさまは大声をあげた。「|ほんの少《ヽヽヽヽ》々はひくらしいね。イギリスの女学生並みだな。きみより下手な女学生もいるかもしれんが、きみも上手じゃない」
わたしはピアノのふたをとじて、部屋へもどった。ロチェスターさまは、話しつづけた。
「けさ、アデールにスケッチをなん枚か見せてもらったが、きみの作品とかいっていた。きみ一人で描いたものかどうか、ぼくにはわからんがね。先生の手がはいっているのじゃないかな?」
「いいえ、ちがいます」わたしは、思わず大声をあげた。
「おや! プライドを傷つけられたのだね。じゃ、スケッチブックを取ってきたまえ。自分で描いた絵ばかりだといい切れるならね。だが、自信がないんだったら、だまっていることだ。先生の手伝った、つぎはぎだらけの絵など、すぐ見破ってしまうからね」
「じゃ、なんにも申しあげません。ご自分で判断なさってくださいませ」
わたしは図書室から、スケッチブックをもってきた。
「そのテーブルをこちらへ」とロチェスターさまはいった。
わたしは、テーブルを、寝椅子のほうへ引っぱりよせた。アデールとフェアファックス夫人が、絵を見ようとして、集まってきた。
「押さないで」とロチェスターさまはいった。「ぼくが見おわったら、もって行ってもいい。とにかく、二人とも、顔をぼくの顔に近づけないでくれ」
ロチェスターさまは、スケッチと水彩画を、一枚一枚ていねいに見つめた。三枚だけ別にして、あとは見おわると、むこうへ押しやった。
「これを、そっちのテーブルへもって行って、アデールと見るといい、フェアファックスさん――きみは」(と、わたしに目をやって)「もとの席に坐って、ぼくの質問に答えたまえ。この三枚は、一人の人間が描いた絵のように思うが、きみが描いたものかね?」
「はい」
「それで、これを描くひまは、いつ見つけたのかね? ずいぶん時間がかかっただろうが。それに、かなり頭も使っただろうな」
「ローウッドですごした、最後の二回の休暇のあいだに描きましたわ。ほかに仕事がなかったものですから」
「なにを手本にしたのかね?」
「自分の頭で考えました」
「その、きみの肩の上にのっかっている頭でかね?」
「はい」
「その頭のなかには、同じようなものが、ほかにもつまっているかね?」
「と思いますわ。もっといいものだったら、うれしいのですけど」
ロチェスターさまは三枚の絵を、まえのテーブルにひろげると、もう一度、一枚一枚眺めはじめた。
ロチェスターさまが見いっているあいだに、読者にはわたしから、その絵の説明をしておこう。そのまえに、まず、三枚ともたいした絵でないことを、申しあげておく。たしかに、頭に浮かんだときは、実にいきいきした題材であった。絵に描きだすまえに、心の目で見つめたときにも、まことに印象的であった。ところが、手のほうが、頭の働きについて行くことができず、どの絵の場合にも、わたしの想像の産物を写し出した、いかにも見劣りのするまがいものができあがったにすぎない。
三枚とも、水彩画であった。一枚目の絵には、荒れ狂う海の上に、低くたれこめている鉛色の雲が描かれている。遠景は真っ暗。同じことは、前景、というか、陸地はないので、いちばん手前の大波についてもいえる。沈みかけのマストに、はっきりしたアクセントをつけている一条の光。マストの先に、羽をあわだらけにしてとまっている、黒く、大きな一羽の鵜《う》。そのくちばしは、宝石をちりばめた、黄金の腕輪をくわえている。わたしは、その腕輪を、わたしのパレットで出せるかぎりの、あざやかな色彩と、わたしの絵筆で描けるかぎりの、ぎらぎらするような明確さとで塗りあげていた。その鵜とマストの下に沈んでいる水死体が、緑色の海水をとおして、かすかに見えている。はっきり目に見える部分は、色白の腕が一本だけだが、例の腕輪は、この腕から洗い流されたか、引きちぎられたかしたものらしい。
二枚目の絵の前景には、草と、若干の木の葉とが、風にでも吹かれたようになびいている、おぼろにかすんだ山頂だけが描かれいる。そのむこうの上部には、夕暮れどきのようなダークブルーの空が、一面にひろがっている。この空にむかって、そびえ立っている、女性の上半身像は、配合に工夫をこらした、暗い、ソフトな色彩で描かれている。星を冠にいただいた、うす暗い額。その下の、たちこめた霧をとおして見たような、顔の輪郭。ぎらぎら光っている黒い目。嵐か、いなずまに引きちぎられた黒雲にも似た、影濃くなびいている髪。首のあたりを、月光のような青白い光が照らし、その同じかすかな光を帯びている、うすく棚びいた雲のあいだから、宵の明星が姿を見せて、うなだれている。
三枚目の絵には、北極の冬空にそそり立つ、氷山の高い峰が描かれていた。地平線上には、北極光《オーロラ》の大軍がぼんやりとかすむ槍ぶすまを高くかかげている。この北極光を遠景に追いやるようにして、前景には、首が――氷山のほうに傾いて、それにもたれかかっている巨大な首が一つ、にょっきりとつき出している。額の下あたりで組みあわされて、額を支える格好になっている二本のやせた手が、顔の下半分に黒いヴェールをかけている。見えているのは、ぜんぜん血の色がない、骨のように白い額と、生気のない絶望のほかには、なんの意味も示さない、うつろに凝視する片目だけ。こめかみの上あたりでは、黒い布(性質も密度も雲みたいにぼやけている)をターバン状に巻いた|ひだ《ヽヽ》のまん中に、白い炎の輪が光っているが、その炎には、もっと無気味な火花が宝石のようにちりばめられている。この青白い三日月形の炎は、「王冠の似姿」であり、それをかぶる者は「形なき形」(いずれもミルトン作『失楽園』第二部からの引用)であった。
「この絵を描きながら、きみはしあわせだったかね?」やがて、ロチェスターさまがきいた。
「無我夢中でした。ええ、たしかに、しあわせでしたわ。つまり、この絵を描きながら味わったのは、これまでに経験したいちばん強烈な喜びの一つであったということです」
「それじゃ、たいしたことはないな。きみ自身の話だと、きみの経験した喜びの数なんてたかがしれているようだから。しかし、この風変わりな色を混ぜたり溶かしたりしていたときのきみが、芸術家の夢想郷ともいえる世界に遊んでいたことは、まちがいないと思うな。毎日、長時間、取り組んだのかね?」
「休暇中で、なんにもすることがなかったものですから。文字どおり、『朝から昼まで、昼から朝まで』(ミルトンの『失楽園』第一部に同種の表現がある)、この絵にかかりきりでした。真夏の日が長いことも、描きつづけたくてたまらないわたしには、好都合でした」
「それで、そのがむしゃらな努力の結果に、満足したというわけ?」
「とんでもありません。わたしの着想と、できあがった作品とが食いちがっているのに、がっかりしてしまいましたわ。どの絵の場合にも、わたしは、わたしの表現能力をこえたものを頭に描いていたのです」
「でもないさ――きみのアイディアの影とでもいうべきものは、つかんでるよ。しかし、それ以上じゃないな。そのアイディアに完全な実体をあたえるために必要な、芸術家としての才能と知識が、きみには欠けていたわけさ。そうはいっても、この絵は、女学生にしては、出色のものだよ。アイディアのほうは、妖精的とでもいおうか。この宵の明星の目を、きみは夢のなかで見たにちがいない。こんなにはっきりした目に描きながら、ちっとも輝いていないのは、なぜかね? この、上にある星が、目の輝きを消しているからだな。それに、この目の、おごそかな深みには、どんな意味がこもっているのかね? 風の描きかたを、だれに習ったのかね? あの空にも、この山頂にも、烈風が吹き荒れている。きみはどこでラトモス(昔、小アジアにあった山の名)を見たのかね? ――これは、ラトモスにちがいないからな。さあ――絵をかたづけたまえ!」
わたしがスケッチブックのひもを結びおわらないうちに、時計に目をやったロチェスターさまは、だしぬけに、こういった――
「九時じゃないか。エアさん、アデールをこんなにおそくまで起こしておくなんて、きみはいったいなにをしてるのかね? 寝かしつけたまえ」
アデールは、部屋を出るまえに、お休みの接吻をしに行った。ロチェスターさまは、その接吻をだまって受けたが、接吻を受けたときのパイロット以上には、いや、パイロットほどにも喜んでいないようだった。
「じゃ、二人とも、お休み」
ロチェスターさまは、そういうと、おまえたちといっしょにいるのはあきあきしたから、出て行ってほしい、というふうに、手をドアのほうへ動かした。フェアファックス夫人は、編み物をたたみ、わたしは、スケッチブックを取りあげた。わたしたちは、ロチェスターさまにおじぎをして、とってつけたような会釈のお返しをうけてから、引きさがった。
「ロチェスターさまは、あまり変わったかたじゃないというお話でしたね。フェアファックスさん」わたしは、アデールを寝かしつけたあと、夫人の部屋でもう一度顔をあわせたときに、そういった。
「それじゃ、変わってるとおっしゃるの?」
「そう思いますけど。とっても気まぐれだし、ぶっきらぼうですわ」
「それは、そうですね。たしかに、はじめてのかたには、そんなふうに見えるでしょうけど、わたしは、だんなさまの、そういう態度に慣れておりますから、思ってもみないのですよ。でもね、だんなさまの気質がほかの人と変わっているとしても、無理からぬところがありましてね」
「どうしてです?」
「一つには、もって生まれた性格がありますね――わたしたちは、もって生まれた性格は、どうにもできませんわね。それに、だんなさまには、心をかき乱す、苦しい考えごとがいろいろとあって、いつも同じ機嫌ではいられないにちがいありませんよ」
「どんな考えごとですの?」
「たとえば、身内同士のいざこざですわ」
「だって、身内はいらっしゃらないでしょ」
「いまはね。でも、これまでに――すくなくとも、親類はおられましたからね。数年まえに、お兄さまをなくされたのですよ」
「|お兄さま《ヽヽヽヽ》を?」
「ええ。ご当主のロチェスターさまは、財産を相続なさってから、まだ日が浅いのですよ。せいぜいで、九年かしらね」
「九年といえば、かなりの年月ですわよ。いまだに、お兄さまの亡くなられたことがあきらめきれないなんて、そんなに深く愛しておられたのかしらね?」
「いえ、そうじゃありませんわ――たぶん、そうじゃないと思いますよ。わたしの考えでは、お二人のあいだに、なにか誤解があったようでしてね。ローランド・ロチェスターさまは、エドワードさまに対して、あまり正しいやりかたをなさらなかったのです。お父さまがエドワードさまを毛嫌いなさるようにしむけたりなさったようですし。このお父さまが、お金には目のないかたで、ロチェスター家の財産の四散をなんとか防ごうと懸命になっておられたのです。財産分けをして減らしたくはないものの、次男のエドワードさまには、家名を傷つけない程度の財産をもたせてやりたい、と腐心なさったのですね。そこで、エドワードさまが成年に達した直後、あまり公正とはいえない手が打たれて、たいへんな災いを引き起こすことになったのです。お父さまとローランドさまとではかられて、エドワードさまの財産作りのため、エドワートさまを、本人には苦しく思われる立場に追いやってしまったのです。その立場がどんな性質のものか、わたしにもはっきりしたことはわかりませんが、とにかく、その立場に置かれたエドワードさまのお心は、苦しみに耐えきれなかったのです。あまり寛大なかたではありませんからね。ご家族との縁をお切りになって、それ以来なん年ものあいだ、なんと申しますか、根なし草のような生活を送ってこられたのですよ。お兄さまが遺書も残さずに亡くなられたあと、ロチェスター家の当主になられてからも、だんなさまが、二週間もつづけて、ソーンフィールドに滞在されたことはないと思いますね。まったくの話、だんなさまが、この古い屋敷を敬遠されるとしても、不思議はありませんがね」
「なぜ敬遠なさるの?」
「陰気に思われるからではないですか」
この返事は、いい抜けのようにしか思われなかった――わたしは、もっとはっきりしたことを知りたかった。だが、フェアファックス夫人は、ロチェスターさまの苦悩の原因や性質について、これ以上くわしいことをわたしに教えることができないか、教える気がないか、そのどちらかであった。夫人は、そうした点は、自分にとっても謎につつまれた事柄であって、知っていることも、だいたいが憶測の域を出ていない、と強く主張した。この話は、もうやめにしてほしい、という夫人の気持ちがありありとわかったので、わたしもそれ以上は聞かないことにした。
[#改ページ]
十四章
それからの数日間、わたしは、ロチェスターさまの姿を、ほとんど見かけなかった。午前中は仕事に忙殺されているようであり、午後になると、ミルコートや近所に住む紳士がたが訪ねてきて、ときにはそのまま居残って、ロチェスターさまと晩餐をともにすることもあった。捻挫がなおって、馬に乗れる程度になると、ロチェスターさまは馬で外出することが多くなった。たいていの場合、夜おそくまで帰宅しなかったところを見ると、紳士がたの訪問のお返しにまわっていたものらしい。
このあいだ、アデールさえも、ロチェスターさまのもとへ呼ばれることはめったになく、わたしがお目にかかるのは、玄関のホールや階段や廊下で、たまにすれちがったときだけにかぎられていた。その場合、よそよそしい会釈をするか、ひややかな一瞥を投げるかして、わたしの存在をみとめると、傲慢な、すげない態度ですぎ去ることもあれば、いかにも紳士らしい丁重な物腰で頭をさげて、微笑することもあった。このように相手が態度を変えても、平気でいることができたのは、その変化がわたしとなんの関係もないことを知っていたからだ。ロチェスターさまの機嫌がいいか悪いかは、わたしとまったく無関係な原因できまっていたのである。
ある日、晩餐に客を招いていたロチェスターさまは、わたしのスケッチブックを見せてほしいといってきた。その中身を、客に見せるためであったにちがいない。紳士たちは、フェアファックス夫人の話では、ミルコートでの会合に出席するとかで、早目に引きあげて行ったが、その夜は雨で、荒れ模様だったので、ロチェスターさまはいっしょに行かなかった。客が帰ってからしばらくして、ロチェスターさまはベルを鳴らし、わたしとアデールとに階下へくるように、という連絡があった。わたしはアデールの髪をとかして、こざっぱりとさせ、わたし自身は、いつものクエーカー教徒みたいな服装に、乱れたところがないことをたしかめてから――お下げにした髪を含め、どこにも余計な飾りはなく、しごく質素で、乱れる余地などはなかった――階下へおりて行った。アデールは、あの「|小さな箱《プティ・コフル》」がやっととどいたのよ、などといっている。なにかの手ちがいで、その箱の到着がおくれていたからだ。そのアデールの期待は、かなえられた。わたしたちが、食堂にはいると、テーブルの上に、小さなボール箱が、ちゃんとのっている。アデールは、直観的に、察しがついたらしい。その箱のほうへ駆け出しながら、「|わたしの箱よ《マ・ブワート》! |わたしの箱よ《マ・ブワート》!」と大声をあげた。
「そう――やっとこさ、おまえさんの『箱《ブワート》』がとどいたよ。部屋の隅へもってって、中身を解剖して遊ぶことだね、きっすいのパリのお嬢さん」ロチェスターさまのふとい、皮肉たっぷりな声が、暖炉のそばの、馬鹿でかい安楽椅子の奥から聞こえてきた。「それに、いいかね」と言葉をつづけて、「その箱の手術経過のこまかい点や、内臓の状態をあれこれと報告したりして、じゃまをしてもらっては困るよ。手術はだまっておやりください――|静かにするんだよ、おまえさん《ティヤン・トワ・トランキル・アンファン》。|わかったね《コンプラン・チュ》?」
アデールには、注意などいらない感じだった。とっくの昔に、宝物をもって、ソファの上に引きこもると、箱の蓋をしばってあるひもを、せっせとほどいている。このじゃまなひもを取りのけて、銀色の薄い包装紙をなん枚か開いたあとでも、「|まあ、すてき《オー・シエル》! |なんて、きれいでしょ《クセボー》!」とさけんだだけで、あとはもううっとりとして、息をのんだように、じっと見とれている。
「エアさんは、いますね?」ロチェスターさまは、椅子から腰を浮かすと、わたしが立ったままでいるドアのほうをふりかえった。
「ああ! いますね。こちらへいらっしゃい。そこへ坐って」ロチェスターさまは、一脚の椅子を、自分の椅子のほうへ引きよせた。「ぼくは、子どものおしゃべりが、きらいでね」と言葉をついで、「ぼくみたいな、いい年をした独り者は、子どもの舌たらずな言葉を聞いたって、楽しい思い出なんか、いっこうに浮かんできませんからね。一晩中、チビっ子と|二人きり《テータ・テート》ですごすなんて、ぞっとしますよ。その椅子を、むこうへ引いたら駄目じゃないですか、エアさん。ぼくが置いたところで、ちゃんと坐っていたまえ――つまり、よろしかったら、ということだが。このエチケットというやつは、まったく気にくわないな! いつも忘れてばかりなんだから。それから、ぼくは、血のめぐりの悪い、ばあさん連中も、あんまり好きになれなくてね。ついでにいうと、うちにも一人、ばあさんがいるわけだ。あの人をいい加減にあしらっては、よろしくない。あの人は、フェアファックス家の人間、というか、フェアファックス家の人間と結婚した人ですからな。血は水よりも濃し、といわれることだし」
ロチェスターさまはベルを鳴らすと、フェアファックス夫人に、おいでいただきたい旨を伝えさせた。夫人はやがて、編み物かごを手にして、やってきた。
「こんばんは、フェアファックスさん。あなたの寛大なお心に甘えようと思って、お呼びしたのですよ。アデールに、プレゼントの話をしてはいかん、といいつけたものだから、あの子はいま、話したいことがいっぱいで、はち切れそうになっているわけですよ。たいへん申し訳ないのですが、あの子の話し相手になって、あれこれ聞いてやってくれませんか。これまでにない善行をほどこすことになると思いますよ」
実をいうと、フェアファックス夫人を見つけたアデールは、すぐに自分のいるソファのほうへ招きよせ、例の「箱《ブワート》」にはいっていた磁器や象牙や|ろう《ヽヽ》でできた品を、さっそく膝の上にひろげていた。そうしながらも、知っているかぎりの、たどたどしい英語で、せっせと説明したり、うれしさを表現したりしている。
「さてと、これで、りっぱに主人《ホスト》役をつとめたというわけだ」とロチェスターさまは言葉をつづけた。「お客さま同士、おたがいに楽しむようにはからったわけだから、こっちも自由に、好きなことができなきゃあ、おかしいさ。エアさん、その椅子を、もうちょっと、こっちへよせたまえ。まだまだ遠くはなれすぎてるよ。きみの姿を見ようと思ったら、ぼくの位置を変えねばならん。せっかく、こんなに楽な椅子に坐っているんだから、そんなことはさせないでくださいよ」
わたしは、かげにかくれていたい気持ちでいっぱいだったが、いわれたとおりにした。ロチェスターさまには、ずばずばと命令する癖があって、命令にさっさとしたがって当然、のような気持ちにさせられてしまう。
すでにのべたように、わたしたちは、食堂にいた。晩餐のためにともされたシャンデリアが、うきうきするほどに明るい光を、食堂いっぱいにみちあふれさせている。あかあかと、かげりなくもえている、大きな暖炉の火。高い窓と、窓よりも高いアーチ型の入り口とにゆったりかかっている、豪勢な紫色のカーテン。アデールのひそひそ声のおしゃべり(さすがに、アデールも大声で話そうとはしなかった)と、そのおしゃべりのあい間に聞こえる、窓ガラスを打つ冬の雨の音のほかは、なにもかも静まりかえっていた。
ダマスコ織りのカバーのついた椅子に坐っているロチェスターさまは、これまでに見たロチェスターさまの感じとちがっていた――それほどきびしさがないし、陰欝さもずっとうすらいでいる。唇には微笑が浮かび、ブドウ酒のせいかどうか、目がきらきら光っている。いまから思うと、どうやらブドウ酒のせいだったらしい。とにかく、ロチェスターさまは、食後のいい気分で、午前中のよそよそしい、かたくなな気分とちがって、もっと打ちとけていて、にこやかで、それと同時に自分を甘やかしているところもあった。それでも、がっしりした頭を、椅子の大きく盛りあがった背にもたせ、大理石をきざんだような顔と、大きな黒い目に、暖炉の明かりを受けている姿には、おかしがたい威厳があった――たしかに、ロチェスターさまの目は、大きくて、黒く、その上、実にすばらしい目で、ときたま、その奥に、やさしさではないとしても、それに似た感情を思わせる、ある変化があらわれないでもなかった。
ロチェスターさまが、二分間も暖炉の火に見いっていたので、わたしも、同じ二分間、相手の姿に見いっていた。ところが、ロチェスターさまが、いきなりふりかえったため、その顔をじっと見つめていたわたしは、視線をそらすことができなかった。
「ぼくを観察していますね、エアさん」とロチェスターさまはいった。「どうです、ハンサムに思いますか?」
じっくり考えてからなら、この質問に対して、月並みで、あたりさわりのない、いい加減な答えを返していただろうが、いつのまにやら、つい口をすべらせて、「思いませんわ」という返事をしていた。
「いや! これは、まいった! きみも、ちょっと変わった人だな。|若い修道女《ノネット》といった感じがある。そんなふうに、両手をまえにそろえて坐って、目をカーペットの上に落とし気味にしているときは(もっとも、ほら、いまみたいに、ぼくの顔に、刺すような視線を投げつけるときはまた別だが)、風変わりで、おとなしくて、きまじめで、誠実そのものだな。ところが、質問をされるとか、なにかいわれて、意見を述べねばならなくなると、きみは、ずばりいいたいことをいう。無作法とはいわないにしても、味もそっけもないことはたしかなんだな。いまの『思いませんわ』というのは、どういう意味だね?」
「どうもすみません。はっきりいいすぎてしまいました。容貌に関する質問には、簡単に答えられませんとか、たで食う虫も好きずきですからとか、美貌など、皮一重で、たいしたことはありませんと、そういった類いの返事をすべきだったと思います」
「そんな類いの返事は、すべきじゃなかったさ。それにしても、美貌など、たいしたことはありませんとはねえ! なるほど、先刻の侮辱をやわらげ、ぼくをなだめたりすかしたりして、ご機嫌を取り結ぶふりをしながら、実は、このぼくの耳の下に、こっそりと、ペンナイフをつきつけているわけか! さあさあ、いってください、ぼくのからだに、どんな欠陥が見つかるのです? 手足だって、顔だって、人並みにちゃんとついているはずなんだが?」
「ロチェスターさま、最初の返事を、取り消させてください。しんらつで、気のきいたことを申しあげようというつもりは、さらさらなかったのですから。つい口がすべっただけでございます」
「そうでしょうな。そのとおりだと思いますよ。だからこそ、ちゃんとした申し開きをしてもらわなくては。ぼくの顔の棚おろしをしてごらん。この額は、気にいりませんかね?」
ロチェスターさまが、額の上へ、横にふさふさとかぶさっている真っ黒い髪をかきあげると、知的器官が十分に発進していることを示すゆたかな額があらわれたが、博愛の相をあらわす、なだらかな線がもりあがっているべきあたりは(骨相学では、額のすぐ上のところ)、急に平べったく欠落している。
「さあ、どうかね、ぼくはばかかね?」
「とんでもございませんわ。逆に、わたしのほうから、あなたさまは博愛主義者でいらっしゃいますか、とおたずねしたら、けしからんやつだ、とお思いになるでしょうね?」
「また、また! ぼくの頭をなでるふりをして、例のペンナイフが、またもや、ぐさっ、だから。そんなことをきくのは、ぼくが子どもや、ばあさん連中のお相手はごめんだ(これは大きな声ではいえないが)、といったからでしょうな。いや、きみ、ぼくは博愛を衆におよぼすタイプの人間ではないが、ちゃんと良心はありますよ」そういって、ロチェスターさまは、良心を示すといわれる、突出部分を指さした――幸いなことに、その部分は、十分に発達しているだけでなく、頭の上部に、はっきりした広がりをあたえていることもたしかであった。「それに、ぼくだって、昔は、荒けずりながら、心のやさしさといえるものをもっていた。きみぐらいの年頃には、ぼくも、けっこう多情多感な青年だったのさ。幼い者、よるべのない者、不幸な者に、とくに心をひかれたりしてね。ところが、その後のぼくは、運命にこづきまわされてしまった。運命がぼくの人格を、その拳骨でねりあげてくれたといってもいい。いまのぼくは、自慢じゃないが、ゴムまりみたいに、かたく、タフな人間になっていますよ。それでも、まだまだ一ヵ所や二ヵ所は|すきま《ヽヽヽ》があって、情にはもろいし、中心には、ものを感じる部分も一つ、残っておりましてね。ほんとですよ。望みなきにあらず、というところでしょうかね?」
「望みと申しますと?」
「ゴムまり的な人間から、もとの肉体をそなえた人間に、いつかはもどることができるという望みは、なきにしもあらずでしょうか?」
「ブドウ酒の飲みすぎにちがいないわ」とわたしは思った。この奇妙な質問に、なんと答えていいか、わたしにはわからなかった。もとの人間にもどることができるかどうか、などという問いに、答えられるはずがない。
「いやにまごついてますね、エアさん。ぼくがハンサムでないのと同じで、きみも美人とはいえないが、そのまごついたところが、またよく似あいますよ。それに、きみがまごついてくれると、こっちもつごうがいい。そのさぐるような視線を、ぼくの顔からそむけて、ウーステッドのカーペットの花模様ばかり、せっせと眺めていますからね。そういうわけで、せいぜいまごついていてください。ねえ、きみ、今夜のぼくは、だれかといっしょにいて、おしゃべりをしていたい気分なんですよ」
こういうと、ロチェスターさまは椅子からはなれて、大理石のマントルピースに片腕をかけて立った。このポーズをとると、顔だけでなく、からだつきまで、はっきりと見えた。胸幅が人並みはずれて広く、手足の長さに不釣り合いなくらいだった。たいていの人は、ロチェスターさまを醜男と思うにちがいない。だが、その態度には、本人の意識していないプライドがあふれ、その動作も、まことにゆったりしている。自分の外貌に対する、完全に無関心な表情。たかが肉体的魅力の欠如くらい、ほかの、先天的ないしは後天的な資質で、十分に補うことができる、という傲慢なまでの自信。こういうロチェスターさまを見ていると、こちらまでが、いやおうなしに、同じように無関心な気持ちになってしまい、盲目的に、自分でも納得できないまま、その自信をう呑みにしてしまうのだ。
「今夜のぼくは、だれかといっしょにいて、おしゃべりをしていたい気分なんですよ」ロチェスターさまはくりかえした。「そういうわけで、きみにきてもらった。暖炉の火と、シャンデリアでは、相手にならない。パイロットも駄目。こいつらは、口がきけませんからな。アデールは、いくらかましだが、これも及第点には、はるかにおよばない。フェアファックス夫人だって、同じこと。きみは、きみさえその気になってくれるなら、ぼくにうってつけの相手になる、とぼくは確信していますよ。最初の晩、きみをここへ招いたときは、きみがぼくをとまどわせたわけだ。あれ以来、きみのことは、ほとんど忘れてしまっていてね。いろんな考えごとがあって、きみのことを考えるひまがなかったんだな。しかし、今夜は、ゆっくり落ち着こう、やっかいなことは忘れはてて、楽しいことだけ思い出そう、そういう気持ちになっているわけだ。きみからいろいろ話を聞き出し、きみのことをもっと知ったら、楽しいじゃないかとね――そういうわけだから、話したまえ――」
わたしは、話をするかわりに、微笑した。それは、満足しきっている微笑でも、仰せのとおりにいたしますわ、という微笑でもなかった。
「話したまえ」とロチェスターさまはせきたてた。
「なにを、お話するのです?」
「きみの話したいことなら、なんでもいいさ。なにを話そうと、どんなふうに話そうと、いっさいきみにまかせるから」
そこで、わたしは、なにもいわずに、じっと坐っていた。「わたしのことを、おしゃべりのためのおしゃべりをしたり、自分をひけらかすためにおしゃべりをする人間とでも思っているのなら、とんでもない見当ちがいをしていることに、気がつくでしょうよ」とわたしは思っていた。
「きみには、口がないようだな、エアさん」
それでも、わたしは口を開かなかった。ロチェスターさまは、わたしのほうへ、首をすこし曲げ、わたしの目の奥を、ちらっと一瞥したようだった。
「それとも、頑固なのかな? それに、腹も立てている。いや、無理もない。ぼくの要求は、ばかげているし、おうへいでさえあったんだから。エアさん、許してくれたまえ。実は、はっきりいって、きみを目下の者として扱いたくないんだ。つまり」(と言葉をあらためて)「ぼくが、きみよりすぐれているとすれば、それは、ぼくがきみより年が二十も上で、経験なら百年の差があるため、というだけのこと。これなら、筋のとおった話だし、アデールなら『|それに、あたしもそう主張するわ《エ・ジ・ティアン》』と、いうでしょうよ。ぼくがあなたに、すこし話をして、ぼくの気をまぎらせてはくれまいか、とお頼みするのは、その程度の優越感から出たもので、まったく他意はありません。ぼくの頭は、ある事柄ばかり考えているために、すっかりいらいらして、さびた釘みたいに腐食しているものですから」
ロチェスターさまは、説明をしてくださったのだ。いいわけといってもいいくらいであった。わたしは、そのへりくだった態度に気がつかないわけではなく、また、気がつかないような女に思われたくもなかった。
「わたしにできますなら、よろこんでお慰めしますわ。ほんとうに、お慰めしたい気持ちでいっぱいです。でも、話の口火の切りようがありませんの。なにに興味をおもちなのか、わたしには、わかりかねますので。わたしに質問してくださいませんか。そうすれば、精いっぱい、ご返事申しあげますわ」
「じゃ、まず第一に、ぼくには、すこし主人面をして、ぶしつけで、ときには、きびしい要求をしたりする権利がある、というぼくの意見に賛成しますか? いまいった理由、つまり、ぼくがきみのお父さんくらいの年齢であることと、ぼくがいろんな国の、いろんな人間と、いろんな経験をしながら悪戦苦闘したり、地球の半分を駆けめぐっている一方で、きみは、一つところで、かぎられた数の人たちと、平穏無事な生活をしていたということの、二つの理由からなんだが」
「どうぞ、お好きなようになさってください」
「それじゃ、返事になってない。というか、その返事は、ひどくいい抜け的なところがあって、神経にさわるなあ――はっきり答えたまえ」
「わたしより年が上だからとか、わたしよりも世間を知っているからというだけの理由で、わたしに命令をなさる権利はないと思います――その時間と経験をどのようにお使いになったかで、わたしよりもすぐれていらっしゃるかどうかがきまるのですから」
「ふーん! いやにずけずけといったものだ。しかし、それは、ぼくの場合にはいっこうにあてはまらないから、みとめるわけにいかんよ。ぼくは、時間にしろ、経験にしろ、悪い使いかたをしたとはいわないまでも、いい加減な使いかたばかりしてきたからな。じゃ、その優越感の問題は一応おくとしてもだよ、きみはぼくの命令口調に腹を立てたり、気を悪くしたりしないで、ときには、ぼくのいいつけどおりにすることに同意しなきゃいけないんだよ――いいね?」
わたしは、にっこり笑った。「ロチェスターさまも、|ほんとに《ヽヽヽヽ》変わったお人だわ――ご自分のいいつけどおりにさせるために、わたしに年三十ポンドを払っていることを、お忘れらしいわ」とわたしは思った。
「笑うのもいいが、説明もしてくれたまえよ」ロチェスターさまは、ほんの一瞬の表情を、ぬけ目なくとらえていた。
「給料をはらっている雇い人に、命令されたら、腹が立つかい、気を悪くするかい、などと手間ひまかけてきいたりする主人は、めったにいないだろうと思っておりました」
「給料をはらっている雇い人! そうか、きみは、ぼくに給料をもらっている雇い人だったんだな? そうだったのか、給料のことを、すっかり忘れていたよ! となると、その金銭上の理由で、ぼくがすこしばかりいばりちらしても許してくれることに同意するね?」
「いいえ。そんな理由では駄目ですわ。いまお金のことを忘れておられたという理由、使用人が気持ちよく勤めているかどうかに気を使ってくださる、という理由でしたら、大賛成ですわ」
「それから、型にはまったしきたりとか、きまり文句を省略しても、おうへいだから省略したんだろう、などと思ったりはしませんね?」
「わたしは、ざっくばらんな態度と、おうへいな態度をまちがえることは、絶対にないと思いますわ。わたしは、ざっくばらんなほうが好きですが、自由に生まれた人間なら、いくら給料をもらっていても、おうへいな態度に甘んじたりはしませんわ」
「ばかな! 自由に生まれていたって、給料のためなら、たいていの人間がどんなことでもするさ。だから、きみも、ろくすっぽ知りもしない一般論なんかに口をださず、自分の知っていることだけに話を限るようにすることだな。とはいうものの、いまのきみの意見、まちがってはいるけれども、ぼくとしては、きみと心のなかで握手したい気持ちだね。その内容だけでなく、話しかたもふくめてさ。いかにも率直で、きまじめな態度だ。そんな態度には、めったにお目にかかれるものではない。いや、それどころか、こちらが虚心坦懐にふるまうと、たいていの場合、気どった態度や冷淡な態度のおかえしがあるか、こちらの意図が、まぬけで、ずさんな頭で誤解されるくらいがおちなんだな。ぼくにむかって、きみがいましたような返事のできる人間は、駆け出しの、女学生に毛がはえたような家庭教師のなかで、千人に一人もいないだろうな。しかし、ぼくはきみをおだてているのじゃないよ。きみが大多数の人間とちがった鋳型で作られているとしても、それはきみのてがらじゃない。自然のなせるわざなんだから。それに、結局のところ、ぼくは早合点しているかもしれない。ひょっとしたら、きみは他の連中と大差ないのかもしれない。がまんのならない短所があって、きみのごくわずかな長所を相殺しているかもしれないからな」
「そちらだって、同じことかもしれないわ」とわたしは思った。この思いが心を横切った瞬間、わたしたちの目があった。ロチェスターさまは、わたしの視線の意味を読みとったと見え、その内容が想像されただけでなく、口にはっきり出されでもしたかのように、こう答えた。
「そう、そう、そのとおりなんだ。ぼく自身、欠点だらけの人間だ。ぼくは、そのことを知っているし、はっきりいって、体裁をつくろったりする気持ちはさらさらない。ぼくに他人のことをとやかくいえないことは、神さまもこ存じさ。ぼく自身の胸のなかで反省しなくてはならない、過去の人生や、一連の行為や、生活態度があって、周囲の人間に対するぼくの冷笑や非難が、そっくりそのまま、ぼく自身にかえってきてもおかしくない。ぼくは二十一のとき、進路をあやまった、いや、あやまった進路を押しつけられたというべきかもしれないが(世間の不行跡者のご多分にもれず、ぼくは責任の半分を、不運と逆境のせいにしたいのさ)、それ以来、一度も正しい進路に立ちかえっていない。だが、ぼくだって、ぜんぜんちがった人間になっていたかもしれない。きみのように善良で――きみよりも賢明で――きみと同じくらいに汚れのない人間になっていたかもしれないのだ。ぼくは、きみのおだやかな心、はれわたった良心、きよらかな思い出がうらやましい。きみ、いっとくけど、しみやけがれのない思い出は、なにものにもかえがたい宝――純粋な喜びの、つきせぬ泉にほかならない。そうじゃないかね?」
「十八歳のときの思い出は、どのようでございましたか?」
「あのころは、文句なしさ。すみきっていて、さわやかで、船底にたまるような汚れがどっと流れこんできて、思い出の泉の水が、悪臭をはなつ水たまりに変わることはなかった。十八歳のぼくは、いまのきみと同じさ――寸分ちがわなかったな。自然はぼくを、だいたいにおいて善良な人間にするつもりだった。かなり健康な精神の持ち主にね。ところが、いまのぼくは、きみの目に、そうはうつらない。きみは、そんなこと、とても信じられません、といいたいのだろう。自慢じゃないが、それくらいのことは、きみの目に読みとることができる(ついでながら、その目の表情には、注意したほうがいい。ぼくは、目のおしゃべりを判断するのが、すごく早いのだから)。とにかく、ぼくのいうことを信じてくれたまえ――ぼくは悪人じゃない。そうは思ってもらいたくない――ぼくに、そんな悪しき名声(ミルトン作『失楽園』第二部からの引用)は着せてほしくないのだが、ぼくの信じるところでは、生まれつきの素質というよりも境遇のせいで、ぼくは、世間にいくらもいる、ありふれた罪びとになってしまったのさ。金持ちのつまらない連中が人生の支えにしている、例のばかげた、つまらない道楽にはうんざりしている罪びとというわけなんだ。ぼくにこんなことを打ち明けられて、きみは驚いているかな? 自分でも知らないうちに、他人の秘密を打ち明けられる羽目になっていた、なんてことは、これから先の人生で、なん度もあることだから、知っていていい。ぼくがそうであったように、世間の人は、自分のことをおしゃべりするよりも、他人の話に耳をかたむけるのが、きみの強味だっていうことを、直観的に気づくのさ。それに、きみが、軽はずみな行為を打ち明けても、意地悪く軽蔑したりせず、生来の同情心ともいうべき態度で聞いてくれる人間だ、ということもわかるのさ。きみのような同情心は、これ見よがしに示されないだけに、かえって相手に慰めとはげましをあたえるわけなんだ」
「どうして、そんなことが? ――どうして、そんなことが、なにもかもおわかりになるのです?」
「ぼくには、よくわかるのさ。だから、ぼくは、まるで日記に感想を書きつけてでもいるみたいに、自由にふるまえる。ぼくが境遇に打ち勝つべきだった、ときみはいいたいのだろう。そのとおり――そうすべきだったのさ。だが、ごらんのように、ぼくは打ち勝たなかった。ぼくは運命に裏切られたとき、冷静にかまえているだけの分別がなかった。ぼくは絶望し、やがて堕落しはじめたのさ。だから、手におえないばか者の下劣きわまりない言葉を耳にして、むかっ腹が立ったとしても、ぼくには、おれのほうが上等の人間だぞ、などとうぬぼれる資格はないんだな。そいつとぼくとが、同じレベルの人間であることを、いやでも告白しなきゃならない。あのとき、しっかりしておれば、と後悔しているのさ――ぼくが後悔していることは、神さまにはわかっているんだ! あやまちをおかしそうになったときは、後悔を恐れたまえ、エアさん。後悔は人生の毒なんだから」
「改悛は、それの解毒剤だと聞いておりますけど」
「改悛は、解毒剤なんかじゃない。改造なら、解毒剤になるかもしれないが。このぼくにも、自分自身を改造することができる――まだ、それくらいの力はある――もしも――だが、足かせと重荷と呪いにがんじがらめになったぼくが、そんなことを考えて、なんになるというのか? その上、幸福を拒絶されて、どうしても手にいれることのできないぼくなんだから、せめて、人生の快楽にふける権利はあるはず。どんな代償をはらってでも、快楽だけは手にいれるつもりなのさ」
「そんなことをすれば、ますます堕落することになりますわ」
「たぶんね。だが、甘い、新鮮な快楽を手にいれるぼくが、どうして堕落しなきゃいけないのさ。それに、ぼくの手にいれる快楽は、蜜蜂が荒れ野で集める、野生の蜜のように甘く、新鮮なんだよ」
「それは舌を刺しますわ――にがい味がいたしますわ」
「どうして、きみにわかる? ――味わってもいないのに。なんとまた大まじめな――深刻な顔つきをしてるんだね、きみは。きみは、そんなことは、このカメオに浮き彫りにされた人間の頭と同じで」(といって、ロチェスターさまは、カメオの彫刻を一つ、マントルピースから取りあげた)「なんにも知っちゃいないのさ! きみには、ぼくにお説教をする権利なんかない。人生の門をくぐったこともなく、人生の神秘なんか、爪のあかほども知らない、駆け出しの子どものくせに」
「わたしはただ、ご自分がお使いになられた言葉を、思い出させてあげただけでございますわ。あやまちは後悔をもたらすといわれました。後悔は人生の毒だ、とはっきりいわれたではありませんか」
「だれが、いま、あやまちの話をしてるんだ? ぼくの頭をかすめた考えが、あやまちだなんて、ぼくは思ってもいない。ぼくとしては、そいつは誘惑《テンプテーション》どころか、霊感《インスピレーション》だった、と思いこんでいるわけさ。実に甘やかで、実に気持ちがいい――ぼくには、わかっているんだから。ほら、またまた、その考えが頭に浮かんできたぞ! はっきりいっとくけど、これは悪魔なんかじゃない。かりに悪魔であるとしても、光の天使の衣裳をまとっている。こんなに美しいお客に、あなたの心のなかへいれてほしいわ、などと頼みこまれたら、いれてやらないわけにいかないじゃないかな」
「それを信じてはいけませんわ。ほんとうの天使ではありませんから」
「もう一度きくけど、どうしてきみに、そんなことがわかるのかね? きみは、いったいどんな直観で、奈落の堕落天使(ミルトン作『失楽園』第一部への言及)と、永遠の玉座からきた使者との区別が――指導する者と、誘惑する者との区別ができるというのかね?」
「あなたの表情で判断いたしましたわ。その考えがまた頭に浮かんだといわれたときのあなたの表情は、すさんでおりました。その考えに耳をかたむけられたら、ますますみじめな思いに駆られることになるにちがいありませんわ」
「とんでもない――この世で最高に恵みぶかい便りをもたらしてくれる考えなのさ。ほかのことに関しても、きみはぼくの良心の番人なんかじゃないのだから、せいぜい気を楽にしてくれたまえ。さあ、はいっていらっしゃい、かわいいさすらい人よ!」
ロチェスターさまは、まるで自分一人の目にだけ見える幻にでも話しかけているかのように、そういうと、それまで半ばひろげていた両腕を、胸のあたりに組みあわせて、その目に見えない幻を、ぎゅっと抱きしめるようなポーズをとった。
「ほらね」ロチェスターさまは、またわたしにむかって話しはじめた。「このとおり、ぼくは巡礼者を迎えいれましたよ――神さまの変装をした巡礼者だ、とぼくは本気で信じています。もうすでに、きき目があらわれはじめたんですからね。さっきまで、納骨堂みたいだったぼくの心が、これからは神殿になることでしょうよ」
「ほんとうのことを申しまして、わたしには、おっしゃっておられることが、いっこうにわかりません。これ以上、お話をつづけることはできませんわ。わたしの手におえないところへ行ってしまわれたのですから。一つだけ、わたしにわかることがございます。あなたが、自分でそうありたいと思っているほどに、善良な人間でなく、不完全な人間であることを残念に思っている、といわれたことです――一つだけ、わたしに理解できることがございます。あなたが、汚れた思い出をもつことは、永遠の害毒だ、といわれたことです。あなたが一生懸命になられたら、いつかは、自分自身で納得できる人間になることも不可能ではないのではないでしょうか。あすからといわずに今日から、あなたの考えやおこないをきっぱりと改めるようになさったら、二、三年ののちには、喜んで回想することのできる、新しくて、汚れのない思い出を、いっぱい貯えることができるのではないでしょうか」
「考えもりっぱだし、語り口もまたいいよ、エアさん。いま、この瞬間、ぼくはせっせと、地獄への道を舗装しているところですがね(「地獄への道は、善意で舗装されている」、つまり「改心しようと心がけながら、地獄へ落ちる者が多い」ということわざをもじっている)」
「はあ?」
「火打ち石のように長もちがするはずの善意を、敷石がわりにしましてね。ぼくの仲間も、遊びも、これまでとは一変すると約束できますね」
「これまでよりもよくなりますの?」
「よくなるね――純粋な鉱石と、きたない浮きかすのちがいほどによくなるね。きみはぼくを疑っているようだが、ぼくは自分を疑っていないよ。ぼくの目的がなにか、ぼくの動機がなにか、ぼくにはよくわかっているのさ。いまここで、目的も動機もともに正しいという、メディアとペルシャの法律のように変わることのない法律(旧約聖書、ダニエル書、第六章第八節ほか)を制定してもいい」
「新しい法律を作って、正当化しなければならないようでは、その目的も動機も正しいとはいえませんわ」
「正しいさ。正しいけれども、新しい法律が絶対に必要なんだな、エアさん。前例のない事情が組み合わされた場合には、前例のない法則が要求されるものなんだから」
「危険な格言のように聞こえますわ。なぜって、それが濫用されるおそれのある格言であることは、すぐにわかりますもの」
「賢人のようにうまいことをいうね、きみは! たしかに、仰せのとおりなんだ。しかし、絶対に濫用しない、とわが家の守り神にかけて誓うよ」
「あなたは人間ですし、完全無欠じゃありません」
「そりゃ、そうだ。きみだって、そうじゃないか――それが、どうしたっていうんだ?」
「完全無欠でない人間は、完全な神さまだけに安心してあずけて置くことのできる力を、わがもの顔で利用してはいけませんわ」
「その力とは?」
「世間にみとめられていない、異常な行為に関して、『正しくあれ』といってのける力ですわ」
「『正しくあれ』か――ぴったりの言葉だ。よくぞ、いってくれました」
「それでは、正しく|あらん《ヽヽヽ》ことをお祈りしておりますわ」といって、わたしは立ちあがった。
わたしには、まったくの謎めいている会話をつづけても、仕方がないと思ったからだ。それに、話し相手の性格がわたしには見抜けない、すくなくとも、現在の段階では、わたしの手におえないことに気がついたし、自分にはなにもわかっていない、という確信に伴う不たしかさ、というか、漠とした不安の気持ちも味わいはじめていたからである。
「どこへ行くのかね?」
「アデールを寝かせに行きます。もう寝る時間をすぎていますので」
「きみは、スフィンクスみたいな話しかたをするぼくが、こわいんだな」
「あなたの言葉は、謎めいています。でも、わたしはとまどうことはあっても、こわがったりはいたしませんわ」
「いや、|明らかに《ヽヽヽヽ》こわがっている――プライドの高いきみは、へまをすることを、恐れているんだ」
「その意味では、わたしもたしかに気をつかっていますわ――ナンセンスなことを口にしたくはありませんもの」
「きみがナンセンスなことを口にするにしても、どうせまじめくさって、にこりともせずにいうだろうから、ぼくはきみがセンスのあることをいっているものと思いこむだろうな。きみは絶対に笑わないのかい、エアさん? いや、わざわざ答えなくてもよろしい――たしかに、たまには笑うんだろうね。しかし、きみだって、陽気にけらけら笑うことができるはずだ。ぼくが生まれつき悪い人間でないように、きみだって、生まれつき糞まじめな人間じゃない。ローウッドで受けていた束縛が、いまだに、わずかながらきみにまつわりついていて、きみの表情を抑えつけたり、声を押し殺したり、手足の自由を奪っている。きみは、男性でも、兄弟でも――父親でも、主人でも、だれでもいいが――そういう人のまえに出ると、あまり陽気に笑ったり、あまり自由にしゃべったり、あまり早く動きまわったりしてはいけない、とびくついているんだ。だが、ぼくが、きみに対して、とても月並みな態度は取れないのと同じく、やがてきみのほうも、ぼくに対して、自由にふるまうようになる、とぼくは思うな。そうなれば、きみの表情や動作に、いまのところいっこうに見せようとしない、快活さと変化とがあらわれるようになるさ。いまでも、ときたま、珍しい種類の小鳥の目が、鳥かごのせまい|さん《ヽヽ》のあいだからのぞいているのを見かけることがあるんだな。そこには、いきいきとした、落ち着きのない、意志の強い小鳥が、とらわれている。自由の身になったら、雲までも高く、舞いあがるのではないか。きみは、やっぱり行く気なのかね?」
「九時を打ちましたので」
「いいから、いいから――ちょっと待っててごらん。アデールは、まだまだ寝る気にはなっていませんよ。エアさん、ぼくは暖炉に背をむけ、顔を部屋のほうにむけている。この位置は、観察にはもってこいなんですよ。きみと話しているあいだにも、ときおり、アデールの動きに目をやっていましたがね(あの子をおもしろい研究材料と考える理由は、ぼくなりにありましてね――どんな理由かは、お教えしてもいいが、いや、近いうちに、はっきりお話しするとしましょう)。あの子は、十分ばかりまえに、例の箱からピンク色のシルクのドレスをとり出しましてね、それを広げながら、顔を喜びで光らせていましたよ。媚態《コケトリー》が、あの子の血のなかを流れ、頭脳にまざり、骨の髄にまでしみこんでいるのですな。あの子は『これを、着てみなくちゃ! それも、今すぐにね』と叫んで、部屋から駆け出してしまった。いまごろはソフィといっしょに、着がえの真っさい中。二、三分したら、もどってきますがね。どんな姿があらわれるか、ぼくにはわかっている。――座の幕があいて、舞台にあらわれたセリーヌ・ヴァランスのひな型というわけさ。いや、気にしなくてもよろしい。しかしだな、ぼくの、この上なく感じやすい心が、なにやらショックを受けようとしている。そんな予感がするんだなあ。まあ、ここにじっとして、その予感が的中するかどうか、見ていてごらん」
やがて、玄関のホールを小走りに駆けぬける、アデールの小さな足音が聞こえた。部屋にはいってきたとき、その姿は、後見人の予言どおりに一変していた。先ほどまでの茶色のドレスを脱ぎ捨てて、すごいミニの、スカートにたっぷりギャザーを取った、バラ色のサテンのドレスを着ている。額には、バラのつぼみの花飾りをつけ、足にはシルクの靴下と、白い小さなサテンのサンダルをはいている。
「このドレス、あたしに似合うかしら?」アデールは、はねるように進みでると、フランス語で叫んだ。「このサンダルは? この靴下は? 待ってね、踊ってみようと思うから!」
アデールは、ドレスのすそをひろげると、シャッセ(ダンスの速いステップ)で踊りながら部屋を横切った。ロチェスターさまのまえまでくると、つま先で軽やかにターンしてから、足もとに片膝をついて、こう叫んだ――
「おじさまのご親切には、千回もお礼を申しあげます」それから、立ちあがりながら、「ママもこんなふうにしたんでしょ、おじさま?」
「その、とおり、だったよ!」ロチェスターさまは、一言づつ切るように答えた。「|そんなふうに《コム・スラ》魅力をふりまいて、あの女は、ぼくのイギリス製のズボンから、イギリス金貨をだましとったのさ。ぼくも、青二才でしたからね、エアさん――そう、草の葉みたいに青い、青二才でしたよ。かつてのぼくをいきいきさせていた青春は、いまのきみをいきいきさせている青春と、ちっとも変わらなかった。だが、ぼくの春はすぎ去ってしまい、ぼくの手もとに残ったのは、このアデールというフランス産の小さな花だけ。ぼくは、この花を、捨て去ってしまいたいような気持ちに駆られることもある。いまのぼくは、この花を咲かせた根を、すばらしいとも思っていないし、砂金以外の肥料では育たない類いの根であることもわかっているので、この花そのものにも、あまり心をひかれなくなってしまったのさ。とりわけ、いまみたいに、わざとらしくしなを作ったりするときには、そうなんだな。ぼくはね、大小さまざまの罪とがを、一つの善行でつぐなうことができるという、カトリック教の教義にもとづいて、このアデールという花を、養い育てているんですよ。このことは、またいつか、説明してあげよう。おやすみなさい」
[#改ページ]
十五章
事実、ロチェスターさまは、しばらくたってから、そのことを説明してくれた。
ある日の午後、庭にいるわたしとアデールを見つけたロチェスターさまは、アデールがパイロットと遊んだり、バトミントンの羽根をついたりしているあいだ、その姿の見える範囲で、長いブナの並木道を散歩してみませんか、と言葉をかけてきた。
そのときのロチェスターさまの話で、アデールは、かつてロチェスターさまが「|偉大なる情熱《グランド・パション》」と呼ぶところのものを捧げたことのある、フランス人のオペラ・ダンサー、セリーヌ・ヴァランスの娘であることがわかった。セリーヌは、この「情熱」に対して、いやまさる熱愛で答えているかのように見せかけていた。ロチェスターさまは、醜男の自分がセリーヌに偶像視されていると思いこみ、この女がベルヴェディアのアポロ像(ベルヴェディアは、ローマのヴァティカン宮殿のなかの建物の名)の優雅さよりも、自分の「|スポーツマンらしい体格《ターユ・ダトレト》」を愛しているものと信じていた、と話してくれた。
「それでね、エアさん、このフランス生まれの空気の精の、イギリス生まれの地の精に対する愛情とやらに、すっかりいい気になってしまったぼくは、この女を市内の邸宅《オテル》に住まわせ、召使い、馬車、カシミアのショール、ダイアモンド、レースの衣裳と、なにからなにまで一そろいごっそりと買いあたえてやったのです。つまり、ぼくは、鼻の下の長い男どもがきまってやるように、まったく型どおりの、自滅への道を歩みはじめたのです。どうやら、ぼくには、恥辱と破滅への道を新しく考案するだけの独創性もなかったらしく、昔ながらの一本道を、踏み固められた道の中心から一インチでも踏みはずすことはしないという、上にばかという字のつく正直さで、たどったというわけ。世間のすべての鼻下長族と同じ運命が――きわめて当然のことながら――ぼくを待ちかまえていました。ある晩、ふとその気になって訪ねてみますと、ぼくがくるとは知らないセリーヌは、家におりません。だが、暑い夜で、パリ中を歩きまわって疲れていたぼくは、女の部屋に腰をおろし、さっきまでいた女によって清められた空気を吸って、幸福な気持ちになっていました。いや――ぼくは誇張しすぎているな。あの女に、なにかを清めるような美徳があるなんて、夢にも思ったことはない。それは、神聖な香りなんかじゃなくて、女があとに残していった香料の一種で、じゃこうと、コハクの香りだったんです。そのうち、温室咲きの花や、まきちらされた香水の香りに息がつまりそうになったぼくは、窓を開けて、バルコニーに出てみようと思いつきました。月夜である上に、ガス燈がついていて、あたりはしんと静まりかえっている。バルコニーには、椅子が一つか、二つ、置いてある。ぼくは腰をおろすと、葉巻をとりだして――ちょっと失敬して、いま一本すわせてもらうよ」
ここで話がとぎれた。ロチェスターさまは、葉巻を取り出して、火をつけ、それを口にくわえると、凍てつくような、日のあたらない大気に、ハバナ煙草の紫煙をたなびかせながら、話をつづけた――
「その当時、ぼくはボンボンも好きでしてね、エアさん。そこで、ぼくはチョコレート・ボンボンをクロケ(フランス語。ぽりぽりかじるという意味)したり(フランス語をまぜたりする失礼はお見のがし願いますよ)、煙草をふかしたりしながら、近くのオペラ・ハウスへむかって、はなやかな通りを流れるように走っている馬車の行列を眺めていたのですが、そのとき、二頭の美しいイギリス産の馬にひかれた、エレガントな箱型の自家用馬車が、明るい夜の街にくっきりと浮かびあがったのを見て、セリーヌにあたえた『馬車《ヴァチュール》』であることに気がつきました。セリーヌが帰ってきたのです。はやるぼくの心臓が、ぼくのよりかかっている鉄製の手すりで、早鐘をうっていたことは、いうまでもありませんよ。馬車は、ぼくが思っていたとおり、邸宅《オテル》の玄関にとまりました。ぼくの色おんなは(オペラ・ダンサーの恋人には、うってつけの呼びかたですよね)、馬車をおりました。マントにすっぽり身をつつんでいましたが――ついでながら、汗ばむような六月の夜ですから、マントなんか、まさに無用の長物というわけ――馬車の踏み段から軽やかにおり立ったとき、ドレスのすそからのぞいていたかわいい足で、すぐにセリーヌとわかりましたよ。ぼくは、バルコニーから身をのり出すようにして、『|ぼくの天使《モナンジ》』とささやこうとしました――もちろん、恋する者の耳にだけ聞こえるような声でですよ――そのときです、だれかがセリーヌにつづいて、馬車からとびおりるではありませんか。この人物も、やはりマントを着ていましたが、舗道にかちりと鳴ったのは、拍車のついた靴のかかとでした。邸宅《オテル》の、アーチ型になった正門をくぐりぬけたのは、帽子をかぶった頭にまちがいありません。
「きみは嫉妬したことは、ないでしょうね、エアさん? あるはずがない。きみは愛を知らない女だから、きくまでもないわけだ。きみは、愛と嫉妬を二つとも、これから経験するんだな。きみの魂は眠っている。その魂を目ざめさせるショックは、これからあたえられる。きみは、きみの青春がこれまで静かに流れ去ったように、人生のすべてが平穏な流れのなかですぎ去って行く、と思っている。目を閉じ、耳をふさいで流れに身をまかせておれば、さほど遠くない川床にそそり立つ岩を見なくてもすむし、その岩の根っこにあたってくだける波の音も聞こえない、というわけだ。だが、はっきりいっとくけど――ぼくのいうことを、よく聞いておくといいよ――きみは、やがてそのうちに、水路が岩だらけになっている地点にさしかかるが、そこでは、人生という流れのすべてがくだけ散って、混乱と混沌、泡沫と騒音になってしまう。きみは、ごつごつした岩のかどに叩きつけられて、こなごなになってしまうか、大きな波にもちあげられて、もっとおだやかな流れのなかに運び去られるか――いまのぼくがそうなっているのだが――そのどちらかになるわけさ。
「ぼくは、今日みたいな日がすきだ。あの鋼鉄色の空が好きだ。この凍てついた寒空の下の世界の、きびしさと、静けさが好きだ。ぼくは、ソーンフィールドが好きだ。古めかしさ、奥まったたたずまい、古くからあるミヤマガラスのすむ森やサンザシの木。建物の灰色の正面《ファサード》、あの金属性の空をうつしている暗い窓の列――みんな好きだ。それなのに、なんと長いあいだ、ソーンフィールドを思い出すことさえも嫌悪しつづけ、疫病にとりつかれた大きな家でもさけるように、この屋敷をさけてきたことか! ぼくはいまでも、どんなに嫌悪――」
ロチェスターさまは、歯ぎしりをしたきり、だまってしまった。はたと立ちどまると、かたい地面を長靴で蹴りつけた。なにやら、おぞましい思いに全身がとらえられ、あまりにきびしくしめあげられて、一歩もまえに進めないかのようであった。
ロチェスターさまが、このように立ちどまったとき、わたしたちは、ソーンフィールド・ホールを正面に見ながら、並木道をのぼっているところだった。ロチェスターさまは、その胸壁を見あげると、わたしがあとにも先にも一度きりしか見たことのない、ぎらぎら光る目でにらみつけた。苦痛、恥辱、憤怒――焦燥、憤慨、憎悪――これらの感情が、一瞬、漆黒の眉の下に大きく見開かれた瞳のなかで、わななきながら対決しているかのようだった。その雌雄を決する激闘は、まことに熾烈をきわめた。だが、まったく新しい感情があらわれて、勝利を占めることになった。きびしく、冷笑的な感情、片意地で、断固とした感情――これがロチェスターさまの興奮をとりしずめ、その表情を石のようにこわばらせた。ロチェスターさまは、話しはじめた――
「いまだまっていたあいだに、ぼくは、ぼくの運命の女神と、ある事柄について決着をつけていたのですよ、エアさん。そいつはね、そこの、そのブナの木のそばに立ってましたよ――フォレスの荒野で、マクベスのまえにあらわれた魔女の一人(シェイクスピア作『マクベス』第一幕第三場)みたいな老婆でしてね。『ソーンフィールドが好きだって?』その老婆はいって、指を一本、上にあげると、空中になにやら警告するような文字を書いたんですよ。それが、建物の正面のあたりの、上下の窓の列のあいだに、無気味な象形文字になってあらわれたんです。『できるものなら好いてみよ! 勇気があるなら好いてみよ!』とね。
『好きになってやるとも。好きになる勇気だってあるさ』とぼくは答えてやりました。そうさ(とむっつりした口調でつけ加えた)「やるといったことは、やってみせるぞ。幸福への、美徳への――そうとも、美徳なのさ――道をはばむものは、打ちくだいてやる。ぼくは、これまで以上の善人に、いま以上の善人になりたい――ヨブ記に出てくる|巨大な海獣《レバイアサン》が、もりや、投げやりや、鎖かたびらを打ちくだいたように(旧約聖書、ヨブ記、第四十一章第二十六―七節)、ぼくは、他人が鉄とも真鍮とも考えるじゃま物を、わらとも朽ち木とも見なすのだ」
このとき、アデールが、羽根をもって、追いかけてきた。「むこうへお行き!」ロチェスターさまは、荒々しい声でどなった。「おまえは、近よってきてはいけない。ソフィのところへでも、お行き!」それから、また押しだまって歩きはじめたので、わたしは、さっきロチェスターさまが急に脱線してしまったところへ、思いきって話題をもどしてみた――
「マドモワゼル・ヴァランスがはいってきたとき、バルコニーを出られたのですか?」
わたしは、この、とてもタイミングのいいとはいえない問いが、あっさりはねつけられるもの、と覚悟していた。ところが、顔をしかめて、放心したようになっていたロチェスターさまは、はっと気をとりなおして、わたしのほうに目をむけた。額の影は、消えてしまったようであった。
「ああ、セリーヌのことを忘れてしまってた! じゃ、話をもとにもどすとするか。ぼくの心をまどわした女が、騎兵将校をお伴にしたがえて帰ってきたのを見たとき、ぼくはしゅっしゅっという音を聞いたように思った。月の光に照らされたバルコニーに、くねくねととぐろをまいていた、緑色の嫉妬のヘビが、鎌首をもたげ、ぼくのチョッキにすべりこんだかと思うと、二分もたたないうちに、ぼくの心臓のまん中に食いいってしまったんだな。これは変だぞ!」ロチェスターさまは、そう叫ぶと、急にまた脱線しはじめた。「こんな話を打ちあける相手に、きみみたいな若い女性を選ぶなんて、変じゃないですか! ぼくみたいな男が、きみみたいな風変わりで、世間知らずのお嬢さんに、オペラ・ダンサーの情婦の話をするのを、まったくの日常茶飯事みたいに、きみがおとなしく聞いているなんて、はて、面妖《めんよう》な(シェイクスピア作『オセロ』第一幕第三場からの引用)、といいたいね! だが、まえにもちょっとふれたことがあるように、きみに打ちあけ話をするのは、きみが、そうやって、おとなしく聞いていてくれるからで、ちっとも変じゃないんだな。まじめで、思いやりがあって、慎重なきみは、他人の秘密を聞かされるように生まれついているんですよ。それに、ぼくは自分の心を割って話しあえる相手が、どんな心の持ち主であるかも知っている。それが、朱にまじわって赤くなるような心でないことを知っている。風変わりな心、ユニークな心なんだな。幸い、その心を傷つけるつもりは、ぼくにはない。だが、かりにその気があるとしても、ぼくのために傷つくような心じゃない。きみとぼくとは、話せば話すほど、うまく行くようにできているのだ。つまり、ぼくはきみに害を加えることができないし、その反面、きみはぼくの心をさわやかにしてくれるのさ」
こんな余談のあとで、ロチェスターさまは本題にもどった――
「ぼくは、バルコニーでじっとしていました。『女の部屋へはいってくるにちがいない』と思ったからです。『待ち伏せの用意でもするか』そこで、ぼくは、開けてあった窓から手をいれて、カーテンを引きましたが、なかのようすがうかがわれる程度のすき間は残してあります。それから、窓を閉めたのですが、こんども、『恋人たちのささやく誓いの言葉』を聞くためのパイプになる分は、閉め残してあります。このあと、ぼくは足音をしのばせて、椅子のところへひきかえし、そこに腰をおろしたとき、例の二人がはいってきたのです。ぼくはすぐに、目をカーテンのすき間にあてました。セリーヌの小間使いがはいってきて、ランプに火をつけ、それをテーブルの上においてから引きさがります。二人の姿は、こんな具合に、ぼくにはっきりと見えているのです。二人ともマントをぬぎました。サテンのドレスと宝石――もちろん、ぼくのプレゼント――できらきら光っている『悪女ヴァランス』。士官の服装をしたつれの男。わたしには、その男が若い放蕩者《ルエ》の子爵《ヴィコント》だとわかりました――ときたま、社交界で会ったことのある、脳たりんの、どうしようもない青年で、ぼくは頭から軽蔑しきっていたので、憎たらしいと思う気にさえなれないやつでした。この男だとわかったとき、例の、嫉妬のヘビの牙があっという間に折れてしまったのです。その瞬間、セリーヌに対する愛情に、さっと水がかけられたからなんですね。こんなライバルのために、おれを裏切るような女は、人と争ってまで手にいれる値打ちがない。軽蔑にのみ値する女じゃないか。とはいえ、これまで、あいつにだまされていたおれのほうは、もっと軽蔑されてしかるべきじゃないのか。
「二人は話しはじめました。その会話を耳にして、ぼくはすっかり安心しました。軽薄で、金銭ずくで、誠意もセンスもない話で、聞いているほうは腹が立つよりも、うんざりするような底のものでした。テーブルの上に、ぼくの名刺がのっていましたが、これに目がとまると、ぼくの名前が二人の話題にのぼりました。二人とも、ぼくをこてんぱんにやっつける、エネルギーもウイットもないものだから、いつものけちくさいやりかたで、ぼくのことを口ぎたなくののしっているだけ。とくにセリーヌがそうだったが、ぼくの肉体的な欠陥の話になると、才気をひらめかしたといってもいい――ぼくの欠陥を、奇形と呼んだりしましてね。ところが、この女、それまでは、ぼくの『男性美《ボーテ・マール》』と称するものを、熱狂的に賞めあげるのを常としていたんだから。その点、この女は、きみとは対照的なんだな。なにせ、きみは、二度目に会ったとき、ぼくのことをハンサムと思わない、などといって、しゃあしゃあしていたんだから。あのとき、そのコントラストが、ぼくにはまことに印象的で、――」
ここでまた、アデールが駆けよってきた。
「おじさま、管理人がきて、お目にかかりたいんですって。ジョンがいいにきておりましたよ」
「ああ! それなら、話をはしょらなくてはなるまい。ぼくは、窓を開けると、二人のところへ、ずかずかと踏みこみました。セリーヌには、もう面倒はみないから、好きなようにしろ、といい渡し、この邸宅《オテル》から出て行くように、と命令してから、当座の金に困らないよう、財布ごとあたえました。悲鳴、ヒステリー、嘆願、抗議、ひきつけの発作、そんなものは、いっさい無視して、子爵とブローニュの森で決闘する約束をしました。翌朝、ぼくは子爵と対決する栄光に浴し、やっこさんの、病気にかかったひよこの羽みたいに力のない、貧弱な、青びょうたんの片腕にピストルの弾丸を打ちこんで、やれ、あの連中ともおしまいだ、と思ったのです。ところが、不幸なことに、その半年まえ、悪女ヴァランスは、アデールという小娘《フィエット》を生み落としていて、ぼくの娘だ、と断言している。もしかしたら、そのとおりかもしれないが、あの子の顔だちに、こんないかつい父親の血をひいているという証拠を読みとることは、とても無理ですよ。あの子よりか、犬のパイロットのほうが、ぼくに似ていますからね。わたしが縁を切ってから数年後、あの女は子どもを捨てて、音楽家だか、歌手だかと、イタリアへ駆け落ちしたんだな。ぼくは、ぼくに扶養の義務があるという、アデール側の主張をみとめたことはないし、いまだって、いっさいみとめていない。なにせ、ぼくは、あの子の父親じゃないのだから。しかしですよ、あのかわいそうな子が路傍に迷いかねないと聞いたぼくは、パリのきたならしい泥土からあの子を根こぎにして、イギリスの田舎の庭園の健康な土壌で、清潔に育てるため、ここへ移植してやったのです。あの子を教育するために、フェアファックスさんが、あなたを見つけたというわけですが、あの子が、フランス人のオペラ・ガールの私生児とわかってしまえば、きみも、自分の仕事や、生徒のことを、ちがったふうに考えるようになるだろうね。そのうち、新しい勤め口が見つかりましたから、とぼくにいいにくるのじゃないかな――新しい家庭教師をお捜しになってくださいませ、とかなんとかいってね。そうじゃないのかい?」
「いいえ――アデールは、母親のあやまちにも、あなたのあやまちにも、責任はありませんわ。わたしは、あの子に好意をもっておりますし、あの子が、ある意味では、親のない子とわかったいまでは――母親には捨てられ、あなたには認知されないのですから――わたしは、いままで以上に、あの子に愛着を感じますわ。家庭教師を厄介者あつかいする、お金持ちの、猫かわいがりされた甘えっ子のほうを、家庭教師を友だちのように慕ってくれる、寂しがり屋の、かわいそうなみなし児よりも好きになるなんてことが、どうしてわたしにできます?」
「ああ、それが、きみの見方なんですね! とにかく、ぼくは、これでなかにはいらなくちゃ。きみもね。暗くなりかけたから」
だが、わたしは、アデールやパイロットといっしょに、あと数分ばかり外に残っていた――アデールと駆けっこをしたり、バトミントンをしたりしながら。やがてわたしたちは、家にはいり、わたしは、アデールの帽子《ボンネット》とコートをぬがせると、膝にのせてやって、そのまま一時間ばかり抱いていたが、アデールには、好き勝手なことをぺちゃくちゃとしゃべらせておいた。ちやほやされたときにすぐ見せる、いやになれなれしい、慎重さを欠いた態度さえも、叱ったりはしなかったが、こうした態度からうかがわれるアデールの軽薄な性格は、母親ゆずりのものらしく、イギリス気質とはいっこうにそぐわなかった。それでも、アデールに長所がないわけではなく、そのいいところはすべて、精いっぱいに高く買ってやりたい気持ちだった。わたしは、アデールの顔つきや目鼻立ちに、ロチェスターさまに似かよった点を見つけようとしたが、そんなものは、なに一つとして見つからない。顔の特徴からも、表情の変化からも、二人の血縁関係はうかがわれない。これは残念なことだった。アデールが自分に似ていることが明らかになりさえすれば、ロチェスターさまも、この子をもっとかわいがったかもしれないからである。
わたしは、その夜、自室に引きこもってから、ロチェスターさまがしてくれた話をじっくりと思いおこしてみた。ロチェスターさま自身が語っていたように、あの話の内容そのものには、とくに目新しい点はないかもしれない。フランス人のダンサーに対する、金持ちのイギリス紳士の情熱や、女による裏切りなどは、上流社会では、ごくありふれた出来事にちがいない。だが、現在の満足した気分や、古いソーンフィールド・ホールと、その周辺に対する、新しくよみがえってきた喜びを語ろうとしていたロチェスターさまを不意におそった、あの感情の爆発には、絶対に不可思議なところがあった。この一件をいぶかしく思ったわたしは、あれこれと推理してみたが、いまの段階では解決されそうにもなかったので、しだいにこの問題からはなれて、わたしの主人であるロチェスターさまの、わたしに対する態度を検討しはじめた。わたしを信頼するに足る人間と思ってくれたことは、わたしの慎重な態度に対する賛辞ではないか。そういうことにして、そう信じておればいい。この二、三週間、わたしに対するロチェスターさまの態度も、はじめのころよりは、安定してきている。わたしはじゃまな人間ではなくなったらしい。ロチェスターさまが発作的に冷淡で、おうへいな態度をとることもなくなった。偶然、行き会ったりすると、そのことを喜んでいるようにも見える。かならず、一言は声をかけてくるし、ときには、にっこりすることもある。お招きにあずかって、顔を出したときでも、心からの歓待をうけるので、わたしにはロチェスターさまを喜ばす力がほんとうにあるのではないか、こうした夜の打ちとけた話しあいは、わたしのためになるというだけでなく、ロチェスターさま自身も楽しんでいるのではないか、という気持ちになってくる。
実をいうと、わたしは、ほとんどしゃべらないで、もっぱらロチェスターさまの話を楽しんでいた。ロチェスターさまは、生まれつきの話し好きで、世間知らずの人間に、その世間の風俗や習慣(といっても、退廃した風俗や、悪にそまった習慣ではなく、大規摸におこなわれているとか、奇異な点が特徴になっているとかの理由で興味のある風俗や習慣)を、垣間見させてくれるのが好きだった。わたしのほうでも、強烈な喜びを感じながら、さし示される新しい考えを受けいれ、説明される新しいイメージを心に描き、目のまえにくり広げられる新しい世界を案内されている気持ちになった。道徳上かんばしくない事柄に言及されても、驚いたり困ったりしたことは、ただの一度もなかった。
ロチェスターさまの気どらない態度のおかげで、わたしは窮屈な遠慮をしなくてもすんだし、わたしを相手にする場合にも、親切で、気さくで、いや味がない上に誠意があったので、わたしはロチェスターさまにひきつけられた。ときたま、ロチェスターさまがわたしの雇い主というよりも、むしろ親類のように感じられることもあった。それでも、ロチェスターさまが、まえのようにおうへいな態度を取るときもないではなかったが、わたしはちっとも気にしなかった。そういう癖であることがわかっていたからである。わたしは、この、人生に新しく加えられた興味の対象に、すっかり満足して、幸せを感じていたので、骨肉の愛に恵まれないのを嘆いたりすることはなくなってしまった。三日月のようにやせほそっていた、わたしの運命も、しだいに大きくなりはじめているらしい。生活の空白は埋められ、健康状態はよくなり、体重も体力もましていった。
さて、ロチェスターさまは、いまでもわたしの目に、みにくい男としてうつっているのだろうか? 読者よ、答えは「ノー」である。感謝の気持ちと、実に楽しく、愉快な、数多くの連想とが働いて、ロチェスターさまの顔は、わたしがいちばんに見たいと思うものになってしまっている。ロチェスターさまがいると、部屋のなかは、あかあかともえさかる暖炉の火で照らされる以上に、気持ちがいい。といって、わたしは、その欠点を忘れてしまったわけではない。いや、たえずわたしの目のまえにさらけ出されているので、忘れることなどできるはずがない。ロチェスターさまはプライドが高く、皮肉屋で、なにごとによらず、劣っているものに対しては、まことに手きびしい。わたしには非常に親切にしてくれる反面、ほかの多くの人びとに対しては、不当なまでに苛酷であって、いわば功罪あい償っていることに、わたしは、人知れず気づいていた。それに、ロチェスターさまはふさぎの虫にとりつかれている。その原因はよくわからないが、本を朗読するようにいわれて書斎にうかがったとき、腕組みをして、ぽつねんと首をうなだれている姿を見かけたことが、一度ならずある。目をあげたとき、ふきげんで、悪意にあふれているといってもいい渋面が、その表情を暗くしていた。だが、わたしは、ロチェスターさまのふさぎや、きびしさや、昔の不行跡も(|昔の《ヽヽ》、というのは、現在では、あらたまっているように思われるからだが)、すべて残酷な運命のくいちがいに端を発している、と信じていた。もともと、ロチェスターさまは、環境によって啓発され、教育によって注入され、運命によって助長される以上に、善良な性向と、高邁な節義と、純粋な趣味とをもった人間に生まれついていたのではあるまいか。生来、すばらしい素質は備わっているのに、それが、いささかそこなわれて、もたつきっぱなしになっている、というのが現状ではあるまいか。ロチェスターさまの悲しみ(それが、いかなるものであるにせよ)のために泣き、その悲しみをやわらげるためなら、どんな犠牲をはらってもいいと思ったことを、わたしは否定しない。
わたしはろうそくを消して、横になったが、並木道ではっと立ちどまり、目のまえに運命の女神があらわれて、ソーンフィールドで幸福になれるならなってみろ、と挑戦してきたと語ったときの、ロチェスターさまの表情を考えると、寝つかれなかった。
「なぜ、あの人は幸福になれないのかしら?」とわたしは自問してみた。「あのかたを、この屋敷から遠ざけているのは、なんだろう? またすぐ、行ってしまうのだろうか? フェアファックス夫人の話では、つづけて二週間以上、滞在したことはないそうだが、今回は、すでに八週間になっている。あのかたが行ってしまったら、ここも変わって、わびしくなるだろう。あのかたが春も、夏も、秋も、屋敷をあけてしまうとしたらどうだろう。太陽も晴天も、その輝きを失ってしまうにちがいない!」
こんな物思いにふけったあとで、眠りに落ちてしまっていたのかどうか、いまだによくわからない。いずれにしても、陰気な、わけのわからない奇妙なつぶやき声が、わたしの頭のすぐ上あたりで聞こえたように思って、はっと目をさました。ろうそくをつけっぱなしにしておけばよかった、と思ったが、あとの祭。あたりは、ぞっとするような夜の闇で、気がめいってしまいそうである。わたしはベッドの上に起きあがって、じっと耳をすました。さっきの物音は静まっている。
わたしは、もう一度、眠ろうとした。だが、心臓はどきどきと不安げに鼓動し、心の落ち着きなど、どこかへ行ってしまっている。はるか下の、玄関のホールで、時計が二時を打った。と、そのとき、わたしの寝室のドアを、だれかがさわったように思った。ドアの外の暗い廊下を、手さぐりで歩いている人が、指で羽目板をなでたような感じである。「だれ?」とわたしはいった。返事はない。わたしは、恐怖でぞっとなった。
つぎの瞬間、わたしは、パイロットかもしれないな、と思いなおした。台所のドアが開けっぱなしになっていたりすると、ロチェスターさまの寝室の敷居まできていることが、よくあったからだ。朝になって、そこに寝ころがっているパイロットを見かけたことが、わたし自身、なんどかあった。こう考えてくると、すこしは気分もおさまったので、わたしはからだを横にした。静寂は、神経を静めてくれる。建物全体が、また物音一つ立てずに静まりかえってしまったので、わたしはうとうとと寝いりかけた。だが、その夜のわたしは、眠れないように運命づけられていた。せっかく耳もとに近づきかけた夢さえも、骨の髄まで凍らせるような事件におびえて、ほうほうのていで逃げだしてしまったのだ。
それは、悪魔的な――低く押し殺された、ふとい笑い声で、わたしの寝室のドアの、それも鍵穴のところで笑っているのではないか、と思われた。わたしは頭をドアのほうにむけて寝ていたので、最初は、その悪魔的な笑いの主が、ベッドの横に立っている――いや、枕のそばにうずくまっているのではないか、と思った。が、起きあがって、あたりを見まわしても、なんにも見えない。こうして見つめているあいだにも、その奇々怪々な笑い声はくりかえされ、どうやら、羽目板のむこうから聞こえてくるらしい、とわかった。わたしはまず、発作的に立ちあがって、ドアにかんぬきをかけ、つぎにも、発作的に、「だれ?」という言葉を大声でくりかえしていた。
なにかが、ごくごくとのどを鳴らし、うめき声をあげた。ほどなくして、廊下を三階の階段のほうへ遠ざかって行く足音がした。最近、この階段を仕切るためのドアが取りつけられていたが、そのドアの開閉する音が聞こえたあと、あたりは静まりかえってしまった。
「グレイス・プールだったかしら? あの女は、悪魔にとりつかれているのかしら?」とわたしは思った。いまはもう、ひとりでおられたものではない。フェアファックス夫人のところへ行かなくては。わたしは大あわてでドレスとショールをひっかけると、ふるえる手でかんぬきをはずし、ドアを開けた。すぐ外の、廊下の敷物の上で、置きざりにされたろうそくが一本、もえている。これには、あっと驚いたが、まだまだ驚いたことに、あたり一面が、完全にかすんでしまって、煙でも充満したようになっている。このうず巻く青い煙は、いったいどこから出てくるのやら、と右を見、左を見ているうちに、すごく焦げくさいことにも気がついた。
なにかが、ぎーっと鳴った。ドアが半開きになっている。それはロチェスターさまの部屋のドアだったが、そこから、煙がもくもくと出ている。わたしはもう、フェアファックス夫人のことなど考えなかった。グレイス・プールや、笑い声のことも、忘れていた。つぎの瞬間、わたしは、その部屋のなかにいた。ベッドのまわりで、めらめらともえている炎。火のついたカーテン。炎と煙につつまれたロチェスターさまは、身動き一つせず、長々と横になって、ぐっすり寝こんでいる。
「起きてください! 起きてください!」とわたしは叫んだ――からだをゆり動かすが、なにやらぶつぶついって、寝がえりを打つだけ。煙にまかれてもうろうとなっているらしい。一瞬の猶予もならない。シーツにも火がもえ移っている。わたしは、洗面器と水差しのほうへ飛んで行った。幸い、洗面器は大きく、水差しも深くて、両方とも水がいっぱいはいっている。わたしは、この二つをもちあげて、ベッドと、そこにのびている人間の両方に水をあびせかけ、こんどは自分の部屋へ飛ぶようにして駆けもどると、そこにあった水差しをもってきて、あらためてベッドに洗礼をほどこした。こうして、ベッドをなめつくそうとしていた炎を消しとめることができたのも、神さまのお助けがあればこそだったのだ。
火がじゅっと消える音や、水をかけたときに、勢いあまってわたしの手からはなれた水差しが割れる音、とりわけ、わたしがシャワーのようにざぶざぶとかけた水のしぶきで、ロチェスターさまもやっと正気にかえった。部屋はもとの暗闇にもどっていたが、わたしにはロチェスターさまが目をさましているのがわかった。水たまりのなかに寝ている自分に気づいて、わけのわからない呪詛の文句をがなり散らしているのが聞こえたからだ。
「洪水なのか?」とロチェスターさまはどなった。
「ちがいますわ」とわたしは答えた。「火事があったのです。どうか、お起きになってください。あなたに水をかけて、消しとめたところです。わたし、ろうそくをもってまいります」
「キリスト教国のすべての妖精の名にかけてきくが、きみはジェイン・エアだな?」とロチェスターさまはききただした。「魔女め、魔法使いめ、きみは、ぼくになにをしたんだ? この部屋には、きみのほかに、だれがいる? きみはぼくを溺死させようとたくらんだのか?」
「ろうそくをもってきてさしあげますわ。お願いですから、お起きになって。だれかがなにかをたくらんだのですわ。だれが、なにをたくらんだのか、一刻も早く、お調べにならなくては」
「ほら――もう起きてはいるよ。しかし、いまきみがろうそくを取りに行ったりすることは、絶対に許しませんからね。二分だけ、待ってください。なにか乾いたものを着ますから。なにか乾いたものがあれば、の話だが――よしよし、ここに部屋着があった。さあ、走って行ってきたまえ!」
わたしは、ほんとうに走って行って、まだ廊下に置きっぱなしになっていたろうそくをもってきた。ロチェスターさまは、それをわたしの手から受け取ると、高くかかげて、すっかり焦げて黒ずんでいるベッドや、びしょぬれのシーツや、水にういているまわりのカーペットなどを調べた。
「どうしたというんだ? だれがやったんだ?」
わたしは経過を手みじかに説明した。廊下で聞こえた奇怪な笑い声。三階へあがって行く足音。煙――ものが焦げる|におい《ヽヽヽ》にひかれて、この部屋にきたこと。そのときの部屋のなかの状況。そこらにあった水をかたっぱしからかけて、水攻めにしたことなど。
ロチェスターさまは、むつかしい表情で聞いていた。わたしが話しているあいだ、その顔には、驚きよりも憂慮の色がうかんでいた。わたしが話しおえても、すぐには口を開かなかった。
「フェアファックスさんをお呼びしましょうか?」とわたしはきいた。
「フェアファックスさん? いかん。いったい、なんのために、あの女を呼ぶのです? あの女に、なにができるというんです? そっと寝かしておくことだ」
「じゃ、リアをつれに行って、ジョンとおかみさんを起こしてまいります」
「いいから、いいから。じっとしていたまえ。きみ、ショールをかけてるね。寒いようだったら、あそこにある、ぼくの外套をとってきて、それにくるまって、ひじかけ椅子に坐りたまえ。ほら――着せかけてあげるよ。その|踏み台《スツール》に両足をのせて、ぬらさないようにすることだ。二、三分、一人にするからね。ろうそくをもらって行くよ。ぼくがもどるまで、そこにいたまえ。ハツカネズミみたいに、じっとしているんだよ。三階へ行ってみなくちゃ。いいかい、動いたり、人を呼んだりしたら、いかんよ」
ロチェスターさまは行ってしまった。わたしは、遠ざかるろうそくの明かりを見つめた。ロチェスターさまは、足音をしのばせて廊下のむこうまで行くと、できるだけ音をたてないようにして階段のドアをあけ、なかにはいってから閉めた。最後の明かりも消えてしまった。わたしは、真の闇のなかに、とり残された。なにか音が聞こえるかと耳をすましたが、なにも聞こえない。長い、長い時間がたった。わたしは、疲労をおぼえた。外套を着ているのに、寒い。それに、どうせ屋敷の者を起こしはしないのだから、わたしがここにいつまでもいる理由はない。ご機嫌をそこねるのを覚悟で、ロチェスターさまのいいつけにそむこうとしたとき、明かりがふたたび廊下の壁をぼんやりと照らし出し、敷物の上を歩く素足の足音が聞こえてきた。「あのかたでありますように」とわたしは祈った。「恐ろしいものでは、ありませんように」
部屋にもどってきたロチェスターさまの顔面は蒼白で、いかにも陰欝だった。「なにもかもわかったよ」ロチェスターさまは、ろうそくを洗面台の上におきながらいった。「思ったとおりだった」
「と申しますと?」
ロチェスターさまはだまったまま、腕組みをして、床を見つめながら立っている。二、三分たって、ちょっと妙なききかたをした――
「うっかりしてたけど、寝室のドアを開けたとき、なにかが見えた、ときみはいっていたっけ?」
「いいえ。床の上に、ろうそく立てがあるだけでしたわ」
「でも、変な笑い声は聞いたんだね? まえにも、その笑い声か、似たような声を耳にしたと思うけど?」
「はい。このお屋敷で縫い物をしている、グレイス・プールという人がいて――その女の人が、そんなふうに笑いますわ。とっても変わった人ですのよ」
「そうなんだ。グレイス・プール――きみはよく見てるよ。あの女は、きみのいうとおり、変わってるんだな――ちょっとやそっとじゃない。まあ、この問題については、考えておくとしよう。ところで、うれしいことに、今夜の事件をこまかく知っているのは、ぼくのほかには、きみだけなんだ。きみは馬鹿なことをしゃべる人じゃないが、今夜のことは、ないしょですよ。このありさまは」(とベッドを指さしながら)「なんとか、ぼくがいいつくろっておく。さあ、部屋へお帰りなさい。ぼくは、夜があけるまで、書斎のソファで、大丈夫なんだから。もう四時近くだ――二時間もすれば、召使いたちが起きだすな」
「じゃ、おやすみなさいませ」といって、わたしは立ち去りかけた。
ロチェスターさまは、おや、という表情をした――行ってもいい、と自分でいわれたばかりだから、この表情はまことに矛盾している。
「あれ!」とロチェスターさまは声をあげた。「もう行ってしまうのかい? そんなふうに?」
「もうさがってもいい、といわれましたわ」
「しかし、ろくに挨拶もしてないじゃないか。ありがたいとも、うれしいとも、ろくにいってないんだから。要するに、そんな短い、そっけない出て行きかたなんて、ないよ。なんたって、きみは、ぼくの命を助けてくれた人なんだ! ――ぼくを、ぞっとする、いやというほど苦しい死からやっとの思いで救い出してくれたきみだ! ――そのきみが、まるで他人同士みたいに、ぼくのそばを通りぬけて行くなんて! せめて、握手くらいはしてくれたまえ」
ロチェスターさまは、手をさし出した。わたしも手を出した。ロチェスターさまは、はじめは片手で、やがて両手で、わたしの手をにぎりしめた。
「きみは、ぼくの命を助けてくれた。きみに、こんな大きな借りができたことを、ぼくは喜んでいるよ。これだけしか、いまのぼくには、いえない。きみ以外の人間が、ぼくにこれほどの負い目を感じさせる、命の恩人になっていたら、ぼくはとても耐えられなかっただろうな。だが、きみなら、話は別だ――ぼくは、きみから受けた恩義なら、けっして重荷には感じないのだからね、ジェイン」
ロチェスターさまは、言葉をきると、じっとわたしを見つめた。唇がうちふるえ、つぎの言葉が見えるくらいに思われた――が、その言葉は声にならなかった。
「では、あらためて、おやすみなさいませ。こんどのことには、借りだの、恩義だの、重荷だの、負い目だのいったことは、いっさいございませんわ」
ロチェスターさまは口をひらいて、「きみがいつか、なにかの形で、ぼくの力になってくれることは、わかっていた――はじめて、きみに会ったとき、そのきみの目のなかに見てとったのさ。その目の表情や微笑は、理由もなしに――」(ロチェスターさまはまた言葉をきった)「理由もなしに――」(といっきにいってのけた)「ぼくの心の奥底を喜びにうちふるえさせたのではないのだ。世間では、生まれつきの相性ということをいいますね(ゲーテの『親和力』は一八〇九年出版で、『ジェイン・エア』執筆当時のイギリスでは、ほとんど知られていない。だが、この種の考えは、すでに一般にあったといわれている。)。人間の一生を支配する守り神の話も聞いたことがある――こんな荒唐無稽の作り話にも、いくばくかの真理がこもっているものですね。ぼくのだいじな、命の恩人に、おやすみをいうよ」
ロチェスターさまの声には、不思議な力がこもり、その目には、不思議な炎がもえていた。
「うまく目がさめて、よかったですわ」わたしは、そういってから、立ち去りかけた。
「おや、行ってしまう|つもり《ヽヽヽ》ですか?」
「寒いのです」
「寒い? なるほど――水たまりのなかに立ってるじゃないか! じゃ行きたまえ、ジェイン! 行きたまえ!」
だが、ロチェスターさまは、わたしの手を取ったままである。わたしは、それをふりはなすことができなかった。そこで、ある口実を思いついた。
「フェアファックスさんが、起き出しているようですわ」とわたしはいった。
「じゃ、行きたまえ」
ロチェスターさまの指がゆるんだので、わたしは立ち去った。
わたしはベッドにもどったが、眠ることなど、考えてもみなかった。東の空がしらむまで、かろやかな、それでいて不安な海が、わたしを翻弄しつづけた。歓喜の大波の下で、苦悩の大波がうねっている海。ときたま、荒れ狂う波のかなたに、ベウラの丘(旧約聖書、イザヤ書、第六―二章第四節)のように甘やかな岸辺が見えたように思った。ときどき、希望にめざまされた、さわやかな強風が、わたしの魂を目的地へ、誇り顔ではこんでくれたが、わたしは、空想のなかですら、その目的地にたどりつくことができない――逆風が陸地のほうから吹いてきて、たえずわたしを追いかえすのだ。正気が狂気に抵抗し、理性が情熱に警告をあたえている。興奮しきったわたしは眠ることができず、夜明けとともに床をはなれた。
[#改ページ]
十六章
この眠られぬ夜のあくる日、わたしは、ロチェスターさまにお会いしたくもあり、お会いするのがこわくもあった。その声をもう一度、耳にしたいと願いながら、目を会わせるのが恐ろしかった。朝も、早いあいだは、いまにもロチェスターさまがやってくるのではないか、と心待ちしていた。ふだんから、教室にひんぱんに出入りするというのではなかったが、それでも、二、三分間、立ち寄ることは、ときたまあったので、今日こそは、きっとお見えになるにちがいない、という感じがしてならなかった。
だが、いつもと同じように、朝はすぎて行った。アデールの授業の静かな流れを妨げるものは、なに一つとして起こらない。ただ、朝食の直後、ロチェスターさまの寝室のあたりから、フェアファックス夫人、リア、料理人《コック》――つまり、ジョンの奥さん――の声や、それにまじってジョン自身のだみ声さえも、聞こえてきた。口ぐちに、大声をあげている。
「だんなさまがベッドで焼け死ななかったなんて、なんとありがたいことでしょうね!」
「夜、ろうそくをつけっぱなしにしとくのは、いつでもあぶないことですからね」
「だんなさまがあわてないで、水差しに気がつかれたのは、ほんとに神さまのお助けよ!」
「だれもお起こしにならなかったとはな!」
「書斎のソファで休まれたりして、おかぜを召さなきゃいいんですが」
こうした井戸端会議がひとしきりつづいたあと、ごしごしこすったり、ものをかたづけたりする音が聞こえてきた。昼食のために階下へおりる途中、この部屋のまえを通りかかると、開けはなしのドアから、室内が完全に整頓されているのが見えた。ただ、ベッドのカーテンだけははずされていた。リアが窓の下の腰掛けにあがって、煙でくもった窓ガラスをふいている。わたしは、この事件について、どんな説明がなされたかを知りたかったので、リアに話しかけてみようと思い、近づきかけて、部屋にもう一人いることに気がついた――ベッドのそばの椅子に坐って、新しいカーテンに|吊り手《リング》を縫いつけている女。その女とは、グレイス・プール以外のなに者でもなかったのだ。
グレイスは、いつものように、落ち着きはらい、むっつりした表情で坐っている。茶色の毛織りの上着に、格子縞のエプロン、白いハンカチに帽子、といった格好。仕事にかかりきりで、それに全神経を集中しているらしい。そのいかつい額や、平凡な目鼻には、殺人未遂の女の顔にあらわれていても不思議ではない、青ざめた表情や、自暴自棄の色は、いっさいうかがわれない。昨夜、殺そうとした相手に寝ぐらまで追いかけられ、(わたしの信じるところでは)未遂におわった犯罪を告発された女ではないのか。わたしは驚いた――まったくあきれかえってしまった。わたしがじっと見つめていると、グレイスは顔をあげた。ぎくりとしたふうもない。顔色が赤くなることも、青くなることもない。興奮しているとか、罪を意識しているとか、発覚をおそれているとかいったところは、まるで見られないのだ。「おはようこざいます、先生」と、いつもの、落ち着きはらった、そっけない口調でいうと、別の|吊り手《リング》とテープを取りあげて、せっせと縫いものをつづけている。
「この女をためしてみよう。こんなに、まるっきり手掛りがないなんて、どうなってるのかしら」とわたしは思った。
「おはよう、グレイスさん。ここで、なにかあったの? しばらくまえ、召使いたちが、がやがやいっていたようだけど」
「いえね、だんなさまが、ゆうべ、寝床のなかで本を読んでおられましてね、ろうそくをつけたままで寝いったものですから、カーテンに火がついたのですよ。うまい具合に、シーツやベッドの木枠のところがもえだすまえに目がさめられて、水差しの水で、火はなんとか消しとめたのですがね」
「おかしなことがあるものね!」とわたしは小声でいった。それから、グレイスの顔をじっと見つめながら、「ロチェスターさまは、だれもお起こしにならなかったの? だんなさまの動きまわるのを、だれも耳にしなかったの?」
グレイスは、また、わたしのほうに目をあげた。こんどは、その目に、なにかを意識しているような表情が浮かんでいる。わたしを用心ぶかくしげしげと眺めていたが、やがて、こう答えた――
「先生もご存じのように、召使いたちの寝る部屋はずっとはなれているものですから、聞こえるはずがありませんよ。フェアファックスさまと先生のお部屋が、だんなさまのお部屋にいちばん近いのですが、フェアファックスさまは、なんにも聞かれなかったとのこと。年をとると、ぐっすり眠ることが多いですからね」ここで言葉をきってから、さりげない様子を装いながらも、いやに意味ありげな口ぶりで、「でも、先生はお若くていらっしゃるから、目がさめやすいでしょうね。先生こそ、なにか物音を聞かれたのではありません?」
「聞きましたとも」わたしは、まだ窓ガラスを磨いているリアに聞かれないように、声をおとした。「はじめは、パイロットかと思ったのよ。でも、パイロットは笑わないわね。たしかに、笑い声を聞いたのよ。しかも、奇怪な笑い声をね」
グレイスは、新しく一針分の糸を取ると、念いりに蝋《ワックス》をぬって、しっかりした手つきで針に通してから、すこしも騒がずに、こういった――
「だんなさまがお笑いになることはないと思いますよ、先生。あんなにあぶない目にあっていたんですから。きっと夢をみておられたのですよ、先生は」
「夢なんか、みていませんわ」グレイスのずうずうしいまでの落ち着きに腹を立てたわたしは、すこし気色ばんで、いった。相手は、また、わたしを見あげたが、さぐるような、なにかを意識したような目つきには変わりがない。
「笑い声を聞かれたことを、だんなさまにお話しになりまして?」とグレイスはいった。
「けさはまだ、お話しする機会がなかったのよ」
「ドアをあけて、廊下をのぞいてみる気にはなりませんでした?」グレイスはたたみかけてきいてくる。
どうやら、わたしに矢つぎばやの質問をするのは、わたしの知っていることを、それとなく聞き出そうという魂胆らしい。わたしが悪事を知っているか、もしくは感づいているとわかったら、この女は、どんなけしからん手をうってこないともかぎらない、という考えがひらめいた。用心したほうがよさそうだ、とわたしは思った。
「とんでもない。ドアにかんぬきをかけたわよ」とわたしは答えた。
「じゃ、先生は、毎晩おやすみになるまえに、ドアにかんぬきをかけることにしておられないのですね?」
「悪魔のような女だわ! 計画を立てやすいように、わたしの習慣を知りたがっているなんて!」わたしは、またもやかっとなり、慎重に行動することを忘れてしまって、語気鋭く、こう答えた。「これまでは、かんぬきをかけないこともあったわよ。そんな必要なんか、ないように思われたから。まさかソーンフィールド・ホールに、おそろしい危険やら、いざこざやらがあるなんて、夢にも知らないじゃないの。でもね、これからは」(と言葉にぐっと力をいれて)「寝るまえに、戸じまりを完全にするよう、できるだけ注意しますわね」
「それにこしたことはありませんよ」というのが、グレイスの返事だった。「ここらあたりほど静かなところは、ほかに知りませんし、このお屋敷ができて以来、泥棒におそわれたという話も聞いておりません。食器部屋に、なん百ポンドもする食器類がはいっていることは、世間に知られているのですけれどもね。それに、お気づきでしょうが、お屋敷がずいぶんと大きい割に、召使いの数がとてもすくないでしょ。だんなさまが、ここでおすごしになることはめったにないし、たまにお帰りになっても、独身でいらっしゃるから、あまり手がかからないからなんですわ。それでもね、わたしはいつも思うのですが、骨折り損になるにしても、大事をとるにこしたことはありませんよ。ドアなんて、すぐに鍵をかけられますし、それに、自分と、いつふりかかるかも知れない災難とのあいだに、かんぬきをかけておくのが、いちばんですわ。世間には、なにもかも神さままかせという人が多いですけどもね、先生、神さまに頼ったからといって、用心をしなくてもいいということにはなりませんわよね。こちらが慎重に用心している場合、神さまがお守りくださることは、よくありますけれど」こういうと、グレイスは、長広舌をふるうことをやめた。この女としては、まことに長いおしゃべりであり、クエーカー教徒みたいに真面目くさった口のききかただった。
わたしは、奇蹟的ともいえる冷静さと、えもいわれぬほどに測り知れない偽善者ぶりと思われるものにびっくり仰天して、棒立ちになっていた。そのとき、料理人がはいってきた。
「プールさん」料理人はグレイスに話しかけた。「召使いたちの食事の用意が、もう間もなくできますよ。階下《した》へいらっしゃる?」
「いいえ。黒ビールを一パイントと、プディングを少々、お盆にのせてください。自分で三階《うえ》へもって行きますから」
「お肉は?」
「ほんの一切れと、チーズを一口くらい、ほかにいらないわ」
「それじゃ、サゴ(サゴヤシの髄からとる食用でんぷん。デザートに用いる)は?」
「いまは、いいですわ。お茶の時間のまえにおりて行って、自分で作りますから」
ここで料理人は、わたしのほうをむくと、フェアファックス夫人がお待ちになっています、といった。そこで、わたしは、その場をはなれた。
食事のあいだ、フェアファックス夫人が、例のカーテンの火事騒ぎの説明をするのを、わたしは上の空で聞いていた。グレイス・プールの謎めいた性格について、知恵をしぼるのに忙しかったせいもあるが、それにもまして、あの女がソーンフィールド・ホールで、どんな地位を占めているかという問題を考え、あの女がけさ、監禁されてもいないのはなぜか、すくなくとも、勤めを首になっていないのはなぜか、とその理由を詮索するのに夢中になっていたためだった。ロチェスターさまは、昨夜、あの女のしわざだと断定しているような口ぶりだった。それなのに、告発をためらっているのは、いかなる秘密の理由によるものなのか。その上、わたしに他言するな、といいつけたのは、どういうわけか。どうも合点がいかない。恐れを知らない上に、執念ぶかく、傲慢な紳士が、召使いのなかでも、いちばん取るに足らない人間に、牛耳られているように思われるとは。完全に牛耳られてしまった結果、その人間が生命を奪うような手を打ったときでさえも、その行為を罰することはおろか、公然と非難することさえもはばかるようになっているとは。
かりにグレイスが若くて美しい女性だったら、ロチェスターさまがグレイスをかばうのも、警戒心とか恐怖心などのせいではなく、もっとやさしい感情のしからしむところだ、という気になったかもしれない。だが、実は、器量が悪い上に、若さのちっともない女だから、そのような見方はとうてい成り立たない。「とはいっても」とわたしは考えた。「あの女だって、若いときがあったはず。あの女は、ロチェスターさまと同じ時期に、青春をすごしたかもしれない。いつだったか、フェアファックスさんは、あの女が、ここに長年住みついているといっていた。あの女にきれいだったころがあるとは、とても信じられないが、肉体的な魅力のなさを補うに足るだけの、特異な性格、強烈な性格を備えているかも知れないではないか。ロチェスターさまは意志の強い人間、風変わりな人間が大好きだ。グレイスは、すくなくとも風変わりにはちがいない。その昔、酔狂なまね(ロチェスターさまのような、とっぴで、片意地な性質のかたには、ちっとも珍らしくない酔狂なまね)をしたため、あの女のいうまま、気ままになっているのだとしたら、どうだろうか? 行動のすべてを、あの女の目に見えない力で左右されているのではないか? 軽率な行為の結果を、ふり捨てることもできず、無視する勇気もないのではないか?」だが、ここまで推量してきたとき、プール夫人のごつごつした、ひらっべったいからだつきと、みにくくて、かさかさして、野卑でさえある顔とが、わたしの心の目のまえに、はっきりとよみがえった。わたしは「まさか、そんなことが! わたしの想像が当っているはずはないわ」と思ったが、「でも」と、心の奥底でわたしたちに語りかける、あの秘密の声がささやいた。「おまえだって、美しくはないではないか。にもかかわらず、ロチェスターさまは、おまえが気にいっているらしい。いずれにせよ、おまえはこれまでなんども、そんな気持ちになっている。ゆうべだって――あのかたの言葉を思い出してみるがいい。あのかたの表情を、声を思い出してみるがいい!」
わたしは、すべてをはっきりと思い出した。言葉も、目つきも、口調も、すべてが、その瞬間、いきいきとよみがえったかのようだった。このとき、わたしは教室にいた。アデールはスケッチを描いていた。わたしがからだをかがめて、鉛筆の動かしかたを教えてやろうとすると、アデールははっとしたように目をあげていった。
「どうなさったの、先生? 先生の指、葉っぱみたいにふるえてるし、ほっぺたも真っ赤だわ! ほんと、桜んぼみたいに真っ赤よ!」
「かがんでいるから、暑いのよ、アデール!」
アデールがスケッチをつづけるかたわらで、わたしは考えつづけていた。
わたしは、グレイス・プールについて抱いてきたおぞましい考えを、わたしの心から大いそぎで追いはらおうとした。胸がむかつくほどいやな考えであったのだ。わたしは自分自身とグレイスを比較した結果、二人がちがった人間であることに気がついた。ベシー・レヴンは、わたしに貴婦人のような気品があるといっていたが、あの言葉に嘘いつわりはなかった。わたしは、本当に貴婦人なのだ。それに、いまのわたしは、ベシーに会ったときよりも、ずっときれいになっている。血色も、肉づきもいい。元気いっぱいで、はつらつとしている。あのときよりも、希望は明るく、喜びははげしくなっているからなのだ。
「夕暮れが近づいたわ」わたしは窓のほうに目をやって、ひとりごちた。「きょうは、屋敷のなかでは、ロチェスターさまの声や足音が聞こえなかった。でも、夜になるまでには、きっとお目にかかれると思うわ。朝のうちは、お目にかかるのがこわかったのに、いまはお会いしたくてたまらない。これまでずっと期待はずれだったので、がまんできなくなったためね」
いよいよ夕闇がせまり、アデールがソフィと子供部屋で遊ぶためにむこうへ行ってしまうと、ロチェスターさまにお会いしたい気持ちがいやまさってきた。わたしは、階下のベルが聞こえはしないか、リアがことづてをもってあがってきはしないか、と耳をすました。なん回か、ロチェスターさま自身の足音が聞こえたように思って、ドアのほうをふりむいてみた。ドアが開いて、ロチェスターさまのお姿があらわれるのではないか、と期待していたのに、ドアは固く閉ざされたまま、窓から暗闇がはいってくるばかりだった。それでも、まだおそくはない。七時、八時にわたしを呼びによこすことは、ざらであったし、まだ六時になったばかりではないか。今夜だけは、待ち呆けなどということになってほしくないものだ。お話し申しあげたいことが山ほどあるのだから! もう一度、グレイス・プールの話をもち出してみて、ロチェスターさまがどう答えるかを聞いてみたい。昨夜のおそろしい殺人未遂事件の犯人が、あの女であると本当に信じているか、もしそう信じているのなら、なぜあの女の悪事を秘密にしているのか、単刀直入にきいてみたい。わたしの好奇心に、ロチェスターさまがいらだったとしても、そう気にすることはない。ロチェスターさまを怒らせたり、なだめたりする楽しみを、わたしは知っている。それは、わたしがいちばん気にいっている楽しみであり、寸分の狂いのない直観のおかげで、これまでも度をすごすようなまねは絶対にしたことがない。越えてはならない線を越えて、相手を立腹させたことは一度もないし、ぎりぎり一杯のところで腕だめしをするのは、まことにおもしろい。不遜な態度は爪のあかほども見せず、置かれた地位にふさわしい物腰を取りつづけるのだが、それでいて、窮屈な遠慮などすることなく、自信たっぷりに、ロチェスターさまと議論をたたかわすことができる。それがまた、わたしたち二人のお気に召していたのである。
やっとのことで、階段をきしませる足音が聞こえ、リアが姿を見せたが、フェアファックス夫人の部屋に、お茶の用意ができている旨を伝えにきただけであった。わたしは、階下へおりて行けるだけでもうれしいという気持ちで、夫人の部屋に出かけたが、そうすることで、ロチェスターさまのおそばに、すこしでも近づけると思ったからだった。
「お茶をお飲みになりたいにちがいないと思いましてね」わたしの顔を見ると、夫人はそういってから、「食事のとき、あまりお食べにならなかったでしょ。今日は、ご気分がすぐれないのではありませんの? 顔がほてっていらっしゃるし、熱がおありになるようね」
「いいえ、ぴんぴんしてますのよ! 最高の気分ですわ」
「じゃ、その証拠に、食欲のあるところを見せてくださらなくては。この段を編みおわりますので、ポットにお湯をいれてくださいませんか?」
夫人は編みおえると、それまであげたままにしてあったよろい戸をおろすために、立ちあがった。どうやら、日の光を最大限に利用するつもりだったらしいが、いまでは夕闇が急速に深まって、真の闇になろうとしている。
「今夜はいいお天気ですわ」夫人は、窓ガラスごしにのぞきながら、そういった。「星は出てませんけど。どうやら、ロチェスターさまの旅行には、もってこいのお天気でしたね」
「旅行ですって! ――ロチェスターさまは、どこかへ行かれたのですか? お留守とは、存じませんでしたわ」
「あら、朝食をすませると、すぐに出かけられたのですよ! 行き先は、『草原《リーズ》』という、ミルコートから十マイルむこうの、エシュトンさまのお屋敷なんですの。きっと、にぎやかな顔ぶれが集まっておいででしょうよ。イングラム卿、サー・ジョージ・リン、デント大佐といったかたがたがね」
「今夜お帰りになりますの?」
「いいえ――あすもお帰りじゃありませんよ。一週間も、その上も、ご滞在になるのじゃないかと思いますね。こうした上流社会のりっぱなかたたちがお集りになった場合、あたりには優雅で、にぎやかな雰囲気がいっぱいだし、おもしろおかしいものがいやというほど揃っているので、急におひらきというわけにはならないのですよ。こういう場合、とくに紳士がたは欠かせないことが多いのですが、ロチェスターさまは社交の術を心得ていらっしゃる上に、座をもりあがらせるかたなので、みなさまのお気にいりだと思いますね。ご婦人がたに好かれていますのよ。だんなさまは見かけがあんなですから、あまりご婦人がたのおぼえがよくはあるまいとお思いでしょうけど、身についたたしなみと才能、それに財産やら毛並みのよさもあって、少々不器量なぐらいは埋め合わせがついているようですよ」
「その『草原《リーズ》』には、ご婦人がおられますの?」
「エシュトンの奥さまと、三人のお嬢さま――なかなかにエレガントなお嬢さまがたですのよ。それから、イングラム家のブランシュさまとメアリーさま。たいへんな美人ぞろいと思いますよ。わたしは六年か七年まえ、ブランシュさまが十八歳のときにお目にかかったことがありましてね。ロチェスターさまが開かれたクリスマスのダンス・パーティにお見えになりましたのですよ。あの日の食堂のようす、あなたにお見せしたかったですわ――それはもうぜいたくな飾りつけで、まばゆいくらいに明かりがついていたのですよ! 紳士淑女、あわせて五十人はいましたでしょうか――この土地いちばんの名士のかたばかりなのですが、イングラムさまは、その晩のパーティの花形と見られておりましたからねえ」
「そのかたにお目にかかったと、いわれましたね、フェアファックスさん。どんなかたですの?」
「ええ、お目にかかりましたとも。食堂のドアは、すっかり開けはなされていましたし、クリスマスのことですから、召使いたちも玄関のホールに集まって、ご婦人がたの歌や演奏を聞いてもいいというお許しがでておりましたからね。ロチェスターさまが、わたしになかへはいるようにいってくださいましたので、わたしは、目立たない片隅に坐って、みなさまを拝見いたしました。あんなに見事な光景は、見たことがありませんわ。ご婦人がたはまばゆいばかりに着かざっておられるし、ほとんどのかたは――すくなくとも、お若いご婦人がたのほとんどは、美人ぞろいでしてね。そのなかでも、イングラムさまは、まちがいなく女王さまでしたわ」
「それで、どんなかたですの?」
「上背があって、りっぱなバストに、なで肩。長くて、ほっそりした首すじ。肌は浅黒い、きれいなオリーブ色。上品な顔だちで、目はロチェスターさまの目に似て、大きくて黒く、きらきら光っているところは、つけていらっしゃる宝石にそっくりでした。それに、そのかたのお髪ときたら、見事としかいいようがないほどでした。烏のぬれ羽色の上に、髪型もあのかたにぴったり。うしろは太く編んだ髪が冠のようでしたし、まえにたらしたカールは、わたしが見たことがないほどに長くて、つやつやしてましたよ。お召しものは、純白のドレス。肩から胸のあたりに琥珀色のスカーフをかけていましたが、脇で結んであって、長い縁飾りが膝の下までたれさがっていましたねえ。それから、髪にも琥珀色の花を一本さしていましたが、これがまた、ふさふさした真っ黒のカールと、見事なコントラストになっていましたよ」
「だれもが感心なさったでしょうね、もちろん?」
「そうですとも。ただお美しいというだけでなく、たいへんな素養がおありでしたからね。歌をうたわれたご婦人がたの一人でしたが、ある男のかたがピアノで伴奏されましてね。ロチェスターさまとデュエットでお歌いになったのですよ」
「ロチェスターさまがお歌いに! 存じませんでしたわ」
「あら! すてきなバスの持ち主で、音楽の趣味もたいへんにりっぱですのよ」
「それで、イングラムさまは、どんなお声でしたの?」
「とっても声量があって、力強い声でしたよ。楽しそうにお歌いになりましてね。聞いているほうも、うっとりしましたよ――あとでピアノもひかれました。わたしなど、音楽のことはさっぱりですが、ロチェスターさまは、しっかりした耳をおもちです。そのロチェスターさまが、あのかたの演奏はずばぬけていい、といっておられました」
「それで、その美しい、才媛のお嬢さまは、まだ独身ですのね?」
「そのようですね。ご姉妹とも、財産のほうは、あまりないように思いますよ。先代のイングラム卿の財産は、ほとんど限嗣相続(相続人を限定して財産を譲る)になってましてね、あらかたご長男のものになってしまったのです」
「でも、変ね、お金持ちの貴族か、紳士が、そのかたに心をひかれなかったなんて。たとえば、ロチェスターさまなんかが。だんなさまは、お金持ちなんでしょ?」
「そうですとも。でもね、あなた、年がずいぶんとひらいてますのよ。ロチェスターさまは四十近くになるのに、あのかたは、ほんの二十五ですからねえ」
「そんなこと、かまうものですか。もっと年のちがう者同士が、毎日のように結ばれているのですよ」
「それは、そうね。でも、ロチェスターさまは、そんなお考えをおもちにならないと思いますよ――それよりか、あなた、ちっとも召しあがりませんわね。お茶になってから、なんにも口をつけていらっしゃらないじゃないの」
「ええ、のどがかわいて、食べられないのですわ。もう一杯、お茶をいただけますかしら?」
わたしは、ロチェスターさまと美しいミス・ブランシュとの結婚の可能性に話をもどそうとしたが、アデールがはいってきたため、会話は別の方向にむかってしまった。
またもとの一人になったとき、わたしは、いま耳にした話をふりかえってみた。わたしの心のなかをのぞきこみ、考えたこと、感じたことを調べた結果、際限もなく、道もない想像の荒野を小羊みたいにさまよっている思考や感情を、きびしい手で、安全な常識のおりのなかへつれもどそうとした。
わたしは、わたし自身の法廷に呼び出された。まず、昨夜以来、わたしが抱いている希望、願望、感情――さらには、二週間まえくらいから、わたしがおぼれきっていた精神状態一般について、「記憶」が証言。つぎに進み出た「理性」が、いつもの冷静な口調で、率直に、虚飾のない発言をしたことから、現実を拒絶して、理想を狂おしいまでにむさぼっていたわたしの姿が明らかになった。裁判官のわたしは、つぎのような判決を下した――
この世に生をうけた人間で、ジェイン・エアほどの愚か者はいない。ジェイン・エアにまさる白痴の夢想家が、甘やかなうそに満足し、甘露のごとくに毒をのみほしたためしはない、と。
「|おまえ《ヽヽヽ》が、ロチェスターさまのお気にいりだって?」とわたしはいった。「|おまえ《ヽヽヽ》に、あのかたに気にいられる力がさずかっているって? |おまえ《ヽヽヽ》が、あのかたにとって、ほんのすこしでも意味のある存在だって? 行っておしまい! おまえの間抜けぶりを見てると、吐き気がしてくるよ。それに、おまえは、ときたま好意のしるしらしいものを見て、悦にいっていたのだからねえ――名門の紳士とか、世なれた人間が、召使いや世間知らずの者に示す、どうとでも取れるしるしだというのに。よくもまあ、そんな気になれたものさ。あわれな、だまされやすい、おばかさんだね! わが身がかわいかったら、もっとかしこくなってもよかったのじゃないかい? けさ、ゆうべの短い一幕を、心のなかに再現したんだって? ――顔をかくして、恥いることだね! あの男に、おまえの目がどうのこうのと、ほめられたんだって? めくらの小犬だね! そのかすんだ目をあけて、自分の救いようのない愚かさを見てごらん! 結婚する意志などさらさらない年上の男から、ちやほやされるのは女にとってろくなことではない。どんな女でも、恋の炎でひそかに身をこがすのは、愚の骨頂というもの。相手に知られず、片想いにおわってしまえば、恋をはぐくむいのちそのものが、その炎で焼きつくされるにちがいない。逆に、相手に知られて、心がかよいあったとしても、きつね火のような恋の炎のゆえに、ぬきさしならない泥沼へ足をつっこむことになるにちがいないからね。
「だから、ジェイン・エア、おまえの判決をお聞き。あすになったら、おまえのまえに鏡をおき、クレヨンで、おまえの自画像を忠実に描くこと。一つの欠点てもぼかしたり、いかつい線を省略したり、感じの悪いできそこないの部分を修正したりしては駄目。描けた絵の下には、『よるべのない、貧乏で、不器量な家庭教師の肖像』と書くこと。
「それがすんだら、すべすべした象牙(象牙に絵を描くのは、女性のたしなみの一つとされていた)を取り出して(おまえは絵具箱に一箇、用意してある)、パレットを手にもち、いちばんあざやかで、きれいで、澄明な色を混ぜあわせ、いちばん細い、ラクダの毛の絵筆を選んで、想像できるかぎりにかわいらしい顔の絵を、注意深く描くこと。その顔を、フェアファックス夫人からきいたブランシュ・イングラムの特徴のままに、おまえが出せるかぎりにソフトな陰影と美しい色彩とで塗りあげること。烏のぬれ羽色のカールと、東洋風の黒い目を忘れないように――なんてことを! ロチェスターさまの目を思い出してモデルにするなんて! とり乱すのじやないの! めそめそしない! ――センチになっては駄目! ――後悔もしないの! わたしにがまんできるのは、理性と決断だけですからね。威厳があって、しかも調和のとれた顔の輪郭、ギリシャ風の首とバストを思い出すこと。ふくよかで、まばゆいほどの腕と、デリケートな手がはっきり見えるように描き、ダイヤモンドの指輪や、金の腕輪を忘れては駄目よ。かろやかなレースにきらきら光るサテン、優雅なスカーフに金色のバラといった衣裳のほうも、忠実に描きこむこと。できあがった絵は、『上流階級の才女ブランシュ嬢』と名づけるがいい。
「これからさき、かりにもロチェスターさまに好意をもたれていると思ったりすることがあったら、その二枚の絵を取り出して、くらべてみてから、こういうことだね。『ロチェスターさまは、その気になりさえすれば、あの上品な令嬢の愛をかちとることができるだろう。あのかたが、この名もなく、貧しい下賤の女のことを真剣に考えるようなばかなまねをするはずがないではないか?』と」
「そのとおりにするわ」とわたしは誓った。そう心がきまってしまうと、気分が楽になり、わたしは眠りに落ちていった。
わたしは誓いの言葉を守った。わたしの自画像をクレヨンで描くには、一時間か二時間あればよかった。象牙に想像で描いた、ブランシュ・イングラムの細密画も、二週間足らずで完成した。まことに美しい顔であったし、クレヨンで描いた現実のわたしの顔とくらべた場合、両者のあいだには、わたしの自制心を満足させるに足るだけの、雲泥の差があった。この仕事は、わたしにとって有益であった。わたしは、頭と手を働かせどおしであっただけでなく、わたしの心のなかへ消えないようにしっかりと刻みこみたいと願っている新しい印象に、永久不変の力強さをあたえることができたからである。
ほどなくして、わたしは、このように自分の感情に健全なしつけを無理に押しつけたことを、喜んでしかるべきではないか、と思うようになった。わたしが、その後のもろもろの出来事を、かなり冷静に受けとめることができたのは、この感情教育のおかげであったのだ。その出来事がふりかかったとき、わたしに心の準備がなかったとしたら、そのような冷静さを、表面的に持ちつづけることすらも不可能であったのではないだろうか。
[#改ページ]
十七章
一週間がすぎたが、ロチェスターさまについてのニュースは、なに一つとどかなかった。十日たっても、ロチェスターさまは帰ってこない。フェアファックス夫人は、ロチェスターさまが『草原《リーズ》』からまっすぐロンドンへ行き、そこから大陸へわたったまま、むこう一年間、二度とソーンフィールドに顔をみせないとしても、驚いたりはしない、といっている。こんなふうに、いきなり前ぶれもなしにソーンフィールドを留守にすることが、これまでになん回もあったからだ。この話を聞いたとき、わたしは、胸のあたりが妙にひんやりとなり、力がぬけて行くのを感じた。いや、痛いような失望感を味わうことすら、自分自身に許したが、理性を取りもどし、わたしの決意を思い出すことによって、すぐさま気持ちに整理をつけたのであった。この一時的な心のゆるみをのりこえたわたしの態度――ロチェスターさまの行動を、わたしが強い関心を示す理由がいささかでもある事柄とみなすような誤りを一掃したわたしの態度は、まことにお見事というほかはなかった。わたしは、劣等感などという卑屈な考えで、自分をおとしめるようなまねはしなかった。それどころか、みずからにこういって聞かせたのだ――
「おまえは、ソーンフィールドの主人とは、なんの関係もない、主人が面倒をみている子どもの家庭教師としてサラリーを受けとることと、義務をりっぱにはたしたおまえが当然、主人に期待することのできる、礼儀正しくて親切な待遇に感謝の意を表すことのほかには。それが、おまえとのあいだに主人がまじめにみとめている唯一の絆であることを忘れないように。だから主人を、おまえの高尚な感情や、歓喜や、苦悩などの対象にしてはならない。主人は、おまえと同じ階級の人間ではないから、おまえは分を守らねばならぬ。それに、気位を高くもち、全心全霊をあげて惜しみなく愛するようなまねは、そのような愛の贈り物が必要とされず、軽蔑されかねない場合には、つつしまねばならぬ」
わたしは毎日の仕事を、いかにも平穏無事につづけたが、それでも、ときどき、ソーンフィールドを去らねばならない理由について、いくつかの漠然とした考えが、わたしの脳裏をかすめるのだった。思わず知らずのうちに、新聞広告の文句を考えたり、新しい就職口のことをあれこれと想像したりしていた。こうした考えを押えつける必要はあるまい。場合によっては芽をふき、実をつけるかもしれないのだから、とわたしは思った。
ロチェスターさまが家をあけてから二週間以上もたったころ、郵便物のなかに、フェアファックス夫人あての手紙が一通、まじっていた。
「だんなさまからですよ」夫人は、手紙の上書きを見やりながらいった。「これで、いよいよお帰りになるかどうかがわかりそうですね」
夫人が手紙の封を切って、文面に目を走らせているあいだ、わたしはコーヒーをのみつづけていた(わたしたちは、朝食中であった)。コーヒーが熱かったので、わたしは、急にわたしの頬がかっと燃えるようにほてりはじめたのを、そのせいにしてしまった。わたしの手がふるえるのはなぜか、カップのなか身が半分も、ひとりでに受け皿へこぼれたのはなぜか、わたしは考えてみようともしなかった。
「さあてと――この家は静かすぎると思うことが、ときどきありますけど、これからは、かなり忙しい目に会いそうですよ。すくなくとも、しばらくのあいだはね」とフェアファックス夫人は、手紙を眼鏡のまえにかざしたままでいった。
わたしは、その理由をきき出すまえに、ちょうどとけていたアデールのエプロンのひもを結んでやり、その上、ロールパンをもう一つ取ってやって、コップにもう一杯、ミルクをつぎたしてやった。わたしは、さりげなく、こういった――
「ロチェスターさまは、すぐにはお帰りにならないのでしょうね?」
「それが、すぐにお帰りなんですのよ――三日後、と書いてありますから、木曜日になりますわね。それも、お一人じゃないのですよ。『草原《リーズ》』にお住まいのりっぱなかたがたが、なん人お見えになるのか、わたしにはわかりかねますけど、だんなさまのお指図には、いちばんいい寝室をぜんぶ用意しておくように、とあります。それに、図書室と応接室の掃除もしなければならないのですよ。ミルコートのジョージ旅館《イン》や、そのほかのいたるところから、台所の手伝い人を雇ってこなければなりませんわ。ご婦人のお客さまがたは小間使いをおつれになるし、紳士がたは従者をつれてこられますから、この屋敷には空いた部屋がなくなりますわね」
そういってから、フェアファックス夫人は、朝食をのみこむようにして終えると、準備の仕事に取りかかるため、あたふたと出て行った。
三日間は、夫人のいったとおり、かなり忙しかった。ソーンフィールド・ホールの部屋は、どれもきれいにかたづけられ、整理整頓が行きとどいていると思っていたが、わたしのまちがいのようだった。三人の手伝い女が雇いいれられた。それに、こんなふうにごしごしこすったり、ブラシをかけたり、ペンキを塗ったり、カーペットをたたいたり、絵をはずしたりかけたり、鏡やシャンデリアを磨いたり、寝室の暖炉に火を起こしたり、シーツや羽ぶとんを炉ばたでかわかしたりするようすは、あとにもさきにも見たことがない。アデールは、そのなかを駆けまわって、大はしゃぎにはしゃいでいる。お客を迎える準備やら、その到着を待つ気持ちやらで、無我夢中になっているらしい。「衣裳《トワレット》」と呼んでいるドレス類をぜんぶソフィに調べさせ、「|流行おくれ《パセ》」になったのは縫いなおしてもらい、新しいのは風に当てた上で整理してもらっている。本人のほうは、いくつもあるおもての寝室ではね回ったり、ベッドの上にとびあがってはとびおりたり、煙突でごうごうと音をたてて盛大にもえている暖炉の火のまえのマットレスや、積みかさねた長まくらや、クッションの上に寝ころがったりしているだけである。学校の勉強から解放されていたのは、わたしがフェアファックス夫人のたっての願いで、夫人の手伝いに駆り出されていたためだった。そして、わたしは、朝から晩まで貯蔵室にいて、夫人や料理人に手をかしながら(というか、足を引っぱりながら)、カスタード(牛乳、卵、砂糖などを混ぜて煮つめたもの)やチーズケーキやフレンチ・パイの作り方とか、鳥の羽や足のしばり方、デザートの盛り方などをおぼえていた。
一行は木曜日の午後、六時の晩餐に間にあうように到着する予定だった。それまでのあいだ、わたしがらちもない妄想にふける余裕はなかったし、ほかのだれにも――アデールだけは別だが――劣らないほどにせっせと働き、陽気であったと思っている。それでも、ときたま、わたしの浮き浮きした気分が、水をさされでもしたように、急にさめきったような気持ちになり、自分でも気がつかないうちに、疑惑と、不吉な前兆と、暗い邪推の世界に投げもどされることがあった。それは、三階への階段が(この頃では、いつも鍵がかかったままであった)ゆっくりと開いて、帽子と白いエプロンとハンカチを身につけた、きちんとした身なりのグレイス・プールが姿をあらわすのを見かけるときであった。この女が布製の寝室用のスリッパで足音をしのばせながら、廊下をすべるように歩くのを見守ったり、ざわざわとごったがえしている寝室をのぞきこんで、日雇いの雑役婦にむかってでもあろうか、暖炉の火格子を磨いたり、大理石のマントルピースを掃除したり、壁紙をはった壁のしみをとったりするさいの正しいやり方について、一言ちょっと声をかけてから、すたすたと遠ざかるのを見送ったりするときであった。このように、グレイス・プールは、日に一回はかならず台所におりてきて、夕食をとり、暖炉のまえでほどほどに一服やってから、三階にある陰気な自分の住みかでこっそり楽しむために、黒ビールを一本かかえて引きあげて行く。この女が仲間の召使いたちと階下ですごすのは、二十四時間のうち、たったの一時間だけ。あとの時間はすべて、三階の、天井の低い、オーク材の部屋ですごしている。その部屋で、地下牢の囚人と同様、話し相手もないままに坐ったきりで縫い物にはげみ――おそらく、たった一人で、無気味に笑っているのではあるまいか。
なににもまして奇妙なことは、屋敷のなかに、わたしをのぞいて、グレイスの習慣に目をとめたり、異常に思っているようにみえる人間が、たったの一人もいないということだった。グレイスの地位や仕事について口にする者はだれもいなかったし、その孤独で、よるべない身をあわれに思う者もいなかった。そういえば、一度だけ、リアと日雇いの雑役婦の一人が、グレイスのことを話しあっている会話の一部を立ち聞きしたことがある。リアがいっていることはよくわからなかったが、雑役婦はこういった――
「じゃ、あの女、いい給料をもらってるね?」
「そうよ」とリアがいった。「あたしも、あれくらいもらえればいいんだけど。あたしの給料がすくない、という意味じゃないのよ――ソーンフィールドじゃ、けちけちしたりなんかしないんだから。でもね、あたしの給料は、プールさんがもらっている分の、五分の一もないの。それに、あの人、貯金をしていて、四半期ごとにミルコートの銀行へ行くのよ。好きなときにやめても、けっこう一人立ちしてやって行けるくらいは貯めこんでいても、不思議はないと思うわ。でもね、あの人、この屋敷になじんでしまったらしいの。それに、まだ四十まえで、からだは丈夫だし、なんだってできるわよ。いま仕事をやめるなんて、早すぎるものね」
「腕のある働き手だろうね」と雑役婦がいった。
「そりゃあ! ――自分の仕事は、ちゃんとわかってるわよ――だれにも負けないくらいにね」リアは意味ありげに答えた。「それに、あの人の仕事は、だれにでもかわりが勤まるというものじゃないんだから。あの人の給料をぜんぶもらったってね」
「まったく、そのとおりだよねえ」というのが、雑役婦の答えだった。「それにしても、だんなさまはいったい――」
雑役婦はつづけてしゃべろうとした。だが、このときリアがうしろをふりむいて、わたしの姿に目をとめると、大急ぎで相手をひじでつっついた。
「あの女、知らないのかい?」とささやく雑役婦の声が、わたしの耳に聞こえた。
リアは首を横にふり、当然のことながら、会話は、そのままになってしまった。わたしがそこから知り得たことといえば、せいぜいでこれだけ――つまり、ソーンフィールド・ホールには秘密があるということ、その秘密にわたしをわざと関知させないようにしているということだけだった。
木曜日になった。まえの晩までに、すべての準備は完了していた。敷きつめられたカーペット、花綱でかざられたベッドのカーテン、ベッドにかけられた輝くばかりに白い掛けぶとん、用意された化粧台、磨きあげられた家具類、花瓶にいけられた花。寝室も客間も、これ以上は人間の手では無理と思われるほどに新しくなり、ぴかぴか光っている。玄関のホールも、洗われたようになっている。彫刻のある大時計も、階段のあがり段や手すりと同様、すっかり磨かれて、ガラスみたいにきらきら輝いている。食堂では、食器戸棚が銀食器で燦然と輝き、客間と婦人用の小部屋では、花瓶にいけられたエキゾティックな花が、いたるところで咲き乱れている。
午後になった。フェアファックス夫人は一張羅の黒いサテンのイブニング・ドレスを着て、手袋をはめ、金時計もぶらさげた。一行を出迎え、婦人がたを部屋へ案内したりするのが、夫人の仕事だったからだ。アデールも着替えをするといってきかない。この子が一同に紹介されるチャンスは、すくなくともその日のうちにあるまい、とわたしは思ったが、アデールを喜ばせるために、短く、ゆったりしたモスリンの洋服を着せてやることを、ソフィに許可した。わたし自身は、着がえの必要などさらさらなかった。わたしが教室という聖域から呼びだされる心配は、ありそうになかったからだが、たしかに教室は、いまのわたしにとって、聖域になっていた――「悩める時の、いと楽しき避け所」(旧約聖書、詩篇、第四十六篇第一節を参照)であったのだ。
のどかで、おだやかな春の日であった。三月のおわり近くか、四月のはじめごろ、夏の先ぶれのように、地上一面にさんさんと光をふりそそがせる日がよくあるが、そんな春の日であった。日暮れがせまっていたが、暑いくらいの夕方であったので、わたしは教室の窓を開けはなしたままで、仕事をしていた。
「おそいですわねえ」といいながら、盛装のフェアファックス夫人が、衣ずれの音をさせてはいってきた。「ロチェスターさまのご指定の時刻よりも一時間おくらせて食事の用意をさせておいて、よかったですわ。もう六時をまわりましたものね。道になにか見えないか、門のところまでジョンをやって、調べさせておりますのよ。あそこからですと、ミルコートのほうが遠くまで見わたせますものね」夫人は窓ぎわへ行くと、「ジョンがまいりますわよ!」といいながら、「ねえ、ジョン」(身をのりだすようにして)「なにか変わったことでも?」
「みなさんがお見えですよ、奥さん」というジョンの返事。「十分で到着されますでしょうな」
アデールが窓ぎわへ飛んで行った。わたしもあとにつづいたが、わきへ身をひいて立ったのは、カーテンにかくれたまま、むこうから見られないで観察するためだった。
ジョンのいった十分間は、ずいぶんと長いように思われたが、やがて、車の音が聞こえてきた。馬にのった人が四名、車道を駆けあがってくると、そのあとに二台の無蓋の馬車がつづいた。ゆれ動くヴェールと波うつ羽毛飾りが、馬車にあふれている。馬上の四人のうち、二人は元気はつらつとした感じの青年紳士で、三人目がメスルアと名づける黒い駿馬にまたがったロチェスターさまで、そのまえをパイロットがとびはねている。そのとなりには、女性が一人、馬を走らせていて、この二人が一行の先頭をきっていた。その女性の紫色の乗馬服は地面とすれあわんばかりで、ヴェールは微風に長くたなびいている。そのヴェールのすきとおったひだとまざりあい、それをすかして見えかくれしながら、ふさふさした漆黒の巻き毛が光っている。
「イングラムさまですわ!」フェアファックス夫人は叫ぶと、階下の自分の持ち場へと、大いそぎで駆けおりて行った。
騎馬と馬車の行列は、車道のカーブに沿って走りつづけ、やがて建物のかどをまがって、見えなくなった。そこでアデールは階下へ行かしてくれ、とねだりはじめたが、わたしはアデールを膝にだきかかえると、いまであろうと、いつであろうと、とくにお呼びのないかぎり、婦人がたのまえに姿を見せるようなまねは絶対にしてはいけない、そんなことをすれば、ロチェスターさまがたいへんに立腹されるだろう、といった意味のことをいって聞かせた。これを聞いて、アデールは「自然の涙をば数滴流せし」(ミルトン作『失楽園』第十一巻への言及)が、わたしがうんとこわい顔をしはじめると、やっということを聞いて、その涙をふきとった。
玄関のホールからは、楽しげなざわめきが聞こえてきた。紳士がたのふとい声と、婦人がたの銀の鈴をふるような声が見事に調和してとけあっている。だが、けっして声高に話しているのではないのに、はっきりと聞きわけられたのは、りっぱな男女の客人を歓迎しているソーンフィールド・ホールの当主の朗々たる声であった。やがて軽やかに階段をあがる足音が聞こえてきた。廊下を小走りに歩く音。そっと楽しげに笑う声。ドアが開いたり閉まったりする音。やがて、しばらくは静かになった。
「ご婦人がたは、着がえをなさってるのね」じっと聞き耳をたてて、室外のあらゆる動きを追っていたアデールは、そうフランス語でいってから、ため息をついた。
「ママといっしょのころ、お客さまがあったら、応接間でも、お客さまの部屋でも、いたるところへついて行ったわ。しょっちゅう、小間使いが奥さまがたの髪を結ったり、ドレスを着せたりするのを見たの。とってもおもしろかったわ。あんなふうにして、いろんなことをおぼえるものなのね」
「おなかはすいてないの、アデール?」
「ぺこぺこよ、先生。お食事をすませてから、五時間か六時間になりますものね」
「それじゃ、ご婦人がたがお部屋にいらっしゃるあいだに、そっと下へおりて行って、なにか食べるものをもってきてあげましょうね」
そこで、わたしの隠れ場をしのび足で脱けだすと、わたしは台所へ直接つながっている裏の階段をさがした。台所一帯は熱気と興奮の渦。スープと魚は|仕上り《プロジェクション》直前の段階で、鍋《クルーシブル》の上にかがみこんでいる料理番は、精神も肉体も自然発火をおこしそうな状態であった(「プロジェクション」も「クルーシブル」も錬金術用語。また、ブロンテの同時代人は「自然発火」という現象を信じていた)。召使い用の食堂では、二人の御者と三人の紳士づきの従者が、暖炉をかこんで立ったり坐ったりしている。侍女たちは、女主人と二階にいるらしい。ミルコートから新しく雇いいれた召使いたちは、あちこちで忙しそうに立ち働いている。このごたごたを縫うようにして、わたしはやっと食料貯蔵室にたどりつき、そこでコールド・チキンと、ロールパンと、いくつかの果物いりのパイ、それに皿を一、二枚とナイフにフォークを手にいれると、その戦利品をかかえて、大いそぎで退却した。わたしが廊下まで引きあげてきて、裏のドアを閉めようとしていたとき、わやわやという声が急に高まって、ご婦人がたが部屋から出てこようとしていることがわかった。教室へ行きつくためには、その部屋のいくつかのまえを通り、食料品の運搬中を見とがめられるという危険をおかさなくてはならない。そこで、わたしは、廊下のつき当りにじっと立ちつくしていた。そこは窓がないために薄暗い上、いまは太陽が沈んで、夕闇がせまっているため、まっ暗になっていたのだ。
まもなく、それぞれの部屋から、一人、また一人と部屋の美しい主たちが姿をあらわした。陽気で、軽やかな足どりで出てくるご婦人がたは、いずれも夜目にも光り輝くドレスをまとっている。ほんのちょっとのあいだ、みんなは廊下の反対側のつき当りで立ちどまると、声をひそめて楽しげな、いきいきとした口調で話しあっていたが、やがて丘を流れる明るい霧のように音もなく階段をおりて行った。こうした一同のようすから、わたしは良家の子女の優雅さといった印象を受けたが、それはわたしがこれまでに経験したことのない印象であった。
教室にもどると、アデールは半開きにしたドアから外をのぞいていた。「なんて美しい女性《レディ》ばかりでしょうね!」とアデールは英語で叫んだ。「ほんとに、あのかたたちのところへ行きたいわ! 晩餐のあとにでも、ロチェスターさまがわたしたちを呼んでくださるかしらね、先生?」
「いいえ、そんなことはないわよ。ロチェスターさまは、ほかのことで頭がいっぱいですからね。今夜は、ご婦人がたのことは忘れることよ。あすになったら、お目にかかれると思うわ。さあ、あなたのお食事よ」
アデールは本当に空腹だったので、コールド・チキンと果物いりのパイが、しばらくはその注意をそらせるのに役立った。わたしがこの食料品を確保したのは、まことに幸いだった。そうでなかったら、アデールも、わたしも、わたしたちの食べ物のおすそ分けをしてやったソフィも、いっさい食事ぬきという羽目になったかもしれない。階下では、だれもかれも目のまわるような忙しさで、わたしたちのことを思い出すひまがなかったのである。デザートがお客に出されたのは、九時をまわってからのことだったし、十時になっても、コーヒー茶碗をのせた盆をもった給仕たちが足早に行ったり来たりしていた。アデールがいつもよりずっとおそくまで起きているのを、わたしは許しておいたが、階下でドアが開閉したり、人びとがせわしそうに走りまわったりしているあいだは、とても寝つかれそうにない、というからであった。それに、アデールは、着がえをしたあとでロチェスターさまのお呼びがあるかもしれないし、「|そうなったら、どんなに残念なことでしょう《エ・アロール・ケル・ドマージュ》!」とつけ加えた。
わたしはアデールが聞く気になっているあいだ、いろいろと話をしてやり、そのあとで気分転換のために、廊下へつれ出してやった。玄関のホールにはランプがともされていたが、召使いが行き来するのを欄干ごしに眺めて、アデールは大喜びだった。夜もすっかりふけたころ、ピアノを移してあった客間から音楽が聞こえてきた。アデールとわたしは階段のいちばん上の段に腰をおろして、その音楽に聞きいった。やがて、ピアノの豊かな音色に、歌声がとけあった。うたっているのは女性で、その声がなんともいえず美しい。独唱《ソロ》のあとは二重唱《デュエット》となり、やがて合唱《グリー》がつづいた。楽しげな会話のざわめきが、歌の合い間をみたしている。わたしは、長いあいだ、じっと聞きいっていた。突然、わたしの耳が多人数のまざりあった声を分析し、てんでばらばらな人声のなかからロチェスターさまの声を聞きわけようとして夢中になっていることに気がついた。そして、それをいったん聞きわけると(簡単に聞きわけることができたが)、わたしの耳は、遠くはなれているためにはっきりしない声を、意味のある言葉に移しかえるという、つぎの仕事にとりかかっているのであった。
ホールの時計が十一時を打った。アデールを見やると、頭をわたしの肩によせかけ、眼が重そうになっている。わたしはアデールを抱きかかえて、ベッドへはこんで行った。紳士淑女がたが寝室へ引きあげてきたのは、一時近くだった。
翌日も前日におとらず快晴だった。一行は、この日を近在への遊山旅行にあてることになり、騎馬組と馬車組にわかれて、朝早く出発した。わたしは、出かけるところも帰ってくるところも見ていた。前日と同じで、馬にのっている女性はミス・イングラムだけであった。そして、前日と同じく、ロチェスターさまは、ならんで馬を走らせている。二人は、ほかのかたたちからすこしはなれて駆けて行った。わたしは、この点に、ならんで窓ぎわに立っていたフェアファックス夫人の注意をうながした――
「あのお二人は結婚を考えているふうには見えないといわれましたけど、ロチェスターさまは、あのかたがほかの女のかたよりもお気にいりのようですわね」
「ええ、そうかもしれませんね。だんなさまがイングラムさまに敬服しているのはたしかですわ」
「それに、イングラムさまのほうもじゃないかしら」とわたしはつけ加えた。「ロチェスターさまのほうへ首をかしげているようすをごらんになって。ないしょ話でもしているみたい! イングラムさまのお顔を拝見したいものですわ。まだ一度もお目にかかっていないんですのよ」
「今夜、お目にかかれますわ」とフェアファックス夫人が答えた。「アデールがご婦人がたに紹介されたがっていることを、ロチェスターさまにたまたま申しあげましたところ、『そうか! 晩餐のあとで客間へこさせなさい。エア先生にもごいっしょをお願いするんだよ』といわれましたの」
「そうですか――でも、ただの社交辞令でいわれたのですわ。わたしが顔を出すことはありませんわよ」とわたしは答えた。
「それがね――あなたは社交に不慣れでいらっしゃるから、にぎやかな席に――それも知らない人ばかりの席に出るのは、おいやではないかしら、と申しあげたのですよ。そしたら、いつもの短気な口調で、『ナンセンス! いやだといったら、わたしのたっての望みだからといいたまえ。それでも強情をはるようなら、主人のいうことをきかないやつは、こっちから引っぱりに行くから、というんだな』ですって」
「そのご心配にはおよばないと思いますわ」とわたしは答えた。「行くよりほかになければ、行きもしますわ。でも、気がすすみませんわね。あなたもいらっしゃるのでしょ、フェアファックスさん?」
「いいえ。わたしはご辞退申しあげて、聞きいれていただいたのですよ。こういった場合、いちばん心の重荷になるのは、盛装して部屋にはいって行くことですけど、その気まずさをさける方法を教えてさしあげますわ。ご婦人がたが晩餐のテーブルをはなれないうちに、だれもいない客間へはいるのが一番ですのよ。人目につかない場所を見つけて、そこに陣取ること。おいやでしたら、紳士がたがはいってきてからは長居をすることはありませんのよ。あなたが顔を見せていることをロチェスターさまにわからせたら、あとはそっとぬけ出せばよろしいわけ――だれも気づくかたはいらっしゃいませんから」
「あのかたたちは長逗留をなさるとお思い?」
「二週間か三週間でしょうね。それを越すことは、まずありません。復活祭《イースター》の休暇がおわると、ミルコート代表の議員に選出されたばかりのサー・ジョージ・リンが、ロンドンへ行って、議会に出席せねばなりませんから。ロチェスターさまも、ごいっしょするのではないですかしらね。だんなさまのソーンフィールド滞在が、もうこんなにも長くのびているのには、わたし、驚いておりますのですよ」
わたしは、不安な思いをつのらせながら、わたしの生徒をつれて客間に出かける時刻が近づくのを待った。夜になったら、ご婦人がたに紹介されると知ったアデールは、一日中、うっとりとしていたが、ソフィが着つけにとりかかるころになって、やっと興奮がさめた。やがて、着つけという大問題のせいで、あっという間に冷静さを取りもどした。そして、カールした髪をきれいになでつけて、ふさふさとたれさがらし、ピンク色のサテンのドレスを身につけ、長い|飾り帯《サッシュ》をむすび、レースの長手袋をつけおわるころには、裁判官も顔まけのまじめな表情になっていた。着くずしをしないように、などと注意する必要はさらさらない。着がえのおわったアデールは、サテンのスカートがしわにならないよう、まず用心深くもちあげてから、いつもの小さな椅子にゆったりと腰をおろし、先生のご用意ができるまでは身動き一つしないわよ、といった。わたしの用意といっても、まことに簡単。いちばん上等のドレス(テンプル先生の結婚式に買って以来、いちども袖を通していない銀ねず色のドレス)をさっと身にまとい、髪をさっとなでつけ、たった一つの装身具である真珠のブローチもさっとつけおわった。わたしたちは階下へおりて行った。
幸いなことに、客間には別の入り口があって、一同が晩餐の席についている食堂を通らなくてもよかった。客間にはだれもいなかった。大理石の暖炉であかあかと静かに燃えている火。いくつかのテーブルを飾っている見事な花のあいだで、ひっそりと輝いている明るいろうそく。例の真紅のカーテンが、アーチ型の入り口のまえにかかっている。となりの食堂にいる紳士淑女とは、このカーテン一枚で仕切られているだけで、まことに簡単ではあったが、非常に低い声で会話をしていたので、聞きとることができるのは、ここちよく響くざわめきくらいであった。
アデールは、身のひきしまるような緊張感にとらわれていたのか、わたしが指さした足台に、一言も口をきかずに腰をおろした。わたしは窓の下の腰掛けに身をひそめると、近くのテーブルから本をとりあげて、活字に目をやろうとした。アデールはわたしの足もとに足台をもってくると、しばらくして、わたしの膝にさわった。
「どうしたの、アデール?」
「あの素敵なお花を一本だけ、もらってはいけない、先生? あたしのお洋服の仕あげにしたいんだけどな」
「『|お洋服《トワレット》』のことばかり考えすぎるわよ、アデール、でも、一本ならいいでしょ」
わたしはバラを一本、花瓶から取ると、|飾り帯《サッシュ》につけてやった。アデールは、幸福の絶頂に達しでもしたかのように、いいようのない満足感にあふれた嘆声をもらした。失笑を禁じ得なかったわたしは、それをかくすために横をむいた。この年端もゆかぬパリ娘に生まれつきそなわっている、服装へのひたむきな執心ぶりには、痛ましいばかりでなく、どこか滑稽なところがあったのだ。
やがて、静かに席を立つ音が聞こえてきた。アーチ型の入り口にかかったカーテンが引き開けられ、そこから食堂の光景が目にはいった。明かりのともったシャンデリアの光が、長いテーブル一面に置かれたデザート用の見事な銀器やグラスの上にふり注いでいる。入り口に立ったご婦人の一団がなかにはいると、そのうしろでカーテンがおろされた。
数はわずか八人だったが、ぞろぞろとはいってきたせいか、ずっとたくさんいるような印象を受けた。背がすごく高いかたもいる。多くは白いドレスを身にまとっている。みんな、いかにもふんわりとふくらんだ装いに身をつつんでいて、霧のために月が大きく見えるように、ひとまわり大きくなったような感じだった。わたしは立ちあがって丁寧におじぎをしたが、会釈をかえしてくれたのは一人か二人で、あとはわたしをじろじろと見つめるだけだった。
一同は部屋のそこここに陣取ったが、その軽快で柔軟な物腰は、白い羽の鳥の群れを思わせた。ソファや低い長椅子に半ばよりかかるようにして身を投げかける人もあれば、テーブルにかがみこんで花や書物を調べている人もいる。ほかのかたたちは、暖炉のまわりにひとかたまりになっている。だれもかれも低い、よくとおる声で話しているが、どうやらそれが習慣になっているらしい。このかたがたの名前を知ったのは、あとになってからだが、いまここで書いておくほうがいいだろう。
まず、エシュトン夫人と、二人のお嬢さまがた。夫人が美人であったろうことは一目瞭然だが、いまだに容色は衰えていない。お嬢さまがたのうち、長女のエイミーは、どちらかというと小柄で、ナイーブな感じ。顔も物腰も子ども子どもしていて、からだつきにはぴりっとしたところがある。白いモスリンのドレスと青い|飾り帯《サッシュ》がよく似あっていた。次女のルイーザは、姉よりも背が高く、身のこなしもずっとエレガントだった。まことにかれんな顔だちは、フランス人が「|愛嬌はいいが整っていない顔《ミヌワ・シフオネ》」と称する部類に属している。姉妹ともにユリの花のようにきれいだった。 リン夫人は四十歳前後の、大柄な、肥満体の持ち主だった。思いきりそっくりかえっていて、いかにも高慢な顔つきで、玉虫織りのサテンのイブニング・ドレスというぜいたくな服装をしている。青い羽飾りのかげや、宝石をちりばめた円型のヘアバンドのなかあたりで、黒い髪がきらきらと光っている。
デント大佐夫人は、リン夫人ほど派手ではないが、もっと貴婦人然としているように、わたしには思われた。小柄で、青白い、やさしい顔に、金髪である。この夫人の黒いサテンのドレスや、外国製のぜいたくなレースのスカーフや、真珠の装身具のほうが、貴族であるリン夫人の虹のようなきらびやかさよりも、わたしの好みにあっていた。
だが、なかでも目立ったのは――一座のなかで背がとびぬけて高かったことも一因だったろうが――イングラム卿夫人と、令嬢のブランシュとメアリーの三人だった。三人とも、女性としては珍らしいくらい背が高い。夫人は四、五十歳という年格好で、まだからだはしゃんとしているし、髪も(すくなくとも、ろうそくの明かりで見たかぎりでは)まだ黒い。歯のほうも、まだまだ完全にそろっているらしい。この年齢の女性にしては非の打ちどころがない、と大多数の人はいうことだろう。たしかに、肉体的な点からだけいえば、そのとおりにちがいなかった。だが、夫人の態度と顔つきには、鼻もちならないほどの傲慢がありありと見えている。その目鼻立ちはローマ的で、二重あごは柱みたいなのどのあたりに消えていたが、その顔は高慢さのためにふくれあがって、陰気くさいばかりでなく、しわとなって刻みこまれているようにさえ思われた。あごのほうも同じ高慢さで支えられて、不自然といってもいいほどにつんと突き出した格好になっている。夫人はまた、とげとげしい、こわい目つきをしていて、それはわたしにリード夫人の目つきを思い出させた。それに威丈高な口のききかた、もったいぶった声、ひどくおうへいで、高圧的としかいいようのない――つまり、まったくがまんならない声の抑揚。深紅色のビロードのイブニング・ドレスと、金糸の刺しゅうのあるインド製の生地でできたターバン帽とで、れっきとした王侯貴族を思わせる威厳がそなわっている――そう夫人は思いこんでいるふうであった。
ブランシュとメアリーは背丈が同じくらい――ポプラのように高く、まっすぐに伸びている。メアリーは背が高い割りにやせていたが、ブランシュのスタイルは、|月の女神《ダイアナ》さながらだった。わたしがブランシュを特別な興味をもって見つめたことは、いうまでもない。わたしがたしかめたかったことは、第一に、ブランシュの容姿がフェアファックス夫人の描写に合致しているかどうか、第二に、わたしが想像しながら描いた細密画に似ているかどうか、第三に――白状しないわけにはいくまい! ――ロチェスターさまの趣味にあうように思われる容姿であるかどうか、ということであった。
容姿に関するかぎり、ブランシュはわたしの描いた絵にも、フェアファックス夫人の描写にも、なにからなにまでぴったりと一致していた。上品なバスト、なだらかな肩、しとやかな首筋、黒い目、黒い巻き毛となに一つ欠けていない。――だが、顔はどうか? 顔は母親似だった。若々しくて、しわこそないが、まったくの生きうつし。せまい額、大きい目鼻の作り、それに高慢さまで、そっくり母親ゆずりである。だが、母親とちがって、ブランシュの高慢さには、陰にこもったところがない。いつも声をたてて笑っているが、その笑いには皮肉があふれていたし、弓なりにそっくりかえった尊大な唇にたえず浮かんでいる表情についても同じことがいえた。
天才は自意識が強いとか。ミス・イングラムが天才かどうか、わたしにはわからない。だが、自意識が強いことは――自意識過剰もいいところであることは、たしかであった。おとなしいデント夫人を相手に、植物学について会話をかわしている。デント夫人は花、「とくに野生の花」が好きだとはいっているものの、植物学の勉強をしたようすはない。ところが、その学問を勉強したことのあるミス・イングラムは、専門用語を得意げにぺらぺらとまくしたてている。やがてわたしは、ミス・イングラムがデント夫人を(土地の言葉を使っていうと)「いいカモにしている」、つまりデント夫人の無知につけこんでいることに気がついた。やりかたは巧妙であったが、悪意があふれていることは否定すべくもない。ミス・イングラムは、ピアノをひかせれば、りっぱにひきこなすし、歌をうたわせれば、きれいな声を出す。母親にはとくにフランス語で話していたが、流暢で、アクセントも正しい、見事な話しぶりだった。
メアリーの顔つきは、ブランシュよりもおだやかで、おおまかだった。目鼻だちにしても、それほどきつくはないし、肌の色も、いくぶんか白さがまさっていた(ミス・イングラムは、スペイン人のように浅黒い)――だが、メアリーには生気が欠けている。顔の表情は皆無だし、目にも輝きがない。一言も口をきかないし、席についたあとは、壁龕《へきがん》の彫像みたいに身じろぎ一つしない。姉妹は、二人とも純白のドレスをまとっていた。
さて、わたしはミス・イングラムをロチェスターさま好みの女性と思っただろうか? わたしには答えられない――女性美に関するロチェスターさまの好みを、わたしは知らなかったのだから。堂々とした女性がお好みなら、ミス・イングラムこそは、堂々とした女性にほかならない。その上、教養は備わっているし、才気縦横ときている。こんな女性に感心しない男性がいるはずはあるまい。いや、ロチェスターさまがミス・イングラムに敬服している事実《ヽヽ》については、すでに証拠が手にはいっているのではないか。疑惑の影を一掃するためには、二人が同席しているところを観察しさえすればいいのだ。
読者よ、このあいだずっと、アデールがわたしの足もとの腰掛けにじっとおとなしく坐っていたなどと、お思いになってはならない。それどころか、ご婦人がたがはいってくると、アデールは立ちあがり、すたすたと進み出て一同を迎えると、うやうやしく頭をさげてから、もったいぶった口調でいった――「|こんにちは、みなさま《ボン・ジュール・メダム》」
すると、ミス・イングラムは小馬鹿にしたような態度でアデールを見おろしながら、「あら、ちびっこのあやつり人形じゃないの!」と大声をあげた。
リン夫人は、「ロチェスターさまが後見をなさっている子のようね――お話に出ていた、あのフランス娘」といった。
デント夫人は、アデールの手をやさしく握りながら、接吻した。エシュトン家のエイミーとルイーザは異口同音に「なんてかわいい子でしょ!」と叫んだ。
やがて姉妹は、アデールをソファに呼びよせた。二人にはさまれて坐ったアデールは、フランス語とでたらめな英語をちゃんぽんにしゃべって、若い姉妹だけでなく、エシュトン夫人とリン夫人の注意までひきつけ、心ゆくまでちやほやされていた。
やっとコーヒーがはこびこまれ、紳士がたが呼ばれることになった。わたしは物かげに――この明かりがこうこうと輝いている部屋に物かげがあれば、の話だけれども――坐っている。つまり、窓のカーテンで、からだを半分かくしているわけである。アーチ型の入り口がまた大きく口を開き、紳士がたの登場となった。紳士がた一同のようすは、ご婦人がたの場合と同じで、いかにも圧倒的だった。一人残らず黒い服装であり、背の高いかたがほとんどだが、年若いかたもまじっている。リン家のヘンリーとフレデリックは、二人とも実にスマートな二枚目だし、デント大佐はきりっとした軍人らしい人物である。この地区の治安判事であるエシュトン氏は、みるからに紳士然としている。頭髪はまっ白なのに、眉毛と頬ひげはまだ黒々としているため、どことなく「|芝居に出てくる生まれのいい父親役《ペール・ノブル・ド・テアトル》」といったムードがただよっている。イングラム卿は、姉妹と同じように背がたいへんに高く、それに美貌の点でも負けず劣らずであった。だが、このかたにも、メアリーの場合と同じように冷淡で、ものうげな表情が同じようにうかがわれる。さかんな血気や活発な頭脳などよりも、手足の長いのが取り柄という感じだった。
それにしても、ロチェスターさまは、どこにおられるのだろうか?
ロチェスターさまは、しんがりにはいってこられた。わたしはアーチ型の入り口を眺めてはいなかったが、はいってくる姿が目に飛びこんできた。わたしは手にもっている網すき針に、わたしが編んでいる財布の網の目に、全神経を集中しようとした――やりかけの仕事のことだけを考え、膝の上にのっている銀色のビーズと絹糸だけを見つめていたいと願った。それなのに、わたしはロチェスターさまの姿をはっきりと目のあたりにし、最後にお会いした瞬間を思い浮かべずにはいられなかった。あのかたから最高にありがたかったといわれた奉仕を、わたしがしてさしあげた直後の瞬間のことを――あのかたは、わたしの手をとり、わたしの顔を見おろしていたが、そのわたしを見つめる目は、いまにもあふれ出そうなほどにはりつめた心情をはっきり物語っていた。わたしとても、あのかたと同じ気持ちであったのだ。あの瞬間、なんとわたしはあのかたに接近していたことか! あれ以来、わたしたちの関係を変化させるような事件が、なにか起こったとでもいうのだろうか? だが、いまの二人の仲はなんと冷たく、なんと疎遠になっていることか! すっかり疎遠になってしまって、あのかたがわたしのところへやってきて、話しかけてくれることなど、思いもよらない。ロチェスターさまがわたしには目もくれず、部屋の反対側に腰をおろし、ご婦人がたのなん人かを相手に話しはじめても、わたしは驚いたりはしなかった。
ロチェスターさまの注意がご婦人がたにむけられ、じっと見つめても気づかれないとわかった途端、わたしの目は、思わず知らずのうちに、その顔のほうへひきつけられてしまった。まぶたを伏せていようとしても、意のままにならない。まぶたのほうで勝手に開こうとするし、虹彩《くろめ》はロチェスターさまを見つめていたいといいはるのだ。わたしは見つめ、見つめることに強烈な喜びをおぼえた――得がたいと同時に、えぐるような喜び。苦悩という鋼鉄のきっ先のついた純金にもたとえようか。のどのかわきで死にそうな人間が、毒がはいっていると知りながらも井戸端までにじりより、身をかがめて甘露のような水を二度三度とすするときに感じる喜びにも似た喜びであった。
「あばたもえくぼ」とは、まことによくいったもの。わたしの主人の血色の悪い、オリーブ色の顔、がっしりと角ばった額、ふとい黒々とした眉、くぼんだ目、はっきりした顔だち、ひきしまった妥協を許さない口もと――すべて精力と決断と意志のかたまりであったが、世間なみの規準からすれば、とても美しいとはいえない。だが、わたしには、美しいという以上のものだった。そこには魅力と引力とがあふれ、わたしを圧倒してやまない――わたしの感情はわたし自身の力では律しきれなくなり、ロチェスターさまの感情の、いわば足かせをかけられた形になっている。ロチェスターさまを愛する気持ちなど、わたしにはさらさらなかった。わたしが心のなかに見つけ出した恋の芽ばえを根だやししようとけんめいになったことは、すでに読者もご存じのはずである。なのに、ロチェスターさまにあらためてお目にかかった瞬間、その恋の芽が、ひとりでに、しかも青々と力強く、息をふきかえしたのだ! わたしのほうに目もくれないロチェスターさまが、わたしに恋心を抱かせたのである。
わたしはロチェスターさまを、お客の男性がたと比較してみた。リン家のご兄弟の二枚目ぶった上品さも、イングラム卿のものうげな優雅さも――デント大佐の軍人らしいはっきりした態度さえも、もって生まれた活力と生一本な精力とにあふれたあのかたの顔つきにくらべれば、物の数ではないではないか? わたしは、この男性諸氏の容姿や表情に好感をもつことができない。もちろん、見る人の大半がこの男性諸氏を魅力的で、ハンサムで、貫禄十分なかたがたと呼ぶであろうし、ロチェスターさまのことは、いかつい顔だちであるだけでなく、陰鬱な表情をしていると断言するであろうことは、わたしとても想像できないではない。わたしは男のかたがたが微笑したり、破顔一笑したりするのを見る――だが、その味気のないこと。ろうそくの光にだって、このかたがたの微笑にみられる程度の魂がこもっている。ベルの音にだって、このかたがたの笑い声のもっている程度の意味があるのではないか。わたしはロチェスターさまが微笑するのを見る――お顔のいかめしい表情はやわらぎ、目はきらきら光るだけでなく柔和になり、その光は人の心をさぐると同時にやさしさにあふれている。折りしも、ロチェスターさまはエシュトン家のルイーザとエイミーに話しかけている。わたしには人の心を突き通してやまないように思われるロチェスターさまの視線を、二人が平然と受けとめるのを見て、わたしは驚いた。あの目で見つめられたら、目を伏せ、顔を赤らめてしかるべきなのに。だが、二人がいっこうに心を動かされていないのに気づいて、わたしはうれしくもあったのだ。
「あのかたとわたしとの関係は、あの二人の場合とはまるでちがうのだわ」とわたしは考えた。「あのかたは、このかたがたと同類の人間ではない。あのかたは、わたしと同類の人間にちがいない――きっとそうだわ――わたしはあのかたに身近かなものを感じるもの――あのかたの表情や身ぶりの|ことば《ヽヽヽ》がわかるのですもの。地位や財産がわたしたち二人を大きく引きはなしているとしても、わたしの頭や心には、わたしの血液や神経には、わたしとあのかたを精神的にとけあわせる、なにかがあるのだわ。二、三日まえ、あのかたの手からサラリーを受けとる以外、あのかたとはなんの関係ももつまいなどといったのは、このわたしだったかしら? あのかたをサラリーの支給者として以外は考えまいと誓ったのは、このわたしだったかしら? なんという自然への冒涜! わたしのもっている善良で、誠実で、旺盛な感情のすべてが、あのかたのまわりにとどめようもなく集まっているというのに。わたしの気持ちをかくさねばならないことは、わたしも知っている。希望の息の根をとめてしまわねばならないし、あのかたがわたしのことなど鼻にもかけていないこともまた、忘れてはならない。つまり、あのかたがわたしと同類の人間であるといっても、あのかたみたいに、他人を感化する力や、他人をひきつける魅力がわたしに備わっているという意味ではない。あのかたと共通する趣味や感情を、いささかなりともわたしが持ちあわせているというだけの意味なのだ。だから、わたしたちが永久に結ばれない二人であることを、わたしは百万べんもくりかえさねばならない――とはいっても、わたしは、息のつづくかぎり、物を考えることができるかぎり、あのかたを愛さずにはいられないのだ」
コーヒーが出された。ご婦人がたは、紳士がたのご入来があってから、ひばりのように快活になっている。おしゃべりの花が咲き、さんざめいている。デント大佐とエシュトン氏は政治を語りあい、二人の夫人たちは聞き手にまわっている。二人のお高くとまった未亡人、つまり、リン夫人とイングラム夫人は、打ちとけて話しあっている。サー・ジョージは――そういえば、この人物を紹介し忘れていたが、まことに大柄で、実に血色のいい顔つきをした大地主であった――コーヒー茶碗を手にしたまま二人のソファのまえに立ち、時たま言葉をさしはさんでいる。フレデリック・リン氏はメアリー・イングラムと並んで腰をおろし、豪華本の版画を見せてやっている。そのメアリーは版画を見ながら、思い出したようにほほえむだけで、ほとんどなにもしゃべっていないようす。背が高くて、動きのすくないイングラム卿は、両腕をくんだまま、小柄で、てきぱきとしたエイミー・エシュトンの椅子の背によりかかっている。そのイングラム卿を見あげながら、ミソサザイみたいにしゃべりちらしているエイミー。この女性は、ロチェスターさまよりもイングラム卿がお気に召している。ヘンリー・リンは、ルイーザの足もとの長椅子におさまっているが、この長椅子にはアデールもいっしょに腰をかけている。ヘンリーがアデールにフランス語で話そうとすると、その間違いをルイーザが笑い物にしている。ブランシュ・イングラムはだれとペアになっているかしら? ミス・ブランシュはテーブルのそばに一人で立ち、上品な姿勢でアルバムをのぞきこんでいる。だれかに声をかけられるのを待っている風情だが、長くは待つこともなかった。自分のほうから相手を選び出したからである。
エシュトン姉妹からはなれてきたロチェスターさまは、テーブルのそばのミス・イングラムと同じように、一人だけで暖炉のまえに立っていた。ミス・イングラムは、マントルピースの反対側に陣取って、ロチェスターさまとむかいあう形になった。
「ロチェスターさま、あなた、子ども嫌いではなくって?」
「そのとおりですよ」
「じゃ、なぜあんな人形みたいな子の世話をする気になられたの?」(とアデールを指さした)「どこで拾われたの?」
「拾ったんじゃないですよ。ぼくの手にまかされたんですな」
「学校へいれてしまえばいいのに」
「その余裕がないんだな。学校というところはべらぼうに高くつくんでね」
「だって、家庭教師をつけていらっしゃるのでしょ。たったいま、あの子といっしょのところを見かけたけど――行っちゃったのかしら? あら、ちがった! まだ、あのカーテンのうしろにいるわ。もちろん、家庭教師の給料はお払いですわね。学校とかわらないくらい高くつくのじゃないかしら――もっと高いかもね。おまけに二人を食べさせなければならないんですもの」
わたしの話が出たついでに、ロチェスターさまがわたしのほうを見やるのではないか、とわたしは心配になった――それを希望した、というべきかもしれないが。わたしは思わず身をちぢめて、カーテンの奥にかくれたが、ロチェスターさまはふりむきもしなかった。
「その点は、考えたこともないですよ」ロチェスターさまは、まっすぐまえを見たまま、さりげなくいった。
「そうでしょうね――男のかたは、お金や常識には無頓着ですもの。家庭教師の話でしたら、ママにお聞きになるとよろしいわ。その昔、メアリーとわたくしには、家庭教師がざっと一ダースはおりましたものね。そのうちの半分は虫ずが走る人たちで、あとの半分は馬鹿もいいところ。どれもこれも夢にでてくる悪魔ってわけ――そうだったわよね、ママ?」
「なにかおいいかい、うちのお子は?」
「うちのお子」と、未亡人の特別の所有物かなにかのように呼びかけられた令嬢は、説明をしたあとで質問をもう一度くりかえした。
「ねえ、おまえ、家庭教師のことなど、口にしないでおくれ。その言葉を聞いただけで、いらいらしてくるのだから。あの者たちの無能と気まぐれのおかげで、あたしゃ、殉教者のような思いをしたんだよ。今じゃ、すっかり縁がきれて、神様に感謝してるというのに!」
このとき、デント夫人がその信心ぶかい夫人のほうに身をこごめて、耳もとでなにやらささやいた。それに対する受け答えから察したところ、呪われた種族の片割れが同席していることを思い出させるものであったらしい。
「|仕方ないわよ《タン・ピ》!」と未亡人はいった。「あの女のためになれかし、とあたしは思ってるのだから!」それから、声を落としたが、それでもわたしにはっきり聞こえるような声で、「あの女には気がついてましたとも。あたしには人相がわかるけれど、あの女の人相には、あの階級の人間の欠点がそっくり出ているよ」
「どんな欠点です、奥さん?」とロチェスターさまが声高にきいた。
「あとでお耳にそっとお聞かせしますわ」と未亡人は答え、いかにもしさいあり気なようすで、ターバン帽をかぶった頭を三回ふってみせた。
「しかし、あとになったら、わたしの好奇心は食欲をなくしますのでね。たったいま、みたしてもらわなくては」
「ブランシュにお聞きなすって。あたしよりもお近くにおりますわよ」
「あら、わたくしを引き合いに出さないで欲しいわ、ママ! わたくし、家庭教師という種族全体についていえることは、たった一言しかないの。つまり、厄介物の一語につきるのね。といっても、わたくしがあの連中に苦しめられたというわけではないのよ。こちらから逆襲するように努めたんですもの。セオドアとわたくしとで、ミス・ウィルソンやら、ミセス・グレイやら、マダム・ジュベールやらに、さんざいたずらをしてやったわ! メアリーはいつもお眠《ね》むで、仲間になっても熱心じゃなかったけど。傑作はマダム・ジュベールのときだったわ。ミス・ウィルソンはかわいそうに病身で、涙もろくて、沈み勝ちで――要するに、わざわざやっつけるほどの値打ちがなかったし、ミセス・グレイは下品で鈍感で、いくら叩いてもききめがない女。それにひきかえ、あのマダム・ジュベールときたら! わたくしたちにきりきり舞いをさせられて、かっかと怒りちらしているあの女の姿が、いまでも目に浮かぶようだわ――わたしたち、お茶をこぼす、バターつきパンをくずだらけにする、本は天井まで投げあげる、定規や机や|炉ごうし《フェンダー》や暖炉の道具でどんちゃん騒ぎをしたんですのよ。セオドア、あのおもろかったころのことをおぼえてる?」
「ああ、おぼえてるともさ」とイングラム卿が間のびした声で答えた。「あのぼんくらのばあさんは、おかしな言葉で『おお、いけないお子たち、ありますね!』とわめいていたっけ――そこで、ぼくたちは、ろくにものも知らんくせして、ぼくたちのような出来のいい子を教えるなんて、けしからんじゃないか、と逆に説教してやったっけ」
「そうだったわね。ねえ、セオドアちゃん、あなたの家庭教師の、青い顔をしたヴァイニング先生――あのわたくしたちが『うらなり牧師』と呼んでいた先生を質問ぜめにする(というよか、拷問ぜめにする)のを手伝ってあげたわね。あの先生とミス・ウィルソンとが図々しくも恋愛なんかしちゃって――すくなくとも、セオドアちゃんとわたくしとは、そう思ったのよね。わたくしたちは二人のさまざまなやさしい目くばせや溜め息をこっそりと見つけては、これこそ『|美わしき情熱《ラ・ベル・パション》』の証拠と受けとったわけ。それに、わたくしたちの発見を、やがて家中の者が利用することになったのもたしかよ。つまり、それを口実に使って、あの無用の長物どもを家から追い出すための|てこ《ヽヽ》がわりにしたというわけよね。そこにいらっしゃるママは、この一件にうすうす気づかれただけですぐに、それがふしだらな性質なものであることがおわかりになった。そうでしたわね、お母上さま?」
「あたしのだいじなお子のいうとおりだともさ。それに、あたしはちっとも間違っていなかった。絶対ですとも。家庭教師同士の不義など、監督の行きとどいた家庭では、一刻も許されてならないことには、百も二百も理由がありますからね。まず第一に――」
「お願いよ、ママ! いちいち数えあげたりなさらないで! |それによ《オ・レスト》、わたくしたち、知りつくしてますもの。無垢な子どもにとって悪しき手本となる危険。愛しあう者たちの注意散漫、ひいては義務の不履行。恋人同士の結託と依存。そこに生ずる相互信頼――それに伴なう不遜な態度――反抗とお家騒動。そうじゃありませんか、イングラム・パークのイングラム男爵夫人さま?」
「いつだって、あたしのユリの花のようなお子のいうとおりですよ」
「じゃ、もういうことはありませんわね。話題を変えましょ」
この発言が耳にはいらなかったのか、それとも気にもとめなかったのか、エイミー・エシュトンがやさしい、子どもみたいにあどけない声で口をはさんだ。「ルイーザとわたしも、わたしたちの家庭教師をからかったものですわ。でも、その先生はとってもいいかただったので、どんなことでも辛抱なさいましたの。あの先生をおこらせることは、ただの一つもなかったわ。わたしたちに腹を立てたことは一回もなかったのよ。そうだったわね、ルイーザ?」
「ええ、一回も。わたしたち、したい放題だったわね。先生の机や裁縫箱をひっかきまわしたり、引出しをひっくりかえしたりして。とっても親切な先生で、わたしたちの欲しがるものは、なんでもくださったのよ」
ミス・イングラムは唇を皮肉たっぷりにゆがめると、「どうやら、この分では、この世に生存する家庭教師全員の回想記の抜粋ができそうな具合ね。そんなひどい目に会わないために、わたくし、新しい話題を出す件について、もう一度提議いたしますわ。ロチェスターさま、わたくしの動議をセコンドなさいます?」
「その件であれ、ほかの件であれ、わたしはお嬢さまの意見を支持いたしますよ」
「じゃ、新しい話題の発案者には、このわたくしが。シニオール・エドワルド(エドワードをイタリア風に呼びかけたもの)、今宵の声の調子はいかに?」
「ドンナ・ビアンカ(ブランシュをイタリア風にいったもの)、お召しとあれば、歌いもいたしましょうぞ」
「ならばシニオール、そなたの肺とその他の発声器官に磨きをかけるよう、そなたの女王として、しかと申しつけまする。わらわの役に立ててもらいたいほどに」
「メアリー女王のごとくすばらしきかたのためとあらば、リッツィオ(デイヴィッド・リッツィオ。一五四〇―六六。スコットランドのメアリー女王に歌手として仕えたイタリア人。のちに女王の恋人になったともいわれるが、女王の二人目の夫に暗殺される)になりたがらぬ者とてありますまい」
「リッツィオなんて、つまらないわ!」ミス・イングラムはピアノのほうへ歩きながら、巻き毛の頭をうしろへそらせるようにして、そう叫んだ。「あのヴァイオリンひきのデイヴィッドなんて、味もそっけもない男だったにちがいない、というのがわたくしの意見なの。わたくしは腹黒のボスウェル(ジェイムズ・ヘプバーン。ボスウェル伯爵。生来の無法者で、メアリー女王の二番目の夫であるダーンリー卿を殺させて、一五六七年、女王と結婚する)のほうが好きだわ。わたくしの考えでは、悪魔的なところのない男なんて、ゼロも同然よ。ジェイムズ・ヘプバーンについて、歴史は勝手なことをいうでしょうけど、あの男こそ、このわたくしの手をあずけることを承諾してもいいような、野性的で、猛烈な、山賊ふうの英雄ではなかったか、とわたくしは考えていますの」
「諸君、お聞きのとおりですぞ! さてさて、諸君のうちでボスウェルにいちばん似ているのはどなたですかな?」とロチェスターさまが大声をあげた。
「その名誉は、どうやらきみのものですぞ」とデント大佐がそれに応じた。
「まことにもって、ありがたきしあわせに存じます」これがロチェスターさまの返事だった。
純白のドレスを女王のようにふんわりとひろげながら、誇らしさと上品さにあふれた態度でピアノのまえに腰をおろしていたミス・イングラムは、華麗な前奏曲をひきはじめたが、ひきながらも休みなしにしゃべっていた。今夜のミス・イングラムは、馬上にふんぞりかえっている感じで、言葉にしても態度にしても、聞き手の賞賛だけでなく、驚きの気持ちまでもかき立てることを目論んでいるふうだった。まことにスマートで、好き勝手なことのできる女性といった印象を、周囲の者にあたえることに夢中になっているのが、手にとるようにわかった。
「ああ、このごろの若い男性には、わたくし、うんざりしてますのよ!」ミス・イングラムはピアノをひき鳴らしながら声をはりあげた。「ほんとにかわいそうな、不甲斐ない男たちばかりで、パパの屋敷の門から外へは一歩も足をふみ出せないし、門まで行くのにも、ママの許可と付き添いがいるという始末ですものね! 自分の美しい顔や白い手や小さな足に夢中になっている男たちなんて。男性が美貌に関係があるといわんばかりじゃないの! かわいらしさが女性だけの特別の権利――女性だけにみとめられた当然の所有物や財産ではないといわんばかりに! みにくい女性《ヽヽ》が造化の美しい顔の汚点であることは、わたくしもみとめますわ。でも、男性《ヽヽ》の場合、体力と勇気だけを身につけるよう、精進して欲しいものだわ。男性のモットーは『狩るべし、射つべし、戦うべし。残余は一文の値打ちなし』とあるべきよ。わたくしが男性だったら、これをモットーにするでしょうねえ」
ミス・イングラムは一息いれたが、だれも言葉をはさまなかったので、話しつづけた。「わたくしが結婚するときには、夫となるかたをわたくしのライバルにはしないで、わたくしの美貌の引き立て役にするつもりでおりますの。玉座にライバルを近づけるようなまねはしませんし、二心なき忠誠を要求いたしますわ。夫の愛情がわたくしと、鏡にうつる夫自身の姿とに二分されるなんて、もってのほかですわ。さあ、ロチェスターさま、お歌いになって。伴奏してさしあげますから」
「なんなりとお申しつけを」というのが、ロチェスターさまの返事だった。
「それじゃ、海賊の歌を一つ。わたくしが海賊を大好きなこと、お忘れにならないでね。そういうわけですから、|元気よく《コン・スピリット》お歌いになって」
「イングラムさまのお口からもれた命令なら、水割りの牛乳にでも酒分《スピリット》が加わるというものでしょうな」
「じゃ、ご注意あそばせ。わたくしの気にいらない歌いぶりでしたら、歌というものがどんなふうでなければ|ならない《ヽヽヽヽ》かをお教えして、恥をかかせてあげますから」
「ということは、へたに歌ったらほうびが出るというわけですな。せいぜいボロを出すように努力しますか」
「|それこそ、ご用心ですわよ《ガルデ・ヴ・アン・ビアン》! わざとへまをしたりなんかしたら、それにふさわしいお仕置きを考えますからね」
「イングラムさまは寛大になるべきですな。人間に耐えられないような罰を加えるだけの力がおありになるのだから」
「まあ! 説明なさってください!」とミス・イングラムは命令口調でいった。
「失礼いたしました、お嬢さま。説明の必要はございますまい。あなたが顔をしかめるだけで、十分に死刑のかわりになることは、あなたご自身の鋭い直覚でおわかりのことでしょうから」
「お歌いになって!」とミス・イングラムはいうと、ふたたびピアノに手をふれて、元気《スピリット》のいい調子で伴奏をひきはじめた。
「いよいよ抜け出すときがきたわ」とわたしは考えた。だが、あたりの空気をつんざく歌声に、わたしは引きとめられた。ロチェスターさまが美声の持ち主であることは、フェアファックス夫人から聞いていたが、たしかに、そのとおりであった――柔らかく豊かで、力強い低音《バス》には、ロチェスターさま自身の感情とエネルギーが投入されていて、耳から心にしみわたると、そこに奇妙な感興をかき立てるのであった。わたしは、最後の重く、豊かなトレモロが消えるまで――いったん途切れていた会話の流れが、もう一度流れはじめるまで、待っていた。それから、わたしは身をひそめていた一隅をはなれ、うまい具合に近くにあった横のドアから外に出た。そこからは、せまい廊下が玄関のホールにつづいている。ホールを横切るとき、サンダルのひもがとけているのに気がついたので、それを結ぶために立ちどまって、階段のあがり口のマットの上でひざをついた。そのとき、食堂のドアの開く音が聞こえ、男のかたが出てきた。あわてて立ちあがったわたしは、そのかたとむかいあう形になった。それはロチェスターさまであった。
「どうかね?」とロチェスターさまはきいた。
「元気でございますわ」
「あの部屋にいたとき、なぜぼくに話しにこなかったのかね?」
わたしはこの質問を、きいた本人にそのままお返ししてやりたいように思ったが、そんな勝手なまねをするわけにもゆかない。わたしは答えた――
「お邪魔したくなかったからですわ、おいそがしそうでしたから」
「ぼくの留守のあいだ、なにをしてたのかね?」
「とくにこれといって。いつものようにアデールの授業など」
「まえよりもずいぶんと顔色が悪くなってるね――はじめて会ったときみたいだな。なにかあったのかね?」
「なにもございませんわ」
「ぼくを溺死させかけた晩、かぜでもひいたのではないかね?」
「そんなことはありませんわ」
「客間へもどりたまえ。逃げるには早すぎるよ」
「疲れておりますので」
ロチェスターさまは、わたしをしばらく見つめていた。
「それに、すこしまいっているようだ」とロチェスターさまはいった。「なにかあったのかい? いってくれたまえ」
「なにも――なにもございませんわ。まいってなんかおりません」
「いや、絶対そうだとも。すっかりまいってしまって、あと二言三言で、目に涙がでてきそうなくらいじゃないか――おやおや、もう涙でいっぱいになって、きらきら光りながらあふれているよ。まつ毛からこぼれた一滴が、床石の上に落ちたんだから。時間さえあれば、口さがない召使いのやつが通りかかりはしないかとびくびくしてさえいなければ、そのわけをとっくり聞かしてもらうのだが。まあ、今夜のところは、放免してやろう。しかしだね、客がいるあいだは、毎晩、きみに客間へ姿を見せてもらいたいと思っているのだから、いいね。これは、ぼくのお願いなんだ。かなえてくれたまえよ。さあ、行きたまえ。アデールをつれに、ソフィをよこしてくれたまえ。おやすみ、ぼくの――」
ロチェスターさまは言葉を切ると、唇をかみしめ、わたしからつと離れて行った。
[#改ページ]
十八章
ソーンフィールド・ホールの毎日は、にぎやかであった。それは忙しい毎日でもあった。わたしがこの屋敷ですごした、静かで、単調で、さみしい最初の三ヵ月と、なんとちがっていることか! 家のなかからは悲しみの気持ちがいっさい追いはらわれ、陰気な連想はすべて忘れ去られている。いたるところにあふれる活気、ひねもすつづく人の動き。もとはあんなに静まりかえっていた廊下を歩いても、これまでまったくの無人であったおもての部屋のどれにはいっても、こぎれいな小間使いやダンディなそば仕えの男ときまって顔をあわせることになってしまう。
台所、食器室、召使いの部屋、玄関のホール――どこも同じように活気づいている。大広間ががらんと静かになるのは、おだやかな春の青空とやさしい陽光にさそわれて、一同が屋外に出るときだけだった。天気がくずれて、雨がなん日も降りつづくときでさえ、楽しい気分に水をさされるようなことはなかった。戸外での楽しみがふいになったせいで、屋内での遊戯はいっそう活発で、多彩なものになるばかりであった。
なにかちがった遊びをしてみては、ということになった最初の夜、一同がなにをしようというのか、わたしには見当がつかなかった。「シャレード」(ジェスチャーで語句を音節ごとに示して当てさせるゲーム)の話がでていたが、無知なわたしは、その言葉の意味がわからなかった。召使いたちが呼ばれ、食堂のテーブルがはこび出された。ランプは別の場所に移され、椅子もアーチ型の入口の反対側に半円状に並べられた。ロチェスターさまとほかの男性がたが模様がえの指図をされているあいだに、ご婦人がたは階段をあがりおりしながら、女中を呼ぶベルを鳴らしていた。さまざまのショール、ドレス、掛け布の類いが屋敷にどのくらいあるかを聞くため、フェアファックス夫人も呼び出された。三階の衣裳だんすがひっかきまわされ、そこにはいっていた浮き織りのフープスカートや、サテンのサックドレスや、黒い絹のヴェールやレースの帽子飾りといった品々を、小間使いたちが両腕にいっぱいかかえておろしてきた。それから必要な品が選び出され、選ばれた品は客間にある婦人用の小部屋へとはこびこまれた。
このあいだに、ロチェスターさまはご婦人がたを呼び集め、そのなかから自分の組のメンバーを選んでいた。
「イングラムさんは文句なしにぼくの組だな」とロチェスターさまはいったあと、エシュトン家の姉妹二人とデント大佐夫人を指名した。それから、わたしのほうを見た。わたしがその場にいあわせたのは、取れかけていたデント夫人の腕輪の止め金をしめようとしていたからである。
「きみもやるかい?」とロチェスターさまはきいた。わたしは首を横にふった。ロチェスターさまが無理強いなさるのでは、とびくびくしていたが、そんなことにはならなかった。わたしがいつもの場所へそっともどっても、引きとめようとはなさらなかった。
ロチェスターさまをリーダーとする組は、カーテンのむこうにかくれた。デント大佐をリーダーとするもう一つの組は、三日月形に並んだ椅子に腰をかけた。男性軍の一人のエシュトン氏がわたしの姿に目をとめて、わたしにもはいってもらったら、と提案しているようだったが、その案は、イングラム夫人によって言下に拒否されてしまった。
「だめだめ。あの間抜けた顔では、ゲームなんてできっこありませんわよ」という夫人の言葉が、わたしの耳にはいった。
しばらくすると、ベルが鳴って、カーテンがあがった。アーチ型の入り口では、ロチェスターさまがメンバーに選んだサー・ジョージ・リンの図体が、白いシーツにすっぽり包まれているのが見えた。そのまえのテーブルには、大きな本が一冊、開かれたままのっている。かたわらにはロチェスターさまのマントを羽織ったエイミー・エシュトンが立ち、手に一冊の本をもっている。姿は見えないが、だれかがベルをにぎやかに鳴らした。するとアデール(後見人の組にはいりたいといいはったのだ)がぴょんとまえに出て、腕にかけているバスケットの花をあたりにまきちらした。つぎにミス・イングラムのすばらしい容姿があらわれたが、白いドレスをまとい、頭から長いヴェールをかぶって、額にはバラの花の冠をつけている。かたわらを歩いているのはロチェスターさまで、二人いっしょにテーブルへ近づいて行った。二人がひざまずくと、ともに白いドレスを着たデント夫人とルイーザ・エシュトンとが二人のうしろに並ぶ格好になった。このあと無言劇の形で儀式がはじまったが、結婚式のパントマイムであることは一目瞭然であった。それがおわったあと、デント大佐の組は二分ばかりひそひそと相談していたが、やがて大佐が大声でいった――
「花嫁《ブライド》!」
ロチェスターさまが一礼すると、カーテンがおりた。
つぎにカーテンがあがるまでには、かなり時間がかかった。二回目にカーテンがあがると、まえよりももっと丹念にしつらえた場面があらわれた。すでに述べたように、客間は食堂よりも二段高くなっているが、その上の段の、入り口から一、二ヤードはいったあたりに、大きな大理石の水盤が見えた。それは温室の飾りになっている品物らしかったが――いつもは外国産の植物にかこまれ、なかでは金魚が泳いでいる――その大きさと重さからいって、温室からはこんでくるのはかなりの重労働であったにちがいない。
この水盤のそばのカーペットの上に、ロチェスターさまが坐っているのが見えたが、ショールをまとい、頭にはターバンを巻いている。黒い目と浅黒い皮膚と回教徒ふうの顔だちが、その服装にぴったり合っている。
アラビアの王子にそっくりそのままの姿であった――弓のつるで絞め殺す側であるか、殺される側であるかはともかくとして(トルコその他では弓のつるが絞殺に用いられる)。やがてミス・イングラムが登場したが、これまた東洋ふうの衣裳をつけている。腰にまいた|飾り帯《サッシュ》のような真紅のスカーフ。こめかみのあたりで結んだ刺しゅうのあるハンカチ。肌もあらわな美しい形の両腕。高くあげた片方の腕でささえられ、頭の上に優雅に置かれている水がめ。姿体と容貌からいっても、血色と全体のムードからいっても、族長時代のイスラエルの王女といった雰囲気がただよっている。それがミス・イングラムの演じようとしている役柄であることに、疑いの余地はなかった。
ミス・イングラムは水盤に近づくと、水がめに水をいれるような風情で身をかがめ、それからまた水がめを頭の上にもどした。そのとき、泉のそばにいた男が話しかけ、なにやら所望するようにみえた――「彼女は急いで水がめを自分の手に取りおろして彼に飲ませた」(旧約聖書、創世記、第二十四章第十八節)。やがて男は上着のふところから小箱をとり出し、それを開けて、なかの豪華な腕輪や耳輪を見せる。女は驚いたり感心したりするさまを演じる。男はひざまずくと、女の足もとに宝石類を並べる。女の表情と身振りは、まさかといった気持ちと喜びの気持ちを表現している。見知らぬ男は腕輪と耳輪を女の腕と耳につける。これはエリーザとリベカ(旧約聖書、創世記、第二十四章。アブラハムの召使いエリーザは、十頭のらくだをつれてアブラハムの息子イサクの嫁さがしに出かけ、リベカを見つける)であって、らくだの姿が見当らないだけであった。
当てるほうの組は、また額を集めて相談したが、この場面の示している単語なり、音節なりについて意見が一致しなかったらしい。リーダー格のデント大佐が「全体を示す場面」を注文すると、ふたたびカーテンがおりた。
三回目にカーテンがあがると、見えているのは客間の一部だけで、あとは黒の荒い掛け布をたらしたスクリーンでかくされていた。大理石の水盤も取りのぞかれ、そのかわりにモミ材のテーブルと台所用の椅子が置いてある。この二つの小道具は、ろうそくがぜんぶ消されているため、つの製のカンテラからもれる非常にくらい光のなかに浮んでいた。
このぱっとしない場面の中央に坐っている一人の男は、にぎりこぶしを膝の上にのせ、目を床に落としている。すすでよごれたような顔、乱れた着衣(こぜり合いの最中に背中から引きはがされでもしたみたいに、上着は片方の腕からだらりとたれさがっている)、絶望にゆがんだ表情、逆立ったざんばら髪などは見事な変装ではあったが、わたしにはロチェスターさまであることがわかった。この男が動くと、鎖ががちゃりと音をたて、その手首には手かせがはめられていた。
「ブライドウェル!」(ロンドンにある刑務所の名前)とデント大佐が叫んだ。これが「シャレード」の答えであったのだ(第一幕の「花嫁」がブライドで、第二幕の「泉」がウェルであるから、第三幕は「ブライドウェル」を示す場面になっている)。
ふだんの服装に着かえるのに手間取ったあと、出演者たちが食堂にもどってきた。ロチェスターさまはミス・イングラムを案内してはいってきた。ミス・イングラムはロチェスターさまの演技を賞めあげていた。
「三つの役のうちで、わたくしは最後の役がいちばん気にいったのだけど、おわかりになって? ほんとに、あなたが二、三年早くお生まれになってたら、すごくいかした追いはぎになっていたでしょうに!」
「顔のすすはぜんぶ取れていますか?」ロチェスターさまはミス・イングラムのほうに顔をむけた。
「ああ! 取れてますけど、それだけに残念至極ですわ! あのやくざな男のメーキャップは、あなたの顔色にぴったりなんですもの」
「じゃ、追はぎという街道の花形があなたのお好みなんですね?」
「イギリスの追いはぎは、イタリアの山賊についで最高ね。イタリアの山賊の上を行くのは、東地中海《レバント》の海賊だけですのよ」
「まあ、わたしがなに者であるにせよ、あなたはわたしの妻なんだから、おぼえていてくれたまえよ。一時間まえに、ご一同の立ち会いのもとで結婚式をあげたんだから」
ミス・イングラムはくすくす笑い、顔を赤らめた。
ロチェスターさまは言葉をつづけて、「さあ、デントくん。そっちの番だよ」といった。そして相手の組がひっこむと、そのあいた椅子にロチェスターさまの組の者が腰をおろした。ミス・イングラムはリーダーの右側にすわり、ほかのメンバーは二人の両側の椅子についた。わたしはもう「シャレード」の出演者たちを見ていなかったし、カーテンのあがるのを今やおそしと待つ気にもなれなかった。わたしの注意は「シャレード」の見物人にだけ集中し、さいぜんまでアーチ型の入り口に釘づけになっていた目は、いまでは否おうなしに、半円状に並んだ椅子のほうに引きつけられていた。デント大佐の組がどんな「シャレード」を演じ、どんな単語をえらび、どんな出来ばえであったかといったことは、もはやわたしの記憶に残っていない。だが、それぞれの場面のあとの協議のようすは、いまでも目に浮かんでくる。ロチェスターさまとミス・イングラムがたがいに見かわしているのが見える。ミス・イングラムがロチェスターさまのほうに頭をよせかけ、その黒い巻き毛がロチェスターさまの肩にさわり、頬にふりかかるほどになっているのが見える。二人のかわすひそひそ声が聞こえる。二人の見かわす目と目が思い出される。その光景がひき起こした感情の一部さえもが、いまのこの瞬間、わたしの記憶によみがえってくるのだ。
わたしがロチェスターさまを愛しはじめたことは、すでに読者にはお話ししておいた。ロチェスターさまがわたしに目もくれなくなったというだけの理由で――わたしがあのかたのまえになん時間いても、わたしのほうへはたったの一回も目をむけてくださらないという理由で――通りすがりにドレスのへりがわたしにふれることさえ嫌悪し、その黒い高慢な目がたまさかわたしの上に落ちたとしても、まるで見るに値いしないほどに卑しいものであるかのように、そそくさと目をそらしてしまうような高貴な女性のために、あのかたの関心が独占されていることがわかったという理由で、わたしはいまさら、あのかたへの愛を捨てることはできなかった。あのかたがほかならぬその女性と結婚することをはっきりと知ったという理由で――あのかたに結婚の意志があることを誇らしげに確信しているようすが、その女性に日ごとに読みとれるという理由で――無造作で、求めるというよりもむしろ求められることを好むタイプではありながら、その無造作のゆえにかえって魅力があり、その高慢さのゆえにかえってさからいがたいといった、あのかた一流の求愛ぶりを夜となく昼となく目撃しているという理由で、わたしは、あのかたを愛するまえのわたしにもどることはできなかったのだ。
こうした状況にあっては、愛情をさましたり忘れさせたりするものはなに一つなく、絶望をかき立てるものばかり多かった。嫉妬を生むものも多いではないか、と読者は思われるかもしれない。わたしの立場の女性がミス・イングラムの立場の女性に嫉妬するようなまねができれば、の話なのだが。だが、わたしは嫉妬しなかったし、嫉妬することがあっても、ごくまれであった――わたしの味わった苦痛の性質は、そのような言葉では説明することができない。ミス・イングラムは嫉妬の対象にならない存在であり、そのような感情をかき立てることのできない下劣な人間であった。パラドックスめいた発言はお許し願うとして、わたしはありていを話しているのだ。ミス・イングラムは見かけはまことに派手だが、実のある人間ではない。容姿は美しく、多芸多才だが、生まれつき頭は貧弱で、心は不毛である。そのような土壌では、天然の花など一本も咲かないし、自然にすくすくと育った果実が、その新鮮さで人を喜ばせることもない。ミス・イングラムは、利口でもなければ独創的でもなく、書物に出てくる偉そうな言葉をくりかえすだけで、自分自身の意見を口にすることはおろか、持ちあわせてさえもいない。高尚な感情を云々するものの、同情やあわれみの気持ちは知らないし、心のやさしさや真実は求むべくもない。ミス・イングラムは、アデールに対して抱いている意地悪い反感を無茶苦茶にぶちまけるという形で、その点を再三再四、暴露していた。アデールが近づいたりしようものなら、無礼きわまりない、ののしりの言葉を口にしながら突きとばすし、部屋から出て行けと命令するときもあったが、冷酷で辛らつなあしらいはいつも変わらなかった。このように露呈したミス・イングラムの性格を、わたし以外の人間の目が見つめていた――綿密に、鋭く、油断なく見つめていた。そう、未来の花婿であるロチェスターさま自身が、妻とさだめた女性の身辺を休むことなく監視していたのである。この聡明な態度のゆえに――この慎重な態度のゆえに――このようにロチェスターさまが愛する者の欠点を完全に、明確に認識しているがゆえに――このようにロチェスターさまの愛情の表現から情熱がはっきりとぬけ落ちているがゆえに、わたしをさいなみつづける苦痛が頭をもたげるのだ。
ロチェスターさまの結婚が家柄のためであり、政略的なものかもしれないことは、わたしにもわかっていた。ミス・イングラムの身分や縁故関係が、あのかたにうってつけであったからである。だが、わたしの印象では、ロチェスターさまはミス・イングラムに愛情をもっていないし、この女性には、あのかたから愛情という宝物をかちとる資格が十分にあるとはいえない。これが問題の核心であった――わたしの神経がかき乱され、さかなでされるのは、このためであり、わたしの熱情が生きながらえ、燃えつづけているのは、このためであったのだ。|ミス《ヽヽ》・|イングラムには《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|あのかたを魅了することはできない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
ミス・イングラムがたちまちのうちに勝利をおさめ、ロチェスターさまが屈服して、その心を相手の足もとにうやうやしく捧げたというのなら、わたしは顔をおおって壁にむかい、二人にとっては(比喩的にいって)死んだ人間になっただろう。ミス・イングラムが立派な、品のある女性で、力と情熱と思いやりとセンスに恵まれているというのなら、わたしは二匹の虎――嫉妬と絶望とを相手に死闘を演じたことだろう。そして、心臓を引きさかれ食いつくされたわたしは、ミス・イングラムを賞めたたえたことだろう――この女性の優秀性をみとめ、静かに余生を送ったことだろう。その優秀性が絶対的であればあるほど、わたしの賞讃は深まっただろうし、わたしの余生の静けさも本当におだやかになっていただろう。だが、現状のままでは、ロチェスターさまを魅了しようとするミス・イングラムの努力を見守り、それが失敗をくりかえすのを傍観しているうちに――ミス・イングラム自身は、自分の努力が水泡に帰していることに気がつかず、くりだす矢がどれもこれも的にあたっているとうぬぼれ、腕のよさを鼻にかけていい気になっているが、その高慢と自己満足は、引きつけようとする相手をますます遠ざける結果になっているのだ――|こうした事態《ヽヽヽヽヽヽ》を傍観しているうちに、わたしはやむことのない興奮状態に置かれると同時に、自分を容赦なく抑えつけねばならなくなった。
なぜなら、ミス・イングラムは失敗してしまったが、どうすれば成功できていたかが、わたしにはわかっていたからだ。つぎつぎとロチェスターさまの胸をかすめ、傷一つつけずに足もとに落下する矢が、もっとたしかな腕ではなたれたものであったら、その誇り高い心臓をぐさりと射ぬいていただろう――そのいかつい目に愛を呼びおこし、その皮肉にみちた顔におだやかさを呼びさましていただろうことを、わたしは知っていた。場合によっては、武器などなくても、沈黙のうちに征服できていたかもしれない。
「ミス・イングラムはあのかたのすぐそばまで行ける特権があるのに、どうしてもっと強い力をおよぼすことができないのかしら?」とわたしは考えた。「あのかたを本当に好きになれないか、本当の愛情で好きになれないのにちがいないわ! それができるのなら、やたらと微笑をふりまいたり、のべつ幕なしに色目をつかったり、あんなにもったいぶった仕草や、あんなに数々の上品ぶりをでっちあげなくてもいい。あまり口をきかず、しげしげと眺めたりもせず、ただ静かにあのかたのそばに坐っているだけで、あのかたの心に近づくことができるように、わたしには思える。ミス・イングラムにぺちゃくちゃと話しかけられて、あのかたはいま、顔の表情を固くしているが、わたしはずっとちがった表情を見たことがある。だが、その表情はひとりでに浮かんだものであって、あだっぽい技巧とか計算された手口などで引き出されたのではない。その表情は、相手になる者が素直に受けいれさえすれば――なんのてらいもなく聞かれたことに答え、必要なときに、気どった顔などせずに話しかけさえすれば――いっそう豊かになり、ますますやさしく、にこやかになって、相手を滋味あふれる日光のように暖めるのだ。一体、結婚後のミス・イングラムは、あのかたをどのようにしてお慰めしようというのだろうか? そんなことのできる女性には思われないけれど、それも不可能なことではないのであり、あのかたの奥さまがこの世で最高に幸福な女性となるかもしれないことを、わたしは信じて疑わない」
わたしはまだ、ロチェスターさまが私欲と姻戚関係のために結婚しようと目論んでいることについて、批判がましいことを語っていない。あのかたにそのような意図があることをはじめて知ったときには、びっくりしてしまった。わたしはあのかたが結婚相手の選択にあたって、そのようにありきたりの動機に左右される人間とは思ってもいなかった。しかし、この二人の地位とか教育とかを考えれば考えるほど、子供時代から教えこまれてきたにちがいない理想や主義にしたがって行動しているロチェスターさまなりミス・イングラムなりを責めたり、けなしたりするのは、間違っているのではないか、と感じるようになった。二人の属する階級の人たちはみんなそのような主義を抱いているのであり、そのような主義を抱くには、わたしの考えなどのおよばない理由があるのではないか。わたしがあのかたのような男性であったら、わたしの愛せるような妻しかかき抱かないように、わたしには思えるのだが、こうしたわたし流のやりかたが夫自身の幸福にいろいろとプラスになることがはっきりしているだけにかえって、それが一般にひろく行なわれないについては、わたしなどの思いもよらない議論があるにちがいないということを、わたしは確信するにいたった。もしそうでないならば、世間の人はだれもかれも、わたしが願っているようなやりかたで行動するはずではないか、とわたしは思いこんでいたのだ。
だが、この点だけでなく、ほかの点についても、わたしはわたしの主人に対してひどく寛大になりはじめていた。かつては細大もらさず見つけだした欠点も、ぜんぶ忘れはじめていた。以前には、あのかたの性格のあらゆる面を調べつくすことに――いい点と悪い点とをとりあげ、二つを正しく検討したあとで、バランスのとれた判断をくだすことに、わたしは努力を傾けていた。いまのわたしには、悪い点はなにも見えない。かつてはわたしに不快な思いをさせた皮肉も、わたしをびっくりさせた気むずかしさも、高級料理にはいっている強い香辛料というにすぎない。はいっていればひりひりと辛いが、はいっていなくても、なんとなくたよりないように感じられる程度の香辛料である。そして、あの漠としてつかみがたいもの――あの表情の示しているのは、不吉、悲哀、陰謀、落胆のいずれであったのか? ――ときたま、あのかたの目にうかぶのが注意ぶかい観察者にはわかるけれども、わずかに姿をみせた不可思議な深みをさぐるいとまもあたえずに、ふたたび霧消してしまうもの――かつてはわたしを恐れおののかせ、火山地帯とおぼしい山なかをさまよっているうちに、突然、大地がうちふるえるのを感じ、大きく口を開くのを目のあたりにしたような思いを味わせたもの――そのつかみがたいなにものかを、いまでもわたしは、ときたま見かけることがあったが、胸の高鳴りをおぼえはしても、恐怖で神経がなえはてるということはなかった。わたしはそれから目をそむけたいと思うどころか、なんとかしてその秘密をさぐりたいとばかり念じていたので、いつの日にか、ゆっくりとその内奥をのぞきこみ、その神秘を探求し、その性質を分析することのできるミス・イングラムはまことに幸せなかたであると思った。
ところで、わたしがロチェスターさまとその未来の花嫁のことばかり考えているあいだに――二人の姿だけに目をやり、二人の会話だけに耳をかたむけ、二人の動きだけを重視しているあいだに、一座のほかのかたたちは、それぞれの興味なり楽しみなりにふけっていた。リン夫人とイングラム夫人は、二人だけでにこりともせずに話しつづけていたが、その話題のおもむくままに、二つのターバン帽をうなずかせあったり、四本の手をあげて、驚きや当惑や恐怖を対称的な身ぶり手ぶりで示している姿は、対になった等身大のあやつり人形を思わせた。おとなしいデント夫人は気のいいエシュトン夫人と話しあっていたが、この二人は、わたしにもときたま思いやりのこもった言葉や微笑をかけてくれた。サー・ジョージ・リンとデント大佐とエシュトン氏は政治か、州の問題か、裁判を論じあっていた。イングラム卿はエイミー・エシュトンとふざけあい、ルイーザはピアノを弾き、リン家の兄弟の一人に歌って聞かせたり、いっしょに合唱したりしていた。メアリー・イングラムは、もう一人のリン家の子息のしゃれたおしゃべりをつまらなさそうに聞いている。ときたま、一同がいいあわせたかのように、それぞれの脇役的な所作をさっとやめ、主役の二人のほうに目をやって、その話に耳をかたむけた。結局のところ、ロチェスターさまと――ロチェスターさまと近しい間柄にあるということで――ミス・イングラムの二人が一座の生命でもあり、中心でもあったからなのだ。ロチェスターさまが一時間も部屋をあけると、お客の気分に倦怠感がしのびこむのがはっきりとわかるように思われたし、ふたたび部屋にもどってくると、新しい刺激をあたえられて、会話が大きくはずむ寸法になっていた。
この活力源としてのロチェスターさまの不在がとりわけ強く感じられたのは、ミルコートまで所用でお出かけになり、おそくまで帰れそうになかった日であった。この日は午後から雨になり、そのため、最近ヘイのむこうの共有地に張られたジプシーのキャンプを見物するために計画していた散歩がとりやめになった。男性のなかには馬小屋へ行かれたかたもあり、若いかたたちは若い女性がたと撞球室で玉突きをしていた。イングラム未亡人とリン未亡人は、トランプ遊びで静かに無聊《ぶりょう》を慰めていた。ブランシュ・イングラムは、なんとか話の仲間に引きこもうとするデント夫人とエシュトン夫人を、尊大に押しだまったままで拒絶したあと、ピアノでセンチメンタルな曲をいくつかひきながらハミングしていたが、やがて図書室から小説を一冊もってくると、ソファに高慢ちきな物腰で、ものうげに身をなげかけて、待つ間の退屈を、小説の力をかりてまぎらそうという構えだった。部屋も、家も静まりかえっていた。時たま、玉突きに興ずる男女の歓声が階上から聞こえてくるだけであった。
夕暮れが近づき、晩餐のための着替えの時刻がせまっていることを時計がとっくに知らせたころになって、客間の窓ぎわの椅子に坐ったわたしのそばにひざまずいていたアデールが、フランス語で叫んだ――
「ロチェスターさまのお帰りだわ!」
わたしはふりかえった。ミス・イングラムはソファからはじけるようにやってきた。ほかのかたたちも、それぞれにしていたことをやめて、目をあげた。ちょうどそのとき、車輪が石をかむ音と、馬のひづめが水をはねとばす音とが、雨にぬれた砂利道から聞えてきたからである。駅馬車が近づいているのだった。
「あんなものに乗ってお帰りだなんて、どうなさったのかしら?」とミス・イングラムがいった。「お出かけのときは、メスルア(黒い馬)に乗っておられたのよ、そうよね? それにパイロットもおともしてたわ――馬や犬をどうなさったのかしら?」
こういいながらも、ミス・イングラムはゆったりしたドレスを着た、大柄なからだを窓のすぐそばまで近づけてきたので、わたしは背骨が折れると思うくらいにのけぞらねばならなかった。心がせいたあまりに、最初はわたしに気がつかなかったのだが、やがて気がつくと、唇をへの字に曲げ、別の窓のほうへ行った。駅馬車はとまった。御者が玄関のベルをならし、旅行着をまとった紳士が一人、馬車からおり立った。それはロチェスターさまではなかった。背の高い、しゃれた感じの男性で、見たことのない人物であった。
「頭にくるわねえ!」とミス・イングラムは声を高くした。「このしゃくにさわるお猿めが!」(とアデールにそう呼びかけると)「あんたを窓ぎわに坐わらせといて、デマを流させたのは、だれなのさ?」それから、まるで悪いのがわたしであるかのように、怒りにもえる視線を投げかけてきた。
玄関のホールで若干のやりとりがあり、やがて新来の客がはいってきた。イングラム夫人に頭をさげたのは、この席での最年長の女性と思ったためらしい。
「まずいときにまいったようですな、奥さん」と男はいった。「友人のロチェスターくんが外出中とかで。しかし、長旅をしてきたものですから、まことに厚かましくはありますが、昔からの親しいつき合いをいいことに、お帰りまでここにお邪魔させていただきたいと存じます」
男の態度は丁重であったが、言葉使いはすこし不自然で――外国人のそれともいい切れないが、完全にイギリス的ともいえないような印象をうけた。年格好はロチェスターさまと同じくらいで、三十から四十のあいだと見うけられた。顔は奇妙なまでに土色であったが、そのほかの点では、なかなかハンサムな男性で、ちょっと見にはとくにそうであった。しげしげと眺めてみると、その顔にはなにか不快感をあたえる、というよりも好感をあたえられないところが目にとまった。顔だちは整っているのだが、ちっともしまりがないし、目は大きく、きれも深いのに、その目からのぞいている生気は、へなへなの、空虚な生気にほかならぬ――すくなくともわたしは、そのような印象を受けたのであった。
着替えの合図のベルがなって、一同は席を立った。わたしがこの男をもう一度見かけたのは、晩餐後のことであったが、そのときは、すっかりくつろいでいるみたいだった。しかし、まえにもまして、わたしはその人相がきらいになった。落ち着きのなさと同時に、活気のなさも感じられるように思った。目は焦点がきまらず、意味もなくきょろきょろしている。そのために、わたしがこれまでに見かけた記憶もないような、変てこりんな表情になっている。ハンサムであって、とっつきの悪い人間というのでもないのに、わたしは強い反撥をおぼえる。その完全に卵型の、なめらかな皮膚をした顔には、力強さがない。そのわし鼻と、小さな、さくらんぼのような口には、確たるところがない。せまくて、平べったい額には思想がないし、うつろな茶色の目には威光がないのだ。
わたしは、いつもの片隅に坐って、マントルピースの上の枝つきの飾り燭台の光に全身を照らし出されているその男を眺めながら――男はひじ掛け椅子を暖炉のすぐそばに引きよせて坐っているのに、それでもまだ寒いのか、からだをちぢめるようにして火のそばへ近づいていた――ロチェスターさまと比較していた。二人のあいだには(まことに失礼な言い草かもしれないが)柔和なガチョウと獰猛なハヤブサか、いくじのない羊と剛毛をはやした、眼光の鋭い番犬のコントラストにまさるとも劣らないコントラストがあったように思う。
男はロチェスターさまを旧友といっていた。二人の友情こそは、まことに奇妙なものであったにちがいない。「両極端は相通ずる」という古いことわざの、まさに適切この上ない見本であったのではないか。
その男の近くには二、三人の男性がたが坐っていて、部屋のむこうから断片的な会話がわたしの耳にはいってきた。はじめのうちは、聞こえたことの意味がよくわからなかった。わたしに近いところに坐っていたルイーザ・エシュトンとメアリー・イングラムの会話が、ときたまわたしの耳にとどくきれぎれの言葉と混線したためである。この二人は、見知らぬ人物のことを話しあっていたのだが、どちらも「ハンサムな男性」という言葉を使っている。ルイーザはこの男が「いかす殿方」で、「うっとりしちゃうわ」といっているし、メアリーは男の「かわいい、小さな口もとと、すてきな鼻」を、魅力の典型として挙げている。
「それに、あの額の、なんとおやさしそうなこと!」とルイーザが叫んだ。「あんなにすべすべしていて――わたしの大きらいな、眉のつけ根のあたりのしわが一つもないのよ。それから、なんておだやかな目と微笑ですこと!」
このとき、延期になっていたヘイの共有地への遠足についてなにか相談するために、ヘンリー・リン氏が二人を部屋の反対側へ呼びよせたので、わたしはやれやれという気持ちになった。
こうしてわたしは、暖炉のそばのグループに注意を集中することができるようになり、その新来の客の名前がメイスン氏であることも、やがてわかってきた。それからメイスン氏がイギリスに着いたばかりであること、どこか暑い国からやってきたこと、顔色があんなに悪いのも、暖炉の間近かに坐って、家のなかでも外套を着ているのも、すべてそのせいであることなどを知った。やがてまた、ジャマイカとか、キングストンとか、スパニッシュ・タウンとかいった言葉から、メイスン氏の住んでいるのが西インド諸島でもあることもはっきりしてきた。しばらくして、この人物がはじめてロチェスターさまに会い、知り合いになったのが、その地であることを聞きつけて、わたしはすくなからず驚いた。メイスン氏は、友人のロチェスターさまがその地方の炎天とハリケーンと雨季をいやがったという話をしていた。わたしは、ロチェスターさまが旅行好きであることは知っていた。フェアファックス夫人の話を聞いていたからである。だが、その放浪の旅にしても、ヨーロッパ大陸内にかぎられているものと思っていた。これまでに、もっと遠い国を訪れた話を聞かされたことなどは、爪の垢ほどもなかったのである。
わたしがこうした思いにふけっていたとき、あるハプニングが、かなり突発的なハプニングがあって、わたしの思考の糸は断ちきられてしまった。だれかがドアをあけるたびに身ぶるいをしていたメイスン氏が、炎は消えているものの、燃えがらの固まりがまだ熱く、あかあかともえている暖炉に、もっと石炭をくべてくれるように頼んだ。その石炭をもってきた従僕が、出て行きしなにエシュトン氏の椅子の近くで足をとめ、なにやら低い声で話していた。わたしの耳には、「年寄りの女」とか「まことにしつこくて」とかいった言葉しかはいらなかった。
「ぐずぐずしていると、さらし台にさらしてしまうぞ、というんだな」と治安判事は答えた。
「いやいや――ちょっと待った!」とデント大佐が口をはさんだ。「追っぱらうのはどうかな、エシュトン。座興にいいかもしれんぞ。ご婦人がたに相談したほうがいい」大佐は声を大きくして、「みなさん、みなさんは、ヘイの共有地へジプシーのキャンプを見物に行く相談をしておられましたな。ここにいるサムの話だと、ボロを着たジプシーの婆さんが一人、いま召使いたちの部屋にきていて、占いをしてあげたいから、『お歴々』のまえに出させてほしい、とがんばっているそうです。お会いになりますかな?」
「とんでもないですわ、大佐」とイングラム夫人が叫んだ。「そんなけしからんいかさま師の肩をおもちになるのではないでしょうね? すぐに、力ずくででも追っぱらってくださいませな!」
「お言葉ですが、どんなにいって聞かせても、その女は立ちのこうといたしませんので、奥さま」と従僕はいった。「ほかの召使いたちがいっても駄目でございます。いまフェアファックスさんがいっしょにいまして、帰ってくれるように頼んでおりますが、ジプシー女は暖炉のまえに坐りこみまして、ここにはいることが許されるまでは、|てこ《ヽヽ》でも動かないといっております」
「なにがしたいのかしら?」とエシュトン夫人がきいた。
「その女は『ご一同さまの運勢を占いたい』と申しております、奥さま。そうしなきゃならないし、してみせる、といきまいておりまして」
「どんな格好なの?」とエシュトン家の姉妹が異口同音にたずねた。
「ぞっとするほどみにくい老婆でございますよ、お嬢さま。すすみたいに真黒でして」
「それじゃ、正真正銘の魔法使いだな!」とフレデリック・リンが大声をあげた。「ここに呼ぶことに、異議なしだ」
「そうともさ」とヘンリー・リンが賛成した。「こんなにおもしろいチャンスをむざむざ逃がすなんて、残念至極ですよ」
「おまえたち二人は、一体なにをお考えだえ?」とリン夫人が声高にいった。
「そんなとてつもない話など、あたしゃ、とても賛成できませんよ」とイングラム未亡人が口をはさんで相づちを打った。
「それはそうでしょうけどね、ママ、でも賛成できるわね――賛成する気がおありになるわね」ピアノの椅子を一転させてむきなおったブランシュの、高慢ちきな声がそういった。それまではだまって坐ったまま、いろいろの楽譜を調べているふうであったのだ。「わたくし、運勢を見てもらいたくて、うずうずしているの。だから、サム、そのジプシー女にきてもらってちょうだい」
「なんてことを、ブランシュ! お忘れでないよ――」
「忘れるものですか――ママのいいそうなことは、ぜんぶおぼえてますわよ。それでも、わたくしの思ったとおりにやらなければ――急ぐのよ、サム!」
「そうよ――そうさ――そうとも!」と若い男女は声をそろえて叫んだ。「呼んでおいでよ――すごく楽しいでしょうねえ!」
それでも従僕はためらっていた。「とてもきたならしい女ですよ」
「お行きったら!」とミス・イングラムがかん高い声でいうと、従僕は出て行った。
たちまちのうちに、一同は興奮のるつぼに投げこまれ、サムがもどってきたときには、冷やかしやら冗談やらがさかんに連発されていた。
「あの女、こんどはこようといたしません」とサムはいった。「『下《しも》じもの者』(これは女の言葉でございますが)のまえに出るなど、まっぴらごめん、というのです。一部屋あてがってくれ、占ってもらいたい者は順番に会いにこい、というわけでして」
「おわかりかい、女王気どりのブランシュや」とイングラム夫人が口を開いた。「図々しい女なんだから。いうことをお聞きよ、いいお子だから――それにさ――」
「その女を図書室に通すのよ、わかってるわね」と「いいお子」は母親の言葉をさえぎった。「わたくしも下じもの者のまえで占ってもらうのは、まっぴらごめんだわよ。一対一にならなくては。図書室には火がはいってるね?」
「はい、お嬢さま――でも、まったくの鋳掛け屋風情の女でございますよ」
「間抜けなくせして、余計なおしゃべりはおやめ! いわれたとおりにするの」
サムはまた姿を消した。またしても、神秘と興奮と期待は最高潮に達した。
「あの女の用意ができました」ふたたび姿を見せた従僕がいった。「どなたさまが最初のお客になるか、知りたいそうで」
「ご婦人がたのまえに、このわたしがちょっとのぞいてみるとするかな」とデント大佐がいった。「サム、女じゃなくて男が行くから、と伝えてくれんか」
サムは出て行ったが、また引きかえしてきた。
「女のいうのには、男のお客は駄目とのことでございます。男のかたにはわざわざおいでいただくまでもないとかでして。それに」とサムは笑いを押えきれないといった口調で、つけ加えた。「女のかたでも、若い独身のかた以外は駄目だそうでございます」
「あきれたな、好き嫌いがあるというんだから!」とヘンリー・リンが大声でいった。
ミス・イングラムは、にこりともせずに立ちあがった。
「わたくしが最初にまいりますわ」部下の先頭に立って、城壁の突破口から躍りこもうとしている、決死隊の隊長さながらの口調であった。
「まあ、あたしの大事なおまえ! あれ、あたしの一番かわいいおまえったら! お待ちでないかい! ――考えなおしておくれ!」と母親《ママ》は声をはりあげた。だが、ミス・イングラムは、落ち着きはらって無言のまま、母親の横を通ると、デント大佐が開けてやっていたドアから出て行った。それから図書室にはいる音が、わたしたちのところへ聞こえてきた。
かなりの沈黙がつづいた。イングラム夫人が両手をもみしぼっているのは、それが「|時機を得たもの《ルカ》」とでも思ったためらしい。メアリーは、わたしなら、はいって行く勇気がないわ、とはっきり口に出していった。エシュトン家のエイミーとルイーザはしのび笑いをしていたが、顔はすこしおびえているようであった。
なん分かがゆっくりとすぎ去り、図書室のドアがもう一度開くまでには十五分かかった。ミス・イングラムはアーチ型の入り口から、わたしたちのところへ引きあげてきた。
笑いだすのかしら? 冗談にするのかしら? ――みんなは強い好奇の目で迎えたが、ミス・イングラムは一同の視線に、冷ややかな拒絶の視線で答えるだけだった。あわてたところもなく、はしゃいでいるふうもない。緊張した足どりで元の席にもどると、だまって腰をおろした。
「どう、ブランシュ?」とイングラム卿がいった。
「なんていわれたの、お姉さま?」とメアリーがきいた。
「ご意見は? お気持ちは? ほんものの占い師でして?」とエシュトン姉妹がたずねた。
「まあ、まあ、みなさん」とミス・イングラムは答えた。「口々にきかれても困りますわ。ほんとに、あなたがたは、簡単に驚いたり信じこんだりする骨相の持ち主ですのね。あなたがたみんなが――わたくしのママも例外でないけれど――こんなことでわいわいいっているのを見ると、この家に悪魔大王に近い関係にある、正真正銘の魔女がいるとでも信じこんでいるみたいじゃないの。わたくしの会ったのは、宿なしのジプシー女よ。ありきたりのやりかたで手相をみる女で、手相見のいいそうなことしか、わたくしにいわなかったわ。わたくしはこれで気がすみましたから、エシュトンさまは、おどしの言葉どおりに、あすの朝、あのジプシー女をさらしものになさるとよろしゅうございましょ」
ミス・イングラムは、一冊の本を取りあげると、椅子にそっくり返るように坐って、もうこれ以上お話はおことわり、という格好になった。わたしは半時間近くもじっと見守っていたが、そのあいだ、ミス・イングラムは本を一頁もめくらず、その顔は、刻一刻とけわしく、不満の色を強め、失望の表情にゆがむばかりであった。どうやら、うれしい話はなに一つとして聞かされなかったらしい。いつまでも陰気に、押しだまっている気配から察したところ、ミス・イングラムは、口ではなんとも思っていないようなことをいいながら、占いの結果を必要以上に気に病んでいるように思われた。
ところで、メアリー・イングラムと、エシュトン家のエイミーとルイーザは、一人で出かける勇気がない、といっているものの、三人とも行ってみたくてたまらない。そこでサムを使者に立てての交渉がはじめられ、行ったり来たりのサムのふくらはぎが、往復の運動で痛くなったにちがいないと思われるころになってやっと、三人をいっしょに占ってもよいという言葉を、頑固なジプシー占いの女の口から無理やりに、聞き出すことができたのである。
ジプシー女のところへ行った三人は、ミス・イングラムのようにおとなしくなかった。ヒステリックにくすくす笑う声や小さな悲鳴が、図書室から聞えてきた。二十分もたったころ、ドアがさっと開いて、恐怖のあまりに正気を失なったかのような三人が、玄関のホールをばたばたと走ってきた。
「あの女、ちょっと怪しいわよ!」と三人は口をそろえていった。「あんなことをいうなんて! わたしたちのことは、なんでも知っているんですもの!」こういうと、息もたえだえの三人は、男のかたたちが大いそぎでもってきた椅子にぐったりと腰をおろした。
もっと説明してごらん、とせめ立てられた三人は、まだほんの子どものころにいったり、したりしたことをジプシー女が教えてくれただけでなく、自分の家の、自分の部屋に置いてある本や置き物、それにあちらこちらの親類からもらったプレゼントのことまでこまかくしゃべっていた、と話した。さらにジプシー女は、三人の考えていることをいい当て、世界中で一番愛している人の名前をそれぞれの耳にささやき、なにを一番欲しがっているかも見抜いた、と三人は断言した。
これを聞いて、男性がたは最後の二点についてもっと詳しく教えてほしい、と熱心に頼みこんだが、しきりにせがんだお返しにかえってきたのは、赤面やら、叫び声やら、身ぶるいやら、くすくす笑いだけであった。そのあいだにも、夫人がたは気つけ薬のびんをとり出したり、扇子であおいだりしながら、わたしたちのいいつけをちゃんと聞いていたら、こんなことにならなかったろうに、となん度もなん度もくりかえした。年輩の男性がたは大笑いをするし、若いかたたちは取り乱している女性たちの面倒をみるのに大わらわであった。
この騒ぎの最中に、目も耳も眼前の場景に釘づけになっていたわたしのすぐ横で、せきばらいの声が聞こえた。ふりむいて見ると、サムがいた。
「申し訳ないのですがね、先生、あのジプシー女が、まだ手相を見てもらいにきていない若い独身の女が一人、部屋に残っているはずだ、といいはりまして、みんなを占うまでは帰らない、とがんばっておるのです。先生のことをいっているのと思いますが。ほかにそんなかたはいらっしゃいませんから。あの女になんといいましょうか?」
「あら、是非とも行かせていただくわ」とわたしは答えた。大いにかき立てられていた好奇心をみたす機会が、思いがけずころがりこんできて、うれしかった。わたしはだれの目にもとまることなく――みんなは、たったいま帰ってきて、ぶるぶるふるえている三人のまわりに一固まりになっていたので――そっと部屋をぬけ出してから、静かにドアを閉めた。
「なんでしたら、先生」とサムがいった。「ホールでお待ちしておりますよ。あの女におどかされるようなことがあったら、声を出してください。はいって行きますから」
「いいわよ、サム、台所へ行っててよ。わたし、ちっともこわくないから」
わたしは、本当にこわくなかった。それどころか、大いに興味をそそられて、わくわくしていたのである。
[#改ページ]
十九章
図書室は、わたしがはいって行ったときには、しんと静まりかえり、占い師は――それが占い師ならの話だが――暖炉のまえの安楽椅子にぬくぬくと坐っていた。赤い外套に、黒いボンネットというか、つば広のジプシー帽をかぶり、ストライプのハンカチをあごの下で結んでいる。テーブルには火の消えたろうそくが一本。女は暖炉のほうにかがみこむように坐り、その明かりで祈祷書のような小さな黒い本に読みいっているらしい。読みながら、老婆がよくやるように、字を拾い読みしている。わたしがはいって行っても、すぐにはやめようとしない。一節をぜんぶ読みおえるつもりでいるようだった。
わたしは暖炉のまえの敷物の上に立って、客間の暖炉からはなれて坐っていたためにかじかみかけていた両手を暖めた。わたしはいままでになく冷静であった。事実、このジプシー女の姿には、心の落ち着きをかき乱すものはなに一つなかった。女は本を閉じると、ゆっくり目をあげた。顔の半分は帽子のつばでかくされているが、顔があがったとき、それがまことに奇妙な顔であることを、わたしは見落とさなかった。全体の色は茶と黒の感じで、乱れ髪があごまでつづく白いバンドの下からさか毛のように突き出し、半分は頬というか、口のあたりまでたれさがっている。その目は、わたしを正面から無遠慮に、じろじろと眺めまわしていた。
「それで、運勢を占ってほしいのかえ?」ジプシー女は視線におとらず鋭く、顔立ちにおとらずきびしい声できいた。
「わたしはどうでもいいの、おばあさん。お好きなようにしてよ。でも、はっきりいっとくけど、わたし、占いなんて信じないわ」
「あんたらしい生意気な言い草だねえ。そういうと思っていたよ。敷居をまたぐ足音を聞いただけで、わかったのさ」
「ほんと? 耳がはやいのね」
「そうとも。はやい目に、はやい頭のめぐり具合とくるのさ」
「ぜんぶ商売道具というわけね」
「そうとも。とりわけ、あんたみたいな客が相手のときはな。なぜふるえていないのだえ?」
「寒くありませんの」
「なぜ青くならないのだえ?」
「気分が悪くありませんの」
「なぜ占ってもらわないのだえ?」
「お馬鹿さんじゃありませんの」
老婆はボンネットとバンドのかげで、からからと笑った。それから、黒い、短いパイプをひっぱり出すと、それに火をつけて、煙草をすいはじめた。こうして、煙草でしばらく気を静めたあと、老婆は曲った上体をおこし、パイプを口からはずすと、暖炉の火をじっと見つめながら、自信たっぷりの口調でいった――
「あんたはな、寒くて、気分が悪くて、お馬鹿さんなんだよ」
「証拠を見せてよ」とわたしは答えた。
「証拠ぐらい、簡単に見せてやるよ。あんたは寒い。あんたは一人ぼっちで、だれともふれあわないせいで、からだのなかの炎が外にもえ出ることがないからねえ。あんたは気分が悪い。人間にあたえられる一番いい感情、一番高級で、一番甘い感情が、あんたの手にとどかないからねえ。あんたはお馬鹿さん。あんたは苦しみがいくら大きくても、その感情を自分のほうに近づけようとはしないし、それがあんたを待っているところまで、足を踏みだそうとしないからねえ」
老婆はまた黒く、短いパイプを口にくわえると、勢いよくぱっぱっとすいはじめた。
「大きなお屋敷で一人ぼっちで働いている人間であることがわかったら、だれにでもいまいったことをくり返すのでしょうね」
「だれにでもくりかえすかもしれないねえ。しかしだよ、だれにでも当てはまるというわけじゃあるまい?」
「わたしと同じ境遇にいる人なら、当てはまるわよ」
「そう、そうだねえ。|あんた《ヽヽヽ》と同じ境遇の人ならねえ。じゃ、あんたとまったく同じ立場にいる人間を、だれか見つけておくれかい」
「なん千人だって簡単に見つかるわ」
「一人だってむつかしいのじゃないかねえ。あんたは気がついておるまいが、あんたの立場は人並みではない。あんたは幸福のすぐ近くにいる。そうともさ、手をのばせば、とどくところだねえ。材料はぜんぶそろっているから、あとはそれをまとめあげるほうへもって行けばよい。材料をばらばらに置いたのは偶然のしわざなんで、材料がくっついたら、幸福がやってくるわけだねえ」
「わたし、なぞなぞは弱いの。いままでいっぺんも当てたことがないのよ」
「もっとはっきりいって欲しかったら、手のひらをお見せ」
「銀貨をのせて置かなきゃいけないというわけね?」
「そうともさ」
わたしが一シリングあたえると、老婆はポケットからひっぱり出した古靴下にいれ、きゅっとむすんで元にもどしてから、わたしに手をさし出すようにいった。わたしはいわれるとおりにした。老婆は顔を手に近づけて、じっと見いったが、手にふれようとはしなかった。
「よすぎるくらいだねえ」と老婆はいった。「こんな手からは、なんにも読みとれないのさ。線がほとんどないもの。それに、手のひらになにがあるというのだえ? 運命は、そんなところには書かれていないのだわさ」
「わたし、その言葉は信じるわ」とわたしはいった。
「いやいや。顔に書いてあるんだわさ。額、目のまわり、目のなか、口の線。ひざまずいて、顔をおあげ」
「まあ! いよいよ本格的になったのね」わたしは命令どおりにしながらいった。「そのうちに、おばあさんのいうことをすこしは信じるようになるでしょうよ」
わたしは、老婆から半ヤードのところにひざまずいた。老婆が暖炉の火をつっつくと、かき起された石炭から、さざ波のような炎がもえあがった。しかし、その炎は、坐っている老婆の顔の影をいっそう深め、わたしの顔に光をあてるばかりであった。
「あんたは今夜、どんな気持ちでここへきたのかねえ」老婆はわたしをしばらく調べてから、そういった。「むこうの部屋で、幻燈の絵姿みたいに飛びまわっている上流のかたがたをまえにして坐っているあいだ、あんたの心はどんなことをせっせと考えていたのかねえ。あんたとあの連中とのあいだには、ちっとも心のふれあいがなくて、あの連中はまるで実体のない、人間の形をした影にすぎないほどなのにさ」
「わたしはたいていは疲れてて、ときには眠いけど、でも悲しいことはめったにないわ」
「じゃ、あんたは将来のことをあれこれささやきかけて、あんたを元気づけたり、喜ばせたりしてくれる、人にかくした希望でもあるのかえ?」
「とんでもないわ。いつか自分で借りた小さなお家で、学校をはじめることができるくらいのお金を、サラリーのなかから貯めるのが、わたしのなによりの夢なの」
「精神の糧にしては貧弱だねえ。窓ぎわの椅子に腰なんかかけてかい(あんたの癖は、このとおり知ってるよ)――」
「召使いたちから聞いたんだわ」
「おや! あんたは、なんてわたしは頭がいいんだろう、と思ってるね。そりゃ――聞いたのかもしれないねえ。ほんとのことをいうと、召使いに知り合いが一人いてね――プールさんだが――」
この名前を耳にして、わたしはぱっと立ちあがった。
「そう――そうなの?」とわたしは思った。「とすると、これには結局、悪魔が一枚かんでいるわけなのね!」
「びっくりすることはないわさ」と謎の老婆は言葉をつづけた。「安心していい人間なんだから、このプールさんという人は。無口で、おとなしいし。みんなあの女を信用してるのさ。それはともかく、いまいいかけていたように、あんたは窓ぎわの椅子に腰なんかかけて、考えることといえば、将来の学校のことなのかえ? いま目のまえのソファやら椅子やらに坐っている連中には、興味がないのかえ? しげしげと見つめる顔の一つもないのかえ? 好奇心からでもいい、動きを追っかけているような人間は一人もおらんのかえ?」
「どんな顔でも、どんな人間でも、見るのは好きよ」
「でも、とくにだれか一人を選び出すことはないのかえ――二人だっていいけれども?」
「しょっちゅうよ。二人の男女の身振りや顔つきがなにかを物語っているときはね。見ていると、楽しくなるわ」
「なにを物語っているときに、一番聞いてみたいのだえ?」
「だって、あれこれいうほどのことはないのよ! いつも同じ話題、つまり求愛をもちだしているし、いつも同じゴール、つまり結婚にたどりつくことを約束しているわ」
「それで、あんたはその一本調子の話題が好きなのかえ?」
「わたし、ちっとも興味がないの。わたしの知ったことじゃないのね」
「知ったことじゃない? 若く、生命と健康にあふれ、魅力的な美人で、家柄にも財産にも恵まれた女性が、一人の男性の目のまえに坐ってにっこり笑い、その男性をあんたが――」
「あたしがどうだっていうの?」
「あんたが知っていて――もしかしたら、好意をもっているかもしれんわな」
「ここにいる男性なんか、わたし、知らないわ。だれとも口をきいたことさえないくらいなの。それに、好意をもつという点にしても、あるかたたちはりっぱな、風格のある中年紳士だと思いますし、あるかたたちは元気のいい、ハンサムな、明るい青年紳士だと思っていますわ。でも、たしかな話、その紳士がたはどなたも自由に、お気にいりの女性の微笑をお受けになればいいわけで、わたしのほうも、そんなことがわたしに重大な意味をもっているなどとは、考えてもいませんの」
「この家にいる男たちを知らない? だれとも口をきいたことがない? この家の主人についても、そんなことがいえるのかえ?」
「ご主人さまはお留守なのよ」
「意味ありげなせりふだねえ! なんとも結構な逃げ口上だねえ! 主人は今朝、ミルコートへ行って、今夜か明日には帰ってくる。それだけのことで、あんたは主人を知り合いの人間のリストからはずすというのかえ――この世から消してしまおうとでもいうのかえ?」
「そうじゃないわ。でも、ロチェスターさまと、おばあさんがもち出した話題との関係が、わたしにはどうしてもわからないの」
「男性の目のまえでにっこり笑っている女性の話をしていたんだねえ。このごろじゃ、笑顔の洪水にあって、ロチェスターさんの目は、ふちまでいっぱいについだ二つのコップみたいに、あふれているじゃないか。あんたはそれに気がついていないのかえ?」
「ロチェスターさまには、お客さまと楽しい時間をすごす権利がありますわ」
「権利があることはたしかさ。しかしだよ、この家で聞かれる結婚についてのおしゃべりのなかで、ロチェスターさんが一番活気があって、一番熱心なおしゃべりに恵まれていることに、あんたは気づいていないのかえ?」
「聞き手が熱心なら、話し手の舌もはやくなりますわ」
わたしはジプシー女にというよりも、自分自身にむかって、そういった。このときまでに、女の奇妙な話や声や態度は、わたしを夢のような気分につつみこんでいた。女の口から思いがけない言葉がつぎつぎにでてきた結果、わたしはくもの糸のような謎でがんじがらめになっていた。わたしの心のそばになん週間も坐りこんで、その働きを見守ったり、鼓動の一つ一つを記録していたのは、一体どんな目に見えない悪魔だったのかしら、とわたしは考えていた。
「聞き手の熱心さねえ!」ジプシー女はくりかえした。「なるほど。ロチェスターさんはなん時間も坐りきりで、おしゃべりという仕事に夢中になっている魅力的な唇に耳をかたむけていたわなあ。ロチェスターさんはさし出された慰めをうれしそうに受けいれて、心から感謝しているような顔つきをしていたわなあ。あんたはそれに気がついていたかえ?」
「感謝ですって! あのかたの顔に感謝の色を見つけた記憶なんか、ありませんわよ」
「見つけるとはねえ! じゃ、あんたは分析していたんだねえ。感謝の色のかわりに、なにを見つけたんだえ?」
わたしはだまっていた。
「あんたは愛情を見つけたんだねえ。そうじゃないかえ? ――その上、さきのことまで考えて、結婚しているロチェスターさんと、しあわせになっている花嫁の姿とを見たのじゃないのかえ?」
「ふふん! そうでもないわ。魔法の力でも、ときにはわからないことがあるのね」
「じゃ、一体、なにを見たというのだえ?」
「なんだって、いいでしょ。わたしは聞きにきてるのよ。告白をしにきたのじゃないわ。ロチェスターさまが結婚するということは、占いにでてるかしら?」
「でてるとも。相手は美人の、イングラムさんだねえ」
「近いうちなの?」
「いろんな兆候からいうと、そういう結論になるようだねえ。まちがいなく(こういうと、あんたは疑ってかかるだろうが、その反抗的な態度はなおさなくてはいかんよ)、あの二人は幸福この上ない夫婦になる。男は、あんなにきれいで上品で、頭のよくまわる才媛なら愛するにちがいないし、女のほうも男を愛するだろうねえ。男のなかみは愛さなくても、すくなくとも財布のなかみは愛するさ。あの女がロチェスター家の財産をなによりも望ましいと思っていることは知ってるよ。もっとも(神さま、お許しください!)一時間ばかりまえ、その点についてちょっとしたことをあの女に話したら、おそろしく深刻な顔になったけどねえ。がっくりして、口の両端が半インチはさがっておったよ。顔の色の浅黒い、あの女の求婚者には、用心するようにいっておかなくては。もっと厚くて、もっと確実な地代帳をもったライバルがあらわれたら――あの男は袖にされるからねえ――」
「でもね、おばあさん、わたしはロチェスターさまの運勢の話を聞きにきたのじゃないわ。わたしの運勢を占ってもらいたいのよ。まだなにも話してくれていないじゃないの」
「あんたの運勢はまだはっきりしていないのでねえ。あんたの顔を調べてみたが、反対しあう特徴がいろいろあるんだよ。運命の女神はあんたの分の幸福を用意してくれている。それはわかっている。今夜、あんたがここへくるまえから、わかっておったよ。その幸福は、女神があんたのために大事にとっておいてくれたものだよ。この目で見ていたんだから。手をのばして、その幸福をつかみ取るかどうかは、あんたがきめることだねえ。しかしだよ、あんたがそうするかどうかが、いまから考える問題でな。もういっぺん、敷物の上にひざまずいておくれ」
「時間をかけないでね。暖炉の火が焼けるように熱いから」
わたしはひざまずいた。老婆はわたしのほうへからだをのり出そうともせず、椅子によりかかったまま、じっと見つめるだけであった。やがて老婆はつぶやくように話しはじめた。
「炎が目のなかでちらついている。目が露のように光っている。やさしい、感情のゆたかな目。このたわごとを聞いても笑っている目。感じやすい目。すみきった目の玉を、つぎつぎと印象が通りぬける。笑うことをやめると、悲しそうになる目。気づかない倦怠がまぶたを重くしている。それは孤独から生まれる憂欝をあらわす。目線をそむける。これ以上のせんさくをいやがっている。そのからかうような目つきは、このわたしが発見したものが真実であることをみとめていないらしい――多感で、悲痛な目という非難を否定しているらしい。その誇りと慎みの色は、こちらの意見を裏づけるだけのこと。この目は恵まれている。
「口はというと、ときおり笑いを楽しんでいる。頭で考えることはなにもかも伝えようとするが、心が経験することの多くについては語らない口ではあるまいか。表情ゆたかで、柔軟性に富むこの口は、永遠の孤独な沈黙のなかに固く閉ざされる運命にはない。この口は多くを語り、よく笑い、話し相手に人間的な愛情を抱くように作られている。この口もまた、恵まれている。
「幸運な成り行きをさまたげるものは、額にしか読みとれない。その額はこういっている――『自尊心と周囲の事情がそうしろというのなら、わたしは一人でも生きられる。幸福を買うために、魂を売りわたしたりしなくてもいい。わたしの心のなかには、生まれながらの財宝があるのだから、喜びがいっさい外からあたえられないときや、わたしが手のでない値段でさし出されたときにでも、わたしは生きて行ける』と。その額はこうもいい切っている――『理性がしっかりと腰をおろし、手綱をにぎっているので、感情の爆発のために、恐るべき奈落へ追いやられるような羽目にはならない。情熱は、野蛮な正体を発揮して荒れ狂い、欲望は、数かぎりないむなしいことを想像するかもしれないが(旧約聖書、詩篇、第二篇第一節への言及)、それでもあらゆる議論の最終決定をするのは、判断力であり、あらゆる決定にキャスティング・ボートを握っているのも、判断力である。強風や地震や火災に見舞われることがあっても、わたしは、良心の命令を解き明かしてくれる、あの静かな細い声(旧約聖書、列王記上、第十九章第十二節)の導きにしたがうのだ』と。
「いいことをいう額じゃないか。その言葉は重んじるとしよう。わたしはいろいろな計画を立てた――正しいと思っている計画だが、それを立てるにあたっては、良心の要求にも理性の忠告にも耳をかたむけた。さし出された幸福のさかずきのなかに、ほんのわずかでもいい、恥辱の|かす《ヽヽ》や、後悔の味が残っているとわかったときには、まことにあっけなく青春がおとろえ、花がしおれてしまうことを、わたしは知っている。それに、犠牲や悲哀や死は、わたしの望むものではない――それはわたしの好みではないのだ。わたしの願っているのは、育てることであっても、枯らすことではない――感謝されることであっても、血の涙を、いや、ただのしょっぱい涙でさえも流させることではない。わたしが報われたいと思うものは、微笑やら、愛撫やら、やさしい――もうやめよう。わたしは、めくるめくほどの恍惚状態で、うわごとをいっているらしい。いまのこの瞬間を永遠にまで引きのばしたいが、それはやめておこう。これまでは、完全に自分を押えつけてきたし、心ひそかに誓ったとおりふるまってきた。だが、これ以上つづければ、力のおよばない試練にさらされるかもしれない。ジェインさん。立ちあがって、むこうへ行ってくれたまえ。『芝居はおわりぬ』(シェイクスピア作『ヘンリー四世・第一部』第二幕第四場と『十二夜』の最後のせりふを参照)というわけさ」
わたしはどこにいるのかしら? 目はさめているのかしら、それとも眠っているのかしら? 夢でもみていたのかしら? まだ夢をみているのかしら? 老婆の声はすっかり変わっていた。そのアクセント、身振り、いや、老婆のすべてを、鏡にうつったわたし自身の顔のように――わたし自身の口からでてくる言葉のように、わたしは知りつくしていた。わたしは立ちあがったが、その場をはなれなかった。相手をじっと見つめ、暖炉の火をかき立ててから、あらためてじっと見つめたが、老婆はボンネットとバンドを顔にぴったりと引きおろし、むこうへ行くよう、もう一度、手で合図した。さし出したその手を、炎が照らし出している。目を大きくあけ、なにか見つけてやろうと注意力をはたらかせていたので、わたしはこの手にすぐ気がついた。これが老人のしなびた手なら、わたしの手だってそうだということになる。はりのある、しなやかな手。形のととのった、なめらかな指。小指に光る大きな指輪。からだをかがめるようにして見つめると、これまでになん十回となく見たことのある宝石が目にはいった。あらためて顔を見やると、その顔はもうわたしからそむけられていない――それどころか、ボンネットが取れ、バンドがはずれると、首から上がぬっと出てきた。
「さあ、ジェイン、ぼくがわかるかい?」聞き知っている声がそう問いかけた。
「その赤い外套をお取りになってさえくだされば。そうすれば――」
「ところが、このひもがもつれてしまって――手をかしてくれないか」
「お切りになったらいかがです」
「じゃ、そうするとして――『ぬいでしまおう、こんな借り衣裳は!』(シェイクスピア作『リア王』第三幕第四場からの引用)とくるか」
こういうと、ロチェスターさまは変装をかなぐり捨てた。
「でもまあ、おかしな思いつきですこと!」
「しかし、うまくやっただろ? そう思わないかい?」
「ほかのご婦人がたには、きっとうまくおやりになったでしょうよ」
「じゃ、きみでは駄目だったか?」
「わたしの場合、演じておられたのはジプシー女の役じゃありませんでしたもの」
「どんな役を演じてたのかな? ぼく自身を演じてたのかな?」
「いいえ、なんとも説明できない役ですわ。つまり、わたしを引きずり出そうとしていたか、引きずりこもうとしていたか、どちらかにちがいありません。つまらないことを話しておられたのは、わたしにつまらないことをいわせるためだったのですもの。ずるうございますわよ」
「許してくれるね、ジェイン?」
「よく考えてみないことには、お返事できませんわ。考えてみて、わたしがあまり馬鹿なまねをしていないことがわかりましたら、そのときは許してさしあげます。でも、卑怯なやりかたでしたわ」
「ああ! きみはりっぱだったよ――すごく用心ぶかくて、すごく分別があったからね」
わたしはふり返ってみて、まあ、そんなところだったろう、と思った。そう思って、ほっとはしたけれども、占いがはじまったときから、ずっと警戒していたことも否定できない。わたしは、なにやらいんちきくさいものをかぎつけていた。ジプシーや占い師が、このにせの老婆のような口のききかたをしないのを、わたしは知っていたし、声を作っていることや、顔をかくそうとけんめいになっていることもわかっていた。だが、わたしは、グレイス・プールに――わたしが生ける謎とも、神秘のなかの神秘ともみなしているあの人物に心を奪われ、ロチェスターさまとは夢にも思わなかったのだ。
「ねえ、きみ」とロチェスターさまはいった。「なにを考えこんでいるのだね? その固い微笑はどういう意味なのかね?」
「驚いたのと、自分によかったわねといっているのと、両方ですわ。さがってもよろしゅうございましたですね?」
「いや、もうちょっといてもらおうか。むこうの客間の連中がなにをしているか、教えてくれたまえ」
「ジプシー女のことを話しあっていると思いますわ」
「坐って、坐って! ――ぼくのことをなんといってたか、聞かせてくれたまえ」
「わたし、あまり長居をしないほうがいいと思いますわ。十一時近くにちがいありませんから。そうそう! ロチェスターさま、朝、お出かけになられたあと、お客さまがお着きになったことをご存じでしょうか?」
「客だって! ――いや。一体、だれかな? だれもくる予定はないのだが。帰ったのかね?」
「いいえ。古い友人だから、お帰りまで勝手に待たしてもらう、といっておられました」
「なんと厚かましい! 名前をいったかね?」
「お名前はメイスンさまで、西インド諸島からお見えです。ジャマイカのスパニッシュ・タウンかと思いますが」
ロチェスターさまはわたしのそばに立って、椅子のところへつれて行こうとするのか、わたしの手をとっていた。わたしの話を聞きながら、ロチェスターさまはわたしの手首を発作的にぎゅっと握りしめた。唇に浮かんでいた微笑は凍りついたようになった。突然の発作で、息ができなくなったらしい。
「メイスン! ――西インド諸島!」わずかな単語しかしゃべれないロボットを思わせる口調であった。「メイスン! ――西インド諸島!」をくりかえすばかり。ロチェスターさまは、この二つの単語を三回くりかえしたが、その合い間にも、顔面は灰より白くなってしまった。自分でもなにをしているかわかりかねているようすである。
「ご気分が悪いのでは?」とわたしはきいた。
「ジェイン、ぼくはまいってしまったよ――ぼくはまいってしまったよ、ジェイン!」
ロチェスターさまはよろけた。
「あっ! ――おつかまりなってください」
「ジェイン、きみはいつかも、その肩をかしてくれたね。また頼むよ」
「いいですよ、いいですとも。それに、わたしの腕も」
ロチェスターさまは腰をおろし、わたしにも並んで坐らせた。わたしの手を両方の手にとってさすり、そうしながらも、ひどい苦悩にあふれた、わびしげな表情で、わたしをじっと見つめていた。
「ねえ、きみ! きみと二人きりで、静かな離れ島にいたいよ。苦しみや危険やおぞましい思い出から解放されたところでね」
「なにかわたしにできますことは? ――どんなことでもいたしますわ」
「ジェイン、助けがいるときは、きみの手をわずらわすことにする。きっとだよ」
「うれしいですわ。なにをすればいいか、いってください――やるだけは、やってみますから」
「じゃあね、ジェイン、食堂からブドウ酒を一杯、とってきてくれるかい。連中は食事中だろうな。メイスンがいるかどうか、なにをしているか、報告してくれたまえ」
わたしは食堂へ行った。一同は、ロチェスターさまのお言葉どおり、食事をとっていた。テーブルについていたのではない――夕食は食器台に並べられ、各自が好きなものを取ると、手に皿やグラスをもったまま、そこここにかたまって立っている。だれもかれもいい気分とみえて、にぎやかな笑い声と話し声がいたるところに聞かれた。メイスン氏は暖炉のそばに立って、デント大佐夫妻と話していたが、ほかの人たちと同じように楽しげであった。わたしはグラスにワインをつぐと(そのわたしのようすを、ミス・イングラムが眉をひそめて眺めているのに気がついた。図々しい女とでも思っているのだろう)、図書室へもどった。
ロチェスターさまのひどく青ざめた顔色は消え、またもとのひきしまった、いかめしい表情になっていた。わたしの手からグラスを受けとると、「お手伝いの天使に乾杯!」といって、ぐっと飲みほしてから、わたしにかえした。「連中はなにをしている、ジェイン?」
「笑ったり話したりでございますわ」
「変な話でも聞いたみたいに、ひどく深刻で、仔細《しさい》ありげな顔つきではないかい?」
「そんなことは――冗談をいって、にぎやかですわ」
「それで、メイスンは?」
「メイスンさまも笑ってましたわ」
「あの連中がぞろぞろやってきて、ぼくにつばを吐きかけたら、きみはどうするね、ジェイン?」
「みんなをこの部屋から追い出してやりますわ。わたしにできればの話ですけど」
ロチェスターさまはうす笑いを浮かべた。「じゃ、ぼくが連中のところへ行っても、連中がぼくをつめたい目で見るか、あざけるようにこそこそ話しあうだけで、つぎつぎにぼくを見捨てて行ってしまったら、そのときはどうするね? 連中といっしょに行ってしまうかい?」
「そんなことはいたしませんわ。おそばに留まるほうが楽しいですもの」
「ぼくを慰めるためかい?」
「ええ、お慰めするためですわ、わたしの力のおよぶかぎりに」
「じゃ、ぼくにつくしてくれるきみを、みんなが爪はじきにしてしまったら?」
「わたしはたぶん、爪はじきにされていることに気づかないと思いますわ。かりに気づいたとしても、気にしたりはしませんわ」
「では、ぼくのために非難を受けてもいいというのだね?」
「味方になるにふさわしい友だちのためなら、甘んじて受けますわ。あなたさまも、きっとそうなさるでしょうけど」
「これから食堂へもどって、そっとメイスンのところへ行き、ロチェスターが帰ってきて、会いたがっている、と耳うちしてくれたまえ。ここまで案内してきたら、むこうへ行っていいから」
「わかりました」
わたしはいわれたとおりにした。一同は、すいすい通りぬけて行くわたしの顔を、穴があくほど見つめた。わたしはメイスン氏を見つけて、ことづてを伝えると、さきに立って食堂を出た。図書室までメイスン氏を案内してから、わたしは二階へあがった。
夜もふけて、わたしがベッドにはいってしばらくたったころ、お客さんたちがそれぞれの部屋にひきあげる足音が聞こえた。ロチェスターさまの声がはっきり耳にはいり、「こっちだ、メイスン。これがきみの部屋だぜ」といっているのがわかった。
元気な話しぶりだった。その軽やかな口調にわたしは安心した。やがて、わたしは眠りに落ちて行った。
[#改ページ]
二十章
わたしはいつになくカーテンを閉め忘れ、その上、窓のよろい戸をおろすことも忘れていた。そのため、欠けたところのない、明るい月が空に出て(その夜は雲がなかった)、窓の真向いのあたりまで昇り、よろい戸のない窓ガラスからわたしをのぞきこんだとき、その凝視するような輝きがわたしの眠りをさましてしまった。真夜中に起こされたわたしの目に、月の姿がうつった――銀白色の、水晶のように澄んだ月。美しいが、あまりにもきびしい。わたしは上半身を起こすと、カーテンをひくために腕をのばした。
おお、神よ! なんという悲鳴!
夜は――静寂は――安息は、ソーンフィールド・ホールのすみからすみまで響きわたった、荒々しく、鋭く、かん高い叫び声で、まっ二つにひき裂かれてしまった。
わたしの脈はとまり、心臓も鼓動をとめた。のばした腕は、しびれたように動かない。叫び声は消えたきり、くり返される気配はない。いや、あの恐ろしい悲鳴をあげたのがどんな生きものであれ、それを連続してくり返すというのは、不可能であったかもしれない。アンデス山脈の長大な翼をもったコンドルでさえも、山頂の巣をかくす雲間から、あれほどの叫び声を、つづけて二回も発することはできないではないか。あんな絶叫をしたものは、ひと休みしてからでなければ、それをくり返す力がないにちがいない。
叫び声は三階からであった。響きわたったのが、わたしの頭の上であったからである。そしていま、頭の上で――そう、わたしの部屋の天井のすぐ上の部屋で――どたばたやる音が聞こえる。物音から察したところ、死にもの狂いの格闘らしい。窒息しかけたような声が叫んでいる――
「助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ!」と、三回、しかも早口であった。
「だれもきてくれないのか?」とその声は叫んでいる。やがて、よろめくような音や足を踏み鳴らす音が荒々しくつづくうちに、天井の板としっくいのむこうから、はっきりとした声が聞こえてきた――
「ロチェスター! ロチェスター! 頼むから、きてくれ!」
どこかの部屋のドアが開いた。廊下をだれかが走りぬけた、というよりも突進して行った。上の部屋では、床を踏み鳴らす音がまた聞こえ、なにかが倒れた。それから静けさがもどった。
わたしは、恐怖に手足をふるわせながらも、服をつけおわっていたので、部屋から廊下へ出てみた。みんな眠りをさまされている。どの部屋からも悲鳴やら、おびえたようなささやき声やらが聞こえてくる。ドアがつぎつぎに開けられ、ここで一人、あそこで一人と顔をのぞかせる。廊下の人影が多くなってくる。男女の別なく、ベッドから起き出している。「まあ! なに事かしら?」――「だれか怪我でもしたのかな?」――「なにが起こったのかしらねえ?」――「明かりをとりに行ってこい!」――「火事かな?」――「泥棒かしら?」――「どこへ逃げたらいいの?」といった言葉が、いたるところで乱れ飛んでいる。月の光がなかったら、あたりはまっ暗闇であっただろう。お客さんたちは左右に走りまわったり、一つところに集まったりしている。すすり泣く者、けつまずく者。手のつけようのない混乱ぶりであった。
「一体、ロチェスターはどこだ?」とデント大佐が大声をあげた。「ベッドにはいないぞ」
「ここ! ここですよ!」という大声がかえってきた。「みなさん、落ち着いてください。いま行きますから」
そして、廊下のつき当りのドアが開き、ろうそくを手にしたロチェスターさまの姿があらわれた。三階からおりてきたばかりであった。ご婦人がたの一人がすぐに駆けよって、腕をつかまえた。ミス・イングラムである。
「どんな恐ろしい事件が起こったのです?」とミス・イングラムはいった。「お話しになって! どんなにひどいことでも、わたくしどもにすぐお聞かせになって!」
「でも、わたしを引き倒したり、首をしめたりはしないでください」とロチェスターさまは答えた。なるほど、エシュトン姉妹はしがみつくような格好であり、ふわふわの白い部屋着の二人の未亡人も満帆を張った船のようにせまっていた。
「ご心配なく! ――ご心配なく!」とロチェスターさまは大声でいった。「『から騒ぎ』(シェイクスピアの作品への言及)のリハーサルみたいなものですから。ご婦人がた、おどきください。でないと、乱暴に扱いますよ」
たしかに、乱暴しかねない顔つきであった。黒い目がらんらんと光っている。やっとの思いで気を静めたロチェスターさまは、こうつけ加えた――
「召使いが悪い夢をみた。それだけのことです。興奮しやすい、神経質な女でしてね。夢を幽霊かなにかと勘ちがいして、恐怖のあまり発作を起こしたのにちがいありませんな。さあさあ、みなさんをお部屋まで、しかとお送り申しあげます。家のなかが静かにならないことには、その召使いの面倒もみれませんから。男性のみなさん、まことにすまないが、ご婦人がたに手本を示していただきたい。イングラムさん、根も葉もない恐怖などものともしていないところをお見せ願えるでしょうね。エイミーにルイーザ、いつもの小鳩にもどって、古巣にお帰りなさい。奥さまがた」(二人の未亡人にむかって)「いつまでもこの底冷えのする廊下にいたら、かぜをひくこと、疑いなしですよ」
このように、なだめたり命令したりして、ロチェスターさまはお客全員をそれぞれの部屋へ、もとのように追いもどそうとした。わたしは部屋へもどるように命令されるまで待つこともなく、人目につかないように引きあげた。部屋を出たとき、人目につかなかったと同じように。
しかし、わたしはベッドにはいるためにもどったのではない。その反対に、わたしはきちんと身づくろいをしはじめた。悲鳴のあとの物音や、だれかが口にした言葉を耳にしたのは、おそらくわたし一人であっただろう。わたしの部屋のすぐ上の部屋から、聞こえてきたものであったからだ。だが、その物音や言葉は、ソーンフィールド・ホールを恐怖におとしいれたのが召使いの夢などではないし、ロチェスターさまの説明にしても、お客をなだめるための口実にすぎないことを、わたしにはっきり物語っていた。そこで、わたしはまさかのときにそなえて、着がえをしたのだ。身づくろいをすませたわたしは、長いあいだ窓べに坐って、ひっそりとした屋敷の庭や銀色に光る野原を見わたしていたが、なにを待っているのかは、自分にもわからなかった。あの奇妙な絶叫と、格闘と、助けを求める呼び声のあとに、なにか事件が起こるにちがいないような予感がしていたのだ。
その予感ははずれた。静けさがもどり、かすかな人声やざわめきがしだいに聞こえなくなった。小一時間もすると、ソーンフィールド・ホールはふたたび砂漠のような静寂につつまれた。またもや眠りと夜の支配する世界となったらしい。そのうちに月はかたむき、まさに沈もうとしている。さむざむとした暗闇のなかに坐っているのはいやだったので、わたしは着衣のまま、ベッドに横になろうと思った。わたしは窓ぎわをはなれ、足音をしのばせてカーペットの上を歩いた。靴をぬごうと前かがみになったとき、そっと、用心ぶかくドアをノックする音が聞こえた。
「ご用ですか?」とわたしはきいた。
「起きているかい?」わたしが心待ちにしていた声、つまり、わたしの主人の声であった。
「はい」
「着がえているかい?」
「はい」
「じゃ、出てきてくれたまえ。そっとだよ」
わたしは、いわれるとおりにした。ロチェスターさまは明かりをもって、廊下に立っていた。
「手をかりたい」とロチェスターさまはいった。「こっちだ。ゆっくりと、足音を立てないように」
わたしのスリッパはうすく、敷物を敷いた廊下を、猫のようにそっと歩くことができた。ロチェスターさまはすべるように廊下をわたって階段をあがると、あのおぞましい三階の暗い、せま苦しい廊下に立ちどまった。あとにしたがったわたしは、その横に並んで立った。
「きみの部屋にスポンジはあるかい?」とロチェスターさまは小声できいた。
「はい」
「なにか気つけ薬でも――アンモニア水はあるかい?」
「はい」
「引きかえして、とってきてくれないか」
わたしは部屋にもどると、スポンジは洗面器台の上から、気つけ薬は引き出しのなかから見つけ出し、もときた道を引きかえした。ロチェスターさまはまだ待っていた。手には鍵をもっている。とある小さな、黒いドアに近づくと、それを鍵穴にさしこんだが、鍵をまわすのをやめて、もう一度わたしに話しかけた。
「血を見てもだいじょうぶだね?」
「だいじょうぶだと思いますわ。はじめての経験ですけど」
答えながら身ぶるいがしたが、寒気はおぼえなかったし、気が遠くなることもなかった。
「ちょっとその手をかしたまえ」とロチェスターさまはいった。「気絶されたら困るからね」
わたしは指を、ロチェスターさまの指にあずけた。
「暖かいし、ふるえてもいない」
こういうと、ロチェスターさまは鍵をまわして、ドアを開けた。
わたしの目にはいったのは、まえにフェアファックス夫人が家のなかを案内してくれた日に見た記憶のある部屋であった。そこにはつづれ織りの壁掛けがかかっていたが、いまはその一部分が環でしばられていて、あのときにはかくれていたドアが見えている。このドアは開いていて、そのむこうの部屋から明かりがもれている。そこから、喧嘩をしている犬でもいるみたいに、うなる音、歯をならす音が聞こえていた。ロチェスターさまはろうそくを置くと、わたしに「ちょっと待って」といい残して、その奥の部屋にはいった。はいった途端、それを歓迎するようなけたたましい笑い声がした。はじめはやかましいだけの笑いであったが、最後には、ほかならぬグレイス・プールの「ははは」という化け物めいた笑いに変わった。やはりあそこにいるのは、|あの女《ヽヽヽ》なのだ。なにか話しかけようとしている低い声が、わたしの耳にはいったが、ロチェスターさまは、一言も口をきかずに、なにやらごとごとやっている。やがて姿を見せると、ドアを閉めた。
「こっちだ、ジェイン!」
わたしは大きなベッドの反対側へまわって行った。カーテンを引いたままのこのベッドのために、部屋の大部分が見えなくなっている。ベッドの枕もと近くに安楽椅子があって、そこに上着のほかはちゃんとした服装の男が一人、腰をかけていた。じっと坐ったまま動かず、頭はうしろにもたせ、目も閉じたままである。ロチェスターさまは、その男にろうそくを近づけた。わたしがその青ざめて、生気を失ったような顔にみとめたのは――見知らぬ客のメイスン氏であった。それに、そのシャツの半分と、片腕とが血でしたたるばかりになっていることも、わたしの目にとまった。
「ろうそくを持っていてくれたまえ」とロチェスターさまがいった。わたしがそれを受け取ると、ロチェスターさまは洗面台から水のはいった洗面器をもってきた。
「これを持って」といわれて、わたしはいわれたとおりにした。ロチェスターさまはスポンジを手に取ると、それを水にひたしてから、死んだような顔をぬらし、わたしから気つけ薬のびんを受け取って、鼻のところへ持って行った。やがてメイスン氏は目をあけ、うめき声をあげた。ロチェスターさまは怪我人のシャツを開くと(片方の腕と肩には包帯が巻いてあった)、たらたらとしたたり落ちる血をスポンジでぬぐった。
「命とりになるんじゃないか?」とメイスン氏がつぶやくようにいった。
「ばかな! そんなことが――ただのかすり傷さ。気をたしかにもつんだ、いいな。元気を出せよ! これから医者を呼びに行ってくる。朝までには動かせるようになると思うよ。ジェイン――」とロチェスターさまは言葉をつづけた。
「はい?」
「きみをこの部屋に、この男といっしょに残しておかねばならん。一時間か、場合によっては二時間か。血が出てきたら、いまぼくがやっているみたいに、スポンジでふき取る。気を失いかけたら、あの洗面台の上にあるコップの水をのまし、気つけ薬を鼻にあてる。どんなことがあっても、話しかけてはいかん――それに――リチャード――きみも話しかけたりしたら、命にかかわると思え。口をきいたり――動いたりしてみろ、あとでどうなっても知らんからな」
かわいそうに、メイスン氏はまたうめき声をあげた。動く気力もないらしい。死か、そのほかのなにかに対する恐怖で、身動きができないほどのように見える。すでに血だらけになったスポンジを手渡されたわたしは、それをロチェスターさまと同じように使いはじめた。ロチェスターさまはしばらくわたしを見守っていたが、やがて「いいかい! ――話しあってはいけないよ」といって、部屋から出て行った。鍵が鍵穴でかちゃりと鳴り、遠ざかって行く足音が聞こえなくなったとき、わたしは異様な気持ちを味わった。
いまわたしは三階にいて、謎の小部屋の一つに閉じこめられている。わたしをとりかこむ夜の闇。わたしの目と手の下にある青ざめた、血まみれの人の姿。一枚のドアでやっとへだてられている殺人鬼。そうなのだ――わたしをぞっとさせるのは、そのことなのだ――ほかのことなら、がまんができる。だが、グレイス・プールが飛びかかってくるのではないか、と思っただけで、ぞっと身ぶるいがした。
しかし、わたしは持ち場をはなれることはできない。このすごい形相の顔を見つめていなければならない――開くことを禁じられている真っ青な、びくとも動かない唇――閉じたり、開いたりしながら、部屋のなかを眺めまわしたり、わたしを見つめたりしているものの、恐怖でどんよりとくもったままの目。わたしは朱に染まった洗面器になん回となく手をひたして、したたる血潮をふき取らねばならない。芯《しん》がもえて黒くなったろうそくの明かりが、わたしの手もとを暗くするのを――その影がわたしのまわりの古ぼけた、つづれ織りの壁掛けのあたりで深まり、時代ものの大きなベッドのカーテンの下でまっ黒になり、目のまえの大型の用だんすの戸の上で無気味にゆらめくのを見ていなければならない――その用だんすの前面は、十二枚の鏡板に仕切られ、それぞれの鏡板には、額ぶちにいれられたような形で、きびしい表情に描かれた十二使徒(キリストの十二人の弟子)の顔がはめこまれている。用だんすの一番上の、十二使徒の頭上には、黒檀の十字架と瀕死のキリスト像が立っていた。
移り動く影と、ちらつく光とが、ここでたゆたい、かしこできらめくにともなって、ひげの医者ルカが眉をひそめたり、聖ヨハネの長い髪の毛が波うったりしたし、かと思うと、悪魔のようなユダ(キリストを裏切るが、もとは十二使徒の一人であった)の顔が鏡板からぬけ出し、生命をあたえられて、手下《ユダ》の姿をかりた大反逆者――大魔王《サタン》自身の姿をさし示そうとしているかに思われたりもした。
こうしたさなかにあって、わたしは目だけでなく耳をも働かせ、むこうの檻にとじこめられている野獣か悪魔の動きに気を配らなければならなかった。だが、ロチェスターさまがのぞきに行ってから、その野獣か悪魔は呪文にでもかかっていたらしい――夜が明けるまでに、長い間隔を三回おいて、わずか三つの物音しか聞こえてこなかった――床をきしらせる足音と、一瞬ぶりかえされた犬のうなるような声と、人間の低いうめき声の三つだけであった。
それと同時に、わたし自身があれこれと考えて、思い悩んだ。この人里はなれた屋敷にはっきりとした形をとって住みつき、その家の主人が追いはらうことも押えつけることもできない犯罪とは、一体なんだろうか? ――草木も眠るうしみつ時に、火事だの、流血騒ぎだのの形をとってあらわれる秘密とは、一体なんだろうか? ――普通の女性の顔と姿にかくれて、あるときは嘲笑する悪魔のような、あるときは腐肉をあさる猛禽《もうきん》のような声をあげる生きものとは、一体なんだろうか?
それに、わたしがいまのぞきこんでいるこの男――この平々凡々とした、おとなしい見知らぬ客――この男が恐怖のくもの糸にまきこまれたのは、どういうわけなのか? あの気ちがい女がこの男におそいかかったのは、なぜだろうか? ベッドで眠っているはずのこの男が、よりによってこんな時刻に、屋敷のこんな場所へ足をのばしたのは、なぜだろうか? ロチェスターさまがこの男に二階の一室をあてがうのを、わたしは耳にしている――それなのに、なぜこんなところにいなければならぬのか? それに、この男がいま、自分に加えられた暴力なり裏切りなりに対して、こうもおとなしいのはなぜだろうか? だまって隠れているように、というロチェスターさまの命令に、こうも唯々諾々《いいだくだく》として従っているのはなぜだろうか? |そもそも《ヽヽヽヽ》ロチェスターさまがだまって隠れているように命令したのはなぜだろうか? 客が乱暴を働かれ、まえには自分自身の生命に対して恐ろしい悪だくみがなされたというのに、ロチェスターさまは、二つの事件をうやむやのうちにもみけし、忘却の淵に沈めているのではないか! 最後に、メイスン氏がロチェスターさまには絶対服従で、ロチェスターさまの強烈な意志が無気力なメイスン氏を完全に支配していることにも、わたしは気がついている。二人のあいだにかわされた数すくない言葉を耳にしただけで、わたしはそのことを確信した。二人の以前の交渉において、一方の消極的な性格が、他方の積極的なエネルギーに支配される習慣になっていたことは歴然としている。とすれば、メイスン氏の来訪を耳にしたときのロチェスターさまの驚愕は、なにに由来しているのか? この御しやすい男――いまでは口先だけで子どもみたいにあやつることのできる男の名前を聞いただけで、数時間まえのロチェスターさまが、雷に打たれたカシの木のように打ちのめされたのはなぜだろうか?
ああ! わたしは「ジェイン、ぼくはまいってしまったよ――ぼくはまいってしまったよ、ジェイン」と低い声でいったときの、ロチェスターさまの表情と蒼白の顔色を忘れることができない。わたしの肩の上に置いた手が、どんなにふるえていたかも忘れることができない。あのようにフェアファックス・ロチェスターの強固な精神を屈服させ、頑丈な体躯を戦慄させた事件とは、ただごとではあるまい。
「いつ、おもどりかしら? いつ、おもどりになるのかしら?」とわたしは心のなかで叫んでいたが、夜ははてしなくつづいた――出血のつづく怪我人は弱り、うめき、しおたれているが、夜明けも助けもやってこない。わたしは、なん回となくメイスンの血の気のない唇に水をもって行き、なん回となく気つけ薬をかがしたが、それも徒労におわっているらしい。肉体的な苦しみのせいか、精神的な苦しみのせいか、出血多量のせいか、それともこの三者のせいなのか、メイスン氏の体力は急速に衰えている。ひどくうめくし、表情もまことに弱々しく、けわしく、消耗しきったようで、死ぬのではないかとさえ思われる。にもかかわらず、わたしは話しかけることさえできないというのだ!
ついにろうそくが燃えつきて、消えた。消えると、灰色の日の光が、窓のカーテンをふち取りはじめているのに、気がついた。どうやら夜明けも近いようである。ほどなくして、遠くはなれた中庭の犬小屋で吠えるパイロットの声が、はるか下のほうから聞こえてきた。希望がよみがえった。しかも、それはぬか喜びではなかった。五分後には、鍵のまわる音、錠のはずれる音がして、わたしの寝ずの番のおわったことを告げた。二時間以上はかからなかったはずなのに、なん週間もに匹敵する長さに思われた。
ロチェスターさまがはいってきた。呼びに行っていた外科医をつれている。
「さあ、カーター、ぬけ目なくやってくれよ」とロチェスターさまは外科医にいった。「傷の手当てをして、包帯をまいて、怪我人を階下《した》へおろすまで、ぜんぶを半時間でやってもらいたい」
「しかし、動かしてもいいでしょうか?」
「それは問題ない。大した傷じゃないんだ。こいつは神経質なやつだから、気を張りつめさせておかねばならないが。さあ、はじめてくれ」
ロチェスターさまは、ぶ厚いカーテンをひき開け、リンネル製の日よけをひきあげて、日の光ができるだけたくさんはいりこむようにした。夜明けがすぐ間近かにせまり、見事なバラ色のいく筋もの光で、東の空が輝きはじめているのを見て、わたしは驚きもし、また元気もでてきた。やがてロチェスターさまは、さっそく外科医が手当てに取りかかっているメイスン氏に近づいた。
「ねえ、きみ、気分はどうだい?」とロチェスターさまはきいた。
「あの女のおかげで、ぼくももうおしまいじゃないかな」という、弱々しい答えがかえってきた。
「そんなことがあるもんか! ――気をたしかにもつんだ! 二週間もすれば、ぴんぴんしてるよ。出血がすこしあったかな。それだけさ。カーター、この男に心配ないといってやってくれ」
「それは良心にかけても保証できますがね」とすでに仮り包帯を取り終っていたカーターはいった。「ただ、ここへくるのがもうすこし早かったら、と思いますよ。こんなに出血しなくてもすんだでしょうから――これはどうしたんです? 肩の肉が切れているだけでなく、裂けてもいますね? これはナイフで切った傷じゃない。ここは、歯でかまれたんですな?」
「あの女がかみついたんだ」とメイスン氏がつぶやくようにいった。「ロチェスターにナイフを取りあげられると、あの女、めすの虎みたいにかみついてきて、振りまわしやがったんだ」
「逃げたからいけないんだぜ。すぐに組みつけばよかったんだな」とロチェスターさまがいった。
「しかし、あの場合、なにができるというんだい?」とメイスン氏がいい返した。「ああ、こわかったなあ!」と身をふるわせながらつけ加えて、「それに、思いがけなかったもんな。はじめは、おとなしそうだったし」
「いっといたじゃないか」とメイスン氏の友人が答えた。「近づくときには用心しろ、とな。それにさ、あすまで待って、ぼくといっしょに行けばよかったじゃないか。今夜、しかも一人で会おうとするなんて、愚の骨頂だぜ」
「なにか役に立つかと思ったのさ」
「思ったって! 思ったって! いや、まったく、きみの話を聞いていると、いらいらしてくるぜ。しかし、ぼくのいうことを聞かなかった罰に、ひどい目にあった。これからも、その可能性は十分にあるぜ。だから、もうなんにもいわない。カーター――いそげ! いそげ! まもなく日の出だ。この男をつれ出さなくては」
「すぐですよ。肩の包帯をしたところですから。もう一つ、この腕の傷の手当てもしなくては。ここにもかみついたようですね」
「あの女は血を吸ったんだ。ぼくの心臓の血を吸い取ってやるといったんだ」とメイスン氏がいった。
身をふるわせるロチェスターさまの姿が、目にはいった。嫌悪と恐怖と憎悪を露骨に示す奇妙な表情に、その顔はゆがまんばかりであった。だが、ロチェスターさまはこうしかいわなかった――
「さあ、おとなしくしろ、リチャード。あの女の口走ったことなど、気にするな。二度といってくれるな」
「忘れられるものなら、忘れたいよ」というのがメイスン氏の答えであった。
「イギリスをあとにしたら、忘れるとも。スパニッシュ・タウンに帰りついたら、あの女のことなんか、死んで墓に葬られた人間ぐらいにしか思わないさ――いや、思い出す必要さえなくなるよ」
「今夜のことは、絶対に忘れられないな!」
「絶対ってことはないよ。元気を出すんだぜ、おい。二時間まえには、死んだニシンみたいだったきみが、いまじゃしゃんとして、口がきけているじゃないか。ほらな! ――カーターもあらかた終ったところだ。すぐに小ざっぱりとした服を着せてやるよ。ジェイン」(もどってきてからはじめて、わたしのほうをむいて)「この鍵をもって、階下《した》のぼくの寝室へ行ってくれたまえ。まっすぐ化粧室まで行ったら、たんすの一番上の段をあけ、きれいなシャツとネッカチーフを出して、ここまでもってくるんだ。いそいでくれたまえ」
わたしは階下におりて行って、いわれたたんすを捜し出し、指定された二つの品を見つけると、それをもって引きかえした。
「じゃあ」とロチェスターさまはいった。「この男に着がえをさせるあいだ、ベッドのむこうへ行ってくれたまえ。しかし、部屋から出たらいかんよ。また用事をしてもらいたいから」
わたしは、命令されたとおりに引きさがった。
「きみがおりて行ったとき、だれかがうろうろしていなかったかい、ジェイン?」ほどなくして、ロチェスターさまがきいた。
「いいえ。静まりかえっておりました」
「人目につかないようにつれだしてやるからな、ディック(リチャードの愛称)。それがきみのためにも、あそこにいる哀れなやつのためにも、いいと思うよ。いままで長いあいだ、なんとかかくしおおせたんだから、いまさら露見されたくないのさ。さあ、カーター、チョッキを着せてやってくれ。毛皮の外套はどこへ置いてきたんだい? あれなしでは、一マイルも旅はできんよ、きみ。こんな、いやというほど寒い土地なんだから。自分の部屋だって? ――ジェイン、ひとっ走りメイスンさんの部屋へ行って――ぼくのとなりの部屋だ――そこにある外套をもってきてくれたまえ」
わたしはまた走りおりると、毛皮の裏とふち取りのある、いやに大きな外套をかかえて引きかえした。
「ところで、きみにもう一つ頼みがある」とわたしの、疲れることを知らない主人はいった。「もう一回、ぼくの部屋に行ってもらわねばならんのだ。きみがビロードのスリッパをはいているので、大助りだよ、ジェイン! ――このさい、どたばた走りまわるお使いでは役に立たんのでね。ぼくの化粧台の真ん中の引き出しをあけて、そこにはいっている小さな薬びんと小さなコップを取ってきてくれたまえ――大いそぎ!」
わたしは飛ぶように出かけると、いわれた薬びんとコップをもって、飛ぶようにもどってきた。
「よくやった! ところで、先生、先生のまえだが、この男に薬をのませますよ。責任はぼくが取ります。ロ―マで、あるイタリア人のいんちき医者から手に入れた強心剤なんだ――きみなら、足げにしてしまいそうなやつなんだがね、カーター。むやみやたらと使ってはいかん代物だが、ときには効き目があるのさ。いまなんか、そうだな。ジェイン、水をすこし取って」
ロチェスターさまが小さなコップをさし出したので、洗面台の水差しの水を、それに半分ばかりついだ。
「それで結構――こんどは薬びんの口をしめしてくれたまえ」
わたしは、いわれたとおりにした。ロチェスターさまは、深紅色の液体を十二滴分だけしたたらせると、それをメイスン氏にさし出した。
「飲むんだ、リチャード。一時間か二時間は、きみに欠けている元気をつけてくれるよ」
「しかし、からだの害になるのじゃないかい? ――炎症をおこすとかさ?」
「飲むんだ! 飲むんだ! とにかく飲むんだ!」
さからっても無駄だとわかったので、メイスン氏は、いいつけに従った。服装はもうととのっているし、まだ顔色は悪かったが、血まみれ泥まみれというのではない。ロチェスターさまは、液体を飲んだメイスン氏を三分間、休ませておいたが、やがてその腕を取った――
「さあ、自分の足で立てるようになったはずだ。ためしてみろよ」
怪我人は立ちあがった。
「カーター、そっちの肩を支えてやってくれないか。元気を出すんだ、リチャード。足をまえに出して――うまい、うまい!」
「ずっと気分がよくなったよ」とメイスン氏がいった。
「そうともさ。さあ、ジェイン、ぼくたちよりもさきに裏の階段へ行って、通用口の戸をあけ、庭で待っている駅馬車の御者に――敷石の上で車をがらがら走らせないようにいっといたので、塀の外かもしれんが――用意するようにいってくれたまえ。こっちはすぐ行くからね。それから、ジェイン、そこらにだれかがいたら、階段のあがり口まできて、せきばらいをしてくれたまえ」
このときにはもう五時半になり、太陽はまさに顔を出そうとしていた。だが、台所はまだ暗く、静まりかえっている。通用口のかんぬきがおりていたので、できるだけ音をたてないように開けた。裏庭全体はしんとしているが、裏門は開けはなたれ、外に一台の駅馬車がとまっている。馬車には馬がつけられ、御者は御者台に坐っていた。わたしが近づいて、いまお見えになりますから、というと、御者は首をうなずかせた。それから、わたしはあたりを注意ぶかく見まわして、耳をすました。早朝の静けさが、いたるところで眠っている。召使いたちの部屋の窓には、まだカーテンがひいたままである。花でまっ白になった果樹園の木で、さえずりはじめたばかりの小鳥たち。庭の片側をかこむ塀の上に、白い花輪みたいに垂れさがっている木の枝。ときたま、戸のしまった厩舎で、足を踏みならしている馬車馬たち。そのほかは、なにもかも森閑としていた。
やがて、三人の姿があらわれた。ロチェスターさまと外科医に支えられたメイスン氏は、かなりらくらくと歩いているように見えた。二人に助けられて馬車に乗りこむと、そのあとにカーターがつづいた。
「この男を頼むよ」とロチェスターさまはカーターにいった。「全快するまで、きみの家に置いてやってくれよな。一両日のうちに、ぼくも馬でようすを見に行くからさ。リチャード、調子はどうだい?」
「新鮮な空気をすって、元気がでてきたよ、フェアファックス」
「あいつの側の窓は、開けたままにな、カーター。風がないから――じゃ、ディック」
「フェアファックス――」
「え、なんだ?」
「あれの面倒を見てくれよな。できるだけやさしくしてやってくれよな。あれを――」といいかけて、メイスン氏はわっと泣き出した。
「できるだけのことはする。これまでもしてきたし、これからだってな」
そう答えて、ロチェスターさまが馬車のドアを閉めると、馬車は走り去った。
「なにもかもこれっきりになってくれることを祈りたいものだ!」
ロチェスターさまは、そうつけ加えながら、重い裏門を閉めて、かんぬきをかけた。かけおわると、果樹園の塀の木戸のほうへ、ゆったりした足どりで、放心したように歩いて行った。わたしは、これで用はおわったと思ったので、建物のほうへもどろうとしていた。だが、また「ジェイン!」と、わたしを呼ぶ声が聞こえた。ロチェスターさまは木戸を開けたまま、そこに立って、わたしを待っていた。
「ちょっとでいい、すこしさわやかなところへ出てみないか。あの家は、まったくの地下牢だ。そうは思わないかい?」
「わたしには、すばらしい屋敷に見えますけど」
「きみの目には、世間知らずという魔法がかかっているからな」とロチェスターさまは答えた。「魔法の力をかりて、あの屋敷を見てるのさ。きみには見ぬけないんだよ、金箔が泥で、絹の掛け布がくもの巣、大理石がうすぎたない石板《スレート》で、磨きあげた建材がただの木端《こっぱ》やざらざらしたクルミの実のからであることなんかは。それが、|ここでは《ヽヽヽヽ》」(わたしたちがはいって行った木の葉のおい茂る果樹園を指さして)「すべてが真実で、甘美で、純粋なんだから」
ロチェスターさまは散歩道をぶらぶら歩いて行ったが、その一方はツゲ、リンゴ、ナシ、桜などの木が並び、もう一方をふちどる花壇には、ストックやアメリカナデシコや桜草やサンシキスミレといった、さまざまの古風な草花が、ニガヨモギやイバラなど数種類の香りの高い草にまじって咲き乱れている。この草花のいまのみずみずしさは、四月のにわか雨と陽光とがひとしきりくりかえされたあとの(イギリスの四月は天気が変わりやすいので有名)、うららかな春の朝にしか見られないものであった。太陽は、まだら色の東の空に、姿をあらわそうとしていた。その光は、花の冠をつけ、露をふくんだ果樹園の木々を照らし出し、その下の静かな散歩道にふりそそいでいる。
「ジェイン、花はいらないかい?」
ロチェスターさまは半開のバラの花を――そのバラの木に咲いた最初の花を一輪、手折って、わたしにさし出した。
「ありがとうございます」
「この日の出は気にいったかい、ジェイン? 温度があがったら消えるにちがいないけれど、高くに薄雲のうかんだあの空――このおだやかで、かぐわしい気分はどうかね?」
「すごく気にいりましたわ」
「きみは、あやしい一夜をすごしたんだね、ジェイン」
「はい」
「そのせいか、顔色がよくないよ――メイスンと二人きりで取り残されたとき、こわかったかい?」
「奥の部屋からだれかが出てきはしないかと思って、こわかったですわ」
「いや、ドアに鍵をかけてあったよ――その鍵はぼくのポケットのなかだったから。子羊を――ぼくのかわいい子羊を、オオカミの檻のすぐそばに番犬もつけずに置きっぱなしになんかしたら、ぼくも間抜けな羊飼いになるところだったさ。きみには、なんの危険もなかったんだよ」
「グレイス・プールは、ここにずっと住むのですか?」
「ああ、そうとも! あの女のことで心を悩ましては駄目だな――きみの頭から追いやってしまいたまえ」
「でも、あの女がいるかぎり、あなたさまのお命は安全とはいえないように思えますけど」
「心配いらんよ――用心することにするから」
「昨夜、あなたさまが心配しておられた危険はすぎ去りましたの?」
「メイスンがイギリスを出るまでは、なんともいえんな。いや、出てしまった場合でも、同じことだが。ジェイン、ぼくにとって生きるということは、いつぽっかり開いて、火を吐くかもしれない噴火口の上に立っているみたいなものなんだよ」
「でも、メイスンさまは御し易いかたのように見えます。あなたさまのお力で、どうにでもなるかたであることは、はっきりしておりますわ。あのかたなら、あなたさまにさからったり、あなたさまを故意に傷つけたりはなさりませんわ」
「そんなことはしないさ! メイスンがぼくにさからったり、知っていながら、ぼくを傷つけたりすることはない――しかしだよ、その気はなくても、不注意な一言で、一瞬のうちに、ぼくの生命とはいわないまでも、幸福を永久に奪うことはあり得るのさ」
「言動に気をつけるよう、あのかたにお命じになっては。あなたさまの恐れていることをお知らせになって、どうすればその危険がさけられるかを、お教えになってはいかがですの」
ロチェスターさまは冷ややかに笑うと、わたしの手をさっと取ったが、その手をまたさっとふりはなした。
「馬鹿だな。それがぼくにできれば、危険なんかどこにあると思う? あっというまに、消えてなくなるのさ。メイスンと知り合って以来、『これをやれ』といいつけさえすれば、思いどおりになってきたんだ。しかし、こんどばかりは、あいつに命令することができないんだ。『ぼくを傷つけないように用心しろよ、リチャード』とはいえないのさ。ぼくを傷つけることができるなんてことは、あいつには絶対内緒にしておかねばならないのだから。きみは途方にくれてるね。じゃ、もっと途方にくれさせてやるとするかな。きみはぼくの友人だよね?」
「あなたさまのお役に立ちたい、正しいことならなんでも、いいつけどおりにしたいと思っておりますわ」
「そうだろうな。きみがそう思っていることはわかるよ。きみの足どりや態度に、きみの目や顔に、まじりけのない満足感が浮かぶのを見かけるのは、きみがぼくを助けたり喜ばせたり――ぼくのために、ぼくといっしょに働いているときなんだが、それも、いかにもきみらしいいいかたによれば、|正しいことならなんでも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》するときにかぎられている。というのも、きみがけしからんと思っていることをいいつけた場合、きみは軽やかな足どりで走りまわったり、器用な手つきでてきぱき働いたりしなくなるし、いきいきした目つきも、活気にあふれた表情も見せなくなるのだからな。きみというぼくの友人は、ぼくのほうをむきなおると、静かに、青ざめた表情で、『駄目です。そんなことはできませんわ。それは悪いことですから、わたしにはできません』といって、恒星みたいに動かなくなるんだ。というわけで、きみもぼくを支配する力をもっていて、ぼくを傷つけることができるのさ。しかし、ぼくはぼくの弱点をきみには絶対見せないよ。誠実で、友情に厚いきみだけど、あっという間に、その弱点を突き刺してしまうかもしれないからね」
「わたしを恐れる理由がないのと同じように、メイスンさまを恐れる理由がないのでしたら、あなたさまは本当に安全ですのに」
「そうであれかしと願っているんだがね! ジェイン、あずま屋だ。坐りたまえ」
それは壁に作りつけになったアーチ型のあずま屋で、ツタにおおわれていた。丸木づくりのベンチが一つ。ロチェスターさまはそれに腰をおろしたが、わたしのかける分も残っていた。しかし、わたしはロチェスターさまのまえに立っていた。
「坐りたまえよ。このベンチは長いから、二人がかけられるよ。ぼくのそばに腰をかけるのをためらっているのではないだろう? これはけしからんことかい、ジェイン?」
わたしは、返事をするかわりに、そこへ腰をおろした。断るのは賢明でないように思われたからである。
「さあてと、太陽が露をすっているあいだに――この古ぼけた庭の花が目をさまして咲きはじめ、小鳥たちがひなの朝食を麦畑へさがしに行き、早起きの蜜蜂が朝の一仕事をすましているあいだに――ぼくの友人のきみに、ある身の上話をしてあげよう。きみ自身の話だと思って聞いてくれなきゃいかんよ。しかし、そのまえに、ぼくの顔を見て、きみが落ち着いていることを――ぼくがきみを引きとめるのは、まちがっているとか、きみがここにとどまっているのは、まちがっているとかいった考えをもっていないことを、はっきりさせてくれたまえ」
「そんなこと。わたしに異存はありませんわ」
「それじゃ、ジェイン、想像力を働かしてくれたまえ――きみはもう育ちやしつけのいい女の子ではなく、子どものときから甘やかされた、手に負えない男の子であると思いたまえ。遠い外国にいると想像してほしい。性質や動機はともかくとして、きみはそこである重大な過ちをおかし、その過ちの結果がきみに生涯つきまとい、きみの人生の汚点になっていると仮定するんだな。いいかい、ぼくは犯罪《ヽヽ》とはいっていない。ぼくがいっているのが刃物三昧とか、その他の犯罪行為なら、それをおかした者は法の裁きを受けることになる。ぼくは|過ち《ヽヽ》という言葉を使っているからね。そのきみのおかした過ちの結果が、やがてきみにはどうしても耐えられなくなってくる。きみは息抜きを求めて、あらゆる手段をつくす。並みはずれた手段ではあるが、法にそむくものでも、きみを罪におとすものでもない。それでもまだ、きみはみじめなのだ。なぜなら、きみの人生のまさに出発点において、希望がきみを見捨てたのだから。きみの場合、真昼の太陽が日蝕で暗くなり、その日蝕が日没までおわることはない、ときみは思っている。にがく、卑しい連想だけが、きみの記憶の唯一の糧となっている。きみは放浪のなかに休息を求め、快楽のなかに――つまり、知性をくもらせ、感性を枯らせる動物的で、官能的な逸楽のなかに幸福を追いかけながら、ここかしこをさまよう。みずから課した流離の歳月のあと、心は疲れ、魂もひからびたきみは、故郷に帰ってくる。きみは、一人の人間と新しく知りあう――どこで、どのようにしてかは、ここでは問うまい。きみはその新しく知った人間のなかに、きみが二十年間さがし求めながら、一度も出会ったことのない、すぐれた、輝やかしい性質を見つけ出す。それはすべてがさわやかで、健康で、よごれもなければしみもない性質である。そのような人間との交渉は、きみをよみがえらせ、生まれ変わらせる。きみはこれまでになくすばらしい日々が――より高い願望と、よりきよらかな感情がよみがえってくるのを感じる。きみはきみの人生をやりなおし、残された日々を不朽の人間にふさわしい形ですごしたいと願う。この目的をとげるためなら、きみは慣習という障壁を――きみの良心が許さず、きみの理性もみとめていない、ただの因襲という壁をとび越えてもいいのではないだろうか?」
ロチェスターさまは返事を求めるかのように、言葉をきった。なんと答えればいいのだろうか? ああ、適切で、満足のいく答えを教えてくれる、親切な妖精でもいてくれれば! はかない願い! 西風はわたしのまわりのツタにささやきかけていたが、その風を借りて言葉を伝えようとするやさしいエーリエル(シェイクスピア作『テンペスト』に登場する空気の精)はいなかった。小鳥はこずえで歌っていたが、その歌は、いくら甘くても、はっきりした言葉にはならなかった。
ロチェスターさまは問いかけをくりかえした。
「放浪の、罪ぶかい男、いまではやすらぎを求め、悔いあらためている男が、その新しく知りあったやさしく、親切で、暖かい心の持ち主を永久に自分のもとにひきつけることができ、そうすることで心の平和を得て、新しい人間に生まれ変わることができるなら、世間の常識にいどむことも許されるのではないだろうか?」
「ですけど」とわたしはいった。「放浪者のやすらぎであれ、罪びとの更生であれ、おなじ人間の仲間にたよってはなりませんわ。人間は男も女も死にます。哲学者の叡知も、キリスト教徒の美徳も、あやまちを免れません。あなたさまのご存じのどなたかが、苦しみ迷っているようでしたら、更生のための力や傷をいやすためのなぐさめは、おなじ人間の仲間よりももっと高いところに求めさせねばなりませんわ」
「しかし、手がかりが――問題は手がかりなんだ! 御業《みわざ》をなしとげたもう神が、その手がかりをあたえてくださるのだ。ぼく自身が――たとえ話でなしにいってしまうと――放蕩無頼の俗物だったが、そのぼくが、ぼく自身の救いの手がかりとして見つけたと信じているのが、ほかならぬ――」
ロチェスターさまは言葉をきった。小鳥たちは喜びの歌をうたいつづけ、木の葉はさらさらとささやきつづけている。小鳥や木の葉が歌声やささやきをやめ、いいさした告白の言葉に聞きいろうとしないのが、わたしには不思議にさえ思われた。しかし、かりにやめていたならば、待ちくたびれてしまったことであろう――それほどに沈黙は長びいたのである。とうとう、わたしのほうが目をあげて、口をとざしたままの相手を見やると、その相手は、熱っぽいまなざしでわたしを見つめていた。
「ねえ、きみ」ロチェスターさまは、まったくちがった口調でいった――顔の表情までも変わり、やさしさや真剣さはすっかり影をひそめ、あけすけで、皮肉たっぷりな顔つきになっている――「ぼくがイングラムさんを憎からず思っていることは、きみも気づいてるね。二人が結婚した場合、あの人がぼくを見事に立ち直らせてくれるとは思わないかい?」
ロチェスターさまは、ふいに立ちあがると、散歩道のむこうの端まで歩いて行ったが、今度もどってきたときには、なにやら鼻歌をうたっていた。
「ジェイン、ジェイン」といいながら、わたしのまえに立ちどまると、「寝ずの番のせいか、顔色がひどく悪いね。きみに休息を取らせようとしないぼくをうらんでいるんじゃないかい?」
「うらむ? いいえ、そんなこと」
「その言葉が嘘でない証拠に、握手をしようや。すごく冷たい指だね! ゆうべあの秘密の部屋にはいるまえにさわったときは、暖かかったのに。ジェイン、またぼくといっしょに徹夜してくれるのは、いつのことになるかな?」
「お役に立つときなら、いつでもよろしいですわ」
「じゃ、ぼくが結婚するまえの晩なんかどうかな? ぼくはきっと寝つかれないと思うんだ。ぼくのお相伴をするために、徹夜してくれると約束するかい? きみを相手に、愛する人のおしゃべりができるからね。きみはもうその人を見て知っているんだから」
「いいですわ」
「めったにいないような女性だろ、ジェイン?」
「はい」
「大柄な――ほんとうに大柄な女だな、ジェイン。大きくて、色黒で、丸ぽちゃで。カルタゴの女たちもかくやと思われるばかりの髪(カルタゴの女性の髪が黒く、豊かであったことへの言及)。まずいな! 厩舎にデントとリンがいる! あの木戸をぬけ、灌木《かんぼく》を植えた道を通って家へはいりたまえ」
わたしたちはそれぞれにちがう道を取ったが、やがて裏庭のあたりでしゃべっているロチェスターさまの機嫌のいい声が聞こえてきた――
「メイスンのやつは今朝、みなさんよりも一足さきに失敬しましたよ。日の出まえに発ったんです。わたしは四時に起きて、見送りましたよ」
[#改ページ]
二十一章
虫の知らせとは、不思議なものである! 同じことは精神感応にも、前兆にもいえる。この三つが結びついて作りだす一つの神秘を解く鍵を、人間はまだ発見していない。わたしは生まれてこのかた、虫の知らせをあざ笑ったことはない。わたし自身、奇妙な虫の知らせを経験したことがあるからだ。精神感応の存在も、わたしは信じて疑わない(遠くはなれて、長く顔をあわさず、すっかり行き来がとだえている親類同士が、その断絶にもかかわらず、たがいの素姓をたどれば、共通の先祖に行きつくと主張しつづけているなどは、その一例である)。だが、そのメカニズムは、とうてい人間には理解できない。それに前兆にしても、自然と人間のあいだの精神感応にほかならないではあるまいか。
わたしがまだ六つの少女であったころ、ある晩、ベシー・レヴンがマーサ・アボットに、小さな子どもの夢をみたが、子どもの夢をみるのは、夢をみた本人か家族に不幸がおとずれるたしかな前兆である、と話しているのを耳にした。この話は、直後におこった事件がそれをわたしの脳裏にしっかりと植えつけなかったなら、わたしの記憶から消えうせていたであろう。翌日、妹が臨終だから帰宅せよ、という使いがベシーのもとにとどいたのである。
わたしは最近、その話と事件のことをなん回となく思い出していた。この一週間というもの、毎晩のように、赤ん坊がわたしの夢枕に立っていたからである。その赤ん坊は、わたしの両腕に抱いて寝かしつけていることもあれば、膝の上であやしていることもある。芝生でヒナギクをいじっているのを見守っているときもあれば、流れで手をバチャバチャさせているのを見守っているときもある。泣きわめいている赤ん坊の夢をみる晩があるかと思うと、つぎの晩には笑っている赤ん坊の夢をみる。わたしにぴったりとすりよってくる赤ん坊、わたしから逃げて行く赤ん坊。だが、この夢の赤ん坊は、どんな気分でいるにせよ、またどんな顔つきをしているにせよ、七晩連続して、わたしが眠りの国にはいった途端に、かならずわたしを出迎えてくれたのである。
この一つの観念のくり返し――この一つのイメージの奇妙な反覆が、わたしはいやであった。ベッドにはいる時間が近づき、夢を見る時間がせまるにつれて、わたしは不安になった。例の悲鳴を聞いた月夜にも、わたしはこの赤ん坊のまぼろしといっしょにいるところを起こされたのであった。わたしに会いたいという人が、フェアファックス夫人の部屋にいるという知らせで、わたしが階下へおりて行ったのは、その翌日の午後のことであった。部屋に行ってみると、わたしを待っているのは男の人で、良家の召使いといった格好をしている。着ているのは正式の喪服で、手にもっている帽子には、喪章が巻いてあった。
「わたしをおぼえてはいらっしゃらないでしょうね、エアさん」わたしがはいって行くと、男は立ちあがって、そういった。「わたしはレヴンと申しまして、八、九年まえ、あなたがゲイツヘッドにお住まいのころ、リード夫人の御者を勤めておりましたが。いまもそこに住んでおります」
「まあ、ロバート! お久しぶりね! 忘れるものですか。ときどき、ジョージアナさんのくり毛の子馬に乗せてくれたわね。それで、ベシーは元気? ベシーと結婚したのよね?」
「そうでございます。おかげさまで、家内も元気にしております。二月ばかりまえ、また一人生まれまして――これで三人になりましたです――母子とも健全というわけでございます」
「それで、お屋敷の皆さんはお元気なの、ロバート?」
「残念ながら、いい知らせをお聞かせできないのでございます。皆さまはいまひどい状態で――たいへん困っておられます」
「まさかご不幸があったのではないでしょうね」わたしは相手の喪服に目をやりながらいった。ロバートも帽子に巻いた喪章に目を落として、こう答えた――
「ジョン坊ちゃんが先週のきのう、ロンドンのアパートで亡くなられました」
「ジョンさんが?」
「はい」
「それで、お母さまには、さぞかしショックだったでしょうね?」
「それがでございますよ、エアさん、世間によくある不幸ではありませんのでして。坊っちゃんの生活は大荒れに荒れておりまして、この三年間というもの、無茶なまねばかりしておられたのでございます。坊っちゃんの死は、たいへんなショックでございました」
「あの人がまともな生活をしていなかったことは、ベシーから聞いていたけど」
「まともな生活だなんて! 最低の生活でございますよ。最低の男や最低の女とつきあって、健康ばかりか財産も台なしにいたしました。借金をこしらえるわ、監獄にはいるわで、奥さまが二回、面倒をみられましたが、自由の身になると、またぞろもとの仲間と悪習に逆もどりといったありさまでごさいました。坊っちゃんは頭がお弱かったので、つきあっていた悪党どもに、話に聞いたことがないほどにたぶらかされたのでございます。三週間ばかりまえ、ゲイツヘッドへおもどりになりまして、奥さまにありったけ出して欲しいと、無心されたのでございます。奥さまはうんとおっしゃらなかったのですが、坊っちゃんの放蕩生活のため、財産はずっと昔に底をついていたからでございます。そこで、坊っちゃんはロンドンへお帰りになりましたが、そのあとで受け取ったのは、坊っちゃんが亡くなったという知らせでございました。どんな死にざまであったかは、神さまだけがご存じでございますよ! ――自殺だったともいわれております」
わたしはだまっていた。耳をおおいたい知らせであった。ロバート・レヴンは言葉をつづけた――
「奥さまは、しばらくまえから健康を害しておられました。ふとってはおられましたが、頑丈ではありませんでした。お金はなくなるわ、貧乏はこわいわで、すっかり参ってしまわれたのでございます。ジョン坊っちゃんが亡くなったことや、その死にざまについての知らせがあんまり突然でしたので、脳出血を起こしてしまわれたのです。三日間、一言も口をきかなかったのですが、火曜日にはすこしよくおなりのようで、なにかおっしゃりたいことがあるらしく、うちの家内に手まねをしたり、もぐもぐいったりしておられました。ところが、やっときのうの朝になって、奥さまがあなたの名前を口にされていることに、ベシーが気づきました。やっとのことで、『ジェインをここへ――ジェイン・エアを呼びにお行き。あの子に話がしたい』という言葉がわかったのでございます。奥さまの気がたしかなのか、本気でそういっておられるのか、ベシーもはっきりしなかったのですが、とにかくイライザさまとジョージアナさまにお話し申しあげて、あなたを呼びにやっては、とおすすめしたのでございます。はじめ、お二人は受けつけようとなさらなかったのですが、お母さまの動揺がひどくなり、『ジェイン、ジェイン』となん回もいわれるので、やっとご賛成になりました。わたしはきのう、ゲイツヘッドを出発したのでございます。準備がおできになるようでしたら、あすの朝、あなたのお伴をして帰りたいと存じておりますのですが」
「いいわ、ロバート、準備はできるわよ。どうしても行かなきゃならないようですものね」
「わたしもそう思いますですよ。あなたはいやとはおっしゃるまい、とベシーもいっておりました。しかし、出発するまえに許可をおもらいにならなくては?」
「そうね。いますぐにもらってくるわ」
わたしはロバートを召使いの部屋へつれて行くと、ジョンのおかみさんに面倒を見てくれるように頼み、ジョンにも、どうかよろしく、と挨拶してから、ロチェスターさまを捜しに出かけた。
ロチェスターさまは階下の部屋のどこにもいなかった。裏庭にも、厩舎にも、芝生にもいない。どこかで見かけなかったか、とフェアファックス夫人にきいてみると、「お見かけいたしましたよ。イングラムさまと玉突きをしているはずですよ」という返事であった。そこでわたしは撞球室へいそいだ。玉のあたる音とがやがやいう人声が聞こえてくる。ロチェスターさま、ミス・イングラム、エシュトン家の姉妹、それに二人の求婚者がゲームに熱中していた。こんなに楽しそうな集《つど》いのじゃまをするのには、いささか勇気が必要であったが、わたしの用事は猶予できないものであったので、ミス・イングラムと並んで立っていた主人のそばへ近づいた。わたしがそばへ行くと、ミス・イングラムはふりむいて、高慢な態度でわたしを見やった。その目は「この虫けらに、いま一体なんの用があるのよ?」と問いかけているようであり、わたしが低い声で「ロチェスターさま」と声をかけると、出て行けといわんばかりのそぶりを示した。そのときのミス・イングラムの姿を、わたしはいまでもおぼえている――まことに優雅で、まことに印象的な姿であった。空色のクレープの部屋着《モーニング・ローブ》をまとい、コバルトブルーの薄いスカーフで髪を結んでいる。玉突きのせいで、全身に生気がみなぎっていたので、プライドを傷つけられても、そのおうへいな顔の表情にかげりがさすことはなかった。
「この者があなたにご用ですって?」とミス・イングラムはロチェスターさまにきいた。「この者」とはだれであろうか、とふりむいたロチェスターさまは、妙な具合に顔をしかめ――例の独特の変てこで、はっきりしない表情であったが――|玉突き棒《キュー》を投げだすと、わたしについて部屋を出てきた。
「なにかね、ジェイン?」
ロチェスターさまは教室のドアを閉めると、それに背をもたせかけた。
「申し訳ありませんが、一週間か二週間、休暇をいただきたいと存じまして」
「目的は? ――どこへ行くのかね?」
「わたしにお使いをよこした病気の女の人に会うためです」
「病気の女の人って、だれかね? ――どこに住んでいるのかね?」
「――州のゲイツヘッドです」
「――州だって? 百マイルもはなれてるよ! そんなところにまで会いにこいと使いを寄こすなんて、一体、その女はなに者かね?」
「名前はリードと申します――リード夫人ですわ」
「ゲイツヘッドのリードか? ゲイツヘッドにリードという名前の治安判事がいたな」
「そのリードの未亡人でございますわ」
「その女ときみはどんな関係かね? どうして知っている?」
「その夫が、わたしのおじにあたります――母の兄というわけです」
「なんだって! 初耳だな。親類はいない、ときみはいつもいっていたのに」
「わたしを親類扱いしてくれる親類はいないのですわ。おじは死んでいませんし、その奥さんにわたしは捨てられたのです」
「なぜ?」
「わたしが貧乏で、足手まといだったからです。それに、わたしがきらいだったからです」
「しかし、リード家には子どもが残されているだろ? ――きみにはいとこがいるはずだが? きのう、サー・ジョージ・リンがゲイツヘッドのリードという男の話をしていたが――ロンドンでも指折りの破廉恥漢だとか。それに、イングラムも同じゲイツヘッドのジョージアナ・リードの名前を口にしていたが、一、二年まえ、ロンドンの社交シーズンに美女ぶりを大いに賞めたたえられたという話だったな」
「そのジョン・リードも死にました。自分の身をあやまっただけでなく、家族までも破産寸前に追いやってから、自殺したという噂でございます。その知らせに母親はショックを受けまして、脳出血を起こしました」
「それで、きみがなんの役に立つというのだい? ナンセンスだな、ジェイン! 行き着かないうちに死んでしまうかもしれない年寄りに会いに、百マイルも駆けて行くなんてことは、ぼくなら考えないな。それに、きみを捨てた女じゃないかい」
「そうですわ。でも、それは昔のこと。あのころは、事情がぜんぜんちがっていましたもの。あの人の願いをむげにことわるなんて、いまのわたしにはできませんわ」
「滞在の期間は?」
「できるだけ短期間にいたします」
「一週間だけ、と約束したまえ――」
「約束しないほうがいいのでは。破らざるを得ないことになるかもしれませんから」
「いずれにしても、|きっと《ヽヽヽ》帰ってくるね。どんな理由があるにせよ、むこうで永住する気になったりはしないね?」
「そんなこと! 万事がうまく行ったら、きっともどります」
「それで、だれといっしょかね? 百マイルを一人旅じゃあるまい?」
「ええ。御者をよこしましたの」
「信用できる男だね?」
「はい。あの家に十年まえから住みこんでおります」
ロチェスターさまはなにやら考えていた。「出発の予定は?」
「あすの朝早くです」
「じゃ、お金がいるね。お金なしで旅行はできないが、きみにはたいした持ち合わせもあるまい。まだサラリーをあげていなかったからね。一体、きみの有り金はいくらかね、ジェイン?」とロチェスターさまはにやにやしながらきいた。
わたしは財布をとりだした。薄っぺらな財布である。
「五シリングでございますわ」ロチェスターさまは財布を取ると、なかのお金を手のひらにあけ、その貧弱さがお気に召したのか、ほくそえんでいる。やがてロチェスターさまは自分の紙入れをとりだすと、「これを」といいながら、わたしに紙幣を一枚、さし出した。それは五十ポンド紙幣であったが、わたしがもらうことになっている金額はわずか十五ポンドである。わたしはおつりがないから、といった。
「おつりなんか、いいさ。わかっているくせに。きみのサラリーだから、受け取りたまえ」
わたしは受け取るべき金額以上はもらえない、といった。ロチェスターさまは、はじめ顔をしかめていたが、やがてなにを思いついたのか、こういった――
「よし、よし! いまはぜんぶ渡さないほうがいいな。五十ポンドあったら、三ヵ月も休むかもしれんから。ここに十ポンドあるけれど、足りないかい?」
「足りますわ。でも、こんどはわたしが五ポンドお貸しすることになります」
「じゃ、それを受け取りにもどるんだね。四十ポンドは、ぼくが銀行がわりに預っておくよ」
「ロチェスターさま、ちょうどの機会ですので、もう一つ事務的な問題を申しあげさせていただきます」
「事務的な問題? 聞かせていただきたいな」
「すでにうかがったも同然とは思いますが、近いうちにご結婚なさるのですね?」
「そうだよ。それで?」
「その場合、アデールを学校にいれねばなりません。その必要はおみとめにちがいありませんが」
「花嫁のお通りのじゃまにならないようにするためだな。そうしないと、アデールはじゃけんに踏みつぶされてしまうわけか。その考えには一理あるよ。たしかに、そのとおりだ。きみのいうように、アデールは学校へ行かねばなるまい。そして、当然のことながら、きみがまっすぐに進み出なきゃならんのは――悪魔のまえかな?」
「そんなことになって欲しくありませんわ。でも、ほかに勤め口を捜さないことには」
「そりゃそうさ!」とロチェスターさまは大声でいったが、その声は鼻にかかり、ゆがんだ表情は異様でもあったし、滑稽でもあった。わたしは数分間、じっと見つめられた。
「それで、リード家の老夫人なり、娘さんがたなりが就職に力をかしてくれるよう、きみに泣きつかれるというわけだな?」
「いいえ。わたしと親類の者たちとは、わたしが面倒をお願いできるような間柄じゃありません――わたしは広告を出します」
「そんなまねをしたら、エジプトのピラミッドにのぼらしてやる!」ロチェスターさまはおこっていった。「広告を出すなら出すで、覚悟したまえよ! きみには十ポンドなんてやらずに、一ポンドにしとけばよかった。九ポンドをかえしたまえ、ジェイン。入り用ができたから」
「わたしだって、入り用がありますわ」とわたしは答えて、財布をもった両手をうしろにまわした。「どんなことがあっても、このお金はかえしませんわ」
「けちん坊!」とロチェスターさまはいった。「ぼくの借金の申し込みをことわるなんて! 五ポンドでいいから、ジェイン」
「五シリングでもだめです。五ペンスだって、いやですわ」
「お金を拝ましてくれるだけでいいから」
「だめです。信用のないかたですから」
「ジェイン!」
「なんでございます?」
「一つだけ、約束してほしいんだ」
「わたしにできそうなことなら、なんでもお約束しますわ」
「広告を出さないということと、就職の世話はぼくに一任するということなんだ。そのうちに見つけてやるから」
「その約束なら喜んでいたしますわ。そのかわり、花嫁さんがこの屋敷にやってくるまえに、わたしとアデールの二人を無事につれ出すと約束してくださらなくては」
「いいとも! いいとも! その点は保証するよ。じゃ、あす、発つんだね?」
「はい。朝早くです」
「晩餐のあと、客間におりてくるかい?」
「いえ、旅行の準備がございますので」
「じゃ、きみとぼくとは、しばしの別れというわけだね?」
「そうなりますわ」
「別れの挨拶はどんなふうにやるものかね、ジェイン? 教えてくれないか。ぼくはそういうことには弱いのでね」
「ご機嫌よろしくとか、自分の好きないいかたをしますわ」
「じゃ、いってみたまえ」
「ロチェスターさま、しばらくのあいだ、ご機嫌よろしく」
「ぼくはなんといえばいい?」
「なんでしたら、同じように」
「エアさん、しばらくのあいだ、ご機嫌よろしく。これだけかい?」
「ええ」
「ぼくにはしみったれていて、そっけなくて、情がない感じだな。もうすこしなにか欲しい。いまの挨拶につけ加えるものがね。たとえば、握手をするとか。しかし、いや――それもしっくりこないなあ。それで、きみは『ご機嫌よろしく』しかいわないのかい、ジェイン?」
「それだけで十分ですもの。心のこもった一言なら、百万言をついやすのと同じだけの誠意が伝えられますわ」
「そりゃそうだな。それにしても、ぶっきら棒で、冷たいな――『ご機嫌よろしく』という言葉は」
「一体、いつまでドアによりかかっているおつもりかしら?」とわたしは考えていた。「荷造りをはじめたいのに」
晩餐の合図のベルが鳴った。その途端、ロチェスターさまは一言も口をきかずに、さっと立ち去ってしまった。その日は、もうお目にかかれなかったし、翌朝、わたしが出発したのは、ご起床まえのことであった。
わたしは五月一日の午後五時ごろ、ゲイツヘッドの門番小屋に着き、屋敷へむかうまえに、ひとまずそこへ立ちよった。小屋は、まことに清潔で、整頓も行きとどいている。小さな白いカーテンのかかった飾り窓。ちり一つない床。ぴかぴかに磨きあげられた暖炉の炉格子や火かき棒の類い。あかあかともえている火。ベシーは三人目の子どもを抱いてあやしながら暖炉のまえに坐り、息子のロバートとその妹とは片隅でおとなしく遊んでいた。
「おやまあ! ――いらっしゃると思ってましたよ!」わたしがはいって行くと、レヴン夫人は大声をあげた。
「そうよ、ベシー」わたしは相手に接吻してからいった。「手遅れになったのではないわね。奥さまはどうなの? ――まだ生きていらっしゃるわよね」
「ええ、生きておられますとも。まえよりも意識がはっきりして、落ち着いておられますよ。先生は一、二週間は大丈夫だといっておられますが、結局はなおるまいとお考えのようです」
「このごろもわたしのことを口にしてますの?」
「つい今朝がたも、あなたのお話をなさって、きてくれればいいが、といっておられましたよ。でも、いまはおやすみです。十分まえに、お屋敷へうかがったときは、そうでした。午後はたいてい、昏《こん》睡状態みたいに横になっておられて、六時か七時にお目ざめになりますのよ。ここで一時間ほど休憩なさっては? わたしがいっしょにまいりますから」
そこへロバートがはいってきた。ベシーは眠っている赤ん坊を揺りかごに寝かせると、夫を迎えに行った。そのあと、わたしに帽子《ボンネット》をぬいで、お茶を飲むように、さかんにすすめてくれた。わたしの顔色が悪く、疲れているようだ、というのである。わたしは喜んで好意に甘えることにした。そして、おとなしく服をぬがせてもらった子どものころと同じように、ベシーが旅行着を取ってくれるがままになっていた。
そのベシーがせわしそうに立ち働いているのを見ていると、遠い昔の思い出がどっとよみがえってきた――一番上等のティーセットののった茶盆を出したり、バターつきパンを切ったり、茶菓子《ティーケーキ》をやいたりしながら、その合い間には、昔わたしによくやったように、子どものロバートやジェインをコツンとやったり、指ではじいたりしている。ベシーはあい変わらず動きが軽くて、器量がいいだけでなく、気の短いところも昔そっくりであった。
お茶の用意ができたので、わたしがテーブルのそばへ行こうとすると、ベシーは有無をいわせない、昔のままの口調で、じっと坐っているようにいった。暖炉のそばであがっていただかなくては、といいながら、わたしのまえにティーカップとトーストの皿ののった小さな丸い台を置いてくれたが、昔わたしのために内緒でもってきたごちそうを、子供部屋の椅子の上に並べてくれたときと寸分変わらなかった。わたしは笑いながら、かつての日のようにベシーのいいなりになっていた。
ベシーはわたしがソーンフィールド・ホールで幸せかどうか、奥さまはどんなタイプのかたか、などと知りたがった。だんなさましかいないというと、りっぱなかたなのか、気にいっているのか、などときく。わたしはだんなさまは醜男の部類にはいるが、りっぱな紳士で、親切にしてくれるから、満足している、と答えておいた。それから、このところずっとお屋敷に滞在していたきらびやかな一行の話をしてやると、細大もらさず聞きいっている。この種の話は、ベシーの好みにぴったりなのだ。
こうしたやりとりをしているうちに、一時間はまたたく間にすぎた。ベシーはわたしに帽子《ボンネット》その他を取ってくれた上、門番小屋から屋敷にむかうわたしに付きそってくれた。九年近くまえ、わたしがいまのぼっている道をくだったときにも、ベシーが付きそっていてくれた。暗い、霧の、冷えびえする一月の朝、あの遠くはるかな未知の目的地であるローウッドで冷淡な保護を受けるため、絶望と苦悩にあふれた心を抱いて――村八分になった人間、神に見はなされでもした人間のような気持ちを抱いて、わたしは敵意のこもった屋敷をあとにしたのであった。その敵意のこもった屋敷が、いまわたしの目のまえにふたたびそびえている。いぜんとして将来の不安定なわたし。いまだに心の痛みをかかえているわたし。まだまだ地上のさすらい人のように感じているわたし。だが、いまのわたしはわたし自身に、わたしのもっている力に、まえよりも強い自信をおぼえ、昔みたいに圧迫を恐れて身をすくませることはなくなっている。受けた虐待のゆえにぽっかり口をあけていた心の傷も、いまではすっかり癒え、恨みの炎ももえつきているのだ。
「まずは朝食室へどうぞ」ベシーはわたしの先に立って玄関のホールを通りぬけながらいった。「お嬢さまがたがいらっしゃいますから」
つぎの瞬間、わたしはその朝食室のなかにいた。家具類はどれもこれも、わたしがブロックルハースト先生に紹介された朝とまったく同じようすであった。先生が立っていた敷物も、そっくりそのまま暖炉のまえに敷いてある。本棚に目をやると、昔と同じ三段目に位置を占めているビュイックの二巻本の『イギリス鳥類史』とか、そのすぐ上の段に並んでいる『ガリヴァー旅行記』と『アラビアン・ナイト』がはっきり見えたように思った。生命のないものは変わっていないのに、生命のあるものは見わけがつかないほどに変わっている。
わたしのまえに二人の若い女性が姿を見せていた。一人はとても背が高い。ミス・イングラムと同じくらいだろうか――それにひどくやせていて、顔の血色が悪く、態度もぎすぎすしている。表情にはどこか禁欲的なところがあり、すそのせまい黒いラシャのドレス、のりのきいたリンネルのカラー、びんのあたりからひっつめた髪といった、この上なく地味なスタイルと、黒檀のロザリオに十字架という尼僧めいた装身具が、その印象をいっそう強めていた。イライザにちがいない、とわたしは思ったが、その細長く、血の気のうせた顔には、昔の面影をたどるすべもなかった。
もう一人がジョージアナであることにも、疑問の余地はなかった。だが、わたしのおぼえているジョージアナ――ほっそりした、妖精を思わせる十一歳のジョージアナではない。花ざかりの、ぽちゃっとした女性で、ろう人形のように美しい。ととのった美しい容貌、ものうげな青い目、巻き毛になった金髪。ジョージアナのドレスの色も黒であったが、そのデザインは姉のとはまるでちがっている――ずっとゆったりしていて、よく似合っている。むこうが清教徒的であるのとは対照的に、こちらはいかにもスマートな感じであった。
この姉妹はそれぞれ、母親の特徴を一つずつ――それも、たった一つだけ、受けついでいた。やせて、青ざめた姉は、煙水晶色の目が母親似であったし、若々しく、はちきれそうな妹は、顎のさきや顎骨の輪郭が母親ゆずりであった――母親とくらべて角がすこしはとれているものの、この特徴さえなければ官能的で、ふくよかな顔が、どことなく険のある表情になっている。
わたしがまえに進み出ると、二人はわたしと挨拶するために立ちあがったが、どちらもわたしに「エアさん」と呼びかけた。イライザは挨拶をするにも、短く、ぶっきら棒な声で、にこりともしない。そのあとは、また腰をおろして、暖炉の火を見いったきり、わたしのことなど念頭にないといったふうである。ジョージアナは、「こんにちわ」と型どおりの挨拶をしたあと、ものうげな口調で、道中や天気のことなどについてありきたりの言葉をつけ加えたが、さかんに横目をつかいながら――くすんだ色の毛織《メリノ》の外套のひだをじろり、コテジ・ボンネット(十九世紀の前半に流行した帽子)の地味な飾りをちらり、といった具合に、わたしを頭の先からつめの先まで眺めまわした。若い女性というものは、相手が「おかしな格好をした人間」だと思うと、口にはっきり出さないで、しかもそうと思い知らせる、見事なコツを心得ている。露骨に失礼な言動であらわすようなことをしなくても、ちょっとした高慢な視線や、冷淡な態度や、なにげない口調などで、心に思っていることをずばり表現するのである。
だが、顔に出ない冷笑であれ、あらわにされた冷笑であれ、いまのわたしにはかつての力をもっていない。いとこたちにはさまれて坐ったわたしは、一方からは完全に無視され、他方からは皮肉まじりの目でじろじろ眺められながら平気でいるわたし自身に驚いていた――イライザに気持ちを傷つけられることもないし、ジョージアナに心をかき乱されることもない。正直なところ、わたしにはほかに考えることがいくらもあった。この数ヵ月間にわたしのなかでかき立てられた感情は、二人がひきおこすことのできる感情よりもはるかに激烈であった――二人の力で加えたりあたえたりできるものよりも、はるかにずっと痛烈な苦痛や強烈な快楽が、すでにわたしのなかで生まれていたのである。だから、二人の態度は、よきにつけ悪しきにつけ、わたしにはなんのかかわりもなかった。
「リードさんのごようすはいかがですの?」やがてわたしは、ジョージアナの顔を平静に見やりながらきいた。するとジョージアナは、わたしのほうから話しかけたのが、思いもかけぬ無礼でもあるかのように、ふんぞりかえるような態度を取った。
「リードさん? ああ、ママのことなのね。ママはとっても衰弱してるわ。今夜はお目にかかれないかもね」
「二階へいらっして、わたしがまいっていることをお伝え願えたら、大変にうれしいのですけど」とわたしはいった。
ジョージアナはあっけに取られたふうで、青い目を「やたらと大きく」(バイロンの詩『パリジーナ』(一八一六年)からの一句)見開いた。
「お母さまがとくにわたしに会いたがっていらっしゃることを知っておりますの」とわたしはつけ加えた。「絶対に駄目ならともかく、ご希望をかなえてさしあげるのを延ばしたくはありませんから」
「ママは夜、騒がしくされるのがおきらいなのよ」とイライザがいった。
やがてわたしは立ちあがると、すすめられもしないまま帽子《ボンネット》と手袋を静かにぬき、ベシーに――台所にいるはずのベシーのところへ顔を出して、リード夫人が今夜わたしに会う気があるかどうかたしかめてきてもらうから、といった。台所へ行くと、ベシーが見つかったので、用事を頼んでから、わたしは打つべき手をつぎつぎと打った。これまでは、おうへいな態度に出られると、小さくなってすくみあがるのが、いつものわたしの習性であった。きょうのようなあしらいを受けた場合、一年まえのわたしなら、あすの朝にでもゲイツヘッドを発つ決心をしたことだろう。だが、いまのわたしには、そんなことをしても馬鹿げているだけであることが、すぐにはっきりとわかった。おばに会うために百マイルもの旅をしてきたのだから、そのおばが快方にむかうか――息を引き取ってしまうかするまでは、いっしょにいてやらねばならない。二人の娘の高慢な態度や愚かしいふるまいなど、どこか脇へ打っちゃっておいて、なんのかかわりも持たないようにせねばならぬ。そこでわたしは家政婦に声をかけ、部屋へ案内してくれるように頼み、たぶん一、二週間は滞在することになるから、といって、荷物を部屋まではこばせ、わたし自身も荷物について行った。階段の踊り場で、ベシーと行き会った。
「奥さまはお目ざめですよ。あなたがお見えだと申しあげましたけど、あなたということがおわかりになりますかしらね」
案内されなくても、よく知っている部屋であった。その昔、なん回となく呼びつけられて、体罰を加えられたり、叱責されたことのある部屋なのだから。わたしはベシーの先に立って足早に歩き、そっとドアを開けた。もう暗くなりはじめていたので、テーブルの上にかさのついたランプが立っている。昔のままの琥珀色のカーテンのかかった、四柱式の大きなベッド。化粧台に、ひじ掛け椅子に、足台。その足台のところにひざまずいて、わたしがおかしたのでもない罪の許しを乞うように命令されたことが、なん十回あったことか。かつてはおぞ気をふるった|むち《ヽヽ》のしなやかな輪郭が見えはしないかと、半ば期待する気持ちで、身近かの片隅をうかがってもみた。そこにじっとひそんでいて、小鬼のようにおどり出ては、わたしのふるえる手のひらや、すくみあがった首のあたりを打ちすえた|むち《ヽヽ》であった。わたしはベッドに近づくと、カーテンを開けて、高く積みかさねた枕のほうにからだをかがめた。
わたしはリード夫人の顔をよくおぼえていたので、その記憶に残っている面影を熱心に捜し求めた。時の流れが復讐を誓う気持ちを押えつけ、激怒や嫌悪をかき立てる感情を静めてくれるのは、うれしいことである。かつてわたしは、恨み憎みながらこの女性と別れた。それなのに、いまこうしてもどってきたわたしの抱いているのは、相手の深い苦悩に対する同情にも似た気持ちと、心の傷をいっさい忘れて許してあげよう――和解して、仲よく手を握りあおう、という強い願望だけであった。
見おぼえのある顔がそこにあった。ちっとも変わらない厳格で、邪険な顔――なにを見てもなごむことのない、あの独特の目と、つりあがり気味で、おおへいで、高圧的な眉毛。この顔がわたしに威嚇と憎悪のこもった表情をあびせたことが、一体なん回あっただろうか! いまこうして、その顔のきびしい輪郭をたどりながらも、子供時代の恐怖と悲哀の思い出がまざまざとよみがえってくる! それでも、わたしはからだをかがめて、接吻した。夫人はわたしを見つめた。
「ジェイン・エアかい?」と夫人はいった。
「そうよ、リードおばさま。ご気分はいかがですの、おばさま?」
かつてわたしは、この夫人を二度と|おば《ヽヽ》とは呼ぶまいと心に誓った。だが、いまとなっては、あの誓いを忘れて破っても、罪になることはあるまい。わたしの指は、シーツの上に出ている夫人の手をしっかり握りしめていた。相手がやさしく握りかえしてくれていたら、その瞬間、わたしは真実の喜びを味わったにちがいない。だが、感受性のない人間は、そうやすやすと軟化するものではないし、もって生まれた嫌悪の情は、そう簡単に根こぎできるものでもない。リード夫人は手をふりはらうと、わたしから顔をそむけるようにして、「今夜は暖かいね」といった。それからまた、夫人はわたしに目をむけたが、氷のような視線であったので、わたしに対する夫人の意見は――わたしに対する夫人の感情は変わってもいないし、変えることもできないことが、わたしにはすぐにわかった。その石のような目――やさしさを受けつけず、涙にとけることもない目を見れば、夫人がわたしをとことんまで悪い人間として扱う気でいることがわかった。わたしがいい人間だと信じることは、夫人に大きな喜びをあたえるものではなく、ただ屈辱感をあたえるばかりであったからだ。
わたしは苦痛をおぼえ、やがて憤りをおぼえた。それから、この夫人を押えつけてやろう――相手の性質や意志にはおかまいなく、思いのままに牛耳ってやろうと決意した。子どものときと同じように、わたしの目には涙が浮かんでいたが、わたしはその涙にもとのところへもどるように命令した。わたしはベッドの枕元に椅子をもってくると、それに腰をおろしてから、枕のほうへ顔を近づけた。
「お呼びがあったから、まいりましたのです」とわたしはいった。「ご容態がはっきりするまで、ここにいさせてもらうつもりをしておりますわ」
「そりゃ、そうさ! 娘たちにはお会いだね?」
「ええ」
「じゃ、気にかかっていることを二つ、三つ、話しあえるようになるまで、あたしがおまえにいてもらいたがっているということを、あの子たちに伝えておくれ。今夜はもうおそいし、それに話したいことがなかなか思い出せないんだよ。だけど、なにか話したいことがあったんだが――なんだったかねえ――」
そのうつろな視線と変わりはてた声は、かつては強健そのものであった肉体が見る影もない哀れな姿になったことを物語っている。夫人はそわそわと寝返りを打つと、掛けぶとんを引きあげたが、端にのっていたわたしの肘が掛けぶとんを押えつけていたので、急に不機嫌になった。
「きちんとお坐り! 掛けぶとんを押えたりして、あたしを困らせないでおくれ――おまえはジェイン・エアだね?」
「ジェイン・エアですわ」
「あたしゃ、あの子には、他人さまには信じられないくらいの苦労をさせられたよ。あんなやっかい者をこの手にかかえこんでしまってさ――明けても暮れても、いらいらさせられどおしだったんだから。あの子の性質は呑みこめないし、いきなりわめき立てるし、他人の動きをひっきりなしに、へんな目つきで眺めるという調子なのさ! はっきりいうけど、あの子はこのあたしにむかって、気ちがいか、悪魔みたいな口をきいたことがあるのさ――あんな話しぶりや顔つきをした子どもはいないね。あの子をこの家から追い出して、あたしゃ、せいせいしたよ。ローウッドではどんなあしらいを受けたのかねえ? あそこじゃ、チブスがはやって、生徒がたくさん死んだとか。それでも、あの子は死ななかったのさ。だけど、あたしゃ、あの子が死んだといった――死んでくれればよかったのに!」
「へんなお考えですのね、リードさん。どうしてそんなに憎たらしいのです?」
「あの子の母親というのが、あたしゃ、昔からきらいでね。あたしの主人のたった一人の妹で、大のお気にいりだったからよ。あの女が下賤の男と結婚したとき、親戚一同が絶縁しようというのに主人は反対したし、あの女が死んだという知らせがきたときにも、主人は馬鹿か間抜けみたいに涙を流したのさ。赤ん坊を引きとるといってきかないのよ、あたしが里子に出して、養育費を払うようにしたら、と泣いて頼んだというのに。その赤ん坊を最初に見たときから、あたしゃ、憎くてたまらなかった――元気のない、ぴいぴい泣く、やせこけた子でねえ! 一晩中、揺りかごのなかで泣くのさ――それもほかの子どもみたいに力強く泣くのじゃなくて、しくしく泣きながらうめくだけ。うちのだんなはふびんがって、まるでわが子のように抱いたり、かわいがったりしてたけど。実際の話、自分の子どもが同じ年頃のときよりもかわいがったくらい。あたしの子どもたちにも、この乞食同然の子と仲よくさせようとしたのさ。それにがまんのできない子どもたちが、いやがっているようすを見せると、腹を立てたりなんかして。死の床についてからでも、あの子をしょっちゅう枕元へつれてこさせたものだった。死ぬ一時間まえには、あたしにその子の養育を誓わせて、身動きのならないようにさせてしまったのさ。貧民院で生活保護を受けている子どもを預かったほうがましなくらいに思っているあたしなのに。しかし、うちのは気の弱い、生まれつき気の弱い男だったよ。ジョンはちっとも父親に似ていない。それがあたしにはうれしくって。ジョンはあたし似で、あたしの実家の兄弟たちにも似ている――根っからギブソン家の人間なんだねえ。ああ、あの子が金送れの手紙であたしを苦しめるのをやめてくれさえすれば! あの子にやるお金なんか、もうない。貧乏になる一方なんだから。召使いの半分に暇をとらせ、屋敷の一部は締め切るか、他人に貸すかしなくては。そんなことをする気には、とてもなれないんだけど――といって、どうやって生きていけるというのさ? あたしの手もとにはいるお金の三分の二は、抵当の利息の支払いに当てられる。ジョンはひどいばくち打ちで、いつも負けてばかりいる――かわいそうなジョン! ぺてん師どもにつきまとわれ、落ちるところまで落ちてしまったジョン――あの子のぞっとするような目つき――あの子を見ると、あたしゃ、あの子が恥ずかしくなってねえ」
夫人はひどく興奮してきた。
「一人にしたほうがよさそうね」とわたしはベッドの反対側に立っていたベシーにいった。
「そのようですわねえ。でも、夜が近くなると、しょっちゅうこんな話しぶりになるのですよ――朝にはまた平静にもどりますけど」
わたしは立ちあがった。
「お待ち!」とリード夫人が叫んだ。「もう一つ、いいたいことがある。あの子があたしをおどすのよ――死んでやるとか、殺してやるとかいって、あたしをおどすのさ。打ちのめされたあの子が、のどに大けがをしたり、顔を紫色にはれあがらせたりして倒れている姿を、ときどき夢のなかで見るんだよ。あたしがこんなみじめな境遇になるなんてねえ。心配ごとを山ほどかかえこんで。どうすりゃいいのさ? どうすれば金の工面がつくのさ?」
ベシーは夫人に鎮静剤をのませようとやっきになっていたが、やっとのことで説得させることができた。しばらくすると、リード夫人は落ち着きをとりもどし、仮眠状態に陥った。そこでわたしは夫人のそばを離れた。
二度目に夫人と話しあえたのは、十日以上もたってからのことだった。夫人がうわごとをいったり、昏睡したりする状態がつづき、はげしい興奮をあたえるものはいっさい医者に禁じられていたからである。そのあいだ、わたしはジョージアナやイライザと精いっぱい仲よくして暮した。最初のうちは、二人ともたしかにひどく冷淡であった。イライザは半日、裁縫や読書や書きものをしながら坐っているが、わたしや妹には一言も口をきこうとしない。ジョージアナはカナリアを相手になん時間もつまらないおしゃべりをして、わたしには目もくれようとしない。だが、わたしはする仕事や楽しみごとがなくて困っているふりは見せまいと心に誓った。わたしがたずさえてきていたスケッチ用具が、その両方を提供してくれたのである。
鉛筆のはいった箱となん枚かの画用紙を用意すると、わたしは二人からはなれた窓ぎわに陣取って、想像画をスケッチするのに夢中になった。そこには、変幻きわまりない想像力の万華鏡《カレイドスコープ》のなかで、ほんの一瞬だけ形をとる光景が描き出されている。二つの岩のあいだに垣間見える海。のぼる月と月面を横切る一隻の船。群生した葦と菖蒲と、そこから蓮の花の冠をかぶって現われ出ている水の精の顔。サンザシの花輪の下の、イワヒバリの巣のなかに坐っている小妖精。
ある朝、わたしはなにげなく一つの顔をスケッチしはじめていたが、それがどのような顔になるのか、気にもとめなかったし、知りもしなかった。やわらかい黒鉛筆を取り出して、先を丸くけずると、ぐいぐいと描いて行った。やがて画用紙の上に、幅広い、出っぱった額と、角ばった顔の下半分の線とが浮かびあがっている。その輪郭にわたしは満足した。指がせっせと動いて、そこに顔の造作をつけ加えて行く。この額の下には、くっきりとした、まっすぐの眉を描かねばならない。つぎは当然のことながら、鼻すじが通って、鼻孔のはった格好のいい鼻。つぎは柔軟性にあふれた感じの口だが、小さくてはいけない。あとは中ほどにはっきりとしたへこみのある、強靱なあごの先。もちろん、黒いほおひげは欠かせないし、それにこめかみのあたりでふさになり、額の上でウエーブしている漆黒の髪の毛も。さて、いよいよ目である。目を最後まで残しておいたのは、それが細心の作業を必要とするからだった。わたしはその目を大きく描き、形よく仕上げた。長い、うれいを帯びたまつ毛、光り輝く、大きな虹彩も描きこんだ。「うまくいったわ! でも、そのものずばりとはいえないわ」わたしは出来ばえを調べながら考えた。「もっと迫力とエネルギーのこもった目でなくては」そこで、わたしは眼光がもっとけいけいと輝くように、陰影をぐっと濃くした――幸い、狙った効果は一筆か二筆で得ることができた。いまわたしの目のまえには、一人の友人の顔がある。あの若い二人の娘たちがわたしに背をむけたとて、それがなにほどのことがあるというのか? わたしは目のまえの顔を眺めやり、いまにも口をききそうな似顔にほほえみかけた。わたしはわれを忘れ、満足しきっていた。
「ご存じのかたの肖像画?」いつの間にやらすぐそばにきていたイライザが声をかけてきた。わたしは架空の人物の肖像画というだけよ、と答えると、大いそぎでほかの画用紙の下にかくした。それは、もちろん、うそであった。本当は、まことに忠実になぞったロチェスターさまの似顔画であったのだから。だが、イライザにとって、いや、わたし以外の人間にとって、それは一体どんな意味をもつのだろうか? ジョージアナも絵を見るためにやってきた。ほかの絵はずいぶんとお気に召したらしいのに、この絵にかぎって「醜男」の絵ね、といってのけた。二人ともわたしの絵の腕前に驚いたようすであった。わたしが肖像画を描いてさしあげますわ、というと、かわるがわる鉛筆画のモデルになってくれた。やがてジョージアナはアルバムを持ち出してきた。わたしは、アルバム用に水彩画を一枚描いてあげるわ、と約束した。そのせいで、ジョージアナのご機嫌が急によくなり、邸内を散歩しましょう、といい出した。歩きはじめて二時間もたたないうちに、わたしたちは打ち明け話に夢中になっていた。ジョージアナは二年まえの冬、ロンドンですごした華麗な社交シーズンの話をしてくれた――そこで賞賛をまき起こしたことや、人びとの注目をひきつけたことなども。だれやら貴族の心を射とめた話まで、それとなくほのめかされた。このほのめかし程度でおわった話は、その日の午後から夕方にかけて、くわしく尾ひれがつけられた。さまざまの甘やかな会話が再現され、センチメンタルな場面が描写される。つまるところ、上流社会の生活を描く一冊の小説が、その日、わたしのためにジョージアナによって即興に書かれることになったのである。こうしたおしゃべりが毎日のようにくりかえされたが、そのテーマはいつも同じであった――ジョージアナ自身と、その愛と悲しみとについてである。奇妙なことに、母親の病気や、兄の死や、いまや暗澹としている一家の前途などについては、ただの一度も言及されなかった。どうやらジョージアナの心を占めているのは、華やかな過去の思い出と、将来のぜいたくな生活へのあこがれであったらしい。母親の病室ですごす時間も、毎日たったの五分間程度であった。
イライザは、相変わらず口数がすくなかった。どうやら、おしゃべりをする時間などなかったらしい。わたしはイライザほどに忙しそうにしている人を見たことがない。だが、なにをしているかについて話すのは、というよりも、その勤勉ぶりの結果をいささかでも見つけ出すのは、困難なことであった。早起きをするために、イライザは目ざまし時計をもっていた。朝食まえをどうやってすごすかは知らないが、朝食後は時間割りがきちんとできていて、それぞれの時間にはきまった仕事が割りあてられていた。一日に三回、小型の本を精読していたが、調べてみると、それは英国国教会の祈祷書であった。一度、その本のどこが一番おもしろいかときいてみたところ、「礼拝規程」という返事がかえってきた。イライザはまた、じゅうたんになるくらいの大きさの、四角な真紅の布のへりを金糸でステッチする仕事に、三時間を当てている。この品をなにに使うのかというわたしの問いに答えて、最近ゲイツヘッドの近くに建った新しい教会の祭壇のカバーであると教えてくれた。日記に二時間、ひとりでする菜園の仕事に二時間、家計簿の整理に一時間を割りふっている。話し相手も、おしゃべりそのものも必要としていないらしい。イライザはイライザなりに幸福であったにちがいない、とわたしは思う。このきまりきった毎日の仕事に満足していたのであり、なにか突発的なことが起こって、時計仕掛けのように規則正しい生活を変えねばならなくなることが、なによりもわずらわしかったのである。
ある晩、いつになく口をきいてみる気分になったイライザが、これまではジョンの行跡と一家が瀕している破産状態とが大きな悩みの種であった、と話してくれた。だが、いまでは心の整理もつき、覚悟もできているという。自分自身の財産の確保には意を用いてきたのだし、母親が死んだら――回復したり、細々でも生きながらえたりすることは、とても考えられない、と淡々とした口調で語っていた――長いあいだ温めてきた計画、規則正しい習慣が永久に妨害されることのない場所に隠棲して、自分と浅薄な世間とのあいだに安全な防壁を置くという計画を実行に移したい、という話であった。わたしは、ジョージアナもつれて行くのか、ときいてみた。
「とんでもないわ。あの子とわたしでは、共通点が一つもないの。昔からなかったのよ。どんな報酬をもらったって、あの子といっしょに暮らすような苦労はしたくないわ。ジョージアナはジョージアナの道を行くべきだし、わたしはわたしの道を行くつもりなの」
そのジョージアナは、わたしに胸のうちを打ち明けているときは別として、大半の時間をソファに寝そべってすごし、家のなかが退屈だといってはいらだち、ギブソンおばさんがロンドンへ招待してくれないかしら、という願いをいやというほどくりかえしていた。「なにもかもすんでしまうまで、ひと月かふた月、ぬけ出すことができればありがたいんだけど」この「なにもかもすんでしまう」がどういう意味なのか、きいてはみなかったけれど、迫っている母親の死と、そのあとにつづく陰鬱な葬儀のことを指しているらしい。イライザはたいていの場合、妹のなまけ癖や不平不満には知らん顔で、そのようなぶつくさいってばかりいる、ぐうたら人間など目のまえにいないかのようであった。ところが、ある日のこと、家計簿をかたづけ、例の刺繍をひろげながら、突然、こういって妹を叱りつけた――
「ジョージアナ、あなた以上に見えっ張りで、くだらない動物が、この地上に居坐ることを許された前例はないわよ。あなたには、生まれてくる権利なんかなかったの。人生を有効に使っていないのだから。自分のために、自分のなかで、自分とともに生きることをしないで――分別のある人間なら当然そうしなければいけないのに――あなたは自分の弱さを他人の強さにからませることを狙っているだけだわ。あなたみたいなでぶで、思いあがった、役たたずの人間を、面倒がらずに引き受けてやろうという者がだれも見つからないと、あなたは冷たくあしらわれたの、無視されたの、みじめな身の上だなどといって泣きわめく。それに、あなたにとって人生とは、不断の変化と興奮の場でなければならないのだし、そうでなかったら、この世は牢獄になってしまう。あなたは男の人に賞賛されたり、求婚されたり、おせじをいわれたりしていなきゃならない――音楽やダンスや社交がなければならない――でないと、元気がなくなって、しおれかえる。自分の努力と意志以外には、いっさい頼らないでやって行く道を思いつくだけの分別がないの? 一日を取りあげて、いくつかの時間帯にわけ、それぞれの時間帯に仕事を割りあてるのよ。十五分でも、十分でも、五分でも、なんにもしないでいる時間を残しては駄目――ぜんぶの時間を使うの。一つ一つの仕事は、丹念に、きちんと計画を立てて順番にかたづけなさい。一日がはじまったのに気づかないうちに、もう終ってしまったわ、ということになるわ。ひまな時間をつぶすのに、他人の助けをわずらわさなくてもすむ。話し相手やおしゃべりや同情や忍耐を、他人に求める必要もない。つまり、独立した人間が当然しなければならない生活をすることになるのよ。わたしの忠告どおりにしなさい。最初で、最後の忠告なのだから。そうすれば、どんなことが起こっても、わたしやほかの人の力を借りなくてもすむわ。この忠告を無視したりしたら――いままでのように、求める一方の、泣いたり、なまけたりの生活をつづけるなら――あなたの愚かしさの結果を甘んじて受けなければならないわ、その結果がどんなにひどくて、耐えられないものであってもよ。これだけははっきりいっとくわよ、いいこと。これからわたしがいうことを、わたしは二度とくりかえしていうつもりはないけど、まちがいなく実行する決心はしていますからね。ママが死んだあとは、あなたとのかかわりをいっさい断ちます。ママのひつぎがゲイツヘッド教会の納骨堂にはこびこまれたその日から、あなたとわたしとは赤の他人みたいに、べつべつの生活にはいるの。たまたま同じ両親から生をうけた姉妹なのだから、ほんのちょっとの無心で迷惑をかけるくらい、姉さんも文句をいわずに許してくれるだろう、などとは考えないでね。これだけはいえるわ――たとえわたしたち以外の、全世界の人間が姿を消してしまって、わたしたち二人だけがこの地上に残ったとしても、わたしはあなたを古い世界に置き去りにして、新しい世界へおもむくことになるでしょうよ」
イライザは口をつぐんだ。
「そんなにながながとしゃべらなくてもよかったわよ」とジョージアナは答えた。「姉さんくらい利己主義で、冷酷な人間はほかにいないということくらい、みんな知っててよ。それに|わたし《ヽヽヽ》は姉さんがわたしに対して、悪意と憎悪をもっていることを知っているわ。そのいい見本は、せんにエドウィン・ヴィア卿のことで姉さんが使ったきたない手よ。わたしが姉さんより身分が高くなって、爵位をあたえられ、姉さんが顔を出せないような上流階級の人間になるのががまんできなくなって、姉さんはスパイやら密告者やらのまねをして、わたしの将来を永久に台なしにしてしまったのね」
ジョージアナはハンカチを取りだすと、そのあと一時間ばかり鼻をかんでいた。イライザは冷静に、無表情に坐ったまま、せっせと仕事をつづけていた。
誠実で寛大な感情を低く評価する人もいないではない。だが、この姉妹はその感情を欠いているため、一方は耐えられないほど辛辣な性質になり、他方は軽蔑に価するほどおもしろみのない性質になっている。判断のぬけ落ちている感情は、水っぽい薬のようなものにちがいない。しかし、感情で和らげられていない判断は、あまりにもにがく、からからに干あがった食物も同然で、人間が飲みくだすことはできないのだ。
ある雨と風の午後のことだった。ジョージアナは、小説を読んでいるうちに、ソファで眠りこんでいた。イライザは、新しい教会でおこなわれる聖徒祭日の礼拝に出かけて留守だった――こと宗教に関するかぎり、イライザは厳格な形式主義者で、どんな天候であっても、自分が信仰上の義務と考えることは、きちんとやってのける。晴雨にかかわらず、日曜日には三回教会へ行くし、ふだんの日でも祈祷式のあるたびに出かけるのであった。
わたしは二階へ行って、ほったらかしに近い状態で寝ている瀕死の夫人の容態を見てこようと思いついた。召使いたちさえも、ときたまにしか面倒をみなかったし、雇いの看護婦は、監督不行届きをいいことに、暇を見つけては病室から抜け出している。ベシーは忠実な人間であったが、自分の家族の世話をしなければならないため、たまに屋敷へ顔を出すのがやっとであった。病室へ行ってみると、わたしの思ったとおり、だれも付きそいがいなかった。看護婦の姿も見あたらない。病人は身動き一つせず横になったままで、昏睡状態らしい。土色の顔が枕に沈んでいる。暖炉の火も消えかけていた。わたしは火をかき起こし、掛けぶとんをなおすと、わたしを見つめることもできなくなった夫人の顔をしばらく見つめてから、ベッドをはなれて窓ぎわへ行った。
雨が窓ガラスに強く打ちつけ、風は嵐のように吹いていた。わたしは考えた。「やがて地上の暴風雨を逃れようとする人が、あそこに横たわっている。あの人の魂は――いま肉体という住み家をはなれようとあがいているあの魂は、ようやっと自由になったとき、一体どこへ飛んで行くのだろうか?」
この深遠な謎について思いをめぐらしているうちに、ヘレン・バーンズのことが頭に浮かんできた。ヘレンの死にぎわの言葉が――ヘレンの信仰が――肉体をはなれた魂は平等であるというヘレンの意見が思い出された。はっきりと記憶に残っているヘレンの口調に、心のなかで耳をかたむけていたとき――おだやかな死の床に横たわり、天なる父の胸にもどりたい、という願いをささやいたヘレンの、青ざめた、気高い姿を、やつれた顔と崇高な凝視とを思い描いていたとき、「だれだい?」という、か細い声が、うしろのベッドから聞こえてきた。
このなん日か、リード夫人が口をきかなかったことを、わたしは知っていた。回復しだしたのだろうか? わたしは夫人のそばに近づいた。
「わたしですよ、リードおばさま」
「だれだい――わたしって?」と夫人は答えた。「おまえはだれだい?」わたしを驚きのこもった、恐怖に以たような表情で見つめているが、はげしい言葉づかいではない。「ぜんぜん知らない人だねえ――ベシーはどこだい?」
「門番の小屋ですわ、おばさま」
「おばさま!」と夫人はくりかえした。「だれだえ、あたしをおばさまと呼ぶのは? おまえはギブソン家の者じゃない。しかし、あたしは、おまえを知っている――その顔、その目、その額は、たしかに見おぼえがある。おまえが似てるのは――そうそう、おまえはジェイン・エアに似ている!」
わたしはだまっていた。名前を明らかにすることがショックになってはいけない、と思ったからである。
「でもねえ、まちがっているかもしれない。勘ちがいということもあることだし。ジェイン・エアに会いたくてたまらなかったものだから、似てもいない人を似ていると思いこんでいるのかもしれない。それに八年もたてば、あの子もすっかり変わっているにちがいないから」
そこでわたしは、わたしが夫人の思っているとおりの、そうあって欲しいと思っているとおりの人間にほかならないことを、そっといって聞かせた。夫人がわたしの言葉をのみこみ、意識も正常であることをたしかめた上で、わたしはベシーがソーンフィールドのわたしを迎えに夫をよこしたことを説明した。
「あたしの病気が重いことは、あたしも知ってるよ」やがて夫人は口を開いた。「二、三分まえに寝返りを打とうとしたけど、手足が動かせないんだねえ。死ぬまえに、心のつかえをとってしまったほうがよさそうだ。元気なときには気にもとめないことが、いまのあたしが置かれているような最後のときが近づくと、人間の重荷になってくるものなのさ。看護婦はいるのかい? この部屋には、おまえのほかにはだれもいないのかい?」
わたしは、わたしたち二人だけだ、といって聞かせた。
「ところで、あたしはおまえに二回悪いことをしたのだが、それをいまになって後悔している。一つはおまえをあたしの子どもとして育てるという、主人との約束を破ったこと。もう一つは――」夫人は言葉をきった。「結局は、大したことではないだろうしさ」と自分一人につぶやくようにしゃべった。「それに病気がなおるかもしれないし、あの子に頭をさげるのは、つらいことだものねえ」
夫人はからだのむきを変えようとしたが、うまく行かなかった。顔の表情が変わっている。内面的な興奮かなにかをおぼえているらしい。断末魔の苦しみの前兆ででもあろうか。
「やっぱり、これはかたづけておかねばなるまい。来世が目前にせまっているのだから。あの子に話したほうがいい。あたしの化粧道具入れのところへお行き。それを開けて、なかにはいっている手紙を出しておくれ」
わたしは指図どおりにした。
「その手紙をお読み」と夫人はいった。
短い手紙で、こうしたためてあった――
[#ここから1字下げ]
前略
小生の姪ジェイン・エアの住所をお教えくださり、あわせて本人の現況につきご一報たまわれば幸甚に存じます。早速にも手紙を書き、マデイラに呼びよせるつもりをいたしております。神の加護で小生の努力もむくいられ、いささかの財をなすことができましたが、小生には妻子がないため、ジェインを小生の存命中に養女とし、死後は遺産のすべてを贈与いたしたいと思っております。敬具
マデイラにて ジョン・エア
[#ここで字下げ終わり]
手紙は三年まえの日付けになっていた。
「これが初耳だなんて、なぜでしょう?」とわたしはきいた。
「あたしはおまえを心底から、徹底的にきらっていたので、おまえが裕福な身分になることに手を貸すことができなかったからさ。あたしは、おまえのあたしに対するふるまいが忘れられなかったのだよ、ジェイン――いつかおまえがわたしにぶっつけた激しい怒り。世界中のだれよりもあたしを憎むと宣言したときの、おまえの口調。あたしのことを思っただけで胸が悪くなるといい切り、あたしがおまえをいやというほど残酷にあしらったといい張ったときの、おまえの子どもらしくない表情や声。おまえがあんなふうに立ちむかってきて、恨みつらみをぶちまけたときに味わされた、あたし自身の気持ちを忘れることができなかった。あたしがぶったり、こづいたりした動物が、人間の目であたしを見あげ、人間の声であたしを呪いでもしたみたいな恐ろしさを、あたしは感じたのさ――水をおくれでないか! ああ、急いでおくれ!」
「リードおばさま」わたしは夫人の欲しがる水をさし出しながらいった。「そんなことはもう、いっさい考えないでください。心のなかから追いはらってください。きつい言葉を使って、すみませんでした。あのころはわたしも子どもでした。八年も、九年も昔のことなのですから」
夫人はわたしがなんといっても取りあおうとはせず、水を飲んで一息つくと、こういって言葉をついだ――
「いいかい、あたしは忘れることができなかった。だから復讐してやったのさ。おまえがおじさんの養女になって、安楽な身分になるなんてことは、あたしにはとてもがまんがならなかった。あたしはおまえのおじさんに手紙を書いて、落胆させるのは悪いけれども、ジェイン・エアは死にました、ローウッドでチブスにかかって死にました、といってやったよ。さあ、おまえの好きなようにおやり。すぐにでも手紙を書いて、あたしのいったことをひっくりかえしておしまい――あたしのうそをあばくことだね。おまえは、あたしを苦しめるために生まれてきた人間だと思うよ。あたしはいまわのきわになって、おまえさえいなければ、しでかす気持ちになんかけっしてならなかった悪事の思い出に苦しめられているのだから」
「おばさま、そんなことはもうお考えにならず、やさしく、寛大なお気持ちでわたしを見てくださるようにお願いできさえすれば――」
「おまえの性質は、ほんとうによくないよ。それに、いまだにあたしには理解できない性質なのさ。九年間というもの、どんなつらい目にあってもがまんして、黙りこくっていたおまえが、どうして十年目にいきなりかんしゃくを爆発させて、荒れ狂ったのか、あたしには合点が行かないんだよ」
「わたしの性質は、おばさまがお思いほどに悪くはありませんわ。わたしはおこりっぽいですけれど、根にもったりはしません。子どものころ、おばさまさえそうさせてくださったら、喜んでおばさまを愛してあげるのに、と思ったことがなんどもありました。いまでも、おばさまと仲なおりしたい気持ちでいっぱいですの。おばさま、わたしにキスしてください」
わたしは頬を夫人の唇に近づけたが、夫人はそれに触れようとさえもしなかった。ベッドにのしかかったら苦しいじゃないか、といってから、夫人はまた水を欲しがった。わたしは夫人を寝かせると――水を飲ませるあいだ、抱きおこして、腕で支えていたから――その氷のように冷えきって、ねっとりとした手にわたしの手を重ねた。力のない指が、わたしにさわられるのをきらった――どんよりとした目も、わたしの視線を避けていた。
「わたしを愛するなり、憎むなり、お好きなようになさってください」ついにわたしはそういった。「わたしはあなたをなんのこだわりもなく、完全に許しています。あとは神さまのお赦しを願うことですね。安らかにおなりください」
気の毒な、苦しみつづける夫人よ! これまでずっと習慣になっていた考えかたを、いま急に変えようと努力しても、もうおそすぎる。生きているときに、わたしをひたすら憎んでいたのだ――死ぬときにも、やはり憎みつづけねばならない。
そのとき、看護婦がはいってきた。ベシーもあとにつづいている。わたしは仲なおりをしようというようすでも見えるかと思って、あと半時間ほど、その場に残っていたが、夫人はなんの兆候も見せなかった。急速に人事不省に陥って行くばかりで、意識が回復することもなかった。その夜の十二時、夫人は息をひきとった。わたしは臨終の席にいあわせなかったし、二人の娘たちもそうであった。翌朝、二人がやってきて、すべてがおわったことを教えてくれた。そのときには、もう納棺もおわっていた。イライザとわたしは、死に顔を見に行った。大声でわあわあ泣いていたジョージアナは、とても行く気になれないといった。かつては頑健で、行動的であったセアラ・リードの肉体は、硬直したまま、静かに横たわっていた。火打ち石のように冷酷な目は、冷たいまぶたにかくれているが、その額とエネルギッシュな顔だちは、いまだに冷酷無情な魂の面影をとどめている。この遺体は、わたしにとっては異様で、重苦しいものであった。わたしはそれを陰鬱な、苦痛にあふれた想いで眺めやった。それは、やさしさや甘やかさ、あわれみや希望や尊敬といったものをなに一つ感じさせない遺体であった。ただ、|わたし《ヽヽヽ》が夫人を失ったという事実に対してではなく、|夫人自身の《ヽヽヽヽヽ》かずかずの不幸に対する刺すような苦悶と、こうした姿の死の恐ろしさに対する暗澹とした、涙もでない当惑とを感じさせるばかりであった。
イライザは母親を冷静に見ていた。数分間の沈黙のあと、こういった――
「この体格なら、いいおばあさんになるまで生きられたでしょうに。苦労で命をちぢめたのだわ」
このとき、イライザは口を一瞬、ひきつらせたが、それが消えると、くるっとむきなおって、部屋から出て行った。わたしも部屋をあとにした。イライザにしろ、わたしにしろ、一滴の涙もこぼさなかった。(つづく)