メグレの打明け話
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章 パルドン夫人のライス・プディング
第二章 コーランクール通りのゼラニューム
第三章 新聞に顔写真を載せたがる女管理人
第四章 アドリアン・ジョセの夜
第五章 リオラン医師の頑な沈黙
第六章 夜、眠れない老人
第七章 ジュール氏と女性会長
第八章 メグレ夫人の≪鶏の赤ワイン煮込み≫
訳者あとがき
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
アドリアン・ジョセ……製薬会社の経営者
アネット・デュシェ……ジョセの秘書、愛人
カルロッタ……ジョセ家の女中
シラン夫人……ジョセ家の料理人
マルタン・デュシェ……アネットの父親
ジャニーヌ……アネットの同僚
フランソワ・ラランド……ジョセ家の向いに住む老人
ルナン……ジョセの弁護士
ジュール……ジョセの会社の古参社員
ポール医師……法医学研究所検視医
パルドン医師……メグレの友人
コメリオ……予審判事
メグレ……司法警察局警視
ラポワント……司法警察局刑事
ジャンヴィエ……司法警察局刑事
トランス……司法警察局刑事
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一章 パルドン夫人のライス・プディング
女中が丸テーブルの真ん中にライス・プディングをおいたところだった。メグレはわざとおどろいたような、満足したような表情をしてみせた。パルドン夫人は顔を赤らめると、いたずらっぽい目でメグレをちらっとながめた。
メグレ夫妻が月に一度、パルドン家で晩餐をするようになってから四年になるが、これは四十四回目のライス・プディングだった。メグレ夫妻の訪れた二週間後には、こんどはパルドン夫妻がリシャール・ルノワール大通りにやってきて、メグレ夫人が大いにご馳走するのだった。
こういう、おたがいの訪問がはじまって五カ月目か六力月目に、パルドン夫人がライス・プディングを出したのだ。メグレはそれをおかわりしながら、このプディングは子供の頃を思い出させてくれるし、四十年来、これほどおいしいプディングを食べたことがないと言った。これは本音《ほんね》だった。
この日以後、ヴォルテール大通りのパルドン夫妻の新しいアパルトマンでの晩餐のたびに、最後はこのすべすべしたプディングでしめくくるのが常だった。それにこのプディングは、この集まりの性格……潤《うるお》いがあって、穏やかで、ちょっとばかりけだるい性格にぴったりだった。
メグレにも、夫人にも、パリには親類がなかったので、姉妹や義姉妹の家で決った日に宵を過ごすということがほとんどなかった。だから、パルドン夫妻との晩餐は、子供の頃の叔母や叔父への訪問を彼らに思い起こさせてくれた。
今夜はパルドンの娘アリスが夫と一緒に食事に加わっていた。メグレ夫妻はこの娘を高等中学校《リセ》の生徒のときから知っていた。一年前に結婚し、現在妊娠七カ月、妊婦特有の≪仮面≫のような顔をしていた。とくに、鼻の上と目の下にそばかすがある。若い夫は彼女の食事を注意深く見守っていた。
メグレが、ここの主婦のライス・プディングがいかにおいしいかをふたたび言おうとしたとき、電話が鳴り響いた。ポタージュが出てからこれで三度目の電話だ。彼らは電話には慣れていた。パルドン医師がデザートまで患者に呼び出されずにいられるかどうかを予想するのは、食事の初めの一種のゲームになっていた。
電話機は小卓においてある。その上の壁には鏡がかかっていた。パルドンはナプキンをつかんだまま、受話器を取った。
「もしもし! 医者のパルドンですが……」
他の者たちは黙ってパルドンを見つめていた。とつぜん鋭いキイキイ声が聞こえ、受話器が振動した。パルドン医師を除いては、何を言っているのかだれにもわからなかった。レコードの回転を速くしすぎてしまったときのように音だけが連続しているにすぎない。
しかし、メグレは眉をひそめた。友人の顔が重々しくなり、さらにひどく困ったような表情になるのを見たからだ。
「ええ……聞いてますよ、クリュジェ夫人……わかってます……」
電話の向こうの女は、平気でしゃべりつづけている。音はたがいにぶつかり合い、受話器を耳につけていない者にとっては、哀れっぽいが、わけのわからない連祷《れんとう》のようなものになっていた。
パルドンの顔の上では、無言のドラマが演じられ、表情が微妙に変っていく。しばらく前まで、ゆったりとほほえみ、ライス・プディングの場面をたのしそうにながめていた町医者が、いまではこの静かな、かなり立派な食堂から遠く離れてしまっているようにみえた。
「わかってます、クリュジェ夫人……そう、知ってます……あなたの気がすむなら、そちらにうかがってもいいですよ……」
パルドン夫人はちらっとメグレ夫妻に目をやった。それはこう言っていた。
「やっぱり! また晩餐が終るときにはこの人がいないわ……」
彼女は間違っていた。声はあいかわらず鳴り響いている。パルドン医師はますますばつのわるそうな顔になった。「ええ……もちろん……寝かせるようにしてみてください……」
彼はがっくりし、どうしようもないようだった。
「わかってます、わかってます……あなたとおなじように、私にだってどうしようもないのですよ……」
だれも食べなかった。だれも食堂のなかでしゃべらなかった。
「そんなことがつづいたら、いいですか、あなたのほうが……」
彼はため息をつき、額に手をやった。四十五歳で、ほとんど禿げている。疲れたようなため息を、またついた。まるで耐えがたい圧力に負けてしまったかのように。
「それじゃ、バラ色の錠剤を一錠、ご主人にあたえなさい……いや、一錠だけです! もし三十分後に効き目があらわれなかったら……」
みんなは、電話の向うの声がほっとしたようになったのを感じた。
「私はずっと家にいます……おやすみ、クリュジェ夫人……」
彼は受話器をおくと、もどってきて坐った。一同はパルドンに質問しないようにした。数分後に、会話がふたたびはじまった。パルドンはぼんやりしたままだった。この晩餐はいつものリズムを取りもどしていた。彼らはテーブルから立ち上り、客間にコーヒーを飲みに行った。客間のテーブルの上には雑誌がいっぱいおいてあった。病人が診察時間を待つのはこの部屋なのだ。
二つの窓は開け放してあった。五月だった。なまあたたかい夜で、パリの空気には、バスや車にもかかわらず、春のかおりみたいなものが感じられた。界隈の家族たちがヴォルテール大通りを散歩している。通りの向うのテラスには、ワイシャツ姿の二人の男がいた。
カップにコーヒーを注ぐと、女たちはいつもの隅に坐って、編物を手に取った。パルドンとメグレは窓辺に坐った。アリスの若い夫はどちらの組に入っていいのかわからず、結局は妻のわきに坐った。
産まれる子供の名付親にメグレ夫人がなることは、すでに決っていた。彼女はその子のために、いま袖つきのジャケットを編んでいる。
パルドンは葉巻に火をつけ、メグレはパイプにたばこを詰めた。とくに話したいことはなかった。沈黙のままかなり長い時間が流れた。その間女たちのささやき声が聞こえてくる。
パルドン医師が自分自身に語りかけるようにやっと口を開いた。
「こういう晩には、つくづく他の職業を選んでおけばよかったと思うよ!」
メグレはしつこくたずねたり、話をきき出そうとしたりしなかった。彼はパルドンが好きだった。パルドンを男とみなしていた。もちろんこの言葉のもつあらゆる意味においてだ。
パルドンは時計をこっそりと見た。
「三、四時間は効いていると思うが、しかし彼女はいまにも電話をかけてくるかもしれない……」
パルドンは話しつづけたが、くわしいことは何も言わなかった。したがって、メグレはそのほのめかしの意味を自分で理解しなければならなかった。
「ポパンクール通りの薬草販売店の階上《うえ》に住んでいる洋服屋で、ポーランド生まれの小柄なユダヤ人なんだけど……五人の子供があってね、いちばん上の子は九歳、おかみさんは妊娠六カ月……」
彼は娘の腹に思わず目をやった。
「現代の医学では、彼を救うことはできない。五週間前から彼は死にかかっている……私はあらゆる手をつくして、彼を病院に入れさせようとした……私が病院という言葉を口にするや、彼はびくびくし、家族の者たちを自分のところに呼びよせ、泣き、うめき、むりやり病院に連れて行かないように哀願するんだ……」
パルドンは一日一本の葉巻をまずそうに喫っている。
「彼らは二部屋で暮している……子供たちは大声をあげる……おかみさんは精《せい》も根《こん》もつき果てている……私が手当てしなければならないのは彼女のほうだ。しかし、いまの状態がつづくかぎり、私にはどうしようもない……この晩餐の前に、私はあそこへ行ってきた……亭主には注射をし、おかみさんには鎮静剤をあたえた……なんの効き目もなかった……われわれが食事している間に、彼はまたうめき出し、苦痛でわめいた。力がつき果てたおかみさんは……」
メグレはパイプを喫い、つぶやいた。
「私にはわかるような気がする」
「法律的にも、医学的にも、私には新しい薬を処方する権利がない……こうした類《たぐい》の電話を受けるのは初めてではない……いままでは、私はうまく彼女を納得させてきた……」
彼は嘆願するかのようにメグレを見つめた。
「私の立場を察してくれよ……」
彼はふたたび時計にちらっと目をやった。あとどのくらいで病人はまたじたばたもがき出すだろうか?
穏やかな夜だった。空気のなかにけだるさみたいなものがあった。女たちのささやき声が客間の隔でつづいている。編物針のリズミカルな音も。
メグレはためらいがちに言った。
「もちろん、これとはぜんぜん話がちがうが……私にだって、他の職業を選べばよかったと思ったことが何度かある……」
これは、話がつぎからつぎへと論理的につづく会話ではない。空白があったり、沈黙があったり、警視のパイプから煙がゆっくりと立ち昇ったりした。
「ちょっと前から、われわれ警察官はもうおなじ力を持っていない。したがって、責任も……」
メグレは考えていることを隠さずに言った。パルドンとほとんどおなじような気持だった。いや、まったくおなじ気持と言っていい。
「これまで、私は裁判官たちのためにわれわれの権限が次第に減らされていくのを見てきた……それがいいことか、わるいことかは私にはわからない……とにかく、われわれの役割は裁くことではなかった……ある人間が有罪か、有罪でないか、有罪であるとすればどれほどの刑がふさわしいかを決定するのは裁判所の仕事であり、陪審員の仕事だ……」
メグレはわざと話しつづけた。というのは、パルドンは緊張し、ポパンクール通りのあの二部屋のことを考えているにちがいなかったからだ。あそこではいま、ポーランド人の洋服屋が死にかかっている。
「われわれは検事局や、予審判事の道具にすぎないけれど、法律の現状では、それでもわれわれが重大な結果をはらんだ決定をくださなければならないときがある……というのは、裁判官なり陪審員が判断するのは、結局われわれの調査によるからだ。われわれが集める資料によるからだ……。ある男に疑いをかけ、警視庁に呼び出すだけで、この男のことについて、家族や、友達や、アパルトマンの管理人に聞いてまわるだけで、彼の残りの人生を変えてしまうことがある……」
こんどはパルドンがつぶやいた。
「私にはわかる」
「この人間は罪を犯したのだろうか? とにかくわれわれがほとんどいつも、何はさておき、こう問うのは自分自身にだ……物的な証拠はないほうが多いし、あまり頼りにならない……」
電話のベル。パルドンは電話に出るのが恐いようだった。パルドンの娘が受話器を取った。
「そうですが……いいえ、ちがいます……番号をお間違えです……」
彼女は笑いながら説明した。
「また例のダンスホール≪ヴェルテュ≫と間違えて……」
シュマン・ヴェール通りのダンスホールの電話番号は、パルドンのところと似ているのだ。
メグレは小声でつづけた。
「目の前にいる、このノーマルな感じの男が、人を殺すなんてことができたのだろうか? パルドン、私の言いたいことがわかるね? その男が有罪か、有罪でないかを決定するのが問題じゃない。それは司法警察の仕事じゃない。しかし、それでもわれわれは、彼はやったのだろうかと自問自答せざるをえない……それだって裁くことに変わりがない! 私にはそれがおそろしい……警察に入った当時、そのことを考えていたら、私は……」
いままでより長い沈黙。メグレはパイプを空にし、ポケットから別のパイプを取り出すと、そのブライヤのパイプを愛撫するような手つきで、ゆっくりとたばこを詰めた。
「私はある事件を思い出す、それほど前のものではない……ジョセ事件を知っているね?」
「その名前には記憶がある……」
「新聞で書きたてられた。しかし、真相は……それがあったとしての真相だが……決して書かれなかった」
メグレが自分のたずさわった事件のことを話すのはめずらしかった。ときどき、オルフェーヴル河岸で、刑事たちにかこまれて、有名な事件のことや、手をやいた捜査のことをほのめかすことがあるが、それだっていつもごく簡単にだ。
「私は、最初の尋問が終ったときのジョセの姿が目にうかぶ。というのは、私が自問しなければならなかったのは、まさにこの瞬間だからだ……きみの意見を聞くため、報告書をきみに読ませることはできる……しかし、きみは二時間のあいだあの男と向かい合うことはできない……きみはあの男の声を聞き、あの男の顔の表情をさぐることはできない……」
それは、オルフェーヴル河岸のメグレのオフィスでだった。その日は火曜日で、午後の三時頃。やはり春で、四月の終りか、五月の初めである。その朝、オルフェーヴル河岸に着いたとき、警視は事件のことを知らなかった。彼が事件のことを知らされたのは十時頃になってからにすぎず、最初はオートゥイユ警察署の署長から、ついでコメリオ判事からだった。
この日はかなり混乱していた。オートゥイユ警察署は明け方に司法警察局に知らせたと言うが、なにかの手違いでその通報は宛先に届いていなかったらしい。
メグレが、オートゥイユ教会から二、三百メートルのところにあるロペール通りで車から降りたときは十一時近かった。だから、いちばん最後になってしまった。新聞記者やカメラマンたちもいて、そのまわりを野次馬が取りかこみ、警官が整理にあたっていた。検事局からもすでに現場にきていた。五分後に、鑑識課の連中がやってきた。
十二時十分に、警視は自室にアドリアン・ジョセを入れさせた。ジョセは四十歳のハンサムな男で、肥ってはいなかった。ひげを剃ってなく、いくぶん皺になった服をきていたが、それでも優雅な感じがあった。
「さあ、入りたまえ……坐って……」
メグレは刑事部屋のドアを開けて、若いラポワントを呼んだ。
「ノートと鉛筆を持って来てくれ……」
オフィスは陽を浴びていた。開いた窓からパリの物音が聞こえてくる。ラポワントは尋問を速記しなければならないことがわかっていたので、テーブルの隅に坐った。メグレはパイプにたばこを詰め、船列がセーヌ河をさかのぼって行くのをしばらくながめていた。小舟の男がこの船列から離れた。
「ジョセさん、私はあなたの答えを記録しなければならない。そのことをお断わりしておく……あなたはひどく疲れていませんか?」
ジョセはちょっと悲しげな微笑をうかべて、首を横に振った。彼は昨夜眠っていなかった。オートゥイユ署はすでに彼を長い間尋問していたのだ。
メグレはその報告書を読みたくなかった。まず自分自身の手で概念をつかみたかったからである。
「例のごとく身許の確認からはじめよう……苗字、名前、年齢、職業……」
「アドリアン・ジョセ、四十歳、エロー県セート〔地中海にのぞむ港町〕の生まれ……」
そのことを知らなければ、彼のかすかな南仏|訛《なま》りを見すごしてしまう。
「両親は?」
「父は小学校の教員。十年前に死にました」
「お母さんはご存命ですか?」
「ええ。セートの小さな家に今でも住んでおります」
「あなたはパリで勉強したのですか?」
「モンペリエです」
「あなたは薬剤師ですね?」
「薬剤師の免状を取り、そのあと一年医学の勉強をしました。でも、医学の勉強はつづけませんでした」
「なぜ?」
ジョセはためらった。それが正直さによるものであることは、メグレにはわかっていた。少くともこれまで、ジョセは正確に、つねに真実を語ろうと努力していた。
「いくつかの理由があると思います。もっともはっきりした理由は、私に女友達ができたことです。この女友達は両親と一緒にパリに行ってしまいましたが」
「あなたが結婚したのは彼女ですか?」
「いや。じつは、私たちの関係は数カ月で終ってしまったのです……また、私に医者になるつもりがなかったことも理由でしょう……私の両親には財産がありませんでしたから……私の学費をはらうために食うものも食わずにいたのです……医者になればなったで、開業するのに大変な苦労をすることになったでしょう……」
疲労のため、筋道たてて話すことは彼にはつらいことだった。ときどきメグレにちらっと目をやった。まるで警視がわかってくれたかどうかをたしかめるかのように。
「そんなことが重要ですか?」
「すべてが重要になるかもしれない」
「わかりました……私は自分にはちゃんとした天職があるのだろうかと考えました……製薬会社の研究所で働いてみてはどうかとも言われました……大部分の製薬会社には研究所がありますから……ポケットに薬剤師の免許状を入れてパリに出てくると、私はこれらの研究所に職を得ようとしてみたのです……」
「うまく行かなかった?」
「私に見つけられたものといえば、最初は、ある薬屋の臨時雇い、ついで、また別の薬屋の臨時雇い……」
彼は暑がった。オフィスのなかを行ったり来たりしていたメグレもそうだった。ときどき窓の前に立ち止った。
「オートゥイユ署でこうした質問をされましたか?」
「いいえ。こういう質問ではありませんでした。私がどんな人間か、あなたが知ろうとしていることはよくわかります……あなたもごらんのように、私は真摯《しんし》に答えようと努めています……正直のところ、私は他の人たちより良くも悪くもない人間だと思います……」
彼は額の汗をぬぐった。
「喉が乾いていますか?」
「少し……」
メグレは刑事部屋のドアを開けた。
「ジャンヴィエ! ここにビールを届けさせてくれ」
そして、ジョセに、
「ビールでいいんですね?」
「ええ、けっこうです」
「空腹では?」
その返事を待たずにメグレはジャンヴィエに言った。
「ビールとサンドイッチを」
ジョセは悲しそうにほほえんだ。
「私は読みましたよ……」と、彼はつぶやいた。
「何を読んだんです?」
「ビール、サンドイッチ……交代で尋問する警視と刑事たち……これは有名になりはじめているんじゃありませんか? 私がいつかこうなるとは夢にも思いませんでした……」
彼はきれいな手をしていた。ときどきそれが神経質にぴくぴくと動いた。
「ここに入ってきたとき、そのことを知るべきでした。しかし……」
「落ちついて、ジョセさん。私ははっきり言って、あなたにたいしていかなる先入観も持ってませんよ」
「オートゥイユ署の刑事さんは持っておりました」
「あなたをどなりつけたかね?」
「私をかなり手荒く扱いました、ひどい言葉を使って……どんな言葉だったかおぼえてませんが……しかし、私だって刑事さんの立場になればおそらく……」
「パリに来た頃の話にもどろう……あなたが結婚することになる女性と知り合うまでに、どのくらいの月日がありましたか?」
「一年ほど……私は二十五歳で、フォブール・サン・トノレのイギリス人の薬屋で働いておりました。そこで彼女に出会ったのです……」
「お客さんだった?」
「ええ」
「彼女の名前は?」
「フォンタヌ……クリスティーヌ・フォンタヌ……しかし、彼女はまだ前の夫の姓を名乗ってました、数カ月前に死んだのです……ローウェル……。イギリスのビール会社の……あなたもこの名前のビールを見ているはずです……」
「それでは、彼女は数カ月前から寡婦《やもめ》だったんだね。いくつで?」
「二十九歳」
「子供はなかった?」
「ええ」
「金持?」
「もちろん。フォブール・サン・トノレの高級店のもっとも大切なお得意の一人でした……」
「あなたは彼女の愛人になった?」
「彼女はとても気ままな生活を送ってました」
「夫のいたときから」
「そのようです」
「どのような家柄の女ですか?」
「ブルジョワです……大金持ではありませんが、気楽な暮しの……彼女は少女時代を十六区で過ごしました。お父さんはいくつかの会社の役員でした……」
「あなたたちは恋におちた?」
「ええ、すぐに」
「あなたはすでにモンペリエの女友達との関係は絶っていたのですね?」
「数カ月前から」
「クリスティーヌ・ローウェルとあなたの間に、すぐに結婚のことが問題になったのですか?」
彼はちょっとためらっただけだった。
「いいえ」
ドアがノックされた。ビヤホール≪ドフィーヌ≫のボーイがビールとサンドイッチを運んできたのだ。一休みとなった。ジョセはビールを半分ほど飲んだだけで、食べなかった。メグレはサンドイッチをぱくつきながら、オフィスのなかを往き来しつづけた。
「どうして結婚するようになったのか言ってくれますか?」
「そうしたいのですが、それは容易なことではありません。十五年の歳月が流れています。いまになってわかることですが、私は若かったのです。振り返ってみると、私にはそのとき人生が別のものに、物事がいまほど重要でないように思えたのです。
私のかせぐお金はわずかでした。テルヌ広場近くの家具付の部屋に住み、クロワッサンで物足りないときは、定食レストランで食事をしてました……私は食物よりも着るもののほうにお金をかけてました……」
この衣服への趣味を、彼はいまでも失わずにいる。彼の着ているスーツはパリの一流洋服店でつくられたものだし、ネーム入りのワイシャツも靴も仕立てたものだ。
「クリスティーヌは私の知らない、まばゆい世界で暮してました……私はまだ田舎者でしたし、たかだか小学校教員の息子にすぎませんでした。モンペリエでは、私の学友は私とおなじように貧しい者たちばかりでした……」
「彼女は自分の友達をあなたに紹介しましたね?」
「ずっと後になってから……私たちの関係にはある成行きがあったのです、私は後になって初めてそのことを悟ったのですが……」
「どんな?」
「実業家や、大会社の社長や、銀行家たちが売り子やマネキンと浮気した話をよく聞きますが、彼女の場合も、逆な意味において、ちっとそのようなところがあったのです……彼女は、金のない、初心《うぶ》な薬剤師助手とデートする……彼女は私が住んでいるところを知りたがりました。階段の壁には陶製のタイルが張ってあり、壁越しに隣りの物音が聞こえるような安い家具付ホテルを……彼女はこんなホテルが好きでした……日曜日には、車で田舎の宿屋に私を連れて行き……」
彼の声の響きが鈍くなった。郷愁と、怨みみたいなものがこもっていた。
「最初は、私もこんなアヴァンチュールはそう長くはつづかないと思っておりました」
「彼女に惚れたのですか?」
「そうなりました」
「嫉妬は?」
「すべてがはじまったのは、そのためとも言っていいでしょう。彼女は男友達や、愛人たちの話を私にします。わざとこと細かに話してよろこんでいるのです……最初、私は黙ってました……ついで、嫉妬の発作におそわれ、彼女をののしり、なぐりつけました……彼女が私を嘲《あざけ》っていることは、よくわかってました。私の鉄のベッドから出るや、彼女は他の男たちのところへ行って、私の無器用さや、初心《うぶ》さ加減をしゃべっているのです……私たちはこうして何度か言い争いをして……一カ月間、彼女に会わないでいました……」
「あやまりにきたのは彼女?」
「彼女のときもあり私のときもあります。いつも私たちのどちらかが許しを乞いました……私たちは本気で愛し合うようになりました、警視さん……」
「結婚の話をしたのはどちら?」
「もうおぼえてません。率直に言って、どちらとも言えませんね。私たちはわざと相手をひどい目にあわせることがありました……ときどき、彼女は朝の三時頃、ほろ酔い加減でやってきて、私の部屋のドアをたたくのです……ふくれて、私がすぐに返事をしないと、隣人たちがうるさいと文句を言います……私は何度あそこから追い出されそうになったかしれません……薬屋のほうもそうです……朝、何度か遅刻したものですから。うまく目がさめないのです……」
「彼女はよく酒を飲む?」
「私たちは二人ともよく飲みました……ベつに理由はなかったと思いますが……惰性でしょう……酒を飲むと、気持がひどく高揚するんですね……結局、私は彼女がいなくては生きられないこと、彼女も私がいなくては生きていけないことに、二人とも気づきました……」
「その頃、彼女はどこに住んでました?」
「あなたがさきほどごらんになったロペール通りの家……私たちはナイト・クラブで朝二時、三時までじっと顔を見つめ合っていて、とつぜん酔いがさめると、今後どうすべきかをおたがいが真剣に自問自答したものです」
「どちらがその問題を口にしたかわかりませんか?」
「正直のところ、わかりません。初めて、結婚という言葉が口にされたのは、冗談半分だったような気がします。もう長い時間がたっているので、何とも言えませんが」
「彼女はあなたより五つ年上ですね?」
「そうです、それに財産も数百万フラン。彼女の夫になれば、私は薬屋のカウンターのうしろで働くわけにはいかなくなります……彼女はヴィリューという男を知ってました。彼女の両親がこの男に小さな製薬会社を残したのです……ヴィリューは薬剤師ではありません……三十五の年齢《とし》まで、≪フーケ≫や≪マキシム≫や、ドーヴィルのカジノで働いてました……クリスティーヌがヴィリューの会社に金を投資し、私はそこの共同経営者になりました……」
「要するに、あなたはそうして自分の野心を実現することができたわけですね?」
「そういった印象をあたえることはたしかです。いくつかの出来事の推移をたどってみると、すべてを承知の上で、私が一つ一つのステップを準備したかのように見られます。
しかし、そんなことは絶対にありません。私がクリスティーヌと結婚したのは、彼女を心から愛していたからです。彼女と別れなければならないとしたら、私はたぶん自殺していたでしょう……彼女のほうも、正式に自分と一緒に暮してくれと頼んだのです……。
もう長い間、彼女はアヴァンチュールを楽しまなくなっていたし、こんどは彼女が嫉妬して、薬屋のお客を憎み、ときどきさぐりにきたりしました……。
彼女の生活にふさわしい地位が私にあたえられたのです……しかし、事業に投資されたお金は彼女の名義のままでした。結婚は夫婦財産の分離制のもとでおこなわれたからです……。
私のことをジゴロ〔女に養ってもらっている男〕だと言う人もいました。今後私が暮していかなければならない新しい世界で、私はいつも歓迎されませんでした」
「二人とも幸福でしたか?」
「そうだったと思います。私は一生懸命に働きました。かつてはあまり知られていなかった製薬会社が、今日ではパリで五指に数えられるものになりました。私たちは外出もよくしました。したがって、私たちの毎日の生活に、昼間でも夜でも、いわゆる空白があったとは思えません……」
「何か食べませんか?」
「お腹が空いておりません。よろしかったら、ビールをもう一杯いただけませんか?」
「昨夜、あなたは酔っていましたか?」
「今朝、しつこく質問されたのはその点です。ある瞬間は酔っていたにちがいありません。しかし、全然おぼえていないのです……」
「私は、オートゥイユ署でのあなたの供述を読みたくない。ここにその供述書がありますが……」
メグレは供述書をパラパラとめくってみせた。
「何か訂正したいことがありますか?」
「私は真実を言いました。あの刑事さんの態度のせいで、ちょっと勢いこんだところがあったかもしれませんが……尋問の最初から、私にはあの刑事さんが私を人殺しと考えていることがわかりました……そのあと、ロペール通りで現場臨検が行われたときも、私は判事さんがおなじ考えだな、という印象をうけました……」
彼はしばらく黙った。
「それがあたりまえなのです……憤慨するほうがおかしいのです……」
メグレは何気なくこうつぶやいた。
「あなたは奥さんは殺さなかったのですね?」
ジョセはうなずいた。かっとなって文句を言う気力もないみたいだった。疲れ果てて、がっくりしていた。
「説明してもむりでしょう……」
「ちょっと休みますか?」
ジョセはためらい、椅子の上でもぞもぞとからだを動かした。
「このままつづけたほうがいいと思います……ただ、立ち上って歩かせていただけませんか?」
ジョセもまた、窓辺に行って、陽光を浴びている戸外を、日常のいとなみをつづけている人々の世界を見たかったのだ。
前日、彼はまだこの世界にいた。メグレは夢見るような目で彼を見守った。ラポワントは鉛筆を指にはさんで、待った。
いま、ヴォルテール大通りの静かな客間で、パルドン医師はメグレの一語一語にじっと聞き入っていた。ちょっと静かすぎて、息苦しいほどだった。女たちは編物をし、あいかわらずささやき合っている。
メグレはパルドン医師と小卓の上の電話との間に、五人の子供とヒステリーのかみさんにかこまれて死との闘いを演じているポーランド人の洋服屋とパルドン医師との間に、はっきりときずながあるのを感じ取っていた。
バスが来て、停り、二つの人影を乗せて走って行った。酔っぱらいが壁にぶつかりながら鼻歌をうたいつづけていた。
[#改ページ]
第二章 コーランクール通りのゼラニューム
「あら、いけない!」と、アリスは立ち上ると、いきなりさけんだ。「わたし、リキュール酒のこと忘れてたわ!」
アリスはすっかり変っていた。娘時代には、こういった晩餐は彼女には退屈だった。結婚した最初の数カ月はほとんど姿を見せなかった。ただ一、二度、新しい妻の役を……つまり、彼女の母親とおなじ立場にいる自分を見せにやってきただけである。
子供が生まれることになってからは、彼女はよくヴォルテール大通りにやってきて、よろこんで一家の主婦の役を演じていた。そして急に、家事のこまごましたことを、彼女の母親自身よりも大切にしはじめた。ちょっと前に獣医になった夫は、椅子から飛び上ると、妻をむりやり坐らせ、食堂に行って、男たちのためにはアルマニャック産ブランデーを、女たちのためにはパルドン家でしかめったにお目にかかれないオランダ産のリキュール酒を取ってきた。
大部分の医者の待合室のように、この部屋も薄暗く、家具はつやがなくて、いたんでいた。メグレとパルドンは開いた窓に顔を向けているので、大通りのまばゆい明りがよく見えた。樹々の葉がざわざわ鳴りだしている。驟雨《しゅうう》の前ぶれだろうか?
「ブランデーは、警視さん?」
メグレは若い男にうわの空でほほえんだ。というのは、いまいる場所はわかっていたけれど、心のほうは、陽を浴びた自分のオフィスに、例の火曜日の尋問に行っていたからだ。
食事のときよりずっとうっとうしいように思えた。パルドン医師とおなじ深刻なうっとうしさだ。パルドンと彼は、かなり年齢《とし》を取ってから知り合い、そのとき二人ともすでに今の職業に長年にわたってたずさわってきていたので、みなまで言わなくともおたがいの心が理解できた。知り合った最初の日から、二人の間には信頼関係が生まれ、おたがいに尊敬し合っていた。
これは彼らが、他人にたいしてだけではなく自分自身にたいしてもおなじ誠実さを持っているせいではないだろうか? 彼らはいんちきをしないし、おためごかしを言って人をだまさないし、物事をまともに見る。
今夜、メグレがいきなりしゃべりはじめたのは、パルドン医師の考えを他にそらそうとしたからではなく、電話によって、パルドンを動揺させた感情とほぼ近い感情が彼の心によびさまされたからだ。
それは罪の意識といったものではない。それに、メグレはこの言葉がきらいだ。また、良心の呵責《かしゃく》といったものでもない。
二人ともその選んだ職業のために、ときどき選択をしなければならなくなる。その選択は他人の運命を決定する。パルドンの場合には一人の人間の生か死を。
彼らの態度にはロマンティックなものは少しもない。意気消沈も、激昂もない。ただメランコリックな重々しさみたいなものがあるだけだ。
若いブリュアールは彼らのそばに坐るのをためらった。二人の男がこうやって小声で何を話しているのか、じつは知りたかったのだが、まだこちらの仲間に入れないことを知っていたので、ふたたび女たちのわきに行って坐った。
「われわれはオフィスで三人だった」と、メグレは言った。「ときどきちらっと私を見ながら速記している若いラポワント、立ったり、椅子に坐ったりしているアドリアン・ジョセ、そして、たいていは開いた窓に背を向けて立っている私。
私にはジョセが疲れていることはわかっていた。彼は眠っていなかった。彼はまず昨日の夕方、酒をたくさん飲み、ついで真夜中にふたたび飲んでいる。疲労がどっと押しよせているように、ときどきそれこそ目まいに襲われているように私には思われた。不安そうな目が、無表情にすわってしまうことがあった。まるで眠りに落ちかかった人間が、何とかして睡魔からのがれようとしているかのようにね。
それにもかかわらず、この最初の尋問を最後までつづけたのは残酷だったかもしれない。三時間以上もつづいたから。
しかし、私が頑として尋問をつづけたのは、義務感と同時に、彼のためでもあるのだ。一方では、彼に何か自白することがあるなら、その自白を得るチャンスをのがしてしまう権利は私にはない。他方では、注射か、鎮静剤でもあたえなければ、このようないらいらした状態では、彼は休息することができないだろう。
彼にはしゃべる必要が、立て続けにしゃべりまくる必要があった。留置場に送ってしまったとしても、彼は一人きりでしゃべりつづけただろう。
新聞記者やカメラマンたちが廊下で待っていた。声高な話し声や笑い声が聞こえる。
この時間では夕刊は出たばかりだ。私にはわかっていた、夕刊にはオートゥイユの事件が書かれていて、今朝ロペール通りで撮られたジョセの写真が、第一面を飾っているだろうことが。
やがて私は、コメリオ判事から電話を受けた。彼はいつでも自分の担当する事件の手早い解決を望んでいるのだ。
≪ジョセはそちらかね?≫
≪そうですが≫
≪自白したかね?≫
ジョセは、自分のことが問題になっているな、と考えながら私を見つめていた。
≪いま、手がはなせないんですが≫と、私はあいまいに答えた。
≪否定しているのか?≫
≪わかりません≫
≪早く自白したほうが身のためだということを彼にわからせてやりたまえ≫
≪そうしましょう≫
コメリオは陰険な男ではなかった。私の宿敵のように思われていたが、それはわれわれがときどき衝突するからだよ。
だからと言って、彼がわるいのではない。それは彼の職務にたいする、つまり義務にたいする考え方によるのだ。コメリオにしてみれば、社会を守るために給料をもらっているのだから、既成の秩序を乱す恐れのあるすべてのものにたいして無情にならなければならない。私には、彼が疑念というものを持ったことがないように思える。平然と、彼は善人と悪人を区別してしまう。人間には二つの面があるということが彼には想像できないのだね。
私がまだいかなる意見も持っていないと答えたら、コメリオは私を信じないか、職務をはたしていないと言って非難するだろう。
しかし、尋問の一時間後でも、二時間後でも、私は、哀願するような目でこちらを見つめながら、ジョセがときどきする質問に答えることができなかった。
≪あなたは私を信じてくれるでしょう、ね?≫
私は昨日、ジョセのことを知らなかった。彼についての噂話も聞いたことはなかった。彼の名前が私にいくらかなじみがあるとすれば≪ジョセ・エ・ヴィリュー≫という名前がついた薬を買ったことがあるからだ。
おかしなことに、私はこのロペール通りに一度も行ったことがなかった。だから、その朝この通りを見たときはおどろきを禁じえなかったな。
オートゥイユ教会を取り囲んでいるこの小さな街には、犯罪はほとんどなかった。そして、本当の街路というより私道といった感じのこのロペール通りは一方が行き止りになっていて、地方の遊歩場の両がわに並んでいるような家が二十軒ばかりあるだけ。
そこはシャルドン・ラゴシュ通りのすぐそばなのに、パリの騒音が非常に遠く感じられる。付近の通りには、フランスの偉人たちを記念するかわりに作家たちの名前がついている……ボワロー通り、テオフィール・ゴーティエ通り、ル・コント・ド・リール通りなど……。
私は、ロペール通りの他のすべての家とはちがったあの家に、一九二五年頃、|装飾 芸術《アール・デコラティフ》の時期に建てられた、ほとんどガラス張りの、意外なアングルを持ったあの家にもどってみたくなった。
あの家ではすべてが私にとって見なれぬものだった……装飾、色彩、家具、部屋の配置。ここでどんな生活が営まれていたのか、私には想像もつかなかっただろう。
私の前にいる男、疲労と闘い、二日酔いと闘っている男は、それでも、不安そうな、あきらめきった目でこう問いかけてきた。
≪あなたは私を信じてくれるでしょう、ね?≫
オートゥイユ署の刑事は彼を信じず、容赦なく彼を取り扱ったらしい。
とつぜん、私はオフィスのドアを開くと、うるさすぎる廊下の新聞記者たちを黙らせた」
二度か三度、ジョセは差し出されたサンドイッチをことわった。いまにも力つきることがわかっているので、どんなことをしてでもそれまでつづけたいようだった。
それはたぶん、彼の前にいるのが犯罪捜査部の警視だからというだけではない。彼の運命に影響をおよぼす人間だったからだろう。
ジョセはだれでもいい、自分以外の人間を納得させる必要があった。
「あなたと奥さんは幸福でしたか?」
この質問にメグレだって、パルドンだって、どう答えられただろう?
ジョセもためらった。
「ある時期、私たちはとても仕合せだったと思います……とくに私たちが二人きりのとき……とくに夜は……私たちは本当の恋人同士でした……私の言いたいことがわかっていただけますね? ……私たちがもっとひんぱんに二人きりになることができていたら……」
彼は正確に表現しようとしていた!
「あなたがあの階級のことをご存知かどうか、私にはわかりません……私もあの階級に入るまでは知りませんでした……クリスティーヌは小さい頃からあのなかで暮していたのです……彼女にはあの階級が必要でした……多くの男友達がいました……彼女はつぎからつぎと約束していきます……ちょっとでも一人になると、すぐに受話器を取ります……やれ昼食会だ、カクテル・パーティだ、晩餐会だ、芝居だ、ナイト・クラブで夜食だと……私たちがファースト・ネームで呼ぶ人たちや、いつもおなじ場所で会う人たちがたくさんいます……。
彼女は私をかつて愛していました、それは間違いありません……ある意味では、まだ私を愛していたにちがいありません……」
「それで、あなたは?」と、メグレはたずねた。
「私も。だれもそのことを信じないでしょう。私たちのことをよく知っている友達さえも、その反対だと言い張るでしょう。けれども、私たちを結びつけていたのは、たぶん一般的に愛と呼ばれているものより強いものだったでしょう。私たちはもはやたまにしか愛し合わなくなっていました……」
「いつから?」
「数年前……四年か五年前……はっきりとはわかりません……どうしてそうなったか言うことさえできないでしょう。……」
「あなたたちは喧嘩をしましたか?」
「したとも、しなかったとも言えます。喧嘩という言葉の意味によりますね。私たちはおたがいをあまりにもよく知りすぎていました。私たちにはもう錯覚もありませんでしたし、ごまかしもありませんでした。私たちはついには容赦しなくなりました……」
「何を容赦しなくなったんです?」
「すべての小さな欠点にたいして、おたがいが行った卑劣な振舞いにたいして。最初の頃は、こういったものに気づかなかったし、また気づいたとしても、なるべくそれが魅力的なものになるような見方をしていたのです……」
「長所に変えていた?」
「かりに、相手がより人間的に、より欠点のあるものになったとしましょう。すると、その相手を保護し、愛情でつつんでやりたくなるものです……いいですか、すべての根底には、私がこうした生活への準備をしていなかったという事実があるにちがいありません……。
あなたはマルソー通りの私たちの会社をご存知ですね? また私たちはサン・マンデ、ついでスイスやベルギーにも製薬会社を持ってます……それは私の人生の大きな部分を占めていたし、いまでも占めています。もっとも重要な部分を……。あなたはさきほど、私が幸福であったかどうかをおたずねになりました……会社のオフィスで、日ましに重要になっていく事業を監督していると、私は充実感にみたされるのです……すると、とつぜん電話が鳴ります……クリスティーヌが私にどこかで会う約束をします……」
「彼女と向かい合っていると、あなたは彼女の金のために、隷属《れいぞく》感を抱くのですか?」
「そうは思いません。他の人たちは私がお金のために結婚したと思っているし、これからも思いつづけるにちがいありませんが……」
「それでは間違いですか? お金はこの問題と無関係だったんですね?」
「そのとおりです」
「今の事業は奥さんの名義になっているのですか?」
「あいにくそうではありません。彼女は大部分の株を持っていましたが、六年前にほとんど半分私にくれました」
「あなたの頼みで?」
「彼女の頼みで。いいですか、それは彼女にかんするかぎり、私の努力の結果を認めたからではなくて、第三者に株を譲り、税金をのがれるためなのです……ああ! 私はそのことを証明することができないし、それは私には不利な材料になっています……それに、クリスティーヌが私のために遺書をつくったという事実もありますし……私はその遺書を読んでません……見てもいません……それがどこにあるかも知りません……遺書のことを私に話したのは彼女なのです。ある晩、彼女はふさぎの虫に取りつかれてしまい、自分が癌《がん》にかかっていると思い込んだのです……」
「何でもなかった?」
彼はためらった。このためらいが、細心すぎる男という印象をいつでも人にあたえるのだ。まさにこの言葉にぴったりの男なのかもしれない。
「彼女は癌でも心臓がわるいのでもありませんでした。また、新聞で毎週書かれ、街で義損《ぎえん》金が募られているような病気でもありませんでした……しかし、私に言わせれば、彼女はやはり病気でした……最近は、一日に数時間しか頭のはっきりしているときがなかったのです。ときどき、二、三日は寝室に閉じこもったきりでした……」
「あなたはおなじ寝室で寝てなかったのですか?」
「数年間は一緒でした……それから、私が朝早く起きるし、彼女の眠りの邪魔をするので、隣りの部屋で寝起きするようになったのです……」
「彼女は酒をたくさん飲みますか?」
「あなたが彼女の友達にたずねたら……あなたはきっとそうするでしょうが……、彼らは自分たちとほとんどおなじくらいしか飲まなかったと言うでしょう……いいですか、彼らは見栄をはっている彼女しか見てないのです……二、三時間外出するには、その前に数時間寝る必要があったし、外出した翌日には、目がさめるや、アルコールで元気を回復するか、薬にたよらなければならなかったということを、彼らは知らないのです……」
「あなたは酒を飲まないのですか?」
ジョセは肩をすくめた。まるでメグレがその答えを得るには、彼を見るだけで十分であると言いたげに。
「しかし、彼女よりは多くありません。あれほど病的にでもありません。そうでなければ、製薬会社はもうずっと前につぶれていたでしょう。しかし、私だって、ときどき酒を飲み、酔っぱらいのように振舞うことがあります。だから、彼女の友達は私のほうが彼女より酒飲みだったと言うでしょう。とくに、酔ったときの私はときどき乱暴になります。あなたにもおなじような経験がなければ、なかなかわかっていただけないと思いますが……」
「わかるようにしましょう!」と、メグレはため息をついた。それから、だしぬけに、
「あなたには愛人がいますか?」
「問題はそこなのです! 今朝もその質問を受けました。私が答えると、刑事さんは、ついに真相を見抜いた人間のような、勝ち誇った表情をしました」
「いつから?」
「一年前」
「それでは、奥さんとの間が気まずくなったあとのことなのですね。奥さんと気まずくなったのは五、六年前だと、あなたはさっき言いましたね?」
「そうです、あとです。しかし、そんなことは関係ありません。その前にだって、みんなのようにいろいろとアヴァンチュールを味わいましたから。大部分はごく短いものでしたが」
「しかし、一年前から、あなたは恋をしている?」
「クリスティーヌにたいして使ったとおなじ言葉を使うのは差しさわりを感じます。というのは、二つの感情はまったくちがうからです。しかし、どう言ったらいいのですかね?」
「その相手はだれです?」
「私の秘書。私が刑事さんにこう答えると、まるで刑事さんはそのことを予期していたようでした、自分の慧眼《けいがん》にうっとりとなっているようでした。しかし、そんなことはいまではごくありふれたことなので、冗談のタネにさえなっているのではないでしょうか?」
グラスのなかにはもうビールがなかった。さきほどまで橋や河岸の上を往き来していた通行人の大部分は、昼食後ふたたび仕事のはじまったオフィスや、商店のなかに吸い込まれていった。
「私の秘書はアネット・デュシェといい、二十歳で、父親はフォントネイ・ル・コント郡役所の課長です。彼は現在、パリにいます。夕刊が出ても、彼があなたに会いに来ないというのは、私にはおどろきです」
「あなたを非難するため?」
「そうかもしれません。私にはわかりません。事件が起こったり、あいまいな状況で人が死んだりすると、たちまちすべてが複雑にからみあってくるものです。私の言いたいことがおわかりになりますね? そこには自然なもの、明白なもの、偶然なものが何一つなくなってしまうのです。仕草の一つひとつが、言葉の一つひとつがのっぴきならない意味を帯びてくるのです。もちろん、私が何を言っているかは承知しています。私の考えを整理するには時間が必要なのです。しかし、私が何一つ隠していないことや、全力をつくしてあなたが真相を究明する手助けをしていることをわかっていただきたいのです……。
アネットがマルソー並木通りで働くようになってから、私は六カ月間、彼女のことに気がつきませんでした。というのは、人事部長のジュールさんが、発送課に彼女を配属したからです。発送課は私のオフィスとは別の階にありますし、私はそっちにはたまにしか行きません。ある午後、私の秘書の加減がわるくなり、私はどうしても口述しなければならない重要な報告書があったのです。そこで彼女が代りにやってきました。私たちは人気のなくなった会社で、夜の十一時まで仕事をしました。彼女の夕食の時間を奪ってしまったお詫びのしるしに、私は近くのレストランに連れて行って一緒に軽い食事をしたのです。
実際、これだけなのです……私は四十を過ぎたばかりで、彼女が二十歳。彼女は、私がセートやモンペリエで知った若い娘たちに似ていました……私は長い間ためらいました……私はまず、彼女を隣りのオフィスに移させました。そこなら彼女を観察することができたからです……私は彼女について問い合わせました……彼女はおとなしい娘《こ》で、初めラマルク通りの叔母の家で暮し、ついで叔母と喧嘩したあとはコーランクール通りの小さな住居を借りているとのことでした……。
こっけいな話でしょう、ええ、それはよくわかっています! それでも私はコーランクール通りに散歩に行き、五階の彼女の窓にゼラニュームの植木鉢を見つけました。
三カ月近くの間、何も起こりませんでした。それからブリュッセルに支店を出したとき、私はそこへ私の秘書を転勤させ、アネットを後がまにしたのです……」
「奥さんはそのことを知ってましたか?」
「私は妻には何一つ隠しません。妻のほうもおなじです」
「彼女に恋人は?」
「それに答えれば、人々は私が自分を救うために彼女の思い出を汚したと言い張るでしょう……死ぬと、人は神聖なものになるのです……」
「彼女の反応はどうでした?」
「クリスティーヌ? 最初、彼女は反応を示しませんでした。あわれむような目で私を見ただけです。
≪かわいそうなアドリアン! あなたはとうとうそうなっちゃったのね≫
彼女は≪小娘《ラ・プティット》≫の近況をいろいろと訊きました。妻はアネットのことをそう呼んでいたのです。
≪まだ妊娠しないの? 妊娠したら、あなたどうする気? わたしと離婚する?≫」
メグレは眉をひそめて、いままでより注意深く相手を見つめた。
「アネットは妊娠したのですか?」
「とんでもない! 少なくともそれは簡単に証明できるでしょう」
「彼女はずっとコーランクール通りに住んでいるんですか?」
「彼女の生活は以前とぜんぜん変わっていません。私は彼女の部屋に家具を備えつけてやりもしなかったし、車も、宝石も、毛皮のコートも買ってやりませんでした……。ゼラニュームはいまでも窓の敷居の上にあります……寝室には私の両親のものとおなじようなくるみ材の鏡つき洋服箪笥があり、いまでも台所と食堂は兼用です……」
彼の唇は、挑戦するかのようにふるえていた。
「あなたはそれが変ることを望まなかった?」
「ええ」
「コーランクール通りでよく夜を過したのですか?」
「週に一、二度」
「昨日の昼間から真夜中までのことを、できるだけくわしく話していただけますか?」
「どこからはじめますか?」
「朝から……」
メグレはラポワントのほうを向いた。この時間の使い方を注意深く書き留めることを促すかのように。
「私はいつものように七時半に起き、テラスに行って体操をしました」
「では、それはロペール通りのことですね?」
「そうです」
「その前の晩は何をしました?」
「クリスティーヌと私は、マドレーヌ座で≪証人たち≫の芝居の初日を見て、そのあとピガル広場のナイト・クラブで夜食をとりました」
「喧嘩は?」
「しません。翌日は私には重要な日だったのです。私たちはいくつかの薬の包装を取り変えることを検討していました。この包装の問題は売上げに大きな影響があるのです」
「何時にあなたは寝ました?」
「午前二時頃」
「奥さんもおなじ時刻に休みましたか?」
「いいえ。私は途中で出会った友達と一緒に、彼女をモンマルトルに残してきました」
「その友達の名前は?」
「ジュブラン夫妻。ガストン・ジュブランは弁護士です。彼らはワシントン通りに住んでいます」
「何時に奥さんが帰ってきたかご存知ですか?」
「知りません。私はぐっすり眠っていましたから」
「あなたは酒を飲んでましたか?」
「シャンパンを二、三杯。私の頭はとてもはっきりしていました。私は翌日の仕事のことばかり考えていました」
「それで、朝、奥さんの寝室に入りましたか?」
「私はドアを軽く開けて、彼女が眠っているのを見ました」
「奥さんを起こさなかったのですね?」
「ええ」
「なぜドアを開けたのです?」
「クリスティーヌが帰ってきているのをたしかめるため」
「ときどき帰ってこないことがあったのですか?」
「ええ、ときどき」
「奥さんは一人きりでした?」
「私の知っているかぎり、家に一度も人を連れてきたことはありません」
「召使いは何人います?」
「つまり、私たちのような家では少なすぎるでしょうね。もちろん私たちが家で食事することはたまにしかないのです。料理女のシラン夫人は……実際は家政婦と言ったほうがいいのですが……、ロペール通りでは寝起きしません。ミラボー橋の向こう側のジャベル地区に息子と住んでます。息子は三十歳ぐらいになるはずです。まだ独身で、地下鉄で働いていますが、からだが弱いのです。
私たちと一緒に住んでいるのは、女中だけです。カルロッタというスペイン人です……」
「朝食はだれがつくるのです?」
「カルロッタ。シラン夫人は私が出かける間際にやってくるだけです」
「では、昨日の朝は、すべてがいつものようだったんですね?」
「ええ……もう一度、よく考えてみますが……別にこれといったことは思いあたりませんね……私は風呂に入り、洋服を着て、朝食を食べに階下《した》に降りて行きました。いつも一晩じゅう玄関の前に駐車してある車に乗ったとき、シラン夫人が腕に買物籠をさげて、通りの角を曲ってきました。彼女は途中で買物をしてくるのです……」
「車は一台ですか?」
「二台あります……私自身はイギリス製の二人乗りのスポーツ・カーを使ってます。私はスポーツ・カーに目がないものですから……クリスティーヌはアメリカ車を運転しています……」
「奥さんの車は歩道の縁に駐車してありましたか?」
「ええ。ロペール通りは静かで、人通りが少ないのです。だから車を駐車させておいてもかまわないのです」
「あなたはマルソー並木通りにまっすぐ行きましたか?」
ジョセは顔を赤らめ、かすかに肩をすくめた。
「行きません! もちろんそれも私には不利な材料になるでしょう。私はコーランクール通りにアネットを迎えに行きました」
「毎朝そこへ行くのですか?」
「ほとんど毎朝。私の車はコンヴァーティブルなのです。春の早朝、パリの通りを突っ走るのは気持がいいものです……」
「そして秘書と一緒に会社に着く?」
「長い間、私はいちばん近くの地下鉄の駅に彼女をおろしました。そのうち従業員に見られ、みんなが知ってしまい、私はオープンにすることにしました。何も隠さないほうが、噂に立ち向かうほうがかえっていいのではないかと考えたのです。私はあいまいな微笑が、ささやきが、知ったかぶった顔がきらいなのです。私たちの関係に何もやましいものがないのに、なぜ……」
彼は同意を求めようとしたが、警視は顔の表情ひとつ動かさなかった。それが彼の役目なのだ。
天気は前日とおなじように、快い春の朝だった。小型のスポーツ・カーはモンマルトルをおりると、車の流れのなかを縫うように進み、モンソー公園の金色の尖頭のついた柵に沿って行き、テルヌ広場を横切り、まだすがすがしい顔をした群集が仕事に向かっていそいでいる凱旋門をぐるっとまわった。
「私は午前中は各課の課長と議論して過ごしました、とくに販売課長と……」
「アネットのいる前で?」
「彼女は私のオフィスに席があります」
高い窓はしゃれた並木通りに面しているにちがいない。歩道の縁にはデラックスな車が駐車していた。
「彼女と昼食をしましたか?」
「いいえ。会社まで来てくれたイギリスの重要なお客をレストラン≪バークレー≫に招待しました」
「奥さんからは連絡がなかったのですか?」
「二時半にオフィスに戻ると、私から電話しました」
「起きていました?」
「起きていました。二、三買物をして、そのあと女友達と夕食すると言いました」
「その女友達の名前を言いましたか?」
「言ったとは思いません。言ったとすれば、おぼえているでしょう。よくあることなのですが、私はそういったことには注意をはらわないのです。私たちは正午に中断した会議をふたたびはじめました」
「午後の間に変ったことが起こりませんでした?」
「変わったことはありませんが、ある重要なことがありました……四時頃、私はマドレーヌ通りの店に使いをやり、オードブル、伊勢えび、ロシア・サラダ、果物を買わせました……初物のさくらんぼがあったら、それも二かご買うように言いつけました……使いは以上の品物を全部、私の車の中におきました……六時に、課長たちは帰って行き、従業員の大半も帰り、六時十五分に、うちの社の最古参であるジュールさんが、用事がないかどうか訊きに来たあとで、帰りました……」
「共同経営者のヴィリューさんは?」
「すでに五時にオフィスを出ていました……もう長い歳月会社にいるのにもかかわらず、あの人は素人のままでした。あの人の役目は主として渉外です……外国の取引先や、田舎の重要なお客を昼食や夕食に招待するのは、いつもあの人でした……」
「それでは彼は、例のイギリスの重要な客と一緒に昼食をしたのですね?」
「ええ。会議にも参加しています」
「会社ではあなたたちだけになった、あなたとあなたの秘書の二人に?」
「もちろん、門番を除いてですが。二人だけになることはよくあるのです。私たちはオフィスを出て、車に乗りましたが、急に私は、天気がいいので、郊外ヘアペリチフを飲みに行く気になりました……運転していると、疲れがいやされるのです……私たちはシュプルーズの谷間でしばらく時聞をつぶし、宿屋で一杯やりました……」
「アネットとあなたはときどきレストランで夕食をとることはなかったのですか?」
「めったにありません。最初、私はそうすることを避けました。というのは、私たちの関係はほとんど秘密になっていたからです。その後で、コーランクール通りの小さなアパルトマンでささやかな食事をすることがたのしくなりました……」
「窓辺のゼラニュームを見ながら」
ジョセは傷つけられたようだった。
「それがおかしいですか?」と、彼はちょっと突っかかるような口調でたずねた。
「いや」
「おわかりいただけないですか?」
「そのようですな」
「伊勢えび一つとってみても、あなたにわかっていただける手助けになるにちがいありません……子供の頃、私の家では大きな祭りのときにしか伊勢えびを食べません……アネットの家でもそうです……私たちが二人だけのいわゆるささやかな食事をするときは、できるだけ子供のときに食べたかった料理をつくるようにしました……これとおなじ気持で、私は彼女に贈物をしました。冷蔵庫です。この冷蔵庫は古くさい住居のなかでは釣り合わなかったのですが、白ぶどう酒を冷すことができたし、ときどきシャンパンの壜を開けることもできました……あなたは私のことを笑わないでしょうね?」
メグレは相手を安心させるような身振りをした。ほほえんだのはラポワントのほうだった。まるで最近の思い出を呼びさまされたかのように。
「私たちがコーランクール通りに着いたのは八時ちょっと前でした。ここで、また話がわき道にそれなければなりません。最初のうちアネットとうまく行っていた女管理人が、私がこの建物に足を踏み入れるようになってからは、彼女を毛嫌いし、彼女が通るたびにひどいことを言い、私にはつんと背中を向けてしまうのです……私たちは管理人室の前を通りました。家族がテーブルについていました。あの女は意地のわるい微笑をうかべて私たちを見ました。まちがいありません……。
私はそのことにひどく傷つけられ、もどって行って、どうしてそんなにうれしそうな顔をしているのか、あの女に訊いてやろうとしました。
私はそうしませんでしたが、三十分後にその答えがわかったのです……階上《うえ》で、私は上衣を脱ぎ、アネットが着替えている間、テーブルに坐ってました……私は何も隠さないで言います……こういったことが私にとってはよろこびでしたし、私を若がえらせてくれたのです……彼女は隣りの部屋から私に話しかけ、私はときどき軽く開いたドアからそっちにちらっと目をやりました……彼女はとてもフレッシュで、とてもつややかで、とてもすがすがしいからだをしています……。
こういったことがすべて大っぴらになってしまうのでしょうね、私のことを信じてくれる人がいなければ……」
彼は疲れたように目を閉じた。メグレは戸棚に水呑みグラスを取りに行き、途中で、いつも予備用においてあるブランデーを少し出してやるべきかなと迷った。まだ早すぎる。メグレは、ジョセが酒で興奮することを恐れた。
「開いた窓の前のテーブルについたとき、アネットは聞き耳をたてたのです。その直後、私にも階段の足音が聞こえました。この建物は六階建てなのだし、私たちの上にアパルトマンが三つあるのだから、別におどろくべきことではなかったのです。なぜ彼女は急に、青いサテンの化粧着しか着ていないことを恥ずかしがりだしたのか? 足音は私たちの踊り場で止りました。ドアをノックもせずに、こういう声が聞こえてきました。
≪おまえがそこにいるのはわかっている、アネット。さあ、開けるんだ! ≫
彼女の父親でした。アネットと私が知り合ってから、彼はパリに一度も来ませんでした。だから私は会ったことがありません。彼女の話によると、父親は陰うつで、きびしくて、交際嫌いな男でした。数年前からやもめになり、一人きりで、自分のなかに沈潜し、何の気晴らしもしないで暮していたのです。
≪ちょっと待って、パパ!≫
彼女がふたたび着物を着るには時聞がありませんでした。私は上衣を着ることを考えませんでした。彼女はドアを開けました。父親がまず見たのは私です。灰色の太い眉の下で目がきびしく光ってました。
≪おまえの雇主か?≫と、彼は娘にたずねました。
≪そうよ。ジョセさん≫
彼の視線はテーブルの上をさまよい、伊勢えびの赤い部分と、ライン産ぶどう酒の壜で止りました。
≪やっぱりそうだったか≫と、彼は椅子に坐りながらつぶやきました。
彼は帽子も取らず、不愉快な仏頂面《ぶっちょうづら》をして私をじろじろながめました。
≪洋服箪笥のなかには、あんたのパジャマとスリッパがあるんでしょうな?≫
彼は間違っていませんでした。私は顔を赤らめました。もし浴室に入ってみたら、彼はカミソリと、ひげ剃りブラシと、歯ブラシと、私のお気に入りの練歯磨《ねりはみがき》を見つけたでしょう。
アネットは最初、父親を見る勇気がなかったのですが、そのうち父親を見つめはじめ、息のしかたが妙なのに気がつきました。まるで階段を上ってきた影響のようでした。それに上半身が妙なぐあいに揺れています。
≪パパ、お酒を飲んだのね?≫と、彼女はさけびました。彼は酒を飲んだことがなかったのです。たぶん昼間のうちにコーランクール通りに着き、女管理人に会ったのでしょう。彼に手紙を書き、事の次第をくわしく知らせたのは女管理人にちがいありません。
通りの向こうの小さなバーで私たちを待っていたのではないでしょうか? あそこから、私たちがこの建物に入るのがよく見えますから。
彼は元気づけのために酒を飲んだのです。灰色がかった顔色をし、だぶだぶの着物を着た男です。昔は肥っていて、おそらくは快活な男だったのでしょう。
≪やっぱり、本当だったか……≫
言うべき言葉をさがしながら、彼は私とアネットを代わるがわる見つめました。彼もどうやら私たち同様、間がわるかったのかもしれません。最後に、私のほうを向くと、彼はおどすような、と同時に、恥ずかしがるような声でたずねました。
≪あんたはどうするつもりなんだ?≫」
[#改ページ]
第三章 新聞に顔写真を載せたがる女管理人
メグレはこの尋問の部分を、もっとも重要と思われる二十か三十のやり取りに要約して聞かせた。彼の話し方はとぎれとぎれだった。パルドン医師との間には沈黙がつづきがちで、その沈黙の間メグレはゆっくりとパイプを吸っていた。まるで自分の話の意味がはっきりしてくるまで待っているかのように。メグレには、言葉がこの友達にとっても彼とおなじ意味を、おなじ響きを持っていることがわかっていた。
「いまではもう古めかしい冗談のタネでしかないありふれた状況。ジョセとおなじ状況に落ち込んでいる人間はパリだけでも何万人といるにちがいない。彼らの多くはこの問題をほとんどうまく片づけている。ドラマがあるとしても、せいぜい、夫婦喧嘩、別居、ときどきは離婚、という程度だ。そして人生はつづいて行く……」
春のかおりとたばこの匂いがするオフィスで、メグレの前に坐っている男は、人生をつづけるために死にものぐるいで闘っている。ときどき、自分にはまだチャンスが残されているかどうかを知るため警視の様子をうかがう。
コーランクール通りの住居での三人の人物による場面はドラマティックであると同時に、さもしい。この、まじめなものと喜劇の、グロテスクなものと悲劇の混合はちょっと説明しにくい。まして、事がすんでからは想像しにくい。メグレには、ジョセがこの場面にふさわしい言葉をさがし、見つけた言葉に満足できないで落胆しているのがよくわかった。
「警視さん、アネットの父親が正直な人間であることは私にもわかっています。しかし……彼がお酒を飲まないことは、すでに申しましたね……彼は奥さんが死んでからきびしい生活を送っていました……彼は心を悩ませている人間のような様子をしています……私にはわかりませんが……これはただ私の推測にすぎませんが、たぶん奥さんを幸福にしてあげられなかったことを悔んでいるのではないでしょうか?
ところで、昨日、コーランクール通りで私たちが帰ってくるのを待ちながら、彼は二、三杯飲みました……彼はあの建物を見張ることができる唯一の場所であるバーにいたのです……何気なくか、自分に勇気をあたえるために酒を注文し、うわの空で飲みつづけたのでしょう……。
私の前に立ったとき、彼は自制心を失ってはいませんでしたが、彼と議論することはできませんでした。
彼の問いに私はどう答えられたでしょうか?
彼は、陰気な表情で私をじっと見つづけながら、くり返しました。
≪どうするつもりなんだ?≫
数分前まで何らやましいところのなかった私、自分たちの恋をすべての人に見せてやりたいほど得意だった私は、とつぜん自分が罪人のような気がしたのです。
私たちはまだ食事をはじめたばかりのところでした。私には、伊勢えびの赤や、ゼラニュームの赤が、青い化粧着を胸のところでにぎりしめ、泣いてはいなかったアネットが目にうかびます。
私はひどく感動して、つぶやきました。
≪デュシェさん、私はお約束します……≫
≪うちの娘が生娘だったことは、あんたにもわかっているでしょうな?≫
父親の口から出たこの言葉がいかに滑稽なものか、私には考えつかなかったのです。この言葉は間違いなのです。アネットは私と出会ったときすでに生娘ではありませんでしたし、生娘であるようなふりをしようともしませんでした。
もっとおかしいのは、彼女が生娘でなくなったのが間接的には父親のせいだということなのです。この孤独の人間嫌いは、仕事での上役である彼とおなじ年齢の男にたいしてだけは感嘆の気持を惜しみませんでした。慎ましい友情と、一種の崇拝心さえ抱いていたのです。
アネットは初めこの男のオフィスでタイピストとして働きました。デュシェはそのことに祖国に息子を捧げた父親たちとおなじような誇りを感じていたのです。
ばからしいじゃありませんか、そうでしょう? アネットが最初の経験をしなければならなかったのはこの男となのです。しかし、相手がインポだったため、それは不完全なものでした。彼女は心につきまとうその思い出から逃れるため、またその男と二度とおなじことをくり返さないため、パリにやってきたのです。
私は父親にそのことを言う勇気がありませんでした。言葉をさがそうとして、私は黙り込みました。
父親はねばっこい声で言い張りました。
≪奥さんは承知なんですかね?≫
私はよく考えもせずに、知っていると答えました。その結果など、どうでもよかったのです。
≪奥さんは離婚してくれますか?≫
白状しますが、私はふたたび大丈夫だと答えてしまったのです」
メグレはきびしい目つきでジョセを見つめ、そしてたずねた。
「あなたは実際には離婚のことなど考えてもいなかったのですね?」
「わかりません……あなたは真実を知りたいのでしょうね? 離婚のことは考えたことはなかったでしょうが、はっきりとではありません……私は幸福でした……自分を仕合せな男としてながめることに、ささやかなよろこびを味わっていたのでしょう。だから私には勇気が……」
彼はあいかわらず正確であろうと努力していた。しかし、不可能な部分まで正確であろうとするあまり、落胆してしまうのだった。
「つまり、あなたには現状を変える理由がぜんぜんなかったのですね?」
「もっと複雑なのです……私はクリスティーヌともある時期を経験しました、物事がすべて異なってみえる時期とでも言ったらいいのでしょうか……人生が輝かしく思える時期の一つ……おわかりいただけますか……それから少しずつ、現実が姿をあらわしてきて……私はクリスティーヌが別の女に変わるのを見ました……私はそうなってほしくなかったのです……しかし、それはどうしようもないことだということが私にはわかりました……ただちに真実を発見しなかったのは私のほうです……。
私の目の前で変身をとげたもう一人のクリスティーヌも刺激的でした、以前の彼女よりも刺激的ではなかったでしょうか……ただ彼女は情熱を抱かせたり、有頂天にさせたりはしませんでした……別の世界にいたのです……」
彼は額を手でぬぐったが、そのしぐさを彼はますますひんぱんにくり返すようになる。
「あなたには信じていただきたいのです! 私はすべてをあなたにわかっていただこうとしました……アネットは、クリスティーヌとは違っています……私も変わりました……私はいまでは年齢《とし》を取っています……私はアネットがあたえてくれるものだけで仕合せでした。それ以上は望みませんでした……あなたは私の態度をエゴイストだと、あるいは破廉恥だと思いますか?」
「あなたはアネットを奥さんにして、ふたたび新しい生活をはじめようという気はなかった……それなのにあなたは父親に言ったんですね……」
「私は自分の言った言葉を正確にはおぼえていません……父親の前で、私は恥ずかしかったのです……罪人のような気がしたのです……それに喧嘩を避けたかったのです……私はアネットを愛していると誓いました、これはまぎれもない事実なのですから……できるだけ早く私はアネットと結婚すると約束しました……」
「あなたはそのとおりの言葉を使ったのですね?」
「たぶん……とにかく私は大変熱っぽくしゃべりました。デュシェさんも気持を動かされたほどです……いつ正規の手続きを取るかだけが問題だと私は言いました……コーランクール通りでの話にけりをつけるため、もっと滑稽なことまでお話ししてしまいますが、最後に、私は婿のような気分になって、冷蔵庫にいつもおいてあるシャンパンの壜を開け、乾杯までしたのです……。私がその建物を出たときは、もうすっかり暗くなっていました。私は車に乗り、しばらく街を当てもなく走りました……。
私のとった態度がよかったのか、わるかったのか、もう私にはわかりませんでした……私はクリスティーヌを裏切ったような気がしました……私は動物を殺すことだってできない人間です……しかし一度だけ、田舎の友達の家で、にわとりの首を切るように言われたことがあり、いまさら尻ごみもできなかったので……みんなが私を見ていたのです……私は二度やり直さなければなりませんでした。まるで死刑を執行したような気分でした……。
たったいま私がしてきたことはちょっとこれと似ているかもしれません……ほろ酔いの好人物が私の目の前で侮辱された父親の役を演じたので、私はクリスティーヌとの十五年間の共同生活を捨てたのですから……私はクリスティーヌを犠牲にすることを約束し、誓ったのです……。
こんどは私が、最初に目についた居酒屋《ビストロ》で飲みはじめました……レピュブリック広場から遠くないところにある店で、こんな方面に来ていたことにわれながらおどろきました……それからシャンゼリゼに行き、別のバーに入り、そこで妻に言うべきことをあれこれと考えながら、立てつづけに三、四杯飲みました……私はいろいろな文句を考え出しては、ためしに小声でそれを口に出して言ってみました……」
とつぜん哀願するような表情で、彼はメグレを見つめた。「あの、すみませんが……こういうことは許されないことでしょうが……ここに何か飲みものがありませんか? 私はいままで我慢してきました……しかし、からだのほうが、わかっていただけますね? ……前の日に飲みすぎたときには……」
メグレは立って戸棚を開け、コニャックの壜を取ると、ジョセに一杯注いでやった。「ありがとうございます……私はずっと自分のことが恥ずかしいのです……この気持は昨夜から、あのグロテスクな場面からつづいています。しかし、それは人々が想像するような理由のためではありません……。
私はクリスティーヌを殺していません……そんなこと一瞬だって考えたことはありません……私はいろんな解決策をさがしました。本当です。ありそうもない解決策を。というのは、こんどは私が酔っていたからです……たとえ私が彼女に殺意を抱いていたとしても、実際にはそんなことできないでしよう……」
パルドン家ではあいかわらず電話が鳴らなかった。あの小柄な洋服屋は死んでいないのだ。彼のおかみさんはいまでも待ちつづけ、子供たちは眠り込んでしまったにちがいない。「このとき」と、メグレは言った。「私は時機がきたと考えた」
彼は何の時機かはっきり言わなかった。
「私は考えを固めようと、可否を熟考しようと努めた……私の電話が鳴った……ジャンヴィエからで、刑事部屋からかけていた……私は言い訳を言って出た。
ジャンヴィエは夕刊の新しい版を私に見せたかったのだ。インクはまだ乾いていなかった。大きな活字で、こういう見出しがついていた。
≪アドリアン・ジョセの二重生活
コーランクール通りでの激しい口論≫
≪他の新聞もこの情報を手に入れたのか?≫
≪いいえ。この新聞だけです≫
≪新聞社に電話して、どこからこの情報を手に入れたか調べてほしい≫」
ジャンヴィエが電話している間、メグレは新聞の記事を読んだ。
≪アドリアン・ジョセの私生活についていくつかのたしかな情報を入手した。前述の記事でごらんのように、彼の妻は昨夜オートゥイユの邸宅で殺された。
友人たちはこの夫婦を非常に仲のいい夫婦だと考えていたが、この製薬会社の経営者は実際には、一年前から二重生活を送っていた。
彼は秘書のアネット・D……(二十歳)の愛人になり、コーランクール通りのアパルトマンに彼女を住まわせた。そして、朝晩スポーツ・カーで送り迎えしていた。週に二、三度、アドリアン・ジョセは愛人のところで夕食をとり、泊ることもしばしばだった。
ところで、昨夜ドラマティックな出来事がコーランクール通りであった。フォントネイ・ル・コントの立派な公務員である若い娘の父親が不意に娘を訪ねてきて、水入らずでいる二人と顔をつきあわせたのである。
男たちの間にははげしい口論がくりひろげられたことと思うが、あいにくD……氏に会うことができなかった。氏は今朝パリを去ってしまったらしい。しかし、コーランクール通りの出来事は、しばらくのちにオートゥイユの邸宅で起こった殺人事件とおそらくは無関係ではあるまい≫
ジャンヴィエが受話器をおいた。
「その記者を電話に呼び出すことができませんでした。社にいないのです……」
「ここにいるんじゃないか。廊下で他の連中と一緒に待っていると思うよ」
「そうかもしれませんね……電話に出た女は私に何も言いたがらないのです……彼女は、正午頃編集局にかかってきた匿名《とくめい》の電話のことをもらしました、ラジオが事件のことを報じたすぐあとらしいです……私には、その匿名の電話は女管理人だなということがわかりました……」
三十分前、ジョセにはまだ、好条件で自分の身を守るチャンスがあった。彼は容疑者ではなかった。容疑者と考えたとしても、彼に不利な物的証拠は何一つなかった。
コメリオは自分のオフィスで、この尋問の結果を待っている。彼は早く世間の人々の前に犯人を引き出したいと考えているが、警視の意見に反対してまでもそういうことはすまい。
新聞に自分の写真を載せてもらいたくてしかたのなかった女管理人が、たったいまこの状況を変えてしまったのだ。
世間の人々にとって、ジョセは今後は二重生活の男であり、彼とおなじような立場にある数千人の男たちでさえ、そこに彼の妻の死の原因を見てしまうだろう。
これらのことは、メグレがドアの向こうの自分のオフィスですでに電話が鳴っているのを聞いたとおなじように、たしかなことである。メグレが自分のオフィスにもどると、ラポワントが受話器を取って、しゃべっていた。
「ただ今もどってまいりました、判事さん……警視《パトロン》とかわります……」
もちろん、コメリオだ!
「メグレ、読んだかね?」
メグレはかなりつっけんどんに答えた。
「わかってます」
ジョセは自分のことが問題になっているのをよく知っていて、話の内容を理解しようとした。
「新聞に情報を提供したのはきみかね? 女管理人はきみのところに知らせてきたのか?」
「いえ。彼は自分でそのことを私に言いましたよ」
「自分の自由意志で?」
「ええ」
「彼は昨夜、本当にあの娘の父親に会ったのか?」
「そのとおりです」
「そういうことならば、きみにだって……」
「私にはまだわかりません、判事さん。尋問はつづけます」
「まだ長い間つづきそうかね?」
「そんなことはないでしょう」
「できるだけ早く、くわしい話を聞かせてほしい。それまでは新聞にはいかなる情報も流さないでもらいたいな」
「そうします」
ジョセに、このことを話さなければならないだろうか? 話したほうがいいだろうか? いまの電話でジョセは不安になっていた。
「判事さんからだと思いますが……」
「判事は私に会うまでは何もしない……さあ、坐って……落着きなさい……私にはまだ、あなたにすべき質問がたくさんある……」
「いましがた何かがあったのですね?」
「そう」
「私にとってわるいこと?」
「かなり……そのことはあとで話しますよ……どこまで話が行きましたか……エトワール界隈のバーでしたね……これらのことはすべてあとで調べられますが、かならずしもあなたの話が疑われているということではなく、まあ、いわばおきまりのことなのです……そのバーの名前を知っていますか?」
「≪セレクト≫……バーテンのジャンは、ずっと前から私を知っています……」
「何時でした?」
「私は腕時計も、バーの時計も見ませんでしたが、九時半頃でしょう……」
「だれともしゃべりませんでしたか?」
「バーテンと話しました」
「心配ごとをもらしましたか?」
「いや……バーテンは私の酒の飲み方を見て、察したのです……私はいつもそんな飲み方をしませんから……彼はこんなようなことを私に言いました。
≪なにかうまくないことがあるんですか、ジョセさん?≫
私はこう答えたにちがいありません。
≪非常にまずいことが……≫
そうです、このとおりです。そのあとで、私は酔っぱらいのたわごとと取られてしまうことを恐れて、自尊心からつけ加えました。
≪おれは食べてはいけないものを食べてしまった……≫」
「それでは、頭ははっきりしていたんですね?」
「私は自分のいるところも、自分のしていることも、どこに車をおいてきたかも知っていました……この少しあとで私は赤信号で停りました……あなたが頭ははっきりしていたかというのは、そういうことですね?……それでもまだ、いつもとはちょっと違っていたのではないでしょうか……私はぐちを言い、涙もろくなっていたのですから。そんなことはいつもの私にはあるまじきことです……」
しかし、彼は弱い人間なのだ。彼の話がそのことを十分に証明しているし、顔や態度にもそれがあらわれている。
「私はくり返しつぶやいていました。
≪なぜおれが?≫
私は罠《わな》に落ちたような気がしました。アネットまで疑う始末でした……彼女が父親に知らせてパリに来させ、私に食ってかからせ、私を窮地に追い込んだのではないかと。
別の瞬間には、私が非難しているのはクリスティーヌでした……私が成功し、いっぱしの人間になれたのは彼女のおかげだと言い張る人がいます……たぶんそのとおりでしょう……しかし、私の生涯が彼女がいなければどうなっていたか、だれにも知ることはできないでしょう……。
私を、私のものでない世界に入れたのも彼女です。その世界では、私はただの一度も落ち着けたことがありませんでした……ただ、会社のオフィスにいるときだけが、私には……」
彼は頭を振った。
「疲れていなければ、私はこうしたことをもっとうまく説明できるのですが……クリスティーヌは私に多くのことを教えてくれました……彼女のなかには良いところとわるいところがあるのです……彼女は仕合せではありません。一度だって仕合せなときがなかったのです……これからも仕合せになれないだろうと思います……私は彼女の死がうまく納得できないことは、あなたもおわかりですね……それが、この件について私が無関係であることの証明《あかし》ではないでしょうか?」
そんなことは証明にはならない。これまでの経験でメグレにはそれがわかっていた。
「≪セレクト≫を出たあと、あなたは家に帰りましたか?」
「ええ」
「どんな気持で?」
「クリスティーヌに話そうと。すべてを彼女に話し、どうすべきかを彼女と話し合おうと」
「そのとき、離婚の可能性を考えていましたか?」
「それが私にはもっとも簡単なことのように思われたのですが、しかし……」
「しかし?」
「この考えを妻に受け入れさせることがむずかしいことは、私にはわかっていました……そのことをわかってもらうためには、彼女という人間をあなたに知ってもらう必要があるでしょう。
彼女の友達は、彼女の表面的なところしか知りません……実のところ、私たちの関係はもう以前とはおなじではありませんでした……すでに申したとおり、私たちはもう一緒に寝ていませんでした……私たちはときどき衝突し、たぶん憎み合いもしたでしょう……それでも彼女のことを知っているのは私一人でしたし、彼女もそのことをよくわきまえていました……私といるときだけ、彼女は本当の姿を見せたのです……私はクリスティーヌを裁きませんでした……彼女は私がいなければ、淋しくて困ったのではないでしょうか? ……彼女は一人きりになることをとても恐れていました! ……彼女が年を取ることをひどく悩んだのは、この恐れのためです。というのは、彼女にとって、年を取ることと孤独はおなじことでしたから……。
≪お金があるかぎり、わたしはいつでも男を手に入れることができるわね?≫
彼女は冗談半分にこう言ってましたが、実は本音なのです。家から出ていくなどと、私は無分別に彼女に告げることができたでしょうか?」
「しかし、あなたはそのことを決心していた?」
「ええ……しかし、はっきりとではありません……そういうものではありません……私はコーランクール通りの出来事を彼女に話し、彼女に意見を求めるつもりでした……」
「よく彼女に意見を求めていたのですか?」
「そうです」
「仕事のことでも?」
「重要な仕事のことでは、いつでも」
「あなたがアネットとの仲を奥さんに知らせる必要を感じたのは、ただ正直な気持からだけですか?」
彼はこの質問にびっくりし、考え込んだ。
「あなたの言いたいことは私にはよくわかります……まず、私たちの間の年齢の違いがあります……クリスティーヌに出会ったとき、私はほとんどパリを知らず、貧乏学生が見ることができるものしか見ていなかったのです……彼女は別の種類の生活について、別の社会について私にすべてを教えてくれました……」
「ロペール通りにもどったとき、なにが起こりました?」
「私はクリスティーヌが帰っているかどうかを考えました。そんなことはありそうもないことでした。しばらく待つ覚悟をきめました。そう覚悟すると、ほっとしました。私には自分を元気づける必要があったからです……」
「飲みつづけることによって?」
「そうかもしれません。飲みはじめると、飲めば飲むほど落ち着くような気持になるものです。玄関の前にキャデラックがありました」
「家のなかに明りは?」
「私が気がついたのは階上《うえ》のカルロッタの部屋の明りだけです。私は鍵を開けて、家に入りました」
「閂《かんぬき》をかけましたか?」
「その質問を待っていました。というのは、今朝もその質問をされたからです。私は無意識的に閂をかけたと思います。そうするのが習慣ですので。しかし、その記憶がまったくないのです」
「その時間はわかりませんか?」
「いや。私はホールの時計を見ました。十時五分前でした」
「奥さんがそんなに早く帰っていることに、おどろかなかったのですか?」
「ええ。彼女は既定のルールどおりには生きていない女です。だから、彼女がつぎに何をする決心をするか、予測するのはむずかしいのです……」
彼はクリスティーヌのことを現在形で話しつづけた。まるで彼女がまだ生きているかのように。
「警視さんはあの家に行かれましたか?」と、こんどはジョセがたずねた。
メグレはざっと見ただけで、あまりよく見ていなかった。すでに検事局の者が来ていたし、ポール医師、所轄署の署長、鑑識課の連中も七、八人いたからだ。
「もう一度あそこに行ってみる必要があるだろう」と、メグレは小声で言った。
「一階にバーがありましたね……」
一階は、実際はだだっぴろい一部屋でしかないのだが、壁の仕切りや、思いがけない片隅があったりして入り組んでいる。メグレはシャンゼリゼにあるのと同じように大きなバーがそこにあったのをおぼえていた。
「私はウィスキーを一杯注ぎました……妻はウィスキーしか飲まないのです……肱掛椅子にどっかりと腰をおろすと、私はしばらく休みました……」
「明りをつけましたか?」
「入ったときにホールの明りをつけましたが、すぐに消しました。窓にはよろい戸がついてないのです。家から十メートルのところにある街燈の明りで、部屋は十分でした。それに、満月に近かったのです……私はしばらく月をながめていたのをおぼえています。月を証人にしたいほどですね……。
もう一杯注ぐために、私は立ち上りました……私のところのグラスはとても大きいのです……手にウィスキーを持って、肱掛椅子にもどると、私は考えつづけました……。
警視さん、私はこうして眠り込んでしまったのです。
今朝の刑事さんは私の言葉を信じないで、もっとうまい言い訳をするようにすすめました。私がいやだと言うと、彼は怒り出したのです……。
しかし、これは真実なのです……私が眠り込んでいる間に事件が起こったとしたら、私には物音が聞こえなかったでしょう……私は夢も見ていませんでした……私は何もおぼえていません、ぽっかりとあいた空白以外は……この言葉よりうまい言葉が見つからないのです……。
わき腹が痛くなって、私は徐々に目がさめていきました、からだが凝ったのです……。私は意識がはっきりするまでしばらく坐っていて、それから立ち上りました。……」
「酔っていましたか?」
「その辺ははっきりしません……いまでは、あれは悪夢のように思われます……私は明りをつけ、アルコールをまた飲もうかどうしようかとためらったあとで、水を一杯飲みました……それから、階段を上って行きました……」
「奥さんを起こして、アネットとのことを話し合うつもりで?」
彼は答えず、びっくりしたような、咎《とが》めるような目でメグレを見つめた。その目はこう言っているようだった。
「あなたがそんなことを私に訊くのですか?」
メグレはちょっと気おくれがして、こうつぶやいた。
「話をつづけて……」
「私は自分の寝室に入り、明りをつけました。鏡に自分の姿が映っていました。頭が痛み、隈《くま》のできた目や、伸びているひげがひどく不愉快でした。何気なく、私はクリスティーヌの寝室のドアを開けました……そして、あなた方が今朝ごらんになったような姿の彼女を見たのです……」
からだがベッドから半分はみ出し、頭が血のしみのついた毛皮のカーペットの上にたれ下っていた。シーツや、サテンの掛けぶとんも血でよごれていた……。
ポール医師はあわただしい検視で……いま、彼は死体の解剖にかかっているところだ……、二十一の傷を数えた。それらの傷はすべて、報告書では専門用語で鋭利な道具と呼ばれるものによってつけられたものだ。
実際、ひどく鋭利な道具で、しかも思いきり突き刺していたので、首などはちぎれかかっていた。
メグレのオフィスは静まりかえっていた。窓の向こう側で、生活がおなじリズムで営まれ、太陽が光り輝き、空気がひどく心地よいとは、ちょっと信じられないように思われた。サン・ミッシェル橋の下では、二人のルンペンが眠っていた。顔に新聞をかぶせ、物音など気にならないようだった。岸壁に坐ったアベックが水の上に脚をたらしている。水には彼らの姿が映っていた。
「どんなに細かなことでも忘れないようにしてほしい」
ジョセはそうするというようにうなずいてみせた。
「奥さんの寝室の明りをつけましたか?」
「そんな勇気はありませんでした」
「奥さんに近づきました?」
「かなり遠くから見ていました」
「奥さんが死んでいるのをたしかめなかったのですかね?」
「死んでいるのは明らかでした」
「あなたの最初の反応は?」
「電話をすること……私は電話に近づき、受話器をはずしさえしました……」
「だれを呼び出すために……」
「わかりません……警察のことはすぐに思いうかばなかったのです……それよりパデル医師のことを考えました。彼は私たち夫婦の友達なのです……」
「なぜ、その医者に知らせなかったのです?」
彼はささやくような声で、くり返した。
「わかりません……」
額に手をやり、彼は考え込んだ。みごとに芝居しているのかもしれない。
「私が電話するのをやめたのは、言葉のためです……何を言ったらいいのか?
≪クリスティーヌが殺された……来てください……≫
すると、私はいろいろな質問を浴びせかけられるでしょう……警察が家のなかに入り込みます……警察と顔をあわせる気にはなれませんでした……だれかにちょっとでも押されたら、私は倒れてしまったかもしれません……」
「あなたは家のなかで一人きりではなかった……女中が階上《うえ》で眠っていました……」
「ええ……私のしたことはすべて筋が通っていないように思われます。しかし、私は私なりに一応ちゃんと行動したつもりなのですが……私は気違いではありませんから……。
浴室に飛び込んで吐いたのも事実です……それで、いくらか時間が無駄になりました……洗面器にかがみ込んで、私は考え込みました……だれも私を信用しない、私は逮捕され、尋問され、刑務所にぶちこまれるだろうと……。
私はひどく疲れていました! 数時間か数日、時をかせぐことができたら……逃げるのではない、ただ、よく考える時間がほしいだけ……気が動転していたのかもしれませんね……こんなことをあなたに言った人はだれもいませんか?」
ジョセは、いままでにもこのオフィスに、自分のように疲れ切り、血走った目をしたたくさんの人間が連れてこられ、嘘や、隠していた真実を少しずつしゃべらされていったことをよく知っていた。
「……私は冷たい水で顔を洗いました……もう一度、鏡にうつる自分の姿をながめ、頬に手をやり、ひげを剃りだしました」
「なぜ、几帳面に、ひげなど剃ったのです?」
「私はすばやく考えたのです、たぶん筋など通っていなかったでしょう。しかし、私はつぎからつぎへとうかぶ考えをこんがらかせないように努力しました。
私は出ていく決心をしたのです。車でではありません。車では、あまりにも目立ちすぎるからです。それに、私には何時間も車を運転している気力がありませんでした。いちばん簡単なことはオルリー空港に行って、飛行機に乗ることです。どの飛行機でもかまいません。私は仕事でよく旅行するのです。不意の出張のときもあります。それで、私のパスポートにはいつでもいくつかのビザが押してあります……。
私はオルリー空港に行くのに必要な時間を計算しました……私の懐にはほとんど金がありません。たぶん二、三千フランでしょう。妻の寝室にもそれ以上の金はないはずです。というのは、私たちはすべてを小切手で払う習慣があったからです……面倒なことでしたけど……。
こうしたことに没頭していると、クリスティーヌの身に起こったことを考えないですみました……私はこまかいことを考えつづけるようにしました……ひげを剃ったのもそのためです……オルリー空港の税関吏たちは私のことを知っています……彼らは私が神経質なほどおしゃれなことを知っているので、ひげも剃らずに私が旅行に出かけるのを見たらびっくりしたでしょう……。
私はマルソー並木通りの会社のオフィスに行かざるをえませんでした……金庫に大金がなかったとしても、二、三十万フランあることはたしかでした……。
たとえ見せかけにすぎないとしても、スーツケースが必要でした。私はそのなかにスーツや、下着類、化粧道具を押しこみました……。私は時計のことを考えました……私には時計が四つあって、そのうちの二つはかなり高価なものです……お金がなくなったら、それを売ればいい金になるでしょう……。
時計のことから、私は妻の宝石のことを思い出しました……この先、どんなことが起こるかもしれません……私はたぶん、ヨーロッパの果てか、南アメリカに行くことになるでしょう……アネットを連れていくかどうかは、私にはまだわかりませんでした……」
「彼女を連れて行くことを考えましたか?」
「考えたと思います……ある意味では、一人きりにならないため……ある意味では、義務のため……」
「恋のためではないのですか?」
「私はそうは考えませんでした。率直に言って、私たちの恋は……」
ジョセはつづけた。
「私たちの恋は、はっきりと限定されたものなのです……私のオフィスのなかの彼女、毎朝コーランクール通りからマルソー並木通りまで私の車でするドライブ、小さなアパルトマンでのささやかな夕食、私には、たとえばブリュッセルとか、ロンドンとか、ヴェノスアイレスとかでアネットと一緒にいるところは想像できないのです……」
「それでも、彼女を連れていくつもりでしたか?」
「……たぶん父親とした約束のために……そのあとで、私はコーランクール通りに父親が泊ったかもしれないと思ったのです……真夜中、あそこで父親と顔をつき合わせたら、どう言ったらいいのです?」
「奥さんの宝石を取りましたか?」
「一部だけ。小さな化粧台のなかにあった宝石、つまり妻が最近身につけていた宝石です……」
「その他に何もしませんでしたか?」
彼はためらい、うなずいた。
「ええ。もうそれ以上のことは……私は明りを消し、そっと階段をおりました……そこでまたもや、もう一杯飲もうか飲むまいか迷いました。胃がむかついたからです。しかし、私は我慢しました……」
「あなたは車に乗った?」
「それは用心深いとはいえないと思ったのです……カルロッタがエンジンの音を聞いて、階下に降りてくるかもしれないからです……オートゥイユ教会の近くにタクシー乗り場があるので、私はそこまで歩いて行って……」
彼は空のグラスをつかむと、おどおどした目でメグレを見ながら、差し出した。
「いただけますか?」
[#改ページ]
第四章 アドリアン・ジョセの夜
いつか、あの有名なメグレのものやわらかな尋問と、アメリカ警察の伝説的な拷問による尋問とについて話したとき、メグレは、尋問をうまく切り抜けられる容疑者はばかな奴だけだと言ったことがある。このジョークはある新聞記者の耳に入り、大きな反響をよんで、いまでもときどき新聞でいろいろと形をかえて話題になる。
メグレが実際に言いたかったのは……いまでもそう信じていることであるが……、愚かな人間はとうぜん疑い深いし、いつでも守勢にまわり、もっともらしく見せようなどとは考えもせず、最少限の言葉でしか答えない。あとで話の食い違いをつかれても、狼狽しないし、自分の言ったことにひどく固執する。
逆に、利巧な人間は説明する必要を、相手の心から疑いを晴らす必要を感じる。相手を納得させようと努めながら、つねに予測される質問の先手先手と行き、あまりにもこまかくしゃべりすぎる。そして、話に辻つまを合わせようと固執するため、ついには見破られてしまう。
いったんその論理がくずれだすと、狼狽し、自分を恥じて、自白してしまうこともめずらしくない。アドリアン・ジョセも質問の先手先手を行き、辻つまの合わないように見える行動を説明しようとしている。
ただ彼はこの辻つまの合わない点を認めているだけではなく、声高で強調し、ときどきそこに手がかりを求めているような様子をする。
有罪であろうと無罪であろうと、彼は捜査の仕組みを十分承知しているので、いったん捜査がはじまれば、あの夜の彼の行動は早晩、どんな些細な点までも洗いだされてしまうことをわきまえている。
ジョセは熱意をこめてすべてを語った。二、三度メグレは、彼の好みではあまりにも早すぎるこの種の自白を、もう少しで止めさせるところだった。
というのは、メグレはいつも自白させる時機を自分で選んだからだ。彼は自白の前に、事件についてより完全な、より個人的な理解をしておきたかったのである。今朝、彼はロペール通りの家にちょっと立ち寄っただけだし、そこに住んでいる人たちについてまだ何も知らないし、犯行についてもほとんど何も知らなかった。
メグレはまだだれにも質問していなかった。スペイン人の女中にも、料理女のシラン夫人にも。シラン夫人は息子が地下鉄で働いているので、毎晩ジャヴェルに帰る。
隣人についての知識もないし、アネット・デュシェにも、いささか謎めいた呼び出しをうけてフォントネイ・ル・コントからやってきた父親にも会っていない。それにまだ、≪ジョセ・エ・ヴィリュー製薬会社≫のことも、ジョセの友人たちのことも、その他の多少とも重要な多くの人物たちについても知らなければならない!
ポール医師は解剖を終えている。彼は警視からいつもの電話がかかってこないことにおどろいているにちがいない。いつもの警視なら、ポール医師が報告書を書くまで待ちきれないのだ。階上《うえ》の鑑識課でも、今朝見つけた指紋を調べている。
トランス、リュカ、それに十人ほどの刑事たちがいつもの仕事に取りかかっているし、オルフェーヴル河岸のオフィスのなかでは、カルロッタやその他のあまり重要でない証人たちを尋問している。
メグレはジョセの尋問を中断して、いろいろな情報を求めに行くこともできただろう。速記用ノートの上に身をかがめつづけているラポワントにしたって、メグレが尋問を特別な方向にもって行ったり、ジョセを窮地に追いつめたりしないで、ただひたすら相手の話を聞いているだけなのを見てびっくりしている。
メグレの質問には専門的なものがほとんどなかったし、そのいくつかはあの夜の事件とはあまり関係ないように思われるものだった。
「いいですか、ジョセさん、マルソー並木通りの会社にしろ、サン・マンデの研究所にしろ、ときどき従業員を馘《くび》にしなければならなかったと思いますが?」
「そういうことはどこの会社にでもあります」
「あなたが自分でそれをやるのですか?」
「いや……ジュールさんにまかせています……」
「ときおり、仕事の上での悶着があるでしょう?」
「それも避けがたいことです。たとえば、三年前に、うちの製品の一つにまぜ物がはいっていたため、死んだ人がいると言われたことがあります……」
「だれがその処置にあたりました?」
「ジュールさん」
「私に間違いがなければ、彼は人事部長であって、販売の責任者ではないでしょう……それなのに……」
メグレは話を途中でやめ、しばらく考えてからつけ加えた。
「あなたは不愉快なことを人に言うのがいやなのですね? そう、あなたはコーランクール通りで、デュシェさんと顔をつき合わせたとき、率直に説明するよりも、何でもかまわず約束してしまった。離婚することも、彼の娘と結婚することも……。
奥さんが死んでいるのを見つけたときも、あなたは近づこうとはせず、明りさえつけなかった。あなたの最初に考えたことは家から出て行くことだった……」
ジョセは頭をたれたままだった。
「そのとおりです……私は気が動転してしまったのです……その他には言いようがありません……」
「あなたはオートゥイユ教会の近くでタクシーに乗った?」
「ええ。灰色のプジョー四〇三。運転手には南仏|訛《なま》りがありました……」
「マルソー並木通りに行かせた?」
「そうです」
「何時でした?」
「わかりません」
「あなたは大時計の前を何度も通ったはずです。あなたは飛行機に乗るつもりだったし、よく飛行機で旅行もしている。だから、いくつかの便の時刻表は知っている。時間はあなたにとって非常に重要だったはずですよ……」
「そのことはすべてわかっております。しかし、私には説明ができないのです。物事は冷静なときのようには行かないのです」
「マルソー並木通りにタクシーを待たせておきましたか?」
「私は人目を惹きたくありませんでした。タクシー料金をはらって、歩道を横切りました。ちょっとポケットのなかをさがしてみて、私は鍵を忘れてきたと思いました」
「ぎょっとしましたか?」
「いや。私はパリを去るつもりでしたが、しかし私は運命論者なのです。それに、鍵が見つかったのです、いつも入れるのとは別のほうのポケットにあったのです。私はなかに入りました」
「門番を起こす危険はなかったのですか?」
「その場合、どたん場になって出張が決り、それに必要な書類を取りにきたと言訳するつもりでした。しかし、私はそんなことは気にしてませんでした」
「門番は物音を聞きつけましたか?」
「いや。私は自分のオフィスに入りました。金庫を開け、なかにあった四十五万フランを取り、税関で身体検査をされた場合のために、どこに隠そうかと考えました。しかし、そのことはあまり深く考えませんでした。というのは、私は一度だって税関で身体検査をされたことがなかったからです……いつもの場所に坐って、十分ほどじっと動かず、まわりをながめていました」
「そのとき出発するのはやめようと決心したのですね?」
「私は疲れすぎていました。もう気力がなかったのです……」
「何の気力が?」
「オルリー空港に行く気力、切符を買い、待ち、バスポートを見せ、びくびくする気力が……」
「つかまるかと恐れて?」
「質問されるかと恐れて。私はずっとカルロッタのことを考えつづけていました、いま頃彼女は階下に降りてきているかもしれない。外国の空港に着いたとしても、私にはまだ質問される危険があったのです。いちばんいいのは、だれもいないところで、新しい生活をはじめることです……」
「金庫に金をもどした?」
「ええ」
「そのあとどうしました?」
「スーツケースが私には邪魔でした。私は飲みたくてしかたがありませんでした。これは固定観念でした。いままではうまく行かなかったが、こんどは少しのアルコールがあれば冷静になれると私は信じていました。またタクシーを見つけるために、エトワール広場まで行かなければなりませんでした。私は運転手に言いました。
≪まずバーの前に停めてくれ……≫
タクシーは二百メートルほど走っただけでした。私はスーツケースを車に残し、ストリップ・ショーをやっている店に入って行きました。そこがどんな店かなどということは気にしませんでした。給仕頭が私をテーブルに案内しようとしましたが、私はそれをことわり、バーに肱《ひじ》をついて、ウィスキーを注文したのです。客引女が私に飲物をねだりました。おとなしくさせるため、バーテンに何か飲ましてやるように合図しました。フロアでは、女が黒い下着を脱いで行き、少しずつ真白い肌を見せています。
私は二杯飲み、金をはらい、外に出ると、ククシーにもどりました。
≪どこの駅にやります?≫と、運転手が私にたずねました。
≪オートゥイユに。シャルドン・ラガシュ通りを通ってくれ。停めるときは私が言うよ……≫
スーツケースは私に罪の意識をあたえました。タクシーを家から百五十メートルほどのところで停めさせると、明りがついていないことをたしかめてから、家のなかに入りました。物音一つしませんでした。必要最少限の明りだけつけ、私は妻の宝石と、自分の着物や化粧道具を元にもどしておきました。小さな化粧台と宝石には私の指紋が見つかるでしょう、もっともまだそこを調べていないとしての話ですが……」
「それでは、あなたはふたたび寝室に入ったのですか?」
「そうせざるをえなかったのです」
「あなたは見なかった?」
「ええ」
「あいかわらず、警察に電話することは考えなかった?」
「また引きのばしました……」
「それからどうしました?」
「外に出て、通りをぶらつきました」
「どの方向に?」
ジョセはためらった。ジョセをじっと見つめていたメグレは、眉をひそめ、いらだたしげに言った。
「十五年前から住んでいる見慣れた街でしょう。いくら気がかりなことがあろうと、いくら気が顛倒していようと、自分の通った場所ぐらい少しはおぼえているはずだ」
「ミラボー橋のことはよくおぼえています。はっと気がついたときには、そこにいたのですから」
「ミラボー橋をわたったのですか?」
「わたり切りませんでした。真中あたりで、手すりにもたれて、セーヌ河の流れをながめてました……」
「何を考えてました?」
「たぶん私は逮捕され、数カ月とはいわないまでも数週間は、つらい、ヘとへとになるような問題でじたばたもがくだろうと……」
「それから、引き返した?」
「ええ。警察署に行く前に、もう一杯飲みたくなりました。しかし、どこも開いていませんでした。またもや、私はもう少しでタクシーを拾うところでした」
「アネット・デュシェには電話がありますか?」
「私がつけさせました」
「彼女を電話に呼び出して、起こったことを知らせようとは一度も考えなかったのですか?」
ジョセは考え込んだ。
「そうだったと思いますが、いまになってはもうわかりません。とにかく、私はそうしなかったのです」
「だれが奥さんを殺したのか、あなたは一度も考えようとしなかったのですかね?」
「私が罪を着せられるだろうとばかり考えていました」
「私の手もとにある報告書によれば、あなたはエグゼルマン大通りと、シャルドン・ラガシュ通りの角にあるオートゥイユ警察署に三時三十分に出頭しています。勤務中の警官に名刺をわたし、署長に個人的に話したいことがあると言った。警官はそんなことはこの時間ではむりだと答え、あなたをジャンネ刑事のオフィスに案内している」
「その刑事さんは私に名前を言いませんでした」
「刑事はまずあなたに手短かに質問した。あなたが家の鍵をわたすと、刑事はロペール通りに車をやった……ここに、そのあとであなたがおこなったくわしい供述がある……私はそれを読んでいない……この供述は正確ですか?」
「そう思います……オフィスのなかはとても暑かったのです……とつぜん私はひどい疲れをおぼえ、眠りたくなったのです……刑事さんはあるときは乱暴に、あるときは皮肉っぽくつぎつぎと質問を浴びせてきました。私はいらいらしました……」
「あなたは実際に、二時間も眠り込んでしまったようです」
「どのくらいの時間だったか、私は知りません」
「つけ加えることは何もありませんか?」
「わかりません……たぶん、あとで何か思い出せるかもしれません……私は疲れ果てていました……すべてが私に不利だし、真実を証明することはとうてい私にはできそうには思えません……私はクリスティーヌを殺さなかった……私はいつでも、だれであろうと、人を苦しめないように努めてきたのです……信じていただけますか?」
「私にはまだ何とも言えません……ラポワント、その調書をタイプしてきてくれないか?」
そして、ジョセに、
「ちょっとお待ちください……タイプされた調書ができたら、それを読んでサインしてほしいのです……」
メグレは隣りの刑事部屋に行くと、自分のかわりにジョセの相手をさせるためジャンヴィエを送った。尋問は三時間つづいたのである。
メグレがヴォルテール大通りの明りを、黙って、ぼんやりながめていると、メグレ夫人の咳払いが聞こえた。そちらを向くと、彼女がそっと合図を送ってきた。
彼女はメグレに時間のことを思い出させたのである。いつもよりずっと遅くなっていた。アリスは母親におやすみを言った。というのは、アリスとその夫は住居のあるメゾン・アルフォールに帰らなければならなかったからだ。パルドンは娘の額にキスをした。
「おやすみ!」
若夫婦がドアのところに行ったまさにその瞬間、電話のベルが鳴り響いた。いつもより騒々しいように思えた。パルドン夫人は夫をながめた。パルドンはゆっくりと電話のほうに向かった。
「パルドンですが……」
クリュジェ夫人だった。その声はもうさきほどのようにかん高くもなければ、響きわたりもしなかった。こんどは遠くにいる人たちには受話器からかすかにささやき声が聞こえるだけだった。
「そんなことはありません」と、パルドンはやさしく言った。「あなたには自分を咎《とが》めるべき点は何もありませんよ……あなたのせいではありません、私がそのことをうけあいます……お子さんは起きてますか……お子さんを隣りの女にあずけられないのですか? ……いいですか、私はいまから三十分後にそちらに行きますよ……」
パルドンはまだしばらく聞き入っていた。ときどき二言三言つぶやいた。
「ええ、わかってます……ええ、わかってます……あなたはできるだけのことをしました……それは私がします……そう、そのとおり……すぐに……」
彼は受話器をおくと、ため息をついた。メグレは立ち上った。メグレ夫人は編物を包むと、スプリング・コートを着た。
「亡くなったのかね?」
「数分前に……私はいそいであそこに行かなければならない……おかみさんのほうこそ手当てが必要なんだ……」
彼らは一渚に階段をおりた。医師の車は歩道の縁《ふち》にある。
「途中まで乗っていかないか?」
「ありがとう……われわれは少し歩くよ……」
それはいつものことだった。メグレ夫人は何気なく夫の腕を取った。人気のない歩道を、二人はゆっくりと歩いた。夜は静まりかえっている。
「あなたがあの人に話していたのはジョセ事件のことね?」
「うん」
「最後まで話せたの?」
「いや。また別の機会に話すさ」
「あなたはできるだけのことをしたのよ……」
「今夜のパルドンのように……あの洋服屋のおかみさんのように……」
彼女はメグレの腕をぎゅっと強くにぎりしめた。
「あなたのせいじゃないわ……」
「わかっている……」
メグレが思い出したくない事件はいくつかあった。また逆に、ひどく愛着をおぼえる事件もある。パルドンにとって、ポパンクール通りのユダヤ人の洋服屋は最初はたんなる未知の男であり、ありきたりの病人にすぎなかった。だが今後は、かん高い電話の声のおかげで、家族の晩餐の終りにした決心のおかげで、疲れ果てた声で発したいくつかの言葉のおかげで、パルドンには忘れられない存在になってしまうだろう。メグレにはそのことがよくわかっていた。
ジョセも、しばらくの間、警視の心配事の重要な部分を占めていた。ラポワントが速記した言葉をタイプしている間、電話がオフィスのあちこちで鳴り響き、新聞記者やカメラマンがいらいらして待っている間、メグレは司法警察局のなかを右往左往していた。肩を丸め、重々しい、不安そうな様子で。
メグレが予期したように、奥にあるオフィスのなかにはスペイン人の女中が、肥ったトランスと向かい合っていた。この女中は三十ぐらいのかなりきれいな女だったが、生意気な目をし、唇は薄くて、冷酷な感じだった。
メグレはしばらく彼女をじろじろとながめまわしていたが、やがてトランスのほうを向いた。
「彼女はどんなことを言った?」
「この女は何も知りません。ぐっすり眠っていて、オートゥイユ署の者が二階で大騒ぎしているので目がさめたほどですから」
「何時に、女主人は帰ってきたのだ?」
「彼女は知らないのです」
「家にいなかったのか?」
「外出の許可をもらっていたんだわ」と、スペイン女が横から口を出した。
彼女は訊かれもしないのに答えたわけだが、自分が軽んじられているのを見て、腹を立てたのだ。
「彼女はセーヌ河のほとりで恋人とデートしていたんです」
「何時に?」
「八時半に」
「何時にもどった?」
「十一時」
「家のなかに明りを見たかな?」
「見ないと言い張ってます」
「言い張ってなんかいないわ。ただ見ないと言っただけよ!」
彼女には強い訛《なま》りがあった。
「あなたは一階の大きな部屋を通った?」と、メグレは彼女にたずねた。
「通らないわ。わたしは裏口から入ったから」
「家の前に車があった?」
「奥さまの車があったわ」
「では、ジョセの車は?」
「注意しなかったわ」
「家に帰ったとき、何か用はないか、と訊きに行く習慣があなたにはなかったのかね?」
「そうよ。夜はあの人たちが何をしようと、わたしの知ったことではないもの」
「物音を聞かなかった?」
「聞いたら、そう言うわ」
「すぐに眠り込んでしまった?」
「顔を洗ってからすぐに」
メグレはトランスにぶつぶつ言った。
「彼女の恋人を呼び出して、話をたしかめてくれ」
カルロッタはくやしそうな目で、メグレがドアから出て行くまでにらみつけていた。
刑事部屋に来ると、メグレは受話器をはずした。
「ポール医師をたのむ。おそらくまだ法医学研究所にいると思うが……そこにいなかったら、自宅のほうへかけてくれ……」
メグレは数分待たされた。
「メグレですが……何か新しいことは?」
彼は思わずノートを手に取った。しかし、あとで完全な報告書が届くのだから、そんなことをする必要がなかったのである。
最初にうけた数個所の傷のうちで、喉の傷が致命傷だった。おそらく一分と生きていなかったのではないか。それでも犯人は、すでに血の流れきった死体をめちゃくちゃに刺しつづけた……。
この血液のなかにはアルコールが混っていた。ポール医師によれば、クリスティーヌ・ジョセは襲われたとき、酔っていた。
彼女は夕食を取っていない。胃のなかには消化中の食物は入っていなかった。
肝臓の状態はかなり悪い。
死亡時刻にかんしては、ポール医師はためらい、夜の十時から午前一時の間とした。
「もっとはっきりさせることはできませんか?」
「いまのところは。つぎの事実はきみの興味を惹くだろう。あの女は死の数時間前にセックスしている」
「三十分前ということもありえますか?」
「ありえないことではないな」
「十分前は?」
「科学的には、それに答えることはできない」
「ありがとう、医師《せんせい》」
「彼はどう言っている?」
「彼って?」
「亭主さ」
「自分は無実だと」
「きみはそれを信じるのかね?」
「わかりません」
別の電話が鳴った。刑事が、メグレに電話だと合図した。
「きみかい、警視? コメリオだよ。尋問は終ったかね?」
「ちょっと前に」
「きみに会いたい」
「すぐにうかがいます」
メグレが刑事部屋から出て行こうとすると、ボンフィスが入ってきた。ひどく興奮している。
「警視《パトロン》、いまお部屋にうかがうところだったんです……私はあの家から来ました……シラン夫人と二時間過ごし、彼女に質問したり、あの家をこまかく調べ直したりしてみました……新事実があります……」
「どんなことだ?」
「ジョセは自白しませんか?」
「ああ」
「彼はナイフのことを言いませんでしたか?」
「どんなナイフ?」
「シラン夫人と私はジョセの寝室を調べていたのですが、シラン夫人がおどろいた様子で何かをさがしているのです……それが何なのか彼女はなかなかしゃべってくれませんでした。というのは、彼女は女主人よりジョセのほうが好きだったからです。女主人のことを、あまり買ってないのです……彼女はやっとこう言ってくれました。
≪ドイツ製のナイフ……≫
それは突撃隊員のナイフで、戦争の記念品としてよく大事に持ってるやつがいますよ……」
メグレはびっくりしたようだった。
「ジョセは戦争のとき突撃隊にいたのか?」
「ちがいます。彼は戦争には行ってません。身体検査で落ちたのです。そのナイフを持ち帰ったのは彼の会社のジュールという男で、この男からジョセはもらったのです」
「ジョセはそれを何に使っていたのだ?」
「別に。寝室の小さなデスクの上に置いておいたのです。たぶんペーパー・ナイフがわりにでも使っていたのでしょう……それがなくなっています」
「ずっと前から?」
「今朝から……シラン夫人はそう断言してます……ジョセの寝室を片づけるのは彼女の役目なのです。ジョセ夫人の寝室と衣類のほうは、スペイン女がやります……」
「きみはあちこちさがしたのかね?」
「家じゅうくまなくさがしました、地下室や屋根裏部屋も」
メグレはもう少しで自分のオフィスにもどり、ナイフのことをジョセに訊いてみるところだった。そうしなかったのは、予審判事が彼を待っていたからであり……コメリオは気むずかしかった……、もう少し考えてみる必要があったからだ。
メグレは司法警察局と裁判所との境にあるガラス張りのドアを通り抜けると、いくつかの廊下を歩き、見慣れたオフィスのドアをノックした。
「坐りたまえ、メグレ」
夕刊がデスクの上にひろげてあった。大きな見出しと、写真が載っている。
「読んだかね?」
「ええ」
「それでもまだ否定している?」
「ええ」
「しかし、コーランクール通りで昨夜、口論があったことは認めているんだね、奥さんの殺される数時間前に?」
「彼は自分からそのことを私に言いましたよ」
「彼はそれを、偶然の一致だと主張しているんだろう?」
いつものように、コメリオはかっと腹を立てた。口ひげがふるえている。
「夜の八時に、父親は二十歳の娘がジョセと一緒にいるところを見つける。娘はジョセの情婦になっている……二人の男は顔をつき合わせ、父親は慰謝料を要求する……」
メグレは疲れたようにため息をついた。
「ジョセは父親に離婚することを約束してます」
「そして、娘と結婚することを?」
「そうです」
「そのためには、何よりもまず、財産と地位をあきらめなければならない」
「それは正しくはありません。数年前から、あの製薬会社の三分の一はジョセのものなのです」
「彼の奥さんが離婚を承知すると思うか?」
「私は何も思いません、判事さん」
「彼はどこにいるね?」
「私のオフィスに。部下の一人が尋問の調書をタイプしてます。ジョセはその調書を読んでサインし……」
「それから? どうするつもりだ?」
コメリオは警視がいやいやしゃべっているような気がし、それで余計かっとなった。
「そのうち、きみは彼を釈放し、刑事たちに見張らせるように私に要求してくるだろう。そうすれば、いずれ彼がボロを出すにちがいないと……」
「いや」
この返事にコメリオはとまどった。
「きみは彼が有罪だと思うのか?」
「わかりません」
「いいかね、メグレ……これほどはっきりしている事件はない……ジョセと彼の奥さんをよく知っている私の友人たちが四、五人、私のところに電話してきて……」
「その人たちは彼が有罪だと?」
「その友人たちは彼がどんな人間かよく知っている」
「ということは?」
「クリスティーヌの愛をうまく利用した破廉恥な野心家……しかし、彼女が老けはじめ、色あせだすと、もっと若い女がほしくなり、ためらわずに……」
「調書のサインが終りましたら、あなたのところへ届けさせます」
「それまでは?」
「ジョセを私のオフィスに置いておきます。彼をどうするかは、あなたが決めることです」
「彼を釈放することにはだれも賛成しないだろう、メグレ」
「そうかもしれませんね」
「だれも、いいか、だれも彼の無実を信じないだろう。私は勾留状にサインする前に、きみの調書を読みたい。しかし、私の決心はもうついているからね……」
コメリオはこういうときの警視の顔を見たくはなかった。彼はメグレを呼びもどした。
「彼に有利な論拠はあるのか?」
メグレは答えなかった。それについては言うべきことがなかった。ジョセが、自分は妻を殺していないと言ったこと以外には。しかし、こんなことは安易すぎるし、あまりにも見えすいているだろう。メグレは自分のオフィスにもどった。ジャンヴィエが椅子の上で眠っている男を指さした。
「きみは行っていいよ。私がもどったことをラポワントに伝えてくれ」
メグレは自分の場所に坐り、あれやこれやとパイプをいじくりまわし、一本を選び出すと、火をつけた。ジョセが目を開け、黙ってメグレを見つめた。
「そのまま眠っていてもいいんだよ」
「いや。失礼しました。ずっと前から、あなたはそこにいたのですか?」
「二、三分前から」
「予審判事に会ったのですか?」
「いま、彼のところからもどってきたところだ」
「私は逮捕されるのですか?」
「そうなるだろう」
「避けられないことでしょうね?」
「いい弁護士をご存知かね?」
「友人のなかに何人かいます。しかし私のことをぜんぜん知らない人間のほうがいいのではないかと思っています」
「いいかね、ジョセ……」
ジョセはこの短い言葉のあとにいやなことがつづきそうな気がして、身ぶるいした。
「え?」
「ナイフをどこに隠した?」
ジョセはちょっとためらった。
「私は間違っていました……そのことをあなたにお話しすべきだったのです……」
「そのナイフをミラボー橋からセーヌ河に投げ捨てた、そうじゃないか?」
「ナイフが見つかったのですか?」
「まだだが、明朝から、潜水夫たちがさがしにかかるから、いずれ見つかる」
ジョセは黙った。
「クリスティーヌを殺したね?」
「いや」
「しかし、わざわざミラボー橋まで行って、セーヌ河にナイフを捨てている」
「だれも私のことを信じないでしょう、あなたでさえも」
≪あなたでさえも≫というところに、メグレへの敬意があった。
「本当のことを言うんだ」
「スーツケースをおきにもどってきたときです……私の寝室のなかに、ナイフがあるのを目にしたのです……」
「血がついていた?」
「いや。そのとき、私は警察に言いに行こうかと思っていたところでした。私の話が信じられないだろうということは、私にはすでにわかっていました……死体をよくは見なかったのですが、少しは見ていたわけですから、ナイフのことが思いうかんだのです……。机の上にこれ見よがしにあるナイフに気がついたとき、私は、警察はすぐにこのナイフと死体を結びつけるだろうと考えたのです……」
「血がついていなかったのに!」
「もし私が殺して、ナイフに血がついていたら、ナイフをきれいにぬぐっておかないでしょうか? 飛行機に乗るつもりでスーツケースの留金を締めたときには余計なことは考えていませんでした……しかし、死体の近くにナイフがあることは、私にはのっぴきならないように思われ、それを持ち出したのです……ナイフのことをしゃべったのはカルロッタですね……彼女は私には我慢がならなかったから……」
「シラン夫人だよ」
「シラン夫人とは、ちょっとおどろきました……しかし、そのことを予期していなければいけなかったのです……これからは、もうだれもあてにすることができなくなるでしょうね……」
ラポワントはタイプされた調書を手に、オフィスに入ってくると、警視の前においた。メグレはその一通をジョセにわたし、もう一通に目を通しはじめた。
「ラポワント、明日の朝、潜水夫が必要になる……ミラボー橋で、日の出と共にだ……」
一時間後、カメラマンたちは、手錠をはめられてメグレのオフィスから出てきたアドリアン・ジョセの写真をやっと撮ることができた。
コメリオ判事が手錠をかけることを主張したのは、まさに新聞記者やカメラマンたちがいたからである。
[#改ページ]
第五章 リオラン医師の頑な沈黙
この事件のいくつかの些細な事柄が、メグレの記憶のなかに他の事柄よりも強く刻みこまれている。数年あとになっても、彼はコーランクール通りの驟雨《しゅうう》の味と匂いとを、少年時代の思い出とおなじようにはっきりとおぼえていた。
夕方の六時半だった。雨が降りはじめたとき、屋根の上ですでに赤くなっていた太陽は、まだ顔を隠してはいなかった。空はまっ赤に染まっていて、あちこちの窓は炎のような光を反射しつづけていた。たった一つ浮かんだ淡灰色の雲……真中がちょっと黒ずみ、縁が光り輝いている……が気球のようにふんわりと街の上を通って行った。
パリじゅうに雨が降ったのではなかった。夜、メグレ夫人はリシャール・ルノワール大通りには雨が降らなかったと、夫に言ったのである。
雨滴はいつもより透明で、滑《なめ》らかさも増しているように感じられた。最初、それはほこりだらけの鋪道に黒っぽい大きな輪を描き、ついで一つずつつぶれていった。
警視が顔を上げると、開いた窓の敷居にゼラニュームの植木鉢が四つ見えた。雨滴が一つ、まぶたにあたった。大きな雨滴だったので、ちょっと痛かった。
窓が開いているので、アネットがすでに帰ってきていることは間違いない。メグレは建物のなかに入り、管理人室の前を通り、エレベーターをさがした。が、なかった。階段をあがろうとした。そのとき、うしろでドアが開き、不愉快な声がこう訊いた。
「どちらへ行くの?」
メグレは女管理人と顔をつき合わせた。彼女は、ジョセの話からメグレが思い描いたイメージとは似ていなかった。メグレは中年の、身だしなみのかまわない女を想像していた。ところが、実際は愛想のよい、肉感的な体つきをした女だった。
ただ声だけが、品がなくて、つっけんどんだった。不釣り合いな感じだった。
「デュシェさんのところです」と、メグレはていねいに答えた。
「まだ帰ってませんよ」
ちょうどこの瞬間彼は、なぜある人々ははっきりした埋由もないのに、すぐに不愉快な態度を見せるのだろうかと考えた……このこともあとになって思い出すにちがいない。
「もう帰ってくる頃だと思いますが?」
「いつ帰ろうと、いつ出て行こうと彼女の自由でしょ」
「新聞社に電話したのはあなたですか?」
彼女はガラス張りのドアの戸口に立ったまま、なかに入るようにメグレにすすめもしなかった。
「それがどうなの?」と、彼女は挑戦するように言った。
「私は警察の者です」
「わかってるわ。あなたに見おぼえがあるもの。でも、別にどうってこともないわね」
「昨日、デュシェさんが娘さんに会いにきたとき、あなたに名前を言いましたか?」
「この部屋で十五分ほどおしゃべりもしていったわ」
「それでは彼が最初に来たとき、娘さんはまだ帰っていなかったのですね? 午後だったと思いますが?」
「五時頃」
「フォントネイ・ル・コントの彼に手紙を書いたのはあなたですか?」
「もしわたしが手紙を書いたのだとしても、それはわたしが自分の義務をはたしただけよ。人にどうこう言われる筋合はないわ。でも、わたしじゃない。あの娘の叔母さんよ」
「あなたは叔母さんを知っているんですか?」
「わたしたち、おなじ店で買物をしてるの」
「あなたがくわしいことを教えたのですね?」
「彼女が一人で、あの娘のことをやきもきしていたからよ」
「叔母さんは手紙を書いたことを、あなたに言いました?」
「話し合ったわ」
「デュシェさんがやってきたとき、あなたはジョセ氏のことを彼に話しましたか?」
「私はただあの人の質問に答えただけ。そして、もう少しあとに、七時頃また来るようにすすめたわ」
「あの娘が帰ってくると、あなたはすぐにそのことを彼女に知らせなかったですね?」
「そんなことで給料もらっているんじゃないですからね」
「デュシェさんはひどく怒ってましたか?」
「あの人には信じられないようだったわね、かわいそうな人」
「どういうことになるかと、あなたは彼の少しあとから階上《うえ》に行きましたね?」
「六階に手紙を届けただけよ」
「五階の踊り場で立ち止った?」
「ちょっと息をついたかもしれないわ。何を私に言わそうとしているの?」
「あなたは口論があったことをしゃべっていますね」
「だれに?」
「新聞記者に」
「新聞なんて書きたいように書くわ。そら、お目当ての娘が来たわよ!」
建物に入ってきたのは一人ではなく、二人だった。彼女たちは女管理人やメグレに目もくれずに階段のほうへ行った。一人はブロンドで、とても若かった。ダーク・ブルーのスーツに、明るい色の帽子をかぶっている。もう一人はもっと痩せて、もっときつい感じで、三十五歳ぐらいにちがいない。男のような歩き方をした。
「あなた、あの娘《こ》に話すためにやってきたんじゃないの」
メグレは怒りをじっとこらえた。というのは、この理由のない意地悪が彼の心の奥を傷つけたからだ。
「話しますよ、心配しなくてもいい。あとでまた、ここにやってくるかもしれませんよ」
メグレはこの子供じみたおどしを後悔した。階上《うえ》でドアが開き、また閉じる音が聞こえるのを待って、こんどは彼が階段を上った。
四階で息をつくためちょっと立ち止り、しばらく間をおいて五階のドアをノックした。ドアを細目にあけたのはアネットではなく、連れの女だった。
「どなたです?」
「司法警察のメグレ警視です」
「警察よ、アネット!」
アネットは寝室にいるにちがいない。たぶん雨で濡れたスーツを脱いでいるのだろう。
「いま行くわ」
すべてが期待はずれだった。ゼラニュームはいつものところにちゃんとあったが、メグレの描いたイメージに一致するのはそれだけだった。住居は平凡で、ぜんぜん個性といったものがなかった。ささやかな食事が行われた例の台所兼食堂は艶《つや》のない灰色の壁、家具にしたって、安アパートにならどこにでもある家具だった。
アネットはまだ着替えていず、ただ髪に櫛を入れただけだった。彼女もまた期待はずれだった。もちろんフレッシュだったが、それは平凡な二十歳のフレッシュさだった。大きな、とびだした青い目をしている。メグレは、田舎の写真屋のショーウィンドーに飾られている写真のことを思い出した。四十歳になると、きっと、唇のきつい、大女になるにちがいない。
「失礼します、お嬢さん……」
連れの女はしぶしぶドアのほうに行った。
「じゃ、わたし帰るわ……」
「なぜ? いてもかまわないのよ」
そして、メグレに、
「この女《ひと》、ジャニーヌ。彼女もマルソー並木通りで働いています。わたしをわざわざ送ってきてくれたんです。警視さん、お坐りください……」
何が不満なのか、メグレには言いかねただろう。目がちょっと赤かったけれど、気が顛倒しているようにはみえないこの小娘を理想化したジョセに、メグレは腹を立てていた。
「あの人を逮捕したんですか?」と、彼女はまわりのものを何気なく片づけながら、たずねた。
「予審判事が今日の午後、勾留状にサインしました」
「それで、あの人はどうしました?」
すると、ジャニーヌが彼女に忠告した。
「警視さんにお話ししてもらったほうがいいわよ」
これは正規の尋問ではなかった。メグレがこうしたことをしたと知れば、コメリオは怒るにちがいない。
「何時に、あなたは事件のことを知りましたか?」
「昼食をしにオフィスを出ようとしたときです。倉庫係りの一人がポータブル・ラジオを持っていて、事件のことを他の人たちにしゃべっていたんです。ジャニーヌがそのニュースをわたしに知らせてくれました」
「いつものように食事に行きました?」
「わたしに何ができまして?」
「彼女はお腹が空いてなかったの、警視さん。わたしは彼女をオフィスに送っていかなければならなかったわ。彼女はずっと泣きつづけ……」
「お父さんはまだパリにいますか?」
「今朝九時に発ちました。今日じゅうにフォントネイに帰りたがっていました。二日間しか休暇を取ってないので、明日からまた働かなければならないのです」
「ホテルに泊ったのですか?」
「ええ。駅の近くの。どこのホテルか、わたしは知りません」
「昨夜、長い間ここにいたのですか?」
「一時間ほど。パパは疲れてました」
「ジョセは離婚して、あなたと結婚することをお父さんに約束しましたね?」
彼女は顔を赤らめると、意見を求めるかのように女友達を見た。
「そのことをあなたに言ったのは、アドリアンですね?」
「彼がそう約束したのですか?」
「その話は出ました」
「はっきりと約束したのですね?」
「そうだと思います」
「その前には、あなたは彼がいつか結婚してくれると思ってましたか?」
「そんなことは考えていませんでした」
「彼は将来のことは話さなかったんですか?」
「ええ……はっきりとは」
「あなたは仕合せでした?」
「あの人はわたしにはとてもやさしかったし、とても気を使ってくれました」
彼女がジョセを愛していたかどうか、メグレは訊く気にはなれなかった。彼女がふたたび嘘をつくことを恐れたからだ。アネットがたずねた。
「あの人がやったと、あなたは思いますか?」
「彼が奥さんを殺したと、あなたは思いますか?」
彼女は顔を赤らめ、相談するかのようにまた女友達を見た。
「わかりません……そう言ったのはラジオです。それに新聞が……」
「あなたは彼のことをよく知っている。彼に奥さんを殺すことができると思いますか?」
そのことにじかに答えるかわりに、彼女はつぶやいた。
「他にだれか容疑者がいるのですか?」
「お父さんは彼にたいしてきびしい態度を取りましたか?」
「パパは悲しそうで、疲れきっていました。わたしがこんなことになるなんて夢にも思っていなかったのでしょう。パパにとって、わたしはいつでも子供なのです……」
「お父さんはジョセをおどしましたか?」
「そんなこと。パパは人をおどすことができるような人じゃありません。パパはただ、あの人がどうするつもりなのかを訊いただけです。すると、あの人が自分から、すぐに離婚すると言い出したんです」
「言い争いはなかったんですか、どなり合うとか?」
「もちろんありません。わたしにはどうしてだかわかりませんが、最後には三人でシャンパンを飲みました。パパはほっとしたようでした。パパの目は明るく輝いてさえいました。そんなことはパパにはめったにないことです」
「アドリアンが帰ったあとは?」
「わたしとパパは結婚のことを話しました。パバはフォントネイで、ちゃんと正式の服を着て結婚式があげられないことを残念がっていました。どんなことを言われるかわからなかったからです」
「お父さんは飲みつづけました?」
「アドリアンが帰る前にまだ残っていた壜を空にしました」
「ホテルにお父さんを送っていきました?」
「そう言ったんですけど、パパはいやがりました」
「お父さんはいつもと違って、ひどく興奮していませんでしたか?」
「そんなことありません」
「私の思い違いでなければ、お父さんはあまり酒を飲まない人です。フォントネイにいるとき、お父さんが酒を飲んでいるところを見ましたか?」
「一度も。ただ食卓についたときだけ、水で割ったぶどう酒をちょっと。だれかとバーで会わなければならないときには、ミネラル・ウォーターを注文してました」
「しかし、お父さんは昨日、あなたたちの部屋を不意に訪れる前に、酒を飲んでいます」
「よく考えてから答えるのよ」と、ジャニーヌが物知り顔で忠告した。
「わたしは何を言わなければならないの?」
「真実を」と、メグレが答えた。
「パパはわたしたちを待っている間、一、二杯飲んだと思います」
「ろれつがおかしくなかったですか?」
「発音がちょっと不明瞭でした……わたしはそのことに気づきましたが、でも、パパは自分の言っていることも、していることもちゃんとわきまえてました……」
「あなたはホテルに電話して、お父さんがちゃんと帰ったかどうかたしかめなかったですね?」
「ええ。でも、なぜ?」
「お父さんも、今朝あなたにさよならを言うため、電話してこなかった?」
「そうよ。わたしたちはおたがいに電話したことありません。そういう習慣がないんです。フォントネイの家には電話がありませんし……」
メグレはもうそれ以上訊かないことにした。
「ありがとう、お嬢さん」
「あの人、どんなことを言ったんです?」と、彼女はふたたび不安そうに訊いた。
「ジョセが?」
「ええ」
「奥さんを殺さなかったと断言してます」
「あなたはそれを信じます?」
「私にはわかりません」
「あの人はどうですか? 不足しているものはありませんか? がっくりしていませんか?」
一つひとつの言葉の選び方が下手で、起こったことにくらべて貧弱すぎた。
「彼はかなりやつれています。あなたのことをいろいろしゃべりましたよ」
「わたしに会いたいとは言いませんでしたか?」
「それはもう私にはどうしようもありません。判事次第です」
「何かあなたにことづけませんでした?」
「私があなたに会いに来たことを、彼は知りません」
「わたしは呼び出されて尋問されるでしょうね?」
「そうなるかもしれません。それも予審判事次第です」
「わたしはこのまま会社に勤めつづけてもかまわないんでしょうか?」
「かまいません」
もう出て行ったほうがよかった。一階の円天井の下を通りながら、メグレは管理人をちらっと見た。彼女は上衣を脱いだ男と向かい合って食事をしていたが、からかうような視線を投げてよこした。
すべての物、すべての人間がことごとく期待はずれに見えたのは、メグレの精神状態のせいなのだろう。彼は通りをわたると、常連ばかり集まる小さなバーに入った。四人の男がブロット〔オランダ伝来のトランプ遊び〕をしていた。カウンターによりかかった二人の客は主人とおしゃべりしている。
メグレは何を頼んでいいのかわからなかった。最初に目についたラベルのアペリチフを注文すると、アネットの父親が前日坐っていたにちがいないと思われる場所で、何も言わずに、顔をしかめてかなり長い間じっとしていた。
身をかがめれば、通りの向こうの建物の正面がそっくり見える。窓にあるゼラニュームの四つの植木鉢も。薄暗がりに隠れたジャニーヌが、メグレが通りをわたるのを見て、姿の見えないアネットに話しかけていた。
「昨日、ここに長いあいだ坐っていた客がいたでしょう?」
主人は新聞を取ると、ジョセ事件の記事が載っている個所をたたいた。
「あんた、この父親のことを話したいんでしょう?」
そして、他の客たちのほうを向いて、
「妙だね、私にはこう、何かいかがわしいものがあるなとピーンときたんだからね。まず、カウンターに一時間以上よりかかっているような人間じゃない。彼はミネラル・ウォーターを注文した。私がミネラル・ウォーターの壜をつかむと、彼は考えを変えた。
≪いや、別のものをもらおう……≫
彼はここに並んでいる壜をながめていたが、なかなか決まらなかったな。
≪アルコールを一杯……何でもいい……≫
アペリチフの時間なのに、アルコールを注文する者なんてめずらしい。
≪マール・ブランデー? ……カルヴァドス?≫
≪カルヴァドスにしよう……≫
彼はそれを一口飲んで咳きこんだ。飲みつけてないことがすぐにわかりましたね。彼は通りの向こうの建物の玄関と、そのちょっと先の地下鉄の入口をじっと見つづけていた。二、三度、私は彼の唇が独り言をいっているかのように、もぞもぞ動くのを見ましたね」
店の主人は話を中断すると、眉をひそめた。
「あんた、メグレ警視さんじゃないんですか?」
メグレが黙っていると、
「ねえ、そうでしょ。……おい、みんな、こちらあの有名なメグレ警視さんだぞ……ところで、あの薬屋は自白したんですかね? ……あの男にも私は目をつけていたんですよ、ずっと前から……あの男の車のせいで。……この辺では二人乗りのスポーツ・カーはあんまりない……。とくに私があの男を見かけるのは朝なんです、女を迎えに来ますから……あそこの玄関の真前の、歩道の縁に車を止めて、上を見上げる……あの娘が窓のところで手を振り、しばらくすると男と一緒になるんですよ……」
「その客はカルヴァドスは何杯飲んだね?」
「四杯……彼はカルヴァドスを注文するたびに、恥ずかしそうな様子をするんです、まるで飲み助だと思われることをいやがるようにね……」
「またあとで、もどってこなかったかね?」
「二度と見かけませんよ……今朝、あの娘には気がつきましたが。歩道でしばらく待ってましたが、一人きりで地下鉄のほうに向かっていきましたね……」
メグレは金をはらうと、タクシーをさがしながらクリシー広場のほうへ降りて行った。モンマルトルの墓地の前にさしかかったとき、空車が見つかった。
「リシャール・ルノワール大通りヘ……」
この夜は他には何もなかった。メグレは夫人と向かい合って食事をしたが、一言もしゃべらなかった。夫人のほうも、彼の気質をよく知っていたので、質問したりしないようにした。
捜査は他のところでいつものようにつづいている。警察の機構はすでに動いていたのだ。明日、警視のデスクの上には報告書がたくさんのっているだろう。
この事件のために、彼ははっきりした理由はなかったが、いつもの習慣に反して、一種の個人的な書類をつくることに決めた。
時間の問題がとくに重要な役割を演じているにちがいない。メグレは時間を追って事件のつながりを再構成してみようと努めた。
殺しが発見されたのは朝だ、もっと正確にいえば夜の終り頃だ。朝刊には事件のことはまだ載っていない。ロペール通りの殺しを最初に公表したのはラジオだ。
この放送の時間には、新聞記者たちはすでにオートゥイユのジョセの家の前に来ていたし、検事局の現場臨検も行われている。
正午と一時の間に出た夕刊の第一版が、事件のことを報じているが、まだごく短いものだ。
その夕刊のある一紙が、コーランクール通りの女管理人から電話をうけ、第三版から、デュシェが娘のところへ訪ねてきたこと、そこでアネットの愛人と顔をつき合わせたことを記事にしていた。
その間、デュシェはフォントネイ・ル・コントに向かう列車に乗っていて、この新しいニュースのことは知らない。
後になって、デュシェとおなじ列車に乗り合わせていた人間が見つかる。ニオール付近の穀物商だ。二人の男はおたがいに顔見知りではない。パリを出たとき、コンパートメントは満員だったが、ポワティエから二人だけになってしまった。
「あの人をどこかで見かけたような気がしたんですが、どこで見かけたのか思い出すことができなくてね。しかし、ちょっとあいさつだけはしておきました。あの人はびっくりして、疑わしそうに私を見つめると、片隅にじっと身をちぢめてしまいましたよ。
あの人は気分がすぐれないようでしたね。まぶたがまっ赤でした。まるで眠らなかった人間のようでしてね。ポワティエの駅で、あの人はミネラル・ウォーターの壜を買いに簡易食堂へ行き、もどってくるとむさぼるように飲んでました」
「何か読んでましたか?」
「いいえ。景色が流れていくのをぼんやりとながめているだけでしたよ。ときどき目を閉じたりしてね。眠り込んじまったときもあったかもしれません……家に帰ると、私はとつぜんその人を見かけた場所を思い出したんですよ、フォントネイの郡役所でした。私はときどき、そこに書類のサインをもらいに行ったんです……」
メグレはこの穀物商に会うため特別に旅行した。穀物商はルストーという名だったが、メグレは彼からできるだけのことを聞き出そうとした。まるで言葉では言いあらわしたくない考えを追い求めているかのように。
「デュシェの服に気がつきましたか?」
「どんな色だったかはっきりおぼえてませんね。ただ黒ずんだ色で、上等のものではなかったことぐらいしか……」
「一晩じゅう起きていた人の服のように、しわくちゃではありませんでしたか?」
「そんなことには注意しませんでしたよ。私は顔のほうばかりを見ていたもんで……ちょっと待ってくださいよ! 網棚のスーツケースの上にレインコートがありました……」
アネットの父親が泊ったホテルを見つけるのにも、ある程度時間がかかった。オステルリッツ駅の近くの≪ラ・レーヌ・エ・ド・ポワティエ≫というホテルだった。
これは二流のホテルだった。照明がうす暗くて、陰気くさかったが、品がよかったので、常連はよく利用した。マルタン・デュシェは幾度かこのホテルに来ている。この前彼がここに泊ったのは二年前で、娘をパリに連れてきたときだった。
「デュシェさんは五十三号室です……ホテルではほとんど食事をなさいませんでした……火曜日に、三時五分の列車でやってきまして、一泊しかしないと言いながら宿帳に書き込むと、すぐに外出されました……」
「夜は何時に帰ってきました?」
そこでいろいろ面倒なことが起こった。事務室の中で折りたたみ式寝台を拡げていた夜番はチェコ人だった。ほとんどフランス語が話せないうえに、サント・アンヌ病院に二度も入院している。デュシェの名前を聞いても、何も思い出せたかったし、人相を聞いてもおなじだった。五十三号室の客だと言われると、頭をかきかき鍵のかかったボードをながめた。
「彼は来て……行って……もどってきて……出て行った……」と、夜番は疲れ果てた様子でつぶやいた。
「何時に寝たのかね?」
「十二時前ではありません……私はいつもドアを閉めて、十二時に寝ますから……そういうきまりなのです……」
「五十三号室が帰ってきたかどうか、あなたは知らないのかね?」
この哀れな男はできるだけのことをしようとしたが、たいしたことはできなかった。デュシェが二年前にこのホテルに初めて泊ったとき、彼はまだここで働いていなかったのだ。
彼に写真を見せると、
「どなたです?」と、質問した人たちの期待に何とか応えようとしながら、たずねた。
執拗なメグレは、五十三号室の隣りに泊っていた二人の人間をさがしにかかった。一人はマルセイユに住んでいて、電話で話すことができた。
「さあ、何も知りませんね。十一時に帰ってきましたよ。何の物音も聞きませんでした」
「お一人でしたか?」
「もちろんです」
その男は結婚していた。妻を連れずに、パリに来た。だから、彼が夜を一人で過さなかったことは間違いない。
五十一号室の人間はベルギー人で、ただフランスを旅行していただけなので、彼を見つけ出すことは不可能だった。
とにかく、デュシェは朝の八時十五分前に寝室にいて、朝食をたのむためにベルを鳴らしている。メイドは何も変ったことに気づいていない、コーヒーを三杯注文したこと以外は。
「お疲れのご様子でした……」
これでは漠然としすぎている。メイドにそれ以上のことを期待するのは無理だった。八時半に、風呂にも入らず、デュシェは階下に降りて、顔見知りの会計係の女に金をはらっている。
「いつものようでした。あの人が陽気なときって一度もありませんでしたから。病人のような感じの人で、ときどき心臓の鼓動を聞くためかのようにじっと立ち止ってしまうのです。ああいうお客さんをもう一人、わたし知ってますけど、その客はやさしい人で、月に一度は泊りにきてくれましてね。その人もデュシェさんとおなじ様子でした。おなじようなしぐさをするんです。ある朝、階段で倒れて死んでしまいました、あっという間に……」
デュシェは列車に乗った。メグレがオルフェーヴル河岸でジョセを尋問している時間には、彼はまだ穀物商と差し向かいで、列車のなかにいる。
そのおなじ時刻に、ある新聞記者がコーランクール通りに駆けつけたあと、フォントネイ・ル・コントの通信員を電話で呼び出した。
この記者のことを女管理人はメグレに言わなかった。彼女はこの記者に、アネットの父親の名前と住所を教えたのである。
これらの細かい事柄がからみ合い、そこから多少とも論理的な図面をつくり出すには時間と忍耐とが必要だった。
その日の午後、フォントネイ・ル・コントの駅で列車が停ったとき、マルタン・デュシェはまだ何も知らなかった。フォントネイの人たちもそうだ。というのは、ラジオがまだマルタン・デュシェの名前を引き合いに出していなかったからだ。郡役所の課長と、ロペール通りの事件とを結びつけて考えたとすれば、超能力の持主だ。
新聞の通信員だけがそのことを知っていた。彼はカメラマンに連絡すると、二人は駅のホームで待った。列車から降りたとき、デュシェは自分に向かってフラッシュがたかれたのでびっくりしてしまった。
「よろしいですね、デュシェさん?」
デュシェは目をぱちくりさせた。すっかり面くらってしまった。
「あなたは、まだニュースをご存知ないと思いますが?」
その通信員はていねいだった。郡役所の課長は鳩が豆鉄砲をくらったような様子だった。手にスーツケースを持ち、腕にレインコートをかけて、出口のほうに向かうと、改札係に切符をわたした。改札係は帽子に手をやってあいさつした。カメラマンがふたたび写真を撮った。通信員はアネットの父親につきまとった。
彼らは二人ともレピュブリック通りで車を降りた。陽がふりそそいでいる。
「ジョセ夫人は昨夜、殺されました……」
ペックールという名のその通信員は、顔の色つやがよく、頬がふっくらとしていて、目はアネットとおなじとびだした青目だった。赤毛で、服装はだらしがなく、いかめしい様子をあたえるため大きすぎるパイプをふかしていた。
この通信員にも、メグレは質問した。廃業になったビリヤード場の近くの≪カフェ・ド・ラ・ポスト≫の奥の部屋でだ。
「彼の反応はどうでした?」
「デュシェ氏は歩くのをやめ、私の目をじっと見ました。まるで私が罠《わな》をかけているのではないかと疑っているかのように」
「罠? なぜ?」
「フォントネイでは、まだだれも彼の娘に愛人がいたことを知りませんでしたから。デュシェさんは、そのことを私が知ったので、自分にしゃべらせようとしているのだと考えたにちがいないです」
「彼はどんなことを言いましたか?」
「しばらく考えたあとで、けわしい声でこう言いましたよ。
≪私はジョセ夫人なんか知らない≫
そこで私は、明日のうちの新聞に彼女のことと、事件のことがすべてくわしく載ることを教えてやったのです。さらに電話で知らされたばかりのことをつけ加えてやりました。
≪すでに今日の夕刊には、コーランクール通りであなたが娘さんとアドリアン・ジョセと会ったことを報道してます≫
メグレはたずねた。
「あなたは彼のことをよく知っているのですか?」
「フォントネイの住人はだれでも知ってますよ。……私は郡役所で会ったこともありますし、デュシェさんが通りを歩いているときに会ったこともあります……」
「ときどき歩道で立ち止ることなどあったのですかね?」
「もちろん、ショーウィンドーなどで」
「病気でした?」
「さあ、どうですか。デュシェさんは独り暮しで、カフェにも行きませんし、あまり人としゃべりませんでしたから」
「あなたは期待していたようなインタビュー記事を手に入れることができましたか?」
「デュシェさんは黙って歩きつづけました。私は思いついた質問をつぎつぎに浴びせました。
≪ジョセが奥さんを殺したと思いますか?≫
≪ジョセが娘さんと結婚することを考えていたというのは本当ですか?≫
デュシェさんは顔をしかめ、私の話を聞いていませんでした。二、三度、こうつぶやいただけです。
≪私には何も言うことがない≫
≪しかし、あなたはアドリアン・ジョセに会ったのでしょう?≫
≪私には何も言うことがない≫
私たちは橋のところに着きました。デュシェさんは河岸を左にまがります。そこの煉瓦《れんが》づくりの小さな家に住んでいるのです。家政婦がこの家を切りまわしています。私は家の写真を撮りました。というのは、新聞には、写真が多すぎるなんてことは絶対にないからです」
「家政婦が彼を待っていましたか?」
「いや。家政婦の仕事は午前中だけなのです」
「食事の用意はだれが?」
「お昼には、≪トロワ・ピジョン≫でいつも食事をします。夜は、自分で食事をつくってます」
「外出は?」
「たまにしかしません。週に一度、映画に行くぐらい」
「一人で?」
「いつも」
「あの夜、だれも夜の間に物音を開かなかったのですかね?」
「ええ。ただ、自転車で午前一時頃通った男が明りに気がついています。朝になって、家政婦がやってきたとき、ランプはまだ燃えつづけていたそうです」
マルタン・デュシェは服を脱いでいなかったし、食事もしていなかった。家のなかはぜんぜん混乱していない。
彼の行動をできるだけ再現してみると、まず食堂の引出しから写真のアルバムを取っている。最初のほうの頁には、彼の両親の黄色くなった写真、妻の写真、兵役時代の砲兵としての彼自身の写真、結婚のときの写真、熊の毛皮の上に坐っている、生まれて数カ月目のアネット、ついで五歳のとき、十歳のとき、初聖体拝受のとき、最後に、勉強に通っていた修道院でクラスの仲間たちとの写真。
この頁を開いたまま、アルバムは拡掛椅子の前のテーブルにおかれていた。
デュシェは決心するまでどのくらいそこに坐っていたのだろうか? 彼は二階の寝室に行き、ナイト・テーブルの引出しのなかの拳銃を取ったにちがいない。引出しは開いたままになっていた。
彼はふたたび階下に降り、肱掛椅子にまた坐り、頭に弾丸を撃ちこんだ。
つぎの朝、新聞は大見出しで、こう書いた。
≪ジョセ事件、第二の犠牲者≫
読者の感覚としては、まるでジョセが自分の手でアネットの父親を殺したような印象だった。新聞は、課長のやもめ暮しのこと、そのつつましい、独りぽっちの生活のこと、一人娘への愛のこと、コーランクール通りの住居に入って行き、アネットと雇主との関係を知ったときのショックのことなどを書きたてていた。
ジョセにとっては、これでほとんど有罪が確定したかのようだった。純粋に職業的な観点から事実をながめなければならないコメリオにしてさえ、すっかり興奮してしまい、電話でメグレにこう言ってきた。
「読んだかね?」
木曜日の朝のことだった。警視はオフィスに着いたばかりだったが、新聞はバスのデッキで読んできた。
「ジョセは弁護士を選んだと思うが。というのは、私はこれからジョセを私のオフィスに出頭させ、事件をさっさと片づけるつもりなんだよ……世論は、われわれが事件を引きのばしていることを不思議がっているだろう……」
このことは、メグレにはもはやなすべきことは何もないということを意味していた。予審判事は事件を引き受け、警視は理論的には、今後判事の指示のもとでしか行動できなくなる。
もうジョセとは二度と会うことがないだろう。会うとすれば重罪裁判所でだ。それに、尋問のことだって、判事が教えてくれようとしないかぎり、知りえないだろう。
メグレがニオールとフォントネイに行ったのは、この日ではない。というのは、コメリオはきっとそのことを知ってしまうだろうし、そうなればメグレをきびしく叱責せずにはおかないだろう。
規則によって、メグレにはパリの外でのどんな邪気のない活動でも禁じられているのだ。
フォントネイ・ル・コントのラブレー通りに住んでいるリオラン医師に電話することさえ、規則違反だったのである。リオラン医師とは昔、メグレはラブレー通りで会ったことがあった。
「メグレですが……医師《せんせい》、私のことをおぼえておいでですか?」
相手は冷やかに、慎重に答えた。メグレは急に不安にかられた。
「私は個人的に、あなたにあることをお訊きしたいのですが」
「どんなことです?」
「もしかしたら、マルタン・デュシェはあなたの患者ではなかったでしょうか?」
沈黙。
「職業上の秘密をもらすことにはならないと思いますが……」
「ときどき私に会いにきましたよ」
「重い病気にかかっていたのですか?」
「残念ですがお答えできません」
「ちょっと待ってください、医師《せんせい》……、私がしつこく言い張ったとしても、気をわるくなさらないでください……一人の男の首がかかっているのです……デュシェにはときどき、通りやその他のところで、急に立ち止ることがあったということを知ったのです。狭心症で苦しんでいる人のように……」
「あなたにそのことをしゃべったのは医者ですか?もしそうなら、そういうことをする医者は間違っている」
「医者ではありません」
「それだったら、それは根拠のない推量にすぎませんな」
「デュシェは死にかかっていたのではないでしょうか?」
「私には一言も言うことはできません。残念です、警視さん。では患者が十人ほど待っておりますので……」
メグレはニオールとフォントネイに旅行したとき、列車を待つ間に、ふたたび彼に会った。が、うまくいかなかった。そのことはコメリオにはもちろん、司法警察局内でも秘密だった。
[#改ページ]
第六章 夜、眠れない老人
このようにすばらしい春はめずらしかった。新聞は競って、高温と晴天続きの記録を知らせていた。またオルフェーヴル河岸でも、これほど陰気で、これほど怒りっぽいメグレを見ることはめずらしかった。事情を知らない人たちは、奥さんの健康を心配そうに訊くほどである。
コメリオは文字どおり法律をたてに勝手な行動をし、いわばジョセを隠してしまっている。メグレにはジョセに話しかける機会さえなかった。
ほとんど毎日のように、製薬会社の経営者はサンテ刑務所から判事のオフィスに連れてこられる。そこにはジョセの弁護士、メートル・ルナンが待っている。
弁護士にルナンを選んだことは間違いだった。メグレは機会があったなら、ジョセに、ルナンはやめたほうがいいと忠告していただろう。ルナンは弁護士界における三、四人のスターの一人で、人目を惹く重罪裁判が得意だった。ルナンが評判になっている事件を引きうけるや、新聞は映画スターとおなじように彼のために多くの紙面を割《さ》く。
記者たちはほとんど毎日のように彼の談話を待ちうけている。彼の言葉はしんらつで、ある点では残酷なところがある。不可能だと思われていた事件を二、三無罪にしたことがあるので、≪見込みのない事件の弁護士≫と呼ばれている。
あの尋問のあとで、メグレはコメリオから思いがけない命令をいくつかうけた。ほとんどの場合、説明もなかった。証人たちをさがすこと、こまごましたことの調査、その他、ロペール通りの犯罪とあまり関係がないように思えるのでますますいや気がさしてしまうような仕事。
判事がこうした振舞いに出るのは個人的な怨みによってではなかった。コメリオがたえず警視を、警視のやり方を疑っているのは、二人の物の考え方に大きな溝があったからだ。
結局、それは社会階級の問題に帰着するのではないだろうか? 判事はこの進歩していく世界のなかで、変わらない階級の人間のままなのだ。彼の祖父は控訴院第三部の裁判長をしていた。父親はまだ参事院の議員だし、叔父の一人はヘルシンキ駐在のフランス大使だった。
コメリオ自身は大蔵省の財務査察局に入るつもりで勉強していたのであるが、試験に失敗したので、裁判官を選んだのである。
コメリオはその階級の典型的な人物であり、その階級の慣習、生活規則、さらには言葉の奴隷なのだ。
裁判所での日々の経験が、人間についての別の考えを彼にあたえたのではないかと思う人もあるだろう。しかし、そうではないのだ。コメリオが最後に影響をうけるのは、いつでも彼の階級の物の考え方なのである。
そのコメリオの見る目では、ジョセは生まれながらの犯罪者ではないとしても、疑わしい人物だった。ジョセは罪深い情事のために、ついで間違った結婚のために、自分のものではない階級に不正にも入ってしまったのではないか? アネットとの関係、アネットと結婚するという約束はこの考え方を裏書きするのではないか?
これに反し、恥をかくよりは自殺することを選んだアネットの父親、マルタン・デュシェは、厳格なコメリオの心にかなった人物である。デュシェは世間一般の考え方によれば、おとなしくて、控え目で、律義な役人の典型で、妻の死の悲しみを忘れることができない人間だった。
デュシェがあの夕方、コーランクール通りで酒を飲んだということを、コメリオは重要ではないと片づけてしまっているが、メグレの目にはこの事実は大きな意味を持ってくる。
メグレは、アネットの父親はずっと前から病気で、それも不治の病いにおかされていたにちがいないと確信している。
デュシェの品位の底には、本当は自尊心があったのではないか?
彼は前日の自分の振舞いに胸をむかつかせ、恥じ入ってフォントネイに帰ってきた。心の安らぎと静けさをえられると思いきや、駅のホームで新聞社の通信員とカメラマンにつきまとわれる。
この辺のことになると、メグレにはリオラン医師の態度同様、わからなくなる。メグレは、自由に振舞える立場ではないが、これらの点にもう一度立ちもどり、事をはっきりさせようと決心した。
彼の部下たちは事実の確認のためパリじゅうを歩きまわっている。メグレは犯行当夜のジョセの行動表の作成にかかっていた。しかし、この時点ではまだ、行動表が重要な役割を演じるだろうことはわかっていなかった。
オルフェーヴル河岸でのメグレのただ一度の尋問では、ジョセは八時半頃コーランクール通りを出たあと、あてどもなく車を走らせ、レピュブリック広場近くのバーでまず車を停めた、と供述した。
このバーが、タンブル大通りの≪ラ・ボンヌ・ショップ≫であることがたしかめられた。この店のボーイがジョセのことをおぼえていた。毎日九時きっかりにやってくる客が、ジョセが店から出て行ったときまだ来ていなかったので、ジョセがタンプル大通りに来たのは八時四十五分から九時の間と定めることができた。
したがって、これはジョセの話と一致する。
シャンゼリゼ並木通りの≪セレクト≫ではもっと簡単にすんだ。というのは、バーテンのジャンが数年前からこの製薬会社の経営者を知っていたからである。
「ジョセさんは九時二十分に店に入ってこられて、ウィスキーを注文なさいました」
「いつもウィスキーを飲むのかね?」
「ちがいます。小壜のシャンパンです。ですから、ジョセさんが入ってくるのを見て、私はいつもシャンパンを冷やしてあるアイス・バケットのほうへ手を伸ばしたほどです」
「彼の振舞いで何か気づいたことは?」
「グラスを一息に飲みほすと、また注ぐようにグラスを差し出しました。いつもはおしゃべりするのに、じっと前を見つめたままです。私はたずねました。
≪何かいやなことでも、ジョセさん?≫
≪たいしたことはない≫
ジョセさんはそのあと、料理が腹にもたれてとちょっと言いました。そこで、私が重曹《じゅうそう》をさしあげようとしますと、ことわって、三杯目のグラスを空け、出て行きました。その間ずっと心配ごとがありそうな様子でしたね」
ここでも話は一致する。
ジョセにしたがえば、このあと彼はロペール通りへ向かい、十時五分に着いている。
トランスはロペール通りのすべての住人に質問した。大部分の家が、この時間ではよろい戸を下ろしてしまっている。隣りの家の男が十時十五分に帰宅しているが、何にも気づいていない。
「ジョセ家の前に車はありませんでしたか?」
「あったと思いますな。とにかく、大きい車が」
「小さい車は?」
「さあ、どうでしたかな」
「窓の明りに気がつきましたか?」
「あったと思いますが、断言はできませんよ……」
向かいの家の主人だけがきっぱりと返答した。あまりにきっぱりしすぎているので、トランスは三、四度質問をくり返し、それから返答を一語ずつノートしたほどだ。
向かいの家の主人はフランソワ・ラランドという七十六歳の男で、数年前に植民地の行政官をやめている。からだが弱くて、しょっちゅう発熱に悩まされるので、家から一歩も出ない。ジュリというアフリカから連れてきた黒人の召使いと二人きりで暮している。
この老人の断言するところでは、彼はいつも四時前には寝たことがなく、窓辺の肱掛椅子で夜半まで過ごしている。
彼はトランスに、二階にあるその肱掛椅子を見せた。二階の部屋は、寝室と書斎と客間と骨董品置き場を兼ねていた。彼は実際に使っているのは、この家ではこの部屋だけで、隣りの浴室に行くとき以外は、ここから出たことがないと言っていい。
気の短い、怒りっぽい老人で、反駁《はんばく》されることに我慢できなかった。
「お向かいの人たちをご存知ですか?」
「顔は知っている、刑事さん、顔だけはな!」
彼はおどすように嘲笑する癖があった。
「あの人たちは人に見られても平気で暮しておる。窓によろい戸をつけるような礼儀もない」
「あの人たちって?」
「あの夫婦よ、男も女も……召使いたちもよくない……」
「火曜日の夜、ジョセが帰宅したのをごらんになりましたか?」
「窓辺に坐っていたのだから、見ないはずがないだろう」
「あなたはただ通りをながめていただけですか?」
「本を読んでおった。だから物音がするたびにびくっとなった。わしは物音がきらいでな、とくに車の音が……」
「あなたはジョセの家の前に車が停る音を聞いたのですね?」
「わしはいつものようにびくっとした。ああいう音は個人にたいする侮辱じゃ……」
「それでは、あなたはジョセの車の音を聞き、つづいて、車のドアが閉る音を?」
「そうじゃ、車のドアの閉る音じゃ、お若いの!」
「あなたは外をながめましたか?」
「そう。そして彼が家に入るのを見た」
「腕時計をつけておりますか?」
「つけないな。肱掛椅子の正面の壁に時計がかかっておる。あんたも見ることができるじゃろ。あの時計はな、一カ月に三分と狂わない」
「何時でした?」
「十時四十五分」
トランスはメグレのすべての部下のように、ジョセの尋問の調書を読んでいたので、しつこくきき返した。
「たしかですか、十時五分ではありませんでした?」
「たしかじゃよ。わしは時間に正確な男でな。一生涯それでおし通した」
「夕方か夜、肱掛椅子で居眠りしてしまうようなことはないんですか?」
こんどは、ラランド氏が怒った。人のいいトランスは懸命になって老人をなだめた。老人は反駁を許さなかった。とくに、他のあらゆることにもまして、眠りにかんしては。というのは、眠らないということが彼の誇りであったから。
「あなたはジョセ氏を認めましたか?」
「他にだれだと言うんじゃ?」
「私は、あなたがジョセ氏を認めたかどうかをたずねたのです」
「もちろん」
「彼の顔を確認されたのですね?」
「街燈が近くにあったし、月も出ていた」
「そのとき、窓に明りがついてましたか?」
「ついてなかったね、刑事さん」
「女中の寝室の窓も?」
「女中は三十分前に寝てしまった」
「どうしてそれをご存知なんです?」
「彼女が窓を閉めるのが見えたし、その直後に明りが消えたからだ」
「何時に?」
「十時十五分」
「ジョセ氏は一階の明りをつけましたね?」
「そのとおり」
「彼が家に入ったあとで、一階の明りがつくのが見えたのですね?」
「そうだ」
「それから?」
「それから、いつものようさ。一階がふたたび暗くなり、二階の明りがついた」
「どの部屋のです?」
ジョセの寝室と妻の寝室は二つとも通りに面していた。ジョセのが右側、クリスティーヌのが左側だった。
「二つともだ」
「あの家に起こったことで、あなたには何か見えましたか?」
「いや。そんなことはわしには関心がない」
「カーテン越しに、何かが見えたと思いますが?」
「人影だけじゃよ、だれかが電燈と窓との間を通ったときにな」
「それからあなたはちらっとも目をやらなかった?」
「また本を読みはじめた」
「いつまで?」
「向かいの家のドアが開いて、閉じる音を聞くまで」
「何時に?」
「十二時二十分」
「車のエンジンの音を聞きましたね?」
「いや。あの男はスーツケースを下げて、オートゥイユ教会のほうへ歩いて行った」
「家のなかに明りは?」
「なかった」
あとのほうの時間帯については、ジョセがメグレにしゃべった時間の使い方に一致する。これ以後、証言はたくさんある。オートゥイユ教会の前に停っていたプジョー四〇三のタクシー運転手が見つかった。ブリュニャリという男だ。
「そのお客さんなら、十二時半に私のタクシーに乗りましたよ。運転日報に行先をノートしてあります。手にスーツケースをさげててね。マルソー並木通りまで運びました」
「どんな様子だった?」
「こう、ぐにゃぐにゃした感じで、アルコールの匂いがぷんとしましたよ。スーツケースをさげていたので、私はどこの駅までやりましょうかと訊いたほどです」
マルソー並木通りで、ジョセはタクシー料金をはらい、ぽつんと建っている大きな建物のほうへ向かった。その建物のドアの左側には銅のプレートがついていた。
ジョセが会社を出たときに拾ったつぎのタクシーも見つかった。
一時半に入ったナイト・クラブは≪鹿の園≫という小さな店だった。客引きとバーテンがジョセのことをおぼえていた。
「そう、テーブルにはつかなかったな。どうしてこんなところにいるのかびっくりしているみたいだった。フロアでニヌーシュがストリップをはじめると、途方に暮れたようにながめていてね……ニヌーシュは最初のショーの終りに出るのだから、時間はわかる……その客はウィスキーを飲み、マリナにも一杯おごってやった。マリナっていうのは、娼婦でしてね、でも、その客はマリナのほうを見向きもしなかった……」
この間、ククシーの運転手は店の外で、別の運転手と口論していた。客引きとぐるになっている運転手が、ジョセを乗せてきた運転手を追い出そうとしたからだ。
「さっさと金をはらってもらいな。そのお客さんが帰るときには、おれの車に乗せるよ」
ジョセが店から出てきたときには口論を終っていた。ジョセがスーツケースを置いておいたタクシーが、ロペール通りへ彼を連れもどった。この辺に慣れているとはいえ、運転手はしばらくあちこちぐるぐるとまわり、ジョセは道順を教えてやらなければならなかった。
「その客が車から降りたときは、一時四十五分か、五十分ぐらいだったでしょうかね」
「どんな様子だった?」
「最初のときよりもずっと酔っぱらってましたよ」
もと植民地行政官のラランドは、ジョセのこの帰宅を見ている。明りがふたたびついた。
「一階ですか?」
「もちろん。ついで二階が」
「二つの部屋で?」
「それと、磨《すり》ガラスの窓の浴室」
「ジョセはふたたび家から出て行きましたか?」
「明りを消してから、二時三十分に」
「自分の車で?」
「いや、こんどはシャルドン・ラゴシュ通りのほうへ行った、手に包みを持ってな」
「どのくらいの大きさの包みです?」
「かなり大きかった、横よりも縦に長かった」
「縦は三十センチか四十センチぐらい?」
「四十センチだな」
「横は?」
「二十センチぐらい」
「あなたは寝ませんでしたか?」
「まだ寝なかった。ちょうど三時四十八分に、わしは警察の車のさわがしい音を聞き、つづいて六人の警官が歩道に飛び下り、家のなかに入り込むのを見た」
「私の間違いでなければ、あなたは夕方から夜にかけてずっと肱掛椅子から離れなかったのですね?」
「四時半に、ベッドに行ったときだけ」
「そのあとで何か物音を聞きませんでしたか?」
「車の往ったり来たりする音だ」
ふたたびここでも、時間は一致する。ジョセは三時半にオートゥイユ警察署に着き、彼が供述をはじめて数分後には、警察の車がロペール通りに向かっている。
メグレはこの報告書をコメリオにわたした。しばらくすると、判事は自分のオフィスにメグレを呼んだ。判事は一人だった。
「報告書を読んでいるね、メグレ?」
「もちろん」
「何か気がついたことは?」
「一つあります。あとでそのことをあなたに話すつもりです」
「私の気がついたことは、いいか、ジョセが大部分の点において真実を言っていることだ、いわゆる犯行に関係ない点においてだが。彼の行動表は夜の大部分については正確だ。しかし、彼が遅くとも十時五分に帰宅したと主張しているのに反して、ラランド氏が見たのは十時四十五分。
ということは、ジョセはこの時刻に、彼の言うようには一階で眠っていなかった。
彼は十時四十五分に二階に行き、二つの寝室の明りをつけた。
いいか、この時間は、ポール医師が犯行の時刻と推定している時間に一致している……これをどう思うかね?」
「私はちょっとしたことを指摘しておきたいと思います。トランスによれば、ラランド氏はしゃべっている間じゅう、まっ黒い葉巻を喫いつづけていたそうです。これはイタリア製の小さな葉巻で、俗に≪棺の釘≫と呼んでいるものです……」
「それとこれとどんな関係があるんだね……」
「あの夜も肱掛椅子で一晩じゅう喫いつづけていたと思います。その場合、喉が乾いて水がほしくなることはまずたしかです」
「手にとどくところに水をおいておけばいい」
「そうしてあるにちがいありません。しかし、報告書によれば、彼は七十六歳です」
判事はまだわからないようだった。
「私の考えでは」と、メグレはつづけた。「トイレに行きたくなったときがあったのではないかということです……一般に、年寄りというものは……」
「ラランド氏は肱掛椅子から離れなかったと断言しているし、あの人はすべてにわたって信用できる人間だ……」
「自分の言うことは絶対に正しいとしたがる頑固な老人でもあります……」
「ラランド氏はジョセと、たんに顔見知りであるにすぎない。それなのにどんな理由があって……」
メグレはラランド氏の医者に質問したくなった。こうした類の証言にすがりたくなったのは、これで二度目だ。
「きみは職業上の秘密を忘れておる……」
「忘れてはいません……」
「それに、ジョセが嘘をつくのは自分のためであることを見落としておる……」
フォントネイ・ル・コントにおけるデュシェの自殺は、アドリアン・ジョセにたいする世論を決定的に不利にした。新聞はそのことを書きたて、アネットがすすり泣きながらフォントネイ行の列車に乗る瞬間の写真を載せた。
「かわいそうなパパ! わたしにわかっていたら……」
郡役所の職員や、フォントネイ・ル・コントの商人たちもインタビューを受けた。すべての人々はこの課長をほめたたえた。
「けたはずれに真正直で、立派な人でした。奥さんが死んでからその悲しみでやつれはてていたので、こんどのような不名誉には耐えられなかったのでしょう……」
新聞記者たちの質問に、ルナン弁護士ははげしい反撃を用意している人間のような口調で答えた。
「ちょっと待ってくれ! まだ調査をはじめたばかりだから……」
「新しい証拠が見つかったのですか?」
「わが友コメリオ判事のために、それは言わずにおこう」
ルナン弁護士はその新しい証拠を判事に明かす日にちと時間とを発表し、好奇心をあおった。その爆弾を破裂させたとき……これはルナン自身の表現による……、裁判所の廊下には新聞記者やカメラマンがあふれ、警備員を新たにふやさなければならなかったほどだ。
≪サスペンス≫は三時間つづいた。その間、四人の男は予審判事のオフィスに閉じこもったきりだった……この場に到着したとき盛んに写真を撮られたアドリアン・ジョセ、ジョセとおなじようにフラッシュを浴びたルナン弁護士、コメリオとその書記の四人。
メグレのほうはオルフェーヴル河岸の自分のオフィスで書類の仕事をしていた。この会合が終った二時間後に、メグレのもとに夕刊が持ってこられた。夕刊はすべて、ほとんどおなじような見出しだった。
≪ジョセ、起訴される!≫
サブ・タイトルはいろいろと変っていた。
≪追いつめられたジョセ、攻撃に転じる≫
とか
≪被告側、絶望的な駆引きに出る≫
コメリオは例のごとく、すべての声明をことわり、オフィスに閉じこもったままだ。
ルナンのほうはこれも例のごとく、新聞記者たちにあらかじめ用意してきた声明文を読みあげたばかりか、彼の依頼人が二人の憲兵にはさまれて立ち去ったばかりの裁判所の廊下で、文字通りの記者会見を行った。
ルナンの声明文はつぎのとおりだ。
≪妻殺しの汚名を着せられてきたアドリアン・ジョセは、これまで、妻の私生活と、その秘密の振舞いについて義侠的に沈黙を守ってきた。
しかし、この事件で起訴されるにおよび、弁護士の切望もあって、そのヴェールの一端をはがすことに決心した。そのため捜査は新たな展開をみることになる。
その結果、クリスティーヌ・ジョセを殺すことができた数人の人間を発見することになるであろう。夫に罪をかぶせることに忙しく、いままでそれらの人間のことについてはほとんど語られていない≫
ジョセにこのような決心をさせたものは何なのか、サンテ刑務所の独房のなかで、弁護士と依頼人の間でどのような話が行われたのか、メグレは知りたかった。
これは、コーランクール通りのあの場面のことをいくらか彼に思い出させた。アネットの父は部屋に入ってきて、ほとんど何も言わなかった。ただこうたずねただけだ。
「あなたはどうするつもりなのだ?」
従業員を馘《くび》にするときいつでもジュール氏のうしろに隠れていたジョセは、ただちに離婚してアネットと結婚することを約束する。
ルナンのような巧妙で、破廉恥な男が自分の望むとおりのことをジョセに言わせられないことがあるだろうか?
新聞記者たちはもちろん、弁護士を質問ぜめにした。
「あなたは、ジョセ夫人に愛人がいたと言いたいのですか?」
この弁護士界のベテランは謎めいた微笑をうかべた。
「いや、諸君。一人ではない」
「数人ですか?」
「それでは単純すぎるし、何の説明にもならないだろう」
新聞記者たちには何のことかわからなかった。彼だけがちゃんとすべてをわきまえていたのだ。
「ジョセ夫人は当然の権利のように、いいかね、何人かの被保護者を持っていた。彼女の友人たちはみんな、そのことを知っている。ある階級では、だれそれ所有の競走馬について話すように、この被保護者のことを話す」
弁護士は悦に入って説明した。
「彼女は非常に若くして、著名な男、オースティン・ローウェル氏と結婚した。氏は勢力家たちの世界、陰で人をあやつる黒幕たちの世界で彼女を教育し、彼女をつくりあげた……初め、彼女も他の多くの人々のように、たんなる飾りものにすぎなかった……。
いいかね、このことを理解しなくてはいけない……彼女はオースティン・ロウェルではなかった……彼女は美しいロウェル夫人だった、彼が盛装させ、宝石でおおい、競馬場や、芝居の初日や、ナイト・クラブやサロンで見せびらかす女だった……。
三十歳前でやもめになった彼女は、いままでどおりの生活をつづけたかった。しかし、こういう言い方ができるならば、こんどは自分自身のために。
彼女はもう夫婦の従たる側でありたくなかった。アクセサリー的なもの、脇役的なものでありたくなかった。主役でありたかった。
そのため、彼女の階級の男と結婚するかわりに……そのほうが簡単だったんだがね……、薬屋のカウンターのうしろにいたジョセをさがし出したのだ。
彼女はこんどは、支配する必要があった。彼女のわきに、すべてを彼女に負っている人間が、彼女のものである人間が必要だった。
あいにく、この若い薬剤師助手は彼女が考えている以上に強い個性の持主だった。
彼は製薬会社の仕事で成功し、彼自身がひとかどの人物になってしまった。
そこにすべてがある。そこにドラマがある。
年齢《とし》を取り、男たちの敬意をうけなくなる瞬間が近づきつつあるのを感じると、彼女は……」
「失礼ですが……」と、一人の記者が話をさえぎった。「彼女にはすでに何人もの愛人がいたのでは?」
「彼女が一般の道徳にしたがって生きていなかったことに注意しなくてはいけない。彼女にはもう夫を支配できない日がやってきた。そこで別の男たちを支配しようと努めた。
私が被保護者と呼ぶのはこれらの男たちだ。この被保護者というのは、彼女が自分で使っていた言葉で、彼女はこの言葉を口にするときは満足そうな微笑をうかべていたらしい。
この被保護者たちは数多くいた。その一部はわかっている。もちろんわからない者もいるが、調査すればいずれ見つけ出せるだろう。
ほとんどが無名の芸術家だ。絵かき、音楽家、シャソンン歌手たちで、彼女がどこかで出会い、世に出してやろうとした連中。
私はその気になれば、今日ではかなり知られているある魅力的なシャソンン歌手の名前をあげることができる。その男はガレージで修理工として働いていたとき、偶然ジョセ夫人と出会い、そのおかげで歌手として成功したのだ。
このように成功した者もいれば、才能がないことがわかった者もいる。そうした者たちは、数週間後か、数カ月後には、もう相手にされなくなる。
これらの若者たちがいつでも簡単にあきらめて、ふたたび世に埋もれることを承知しただろうか?
彼女はそれらの若者たちを、芝居の、絵の、映画の未来のスターとして友人たちに紹介している。彼女は彼らに衣服をあたえ、ちゃんとしたところに住まわせる。彼らは影のように彼女につきまとい、彼女のあとを追う……。
まもなく、彼らは何者でもなくなる」
「その連中の名前をあげることができますか?」
「私は彼らのことを予審判事にまかせ、リストをわたした。そのリストのなかには、もちろん立派な者もいる。われわれはだれをも告訴しない。ただ、クリスティーヌ・ジョセを怨む理由を持っていた者がかなりいたと言うだけにとどめる……」
「とくにだれです?」
「被保護者のなかでも比較的新しい者たちをさがさなければならない……」
メグレもすでにそのことを考えたことがある。最初から、被害者の私生活とその周辺を洗わなければならないと感じていた。
いままで、メグレは壁にぶちあたっていた。それはまたもや、コメリオにたいするときとおなじように、階級の問題、ほとんど特権階級の問題だった。
クリスティーヌ・ジョセはコメリオよりももっと限られた世界で生活していた。その一握りの人たちの名前はいつでも新聞に載り、彼らの行動はすべて報道される。また、それをめぐる風変わりな反響も載せるが、実のところ一般の人々にとってはほとんどわからないことばかりだ。
メグレがまだ一介の刑事だったとき、この類のことでうまい酒落を言ったことがある。この話はオルフェーヴル河岸ではいまでもよく新入りたちにくり返されている。ある銀行家の見張りを命ぜられたメグレは……この銀行家は数カ月後に逮捕された……、上司にこう言った。
「彼の精神状態を理解するためには、私は銀行家たちと一緒に朝のクロワッサンを食ベ、半熟卵を食べなければなりません……」
各社会階級にはそれぞれの言葉が、タブーが、弱点があるのではないか?
メグレが「ジョセ夫人についてどう思いますか?」とたずねると、きまってこういう答えが返ってくる。
「クリスティーヌ? とてもすばらしい女《ひと》だわ……」
というのは、彼女の階級では、彼女はジョセではなかった。クリスティーヌだったのである。
「あらゆることに好奇心を燃やし、情熱的で、人生を愛していた女《ひと》よ……」
「彼女のご主人は?」
「律義な人……」
冷やかにそう言われる。ということはジョセは事業が成功したのにもかかわらず、妻が交際していた人々には、一度もちゃんと迎え入れられなかったということだ。
彼らはジョセを大目に見ていた、有名人の愛人や妻を大目に見るように。彼らはこうつぶやく。
「結局、彼女の好みなんだから……」
コメリオは怒り狂っているにちがいない。新聞を全部読んだあとは、いっそうその怒りが激しくなっているだろう。彼は自分でも満足すべき書類をつくりあげ、起訴陪審に送るばかりになっていたのだ。
ところが、すべての捜査はふたたびやり直さなければならなくなった。ルナンの告発を無視するわけにはいかなくなったのである。それほど巧妙にルナンはこの告発をやってのけた。
もはや女管理人や、タクシーの運転手や、ロペール通りの隣人たちが問題ではない。
新しい階級に入り込み、その人々の内緒話や名前を手に入れ、例の被保護者たちのリストを作成せざるをえなくなった。そして、この被保護者たちのアリバイを調べるのは、たぶんメグレの仕事になるであろう。
「ジョセは」と一人の新聞記者が反対意見を述べた。「十時五分に帰宅し、一階の肱掛椅子のなかで眠り込んでしまったと主張しています。しかし、向かいの家に住んでいる信用できる証人によれば、ジョセは十時四十五分にしか帰ってこなかったと言っています」
「信用できる証人だって間違うことがあるさ」と、弁護士は反駁した。「きみが言っている証人というのはラランド氏だが、彼はおそらく十時四十五分に家のなかに一人の男が入って行くのを見たのであろう。そのとき、私の依頼人は眠り込んでいて……」
「その男が犯人ですか?」
「おそらくね」
「ジョセに気がつかずに、その前を通っていったというのですか?」
「一階は明るくなかった。私はそのことを考えれば考えるほど、犯行時には家の前には車が二台ではなく、三台あったという信念を強くしている。私はあの場所をチェックしに行った。しかし、私はラランド氏の家には入ることができなかった。あそこの召使いに追いはらわれてしまってね。けれども私は、あの老人の窓から、キャデラックとその前に駐車していた車は見えたが、うしろに駐車していた車は見えなかったと主張したい。私のこの仮説をたしかめることを要求する。もし私の説が正しいなら、車は三台あったと私は断言するつもりだ……」
この夜、メグレ夫人はひどく興奮していた。彼女は長い間我慢していたのだが、あっちの店でもこっちの店でも事件のことを話しているので、ついには夢中になってしまった。
「あなた、ルナンの反論はもっともだと思う?」
「いや」
「ジョセは無実なの?」
メグレはうつろな目で彼女をながめた。
「五分五分だね」
「有罪の判決をうけるかしら?」
「たぶん。とくにいまの状態では」
「あなたにはどうすることもできないの?」
それにたいし、メグレはただ肩をすくめてみせただけだった。
[#改ページ]
第七章 ジュール氏と女性会長
メグレは前にも何度か気づいたことのある或る現象を、どうしようもなく見守っていた。この現象はいまでも彼をおどろかせるのである。公道や、デモや、群集の不穏な動きを取締っている地方自治体警察の長官である旧友のロンブラは、よく言っていたものだ……パリにだって、一個人に起こるように、ときどきよく寝られなくて不機嫌な気分で目ざめ、そのうさ晴らしをするチャンスをうかがっていることがあるものだと。
犯罪事件でもこれとちょっと似たようなことが起こる。冷静に遂行された冷酷無比な殺人事件が、予審でもほとんど世間の注目を集めることなくすんでしまい、つづいて裁判でも、寛容な空気とはいえないまでも、一般的な無関心のままに終ってしまうことがある。
それに反し、まったく平凡な犯罪が、どうしてだかわからないが、人々の怒りを買ってしまうことがある。
組織だったキャンペーンがあるわけではない。情報通だと自任している人々の言うように、舞台裏でだれ一人、ジョセへの反対キャンペーンを組織したわけではなかったのである。
もちろん、新聞はこの事件のことを書きたてたし、いまでもそうしている。しかし、新聞は世論の反映にすぎないし、読者の要求に応えるだけにすぎない。
それではなぜ、ジョセは初めから世論の反感を買っているのか?
二十一にもおよぶナイフの刺傷が、そのことに何らかの関係がある。殺人犯はわれを忘れると、死体を刺しつづけるものだ。人々はその残酷さについて話す。精神病医はむしろそこに精神耗弱者の徴候を見るだろうが、逆に一般の人々には、許せない状況なのだ。
いろいろな人間が訴訟にかかわるが、ジョセはすぐに虫の好かない、いやな奴になってしまった。そのことにはたぶん説明がいるだろう。新聞の記事によって、ジョセに会ったことがない人さえも、彼のことを弱虫で、ぐにゃぐにゃした男だと思っている。こういう無気力な人間を、世間の人はなかなか許さないものだ。
また、明白なように思えることを肯定する人間も許さない。すべての人々にとって、ジョセの犯行は明白だった。
ジョセが自白したのなら、かっとなり、錯乱してやったと主張するなら、ひどく後悔して許しを乞うなら、大方の人は寛大な気持になるだろう。
しかし逆に、彼はそういった理屈に、良識に挑戦することを選んだ。それは、大衆の知能を侮辱するようなものだった。
火曜日の尋問のときから、メグレにはこのようになるだろうことはわかっていた。コメリオの反応はその一つのしるしであり、あの日の夕刊の最初のタイトルとサブ・タイトルは、その別のしるしであった。
そのときから、ジョセにたいする嫌悪は増すばかりで、彼の有罪に疑いを抱く者や、彼のために弁解とまではいかなくても、情状酌量を求めようとする者もまれだった。
マルタン・デュシェの自殺はこの嫌悪を完全なものにした。というのは、ジョセはもはや一つの死だけではなく、二つの死に責任があったからだ。
最後にはルナン弁護士が、その時ならぬ声明と告発とによって、火に油をそそいでしまった。
こうした状況では、証人たちに有効に質問することが困難になった。率直に言って、もっとも正直な証人たちもジョセに不利になるようなことしか思い出さなかった。
実際、ジョセは不運だった。たとえば、ナイフの問題にしてもそうだ。彼はナイフをミラボー橋の真中から、セーヌ河に投げ捨てたと言っている。水曜日から潜水夫が、橋の手すりによりかかっている何百人という野次馬の注視のなかで、数時間の間河底をさらった。カメラマンはもとより、テレビですら、大きな銅の頭が水面にあらわれるたびに撮影を行っていた。
何度|潜《もぐ》っても潜水夫は手ぶらでもどってきた。翌日も捜索はつづけられたが、ナイフは見つからなかった。
セーヌの河底のことを知っている人にとっては、それは意外なことではなかった。橋脚のところは流れがはげしく、渦巻いていて、そのため、ときにはかなり重い物でも遠くに押し流してしまうのである。
また他の個所では、水底の泥が深く、あらゆる種類のがらくたがそのなかに沈み込んでいる。
ジョセは肱をついた場所をはっきりと指示することができなかったが、彼が主張するような精神状態にあったならば、それは当然なことだった。
しかし、世間の人にとっては、それは嘘の証拠になった。ある不可解な理由のために、ナイフをどこかに隠したのだと言ってジョセを非難した。ナイフの問題だけではなかった。もと植民地行政官ラランド氏は……だれ一人彼の言葉を疑っていなかったし、彼のことをいささか風変わりな老いぼれと言おうものなら大変だった……、かなり大きな包みのことを述べている。その大きさは突撃隊のナイフよりもずっと大きかった。
ジョセが犯行後に持ち去ったこの包みの中身は何だったのか?
最初は被告人に有利のように思われ、弁護士が軽率にもあまりにも早く得々としゃべりすぎたこの包みの証言でさえも、しまいにはジョセに不利なものになってしまった。
鑑識課はロペール通りの家からかなりの数の指紋を採集した。この家はそのモダンな建築のため、いまでは≪ガラスの家≫と呼ばれていた。これらの指紋は分類され、ジョセの指紋、彼の妻や二人の召使いの指紋、月曜日の午後、犯罪の数時間前にガス・メーターを調べに来た検針員の指紋とくらべられた。
だれのとも一致しない指紋があった。階段の手すりや、さらにそれよりも被害者の寝室や、夫の寝室でたくさん見つかっている。
その指紋は、男の大きな親指のものだった。丸くて、小さな、ひどく特徴のある傷痕がついている。
質問されたシラン夫人は、奥さまも、旦那さまもここ数日どなたの訪問も受けなかったし、自分の知っているかぎりでは、見知らぬ人間で寝室に入った者など一人もいない、と断言した。
料理女が帰ったあともまだ夜の勤めをしていたカルロッタは、シラン夫人の言うことが正しいことを証明した。
新聞の見出しはつぎのようになった。
≪謎の訪問者?≫
もちろん、ルナン弁護士はこの発見に大騒ぎした。これこそ重大な手がかりの出発点であるとした。
ルナンによれば、ポール医師は判断を誤ったのである。殺人者が十時ちょっと前に、つまりロべール通りにジョセが着く前に犯行を行ったとしても何らおかしくはない、と弁護士は言う。
たとえポール医師が正しいとしても、酒を飲みすぎたジョセが、明りのついていない一階の肱掛椅子でぐっすり眠り込んでいる間に、家のなかに見知らぬ者が入ってきたという仮説を肯定することはできない。
ルナンは現場で、おなじ時刻にある実験をしてみる許可を得た。彼はクリスティーヌの夫が眠り込んだ肱掛椅子に坐り、何も知らされていない六人の人間に、薄暗い部屋のなかをつぎつぎと横切らせ、階段を上らせた。彼のことに気がついた人間は二人だけだった。
これにたいし、犯行の夜は月はおなじ大きさではなかったし、空がもっと晴れていたという反論があった。
それに、ラランド氏の証言がある。氏は最初の供述を一言も変えようとはしなかった。
室内装飾業者の訪問を受けたのは、メグレだった。この男はいましがた新聞を読み、不安になり、自分の知っていることを話すためにオルフェーヴル河岸にやってきたのである。ジョセ夫婦は彼のお得意だった。数年前にカーテンをかけ、壁紙をはったのは彼だった。数カ月前にも、家具を新しくしたジョセ夫人の寝室のカーテンの他には、いくつかカーテンを変えている。
「召使いの人たちは私がうかがったことを忘れてしまっているようです」と、彼は言った。「ガス会社の検針員のことは話していますが、私のことを言ってません。三日前に、私はロペール通りにうかがわなければならなかったのです。というのは、ジョセ夫人が寝室のカーテンの紐がゆるんでしまったと言ったからです。紐がゆるむことはよく起こることなんです。月曜日の三時頃、私は近くを通りかかったので、ちょうどいいと思って……」
「だれに会いました?」
「シラン夫人がドアを開けてくれましたが、私と一緒に階上《うえ》には行きませんでした。彼女は階段がきらいですし、私が家のなかをよく知っていることをわきまえていたからです」
「あなたは一人で行ったのですか?」
「そうです。私は相棒を、ヴェルサイユ並木通りの別の仕事場に残してきました。私の仕事はほんの数分ですみました」
「女中には会わなかった?」
「私が仕事をしている部屋にちょっと入ってきました。私はあいさつしましたよ」
二人の女はどちらも、質問されたときこの室内装飾業者のことをおぼえていなかったのである。
メグレはこの男を鑑識課に連れて行き、指紋を取った。この指紋は謎の訪問者の例の指紋とぴったり一致した。
つぎの日、匿名《とくめい》の手紙を受けたのはまたしてもメグレだった。この手紙は世間の怒りをあおりたてることになる。ノートから引きちぎった紙を四つに折りたたみ、油のしみのついた安物の封筒に入れてある。まるで台所のテーブルの上でこの手紙を書いたようだ。
切手に十八区の消印が押してある。アネット・デュシェの住んでいる地区だ。
≪メグレ警視よ、あんたは自分をとてもお利巧だと思っているようだが、ルピック通りのオルタンス・マルティエという女に質問してごらん。この女は堕胎をやる産婆だよ。きたないやつさ。この産婆のところに三カ月前、あのかわいいデュシェが愛人と一緒に行っている≫
事態の現状から見て、メグレはこの手紙を自分でコメリオ判事のところへとどけた。
「読んでごらんなさい」
判事は手紙を二度読み返した。
「調べてみたのかね?」
「あなたの指示を得てからと思いまして」
「きみが自分でこのオルタンス・マルティエに会ったほうがいい。前科があるのか?」
メグレはすでに風紀係の記録を調べておいた。
「十年前に一度逮捕されてますが、証拠をつかむことができなかったのです」
産婆のマルティエは、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの近くの古びた建物の六階に住んでいた。六十何歳かになる。水腫にかかったため、フェルトのスリッパをはき、杖にすがって歩いていた。彼女の住居には胸のむかつくような匂いがただよっている。窓の前の大きな鳥籠には十羽あまりのカナリヤが飛びまわっていた。
「警察がわたしに何の用があるんです? わたしは何もしてませんよ。こんな哀れな老いぼれですから、人さまにはもう何も迷惑をかけてません……」
地肌が見えるほど数少なくなってしまった灰色の髪が、蒼白い顔を縁取っている。
メグレはまず、アネット・デュシェの写真を見せた。
「この女がわかりますね?」
「新聞に写真が出てましたよ!」
「三カ月ほど前に、あなたのところに来ましたね?」
「その女が、わたしの家に何をしに来るというんです? わたしはもうずっと前からトランプ占いをしてませんよ」
「あなたはトランプ占いもするのですか?」
「いけませんか? 人はだれでもできるだけ自分で生活費をかせがなければなりませんからね」
「彼女は妊娠していた。あなたの処置のおかげで、身軽になったんだ」
「だれがそんなつくり話をしたの? 嘘っぱちさ!」
警視と一緒にきたジャンヴィエが、引出しのなかをさがしたが、何も見つからなかった。メグレはそれを予期していた。
「われわれにとって大切なのは真実を知ることです。彼女はここに一人では来なかった。男がついてきたと思うが」
「数年前から、わたしの住居に男が来たことなんかありませんよ」
彼女は頑強だった。こうした警察のきまりきった質問になれていた。この建物の女管理人は質問されると、アネットも、ジョセも見たことがないと主張した。
「マルティエ夫人のところには若い女たちがよくたずねてくるんですか?」
「昔、彼女がトランプ占いをしていた頃、若い女や年取った女が見えましたね、トランプ占いなんか信じているようには見えない男たちも。でも、もうずっと前に、彼女はこの仕事をやめてしまいました……」
こうしたことはすべて予想されたことだった。しかし、オルフェーヴル河岸にメグレに呼び出されたアネットの態度は、予想外のものだった。警視はいきなりこう無遠慮にきりだした。
「ルビック通りのマルティエ夫人を訪ねたとき、あなたは妊娠何カ月目でした?」
アネットは嘘をつくことができなかったのか? 不意を打たれたのだろうか? 自分の答えがどういうことになるのかわかっていなかったのか?
彼女は顔を赤らめると、助けを求めるかのようにまわりを見まわし、ラポワントに不安そうな目をちらっとやった。ラポワントはこんども速記者の役目をおおせつかっていた。
「答えなければいけないのでしょうね?」
「そのほうがいいですね」
「二カ月」
「ルピック通りの住所を、だれが教えてくれたんです?」
メグレはこれといった理由もなく、少しいら立った。アネットがあまりにも簡単に口を割ってしまったせいかもしれない。あの女管理人だって、堂々と白ばくれたのに。あの堕胎をやる産婆にしたってそうだ。もちろん、彼女にはそうするだけの十分な理由があったのだが。
「アドリアンです」
「すると、あなたは妊娠していることを彼に告げ、彼はおろすように言ったのですね?」
「そうとばかりは言えないんですけど……わたしは六週間前から心配でした。あの人はわたしが何を心配しているのかとしきりにたずねました……あるときなど、わたしがもうあの人を愛していないのかと言って責めましたので、ある晩わたしは、あれを引き受けてくれる産婆さんかお医者さんを知らないかと、あの人に訊いたのです……」
「彼は反対しなかったのてすか?」
「ショックをうけたようでした。あの人はこうたずねました。
≪たしかかい?≫
わたしは、間違いないわ、もうすぐ目立つようになるから何とかしなければならないのよ、と答えました」
「彼はマルティエ夫人を知っていた?」
「そうではないと思います。あの人は気持の整理がつくまで二、三日待ってくれ、それまで何もしないようにと言いました」
「気持の整理って?」
「わかりません」
ジョセには子供がいなかった。だから、アネットが息子か娘を自分にあたえてくれるかもしれないという考えに感動したのだろうか?
メグレは自分自身の満足のため、この点についても、他のいくつかの点についてもジョセに尋問してみたかった。しかし、こうした尋問はすべて、今後はコメリオにまかせられているのだ。コメリオとメグレとは物の見方がちがう。
「彼があなたに子供を持たせようとしたと思いますか?」
「わかりません」
「彼はそのことをあなたに話さなかったのですか?」
「一週間のあいだ、あの人はとてもやさしく、こまごましたことに注意してくれました」
「いつもはやさしくなかったのですか?」
「親切で、愛してくれてはいましたが、やさしいとは言えませんでした」
「彼が奥さんに子供のことを話したとは思わなかったのですか?」
彼女はぎくっとなった。
「奥さまに!」
彼女は、死んでもまだクリスティーヌを恐れているにちがいない。
「そんなことをしなかったにちがいないわ……」
「なぜ?」
「わかりません……男って、別の女に子供ができたことを奥さまに言わないのではないかしら……」
「彼は奥さんを恐れていた?」
「あの人は奥さまに何も隠しごとをしませんでした……たとえば、レストランなどで、わたしがあの人に用心するように、人目を惹かないようにと言っても、あの人は、女房は何でも知ってるから平気さ、と答えました……」
「あなたはそれを信じた?」
「すっかり信じ込んでいたわけでは。そんなこと、ありえないことですもの……」
「ときどきクリスティーヌ・ジョセと出会うことがあったのですか?」
「二、三度」
「どこで?」
「オフィスで」
「クリスティーヌの夫のオフィスでということですね?」
「そうです……わたしはそこで働いてましたから……奥さまがマルソー並木通りに来ますと……」
「よくやってきましたか?」
「月に二、三度」
「夫に会うため、どこかに夫を連れ出すため?」
「ちがいます。主としてジュールさんに会うため。奥さまはここの取締役会の会長でした……」
「彼女は仕事のことに活発に口を出していたのですか?」
「活発にではありません……でも、奥さまは仕事のことに通じていて、計算書を見せるように言ったり、取引の説明をさせたりしていました……」
それは、まだだれも話してくれなかったクリスティーヌの一面だった。
「彼女は好奇心にかられてあなたを見たと思いますが?」
「ええ、最初のうちは……とくに初めてのとき、頭のてっぺんから足の爪さきまでじろじろ見たあとで、肩をすくめ、あの人に向ってこうつぶやきました。
≪わるくはないじゃない……≫」
「彼女はすでに知っていた?」
「アドリアンが奥さまにしゃべったのです」
「彼女はあなたと差し向かいで話したことがないんですか? 彼女があなたのことを恐れていたという感じはなかったですか?」
「わたしのことを? どうして奥さまが恐れるのです?」
「あなたに子供ができたということを、ジョセが打明けたとしたら……」
「それはまた話は別ですわ。でも、あの人が奥さまに子供のことを話したなんていうことは絶対にありえません。奥さまのためばかりでなく、他の人のためにも……」
「あなたの同僚たちのため?」
「すべての人々のため……わたしの父のためにも……」
「一週間後に何が起こりました?」
「ある朝、オフィスであの人は郵便物を開く前に、小声で、すばやくこう言ったのです。
≪住所がわかった……今晩、そこへ行くことになった……≫
その夜、オフィスから出ると、まっすぐコーランクール通りにはいかず、クリシー大通りに車をおいて、ルピック通りまで歩きました。用心のためです……」
「あなたは、考えを変えようとはしなかったんですか?」
「あの産婆さんはこわかったんですが、でも、わたしは決心していました」
「彼は?」
「すぐに、歩道でわたしを待っていると言って出て行きました」
メグレはこの報告書をコメリオにわたした。そうしなければならなかったのである。判事のオフィスから、このことが漏れなかったか? コメリオはこうした類の情報を言いふらすような人間ではない。職業上、とうぜんこの情報を知らされたルナンが、秘密を守らなかったのか? この件を公けにすることは依頼人の利益にならないし、いくら不手際だといっても、こうしたへまはおかさないにちがいない。
おそらく匿名の手紙を書いた人間が、手紙のことがぜんぜん話題にならないのに腹を立て、新聞社に直接に話したのだろう。そして新聞社が独自に調査したのだ。
マルティエ夫人はあいかわらず否定していたが、逮捕され、堕胎の話はこんどもまた、新聞の第一面を飾った。
コメリオは若い娘をも起訴せざるをえなかった。が、彼女には仮釈放を許可した。
≪ジョセとその愛人、第二の犯罪で起訴される≫
アネットも一緒に書かれているが、彼女には同情的だった。すべての責任はジョセの肩に負わされていた。
日ましに、ジョセにたいする嫌悪の空気が形づくられていくのが感じられた。ジョセと親しかった連中でさえ、いやいや彼の話をし、あまり付き合いがなかったようなふりをする。
「それは私だって、みんなのように彼のことを知ってましたよ……しかし、私はどちらかというとクリスティーヌの友達だったんです……あれはおどろくべき女でした!」
もちろん、おどろくべきバイタリティの女だろう。しかし、その他には?
「彼は、あの女に必要な男ではなかった……」
では、彼女にはどんな男が必要だったのかと問い詰めると、彼らは答えることができなかった。彼らの見るところ、彼女はだれにも束縛されずに、自分自身の人生を生きていくために生まれついた女なのだ。
「しばらくの間、二人はすごく愛し合っていました……みんなは不思議がったものです。というのは、ジョセにドン・ファン的なものは何もなかったし……それに、弱虫でしたからね……」
クリスティーヌがこの弱虫を押しつぶしてしまったかもしれないとは、だれも考えなかった。
「彼女はもうジョセを愛していなかったんですか?」
「二人はますます離れ離《ばな》れに暮してました……とくにジョセが、あのタイピストにほれ込んでからは……」
「クリスティーヌはそのことを悩んでいました?」
「クリスティーヌがどんな気持でいたか、はっきり知ることはできませんな……あれは、あまりしゃべらない女でしたから……」
「愛人たちのことについてもそうでしたか?」
彼らは非難するようにメグレをながめた。まるでメグレがゲームのルールを守らなかったかのように。
「彼女は若い男たちを援助するのが好きでしたね?」
「彼女は展覧会や音楽会にはよく行ってました……」
「彼女にはいわゆる若い燕が何人もいましたね?」
「ときどき新人を援助していたことはありましたけど……」
「その人たちの名前を教えてくれませんか?」
「そいつはむりです……はっきりとはわからないようにうまくやってましたから……そう、思い出しました、若い絵かきを援助してやったことがありましたよ。彼の最初の展覧会には、彼女は顔見知りのジャーナリストや友達を連れてきて……」
「その絵かきの名前は?」
「名前はおぼえてません……イタリア人だったと思うけど……」
「それだけ?」
日がたつにつれて、こうした抵抗はますます組織だってきた。
ルナン弁護士のほうは、軽率に爆弾宣言をしてしまったあとで、例の被保護者のリストをつくろうと努力していた。メグレには、ルナンが、昔の刑事仲間の一人がやっている私立探偵事務所を使っていることはわかっていた。私立探偵なら司法警察局よりずっと自由に振舞えるし、コメリオにたえずうんざりさせられることもない。
それにもかかわらず、何一つはっきりしたことがつかめなかったのだ。この昔の同僚がドナールという男のことでメグレに電話してきた。ドナールは以前ドーヴィルでホテルのドア・マンをしていたが、いまではサン・ジェルマン・デ・プレで歌っている。
まだ世間には知れわたっていないが、右岸のナイト・クラブでは名前が売れはじめているし、やがてミュージック・ホール≪ボビノ≫にデビューするにちがいない。
メグレはポンティウ通りのホテルの部屋に、彼に会いに行った。筋肉のたくましい、かなり粗野な大男で、アメリカの若いスターのような挑戦的なタイプだった。
午後の二時に、彼はしわくちゃのパジャマを着たまま、ドアを開けた。女はあわててベッドのシーツにくるまったので、ブロンドの髪しか見えなかった。
「メグレさん、かい?」
彼はこの訪問がいずれそのうちあるだろうと予期していた。たばこに火をつけると、映画のごろつきのような態度を取った。
「あんたが令状を持ってなければ、私はあんたをここに入れなくてもいいんだぜ。令状はあるかい?」
「ない」
「それなら、私をあんたのオフィスに呼び出すことだな……」
メグレはこの訪問が合法であるかないか、彼と言い争うつもりはなかった。
「まず言っとくが、私には何も言うことがないよ」
「クリスティーヌ・ジョセを知ってるな?」
「それで? 彼女のことを知っている人間はパリにはたくさんいるよ」
「きみは彼女と親しかったのか?」
「第一に、そんなことはあんたには関係ない。第二に、このままさがしまわれば、あんたは彼女と寝たことのある何ダースもの若い男を見つけるだろう。私が何ダースと言うとき……」
「きみが最後に彼女と会ったのは?」
「一年前だな。こっちが彼女に捨てられたと思ったら、間違いだぜ。ドーヴィルにいたときから、私はすでにサン・ジェルマンのクラブの経営者から認められ、パリに会いにくるように名刺をわたされていたんだ……」
ベッドの女は、シーツを数センチ持ちあげ、そこから片目をのぞかせた。
「かわい子ちゃんよ、心配することないさ! おれにはこんな旦那方を恐れる理由なんかないんだ。クリスティーヌ夫人が冷たくなった夜、私がマルセイユにいたことは証明できる。≪ミラマール≫の店のプログラムに私の名前が大きく出ているし……」
「きみは他の連中を知らないか?」
「他の連中って?」
「ジョセ夫人の他の男たち」
「あんたは、われわれがクラブか組合でもつくっていたと思うのかい? われわれがバッジでもつけなければいけないとでも?」
彼は得意げだった。連れの女は、シーツの下でからだをゆすって笑った。
「あんたの用事ってのはそれだけですかい? それなら、こちらにはやりたいことがあるんですが……ねえ、そうだろ、かわい子ちゃんよ?」
もちろん、他にも同類たちがいたし、別の類の連中も、世間に名を知られるのをひどくいやがっていた。問題の絵かきはいまはブルターニュで暮していて、船乗りたちを画いていた。犯罪が行われた頃、彼がパリに来たという証拠は何もない。
別の種類の捜査……タクシー運転手にたいする捜査も、成果があがらなかった。しかし、長い時間がかかっても、ある限られた区間を走った運転手が見つからないというのはまれである。
数人の刑事が手分けして、タクシー会社やタクシー乗り場、個人タクシーなどにあたった。それらの人々に、刑事たちは犯行当夜ロペール通りまで人を運んだ者はいないかと訊いたが、これも成果がなかった。ただ、ジョセ家から三軒先に住んでいる夫婦が、真夜中ちょっと前にタクシーで劇場から帰ってきていることがわかった。
運転手もその夫婦も、その時間にガラスの家に明りがついていたかどうかはおぼえていなかった。
しかし、その時間にロペール通りにタクシーがいたという事実は、ある意味では好都合だった。というのは、人や車の往来は何一つ見逃さなかったと主張していたあのもと植民地行政官が、このタクシーのことを言っていなかったからだ。しかも、このタクシーはエンジンを止めずに、二、三分駐車していたのである。小銭のなかった客が、小銭を取りに家にもどったからだ。
マルタン・デュシェの写真が数千の運転手に、とくにいつもコーランクール地区で客待ちしている運転手に見せられた。
運転手たちはその写真をすでに新聞で見ていた。アネットによれば、父親は夜の九時半頃彼女のアパルトマンを出ている。真夜中前に、オステルリッツ駅のそばのホテルに帰ったようには思えない。ついで、ホテルの夜番は、彼が帰ってきたのを見たかどうかぜんぜんおぼえていない。
フォントネイ・ル・コント郡役所の課長はその間じゅう何をしていたのか?
その点がまったく空白なのである。運転手はだれ一人、彼を乗せた記憶はないのだ。彼の姿や顔が特徴的だというのに。
ジョセにふたたび会い、いろいろと説明を求め、さきほどの約束を確認させようとしたとは考えられないか?
アネットは、父親がまったく普通の状態ではなかったことを認めている。いつもはきちんと節制している彼が、ひどく飲みすぎている。
コーランクール通りの場面は、表面上は話し合いがついてかなり穏やかに終ったとはいえ、彼を動揺させたにちがいない。
それでもタクシーがロペール通りにも、他のどこにも彼を運んで行かなかったのは事実だ。
地下鉄の駅でも、彼の姿に気づいた者はない。多数の乗降客が通るのだから、当然だろう。
まだバスがある。バスだったら、このようにだれにも気づかれずに動くことができる。
ジョセ家にひそかに入った人間は彼なのか? 彼はベルを鳴らさなかったのだろうか? ドアは開いていたのだろうか?
あの家の間取りも知らないのに、暗がりのなかを客間を横切り、階段を上ってクリスティーヌの寝室に入っていったと、どうして想像できるだろうか?
その殺人者がジョセでないとしたら、手袋をはめていた。ポール医師の報告にあるような傷を負わせることができる武器を持っていたか、アドリアンの寝室にあった突撃隊のナイフを使った。
家人以外に、突撃隊のナイフがそこにあるのをだれが知っていたのか? しかも、犯行後、その見知らぬ人間は兇器をきれいに拭き取っている。ジョセがナイフに血がついていないのを見ている。それなのに、布切れにはその跡が全然残っていないのだ。
こうした矛盾を、世間の人たちは知っている。新聞記者たちが、想像しうるあらゆる仮定を綿密に説明したからだ。ある新聞は、賛成と反対の意見を二つ並べて載せたりした。
メグレはマルソー並木通りに初めて行った。十九世紀の終りに建てられた大邸宅が、いまでは会社に変わっている。
一階には、電話交換室と、訪問者が名刺をわたし、カードに書き込む小部屋の他には、陳列室しかない。壁は鏡板で覆われ、天井には装飾がありすぎる。
ショー・ウィンドーのなかには≪ジョセ・エ・ヴィリュー≫社の薬品が並べられ、そのまわりには、図表や医師の証明書などが立派な額縁におさめて並べてある。そして、大きなかし材のテーブルの上には、この会社の製品の販売につながるようないろいろな薬の出版物がおいてあった。
メグレが会いに来たのは、ジュール氏だった。メグレはすでに、ジュールがファースト・ネームではなく、苗字であることを知っていた。したがって、彼がこう呼ばれるのは親しみによるものではなかったのだ。
ジュール氏のオフィスと、ジョセのオフィスの間には、明るい、ほとんど飾り気のない部屋があり、二人のタイピストが働いていた。ジョセのオフィスはこの会社でいちばん広く、高い窓が並木通りの樹々に面している。
ジュール氏は六十五歳で、濃い眉をし、黒ずんだ毛が鼻や耳からも生えている。彼にはちょっとマルタン・デュシェのようなところがあった。が、あれほど従順ではない。マルタン・デュシェのように、ジュール氏も≪正直な僕《しもべ》≫というイメージを人にあたえた。
実際、この会社ではジョセよりずっと古く、ヴィリューの父親の時代からすでに働いていたのである。彼の正式の肩書きは人事部長だったが、すべての課を監督する権限もあった。
メグレはクリスティーヌについて彼と話したかった。
「どうぞおかまいなく、ジュールさん。私は通りがかりに寄っただけですから。実を言いますと、あなたに何をお訊きしたいのかはっきりわからないのです……私はたまたま、ジョセ夫人がこの会社の会長であったことを知ったのですが……」
「そのとおりです」
「それはただ敬称にすぎないのですか、それとも彼女はこの会社の運営に関心をいだいていたのですか?」
メグレは、あらゆるところで感じたあのいやいやしゃべる態度を、ここでもすでに感じていた。犯罪捜査で、素早く行動するのが重要なのは、こうした態度を避けるためではなかったのか? メグレ夫人はだれよりもそのことをよく知っている。彼女は、外で二、三日つづけて夜を過すわけにはいかなくなった夫が、夜明けに帰ってくる姿をよく見ていたからだ。
世間の人は新聞を読むと、すぐに意見を言いたがる。そのとき、彼らが自分ではまじめで、真実を語っていると思っているとしても、真実をゆがめてしまいやすいのだ。
「彼女はこの事業に本当に関心をもっていました。それに、かなりの利益がありましたから」
「私の間違いでなければ、この会社の資本金の三分の一を彼女が?」
「三分の二を。あとの三分の一がヴィリュー氏が持ち、最後の三分の一は数年前から彼女のご主人の名義になっております」
「ジョセ夫人は月に二、三度あなたに会いにきたという話ですが」
「そんなに定期的にではありません。あの女《ひと》はときどきお見えになりましたが、何も私に会うためばかりではなく、専務や、ときには経理課長に会うためです」
「経理などにくわしかったのですか?」
「あの女《ひと》には非常に良い事業のセンスがあるのです。ご自分のお金で投機をして、しこたま儲《もう》けられたはずです」
「あなたの考えでは、彼女は主人のやり方を信じていなかったと?」
「ご主人だけではありません。すべての人間を」
「そんな態度を取れば敵がいたのでは?」
「すべての人間には敵がおります」
「この会社に彼女の敵はいたんですか? 彼女が特定の人物を処分するようなこともときどきはあったんですか?」
ジュール氏は意地のわるい目をして、鼻をかいた。困惑しているのではなく、ためらっているのだ。
「警視さん、あなたは大きな会社の機構や、そこの人間を研究されたことがありますか? 利害関係のあるたくさんの人間がいるかぎり、各課の争いがほとんど公然としているかぎり、派閥ができるのは当然なのです……」
オルフェーヴル河岸にもおなじようなことがある。メグレはそのことを知りすぎている。
「この会社にも、派閥があるのですか?」
「おそらくまだあります」
「あなたがどの派に属しているのか、お聞かせいただけませんか?」
ジュール氏は眉をひそめ、憂うつそうになり、机の上の豚皮の文房具をじっと見つめた。
「私はジョセ夫人に忠誠をちかってまいりました」と、彼は最後に、言葉に気をつけながら言った。
「彼女のご主人には?」
すると、彼はドアのうしろでだれも立ち聞きしていないかをたしかめに行くため、立ち上った。
[#改ページ]
第八章 メグレ夫人の≪鶏の赤ワイン煮込み≫
こんどはメグレ夫妻が、リシャール・ルノワール大通りへ友人のパルドン夫妻を招く番だった。メグレ夫人はさまざまな物音が奏でるなかで一日じゅう料理をつくっていた。というのは、もう窓を大きく開け放す季節がはじまっていたし、パリの生活がアパルトマンのなかにそよ風と共に入り込んできたからだ。
アリスは来なかった。こんどは彼女の母親が電話を見張っていた。アリスが出産のため病院にかつぎこまれる瞬間をいまかいまかと待っていたからである。
夕食が終り、テーブルが片づけられ、コーヒーが出ると、メグレは医師に葉巻を差し出した。女性二人は片隅で小声でおしゃべりをはじめたが、その会話のなかでパルドン夫人がこう言うのが聞こえた。
「あなたがあれをどうやっておつくりになるのか、わたしいつも不思議に思っているのよ」
夕食に出た鶏の赤ワイン煮込みの話だった。パルドン夫人はつづけた。
「何ともいえないしっとりした後味だわ。とてもすてき。何が入っているのかしら?」
「そんなに複雑じゃないのよ……あなたは、できあがる寸前に、コニャックを入れるんじゃない?」
「コニャックか、アルマニャック〔同地方産のブランデーの総称〕……手近にあるものを……」
「わたしはね、みなさんとはちがって、アルザスのりんぼく酒を入れるの……それが秘けつよ……」
メグレは食事の間、陽気だった。
「仕事は忙しいのかね?」と、パルドンはたずねた。
「忙しい」
そのとおりだったが、しかし楽しい仕事だった。
「サーカスのなかで暮しているんだ!」
しばらく前から、さかんに押込みがあったのだが、その犯人はプロの軽業師《かるわざし》、おそらくは男か女の曲芸師でしかありえないと考えられた。そこで、メグレと部下たちは朝から晩までサーカスや、ミュージック・ホールの人々のなかで過ごしていた。
「先月、あなたはジョセ事件を最後まで話す時間がなかった」と、オアルドン医師は肱掛椅子に坐り、アルコールのグラスを手近におくと、言った。
パルドンはアルコールを決して一杯以上は飲まなかった。しかし、ちびりちびりとやり、長い間舌の上でころがして、かおりをゆっくりと味わった。
ロペール通りの事件を思い出すと、メグレの顔にはいままでとは違った表情があらわれた。
「どこまで話したか、もうはっきりとおぼえていない……最初から私は、コメリオがもう二度とふたたび私をジョセに会わせてくれないだろうと予想していた。そして、そのとおりになった……コメリオはジョセを取られまいと用心しているかのように、しっかりとわが物としていた……。
予審は、判事のオフィスの四方壁にかこまれたなかで行われていた。司法警察局のわれわれには、新聞報道以上のことはわからなかった。二カ月近くの間、私の十人の部下が、ときどきはそれ以上だったが、気のめいるような調査をさせられた。
われわれの調査はいくつかの方面から同時に行われた。まず、まったく技術的な面、犯行当夜の一人ひとりの行動表の再現、ロペール通りの家の再三再四にわたる調査。われわれは調査するたびに、突撃隊のナイフのように、見逃していた証拠を見つけることを期待していた。
私は自分で二人の召使い、御用聞き、隣人たちに何度も質問した。われわれの仕事をいっそう面倒にしたのは、匿名や、署名のあるたくさんの手紙だった。とくに匿名の手紙は、放っておくわけにはいかなかった。
事件が世間をさわがせると、こういう手紙はつきものなのだ。
気違い、半気違い、何年も前から隣人を怨んでいる連中、あるいはただ、何かを知っていると思い込んでいる連中がみんな警察にやってくる。そして、あることないことをしゃべっていく。
私はこっそり、ほとんど不法にフォントネイ・ル・コントに行った。が、成果はなかった。このことはすでに話したと思う。
いいかね、パルドン、犯罪が起こるや、すべてが単純ではなくなってしまうのだ。数時間前は自然なものに思われた十人、二十人の行動が、急にかなり疑わしいものになってくる。
すべてがありうるのだ!
本質的におかしな仮説というのはないのだ。また、証人たちの誠実さや記憶をたしかめるための確実な方法もない。
世間の人は感情的な考えにはしり、初歩的な論理に刺激されて、本能的に決めてしまう。
われわれにはすべてを疑い、すべてのところをさがし、いかなる仮説をもおろそかにしてはならない義務がある。そこで、一方ではロペール通りを。もう一方ではマルソー並木通りを。
私は製薬会社というものをぜんぜん知らなかった。仕事をはたすためには、研究所も含めて、三百人以上の人間がいるこの会社の機構というものを知らなければならなかった。
ちょっとした話し合いぐらいで、どうしてジュール氏の精神状態を判断できるか?
マルソー並木通りで重要な役割を演じているのは彼だけではない。会社の創立者の息子のヴィリューがいるし、各課の課長がいるし、技術顧問、医師、薬剤師、化学者たちがいる……。
これらの人たちはすべて、大ざっぱに旧式派と現代派と呼ぶことができる二つの派閥に大別できる。旧式派は、処方箋にしたがって売られる薬しかつくるべきではないとし、現代派は新聞やラジオでの広告キャンペーンと共に市場に出される薬、大きな利益をあげられる薬のほうがいいとする……」
パルドンはつぶやいた。
「その問題なら私にも少しはわかる」
「ジョセは実際は、旧式派のほうに傾いていたが、いやいやながら現代派に引きずりこまれたようだ。けれども、ときどき抵抗したことがあった……」
「奥さんのほうは?」
「現代派の中心だった……二カ月前に広告部の部長がクビになったのは、彼女の力によるものだ。この男は立派な人間で、医者たちを顧客としてしっかりにぎっていたし、安っぽい薬をつくることには頑強に反対していたんだ……。
こうしたことがマルソー並木通りとサン・マンデに、陰謀と、疑いと、おそらくは憎しみ合いの空気をつくった……しかし、これも何の手掛りにもならなかった。
われわれはあらゆる面から同時に徹底的に調べることができなかった。たとえセンセーショナルな事件が起こったとしても、日常業務が大部分の社員をしばりつづけていたからね。
私がこれほどわれわれの弱点を感じたのはまれだ。十人ばかりの生活を、さらには前日までぜんぜん知らなかった三十人ばかりの人間の生活をすべて知らなければならないのに、私が使えるのはわずかな人間だ。
彼らは、彼らの知らないいろいろな世界に入っていくことを要求されるし、おかしなほど短い時間に、考えをまとめることを要求される。
ところで、目撃者や、管理人や、タクシーの運転手や、隣人や、街を通りがかった人間の答えは、被告人の否認や誓いよりも、重罪裁判所では重みがある。
二カ月の間、私は無力感につきまとわれて暮した。しかし、いつも奇蹟を期待して、辛抱した。
アドリアン・ジョセはますます有力な証拠にもかかわらず、否認しつづけた。彼の弁護士は新聞に、軽率な声明を発表しつづけた。
五十三通の匿名の手紙があった。われわれはその手紙をもとにパリのあらゆる町に行き、郊外に行き、その上|田舎《いなか》には共助依頼書を送らなければならなかった。
あの夜オートワイユでマルタン・デュシェを見たと信じている人たちもいた。ミラボー橋の近くで、ぐでんぐでんに酔っぱらったアネットの父親が声をかけてきた、と主張する女ルンペンさえいた。
また、クリスティーヌ・ジョセの被保護者であった若者たちについて通報してくる者もいた。
われわれは、まったくの眉つばものと思われるものも含めて、あらゆる手掛りを追った。毎晩、私はコメリオ判事に新しい報告書を提出した。そのたびに判事は肩をすくめながら、それにざっと目を通すのだ。
被保護者であったという若者たちのことを書いてきた手紙の中に、ポポールという男のことを問題にしているものがあった。その匿名の手紙はこう言っている。
≪その男シャロンヌ通りの、ラ・リューヌ、というバーにいるだろう。そのバーではみんな彼のことを知っているが、口をつぐんでいる。彼らはみんなやましいところがあるからだ≫
この手紙の主は、いろいろ細かい情報を提供している。クリスティーヌ・ジョセが下賎な者と交わることが好きだったこと、彼女はサン・マルタン運河の近くの家具付アパートでポポールと二、三度会ったことなどを。
≪彼女はポポールのためにシトロエン4CVを買ってやった。それでもポポールは何度か彼女をなぐったし、脅迫もした……≫」
メグレは自分でシャロンヌ通りに行った。問題のバーは悪党どものたまり場で、メグレが入って行くと、彼らはいつのまにかいなくなってしまった。メグレは店の主人や、ホステスに質問し、さらに後日にはうまいぐあいにつかまえることができた常連たちにも質問した。
「ポポール? そいつはだれだい?」
彼らは無邪気すぎる口調でそう言った。彼らの言うとおりならば、だれもポポールを知らないことになる。メグレはマルタン運河の近くの家具付ホテルでも何の収穫もえられなかった。
自動車検査証事務所でも、運転免許証事務所でも、役に立つ手掛りはなかった。最近、シトロェン4CVを持った者でポポールの名の者は数人いた。そのうちの何人かは見つかったが、あとの四、五人はパリにいなかった。
クリスティーヌの男友達や女友達にしても、あいかわらず通りいっぺんの返事しかしなかった。クリスティーヌは魅力的な女《ひと》だった、かわいい女だった、なみはずれた女だった……。
メグレ夫人は何かを見せるため、台所にパルドン夫人を連れて行った。それから、男たちを二人だけにしておくため、食堂に行った。メグレは上衣を脱いで、海泡石《かいほうせき》のパイプをふかしていた。このパイプは家でしか使わないものだ。
「事件は起訴陪審が開かれることになった。オルフェーヴル河岸では、この事件から完全に手を引いた。夏の間、われわれは別の事件にたずさわっていた。ジョセが神経衰弱のため、サンテ刑務所の病室に移され、胃潰瘍の治療をしているという新聞記事があった。
ある者たちはあざ笑った。というのは、ある階級の人たちは刑務所に入れられるや、病気になるというのがほとんど伝統的であったからだ。
裁判がはじまり、重罪裁判所の被告席のジョセを見ると、彼は二十キロも痩せ、おなじ人間とは思えなかった。痩せたからだを包んだ衣服はだぶだぶで、目がとび出していた。弁護士が傍聴人や証人たちをにらみつけていたが、ジョセのほうはまわりで起こっていることに無関心のようだった。
私は、裁判長の被告にたいする尋問、コメリオの陳述、最初の証人の一人であったオートゥイユ署の署長の証言は聞かなかった。というのは、私は証人部屋にいたからだ。私のわきにはコーランクール通りの女管理人がいた。彼女は赤い帽子をかぶり、自信たっぷりで、満足そうだった。もと植民地行政官のラランド氏は……彼の証言はいちばん重要なものだったが……、からだの状態がわるいようだった。彼も痩せたように私には思えた。ある固定観念に悩んでいるようだった。私はふと、彼はみんなの前で最初の証言を変えるのではないかと考えたりした。
いや応なしに、私は検事側によって念入りにつくりあげられた論拠を石でかためる役目をしなければならなかった。
私は道具でしかないのだ。見たこと、聞いたことを言うしかないのだ。だれも私の意見など求めていない。
二日間の残りの時間を、私は法廷で過ごした。ラランド氏は前言を取り消さなかった。すでに言ったことを一言も変えなかった。
休廷のとき、私は廊下で傍聴人の意見を耳にした。彼らにとって、ジョセの有罪が疑いないことははっきりしている。
アネットも証人席にあらわれた。法廷にざわめきが起こり、すべての席の傍聴人が立ち上った。裁判長は退廷させるとおどした。
彼女はこまかい質問をされたが、定石どおり誘導尋問だった。とくに堕胎にかんしては。
≪ルピック通りの、産婆のマルティエの家にあなたを連れて行ったのはジョセですね?≫
≪そうです、裁判長……≫
≪陪審員のほうを向いて答えてください……≫
彼女は何かをつけ加えようとしたが、そのときは別の質問に答えなければならなかった……」
何度かメグレは、彼女が微妙なニュアンスを表現しようとしているという印象をもった。しかし、そんなことにはだれも気をとめなかった。たとえば、ジョセに妊娠したことを打ち明けると同時に、だれか堕胎させる産婆を知らないかと訊いたのは、彼女のほうだったのではないか?
「たえずそんなぐあいだった」と、メグレはパルドンに言った。
傍聴席にいても、メグレはじっとしていられなかった。彼はたえず手をあげて、口をはさみたい気持に襲われつづけた。
「起訴状の朗読、検事の論告、弁護士の弁論をも含めて、二日間で、それもほとんど十時間ほどで、前日まで何も知らなかった何人かの人間の生活をすべて要約しようとした。一人の性格だけではなく、何人もの性格を述べようとした。というのは、クリスティーヌ、アネット、彼女の父親、その他のわき役的人物たちの名前がつぎつぎにあがったからだ。
法廷のなかは暑かった。この年はすばらしい小春びよりがつづいていた。ジョセは私のほうをじっと見つめた。何度か、私の目とジョセの目が出会ったが、私のことに気がついたように思えるのは、最初の日の終り頃になってからにすぎなかった。ジョセは私に向って軽くほほえんだ。
私がこの事件にいろいろと疑惑を抱いていることを、この事件が私を不快にしていることを、ジョセは知っているのか? 私が自分自身や他の人たちに不満であることを、彼のために私がときどき自分の職業に嫌悪を感じていることを、ジョセは知っているのか?
私にはわからない。ほとんどいつもジョセは、記者たちが軽蔑と受け取ったあの無関心な態度を取りつづけていた。彼が身なりに気をつかっていたので、記者たちは彼の虚栄心の強さについて書き、彼のこれまでの人生のなかに……とくに少年時代や若い頃の生活のなかにその証拠を見ようとした。
みずから検事席に出馬してきた検事総長もまた、この虚栄心のことを強調した。
≪この見栄っぱりの気の弱い男……≫
ルナン弁護士の辛辣な反撃も法廷の空気を変えることはなかった。まったくその反対だった。
陪審員が引込んだとき、私には最初の問いにたいする答えはわかっていた……肯定《ウイ》、たぶん全員一致で。
≪ジョセは妻を殺した≫
私は第二の予謀についての問いには、すべてを公正に判断して、否定《ノン》だと思っていた。情状酌量の件にかんしては……。
傍聴人たちはサンドイッチを食べていた。女たちはお菓子を配っていた。記者たちは裁判所の食堂で一杯やってくるだけの時間があると計算していた。
陪審員長が話しはじめたときは、かなり時間がたっていた。この陪審員長は六区の金物商人で、紙切れを持つ手がふるえていた。
第一の問いにたいして。肯定《ウイ》。
第二の問いにたいして。肯定《ウイ》。
第三の問いにたいして。否定《ノン》。
ジョセは予謀の上で妻を殺したとして有罪になったのだ。情状酌量の特典も認められなかった。
私はジョセがショックを受けるのを見た。顔色は青ざめ、びっくりし、最初は自分の耳が信じられないようだった。まず、もがくように腕を動かしはじめ、それから突然おとなしくなった。傍聴人のほうを向き、かつて見たこともないほど悲劇的な目で見つめると、しっかりした声で言つた。
≪私は無実だ!≫
あちこちで罵りの声があがった。一人の女が気絶した。守衛たちが法廷に進入してきた。
あっという間に、ジョセの姿は見えなくなった。一カ月後、新聞は大統領が特赦申立てを拒否したことを報道した。
もうだれもジョセのことなんか気にしなかった。別の事件が世間の人を夢中にさせていた。毎日のように興味津々の事実が暴露されるスキャンダルな凡俗事件が起こっていたのだ。したがって、ジョセの処刑は新聞の片隅にほんの数行載っただけだった」
沈黙があった。パルドンは葉巻の先を灰皿でもみつぶした。警視は新しいパイプにたばこを詰めた。隣りの部屋では女たちの声が聞こえる。
「きみは彼が無実だったと思うかね?」
「二十年前、私がまだこの職業に入りたての頃なら、ためらわずに、そうだと答えたかもしれない。それからいままでに、私は、どんなことでもありうるということを知った。たとえありそうもないことでも。
ジョセ裁判の二年後、私のオフィスに婦女子の売春容疑で一人の悪党が連れてこられた。この若者がわれわれの取り調べをうけるのは初めてではなかった。われわれの常連と言ってもよい。彼の身分証明書には船員となっていた。実際、彼は貨物船でしばしば南アメリカやラテン・アメリカヘ航海していたが、たいていはパリで過ごしていた。
こういった人間を相手のときは、われわれの態度も変わってくる。というのは、われわれはなじみのグラウンドにいるからだ。
ときどき取引きすることもある。
とつぜん、彼は私を横目で盗み見ながら、つぶやいた。
≪あんたと取引きしたいものがおれにあったら?≫
≪たとえば、どんな?≫
≪あんたが興味をもつにちがいないある情報……≫
≪どんなことだ?≫
≪ジョセ事件……≫
≪ジョセ事件はもうずっと前に解決している≫
≪そんなことは理由にはならないんじゃないかな≫
交換条件としてこの若者は女友達に手を出さないでくれと要求した。彼はこの女に惚れているらしかった。私は善処しようと約束した。
≪この前ヴェネズエラに航海したとき、おれはポポールという男に会った……以前はバスティーユの付近でうろついていた男だ……≫
≪シャロンヌ通り?≫
≪そうかもしれない……ヴェネズエラでは、やつは全然うまく行ってなくて、おれが飲代をはらってやった。午前三時か四時頃、やつはテキラの壜を半分ほど空け、酔っぱらうと、しゃべりはじめた。
……ここのボスどもは、おれをいっぱしの男と見てくれようとはしねえ……おれがパリで女《スケ》を刺し殺したと言っても、てんで信じてくれん……その女《スケ》が上流階級の女で、おれに夢中になっていたんだと言っても……しかし、こいつは本当の話なんだ。おれはばかなことをしてしまったといつも悔んでる……ただ、おれは人からあるやり方で扱われることに絶対に我慢ならねえんだ。あの女はおれにひどいことを言った。それが間違いだった……おまえはジョセ事件のことを聞いたことがねえか?≫」
メグレは黙り、くわえていたパイプを取った。
とても長く感じられた沈黙のあとで、メグレはいやいやながらのように、つけ加えた。
「その若造はそれ以上のことは知らなかった。そのポポールという名の男は……ポポールがいたとしての話だが。というのは、こいつらは想像力が豊かだから……、そのまま飲みつづけ、眠り込んでしまったのだろう……翌日になると、こいつは何もおぼえていないと言い張った……」
「きみはヴェネズエラの警察に問い合わせなかったのかい?」
「正式にはしなかった。すでに解決した事件だから。あちらには、昔の徒刑囚も含めて、故郷《くに》に帰れない理由のある多くのフランス人がいる。私の問いにたいする答えとして、もっとはっきりした詳しい身許を知らせてきてほしいという型どおりの手紙を私は受け取った。
ポポールという男は存在するのか? 男が街で拾った女を扱うようにクリスティーヌ・ジョセから扱われたことに腹を立て、男の自尊心から、ごろつきの自尊心から彼女に仕返しをしたのか?
私にはそれを知るいかなる手段もない」
メグレは立ち上ると、窓の前に行ってたたずんだ。まるで考えを変えるためかのように。
パルドンが思わず電話に目をやると、しばらくしてメグレがたずねた。
「ところで、あのポーランド人の小柄な洋服屋の家族はどうなった?」
こんどは肩をすくめるのは、パルドン医師のほうだった。
「三日前、私はポパンクール通りに呼ばれた。子供たちの一人が麻疹《はしか》にかかったからだ。洋服屋のおかみさんはすでに北アフリカ人と世帯を持っていた……おかみさんはちょっと気まずげに、私にこう言ったよ。
≪子供たちのためなの、わかってくださる? ……≫」
[#改ページ]
訳者あとがき
これは、二つの意味で異色の作品である。
一つは、未解決のままで終っている点である。クリスティーヌ・ジョセの夫が果たして真犯人であったかどうかは読者の判断にゆだねられている。その判断のためのくわしいデータは、洗いざらい読者の前にさらけ出されている。数多いメグレ物のなかでも、このようにあとの解決を読者の想像にまかせたままで終るのは、この作品だけである。
ジョルジュ・シムノンはどんな意図を抱いてこの作品を書いたのだろうか? シムノン自身はこの作品についてのコメントを何一つ残していないが、私は松本清張氏のつぎのような文章を思い出した。『推理小説独言』のなかにある文章である。
「しかし、現在の推理小説には、文章によらず、読者にあとの解決をすべて想像でまかすということは許されていない。これは推理小説という構成上そうなっているのだが、普通の小説でもそれが出来る以上、誰か天才児が出て、懇切丁寧な絵解きなど不要な、しかも、それを書いたと同等な、あるいはそれ以上の効果のある結末を発見出来ないものだろうか。その時にこそ、推理小説も文学たりうる可能性がある、と言えそうである」
この言葉をそのまま作品として結晶させたのが、松本清張氏の『表象詩人』であるように私には思われる。松本清張氏は最初は普通の小説を書いていて、途中から推理小説を書き出した作家である。現在までその推理小説は数多い。ジョルジュ・シムノンも途中から推理小説に筆を染めた作家である。そして、≪メグレ警視シリーズ≫だけで七十八冊ある。そのシムノンが松本清張氏のように、「読者にあとの解決をすべて想像」でまかせ、「懇切丁寧な絵解きなど不要」な推理小説を書こうとは考えなかっただろうか?「文学たりうる可能性がある」推理小説を書いてみようとはしなかっただろうか? 松本清張氏の『表象詩人』にあたるのが、このシムノンの『メグレの打明け話』なのではないか?
この辺のところは、さきほども書いたようにシムノン自身がいかなるコメントも残していないので不明である。想像するしかないが、この『メグレの打明け話』はメグレ物の五十八冊目にあたる作品であるから、シムノンがそろそろ新しい、野心的なメグレ物に挑戦しようとしなかったとは言い切れない。
第二の異色な点は、この作品が裁判批判であるということだ。裁判批判というより、警察機構への批判と言ったほうがいいかもしれない。メグレの口から、そういう批判の言棄がどんどん飛び出してくる。
「法律の現段階では、われわれは検事局や、予審判事の道具でしかないが、それでもわれわれが重大な決心をせまられるときがある……それは結局、われわれが調査し、集めてきた証拠によって、判事や陪審員が判断するからである……」
「ある人間を容疑者として警視庁に召喚しただけで、その人間のことを家族や、友人たちや、女管理人や、近所の者たちに訊きまわっただけで、彼の残りの人生が変わってしまうことがある」
こうやってみてくると、この作品が判事、検事、陪審員たちを含めた司法機構そのものへの批判であると言ったほうがいいだろう。
いずれにしても、『メグレの打明け話』では二つの野心的な試みがなされたわけだが、いわゆる「文学たりうる」推理小説であるかどうかは措《お》くとしても、読後に深い感銘をあたえられる作品であることだけは間違いのない事実だ。