メグレ夫人の恋人
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
メグレ夫人の恋人
死刑
開いた窓
首吊り船
蝋のしずく
メグレの失敗
ボーマルシェ大通りの事件
停車……五十一分間
殺し屋スタン
訳者あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
メグレ夫人の恋人
世間一般の家族のように、メグレ夫妻にもいくつかの習慣がある。それらの習慣は宗教の儀式のように、メグレ夫妻にはいつのまにか重要なものになってしまった。
といったわけで、ヴォージュ広場に住んだ数年前から、警視には夏、中庭にある階段をあがりはじめるや、きまって黒ずんだネクタイをほどく。ほどきおわるころに、二階に達する。
ヴォージュ広場にあるすべての建物のご多分にもれず、この建物も昔は豪奢《ごうしゃ》な個人の邸であった。階段だって錬鉄の手すりと、人造大理石でいかめしくできていた。それがいまでは、狭くて、急だった。メグレは少し息を切らしながら三階まであがると、カラーをゆるめる。
あとは薄暗い廊下を、左側の三番目のドアまで歩いて行くだけだ。ドアの前に着くと、こんどは上着を脱いで、鍵を差し込む。そして、いつものように叫ぶ。
「わたしだよ!」
それから鼻をくんくんいわせ、そのにおいで夕食のおかずを見抜くと、食堂に入っていく。食堂の大きな窓はすばらしいながめのヴォージュ広場に面していた。四つの噴水がさかんにうたをかなでている。
七月。今年は特別に暑かった。司法警察局ではだれもがバカンスのことを話していた。街なかではときどき上着を腕にかかえた人の姿が見られ、あちこちのテラスではビールが飛ぶように売れた。
「≪きみの恋人≫に会ったのかい」と、警視は窓の前に立ち、額の汗をふきながらたずねた。
いましがたまでメグレは、司法警察局の研究室で、人間の心の奥深く秘められた暗くて、醜《みにく》い部分を数時間にわたって検討していたのだ。
彼のたのしみは仕事以外にはなかったが、無邪気そのもののメグレ夫人をからかうとなれば、話はおのずからべつだった。十五日前からつづいている冗談は、夫人の恋人の情報を訊くことだった。
「きみの恋人は、いつものように広場の中を二度まわったかい? 相変わらず品がよく、神秘的だった?品のいい男に弱いからな! わたしと結婚したんだって……」
メグレ夫人は往ったり来たりしながら、食卓の用意をしていた。夫人は女中を雇いたがらず、仕事の多い時だけ午前中家政婦を使った。メグレの冗談に、夫人は腹も立てなかった。
「あの人が品がいいなんていいませんよ!」
「でも、あの男の恰好をこういったね……真珠色の帽子、染めたみたいな、反り返った口ひげ、彫刻をほどこした象牙《ぞうげ》の握りのステッキ……」
「いくらでも馬鹿にしなさい! いつか、あなたにもわたしの正しいことがわかるでしょうから……あの人は普通の人間とどこか違ってるわ。あの人の挙動には、たしかになにか重大なものが隠されて……」
窓からは、広場の人々の動きが手にとるようにわかった。この広場は午前中は人影もまばらだったが、午後になると付近の母親や女中が大勢ベンチに腰掛け、子供たちの遊ぶのを見守っていた。
鉄柵をはりめぐらした、パリ最古のこの広場は、急傾斜のスレートの屋根と拱門《きょうもん》をもつ同じつくりの建物に取りかこまれている。
メグレ夫人がその見知らぬ男に注意を向けたのは、ごく偶然だった。その男は身なりや物腰が二、三十歳|老《ふ》けて見えるうえ、娯楽新聞の漫画などでよく見かけるおしゃれな老人に似ていて、いやでも人目を惹かずにおかなかったのである。
それは午前も早く、開け放たれた家々の窓から女中が忙しそうに動き回る姿が見られる時刻であった。
「探し物でもしているのかしらね」と、メグレ夫人は独り言をいった。
午後になると、夫人は妹の家へ行った。翌日、夫人は前日とまったく同じ時刻に、例の男が同じ歩調で、広場を一度、二度とまわっているのに気づいた。男は最後に、レピュブリック広場のほうに姿を消した。
「その男はきっと女中が好きで、彼女たちが編物をしている姿をながめに来るんだよ」と、メグレは夫人が男のことをいろいろいうと、答えた。
ところで、その日の午後、夫人は男が三時ごろからベンチにすわっているのを見ても大して気にしなかった。彼はステッキの上に両手をのせたまま、身動きひとつしなかった。
四時になっても、男はベンチにいた。五時になっても動かなかった。六時ごろになると、やっと男は立ちあがり、トゥルネル街のほうに遠ざかっていった。だれに話しかけもしなければ、新聞を拡げて合図をするようなそぶりもみせなかった。
「奇妙だと思わないの、メグレ?」
メグレ夫人は夫のことをいつも苗字《みょうじ》で呼んでいた。
「前にもいっただろう、彼はきれいな女中さんたちと一緒にいたいんだよ……」
そして翌日、メグレ夫人はまた例の男のことを話しだした。
「あの人をよく観察したわ。今日もあの人は同じベンチの、同じ場所で三時間ぐらいすわったままよ……」
「それでは、きみをながめていたんだろう! あのベンチからは、この部屋がよく見えるはずだから。あの男はきみにほれて……」
「馬鹿なことをいわないで!」
「とにかく、彼はステッキを使う。そして、きみはステッキをもって歩く男が好きだからな……片眼鏡はかけていないのか……」
「なぜ?」
「片眼鏡をかけた男に弱いからさ」
メグレ夫妻は、結婚後二十年たったいま、こうやって冗談をいいあいながら、家庭の平和を味わっていた。
「ねえ……あの人のまわりを注意深く見てみたわ……ちょうど正面のベンチに、女中さんが一人いたわ……その女中さんの姿を、わたし、前に果物屋で見かけたことがあるの。とても美しい、品のいい娘《こ》……」
「わかったよ!」と、メグレは勝ち誇って叫んだ。「その女中が例のおしゃれな男の前にすわり……きみがいいたいのは、女たちが見られているのもしらないでベンチに腰かけていて、きみの恋人の目を午後の間じゅう楽しませているということだろう……」
「そんなことしか考えられないの!」
「だって、わたしはまだその不思議な男に会っていないんだからね……」
「あなたがここにいるときにあの人が来ないからといって、それがわたしの責任なの!」
多くの事件をかかえていたメグレは、こうして夫人と冗談をいいあいながら一日の疲れをいやしていた。だが、≪メグレ夫人の恋人≫と呼ぶ男についての情報をきくことはけっして忘れなかった。
「いくらでも馬鹿にしなさい! あの人はどこか変よ。それがなにかはよくわかりませんが、わたしを惹きつけ、わたしを不安にさせるもの……どういったらいいのかしらね……とにかく、あの人にいったん目をやると、もうそらすことができないの……数時間のあいだ、あの人はいつもの場所に、身動きせず、片眼鏡の下のまぶたさえ動かさないでいるのよ……」
「ここからその男のまぶたが見えるのかい?」
メグレ夫人は過失を見つけられでもしたように、顔を赤らめた。
「あの人をみに、すぐそばまでいったの……あなたがいったことが本当かどうか知りたくて……ところで、いつも子供を二人連れている、あのブロンドの女中さんはとても淑やかで……」
「その女中も同じように午後の間じゅういるの?」
「その娘《こ》はいつもきまって例の男のあとにくるの。必ず手にレース編みをもって。二人ともほとんど同じ時刻に帰るわ。二、三時間というもの、その娘は顔もあげずにレース編みをしているの。ときどき、遠くにいった子供たちを呼びもどすため、手を休めますが……」
「女中が主人の子供のお守りをしながら、編物や縫物をしている姿なんて、パリではどこの広場でもざらにみられるんじゃないか?」
「そうでしょう!」
「それに、日なたぼっこしかすることのない老人が、感じのよい女の子をながめている図だってざらに……」
「あの人は老人ではないわ……」
「でも、きみは自分で、あの男の口ひげは間違いなく染めてあるといったし、かつらだってつけているはずだとも……」
「ええ。ですけど、あの人はあまり年を取ってません……」
「私と同じぐらいの年か?」
「ずっと年をとっていると思えるときも、逆にずっと若いと思えるときもあるの……」
メグレは嫉妬《しっと》しているようなふりをしながら、うなった。
「そのうち、目の前で≪きみの恋人≫をながめてみたいものだ……」
夫人同様、メグレもこの男のことをまじめに考えていなかった。また、夫妻はしばらくの間若いアベックに冗談半分に興味を持った。このアベックは毎晩のように建物の入口で会い、会うとすぐ喧嘩《けんか》になり、和解する。牛乳屋の女中である若い娘のほうが、まったくおなじ場所でべつの若者とデートするようになるまで、それはつづいた。
「ねえ、メグレ……」
「なんだね?」
「わたし、考えたんですけど……あの人はあそこでだれかをスパイしているんじゃないかしら……」
いく日かが過ぎ去り、日ざしはますます強烈になった。夕方になると、広場は人でいっぱいだった。付近の街の店員たちが、四つの噴水のそばへ涼みにくる姿もみられた。
「わたしにはとても奇妙に思えるんですけど、あの人は、午前中は絶対にすわらないのよ。それに、なぜ広場を二度まわるの? まるで合図でも待っているように……」
「その間、例のきれいなブロンドは何をしている?」
「わたしには見えないの……あの子の位置は右側の家のかげになっていて、ここからぜんぜんわからないの……市場ではよく見かけるんですけれど……あの娘《こ》ったら、買うものを店員にいうとき以外は、だれとも口をきかないの……二〇パーセントも高く売りつけられているのがわかってるくせに、一度も言い争いをしないのよ……いつもなにか考えているような様子をしていて……」
「こんどむずかしい張込みがあったら、部下のかわりにきみにたのもう……」
「からかわないで! そのうち、わかるわ……」
八時だった。メグレはすでに夕食をすませていた。いつも遅くまでオルフェーヴル河岸に居残っている彼にしては、こういうことは珍しかった。
シャツ一枚になった彼は、パイプを口にくわえたまま、窓辺に肱をついていた。そして、やがて暮れようとしているバラ色の空と、例年より早い夏のためにヴォージュ広場に涼みにやってきた人々の、けだるそうな顔をぼんやりとながめていた。
背後からは、メグレ夫人が皿を片づけている物音が聞こえた。いずれ、彼女もこっちにきて、編物でもするだろう。嫌な事件を解決することも、殺人者を追跡することも、泥棒を見張ることもない夕暮れ、バラ色の空をながめながら、静かに考えをめぐらすことができる夕暮れ……こうした夕暮れはめったになかった。パイプがこれほどうまいと思ったこともメグレにはかつてないことだった。
突然、彼は振り向きもしないで、呼んだ。
「アンリエット?」
「なあに?」
「こっちにきて、見てごらん……」
パイプで、彼は目の前にみえるベンチをさし示した。そのベンチの片隅には、年取った浮浪者がまどろんでいた。そしてもう一方の隅には……。
「あの人だわ!」と、メグレ夫人がいった。「またどうして今ごろ! ……」
夫人には、≪彼女≫の午後の散歩者がいつもの時間表を狂わし、こうした時刻にベンチにいることが、ほとんど不謹慎《ふきんしん》なように思われたのだ。
「眠っているらしいな」と、メグレはパイプに再び火をつけながら、つぶやいた。
「ここが三階でなかったら、きみの恋人のすぐそばにいき、彼が何をやっているかみてみたいんだが……」
メグレ夫人は台所にもどった。メグレはいい争いをしていた三人の腕白小僧が、ついには取っ組み合って、地面を転げまわるさまを目で追っていた。ローラースケートをはいたほかの子供たちが、わいわい騒ぎながら三人のまわりをまわっている。
メグレはすでに二度目のパイプをすい終わっていたが、相変わらず窓辺から動かなかった。例の見知らぬ男も同じように動かない。一方、浮浪者はセーヌ河岸のほうへのろのろと歩きだした。
メグレ夫人は夫のそばに身を落ち着けると、なにもしないで一時もじっとしていられない主婦よろしく膝の上で編物をはじめた。
「あの人、まだいる?」
「うん」
「もう門を閉める時間じゃないのかしら?」
「あと数分だ……警備員が出口のほうへ散歩者を追い出しはじめている……」
ところで、警備員は例の男には気がつかないらしかった。男は相変わらず身動きしない。メグレがひと言もいわずに上着をつかんで階段を駆け下りたとき、三つの門はすでに閉められ、警備員は四つ目の門の鍵をかけはじめていた。
階上《うえ》から、メグレ夫人は夫が緑色の服をきた警備員と言い争っているのを見た。警備員は広場の規則をたてにとって、夫を入れようとしないらしかったが、最後には折れた。警視は片眼鏡の見知らぬ男のほうへまっすぐ歩いていった。
メグレ夫人は立ちあがった。彼女は男の身になにかが起こったのを感じ、夫に向かって、「なにがあったの?」といった身振りをしてみせた。
数日前から、彼女は口にこそ出さなかったが、なにか事件が起こりそうな気がしていたのだ。メグレは夫人に大きくうなずいてみせると、広場の警備員を柵《さく》のそばに立たせ、再び部屋にもどってきた。
「カラーとネクタイを出してくれ……」
「死んだの?」
「死んだどころじゃない! 少なくとも二時間はすでに経過している。いや、それ以上かもしれない……」
「襲われたの?」
ネクタイを苦労して結んでいたメグレは、それには答えなかった。
「これからどうするの?」
「もちろん、捜査をはじめるよ! まず検事局と検死医に連絡して……」
すでに広場は濃い闇におおわれ、四つの噴水の音が前よりもいっそう高く聞こえた。
数分後、メグレはパ・ド・ラ・ミュール通りのたばこ屋に入っていき、つづけざまにあちこち電話をかけると、巡査を一人、鉄格子の門のところに見張りに立たせた。
広場にはほとんど人影がなかった。片眼鏡の男の死にも、警視の往き来にも気づいた人は、まだいなかった。
付近の人々は、突然鉄柵の前に車が停まり、そこから検事らしい、立派な身なりの男が下り立つのを見て驚き、広場に近づいていった。つぎに、救急車が到着したが、そのときには、すでに野次馬の数は五十人近くに達していた。しかし、この奇妙な人だかりの理由は、だれにも推測できなかった。広場の小|灌木《かんぼく》の茂みが、肝心の場面を隠していたからだ。
メグレ夫人は明かりをつけなかったが、こうしたことは彼女が一人きりのときにはよくあった。夫人は相変わらず広場をながめやりながら家々の窓という窓が開かれるのを見た。だが、あのブロンドの、美しい女中は姿を見せなかった。
最初に救急車が警察病院のほうに出発した。
つぎに、数人の人間を乗せた車が……。
それから、メグレがあらわれ、二、三人の男と歩道の上でおしゃべりをすると、道を横ぎって、部屋にもどってきた。
「明かりをつけないのか?」と、メグレは暗闇のなかで夫人の姿を見わけようとしながら、気むずかしい声でたずねた。
夫人はスイッチをひねった。
「窓を閉めるんだ……もうそれほど暑くはないじゃないか……」
それはさきほどの、のんびりしたメグレではなく、司法警察局のメグレ……不機嫌の発作が若い刑事たちをふるえあがらせるメグレだった。
「さあ、編物をやめて! そいつを見ていると、いらいらする! きみは手を動かさずに一時《いっとき》もいられないのか?」
夫人は編物をやめた。メグレは両手をうしろにやり、時々奇妙な視線を夫人のほうに投げながら、部屋のなかを大股で歩きまわった。
「なぜきみは、例の男が若くみえたり、年寄りにみえたりしたと思ったんだ?」
「わからないわ……そういう印象だったのよ……どうして? ……あの人はいくつでしたの?」
「とにかく三十歳にはなっていないはずだ……」
「はず?」
「かつらの下にはブロンドの髪が隠されていたし、つけひげだったし、そのうえ、年寄りのぎすぎすした感じを出すためにコルセットのようなものまで身につけている……」
「でも……」
「でももへったくれもない……わたしには、どうしてきみがこの事件を嗅ぎつけられたのか不思議でならないんだ……」
メグレは起こったことの責任を、この夕暮れを台なしにしたことの責任を、ほとんど彼女のせいにしていた。
「もうわかっているだろうが、きみの恋人は暗殺されたんだ、あのベンチの上で……」
「そんなことあり得ないわ! みんなの目の前でやられたの? ……」
「そうだ、みんなの目の前でだ。それも、もっとも人出の多いときに……」
「あの女中かしら? ……」
「さっき専門家に弾丸を送ったから、数分後には電話でその返事がくるだろう……」
「どうやってピストルを射ったんでしょう……」
メグレは肩をすくめると、電話がくるのを待った。まもなくかかってきた。
「もしもし! ……そうだ、わたしも同じように考えていた……だが、そちらの確認がほしかったんだ」
メグレ夫人はじりじりしていた。しかし、メグレはこの事件が彼女に関係がないかのように、わざとゆっくりと構えていた。
「特殊な空気銃だ。非常に珍しいものらしい」
「わたしにはわからないわ……」
「つまり、例の男はだれかの手で、遠くから射たれたんだ。たとえば、そいつは広場に面する窓の一つに隠れて、ゆっくり時間をかけて狙っていたのかも……そのうえ、そいつは射撃にかけては一級の腕前だ。正確に心臓を射ち抜き、一瞬にして殺したのだからね……」
メグレ夫人は突然神経の発作に襲われて、泣きはじめたが、ぎこちなく言い訳をした。
「ごめんなさい……今の話、刺激が強すぎて……わたしって、神経が細すぎるのかしら……泣いたりして、馬鹿だったわ。でも……」
「落ち着いたら証人として話をきかせてもらう……」
「わたしが? 証人として?」
「そうだよ! 今までのところ、きみは唯一の有益な情報提供者だからね。たとえ、好奇心にかられて男を観察していただけにしても……」
メグレは殺された男についてわかったことを自分自身にいいきかせるようにしゃべった。
「男は身分証明書を持っていなかった……ポケットはほとんどからで、ただ百フラン札が二、三枚に小銭がわずか、それと非常に小さな鍵とつめ切りがあっただけ……それでもわれわれは男の身許をたしかめようと躍起《やっき》になっている」
「三十歳だったの!」と、メグレ夫人はくり返した。
彼女は途方にくれてしまった。しかし、今になってみると、なぜ変に惹きつけられたのかがよくわかる。若い男が蝋《ろう》人形のような老人の物腰をするためわざと身体をこわばらせていたのだ。
「では、いいね、はじめるよ」
「どうぞ!」
「知っておいてもらいたいのは、わたしは警察官としてきみに尋問し、明日その結果を報告書にしたためなければならないということだ……」
メグレ夫人は弱々しい微笑を浮かべたが、その顔は緊張でこわばっていた。
「きみは今日、この男に気がついたか?」
「午前中は市場にいっていたので、会わなかったわ。午後、あの人はいつもの場所にいたわ……」
「ブロンドの女中のほうは?」
「いつものとおりよ」
「二人が一度も話し合わないのを見ても、不思議に思わなかった?」
「だって、あの二人は八メートル以上も離れていたわ。あれでは話すのに大声をあげなければならないでしょ……」
「ところで、二人は午後の間じゅう、そうして身動きをしないでいたのかね?」
「あの娘《こ》はレース編みをしてたわ……」
「いつもレース編みばかり? 十五日も前から?」
「ええ……」
「女は何時ごろ帰った?」
「わからないわ……わたしはアイスクリームの準備に忙しかったから……たぶん、いつもと同じで五時ごろだったのでは……」
「検死医によると、男は午後の五時に殺されている……だから、数分の時間が問題になるんだ。女が立ち去ったのは五時前か後か、男の死ぬ前か後か……どうして今日にかぎってアイスクリームなど作ったんだ?人をスパイしはじめたら、最後までやらなければだめだ、良心的に!」
「あの娘だと思うの?」
「わたしはなにも信じないさ! わたしにわかっているのは、きみの情報しかたよりにするものがないこと、その情報があまり役に立たないということだ。そのブロンドの女中が働いているのは、どこの家? それぐらいのことはきみにもわかるだろう?」
「いつも十七番地の2に帰るわ……」
「そこにはどんな人が住んでいる?」
「それはわたしにもわからないわ……アメリカ製の大型車をもち、外国人らしい運転手を雇っている人がいるってことですけど……」
「気がついたのはそれだけか? わかった、きみはさぞかし立派な警官になれるだろう。わたしが太鼓判を押すよ! アメリカ製の大型車に運転手か……」
メグレは困惑しているときに、よくこうした冗談をいい、怒りを笑いのかげに隠してしまう。
「でも、きみが例の男の行動に興味をしめしていなかったら、今ごろわたしは本当に困ったよ……状況はあまりかんばしくないが、それでも手がかりがある……いかにそれが頼りないにしろ……」
「その手がかりというのは、あの美しい、ブロンドの娘?」
「そのとおり、ブロンドの女だ! 彼女にはなにかが……」
メグレは電話のほうへ飛んでいくと、刑事に十七番地の2の前を見張り、ブロンドの女中が外出したら、どんなことがあってもその女から離れないようにと命じた。
「わたしはこれから寝るよ……明日の朝、いつもの時間に起こしてくれ……」
「あの人だって用心していたんじゃないかしら……」
夫人がおずおずした声で思い切ってこういったとき、メグレはもうベッドに入っていた。
「やめてくれ、やめてくれ」と、彼はベッドに半分身を起こしながら叫んだ。「勘がいいからって、わたしに意見めいたことをいわなくていい。さあ、もう眠る時間だ……」
その時刻には、月はヴォージュ広場をかこむスレートの屋根を銀色に照らし、四つの噴水は一種の室内楽を演奏しつづけていた。噴水は四つともちょっと速すぎて、調子はずれのところがあった……。
メグレは腿《もも》の上にズボン吊りをたらしたまま、顔にひげそり用石鹸をぬっていた。窓からヴォージュ広場に視線を投げると、昨夜死体が発見されたベンチのまわりには、すでにかなりの人だかりがあった。
昨夜、検事の臨検を遠くでながめていた花屋のおかみさんは、当然他の人たちより事情に明るかったので、ペラペラとしゃべりまくっていた。メグレのところからでも、その自信たっぷりな態度から、彼女が自分の意見に確信をもっていることが見てとれた。
街じゅうの人間がそこに集まった感じだった。工場や事務所に時間どおりに着くため走っていた人々も、急に足を停めてしまった。殺人事件となれば、仕事どころではないのだ。
「きみはあの女を知っている?」と、メグレは剃刀《かみそり》の先で明るい色の、品のいいイギリス風のツーピースを着たかなり若い女をさし示した。ブローニューの森へ朝の散歩にいくためにつくった服だろう。彼女はまわりの人々からぬきんでてみえた。
「一度も見たことがないわ。と思うけど……」
ヴォージュ広場の建物の二、三階には大金持ちや上流階級の人たちが住んでいたので、メグレが不機嫌に指さしたような女がいてもべつに不思議はなかった。しかし、それにしても朝の八時に散歩などとはちょっと珍しかった。犬でも散歩させているなら話はべつだが。
「ねえ! 今朝、きみはできるだけたくさん買物をしてくれないか……街じゅうの店へいって……そして、人々の噂《うわさ》、とくに例のブロンドの女中とその雇い主についての情報を集めてもらいたいんだ……」
「あとで、わたしをおしゃべり女だなんていわないでしょうね!」と、メグレ夫人は冗談をいった。「何時ごろ、お帰りになるの?」
「ちょっとわからないな」
というのは、メグレが眠っている間にも調査はつづけられ、彼がオルフェーヴル河岸に出勤したときには、捜査のためのしっかりした手がかりが見つけ出されているはずだったからだ。
実際、昨夜十一時に、有名な法医学者エブラールは≪コメディ・フランセーズ≫で初日の芝居を燕尾服で観劇中、伝言をうけとった。そのまま最後の幕まで観劇しつづけ、楽屋に行って知り合いの女優をほめたたえた。その十五分後には、新しい死体置場である法医学研究所で、助手の一人から仕事着を着せられていた。もう一人の助手が壁にはめこまれているたくさんの引出しの一つを引っぱった。そのなかにはヴォージュ広場の見知らぬ男の死体があった。
同じ時刻、裁判所の屋根裏では……ここには犯罪記録課があり、フランスのすべての犯罪者と世界の大部分の犯罪者のカードが保管されている……、灰色の仕事着の二人の男が辛抱強く指紋をくらべていた。
螺旋《らせん》階段によって隔てられてはいるが、この二人からあまり遠くないところでは、鑑識課の夜勤の男たちが緻密な仕事をはじめていた。つまり、古い仕立ての黒っぽいスーツ、ボタンのついた靴、彫刻のある象牙《ぞうげ》の握りがついた籐のステッキ、かつら、片眼鏡、死人の頭から切りとったブロンドの髪などを調べていたのである。
メグレは同僚と握手し、局長と短い会話を取りかわすと、自分のオフィスに入った。オフィスの窓は開け放たれていたが、冷たいパイプのにおいがかすかに感じられた。デスクの上には、三つの報告書がきちんと並べられ、彼を待っていた。それぞれ異なった色のカバーが掛けられている。
まず、エブラール医師の報告。
被害者は即死。弾は、二十メートルから百メートルぐらいの距離から、小口径の武器……しかし、貫通力の強力なもの……で発射された。
推定年齢は二十八歳。
この男は身体つきから察するに力仕事に従事したことが一度もないように思われる。そのかわりスポーツ、とりわけボートやボクシングを熱心にやっていた。
完全な健康体。立派な体格。左肩の傷痕は、この男が三年ほど前にピストルの弾をうけ、肩胛骨《けんこうこつ》を砕いたことを示している。
最後に、指先がいずれも固くなっていることから、男がかなり長い間タイプの仕事に従事していたと想像できる。
メグレはパイプをぷかぷかとふかしながら、ゆっくりと読んだ。時々、中断すると、午前中の陽光に輝くセーヌ河の流れをながめたり、手帳に彼だけしかわからない言葉をひと言ふた言書き込んだりした。メグレの手帳は薄汚ないことと、ずっと以前からあちこちに、手当り次第に書き込まれたメモ……どこになにがあるかをどうやって見付けだすのだろうとほかの人がいぶかるほどだ……とで有名でもあった。
鑑識課からの報告書もたいして目新しいものはなかった。
衣服は被害者が所有する前に、すでにほかの人々によって着られている。テンブル通りの露店かどこかの古着屋で買ったものにちがいない。ステッキと飾りボタンのついた靴も同じところで買ったものだろう。
かつらはかなり上等なものであるが、こういった型のものはどこのかつら屋からでも入手できる。
最後に、衣服に付着していたほこりを調べてみると、麩《ふすま》の屑がまじった、非常に純良な粉末がかなり多量に発見された。
片眼鏡は、度のない、ただのガラス。
犯罪者カードには、被害者の指紋に一致するものはない。
メグレはデスクに肱をついたまま、しばらく夢想していた。おそらくそうやってのんびりとした気分を味わっていたのではないか? 捜査はうまく行きそうでも、失敗しそうでもなかったが、いつものように偶然がほんの些細な協力もしてくれない今、むしろ失敗しそうだといったほうがいいかもしれない。
最後に、メグレは立ち上がり、帽子をかぶると廊下にいる守衛に近づいた。
「わたしのことをきかれたら、一時間後にもどるといっておいてくれ……」
タクシーに乗るには、ヴォージュ広場は近すぎるので、セーヌ河に沿って歩いていった。トゥルネル通りの果物屋の店先で、彼はメグレ夫人が三、四人の客とさかんにおしゃべりしている姿を見かけた。
彼は微笑を隠すために顔をそむけると、歩きつづけた。
メグレが警察官になりたての頃、当時としては斬新《ざんしん》な、科学的捜査方法に熱中していた上司はよくいったものだった。
「いいかね、若いの! 想像を交えるな! 観念で捜査してはいかん! 事実だ、事実!」
メグレはヴォージュ広場に着くと、朝の報告書に書かれていた技術的な詳細よりも、彼が好んで≪犯罪の状況≫とよぶものに気をかけはじめた。
まず、被害者を想像してみようとした。死んだ人間としてではなく、生きた人間としての被害者を。ブロンドの、筋骨逞しい、粋な二十八歳の男。毎朝、年をとったしゃれ男の服装……おそらく蚤《のみ》の市《いち》で買ったものだろう……と上等な下着を着ていた男……
そして、広場をふたまわりすると、テュランヌ通りへ遠ざかっていった男。
どこへ行ったのか? 午後の三時までなにをしていたのか? なぜラビッシュ〔フランスの劇作家。一八一五〜八八〕の喜劇の主人公のような身なりをしていたのか? 洋服を着替えたのは、どこか近所の部屋か?
つぎに、どうして三時間もの間、ベンチの上で身動きひとつしないでいられるのか? それも、口を開かず、身振りひとつするでもなく、ただ宙をじっと見つめたままで……。
いつごろからこの奇妙な挙動はつづいているのか?
それに、夜はどこへ姿を隠しているのか? 彼の私生活はどんなものだったのか? だれと会っていたのか? だれと話していたのか? 彼の秘密を知っているのはだれか? なぜ彼の着物に粉末と麩《ふすま》の屑が付着していたのか? おそらく水車小屋……パン屋ではない……にいたのだろうが、それにしても水車小屋などでなにをしていたのか?
メグレは十七番地の2の前で、立ちどまるのを忘れてしまい、もどらなければならなかった。丸天井の玄関を入ると女管理人に話しかけた。彼女は警察バッジを見せられても、眉一つ動かさなかった。
「どんなことが知りたいの?」
「ここの住人のことで知りたいんですが。あの美しい、ブロンドの、淑《しと》やかな女中……」
彼女はわかったといった態度で、メグレの話をさえぎった。
「リタさんね?」
「そうだと思います。午後になると、必ず二人の子供を広場へ散歩につれていきますね……」
「ああ、それはあの娘を雇っているクロフタさんご夫婦の子供ですわ……クロフタさんは十五年以上もここの二階に住んでいるんですよ……旦那さんは輸出入の仕事をしていて、なんでも事務所をいくつか持っているという話ですわ。カトル・セタンブル通りの……」
「いま家にいますか?」
「さっき出かけましたよ。でも、奥さんがいるでしょう……」
「リタは?」
「さあ、どうですかね……今朝からまだ一度も見かけてませんが……とにかく忙しかったもんでねえ……」
数分後、メグレは二階の呼鈴を押していた。長い間、部屋の奥のほうで呼鈴が鳴っていたが、だれもドアを開けにこなかった。メグレは再び呼鈴を押した。やっとドアが半分開き、かなり若い女があらわれた。彼女は水色の化粧着をひっかけているだけなので、身体をドアのかげに隠すようにしていた。
「なんのご用?」
「クロフタ氏か、クロフタ夫人と話したいのですが……わたしは司法警察の警視です……」
彼女は化粧着を前で合わせると、しぶしぶドアを開けた。メグレは天井の高い、趣味のいい家具や高価な装飾品のある立派なアパルトマンに入っていった。
「こんな恰好でお相手をしてすみませんが、今、わたしと子供だけなものですから。こんなに早くいらっしゃれるとは思いませんでした。主人が出かけてから、十五分にもならないというのに……」
彼女はその軽いなまりからわかるように外国人で、中央ヨーロッパ人特有の魅力を備えていた。
「わたしを待っていたんですって?」と、メグレは驚きを隠そうとしながら、つぶやいた。
「あなたが、ほかのだれか……正直の話、わたしは警察がこれほど迅速だとは思ってもいませんでした……早くても主人が帰るころだろうと……」
「わたしはご主人を知りません……」
「主人に会わなかったのですか?」
「ええ」
「しかし? ……」
話に喰い違いがあるのは明らかだった。しかし、メグレは、あえてそれを晴らそうとはしなかった。
若い夫人のほうは、おそらく考える時間がほしかったのだろう、こうつぶやいた。
「ちょっと失礼させてくださいますか? 子供たちが浴室にいるものですから……わたし、心配なのです……、なにかいたずらをしているのじゃないかと……」
彼女は滑らかな足どりで遠ざかっていった。身体つきといい、顔といい、本当に美しい女だった。優美さのほかに、威厳といったものがそなわっている。
浴室のほうで、彼女が子供たちと小声でふた言、三言取り交わしているのが聞こえた。それから、唇に愛想のいい微笑《えみ》を軽く浮かべて、もどってきた。
「失礼しました。ところで、もう一度出なおしてきていただけないでしょうか……主人がここにいたほうがいいと思いますので……宝石の価値をよく知っているのは主人ですし、実際あの宝石は主人が買ったのです」
あの宝石とはどの宝石なのか? この新しい話はなんのことなのか? そして、主人の帰りをいらいらして待っているこの若い夫人の困惑ぶりは?
彼女の態度には話をするのを怖れているような、危険のない、あたりさわりのないことをいって会話を長びかせようとするようなところがあった。
メグレはそれを十分に感じ取っていたが、わざと彼女に助け船を出さなかった。自分で≪円満な顔≫と呼んでいる顔つきをしながら、できるだけあいまいなようすで彼女をながめていた。
「新聞ではしじゅう盗難の記事を読みますが、奇妙なことにわたしはそれが自分の身に起こるなんて夢にも思いませんでした。ですから、昨夜もぜんぜん疑いを持たなかったのです……ところが、今朝……」
「あなたが家に帰ってきたとき……」と、メグレが口を入れた。
彼女はびくっとした。
「なぜわたしが外出したのを知っているのです?」
「あなたの姿を見かけたからです……」
「あなたは今朝、この街にいたのですか?」
「わたしは一年じゅうこの街にいますよ。この近所に住んでいるんですからね」
彼女は動揺し、メグレの謎めいた言葉のなかに隠されている意味をさぐろうとした。
「たしかに、わたしは外出しました。でも、子供たちをお風呂に入れる前に、いつも新鮮な空気をすいにいくのです……」
彼女は思わずほっと安堵《あんど》のため息をもらした。足音が踊り場の上で止まった。鍵がまわった。
「主人ですわ……」と、彼女はつぶやいた。そして、呼んだ。
「ボリス! こっちにいらして……お客さまがあなたを待ってますわ……」
男もまた風采が立派だった。彼女より年上で……四十五歳ぐらいだろうか……品がよく、身だしなみがいいハンガリー人か、チェコ人だろうと、メグレは考えた。しかし、男は正確なフランス語を、それも選り抜きのフランス語を話した。
「警視さんはあなたより先にお着きになったのです。わたしは間もなくあなたが帰るだろうといって……」
ボリス・クロフタは疑惑の念を多少なりとも隠すようにしながら、用心ぶかくメグレを観察した。
「それは失礼しました……」と、彼はつぶやいた。「ですが……わたしはあなたを存じていません……」
「司法警察のメグレ警視です……」
「妙ですね……あなたが話したいのは、わたしにですか?」
「いつも午後になると、二人の子供をヴォージュ広場に散歩に連れていくリタとかいう娘のご主人に話したいのです……」
「それはわたしですが……しかし……まさかもうあの娘《こ》を探し出し、宝石を取りもどしたというのではないでしょうね? ……わたしの話を、あなたは奇妙に思われているごようすですが……おかしな偶然の一致があるのですね……わたしは今しがたこの街の警察署にいき、リタのことを訴えてきたのです……そして、帰ってみると、あなたがここにいて、わたしに……」
彼の態度には神経質なところがあった。若い夫人は男たちを残して立ち去ろうともせず、警視を奇妙な目つきで観察しつづけていた。
「どんなことを訴えたのです?」
「宝石が盗まれたのです……あの娘は昨日黙って姿を消しました……わたしはあの娘が恋人と逃げたのだろうぐらいに考え、今朝、求人広告を新聞に出そうとさえ思っていました……昨夜は、わたしたちは家を出ませんでした……今朝、妻が外出している間、わたしは突然、宝石箱を見てみようという考えを起こし……リタが逃げ出した理由《わけ》がわかったのは、そのときなのです。宝石箱はからでした……」
「その盗難を知ったのは、何時でした?」
「朝の九時ごろでしたかね。わたしはまだ部屋着でした。服を着替えると、大急ぎで警察署へ……」
「奥さんが帰って来られたのは?」
「わたしが服を着替えている最中です……わたしに理解できないのは、どうして今朝、あなたがここへいらっしゃったかということです……」
「たんなる偶然の一致です」と、メグレは子供のように無邪気な口調でつぶやいた。
「しかし、わたしはもっとくわしいことを知りたいですね……宝石が盗まれたことを、警視さんは今朝知っていたのですか?」
なんの意味もない、メグレのあいまいな身振り……それは、ただいたずらにボリスをいらだたせるだけだった。
「あなたの訪問の理由を、おっしゃっていただけないでしょうか? 他人の家に入りこむのがフランス警察の習憤だとは思えませんからね。それに……」
「人々の話に耳を傾けるのが、といいたいんでしょう!」メグレが相手をさえぎった。「では、いいましょう。用もないのにここにきたのではありません。わたしがここにくるとあなたがたは宝石の盗難のことを話された。それはわたしには関係のないことです。わたしはある犯罪のことで来たのです……」
「ある犯罪ですって?」と、若い夫人は叫んだ。
「昨日、ヴォージュ広場で起こった犯罪を知らないのですか?」
彼女は、メグレがさきほどいった≪この近所に住んでいる≫という言葉を思い出して、考えこんでいるらしかった。メグレは、夫人が事件を知っていると答えるだろうと思った。しかし、夫人は微笑《ほほえ》むと、つぶやいた。
「今朝、広場を通りかかったとき、なにやら話しているのをぼんやりと聞いたような気がしますが……人が集まっていて……」
「その事件がなんだというんです……」と、夫が口を出した。
「……この事件があなたには興味がないというのですか? ……リタがいなくなったのは、昨日の何時です?」
「五時を少しまわったころです」と、ボリス・クロフタはためらいの色もなく答えた。
そして、夫人のほうにふりむくと、
「そうだね、オルガ?」
「そのとおりですわ。あの娘は五時に子供たちと帰ってきて、自分の部屋にあがりました。わたしはあの娘が降りてくる物音を聞いていません。六時ごろ、わたしはあの娘の部屋へあがっていきました。まだ夕食の支度がしてなかったからです……ところが、部屋にはだれもいなくて……」
「彼女の部屋へ連れていってもらえますか?」
「主人がお供するでしょう。わたしはこんな身なりですので……」
メグレはすでにこのアパルトマンの内部を知っていた。というのは、彼のアパルトマンとまったく同じだったからだ。三階から上は、階段が狭くなり、しかも薄暗かった。屋根裏に着くと、クロフタは手前から三番目の部屋のドアを開けた。
「ここです……わたしは鍵を鍵穴に差したままにしておいたのです……」
「奥さんはさきほど、ここへあがったのは自分だといいましたがね!」
「そのとおりです。しかし、そのあとでわたしもきたのです……」
ドアが開くと、鉄のベッドと箪笥と化粧台のある女中部屋があらわれた。どこにでもあるごくありふれた部屋だった……ただ一つ、ヴォージュ広場を見渡せる天窓をべつにすれば……。
箪笥のわきに、普通の型のビニール製スーツケースがあった。箪笥のなかには、ドレスや下着が……。
「ところで、女中さんは荷物も持たずに出ていったようですね?」
「これはわたしの想像ですが、あの娘は荷物よりも宝石を好んだのでしょう。とにかく、あの宝石は全部で二十万フランはするでしょうから……」
メグレは太い指で緑色の小さな帽子をいじりまわすと、次に黄色いリボンがついた別の帽子を手にとった。
「女中さんは帽子をいくつお持ちでした?」
「さあ……家内だったら知っているでしょうが。でも、どうかな……」
「いつから彼女はあなたのところで働いています?」
「六か月前……」
「新聞広告で見つけたのですか?」
「職業紹介所からです……とても熱心に推薦してきましてね……。とにかく、仕事ぶりは申し分がなかったのですが……」
「あの娘のほかに女中さんは?」
「家内は子供たちの世話を自分でしたがるものですから、女中はひとりで十分だったので……そのうえ、わたしたちは一年の大半をコート・ダジュールで過ごしますので……コート・ダジュールでは植木屋さん夫婦が家事を手伝ってくれます……」
メグレは洟《はな》をかむと、ハンカチをわざと落とし、拾った。
「妙ですね……」身を起こしながら、メグレはつぶやいた。
そして、相手を頭のてっぺんから足の爪先までながめまわしながら、口を開きかけたが、また閉じてしまった。
「なにをいいたいのです?」
「あなたにある質問をしたいのですが、あまりにもぶしつけなので……」
「どうぞ、おっしゃってください!」
「いいですか? では、いいますが、世間には女中と雇い主とが関係を結んでしまう例がたびたびありますが、あなたにはそういったことはなかったのかと、ふと考えたのです。あの娘はきれいでしたから……まあ、ありきたりの質問ですので答えなくとも結構です……」
奇妙なことに、クロフタは急に心配そうなようすをみせると、考えこんでしまった。彼はなかなか答えようとはせず、自分の周囲をゆっくりとながめまわすと、ため息をついた。
「わたしの答えは記録されますか?」
「万が一にも、そういうことはないと思いますが」
「こうした場合ですから、はっきりといいましょう。じつはあなたがいうようなことが起こったのです……」
「二階の部屋で?」
「いや……それは子供たちがいるから、無理です」
「しめし合わせて外で会うことがありましたか?」
「一度もありません! ……わたしは時々、ここにあがってきて、そして……」
「あとは結構です!」と、メグレは微笑しながらいった。「わたしは、今のあなたの言葉に大変満足しています。あなたの上着の袖のボタンがないのに、前から気づいていたからです。ボタンはわたしがさきほど床の、ベッドの足もとで見つけました。ボタンがとれるには、どう考えてもかなり激しい≪なに≫があったはずですが……」
メグレはボタンを差し出した。クロフタは驚くべき素早さでそれをつかんだ。
「最後に≪なに≫があったのはいつです?」と、メグレはドアのほうに向かいながらたずねた。
「三、四日前……待ってください! ……そうだ、四日前です……」
「そのとき、リタは従順でした?」
「と思いますが……」
「彼女はあなたを愛していましたか?」
「少なくとも、わたしにはそのように振舞っていました!」
「ほかに男がいたのに気がつきましたか?」
「警視さん! ……もしリタに恋人がいたとしても、わたしには問題ではありません……わたしは家内と子供を愛しています。どうしてあんなことになったのか、自分でもわからないのです……」
メグレは階段を下りながら、ひとりでため息をついた。「どうして、あいつは、ああしゃあしゃあと嘘ばっかりつくのかね!」
彼は管理人室の前で立ち止まると、豌豆《えんどう》の皮をむいている女管理人の前にすわった。
「あの人たちに会いました? 宝石を盗まれて、困っていたでしょ……」
「昨日の五時ごろ、ここにいましたか?」
「ええ、いましたよ……息子も、今あなたがいる場所で、一生懸命宿題をやってました……」
「リタと子供が帰ってくるのを見ました?」
「ええこの目でね!」
「では、それからしばらくして、リタが再び出ていくのは?」
「そのことだったら、クロフタさんもさきほど訊きにみえましたよ。わたしが誰も見なかったというと、あの人はそんなことはない、わたしがここを離れたか、注意していなかったのだと言い張りましてね。ここは多くの人が出入りしますが、あの娘に気づかぬはずはありませんよ……」
「クロフタ氏が四階へいくのに出会ったことがありますか?」
「あの人があそこになんの用があるの? あそこは……あなたは、あの人が女中に会いにいっていたと考えているんでしょう? あなたはリタさんを知らないのよ……いま、あの娘は泥棒だと思われていますが……実際、そうかもしれませんが……しかし、主人の尻を追いまわしたり、主人のいいなりになる娘では絶対にありませんよ……」
メグレは諦《あきら》めてパイプに火をつけると、遠ざかっていった。
「どうだった、メグレ警視夫人?」と、彼は窓の前に立ちながら、やさしく冷やかした。
「どんな噂をきいてきた? さあ、きみの調査の結果をきかせてくれ……」
「まず、リタという娘は女中ではありませんよ……」
「なぜ?」
「どこの店員もいっていますが、あの娘《こ》はぜんぜん品物をまけさせようとはしないらしいの。これがなにを意味しているかわかって? あの娘が今までに一度も買物をしたことがないってことよ。いつか、肉屋さんがあの娘にまけてやったら、あの娘はびっくりしていたそうよ……」
「そうか! どこか良家の娘が、クロフタ家の女中に化けていたのだな……」
「学生が化けていたんじゃないかしら。この街のあちこちの店ではイタリア語、ハンガリー語、ポーランド語など世界じゅうの言葉が話されているでしょう……あの娘にはどうもそれらの言葉がわかっていたらしいの……だって、あの娘の前で冗談を言ったりすると、ほほえんだりするんですって……」
「彼女の恋人のことは、何もわからないのか?」
「みんなあの人の姿に気づいていても、わたし以上のことはなにも知らないらしいわ……ああ、そう! 肝心のこと忘れていた……ガスタムビッド家の女中さんが午後になるといつも広場にいくんですけど、その娘の話では、リタはレース編みなんかできないそうよ……」
メグレの小さな両眼は、かき集めた噂を思い出しそれを順序立てて説明しようとしている夫人に、微笑みかけていた。
「それからまだあるの! リタの前に、クロフタさんは自分の国の娘さんを使っていたんですって。でも、その娘が妊娠したので、首にしたらしいの」
「相手はクロフタ?」
「いいえ、とんでもない! あの人は奥さんにべたぼれ。なんでもあの人は非常に嫉妬深くて、ほとんど客を家に呼ばないんですって……」
とにかく、こうしたつまらない噂話や陰口が……正しいものにしろデマにしろ、真面目なものにしろそうでないにしろ……絶えず人々の相貌を変えたり補ったりするのだ。
「きみがよく働いてくれたから」と、メグレは新しいパイプに火をつけながら、つぶやいた。「こんどはわたしが情報を教えよう。かつらと片眼鏡の男を殺した弾丸は、リタの屋根裏部屋から発射されたのだ。これは現場検証で、なんなく証明できるだろう。わたしは死体の位置と弾道とがぴったり一致する射角を確かめた……」
「では、射ったのは彼女……」
「その点は、まだなにもわからない……これから調べるさ! ……」
そういってため息をつくと、メグレは再びカラーをつけ、ネクタイをつけた。夫人は彼が上着に腕を通すのを手伝った。
二十分後、メグレは司法警察局の自室の肱掛け椅子にどっかとすわって額の汗をふいていた。昨日よりも一段と暑い日で、雷雨でもきそうな感じだった。
一時間後、メグレの三つのパイプは熱し、灰皿には灰がいっぱいだった。吸取紙の上にはあちこちに、きれぎれな言葉がごちゃごちゃと書きつらねてある。警視は物思いにふけっている間に書いたこれらの言葉を目を大きく開いてじっと見つめていたが、そのうちあくびをすると、船をこぎだした。
クロフタがリタを消したと想像すれば、宝石の盗難はその疑いをごまかすための手段にすぎない。
これは面白い見方だが、その証拠はなにもないし、女中が主人の宝石を盗んで逃げたというのはあり得ることだ。
クロフタは、自分が女中の愛人であったと言うのをためらった。
このことは、この話が真実なので、彼はそれを口にするのがばつが悪かったと受け取れる。が、逆にこの話が真実ではなく、彼はメグレがボタンを拾いあげたのに驚き、警視の質問になにか罠が隠されているのではないかと疑っていたとも受け取れる。
ボタンは四日ほど前から、床の上に落ちたままになっていたはずだ……というのは、床が最近掃除されたあとがあるからだ。
つぎに、クロフタ夫人はなぜ、早朝から散歩に出かけたのか? なぜ、彼女は事件の話を聞いたというのをためらったのか? 彼女が人だかりのそばに長い間立ちどまっているのを、メグレが知っているというのに……。
なぜクロフタは女管理人に、リタが外出するのを見たかときいたのだ? 彼は警察が同じ質問をするだろうことを知り、いち早く女管理人にそのことを話し、何らかの暗示を彼女に与えようとしたのではないか?
突然、メグレは立ち上がった。こうした細かい事実をいろいろ集めてみても、結局は苛立ち、ただいたずらに苦悩を深めるだけだ。これでは≪リタはどこにいる?≫という問題の解決にはならない。
もしリタが人を殺し、宝石を盗んだのなら、彼女は逃げるだろう。逆に、もし彼女が人を殺さず宝石も盗まなかったとしたら、そのとき……。
すぐに、メグレは局長のオフィスに入っていくと、気むずかしい顔をしてみせながらいった。
「白紙の捜査令状を出してくれませんか?」
「だめだといったら?」と、メグレの気質をだれよりもよく知っている司法警察局の局長は冗談をいった。
局長が捜査令状をつくっているとき、たまたまメグレに電話がかかった。メグレ夫人からで、不安そうな声でいった。
「あることを考えついたのですけど……電話でそれをいってもかまわないかしら? ……」
「いいよ!」
「あなたは射ったのが女中ではないと想像しているんでしょう……」
「それで……」
「たとえば、女中の主人が射ったとしたら……どうでしょう? ひょっとしたら、彼女はまだあの家のなかにいるんじゃないかしら……たぶんもう死んでいるのでは? ……それとも囚《とら》われているのかも? ……」
結局、あいつはおれとほとんど同じ地点に達している……メグレはそう考えたが、しかし口には出さずにいた。
「それだけかい、奥さま?」と、メグレは彼女をからかった。
「わたしを馬鹿にしているのね……あなたはそう思わない? ……」
「つまり、十七番地の2のアパルトマンを地下室から屋根裏部屋まで捜索したらいいというんだね……」
「彼女がまだ生きているかもしれないということを考えて……」
「わかっているよ! 夕食はうまい物をつくっておいてくれ……」
メグレは電話を切った。たのんでおいた令状はできていた。
「ねえ、スパイ事件のようなところがあると思わないか、メグレ?」
今は何もいいたくなかったので、肩をすくめただけだった。
それから廊下に出たが、またもどってきていった。
「今夜、答えますよ」
レキュイエ夫人……十七番地の2の女管理人……は子供を一人前に育てるために、なんでもやってきた気丈な女であった。
「ここには何人ぐらい住んでいますか?」
「二十二人。三階と四階に小さな部屋がたくさんあって、それで人数が多くなっているんですよ……」
「住人の中で、クロフタ夫妻と交際している者は?」
「どうしてです? クロフタさんご夫妻は非常に金持ちで、自動車や運転手を……」
「ところで、クロフタ夫婦が車をどこに駐車させておくか知っていますか?」
「アンリ四世通りのそばよ……運転手は外食しているので、ほとんどここには来ません……」
「昨日の午後は来なかった?」
「どうですかね……来たようにも思いますけど……」
「車で?」
「いいえ! 車は昨日も今朝も、ここには停まりません……」
「運転手は昨日の五時ごろ、クロフタ夫妻のところにいましたか?」
「いいえ! 四時半ごろ出ていったわ……うちの子供が学校から帰ってきた直後だから、よく憶えてますよ……」
「そうだよ!」と、子供が顔をあげながら同意した。
「では、もう一つお訊きしますが……昨日の五時ごろ、大きな荷物が運び出されませんでした? たとえば、引っ越しの車がこの付近に停まらなかった?」
「いいえ!」
「だれも家具や、箱や、かさばった包みを持ち出さなかった?」
「いったい、あなたはなにを知りたいんです?」と、彼女はわめいた。「かさばった包みがなんだというんですよ?」
「たとえば、人間の身体を入れたような包み……」
「まあ、なんということを! あなたの考えていたのは、そのことだったの? あなたはこの建物でだれかが殺されたと想像したの?」
「さあ、思い出してみてください……」
「いいえ! そんなものは見ませんよ……」
「小型トラックも、二輪車も、手押し車も、この庭に入ってこなかった?」
「間違いありませんてば!」
「ここには空部屋はないのかな? 部屋はすべてふさがっていますか?」
「すべて、例外なくね! 四階の一部屋が空いてましたがね、それだって二か月前からふさがってます」
このとき、子供が顔を上げた。そして、ペンを口にくわえると、いった。
「ねえ、ママ、ピアノは?」
「それがどんな関係があるというの? ピアノは運び出されたのではないよ。持ち込まれたのだよ……階段ではさぞかし大変だったでしょう……」
「ピアノが届いた時間は?」
「昨日の六時半……」
「届けたのは、どこの店の者だった?」
「さあ、どこかしら……小型トラックに店の名前が書いてなかったし……それに、トラックは庭に入ってこなかったからね……大きな箱に入ったピアノでね、三人の男がたっぷり一時間かかって……」
「その男たちは帰るとき、その箱を持っていかなかった?」
「いいえ……リュシアンさんがその男たちと一緒に降りてきて、街角の酒場へ飲みに連れていきました」
「リュシアンさんとはだれです?」
「ほら、さっきいったでしょう、二か月前、たった一つ空いてた部屋を借りた人がいるって……その人よ。とても静かで、とても礼儀正しい人でね……作曲家じゃないかしら……」
「彼はクロフタ夫婦を知っていますか?」
「そんなことないわね……」
「昨日の五時に、彼は部屋にいました?」
「あの人は四時半に帰ってきました……運転手が出ていったすぐあと……」
「ピアノが運ばれてくるということを、彼はあなたに前もって知らせておきました?」
「いいえ、あの人は手紙がきているかどうかを訊いただけで……」
「彼のところに手紙がたくさんくるのですか?」
「あまり来ませんね」
「どうもありがとう、レキュイエさん……」
メグレはそこを出ると、ヴォージュ広場を見張っていた二人の刑事にいろいろと指示を与えた。それから再びアパルトマンにもどった。
メグレは二階でも、三階でも足をとめなかった。四階で、身をかがめると、ピアノを引きずったときにできた、かすり傷を見つけた。そのかすり傷は四番目のドアのところで終わっているように思われた。メグレはそのドアをノックした。スリッパを履いた老婦人の足音のような、静かな音が聞こえたあとで、用心深い、低い声が聞こえてきた。
「どなたですの?」
「リュシアンさんはこちらですか?」
「お隣です……」
しかし、この言葉と同時にほかの人声が二言、三言なにやらつぶやいた。と、ドアが半分開き、太った老婦人が薄暗がりにいるメグレの顔を見分けようとした。
「いま、リュシアンさんはいません……何かお言伝《ことづて》があったらうかがっておきましょうか?」
何気なくメグレは身をかがめ、部屋のなかにいるもう一人の人間を見定めようとした。薄明かりのなかで、すべてがぼけてみえた。部屋には古い家具や、古い織物や、つまらない装飾品がところ狭しとばかりに溢《あふ》れ、老人の住居特有のにおいがあった。
ミシンのそばに、一人の女が、いかにも訪問客然としたようすで、かしこまってすわっていた。その女がメグレ夫人であることを認めたとき、彼の驚きといったらなかった。
「わたしは、オーギュスティーヌさんが洋服の仕立ての内職をしているのを知って」と、メグレ夫人は急いでいった。「そのことでたのみにきたのよ。わたしたち、いろいろとおしゃべりしたわ。オーギュスティーヌさんは宝石を盗んだ女中の隣の部屋に住んでいるの……」
メグレは、夫人がなにをいおうとしているのかといぶかりながら、肩をすくめた。
「とっても妙なのは、昨日ピアノが大きな箱に入れられて隣の部屋に届けられたということよ。箱はきっとまだ部屋におかれたままだわ……」
メグレは、夫人が自分と同じ結果に達したことにこんどは腹を立て、しかめ面をした。
「リュシアン氏がいないから、わたしは帰るよ」と、彼はいった。
メグレは一分も無駄にしなかった。ヴォージュ広場と建物の前を見張らせておいた二人の刑事を、クロフタ夫婦のドアに近い階段に配置させた。錠前屋と所轄署の署長とが呼び出された。
しばらくして、リュシアン氏の部屋のドアがこじ開けられた。部屋のなかには、ごく普通のピアノと、ベッドと、椅子と、箪笥とがあり、壁のところにピアノを入れてきた箱が立てかけられていた。
「この箱を開けてみてくれ……」と、メグレは恐怖に顔をこわばらせながら命じた。
彼は、箱が空であるのを怖れて、自分では手をふれたがらなかった。彼は落ち着いてパイプにたばこを詰めているようなふりをしていた。
「警視! ……女が! ……」と、だれかが叫んだ。
「知ってるよ!」
「女は生きてます!」
すると、彼はくり返した。「知ってるよ!」
そのとおりだった! メグレは箱のなかに女がいると知った瞬間から、それが問題のリタであること、彼女は生きたままで、手足を縛られ、きつく猿ぐつわをかまされていることを確信していた!
「彼女が意識をとりもどすようにしてみてくれ……医者を呼ぶんだ……」
彼は、オーギュスティーヌ夫人と一緒に廊下に立っている細君の前を通りながら、家庭だけでみせるいつもの微笑を投げかけた。その微笑はメグレ夫人に、従順な妻の役割を忘れて探偵ごっこに夢中になっているわが身を思い出させた。
警視が二階にくると、クロフタ夫婦の部屋のドアが開き、そこにクロフタ自身がひどく興奮して……懸命に落ち着こうとしていたが……立っていた。
「メグレ警視はここにいますか?」と、彼は見張りに立っていた二人の刑事にたずねた。
「ここにいる、クロフタさん」
「あなたに電話がかかってきています……内務省から……」
電話は内務省なんかからではなかった。メグレに電話したのは、司法警察局の局長であった。
「きみか、メグレ? ……たぶん、そこにいるだろうと思ったんだ……きみがその建物でなにやらやっている間に、この電話の持ち主クロフタは自国の大使館へ急を報らせ……大使館は外務省へ急を報らせ……外務省は……」
「わかった!」と、メグレはうなった。
「前にいっただろう! スパイ事件だったのさ! 命令が来ている、事件のことはなにひとつ漏《も》らさず、新聞にもしゃべらないようにしろとね……クロフタはずっと前から、秘密情報部フランス支局の責任者をやっていて、部下たちからの報告を集めていたんだ……」
問題のクロフタは微笑こそ浮かべていたが、蒼白な顔をして部屋の隅に立っていた。
「わたしにできる用事がありましたら、なんなりとお命じください、警視」
「ありがとう!」
「わたしのところの女中は見つかりましたか?」
すると、警視は一語ずつはっきりと発音しながら答えた。
「ええ、たった今ね、クロフタさん! おかげさまで!」
「わたし」とメグレ夫人はチョコレート入りババロワ菓子をつくり終わるといった。「あの娘《こ》がレース編みをできないと知って……」
「そうだろう!」と、夫は同意した。
「あの二人は毎日何時間か、レース編みなんかで、重大な事柄を伝え合うことができたのかしら? わたしが間違っていなかったら、あの娘、女中としてクロフタ家で働いていたあのリタは、本当に主人をスパイしていたのかしら?」
メグレはこれまで事件の説明をすることを好まなかった。しかし、こんどの場合、メグレ夫人をこのまま放っておくのは残酷すぎるように思われた。
「彼女はスパイたちをスパイしていたんだ」と、彼はぶつくさ言った。そして、気むずかしいようすで、肩をすくめると、
「そのためなんだ、わたしが一味を逮捕しようとした瞬間に、命令がくだったのは……『手をひけ! 口をつぐんで、おとなしくしていろ!』とね」
「実際、面白くない話だわ」と、彼女は、メグレが不機嫌になるのはもっともだといわんばかりに、ため息をついた。
「いいかね、一方には、あらゆる情報をあつめ、それを政府に伝えていたクロフタ夫婦……もう一方は、一人の女と男……リタと≪きみの恋人≫のベンチの男。この二人はだれのために働いていたのか? それは、わたしには関係ないことだが、どこかの国のスパイであることはたしかだ。たぶんクロフタ夫妻の国と敵対する国。ある国々では内政も外交もひどく紛糾しているからだ。
彼らにはクロフタが毎日集める情報が必要だった。リタはこれらの情報を何なく横取りできた。だが、どうやってそれを外部へ伝えるか? スパイは疑い深い。ちょっと怪しい振舞いをすれば、彼女は殺されるだろう。そこで、あのおしゃれな老人とベンチが考え出されたのだ。それに、あのレース編みも。はた目にはレース編みしているように見えたが、実際は手を巧妙に動かし、モールス信号で長い情報をつぎからつぎへと送っていた。
リタの前に坐った男は信号をすべて記憶におさめる。いくらスパイとはいえ、これほどとてつもない忍耐を要する仕事もないだろう。というのは、いましがた知ったことを、彼は数時間のあいだ一語ももらさずおぼえておかなくてはならないからだ。……水車小屋に近い、コルベイユの住居にもどり、夜通しタイプし終わるまでは。
これほど巧妙な手口がどうしてクロフタ夫妻に発見されたのか、わたしにはわからない。毎日四時ごろ、情報を持ってくる運転手によってだろうか?」
メグレ夫人はじっと耳を傾けていた。彼女はメグレが途中で話をやめるのを怖れ、まるで感情を顔にあらわさなかった。
「その後のことは、きみがよく知っているはずだ。クロフタ夫妻にとっては、まず男を消し、次にリタを捕まえて、彼女がだれのために働き、すでにどんな情報を流したかを知ることが問題だった。クロフタは仲間のリュシアン……彼は射撃の名手だ……を同じ建物に住まわせた。クロフタは彼に電話する。リュシアンはただちにやってきて、若い娘の部屋から、目ざす敵を空気銃で殺す。
だれにも見られないし、なにも聞かれない……ただ、リタを除いては。しかし、彼女は子供たちを連れてアパルトマンヘもどってきた。こんど殺《や》られるのが自分だと知っていながら。
彼女は自分になにが待っているか知っていた。彼女は秘密をはき出せといためつけられる。彼女はじっと耐える。クロフタは殺すとおどし、リュシアンの部屋にピアノ……その箱で彼女の死体を運び出そうとしたのだろう……を持ってこさせる。音楽家の部屋に彼女がいるだろうなんて、だれも考えないからね。
同時に、クロフタはわが身の安全を考える。彼は女中が逃げ出した、宝石を盗んだというつくり話を警察に持ち込んだ……」
沈黙。すでに夕闇が訪れていた。空は青く、噴水は月光をあびて銀色にきらめきながら鈴の音のような調べをかなでていた。
「あなたはすべてをお見通しなのね!」と、メグレ夫人は感嘆した。
彼は上機嫌とも不機嫌ともつかぬようすで夫人をながめた。夫人はつけ加えた。
「最後まで調査をつづけることができないなんて、腹立たしいでしょう……」
すると、彼はわざと怒ったふりをして、
「もっと腹立たしいことがある。それはね、あのオーギュスティーヌさんの部屋で、きみを見つけたときだ! わたしより一歩先んじていたのかと思ってね……まあ、当り前だろう、≪きみの恋人≫が殺された事件だったんだからね!」
[#改ページ]
死刑
この種の事件でもっとも危険なことは、相手に根気負けしてしまうことである。いわゆる張込みはすでに二十日前から続いていた。ジャンヴィエ刑事とリュカ部長刑事は交代で辛抱強く張込んでいた。だが、メグレは百時間ぐらいしかしなかった。彼だけは、この事件が結局どうなるかを知っていたからだ。
その朝、リュカはバティニョール大通りからメグレに電話をかけてきた。
「やつらはどうやら飛び立つらしいですよ……いまきいた女中の話ではもうスーツケースの準備をすませたらしい……」
八時に、メグレは≪ボオ・ジュール・ホテル≫からあまり遠くない場所に停めたタクシーのなかで見張っていた。彼の足元には、スーツケースが一つ置いてある。
雨が降っていた。日曜日である。八時十五分、問題のアベックが三つのスーツケースをもってホテルから出てきた。八時半に、このアベックは大時計に面した北駅のビヤホールの前で立ち止まった。メグレもまた車から下りた。そして、少しも姿を隠そうとせずに、テラスの、≪やつら≫がすわった隣のテーブルに腰をおろした。小ぬか雨が降っているばかりか、とても寒かった。アベックはストーヴのそばの席を占めていた。二人が警視の姿に気づいたとき、男は思わず手を山高帽のほうへ動かした。一方、女のほうは毛皮のコートをいっそう強くかきあわせた。
「ボーイ、グロッグ!」
ほかの客たちもグロッグを飲んでいた。通行人たちは客のすぐそばの舗道を通り、ボーイは店内を往ったり来たりしていた。大きな駅の付近でみられる日曜日の朝の生活が、ここでも続いていた。まるで一人の男の首が賭《か》けられていないかのように……。
時計の針はときどき思い出したように文字盤の上を進んでいた。九時に、アベックは立ち上がり、切符売場へ向かった。
「ブリュッセルまで二等の片道を二枚……」
「ブリュッセルまで二等を一枚」メグレも同じようにくり返した。
プラットホームは人でごったがえしていた。急行列車はすでに着いていたが、空席はホームのはずれ、機関車のそばの客車の車室にしかなかった。アベックは、そこにやっとの思いで入った。警視もそこの網棚にスーツケースを置いた。車内にはキスしている人たちがいた。山高帽の若い男は、新聞を買うため列車を降りると、週刊誌と絵入り新聞を束にしてもどってきた。
ベルリン行きの急行列車であった。車内は混んでいた。あらゆる国の言葉が話されていた。列車が動きだすと、若い男は手袋もとらないで新聞を読みはじめた。一方、寒そうなようすをしていた女は、手を男の手の上にのせた。
「食堂車はありますか?」だれかがたずねた。
「国境を越えてからでしょう」ほかの一人が答えた。
「税関で停車しますか?」
「いや。検査はサン・クェンティンを過ぎてから、車内で行なわれるんですよ……」
郊外、見渡すかぎりの森、そして一時停車しかしなかったコンピエーニュ。若い男はときどき新聞から目をあげると、メグレの温和な顔をそっとうかがった。
男はたしかに疲れていた。同じように相手を盗み見ていたメグレは、男がいつもより蒼白い顔色をし、いつもよりいっそう神経質そうにいらいらしているのに気づいた。おそらく彼は、一時間前からなにを読んでいたか言うことができなかっただろう。
「お腹がすかない?」若い女がたずねた。
「うん……」
乗客たちはシガレットやパイプをすっていた。外は薄暗くなっていた。村々のぬかった、淋しい道や、ミサが行なわれているらしい教会が見えてきた。
メグレは今ではもうこれまでの出来事を一つ一つ考えなおそうともしなかった。そうすればきっとうんざりしてしまっただろう。十八日前からこの事件のことを考えつづけていたからだ。メグレの前の若い男は、パリジャンというよりもイギリス人のような地味な服装をしていた……チャコールグレーのスーツに、目立たないボタンがついたグレーのコートと山高帽、それにこれらの品物を装飾するものとして、下の網棚に置いてある雨傘。
もし彼の名前がこの車内で言われたら、だれもが身ぶるいするだろう。というのは、乗客の膝の上に散らばっている新聞のなかには、彼のことについて書いたものが少なくとも半分はあるからだ。
美しい名前……ジュアン・ドゥールモン。歴史のなかにその名前が二度、三度とあらわれてくるベルギーの名家。
ジュアン・ドゥールモンはブロンドだった。顔はかなり細面であるが、あまりに繊細な肌をしているのですぐに赤くなる。しかも、顔面神経痛によって絶えずぴくぴくしていた。
メグレはパリ警視庁のオフィスで二度ほど、この若い男を数時間にわたって尋問したことがある。
「二年前から、きみは家族の者たちを悲しませているな?」
「それはぼくの家族の問題でしょ!」
「きみは法律の勉強をはじめたが、素行がおさまらないため、ルヴェレ大学を退学させられた」
「ぼくは一人の女と暮らしていた……」
「そうそう! ベルギーの商人が囲《かこ》っていた女と……」
「そういう細かいことは重要じゃないでしょう!」
「家族の者たちにきらわれたきみは、パリにやってきた……パリでは競馬場やナイト・クラブにばかり行っていた……きみはドゥールモン伯爵と名のっていた。きみにはその資格がないのだが……」
「伯爵というのをありがたがる連中がいるからだ……」
病的なほど蒼白い顔色にもかかわらず、絶えず同じ冷静さを保っていた。
「きみはソニア・リップシッツと知り合った。彼女の過去についてなにも知らないだろう……」
「女の過去をどうこういいたくない……」
「二十三歳で、ソニア・リップシッツはすでに数多くのパトロンをもっていたのだ……最後のパトロンは彼女に莫大な財産を残した。だが、彼女はそれを二年以内で浪費してしまっている……」
「そんなことぼくには関係がない。ぼくが彼女と会ったのは、そのずっとあとだから……」
「きみは叔父のアダルベール・ドゥールモン伯爵……きみの一族は、風変わりな名前をつける趣味があるな……が、毎月、パリのルーブル・ホテルに数日のあいだ泊っていたのを知っていたね……」
「叔父はブリュッセルでは厳格な生活を送らなければならなかったので、そのうっぷんを晴らしていたのでしょう……」
「よろしい! ……叔父さんはホテルの古い定連だったので、いつも同じ部屋、三一八号室に入っていた……毎朝、馬に乗って森にいく。それから当世ふうのレストランで昼食をとると、五時まで部屋に閉じ込もる……」
「叔父には昼寝が必要だったのです!」と、若い男は臆面もなく応えた。「あの年では無理もない……」
「五時に、美容師とマニキュア師を部屋によぶ。それから朝の二時まで美しい女たちが集まる場所へと出かけていく……」
「そのとおりです……」
ドゥールモン伯爵はある一時期にはすぐれた外交官だったのだから、老年になって同年輩のしゃれた男たちの仲間入りをし、かつらまでつけはじめたとしても当然のことだったろう。
「叔父さんは金持ちだった……」
「そういう評判らしいですね……」
「きみはたびたび叔父さんから金の援助をうけている……」
「道徳的な教訓もうけました……この道徳的な教訓をおとなしくきかなければ、金を貸してくれませんでしたよ……」
「事件の起こる二日前、きみはシャンゼリゼのバーで、叔父さんにきみの≪おんな≫ソニア・リップシッツを紹介したね……」
「あなただってぼくの立場になったら、奥さんをきっと叔父に紹介したでしょう……」
「きみたちは三人ともアペリチフを飲んだ。それから、きみは仕事で会わなければならない人がいるからといって、二人を残してかえった……このとき、きみとソニアの財政は、長年住んでいたシャンゼリゼに近いベリー・ホテルを出て……かなりの借金をホテルに残しているね……、バティニョール大通りのこれまでよりずっとみじめなホテルに入らなければならないくらい、せっぱつまっていた」
「そのことでぼくを非難するんですか?」
「どうも叔父さんはソニアが気に入らなかったらしい。彼は夕食をすませると、すぐに小劇場に行くからといって彼女と別れている……」
「それもまた非難ですか?」
「それから二日後の金曜日、三時半ごろ、ドゥールモン伯爵は自分の部屋でいつものように昼寝をしているときに殺された……検死医によれば、鉛管か鉄棒のような鈍器でなぐり殺されたのだ……」
「ぼくも調べられた……」若い男は冷笑した。
「わかっている! きみにはちゃんとしたアリバイがあったな。きみは事件の翌日、馬券をわたしに見せた。きみは競馬気違いだったから……殺人の起こった午後、きみはロンシャン競馬場にいて、一レースごとに二頭の馬に賭けていた……きみのコートのなかから出できた馬券が、それを証明している。しかも、きみの仲間たちはあの日の午後の間に一、二度きみの姿に気づいている……」
「そのとおりです!」
「しかし、きみには競馬の間に、タクシーに飛び乗り、叔父さんの部屋に入る時間があったのではないかという疑いは消えはしない……」
「だれかがぼくを見たんですか?」
「ルーブル・ホテルは定連の出入りには注意しないことをきみはよく知っている……しかし、いずれドアマンは思い出すだろう……」
「漠然とした話じゃないですか?」
「フランス紙幣で三万二千フランが叔父さんのところから盗まれている」
「ぼくがその金を盗んだのなら、とうに国境を越してますよ!」
「それもわかっている! きみのホテルからはなにも発見できなかった。けっこうなことだ! 事件の二日後、きみの≪おんな≫は公設質屋に最後の二つの指輪を入れた。きみたちは今そのとき受けとった五千フランで暮らしている……」
「さあ、ね……」
これが事件のすべてだった! いいかえれば、ほとんど完全犯罪なのである! アリバイはどうしてもくずせなかった。あの日の午後、競馬場でジュアンの姿を見た人がいる。しかし、なん時に?
彼は賭けていた。だが、あるレースは、彼の≪おんな≫が彼のために賭けることができるはずだ。しかも、ロンシャン競馬場からリヴォリ通りまでは遠くない。
鉛管は? 鉄棒は? だれでも、それを手に入れることができるし簡単に始末できる。しかも、だれにだって大した苦労もなく大きなホテルに忍び込むことができる。翌々日、二つの指輪を質屋に入れたのは? 馬券は?
「叔父がときどき女を部屋のなかに引き入れてたのを知ってますね」
ドゥールモンがいった。「なぜ、そのほうを調べないんです?」
論理的にみれば、この理屈には反駁《はんばく》の余地がなかった。したがって二度の尋問のあとで彼がオルフェーヴル河岸をおとずれて、ベルギーに帰りたいといったとき、逮捕するだけの十分な証拠がないので、許可するより手がなかった。
メグレが十二日前からいつもの戦術を使ったのは、このためである。つまり、相手の跡を一歩ごとに、一分ごとに、朝から晩まで、晩から朝までつけまわす戦術、相手がうんざりするまで執拗《しつよう》につけまわす戦術。
今朝、客車のなかで彼と向かい合ってすわらなければならないようになったのも、そのためである。メグレの姿を見たとき、軽く会釈した若い男が、それから数時間のあいだ、快活なようすをとりつくろっているのも、そのためである。
まったく卑劣な犯罪! 弁解の余地のない犯罪! 被害者の親類の者の手で、教養のある、しかもはっきりした精神的な欠陥がない若者の手で犯された唾棄《だき》すべき犯罪! 冷静に行なわれた犯罪! ほとんど科学的ともいえる犯罪!
陪審員たちは首きりの刑を言い渡すだろう! 目の前のこの顔、少し蒼白い、頬骨のところがほとんど血色のないこの顔は、税関の検査のため立ちあがった。
メグレが前に電話で命令をあたえておいたので、このアベックに対する検査は綿密だった。あまりに綿密すぎてぶしつけなほどだった。
その結果は……無である! ジュアン・ドゥールモンは蒼白い顔でほほえんでいた。メグレにほほえんでいた。メグレが敵なのを知っていた。彼もまたメグレのように、これが精神の消耗戦であること、しかしながらこの戦いには自分の首が賭けられていることを感じていた。
一方は、つまり殺人者はすべてを知っていた。いつ、どのような方法で、何時何分に、どのような状況で犯罪が行なわれたかを。
しかし、もう一方、パイプをふかしているメグレは……たばこのけむりに悩まされた隣の女がしきりにしかめ面をしてみせたが、メグレはとんちゃくしなかった……、なにを知っているのか? なにを発見したのか?
根気くらべだ! 国境を過ぎれば、メグレにはもはや口出しする権利さえなくなる。すでにボリナージュの最初の鉱山町が見えだしてきていた。
国境を過ぎればどうしようもないのに、なぜ、彼はここまできたのか?
なぜ彼は片意地になっているのか? なぜアベックがアペリチフを飲みに食堂車にいったとき、脅迫がましく無言のまま、同じテーブルにすわったのか?
なぜ、彼はブリュッセルで、ジュアン・ドゥールモンや、彼の≪おんな≫と同じパレス・ホテルに部屋をとったのか?
メグレはアリバイにおかしな点を発見したのか? ジュアン・ドゥールモンは彼の犯行を示す些細な証拠を忘れていたのか?
ぜんぜんそんなものはない! とにかく、フランス国内で彼を逮捕し、フランスの裁判にかけなければならなかったろう。そうすれば、疑いもなく死刑になる……。
パレス・ホテルでは、メグレは隣の部屋に入った。メグレはドアをあけっぱなしにし、彼らがレストランにいくと、そのあとについていった。また彼らが、ヌーヴ街のショーウィンドーを見て歩くと彼もそうするし、彼らと同じビヤホールにも入った。相変わらず執拗で、おだやかなようすを保ちながら。
ソニアは男と同じようにほとんど熱に浮かされたようになっていた。翌日、彼女は二時まで寝ていた。彼らは部屋で食事をとった。すると、彼らは電話のベルの音をきいた。メグレも同じように部屋へ食事を注文していたのである。
一日……二日……五千フランはもうなくなっているはずだ……メグレはいつも彼らのそばにいた……パイプをくわえ、両手をポケットにいれ、憂鬱《ゆううつ》そうなようすで辛抱していた。
しかし、彼はなにを知ったか? 彼が知ったことはなんなのだろうか?
実際にはメグレはなにも知ってなかった! メグレは≪感じていた≫。事件を確信していた。自分が間違っていないことを名誉にかけて誓いもしただろう。しかし、頭のなかでなん度も事件をひっくりかえしてみても、パリの運転手や、とくに競馬場の人々をいくら尋問してみても、結局何もつかめなかった。
「勘弁してください! わたしらはなにしろ多くの人間に会うもので……」
ジュアン・ドゥールモンには特徴がなかったので、写真を見せられた人は、ほかの人間とすぐにかん違いした。
かんは十分に働かなかった。証拠もなかった。裁判所は証拠を要求する。メグレは自分が先に疲れ果ててしまうかもしれないということを知りもしないで、相変わらずあとをつけまわした。ボタニック公園を散歩する彼らのあとをついて歩いた。夜会パーティから映画までついていった。立派なビヤホールで昼食をし、夕食をした。まるで彼がこうしたビヤホールを愛するかのように。まるで彼がビールをたくさん飲むかのように。
雨がみぞれにかわりはじめた。火曜日、警視は彼の≪いけにえ≫たちの手にはもう三百フランぐらいの金しか残っていないだろうと推測した。そして、そろそろ彼らが例の大金に手をつけはじめてもいいころではないかと思った。
へとへとに疲れる毎日だった。夜、隣室のどんな物音にも目をさまさなければならなかった。しかし、彼はいわば犬……猪《いのしし》の前に放り出され、逃げないために痛い目にあった犬のようだった。
彼らの周囲の人たちは、まだなにも気づいていない。ホテルの従業員は蒼白いジュアン・ドゥールモンの首が肩から落ちそうになっているのも知らず、普通のお客のようにサービスしていた。あるダンスホールでソニアを踊りに誘ってから、姿を消した男がいた。一時間後、その男は再びソニアを踊りに誘った。が、ふざけているかのようにハンドバッグをもって踊った。良家の若者らしいようすをしたこの男は、遠くからドゥールモンに親しげな目くばせを送った。
それは些細なことだった。ブリュッセルの生活も三日目になっていた。しかし、メグレはこのときはじめて、うまくいきそうな希望をいだいた。
このときメグレがしたことは、メグレ夫人が知ったらきっと途方にくれただろう。それほど彼に似つかわしくない行動だった。ダンスホールのわきのバーに行くと、ホステスたちにかこまれて二、三杯のグラスをあけた。彼は、警官として許されている限度をはるかに越えてさわぎだした。そして最後にはほとんど千鳥足で、ソニアを踊りに誘った。
「ええ、いいわ!」彼女は冷ややかにいった。テーブルの上にハンドバッグを置くと、愛人にめくばせした。しかし、愛人のほうもダンサーの一人に踊りに誘われてしまった。
この二組の男女が他の人たちにまじってオレンジ色の照明の下で踊っているこの瞬間、だれがこれから起ころうとしていることを予測できただろう?
踊りが終わると、メグレはもはや一人ではなかった。黒い服をきた小柄な男がメグレに同伴して、アベックのテーブルに行った。黒服の小男が口をきった。
「ジュアン・ドゥールモンさん……物音を立てないで……騒がないで……わたしはあなたを逮捕しにきたベルギー警察のものです……」
ハンドバッグは相変らずそこ、テーブルの上にあった。メグレはほかのことを考えているようなようすをしていた。
「なんの罪でぼくを逮捕するんです?」
「犯罪人引渡し令状が出ている……」
このとき、ドゥールモンの手はハンドバッグをつかんだ。とつぜん立ち上がると、メグレに拳銃をつきつけた……
「後悔するがいい……」彼はぶつぶついった。
銃声。メグレは両手をポケットに入れたまま立っていた。拳銃を手にしたジュアンは気違いのようになった。ダンサーたちは逃げ出した。いつもの大混乱……。
「わかりますか?」メグレはブリュッセル警察の警部にいった。
「わたしには証拠がなかった。手がかりひとつなかった! しかも彼はわたしのように頭がよかった……たとえ彼が叔父さんを殺したにしても、わたしにはそれを証明できなかった。おそらく彼は死刑からのがれていただろう、もし……」
「もし? ……」
「もし彼が昔、法科の学生でなかったら。そして、死刑がベルギーでも現実に存在していたのなら……つまりこういうことです……フランスで、彼はお金のために自分の叔父さんを殺した……彼は知っていた……フランスでは自分の首が危険にさらされているのを……ブリュッセルにのがれても、彼の犯罪が立証されれば、犯罪者としてフランスに引渡される……しかも、彼のうしろには絶えずわたしがいる! いいかえれば、わたしはいつか手がかりを、証拠をつかむだろう……彼は助からない……。
いや、たった一つのことが彼をギロチンからのがれさせることができるのだ……かつてダンサーを殺した男が生きのびたように……それは新たに人殺しを犯し、ベルギーの裁判をうけてしまうことだ。ベルギーならば死刑は廃止されているからだ。ただ一生涯を監獄でくらすことになるだろうが……しかし命は助かる……。
わたしがつけまわして、彼を追いつめようとしたのはこのためである……彼は武器をもっていなかった……今夜、彼のおんなのそぶりから、わたしはいよいよ進退きわまった彼らが、昔の仲間の助けで拳銃を手に入れたことを知った。ハンドバッグのなかにあったやつだ……。
ダンスのあいだに一人の警官が、実弾の入った拳銃を空砲の拳銃にかえておいた……。
そして逮捕……。
気違いのようになったジュアン・ドゥールモン、首が危険にさらされているジュアン・ドゥールモンは、ベルギーで終身刑に処せられることを好み、引金を引いた……わかりますか?」
よくわかったはずだ……第二の犯罪があの老ドゥールモン伯爵を殺した犯人の生命を救うことができたことを。そのうえ、若い男の皮肉な微笑が絶えずこう語っていたことを。
「あなたはぼくの首を手に入れることはできない!」
すべてが終わった今、彼の首なんかどうでもいい! というのは、あのとき彼が殺意を少しもいだいていなかったことには変わりがないし、これでやっとメグレは他のことを考える権利がもてたのだから!
[#改ページ]
開いた窓
三人の男がジュヌール通りの角に近い、モンマルトル通り百十六番地の2の前に着いたとき、十二時五分前だった。
「いくかね?」
「いっぱい飲んでからにしよう……」
彼らは近くのスタンドでアペリチフを飲むと、寒いのでコートの襟《えり》を立て、ポケットに両手をつっこんだ。それから建物の中庭に入り、階段を探し、見つかると、三階にあがった。この入り組んだ古めかしい建物の各ドアには、造花製造業者や映画会社などの名をしるしたエナメル板や銅板がぶらさがっていた。三階の、薄暗い廊下の奥に≪フランス商会≫という名札のついたドアがあった。リュカ部長刑事は一歩前に出ると、ドアを開き、帽子の縁に手をかけた。
「オスカール・ラジェはここかね?」
控室では、賭博《とばく》台のようなテーブルにすわった五十がらみの男が、封筒に切手をはっていた。最初、彼は面倒くさげにのろのろと首を振ったが、訪問者たちの態度がほかの人とどこか違っているのに気づき、注意深く相手をながめると、得心したらしいようすで立ち上がった。
「午前中は事務所にきませんが、何かご用ですか?」
「ここに逮捕状がある」
リュカはポケットから出した紙をさし示しながら、答えた。「この時間だと、どこにいけば会える?」
「わかりませんな……たぶん、株式取引所か近くのレストランでしょう。四時には帰ってきますが……」
リュカは仲間の刑事たちと視線をかわした。
「彼の事務所を見せてもらおう……」
男はおとなしくリュカの先に立つと、狭い廊下を通り抜け、一つのドアを開けて、事務所のなかにだれもいないことを示した。
「わかった! 四時にまたくる……」
メグレがこの事件にかかわるようになったのは、まったくの偶然である。三時に、オルフェーヴル河岸のオフィスで電話をうけた。それは、イタリア門のわきでアルジェリア人たちが刃物をふりまわしていることを知らせる電話だった。ところで、アルジェリア人はリュカ部長刑事の担当だった。
「警視、わたしはそこへは行けません。逮捕のため四時にモンマルトル通りへいかねばならないのです……」
「だれの逮捕?」
「ラジェ……知ってますか? ……≪フランス商会≫の男です。検事局の経済事犯課でサインした逮捕状があります……」
「すぐイタリア門にいきたまえ、モンマルトル通りはわたしがいく……」
彼は四時十分前まで仕事をした。それから二人の刑事を連れてタクシーに飛び乗り、円天井の玄関をくぐりぬけ、中庭にはいると、曲がりくねり、荒れ果てた階段を見つめながら、思わずつぶやいた。
「二番目の出口はあるのかね?」
「ありそうですね……」
要するに、それは大した問題じゃない! 一人のいかがわしい金融業者をただ逮捕するだけなのだ!
「三階です。警視……右へ曲がってください……」
こうしたことはすべて骨が折れる仕事だった。五十がらみの男、エルネス・デシャルノーは相変わらずテーブルにすわっていたが、こんどは切手をはっているのではなく、封筒に住所を書いていた。彼の前では、五、六人の男たちが待ちくたびれたようすをしていた。
「オスカール・ラジェはもどってきたかね?」
メグレはパイプをくわえたまま、たずねた。
「まだです……もうまもなく来るでしょう……この人たちも待っているのです……」
ちらっと一目みただけで、この≪男たち≫が債権者や、あまり生活の豊かでない連中なのは明らかだった。彼らはラジェからいくらかでも金を取りたてようとして、一時間か二時間前から待っていたのである。メグレはパイプの葉を床にあけると、新しく詰めかえた。床はすでに汚れていた。
「ここは、すきま風が通るね」
コートのビロードの襟を立てながら、メグレはつぶやいた。エルネス・デシャルノーは外をうかがうように耳をすますと、つぶやいた。
「帰ってきたのかな……」
「なぜ? このドアから入ってこないのか?」
「いつも裏口から入るのです……知らせてきましょう……」
こういいながら、彼が立ちあがったとき、ラジェの事務所のほうで爆音が鳴り響いた。デシャルノーは飛んで行こうとした。が、メグレは身ぶりで押しとどめると、自分が先に立った。
廊下は曲がっていた。奥にある開いた窓は……ここからすきま風が入っていたのだ……小さな中庭に面していた。寒がりのメグレは、通りがかりにその窓を閉めた。ラジェのドアに鍵がかかっているものと思っていたが、鍵などはかかっていなかった。事務所のなかには、背の低い、ふとった実業家タイプの男が椅子に仰向けにすわっていた。右こめかみのところに大きな傷口があり、だらりと垂れた手のすぐ下のじゅうたんに、拳銃が落ちていた。
「だれもなかに入るな!」
ふり向きながら、メグレはどなった。
この瞬間、なにかが彼にショックを与えた。しかし、それがなんなのかいっこうにわからなかった。鼻をくんくんいわせながら、自分の周囲を見まわした……帽子をちょっとあみだにかぶり、両手をポケットに入れたままという、メグレ独特の態度で……。彼の視線は最後に、窓のカーテンのうしろからはみ出している女の靴の上でとまった。彼はぶつぶついった。
「そこでなにをしているのかね、あなたは?」
すると、毛皮のコートを着た、まだ若い女がカーテンのかげから出てきて、不安そうなようすで三人の男たちをながめた。そして、口ごもりながらいった。
「あなたがたはだれなの? なにしにいらしたの?」
「あなたは?」
「ラジェの妻です!」
このとき、死体の上に屈み込んでいた刑事の一人は立ちあがると、こう言った。
「死んでいます! ……」
ジャンヴィエ刑事は所轄署の署長や検事局や鑑識課に事件を知らせにいった。一方、メグレはむっつりして、まばゆい陽光がさし込む部屋のなかをぐるぐる歩きまわっていた。
「だいぶ前からこの事務所にきていたのかね?」
ラジェ夫人をそっと盗み見ながら、とつぜん彼はたずねた。
「あなたとほとんど同じ時間にきたのです……足音を耳にしたので、たまたまカーテンのうしろに隠れたのです……」
「なぜ?」
「わかりません……わたしはなによりもまず知りたいのです……」
「なにを知りたいのです?」
「起こったことを……主人はほんとうに死んだのですか?」
彼女は泣かなかったが、物凄い顔つきをしていた。メグレはそのまま話しつづけようとはせずに、二人目の刑事に低い声でいった。
「事務所に残り、彼女を監視していてくれたまえ。なんにも手を触れないように……」
それから、彼は控室にいったが、客たちは相変わらず待っていた。
「あなたたちは部屋から出ないでください……必要になるかもしれませんから……」
「死んだんですか?」
「いとも簡単にね……ところであなただが」彼はデシャルノーに話しかけた。「二人きりで話したい……」
「奥さんの事務所にいきましょう……そこに奥さんがいなければ……」
その事務所はラジェの事務所に面していた。だれにも邪魔されないように、メグレはドアに鍵をかけると、閉まっていないストーヴの蓋を機械的にいじりまわしながら、相手に椅子をすすめた。
「すわりなさい……あなたの名前は……年齢は……知っていることをすべて話してくれたまえ……」
彼は相手を無理にすわらせたが、自分は立ったままで、いつものように部屋のなかを歩きまわった。
「エルネス・デシャルノーといいます。年齢は五十歳、昔は商人でしたが、それから予備隊の中尉になり……」
「そして今は事務所の給仕?」メグレはつぶやいた。
「給仕なんかじゃありません」デシャルノーはにがにがしげに訂正した。「でも、あなたがそういうのも無理はないと思います。給仕のようなものですからね」
すり切れた洋服を着てはいたが、非常によく手入れが行き届いていた。しかも、彼の態度や、貧乏人特有の白髪にはどこか品があった。
「戦前、わたしはコールセール大通りで店をもっていました。わりと繁昌しましてね」
「なんの店?」
「武器、弾薬、それに狩猟道具……それからただの一兵卒として前線にいき、三年目に砲兵中尉になりました……」
メグレはこの時、相手の背広の裏に赤いものがうっすらとついているのに気づいた。また、男が、少し熱っぽい口調でせかせかとしゃべりながら絶えずアパルトマンの物音に耳を傾けているのも見逃さなかった。
「オスカール・ラジェと知り合ったのは、シャンパーニュです。彼はわたしの部下でした……」
「ただの一兵卒?」
「そうです……その後、軍曹になりましたが……復員してみると、店は閉まっているうえ、妻は病気でした……わたしはあまりお金がありませんでしたが、とにかくその金をすべて商売のほうにつぎこみました。ですが、商売は一年後にだめになり……妻も死にました……」
足音が聞こえた。メグレはそれが所轄署の警官であることを知った。しかし、その警官はメグレたちの部屋には入ってこなかった。事務机の上に腰かけて、メグレはたずねた。
「それから?」
「そのころ、ラジェは化学製品の会社をはじめていたので、彼に会いにいきました……彼の事務所はオスマン大通りにあり、わたしは外交員として雇われました……彼を逮捕しにきたあなたには、彼がどんな男かすでにおわかりのことと思いますが……」
「つづけたまえ!」
時々、メグレは話をきいていないようなようすをしていた。
「化学製品は三年つづきまして、おかげでわたしにはいくらかの貯金ができました……ある日、ラジェは夜逃げをしました。わたしはまた失業者になったわけです……彼がよく起訴されていたのは、そのころです。ですが、ラジェは、そんなことにはおかまいなく、一年後には鳴物入りで新しい商売をやりはじめたのです。つまり、この≪フランス商会≫……」
デシャルノーは話しつづけるのをためらった。メグレがこうした話に興味をもつかどうかわからなかったからだ。他の部屋からは相変わらず足音や話し声が聞こえてきた。
「ある時期には、六十人もの従業員がいて、ボーヴール通りのモダンな建物の四階に事務所をかまえていました。ラジェは業界紙を発行していました。≪肉類販売新聞≫≪パリ中央市場仲買人公報≫≪皮革報知≫など……」
「あなたもそこにいたのかね?」
「わたしがふたたび会いにいくと、そばに置いてくれたのです。はっきりした職務はありませんでしたが……でも、わたしはいわば彼の右腕だったのです……そのため彼がつくったいくつかの会社の専務に任命されましたし、たまには社長がわりもつとめました……」
「それでは、いまあなたも同じように起訴されているのだね?」
「おそらくはそうでしょう」デシャルノーは大声をあげた。「でもどうしてそういう羽目になったのかをご存じないでしょう……従業員が六十人もいたときでさえ、わたしたちは二千フランの金を追いかけまわさねばならなかったのです……ラジェと奥さんはそれぞれ一台ずつ自動車をもっていました……八十万フランの別荘も建てました。ですが、召使いたちには三か月分も給料を払わなかったのです……一つの穴をほかの穴でふさいでいたのです……ラジェは二、三日姿を消していたかと思うと、熱に浮かれたように裏口から帰ってきて、書類にサインをしろとわたしに命じました……≪早くしろ……こんどこそ、一財産つくれるぞ!≫
わたしには自分がなににサインしたのかさえわかりません……わたしがちゅうちょでもすると、恩知らずだといって非難され、どぶから引きあげてやったのを思い出せとどなられました……。
ですが、彼にはとても親切なときがありました……たとえばお金をもっていたりすると、理由もないのに、二、三十万フランをぽんとくれるのです。もっともその翌日か、翌々日には返してくれといわれますが……。
商売の浮沈をなんどとなく経験したあとで、わたしたちはここにやってきたのです……ラジェ夫人は自分の商売をはじめました。毎日奥さんは事務所にやってきて……」
メグレは、口からパイプをはずしながら、とつぜん一つの質問をした。それは簡単な質問だったが、デシャルノーをびっくりさせた。
「あなたはどこで昼食をとりました?」
「いつ? ……今日? ……ちょっと待って下さい……わたしはちょっと外に出てパンとソーセージを買ってきました……紙くずかごのなかにパン屑とソーセージの皮が残っているでしょう……」
「だれもこなかったかね?」
「なんの話ですか? 二時に、いつものように債権者がきました……ラジェが表の階段を使わないのは、このためなのです……ジュヌール通りへ抜ける出口が一つありますが、いくつもの建物や廊下を横切り、二つのアパートをぐるりとひとまわりしなければなりません。でも、彼はそれをむしろ好んでいました……」
「奥さんは?」
「奥さんも同じです!」
「四時に事務所へくるのは、彼女の習慣だったのかね?」
「ちがいます! いつもは、二時にきます……ですが、月の最初の水曜日には、奥さんは役所にいき、年金をもらってくるのです……遺族年金です……」
「あなたは奥さんが殺したと思うかね?」
「わかりません」
「では、ラジェが自殺したと?」
「さあ……知っていることはすべて話しました……。わたしがいま考えていることは、これからどうしたらいいかということです……」
メグレはドアを開けにいった。
「あとでまたお目にかかることになるだろう……」
ラジェの事務所では、十人か十五人ほどの人間が動きまわっていた。フラッシュがたかれた。写真を撮り終わった鑑識課のカメラマンは、器械を片づけはじめた。予審判事と若い検事代理が、低い声で話し合っていた。一方、ラジェ夫人は顔を憔悴《しょうすい》させ、隅でじっとすわっていた。まるで、人々のめまぐるしい動きや物音に麻痺《まひ》してしまったように。
「なにか発見しましたか?」所轄署の署長はメグレにたずねた。
「まだだ。あなたのほうは?」
「この拳銃から発射された薬莢《やっきょう》が見つかりました……ラジェ夫人は夫の拳銃だと認めています。いつも、事務所の引出しに入れてあったそうです……」
「ちょっと来ていただけますか、ラジェ夫人?」
メグレはデシャルノーを尋問した事務所に彼女を連れていった。
「いま、あなたをわずらわせたくないのですが……ただ二、三のことをおたずねするだけです……まず、デシャルノーをどう思います?」
「主人は彼のためにいろいろとつくしてやりました……。貧困から拾いあげました……主人は彼をとても信頼し……なぜですの? デシャルノーが主人の悪口でもいったのですか? そうかもしれませんね……あの人は気むずかしやですから……」
「つぎの質問は」メグレは相手の話をさえぎった。「あなたが最初に事務所へきたのは何時でした?」
「二時です。役所へいく前に身分証明書をとりによったのです……最近まで、わたしは遺族年金をもらうことを欲しませんでした。しかし立場が立場ですので……」
「ご主人は午後はいつも何時に事務所へきました?」
「実際には、三時ごろ……わかっていただけますわね……。商売上、お得意さんと昼食を共にすることが非常に多いものですから……主人は不眠症に悩まされていました。それで、いつも一時間ばかり事務所で眠りました……」
「今日は?」
「わかりません……ただ、わたしが二時にきたとき、デシャルノーがいったことですけど……主人はなにか重大な要件のため、四時きっかりに事務所でわたしを待っている、と……」
「ところで、ご主人は警察のことをなにか話しませんでした?」
「いいえ」
「ありがとう」
ドアのほうへ彼女を送っていきながら、メグレは絶えず、ラジェの事務所に入ったとき感じたあのショックをはっきりさせようと試みていた。その目的を達したと思う瞬間があった。が、つぎの瞬間にはそれはもう漠然としたものになっていた。
暑かった。彼は帽子をあみだにかぶり、パイプを口にくわえたまま、どうしていいかわからない男のようなようすで控室へ入っていった。ラジェから金を返してもらうため待っていた四人の男は、相変わらずそこにいた。メグレは彼らを一人ずつながめていたが、血色の悪い、見すぼらしい身なりの若い男に話しかけた。
「いつごろから、ここにいるのかね?」
「二時十分か二時十五分ごろ……」
テーブルにすわっていたデシャルノーは、きき耳を立てた。
「そのときから、だれも来なかったかね?」
「この人たちだけですよ……」
そういって仲間たちを示した。仲間たちはうなずいた。
「だれも出なかった? え? ……ちょっと待ってくれ! ……あの事務所の男はずっとあそこにすわっていたかね?」
「ずっと」
しかしすぐそのあと、若い男は考え深そうなようすをした。
「待ってください! ……一度、あの人は廊下のほうへいきました。電話が鳴ったので……」
「何時ごろ?」
「わかりませんね、わたしには! おそらく四時十五分前ごろでしょう……そうだ、あなたたちがくるちょっと前でした……」
「だれからかかってきたのかね、デシャルノー?」
「わかりません……あれはかけちがいの電話でした……」
「本当かね?」
「ええ……電話の相手はわたしにたずねました……歯医者ですかと……」
この返答をする前に、なにかを思いめぐらすようなようすで、テーブルに山積みされた封筒の上へ視線を落とした。その封筒はラジェが多くの人々に送っていたパンフレットだった。メグレも同じように封筒の山へ目をやった。そして、一番うえに置かれた封筒の宛先を読んだ……歯科医ユージェーヌ・デヴァリー様、××通り。
メグレは思わず微笑を浮かべた!
「それで?」予審判事や検事代理のそばへもどりながら、警視はたずねた。
「自殺だ!」検事代理は断言した。「検死医によれば、拳銃は被害者の顔から十五センチ以内で発射された……自殺でないとすれば、とにかくラジェは人のいいなりになっていたことになる……」
「眠っていたとしたら!」
メグレがこういうと、二人の男は顔をあげた。
「きみはそう思うかね? なにかわかったのか……」
予審判事の視線はラジェ夫人のほうに向けられた。彼女は指紋をとられながらも、むりに威厳をたもとうとしていた。
「まだわかりません」メグレは正直にいった。
「もしこれが犯罪だとしたら、とにかくみごとな犯罪です……犯行のとき、要するにわれわれはここにいたのですからね……犯人は警察が現われるのを故意に待っていたとも考えられる……」
検死医が通りかかったので、メグレは呼びとめた。
「ところで医師《せんせい》、なにか変わったことに気づきませんでしたか?」
「いいや……即死といっていい……」
「そのほかには?」
「なんのことかね?」
「ベつに……ラジェはわたしよりずっと寒がりだったはずです……彼の肱掛け椅子の背がラジエーターのすぐそばにありますからね……」
予審判事と検事代理は視線を交わした。メグレはもう一度、パイプの火皿を踵《かかと》でたたいた。一応、ラジェの顔には洗面所からはずしてきた蜂《はち》の巣模様の手拭が掛けられていた。鑑識課の係員たちはすでに仕事を終え、いまではただ、帰ってもいいという合図を待っていた。
「ところで、署長……」とつぜん、メグレは所轄署の署長に話しかけた。「この事務所には二本の電話がある。一つは外線電話、もう一つは内線電話……これは控室に通じている……すまないが下からこの電話へかけてみてくれませんか?」
署長は部屋を出た。他の人たちはメグレをながめながら待った。彼は放心したようなようすをしていた。一分が過ぎ、二分が過ぎた。それから、署長はもどってくると、驚いていった。
「なにもきこえなかったですか? ……しかし、わたしは電話をかけつづけたのです……」
そこで、メグレは……、
「判事、一緒にちょっときてくれませんか」
さきほどデシャルノーとラジェ夫人を入れた事務所ヘ、こんどは判事を引っぱっていった。
メグレはストーブに背中を向け、例のお気に入りのポーズで立ちながら、投げやりな口調で話し出した。まるでたくさんの仕事を手っとり早く片づけたのを言い訳するかのように。判事にあまり恥をかかせたくないかのように。
「わたしはまったくよい折にここにやってきました。わたしはあの事務所の男をずっと観察していました……」
「彼がやったのかね? ……しかし、それは不可能じゃないか……」
「待ってください! 物理的にみても、精神的にみても、そうお思いですか? 彼は戦争がもたらした最もあわれな遺産ともいうべき、戦後の落伍者の一人、とにかく最も痛ましい犠牲者なのです……。かつてはラジェの中尉であった男、高い道徳観をもった男! ……終戦になると、彼は昔の生活をなにひとつ見いだせなかった……商売は破産し、妻は死んだ……一方、卑俗で、良心が欠如しているラジェは、この混乱期に人並みはずれた成功をおさめ、デシャルノーを引き取った……」
沈黙。メグレは四度目のたばこをパイプに詰めた。
「わたしがいいたいのは、これだけです!」彼はため息をついた。「ラジェは正直なデシャルノーを使った……デシャルノーの正直さはたびたびラジェに反抗した。だが、デシャルノーの反抗は、だんだんと弱まっていき、ついには、恩人だとうぬぼれるラジェに対して、憎悪だけが残った……ラジェを破滅させたほどの根深い憎悪。しかしそれにしてもデシャルノーはわずかな生活費を得るために、自分の正直さを簡単に売ってしまったものだ……」
「きみはなにをいいたいのだ……」
「わたしにもわかりません。少なくとも、さっきまではわからなかった。わたしはこれまでただ二人の男、主人とその使用人、かつての軍曹とかつての中尉……その役割は逆になってしまったが……の姿を想像するだけでした……また、見すぼらしい債権者や執達吏によって、また、金の窮策や、不渡り手形や、不渡り小切手、さらには商売の不振に伴うあらゆる憐れむべきものによって攻め立てられている事務所のさまを想像するだけでした……」
「たしかにそれは逮捕状の理由だ……」
「ちょっと待ってくださいますか?」
メグレはドアを開けると、かなりおびえているデシャルノーを呼んだ。
「ねえ、デシャルノー……ラジェはいままでどれくらい起訴されたのだ?」
「はっきりわかりませんが……五度か六度ぐらいでしょう……」
「そのたびにうまく切り抜けていたのかね?」
「そうです……コネがありましたから……」
「もういい! ありがとう!」
デシャルノーが部屋を出ると、メグレは予審判事のほうに向きなおった。
「聞いたとおりです! デシャルノーはこんどもまた、ラジェが起訴をうまく切り抜けることを望まなかった……あなたも見られたとおり彼は顔色が悪い……間違いなく、胃癌《いがん》か胃潰瘍《いかいよう》です……今後、新たな職場を見つけることができない……ラジェが逮捕されれば、彼は明日からルンペンになり、いつかは無料食事給与所へいくことになる……そこで、是非はともあれ、デシャルノーは考えた……自分をルンペンにしたのは、ラジェであると……」
「しかし、彼がやるのは事実上、不可能じゃないのか……?」
「では、わたしの考えをいいましょう。数分もあれば十分です……今日、正午に部長刑事が一人と刑事が二人、ラジェを逮捕にきた。が、ラジェは不在だった。そしてデシャルノーは四時にまたくるようにいった……。ここで忘れてならないことは、なん日もの間、なんか月もの間、デシャルノーは控室でただ切手を貼り、住所を書くだけだったので、手のこんだたくさんの復讐計画を頭のなかで一つずつ丹念に検討する時間が十分にあったということです。
デシャルノーの話によれば、今日、いつもの習慣を破り昼食を食べにいかなかった。それは彼がここである綿密な仕事……わたしはあとでその痕跡を探しだすつもりですが……に専念していたためではないか……。
なぜなら、絶好の機会、百万に一つともいうべき、機会だったからです!
いつもは、ラジェ夫人は、まるで女事務員のように、二時きっかりに事務所にくる……ただ、月の最初の水曜日だけは、遺族年金をもらうため役所にいく。彼女が身分証明書をとりに事務所に入っていったとき、デシャルノーは彼女に知らせたのだ、≪ご主人が四時きっかりに事務所で彼女を待っている≫と。
彼女にはそれを疑う理由はなかった。
このときから、すべては簡単だった。あまりにも簡単すぎた……控室はいつもの午後のように、債権者たちが押しかけていた。彼らは≪デシャルノーが一歩も部屋から出なかったことをあとで証明してくれる≫」
ただ一度だけ……四時十五分前に……この時間に注意してください! ……いわゆる電話のベルが鳴った。しかし、デシャルノーは、これはたまたまかかってきたかけちがいの電話にすぎないといった。苦しい言い訳をしたものです。あとで調べてみればわかりますが、控室のテーブルの下にはベルを鳴らす押しボタンがあるはずです……デシャルノーは、面倒な訪問者たちが来たことを主人に知らせるなんらかの手段をもっているはずだから、これは絶対に間違いない……」
「それは簡単に確かめられる」予審判事がいった。
「まだ話は残ってます。デシャルノーは四時十五分前に主人の事務所に入った。ラジェは三十分前から帰っていた。ラジェはいつものように眠っていた……かつて武器販売人だったデシャルノーは、大した苦労もなく消音器を手に入れておいた。それを引出しのなかにあった拳銃につけると、至近距離から引金をひいた……」
「しかし……」
「待ってください! 彼は消音器をポケットのなかに入れるか、またはどこかの小部屋に投げ捨てた……再び控室にもどり、改めて待った。そこへこんどはわれわれが到着した……。彼は、まもなくラジェが帰ってくるだろうといった……われわれは他の人たちのように待った……耳をそば立てていたデシャルノーは、四時きっかりにラジェ夫人がやってくる物音をきいた。そして、彼女がまだ階段をのぼりきらないうちに、内線電話のボタンを押した……」
「わたしにはよくわからないが……」
「つまり、≪ラジェが殺されたか、あるいは自殺したのはこの瞬間である≫と思わせるためには、爆音が必要だった……さきほど、署長は内線電話をかけようとしてみたが、だめでした……この線が廊下の窓の手すりに置かれた爆薬と連結していたことは間違いない。というのは、われわれがここに着いたとき、あの廊下の窓が開いていたからです……事件はわれわれのいるところで、われわれの目の前で起こった……われわれは事務所に飛び込んだ。ラジェ夫人はびっくりして、カーテンのうしろに隠れた」
メグレはほほえんだ。
「事務所に入ったとき、わたしはショックを受けた……今になってそれがわかった……わたしはパイプの大の愛用者なので、温かい煙と冷たくなった煙とをはっきり区別できる。ところで、ラジェの事務所のなかにはもちろん火薬の臭いがした。だが、それは冷たくなった火薬の臭いだった……検死医は……わたしはあとで彼と話し合うつもりですが……、死体がラジエーターによりかかっていたために死後硬直の時間を誤ったのです」
窓の手すりの上から、爆薬の残りと内線電話につないだ銅線のかけらが見つかった。
「わたしがやったのではない!」逮捕された日、デシャルノーは叫んだ。
しかし、その翌日、彼は独房のなかで死んでいた。自分のシャツでつくった布のバンドを首にまきつけて……。
[#改ページ]
首吊り船
クードレイの水門管理人はコールテンの背広にどじょうひげの、用心深い目つきをした男だ。痩《や》せているので陰気そうにみえる。こういったタイプの人間はこの地方の管理人のなかにはざらに見かける。メグレと五十人の人々……憲兵やジャーナリストやコルベイユの警察官や検事たち……のあいだにはいかなるハンディもなかった。水門管理人は二日前からのことを検事に話していたが、そのあいだじゅうセーヌ河の上流の、青緑色の水面を見つめつづけていた。
十一月。寒い日で、まっ白な、目もくらむばかりの白い空が水に映っている。
「わしはかかあの世話をするため、朝の六時に起きました(こうした陰気な感じの正直な男たちにはかならず世話をしなければならない病気の妻がいるものだ、とメグレは考えた)……火をたきつけておりましたが、物音が聞こえたように思えたんです……だけど、二階で湿布をつくっていたわしに、それが人の叫び声だとわかるまでには、かなりの時間がたってました。わしは階下《した》に降りました……水門の上に出てみると、堰《せき》のところにぼんやりと黒いかたまりが見分けられました。
『そこにいるのはだれだ?』と、わしは叫んだ。すると、
『助けてくれ!』としゃがれた声がかえってきたんです。
『そこで何をしているんだ?』ときき返すと、また、
『助けてくれ!』と答えました。
堰《せき》のところに行くため、わしは小舟に乗りました。黒いかたまりは≪アストロラブ号≫でした。あたりが明るくなりはじめたので、デッキの上にクラッサンじいさんの姿が見分けられました。これは断言できることですが、クラッサンじいさんはまだ酔っぱらっていて、平底船が堰でどういう状態になっているか全然わかっていないんですね。犬の鎖がほどけていたので、じいさんに犬を押さえるようにたのみました……」
そのあとはこうだ。
水門管理人にとって重大なことは、川の流れがもっと激しくなったら、平底船が堰に乗りあげ、底をぶちやぶってしまう怖れがあることだった。だが船の上には酔っぱらった老|馬方《うまかた》と大きな番犬との他には、男と女の二つの首つり死体だけだった。
≪アストロラブ号≫は曳船道の上でさかんに足踏みして体を温めている憲兵によって監視され、まだそこ、百五十メートルさきにゆうゆうと浮かんでいる。平底船はモーターなしの老朽船で、とくに運河を馬をのせて往き来する船を≪うまや船≫と呼ぶが、これはまさにそれだった。自転車に乗った男たちが通りがかりに、二日前からあらゆる新聞でさわがれているこの灰色がかった平底船の方に視線を走らせた。
例のごとく、メグレが指名されたときには、もはや手に入るべき新しい証拠は残っていなかった。多くの人間がこの捜査にかかわり、証人たちはすでに最初憲兵から、つぎにコルベイユの警察から、検事から、新聞記者たちから五十回も尋問されている。
「殺しをやったのはまずエミール・グラデュに間違いないでしょうな!」と、彼らはメグレにいった。
いましがた二時間ほどグラデュを尋問したメグレは、再びこの場所にもどってきて、だぶだぶのコートのポケットに手をつっこみ、ふくれっ面でパイプをぷかぷかふかしながら、まるで土地でも買いたいかのように、この陰惨な風景をながめていた。
メグレの関心は平底船がもう少しで乗りあげるところだったクードレイの水門にはなく、この水門から八キロ上流にあるシタンゲットの水門にあった。
要するに、上流もながめは下流と同じだった。モールサンとセーヌポールの村々は向こう岸の、はるかかなたにある。だから、ここでは、ところどころに古い採砂場の裂け目がある雑木林の立ち並ぶ穏やかな川の流れしか目に入らない。
しかし、シタンゲットに居酒屋が一軒あった。そのため船はできるだけそこに停泊するようにした。パンも、かんづめも、ソーセージも、綱具も、馬のオートむぎも売っているといった、まさに船乗り相手の居酒屋だった。
メグレがそんなけはいは見せなかったが、本気になって捜査をしたのはこの居酒屋だったのである。メグレはストーヴのそばにすわって、ときどき酒を飲んだり、外をちょっとひとまわりしてきたりしたが、プラチナ・ブロンドの女将《おかみ》はそうしたメグレを皮肉と尊敬の入りまじった目で見つめていた。
水曜日の夜について、知られているのはつぎのようなことである。夕暮れが迫ってきたとき、セーヌ河上流の小型曳船≪小鷲七世号≫がシタンゲットの水門の前に六そうの平底船を雛鳥《ひなどり》のように引っぱってきた。この瞬間、霧雨が降ってきた。船を繋《つな》ぐと、船乗りたちはいつものように居酒屋にアペリチフを飲みにいった。一方、水門管理人はハンドルをもとにもどした。
≪アストロラブ号≫はそれから三十分後、あたりが真暗闇になったときになってはじめて河の曲がり角にあらわれた。船長のアルチュール・エール老人が舵《かじ》を取っている。土手の曳船道では、クラッサンが鞭をひっかついで馬の前を歩いている。
それから≪アストロラブ号≫は六そうの平底船のあとに停泊する。クラッサンは馬を船にもどした。要するにこの瞬間、だれも二人のことを気にかけていない。
少なくとも七時ごろ、エールとクラッサンが居酒屋に入り、ストーヴの前にすわったとき、人々はすでにスープを食べていた。≪小鷲七世号≫の船長はさかんにしゃべっていたが、二人の老人はこれに加わらなかった。プラチナ・ブロンドの女将は赤ん坊を抱いたまま、四、五回二人の老人にマール・ブランデーを注いだが、彼らが飲みすぎないように気をつかったりしなかった。
だいたいこんなぐあいだった。メグレは今そのことを理解する。客たちは知り合いばかりだった。だからみんな軽くあいさつしながら店に入り、一言もいわずに席にすわる……ときどき女が入ってくるが、それは翌日の必要品を買うためである。買物をすますと、彼女たちは酒を飲んでいる夫に叫ぶ。
「あまり遅くならないで……」
エールの妻エンマもパンと卵とうさぎの肉を買うと、こういった。
そして、この瞬間から、一つ一つの細部《ディテール》が大変な重要さを帯び、一つ一つの証言が極度に貴重になる。そこで、メグレはこう主張した。
「アルチュール・エールがここを十時ごろ出たとき、たしかに酔っぱらっていたね?」
「いつものように、ひどく酔ってたわ……」と、女将は答えた。「あの人はベルギー人で、とても健気な男よ。いつも何もいわずに片隅にすわって、それこそ船に帰れなくなる一歩手前まで飲みつづけるわ……」
「では、馬方のクラッサンは?」
「こっちの方がさらに酔ってたわね。十五分ほどあとまでいて、それから出ていったけど、鞭を忘れたのでそれを取りに引っ返してきたわ」
そのときまで、すべてはうまくいっていた。夜、セーヌ河の水門の下で、曳船を先頭に、そのうしろに六そうの平底船、そのあとエールの船がつながっているさまを想像するのはそれほど困難ではないだろう。各船にはうまやのランプがついていて、霧雨がたえまなく降っていた。
九時半ごろ、エンマは買物をして船にもどってきた。十時に、こんどはエールが、女将がいうようにひどく酔って帰ってきた。十時十五分に、馬方が≪アストロラブ号≫の方に向かった。
「わたしは店を閉めるのにクラッサンの出るのを待ってたわ。船乗りは早く寝ますし、もう店にはだれもいませんでしたから……」
この瞬間から、はっきりした情報は全然ないのである。このあとの確認しうる事実はつぎのようなことだけである。朝の六時に、曳船の船長は六そうの平底船のうしろに≪アストロラブ号≫の姿が見えないのにおどろく。そしてそのすぐあとで綱が切られているのに気づく。
同じ時刻に、妻の世話をしていたクードレイの水門管理人は老馬方の叫び声をきき、堰に乗りあげそうな平底船を発見する。
デッキには犬が放たれている。船が堰にぶつかった衝撃で目をさました馬方は何も知らないし、いつものようにうまやで一晩じゅう眠っていたと主張している。
ただし、うしろのキャビンのなかから、綱ではなく、犬の鎖で首を吊ったエールが発見され、そのあとトイレを隠しているカーテンのうしろに、妻のエンマの首吊り死体が見つかった。彼女はベッドからもぎ取られたシーツで吊られていた。
だが、それがまだすべてではない。曳船≪小鷲七世号≫が動きだしたとき、船長は釜たきのエミール・グラデュを呼んだがむだだった。船長はグラデュが姿を消したのをたしかめた。
「殺《や》ったのはグラデュだ」
だれもがそう断言した。その日の夕方には、新聞につぎのような見出しが載っていた。
≪グラデュ、セーヌポール付近をさまよっているところを発見さる……≫
≪ルゴーの森の猟師が……≫
≪エールじいさんの大金、依然として見つからず……≫
というのは、すべての証言からエールじいさんが大金をもっていたことはあきらかだし、金額の点でも一致していた……十万フラン。なぜ? 話せば長くなる。いやむしろ非常に単純かもしれない。エールは六十歳、二人の大きな息子もすでに結婚していたので、エンマと二度目の結婚をした。粗野なストラスブール女のエンマはまだ四十歳だった。ところが、この夫婦は全然うまくいかなかった。水門に停泊するごとにエンマは、食物さえろくすっぽあたえない老人のけちぶりを人々になげいてみせた。
「うちのひとのお金がどこに置いてあるのかさえ、あたし知らないのよ」と、彼女はいっていた。「あいつが死んだら、お金は二人の息子のものだわ……こっちは、あいつの世話と船の操縦とでからだをこわしてしまうにちがいない。まあ、それはいいとしても……」
彼女は必要とあればエールの前でさえ、くどくどといや味を言いたてた。ところが頑固者のエールはただ首をふるだけだった。そして彼女が行ってしまうと、こうつぶやいた。
「あのやろうは十万フランのためにおれと結婚したんだ。しかし、それだったらお気の毒さ……」
エンマはこういっていた。
「二人の息子は生活するのにあんなお金なんか必要じゃないのにさ……」
実際、長男のジョセフはアンベールの曳船の船長であり、テオドールの方は父親の助けで、美しいモーター付き大型はしけ≪マリー・フランス号≫を買った。テオドールはオランダのマーストリヒトを通過したとき、父の死を知らされた。
「でも、あたしはあれを、あいつの十万フランを見つけてやるから……」
そのことを彼女は、たった五分前に知り合った相手でもかまわずしゃべりまくり、老亭主のどんな些細なことまで教え、あげくにいや味たらしくこう話を結んだ。「あたしのような若い女が愛であんな男と一緒になったなんて思ってないでしょうね……」
彼女は夫をあざむいていた。証言からそのことは明白だ。≪小鷲七世号≫の船長がそのことに通じている。
「わたしは自分の知っていることだけを申します……わたしがアルフォールヴィルで仕事を待っていた十五日間、その間≪アストロラブ号≫は積荷の作業をしていましたが、エミール・グラデュはちょくちょく彼女に会ってました、まっ昼間でもかまわずに……」
それで?
エミール・グラデュは二十三歳で、たしかに悪党だった。グラデュは二十四時間後に、シタンゲットから五キロ以内のルゴーの森で、空腹でくたくたになっているところを逮捕された。
「おれは何もしてねえ!」と、彼は憲兵たちに打ちかかろうとしながらわめいた。
この感じの悪い、危険な小悪党は、メグレのオフィスにいる二時間のあいだ、執拗にこうくり返していた。
「おれは何もやってねえ……」
「それなら、なぜ逃げた?」
「そんなことはおれの勝手だ!」
予審判事は、グラデュが森のなかに大金を隠したと確信していたので、すみからすみまで捜しまわらせたが、むだに終わった。
これらのすべてはどこかひどく陰鬱なものをはらんでいる……朝から夜までいつも同じ空を映している川のように。サイレンを鳴らしながら(曳かれていく平底船が鳴らしている)、水門のなかをつぎつぎと通りぬけていく数珠《じゅず》つなぎの船のように。女たちがデッキで船の留守番をしながら子供をあやしているあいだ、居酒屋まで行き、一杯ひっかけ、また重々しい足どりでもどってくる男たちのように。
「まったく手におえん!」と、同僚の一人はメグレにぐちったものだ。
けれども、セーヌ河そのもののようにむっつりとし、雨の降る運河のように陰気なメグレは、水門のところにもどってくると、そこから離れようとはしなかった。
事件はあまりにも明らかすぎるようなので、だれも細部にわたって掘りさげようとしない。人々にとって、殺《や》ったのはグラデュであり、グラデュ自身そのことに平然としているので、それがまた一つの証拠になってしまっている。
いま、二つの死体解剖の結果がでて、そこから奇妙な結論が引きだされたが、しかしそれとてグラデュが犯人であることを妨げやしない。アルチュール・エールに関して、ポール医師はこう報告している。
「……顎《あご》の下に軽傷。死体の硬直状態と、胃の中身から、絞殺は十時から十時半のあいだに行なわれたということができる……」
ところで、エールは十時に船にもどってきた。プラチナ・ブロンドの女将《おかみ》によれば、クラッサンはエールより十五分後に出た。クラッサンはまっすぐ船のうまやに入って寝たといっている。
「エールのキャビンの明かりはついていた?」
「さあ、どうだか……」
「犬は放たれていたか?」
この哀れな老人は長いあいだ考えこんでいたが、結局無気力に首をふるばかりだった。そう、彼は何も知らなかったのだ……注意もしなかった……この夜の自分の行動が後になって大変重大な問題となるとは、思いもしなかったのではないか? 年じゅう酔っぱらっていて、いつでも服のままわらの上に、おす馬とめす馬の温かい匂いにつつまれて寝てしまう……。
「物音を聞かなかった?」
彼は何も知らない! 知りうるはずがなかった! 眠りこんでしまい、目がさめたとき、河の真ん中の、堰のすぐそばにいたのである。
しかし、ここに一つの証言があった。が、その証言をまじめにとっていいものかどうか?
≪小鷲七世号≫の船長の妻、クーテュリエ夫人の証言である。コルベイユの警察署長は、≪小鷲七世号≫が六そうの平底船を曳きつれてロワン運河の方に行ってしまう前に、他の人たち同様彼女にも質問した。メグレのポケットにそのときの調書がある。
質問「夜のあいだに物音を聞きませんでしたか?」
答え「はっきりしませんが聞いたような気がします……」
質問「では、あなたが聞いたと思うことをいいなさい」
答え「とても漠然としているんです……わたしはある瞬間目をさましました。目覚し時計を見ると、十一時十五分前です……船のそばでだれかが話しているようでした」
質問「だれの声だかわかりましたか?」
答え「いいえ! でもわたし、グラデュがエンマと逢いびきしているんだなと思い……そしてすぐにまた眠りこんでしまいました」
この証言を当てにできるか? たとえこの証言どおりだったとしても、どうやってそれを証明するのか?
あの夜、水門の下で、曳船と六そうの平底船と≪アストロラブ号≫とが停泊していた。そして……
エールに関しては、報告書ははっきりしている……十時と十時半のあいだに絞殺された。
ただ、ポール医師の二番目の報告書、エンマに関するものになると話は複雑になる。
「……左の頬に、道具のようなものでなぐられたか、拳で強くなぐられたかしてできた皮下|溢血《いっけつ》がある……彼女の死は首吊りによる窒息死で、時刻は午前一時ごろ……」
メグレはシタンゲットの重々しい、ゆったりした生活のなかにますますのめりこんでいった。まるでそうしなければ事件のことが熟考できないかのように。ベルギーの旗をはためかせているモーター付き大型はしけがメグレに、もうパリに着いているにちがいないエールの息子テオドールのことを考えさせた。
と同時に、ベルギーの旗はジンのことをメグレに思い出させた。というのは、キャビンのテーブルに、半分以上|空《から》になったジンの壜が見つかっていたからだ。キャビンのなかはひっかきまわされ、マットレスの布まで引き裂かれて、なかの綿が散らばっていた。
あきらかに十万フランの大金を見つけるためだ!
最初に取り調べにあたった警官たちはこう断言していた。
「すべては簡単です! エミール・グラデュがエールとエンマを殺した。それから酒を飲んで酔い、大金を捜し、森のなかに隠したんですよ……」
ただ……そうだ! ただポール医師がエンマを解剖して、胃のなかに壜から減っていたジンを見つけている!
ということは? ジンを飲んだのはエンマであってグラデュではないのだ!
「そのとおりです!」と、警官たちは答えた。「グラデュのやつはエールを殺したあとで、彼女を酔わせたのです。その方がずっと簡単にやっつけられますから。なにしろあの女は大力でしたからね……」
それを信じるとすれば、グラデュと愛人はアルチュール・エールの死んだ時間、十時あるいは十時半から、エンマの死んだ時間、真夜中あるいは午前一時まで船に残っていたことになる……。
もちろんそれはありうる。すべては可能だ。ただメグレは……どういったらいいのか? ……あの平底船のことを、人間と同じように考えたかった。
メグレはエミール・グラデュに対して他の人たちのように手きびしくやった。二時間のあいだ、メグレはぎゅうぎゅう油をしぼった。しかしまず最初は、パリ警視庁でもよくやるように、≪やさしく≫尋問した。
「おい、よくきくんだ。おまえははっきりいって意気地なしだ。だが、正直なところ、わたしはおまえが二人を殺したとは思っていない……」
「おれは何もやってねえ!」
「おまえはたしかに二人を殺してない。だが、老人を突きとばしただろう……しかし、それだって老人がわるいんだ! 老人がおまえの邪魔をしたので、おまえは自分を守るために……」
「おれは何もやってねえ……」
「エンマにしたって、おまえが殺《や》ってないことはたしかだ。彼女はおまえの愛人だからな……」
「時間のむだだ! おれは何もやってねえ……」
このあと、メグレは手きびしくなり、脅迫的でさえあった。
しかしエミール・グラデュはうすら笑いをうかべているだけだった。あわれむような笑い、見下したような笑い……。
その夜、シタンゲットで寝るためには、大型はしけか平底船だけしかなかった。下流の水門のところでは、≪アストロラブ号≫のデッキで憲兵が一人見張りに立っていた。憲兵はメグレが船にのぼってきて、「パリに帰る時間がなかったから、ここに寝る」と告げたときはひどくおどろいた。
メグレには、船体にあたる川のやさしいさらさらいう音と、憲兵の、眠ってしまうことを怖れてデッキで足踏みしている音しか聞こえなかった。しかしこの哀れな憲兵はやがて、メグレが気違いになったのではないかといぶかった。船の内部《なか》にたった一人でいるメグレが、二匹の馬が船倉《せんそう》に放たれたときのようなすさまじい物音を立てたからだ。
「わるいけど、きみ……」
メグレが甲板の昇降口から顔を出した。
「≪つるはし≫をさがしてきてくれないか?」
こんな場所で、夜の十時に≪つるはし≫をさがしに行くなんて! けれども、憲兵はあの陰気なようすをした水門管理人を起こした。水門管理人は≪つるはし≫をもっていた。庭があったからだ。
「警視さんはこれをどうするつもりなのかな?」
「さあね……」
二人は意味ありげに見つめ合った。メグレはその≪つるはし≫をもってキャビンにもどった。それから一時間以上のあいだ、憲兵はどしん、どしんという鈍い音を聞きつづけた。
「ねえ、きみ……」
ふたたびメグレは甲板の昇降口から顔をだしたが、汗だらけで、息をきらしていた。
「電話をかけてきてくれないか……予審判事に、明朝一番にエミール・グラデュを連れてここに来てもらいたいのだ……」
平底船の方へ予審判事を案内してきたときほど、水門管理人が沈痛な面持ちをしていたことはない。グラデュは二人の憲兵にはさまれてそのあとについてきた。
「違う……おれは知らねえんだ……」
メグレはエールのベッドで寝ていた! メグレは言い訳もしなかったし、キャビンのなかの光景を目にしてビックリ仰天して突っ立っている判事にも気づかないふりをしていた。
事実、キャビンの床はまくり上げられている。この床の下にはセメントが厚く塗られていたが、このセメントは≪つるはし≫でこなごなにくだかれていて、そのため手がつけられないほど取り散らかっていた。
「入ってください、判事さん、非常に遅く寝たので、まだ顔も洗っていないのです」
メグレはパイプに火をつけた。すでにどこかからビールの壜《びん》を見つけてきてあったので、グラスに注いで飲んだ。
「入れ、グラデュ。これから……」
「これから?」と、判事。
「すべては簡単です」と、メグレはパイプを吸いながらいった。「これから先日の夜おこったことを説明しましょう。いいですか、最初からわたしの心をとらえたことが一つあったのです。それはエール老人が鎖で首をくくられ、細君がベッドのシーツで首をくくられていたこと……」
「それが何か……」
「いまにわかりますよ。警察の犯罪記録をさがしてごらんなさい。針金か鎖で自分の首を吊った人間は一人もいないはずです。奇妙なことだとは思いますが、事実なのです。自殺をする人間は多少とも性格の弱いものなので、鎖の環がのどを押しつぶし、首の皮を強くしめつけると考えただけで……」
「それじゃ、アルチュール・エールは殺されたんだね?」
「そのとおりです。ですから、彼の顎にあった外傷は、酔っぱらっていた彼が、背後から鎖をまきつけられたときにその鎖がまず顔にあたったことを示しています……」
「わからんな……」
「ちょっと待ってください! こんどは細君がベッドのシーツを巻かれて首を吊っていたことに注意してください……綱でもなかった、船には綱がたくさんあるのに! ベッドのシーツは、いいですか、首を吊るにはもっとも≪柔らか≫なものなんです……」
「ということは?」
「細君は自分で首を吊ったのです……勇気を出すため、ジンを壜《びん》の半分もがぶ飲みした、一度も酒を飲んだことがないのに……検死医の報告書を思いだしてください」
「おぼえているよ……」
「では、いいですね。殺人と自殺、殺人は十時十五分ごろ行なわれ、自殺は真夜中あるいは午前一時……こうみると、すべて簡単になります……」
予審判事は疑わしそうな目で、エミール・グラデュは皮肉っぽい好奇心でメグレを見つめていた。
「エール老人と結婚しても望むものを入手できず、しかもエミール・グラデュに惚《ほ》れていたエンマは、ずっと前から一つの考えに取りつかれていた。大金をつかんで、愛人とにげる……。そのチャンスがとつぜんあらわれた。エールがひどく酔って帰ってきたのだ……グラデュはすぐそばの、曳船のなかにいる。彼女は居酒屋に買物にいったとき、夫がすでに泥酔《でいすい》しているのを見た。そこで犬を放し、鎖を夫の首にまきつける用意をして待つ……」
「しかし……」と、判事は異議をさしはさんだ。
「あとにして! わたしに終りまでしゃべらせてください。今や、エールは死んだ……勝利に酔ったエンマはグラデュを呼びに走った。ここで忘れてはならないのは、曳船の船長の奥さんが十一時十五分前に自分の船のそばで人声を聞いていることです……グラデュ、きみたちだな?」
「そうさ!」
「二人は大金をさがしに船にもどり、マットレスのなかまでさぐったが、問題の十万フランは見つからなかった。そうだね、グラデュ?」
「そうさ!」
「時間が経っていき、グラデュはあせった……わたしは賭けてもいいが、グラデュはかつがれたのではないか、十万フランは本当にあるのか疑いはじめさえした……エンマは十万フランはあるといった。しかしそれを見つけられなかったら、何の役に立つ? 二人はさらにさがした……グラデュはいや気がさした……彼は罪を負わされるので、逃げたかった。エンマも彼と一緒に逃げたかった……」
「失礼だが……」と、判事はつぶやいた。
「あとにして! いいですか、彼女はグラデュと逃げたかったのです。彼は金もない女にまといつかれたくなかったので、彼女の顔をなぐりつけて逃げた……そして、地面に降りるや、平底船の綱を切った。そうだね、グラデュ?」
グラデュはこんどは答えるのをためらった。
「だいたいこういったところです!」と、メグレは結論した。
もしグラデュとエンマが大金を見つけていたら、一緒に逃げただろうし、老人の死を自殺にみせかけるようにしていただろう……金が見つからなかったので、逆上したグラデュは隠れるために野原をさまよい、エンマの方は意識をとりもどしたときには、船は川の流れのままに押しながされ、首吊り死体は彼女のわきでぶらぶらゆれていた。もはや望みはないか? 逃げる望みさえない……鉤竿《かぎざお》で船を岸につけるにはクラッサンを起こして手を借りなければならない……もうだめだ! 彼女は自殺する決心をする……ただ、勇気がなかったので、まず酒を飲み、柔らかいベッドのシーツを選んだ……」
「そうか、グラデュ?」と、判事は悪党を見ながらいった。
「警視さんのいったとおりさ……」
「だが、待てよ……」と、判事はメグレに反駁《はんばく》した。「グラデュが大金を見つけなかったという証拠はない。彼はその大金を守るために……」
すると、メグレはセメントのいくつかの破片を足でけとばし、小さく仕切った隠し場所をしめした。その隠し場所には、ベルギーとフランスの金貨が。
「これで、わかりましたね?」
「大体はな……」と、自信なげに判事はつぶやいた。
メグレは新しいパイプにたばこを詰めると、ぶつぶついった。
「古い平底船というものは船底がセメントで修理されているということを、まず知らなければならなかったのです。それなのにだれもそのことをわたしにいわなかった……」
それから、突然口調をかえると、
「何よりも大変だったことは、実際に十万フランあるかどうかを、わたしが自分で数えたことでした……判事さん、彼らは奇妙な夫婦だったとはおもいませんか?」
[#改ページ]
蝋のしずく
これは、演繹《えんえき》法と科学的捜査方法により、現場の見取図と報告書だけで解決できた珍しい事件であった。しかも、メグレはパリ警視庁を出発するとき、すべてを、≪樽の中身まで≫も知っていた。
彼は田舎《いなか》へちょっとした旅行を楽しむつもりだった。だが、実際には骨の折れる過去への旅になってしまった。パリから百キロほど離れたヴィトリイ・オ・ロージェで、メグレは今ではローマの古い教会の絵のなかにしか見られないような突飛な型の、小さな列車を降りた。駅前で、タクシーのことをたずねると、冗談もいいかげんにしろとばかりに、激しくにらみ返された。彼はすんでのところで、残りの道程をパン屋の荷車で旅行しなければならなくなるところだった。しかし、最後の瞬間になって、肉屋が小型トラックでメグレを送ってくれる決心をしてくれた。
「たびたびあそこにいくのかね?」と、警視はこれから捜査にいく小さな村のことを話しながら、たずねた。
「週に二度ばかりだよ……だけど、今日はおまえさまを送るついでに、商売してきますだ……」
メグレはここから四十キロばかりの、ロワール河のほとりで生まれたのだ。だが、オルレアンの森にこれほど陰鬱《いんうつ》な場所があるとは思ってもみなかった。
それこそあたり一面森であった。小型トラックは、両側にそびえ立つ大木の間を十二キロばかり走りまわり、最後に森の小さな空地の真ん中にできている村に着いた。
「ここかね?」
「つぎの小さな村ですだ……」
雨は降っていなかった。しかし、森は湿っていた。すっかり葉の落ちた樹々の梢《こずえ》から、目のくらむようなまっ白い空が見えた。樹々はほとんど葉を失い、葉は地面で腐りはじめていた。あちこちで、葉がかさかさと音を立て、時々、遠くで猟銃が鳴った。
「狩りは盛んなのかね?」
「あれは公爵さまでしょう……」
今までのよりも小さな空地があり、三十ばかりのあばら屋が尖塔の教会を中心にひしめいていた。たぶんこれらのあばら屋は、ゆうに一世紀は経ているだろう。しかも、黒いスレートの屋根は、粗野で、無愛想なここの住民の性格をよく表わしていた。
「ポトリュ姉妹の家の前で止めてくれたまえ……」
「わかりやした。教会の前の家がそうですだ」
メグレが降りると、肉屋は、もう少し先まで行き、トラックのうしろを開けると、特別な日でもないのに肉など買っていいものかどうかまよっているかみさん連中に、さかんに呼びかけはじめた。
メグレは前の警察官たちがつくった現場の見取図をじっくりと研究していたので、目をつぶっていてもポトリュ姉妹の家のなかを歩きまわれただろう。
ところで、部屋は薄暗かったので、メグレは実際にそうしなければならなくなった。数世紀も経ているような店のなかに入っていきながら、メグレはまさに過去へ遡《さかのぼ》っていくような感じをうけた。
明りは、ここの年老いた姉妹の洋服同様、つつましく節約されていた。家具や壁は、雨だれの跡や灰色のしみのついた古い絵画のように、褐色になっていた。時々、壜《びん》や台所の銅製品が、突然ぴかりと光った。
ポトリュ姉妹は生まれてから六十五年このかた(妹のほうはまだ六十三歳だったが)この家に住んでいた。そして、彼女たちの前には両親がずっと住んでいる。
以前と変わったものはなにもないはずだ……秤《はかり》のある帳場も、お菓子の箱も、小間物の棚も肉桂や≪菊ちさ≫の厭なにおいがする食料品の棚も、酒を飲む四角いカウンターも……。
片隅に、石油を入れた樽と、それより小さい食料油の樽がある。奥には、丸いテーブルが二つと、最近ニスを塗ったらしい細長いテーブルがいくつかあり、そのそばに背のない腰掛けが置かれていた。
左側のドアが開いた。赤ん坊を腕に抱いた、三十二、三の女がメグレをながめた。
「おまえさまは?」
「わたしにかまわないでください……わたしは事件を調べにきた者です……あなたは隣の人ですね?」
彼女はエプロンの下から腹がつき出ている。
「マリー・ラコールだよ、鍛冶屋《かじや》の女房のよ……」
メグレがこの部屋に電気がないのに気がついたのは、天井から吊り下がっている石油ランプを目にしたときである。
メグレがノックもせずに入った二番目の部屋は、これまた暗かったので、二本の薪の炎を目にしたときは思わずほっとした。この明りのおかげで、何枚ものマットレスを敷いたベッドや、気球のようにふくらんだ赤い枕を見ることができた。ベッドのなかには老女が一人、身動きひとつせず、蒼白な顔をこわばらせていた。ただ目だけが生きているようだった。
「彼女はぜんぜん話さないのかね?」と、メグレはマリー・ラコールにたずねた。
マリー・ラコールはうなずいた。警視は肩をすくめると、藁《わら》を詰めた椅子に腰をおろし、ポケットから報告書を出した。
事件は五日前に起こったが、それ自体はなんらセンセーショナルなものではなかった。ポトリュ姉妹は二人だけで暮らしていたが、相当金をためこんだと思われていた。彼女たちは村の三つの家の持ち主であり、≪どけち≫だと評判だった。
金曜日から土曜日にかけての夜、隣人たちは物音を聞いたと思ったが、ベつに気にもとめなかった。土曜日の明け方、通りがかりの百姓がポトリュ姉妹の部屋の窓が大きく開け放たれているのに気づき、近づいていったが、すぐに助けを呼んだ。
窓のそばには、寝間着姿のアメリイ・ポトリュが血まみれになっていた。ベッドの上では妹のマルグリットが、壁のほうに顔を向けたまま死んでいた。胸はナイフで三か所も貫かれ、右頬は裂け、目はほとんどえぐりだされている。
アメリイのほうは生きていた。彼女は窓を開けて助けをよぼうとしたが、出血のために力つきて、そのまま倒れてしまったのだ。十一か所もの傷はいずれも浅く、そのほとんどが肩か右のわき腹であった。
箪笥《たんす》の二番目の引出しが開かれ、下着類が散らばっていた。この下着類の上に、皮がすでに緑色に変色した古い折かばんがあった。このなかに二人の姉妹は書類をしまっておいたはずだ。床には、貯金帳や不動産登記証書や家屋の賃貸書、それに小売商人の勘定書が……。
オルレアンの警察がすでに調査をすませていた。おかげでメグレは現場の詳細な見取図ばかりか、写真や尋問調書までも入手できた。
死んだマルグリットは事件の二日後に埋葬された。アメリイのほうは病院に運ぼうとすると、ベッドのシーツをわしづかみにして激しく抵抗した。人々はしめし合わせて、彼女を家に残しておくことにした。
警察医は、彼女の傷はいかなる器官にも達していないし、また、突然|唖《おし》になってしまったのはショックのせいだと診断した。とにかく五日間というもの、彼女の唇からはいかなる音も聞かれず、ただベッドの上で、包帯でおおわれた体を微動もさせず、まわりで起こることをすべて観察しつづけていた。そして、いまもメグレから一時も視線を離そうとしない……。
オルレアンの警察が調査をはじめて三日後、一人の男が逮捕され、あらゆる証拠はこの男の犯行をしめしていた。彼は二人の姉妹のうちの、死んだ妹の私生児マルセルだった。妹は二十三歳のときに息子を一人産んだのだが、この息子は公爵家の猟犬係をつとめたあと、森で樵夫《きこり》のような仕事をしていた。住居はここから十キロばかりの、ルウ・パンデュの池のそばにある荒れ果てた農家だった。
メグレは独房へマルセルを訪ねた。この男は文字どおり粗野な男であった。妻や五人の子供になんの連絡もせず、数週間のあいだ家をあけていることはたびたびだった。そのうえ大酒飲みで、ぐうたらときている。
メグレはその夜のマルセルの証言をもう一度殺人現場の雰囲気のなかで読み返したくなった。
「七時ごろ、おれが自転車でやってくると、≪女たち≫はテーブルに着いていただ。おれはカウンターで酒を一杯飲み、それから庭へ兎《うさぎ》を殺しにいったな。おれが兎の皮をはぐと、おふくろがそれを料理した。いつものことだが、伯母はぶつぶつ文句をいい、とにかくあいつはおれを……」
近所の村人はマルセルがよくこうやって母の家へご馳走を食べにいっていたことを認めている。母親は息子を断わる勇気がなかったし、伯母は伯母で彼を怖れていた。
「おれが店のソーセージをとって食べると、また伯母が文句をいいやがり……」
「どこの酒を飲んだんだ?」と、メグレはたずねた。
「店の酒ですだ……」
「おまえはどの明りをつけた?」
「石油ランプだ……食事のあと、おふくろは身体のぐあいがわるいといって寝たが、おれに箪笥の二番目の引出しから書類を持ってくるようにいいつけ、その鍵をくれた。おれは書類をもっておふくろのそばへいき、それからおれたちは月末だったので、一緒に勘定の計算をはじめただよ……」
「折カバンのなかにはほかになにがあった?」
「証券類だ……三万フラン以上ある国債証券や債券の大きな束さ……」
「おまえは物置きにはいかなかったのか? ロウソクをつけなかったのか?」
「とんでもねえだ……九時半に、おれは引出しに書類をもどし、店にいってまたブランデーをちょっくら飲んだだよ……あのおいぼれ二人を殺したのがおれだといった奴があったら、それは嘘っぱちだ。おれよりユーゴを調べればいいんだ……」
メグレがそれに対してなにもいおうとしないので、マルセルの弁護士はびっくりした。
ヤルコのことは……いつもユーゴと呼ばれていたが、それは彼がユーゴスラビア人であったからだ……、また別の問題だった。彼は戦後、この付近で船を坐礁させたのだが、そのままこの村に住みつき、ポトリュ姉妹の隣家の一室で独り暮しをしながら、森の木を運搬する仕事をしていた。
彼もまた酒飲みで、最近ではポトリュ姉妹は彼の借金があまりにたまったので、酒を売るのを断わっていた。一度、マルセルは彼を店から引っぱり出すと、なぐりつけ、鼻血を出させたことがある。
ポトリュ姉妹はとくに彼を嫌っていた。というのは、彼女たちは庭の奥にある古びた納屋を彼に貸しているのだが……彼はそこに馬を入れていた……、その家賃をびた一文払わなかったからだ。ユーゴは、今の時間は森で木を運んでいるはずだった。
ところで、メグレは報告書を手に、考えにふけりながら暖炉に近づいた。犯罪が発見された朝、この暖炉の灰のなかから、柄《え》の焼けおちた台所の包丁が見つけ出されている。この包丁が凶器に使われたことは明らかだが、指紋をとることは不可能だった。
そのかわり、箪笥の引出しや皮の折カバンの上に、マルセルの指紋……彼の指紋だけだ! ……が数多く残っていた。
テーブルにあったロウソク立てには、無表情な目つきで絶えずメグレのあとを追っているアメリイ・ポトリュの指紋だけが。
「わざと口を聞こうとしないのではないのかね?」と、メグレはパイプに火をつけながら、さぐりを入れるようにつぶやいた。
それから、身を屈めると、見取図をもとに、血痕のあった床の部分にチョークでしるしをつけた。
「まだしばらくここにいなさるかね?」と、マリー・ラコールがメグレにたずねた。「食べものに火をつけてきたいんだよ……」
いまや警視は、家のなかで老女と二人きりになってしまった。メグレがこの家を訪ねるのは、はじめてだった。だがここにくる前、彼は日夜、オルレアンの警察が些細な点にわたって調査した報告書や見取図を研究しておいたので、新たに驚くべきものはなかった。ただ一つ、メグレの想像をはるかに越えた現実の醜悪さを除いては……。
しかし、メグレは百姓の倅《せがれ》だった! 彼は、ある村が今でも十三世紀や十四世紀のような生活をしているのを知っていた。だが、突然この森のなかの村に、この家に、この部屋に、この警戒を怠らぬ傷ついた女のそばにいる自分を発見して、人間の最も醜悪な面を秘めている病院や養老院を訪問したときと同じような感情を味わった。
パリで、この事件を調べはじめたとき、報告書の余白にいくつかメモをしておいた。
[#ここから1字下げ]
1 マルセルが箪笥や折カバンに残した指紋はかまわず、包丁だけを燃やしたのはなぜか?
2 彼がロウソクを使ったのなら、なぜ部屋に持っていって、消したのか?
3 血痕がベッドから窓まで一直線についていないのはなぜか?
4 九時半ではまだ人に気づかれる怖れがあるのに、なぜマルセルは家の正面から出たのか? なぜ、畑に面する裏のドアを使わなかったのか?
[#ここで字下げ終わり]
だが、これに反して、マルセルの弁護士をいたく落胆させた不利な証拠があった。二人の姉妹のベッドから、彼の上着のボタン、わき腹のところがビロードでできた古い狩猟服のボタンが一つ見つけ出されていたのである。
「そのボタンは兎の皮をはいだとき、どこかにひっかけて落としただ」と、マルセルは主張している。
メグレはこのメモを読み直すと、腰をあげ、アメリイを見つめた。彼女は奇妙な微笑を浮かべながら、目で彼の姿を追っている。メグレは物置きのドアを開けた。天窓からのわずかな光が当る片隅には木が山積みされ、その左側の、壁に面したところに問題の樽があった。
最初の二つの樽は、一つが赤葡萄酒、もう一方が白葡萄酒で、いっぱい詰まっていた。そのつぎの二つの樽はからで、そのうちの一つに、鑑識課員は蝋のしずくを見つけた。部屋にあったロワソクのものである。
この事件を担当したオルレアンの警視は、その報告書のなかでいっている。
「……マルセルは酒を飲みに物置きにいって、この蝋のしずくを残してきたのに相違ない。彼が泥酔して家に帰ったことは妻が認めているし、道に残っていた自転車のジグザグな跡も、彼が酔っていたことを証拠立てて……」
メグレはあたりを見まわしてなにかを探していたが、それが見つからないと、部屋にもどり、窓を開けた。二人の男の子が空地からポトリュ姉妹の家のようすをうかがっていた。
「おい、坊やたち、鋸《のこぎり》を探してきてくれないか?」
「木を切る鋸かい?」
メグレの背後には、相変わらず蒼白な顔が……。そのまなざしはメグレの濃いシルエットの動きにつれて動く。子供が形の違った二挺の鋸をもってもどってきた。と同時に、マリー・ラコールが部屋に入ってきた。
「おまえさまを待たせやしなかったかね? 子供は家に置いてきましたよ……さて、これからこの女《ひと》に食事をあたえなくては……」
「もうしばらく待ってくれませんか……」
「わたしは忙しいだよ……」
メグレだって、こんな場所から逃げたかった! ここには人にそういう気持を起こさせるものがある! 彼はまた物置きに入り込み、蝋のしずくのあった大樽を見つけると、鋸で切りはじめた。
メグレにはこれから発見するものがわかっていた。確信していた。たとえ、今朝確信を持っていなかったにしても、今ではこの家の雰囲気が彼の考えを疑いのないものにしていた。さらに、アメリイ・ポトリュという女が、メグレの確信を一段とたかめさせてくれた。
この家の壁からは吝嗇《りんしょく》ばかりでなく、憎悪までもが滲《にじ》み出していないか? この家に入りながら警視はカウンターの上に新聞が山積みされているのに気づかなかったか? これは非常に重大なことであるが、報告書はそのことをうっかり洩らしている。つまり、ポトリュ姉妹は新聞の購読者であったのだ!
アメリイは眼鏡を持っている。彼女は眼鏡をほとんど一日じゅうかけなかったが、ただ新聞を読むときだけ使った。要するに、彼女は字が読めた……。
このとき突然、警視の推理の最大の障害が消えた。
憎悪に基づいた推理、長い年月狭い家で顔をつき合わせ、ベッドも同じなら利害関係も同じという共同生活が生んだ憎悪……。マルグリットは息子をもち、恋のなんたるかを知っていた。だが、姉はこのよろこびをぜんぜん知らなかった! 十五年から二十年の間、マルセルは彼女らにまとわりつき、一人前になればなるで、絶えず家に戻ってきては食べたり、飲んだり、金をねだったりした。
お金はアメリイとマルグリットの共同のものであった! ≪だが、アメリイは年上であるから、当然妹より長い間金を得るために働いていたことになる!≫
日常生活に多くの事件を惹き起こす憎悪、妹がマルセルのために料理した兎や、マルセルが勝手に食べたソーセージが、アメリイの心に生じさせた憎悪……。
そうだ、アメリイは新聞が読めたのだ。彼女は裁判の記事をむさぼり読んで指紋の重要さを知っていた!
アメリイは甥を怖れていた。彼女は、妹が甥に金の隠し場所を教えたりするのを恨んだ。しかも、その夜もまた、妹は証券類をマルセルの手に触れさせた。
「いつか、マルセルはわしらを殺す……」
この言葉がこの家のなかで何度となくくり返されたことを、メグレは確信していた。彼は汗をかきどおしだった。家のなかは暖かかった。メグレは帽子をとり、コートを脱いで、近くの樽の上に置いた。
兎……ソーセージ……そして突然、メグレの心にマルセルが箪笥や緑色の皮の折カバンにつけた指紋のことが浮かび……。
つぎに、彼の上着から落ちたボタン、母親がすでに寝てしまったので、縫いつけてもらえなかったボタンのことが……。
もしマルセルが殺したのなら、なぜ折カバンごとそっくり持ち去るかわりに、部屋のなかでその中身だけを抜きとったのか? ましてやヤルコなどは字も読めやしないのだ!
アメリイの傷、すべてが右側にあり、あまりに多すぎ、あまりに浅すぎる傷……この傷こそが事件を解く糸ぐちなのだ……メグレはおずおずと、不器用な手つきで、わが身を傷つけている彼女の姿を想像した……彼女は死にたくなかった、長い間苦しみたくなかった。彼女は窓を開けて隣人たちに助けを求めるつもりだった。そして、叫びながら……。
殺人者がいたとしたら、そいつは彼女が窓に走りよる間、黙っていただろうか?
運命の皮肉にちがいない、彼女が助けをよぶ前に気絶してしまい、一晩じゅう手当もされず床にほっておかれたというのは!
そうにちがいない! これ以外のことは起こり得なかったはずだ! 彼女はまどろんでいる妹を殺すと、おそらく手にぼろ切れをまいて箪笥を開け、折カバンの中身を抜きとった。マルセルが疑われるためには、≪金が消えていなければならなかったからだ!≫
しかし、どうしてロウソクが……。
とにかく、ベッドのわきで彼女はおずおずと、不器用な手つきでわが身を傷つけ、それがすむと暖炉のほうに歩いていき……血痕がそれを証明している……、指紋を消すために包丁を燃やした!
そして、窓にいくと……もう少しで樽を切り終わるところだったメグレは、突然振り返った。争っているような声がきこえた。ドアがゆっくりと開き、戸口にアメリイ・ポトリュの異様で、不気味な姿が立っていた。奇妙なペチコートをはき、包帯のために下着の腕と胴をふくらませ、じっと一点を見すえている……。彼女のうしろでは、マリー・ラコールがこの無茶な振舞いに文句をいっている。
メグレは話しかける勇気がなかった。それより樽を切り終わりたかった。だが、樽がやっと二つに割れ、樽の口から押し込まれた国債証券や鉄道債券などが束になって発見されても、メグレは満足のため息さえ洩らさなかった。
彼はただちにここを立ち去るか、あの卑劣なマルセルのようにラム酒を一気に飲みほしたかったにちがいない。
アメリイはひと言もいわず、口を半ば開けていた。そのまま気絶したら、彼女は自分より力のないマリー・ラコールの腕に倒れこんだだろう。
だが、それは余計な心配だった。そういった場面はほかの時代の、ほかの世界のことであった。
メグレが証券類の束をつかんで、前に進み出ると、アメリイは後ずさりした。最後に部屋のテーブルの上に証券類の束を置くと、
「村長を呼んできてくれないか」と、しわがれた声でマリー・ラコールにたのんだ。彼の喉は締めつけられていた。「村長に証人になってもらいたいのだ……」
それから、アメリイに向かい、
「あなた、あなたは寝ていたほうがいいと思うが……」
冷酷な職業的好奇心にもかかわらず、メグレは彼女をながめようとしなかった。ただ、ベッドのバネが軋《きし》む音を聞いただけだ。彼はそうやってベッドに背を向けたまま、この村の村長をやっている小作人がくるまで立っていた。村長はおずおずと入ってきた。
村には電話がなかった。そこで、使いがヴィトリイ・オ・ロージュまで自転車を飛ばした。憲兵隊は森から出てきた肉屋の小型トラックとほぼ同時に到着した。
空は相変わらず同じ白さで、西風が樹々をざわめかしている。
「なにかわかったのですか?」
その問いに対し、メグレはよろこびもなく、ただあいまいに答えただけだった。しかし、この事件が長い間パリだけではなく、ロンドンやベルリンやニューヨークで犯罪事件のかっこうな研究対象になるだろうということを、彼はすでに知っていた。
メグレを見た人は彼が酔っていると思っただろう!
[#改ページ]
メグレの失敗
手がめり込んでしまうのではないかと怖れるあまり、人の顔さえなぐれないような人間がいるものだ。
メグレは三、四時間前にサン・ドニ通りの事件を引き受けてから、いらいらしていた。機嫌のわるいメグレに、不快感のためにまるで陰険なメグレに、オルフェーヴル河岸の者はだれ一人言葉をかけようとはしなかった。
「タクシーをよぶんだ!」とメグレはオフィスの給仕にどなった。
そして、≪依頼人≫のあとについて廊下を通り、階段を降り、中庭を横ぎり、歩道に出るまでのあいだ、ピンセットの先で、その≪依頼人≫をつまんでいるようなようすをしていた。
「サン・ドニ通りの二十七番地の2に」
メグレは、まるで服地がその男に触れるのを避けようとするかのように、コートの裾をひきよせた。
だが、そういってもその男は前科者ではなかった。なんの前科もなかった。商人だった。ほぼ四十五歳くらいで、ごく普通のスーツをきちんと身につけている。真新しくはないが、よく手入れが行きとどいている。ラチネ織の灰色のコートは去年のもの。風采は商店街でよく出会う、電気掃除機の販売人なり、いんちき投機師に似ていた。
男はユージェーヌ・ラブリといい、ケールかポール= サイ生まれのフランス人で、肥っていた。目はどこかこびるようなところがあり、陰険そうに輝いている。
「どうぞお先に、警視さん」
そこでメグレは口のなかでぶつぶついった。
「いやな奴だな!」
こんな男にかかわっているくらいなら、ある夕暮れに門番を殺したり、あるいはタバコ屋に盗みに入った悪党きどりの少年たちにたずさわっているほうがよほどましだ。正真正銘の強盗、自分の職業をよくわきまえていたり、ある種の商売人根性を持ったものとなら、メグレは喜んで一戦を交えたであろう……。
しかし、今、メグレの前にいるのは密告屋であり、ペコペコお辞儀をする、卑劣な小悪党なのだ。
メグレの前にいるのは、サン・ドニ通りの特殊本屋の主人なのだ。この肩書きがこの男のすべてをあらわしている。
豚肉屋と理髪店との間にある書店はすでに閉まっていて、ラブリは戸を開けるために鍵をつかった。そこは、間口は狭いが奥行のある、まるで廊下のような店だった。ショーウインドウはわずか一メートルほどの幅のものだったが、その幅をうまく使っていた。そこには軽薄な表題の本や、秘密めかすためにセロハンをかぶせた思わせぶりな表紙の本などあらゆるコレクションが置かれていた。
午後の五時だった。昨日、悲劇はこの時刻に起こったにちがいない。歩道には人々があふれ、食糧の小さな包みをかかえた人が通り、タクシーは勢いよく走っていた。
メグレは戸を閉め、チェーンがあったので、チェーンを掛けた。こいつらはなんと用心深いんだ! それからメグレは前の男を押した。
「きみの事務室を見せてくれ」
≪きみ≫だなんていわずに、もっと他人行儀に≪あなた≫といったほうがよかったのか! ていねいだが相手は、お客を迎えたときのように丁寧であった。
「階段に注意してください、ひどく急ですから……」
実際、カウンターの背後に狭い階段が口を開けていた。それは居酒屋《ビストロ》などにある、地下室にしつらえられた洗面所へ行くための階段と同じものだった。
「お先に失礼……」ラブリは作り笑いをした。
地下には赤いビロードのカーテンがあり、そのカーテンのうしろに奇妙な小部屋と書庫があって、書庫にはいわゆる本棚があり、小部屋には赤いソファと大きな鏡があった。
カーテンの傍の薄暗がりに、客には思いもよらないドアがあって、ラブリはいつものように、明りをつける前にそのドアを開けた。
「むさくるしいところですが……」
メグレが拳固《げんこ》の一撃で、ぐちゃぐちゃにしてやりたいと思ったあの笑いを浮かべて、ラブリは言い訳した。
実際、貧弱な部屋だった。安物の木製のデスク、緑色の金属製の整理箱、右手には小さなガス焜炉《こんろ》に、紅茶わかしと茶碗がいくつか、コート掛けと手洗い用の洗面器……。
この悪徳の巣として使われた地下室には、メグレはあまりにも背が高く、肩幅が広すぎるので、帽子が天井をかするのだった。メグレは窒息しそうな気がした。
「隣の部屋で起こることを、どこから見ていたのかね?」
善良な商人が帳簿を示すように、ラブリは壁に掛けられたカレンダーをひっくり返して、隣室がのぞける穴を示した。
「ここからです。私は明りを消しておき……この穴の向うには裏箔《うらはく》のない鏡があるのです」
またもやメグレは、ライトモチーフのようにくり返したかった。
「いやな奴だな!」
いやな奴、まったくそのとおりだった! だが、このいやな奴は用心深いし、法律で武装しているし、警察とも手を組んでいる。この特殊本屋はうまい広告によって、ポルノ好きを店にひきよせていた。
≪エミリエンヌ嬢自身が愛好家の方々にお見せするでありましょう≫と内容見本はうたっている。
そして実際、店員のエミリエンヌ嬢はときどきでっぷり太ったお客といっしょにこの小部屋に降りてきて、四、五百フランする愛蔵版を見せるのだった。
一方、のぞき穴の後ろでは、ラブリが……。
事件は単純だった。二日前ラブリはこの店を売った。新しい買い手に譲り渡すまでの八日間、彼はまだ店を管理しなければならなかった。
≪店員をそのまま使うかどうかは新しい買い手の自由である……≫と契約書にはきめられてあった。
ところで昨夜の十一時に、パトロール中の巡査は店の明りがまだついているのを見て不審に思った。なかに入ってみたが、一階にはだれもいなかった。そこで、いまメグレがやったように、階段を降りた。そして小部屋のなかに若い女の死体を発見したのだ。
それは新しい買い手が店といっしょに引きとることになった、店員のエミリエンヌ嬢であった。
メッツ通りの小さな部屋に住んでいたラブリは、所轄署の署長によって朝から尋問された。彼はまず最初に嘘をついた。
「五時ごろです」と彼はいった。「わたしは焜炉でお茶の用意をしていました。いつもそうするのです。エミリエンヌ君がお茶をとりに来ました。隣の部屋で飲むのにちがいありません。わたしは一人でお茶を飲み、それから街で人と会う約束があったものですから出かけました。あとの戸締りをエミリエンヌ君にたのみまして……。わたしはあの娘をすっかり信頼していました。なにしろ四年来いっしょなもんですから……」
ところでエミリエンヌ嬢が、お茶を飲んで毒殺されたことはたしかだった。
メグレの前にラブリを尋問した所轄署の署長は、ラブリの右のこめかみの青あざが証明しているように、手心を加えずにやった。一時間後、署長はつぎのような自白を得た。
「七時ごろでした、わたしは事務室で仕事を終えたのでしたが、小部屋にいる店員が身動きしないのです……彼女が眠っているのだと思い、すぐに帰ってくるつもりで出かけました……」
検死医が彼女の死を、多量の睡眠薬を嚥下《えんか》したためと診断したのだから、この自白はいかにももっともらしかった。
「ではきみが出かけるときには、エミリエンヌ嬢は死んでいなかったのだね?」
「そのように見えました……冷たくなかったのです」
「医者を呼ぼうとはしなかったのか?」
「手前どもの職業では、スキャンダルは避けたほうがよいものですから……旦那がたもそのことはよくご存じでしょうが……」
これらの言葉を強調しながら、彼は情報をときどき警察に流してやって、役立っているのだということをメグレに了解させた。
要するに彼が家を出たときは、まだ死んではいなかったのだ。彼の言い分では、その夜はサン・ドニ通りにもどれなかった。それに彼女のことを思い出さなかったので、そのまま家に帰ってしまった。
こうした事実を気むずかしげに口をゆがめて、メグレは大きな頭のなかで反芻《はんすう》していた。
サン・ドニ通りでは、いつものように街のにぎわいがつづいており、胸のむかつくような臭気のただよう地下室では、ラブリが、法と良心にかなった商人のごとく振舞っているのだった。
「誓って申しますが、わたしには何もやましいところはありません……ここにある本をすべて検閲なさってくださってもけっこうです……表紙が人目を惹くようなものですが、内容はなんら非難すべき点はありません……これらの本を売るのに、抜け目のない若い女が必要だったのは、そんなためだったのです……わかっていただけるでしょうか? お客はあの娘といっしょに降りてくると、厚かましくなったもんです……そこで彼女がお客をたしなめ、本を高い値で売りつけるのです……」
にやりとした、彼が!
「もしわたしがあの娘を優遇しなかったら、あの娘は四年もここにいなかったでしょう。お茶の仕度はいつもわたしが自分でしました……午後は長いものですから……」
とくに風の入らないこの部屋では。実生活からひどく隔たっているように思われるこの地下室では!
「わたしには警視さんがお考えになっていることがわかります……みなさんはわたしがエミリエンヌを殺したがっていたようなことをいいます。ですが、まずそんなことをしても、わたしには一文の得にもなりません。売却契約書にはあの娘がこの店の一部になっていると書いてありますし、もし殺すようなことをすれば支払いを面倒にしかねません。……そうでしょう!」
彼は善良そうなようすで話した。ときどきメグレを彼の誠実さの証人にでもしようとするかのように目配せした。
「それに、どうやって彼女を毒殺することができたでしょう? 今朝きいたのですが、検死医によれば、あの娘は睡眠薬を八錠も呑んだのだと……警視は睡眠薬を呑んだことがおありですか? ありません? わたしは一錠呑んだことがありますが……ひどく苦いもので、相手の知らぬまに呑ませることなどとうていできません」
「そうかね」
ここでメグレが≪そうかね≫といったのは、ただ相づちを打ったにすぎなかった。メグレは法医学研究所でエミリエンヌ嬢を見た。彼女はひ弱な若い娘であった、あの顔の蒼白さはたしかにお客の気を惹いたにちがいない。ところで、ラブリは人の好いおやじのようなふりをして、なにかの薬だという口実で、苦い茶を飲ませることもできた。
「あなたは間違っています、警視さん! わたしがあの娘に睡眠薬を与えたのなら、家などにもどらずにもっと他の場所にいたでしょう。そうすれば不安な思いをしなくてもすむし……」
彼はそのことを考えていたのだ。まったくいやな奴だ! 警察より一歩先んじている。こいつはいわばちょっとした反対尋問をしている気でいやがる……。
「わたしにどんな利益があるのです?」
そうだ、どんな利益があるのだ? メグレにもそれが疑問だった。というのは、メグレはこの男がただいたずらに人を殺したりしないことを十分に承知していたからだ。
メグレはパイプに火をつけ、それからデスクの引出しをさがして、紙挟《かみばさ》みのなかに、商売用の手紙と一緒にはさまっている恋文を見つけた。
八月六日、グランヴィルにて
いとしいあなたへ
あなたなしでもう三日ここにおりますの。あなたがいらしてくださらなくてはもうこれ以上長く、ここにいられないような気がしますわ……。
これが二ページつづき、最後にサイン。
生涯あなたの恋人である
エミリエンヌより
メグレは肥った相手をながめ、パイプをふかし、歯をくいしばってじっと我慢した。
「恋のドラマか?」メグレははげしい皮肉をこめてたずねた。
すると相手は思わせぶりに、
「なぜいけません?」
現実の世界から……窓代わりをしている採光換気窓の向こうの歩道の上を、冬の冷気をあびて歩いている心身ともに健全な人々から、彼らはあまりにも遠く隔てられていたのだ!
メグレは、隣の小部屋をのぞける穴のほうを見、ついでいやらしい男に目をやった。メグレは、大きな拳固を抑えるのに苦労した。
「もう彼女が自殺したなどと言い張るつもりはないだろうね?」
「あの娘を殺して面倒をひき起こしても、わたしにはなんの得もありません。それもニースの近くに別荘を買って、そこにひきこもろうとしていた時期に……」
ラブリは一歩一歩、というよりねちねちと身を守り、すっと殻のなかに滑り込んでしまう。一方、メグレはいよいよ怒りを増していた。メグレは必要とあらば、無分別なことをしでかした少年の立ち場に身をおき、少年のそのときの心理状態をたどることだってできたし、モンマルトルの淫売屋や、モンパルナスの売春稼業のどんな些細な秘密だって知っていた。
メグレは彼のパリを、いわばすみずみまで知っていたのである。だが、残念なことに、いままで一度もこうした類の地下室に降りたこともなければ、ラブリののぞき穴に顔をくっつけたこともなかった。
「よくお考えになってくだされば、わたしが潔白だということも、こうしたことがわたしにはひどく迷惑だということも、おわかりになっていただけるでしょう!」
彼はまさにこのとおりの言葉を使ったのだ! この事件をまるで商売の話でもするようにしゃべった! いまにも帳簿をさし出しかねなかった!
メグレはこう口にせずにはいられなかった。「考えれば考えるほど、なぐりつけたくなる!」
メグレはもはや、その美しいような、醜いような顔……というのは、ラブリの目はものうげで、それが口と顎《あご》のしまりのなさをおぎなっていたからだ……を正視していることができなかった。
文字通り彼は卑しい人間であり、ある一つの魅力のおかげでその他のすべてが大目にみられてしまうような人間だった。
この男の前で、メグレはほとんど父親のような怒りを覚えた。まるで自分の娘の仇を討たねばならないかのように。
突然ラブリのほうへ歩いていくと、メグレは相手の目の前に拳固をふりかざして唸った。
「白状しろ!」
相手は犬のようにおびえたが、それは彼の卑怯さをあらわしているにすぎなかった。
「白状しろ、卑怯者! おまえがいろいろ手を打ったことぐらいわかっているんだ」
ラブリはあとずさりし、ひどく狼狽《ろうばい》し、壁にぴったりと身をよせた。
「エミリエンヌはおまえの愛人だった……彼女は、おまえがここでひそかにめぐらせていた穢《けが》らわしい策略をすっかり知っていた。そのため、おまえはニースの別荘で年金生活に入る前に、彼女を殺してしまわなければならないと思ったのだ」
「警視さん」
「え、そのとおりだろ! 何かの薬を呑ませるという口実で毒殺したのだ……まもなく死ぬだろうと見極めて、卑劣なおまえは出かけていった」
「警視さん」
外では東の風が、通行人のコートの襟を立たせ、街のほこりを吹き払っていることを、メグレは忘れてしまっていた。メグレは若い娘の面長の顔や、生気のない目や、薄い唇を思い浮かべていた。彼女はけっして健康ではなかった。この男がこの地下室に彼女を釘づけにし、老人たちに身体を売らせていたのだ。
「さあ、白状するんだ!」
「誓って申しますが、警視さん……」
「誓うんじゃない! 白状するんだ!」
「いまなさっていることをあとで後悔しますよ」
その口ぶりがついにメグレを激怒させた。
「なんだと!」
「あとで後悔するだろうといったのです……あなたは思い違いをしておられる……権力を濫用している……」
「なに!」
「あなたは権力を濫用……」
「あの娘《こ》の手紙のあとでもまだそんなことをいうのか! おまえは彼女の情夫《いろ》でなかったというつもりか……」
メグレはすんでのことに殴りつけるところだった。彼の拳固が宙に浮いたその瞬間、電話のベルが鳴り響いた。
「もしもし……警視ですか? 検死医からたった今、死体解割の結果を知らせてきました……もしもし!」
ラブリは壁にぴったりと身をよせたまま、身動き一つしないでいる。激昂したメグレは受話器にどなった。
「聞いている!」
メグレは受話器を叩きつけたいのをこらえた。
「ええ? なんです?」
電話をかけてきたのはリュカ部長刑事だった。
「ええ、そうです、彼女は……要するに彼女は生娘《きむすめ》だったようです」
メグレはロボットのように受話器をおいた。突然彼は悟ったのだ。メグレは間違うこともあったが、そのことに気づくのにそう手間どらなかった。
「あなたが落ち着かれて、わたしは満足です」
またもやラブリは余計なことをいった。
「なに?」
「いえなにも……わたしは……」
メグレは力いっぱい拳固を握りしめていた。というのは、彼が考えていたことよりもさらに悪い事態があったのを、いま知ったからだ。メグレはいまではどうすることもできないその卑劣な男を、冷たいまなざしで見た。メグレは笑った。
「そのとおりだ……おまえは殺さなかった」
なぜなら、人間社会の法律では、ラブリには責任がなかったのである。
「おまえは殺さなかった……」
こいつは手をかけて、殺しはしなかった! 毒で殺しはしなかった! もっと始末のわるいやり方で殺したのだ。この地下室にずっと閉じこめておいて、殺したのだ。
一人の無知な少女が、ある日、美しい売り子を求める求人広告に応募した。彼女は田舎から出てきた。そしてパリでは、老人たちをやきもきさせるテクニックしかおしえられなかった。
つき合う男といえば、ラブリだけ……。
ラブリは顔は脂ぎっていたが、ビロードのような目をしていた。抜け目がないので、二人が恋人同士のようなふりをしていた。
彼のいうとおりだった! こいつは彼女に指一本触れなかった! このことではこいつはあまりにも悪賢かった。一時の満足のために、金の卵を生む雌鳥を殺したくはなかった。そんなこととは知らない彼女は、休暇に出かけたグランヴィルから手紙を書いたのだ、『わたしの恋人……』と。
ああ! これですべてがあきらかになった。メグレは、間違っていた! エミリエンヌは知らなかったのだ! 本を売るときに、エミリエンヌはのぞき穴の向こうで、まったく無邪気を装う必要があった。商売がうまくいくために! 実際よりさらに純真である必要が、実際よりさらにおろかである必要があった。なじみの老人が、「この娘はなんと無知なのだろう!」とささやく女になるために!
老人たちはエミリエンヌの肉体についてこれよりもっと上手な言葉を使っていたはずだ……。
それもエミリエンヌが、自分が店の一部で、新しい買い手に店と一緒に手渡される、さらに恋人であると信じていたラブリが、彼女を連れずに出発するということを知る日まで……。
それからエミリエンヌは気違いのようになり、自殺の道を選んだ。びっくりしたラブリは彼女を地下室のなかに見捨て、死体を他人に発見させるようにした。
「わたしのいったとおりでしょう?」狼狽したメグレを見て、おどけた笑いを浮かべながらラブリがつぶやいた。
そのとき警視は、あたりを一瞥《いちべつ》し、自分が実生活や法律から遠く離れた地下室のなかにいるのを確かめた。
「私が間違っていた」とメグレはつぶやいた。「だれにでも間違いはある!」
そういうと、それがまるで必要であるかのように、男の顔面に拳固を喰《くら》わし、気も晴ればれとして、ほっとため息をついた。そしてラブリが、ぐらついている一本の歯にさわっているのを見ながら、はっきりいい放った。
「階段から落ちたとでもいえ! こんなに急な階段なのだから」
[#改ページ]
ボーマルシェ大通りの事件
賭博捜査班のマルタンが自室を出たのは八時十分前だったが、驚いたことに廊下はまだ新聞記者やカメラマンで一杯だった。ひどく冷えこむ日で、コートの襟《えり》を立て、サンドイッチをぱくついている者もあった。
「メグレはまだすまないのかね?」と、彼は通りがかりの男にたずねた。
マルタンは階段をのぼらないで、広い廊下のはずれにあるガラス戸を押した。司法警察局のすべての部屋とおなじく、ここでも電灯はうす暗かった。局の控室であるこの部屋は中央に、赤いビロード張りの、大きな円形のソファがいかめしく据《す》えられている。コートを着て、帽子をかぶった男が一人、そのソファにすわっていた。数歩と離れないところで、二人の刑事が立ったままたばこをふかしていた。一方、年とった守衛は、ガラス張りの小さな守衛室で夕食をとっていた。
マルタンはパイプにたばこをつめた。十五分後には、たぶん自宅にたどりつき、家族と夕食をともにしているはずだ。彼がこの部屋に立ち寄ってみたのは、二日前から世間で騒がれている事件に、ちょっと興味をそそられたにすぎなかった。
「どうだね?」
刑事の一人へ、彼はそっとたずねた。たずねられた刑事はため息をつくと、二番目のドア、すなわちメグレのオフィスのドアを指さした。
「だれと一緒なんだ?」
「例の女とです……」
この低い声を耳にした男は、のろのろと顔をあげるとマルタンたちのほうへ目をやったが、そのどんよりした目の底には非難の色がうかがえた。男は痩せていて、顔色が悪い。そのうえ褐色の貧弱な口ひげを生やし、目のふちにどす黒い隈《くま》ができているので四十歳ぐらいに見えたが、実際はもう少し若いのかもしれない。
「あの男は朝からそこにいるのです……」
刑事はふたたびマルタンに向かってため息をついた。
このとき、メグレの部屋のドアが開き、警視がすがたを現わした。半びらきのドアから煙の立ちこめた室内と、緑色の肘《ひじ》掛け椅子にすわった若い金髪女の影がくっきり見えた。
「リュカ! ……」メグレは近眼のような目つきで刑事たちのほうをながめながら叫んだ。「サンドイッチを頼んできてくれ……それと、ビヤホールヘいって、生ビールを届けさせてほしい……」
マルタンはこの機会を利用して、同僚の手を握った。
「うまくいっているのか?」
メグレは顔を紅潮させ、目をぎらぎら光らせていた。今にも怒りを爆発させたいような気配だった。
「いいか……」とメグレは声を低めて、囁《ささや》くようにいった。
「もし今夜じゅうにこの事件を解決できなかったら、おれは事件から手をひくよ……わかってくれるだろう、え……おれはもう、これ以上あの部屋にいることに我慢がならないんだ……」
メグレの言葉が聞きとれなかったソファの男は、寒さにふるえながら待っていた。だが、メグレはそのまま部屋へ入るとドアを閉めた。マルタンは控室から出ていった。柱時計の針が新たに一分過ぎた。廊下に新聞記者たちの笑い声がどっと湧いた。
事件は最初、まったく月並みな様相を呈していた。先週の日曜日ボーマルシェ大通りの建物の五階で……一階にはパイプ屋が住んでいた……、二十六歳になるルイーズ・ヴォワヴァンという女が、完全な中毒死の徴候をみせて急死したのだ。
その明るい感じのする、住み心地よさそうな高級アパルトマンには、死んだルイーズ・ヴォワヴァンのほかに、宝石仲買人をやっている亭主のフェルディナン・ヴォワヴァンと、ルイーズの妹の、十八歳になるニコルが往んでいた。
メグレが数時間前から自室で尋問をつづけているのは、このニコルだった。彼女はじっと尋問に耐えていた。ときどき、神経質にハンカチを噛んだが、しかし、この息づまるような雰囲気にもかかわらず、頭はずっと明晰だった。
デスクの上にはスタンドが置いてあり、その緑色の大きな笠が光を反射していた。メグレの顔はこの笠より上につき出ているので、ほとんど影になっている。だが、低めの肱掛け椅子にすわっている娘のほうは、光をいっぱいに浴びていた。窓のカーテンを引いていないため、河岸の街灯の反射できらきら光る汚れた窓ガラスに雨滴が流れ落ちるのが見えた。
「もうすぐ飲み物がくるよ」
メグレはほっとため息をついた。
部屋はじつに暑かった。カラーをはずし、背広を脱いでいいといわれたら、メグレは喜んでそうしたにちがいない。娘のほうは相変わらず灰色の毛皮のコートに、同じ毛皮の襟なし帽子をかぶったままだったが、その帽子が金髪とあいまって北欧女のような印象をあたえていた。
メグレが、まだ彼女にしていない質問があるだろうか? しかし、このまま彼女を帰したくなかった。漠然とだが、彼女を手もとに引きとめておく必要を感じていた。一方、彼女の義兄のほうは控室で待ちつづけている。
メグレは内心の動揺をかくすために、報告書を調べはじめた。事件の細部を何度もくり返して読めば、おのずからインスピレーションが湧《わ》いてくるとでもいうように……。
最初の報告書……日曜日の事件にかんする所轄署の報告書は、簡単なものだったが、すでにある混乱を見せていた。
『……五階の、アパルトマンの裏手に面した部屋の床に、ルイーズ・ヴォワヴァンの死体が横たわっていた。われわれより三十分前に家族の者たちが呼んだブラウン医師の話では、彼女は数分前に激しい痙攣《けいれん》を起こして死んだのであり、死因は他殺にしろ事故にしろ、とにかく多量のジギタリスを飲んだためである……』
そして、
『……われわれは主人のフェルディナン・ヴォワヴァン(三十七歳)を尋問したが、なにも知らないと主張している……しかし彼は、妻が数か月前から神経衰弱ぎみだったと断言した……』
『……死んだルイーズ・ヴォワヴァンの妹、ニコル・ラムール(オルレアン生まれ、十八歳)を尋問した結果、義兄とまったく同じ陳述を得た……』
『……女管理人を尋問。ルイーズ・ヴォワヴァンがずっと以前から毒殺されるのを怖れていたと証言した……』
事件の起こったのは十一月十一日、万聖節の日曜日だった。その日は冷たい雨が降り、空気には菊の香りや教会でたく香の匂いが感じられた。夕方近く、検事は雨に濡れ、足を泥だらけにしてボーマルシェ大通りにいくと、アパルトマンを臨検した。
この事件にはたしかに毎日どこにでも見受けられるドラマ的要素があり、どんな事件にも共通するような雰囲気があった。だが、この事件の本当の悲劇は、廊下で待っている新聞記者たちにはまだまだ予測できないはずだ。メグレにしてもたった今、自室の過熱した雰囲気のなかで、それを嗅ぎつけたばかりだった。
メグレは努めて、部屋の一隅をじっと見つめている娘のやつれた横顔に目をやるまいとしながら、生ビールの冷たい味わいをいらいらして待ちうけた。
「はいりたまえ!」と彼は叫んだ。
ビヤホール≪ドフィーヌ≫のボーイが生ビールにサンドイッチを運んできた。彼はメグレの女客へちらりと目をやると、
「これでいいんですか?」
「ああ……ところできみ、すまんが、控室で待っている男にこれを少し持っていってくれ!」
だが、食物と飲物をもってこられたヴォワヴァンは、それを手にとる元気もないというように、ただ頭をふった。
メグレは立ったまサンドイッチをがつがつと囓《かじ》ったが、娘のほうはほんの少し食べただけだった。
「お姉さんはいつごろ結婚したのかね?」
「八年前です……」
べつにこれといった特徴もない人びとの月並みな結婚話。宝石の小ブローカーだったフェルディナン・ヴォワヴァンは宝石の鑑定を頼まれ、オルレアンにいったとき、ルイーズ・ラムールと知り合ったのである。彼女の両親は履物《はきもの》屋をやっていた。
「要するにきみはまだほんの子供だったわけだな?」
「十歳でした……」
「それでは」とメグレは冗談めかして、「そのころはまだ義兄《にい》さんを恋していなかったね……」
「わかりません……」
メグレは彼女をそっとながめただけで、笑おうとはしなかった。
「それで一年前、お父さんが死んだとき、姉さん夫婦がきみを引きとったわけか……」
「正確にいうと、わたしが姉たちの家へやってきたんです……」
「では、正確にいって、きみはいつからヴォワヴァンの情婦《おんな》になったんだ?」
「五月の十七日です……」
彼女は熱っぽい口調で、そうはっきりといった。
「彼を愛しているのか?」
「ええ……」
一見、弱々しい感じだが、心には激しい情熱を秘めている彼女にこうした恋ごころをいだかせたヴォワヴァンという男は、ロマンチックで美男子だと思うかもしれない。ところで、これはこの恋物語の不思議な一面であるが、この仲買人たるや、一度会ったぐらいではその顔を憶い出しにくいような凡庸《ぼんよう》な男なのである。職業にしたって詩的なものはなに一つなかった。宝石の取引きが行なわれるラ・ファイエット通りのカフェヘ毎日、数時間出入りするだけだった。ひと月前にやっと見切り品の安い自動車を買ったが、それにしたって身体の調子が思わしくなかったからにすぎない。
「お姉さんは?」
「姉は嫉妬《やきもち》やきでした」
「お姉さんはご主人を愛していた?」
「どうでしょうか……」
「きみたち二人きりのところを見つけたとき、お姉さんはなんといったね?」
「なにもいいませんでした……ただ、わたしに手紙をくれました……そのとき以来わたしと姉とは一度も口をききませんでした……」
「それはいつだった?」
「六月の二日です……でも、わたしたちが二人きりでいるところを見つかったのは、それが三度目なのです……」
「ボーマルシェ大通りの家?」
「ええ……わたしの部屋でした……フェルディナンはそのとき姉が外出中だと思っていたのですが、姉は女中と一緒に台所にいたのです……」
「きみは、ほかの場所で暮らそうとは思わなかったの?」
「そうしたかったのです……でも、姉が居残るようにいい張ったので……」
「なぜ?」
「わたしたちを監視するのに便利だからです……姉によれば、わたしがアパルトマンを出れば、それだけあの人とこっそり会いやすくなるからって……」
「ところで、アパルトマンではどうだった?」
「姉はけっしてわたしたちを二人きりにしませんでした……いつもフェルトのスリッパをはいていました。物音を立てないためです……」
「きみとお姉さんとは口をきかないで、どうやって暮らしていたのだ?」
「紙切れを交換していたんです……たとえば、姉はこう書いてよこします……≪明日、よごれたブラウスを出しておきなさい≫とか、≪風呂にははいれない。水が洩れているから……≫とか」
「では、ヴォワヴァンは?」
「あの人はとても不幸でした……新婚当時から姉の部屋で眠ることを拒《こば》んで、客間に長椅子を置きました……あの人はわたしに断言しました……自分たち夫婦の間にはもうどんな意味の肉体関係もないのだと……」
メグレは指で勘定した。
「六月……七月……八月……九月……十月……五か月! ……五か月の間、きみたちはそうした生活をつづけていたのか?」
彼女はただうなずいただけだった。まるで、そうした生活がまったくありきたりのことでもあるかのように。
「フェルディナン・ヴォワヴァンは一度も妻を殺すような話をしなかったのかね?」
「一度もです! それは断言してもいいです……」
「では、二人で出て行くことも?」
「あなたはあの人をご存じないんです」
彼女は首を振りながら、ため息をついた。「あの人は正直な人間なのです。商売人としても正直です。いちど契約書にサインすれば、どんなことがあってもそれを実行します……あの人の商売仲間にきいてごらんなさい……」
「しかし、数か月前からお姉さんは、殺されそうだといっている……寄宿学校時代の友だちに三通の手紙を書いているが、三通とも毒殺のことを問題にしている……」
「知ってます! 姉は気違いのようになっていたのです。わたしたちを監視しすぎたために……毎晩のように、姉はわたしの部屋にそっと忍び込んできて、わたしの顔を手で触るのです。暗闇のなかでもわたしには、姉がそうやってわたしがベッドにいるか、いるとすれば一人きりかどうかを確かめていることがわかりました……」
「では、質問するがね……六月の二日以降、きみはヴォワヴァンと二人きりで一度も会わなかった?」
「三度か四度会いました、外で……でも姉はそのことを知っていていつもホテルの入口でわたしたちを待っていました……一度など、姉はスリッパのまま町に出ていました。靴をはく時間がなかったのです……」
先日、メグレはヴォワヴァン自身同様、なんの変哲もないそのアパルトマンを訪問し、そこで演じられた三人の生活を想像してみた。だが彼は絶えず同じ問題に立ちもどらざるを得なかった……出口がわからず、同じところを堂々めぐりしている調教場の馬のように……。
「浴室の薬品箱に重曹《じゅうそう》の包みがあったのを、きみは知っていたかね?」
そう、すべての問題はここにあるのだ。ルイーズ・ヴォワヴァンが死んだあとで、部屋をくまなく調ベ、まもなくコップを見つけたが、その底に残っていたわずかな水を分析してみると、ジギタリスが検出されたのである。そのコップのわきに、≪重曹≫というラベルのついた包みがあった。そしてその包みのなかにも同じように、数百人もの人間がらくに殺せるだけのジギタリスが入っていた。
「先週の日曜日の午後、きみたちは何をしていた?」
「いつもの日曜日と変わりありませんでした。最もつまらない一日でした。フェルディナンは客間で請求書を調べていましたし、わたしは自分の部屋で本を読んでいました。姉も自分の部屋にこもっていたはずです……」
「きみたちはお昼になにを食べた?」
「とてもよく覚えています……フェルディナンのお得意さんが送ってくれた兎の肉……」
彼女はフェルディナンの名前を熱っぽく発音しつづけた。まるで彼がだれよりも美男子で、だれよりも非凡な男であるかのように。
「お姉さんの死はきみをひどく悲しませただろう?」
「いいえ!」
彼女はその気持を隠そうとはしなかった。顔を見せるため頭をもたげさえした。
「姉はあの人を苦しめすぎました……」
「彼のほうは姉さんを苦しめなかったかね?」
「それがあの人の罪でしょうか? ……あの人は姉をけっして愛しませんでした……八年間も姉といっしょに暮らしていながら一度も幸福ではなかったのです……姉はいつも陰気なようすをしていたし身体の調子が悪く……結婚した最初の年に手術をしなければなりませんでした。姉は普通の女ではなかったのです……」
メグレは再び部屋を出ると、ソファに崩《くず》れるようにすわっている男をながめた。メグレはすでに一度、この男を尋問していた。だが、それは簡単なものだった。彼にはこの男と、あの果てしない尋問……するほうもされるほうもへとへとに疲れてしまう尋問をはじめる気にはなれなかった。
「彼はなにか食べたのか?」メグレは低い声で、二人いる刑事のひとりにたずねた。
「いいえ……腹がへらないといって……」
「なるほど!」
メグレは勇気をふるい立たせるかのようにそういうと、部屋にもどった。ニコルは身動き一つしていなかった。
「ところで、病気のことを話していたね……家族のなかで、胃がわるいのはだれだね?」
「フェルディナンです!」
彼女は躊躇《ためら》わずに答えた。
「でも、それほどではないんです。ときどき、心臓の動悸が激しくなるときなどに……」
「なぜ心臓の動悸が激しくなるのだね?」
「二年前に胸を患《わずら》ったためだと思います。でも、今はもうほとんどなおっているのです……」
「義兄《にい》さんは、ここ数週間のあいだに胃の痛みに襲われたことがあったかね?」
「ありました!」彼女は相変わらずはきはきした口調で答えた。
「いつだね?」
「わたしたちが三人とも病気になった日です……」
「その日、きみたちが食べたものを覚えている?」
「覚えていません……」
「医者を呼んだ?」
「いいえ! フェルディナンが呼びたがらなかったのです……夜になると、わたしたちは頭が痛くなり、吐き気を催しました、フェルディナンはガス洩れのせいだといってましたが……」
「そういうことがあったのは一度だけ?」
「そうです……少なくとも、そのときほど激しかったのは……」
「それでは、ほかの病気がちょくちょく起こったのだね?」
「あなたの言いたいことはわかります、警視さん……でも、そんなことでわたしの冷静さを失わせることはできないでしょう……とにかく、わたしは最後までがんばります……フェルディナンの無実を信じています……だれかが姉を毒殺したとしても、断じてあの人ではありません。あの人を助けるためなら、わたしは……」
「きみがお姉さんを殺したのではないかね?」メグレは奇妙な声でたずねた。
「いいえ……わたしには考えもおよびません……殺すとすればわたしならもっとほかの方法で……どんな方法かはわかりませんが……殺したでしょう……じつのところ、最近わたしたちは、三人とも病気つづきでした……わたしたちがどんな生活を送っていたか、あなたには想像もつかないでしょう? ……食事にしても、三人のうちのだれか一人がかならず食べないのです……五か月のうちに女中が何人変わったかわかりますか? ……八人です! ……その人たちの言葉をそのまま使えば、『気違いの家に勤めていたくなかった』……」
激しくすすり泣いた。彼女がそうやって泣くのはこの尋問が始まってから、なにも今が最初ではない。だが、彼女はすぐに冷静さを取りもどすと、相手のつぎの質問を見抜こうとするように、メグレの目をじっと見つめた。
「わたしには窓を閉める権利もありませんでした……しかも、外に出れば姉があとをつけてくるので、街角までいくこともできないのです……」
「きみはお姉さんが自殺したと思うかね?」
彼女はすぐには返事しなかった。この質問で彼女はひどく狼狽した。
「いい方をかえれば、姉さんは多量のジギタリスを手にいれ、きみたちを毒殺するかわりに、みずから進んでそれを飲んだと思えないかね?」
「どうでしょうか……」と彼女は答えた。
だが、その口調から、彼女が姉の自殺を全然信じていないことがわかった。
「それでは?」
「謎でしょう……とにかく、ヴェルディナンは殺しません! ……」
「じゃ、きみは?」
しかし、メグレがこの質問で彼女を混乱させようと思ったのは間違いだった。彼女はもう一度顔をあげると、いくぶん皮肉の色をたたえた目で、メグレをじっと見た。
「そろそろ義兄さんを呼んだほうがいいな」とメグレはつぶやいた。「ところで、きみは……わたしたちが話しているあいだ、控室で待っていてほしい……」
「あの人になにをいうのです?」
彼女は突っ立ったまま、いらいらと歯でハンカチを何度も噛んだ。
「彼を部屋に入れたまえ!」とメグレはドアを半びらきにしたまま叫んだ。「このお嬢さんのほうは、そこで待たしておいてくれ……」
メグレは彼女を押しだすように部屋の外へだすと、娘がいままですわっていた肱掛け椅子をヴォワヴァンにすすめた。
「ビールは?」
ヴォワヴァンはただ首をふっただけだった。
「腹がすいてはいないかね? ……だいぶ待たせてしまったが……義妹《いもうと》さんがいろいろなことを話してくれたんでね……それはそうと、あなたがたは今後どうするつもりだね?」
仲買人はようやく顔をあげると、最初はびっくりして、次に疑わしそうな表情で警視を見た。まるで、釈放されないことがあきらかな男のようだった。
「質問があるんだが、ヴォワヴァンさん……ニコルはあなたに話したくても、奥さんのために話せないとき、手紙を書いたといっているが……」
彼はその質問がなにを意味するのかを探ろうとしながら、首をふった。
「いや……」
「なぜ? 彼女はあなたを深く愛していたし、あなたにしたって彼女を……」
「手紙を書くことは不可能でした……家内がその手紙を見つけだすからです……家内はわたしの部屋や着物を調べるだけではなく、靴のなかまで調べたのです……」
メグレはため息をついた。メグレはニコルがほかの男を恋しているのだったら、どんなに安心したことだろう。だれでもかまわない。この平凡な男以外なら。絶望しているときでも、なにがしかの魅力を備えているなら。
「どこかに隠し場所を作れなかったのかね? ……」
「今もいったとおり、家内は必ず見つけてしまいます……」
警視はもうそのことを考えないような素振りをした。
「お気の毒に……ときに……わたしは他のことを伺いたいんです……あなたには心臓障害があったはずですね……」
フェルディナンは苦しげに微笑んだ。
「その質問を待ちのぞんでいたんですよ……」
「では、答えたまえ!」
「たしかに、そのとおりです! わたしは医者からジギタリスを処方してもらいました……ですが、もう二年ほど前からジギタリスは使ってません……」
「しかし、その薬の効果を知っていたことには変わりがない。多量に服用すればどんなことになるか、医者から聞かされていたはずだ……」
「信じてください、警視。わたしが妻を殺したのじゃない……」
「ニコルが姉を毒殺したとは思えない……」
「あの娘を疑ったのですか?」
「そうじゃない! 静かにしたまえ! あなたは奥さんを殺さなかったといった。ニコルも殺さなかった。ところで今、一つ質問がある。答えなくてもかまわない。よく聞くんだ、ヴォワヴァン……わたしは奥さんがどんな人間だったか、あなたと同じように知っているつもりだ。妹をアパルトマンから追いだせばあなたとこっそり会うだろうから、それならいっそ自分のそばに置いといたほうがましだというほどの嫉妬ぶかい女、その女が自殺をし、即座にあなたがた二人を自由にしてあげると思うだろうか? ……よく考えたまえ……」
「わたしにはわかりません……」
「さあ、よく考えたまえ! 答えるか、ぜんぜん答えないか。だが嘘はいけないよ、ヴォワヴァンさん……いいかげんなことをいって逃げようとしてはいけない……」
ヴォワヴァンは唇をふるわせていたが、突然、部屋のなかに臭気が漂った。ヴォワヴァンが恐怖のあまり放屁《ほうひ》したのである。メグレはひと言もいわずに、窓を開けにいった。それから再びデスクのほうにもどると、ゆっくりとパイプにたばこを詰め、すこし残っていたビールを飲んだ。
「では、わたしが教えてあげよう」
メグレは静かな声でいった。
「義妹《いもうと》さんはここへ入れないほうがいいと思うが?」
ヴォワヴァンは泣いた。たぶん苦悩と屈辱感のためだろう。メグレは部屋を往き来しながら話しはじめたが、つとめて相手を見ないようにしていた。
「わたしの話が間違っていたら、すぐ指摘したまえ……だが、間違っていないつもりだ……あなたはときどきアンベールへ行くね?」
「はい……」
「そこでだが……アンベールやアムステルダムには宝石の大きな取引場が数多くある……あなたはフランスにおけるよりも簡単に、なんの危険も犯さずに多量のジギタリスを手に入れることができたはずだ。われわれがいくらパリや郊外を捜査してもむだだったのは、このためだった……」
「喉がかわいた!」
ヴォワヴァンは喉を締めつけられたような声で呻《うめ》いた。
相手のあまりにみじめなようすに、メグレはちょっと戸惑った。戸棚からブランデーの壜を取ると、大きなグラスに流しこんだ。
「あなたは生まれつき朗らかな性格じゃない……若い娘と結婚したが、彼女は結婚の最初の年に手術をし、いっぺんに五、六歳も老けてしまった……あなたは喜びもなく、ただこせこせと働きつづけた。あるとき、心臓が衰弱しているのに気がついた……そうだね?」
「たいしたことはなかったのですが……」
「それはどうでもいい……そのとき、義妹《いもうと》さんがあなたを愛した。突如として、あなたは青春と、生きる喜びを発見した……あなたは愛した! ……気違いのようになって愛した! だが、奥さんを捨てて新しい生活にはいるには、あまりにも結婚の誓いが大事すぎた……あなたは弱虫だ、臆病者だ……二人きりでいるところを奥さんに不意に見つかった日、あなたはなんの反抗も示さなかった……」
「わたしの立場でしたら、あなたはどうしたでしょうか?」
「そんなことはどうでもいい……ボーマルシェ大通りの家の生活は、毎日が、一刻一刻が拷問《ごうもん》に思えた……どうしても奥さんと別れることができないなら、なおのこと義妹さんを断念しなければならなかったはずだ……もしわたしの推論が間違っていたら……」
「そのとおりです!」
「あなたは物事を悲劇的にしてしまう弱気な人間だ。孤独を恐れるあまり、他の人たちまでもいっしょに死の世界へ引きずりこんでしまう人間だ……人生に行き詰まったとき、あなたは三人一緒に死ぬことを考えた。あなたが毒を多量に買った理由はここにある……それにちがいあるまいね?」
「どうしてそれがわかったのです?」
「ここまでは、だれにでもわかる。わたしにわからなかったのは、奥さんの死と、奥さん自身のことなのだ……しかし、あなたが先刻その答えをあたえてくれた……これからだんだんとそのことを話そう……あなたは少なくとも二度は、いわゆる≪舞台稽古≫を行なった。つまり食物のなかにジギタリスを少しいれたのだ……このために、三人とも病気になった……」
「なぜあなたは……」
「そのとおりだよ……あなたは恐れていた……死ぬ決心がつかなかった……そこで薬の効果を少しずつ試してみたのだ……その他のことは、わたしが先刻行なった質問にたいするあなたの答えが明らかにしてくれる……つまり、奥さんはあなたの一挙一動を監視し、部屋のすみずみから靴のなかまで調べた……こういう場合、どこにジギタリスを隠せるかね? また、あなたが一人で飲んでいた薬はどんな薬だったかね?」
ヴォワヴァンはなにもいわずに物凄い勢いで目をあげた。
「ここまでくると、すべてはおのずから明白になる。ジギタリスは≪重曹≫というレッテルのついた包みの中に隠されていた……そして、おそらくあなたは何週間も、何か月もまだ逡巡《しゅんじゅん》していただろう、もしも……」
「わたしにはけっしてできなかったでしょう!」と、仲買人はうめいた。
「そんなことはどうでもかまわない……もし、あの事件が起こらなかったら、とにかく、あなたは長いあいだちゅうちょしていたことだろう。……あなたのお得意の一人が兎の肉をくれた……身体のぐあいがわるい奥さんは、その肉が胃にもたれたので、薬箱のところへ行き、重曹の包みに気づくと、それをコップのなかへひとさじいれた……」
ヴォワヴァンは両手に顔をうずめた。
「これでおしまいだ!」とメグレは窓を前より大きく開けながら、きっぱりといった。「ところで……わきに洗面所があるんだが……義妹さんを呼ぶから、ちょっとそこへ入ってくれないか?」
仲買人は洗面所のなかへ影のように入っていった。メグレはドアを開けた。
「はいりたまえ、ニコルさん。義兄《にい》さんはいますぐ来ます……」
それからだしぬけに、
「きみは一度も死にたいと思わなかったかね?」
「ええ!」
「よろしい! 用心したまえ……」
「なにを?」
「なにごとにも……他人に引きずられないようにね……」
「あの人は何をいったんです?」
「なにもいわなかったよ!」
「今でもあの人が有罪だと信じているんですか?」
「きみは、これから彼と二人でうまくやっていくことになる……」
メグレは微笑を隠すために顔をそむけた。
「彼は……彼はいま気持を落ち着けているんだ!」
そういうと、メグレは消えていたパイプにまた火をつけた。一方ヴォワヴァンは電灯の光がまぶしいのか、手探りしながら部屋へはいってきた。
「フェルディナン!」とニコルが叫んだ。
「だめだ! ここではよしたまえ……後生だからやめてくれ……」とメグレはどなった。
[#改ページ]
停車……五十一分間
深い眠りのなかで、メグレはぼんやりとベルの音を聞いた。しかし彼は、電話がかかっていることも、妻が自分の上に身をかがめていることも知らなかった。
「ポポールからよ!」と、夫人は夫の身体をゆすって叫んだ。「あなたに話したいことがあるんですって……」
「あ、ポポールか?」と、メグレは寝ぼけまなこでつぶやいた。
「あなたですか、叔父さん?」と、電話線の向こうでいった。
朝の三時だった。ベッドは暖かかったが、外は、窓いっぱいに氷柱《つらら》がたれさがるほどの寒さだった。だが、ポポールが電話をかけているジュモンでは、もっと寒かった。
「話ってなんだね? ……待ってくれ! ……いま名前を書きとるから……オットー……綴《つづ》りをいってくれ、もっと正確に……」
メグレ夫人は夫のようすをじっとながめながらただ一つのことを気にしていた……夫は起きなければならないのか、それとも起きなくてもいいのか? ……。もちろん、メグレはぶつぶついいながら起き上がると、説明した。
「ジュモンで面倒なことが起こったんだ。そのため、ポポールは客車を一両停めてある……」
ポポールとはメグレの甥《おい》で、ベルギー国境の検査官をしているポール・ヴァンションのことである。
「どこにいくの?」
「まず、情報をとるために司法警察局にいく。それから、たぶん始発の列車に乗るだろう……」
面倒が起こるのはいつもきまって一〇六号列車だ。……ワルシャワからの客車を一、二両連結して午前十一時にベルリンを発ち、二十三時四十四分にリエージュを通り(この時間では駅にはほとんど人影がなく、列車が発車するや駅を閉めてしまう)一時五十七分にエルクリーヌに到着する列車。
昨夜、車両のステップは雨氷で白くなり、滑りやすかった。エルクリーヌでは、ベルギーの税関吏が客車の廊下に入ってきたが、二、三のコンパートメントのドアをいいかげんに開けただけで、急いで駅のストーヴヘもどってしまった。
二時十四分には列車はすでに国境を越え、二時十七分にはジュモンに到着していた。
「ジュモン! 五十一分の停車! ……」と、角燈をもった駅員がホームを走りながら叫んだ。
コンパートメントの乗客は大部分がまだ眠っていた。終夜燈の明りをほの暗くし、窓ガラスにはカーテンをおろしていた。
「二等と三等のお客さまは税関の手続きのためお降りください!」と、駅員は客車ごとに叫んで歩いた。
検査官ポール・ヴァンションは、おろされている多数のカーテンと、薄暗い終夜燈の明かりに肩をすくめると、列車の最前部に近づいていった。
「今日は一等の乗客が多いが、なぜだね?」
「歯科医の国際会議が、明日パリで開かれるからです。少なくとも二十五人はいるでしょう。そのほかに普通の乗客が……」
ヴァンションは先頭の客車に乗ると、コンパートメントのドアを開きながら、機械的な声でつぶやいた。
「パスポートをご用意ください!」
彼は乗客がまだ目覚めていなかったし、終夜燈の明かりが薄暗かったりしたので、電燈をつけた。と、影のなかから寝不足でむくんだ顔が浮かびあがった。
「パスポートをどうぞ……」
五分後、彼は、一等のコンパートメントからもどってきた税関吏たち……彼らは乗客をすべて廊下に出し、腕かけから室の隅々までをくまなく探した……と行き違った。
「パスポートを、身分証明書を……」
彼は赤いビロードの腰かけがついたドイツの客車にいった。この客車のコンパートメントは、いつも四人しか乗せなかったが、一〇六号列車に乗り込んだ歯科医たちのために、今夜は特別に六人も入っていた。
ポポールは、廊下に近い左隅にすわり、オーストリアのパスポートを持っていた美しい女に感嘆の一瞥《いちべつ》を投げた。だが、ほかの乗客の顔はほとんど見なかった。……コンパートメントの奥にいる、厚い毛布をかぶり身動きひとつしない男のところへいくときまでは……。
「パスボートをどうぞ!」と、彼は男の肩に手をかけながら、くり返した。
ほかの乗客は税関吏にそなえて、スーツケースを開きはじめていた。ヴァンションは前より強く、眠っている男をゆすった。と男の身体は床の上にすべり落ちた。男は死んでいた。
大混乱になった。コンパートメントはあまりに狭すぎたので、担架《たんか》を持ってきても、その特別に重い死体を乗せるのは大変な騒ぎだった。
「駅の医務室へ運びたまえ!」ヴァンションは列車のなかにドイツ人の医者がいるのを知ると、命じた。
同時に、彼は税関吏を使って、コンパートメントのなかを念入りに調べさせた。若いオーストリア女は客車から降りて、空気を吸いたがった。だが、彼はそれを禁じた。彼女は軽蔑《けいべつ》するように肩をすくめてみせた。
「男の死因はなんだかわかりますか?」
医者は当惑したようすを示した。ヴァンションは医者を助けて、死人の着物を脱がせたが、彼にはすぐに傷跡が見いだせなかった。それが彼にわかったのはドイツ人が死人の脂ぎった胸もとに、見えるか見えないかの跡を示したときだった。
「この男は心臓に針をつき刺されたのだ……」と、医者は断言した。
列車の停車時間は、まだ十二、三分残っていた。臨時警視は不在であった。ヴァンションはひどく興奮していたが、すぐに決心をしなければならなかった。彼は駅長室に向かって走り、問題の客車を列車から切り離すようたのんだ。
乗客にはなにが起こったのか、はっきりとはわからなかった。まわりのコンパートメントの人々は、彼らの客車がジュモンに取り残されるので、ほかの客車へ乗り移らなければならないと知ると激しく文句をいった。死人と一緒にいた人たちはヴァンションから、翌日まで引きとめられると言い渡されるや、なおいっそう激しく抗議した。
しかし、この五人の乗客たちのなかに殺人者がいると仮定すれば、これ以外の手段がなかったはずだ! ヴァンションは問題の客車と、五人の乗客を残して列車を出発させるや、電話で叔父を呼び出した。
午前四時十五分前には、メグレは数個の電燈しかついていない司法警察局にいて、当直の刑事にコーヒーをたのんでいた。四時にはすでに、オフィスをパイプの煙でもうもうとさせながら、電話でベルリンを呼び出し、そこの同僚に、甥が知らせてきた名前と住所を書き取らせていた。それがすむとメグレは電話でウィーン……コンパートメントの乗客の一人がこの町から来ていたのだ……を呼び出し、それからワルシャワに電報を打った。というのは、アーヴィッチ夫人というのがワルシャワのヴィルナから来ていたからだ。
この間、ジュモンでは、ヴァンションが臨時警視の事務室で五人の乗客と向かい合っていた。彼らはその国柄によってそれぞれ異なった反応ぶりをしめした。事務室には、石炭をいくらでも呑み込んでしまう馬鹿でかいストーブがあるので、暖かかった。ヴァンションは隣の事務室から肱掛け椅子をいくつか持って来させたが、どれもこれも木は黒ずみ、脚はひんまがり、ビロードは擦《す》り切れているといった、なんともご立派なものだった。
「わたしは、できるだけ早くあなたがたを自由にしてあげたいのですが、今のところは、あなたがた一人一人を厳重に監視しなければならないでしょう……」
朝までに当を得た報告書をつくりあげるとすれば、彼にはもうむだにする時間は一分もなかった。パスポートはデスクの上にあった。オットー・ブラウンの死体(被害者は、ポケットから発見されたパスポートによれば、こういう名前であった)は医務室に置かれたままになっていた。
「お望みなら、暖かい飲物でも出させますが……食堂が閉まってしまいますので、ご希望のかたは早く申し出てください……」
四時十分には、ヴァンションはすでに電話のベルで席を立っていた。
「もしもし……オールノワイエ? なんですか? ……そのとおりです! ……ええ、報告書はできるでしょう……始発の列車でそれを送らせます……もちろん、資料も……」
彼はメグレへの電話を盗みぎきされないために、わざわざ隣の事務室にいった。
「叔父さんですか……新しいことがわかりました……数分前、列車がオールノワイエの駅に停車した際、一人の男が車両の下から飛び出したのです。激しい追跡が行なわれ、最後に男は捕まりました……彼は莫大な金額の有価証券……そのほとんどが石油関係のものでした……を油紙でつつんで持っていました……。その男はアントワープ生まれのジェフ・ベベルマンで、サーカスの芸人だそうです……そうです! ……始発の列車で彼をわたしのところへ連れてくるようにいっておきました……あなたも始発でこちらへ来られるのですか? ……違いますか? 十時二十分に? ……ありがとう、叔父さん……」
そういうと、ヴァンションは縞馬《しまうま》ども……彼は五人の乗客をこう呼んでいた……のもとへ戻った。陽は昇ったが、光は冷たく凍り前日よりもいっそう寒い感じだった。郊外に行く列車に乗るため、旅行者たちが、だんだんと駅へ集まってきた。ヴァンションは≪縞馬≫どものさかんな抗議に耳を貸さず、絶えず仕事をしていた。結局、彼らは疲れ果てて黙りこんでしまった。
むだにすべき時間は一秒たりともなかった。こんどの事件は複雑な外交上の問題をいろいろと含んでいたので、なおのこと時間をむだにしてはならなかった。一人の男がコンパートメントで殺されたというだけで、正規の身分証明書を持っている国籍の違う五人の乗客を、これ以上引きとめることはできなかった……。
メグレは、予告どおり十時二十分に着いた。十一時には、待避線に引き入れられた問題の列車で、現場の復元をした。寒さと、疲労のために、五人の乗客たちの動きはのろかった。
二度ほど彼らの一人が神経質な笑い声を立てたが、それは身体を温めるのにグロッグを飲みすぎたためだった。
「まず、死体をもとの場所ヘ!」とメグレはいった。「窓ガラスにカーテンが降りていたと思うが?」
「みなさん、ものに触れないでください!」と甥は命じた。
もちろん、夜まで、それも事件が起こった正確な時刻まで、待ったほうがいいにはちがいない。しかし、それが不可能であるときには……。
オットー・ブラウンは、パスポートによればブレーメンの生まれで、年齢は五十八歳、以前はシュツットガルトの銀行家であった。凝った服装をしている……それが彼の与える印象だった。頭の髪を短く刈った、太った男で、ユダヤ人だということがかなりはっきりとわかる。
ベルリンから到着したばかりの情報は、彼についてこう述べている。
……国家社会主義革命によって、彼の金融上の活動は終わりをつげるはずだった。しかし、政府に忠誠の証《あかし》をしめし、ために身の危険はなくなった。非常な金持ちと見なされている……党の資金として、百万フラン寄付した……。
死人のポケットの一つに、メグレはベルリンのホテル≪カイゼルホッフ≫の勘定書を見つけた。オットー・ブラウンは、シュツットガルトを出て来てからこのホテルに三日間滞在していたのだ。
今では、五人の乗客は廊下に突っ立ったまま、陰鬱《いんうつ》な、怒りを含んだ眼差《まなざし》で警視の行き来をながめていた。警視はブラウンの上の網棚をさし示すと、たずねた。
「この荷物は彼のものかね?」
「それはわたしのですわ」と、オーストリアの女、レイナ・ラインバックがつっけんどんな声でいった。
「昨夜、あなたがいた場所に、もう一度すわっていただけますか?」
彼女は嫌々それをやったが、その動作は、彼女が酔っぱらっていることをしめしていた。彼女は豪華なミンクのコートと、非常に粋な洋服を身にまとい、指にはことごとく宝石が輝いていた。
ウィーンから彼女のことを電報で知らせてきた。
……高級娼婦で、ヨーロッパの主要な都市で数々の話題をまいてきたが、まだ警察には一度も上げられてない……長い間、ドイツの皇太子の情婦であった……。
「ベルリンでコンパートメントに乗ったのは、どなたです?」と、メグレは乗客のほうをふりむきながら、たずねた。
「話してもかまいませんか?」流暢《りゅうちょう》なフランス語でだれかがいった。
リールに住むフランス人アドルフ・ボンヴォワザンであった。
「わたしがワルシャワからすでにこの列車にいたことをお知らせしておきたいと思います……わたくしたちは二人でした。……わたしはルボフから来ました。わたしの製糸工場がポーランドにあるからです。ワルシャワで、わたしと一緒にこの夫人が乗りました……」
彼は相当な年配の夫人を指さした。オットー・ブラウン同様、脂ぎったユダヤ女で、褐色の髪をし、アストラカン毛皮のコートから太い脚をつき出させていた。
「ヴィルナの、アーヴィッチ夫人?」
彼女はフランス語がだめだったので、ドイツ語で話した。毛皮商人の妻のアーヴィッチ夫人は、毛皮業界のある専門家に意見をきくため、パリにきたのだ……。
「あなたのいた席にすわってください!」
あと二人の男が残っていた。
「あなたの名前は?」とメグレは士官を思わせる、すらりとして気品のある男にいった。
「トマス・ハウケ、ハンブルグの……」
彼について、ベルリンから長ったらしい情報がとどいていた。
……盗難の宝石を売買したため、一九二四年に二年の刑をうけた……以来、きびしく監視されている……ヨーロッパじゅうの歓楽街へしばしば出入りしている……コカインやモルヒネの密売をやっているのではないかという疑いあり……。
最後は、三十五歳の眼鏡をかけた男で、髪を短く刈り、きびしい顔つきをしていた。
「ドクトル・ゲルホルンです、ケルンの……」と、彼はいった。
おかしな勘ちがいがあった。メグレは、死体が発見されたときゲルホルンがなぜ死体を調べなかったのか、その理由をたずねた。
「わたしはドクトルといっても医者ではなく、考古学者なのです……」
いまや、コンパートメントの人々は昨夜とまったく同じ場所にすわっていた。
オットー・ブラウン、
アドルフ・ボンヴォワザン、
アーヴィッチ夫人
トマス・ハウケ、
ドクトル・ゲルホルン、
レイナ・ラインバック
もちろん、オットー・ブラウンを除いただれもが殺人を否定していた。また、だれもが何も知らないと断言した。
一方、メグレはオールノワイエで車両の下から飛び出し、二、三百万の有価証券を持っていたアントワープのサーカス芸人、ジェフ・ベベルマンと十五分を過ごした。
最初、ベベルマンは死体の前に立たされたが、身ぶるいひとつせず、逆にこうたずねた。「だれだね?」
つぎに、彼はベルリン= パリ間の三等切符を見つけ出された。おそらく彼は、国境で有価証券を発見されるのを避けるため、デッキにぶら下がっていたときもあるのだろう。
しかしベベルマンは口が固かった。彼はおどけ者で、ただこういっただけだった。
「質問するのは、あなたがたの商売だ。だがわたしはなにもいいたくない……」
彼についての情報は、たいして役に立たなかった。
……元サーカスの芸人、その後ブラッセルとベルリンでナイトクラブの給仕をしていた。
「ところで」メグレは二人の女の前もかまわず、パイプの煙をぷかぷかとはき出しながら、口を切った。「あなた方、ボンヴォワザン氏とアーヴィッチ夫人は、ワルシャワからこの列車にいた。ベルリンではだれが乗りました?」
「まず、この夫人……」と、レイナ・ラインバックを指さしながら、ボンヴォワザンはいった。
「あなたの荷物は、マダム?」
彼女は死人の上の網棚をしめした。デラックスな鰐《わに》皮のスーツケースが三個、ベージュ色のカバーでおおわれていた。
「それでは、あなたはここにスーツケースを置くと、向かい側の隅にすわった……被害者の斜め向こうの隅に……」
「死人が……この男のことですが……、つぎに乗りました……」と話をうながされたボンヴォワザンがいった。
「荷物を持っていなかったのかね?」
「格子じまの毛布を持っていただけでした……」
メグレと甥の間で密談。死者の紙入れからは大きな荷物のチッキが発見されていた。そして、メグレはすでに電話で、この荷物がパリに着いたら、大至急開けてみるように命じておいたのだ。
「つぎは……(メグレはハウケを指さした)……この人は?」
「ケルンで乗りました……」
「そのとおりだね、ハウケさん?」
「つまり、わたしはケルンでコンパートメントを乗り換えたのです……それまで、わたしは禁煙のコンパートメントにいました……」
ドクトル・ゲルホルンもまたケルン……彼はそこに住んでいた……で乗ったのだ。両手をポケットに入れたメグレが質問をし、独り言をぶつぶついい、乗客を一人ずつ観察している間、ポール・ヴァンションは有能な秘書よろしく、素早くノートをとっていた。
以下は、そのノートからの抜粋である。
≪ボンヴォワザン……ドイツの国境まで、わたしとアーヴィッチ夫人を別にすれば、みなさん、おたがいに知り合いのようには見えませんでした。税関のあとで、わたしたちは眠るためにどうにかこうにか身を落ち着けました……リエージュでわたしは、わたしの前の夫人《レイナ・ラインバック》を見ました。彼女は廊下に出ようとしていました。と、向かい側の男《オットー・ブラウン》が立ち上がり、彼女にドイツ語で、どこへいくのかとたずねました。
『ちょっと外の空気を吸いたいの』と、彼女はいいました。
ところで、彼がなんと答えたか、わたしはよく覚えております。
『ここにいなさい!』≫
さらに、ボンヴォワザンはつづけている。
≪ナミュールでも、彼女は降りたがりました。しかし、眠っているように見えたオットー・ブラウンが、ちょっと身動きしたので、彼女はとどまりました。シャルルロワで、また二人の間にやりとりがあったのですが、わたしはうとうとしはじめていましたので、ぼんやりとした記憶しかありません……≫
それでは、オットー・ブラウンはシャルルロワではまだ生きていたのだ! エルクリーヌではどうか? それを知ることはできなかった。税関吏はドアを半開きにしただけで、みなが眠っているのを見ると、そのまま閉めてしまったのだ。
とすれば、シャルルロワとジュモンの間……時間にして一時間半ばかり……で乗客の一人が立ち上がると、オットー・ブラウンに近づき、彼の心臓に針をつきさしたはずだ。
ただボンヴォワザンだけは立ちあがる必要がなかった。ドイツ人に近づくために、彼はちょっと右側へ動くだけでよかったからだ。ボンヴォワザンによれば、ホークがもっとも好都合な位置……彼は被害者と向かい合っていた……を占めており、つぎがドクトル・ゲルホルン、そして最後が二人の婦人であった。
外の寒さにもかかわらず、メグレは額に汗を浮かべていた。レイナ・ラインバックが怒気を含んだ眼差でメグレを見つめているのに対し、アーヴィッチ夫人のほうは持病のリュウマチを嘆くと、ボンヴォワザンを相手にポーランド語でなにやら話しながら、しきりにわが身を慰さめていた。
トマス・ハウケはもっとも上品で、もっとも慎しみ深かった。ゲルホルンはルーヴル美術館での重要な会合に遅れてしまった、とひっきりなしにくり返した。
ヴァンションのノートにはつぎのようなものもある。
メグレ、レイナに対し『あなたはベルリンのどこに住んでいますか?』
レイナ『ベルリンに行ったのは八日前です。いつものように、≪カイゼルホッフ≫ホテルに泊まりました……』
メグレ『あなたはオットー・ブラウンを知っていますか?』
レイナ『いいえ! ホテルのロビーかエレベーターのなかで出会ったことがあるかもしれませんが……』
メグレ『なぜ、ドイツの国境を過ぎてから、急に知り合いのような調子で話しかけたのですか?』
レイナ(皮肉な口調で)『わたしたちが同国人であったことが、たぶん彼を大胆にしたのでしょう……ドイツでは、ユダヤ教徒がアーリア族に言い寄る権利はないのです』
メグレ『それでは、彼があなたにリエージュやナミュールで降りることを禁じたのは、なぜです?』
レイナ『わたしが風邪を引くかもしれないといっただけです……』
この尋問は、パリからの電話で中断された。オットー・ブラウンのトランク(八つあった)には、数多くのスーツと、元銀行家が長い間の旅行に必要とするだけの、シャツや身の廻り品が入っていた。
しかし、金はなかった! 紙入れにも四百マルクしかない! ほかの乗客たちがもっていた金はというと、
レイナ・ラインバック……五百フラン、五十マルク、三百クラウン
ドクトル・ゲルホルン……八百マルク
トマス・ハウケ……四十マルクと二十フラン
アーヴィッチ夫人……十マルク、百フラン、それにパリのポーランド銀行への信用状。
ボンヴォワザン……十二ズロッティ〔ポーランドの金貨単位〕、十マルク、五百フラン。
さらに、コンパートメントにある手荷物の中身を調べてみるとハウケの衣装鞄には、下着の着替えが一揃に、スモーキングとハンカチしか入っていなかった。ボンヴォワザンのには、いかさまのトランプが二組。しかし重大な発見は、レイナ・ラインバックのスーツケースであった。彼女のスーツケースには水晶や金で出来た化粧壜と、リンネルのシャツや洋服が入っていたが、その下が完全な二重底になっていたのである。だが、この隠し場所は空であった! レイナ・ラインバックはたずねられると、こう答えた。
「このスーツケースは、密輸をしていた、ある夫人から買いとったものです。得な買物でした……わたしは、まだ一度もこの二重底を使ったことはありません……」
シャルルロワとジュモン間の薄暗いコンパートメントの中で、だれがオットー・ブラウンを殺したのか?
パリは、心配しだしていた。メグレは、パリからの電話に呼び出された。この事件は、すでにいろいろな噂をよび、複雑な問題をひき起こしていた。ジェフ・ベベルマンが持っていた有価証券の番号は、主要な銀行で調べられたが、支払い差止めになっているものは一つとしてなかった。客車で面倒な現場の復元をはじめたのは、十一時であったが、二時間後にはそれをやめてしまった。アーヴィッチ夫人が、もうこれ以上死体の異臭に耐えられないといって、気絶してしまったからだ。
ポール・ヴァンションの顔は蒼白であった。彼には叔父がいつもの冷静を欠いている、もっと正確にいうなら、なにか迷っているように思えたからだ。
「うまくいかないですか、叔父さん?」線路を渡りながら、彼はメグレに低い声でたずねた。
「ぜひとも針を見つけたい!」と、メグレはため息をついた。「あと一時間、彼らを引きとめておくんだ」
「アーヴィッチ夫人は病気ですよ!」
「それがどうだというのだ!」
「ドクトル・ゲルホルンがいうのには……」
「勝手にいわせておくがいいさ!」と、警視は冷たくさえぎった。
そして、彼はたった一人で、駅の食堂へ食事に出かけた。
「黙れ!」一時間後、メグレはどなったが、甥はそれに対してどう答えたらいいかわからなかった。「おまえはわたしをただ困らせるだけだ……わたしはこれから必要な事柄だけをおまえにいうからな……おまえはそのなかからただ一つの答えを引き出すのだ。たとえおまえにそれができなくても、わたしに頼ろうとしてはいかん……」
それから口調を変えると、「いいかね! わたしは、事実に即した唯一の論理的な説明を探した。それをもとに証拠を集めさせたり、自白をさせたりするのは、おまえの仕事だ。まずわたしの話をききなさい。
[#ここから1字下げ]
1 大金持ちのオットー・ブラウンはフランスに来るのに八個のトランクを自分で持たなかった。わたしには彼のスーツが何着あったか、また、なぜ四百マルクしか持っていなかったのかはわからないが……。
2 ドイツを旅行中、彼がレイナ・ラインバックを知らないふりをし、ベルギーの国境を過ぎると、とたんに親しげに話しだしたのには、理由があるのだろう……。
3 オットー・ブラウンは彼女をリエージュでも、ナミュールでもシャルルロワでも降ろしたがらなかった……。
4 とにかく彼女は何度も執拗に降りようとした……。
5 ベルリンから来たジェフ・ベベルマンという男は、ブラウンと一度も会っていない(もし会っていたなら、彼は死体の前で少なくとも身ぶるいぐらいしただろう)。彼は二、三百万の有価証券を持っているのを発見された」
[#ここで字下げ終わり]
ここで、メグレはうなったが、相変わらず口調は激しかった。
「いいか! ユダヤ人であるオットー・ブラウンは、せひとも自分の全財産を、あるいはその一部をドイツの外へ持ち出す必要があった。彼は荷物が厳重に調べられるのを知っていたのでべルリンで娼婦と相談し、彼女に二重底のスーツケースをつくらせた。女の品物でいっぱいの彼女のスーツケースは男のものほど調べられないと思ったからだ。
ただ、レイナ・ラインバックには、娼婦の例に洩れず、愛人トマス・ハウケがいたのだ。悪党のトマス・ハウケはレイナと打ち合わせ、ベルリンで……おそらくホテル≪カイゼルホッフ≫でだろう……二重底の中に隠された、有価証券をちょろまかした。
レイナが最初に列車に乗り、スーツケースを、万事にかけて疑い深いブラウンが指定した場所に置く……彼女自身は反対側の隅に席をとる。二人は知らない者同士のようにしていなければならなかったからだ……。
ケルンでハウケが二人のようすをみるため、コンパートメントに乗る。一方、手下のジェフ・ベベルマンは……彼は盗みで喰っているのだろう……、有価証券を持って三等に乗り、国境のたびに、車両の下に身を隠した……。
ベルギーの国境が過ぎれば、オットー・ブラウンには危険がなくなる。彼は時々、有価証券を調べるため、レイナのスーツケースを開けようとしたことだろう……レイナ・ラインバックが、まずリエージュで、つぎにナミュールで、そしてシャルルロワで列車から降り、イギリスヘ逃げようとしたのはこのためなのだ……。
彼は疑り深かったのか? 何かを疑っていたのか? それとも、彼はただ女を愛していただけなのか? 彼は女をずっと監視しつづけた。彼女は気が狂いそうになりだした。パリに着けば、同違いなく彼は、盗難に気づくからだ……。
いや、おそらく、彼はフランスの国境で、すでにそれに気づくだろう。いったんフランスに入ればもう有価証券を隠す必要がなくなるので、彼は二重底を開けただろうからね。トマス・ハウケもまたそうした状況を察した……」
「ブラウンを殺したのは、彼ですか?」とヴァンションはたずねた。
「そうではないはずだ。もしハウケが殺そうとして立ち上がったのなら、同室のだれかがそれに気づいていたからね。わたしの考えではブラウンが殺されたのは、おまえが『パスポートをご用意ください』といいながら、通り過ぎたときだ。
このときには、みんな暗がりのなかに、ねぼけまなこで立ち上がっていた。そして、レイナ・ラインバックは、ブラウンの前にいくと荷物を取るために彼にぴったりと身をよせた……殺したのは、このときだろう……」
「しかし、針は?」
「探すんだ!」とメグレはどなった。「ピンのようなものでもかまわない……。死体の洋服をすぐに脱がせたのは、おまえの手柄だ。そうしなければ、いつまでも自然死だと思われていただろうからね……さあ、これからがおまえの腕の見せどころだ……レイナには、ベベルマンがしゃべったといい、ベベルマンには、ハウケが悪事の一部を吐いたというんだ……古くさいトリックだが…………」
そういうと、メグレは生ビールを飲みにいった。ヴァンションは叔父からいわれたとおりにした。メグレのいったトリックは、古くさくはあったが、うまくいけばとても効果がある。結局、このトリックが功を奏し、レイナ・ラインバックの帽子から、ダイヤをちりばめた大きなピン止めが発見された。ポポールは……あとでメグレ夫人にいったところによれば……そのピン止めを突きつけて、レイナにいったのだ。
「もういい加減に吐いたらどうだ……これには血がついている……」
それは嘘だった! しかし、彼女はヒステリーの発作を起こし、すべてを自白したのである。
[#改ページ]
殺し屋スタン
メグレは、サン・タントワーヌ通りの人波をその巨体で押し分けながら、ゆっくりと歩いていた。パイプを口にくわえ、両手を後ろにやっている。毎朝のことながら、この通りは活気づいていた。明るい空から陽光が、果実や野菜を積んだ荷車や、歩道まではみ出した陳列台の上にふりそそいでいる。
サン・タントワーヌ通りの朝は、主婦たちの時間だった。主婦たちは競ってかぼちゃの重さを手で量り、いちごの試食をし、肉のこま切れやあぶら肉を秤にかけた。
「どうだね、上等なアスパラガスがこんなにたくさんあって、たったの五フラン……」
「新鮮な鱈《たら》だよ! いま着いたばかりのものだよ」
白い前掛けをした店員、細い碁盤縞《ごばんじま》の上っ張りをはおった肉屋、簡易食堂の前から流れるソーセージの匂い、どこか遠くからあたたかそうなコーヒーのかおり。わめきたてる食料品店の主人たち、用心顔の主婦たちの行列、レジのチンという音、バスの喧《やかま》しい往来……。
こうした場所にメグレ警視が来ようなどとだれに想像できたろう。まして、それが憂慮すべき重大事件のためだとは……。
ビラーグ通りのほぼ真ん中に、≪ブルゴーニュの樽≫という小さなカフェがあるが、そこの貧弱なテラスにはテーブルが三つしかなかった。メグレが疲れた散歩者の風を装って腰をおろしたのは、そのテラスだ。彼は注文を取りにきた痩《や》せて、のっぽのボーイヘ目をあげようともしなかった。
「白葡萄酒……」と、警視はつぶやいた。
ところで、≪ブルゴーニュの樽≫のボーイが、どこかぎごちないところはあるにせよ、ジャンヴィエ刑事であるということを、見抜ける者がいるだろうか?
ボーイは危なっかしい手つきで、盆の上に葡萄酒のグラスをのせてもどってくるとナプキンでテーブルを拭くふりをして小さな紙片を落とした。メグレはボーイが去ると、それを拾いあげた。
女は買い物に外出した。≪片目≫の姿は見えない。≪ひげ≫は朝早く出かけた。ほかの三人は、まだホテルに残っているはず。
十時ごろになると、人波はいっそう激しくなった。≪ブルゴーニュの樽≫のわきでは、ある食料品屋が特売をやっていて、店員たちが大箱で二フランのビスケットを通行人にさかんに試食させていた。
ビラーグ通りの角に、見すぼらしいホテルの看板がかかっている。このホテルは≪月ぎめか、週ぎめか、また日ぎめ≫で部屋を貸し、しかも≪金を前払い≫しなくてもいい類のもので、ホテルの名前は皮肉なことに、≪|快適な滞在《ボー・セジュール》≫となっていた。
メグレは辛口の白葡萄酒をゆっくりと味わいながら、春の日ざしのなかにうごめく群集をぼんやりとながめていた。だが、やがてその視線はホテルの正面の二階の窓から動かなくなった。この窓の、カナリヤの籠のわきには小柄な老人がすわっていた。老人は、日なたぼっこをして日を送るよりほかになんの心配もなさそうなようすをしていた。
この老人はリュカ、巧妙な扮装で二十歳以上も老けたリュカ部長刑事なのだ。彼はメグレのいるテラスのほうをじっと見つめていたが、どんな些細な合図をもメグレに送ろうとはしなかった。
これらのことは、警察用語でいわゆる張込みといわれるものだ。張込みはすでに六日前からつづき、メグレは少なくとも日に二度は情報をとりにやってきた。夜は、この部下たちはパトロール巡査……実際は司法警察局の刑事である……と、婦人警官とに交代した。婦人警官は酔っぱらいたちから言い寄られるのを避けながら、ホテルの周囲を巡回しなければならなかった。
メグレは≪ブルゴーニュの樽≫の電話でリュカを呼び出すと、情報をきいた。だが、リュカの情報はジャンヴィエのそれとたいした違いはなかった。
いまでは群集は小さなテラスのすぐそばを通っていたので、メグレは両足を椅子の下へひっこめなければならなかった。
突然、一人の男がなんのことわりもなしにメグレのテーブルに腰をおろした。赤髪の、悲しそうな目をした痩せた男で、その悲痛な顔つきはどこか道化じみて見えた。
「きみは?」と、警視はつぶやいた。
「失礼をお許しください、メグレ警視。これからある申し出をしたいのですが、あなたは必ずその申し出を理解して、受け入れてくださるでしょう……」
そういうと、みごとなボーイぶりで近づいてきたジャンヴィエに向かい、
「わたしも友だちと同じものを……」
男のしゃべり方には、はっきりとポーランド訛《なま》りがあった。喉が弱いらしく、クレオソートをしみこませた≪葉巻≫を絶えず噛んでいたが、それは道化じみた顔をいっそうきわ立たせている。
「わたしを怒らせたいのか」と、メグレは穏やかな口調でいった。「どうして、今朝わたしがここにくるのを知っていたのだ?」
「知りませんでした」
「それでは、なぜここにきたのだ? わたしの姿に気づいたのが偶然だとでもいうのか?」
「いいえ!」
男の反応ぶりは、ヴォードヴィルでのスローモーな曲芸師のようにのろのろとしていた。彼は陰気な目で自分の前を見つめていた。というより、宙をじっと見つめているようなふりをしていた。それから、まるで果てしのない悔やみごとでもいいはじめるかのように、抑揚のない、悲しげな口調できり出した。
「あなたは意地悪だ……」
「それでは答えにならない。どうして、わたしが今朝ここにいるのを知っていたのだ?」
「跡をつけてきたのです!」
「司法警察からか?」
「それより前……あなたの家から……」
「では、わたしをスパイしているのか?」
「スパイなどしていません、メグレ警視。わたしはあなたに並々ならぬ敬意をいだいております! それで、いつかあなたの仕事を手伝いたいと……」
そういって、クレオソート葉巻の先端にある、灰色に塗った木の人工灰をじっと見つめながら、大袈裟《おおげさ》なため息をついた。
新聞は≪そのこと≫については語らなかった。が、ある新聞だけは例外だった。この新聞はどこから情報を入手したのかわからないが、警視の仕事を非常にやりにくいものにしてしまっていた。
警視は殺し屋スタンを含むポーランド人の強盗団が、現在パリに潜伏していると信じているらしい。
たしかにそのとおりだが、警察としては黙っていてもらいたかったのである。四年間に、ポーランド人の強盗団は……この強盗団についてはほとんどなにもわかっていなかった……、五軒の農家を襲ったが、襲われたのはいずれもフランス北部の農家であり、その手口はいつも同じであった。
まず、きまって老人しかいない、人里離れた農家が狙われる。しかも、犯行はいつも馬市のある日に行なわれ、馬を売って得た多額の現金がごっそりと奪われた。この強盗団の手口はいたって原始的だった。昔の追剥《おいはぎ》とおなじような野蛮な犯行。人間の生命の軽視。
ポーランド人の強盗団は人を殺すのだ! 農家にいるすべての人間を、たとえ子供であろうとも殺す。それが警察の目をくらます唯一の手段であったからだ。
この強盗団は二人なのか、五人なのか、それとも八人なのだろうか?
いつの犯行の場合でも、小型トラックが目撃されている。十二歳の少年は、片目の男を見たと言っている。
この強盗団は仕事をするとき、黒い覆面《ふくめん》をしている、と断言する人もある。
百姓たちはいつもナイフで突き殺されるか、または文字どおり絞殺されていた。
この事件はまだパリでは起こらなかった。フランスじゅうの機動隊がこの事件にかかりきっていた。
二年間というもの、強盗団の行方はまったく不明で、そのため田舎の人々は心のやすまるときがなかった。
そのころ、ある噂がリル付近から流れ出た。リルの村々はフランス領地内にあるポーランドの飛び地だった。この噂はあまりに漠然としていたので、その出所をつきとめるのさえ不可能であった。
「ポーランド人たちは、強盗団が殺し屋スタンの一味にちがいないといっている……」
しかし、警察が坑夫街のポーランド人一人ひとりに……彼らの大半はフランス語を話せなかった……たずねると、ほとんど何も知らないか、ただこう口ごもるだけだ。
「みんながそういったのだ……」
「みんなとは?」
「わからないよ……忘れてしまった……」
だが、ランス地方が襲われたとき、屋根裏部屋に寝ていたおかげで強盗団に気づかれず、命拾いをしたある農家の女中は、殺人者たちがポーランド語らしい言葉で話し合っているのをきいた。顔に覆面をしていたが、そのなかの一人が片目であり、ほかの一人は一メートル八十センチ以上もある大男で、ものすごく毛深いことにも気づいたのだ。
かくて、警察内部ではこういいはじめた。
「≪殺し屋スタン≫、≪片目≫、≪ひげ≫……」
それから数か月間は、それ以上のことはなに一つわからなかった。が、ある日、小男のパトロール巡査があることを発見した。ポーランド人が一杯いるサン・タントワーヌ地区を受持ちの彼は、ビラーグ通りのホテルに、片目や毛深い大男をまじえた、いかがわしいグループがいるのに気づいたのだ。
見たところ、このグループは貧乏人ばかりだった。毛深い大男は週ぎめの部屋に女と一緒に住んでいたが、ほとんど毎晩数人の同国人を、あるときは二人、あるときは五人と泊まらせていた。ほかのポーランド人たちはたいてい隣の部屋を借りていた。
「彼らをさぐってみないかね、メグレ?」と、司法警察局の局長がいった。
ところがその翌日、この一件が秘密になっているのにもかかわらず、ある新聞に報道されてしまった!
翌々日には、メグレの郵便受けに、どこの食料品屋でも売っている安物の便箋《びんせん》を使い、子供の手跡のような下手くそな文字で、綴りも間違いだらけの手紙が舞い込んだ。
スタンはおとなしく捕まらない。気をつけろよ。おまえが捕える前に、スタンはまわりの人間をだれかれかまわず射ち殺すぞ。
もちろん、殺し屋スタンが何者であるかはまだわからない。しかし、こうして脅迫状がわざわざ送られてくるところをみると、ビラーグ通りの情報はかなり確かなものにちがいない。
しかも、この手紙はいたずらではなかった。メグレはそれを確信している。この手紙は、メグレの表現によれば、本物の≪匂いがしていた≫。この手紙には暗黒街の卑劣な後口《あとくち》のようなものがあった。
「注意しろよ!」局長は命じた。「急いで逮捕してはいけない。四年間に十六人もの人間を殺したやつだ、いざ自分が捕まるとなれば、拳銃をあたりかまわずぶっぱなすだろう……」
ジャンヴィエがホテル≪ボー・セジュール≫に面するカフェのボーイになり、リュカがよぼよぼの老人に扮装して、窓辺で一日じゅう日なたぼっこをしているのは、このような理由《わけ》なのだ。
追いつめられた男が、いますぐにでも拳銃を乱射するかもしれないということなどまるで知らぬげに、街はますます騒々しい活気をおびていった……。
「メグレ警視、わたしがここにきたのは、あなたにいいたいことが……」
そして、ミハウ・オゼップが現われたのだ。
メグレがこの男と最初に会ったのは、四日前だった。彼は司法警察局にやってきて、個人的な用件で警視に会いたいと言い張った。警視は二時間以上待たせたが、彼は怒らなかった。
オフィスに足を踏み入れるや、彼は踵《かかと》をかちっと合わせ、深く頭を下げると、手を差し出した。
「ミハウ・オゼップ、以前はポーランドの士官でしたが、現在はパリで体育の教師をしております……」
「すわりたまえ、話をうかがいましょう」
ポーランド人は訛《なま》りがひどいうえ、ものすごい早口なので、彼の話についていくのはなかなかむずかしかった。その説明するところによると、彼は非常な良家の生まれで、ある個人的な悲しい出来事……大佐の妻と恋に落ちてしまったのだ! ……のためにポーランドを去った。しかし、平凡な生活になじめず、以前よりもいっそう絶望しているというのである。
「わかってくださるでしょう、メグレ警視……」
彼は≪メグレット≫と発音していた。
「……わたしは紳士です。パリでは、教養も学問もない人々を相手に個人教授をしています……わたしは貧乏です……自殺する決心をしました……」
はじめてメグレが口を開いた。
「気違い!」
なぜなら、司法警察局にはこういう類の人間が数多く訪問したからだ。狂人どもの大部分は、打明け話をしたい欲求にかられて司法督察局に押しかけてきた。
「まず三週間前に自殺をこころみました……オステルリッツ橋からセーヌ河に飛び込んだのです。しかし、水上警察の警官たちに気づかれて、河から助け上げられてしまいました……」
ある口実を見つけて、メグレはオフィスを出ると、水上警察に電話し、この話が真実なのを確かめた。
「それから六日後、ガス自殺をしようとしました。ところが、郵便配達が手紙をもってきて、ドアを開けました……」
所轄署に電話。この話も真実だった!
「本当に自殺したかったのです。わたしの人生にはなんの意味もありませんでした。紳士というものは、貧乏や刺激のない生活には耐えることができないのです。そこでわたしは考えました、たぶんあなたならわたしのような人間を必要とするかもしれない、と……」
「なんのために?」
「殺し屋スタンを捕まえるために」
メグレは眉をひそめた。
「スタンを知っているのか?」
「いいえ……ただスタンの噂をきいただけです……ポーランド人として、わたしは同国人があのようなやり方で法律を犯すのに憤慨しました……わたしはスタンとその一味が逮捕されるのを望みます……スタンは自分の身を護るためなら、どんな野蛮なことでもするでしょう……そのため、彼を捕まえようとする人々のなかから、死者が出ることは確かです……死にたがっているわたしに、これがうってつけの仕事だとは思いませんか? ……。スタンがどこにいるかいってください……これからいって、彼の武器をとりあげましょう……必要とあらば、彼に傷を負わせ、あばれないようにいたしましょう……」
メグレはおきまりの言葉しかいわなかった。
「きみの住所を置いていきたまえ……いずれ手紙を出すから……」
ミハウ・オゼップはビラーグ通りから遠くない、トゥルネル通りの家具付アパートに住んでいた。刑事が一人、彼の身許調査にかかったが、その結果はむしろ彼に有利なものだった。実際、彼はポーランドの軍隊が創立された当時、そこの陸軍少尉だった。その後、消息がわからなくなるが、やがてパリにあらわれ、商人の子供たちを相手に体育を教えようとする。
彼の自殺未遂はつくり話ではなかった。
しかし、メグレは司法警察局の局長と相談したあとで、正式に、つぎのような言葉で終わる手紙を出した。
……非常に残念ですが、当方といたしましては貴殿の寛大な申し出を受けることはできません。あしからず……。
それから二度、オゼップは司法警察局へやってきて、警視に会いたいといってがんばった。二度とも頑《がん》として帰ろうとせず、必要なだけ待つといって、ほとんど力ずくで待合室にある緑のビロードの肱掛け椅子に数時間のあいだすわりつづけた。
いま、オゼップはそこに、メグレのテーブルに、≪ブルゴーニュの樽≫のテラスにいた。
「わたしは役に立つ人間です。あなたが安心してわたしの申し出を受け入れてもいいということを、これから証明しましょう、メグレ警視。三日前からあなたにつきまとっていますが、その間あなたのしたことをわたしはなに一つ洩らさずにいうことができます。また、たったいま葡萄酒を運んできたボーイが、おたくの刑事であり、この正面の、カナリヤの籠がある窓の老人も、やはり刑事なのを知っています……」
メグレは単調な声で話しつづける相手から視線をそらしながら、パイプを激しく噛んだ。
「わたしにはわかっていました、見知らぬ男が『わたしはポーランド軍隊の士官でした。わたしは自殺したい……』といったとき、どう思われるかを。あなたは『この話は真実ではないだろう』と考えました。しかし、このわたしのいったことを調べさせ、わたしが嘘つきでないことを確かめられた……」
言葉の水車、川の流れが速いので、急激な勢いでまわる水車だった。しかも、そのアクセントたるや、シラブルを勝手に変えるので、ききとるにはよほどの注意が必要になり、聴き手は疲れてしまう。
「あなたはポーランド人ではありません、メグレ警視……ですから、ポーランド人の心がわかりません……。言葉も話せない……わたしは本当にあなたのお手伝いをしたいのです。自分の国の評判がこのうえ汚されるのは……」
メグレは怒りで息がつまりそうだった。だが、相手はそのことに気づいているはずなのに、平気でしゃべりつづけた。
「スタンを捕まえようとした場合、あなたならどうします? 彼はポケットに、たぶん二挺か三挺の拳銃を持ち、だれでもかまわず射ち殺します……あどけない子供たちが負傷しないと、女たちが負傷しないとだれに保証できます? そうなれば警察の評判は……」
「黙らないか!」
「わたしは死にたいのです。だれもこの哀れなオゼップに涙を流さないでしょう……わたしにこういってくれるだけでいいのです、『あそこにスタンがいる!……』。わたしはあなたを追いまわしたように、スタンを追いまわします……わたしは彼の手下がひとりもいない瞬間を待って、いってやります、『おまえは殺し屋スタンだ! ……』
すると、あいつは発砲する。そこで、わたしはあいつの脚を撃つ……あいつが撃ったという事実は、なによりもあいつがスタンであることの証拠になり、あなたはむだな努力をせずにすむわけです……しかも、あいつは負傷しているので……」
彼の口を塞《ふさ》ぐことはできない! 彼は全世界を相手にしようとも、この馬鹿話をやめないだろう。
「いい加減にしないと牢にぶちこむぞ」と、メグレはぶっきらぼうに相手の話をさえぎった。
「なんのために?」
「治安を維持するためだ!」
「いったいなんの話です? この哀れなオゼップがフランスの法律を犯したとでもいうのですか? それどころか、わたしは法律をちゃんと守っております……」
「少し黙らないか!」
「どうです? わたしの申し出を承知してくださいますか?」
「だめだ!」
このとき、女が通った。ブロンドの、蒼白い顔色の女で、この街の者なら一目で外国人だということが見分けられた。彼女は買い物籠を持ち、肉屋のほうへ歩いていった。
女のあとを目で追っていたメグレは、オゼップが洟《はな》をかもうとして、慌ててハンカチで顔をおおったのに気づいた。
「あの女はスタンの情婦《おんな》ですか?」
女の姿が見えなくなると、男はいった。
「まだ黙らないのか?」
「あなたは今の女がスタンの情婦であることをつきとめた。だが、スタンがだれなのかはわからない! ……あなたは≪ひげ≫がスタンだと思っている……ところで、≪ひげ≫はボリスという名前です……そして、≪片目≫はサーシャといい……彼はポーランド人ではなく、ロシヤ人です……あなたがこのまま自分たちだけで捜査をつづけようとするなら、なにもさぐり出せないでしょう。あのホテルにはポーランド人しかいないし、彼らは嘘をつくからです……ところが、このわたしは……」
サン・タントワーヌ通りにいる女たちは、≪ブルゴーニュの樽≫の小さなテラスで、こうした会話がとりかわされているとは夢にも思わなかったろう。ブロンドの、蒼白い顔の女は、近くの肉屋であぶら肉を値切っていた。女の目には、ミハウ・オゼップの目から読みとれるのと同じ倦怠《けんたい》が宿っていた。
「たぶん、あなたは困惑なさっているのでしょう?万一、わたしが殺された場合、世間にその理由を説明しなくてはなりませんからね。まず、わたしには家族はありません……つぎに、わたしは手紙で、自分がみずから進んで死を選んだことを書き遺します……」
テラスの入口では、ジャンヴィエ刑事がメグレに電話がかかってきたことを、どうやって知らせたらいいか迷っていた。メグレはそのことに気づいたが、パイプをふかしながら相手のポーランド人を見守っていた。
「ききたまえ、オゼップ……」
「はい、メグレット警視……」
「今後きみの姿をサン・タントワーヌ通りで見かけたら、ただちに牢にぶち込む!」
「しかし、わたしの住居は……」
「住居をどこかほかに変えればいい!」
「いやだといったら……?」
「とっとと消え失せろ!」
「しかし……」
「消え失せないと、逮捕するぞ!」
男は立ち上がって、踵をかちっと合わせると、馬鹿丁寧なおじぎをして堂々たる歩調で遠ざかっていった。メグレは部下の刑事の一人に気づくと、この外国の体育教師をつけるように合図した。
ジャンヴィエはやっと近づくことができた。
「リュカから電話があったばかりです……部屋のなかに武器があるのを見たとのことです。しかも昨夜、隣の部屋には五人のポーランド人が泊まり、そのうちの何人かは床に寝て、この二部屋のあいだのドアは半開きにしたままだったそうです……。今の男はだれですか?」
「なんでもないよ……いくらだね?」
すると、再びボーイにもどったジャンヴィエは、オゼップのグラスを指さしながら、
「この男の分も払ってくださいますか? 一フランニ十セントずつですから、合わせて二フランと四十……」
メグレはタクシーを司法警察局に走らせた。
オフィスの入口で、メグレはオゼップを尾行させた刑事に気づいた。
「まかれたのか?」とメグレはどなった。「恥ずかしくないのか? 子供の使いじゃあるまいし……」
「いいえ、まかれません」と、新米の刑事はびくびくしながらささやいた。
「あの男はどこにいる?」
「ここです」
「きみが連れてきたのか?」
「彼がわたしを連れてきたのです」
というのは、オゼップはあれから司法警察局へ直行すると、待合室にどっかとすわり、≪メグレット≫警視と会う約束があるといって、サンドイッチをぱくついていたのだ。
≪張込み≫は驚くべき効果をあげなかったが、そうかといって全然むだでもなかった。メグレは紙の上にペンを押しつぶすような勢いで、ポーランド人の強盗団に対して行なった十五日間の張込みから得たいろいろな情報を要約していた。
これを読んだ人は、これらの情報がいかに頼りないかを確信するだけだろう。しかし、それも強盗団の人数がいまもってはっきり掴《つか》めないとあっては、むりもないことだ。
以前の情報、つまり襲われたとき、強盗団を見たか、見たと信じている人たちの情報によれば、強盗団はあるときは四人であり、あるときは五人であった。しかし、ほかの仲間たちが前もって農家の下調べをし、市場にしじゅう出入りしていることも考えられる。
そうとすれば、強盗団は六人か、七人かもしれない。そして、この人数はビラーグ通りのホテルを根城《ねじろ》にして、ぶらぶらしているやつらの人数とうまく一致するようだ。
部屋を借りているのは、三人だけだった。この三人は宿帳にきちんと名前を記載し、正規のパスポートを持っている。
[#ここから1字下げ]
1 ボリス・サフト、警察が≪ひげ≫と呼び、ブロンドの、蒼白い顔の女と夫婦のような暮らしをしている男。
2 オルガ・ツェレフスキ、二十八歳、ヴィルナの出身。
3 サーシャ・ヴォロンツォフ、≪片目≫といわれている男。
[#ここで字下げ終わり]
捜査の基礎になるのはこの三人であるが、どうやら強盗団の中心はこの三人のようだ。
≪ひげ≫ことボリスとオルガは一部屋に住んでいる。
≪片目≫ことサーシャは隣の部屋にずっと住んでいる。そして、この二部屋のあいだのドアは絶えず開け放たれたままだ。
若い女は、毎朝買物にいき、石油|焜炉《こんろ》で食事の仕度をする。
≪ひげ≫はほとんど外出せず、一日の大半を鉄のベッドに寝そべり、バスチーユ広場の新聞売場から買ってくるポーランド新聞を読んで過ごす。
≪片目≫は何度か外出するが、そのたびに刑事に尾行される。この男はそのことに気づいているのだろうか? 彼はいつもきまってパリを散歩し、二、三軒のカフェでだれとも口をきかずに酒を飲む。
あとは、リュカが≪遊撃隊≫と名づける者たち。彼らはいつも四、五人で出入りしている。オルガは彼らに食事をあたえ、時々どちらか一方の部屋の床で朝まで寝かせてやる。
どこにも異常な事実はなかった。というのは、一部屋の金を払うために二、三人で泊まる貧乏人や、街で出会った同国人を泊めてやる国外追放者たちがいるホテルでは、こうした光景はごくありふれたものだったからだ。
≪遊撃隊≫について、メグレはいくつかのメモを書きとめておいた。
[#ここから1字下げ]
1 化学者といわれる男(彼は二度ほど職業紹介所に足を運び、化学薬品会社への就職を頼んだので、このように呼ばれている)。衣服はすり切れていたが、仕立ては上等である。いつも仕事口を探しているようすで、パリの街々を数時間のあいださまよい、たいていはサンドイッチマンとして雇われる。
2 ほうれん草(この男はほうれん草色の奇怪な帽子をかぶっているので、こう呼ばれるのであるが、バラ色のシャツが色あせているだけに、この帽子がますます目立つ)。ほうれん草はしじゅう外出する。モンマルトルのナイト・クラブの玄関などで、ドア・ボーイをやっている彼の姿をよく見かける。
3 うぬぼれ屋。喘息《ぜんそく》病みの太った小男で、ほかのだれよりも立派な身なりをしているが、靴はちんばである。
あとの二人はビラーグ通りに来るが、不規則である。この二人が強盗団の一味かどうかをきめるのはむずかしい。
[#ここで字下げ終わり]
メグレはこのリストの下にノートした。
これらの者は一見、仕事口を探している、金のない外国人といった感じをあたえる。しかし、彼らの部屋にはウオッカがあるばかりか、夜などよくぜいたくなパーティをやっている。
監視されているのをかんづきながら、強盗団がこうした態度をとるのは、警察の目をごまかそうとするためなのか……。
また、彼らの一人が本当に殺し屋スタンであるなら、それは≪片目≫か≪ひげ≫であるように思える。しかし、これとてただ憶測にすぎない。
メグレは局長のもとへ報告書を持っていったが、全然気乗りがしなかった。
「なにか新しい事実でも?」
「はっきりしたことはなにも。例の一味を部下に絶えず監視させていますが、やつらはわざとひんぱんに出入りするだけで、何も犯罪をおかしません。やつらは自分たちの監視のために、われわれがそういつまで司法警察の刑事を動員できないだろうとたかをくくっているのでしょう。あいつらには時間があります……」
「なにか計画があるかね?」
「局長もご存じのとおり、ずっと前から考えることと実際の行動とがちぐはぐになってしまっています。わたしはあちこちへ往き来し、匂いを嗅ぎまわる。わたしがインスピレーションを待っているんじゃないかと思っている人がいますが、それはとんでもない間違いです。わたしが待っているのは、なにかを引き出すことができる有意義な事実です。それさえ手に入れば、そのときはそれを利用して、すべてを……」
「それでは、きみはある事実を待っているのかね?」と、メグレの人柄を知っている局長は、微笑しながらつぶやいた。
「われわれはポーランド人の強盗団の目前にいる……これがわたしの確信です。警察の廊下をうろつきまわり、われわれの話を盗み聞きする間抜けな新聞記者のために、やつらを警戒させてしまいましたが……。
今、わたしはなぜスタンが脅迫状をよこしたのかを考えています。警察が思いきって逮捕に踏みきれないのを知っているためか、それとも、これは十分にあり得ることですが、たんなる虚勢のためか。殺人者というものは自尊心……職業的な自尊心ですが……を持っているものです。
スタンは何者なのか?
なぜ、ポーランド的というよりアメリカ的なこの名前を使ったのか?
一つの見解をまとめるのに、わたしがいかに時間をかけるか局長はご存じですね……ところで、見解はできかかっています! ……二、三日前から、わたしにはフランスの殺人者とはまったく違った、やつらの心理が感じられるように思われます……
やつらは金が必要です。田舎に引っ込んだり、ナイト・クラブで馬鹿騒ぎをしたり、外国に逃亡するためではなく、ただ気ままに暮らすため、つまり、なんにもしないで食べたり、飲んだり、寝たり、ベッドに……そのベッドがいかに垢《あか》だらけであっても……寝そべって新聞を読んだり、たばこをふかしたり、ウオッカの壜《びん》をからにするためです……。
また、やつらは一緒に暮らし、一緒におしゃべりをし、夜にはときどき一緒に唄をうたいたいと思っています……。
わたしの考えでは、やつらは一つの犯罪をおかすと、金がなくなるまで今いったような生活を送りながら、次の犯罪を計画する。資金が底をつくや、やつらは平然として、一片の後悔も憐憫《れんびん》もなく、老人を絞め殺す。そして、奪った金で数週間か、数か月間を暮らす……。
このことがわかった今、わたしは待っています……」
「わかったよ! つまらない事実を待っているんだろう……」と、局長は冗談をいった。
「いくらでも皮肉ってください! しかし、そのつまらない事実は、すでにすぐそこにあるかも……」
「どこ?」
「待合室に……わたしをメグレットと呼び、ぜがひでもスタンの逮捕に協力したいといっている男……自殺したいためにスタンの逮捕に手を貸したいと言い張っている男……」
「あれは気違いではないのか?」
「そうかもしれません! ですが、われわれの計画をさぐり出そうとするスタンの共犯者かも。あらゆる推測が可能なので、あの気違いはいい気になっているのです。たとえば、あいつがスタン自身と推測できませんか?」
そういうと、メグレは灰が河岸のどこかに……おそらく通行人の帽子の上だろう……落ちるのもかまわず、パイプを窓枠でぽんぽんとたたいた。
「あの男はきみの役に立ちそうかね?」
「なるでしょう」
警視はドアのほうに歩みよった。もうそれ以上なにもいいたくなさそうだった。
「ああ、局長! 張込みは今週末まで必要になりそうです」
ところで、この日は木曜日の午後だった。
「そこにすわりたまえ! そんなきたならしいクレオソート葉巻を一日じゅうかんでいて、気持がわるくならないか?」
「いいえ、メグレット警視」
「その≪メグレット≫をやめてくれないか……だが、まあいい! ……これから真面目な話をしよう……きみはまだ死にたいか?」
「ええ、メグレット警視」
「まだ危険な仕事をしたいか?」
「殺し屋スタンを捕まえる手助けをしたいです」
「それなら、≪片目≫に近づき、拳銃で彼の脚を撃ってもらいたいといったら、どうだ?」
「ええ、メグレット警視。しかし、拳銃をください。わたしはとても貧乏なので……」
「これから≪ひげ≫か≪片目≫のところへ行き、確実な情報が入った、警察が逮捕にくる、といってもらいたいとたのんだら……」
「もちろん、そうします、メグレット警視。わたしは≪片目≫が街に出るのを待って、そのことを伝えるでしょう」
警視の生気のない視線は痩せたポーランド人の上に注がれたままだった。が、相手の男はべつにそれを窮屈がったり、不安がったりしなかった。一人の人間のなかに、この男ほどの自信と落ち着きを同時に見いだせるのは珍しかった。
ミハウ・オゼップは自殺をしたり、ポーランド人の強盗団のもとへ出かけていくのを、まるで単純な、ごく当り前のことのようにしゃべった。サン・タントワーヌ通りのテラスでも、司法警察局の部屋でも、彼は同じように寛《くつろ》いでいた。
「あの二人のどちらとも知り合いじゃないのか?」
「ええ、メグレット警視」
「よし! では、一つ仕事を頼もう。きみには気の毒だけど、ひと騒動起こるかもしれないぞ!」と、メグレは目にみなぎる緊張感を隠すために、まぶたを半分閉じた。
「これから一緒にサン・タントワーヌ通りにいく。わたしはホテルの外で待っている。きみは女が一人きりのときを見はからって部屋へ入っていき、女に自分は同国人だが、たまたま警察が今夜ホテルを捜索することを知った、といいたまえ……」
オゼップは黙っていた。
「わかったか?」
「ええ」
「承知したな?」
「白状してもいいですか、メグレット警視」
「怯えたのか?」
「いまの話はかんべんしてください……わたしが≪怯える≫……とんでもない! ……ただ、もっとほかのやり方でこの事件を片づけたいのです……あなたにはわたしがとても大胆な男に思えるでしょう……そうでしょう? ……ところが、わたしは女に対しては臆病なのです……そのうえ、女は利口です、男よりもずっと利口です……あの女はわたしの嘘を見抜きます……わたしはあの女の前で顔を赤らめるでしょうからね……ところで、顔を赤らめると……」
メグレは身動きひとつせず、わけのわからぬくだらない言い訳を勝手にしゃべらせておいた。
「わたしはむしろ男に話したい……≪ひげ≫でもいいし、≪片目≫と呼ばれる男でもいい。あるいは、だれかほかの男に……」
陽光がオフィスに斜めに差し込み、まともに顔に当ったためか、メグレは昼食を食べすぎ、肱掛け椅子で昼寝をしたくなった人間のように、うとうとまどろんで見えた。
「それでも同じことでしょう、メグレット警視……」
しかし、メグレット警視は答えなかった。彼が生きていることを示すものは、パイプの火皿からゆらゆらと立ちのぼるわずかばかりの青い煙だけ。
「困ったな……あなたのいうことなら、なんでもききますが、このことだけは……」
「タ・グール!」
「なんといったのです?」
「『タ・グール』といったのだ。これはフランス語で≪黙れ≫という意味なのさ……どこであの女、オルガ・ツェフレスキと知り合ったのだ?」
「わたしが?」
「答えろ!」
「なにをいいたいのですか……。あんな女知りません……知っていたら、正直にそういうでしょう……わたしは以前はポーランド軍隊の士官でした。もしもあの不幸な事件がなかったら……」
「どこであの女と知り合った?」
「貧しい両親の命にかけても誓います……」
「どこで知り合ったのだ?」
「どうしてそう意地悪なんです! ……その乱暴な口のききかた! あなたの手助けをしたいため、フランス人がわたしの国の者に殺されるのを避けたいために、わざわざここにきたというのに……」
「シャント・フィフィ!」
「なんといったのです?」
「『シャント・フィフィ!』 これはフランス語でこういう意味だ、勝手にほざけ、坊や。どうせ本気にしないから……」
「なんでも命じてください……」
「いまいっただろう!」
「それ以外のこと。地下鉄に飛びこめとか、窓から飛び下りろとか……」
「あの女に会いに行き、いよいよ今夜警察が強盗団の逮捕に踏みきる、といってもらいたいのだ……」
「絶対にそれをしろと?」
「引き受けるのも、断わるのもきみの勝手だ!」
「断わったら?」
「どこかで首でもくくるがいい!」
「なぜ、首をくくるのです?」
「たとえばの話だ……とにかく、もう二度とわたしの前に現われるな……」
「今夜本当に強盗団を逮捕するんですか?」
「そのつもりだ!」
「わたしにも手伝わせてくれますか?」
「そうなるだろう……では、きみが最初の任務を終えたあとで、もう一度会おう……」
「何時に?」
「きみの任務がか?」
「いいえ! 何時に逮捕するのです?」
「午前一時だろう」
「では、行ってきます……」
「どこヘ?」
「あの女に会いに」
「ちょっと待て! 一緒に出かけよう!」
「一人きりのほうがいい……あなたと一緒のところを見られたら、わたしが警察の手先であることがばれてしまいます……」
もちろん警視はポーランド人がオフィスを出るや、刑事を一人尾行させた。
「見つからないようにしますか?」と、その刑事はたずねた。
「そんな必要はないさ……あいつはきみよりも悪賢いし、尾行されるぐらいのことは先刻ご承知だ……」
メグレは一瞬たりともむだにしないで部屋を出ると、タクシーに飛びのった。
「全速力でビラーグ通りとサン・タントワーヌ通りの角ヘ……」
その日の午後は強い日ざしが照りつけ、色とりどりの日除けが店先を美しくいろどっていた。犬は物陰に引っ込み、時間はゆっくりとすぎていった。熱したアスファルトの上に大きな車輪の跡を残していくバスは、このよどんだ空気のなかを走るのに大変な努力がいるような感じだった。
メグレはタクシーから飛び下りると、二つの通りの角にある家へ入った。そして、二階のドアをノックもせずに開けた。リュカ部長刑事は相変わらず穏やかな、物見高い老人の扮装をして、窓の前にすわっていた。
部屋は貧弱だったが、それほど不潔ではなかった。テーブルの上には、リュカが豚カツ屋から運ばせた、冷えた食事の残りがある。
「なにかニュースでも、警視?」
「正面のホテルに人がいるか?」
この部屋は、ポーランド人たちが住んでいる≪ボー・セジュール≫の二部屋が一目で見渡せるという、戦術上の理由で使われていたのだ。
ところで、この暑さのため窓という窓はすべて開け放たれ、ある部屋では若い女がかなり薄着で眠りこんでいるのが見られた。
「どうだ、退屈はしなかったろう……」
椅子の上の双眼鏡は、リュカが良心的に務めを果たし、些細な事柄も見落とそうとしなかったことを物語っている。
「今のところ」と、リュカはいった。「やつらはあそこに二人いますが、やがて一人だけになるでしょう。男のほうが洋服をきこんでいますからね。彼はいつものように午前中ずっと寝ていて……」
「≪ひげ≫か?」
「そうです……連中は三人で朝食をとりました。≪ひげ≫と女と≪片目≫です……それから、≪片目≫はすぐに出かけました……≪ひげ≫は起き上がると、化粧をはじめたのです……ほら! 彼はいま新しいシャツを着終えたところですが、こんなことはめったにないことです」
メグレは窓に近づくと、自分でながめた。毛深い大男がワイシャツの上からネクタイを結んでいたが、そのワイシャツの白さは部屋がくすんでいるだけに、意外なほど鮮やかに浮きあがって見えた。
鏡に姿を映しながら、唇を動かしている。そして、そのうしろでは明るい髪の女が、手垢《てあか》で汚れた書類をきちんと寄せ集めて丸く束ねると、最後に石油|焜炉《こんろ》の火を消した。
「あいつらの話がわかったらなあ!」と、リュカは嘆息した。「どうにもできないほど苛立つことがあります! こうやってあいつらがたえず話しているのが見えます。時々、話しながらさかんに身振りをする。ところが、こちらにはなにを話しているのかわからない……わたしは耳の聞こえない人間の苦しみがどんなものかわかりかけました。ああした人たちがどうしてわれわれのことを意地悪だと思うかも……」
「あまりしゃべるな! あの女があそこに残っていると思うか?」
「まだ彼女が外出する時間ではありません……外出するときは、灰色のスーツに着替えるはずです……」
今のところオルガは毎朝買物に出かけるときの、黒ずんだウールのドレスを着ていた。部屋の片づけにとりかかっている間、一度もたばこを口から離さなかった。朝から晩までたばこが必要な根っからのたばこ好きのように……。
「彼女はほとんど口をきかないな!」と、メグレは指摘した。
「今ごろは口をきかないのです……あの女がしゃべるのは主に夜で、やつらがまわりにいるときか、そうでなければ、われわれが≪ほうれん草≫と呼んでいる男と二人きりのとき……もっとも、この男はあまりやっては来ませんがね……わたしの思い違いでなければ、彼女は生まれついての美男子≪ほうれん草≫に恋しています……」
このように見知らぬ人の部屋にいて、他人の部屋をのぞき、彼らの些細な行動まで知ってしまうのは、妙な気持だった。
「リュカ、のぞきがすっかり板についたな!」
「そのためにここにいるのではありませんか? ほら! あそこの、気持よさそうに眠っている娘ね、ゆうべは蝶ネクタイをした小柄な若者と、朝の三時まで恋を語っていました。若者は夜明けに帰っていきましたが、両親に気づかれないようにそっと部屋へ忍び込んだことでしょう……ああ! ≪ひげ≫が出ていきます……」
「どうだい、なかなかスマートじゃないか……」
「スマートはスマートですが……上流社会の男というより、むしろ外国のレスラーといった感じですね」「だが、相当な金をかせぐレスラーだな!」と、メグレは譲歩した。
二人は向かい合ったが、キスを交わさない。男はあっさりと出ていった。というより、メグレたちの張込み場所から見渡せる部分から姿を消した。
しばらくすると、歩道にあらわれ、バスチーユ広場のほうへ歩いていった。
「ドレン刑事があとをつけるでしょう……」と、リュカは蜘蛛《くも》のように窓辺にへばりつきながら、いった。「しかし、彼は尾行されるのを承知しているので、ただ街を散歩し、テラスで酒を一杯飲むだけでしょうが……」
女は引出しから道路地図を取り出すと、それをテーブルの上に広げた。メグレの計算によれば、オゼップはタクシーを使わず地下鉄で来るので、ここに到着するまでにはまだ数分の余裕があった。
「今、来ればいいのだが!」とメグレはつぶやいた。
やっと、彼の姿が見えた! ホテルの前まで来ると、ためらい、歩道を往きつもどりつしはじめた。一方、尾行してきた刑事は、サン・タントワーヌ通りの魚屋の店先をのぞき込むふりをしていた。
こうして上から見ると、痩せたポーランド人はいっそう痩せて、くだらない人間のように見えた。一瞬、メグレは後悔した。
メグレはこの貧しい男が、いろいろ弁解しながら、例の≪メグレット警視≫をなんども連発する声が聞こえるような気がした……。
彼がためらっていることは確かだった。怖がってもいるのだろう。苦悩の表情をありありと見せながら、あたりをながめた。
「やつがなにを探しているかわかるか?」と、警視はリュカにいった。
「あの蒼白い男ですか? わかりません! たぶんホテルに泊まる金でも?」
「わたしを探しているのさ。わたしがこの付近にいるだろうと思っているんだ。もしかしたらわたしが考えを変えるかもしれないと思って……」
が、すでに遅すぎる!
やがて、ミハウ・オゼップはホテルの薄暗い廊下に姿を消した。メグレは頭のなかで彼を追った……いま階段をのぼっている、いま二階に着いた……。
「やつはまだためらっている……」と、メグレはいった。メグレの頭のなかでは、彼はすでにドアを開けているはずだったからだ。
「やつは踊り場にいる……やつはドアをノックしようとしている……今、ドアをノックした……ほら! ……」
実際、若い、ブロンドの女は身ぶるいし、慌てて道路地図を戸棚にしまい込むと、ドアのほうへ向かった。しばらくなにも見えなかった。二人は部屋の、見えない部分にいた。
そして、突然女が姿をあらわした。が、彼女のようすは前とどこか違っていた。滑るような急ぎ足で、まっすぐ窓のところへ来ると、それを閉めて、黒ずんだカーテンを引いた。
リュカは滑稽なふくれ面をしながら、警視のほうにふり返った。
「なんということだ! ……」
しかし、メグレの顔が思いがけないほど心配そうなのを目にすると、ふざけるのをやめた。
「何時だ、リュカ?」
「三時十分です……」
「やつらの一人が、今ごろここへやってくることがあるか?」
「ありませんが……ただ、さきほどもいったように≪ほうれん草≫は≪ひげ≫が留守だということを知れば……、警視、落ち着かないようですが……」
「あの窓の閉め方が、どうも気にくわん……」
「あのポーランド人が心配なのですか?」
メグレは答えなかった。リュカはつづけた。
「彼はあの部屋にいないかもしれませんよ……たしかに彼がホテルに入るところは見ました。……しかし、ほかの部屋へいったかもしれません……ですから、あそこにいるのは別の人間かも……」
メグレは肩をすくめると、ため息をついた。「黙ってくれ! そのおしゃべりにはうんざりする……」
「何時だ、リュカ?」
「三時二十分……」
「なにが起こりつつあるか、わかるか?」
「あの部屋でなにが起こるか、見にいきたいのですか?」
「まだだ。しかし、わたしは世間の物笑いになるかもしれない。電話はどこだ?」
「隣の部屋です。洋服屋が住んでます。彼はデパートの注文を引き受けているので、どうしても電話が必要だったのです……」
「とにかく、電話をかけてきてくれ。話の内容を洋服屋に盗みぎきされないように注意して、局長に大至急武装警官を二十人ばかりよこすように伝えるんだ。武装警官が≪ボー・セジュール≫のまわりを取り囲んだら、わたしの合図を待つようにと……」
リュカの表情はこの命令の重大さに気づいたことを十分に物語っていた。しかも、メグレがいつも警官の動員を笑いとばしているのを知っているだけに、なおさらだった。
「ひと騒動起こりそうですか?」
「すでに起こっていなければ……」
メグレはルイ・フィリップ時代の古いビロードのカーテンがかかった薄汚れた窓から目を離そうとしなかった。
電話をかけてきたリュカは、警視が相変わらず心配げな顔つきで同じ場所にいるのを見た。
「局長は用心するようにといってました。先週、すでに刑事が一人殺されているし、このうえまた事故があっては……」
「黙っててくれ」
「警視は信じているのですか、≪殺し屋スタン≫は……」
「なにも信じてない! わたしは朝から頭が痛くなるほど、この事件を考えた。今は、ただいろいろな≪感じ≫をもつだけだ。きみがすべてを知りたいといっても、あいにくわたしにはただ、不愉快なことが起こる、あるいは起こるかもしれないということだけしかいえない。何時だ?」
「二十三分……」
皮肉なことに、ポーランド人たちの隣の部屋では例の娘が口を半分開け、脚を折り曲げて眠りつづけている。さらにその上の部屋……六階か七階あたり……では、アコーデオンを弾いている者がいたが、ジャヴァの舞踏曲の反復の部分を、調子っぱずれに何度も何度もくり返していた。
「わたしがあの部屋にいきましょうか?」と、リュカが申し出た。
メグレはきびしく彼をみつめた。まるで、部下に自分の勇気の無さを非難されでもしたように。
「それはどういうことだ?」
「ベつに! ただ、警視があの部屋で起こることを心配しておられるので、確かめにいこうと思ったまでです……」
「わたしが自分で行くのをためらっているとでも、思ったのか? きみが忘れているものがある……もしもあそこにいって、なにも発見できなかったら、強盗団のことはもはや二度と発見できないだろう……。わたしが尻ごみしている理由はここにあるのだ……あの女が窓を閉めさえしなかったら!」
突然、メグレは眉をひそめた。
「おい、リュカ! 今までに彼女が窓を閉めるなんてことがあったか?」
「一度も!」
「それでは、彼女はきみがここにいるのに気づかなかったわけだ……」
「わたしを耄碌《もうろく》じじいと思っていたでしょう……」
「窓を閉めることを考えたのが彼女でないとすると、部屋に入ってきた男が……」
「オゼップ?」
「やつか、ほかのだれか……部屋に入った男は、われわれに見られる前に窓を閉めるように、女にいったのだ……」
メグレは椅子に置いた帽子をとると、パイプを空にし、人差し指でたばこを詰め込んだ。
「どこにいくのですか、警視?」
「いままで武装警官が到着するのを待っていた……ほら! バス停留所のそばに二人、駐車したタクシーのなかに一人……わたしがホテルに入り、五分たっても窓を開けなかったら、きみは警官とともに踏み込んでくれ……」
「拳銃をもってますか?」
数分後、メグレは通りを横切った。メグレの姿に気づいたジャンヴィエ刑事は、テラスのテーブルを拭く手をとめた。
リュカは熱に浮かされたように、時計をにぎりしめていた。しかし、事をうまくやろうと緊張しすぎるとよく起こることだが、彼はメグレがホテルに入った時間を覚えておくのを忘れてしまった。そのため、彼には五分が過ぎたかどうかを知るのは不可能になった。
だが、リュカはそのことで気をもむ必要はなかった。彼にはひどく短く思えた時間のあとで、正面の窓が開いたからだ。メグレは今までよりも一段と顔をしかめながら、リュカに、すぐに来るように合図した。
リュカの感じでは、警視のほかには部屋にだれもいないようだった。だが、汚ない台所か洗面所のような感じの、薄暗い階段をのぼって部屋に入ったとき、彼は足許に横たわる女の死体を見て、思わず飛びあがった。
リュカがメグレのほうにちらりと視線を投げると、メグレは答えた。
「もちろん死んでる!」
死体には、犯行をわざと誇示しているようなところがあった。というのは、女はスタンのすべての被害者と同じやり方で絞殺されていたからだ。血はベッドや床の上など、至るところについていた。殺人者が手をふいた手拭は、褐色の血で汚れていた。
「彼がやったのですか?」
メグレは部屋の真ん中につっ立ったまま、肩をすくめた。
「警官に合図し、やつがホテルから出られないようにしましょうか?」
「そうしたいなら……」
「刑事を一人、屋根に配置したいのですが、もしも……」
「結構だよ……」
「局長に連絡しますか?」
「あとでいい……」
ふくれ面をしているメグレと話すのは、容易なことではなかった! リュカはさきほど警視が洩らした、自分は世間の物笑いになるかもしれないという言葉を思い出していた。
しかし、今は物笑いになるどころの話ではすまされなかった。メグレは多数の武装警官を動員させたにもかかわらず、手遅れになった。そして、犯行はメグレの目の前で行なわれたうえ、≪ボー・セジュール≫にオゼップをやったのは、メグレ自身だったのである。
「強盗団のやつらが帰ってきたら、捕えましょうか……」
うなずく……というより、どうでもいいような態度だった。たまりかねて、リュカは部屋を出た。メグレは部屋の真ん中に一人取り残された。開け放されたままの窓から、まばゆい陽光が差し込んでいる。
メグレは額をぬぐうと、火の消えたパイプに機械的に再び火をつけた。
「何時だ……」
彼は自分が一人きりなのを思い出して、ポケットから時計を取り出した。三時三十分。
階上《うえ》のアコーディオンは相変わらず鳴り響き、隣の娘はのんきな動物のように眠りこけていた。
「メグレはどこだね?」
司法警察局の局長は、車からおりてリュカの前にやってくると、たずねた。
「部屋です……二階の一九号室……ホテルの人間はまだなにも気づいていません……」
数分後局長は、部屋の真ん中の、死体のすぐそばの椅子にすわっているメグレを見つけた。警視は考えに没頭しているようすでパイプを喫っている。局長の来たことにも気づかないほどだった。
「どうだい! 例の奇妙な男がやったのか……」
局長はその返答として、なにもいいたくないといいたげな、唸《うな》り声を耳にしただけだった。
「とにかく、評判の殺し屋はやっぱりきみの手伝いをしたいといってきたあの男だったのだね! ……メグレ、きみはやつを疑っていたんだろう……あのオゼップの態度はどこかあやしかった……」
メグレの額には、太いしわが真一文字に刻まれていた。前につき出されたあごは、顔全体に驚くべき力強さをあたえている。
「やつがまだホテルから出ていないと思うか?」
「そうでしょう……」と、メグレはそんなことはどうでもいいといったようすで、答えた。
「捜さないのか?」
「その必要もないでしょう……」
「やつが簡単に捕まるとでも思っているのかね?」
そのとき、メグレの視線は窓からゆっくりと離れ、局長のほうへ向けられ、そのままじっと動かなくなった。警視の、こうした一種ためらうような緩慢な動作や、あいまいな言葉つきのなかには、ある犯しがたい威厳があった。
「わたしにはわからない、メグレ。きみはまだスタンとオゼップが同一人物ではないと思っているのか?」
「さきほどこの部屋に二人の人間がいました。そして、二人のうちどちらかが、殺し屋スタン……」
「それで……」
「局長、くり返しますが、わたしは間違っていたのです。とにかく、あなたにおわびしなければなりません、この事件は大変なスキャンダルになるでしょう。一見、この事件は解決されたようですが、わたしには満足できないところがあります。何かぐあいのわるいところがある……というより、それを感じるのです。もしオゼップがスタンだとしたら、あまりに理屈が合わない……」
「きかせてくれ!」
「長くなってしまうでしょう……今、何時ですか、局長?」
「四時十五分……。なぜだ?」
「なんでもありません……」
「メグレ、ここに残っているかね?」
「ええ、新しい命令が出るまで……」
「これから、わたしは警官たちのやっていることを拝見してこよう……」
警官は≪ほうれん草≫を逮捕していた。このポーランド人はリュカの予想どおり、女を訪ねてきたのだ。彼は女が殺されたのを知らされると、顔を蒼白にした。が、オゼップのことでは、平然としていた。
「彼女が死ぬなんて、あり得ない!」と、彼は警察に連行されていく間、何度もくり返していた。
≪ほうれん草≫の逮捕を知らされたメグレは、ただこうつぶやいた。
「わたしにかまわないでくれ!」
そして、再び死人との奇妙な対面をつづけた。三十分後、こんどは≪片目≫がもどってきて、玄関のところで逮捕された。彼もまた、逮捕されたときは眉一つ動かさなかった。が、女の死を知らされたとたん、手錠をはずして二階へ駆けあがろうとした。
「だれがやったんだ?」と、彼は叫んだ。「だれが殺した? ……おまえたちではないだろうな?」
「殺し屋スタンこと、オゼップだ……」
すると、男はまるで魔法にでもかけられたように静かになって、眉をひそめながらくり返した。
「オゼップ?」
「おまえは自分の親分を知らないというのか?」
廊下で、≪片目≫とこうしたやりとりをしたのは局長自身だった。局長は、逮捕した男が薄笑いをうかべたような気がした。
つづいて、≪化学者≫と呼ばれる下っぱの一人が逮捕された。彼は、今までに女のこともオゼップのことも聞いたことがないかのごとく、非常に面喰ったようすで質問に答えた……。
メグレは相変わらず階上の部屋で、同じ問題をむし返し、事件を解決してくれる鍵を探していた。
「よろしい!」と、メグレは≪ひげ≫の逮捕……彼はさんざん暴れ回ったあげく、羊のようにおとなしく泣きはじめた……を知らされると、つぶやいた。
そして、突然顔をあげると、≪ひげ≫の逮捕を知らせてきたリュカのほうを向いた。
「なにも気づかないのか?」と、メグレはいった。「次々と四人の男が逮捕され、一人として文字どおりの抵抗を示さなかった。ところで、スタンのような男は……」
「しかし、スタンはオゼップですので……」
「見つかったのか?」
「まだです。ホテルの人間を騒がせてしまったら、やつらは遠くからでもホテルになにかあったことに勘づいて、戻らなくなってしまったでしょう。そうなると、せっかくの張込みもむだに終わってしまいます。しかし、今はやつらをほぼ全員捕まえたので、局長の命令どおりホテルの周辺に非常警戒を敷きます。これから階下《した》にいる警官たちが、地下室から屋根裏までしらみつぶしに捜索します……」
「わたしの話をきいてくれ、リュカ……」
部屋を出ようとしていたリュカは、一瞬メグレに対して憐みに似た感情をいだきながら、立ち止まった。
「うかがいましょう、警視」
「≪片目≫もスタンではない。≪ほうれん草≫もスタンではない。≪ひげ≫もスタンではない。ところで、わたしはスタンがこのホテルに泊まっていたと信じている。このホテルに、ほかの仲間たちが集まってきていたからだ!」
リュカはひと言も口を挟《はさ》まず、警視のいいたいようにさせていた。
「もしオゼップがスタンなら、ここへ仲間の女を殺しにくる理由が全然ない……彼がスタンでないとすれば……」
いきなり、リュカがびくっとしたほどの激しさで立ち上がると、
「よく気をつけて、この女の肩を見たまえ……そう左のほうだ……」
メグレは身をかがめた。リュカが洋服をとると、まっ白い肌が現われた。その肌の上には、アメリカで罪を犯した女につける焼きごての跡が……。
「見たか、リュカ?」
「しかし、警視……」
「これでもわからないのか? スタンは彼女なのだ……以前、わたしはなにかでこの烙印《らくいん》のことを読んだ。しかし、スタンが男だと思っていたので、これを事件に結びつけようとはしなかった……四、五年前アメリカで、一人の若い女が強盗団の頭《かしら》になって人里離れた農家を次々に襲った。こちらで起こったのとまったく同じ手口だった……被害者は、こちらとまったく同じように若い女の手で絞殺されていた。アメリカの新聞は、その女の残酷さをご丁寧に描写していたが……」
「その女が彼女?」
「彼女であることにほぼ間違いない……しかし、この事件の記録があれば、確かめられるだろう……。わたしは雑誌に載ったその記事を切りとっておいた……リュカ、来るか?」
メグレはリュカを引きずるようにして、階段をおりた。一階で、局長と出会った。
「どこへいくんだ、メグレ?」
「司法警察局ヘ……事件が解決できそうです……とにかく、リュカを連れていきますから、あとで彼から報告させます……」
そういって、メグレはタクシーを探しはじめた。局長から、怒りと憐みの入り交った奇妙な表情で見つめられているのを、メグレは気づかなかった。
「しかし、オゼップは?」と、リュカは車に乗ると、たずねた。
「これから調べようというのは、彼のことなのだ……いいかえれば、彼についての情報を得たいということだがね……彼があの女を殺したとしたら、それには十分な理由があるはずだ……いいか、リュカ、わたしが彼に、やつらのところへいってもらいたいといったら、彼はすぐに引き受けた……逆に、わたしが女への言伝《ことづて》をたのんだら、彼は拒絶した。そこで、わたしは脅迫がましい真似までして、引き受けさせた……つまり、ほかのやつらは彼のことを知らなかった。が、女は彼を知っていた……」
予想しえたことであるが、メグレは書類を手にするまで三十分以上かかった。書類の整理ほど、その冷静な物腰にもかかわらず、メグレの性質に合わないことはなかったからだ。
「読むよ! 大衆にアピールするために、アメリカ人好みの大げさな表現を使ってあるがね……『吸血鬼のような女』『宿命のポーランド娘』『二十三歳の盗賊の首領』……」
ポーランド女の見事な犯罪ぶりが、彼女の写真まで添えて、ご丁寧に語られていた。
ステファーニャ・ポリンツカヤはすでに十八歳のとき、ワルシャワの警察から目をつけられていた。この時期に、彼女は一人の男と出会ったが、この男は彼女を妻にし、彼女の邪悪な性質を直そうとした。男の子が生まれた。が、ある日男が仕事から帰ると、赤ん坊は絞め殺され、女はすでに、家にあった金と高価な品物を持って逃げ出していた……。
「この男がだれだかわかるか?」と、メグレはたずねた。
「オゼップ?」
「ここにある写真は彼にそっくりだろう! 世界じゅうの犯罪記録を暗記しておくことがいかに大切か、今きみにもわかったはずだ。ステファーニャ……家族の者はスタンと呼んでいたが……は、アメリカで悪事のかぎりをつくした……どうやって、彼女がアメリカの刑務所を脱走したか、わたしにはわからない……彼女はフランスに逃れてくると、アメリカのときのように数人の荒くれ者どもを集めて、再び同じ手口で仕事をはじめた……。
亭主は新聞で、彼女がパリにいて、警察から追われていることを知った……彼の願いは、もう一度彼女を救うことだったのか? わたしはそうは思わない……彼は子供の憎むべき殺人者を罪に服させたがっていた……むしろわたしはそう信じたい……そうすれば、彼がわたしに手助けを申し出た理由もうなずける……。
彼は一人で行動する勇気がなかった……あの男は弱虫で、優柔不断なのだ……。そこで、警察と行動をともにしたがり、あの午後わたしの前にあらわれ、あんな見せかけの態度をみせた……。
昔の女房と顔をつき合わせたとき、はたして彼になにができたのか? 殺すか、殺されるかだろう。あの女は自分が見つけ出されたのを知れば、自分の正体をあばける唯一の男を、ちゅうちょなく抹殺《まっさつ》しようとするからだ。
そういったわけで彼は殺した! これ以上、きみにいうことはあるまい。彼は間違いなくホテルのどこかにいるはずだ。二度自殺を試み、二度とも失敗した彼が、三度目も失敗するということはあるまい。これからきみはホテルにもどり、局長に話して……」
「その必要はない!」局長の声がした。「≪殺し屋スタン≫は七階の、ドアが開け放しになっていた部屋で首を吊っていた……面倒が省けた……」
「かわいそうな奴だ!」とメグレはため息をついた。
「同情するのか……」
「ええ……彼の死にはいくらか責任がありますから……わたしは自分が年を取ったかどうかはわかりません。が、解決に長い時間をかけすぎてしまいました……」
「なんの解決?」と、局長は疑わしそうな目でたずねた。
「あらゆる問題の解決!」と、リュカはここで口出しできるのがうれしくてしかたがないといった口調で、断言した。
「警視はたった今、事件をあらゆる細部まで復元してみせたのです。局長がいらしたとき、警視はオゼップがどこかの部屋で自殺をはかっているはずだと話していました……」
「本当かね、メグレ?」
「本当です……今までにこれほど腹が立ったことはありません……わたしは解決が身近にあり、ほんのちょっとした事実しか必要ないのを感じてました……それなのにあなたたちは大きい蠅《はえ》のようにわたしのまわりであれこれいい、役に立たない下っぱどもの逮捕のことまで話した……やっとわたしはアメリカの雑誌の記事を思い出し……!」
メグレは深呼吸し、パイプにたばこを詰めると、リュカにマッチをたのんだ。メグレは午後の間に、自分のマッチを一本のこらず使ってしまった。
「どうです、局長! 七時ですから、これから三人で冷たい生ビールでも飲みにいきませんか? ……もちろんリュカには≪かつら≫を取ってもらいます、人前に出ても恥ずかしくないように……」
彼らはビヤホール≪ドフィーヌ≫のテーブルについた。突然、警視は額をたたくときょろきょろとボーイたちをながめ出した。
「ジャンヴィエは?」
「なぜです?」
「まだ見張りの役をといてないのか? かわいそうに! ……われわれが生ビールを飲んでいるというのに、彼はまだボーイをやっているんだぞ……」
[#改ページ]
訳者あとがき
一『メグレ夫人の恋人』について
本書はメグレ物の中短編集『メグレ、最新の事件簿』(一九四四年)からの翻訳である。この中短編集は最初≪ソシエテ・パリジェンヌ≫社の Police-Roman 叢書から一九三八年に二冊で出版され、それが後にガリマール社で一冊にまとめられたのである。ただし、最初の二冊本では十八編あったものが、ガリマール版ではなぜか十六編に減っている。この削られた二編は他の短編集にも収録されていない。
本書では、ガリマール版の十六編から九編を選んで翻訳した。メグレ物の中短編集は全部で五冊ある。
『メグレ帰る』(一九四四年)
『メグレと無愛想な刑事』(一九四六年)
『メグレ警視のクリスマス』(一九五〇年)
『メグレとしっぽのない小豚』(一九五〇年)
これら五冊の中短編のなかでも、この『メグレ、最新の事件簿』がずばぬけておもしろい。これほどすぐれた中短編ばかりを集めた作品もめずらしい。
表題になっている「メグレ夫人の恋人」は百枚以上の中編である。これは、メグレ夫人が事件の発覚を予測し、いざ事件が起こると家庭から飛び出してメグレ顔負けの名探偵ぶりを発揮する珍しい中編だ。愛すべき作品である。シムノン自身も、この中編が大いに気に入っているらしく、長編「メグレとベンチの男」ではこれと似たシチュエーションをもう一度使っている。
アメリカの作家では、こういった例は別にめずらしくはない。たとえば、ウィリアム・アイリッシュは「バスで帰ろう」という中編を、後に「暁の死線」という長編に書きあらためているし、チャンドラーにはこういう例が多い。多いどころか、チャンドラーの場合は、まず中編なり短編なりを書き、それをあらためて長編にするのが常道のようだ。
シムノンは、あれだけの数の作品を書きながら、短編や中編で一度使ったシチュエーションは長編ではほとんど使っていない。だから、この「メグレ夫人の恋人」と「メグレとベンチの男」はシムノンにしてはごくめずらしい例といえる。
つぎは「死刑」であるが、これもいい。二十五枚ほどの短編だが、初めから最後まで一行のむだもなく、じわじわとサスペンスを盛りあげていく。最後の解決もみごとだ。私のもっとも好きな短編の一つである。
「蝋のしずく」は、雰囲気の盛りあげかたといい、情景描写の妙といい、犯罪者の心理といい、たった三十五枚ばかりのなかに、メグレ物の特徴がすべて投入されている。
しかし、本書のいちばんの魅力はなんといっても「殺し屋スタン」だろう。メグレ物の長編は八十編ほどあるが、おもしろさでこの中編に匹敵できる作品はそうは多くないだろう。
これは、≪張込み小説≫とでも名づけたい作品だ。ポーランド人の強盗団らしい一味が泊っているホテルを張込んだジャンヴィエとリュカとメグレ。そこヘ、メグレたちの手助けをしたいというポーランド人の士官があらわれ、緊張をたかめていく。何一つ手がかりがない。ただ、張込みを根気よくつづけて待つだけだ。強盗団の首領≪殺し屋スタン≫とは何者なのか? 最後までわからない。そして、最後に意外な結末が待っている。
私は昔、この作品を読んですっかりメグレ物のとりこになり、つぎつぎとメグレ物を訳すようになったのである。そういう意味で、この中編は私にとって記念的な作品だ。
この他、容疑者のエロ本屋があまりにもいやらしい人間であるため、つい捜査を誤ってしまう「メグレの失敗」、姉夫婦とその妹の異常な三角関係を描く「ボーマルシェ大通りの事件」、コンパートメント内での密室殺人を描く「停車……五十一分間」などがある。
二 メグレ警視について
ジュール・メグレ。身長五フィート・十一インチ、どっしりしていて肩幅が広い。ものうい顔つき、いつでもひげを剃っているのは中産階級の生まれのせい。彼のスーツは上等の服地で、仕立てもいい。手はきれいで、よく手入れが行き届いている。ビロード襟の重いコートを着、たえずポケットのなかに両手を突っ込んでいる。帽子は山の部分が丸く、つばの幅の狭い堅いフェルト帽。警察官という一般的な観念からはほど遠い。
結婚する前の若い時代のメグレは医学の勉強をしたがうまくいかず、二年間巡査をしたあと、パリ警視庁に入る。北駅のパトロール係、風俗取締班、デパートのパトロール係を担当させられる。そのあと階級が次第に上がっていき、警部になり警視になる。
彼はリシャール・ルノワール大通りの古いアパルトマンに夫人と二人きりで住んでいる(一時ヴォージュ広場に住んでいたこともあるが)。彼はこのアパルトマンを愛している。昼食にはできるだけ家に帰るようにしている。彼の主なリクリエーションは、夕食後映画に行ったあとで、夫人と散歩することである。パイプを喫う彼はオフィスに十五本のパイプをおいている。
メグレは他の多くの探偵とちがって推理の方法を取らない。むしろ直観的な探偵である。犯罪投査のさい、彼は自分自身を現場におく。彼は街々を歩き、何かを……いつもはビールかカルヴァドス、ときどきブランデーか、ペルノー酒か、あるいはアペリチフ……飲むためにカフェに行き、数多くのことを自問する。そうしているあいだに、彼の部下であるリュカ、ジャンヴィエ、ラポワント、トランス刑事などが事件の背景をさぐる。
メグレ自身が新しい雰囲気に馴化《じゅんか》するとき、彼は捜査中の事件の関係者たちについて多くのことを知る。最後に彼は犯人を発見するか、あるいは彼のどっしりした肉体で犯罪者を圧倒し、自白に追い込む。
メグレは人間に対していつくしみの心を持っている。彼のもっとも著しい特徴は非常に忍耐強いことである。