メグレ氏ニューヨークへ行く
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
訳者あとがき…メグレあ・ら・かると
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登場人物
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ジョアシャン・モーラ……通称リトル・ジョン。アメリカの実業家
ジーン・モーラ……ジョアシャンの息子
ジョズ・マックギル……ジョアシャンの秘書
ドケリュス……ジョアシャンの公証人
ジョゼフ・ドーマル……ジョアシャンの昔の相棒
ジム・パーソン……新聞記者
ロナルド・デクスター……メグレが雇った私立探偵
ジャーメイン……昔サーカスにいた老人
リュシル……元芸人。女占い師
メグレ……元司法警察局警視
オブライエン……連邦警察警部
ルイス……連邦警察警部補
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第一章
船が検疫所に着いたのは、朝の四時頃にちがいない。船客の大部分はまだ眠っていた。錨《いかり》の騒々しい物音を夢うつつに聞いた者も何人かあったが、あれほどたがいに約束していたにもかかわらず、デッキに出てニューヨークの明りを見ようとする者などはほとんどいなかった。
航海の最後の数時間がもっとも海が荒れた。自由の女神から数百メートルの、ハドソンの河口に来ているのに、船はいまでも強いうねりのために揺れていた。雨が降っていた。というより霧雨だった。冷たい湿気が落ちてきて、すべてに滲《し》み込み、デッキは黒ずんで、滑りやすくなっており、手すりや金属の防水隔壁は漆《うるし》を塗ったようになっていた。
メグレは機関の止った瞬間、パジャマの上に厚ぼったいオーバーをひっかけて、デッキに昇って行った。二、三の人影がよろめきながら大股で行ったり来たりしていた。船の縦揺れのため、それらの人影はメグレの頭の上になったり、下になったりして見えた。
メグレはパイプをくゆらせながら、ニューヨークの明りと、検疫と税関の順番を待っている他の船をながめていた。
ジーン・モーラの姿は見えなかった。ジーンの船室の前を通りかかったとき、明りがついていたので、もう少しでノックするところだった。ノックをしたところでなんになる? メグレは髭を剃るために船室にもどった。それから酒を飲んだ……こうした細々《こまごま》した取るに足らないことまで思い出さなければならない……、メグレ夫人がバッグの底にしのばせておいてくれたマール・ブランデーの壜を手に取って、一口ラッパ飲みしたのである。
そのあと、なにがあったか? メグレにとっては五十六歳になっての初めての航海であったが、興味をひかれることもなく、風景にも無感動であることにひどくおどろいていた。
船内がざわついてきた。スチュワードが廊下を荷物を曳きずって行く物音や、船客たちがつぎつぎにボーイを呼ぶベルの音が聞こえた。
下船の準備を終えて、メグレはふたたびデッキに昇って行った。もやがかかったような霧雨は乳白色になりはじめ、眼の前にあるマンハッタンのコンクリートのピラミッドのなかの明りが弱まってきた。
「怒っていらっしゃるんではないですか、警視?」
若いモーラだった。たったいま近づいてきたのだ。モーラの顔は蒼ざめて見えた。もっともその朝デッキにいた船客のすべてが、生気のない顔色と、疲れた眼をしていたのだが。
「怒るって何をだね?」
「よくご存じでしょう……昨夜はぼくはいらいらして、神経が張りつめていたので……ですからあの人たちに酒を誘われたときには……」
昨夜はみんな酒を飲みすぎた。航海最後の晩だったからだ。バーはまもなく閉店になるので、とりわけアメリカ人が最後のフランス酒の味に名残りをつげようとやっきになっていた。
ただ、ジーン・モーラは十九歳になったばかりの青年だった。航海の間ずっと神経を張りつめていたものだから、急速に酔いがまわった。不愉快な酔い方だった。まず泣き出し、ついで人々に次々とからみはじめた。
メグレは夜中の二時頃ジーンをベッドに運んだ。力ずくで船室に引きずり込むと、青年は文句をいい、メグレを非難してどなりちらした。
「いくらあんたが有名なメグレ警視だからって、ぼくを子供扱いするのは許さん……いいか、ぼくに命令することができるのはたった一人しかいない。パパだけだ……」
だからいま、ジーンは消え入りそうな様子をしていたのである。胸も胃もむかついていた。メグレは彼を元気づけてやらなければならなかった。分厚い手の平《ひら》を青年の肩にかけていった。
「きみが酔っぱらわなかったら、私が酔っぱらっていたかもしれないさ。気にしなくていいよ……」
「ぼくが悪かったんです、いけなかったんです……ずっと父のことを考えていたもんですから」
「わかるよ……」
「父に会って、無事だとわかればとてもうれしいんですけど……」
メグレは霧雨のなかでパイプをくゆらし、荒波に激しくもまれている灰色のボートが、巧みな操縦でこの商船の舷梯に横づけするさまをながめていた。税関の役人たちが船上に縄梯子《なわばしご》からひらりと飛び移ると、船長室に消えていった。
船倉が開けられた。すでに揚錨機も始動していた。デッキの上の船客の数はますます増えていた。まだ薄暗いというのに、しつこく写真を撮り続けている者がいた。また、アドレスを交換しては、再会と文通を約束しあう人々の姿もあった。サロンでは、関税申告の書類に書き込みをしている者の姿も見られた。
税関の役人たちが立ち去り、灰色のボートも遠ざかった。ついで二艘のランチが入国管理事務所と警察と検疫所の係官を乗せて近づいてきた。その頃になると、食堂では朝食の支度が整っていた。
メグレはいつからジーン・モーラの姿を見失ったのだろうか? 後になってそれをたしかめるのは非常に困難だった。メグレはコーヒーを飲みに行き、チップをわたした。ほとんど面識のない人々が握手を求めてきた。それから、一等船客のサロンで列に並んで検疫の順番を待った。一人の医者が脈をはかり、舌を検査している間に、別の係官が彼の書類をチェックした。その間、デッキの上では混乱があったらしい。人から聞いた話では、新聞記者連中が乗り込んできて、ヨーロッパのある大臣と映画スターの写真を撮ろうとして大騒ぎになった。
そのなかでメグレの興味をひいたことが一つあった。事務長の立ち会いのもとに乗客名簿を調べていたある新聞記者が、こんなことをいったらしいのだ(メグレの英語の知識は学生時代に習っただけのものだった)。
「あれ! こいつは司法警察局のあの有名な警視とおなじ名前じゃないか」
このときモーラはどこにいたのだろう。船は二艘の曳船に引っぱられて、自由の女神のほうへと進んでいた。船客たちは手すりにもたれて自由の女神をながめていた。
地下鉄の電車のように乗客を満載した褐色の小さな船が絶えず通り遇ぎて行く。おそらくジャージー・シティかホボーケンなどの郊外に住む通勤客だろう。
「こちらに並びませんか、メグレさん」
商船はフランス航路の桟橋《さんばし》に静かに接岸した。乗客たちは、税関のホールで受け取ることになっている荷物のことを気遣いながら、一列縦隊で桟橋に降りて行った。
ジーン・モーラはどこに行ったのか? メグレはモーラを捜した。しかし、だれかにふたたび呼ばれたので、仕方なくタラップを降りた。税関のホールに行けば、モーラはいるだろうと彼は思った。頭文字がおなじだから荷物のところにいるにちがいない。
何か事件を予感させる気配も、緊張状態もなかった。つらい航海のためと、ムン・シュール・ロワールの別荘を離れたのは間違いだったという想いで、メグレはくたくたに疲れ、頭が重かった。
場違いの土地に来てしまったという意識が激しく働いた。こうしたときには、よく気むずかしくなる。群衆や手続きにうんざりしていた上に、人々の話している言葉がほとんどわからなかったので、彼の不機嫌はますますつのった。
モーラはどこに行ったのか? バッグの鍵をといわれて、彼はいつもの癖で長い時間をかけてすべてのポケットをさぐったが、鍵はあるべき場所にちゃんとあった。税関に申告するものはなにもなかったが、それでも、まだ一度も税関を通った経験のないメグレ夫人が念入りに結んだ小さな荷物を、すべて解かなければならなかった。そうした手続きがすべてすんだときに、メグレは事務長の姿を見かけた。
「若いモーラを見かけなかったですか?」
「とにかく船にはもういませんよ……ここにもいないし……おさがしいたしましょうか?」
駅のホールのようだった。ますます騒がしくなり、ポーターが人の脚にスーツケースをぶつけながらせわしなく行き来していた。事務長はあちこちモーラを捜してくれた。
「きっと先に行ってしまったんですよ、メグレさん。だれか迎えに来た人でもいたんでしょう」
だれにも今日の到着を知らせていないのに、モーラを迎えに来る者などいるだろうか?
メグレは彼の荷物を運んで行くポーターのあとについていくよりしかたがなかった。彼はバーテンがくずしてくれた小額の硬貨に慣れていなかったので、チップをいくらわたしたらいいのかもわからなかった。それから黄色のタクシーに、文字通り押しこめられた。
「セント・レジス・ホテル……」運転手に行き先をわからせるのに、四、五回おなじ文句をくり返した。
まるで馬鹿みたいだった。あの若造の話に乗るべきではなかったのだ。結局、あれはまだほんの若造なのだ。あのドケリュス氏にしたって、あの若造よりまじめだったかどうかあやしいものだ、とメグレは思いはじめていた。
雨が降っていた。吐き気を催すような醜悪な家並みのつづく汚ない町を車は走っていた。これがニューヨークなのか?
十日前……いや正確にいって九日前、メグレはムン・シュール・ロワールのカフェ≪シュヴァル・ブラン≫で、いつもの席に腰掛けていた。あのときも雨が降っていた。アメリカと同様、ロワール河の岸辺に雨が降っていた。彼はブロット〔オランダ伝来と伝えられるトランプ遊びの一種〕をやっていた。夕方の五時だった。
彼は定年退職した警察官だったのではないのか? 退職後の生活と、心をこめて家具を整えた別荘とに十分満足していたのではなかったのか? 長年持つことを夢みていた別荘、熟した果実と、刈り取った干し草と、床に塗った蝋《ろう》のよい匂いがする田舎の別荘。おまけにとろ火で煮るシチューの匂いまでする。メグレ夫人は自分がこれほど上手にシチューをつくれることを知っていたのだるうか?
間抜けな連中がときどき薄笑いを浮かべてメグレにたずねた。
「恋しくないかね、メグレ?」
メグレは腹立たしかった。何が恋しいというのか? 司法警察局の冷えきった広い廊下や、絶えまなくつづく捜査や、始末におえぬ手合いを追跡した日々が恋しいとでもいうのか?
とんでもない! メグレは幸福だった。新聞の三面記事や犯罪小説を読もうとさえしなかった。十五年間気に入りの部下だったリュカが訪ねてきたときでも、≪警視庁≫のことを少しでも話題にすることははばかられるといった雰囲気があった。
メグレはブロットをしていた。三枚続きの強い切り札を出したときだった。ボーイがやって来て、電話ですと告げた。彼はカードを手に持ったまま、電話のあるところに行った。
「あなた、メグレ?」
妻だ。妻はいつまでたっても苗字によってしか彼を呼ぶことができないのだ。
「いまパリからあなたに会いたいという方がいらっしゃってるんですけど……」
もちろん彼はすぐに家にもどった。家の前には、ピカピカに磨き上げられた古い型の車が停っていて、運転席には制服を着込んだ運転手の姿が見えた。メグレは車のなかにちらっと眼をやった。後部座席に縞柄のマントを着こんだ老紳士がいたような気がした。
家に入ると、こうした場合のつねで、メグレ夫人がドアの背後に立って彼を待っていた。夫人がささやくようにいった。
「若い方なの……客間にお通ししておきましたけど……車のなかに年取った方がいらっしゃるけど、お父さまらしいの……。その方にも入ってくださいといったのですけど、おかまいなく、ということですので……」
静かにカードを楽しんでいた彼が、ばからしくもアメリカに行くはめになった発端はこうなのだ!
神経質そうな顔つきで両手を痙攣《けいれん》させ、相手を盗み見ながら切り出すあいかわらずのきまり文句。
「……あなたの捜査についてはほとんど存じあげています……あなたにしかお願いできない事件なのです……云々」
こうした人々は決まって、自分がこの世でもっとも異常な事態に陥っていると思い込んでいる。
「ぼくはまだ子供ですから、ぼくのことを相手になさらないかもしれませんが……」
相手にされないと思うのも、自分のケースが前代未聞のことなのでだれにも理解されないと思い込むのも、この連中の共通の特徴だ。
「ぼくはジーン・モーラといいます。法学部の学生です。父はジョン・モーラといいます……」
そのあとは? 青年は全世界がジョン・モーラの名を知っていなければならないかのようにこうつけ加えたのだ。
「ニューヨークのジョン・モーラです」
メグレはパイプをふかしながら、なにやら口のなかでぶつぶついった。
「新聞でよく話題にされています。大富豪で、アメリカではよく知られています。こんないい方をして申しわけありません……でも、これからの話を理解していただくためには、必要なことなのです」
それから青年はこみ入った話を語りはじめた。まったく興味のわかないメグレは、あくびをしたり、機械的にブランデーを客のグラスに注いだりしながら、あいかわらずブロットのことばかり考えていた。台所を行ったり来たりする夫人の足音が聞こえる。猫が警視の脚にからだをすりよせてきた。カーテン越しに、車の奥で眠っているような老人の姿が見える。
「ぼくと父の間柄は、ふつうの父と子のようではありません。身内といえば、ぼくしかいません。頼りにするのはぼくだけです。仕事が忙しいのに、毎週長い手紙を書いてきます。また毎年バカンスの時期になると、ぼくたちは一緒にイタリアやギリシャやエジプトやインドで二、三カ月過します。ぼくと父のことをわかっていただくために、最近の父からの手紙をお見せします……タイプライターで打ってあるからといって、口述筆記をさせたなどとお思いにならないでください……父は、携帯用の小型タイプライターで私信を書く習慣があるんですから」
≪いとしい伜《せがれ》よ≫
手紙は愛する女に書き送るような調子だった。アメリカの父親はあらゆることを気づかっていた。息子の健康のこと、睡眠のこと、外出のこと、気分のこと、さらには夢のことまで。つぎのバカンスを楽しみにしているとも書いてあった。今年はどこでバカンスを送る予定なのだろう?
とてもやさしいが、同時に母親のような甘い手紙だった。
「あなたにおわかりいただきたいことは、ぼくがいろいろな空想にふける神経質な男ではないということです……六カ月ぐらい前から、何か深刻なことが起こっています。それが何なのかはわかりませんが、何かがあることはたしかなのです……父が恐れているのが感じられます。父は以前のようではありません。何か危険を意識しているようなのです。
それに、父の生活もこのところ急激に変わってしまいました。ここ数カ月というもの、父はひっきりなしに旅行をしています。メキシコからカリフォルニアに行き、カリフォルニアからカナダへ行くという風で、それがあまりにもめまぐるしいので、ぼくは悪夢を見ているような想いです。信じていただけないとは覚悟していました……でも、父の手紙のなかで、何ともいいようのない恐怖で未来について語られている部分にアンダーラインを引いておきました。
前には使ったことのないような言葉が何度も出てくるんです。
≪お前が一人きりになったら……≫
≪お前を失うようなことになったら……≫
≪お前が一人ぽっちになったときには……≫
≪私がいなくなったら……≫
こうした表現が、まるで強迫観念のように最近とみにひんぱんに書かれているんです。でも、父のからだは頑強そのものです。ぼくは気休めのため、父の主治医に電報で問い合わせてみました。返事をもらいました。医者はぼくのことをひやかし、不慮の事故でもないかぎり、父はまだ三十年は太丈夫だと断言しました……。わかっていただけますか?」
これもまた彼らの決まり文句だ。
「ぼくは公証人のドケリュス氏に相談に行きました。高名な方なのでご存じかと思いますが……経験豊富な老人です……ぼくは彼に先ほどの手紙を見せました……ドケリュス氏もぼくとおなじように父のことに不安を感じたようです。
そして昨日、氏はぼくに、父が妙なことを命じてきたと打明けてくれました。ドケリュス氏はフランスにおける父の代理人、腹心の代理人で、必要なときに私に生活費をわたすこともしてくれています……ところで最近、父から連絡があって、何人かの人間にかなりの財産を生前贈与するように命じてきたのです。
ぼくに相続させないためではありません、あなたはそう思われるでしょうが……まったく逆なんですよ……というのは、私署証書では、その全額がそっくりあとで私に手わたされることになっているんですから。
ぼくが唯一の相続人であるのに、なぜそんなことをしたというのですか?
ぼくに財産がきちんとわたらないことを父が恐れたからではないでしょうか……。
ドケリュス氏にも一緒に来てもらいました。車のなかにいます。もしお話になりたいのでしたら……」
年寄りの公証人の物々しさにひどく心を動かされた。そして、公証人のいうことも青年とほとんどおなじだった。
「ジョアシャン・モーラの生活になにか重大な出来事が生じたのだと、私は確信しております」と、公証人は言葉を慎重に選びながらいった。
「なぜジョアシャンと呼ぶんですか?」
「それが本当の名前なのです。アメリカにいるときは、とおりのいいジョンという名を使っていますが……きっと彼は自分の身に危険が迫っていると感じているのです。それが私にもわかります……ジーンからアメリカに行ってみるつもりだと打明けられたとき、私は止める気にはなれませんでした。ただ、だれか経験のある人についていってもらいなさいと忠告しました」
「なぜあなたではいけないのですか?」
「まず、私では年を取りすぎています……それに、いずれおわかりいただけると思いますが、ほかにもいくつか理由があります。こんどのニューヨーク行きに必要な人は、警察のことに詳しい人でなければなりません……また私の任務は、ジーン・モーラに必要な金をわたすことぐらいで、現在の状況ではアメリカに行きたいという彼の気持に同意するしかないのです」
こうした会話が、小声で二時間つづいた。ドケリュス氏はメグレがすすめる年代物のマール・ブランデーが気に入ったようだった。ときどきドアの向こうで夫人が聞き耳を立てている気配がした。それは好奇心からではなく、いつになったら食事ができるのか様子をさぐるためだった。
客の車が去って、メグレがとうとう説得されてしまったことをさして誇る様子もなく、夫人に短く「アメリカに行く」と伝えたときの夫人の驚きといったらなかった。
「なんておっしゃったの?」
こうしていま、彼は霧雨のため気のめいるような陰気な景色のつづく見ず知らずの街並を走って行く、黄色いタクシーのなかにいる。
なぜジーン・モーラはニューヨークに着いたとたんに消えてしまったのか? だれかに会ったとか、父親に早く会うために無礼にも同行者を置いて行ってしまったとか考えるべきなのか?
街並がいままでのところよりきれいになってきた。タクシーはとある街角で停った。だが、メグレにはそこが有名な五番街だとはまだわからなかった。ドアマンがさっと車のほうにとんできた。
異国の硬貨で運転手に料金を払う段になって、メグレはふたたび困ってしまった。それから≪セント・レジス・ホテル≫のホールに入り、フロントでやっとフランス語の話せる男を見つけることができた。
「ジョン・モーラ氏にお会いしたいのですが」
「しばらくお待ちください」
「モーラ氏のご子息は着いているでしょうか?」
「今朝、まだどなたもモーラさんを訪ねて来られません」
「部屋におられますか?」
フロントの男は受話器を取り上げると、冷やかすぎるほどていねいに答えた。
「ただいま秘書の方にきいてみますので」
相手が出ると、
「もしもし、マックギルさんですか? こちらフロントですが、モーラさんに面会したいという方がお見えになっております。何ですか? ……ええ、おききしてみます……あなた様のお名前は?」
「メグレ……」
「もしもし、メグレさんです……ああ、そうですか。わかりました」
受話器をおくと、男はいった。
「マックギルさんのおっしゃるには、モーラさんはお約束になっている方としかお会いにならないそうです。ここにご住所とご用件を書きとめていってくださいましたら、かならず連絡するとのことですが」
「そのマックギルという人に、私はモーラ氏に会うためにフランスからわざわざやってきた者で、ぜひお伝えしなければならない重大な用件があるのだといってください」
「残念ですが……また電話をしたら私が怒られます。ご面倒でしょうが、そこの休憩室で一言書いてくださいませんか。ボーイに持たせますので」
メグレは怒っていた。会ったこともないが、すでに嫌悪しはじめているマックギルという男にたいしてよりも、自分自身にたいしていっそう腹が立った。まわりのものがすべて、もうなにもかもが嫌だった。金ぴかのホールも、薄笑いを浮かべて彼を見ているボーイたちも、行きかう美しい女たちも、ぶつかっても謝りもせず通り過ぎる自信満々の男たちも、なにもかもだ。
≪モーラ殿
私はご子息とドケリュス氏から重要な使命をおおせつかって、先ほどフランスから着いたばかりです。あなたの時間同様、私の時間も貴重ですので、ただちにお会いくださるようお願いします。                         敬具
メグレ≫
それから十五分たっぷり待たされた。そこが喫煙所でないことはわかっていたが、憤怒を持てあましてメグレはパイプに火をつけた。やっとのことでボーイがもどってきて、彼と一緒にエレベーターに乗り、長い廊下を案内し、ドアをノックし、ボーイは立ち去った。
「どうぞ!」
なぜ彼は、マックギルを中年の、恐ろしい顔の男と想像していたのか? メグレのほうに近寄って来て手を差しのべたのは、背のすらりとした品のいい青年だった。
「失礼しました、メグレさん。モーラ氏はあらゆる種類の嘆願者にひどく悩まされていますので、私たちとしてはきびしい柵《さく》を設けざるをえないのです。フランスからおいでになったということですが……失礼ですがあなたはあの、元……」
「元警視のメグレです」
「どうかお掛けください。葉巻はいかがですか?」
テーブルの上にはいくつか葉巻の箱が載っていた。部屋は広かった。マホガニー製の大きなデスクが置かれていたが、オフィスというより客間の感じだった。
メグレはハバナの葉巻が好きではなかったので、ふたたびパイプにたばこを詰めると、相手を好意的に観察した。
「ジーンさんのことでいらっしゃったとのことですが……」
「モーラ氏に引き合わせていただけませんか。この件はモーラ氏と二人きりで話合いたいのです」
マックギル氏は美しく整った歯を見せて微笑んだ。
「あなたはヨーロッパからいらしたのでおわかりにならないでしょうが、モーラ氏はニューヨークでもっとも忙しい人間の一人なのです。この私さえ、いま彼がどこにいるのかまったくわからないのです、彼の個人的な事柄まで含めてすべての問題をまかされているこの私でさえ……ですからご心配なさらずに私に話してください」
「モーラ氏が私に会ってくれるまで待ちましょう」
「どんな内容のお話なのか要点だけでもうかがっておきましょう」
「もういったでしょう、ご子息のことです」
「あなたの肩書からいって、ジーンが何か軽率なことをしでかしたと想像してしまいますが、そうでしょうか?」
メグレはじっとしたまま、何も答えなかった。ただ冷やかに相手を観察していた。
「しつこいようですがお許しください、警視さん……あなたが定年退職なさったことは新聞で知りましたが、人々はまだあなたを警視とお呼びしているようですね……失礼ですが、ここはアメリカ合衆国であってフランスではないということ、ジョン・モーラの時間は貴重なものであるということを忘れないでいただきたい……ジーンは少し神経質すぎますが、魅力的な青年です。しかし、彼が何をしたのか、私にはまったく見当がつかないのです……」
メグレは静かに立ち上がり、椅子のわきの絨毯《じゅうたん》の上においておいた帽子を取りあげた。
「このホテルに部屋をとります……モーラ氏が私に会う気になりましたら……」
「あと二週間はニューヨークに戻ってまいりません」
「それでは、いまどこにいるのか教えていただけますか?」
「無理です。飛行機で飛びまわっているのですから。一昨日はパナマでした。今日あたりは、リオかヴェネズエラでしょう……」
「それではこれで……」
「警視さん、ニューヨークにどなたかお知り合いでも?」
「以前一緒に仕事をしたことのある警察官が二、三人いるだけです」
「あなたを昼食に招待したいのですが」
「その警察官の一人と食事をとろうと思いますので……」
「私といかがですか? 役目がらこんなに事務的な態度であなたに接しなければならないのが残念です。いやな男だとお思いにならないでください……私はジーンより年上ですが、それほど年が離れているわけではありません。私は彼が大好きです。彼についてなにか私に話していただけないでしょうか……」
「失礼ですが、モーラ氏の秘書になってからどのくらいになります?」
「六カ月ほどです。氏と一緒になってから六力月ほどという意味で、以前から面識はありました、ずっと昔からではありませんが」
隣りの部屋でだれかの足音がした。マックギルの顔色が変わった。近づいて来る足音に心配そうに耳を傾け、隣りの部屋に通じるドアの金色の把手がゆっくりと回るのを見つめていた。ドアが半分開いた。
「ちょっと来てくれ、ジョズ……」
白いものが混っているものの、まだ金髪の、痩せて神経質そうな顔があらわれた。メグレに眼をやって、額に皺《しわ》を寄せた。秘書はその男のほうに急ぎ足で歩み寄ったが、すでに男は思い直して、オフィスに足を踏み入れていた。眼はあいかわらずメグレに注がれたままだ。
「あなたはたしか……」と、男はいって言葉をつまらせた。まるで以前会ったことのある人の名前を思い出そうと記憶をたどるような口調だった。
「司法警察局のメグレ警視です……一年前に定年退職しましたので、正確には元警視ということになります」
ジョン・モーラは背は普通以下の、小柄な、ひどくやせた人物だったが、エネルギーは人並み以上ありそうだった。
「私に何かご用ですか?」
こういうと、答えも待たずにマックギルのほうに振り向いた。
「何の用だ?」
「わかりません。警視さんは……」
「よろしかったら、二人だけでお話したいのですが、モーラさん。ご子息のことで」
息子のことと告げたにもかかわらず、モーラは顔色一つ変えなかった。あれほどやさしい手紙を書いた男とは思えなかった。
「秘書が同席してもかまわないでしょう」
「そうですか……実はご子息はニューヨークにいらしてます」
メグレはこういったあと、二人の男から眼を離さなかった。思い違いをしていたのだろうか? マックギルは傍目にもはっきりと驚きの表情を露わにしたのに、モーラは平然としたもので、ただ唇の端から「ああ!」とため息を洩らしただけだった。
「驚かないんですか?」
「伜はどこにいようとまったく自由ですよ」
「まだここにあらわれていなくても、平気なんですか?」
「いつ着くのかということも知らなかったんですからな……」
「今朝、私と一緒にニューヨークに着きました」
「それでは、あなたの方がご存じのはずでしょう?」
「全然わかりません。下船と税関手続きのごたごたのなかで、ご子息の姿を見失ってしまったのです……最後に姿を見て話しかけたのは、船がまだ検疫所に錨をおろしている頃でした」
「きっと友人にでも出会ったのでしょう」
こういってジョン・モーラは自分の頭文字が刷り込んである長細い葉巻にゆっくりと火をつけた。
「申しわけないが警視さん、私にはさっぱりわけがわからないんですよ、伜の到着が……」
「私の訪問となにか関係があるという点で?」
「私のいいたいのもそこなのです。私は今朝非常に忙しいもので、秘書にまかせますから、よろしかったら彼と話合ってください。ではこれで」
ひどく素気ない挨拶だった。モーラはくるりと背を向けると、入って来たドアからまた姿を消した。マックギルはちょっとの間、躊躇《ちゅうちょ》していたが、「失礼」とメグレに小声で告げてから、主人のあとを追って部屋を出て行き、ドアを閉めた。メグレはオフィスにただ一人残された。一人きりにされて、彼のプライドが許さなかった。隣りの部屋からささやき声が聞こえてきた。メグレが腹を立てて部屋を出て行こうとしたとき、秘書が急ぎ足で笑いながらオフィスにもどってきた。
「警視さん、私を信用していないようですね」
「モーラ氏はヴェネズエラかリオにいるのではなかったですか……」
相手は笑った。
「あなたが重職についていらしたパリ警視庁でも訪問者を追いはらうためにこうしたちょっとした嘘を使うことがあったのではありませんか?」
「それでもこんなお返しをされようとはね!」
「さあ、お坐りになって……怨《うら》まないでください……ところでいま何時ですか? 十一時半。よろしかったら、フロントに電話を入れて部屋をとらせましょう。そうしないとなかなか部屋がとれませんから……≪セント・レジス・ホテル≫はニューヨークでも指折りの一流ホテルです。風呂に入って着替えるといいですよ。それがすんだら、よろしければ一時にバーでお会いしましょう。そのあとで食事を一緒にいかがですか?」
メグレはその申し出を断って、しかめ面をしたままここを出て行きたいと思った。もしできることなら、今夜の船でヨーロッパに帰りたいという気持だった。こんなひどい出迎えを受けるようなこの都市を、これ以上知ることなく帰れたら一番いいと思っていた。
「もしもし、フロント? マックギルです。もしもし、ええ……モーラ氏の知り合いの方だ。一部屋とりたいのだが……そう、メグレ氏だ。ありがとう」
そして警視のほうを振り返って、
「少し英語を話せますか?」
「学生時代に習ったきりで、もう忘れてしまいましたよ」
「それでは初めのうちは苦労なさるでしょう。アメリカへははじめてですか? 私ができるだけあなたの不自由のないようにいたしましょう」
ドアの向こう側に聞き耳を立てている者がいた。おそらくジョン・モーラだろう。マックギルもそのことを知っているようだったが、かまわずにつづけた。
「ボーイに案内させますので……ではのちほど、警視さん。昼食のときにはちょうどジーン・モーラもあらわれているかもしれませんよ。荷物を運ばせましょう」
ふたたびエレベーター。客間と寝室と浴室のついた部屋、チップを待っているボーイ。メグレはぼんやりとボーイをながめていた。これまでこれほど面くらい、これほど屈辱を感じたことはめったになかったからだ。
十日前には、ムンの村長や医者や肥料商人たちと、≪シュヴァル・ブラン≫の暖房のきいた、あいもかわらぬ薄暗い部屋で静かにブロットのテーブルを囲んでいたというのに!
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第二章
この赤毛の男は生まれつきやさしいのではないか? ブロードウェイの明りと喧騒から眼と鼻の先にある四十九番街で、メグレは穴倉に入って行くような感じの階段を何段か降りて、ドアを押し開けた。そのドアのガラスには赤くて細かい格子縞のカーテンがかかっていた。テーブルクロスにもおなじ下町風の格子縞が使われていて、モンマルトルやパリ近郊の居酒屋を思い起こさせた。そればかりではない。亜鉛のカウンターがあり、見なれた料理場から匂いがただよい、場末の雰囲気をほんのちょっぴり感じさせる肥った女主人がいた。その女主人が近づいて来てたずねた。
「何をめしあがります? もちろんいつでもステーキはありますが、今日のおすすめ品はコック・オー・ヴァンです……」
神のようにやさしい男、オブライエン警部は臆病なほど柔和な微笑を浮かべてメグレに話しかけた。皮肉めいたものがないこともなかった。
「ニューヨークはみんなが思っているようなところではありません」
やがて二人のテーブルには正真正銘のボージョレーと、皿のなかで湯気を立てているコック・オー・ヴァンが出てきた。
「警部、あなたはまさかアメリカにはこうした習慣が……」
「今夜のようなものを食べる習慣があるのか、というのですか? 毎日ではないでしょう。すべてのアメリカ人がということでもないでしょう。しかし、かなりの人間が昔風の料理を好んでいることもたしかですよ。ここと似たようなレストランは無数にあります……あなたは今朝着いたばかりでしたね。ということは、まだ十二時間そこそこしか経っていないのですね。それなのに、すでに家にいるみたいな気になったでしょう……さあ、あなたの話をつづけてください」
「さっきいったように、そのマックギルという男は、≪セント・レジス・ホテル≫のバーで私を待っていました。一目見て、彼が私にたいする態度を変えようと決心したことがわかりました」
午後いっぱいつきまとわれたマックギルから解放されて、メグレが連邦警察のオブライエン警部に電話をかけることができたのは、やっと六時になってからだった。オブライエンとは、数年前にある大きな国際的事件のときにフランスで知り合ったのだった。
この赤毛の大男ほど物静かでやさしい人間は他にはいない。羊のような顔をし、四十六歳にもなっているのにまだ顔を赤らめるほどはにかみやだった。二人は≪セント・レジス・ホテル≫で落ち合った。メグレがモーラのことを話しだすと、オブライエンはブロードウェイにほど近い小さなバーに彼を連れて行った。
「ウィスキーもカクテルもお好きではなかったですね?」
「ビールがあったら、そっちのほうがいいですね」
どこにでもあるようなバーだった。カウンターに数人の男が坐り、薄暗がりにごちゃごちゃと置かれた四つか五つのテーブルには、数組のカップルの姿があった。こんな場所に彼を連れて来るとはおかしいではないか、どんな魂胆があるのか?
さらにおかしいことには、オブライエン警部はポケットから硬貨を一枚取り出して、さも真剣な顔つきでジュークボックスの投入口に入れた。いやに感傷的な曲が低く鳴り響きはじめた。
それから赤毛の男はメグレを楽しそうな眼でうかがいながら微笑《ほほえ》んだ。
「音楽は嫌いですか?」
朝から続いている不機嫌を解消しつくしていなかったメグレは、音楽に感じ入っているどころの話ではなかった。
「あなたをうんざりさせる気はありません。この音楽を流す機械ですが……いま私は五セント硬貨を一枚入れましたね。すると約一分半ほどのあいだ、好きな曲が聞こえるのです……ニューヨークのバーやレストランやビヤホールには、この種の機械が何千とあります。アメリカの他の都市や片田舎まで対象にすれば、何万台という数になるはずです……こうして話をしている瞬間にも、あなたが押しつけがましいと思ってらっしゃるこの機械の大半が動いているのです。言葉を代えると、それだけの数のジュークボックスに、五セント硬貨が投げ込まれていることになります。何万、何十万の五セント硬貨ですから、大変な金額になります……計算はひどく苦手なので正確な数字ははじき出せませんが。
ところで、このニッケルの五セント硬貨がだれの手に入るかご存じですか? あなたの知り合いのジョン・モーラにです。背が低いので、アメリカではリトル・ジョンという名で知られているあの男の懐に入るんです。その上、リトル・ジョンは同様の機械を南アメリカのほとんどの国に設置しています。この機械の専売権のようなものを持っているんですね。リトル・ジョンが有力な人間だということが、これでおわかりになったでしょう?」
ほとんど相手に感じさせないほどの皮肉めいた言い方。こうした言い方に慣れていなかったメグレは、相手が素直なのか、彼のことを馬鹿にしているのか決しかねていた。
「それでは食事に行きましょう。食べながらあなたの話をしてください」
二人はいま、暖かいレストランのテーブルについている。外では嵐のため強風が吹き荒れ、道行く人々は前かがみになっている。吹き飛ばされた帽子を追いかける人や、両手でスカートを押さえなければならない婦人たちの姿が見える。メグレが海上で遭遇した嵐が上陸したのにちがいない。ニューヨークは強風にさらされている。ときどき看板が吹きとばされ、ビルの上のほうから物が落ちてきた。黄色いタクシーも風のため進むのがほとんど困難なようだった。
嵐は、昼食を終えてマックギルとメグレが≪セント・レジス・ホテル≫をあとにした頃からはじまっていた。
「モーラの秘書をご存じですか?」と、メグレはオブライエンにたずねた。
「詳しくは知りません。警視、この国の警察はフランスの警察とは全然違うんですよ。残念なことですが、われわれの職務はずっと単純なものです。個人の自由が非常に尊重されますので、もし私が、どんなに控え目にしろ、はっきりした罪状もない一個人について調べたりすれば、私の立場は非常に悪くなります。ところで、あらかじめあなたにいっておきますが、リトル・ジョンはギャングではありませんからね。彼は超一流のホテルである≪セント・レジス≫の豪勢な部屋を一年じゅう借り切っている有力な、人望のある実業家です。ですから、彼についても、秘書についても、調べることなど思いもよりません」
この言葉とはうらはらなように思える、その曖昧《あいまい》で、いや味のある微笑はなぜなのか? メグレはその微笑に少し苛立った。自分が外国人であることを意識していた。すべての外国人のようにすぐ、嘲笑されていると感じてしまうのだ。
「私は探偵小説の愛読者ではありません。アメリカがギャングでいっぱいの国だなどとは考えていません」と、メグレはいささかむっとして答えた。
「マックギルのことに話をもどしますが、名前はどうであれ、彼はフランス生まれのように思えるのですが……」
するとオブライエンは、また例のしゃくにさわるほど物静かな口調で答えた。
「ニューヨークでは、どこの国の出身かを見分けるのはむずかしいのです」
「アペリチフのときから、彼の態度は朝会ったときとは別人のように心のこもったものでした。あいかわらずジーン・モーラの消息はつかめないが、父親は心配していないというのです。父親は、息子が姿をくらましたのにはきっと女がからんでいると思っているらしいのですね。それからマックギルは船客のことをいろいろ訊きました……。確かに、ジーン・モーラには航海の間に心惹かれた女性はあったようです。若いチリ娘で、明日には≪グレース・ライン≫の船で南アメリカに出発するはずです」
レストランにいる者はほとんどフランス語をしゃべっていた。女主人は少し品がないほど打ちとけた様子で、客から客へと愛想を振りまきながら、快いトゥールーズ訛《なま》りで注文を聞いてまわっていた。
「いかがですか、お客さん? このコック・オー・ヴァンはどうでした? ……そのあと、よろしかったら自家製のモカ・ケーキはいかがです?」
≪セント・レジス・ホテル≫の広びろとした食堂でとった昼食はこれとは正反対だった。マックギルは多くの人たちと挨拶をかわしながら、熱心にメグレと話しつづけていた。他に何をいっただろうか? ジョン・モーラは非常に多忙な人で、性格も独特なものがある。初めての人を恐れるところがあるし、きわめて用心深い人物であると。
では、なぜ彼は今朝メグレのような人間に会いに来られ、おどろかなかったのだろうか?
「彼は他人《ひと》が自分の問題に首を突っ込むのをいやがります。家族の問題ならなおさらです。実際そうです。彼が息子さんのことを熱愛しているのは間違いありませんが、もっとも近しい協力者である私にたいしてさえ、息子さんのことは一言も洩らしません」
結局何をいいたいのか? 想像は簡単につく。メグレがジーン・モーラにつきそって大西洋をわたって来た本当の理由を聞き出したかったのだ。
マックギルはさらにつづけた。
「私は社長と長いこと話合いました。そして、ジーンのことはすべて一任されました。まもなくここに、私立探偵が来ます。前に小さな調査を何回か頼んだことのある男で、あなたがパリをご存じなのとおなじようにニューヨークのことに詳しい有能な人物です……よろしかったら一緒にいらっしゃいませんか? きっと今夜のうちにジーンは見つかりますよ」
以上のことをメグレはいま、オブライエン警部に話して聞かせた。オブライエンは、じれったくなるほどゆっくりと料理を賞味しながら彼の話を聞いていた。
「食事を終えて食堂からロビーに行くと、実際に一人の男がわれわれを待っていました」
「何という名の男ですか?」
「紹介されましたが、はっきりとはおぼえていないのです……ビル……そう、ビルといっていたかな。今日はいろいろな人とあったし、マックギルはその人たちをファースト・ネームでしか呼ばないものだから、正直いうと、ちょっと頭が混乱してしまったのです」
また例の微笑。
「じきに慣れますよ、それはアメリカ人の習慣ですから……それで、そのビルというのはどんな男でしたか?」
「かなり背が高くて肥っていました……ちょうど私に似た体格です。鼻がつぶれていて、顎《あご》には傷跡がありました」
オブライエンはその男のことを知っているにちがいない。瞼をぴくっと動かしたからだ。しかしオブライエンは何もいわなかった。
「われわれはタクシーを拾って、フランス航路の埠頭《ふとう》まで行きました」
嵐はピークに達していた。吹きつける風にまだ雨が混っていなかった。彼らはタクシーから降りるたびに、突風をまともに受けた。ビルという男はせわしなくチューインガムを噛みながら動きつづけた。帽子は映画に出てくるおきまりの探偵スタイルで、あみだにかぶっている。実際この男が帽子を取った姿をその日の午後一度も見かけなかった。帽子を取ったことがないのだろう。頭が禿げているのにちがいない!
ビルは、税関吏とスチュワードと船会社の社員に話しかけた。なれなれしくテーブルかデスクの端に腰をおろし、のろのろした話し振りで聞きたいことをたずねていた。彼のいっていることがすべてわかるわけではなかったが、手なれた、プロの尋問のしかたであることはメグレにも十分わかゥた。
まず税関……ジーン・モーラの荷物は引き取られていた。何時頃なのか? ……荷札を調べると、正午少し前ということになっている。けれども荷物は桟橋にオフィスを持っている運送会社の車で町に運ばれたわけではなかった……したがってタクシーか自家用車で運ばれたとしか考えられない。荷物を引き取った者は、鍵を持っていた……ジーン・モーラ本人だろうか? それを確かめることはできなかった。何百人もの旅行者がその朝税関を通った。税関検査をする人々の列はまだ続いていた。
つぎに事務長。客のいなくなった船に乗り込み、さっきまで船客でごったがえしていた船内がしーんとしているのを見るのは、また次の航海のための準備や大掃除に追われているのを見るのは、奇妙な気持だった。
確実にわかったことは、モーラが船を立ち去っていること、立ち去るときに手続きをすましていることだった。何時頃のことなのか? ……だれもおぼえていなかった……おそらくもっとも混雑する最初の頃だろう。
スチュアード……このスチュアードは八時頃、警察と検疫所の係官が到着した直後に、モーラからチップをわたされたことをはっきりとおぼえていた……そのときスチュアードは小旅行用の鞄を乗降口のあたりにおいた……いいえ、あの青年は全然いらいらしたところなどありませんでした……少し疲れている感じでしたが……頭がいたかったのにちがいありません。アスピリンを飲んだからです。空の薬壜が浴室の小テーブルの上に残されていました。
ビルは表情も変えず、チューインガムをくちゃくちゃ噛みながらメグレたちをもっと別のところへ連れて行った。五番街にあるフランス航路のオフィスに行くと、彼はマホガニーのカウンターに肘《ひじ》をついて、乗客名簿を丹念に調べた。
それから、とあるドラッグ・ストアに入って行って、港湾警察に電話した。
メグレの印象では、この頃からマックギルはいらいらしはじめた。そのことを気取られないようにしていたが、調査が進むにつれて、彼が苛立ちはじめていることはあきらかだった。
何か工合の悪いことが、予測していたことと喰い違う何かが起こったのだ。というのは、ときどき彼とビルが素早く眼くばせをしていたからだ。
ところでいま、その日の出来事をメグレから聞いているオブライエン警部の様子もだんだんと真剣になり、食べるのも忘れてときどきフォークを宙にうかせたままだった。
「乗客名簿に、例のチリ娘の名前があったのです。船を待つあいだ投宿しているホテルの名前もわかりました。六十六番街のホテルです。われわれは行ってみました……ビルはドアマンと、フロント係と、エレベーター・ボーイにたずねましたが、ジーン・モーラの足取りはなにもつかめませんでした。
それからビルは、タクシーの運転手にブロードウェイ近くのバーの住所をいいました。途中、彼はマックギルに話しかけてましたが、早口なので何といっているのかわかりませんでした……私はそのバーの名前を書きとめておきましたよ、≪ドンキー・バー≫。何がおかしいのですか?」
「いや、なんでもありません」と、警部はゆっくり答えた。「実際、あなたもニューヨークの初日だというのによく歩きまわりましたね……≪ドンキー・バー≫まで行ったなんて、大したものです……それでどう思われました?」
また例の、メグレを嘲笑しているような言い方だ。友好的だが、それでも嘲笑《あざわら》っている感じがある。
「アメリカ映画そのものでしたよ」と、メグレは不服そうにぶつぶついった。煙草の煙が立ち込める細長い部屋、果てしなくつづくカウンターと、それにつきもののストゥール、色とりどりの酒壜、黒人や中国人のバーテン、ジュークボックス、煙草やチューインガムやピーナツの自動販売機。
店にいる人々は、みな知り合いか、おたがいに知っているような様子をしていた。ボブとかディックとかトムとかトニーと呼び合っていた。二、三人の女も、男たちとおなじように打ちとけた様子をしていた。
「ジャーナリストや舞台関係者の溜《たま》り場のような感じでしたね……」と、メグレはいった。相手は笑いながらつぶやいた。
「まあ、そんなところです……」
「例の私立探偵はそこで、船が着いたとき取材にきて、今朝船の上にいたにちがいない知り合いの新聞記者に会おうという魂胆だったのです。私たちはお目当ての記者を捜し当てましたが、もうべろんべろんに酔っ払っていました……午後の三時か四時を過ぎると、いつでもこんな風なんだ、とだれかがいってましたよ」
「その記者の名前は聞きましたか?」
「よくおぼえていません……パーソンとかいう名前でしたかな。私の間違いでなければジム・パーソン……髪は乱れ、眼は赤く、口のまわりじゅうにニコチンのしみがこびりついていました……」
オブライエン警部は、アメリカの警察には良心にやましいところのない人物に関心を持つ権利はないと主張したが、それでもメグレの口にする一つ一つの名前、一人一人の人物の観察にかなり好寄心を抱いていた。オブライエンはその記者のこともよく知っているようだった。
そこでメグレはこういわずにはいられなかった。
「本当に当地の警察はフランスの警察とそれほど違うのですか?」
「まったく違います! ジムは何をいってました?」
「断片的にしかいっていることはわかりませんでした。ぐでんぐでんに酔ってましたが、とても興味があるようでした。探偵は記者を店の隅に引っぱって行って、壁に押しつけながら、俗にいう噛みつくような態度で何かきびしく問い詰めてました。相手はなにか約束し、懸命に記憶の糸をたどっていました。それから千鳥足《ちどりあし》で電話ボックスに入って行きました。ガラス越しに記者が四つの電話番号をダイヤルしているのが見えました。
その間、マックギルが私に説明してくれました。≪私たちが何かつかむとしたら、船の上にいた新聞記者から聞き出すのが一番の早道でしょう。彼らは観察することに慣れていますし、いろいろな人を知っていますから≫
ジム・パーソンがまたフラフラしながら電話ボックスから出て来て、ダブルのウィスキーめざして突進しました。彼はまだ調査をつづけるものと考えられていました……しかしこのままバーで調査をつづけるとしたら、彼はいまに酔いつぶれてしまうはずです。私はあれほど速いぺースでアルコールを飲む男を見たことがありませんから……」
「そんな連中にはまだまだ出くわしますよ。……要するに、私の理解したところでは、ジョズ・マックギルは午後になると、急に社長の息子を見つけたがっていたようにあなたには思えたのですね」
「朝は話を聞こうともしなかったのに」
オブライエンは何かにひどく気を取られているようだった。
「これからどうなさいます?」
「正直のところ、あの青年を見つけることに異存はないですよ」
「でもお一人では……」
「何か考えがありますか?」
「警視、私はパリであなたがいった言葉をおぼえていますよ、ほら、ビヤホール≪ドフィーヌ≫で話し合ったときに……あなたはおぼえていますか?」
「うん、話し合ったことはおぼえています。でも、そのとき何をいったのか、言葉まではおぼえていませんね……」
「たったいま、あなたが私にしたとほとんどおなじ質問を、私はあのときあなたにしたのです。あなたはパイプをふかしながら、こう答えたのです。
≪私? 私はどんな考えも持ち合わせていません≫
そのとおりでした! メグレさん……このように呼ぶことをお許しください……、今の私は少なくともあなたとおなじ気持です。ということは、世界の警察官はすべて共通したところがあるということでしょうね。
私は何も知りません。何の知識もありません。リトル・ジョンの事業と彼のまわりの人々について、ほとんど何も知っていません。みんなが知っていることぐらいです。彼に息子がいたことさえ知りませんでした。
おまけに、私は連邦警察の一員ですから、はっきりした犯罪にしかタッチできません。別の言葉でいえば、運わるくこの事件に首をつっこんだら、私は厳罰に処せられる危険があります。
こんな話は聞きたくもないでしょうね?」
「そうですな」と、メグレはパイプに火をつけながら、低い声で答えた。
「では、こういう話はどうです、私の妻はいまフロリダにいます。冬のニューヨークの寒さに耐えられないからです……息子は大学の寄宿舎ですし、娘は二年前に結婚しました。ですから、現在私は一人暮らしです……夜はだいたいあいていますから、以前あなたがパリを案内してくれたように、こんどは私がニューヨークを案内しましょう。
ええと、その他のことは……なんですって? ちょっと待ってください……いや、何もいわないで。私はあなたの表現をいくつかおぼえています。よく同僚にいって聞かすんです……ああ! そう、その他のことは≪ほっとけばいい≫でした。
あなたがほっておけるような人ではないことはよくわかってますよ。気が向いたら、ときどき私とおしゃべりに来てください。あなたのような人の質問に答えないわけにはいかないじゃありませんか。それに簡単に答えられることだってあるでしょうからね。いいですか! あなたはきっと私のオフィスを見たがりますよ……あなたのオフィスを思い出します。あそこの窓はセーヌ河に面してましたね。私のオフィスはもっと散文的でしてね。巨大な黒壁と駐車場しか見えません。ねえ、このアルマニャック産ブランデーはおいしいでしょう。それに、あなたの国でいうところの、この小さな≪居酒屋《ビストロ》≫もそんなに悪くはないでしょう」
パリのある種のレストランのように、女主人と、彼女が呼んできたコック長とにお世辞をいい、ふたたび来ることを約束し、最後のブランデーを飲み、そのあと油のしみついたサイン帳にサインすることを余儀なくされた。
それから少しして、二人はタクシーに乗り込んだ。警部は運転手に行き先を告げた。二人はシートに深く坐ってパイプをふかしていた。
かなり長い沈黙が続いた。しばらくして、二人は偶然同時に口を開いた。この偶然の一致に笑いながら、彼らは顔を見合わせた。
「なんといおうとしたのです?」と、メグレ。
「あなたは?」
「きっとおなじことでしょう?」
「私は……」と、アメリカ人はいった。「あなたの話では、どうやらマックギルはあなたをジョン・モーラに会わせたくなかった、といおうとしたのです」
「私もちょうどそのことを考えていました。しかし、予想に反して、リトル・ジョンは息子の情報を耳にしても、秘書よりも心配そうには見えませんでしたよ。私のいっていることがわかりますか?」
「ということは、そのあとで息子を見つけ出そうと躍起《やっき》になっている、またはそう見せかけていたのはマックギルなんですね」
「マックギルは私のためにずいぶん散財しました……何かがわかったら、明日の朝電話をくれるそうです」
「彼は今夜、われわれが会っていることを知っているんですか?」
「私は話しませんでしたよ」
「でも、きっと予想しているでしょう。私と思わなくても、だれか警察の者とあなたが会っていると……アメリカの警察とあなたの過去のつながりから考えて、そう考えるのが当然ですから。それに、その場合には……」
「その場合には?」
「いや……着きましたよ」
二人は大きな建物のなかへ入って行った。エレベーターを降りると、ドアがはるか彼方まで続いている長い廊下に出た。オブライエンはその一つのドアの鍵を開け、電燈のスイッチを入れた。
「坐ってください……主人役としてあなたを歓待するのは、またの日にします。こんな時間では、よくおもてなしができませんからね……ちょっと席をはずしていいですか?」
そのちょっとが十五分以上にもなった。その間メグレはずっとリトル・ジョンのことしか考えていなかった。奇妙だった。リトル・ジョンに会ったのは、ほんの少しの間だけだったではないか。その会話たるや、実際どうということのないものだった。それにもかかわらず、メグレはモーラの印象が強烈だったことをとつぜん悟ったのだ。
彼は、気障《きざ》なほどきちんとした服装をした、小柄で痩せたモーラを思い浮かべた。顔付にはとくに目立った特徴はなかった。それでは、これほどまでメグレの心を動かしたものは何なのか?
それが気がかりになった。思い出そうと努めた。その神経質そうな、痩せこけた小男のちょっとした仕草まで思い浮かべてみた。
突然、その男の視線を思い出した。とくにモーラが客間のドアを軽く開けたときの、まだ人から見られていることに気づいていなかったときの最初の視線を。
リトル・ジョンは冷たい眼をしていた!
この言葉の意味を説明しろといわれても、彼は困ってしまうにちがいない。しかし彼自身にはわかっていた。それまでに四度か五度、メグレは冷たい眼をした人物に出会ったことがあった。人間的接触をはかろうとせずに人を見つめる眼、他人と意志を通じたいという要求を感じない眼である。
メグレは彼に息子のことを話しに来たのだ。愛人に送るようなやさしい手紙を書き送った息子のことを。それなのに、リトル・ジョンは、椅子や壁の汚点《しみ》を見つめるような、関心にも感情にも欠けた眼でメグレを見つめたのだ。
「あんまり待たせたので怒っているのですか?」
「いや。ちょっとしたことに気がついたのですよ」
「なんですか……」
「リトル・ジョンが冷たい眼をしていることを思い出したのです……」
メグレはこのアメリカの友達が例の微笑を浮かべるだろうと思っていた。まっこうからその微笑を受けて立つ気持でいた。ところが、オブライエン警部は逆にきびしい眼でメグレを見つめた。
「そいつは厄介ですね……」と、警部ははっきりした口調でいった。まるで、ずっと二人で話し込んでいたような雰囲気だった。とつぜん二人の間に、不安にも似た共通の感情が生じていた。オブライエンが煙草入れを差し出した。
「いや、自分のを喫います」
二人は同時にパイプに火をつけ、ふたたび黙り込んだ。飾り気のない、どこにでも見られるようなオフィスだった。オフィスに親密な感じをあたえているのは、二つのパイプから立ち昇る煙だけだった。
「荒天の航海でお疲れになったでしょう。もうお休みになりたいのではないですか?」
「というと、まだこれからお誘いでもあるのかな?」
「ただちょっとナイトキャップでもどうかと思いまして……フランス語に文字どおり訳せば≪ボネ・ド・ニュイ≫、別の言葉でいえば寝酒のウィスキーですよ」
それならなぜ、わざわざメグレをオフィスに連れて来て、十五分も待たせたりしたのだろう?
「ここは寒いでしょう?」
「どこへなりともお供しますよ」
「あなたのホテルの近くまで行きましょう……いや、ホテルには入りません。そんなことをしたら、フロントの連中は私を見て不安がりますから……しかし、その近くに小さなバーを知ってますから……」
そこも≪ドンキー・バー≫とおなじような、小さなバーだった。一隅にジュークボックスがあり、カウンターに並んで肘をついている人たちは、だれもがむっつりと黙りこくってグラスを傾けている。
「ともかくお休みになる前にウィスキーを一杯やりましょう……意外にわるくないもんですよ……腰を動かすのにもいいし……ところで……」
メグレには、オブライエンがやっとこの真夜中の外出の目的にふれようとしていることがわかった。
「さきほど廊下で同僚に会いましてね……彼が偶然にもリトル・ジョンのことを私に話したのです、といっても、彼は表だってリトル・ジョンの捜査に当っていたわけではありません……そんな者はだれもいやしませんよ、この同僚にしてもそうです……前にもいったように、個人の自由が最優先される国ですから、そのことがわかれば、あなたはアメリカとアメリカ人を十分理解したといっていいでしょう。
いいですか……一人の男がアメリカに来るとします、外国人でも、移民者でもいい……彼は文書で多くの質問事項に答えさせられ、また、たとえば、精神に異常はないかとか、大統領の生命を奪うためにアメリカに来たのではないかとかたずねられます。あなた方ヨーロッパ人が、憤慨したりわれわれのことを嘲弄《ちょうろう》したりするのも当然です。
あなた方には馬鹿馬鹿しいように思えるこの宣誓にサインすることを、アメリカ人は要求します。しかし、その後は彼にもう何も要求しません。アメリカヘの入国手続きは重箱の隅をほじくるように細々としていて長ったらしいものですが、一度それがすんでしまえば、完全な自由が保証されるというわけです。
おわかりでしょうか? あまりにも自由なので、殺人や窃盗や強姦の罪を犯さないかぎり、われわれにはその者を捜査する権利がないのです。ええと、なんの話をしていたんでしたっけ?」
メグレにはこの見せかけの無邪気さのために、そのニュアンスをつかむことができないユーモアのために、警部をなぐりつけたいと思うときがあった。
「ああ、そうです……ここにその例があります……あなたが私のオフィスにいるとき、私が会った同僚が手を洗いながら私にこの話をしてくれたのですが……三十年以上も前ですが、今朝のあなたとおなじようにヨーロッパから来た船で二人の男がニューヨークに上陸しました。当時は労働力が不足していましたから、現在よりも移民者の数がはるかに多かったのです。船倉やデッキの上でもかまわずやってきたのです。とくにヨーロッパの中部や東部からの移民者が多かったのです。なかにはひどく汚なく、虱《しらみ》や蚤《のみ》だらけなので、移民局の人たちがホースで水をぶっかけなければならない者もいました……もう一杯ナイトキャップをいかがです?」
メグレは話に気を取られていたので断ることもしなかった。彼はふたたびパイプにたばこを詰め、少しうしろに退った。左隣りの男の肘が脇腹に当ったからだ。
「移民者にはさまざまな人間がいました。そのあとの運命もさまざまです。彼らのなかには今日ハリウッドの大物になった者もいます……シンシン刑務所にいる者もいますが、ワシントンの政府関係の事務所に務めている者もいます……実際この国はひどく大きいものですから、受け入れた者はだれでもかれでもこんな風に同化してしまうのです」
ウィスキーのせいだろうか? メグレの頭のなかではジョン・モーラがわがままで神経質な小男であることをやめて、オブライエンがゆっくりした、静かな声で話すアメリカ的な同化の一典型として浮かびあがってきた。
「同僚の話を続けましょう……」
ウィスキーを三、四杯は飲んだだろうか? その前にすでにブランデーを飲んでいたし、ブランデーの前には二本のボージョレー、そのボージョレーの前にはアペリチフを何杯か飲んでいた。
≪セント・レジス・ホテル≫の、豪華すぎる部屋にもどって、やっとベッドに深々と身を沈めたとき、メグレの頭にひときわ鮮明によみがえってきた言葉があった。
≪ジェイ・アンド・ジェイ≫
人々がまだ角を折り曲げた固い付けカラーと糊づけした袖口のついたワイシャツを着、エナメルの靴をはいていた時代に、まだうぶ毛の生えているようなうら若い二人のフランス人が、胸に希望をふくらませて、一文無しでアメリカの土を踏んだ。一人はバイオリンを小脇に抱え、もう一人はクラリネットのケースを持っていた。二人のうちどちらがクラリネットを持っていたのか?
メグレにはもう思い出せなかった。羊のような顔をし、猿のようないたずらっぽいオブライエンがその話をしてくれたのである。
バイオリンはモーラのほうだったにちがいない。
二人ともバイヨンヌかその近郊の出身だった。そして二人とも二十歳ぐらいの年だった。
彼らは、アメリカ大統領を暗殺しないということを約束する例の宣書にサインした。
このオブライエン警部は、何気ない顔をして、まるで仕事にまったく関係ないおしゃべりをするふりをして、小さなバーに彼を連れて来て、こんな話をするのだから、妙な男だ。
「一人はジョセフ、もう一人はジョアシャンという名です。これは同僚がいったことです。ご存じでしょうか、この話をそのままうのみにしてはいけません……しかし、これはわれわれ連邦警察とは関係ありません……当時カフェ・コンセール〔音楽や余興付きのカフェ〕時代です。パリではこれを≪バストラング≫と呼んでいましたね……そこで二人は、国立音楽学校《コンセルヴァトワール》を出ていたにもかかわらず、大音楽家のような気でいたにもかかわらず、食べるために≪ジェイ・アンド・ジェイ≫という芸名で舞台に立ったのです。ジョゼフとジョアシャンから取ったのです。二人とも、いつの日か、演奏家、作曲家になる日を夢見ていました。
これは同僚の説明ですよ。いかにも月並な話です。ただ私には、あなたがリトル・ジョンの人となりに関心をお持ちになることがわかっていますから……クラリネットがリトル・ジョンではなかったと思いますが……。ボーイさん、おなじものを」
オブライエン警部は酔っていたのだろうか?
「≪ジェイ・アンド・ジェイ≫」と、警部はくり返した。「私の名はミカエルですから、そう呼んでもかまいませんよ。そういったからってあなたをジュールと呼びません。たしかにあなたの名はジュールですが、あなたはそれがお嫌いのようですから……」
その他にオブライエンは何をいっていたか?
「メグレ、あなたはブロンクスをご存じですか? ぜひ一度行かれるといいです。心を揺さぶられるところですよ。美しくありませんが……心を揺さぶられます……私にはそこにあなたを案内できる時間がないのです。このとおりとても忙しいものですから。フィンドリ一六九番街です。あの界隈は興味あるところです。いまでも、一六九番街の家の真正面に洋服屋があります……これは下らんおしゃべりです……例の同僚のおしゃべりです。こんなことはわれわれに関係ないのに、なぜ彼がこんなことをしゃべったのか、私にもわかりません……≪ジェイ・アンド・ジェイ≫か……彼らはカフェ・コンセールで、コミック・バンドをやったんです。どちらが喜劇をやったのか知るのも興味がありますね。そうは思いませんか?」
メグレはウィスキーに慣れていなかったが、また子供扱いされることにも慣れていなかった。≪セント・レジス・ホテル≫のエレベーターに乗ると、ベルボーイがつきそい、なにも必要なものはないかとあまりにも念入りに確かめられたときには、憤慨した。
そのベルボーイの顔に浮かんでいたのも、羊のような顔をしたオブライエンとおなじ眼つき、おなじ皮肉っぽい微笑だった。
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第三章
メグレは眠っていた。そこは井戸の底だった。上を見上げると、巨大な葉巻を口にくわえた赤毛の巨人が、奇妙な薄笑いを浮かべつつ見下ろしていた。なぜ葉巻などくわえているのだろう? ……そのとき、不愉快で意地の悪いベルが鳴った。鏡のようにないだ湖に朝の微風が渡るときにも似て、眠っているメグレの額に、まず皺《しわ》が寄った。毛布をからだにまきつけながら二度寝返りを打った末に、彼はやっと腕を伸ばした。水差しを間違えてつかんでから、受話器を手にし、つぶやいた。
「もしもし……」
ベッドに坐ったが、うまく坐れなかった。枕をどける暇がないうちに、このいまいましい電話をつかまなければならなかったからだ。屈辱的なことであるが、メグレにはすでに一つたしかなことがあった。それはウィスキーが排尿促進剤になるというオブライエン警部の皮肉めいた話にもかかわらず、頭がずきずき痛んだことである。
「そう、メグレですが……どなたですか? なんですって?」
マックギルからだった。全然好感の持てない人間にたたき起こされることほど不愉快なことはない。とりわけその相手がメグレがまだベッドにいることに声で気がついて、平気でこういうときには。
「遅くお休みになったようですね? 少なくとも……昨夜はすばらしい夜をお過しになったのでしょう?」
メグレは眼で腕時計をさがした。いつもはナイトテーブルの上に置いておく習慣なのだが、そこにもなかった。やっと壁にかけてある電気時計が眼にとまった。眼を大きく見開いて、十一時になっていることをたしかめた。
「警視さん……社長のいいつけでお電話しています……今朝会いに来ていただけませんか? ……ええ、いますぐに、お起きになるやすぐにという意味です。すぐにお願いします……何階だかおぼえておられますね? 八階のB廊下のつき当たりです。すぐにお願いします」
フランスにいるときとおなじように、ルーム・サービスかボーイを呼ぶために呼び鈴のボタンをあちこちさがしまわった。しかしそれらしき物は見当たらなかった。滑稽なほど大きな部屋のなかで一瞬迷ってしまったような気持になった。やっとのことで電話をかけるということに思い当ったものの、おぼつかない英語のため三度もくり返さねばならなかった。
「マドモワゼル、朝食が欲しいんですが……そう、朝食です……何です……私のいうことがわからない?……コーヒーと……」
彼女は何かいっているのだが、メグレには通じなかった。
「朝食が欲しいんですよ!」
電話を切られたと思ったが、そうではなかった。他の係に切りかえられて、別の声が聞こえてきた。
「ルーム・サービスです」
もちろん、ごく簡単なことなのだが、そのことを知っていなければどうしようもなかった。このとき、彼はホテルの部屋に呼び鈴を置くという簡単なことを考えないアメリカ人を怨んだ。
その上、ドアをノックされたときには浴室に入っていたため、いくら≪どうぞ≫とどなっても無駄だった。いつまでもノックをしている。仕方なくメグレは、びしょ濡れのからだに部屋着をまとって、ドアを開けに行った。鍵をかけておいたのがいけなかった。朝食を部屋のなかに運んだあと、ルーム・サービスの男は何かを待っているようだった。何を待っているのか? そうか、領収書にサインするのか。しかしそれでもまだ立ち去らなかった。まだ何か用があるのか?
メグレはやっとのことで、ボーイがチップを待っていることに思い及んだ。彼の着物は床にまとめて脱ぎ捨ててあった。
それから三十分後にリトル・ジョンの部屋のドアをノックしたときには、メグレはぷりぷりしていた。マックギルがメグレを迎え入れた。彼はあいかわらずエレガントで、念入りにめかしこんでいる。しかし、メグレは、相手も自分とおなじようにあまり眠っていないようだという印象を受けた。
「どうぞ……坐ってちょっとお待ちください。いまあなたがいらしたことを社長に知らせてまいりますので」
何か気がかりのことがあるみたいだった。彼は自分でもてなそうとはせず、メグレに注意も払わなかった。そしてドアを大きく開けたまま部屋を出て行った。隣りの部屋は客間だった。マックギルはその客間を横切り、次の広々とした寝室も通り過ぎて行き、最後のドアをノックした。メグレにはよく見る時間がなかったが、彼の心をうったのは、豪奢な部屋がつづいたあとで、その部屋がいかにも貧しげに見えたことだ。もっとも、このことに考えが及んだのは、あとになってメグレが、一瞬眼に映じたこの光景を、もう一度頭のなかで思い起こそうと努めたときだった。
秘書が最後に入って行ったその寝室は≪セント・レジス・ホテル≫の寝室というより、召使いの寝室といった感じだった。リトル・ジョンは白木のテーブルの前に坐っていなかったか? そのうしろにあったのは、鉄製のベッドではなかったか?
二言三言低い声で言葉が交わされ、二人は並んでやって来た。リトル・ジョンはあいかわらず神経質で、動作はてきぱきしていた。すばらしいエネルギーがたくわえられていて、それをむりやり抑えている感じだった。
彼もオフィスに入ってき、メグレに心のこもった挨拶もせず、こんどは自慢の葉巻を客にすすめもしなかった。
彼はマホガニーのテーブルのところへ歩いて行き、さきほどマックギルが坐っていた椅子に腰をおろした。マックギルは屈託なく肱掛椅子に坐って、脚を組んだ。
「警視さん、わざわざお呼び立てしまして申し訳ありません。話し合いが必要だと思ったものですから」
リトル・ジョンはやっとメグレのほうに眼を向けた。共感も反感も焦燥も、およそいかなる感情も表わしていない眼だった。華奢な、男にしてはびっくりするほどの白い手で、ベっこうのぺーパーナイフをもてあそんでいた。
彼は英国仕立の紺色のスーツを着込み、白いワイシャツに黒っぽいネクタイを締めていた。そのために、痩せてくっきりとした顔立ちがなおさらきわ立って見えた。メグレは彼の年齢をいい当てるのがむずかしいことに気がついた。
「伜のその後の消息は何もご存じないですな?」
彼は答えも待たずに、部下に話すかのように、表情のない声で続けた。
「昨日あなたがお見えになったときには、質問をしようという気になりませんでしたが、私の間違いでなかったら、あなたはジーンと一緒にフランスから来られたんでしたな。あなたに一緒にアメリカに行くように頼んだのは私の伜だという話でしたが……」
マックギルは煙草を喫いながら、煙が静かに天井に昇って行くのをながめていた。リトル・ジョンはあいかわらずぺーパーナイフをもてあそび、メグレを見ないようなふりをしながら見ていた。
「司法警察局を退職なさったあとで私立探偵を開業されたとは知りませんでした。それに、世間周知のあなたのご性格からして、こんなつまらぬことに軽々しく乗り出されるなどとは信じられませんな。警視さん、そうではありませんか? われわれは自由な国における自由な人間です。昨日、あなたはこの部屋に来て私の伜のことを話された。その日の晩、あなたは私に関しての情報を手に入れるために、連邦警察の者と接触した……」
いいかえれば、この二人は、すでに昨日のメグレの行動やオブライエンとの会見のことを知っていることになる。尾行させていたのだろうか?
「まず最初の質問ですが、伜はどんな口実であなたに手助けを頼んだのでしょうか?」
メグレがその質問に答えず、マックギルも皮肉っぽい微笑を浮かべたので、リトル・ジョンはいらいらし、きびしい口調で続けた。
「退職した警視が、若い者の旅行のつきそいをするなどという話は聞いたこともありませんな。もう一度たずねますが、伜は、一緒にフランスを発って、大西洋を渡る決心をあなたにさせるのに、どんな話をしたのですか?」
この男はわざと人を馬鹿にしたような態度をとって、メグレに腹を立てさせようとしているのだろうか?
しかし、メグレは相手が話しつづけるにつれて、冷静沈着になってきた。頭も明晰《めいせき》になってきた。
非常に明晰にそれが彼の視線にあらわれたのだろう、リトル・ジョンのペーパーナイフをもてあそぶ手の動きが不規則になってきた。マックギルは警視のほうに顔を向けたまま、煙草を喫うことも忘れて待っていた。
「よろしかったらあなたの質問に答えるかわりに、こちらから質問させてください。息子さんがどこにいるか、ご存じですか?」
「知りません。しかしそのことはいまさして重要ではありません。息子は自由にしたいことをすればいいのですからな、そうでしょう?」
「それではご存じなんですね、息子さんの居所を」
マックギルはびくっと身を震わした。そしてきびしい目つきでリトル・ジョンを振り向いた。
「くり返しますが、知りません。それにあなたには関係のないことでしょう」
「それでは、話し合うことなど何もありませんな」
「まま、待ちたまえ……」
リトル・ジョンはあわてて立ち上がり、ペーパーナイフを持ったままでメグレと出口のドアの間に駆け寄った。
「警視さん、お忘れのようだが、あなたはある意味では私の金でここに呼ばれたんですぞ。伜は未成年です……伜の頼みで引き受けたこの旅行の費用を、伜はあなたに支払うことはできないでしょう……」
なぜマックギルは主人にたいして怒っているのだろうか? 会話の進み工合が、あきらかに彼の気に入らないのだ。その上、彼は遠慮なく口をさしはさんできた。
「問題が違うように思います。それではいわれもなく警視さんの気持を傷つけるだけではありませんか」
主人と秘書は目を見交わした。意味ありげな目つきだった。その場でその意味を分析することはできなかったが、いずれわかるようになるだろうと、メグレはこのことをしっかり心にとめた。
「明白なことは」こんどはマックギルは立ち上がり、リトル・ジョンよりも静かな歩調で部屋を行き来しながら話し続けた。「明白なことは、あなたの息子さんがわれわれのわからない、おそらくあなたにもわからないある理由のために……」
さては、マックギルはこのもったいぶった言葉で、なにかを主人にほのめかしたのではないのか?
「きっと、犯罪捜査においてその炯眼《けいがん》で有名な人に助けを求めなければと思ったのでしょう……」
メグレは坐ったままでいた。それほど違った二人の態度を見るのは興味があった。勝負をしているのはメグレとではなく、彼らの間で行なわれているのではないか、と思える瞬間があった。
というのは、最初のうちあれほど居丈高《いたけだか》にしゃべっていたリトル・ジョンが、自分より三十歳も若い秘書にしゃべらせているからである。それも不本意ながらそうしているという風なのだった。あきらかに、彼は面目を失っている。嫌々ながら譲歩していた。
「あなたの息子さんは父親のことばかりを気にかけている青年なのに、ニューヨークに来るのに知らせの一つもなかったということは……少なくとも……」
確かにこれは一つの糸口だ。
「……どう考えても、何かあなたについての不安な情報でも受け取ったとしか考えようがありません。しかし、ではいったいだれがそんな不安な情報をジーンに伝えたのでしょう。警視さん、これが一番の疑問ではありませんか? 問題をなるべく単純な形に整理してみましょう……あなたはニューヨークに着いたとたんにジーンが不意に姿を消してしまっていることを気遣っておられる。警察の問題に通じていない私がたんなる良識だけでいいますと、こうなります。
≪だれがジーン・モーラをニューヨークに呼んだのか≫
言棄を代えれば、父親の陥っている危険な状態について彼に電報で知らせたのはだれか……なぜならば、父親の危険ということを考えなかったら、失礼ですが警察の人間を同行者に選んだ理由はわからない……それがわかったら、おそらくだれがジーンを連れ去ったのか知ることは困難ではないはずだ……」
この間リトル・ジョンは窓の前に立ちふさがり、片手でカーテンを引っぱって外を眺めていた。顔もからだのシルエットもくっきりと浮かび上がっている。メグレは不意にこの男はクラリネットなのか、バイオリンなのか、と考えた。昔のコミックな寸劇でこの男は、二つのジェイのうちのどちらなのか?
「警視さん、何も答えていただけないのですか?」
そのときメグレは万一を頼みにして、いった。
「モーラさんと二人っきりでお話したいんですが」
モーラははっとし、くるりと振り向いた。その最初の視線は秘書に向けられた。秘書はひどく無関心な様子をしている。
「マックギルの前でもかまわないと、すでにいったはずだが……」
「それでしたら、残念ながらお話することは何もありません」
マックギルはそれでも立ち去る気配はなかった。自分の立場をわきまえている人間のように、自信ありげにその場にじっとしていた。冷静さを失ったのは、むしろモーラのほうだったのではないか? 彼の冷たい眼のなかに、怒りに似ているが、そうとはいいきれない何らかの感情があらわれていた。
「いいですか、メグレさん……この話はやめましょう。もうわれわれはあまり話すことはありません……あなたが話してくれても話さなくても、どうでもいいですよ。きっとたいして興味のある話ではなさそうだ……私のあずかり知らない理由のため不安にかられた若者があなたにすがりついた。あなたも不慣れな冒険に頭をつっこんだ。たまたまその若者が私の伜だっただけでしょう。伜は未成年者です。伜の失踪は私だけの問題です。もし捜索を頼むとしたら、この国の警察に依頼します……はっきりいいすぎますか?
ここはフランスではありません。新しい事態が生じるまで、私の行動は他の人の知ったことではない……私の個人的な事柄に立ち入ることは許しません。必要な時には、自分の自由が一分のすきもなく完全に保証されるようにあらゆる手だてをします。伜があなたに前渡金というやつをわたしたかどうか私は知りません。もし受け取っていないならいってください。フランスまで帰る船賃を償えるだけの小切手を、秘書に切らせますから」
リトル・ジョンはこういいつつ、マックギルの顔色をうかがうかのように、ちらっと眼を走らせた。なぜなのか?
「返事を待ってるんですよ」
「何のことですか?」
「小切手のことですよ」
「ありがたく頂戴しましょう」
「最後に一言いっておきたいのですが……このホテルにお好きなだけ滞在なさることは、もちろんあなたの自由です。私にしたって一人の客に過ぎんのですから。ただですな、ロビーや通路やエレベーターなどでしょっちゅうお会いすることだけは、ご免こうむりたいものですな……では警視さん、これで」
メグレはあいかわらず腰をおろしたまま手近にある円テーブルの上にのっている灰皿にゆっくりとパイプの中身をかき出していた。それから、やおらポケットから新しいパイプを取り出して煙草の葉をつめ、二人の男を代わるがわる見ながら、ゆう然と火をつけた。
やがてメグレは立ち上がった。立ち上がりながら自分の長身を見せびらかすようにした。普段の彼よりも背が高く肩幅が大きく見えた。
「それでは」とメグレはいった。その声の調子が意外なほどあっさりしていたので、ペーパーナイフをもてあそぶリトル・ジョンの指の動きが一瞬止まった。
マックギルはもう少しメグレを引きとめて、話したい様子だった。しかしメグレは二人に背を向けて、静かにドアのほうに歩きはじめた。長い廊下を通り抜け、エレベーターに乗ったときになって、また頭痛がもどってきた。そして、前夜のウィスキーのせいだろう、突然吐き気がおそってきた。
「もしもし、オブライエン警部? メグレです」
彼は微笑んでいた。寝室の壁をおおっている少々色あせた花柄の壁紙に目をやりながら、静かにパイプをくゆらせている。
「何……いや、もう≪セント・レジス≫にいるんじゃないんです……なぜ……いくつか理由がありますが、最大の理由は、あそこじゃくつろげないってことです。わかるでしょう。そう、そう、ホテルを捜したんです。≪バーウィック≫というホテルです。知りませんか? 住所はちょっと思い出せない。数字を記憶するのが苦手なんですよ。当地は町の名前がすべて数字だから、やっかいです。ヴィクトール・ユーゴー街とか、ピガル街とかいかんもんですかね……。
もしもし……ブロードウェイがありますね。そのどのくらい先かわかりませんが、キャピトルという名の映画館があるでしょう。そうそう。そこから左のほうに行って、最初か二番目の通りに面したホテルです。小さくて、あまりぱっとしないホテルです。夜だけ営業しているホテルじゃないかと思うんですが……何?ああ、ニューヨークじゃそれは禁止されているんですか」
彼は上機嫌だった。わけもなく陽気だった。きっと、ほっと息のつける場所をやっと捜し出せたからだろう。
まずブロードウェイという、少々通俗的なこの活気にあふれた界隈が気に入った。メグレにとっては、パリのモンマルトルとグラン・ブールヴァールを同時に思い出させる場所だった。ホテルのフロントは貧弱で、エレベーターも一つきりしかなかった。エレベーター・ボーイもびっこの小柄な男だった。
窓を通して、ネオンサインが明滅するのが見えた。
「もしもし、オブライエン……まだあなたの手を借りたいことがあるんです。まあそうびくびくしないで……自由な国アメリカの自由はすべて尊重しますよ……何? 違いますよ。私は断じて皮肉などいわん……実は、私も私立探偵を一人雇いたいんですが……」
電話の相手の警部は、メグレが冗談をいってるのだろうかと考えていたが、二言三言ぶつぶついって、突然大声で笑い出した。
「笑いごとじゃあない……まったく本気なんですよ。いうとおりに動いてくれる探偵が一人ほしいんです。というのは、今日の午後いっぱい、私は探偵に尾行されてたんです……違う違う、警察に文句をいってるわけじゃありません、今日はいやにからみますね……私のいってるのはビルという名の男のことです……そうそう、昨日マックギルと私に同行した、例の顎《あご》の切れたボクサーのような男……そうです、昔の従者みたいに十メートル後方をずっとついて来るんです……いまも、窓際に行って下を見下ろせば、きっとホテルの玄関の前にいますよ……隠れようともせず、ただ尾行して来るんです。奴もばつが悪いみたいで、挨拶したいのを必死でこらえている風にも見えます。
え? なぜ探偵がいるか? 好きなだけ笑いなさい。この私自身もおかしいと思っているんですから。でもね、私にしてみれば、おなじことを四回も五回も繰り返し、その上身振り手振りで補足して、やっと自分の英語をわかってもらえる、というとんでもない境遇にいるんですから、いくつかのちょっとした捜査のためにだれか他人の手助けを求めたとしても仕方ないじゃないですか……。
ともかく、フランス語ができる男が欲しいんです……だれか知りませんか? ……電話をしてくれる? ええ、今晩ですね……昨夜のウィスキーにはまいりましたが、いまは完全に元気を取りもどしましたよ。この≪バーウィック≫の部屋で二時間ほど仮眠もとりました。どの辺を私が調べようとしているかですって? あなたも想像つくでしょう……ええ、そのとおり。電話を待ってます。ではのちほど……」
メグレは窓を開けに行った、案の定、ビルという男がホテルから二十メートルほど離れた街角でチューインガムを噛みながら面白くなさそうに立っている。
部屋はこれ以上望むべくもないほど月並な代物だった。家具はすべて古く、絨毯は安っぽく、どこの町にもあるような安ホテルの雰囲気だった。
十分も経たないうちに、電話のベルが鳴った。オブライエンからだった。ちょうどいい探偵が見つかったというのだ。ロナルド・デクスターという男だが、あまり酒を飲まさないようにと注意してくれた。
「酒癖が悪いんですか?」と警視はたずねた。
するとオブライエンは、天使のように優しい口調で答えた。「泣き上戸なんですよ……」
これは羊のような顔をした赤毛の警部の冗談ではなかった。デクスターは、飲んでいないときでさえ、つねに際限のない悲しみを背負って人生を生きているといった印象をあたえる男だった。
彼は夜の六時にホテルにやって来た。そのときたまたまロビーに居合せたメグレは、探偵がフロントに自分のことを問い合わせている声を耳にした。
「ロナルド・デクスターかね?」
「そうですが……」
こういった後、一瞬男は≪あっ!≫と声を上げそうな様子を見せた。
「オブライエンに事情をよく聞いたかね?」
「しーっ!」
「何だ?」
「人の名前は出さないでください……命令通りに動きますから。どこに行きましょうか?」
「まず外を見てみたまえ。あの角にガムを噛みながら通行人に眼を光らせている男がいるだろう。あの男を知ってるかね? ……ビルという名前だ。ビルとだけしかわからん。もう一つわかっていることは、あれはあんたの同業者で、私を尾行することを引き受けているんだ。とはいっても、あの男のことを気にすることはない、そんなことはどうってこともないんだ、いいかね、好きなだけ追いまわさせておけばいい……」
デクスターがメグレの言葉を理解したかどうかは定かでない。いずれにせよ彼は、あきらめたような様子をし、上を向いてこうつぶやいた。
「どの仕事でもおなじことだ!」
五十歳にはなっていないだろう。グレイの服とくたびれ果てたトレンチコートを見るかぎり、お世辞にも景気がよいとはいい難かった。
二人はブロードウェイに向かって歩きはじめた。ホテルからブロードウェイまでは、百メートルもない。ビルがそのすぐあとを平然とした態度でついて来る。
「芝居の世界のことには詳しいかね?」
「少しだけでしたら」
「正確にいうと、ミュージックホールやカフェ・コンセールのことだが」
このときメグレはオブライエンの実際的な感覚とユーモアに一目置かざるをえなかった。というのは、相手は溜息をつきながら、こう答えたのだ。
「二十年間私はピエロをしてました」
悲しいピエロだったにちがいない。
「よかったらバーにでも入って、一杯やろう」
「ええ」
それから緊張を解いた様子でいいそえた。
「あらかじめ注意されていませんでしたか?」
「何をだね?」
「私には酒を飲ましちゃだめだって。でも一杯ぐらいならいいですね」
二人はカウンターの隅に腰をおろした。するとビルも入って来て、カウンターに坐った。メグレは説明しはじめた。
「ここがパリだったら、いま私が捜しているような情報などすぐ手に入るんだが。サン・マルタン門の近くに、一時代前からやっている店がかなりあるからね。通俗的なシャソンンを売物にしている店などもあって、一九〇〇年や一九一〇年ごろ四つ辻でうたわれていたシャソンンをいまでもまだ手に入れることができる。私の知っているある鬘《かつら》屋では、かなりの昔から役者たちが使ってきた、あらゆる種類のつけ髭《ひげ》や鬘を店先に並べている。もっといかがわしい場所に行けば、怪しげな興業主がいる事務所があり、そこで田舎の小さな町を巡業する一座を組織している……」
メグレがこんなおしゃべりをしている間、ロナルド・デクスターはひどく憂鬱そうな眼差しでグラスを見つめていた。
「聞いてるのか?」
「ええ、聞いてます」
「そうか。そうした事務所の壁には、だいたい、三、四十年昔に流行したカフェ・コンセールの出し物のポスターが貼ってある……それから、待合室の腰掛けには、十人ほどの年老いた大根役者や女優たちが……」
メグレはここで言葉を切った。それからいった。
「悪いことをいってしまったな」
「なんでもありませんよ」
「つまり七十を越えるような高齢の役者や歌手たちが、いまでも一座に加えてくれとやって来ているということだ。彼らには人並みはずれた思い出がある。とくに成功していた時期の思い出だ。さて、デクスターさん」
「みんなは私のことをロナルドと呼んでます」
「そうか。それではニューヨークにも、いま私が話したとおなじようなところがあるだろうか?」
元ピエロだったというその男は、しばらくの間考え込んでいた。まだ口をつけていないグラスをじっと見つめている。しばらくして、真剣そうな目つきでたずねた。
「ものすごく年をとっていなければなりませんか?」
「どういうことだね?」
「相当年をとった役者でなければいけないのかときいてるんです。先ほど七十歳を越えた役者とおっしゃってましたから。ここでは、それでは年齢が多すぎます。だって、みんなもっと早く死んでしまいますから」
デクスターの右手がグラスに伸び、引っこみ、ふたたび伸びた。そして一息に飲み干した。
「心当りがあります……お連れしましょう」
「三十年以前のことを知っている者でなければ意味がない。そのころ、二人のフランス人が、ジェイ・アンド・ジェイという芸名でカフェ・コンセールでミュージカルをやっていたんだ」
「三十年前ですか? 大丈夫だと思います。それで、あなたの知りたいことは?」
「彼ら二人についてのことなら何から何まで。できたら写真も欲しい。役者というのは、よく写真を撮らせるだろう。ポスターやプログラム用に」
「これから一緒に行きますか?」
「今夜は駄目だ。いますぐは駄目だ」
「そのほうがいいです。あまり突然だと相手を驚かせることになりますからね。連中はご存じのように、感情が激しやすい種類の人間ですから。よかったら、明日わたしのほうからホテルに出向くか、電話をしましょう。これは急ぎの仕事ですか? 今晩からでもはじめられますが。でも先立つものが……」
デクスターはためらい、声をひそめた。
「必要な場所に入って行ったり、酒を飲ませたりするのに、金が要るんですが」
メグレはポケットから紙入れを取り出した。
「あの、十ドルもあれば十分ですよ。それ以上もらうと、無駄使いしてしまいそうですから。そうしてこの仕事が終わったときに私のふところに何も残らない、なんてことになりかねませんから……もう私のことなど見限ったでしょうか?」
メグレは頭を振った。一瞬このピエロと一緒に夕食を食べようかと考えたが、相手があまりに救い難いほど陰気な男なので考え直した。
「ああいった男につけまわされても、何ともないかね?」
「嫌だといったら、どうします?」
「あいつを雇っている連中より少し多くの金を渡して……」
「平気ですよ」
メグレにしても平気だった。元ボクサーの探偵に尾行されていると感じることなど、メグレにとってはむしろ一種の気晴しに過ぎない。
その夜メグレは、ブロードウェイの明るいカフェテリアで食事をした。ソーセージはとびきりおいしかったが、ビールがなくてコカコーラを飲むはめになったのには閉口した。
九時頃、彼はタクシーを呼び止めた。
「フィンドリ一六九番街の角」
運転手は溜息をついてから、うんざりしたような様子で空車札を下ろした。車がネオンと街燈の光で昼間のように明るい町筋を過ぎて見なれぬ場所に乗り入れたときになって初めて、メグレは運転手の態度を理解できた。どこまでも続くまっすぐの道路沿いにすれちがう人という人は、すべて黒人だった。ハーレムに入ったのだ。建物はすべて似かよった黒っぽいレンガ造りで、その上建物の前面には醜い鉄製の非常階段がジグザグに取り付けられている。
かなり走ってから車は橋を渡った。数限りない倉庫や工場の横を通り過ぎてから……暗闇なのではっきりとは見分けられないが……新しいさびれた街筋に出た。そこはもうブロンクスだった。ところどころに、映画館の黄や赤や紫のネオンが見えた。またじっとポーズを取ったまま動かない蝋人形が立ち並ぶデパートのショーウィンドーも目に入った。
もう三十分以上走っている。ふたたび、だんだんと暗く、人気のない通りに車は入って行った。そしてやっとのことで運転手は車を止めた。そして振り向きざま、横柄な口調でメグレに告げた。
「フィンドリですよ」
右側が一六九番街だった。メグレは長いこと説得を続けて、やっとのことで運転手に車を待たせておくことを承知させた。しかし交叉点のあたりに車を停めておくことは承知しなかった。歩道に沿ってメグレが歩きはじめると、タクシーもゆっくりとした速度でその後を動きはじめた。
その後ろから、もう一台のタクシーが、やはりノロノロとつけて来る。おそらくビルが乗っているのだろう。わざわざ車から降りる気にはなれないようだった。前方の暗闇に、パリをはじめ世界中の都会の下町に見られる、数軒の店がかたまっている長方形の建物が浮かび上がった。
こんなところにメグレは何をしに来たのか? はっきりとした意図は何もなかった。第一、ニューヨークにやって来た目的でさえはっきりしていないではないか。しかし、数時間前から、要するに≪セント・レジス≫を離れた瞬間からもはや異邦にあるという落ち着きのない気持はなくなっていた。≪バーウィック≫に移ったことで、彼はすでにアメリカと和解したような気持になっていた。たぶん、そこの人間的な匂いのせいだろう。だからいまではメグレには、これらの蜂《はち》の巣状のレンガの建物のなかで営まれている人々の生活や、カーテンの向こう側でくりひろげられている光景を想像する余裕ができていた。
リトル・ジョンはもう彼の心を動かさなくなっていた。そういう人間ではなくなっていた。しかし、それでもやはりリトル・ジョンは本質的にはつくられた何か、人工的な何かだった。
マックギルという男もリトル・ジョンに輪をかけてそういう感じがした。
それにジーン・モーラという青年の恐怖も、ドケリュスという老人の同意にもおなじような印象がした。
さらに、船がニューヨークに着いたと同時に起こった失踪にも……。
しかし、結局これらのことはすべて重要ではない。もし、いまこの場にオブライエンがいて、あの赤毛のあばただらけの顔に例の曖昧な薄笑いを浮かべていたとしても、メグレはおなじように断言するだろう。
ポケットに両手をつっこみ、パイプを口にくわえて歩き続けながら、メグレはあることを考えていた。なぜ、あばた面の人間には赤毛が多いのか、そしていつも決まって善良な人間が多いのか?
彼はふんふん鼻をならして、人々の生活の匂いや燃料油の匂いなどの混った空気を胸に吸い込んだ。これら蜂の巣状のどこかに、新しいジェイ・アンド・ジェイがいるのだろうか? きっといるに違いない! 二、三週間前この大陸に上陸したばかりで、歯をくいしばりながら≪セント・レジス・ホテル≫の華やかな生活を待ち望んでいる青年たちが。
メグレは洋服屋を探した。葬列のように二台のタクシーが彼のあとについて来る。この状況がいかにおかしなものか、彼にはよくわかっていた。
人々がまだ固い付けカラーと円筒状の袖のワイシャツを着ていた頃、メグレは、ゴムか、ゴム引の布でできた洗濯可能のワイシャツを持っていたことをまだおぼえている……、二人の青年がこの通りの洋服屋の正面の家に住んでいた。
ところで、数日前別の青年が、自分の父親の生活に関して不安を抱いた。この青年は、船のデッキで数分間メグレと言葉を交わした直後、失踪した。
警視はなおも洋服屋を捜した。建物の窓に次から次へと視線を走らせた。二階までで止っている鉄製の非常階段が取りつけられている建物が多かった。
クラリネットとバイオリン……。
なぜメグレは、野菜でも食料品でも菓子でも何でも売っているある店のショーウィンドーに、まるで子供のように鼻をくっつけていたのか? その店の隣りもやはり商店らしかった。明りはついていないが、シャッターがなく、すぐ近くにある街燈の光のおかげでガラス窓越しにミシンと、ハンガーに掛かった幾着かのスーツが見えた。
≪アルトゥーロ・ジャコミ≫
ずっとメグレのあとを追いかけて来た二台のタクシーが何メートルか後ろで停まった。
タクシーの運転手も、ビルというずんぐりした男も、この厚地の外套にパイプを口にくわえた男が、道路をへだてた向かいの建物を振り仰いだとき、一人は腕にバイオリンを抱え、もう一人はクラリネットを抱えてこの国に上陸した二人の二十歳のフランス人と対面していたことなど夢にも想像できまい。
[#改ページ]
第四章
その朝、もう少しで一人の男の生死にかかわることが、もう少しでおぞましい犯罪がおかされないですむところだった。そしてこのもう少しというのは、メグレの時間の使い方が数分早いか遅いかにかかわっていたのである。
不幸なことにメグレ自身そんなことは知らなかった。司法警察局に勤務していた三十年間というもの、特別の捜査で夜も動きまわっていたときを除いては、彼の起床時間は朝の七時頃と決まっていた。それから住居のあったリシャール・ルノワール大通りから、かなりの距離を歩いてパリ警視庁のあるオルフェーヴル河岸まで行くのが好きだった。
実際は敏捷な人間ではあったが、一方ではつねにこうしたぶらぶら歩きを好んだ。定年退職して、ムン・シュール・ロワールの別荘に移ってからは、もっと早く起きるようになった。夏などには陽がまだ昇らないうちから庭に立っていることもしばしばだった。
航海のときも、メグレは船員たちが水をざぶざぶ流して、デッキの床を洗っている忙しい時刻にデッキの散歩を最初にする乗客だった。
それなのに、ニューヨークで迎えた最初の朝は、オブライエン警部と前の晩に飲みすぎたため、起きたのは十一時だった。
≪バーウィック≫で迎えた二日目の朝、メグレは習慣通りに朝早く起きかけた。しかしそのときは、まだ早過ぎたし、通りに人影もなく、家々の窓もまだ閉まっていたので、もう一寝入りすることにしてふたたびベッドに入った。
こうして彼は深い眠りに落ちた。眼を覚ましたときには、十時をすでに週ぎていた。一週間働きづめに働いて、日曜に朝寝坊をすることが最大の楽しみである人々の精神状態など、メグレには無縁の代物であったはずなのに、なぜこんなことになったのか?
すっきりと眼が覚めなかった。ゆっくりと時間をかけて朝食を味わった。それから、部屋着のままで窓際に行き、パイプに火をつけようとして驚いた。ビルの姿が見えないのだ。
もっとも、あのボクサー上がりの探偵だって眠らないわけにはいかない。代理の人間でも見つけて、交代で見張っているのだろうか?
メグレは丁寧に髭を剃った。それからいままでの経過を整理するのに少し時間をかけた。
ところで、ごくなにげなくすごしたこれらの時間に、一人の人間の生命がかかっていたのである。
厳密には、メグレがホテルを出たときでもまだ間に合ったことになる。ビルは路上のどこを捜してもいなかった。代わりに彼を尾行する者の姿も見当たらなかった。空のタクシーがやって来た。メグレはすぐに手を上げた。運転手は彼のほうを見向きもしない。そこで彼は、別のタクシーをつかまえることを諦めて、少し歩くことにした。
五番街までやって来て、華やかなショーウィンドーの前に立ち止まり、長い間そこに並べられているパイプを見つめていた。そして、そのなかの一つを買おうと心に決めた。いつもは祝日だとか記念日に夫人がプレゼントしてくれたので、自分でパイプを買うのは異例のことだった。
もう一つ、異例なことがある。それは、パイプの値段が非常に高かったことだ。店から出たとき、メグレは前の晩にタクシーに払った金額を想い出した。そして今日はタクシー代は倹約することにした。
彼はこういうわけで、かなりの時間をかけて、地下鉄でフィンドリの交叉点まで行った。
明るくはなっていたが空はまだ灰色の曇り空だった。風はまだ強かったとはいえ、嵐は去ったらしかった。メグレは一六九番街のほうへ曲がった。その一瞬、彼は悪い予感を覚えた。
前方二百メートルほどの建物の戸口の前に、人だかりが見えた。この辺りのことをまだよく知らないし、前の日に来たときは夜だったにもかかわらず、メグレは群衆の集まっている場所が例のイタリア人の洋服屋の前であるにちがいないと直感じた。
もっとも、この街のこの界隈の住民は、ほとんどイタリア人だった。家々の入口で遊んでいる子供たちの髪は黒く、表情は陽気で、脚は長く青銅色に日焼けしていた。ナポリやフィレンツェの子供たちだった。
店の名前もほとんどイタリア語で綴られていた。ショーウィンドーには、ボロニア産のソーセージやマカロニや塩潰けの肉など、地中海沿岸地方から送られてきた品物が並んでいた。
メグレは足を速めた。洋服屋の戸口のところは、二、三十名の人間が輪を作っていた。警官が一人、侵入する者がないよう見張りに立っていた。虱のたかっているような汚れた子供がそのまわりに群がっていた。
何かの事故か痛ましい悲劇がたったいまこの通りで起こったのだということが、人々の顔から察しられた。
「どうしたんです?」とメグレは、一番後ろに立って背伸びして輪のなかをのぞき込んでいる山高帽の肥った男にたずねた。
英語でいったにもかかわらず、男は物珍しそうにじろじろと彼のほうを見つめるだけで何も答えず、肩をすくめてまた顔をそむけてしまった。
イタリア語と英語で交わされたいくつかの文句が、切れ切れに耳に入ってきた。
「……通りを渡っていたときにやられたんだとさ」
「……毎朝同じ時刻に散歩をするのが、奴の習慣だったんだ……ここに来てからおれは十五年になるが、いつもおれは奴に出会ったよ」
「……じいさんの椅子がまだあそこにあるぞ」
店のガラス窓越しに、スチーム・アイロンと、スーツがひろげられているのが見えた。そしてもっと手前の鏡のそばに、底にわらを詰めた、低い椅子が置かれていた。アンジェリーノ老人の椅子であった。
メグレは徐々に事態がわかってきた。人々の会話のなかへ自分をだんだんと入り込ませてゆき、切れ切れの断片をつなぎ合わせて、人々が何をいっているのか、おぼろげながらつかむことができたのだ。
アンジェリーノ・ジャコミがナポリからアメリカへ移って来たのは、五十年以上も前の話だ。彼はスチーム・アイロンが発明される以前に、この店を構えた。いわばこの界隈の主《ぬし》だった。自治体選挙のときなどは、候補者はみな彼を訪ねてきた。
いまでは息子のアルトウーロがあとを引き継いでいたが、その息子も六十に近い歳で、七、八人の子供の父親であった。その子供たちももうほとんど結婚している。
冬の間には、アンジェリーノ老人は、このわら椅子を店のたたきに出して、終日坐って過していた。それはもう、この店には欠かせない光景になっていた。そして、朝から晩まで、苦味のある香りを発する安物の、黒いイタリア葉巻を喫いつづけていた。
春が来て、ひばりが町にもどって来ると、老人が店先の歩道に椅子を出して日向《ひなた》ぼっこをしている姿が見られた。
いま老人は、死んでしまったか瀕死の状態らしい。メグレにははっきりとしたことはわからなかったが、群れ集まった人々の意見もまちまちだった。まもなく、救急車のかん高いサイレンの音が聞こえてきて、赤十字の印をつけた車が歩道の縁に横づけになった。
群衆に動きがあらわれ、やがて静かにその中央が割れて、白衣を着た二人の男が店のなかへ入って行った。しばらくして、白いシーツにおおわれた老人を担架にのせて店から出て来た。
ドアがふたたび閉まった。息子のジャコミだろう、カラーのないシャツを身につけ、仕事着の上から上衣をひっかけただけの姿の男が、助手席に乗り込んだ。救急車は遠ざかって行った。
警備に立っていた警官に人々の質問が殺到した。
「じいさんは死んだのかい?」
警官は何も知らなかった。そんな細かいことは自分の仕事の領分からはずれることだといいたげな様子だった。
店のなかで一人の女が泣いていた。白いもののまじった髪が乱れて、顔にかかっている。しぼり出すような悲痛な泣き声が、ときどき外にまで洩れてきた。
一人、二人と野次馬が去って行った。おかみさん連が、中断していた買物を続けるために、子供の姿を捜しはじめた。
群衆の数は徐々に減っていったが、それでも戸口をふさぐほどの人数は残っていた。
床屋の親父が、耳に櫛をはさんだ姿で、ジェノヴァ訛《なま》りのアクセントで説明をはじめた。
「おれはこの目ですべてを見たんだ。暇な時間だったので、ちょうど店の入口にいたからな」
何軒か先に、赤と青の縞模様でできた床屋の円筒形の看板が見えた。
「ほとんど毎朝、じいさんはおれんところへやって来て、ちょっとおしゃべりしていくんだよ。水曜と土曜にゃ、髭も剃ってやってたのさ……店の者にやらせるんじゃなく、おれが必ず自分でやってたよ……古いつき合いなんだ。もう八十二、いや待てよ、八十三歳になってたかな。一番末の孫娘のマリアが四年前片づいたとき、何歳だといってたかな?」
そこで床屋は、とても長い間住んでいたこの町から暴力であの世に連れて行かれてしまったアンジェリーノ老人の正確な年齢を計算するのにしばらく夢中になっていた。
「他人《ひと》にあまりいいたがらなかったんだが、じいさんは目が弱くなっていて、もうほとんど物が見えなかった。いつも時代がかった銀縁のぶ厚い眼鏡をかけていたっけ……よく赤い大きなハンケチでレンズを磨いては、掛け直していたもんだ。もっとも、それもほとんど役に立たないほど眼が悪くなっていたんだがね。歩くときいつもステッキをついてたのはそのせいなのさ。脚が悪かったからじゃない。脚は二十歳の男と変わらないほど丈夫だったよ……毎朝、判で押したように十時半になると……」
本来ならその時刻に、メグレはこの洋服屋に来ていたはずなのだ。前の日そう心に決めていたのだから。アンジェリーノ老人に会って、いろいろ質問をしようと思っていたのだ。
もし習慣通りに早起きしていたら、呼びとめようとしたあのタクシーが停まっていたら、五番街でパイプなど買わなかったら、事態はどう変わっていたろう?
「首のまわりに毛織りのぶ厚い襟巻きをしていたよ。まっ赤なやつをな……真冬でもコートは着てなかった。いつもゆっくりとした足取りで、歩道のはしっこを歩いてた。ステッキを使って歩いている位置を確かめてたに違いない……」
床屋の周囲にはもう五、六人の人間しかいなかった。そのなかでも、メグレがもっとも真面目に興味を持って聞いているようなので、自然と床屋はメグレに向かって話しかける形になっていた。
「どこの店の前にやって来ても、じいさんは手を挙げて挨拶するんだ。みんな、じいさんの知り合いだったからな。街角までやって来ると、歩道の端に立ち止まって、左右を見てから通りを渡ってた。じいさんの散歩は、この辺りだけにかぎられていたのさ。
今朝もいつもとおなじだったよ。この眼で見たから確かだ。車道に足を踏み出すところまで、はっきり見たんだ。あの瞬間、おれはどうして振り返ったのかなあ。いまでもわからん……きっと、戸が開きっぱなしになっていた店のなかから、うちの使用人が声をかけたからだろう。あとで確かめてみなくちゃならん。気になるからな……。
おれははっきりと自動車の音を聞いた。家から百メートルも離れてはいなかったろう。それから、変な音がした……なんだか柔らかな音だよ……何ていったらいいかわからないな。ともかく、事故が起きたとすぐ思うような音だ。
おれは振り向いた。全速力で走り抜ける車が見えた。あっと思ったときにゃ、目の前を通り過ぎてたよ……それと同時に、地面に倒れている人のからだが目に入った。
倒れているからだのほうに気を取られていなかったら、車のなかにいた二人の男の様子がもっとはっきりわかったんだろうがな……グレイのでっかい車だったよ。かなり濃いグレイだ……黒といったっていいほどだが、確かにあれはグレイだよ……それとも埃《ほこり》をかぶっていたからそう見えたのかな。
大勢の人間が駆け寄っていた。おれはともかく、事の次第をアルトゥーロに知らせようとここにとんで来た。アルトウーロはズボンにアイロンをかけているところだった。しばらくして、口からたらたらと血を流し、腕をだらんと垂らして、上衣の肩のあたりが裂けたアンジェリーノじいさんのからだがここに運び込まれた……みんな、見た瞬間、何が起こったのかわからなかったようだ。でも、じいさんが死んでしまったことが、おれにはすぐわかったよ……」
オブライエン警部のオフィス。警部は長い足を持てあましているかのように椅子を後ろに傾けて、せわしなくパイプの煙をふかしながら、暗い眼つきでメグレの話をきいていた。
「もうこれで、あなたも、個人の自由などという名目であの畜生どもに捜査の手を伸ばすことができない、などとはまさかいわんでしょうな?」とメグレは話を結んだ。
メグレは三十年以上も警察官を勤め、その間人間の卑劣な行為や残忍な行為をすべて見てきたが、いまでもそういう行為には新入りのときのような怒りをおぼえた。いまでは使うこともはばかられるあのパイプを買わずに、今朝ジャコミ老人を、当初決めていた時間どおり訪問していたら、老人の生命は救えたはずだと考えると、ますます陰うつな気持になってしまった。
「残念ですが、これは連邦警察の仕事ではありません。いまのところはニューヨーク市警察に任せるほか手はないのです」
「殺しの手口があまりにきたない……」とメグレは大声を上げた。
するとオブライエンは、考え込むようにつぶやいた。
「私が驚いてるのは殺しの手口にじゃありません。ちょうどうまい時刻に殺人が行われたことです……」
メグレもすでにそのことは考えた。しかしそこに一つの関連を見ることは難しかった。何年、何十年もの間、アンジェリーノ老人に関心を持つ者など誰一人としていなかった。老人は椅子に坐って道行く人をぼんやり見ていたり、犬のように毎朝決まった場所を散歩したりして日を送ってきたのだ。
その前日の晩、メグレは洋服屋の前に立ち止まって店の様子を眺めた。そして、翌朝にはふたたびここにやって来て、老人にいくつか質問してみようと心に決めたことは事実だが、そのことはだれにもいわなかったはずだ。
にもかかわらず、彼が来てみると、何者かが老人を、もう口もきけないからだにしてしまっていた。
「もっと早く行くべきだった……」
やり場のない怒りにかられて、メグレはオブライエンを見つめながら、ふりしぼるような声で叫んだ。
「こういった事故を計画するには、大した時間はいりませんよ。必要な情報を事前に知っておけば、簡単なことです。この種の仕事をひき受ける団体があるとまではいいませんが、まあそれに近いようなことはありますよ。要するにだれを選び、だれに連絡をとり、だれに金を払うのか知りさえすればいいんです。いわゆる殺し屋という連中です。もっとも、その殺し屋にしても、アンジェリーノ老人が毎朝おなじ時刻に一六九番街のおなじ場所を横断することを知っていたわけではありません……。
ということは、だれかがそうした連中にこのことを知らせたに違いありません。おそらく仕事の依頼主と同一人物でしょう。そしてこのだれかは、ずっと前からこのことを知っていた者ということになります」
二人はじっと眼を見つめ合った。二人ともおなじ結論を引き出していたのだ。
いつ頃からか何者かが、アンジェリーノ老人はあることを知っていて、それを老人が他言すれば自分の平穏な生活が脅かされることになるということを知った。
メグレは思わず細身で神経質そうなリトル・ジョンの横顔を思い浮かべた。人間的な暖かさのまったく感じられない、その氷のように冷たく澄んだ瞳を。
あの人物こそ、まさに顔色一つ変えずに殺し屋に今朝のような仕事を依頼できる人間ではないか?
それにリトル・ジョンは一六九番街の、洋服屋の真正面にかつて住んでいたのだ!
さらに、息子に宛てた手紙の内容を信じるとすれば……そこには不安な様子がありありと見てとれた……リトル・ジョンは何事かに怯え、恐れていたではないか!
そして、彼の息子は、事実アメリカの土を踏む前に失踪してしまったではないか!
「彼らがやったんだ……」長い沈黙のあとで、自分の考えをまとめるようにメグレはつぶやいた。
この考えにほとんど間違いなかった。彼はジーン・モーラのことを思い浮かべた。殺人者がだれなのかおぼろげにわかってきてみると、ジーン・モーラのことが悔まれた。
自分に助けを求めてきた青年をもっとしっかり警護してやるべきではなかったか? ドケリュス氏の助言を無視して、青年の不安を真面目にとらなかった自分は、ひどい間違いを犯していたのではないか?
「結局こういうことでしょう」と連邦警察の赤毛の男がいった。「われわれが相手にしているのは自衛する連中、もっと正確にいいますと、自衛のために攻撃的になる連中です……。メグレさん、そこであなたに何ができますか? ニューヨーク市警察のほうでは、この件にあなたがからんでくるのを好ましくは思いません……第一、どういう資格で、と思うでしょう? これはアメリカ国内の事件なんですから。犯人もおそらくアメリカ人でしょう。モーラも帰化しています……マックギルのことはよく知りませんが、ニューヨーク生まれだということですね。それはともかくとして、だいたいこの二人が事件と結びつけられることなどまず考えられないでしょう。ジーン・モーラについても、表ざたにする者などいません。父親ですらそうしたくなさそうですから」
オブライエンは溜息をつきながら立ち上がった。
「いま私がいえるのはこれだけです」
「例のブルドッグが、今朝、私を見張ってなかったことはおつたえしましたっけ?」
メグレがビルのことをいっていることは警部にはわかっていた。
「まだ聞いていませんでしたが、それはうすうす予想していました。犯人は昨夜から今朝にかけて、あなたが一六九番街に行ったことを知っていた者ということになるんですね?」
「またあとで私があそこにやって来ても危険がないように……」
「私があなただったら、町を歩くのにも注意を払いますね。もちろん人通りのない場所に行くことなどは、夜中だったらなおさら避けます。いつでも人を轢《ひ》くとはかぎりません……車で走り抜けながら機関銃をぶっぱなすほうが手っ取り早いですから」
「ギャングなんていうのは、小説か映画の世界のことだと思ってました。あなたがそういったのではなかったですかね?」
「ギャングのことをいってるのじゃないんです。忠告をしてるのです。それはそうと、例の泣き虫のピエロはどうしました?」
「仕事をしてもらってますよ。夜までに電話をかけてくるか、≪バーウィック≫に直接来ることになってます」
「事故でも起こらなければいいですが、あの男にも」
「そう思ってるんですか?」
「わかりません。私はこの件に首をつっこむことはできませんから。あなたにしても、手を引いたはうが賢明だといいたいところですが、まず聞いては下さらんでしょう」
「当然です……」
「では幸運を祈ります。何か変わったことがありましたら電話して下さい。この事件を担当することになったニューヨーク市警察の仲間に偶然会うこともあるでしょうから。だれが選ばれたかはまだ知りませんが。もしかして、その者と話しているうちに、あなたが興味を惹かれるような事実でも聞けるかもしれません。今日は昼食にはお誘いしません。たったいま上役の二人とすましたばかりですから」
ニューヨークに来て最初に会ったときの陽気でユーモアに富んだ話しぶりとは、まったく異なる雰囲気だった。
彼らはおたがいに重苦しい気持を抱いていた。
イタリア人の店が並び、子供たちの明るい声が響き、平穏な日常生活が続いていたブロンクスのあの町で、いつもの通り静かな散歩をしていた一人の老人を、一台の車が残酷にもひき殺した……。
メグレはどこかカフェテリアにでも入って軽い食事でもしようかと思った。しかし、≪セント・レジス・ホテル≫がすぐ目と鼻の先だったので、ホテルのバーに行ってみようという気になった。
そこでアペリチフを飲む習慣のあるらしいマックギルに会えるのではないかと思ったからだ。
思ったとおり、マックギルはいた。とびきり美しい女性を同伴していた。警視の姿を認めると、腰を浮かして挨拶した。
それから女性にメグレのことを話したらしい。女は吸い口に口紅の色をつけた煙草を喫いながら、物珍しそうにメグレの顔をじろじろと見はじめた。
マックギルはその日の事件についてまるで無関係か、驚くほど冷淡な神経の持ち主なのか、どちらかだろうと彼は思った。というのは、その態度があまりに平穏だからだ。メグレがカクテルを飲みながらいつまでも一人でいるので、マックギルは同伴の女に一言詫びをいってから立ち上がった。そしてメグレのほうにやって来て、手を差し出した。
「ちょうどいいところでお会いしました。昨日あんなことがあったので、私も会ってお話したいと思っていたんです」
メグレは相手の差し出した手が目に入らないような振りをしていた。秘書は仕方なく差し出した手をポケットに突っ込んだ。
「リトル・ジョンのあなたに対する態度は乱暴で、なにより不器用すぎました。あれは悪意があってのことではなくて、本当に彼が不器用だからなんです。長いあいだ世間のみんなが自分の意のままになるということに慣れているからなんです。ちょっとした障害やちょっとした対立にさえ、気持を苛立たせるんです。それに息子に関することについては、とくに特殊な感情を抱いています。いわば彼の人生の秘密の部分、胸の奥に秘めた部分なんです。あなたがその部分に立ち入ってきましたので、気を荒立てたのです。実のところ、あなたが来られてからというもの、彼はあらゆる手段を講じてジーンを捜しています。きっと捜し出すでしょう。ここがフランスで、あなたが公的な力を持っておられたら、彼もおそらくご助力をあおいだでしょうが、あなたにとっては右も左もわからないこの都会では……」
メグレは壁のように無表情な顔で、じっと動かずにいた。
「要するに、お願いですから……」
「お願いだからあなたの詫びを聞いてくれ、というんですかな?」とメグレは答えた。
「リトル・ジョンも悔いています……」
「彼が私に謝ってこいといったのですか?」
「それは……」
「あなたがた二人とも、おなじ理由でか別の理由でか、早く私を追い払ってしまいたい、というのが本音でしょう」
「そんな風に考えられるのでしたら……」
メグレは気難しそうな顔をバーのほうに向けてグラスをつかんだ。
「私は自分の好きなようにしますよ」
次にふたたび部屋のほうに目をやったときには、マックギルはブロンドのアメリカ娘の傍らの席にもどっていた。女が何かたずねていたが、彼はそれに答えたくない様子で黙りこんでいた。
暗い表情だった。そして、しばらくしてメグレが店を出るときに、彼は苦しみと怒りをこめた視線が背中に注がれているのを感じていた。
しめたぞ!
≪バーウィック≫にもどると一通の電報が彼を待っていた。≪セント・レジス≫から転送されたらしい。ロナルド・デクスターもロビーの長椅子で辛抱強く彼を待っていた。
電報はこう告げていた。
≪ジーン・モーラについての報告受け取りました。いずれ詳しく説明します。捜査を打ち切って、早くご帰国ください。
フランソワ・ドケリュス≫
メグレは黄色い電報の紙を小さくたたみ、溜息をつきながら紙入れにそれをしまい込んだ。それから泣き顔のピエロのほうを振り返った。
「昼食はすませたかね?」と彼はたずねた。
「ついいましがた、ホットドッグを一つかじっただけです。なんならお伴しますが……」
こうして一緒に食事したことで、メグレはこの風変わりな探偵の、予期しなかった特性を見出すことになった。きわめて小さなサイズの服を着ているにもかかわらず、それでもだぶだぶに見えるほど痩せているデクスターは、驚くほど巨大な胃袋の持ち主であった。
カフェテリアのカウンターに腰をおろすや、何日も前から物を食べていない男のように、デクスターの眼はギラギラと輝いてきた。そして、チーズとハムのサンドイッチを指差して、小声でいった。
「あれ、いいですか?」
デクスターが欲しいといったのは、その大きなサンドイッチを一つということではなく、一山全部のことだった。そしてサンドイッチをむさぼりながら、いかにも心配そうにキョロキョロと周囲を見まわしていた。まるで自分の食事を邪魔する者が来ることを恐れているかのように。
その間何も飲み物を飲まないのだ。それなのに、大口を開けておどろくべき早さで、次から次へとサンドイッチを呑み込んでいた。
「こんな物を手に入れましたよ……」とデクスターは口いっぱいにパンをほうばりながらいった。そして、空いたほうの手でトレンチコートのポケットを探っていたが、すぐに何かをつかんでカウンターの上に置いた。折りたたんだ紙切れだった。警視がそれを広げている間に、彼はたずねた。
「何か暖かい物を注文してもいいですか? ここはそれほど高くないのです……」
それは昔役者が自分の出し物の終わったあとで、ホールなどで売っていたようなチラシであった。
≪俳優たちの写真はいかが?≫
メグレには、サン・マルタン門の≪プチ・カジノ≫に足しげく通っていた頃の呼び声が聞こえるような気がした。
≪十サンチームですよ≫
その紙片は、重要な出し物のときに特別に印刷してばらまかれる豪華な絵葉書ですらなく、ただの厚手の紙で、黄色く変色していた。
≪ジェイ・アンド・ジェイ。ヨーロッパのあらゆる君主やペルシャの王《シャー》の御前で演じたことのある栄光の音楽家≫
「どうかあまり汚さないでください」と目玉焼きをほおばりながらピエロがいった。「もらったんじゃないんです。ただ借りただけですから」
こんな紙切れを借りたとは、おかしな話だとメグレは思った。道路に落ちていたってだれもわざわざ拾う者などいないだろうに……。
「私の知り合いの物なんですよ。深いつき合いのある男です。サーカスにいた男ですが。四十年以上もサーカスにいたんです。いまでは老いぼれて、椅子に坐ったきりです。昨夜会いに行って来ました。もうほとんど眠れなくなっているから夜遅くでも平気なんです」
デクスターはあいかわらず口いっぱいにほおばりながら話していた。隣りの席の人間が注文したソーセージを羨しそうに見つめている。当然そいつも食べるだろうし、その次には、メグレの胸をむかつかせている白いクリームがベッタリとのっかったあの巨大なケーキも食べるにちがいない。
「その男は、個人的にジェイ・アンド・ジェイを知っているというわけではありません……奴はサーカスにしか所属したことがないんですから。ただ、サーカスやミュージック・ホールのことを扱った雑誌記事や、プログラムや、ポスターを個人的に集めてるんです。たとえば、現在三十歳になるこれこれのアクロバットの役者は、一九〇五年にロンドンのパラディウムで死んだこれこれの曲芸師の孫娘と結婚したこれこれのブランコ乗りの息子だ、などとすぐ答えることのできる男なんです」
メグレは上の空で話を聞き、テカテカとした黄色い紙に刷られている写真を見つめていた。写真などといえるだろうか? 製版の網目が粗すぎるので、仕上がりがきわめて劣悪で、ほとんど顔の見分けがつかない。
二人とも若くて痩せていた。一番の相違といえば、一人のほうが長髪であることだけだ。長髪のほうはバイオリン弾きらしい。メグレは、これがリトル・ジョンの昔の姿だな、と思った。
もう一人のほうは、まだ若いのにそろそろ禿頭の徴候があらわれていると思うほど髪が薄く、眼鏡を掛けた眼をいっぱいに開いて、クラリネットに息を吹き込んでいた。
「わかった、わかった、ソーセージを注文したまえ」
メグレはロナルド・デクスターが何もいわないうちに言葉をかけた。
「いつでも腹をすかしている男だと思ってるんでしょう?」
「どうしてだね」
「だって事実なんですから……。私はいつも腹をすかしています。金のある時ですらそうです。腹いっぱい食べられるほどの額を手に入れたことはないもんですから。その紙切れを返してください。友人に返すって約束したんです」
「いまこいつを写真に撮らせるから」
「もっと他のやつも手に入りますよ。でもいますぐは無理ですけれど。このチラシだって、その場で即座に捜してくれと頼みこまねばならなかったくらいなんですから。彼は車椅子に坐っていて、紙切れでいっぱいの部屋のなかを一人きりで行ったり来たりしているんです。彼はわれわれに例の二人についての詳しい話をしてくれる人間を知っている、とはっきりいってましたが、それがだれなのかいいたくない、というんです。きっと、正確には覚えてないんでしょう。紙切れの山のなかを捜しまわる必要があるみたいでしたよ。
電話は持ってないし、部屋から外へも出られないから、大変なんです。
≪心配することはない。またおいで、またおいで≫と私に繰り返しいってました。
≪この年寄りのジャーメインのことを覚えている芸人はたんといる。そのうちだれかがこのむさ苦しい部屋に無駄話をしにやって来るじゃろう。そうそう、わしには年寄りのガールフレンドがおってな。昔綱渡りの芸人だった女で、その次に悪魔劇の女予言者をやっておった。お喋り好きな女でな。毎週水曜にやって来るんだ。時々顔を出してごらん。何かあったら伝えてあげよう。でもな、本当のことをいってくれなきゃ困るぞ。カフェ・コンセールについての本でも書くんじゃないのかな? 前にもサーカスの人間について書いた者がおった。わしを捜しにやって来て、言葉巧みに根掘り葉掘り聞き出して、わしの貴重な資料をかっぱらって行きおった。それなのに本が出ても、わしの名さえどこにも出ておらなんだ……≫」
メグレは、その男がどういう人間なのかだいたい察しがついた。せき立てても無駄なことはわかった。
「その男のところに毎日顔を出してみてくれ」
「他にもいくつか心当たりがあります。お望みの資料をできるだけ捜してみるつもりなんです。ただ、もう少し前金を渡していただけませんか。昨日十ドルいただきました。ちゃんとメモしてあります。ほら、これです」
こういって、デクスターは手垢のしみついた手帳を取り出して、ページをめくった。広げたぺージに、次のようなメモが鉛筆書きしてあった。
≪ジェイ・アンド・ジェイの調査にたいする前金、十ドル≫
「今日は五ドルほど渡していただければ。どうせみんな、すぐに使ってしまうんですから。それだけで十分です。お金がないとあなたの手助けができないもんですから。多すぎますか? 四ドルにしますか?」
メグレは男に五ドル渡した。そして、他意はなかったが、金を渡す瞬間、ピエロに強い視線を投げかけた。
ネクタイの代わりに濃いグリーンのリボンを首に巻き、トレンチコートを着込んだ男は、腹がいっぱいになっても明るい表情にならなかった。その視線には深い感謝の気持と、かぎりない服従心とがあふれていたが、まるでやっと良い主人を見つけ、ちんちんして主人が満足してくれるのをうかがっている犬のような、不安そうなびくびくしたところがあった。
一方メグレは、オブライエン警部の言葉を思い浮かべていた。それと同時に、その日の朝いつものように散歩に出かけた途中で無残にも殺されたアンジェリーノ老人のことが、ふたたび頭をよぎった。
さて、自分はこの件に当たる権利が実際あるのか、と彼は自問した。
しかしその疑問は一瞬浮かんで、すぐに消えた。もう自分はこの老ピエロを戦場に送ってしまっているではないか?
「この男も殺されたら……」
メグレは≪セント・レジス・ホテル≫の事務所を、リトル・ジョンが骨張った指でもてあそぶペーパーナイフを、バーで連れの女に自分のことを話しているマックギルの表情を思い浮かべた。
これほど茫漠として支離滅裂な状態から捜査をはじめたことはメグレには覚えがなかった。もっとも、実際にはだれからも捜査など依頼されていないのだ。ムン・シュール・ロワールの家の別荘に来たときにはあれほど熱心だったドケリュス氏までも、早く帰国するようにと忠告してきた。そのうえオブライエンまで、この件には首をつっこまないほうがよいという口調だ。
「明日もこのくらいの時刻に来ます」とデクスターが帽子をつかみながらいった。「そのチラシは返さなくてはならないことを忘れないでください」
≪ジェイ・アンド・ジェイ≫
メグレは見知らぬ町の歩道に一人きりで立っていた。両手をポケットに突っ込んで、パイプを口にくわえながら散歩するにはちょうどいい時刻だった。そのうちにブロードウェイの映画館のネオンがつき、ホテルに帰る道が見つかるだろう、と思っていた。
しばらく歩いたあとで、不意に理由もなくメグレ夫人に手紙を書きたいという気持にとらえられた。そして彼はホテルヘの道を急いだ。
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第五章
三階と四階の間で、メグレはわけもなしに、今朝のこんな精神状態のときには、たとえばオブライエン警部のような人間には会いたくないなと思っていた。
リュカ刑事のように長年彼と仕事をしてきた者でさえ、どのようなときに彼がこうした精神状態になるのか、つかみきれないでいた。
もっとも彼自身、何を捜し求めているのか、はっきりと意識してはいないのだ。階段の途中で不意に立ち止まって、無表情な目を大きく開けて前方を凝視しているメグレの姿は、心臓に病のある男が苦しくなって立ち止まり、他人に迷惑をかけないように静かに深呼吸している、といった様子にも見えた。
階段の途中や踊場や台所や部屋のなかに見かけた、七歳にも満たない子供の人数のおびただしさから考えると、学校に行っている年上の子供たちが帰って来たら、この建物はまさに子供の巣と化すにちがいなかった。いたるところにおもちゃの類が散乱していた。毀《こわ》れた片足スケート、どうにかこうにか車輪をくっつけてある石鹸箱、大人には何の意味もないが、作った子供にとっては宝物にも優ると思われる異様な品々。
その建物には、フランスのように門番がいなかった。そのためメグレは目的の部屋にたどり着くのに大変な苦労を強要された。一階の廊下には番号札の出た茶色の郵便受けしか見当らなかった。なかには一つ二つ黄色く変色した名刺を貼ってあるものや、ブリキ板に乱雑に名前を彫り込んであるものもあった。
朝の十時だった。その時刻は、この種のアパートがそのスラム的な特徴をもっともはっきりあらわす頃だ。二軒か三軒に一軒の割でドアは開いていた。まだ髪に櫛《くし》を入れていないおかみさんたちが、忙しそうに家事にせい出していたり、子供のからだを洗っていたり、窓から古びたカーペットの埃をぱたぱたと払っている姿が目に入ってきた。
「ちょっとおたずねします、奥さん……」
メグレは決まって胡散《うさん》くさそうな目で見られた。背が高く、厚いコートを着込んで、だれにたいしてもつねに帽子をとって話しかけるメグレを見て、女たちは何者が来たのか、と思ったのだろう。おそらく、保険の勧誘員か、新型の電気掃除器を売りつけるセールスマンとでも思ったのではないか?
そのうえ彼の英語のアクセントは変だった。しかし、そのことではここではどうということはないようだった。イタリアから来たばかりの者やポーランド人やチェコ人たちもたくさん混じっているようだったからだ。
「このアパートに三十年前から住んでいる人がいるかどうかご存じないですか?」
相手は予期しない質問をあびせられて、眉をひそめた。たとえばパリのモンマルトル界隈や、彼の住んでいるレピュブリックとバスティーユの間の界隈では、三十年、四十年前から定住している夫婦や老人のいないアパートなどはまずなかった。ここでは、こんな答えがもどってきた。
「ここに引っ越して来てから半年しかたっていないからねえ……」
その他もせいぜい一年か二年の者ばかりだった。一番長い者でも四年がせいぜいだった。
自分でも意識しないで、メグレは開け放たれたドアの前にじっと立ち止まって、ベッドで足の踏み場もない貧しい台所や、四、五人の人間が住んでいる寝室のなかを見つめていた。
別の階の住人のことを知っている者はほとんどいなかった。八歳ぐらいの男の子……その子は、顔のまわりに湿布を巻きつけているところから考えると、お多福風邪にかかっているらしかった……を筆頭に三人の子供たちが彼のあとからぞろぞろついて来た。そしてその子がだんだんと打ちとけてきて、ついにはメグレの前を走っては戸口で呼びかけるようになった。
「このおじさんは三十年前からここに住んでいる人を捜しているんだよ」
窓際や、ときにはカナリヤをいれた鳥籠のそばの椅子に腰掛けたままの老人も二、三いた。こちらで仕事が見つかったので、ヨーロッパから呼び寄せた年老いた親たちだった。そんな老人のなかには、英語を一言も話せない者もいた。
「失礼ですが……」
ひろびろとした踊場は一種の共有部分をなしていて、不要物がところかまわず積まれていた。三階の踊場では、黄色い髪の痩せた女が、洗濯に精を出していた。このはちの巣のような小部屋のどこかに、ニューヨークに着いたばかりのジェイ・アンド・ジェイが住んでいたのだ。いまでは≪セント・レジス・ホテル≫の豪華な部屋に居を定めているあのリトル・ジョンが数カ月か数年過したのはここなのだ。
こんな小さな空間に、これほどの人数の人間が集まっているとは考えられないほどだった。しかし、人間の数に比較して熱気がまるで感じられなかった。他のいかなる場所よりも荒涼とした雰囲気が色濃く漂っていた。
牛乳壜がそのことを説明していた。四階のある戸口の前でメグレはびっくりして立ち止まった。マットの上に八本もの牛乳壜が中身の入ったままで並んでいたからだ。
案内人をかってでてくれている子供に彼は思わずわけをきこうとした。しかし、ちょうどそのとき隣りの部屋から四十がらみの男が出て来た。
「この部屋に住んでいる人をご存じですか?」
男はそんなことは自分には関係ないといわんばかりに、何も答えず肩をすくめた。
「ここにだれかいるのかどうかもご存じないんですか?」
「どうして知ってなくちゃならんのだ」
「男の人ですか、女の人ですか?」
「男だと思うよ」
「老人?」
「それは考えようによるよ。きっとおれくらいの歳だろう……よくは知らんが。ここに来てからまだひと月しかたってないようだよ」
隣人がどこの国籍の人間なのか、どこから来たのか、何も興味がないようだった。男は長く並んだ牛乳壜の列にも一向気をとめず、階段を降りていった。二、三歩降りてから、とっぴな質問をした風変わりな訪問者のほうを振り返って、けげんな様子で眉をしかめ、また何事もなかったように階段を降りはじめた。
ここの住人は、牛乳配達に何も知らせずに旅行にでも出発したのだろうか? そうかもしれない。しかし、こんなアパートに住んでいる人たちは、その日暮らしの貧しい者がほとんどだ。もしかしたら部屋のなかにいるのだろうか? 生きているのか死んでいるのか、病気なのか死にかけているのか。ともかくだれにも忘れ去られたままで長いあいだ部屋にとじこもっているのかもしれなかった。
叫んでも助けを求めても、このアパートではとんで来てくれる者が果たしているだろうか?
どこかで子供がバイオリンを練習していた。いつまでも下手糞な節をくり返し弾いているので、聞いていて頭がガンガンした。
最後の階に来た。
「すみません奥さん、このアパートに……」
彼女はずっとこのアパートに住んでいて、つい二カ月ほど前買物袋をさげて階段を上っているときに死んだ、見寄りのない老婦人の噂をした。でもその老婦人はここに来てから三十年にはならないんではないか、と女は付け加えた。
メグレは自分の先導をしてくれるその気の良い子供の存在が、だんだんと苦痛になって来た。子供は絶えずメグレの顔をじろじろと見ていた。まるで、自分の世界にとつぜん降り立ったこの見知らぬ人間の秘密を嗅ごうとしているような様子だった。
さあ、もう諦めて降りるか! 彼は立ち止まって、パイプに火をつけ、なおも周囲の雰囲気に耳を澄ましていた。そしてこのおなじ階段を昇って来る、手にバイオリンのケースを抱えた金髪のほっそりした青年の姿と、窓際に腰をおろして通りを見下ろしながらクラリネットを演奏している、頭髪のまばらなもう一人の青年の姿を想像していた。
「ハロー」
メグレは一瞬顔をしかめた。その表情の変化があまりに思いがけなかったのだろう、彼を捜して階段を昇ってきたオブライエンは、いつものような静かな微笑をかなぐりすてて辺りいっぱいに響き渡るような声で笑いだした。
思わずうろたえたメグレは、恥ずかしさを隠すかのように不器用にどなった。
「この事件にあなたはタッチしてなかったはずじゃないのか!」
「もちろんです」
「身内の人間に会いに来たとでもいうのか?」
「そうかもしれません。取りようによっては、すべて身内の人間ですから」
オブライエンは上機嫌だった。彼はメグレがこのアパートに何をしに来たのか、知っていたのだろうか? それはどうともいえないが、少なくともオブライエンは目の前のこのフランスから来た友人が、いつもとは違った精神状態にあることだけは見て取った。彼はメグレの顔をいつにない友情に満ちた視線で見据えた。
「知恵くらべはこのくらいでいいでしょう。私はあなたを捜しに来たんです。もうここを出ましょう」
メグレは下の階まで降りてからふと思い出したように振り返り、また階段を昇って行って、さきほどの子供に駄賃を手渡した。子供はお礼をいうのも忘れて、手のなかの硬貨を見つめていた。
「ニューヨークのことがようやくわかりかけてきたでしょう。≪セント・レジス≫や≪ウォールドーフ≫のような高級ホテルに一カ月滞在しても、今朝あなたが体験したこと以上のものは得られません。それは断言します」
二人はアパートの入口のところで、どちらからともなく立ち止まり、正面に見える店に眼を注いだ。洋服屋の内部では、アンジェリーノ老人の息子がアイロンかけに精を出していた。貧しい人間には、いつまでも不幸を嘆いている時間はないのだ。
警察の徽章《きしょう》をつけた車が数メートル先の路上に停っていた。
「あなたのホテルに立ち寄ったんです。朝早くから外出したということなので、ここに来れば必ず会えると考えたんです。でも、なぜ五階まで昇る必要があったんです?」
これはちょっとした皮肉、彼がこの恰幅のいいフランス人に見出した意外に繊細な感受性……ある種の感傷……にたいする軽いあてこすりだった。
「この国のアパートに、私の国のような門番がいたら、あんな上までいちいち昇って行く必要がなかったのですがね」
「本当にそうですか?」
彼らは車に乗り込んだ。
「どこへ行くんです?」
「あなたのお好きなところヘ。できたらあなたの気持を明るくするような、にぎやかな場所にお連れしたいだけです」
オブライエンはパイプに火をつけた。車が動きはじめた。
「警視、悪いニュースをお伝えしなければなりません」
しかし、こう切り出しながらも、彼の声音が静かな自信に満ちていたのは奇妙だった。
「ジーン・モーラが見つかりました」
メグレは眉をひそめてオブライエンのほうに顔を向け、穴のあくほど相手を見つめた。
「まさかあなたの同僚がつきとめたというわけでは……」
「まあ、そうやっかまないでください」
「やっかんでいるわけではありませんが、でも……」
「でも」
「それでは辻棲が合いません……」と、まるで自分にいい聞かせるように、メグレは小声でいった。
「いや。どうしても変だ」
「おや、そうですか」
「何が意外なんです?」
「いえ、別に。考えてることを話してみてください」
「何も考えてやしません。しかし、ジーン・モーラが生きてふたたび現われたとすると……」
オブライエンはうなずいた。
「きっと≪セント・レジス≫の部屋で父親やマックギルと一緒のところを発見されたんでしょう」
「その通りです! まったくその通りですよ。あまり大げさにいったんで少なからずあなたを苛立たせた例の個人の自由ってやつは置いておくとしまして、≪セント・レジス≫のようなホテルの捜査にはちょっとした手づるがありましてね。今朝フロントに、リトル・ジョンの部屋から朝食の追加が入ったんです。その結果、父親の事務室に隣り合わせになった寝室にいるジーン・モーラが発見されたというわけです」
「ジーンの尋問はまだですね?」
「だって、彼を尋問する理由などないじゃありませんか。下船時に姿を消し、父親のところで発見された旅行者を罰するような法律など、この国にもどこの国にもあるはずがありません。まして、その父親自身訴えを起こしているわけでも、捜索願いを警察に出しているわけでもないんですから」
「一つ質問してもよろしいですか?」
「お手やわらかに願いますよ」
「リトル・ジョンという男は、≪セント・レジス≫のような高級ホテルの四、五部屋もある豪華な続き部屋を借り切っているのにもかかわらず、フランスの女中部屋のような寝室に寝起きして、秘書がふんぞりかえっている高価なマホガニーの事務机とはくらべものにならないような白木の机で仕事をしている。どうしてなんです?」
「そんなにそのことが気になりますか?」
「いささかね」
「ニューヨークではそんなことに驚く者はだれもいません。億万長者の息子がさっきのブロンクスのような場所に住みついて、好きなだけ手に入る高級車に乗ることもなく地下鉄で毎日事務所に通っているというような話でさえ、あたり前に聞き流される町ですから。
そのリトル・ジョンの話はよく知られた話です。彼にまつわる伝説の一つです。移住者には伝説はつき物ですが、この話はなかでもとくに有名で、通俗雑誌がこぞって取り上げています。
≪セント・レジス≫にニューヨークに来たばかりの頃の貧しい寝室をつくらせ、他の部屋の豪奢さを軽侮しつつ暮している大金持の権力者。もっともリトル・ジョンが本気でそうしてるのか、大向こうを意識してのことなのかはわかりませんがね」
メグレが間髪をいれず、思わず答えたのはなぜだろう。「本気ですよ」
「ほう!」
二人はしばらく黙り込んだ。
「あなたはマックギルという男を虫が好かないようですが、あの男の前歴は知りたいでしょう? いっておきますが、これはたまたま他人に聞いたことで、警察が調べたことではありません」
冗談をいうときでさえ、いつもおなじこの偽善ぶった仮面にメグレはいらいらしていた。
「先を続けてください」
「マックギルは二十八年前にニューヨークで生まれました。おそらくブロンクスで生まれたのでしょうが、両親は不明です。はっきりとした期間はわかりませんが、数カ月の間ニューヨーク郊外の孤児救護施設に預けられています。その後、彼の世話をして、精神的かつ物質的な保証をあたえたいという人物が現われ、施設から引き取られました」
「リトル・ジョンでしょう……」
「まだリトル・ジョンとは呼ばれていませんでしたが。ジュークボックスの商売に取りかかったばかりの頃だったでしょう。子供はマックギルという名のスコットランド人の手に預けられました。葬式屋に勤めていた男の未亡人でした。この婦人と子供はアメリカをあとにして、カナダのセント・ジェロームに移り住みました。成長したマックギルは、モントリオールの学校で教育を受けたということです。彼が英語とフランス語を両方とも話せるのは、こうした前歴によるのです。二十歳からあとの足取りは不明ですが、つい六カ月ほど以前から、リトル・ジョンの秘書におさまっています。私の聞いた話はこれだけです。細かいことは保証しかねますが。
さて警視、どうなさいますか?」
オブライエンは表情のない羊のような顔に、ふやけた、いらいらさせるような微笑をうかべた。
「あなたの依頼主に会いに行かれますか? ジーン・モーラこそあなたを今度の件に巻き込んだ張本人ですから……」
「私にはわからない」
メグレは心のなかが煮えくりかえるようだった。というのは、現実にいまメグレの心を占めているのは、ジーン・モーラや、彼の父親にたいする懸念などではなく、リトル・ジョン本人のことや一六九番街のアパートのこと、カフェ・コンセールのプログラムのことや野良犬のように路上でひき殺されたアンジェリーノ・ジャコミという名の老イタリア人のことであった。
もちろん≪セント・レジス≫には行くことになるだろう。ほかにどうしようもないのだ。そして、もう用はないという言葉をくり返されて、小切手とフランス行きのキップを渡されることだろう。
フランスから来たのだから、フランスへ帰るのが一番の上策なのかもしれない。これから先、ドケリュスのような人物やすべての若者のつくり話を疑ってかかる、というようなことになったとしても。
「お送りしましょうか?」
「どこへ?」
「≪セント・レジス≫にです」
「どうぞ」
「今晩会えますか? 夕食の頃にはからだがあくはずです。あなたのほうの用事がすみましたら、電話をください。ホテルにでもどこでも迎えに上がります。今日はオフィスの車が使えますから好都合なのです。それとも≪セント・レジス≫に行く前に一杯やりますか?」
そういいながらもオブライエンの眼にはそんな気はなかった。彼は実によくメグレを理解していた! しかしそうはいっても、彼にとっては軽口をいって心の動揺をごまかす必要があったのである。
「幸運を祈ります!」
これからもっとも不愉快な瞬間を過すのだ、苦役といってもいいようないやな仕事をしなければならないのだ。メグレにはこれから起こることがほぼ正確に予測できた。意外なこともなければ、興味もなかったが、しかし避けて通ることもできないことだった。
初めて訪れたときとおなじようにフロントに面会を申し込んだ。
「ジーン・モーラさんに取り次いでください」
フロントの男はもう事情をよく呑み込んでいるらしかった。すぐに受話器を取ってリトル・ジョンの部屋を呼び出した。
「マックギルさん? ジーン・モーラさんにお会いしたいという方がこちらにお見えになっているんですが。ええ、そうだと思います。お待ちください、確認してみますので。失礼ですが、どなたでしょう?」
メグレが名前を告げると、
「はい、その方です。ええ、わかりました。上がっていただきます」
するとマックギルは、はじめから来訪者がメグレだと思っていたということになる。
ふたたびボーイの案内に従った。階にも、廊下にも、部屋にも見覚えがあった。
「どうぞ!」
いかなる怨恨の跡も態度にあらわさず、微笑を浮かべたマックギルが、心の重荷から解放されたように見えるマックギルが、前の日にまったく無視されたことも忘れたかのように、メグレのほうに近寄って来て、握手をするために手を差し出した。
またふたたび握手を拒否されたのにも顔色一つ変えずに、マックギルは明るい声で叫んだ。
「あいかわらず怒ってらっしゃるんですね、メグレさん」
おや、この男はいままでは≪警視さん≫といってたはずだ。この慣れなれしい口のきき方の裏には、きっと何かある、とメグレは思った。
「社長と私のほうが正しくて、あなたは間違っていたでしょう、それはともかく、さすがに警視さんですね。こんなに早く放蕩息子の帰宅をつきとめられるんですから」
マックギルは隣りの部屋に通じるドアを開けに行った。父親と一緒のジーン・モーラの姿がそこにはあった。ジーンはメグレと眼が合うと顔を赤らめた。
「お友達のメグレさんが」とマックギルがいった。「お話したいとおっしゃってます。どうなさいます?」
リトル・ジョンも事務室について来た。彼はメグレに向かって軽く会釈したきり目をふせた。ジーンのほうは、いかにも気まりが悪そうにぎごちない態度でメグレと握手した。そして、顔をそむけて口ごもりながらいった。
「すみませんでした」
マックギルはあいかわらず明るく快活な様子だったが、逆にリトル・ジョンは見るからに疲れ果てて心労がたまっているといった風だった。眠れなかったのだろう。初めて他人《ひと》の視線を避ける様子を見せた。そして心の動揺を悟られたくないからだろう、自分のイニシアルを刷り込んだ特別製の太い葉巻に火をつけようとした。
マッチを擦る手がわずかに震えていた。彼もこの避けて通ることができない茶番が早く終わるように、という気持だったにちがいない。
「謝ることがあるんですか?」とメグレはきき返した。相手もこの質問を予期していることがよくわかっていたからだ。
「無礼にもあなたから姿をくらましてしまったんですから。船の上にいた新聞記者のなかに去年会ったことのある男がいたんです。その男が、ポケットにしまっていたウィスキーの壜を取り出して、それで無事到着の祝い酒をやろうと強く勧めるので、つい……」
メグレはあのとき船上のどの辺りでそんなやりとりがくり広げられたのか、とはたずねなかった。こんな話はまったくのでっち上げで、リトル・ジョンかマックギルのどちらかが青年にそういうように吹き込んだということはわかっていたからだ。
おそらくマックギルのつくった筋書だろう。お気に入りの生徒が暗誦している横で、次の文句を小声でささやきたい気持を懸命に抑えている教師のように、わざと離れた位置で無関心を装っている態度が、メグレの眼には明らかに思えた。
「タクシーに乗ったら、その男のガールフレンドがなかにいたんです」
朝の十時に仕事に行くその新聞記者が、女を車に同乗させていたなんて、下手くそな話だ! もっと本当らしい話をつくれないのか。彼らはメグレが信じようが信じまいがおかまいなく、ただ何でもあり合せの説明をしただけなのだ。すぐ自分たちとは無縁な存在になる男に、もっともらしい話をしたってなんになる?
奇妙なことに、ジーン・モーラより父親のほうがはるかに疲労しているようだった。息子のほうは一晩ゆっくり眠ったらしく、不安よりも間の悪さが先に立っている様子だった。
「ぼくはあなたにことわっていかなければならないと思い、デッキを捜して歩いたのです」
「そんなはずはない!」
なぜメグレはむきになったのか?
「でも本当です。あなたが見つからなかったんです。船の上ではあまりに長いこと、気がふさぐような思いばかりしてきました。最後の晩を除いては、あなたの前で酒を飲もうとはしませんでした、そうでしょう?あのときはすみませんでした」
前の日とおなじようにリトル・ジョンは窓の前に立ちふさがり、メグレにはもう見慣れたものになった仕草で、カーテンを開けた。
マックギルのほうは会話にはほとんど興味がないかのようなふりをして部屋のなかを行ったり来たりしていたが、わざわざくだらない電話をすることを思いついた。
「カクテルはいかがです、警視?」
「いや、けっこうです」
「お好きなように」
ジーン・モーラはふたたびつづけた。
「それからあとのことはおぼえてないんです。あんなに完全に酔っ払ったのははじめてです。次から次へといろんなところを引っ張りまわされて、見ず知らずの大勢の人間と飲みました……」
「≪ドンキー・バー≫にも行きましたか?」メグレはマックギルのほうに皮肉な視線を投げかけながらたずねた。
「わかりませんが……きっと行ったかも知れません……その男の知り合いの家で、パーティをしました」
「それは田舎ですか?」
そのとき初めてジーンはすがるように秘書のほうに目を向けた。しかし、相手が背を向けているので、自分の考えで答えなければならぬはめになった。
「ええ……田舎です……車で行ったんです」
「それで、きみだけが昨日の晩、帰って来たんですか?」
「はい……」
「誰かが送ってくれたのかな?」
「ええ……いや、ぼくのいう意味は、町まで車で送ってもらったということです」
「それでは、ホテルまでではないんですね?」
ふたたび青年はマックギルのほうに眼をやった。
「ええ……恥かしかったものだから、ぼくのほうで断ったんです」
「もう私には用がありませんね?」
今度はジーンは父親のほうに助けを求めるような視線を投げかけた。このきわだって精力的な男リトル・ジョンが、まるで自分とは関係ないかのように、この会話に加わらないようにしているのは奇妙なことだった。しかし、恋文と見まがうほど優しい手紙を書き送ったその息子に関することではないのか。
「父と十分に話合いましたから……」
「そしてマックギルさんとも?」
ジーンは何とも答えなかった。否定しかかったが思い直してふたたび言葉を続けた。
「ぼくの子供じみた取りこし苦労から、こんな遠くにまでご足労を願って恐縮しています。あなたにご心配をおかけしたことも十分承知しています……関係のない個人的な事情にまで引っ張り込んでしまい、どうお詫びしていいかわかりません」
こうして話を続けながらも、ジーン自身、視線で助けを求めている父親の態度に驚きを深くしているように思えた。
そしてその時もジーンの苦境を救ったのはマックギルだった。
「社長、そろそろ警視さんとの間で残っている問題を片づけてしまったほうがよくはないですか?」
その声にリトル・ジョンはやっと振り返った。そして小指で葉巻の灰をはじき落としてから、マホガニー製のデスクまで歩いて行った。
「たいして片づけることも残ってないだろう。あまりおもてなしできなかったことをお詫びしますよ、警視さん。息子のことで大変な苦労をおかけしましたな。礼をいいます。どうかのちほど秘書のほうからお渡しする小切手を快く受け取ってください。私と息子のためにあなたが受けた精神的苦痛を償うには少なすぎる金額でしょうけれど」
リトル・ジョンは一瞬、メグレに手を差し出そうかどうか迷っているようだった。しかし結局頭を軽く下げただけで、隣室との境いのドアのほうに歩いて行って、ジーンについて来るように合図した。
「さようなら、警視さん……」ジーンは素早くメグレの手を握っていった。そして心をこめて言い足した。
「もう不安はまったくなくなりましたから」
彼は微笑した。まるで病み上がりの人間が笑ったときのように、弱々しい微笑だった。それっきり青年は父親のあとを追って隣室に姿を消した。
小切手はすでにデスクの上の小切手帳に書き込みを終わった状態で用意されていた。マックギルは立ったままで、小切手を切り離し、それをメグレに差し出した。一瞬メグレが受け取ることを拒絶するのではないかと考えているような様子が表情にあらわれた。
メグレは二千ドルと書き込まれた小切手を静かに見つめていた。そして丹念にそれを折りたたむと、紙入れのなかに収めながらいった。
「どうも」
いやな仕事はこれですべて終わった。メグレは部屋を立ち去った。マックギルには挨拶もしなかった。彼はドアのところまでメグレについて来て、彼が部屋を出るとドアを閉めた。
カクテルと、ばからしいほど贅沢な場所はどうにも耐えられなかったが、メグレはバーによって、マンハッタンを二杯続けざまに飲んだ。
それから歩いて自分のホテルに向かった。長いあいだ心の葛藤にじっと耐えている人間のように、ときどき頭を振ったり、唇を動かしたりした。
昨日とおなじ時間に≪バーウィック≫に来るとピエロはいってなかったかな、と彼は考えた。ピエロはホテルの腰掛に坐っていた。痛恨にあふれた表情、暗く沈んだ眼つきから、彼が酔っていることはすぐにわかった。
「情けない男だと考えてるんでしょう」とデクスターは立ち上がりながらいった。「そのとおりです。私は惜けない男です。飲んだらどうなるのかわかっているくせに、我慢できないんですから」
「食事はすんだかね?」
「まだです……でも腹は空いてません。いや、あまり恥ずかしいもんですから、空腹感もわいてこないんです。よっぽどここに来るのをやめようかと思いました。でも小さいグラスに二杯飲んだだけなんですよ……ジンを……ジンにしたのも、アルコールとしては一番弱いからです。普通ならスコッチを飲みます。くたくたに疲れてたもんですから、つい一杯ぐらいなら、という気になってしまったんです……そうして三杯やってしまったんです……いま三杯っていいましたか?……どっちだったか忘れちまいました……私はまったく悪い男です。あなたの金で飲んしまったんですから。
早くお払い箱にしてください。
いやその前にいくつか報告することがあります……ちょっと待ってください……ああ、そうだ、昨日の晩また例の友達のところへ行ってみました……ジャーメインです。覚えてますか? ……ああ、哀れなジャーメイン! だって、かつては世界中をサーカスでまわって、活発に人生を送っていた男なのに、いまでは車椅子に釘づけになってるんですからね。
いっそ死んだほうがましだ……何をいってるんだろう? ……私が彼の死を望んでいるなどと思わないでください。死んだほうがましなのは私です。そうです。ジャーメインという男は私のために何でもやってくれる男ですよ。他人のために粉骨砕身《ふんこつさいしん》努力する男です。
素っ気ないですし、よくどなるんで、利己的な老人だと思われがちですが……ジェイ・アンド・ジェイについての資料を見つけるために、何時間も紙切れの山を捜してくれたんです。また一枚手渡してくれました」
デクスターはポケットを探っていたが、そのうち青白くなり、血の気が引いてきた。その顔は苦痛にあふれ、泣き出すのではないかと思われた。
「おれなんぞいっそ……」
しかし大事にはいたらなかった。デクスターはやっとのことで、ハンカチの下に隠れていた紙切れを捜し出した。
「それほど大した物じゃありませんが、まあ見てください」
こんどは、三十年以上前にアメリカを地方巡業した一座のプログラムだった。まず大見出しで、表紙に写真が載っている喜劇女優の名前が印刷されている。その下に他の役者の名前が並んでいた。綱渡りのコンビ、滑稽役者ロブソン、女予言者リュシル、そしてリストの一番下にコミック・バンドのジェイ・アンド・ジェイという名があった。
「この芸人たちの名前を読んでください……ロブソンは十年か十五年前に列車事故で死にました……ジャーメインが教えてくれたんですよ。昨日ジャーメインには毎水曜日に訪ねて来る年寄りのガールフレンドがいるといったでしょ? こんなこといっても変なこと想像しないでしょうね? ……あの二人の間には決して何もありません、絶対です!」
デクスターはまた涙もろくなっていた。
「私はその女性に会ったことはありません。昔は色白でほっそりしていたので、天使と呼ばれていたそうです。もっとも、いまではでっぷり肥ってるので……食事に行きましょうか? ジンのせいかどうかわかりませんが、胃が痙攣してきました……またお金を要求しても駄目ですね……どこまで話しましたっけ? ……ああそうだ、天使のリュシルだ……ジャーメインのガールフレンドです。……今日は水曜日ですね。彼女は確か五時頃ジャーメインのところに来るということでした……毎週毎週お菓子を持って来るそうです……もし私たちがそこに行っても、私はその菓子には手を触れません、誓います……だって天使というあだ名の、ジャーメインのところへ毎週菓子を持ってくるその婦人は……」
「ジャーメインという老人には、われわれが行くことを伝えてあるのかね?」
「おそらく訪ねるといっときましたが……私があなたに会えるのが四時半頃になってしまうと思ったものですから、はっきりとはいいませんでした……地下鉄で行くとかなりかかるんですよ。途中で乗り換えねばなりませんのでね」
「ついて来たまえ!」
メグレはデクスターをそのような沈んだ状態で置いておくわけにはいかない、と突然思った。そして、食事をあたえた後、彼をホテルに連れ帰って、緑色のビロードのソファに寝かせた。
それからメグレは、前の日とおなじようにメグレ夫人に長い手紙を書きはじめた。
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第六章
メグレはピエロの後ろから、ぎしぎしときしる階段を昇って行った。なぜだかわからないが、デクスターは爪先で歩くのである。メグレにもいつのまにかその歩き方がのり移ってしまった。
この悲しげな男は、少し眠ってジンの酔いをさましたので、あいかわらず眼はしょぼしょぼで舌は少しもつれてはいても、語気はずっとしっかりしてきて、さきほどまでの哀れっぽい口調はなくなっていた。デクスターはタクシーに乗り込むと、運転手にグリニッジ・ヴィレッジのある住所を告げた。しばらく車を走らせると、ニューヨークのど真ん中に、そこだけ隔離されたように、地方都市のような地味な町が現われた。建物はすべて、ボルドーやディジョンとくらべても背が低く、ぶらぶら歩くのに最適な静かな通りに小さな店が並んでいた。町の人々は、そこを取り巻いている怪物的な都会を気にはしていないみたいだった。
「そこだ」とデクスターは告げた。
その声には一抹《いちまつ》の不安が混じっていた。メグレは汚れたトレンチコートを着た相手の顔をまじまじと見据えた。
「確かに私が訪ねるといってあるんだろうね?」
「来るとはいってあります」
「それで、私がだれだといったんだ?」
いつか聞かれると思っていたらしく、ピエロはどぎまぎした。
「いつかいわなければと思ってたんですが……どうやって切り出したらいいかわからなかったんで……ジャーメインはあまり社交的な男じゃないですからね。こんどはじめて彼を訪ねたとき、私は一、二杯酒を飲まされました……だからもう、そのときあなたのことを何といったのか、正確にはおぼえていません……確か、大変なお金持の人で、行方不明の息子さんをさがしている、といったんだと思います……怒らないでください。そういうのが一番いいだろうと思っていったんですから……ジャーメインも私の話に心を打たれたからこそ、あんなに一生懸命になっていてくれるんでしょう」
馬鹿げた話だった。どうせ四、五杯酒を飲んだピエロが口から出まかせにいいかげんなことをいったんだろう、とメグレは思った。
老芸人の部屋に近づくにつれ、デクスターの足取りはにぶって来たように思えた。いままでの話は全部根も葉もないうそだったのではないのか? いや、そんなはずはない。写真とプログラムを確かに持って来たではないか。
ドアの下からかすかな光が洩れていた。小さな囁き声が耳に入った。デクスターが口ごもりながらメグレにいった。
「ノックしてください……ブザーはないんです」
メグレはノックした。一瞬、囁き声が途絶えた。咳払いをする音が聞こえた。台皿にカップをのせる音がした。
「どうぞ!」
穴のあいた小さなマットを一跨《ひとまた》ぎすることだけなのに、まるで広大な空間と時間を旅するような気がした。ここがニューヨークだとは思えなかった。この時間、マンハッタンの空にこうこうと光を放つ摩天楼群が、すぐそばにあるとは考えられなかった。電気の時代であることも信じられなかった。
部屋の照明を一目見るなり、石油ランプの光ではないかと思った。襞《ひだ》のついた赤い厚地のシルクの笠がフロアスタンドを覆っているせいで、そんな印象を受けるのだった。
光は部屋の中央に小さな円形を描いているだけで、あとは暗闇だった。その光の輪のなかに車椅子に坐った男がいた。でっぷり肥った老人で、まるで椅子にはめ込まれているように見えた。しかしぶよぶよと肉がたるんでいるので、空気のもれた風船のようだった。長く伸びた白髪が、ほとんど禿げ上がった顔のまわりに垂れていた。老人は顔を前につきだして、眼鏡越しに闖入《ちんにゅう》者をじろじろ観察した。
「お邪魔します」とメグレはいった。デクスターは身を隠すようにメグレの背後にぴたりとついていた。
部屋のなかにはもう一人いた。ジャーメインとおなじように肥り、染めているとすぐにわかる金髪の、顔色の青白い老婦人だった。彼女は、ベったりと口紅をぬりたくった小さな口で微笑んた。
蝋人形館の片隅にでもいるようだった。ただ、目の前の人影が動き、切り分けられたケーキの横にある二つのカップから紅茶の白い湯気が立ち昇っていることで、そうではないことを悟るのだった。
「今夜ここにうかがえば、私の調べていることについて何かお聞きできるかもしれないというデクスターの話だったものですから」
壁が見えないほど一面にポスターや写真が貼られていた。もっとも人目につきやすい場所に、柄のところに色とりどりのリボンがついた長い鞭《むち》があった。
「この方たちに椅子をたのむよ、リュシル」
その声は、リングの入口でピエロや道化師を呼び出していた頃そのままで、この狭すぎて、人の詰まった部屋のなかではひどく不調和だった。かわいそうなリュシルは、実際は赤いビロード張りであるがいまでは黒ずんでいる二つの椅子の上の物を苦労して片づけた。
「この若い人は、昔からわしのことを知ってるんだよ……」と、老人はいった。
この最初の言葉は、一篇の詩のようではないか。まず、サーカスの老人の眼から見れば、デクスターなどは青年に変わりない。つぎに「わしが昔から知っている」とはいわずに、「昔からわしのことを知っている」なのだ。
「聞きましたよ、あんた大変らしいですね。息子さんがサーカスの世界に少しの間でもいたことがあるなら、わしのところに来てこうきくだけで、すべて解決するんだが。≪ジャーメイン、これこれの年に、これこれの出し物で舞台に出ていて、こんな様子の男だった……≫とね。そうすりゃ、ジャーメインは古い資料なんぞをかき分けて捜すこともないのにさ」
こういって老人は、家具や床の上やベッドの上にまである紙の山を指差した。リュシルが二つの椅子を片づけるためにそういったところにおいたにちがいない。
「ジャーメインの頭のなかに、そうしたことはみんなつまっているのさ」
老人は自分の禿げ頭を人差し指の先ではじいた。
「しかし、カフェ・コンセールのことをききたいのなら、こういわにゃならん。≪あんたはこのわしの昔からの友人リュシルにたずねるべきだ。なんでもききなさい。きっと答えてくれるよ≫ってな」
メグレはパイプに火をつけることは遠慮していた。しかし、この非現実的な雰囲気に足を取られないためには、パイプを喫う必要を感じていた。パイプを手にしたまま、かなり間の抜けた様子をしていたにちがいない。肥った老婦人が、厚化粧のために、人形のような笑いを浮かべてメグレにいつた。
「煙草、お喫いになってもけっこうよ……ロブソンもパイプを喫ってたもんだわ。彼が死んでから数年の間は、わたしも喫ってたわ……あなたには関係ないことでしょうけど、パイプを喫ったのも少しは彼の影響が残っていたからでしょうね」
「あなた方は、たいそう面白い出し物をお持ちだったそうですね」と丁寧な口調でメグレは話しかけた。
「最高だったわ。それは本当よ、だれにきいたってそういうでしょ……ロブソンは、それはすばらしい芸人だったわ。立派な体格をしててね。サーカスの芸人たちのなかで、体格がいいということがどれほど貴重なものか、想像もつかないでしょう。いつもフランス風の服装をしていて、からだにぴったり合った半ズボンと黒い絹の長靴下をはいていたものよ。ふくらはぎたるや、それはもう見事な形だったわ……あっ、ちょっと待って!」
彼女は、ハンドバッグではなく、銀の止め金のついた絹の手提袋のなかをさがし、一枚の宣伝用の写真をとり出した。彼女が描いたとおりの身なりの男の写真だったので、彼女の夫のロブソンだとわかった。顔には黒い傷跡があり、黒々とした口髭をつけていた。筋骨隆々としたからだで、写真にはうつっていない観衆に向かって手品師の細い杖を振りかざしていた。
「ほら、これが当時のわたしよ」
指差されたところを見ると、いかにもわざとらしいポーズで顎の下に両手を組み、ぼんやりとした無表情な眼で虚空を見つめている、痩せて、陰気で、不健康に青白い、年齢の見当のつかない女の姿があった。
「わたしたちは、ほとんど全世界を渡り歩いたわ……ある国では、ロブソンは衣裳の上に赤い絹のマントを着て、赤いランプを手に持って、本当の悪魔になったようなすばらしい効果を出して、棺《ひつぎ》の魔術をやったものだわ……あなたが、テレパシーを信じてくれればいいんだけれどね」
息がつまりそうだった。外の空気がひどく吸いたかった。しかし、色裾せたビロードの、劇場のカーテンほどもあろうかと思われる厚地のカーテンが、窓を覆っていた。メグレはなぜだかとっさに、こいつは昔舞台で使われていたカーテンを裁断したものにちがいないと思った。
「ジャーメインの話では、あなたは息子さんだか弟さんだかを捜しているんですってね?」
「弟です」と、急いで答えつつ、メグレはジェイ・アンド・ジェイのどちらも、自分の息子という年代ではありっこないではないか、と考えた。
「そうでしょうとも……どうもおかしいと思っていたのよ。話を聞いたときは、もっと年とった方を想像してましたもの……あの二人のどちらのほうが弟さんなの? バイオリンのほうの人? それともクラリネットの人?」
「それがわからないんです」
「何ですって、ご存じないの?」
「弟とは、まだ赤ん坊の頃に生き別れのままなのです。ごく最近になって、偶然に弟のことを噂に聞いただけなのです」
おかしな話だった。醜悪な話だった。しかし、作り物の幻影を喜んでいるこの二人の人物に、真実を話してもはじまらない。これはこの二人にたいする一種の慈悲のようなものだ。いちばんの強みは、これがつくり話であることを知っているデクスターの間抜けめが、話に合わせて、すすり泣きをはじめたことである。
「顔がよく見えるように、光の下に来てごらんなさい」
「弟と私は似てないと思いますよ」
「小さいときにさらわれてしまったんですから、そんなことわからないでしょ」
さらわれただって! ……もう乗りかかった船だ。この茶番を最後まで演じざるをえまい。
「わたしの感じではジョアシャンのほうね……いや待って……額の辺りにはジョゼフの面影もあるわ。でも、名前を取り違えてないかしら? ……いつも間違えてたのよ……どちらかのほうが、私とおなじような色の、女のように長い髪をしていたはずだけれど……」
「それがジョアシャンだと思います」とメグレはいった。
「余計なこといわないで……どうしてそんなことわかる? ……もう一人のほうはどちらかというと少しがっしりしていて、眼鏡を掛けてたわね……でもおかしいわ! ほとんど一年もの間一緒に生活してたのに、昨日《きのう》のことのように眼に浮かぶ部分もあれば、まるで思い出せないこともあるんだから。わたしたちはみんな、南部の巡業を契約してたのよ。ミシシッピー州、ルイジアナ州、テキサス州と巡業したわ……きつい巡業だったわ。南部人ていうのはがさつでしょう……馬で乗りつける人などもいたわ……一度など、理由はわからないんだけれど、開演中に黒人が殺されたこともあったほどよ。あの二人のどちらと、ジェシーはねんごろだったのかしらね? ジェシーだったかしら、ベシーだったかしら? ベシーだったかな? いや、やっぱりジェシーよ! そうそう、一度、ジョゼフ、ジョアシャン、ジェシーだと三人|J《ジェイ》ね、といったことがあるもの、確かね」
メグレが質問をして、ちゃんとした答えをもらうだけでいいんだが! しかし、語るにつれて複雑に紆余《うよ》曲折するピントのはずれた老女の思い出話に、黙ってつき合っている他しようがなかった。
「かわいそうなジェシー……あの娘《こ》は本当にいじらしい娘だったわ……いつもわたしがかばってあげていたのよ。難しい立場にいたものだから」
難しい立場とはどういう立場なのか? いずれわかるにちがいない。
「ほっそりして小柄な娘だった……わたしも当時はそうだったの、花のように弱々しくて。みんなわたしのことを天使と呼んだわ、ご存じ?」
「ええ」
「このあだ名をつけたのはロブソンよ。≪おれの天使≫と呼ばず、ただ≪天使≫と呼んだとこがミソなの。≪おれの天使≫じゃあまりに通俗的でしょ。この辺の微妙な差、わかるかしら……ベシー、じゃなくてジェシーは、まだ本当に若かった……十八ぐらいじゃなかったかしら。不幸な身の上だったようよ。彼らがどこであの娘を見つけたのかはわからないわ。≪彼ら≫といったのは、この娘を見つけたのが、ジョゼフか、ジョアシャンか思い出せないからなの。いつも三人一緒にいるもんだから、よくそのことをきかれたようよ」
「あなたの一座でその娘はどんな芸をやってたんです?」
「芸なんて何も。芸人じゃなかったもの。おそらく孤児だったんでしょう。あの娘がだれかに手紙を出すところを見たことがなかったもの。母親の臨終の床で引き取ったのかもしれないわ」
「それで、彼女はずっと一座に入っていたんですか?」
「ずっとね。はらはらのしどおしだったわ。座長っていうのがひどい奴でね。ジャーメイン、あの男のこと知ってる?」
「奴の兄弟はまだニューヨークにいるよ……先週だれかがそういってた……マジソンでプログラム売りをやってるそうだ」
「ともかくその座長は、わたしたち芸人を犬としか思ってないような奴だったの。ロブソンだけね、あの男に対抗できたのは……ほっといたら、食糧を節約するために、わたしたちに犬にやるような残飯をあてがっておいてすましていられるような男だったわ。虱《しらみ》だらけのむさくるしい部屋に寝かされたものよ……最後は、給金ももらわずに、ニューオーリンズの近くでおっぽり出されてね。でも、ロブソンは……」
幸いなことに、彼女はとつぜんケーキを食べるために話を中断したので、少し息がつけた。しかしレースのハンカチで唇を拭いながら、すぐに続きをはじめた。
「ジェイ・アンド・ジェイは……ごめんなさい、どちらか一人があなたの弟さんだというのにこんな呼び方して。わたしはジョゼフのほうだと思うけれど……彼らはわたしたちのように人気があって引っ張られた芸人ではなく、プログラムの都合上やっと参加を許された人たちだったのよ。だからって、不名誉なことはまったくないんですけどね……こんなこといってお気に障ったら、ごめんなさい」
「いいえ、どういたしまして」
「ギャラもほとんどなかったわ。まったくなかったといってもいいほど。ただ旅費と食事だけはあたえられてたわ、あれが食事といえる代物ならね……でも、ジェシーをかかえてたから……彼ら二人は、ジェシーのための旅費を工面しなければならなかったの。それと食事も……それも毎度毎度というわけにはいかなかったようね……ちょっと、思い出してみるわ。いま、ロブソンと話してみるから」
こういった瞬間、女の巨大な胸が胴着ごともち上がり、ねじれた指が奇妙な動きをした。
「あなた、霊魂の不滅を信じるでしょ? そうでなけりゃ、死んでるかもしれない弟さんを、そんなに熱心に捜すわけないですもの。いま、ロブソンの霊がやって来たわ……少し待って。もうじき、彼がわたしに、あなたの知りたいことを話してくれるはずよ」
ピエロの感動は相当なもので、呻き声のような奇妙な声を上げた。しかし、あれは老人がまったくすすめてくれないケーキが欲しくてたまらなかったからか?
メグレはじっと床を見つめながら、あとどれだけ辛抱できるだろうか、と自問していた。
「ええ、ロブソン、聞こえるわ……ジャーメイン、光を弱くしてくれない?」
二人の老人はよくこの種の交霊術の会を催すらしかった。ジャーメインは、いかにも慣れた手つきで、車椅子に身を置いたまま手を伸ばし、鎖を引っぱって、赤い絹の笠に覆われている二つの電球のうちの一つを消した。
「見えてきたわ。ええ……大きな川のほとりね……まわりはあたり一面綿花の畑だわ……もう少し力を貸して、ロブソン。昔のように、お願い……大きなテーブルが見えるわ。わたしたちみんなが坐ってる。上座にいるのはあんたね。ジェイ・アンド・ジェイは……。待って、わたしたちの間にいる女は、ああ、あれは給仕の黒人女だわね……」
ピエロはまた言葉にならぬ声を上げた。しかしそれにはかまわず、女は昔交霊術の舞台で出したにちがいない単調な声で先を続けた。
「ジェシーの顔は真っ青ね……長い汽車の旅だったから……田舎のまん中で降ろされて……みんな疲れ果てているんだわ。座長はポスター貼りに出かけているのね……ジェイ・アンド・ジェイは自分たちの皿の肉片を少しずつ切り取って、それをジェシーに分けてあげている」
こんな神秘的で芝居がかったはったりをせずに、事実だけを話すことは、もちろん彼女にとってもっと簡単だったろう。メグレはこういいたかった。
「事実だけをいってくださいませんか? みんなのようにしゃべってください」
しかし、もしリュシルのような女がみんなのように話しはじめ、ジャーメインのような男が自分の思い出を真正面から冷静に見据えられるようになったら、二人とも生きていく力を持てるだろうか?
「……彼らがどこにいようと、わたしが見るのはいつでもおなじ。彼らはいつでもジェシーにぴったり寄りそって、食事を分けているのね……彼女のために一人分の食事を取ってやるだけのお金がないからね」
「その巡業は一年続いたということでしたね?」
リュシルはもがくような仕草をして、苦しそうに顔をゆがめて目を開け、つぶやいた。
「わたし何かいったかしら? ……すみません……わたしロブソンと一緒だったものだから」
「巡業はどのくらい続いたのか、ときいてるんです」
「一年以上ね……最初は三、四カ月の予定だったのだけど……まあいつでもそうなのよ。途中で事故は頻発するし……金の問題もあるし……帰りの旅費を持っている者などほとんどいなかったのよ……だから、いつまでも巡業を続けて、町から町ヘ、ときには田舎の村までも出かけて行くのがつねだったの」
「二人のうちどちらがジェシーと恋仲だったのか、わかりませんか?」
「わからないわ……ジョアシャンのほうじゃないかしら。あなたの弟さんでしょ? あなたはジョアシャンによく似ているもの。あの青年はわたしのお気に入りだったわ。バイオリンは、うっとりするほど上手だった……舞台で弾くときじゃないわよ。だって舞台では、気まぐれに弾くだけだったもの。一日か二日、同じホテルに泊ったときがあるんだけど、そんなときにね……」
メグレは、テキサスかルイジアナの安ホテルで夫の黒い絹の靴下を縫っているリュシルの姿を頭に思い浮かべてみた……そして、そのかたわらで、ジェシーという娘は二人の男から分けあたえられた食物を口に運んでいる……。
「あの二人のその後のことは、まったくご存じないですか?」
「さっきいったように、一座は座長に見捨てられてしまったものだから、ニューオーリンズで解散になってしまったの……ロブソンとわたしはすぐに他の仕事が入ったの。わたしたちの芸はよく知られていたから……他の人たちのことは、どうやって必要な旅費を手に入れたのかということさえ知らないわ」
「あなたがたは、それからすぐニューヨークにもどって来たんですか?」
「そうだったと思うわ。はっきりとは思い出せないけど……そうそう、それからあと一度だけ、ブロードウェイのある興業師のところでジェイ・アンド・ジェイの一人に出会ったことがあるわ。そんなにあとになってからではなかったはずよ……だって、あの巡業の間着ていたドレスを、まだわたしは着ていたことを覚えているもの……さあ、二人のうち、どっちの人だったかしら? ……ともかく、一人しかいないので、驚いたことは確か……あの二人が離れ離れになるなんて、まず考えられないことだったもの……」
いきなり、メグレは立ち上がった。もうそれ以上五分と、その息のつまりそうな部屋にいられそうもないという気がしていたのだ。
「突然お邪魔したことをお許しください」とジャーメイン老人のほうを向いて、メグレはいった。
「カフェ・コンセールのことでなく、サーカスのことなら、わしがお答えできたんだがな……」と、昔のレコードのようにおなじことを老人はくり返した。
一方リュシルは、「わたしの住所をお知らせしとくわ。もっと詳しいことをいずれお話しますから……わたしを信頼してくださるお得意さんも、少しだけれどいるのよ……あなただから、わたし本当のこというけど、ロブソンがいつもわたしの手助けしてくれるの……こんなことはだれにでもいえるってわけじゃないわ。霊のことを怖ろしがる人もいますからね」
彼女はポケットをさぐって、一枚の名刺をメグレに差し出した。ピエロはケーキに最後の視線を投げかけてから、帽子をつかんだ。
「本当にありがとうございました」
やれやれ! メグレはこのときほど急ぎ足で階段を降りたことはなかった。そして通りへ出ると、胸いっぱいに空気を吸いこんだ。やっと人ごこちついた感じだった。長いこと会わずにいてやっと会うことのできた友人のように、街燈の光が感じられた。
明るい店が続き、人々が行き交っていた。元気のいい子供たちが、歩道の縁を片足でぴょんぴょんはねていた。横にいるピエロだけが、哀れっぽい口調でまたぶつぶつつぶやいていた。
「私はできるだけのことをしました……」
また五ドル要求されることはまちがいなかった!
メグレとオブライエンは、ふたたびフランス料理屋で向かいあって夕食をとっていた。メグレが≪バーウィック≫にもどると、帰り次第連絡を乞う、というオブライエンからの電話があったと知らされた。
「望みどおり今夜は空いたんですが、あなたのほうの用事がすんだのでしたら、一緒に食事をしながらお話をしませんか」
彼らは向かい合ったまま、もう十五分以上も経っていた。オブライエンはまだなにもいわなかった。注文を告げたとき、メグレに皮肉っぽい、満足げな微笑をちょっと投げかけただけだった。
「気がつきませんでしたか?」
上等なシャトーブリアンのコルクを抜きながら、オブライエンはやっと口を開いた。「また尾行されていたでしょう?」
メグレは眉をひそめた。尾行されたこと自体に不安を感じたからでなく、そのことを少しも注意していなかった自分に腹が立ったからだった。
「≪バーウィック≫であなたを乗せた時、すぐに気がつきました……もっともこんどは例のビルじゃありません。おそらくアンジェリーノ老人を轢《ひ》き殺した手合でしょう……その男はいまもこの店の外で張ってるはずです。あなたの望みのものを賭けてもいいですよ」
「ここを出るときにわかるさ」
「いつからあの男が尾行を続けてるか、わたしにはわかりませんが……今日の午後どこかへ行かれましたか?」
そのときメグレは頭をあげて、苦痛にあふれた瞳を虚空に凝らしながら、しばらくじっと考え込んでいる様子だった。それから「くそっ!」と叫ぶと、テーブルを拳で叩いた。その仕草を見て、赤毛の警部は思わず微笑を浮かべた。
「きわめて危険な散歩をしたようですね?」
「その男というのは色の浅黒いシシリア人のような奴で、明るいグレイの帽子を被《かぶ》ってませんでしたか?」
「そのとおりです」
「それなら、五時ごろ例のピエロと部屋を出てホテルのロビーに降りて行ったとき、あそこにいた男です……ドアのほうへ急ぎ足で向かったとき、相手もおなじようにドアに向かって来たので、ぶつかりそうになりました」
「それでは、五時からずっとあなたをつけてたんです」
「もしそうなら……」
こんどもまた、哀れなアンジェリーノ老人にしたのとおなじことを彼らはするだろうか?
「あなた方この国の警察官は」メグレは不機嫌な顔でいった。「市民を保護するためにいかなる処置も取ることができないのですか?」
「それは市民たちにかかる危険の度合によります」
「あの洋服屋の老人の場合だったらどうです?」
「いまそのことがわかれば、当然保護の処置を取ります」
「よし! では守ってほしい二人の人物がいるんです。それも、このシャトーブリアンを飲みほす前に、必要な手はずを整えたほうがいいと思います」
メグレはジャーメインの住所を教えた。それから、ポケットから超能力のある霊媒女の名刺を取り出して、オブライエンに渡した。
「ここには電話があるはずです」
「ちょっと失礼」
よし、いいぞ! いつも沈着冷静で優柔不断な警部も、もう皮肉をいう余裕もなく、例の世に名高い個人の自由を持ち出すこともなくなった!
警部は長い間電話していた。その間メグレは、窓際に歩いて行って通りに眼をやった。正面の歩道に、ホテルのロビーで見かけた明るいグレイの帽子が見えた。席にもどったメグレは、グラスにワインをなみなみとついで、たて続けに二杯飲みほした。
オブライエンもまもなく席にもどってくると、そのままおとなしく……それともメグレに含むものでもあったのか……何もきかずに、中断したままの食事を続けた。
「要するに」と、メグレは食欲がなかったが、食べながらいった。「私があそこに行かなかったら、アンジェリーノ老人は死なずにすんだはずなのです」
彼は警部が自分の出した結論を否定することを予期し、それを望んでもいた。しかしオブライエンはただこういっただけだった。
「そうかもしれませんね」
「こんどの場合、また事件がもち上がったら……」
「あなたのせいではないでしょうか? あなたもそう考えているのではないですか? 私は最初の日からそう思っています。あなたが上陸した晩一緒に食事したときのことをおぼえてますか?」
「要するに、彼らをそっとしておくべきた、ということですか?」
「もういまでは遅すぎます……」
「何をいいたいのです?」
「もう遅すぎます。われわれの捜査の手が、もうのびてしまいましたからね。たとえあなたがこの事件から手を引いて、明日の朝、ル・アーヴルかシェルブール行きの船に乗ったとしても、もう連中は自分たちが追いつめられている、という感覚を捨て去ることはできないでしょう」
「リトル・ジョンのことですか?」
「わかりません」
「マックギルですか?」
「知りません。それから、この事件を担当するのは私ではありません。明日か明後日になるでしょうが、時期が来て、その同僚が望んだら、あなたを彼に紹介しましょう。優秀な男です」
「あなたに似てますか?」
「まったく正反対です。だからこそ優秀な男だといってるんです……いま彼に電話しました。そのうちに、彼が保護する必要のあるその二人の人物についての詳しい話を聞きたがるでしょう」
「何と馬鹿げた話だ!」とメグレはつぶやいた。
「何がです?」
「実に馬鹿げた話だ! 本物の狂人ではないかもしれんが、見るも哀れなあの二人の偏執者がうっかり私に会ったおかげで、生命を危うくしている。おまけに、あの意気地なしのピエロのおかげで、いやおうなしに、二人の老人の気をひくためセンチメンタルな綱渡りをするはめになってしまって……」
怒ったような口調で口に食べ物を頬張りながら話すメグレの苛立った様子を、オブライエンは目を大きく見開いて見つめていた。
「あなたが聞いたら、そうして仕入れた話など実に埒《らち》もないというでしょう。くだらん芝居をしたもんです。でも私とあなたでは、刑事捜査に関する考えがまったく違いますからね」
相手が穏やかな微笑を浮かべているので、メグレはますます苛立ってきた。
「今朝私が一六九番街のアパートを訪れたことも、たいそうあなたを楽しませたようですね。もし、あのとき子供に案内されて、アパートを端から端まで嗅ぎまわり、すべての部屋のドアをノックしている私の姿を見たら、さぞかし大笑いしたことでしょう。もっとも、私はアメリカに来てからまだ数日しかたっていませんが、いまではあなた以上にリトル・ジョンともう一人の|J《ジェイ》についてはよく知ってるつもりです。きっと、気質の相違でしょう……あなたは事実ばかりを追い求めています。そうでしょう、動かすことのできない確かな事実を。ところが私は……」
メグレはいきなり口を閉ざした。警部が、押さえようとしているのにもかかわらず、いまにも大声で笑いだしそうだったからだ。彼も笑ってしまった。
「失礼……どうも私はさきほどひどく馬鹿げた時間を過したようです……話をきいてくたさい」
彼はジャーメイン老人を訪問したことを語り、本当なのか嘘なのかはわからないが死者の霊が乗り移ったリュシルの様子をしゃべってから、こう結んだ。
「私の不安をわかっていただけるでしょう? ……アンジェリーノは何かを知っていたおかげで、躊躇《ちゅうちょ》なく殺されました……おそらく、アンジェリーノのほうが今日会った二人の老人よりたくさん知っていたのでしょうね。しかし、私はたっぷり一時間ジャーメインのところにいたのです。リュシルも同席していました」
「なるほど……しかし私は、おなじ危険がその二人の老人にせまっているとは思いませんが」
「あなたも、あいつが危険を感じ取ったのは一六九番街だけであると思ってるんですか?」
オブライエンはうなずいてみせた。
「至急知りたいことは、あのジェシーという女性も洋服屋の正面のアパートに彼らと住んでいたのかどうかです……あのアパートで三十年前起こった出来事や惨事を警察の記録で調べることができますか?」
「それはフランスよりも困難です。とくに事件が公表されず、表立った捜査もなかったものの場合などは……フランスでは確か、すべての住人の記録が警察に保管されていて、場合によっては死亡の記録も残されていますね」
「まさかあなたも……」
「いや、べつに……もう一度くり返しますが、捜査の担当者は私ではありません。私はいま、これから数週間はかかる別の事件で手いっぱいです。このブランデーを飲み終わったら、すぐに同僚に電話しましょう……彼は確か今日の午後、移民局に行ったはずです。あそこには、すべての移住者の記録が保管されてます……。待ってください。ええと、どこかに書き留めておいたはずなのですが」
また例の、重要な事柄さえも大したことではないというような気障《きざ》な態度。結局これは、職務の慎重さというより、メグレにたいする差恥心みたいなものではないか?
「モーラが合衆国に移住して来た日付です……ジョアシャン・ジャン・マリー・モーラ、バイヨンヌ生まれ、二十二歳、バイオリン奏者……船は、もういまはありませんが、名前はアキテーヌ号です……もう一人の|J《ジェイ》はこうなっています。ジョゼフ・エルネスト・ドミニック・ドーマル、二十四歳、バイヨンヌ生まれ、こっちのほうはクラリネット奏者とは書いてありません。作曲家となっています。
もう一つあります。これはさして重要なことではないでしょうが、まあお知らせしておきましょう。移住してから二年半たった頃、もうすでにジョン・モーラと名を変えて、あなたもご存じのあの一六九番街のアパートに住んでいたジョアシャン・モーラは、一度十カ月近くヨーロッパにもどっています。
この期間が過ぎると、≪ムールタン号≫というイギリスの船でアメリカに戻ってきております。私の同僚がこのことでわざわざフランスに電話で問い合わせるとは思えません。しかし、あなたなら……」
メグレは、オブライエンがバイヨンヌという名を口にした瞬間から、もうそのことを考えていた。すでに彼の頭のなかにはバイヨンヌの警察に打つ電文もできていた。
≪アメリカに移住したジョアシャン・ジャン・マリー・モーラとジョゼフ・エルネスト・ドミニック・ドーマルに関する書類を至急送られたし≫
オブライエンは味見のためということで、もう一杯ずつブランデーを注文すると、パイプに火をつけた。そして、メグレがブランデー・グラスを鼻の下につけたまま、ぼんやりと物思いに沈んでいるのを見て、たずねた。
「何を考えてるんですか?」
「ジェシーのこと」
「ジェシーの何を考えているんです?」
彼らが演じているのはほとんどゲームだった。一人はあいかわらず控え目な微笑をうかベ、もう一人はわざと気むずかしくふくれっ面を見せて。
「彼女はだれの母親なのかということ」
その言葉を耳にした瞬間、赤毛のアメリカ人の頬から微笑が消えた。そして、口のなかのブランデーを呑み込んでからつぶやいた。
「それは死亡証明書を見ればわかるのではないでしょうか?」
二人にはそれだけで十分だった。それ以上おたがいの考えをはっきり口にする必要はなかった。
しかしメグレはもうとっくに機嫌が直っていたのに、わざと不機嫌を装ってぶつぶついった。
「それが手に入ったら! ……この国には出生と死亡の書類の入手をはばむ神聖なる個人の自由ってやつがある!」
「ボーイさん、おなじ物を!」
それには答えずオブライエンは空のグラスを指差して代わりを注文した。そしてつけ加えた。
「あなたの哀れなシシリア人は、きっと路上でからからに喉をかわかしてるでしょう」
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第七章
もう陽は高く昇っていた。十時に近いのにちがいない。メグレの腕時計は止まっていたし、≪セント・レジス≫とは違って、≪バーウィック≫は壁に電気時計をかけてまで客にサービスをはかるということはなかった。しかし、時間を知ったって何の役に立つのか? その朝メグレは急いでなかった。実際、何もやることがなかった。ニューヨークに来て初めて、春めいた陽の光に迎えられて目覚めたのである。陽差しは寝室や浴室にまで入りこんできていた。
その陽光のおかげで、メグレは手鏡を窓の把手に掛けて髭を剃りはじめた。パリのリシャール・ルノワール大通りにいた時も、毎朝頬に陽の光をうけながら髭を剃ったものだった。どの小説を読んでも、巨大なる人間ミキサーのように描かれているこのニューヨークという都会も、それほど他の都市とかけ離れた場所ではないではないかという気になってくる。
ここニューヨークでも、やはりメグレの前には髭を剃るのに好都合な高さの把手があり、片目をつぶった彼の頬を優しく刺激する朝の斜光があった。髭を剃りながら向かいの建物の事務所かアトリエのような部屋の窓に目をやると、白い仕事着をきた二人の若い女性が彼を見て笑っていた。
ところがその朝メグレは三度にわけて髭を剃らねぱならないはめになった。電話が二度もつづけてかかってきたので髭剃りを中断しなくてはならなかったからだ。最初の電話の相手は、どこかで聞いたことのある声だったが、声が小さすぎて最初はだれだかわからなかった。
「もしもし……メグレ警視ですか?」
「はい、そうですが」
「本当にメグレ警視ですか?」
「そうです」
「間違いありませんか?」
「何度いえばいいんだ! そうだ!」
すると受話器から例の悲痛な声音が響いてきた。
「私です、ロナルド・デクスターです」
「ああ。どうだね?」
「お忙しいところすみません。ぜひお話しなければならないことがあるもんですから」
「何か変わったことでもあったのかね?」
「お願いです、できるだけ早く会ってください」
「ここから遠いところにいるのかね?」
「そんなに遠くはありません」
「至急の用事かね?」
「大至急お会いしたいんです」
「それなら、すぐにホテルに来て、部屋まで昇って来てくれ」
「ありがとうございます」
メグレは思わず吹き出した。しかし少し考えて、ピエロの口調に何か恐怖感のようなものが混じっていたことが気にかかった。ふたたび頬に石鹸の泡を塗りはじめたとたんに、また電話のベルが部屋に鳴り響いた。やっとのことでシャボンを拭って、
「もしもし」
「メグレ警視ですか?」
こんどはアメリカ人特有のアクセントの、ひどくはっきりした声だった。
「そうですが」
「こちらはルイス警部補です」
「あなたのことは聞いております」
「できるだけ早くあなたと連絡をとったらいいと、オブライエン警部にいわれまして。今朝お会いできませんでしょうか?」
「すみませんが、警部補。時計が止まってるものですから時間がわかりません。いま何時でしょうか?」
「十時半です」
「あなたのところまで出向いてもいいんですが、たったいま、私の部屋で人と会う約束をしてしまったものですから。しかし、おそらくあなたにも興味深い話が交わされると思います。よろしかったら、≪バーウィック≫の私の部屋までいらっしゃいませんか?」
「二十分以内にうかがいます」
「何か情報でも?」
こう問いかけたとき、相手は確かにまだ受話器を耳に当てていたはずだった。しかし警部補は聞こえないふりをして電話を切ってしまった。
これでもう二度だ! こんどこそ髭を剃り終えて、服を着なければならない。しばらくして、ルームサービスに電話で朝食を注文し終わってすぐ、ドアをノックする音が聞こえた。
デクスターだった。デクスターという奇妙な男のことをわかりはじめていたメグレも、びっくりして彼をながめた。
これほどに青ざめた顔色の人間を彼はいままで見たことがなかった。このニューヨークに真っ昼間にさ迷いでてきた夢遊病者といった風であった。
酔っているのではなかった。酩酊したとき特有のあの泣き出しそうな表情とはまるで違っていた。それどころか特別な方法で、自制しているようだった。
もっと正確にいうと、戸口に立っているその姿は、まるで喜劇映画のなかで根棒を頭にくらって、倒れる寸前に空《うつ》ろな目をして一瞬立ちつくしている俳優に似ていた。
「警視さん……」と彼は苦しそうにいった。
「入ってドアを閉めたまえ」
「警視さん……」
その様子を見ていて、メグレはようやく、男が酔ってはいないがひどい二日酔いに苦しんでいるのだとわかった。立っていられるのが不思議なほどだった。ちょっと動くだけでもよろよろとぶっ倒れそうになるにちがいない。顔は苦しそうにひきつり、手は機械的にテーブルをまさぐった。
「坐りたまえ!」
デクスターは首を横に振った。坐ったら最後、昏睡状態に陥ってしまうのだろう。
「警視さん、私はげすな男です」
話しながらデクスターは、震える手で上着のポケットをさぐり、テーブルの上に折りたたんだ札を置いた。正真正銘のアメリカ紙幣だった。メグレは驚いてその札を見つめていた。
「五百ドルあります」
「どういうことかね?」
「百ドル札が五枚です。真新しい手の切れそうなやつです。贋札《にせさつ》じゃありません。生まれてはじめてです、まとまって五百ドルなんて大金を手にしたのは。そうなんです。五百ドルをまるまるポケットに入れて歩くなんて、はじめてなんです」
ボーイが、コーヒーとべーコンエッグとジャムを載せた盆を手に部屋に入ってきた。ところが、病的飢餓状態のデクスターが、つねに腹を空かせていて、つねに五百ドル手に入れたがっているデクスターが、盆の上の朝食を見、ベーコンエッグの香りを嗅ぐや、吐き気を催したのだ。彼はいまにも吐きそうな様子で、顔をそむけた。
「何か飲まないかね?」
「水を」
そしてデクスターは、息もつかずに立て続けにコップに三、四杯の水を飲んだ。
「すみません。すぐに帰って寝るつもりですが、どうしてもお会いして話しておかなければならないことがあったもんですから」
青ざめた額に汗のしずくが吹き出していた。テーブルに寄りかかって、やっと痩せ細った背の高い身体をふらつかせないように支えていた。
「オブライエン警部はいつでも私のことを信頼してくれて、今度のことでも私をあなたに紹介してくれました。けれど、今度ばかりは、デクスターはげすな奴だというあなたの言葉があの人の耳に入るでしょう」
デクスターはこういって、五枚の札をメグレのほうに押しやった。
「これを受け取ってください。そして好きなように処分してください。これは私のものではありません。昨夜……昨夜……」
彼は峻険な坂を登りはじめる手前で一休みする人のような仕草で、息を整えていた。
「……昨夜、五百ドルに目がくらんであなたを裏切りました」
電話のベルが鳴った。
「もしもし! えっ? いま階下《した》ですか? すぐ上がって来てください、警部補。いま人が来ていますが、かまいません」
ピエロは無理に笑顔を取りつくろいながらたずねた。
「警察ですか?」
「心配しなくていい。オブライエンの友人のルイス警部補だ。気にせずに話を続けたまえ」
「どうとも勝手にしてください。どうでもいいんです。ただ早く終わってくれと願うだけです」
デクスターは文字どおり上体が揺れていた。
「どうぞ、おはいりください、警部補。お目にかかれて幸いです。デクスターをご存じですか? そうですか。オブライエンの知り合いです。これからあなたにもたいそう興味のあることをお話すると思います。そのソファにお坐りになって、彼の話を聞いていてください。失礼ですが、その間に私は食事をすませてしまいます」
部屋のなかは斜めに射し込む陽光のおかげで明るかった。無数の細かな金色の埃がその陽光のなかで踊っている。
メグレはルイスをこの会話に招き入れたことが良いことだったのかどうか自問していた。前の晩オブライエンが、ルイスは自分とはまったく違った人間だといったのは嘘ではなかった。
「お会いできて喜んでます、警視」
ルイスは顔色一つ変えずにいった。いかにも勤務中といった口調であった。そしてソファに腰をおろし、足を組んで、煙草に火をつけた。それから、デクスターがまだ口を開かないうちに、ポケットから手帳と鉛筆を取り出した。
背丈は普通だが、体重はむしろ普通以下だった。知的な風貌で、ちょっと見は教師のようだった。鼻が長く、厚いレンズの眼鏡をかけていた。
「必要なら、私の証言を記録してもけっこうですよ……」
デクスターは、すでに死刑になることがわかっている男のようないい方をした。
ルイス警部補は眉一つ動かさず、手に持った鉛筆を宙に浮かせながら、冷たい視線をデクスターに向けた。
「たぶん夜の十一時頃のことでしょう。よくは覚えてませんが。ともかくそろそろ十二時に近い時刻でした。私はシティー・ホールの近くの店にいました。酔ってはいませんでしたよ。それは誓ってもいいです。信じてください。私の坐っているカウンターの横に、二人の男が坐ってました。私にはすぐに、この男たちは偶然隣り合わせたのではなく、私をつけねらっているのだということがわかりました」
「知ってる顔でしたか?」と警部補はたずねた。
デクスターはルイスをながめ、それからメグレをながめた。まるでどちらに話しかけたらいいのか、迷っている風だった。
「私をつけねらっている、ただそう感じただけなんです。例の組織の奴らに違いない、という予感がしたんです」
「どの組織です?」
「そんなにしょっちゅう話の腰を折らんでください。もうくたくたなんです……」
卵を食べていたメグレは、思わず微笑を洩らした。
「二人の男は私に飲まないかといいました。私にそうして口を割らせようというのだろう、とわかってました。嘘をいってるんでも言い訳をしてるんでもありませんよ。私には、もしここでこいつらのすすめに応じて飲んでしまったら、万事休すだということもわかってました。それなのに、私はスコッチをやりました。四杯か五杯、何杯だったかもう忘れました。
やつらには一度も名前を教えなかったのに、私のことをロナルドと呼んでました。
そこを出て別のバーに連れて行かれました。それからこんどは車に乗せられて、もう一軒別の店に行きました。そしてその店のビリアード室に引っぱって行かれました。ガランとしてて、人っ子一人いません。
殺されるのだろうか、と私は考えてました。≪坐れよ、ロナルド≫と、肥ったほうの男が、ドアに鍵をかけてからいいました。≪おめえはかわいそうな野郎だよな? 生まれてからずっとそうだったろう。いいことが一度もなかったのも、金を手に入れられなかったからさ≫
私が酒を飲んだらどうなるか、知ってるでしょう、警視。自分でもいいましたが、決して私に酒を飲ませてはだめです。
私は子供の頃のことを思いうかべました。あらゆる年代の自分の人生を思いうかべました。いつでも貧しくて、いつでもはした金を追いかけているんです。私は泣きだしてしまいました」
ルイス警部補は何をメモしていたのだろう? まるで重罪犯を尋問しているような真剣な表情で、時々手帳に一言二言書きつけているのだった。
「すると肥ったほうの男が、ポケットから真新しい百ドル札を数枚取り出しました。ウィスキーとソーダ水の載ったテーブルがありました。だれがそのウィスキーを持って来たのかはわかりません。ボーイが持って来た記憶もないんです。
≪飲め、この間抜け≫と男はいいました。
私は飲みました。すると男は、目の前で札を勘定して折りたたみ、私の上着のポケットに押し込んでいいました。
≪ほら、おれたちは優しいだろう。てめえみたいな臆病者には、死ぬほどおどすって手もあるんだが、おれたちもおめえと同類の人間だから、あまり手荒なことをせずに、こうして金をめぐんでやるのさ。わかったか? よし、それじゃ、椅子に坐れ! 知ってることをみんな白状しろ。みんなだぞ≫」
ピエロは血の気の失せた顔でメグレのほうに目を向けて、ゆっくりとつぶやいた。
「私はあらいざらいしゃべりました」
「何をだ?」
「すべての真相をです」
「どんな真相だね?」
「あなたも知ってることです」
メグレは、いぶかしげに眉をひそめ、じっと何かを考えるようにパイプに火をつけた。彼は、生まれてはじめて見るこのひどい二日酔いのピエロの言葉を、はたして真面目にとっていいのか、笑いとばしたほうがいいのか、と考えていたのだった。
「どんなことだ?」
「第一に、ジェイ・アンド・ジェイについての真相です」
「だからどんな真相かときいてるんだ?」
デクスターは、なぜメグレがそんなあたりまえのことを隠そうとするのか理解がいかないといった表情で、目を丸くして彼を見つめていた。
「クラリネットのジョゼフがジェシーの夫か愛人だったということですよ。そうでしょう」
「本当にそうなのか?」
「それから、二人には子供があって」
「何?」
「ジョズ・マックギルです。ジョズというこのファースト・ネームに気をつけてください。年齢もぴったりです。あなただって計算してたでしょう。モーラ、すなわちリトル・ジョンもジェシーを愛していて、ジョゼフを嫉妬していました。だから奴はジョゼフを殺し、おそらくジェシーも殺してしまったんです。それとも、ジョゼフが死んで、ジェシーも悲しみのあまり死んでしまったのかもしれません」
メグレは呆然とピエロの顔を見ていた。一番の驚きはルイス警部補が夢中になってメモをとっていることだった。
「幾年かたって、大金持になったリトル・ジョンは、こんどは自分のしたことを後悔するようになったんです。彼は子供のことを気づかっていたが、一度も会いに行きませんでした。それどころかマックギルとかいう老夫人に預け、二人をカナダにやりました。このスコットランド人のばあさんの名前をつけられた子供は、自分の養育費を出してくれている保護者の名前さえ知らなかった」
「続けるんだ、デクスター」とメグレは初めてデクスターを親しい口調で呼びながら、あきらめて溜息をついた。
「あなたのほうがよく知ってるでしょう。私はすべてを話しました。五百ドル受け取ってしまったんですからね。ある意味で私は馬鹿正直です。また幾年かたって、リトル・ジョンは結婚しました。そうしてできた一人息子を、彼はヨーロッパで育てました。
マックギル夫人が死にました。いや、そうではなくジョズが勝手に夫人の許をとび出したのかもしれません。私にはよくわかりません。きっとあなたはよくご存じなんでしょうが、私には話してくれませんでした。しかし昨夜奴らにしゃべったことは、すべてあなたが知っていることばかりです。
奴らは私が話している間ずっと、ウィスキーを大きなグラスに注いで飲ませ続けました。信じようが信じまいがかまいませんが、私は自分が恥かしくてたまらなかったので、行くところまで行ってしまおうと考えてました。
一六九番街に、すべてを知っているイタリア人の洋服屋がいました。この洋服屋はジョゼフ殺しに関係していたのかもしれません。ジョズ・マックギルはどういう事情でか、たぶん偶然でしょうが、その洋服屋と知り合って、リトル・ジョンについての真相を知りました」
いまではメグレは子供の面白い話を聞くかのように、穏やかな表情でパイプをくゆらしていた。
「それで」
「マックギルは昨夜の連中のような札つきの男たちと関係がありました。彼はそうした男たちとぐるになってリトル・ジョンをゆすろうと決心しました。
脅迫されたリトル・ジョンはだんだん不安になってきました。やつらはリトル・ジョンの息子がヨーロッパからもどって来ることを知って、もっと父親をしめつけようとしてました。やつらは船が到着するやジーン・モーラを誘拐しました。
ジーンがどうして≪セント・レジス≫に戻ってきたのか、やつらにいうことができませんでした。おそらくジョン・モーラが大金を積んだか、これはそれほど馬鹿げた話ではないと思うのですが、父親自身が息子がとじこめられていた場所を見つけたのかもしれません。私は、あなたならすべてを知っているとやつらに断言しました」
「それから、お前たちはいまに逮捕されるぞ、といったんだろう?」とメグレは立ち上がりながらいった。
「もうおぼえてませんが、そういったと思います……またあなたは、あれが彼らの仕業だということを知っているとも」
「彼らって?」
「私に五百ドルくれた奴らです」
「その連中が何をしたというのかね?」
「車でアンジェリーノ老人を殺したんです。マックギルはいまにあなたがすべてを発《あば》いてしまうことを知ってたからです。これで全部です。私を逮捕してください」
メグレは笑い顔をデクスターに見せないために、顔をそむけなければならなかった。ルイス警部補はあいかわらず法王のような気難しい顔をしていた。
「連中は何といってた?」
「私を車に乗せました。てっきり私はどこか人通りのない場所につれて行かれて、殴られるものと思っていました。そうすれば連中は五百ドルを取り戻せますからね。しかし彼らは私をシティー・ホールの前でおろして、こういいました……」
「何ていったんだ?」
「≪さっさと寝やがれ、馬鹿野郎!≫これからどうなさいます?」
「きみにおなじことをいいたいよ」
「何ですって?」
「早く帰って寝るんだ。それだけだ」
「私はもうお払い箱でしょう?」
「反対だよ」
「まだ私が必要ですか?」
「きっとそういうことになるだろう」
「でも、私は……」
デクスターは物欲しそうな目つきで五百ドル札を眺めて、溜息をついた。
「私には一セントもありません。家に帰る地下鉄のキップを買う金もありません。今日はこの前のように五ドルとはいいませんが、一ドルだけ貸してください……ああ、私は本当にげすな男だ……」
「どう思います、警部補?」
メグレは大声で笑いだしたいのをこらえながらたずねた。ところがオブライエンの同僚は、ひどく生真面目な顔で自分の書いたメモを見つめてからいった。
「ジーン・モーラをさらったのはマックギルではありませんよ」
「それはもちろんですとも!」
「ご存じなんですか?」
「私には自信があります」
「われわれには確信があります」
その様子はアメリカ的な確信と、フランス的なたんなる印象との差をことさら強調しているかに見えた。
「若いジーンは父親の手紙を託されたある人物の手で連れ去られたのです」
「わかっています」
「しかし、われわれはその人物がジーンをどこに連れて行ったのかもつかんでいます。ここ数年モーラ自身も足を踏み入れていないコネティカットにあるモーラの別荘です」
「さもありなんですね」
「いや、確かです。その証拠もあります」
「それから父親はジーンを≪セント・レジス≫に連れもどさせたのですね」
「どうしてわかります?」
「推測ですよ」
「われわれのは推測ではありません。ジーンを連れて行ったとおなじ人物が、二日後に別荘に行って青年を連れもどしたのです」
「すると」とメグレはパイプを喫いながらいった。「その二日の間、あの青年を隔離しておく必要があったということになりますな」
警部補は、はた目にもおかしいほど驚きを顕《あら》わにしてメグレを見た。
「時期がぴったり一致しますね」とメグレは言葉を続けた。「ジーンがふたたび姿をあらわしたのは、アンジェリーノ老人の死の直後ですから」
「あなたは演繹《えんえき》していったわけですね?」
「いや。私は演繹などしたことのない男でしてね。オブライエン警部もきっと私のことをそういうでしょう。それと同時に、彼特有の辛辣《しんらつ》な口調で、あの男は物を考えることもしない、とつけ加えますよ。あなたは物を考える人なんですか?」
メグレはちょっと行き過ぎかな、と思っていた。しかしルイスは、一瞬答えを躊躇《ちゅうちょ》していたが、すぐに応じた。
「ときどきは考えます。満足のいく証拠が集まったときなどは」
「でもそんなときは、考えるまでもないでしょう」
「ロナルド・デクスターのさっきの話をどう思われますか? デクスターでしたね?」
「意見など何もありませんよ。非常に面白かったですがね」
「確かにマックギルの生まれた日付などは符合します」
「それはそうです。しかし、一方ではモーラがヨーロッパに旅立った時期とも符合してるんですよ」
「どういうことですか?」
「ジョズ・マックギルが生まれたのは、リトル・ジョンがバイヨンヌからもどって来る一カ月前だったということです。また、リトル・ジョンがアメリカを発ってから八力月半あとに生まれたともいえます」
「それで?」
「だから、マックギルはどちらの男の子供ともいえるんですよ。選択は自由です。きわめて実際的な問題です」
メグレは確実な手掛りなど何も持っていなかった。二日酔いのピエロの話しぶりがたいそう面白く、そのうえ生真面目で無表情なルイス警部補の態度がいかにも好対照であったので、すこぶる上機嫌だっただけだった。
「私は部下に、ジョゼフ・ドーマルとジェシーに関する当時の死亡証明書の類をすべて調べろと命じておきました」
するとメグレは激しい口調でいった。
「彼らが死んでいるのなら」
「生きているとしたら、どこにいるのです?」
「それでは、当時一六九番街のあのアパートに住んでいた三百人近い人間たちはどこにいるのです?」
「もしジョゼフ・ドーマルが生きているとしたら……」
「生きているとしたら?」
「息子のことを気づかっているのではないでしょうか」
「ジョゼフの息子であるならば」
「生きているなら、リトル・ジョンの過去をたどっていけば見つかるでしょう」
「なぜです? 二人が青年時代にミュージック・ホールでコンビを組んで暮らしていたからですか?」
「ジェシーも?」
「いいですか、私はジェシーもジョゼフも死んでいないなどといい張っているんじゃないんですよ。でももしかしたら、男のほうは去年パリかカルパントゥラで死んでいるかもしれないし、女のほうはまだ女だけの養老院にいるかもしれない。その逆もありえます」
「警視、ふざけてるんですか?」
「とんでもない」
「私の推理を聞いてください」
「推理をしたのならね」
「一晩中……発端は、正確にいうと二十八年前、三人の男女がいました」
「三人の|J《ジェイ》……」
「何です?」
「三人の|J《ジェイ》といったんです……そう呼んでるんですよ」
「だれが? あなたがですか?」
「女占い師と昔サーカスにいた老芸人がいってるんですよ」
「ああ、あの二人なら、ご要望どおり見張りを立てておきました。いままでのところは何も起こってないようです」
「もうおそらく何も起こらないでしょう。デクスター自身の言葉をかりれば、彼が裏切ったいまとなっては。三人の|J《ジェイ》、ジョアシャンとジョゼフとジェシーがいました。あなたのおっしゃるように、二十八年前のことです。それともう一人、生前アンジェリーノ・ジャコミと呼ばれていた男が」
「そのとおりです」
ルイスはまたメモを取りだした。癖になっているのだろう。
「そして今日……」
「今日」あわててアメリカ人がメグレの言葉を引きとった。「ふたたび三人の人物が、われわれの前にいます」
「しかし顔ぶれはちがいますよ。まず、年月を経て、いまではリトル・ジョンになったジョアシャン。そしてマックギル。それから、おそらく間違いなくモーラの息子である一人の青年。四人目のアンジェリーノは二日前まではまだ生きていたが、きっと災いを未然に防ぐために消されてしまった」
「災いを未然に防ぐため?」
「いや失礼……二十八年前の三人と今日の三人ということだけにしぼりましょう。すなわち、三人のうち二人が昔といまでは代わっている」
「そして、モーラは自称秘書というマックギルの存在におびえているようです」
「そう思いますか?」
「オブライエン警部は、あなたもそういう印象を持っているといってました」
「私は、マックギルが自信満々で、モーラの代わりによく話をしていた、といったおぼえはありますが」
「おなじことでしょう」
「まったく違います」
「私は、今朝ここへうかがったら、こんどの事件に関してあなたが思っていることを、腹蔵なくお聞かせ願えると思っていました。オブライエン警部の話では……」
「彼は私の考えをあなたにいったのですか?」
「いえ、彼自身の考えなら聞きました。あなたがある考えをお持ちで、もしかしたらそれが一番正しいかもしれない、と断言していました。ですから、私は自分の考えていることをあなたの考えてらっしゃることに照らしてみたい、と思って来たのです……」
「結論が出ましたか? ……よろしい! あなたは買取されたピエロの話を聞いたわけだ」
「あなたは彼のいってたことをすべてお考えになりましたか?」
「全然」
「彼のいってたことが間違いだと思ってらっしゃるんですか?」
「あの男は確かに美しい小説を作りました、恋愛小説といってもいいような……今頃は、リトル・ジョンもマックギルも他の二、三の連中も、さぞかし興奮していることでしょう」
「私には証拠があります」
「どういう証拠です?」
「今朝マックギルは、今日の四時に出帆するフランス航路の定期船の一等船室を予約しました。ジーン・モーラの名で」
「それは当然だとは思いませんか? あの青年は勉強で忙しいのに、突然パリと大学をあとにしてニューヨークにやって来たんですから、父親は息子にしてもらうことは何もないと思っているのに。だからパリに戻されるのは当然です」
「それも一つの見方ですね」
「警部補、あなたが失望する気持は理解できます。あなたは私が知的な人間で、現職中にたくさんの犯罪事件を解決したとくり返し聞かされてきたのに、そいつがとんだ間違いだったんですから。私の友人のオブライエンは、非常に巧みな皮肉をいう男ですが、いささか私のことを過大評価してるんじゃないですか。第一に、私は知的な人間ではありません」
妙なことに、ルイスはまるで愚弄されたように腹を立てている。しかしメグレは、これほど真剣なことはなかったのである。
「第二に、私は事件が解決するまで、その事件に関して固まった一つの意見を持つということは決してしないのです。あなたは結婚してますか?」
「もちろんです」
ルイスはこのとっぴな質問に、一瞬まごついた。
「もうきっと結婚なさってから数年は経っていますね。しかしはっきりいって、あなたは奥さんがいつでも自分のことを理解しているとは思っていないはずです」
「ときどきそう思うときがあります……」
「それから、奥さんもあなたについておなじことを感じてますよ。それでもあなた方お二人は一緒に生活して、一緒に夜を過ごし、おなじベッドに寝て、お子さんをもうけられた……二週間前には私は、ジーン・モーラのこともリトル・ジョンのことも、まるで知りませんでした。四日前まで、ジョズ・マックギルなんて男の存在さえまったく知りませんでした。さらに、昨日車椅子に乗った老人のところへ行って、年寄りの占い女の話を聞くまでは、ジェシーという女のことさえ全然知りませんでした。
それなのに、あなたは私が彼ら一人一人について確かな考えを持っていることを望まれるんでしょうか?
私は泳いでるだけです、警部補……私たちは二人とも泳いでいるだけなのです。ただあなたは波に逆らって、ある決まった方角に泳ぎ着こうとしているのに、私は浮いている木の棒につかまりながら、流れに身をまかせているところが異なってるんです。
いま私はフランスから電報が届くのを待っています。オブライエンからそのことを聞いたでしょう。それと、あなた同様、あなたの部下の人たちによる死亡証明書や結婚許可証などの調査から、どういう結論がでるかを待っています。
それまでは、何も確かなことはわかりません。
そうそう、そのフランス航路の船は何時に出帆するんでしたっけ?」
「あなたも乗船なさるんですか?」
「いや、そんな気はまったくありません、そうしたほうが賢明なんでしょうがね。今日は実にいい天気だ。ニューヨークに来て初めての晴天です。ジーン・モーラを見送りに行けば、散歩もできます。それに、あの青年とは楽しい航海をしてきた仲ですから、握手でもして見送ってやっても、ばちはあたらないでしょう」
彼は椅子から立ち上がって、帽子と外套を手に取った。警部補はがっかりしたように手帳を閉じ、ポケットにもどした。
「アペリチフでも一杯どうです?」とメグレは誘った。
「残念ですが、私はアルコールはやらないんです」
メグレの大きな眼の奥で何かが小さく輝いた。彼は「そうだと思ってました」ともう少しでいうところだったが、やっとのことでその言葉を呑み込んだ。
二人は連れ立ってホテルを出た。
「おや! 例のシシリア人は消えてしまいましたね。デクスターが口を割ったものだから、私の行動をいちいち見張らなくてもいいと判断したのでしょう」
「私は車を持って来てますが、警視……お送りしましょうか?」
「いや、けっこうです」
メグレは歩きたかった。ゆっくりとブロードウェイまで足をのばして、≪ドンキー・バー≫のある通りを捜した。最初は迷ってしまったが、しばらく捜してやっと見覚えのある店を見つけ、なかに入った。この時間ではまだほとんど客がいなかった。
しかしカウンターの隅に、ニューヨークに来た最初の日にマックギルとボクサー上がりの探偵が話しかけていたあの黄色い歯をした新聞記者がいた。ダブルのウィスキーをちびちびやりながら、何か記事を書いているところだった。
男は頭を上げてメグレを認め、一瞬迷惑そうにしかめっ面をしたが、すぐに頭をわずかに下げて挨拶した。
「ビール!」とメグレは注文した。すでに春めいた気候になり、喉が乾いていたからだ。
彼は、これからのんびりと散策に出かける屈託のない男らしく、ゆるゆるとビールを味わった。
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第八章
一年前、パリ警視庁では、こうしたときのメグレを評して、こういったものだ。「ほら、またはじまったぞ、親分《パトロン》の失神状態が」
実際は心から警視を尊敬していたが、歯に衣《きぬ》を着せずに物をいうトランス刑事などは、もっと辛辣に、「親分《パトロン》は入浴中だよ」といっていた。
≪失神状態≫にしろ≪入浴中≫にしろ、メグレの部下たちがほっとして見つめている精神状態だった。彼らはそこに嵐が近づきつつあるかすかな前兆を感じとり、嵐が突発する瞬間をメグレより前に予知してしまうのだった。
ここにルイスがいたら、このあと続く数時間のフランスの同僚の態度をどう思うだろう? おそらくルイスには理解できないだろう。それは当然なことだった。ルイスは、ある種の哀れみの情をもってメグレを見つめるにちがいない。鈍重な風貌の裏に辛辣な皮肉を秘めているオブライエン警部でさえ、こういうときのメグレにどこまでついて来られるだろうか?
こうした精神状態はきわめて奇妙なかたちで起こるので、メグレ自身それを分析しようという気持になったことなどなかった。しかし、司法警察局の同僚たちの微に入り細を穿《うが》ったいろいろな話から、無理やり自分にそういうところがあることを知ることになったのである。
何日間も、ときには何週間も事件を手さぐりし、しなければならないことを果たし、あまり捜査に興味を持てないような、ときどき全然興味のないような様子で、命令をあたえ、証人をつぎつぎに尋問する。
というのは、この時期は事件がまだ理論的な形でしか彼の前にあらわれていないからだ。これこれの人間がこれこれの状況下で殺された。これこれの人物が怪しい、という風に。
実際、これらの人々は彼には興味がない。まだ興味をひかれないのだ。
それからとつぜん、予期しない瞬間に、事件の複雑さに彼が気落ちしているように思える瞬間に、歯車止めがカチッとかかる。
こうした瞬間、メグレは陰うつになるのだといったのはだれであったか? 数年間彼の仕事ぶりを見守ってきた司法警察局の前の局長ではなかったか? それは一種の気まぐれにはちがいなかったが、真実をもたらす気まぐれだった。とつぜんむっつりと押し黙って重苦しい表情になったメグレは、普段と違った仕草でパイプを歯でくわえ、短い間隔で煙を吐き出しては、ときおり暗い眼つきで周囲を見まわす。盛んに精神が活動しているからである、ということはつまり、事件の登場人物たちが、彼にとって抽象的なもの……チェスの駒や操り人形であることをやめて、血肉のかよった人間に変わっていくということなのだ。
この人間たちの暖かい皮膚のなかにメグレは入り込もうとする。その作業に没頭するのである。そうした人間たちのある者が考え、生き、苦しんだ時間を、彼もふたたび考え、生き、苦しむことはできないものなのか?
ある個人が、人生のある瞬間、あたえられた環境のなかである行為をする。それならそのおなじ精神的状況に自分も身を置くことによって、おなじ反応を心の奥から引き出すことはできないものなのか?
ただ、こうしたことを意識的にやっていたわけではない。メグレはいつでもそのことを意識していなかった。たとえば、こうして一人きりでカウンターで食事しているときでも、彼は自分がメグレであり、メグレ以外の何者でもないことを忘れていなかった。
しかし、もし鏡にうつる自分の顔を見たなら、そこにリトル・ジョンのある表情をとらえただろう。とりわけ、≪セント・レジス≫の奥の部屋から、一種の避難所として用意したみすぼらしい部屋から出て来て、半開きのドアの間から初めてメグレを見たときの昔のバイオリン弾きの表情を。
あの表情にあったものは恐怖か? それとも宿命を受けいれた者の顔か?
そのおなじリトル・ジョンが、マックギルが勝手にしゃべっている間、窓に歩み寄って神経質そうな手つきでカーテンを開けて外を見続けていた。
しかし、まだ決めつけることはできない。
≪リトル・ジョンはどちらが本物なのか……≫
それを感じ取らなければならない。リトル・ジョンになりきってしまわねばならない。そのため、通りに歩を運び、タクシーに乗って、桟橋に車を走らせているときも、外部の世界は完全に消えていた。
かつてのリトル・ジョンは、クラリネット奏者のジョゼフと二人で、バイオリンを腕に抱えて≪アキテーヌ号≫でフランスから移往してきた青年だった。……そのリトル・ジョンは、みじめな南部の巡業の間、食事をあたえられないジェシーという、痩せて病弱な娘に食事を分けあたえていた。
彼は桟橋で二人の警察官の姿を認めたが、ほとんど注意をはらわなかった。彼は曖昧に微笑んだ。ルイス警部補が万一のために派遣した警察官たちにちがいない。ルイスは几帳面な男だ。彼を悪くいうことはできなかった。
出帆の十五分前になって、税関の正面に大型のリムジンが横づけになり、まずマックギルが降り立ち、ついでニューヨークで買ったとおぼしき明るいツィードの背広を着込んだジーン・モーラが、最後に黒と紺の服しか絶対に身につけない感じのリトル・ジョンがあらわれた。
メグレはその場を動かなかった。自然と三人は彼の横を通ることになった。三人三様の反応があらわれた。ジーンのボストンバッグを持って最初にメグレの横を通ったマックギルは、彼の姿を認めると眉をひそめて、かすかに不快げな仏頂面《ぶっちょうづら》をした。ジーン・モーラはたじろいだように父親のほうを振り返ったあとでメグレに近寄り、メグレに握手を求めてきた。
「フランスにお帰りにならないんですか……本当にすみませんでした。この船で一緒に帰国されるのだと思ってました……何ももうあなたのご協力をお願いすることはなくなりましたから……ぼくはまったく馬鹿でした」
「よくわかりましたよ」
「ありがとうございました、警視さん」
リトル・ジョンはメグレのほうに向かって来たが、一瞬足を止めて何のてらいもなく一礼しただけで通り過ぎた。
リトル・ジョンを≪セント・レジス≫の部屋以外の場所で見るのは初めてだった。戸外で見る彼は、思っていたよりずっと小柄に見えた。またずっと老けているし、ずっとやつれて見えた。これは最近のことなのか? あいかわらずひどく精力的なものを感じさせはするが、この男にはまるでヴェールのようなものがかかっているようだった。
もっともこうしたことは大して重要ではない。取るに足らないものだ。最後の船客が船内に消えた。桟橋には旅立つ人を見送る肉親や友人の列ができていた。その服装からイギリス人と思われる数人がデッキの手すりに向ってテープを投げていた。送られる船客たちはそのテープの端をいかめしい顔をしてにぎっていた。
ジーン・モーラは一等船室のデッキにいた。桟橋からデッキを見上げるメグレは一瞬、息子ではなく父親を見たと思った。今日の船旅ではなく、かつて十カ月近くにわたって帰国の旅に出ていったジョアシャン・モーラを見送っているような気がした。
当時のモーラは、一等船室ではなく三等船室で旅をしたことであろう。桟橋には、やはり今日とおなじように、二人の人間が見送りに来ていなかったであろうか?
メグレは思わず、その二人の人物を人波のなかに捜した。彼の眼のなかには、いまの自分とおなじように、顔をデッキに向けて、桟橋を離れて行く船の動く壁を見つめているクラリネット奏者とジェシーの姿がくっきりと浮かんでいた。
それから……それから二人は桟橋を立ち去ったろう……ジョゼフはジェシーの腕を取っていたろうか? ジェシーのほうからジョゼフの腕に手をまわしたのだろうか? ……彼女は泣いていたであろうか? ジョゼフはジェシーに「すぐ帰って来るよ」と慰めの言葉を囁いたであろうか?
ともかく、ジョアシャンがデッキに立って、アメリカの岸がだんだん遠のき、ついには夜の霧の彼方に消えて行くのを見つめている頃、ジョゼフとジェシーは二人きりになっていたことは間違いない。
やはり今日も、見送りに来た二人の人間、リトル・ジョンとマックギルは、肩を並ベ、おなじ足取りで二人を待っている車のほうへ引き返した。マックギルがドアを開け、二人は車のなかに姿を消した。
ルイス警部補のように結論を急いではならない。こうあるべきだと望んでいる思い込みで頭をいっぱいにして事態を追跡するのではなく、単純でありきたりの事実がよく見えるようにつねに自分を開いていなくてはならない。
そのため、メグレは両手をポケットにつっこみ、見知らぬ町のほうに歩いていった。どこに行こうとそんなことはどうでもいい。頭のなかでは、彼は地下鉄のなかのジェシーとジョゼフを追っていた。当時、地下鉄はもうあっただろうか? おそらくあっただろう。二人はまっすぐ一六九番街のアパートに帰ったはずだ。アパートに着いて、二人は戸口のところで別れて、それぞれの部屋に入ったろうか? それともジョゼフはジェシーのそばにとどまって、彼女を慰めていたのだろうか?
なぜいまになってメグレに、つい最近のある記憶が甦《よみがえ》ったのか? その出来事が起こったときにはまったく注意していなかったのに。
正午に、彼は≪ドンキー・バー≫で長い時間をかけてビールを飲んでいたのだ。非常にうまかったので、二杯飲み干してから店を出ようとしたとき、歯の汚ないパーソンという例の新聞記者が頭を持ち上げて、いった。
「ごきげんよう! メグレさん」
男はこの言葉を強いアクセントのフランス語で、メグレをメグレットと発音していった。耳障りな鋭い声だった。下卑た悪意の込められた響きが感じられた。
男は明らかに感情が激している様子だった。メグレはいささか驚いて男を眺めやった。そして、聞こえるか聞こえないかわからぬほど小さな声で挨拶を返してから、それ以上のことを考えずに店を出た。
とつぜん甦った記憶とは、彼がマックギルとチューインガムの探偵に連れられて初めて≪ドンキ−・バー≫に来たおり、彼の名前は一度も口にされなかった、ということである。その上、パーソンがフランス語を話すということも初耳だった。
おそらくこんなことも大して重要ではないのだろう。メグレはこのことを深く考えようとはしなかった。しかし、この出来事はいつのまにか彼の無意識的な関心の一つにくみこまれていた。
タイムズ・スクエアに着いたメグレは、眼の前に威圧的にそそり立つタイムズ・スクエア・ビルに目をやった。そして、そのビルのなかにリトル・ジョンの会社があることを思い出した。
メグレはビルのなかに入った。とくに目当てがあったわけではない。ただ彼は、現在のリトル・ジョンの姿を≪セント・レジス≫の私的な枠のなかでしか見ていない。なぜもう一つ別の、公的な場にいるリトル・ジョンを見てはいけないのか?
彼は案内板で≪オートマティック・レコード株式会社≫という文字を見つけた。急行エレベーターで、四十二階に行った。
どうということはなかった。見るべきものは何もなかった。多くのバーやレストランで見かけるあのジューク・ボックスのあらゆる機種が、すべてこの会社のものだということが、改めてわかっただけだった。とにかく、この機械に呑み込まれる幾十方という五セント硬貨がここで銀行の預金に、株に変えられ、大きな帳簿に記入される。
ガラス張りのドアに、≪社長=ジョン・モーラ≫と書かれている。
他にも首脳部の名前と、番号が書かれたガラス張りのドアが並んでいる。そして最後に、百人あまりの男女が働いている、青っぽい照明と、スティール机が並んだ広大なオフィス。
メグレは何かご用ですかとたずねられたが、「いいえ」と静かに答え、踵でパイプをたたくと、くるりと背を向けた。
理解したのはこれだけだった。ルイス警部補はこのことを理解していないのではないか?
彼はふたたび町を歩き、あるバーの前で立ち止まり、躊躇《ちゅうちょ》し、肩をすくめた。なぜ入ってはいけないのか? こんな時刻に飲んだって悪いことはあるまい。それにロナルド・デクスターみたいに泣き出さないし。カウンターの片隅に肘をついて二杯の酒を立て続けに飲み干し、支払いをして、何もなかったように店を出た。
ジョゼフとジェシーは、その十カ月間、一六九番街のあの洋服屋の前のアパートに、二人きりでいた。
とつぜんメグレは大声で叫んだ。「いや、違う!」
一人の通行人が彼のほうを振り向いた。彼はアンジェリーノ老人とその哀れな死のことを考えていた。「いや、違う!」といったのは、はっきりした理由はわからないが、老人が殺されたのがルイスが想像したような経緯ではないと確信していたからだ。
どうにもぴったりしないことがあった。彼は黒いリムジンのほうに歩いて行くリトル・ジョンとマックギルの姿をふたたび思い描いた。そしてもう一度つぶやいた。
「いや、違う……」
きっともっと単純であるはずだ。事件のほうは複雑に展開することもあり、そのように見えることもある。が、人間というものは人が考えるよりもつねにずっと単純なものなのである。リトル・ジョンにしても……マックギルにしても……。ただ、その単純な事実を知るためには、表面的な事柄にかかわっているのではなくて、事態の奥底におりて行かなければならない。
「タクシー……」
彼はニューヨークにいることを忘れていた。運転手にフランス語で話しかけたので、運転手は面くらってしまった。メグレは謝ってから、改めて英語で女占い師の住所を告げた。
一つだけ彼女にききたいことがあった。彼女もグリニッジ・ヴィレッジに住んでいた。そして、警視はそこが小ぎれいな建物なのでびっくりしてしまった。四階建ての中産階級の建物で、清潔な階段は絨毯でおおわれ、各戸口の前にはマットが敷かれていた。
リュシル夫人
超能力のある占い師
予約のある方にかぎります
メグレは呼び鈴を押した。ドアの向こうで老人の家特有の押し殺したようなベルの音が鳴った。しのび足でドアに近づく音と、いっときあってから用心深く閂《かんぬき》をあけるかすかな音が聞こえた。
ドアがほんのかすかに開いた。そのすき間から、片目がメグレのほうに向けられた。彼は思わず微笑んで、いった。
「私ですよ!」
「まあ! ごめんなさい。わからなかったものですから。いまの時間に予約のあったお客さんはいないので、いったいどなたかと思って……どうぞ、お入りなさい。いつもなら召使いがお迎えするはずなんですけれど、いまちょうど使いにやってるものですから」
召使いなどいるわけがない。しかし、そんなことはどうでもいいことだった。
内部はかなり暗いのに、電燈はひとつもついていなかった。イギリス製ストーブの正面におかれた肱掛椅子に石炭の炎が映っていた。
部屋の雰囲気は落ちついていて暖かだったが、いくぶん生気に欠けていた。リュシルはあちこちのスイッチを引っ張って、赤や青の笠のついた電燈をともした。
「お坐りになって……何か弟さんの消息がつかめました?」
メグレは、ピエロがジャーメインとこの老婦人の心を動かすために話したあの弟の話をほとんど忘れていた。彼は周囲を見まわし、ただ驚いていた。想像していたようながらくたを集めた部屋ではなく、まるでパッシーやオートゥイユの小サロンを思い出させるようなルイ十六世風の小さな客間だったからである。
ただ、老婆の醜怪な厚化粧だけはこの部屋に不釣り合いだった。クリームと白粉《おしろい》を厚く塗った顔は月のように青白く、唇には口紅を真赤に塗って、長く青っぽいつけまつげをつけているさまは、まるで人形のようだった。
「あなたのこととジェイ・アンド・ジェイのことはしょっちゅう考えてましたよ」
「そのことについて、もう一つおききしたいことがあるのですが」
「えーと……確かあなたは……二人のうちどちらがジェシーと恋仲だったのか、ときいてたわね……いまなら答えられるわ。二人ともあの娘が好きだったと思うわ」
メグレは老婆の話を無視していった。
「おききしたいのは、奥さん、実は……待ってください……私の考えていることをわかっていただきたいんですが……その、おなじ年齢でほぼおなじ土地の出身の二人の青年が、おなじヴァイタリティ……おなじ強さの性格といってもいいですが……を持っているということはまずありえません……だいたい一方がもう一人より上位に立つものです……いわば、いつでもリーダーがいるものです……待ってください……。
それにそうしたケースの場合、性格的な相違もあるはずです。友人にリードされることを望む者もいますし、それに反抗する者もいます。
私の質問はかなり微妙なものです。急いで答えてほしいとは思いません……あなたは一年近く二人と生活を共になさったのですから、おわかりになるはずです。あなたの記憶では、どちらが強かったですか?」
「それはバイオリン奏者のほうね」と、老婆はきっぱり答えた。
「それではジョアシャンですね……痩せた顔で、金髪を長くのばしていたほうですね?」
「ええ、そうよ……でもあの人はあまり気持のよくないところもあったわね」
「どういうことです?」
「はっきりとはいえないけれど……ただそんな印象が残っているだけよ……そうだわ! ジェイ・アンド・ジェイはいつも出番が最後だったでしょ? ……ロブソンと私があの一座じゃトップスターだったのよ。ああいう世界には必ず芸人のランクがあるものなの……荷物をだれが持つかなんてことにも、序列ってものがあるの……そうよ! あのバイオリン弾きは、一度も私の荷物を持とうとはいわなかったわ」
「もう一人のほうはどうでした?」
「あの人は何度か荷物を持ってくれたわ……彼のほうが育ちがよくて物腰が柔らかかったわ」
「ジョゼフのことですか?」
「そうよ……クラリネット吹きのほう。でもね……ああ、説明しにくいわ! ジョアシャンはとても気持が不安定な人だったのよ。そう、とても優しくて魅力的に見える日があるかと思うと、翌日にはがらりと変わって、人に言葉もかけないような気難しいところのある人だった。きっと、とても自尊心の強い人で、自分の現在の境遇が耐えられないのだろうと思ってたわ。ジョゼフのほうは、逆に、いつも笑いながら自分の境遇を受け入れているような人だったわ。いや、こんな言い方はあたってはいない。いつも笑っていたわけではないですからね」
「陰気な青年でしたか?」
「とんでもない! 一生懸命に、するべきことをきちんとする青年だったわ。大道具を手伝ってくれとか、プロンプター・ボックスに入ってくれとかいっても、嫌な顔せずにやってくれたわね。ジョアシャンにそんなこと頼んだら、それはもう手がつけられないくらいにつっかかってきたでしょう。そういうことなのよ。でもね、そんな横柄なところがあっても、わたしはどちらかといえばジョアシャンのほうが好きだったわ」
「いや、どうもありがとう」
「お茶を一杯いかが? お力になりましょうか?」
その言葉には変におずおずした響きがあった。メグレはすぐにはその理由がわからなかった。
「見てさしあげてもいいのよ」
そのときになって初めて、彼は自分が占い師の家にいるのだということを思い出した。相手を失望させたくないという気持から、すんでのところでリュシルの申し出を受け入れるところだった。
いや、駄目だ! メグレには女占い師の醜怪な演技につき合い、ふたたびあの生気のない声を聞き、死んだロブソンにする質問に耳を傾ける気はまったくなかった。
「また来ます、奥さん……申し訳ありませんが、今日は時間がないもんですから」
「では、これで。あなたの気持よくわかりますわ」
彼はリュシルに悪い印象を残すことがひどく心配だったが、他にどうしようもなかった。
「弟さんが見つかるといいわね」
アパートの前の歩道に入るときには気づかなかったが、一人の男がじっとメグレを見つめながら立っていた。おそらくルイスの部下の刑事だろう。まだこんなことが必要なのか?
彼は車でブロードウェイにもどった。ブロードウェイはいまではメグレの母親のようなものになっていて、ここだと周囲がわかりはじめていた。なぜ彼はためらわずに≪ドンキー・バー≫に入って行ったのか?
第一に電話をかける必要があった。しかしそれよりも、はっきりした理由はなかったが、あのがらがら声の新聞記者にもう一度会いたかったのだ。この時間では彼がもう酔っ払っていることがわかっていた。
「やあ、メグレットさん」
パーソンは一人ではなかった。三、四人の仲間に取り囲まれ、かなり前から持ち前の下卑た冗談でみんなを笑わせている様子だった。
「私たちとスコッチをやりませんかね?」と彼はフランス語でいった。
「ああそうか、フランス人はウィスキーは嫌いでしたな。それじゃあコニャックはどうです、ねえ、司法警察局を引退した警視殿」
パーソンは周囲を笑わせたがっていた。もともとどこのバーでもまともに相手にされない札つきだということを、自分でよくわきまえているのだろう。
「いい国ですねえ、フランスってところは」
メグレは少しまよっていたが、すぐに受話器を置いて、パーソンのわきのカウンターに肘をついた。
「フランスをご存じですかね?」
「十年住みましたよ」
「パリで?」
「≪陽気なパリ≫か、そのとおりです……それからリール、マルセイユ、ニース……コート・ダジュールでしたっけ?」
パーソンはまるでどんなちょっとした言葉にも彼だけにしかわからない含みがあるような意地の悪い言い方をした。
デクスターが陰気な酔っ払いであるなら、パーソンは底意地の悪い、けんか腰の酔っ払いといえる。
パーソンは自分が痩せて醜く、けがらわしい男で、人に嫌われ侮《あなど》られていることをよく承知していた。だから人間全体を怨んでいた。いまの場合は、大きな、静かな眼で、強風にもてあそばれている蠅《はえ》を見るように自分を見つめているこのメグレという穏和な男のからだと顔に、人間全体が集約されているのだ。
「あんたは、あんたの美しきフランスに帰国したら、きっとアメリカとアメリカ人のことを悪しざまにいうんでしょうな……フランス人なんてみんなそうだ……ニューヨークってところはギャングだらけの町だ、なんてね……ハッハッハ! ……ただ、そんな連中がほとんどヨーロッパからやって来た奴だということは棚に上げてね……」
パーソンはこういって、メグレの胸に人差し指を突き立てながら、下卑た声で大笑いした。
「パリにもおなじぐらいのギャングがひしめいていることは言わんでしょうな……ただあんたの国のギャングはブルジョワだ。女房子供がちゃんといたりしてね……勲章を持ってる奴だってなかにはいるのさ……ハッハッハ! おいボブ、酒だ! ウィスキーのお嫌いなメグレット氏にブランデーを一杯差し上げてくれ。
でも、とにかく! ……あんたはヨーロッパに帰るんですかね?」
パーソンはメグレに真向からこのせりふを投げつけたことがよほど得意だったのだろう、いたずらっぽく仲間の顔を見まわした。
「え? どうです、確かに帰るのですか? ここのギャングたちはそいつを望んでないようですぜ。え? ご立派なオブライエン氏か正直者のルイス氏が何とかしてくれると思ってるのですか?」
「あなたはジーン・モーラの出帆のときには港にいなかったですな?」
メグレはパーソンのいうことを意にも介していないような様子でたずねた。
「私がいなくても見送り人はいっぱいいたんでしょう? あんたの健康のために、メグレットさん……パリ警察のために」
最後の言葉がよほどおかしかったのか、パーソンは文字どおり腹を抱えて笑いだした。
「あんたが船に乗ったら、私は何を差しおいても駆けつけて、インタビューを申し込みますよ……(あの高名なメグレ警視は本紙の優秀なる記者パーソンに次のように語った。連邦警察と接触をもって、自分はすこぶる満足している≫と……」
仲間のうちの二人が、何もいわずに立ち去った。奇妙なことにパーソンは、二人が出て行くところを見ても驚いた様子もなく、ただ黙って見送っていた。
そのときメグレは、その二人の男を尾行させるための手配をしていなかったことを悔んでいた。
「もう一杯どうです、メグレットさん。飲めるときは飲んどいたほうがいいですよ……ほら、このカウンターを見てごらん……このカウンターでこんなに大勢の人間がいまのわれわれのように肘をついて飲んでいる……そんななかにも、最後の酒を≪また明日だ≫っていって飲まん者もいる。
明日になったら飲めなくなるかもしれんというのに。
なぜかといえば、上等のスコッチがなくなっちまったからさ……。ハッハッハ! 私がフランスにいた頃には、いつもホテルの住所を書いた札をコートにピンで留めておいたもんさ。そうすりゃ、ちゃんと身柄を届けてくれるからな。あんたはどうです? ちゃんと住所を書いた札を持ってますか?
こいつは便利ですぜ。死体公示所《モルグ》に投げ込まれたって、手続きが簡略化されるってもんだ……どこヘ行くんです? 最後のウィスキーをやらないのですか?」
メグレはもううんざりだった。彼はなおもわめき続けている新聞記者の目をじっと見つめてから、席を立った。
「じゃまた」と彼は声をかけた。
「あばよ!」と男はいい返した。
≪ドンキー・バー≫のボックスから電話をするのをあきらめて、メグレは歩いてホテルにもどった。仮の郵便受けに電報が届いていたが、すぐには開封せずに部屋に入った。部屋に入ってもどういうわけか電報をテーブルに置いたままにして、受話器を取り、交換に番号を告げた。
「もしもし、ルイス警部補? ……メグレです。例の結婚証明書は見つかりましたか? ……ええ、日付けはいつになってますか……ちょっと待って……ジョン・モーラとジェシー・ドゥイーですね……ええ、それから? ニューヨーク生まれ……そうですか。日付け? ……よくわからないですが……」
まず、普通の会話より電話のほうが英語がよく理解できないうえ、ルイス警部補の説明が非常にこみ入ったものだった。
「ええ、証明書はシティー・ホールで受理されたんですね……失礼、シティー・ホールって何ですか? ああ、ニューヨークの市役所? わかりました。リトル・ジョンがヨーロッパに出発する四日前……。何ですって? それでも二人は結婚したということにはならないんですか?」
どうもそこのところがよく呑み込めなかった。
「ええ……結婚証明書があっても実際にそれを役立てたかどうかわからないというんですか? それじゃあ、どうしたら二人が結婚していたかどうかわかるんです? えっ? リトル・ジョンにきくしかないというんですか? 証人かその証書を持っている人物? ……私の国ではもっとずっと単純ですよ……ええ、そんなことは大したことではないと思います。大したことではないといってるんです。……何です? ああ、何も新しい事実は現われていません。散歩してただけです……ジーンはただ別れの言葉をいっただけです。それと、私が一緒に上船できなくて残念だといってました。
ジェシーの姓がわかったんですから、あなた方はきっと……ええ、もう動きはじめているんですね? よく聞き取れないですが……死亡証明書は見つからないんですね? だからといって何かわかったということにはならないんでしょう……ベッドで死ぬ人間ばかりいるわけじゃありませんからね。
いや、ルイスさん、矛盾したことをいってるわけじゃない……今朝は、消息がつかめないからって、必ずしもその人間が死んだことにはならない、っていっただけです……ジェシーが生きているなんていいはしなかったですよ。
ちょっと待ってください……まだ電話を切らないでください。私の問い合わせの返事の電報をいま受け取ったばかりです……まだ開けてないんですがね。いや、そのままいてください。あなたに聞いてほしいんです」
メグレは受話器を置いて、電報の封を切った。長い電文で、要点は尽くしていた。
「≪ジョアシャン・ジャン・マリー・モーラ。バイヨンヌ生まれ。父親はバイヨンヌでも指折りの金物商。幼くして母親と死別。国立高等中学校《リセ》卒業後、ボルドーの国立音楽学校《コンセルヴァトワール》で音楽を修める。十九歳のときバイオリンで一等賞獲得。その後数週間してパリに出る。
それから四年後、父親の訃報に接してバイヨンヌに帰省。本人は唯一の相続者で、身辺の整理に手間取る。二十万フランの遺産を相続した模様。
バイヨンヌとその近郊に数名の従兄弟が生存しているが、彼らの話では、モーラはアメリカで財をなしたにもかかわらず、音信はまったく絶えているとのこと……≫
警部補、聞いてますか? お時間をとらせて申し訳ない……モーラに関することは何も特に記すベきことはなさそうです……続けますが、いいですか?
≪ジョゼフ・エルネスト・ドミニック・ドーマル。バイヨンヌ生まれ。父親は郵便局長。母親は教師。十五歳のときに父親と死別。国立高等中学校《リセ》卒業後、ボルドーの国立音楽学校《コンセルヴァトワール》に進む。その後パリヘ出て、モーラと知り合った模様。アメリカに長期間滞在。現在、各地の温泉地を演奏してまわるオーケストラの指揮者。今年はラ・ブルブールに滞在、当地に別荘を建築。現在も当地にいる模様。サーブル・ドロンヌ出身のアンヌ・マリー・プネットと結婚。三人の子供がある≫
もしもし、警部補、聞いてますか? ……これで、あなたが死んでいると思っておられた人間一人の生存を確認できました……ええ、もちろん、ジョゼフのことですよ。そう、クラリネット奏者の。そうです! ジョゼフ・ドーマルは現在フランスにいて、結婚して三児の父親になっており、一軒の別荘を持っていて、オーケストラの指揮者をしている……まだ調査を続けますか? ……えっ、何ですか? ……いや、ふざけてるんじゃありません。ええ、そうですとも。確かにアンジェリーノ老人のことがありますからね。あなたは本当にあれを……」
受話器の向こうではルイスが早口で話しはじめたので、メグレはその英語の意味を理解しようという努力を放棄せざるをえなかった。ただ無関心のままに相づちを打っているほか仕方がなかった。
「ええ……ええ。どうぞ……ではこれで。えっ、これからどうするかというんですか? いまフランスが何時頃なのかによって、決まるんです……えっ? 真夜中? 少し遅かったなあ。午前一時にここから電話したら、向こうは七時頃にあたりますな。ラ・ブルブールなんかに別荘を持っている連中なら、そろそろ起きる時刻でしょう。それに、まだ外出するには早すぎる時刻だし……。それまで、映画でも見てきますよ。ブロードウェイのどこかの映画館で喜劇をやってたはずです。映画は喜劇しか見ないことにしてるんです。
ではこれで。オブライエンによろしく」
電話を切ってから、メグレは手を洗い、顔を水で冷やし、歯まで磨いた。それから椅子に片足ずつのっけて、ぼろ布で靴の埃を落とした。
こうしたことがすべてすむと、メグレは明るい顔をして、パイプをくわえながらホテルの階段をおりた。町へ出て良さそうな小さなレストランを物色した。
一人だけのささやかなパーティのつもりだった。好みの料理と年代物のブルゴーニュ酒と、とび切り上等のブランデーを注文した。食事が終わると、葉巻にしようかパイプにしようか迷ったあとで、やはりパイプに火をつけて、ブロードウェイの光の波のなかを歩きはじめた。
幸い、だれにも邪魔される気遣いはなかった。彼のことを知っているアメリカ人などまずいないと考えてよかったからだ。背中をまるめ、両手をポケットに突っ込んで歩きながら、ときどきショーウィンドーの前に立ち止まったり、すれちがう美しい女性を楽しそうに目で追ったり、映画のポスターの前で入ろうかどうかためらっているメグレの姿は、少々物見高い金持の紳士といった風にしか見えなかったろう。
ある映画館で『ローレルとハーディー』が上映されていた。メグレは満足そうに切符売場に近づき、券を買って、案内嬢に従って館内の暗闇に入って行った。
十五分もすると、心底からおかしそうな声をあげて大笑いしていた。あまりその声が大きいものだから、近くの観客が肘をつっつき合って、あきれたように彼の顔を見つめていた。
ただ一つ、ささいなことだががっかりしたことがあった。案内嬢がパイプの火を消してくださいと丁重に注意しに来たことだ。メグレは残念そうにパイプをポケットにしまった。
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第九章
十一時頃映画館を出て来たとき、心は平静で、苛立ちとか固苦しさはなかったが、少々重たかった。からだには静かな力がみなぎってはいるが、喉の奥のほうに一抹《いちまつ》の不安……いわば武者震い……が感じられるのだった。この感じは昔ある捜査にあたっていたときとおなじものだった。メグレはブロードウェイにいることをしばらく忘れ、イタリアン大通りにいるような錯覚に陥って、オルフェーヴル河岸にはどの通りを行ったらいいか、などと考えたりした。
まず、バーに入ってビールを一杯飲んだ。喉が乾いていたわけではない。これは一種の迷信なのだが、難しい尋問をはじめる前にはビールを飲むことが習慣になっていたのだ。尋問中に飲むこともよくあった。
彼はビヤホール≪ドフィーヌ≫のボーイ、ジョゼフがパリ警視庁の彼のオフィスに持ってきた中ジョッキのビールを思い出していた。メグレ自身はもちろん、ときには彼の正面に青い顔をして坐り、両手に手錠をかけられて、ここからいつになったら出られるのか、という表情で彼の質問を待ちうけている相手にも、彼はビールを飲ませたものだ。
なぜ、今夜メグレはこれらの尋問のなかでも、もっとも長い、もっとも烈しい尋問のことを考えたのか? それは司法警察局の歴史のなかでもほとんど語り草になっているメストリーノの尋問で、二十六時間つづいたのである。
最後には、オフィスじゅうがパイプの煙でいっぱいになってしまって、息もできないありさまだった。煙草の灰や空のグラスやサンドイッチの食べ残しがあたり一面散らかり、二人ともネクタイと上着を脱ぎ捨てていた。頬はげっそりして、知らない者が見たらどちらが殺人者なのかわからぬほどだったろう。
メグレは十二時少し前に電話ボックスに入り、≪セント・レジス・ホテル≫の番号を告げて、リトル・ジョンの部屋を呼び出してもらった。
電話に出たのはマックギルだった。
「もしもし、メグレです……モーラさんとお話したいのですが」
メグレの声に、もう化かし合いをしているときではないということをわからせる強い響きがあったのだろうか? マックギルは率直に、誠実のこもった口調で、リトル・ジョンはホテル≪ウォルドーフ≫の夜会に出ていて、おそらく朝の二時まではもどらないだろう、とだけ答えた。
「電話で連絡を取るか、できたら直接会いに行ってもらえないですか?」とメグレはいい返した。
「いま私も一人ではありません。ガールフレンドが一緒なんです。でも……」
「失礼だが、お友達を送り返して、私がこれからいうとおりにしてください。とても重大なことなんです。いいですか、今夜一時十分前までに、あなたとモーラさんとお二人で、必ず≪バーウィック≫の私の部屋に来てください。必ずですよ。時間もきっかり守ってください。いや、他の場所では駄目なんです。もしリトル・ジョンが来るのをいやがったら、かつて彼がよく知っていたある男との話合いに、ぜひ立ち会ってほしいと私がいっていたと伝えてください。いや、残念だがいまはこれ以上のことはいえません。一時十分前に」
彼は交換手に、一時にラ・ブルブールの通話を申し込んだ。まだ少し時間がある。メグレはパイプをくわえて、普段と変わらぬ落ち着いた足取りで≪ドンキー・バー≫の方角へ向かった。バーのカウンターには、大勢の客が群れていたが、残念なことにパーソンの姿は見当たらなかった。
それでもビールを一杯飲んだ。ふと振りむくと、店の奥のほうの少しひっこんだところに、小部屋がある。メグレはそっちのほうに歩いて行った。その小部屋の片隅にアベックが一組。その反対側の黒い皮を張った腰掛けに、例の新聞記者が脚を広げ、空ろな目をし、半分横になるように坐っていた。眼の前のテーブルにはグラスがひっくり返っている。
しかし、パーソンはメグレの姿に気づいたが、動こうともしなかった。
「まだ私の声が聞こえますかね、パーソン?」
メグレは新聞記者の前に立ちはだかり、あわれみとも侮蔑《ぶべつ》ともつかぬ声でいった。
相手はかすかにからだを動かして、ぶつぶついった。
「やあ」
「今日の午後、あなたは私のセンセーショナルなインタビューを取材するといってましたな? よし! 私について来る勇気があるなら、いままで出会ったことがないような絶好の事件を取材させてあげるよ」
「どこへ連れていくんです?」パーソンはかろうじてしゃべっていた。口が自由に動かないので、音節をなしていないのだ。しかし泥酔してはいても、心の奥には、完全にとはいかないまでも正気の部分が残っているようだった。眼のなかに猜疑《さいぎ》の光があった、恐怖かもしれない。しかし自尊心は恐怖よりも強かった。
「第三級ですかい?」と、パーソンはアメリカ警察のきびしい尋問を暗にほのめかしながら、下唇を小馬鹿にしたように突き出してたずねた。「尋問などしようとは思わない。もうそんな必要もない」
パーソンは立ち上がろうとした。しかし、腰掛けに二度も尻もちをついてから、やっと立ち上がれる始未だった。
「ちょっとききますが……」とメグレはいった。「いまこの店にあなたの仲間はいますか? そう、あなたの考えているような連中のことだ。こういうことをきくのは、あなたのためなんだ。もしいるなら、私が先に出て、この店から左に百メートルほど行ったところにあるタクシーで合流したほうがあなたのためになる」
新聞記者はメグレの言葉を理解しようとしているようだったが、無埋だった。おじけづいた様子を見せたくないという気持で頭がいっぱいだったのだ。倒れないように窓枠に肩で寄りかかりながら、彼は部屋のなかをちらっと見た。
「さあ行ってください……あとからついて行くから」
メグレは仕方なく、どの客が組織の一員なのかを知ることは諦めた。どうでもいいことだ。そんなことはルイス警部補の領分だった。
表に出るとメグレはタクシーを呼び止め、適当な歩道に車を横づけさせて、座席の奥に乗り込んだ。五分ほどして、パーソンがかすかに千鳥足でやってきたが、まっすぐ立っているためにはじっと前を見つめていなければならなかった。彼はドアを開けた。
ふたたび彼は皮肉な言葉を投げつけた。
「田舎に散歩ですかね?」
こんどは、人里離れた場所で犠牲者を片づけるため、殺し屋たちがするちょっとしたドライブをほのめかしていた。
「≪バーウィック≫まで」メグレは運転手に命じた。
目と鼻の距難だった。メグレはパーソンを腕に抱えて、エレベーターまで運んだ。新聞記者の疲れ切った視線には、あいかわらず恐怖と自尊心とがあった。
「ルイスでも上にいるのですか?」
「警察の者などだれもいない」
部屋に入ると、メグレはすべての電燈をつけた。パーソンを隅に坐らせてから、ルームサービスに電話をかけて、ウィスキーを一本とグラスとソーダ水、そしてビールを四本たのんだ。電話を切ろうとして、ふと考え直してつけ加えた。
「ああ、それとハムサンドを適当にたのむ」
お腹が空いていたのではない。これも、一種の儀式と化しているオルフェーヴル河岸での彼の習慣だった。
パーソンは≪ドンキー・バー≫にいたときのようにまたぐったりと椅子に倒れ込んでいた。ときどき眼を閉じ、眠りに落ちたが、ちょっとした物音ではっと眼をさました。
十二時半、十二時四十五分。暖炉の上には、アルコールの壜とグラスとサンドイッチをのせた皿がずらりと並んでいた。
「飲んでもいいですか?」
「いいですとも。動かなくていい。私がやってあげよう」
もう完全に泥酔しているので、少しぐらい飲んでも変わらないのだろう。メグレがウィスキーとソーダ水をグラスに注ぐと、パーソンは驚きを満面に表わしてグラスを受け取った。
「あんたは変な人だなあ。私をどうしようというんです」
「別に何もしませんよ」
電話のベルが鳴り響いた。リトル・ジョンとマックギルが下に来たのである。
「お二人に上に昇ってもらってくれ」
メグレは戸口で二人の来るのを待った。廊下の奥に二人の姿が見えた。リトル・ジョンは燕尾服を着込み、普段に増して苛々している様子だった。マックギルはタキシードを着て、口許にうすら笑いを浮かべている。
「どうぞお入りください。わざわざご足労願いまして。どうしても来ていただかなければならなかったものですから」
最初に部屋に入ったマックギルが、肱掛椅子にぐったり倒れこんでいる新聞記者に気づいた。メグレは彼が一瞬ぎくっとするのを見逃さなかった。
「パーソンのことは気にしないでください。あとでおわかりになりますが、ある理由から、ぜひともこの男が必要なのです。お二人ともお坐りください。少々長くなるでしょうから、コートを脱いだらいかがです」
「警視、おたずねしますが……」
「いや、モーラさん。まだ駄目です」
物静かだが威圧的なある力がメグレから発散していた。二人は彼の言葉に従わざるをえなかった。メグレは受話器と腕時計を置いたテーブルの前に腰をおろした。
「もうしばらく待ってください。もちろん煙草をお喫いになってもかまいませんよ。葉巻はあいにくと持ちあわせてませんが」
皮肉ではなかった。予定の時刻が近づくにつれ、重いものがますます喉を締めつけるような気がして、メグレはせわしなくパイプをふかした。
三流ホテルの例にもれず、明りを全部つけても、室内はまだ薄暗かった。壁の向こう側から、ベッドに寝ている男女の物音が聞こえてきた。
ついに、電話のベルが鳴り響いた。
「もしもし。そう……メグレです……もしもし、ええ、ラ・ブルブールをたのみました。……えっ? ……はい、このまま待ちます」
そして、受話器を耳に押しつけたまま、モーラのほうを振り返った。
「フランスの電話機のように、レシーバーが二つついてないのが残念ですよ。これから行われる通話を全部あなたにも聞いていただきたいんですがね。大事な部分はすべてそのままくり返しますから。もしもし! ええ……何ですって? 先方が出ない? もうしばらく呼んでください。まだ別荘の人たちは眠ってるんでしょう」
ニューヨークからの電話が入って、ラ・ブルブールの交換嬢があわてふためいている様子が手に取るようにわかり、なぜかほほえましかった。
いまフランスは朝の七時だ。太陽は昇っているだろうか? メグレは急流のほとりに建っている温泉施設の真向かいにある郵便局を頭に思い浮かべていた。
「もしもし、どなたですか? ……もしもし、奥さんですね。お休みのところを申し訳ございません……もう起きておられましたか? ……ご主人をお願いします……すみません、いまニューヨークから電話しているものですから、三十分あとにまたおかけすることはできないのです。……ご主人を起こしてください……ええ」
まるで思わせぶりのように、メグレはこの奇妙な尋問に立ち会わせた三人の来客の顔をわざと見なかった。
「もしもし! ジョゼフ・ドーマルさんですね?」
さすがのリトル・ジョンも動揺を完全に隠すというわけにはいかなかった。彼は脚を組んで、またその脚をほどいた。
「私はメグレという者です……ええ、おっしゃるように、司法警察局のメグレです。断っておきますが、私はすでに司法警察局を退職しておりますから、この電話はまったく私的な用件でおかけしています。何です? ……待ってください。まず、この電話機がお宅のどんな場所に設置されているか、おっしゃってください。あなたの書斎? 二階ですか? ……それではもう一つ。下の階か隣りの部屋にあなたの声がもれる可能性はありますか? ……そうですか。ドアを閉めてください。それと、もしまだ着ていられないなら、ガウンをひっかけてください」
オーケストラ・マスターの書斎はきっとルネサンス調の部屋で、ぴかぴか光る重厚な家具が置かれ、壁にはジョゼフ・ドーマルがフランスのさまざまの小劇場で指揮した数々のオーケストラの写真がかかっているにちがいない。
「もしもし! もうしばらく待ってください。この電話をつないでくれて、いまこの声を聞いているお嬢さんに、一言伝えることがありますから、……もしもし、お嬢さん。あなたのプラグをはずして、この電話が切れないように見張っていてほしいんですが。……もしもし! よしこれでいい。ドーマルさん、聞こえますか?」
ジョゼフは現在、髭《ひげ》をはやしているだろうか? 口髭をはやしていることは、まず間違いなかろう。すでに白いものの混じっているにちがいない口髭。それからぶ厚いレンズの眼鏡もかけているだろう。ベッドを飛び出たとき、眼鏡をちゃんとかけただろうか?
「これから、ぶしつけで奇妙な質問をします。よく考えてから返事をしてください。あなたが控え目な人で、家長としての責任を強く意識なさっている方であることは、よく存じてます……何です? 正直な男?」
メグレはリトル・ジョンのほうを振り返り、とくに他意もなくくり返した。
「正直な人間だといってますよ」
ふたたび受話器に口を近づけて、
「そうでしょうとも、ドーマルさん。重大な質問ですので、ぜひ率直にお答え願います。一番最近酒を飲んで酔っ払ったのはいつごろのことですか? ……ええ、そうです、酔っ払ったのはいつか、とおききしてるんです。完全に、制御がきかないほど酔っ払ったことです」
メグレは口を閉ざした。彼の頭には、女占い師の思い出話を聞いて作り上げた若き日のジョゼフの姿が浮かんでいた。いまはもっとでっぷりと肥っているに違いない。勲章でももらっているかな? 廊下で奥方が耳をすませてはいないだろうか?
「ドアの外にだれかいるか、見てきても結構ですよ……ええ……このまま待っていますから」
足音が遠ざかって行き、ドアが開けられ、ふたたび閉まる音が聞こえた。
「そうですか。七月ですね? 何ですか? 何度も経験したことがないほど酔っ払った? なるほど」
暖炉のあたりで物音がした。パーソンが起き上がり、震える手でウィスキーをつごうとして、壜の口がグラスにぶつかったのだった。
「詳しくお聞かせくださいませんか? 七月というと、ラ・ブルブールでのことですね。劇場のバーで。そうだと思ってました……偶然のきっかけで。そうでしょうとも……待ってください。私がその先はいいましょう。……あなたはそのとき、一人のアメリカ人と一緒でしたでしょう? パーソンという名の男と……名前は思い出せない? そうですか。痩せて、身なりのぞんざいな、歯の黄色い、髪の毛のぼさぼさな男ではなかったですか? ……そうです……その男なら、いま私の横にいますよ……何です?
落ち着いてください。誓ってあなたにご迷惑をかけることはありませんから。
その男はバーにいた……いや、あなたの言葉を私がくり返しても、気にしないでください。私のまわりに、あなたの話に興味を持っている者が数名おります……いえ、アメリカの警察の人間ではありませんよ。あなたの家族やあなた自身の立場を危うくすることはけっしてありませんから、ご心配なく」
メグレの声には、相手を侮るような響きがあった。さらにリトル・ジョンを盗み見た視線には共犯者のような光があった。リトル・ジョンは額に手を当てて聞いている。一方マックギルは金のシガレットケースを、苛々した面持ちでもてあそんでいた。
「どうしてそんなことになったのか、見当もつかないですって? 酔っ払うときなど、みんなそんなものですよ。そう、一杯また一杯と飲んでいったんでしょう。ウィスキーを飲んだのは数年ぶりのことだったんですね? なるほど。それで、ニューヨークのことを話したくなったんですか……もしもし! ……そちらは、陽が出ていますか?」
唐突な質問だったろう。しかし、電話でジョゼフと話しはじめたときから、メグレはこの質問をしてみたかったのだった。まるでふつうの背景とふつうの雰囲気のなかで相手を見る必要があるみたいだった。
「ああ、そうですか。フランスはこちらよりも春の訪れが早いですからね。それであなたは、ニューヨークのことや、若い頃のことをたくさんしゃべったんでしょう? ジェイ・アンド・ジェイですか……この名前を私が知っているからって気にしないでください。
それからあなたは、その男にリトル・ジョンとかいう名の人間を知っているか、とたずねた……非常に酔っていた……ええ、ええ、相手に無理矢理飲まされたんですね。酔っ払いっていうのは、一人で飲むのを嫌うもんですからね。
あなたはその男にいった。リトル・ジョンという人間は……ええ、わかってます、ドーマルさん……どうか……えっ、何です? まさかあなたは、私が強制してるなんてお考えにならんでしょうな? それじゃあ、明日か明後日にフランスの機動警察に正式に依頼して、直接尋問に行かせてもいいんですか?
もう少し勇気を出すことです。自分ではそのつもりでなくても、悪業を犯していることはよくあることです。それでも悪業は悪業です」
メグレは怒ったように声を大きくした。そして、マックギルにビールをついでくれと目くばせした。
「記憶がないなんていわないことです。残念だが、パーソンのほうは、あなたがしゃべったことをすべておぼえていたんです。ジェシーが……何ていったんです? ……一六九番街のアパート……そのことで、悪いニュースを伝えなければなりません。アンジェリーノは死にました。殺されたんです。その責めは、元をただせばあなたにあります。
泣きまねはやめなさい。
わかりました。脚が疲れたのなら椅子を持ってきて坐りなさい。時間はたっぷりあります。交換手にいっておきましたから、切られる気遣いはありませんよ。この電話の料金のことなら、いまにだれが払うのかわかります、安心しなさい、あなたではありません……。
何です? ええ、お好きなように話してけっこうです。私は聞いていましょう。ただ、いっときますが、私はすべてを知っています。嘘をついても無駄ですよ。
あなたはかわいそうな人だ、ドーマルさん。
正直? ええ、そいつはもう聞きました……」
薄暗いホテルの部屋のなかで、三人の立会人は、じっと押し黙ったままだった。パーソンは、ふたたび肱掛椅子に倒れ込んで、軽く目を閉じ、口をだらしなく開けていた。リトル・ジョンはあいかわらず色白の、きゃしゃな手を額に当てたまま、身じろぎ一つしないでいる。マックギルは自分でウィスキーをグラスに注いだ。二人のワイシャツの胸元と袖口の白、燕尾服とスモーキングの黒。そしてあるときは重々しく、あるときは侮るように、またあるときは怒りに震えて部屋のなかに鳴り響くメグレのユニークな声。
「続けなさい……愛していた。それはもちろんでしょう。しかし希望はなかった……ええ、ええ、わかってます……親友だった……命を預けていた、というんですな。
意気地のない者はだれでもそんなことをいうもんです。そんなことをいってながら、裏切る。あなたは機会に乗じただけのことです……いや違う。彼女は関係ない……この上彼女に泥を塗ることはやめなさい。彼女はまだほんの少女で、あなたは一人前の男だった。
そう……モーラの父親が死んだ。知っています。そのため彼は出発した……あなたと彼女は二人だけで一六九番街のアパートに戻った。彼女は悲しげだった。そうでしょう……モーラはもう帰って来ないのではないか? ……そんな考えを彼女に吹き込んだのはだれなんです? ……誓ったっていい! それはあなただ。あなたがその考えを彼女の頭のなかに植えつけたんだ。その当時のあなたの写真を見れば、あなたという人間がわかる。そうです、私は持っています。あなたはもう持っていない? よろしい! 一枚送ってあげましょう。
貧乏だった? お金を置いていってくれなかった? あなたとおなじように一文無しだった彼に、どうしてそんな余裕がありましたか?
それはそうでしょう。あなた一人じゃ、舞台には立てない。しかし、カフェとか映画館とかでクラリネットを吹くことはできたでしょう。必要とあらば街を流したってよかったはずです。
そうした? それは感心でしたな。残念なのは、あなたがしたもう一つのことだ。わかってますとも。愛していたというんでしょう。
ただあなたは、もう一つ別の愛情も自分にはあるということを承知していた。ジェシーヘの愛情と親友への友情の板ばさみになった。
それで? ドーマルさん。手短かにお願いしたいもんですな。通俗小説のような虚飾が多すぎます。
十カ月近く、ええ、知ってます……でもそれは仕方ない。父親が死んで、後始末に手間取ったんですから。
その間にあなたは、彼にとって代わった。
そして、子供が生まれる頃になって、ジョンからアメリカへ近いうちにもどるという知らせが届いた。非常に不安になって、生まれた子供は施設にあずけた。
この上何を誓おうっていうんですか? 何です? ……ドアの外を見てきたい? ……どうぞ。ついでに水を一杯飲んでいらっしゃい。そうしたほうがよさそうだ」
会ったこともない人間にたいして、五千キロも離れた場所から尋問を行なうなどというのは、メグレにとっても初めての経験だった。
汗の玉が額にふき出ていた。彼はもうビールを二本空にしていた。
「もしもし! わかりましたよ。自分が悪かったんじゃないと、そう何度もくり返すのはやめなさい。完全にジョンの後釜に坐ったところに彼が帰って来た。そして、真相を打明け、あなたが愛していると思い込んでいた女を守る代わりに、卑怯卑劣にも彼女をジョンの手に戻した。
わかっている、ジョゼフ。
あなたは卑劣な臆病者だ。勇気のない恥知らずの横領者だ。子供が生まれたということもいう勇気がなかった。何だ?
ジョンは子供が彼の子供だということを信じてはくれなかったろう、というのかね? もう一度くり返すよ。
ジョンは子供が彼の子供だとは信じてくれないだろう、と思った。
するとあなたは、子供の父親が自分ではないことを承知してたわけだ……え? そうだね? そうでなかったら施設にあずけるなんてことをするわけがない? よくもそんなことを平然といえるもんだ……電話を切ってはいけない。さもないと、今日中にあなたを牢にぶちこませますぞ。よろしい! ……
きっとあなたは、最近になって正直な男になったんだろう。少なくとも外見だけは正直な男に。しかし当時のあんたは、小心の卑劣漢だ。
ジョンがもどってきてからも、おなじ屋根の下で三人で暮らしていた。いない間に後釜に坐っていた場所は、元どおりジョンのものになっていた。
もっと大きな声で話しなさい。一言も聞き洩らしたくないんだから……ジョンは変わってしまっていた? 何をいおうというんだ? 彼は不安げで苛々した猜疑心の強い男になっていた? ジェシーは彼にすべてを話してしまいたいといっていた? 当たり前だ! 彼女にしてみたら当然そうしたほうがよかったんだ。
そうだろう。あなたにはそこまで見通せなかった。だから、彼女が話してしまおうとするのを、必死でくいとめた。
ジョンはなにか胡散《うさん》臭いものを自分の周囲の雰囲気に感じ取っていた……えっ? ジェシーは何かにつけて、あなたに哀訴していた? その言葉は気に入りました。なかなか素晴らしい表現をご存じだ。彼女は何かにつけて哀訴していた。
それで、ジョンはどうして子供のことを知ってしまったんです?」
リトル・ジョンは何かいいたげに、からだを動かした。しかしメグレは彼のほうに黙っているように手で制した。
「もう少ししゃべらせておきましょう! いや、あなたにいったんじゃない。だれにいったのかは、すぐにわかるから……彼は産婆からの請求書を見てしまった? ……でも、すべてのことには気がつくわけはない……彼は自分の子供だとは信じなかった?
彼の立場になってみたらいい。その上、施設に入れられているんだよ、子供は。
その口論の最中、あなたはどこにいたんだね? ……だって、すべて聞いていたんだろう? 隣りの部屋にいた。二つの部屋の間は、仕切りドア一枚でつながっていた! それでいったいどのくらいの間、そこに住んでたんだね? ……三週間……ジョンが帰ってから三週間もの間、あんたは、何カ月かあなたの女だったジェシーとジョンが寝ている部屋の隣りで寝てた……。
できたら早いとこ終わらそうじゃないか。きっとあなたも面白くはないだろうから……私はこうして、電話で尋問しなくてはならないことを、いまでは悔んではいない。直接会っていたら、一発拳固をお見舞いすることを押さえるのが難しかっただろうからね。
黙んなさい! 私の質問にだけ答えてりゃいい。あなたはドアのうしろで聞いていた。
ええ、ええ……ええ、続けて」
メグレは目の前のテーブルに掛けてあるテーブルクロスにじっと目をやっていた。もう電話から流れてくる話をくり返そうとはしなかった。あまりに強く歯を噛み合わせたため、パイプの管がつぶれてしまったほどだ。
「それから? えい! 早く……えっ? すぐに割って入ることはできなかった? 何をしでかすかわからなかったから? そりゃそうだ! 彼の立場になってみるといい。もっともあなたには無理な相談だろうが……階段の上から……背広を運んで来たアンジェリーノが……すべてを目撃してしまった。
いや違う。あなたはまた嘘をついている……あなたは二人のいる部屋に、とめに入ろうなどとはこれっぽっちも思わなかったはずだ。ただただ逃げることばかり頭にあったにちがいない。ドアが開いていただけだろう……そう……そこで彼はあなたの姿を見た。
そんなことだろうと思ってたよ。遅すぎたがね!
こんどこそ躊躇なくあなたを信用しよう。あなたがそのことだけはパーソンにしゃべらなかったことはたしかだ。共犯の罪に問われるかもしれないからな。そうだろう? でもいっとくが、まだ罪は晴れたわけじゃあない……とんでもない、時効なんてない……私には柳行李がはっきりと見える……ありがとう、もういい。もうこれ以上知りたいとは思わない。最初にいったように、パーソンはいまここにいる。酔っ払ってね。そう、いつものとおり。
リトル・ジョンもいる。話をしたくはないだろう? もちろん私も強制はしない。
あなたが愛情深くも施設にあずけたマックギルもこの部屋にいるが、彼とも話を強要したりはしない。
これで終わりだ。ドーマル夫人がたてているコーヒーの香りが、二階まで届いているだろう。あなたは受話器をかけて、ほっと深い溜息をついて、階下におり、家族みんなで朝食の卓につけばいい。
あなたがこの私からの電話のことをどう説明するか、はっきり想像できる。私のオーケストラ・マスターとしての才能を聞きおよんだアメリカの興行主から電話があってね……。
さようなら、ジョゼフ・ドーマル。決して会いたくないものだな。卑劣漢め!」
メグレは電話を切った。からだじゅうのエネルギーをすべて使い果たしてしまったように、しばらくぐったりとしていた。
だれも身動き一つしないでいた。メグレは重そうに立ち上がり、くだけたパイプの破片を拾い集めて、テーブルの上に置いた。はからずも、それはニューヨークに来て二日目に買ったあのパイプだった。彼はコートのポケットにあるもう一本のパイプを取りに行き、煙草を詰め、火をつけると、グラスに酒を注いだ。ビールではなかった。ビールではいまは味けなさすぎるように思えた。そこで大きなグラスにウィスキーを生で注いだ。
「このとおりです!」と、最後に溜息をついた。
リトル・ジョンはあいかわらず動かなかった。メグレはグラスにウィスキーを入れ、手の届くところにそれを置いた。
モーラがグラスに口をつけ、いくぶん上体を上げたとき、メグレは落ち着いた声で話しかけた。最初は奇妙な響きがこもっていた。
「まずこの男のことを先に片づけてしまったほうがいいでしょう」と肱掛椅子に倒れこむように坐り、額の汗をふいているパーソンを指さしていった。
これもまた、弱くて卑劣な男だ。ただもっと悪辣で攻撃的な手合いだ。実際メグレにしてみれば、この男にくらべれば、まだドーマルのような小心で、プチブル的な卑劣漢のほうがましではないか?
パーソンのことは簡単に理解できる。ヨーロッパに行ったときにたまたま手に入ったネタを有効に使ってくれる何人かのギャングと、≪ドンキー・バー≫かどこかで知り合ったのだ。
「いくら受け取った?」メグレは静かにたずねた。
「それを知ってどうしようっていうんです? 私がだまされたと知ったらあんたはさぞ満足だろうよ」
「数百ドルってとこかね?」
「だいたいそんなところだ」
するとメグレは、ポケットからリトル・ジョンの名でマックギルから渡された二千ドルの小切手を取り出した。そしてテーケルの上の万年筆を取って、パーソンという名を裏書きした。
「まだ時間があるから、これだけあれば身を隠すことができるだろう。ドーマルが話を拒否するか、私が間違っていたときのために、あなたに同席していてもらいたかったのだ。あなたがフランスに行ったときのことを私に話すはずはなかったからね。それでも結局はつきとめられると思っていた。うんとおそくなったろうが。あなたがマックギルと知り合いで、アンジェリーノを殺害した連中とも親しいことを知っていたからだ。奴らの名前をきこうなんて思わないがね」
「ジョズのほうが私より奴らをよく知ってるよ」
「そうだろう。それはどうでもいい。なぜだかわからない。きっとあわれみがあるからだろうが、できればあなたが法廷に引き出されるのを見たくない」
「その前にこのからだに自分で弾をぶち込んじまうよ」
「なぜだ?」
「ある人のためさ」
いささか通俗小説じみていたが、メグレには新聞記者が暗に母親のことをほのめかしていることがわかっていた。
「今日このホテルから出ていくのは、危いと思う。あなたの仲間の連中は、きっとあなたがこの席にいると思っているはずだ。あなたの世界じゃ、こういうことはあまり好まれないだろう。フロントに電話して、私の部屋の近くに一つ部屋をとってもらおう」
「私は恐くはない」
「私は今夜何も起こってほしくないんだ」
パーソンは肩をすくめて、ウィスキーをラッパ飲みした。
「私のことはかまわないでくれ」
彼は小切手をつかむと、千鳥足でドアに向かった。
「あばよ、ジョズ!」振り向きざまにパーソンは叫んだ。
それから、精一杯の最後の皮肉をメグレにいった。
「バイバイ。ミスター・メグレット」
虫の知らせがあったのだろうか? メグレはパーソンを呼び止めて、強引にホテルに泊まらせ、必要があらば一室に閉じ込めようかと思った。しかし彼はそれをしなかった。ただ窓際まで歩を運んで、カーテンをそっと開けてみずにはいられなかった。リトル・ジョンならともかく、彼には似つかわしくない仕草だった。
数分たって、数発の鈍い発射音が聞こえた。紛れもなくマシンガンを掃射する音だった。
メグレは二人の男のところにもどって来て、苦しそうにつぶやいた。
「降りて行っても仕方がないでしょう。彼は自分の借りを支払ったんです!」
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第十章
三人はそれからさらに一時間部屋のなかにいた。パリ警視庁のオフィスでのように、パイプやシガレットの煙が徐々に部屋のなかに充満していった。
「申し訳ありませんでした」とリトル・ジョンがまず口を切った。「私も伜もあなたを遠ざけようとしたりして」
リトル・ジョンも疲れていた。しかし、彼のなかには大きな緊張の弛緩《しかん》、ほとんど肉体的といっていい、果てしない安らぎが感じられた。緊張にからだをこわばらせ、自分のなかに沈潜し、突進したい欲望をやっとのことで押さえている姿でなく、こうしたリトル・ジョンの姿をメグレが見るのは初めてだった。
「六カ月の間、私は彼らの脅迫を忍んできました。いや、少しずつ譲歩せざるをえない立場に立たされてきたのです。彼らは四人組で、そのうちの二人はシシリア人です」
「その辺のことは私にはどうでもいいのです」とメグレはいった。
「そうですね。昨日あなたがホテルに見えたとき、私はいっそすべてお話してしまおうかと考えました。ジョズに止められまして」
リトル・ジョンの表情が険しくなり、眼がこれまでよりもずっと冷たくなった。しかし、いまのメグレには、どんな苦痛がこの恐ろしい冷たさをあたえているのかわかっていた。
「想像することができますか?」リトル・ジョンは低い声できっぱりといった。「殺してしまったがいまでも愛している女の息子を持った父親というものを」
マックギルは静かに立って、二人から一番遠いところにある、パーソンの坐っていた肱掛椅子に腰をおろした。
「昔のことはいいますまい。いまさら弁解するのはやめましょう。別に恨みにも思っていません。わかっていただけますか? 私はジョゼフ・ドーマルではありません。いっそジョゼフを殺してしまえばよかったのです。それにしても、あなたにお話しなければ」
「私は知っていますよ」
「愛していたのです。いまでも、この上なく愛しています。すべてがついえ去っても、私は……いや、やめましょう」
メグレは重々しくうなずいた。
「そう、やめましょう」
「私は人間の正義が要求する以上の苦痛を贖《あがな》ったと思っています。さきほどあなたは、ドーマルに最後まで語らせなかった。警視さん、私の言葉を信じていただけるでしょうね」
メグレはきっぱりと、二度うなずいた。
「彼女と一緒に私も死んでしまいたかった。すぐに私は自首して責めを負おうと決心しました。あの男が、やっかいなことに巻き込まれるのを恐れて、必死で止めたのです」
「わかります」
「あの男は自分の部屋から柳行李を持ってきました。そして、河に投げ込んでしまおうとすすめたのです。私にはできませんでした。しかし、想像もしていなかったことが起こったのです。アンジェリーノが来ました。彼は一目見て、事態を察しました。彼が密告するかもしれません。ジョゼフはすぐに取りかかろうと主張しました。しかし私はそれから二日間……」
「そう、二日間、行李を動かさなかった……」
「アンジェリーノはしゃべりませんでした。そしてジョゼフは半狂乱になって怒っていました。私は彼がそばにいることに耐えられなくなって、彼に有金全部をあたえ、必要な処置をたのみました」
ジョゼフは中古の小型トラックを買い込んできました。われわれは引っ越しするようなふりをして、持物をすべて積み込みました……。五十マイルほど離れた田舎に行って、河のほとりの森のなかに、私が……」
「やめてください、お父さん」マックギルが叫んだ。
「これがすべてです。私はあらゆることで罰を受けてきた。疑惑もその一つでした。それがもっとも恐ろしい罰でした。何カ月も私は、子供はお前の子供ではない、ジェシーは嘘をついていたのだ、という内心の声に悩まされました。私は子供を、知り合いの善良な婦人に預けたまま、会おうとはしませんでした……いや、のちになってからも、私は会う資格がないと思っていたのです……息子に会う権利などないんです……。
あなたがジーンにつきそってニューヨークにいらしたとき、このことをお話するわけにはいきませんでした。あれも私の息子です。
しかしジェシーの生んだ子ではありません。
警視さん、私は数年後、もう一度人なみの人間になりたいと、もうロボットのようにはなりたくないと思いました。それはジョズもよく知ってます。
私は結婚しました。一かけらの愛情もなく……薬でも飲むように……子供ができました……しかし私は、その母親とそれ以上一緒に暮らすことはできませんでした……彼女はまだ生きています……彼女のほうから離婚を請求してきたのです……南アメリカのどこかで新しい生活をはじめたということです。
ジョズの失踪のことをご存じですね。この子が二十歳のときのことです……この子は、あなたがパーソンと出会った世界といわばそっくりの世界にいる連中と、モントリオールでつき合いはじめました。
マックギル夫人が死に、私はジョズの手掛かりをまったく失いました。私はこの子が、自分のいる場所から数百メートルも難れていないブロードウェイで、ご存じの連中の間にはさまって暮らしているなどとは思いもしませんでした。
もう一人の息子のジーンは、あなたに私からの手紙を見せたらしいですね。あの子から聞きました。驚かれたでしょう……。
おわかりですか、あれは私がジェシーの生んだ子のことしか念頭になかったという証しなのです……
私はジーンに愛情を注ごうと一生懸命でした……怒りにも似た心情で、そう徹しようとしていたのです……もう一人の息子にあたえたいと心の奥で思っているすべての愛情を、あの子に振り向けようとしていたのです。そして六カ月ほど前のある日、この子が私の前にあらわれました……」
ジョズ・マックギルのほうを指さして「この子」といった身振りには、限りないやさしさがあふれていた。
「この子は、パーソンとその仲間から、真相を聞いたばかりでした。私の眼の前にあらわれたときにこの子のいった最初の言葉をよくおぼえています。
≪モーラさん。あなたはぼくの父親です≫」
このときマックギルが哀願した。
「やめて、パパ!」
「もうやめよう。要点だけはお話しておきます。それ以来、私どもは一緒に暮らしています。救えるものだけは救おうと一緒に努力してきました。ドケリュス氏があなたに打明けた財産相続の変更もこれで納得がいったでしょう……いつの日か、破局が来そうな予感がしていたからです。かつてジョズの仲間だったわれわれの敵が、見逃すはずはありません。連中の一人のビルは、あなたがニューヨークに着くと、たいそうな茶番を演じてあなたの眼をあざむこうとしました。
ビルは私たちの命令で動いているとお思いになったでしょうが、逆だったのです。あの男がわれわれに命令を発していたのです……もっともあなたを追い払おうという意図は失敗に帰しましたが……。
連中はあなたゆえにアンジェリーノを殺害しました。あなたが手掛かりをつかんだと思ったからです。絶好のゆすりのネタを取り上げられるのではないかと恐れたからです。
私は三百万ドルの財産を持っています……この六カ月の間に五十万ドルほど連中に取られました。しかし、連中がほしがっているのは全部の財産です。さあ、警察に行って、以上のことを説明してください」
まさにこの瞬間、メグレはなぜあの悲しげなピエロのことを考えたのか? モーラ以上にあのデクスターこそ今回の事件の象徴的人物なのだ。そして逆説めいてはいるが、まあまあ正当に二千ドルという大金を手に入れた矢先に、路上で殺されてしまったパーソンも。
メグレの眼から見ると、ロナルド・デクスターという男は人間を圧しつぶすあらゆる不幸と不運を集約している。デクスターも裏切りによって五百ドルというちょっとした大金を手に入れたにもかかわらず、いまビール壜とウィスキーグラスと手つかずのサンドイッチがごたごたと載っているこのテーブルの上に、その金をおいて行ったではないか。
「あなたは外国に行くこともできたのではないですか?」と、メグレは自信なげにほのめかした。
「いや、警視さん……ジョゼフのような男ならそうしたでしょう。でも私はいやだ……私は三十年近くも孤独な戦いをしてきました……私の最悪の敵である私自身と私の苦悩にたいして……何度、私はこの戦いに負けてしまいたいと思ったことでしょう。本当に、心から清算することを望みました」
「そんなことしてなんの役に立つのです?」
そのとき、長年の神経の緊張から解きはなされたリトル・ジョンは、心の底からしぼり出すような言葉をつぶやいた。
「休むためです……」
「もしもし……ルイス警部補?」
メグレは朝の五時に自分の部屋で一人になると、ルイスの自宅に電話を入れた。
「何か変わったことでも?」と、相手はきき返した。
「今夜あなたのホテルの近くの路上で事件がありました。私は……」
「パーソンでしょう?」
「もうあなたはご存じなんですか?」
「あの事件はたいしたことありません!」
「なんですって?」
「どうってことないといったのです! あの男はどちらにしても、二、三年のうちには肝硬変で死ぬでしょう。もっと苦しんでね」
「よくわかりませんが……」
「まあいいでしょう……ところで今朝電話したのは他でもありません、明日の朝ヨーロッパ行きのイギリス船が出航すると思うんですが、私はその船で帰るつもりです。このことをお伝えしようと思いまして」
「でもまだあの若い女の死亡証明書が見つからないんです」
「あれは見つからないでしょう」
「えっ?」
「いや何でもありません……結局殺人事件が二つになったわけですね。アンジェリーノとパーソン……フランスではこういうのを特殊地帯《ミリュー》のドラマと呼んでいるんです」
「どういう意味の特殊地帯です?」
「人間の生活から疎外された連中の世界のことです」
「私にはどうもわかりませんが」
「これもどうでもいいことです。たださようならをいいたかったのです、警部補。私はムン・シュール・ロワールのわが家に帰りますが、フランスにいらしたときには寄ってください。いつでも歓迎しますよ」
「事件を諦めるんですか?」
「ええ、そうです」
「気力がなくなったんですか?」
「いいえ」
「あなたをいじめたくはありません」
「とんでもない」
「でもわれわれは解決してみせます」
「私もそう確信しています」
事実そのとおりだった。メグレは三日後、海上の船のラジオで、シシリア人二人を含む四人の狂暴なギャングがアンジェリーノおよびパーソン殺害の容疑で逮捕され、彼らの弁護士は犯行を否定しているというニュースを知った。
出航のとき、桟橋にはおたがいに見知らぬふりをしてメグレのほうを見つめている数人の人間がいた。
紺の三つぞろいに、暗色のコートのリトル・ジョン。
コルクの吸い口がついた煙草を、神経質そうに喫っているマックギル。
また、うまく前へ出ようとして係員にあからさまな軽蔑をこめて注意されている悲しげな人物……ドナルド・デクスター。
羊のような顔をした赤毛の男もいた。彼は出航まぎわまで船の上に留まっていたが、警察は彼にたいして非常な敬意を払っていた。
船内のバーで別れの酒をくみかわしながら、オブライエン警部もルイスとおなじ質問をした。
「やはり諦めるんですか?」
オブライエンはこの上なく無邪気な顔をしていた。メグレはこの無邪気な表情を真似しようと努めながら、答えた。
「そう、警部、諦めますよ」
「やっと……」
「やっと、連中をしゃべらせることができるというときに、ですか。あの連中は興味ある話など何もしませんよ。それより、ロワール州の谷間では、今が苗床のメロンの苗を移植しなければならない重要な時期なのです……私は園芸家になったんですよ」
「満足されましたか?」
「いや」
「失望?」
「それほどのことはありません」
「敗北?」
「そんなことはわかりませんよ」
このときはまだシシリア人次第だった。彼らは捕ったら、すべてを吐くか、自衛のために黙秘するかのどちらかだ。たぶん口を割らないほうが賢明で、有利だと判断するだろう。
十日後、メグレ夫人は夫にたずねた。
「結局、あなたは何のためにアメリカまで行ったの?」
「何のためでもないさ」
「手紙に書いてあったパイプも持ってこなかったじゃないの……」
今度はメグレがあの卑怯なジョゼフになる番だった。
「アメリカってとこは、パイプが高すぎるんだ。それに丈夫じゃないし……」
「せめてわたしに何か持って帰れなかったの、ありきたりのおみやげでも何でもいいから……」
このことがあったので、メグレはリトル・ジョンに電報を打つはめになった。
≪ジューク・ボックスを送られたし≫
ニューヨークヘの旅から彼が得たものは、何枚かの一セント鋼貨と五セント白銅貨の他には、このジューク・ボックスだけだった。
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訳者あとがき…メグレあ・ら・かると
ジョルジュ・シムノンについて
ジョルジュ・ジョゼフ= クリスチャン・シムノンは一九〇三年、ベルギーのリエージュでブルターニュ系の父親とオランダ系の母親との間に生まれる。父親は保険のセールスマンで暮し向きが楽ではなかったので、母親は大学生相手に下宿屋をはじめる。教会か軍隊に入ろうという彼の計画は……どちらも小説を書く時間が十分に取れるからである……、兄の死によってだめになる。ジョルジュは生活費をかせぐために十六歳で学校を去らなければならなかった。
最初の仕事はパン屋の見習いであったが、彼には興味がなかった。そこで本屋の店員になり、長い時間を読書にあてることができた。しかし、店員にも満足できず、まもなく『リエージュ・ガゼット』紙の通信記者になり、警察裁判所廻りを担当させられる。一カ月後彼は自分のコラムを持つようになり、それが三年つづいた。この頃短篇や長篇を書きはじめる。最初の小説≪Au pont des Arches≫を十日間で書く。一九二〇年に出版される。シムノン十七歳。これはユーモア小説で、のちにシムノンはこの作品のことをつぎのようにいっている。
「これは十六の年に書いた処女作で、いまは完全に姿を消してしまって、わたしの手許に一冊あるきりだ。これを書いたとき、わたしはユーモア作家になるつもりだった。しかし、世間にはそれが理解できなかったらしい……この作品の持つユーモアの故にね」
兵役で、騎兵隊で訓練をうけた後、一九二三年にパリに移住する。多数のペンネームで三百篇ほどの短篇を書きまくる。そのペンネームのなかで、クリスチャン・ブリュース、ジャン・デュ・ペリー、ジョルジュ・シムが有名。このかせぎで車とヨットを買い、運転手を雇うことができた。
この初期の仕事のむなしさを悟ったシムノンは、もっとまじめな作品を書こうとする。あちこち旅行をし、興味ある人々と会おうと決心する。そしてヨット≪オストロゴート号≫で外国をまわりながら小説を書く。探偵小説のヒーローを創造する苦心をさんざんしたあとで、ついに一九二九年九月にオランダのデルフザイルの近くで『怪盗レトン』(Pietr-le-Letton)を書いて、メグレを登場させる(この本の出版は一九三一年)。彼は月に一冊の割合で十八冊のメグレ物を書くが、やがてメグレがいやになる。もっとシリアスな小説を書くため、メグレを書くのをやめてしまう。
しかし、メグレ・シリーズは非常に人気が出る。最初のメグレ物が出版された年(一九三一年)の終りには、十八カ国語に翻訳される。まもなくフランスでは、メグレ物はイギリスやアメリカでの「シャーロック・ホームズ」とおなじような人気を得る。しかし、イギリスやアメリカでは、出版社が一冊に二つのメグレ物を入れるまで、あまりよく売れなかった。翻訳や映画(後にはテレビ)化のおかげでシムノンは有名になり金持になったが、彼はメグレに興味を失ってしまった。次の十年間、彼は実験的な心理小説を書きつづける。アンドレ・ジイドは彼のことを「現代フランスでもっとも偉大な、真に≪小説家らしい≫小説家だ」と言った。
シムノンは若いときには三、四日で一冊の本を書くことができたが、後に一年に十二冊ぐらいの出版点数に押さえている。彼は小説の雰囲気と主人公に没入し、一日一章の割で書き、原稿を八日から十一日で仕上げる。これ以上書きつづけられないのは、二週間以上も主人公に没入していることができないからだと、彼は言っている。この出来上った原稿は一週間ほっておかれる。それからシムノンは二、三日かけて読み返し、ちょっと手を加えて出版社に送る。
一九四〇年の初めに、純文学の仕事からの気休めという形で、メグレにもどる。この時期の短篇の数篇は後に『エラリイ・クイーン・ミステリ・マガジン』の本国版に載る。
戦争のあいだ(一九三九〜一九四五年)、シムノンはフランスに住み、パリからの逃亡者たちを助ける組織をつくる。
一九四八年に、半自叙伝的小説を出版する。五四四ページの大作で、多数の批評家はシムノンの最高の作品としている。
シムノンはつぎの十年間をアメリカで過ごす。ニューヨーク、アリゾナ、フロリダ、カリフォルニア、そしてコネチカット。一九五〇年頃には、もう出版点数は年六冊に落ち、メグレ物はそのうちの一、二冊にすぎなくなる。一九五五年にヨーロッパに帰り、多くの時間を旅行して歩く。彼と、夫人と、四人の子供は最後にはスイスのローザンヌ近くの小さな村に住みつく。この頃には一年に四冊のスローペースで書いている。一九六〇年から一九六三年までに書きためたノートは『老いの問題』として出版された。一九七三年初めには、健康上の理由で一切の著作を断念すると宣言した。
初期のすぐれたメグレ物は本格好きのミステリー・ファンにはあまり人気がない。シムノンの長所である心理洞察、雰囲気描写の妙味にもかかわらず、推理の手ぎわが丹念ではないかららしい。しかし、彼は今日人気がある警察小説のタイプにある影響をあたえているし、ヨーロッパのミステリ作家への影響は計りしれない。シムノンは探偵小説の作家というより、犯罪小説の作家というべきである。
メグレ物ではないミステリには、一九三二年に出版された三冊の重要な短篇集がある。『十三の謎』『十三の神秘』『十三人の犯罪人』。
シムノンの重要な長篇小説は『汽車を見送る男』(一九三八年)、『過去の女』(一九五一年)、『判事への手紙』(一九四七年)、『雪は汚れていた』(一九四八年)などである。
メグレ警視について
ジュール・メグレ。身長五フィート・十一インチ、どっしりしていて、肩幅が広い。ものうい顔つき、いつでもひげを剃っているのは中産階級の生まれのせい。彼のスーツは上等の服地で、仕立てもいい。手はきれいで、よく手入れが行き届いている。ビロード襟の重い外套を着、たえずポケットのなかに両手を突っ込んでいる。帽子は山の部分が丸く、つばの幅の狭い堅いフェルト帽。警察官という一般的な観念からはほど遠い。結婚する前の若い時代のメグレは医学の勉強をしたがうまく行かず、二年間巡査をしたあと、パリ警察庁に入る。北駅のパトロール係、風俗取締班、デパートのパトロール係を担当させられる。そのあと階級が次第に上って行き、警部になり最後に警視になる。
彼はリシャール・ルノワール大通りの古いアパルトマンに夫人と二人きりで住んでいる。彼はこのアパルトマンを愛している。昼食にはできるだけ家に帰るようにしている。彼の主なリクリェーションは、夕食後映画に行ったあとで、夫人と散歩することである。パイプを喫う彼は、オフィスに十五本のパイプをおいている。
メグレは他の多くの探偵とちがって推理の方法を取らない。むしろ直観的な探偵である。犯罪捜査のさい、彼は自分自身を現場におく。彼は街々を歩き、何かを……いつもはビールかカルヴァドス、ときどきブランデーか、ペルノー酒か、あるいはアペリチフ……飲むためカフェに行き、数多くのことを自問する。そうしているあいだに、彼の部下であるリュカ、ジャンヴィエ、ラポワント、トランス刑事などが事件の背景をさぐる。メグレ自身が新しい雰囲気に馴化するとき、彼は捜査中の事件の関係者たちについて多くのことを知る。最後に彼は犯人を発見するか、あるいは彼のどっしりした肉体で犯罪者を圧倒し、自白に追い込む。
メグレは人間に対していつくしみの心を持っている。彼のもっとも著しい特徴は非常に忍耐強いことである。
映画について
メグレは一九三二年以来フランス映画でピエール・ルノワール(最初のメグレ役者)や、アリ・ボール(『男の首』を映画化した『モンパルナスの夜』のメグレ。一九三三年製作。監督ジュリアン・デュヴィヴィエ)など多くの俳優によって演じられてきている。唯一のアメリカ映画は一九四九にあらわれる。
『エッフェル塔の上の男』一九四九年、RKO(パリで撮影された)。チャールズ・ロートソン(メグレ)、フランシェット・トーン、バージェス・メレディス、ロバート・ハットン、ジーン・ウォーレス。監督バージェス・メレディス。この映画の原作は『男の首』。
フランスのメグレ役者たちのなかでは、ジャン・ギャバンがもっともシムノンの創造したキャラクターに近いといわれている。
『殺人者に罠をかけろ』、ロペール(フランス)、一九五八年。ジャン・ギャバン、アニー・ジラルド、オリィヴエ・コシノ、ジャン・ドゼイリー。監督ジャン・ドラノワ。この映画の原作は『メグレ罠を張る』。
ジャン・ギャバンはこの他にも二つの映画でメグレを演じている。また、イタリアではジノ・セルビ、ドイツではハインツ・ルーマンがそれぞれメグレに扮している。
テレビについて
一九七〇年にルパート・デイヴィスがイギリスのテレビ・シリーズでメグレを演じている。フランスでは一九七二年頃に、ジャン・ギャバンが映画同様テレビでもメグレを演じている。なお、歴代のメグレ役者のなかで、作者のシムノンがもっとも気に入っているのはピエール・ルノワール(『深夜の十字路』のメグレ。一九三二年の製作。監督ジャン・ルノワール)である。