メグレ警視のクリスマス
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
メグレ警視のクリスマス
メグレと溺死人の宿
メグレのパイプ
訳者あとがき
[#改ページ]
メグレ警視のクリスマス
一
いつものことながら、それはおなじことだった。メグレはベッドに入りながらこうつぶやいた。
「明日、私は朝寝坊するよ」
すると、メグレ夫人はその言葉を真にうけた。まるでここ数年の歳月が彼女に何も教えなかったかのように、こんな風にして言われた言葉に全然注意をはらう必要なんかないのだということを彼女がまるで知らないかのように。メグレ夫人だって朝寝坊することができただろう。朝早く起きる理由なんか彼女には何もなかったのだから。
しかし、彼女がシーツのなかでこそこそ動く物音をメグレが聞いたときには、まだ夜はすっかり明けてはいなかった。メグレはじっとしていた。寝入っている人間のように、規則正しい、深い寝息を立てるように気をつけた。それはゲームに似ていた。彼が目ざめていないことをたしかめるため動いては止まり、動いては止まりしながら、彼女は動物のような用心深さでベッドの縁《ふち》のほうに進んでいく。彼はこれにけりがつく瞬間……夫人の重さから解放されたベッドのスプリングが、ため息に似た軽い音を立ててはね返る瞬間をじっと待った。
それから彼女は椅子の着物を手に取り、浴室のドアのハンドルを果てしない時間をかけてそっとまわし、最後に遠くの台所で、いつものように動きまわるのだった。
メグレはまた眠った。が、深い眠りではなかった。長い時間でもなかった。しかし、その間にはっきりではないが、感動的な夢をみた。あとでその夢がどんなものだったか思い出せなかったが、それが感動的な夢であり、感動として残っていることはたしかだった。
決してきっちりとは閉まらないカーテンの隙間から、青白くて、まばゆい細い光線が洩れている。彼は仰向けに寝たまま、目を開けて、もうしばらく待った。コーヒーのかおりが漂ってきた。アパルトマンのドアが開いて、また閉じた。メグレ夫人があたたかいクロワッサンを買うため急いで階段を降りて行ったのだ。
彼は、朝は物を食べず、ブラック・コーヒーを飲むだけだったが、クロワッサンを買いに行くのもならわしであり、夫人の思いつきから出たことだった。日曜日と祭日は、彼は朝遅くまでベッドのなかにいるものとされ、夫人は彼のためにアムロ通りの角にクロワッサンを買いに行くのである。
メグレは起き上がり、スリッパを履き、部屋着をはおると、カーテンを開けた。彼には自分が間違っていること、夫人がひどく心を痛めるだろうことはわかっていた。夫人をよろこばせるために大きな犠牲をはらわなければならないだろうが、もう寝たくもないのにいつまでもベッドにいるわけにはいかなかった。
雪は降ってなかった。五十歳を過ぎて、クリスマスの朝に雪がなかったといってがっかりするのは滑稽に思えるだろうか、しかし中年の人々は若い者が考えるほどくそまじめではないのだ。
空は重々しく、低くたれこめ、屋根にのしかかりそうだった。いやらしい鉛色だ。リシャール・ルノワール大通りにはひとっこ一人見えず、大通りの向こうの正門の上には『保税倉庫、フィス会社』と黒々と書かれている。なぜか、その『倉庫』の〈倉〉の字が物悲しそうな感じに見えた。
メグレはふたたび夫人が台所を行ったり来たり、食堂へ爪先でそっと入ったり、窓の前に彼が立っているとはつゆ知らず用心しつづける物音を聞いた。ナイト・テーブルの上の時計を見ると、まだ八時十分でしかない。
昨夜メグレ夫妻は劇場に行った。そのあと、みんなと同じようにレストランで軽い食事を取ろうとしたが、どこの店でもテーブルはクリスマス前夜の夜食のため予約済みだった。そこで二人は腕を組んで、歩いて帰ってきたのだが、家に着いたときは真夜中のほんのちょっと前で、贈り物を交換しあうのにほとんど待たずにすんだ。
メグレにはいつものようにパイプ。夫人には、彼女が欲しがっていた新しい型のコーヒー沸かし器と、いつものごとくみごとな刺繍のある一ダースのハンカチ。
彼はその新しいパイプにうわの空でたばこを詰めた。大通りの向こう側の窓にはまだほとんどよろい戸が下りている。起きている人はまだわずかだった。ただ、あちこちで明かりがついている。たぶん子供たちがクリスマス・ツリーや玩具に突進するため早く起きたにちがいない。
メグレ夫妻は、これからこの静かなアパルトマンのなかで、穏やかな朝を過ごそうとしていた。メグレはひげも剃らずに部屋着のまま朝遅くまでうろつきまわるだろうし、台所で、夫人が朝食を火にかけている間おしゃべりするだろう。
彼はふさぎ込んでいるわけではなかった。ただ夢が……あいかわらず思い出せなかった……からだの表面に感覚として残っていた。結局、あれは夢ではなかったのかもしれない。クリスマスのせいかもしれない。メグレ夫人がベッドから出るとき用心深く動いたように、クリスマスの日には慎重にしなければいけない、言葉に気をつけなければいけない。というのは、メグレ夫人もクリスマスにはいつもより神経過敏であったからだ。
しっ! そのことを考えてはいけない。面倒なことは何も言ってはいけない。これから子供たちが歩道に玩具を持ってあらわれるだろうから、通りをあまり見てはいけない。
すべての家と言わないまでも、大部分の家には子供がいる。か細いトランペットの音や、大鼓や、ピストルの音がまもなく聞こえてくる。少女たちはすでに人形を静かに揺すっている。
数年前のことだったが、メグレは軽率にもこう言ったことがある。
「どうしてクリスマスを利用して、ちょっとした旅行をしないのかな?」
「どこに行くの?」と、彼女は答えたが、その言い分はもっともだった。
だれに会いに行くのか? 彼ら夫婦には訪ねるべき親戚さえもない。ただ一人、彼女の妹がいるが、あまりに遠くに住んでいる。見知らぬ町のホテルか、どこか田舎の宿屋に泊まるのは?
さあ、コーヒーを飲む時間だ。コーヒーを飲んだあとは、気分がよくなる。最初のコーヒーを飲み、最初のパイプを喫うまでは決してくつろげない。
彼がちょうどドアのハンドルのほうへ手を伸ばしたとき、ドアが音もなく開き、メグレ夫人が手に盆を持ってあらわれた。そして、空のベッドをながめ、ついで彼をながめ、がっかりして泣き出しそうな顔をした。
「もう起きてらしたの!」
彼女は髪を結い、明るいエプロンをつけ、まったく溌剌《はつらつ》としていた。
「わたし、あなたにベッドで朝食を食べさせたかったのに!」
それは彼にとってよろこびではないし、かえって不快で、病人か、からだの不自由な人間のような気がすると、もう何度|婉曲《えんきょく》に彼女に言い聞かせたかわからない。だが、彼女にとってはベッドでの朝食は日曜と祭日の理想だった。
「もうベッドにもどる気はない?」
とんでもない! そんな気はなかった。
「そう。じゃ、メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス! 私のこと、怨《うら》んでいるかい?」
二人は食堂にいた。テーブルの隅には銀の盆と、湯気を立てているコーヒー・カップと、ナプキンにくるまった金色のクロワッサンがある。
パイプをおくと、メグレは彼女をよろこばせるためクロワッサンを食べたが、立ったままだった。彼は外をながめながら言った。
「粉雪だ」
それは雪ではなかった。空から白い小さな塵が落ちてきたのだ。彼は子供のころ舌を出して小さな雪片をひっつけて遊んだことを思い出した。
彼の目が正面の、倉庫の左手にある建物の入口にじっと注がれた。二人の女が帽子もかぶらずそこから出てきた。一人は三十歳ぐらいのブロンドで、コートを、腕を通さずにただ肩にかけているだけだった。もう一人はもっと年上で、ショールをからだに巻きつけている。
ブロンドの女はためらっている。なんだかもどりたがっているようだ。ごく小柄で、ひどく痩せているブルネットの女のほうが行こうと言い張っている。メグレは、ブルネットの女が彼の家の窓を指さしたような気がした。二人の後ろからこんどは女管理人があらわれ、痩せた女に加勢しているようだった。ブロンドの女は通りを横切る決心をしたが、それでも不安そうに後ろを振り返っていた。
「何を見ているの?」
「何でもないよ……女たち……」
「その女《ひと》たちがどうしたの?」
「ここに来るみたいなんだ」
というのは、女たちは二人とも通りの真ん中で頭を上げて、メグレのほうを見たからだ。
「クリスマスの日ぐらいあなたをそっとしておいてほしいわ。わたしの掃除だってまだ終わっていないし」
テーブルの上には盆のほか何も残っていなかったし、蝋《ろう》引きした家具にはほこり一つついていなかったから、だれもまだ掃除していないなんて思いはしなかっただろう。
「たしかにここに来るの?」
「すぐにわかるよ」
メグレは念のため、髪に櫛を入れ、歯ブラシで歯をみがき、さっと顔を洗った。ドアのベルが鳴ったとき、彼はまだ寝室にいて、パイプにふたたび火をつけていた。メグレ夫人は頑固なところを見せているにちがいなかった。というのは、なかなか彼のところへやってこなかったからだ。
「あの女《ひと》たちがぜひともあなたに話があるんですって」と、夫人はささやいた。「何でも重大なことなので、あなたに相談したいそうよ。わたし、二人のうち一人のほうは知ってるわ」
「どっちの女だい?」
「小柄で、痩せているドンクールさんのほう。彼女は正面の、わたしたちとおなじ階に住んでいて、一日じゅう窓辺で仕事しているの。フォーブール・サン・トノレのある店のために精巧な刺繍細工をつくっているのよ。とてもすてきなオールド・ミス。わたし、彼女があなたに気があるんじゃないかと思ったことがあるわ」
「なぜ?」
「だって、あなたが出て行くとき、彼女はよく立ち上がってあなたを目で追っているんですもの」
「いくつだ?」
「四十五と五十歳の間。あなた、洋服は着ないの?」
クリスマスの朝八時半に家に人がやってきたからといってなぜ部屋着のまま出て行ってはいけないのか?しかし、彼は部屋着の下にズボンをはき、食堂のドアを開けた。二人の女が立って待っていた。
「やあ、どうも……」
結局、メグレ夫人は正しかったかもしれない。マドモワゼル・ドンクールは顔を赤らめこそしなかったが、蒼白になり、ほほえもうとしたが顔がこわばってしまった。すぐに微笑《えみ》は取りもどしたが、こんどは口を開けてもなかなが言葉が出てこなかった。
ブロンド女のほうが落ち着きはらっていた。彼女は不機嫌そうにこう言った。
「ここに来たがったのはわたしじゃないんですよ」
「二人ともおすわりになりませんか?」
メグレは、ブロンド女のコートの下が部屋着で、ストッキングもはいていないことに気がついた。マドモワゼル・ドンクールのほうはミサに行くためのような服装をしていた。
「どうしてわたしたちが厚かましくもあなたのところにやってきたのか不思議にお思いでしょうね」と、マドモワゼル・ドンクールが言葉を選びながら話しはじめた。「この町のすべての人々のように、わたしたちだってもちろんあなたを隣人として持てたことがいかに名誉なことか知っておりますわ……」
こんどは彼女は顔を赤らめ、盆をじっと見つめた。
「わたしたちはあなたの朝食をお邪魔してしまったようですわね」
「もうすみましたから。話をうかがいましょう」
「今朝、というより昨夜ですが、わたしたちの建物でちょっとした事件が起こったのですわ。それで心配になり、あなたにお話ししたほうがいいととっさに思いましたの。マルタン夫人はここに来たがらなかったのですけど、わたしが彼女に言って……」
「マルタン夫人、あなたも正面の建物にお住まいですか?」
「そうです」彼女はこうやって無理矢理連れてこられたことに満足していないようだった。マドモワゼル・ドンクールのほうは、ここで勢いよくしゃべりだした。
「わたしたち、あなたの窓のちょうど正面のおなじ階に住んでおりますのよ(まるで告白でもしたかのように彼女はまた顔を赤らめた)。マルタン夫人のご主人は商売のためよく旅行します、セールスマンですから当然ですわね。二カ月前から、この女《ひと》たちの小さな娘さんがばかげた事故のためベッドに寝ておりますの」
メグレはゆっくりとブロンド女のほうを向いた。
「マルタン夫人、娘さんがおありですか?」
「わたしたちの娘ではなく、姪です。二年ちょっと前に、あの子の母親が死んで、それ以来わたしたちと一緒に暮らしてます。あの子は階段で脚を折ってしまい、なおるまで六週間かかるんです、それも併発症を起こさなければの話ですが」
「ご主人はいまパリにいないのですか?」
「ドルドーニュにいるはずです」
「ドンクールさん、あなたの話をつづけてください」
メグレ夫人は台所にもどるため浴室からまわったにちがいない。台所で鍋を動かす音が聞こえたからだ。
ときどき、メグレは鉛色の空に目をやった。
「今朝、わたしはいつものように早く起きました。最初のミサに行くためですの」
「ミサに行きましたか?」
「はい。七時半ごろ帰ってまいりました。三番目のミサまで残っておりましたのよ。それから朝食の支度に取りかかりました。わたしの家の窓の明かりがあなたにお見えになったと思いますけど」
メグレはいいかげんにうなずいてみせた。
「わたしはコレットちゃんに急いで贈り物を持って行きましたわ。コレットちゃんにとって淋《さび》しいクリスマスにちがいないと思って。あ、コレットちゃんというのは、マルタン夫人の姪ごさんのことですのよ」
「いくつです?」
「七歳。そうですわね、マルタン夫人?」
「一月で七歳になります」
「八時に、わたしはアパルトマンのドアをノックいたしました」
「わたしはまだ起きてませんでした」と、ブロンド女が言った。「とても遅く寝たものですから」
「それで、わたしがノックいたしますと、マルタン夫人はわたしを少し待たせましたの。化粧着を着る間ですわ。わたしの両手は荷物でふさがっておりましたの。わたしはマルタン夫人に、コレットちゃんに贈り物をわたしてもいいかとたずねました」
メグレはブロンド女がアパルトマンのなかをすっかり詮索し、ときどき疑わしげな鋭い視線を彼に投げかけるのを感じていた。
「わたしたちは一緒にコレットちゃんの寝室のドアを開けましたのよ」
「子供は一人きりで寝室にいるのですか?」
「はい。この女《ひと》のアパルトマンは寝室が二つ、あとは化粧室、食堂、台所なのです。でも、わたしが言わなければならないことは……いいえ、あとにいたしましょう。ドアを開けたところまでお話しいたしましたわね。寝室のなかは薄暗かったので、マルタン夫人が電気のスイッチをひねりましたの」
「コレットは目をさましていました?」
「はい。ずっと前から目をさまして、待っていたことはひと目でわかりましたわね。クリスマスの朝、子供たちがどんなだか、あなたにもおわかりになるでしょう。脚が動かせたなら、コレットちゃんはサンタクロースが持ってきてくれたものを見るために起きあがっていたでしょうし、ほかの子供たちを呼びよせていたでしょうね。でも、あの子にはすでに大人っぽいところがあります。あの子は考え深いし、年齢《とし》よりもずっと老けている感じですの」
マルタン夫人はこんどは窓から外をながめた。メグレは彼女のアパルトマンがどれなのか知ろうとした。右側の、建物の一番端にあるアパルトマンがそうにちがいない。二つの窓に明かりがついている。
マドモワゼル・ドンクールの話はつづいた。
「わたしはコレットちゃんにメリー・クリスマスを言い、おきまりの言葉をつけ加えましたわ。『さあ見て、これはサンタクロースがあなたのためにおばさんの寝室において行ってくれたものよ』」
マルタン夫人の指がいらいらと動き、痙攣《けいれん》した。
「ところが、わたしが持っていったものには目もくれず……つまらない玩具でしかありませんでしたけど……コレットちゃんが何と答えたかおわかりになりまして?
『あたし見たわ』
『だれを見たの』
『サンタクロースよ』
『いつ見たの、どこで?』
『ここで、昨日の夜よ。サンタクロースがあたしの部屋に来たの』
これがコレットちゃんの言ったとおりの言葉ですわね、マルタン夫人? ほかの子供がこんなことを言うのでしたら、わたしも一笑に付してしまったでしょうが、すでに言いましたようにコレットちゃんは大人っぽい子です。あの子は冗談は言いません。
『まっ暗なのに、どうしてサンタクロースを見ることができたの?』
『明かりがあったから』
『サンタクロースが電気をつけたの?』
『ううん。懐中電燈を持っていたの。ねえ見て、ママ・ロレーヌ……』
コレットちゃんはマルタン夫人をママと呼んでいるのですわ。当然ですわね。コレットちゃんにはもう母親がおりませんし、マルタン夫人が母親がわりになっているのですから……」
これらの話がすべてメグレの耳に、連続的な鈍い唸りのようなものに聞こえ出した。彼はまだ二杯目のコーヒーを飲んでいなかったし、パイプの火は消えていた。
「コレットはだれかを本当に見たのかな?」と、メグレは自信なさそうにたずねた。
「はい、警視さん。わたしがマルタン夫人に、このことをお話ししに行かなければだめよ、と言い張ったのはそのためなのです。わたしたちには証拠があります。コレットちゃんはいたずらっぽい微笑をうかべて、シーツをどけると、ベッドのなかで抱きしめていた立派な人形を見せたのですよ。この人形は昨日まで家のなかになかったものですわ」
「マルタン夫人、コレットに人形をあたえませんでした?」
「わたしは昨日の午後デパートで買ってきた人形をあたえるつもりでした。コレットが持っていたのよりずっとみすぼらしい人形ですが。寝室に入って行ったとき、わたしはその人形を背中に隠し持っていたのです」
「ということは、あなたのアパルトマンに昨夜だれかが入ったと考えていいということですか?」
「それだけではありませんわ」と、いまでは調子づいたマドモワゼル・ドンクールが急いで言った。「コレットちゃんは嘘をつく子供でもありませんし、勘違いする子供でもありません。わたしとこの女《ひと》はコレットちゃんに質問いたしましたの。コレットちゃんは白いひげと、だぶだぶの赤い服を着たサンタクロースを見たと確信しておりますのよ」
「コレットはいつ目をさましたのかな?」
「それはコレットちゃんにはわかりませんが、夜の間ですわ。明かりが見えたような気がして、コレットちゃんは目を開けましたの。実際、部屋には明かりがあったのですわ、暖炉の前の床の一部が照らされていたのですのよ」
「それがどういうことなのか、わたしにはわかりません。主人にだってわかるかどうですか……」
マドモワゼル・ドンクールは会話の主導権をにぎっていたがった。メグレのことを思いついたのが彼女であるように、子供に根ほり葉ほり質問したのが彼女であることはまちがいなかった。
「コレットちゃんによると、サンタクロースはしゃがみ込むように、床にかがみ込んで何やらやっていたそうですわ」
「こわくなかったのかな?」
「ええ。コレットちゃんはサンタクロースを見つめておりました。今朝、コレットちゃんはわたしたちに、サンタクロースは床に一生懸命穴をあけているようだったと言いましたの。その穴から、サンタクロースが階下《した》の人たちの部屋へ行こうとしているのだと、コレットちゃんは信じておりますのよ。階下にはドゥロルム夫婦が住んでいて、三つの男の子がおりますの。コレットちゃんは、暖炉が狭すぎたのにちがいないとも言いましたわ。サンタクロースは見られているのを感じたにちがいありませんわね。立ち上がると、ベッドのほうにやってきて、じっと唇に指をあてながら、大きな人形をおいたのですわ」
「コレットはサンタクロースが出て行くのを見ましたか?」
「はい」
「床から」
「いいえ。ドアからです」
「そのドアはアパルトマンのどの部屋に通じてますか?」
「直接、廊下に面しておりますわ。もう一つ、アパルトマンに通じているドアもありますのよ。というのは、この部屋は以前は、ここだけ単独に借りられていたからですわ」
「鍵をかけてありました?」
「もちろんです」と、マルタン夫人が口を出した。「寝室に鍵をかけないで子供を一人で放っとくと思いますか」
「ドアはこじあけられたのかな?」
「そうかもしれません。わたしにはわからないわ。ドンクールさんがすぐにあなたに会いに行こうと言ったものですから」
「床に穴を見つけましたか?」
マルタン夫人は疲れ果てたように肩をすくめてみせただけだった。オールド・ミスのドンクールが彼女にかわって答えた。
「厳密に言えば穴はありませんでしたけど、床板がはずされたことはひと目でわかりましたわ」
「マルタン夫人、床の下に何があったか思いあたるふしはありませんか?」
「いいえ」
「長い間あのアパルトマンにお住まいですか?」
「五年前結婚してからずっと」
「そのときすでにあの寝室もあなたのアパルトマンになっていましたか?」
「そうです」
「あなた方の前に、だれがあの寝室に住んでいたかご存知ですか?」
「わたしの主人。主人は三十八歳です。わたしと結婚したとき、主人はすでに三十三で、この寝室で暮らしてました。出張が終わってパリに帰ってくるたびに、主人はこの寝室に閉じこもっているのが好きでした」
「ご主人がコレットをびっくりさせようとしたのだとは思いませんかね?」
「主人はここから六、七百キロ離れたところにいるんですよ」
「いまどこにいるかご存知?」
「きっとドルドーニュ県のベルジュラックでしょう。主人の出張は前もって日程表が組まれ、その日程表が狂うことはまれです」
「どんなお仕事です?」
「ゼニット時計のフランス中部と南西地方の責任者なのです。あなたもご承知かもしれませんが、たいへん莫大な金額の商売で、主人は出世コースにいるのです」
「あれほどすてきな人はおりませんわね」と、マドモワゼル・ドンクールはさけんだが、すぐに頬をばら色に染めて言い直した。
「あなたを除いてですけど!」
「要するに、私に間違いがなければ、だれかが昨夜サンタクロースの変装をしてあなたの家に入ったということですね!」
「子供はそう言い張っています」
「あなたは何の物音も聞かなかったのですか? あなたの寝室は子供の寝室とは離れています?」
「両方の寝室の間には食堂があります」
「それでは夜、食堂に通じるドアを開けておいてやらないのですか?」
「そんな必要ありません。コレットは臆病な子じゃないし、いつも朝まで目をさましません。わたしを呼びたいときには、ナイト・テーブルの上においてある銅の小さな鈴を振ればいいんです」
「昨夜、外出しました?」
「いいえ、警視さん」と、マルタン夫人は腹を立てたように、そっけなく答えた。
「だれも客を呼びませんでした?」
「主人の留守中には、お客を呼ばないことにしてます」
メグレはマドモワゼル・ドンクールにちらっと目をやった。彼女は、マルタン夫人の言い分に間違いないと言うように、平然としていた。
「遅くまで起きていました?」
「ラジオが『真夜中です、クリスチャン』を放送した直後に寝ました。それまでは本を読んでましたよ」
「何か異常な物音を聞きませんでしたか?」
「いいえ」
「見知らぬ人間のために、建物の入口のドアを開けたかどうか、女管理人にたずねました?」
マドモワゼル・ドンクールがまた口をはさんだ。
「わたしがたずねましたわ。女管理人はそんなことはなかったと言っておりますのよ」
「マルタン夫人、今朝家の物が何もなくなっていませんでした? 食堂に人が侵入したような形跡はありませんでしたか?」
「いいえ」
「いま、子供はだれといます?」
「だれとも。コレットは一人きりでいることに慣れてます。わたしは一日じゅう家にいることはできません。買い物もあるし、いろいろと用事もあるし……」
「わかりました。コレットは|孤児《みなしご》だと言いましたね?」
「母なし児なのです」
「それでは父親はまだ生きているのですね? どこにいます? だれなのです?」
「わたしの主人の兄のポール・マルタンです。義兄《あに》がどこにいるかと言われても……」
彼女はあいまいな身振りをした。
「最後に会ったのはいつです?」
「少なくとも一カ月前。それ以上前かもしれません。万聖節(十一月一日)のころでした。義兄は例の『九日間の祈り』を終えてました」
「それは何です?」
彼女はいささか不機嫌に答えた。
「家族の身の上話をはじめたのですから、そのことも言ったほうがいいでしょう」
彼女は自分をこんな立場に追いやったマドモワゼル・ドンクールを怨んでいるようだった。
「わたしの義兄《あに》は、とくに奥さんを失ってからは、もうどうしようもない男になってしまったのです」
「もっとはっきり言ってください」
「酒を飲むんです。それは以前だって飲みましたが、あれほど激しくはなかったし、飲んでもばかげたことはしでかしませんでした。ちゃんと仕事だってやっていたし。フォーブール・サン・タントワーヌの家具店でかなりいい地位についてさえいたのです。それがあの事故以来……」
「彼の娘さんに起こった事故ですか?」
「いいえ、奥さんを死なせてしまった事故です。ある日曜日、彼は仲間の車を借りて、奥さんと子供と田舎にドライブに行くことを思いついたのです。コレットはまだずっと小さかった」
「それはいつごろのことです?」
「二年ちょっと前。一家はマント・ラ・ジョリィーのそばの居酒屋で昼食を取ったのです。ポールは白ぶどう酒を飲むのを我慢できませんでした。彼は酔いました。パリにもどる途すがら、大声で歌をうたっていました。事故はブージヴァルの橋の近くで起こったのです。奥さんは即死。彼自身も頭蓋骨《ずがいこつ》が凹んだが、奇跡的に生きのびました。コレットは無傷のまま救い出されました。それ以来、彼はもう人間ではありません。わたしたちが子供を預かりました。実質的には養女ね。彼はときどき子供に会いに来ますけど、あまり酔っていないときだけ。そのあと、またすぐに酒びたりになってしまうのです…」
「彼がどこで暮らしているか知ってますか?」
あいまいな身振り。
「あちこちで。わたしたちバスチーユ広場で跛《びっこ》を引きながら乞食のように歩いている彼に出会ったことがありました。別のときには、街で新聞を売ってました。わたし、そのことをドンクールさんの前で話したわ。だって、情けないことに、あの建物の人はみんな知っているんですもの」
「彼がサンタクロースに変装して、娘さんに会いに来たとは思いませんか?」
「わたしも最初そうドンクールさんに言いました。それなのに、ドンクールさんはあなたに話したほうがいいと言い張ったんです」
「ポールさんだったら、床板をはがす理由がないじゃありませんか」と、マドモワゼル・ドンクールが言い返したが、とげとげしい感じがなくもなかった。
「あなたのご主人が予定より早くパリに帰ってこなかったともかぎらないし……」
「たしかにそういうこともあります。わたしは心配していません。ドンクールさんがいなければ……」
またか! ドンクールがいなければ、彼女はわざわざ大通りを横切ってこなかったにちがいない。
「ご主人がよく泊まるホテルは?」
「ベルジュラックにある『ホテル・ド・ボルドー』」
「ご主人に電話することを考えませんでしたか?」
「あの建物には、二階の人たちの部屋以外、電話がないのです。二階の人たちは電話を貸したがりませんし」
「私が『ホテル・ド・ボルドー』に電話してもかまいませんか?」
彼女は最初承知したが、ついでためらった。
「何かあったんじゃないかと思わないかしら?」
「あなたがご主人と話せばいい」
「わたし、主人にあまり電話したことがないんです」
「それじゃこのまま放っときますか」
「いいえ、電話してください。わたし話します」
メグレは受話器をはずし、長距離通話を申し込んだ。十分後に、『ホテル・ド・ボルドー』に通じ、メグレは受話器をマルタン夫人にわたした。
「もしもし! マルタン? そう、ジャン・マルタンと話したいのですが……かまいません……起こして……」
彼女は受話器の口を手で押えて、説明した。
「主人はまだ眠ってます。いま呼びに行きました」
彼女はどうしゃべったらいいか考えているようだった。
「もしもし! あなた? どうしたって? そう、メリー・クリスマス! ええ、すべて順調よ……。コレットもとても元気……ちがう、わたしが電話したのはそのためじゃないわ……ちがうったら! 何も悪いことはないわ、心配しないで……」
彼女は一語一語はっきりとくり返した。「『何も心配しないで』と言ったのよ……ただ、昨夜妙な出来事があったの。サンタクロースに変装しただれかが、コレットの寝室に入って……いいえ! コレットに何もしなかったわ……大きな人形をくれたのよ……そう、人形……それと、床に何かしたの……床板を二枚はずして、そのあとすぐに元にもどしたの……ドンクールさんは正面に住んでいる警視さんに話せばいいと言うので……いま警視さんの家から電話してるのよ……おかしな話ですって? わたしもよ……警視さんに出てもらいましょうか? わたしがそのことを警視さんにたのんでおくわ……」
そしてメグレに、
「あなたとお話ししたいそうです」
受話器を通して、心配そうな、当惑したような男の声。
「女房と子供に何もなかったことはたしかですか?本当にびっくりしました! 人形だけだったら、ぼくは兄のしわざだと思うのですが……ロレーヌが兄のことを話すでしょう……ロレーヌはぼくの女房です……細かいことは女房に訊《き》いてください……しかし、兄は床板をはずしておもしろがったりしないでしょう……ぼくがすぐにもどったほうがいいとは思いませんか?午後の三時ごろの列車があります……どうしてです?女房と子供のことはあなたを当てにしていいですね?」
ロレーヌがふたたび受話器を取った。
「わかったでしょ! 警視さんは信頼できる人ですわ。危険がないと言ってくれてるし。だから出張を中断することないわ。いまパリに任命されるチャンスなのだから……」
マドモワゼル・ドンクールはじっと彼女を見つめた。そのまなざしにはまるで愛情がなかった。
「何かあったら、電話をかけるか、電報を打つわ。コレットはおとなしくしている。人形で遊んでるわ。あなたがあの子に送ってきたもの、まだあたえてないのよ。これからすぐに……」
彼女は受話器をおくと、言った。
「ごらんのとおり!」
それから、しばらく沈黙したあとで、
「お邪魔してすみませんでした。でも、わたしのせいではありません。あれがお義兄《にい》さんの思いつきでなければ、きっとだれかの悪いいたずらにちがいないわ。お義兄さんは酒を飲むと、何をやりだすかわからないし……」
「今日彼に会うつもりはないですか? 彼が娘さんを訪ねたがっているとは思いませんか?」
「それは事と次第によります。お酒を飲んだら、だめ。あの人はそんな状態で娘の前にあらわれないように気をつけているわ。できるだけ見苦しくないときに来るようにしているの、あの人」
「あとでコレットとおしゃべりしに行っていいですか?」
「かまいませんよ。それが役に立つとあなたがお考えでしたら……」
「ありがたいですわ、メグレさん」とマドモワゼル・ドンクールが共犯者のような、感謝するような目でさけんだ。「あの子はとても興味がありますわよ! まちがいありません」
彼女は後ずさりしてドアまで行った。数分後、二人が大通りを横切るのが見えた。マドモワゼル・ドンクールはマルタン夫人のすぐあとを歩きながら、振り返って警視の窓をちらっとながめた。
玉葱《たまねぎ》が台所で焼けていた。メグレ夫人が「あなた満足して?」と言いながら台所のドアを開けた。
しっ! わかったようなふりをしてはいけない。彼女に、この老夫婦のクリスマスの朝を台なしにした人間がいるなんて考える暇をあたえてはいけないのだ。
さあ、ひげを剃ってコレットに会いにいかなければ。
二
メグレが電話しようと決心したのは、ちょうどひげ剃りにかかった最中で、ブラシに石鹸をつけたときだった。彼はふたたび部屋着をはおるような面倒はしないで、パジャマのまま食堂の窓の近くの〈いつもの〉肱《ひじ》掛け椅子にすわって、あちこちの煙突からゆっくりと立ち昇る煙をながめながら、電話が通じるのを待った。
パリ警視庁の電話のベルは、ほかのところの電話のべルとちがうように彼には思われた。人気のない長い廊下、空っぽのオフィスの開け放しのドア、「警視《パトロン》からですよ!」と言いながらリュカを呼んでいる電話交換手などが目に見えるようだった。
メグレはちょっと自分が夫人の女友達の一人であるような気がした。この女友達にとって、ほとんど毎日のように自分に許す最高のぜいたくは、窓とカーテンを閉め、豆ランプの快い光のなかで午前中ベッドで過ごし、だれか友達にあてずっぽうに電話することだった。
「あら、十時なの? 天気はいかが? 雨が降っている? もう外出してらしたの? お買い物なさったの?」
彼女はこうやって相手の電話から外界の喧噪の反響をうかがいながら、ベッドのぬくもりのなかにますます心持ちよさそうにもぐりこんでいくのである。
「あなたですか、警視《パトロン》?」
メグレもリュカに、彼のほかに出勤しているのはだれなのか、いま何をしているのか、今朝パリ警視庁の様子はどんなかを訊いてみたかった。
「何かあったか? 忙しくはないか?」
「ほとんど何もありません。きまりきった仕事だけです……」
「ちょっと調べてもらいたいことがあるんだが。電話で調べられると思う。まず、二カ月前……三カ月前でもいい……に釈放された囚人のリストをつくってもらいたいんだ」
「どこの刑務所のです?」
「すべての刑務所の。少なくとも五年以上の刑をつとめあげた連中だけのリストだ。そのリストのなかに、ある一時期リシャール・ルノワール大通りで暮らしていた者がいるかどうかを知りたいのだ。わかったね?」
「書きとめておきます」
リュカはびっくりしたにちがいない。だが、そんな気配は全然示さなかった。
「つぎだ。ポール・マルタンという男を見つけてほしい。住所不定の酔っぱらいで、バスチーユ地区のあたりをよくうろついているらしい。逮捕することはない。痛めつけてもいけない。ただ彼がクリスマスの夜どこで過ごしたかを知ればいいのだ。所轄署が手を貸してくれるだろう」
実のところ、メグレ夫人の女友達の電話とは逆に、こうやって自分の家で、頬のひげも剃らずにパジャマのまま肱掛け椅子にすわって、いつもの見なれた、動くものとしては煙突から出る煙だけの風景をながめながら電話しているのは気詰まりだった。向こうの電話に出ている律義なリュカは、朝の六時から勤務についているのだ。もうすでにサンドイッチの包みを開いたにちがいない。
「それで終わりじゃないんだ、リュカ。ベルジュラックに電話してくれ。『ホテル・ド・ボルドー』にジャン・マルタンというセールスマンがいる。ちがう!ジャンだ! おなじ人間じゃない。弟のほうだ。昨日の昼間か夜に、彼のところにパリから電話か、電報がなかったかを知りたい。それと、彼が夜をどこで過ごしたかを。いまのところそれだけだ」
「わかりしだい、こちらから電話いたしますか?」
「すぐでなくていい。私は外出しなければならないんだ。私のほうからまたきみに電話しよう」
「あなたの町で何かあったんですか?」
「まだわからない。あったかもしれない」
メグレ夫人は浴室にやってきて、彼がひげを剃り終わるまでしゃべっていた。彼は煙突を見上げて、コートを着ていかないことにした。煙突からはゆっくりと煙が上がり、空のなかに消えていく。窓の後ろの室内は暑すぎるほどあたたまっているだろう。それに、彼はこれから居心地がいいとは思えない狭いアパルトマンのなかでしばらく過ごさなければならないのだ。メグレは帽子をかぶっただけで、大通りを横切った。
その建物は、彼が住んでいる建物同様、古かったが、きれいで、ちょっともの悲しい感じがした。とくに十二月の灰色の朝などはそうだった。彼は管理人室の前で立ち止まらなかった。女管理人はくやしそうに彼を見送った。階段を上がると、各階のドアが音もなくかすかに開き、忍び足やささやき声が聞こえた。
四階の廊下で、窓からメグレをうかがっていたにちがいないマドモワゼル・ドンクールが待っていた。まるで逢いびきででもあるかのように、おずおずし、ひどく興奮していた。
「ここです、メグレさん。彼女はちょっと前に外出いたしました」
メグレは眉をひそめた。マドモワゼル・ドンクールはそれに気がついた。
「わたし彼女に、あなたいけないわ、メグレさんが来るまで家にいたほうがいいわ、と言ったのですけれど。すると彼女は、昨日買い物をしていなかったので家にはもう何も食べるものがない、後になればお店が閉まってしまうと、こうなんですのよ。どうぞお入りください」
彼女は食堂の奥のドアの前に立った。食堂はかなり狭く、かなり薄暗かったが、きれいで、散らかっていなかった。
「わたしはマルタン夫人が帰ってくるまで子供の世話をしているんですの。コレットちゃんはあなたに会えることをよろこんでおりますわ。わたし、コレットちゃんにあなたのことをお話ししたんですのよ。あの子はあなたが人形を取り上げてしまうのじゃないかと、ただそれだけを心配しておりました」
「マルタン夫人はいつ外出する決心をしたのです」
「あなたの家からもどってきてすぐですわね。彼女はすぐに着替えはじめました」
「ちゃんとした服装に?」
「どういうことですの?」
「近くに買い物に行くときと、外出するときとは服装がちがうと思うのですが?」
「ちゃんとした服装をして行きましたわ、帽子も手袋もつけて。でも、買い物袋を下げて行きました」
コレットと話す前に、メグレは台所に入った。朝食の残りが散らかっている。
「彼女は私に会いに来る前に食事をしたのかな?」
「いいえ。そんな時間ありませんでした」
「じゃ、もどってきて食事したのか?」
「それもちがいますわね。彼女はブラック・コーヒーを飲んだだけですわ。マルタン夫人が着物を着ている間、コレットちゃんに朝食をあたえたのはわたしですのよ」
中庭に面している窓の敷居の上に、小さな鼠入らずがおいてある。メグレはそのなかを入念に調べた。冷肉、バター、卵、野菜が入っていた。台所の食器戸棚には、まだ手をつけられていない真新しいパンが二つあった。コレットはクロワッサンとチョコレートを食べたのである。
「マルタン夫人のことをよくご存知ですか?」
「隣人ですからね。コレットちゃんがベッドから動けなくなってからは、今までよりひんぱんに彼女に会いますわ。だって、彼女は外出するとき子供のお守りをしていてくれるようによくたのみにまいりますから」
「彼女はよく外出しますか?」
「ほとんどしませんわね。買い物に出かけるときくらいかしら」
このアパルトマンに入ったとき何かがメグレの心を打った。彼はそれをはっきりさせようとした。その何かはこの雰囲気のなかに、家具の配置ぐあいのなかに、整然とした様子のなかに、匂いのなかにさえある。メグレがその何かを見つけたのは、見つけたと思ったのはマドモワゼル・ドンクールを見つめながらである。
マルタンが結婚前からこのアパルトマンに住んでいたことは、すでにさきほど聞いている。ところで、マルタン夫人がもう五年以上も暮らしているのにもかかわらず、ここは独身者のアパルトマンのままなのだ。たとえば、彼はマントルピースの両側の、大きな二つの写真を指さした。
「これはだれです?」
「マルタンさんのご両親ですのよ」
「マルタン夫人の両親の写真はないのですかね?」
「彼女がご両親の話をするのを、わたしまだ聞いたことがありませんわね。彼女は孤児だったのではないかしら」
寝室にさえなまめかしさも、女らしさもなかった。彼は衣裳戸棚を開いた。ていねいに並べられた男の衣服のわきに、女の着物がある。とくにテーラード・スーツや、とても地味なスーツが目についた。彼は引出しを開ける気にはならなかった。引出しのなかに、女が集めておく癖のある安ぴか物や、こまごまとしたくだらない物が入っていないことはわかりきっていたからだ。
「ドンクールおばさん!」と、かわいい声がやさしく呼んだ。
「コレットに会いに行きましょう」と、メグレは決心した。子供の寝室も簡素で、ほとんど飾りがなかった。子供には大きすぎるベッドのなかに、まじめな顔をし、もの問いたげな、だが自信ありげな目をした少女がいた。
「おじさんが警視さん?」
「そう、こわがることはないよ」
「あたし、こわくなんかない。ママ・ロレーヌは帰ってこないの?」
ママ・ロレーヌという言葉がメグレをおどろかせた。マルタン夫婦はこの姪を養女のようにしたのではなかったのか? それなのに、子供はごく短く〈ママ〉とは言わずに、〈ママ・ロレーヌ〉と言う。
「きのうの夜サンタクロースがあたしに会いに来たこと、おじさん信じてくれる?」
「ああ、信じるよ」
「ママ・ロレーヌは信じないの。ママ・ロレーヌは一度もあたしを信じてくれない」
コレットは整っていないが愛嬌《あいきょう》のある顔立ちで、ひどく生き生きとした目で相手を食い入るように見つめる。片脚の腿のところまではめてあるギプスが掛け蒲団を大きくふくらませていた。マドモワゼル・ドンクールは戸口に立っていたが、メグレたちを二人きりにするために、婉曲にこう言った。
「わたし急いで家にもどって、火が大丈夫かどうが見てまいりますわ」
ベッドのわきにすわったメグレは、どうふるまっていいのかわからなかった。どんな質問をしてもいいのかさえわからなかった。
「ママ・ロレーヌが好きかい?」
「好きよ」
コレットは賢く答えた。気乗りもしていなかったが、ためらいの色もみせなかった。
「それじゃパパは?」
「どのパパ? あたしにはパパが二人いるの、パパ・ポールにパパ・ジャン」
「パパ・ポールにはもう長い間会っていないの?」
「わかんない。二、三週間ぐらい。クリスマスには玩具を持ってきてくれるって約束したのよ。まだ来ていないけど。パパは病気にちがいない」
「よく病気になるの?」
「そうよ、よく病気になるの。病気のときには、あたしに会いに来ないの」
「パパ・ジャンは?」
「旅行中よ。でも、新年には帰ってくる。帰ってくるとこんどはパリに任命されて、もう旅行しなくてもよくなるの。パパ・ジャンはよろこんでいるの、あたしもよ」
「ベッドから動けなくなってから、友達がたくさん会いに来てくれた?」
「どの友達? 学校の友達はわたしが住んでいるところを知らないもの。知っていたってあの子たちだけでは来ることはできない」
「ママ・ロレーヌやパパのお友達は?」
「だれも来ない」
「一度も? 本当に?」
「ガス屋さんと電気屋さんだけ。ドアがほとんどいつも開いているので音が聞こえるの。だからあの人たちはすぐにわかるの。ただ、二度だけ、だれかが来た」
「ずっと前?」
「最初は、あたしが脚を折った翌日。あたしそのことをよくおぼえているの。お医者さんが出て行ったすぐあとだったから」
「それはだれ?」
「見えなかった。ドアをノックし、話している声が聞こえたの。ママ・ロレーヌはすぐにあたしの病室のドアを閉めてしまった。二人はしばらく低い声で話していたの。あとで、ママ・ロレーヌは保険の勧誘に来た人よと言ったけど、あたしには何のことかよくわからなかった」
「それで、その人はまた来たの?」
「五、六日前よ。こんどは夜、あたしの寝室の明かりは消えていた。でも、まだ眠ってなかったの。ノックする音が聞こえ、それから最初のときのように低い声で話すのが聞こえたのよ。ドンクールおばさんはときどき夜に、ママ・ロレーヌのところに来るけど、絶対にあのおばさんじゃないわ。二人が言い争っているようだったので、あたしこわくなってママ・ロレーヌを呼んだの。そうしたらママ・ロレーヌがやってきて、また保険のことなの、早く眠りなさいと言ったのよ」
「その人は長い間いたの?」
「わかんない。あたし眠ってしまったから」
「二度ともその人を見なかったんだね?」
「そうよ。でも、声ならわかる」
「低い声で話していたのに?」
「うん。大きな蜜蜂がぶんぶんいうような音なの。あたし、人形持っていていいんでしょ? ママ・ロレーヌはお菓子の箱二つと、小さな裁縫箱を買ってくれたの。人形も買ってくれたけど、サンタクロースの人形よりずっと小さいのよ。ママ・ロレーヌはお金がないから。ママ・ロレーヌはさっき出て行く前にその人形を見せてくれたけど、すぐにケースのなかにしまってしまったの。あたしにはもう人形が一つあるから、二つも必要ないと言って。お店に返すんだって」
このアパルトマンは暑すぎるし、狭い部屋は風通しがよくないのだが、メグレはとつぜん寒気をおぼえた。ここは正面にある彼の建物とよく似ているのだが、なぜこっちのほうがせせこましくて、みすぼらしく見えるのだろうか?
メグレは床にかがみ込んだ。二枚の床板がはずされた場所だ。床の下はほこりだらけの、湿っぽい穴があるだけだ。どこの家の床下とも変わりがない。床板に引っ掻いたような跡があるが、これは鑿《のみ》か、そういった道具を使ったせいだろう。
そのあとドアを調べた。金てこでこじ開けたような形跡がある。素人《しろうと》の、いい加減なやり口だ。
「サンタクロースは、コレットちゃんに見られたとき怒らなかったかい?」
「怒らなかったわ。三階の坊やのところへ会いに行くため、一生懸命に床に穴をあけていたの」
「何も言わなかった?」
「笑ったわ。おひげでそう見えたのかもしれない。暗かったの。あたしが人を呼ばないように、お口に手を当てたのはよくわかったわ。サンタクロースって大人に見られてはまずいんですもの。おじさんも昔サンタクロースに会ったことある?」
「ずっと昔にね」
「おじさんが小さかったとき?」
廊下に足音が聞こえ、ドアが開いた。マルタン夫人だった。灰色のスーツに、手に褐色の買い物袋を下げ、ベージュ色の小さな帽子をかぶっている。彼女はあきらかによそよそしい。顔が引きつっていて、青白い。ただ急いで帰ってきて、階段を駆けあがったらしく、頬がかすかに赤みを帯びていて、息も荒い。
彼女はほほえまずに、メグレに訊いた。
「この子、おとなしかったですか?」
それから上衣を脱ぐと、
「お待たせしてしまってすみませんでした。いろいろと買い物をするため出かけたのです。もう少しあとになると、お店が閉まってしまうものですから」
「だれにも会わなかったのですか?」
「何ですって?」
「何でもありませんよ。だれかがあなたと会おうとしたのではないかと思っただけです」
彼女にはこの町の商店の大半があるアムロ通りや、シュマン・ベール通りよりずっと遠くに行く時間があった。タクシーや地下鉄を使えば、パリのどこにでも行ける。
この建物の住人はすべて耳をそばだてているにちがいない。マドモワゼル・ドンクールが何か用事はないかと訊きに来た。マルタン夫人が「ない」と言おうとしたので、メグレが答えた。
「私がこちらにいる間、コレットちゃんの相手をしていてください」
彼がマルタン夫人と話している間、子供の注意を惹きつけておいてほしいのだなということが、マドモワゼル・ドンクールにもわかった。マルタン夫人もそのことを理解したらしいが、そぶりにも見せなかった。
「どうぞもっとこっちにいらしてください。わたし着替えてもないのですが?」
マルタン夫人は台所に買い物袋をおきに行き、それから帽子を脱いで、淡いブロンドの髪をふっくらとさせた。寝室のドアが閉まっているのを見て、彼女は言った。
「ドンクールさんは興奮しすぎています。オールド・ミスにとって、意外な授かり物だったのではないでしょうか? とくに、何とかいう警視さんに関する新聞記事を集めているオールド・ミスにとっては。その警視さんがとうとう自分たちのアパルトマンにやってきてくれたんですから! いいかしら?」
彼女は銀のシガレット・ケースからたばこを引き抜き、先を軽くたたいて、ライターで火をつけた。それはたぶんメグレに、どうぞ質問してくださいという仕草なのだろう。
「マルタン夫人、働いていないのですか?」
「働きながら家事をやったりあの子の世話をするのは無理です、あの子が学校に行けるようになったとしても。それに、主人はわたしが働くことを許しません」
「しかし、ご主人と知り合う前は働いていたのでしょう?」
「もちろんです。わたしは自分で生活費をかせがなければならなかったのです。おすわりになりません?」
メグレはわらの詰まった粗末な肱掛け椅子にすわった。彼女のほうはテーブルの縁に腿を押しあてたまま立っていた。
「タイピストでしたか?」
「そうです」
「長い間?」
「かなり長い間」
「マルタンと知り合ったときも、まだタイピストをやってましたか? こういう質問をして失礼だとは思いますが」
「それがあなたの仕事ですから」
「あなたは五年前に結婚しましたね。その当時はどこで働いていました? ちょっと待ってください。あなたの年齢を教えていただけますか?」
「三十三です。ですから当時は二十八歳で、パレー・ロワイアルにあるロリルゥさんの店で働いてました」
「秘書のような仕事を?」
「ロリルゥさんは宝石店を、もっと正確に言いますと、記念品と古い貨幣のお店を持ってました。パレー・ロワイアルにはこういった古いお店があるのをご存知ですね。わたしはそこで売り子と、秘書と、会計係をかねていたのです。ロリルゥさんが留守のときお店を管理していたのはわたしです」
「ロリルゥさんは結婚してました?」
「三人の子供の父親です」
「マルタンと結婚するため店を辞めたのですか?」
「正確にはそうではありません。ジャンはわたしが仕事をつづけることを好まなかったのですが、まだ充分に生活費をかせげなかったのです。わたしはかなりいい給料をもらってました。ですから結婚の最初の数カ月は、まだ働いてました」
「それから?」
「それから、単純で、同時に意外なことが起こったのです。ある朝、九時に、わたしはいつものようにお店の入口の前に立ちました。お店は閉まってました。ロリルゥさんが遅れているのだと思って、わたしは待ちました」
「ロリルゥ氏は別のところに住んでいるのですか?」
「マザリーヌ通りに家族と一緒に住んでいます。九時半になると、わたしも心配になりました」
「死んだのですか?」
「いいえ。わたしは奥さまに電話しました。奥さまは、ロリルゥさんはいつものように八時にアパルトマンを出たというのです」
「どこから電話しました?」
「お店のわきの手袋屋さんから。わたしは午前中待ってみました。奥さまもわたしのところにお見えになりました。二人で一緒に所轄の警察署に行ったのですが、あまり大げさに考えないほうがいいと言われました。警察では奥さまに、ロリルゥさんが心臓病だったかどうか、女がいたかどうかなどを訊いただけです。二度とふたたびロリルゥさんを見かけた人もいないし、ロリルゥさんについての情報もないのです。お店の権利はポーランド人夫婦に譲りわたされ、うちの人はわたしが仕事を辞めるように言い張りました」
「結婚後どのくらいたってました?」
「四カ月です」
「ご主人はすでにフランス南西部に出張していました?」
「現在とおなじ得意まわりをしてました」
「ロリルゥ氏がいなくなったとき、ご主人はパリにいました?」
「いいえ。いなかったと思います」
「警察は店のなかを調べました?」
「すべてはきちんとしていて、前日のままでした。なくなったものは何もありません」
「ロリルゥ夫人がどうなったかご存知?」
「お店の権利金でしばらく暮らしてました。お子さんがいまでは大きくなって、もう結婚しているにちがいありません。奥さまはここから遠くないパス・ド・ラ・ミュール通りに小さな小間物屋さんを開きました」
「今でもロリルゥ夫人とつき合いがあるのですか?」
「たまたま奥さまのお店に行ったからです。それで奥さまが小間物屋さんになったことを知ったのです。最初のときは、奥さまだとはわかりませんでした」
「それはいつごろのことです?」
「そうですねえ、六カ月ほど前かしら」
「ロリルゥ夫人には電話がありますか?」
「知りません。なぜです?」
「ロリルゥ氏はどんな人です?」
「肉体的なことですか?」
「まず肉体的なことから」
「背が大きく、あなたよりずっと大きくて、肩幅もずっとがっしりしてます。肥っていて、ぶくぶく肥っていて……わたしの言いたいことがわかるでしょう、つまりあの人は容姿など全然かまわないのです」
「いくつ?」
「五十ぐらい。はっきりとはわかりません。胡麻塩の小さな口ひげをつけていて、いつもだぶだぶの着物を着てます」
「あなたはロリルゥ氏の習慣にはくわしいですか?」
「毎朝歩いてお店に来て、わたしの十五分ほど前に着きます。ですから、わたしがお店に入って行ったときには、郵便物を整理し終わってます。ロリルゥさんはあまりしゃべりません。悲しそうな感じの人です。一日の大半を奥の小さなオフィスで過ごしてます」
「女とのアバンチュールは?」
「わたしの知っているかぎりありません」
「あなたに言い寄ったことは?」
彼女はそっけなく言った。
「いいえ!」
「あなたにひどく執着していたのでは?」
「あの人にとって、わたしは貴重な助手だったのではないかしら」
「ご主人はロリルゥ氏に会ってますか」
「二人は一度も話し合ったことがありません。ジャンはときどきお店の入口でわたしのことを待ってましたが、いつも少し離れてました。あなたの知りたいことはそれだけですか?」
彼女はいらいらしていた。声にはちょっぴり怒りのようなものがあった。
「マルタン夫人、いいですか、私はあなたにたのまれてここに来ているのですよ」
「あの気違いじみたオールド・ミスが、あなたをすぐそばで見るチャンスに飛びつき、無理矢理わたしを引っぱって行ったからです」
「ドンクールさんを好きじゃないのですか?」
「自分に関係ないことに口を出すような人間は嫌いです」
「これがそうですか?」
「ご承知のように、わたしたちは義兄《あに》の子供を引き取りました。あなたがどうお思いになろうとかまいませんが、わたしは子供のためにできるだけのことはしてます。自分の娘のように扱ってます……」
ふたたび直観……漠然とした、変わりやすい何か。メグレは目の前の、新しいたばこに火をつけた女をいくらながめても、母親として見ることはできなかった。
「ところで、ドンクールさんはわたしの手助けをするという口実で、たえずここに入りこんでくるのです。わたしが二、三分外出するときでも、甘ったるい顔で廊下に立っていてこう言うんです。
『マルタン夫人、コレットちゃんを一人きりにしておくつもりではないでしょうね? それじゃわたしが一緒にいてあげましょう』
わたしがいない間、きっとあの女は引出しをかきまわしてたのしんでいるんです」
「しかし、あなたは彼女に我慢していますね」
「我慢せざるをえないのです。コレットがあの女《ひと》を求めるのです、とくにベッドから動けなくなってからは。主人もあの女が好きなのです。主人がまだ独身のとき、肋膜炎になり、あの女のお世話になったからです」
「コレットちゃんのクリスマスのために買った人形を返しに行ったのですか?」
彼女は眉をひそめ、食堂から寝室へのドアをながめた。
「コレットに質問したのですね。いいえ、まだ返しに行っていません。あの人形はデパートで買ったもので、デパートは今日は休みですから。人形をごらんになります?」
この言葉を彼女は挑《いど》みかかるように言った。彼女の思いとは裏腹に、メグレは黙って人形を持ってこさせ、ボール紙のケースを調べた。ケースにはまだ値段がついていた。ひどく安い値段だった。
「私は、今朝あなたがどこに行ったのか訊きたいのですが?」
「買い物です」
「シュマン・ベール通り? アムロ通り?」
「シュマン・ベール通りと、アムロ通り」
「失礼ですが、何をお買いになりました?」
激怒した彼女は台所に行き、買い物袋をつかんで引っ返してくると、食堂のテーブルの上に投げ捨てるようにおいた。
「ご自分でごらんになって」
いわしの罐詰三個にハム、バター、じゃがいも、レタスがあった。
彼女はじっとメグレをにらみつけていたが、身をふるわせてはいなかった。不安にさいなまれているというより、意地悪な感じだった。
「その他に何か質問がございます?」
「保険の外交員の名前を知りたいのですが?」
彼女がすぐには何のことかわからなかったことはたしかだ。彼女は記憶をさぐった。
「保険の外交員……」
「そう、あなたの保険の外交員。あなたに会いに来た外交員ですよ」
「ああ、忘れてました。まるでわたしがすでに保険に入っているかのように、わたしの外交員と言うものですから。それもコレットがあなたにしゃべったのですね。そうです、二度来ました。こういった勧誘員というものはすべての家のドアをノックするのです。追い払うのに大変です、並みたいていのことではだめです。わたしは最初電気掃除機のセールスマンかと思ったのです。それが生命保険でした」
「長い間ここにいました?」
「わたしのからだにも、主人のからだにも生命保険をかけるつもりはないとわからせて、外に追い出すまでの間」
「どこの保険会社の人です?」
「聞きましたが、忘れました。『相互』という言葉がついていたように思いますが……」
「もう一度勧誘に来たのですね?」
「そうです」
「コレットちゃんは何時に眠りこむのです?」
「わたしは七時半に明かりを消しますが、ときどきしばらくお話をしてやることがあります」
「それでは、二度目のとき外交員は夜の七時半以降に会いに来たのですね?」
彼女はすでに罠を感じていた。
「そうかもしれません。わたしはお皿を洗ってました」
「その外交員をなかに入れました?」
「細めに開けたドアに足を差し込んでいたのです」
「この建物の他の住人たちのところへも勧誘にまわったのでしょうかね?」
「そんなことは知りません。どうせあとでお調べになるのでしょう。小娘がサンタクロースを見たにすぎないのに、あるいは見たと思ったにすぎないのに、あなたは三十分前からまるでわたしが罪を犯したかのような質問をします。もし主人がここにいたなら……」
「ご主人は生命保険に入ってますか?」
「と思います。あ、入ってます」
メグレが椅子の上においた帽子を取って、ドアのほうへ向かうと、彼女はおどろいてさけんだ。
「それだけ?」
「それだけです。お義兄《にい》さんがコレットちゃんに約束したように、ここにお見えになったら、私に知らせてくれるか、私のところへ彼をよこしてくれるとありがたいのですが。これから、ドンクールさんとちょっと話があります」
マドモワゼル・ドンクールは廊下までメグレについて来ると、そのあと、先に立ち、自分のアパルトマンのドアを開けた。僧院のような感じの住居だった。
「お入りになってください、警視さん。ちょっと取り散らかしておりますけど」
「ドンクールさん、ここにお住みになってから長いですか?」
「二十五年ですわね、警視さん。ここのもっとも古い住人の一人ですのよ。わたしがここに来たとき、あなたがすでに正面にお住みになってらしたことをおぼえてますわ。長い口ひげをおはやしになっていらして」
「マルタン氏が住む前は、隣りにはだれがいたのです?」
「土木技師の人でしたわ。お名前はもう忘れてしまいましたけど、見ればわかりますわ。その人は奥さんと娘さんとの三人暮らしだったんですけど、娘さんは聾唖でしてね。そりゃ、とても悲しそうな家族でしてね。パリを去って、わたしの思い違いでなければ、ポワトゥーの田舎に引っ越して行きました。年取ったご主人はもう亡くなったかもしれませんわね。あのときがすでに定年退職の年齢《とし》でしたから」
「最近、生命保険の外交員にしつこく勧誘されたことがありました?」
「最近はないですわね。わたしのところにやってきた最後の外交員は少なくとも二年前でしたかしら」
「マルタン夫人をお好きですか?」
「なぜですの?」
「マルタン夫人が好きか、好きでないかを訊いたのです」
「そうですわね、もしわたしに息子がありましたら……」
「最後まで言ってください!」
「息子がありましたら、ああいう女はお嫁さんにもらいたくないですわね。マルタンさんはあんなにおやさしくて、ご親切なのに!」
「マルタン氏は彼女といて幸福ではないと?」
「そうは言ってませんわ。わたしにはこれと言って彼女を非難すべき点はありません。彼女はああいう女《ひと》ですのよ。あれはあれでいいんじゃないかしらね」
「ああいう女って?」
「さあね。あなたはご自分でお会いになったのですから、わたしよりよくわかっているんじゃありませんの? 彼女には女らしさがありませんわね。いいですか! 彼女はきっと泣いたことがないんじゃないかしら。彼女があの子を適当に、程よく育てているのは事実ですけど、一度もやさしい言葉をかけてやったことがありませんわ。わたしがあの子におとぎ話を話してあげようとすると、それが彼女の癇《かん》にさわりますのね。サンタクロースなんかいないって、彼女があの子に言ったのはたしかですわ。さいわいコレットちゃんはそれを信じていませんけど」
「あの子もマルタン夫人が好きじゃないんですか?」
「あの子は彼女に従います、彼女をよろこばせようと努力してますわ。わたしの考えでは、あの子は一人でいるときがいちばん幸福じゃないのかしらねえ」
「マルタン夫人はよく外出します?」
「それほどではありませんわね。彼女には非難されるべき点はありません。どう言ったらいいのかしらね。彼女は自分本位の生活を送っているって感じですの、これ、わかっていただけます? 彼女は他人のことなんか気にしてません。自分自身のことも決してしゃべりません。彼女はきちんとしていますの、いつでもきちんとね。きちんとしすぎるくらい。きっとどこかの事務所で計算したり、従業員を監視したりして日を送っていたにちがいありませんわ」
「それは、ここに住んでいる他の人たちの考えでもあるのですか?」
「彼女はここの人たちとほとんど付き合いませんわ。階段ですれちがっても、ただほんのちょっぴり頭を下げるだけ。結局、彼女のことが少しわかるようになったのは、コレットちゃんが来てからですのよ。だから、あの子にはみんなますます興味をもっておりますの」
「彼女のお義兄《にい》さんに会ったことがありますかね?」
「廊下で。でも一度もお話ししたことはありません。彼は恥ずかしそうに、うつむいて通りますのよ。ここにおいでになる前に一生懸命洋服にブラシをかけるのでしょうけど、いつでも着たきりすずめって感じがいたしますわ。サンタクロースがあの人だなんて、わたしには信じられません、メグレさん。そんなようなことをする人じゃありませんわ。それともそのとき、うんと酔っぱらっていらしたのかしらねえ」
メグレは女管理人室の前でこんども立ち止まらなかった。管理人室のなかはとても薄暗いので、一日じゅう明かりをつけ放しにしておかなければならなかった。メグレがリシャール・ルノワール大通りを横切ったときは正午近くだった。彼が出てきた建物の窓という窓のカーテンが動いた。メグレ家の窓のカーテンも動いた。メグレ夫人だった。若鶏をいつ火にかけたらいいのかを知るため、彼の様子をうかがっていたのである。メグレは下から手で合図すると、空中にうかんでいるちっぽけな雪片を、もう少しで舌を出してつかまえるところだった。彼はいまでもその雪片の無味乾燥な味を思い出すことができた。
三
「あの子は幸せなのかしら」と、メグレ夫人はため息をつきながらテーブルから立ち上がると、台所にコーヒーを取りに行った。
夫人には、メグレが話なんか聞いていないことはよくわかっていた。彼は椅子を後ろに押しやると、ごうごうと心地よい音を立てているストーブをながめながらパイプにたばこを詰めた。ちらちらと炎が雲母《うんも》のストーブの口をなめつづけている。
メグレ夫人は自己満足のためにつけ加えた。
「あの女《ひと》といても子供が幸せになれるとは思えないわ」
メグレはあいまいにほほえんでみせたが、彼女が言ったことを聞いていないときにはいつでもこういった微笑をうかべるのである。そして、ふたたびストーブを見つめながら物思いにふけった。この建物にはおなじようなストーブが少なくとも十あって、おなじような十の台所でごうごういう音を立てているだろう。そのうえ、正面の建物もこことおなじようであるにちがいない。蜜峰の巣のようなひとつひとつの部屋ではひそやかにのんびりとした一日が送られているだろう。テーブルの上にはぶどう酒と、お菓子と、食器戸棚にはリキュール酒の小瓶が待っており、窓からは太陽が照っていない日の灰色の、さむざむしい光がさし込んでいる。
知らぬ間に、今朝からメグレを途方にくれさせていたのはたぶんこのことなのだろう。十中八、九、実際の捜査ではメグレは新しい環境にいきなり投げ込まれ、彼が知らない、あるいは少ししか知らない世界の人々とわたり合う。そして、彼にはなじみのない社会階級の些細な習慣から奇癖まで、すべてを知るのだ。
しかし、この事件では……正式に引き受けたわけでもないのだから、事件とは言えないかもしれないが……話はまったく別である。このように彼に近い世界で、彼の建物とおなじような建物で事件が起こったのは初めてだった。
マルタン夫婦は正面に住むかわりに、メグレとおなじ階に住んでいたかもしれないし、そうなるとコレットを、叔母の留守の間お守りをするのはメグレ夫人であったかもしれない。階上《うえ》には、もっと肥って、もっと青白い顔をしているが、マドモワゼル・ドンクールにそっくりなオールド・ミスがいる。マルタンの両親の写真の額縁も、メグレの両親の写真の額縁とそっくりだった。写真の引き伸ばしもおそらくおなじ写真屋でやってもらったのではないだろうか。
メグレを気詰まりにさせているのは、そのことなのか? 彼には物事を正しくながめるのに必要な距離が欠けているようにも、新鮮な、真新しい目で人々や物事を見ることができないようにも思えた。
メグレは食事の間……クリスマスのおいしい軽食だったが、ちょっと胃にもたれた……今朝のことをくわしく夫人に話してきかせた。夫人は困ったような様子で正面の窓をながめつづけていた。
「あそこの女管理人は外からだれも入らなかったとはっきり言っているの?」
「いや、はっきりしてないさ。彼女のところには夜中の十二時半まで客が来てたんだから。そのあとで彼女は寝たんだ。それに、クリスマス前夜の夜食のときは、いつでも人の出入りがはげしいから」
「まだ何か起こりそう?」
メグレ夫人を悩ましつづけていたのはこのことなのだ。まず、マルタン夫人が自分から進んでメグレに会いに来たのではなく、マドモワゼル・ドンクールによって無理矢理連れてこられたのだという事実がある。もしマルタン夫人がもっと早く起きて、人形を見つけるのも、サンタクロースの話を聞くのも最初だったら、彼女はそのことをだれにも言わず、少女にも黙っているように命じたのではなかろうか?
それから、彼女は家には一日分の食料の買い置きが充分あるのに、買い物に行くと言って外出した。小さな鼠入らずのなかに、バターが一ポンド残っているのに、彼女はうっかりしてバターを買ってきたりしている。
こんどはメグレが立ち上がり、窓のそばの肱掛け椅子に行ってすわり、受話器をはずし、パリ警視庁を呼んだ。
「リュカか?」
「さきほどたのまれた件について調べがつきました、警視《パトロン》。四カ月前から釈放されたすべての囚人のリストを手に入れました。思ったより数が少ないですね。そのなかで、リシャール・ルノワール大通りに一時《いっとき》でも住んでいた者はおりません」
それはもう重要ではなかった。メグレはその推測をほとんど放棄していた。しかも、その推測は根拠のないものにすぎない。正面のアパルトマンに住んでいた何者かが、盗みか詐欺で手に入れた金を逮捕される前に隠したのではないかと考えたのである。
釈放されたその何者かがまず考えることは、当然その金を取りもどすことだろう。ところがコレットが事故を起こし、ベッドから動けないため寝室は一日じゅう人がいなくならない。
ほとんど危険をおかさずに寝室に入り込むためサンタクロースに変装することはそれほどばかげた考えではない。
しかし、その場合、マルタン夫人はためらわずにメグレに会いに来ただろうし、下手な口実をもうけて外出したりしないだろう。
「リストの囚人たちを一人一人あたりましょうか?」
「いいよ。ポール・マルタンのことについては?」
「くわしいものではありませんが、彼のことはバスチーユ広場と市役所とサン・ミッシェル大通りの間の四、五の所轄署では有名です」
「彼が昨夜何をしていたかわかるかね?」
「まず、救世軍の大伝馬船へ食事をしに行ってます。定連として彼は一週間に一度そこに行ってますが、昨日は彼の日だったのです。ここのところ夜はあまり飲んでいなかったようです。昨夜はクリスマス・イブのちょっとした夜食が出たので、かなり長い間並ばなければなりませんでした」
「それから?」
「夜の十一時ごろ、ラテン区にやってきて、ナイトクラブの前でドアマンの真似をやり、酒を飲めるだけの金をかせいだにちがいありません。朝の四時に、モーベール広場から百メートルほどのところで、酔いつぶれているのを見つかり、留置場に連れてこられました。今朝の十一時までずっと留置場にいて、私がそのことを知ったときにはちょうど釈放された直後でした。彼を見つけたら、ただちに私のところに連行するようにと言っておきました。ポケットにはまだ数フラン残っていたそうです」
「ベルジュラックのほうは?」
「ジャン・マルタンは午後の最初の列車に乗りました。今朝受けた電話で、ひどくびっくりしたような、ひどく不安そうな様子だったとのことです」
「一度しか電話を受けなかったのかね?」
「そうです、今朝は。しかし、昨夜も電話があったそうです、ちょうど定食を食べているときに」
「だれから掛かってきたかわかった?」
「電話を取り次いだホテルの会計係の女は男の声だったと断言しています。その声は、ジャン・マルタンさんはそちらにいるかね、と訊いたそうです。会計係の女がルーム・サーヴィスの娘に食堂へジャン・マルタンを呼びに行かせ、彼がやってきたときにはもう電話は切れていました。このおかげで、彼の夜はすっかり台なしになってしまったらしいです。というのは、彼らは数人いて……みんなセールスマンです……美しい女たちのいる町のナイトクラブでパーティをやろうと出かけたからです。マルタンは他の連中と調子をあわせるためグラスを二、三杯空け、あとはずっと奥さんと娘さん……子供のことを自分の娘のように言ってたようです……のことを話していたとのことです。それでも明け方の三時まで友達とつき合っていました。警視、あなたの知りたいことはこれだけですか?」
リュカは好奇心を起こし、こうつけ加えられずにはいられなかった。
「あなたの町で犯罪があったのでしょうか? あなたはずっと家にいられます?」
「いままでのところは、サンタクロースと人形の話だけだよ」
「えっ?」
「ちょっと待ってくれ。オペラ通りのゼニット時計の社長の住所を手に入れるようにしてみてくれないか。祭日でも、わかるはずだ。それに、社長は今日のような日はきっと家にいるだろうから。わかったら電話をくれるね?」
「わかりしだい電話します」
メグレ夫人はアルザス地方のりんぼく酒を彼のグラスに注いでくれた。このりんぼく酒は夫人の妹がときどき送ってくれるものだ。彼は夫人にほほえむと、この突飛な話をしばらく忘れ、午後は映画を見て静かに過ごそうかと夫人に言ってみようとした。
「彼女はどんな目の色をしてるの?」
それがあの少女のことであり、こんどのことではあの子供だけがメグレ夫人の興味を惹いているのだということを理解するには、彼にはかなりな努力が必要だった。
「うん、どうだったかな。褐色じゃなかったことはたしかだ。髪はブロンドだった」
「それなら、目はブルーよ」
「そうかもしれない。とにかく、とても澄んでいた。それに妙に静かな目だったな」
「それはあの子が子供のように物事を見ないせいよ。笑った?」
「笑うチャンスがなかった」
「ふつうの子供ならいつでも笑うチャンスを見つけるものだわ。子供を信頼してあげて、年齢相応《としそうおう》の考え方をするようにしてあげなくては。わたし、あの女《ひと》好きじゃないわ」
「ドンクールさんのほうが好きかい?」
「ドンクールさんはオールド・ミスとはいえ、きっとあのマルタン夫人より子供とうまくやっていけるわ。わたしはマルタン夫人によくお店で会うんですけど、彼女は秤《はかり》の目盛りを監視し、財布の奥からお金を一枚ずつ、まるでみんなが彼女をごまかそうとしているかのような、疑い深そうな目で取り出すタイプの女よ」
電話のベルが夫人の話を中断したが、こうくり返すだけの時間があった。「わたし、あの女《ひと》好きじゃないわ」
リュカからの電話だった。ゼニット時計のフランスの総支配人、アルチュール・ゴッドフロワ氏の住所を知らせてきたのである。アルチュール・ゴッドフロワはサン・クルーの大きな別荘に住んでいた。リュカはゴッドフロワが別荘にいることをたしかめていた。
「警視《パトロン》、ポール・マルタンはここにいますよ」
「そこに連行されて来たのか?」
「そうです。なぜ連行されたのか不審に思っています。ドアを閉めますから、ちょっとお待ちください。お待たせしました! もう彼には何も聞こえませんから。彼は最初、娘に何かあったのだと思い、泣き出してしまいました。いまではあきらめて、おとなしくしていますが、ひどい二日酔いなのです。どういたしましょうか? あなたのところへやりましょうか?」
「私の家まで彼に同行してくる人間がいるのか?」
「トランスがたったいま着いたところです。新鮮な外の空気を吸ってくるほど、彼にとっていいことはないでしょう。きっと彼も、昨夜はひどく飲んだはずですから。もう私が必要ではありませんか?」
「ある。パレー・ロワイアルの警察署と連絡を取ってくれ。五年ほど前に、宝石と古い貨幣の店をやっていたロリルゥという男が、何の痕跡も残さずに消えたのだ。この件についてできるだけくわしいことが知りたい」
彼は目の前で編物をはじめた夫人を見て、ほほえんだ。たしかにこの捜査は、もっともなれ親しんだ雰囲気のなかで展開されている。
「私のほうから電話しますか?」
「私はここから動くつもりはない」
五分後に、メグレはゴッドフロワ氏を電話口に呼び出していた。彼には非常にはっきりしたスイスなまりがあった。メグレがジャン・マルタンのことを話すと、ゴッドフロワは最初、クリスマスなのに電話を掛けてくるくらいだから、出張中のマルタンに何か事故が起こったのかと思った。そのあとで、マルタンのことをひどくほめちぎった。
「とても献身的な、有能な人間でしてね。来年には、つまり二週間後ということですが、副支配人の資格でパリでわしと一緒にやってもらうつもりでおりますよ。彼のことをよくご存知なのですかな。彼に関心を持つ何か重大な理由があなたにあるのでしょうか?」
ゴッドフロワは後ろの子供たちを静かにさせた。
「失礼しました。家族中が集まっておりますもので……」
「ゴッドフロワさん、ごく最近あなたのオフィスに電話を掛けてきて、マルタンさんが現在いるところをたずねた者がおりませんでしたか?」
「おりましたよ」
「もっとくわしく教えていただけませんか?」
「昨日の朝、だれかがオフィスに電話してきて、個人的にわしと話したいと言ったのです。休日がつづくもので、わしもひどく忙しかったのです。相手は名前を言ったはずですが、わしは忘れてしまった。緊急に伝えたいことがあるのでジャン・マルタンと連絡を取りたいとのことでしてね。わしは、ベルジュラックにある『ホテル・ド・ボルドー』だろうと答えました。別に答えてはいけない理由もありませんでしたからね」
「そのほかに何か訊きました?」
「いや。相手はすぐに電話を切りました」
「ありがとうございました」
「本当に何も悪いことがなかったのでしょうね?」
子供たちが彼にしがみついているにちがいない。メグレはそれに乗じて、急いで暇乞いをした。
「聞こえたね?」
「もちろん、あなたの言ったことは聞こえましたけど、向こうの人が答えたことは……」
「昨日の朝、ジャン・マルタンの居所を知るためオフィスに電話してきた人間がいるんだ。おそらくそのおなじ人間が、ベルジュラックに夜電話して、ジャン・マルタンがまだホテルにいるかどうかをたしかめたにちがいない。彼がベルジュラックのホテルにいるということはクリスマスの夜、リシャール・ルノワール大通りにはいないということになる」
「あの家に入ったのはその人間なのね?」
「きっとそうだ。そのことは少なくとも、その人間がポール・マルタンではないことを証明している。ポール・マルタンならこの二つの電話をする必要がないからね。彼なら、何気なく義妹に訊けばすむことだから」
「あなたは興奮しはじめてるわ。こういうことが起こってうれしいんでしょう、隠してもだめよ」
メグレが言い訳しようとすると、
「そんなこと当然よ! わたしだって興味あるもの。あの子供はまだどのくらい脚にギプスをはめているのかしら?」
「私はそのことを質問してみなかった」
「併発症があったのじゃないかと思うの」
彼女はふたたびそうとは知らずに、メグレの心に新しい道を開いてくれたのだ。
「おまえの言ったことは、それほどばかげていないよ」
「わたしの言ったことって?」
「つまり、あの子は二カ月前からベッドに寝たままなのだが、ひどく重い併発症がなければ、こんなに手間取らなかったかもしれない」
「たぶん最初のうちは松葉杖で歩かなければならないでしょうね」
「そんなことはどうでもいい。とにかく脚を折って数日後か、数週間後には、あの子は寝室から出られるようになっていただろう。マルタン夫人とときどき散歩したかもしれない。家のなかは空《から》になり、サンタクロースに変装しなくてもだれでも簡単にあそこに侵入することができる」
メグレ夫人の唇が動いていた。夫の話を聞いたり、静かに夫を見つめたりしながら、編目を数えていたからだ。
「まず第一に、その人間がサンタクロースのような策略にたよらざるをえなかったのは寝室にコレットがいたからだ。ところで、コレットは二カ月前からベッドにいる。その人間はおそらく二カ月近く待ったろう。併発症がなくて回復が遅れなければ、床板は三週間ほど前にはずされていたはずだ」
「結局何を言いたいの?」
「別に。その人間はもう待てなかった。すぐに行動しなければならないやむにやまれぬ理由があったのだと思ったのだよ」
「数日後には、マルタンは出張から帰ってきますわ」
「そのとおり」
「床の下に何があったんでしょうね?」
「その人間は何かを見つけたのだろうか? もし見つけていないとすれば、その人間にとって問題はいぜんとして昨日とおなじように緊急を要するのだ。だから、ふたたび行動にかかるだろう」
「どうやって?」
「わかるもんか」
「それじゃメグレ、子供のことが心配じゃないの?あの女《ひと》といてあの子が安全だと思うの?」
「マルタン夫人が買い物に行くという口実で今朝どこに行ったのかがわかればいいのだが」
彼は受話器をはずし、もう一度パリ警視庁を呼んだ。
「また私だよ、リュカ。こんどはタクシーにあたってほしいんだ。今朝、九時から十時の間にリシャール・ルノワール大通りの近くで女客を乗せたタクシーがあるかどうか、あるとすればどこまで乗せていったのかを知りたい。ちょっと待ってくれ! そうだ、私もそのことを考えた。彼女はブロンドで、三十歳ちょっとで、どちらかと言うと痩せているほうだが、がっしりした感じだ。灰色のスーツを着、ベージュ色の小さな帽子をかぶり、手には買い物袋を下げていた。今朝通りには車が多くなかったはずだ」
「マルタンはそっちに着きました?」
「まだだ」
「まもなく着くでしょう。ロリルゥのことは、いまパレー・ロワイアル署の者たちが、書類をさがしているところです。もうしばらくお待ちください」
ジャン・マルタンがベルジュラックで列車に乗った時間だ。子供のコレットは昼寝でもしているにちがいない。マドモワゼル・ドンクールのシルエットが窓のカーテンの後ろに見えた。おそらくメグレが何をしているのかを考えてでもいるのだろう。
人々は家から外へ出はじめた。とくに、歩道の上を新しい玩具を引きずっていく子供を連れた親たちが多かった。映画館の入口には長い行列ができている。タクシーが止まり、ついで階段に足音が聞こえた。メグレ夫人はベルが鳴る前にドアを開けた。トランスの太い声。
「いらっしゃいますか、警視《パトロン》?」
トランスは年齢がいくつかわからない男を部屋に連れてきた。男は目を伏せて壁際に慎ましく立っている。
メグレは食器戸棚にグラスを三つ取りに行くと、りんぼく酒を注いだ。
「乾杯!」と、メグレは言った。男は不安そうな目をびっくりして上げたが、ふるえる手はためらっている。
「どうぞマルタンさん。ここまでわざわざ来ていただいてすみませんでした。しかし、娘さんに会いに行くにはすぐそばです」
「娘に何かあったんですか?」
「とんでもない。私は今朝コレットちゃんに会っています。新しい人形でおとなしく遊んでいました。トランス、きみは帰っていいよ。リュカがきみに用事があるはずだ」
メグレ夫人は編物を持って姿を消すと、寝室のベッドの縁にすわった。あいかわらず編目を数えている。
「おすわりください、マルタンさん」
男はグラスに唇をちょっとつけただけで、テーブルにおいたが、ときどき心配そうにグラスを見やった。
「心配しなくてもいいですよ。私にはあなたの身の上がわかっていますから」
「今朝あの子に会いに行きたかったのです」と、男はため息をついた。「メリー・クリスマスを言いに来るため早寝早起きしようと決心するんですが」
「よくわかります」
「でも、いつもおなじことになるんです。元気づけに一杯だけにしようと誓い、それが……」
「マルタンさん、兄弟は一人だけですか?」
「はい、七つ年下のジャンがそうです。ジャン、それに私の妻と娘は私がこの世で愛するすべてです」
「義妹《いもうと》さんは好きではないのですか?」
彼はびくっと身ぶるいし、気まずそうに、
「ロレーヌのことを悪く言いたくありません」
「娘さんを彼女にまかせましたね?」
「つまり、妻が死んで、途方にくれてしまい……」
「そうでしょう。娘さんは幸せですか?」
「幸せだと思います。あの子は一度も嘆きませんから」
「いまの生活を変えようとは思わないのですか?」
「毎晩、こんな生活を終わらせようと心に誓うんですが、翌日またおなじことがはじまります。医者にも診てもらいに行ったんです。医者はいろいろと忠告してくれました」
「その忠告に従ったのですか?」
「二、三日は。そのあとふたたび行くと、医者はひどく忙しくて、もう私のことにかかわっている暇がないから、どこか特別な病院に入院したほうがいいと……」
彼はグラスのほうに手を伸ばし、ためらった。メグレは相手に飲ませるため、自分もグラスを空《あ》けた。
「義妹《いもうと》さんの家で男に出会ったことは一度もありませんか?」
「ええ。その面ではロレーヌは後ろ指をさされることは何もありません」
「弟さんがどこで彼女と出会ったか知ってます?」
「ボージョレー通りの小さなレストランで。弟は出張がなくてパリにいるときは、そのレストランで食事していました。弟の事務所のすぐ近くでしたし、ロレーヌが働いていた店にも近かったんです」
「二人は長い間婚約していました?」
「はっきりしたことは知りません。ジャンは二カ月間出張していて、出張から帰ってくると、私に結婚すると告げたんです」
「あなたは弟さんの立会人になったのですね?」
「ええ。ロレーヌのほうの立会人は、当時彼女が住んでいた家具付きホテルの女主人でした。ロレーヌにはパリに家族がいないのです。そのころにはすでに彼女には身寄りがありませんでした。何か悪いことでもあったのですか……?」
「まだわかりません。昨夜、コレットちゃんの寝室に、サンタクロースに変装した男が忍び込んだのです」
「そいつは娘に何もしなかったのでしょうか?」
「人形をあたえただけですよ。コレットちゃんが目を開いたとき、男は床板をはずしている最中でした」
「この格好で娘に会いに行ってみっともなくはないでしょうか?」
「あとで行ってあげなさい。お気に召すなら、ここでひげを剃ればいいし、服にブラシをかければいいですよ。弟さんは床下に何かを隠すような人ですか?」
「弟が? とんでもありません」
「奥さんに隠すものがあったとしても?」
「弟はロレーヌには何も隠しません。あなたは弟のことをご存知ないんです。弟は出張から帰ってくると、会社の上役にでもするようにロレーヌにすべてを報告するのです。そのためロレーヌは弟がポケットにいくら持っているかまで正確に知っています」
「彼女は嫉妬深いですか?」
相手は答えなかった。
「思っていることを言ったほうがいいと思いますよ。いいですか、娘さんのことなのですからね」
「ロレーヌがそれほど嫉妬深いとは思いませんが、彼女はケチです。少なくとも、私の妻はそう言ってました。妻はロレーヌが嫌いでした」
「なぜ?」
「妻は、ロレーヌが唇が薄すぎるし、冷たすぎるし、いんぎんすぎるし、いつも警戒心が強いと言ってました。妻によれば、ロレーヌは弟の職と、家具と、将来のために弟と結婚したがったのだそうです」
「貧しかったの?」
「ロレーヌは家族のことを話したことがないのです。けれども、ロレーヌがまだ若いときに父親が死んで、母親が家政婦をしていたことはわかってます」
「パリで?」
「グラシェール地区のどこか。ですから、ロレーヌはこの町のことは絶対に口にしません。妻の言うとおり、ロレーヌは自分の欲しいものを知っている女なのです」
「あなたの考えでは、彼女は以前勤めていた店の主人の愛人だったと思いますか?」
メグレはアルコールを少し注いでやった。マルタンは感謝のまなざしでメグレを見つめたが、ためらった。娘を訪ねるのに息が酒くさくなってはいけないと思ったにちがいない。
「コーヒーを用意させますよ。あなたの奥さんはその点についても考えがあったはずだと思いますが、いかがです?」
「どうしてそのことをご存知なのです? いいですか、妻は人の悪口を決して言わない女でしたが、ロレーヌにたいしてだけはほとんど本能的と言っていいほどでした。義妹《いもうと》に会わなければならないとき、私は妻に、不信や反感を顔に出してはいけないと哀願しました。現在のこんな私が、こうしたことをすべてあなたにお話しするなんて妙ですね。コレットを義妹のところに残したことで心が痛むからでしょうか? ときどきそのことで自分を咎《とが》めます。しかし、これ以外に私に何ができるでしょうか?」
「ロレーヌの以前の雇い主のことでまだ答えていませんね」
「そうでした。妻は、二人は同棲しているようだし、ほとんど旅行している男と結婚することは、ロレーヌにとって実際的だったと言ってました」
「彼女が結婚する前に住んでいたところをご存知ですか?」
「セバスドポール大通りに面した通り。リボリ通りからグラン・ブルヴァールのほうに向かって来て最初の右側です。結婚式の日、私たちはそこへ車でロレーヌを迎えに行ったのでよくおぼえているんです」
「ペルネル通り?」
「そうです。通りの四、五軒先の左側に静かで、いい感じの家具付きホテルがあります。あの界隈で働いている人が多く住んでいて、そう、シャトレ座のかわいい女優たちもおりましたよ」
「マルタンさん、ひげを剃りますか?」
「私は恥ずかしい。しかし、娘の家の正面にいるいま……」
「一緒にいらっしゃい」
彼はメグレ夫人のいる寝室を避けて台所からマルタンを浴室に通すと、洋服ブラシも含めて、すべて必要なものをわたしてやった。
メグレが食堂にもどってくると、夫人がドアを半分開けて、ささやいた。
「あの人、何をしているの?」
「ひげを剃っているんだよ」
もう一度、メグレは受話器をはずし、律義なリュカを呼び出した。クリスマスだというのに、またもや仕事だ。
「きみはそこを離れるわけにはいかないのか?」
「トランスがここに残れば、そんなことはありません。さきほどたのまれたことがわかりましたよ」
「ちょっと待ってくれ。これから急いでペルネル通りに行ってほしいんだ。そこに小さな家具付きホテルがある。まだなくなっていないはずだ。セバストポール大通りからすぐ入ったところにあるホテルで、私は前に見たことがあるような気がする。経営者が五年前から変わっていないかどうかはわからないが、あのころ働いていた人間を見つけ出すんだ。ロレーヌという女についてできるだけくわしい情報がほしい……」
「ロレーヌ何です?」
「ちょっと待ってくれ。そのことをうっかりした」
浴室のドア越しに、メグレはマルタンに義妹の結婚前の姓をたずねた。
「ボワテル!」と、マルタンはさけんだ。
「リュカ? ロレーヌ・ボワテルだ。家具付きホテルの女主人はマルタンと共に結婚式の立会人になっている。ロレーヌ・ボワテルはあのころはロリルゥのために働いていた」
「パレー・ロワイアルの?」
「そうだ。二人は関係があったんじゃないか、ロリルゥはときどき家具付きホテルに彼女に会いに行ったんじゃないかと思う。早く行ってくれ。たぶんきみが考えているよりずっと緊急を要する問題だ。きみのほうの用件はなんだ?」
「ロリルゥ事件。ロリルゥって、おかしな人間ですね。彼が失踪したとき、調査されたのですが、家族と住んでいたマザリーヌ通りでは、彼は三人の子供を立派に育てている物静かな商人と思われています。しかし、パレー・ロワイアルの店のほうでは、妙なことをやってるんです。パリの記念品や古い貨幣だけでなく、エロ本や春画も売っています」
「あの辺では盛んなのさ」
「まあそうですが。しかし、そのほかのことも行なわれていたような形跡もあるのです。たとえば奥のオフィスにある赤い絹でおおわれた大きなソファ。しかし証拠がないので、それ以上は調べがつかないのです。それに、あそこの顧客は大部分がかなり社会的地位のある人たちで、調べをいやがるのでなおさらです」
「ロレーヌ・ボワテルは?」
「彼女のことは報告書のなかにはほとんど書かれていません。ロリルゥが失踪したとき、彼女はすでに結婚してました。彼女は午前中ずっと店の入口で待っていましたので、前日の夕方、閉店後にロリルゥと会っていたとは思えません。経済警察局のラングロワが私のオフィスに入ってきたとき、私はちょうどこのことで電話中でした。ラングロワはロリルゥの名前ではっとなり、彼のことで何かおぼえがあると言って、自分の書類を見に行ってくれました。聞こえますか? はっきりしたことは何一つわからないのですが、ただ、あの時期、ロリルゥはスイスの国境をしばしば越えている人間としてマークされているのです。ところで、それは金の取引が盛んだったときです。警察は彼に目をつけ、二、三度国境で身体検査をしたのですが、何も発見できなかったのです」
「ペルネル通りに急行してくれ、リュカ。これまでよりずっと緊急を要する」
きれいにひげを剃り、白っぽい頬をしたポール・マルタンが戸口に立っていた。
「ご親切には痛み入ります。どう感謝していいかわかりません」
「娘さんに会いに行きますね? あなたがいつも娘さんのそばにどれくらいいるのか、どのようにふるまうのかわかりませんが、私が望むことは、私があなたに会いに行くまで娘さんから離れないでいてほしいということです」
「しかし、夜をあそこで過ごすわけにはいかないのでは?」
「必要ならあそこで夜を過ごしなさい。うまい口実を見つければいい」
「危険があるのですか?」
「何とも言えませんが、あなたの役割はコレットちゃんのそばにいてやることですよ」
マルタンはブラック・コーヒーを貪るように飲むと、階段のほうに行った。ドアが閉まると、メグレ夫人が食堂に入ってきた。
「クリスマスなのに、手ぶらで娘さんのところに行くわけにはいかないでしょう」
「しかし……」
この家には人形なんかないじゃないかと、メグレが答えかけたとき、夫人は小さな輝く物を差し出した。それは金のサイコロで、夫人が数年前から裁縫箱のなかに入れておいて、使われなかったものだ。
「これをあげて。小さな女の子はいつでもこういうものをよろこぶのよ。さあ早く……」
メグレは階段の上からさけんだ。
「マルタンさん! マルタンさん! ちょっと待って!」
メグレはマルタンの手に金のサイコロをわたした。
「このサイコロをどこでもらったか、娘さんに絶対に言ってはいけませんよ」
食堂の敷居の上に立ったまま、マルタンはぶつぶつ言っていたが、やがてため息をついた。
「結局私にもサンタクロースを演じさせようと言うのですね!」
「きっとこれは人形とおなじように娘さんの気に入りますよ。大人の品物ですからね、このことの意味があなたにわかりますか?」
マルタンが大通りを横切り、建物の前でちょっと立ち止まり、勇気づけのためのようにメグレの窓のほうを振り返るのが見えた。
「あなた、あの人立ち直ると思う?」
「どうかな」
「あの女に、マルタン夫人に何か起こったら?」
「えっ?」
「何でもないわ。子供のことを考えているの。あの子がどうなるかを?」
少なくとも十分が流れた。メグレは新聞をひろげ、夫人はふたたび彼の正面にすわり、編目を数えながら編物をしていた。そのときメグレはパイプの煙を吐き出しながら、つぶやいたのだ。
「まだ一度もあの子に会ってもいないのにか!」
四
そのあとメグレは、夫人が散らかっている紙きれを詰め込んでおく引出しから見つけ出したにちがいない古封筒の裏に、今日一日の出来事を要約してみた。ほとんど初めから終わりまで住居のなかで指揮していたこの捜査のなかで……後に、彼はこの捜査を手本として引用するようになる……、何かが彼の心を捉えたのはこのときになってからだ。
いつもとは逆に、これほどいわゆる偶然とか、事件の急転とかがめぐってこなかった事件もめずらしい。だが、こうした類の幸運はなかったが、それでもやはり、一つひとつの情報がもっとも簡単な、もっとも自然な方法で、時間どおり手に入ったという意味においてはツキはあったのである。
二流の情報を得るために一ダースもの刑事が日夜働くことだってある。たとえば、フランスにおけるゼニット時計の総支配人、アルチュール・ゴッドフロワ氏はクリスマスの休日を過ごしに生まれ故郷のチューリッヒへ帰っていて、こちらの家にはいなかったかもしれない。あるいはまた、ジャン・マルタンのことで氏のオフィスに前日掛かってきた電話を知らないでいたことだってありえたかもしれない。
リュカは四時ちょっと過ぎに、鼻を赤くし顔を寒さで縮み上がらせてやってきたが、彼もこうしたツキにめぐまれたのだ。
濃い、黄色い霧がとつぜんパリをおおったところだった。こんなことはめずらしかった。すべての家の明かりはついていた。大通りのあちこちの窓は遠くの燈台を見ているようだった。実生活の細部は消えてしまい、まるで海辺で霧笛が吼《ほ》えるのを待つような気分だった。
何らかの理由で……幼年時代の思い出のせいかもしれない……メグレはこの濃い霧を見てよろこんだ。メグレはまた、彼のアパルトマンに入ってきたリュカが、コートを脱ぎ、すわり、凍えた手を火にかざすのを見てよろこんだ。
リュカはわざといかめしい顔をし、頭をたれ、肩を半分ちぢめていたが、メグレにはほとんどすぐに彼の答えがわかったのである。意識的な人まねではなく、感嘆の念からリュカは警視《パトロン》のちょっとした身振りや、態度や、表情をまねることがあった。警視庁のオフィスでより、こういうところだと、それがいっそうよく目立った……りんぼく酒のグラスに口をつける前に匂いをかぐそのかぎ方さえも……。
ペルネル通りの家具付きホテルの女主人は二年前に地下鉄の事故で死んでいた。これで捜査は面倒になるかもしれなかった。こうしたホテルでは、従業員がよく変わり、五年前のロレーヌを知っている人間を見つける望みはほとんどないからだ。
しかし、彼らはツイていた。リュカは家具付きホテルの現在の経営者が、以前ホテルの夜警をしていたことをつきとめた。この男、はからずも昔、風紀問題で警察とごたごたを起こしていたのである。
「彼は簡単にしゃべりましたよ」と、リュカは彼には大きすぎるパイプに火をつけながら言った。「彼のような男があのホテルを買う金を持っていたことに私はおどろいたのですが、最後に彼が説明してくれたところによると、彼はただ名義を貸しているにすぎず、本当の経営者はこうした事業に金は出すが、名前は出したくないという、ある知名な人間だそうです」
「どんなホテルだね?」
「外見はきちんとしていて、かなりきれいです。中二階に事務所があって、部屋は月決めで貸し、週決めの部屋もいくつかあります。また、二階には『ご休憩』用の部屋もあります」
「彼は若い女のことをおぼえていた?」
「もちろんよくおぼえてました。彼女はあのホテルに三年以上暮らしていましたから。彼女はひどい〈けちんぼ〉で、そのため彼はあの女が好きではなかったらしいです」
「彼女はロリルゥを部屋に入れたのかな?」
「ペルネル通りに行く前に、パレー・ロワイアル署に寄って、書類についている彼女の写真を持っていったのです。その写真を彼に見せると、彼はすぐに彼女のことを認めました」
「ロリルゥはよく彼女に会いに来ていたのか?」
「月に平均二、三度で、いつもバッグを持っていたそうです。夜中の一時半ごろやってきて、六時に出て行きます。いったいそれはどういう意味があるのだろうかと考え、鉄道の時刻表を調べてみました。すると、彼がスイスヘしていた旅行と一致するのです。ロリルゥは、帰りはこちらに夜中に着く列車を選び、奥さんには朝の六時に着いたと思わせていたんです」
「そのほかに何か?」
「それだけですが、ただロレーヌという女はチップにケチで、禁止されているのにもかかわらず、夜、部屋のなかでアルコールこんろで料理をつくっていたそうです」
「ほかに男はいなかったの?」
「ええ。ロリルゥを除いては、規則正しい生活です。結婚したとき、彼女はホテルの女主人に立会人になってほしいとたのんでいます」
メグレはリュカが来たとき、夫人に食堂に残っているように言い張ったのだ。夫人は物音一つ立てないで編物をしていたし、その場に彼女がいることなど忘れてほしい様子だった。
トランスは外にいて、霧のなかをタクシー会社からタクシー会社を走りまわっている。メグレとリュカはおなじポーズで肱掛け椅子にどっかとすわり、手近にアルコールのグラスをおいて静かに待っていた。メグレは眠気を催しはじめた。
ところで、タクシーでもほかのこと同様ツイていた。ときどきは、さがしているタクシーにすぐにぶつかる。そうでないときは、手掛かりもなく数日が過ぎてしまう。とくに、その車が個人タクシーの場合には。個人タクシーの運転手には時間がでたらめで、あてずっぱうに流す者たちがいる。それに、新聞で警察の呼びかけを読むとはかぎらない。
五時前に、トランスがサン・トゥアンから電話してきた。
「例のタクシーの一台を見つけました」と、トランスは言った。
「なぜ『一台』なんだ? 何台かあるのか?」
「そう考えられます。そのタクシーはリシャール・ルノワール大通りとヴォルテール大通りの角で今朝若い婦人を乗せ、北駅の目と鼻の先にあるモーブゥジュ通りまで運びました。彼女はタクシーを待たせておかなかったのです」
「彼女は駅に入ったのか?」
「ちがいます。日躍、祭日でも開いている旅行かばん店の前で立ち止まりました。運転手はそこまでしか見ておりません」
「その運転手はいまどこにいる?」
「ここです。帰社したばかりです」
「こっちによこしてくれないか。自分の車で来ようが、ほかのタクシーで来ようがかまわないが、できるだけ早く着くようにしてくれ。きみのほうは、そこに残って、彼女を連れもどった運転手を見つけてほしい」
「わかりました、警視《パトロン》。アルコール入りのコーヒーを飲む時間をください。ひどく寒いものですから」
メグレは大通りの向こう側にちらっと目をやった。マドモワゼル・ドンクールの窓に人影が見えた。
「電話帳で、北駅の正面にある旅行かばん店を見つけてくれ、リュカ」
リュカはすぐに見つけ出した。メグレは電話した。
「もしもし! こちらパリ警視庁の司法警察局。あなたのところに今朝十時ちょっと前に、女の客がありましたね。スーツケースか何か買ったはずですが。灰色のスーツを着たブロンドの若い女で、手に買い物袋を下げてました。おぼえておられますか?」
たぶんクリスマスの日のことなので、簡単にわかるのではないか? 人通りだって多くなかったし、客だってほとんどなかったはずだ。それに、人間というものはいつもとちがった日に起こったことははっきりとおぼえているものだ。
「てまえがその女《ひと》の相手をいたしました。その女の話によりますと、何でも病気の妹さんに会いに、カンブレに急いで出発しなければならないので、家にもどる時間がないそうです。安物の布のスーツケースを欲しがりました。てまえどもの店の入口の両側にどっさり山積みしてあるやつです。普通のサイズのスーツケースを選び、お金をはらうと、隣りのバーに入って行きましたが、しばらくして、てまえが入口に立っておりますと、彼女は手にスーツケースを持って駅のほうに行くのが見えました」
「あなたはいまお店で一人きりですか?」
「店員が一人おりますが」
「それでは、三十分ほどお店を空けることができますね? タクシーに飛び乗って、これから言う住所のところに私に会いに来てください」
「タクシー代をはらっていただけるんでしょうね? タクシーをそのまま待たせておいてもいいでしょうな?」
「かまいません、待たせておいてください」
古封筒のメモによれば、最初のタクシーの運転手が着いたのは五時五十分だった。警察の問題なのに、個人のアパルトマンに迎え入れられて、ちょっとびっくりしたみたいだった。しかし、この運転手はメグレのことを知っていて、有名な警視が暮らしている住居に興味をそそられ、キョロキョロと見まわした。
「真正面にある建物に行き、四階に上がってください。女管理人が呼び止めたら、マルタン夫人に会いに行くんだと言いなさい」
「マルタン夫人ですね、わかりました」
「廊下の奥にあるドアのベルを鳴らします。ドアを開けたのがブロンドの、あなたがタクシーに乗せた女だったら、何でもいいから口実を見つけなさい、階をまちがえたとか何とか。別の女だったら、マルタン夫人に話したいことがあって来たのですがとでも言いなさい」
「それから?」
「それだけです。あとはここにもどってきて、今朝あなたがモーブゥジュ通りに乗せて行った女かをわれわれに教えてくれればいいのです」
「わかりました、警視」
ドアが閉まったとき、メグレは思わず唇に微笑をかすかにうかべてしまった。
「最初は、彼女は不安になりはじめる。二番目は、すべてがうまく行ったら、彼女は恐怖におそわれる。三番目は、トランスがあの運転手も見つけてくれれば……」
さあ! 歯車はスムーズにかみ合っている。トランスから電話が掛かった。
「警視《パトロン》、北駅で人相にぴったりする若い女を乗せた運転手を見つけ出しましたよ。しかし、リシャール・ルノワール大通りまで乗せて行ったのではなく、ボーマルシェ大通りとシュマン・ベール通りの角でおろしたのです」
「彼を私のところへよこすんだ」
「二、三杯酒をひっかけていますが」
「かまわん。いまきみはどこにいる?」
「バルベ大通りのタクシー会社です」
「それじゃ、北駅に寄ってもらってもそれほど大まわりにはならないな。手荷物預かり所に行ってほしいんだ。まずいことに、今朝とおなじ従業員はいないだろう。新しい布の小さなスーツケースがあるかどうが見てほしい。朝の九時半から十時の間におかれたスーツケースで、重くないにちがいない。番号を書きとめておけ。令状がなければスーツケースを持ってくることは無理だろう。しかし、今朝勤務についていた従業員の名前と住所を訊いてくれ」
「そのあとはどうします?」
「私に電話くれ。私はきみの二人目の運転手を待つ。彼が酒を飲んでいるんだったら、道を間違えないように紙きれに私の住所を書いてやってほしい」
メグレ夫人は台所に行って、夕食の支度にかかっていた。リュカが一緒に食事するのかどうか、彼女には思い切って訊けなかった。
ポール・マルタンはあいかわらず娘と向かい合っているのだろうか? マルタン夫人は彼を追い出そうとしているのではないか?
ドアのベルが鳴ったとき、踊り場には一人ではなく、二人の男がいた。彼らはおたがい知り合いではなかったので、びっくりして見つめ合った。正面の建物からすでにもどってきた最初の運転手が、メグレの階段で、旅行かばん店の主人と一緒になったのである。
「彼女に見おぼえがありますか?」
「見おぼえがあるなんてもんじゃありませんよ。彼女も私のことをおぼえていて、さっと顔色を変えました。寝室のドアをあわてて閉めに行くと、私に何の用かとたずねました」
「どう答えました?」
「階をまちがえたと。彼女は私を買収しようかとためらっているようでしたので、私は彼女にそんな時間をあたえませんでした。大通りに出ると、彼女が窓のところにいるのが見えました。彼女は私がここに入ったのを知ったでしょう」
旅行かばん店の主人には何のことかさっぱりわからなかった。彼は中年で、つるつるに禿げていて、物腰が一見低そうに見えた。運転手が出て行くと、メグレは旅行かばん店の主人にやってもらいたいことを説明した。すると、旅行かばん店の主人は苦情を唱え、しつこくこうくり返した。
「いいですか、お客さまなのですよ? お客さまを裏切るなんて、とても恐れおおいことでしてねえ」
彼は最後には決心してくれたが、メグレは用心して、リュカを付けてやった。途中で考えを変えてしまう恐れがあったからだ。
十分もたたないうちに、彼らはもどってきた。
「てまえはあなたの命令どおりにいたしましたよ、強制されたとおりに」
「彼女に見おぼえがありますか?」
「証言するために呼び出されるんでしょうかね?」
「そういうことになるでしょう」
「それは、てまえどもの商売には迷惑です。いきなり飛び込んできてバッグを買うお客さまのなかには、ときどきご自分の足どりをしゃべってほしくない人たちがいるのです」
「法廷に出なくても、予審判事の前で証言してもらうだけで充分です」
「わかりました。あの女にちがいありません。服装はおなじではありませんが、彼女に見おぼえがあります」
「彼女もあなたをおぼえていました?」
「彼女はすでに、てまえがだれに言われて来たのかとたずねました」
「何と答えられました?」
「もうよくおぼえてません。ひどくドギマギしてしまって。ただドアをまちがえたとかどうとか……」
「彼女は何も申し出ませんでしたか?」
「どういうことです? 彼女はすわるようにさえ言いませんでした。そう言われれば、もっと気詰まりだったでしょうがね」
運転手が何も要求しなかったのにたいし、この男は店が繁栄しているらしいのにもかかわらず、無駄にさせられた時間の補償を受け取りたいとしきりに言い張った。
「三人目の男を待たなければならないな、リュカ」
メグレ夫人はいらいらしはじめていた。敷居のところからメグレに、台所までついてきてくれるようにそっと合図を送った。メグレが台所に行くと、彼女はささやいた。
「父親はまちがいなくいまでも通りの向こうにいるの?」
「なぜ?」
「なぜって言われても困るけど。あなたが何をたくらんでいるのかよくわからないけど、わたしはあの子のことを考えているの。ちょっと心配なのよ……」
もうとっくに日が暮れていた。人々は家に帰ってきていた。正面の建物では明かりのついていない窓は少なかった。マドモワゼル・ドンクールの窓にはあいかわらず彼女の影が見てとれた。
二人目の運転手を待ちながら、メグレはカラーと、ネククイをつけた。メグレはリュカにさけんだ。
「もう一杯どうだい? お腹は空いてないか?」
「サンドイッチを食べましたから、警視。ここから出たとき、私にはただ一つの望みしかありません。樽からのビールを一杯やることです」
二人目の運転手は六時二十分に着いた。六時三十分に、淫《みだ》らな目つきをして正面の建物からもどってきた。
「あの女はスーツより部屋着のほうがずっとすてきですな」と、彼は〈ろれつ〉のよくまわらない声で言った。「彼女は無理矢理おれをなかに入れると、だれがおれを来させたのかと訊くもんだから、おれ、どう答えていいのかわからないので、ミュージック・ホール『フォリ・ベルジェール』の支配人に言われたんだと答えてやったよ。彼女、ひどく怒ってね。それでもかわいい女だな。あんた、あの女の脚を見ましたか」
彼にお引きとりねがうのは大変だった。彼は物欲しそうにりんぼく酒のびんを横目でにらんでいたが、それを一杯飲んでからやっと出て行った。
「警視《パトロン》、どうするつもりです?」
これほどの用心と、これほどの注意とをもって攻撃を準備するメグレを見るのは、リュカにとってはめずらしいことだった。まるで非常に手ごわい相手を攻撃するかのようだった。ところで、相手は一人の女、それも見かけは取るに足らぬ小市民階級の女にすぎないのだ。
「彼女がまだ抵抗するとお思いですか?」
「烈しく。そのうえ冷静に」
「何を待っているのです?」
「トランスからの電話だ」
時間どおりに電話が掛かってきた。楽譜どおりにきちんと進むオーケストラのようだった。
「スーツケースはここにあります。中身はほとんど空にちがいありません。予測どおり、令状がなければスーツケースをわたしてくれないですね。今朝、勤務についていた従業員のことですが、彼は郊外に住んでます。何でもヴァランヌ・サンティレールの近くらしいです」
これで、こんどこそ進行が遅れるのではないかと思われたのだが、しかし、トランスはつづけた。
「ただし、そこまで行く必要がないのです。勤務のあと、彼はラップ通りのダンス・ホールでコルネットを吹いてます」
「彼をさがしてくれ」
「あなたの家へ連れて行きますか?」
結局、メグレも冷たいビールを一杯飲みたかったのだろう。
「いや、正面の建物の四階、マルタン夫人のところだ。これから私はそこに行く」
こんどは、メグレは大きなコートをはずし、パイプにたばこを詰めると、リュカに言った。
「来るかね?」
メグレ夫人は彼のあとを追いかけて行くと、何時に夕食に帰るのかと訊いた。彼はためらい、最後にほほえんだ。
「いつものように」と、彼は答えたが、これでは夫人が安心できなかった。
「あの子をよく見張ってくださいよ」
五
夜の十時になっても、メグレたちはまだはっきりした結果は何一つ得られなかった。アパルトンのなかではコレット以外、だれも眠っていなかった。コレットはさきほどやっとうとうとまどろみ、その枕もとでは父親が暗闇のなかで見守りつづけていた。
七時半に、トランスは手荷物預かり所の従業員で、暇なときにはバンドマンをやっている男と一緒にやってきた。この男はほかの者たちとおなじように言った。
「まちがいなく彼女です。預かり証を、ハンドバッグではなく、褐色の大きな買い物袋のなかにすべり込ませたのをいまでもおぼえてますよ」
その買い物袋を台所からさがして持ってきた。
「これとそっくりおなじものです。とにかく、サイズも色もぴったりですよ」
アパルトマンのなかはひどく暑かった。みんなはわきの寝室で寝ているコレットのため、まるでしめし合わせてあるかのように小声で話した。だれも物を食べなかったし、食べようと考える者もいなかった。このアパルトマンに来る前、メグレとリュカはヴォルテール大通りの小さなカフェで、中ジョッキを二杯ずつ飲んできたのだ。
トランスはバンドマンを連れてきたあと、メグレに廊下に引っぱって行かれ、低い声でいろいろと指示をあたえられた。
アパルトマンは隅から隅までさがされ、もうさがしてない場所は一つもないように思われた。
マルタンの両親の写真の額縁さえはずされ、手荷物預かり証が写真の後ろに隠されていないかたしかめられた。食器棚から取り出された食器類は台所のテーブルの上に積み重ねられ、鼠入らずも空《から》にされて調べられたが、預かり証はなかった。
マルタン夫人はメグレたちが来たときのまま、ライト・ブルーの化粧着を着つづけていた。たばこをたてつづけに喫い、その煙はメグレたちのパイプの煙と一緒になって、厚い雲をつくり電燈のまわりでたなびいていた。
「何をしゃべらなくてもけっこう、いかなる質問にも答えなくてけっこう。ご主人は十一時十七分に着く。ご主人の前でなら、あなたもおしゃべりになるはずだ」
「主人はわたし以上に何も知りません」
「あなたとおなじように知っているのではないか?」
「主人は何も知りません。わたしはすべてをあなたに言いました」
ところで、彼女は徹頭徹尾否定しただけなのであるが、一つだけ認めた点がある。ペルネル通りの家具付きホテルの話をしたとき、彼女はロリルゥが夜間に二、三度ひょっこり会いにきたことを認めた。それでも彼女は二人の間には個人的な関係はなかったと言い張った。
「別の言い方をすれば、夜中の一時に仕事のことでやってきたというのかね?」
「あの人は列車から降りたとき、よく大金を所持しているのです。あの人が金《きん》の取引をしていたことはすでに言いましたね。わたしはそれには無関係です。ですからこの点でわたしを追及してもしかたがありません」
「彼が失踪したとき、大金を持っていたのか?」
「そんなこと知りませんよ。金の取引のことではわたしには何も言いませんでしたから」
「しかし、夜、あなたの寝室で、彼はその話をしたのではないか?」
今朝、走りまわったことについては、彼女は明白な証拠があるのにもかかわらず、ふたたび否定し、メグレが彼女のところへ差し向けた人たち……二人の運転手、旅行かばん店の主人、手荷物預かり所の従業員を見たこともないと主張した。
「わたしが北駅に小荷物を預けに行ったのなら、その預かり証があるはずです」
この家のなかに預かり証がないことはほとんどたしかだった。コレットの寝室のなかにもなかった。子供が眠る前に、メグレが寝室をさがしたのである。メグレは子供の脚にはめてあるギプスのことさえ考えてみたのだ。
「明日、わたしは訴えます」と、彼女はきびしく言った。「これは隣りの女の悪意によって仕組まれた陰謀なのです。あの女が今朝わたしを無理矢理あなたのところへ連れていったとき、そのことを疑うべきでした」
彼女はたびたびマントルピースの上の目覚まし時計を不安そうに見やった。夫が帰ってくることを考えているのはたしかだ。しかし、そうやっていらいらしているのにもかかわらず、彼女は少しもボロを出さなかった。
「昨夜来た男は床の下に何も見つけられなかった。あなたが隠し場所を変えてしまったからだ、そうだね?」
「床の下に何かがあったなんて思いもしませんでした」
「男がやってきて、あなたが隠していたものを取り返そうと決心しているのを知ったとき、あなたは手荷物預かり所のことを考えた。あそこならあなたの宝物が安全だからだ」
「わたしは北駅に行ってません。わたしと似たブロンド女はパリにたくさんいます」
「預かり証をどうしたね? ここにはない。このアパルトマンに隠してないことはたしかだ。しかし、預かり証がどこにあるか私にはわかるような気がする」
「あなたってとても意地悪ね」
「このテーブルの前にすわりたまえ」
メグレは紙と万年筆を差し出した。
「書くんだ!」
「何を書くんです?」
「名前と住所だ」
彼女はためらいを見せたが、結局言われたとおりにした。
「今夜、この町のポストに入れられたすべての手紙は調べられる。そのなかにあなたの手跡の手紙があるはずだ。あなたは自分自身宛に手紙を出したのだろう」
この方面での調査を行なわせるため、メグレはリュカに言いつけて、刑事部屋へ電話させた。実のところ、メグレはこのことによって何らかの結果が得られるとは思っていなかったのだが、女はあきらかに反応を示した。
「おい、いいか、そんな手は古いんだぞ!」
パリ警視庁のオフィスで訊問しているかのように、メグレはいま初めて彼女を『おい』と呼んだ。彼女は怒気を含んだ目でメグレを見つめた。
「あなたはわたしを憎んでいます!」
「憎んではいないが、それほど強く同情していないこともたしかだ」
いま、彼らは食堂で二人きりだった。メグレは食堂のなかをゆっくりと歩きまわり、彼女はそのテーブルの前にすわったままだった。
「あなたに興味があるならつけ加えるが、私にもっともショックだったことは、あなたがしたことではなくて、あなたが『冷静に』すべてをしたことなのだ。私は男でも女でも、これまで多くの人間を相手にしてきた。われわれは三時間前からこうして向かい合っているが、今朝からあなたはまるで電話で話しているような感じなのだ。あなたはいまだに平然としている。ご主人がまもなく帰ってくるが、あなたは自分を被害者らしく見せかけるようにするだろう。ところで、あなたにはおそかれ早かれ、われわれがかならず真実をつかむことがわかっているはずだ」
「それが何の役に立つというのです? わたしは何もしていないのに」
「それなら、なぜ隠しごとをする? なぜ嘘をつくのだ?」
彼女は答えなかったが、考えているようだった。彼女の神経はまだ平静だったが、心のほうが逃げ口をさがし、可否を吟味しようとしている。
「わたしは何も言いません」と、こんどは肱掛け椅子にすわりに行きながら、彼女はやっと口を開いた。裸の脚の上に化粧着を引きおろす。
「お好きなように」
メグレは彼女の正面の肱掛け椅子にどっかと腰をおろした。
「ここにまだ長い間いるつもり?」
「とにかくご主人が帰ってくるまでは」
「家具付きホテルにロリルゥさんが訪ねてきたことを、主人に話すつもりなの?」
「そうせざるをえないときには」
「あなたって卑劣な人ね! ジャンは何も知らないし、こんどのことに関係ありません」
「しかし、あいにく彼はあなたのご主人だ」
リュカがもどってきたとき、メグレと女は向かい合い、おたがいに黙りこくったまま、そっと相手を盗み見ていた。
「ジャンヴィエが手紙の件を引き受けてくれました、警視《パトロン》。階下《した》でトランスに出会いましたが、彼が言うには、例の男はあなたの家から二軒先の、ぶどう酒の商人のところにいるそうです」
彼女ははじかれたようにびくっと立ち上がった。
「例の男って?」
メグレは身動きせずに、
「昨夜来た男だよ。彼はお目当てのものを何も見つけなかったのだから、あなたにはふたたび彼がやってくることは予想できたはずだ。おそらくこんどはもっとちがった精神状態でね」
彼女は恐ろしそうに時計をながめた。ベルジュラックからの列車が駅に着くまでもう二十分しか残っていない。彼女の夫がタクシーに乗ったら、全部で四十分あれば充分だろう。
「あなたはその男がだれだかご存知なの?」
「まあね。そのことをたしかめるには階下《した》に行けば充分だ。ロリルゥさ、自分の財産を取りもどそうとやっきになっているロリルゥだよ」
「彼の財産ではありません」
「是非はともあれ、彼が自分の財産として考えていると仮定しよう。あの男は文無しにちがいない。あなたに二度会いに来たが、望みのものを手にすることができなかった。そこでサンタクロースに変装してやってきた。もう一度やってくるだろう。彼はあなたがわれわれと一緒なのを見てびっくりするだろう。彼はあなたよりおしゃべりになるにちがいない。男というものは、一般に考えられているのとは逆に、女よりも簡単にしゃべるものだ。彼が武器を持っていると思うかね?」
「知りません」
「私の考えでは、持っている。彼は待つことにもううんざりした。あなたが彼にどんな話をしたのかはわからないが、彼はきっとそれに不満なのにちがいない。それに腹黒いやつだ、あの男は。ああいったやつがその気になったら、これほど残酷な人間もいない」
「お黙りになって!」
「彼を迎え入れるために、われわれがここを引き払ったほうがいいと言うのかね?」
メグレのメモに、こう読める。
『十時三十八分……彼女しゃべる』
しかし、この最初の自白の調書はない。ぽつりぽつりと、ときには悪意をもってされた自白で、メグレが彼女のかわりに補ってやった部分もかなりある。メグレがたぶんに行き当たりばったり気味に口を出すと、彼女は否認しないか、あるいは訂正するだけだった。
「あなたが知りたいのは何です?」
「小荷物預かり所に預けたスーツケースの中身はお紙幣《かね》だね?」
「そうです、百万フランちょっと欠けるくらい」
「その金はだれのものだ? ロリルゥの?」
「ロリルゥのでも、わたしのでもありません」
「彼の顧客の一人の?」
「よくお店にやってきたジュリアン・ボワシィという人のものです」
「その男はどうなった?」
「死にました」
「どうして?」
「殺されました」
「だれに?」
「ロリルゥさんに」
「なぜ?」
「わたしがロリルゥさんに、大金が用意できたら、一緒に逃げると信じさせたからです」
「あなたはすでに結婚していたね?」
「ええ」
「ご主人を愛していなかったのか?」
「わたしは月並みな生活を憎みます。これまで、わたしは貧乏でした。これまで、わたしはお金のことしか、お金のない話しか聞きませんでした。これまで、わたしはまわりでお金を数えているのを見てきました。わたしだってお金を数えなければならないのです」
まるで彼女の貧乏の責任がメグレにあるかのような口ぶりだった。
「あなたはロリルゥについて行っただろうか?」
「わかりません。たぶんしばらくの間は」
「彼の金を取るまでの間?」
「あなたって憎らしい人ですね!」
「ロリルゥはどうやって殺したのだ?」
「ボワシィさんはお店の定連でした」
「エロ本の愛好家?」
「あの人も、ほかの人たちのように、ロリルゥさんのように、たぶんあなたのように好色でした。ボワシィさんはやもめで、ホテルで一人暮らしをしていましたが、とてもお金持ちで、とてもケチでもありました。お金持ちはみんなケチです」
「しかし、あなたは金持ちではない」
「わたしはお金持ちになれたでしょう」
「ロリルゥが姿をあらわさなかったらね。どうやってボワシィは殺されたのだ?」
「ボワシィさんはあの時期のすべての人たちのように、平価の切り下げを恐れ、金《きん》を欲しがっていました。ロリルゥさんは金の取引をしていたし、金のことで定期的にスイスに行ってました。ロリルゥさんはすべて前払いでした。ある午後、ボワシィさんはお店に大金を持ってきました。わたしはその場にはいませんでした。お使いに行っていたのです」
「わざと?」
「ちがいます」
「何が起ころうとしているか知りもしなかったのかね?」
「いいえ。でも、それをわたしに言わそうとしないでください。時間の無駄ですから。ただ、わたしがもどってきたとき、ロリルゥさんはわざわざ買っておいた大きな箱のなかに死体を詰めこんでいるところでした」
「あなたは彼を脅迫したのだな?」
「いいえ」
「それじゃ、あなたに金をわたしたあと、彼が失踪したのはなぜだ?」
「わたしがあの人を恐れさせたからです」
「彼のことを警察にばらすと脅して?」
「ちがいます。わたしはただあの人に、お店の近くの人たちがわたしを妙な目つきで見るから、しばらくお金をどこか安全な場所においておいたほうがいいと言っただけです。わたしはわたしのアパルトマンの床板のことを……簡単にはずせるし、もとどおりにはめるのも簡単だという話をしました。あの人は、数日間隠しておくだけのことだと考えました。翌々日、あの人は一緒にベルギーの国境を越えようとわたしに言いました」
「あなたはことわった?」
「刑事のような男が通りでわたしをつかまえ、いろいろ質問したという話を、あの人に信じさせました。あの人はぎょっとしました。わたしはわずかな金をあの人にわたし、あなたに危険がなくなったら、すぐにブリュッセルに行って合流すると約束しました」
「ボワシィの死体はどうした?」
「あの人がマルヌ川のそばの田舎に持っている小さな別荘に運びました。そこに埋めたか、川に捨てたかだと思います。あの人はタクシーを使いました。それからもうだれもボワシィさんのことを話しません。だれもボワシィさんの失踪を不審に思いませんでした」
「あなたはうまくロリルゥを一人きりでベルギーに追いやったのだね?」
「それは簡単でした」
「そして五年間、あなたは彼をずっと遠ざけておくことができた?」
「わたしは局留めで手紙を書き、あなたは捜索されている、新聞には何も出ていないが、それは罠なのだと言ってやりました。また、わたしは警察からしじゅう訊問されていると、書いてやりました。あの人は南アメリカまで逃げさえしたのです……」
「彼は二カ月前にもどってきた?」
「ほぼ二カ月前に。あの人は忍耐がつきたのでしょう」
「金は送らなかったのかね?」
「ほんのわずか」
「なぜ?」
彼女は答えなかった。が、時計を見た。
「わたしを連行しますか? 何の罪で? わたしは何もしていません。わたしはボワシィさんを殺していません。ボワシィさんが死んだとき、わたしはその場にいませんでした。わたしは死体を隠す手伝いもしてません」
「あなたの運命を心配しなくていい。あなたは金を保管しておいた、これまで金を持ってみたいと思っていたからだ。金を使うためではなく、自分が金持ちだと感じるため、金に保護されていると感じるため」
「それはわたしの問題です」
「ロリルゥが助けてくれるように、あるいは一緒に逃げる約束を果たすように言いに来たとき、あなたはコレットの事故をうまく利用して、隠し場所に近づくことができないと言い張った。そうだったろうか? あなたは彼にふたたび国境を越えさせようとしたのだ」
「あの人は身を隠して、パリにとどまっています」
彼女の唇は奇妙な微笑で反《そ》りかえった。彼女はこうつぶやかずにはいられなかった。
「間抜けな男! あの人は恐れもせずに、世間に自分の名を宣伝しているようなものだわ!」
「それでも彼はサンタクロースに変装することを考えたよ」
「ただ、お金は床の下なんかになかった。ここ、彼の鼻の先の裁縫箱のなかだったの。蓋をちょっと持ち上げるだけでよかったのよ」
「十分か十五分後に、ご主人は帰ってくる。通りの向こう側にいるロリルゥはそのことを知っているだろう。彼はマルタンがベルジュラックにいるかどうかを問い合わせたし、列車の時刻表だって調べたはずだから。彼はいま一生懸命自分を元気づけているにちがいない。彼が武器を持っていないなんてありえない。あなたはここで二人の男を待つかね?」
「わたしを連行して……ドレスを着る時間だけ待ってください」
「小荷物預かり所の預かり証は?」
「ボーマルシェ大通りの局留めで」
彼女は寝室に入って行ったが、ドアを閉めなかった。そして、恥じらいの色も見せずに、化粧着を脱ぎ、ベッドの縁にすわってストッキングをはき、洋服箪笥からウールのドレスを選んだ。最後に、小旅行用のバッグをつかむと、化粧品や下着をそのなかにごちゃまぜに突っ込んだ。
「早く出かけましょう」
「ご主人は?」
「あんな間抜けな人、かまわないわ」
「コレットは?」
彼女は答えず、肩をすくめただけだった。彼らが通ったとき、マドモワゼル・ドンクールのドアが動いた。階下《した》で、歩道を横切るとき、彼女は怖気《おじけ》づき、まわりの霧のなかをうかがいながら二人の男の間に身をすり寄せた。
「リュカ、警視庁へ彼女を連れて行ってくれ。私はここに残る」
見えるところに車はなかった。彼女は小柄のリュカの護衛だけで暗闇のなかを歩いて行くということにおびえているらしかった。
「心配しなくていい。ロリルゥはこの付近にはいないよ」
「あなたは嘘をついたのね! あなたは……あなたは……」
メグレは家のなかにもどった。
ジャン・マルタンとの会話はたっぷり二時間つづいた。その大部分は彼の兄のことに費やされた。
メグレは兄弟二人を差し向かいに残して、夜中の一時ごろ四階のアパルトマンを去った。マドモワゼル・ドンクールのドアの下に明かりが見えたが、彼女は恥ずかしさからだろう、ドアを開ける勇気がなかった。ただ、警視の足音を聞くだけで満足した。
メグレが大通りを横切り、家に帰ると、食堂のテーブルの前の肱掛け椅子のなかで夫人が眠り込んでいた。テーブルの上には食器が並んでいる。夫人はびっくりして目をさました。
「あなた、一人きり?」
メグレはおどろいて彼女を見つめたが、いかにもたのしそうだった。
「あの子を連れてこなかったの?」
「今夜はだめだ。もう眠っている。明日の朝、おまえが連れに行くんだ、ドンクールさんと一緒にやさしくしてやってほしいね」
「本当?」
「担架と、二人の看護婦をおまえのところにまわすから」
「でも、そうなると……わたしたちは……」
「しっ! 永久にじゃないよ、わかるかね? ジャン・マルタンが心の痛手をなおし、彼の兄も立ち直って、新しい世帯を持つまでだ……」
「つまり、あの子はわたしたちのものにはならないのね?」
「そう、われわれのものにはならない。ただ貸してもらうだけだ。それでも何もないよりましだし、おまえだって満足するんじゃないかな」
「そうよ、わたし満足だわ……でも……でも……」
メグレ夫人は洟《はな》をすすると、ハンカチをさがした。が、見つからないので、エプロンのなかに顔を埋めた。
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メグレと溺死人の宿
一
「本当に雨やどりしなくてもいいんですか?」と、憲兵隊の隊長が困惑したような表情をうかべて言った。メグレはコートのポケットに両手を突っ込んでいる。山高帽には水があふれ、ちょっとでも動いたら、どっと流れ落ちそうだった。ことがうまく行かないので、メグレは顔をしかめ、一枚岩のようにじっと身動きしない。ただ、パイプを噛みしめたまま、「ああ!」とつぶやいただけだった。
おかしなことだが、厄介な事件というのは……解決するのに途方もない苦労がかかり、終っても何となくあと味がわるいような事件は、ひょんなことから首を突っこんでしまうか、まだ断われるのに、そうする勇気がない場合に多い。
こんどの場合もそうだった。メグレは憲兵隊の隊長ピルマンと適当に処理しておかなければならない用件があって、事件の前日ヌムールに来ていたのだ。その用件はそれほど重要なものではなかったが。
隊長は魅力的な、教養のあるスポーツマンで、ソミュールの騎兵学校の出身だった。メグレに自宅で食事と酒をご馳走したいと言い張り、そのうえ雨がはげしくなると今夜はわが家の客室に泊ってほしいとすすめてくれた。
最悪の秋の天候だった。二週間前から雨が降りつづけ、霧がたちこめ、樹々の枝が水かさを増したロワン川の濁流にのまれていった。
「ここでも電話か!」
電話のベルの音を聞いたとき、メグレはため息をついた。朝の六時で、あたりはまだ明るくなっていなかった。
しばらくすると、隊長がドアの向こうで小声で言った。
「まだお休みですか、警視?」
「いや、起きているよ」
「私と外出していただけないでしょうか? ここから十五キロのところです。昨夜、妙な事故があったのです……」
もちろん、メグレは同行した。
現場はロワン川の岸辺で、ヌムールとモンタルギの間を国道がこの川ぞいに走っている。朝早く起きるのがいやになるような景色。空には雲が低くたれこめ、寒い。横なぐりに降りつづける雨。きたない褐色ににごった川、対岸にはポプラの並木がある。
あたりに村はなかった。ただ『釣師の宿』という宿屋が一軒、七百メートルばかりのところにあるが、この界隈では、『溺死人の宿』といったほうが通用しやすいことを、メグレはすでに知っていた。
こんどの溺死人たちのことについては、まだ何もわかっていなかった。クレーンがきーきー軋《きし》りながらあちこちに動いていた。そのほかに、船乗りのような防水服を着た二人の男が空気ポンプを動かして、潜水夫へ空気を送っている。道路ぎわには、五、六台の車が停っている。両方向からくる車はスピードを落し、何ごとがあったのかと時おり車を停め、そしてまた走り去っていった。
制服の憲兵も何人かいた。万一にそなえて夜の間に救急車が来ていたが、これは無駄に終わりそうだった。
とにかく、待たなければならない。すさまじい勢いで流れる川の底にある車を、クレーンにしっかりと結びつけ、川から引き上げるまで待たなければならない。
十トン積みのトラックがカーブの手前で停っていた。高速道路を日夜、悪臭をまきちらしながら疾走しているあの怪物のような代物だ。
どんなことが起こったのかは、だれも正確には知らなかった。昨夜、パリ〜リオン間の定期便であるこの十トン積みトラックが、八時ちょっと過ぎにこの国道を通った。カーブのところで、ライトを消して停っていた車と衝突し、車はロワン川に放り出された。
トラックの運転手、ジョゼフ・ルコワンはさけび声を聞いたような気がした。事故現場から百メートルと離れていない運河に繋留《けいりゅう》していた伝馬船『ベル・テレーズ号』の船頭も、助けを求める声を聞いたと主張している。
この二人は川岸で出会って、懐中電燈の明りをたよりに捜してみたが、むだだった。そのあと、トラックの運転手はモンタルギまで車を走らせ、憲兵隊(フランスでは人口一万未満の町村は、憲兵隊が警察事務を担当する)に事故のことを知らせた。
事故が起こった場所はヌムールの管轄《かんかつ》だったので、この町の憲兵隊にもすぐに連絡が取られた。しかし、明るくなるまではどうしようもなかった。副官は隊長を六時まで起こさなかった。
陰うつな朝だった。寒かったので、みんなは背中を丸めて濁流をながめていたが、不安そうな表情はなかった。
宿屋の主人も来ていた。大きな傘をさして、物知り顔で事故のことをしゃべっていた。
「死体が車のなかに閉じこめられていなかったら、ちょっとやそっとでは見つからないでしょうな。水門はどれも開いていたし、木の根っこにでもひっかからなければ死体はセーヌ河まで流れていってしまう……」
「死体は車のなかなんかにないさ」と、トラックの運転手が答えた。「オープンのやつだったから」
「そいつはおかしい!」
「どうして?」
「おとといの夕方、若い二人の客がオープン・カーでやってきた。この二人は手前どものところに泊まり、きのうは、朝食も取ったし。きっと、いまごろは、まだベッドのなかにいるはずだよ。その後、いっぺんも姿を見かけていないけどね」
メグレはこのおしゃべりを聞いていないようにみえたが、実際は聞いていて、ちゃんと記憶していた。
潜水夫がやっとのことで姿をあらわし、大きな銅のへルメットをいそいではずさせた。
「もう引っぱっていいぞ」と、潜水夫が言った。「ロープをしっかりとかけたから」
道路では、この人だかりの理由がわからないので、車がしきりにクラクションを鳴らしていた。車の窓から首を出す者もいた。
モンタルギから運ばれてきたクレーンが、耳をつんざくような騒音をたてた。しばらくすると、グレーの車のボディの上部が水からあらわれ、つづいてボンネットが、タイヤがあらわれた……。
メグレは足が濡れ、ズボンの裾も泥だらけだった。熱いコーヒーを飲みたいと思ったが、この場所を離れて宿屋に行きたくなかった。憲兵隊の隊長も、もうメグレに気休めを言おうとはしなかった。
「おい、気をつけろ! もうちょっと左をゆるめろ……」
車の前部には、衝突の跡が歴然としていた。このことは、すでにトラックの運転手の証言にもあるとおり、事故の瞬間、スポーツ・カーがパリの方向を向いていたことの証拠だ。
「もっと引け! 一……二……もうちょっとだ!」
車はやっと川岸におろされた。おかしな恰好だった。車輪はひんまがり、フェンダーは紙のようにしわくちゃ、シートにはすでに泥やごみがいっぱいついていた。
憲兵隊の副官は登録番号をノートした。隊長のほうはダッシュボードの上に、持主の名前のついたプレートをさがした。このプレートにはこう書いてあった。
R・ドーボワ、パリ、テルヌ通り一三五番地。
「ここに電話してみましょうか、警視?」
メグレはこう言ってるようだった。「好きにしろ、私の知ったことじゃない!」
これは憲兵隊の仕事で、パリ司法警察の警視の仕事ではなかった。すでに班長が、パリに電話するためオートバイで遠ざかっていた。通りがかりの車から降りた十人ほどの野次馬も含めて、みんなが川から引き上げられたこの無残なスポーツ・カーを取りかこんでいた。車のボディに何気なくさわったり、かがみ込んで車内をのぞいたりする者もいた。
しまいには一人の男が好奇心にかられて、トランクのハンドルをまわしてみた。車がひん曲っていたので、だれもが開くとは思っていなかったのだが、何なく開いた。その男はさけび声をあげ、二、三歩あとずさった。彼のまわりの者たちが何事があったのかとどっと押し寄せた。
メグレも一緒に近よったが、眉をひそめると、今朝以来はじめて、口のなかでぶつぶつ言うのではなく、はっきりした声でどなった。
「さあ、どいて! さがるんだ! 何にも手をふれないで!」
メグレも見た。トランクの奥に奇妙なぐあいに折り曲げられて押し込まれた人間のからだを。まるで、トランクの蓋《ふた》をむりやり閉めたようだった。頭の上のプラチナ・ブロンドの髪が、女であることを示していた。
「隊長! ここから人を追い払ってほしい。まだやることがあるんでね、とてもいやな仕事が……」
考えただけでもいやな仕事だった! びしょぬれのトランクの中から女の死体を引っぱりだすなんて……。
「何か匂わないかね?」
「匂います」
「ということは……」
そう、メグレたちは十五分後に、その証拠をつかんだ。車を停めてながめていた野次馬の一人が、医者だった。彼は道路ぎわの草の上で死体を調べた。死体を見ようとむらがる人たちを、たえず押し返さなければならなかった。なかには子供たちもいた。
「死んだのは少くとも三日前です……」
メグレの袖を引っぱる者がいた。『溺死人の宿』の主人《あるじ》、ジュスタン・ロジィエだった。
「この車は見覚えがあります」と、彼はわざといわくありげな表情をうかべながら言った。「手前どものところの若いお客さんの車です!」
「その者たちの名前がわかるかね?」
「宿帳に控えてございます」
医者が口をはさんだ。
「これが殺害された死体であることは、もちろんあなたにもおわかりでしょうね?」
「兇器は?」
「カミソリです。カミソリでこの女の喉を切り裂いたのです……」
あいかわらず雨が降りつづいている。スポーツ・カーの上にも、死体の上にも、灰色の朝のなかで動いているすべての人影の上にも。
オートバイがもどってきて、斑長が飛び下りた。
「このスポーツ・カーはドーボワさんのものではありません。私は電話で彼と話しました。先週、マイヨー門の近くで修理工場を経営している男に売ったとのことです」
「それで、その修理工場の経営者は?」
「そちらにも電話してみました。その修理工場では三日前にその車を若い男に売り、現金払いだったので、名前を控えておかなかったそうです」
「しかし、手前どものところに名前が控えてございますよ」と、宿屋の主人は自分のことをかまってくれないので、いらだたしげに言った。「手前どもの家に来ていただければ、それだけで……」
メグレが宿帳を見るため、『溺死人の宿』に行こうとしていると、モンタルギに一つしかない新聞社の記者と、パリのある大新聞の通信員を兼ねている赤毛の男がやってきた。
この男が事件のことをどうやって調べたのか、まったくわからない。というのは、メグレも隊長のピルマンも彼をすぐに追い払ってしまったからだ。それでも彼は、現場に到着するやほどなく、電話ボックスに十五分以上も閉じこもっていた。
一時間後、宿屋に押しかけてきた野次馬たちを追いはらっていた憲兵は、つぎつぎに記者証を見せつけられた。カメラマンも連れてきていた。カメラマン連中はテーブルや椅子の上によじ登って、事件とはぜんぜん関係ない写真を撮りまくった。
メグレのほうは、パリからの返事を電話で受けていた。
「国家警察総局は同意しているよ。きみは現場にいるんだから、非公式に捜査をつづけてくれたまえ。今日じゅうに国家警察の刑事を一人、そちらに送るそうだ……」
とにかく、奇妙な事件だ! それに、宿屋も奇妙だった。道路の急カーブのところにおかしなぐあいに建っている宿屋。メグレがいましがた知ったところでは、ここ五年間でこの場所からロワン川に落ちた車は、こんどで三台目だという。前の二件は、奇妙でも何でもなかった。猛スピードで走ってきた車が、ここのカーブを知らなかったため、ハンドルを切りそこねて、そのまま川に飛び込んだ。最初の車には五人の家族がとじこめられたままだった。二台目のは、犠牲者は一人きり。
この宿屋が『溺死人の宿』という仇名をつけられるのには、もう一つ理由があった。聖霊降臨の大祝日に、若い女がある個人的な悲しみのために川に身を投げて溺死した。その間、亭主のほうはそこから五十メートルのところで、釣りをしていた。
『溺死人の宿』! 新聞記者たちがつぎつぎと入り込む電話室の近くに立っていさえすれば、夜になる前にこの宿屋が有名になることはわかるはずだ。
……『溺死人の宿』の秘密……『溺死人の宿』の犯罪……トランクのなかの死体……灰色の車の謎……
メグレはむっつりと黙りこくってパイプをふかし、大きなハム・サンドを頬ばり、ビールで喉の奥に流し込んだ。そして、警察の仕事をきまって面倒にしてしまういつもながらの騒ぎをながめていた。
これらの人々のなかで、メグレの興味を惹いたのは二人の人間だけだった。『ベル・テレーズ号』の船頭と、トラックの運転手。
船頭はそっとメグレに会いにきた。
「わしらは荷物を早くとどけるとボーナスがもらえるんでして……今朝早く発っていなければならなかったんです……そういうわけですから、もしできましたら……」
「どこに荷物をおろすんです?」
「パリのトゥールネル河岸です……まだ運河に一日かかり、セーヌ河を半日ほどさかのぼらなければならないので、向うに到着するのは明後日の夕方になるでしょう……」
メグレは船頭に証言をくり返させた。
「わしらは夕食をすませていて、女房はもうベッドに行っていました。わしも寝ようとしたとき、妙な音を聞いたんです……船のなかにいてはよくわからないので、昇降口から首を出してみると……助けをよぶ声が聞こえたような気がしました……」
「どんな声?」
「ただ、声とだけしか……トタン板のデッキで雨がぱちぱち音を立てていましたし……その声はとても遠かったし……」
「男の声、女の声?」
「男のようでした!」
「最初の物音を聞いてから、どのくらいたっていました?」
「直後ではなかったはずです。ちょうど靴を脱いでいたところで、それから、スリッパをはいたのですから」
「そのあと、どうしました?」
「スリッパのまま外に出るわけにはいかないので、また下に降り、革の上衣と、オーバーシューズをはき、まだ眠り込んでいなかった女房にこう言いました。
「だれかが水に落ちたらしい……」
メグレはたずねた。
「なぜ、だれかが水に落ちたと思ったのです?」
「わしらは川や運河の上で生活しているもんですから、助けをよぶ声を聞くと、そう思うんです。わしは爪竿で、もう五人以上の人間を助けています……」
「あなたは川のほうに向ったのですか?」
「あの場所では、運河とロワン川の間は二十メートルと離れていないので、すでに現場にいたと言ってもいいでしょう。トラックのへッドライトが見え、大きな男が歩きまわっていました……」
「トラックの運転手ですね……いま、あそこにいる男がそうですか?」
「そうです……運転手さんは、車と衝突し、車を川につき落してしまったと言いました……そこで、わしは懐中電燈を取りにもどり……」
「そうすると、そうなるまでかなり時間がかかったわけですね?」
「ええ、そのはずです!」
「その間、運転手は何をしていました?」
「わかりません……暗闇のなかで何かを見分けようとしていたのではないでしょうか……」
「あなたはトラックに近づきましたか?」
「たぶん近づいたと思いますが、よくおぼえてません……わしは、人間が水面に浮いていないかどうか、そっちのほうばかりに気を取られていたもんで……」
「それでは、トラックには運転手だけしかいなかったかどうかはわかりませんね?」
「だれかがいたなら、一緒になってわしらに手を貸してくれたでしょう……」
「これ以上、もうどうしようもないとわかったとき、運転手はどう言いました?」
「憲兵隊に知らせに行くと」
「どこの憲兵隊か言いましたか?」
「いや……言いませんでした……」
「七百メートルしか離れていないところに宿屋があるのに、そこの電話を使ったらいいとは考えなかったのですか?」
「トラックが走り去ってから、そう思いました……」
トラック運転手はへラクレスのような大男だった。彼は会社に電話して、事故のために警察に足どめをくっていることを連絡すると、あとは成行きをおとなしく待った。そういう彼に、新聞記者たちは酒をおごって、事故の模様を聞き出していた。
メグレは運転手をわきへ引っぱり出して、人目につかない小さな食堂へ連れ込んだ。この食堂におかれたソファを見れば、不吉な仇名のついたこの宿屋がアベックたちをいかに歓待しているかがよくわかる。
「ふつう、トラックには運転手が二人乗っているのではなかったかな、とくに長距離便トラックの場合は」
「ええ。だいたいはそうなんですが、一週間前から私の相棒が手に怪我をして、有給休暇を取ってしまったので、私が一人で運転してます」
「パリを何時に出ました?」
「二時に。積荷は種々雑多です。道路がスリップしやすいので、ゆっくり走りました」
「トラックの運転手のいきつけの食堂で、あなたも車を停めて食事をしたと思いますが?」
「おっしゃるとおりです。ちゃんときまった食堂があって、ほとんどおなじ時間に顔を合わせるんです。ヌムールを過ぎた直後、私はカトリーヌおばさんの食堂でトラックを停めました。ここはうまい料理を食べさせるんです」
「外にはトラックが何台停っていました?」
「四台! モラン会社の引っ越しトラックが二台に、ガソリン・トラックと長距離便トラックが一台ずつ」
「他の運転手たちと一緒に食べたのですね?」
「三人と一緒に。あとの連中は隣りのテーブルにいました……」
「食堂を出た順番は?」
「他の連中のことはわかりませんが、私はいちばん最後に出ました。というのはパリに電話が通じるのを待っていたもんですから……」
「だれに電話をしたのです?」
「社長に。ムランにピストン・リングを用意しておいてくれるようにたのんだのです。エンジンの調子がよくないことに気がついたんです。三番目のシリンダーが……」
「わかった! 他の運転手たちとは、どのくらい離れていたと思います?」
「私の前に出発したのが引っ越しトラックで、その十分後に私は出ました。ちょっと飛ばしたので引っ越しトラックと私との距離は四、五キロぐらいかと……」
「スポーツ・カーに気がついたのは、事故の直前だったのですね?」
「数メートル手前で。ですから、衝突を避けるには遅すぎたのです」
「ライトが一つもついてなかった?」
「一つも!」
「人の姿は?」
「何とも言えません……雨が降っていたし、ワイパーがうまく動いていなかったので……私の知っていることと言えば、車が川のなかに落ちたのと、暗闇のなかでだれかが泳ごうとしているような感じがしたこと。助けをよぶような声を聞いたのは、そのあとです……」
「もう一つ質問が。さっき私は、トラックの運転台の下のボックスに、故障もしていない懐中電燈を見つけたのですが……なぜ、その懐中電燈を取りに行かなかったのです?」
「何がなんだかわからなくなっていたのです……頭がおかしくなっていたんでしょう……私はこわかったのです、トラックもロワン川に落ちてしまうことが……」
「あなたが通ったとき、この宿屋に明りがついていなかったのですか?」
「ついていたと思います!」
「あなたはよくこの道を通りますね?」
「週に二度」
「この宿屋から電話しようとは思わなかったのですか?」
「ええ! モンタルギは遠くはないし、そこまで行こうと考えたのです……」
「あなたが川岸をさがしている間に、だれもトラックに隠れることができませんか?」
「そんなことできません」
「なぜ?」
「荷台のシートのロープをほどかなければならないからです」
「ありがとう! もちろん、私がいいと言うまで、ここに残っていてくれますね」
「それでお役に立てるなら!」
運転手の気がかりといえばただ、うまい食べ物に、うまい酒を飲むことだけだった。彼が料理場に行き、昼食のメニューを注文している姿を、メグレは見かけた。
料理をつくるのは、ロジィエ夫人だった。黄ばんだ顔色の痩せた女で、いきなりこんなに人がやってきたので、てんてこまいしていた。おまけに、町から料理の材料をいろいろ届けさせたいと思っても、新聞記者がつぎからつぎへと電話を使うので、電話室に近づくことさえできなかった。
若い女中のリリは、アペリチフを出しながら、客のだれかれなしに冗談を言いあっていた。彼女は年齢の割には、ませた顔をしている。主人はバーのカウンターで、いっときも休む暇がなかった。
ふつうだったら、いまは閑な時期だった。この宿屋は、夏には観光客や、アベックや、釣り師たちをあてにできるが、秋になるともう客はほとんどなかった。パリからハンターが何人か来るが、このあたりの狩猟小屋を借り、ただ食事をたのんでくるだけだった。
主人のロジィエはメグレに言った。
「おとといの夕方、若いお二人がグレーの車でやってくるのを見ましてね。そう、川から引き上げられたあの車です。手前はとっさに、若い新婚さんだな、とこう思いました。これが、お二人に書いてもらった宿帳でございます」
宿帳の文字はとがっていて、神経質そうだった。つぎのように書いてある。
ジャン・ベールボワ。二十歳。広告代理店勤務。パリ、アカシア通り十八番地。
宿帳の質問欄には、こう答えている。『出発地パリ、目的地ニース』
最後に、連れの女性のことも宿帳に記入してほしいと言うと、若い男は、自分のことを書いたすぐ横に、こうつけ加えた。『および、その妻』
この情報はすでに電話でパリに知らされ、十七区にあるアカシア通りは調べられた。ここは、スポーツ・カーを売った修理工場から遠くない。
「……若い娘さんはとてもきれいで、十七か十八歳でした」と、宿屋の主人はメグレの質問に答えている。「手前どもは内緒で彼女のことを『かわい子ちゃん』と呼んだりしましてね。身につけていたのは、この季節に反して薄すぎるドレスと、スポーティーなコートでした……」
「その二人は何か荷物をもっていましたか?」
「スーツケースが一個、それはまだ階上《うえ》にございます……」
ところで、そのスーツケースの中身は男もののスーツと下着類だけ。ということは、謎の若い女は旅に出ることを予期していなかったらしい。
「二人ともいらいらしているようでしたか?」
「べつにそんなふうには見えませんでした……それより、あの二人の頭には恋のことしかなかったのではないでしょうか。きのうもほとんど一日じゅう部屋に閉じこもりきりで……朝食もリリに通ばせたりしましてね。リリに言わせますと、愛し合っているお二人が部屋を出たがらないのは当然だ、だから食事を部屋まで運んでやるのも当然だというのですが……警視さんもそうお思いですか?」
「ニースに行くのに、パリから百キロたらずのところで泊ってしまった理由を言いませんでした?」
「空いた部屋さえあれば、どこに泊ってもかまわなかったのではないでしょうか……」
「それで、車は?」
「ガレージにおいてございました。警視さんもあの車をごらんになったでしょう……デラックスですけど、数年前の旧式で、たいして金のない者たちが買う車です。いかにも金持ちみたいにみえるし、スタンダードの新車より安いし……」
「車のトランクを開けてみようとは思わなかった?」
「とんでもございません……」
メグレは肩をすくめた。というのは、この男はどうでもいいことしか言わなかったし、メグレはこうした宿屋の主人の好奇心がどんなものか、よくわきまえていたからだ。
「要するに、あの二人は寝るために、ここにもどってくるはずだったのですね?」
「夕食を取るためと、寝るために。手前どもは夜の十時まで待って、食事をお下げいたしました……」
「車がガレージから出たのは何時ですか?」
「ちょっとお待ちください……すでにあたりは暗くなっていましたから、四時半頃だったでしょうか……手前はまた、あのお二人さん、あんまり長い間部屋に閉じこもりきりでいたので、モンタルギかどこかに気晴らしに出かけたくなったのだと、こう思ったのです……スーツケースをおいたままなので、お勘定のことなど心配いたしませんでした……」
「事故のことを、ぜんぜん知らなかったのですか?」
「夜の十一時頃、憲兵隊の人がくるまではぜんぜんです……」
「とっさに、これはあのお客さんに関係があるな、と思いました?」
「そうではないかと心配いたしました……ガレージから出るときの運転がどうも下手くそだったものですから……あの若い方の運転が未熟であることは一目瞭然です……もちろん、手前ども地元の人間は、あの川っぷちの急カーブを承知しておりますが……」
「あの二人の会話に、何かおかしな点はなかった?」
「手前どもは人の話など盗み聞きいたしませんので……」
ところで、この事件はつぎのように要約できる。
月曜日、午後五時頃、パリ、アカシア通り十八番地に住む、広告代理店勤務のジャン・ベールボワなる二十歳の男が、自宅近くの修理工場で、デラックスだが旧式のスポーツ・カーを買う。その代金は千フラン紙幣五枚で支払われる。(メグレが電話でうけた情報によると、修理工場の経営者は、この客の財布にはまだかなりの札束が入っているような感じをうけている。ベールボワは値段を値切ろうなどとはせず、明日名義変更をすると言った。修理工場には、彼は一人でやってきている)
火曜日のことについては、まだいっさいわかっていない。
水曜日、夕方、このおなじベールボワが車で、パリから百キロたらずのところにある『溺死人の宿』にやってきた。うら若い娘を同伴している。宿屋の主人は、良家の娘にちがいないと見ている。彼は商売柄、こういうことにかけてはくろうとである。
木曜日、この二人はあたりをちょっとドライブしてくるみたいな感じで、車で出かける。数時間後に、ライトを消したまま停っていたこの車は、宿屋から七百メートルの場所でトラックに衝突された。トラックの運転手と船頭は、暗闇のなかで助けをよぶ声を聞いたと言っている。
ジャン・ベールボワと娘の行方は不明。この地方の憲兵隊が総出で、朝から付近一帯をさがしている。駅にあたってみたが、むだだった。農家や、宿屋や、道路をさがしてみても、二人の人相、風体にあたる者はいない。
そのかわりに、車のトランクのなかから、四十五から五十歳ぐらいの女の死体が見つかった。服装といい、化粧といい、とても垢《あか》ぬけした女だ。
検死医は、通りがかりの医者の言ったことが正しいことを裏書きした。女は月曜日に、カミソリで喉をかっ切られて殺害されたのである!
このほかにも、検死医はあまり確信なさそうな口ぶりで、死体をトランクに入れたのは……不細工に押し込んだのは、死後二、三時間たつかたたないうちだと語っている。
したがって、あの二人が宿屋に着いたとき、車のなかにはすでに死体があったということになる。
ベールボワはそのことを知っていたのか?
連れの娘は知っていたのか?
夜の八時に、車をライトを消したまま道路の端に停めて、いったい何をしていたのか?
不慣れな運転手が修理できないような故障が生じたのか?
そのとき、車のなかにだれか乗っていたのか?
暗闇のなかでさけび声をあげたのはだれか?
上流社会の人間である憲兵隊の隊長は、メグレの捜査を邪魔しないようにしていた。しかし、その一方では、部下たちを使ってできるだけ多くの手がかりを集めるように努力していた。平底の小舟が十艘、ロワン川にくりだし、爪竿で川底をさがしていた。川岸を歩きまわっている憲兵たちもいれば、水門のまわりをせかせかと動きまわっている憲兵たちもいた。新聞記者たちは宿屋を征服した領土のように考え、支配者然として腰を落着け、部屋という部屋は喧噪でみちていた。
『ベル・テレーズ号』は瓦《かわら》を積んでトゥールネル河岸へ向かった。トラックの運転手はまわりの騒ぎには目もくれず、この新しい有給休暇を抜け目なく利用していた。新聞の見出しは、輪転機から出てくるたびに大きくなった。センセーショナルになればなるほど大きくなった。そのもっとも大きい見出しは、つぎのようなものだ。
二十歳のアベック
車のトランクで死体を運ぶ
その下にイタリックで、
ロワン川の濁流
殺人者と被害者を呑みこむ
捜査が中だるみの時期だった。こういう時期、いらいらしたメグレはだれとも口をきかず、ビールを飲み、パイプをふかし、檻《おり》のなかの熊よろしくあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、ぶつぶつ独り言をつぶやいている。いまはまた、よせあつめたすべての証拠が、たがいに矛盾しているように思える、ためらいの時期でもあった。こういう時期には、雑然と集った情報のなかで一つの糸口を見つけようとしてもむだで、どこにも通じない間違った糸口を選んでしまうのではないかと苦しむばかりだ。
なお、不幸なことには、宿屋の暖房がよくなくて、おまけにメグレのとくに嫌いなセントラル・ヒーティングだった。しめくくりは、料理のまずさだった。宿屋では料理を注文する者の数が増えたので、ソースをうすくしはじめたのである。
「ちょっと申し上げたいことがあるのですが、よろしいでしょうか、警視殿………」
隊長のピルマンはメグレの前に坐ると、そっと微笑んだ。メグレはいつもより気むずかしい。
「警視殿はきっと私のことを怨んでおられるでしょう。私のほうは、警視殿にこうして尽力していただいてよろこんでおります。といいますのは、初めは平凡なものに思えたこの衝突事故が、だんだんと不可解な事件に思えはじめてきたからです」
メグレはそれに答えず、ポテト・サラダと、いわしと、砂糖大根を自分の皿に取った。三流の宿屋の昔ながらのオードーヴルだ。
「あの恋をする美しい娘がだれだかわかれば……」
制服姿の運転手が運転する大型車が、玄関前で停った。車は泥だらけ。灰色の髪の男がその車から降りたが、いっせいにフラッシュをたかれて思わずたじろいだ。カメラマンたちは念のためにこの男を撮ったのだ。
「ほら!」と、メグレはつぶやいた。「あの娘の父親にちがいない」
二
警視は間違っていなかった。しかし、メグレが愁嘆場を恐れていたとしたら、それは、公証人ラ・ポムレー氏のきわだった品位のおかげでまぬかれることができた。威厳を示すことに慣れた人間らしく、新聞記者たちを押しのけると、メグレについて小さな客間に入り、自己紹介した。
「ベルサイユで公証人をしているジェルマン・ラ・ポムレーです」
この職業は、宮殿で有名な都市同様、この上品で、背の高い人物に、そのつやのない顔色に、ほとんど動かさない表情におどろくほどぴったりだった。彼は床をじっと見つめながら、たずねた。
「娘は見つかりましたか?」
メグレはため息をついた。「お気の毒ですが、その前に、かなりこみいった質問を、いくつかさせていただかなければなりません」
公証人は手で、「どうぞ。当然のことですから」という身ぶりをした。
「娘さんがこの事件にかかわっていると、どうして思ったのですか。まずそれからお答えいただきましょう……」
「説明しましょう。私の娘、ヴィヴィアンヌは十七歳ですが、二十歳のようにみえます。もう、十七歳『でした』と言うべきかもしれませんが、いちおう、『です』と言っておきます。あの娘《こ》は母親に似て、かっとのぼせやすい性質《たち》なのです。それに、是非は別として、とくに妻が死んでからは、私はあの娘をわがままいっぱいに育てました……。あの娘が、ジャン・ベールボワとどこで知り合ったのかよくは知りませんが、プールか、ブルゴーニュ近くのスポーツ・クラブだと聞いたような気がします……」
「あなたご自身は、ジャン・ベールボワを知らないのですか?」
「一度しか会っておりません。もう一度くり返しますが、ヴィヴィアンヌはかっとのぼせやすい娘なのです。ある晩、あの娘はいきなり、こう言ったのです、『パパ、わたし結婚するわ!』」
メグレは立ち上がり、さっとドアを開けると、かぎ穴に耳を押しあてていた新聞記者を、黙って軽蔑するようにながめた。
「どうぞ、話をつづけてください!」
「最初は、冗談だと思いましたが、そのうち本気だとわかったので、相手の男に会わせろ、と言ってやりました。すると、ある日の午後、ジャン・ベールボワがベルサイユにやってきたのです。見るなり、私はこの男がいやになりました。というのは、友達から借りた大きなスポーツ・カーで乗りこんできたからです。このこと、あなたにわかっていただけるでしょうか?たしかに、若い人たちには野心を抱く権利はあります。しかし、二十歳の若さで、こうやってぜいたくな趣味に手軽にふけるのはよくありません。それが下品なものとあれば、なおさらです……」
「つまり、その顔合せはむしろひややかなものだった?」
「ひややかどころか、大荒れでしたよ。どうやって妻を養っていくつもりかとその青年にたずねると、すてきな仕事が見つかるまで、私の娘の持参金で、とにかく飢えだけはしのぐことができると、答えるんです。それがまた、こちらがとまどってしまうほど、あっけらかんと。いいですか。彼は典型的な若い日和見《ひよりみ》主義者です、すねた話しぶりといい、態度といい。こちらが一瞬、これはポーズなのではないか、内気さを隠すためではないかととまどったほどです。おまけにベールボワは、親というのは何かというとすぐに権利をふりまわすとか、上流階級のなかには頭の古い者がいるとか、長広舌をふるったのです。そのあげく、その典型的な人間が私だなどと言い出す仕末です……。
一時間後に、私はベールボワを追い出してやりました」
「その日から今日まで、どのくらい日がたっていますか?」と、メグレはたずねた。
「一週間たらずです。そのあとで娘に会うと、娘はきっぱり、ベールボワ以外の男とは結婚するつもりはない、パパはあの人のことがよくわかっていない、誤解しているなどと言うのです。それどころか、この結婚に同意しなければ、彼と駆落ちすると言っておどかすのです……」
「それでも、あなたは反対なさった?」
「そうです! そんなのはこけおどしだと考えたのです。時間がたてば、すべてがうまくおさまるだろうと……ところで、火曜日の午後から、ヴィヴィアンヌはいなくなりました……その日の夕方、私はアカシア通りのベールボワの住居に行ってみましたが、彼は旅行に出かけたと言われました………女管理人に訊いてみると、とても若い娘が一緒だったとのことです。ヴィヴィアンヌに違いありません……そういったわけで、今日の正午に、新聞で昨夜の出来事を読んだとき、ああ、娘のことだなと思ったのです……」
ラ・ポムレー氏はまだ落着いていたし、堂々としていた。しかし、額には汗がかすかにうかんでいる。彼は目をそむけて、はっきりと言った。
「一つだけお訊きしたいことがあります、警視さん。卒直に答えてください。急激なショックを受けても、私はまだ十分に耐えられます。それより、耐えられないのは、希望と絶望の間を長い間往ったり来たりすることです。あなたの考えでは、私の娘は生きているでしょうか?」
メグレはしばらく答えないでいた。それから、つぶやくように言った。
「その前に、最後の質問をさせてください。あなたは娘さんのことをとてもよく知っているように、私には思えるのですが。ベールボワへの娘さんの恋はたいへんだったようですね、情熱的で、ロマンチックで。ベールボワが殺人者だと知ったとき、娘さんは恋のために共犯者になるでしょうか? すぐに答えなくてけっこうです。かりにですよ、娘さんが愛人の家へ行って……失礼、しかし、この表現はあいにく正確なのです……ベールボワから、駆落ちするのに必要な金を手に入れるため、人殺しをせざるをえなくなったと聞かされ……」
二人の男は黙りこくった。やっと、ラ・ポムレー氏はため息をついて、言った。
「私には答えられません……しかし、警視さん、一つだけ言うことがあります。これは、私だけしか知らないことなのです……さっき、妻が死んだといいましたね……そのとおりなのです。妻はたしかに南アメリカで三年前に死んだのですが、じつは八年前、あるコーヒーの栽培者と駆落ちしたのです。ところで、駆落ちするとき、妻は事務室の金庫から十万フラン持ち出しています……ヴィヴィアンヌはこの母親に似ていますから……」
「そうだといいのですが……」
メグレがこうため息をつくのを聞いて、ラ・ポムレー氏はびくっとなった。
「なぜです?」
「連れの娘さんのことを、ジャン・ベールボワが何もこわがることがなければ、娘さんを消す理由がないからです。それとは逆に、たとえば、車のトランクの死体を見つけて、娘さんが憤然となって、彼をいろいろおどかしたとすれば……」
「おっしゃりたいことはわかります。しかし、新聞に書かれているようなことにどうしてなったのか、私には理解できないのです。衝突のとき、車には人がいた、トラックの運転手と船頭がさけび声を聞いている。ベールボワとヴィヴィアンヌには車を離れる理由などなかった……ですから、私には……」
「今朝から、川底をさがしてます。いままでのところ、何一つ成果はありません。ちょっと、あの二人が泊っていた部屋に一緒に来ていただけませんか?」
平凡な部屋だった。壁には花模様の壁紙が張られ、銅のベッドに、マホガニーの鏡つき洋服箪笥。洗面台の上には、カミソリ、ひげ剃りブラシ、歯ブラシが二本……そのうちの一本は新しかった。
「どうです」と、メグレは言った。「男は自分の持ち物を持ってきています。しかし、あの二人は途中で車を停めて、若い娘のために歯ブラシと、ベッドのそばにある旅行用のスリッパを買った。あなたの娘さんだとわかる証拠が何かあるといいんですが……」
「あれが娘のものです」と、父親はカーペットの上でかすかに光っている宝石を指さして、悲しそうに言った。「ヴィヴィアンヌはいつもイヤリングをつけていました。以前は母親のものでした。片方のイヤリングがうまくしまらなくて、よく失くしましてね。でも、そのたびに奇蹟的に見つかりました。ここにあるのが、その片方のイヤリングです! これでもまだあなたは、あの娘が生きているかもしれないと思うのですか?」
メグレには答える勇気がなかった。生きていたとしても、ヴィヴィアンヌ・ラ・ポムレーは殺人の共犯者になるかもしれないのだ!
公証人にはしつこく言って、ベルサイユに帰ってもらった。雨はまだ降りつづけ、『溺死人の宿』はますます司令部のような観を呈していった。川底をさぐりつづけている船頭たちの仕事を、大雨のなかで見守っていることに疲れてしまった新聞記者たちは、あきらめてブロット(オランダ伝来と伝えられるトランプ遊びの一種)をやりはじめていた。憲兵隊の隊長は車をいつでも自由に使えるようにしてくれていたが、メグレは使わなかった。メグレの捜査方法を知らない者には、彼のとりとめのない動きは理解してもらえなかったからだ。
メグレが電話室のなかに入った。それを見ると、新聞記者たちは何か新しいことがつかめるのではないかと考え、職業がら無遠慮なので、ためらわずにドアに近づいた。しかし、メグレが電話したのはパリの気象台だった。彼はまず、最近の天気予報について訊いてから、こまかいことをいくつかしつこくたしかめた。
「昨夜の八時ごろは月が出てなかったと言うんですね? 今日もおなじですか? えっ? 十二時十二分過ぎに月が出る? ありがとう……」
電話室から出ると、メグレはひどく満足そうだった。茶目っけをみせて、新聞記者たちにこう言った。
「諸君、いいニュースがありますよ。この大雨は少くとも三日はつづきます……」
このあと、メグレは隊長のピルマンと長い間話しつづけた。話し終わると、ピルマンはいなくなり、この日はもう二度と姿を見せなかった。
みんなは盛んに酒を飲んだ。だれかがヴヴレー葡萄酒の壜《びん》を見つけ、みんなはそれを飲みたがった。テーブルの間を給仕して歩くリリはあちこちでからだをさわられたが、あまりじゃけんにはふりはらわなかった。
四時半には、夕闇が落ちた。ロワン川の捜索は打ち切られた。もう死体を見つけることは不可能になった。この時間では、この流れからいって、セーヌ河まで運ばれているにちがいない。
道路を片づけるため、レッカー車がやってきて、川から引き上げられた車をモンタルギヘ曳っぱって行った。そこで、憲兵隊の手にわたされる。
六時に、一人の新聞記者が宿の主人《あるじ》を呼んで、言った。
「きょうの夕食は、どんなうまいものを出してもらえるのかい?」
すると、だれかが答えた。
「夕食はなしだ!」
いちばんびっくりしたのは主人だった。主人は自分のかわりにだれが答えてくれたのかと、あたりを見まわした。こういう答え方は、商売のためにはよくない。
答えたのはメグレだった。彼はゆっくりと新聞記者たちに近づいた。
「じつは、きみたちにここで夕食を取ってほしくないと言いたかったのだ。気がむけば十時頃に帰ってきて、泊ってもかまわない。しかし、七時から九時までは、昨夜ここにいた人たちしかいてほしくない……」
「犯罪の再現ですか?」と、だれかが知ったかぶりをして、さけんだ。
「とんでもない! いま、言っておくが、このあたりに待ち伏せしていてもむだなことだ。何も見つからない。そのかわり、私の言うとおりにしてくれれば、きみたちはすばらしい記事を、明日の朝刊に間に合うように手に入れられるはずだ……」
「何時に?」
「そう、十一時前……私はモンタルギに、すばらしい料理を食べさせるところを知っている。『ホテル・クロッシュ』だ……諸君、そこへ行って、私の名前を主人に言いたまえ。申し分のないもてなしをしてくれるはずだ……私がそこできみたちと一緒になるときには……」
「私たちと一緒に食事をしないのですか?」
「私にはすでに約束がある。しかし、あとで行く……さあ、どうするかはきみたちの自由だ。もし一人でもインチキする者がいたら、情報は絶対にやらない。諸君、じゃあとで。おいしい食事を!」
新聞記者連中が出ていくと、メグレはほっとため息をつき、怒っている主人を意味ありげに見つめた。
「そう、怒らないで! あなたが儲かるのはレモネードばかりで、食事ではない。彼らは朝から飲んでばかりいた……」
「このまま飲みつづけたでしょうね!」
「いいかね! これは大切なことなのだが、七時から九時まで、ここの者は全員、きのうとおなじ場所にいてもらいたい、明りもきのうとおなじ……」
「そんなのは簡単です」
みんなから忘れられてしまったようにみえた者が一人いた。トラックの運転手、ジョゼフ・ルコワンだ。彼はびっくりしてメグレを見つめていたが、やっと口を開いた。
「私は?」
「私をヌムールまで乗せていく」
「トラックで?」
「きまっているじゃないか。なぜだい? デラックスなリムジン車でもあれば別だが……」
「お好きなように。私はお役に立てればいいんですから……」
といったわけで、メグレ警視は十トン積みトラックの運転台に坐って、『溺死人の宿』を去った。
三
「どこで下ろしましょうか?」
トラックは暗闇と雨のなかをつき進んだ。彼らは一言もいわなかった。ときどきすれちがう車はへッドライトをスモールにした。ワイパーは大きな蜜峰のような、ぶーんという音をたてつづけている。
「私を下ろすことなんかないさ!」
運転手はびっくりしてメグレを見つめた。メグレが冗談を言ったと思ったらしい。
「それじゃ、どうするんです? パリにでも戻るんですか?」
「いや! ちょっと待て、時間を見るから……」
メグレは時計を見るためライターをつけた。針が七時半を指している。
「よし! 最初にあの食堂で停めてくれ。時間はたっぷりあるから……」
メグレはコートの襟をたてて歩道をわたると、ルコワンと一緒に小さな食堂のカウンターになれなれしく肱《ひじ》をついた。警視の態度が急に変ったので、ルコワンはおどろいている。メグレが威嚇的になったのでもなければ、不機嫌な表情をあらわしたわけでもない。
いや、ぜんぜんその逆だった。彼は落着いていた。ときどき目が笑いさえしている。自信たっぷりだった。もしだれかがたずねたら、彼はよろこんでこう答えただろう。
「人生はすばらしいじゃないか!」
彼はアペリチフをゆっくりと飲み、ふたたび時計を見ると、勘定をはらった。
「さあ、出かけよう!」
「どこへです?」
「まず、カトリーヌばあさんの店で食事する。おまえさんがゆうべしたように。どうだい、雨もおなじように降っているし、時間もまったくおなじだ……」
この食堂の前にはトラックが三台停っているだけだった。見かけは、うすよごれた感じの食堂だったが、トラックの運転手たちはここでうまいシチューにありつけることを知っていた。女主人がみずから給仕し、十四歳の彼女の娘が手伝っていた。
「あら? また来たの?」と、女主人はルコワンが入ってくるのを見て、びっくりした。
ルコワンは他の運転手たちの手をにぎり、警視と隅に坐った。
「きのう、おまえさんが取ったとおなじものをたのめるかな?」と、メグレが訊いた。
「ここには、料理はたくさんないんですよ……本日の特別料理があるだけ……えーと、今日は子牛のシチューか……」
「そいつは、私の好きな料理だ……」
しばらく前から、この大男の運転手の態度には微妙な変化があらわれていた。前より不自然になっていた。メグレをちらっ、ちらっと盗み見る。たぶん、メグレがいったい何をたくらんでいるのかを考えているのだろう。
「カトリーヌ、いそいでくれ……おれたちには時間がないんだ……」
「あんたって、いつも言うことがおなじね。コーヒーを飲むまで、あと十五分は必要よ……」
子牛のシチューはすばらしかった。コーヒーもそこいらの居酒屋《ビストロ》にあるものよりずっとおいしかった。ときどき、メグレはポケットから時計を取り出した。他の運転手たちが出て行くのをどことなくいらいらして待っているようだった。
古いブランデーを飲みおわると、やっと彼らは腰をあげた。その少しあとで、エンジンの唸《うな》る音が聞こえた。
「こちらにもブランデーを……」と、メグレは注文した。
そして、ルコワンに、
「きのうもこのようだったんだね?」
「ええ、そのとおりです……もう出かけるときでしょう……この時間には、もう電話をかけ終っていましたから……」
「じゃ、出かけよう!」
「もどるんですか?」
「きのうとまったくおなじように……何か困ることがあるのか?」
「私に? どうして私が困るんです? 隠しだてすることなんか何もないのに……」
ちょうどこのとき、カトリーヌがやってきて、運転手に訊いた。
「ねっ! ブノワにわたしのことづけしてくれた?」
「ああ、したよ。話はついてる!」
トラックの運転台に坐ると、メグレが質問した。
「ブノワって、だれだい?」
「モンタルギでガソリンスタンドをやってる男です。私の友達です。いつも彼の店で、満タンにするんです。カトリーヌおばさんは、自分のところにも給油ポンプを一台おきたいと言うので、私がブノワに話をつけてやったんですよ……」
「まだ、ひどく雨が降っているかい?」
「きのうよりちょっと強いようですね……考えてもみてください! こんな土砂《どしゃ》降りのなかを一晩じゅう車を運転しなければならないなんていうのは……」
「スピードを出しすぎていないか?」
「きのうとまったくおなじです……」
メグレはパイプに火をつけた。
「いつもどなられているのは、われわれ運転手ばかりなんです」と、ルコワンはつぶやいた。「われわれが道路の真中をわが物顔で走っているとか、素早くわきにどかないとか言われてね。でも、小型車を運転しているそういった連中が、われわれのようなでっかいトラックを走らせなければならなくなったら……」
いきなり、ののしり声と共に、急ブレーキ。メグレはもう少しでフロント・ガラスに頭を突っ込みそうになった。
「なんてこった!」と、ジョゼフ・ルコワンがさけんだ。彼はメグレを見つめ、眉をひそめると、文句を言った。
「あそこに、あんなものをおかせたのはあんたですか?」
まさしく、ジャン・ベールボワの車が衝突されたそのまったくおなじ場所に、車があった。ジャン・ベールボワの車とおなじグレーの車。雨が降っている! まっ暗な夜。その車はライトをつけていない。
しかし、トラックはそのスポーツ・カーから三メートル以上手前で停った!
一瞬、運転手の顔にこみあげる怒りの表情があらわれたが、ただこうぶつぶつ言っただけだった。
「前もって知らせておいてくれればよかったのに……もしその車に気がつくのが遅れていたら……」
「われわれがおしゃべりしていたことを忘れてはいけない……」
「それが何だって言うんです?」
「きのうは、おまえさんは一人きりだった……だから、全神経を運転に集中できていた……」
ルコワンは肩をすくめて、たずねた。
「いったい何を言いたいんです、こんなところで?」
「トラックから降りよう……こっちから……ちょっと待って……私はちょっと実験をしてみたい……助けをよぶんだ……」
「私が?」
「きのう助けをよんだ人たちがいないんだから、代りの者が必要だ……」
ルコワンはさけび声をあげたが、渋々だった。罠にはめられたのを感じたからだ。彼がひどく心配そうになったのは、足音が聞こえ、暗闇のなかで人影が動いたときだった。
「こっちに来なさい!」と、メグレはその人影に向かってさけんだ。
人影の主は、『ベル・テレーズ号』の船頭だった。警視はだれにも気づかれないように憲兵隊と打ち合わせて、船頭を連れもどしておいたのである。
「で、どうでした?」
「はっきりとそうだと言うことはできません……とにかく、わしにはほとんどおなじように聞こえました……」
「何だって」と、ルコワンは大声をあげた。
「だれが助けをよんだのかはわしにはわかりませんが、きのうとほとんどおなじような声でした……」
こうなると、この大男の運転手は落ち着きを失い、いまにも船頭に飛びかからんばかりだった。船頭にしてみれば、自分がどんな役割を演じているのか、さっぱりわからなかったのだ。
「トラックにもどるんだ!」
だれかが近づいてきた。それまでじっと動かなかった者だ。ピルマン隊長だった。
「うまく行ったよ!」と、メグレは低い声で隊長に言った。「いまに、すべてがはっきりする……」
そう言うと、メグレはふたたびルコワンのわきに坐った。ルコワンはもうさきほどのように愛想よくはなかった。
「これからどうするんです?」
「きのうのように!」
「モンタルギに行くんですか?」
「きのうのように!」
「わかりましたよ! 好きにしてください。あなたがどんなことを考えているかわかりませんが、私がこんどのことにかかわりがあると思っているんでしたら……」
トラックはすでに『溺死人の宿』の前にさしかかっていた。四つの窓には明りがついている。それらの窓の一つには、エナメル塗料で電話番号が書いてある。
「あれを見て、車を停めて電話しようとは思わなかったのか?」
「すでに説明したでしょ……」
「走りつづけるんだ!」
長い沈黙があった。しかめ面をしたルコワンは乱暴な運転をしている。メグレは暗い隅でパイプをふかしていた。
こうしてモンタルギに着いた。とつぜん、警視が言った。
「通りすぎてしまったじゃないか……」
「どこを?」
「憲兵隊だよ……」
「あなたのせいですよ。いろんなこと言うから……」
ルコワンはバックしようとした。憲兵隊はわずか五十メートル後方だったからだ。
「いや、いい! いいんだ!」と、メグレが止めた。「このまま行くんだ!」
「どこまで行くんです?」
「きのう、おまえさんがしたとおりにするんだ……」
「でも、私が行ったのは……」
「おまえさんはすぐには憲兵隊に行かなかった……その証拠は、時間が合わないことだ……ブノワのガソリンスタンドはどこにある?」
「この通りの二つ目の角です……」
「そこに行くんだ!」
「何のために?」
「何でもいい……言われたとおりにしろ……」
そこは、自転車を売っている店の外にあるちっぽけなガソリンスタンドだった。店には明りがついていなかったが、窓ガラス越しに、店の裏手に台所があるのがわかる。台所では人影が動いていた。
トラックが停まるや、この台所から男が出てきた。男はエンジンの音と、ブレーキの軋《きし》む音を聞いたにちがいない。
「何リットル入れます?」と、男はトラックを見もせずに訊いた。
そう訊いた直後、男はだれのトラックかに気がつき、ルコワンのほうへ目をあげた。
「こんなところで、何をしているんだ? 私はまた……」
「五十リットル入れてくれよ……」
メグレは片隅に坐ったままでいたので、このガソリンスタンド兼自転車屋の主人の目から見えなかった。ブノワは仲間と二人きりだと思い、何かしゃべろうとしたにちがいない。しかし、危険を感じたルコワンが、いそいで言った。
「あの、警視さん、これでいいですか?」
「おい! だれか一緒なのか?」
「警察の方だ。犯罪の再現とかいうやつをやっているんだ……おれには何のことかさっぱりわからねえ……警察の旦那方がいつでもつきまとうのはおれたちのような人間なんだよ、たとえ……」
メグレは地面に飛び下りると、びっくりしているガソリンスタンド兼自転車屋の主人を尻目に、店のなかに入って行った。店の裏手の台所に、主人の細君がいるのに気がついたからだ。
「あれがどんなぐあいか、ルコワンが訊いているよ……」と、メグレは行きあたりばったりに言ってみた。彼女は疑わしそうにメグレをながめると、身をかがめて窓越しに外を見た。
「ルコワンさん、あそこにいるの?」
「ガソリンを入れてもらっている」
「面倒を起こしたんではないでしょうね?」
この山高帽をかぶった男が何をしに店に入ってきたのかわからなかったので、不安になった彼女は入口のほうに行った。暗くてよく見えなかった。人の顔を見わけるのは容易なことではなかった。
「ねえ、ポール……」
彼女の亭主は給油ポンプのホースを両手に持って立っていた。
「そこにいるの、ルコワンさん?」
メグレはゆっくりとパイプにたばこを詰め終ると、店の陰にかくれてマッチを擦った。その瞬間、自転車のニッケルめっきをしたハンドルが光った。
「ポール、ちょっと来てくれない?」
そのとき、メグレは二人の男の一人が、もう一方にこう訊くのをはっきりと耳にした。
「どうしたらいいだろう?」
万一にそなえて、メグレはポケットの拳銃をつかみ、いつでもコート越しに撃てるようにしておいた。通りには人気《ひとけ》がなく、明りもなかった。それに、ルコワンには拳の一撃で相手をやっつけられる体力がある。
「あんただったら、どうする?」
女はあいかわらず入口に立ち、寒いので肩を抱きしめている。ジョゼフ・ルコワンは運転台からのろのろと降りると、ためらいがちに歩道を二歩進んだ。
「なかに入って説明してくれないか?」と、メグレは静かに言った。ガソリンスタンド兼自転車屋の主人は給油ポンプのホースをかけた。ルコワンは決心のつかないまま、ガソリンタンクの栓をした。
それでもやっと決心すると、店の入口に向かいながら、こうぶつぶつ言った。
「こんなことになるとは思わなかった……どうぞお先に、警視さん……」
四
まさしくつつましい、小さな住居だった。彫刻を施した樫《かし》の食器戸棚、テーブルの上の格子縞の油布《ゆふ》。それに、市場で買ったにちがいない、けばけばしいピンクや葵色の花瓶。
「お坐りになって」と、細君はメグレの前のテーブルを何気なく拭きながらつぶやいた。ブノワは食器戸棚からボトルを取ると、一言もいわずに四つの小さなグラスに注いだ。一方、ルコワンは椅子に馬乗りになると、背によりかかった。
「何でおかしいと思ったんです?」と、ルコワンはじっとメグレを見つめながら言った。
「理由は二つある。まず、男のさけび声しか聞こえなかったこと。現場には若い娘もいたのだから、こいつはおかしい。それに、娘は溺れたにしても、水面にしばらくは浮いていられるほど泳ぎが達者だったし、そうでなければ助けぐらいよんだはずだ……。つぎに、こうした事故のあと、警察に知らせに二十キロも車を走らせないものだ。すぐそばに電話があるのに……宿屋の窓には明りがついていたのだから、気がつかないはずがない……」
「そのとおりです」と、ルコワンは認めた。「でも、こうしてほしいと言ったのはあの若者なんですよ……」
「もちろん、トラックに乗っていたんだな?」
いまでは、もう後には引けなかった。その上、二人の男は決心していた。女のほうはほっとしたようなところがあった。彼女は二人の男に意見した。
「みんなしゃべったほうがいいわよ。あの卑しい二千フランのために、危い目にあったってしようがないでしょ……」
「ジョゼフがしゃべるさ……」と亭主が口を出した。
ルコワンはグラスの酒を飲み干すと、話しはじめた。
「事はまさに今夜のように起こったのです……警視さんの考えたとおりです……いくら雨が降っていようと、いくらワイパーがわるかろうと、私は目がいいし、ブレーキだってちゃんとしているし、道路に停っている車に衝突するはずがありません……ですから、あと一メートル五十のところで停ったのです。故障のために停ってるのかなと思い、手を貸そうと運転台から降りてみると……不安そうな若い男がいて、二千フランほしくないかともちかけたのです……」
「そのかわり、車を川に落す手伝いをしてくれと?」と、メグレが口をはさんだ。
「万やむを得なければ、彼はそれを自分一人でやっていたでしょう。現に私が来たとき、彼は何とかそうしようとしていたのですから。しかし、彼が本当にして欲しかったのは、だれにも知られずにどこかに連れていってもらうことだったのです。彼一人だったら、私はそんな話に乗らなかった。でも、若い娘がいたのです……」
「彼女はまだ生きているのかな?」
「もちろん! 私に承知させるため、若い男はこう説明したんです。自分たちは結婚に反対された、でも愛し合っているので、もう自分たちをさがし出して、引き離そうとしたりさせないため、自殺したと思わせたいのだと……。私はこうした芝居が大嫌いなのです。しかし、雨にぬれているあの若い娘を見たら……要するに、私は車をロワン川に落す手伝いをしたのです。……若い二人はトラックのなかに隠れました……この芝居を本当らしく見せかけるため、彼らは私に助けをよぶことを要求し、私は言われたとおりにしました……こうすれば、二人とも死んだと信じられるでしょう……そのあとで二人をモンタルギまで運びました……。
その途中で、私はこの若い男が馬鹿ではないことに気づきました……彼はホテルに泊ることができないことを知っていたし、列車に乗ることも望まなかったのです……さらに、二千フランで数日間、捜査が終るまで二人をかくまってくれる人を知らないかと訊いてきたのです……私はブノワのことを考えました……」
細君が言った。
「わたしたちも、あの二人が恋人同士だと信じましたよ……そこで、ここにあるわたしたちの義弟の部屋が空いているので……義弟は軍隊に入っているんですよ……」
「二人はいまでもこの家にいるかね?」
「女のほうはいません……」
「なぜ?」
メグレは不安そうにあたりを見まわした。
「今日の昼過ぎに、私は新聞を見ると、階上《うえ》にあがって行き、死体の話が本当なのかどうか訊いたんです」と、ガソリンスタンド兼自転車屋の主人が言った。「若い娘さんは私の手から新聞をひったくると、目を通していましたが、開け放したドアから、いきなり飛び出して行ってしまったのです……」
「コートも着ずに?」
「コートも、帽子もかぶらずに……」
「若い男のほうは?」
「死体のことなんか何も知らないって、きっぱり言いましたね。あの車はまだ買ったばかりだし、トランクを開けてみようなんて思わなかったと……」
「この家にはあそこの他にまだドアがありますか?」
ガソリンスタンド兼自転車屋の主人が首を横に振ったまさにその瞬間、通りですさまじい物音がした。メグレは外へ走り出た。歩道の上に若い男が横になり、しきりにもがいていた。二階から飛び下りた拍子に、脚を骨折したのだ。それなのに、何とか逃げようとむだあがきをしている。
劇的であると同時に、哀れだった。というのは、ベールボワは怒りに狂っていたし、まだおのれの敗北を認めようとしなかったからだ。
「近づいてみろ、ぶっぱなすぞ……」
メグレはかまわずに若い男に飛びかかった。若い男は引金を引かなかった。こわかったか、すでに気力を失っていたのだろう。
「さあ、おとなしくしろ……」
若い男は運転手に、ガソリンスタンド兼自転車屋の亭主に、その細君につぎつぎにしがみつき、よくも裏切ったなと非難した。
ベールボワは典型的な悪党だった。メグレはすでにこういうタイプをいやになるほど見てきている。こういう人間は世間にはたくさんいる。若いくせに陰険で、ねたみ深く、快楽と金には貪欲なので、それを手に入れるとなれば手段を選ばない。
「ヴィヴィアンヌはどこにいる?」と、メグレは手錠をかけながら若い男にたずねた。
「知るもんか」
「いずれにしても、おまえは心中だと思いこませるだけの目的で、車を川に落すんだとうまく彼女を納得させたんだな?」
「あいつはいっときも、おれから離れようとしなかったんだ……」
「そいつは困っただろ? うまく始末できない死体をかかえて……」
この犯罪は卑劣で、馬鹿げていて、不快で、およそ成功するはずがない犯罪だった。
ジャン・ベールボワは結婚の計画が失敗し、ヴィヴィアンヌと駆落ちしたとしてもラ・ポムレー家の金が手に入らないと知ると、ずっと前からつき合っていた中年の愛人に目を向けた。彼女を家に招いて、殺害し、金を奪った。その金の一部で中古のスポーツ・カーを買い、人気《ひとけ》のないところで死体を捨てるつもりだった。
ちょうどそこヘヴィヴィアンヌが若々しい恋と、情熱を抱いてやってきた。もう家には帰らないことにしたヴィヴィアンヌ、恋人と運命を共にしようと決心したヴィヴィアンヌ。
彼女はいっときもべールボワから離れなかった。時問は過ぎていき、車は死体をのせたまま走る。ヴィヴィアンヌはそれこそ蜜月旅行をしているのだと思っていたが、卑劣な犯罪にはまりこんでいたのである!
彼女が愛する男を抱きしめている間、男のほうは気味のわるい荷物をどんなことをしても片づけなければならないと考えていた。そして、せっぱ詰ったベールボワは、あの心中の芝居を考え出した。偶然トラックが通りかかって、この芝居を助けたため、事態はいっそうこみ入ってしまった……。
「警視、約束した情報は?」
『ホテル・グロッシュ』では新聞記者たちが食事をしていた。宴会そこのけのにぎやかさで、みんなご機嫌だった。
「マルト・ドルヴァルを殺した男は病院にいるよ……」
「マルト・ドルヴァルって?」
「オペレッタの元歌手で、金をたくわえていたし、ジャン・ベールボワの愛人だった……」
「彼は病院にいるんですか?」
「モンタルギの病院に。脚を骨折してね……。これから病院に行って、彼の写真を撮っても、好きなだけ質問してもかまわんよ……」
「しかし、若い娘のほうは?」
メグレはうなだれた。彼女のことは、ぜんぜんわからなかった。絶望のあまり短気を起こさなければいいがと、メグレは心配していた。
真夜中過ぎだった。警視はヌムールの家にふたたびピルマン隊長に会いに行き、事件のことをいろいろと話し合った。そのとき、電話のベルが鳴った。受話器を取ったピルマン隊長は、うれしそうな、おどろいたような声をあげ、いくつか質問した。
「その住所に間違いないな? いいか、念のために、その運転手を連れて来てくれ……酔っていてもかまわないから……」
電話を切ると、隊長はメグレに説明した。
「さきほど私の部下が、昨日の昼間、コートも帽子もかぶっていない若い娘を乗せたという、モンタルギのタクシー運転手を見つけ出したのです……その若い娘はブルジュの近くの田舎まで乗っていき、そこの人里離れた小さな屋敷に入ったそうです……途中、運転手はお客がハンドバッグさえ持っていないので、料金がもらえるのかどうか心配だったのですが、彼女は何度もこうくり返したとのことです。
『叔母さんがはらってくれるわ……』」
そのとおりだった。心傷つき、意気消沈したヴィヴィアンヌ・ラ・ポムレーは、子供の頃からバカンスを過ごしていた叔母の家に身を潜めたのである。
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メグレのパイプ
一 物がひとりでに動く家
七時半。局長のオフィスで、メグレは七月の暑い一日の終りに肥った男が洩らす、ほっとしたような、疲れたようなため息を洩らすと、チョッキのポケットから何気なく時計を取り出した。それから、手を伸ばして、マホガニーのデスクの上の書類を集めた。厚いラシャ張りのドアが背後で閉まった。メグレは控室を横切った。赤い肘掛椅子にはだれもいない。オフィス係の老給仕がガラス張りの囲いのなかにいる。司法警察局の廊下には人気《ひとけ》がなく、ずっと先まで見わたせた。陽があたっているが、すでにうす暗い。
すべてがいつものとおりだった。メグレは自分のオフィスにもどった。オルフェーブル河岸に面した窓を大きく開けはなしてあるのに、たばこの匂いはいつまでも消えない。デスクの端に書類をおき、窓の縁で、まだ熱いパイプの火皿をたたくと、デスクにもどって坐った。手は無意識的にいつも右側においてあるはずの別のパイプをさがしていた。
だが、パイプはなかった。灰皿の近くに三つのパイプがあったが……そのうちの一本は海泡石のパイプだった……、彼のお気に入りのパイプはなかった。このハーフ・ベントの大きなブライヤのパイプはメグレ夫人が十年前に誕生日のお祝いに贈ってくれたもので、彼は『すてきな老パイプ』と呼んでいた。それがいつもの場所になかったのである。
おどろいた彼はポケットにさわり、手をなかに突っこんでみた。黒い大理石のマントルピースの上もながめたが、そんなところにあるはずがなかった。どのパイプでもすぐに見つからないことは彼にとっては異常なことだった。オフィスのなかを二、三度歩きまわり、手洗い用のエナメルの洗面器がおいてある戸棚を開けた。
午後の間ずっとこの戸棚を開けなかったのに、こんなところをさがすなんてまったくどうかしている。それに、六時ちょっとすぎに、コメリオ判事から電話がかかってきたとき、彼はまちがいなくこのパイプを口にくわえていたのだ。
そこでメグレはオフィス係の老給仕を呼んだ。
「エミール、私が局長のところに行っている間、だれもここに来なかったかい?」
「どなたもお見えになりませんでした、警視殿」
メグレはふたたび上衣のポケットと、ズボンのポケットをさがした。いらいらしているようだった。オフィスのなかをぐるぐるまわったので、暑くなってきた。刑事部屋に行ってみたが、だれもいなかった。よく刑事部屋にパイプを忘れてくることがあった。警視庁の各部屋がこうやって人気がないのを見るのはめずらしいことだし、愉快なことだった。バカンスのような感じだ。パイプは刑事部屋になかった。メグレは局長室のドアをノックした。局長はたったいま出かけてしまっていた。メグレはなかに入った。が、パイプがないことは前もってわかっていた。六時半頃ここに来て、捜査中の事件や、近く田舎に出かけることなどについて局長とおしゃべりしたとき、別のパイプを喫っていたからだ。
八時二十分前。彼は八時にリシャール・ルノワール大通りに帰ると約束していた。義妹夫婦を招んであったからだ。何を買って帰ると約束したっけ? 果物だった。夫人から桃を買ってくるように言いつけられていた。
夕方のむし暑い空気のなかを、自宅に向いながら、彼はパイプのことを考えつづけた。それはいつのまにか彼を悩ましていた。ささいだが、説明できない出来事に悩まされているようなものだった。
桃を買い、家にもどると、義妹にキスした。義妹はまた肥っていた。メグレはアペリチフを注いだ。このときいつも口にくわえているのがあの『すてきな老パイプ』なのだ。
「お忙しいんですか?」
「いや。いまはそうでもありません」
このような時期が一年に何度かある。二人の同僚は休みを取っていたし、もう一人は今朝電話をかけてきて、親戚の者が田舎から出てきたので二日間休みをもらうと言ってきた。
「気にかかっていることがあるみたいね、メグレ」と、夕食の最中に夫人が言った。
気にかかっているのはパイプのことなのだ、とメグレは口に出して言う勇気がなかった。もちろん、これはまだ事件ではないが、そうならないとはかぎらない。
そうだ、二時数分すぎに、彼はオフィスに坐っていた。リュカが取込み詐欺の件をメグレに話しに来、そのあと、もう少しで父親になるジャンヴィエがやってきた。
それから静かになり、彼は上衣を脱ぎネクタイをゆるめて、ある自殺の件についての報告書を書いた。この事件は最初犯罪かと思われたものだった。このとき、例のお気に入りの大きなパイプを喫っていた。
ついでジェジェーヌ。このモンマルトルのチンピラやくざは、自分の情婦《おんな》をナイフで刺したのだった。彼の言い分だと『ほんのちょっとかわいがってやっただけ』だと言う。しかし、このジェジェーヌはメグレのオフィスに近づかなかったし、手錠をはめられていた。
メグレはリキュール酒を注いだ。二人の女は台所でおしゃべりしている。義弟は葉巻を喫いながらぼんやりとくつろいでいる。リシャール・ルノワール大通りの騒音が開いた窓から聞こえてくる。
今日の午後は一歩もオフィスから離れなかった。いつも行くビヤホール『ドフィーヌ』ヘだって生ビールを飲みに行っていない。
そうだ、女がいた……何という女だっけ? ロワとかルロワとが言ったな。彼女とは会う約束がなかった。エミールがこう知らせにきたのだ。
「ご婦人とその息子さんです」
「用件は?」
「それを言わないのです。ただ局長に話があると言いつづけるのです」
「通したまえ」
たまたま、彼の時間が空《あ》いていた。そうでなければ彼女を通したりはしないだろう。いま彼はそのときの模様を思い出そうと苦労しているが、最初からこの訪問には重きをおいていなかった。
義妹夫婦は帰って行った。メグレ夫人はアパルトマンを片づけながら、
「あなた、今夜あまりしゃべらなかったわね。何かうまく行かないことでもあるの?」
いや。すべてはうまく行っている、ただしパイプのことを除いて。宵闇が落ちはじめていた。メグレはシャツ一枚で、窓辺に肱をついていた。この時間多くの人々がパリの窓辺でパイプやシガレットを喫いながら涼んでいた。あの女……ルロワ夫人だったと思う……は警視の真正面に坐っていた。上品ぶろうとしているせいか、どことなくぎこちない。四十五歳の女、更年期にやせはじめた女。メグレとしては、歳を取るにつれて肥る女のほうが好きだった。
「局長さん、わたしはあなたにお目にかかりに来たのです……」
「局長は留守です。私はメグレ警視です」
さあ、細かいことまで思い出してきたぞ。女はひるまなかった。彼女は新聞を読まないにちがいない。メグレについての噂も聞いたことがないのだろうか? 彼女はどちらかというと司法警察局の局長本人に会えないことで腹を立てているようで、「残念ね! でも、しかたがないわね」とでも言うように手をちょっと動かしてみせた。
メグレが気にもかけていなかった若い男のほうは逆に、はっとなった。彼の視線は警視の上にむさぼるように、熱心にそそがれた。
「あなた寝ないの、メグレ?」と、掛け蒲団をめくり、着物を脱ぎはじめたメグレ夫人がたずねた。
「もう少しあとにする」
あの女がしゃベったことははっきり言ってどんなことだったろうか? 彼女はおしゃべりだった! べらべらと、果てしがなかった。どんなにくだらない言葉にも重大な意味をつけ、自分の話を真に受けてもらえないことをいつでも恐れている人間のようだった。女のおしゃべり癖、とくに五十に近づいている女のおしゃべり癖。
「わたしとこの伜が住んでいるのは……」
メグレはぼんやりとしか耳を傾けていなかったので、実際はそれほど迷惑にはならなかった。彼女はやもめだった。数年前からやもめだと彼女は言ったが、それが五年前か十年前だったか、メグレは忘れてしまった。息子を育てるのに苦労したと嘆いたから、かなり前からやもめだったにちがいない。
「わたしはこの子のために何でもやりました、警視さん」
おなじ年齢の、おなじ立場のすべての女が、おなじ誇りと、おなじ悲しげな渋面《じゅうめん》とでくり返すこれらの言葉にどう答えたらいいのか? しかし、このやもめ暮しに出来事があったのだ。どんな出来事だったか? あ、そうだ……
彼女は言った。
「主人は将校でした」
すると、息子が言い直した。
「特務曹長だよ、ママ。ヴァンセンヌの軍隊の経理部の」
「失礼いたしました……わたしが将校と言いましたのは、わざとそう言ったのです。主人が死ななかったら、あらゆる仕事を主人に押しつけるくだらない上司のためからだをこわさなかったら、当然いまでは将校になっていたはずです……ですから……」
メグレは例のパイプのことを忘れていなかった。それどころか、ヴァンセンヌという言葉とパイプとが結びついているから、彼女にヴァンセンヌのことでいろいろと質問したのだろう。彼がヴァンセンヌの言葉を口にしたとき、パイプを喫っていたことはまちがいない。ところで、そのあともうヴァンセンヌのことは問題にならなくなった。
「失礼ですが、いまどちらにお住いですか?」
メグレはその河岸の名前を忘れてしまったが、シャラントンのベルシー河岸のすぐ次の河岸だ。彼はたくさんの倉庫と、荷おろし中の大伝馬船と共に、その大きな河岸の光景を思い出した。
「角のカフェと、大きな貸アパートの間にある小さな二階家です」
若い男は膝に麦わら帽をおいて、オフィスの隅に坐っていた。彼はたしかに麦わら帽を持っていた。
「この子はわたしがここに来ることをいやがりました、局長さん。あら、ごめんなさい、警視さん。でも、わたし、この子に言ってやったんです。『あなたにやましいところがなかったら、かまわないじゃないの……』ってね」
彼女のドレスはどんな色だったか? 黒に赤紫色のだったな。目立ちたがっている中年の女が着るドレスの一つだ。帽子はかなり複雑なものだった。たぶんいく度も形を変えたのだろう。黒っぽい手袋。彼女は自分の言葉に酔ったようにゆっくり話す。「考えてもごらんなさい……」とか「皆さんが言うには……」とかでまず話をはじめる。
彼女を迎え入れたとき、上衣を着たので、メグレは暑くて、ねむくなってきた。いやな仕事だ。彼は刑事部屋へすぐに彼女を追いやってしまわなかったことを悔んだ。
「もう何度も、わたしの留守中に家に入った者がいるんです」
「失礼ですが、あなたと息子さんと二人きりでお暮しですか?」
「ええ。わたしも最初、この子じゃないかと思ったのです。でも、それはこの子の勤務時間のあいだのことなのです」
メグレは若い男をながめた。若い男はいらいらしているようだった。メグレがよく知っているタイプの人間だ。十七歳ぐらいだろう。ひょろ高い。顔にはにきびができている。髪は赤味を帯びていて、鼻のまわりにそばかすがある。
陰険な男か? たぶんそうだろう。母親があとでそのことを打明けた。自分の身内の悪口を言うのが好きな人間がいるものである。とにかく臆病だ。交際嫌い。床のじゅうたんか、オフィスのなかの何かをじっと見つめているが、いざ自分が見られていないとなると、メグレに鋭い視線をちらっと投げつける。
あきらかに、彼はここに来たことが不満だった。母親とはちがって、彼はここに来てもしかたがないと思っているのだ。息子は、母親が、母親の主張が、母親のおしゃべりが恥ずかしかったのだろうか?
「息子さんは何をしてます?」
「理髪師です」
すると、若い男がにがにがしげに言った。
「叔父さんがニオールで床屋をやっているんです。ママの考えでは……」
「床屋さんが何が恥ずかしいのです。この子が言おうとしたことは、警視さん、この子が働いているレピュブリック広場近くの理髪店からぬけ出すことなんかできないということなのです。わたしはそのことをたしかめました」
「失礼。あなたは息子さんがあなたの留守中に家に帰ってきたと疑い、見張ったのですか?」
「そうです、警視さん。特別にこの子を疑ったわけではないのですが、男は何をやるかわかりませんからね」
「息子さんがあなたのいない間に、家で何をすると言うのです?」
「わかりません」
それから、しばらく沈黙したあとで、
「女を連れこむのです! 三カ月前、この子のポケットから女の子の手紙を見つけました。もしお父さんが……」
「だれかがあなたの家に入ったと、どうして確信したのです?」
「まず、家に帰ってきたとたん、感じでわかるんです。ただドアを開けただけで、わたしには……」
全然科学的ではないが、要するにひどく人間的で、真実なのだ。メグレだってすでにこういった印象を持ったことがある。
「つぎに?」
「つぎに、ささいなこと。たとえば、わたしが一度も鍵をかけたことのない鏡つき洋服箪笥のドアに、鍵がかかっているのです」
「その鏡つき洋服箪笥には貴重品が入っているのですか?」
「着物や下着、それに家族の思い出の品物など。でも、何もなくなってないんです。また地下室の箱の位置が変っているんです」
「何が入っています?」
「空|壜《びん》です」
「ようするに、あなたの家からは何もなくなっていないのですね?」
「そう思います」
「いつ頃から、あなたの住居に侵入する者がいるという印象を持ちましたか?」
「印象ではありません。確信です。三カ月ほど前からでしょうか」
「あなたの考えでは、侵入されたのは何回ぐらいですか?」
「全部で十回ぐらいでしょう。最初のあとでは、長い間そういうことはなかったのです。たぶん三週間ぐらい侵入されなかったでしょう。あるいは、わたしが気がつかなかっただけかもしれませんが。それからつづけて二度。そしてふたたび三週間ぐらいなかったのです。数日前から、侵入がつづいてあり、一昨日、はげしい雷雨があったときなど、濡れた足跡が残っていたほどです」
「男の足跡か、女の足跡かわかりませんか?」
「男のだと思いますが、はっきりしたことはわかりません」
彼女はその他にもいろいろなことを言った。訊かれもしないのに、しゃべったのである。たとえば、先週の月曜日、彼女はわざと息子を映画に連れ出した。理髪師は月曜日が休みだったからだ。そうやって、息子は見張られ、午後の間ずっと母親と一緒だった。二人は一緒に家にもどった。
「それなのに、わたしの家に入った者がいるのです」
「しかし、息子さんはそのことを警察に話したがらなかったのですね?」
「そのとおりです、警視さん。それは、わたしにはわからないことなのです。この子はわたしと同様、足跡を見ています」
「足跡を見たのかい、え、きみ?」
彼は答えず、依怙地《いこじ》なようすをした。ということは、彼の母親が大げさすぎるし、良識に反していると言いたいのだろうか?
「どこからお宅に侵入したかわかりますか?」
「入口のドアからではないでしょうか。窓が開けはなしてあったことは一度もありませんし、中庭から入るには、塀が高すぎるし、隣りの家の庭を横切らなければなりません」
「錠前に跡のようなものが残っていませんでしたか?」
「擦り傷はありません。わたしは夫の虫眼鏡で調べてみたのです」
「あなたの他に、家の鍵を持っているのは?」
「だれもいません。娘がいますが(若い男がちょっと身動きする)、夫と二人の子供とオルレアンに住んでいます」
「娘さんとはうまく行ってないのですか?」
「あんなろくでなしの男と結婚したのはまちがいだったと、よくあの娘に言ってやるんです。そうでなくとも、わたしたちはあまり会わないし……」
「よく家を留守にするのですか? さきほどあなたはやもめだと言いましたね。軍隊から受取る年金だけでは、たぶん不充分でしょう」
彼女は上品で、慎ましやかなようすをした。
「わたしは働いています。働いてますとも! 最初は、夫の死んだ直後ということですが、下宿人をおいてみました、二人。でも、男は汚すぎていけません。男たちが部屋をどんなに汚くしておくか、あなたがごらんになったら!」
このとき、メグレには自分の耳にしていることがよくわからなかった。しかしいま、言葉だけではなく、抑揚までも思い出していた。
「一年前から、わたしはラールマン夫人のお茶飲み相手をつとめております。ラールマン夫人はとてもやさしいひとです。息子さんがお医者さまなのです。彼女はシャラントンの水門の真向いに一人きりで住んでいて、毎日午後になるとわたしが……お茶飲み相手というより、友達みたいなものですわね……」
実際、メグレは彼女の話を全然重視していなかった。狂人だろうか? そうかもしれない。狂人などにメグレは興味がなかった。こうした狂人たちはよく警視庁にやってきては、メグレたちに三十分ほど時間を無駄にさせるのである、ちょうどそのとき、局長がメグレのオフィスに入ってきた、というより、局長が例のごとくドアをそっと開けた。そして、二人の訪問者にちらっと目をやると、彼らの態度からだけで、これはたいした用件ではないということを悟った。
「ちょっと、メグレ」
局長とメグレは隣りのオフィスで立ったまま、ディジョンから電報で届いたばかりの逮捕状について話し合った。
「トランスにやらせましょう」と、メグレが言った。
そのときメグレはお気に入りのパイプではなく、別のパイプを持っていた。お気に入りのパイプは、そのちょっと前、コメリオ判事から電話かかかってきたとき、デスクの上においたにちがいない。
メグレは自分のオフィスにもどると、両手を腰にあてがったまま、窓の前に立っていた。
「結局、奥さん、何も盗まれなかったのですね?」
「そうだと思います」
「それでは、盗難の訴えをするわけにはいきませんね?」
「ええ、それはそうです」
「ここ二、三カ月、とくにここ数日、留守の間に、お宅に侵入した者がいるという印象を受けただけなのですね」
「一度など夜に」
「その者を見たのですか?」
「物音を聞いたのです」
「どんな物音です?」
「台所で、茶わんが落ちて、こわれる音です。わたしはすぐに階下《した》に降りて行きました」
「武器を持って行きましたか?」
「いいえ。別にこわくありませんでした」
「だれもいませんでしたか?」
「もうだれもいませんでした。茶わんのかけらが床にありました」
「猫を飼ってはいませんか?」
「はい。猫も、犬も。動物は汚すぎますから」
「猫はお宅に入れないのですか?」
若い男は椅子の上で、ますます苦しそうだった。
「ママ、いつまでもメグレ警視さんのお邪魔をしてはわるいよ」
「手短かに言うと、奥さん、お宅に入ったのが何者か、何をさがしに入ったのかわからないのですね?」
「そのとおりです。わたしたちはいつでも正直でしたし、それに……」
「私にできる忠告は、鍵を取替えなさいということです。そうすれば、謎の訪問がつづくかどうかわかるでしょう」
「警察は何もしてくれないのですか?」
メグレは二人をドアのほうに押しやった。そろそろ局長がオフィスでメグレを待っている時間だ。
「念のため、明日部下を一人、お宅へうかがわせましょう。しかし、朝から晩まで、また晩から朝までお宅を見張っているのでなければ、たいした意味がありません……」
「いつ来ていただけます?」
「午前中は家にいると言われましたね?」
「買い物に行くとき以外は」
「十時では? では、明日十時に。さようなら、奥さん」
ベルを鳴らした。リュカが入ってきた。
「きみか? 明日十時にこの住所へ行ってくれないか? 何が問題かすぐわかるよ」
全然自信がなかった。警視庁は新聞社の編集局と共に、狂人や奇人を惹きつけるところだからだ。
ところで、いま、夜の冷気が入りはじめた窓で、メグレはうなった。
「あのガキめ!」
デスクの上のパイプをくすねたのは、まちがいなくあの若い男だったからだ。
「まだお休みにならないの?」
メグレはベッドに入った。不機嫌で、むっつりしていた。ベッドはすでに生あたたかくて、湿っていた。彼は眠り込む前に、もう一度うなった。
つぎの朝、目がさめてもさわやかではなかった。昨夜の不愉快な印象がそのまま残っているような感じだった。しかし、これは虫の知らせと言った大げさなものではなく、ただ何となくいやな一日がはじまるといった感じだった。夫人もそれを感じていたが、口に出しては言わなかった。それに、空だって荒模様で、空気もすでにどんよりしていた。
オルフェーブル河岸まで、メグレは歩いて行った。二度ほど、例のお気に入りのパイプをポケットに手を突っこんでさがした。司法警察局のほこりだらけの階段を上りながら、ため息をついた。エミールがメグレを迎えてこう言った。
「警視殿、あなたをお待ちかねの人がいます」
メグレはガラス張りの待合室にちらっと目をやった。ルロワ夫人が緑のビロードの椅子の端に、いまにも飛び出さんばかりにちょこんと腰かけていた。ルロワ夫人はメグレの姿に気がつくと、果たして彼のほうに突進してきた。顔をひきつらせ、怒り狂い、ひどく不安そうだった。心は千々に乱れているようだった。彼女はメグレの上衣の裏がわをつかむと、さけんだ。
「わたしはあなたにどう言いました? 彼らは昨夜やってきたんですよ。伜がいなくなりました。こんどは、わたしの話を信じるでしょう? あなたがわたしのことを気違いあつかいしたのはよくわかってます。わたしはそれほどばかじゃありません。さあ、これを……」
ハンドバッグのなかを熱にうかされたようになってさがし、青い縁取りのあるハンカチを取り出すと、勝ち誇って振りまわした。
「これです……そうでしょ、これこそ証拠じゃありませんか? うちには青い縁取りのハンカチなんかありません。それなのに、台所のテーブルの足もとに落ちていたんです。それだけではありません」
メグレは午前中の活気がみなぎっている長い廊下を憂鬱《ゆううつ》な目でながめた。二人を振り返って見る人もいた。
「奥さん、一緒に来てください」と、メグレはため息をついた。
思いがけない災難だった。こんなことが起りそうな気がしていたのだ。メグレはオフィスのドアを押すと、帽子をいつもの場所にかけた。
「お坐りください。あなたのお話をききましょう。息子さんがどうとかこうとか?」
「伜が昨夜いなくなったと言ったのです。いまどうなっていることやら」
二 ジョゼフのスリッパ
息子の運命について、彼女がはっきりどう考えているのか知ることはむずかしかった。いましがた司法警察局で、彼女は夏の雷のようにとつぜんわっと泣き出し、こう嘆き悲しんだのだ。
「いいですか、あの子はまちがいなく殺されたんです。それなのに、あなたは何もしてくれなかった。あなたがわたしのことをどう考えていたか、わたしが知らないとでも思っているのですか! あなたはわたしを気違いとみなしていました。ええ、そうですとも!そしていま、あの子は殺されたにちがいありません。わたしはたよる者もなく、ただ一人取り残されてしまったのです」
ところで、いま、田舎の樹蔭散歩道に似た、ベルシー河岸の緑葉のアーチの下を走っているタクシーのなかで、彼女の表情はふたたび元にもどり、目もともきつくなっていた。彼女は言った。
「あの子の弱点というのは、いいですか、警視さん、女に抵抗できないことです。わたしをさんざん苦しめた父親そっくりです」
メグレはタクシーのバックシートに彼女と並んで坐っていた。リュカは運転手のわきにいた。
パリの境界をすぎて、シャラントンに入っているのに、ここの河岸はベルシー河岸と呼ばれつづけている。しかし、もはや樹木はなかった。セーヌ河の向こう岸には工場の煙突、こちら側には倉庫や、この辺がまだ田舎であった頃に建てられ、いまでは貸アパートの間にはさまれている別荘。街角に、けばけばしい赤に、黄色い文字のついた居酒屋《ビストロ》が見える。鉄のテーブルがいくつかと、樽のなかにやせ細った二本の月桂樹。
ロワ夫人……いや、ルロワ夫人はもじもじすると、車のウィンドーをノックした。
「ここです。取り散らかっていますけど、気になさらないでください。片づけることなど思いもよらなかったことはわかってくださいますわね」
ハンドバッグのなかの鍵をさがした。入口のドアはダーグ・ブラウン、外側の壁は煙色だった。メグレはいち早く、家宅侵入の跡がないことをたしかめた。
「どうぞ、お入りになって。すべての部屋をごらんになりたいでしょ。さあ、どうぞ! 茶わんのかけらはまだそのままになっていますよ」
彼女の言葉とはうらはらに、家のなかはきれいに片づいていた。どこにもほこり一つなかった。よく手入れが行き届いている。しかし、それにしても何と暗い感じだ。暗さを通り越して陰惨だった! 壁の下の部分が褐色で、上の部分が濃い黄色に塗られた、狭すぎる廊下。褐色のドア。もう色がないほど色あせてしまっている、少なくとも二十年前の壁紙。
彼女はしゃベりつづけている。一人きりのときでも、沈黙に耐えることができないのでしゃべりつづけているのだろう。
「いちばんびっくりしたのは、何の物音も聞かなかったことです。わたしは眠りが浅いので、夜中に二、三回目がさめるのです。ところが、昨夜はぐっすり寝込んでしまいました。わたしはあるいは……」
メグレは彼女をながめた。
「あるいは眠り薬を飲まされたのではないかと思っているのですか?」
「そんなことはありません。あの子がそんなことをするわけがないでしょ? なぜです? なぜあの子がそんなことをするのです?」
彼女はふたたび挑戦的になるのか? 彼女はあるときは息子を非難し、あるときは息子を被害者のように言う。一方、ずんぐりして、動作ののっそりしたメグレはこの小さな家のなかを見て歩いているときでさえ、岩のようにじっと不動でいるような感じをあたえたのである。彼はそうやって、まわりから滲《し》み出ているものをすべて、スポンジのようにゆっくりとしみこませていった。
そういう彼に、彼女はくっついて歩き、彼の動作の一つ一つを、目の配りの一つ一つを疑わしげなようすで追い、彼が何を考えているのかを見抜こうとした。
リュカもまた、気違いじみているとはいえないまでも、どこか真剣なものが欠けているこの捜査にとまどい、警視《パトロン》の考えをうかがっていた。
「食堂は廊下のあちら側の右手です。でも、わたしたちだけのときは……いつもわたしたちだけですが……台所で食事をします」
メグレが無意識的に自分のまわりにさがしていたのがパイプであるということを知ったら、彼女はびっくりしただろう、いや憤慨したかもしれない。メグレはいまにもこわれそうな手すりのついた、廊下よりさらに狭い階段を上って行った。階段はぎしぎし軋《きし》んだ。彼女もついてきた。彼女の家なので説明する必要があったからだ。
「ジョゼフが使っていたのは左側の部屋です……あら、わたしはいま、使っていたなんて言ってしまいましたが、何も……」
「何にも手をふれていませんね?」
「ええ、誓って何にも手をふれていません。ごらんのようにベッドが乱れていますが、あの子がここで眠らなかったことはたしかです。わたしの伜は眠っている間とても動くのです。ですから朝になると、シーツはまるまり、掛け蒲団などよく床に落ちています。寝言を言うことも、さけび声をあげることさえあります」
ベッドの正面に洋服箪笥があり、警視はそのドアを半分開けた。
「息子さんの着物はすべてここにありますか?」
「いいえ。あの子は洋服やシャツを椅子にかけておくので、あるとすれば椅子の上です。片づけることがきらいなんです」
若い男は夜中に物音を聞き、台所に降りていき、そこで一人か、数人の謎の侵入者に襲われたのかもしれない。
「昨夜、息子さんがベッドにいるのを見ましたか?」
「あの子がベッドに入ると、わたしはいつでもキスに行きます。昨夜も、いつものように行きました。あの子は着物を脱いでいました。着物は椅子の上にありました。鍵は……」
彼女はあることに思い当った。
「わたしはいつでも階下《した》で最後まで起きていて、入口のドアに鍵をかけます。この鍵を、わたしは自分の寝室の枕の下においておきます。というのは……」
「ご主人がよく外泊したのですか?」
彼女はもったいぶったようすをしたが、同時に悲しげな表情もした。
「結婚してから三年後に、一度外泊しました」
「そのときから、あなたは鍵を枕の下にすべりこませておくのですね?」
彼女は答えなかったが、メグレには息子と同様、父親のほうもきびしく監視されていたことが理解できた。
「それで、今朝いつもの場所に鍵がありましたか?」
「ええ、警視さん。すぐには鍵のことを考えませんでしたが、わたしは鍵のことを思い出しました。鍵があるということは、あの子が自分では家から出て行きたくなかったということでしょうね?」
「ちょっと待ってください。息子さんはベッドに入った。それから起き上って、ふたたび着物をきた」
「あら! でもネクタイが床に落ちてました。あの子はネククイをつけていません」
「では靴は?」
彼女は慌てて部屋の隅のほうを向いた。片方ずつ、ある間隔をおいて擦りへった靴があった。
「靴も! あの子はスリッパで出て行ったんだわ」
メグレはあいかわらずパイプをさがしていたが、見つからなかった。それに、その他に何をさがしているのかはっきりとはわからなかったのである。彼はあてずっぽうに若い男が暮していたこの貧しげな、陰気な寝室をさがしてみた。洋服箪笥のなかに服が一着。このブルーの服はたぶん日曜日にしか着ない『お気に入りの服』にちがいない。それとエナメル革の靴と、ワイシャツが数枚。ワイシャツはほとんどがカラーと手首のところがすり切れていて、繕《つくろ》ってある。口のあけてあるたばこの包み。
「息子さんはパイプを喫わなかったのですか?」
「あの年齢では、わたしが許しません。十五日前に、小さなパイプをくわえて家に帰ってきました。デパートのバーゲンセールででも買った安物でしょう。わたしはそのパイプをあの子の口からひったくり、火のなかに投げ込んでやりました。あの子の父は、四十五歳でもパイプを喫わなかったのですから」
メグレはため息をつくと、ルロワ夫人の寝室へ行った。ルロワ夫人はくり返し言った。
「ベッドをまだ元通りに直してないんです。取り散らかっていてすみません」
うんざりするほど粗末で、ちんぷな部屋だ。
「階上《うえ》に、屋根裏部屋があります。わたしがやもめになった最初の数カ月は、下宿人を取りましたので、そこで寝たのです。あの子が靴も、ネクタイもつけていなかったということは、あなたの考えではどうなのでしょうか?」
メグレは彼女のおしゃべりにたえきれなくなり、
「私には何もわかりませんよ、奥さん!」
二時間前から、リュカはこの家の隅々まで丹念にさがした。リュカのあとをルロワ夫人がついてまわり、ときどきこんなことを言ったりした。
「あら、この引出しはきっと開けられたのよ。だって引出しの上においてあった下着の山がひっくりかえされていますもの」
家の外には、蜂蜜色の強い陽ざしが輝いていた。むし暑かった。が、家のなかは薄暗く、一日じゅうすべてが灰色に沈んでいた。メグレは、リュカややもめのあとをついて歩く勇気がなかったので、ますます例のスポンジのようになって行った。
警視庁を出る前に、メグレは刑事の一人にオルレアンに電話させて、結婚しているという彼女の娘が最近パリに来なかったかどうかをたしかめさせた。来ていなかった。
ジョゼフは母親の知らない間に合鍵をつくっておいたのだろうか? しかしそうだとして、昨夜出て行くつもりなら、なぜ彼はネクタイや、とくに靴をはいて行かなかったのか?
メグレはここのスリッパが何に似ているのか、いまではわかっていた。節約するため、ルロワ夫人が自分でこのスリッパをつくったのだ。ぼろ切れと、底をフェルトの切れっぱしでつくってある。
すべてが貧しかった。彼女はそのことを認めたがらないだけに、貧しさがますますつらく、息苦しいものとなった。
前の下宿人は? ルロワ夫人はそのことについて話してくれた。窓に貼札を出して、最初にあらわれたのは酒問屋スステルのところで働いている独り者の老人だった。メグレはベルシー河岸を通ったとき、スステルの別荘に気がついた。
「警視さん、おとなしい、行儀のいい人でした。パイプの灰をあちこちに振りおとすような人は行儀のいい人と言えないのでしょうか? それに、あの人には夜中に起き上り、煎じ薬をあたために階下《した》に降りてくる癖がありました。ある夜、わたしは階段でシャツとパンツだけのあの人に出会いました。けれども、あの人は教育のある人でしたよ」
もう一つの部屋は、最初は左官が入った。彼女の言い分では左官の親方だとのことだが、息子がいれば、たぶんこの見栄から言った肩書きを訂正しただろう。この左官は彼女に言い寄り、しゃにむに彼女と結婚したがった。
「彼はいつでもわたしに、貯金のこと、モンリュソンの近くに持っている別荘のことを話すんです。わたしたちが結婚すれば、わたしをその別荘に連れて行ってくれると言ってました。いいですか、わたしは彼のことを一言も非難しませんでしたし、そんなそぶりも見せませんでした。彼が帰ってくると、わたしはただこう言いました。
『手を洗いなさい、ジェルマンさん』
すると、彼は蛇口のところに手を洗いに行きます。日曜日に、庭をセメントで固めてくれたのは彼なんです。わたしはそのセメント代をむりやり払わせてもらいました」
そのあと左官は下宿を引きはらった。たぶんがっかりしたのだろう。そしてこの左官にかわって入ったのがブルースタン氏だった。
「外国人です。とてもフランス語が上手ですが、いくらかなまりがあります。セールスマンで、週に一、二度しか家にもどりません」
「下宿人たちは鍵を持っていたのですか?」
「いいえ、警視さん。あの頃はまだ、わたしは一日じゅう家にいました。外出するときは、入口の樋《とい》のうしろの裂け目にすべりこませていきました。下宿人たちはその場所をよく知っていました。あるとき、ブルースタンさんは一週間帰ってきませんでした。ブルースタンさんの部屋のなかには折れた櫛《くし》と、古いライターと、ぼろぼろの下着しか残ってませんでした」
「あなたになんとも言い残して行かなかったのですか?」
「ええ。しかし、あの人もまた行儀のいい人でした」
食堂の隅のミシンの上に本が数冊おいてあった。メグレはそれらの本の頁を何気なくめくっていた。廉価版の小説で、主に冒険小説だった。頁の余白のあちこちに二つの文字、JとMとが組み合わせてあった。鉛筆のときもあれば、インクで書いてあることもあったが、ほとんどいつの場合でもMがJよりも大きくて、ひどく形がよかった。
「ルロワ夫人、Mではじまる名前の人をご存知ありませんか?」と、階段の上り口でメグレがたずねた。
「Mで? さあ、知りませんねえ。ちょっと待ってください……わたしの主人の義妹にマルセルというのがおりましたが、イスーダンでお産で死にました」
リュカとメグレが外に出たとき、正午になっていた。
「一杯やっていきましょうか、警視《パトロン》?」
二人は角の赤い小さな居酒屋《ビストロ》に入った。どちらも元気がなかった。リュカは不機嫌でさえあった。
「何という店ですかね!」と、リュカはため息をついた。「それはそうと、私はこの紙切れを見つけました。どこで見つけたかって? あの若造のたばこの包みのなかです。あの若造は母親をひどく恐れていたにちがいありませんね。たばこの包みのなかにラブ・レターを隠しておくなんて……」
そのラブ・レターはつぎのような内容だった。
いとしいジョゼフ
昨日わたしが、あなたなんか軽蔑する、あなたなんかと結婚するもんかと言ったとき、あなたはさんざんだだをこねましたね。わたしが本気でそんなことを言ったのではないことぐらい、あなたにはよくわかっているでしょう。わたしはあなたがわたしを愛してくれているとおなじように、あなたを愛しています。わたしはあなたがいつかひとかどの人間になると信じています。でも、後生ですから、わたしの店のそばで、もうわたしを待たないでください。あなたのこと、気づかれました。ローズ夫人も気づいて……この女主人、いじわるなのです……、ぐじぐじ言いはじめています。これからは地下鉄のそばで待っててください。明日はだめです。母と一緒に歯医者に行かなくてはならないから。もうくよくよと余計なことを考えないでください。愛をこめてキスを送ります。マチルド
「そうか!」と、メグレはこのラブ・レターを紙入れのなかに押込んだ。
「そうかって、なんです?」
JとM。ここにも人生がある! 人生はこうやってはじまり、あのかび臭い、諦めを強いる小さな家のなかで終るのだ。
「あのガキが私のパイプをくすねたと思うと!」
「あなたはほんとうに彼が誘拐されたと思いますか、警視《パトロン》?」
リュカはそのことを信じていなかった。それは感じでわかる。ルロワ夫人の留守中に人が入りこむという話も。リュカはすでにこの事件にうんざりしていた。だから、警視《パトロン》が何だか知らないがいろいろと思いめぐらしているのを見ると不思議でならなかった。
「もしやつが私のパイプをくすねないとすれば……」と、メグレはぶつぶつ言った。
「それが何だというのです?」
「きみにはわからないよ。ボーイ! いくらかね?」
二人は並んでバスを待ちながら、ほとんど人気《ひとけ》のない河岸をながめていた。昼食時なので、クレーンは人間の腕のようなブームを空中にとどめたままだし、大伝馬船は眠っているようだった。
バスのなかで、リュカは言った。
「警視《パトロン》は家に帰らないのですか?」
「警視庁にもどる」
とつぜん、メグレはパイプをくわえたまま、奇妙な笑いをちょっとうかべた。
「かわいそうな男だ! あの特務曹長のことだが……この男は一生に一度妻をだまし、あとの日々は自分の家のなかに毎晩閉じこめられていたのだ!」
それから、しばらく陰うつそうに夢想していたが、
「リュカ、墓地のなかには、男やもめが建てた墓より寡婦の建てた墓のほうがずっと多いことを知っているか?『某ここに眠る、一九〇一年死亡』それからその下にもっと新しい文字で、「某未亡人ここに眠る、一九三〇年死亡』彼女はやっと夫にめぐりあえたわけだ、だが、二十九年後に!」
リュカはこの言葉を理解しようとしなかった。彼は妻と昼食に行くためバスを乗り換えた。
犯罪記録課が、警察とごたごたを起こしたすべてのブルースタンという名前の人間を調べている間、メグレは日常業務にたずさわっていた。リュカはレピュブリック並木通り界隈で午後のかなりの時間を過していた。
雷雨はやってこなかった。暑さはますますうっとうしくなり、鉛色の空はきたならしい〈ねぶと〉のような紫色に変った。少なくとも十回、メグレはなくなってしまったお気に入りのパイプのほうへ思わず知らず手を伸ばしていた。そしてそのたびにぶつぶつ言った。
「あのガキめ!」
二度、メグレは交換台に電話で訊いた。
「リュカからまだ何も言ってこないか?」
理髪店で、ジョゼフ・ルロワの同僚に質問し、あのラブ・レターを書いたマチルドのところに行き着くことはそれほど面倒なことではないはずだ。
まず、ジョゼフはメグレのパイプを盗んでいる。
つぎに、このおなじジョゼフは昨夜着物を着てはいるが、靴ではなくスリッパのままだ……あれをスリッパと呼んでのことだが。
とつぜんメグレは調書を読むのをやめ、犯罪記録課を電話に呼び出し、いつもの彼らしくないいらいらした調子でたずねた。
「どうだい、ブルースタンは?」
「調べているところです、警視。ブルースタンというのはたくさんいるのです、本物にしろ、偽物にしろ。いま日付と住所をたしかめてます。とにかくベルシー河岸に一時期住んでいたブルースタンは見つからないのです。何かがわかり次第、すぐに連絡いたします」
やっとリュカが汗を流しながらもどってきた。ここに来る前に、ビヤボール『ドフィーヌ』で生ビールを一杯やってきていた。
「わかりましたよ、警視。けっこう大変でした。簡単に行くと思っていたんですが……あのジョゼフというのは人に打明け話をしない変った人間なんですね。なまずの寝床のようなほそ長い理髪店を想像してみてください。『パラス・コワフュール』という奴のいた店がそうなんです。十五か二十ぐらいのイスが鏡の前に一列に並んでいて、店員も十五人か二十人ぐらいいます……店のなかは、一日じゅうごった返しています。客が絶えず出入りし、そら、髪をカットだ、そら、シャボンだ、そら、ローションだと……
『ジョゼフは?』と、私は胡麻塩頭の、小ぶとりの主人にたずねました。『どのジョゼフです? あ、そう、にきびのジョゼフですな。彼が何かやりましたか、ジョゼフが?』
私は主人に、店員に質問する許可をもらい、イスからイスへとたずねまわりました。店員たちはおたがいに含み笑いをしたり、ウィンクしたりしました。
『ジョゼフ? いや、おれ一度も彼と帰ったことがないな。彼はいつでも一人で帰るんだ。彼に女? いるかもしれないな。でもあの顔では……』
そう言って笑い興じる。
『打明け話? 木馬に要求するようなもんですよ。あの男は床屋が恥ずかしいんです。だから仲間の理髪師ともつき合わないんです』
警視《パトロン》、彼らの語調、わかっていただけますね。それに、私は客の終るのを待って質問しなければなりませんでした。主人は私のことを邪魔だと思いはじめました。最後に、私はレジヘ行きました。レジの女は三十歳ぐらいの、丸ぽちゃの、とてもやさしい、とてもセンチメンタルな感じの女でした。
『ジョゼフは、何かばかなことをしでかしたのですか?』と、まず彼女が私に訊きました。
『いや、その逆です。彼はこの辺にガール・フレンドがいますね?』」
メグレが不平を言った。
「おい、話をかいつまんでたのむよ」
「時間があるのでしたら、あのマチルドに会ってみたらどうです。手短かに言いますと、マチルドがデートできないとき、ジョゼフが短い手紙を受け取るのはこのレジの女を通じてなのです。私がたばこの包みのなかに見つけた手紙は一昨日のものにちがいありません。いつも子供が理髪店に飛び込んできて、こうささやきながらレジの女に手紙をわたすのです。
『ジョゼフさんへわたして』
幸いにも、レジの女はボンヌ・ヌーヴュル大通りのモロッコ革の店へこの子が二、三度入って行くのを見かけています。私はこうやって、つぎからつぎへと糸をたぐって行き、マチルドを見つけたのです」
「きみは彼女に何も言わなかっただろうね?」
「私が調べていることを彼女は知りもしません。私はただ店の主人に、マチルドという名の店員がいるかどうかを訊いただけです。店の主人は売場にいる女を指さし、呼びに行こうとしました。私は彼女には何も言わないようにたのみました。もしあなたが……いま五時半ですね。あと三十分で、あの店は閉ってしまいます」
「失礼します、お嬢さん……」
「わたしのことはかまわないで」
「一言だけ……」
「あっちへ行ってください」
感じのいい、小柄な女で、メグレが想像していたよりずっと美しかった。
「警察です」
「何の用ですの? わたしが何か?」
「二言、三言話したいのです、あなたの恋人のことで」
「ジョゼフのことで? 彼が何かしたのですか?」
「私にはわからないのです、お嬢さん。しかし、彼がいまどこにいるのか知りたいのです」
こう言ってしまって、彼はすぐに、
『しまった! まずかった……』
彼は初心者のように、ヘまをやってしまった。不安そうにまわりに目をやっている彼女を見たとき、メグレはそのことを悟った。黙ってあとをついて行かずに、なぜ彼女に話しかけてしまったのか? 彼女は地下鉄のそばでジョゼフと会うことになっていたのではないか? なぜ彼女はそのまま歩きつづけるかわりに、歩調をゆるめたのか?
「いつものように、あの人は働いているのではないのですか?」
「いや、お嬢さん。そのことをあなたは私とおなじように、いや私以上によく知っているにちがいありません」
「何を言いたいのです?」
大通りが混雑する時間だった。それこそ人の行列が地下鉄の入口へ向かい、その中にすいこまれて行った。
「ここに、もう少し残っていませんか?」と、メグレは入口の近くに彼女を押しとどめた。
すると、彼女はあきらかにいらだちはじめた。あちこちキョロキョロ見まわした。彼女には十八歳のみずみずしさがあった。小さな丸顔で、小柄なパリジェンヌの落着きがあった。
「私のことをあなたに話したのはだれなのです?」
「そんなことはどうでもいい。あなたがジョゼフについて知っていることを言ってください」
「あの人の何を?」
警視も群集に目をやっていた。マチルドと一緒にいるメグレを見たら、ジョゼフは急いで姿をかくしてしまうにちがいない。
「あなたの恋人は近く状況が変るようなことを口にしたことはなかったですか? いいですか、嘘をつけば私にはわかる」
「なぜ、私が嘘をつくのです?」
彼女は唇を噛んだ。
「あなたは嘘を考える時間をかせぐためにそんな質問をしたのでしょう!」
彼女は踵《かかと》で歩道をたたいた。
「あなたが警察の人だと、だれがわたしに証明してくれるのです?」
メグレは警察手帳を見せた。
「ジョゼフは自分の平凡な生活に苦しんでいましたな、そうでしょう?」
「それから?」
「彼はそのことにひどく、大げさに苦しんでいた」
「たぶん床屋さんのままでいたくなかったのでしょ。それが犯罪ですか?」
「私が言いたいのがそんなことではないのを、あなたはよくご存知だ。彼は自分が住んでいる家を恐れ、自分の送っている生活を恐れた。彼は母親を恥ずかしがりさえした、そうでしょう?」
「あの人はそんなこと一度も言いませんでした」
「しかし、あなたはそのことを感じていた。とにかく、最近彼は生活が変るようなことをあなたに話したにちがいない」
「ちがいます」
「あなたたちは知り合ってどのくらいになります?」
「六カ月とちょっと。冬でした。あの人、紙入れを買いに店に入ってきたんです。どれも高すぎると思っているらしいことはわかりましたが、そのことを口に出す勇気がなくて、そのうちの一つを買いました。その夕方、わたしはあの人が歩道に立っているのに気がつきました。わたしに話しかけてくる前に、そうやって二、三日わたしをつけてきました」
「一緒にどこへ行くのです?」
「大部分は、外で数分会うだけです。ときどき、地下鉄で、わたしが住んでいるシャンピオネ駅まで送ってきてくれます。日曜日に一緒に映画に行くこともありましたが、それもわたしの両親のため、思うように行きませんでした」
「彼の家に、母親の留守中に行ったことがありませんか?」
「一度もありません、誓ってもいいです。一度、彼は遠くから自分の家を見せたがりました」
「彼はとても不幸そうですね……そうは思いませんか?」
「何かわるいことをしたのですか?」
「いや、お嬢さん。ただ行方不明になったのです。それで、私は彼を見つけるのにあなたのことを少しばかり当てにしていたのです、ほんの少しばかりね。彼が街に部屋を借りていたかどうか訊いてもむだでしょうな」
「あなたは彼のことを知らないからそんなことを言うのです。それに、お金もあまりないし。給料を全部お母さんにわたしていたのです。お母さんはたばこを買うお金しか彼にわたさなかったのです」
彼女は顔を赤らめた。
「映画に行くとき、わたしたちは割勘《わりかん》でした。一度……」
「一度……」
「なぜかわからないのですが……そのことが別にわるいってわけではないのですが……一度、一カ月前に一緒に田舎に行ったとき、あの人、自分の昼食代をはらうお金がなかったのです」
「どっちの方面に行ったのです?」
「マルヌ河に。シェルの駅で列車を降りて、マルヌ河と運河の間を散歩しました」
「ありがとう、お嬢さん」
彼女は人込みのなかにジョゼフがあらわれなかったことでほっとしたのだろうか、それともくやしがっているのだろうか? たぶん両方だろう。
「なぜ、警察が彼をさがしているのです?」
「お母さんがそうして欲しいと言ってきたからです。お嬢さん、心配することはありません。いいですか、もしあなたがわれわれより先に彼についての情報を得たら、ただちに連絡してください」
メグレが振り向くと、彼女は地下鉄の階段をためらうように降りて行った。警視庁のメグレのデスクの上にメモがおいてあった。
ブルースタン・ステファーヌ、三十七歳、一九三九年二月十五日に、ニースのネグレスコ・ホテルの一室で殺される。数日前からこのホテルに投宿していた。ブルースタンのところには夜遅くかなりの人々が出入りしていた。犯罪は三五口径の拳銃で行なわれたのだが、この拳銃は見つかっていない。
当時行なわれた捜査では、犯人は発見できなかった。被害者のバッグは犯人によってくまなくひっかきまわされ、つぎの朝、部屋は言葉では言いあらわせないほど取り散らかされていた。
ブルースタンという人物にかんしてはかなり謎のところがあり、彼がどこからきたのか捜査してみたがわからなかった。ニースには、パリからの特急列車でやってきている。ニースの機動隊はおそらくもう少しくわしい情報を持っているかもしれない。
この殺人の日付がベルシー河岸からブルースタンが失踪した日付と一致していた。メグレはまたもやありもしないパイプを手さぐりし、見つからないと不機嫌につぶやいた。
「あのばかなガキめ!」
三『家族の利害関係を調べろ』
たとえば列車のなかで、あなたの心にそっと入り込んできて、くっついて離れないどころか、列車の進行リズムにぴったり適《かな》うリフレインがある。このリフレインがメグレを追いかけてきたのは、タイヤを軋らせて走るおんぼろタクシーのなかでだった。大粒の雷雨が、がたがたの屋根を強くたたく音によってさらにそのリズムが強められた。
『家族の利害関係を調べろ。家族の利害関係を調べろ……』
メグレはいま、暗い道路を全速力でタクシーを飛ばしていた。彼のわきには緊張で顔色の蒼ざめた若い娘が、運転手のわきにはおとなしい小柄のリュカがいた。ルロワ夫人のような人間がやってきたときには、泣き言を黙って最後まで聞いていてはいけないのだ。
「奥さん、それで何も盗まれていないのですね? 告訴はしないのですね? それなら残念ですがこれで……」
彼女の息子が失踪したときでも、
「息子さんが出て行ったと言うのですか? われわれが家出した人間をすべてさがさなければならないとしたら、フランスじゅうの警察はそれで手いっぱいになってしまいます。いや、手いっぱいどころか、人手が足りないでしょう!」
『家族の利害関係を調べろ』。こういうわけで、このリフレインが生れるのだ。家出の調査は、これを要求した人々の費用によってのみ行なわれる。その結果については……
こういうことを言ってくるのは老人であれ、若い人であれ、男であれ、女であれ、いつでも正直な人々だ。善良そうな顔とやさしい、ちょっと途方にくれた目をし、懇願するような、へり下った声で、
「警視さん、誓ってもいいですが家内は……私はだれよりもあれのことをよく知っています……自分から進んで家を出て行くような女ではありません」
あるいは、娘の場合には、「娘はとても無邪気で、とてもやさしくて、とても……」
毎日このような人間が何百人とくるのだ。『家族の利害関係を調べろ』……幻滅するだけだから、妻や娘や夫を見出さないほうがいいと、彼らに言うのは気の毒だろうか?『家族の利害関係を調べろ』……
メグレはふたたびこうした厄介な事件に乗り出してしまった! タクシーはパリを去り、司法警察局の力のおよばない公道を走っていた。もうこうなってはどうしようもなかった。かかった費用さえ払いもどしてもらえないだろう。これもすべてパイプのおかげだ。メグレがベルシー河岸の家の正面にタクシーから降りたとき、雷が鳴った。ベルを鳴らすと、ルロワ夫人は台所で一人きりで、パンとバターと薫製にしんで食事中だった。息子のことが心配であるのにもかかわらず、彼女は薫製にしんを隠そうとした!
「奥さん、この男に見おぼえがありますか?」
彼女はためらわず、しかしびっくりして、
「わたしのところの前の下宿人です、ブルースタンさんです。奇妙ですわね……この写真の着物では……」
そう、上流社会の人間だ。一方、シャラントンでは、彼はかなり見すぼらしい様子をしていたのだ。この写真を見つけるためには、大新聞社の資料室に行かなければならなかった。なぜかわからないか、警察の犯罪記録課にはなかった。
「これはいったい何のことなんです、警視さん? この男はどこにいます? 何をしたのです?」
「この男は死にました。いいですか、あなたは私と……メグレは洋服箪笥や引出しが空《から》になった部屋のなかをぐるりと見まわした……おなじ考えを持ったようですね……」
彼女は顔を赤らめた。すでに彼女は警戒心を強めていた。しかし、警視は今夜は忍耐強くはなかった。
「この家のなかのすべての品物を改めましたね。否定しなくてもいいですよ。息子さんが何か持ち去ったかどうか調べてみたのですね? その結果は?」
「何もなくなっていません、本当です。何一つなくなっていないのです。どう思いますか? あなたはどこにお出かけになるのです?」
というのは、メグレは急いでいる人間のように立ち去り、待たせておいたタクシーに飛び乗ったからだ。ふたたび時間の無駄だ、ばかげている。さきほどまで、彼はあの若い娘とボンヌ・ヌーヴェル大通りで向かい合っていたりした。ところで、彼は正確な住所を訊くことを思いつかなかった。いま、彼には彼女が必要になった。運よく、モロッコ革店の主人が店とおなじ建物に住んでいた。
ふたたびタクシー。大粒の雨が舗道をぱちぱちたたいていた。通行人は走っている。車はスリップした。
「シャンピオネ通り六七番地……」
メグレは小さな部屋にずかずかと入って行った。丸テーブルをかこんで、四人の人間が……父親、母親、娘、十二歳の男の子がスープを飲んでいるところだった。恐怖に捉われたマチルドは立ち上り、口を開いてさけぼうとした。
「皆さん、失礼しました。私にはあなた方の娘さんが必要なのです、店で見たお客さんを見分けてもらうために。お嬢さん、私と一緒に来ていただけますね?」
『家族の利害関係を調べろ』ああ! これは、ただちに手掛りが得られる死体の前にいるのでもなければ、殺人者を追いかけているのでもない。殺人者のおおよその心の動きならば推測できないこともないのだが。
それに反して、素人が相手だと! 彼らは泣いたり、ふるえたりする! それにパパやママのことも気にしなければならない。
「どこに行くのです?」
「シェルに」
「あなたは彼がそこにいると思っているのですか?」
「お嬢さん、私には何一つわかっていないのです。運転手さん……まず警視庁に寄ってください」
こうしてメグレを待っていたリュカを乗せたのである。
『家族の利害関係を調べろ』メグレはマチルドと車のうしろのシートに坐っていた。ときどきマチルドのからだがメグレに軽く触れた。大粒の雨滴がオンボロ車の屋根を滲《し》み通って、彼の左膝の上に落ちてきた。目の前に、リュカのたばこの赤い先が見える。
「お嬢さん、シェルをおぼえていますね?」
「ええ、もちろんです」
それはそうだろう! 彼女にとってあれほどすてきな恋の思い出は他にないのだから。二人がパリからのがれたのもただの一度だし、河に沿って、高い草のあいだを一緒に歩いたのもただの一度だった!
「暗いけれど、あなたはわれわれを案内できますね?」
「できると思います。ただ、駅のところから行ってください。わたしたち、列車でここに来たのですから」
「宿屋で昼食を取ったと言いましたね?」
「ええ、うらぶれた宿屋でした。とても汚くて、とても薄気味がわるかったので、こわくなったほどです。わたしたち、マルヌ河に沿っている道を取りました。しばらく行くと、その道はほんの小径になってしまうのです。ちょっと待ってください……。左側に、打ち棄てられた石灰焼きの窯《かま》があります。それから、その五百メートル先ぐらいに、二階建ての小さな宿屋があって……わたしたち、そこにそんな宿屋を見出してびっくりしたぐらいでした。
……なかに入ってみました。右手に、トタンのカウンター……石灰を塗った壁に、俗悪なポスターが何枚かありました。鉄のテーブルがただ二つと、椅子がいくつか。……それにそこの人は……」
「店の主人のことですか?」
「ええ。褐色の髪の小柄な人なのですが、店の主人のようには見えません。どう言ったらいいのかわたしにはわかりませんが、あれこれ想像してしまいたくなるような人です。わたしたちは食べ物をたのみました。パテと、ソーセージと、温めなおした兎の肉を出してくれました。とてもおいしかった。主人はわたしたちとおしゃべりし、ここのお客は釣師なのだと言いました。それに、隅に釣竿がたくさんおいてありました。何もわからないと、本当にいろいろ気をまわしてしまうようなところです」
「ここですか?」と、運転手が車を停めたので、メグレはウィンドー越しに外をながめた。
小さな駅。暗闇のなかに明りがいくつか。
「右に」と、若い娘が言った。「そして、二番目の道をふたたび右に。わたしたちが道をたずねたのもそこなのです。でも、どうしてジョゼフがここに来たと思うのです?」
別に理由はなかった。強いて言えばパイプのためだ。だが、そのことを口に出して言う勇気は彼にはなかった。
『家族の利害関係を調べろ!』パイプのためだと言えば、彼女を笑わせてしまうだろう。しかし……
「こんどはまっすぐやって、運転手さん」と、マチルドが口を出した。「河につき当るまで。橋がありますが、それをわたらずに左に曲ってください。その道は狭いですから、気をつけて」
「お嬢さん、ジョゼフは近々生活が変るかもしれないようなことを言ってたでしょう」
この娘も年を取れば、ルロワ夫人のように頑固になるだろう。ルロワ夫人も若いときはやさしくて、たぶん美しかったのではないか?
「あの人には野心がありました」
「私は将来のことを話しているのではない。最近のことです」
「床屋さんよりか他のことをしたがっていました」
「お金が手に入るようなことを言っていましたね?」
彼女は苦しんでいた。ジョゼフを裏切ることをひどく恐れていた!
車はスピードをゆるめて、マルヌ河に沿っている悪い道を走っていた。左手に、見すぼらしい家が数軒、きざな感じの別荘がちらほら。あちこちに明りや、犬の吠え声。それからとつぜん、橋から一キロメートルばかりのところで、轍《わだち》が深くなり、タクシーは停った。運転手が言った。
「もうこれ以上先には行けませんや」
雨は前より激しくなっていた。車から出たとき、この激しい雨でずぶぬれになってしまった。雨がからだにべとつく。地面はつるつる滑り、歩くたびにやぶに触れた。少し進むと、彼らは一列になって歩かなければならなくなった。一方、運転手は車のなかでぶつぶつ文句を言いながら坐っていた。たぶん一眠りするつもりなのだろう。
「おかしいわ。もっと近いと思っていたのに。まだ家が見えませんか?」
マルヌ河は彼らのすぐわきを流れていた。足の下で水溜りがはねた。メグレは枝をかき分けかき分け、先頭を進んだ。マチルドがその彼にぴったり寄りそい、しんがりはニューファウンドランド犬のような無関心さで歩きつづけるリュカだった。
若い娘は心配しはじめた。
「橋もあったし、石灰焼きの窯もあったし、……まちがっているはずはないんですけど」
「天気がわるいので、ジョゼフと一緒に来たときより今日は長く感じられるのでしょう」と、メグレはぶつぶつ言った。「そう……左側に明りが見える」
「たしかにあそこだわ」
「しっ! 物音を立てないようにして」
「あなたは?」
メグレは、とつぜん鋭い口調で、
「私は何も信じていない。絶対に何も信じてはいません、お嬢さん」
メグレは後ろの二人が彼のところまで来るのを待って、リュカに小声で言った。
「この娘《こ》とここで待っていてくれ。私が呼ぶまで動くな。マチルド、ちょっと身をかがめて。ここから家の正面が見えますね。あれにまちがいないですね?」
「はい、まちがいありません」
すでにメグレの大きな背中が、彼女と小さな明りの間に立ちふさがっていた。彼女はずぶぬれのまま、真夜中に雨の降る河べりに取り残された。彼女の知らない、たばこをつぎからつぎへと静かに喫いつづける小男と二人きりで。
四 釣師たちの寄り合う場所
マチルドはこの宿屋が不吉とはいえないまでも不穏な感じがすると言っていたが、誇張しているとは思えなかった。宿屋のわきには荒れ果てたあずまやみたいなものがある。宿屋の窓ガラスは灰色で、よろい戸が下りていた。入口のドアは開けはなされていた。雷雨で空気が涼しくなりはじめたためだろう。
黄色い明りが汚い床を照らしている。メグレはいきなり暗闇から飛び出すと、入口に立ちふさがった。実際より大きく見えた。パイプを口にくわえ、帽子の縁に手をやりながら言った。
「今晩は、皆さん」
鉄のテーブルで二人の男がおしゃべりしていた。テーブルの上にはブランデーの壜と、分厚いグラスが二つおいてある。上衣を脱いだ褐色の髪の小男のほうが静かに顔をあげ、ズボンをずりあげながら立ち上った。ちょっとおどろいた目をしている。
「今晩は……」
もう一人はこちらに背を向けたままだが、ジョゼフ・ルロワでないことはたしかだ。頑丈なからだつきをし、非常に明るい灰色のスーツを着ている。妙なことは、こんなに夜遅く人が来るなんてちょっと時ならぬものがあるのに、この男は身動きしないことだ。身ぶるいしないように務めているのだろうか。壁にかかった陶器でできた広告用の時計が十二時を示していたが、もっと遅いにちがいない。男が入ってきた人間を見るため振り返ってみようとさえしないのは自然といえるか?
メグレはカウンターの近くに立ったままでいた。着物から水がぽたぽた垂れ、灰色の床に黒っぽいしみをつくっていた。
「ご主人、部屋が空いているかね?」
褐色の髪の小柄な男は時間をかせぐためカウンターのうしろに行った。カウンターの棚にはいかがわしい酒壜が三、四本しかなかった。主人はメグレの質問には答えず、
「何かお飲み物は?」
「あなたが何か飲ませたいんだったら。私は部屋が空いているかどうか訊いたのだ」
「あいにくありません。お客さまは歩いておいでになったのですか?」
こんどはメグレがそれには答えず、
「ブランデーをもらおうか」
「車のエンジンの音が聞こえたような気がしますが」
「そうかもしれない。部屋はあるのかね、ないのかね?」
彼から数メートルのところの背中はあいかわらず動かない。まるで石に彫刻した背中のようだ。電気はなかった。店のなかは安物の石油ランプで照らされているだけだ。もしあの男が振り返らなかったら……あのつらい不動の姿勢をあのままずっと取りつづけていたら……
メグレは不安になった。彼は素早く、この店内の大きさと、店の奥に見える料理場の大きさから考えて、二階には少なくとも三つの部屋があるにちがいないと計算した。主人や、店の見すぼらしい様子や、散らかりぐあいや見棄てられた感じなどから見て、この家のなかには女はいないとみなしていいだろう。
ところで、メグレの頭上でだれかが忍び足で歩いている。主人が思わず頭を上げ、いらだったようすをみせたところからすると、何か重要な意味があるはずだ。
「いま、ここには多くの泊り客があるのかな?」
「だれも。ただ……」
主人はテーブルの男を、というより微動だにしない背中を指さした。とつぜん、メグレは直観的に危険を感じた。素早く行動しなければならない。ぐずぐずしている暇はない。メグレはテーブルの上の男の手が石油ランプに近づくのを見て、前に跳《と》んだ。
だが、遅すぎた。ランプは床に落ちてガラスがこなごなにくだけた。石油の臭いが店じゅうにひろがった。
「畜生、さきほどからどうもおまえに見おぼえがあると思っていた」
メグレは男の上衣をつかんだ。もっとちゃんとつかまえようとしたが、相手がのがれようとして殴りかかってきた。あたりはまっ暗闇だった。夜の光で長方形の入口がぼんやりとうかびあがっているだけだった。主人は何をしているのか? 客を助けようとするだろうか?
メグレが殴り返した。手を噛まれた。そこで敵に思いきり飛びかかった。二人ともガラスの破片が散らばっている床の上を転がった。
「リュカ!」とメグレは力のかぎりさけんだ。「リュカ……」
男は拳銃を持っていた。メグレは相手の上衣のポケットにはっきりと固い物を感じ、このポケットに手を入れさせないように努めた。
主人は動いていない。彼の身動きする音が聞こえない。カウンターのうしろでじっとしているにちがいない。たぶんこんな争いは彼にとってどうでもいいことなのだろう。
「リュカ!」
「警視《パトロン》、すぐまいります」
リュカは水の溜った轍《わだち》のなかを走りながら、
「そこに残っているように言ったでしょう。わからないの? 私についてきてはだめです」と、くり返していた。
恐怖で蒼ざめてしまったにちがいないマチルドに言いきかせているのだろう。
「もう一度噛むようなまねをしたら、口をうちくだいてやるからな。この野郎、わかったか?」
メグレは肱で相手がポケットから拳銃を取り出せないようにしていた。男はメグレとおなじように力があった。暗闇のなかで一人きりだったら、警視はこの男に打ち勝てなかったかもしれない。二人はテーブルにぶつかり、テーブルが彼らの上に倒れてきた。
「ここだリュカ。懐中電燈を」
「わかりました、警視《パトロン》」
とつぜん蒼白い光がさっと組み合っている二人の男を照らした。
「畜生! ニコラ! どうだ、見つけたぞ! ……私はな、おまえの声を聞いただけでもわかるんだ。……手を貸せ、リュカ。こいつは危険だ。思い切りぶん殴ってこいつをおとなしくさせろ。ぶん殴れ、心配することはない。こいつは頑丈なんだ……」
リュカは小さなゴムの警棒で、男の頭を力一杯殴りつけた。
「さあ、手錠をかけろ。ここに、こいつがいるとは思いもしなかった。うん、それでいい。ニコラ、立て。気絶しているふりなんかするな。おまえは人一倍固い頭をしているんだから。主人!」
メグレは二度呼んだ。カウンターの端の暗闇から、穏やかな声が聞こえてきた。
「はい……」その声を聞いたとき、メグレはひどく妙な気がした。
「この家には、別のランプか、ロウソクでもないのか?」
「ロウソクをさがしてまいりましょう。懐中電燈で料理場を照らしていただけますか」
メグレは強く噛みつかれた手首の血をハンカチで止めた。入口の近くですすり泣きの声が聞こえた。マチルドだろう。何が起こったのかわからない彼女は、おそらく警視の相手がジョゼフと思い込んでしまったのだろう。
「入りなさい。心配することはない。もうすぐすべてが片づくから。ニコラ、おまえはここに坐るんだ。ちょっとでも動いてみろ……」
メグレは自分の拳銃と敵の拳銃をすぐそばのテーブルの上においた。主人がロウソクを持ってもどってきた。何事もなかったかのように落着いていた。
「それでは、若い男を連れてきてほしい」と、メグレは主人に言った。
主人はしばらくためらっていた。否定しようとでもしているのか?
「私は若い男を連れてきてほしいと言ったのだ。わかったかね?」
メグレはそう言いながら入口のほうに二、三歩行きかけたが、
「若い男はパイプを持っていただろうか?」
すすり泣きの合間に、若い娘はたずねた。
「あの人は本当にここにいるのですか、あの人に何も起こらなかったのですか?」
メグレは答えず、耳をすませた。階上《うえ》で、主人がドアをノックし、小声で、しつこく話しかけている。その言葉がきれぎれに聞こえる。
「パリから男の人が二人と、娘さんがお見えになったのですよ。ドアを開けなさい。誓って……」
マチルドは泣きながら、
「あの人が殺されているようなことは……」
メグレは肩をすくめ、こんどは彼が階段のほうへ向かった。
「そいつに注意しろ、リュカ。きみはニコラのことをおぼえているね? 私はニコラがずっとフレヌの刑務所にいると思っていた!」
メグレはゆっくりと階段をあがり、ドアに身をかがめている主人をわきにどけた。
「私だ、ジョゼフ。メグレ警視だよ。ドアを開けるんだ」
そして主人に、
「何をここでぐずぐずしているんです? 階下《した》に行って、あの若い娘に何か飲ませてください、グロッグとか、何か元気が出るものがいい。さあ、ジョゼフ!」
鍵穴で鍵がまわった。メグレはドアを押した。
「明りはないのか?」
「ちょっと待ってください。いま明りをつけます。ロウソクの小さな燃え残りがありますから」
ロウソクの明りがついたとき、ジョゼフの手はふるえていたし、顔には恐怖の色がうかんでいた。
「彼はまだ階下にいますか?」とジョゼフは喘《あえ》いだ。
乱れる言葉遣い、一度にどっと押しよせるいろいろな思い。
「どうしてぼくを見つけることができたのです? 彼らはあなたに何を言いました? 若い娘ってだれのことです?」
田舎の部屋、ひどく高いベッド、敵をなかに入れないため型どおりドアの前にいままで引っぱってきてあったにちがいない箪笥。
「きみはあれをどこにおいた?」と、メグレはごくさりげなく訊いた。
ジョゼフはびっくりしてメグレをながめ、警視がすべてを知っていることを悟った。まるで神さまが部屋にでも入ってきたかのようなながめ方だった。
熱に浮かされているようなしぐさ、彼はベルトの下に手をやり新聞紙でつつんだ小さな包みを取り出した。
髪は乱れ、着物はしわだらけだった。警視は何気なくジョゼフの足に目をやった。不格好なスリッパを履いているだけだった。
「私のパイプは……」
こんど、ジョゼフは泣きたいような顔をし、子供のように唇を尖らせた。メグレはジョゼフがひざまずき、許しを乞うのではないかと思った。
「静かに」と、メグレは忠告した。「階下《した》には人がいるから」
と言いながら、ジョゼフが前よりも激しくふるえながら差し出すパイプを受け取り、微笑んだ。
「しっ! マチルドが階段にいる。われわれが降りて行くまで待てなかったようだ。きみ、ちょっと髪を直せよ」
ジョゼフは洗面器のなかに水を入れるため水差しを取り上げた。が、水差しは空《から》だった。
「水がないのかね?」と、警視はおどろいた。
「ぼくが飲んでしまったんです」
そうか! そうだったのか! どうしてそのことを考えなかったのか? 青白い顔、やつれた表情、色|褪《あ》せてしまったような目を見ればあきらかなのに。
「お腹が空いているだろう?」
うしろを振り返らなくても、踊り場の暗がりにマチルドがいることはメグレには感じでわかった。
「さあ、入りなさい、お嬢さん……たのむから、ここではあまりお熱いところを見せないで。大丈夫、彼はあなたのことを愛していますよ。しかし、それよりもまず、彼には何か食べものをやってください」
五 ジョゼフの突飛な逃亡
いま、あたりの樹の葉をたたく雨の音が、とりわけ、大きく開けはなしてある入口のドアから入ってくる夜の湿った、冷たい空気が気持よかった。
空腹にもかかわらず、ジョゼフは店の主人がつくってくれたパテのサンドイッチをなかなか食べられなかった。それほど彼の喉は感動でしめつけられていたのである。それでもときどき喉ぼとけが上下するのが見えた。
メグレのほうは、すでにブランデーを二、三杯空けて、いまではやっと見つかったお気にいりのパイプをくゆらしていた。
「いいかい、ジョゼフ、こう言ったからって何もきみにちょっとした盗みをすすめるわけではないんだが、もしきみが私のパイプをくすねなかったら、きみの死体はいずれそのうちマルヌ河の葦《あし》のなかにうかんでいただろう。メグレのパイプのおかげだ!」
実際、メグレはこの言葉を、自尊心をかなり心地よくくすぐられた人間の満足感で言った。大作家が鉛筆を、有名な画家が絵筆を、人気スターがハンカチやそういったこまごました物をくすねられるように、メグレはパイプをくすねられたのである。
そのことを、警視は最初の日からわかっていた。『家族の利害関係を調べろ』……彼がわざわざ自分で手がけるようなものではない事件。
そうなのだ。しかし、つまらない生活にいや気がさしていた若い男がメグレのパイプをくすねた。そしてこの若い男はつぎの夜、失踪した。この若い男はずっと母親が警察に話しに出かけることを思いとどまらせようとしていた。
というのは、彼は自分自身で調べようとしていたからだ! それができると思っていたからだ。メグレのパイプを口にくわえて、いっぱしの警察官気どりで……
「謎の訪問者がきみの家でさがしていたものがダイヤモンドだということに、いつ気がついたのかね?」
ジョゼフは虚栄から、もう少しで嘘をつくところだった。が、マチルドをちらっと見て、考えを変えた。
「ダイヤモンドだとは知りませんでした。小さな物にちがいないとは思っていましたが。というのは、謎の訪問者は家の隅々をさがしたり、薬のはいっているような小さな箱だとかを開けていましたから」
「どうだ、ニコラ! おい、ニコラ!」
隅の椅子に反り返るように坐っていたニコラは手錠をはめられた両の拳を膝の上においたまま、残念そうな目つきで前方をじっと見つめていた。
「おまえがニースでブルースタンを殺したとき……」
ニコラはひるまなかった。骨ばった顔の筋肉一つ動かさない。
「おい、私の話を聞いているな。おまえのきざな言い方をまねれば、私が『お話しあそばせ』ているのが聞こえるな。おまえがホテル『ネグレスコ』でブルースタンを殺したのは、彼にだまされていたことを悟ったからか? 口を割りたくないのか? よし! いずれわかるさ。彼は何を言った、ブルースタンは? ダイヤモンドはベルシー河岸の家にあると。しかし、ああいう小さな物は隠すのは簡単だとおまえは思ったにちがいない。ブルースタンはおそらくいつわりの隠し場所でも言ったのだろう。おまえはそんな間抜けじゃないって? どうかな! あまりしゃべるな。そのダイヤモンドをどこから盗んだのか、私は訊かない。専門家に調べさせれば、明日にでもわかる。
いまさら古い事件でぶちこまれることはないだろう。私がまちがっていなければ、サン・マルタン大通りの押込み強盗。それと宝石店。宝石専門にやっていたんだな?……おまえは三年間牢にぶちこまれた。三カ月前、釈放になると、あの家のまわりをうろつきだした。おまえにはブルースタンがつくった鍵があった! そうだろう? え……言いたくなければ言わなくていい」
若い男と若い娘はおどろいてメグレを見つめた。彼らにはメグレのこのとつぜんの陽気さが理解できなかった。というのは、メグレがついさっきまでどのような不安を感じていたか、彼らは知らなかったからだ。
「いいか、ジョゼフ。きみにもこれからざっくばらんな話し方をさせてもらうよ。すべては簡単だったんだ。もう下宿人をおかなくなってから三年後にあの家に忍び込んだ見知らぬ男……私はすぐに牢から出た奴じゃないかと思った。病気は三年もつづかないからね。私はまず囚人の釈放名簿を調べるべきだった。そうすればこのニコラを見つけ出すことができただろう。リュカ、火がないか? 私のマッチはぬれてしまった。さあ、ジョゼフ、あの夜に起こったことを話してごらん」
「ぼくは見つけてやろうと決心したんです。とても貴重な物だろうと考えたんです。うまく行くと一財産できるかも……」
「お母さんがあのことで私に会いに来たので、きみはぜひともあの夜のうちに見つけたいと思った」
ジョゼフはうなずいた。
「それで、きみはお母さんに邪魔されないために、お母さんの煎じ薬のなかに何かを入れた」
ジョゼフは否定しなかった。喉ぼとけがはげしい勢いで上下した。
「ぼくはいままでとはちがった生活をしたかったんです!」と、ほとんど聞きとれないような低い声で、彼はつぶやいた。
「きみはスリッパのまま階下《した》に降りた。あの夜見つけられると、どうしてきみは確信していたのかね?」
「食堂を除いて、すでに家じゅうさがしていたからです。ぼくは、家をいくつかに区分しておいてさがした。あとは食堂だけで、きっと食堂にあるにちがいないと思ったのです。ぼくは見つけました!」
こう言ったとき、彼の卑下したような、意気消沈した態度に初めて得意げな色合いがあらわれた。
「どこで?」
「食堂に、古い釣燭台があったのにあなたも気づかれたでしょう、ほら、ロウソクさしと、磁器でできた模造のロウソクのついたやつ。どうしてこの模造ロウソクを取り外してみようと考えたのか、ぼくにもわかりません。そのなかに小さな紙包みがあり、紙包みのなかに固いものが……」
「ちょっと待った! 寝室から降りて行きながら、きみは見つけた場合どうしようと思っていた?」
「わかりません」
「家を出て行くつもりじゃなかった?」
「いいえ、そんなことありません」
「それでは、その宝石をどこか他に隠すつもりだった?」
「ええ」
「家のなかに?」
「いいえ。こんどはあなたが家をさがすことは予期できましたし、あなたならきっと見つけると思っていましたから。ぼくはその紙包みを理髪店に隠すつもりでした。ところで、見つけたすぐあとに……」
ニコラが冷笑した。店の主人はカウンターに肱をついたまま動かなかった。彼のワイシャツは薄暗がりのなかで白く浮きあがっていた。
「きみが模造ロウソクのなかに紙包みを見つけたとき……」
「ぼくの近くにだれかがいるような気がしたので、その紙包みを元にもどそうとしたのです。最初、ママが来たのかと思いました。ぼくは懐中電灯を消しました。懐中電燈で照らしていたのです。あいかわらず近づいてくるのは男でした。そこで、ぼくは玄関のドアのほうに素っ飛んで行き、通りに飛び出しました。ひどくびくついていました。ぼくは走りました。ドアが荒々しく閉まる音がしました。ぼくはスリッパで、帽子も、ネクタイもつけていません。ぼくは走りつづけました。背後で足音が聞こえました」
「ニコラ、このグレイハウンド犬のような若い人とおなじように速く走れるはずはあるまい!」と、メグレは冷やかした。
「バスチーユ広場のほうにはパトロール警官たちがいました。ぼくはパトロール警官たちのそばを歩きました。こうすれば、男が襲ってこないだろうと思ったからです。そうやってぼくは東駅の近くに着きました。そのときふと考えたのが……」
「シュルのことだね! 甘い思い出だ! それで?」
「朝の五時まで待合室で待ちました。人がたくさんいました。ところで、ぼくのまわりに人々がいるかぎり……」
「そうだな」
「どの人間がぼくを追ってきているのか、ぼくにはわからないのです。ぼくは一人ひとりをながめました。出札口が開いたとき、ぼくは二人の女の間にうまく入りこみました。小声で切符を買いました。いくつかの列車がほとんど同時に出発しました。ぼくはある列車に乗ると見せかけて、フォームの反対側に降りて、別の列車に乗りました」
「どうだ、ニコラ、この子は私よりずっとおまえを手こずらせたようだな!」
「ぼくの切符の行先がどこであるか知らないかぎりは、ですね? シェルの駅で、ぼくは列車が動き出すまで待って、飛び降りました」
「なかなかいいぞ!」
「ぼくは駅の外に飛び出しました。通りには人っ子ひとりいません。ふたたび走り出しました。背後に人の足音は聞こえません。ぼくはここに着くと、すぐに部屋を借りました。もう精魂つき果ててどうすることもできなかったし、早くあの男からのがれたかったからです…」
彼は話しながらふたたび身をふるわせた。
「ママはぼくに小遣いをたくさんくれませんでした。部屋のなかで、ぼくは十五フランと、電話用コインが数枚しかないのに気がつきました。ぼくはふたたびここを出て、ママが……ママがさわぎ出す前に家にもどりたかったのです」
「ニコラがやってきたんだね」
「ここから五百メートルのところでタクシーから降りるのが、窓から見えました。彼はラニューまで行き、車で引っ返し、シェルでぼくの跡を見つけたのだな、とぼくはすぐに悟りました。そこで、部屋に鍵をかけて閉じこもりました。そのあと、階段に足音が聞こえましたので、箪笥を引っぱりドアの前においたのです。彼がぼくを殺すことはまちがいありません」
「ためらわずにね」と、メグレがつぶやいた。
「ただ、主人の前で自分の正体をあばきたくなかった。そうだな、ニコラ? そこで彼はここに落着いた、いずれきみが部屋から出てくるだろうと思って……たとえば食事をするためとか」
「ぼくは何も食べなかったのです。彼が梯子で、夜窓から入ってくることも、ぼくはひどく恐れました。よろい戸を閉めたのはそのためなのです。眠る気にもなれませんでした」
外で足音が聞こえた。タクシーの運転手だった。雷雨が去ったので、客たちのことが心配になりだし、やってきたのだ。そこで、メグレはパイプを踵《かかと》で軽くたたき、ふたたびたばこを詰めると、悦に入ってパイプを撫でた。
「もしきみが不幸にもこのパイプを割ってしまうようなことをしたら……」と、彼はぶつぶつ言った。
それから、いきなり、
「さあ、皆さん、出発しよう! ところで、ジョゼフ、お母さんにはどう言うのだ?」
「わかりません。厄介なことになるでしょう」
「いや、そんなことはないさ! きみは探偵役を演じるため食堂に降りていった。男が出て行くところを目撃し、あとをつけた。探偵をするのがひどく得意だった」
初めて、ニコラが口を開いた。軽蔑してきっぱりこう言った。
「ふん、おれはそんなに簡単にはだまされないぞ!」
メグレは平然として、「まあ、あとでゆっくり話そうじゃないか、ニコラ? 私のオフィスで、向かい合って……どうだね、運転手さん、車はすし詰めになってしまうだろうな! 用意はできたか?」
その少しあとでメグレは、マチルドと一緒にシートの片隅にうずくまっているジョゼフの耳にささやいた。
「別のパイプをきみにやろう、本当だよ! きみさえよかったら、もっと大きいやつだ」
「でも」と、この若者は言い返した。「あなたのコレクションのものではないんでしょう」(完)
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訳者あとがき
『メグレ警視のクリスマス』は、クリスマス・ストーリイでもある。
エラリー・クイーンによれば、「罪と罰を扱ったすべてのミステリは、クリスマス・ストーリイの一つと言えるのではないか。たくみに仕組まれた、狂った殺人が報復をうけるとき、正義が勝利をおさめ、良きものが悪しきものを征服するとき、そこには明らかに地上の平和と人類にたいする、善意に向かっての正しい方向への足跡が刻まれている」ということになる。
エラリー・クイーンはこの考えにもとづいて、『EQMM』創刊以来、毎年一月号にはクリスマス・ストーリイを掲載してきた。そのなかにはスタンリイ・エリンの『クリスマス・イヴの凶事』のような名作がある。この『メグレ警視のクリスマス』も、「サンタクロースを信じた少女」という副題をつけて、一九五四年一月号に英訳されている。
エラリー・クイーン自身も『クリスマスと人形』というクリスマス・ストーリイを書き、そのなかで彼のクリスマス・ストーリイに関する詳しい見解を述べている。それによれば、クリスマス・ストーリイにはいくつかの約束事があり、その一つは「子供を登場させる」ことであり、「奇蹟がなければならない」という。(『メグレ警視のクリスマス』では子供が登場するし、奇蹟も起こる)
ミステリであれ、純文学であれ、外国の作家たちは一生涯に一度はクリスマス・ストーリイを書く。ディケンズは『クリスマス・キャロル』の他にも、いくつかのすばらしい短篇を書いているし、ドストエフスキーには『クリスマス・ツリーと婚礼』が、ゴーリキイには『クリスマスの幽霊』がある。
また、モーパッサンには『クリスマス物語』『クリスマスの夜食』、アンデルセンには『マッチ売りの少女』『モミの木』、O・ヘンリーには『賢者の贈物』、マルセル・エイメには『デルミューシュ』、デイモン・ラニアンには『三人の賢者』、新しいところではトルーマン・カポーティに『クリスマスの思い出』という佳作がある。これらの物語はすべてエラリー・クイーン言うところの「地上の平和と人類にたいする善意」があふれていて、それ故にこそわれわれは深く感動させられるのである。
ジョルジュ・シムノンにも、この『メグレ警視のクリスマス』の他に、二つのクリスマス・ストーリイがある。一つは『小さなレストラン』であり、もう一つは『七つの小さな十字架』である。二作ともミステリと言えば言えるし、そうでないと言えばそうではない。メグレは出てこないが、その代りに刑事たちが顔を見せる。たとえば、『小さなレストラン』であるが、クリスマスの前日に、パリへ家出してきた若い娘が、やくざに誘惑されそうになる。それを見かねた中年の娼婦が、家出娘が連れこまれたキャバレーでわざと娘にいんねんをつけ、取っ組みあいの大喧嘩をおっぱじめ、二人とも駆けつけた警官に留置所に入れられる。おかげで二人はクリスマスの朝を留置所で迎えることになるが、若い娘はやくざの餌食にならなくてすむ。なぜ、助けてくれたのかという若い娘の質問に、娼婦は眠そうな声でこう答える。「人間って、だれでも一度はサンタクロースになりたいんじゃないかしらね……」
なお、シムノンはこの作品にかぎってわざわざ「大人のためのクリスマス・ストーリイ」というサブタイトルまでつけている。
本書には『メグレ警視のクリスマス』の他に、『溺死人の宿』『メグレのパイプ』という二中篇が入っている。『メグレ警視のクリスマス』は一九五一年の作で、シムノンがもっとも脂の乗りきった時期の中篇(二百枚)である。五〇年代はメグレ・シリーズの傑作がもっとも多く生れた時期で、『メグレと首無し死体』『モンマルトルのメグレ』『メグレと若い女の死』『メグレ罠を張る』などかぎりがなく、その先陣を切ったのがこの作品である。
この作品は、メグレものとしてはめずらしく『安楽椅子探偵』スタイルを取り、メグレは住居の肱掛け椅子のなかで事件のほとんどを解決してしまう。
『溺死人の宿』は、メグレ物の傑作中短篇のほぼすべてを収めてある『メグレ最新の事件簿』のなかの一篇。本格物である。謎がきわめて論理的だ。その論理的な犯人偽装のトリックを一つずつ、解いていくメグレの手ぎわは見事としか言いようかない。
『メグレのパイプ』は、メグレのもっとも好きなハーフ・ベントのブライヤーの大きなパイプが盗まれる。このパイプは、メグレ夫人が十年前の誕生日祝いに贈ってくれたものである。その古い、すてきなパイプが盗まれたのだ。
毎日、メグレはオフィスのなかをぐるぐるまわってさがす。帰宅しても、ぼんやりしていて、ほとんど口をきかない。メグレがそのパイプを見つけるのは、捜査中の事件の犯人を逮捕したときである。パイプは探偵気取りの若者がくすねたのだ。メグレはパイプがもどると、靴の踵で軽くたたき、ふたたびたばこを詰めると、悦に入ってパイプを撫でる。彼はつぶやく。
「もしきみがこのパイプを割ってしまうようなことをしたら……」
これは、シムノン自身がもっとも愛している中編。一九四九年の作品。留守のあいだに、家のなかの品物の位置が少しずつ動いているというシチュエーションは、後に傑作長篇『メグレと老婦人の謎』のなかでももう一度試みられている。本書はメグレものとしてきわめて異色の、すばらしい中篇三篇を収録してある。(訳者)