メグレと首なし死体
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章 ノオ兄弟の見つけた物
第二章 ぶどう酒壜の蝋
第三章 三輪自転車の若い男
第四章 屋根の上の若い男
第五章 インク壜
第六章 紐の糸くず
第七章 カラ夫人の猫
第八章 サン・タンドレの公証人
訳者あとがき
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登場人物
ジュール・ノオ……伝馬船の船頭
ロベール・ノオ……伝馬船の船頭
ヴィクトール・カデ……潜水夫
アリーヌ・カラ……居酒屋《ビストロ》≪シェ・カラ≫の女主人
リュセット・カラ……アリーヌの娘
アントワーヌ・クリスタン……御用聞きの若者
デュードネ・パプ……運送会社の倉庫検査係
カノンジュ……サン・タンドレの公証人
コメリオ……予審判事
ポール医師……法医学研究所検視医
ムルス……鑑識課員
ジュデル……十区の刑事
メグレ……司法警察局警視
リュカ……司法警察局刑事
ジャンヴィエ……司法警察局刑事
ラポワント……司法警察局刑事
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第一章 ノオ兄弟の見つけた物
空が白みはじめたばかりだった。大伝馬船のハッチから、ノオ兄弟の兄のジュールの頭が、ついで肩が、最後にひょろ長いからだがあらわれた。まだ櫛《くし》の入れてない灰色の髪をかきながら、彼は水門を、左手のジェマープ河岸を、そして右手のヴァルミィ河岸をながめた。夜明けのすがすがしい空気のなかでたばこを巻き、まだそれを喫《す》い終らないうちに、レコレ街の角の小さなバーに明りがともった。
薄明りのため、店先の黄色はいつもよりずっとけばけばしく見えた。主人のポポールがよろい戸を開けるため歩道に出てきた。ポポールもまだ髪をとかしてなかったし、シャツの襟ははだけたままだった。
二本目のたばこを巻きながら、ジュールはタラップを渡り、河岸を横切った。こんどは弟のロベールがハッチからあらわれた。兄とほぼおなじぐらいの背丈で、痩せこけている。明るいバーのなかに、彼はカウンターに肱《ひじ》をついているジュールと、コーヒーのなかにブランデーを少量入れている主人の姿とを見ることができた。
ロベールは自分の順番を待っているみたいだった。彼は兄とおなじ手つきでたばこを巻いた。兄がバーから出ると、弟は大伝馬船のタラップを渡った。二人は通りの真中で擦《す》れちがった。
「おれがエンジンを動かしておく」と、ジュールがいった。
こうした簡単な言葉以外口をきかない日は年じゅうあった。彼らの船は≪二人の兄弟号≫といった。兄弟は双生児《ふたご》の姉妹と結婚し、この二家族は船上で暮していた。
ロベールはポポールのバーで兄とおなじ場所に立った。バーにはブランデー入りのコーヒーの香りがしていた。
「いい日だね」と、肥った小男のポポールがいった。
ロべールは黙って窓から、ばら色に染っている空をながめただけだった。この風景のなかで形と色とを取りはじめているのは、まだ屋根の上の煙突の土管《どかん》だけだった。屋根のスレートや瓦には、舗道の上同様、冷たい夜の名ごりである霜がうっすらと積っている。が、それもいまでは溶けはじめていた。
ディーゼルエンジンの咳払いするような音が聞こえた。大伝馬船の船尾から、パッパッと黒い煙が吐き出された。ロベールはカウンターに金をおくと、帽子にちょっと指をやり、河岸を横切ってもどって行った。制服姿の水門管理人が閘室《こうしつ》にあらわれ、水門を開く準備をしていた。ヴァルミィ河岸のどこか遠くで足音が聞こえたが、まだ人の姿は見えなかった。女たちがコーヒーを用意している船の内部《なか》から子供たちの声がした。
ジュールがふたたびデッキにあらわれ、船尾に行くと眉をしかめてのぞき込んだ。弟は、エンジンがうまく動かないのだな、と思った。彼らはルルック運河の四十八番|埠頭《ふとう》ボーヴァルから建築用石材を積み込んだのである。いつものように、数トン多く積みすぎている。すでに前日、サン・マルタン運河に入るためラ・ヴィレットのドックから出るとき、川底の泥を引っかきまわしてしまった。
例年だと三月は水が足りないことはなかった。しかし今年は二カ月も雨が降らなかったので、運河の水は節約されていた。
水門の扉が開かれた。ジュールは舵輪を取った。弟はもやい綱を解くため、岸に降りた。スクリューが回転しはじめた。が、兄弟が恐れたように、スクリューが厚い泥を引っかきまわしてしまったので、まもなく水面に大きな泡がつぎつぎと浮かんできた。
爪竿に全身をかけて、ロベールは船首を岸から離そうと努めた。スクリューはから回りしているようだった。水門管理人はこうしたことには慣れているので、両手でからだを叩いてあたためながら辛抱強く待っていた。
衝動があり、つづいてエンジンが変な音を立てはじめた。ロベール・ノオは兄のほうを向いた。
兄はエンジンを停めた。彼らはどちらもなにが起こったのかわからなかった。スクリューは舵の一部によって保護されているので、川底にじかに触れることはない。なにかがスクリューにからまったにちがいない。古いもやい綱かもしれない。運河の底にはもやい綱がよく沈んでいるのだ。もしそうだとすれば、はずすのに大変な時間がかかる。
爪竿を持っていたロベールは船尾のほうに行き、かがみ込んで、濁った水のなかで竿をスクリューに触れさせようとした。一方、ジュールはもっと小さい爪竿をさがしに行った。ジュールの妻のローランスがハッチから頭を出した。
「なにかあったの?」
「わからん」
ジュールとロベールは黙って、二本の爪竿を停っているスクリューのあちこちに突き立てはじめた。数分後、水門管理人のダンボワ……みんなはシャルルと呼んでいた……が河岸にやって来て、突っ立ったまま兄弟のやっていることを見ていた。水門管理人はなにも聞かず、ただ黙ってパイプをふかしていた。そのパイプのマウスピースは糸でつないであった。
ときどきレピュブリック広場のほうに急ぎ足で降りて行く人と、サン・ルイ病院のほうに向かう白衣の看護婦の姿が見えた。
「なにかひっかかっていたかい?」
「そのようだ」
「もやい綱かな?」
「まだわからん」
ジュール・ノオは爪竿になにかをひっかけたのである。しばらくして、彼はうまくそれをスクリューからはずした。新しい泡が水面に上ってきた。
ゆっくりと、爪竿を引いた。爪竿の鉤《かぎ》が水面に近づいたとき、紐《ひも》で縛った奇妙な包みが見えた。包みの新聞紙は裂けていた。
人間の腕だった、肩から指の先まである。水のなかで変色し、死んだ魚のようにぶよぶよになっていた。
ジェマープ河岸のはずれにある第三街警察署の巡査部長ドポワールは、ノオ兄弟の兄の細長いシルエットが戸口にあらわれたとき、ちょうど夜の勤務を終えたところだった。
「私は≪二人の兄弟号≫でレコレ街の水門の上流におりました。出発しようとしたとき、スクリューが動かなくなりました。男の腕がひっかかっていたんです」
十五年前から十区で働いているドポワールの反応は、こうした事件に通じているすべての警察官の反応とおなじだった。
「男の腕だって?」と彼は疑い深そうにくり返した。
「そうです、男の腕です。手は褐色の毛でおおわれていますし、それに……」
サン・マルタン運河から死体が引き上げられるのはそうめずらしいことではなかった。ほとんどが船のスクリューにひっかかるのだった。その死体はたいてい五体がちゃんとそろっている。たとえば、飲みすぎて運河にすべり落ちた男や、老いぼれ乞食の死体とか、あるいは敵方の組織からナイフで突き殺された若いやくざの死体だったりする。
ばらばらの死体も異常なことではない。年に平均二、三件はある。しかし、ドポワール巡査部長がどんなに記憶を遠くまでさかのぼってみても、その場合、死体はいつでもきまって女のものだった。だからどこを捜せばいいのかすぐにわかった。十中八、九、低級な娼婦だった。夜、淋しい場所で客を引いているような娼婦だった。
≪サディズム的犯罪≫と、報告書では片づけることができる。
警察は、町のサディズム的人間のことを知っているし、ごろつきや疑わしい人物の最新のリストをつねに持っている。だから万引きであろうと、ピストル強盗であろうと、その犯人はほとんど数日で捕まる。ところが、こうしたサディズム的殺人犯を捕まえることができるのはまれなのである。
「そいつを持ってきたか?」と、ドポワールがたずねた。
「腕をですか?」
「どこにおいてきた?」
「河岸に。私どもは出発できませんか? アルスナル河岸まで下らなければならないのです。積荷を早くとどけなければならないのです」
巡査部長はたばこに火をつけると、まず警察救助本部に事件を通報し、ついで、街警察署の署長マグラン氏の自宅に電話をかけた。
「おやすみのところをすみません。いましがた船頭が運河から人間の片腕を引き上げたのです……ちがいます! 男の片腕です……そのことは私も考えたのです……どういたしましょうか? はい、船頭はここにいます……私が話を聞きましょう……」
巡査部長は受話器をにぎったまま、ジュールのほうを向いた。
「その腕は水のなかに長い間沈んでいたようか?」
ジュールは頭をかいた。
「長い間ってどのくらいですか?」
「ひどく腐敗していたか?」
「そんなことないですね。私の考えでは、水のなかに二、三日でしょう……」
巡査部長は受話器にくり返した。
「二、三日です……」
それから鉛筆をもてあそびながら、署長からの指示を聞いた。
「私どもは水門を通ることができますか?」と、巡査部長が受話器をおくと、ジュールがくり返した。
「まだだめだ。署長のおっしゃられるように、他のばらばら死体がまだ大伝馬船にひっかかっているかもしれない。もし船を出発させたら、そいつがわからなくなってしまう恐れがある」
「しかし、私どもはいつまでもあそこにとどまっているわけにはいきません! すでに運河を下る四|艘《そう》の船が私どものうしろでいらいらしながら待っています」
巡査部長は別の電話番号を申し込むと、相手が出るまで待った。
「もしもし! ヴィクトール? 起こしてしまったかな? もう朝食をすませていたって? そいつはよかった。きみに仕事があるんだ」
ヴィクトール・カデはこの警察署からあまり遠くないシュマン・ヴェール街に住んでいた。一カ月の間に一度もサン・マルタン運河の仕事に呼び出されないということはめったになかった。たぶん彼こそ、セーヌ河やパリの運河から、死体をも含めてもっとも異様な物体を引き上げた男だったろう。
「助手に連絡したら、すぐにそちらへおうかがいします」
朝の七時だった。リシャール・ルノワール通りでは、メグレ夫人はすでに起きていて、台所で忙しそうに朝食の支度にかかっていた。彼女はみずみずしく、かすかに石鹸の香りがした。夫のほうはまだ眠っていた。パリ警視庁では、リュカとジャンヴィエが六時から勤務についていた。いましがた運河で片腕が見つかったというニュースを受けたのはリュカだった。
「妙だな!」と、彼はジャンヴィエのほうに向きながらつぶやいた。「サン・マルタン運河から片腕が引き上げられたんだが、それが女の腕じゃなかったんだ」
「男の?」
「他になにか考えられるか?」
「子供の腕かもしれない」
三年前に一度、そういうことがあった。
「親分《パトロン》に知らせるかい?」
リュカは時間を見、ためらい、頭をふった。
「急ぐことはあるまい。ゆっくりコーヒーを飲ませてあげよう」
八時十分前には、大伝馬船≪二人の兄弟号≫の前にはかなり大きな人だかりができていた。巡査が野次馬たちを、布の雨覆いをかけて地面におかれている物体から遠ざけようとしていた。下流にあったヴィクトール・カデの小舟が水門を通り、河岸に横づけにされた。
カデは大男だった。彼の潜水服はぴったり寸法を合わせて作らせたのではないかと思うほどだった。逆に、助手のほうは背の低い老人だった。老人は仕事の間じゅう噛みたばこを噛みつづけ、褐色の粘っこいつばをしきりに水のなかに吐き捨てていた。
彼は梯子《はしご》を取りつけ、空気ポンプを始動させ、最後にヴィクトールに大きな銅の潜水冠をかぶせた。
二人の女と五人の子供が……五人とも白に近いブロンドの髪をしていた……≪二人の兄弟号≫の船尾に立っていた。女の一人は妊娠していて、もう一人は赤ん坊を腕に抱いていた。ヴァルミィ河岸の建物は陽光を一杯に浴びていた。明るい、陽気な陽光なので、この河岸の不吉な評判など信じられないほどだった。もちろん建物のペンキは新しくはないし、白と黄色は色あせてはいたが、この三月の朝、これらの建物はユトリロの絵のようにさわやかに見えた。
四艘の大伝馬船が≪二人の兄弟号≫のうしろで待っていた。≪二人の兄弟号≫には綱に下着が乾してあり、子供たちはおとなしくしようと努めていた。タールの匂いが運河の不愉快な匂いよりひときわ強かった。
八時十五分、二杯目のコーヒーを飲み終え、口をぬぐって最初のパイプを喫いはじめたメグレは、リュカからの電話を受けた。
「男の片腕?」
メグレもおどろいた。
「その他にはなにも見つかってないのか?」
「潜水夫のヴィクトールがすでに仕事にかかっています。混雑する恐れがあるので、できるだけ早く水門を開かなければならないのです」
「いまだれがこの事件を調べているのかね?」
「ジュデルです」
ジュデルは十区の刑事だった。のろまなところがあるが良心的な若者で、この最初の段階での彼の捜査は信用できる。
「警視《パトロン》、行きますか?」
「それほど回り道にはならないだろう」
「こちらからもだれかやりましょうか?」
「そこにだれがいる?」
「ジャンヴィエ、ルメール……ちょっと待ってください。いまラポワントがやってきました」
メグレは一瞬ためらった。彼のまわりにも陽光が光り輝いていた。窓を開けることができるほど暖かかった。たぶん事件はたいしたことがないし、複雑に入り組んでもいないだろう。そうとすれば、このままジュデルにまかせておいてもいい。しかし、いまの段階で、そんなことがわかるはずがない! この片腕が女のものだったら、メグレはためらわずに、あとはいつものようにやればいいと断言できるのだが……。
しかし、問題は男の片腕なのだから、あらゆる可能性がでてくる。そしてもしこの事件が複雑なものだとわかり、メグレが捜査を引き受けることになったら、これからの日々の仕事は彼が選ぶ刑事によっていくぶん影響をうける。というのは、彼はできたらその刑事と捜査の初めから最後までやりたかったからだ。
「ラポワントをよこしてくれ」
ラポワントと一緒に仕事をしなくなってからかなりたつ。ラポワントの若さ、熱心さ、へまをしでかしたと思い込んだときの狼狽《ろうばい》ぶりなど、メグレにはたのしかった。
「局長に知らせておきますか?」
三月二十三日だった。春は暦の上では前々日からはじまっていた。今年は例年より早く空気のなかに春の香りが感じられた。メグレはもう少しで外套を着ないで外出してしまうところだった。
リシャール・ルノワール通りで、彼はタクシーを拾った。直行するバスはなかったし、地下鉄《メトロ》にもぐり込んでしまう陽気でもなかった。予期したように、メグレはラポワントより早くレコレ街の水門に着いた。ジュデル刑事が運河の黒い水にかがみ込んでいた。
「他になにか見つかったか?」
「まだです、警視《パトロン》。ヴィクトールがいま、他になにもひっかかっていないか、大伝馬船のまわりを調べています」
さらに十分間が過ぎた。ラポワントが司法警察局の黒い小型車から降りたとき、水面に明るい泡が浮かんだ。ヴィクトールがやがてあらわれる先ぶれだ。
助手は急いでヴィクトールの銅の冠《かん》をはずした。潜水夫はすぐにたばこに火をつけ、まわりを見まわし、メグレに気がつくと、手で親しげに挨拶した。
「他になにか?」
「この辺りにはありませんね」
「この大伝馬船は出発してもかまわないかね?」
「川底の泥以外、なにもついてやしませんよ」
この話を聞いたロベール・ノオは兄にいった。
「エンジンをかけて」
メグレはジュデルのほうを向いた。
「この人たちの証言を取ったね?」
「ええ。サインももらいました。それに、積荷をおろすため、少なくとも四日間アルスナル河岸で過すそうです」
アルスナル河岸はバスティーユとセーヌ河の間で、ここから二マイルちょっと下流にあるだけだった。
荷を積みすぎの大伝馬船は船腹が川底に触れていたので、動き出すまで時間がかかった。だが、やっと水門を通った。水門はふたたび扉を閉めた。
野次馬はほとんど散って行った。残った野次馬は、なにもすることがないので一日じゅうここにいる気なのだろう。
ヴィクトールはゴムの潜水服を脱がなかった。
「ばらばら死体が他にあるとしたら、もっと上流でしょう」と、ヴィクトールは説明した。「腿、胴、首は腕より重いので、流されることがあまりないんです」
運河の水面には流れがなかった。浮かんでいる屑はほとんど動かなかった。
「もちろん、運河には川のような流れはありませんが、それでも水門を開くごとに、ほとんど目に見えないほどですが、両水門区間の水は動くわけです」
「ということは、つぎの水門まで調べなければならないということか?」
「お金を払うのはお役所ですし、命令するのはあなたです」と、ヴィクトールはたばこをふかしながらいった。
「長い時間かかるだろう?」
「ばらばら死体の残りを見つける場所によります。もしそれが運河のなかでしたら、もちろん時間がかかります!」
なぜ運河に死体の一部だけを投げ捨てたのか? その他のばらばら死体は、たとえば空地などに捨てたのか?
「このままつづけてくれたまえ」
カデは助手に船をもっと上流に繋《つな》ぐように合図すると、ふたたび銅の冠《かん》をつける支度をした。
メグレはジュデルとラポワントをわきへ連れて行き、河岸の上で寄り合った。野次馬たちは官憲にたいして抱く本能的な敬意をこめてこのグループをながめた。
「きみたちは念のために空地や付近の材木置場などをさがしてほしい」
「私もそのことを考えておりました」と、ジュデルがいった。「あなたの指示を待ってはじめようと思っていたのです」
「何人ぐらいの警官を割《さ》けるか?」
「午前中は二人。午後になれば三人は大丈夫でしょう」
「最近、このあたりで喧嘩がなかったか、叫び声や助けを求める声を聞かなかったか調べてくれ」
「わかりました、警視《パトロン》」
メグレは、河岸の舗石の上で布の雨覆いにまだおおわれたままの人間の片腕を見張るため、制服の警官を残した。
「行こうか、ラポワント?」
メグレはけばけばしい黄色のペンキが塗られた角のバーに向かうと、≪シェ・ポポール≫と書かれたガラス戸を押した。
付近の労働者が何人か、仕事着のままカウンターで軽食を食べていた。
「なんにしますか?」と、主人が忙しそうに聞いた。
「電話はあるかね?」
そういうと同時に、メグレは電話に気がついた。だが、電話室のなかにあるのではなく、カウンターのすぐわきの壁についていた。
「出よう、ラポワント」
メグレは公衆の前で電話をかけたくなかったのだ。
「なにも飲物はいらないのですか?」ポポールは侮辱されたようだった。警視はボポールに約束した。
「あとで来るよ」
河岸に沿って、小さな平屋や貸アパートや工場やコンクリートの大きなオフィス・ビルなどが群がっている。
「電話室のある居酒屋《ビストロ》を見つけよう」
メグレたちは歩道を歩きつづけた。河岸の向こう端に警察署の色あせた旗と、青い電球、そしてその後方にサン・ルイ病院の黒ずんだ建物が見えた。
三百メートル近く歩きまわって、彼らはくすんだバーを見つけた。警視はドアを押した。石段を二段降りると、マルセイユの建物でよく見られるような赤黒い小さなタイルでできた床だった。
店にはだれもいなかった。ストーブのそばに褐色の大きな猫が寝そべっていて、のそのそと起き上がると、少し開いているドアのほうに行き、見えなくなった。
「だれかいませんか?」と、メグレが呼んだ。
鳩時計のあわただしいチクタクという音が聞こえた。空気にはアルコールと白ぶどう酒の匂いが感じられた。アルコールのほうが強く、それにコーヒーの匂いがまじっていた。
奥の部屋でだれかが動いた。女の声が疲れたような声でいった。
「ただいま!」
天井は低く、煤けていて、壁は黒ずんでいる。店は薄暗がりのなかに沈んでいて、教会のステンドグラスを横ぎってくるような陽光が数本さしこんでいるだけだった。壁に貼られたボール紙には下手な文字で、こう書かれていた。
≪軽食、二十四時間営業≫
さらに他の貼紙には、
≪弁当持参も可≫
この時間では、貼紙はだれの心も惹かないようだった。メグレとラポワントが今日の最初の客にちがいない。電話室が片隅にあった。メグレはそこへはいるのに、女主人があらわれるのを待った。
女主人があらわれた。暗褐色のほとんど黒い髪に、ヘヤー・ピンをさし終えていた。痩せていて、若いのか年取っているのかわからない。たぶん四十か四十五ぐらいだろう。陰気な顔をし、タイルの床をフェルトのスリッパを引きずりながら出てきた。
「なにをめしあがります?」
メグレはラポワントを見た。
「白ぶどう酒はおいしいかな?」
女主人は肩をすくめた。
「白を二杯。電話用コインがありますか?」
メグレは電話室に行き、戸を閉めると、口頭で報告するため検事局を呼んだ。電話に出たのは代理検事だった。彼も運河から引き上げられた腕が男の腕だったと知ったとき、他の人たちのようにおどろいた。
「潜水夫が探索をつづけています。彼はばらばら死体の残りがあるとすれば、上流にあるとの考えです。私としては、ポール医師にできるだけ早く腕を調べてもらいたいのですが」
「すぐに彼と連絡を取って、あなたのところに電話しましょう。どこに電話したらいいですか?」
メグレは電話機にについている番号を代理検事に読み上げると、カウンターにもどった。二個のグラスに白ぶどう酒が注がれていた。
「健康を祝して!」と、メグレは女主人のほうを向いていった。
女主人は聞こえないふりをしていた。彼女は自分の関心事……たぶん化粧だろう……にもどりたいため、メグレたちが出て行ってくれるのを待っていたので、全然のってこなかった。
彼女はかつては美しかったにちがいない。とにかくみんなのように若いときがあったはずだ。いまでは彼女の眼、口、からだ全体に疲労の跡が見えた。彼女は病人で、発作の時間を予期しているのではないだろうか? 一日のある時間に痛みがはじまることを知っている病人たちは鈍そうな、同時に緊張した表情をしている。麻薬中毒患者が麻薬の時間を待っている表情に似ている。
「ここに電話がかかってくるはずになっているんです」と、メグレは言い訳めかしくつぶやいた。
もちろんここも他のバーやカフェのように公共の場所であり、ある意味では非個人的な場所なのである。しかし、メグレたちは入ってくるべきではない場所に入ってきてしまったような気づまりな感じをうけた。
「あなたのところの白はおいしい」
実際そのとおりだった。パリのほとんどの居酒屋《ビストロ》には≪おいしい地酒≫と告示されているが、その大部分はベルシーから直行の混ぜ物のあるぶどう酒だった。ところがここのぶどう酒はちがっていて、産地特有の香りがあった。警視はどこの地酒か当ててみようとした。
「サンセール?」と、彼はたずねた。
「ちがいます。ポワティエの近くの小さな村のものです」
それで舌を刺すような後味があるのだ。
「あちらに家族でもいるのですか?」
それには答えず、じっと立ったまま、黙って、無表情にこちらを見ている女主人に、メグレは感心してしまった。猫が彼女のところに来て、裸の脚にからだをこすりつけた。
「ご主人は?」
「いまあちらにさがしに出かけています」
ぶどう酒をさがしに、と彼女はいいたかったのだ。彼女と会話をつづけるのは容易ではなかった。警視がグラスにもう一杯注いでもらいたいと合図したとき、電話が鳴った。メグレはほっとした。
「ええ、私です。ポール医師と連絡がつきましたか? 彼は手が空いていますか? 一時間後に? けっこうです。そちらにうかがいます」
メグレはそのあとの話を聞いて、顔をしかめた。代理検事はこの事件がコメリオ判事の担当になったと知らせてきたのである。コメリオはメグレの親しい宿敵であり、検事局でもっともずるい、もっとも意地悪な司法官だった。
「コメリオ判事は事件をくわしく知らせるようにはっきりと要求しています」
「わかってます」
それはメグレが毎日コメリオから電話を五、六回うけることを意味していた。それに、毎朝彼のオフィスまで報告に行かなければならないだろう。
「それでは!」と、メグレはため息をついた。「最善をつくします!」
「私のせいではありませんよ、警視。判事のなかであの人だけが手が空いていたもので……」
居酒屋《ビストロ》のなかの陽差しがやや斜めになり、いまではメグレのグラスにとどいていた。
「出かけよう!」と、メグレはポケットから金を取り出していった。「いくらですか?」
そして外に出ると、
「きみは車で来たんだったね?」
「そうです。水門のそばにおいてあります」
ぶどう酒のためラポワントの頬はばら色になり、眼はいくぶん輝いていた。彼らのいる場所から、運河の縁《ふち》で潜水夫の動きに合わせて移動していく野次馬の群れが見えた。メグレと刑事が潜水夫のところに来ると、ヴィクトールの助手は小舟のなかの包みを指さした。最初のより大きな包みだった。
「太股と足先です」と、水のなかにつばを吐いたあとで彼はいった。
包装も最初のものよりいたんでいなかった。メグレはそばに寄って見る必要は感じなかった。
「死体運搬車に来てもらうほどのものかな?」と、メグレはラポワントにたずねた。
「車のトランクに十分入ります」
それは二人にとって気持のいいものではなかったが、法医学研究所で会う約束になっている検視医を待たすわけにはいかなかった。法医学研究所は明るい、現代的な建物で、運河とセーヌ河との合流点に近い、セーヌ河畔にあった。
「私はなにをします?」と、ラポワントがたずねた。
メグレはわざとなにもいわなかった。するとラポワントは嫌悪感を抑えながら二つの包みを一つずつ車のトランクに運んだ。
「匂うか?」と、刑事が運河の縁にもどってきたとき、警視は聞いた。
ラポワントはからだから両手を離したまま、鼻にしわを寄せてうなずいた。
白い仕事着を着て、両手にゴムの手袋をはめたポール医師は絶え間なくたばこを喫っていた。彼はよく、たばこはもっとも確かな防腐剤だと主張していた。解剖のあいだに、ディスク・ブルーを二箱喫ってしまうことがあった。
彼は大理石のテーブルにかがみ込み、張り切って仕事をしていた。上機嫌でさえあった。そしてたばこの煙を吹かす合間にしゃべった。
「もちろん、いま私はなにもはっきりしたことはいえない。まず私はばらばら死体の残りを見たい。そうすれば片脚や片腕以上のことがわかるだろう。つぎに、私の考えをはっきり述べる前に、できるだけ分析してみる必要がある」
「何歳ですか?」
「ちょっと見たところでは、この男は五十と六十の間にちがいない。六十というより五十歳に近いかな。この手を見てごらん」
「手がなにか?」
「大きな、ごつい手だ。ある時期、荒っぽい仕事に従事していたにちがいない」
「労働者の手」
「労働者というより百姓の手だ。しかし、この手がもう何年も重い道具をにぎっていないことはたしかだろう。爪を、とくに足の爪を見ればわかるように、この男は全然手入れをしていない」
「乞食?」
「そうは思わない。くり返しいうが、私の考えをはっきり述べるには、ばらばら死体の残りが見つかるまで待ちたい」
「この男は死んで時間がたっていますか?」
「ふたたび推測になってしまう。だから私の言葉をまともに受け取らないでほしい。今夜と明日では私は逆のことをいうかもしれないから。しかし、いまのところは死んで三日以上ではない、ということができる。これでも多めに見積ってだよ」
「昨夜ではないですか?」
「いや。しかし一昨日かもしれないな」
メグレとラポワントもたばこを喫っていた。二人ともできるだけ大理石のテーブルの上には視線をやるまいとしていた。ポール医師のほうは仕事を楽しんでいるみたいで、道具の取り扱いが奇術師のようだった。
メグレに話がかかってきたとき、ポール医師は平服に着がえようとしているところだった。電話はヴァルミィ河岸のジュデルからだった。
「胴体が見つかりました!」と、ジュデルはいささか興奮していた。
「首はなかったのか?」
「まだです。ヴィクトールによれば、首は重いため、泥のなかに深くはまりこんでしまう恐れがあるので、なかなか見つかるまいとのことです。空の紙入れと、女のハンドバッグが一緒に見つかりました」
「胴体のそばに?」
「ちがいます。かなり遠くです。ですから関連がないかもしれません。ヴィクトールは、運河にもぐるたびに、蚤《のみ》の市で並べることができるような物が見つかるというのです。胴体を見つけるちょっと前にも、折畳みベッドと、二つの汚水おけを引き上げました」
ポールは両手をだらりとたらしたまま、ゴム手袋を取らずに待っていた。
「なにか情報でも?」と、彼はたずねた。
メグレはうなずいてみせると、ついでジュデルにいった。
「それを法医学研究所の私のところに届ける便があるかね?」
「もちろんあります……」
「それじゃここで待っている。急いてくれ。ポール医師《せんせい》が……」
彼らは建物の入口で待った。外は空気がすがすがしかったし、心地よかった。オステルリッツ橋の上には絶えず人の往き来があった。セーヌ河の向こう岸の倉庫の前で、数艘の大伝馬船と、一艘の小さな帆船とが荷をおろしていた。今朝のパリのリズムのなかには、若々しい、快活なものがあった。新しい春がはじまっていたのだ。人々は楽しそうだった。
「刺青《いれずみ》も傷痕もなかったと思いますが?」
「そう、私が調べた部分には。肌は屋内で暮していた人間のようだった」
「でも、非常に毛深かったですね」
「そう。彼がどのような人間だったか、かなりはっきりいうことができる。褐色の髪、大男ではない、むしろ小男でがっしりしていて筋肉が逞しい。腕も、手も、脚も、胸も黒ずんだ毛でおおわれている。フランスの田舎にはこういう男がたくさんいるよ。頑丈で、気ままで、強情な男たち。私はこの男の顔をぜひ見てみたい」
「見つかりましたら!」
十五分後に、二人の制服の警官が胴を持ってきた。ポール医師は大理石のテーブルに向かいながらもみ手をせんばかりだった。仕事台に向かう指物師のようだった。
「これはたしかに本職の仕事じゃないな」と、彼はつぶやいた。「私のいいたいのは、この男は肉屋や、人切り魔によってばらばらにされたのではないということだ。まして外科医のしわざではない! 骨を切るのに、普通の|かねのこ《ヽヽヽヽ》を使っている。あとのところはレストランや、たいていの家庭の台所にある大きな肉切り庖丁を使ったようだ。時間がかかったにちがいない。何回かにわけてやったのだろう」
彼はちょっと間をおいた。
「この毛深い胸を見てごらん……」
メグレとラポワントは、ちらっと眼をやっただけだった。
「傷は見えませんが?」
「私にも見えない。ただ一つたしかなことがある。この男は溺死したのではないということだ」
奇妙としかいいようがない、運河のなかでばらばら死体で見つかった男が溺死したかもしれないなどと考えるのは……。
「これから私は内臓に取りかかる。とくに可能な範囲で、胃の中身を調べたい。残ってるかい?」
メグレは頭をふった。とくに彼が残って見ていても仕方がないことだった。それより早く一杯飲みたかった。口許の、死体の匂いのようないやな味を消すため、こんどはぶどう酒ではなく、もっと強いアルコールを飲みたかったのである。
「ちょっと待って、メグレ……私はなにをいってたっけ? きみには腹の上のこの白っぽい筋と、青白い小さな点々が見えるね?」
警視はうなずいたが、見ようとはしなかった。
「この筋は数年前にやった手術の傷あとだ! 虫垂炎だな」
「小さな点々は?」
「こちらのほうが興味があるのだ。はっきりと断言できないが、猟銃の霰弾《さんだん》か、鹿玉の傷だといって、ほぼまちがいないだろう。ということは、この男がある時期、田舎で暮していたことを証明している、よくわからないが、百姓か、密猟監視人などをしてね。弾丸を受けたのはもうずっと前、二十年かそれ以上前だな。七つ……いや八つ、おなじ傷痕が虹のように曲線を描いている。こんなのを見るのは生まれて初めてだ、それに、これほど間隔が一様でないのも。写真に撮って記録しておこう」
「電話をいただけますか?」
「どこにいる? 警視庁に?」
「ええ。オフィスか、ドフィーヌ広場で食事をしているかもしれません」
「なにか見つけたら電話しよう」
メグレは外に出て陽光を浴びると、まっ先に額をぬぐった。ラポワントは幾度もくり返してつばを吐かずにはいられなかった。彼も口の中がにがいらしかった。
「警視庁に着いたらすぐに車のトランクを消毒します」と、彼はいった。
車に乗る前に、彼らは居酒屋《ビストロ》に入り、マール・ブランデーを一杯飲んだ。このアルコールは強かったので、ラポワントはむかつき、一瞬口に手をやった。吐くのではないかと眼は不安そうだった。
やっとむかつきがおさまると、彼はつぶやいた。
「失礼しました……」
メグレたちが外に出ると、居酒屋《ビストロ》の主人は客の一人にいった。
「あれも死体の身許を確認しに来た人たちだよ。あの人たちの反応はみんなおなじだ」
法医学研究所の真正面に住んでいるので、彼は見慣れていたのである。
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第二章 ぶどう酒壜の蝋
メグレはパリ警視庁の大きな廊下に入ると、一瞬明るい光に眼がくらんだ。どこよりも薄暗くて陰気なこの廊下にも、今日は陽が当っていた、というより、光る埃《ほこり》で輝いていたといったほうがいいかもしれない。
オフィスのドアとドアのあいだにおかれた背のないベンチで人々が待っていた。なかには手首に手錠をかけられた人たちもいた。メグレがヴァルミィ河岸の事件を報告するため局長のオフィスに向かって行くと、一人の男が立ち上がり、帽子の縁に手をやって挨拶した。
数年来毎日顔を合わせているようななれなれしさで、メグレはその男にいった。
「どうだ、子爵、なにか言い分はあるか? ばらばら死体はいつも娼婦ばかりだと、こんどは文句をいえまい……」
みんなから子爵と呼ばれている男は、このほのめかしの意味がわかったらしいのに、顔を赤らめもしなかった。彼はいささかホモっけがあったのである。十五年以上前から彼は警視庁で、パリのある新聞と、通信社と、地方の二十ばかりの日刊紙のために≪記事をとって≫いた。
今世紀の初めにグラン・ブールヴァールの芝居のなかで着ているような服をいまだに着ている最後の男だった。しかも片眼鏡を幅の広い黒いリボンで胸の上にぶら下げている。この片眼鏡はほとんど使われなかったが、彼が子爵という渾名《あだな》をつけられたのはこの片眼鏡のせいだろう。
「首は見つかりましたか?」
「私の知るかぎりではまだだ」
「いましがたジュデルに電話をしたのですが、まだだといわれました。なにか情報があったら、警視、私のことを忘れないでくださいよ」
彼はベンチにもどって坐り、メグレは局長のオフィスに向かった。オフィスの窓は開かれていた。ここからも大伝馬船がセーヌ河を通っていくのが見えた。メグレと局長は十分ほどおしゃべりをした。
メグレが自分のオフィスのドアを開けると、デスクの上にメモがおかれていた。そのメモがだれのものだかメグレにはすぐにわかった。予期したごとく、もどり次第電話がほしいというコメリオ判事からのことづけだった。
「メグレ警視ですが、判事」
「おはよう、メグレ君。運河からもどったところかね?」
「法医学研究所からです」
「ポール医師はまだいるかい?」
「いま内臓を調べています」
「死体の身許はまだ確認できないと思うが?」
「首がないので、ほとんどその望みがありません。よほどの幸運がないかぎりは……」
「私がきみと話したかったのもそこなのだ。身許の知れている普通の事件では、どこに行けばいいのか多少はわかっている。ところがこの事件では全然わかっていない。明日か、明後日か、あるいは一時間後になにが問題になるのかも。あらゆる思いがけない事態が考えられるのだ、もっともいやなことも含めて。だからわれわれは、きわめて慎重にふるまわなければならない」
コメリオは一語一語はっきりといい、自分の言葉に酔ったようにゆっくり話した。彼のいうこと、なすことすべてが、≪きわめて≫重要なのである。
大部分の予審判事は、警察が事件を解決するまでほとんど任せておく。しかしコメリオは捜査の初めから指揮をしたがる。何よりもまず、ややこしくなるのを恐れるからだろう。彼の義兄は有名な政治家で、ほとんどすべての大臣の椅子を意のままにできる何人かの議員の一人だった。コメリオはよくいっていた。
「義兄のおかげで、私の立場が他の判事よりもむずかしいのがわかるね」
メグレは、どんなつまらないことでも新しい事実がわかるたびに電話を入れると約束して、やっとコメリオからのがれることができた。今後はたとえ夜でも彼の自宅に電話を入れなければならない。メグレは手紙にざっと眼を通し、進行中の別の事件に刑事たちを派遣するため刑事部屋に行った。
「今日は火曜日だね?」
「そうです、警視《パトロン》」
ポール医師の最初の鑑定がまちがっていなくて、死体がサン・マルタン運河に約四十八時間あったとすれば、この犯罪は日曜日に行われたことになる。日曜日の夕方か夜にちがいない。こうしたいまわしい包みを真昼間、警察署から五百メートルと離れていないところに捨てることはほとんどないからだ。
「きみかい、メグレ夫人?」と、夫人が電話に出ると、彼はふざけた。「おれは昼食にはもどらない。食事はなんだったんだい?」
羊肉入りのシチュー。彼は残念とは思わなかった。今日のような日には羊肉入りシチューは重すぎる。
メグレはジュデルを電話に呼んだ。
「なにか新しいことは?」
「ヴィクトールはいま船の上で食事中です。首を除いて、からだはすべて手に入りました。彼はこのまま探索をつづけるべきかどうか聞いてきています」
「もちろんだ」
「私の部下たちが仕事にかかっていますが、はっきりしたことはまだなにもわかっておりません。日曜日の夜、レコレ街のバーで喧嘩騒ぎがありました。≪シェ・ポポール≫ではありません。もっと遠く、フォーブール・サン・マルタンの近くです。それに、門番女が、亭主がいなくなったと訴えてきていますが、亭主が家に帰らないのは一カ月以上になりますし、彼の特徴とは一致しません」
「午後そちらに行ってみよう」
ビヤホール≪ドフィーヌ≫に昼食に出がけに、刑事部屋をのぞいた。
「ラポワント、行かないか?」
ドフィーヌ広場の小さなレストランに行っていつもの席に坐るのに、なにも若い刑事は必要なかったのである。ラポワントと黙って河岸を歩いているとき、メグレはそのことに気がついた。いつかそのことで人から質問されたことがあったのを思い出した。彼は唇が思わずほころんだ。質問したのはメグレの友達で、ポパンクール街のパルドン医師だった。メグレは月に一度、妻と一緒に医師の家ヘ夕食に行く習慣があった。ある夜、パルドンは気まじめな顔をしてメグレにたずねた。
「メグレ、どうして私服の警官は水道工事屋のようにいつも二人でいるのか説明してもらえないか?」
メグレはそのことに気づいたことはなかったが、いわれてみればそのとおりだった。メグレ自身だって、部下のだれかを連れずに捜査に出かけたことなどめったになかった。
彼は頭をかいた。
「それは、パリの街々がまだ安全ではなくて、とくに夜など、ある種の区域に入って行くのに、一人より二人のほうが安全だった時代からはじまっていたと思うよ。これが第一の理由」
ある場合、たとえば逮捕の場合とか、いかがわしい場所を臨検する場合には、たしかにいまでも有効だった。しかしメグレはさらに考えつづけた。
「第二の理由は、警視庁での尋問などの場合にも有効だということだね。警察官が一人で証言を書きとめていたら、いやいや自白する容疑者にあとですべてを否認されてしまうかもしれないからね。二人の確認があれば陪審員の前でずっと重みがある」
第一の理由も第二の理由も真実だったが、まだそれだけでは十分ではない。
「実際的な見地からいっても、必要なことなんだ。たとえば尾行中に、見張っている相手から眼を離さずに、電話をしなければならなくなるときがあるし、あるいは相手が、出入口がいくつもある建物に入っていくこともあるのでね」
微笑みながら話を聞いていたパルドンが反対した。「いくつか理由を聞いたが、どれも十分ではないようだな」
それにたいして、メグレは答えた。
「それなら、ぼく自身の話をしよう。ぼくはいつも刑事を一緒に連れて行くが、それは一人では退屈してしまわないかと恐れるからだよ」
メグレはこの話をラポワントにはしなかった。若い連中の前で懐疑的な態度を示してはならないし、それにラポワントはまだ崇高な熱情を抱いていたからである。食事は楽しく、和やかだった。他の刑事や警視たちがカウンターに並んで酒を飲み、食堂では四、五人の客が食事をしていた。
「首が運河に捨てられたと思いますか、運河から見つかると思いますか?」
メグレはいやというように思わず頭を振った。だが、実をいうと、まだあまりそのことを考えていなかった。彼の返事は本能的なものだった。なぜ、潜水夫のヴィクトールがサン・マルタン運河の泥のなかをこれ以上さがしても無駄だという印象をもったのか、メグレにはその理由をいうことができなかっただろう。
「首はどうしたのでしょうね?」
メグレには全然わからなかった。たとえば、スーツケースに入れて、運河のすぐ近くの東駅か、あまり遠く離れていない北駅の手荷物預所にあずけてあるかもしれない。あるいはまた、警視がヴァルミィ河岸に面する通りに停っているのを見たような遠距離用大型トラックでどこか田舎に送られたのかもしれない。彼はよくこの赤と緑のトラックが高速道路に向かって町を横切って行くのを見た。が、このトラックの倉庫がどこにあるのか考えたこともなかった。運河の近くのテラージュ街がそうだったのである。今朝など、歩道に沿って二十台以上も停っていた。これらのトラックにはすべて≪ゼニート運送……ルーレール・エ・ラングロワ≫と書かれている。
メグレはふだんこうしたことに特別注意を払ったことがなかった。興味はあったが、夢中になるほどではなかったのである。それよりも彼の興味は運河の付近にあった。運河の付近で働かなくなってからもう長くなるが、警察官になった頃はこの区域の通りの一つひとつが、夜、家々の壁をすべるように通りすぎて行く多くのシルエットとともに、彼には親しいものだった。
メグレに電話がかかってきたとき、彼らはまだテーブルについてコーヒーを飲んでいた。電話はジュデルからだった。
「お邪魔じゃなかったでしょうか、警視。手掛りといっていいかどうかわかりませんが、潜水夫の近くで見張っていた私の部下の一人ブランパンが、一時間ほど前、三輪自転車に乗った若い男に注意を惹かれました。ブランパンは今朝すでにこの若い男を見かけたようです。ついでその三十分後にも気づき、それからその後も、午前中に何度か見たように思ったのです。他の野次馬たちはしばらく河岸に突っ立っていますが、この男はブランパンによれば、他の連中より離れたところにいて、かなり興味をもっていたようです。いつもは三輪自転車の御用聞きはお得意廻りがあって、そんな暇がないはずです」
「ブランパンはその男に尋問したのか?」
「そうするつもりで、相手にさとられないようにできるだけそっとその男のほうに行ったのです。彼が数メートルしか歩かないうちに、その若い男は顔に恐怖の色をうかベ、自転車に飛び乗ると、レコレ街のほうに全速力で走り去ってしまったのです。ブランパンには車はなかったし、手近に乗物はなに一つありませんでした。彼は逃げる男を捕えようとしましたが、通行人に邪魔されてたいして進むことができないうちに、三輪自転車はフォーブール・サン・マルタンの人通りのなかに見えなくなってしまったのです」
二人とも黙った。もちろんこの話は漠然としている。なんの意味もない話かもしれないが、捜査の出発点になるかもしれない。
「ブランパンはその男の特徴をおぼえているか?」
「ええ。十八歳から二十歳の若者で、まだ血色のいい顔をしているところをみると、一見田舎から出てきたばかりのようです。ブロンドの長い髪で、タートルネックのセーターに革のジャンパーを着ていました。ブランパンは三輪自転車に書かれた商店の名前を読みとることができませんでした。最後の≪ail≫だけです。私たちはいま、三輪自転車の御用聞きを使っているこの区域の商人たちのリストをチェックしています」
「ヴィクトールはどういってる?」
「お金を払ってくれるかぎり、水の底にいようがいまいがかまわないそうですが、これ以上やっても時間の無駄だといってます」
「空地になにかあったか?」
「いままでのところありません」
「もうすぐ検視医の報告書が出て、死者についてなにか細かいことがわかるだろう」
メグレは二時半頃オフィスで、ポールの報告を電話で受け取った。正式な報告書はあとで送るという。
「書きとめるかね、メグレ?」
メグレはメモ綴りを引き寄せた。
「これは推測でしかないが、かなり事実に近いと思う。まずあの男の特徴であるが、首がなくても明らかになった範囲でいうと、背が高くない。一メートル六十七ぐらい。猪首《いくび》で、顔は大きくて、堅い顎をしていると考えたほうがいいだろう。黒ずんだ髪で、たぶんこめかみのあたりに何本か白い髪がまじっていたのじゃないかな。そう多くはない。体重は七十四キロ。見かけはずんぐりした男にちがいない。まるまる肥っているというよりごつごつ角張っていて、脂肪質というより筋肉質だ。もっとも、最近は肥ってしまったがね。肝臓はこの男がかなりな酒飲みであったことを示しているが、アルコール中毒だったとはいえまい。というより、一時間おきとか半時間おきに一杯飲むタイプだ、とくに白ぶどう酒を。それに、胃のなかにも白ぶどう酒の残りがあったよ」
「食物もありましたか?」
「うん。運のいいことに、料理が消化のよくないものだった。最後の昼食か夕食は、主に焼き豚といんげん豆だった」
「死ぬどのくらい前ですか?」
「二時間か二時間半前だろう。私は手と足の爪に溜っていたごみを採取して、実験室に送っておいた。結果はムルスがきみに直接知らせるだろう」
「傷痕は?」
「今朝いったとおりだ。五、六年前に虫垂炎の手術を受けている。手術の痕から判断して、腕のいい外科医によるものだ。小さな霰弾の痕は少なくとも二十年前、いや四十年前ぐらいのものといってもいいかもしれない」
「年齢《とし》は?」
「五十から五十五歳まで」
「とすると子供のときに、霰弾を受けたことになりますね?」
「私はそう思うな。すでにいった肝臓のはれを除いては、からだはどこも悪いところがない。心臓も肺もいい。左の肺は古い結核の跡があるが、これはたいした意味がない。子供や赤ん坊は知らないうちに軽い結核にかかっていることがよくあるものだからだ。これ以上のことが知りたければ、いいかいメグレ、首をもって来てくれ。そうすればできるだけのことはするよ」
「首はまだ見つかっていません」
「それなら、見つからないだろう」
それはメグレの意見と一致する。このようにパリ警視庁には、自明の理のように考えられてしまっている信仰がいくつかある。たとえば、ばらばら死体はほとんどきまって低級な娼婦であるという信仰。また胴体は見つかるが首はめったに見つからないといった信仰。
これらの信仰がなぜそうなのかだれも解明しようとせず、ただ信じているのである。
「電話がかかってきたら、私は階上《うえ》の実験室にいるから」と、メグレは刑事部屋に行って言った。
彼は裁判所の屋根裏までゆっくりと階段を昇った。ムルスが試験管にかがみ込んでいた。
「≪私の≫死体を調べているのかね?」と、メグレはたずねた。
「ポール医師が送ってきた見本を調べています」
「なにかわかった?」
この広い実験室のなかで、他の技術者たちも働いている。部屋の片隅に犯罪の再構成に使う……たとえば被害者がどんな姿勢で刺されたかをたしかめたりする……マネキンが立っている。
「この男はあまり外出しなかったような気がします」と、ムルスはささやいた。彼は教会のなかでのように、いつでも小声で話すのだ。
「なぜ?」
「足の爪から採れたごみを調べてみますと、男が最後にはいていた靴下は紺色のウールのものだということができます。また、|黒いフェルトと革のスリッパ《シャランテーズ》をつくるのに使うフェルトのかすが見つかりました。そこから私は、この男はほとんどスリッパをはいて暮していたにちがいないという結論を得たわけです」
「それが正しいのなら、ポールがすでに確認していなければならないはずだ。というのは、数年間スリッパをはいて暮していると、足の形が変わってしまうし、少なくともうちの家内が絶えず私にいっているところによると……」
メグレは言葉を途中できると、法医学研究所のポール医師に連絡をとろうとしたが、彼はもう研究所を出ていたので、やっと自宅のほうでつかまえることができた。
「メグレですが。医師《せんせい》、一つ質問があるのです。これはムルスの指摘なのですが、あなたはこの男が靴よりもスリッパをはいて始終暮していたという印象をもちましたか?」
「ムルスに敬意を表しておいてくれたまえ。さきほど私はそのことをきみに話そうとしたのだが、漠然としすぎていたし、間違った手掛りをあたえてはいけないと判断したんだ。足を調べていて、この男はカフェの給仕じゃないかと考えた。給仕や料理頭や巡査のように……とくに交通巡査だが……足裏がくぼんでいる。それはたくさん歩いたからではなくて、長時間立ったまま過ごしたからだ」
「手の爪が手入れされていないとあなたはいいましたが」
「そのとおり。たぶん給仕頭は黒い爪をしていないだろう」
「大きなビヤホールや品のいいカフェの給仕も」
「ムルスはその他になにか見つけたかね?」
「いままでのところはまだです。どうもありがとう、医師《せんせい》」
メグレはさらに実験室のなかをうろついて一時間ほど過ごした。技術者たちのうしろからのぞき込んだりした。
「爪のなかに、硝石のまじった土があったというのも興味がありますか?」
ムルスもメグレも、こうした土が多くの場合どこにあるのかをよく知っていた……地下室、とくに湿った地下室のなかである。
「少し? たくさん?」
「おどろいたのはそこです。この男は一度でこのように汚れたとは思えないのです」
「ということは、彼はいつも地下室に降りていたということか?」
「推測にすぎませんが」
「手は?」
「手の爪のなかにもおなじような土がありましたが、こちらのには赤い蝋《ろう》の小さいかけらがまじっていました」
「ぶどう酒の壜を密封するために使う蝋?」
「そうです」
メグレは失望に近い感情を味わった。あまりにも容易すぎたからだ。「要するに、居酒屋《ビストロ》だな!」と彼はつぶやいた。
この瞬間、彼は事件が今夜のうちに片づくのではないかと思った。今朝飲物を出してくれた、痩せた、褐色の髪の女のイメージが彼の記憶によみがえった。女はメグレに強い印象を残した。彼はその日二、三度彼女のことを考えた。必ずしもばらばら死体と関連づけてではなく、変わった人間であったからだ。
ヴァルミィ河岸のような区域には必ず変わった人間がいるものだ。しかし、この女のような気力のない人間に出会うのはめずらしい。うまく説明できないが、大部分の人は顔を見合せたとき、わずかであってもなにかが取りかわされる。そしてたとえ敵対的なものであっても、ある関係が生まれる。
ところが、この女の顔にはなにもあらわれない。彼女はカウンターに出てきても、驚きも恐怖の表情もあらわさない。ただ彼女の顔に読むことができるのは、決して消えることがなさそうな倦怠感だけだ。
あるいはあれは無関心さなのだろうか?
酒を飲みながら、メグレは二、三度彼女の眼をのぞき込んでみた。が、いかなる動きも、いかなる反応もなかった。しかも、それは愚鈍な女の反応のなさではなかった。このとき少なくとも彼女は酔ってもいなければ、麻薬をやっていたわけでもなかった。すでに今朝、メグレは彼女に会いにもどって来ようと決心していた……たとえそれが、あの店に出入りする客がどんな客かをたしかめるためだけであっても。
「なにか考えがありますか、警視《パトロン》?」
「ないこともない」
「なにか気に食わないようないい方ですね」
メグレはあえてなにもいわなかった。四時になると、机で仕事をしていたラポワントに話しかけた。
「車を運転してくれるか?」
「運河ですか?」
「そうだ」
「車の消毒が終っているといいですが」
女たちは早くも明るい色の帽子をかぶっていた。今年流行している色は赤で、ひなげし色の明るい赤だった。カフェのテラスにはオレンジ色や縞の日除けがおろされている。ほとんどすべてのテーブルには人がいた。道行く人々の足取りは先週よりも軽快だった。
ヴァルミィ河岸で、メグレたちは人だかりの近くで車を降りた。この人だかりはヴィクトールがまだ運河の底をさがしていることを示していた。ジュデルもそこにいた。
「まだなにも?」
「はい」
「着衣もないか?」
「私たちは紐《ひも》を調べています。警視が役に立つとお考えなら、鑑識課のほうに送っておきます。ちょっと見たところ、ありきたりの太い紐で、よく商人たちが使うやつです。ばらばら死体の包みをつくるためには、かなりの量の紐が必要だったでしょう。近くの金物屋に人をやってたずねさせています。ぼろぼろの新聞紙のほうですが、乾かしてみますと、ほとんどが先週のものです」
「いちばん新しいのはいつのもの?」
「土曜日の朝刊です」
「きみは製薬研究所のわきのテラージュ街のちょっと先にある居酒屋《ビストロ》を知っているか?」
「≪シェ・カラ≫ですか?」
「店先にそんな名前はついていなかったな。小さな薄暗い部屋が歩道より下のほうにあって、真中に大きな石炭ストーブがあり、黒い煙突が部屋じゅうを横切っている」
「そうです、オメール・カラの店です」
所轄署の刑事たちはパリ警視庁の刑事たちよりもこれらの場所を知っている。
「どんな店かね?」と、メグレは、運河の底をヴィクトールが行ったり来たりしていることを示す空気の泡を見つめながらたずねた。
「静かな店です。警察沙汰を起こしたこともまだありません」
「オメール・カラは田舎から来たのか?」
「そうだと思います。登録簿を調べればたしかめられます。大部分の居酒屋《ビストロ》の経営者は、給仕や運転手としてパリに来て、料理女と結婚して二人のお金で店を開くのです」
「あそこに来てかなりになるのかな?」
「私がここの署に任命される前からです。警視もごらんになったように、あの店はずっと変わっていません。警察署のほぼ真正面にありますので、私などは歩道橋を渡って白ぶどう酒を飲みに行きます。あそこの白はおいしいのです」
「いつもは店に出ているのは主人のほうか?」
「一日の大半は。ただ午後のいっときは、ラ・ファイエット街のビヤホールにビリヤードをやりに行くので、いません。彼はビリヤード気違いなのです」
「彼がいないときは、奥さんがカウンターに出るのだね?」
「そうです。女中もボーイもいません。一時期かわいいウェイトレスをおいたのをおぼえていますが、その子がどうなったかはわかりません」
「客種はどんなかな?」
「説明しにくいですね」と、ジュデルは頭をかいた。「この区域の居酒屋《ビストロ》はどの店もほとんど客種はおなじです。と同時に、どの店もそれぞれ違った客をもっています。たとえば、水門の近くの≪シェ・ポポール≫は朝から晩まで騒がしい客です。酒をがぶがぶ飲み、大声でおしゃべりします。空気は一日じゅうたばこの煙で青くなっています。夜の八時を過ぎると、お客を待っている三、四人の女しかいなくなります」
「オメールの店は?」
「まず、≪シェ・ポポール≫のように通りがかりの客はありません。つぎに、薄暗くて、ずっと陰気です。警視ご自身もきっとあのなかの雰囲気に気づかれたでしょう。朝は近くの仲仕《なかし》たちが一杯やりに来ます。昼は、弁当をもった者たちが何人かやって来て、白ぶどう酒の小壜を注文します。午後は、さっきもいったように通りがかりの客がないので、もっと静かです。オメールがビリヤードをやりに行くのにこの時刻を選んだのは、このためなのでしょう。ときどきは客があるかもしれません。それからアペリチフの時間に、ふたたび活気をとりもどします。私も夜行ったことがあります。いつもおなじです。テーブルの一つでトランプ遊びをする連中と、一人か二人……それ以上ではありません……がカウンターの前に立って酒を飲んでいます。定連でなければ、いつでも気づまりな感じのする店です」
「オメールと奥さんはちゃんと結婚しているのか?」
「まだ一度もそのことを考えたことがありませんが、簡単にたしかめられます。お望みなら、これからすぐに署に行って、登録簿をたしかめてきます」
「それはあとでいい。オメール・カラは旅行中のようだが?」
「彼女がそういったのですか?」
「そうだ」
ノオ兄弟の大伝馬船はこの時間、アルスナル河岸に繋がれ、クレーンが建築用石材をおろしはじめていた。
「付近の居酒屋《ビストロ》のリストをつくってもらいたい。とくに主人や給仕人が日曜日からいなくなった居酒屋《ビストロ》のリストを」
「警視のお考えでは?」
「いや、ムルスの考えなのだ。たぶんこの考えは正しいだろう。私はあそこまで行ってくる」
「≪シェ・カラ≫ヘ?」
「うん。ラポワント、きみもくるか?」
「明日もヴィクトールを来させますか?」
「それは納税者の金を窓から捨てるようなものじゃないかな。今日なにも見つからなかったら、もうなにも見つからない」
「ヴィクトールもおなじ考えなのです」
「もうこれ以上むだだと思えば仕事をやめるように、そして明日、報告書を忘れないように伝えておいてほしい」
テラージュ街の前を通りながら、メグレは≪ルーレール・エ・ラングロワ≫と書かれた大きな倉庫の正面に停っているトラックにちらっと眼をやった。
「何台あるんだろうね」と、メグレは思わずひとり言をいった。
「なにがですか?」と、ラポワントがたずねた。
「トラックさ」
「私は車で田舎に行くたびに、道路であそこのトラックに出会います。追い越すのが大変なんです」
煙突頂部の土管が今朝とおなじばら色ではなくて、西陽をうけて黒ずんだ赤に変わっていた。空には陽が沈む直前の海とほとんどおなじライト・グリーンのしまがあちこちに見えた。
「警視《パトロン》、女がこんなことをやってのけられるでしょうか?」
メグレは今朝白ぶどう酒を注いでくれた褐色の髪の、痩せた女のことを考えた。
「できるかもしれないな……しかし、私にはわからない」
たぶんラポワントもそれではあまりに事は簡単すぎると思っているのだろう。捜査が複雑だとわかり、事件が解決できない様相を帯びてくると、警視庁ではメグレを初めとしてみんなが気むずかしくなり、いらだってくる。逆に、最初困難なように思えた事件が単純で平凡なものであることがわかると、そのおなじ刑事たちが、そのおなじ警視が、失望の色を隠せないのだ。
メグレとラポワントは居酒屋《ビストロ》の前に着いた。天井が低く、他の店より薄暗いので、カウンターの上にはすでに明りがついていた。
今朝とおなじ女が、今朝とおなじ無造作な着物の着方をして、会社員のような感じの二人の客の相手をしていた。彼女はメグレとその連れを見てもびくっともしなかった。
「なににいたしましょうか?」彼女は微笑もせずにこうたずねただけだった。
「白を」
カウンターのうしろのバケツのなかに、栓のないぶどう酒の壜が三、四本あった。それ以上必要な場合にはときどき地下室に降りて行くにちがいない。カウンターのうしろの地面は赤いタイルが敷かれていず、約一メートル四方の揚蓋《あげぶた》があった。地下室に通じているのだ。
メグレとラポワントは坐らなかった。メグレたちのわきで二人の男が立ってしゃべっていたが、その話から、彼らが会社員ではなく、運河の向こう側のサン・ルイ病院に夜の勤務に行く看護士であることがわかった。彼らの一人がとつぜん、定連の親しい口調で女主人に話しかけた。
「オメールはいつ帰ってくるの?」
「あの人が予定を言っていったことがないのは、あなたもよく知っているでしょ」
彼女は今朝話したとおなじ無関心さで、無造作に答えた。赤毛の猫があいかわらずストーブのそばにいた。そこから動かないようだった。
「首がまだ見つからないようだな!」と、彼女の夫のことを聞いた男がいった。
そういうと、彼はのぞき込むようにしてメグレと連れを見た。メグレたちが運河のそばにいたのを彼は見たのだろうか? それともただメグレたちが警察官だ、という感じをもっただけなのだろうか?
「まだ首は見つからないのでしょうね?」と、彼はこんどはメグレに直接話しかけた。
「まだです」
「見つかると思いますか?」
彼は警視の顔をじろじろ見ると、最後にいった。
「メグレ警視ではありませんか?」
「そうです」
「そうだと思いました。新聞であなたの写真をよく拝見します」
女はあいかわらず平然としている。話を聞いていないかのようだった。
「おかしいですね、初めて男がばらばら死体にされたなんて! ジュリアン、行こうか? いくら、カラさん?」
彼らはメグレとラポワントに軽く会釈すると、出て行った。
「あの病院の職員がたくさん来るのですか?」
彼女はただこう答えた。
「何人か」
「ご主人は日曜日の夜、出かけたのですか?」
彼女は表情のない眼でメグレを見つめると、おなじ無関心な声でいった。
「なぜ日曜日ですの?」
「わかりません。ただそう聞いたように思いましたので……」
「金曜の午後、出かけたのです」
「ご主人が出かけたとき、店には客がたくさんいましたか?」
彼女は考え込んでいるようだった。ときどき夢遊病者のようにぼんやりと無関心でいるようなときがある。
「午後お客が多いことはありません」
「だれもおぼえていませんか?」
「だれかがいたかもしれませんが、わかりません。注意していませんから」
「荷物はもって行きましたか?」
「もちろんです」
「たくさん?」
「スーツケースを」
「なにを着ていましたか?」
「灰色のスーツだと思います。そう、スーツでした」
「いまご主人がどこにいるかわかりますか?」
「いいえ」
「どこに行ったか知らないのですか?」
「列車でポワティエに行き、そこからバスでサン・トーバンかその近くの村に行ったはずです」
「宿屋で泊るのですか?」
「いつもは」
「友達か親戚の家で泊るようなことはありませんか、あるいは、ぶどう酒を売ってくれるぶどう栽培者の家で?」
「そういうことをあの人に訊いたことはありません」
「それでは、重要な問題でいそいでご主人と連絡を取らなければならない場合、たとえばあなたが病気になったとき、ご主人に知らせることができないのではないですか?」
そんなことには彼女はおどろかなかったし、びくつきもしなかった。
「あの人は最後にはいつでももどってきます」と、彼女は単調な、響きのない声で答えた。「おなじことじゃないかしら?」
二人のグラスは空だった。彼女はグラスを一杯にした。
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第三章 三輪自転車の若い男
結局、これはメグレのもっとも失望すべき尋問の一つになってしまった。しかし、小さな居酒屋《ビストロ》の生活はいつものようにつづいていたのだから、本来の意味の尋問ではなかった。長いあいだ警視とラポワントはカウンターに立ったまま、客のように酒を飲んでいた。実際、彼らは客であったのである。さきほど看護士の一人がメグレに気がつき、大声で彼の名前をいったが、警視はカラ夫人に話しかけながら一度も自分の公けの職務のことをほのめかさなかった。彼は長い沈黙のあとで、ときどき思い出したように話しかけたが、彼がなにも聞かないときにほ、彼女のほうはメグレのことなど気にかけないでいた。
ある瞬間、彼女はメグレたちを二人だけ部屋に残して、半開きのままにしておいたうしろのドアから出て行った。そのドアは料理場に通じているにちがいない。彼女は火になにかをかけていた。そうしているうちに小柄な老人が入ってきた。老人は常連らしく、片隅のテーブルのほうにちゅうちょなく進むと、棚からドミノの箱を取った。
老人は一人きりで遊ぶつもりのようにドミノをテーブルの上でかきまぜた。その音を聞いて、彼女は料理場からもどってくると、一言もいわずに壜のところへ行き、グラスにばら色のアペリチフを注ぎ、老人の前においた。
老人は待った。数分すると、もう一人の小柄な老人が入ってきて、彼の前のテーブルに坐った。二人はまるで兄弟のようによく似ていた。
「遅れたかな?」
「いや、わしが早すぎたのだ」
カラ夫人はさっきとは別のアペリチフをグラスに注ぐとテーブルに運んだ。途中で、スイッチを押した。部屋の奥で二つめの明りがついた。これらはすべてパントマイムのように、沈黙のなかで行われた。
「彼女を見ていて不安にならないですか?」と、ラポワントはメグレの耳にささやいた。
警視が感じていたのは不安ではなく、興味だった。もう久しくその機会がなかった、人間そのものにたいする興味だった。
彼がまだ若くて、未来を夢想していたころ、現実生活にはあいにく存在しないような理想的な職業を彼は考えていなかったか? 彼はそのことをだれにもいわなかったし、たとえ独り言にしろ声に出してその職業をいったことはなかったが、彼は≪運命の修理人≫になりたかったのである。
しかし不思議なことに、警察官の職についてから、人生の偶然から間違った道に進んでしまった人たちを正しい方向にもどす手助けをたびたびしてきた。もっと不思議なことには、ここ数年の間に彼が夢想していた職業にいくぶん似た職業が生まれたのである。個々の人間にその真の個性を教えてやるように努める精神分析学者だ。
ところで、あきらかに自分の適性から外れている者がいるとすれば、それは黙って行き来しているこの女だ。なにを考えているのか、どんな気持を抱いているのかわからないこの女がそうだ。
もちろんメグレはすでに彼女の秘密の一つを発見していた……この店のすべての客が知っているにちがいないことに秘密という言葉を使っていいかどうかわからないが。あれから二度、彼女は奥の部屋にもどった。その二度目に、警視は壜の口から栓を引き抜く音をはっきりと聞いた。
彼女は酒を飲んでいたのである。たしかなことは、彼女が決して酔わないし、自制心を失わないことだ。医者にはもうどうにもできない本物の酒飲みのように、彼女は自分の限度を知っていた。彼女は、メグレが最初に会ったとき当惑させられたあの夢遊病者のような無関心状態を維持するのに必要なだけ飲んだ。
「お年齢《とし》はいくつですか?」と、メグレは女がカウンターのうしろにもどってきたとき、たずねた。
「四十一」
彼女はためらわなかった。はにかみも、にが味も見せずに答えた。自分がそれ以上に見えることを知っていた。もうずっと前から他人のことなど気にせず暮してきたのだろう。他人の意見などどうでもよかったにちがいない。彼女の顔は色褪せ、眼の下には深いくまができ、唇の端は垂れ下がり、すでに顎の下はたるんで皺《しわ》ができている。昔にくらべて彼女は痩せたにちがいない。いまでは大きすぎるその着物はからだにぶら下がっているようだった。
「パリ生まれですか?」
「いいえ」
彼の質問の裏にあるものを彼女が見抜いていることはたしかだった、が、彼女はその質問を避けようとしたりしなかった。しかしまた、余計なことは一言も答えなかった。
メグレのうしろでは二人の老人がドミノをやっていた。毎日夕方やっているにちがいない。
警視が当惑したのは、彼女が隠れて飲んでいたことである。人の意見など気にしない彼女が、なぜ、奥の部屋に行って、ぶどう酒なりアルコールなりを壜からがぶ飲みするのか? この点にかんしては、彼女はまだいくらか世間体を気にするのか? そんなことがありうるとは思えない。これほどの酒飲みになると、まわりの監視の眼をごまかす必要がなければ、わざわざ隠れて飲むなどということはめったにないものだ。
とすると、この問いにたいする答えは、夫のオメール・カラがいることだろうか? 彼が、妻が飲むことを、少なくとも客の前で飲むことを禁じたと想像すべきだろうか?
「ご主人はぶどう酒を買いによくポワティエ付近に行くのですか?」
「毎年」
「年一回?」
「二度のときもあります。ときによりますわ」
「どういう場合ですか?」
「どのぶどう酒を商売用にするかで」
「いつも金曜日に発つのですか?」
「そんなことおぼえていません」
「旅行するつもりだということはいいますか?」
「だれにです?」
「あなたに」
「あの人はなにもいいません」
「お客にも、友達にも?」
「わかりません」
「あの二人は先週の金曜日ここにいましたか?」
「オメールが出かけた時間にはいません。五時前には来ませんから」
メグレはラポワントのほうに向いた。
「モンパルナス駅に電話して、ポワティエ行きの列車が午後何時にあるか聞いてくれ。鉄道公安官と話すんだ」
メグレは小声で話した。もしメグレの唇を見守っていたら、カラ夫人は彼のいっていることが見抜けただろう。だが、彼女はそんな面倒なことはしなかった。
「駅員たちに、とくに改札口の駅員に問合せるように公安官に頼むんだ。ここの主人の特徴をいって……」
電話室はよくあるように部屋の奥にはなくて、入口の近くにあった。ラポワントは電話用コインを頼むと、ガラス張りのドアのほうに行った。夕闇が間近にせまっていた。青味がかった霧がガラス窓の向こう側にただよっていた。通りに背中を向けていたメグレは、刑事のあわただしい足音を聞いて、いそいで振り返った。歩道に逃げていく人影を、若い顔を見たと思った。その顔は薄暗がりのなかで蒼白く、ぼやけてみえた。
ラポワントはドアのハンドルをまわすと、ラ・ヴィレット通りの方向に追いかけた。後手にドアを閉める時間がなかった。メグレも外に出ると、歩道の真中に立った。走っていく二つの人影がかなり遠くに、まだかすかに見えた。が、見えなくなってからも、舗道にあわただしい足音がしばらく聞こえつづけていた。
ラポワントはガラス戸の向こうに人を見たと思ったにちがいない。メグレにはほとんどなにも見えなかったが、なにが起こったかは推察できた。あの走って逃げて行った若い男は、潜水夫が運河の底で働いていたとき、すでに一度警官が近づくのを見て逃げた三輪自転車の若者の人相に似ていた。
「あなたは彼を知っていますか?」と、メグレはカラ夫人にたずねた。
「だれ?」
メグレはそれ以上いっても無駄だった。とにかく、彼女があのとき通りのほうを見ていなかったかもしれないからだ。
「ここは、いつもこんなに静かなのですか?」
「ときによります」
「どういうときです?」
「その日とか。時間とか」
彼女の言葉を裏がきするかのように、付近の工場の終業時刻を告げるサイレンが聞こえた。数分後に、歩道に行列するような足音が聞こえた。ドアが開き、閉じ、ふたたび十度ほど開いて閉じた。ある客たちはテーブルに坐り、他の客たちはメグレのようにカウンターの前に立っていた。
女主人は彼らの多くになにを飲むかを聞かず、いつもの飲物を黙って注いだ。
「オメールはいないのかね?」
「ええ」
彼女は「旅行中なの」とか、「ポワティエヘ金曜日に出かけました」とつけ加えなかった。
彼女は聞かれたことだけに返事をするだけで、余計なことはいっさいいわない。どこの出身なのだろう? 推測さえ口に出せない感じだった。歳月が彼女から色艶を失わせていた。彼女自身の一部分が涸れてしまったようだった。酒のために、彼女は別の世界に生きていて、現実との接触には無関心だった。
「ここに住んで長いのですか?」
「パリに?」
「いや、この居酒屋《ビストロ》に」
「二十四年です」
「ご主人はあなたと知り合う前からこの店をもっていたのですか?」
「いいえ」
メグレは心のなかで計算してみた。
「ご主人と出会ったとき、あなたは十七歳ですか?」
「わたしはその前からあの人を知っていました」
「いまご主人はいくつですか?」
「四十七」
ポール医師の推定した年齢とはぴったり一致しないが、その差はあまり大きくない。しかしメグレには自信がなかった。彼が質問をつづけたのは、むしろ個人的な好奇心を満たすためだった。最初の日から、首なし死体の身許が、いかなる努力も必要とせずに偶然にわかってしまったら、それこそ奇蹟ではないのか?
ささやくようなおしゃべりが聞こえた。たばこの煙は頭上で白いヴェールのようにただよいはじめた。客は出たり入ったりしている。ドミノの二人はこの世に自分たちだけしかいないかのように泰然としていた。
「ご主人の写真がありますか?」
「いいえ」
「一枚もないのですか?」
「ええ」
「では、あなたのは?」
「ありません。身分証明書のだけです」
自分自身の写真をもっていない人など、千人に一人もいない……メグレは経験上それを知っていた。
「階上《うえ》に住んでいるのですか?」
彼女はうなずいた。この家が二階建てであることを、メグレは外からたしかめておいた。店と料理場の上に二、三部屋があるにちがいない。たぶん二つが寝室で、あとは化粧室か物置部屋なのだろう。
「どこから上るんです?」
「料理場にある梯子《はしご》段から」
このあとで、彼女は料理場にもどった。こんどはなにか煮ているものを匙《さじ》でかきまわした。ドアが騒々しく開き、頬をばら色に染め、眼を輝かせ、息を切らしたラポワントが若い男を引き立てて入ってきた。チビのラポワントが……背が小さいからではなく、いちばん若くて、いちばん新入りなので、司法警察局ではこう呼んでいた……、これほど得意そうに見えたことはなかった。
「だいぶ走らされましたよ!」と、彼は微笑みながらカウンターにおいてある自分のグラスのほうに腕を伸した。「二、三度、まかれてしまうんではないかと思いましたが、幸い高校《リセ》のとき、私は五百メートルの選手でした」
若い男も息を切らしていた。呼吸が激しかった。
「おれはなにもしてねえよ」と、メグレのほうに向きながら若い男は文句をいった。
「それなら、怖《こわ》がることはない」
メグレはラポワントを見た。
「彼の身分証明書は取ったね?」
「用心のため、私のポケットに入れてあります。こいつはパンスマイユ商店で三輪自転車で御用聞きをしているんです。今朝河岸にいて、あわてて逃げたのもこいつです」
「なぜだ?」と、メグレは若い男にたずねた。
彼は悪人ぶろうとする若者たちのあの依怙地《いこじ》な様子を見せた。
「答えたくないのか?」
「なにもいうことはないさ」
「きみは途中でなにも聞き出せなかったのか?」と、メグレはラポワントに聞いた。
「息切れがはげしかったのであまり話せませんでした。彼はアントワーヌ・クリスタンといいます。十八歳で、フォーブール・サン・マルタン街の住まいに母親と一緒に住んでいます」
何人かの客が彼らを見つめていたが、それほど好奇心があるわけでもなかった。この区域では、警察官がこうした店にあらわれるのを見慣れていたからだ。
「そこでなにをしていた?」
「なにもしてねえよ」
「こいつはガラス戸に顔をくっつけていました」と、ラポワントが説明した。「私はこいつに気がついたとき、とっさにジュデルがいったことを思い出し、外に飛び出したのです」
「わるいことをなにもしてないなら、なぜ逃げた?」
彼はためらい、少なくとも隣りの客が二人、話を聞いているのをたしかめると、唇をわななかせていった。
「おれはサツが好きじゃないからさ」
「ガラス戸越しに様子をうかがっていたのではないか?」
「別にかまわないだろう」
「私たちがここにいるのがどうしてわかった?」
「知りゃしねえよ」
「それなら、どうして来たんだ?」
彼は赤くなり、厚い唇を噛んだ。
「答えるんだ」
「通りかかったんだ」
「オメールを知っているのか?」
「おれはだれも知らねえ」
「おかみさんもか?」
女主人はふたたびカウンターのうしろにもどり、彼らをながめていたが、その顔にはいささかの怖れも懸念も、読み取ることができなかった。もしなにか隠しているなら、彼女ほど手強《てごわ》い人間はいない。メグレがこれまで会ったどんな犯罪人や証人よりも手強い。
「彼女を知っているか?」
「顔を知っているだけだ」
「酒を飲むためにここに入ったことがないのか?」
「まあね」
「三輪自転車はどこにおいてある?」
「店さ。仕事は五時で終ったんだ」
メグレはラポワントにある合図を送った。ラポワントはうなずいた。その合図は司法警察局の人たちの間で使われている数少ない暗号の一つだった。ラポワント刑事は電話室に入り、モンパルナス駅ではなく、運河の向こう側の、ほぼ正面にある警察署にかけると、ジュデルを呼び出した。
「例の若造は≪シェ・カラ≫にいます。数分後に、警視《パトロン》がやつを放しますから、だれかに尾行させてほしいのですが。なにか情報は?」
「虚報《ガセネタ》か、なんの価値もない手掛りばかり……日曜日の夜に、四、五軒のカフェで喧嘩。だれかが水に落ちたような音を聞いたといっている者。アラブ人にハンドバッグを盗まれたといい張っている娼婦など……」
「じゃあとで」
メグレはつまらなそうに若い男のわきに坐っていた。
「アントワーヌ、なにか飲むか? ぶどう酒? ビール?」
「なにもいらない」
「酒を飲まないのか?」
「サツとはね。やっぱりおれを出て行かさざるをえないんじゃないかな」
「自信があるようだな」
「法律を知っているからね」
彼は骨太で、若い百姓のような肉付のいいからだをしている。パリはまだ彼の健康を蝕んでいない。こうした若者たちが、あげくのはてに、数百フランのために、たばこ屋のおかみや小間物屋の老婦人をなぐり殺すのを、メグレは何度見たことだろうか?
「兄弟か姉妹は?」
「一人っ子です」
「お父さんは一緒に暮してないのか?」
「死んだ」
「お母さんは働いているの?」
「家政婦をやってるよ」
メグレはラポワントに、
「身分証明書を返していい。身分証明書の住所は正しいな?」
「ああ」
若い男はなにか罠《わな》があるのではないかと疑っているみたいだった。
「行っていいのかい?」
「好きなようにしろ」
彼はありがとうとも、さよならともいわなかったが、女主人にそっと目配せしたのを警視は見逃がさなかった。
「こんどは、駅に電話をたのむ」
メグレは白をもう二杯注文した。店は客が少なくなった。彼とラポワントの他には、ドミノ遊びの二人の老人を含めて、五人しかいなかった。
「あなたはあの男を知らないでしょうね?」
「だれ?」
「いま出て行った若い男」
彼女はためらわずに答えた。
「知ってるわ!」
あまりにもあっけなかったので、メグレはびっくりしてしまった。
「よく来るの?」
「かなり」
「酒を飲みに?」
「ほとんど飲まないわ」
「ビールを?」
「ときどきぶどう酒を」
「彼が来るのは仕事のあと?」
「いいえ」
「昼間?」
彼女はうなずいた。変わることのない彼女の平然たる様子にメグレはいら立ちを感じはじめた。
「通りがかったときに」
「ということは、彼が三輪自転車で河岸を通りがかったときということ、いいかえるとこの区域に御用聞きに来たときということかね?」
「ええ」
「いつも何時頃?」
「三時半か四時頃」
「いつもきまったところをまわっているの?」
「そうでしょう」
「彼はカウンターで飲むの?」
「テーブルに坐るときもあります」
「どこに?」
「そのテーブル。わたしの近くの」
「あなたたちは親しいのかね?」
「ええ」
「なぜ彼はそのことを認めなかったのかな?」
「たぶん気取ったんでしょう」
「いつも気取ってるの?」
「そうしようとしてるわ」
「あなたは彼の母親を知ってますか?」
「いいえ」
「あなたたちはおなじ村から来たのですか?」
「いいえ」
「ある日、彼が店に入ってきて、あなたたちは知り合った?」
「ええ」
「三時半頃、ご主人はいつもビリヤードをしにビヤホールに行っているのではないのですか?」
「たいていは」
「あなたのところに来るのにアントワーヌがこの時間を選ぶのが偶然だと思いますか?」
「そんなことは考えたことがありません」
メグレはこれからしようとしている質問がいかにとてつもないかわかっていた。だが、ここでは物事がまだまだとてつもないものになっていきそうな気がした。
「彼はあなたにいい寄ったのですか?」
「それはどういう意味です?」
「彼は惚れているのですか?」
「わたしのことが好きだと思います」
「彼に贈物をしますか?」
「ときどき手提金庫からお金を出して、そっとわたしてやります」
「ご主人は知っていますか?」
「いいえ」
「気づいていないのですか?」
「気がつくこともありました」
「怒りますか?」
「ええ」
「ご主人はアントワーヌを疑っていないのですか?」
「そうは思えません」
入口を二段下りてこの薄暗い店に入ると、別の世界になるのだ。すべての価値が異なっていて、言葉さえ別の意味をもつ世界。ラポワントはまだ電話室にいて、モンパルナス駅と話している。
「カラさん、もっとプライベートな質問をしてかまいませんか?」
「わたしがどういおうと、あなたはしたいことはするでしょう」
「アントワーヌはあなたの愛人ですか?」
彼女はひるまなかった。視線をメグレからそらさなかった。
「そういうことがありました」と、彼女は認めた。
「彼と肉体関係があったということですか?」
「いずれわかってしまうことでしょう。あの子がしゃべるまできっとそう時間がかからないでしょうから」
「肉体関係はたびたびあったのですか?」
「かなり」
「どこで?」
この質問は重要だった。オメール・カラが留守のとき、カラ夫人は入ってくる客の相手をしなければならなかったはずだ。メグレは天井に眼をやった。しかし、階上《うえ》の寝室にいて、ドアが開いたり閉じたりする音が聞こえるだろうか? あいかわらずそっけない態度で、彼女は店の奥の、料理場のドアを眼で示した。
「あそこで?」
「ええ」
「人に見つかったことはないのですか?」
「オメールには」
「他の人には?」
「一度、ゴム底の靴をはいたお客が、店にだれもいないので、料理場に来たのです」
「その客はなにかいいましたか?」
「笑いました」
「オメールには話しませんでしたか?」
「ええ」
「彼はまたやって来ましたか?」
そうたずねたのはメグレの直感だった。いままで、彼はカラ夫人についてまちがった判断をしていなかった。もっとも大胆な推測でさえ、的《まと》を射ていた。
「その客はその後もたびたび来たのですか?」と、メグレはしつこくたずねた。
「二、三度」
「アントワーヌがここにいるときに?」
「いいえ」
若い男がこの店にいるかどうかを知るのは簡単だった。五時前にいるときには、入口の前に三輪自転車がおいてあるはずだったからだ。
「あなたが一人のときに?」
「ええ」
「彼はあなたを料理場に行かせたのですか?」
彼女の眼がきらりと光ったような気がした。かすかなあざけりではなかったのか? メグレには彼女が無言の言葉でこういっているように思えた。
「わかっているのに、そんなこと聞いてなんになるの?」
彼女のほうも警視を理解していた。彼らは二人ともおなじ力をもっているかのようだった。もっと正確にいうと、彼らはおたがいにおなじ人生経験をもっているかのようだった。
しかしこれは瞬間のことだったので、その一瞬が過ぎさると、メグレは、自分一人で勝手にそう想像していたのではないかと思ってしまった。
「他にも男がたくさんいたのですか?」と、彼は内証話をするかのように声を低めて聞いた。
「数人」
そこで彼は身動きもせず、彼女のほうに上体を寄せもせずに、最後の質問をした。
「なぜ?」
この質問に、彼女はただかすかに肩をすくめてみせただけだった。彼女はロマンチックな態度をとるような女でもなければ、状況を小説化してみせる女でもなかった。メグレは彼女になぜとたずねてみたが、もし彼自身が理解していなかったら、彼女にはなにも語るべきことがなかったろう。
しかし、彼は理解していた。彼が求めていたのは確証にすぎなかった。彼女は確証をあたえるためにしゃべる必要はなかったのである。
いまメグレには彼女がどこまで身を落としているかがわかった。彼にまだわからないことは、彼女をここまで追い込んでしまったものがなにかということだった。過去についての質問に、彼女はおなじようにざっくばらんに答えてくれるだろうか?
メグレはすぐにその質問ができなかった。ラポワントがもどってきたからだ。ラポワントはぶどう酒を一口飲むと、口を開いた。
「平日の四時四十八分にポワティエ行きの列車があります。鉄道公安官はすでに二人の駅員に聞いてくれたのですが、こちらの人相に一致する人間は見ていないそうです。彼はこのまま調査をつづけてくれて、結果は警視庁のほうへ報告します。しかし、公安官によれば、ポワティエに電話をしたほうがたしかなようです。その列車はポワティエヘ行くまで途中数回停り、そのまま南へ行くのですが、ポワティエで降りる客はモンパルナスで乗る客よりずっと少ないのです」
「リュカにそれをやらせよう。サン・トーバンと近くの村々に電話するようにいってくれ。どこかに憲兵隊があるはずだ。それに宿屋も」
ラポワントはふたたび電話用コインを頼み、カラ夫人はものうげにそれをわたした。彼女はなにも質問しなかった。夫の旅先についてこうしてたずねられるのが当り前のことだと思っているらしかった。しかし、彼女はサン・マルタン運河でばらばら死体が見つかったことも知っていたし、いわば彼女の家と目と鼻の先で、一日じゅう探索がつづけられていたことも知っていたのである。
「先週の金曜日、アントワーヌに会いましたか?」
「金曜日は来たことがありません」
「なぜ?」
「別のところをまわっているからです」
「しかし五時以降は?」
「主人はいつも帰ってきています」
「彼は昼間も夜も来なかったのですね?」
「そうです」
「オメール・カラと結婚して二十四年になるのですか?」
「あの人と二十四年間暮しています」
「結婚していないのですか?」
「いいえ。十区の区役所で結婚しましたが、それは十六、七年前にすぎません。正確にはおぼえていませんが」
「子供はいないのですか?」
「娘が一人」
「ここで暮しているのですか?」
「いいえ」
「パリに?」
「ええ」
「いくつですか?」
「二十四歳になったばかりです。わたしの十七のときの子供です」
「オメールの娘ですね?」
「ええ」
「まちがいありませんか?」
「まちがいありません」
「その娘は結婚していますか?」
「いいえ」
「一人で暮しているのですか?」
「サン・ルイ島で下宿してます」
「働いているのですか?」
「パリの市立病院でラヴォ教授という外科医の助手をしています」
初めて、彼女は必要以上のことを口にしたのである。これでも彼女に人並みの感情があったのか? 彼女は娘のことが自慢なのか?
「先週の金曜日、娘さんに会いましたか?」
「いいえ」
「ここに来ることはないのですか?」
「ときどき来ます」
「最後に来たのはいつですか?」
「三週間前かしら、いや一カ月前だわね」
「ご主人はここにいましたか?」
「いたと思います」
「娘さんとご主人とはうまくいっているのですか?」
「娘はわたしたちとはできるだけ関係をもたないようにしています」
「あなたたちのことが恥かしいから?」
「そうでしょう」
「ここを出て行ったのはいくつのときですか?」
いまでは彼女の頬はいくらか赤くなっていた。
「十五歳」
その声はそっけなかった。
「予告なしに?」
彼女はうなずいた。
「男と?」
彼女は肩をすくめた。
「わかりません。どうでもいいことですわ」
店にはもうドミノの老人たちしかいなかった。彼らはドミノを箱にしまうと、貨幣でテーブルを叩いた。カラ夫人はうなずくと、グラスに酒を注ぎに行った。
「あれはメグレ?」と、彼らの一人が小声で聞いた。
「そうよ」
「なにをしに来たのかね?」
「わたしにはいわなかったわ」
彼女もたずねなかった。彼女は料理場に行き、ふたたびカウンターにもどってくると、ささやいた。
「話が終ったのでしたら、食事にしたいんですけど」
「どこで食事を取るのです?」
「あそこ!」と彼女は店の奥のテーブルを指さした。
「もうすぐです。ご主人は数年前、虫垂炎を起こしましたか?」
「五、六年前に。手術をしました」
「その手術をしたのは?」
「思い出しますから、ちょっと待ってください。グラン……グランヴァレ医師《せんせい》。そうです! 医師《せんせい》はヴォルテール大通りに住んでいました」
「もうそこにいないのですか?」
「死にました。医師《せんせい》に手術してもらったお客さんが、医師《せんせい》のことをわたしたちに教えてくれたのです」
グランヴァレが生きていれば、オメール・カラが腹に虹型の傷痕があったかどうか知ることができただろう。明日、彼の助手か看護婦をさがしてみよう。もちろんオメールがポワティエ付近の村で生きて見つからなかった場合の話であるが。
「ご主人はかつて、もうずっと前のことですが、霰弾銃で撃たれたことがありますか?」
「わたしと知り合ってからはありません」
「ご主人は猟師ではありませんでしたか?」
「田舎で暮していたときは狩猟をしていたことがあったかもしれません」
「ご主人のお腹に、虹型をしたかすかな傷痕があったのに気がつきませんでしたか?」
彼女は考えるように眉をひそめたが、やがて頭をふった。
「たしかですか?」
「もう長い間わたしはそんなに近くからあの人を見ていません」
「ご主人を愛してますか?」
「わかりません」
「ご主人だけを愛していた時期は、どれくらいですか?」
「数年」
この言葉には特別な響きがあった。「かなり若い頃に知り合ったのですか?」
「わたしたちはおなじ村の生まれなのです」
「どこです?」
「モンタルジとジアンのほぼ中ほどにある小さな村。ボワサンクールといいます」
「ときどきその村に帰りますか?」
「一度も」
「一度も帰ったことがないのですか?」
「ええ」
「いつあなたとオメールは一緒に村を出ましたか?」
「わたしが十七のとき村を出ました」
「妊娠していましたか?」
「六カ月でした」
「村の人たちはそのことを知っていましたか?」
「ええ」
「あなたの両親も?」
なにか幻覚を起こさせるような、あいかわらずの無造作さで、彼女はそっけなくいった。
「ええ」
「両親にも会っていないのですか?」
「ええ」
ラポワントはリュカに命令を伝え終わると、額の汗を拭きながら電話室から出てきた。
「いくらです?」と、メグレはたずねた。
彼女は初めて質問をした。
「帰るのですか?」
こんど無造作に答えたのはメグレのほうだった。
「そう」
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第四章 屋根の上の若い男
メグレはポケットからパイプを出すのをためらっていた。そういうことはめったにあることではなかった。そして、パイプをとり出したときには、話に夢中になっている間に知らぬまに手がふれてしまった人間のような、無邪気な様子をしていた。
局長のオフィスで手短かに報告をすませたあと……局長とは開いた窓の前でしゃべった……、彼はすぐに小さなドアを通って司法警察局から検事局に来たのだった。予審判事のオフィスが並ぶ廊下のベンチはほとんどふさがっていた。二台の囚人護送車が中庭に着いたばかりの時刻だったのである。手錠をかけられ、二人の監視人にはさまれて待っている囚人たちの多くをメグレは知っていた。そのうちの二、三人がメグレが通りかかると、恨みがましいところなど見せずに挨拶した。
前日、コメリオ判事は二、三度メグレのオフィスに電話してきた。コメリオ判事は痩せて、神経質だった。染めたにちがいない褐色の小さな口ひげをつけ、風貌がどこか騎兵隊の士官のようだった。開口一番、彼はメグレにこういった。
「どこまで捜査が進んでいるのか正確に知りたい」
従順にメグレは判事の要請を受けいれて、サン・マルタン運河の底からヴィクトールが相次いで見つけたばらばら死体のこと、だが首はまだ見つかっていないことを話した。しかし、ここまで来たとき早くも、コメリオ判事は口をはさんだ。
「潜水夫は今日も探索をつづけているんだろうね?」
「その必要があるとは思えません」
「しかし、運河から胴体と手足が見つかったのなら、首も遠くないところにあるんじゃないかな」
これが彼との仕事を困難にするのである。彼は事件に口出しする判事だというだけではなく、もっとも挑戦的なのである。ある意味では、彼はばかではない。昔彼と一緒に法律を学んだある弁護士は、コメリオが同世代のもっとも輝かしい学生の一人だったと断言している。
しかし彼の知識は現実に適用できないところがあると見なさなければならない。彼はある限定された社会に……厳格な主義とさらにそれ以上に神聖なタブーで凝り固まった上流階級の人間だった。これらの主義とタブーとで彼はすべてを判断してしまうのである。
辛抱強く、メグレは説明した。
「まず、判事さん、ヴィクトールはあなたがあなたのオフィスを知っているように、私が私のオフィスを知っているように、運河をよく知っています。彼は底を一メートルずつ、二百回以上もさがしまわったのです。彼は良心的な男です。彼が、首はあそこにないといえば……」
「私のところの水道工事屋も自分の仕事をよく知っているし、良心的で通っている男だ。しかし私が呼びよせるたびに彼はいつでもまず、水道管にどこか不備があるとは思えない、と断言せずにはいられないんだ」
「ばらばら死体の事件で、胴体の近くに首があることはまれなのです」
コメリオは理解しようとし、その鋭い小さな眼でメグレを見つめた。警視はしゃべりつづけた。
「それはわかっていただけますね。ばらばらの胴体や手足の身許をたしかめることは困難ですが……とくに、それらがある時間水のなかに沈んでいたときには……、首は簡単に身許がわかります。それに、胴体よりかさばらないので、捨てようとする者はどこか遠くにもっていくのが当然なのです」
「そうかもしれんな」
メグレはそのときそしらぬふりをして、たばこ入れを出して左手にもち、判事の注意がそれる瞬間を待って、パイプに詰めた。
彼はカラ夫人について話し、ヴァルミィ河岸の居酒屋の情景描写をしてみせた。
「だれが彼女の店に案内したのかね?」
「正直いって、偶然です。私は電話をしなければならなかったのです。もう一軒のバーには電話室はなく、客に聞こえてしまうところに電話機があるのです」
「それで?」
メグレはカラの旅行のこと、ポワティエへの列車のこと、三輪自転車の若い男アントワーヌ・クリスタンと女主人との関係のこと、さらには三日月型の傷痕のことなどを漏らさずに話した。
「その女が夫に傷痕があったかどうかわからないと主張しているというが、本当だと思うかね?」
それは判事には理解できないことだったので、彼は憤慨した。
「率直にいって、メグレ、私にわからないのは、きみがあの女と若者を連行し、いつもうまくいっているあの尋問を行わなかったことだ。きみは女が語ったことを一言も信じていないと思うが?」
「かならずしもそうではありません」
「夫がどこに行ったかも、いつ帰ってくるかも知らないといい張っているというのに……」
リュクサンブール公園を見下ろす左岸のアパルトマンに生まれ、いまだにそこに住んでいるコメリオに、カラ夫婦の精神状態がどうして想像できるだろうか?
やはり一戦は交えられた。メグレはマッチをぱっとつけると、パイプに火をつけたのである。たばこ恐怖症のコメリオはパイプをじっとにらんだ。彼のオフィスで無作法にもたばこを喫う人間には、いつでもそうしたのである。しかし、メグレはそしらぬふりをきめこむことにした。
「彼女が私にいったことはすべて嘘であるかもしれません」と、メグレは認めた。「また本当のことであるかもしれません。首無しのばらばら死体が運河から拾い上げられ、四十五から五十五歳の男のものであることがわかりました。いままでのところ、その男の身許はわかりません。この年齢の男が最近何人行方不明になり、何人はっきりと行先を告げずに旅行に出かけたでしょうか? 私はカラ夫人をオフィスに出頭させ、容疑者扱いをすべきでしょうか? 彼女がいつもこっそりと酒を飲んでいるという理由で。警察が近づいたとき逃げた三輪自転車の若い男が彼女の愛人だったという理由で。明日かいますぐにでも、カラの首ではない首がどこかで見つかったら、私たちはどんなに間抜けに見えるでしょう」
「彼女の家を見張らせているね?」
「十区のジュデルが河岸に見張りを一人立てています。昨夜、食事のあとで、私もあの辺を一まわりしてきました」
「新たになにか見つかったかね?」
「はっきりしたものはなにも。私は通りで出会った二、三人の娼婦に質問してみました。あの区域の雰囲気は昼間と夜とでまるで違うのですね。私はとくに、金曜日の夜、あの居酒屋《ビストロ》のまわりを怪しい人間が行き来していなかったか、なにか物音を聞かなかったかどうかを知りたかったのです」
「なにも?」
「たいしたことは。しかし娼婦の一人がある手掛りをあたえてくれました、私はまだそれをたしかめてはおりませんが。その娼婦によれば、カラ夫人はもう一人別の愛人をもっています。赤毛の中年男で、あの区域に住んでいるか、それともあの区域で働いているらしいのです。そのことを話してくれた娼婦はじつのところカラ夫人に恨み骨髄《こつずい》なのです。あの小さな居酒屋《ビストロ》の女主人が娼婦たちの顔に泥を塗ったというのがその恨みの理由らしいですね。
≪あの女が金を払わせるなら≫と、その娼婦がいうのです。≪なにもいうことはないわ。でも、あいつは無料《ただ》でやらせているんだよ。だから金のない男どもはどこに行けばいいのかちゃんと知ってやがる。亭主が背を向けるのを待てばいいのさ。そりゃ、あたしゃあそこにたしかめに行ったわけではないけど、だれも拒まないんだってさ」
コメリオはこのみだらな話を聞いて、痛ましそうにため息をついた。
「きみの好きなようにやりたまえ、メグレ。私にもすべてがかなりはっきりしてきた。細かく気を配る必要のない人たちなんだな」
「私はあとでまたカラ夫人に会うつもりです。彼女の娘にも。それから、五年前カラの手術に立ち会った看護婦から死体の身許について情報を得られればと思ってます」
このことで、奇妙な事実がわかった。昨夜、あの区域を歩きまわっているときメグレは居酒屋《ビストロ》にちょっと入ったのである。カラ夫人は椅子に坐ってうとうとしていた。テーブルでは四人の男がトランプをやっていた。メグレは彼女に、ご主人はどこの病院で虫垂炎の手術をしたのか聞いた。
カラはメグレの知るかぎり、どちらかといえば頑丈なほうで、柔弱でからだのことばかり気にし、死の恐怖にびくびくしているような男ではない。彼は複雑でも危険でもない、ごく簡単な手術をうけるだけだった。
それなのに、彼は近くの病院に行かず、かなり莫大な費用を払って、パリ郊外のヴィルジュイフの町にある私立病院で手術をしてもらったのである。そこはたんなる私立病院ではなく、修道女が看護婦として働いているところだった。ラポワントはいまその私立病院にいるにちがいない。まもなく電話で報告してくるだろう。
「弱気になってはいかん、メグレ!」と、コメリオはメグレがドアに手をかけたときにいった。
なにも弱気になっているわけでも、情けを感じているわけでもない。だが、コメリオに説明することは不可能だった。いまメグレは日常の世界とはひどくかけ離れた世界に入り込んでしまったので、手探りで進むこともできないほどだったのである。
ヴァルミィ河岸の小さな居酒屋《ビストロ》とその夫婦は、サン・マルタン運河に投げ捨てられたばらばら死体となにか関係があるのか? あるかもしれない。しかし、それはまたたんなる偶然の一致かもしれないのだ。
メグレは自分のオフィスにもどった。怒ったような、むっつりした様子をしていた。捜査のある段階ではほとんどいつもこうなるのだ。前日、彼はいろいろな発見をし、それらが彼をどこに導いてくれるのか考えずにしまい込んでおいた。いま、彼はそれらの事実の断片と向かい合っている。だが、これらの断片をどういうふうにつなぎ合わせたらいいのかわからない。カラ夫人は、彼のこれまでの生涯で二、三人しか出会ったことのないような変わった人物であるというばかりでなく、彼にとっては人間の問題にかかわっている。
コメリオにとっては、彼女はだれとでも寝る淫らな酔っぱらい女だった。
しかしメグレには、まだはっきりとはわからなかったが、そのようには見えなかった。彼女のことを知らないかぎり、彼が真実を≪感じない≫かぎり、漠然とした不安に悩まされつづけるだろう。
リュカがオフィスに入ってきて、デスクの上に郵便物をおいた。
「なにも情報はないのか?」
「あなたはこの建物のなかにいたのですか、警視《パトロン》?」
「コメリオのところだ」
「わかっていたら、電話をそちらにまわしたのですが。ええ、情報があるのです。ジュデルが困りはてています」
メグレの頭にカラ夫人のことがうかび、彼女になにか起こったのかと思った。だが、彼女のことではなかった。
「若い男のことです、アントワーヌという名前だったと思いますが」
「そう、アントワーヌだ。彼がまた消えたのか?」
「そうです。昨夜、あなたはだれか刑事を彼の尾行につけるようにいったらしいですね。若い男はルイ・ブラン街の角に近い、フォーブール・サン・マルタンの自宅にまっすぐ帰りました。ジュデルに尾行を命じられた刑事は門番の女に質問しました。若い男はその建物の八階に、家政婦をしている母親と住んでいます。屋根裏部屋の二部屋が彼らの住まいで、エレベーターはありません。もちろん、これらはすべてジュデルから私が聞いたことです。そのアパートは恐ろしく汚ない大きな建物で、五、六十世帯がすし詰めになっていて、階段は子供たちで一杯だそうです」
「それで?」
「それがほとんどすべてです。門番の女によれば、若い男の母親は評判のいい、けなげな女だそうで、夫はサナトリウムで死にました。彼女自身も結核でした。彼女はもう治ったといってますが、門番の女はそのことを疑っています。刑事に話をもどしますと、彼はジュデルに電話して、指示を求めたのです。ジュデルは危険を冒したくなかったので、アパートを見張るように命じました。その刑事は真夜中まで外に立っていて、最後のアパートの住人が帰ってくると、一緒になかに入り、階段で夜をすごしました。
今朝、八時ちょっと前に、門番の女は受付の前を通って行く痩せた女を指さし、アントワーヌの母親だと教えました。刑事には母親を尋問したり尾行する理由はありません。三十分後に、暇つぶしに、彼は八階まで上がってみようという気を起こしました。母親に次いで若い男が仕事に行くために出て来ないのが、彼にはおかしいように思われたのです。ドアに耳をつけてみましたが、なんの物音も聞こえないので、ノックしてみました。けっきょく、鍵がごく簡単なつくりのものであるのに気がついて、合鍵を使いました。
最初の部屋は台所で、そこにベッドもおいてありました。母親のベッドです。隣りの部屋にもう一つ乱れたベッドがありましたが、だれもいませんでした。天窓が開いていました。
ジュデルはそんなことを予想もしていなかったし、したがってそんな命令をあたえもしなかったので、自分に腹を立てています。夜のあいだに、あの若造が天窓から出て、屋根伝いに他の開いた天窓をさがしたことはたしかです。おそらくルイ・ブラン街のアパートから外に出たのではないでしょうか」
「彼が、もう建物のなかにいないことはたしかなのか?」
「いまアパートの住人たちに聞いているところです」
メグレにはこの情報を知ったときのコメリオ判事の皮肉な微笑を想像することができた。
「ラポワントから私に電話がかかってこないか?」
「まだです」
「法医学研究所には、死体の身許確認に来たものはだれもいないのか?」
「常連以外は」
身許のわからない死体が見つかるたびに、いつも身許確認に駆けつけてくる人間が一ダースばかりいた。とくに中年の女が多かった。
「ポール医師から電話は?」
「いま彼の報告書をデスクにおきました」
「ラポワントから電話があったら、警視庁にもどってきて、私を待つようにいってくれ。私は遠くには行かない」
メグレはサン・ルイ島のほうへ歩いて行き、ノートル・ダムのわきを通り、鉄の歩道橋をわたると、ほどなく狭くて、人の多いサン・ルイ・アン・リル街に出た。主婦が買物に出る時刻だったので、女たちや小さな手押車のあいだを縫って進むのは容易ではなかった。メグレはお目当ての食料品屋を見つけた。カラ夫人によれば、この店の階上《うえ》にリュセットという彼女の娘が住んでいるのである。彼は店のわきの小道を通り、玉石の敷かれた庭に出た。科木《しなのき》が、田舎の学校の庭か、司祭館の庭のような感じをあたえていた。
「だれかおさがしですか?」と、一階の窓から女の声がした。
「カラさんです」
「四階の左側です。でもいまはおりませんよ」
「いつ帰ってくるかわかりませんか?」
「昼食にもどってくることはめったにありませんね。六時半頃にしかもどってまいりません。お急ぎでしたら、病院に会いに行ったらいかがでしょうか」
リュセット・カラが働いている市立病院は遠くはなかった。それでもやはりラヴォ教授の部屋を見つけるのは大変だった。というのは、一日のうちでいちばん忙しい時間で、白衣を着た男女、ワゴンを押す看護士、おぼつかない足取りの病人たちが廊下を絶えず行ったり来たりし、どこヘ通じているのかわからないドアから出ていっていたからだ。
「カラさんはどこですか?」
彼らはメグレを見ようともしなかった。
「知りません。患者ですか?」
あるいは廊下の奥を指さして、
「あそこから……」
こうして彼は三、四度違った方向に行かされ、最後にやっと、とつぜん静かな廊下にたどりついた。港にたどりついたようなものだった。小さなテーブルの前に若い娘が坐っていた。
「カラさんは?」
「個人的なご用事ですか? ここまでどうやっていらっしゃったのです?」
メグレは外部の人間が近づいてはならない場所に踏み込んでしまったにちがいない。彼は名を名乗り、バッジさえ見せた。それほどここでは彼の威光も弱かったのである。
「彼女が手が空いているかどうか見てまいります。手術室に入っているのではないかと思うのですが」
彼は十分間ほど待たされたが、たばこを喫う気にもなれなかった。若い娘はかなり背の高い、静かな、落ち着いた顔をした看護婦を連れてもどってきた。
「わたしに話があるというのはあなたですか?」
「司法警察局のメグレ警視です」
病院の明るい、清潔な雰囲気、白い制服、看護婦の帽子のために、ヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》とのコントラストはさらにいっそう目立った。
リュセット・カラは狼狽《ろうばい》するというより、驚いて彼を見つめた。なにがなんだかわからないようだった。
「あなたが会いに来たのはわたしにですか?」
「あなたのご両親はヴァルミィ河岸に住んでいますね?」
あっという間だったが、たしかに警視は彼女の眼がきびしく光ったのを見た。
「そうですが、でもわたしは……」
「私はただ二、三あなたに質問したいだけです」
「教授《せんせい》はまもなくわたしが必要になります。病人を回診する時間ですので……」
「数分でけっこうです」
彼女はあきらめ、まわりを見まわし、半ば開いたドアを見つめた。
「あそこに入りましょう」
椅子が二つ、調節できるベッド、メグレが見たこともない外科用のと思われる器械があった。
「もう長い間ご両親に会いに行っていませんか?」
両親という言葉に、彼女は身ぶるいした。彼にはわかるような気がした。
「できるだけ会いに行かないようにしています」
「なぜ?」
「あなたはあの人たちに会ったのでしょう?」
「お母さんにお会いしました」
それだけでもう十分であるかのように、彼女はなに一つ説明をつけ加えなかった。
「ご両親を恨んでいるのですか?」
「わたしを生んだということ以外、ほとんど恨んでおりません」
「先週の金曜日、あそこに行きましたか?」
「わたしはパリにさえいませんでした。わたしの休みの日でしたので、友達と田舎に行っていました」
「それではお父さんが旅行中なのを知らないのですか?」
「どうして質問の理由をおっしゃらないんです? あなたはここに、戸籍上はわたしの両親である人たちのことを話しに来られたのでしょうが、あの人たちはもうずっと前からわたしには他人なのです。どうしてなのです? あの人たちになにかあったのですか?」
彼女はたばこに火をつけ、ふと思いついていった。
「ここではたばこを喫ってもかまわないのですわ。少なくともこの時間には」
しかし、メグレはそういわれても、パイプを出そうとはしなかった。
「ご両親のどちらかになにかがあったと知れば、あなたもおどろくでしょうか?」
彼女はじっとメグレを見つめ、ふとつぶやいた。
「いいえ」
「あったとすれば、たとえばどんなことがあったと思います?」
「カラが母を殴って、ひどい怪我をさせたのかしら」
彼女は≪わたしの父≫といわず、≪カラ≫といった。
「お父さんはよくお母さんを殴ったのですか?」
「いまはもうわかりませんが、昔はほとんど毎日のようでした」
「お母さんは文句をいわなかったのですか?」
「母は下を向いて殴られていました。そうされるのが好きだったのじゃないかしら」
「他にはどんなことがあると思います?」
「母がカラのスープに毒を入れる決心をしたとか」
「お母さんはお父さんを憎んでいるのですか?」
「わたしにわかることは、二十四年間母があの人と暮してきたこと、一度もあの人からのがれようとしなかったこと」
「お母さんが不幸だと思いますか?」
「警視さん、わたしはそのことを全然考えないようにしてきました。子供の頃のわたしの夢はただ一つ……家から出て行くこと。だから、そうできるようになると、わたしはすぐに家を出ました」
「十五歳のときでしたね」
「だれがそういったのです?」
「お母さん」
「それではあの人は母を殺さなかったのね」
彼女は考え込んでいるようだったが、ふたたび頭を上げた。
「あの人なの?」
「なんのことです?」
「母があの人を毒殺したのですか?」
「そんなことはありえません。お父さんに不幸が起こったことさえはっきりしないのです。お母さんによると、お父さんはポワティエの近くに金曜日の午後出かけています。いつものように白ぶどう酒を買いに行ったらしいのです」
「そうですわ。その旅行はすでにわたしのいた頃からのものです」
「ところで、サン・マルタン運河からお父さんのものらしい死体が見つかったのです」
「まだ身許がたしかめられないのですか?」
「いままでのところは、そうです。この身許確認は首が見つかっていないだけに、困難なのです」
病院で働いているためか、彼女はぎくりとさえしなかった。
「あの人になにが起こったのでしょうか?」
「わかりません。それで調べているのです。お母さんの生活には数人の男が関係しているようですが。こんな話をして申しわけありません」
「わたしにそれが初耳だと思っていらっしゃるの!」
「お父さんは若い頃か子供の頃に、お腹に霰弾銃の弾丸《たま》を受けましたか?」
彼女はおどろいたようだった。
「そんな話、聞いたことがありません」
「もちろん、傷痕も見たことがありませんね?」
「お腹の上ですもの……」と、かすかに微笑んでいった。
「最後にヴァルミィ河岸に行ったのはいつです?」
「ちょっと待ってください! 一カ月前ぐらいになるはずです」
「ご両親に会いに行ったのですか?」
「正確にはそうじゃないわ」
「カラはいましたか?」
「あの人がいないときを見計って行ったのです」
「午後に?」
「そう。あの人はいつも東駅のわきでビリヤードをやっていますから」
「お母さんと一緒に男がいませんでしたか?」
「あの日はいませんでした」
「お母さんを訪ねたのは、はっきりした目的があったのですか?」
「いいえ」
「なんの話をしたのです?」
「いろいろなことです」
「カラの話は?」
「しなかったと思います」
「ひょっとして、あなたはお母さんのところへお金をもらいに行ったのではありませんか?」
「あなたはまちがっています、警視さん。是非は別にして、わたしはもっとプライドの高い女です。わたしにはお金のない時期もありましたし、ひもじい時期さえありました。でも、助けを求めに一度もあそこには行きませんでした。まして自分の生活費をかせいでいるいまになって」
「ヴァルミィ河岸を最後に訪れたときしゃべったことをなに一つおぼえていませんか?」
「はっきりとはなに一つ」
「あなたがときどきあの店で会った男のなかに、三輪自転車に乗った血色のいい若い男はいませんでしたか?」
彼女は頭をふった。
「赤毛の中年の男は?」
こんどは、彼女は考え込んだ。
「顔にあばたのある人かしら?」と彼女はたずねた。
「私は知らないのです」
「もしあばたがあれば、デュードネさんですわ」
「デュードネとはどんな人です?」
「それ以上のことはほとんど知らないのです。母のお友達。数年前はあの店のお客さんでした」
「午後のお客?」
彼女にはその意味がわかった。
「いずれにしても、わたしがあの人を見かけるときはいつも午後でした。でもあなたが考えているようなことはなかったのではないかしら? わたしにはなんともいえませんが。わたしはあの人には、夜スリッパをはいて火のそばに坐っているような、そんな静かな男という印象をうけました。それに、わたしがその人を見かけたときは、ほとんどいつもストーブの前に坐って母と向かい合っていました。あの人と母はずっと前から知り合いで、もうおたがいに気に入ろうなどと努めないような様子をしていました。わたしのいっていることわかります? あの二人は年寄りの夫婦と見なすこともできたでしょう」
「彼の住所は全然わからないのですか?」
「あたしはあの人が立ち上がりながらこういうのを聞いたことがあります。あの息の詰ったような声はいまでもおぼえています。
≪もう仕事にもどる時間だ≫
あの辺で働いていたのだと思いますが、なにをやっていたのかは知りません。肉体労働者のような服装ではありませんでした。簿記かなんかをつけているんじゃないかと思います」
廊下でベルが鳴った。若い娘ははじかれたように立ち上がった。
「わたしを呼んでいるのです。これで失礼いたします」
「サン・ルイ・アン・リル街にふたたびおうかがいするかも知れません」
「あそこには夜しかいません。でもあまり遅く来ないでください。早く寝るものですから」
メグレは彼女が廊下を歩いていくのを見ていた。彼女はいま耳にしたことに当惑しているかのように、頭をふっていた。
「あの、失礼ですが、出口はどちらですか?」
メグレが迷ってしまった様子なので、机に向かっていた娘は微笑み、階段のところまで廊下を案内してくれた。
「ここまでくれば、もう大丈夫です。階段を下りたら、左にまがり、つづいてもう一度左にまがります」
「ありがとう」
メグレはその娘《こ》に、リュセット・カラについてどう考えるか思い切ってたずねることができなかった。彼自身、彼女のことをどう考えていいのかほとんどわからなかった。
彼は裁判所の正面のカフェで、白ぶどう酒をちょっと一杯ひっかけた。そのあと警視庁にもどると、ラポワントが待っていた。
「それで、尼さんたちは?」
「みんな親切でした。私はいやな思いをさせられるのではないかと怖れていましたが、とても優遇されました……」
「傷痕は?」
ラポワントもあまりよろこばしい結果が得られなかったのだ。
「まず、手術を行った医者ですが、カラ夫人がいったように、三年前に死んでいます。書類を管理している修道女がファイルを見つけてくれましたが、そこには傷痕のことは書いてありません。当然のことでしょうね。しかし、勘定書から私はカラが胃潰瘍《いかいよう》であることを知ったのです」
「胃潰瘍の手術だったのか?」
「ちがいます。手術の前に精密検査をして、その結果わかったらしいのです」
「はっきりした症状はなかったのか?」
「そうしたものはなかったのです。親切に、ファイルを見せてくれた修道女は、手術に立ち会った修道女たちにたずねに行ってくれました。彼女たちはだれもカラのことをはっきりとおぼえていませんでした。そのうちの一人が、彼が麻酔をかけられる前に、お祈りをさせてもらいたいといったことを思い出したらしいのです」
「彼はカトリックだったのか?」
「いいえ。彼は怖れていたのです。そのことを修道女たちは忘れていません。傷痕には気づいておりません」
メグレたちははっきりと身許確認できない首なし死体を抱えて、あいかわらずおなじ地点にとどまっている。
「つぎになにをしましょうか?」と、ラポワントはささやいた。メグレの不満を自分のせいだと考えて、彼は小声でいったほうがいいと思ったのである。
コメリオ判事の言い分が正しかったのだろうか? サン・マルタン運河の死体がオメール・カラであるなら、彼の妻をきびしく尋問すれば貴重な情報を得られるかもしれないのだ。三輪自転車の若者アントワーヌを捕えて、彼女とつき合わせても、なんらかの結果が手に入るだろう。
「行こう」
「自動車で?」
「そうだ」
「どこに行くのです?」
「運河へ」
出がけに、彼は十区の刑事たちにデュードネという名の、あばたのある赤毛の男をその付近でさがすように命じた。
車はバスとトラックの間を縫って進み、リシャール・ルノワール通りのメグレのアパルトマンから遠くないところに来ると、とつぜん警視がつぶやいた。
「東駅にやってくれ」
ラポワントは訳がわからないといった様子でメグレをながめた。
「なんにもならないかもしれないが、ちょっとたしかめてみたいのだ。カラは金曜日の午後スーツケースをもって出かけている。土曜日に帰ってきたと想像してみよう。殺されてばらばらにされたのが彼だったら、このスーツケースはどこかに片づけてしまわなければならない。ヴァルミィ河岸のあの店にスーツケースがないことも、彼が旅行に着ていったと思われる衣服も見つからないだろうことも、私は確信している」
ラポワントはメグレの推理を追いながらうなずいた。
「運河にもスーツケースはなかったし、衣服もなかった。ばらばらにされる前に、死体が裸にされたというのに」
「首も見つかっていません!」と、ラポワントはさけんだ。
メグレの推理は別に独創的でもなんでもなかった。慣例に従ったにすぎなかったのである。殺人者は十中六人まで、身を危くする物を片づけようとする場合、駅の手荷物預所に預ける。
ところで、東駅はヴァルミィ河岸のすぐ近くだ。ラポワントはやっと車を駐車する場所を見つけると、目立たないように手荷物預所ヘメグレについて行った。
「あなたは金曜日の午後、ここにいましたか?」と、メグレは手荷物預所の従業員にたずねた。
「六時まではいましたよ」
「預けられた荷物は多かったですか?」
「他の日とそう変わりがありませんね」
「金曜日預けられた荷物で、まだ受け取りに来ないものがありますか?」
その従業員はスーツケースや小荷物が並んでいる棚のほうをふり返った。
「二つあります!」
「二つともおなじ人のですか?」
「ちがいます。番号がつづいていませんから。それに布でおおった籠《かご》は太った女が預けたものです。その女はチーズくさかったので、よくおぼえているんですよ」
「あのなかにチーズが入っているの?」
「私にはわかりません。たぶんそうじゃないでしょう。もう匂いませんから。匂ったのは女のほうだったのでしょう」
「二つ目の荷物は?」
「褐色のスーツケースです」
彼は使い古した安物のスーツケースを指さした。
「名前も住所もついていないのですか?」
「ええ」
「どんな人がそれを預けに来たか、おぼえていますか?」
「勘ちがいしてるかもしれませんが、田舎の若者だったように思います」
「なぜ田舎の若者なのです?」
「そんな様子をしてました」
「血色がよかったから?」
「そうかもしれません」
「どんな服装をしていましたか?」
「革のジャンパーに帽子をかぶっていましたよ」
メグレとラポワントは顔を見合わせた。二人ともアントワーヌ・クリスタンのことを考えたのである。
「何時でした?」
「五時頃。そう五時ちょっと過ぎでした。ストラスブールからの急行が駅に入ってきたところでしたから」
「だれかそのスーツケースを取りに来たら、ジェマープ河岸の警察署にすぐに電話してくれますね?」
「もしそいつがこわがって、逃げたら?」
「いずれにしても、私たちは数分でここに来ます」
スーツケースを確認するにはただ一つの方法しかなかった。それはカラ夫人を連れて来て、このスーツケースを見せることだった。彼女はメグレたちが店に入ってくるのを冷やかに見つめ、注文を聞くためカウンターに行った。
「こんどはなにも飲みません」と、メグレはいった。「ここから遠くないところにある品物を確認してもらいに、一緒に行ってもらいたいのです。この刑事が同行します」
「店を閉めなければなりませんか?」
「それにはおよびません。数分でもどって来られますから。私が残っています」
彼女は帽子をかぶらず、ただスリッパを靴に履きかえただけだった。
「あなたがお客さんの相手をしてくれますの?」
「そんなことにはたぶんならないでしょう」
ラポワントがハンドルを握り、そのわきにカラ夫人が坐って車が遠ざかると、メグレは口許に奇妙な微笑をうかべて、しばらく入口にたたずんでいた。まるで経営者のように、小さな居酒屋《ビストロ》のなかに一人きりでいるのは生まれて初めてだった。そう考えるとたのしくなって、彼はカウンターのうしろにそっと入り込んだ。
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第五章 インク壜
陽ざしが昨日の朝とおなじ場所にいろいろな模様をつくっている。錫《すず》のカウンターの円くなった角には、動物の形をした模様ができ、泡立つビールのグラスを差し出している赤いドレスの女のポスターの上にも別の模様ができている。
メグレは前日すでに感じていたことであるが、この小さな居酒屋《ビストロ》はパリの多くのカフェやバーのように、週の大半はすいているが市の日になると急に一杯になる田舎の宿屋の雰囲気にどこか似ていた。
自分で酒を出してみたい誘惑にかられたけれども、彼はそんな子供じみた気まぐれに顔を赤らめた。ポケットに両手を突っこみ、パイプを歯でくわえると、奥のドアのほうに向かった。
カラ夫人がちょくちょく姿を消したこのドアのうしろになにがあるのか、彼はまだ見ていなかった。予期したとおり、料理場だった。いくらか乱雑だったが、思っていたより汚れてはいない。ドアのすぐ左手の、褐色に塗られた木の食器戸棚に、口の開いたコニャックの壜があった。ということは、女主人が毎日毎日飲んでいたのはぶどう酒ではなく、アルコールだったのである。わきにグラスがないところを見ると、いつも壜からじかに飲んでいたにちがいない。
窓とガラス張りのドアは庭に面している。ドアには鍵がかかっていない。彼は開けてみた。空の樽が片隅に並び、壜を包んであった藁苞《わらづと》が積み上げられ、穴のあいたバケツや錆びた鉄のたががあった。彼はパリから遠く離れたところにいるような気がした。その錯覚が強烈だったので、堆肥《たいひ》の山や鶏を見たとしてもおどろかなかっただろう。
庭は窓のない壁にかこまれた袋小路に面しているが、この小路はどこかの横町に通じているにちがいない。
何気なく、彼は居酒屋《ビストロ》の二階の窓のほうへ眼を上げた。窓ガラスはずっと前から洗ってなく、色あせたカーテンが掛っている。窓ガラスのうしろでなにかが動いたような気がしたが、彼の思い違いだろうか? 猫ではない。猫はストーブのそばで寝ていた。
メグレはゆっくりと料理場にもどると、二階に通じる螺旋《らせん》階段を上がった。階段がぎしぎしいった。かすかなかびの匂いが、彼が泊ったことのある小さな村の宿屋を思い出させた。
二つのドアが踊り場に面している。その一つを開けてみた。カラの寝室に違いない。カラの寝室は河岸に面していた。くるみの木のダブル・ベッドは今朝はまだ元通りに直されていなかったが、シーツはかなりきれいだった。家具はこうした住居に似つかわしいものだった。父から息子へ引きつがれた、古い、ずんぐりした家具で、時代を経ているためてかてか光っている。
洋服箪笥のなかには、男の衣服がぶら下がっている。窓と窓の間には、ざくろ色の絹を張った肱掛椅子があり、その横に旧式のラジオ。その他、部屋の真中の円テーブルには、なんともいいようのない色の布がかけられていて、その両側にマホガニーの椅子がおかれている。
メグレはこの寝室に足を踏み入れたとたん、なにが彼の心を打ったのかと考え、二、三度寝室を見まわし、最後に視線をふたたびテーブルのカバーの上にもどした。まだ新しいインク壜、ペン軸、それに、カフェなどで客の好きなように使わせる広告用の吸取紙帖がおかれている。
彼はその吸取紙帖を開けてみた。なにか見つかるとは思っていなかったが、果たしてそのとおりで、なかには白い紙が三枚あるだけだった。ちょうどそのとき、彼はぎしっという音を聞いたように思い、耳をすませた。その音は寝室に通じる化粧室からではなかった。踊り場にもどると、二つ目のドアを開けた。さきほどの寝室とおなじ大きさの部屋があった。部屋は物置か、がらくた置場につかわれていて、こわれた家具、古雑誌、ガラス製品、風変わりな品物で一杯だった。
「だれだ?」と、メグレはこの部屋に人がいることを確信して、大声でいった。
彼はしばらくじっとしていたが、やがて音を立てずに、押入れに腕を伸すと、いきなり戸を開けた。
「こんどはばかな真似をするな」と、彼はいった。
追いつめられた動物のように、アントワーヌが戸棚の奥にうずくまっていた。メグレはアントワーヌの姿を見ても別にたいしておどろかなかった。
「お前がやがてここに来るんじゃないかと思っていた。そこから出るんだ!」
「おれを逮捕するんですか?」
若い男は警視がポケットから出した手錠を見ておびえた。
「お前をどうするかまだわからないが、また逃げ出されたくはない。両手を出すんだ」
「あんたにはそんな権利はない。おれはなにもしてないんだ」
「両手を出すんだ!」
若者が一か八か、メグレの脚の間を通り抜けようとうかがっていることはわかっていた。そこで前に出ると、メグレはからだ全体を使って、若者を壁に押しつけた。若者はメグレの脚をけとばしたりしてもがいたが、メグレは手錠をかけた。
「さあ、ついて来い!」
「おふくろがどういうだろう?」
「お前のおふくろさんがどういおうが、われわれはお前にいくつか質問する必要があるんだ」
「おれは答えない」
「それでもいいから、来るんだ」
メグレは若者を先行させた。二人は料理場を横切り、店に来た。アントワーヌは、店にだれもいなくて、静まりかえっているのにびっくりした様子だった。
「彼女はどこ?」
「おかみさんか? 心配しなくていい。すぐにもどる」
「彼女を逮捕したの?」
「その隅に坐るんだ、動いてはいけない」
「動きたいときには動くさ!」
多少おなじ境遇にあるこの年齢の若者たちを数多く見ているので、メグレには彼らの反応や、返事の一つ一つが予測できたのである。
アントワーヌを捕えたことでコメリオ判事はよろこぶだろうが、メグレには、この若者から多くを期待できないことがわかっていた。
入口のドアを中年の男が開けた。男はメグレが小さな店の真中に突立っていて、カラ夫人がいないことにおどろいた。
「おかみさんはいないんですか?」
「もうすぐもどります」
男は手錠を見ただろうか? メグレが警察官であることに気がつき、近づかないほうがいいと決心したのか? とにかく男は帽子に手をやると、「また来ます」というようなことをぶつぶついってあわてて出て行ってしまった。
黒い車がドアの前に停ったとき、その男はまだ通りの角に達していなかったにちがいない。最初にラポワントが降り、カラ夫人のためにドアを開けてやったあとで、車から褐色のスーツケースを取り出した。
カラ夫人は最初の一瞥《いちべつ》でアントワーヌに気がつき、眉をひそめ、不安そうにメグレのほうを向いた。
「あなたの家に彼がいたのを、知らなかったのですか?」
「答えるんじゃない!」と、若い男が彼女にさけんだ。「この人にはおれを逮捕する権利なんかないんだ。おれはなにもしてない。おれがなにかわるいことしたなんて証明できやしないさ」
そんなことにはかまわず、警視はラポワントのほうを向いた。
「ご主人のスーツケースだったか?」
「最初、あまりはっきりしないみたいでしたが、やがてそうだといい、それからまた、開けてみなければわからないといい張っているのです」
「開けてみたのか?」
「あなたが立ち合うほうがいいと思ったのです。私はあの従業員に仮の受取りをわたしておきました。彼はできるだけ早く正規の押収書を送ってくれるようにいってます」
「コメリオに頼むんだ。従業員はまだあそこにいるのか?」
「そうだと思います。彼はまだ勤務が終るようには見えませんでした」
「彼に電話して、十五分間だれかと交代できるかどうか聞くんだ。できないことはないはずだ。タクシーに飛び乗って、ここに来るように頼むのだ」
「わかりました」と、ラポワントはアントワーヌを見ながらいった。
手荷物預所の男はアントワーヌのことを認めるだろうか? 認めるとすればすべてはますます容易になる。
「ムルスにも電話してくれ。家宅捜索のため、写真班と一緒に、彼にも来てもらいたいのだ」
「はい、警視《パトロン》」
店の真中に客のように立ったままでいたカラ夫人がこんどはたずねた。さきほどアントワーヌがしたのとおなじ質問だった。
「わたしを逮捕するのですか?」
「なぜ?」
この簡単な返事に、彼女は途方に暮れたようだった。
「わたしは歩きまわっていいのですか?」
「家のなかなら」
メグレには彼女がなにをしたいのかわかっていた。果たして、彼女は料理場に向かうと、コニャックの壜があった隅に姿を消した。人目をごまかすため、皿を動かし、慣れないために足の痛む靴をフェルトのスリッパにはきかえた。
もどってくると、彼女は落着きを取りもどしていた。彼女はカウンターのほうに行った。
「なにか飲みます?」
「白ぶどう酒をもらおうか。刑事にも一杯たのみます。アントワーヌはたぶんビールが欲しいのじゃないかな?」
彼の態度は急がない男のようだった。まるでつぎにすることがわかっていない男のようでさえあった。ぶどう酒を一口飲むと、彼はドアのほうに向かい、ドアに鍵をかけた。
「このスーツケースの鍵をお持ちですか?」
「いいえ」
「どこにあるか知りませんか?」
「たぶん≪あの人≫のポケットのなかでしょう」
彼女によれば、カラがスーツケースをもって家を出たとき、ポケットのなかに入れていたというのである。
「|やっとこ《ヽヽヽヽ》かなにかを貸してください」
彼女はやっとこを見つけるまでしばらく時間がかかった。メグレはテーブルの上にスーツケースをおき、ラポワントが電話をかけ終るのを待って、このあまり頑丈でない鍵をこわすことにした。
「きみに白を注文しておいたよ」
「ありがとうございます、警視《パトロン》」
鍵はねじ曲げられ、やがて切れた。メグレは蓋を持ち上げた。カラ夫人はカウンターの向こう側に立ったままだった。彼女はメグレたちのほうをながめてはいたが、特別に興味があるようには見えなかった。スーツケースのなかには、かなり上等な灰色のスーツ、真新しい靴、シャツ、靴下、剃刀《かみそり》、櫛、歯ブラシ、紙に包んだ円錐形の石鹸があった。
「これはご主人のものですか?」
「そうだと思います」
「はっきりしないのですか?」
「そんなスーツをあの人は持っていました」
「階上《うえ》にないのですか?」
「まだ見ていません」
彼女はメグレたちを手助けしようとも、だまそうともしなかった。前日から、簡潔な、最小限の言葉数で質問に答えていたが、しかしたとえば、アントワーヌの態度のように挑戦的なところはなかった。
アントワーヌのほうは恐怖にかられて反抗しているのだ。逆に女はなにも怖れていないようだった。警察がどう奔走しようが、なにを発見しようが、彼女には関心がなかったのである。
「なにか気がついたことがあるか?」と、メグレはスーツケースをかきまわしているラポワントにいった。
「なにもかもごちゃまぜに詰め込まれていますね」
「そう、男はたいていそんなふうにスーツケースに荷物を詰め込むものだ。しかし奇妙なことがある。カラは旅行に行くといって出ていった。彼は着替えのスーツや、靴や、下着類をもって行った。論理的には、彼がスーツケースに荷物を詰めたのは階上《うえ》の寝室と考えるのが正しいだろう」
左官の仕事着をきた二人の男がドアをゆすぶり、ガラスに顔をくっつけ、なにやら言葉をさけんでいたが、やがて立ち去った。
「それなのに、なぜ彼は汚れた下着をもっていったのだろうか?」
その言葉のとおり、二枚のシャツのうち一枚はすでに着たものであった。パンツも靴下もそうだった。
「スーツケースにこれを入れたのが彼ではないとお考えですか?」
「彼かもしれない。たぶん彼だろう。しかし旅行に出かけるときではない。彼がスーツケースに荷物を詰めたのは、家に帰ろうとしているときだ」
「わかります」
「あなたに私のいったことが聞こえましたか、カラ夫人?」
彼女はうなずいた。
「あなたはまだご主人が金曜日の午後このスーツケースを持って出かけたと主張するのですか?」
「わたしはすでにいったことをなにも変えるつもりはありません」
「ご主人は、木曜日にここを発たれたのではないのですか? 帰ってきたのが金曜日ではなかったのですか?」
彼女は頭をふった。
「わたしがなにをいおうと、あなたはご自分の信じたいことしか信じないでしょう」
タクシーが店の前で停った。メグレはドアを開けに行った。手荷物預所の従業員が車から降りると、メグレはいった。
「タクシーを待たせておいてください。すぐに用事はすみますから」
警視は店のなかに従業員を入れた。従業員はしばらくどうしたらいいのか思いわずらっていたが、やがてまわりを見まわした。彼の視線は隅の腰掛けに坐ったままでいたアントワーヌの上で止った。
それから、メグレのほうを向くと、口を開きかけたが、ふたたび若い男を調べた。
その時間は長いように感じられた。アントワーヌは挑戦するように従業員をじっとにらみつけていた。
「私の思いますのに……」と、彼は首をかきながらいいはじめた。彼は正直な男だったので、良心と闘っていたのだ。
「そうです! こうやって見ると、あのときの男だといえます」
「嘘《うそ》だ!」と、若い男は怒ってさけんだ。「立ってもらうと、もっとよくわかると思いますけど」
「立つんだ」
「いやだ」
「立つんだ!」
カラ夫人の声がメグレの背後で聞こえた。
「立ちなさい、アントワーヌ」
「たしかです」と、ちょっと考えたあとで従業員がいった。「間違いありません。革のジャンパーは着ていないのですか?」
「階上《うえ》の、うしろのほうの部屋へ行って見てきてくれ」と、メグレはラポワントにいった。
彼らは黙って待った。手荷物預所の従業員はカウンターのほうにちらっと眼をやった。喉が乾いているのだな、とメグレは悟った。
「白ぶどう酒はいかがですか?」と、彼はたずねた。
「いただきますよ」
アントワーヌが前日着ていたジャンパーを持って、ラポワントがもどってきた。
「これを着るんだ」
若い男は意見を求めるように女主人を見たが、手錠がはずされると、ふくれっ面で観念した。
「こいつがサツのご機嫌を取りたがっているのが、あなたにはわからないの? こいつらはみんなおなじだ。≪警察≫という言葉を聞いただけで、ふるえ出すんだ。さあ、まだお前は、前におれを見たといい張るのか?」
「見たと思います」
「嘘をつけ」
従業員は静かな声でメグレに話しかけたが、それでもその声は興奮でふるえ気味だった。
「私の証言は重要なのでしょうね? 私は不当に人を罪におとしいれたくありません。この若い人は日曜日、駅にスーツケースを預けに来た人と似ています。この件で質問されるとは予想もしておりませんでしたので私は注意深く見ていませんでした。おそらくおなじ場所で、おなじ照明の下に立っていただければ……」
「それでは今日か明日、彼を駅に連れて行きます。ありがとう。あなたの健康を祝して乾杯!」
メグレは従業員をドアまで送って行き、背後からドアを閉めた。警視の態度にはどこか気弱さみたいなものが感じられ、ラポワントには気がかりだった。が、いつそれがはじまったのか彼にはいうことができなかった。たぶん実際は、この捜査のはじまったときから、彼らが前日ヴァルミィ河岸に来て、カラ夫婦の居酒場《ビストロ》に入ったときからだったかもしれない。
メグレはいつものように振舞い、なすべきことをしている。しかしどこか自信がなさそうだ。部下たちがこんなメグレを見るのはまれだ。はっきりいいづらいのだが、いやいややっているみたいなところがある。物的な証拠はほとんど彼には興味がなかった。彼はだれにもいえない考えに熱中しているみたいだった。
とくにこの店のなかではそうだった。カラ夫人に話しかけるときとか、こっそり彼女を見守るときには、さらにそれが顕著だった。
まるで被害者は問題ではないようだった。ばらばら死体は彼の眼になんの重要さもないみたいだった。彼はアントワーヌのことなどほとんど気にかけなかった。職業的義務感を思い起こすのに努力をしなければならないようだった。
「コメリオに電話するのだ。きみがやってくれ。起こったことを手短かに話したまえ。アントワーヌの拘留状に署名してもらったほうがいい。とにかく彼はそれをしてくれるだろう」
「彼女のほうは?」と女を指さして刑事はたずねた。
「その必要はないだろう」
「彼が言い張ったら?」
「彼の好きなようにさせるがいい。彼は親分《ボス》なのだから」
メグレは用心して声を低めるようなことをしなかった。他の二人が聞いていた。
「手軽に食事をしたほうがいいでしょう」と、彼はカラ夫人にすすめた。「やがてあなたも連行されるかもしれませんから」
「長い間ですか?」
「判事が尋問に必要だと判断する間」
「刑務所で寝るのでしょうか?」
「最初はたぶん警視庁の留置場でしょう」
「おれは?」
「お前もだ」
そしてつけ加えた。
「しかし、おなじ独房ではない!」
「お腹が空いた?」とカラ夫人が若い男にたずねた。
「空いてないよ」
それでも彼女は料理場に行った。だがそれは、アルコールを一口ぐいと飲むためだった。もどってくると、彼女はたずねた。
「その間、この家をだれが番してくれるのですか?」
「だれも。でも、心配しなくてもいいですよ。見張っています」
彼は、理解不可能な人間の前に初めて立ったかのように、あいかわらずおなじ表情で彼女を見ずにはいられなかった。彼はこれまで何人も悪賢い女を見てきている。そのうちのある女は長い間彼にはむかっていた。しかしそのたびに、彼はいつかはやりこめることができる気がしていた。時間の、忍耐の、意志の問題だったのである。
だが、カラ夫人にかんしてはおなじわけにはいかなかった。メグレには彼女をいかなる範疇《はんちゅう》にも入れることができなかった。平然と夫を殺し、料理場のテーブルの上でばらばらにしたのが彼女であると聞かされても、信じただろう。しかし、夫をそんな目にあわせなかったと聞かされても、信じただろう。
彼女はメグレの前に、生身の人間として存在している。窓にかかる古びたカーテンのようにからだにぶら下がっている黒っぽいドレスを着、痩せて色香も褪《あ》せている。だが彼女はたしかに実在している。その暗い瞳のなかに、内面の生活が強烈に反映している。しかし、彼女のなかには非物質的な、つかみどころのないなにかがある。
こうした印象をあたえていることを彼女は知っているのか? 彼女が警視を見つめるあの落ち着いた、皮肉っぽくさえある態度がそういう感じをあたえるのだろう。
さきほどラポワントが感じた不安もそこからきている。犯罪人を見つけるための警察の捜査というより、メグレとこの女の間の個人的なかかわり合いが問題なのだ。彼女に直接関係ないことは警視にはほとんど関心なかった。ラポワントはしばらくあとで、電話室から出たときその証拠を見たにちがいない。
「彼はどういった?」と、メグレはコメリオのことを話しながらたずねた。
「拘留状に署名し、あなたのオフィスに持たせるそうです」
「この若者を見たがっていたかい?」
「あなたがまず尋問したがるだろうと、彼は思ってます」
「彼女については?」
「二通目の拘留状にも署名するそうです。それはあなたの好きなようにしていいとのことですが、私の考えでは……」
「わかっているよ」
コメリオはメグレがオフィスにもどり、アントワーヌとカラ夫人をかわるがわる呼び出し、二人が口を割るまで時間をかけて尋問することを期待しているのだ。
死体の首はあいかわらず見つかっていない。サン・マルタン運河から拾い上げられたばらばら死体がカラのものであるというはっきりした証拠は全然ない。が、それでもいま、スーツケースのおかげで、有力な状況証拠がある。それに切札がなくてはじめた尋問でも、数時間後には、完全な自白に行きつくことだってよくあることだ。
これはコメリオ判事だけの考えではなくて、ラポワントの考えでもある。だからラポワントは、メグレからつぎのように命じられると、おどろきの色を隠せなかったのだ。
「彼を警視庁に連れて行き、私のオフィスに入れ、尋問してくれ。彼になにか飲物と食物をあたえるのを忘れないように」
「あなたは残るのですか?」
「ムルスと写真班の連中を待つ」
気まずそうに、ラポワントは若い男に立つように合図した。出ていく前に、若い男はふたたびメグレに叫んだ。
「いいか、こいつは高くつくぞ」
ほぼおなじ時刻、司法警察局のオフィスを毎朝の日課のようにあちこちのぞきまわっていた子爵は、予審判事の廊下のほうまでその足を伸した。
「なにもニュースはありませんか、コメリオさん?首はまだ見つからないのですか?」
「まだだ。しかし被害者の身許はもうすぐはっきりする」
「だれです?」
十分間、コメリオは質問に快く答えた。新聞から敬意を表されるのは、今度はメグレでなくて自分だったので、わるい気持がしなかったのである。
「警視はまだあちらですか?」
「そうだと思うよ」
したがって、二時間後の夕刊には、カラ家の家宅捜索と若い男の逮捕……イニシャルだけしか書かれていない……が報じられた。さらに、五時のラジオのニュースでも放送された。
カラ夫人と二人きりになると、メグレはカウンターにグラスを取りに行き、テーブルに持ってくると、そこに坐った。彼女のほうは身動きせず、カウンターのうしろでいかにも居酒屋《ビストロ》の女主人らしい態度を崩さずにいた。
正午を告げる工場のサイレンが聞こえた。十分とたたないうちに、三十人以上の人が閉まったドアに鼻をくっつけてのぞき込んだ。そのうちの何人かはガラス越しにカラ夫人を見つけると、彼女と話そうとするかのように盛んに身振りをした。
「私は娘さんに会いました」とつぜん沈黙を破ってメグレがいった。
彼女はなにもいわずにメグレを見た。
「娘さんは一カ月ほど前にあなたを訪ねたことを認めました。私はあなた方がどんな話をしたのか考えています」
それは質問ではなかった。彼女には答える義務はなかった。
「娘さんは事を巧みに処理する、釣合の取れた人だという印象をうけました。しかし、なぜだかわかりませんが、私には、娘さんが上司を愛しているな、上司の愛人になっているかもしれないな、という考えがうかびました」
彼女はあいかわらず平然としている。この話は彼女には興味がないのか? 娘にたいして世間並みの感情が残っているのだろうか?
「初めの頃は大変だったにちがいありません。十五歳の娘が、パリのような街でたった一人で生き抜いていくのは辛かったでしょう」
彼女はメグレを見た。その眼は彼を通してその向こうをながめているような眼だった。疲れたような声で、彼女はたずねた。
「あなたはなにを望んでいるのです?」
実際、なにを望んでいるのか? 結局コメリオのほうが正しかったのではなかったか? 今頃はアントワーヌの口を割らせることに専念しているべきではなかったのか? 彼女のほうは、留置場の独房に数日いれば、態度を変えるのではないだろうか?
「なぜあなたがカラと結婚したのか、その後、なぜ彼と別れなかったのか、私は不思議に思っています」
彼女の唇にうかんだのは微笑ではなく、嘲笑《ちょうしょう》とも憐れみともつかない表情だった。
「わざとそうしたのですね?」と、メグレはその意味もはっきり考えずにいった。
彼はどうしても真相を究《きわ》めなければならなかった。すべてを理解するためのみならず、メグレと彼女のあいだに立ちふさがっている眼に見えない壁を取り除くためには、ほんのちょっと努力すれば足りるように思える瞬間がある。いまがその瞬間だった。
いうべき言葉を見つけることだ。そうすれば彼女は、メグレの前で素直に人間的になるだろう。
「金曜日の午後、≪他の男≫は、ここにいたのですか?」
少なくともこれは効果があった。彼女は身をふるわせた。
「他の男って?」と、しばらくして彼女はいやいやながらたずねた。
「あなたの愛人。あなたの本当の愛人です」
彼女は無関心を装い、なにも質問したくないといった様子をしていたが、最後に負けた。
「だれ?」
「顔にあばたのある中年の赤毛の男です。デュードネという名の」
彼女はふたたび貝の蓋《ふた》をぴったりと閉じてしまった。彼女の顔付きからはもうなにも読み取ることができなかった。しかも、車が外で停った。ムルスと、機材をもった三人の男が車から降りた。
ふたたびメグレはドアを開けに行った。たしかに彼は成功しなかったが、たったいま彼女と向かい合って過した時間が全然むだだったとも思えなかった。
「調べなければならないのはなんです、警視《パトロン》?」
「なにもかもだ。まず料理場、それから二階の二部屋に、化粧室。庭もだ。それから最後に地下室。この揚蓋《あげぶた》の下が地下室にちがいない」
「あの男はここで殺され、ばらばらにされたのですか?」
「そうかもしれない」
「それでスーツケースは?」
「それも調べてほしい、中身も」
「午後一杯はかかるでしょう。あなたはここに残りますか?」
「そのつもりはない。しかしあとで寄るつもりだ」
彼は電話室に入ると、正面の警察署のジュデルを呼び出し、この家を見張るための指示をいろいろとあたえた。
「あなたは私と一緒に来たほうがいいでしょう」と、電話が終ると彼はカラ夫人に告げた。
「着替えと洗面道具を持って行くのですか?」
「そのほうが用心がいい」
通りがかりに料理場で足をとめ、彼女は酒をゆっくりと流し込んだ。それから二階の寝室を行ったり来たりする足音が聞こえた。
「彼女を一人きりで放っておいて心配ないのですか、警視《パトロン》?」
メグレは肩をすくめた。湮滅《いんめつ》すべき証拠や、隠さなければならない危険な品物があったら、もうとっくにそうしていたにちがいない。
そうはいっても、メグレは彼女があまりにも長い間もどって来ないのでおどろいた。あいかわらず動きまわっている音がしている。水道の音や、引出しを開け閉めしている物音も聞こえた。
料理場で、彼女はふたたび足を止めた。長い間飲めなくなるので、これが最後のアルコールだと思っているにちがいない。やっと彼女があらわれた。男たちはおどろいて彼女を見つめた。メグレの場合はそのおどろきに少しばかり感嘆の念が混っていた。
彼女は二十分もかからずに、風采《ふうさい》をすっかり変えてしまったのである。いま、黒のドレスとコートを着ていたが、とてもよく似合った。髪をきれいに結い、帽子をかぶると、彼女の顔つきはりりしかった。足取りも軽やかで、態度もしっかりしていて、高慢でさえあった。
彼女はこうした効果を与えることを予期していたのか? なまめかしさみたいなものがあるではないか? 彼女は微笑みもしなかったし、男たちのおどろきを楽しんでいるようにも見えなかった。ハンドバッグのなかに必要なものが入っているかをたしかめ、手袋をはめると、ただこうつぶやいただけだった。
「用意ができました」
彼女からはオーデコロンとコニャックの入り混った思いがけない匂いが発散されていた。顔に白粉を塗り、唇に口紅をつけている。
「スーツケースをもっていかないのですか?」
彼女は挑戦するように、「ええ」といった。下着や着替えをもって行くことは有罪であることを自白することではないのか? とにかく彼女を拘留する理由がなにかあることを認めることである。
「じゃ、あとで!」と、メグレはムルスと写真班の人たちにいった。
「その車で行くのですか?」
「いや。タクシーを見つけよう」
彼女とこうして歩道に立ち、太陽の下を歩調を揃えて歩くことは、妙な感じだった。
「レコレ街のほうに行けば、タクシーがたやすく見つかるのではないかな?」
「そうでしょうね」
「あなたに一つ質問したいのですが」
「いままで、あなたは遠慮しませんでした」
「そんなふうに身なりをととのえなくなってから、どれくらいになるのですか?」
彼女は考え込んだ。
「少なくとも四年は」と、しばらくして彼女はいった。「なぜそんなことを聞くのです?」
「別に」
メグレ同様彼女だってよく知っているのに、その理由をいったってなんの役に立つだろう? メグレはちょうど通りかかったタクシーを手を挙げて停めると、カラ夫人のためにドアを開け、先に乗せた。
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第六章 紐の糸くず
実は、彼女をどう扱っていいのかメグレにはまだわからなかった。コメリオ以外の判事がこの事件の担当だったなら、彼はいままで取ってきたような態度は取らなかっただろうし、危険だって冒しただろう。しかしコメリオだと、そうすることは危険だった。コメリオ判事はこせこせしていて、形式にこだわり、世論や政府の反応を怖れるだけではなくて、メグレの捜査方法をいつも信用せず、正統的ではないと見なしていた。これまでメグレと判事は何度も正面衝突をくり返していた。
メグレは、判事が彼から眼を離さず、どんな些細な誤りでも、軽はずみでも、責任を負わせてやろうと身構えていることをわきまえていた。
彼はカラ夫人の性格や、この事件との関りについてはっきりした考えを抱くまでは彼女をヴァルミィ河岸に残しておきたかった。そして居酒屋《ビストロ》の近くに、一人ではなく、二人の男を見張りに立てるだろう。しかしジュデルの部下はフォーブール・サン・マルタンのアパートから若いアントワーヌを逃がしてしまったではないか? アントワーヌなどはほんのチンピラにすぎず、知能は十三歳の子供並みだ。カラ夫人とは比較にならない。売店の前を通ったとき、メグレは、新聞がすでに、小さな居酒屋《ビストロ》の家宅捜索を報じているのを眼にした。とにかくカラの名前が第一面にでかでかと載っている。
たとえば明日の朝刊が、≪カラ夫人失踪≫と大見出しで報じたら、どうだろう。メグレはコメリオ判事のオフィスに入って行くときの姿を想像した。
カラ夫人のほうに顔を向けずに、メグレは横目でそっと彼女を見守っていた。彼女はそんなことにとんじゃくする様子もなく、シートにまっすぐに坐っていた。威厳がないこともなかった。町をながめる彼女の眼には好奇心があった。
少なくとも四年間、彼女はこうした服装をしなかったとさきほど認めている。が、黒いドレスを最後に着たのがどんな状況で、どんな折りだったかはいっていない。たぶんかなり長いあいだ、町の中心部に来なかったのだろうし、大通りで人々が押し合っている姿も見ていないのだろう。
コメリオのため、メグレは好きなように行動できなかったので、別の態度を取らざるをえなかったのだ。
警視庁に近づくと、彼は初めて口を開いた。
「なにもいうべきことはないと思いますが?」
彼女はちょっとおどろいてメグレを見た。
「どんなこと?」
「ご主人のことで」
彼女はかすかに肩をすくめると、いった。
「わたしはカラを殺していません」
彼女は夫を苗字《みょうじ》で呼んだ。百姓や小売商人の女房がいつも亭主のことを呼ぶように。しかし、彼女の場合はわざとらしさがあるようにメグレには思われた。
「中庭に入りますか?」と、運転手がウィンドーを開けながらたずねた。
「そうしてくれ」
子爵が大きな階段の下に、他の二人の新聞記者やカメラマンたちと一緒にいた。彼らはなにがあったのかをよく知っていたので、この捕虜を隠そうとしても無駄だった。
「ちょっと待ってください、警視……」
彼女はメグレが彼らに知らせたと思っているのか? 彼女は顔をこわばらせて通りすぎたが、彼らは写真を撮り、階段の上まで追いかけてきた。彼らは若いアントワーヌの写真も撮ったにちがいない。
階上《うえ》の廊下に来ても、メグレはまだためらっていた。最後に刑事部屋のドアを開けた。リュカはいなかった。メグレはジャンヴィエに話しかけた。
「この女をしばらくの間空いている部屋に連れて行って、一緒にいてくれないか?」
彼女は聞いていた。警視にじっと注がれている彼女の視線には、無言の非難があいかわらず読みとれる。非難というより失望だったかもしれない。
なにもいわずに刑事部屋を出ると、自分のオフィスに入った。背広を脱いだラポワントが、メグレのデスクに坐っていた。窓に顔を向けて、アントワーヌは椅子にまっすぐ坐っている。暑すぎるようなまっ赤な顔をしていた。
二人の間におかれた、ビヤボール≪ドフィーヌ≫から運ばせた盆の上には、サンドイッチの残りとジョッキが二つあった。そのジョッキの底にはビールが少し残っていた。
メグレの視線は盆から、ついでアントワーヌに移った。アントワーヌは食欲に負けてしまった自分に腹を立てているらしかった。食物をすべて拒否してメグレたちを≪罰して≫やろうと決心していたのだろう。警視庁ではこうした態度には慣れていた。警視は微笑まずにはいられなかった。
「どうだい?」と、メグレはラポワントに聞いた。
ラポワントは眼で、うまく行ってないことを示した。
「つづけるんだ、きみたち!」
彼はコメリオのオフィスに入った。コメリオは昼食に出かけるところだった。
「二人とも逮捕したのかね?」
「若い男は私のオフィスにいて、ラポワントが尋問してます」
「彼は吐いたか?」
「なにか知っていても、証拠を突きつけられないかぎり口を割らないでしょう」
「利巧なのか?」
「全然ちがいますね。利巧なやつにはいつでも最後にはうち勝つことができるのです。あるいは少なくともそいつの返答がなっていないことを納得させることはできます」
「女のほうは?」
「ジャンヴィエと一緒においてきました」
「きみ自身で尋問するのかね?」
「いまはまだしません。尋問するにはまだ十分彼女のことがわかっていないのです」
「いつ尋問するつもりかね?」
「たぶん今夜か、あるいは明日か、明後日か」
「それまでは?」
メグレがあまりにも従順で、いい子ぶっているので、コメリオは彼がなにかをたくらんでいるのではないかと思った。
「私はあなたの意見を聞きに来たのです」
「いつまでも彼女をオフィスにおいとくわけにはいくまい」
「そのとおり困難です。とくに女の場合は」
「留置場に移したほうが用心ぶかくないかね?」
「あなたの判断次第です」
「きみ自身としては、彼女を釈放したいのかね?」
「私にはどうしていいのかわからないのです」
眉をひそめ、コメリオは考え込んだ。ぷりぷりしていた。最後に挑戦するかのように、彼は叫んだ。
「彼女を私のところへよこせ」
なぜ警視は、廊下を遠ざかりながら微笑んでいたのか? カラ夫人といら立っている判事が向かい合っているところを想像したのか?
彼はその午後は、彼女とはもう会おうとせず、刑事部屋にもどると、ただトランスにいった。
「コメリオ判事がカラ夫人に会いたがっている。そのことをジャンヴィエに伝えてきてくれないか?」
階段で子爵がメグレを引きとめようとすると、彼はこういって逃げた。
「それじゃ、コメリオに会いに行ってくれ。新しいネタを手に入れている。すぐでないにしてもやがて手に入れるだろう。たしかだよ」
彼はビヤホール≪ドフィーヌ≫へ歩いて行くと、アペリチフを飲むためカウンターのほうに行った。遅かったので、ほとんどすべての人が昼食を終えていた。彼は受話器をはずした。
「お前かい?」と、彼は夫人にいった。
「もどらないの?」
「うん」
「お昼の休みを取るものと思っていたのよ」
「いま≪ドフィーヌ≫にいて、これから食べるつもりなんだ」
「夕食にはもどるでしょう?」
「そのつもりだよ」
ビヤホールの空気中に絶えず漂っている匂いのなかで、二つの匂いが他の匂いを圧倒していた。カウンターのまわりのペルノー酒と、料理場からときどき流れてくるコック・オー・ヴァン〔ブタ肉、タマネギ、ニンニク、キノコ入りの赤ぶどう酒で煮た鳥のシチュー〕の匂いだった。
食堂のテーブルは大半が空いていた。二、三人の同僚がコーヒーとカルヴァドスを飲んでいる。メグレはためらい、結局立ったままでいることにして、サンドイッチを注文した。太陽は今朝と同様輝き、空も明るかったが、白い雲がはげしい勢いで走っていた。とつぜん風が吹き、街路のほこりが舞い上がるとともに、女のドレスがからだに貼《は》りついた。
カウンターのうしろの主人は、メグレのことをよく知っていたので、いまはしゃべりかけるときではないと思っていた。メグレは上の空で食べながら、船の乗客が、海の単調だが魅惑的な風景をながめているような眼で外を見ていた。
「もう一ついかがです?」
彼はうなずいたが、なにを聞かれたのか知りもしなかったのではないか。しかし二つ目のサンドイッチを食ベ、注文しなかったのに出されたコーヒーを飲んだ。
数分後に、彼はタクシーに乗り、ヴァルミィ河岸に向かっていた。水門の正面のレコレ街の角で車を停めさせた。水門では三艘の大伝馬船が待っている。水がよごれ、水面にはときどきいやな感じのあぶくが浮かんだが、いつものように釣師たちは浮子《うき》をじっと見つめていた。
メグレは≪シェ・ポポール≫の黄色に塗った店先の前を通った。店の主人はメグレに気がついた。メグレもガラス越しに、客たちの群れを指で示している主人の姿を見た。≪ルーレール・エ・ラングロワ≫の名前がついた大型トラックが歩道に沿って並んでいる。
メグレは、パリの人口密集地帯ならどこにでもあるような小さな二、三軒の店の前を通った。最初の店は野菜や果実の陳列棚が歩道の真中にまではみ出している。そのちょっと先には肉屋がある。人の姿は見えなかった。ついでカラの居酒屋《ビストロ》のすぐそばに、店のなかが見分けられないほど薄暗い食料品店がある。
カラ夫人は、たとえ買物にすぎなくても、ときどき外に出ていたにちがいない。スリッパを履き、メグレが店にあるのに気がついたふわふわした黒いウールのショールを肩にまいて、これらの店に行ったのだろう。
ジュデルはこの店の人たちに聞いてまわったはずだ。所轄署は彼らをよく知っているので、警視庁の者より信用される。
居酒屋《ビストロ》のドアには鍵がかかっていた。ガラスに額をくっつけてみたが、内部にはだれの姿も見えなかった。が、料理場で、人影がときどきちらちら見えた。メグレはドアをノックしたが、ムルスがあらわれるまでにはさらに二、三度ノックしなければならなかった。
メグレの姿を認めると、ムルスはいそいでドアのほうにやってきた。
「失礼しました、警視《パトロン》。物音を立てていたものですから。長い間待ちましたか?」
「いや、いいんだよ」
ふたたびドアに鍵をかけたのはメグレだった。
「よく人が来るのか?」
「ドアを開けようとして立ち去っていく客もいれば、ドアをたたいてわめき、開けろと盛んに身振りする客もいるんです」
メグレはまわりを見まわし、カウンターのうしろに行き、寝室のテーブルの上にあった広告用吸取紙帖をさがした。普通、どこのカフェにもこうした吸取紙帖はいくつかおいてあるものだ。しかし、ドミノの箱が三つ、ブリッジ・クロスが四、五枚、カードが六組あるのに、広告用吸取紙帖がないので彼はびっくりした。
「つづけてくれ」と、彼はムルスにいった。「私はすぐもどる」
メグレは、カメラマンたちが料理場のあちこちにおいたカメラのあいだを縫って進むと、二階に上がった。そしてインクと吸取紙をもって降りてきた。
店のテーブルに坐ると、大きな文字で書いた。
臨時休業
この時間、カラ夫人と向かい合っているコメリオのことを考えて、彼はつぎの言葉を書くのをためらった。
「どこかに画鋲《がびょう》はないかな?」
ムルスが料理場から答えた。
「カウンターの下の、左側の床の上です」
画鋲を見つけると、メグレは書いた紙をドアの横木に貼りに行った。もどってくると、なにか生きているものが彼の脚にさわった。赤毛の猫だった。猫はメグレを見上げて、にゃあと鳴いた。
彼は猫のことを考えなかった。しばらくこの家を空家にしなければならないとしたら、猫を残しておくわけにはいかない。料理場に行って、彼はこわれたスープ皿と、陶器の水差しのなかに牛乳を見つけた。
「この猫を預ってくれるところはないかな」
「近くの人はどうですか? ちょっと先に肉屋がありましたが」
「あとで聞いてみよう。これまでなにか見つけたかね?」
彼らは梳《す》き櫛ですくように家のなかを細かく調べていた。どんな片隅も、どの引出しもおろそかにしなかった。ムルスが最初に梳き櫛ですき、集めたゴミをまず拡大鏡で調べ、必要とあれば持ってきた携帯用の顕微鏡を使った。ついでカメラマンがすべてを写真に収めた。
「私たちはまず庭から調べはじめました。庭がいちばん乱雑だったからですし、いろいろな屑物のなかに、なにかを隠す可能性もあると思ったからです」
「塵箱《ちりばこ》も日曜日から空になっているのでは?」
「月曜日の朝です。しかし私たちは塵箱を調べてみました。血痕などないかと思って」
「なにも?」
「なにもありません」と、ムルスはくり返したが、ためらっている様子だった。それはムルスが、確信はないが、なにか思いつくことがあるという証拠だった。
「なにか?」
「わからないのです、警視。ただ印象なのです。私たちは四人ともおなじ印象を持ったのです。あなたが来たとき、私たちはちょうどその話をしていたところなのです」
「説明したまえ」
「少なくとも庭や料理場にかんするかぎり、なにか奇妙なものがあるのです。ここがちり一つないような清潔な家だとは思ってもいません。そのことをたしかめるには引出しを見てみれば十分です。どちらかといえば、だらしがないのです。物が出まかせに詰め込まれていて、その大部分がほこりだらけなのです」
メグレはまわりを見つめ、ムルスのいっていることがわかると思った。彼は興味を示した。
「それで?」
「流しのわきに、三日前の汚れた皿と、日曜日から洗われていないシチュー鍋がありました。いつもそうしていたのか、そうでなければ、女が亭主の留守のあいだ家事をなまけていたかです」
ムルスの言い分はもっともだった。乱雑さは……きたなさも……習慣的なものにちがいない。
「論理的にいって、ここにはあちこちに五日や十日前の古い汚れがあるはずなんです。そして事実、いくつかの引出しや部屋の片隅に、それより古い汚れが見つかりました。ところが、他の個所はほとんどどこも、最近きれいに掃除された跡らしいものがあるのです。
サンボワは庭で漂白剤の壜《びん》を二つ見つけましたが、その一つは空で、ラベルの状態から判断して、最近買われたものにちがいありません」
「いつその掃除がされたものと考える?」
「三、四日前。報告書にはもっとくわしいことを書きますが、その前に、実験室で二、三、分析しなければならないでしょう」
「指紋は?」
「指紋は私たちの推理を裏書きしてくれます。引出しや押入れのなかから、カラの指紋が検出されました」
「まちがいないか?」
「とにかく指紋は、運河から見つかった死体の指紋と一致します」
やっと、ばらばら死体の男がヴァルミィ河岸の居酒屋の主人のものであるという証拠をつかんだのだ。
「その指紋は階上《うえ》にもあるのか?」
「家具の上にはありませんが、ただ家具の内部《なか》に。デュボワは二階をまだ細かに調べていませんが、あとでくわしくやります。ただおどろいたことは、家具にほこりがついていないし、床が念入りに掃除されていることです。ベッドのシーツは、三、四日以上使われていません」
「どこかに汚れたシーツはあったか?」
「私もそのことを考えました。ありません」
「家で洗濯していたのかな?」
「洗濯機もなければ、湯わかしも見つかりません」
「それじゃ、下着は洗濯屋に出しているのだろう」
「そうだと思います。ところで、洗濯屋が昨日か一昨日か来たのでなければ……」
「どこの洗濯屋か知りたい」
メグレは近くの店主に聞きに行きかけた。ムルスが彼を押しとどめ、料理場の食器戸棚の引出しを開けた。
「ここに名前があります」
ムルスは請求書の束を示した。そのなかに≪レコレの洗濯屋≫というのがあった。いちばん新しい日付は十日前だった。
メグレは電話室へ行き、洗濯屋の番号をまわし、今週ヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》へ洗濯物を取りに来たかどうかたずねた。
「そちらへは木曜日の朝しか御用聞きに行っておりません」と、先方は答えた。
洗濯屋の御用聞きが最後に来たのは先週の木曜日ということになる。
ムルスが奇妙だと思ったのはもっともだった。二人の人間がほとんど一週間この家に生活していて、下着を汚さなかったというのか。それらの下着はどこにあるのか、とくに汚れたシーツは? ベッドのシーツがほとんどきれいだというのに。
メグレは考え込みながら、ムルスたちのところにもどって来た。
「指紋についてなにか?」
「いままで料理場で、私たちは三つの種類の指紋を検出しました、私がよくおぼえているあなたとラポワントの指紋を除いてです。まず、いちばん数が多い指紋は、女の指紋です。女主人の指紋でしょう」
「たしかめるのは簡単だ」
「ついで、かなり若い男のものと考えられる指紋。この指紋はわずかですが、いちばんくっきりしています」
たぶんアントワーヌのものだろう。彼が夜やって来たとき、カラ夫人は料理場で食物を出してやったにちがいない。
「最後に、別の男の指紋が二つあります。その一つは半分消えています」
「さらに引出しのなかにあったカラの指紋?」
「そうです」
「要するに、最近、たとえば日曜日などに、家具の内部《なか》を除いて家じゅうすっかり掃除したような感じなのかね?」
彼らは全員、運河から一つずつ引き上げられたばらばら死体のことを考えていた。
死体をばらばらにしたのは街のなかでもなければ、空地でもない。これはかなり時間のかかる仕事なのだ。なぜなら、ばらばら死体は一つずつ念入りに新聞紙で包まれ、紐《ひも》でくくられている。このような仕事が行われた後の部屋の状態はどんなだろうか?
メグレはいまでは、カラ夫人をコメリオ判事のすさまじい攻撃にさらしてしまったことを悔まなかった。
「地下室に降りて行ったかい?」
「あちこち一応は見ておきました。地下室はちょっと見たところ、なにも異常なものはありませんが、あとでもう一度行ってみるつもりです」
メグレは黙って彼らに仕事をさせておき、しばらく店のなかを行ったり来たりした。赤毛の猫がその彼のあとについてまわった。太陽は重ね棚に並べられている壜を照らし、その反射でカウンターの隅がぼんやりと輝いている。大きなストーブのそばを通ったとき、彼は火が消えているものと思って、開けてみたが、赤い灰がまだ残っていたので、無意識に火を起こした。
そのあと、カウンターのうしろに行き、どの壜を選ぶか迷ったが、結局カルヴァドスの壜を選び、グラスに注いだ。少し開いた銭《ぜに》入れ引出しが彼の前にあった。その引出しのなかに何枚かの紙幣と小銭が入っている。右手の、窓の近くの壁に、飲食物とその値段のリストが貼ってあった。
彼はポケットからカルヴァドスの値段の金を取り出し、銭入れ引出しに入れた。ちょうどそのときガラス戸の向こうに人の横顔を見つけたので、いたずらを見つけられにかのようにぎくっとなった。人影はジュデル刑事で、店の内部《なか》をのぞこうとしているのだった。
メグレはドアを開けに行った。
「ここにおられると思いました、警視《パトロン》。警視庁に電話したのですが、あなたがどこにいるのかわからないという返事でした」
ジュデルはまわりをながめ、カラ夫人がいないのでおどろいたようだった。
「彼女を本当に逮捕したのですか?」
「いまコメリオ判事のところにいる」
ジュデルは料理場にいる技術者たちを見つけると、顎《あご》でそちらを示し、
「なにか見つかりましたか?」
「まだ言うには早すぎる」
説明するにはあまりにも時間がかかりすぎるだろう。メグレにはそうする気はなかった。
「あなたと落ち合えてよかった。私はあなたの意見を聞かずに行動したくないのです。赤毛の男を見つけたようですよ」
「どこにいる?」
「私の得た情報が正確なら、このすぐそばです。今週、夜の班に入っているのでなければですがね。ゼニート運送で、倉庫の検査係をしています……」
「レコレ街のか。知っている。ルーレール・エ・ラングロワだね」
「警視がご自身で赤毛の男に尋問なさりたいのではないかと思ったものですから」
ムルスの声が料理場から聞こえた。
「ちょっとよろしいですか、警視《パトロン》?」
メグレは料理場へ向かった。カラ夫人の黒いショールがテーブルの上に拡げられている。ムルスはそのショールを、最初はルーペで調べていたが、つぎに顕微鏡のピントを合わせた。
「ちょっと見ていただけますか?」
「なにを見るんだ?」
「黒いウールの上に、木の小枝に似た褐色の糸くずがありますね? そうなんです、麻の糸くずです。分析すればはっきりするでしょうが、私には確信があります。これは紐《ひも》から落ちた、肉眼ではほとんど見えない糸くずなのです」
「あの紐とおなじ種類の……」
メグレはばらばら死体を包んであった紐のことをいっているのである。
「ほぼ間違いないでしょう。カラ夫人はあまり荷物をつくらなかったにちがいありません。この家には、この種類の紐は切れはし一本見つかりません。引出しのなかに何本か紐の切れはしがありましたが、もっと細い紐や、繊維の紐や、または赤い紐のものです」
「ありがとう。私がもどってくるまで、きみはここにいるだろうね?」
「猫をどうします?」
「私が連れて行く」
猫はおとなしく抱き上げられた。メグレは小脇に抱いて家を出た。食料品店に入るのをためらったのち、猫なら肉屋のほうがいいだろうと自分にいい聞かせた。
「それはカラ夫人の猫でしょ?」と、メグレがカウンターに近づくと、肉屋のおかみがいった。
「そうです。迷惑でなかったら二、三日預っていただきたいのですが?」
「うちの猫と喧嘩しなければ」
「カラ夫人はここのお客でしたか?」
「毎朝来ました。あれ、本当にあの女《ひと》のご主人のものですか?」
あの気味の悪いものをはっきり口に出していうかわりに、彼女は眼で運河を示しただけだった。
「そうらしいのです」
「あの女《ひと》をどうするのです?」
メグレが言い逃れの言葉をさがしていると、彼女はつづけた。
「みなさんがわたしとおなじ意見ではないし、あの女《ひと》についてはいろいろいうことがあることも知ってます。ですけど、わたし、あの女は不幸な人だと思いますよ。もしあの女《ひと》がやったとしても、あの女の責任ではありません」
数分後、二人の男はルーレール・エ・ラングロワ運送の大きな庭に入るため、トラックの行列のあいだをうまく通り抜けられるまで待った。右手にガラス張りの小屋があり、黒い文字で≪事務所≫と書かれている。庭は貨物駅のプラットホームに似た高い台でぐるりと取り囲まれている。この高い台からトラックに小荷物や袋や箱が積み込まれるのである。
「警視《パトロン》!」メグレが事務所のドアのハンドルにさわったとき、ジュデルが呼んだ。
警視はふり返り、高い台の上に立っている赤毛の男に気がついた。赤毛の男は片手に細長い帳簿を、もう一方の手に鉛筆を持ち、メグレたちをじっと見つめていた。中背《ちゅうぜい》で、灰色の仕事着をきている。肩幅が広い。顔の色艶はよかったが、あばただらけなので、オレンジの皮を思わせた。
荷物をかついだ男たちが絶えず彼の前を通り、名前と番号を、ついで町や村の名前を叫んだ。が、彼はもはやそれを聞いているようには見えなかった。彼の青い眼は絶えずメグレに注がれている。
「彼を逃がすな」と、メグレはジュデルに注意した。
メグレは事務所に入った。若い娘がなんの用かたずねた。
「社長さんはおりますか?」
答える必要はなかった。というのは、灰色の髪を短く刈った男がいぶかしげに進み出たからだ。
「あなたが社長さんですか?」
「ジョゼフ・ラングロワです。どこかでお見かけしたように思いますが?」
新聞でメグレの写真を見たにちがいない。警視は名乗った。ラングロワは疑い深そうに話のつづきを待った。
「庭の向こう側にいる赤毛の男はだれです?」
「彼になんのご用です?」
「まだわかりません。だれです?」
「デュードネ・パプです。私のところで二十五年以上働いております。彼のことでなにかわかったとでもいうのですか?」
「結婚してますか?」
「数年前から男やもめです。つまり、結婚して二、三年後に男やもめになったと思いますよ」
「いまは一人暮しですか?」
「そうでしょう。彼の私生活は私には関係ありません」
「住所がわかりますか?」
「ここからすぐの、エクリューズ・サン・マルタン街に住んでます。ベルトさん、番地がわかる?」
「五十六番地です」
「一日じゅう働いているのですか?」
「八時間です、ここではだれでもそうです。ですが、かならずしも昼間だけではありません。倉庫は昼夜休まず営業してますし、トラックはしじゅう荷の積み下ろしをやってます。それで三交代システムにし、それぞれの班の時間割は毎週かわります」
「先週彼はどの班でしたか?」
ランクロワはベルトという若い娘のほうを向いた。
「調べてください」
彼女は書類を調べた。
「第一班です」
社長はその説明をした。
「ということは、彼は朝の六時に勤務につき、午後二時に終ったということです」
「この倉庫は日曜日も開いているのですか?」
「二、三人の監視人だけです」
「先週の日曜日、彼はその勤務についていましたか」
若い娘はふたたび書類を調べた。
「いいえ」
「今日の彼の任務は何時までですか?」
「第二班ですから、夜の十時で終ります」
「彼を交代させることはできないでしょうか?」
「彼にどんな用事があるのか、おっしゃっていただけませんか?」
「残念ですが」
「重要なのですか?」
「たぶん非常に重要でしょう」
「どんなことで彼を疑っているのですか?」
「お答えできません」
「あなたがどうお考えになっていようと、私はこの場で、あなたが間違っているといいたいですね。彼のような使用人ばかりでしたら、私にはなんの心配もないのですが」
彼は不満そうだった。なにをしに行くとも、メグレについて来いともいわずに、彼はガラス張りの事務室を出ると、庭をぐるりとまわって、デュードネ・パプに近づいた。
デュードネ・パプは社長がしゃべっている間平然とし、ただガラス張りの事務所をじっと見つめていた。ラングロワは倉庫の奥のほうに向かって、だれかを呼んだようだった。やがて、小柄な老人があらわれた。彼も仕事着をつけ、耳に鉛筆をはさんでいた。彼らは二、三言葉を交わし、老人は赤毛の男の手から細長い帳簿を取った。赤毛の男は社長について庭をまわってきた。
メグレは身動きしなかった。二人の男が入って来ると、ラングロワは大声でいった。
「司法警察局の警視さんがきみに話したいことがあるそうだ。きみが必要らしい」
「あなたにいくつかたずねたいことがあるのです、パプさん。ご同行ねがえるでしょうか……」
デュードネ・パプは仕事着を示した。
「着替えていいですか?」
「一緒に行きましょう」
ラングロワは警視にさようならもいわなかった。警視は倉庫係について、更衣室に使われている廊下のようなところまで行った。パプは一言も質問しなかった。五十歳を過ぎているにちがいない。物静かな、小心な男といった感じだった。外套を着、帽子をかぶると、通りのほうへ向かった。ジュデルはその右側に、メグレはその左側について歩いた。
外に車がないのに、パプはおどろいたようだった。パリ警視庁にすぐに連行されるものと予期していたようだった。黄色く塗ったバーの正面の街角を、町の中心部へ行かずに左にまわったとき、彼は口を開けてなにかいいかけたが、すぐ思い直した。
ジュデルには、メグレがカラの居酒屋《ビストロ》へ行くことがわかった。ドアにはあいかわらず鍵がかかっていたので、メグレはノックした。ムルスが開けに来た。
「入りたまえ、パプ」
メグレはふたたび鍵をかけた。
「あなたはこの家をよく知っていますね?」
パプは途方に暮れた。警察で尋問されるものと思っていたので、こういう事態になってとにかくおどろいていた。
「外套を脱いでいいですよ。火があります。あなたの席に坐りなさい。いつもきまった場所があるのでしょう?」
「どういうことです?」
「あなたはこの家となじみなのでしょう?」
「客です」
彼は料理場で男たちがカメラを持ってなにをしているのか知ろうとした。カラ夫人がどこにいるのか、彼はいぶかっているにちがいない。
「非常に良いお客でしたか?」
「良い客です」
「ここに日曜日来ましたか?」
彼は正直そうな男の顔をしていた。青い眼には優しさと臆病《おくびょう》さが同居していた。人間がなぜこんなに残酷な態度を示すのかと絶えず考えている動物の眼のようだった。
「坐りたまえ」
命じられたので、彼はおずおずと坐った。
「いま、日曜日のことであなたに質問をしたんだが」
「私は来ませんでした」
彼は答える前に考えた。
「一日じゅう家にいたのですか?」
「姉の家に行きました」
「パリに住んでいるのですか?」
「ノジャン=シュール=マルヌです」
「電話はありますか?」
「ノジャンの三一八番です。姉の夫は建築請負師です」
「お姉さん以外の人にも会いましたか?」
「姉の夫、子供たち。それに五時頃、いつもカードをやりに来る隣人たち」
メグレはジュデルに合図した。ジュデルはうなずき、電話室へ行った。
「何時にあなたはノジャンを出ましたか?」
「八時のバスに乗りました」
「家にもどる前にここに来ませんでしたか?」
「来ません」
「最後にカラ夫人に会ったのは?」
「土曜日です」
「先週はどの班でしたか?」
「朝の班です」
「それでは、あなたがここに来たのは午後の二時以後でしたね?」
「ええ」
「カラはいましたか?」
彼はふたたび考えた。
「私が来たときはいませんでした」
「でも、あとで帰って来たのですか?」
「おぼえていません」
「この店に長い間いましたか?」
「かなり長い間」
「ということは?」
「二時間以上です。はっきりとはわかりません」
「なにをしました?」
「酒を飲みながらおしゃべりしました」
「お客さんたちと?」
「主にアリーヌと」
この名前を口にして赤くなり、彼はあわてて説明した。
「私は彼女のことを女友達と考えています。ずっと前から私たちは知り合いなのです」
「どの位?」
「十年以上です」
「十年以上前から、あなたはここに毎日来ているのですか?」
「ほとんど毎日」
「亭主の留守をねらって?」
こんどは彼は答えず、不安そうに頭を下げた。
「あなたは彼女の愛人ですか?」
「だれがそんなことをいったのです?」
「だれでもいい。あなたは愛人なのですか?」
返事をするかわりに、彼はそわそわとたずねた。
「彼女をどうしたのです?」
メグレは正直に答えた。
「いま予審判事のところにいます」
「どうしてです?」
「ご主人が失踪したことについて、二、三質問に答えてもらうため。あなたは新聞を読まなかったのですか?」
デュードネ・パプは身動きもせず、うつろな眼で考え込んだので、メグレは呼んだ。
「ムルス! この男の指紋を取ってくれないか?」
男はおとなしくなすがままにさせた。おびえているというより、心配そうだった。紙の上においた指は、ふるえてはいなかった。
「くらべるんだ」
「どれとです?」
「料理場の二つの指紋。その一つは半分消えていた」
ムルスが立ち去ると、デュードネ・パプは咎《とが》めるような口調で、静かにいった。
「私が料理場に行ったかどうかを知るためにそうするのでしたら、私に聞いてくれればいいのです。私はよく料理場に行きました」
「先週の土曜日も行きましたか?」
「自分でコーヒーをつくりました」
「オメール・カラの失踪についてなにも知りませんか?」
重大な決意をすべきかどうかためらっている男のように、彼は絶えず考え込んだ様子をしていた。
「カラが殺され、ばらばらにされて運河に捨てられたのを、あなたは知らなかったのですか?」
それはとても印象的だった。ジュデルもメグレもそのことを予期していなかった。パプはゆっくりと視線をメグレに向けると、彼の顔付きをうかがっているようだったが、やがてあいかわらずおなじ静かな、咎《とが》めるような口調でいった。
「私にはなにもいうことがありません」
メグレは相手とおなじような静かな声でいった。
「カラを殺したのはあなたですか?」
それにたいしてデュードネ・パプは頭をふりながらくり返した。
「私にはなにもいうことがありません」
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第七章 カラ夫人の猫
メグレはデザートを食べている最中に、妻が唇に母性的な、いくぶんからかうような微笑をうかべて彼を見つめているのを意識しはじめた。
最初そのことに気づかないふりをし、皿に顔を伏せるようにして、さらにカスタードを二、三口呑み込んだが、最後に眼を上げてしまった。
「鼻の先に、なにかついているのか?」と、彼はぶつぶつたずねた。
「いいえ」
「それならなぜおれのことを笑ったんだ?」
「笑ったりなどしません。微笑《ほほえ》んだだけです」
「お前はおれを面白がっているみたいだ。それほどおれが滑稽《こっけい》かい?」
「滑稽ではないわ、ジュール」
彼女が≪ジュール≫と呼ぶのはまれだった。彼に同情したときしか、こういういい方をしない。
「それなら、なんだ?」
「テーブルについてから、一言もしゃべらないこと、ご存じないの?」
もちろん、彼はそのことに気がついていなかった。
「なにを食べたか、知っています?」
彼はわざとふくれてみせて、答えた。
「子羊の腎臓《じんぞう》さ」
「その前は?」
「スープ」
「なんの?」
「わからん。野菜のスープだろう」
「それほどあなたを悩ませているのはあの女なの?」
多くの場合……こんどの場合もそうだが……、メグレ夫人は夫がたずさわっている事件については、新聞で読む範囲しか知らなかった。
「あの女が殺したと思わないの?」
メグレは固定観念を追い払おうとするかのように、肩をすくめた。
「おれにはわからない」
「あるいはデュードネ・パプが殺し、あの女が共犯者とでも?」
彼はそんなことは重要ではないんだと答えたかった。実際、彼にとってはそんなことは問題ではなかった。重要なのは、理解することだ。ところで、彼はまだ理解していないだけではなく、事件の関係者たちを知れば知るほどますますわけがわからなくなってしまったのである。
捜査に専心するかわりに家に夕食にもどったのも、考えを変えたいためであり、惰性的《だせいてき》な日常生活に活を入れるためであり、ヴァルミィ河岸のドラマの主人公たちを別の角度からながめるためだった。
そのかわり、妻が冗談半分に指摘したように、彼は食事のあいだ口を開かず、カラ夫人のこと、パプのこと、それに付随して若いアントワーヌのことを一瞬たりとも考えることをやめなかった。
事件の解決がまだほど遠い、という感じをもつことは、メグレにはめずらしいことだった。もっと正確にいうと、この事件は技術的な捜査方法が問題ではなかったのである。
犯罪の種類はそれほど数が多くない。一般的には大ざっぱに三つか四つの大きなカテゴリーに分類できる。
プロの犯罪はきまりきった問題しかない。コルシカのギャング団の一人がドゥエ街の小さなバーでマルセイユのギャング団員を殺したとき、パリ警視庁にとってこれはもう数学の問題に取り組むようなもので、おきまりのやり方で解決できる。
一人か二人のぐれた若者がたばこ屋のおかみか、銀行の出納係を襲ったとき、その若者を追跡することになるが、これだってきまりきったやり方でできる。
痴情沙汰《ちじょうざた》でも、どうすればいいのかただちにわかる。
最後に、遺産や生命保険、あるいは被害者の金を手に入れるためのもっと複雑な計画のからんだ利害関係の犯罪でも、動機が見つかりさえすれば、あとはもうこちらのものだ。
こんどの場合、コメリオ判事は、カラ事件は利害関係が動機だという見方をしている。というのは、彼は自分の階級以外の人々に、ましてやヴァルミィ河岸の住民たちに複雑な私生活があるなどと考えてみたこともなかったからである。
デュードネ・パプがカラ夫人の愛人である以上、デュードネ・パプとカラ夫人は自由になるため、金を得るため、夫を片づけたにちがいないというのだ。
「彼らは十年以上前から愛し合っているのです」と、メグレは反駁《はんばく》した。「なせその間ずっと待っていたのです?」
判事は身振りでこの異議を制した。カラがかなり高額の金を手にしたか、この恋人たちが好機を待っていたか、またはカラ夫人と夫が喧嘩し、カラ夫人がもう愛想をつかしたか、あるいは……。
「たいして値打のないあの居酒屋《ビストロ》の他には、カラは金を持っていないことがわかりましたら?」
「居酒屋《ビストロ》があるよ。デュードネはゼニート運送で働くことにいや気がさしたので、あの小さな店の火のそばでスリッパを履いて人生を終えようと決心したのだ」
これはメグレがいくぶん心を動かされた判事の唯一の異議だった。
「それではアントワーヌ・クリスタンは?」
実際、判事はいま一人ではなく二人の容疑者を背負いこんでいる。クリスタンもカラ夫人の愛人である。金が必要なのはパプ以上かもしれない。
「他の二人がアントワーヌを使ったのだ。いまに彼があの二人の共犯者であったことがわかる」
これこそ予審判事の、ヴァルミィ河岸事件についてのお役所的な見解だ。真相が明るみに出るまで、彼らは三人とも拘留されていることになる。
メグレはコメリオに抵抗しなかった。面倒なのか、話がこみ入るのを恐れてか、すぐに譲歩してしまったので、なおのこと憂鬱《ゆううつ》になり、自分に腹を立てていた。
この職業に入った最初から、彼は上役から、ついで自分自身の経験から、事件についてのはっきりした見通しが立たなければ、容疑者にきびしい尋問をしてはならないことを知っていた。尋問は行きあたりばったりに質問を浴びせるものではないし、数時間どなりつければ白状するだろうという希望で、何度もくり返せばいいというものでもない。
どんなに知能の劣った容疑者でも、第六感みたいなものがあって、警察がいい加減にいっているのか、はっきりした証拠をもっていっているのか、すぐに見抜いてしまう。
メグレはいつでも待つほうを好んだ。困難な事件で、自分に自信が持てないときには、危険を覚悟で容疑者を必要なだけ自由に泳がせておいたほうがいいと判断する場合もあった。それはいつの場合でも成功した。
「逮捕された容疑者は、私たちの思惑に反して、いくぶんほっとするものだ」と、メグレはよくいっていた。「というのは、その容疑者は今後は自分がどこにいるのかをよくわきまえているからだ。尾行されていないか、秘かに看視されていないか、疑われていないか、罠《わな》を張られていないか、などともう考える必要もない。彼は起訴される。そこで自分を守る。今後は彼は法律の保護下にある。刑務所では、侵すべからざる者としての扱いをうける。彼にたいしてはすべてが、規則どおりにきちんと行われるにちがいない」
アリーヌ・カラがそのよい例だった。判事のオフィスに入るや、彼女はおし黙っていたのである。コメリオは彼女から、ノオ兄弟の大伝馬船で運ばれていた石のような反応以上なにも得られなかった。
「わたしにはなにもいうことはありません」と、彼女は無表情な声でいった。判事が彼女を質問攻めにすると、彼女はつけ加えた。
「弁護士のいないところで、あなたはわたしに質問する権利はありません」
「それなら、あなたの弁護士の名前をいいたまえ」
「わたしには弁護士はおりません」
「ここに弁護士協会のリストがある。選びたまえ」
「だれも知りません」
「だれでもいいから選ぶんだ」
「わたしにはお金がありません」
そこで官選弁護士を任命せざるをえなかったのだが、手続きがいろいろと面倒だったし、時間がかかった。
コメリオはその日の午後おそくなって、若いアントワーヌをオフィスに呼んだ。数時間ラポワントの尋問に抵抗していたアントワーヌは、判事にたいしても余計なことはなに一ついわなかった。
「おれはカラさんを殺しやしない。土曜日の午後ヴァルミィ河岸に行ってないし、東駅の手荷物預所にスーツケースを預けていない。あの従業員が嘘をついているか、間違っているんだ」
この間、彼の母親はハンカチを手でまるめ、眼を真赤にはらし、司法警察局の廊下で待っていた。ラポワントは母親に話しに行った。リュカも行ったが、彼女はメグレ警視に会うまで待つといってきかなかった。
素朴な人たちにはよくこういうことがあるのだ。彼らは下っぱの者ではどうしようもないと思いこみ、是が非でも責任者と話したがる。
この時間、警視は会いたくても彼女に会うことができなかった。というのは、ジュデルとデュードネ・パプと一緒にヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》を出たところだったからだ。
「店を閉めたら警視庁に鍵を持ってきてくれるね?」と、彼はムルスに頼んだ。
三人は歩道橋をわたって、ジェマープ河岸についた。エクリューズ・サン・マルタン街はすぐそばだった。この街はサン・ルイ病院のうしろにあり、この辺一帯は田舎を思わせる静かなところだった。パプは手錠をかけられていなかった。メグレは彼が不意に一目散に逃げようとするような男ではないと判断していた。
パプは物静かで、品があった。その物静かさはカラ夫人とおなじものであったかもしれない。彼はうちひしがれていたというより悲しそうで、顔には諦めに似たものがあった。
あまりしゃべらなかった。もともとあまりしゃべらない質の男にちがいない。質問にも最小限度の言葉でしか答えないし、ときには全然答えず、藍色《あいいろ》の眼で警視を見つめるだけだった。
彼は、地味でかなり感じのいい六階建ての古い建物に住んでいた。門番室の前を通ると、門番の女が立ち上がってガラス窓越しに彼らを見た。が、彼らは立ち止らずに、三階まで行った。パプは左手のドアを鍵で開けた。
彼のアパルトマンは三部屋だった。食堂、寝室、台所。その他に浴室に使われている物置部屋みたいなものがあった。メグレはそこに浴槽《よくそう》がおいてあるのを見てびっくりした。家具は当世風のものではないが、ヴァルミィ河岸の家のように古くはなかった。すべてがおどろくべきほど清潔だった。
「家政婦を雇っているのですか?」と、メグレはびっくりして聞いた。
「いいえ」
「あなたが自分で掃除するのですか?」
デュードネ・パプは思わず満足そうに微笑んだ。自分の部屋が得意だったのだ。
「門番の女が手伝いにきたことは一度もないのですか?」
台所の窓の上に鼠《ねずみ》入らず〔鼠が侵入しないように作った食器戸棚〕があり、食料が一杯つまっていた。
「食事も自分でつくるのですか?」
「そうです」
食堂の食器棚の上に、金色の額縁に入ったカラ夫人の引き伸した写真があった。こういった写真はどこのつつましい家庭にもあるもので、このアパルトマンに心地よい、家庭的な雰囲気をあたえていた。
ヴァルミィ河岸に写真が全然なかったことを思い出し、メグレはたずねた。
「どうやってこの写真を手に入れたのです?」
「私のカメラで撮り、サン・マルタン大通りの店で伸してもらったのです」
カメラは食器棚の引出しのなかにあった。浴室の隅の小さなテーブルには、フィルムの現像に使うガラスの現像皿と、現像液の壜とが載っていた。
「よく写真を撮るのですか?」
「ええ。とくに風景を」
そのとおりだった。家具のなかをさがすと、パリの隅々を撮した写真と、それほど数が多くはないが田舎の風景の写真が出てきた。運河やセーヌ河の写真が多かった。すばらしい光の効果を得るために、デュードネ・パプは撮影の瞬間を長い間待ったにちがいない。
「お姉さんのところにはどのスーツをきて行きましたか?」
「紺色のスーツです」
彼は現在着ているものを含めて、三着のスーツを持っていた。
「このスーツを持って行くんだ」と、メグレはジュデルにいった。
「靴も」
柳の籠《かご》のなかに汚れた下着があったので、メグレはそれもスーツや靴と一緒にした。鳥籠のなかでカナリヤが飛びまわっているのに気づいたが、カナリヤをどうしようかと考えたのは、部屋を出る間際にすぎなかった。
「この鳥の世話を引き受けてくれる人を知っていますか?」
「門番の女がよろこんでしてくれると思います」
メグレは鳥籠を持って出ると、門番室の前で立ち止った。彼がノックする前に、ドアが開いた。
「あなたはまさか連れて行くというのではないでしょうね?」と、門番の女は怒って叫んだ。
彼女がいっているのはカナリヤのことではなく、ここの住人のことだった。彼女は所轄署のジュデルに気がついた。メグレのことも気がついたにちがいない。それに彼女は新聞を読んでいた。
「この人のような、世間でいちばんいい人を、悪人扱いするなんて!」
彼女はひどく小柄で、髪も顔色も黒く、だらしない服装をしていた。金切声だった。いまにも爪でひっかかれるのではないかと思うほど、彼女は怒っていた。
「しばらくカナリヤを預っていただけますか?」
彼女は文字通りメグレの手から鳥籠をひったくった。
「この建物の人や、近所の人たちがみんな、このことをどう思うか、あんたにわかってるんですか! デュードネさん、わたしたちはすぐに刑務所に会いに行きますからね」
下層階級の女たちは中年をすぎるとよく、独身者やデュードネ・パプのように規則正しい生活を送っている男やもめに、崇拝の念みたいなものを抱くものなのだ。三人の男が遠ざかっても、彼女はまだ歩道に立ち、涙を流しながら別れの手を振りつづけていた。
メグレはジュデルにいった。
「衣類と靴をムルスに持って行ってくれ。そいつをどうしなければならないかは彼にはよくわかっている。それとヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》を見張るのを忘れないように」
メグレはこの見張りを、はっきりした理由がないのに命じていた。なにかあったら後で非難されるのを避けるためであったかもしれない。デュードネ・パプは歩道の端でおとなしく待っていた。それからメグレの歩幅に合わせて歩いた。彼らはタクシーをさがすため運河に沿って進んだ。
車のなかで、パプはなにもいわなかった。メグレも質問するのを避けた。パイプにたばこを詰めると、メグレはパプに差し出した。
「パイプを喫いますか?」
「いいえ」
「シガレットは?」
「喫いません」
メグレはそれでも一つの質問をした。が、それはカラの死と関係あるようには思えなかった。
「あなたは酒も飲まないのですか?」
「ええ」
これもまた異常である。メグレはこのことをなかなか認めることができなかった。カラ夫人はアルコール中毒である。彼女は数年前から飲みはじめている。たぶんパプを知る前から飲んでいるのかもしれない。
ところで、アルコール中毒者が酒を飲まない人の前で我慢できることはめったにない。警視はカラ夫人とデュードネ・パプに多少とも似たカップルをいくつか知っている。しかし彼の記憶するかぎり、どのカップルの場合も、男と女は共に酒を飲む。
彼はテーブルについたまま、妻に見つめられているのも知らずに、いつの間にかこれらのことを反芻《はんすう》していた。彼が考えていたのはこれだけではなかった。
アントワーヌの母親のこともある。彼は司法警察局の廊下で彼女を見つけ、自分のオフィスに案内した。このときすでに、彼はパプを、こういってリュカにまかせていた。
「パプがここにいることをコメリオに知らせてくれ。判事がオフィスに連れて来いといったら、そうしてほしい。そうでなければ、留置場に連れて行くんだ」
パプはなんの反応も示さず、リュカについてオフィスの一つに行った。メグレはアントワーヌの母親を連れて遠ざかった。
「警視さん、うちの息子は誓ってあんなことをできる子ではありません。蝿《はえ》も殺せないような子なんですから。猛者《もさ》ぶってるだけなんですよ、それが今の若い人たちの流行なんです。わたしはあの子のことをよく知っています、あの子はまだねんねなんです」
「そうでしょう、奥さん」
「そう思うのでしたら、なぜあの子をわたしに返してくれないのです? あの子をもう夜一人で外出させませんし、女にも会いに行かせません、約束します。あの女はわたしとほとんどおなじ年齢《とし》なんですよ、それなのに、自分の息子であってもおかしくない子供にぬけぬけと罪をかぶせるなんて! しばらく前から、わたしはどうもおかしいと思っていたんです。頭髪用のコスメチックは買いに行くし、一日に二度も歯をみがいたり、香水なんかつけたりしているんで、これはどうやら……」
「あの子は一人っ子なんですか?」
「そうです。父親が結核で死んだので、なおのことあの子を大切に育てたのです。わたしはあの子のためになんでもしてやりました、警視さん。せめてあの子に会うだけでも、あの子に話をするだけでも! 母親が息子に会うのを止められると思いますか? このまま放っておけると思います?」
彼女をコメリオのもとに送るより手がなかった。それがいくぶん卑怯であることはメグレにもわかっていた。が、どうしようもなかったのである。検事局の廊下のベンチで、彼女はふたたび待ちつづけるにちがいない。しかしメグレには判事が彼女に会ってくれるかどうかはわからなかった。ムルスが六時ちょっと前に警視庁にもどってくると、ヴァルミィ河岸の鍵をメグレにわたした。旧式の大きな鍵で、メグレはパプのアパルトマンの鍵と一緒にポケットに入れた。
「ジュデルから衣服と、靴と、下着をもらったね?」
「実験室においてあります。血痕をさがすのですね?」
「それが主な狙いだ。明朝、パプのアパルトマンに行ってもらうことになるかもしれない」
「食事をしてきてから、今夜仕事にかかります。急ぐのでしょうね?」
いつでも急ぎだった。一つの件に手間取れば手間取るほど、手掛りは消えていくし、犯人に用心する時間をあたえてしまう。
「今夜はここですか?」
「わからない。とにかく出るときにはデスクの上に書き置きしていくよ」
手持ちぶさたの人間のように、メグレがパイプにたばこを詰めて立ち上がり、ためらいがちに肱掛椅子を見つめたので、メグレ夫人は思い切っていった。
「夜の間ぐらい心を休ませたらどうです? 事件のことはもう考えるのやめなさい。本を読むか、映画にでも行ったら。そうすれば明日の朝、すがすがしい気持で起きられるわ」
彼は陰険な眼つきで夫人を見た。
「お前は映画に行きたいのかい?」
「モデルヌ座でかなりいい映画を演《や》っているわ」
彼女はコーヒーを出した。メグレは手に硬貨を持っていたら、今夜はそれを空中に投げて裏か表かいい当てて遊んだかもしれない。
メグレ夫人は映画のことはもうそれ以上いわず、彼がゆっくりコーヒーを飲めるように気を遣った。彼は食堂のなかを大股で行き来し、ときどき立ち止ってはじゅうたんをじっと見つめたりした。
「映画に行けない!」と、彼はやっと決心した。
「外出するの?」
「そうだ」
外套に腕を通す前に、彼はりんぼく酒を小さなグラスに自分で注いだ。
「遅くなるの?」
「わからん。そんなことはないだろう」
これからしに行くことが、それほど重要には思えなかったので、彼はタクシーにも乗らなければ、警視庁に電話して警察の車をよこさせることもしなかった。地下鉄《メトロ》の入口まで歩き、シャトー・ランドン駅で地下鉄を降りた。
このヴァルミィ河岸のあたりは、ふたたび夜の不穏な表情を取りもどしていた。家々の影にはなにかがうずくまっているようだし、歩道の脇には娼婦たちがじっと立っていたし、バーのなかは水族館に似た青緑色の照明だった。
カラの居酒屋《ビストロ》のドアのそばに男が一人立っていて、メグレのほうに突進してきた。メグレが足をとめると、顔に懐中電灯を向けた。
「ああ! 失礼しました、警視。暗かったのであなたとは気がつきませんでした」
その男はジュデルのところの警官だった。
「なにかあったか?」
「なにもありません。いや、一つありました。興味があるかどうかはわかりませんが、一時間ほど前タクシーがこの河岸を通り、五十メートルほど手前でスピードをゆるめました。タクシーはそのまま走りづづけ、この居酒屋《ビストロ》の前に来るとさらにスピードをゆるめましたが、停りはしませんでした」
「だれが乗っていたか見たか?」
「女です。車が街燈の前を通ったとき、それがコートを着た若い女であることをたしかめました。帽子はかぶっていませんでした。タクシーは遠ざかると、スピードを増し、ルイ・ル・ブラン街で左に曲って行きました」
カラ夫人の娘のリュセットではないか? 母親が釈放されたかどうかをたしかめに来たのではないか? 彼女は母親が警視庁に連行されたことは新聞で知ったが、いままでのところ、それ以上のことは新聞に書かれていない。
「女はきみに気がついたと思うか?」
「気がついたと思います。ジュデルは隠れているように注意しませんでした。ですから、私はたいていの時は、からだを温めるために歩きまわっていたのです」
他の推測も成り立つ。リュセット・カラはこの店が見張られていない場合には、なかに入るつもりではなかったのか? もし入るつもりだったとすれば、なにを取るためだったのか?
メグレは肩をすくめ、ポケットから鍵を取り出すと、ドアを開けた。すぐには電気のスイッチが見つからなかった。今まで彼は一度もここのスイッチを押したことがなかった。一灯だけ電気がついた。奥の電気のスイッチを見つけるため、カウンターのほうに向かった。
ムルスとその助手たちは立ち去る前にすべてを元通りにしていった。したがって、この小さな店のなかはなにも変わっていなかった。ただ火が消えてしまい、空気が冷たくなったことぐらいだった。料理場に向かったとき、そばでなにかが音もなく動いたのではっとなった。が、すぐにそれがさきほど肉屋のおかみに預けてきた猫だということがわかった。
猫は彼の脚にからだをこすりつけてきた。メグレはかがみ込むと、猫を撫でてやった。
「お前はどこから入ってきたんだい?」
そのことが彼には気にかかった。庭に面した料理場のドアは閂《かんぬき》がかかっている。彼は階段を上がり、二階の明りをつけて、半ば開いたままの窓があったのを見てやっと合点がいった。隣りの家の庭に、トタン屋根の車庫がある。猫はその屋根から二メートル以上を一気に飛んだのだ。メグレは階下《した》に降りた。陶器の水差しに牛乳が少し残っていたので、それを猫にあたえた。
「さて、どうするか?」と、彼は猫に話しかけるように大声でいった。
この人気《ひとけ》のない家のなかで、このペアはきっと奇妙な様子をしていたにちがいない。
主人も立っていなければ、客もいない居酒屋《ビストロ》のカウンターがいかにわびしく、荒涼たるものか、彼はいままで気がつきもしなかった。しかし、最後の客を送り出し、カラがよろい戸を閉め、鍵をかけたとき、店内は毎晩こんなものなのだろう。
そのときカラと妻は二人きりになる。あとは電気を消し、料理場を横切り、寝に行くだけだ。カラ夫人は一日じゅう壜《びん》からじかに飲みつづけたコニャックのおかげで、ほとんどいつももうろうとしている。
彼女は夫から隠れて酒を飲んでいたのか? あるいは、夫は毎日午後、外でビリヤードができることに満足して、酒の大好きな妻を大目に見ていたのか?
メグレは突然、ほとんどなにもわかっていない人物が一人いることを悟った。あの死んだ男だ。最初から彼は、すべての者にとって、ばらばらにされた死体だった。警視がよく感じることであるが、人々は奇妙なことに、ばらばらで見つかった死体の前では普通の死体のときとおなじ反応……たとえば、おなじ憐れみとか、おなじ嫌悪の情を示さないのだ。そのばらばら死体がまるで人格をもたないもの、滑稽《こっけい》といっていいようなものになったかのように。いまにも笑い話の種にされかねない。
メグレはカラの顔をまだ見ていない。あいかわらず首は見つかっていないし、今夜も見つからないにちがいない。写真も見ていない。
カラは百姓の生まれで、ずんぐりしていた。毎年ポワティエ付近のぶどう栽培者のところにぶどう酒を買いに行っていた。かなり上等な毛織物のスーツを着、午後は東駅の近くでビリヤードをやっていた。
妻の他に女が一人か二人いたのだろうか? 留守の間に、店でなにがあったかを彼は知らずにいたのか?
彼は当然パプに会ったにちがいない。彼がどんなに鈍い男でも、妻とパプとの関係を見抜いたはずだ。
二人は愛人同士というばかりでなく、相互理解と、寛容と、多くを許し合える相当の年配の夫婦にして初めて持てる特別な愛情とから生まれる、穏やかな、深い感情で結びついた老夫婦といった印象をすでにあたえていた。
カラがそのことを知ったら、諦めるだろうか? 黙って眼を閉じていたのか、それとも逆に、妻に食ってかかったのか?
アリーヌ・カラの弱みにこっそりつけ込んでいた若いアントワーヌのような人たちにたいしては、彼の反応はどうだったのか? 彼はその辺のことも知っていたのか?
メグレはついにカウンターのところへ行き、どのアルコールの壜を選ぶかためらったが、結局カルヴァドスの壜をつかんだ。銭入れ引出しのなかに金を入れるのを忘れてはいけないと思った。
猫がストーブのそばに来て坐ったが、ちっともあたたかくないのにびっくりして、眠るどころかもぞもぞ動いていた。
メグレはカラ夫人とパプの関係を理解していた。アントワーヌのことも、束の間の男たちのことも理解していた。彼に理解できないことは、カラと妻との関係である。どのようにして、どういう理由でこの二人は一緒になり、ついで結婚し、長い歳月をおたがいに暮し、娘までつくったのか? だが彼らは、娘は自分たちとなんのかかわりもないかのように、無関心でいるらしい。
そのことを解き明かしてくれる写真一枚、手紙一通ない。部屋のなかにも、この夫婦の精神状態を見抜けるものはなにもない。
彼はグラスを空《あ》け、不機嫌そうにもう一杯注ぐと、手にグラスを持ち、テーブルのところへ行って坐った。カラ夫人がいつも自分の席のように坐っていたテーブルだ。
パイプを踵《かかと》で叩き、別のパイプにたばこを詰めて火をつけると、カウンターに、グラスに、壜にじっと眼をやった。そのとき、彼の質問にたいする、少なくとも彼の質問の一部分にたいする解答が見つかりつつあるのではないかという気がした。
結局、この家は何|間《ま》だったのか? 夫婦は店の奥のテーブルで食事していたので、食事には使わない料理場と、ただ眠るだけでしかない寝室。
カラにしろ、妻にしろ、彼らはここで、この店で暮していたのだ。この店こそ、彼らにとって、普通の夫婦の食堂であり、居間であるのだ。
この夫婦はパリに来るや、ほとんどすぐにヴァルミィ河岸に居をかまえ、以来ずっとここにいたのか?
メグレはいま、カラ夫人とデュードネ・パプの関係にも新たな光が投げかけられたような気がした。彼は微笑んだ。
しかしそれはまだ非常に漠然としているので、はっきりした言葉で彼の考えを表現することはできなかった。それでも数時間前から彼の行動に影響をおよぼしていたあの気弱さはなくなった。グラスを空けると、電話室に行き、留置場を呼んだ。
「こちら、メグレだが。だれだね? きみか、ジョリ? 新しい客人はどうだ? そう、カラ夫人のことだ。なんだって? それできみはどうした?」
メグレはカラ夫人に同情した。彼女は二度看守を呼び、いくらでもお金を払うからアルコールを少し持ってきてくれるように頼んだのである。アルコールが奪われれば、彼女がひどく苦しむだろうということを彼は考えつかなかった。
「もちろん、だめだ……」
彼は、規則を無視してもかまわないから彼女にアルコールをあたえるように、ジョリに勧めることはできなかった。明朝、自分自身で持って行くか、彼のオフィスであたえるかするだろう。
「彼女から取り上げた身分証明書を見たい。そこにあるはずだ。彼女がジアンの付近の出であることはわかっているんだが、村の名前が思い出せないのだ」
かなり長い間待たされた。「なんだって? サン・タンドレのボワサンクール。ありがとう、きみ! おやすみ! 彼女にあまりきびしくしないでくれよ」
彼は電話案内局を呼び出し、名を名乗った。
「モルタルジとジアンの間にあるサン・タンドレのボワサンクールの電話番号をさがしてほしいのですが。ボワサンクールの電話加入者のリストを読みあげてください」
「そのままお待ちになりますか?」
「待ちます」
長くはかからなかった。というのは、この電話交換手は有名なメグレ警視に協力できるということで勇み立ったからだ。
「書きとめますか?」
「ええ」
「アイユヴァール、シェーヌ通り、無職」
「つぎ」
「アンスラン、ヴィクトール。肉屋。番号をいいますか?」
「いや」
「オノレ・ド・ボワサンクール、ボワサンクールの城館《シャトー》」
「つぎ」
「カミュゼ医師」
「その番号を教えてください」
「十七番」
「つぎは?」
「カラ、ロベール。家畜商人」
「番号は?」
「二十一番」
「カラ、ジュリアン。食料品屋。番号は三番です」
「もうカラはないですか?」
「はい。あとはルーシェ、無職。ピエブフ、蹄鉄工。シモナン、雑穀商」
「それでは、リストの最初のカラを呼んでいただけますか、ついで二番目のも?」
電話交換手が相手の交換手と話しているのが聞こえ、つづいて別の声がいった。
「サン・タンドレに変わりました」
サン・タンドレのボワサンクール二十一番はなかなか出なかった。やっと女の声が聞こえてきた。
「どなたです?」
「パリ司法警察局のメグレ警視です。カラ夫人ですか? ご主人は家におられますか?」
彼は風邪を引いて寝ていた。
「オメール・カラという者と親戚ですか?」
「あの人がどうかしたのですか? なにかわるいことでも?」
「あなたは彼のことを知っていますか?」
「わたしは一度も会ったことがありません。わたしはここの生まれではなく、オート・ロワールの生まれですから。わたしが結婚したとき、あの人はもうこの村を出ていました」
「それではご主人の親戚ですか?」
「いとこです。あの人にはこの村にまだ弟がいます。食料品屋のジュリアンです」
「彼のことで他になにか知りませんか?」
「オメールのことで。いいえ、知りません。それに、これ以上のことを知りたくもありません」
彼女は受話器をかけてしまったにちがいない。別の声がたずねたからだ。
「警視さん、二番目にかけますか?」
こんどはすぐに電話に出た。男の声だったが、その男はさっきよりもっと寡黙だった。
「あなたのおっしゃることはよくわかりましたが、はっきりいってあなたは私になにをお望みなのです?」
「オメール・カラはあなたの兄さんですね?」
「オメールという名の兄がおりました」
「死んだのですか?」
「私にはどうなったかわかりません。二十年以上前から、もう二十五年ほどになりますか、全然便りがないのです」
「オメール・カラという者がパリで殺されたのです」
「ラジオでさきほどそのことを聞きました」
「その男の特徴も聞きましたか? あなたの兄さんに似ていましたか?」
「あまりにも長い間会ってないので、なんともいえません」
「兄さんがパリに住んでいたのを、知っていましたか?」
「知りません」
「結婚したことは?」
沈黙。
「兄さんの奥さんを知っていますか?」
「いいですか。私にはなにもいうことはありません。兄がこの村を出たとき、わたしは十五でした。それ以来一度も会っておりません。手紙も受け取ってません。知ろうともしませんでした。兄のことが知りたいのでしたら、カノンジュ先生《メートル》に電話したらいいでしょう」
「だれです?」
「公証人です」
最後に、カノンジュ公証人のところに電話すると、奥さんが叫んだ。
「まあ、なんという偶然の一致でしょう」
「どうしてです?」
「いまあなたは電話をくださいました。どうしてわかったのです? さきほどラジオでニュースを聞いたとき、主人はあなたに電話をするべきか、それとも会いに行くべきかと迷ったのです。最後に、パリに行く決心をし、八時二十二分の列車に乗りました。正確な時間はわかりませんが、真夜中少しすぎには、オステルリッツ駅に着くはずです」
「ご主人がいつも泊まるホテルは?」
「昔は、列車がドルセイ駅まで行っていましたので、≪ホテル・ドルセイ≫にいつも泊りました」
「ご主人はどんな様子をしていますか?」
「髪は灰色で、背が高くてがっしりしていて、ハンサムですわ。褐色の外套に、褐色のスーツを着、書類カバンの他に、豚皮のスーツケースを持っております。あとどういったらいいかしら」
受話器をかけたとき、メグレは思わず満足そうな微笑を洩らし、もう一杯飲むところだったが、駅で十分飲む時間があるだろうと考えてやめにした。
彼にはまだ、メグレ夫人に電話して、今夜は遅くなると伝えることが残っていた。
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第八章 サン・タンドレの公証人
カノンジュ夫人の言葉は大げさではなかった。彼女の夫は六十歳ぐらいのハンサムな男で、田舎の公証人というより豪農を思わせる。改札口の柵に近い、ホームの端に立っていたメグレは、遠くからでもすぐにこの男がわかった。公証人は十二時二十二分の列車で来た乗客たちのなかで、背がひときわ抜きん出ている。片手に豚皮のスーツケースを持ち、もう一方の手に書類カバンを持って、しっかりした足どりで歩いてきた。そのくつろいだ様子から、彼がこの駅にも、この列車にも慣れていることが見てとれる。
背が高くて、がっしりしている上に、彼を他の乗客から区別しているのはその服装だった。凝り過ぎるほど凝っている。外套はありふれた褐色ではなく、メグレが見たこともないような、めずらしいソフトな栗色で、その仕立などみごとなものだった。
血色のいい顔に、銀髪だった。駅のホールの薄暗い光の下でも、この男がきちんとしていて、ひげもきれいにそっていることがわかる。控え目にオーデコロンをつけているかもしれない。
柵の五十メートルほど手前で、彼の視線は待っている人々のなかのメグレをとらえた。そして記憶が定かでない人のように眉をひそめた。彼も新聞で警視の写真をちょくちょく見ているのにちがいない。さらに近づくと、まだためらいつつも微笑みかけ、手を差し出した。
メグレも二歩前に進んだ。
「カノンジュ先生?」
「そうです。メグレ警視ですか?」
彼はスーツケースを足許におくと、差し出された手をにぎった。
「まさか偶然ここにいらっしゃるのではないでしょうね?」
「ええ。今夜あなたの家に電話したのです。奥さんが、あなたが列車に乗ったこと、≪ホテル・ドルセイ≫に泊ることを教えてくれましたが、安全を期して、ここで待っていたのです」
公証人にはまだわからないことがあった。
「私の広告を読んだのですか?」
「いいえ」
「そいつは奇妙だ! まずここから出ましょう。≪ホテル・ドルセイ≫にご同行ねがえますか?」
彼らはタクシーに乗った。
「私はパリにあなたに会いにきました。明朝いちばんに電話するつもりでした」
メグレは間違っていなかった。彼の連れはオーデコロンと、上等の葉巻の香りがかすかにしていた。
「カラ夫人を逮捕したのですか?」
「コメリオ判事が逮捕状にサインしました」
「これには異常な物語があるのです……」
タクシーは河岸に沿って走り、数分後には≪ホテル・ドルセイ≫に着いた。ドア・ボーイが公証人をうやうやしく迎え入れた。
「レストランはもう閉まっているだろうね、アルフレッド?」
「はい、カノンジュさま」
公証人はメグレに説明しはじめたが、その話をメグレはよく知っていた。
「戦争前、パリ=オルレアン線の列車がすべてこのドルセイ河岸まで来ていた当時、駅のレストランは終夜開いていたものです。とても便利でしたよ。ホテルの部屋で話すのもなんですから、どこかに一杯飲みに出ませんか?」
彼らはサン・ジェルマン大通りをかなり歩き、やっと開いているビヤホールを見つけた。
「なにを飲みます、警視?」
「生ビール」
「私にはいちばんいいブランデーを、ボーイさん」
二人は帽子と外套を取って、腰掛に坐った。メグレはパイプに火をつけ、カノンジュは金のナイフで葉巻の先を切った。
「あなたはまだサン・タンドレにいらしたことがないでしょうね?」
「一度も」
「国道から離れていますし、観光客を惹きつけるものがなにもないのです。ところで、今日のラジオがいっていたあのサン・マルタン運河のばらばら死体は、あのカラのやつに間違いないでしょうね?」
「死体の指紋が、ヴァルミィ河岸の家から採取された指紋と一致するのです」
「死体発見を報じる新聞記事を読んだとき、私は直感しました。すぐにでもあなたに電話をかけるところでした」
「カラを知っていますか?」
「昔、知っていました。彼の奥さんになった女《ひと》もよく知っています。私がいま迷っているのは、どこから話をはじめたらいいかです。この話は想像以上に複雑なのです。アリーヌ・カラは私のことをあなたに話しませんでしたか?」
「ええ」
「夫殺しに彼女が加わっていたと思いますか?」
「私にはわかりません。予審判事はそう確信しています」
「彼女はどう弁解してます?」
「なにもいっておりません」
「自白しましたか?」
「いいえ。ただ黙っているだけです」
「警視、彼女は私がこれまでに会ったうちでもっとも異常な人間だと思います。しかし、田舎ではときどきああいった風変わりな人間がいるものなのです」
彼は話を聴かせることに慣れている人間にちがいない。金の認印つき指輪を目立たせるかのように、手入れの行きとどいた指の間に葉巻をはさみ、自分自身の声に聞きほれていた。
「話の最初からはじめたほうがいいでしょう。もちろん、あなたはオノレ・ド・ボワサンクールのことを聞いたことがありませんね?」
警視はうなずいた。
「彼は私の地方では≪金持の男≫です、というよりまだ一カ月前までは、そうだったのです。ボワサンクールの城館《シャトー》の他に、全部で二千ヘクタールに達する十五の農園と、それに千ヘクタールの森と、二つの池を所有していました。田舎に通じていれば、あなたにもそれがどんなものかわかっていただけるのですが」
「私は田舎の生まれです」
メグレは田舎の生まれであるばかりではなく、父親はおなじ程度の土地の管理人だったのである。
「いま、このボワサンクールがどんな人間であったかを知るのがあなたの役に立つと思います。そのためには、彼の祖父に話をさかのぼらせる必要があります。この祖父のことは、サン・タンドレで公証人をやっていた私の父がまだ知っていました。この祖父はボワサンクールという名ではなく、デュプレ、クリストフ・デュプレでした。城館《シャトー》の小作人の伜であった彼はまず、家畜商人として身を立てましだが、かなりあくどい真似をして短期間で財産をつくりました。こうした男もあなたはよく知っていられると思います」
メグレは話を聞きながら、ちょっと子供の頃に逆もどりしたような印象をうけた。彼の田舎では村いちばんの金持になったのがクリストフ・デュプレのような男だったし、その息子はいまや上院議員だったからだ。
「ある時期、デュプレは小麦の売り買いをはじめ、この投機がうまく行ったのです。この儲けで、まず農園を買い、つづいて二つ三つと農園を買い、したがって死んだときには、かつては子供のいない寡婦のものであったボワサンクールの城館が、その付属物ともども彼の所有になっていました。クリストフには息子と娘がいました。娘は騎兵の士官と結婚し、息子のアランは父親が死ぬと、デュプレ・ド・ボワサンクールを名乗りはじめました。そして少しずつ、デュプレを口にしないようにして行き、県会議員に選ばれると、法律の許しを得て名前を変えました」
この話もまたメグレにいろいろなことを思い出させた。
「いままでは古い世代の話です。さて、この王国の創立者ともいうべきクリストフ・デュプレの孫であるオノレ・ド・ボワサンクールは一カ月前に死にました。
オノレ・ド・ボワサンクールはエミリー・デスピサックという娘と結婚しました。付近の没落した旧家の娘です。彼女は女の子を生んだあと、この子がまだ幼いうちに馬の事故で死んでしまいました。私はこのエミリーをよく知っています。美人ではありませんでしたが、チャーミングで、淋しげなところのある女でした。彼女は文句ひとついわず両親の犠牲になったのです。人々は、ボワサンクールはいわばこの娘を買うために、両親に百万フランをあたえたのだと噂《うわさ》しておりました。ボワサンクール家の公証人としていわせてもらえれば、この数字は大げさですが、それでもデスピサック老伯爵夫人がかなりの金額を、結婚契約書にサインした日に受け取ったことは本当です」
「オノレ・ド・ボワサンクールはどんな人ですか?」
「これからそのことをお話します。私は彼の公証人でした。数年の間、私は週に一度|城館《シャトー》で食事し、絶えず彼の領地で狩りをしていました。ですから彼のことはよく知っています。なによりもまず、彼はえび足です。あの猜疑心の強い、暗い性格はいくぶんかはこれが影響しているでしょう。また、彼の祖先たちの話がだれにでも知られていたことや、あの地方の城館の多くが彼に門を閉ざしていたことが、彼を社交嫌いにしたにちがいありません。
一生涯彼は、みんなが自分を軽蔑している、しめし合わして自分から物を盗《と》ろうとしている、という妄想に取りつかれていました。したがって、やられる前にまず守りを固めることに汲々《きゅうきゅう》としていたのです。
城館のなかの小塔を自分専用のものにし、これを書斉がわりにして、小作人や番人たちの勘定書だけではなく、御用商人のどんなに些細な勘定書まで調べて一日を過していたのです。肉屋や食料品屋の数字を赤インクで直したりしました。彼は、召使いの食事の時間によく台所に降りて行っては、彼らがぜいたくな料理を食べていないかたしかめたりしました。私は職業上の秘密をあなたにしゃべったことにたいして、なんの不都合も感じておりません。私がしゃべらなくても、サン・タンドレのだれかがあなたにおなじことを話すでしょう」
「カラ夫人は彼の娘ですか?」
「そのとおりです」
「オメール・カラは?」
「彼は城館で四年間下僕として働いていました。彼の父親はくだらない大酒飲みの日雇いでした。これでやっと二十五年前の話になります」
彼は通りがかったボーイに合図し、メグレにいった。
「こんどは私と一緒にブランデーにしたらいかがです? ボーイさん、ブランデーを二つ!」
それから警視のほうを向くと、つづけた。
「もちろんあなたはヴァルミィ河岸を訪れたとき、こんなことが背景にあるとは思いもよらなかったでしょうね」
全然そうではなかった。メグレは公証人の話を聞いても少しもおどろかなかったのである。
「ペトレルという老医師と、アリーヌのことでときどき議論したことがあります。この医師は不幸なことに亡くなり、いまではカミュゼ医師があとを継いでいますが。このカミュゼ医師は彼女のことを知りませんから、あなたになにもいうことができないでしょう。私自身も、専門用語で彼女の症状を述べることができません。
ごく小さなときからすでに彼女には他の子供たちと違ったところがありました。なんとなく人を気詰りにさせるところがあったのです。彼女は他の子供とは遊びもせず、学校にも一度も行きません。というのは、父親が住込みの家庭教師をつけたがったからです。実際は一人の家庭教師も居つかず、少なくとも十二人がつぎつぎに代りました。彼女は家庭教師たちがいられないようにしてしまうのです。
彼女は他の子供たちと違った生活を送らされたことで、父親を非難したのでしょうか? あるいはペトレル医師がいったように、そんなことよりもっとずっと複雑なものがあるのでしょうか? 私にはわかりません。娘というものは多くの場合、父親を崇拝するものです、ときとして必要以上に。私と妻の間には子供がありませんので、私にはその経験はありません。こうした崇拝が憎悪に変わることがあるのでしょうか?
とにかく、彼女はボワサンクールを絶望させようとたくらんでいたふしがあります。十二歳のとき、城館に火をつけようとして見つかりました。彼女はこの時期、しょっちゅう火をつけまわったので、そばで彼女を監視していなければなりませんでした。
ついで、オメールがあらわれました。オメールは彼女より五つか六つ年上で、百姓たちのいう≪いい若造≫でした。たくましく丈夫で、主人が背中を向けるや、眼に不敵な色をうかべていました」
「二人の間になにがあったか、あなたはご存じですか?」と、メグレはほとんど人気のなくなったビヤホールをぼんやりと見つめながらたずねた。ボーイたちは最後の客たちが出て行くのを待っている。
「そのときは知りませんでした。後になってペトレルからそのことを聞いたのです。ペトレルによれば、彼女は十三か十四にならないうちからオメールに関心を持ちはじめたはずです。そういうことはこの年齢の娘たちにはよくあることですが、普通は漠然としていて多少プラトニックな色合を帯びているものなのです。
彼女の場合はそれとは違っていたのでしょうか? 良心の呵責《かしゃく》など感じないカラは、こうした場合の普通の男より、ずっと破廉恥《はれんち》な態度を取ったのではないでしょうか?
とにかくペトレルは、長い間二人のあいだには怪しい関係があったと確信しています。ペトレルによれば、アリーヌは父親に挑戦し、父親を失望させることしかほとんど考えていなかったようです。
そのとおりであったかもしれませんが、これは私の領分ではありません。ただ私がこういったことをこまごまとしゃべったのは、これからあとの話を理解してもらいたいためです。ある日、彼女は……まだ十七歳にもなっていませんでした……、こっそりと医者に行ってからだを診てもらいました。医者は彼女が妊娠しているといいました」
「彼女はそのことをどう受けとめましたか?」と、メグレはたずねた。
「ペトレルの語ったところによると、彼女は医師をじっと、きびしく見つめ、口のなかでぶつぶついったそうです。
≪しめたわ!≫
かれこれするうちに、カラは肉屋の娘と結婚してしまったのです。彼女も妊娠したし、数週間前に子供を生んだからです。
カラは城館《シャトー》で下僕として働きつづけました。彼には他に仕事がなかったのです。妻は実家で両親と暮していました。
ある日曜日、村人たちはアリーヌ・ボワサンクールとオメール・カラがいなくなっていることを知りました。
城館の召使いたちの話によると、前の晩にアリーヌと父親との間で喧嘩騒ぎがあったそうです。二時間以上の間、二人が小さな客間で激しく言い争っている声を召使いたちは聞いております。
ボワサンクールは私の知っているところでは、娘を一度もさがそうとはしませんでした。私の知るかぎり、彼女のほうも一度も父親に手紙を書いておりません。カラの最初の妻ですが、彼女は神経衰弱にかかり、三年の間ぶらぶらしていましたが、果樹囲の樹で首を吊ってしまいました」
ボーイたちは大部分のテーブルの上に椅子を積み重ね終えていた。彼らの一人は手に大きな金時計を持って、メグレたちをながめていた。
「私たちは出て行ったほうがよさそうですね」と、メグレは提案した。
カノンジュは飲物の代金を払うといってきかなかった。二人は外に出た。夜は寒く、空には星が輝いていた。二人はしばらく然って歩いた。口を開いたのは公証人だった。
「まだ開いている店を見つけて、最後の一杯をやりましょうか?」
そこで二人はそれぞれの考えにふけりながら、ラスパイユ大通りをかなり歩いてしまい、モンパルナスで青っぽい照明の小さなナイトクラブを見つけた。音楽が外まで聞こえた。
「入りますか?」
彼らは案内されたテーブルには行かずに、カウンターに坐った。二人の娼婦がかなり酔っている太った男にしつこくつきまとっていた。
「おなじものでいいですか?」
ポケットから新しい葉巻を取り出しながらカノンジュはたずねた。
二、三組のカップルが踊っていた。二人の娼婦が部屋の向こう端からメグレたちのわきに来て坐った。が、警視が合図すると、彼女たちはおとなしく立ち去った。
「ボワサンクールとサン・タンドレにはまだカラ家の者がおります」
「知ってます。家畜商人と、食料品店」
カノンジュは軽く笑った。
「その家畜商人が、こんどは城館《シャトー》とその領地を買えるほど大金持になったのですから、話は面白いでしょう! カラ家の一人はオメールの弟で、もう一人は彼のいとこです。オメールにはジアンの憲兵と結婚した妹もいます。ボワサンクールが一カ月前、テーブルに坐っていて脳溢血《のういっけつ》で死んだとき、私はこの三人に、オメールについてなにか知っていないかと思って、会いに行ったのです」
「ちょっと待ってください」と、メグレは相手の話をさえぎった。「ボワサンクールは娘の相続権を剥奪《はくだつ》してなかったのですか?」
「あのあたりでは、みんな、相続権を剥奪したと思っていました。だれがあの財産を相続するのだろうと噂していました。というのは、あのような村では、すべての村人が多少とも城館にかかわりを持っているからなのです」
「あなたはご存じだったのでしょう?」
「いいえ。ここ数年の間に、ボワサンクールは何通もの遺言書を作成しましたが、その一つひとつが違ったものでした。その遺言書はどれも私に預けませんでした。つぎつぎに破ってしまったにちがいありません。どれ一つとして見つからないのですから」
「それでは、彼の娘が財産を相続するのですね?」
「自動的に」
「あなたは新聞に広告を載せませんでしたか?」
「載せましたよ、こうした場合いつもするように。ただカラの名前を書くわけにはいきませんでした、彼らが結婚しているかどうか私にはわからなかったからです。こうした広告はあまり読まれません。私はその効果をほとんど期待しておりません」
彼はブランデーのグラスを空にし、妙な眼つきでバーテンをながめた。列車に食堂車がついていたとしたら、パリに着く前に、すでに一、二杯飲んでいたにちがいない。顔は赤くなっていたし、眼はぎらぎら輝いていた。
「おなじものですか、警視?」
メグレも自分で思っている以上に飲んだにちがいない。彼はもういらないとはいわなかった。肉体的にも精神的にも爽快だった。彼には第六感が備わっていて、この事件に登場する人物の役割を完全につかむことができるような気がした。
公証人の助けがなければ、彼はこれらの話を知ることはできなかっただろうか? 彼は数時間前にすでに真相からそれほど遠くないところにいた。その証拠に、サン・タンドレに電話しようと考えたではないか。
たとえすべてを見抜けなかったとしても、彼がカラ夫人について抱いた印象は、いま彼が知ったことと一致していたではないか。
「彼女は酒を飲みはじめたのです」急にしゃべりたくなって、こんどはメグレがいった。
「知っています。私は彼女に会いました」
「いつです? 先週?」
この点にかんしても、彼は真相を予感していた。しかし、カノンジュは彼にしゃべらせなかった。サン・タンドレでは、カノンジュは人に話をさえぎられることに慣れていないにちがいない。
「順番に話させてください、警視。私が公証人であり、公証人というのはこせこせした人間なのです」
彼は笑った。彼の二つ向こうのストゥールに坐っていた娼婦が、そのときたずねた。
「わたしも一杯いただいていいかしら?」
「ああ、いいよ。そのかわり、私たちの会話を邪魔しないでほしいね。きみが考えているよりもずっと大切な話なんだから」
満足そうに彼はメグレのほうを向いた。
「それで、三週間のあいだ、私の広告は気違い女の手紙のほかは、なんの効果もありませんでした。結局、アリーヌを見つけさせてくれたのは広告ではなく、百万に一つという偶然でした。一週間前、修理に出していた猟銃がパリから急行便で送り返されてきました。猟銃が届いたとき、私はちょうど家にいて、私自身がトラックの運転手にドアを開けたのです」
「ゼニート運送のトラックですか?」
「ご存じですか? そのとおりです。私は運転手にぶどう酒を一杯差し出しました。田舎ではそれが習慣なのです。カラの食料品店は教会の広場にある私の家のちょうど正面です。ぶどう酒を飲みながら窓から外をながめていた運転手がつぶやきました。
≪あれはヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》とおなじ一族なのかな?≫
≪ヴァルミィ河岸にカラという人がいるのですか?≫
≪奇妙な小さい居酒屋《ビストロ》でしてね、先週初めてそこに入ったんです。私を連れて行ってくれたのは、うちの倉庫の検査係の一人でしてね≫」
メグレはその検査係がデュードネ・パプであることを疑わなかった。
「その検査係が赤毛であるかどうか聞きませんでしたか?」
「ええ。私はその問題のカラのファースト・ネームを聞きました。運転手は店先に名前が書いてあったのを漠然とおぼえていて、懸命に思い出そうとしてくれました。私がオメールじゃないかといってみますと、そのとおりだと彼は断言しました。念のため、その翌日私はパリ行きの列車に乗りました」
「夜の列車?」
「いいえ。朝のです」
「何時にヴァルミィ河岸に着きましたか?」
「午後の三時ちょっとすぎです。かなり薄暗い居酒屋のなかに、女が一人いました。すぐにはその女がだれか私にはわかりませんでした。彼女にカラ夫人ではないかとたずねますと、そうだと答えました。そこで私は、彼女のファースト・ネームを聞きました。彼女はほろ酔い加減のようでした。彼女は酒を飲むんですね?」
彼だって飲んでいる。彼女ほどではなかったが、しかし、いまでは赤い眼をしている。
メグレはさらにもう一度グラスに酒が注がれたのかどうか、もうおぼえていなかった。ストゥールを変えた女が公証人の腕をつかんでもたれかかってきた。彼女が公証人の話をいままで聞いていたとしても、表情を欠いたその顔にはいかなる変化もあらわれていなかった。
「≪あなたの旧姓はアリーヌ・ド・ボワサンクールですか?≫と、私はいいました。
彼女はなにもいわずに私を見つめていました。赤毛の太った猫を膝に抱いてストーブのそばに坐っていたのを思い出します。私はつづけました。
≪お父上の亡くなったことをご存じですか?≫
彼女は知らないといい、おどろきも悲しみもしませんでした。
≪私はお父上の公証人で、いまお父上の遺産を委託されています。カラ夫人、お父上は遺書を残しませんでした。したがって城館《シャトー》とその領地と、彼のすべての財産があなたのものになるのです≫
彼女はたずねました。
≪わたしの住所がどうしてわかったのです?≫
≪偶然にここに来たトラックの運転手から≫
≪他にだれが知っています?≫
≪だれも知っているとは思いません≫
彼女は立ち上がると、料理場のほうに行きました」
もちろん、コニャックを飲みに行ったのだ!
「もどってきたとき、彼女は決心をしたようでした。
≪わたしはあのお金はいりません≫と、彼女は興味のなさそうな声でいいました。
≪相続を拒否する権利が、わたしにはあるのでしょう?≫
≪いつの場合でも相続を拒否する権利はあります。しかし……≫
≪しかし、なんですの?≫
≪私はあなたが熟考なさるように忠告します。軽々しく決心なさいませんように≫
≪わたしはよく考えました。お断わりします。わたしの居場所をあなたがだれにもいわないように要求する権利も、わたしにはあると思いますが?≫
話している間じゅう、彼女はときどき不安そうな眼で外を見ました。だれかが店に入ってくるのを恐れているかのように。たぶん夫でしょう。少なくとも私はそう想像しました。私は、それが義務なものですから、しつこくいい張りました。ボワサンクールには他に相続人がいないのです。
≪もう一度出直したほうがよさそうですね≫と、私は申し出ました。
≪いいえ。もう来ないでください。あなたがここにいることを、オメールには絶対に見られないようにしてください≫
おびえたように彼女はつけ加えました。
≪そうなればすべては終りです!≫
≪ご主人に相談すべきだとは思いませんか?≫
≪主人になんて、とんでもない!≫
私はふたたび彼女を説得しようとしました。それから帰る間際に名刺をわたし、近日中に考えが変わったら、電話をくれるなり、手紙を書くなりしてほしいといい残しました。そのとき客が一人入ってきました。あの店にはなじみのようでした」
「顔にあばたのある赤毛の男?」
「そうだったと思います」
「なにが起こりましたか?」
「なにも。彼女は前掛のポケットに私の名刺をすべり込ませると、入口まで私を案内してくれました」
「それは何日でしたか?」
「先週の木曜日です」
「その後彼女とは会っていませんね?」
「ええ、しかし、彼女の夫とは会いました」
「パリで?」
「サン・タンドレの私の事務所で」
「いつです?」
「土曜日の朝。金曜日の午後か夜に、サン・タンドレに着いて、最初、金曜日の八時頃私の家にあらわれました。私は医師の家でブリッジをやっていましたので、女中が彼に明日また来るようにいったのです」
「彼に見覚えがありましたか?」
「ええ、肥ってはいましたけれど。彼は村の宿屋で泊ったにちがいありません。もちろん、そこでボワサンクールの死を知ったのでしょう。と同時に、妻が遺産相続人であることも知ったはずです。そうなると、彼はすぐに横柄になり、夫として妻の名義の遺産を受け取る権利があるはずだと言い張りました。彼らには夫婦財産契約書がなかったので、つまり共有財産制になるのです……」
「ということは、彼らにはどちらが欠けてもなにもできないというわけですか?」
「私は彼にそのようにいったのです」
「この問題を彼が奥さんとすでに話し合っていたという印象をうけましたか?」
「いや。最初、彼は妻が遺産相続を拒否したことさえ知りませんでした。彼は自分の知らないうちに妻が遺産を手に入れたと思っているようでした。このときの彼とのやりとりは長すぎますので、細かくはいいません。私の考えでは、彼は私の名刺を見つけたのです。おそらく私のわたした名刺を、彼女はそこらにおきっぱなしにしておいたのでしょう。ボワサンクールの遺産相続のことなどなければ、サン・タンドレの公証人がヴァルミィ河岸の家までわざわざやって来ますか?
私の家でしゃべっているうちに、彼は真相がわかりはじめたのです。彼は怒って出て行きました。いずれ自分から連絡するといい残し、ドアを乱暴に閉めて……」
「彼とはそれ以後会っていませんか?」
「彼からの連絡もありません。彼が怒って出て行ったのが土曜日の朝です。彼はモンタルジまでバスで行き、そこからパリ行の列車に乗りました」
「あなたの考えでは、何時の列車だと思います?」
「たぶんオステルリッツ駅に三時数分に着く列車でしょう」
ということは、彼は四時頃に家に帰ったことになる。タクシーに乗ったとしたら、もうちょっと早くなる。
「ヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》のすぐそばのサン・マルタン運河から男のばらばら死体が見つかった、という新聞記事を読んだとき」と、公証人はつづけた。「実をいうと私ははっとしました。この一致に私はショックをうけました。さきほどいったように、私はもう少しであなたのところに電話をかけるところでしたが、あなたに笑われるのではないかと思ってやめました。私があなたに会いに行く決心をしたのは、ラジオでカラの名前を聞いてからです」
「もう一杯いただける?」と、公証人のわきの女が、空のグラスを指さして聞いた。
「ああ、いいとも。さて、あなたは私の話をどう考えます、警視?」
警視という言葉に、女は公証人の腕を離した。
「私は別におどろきません」とメグレはつぶやいた。頭が重くなりはじめていた。
「でも正直にいって、このような話とは思ってもみなかったでしょう! こうした風変わりなことは田舎でしか起こりません。はっきりいって私自身だって……」
メグレはもう公証人の話を聞いていなかった。アリーヌ・カラのことを考えていた。彼はいまでは心のなかで、彼女をはっきりととらえることができた。少女時代の彼女さえ想像することができた。
ところで、この彼女の人物像にメグレはおどろかなかったとしても、やはり、彼が感じ取っていることを言葉で説明するのは大変だった。とくにコメリオ判事のような人間には。明日、判事がメグレの話を容易に信じないことはわかっていた。
コメリオはこう反駁《はんばく》するだろう。
「それでも彼女は、愛人とぐるになって、夫を殺したのだ」
オメール・カラは死んでいる。もちろん自殺ではない。だれかが致命の一撃をあたえ、ついでその死体をばらばらにしたのだ。
メグレはコメリオの金切声が聞こえそうな気がした。
「これが冷静に計画された犯行ではないって? これが? きみはそれでも痴情沙汰だといい張りたいのか? いや、メグレ。これまできみの話を傾聴することはあったが、こんどばかりは……」
カノンジュはなみなみと注がれたグラスをメグレに差し出した。
「あなたの健康を祝して!」
「あなたの健康を祝して」
「あなたはいまなにを考えていたのです?」
「アリーヌ・カラのこと」
「彼女はただ父親を怒らせるためにオメールについて行ったと思いますか?」
公証人にさえ、たとえブランデーを何杯か飲んだあとでも、彼が理解したと思っていることを説明することは不可能だった。まず、ボワサンクールの城館《シャトー》で昔あの少女がしたことを、すでに一つの抗議であったとして認めなければならない。
ペトレル医師ならばこのことを彼よりうまく説明するにちがいない。最初に放火未遂。つぎにカラとの肉体関係。最後に、他の娘だったら堕胎するところを、カラとの駆落ち。
これもまた、おそらく一種の挑戦ではないのか? あるいは嫌悪か?
メグレは、転落する人たち、とくに好んで自分を汚し、たえず下へ下へと転落することに病的なほど夢中になる人たちは、いつの場合でも理想主義者なのだと、これまでにもたびたび、経駿豊かな人をも含めて、多くの人々に納得させようとしてきた。
しかし、それはむだなことだった。コメリオなどはこう彼に答えるだろう。
「彼女は生まれつき身持の悪い女だった、といったほうがいいだろう」
ヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》で彼女は酒を飲みはじめた。これもまた彼女に似合っている。また、あそこから逃げ出そうとしないで残っていたことも、居酒屋《ビストロ》の雰囲気になれ親しんでいたことも、いかにも彼女らしい。
メグレはオメールのことも理解したと思った。彼は田舎の多くの若者の夢を実現したのだ。つまり給仕や運転手をやって金をかせぎ、パリで居酒屋《ビストロ》の主人となったのである。
オメールはこの居酒屋《ビストロ》で気楽な生活を送っていた。カウンターから地下室へのろのろ行ったり、年に一、二度ポワティエにぶどう酒を買いに行ったり、午後は毎日、東駅のビヤホールでブロットやビリヤードをやっていた。まだ彼の私生活を調べてはいなかったが、メグレはたとえ彼の個人的な満足にすぎなくとも、後日調べてみるつもりだった。ビリヤードヘの情熱の他に、オメールはあの辺のかわいい女中やお針子たちと、みだらな浮気をたのしんでいたにちがいない。
彼はボワサンクールの遺産を当てにしていたのか? それはありえない。というのは、彼も村人たちのように、あの城主が娘の相続権を剥奪したものと思っていたにちがいないからだ。彼に希望をあたえたのは公証人の名刺だった。
「私にわからないことは」と、カノンジュはいった。「ねえ、メグレさん、これまであらゆる類《たぐい》の相続人を見てきた私ですが、この私にして納得いかないことは、天から降ってきたような財産を彼女が断ったことです」
逆に、警視にとってはそれは当り前のことだった。現在の状態から見て、金は彼女になにをもたらすだろうか? ボワサンクールの城館《シャトー》にオメールと住みに行くだろうか? 二人ともパリやその他の場所で、たとえばコート・ダジュールなどで、大金持の人々を真似た生活を送りはじめるだろうか?
彼女は穴にこもる動物のように、あの片隅に、自分でつくったあの片隅にとどまっていることを好んだのだろう。
彼女はあそこで変わりばえのしない毎日をだらだらと送っていた。料理場のドアのうしろでコニャックをがぶ飲みし、午後はデュードネ・パプの訪問を受ける。
パプもまた、ここに来るのが習慣のようになっていた。パプは彼女のすべてを知っていたのだから、おそらく習慣以上のものであったろう。彼女はパプの前では恥かしくはなかった。二人はストーブの前で黙って並んで坐っていることができた。
「あなたは、彼女が夫を殺したと思いますか?」
「そうは思いません」
「彼女の愛人が?」
「そうでしょう」
バンドマンたちは楽器を片づけていた。この店もまもなく閉店なのだ。メグレたちは外に出ると、ふたたびサン・ジェルマン・デ・プレのほうに歩いた。
「あなたのお住いはここから遠いのですか?」
「リシャール・ルノワール大通りです」
「それじゃ、お送りしましょう。なぜ彼女の愛人はオメールを殺したのです? 彼女が遺産を受け取る決心をすることを望んでいたのでしょうか?」
二人とも足許が定まらなかった。が、パリの通りをふらふら歩くのは気持がよかった。ときたまタクシーが通るので、わきによらなければならなかった。
「私はそうは思いません」
明日、メグレはコメリオには別の口調で話さなければならないだろう。というのは、今夜の声には感傷的なところがあるのを彼は悟っていたからだ。
「それではなぜ彼女の愛人はオメールを殺したのです?」
「サン・タンドレから帰ってオメールが最初にやったことはなんだと思います?」
「私にはわかりません。そうですな、オメールは怒って、妻に金を受け取るように命じたのではありませんか?」
メグレの心に、あるイメージがよみがえった……寝室のテーブルの上の、インク壜と二、三枚の白い紙しか入ってない吸取紙帖である。
「そのほうが彼の性格に合います、そうでしょう?」
「そうですね」
「オメールが、遺産を受け取るといった趣旨《しゅし》のことを紙に書くように命じ、彼女が頑としていうことをきかなかったと想像してごらんなさい」
「そうしたら、あの男は妻をめった打ちにするでしょう。私の村の百姓のことは私にはよくわかります」
「彼はそれまでにもよく彼女を殴っていたそうです」
「結局、あなたがなにをいいたいのか、私にはわかりはじめました」
「家に帰ると、彼は服も着替えなかったのです。土曜日の午後四時頃でした。彼はアリーヌを寝室に来させ、命令し、おどし、殴ったのです」
「そのとき彼女の愛人がやって来た?」
「それがもっとも無理のない解釈です。デュードネ・パプはあの家をよく知っています。二階の騒ぎを聞いて、パプは料理場を通り抜け、アリーヌを助けに二階に上がったのです」
「そして彼女の夫を殺した!」と、公証人はおどけて結論をいった。
「故意にしろ偶然にしろ、パプは殺しました。なにかの道具で相手の頭を殴りつけたのでしょう」
「そのあとで死体をばらばらにする」
上機嫌だったカノンジュは、こういって笑った。
「こいつはおかしい!」と、彼は叫んだ。「ああ、おかしい、オメールがばらばらにされたなんて。いいですか、あなただってオメールを知っていれば……」
夜気は彼の酔いをさますかわりに、アルコールの効果を高めたようだった。
「こんどは私を少し送ってくれますか?」
二人とも廻れ右をして少し歩くと、また廻れ右してもどってきた。
「あれは妙な男だな」と、メグレはため息をついた。
「だれです? オメール?」
「いや、パプ」
「名前が法王《パプ》とは念がいってますね」
「パプというだけではなく、|神の授け物《デュードネ》・法王《パプ》なんですよ」
「こいつはおかしい!」
「あの男は私の出会ったうちでもっとも物静かな人間です」
「彼がオメールをばらばらにしたのはそのせいにちがいありません!」
実際、殺人の痕跡をあれほどうまく消すには、彼のような、孤独で、辛抱強く、細心な男でなければできなかったにちがいない。ムルスや彼の部下たちは、いろいろな器具を使ったのにもかかわらず、ヴァルミィ河岸の家から、犯罪が行われた証拠をなに一つ見つけ出せなかった。
アリーヌ・カラは部屋をきれいに片づける手伝いをしたのではないか? 彼女は証拠となるようなしみがついている、下着やシーツなどを隠す手伝いをしたのではないのか?
パプはただ一つへまをやった。メグレが家のなかに汚れた下着がないことにおどろき、クリーニング屋に問い合わせることを予想していなかったことである。
あのカップルの望みはなんだったのか? 運河からカラのばらばら死体の一部が見つかるまでに、数週間や数カ月が経過し、ばらばら死体の身許がわからなくなってしまうことか? ノオ兄弟の大伝馬船が建築用石材を数トン余計に積み込まず、船腹が運河の底にふれなかったら、そのようになったかもしれない。
首はセーヌ河か下水にでも投げ捨てたのか? メグレは数日後にその答えを知るだろう。いずれすべてのことを知るだろうが、それらのことは彼にはもう月並な興味しかなかった。重要なことは、三人の人物の間で演じられたドラマであり、そのドラマの主題である。メグレには、そのドラマと主題を正しくつかんでいるという確信がある。
犯罪の痕跡を消したあと、アリーヌとパプは新しい生活……今までの生活とそれほど異なったものではなかったが……ヘの希望を、きっと抱いたにちがいない。
しばらくの間、パプはこれまでのように、午後あの小さな居酒屋《ビストロ》で一、二時間過しつづけるだろう。そしてその訪問時間は少しずつ長くなって行き、客や近所の人たちがオメールのことを忘れたら、あの家にすっかり居ついてしまう。
アリーヌはアントワーヌ・クリスタンやその他の男たちにいままでどおり黙って身をまかせているだろうか?
そうかもしれない。メグレはこの面まで深入りしたくはなかった。
「こんどこそ、お別れしましょう!」
「明日ホテルに電話してもよろしいでしょうか? いくつか形式的な手続きが必要なものですから」
「電話などいただく必要はありません。九時に私があなたのオフィスにうかがいます」
もちろん、九時になぞ、公証人はあらわれなかった。メグレは公証人がそういう約束をしたことさえ忘れていた。警視はあまりいい気分ではなかった。今朝、妻に肩をゆすられて眼をさましたとき、彼の心には罪の意識があった。コーヒーはすでにナイト・テーブルの上におかれている。
メグレ夫人は奇妙な微笑をうかべていた。いつもより母性的で、いくぶんやさしかった。
「気分はいかが?」
眼ざめたとき、これほど頭が痛かった記憶は彼にはなかった。酒を飲みすぎたのだ。酔って家に帰ったことなどめったになかった。もっともじれったかったのは、酒を飲みすぎたなどという意識が自分になかったことだった。ブランデーのグラスを一杯、また一杯と重ねていくうちに、酔いが少しずつまわってしまったのだ。
「昨夜、アリーヌ・カラのことであなたがわたしにいったことをおぼえている?」
彼は思い出したくなかった。というのは、ますます感傷的になっていたような気がするからだ。
「あなたは恋をしている男のようだったわ。わたしはねたましかった……」
彼は顔を赤らめた。夫人はあわてて彼を安心させた。
「冗談ですよ。ああいったことをすべて、コメリオにこれから話しに行くんでしょ?」
それでは彼はコメリオのことも彼女に話したのか? そうだ、コメリオに話す仕事が残っている。ただ、彼はおなじ話し方はしないだろう!
「なにか変わったことはないか、ラポワント?」
「なにもありません、警視《パトロン》」
「夕刊につぎのような広告を載せてくれないか。日曜日、東駅の手荷物預所にスーツケースを預けるのを依頼された若者は、警察に連絡されたし」
「アントワーヌではなかったんですか?」
「彼ではない。パプはあの店の常連にそんなことをたのまなかっただろう」
「でもあの従業員がはっきりと……」
「彼はアントワーヌとほとんどおなじ年頃の、革ジャンパーを着た若者を見た。そんな格好をした若者ならあの辺にはたくさんいる」
「パプに不利な証拠があるんですか?」
「彼は自白するよ」
「あの二人をこれから尋問するのですか?」
「捜査の現状から見て、コメリオが自分でやりたがると思う」
いまではすべてが容易だった。もはや出まかせに質問を浴せることもなかったし、警視庁でいうところの、≪釣に行く≫こともなかった。もっともメグレは、アリーヌ・カラとデユードネ・パプをぐうの音《ね》も出ないほど追いつめるかどうか、考えていた。二人とも最後まで頑張ったが、もはやしゃべらざるをえないのだ。
判事のオフィスで一時間近く過したあと、メグレはそこから公証人のカノンジュに電話した。公証人は電話の音にびっくりして眼をさましたにちがいない。
「どなたです?」と、公証人が妙な声でいったので、メグレは思わず微笑んだ。
「メグレ警視です」
「何時ですか?」
「十時半です。予審を引受けているコメリオ判事が、できるだけ早くオフィスであなたに会いたがっています」
「すぐにうかがうと判事にお伝えください。ボワサンクールの書類を持っていったほうがいいですか?」
「どうぞ」
「私はあなたを遅くまで寝かせなかったのではないでしょうね?」
公証人はメグレよりもっと遅く寝たにちがいない。メグレと別れたあともどこかをうろついたのだ。というのは、受話器にけだるそうな女の声が聞こえたからである。「いま何時なの?」
メグレは自分のオフィスにもどった。ラポワントがたずねた。
「判事は彼らを尋問するつもりですか?」
「うん」
「まず女からですか?」
「パプからはじめたほうがいいと判事にすすめておいた」
「パプは簡単に口を割るでしょうか?」
「割るだろう。私の考えでは、カラを殺したのは彼なんだから、なおさらだ」
「外出するのですか?」
「市立病院ではっきりさせたいことがある」
それは細かいことにすぎなかった。彼はリュセット・カラに会うのに、手術が終るまで待たなければならなかった。
「もうあなたは新聞で、お父さんの死とお母さんが逮捕されたことを知っていますね?」
「おそかれ早かれ、こうしたことが起こると思っていました」
「最後にお母さんに会いに行ったのは、お金をもらうためではなかったのですか?」
「ちがいます」
「それでは、なにをしに?」
「ラヴォ教授の離婚が認められれば、わたしと教授は結婚するのです。そのことを母に知らせに行ったのです。教授はわたしの両親に会いたがっていました。わたしは母に恥かしくないようにしていてもらいたかったのです」
「ボワサンクールが死んだことをご存じですか?」
「だれですの?」
彼女は本当におどろいた様子だった。
「あなたのお祖父《じい》さんです」
彼はつまらないことを知らせるかのように、表情のない声でつけ加えた。
「有罪にならなければ、お母さんは城館《シャトー》と、十八の農園と、何百万というお金を相続します」
「本当ですか?」
「≪ホテル・ドルセイ≫に泊っている公証人のカノンジュと会うといいでしょう。彼はこの遺産相続の仕事をまかされているのですから」
「一日じゅうホテルにいますか?」
「いると思います」
彼女は母親がどうなるのかをメグレにたずねなかった。彼は肩をすくめながら彼女のもとを去った。
この日、メグレは空腹ではなかったので昼食を取らなかった。が、ビールを二杯飲んだ。ビールのおかげで胃の調子がよくなった。午後はずっとオフィスに閉じこもっていた。彼の前にはヴァルミィ河岸の居酒屋《ビストロ》の鍵と、パプのアパルトマンの鍵とがおいてあった。いつもはいやでたまらない管理上の仕事を、彼はせっせとやった。今日はこうした仕事をやることに意地の悪いよろこびを感じているようだった。
電話が鳴るたびに、彼はいつもより勢いよく受話器をつかんだ。が、電話線の向こうにコメリオの声を聞いたのは、五時を少し過ぎてからにすぎなかった。
「メグレ?」
「そうです」
判事は勝利のよろこびをかろうじて抑えていた。
「彼らを逮捕させたことは正しかった」
「三人とも?」
「いや。若いアントワーヌはたったいま釈放した」
「他の二人は自白しましたか?」
「うん」
「すべてを?」
「|われわれ《ヽヽヽヽ》が想像していたとおりのことを。まず男からはじめたのは、われながらうまい考えだった。私は起こったにちがいないことをくわしく彼に語ってきかせた。彼は反論しなかった」
「女は?」
「パプは彼女の前で自白をくり返した。したがって彼女は否認することはできなかった」
「彼女はなにもつけ加えませんでしたか?」
「ただ、私のオフィスを出るとき、きみが彼女の猫の世話をしてくれているのかどうか聞いたよ」
「あなたはどう答えたのです?」
「きみには他にやるべきことがあると」
そのことで、メグレは一生コメリオ判事を怨むにちがいなかった。(一九五五年作)
[#改ページ]
訳者あとがき
私の好きなメグレ物は『男の首』(一九三一)であり、『霧の港』(一九三二)であり、『メグレの休暇』(一九四八)であり、『メグレ罠を張る』(一九五五)であり、『メグレと若い女の死』(一九五四)である。これらの作品に共通していることは、犯罪者がすべて、貧しい生まれの者たちであるということ。オランダやポーランドから出かせぎにきた外国人だったり、田舎から集団就職した若者だったり、家出娘だったり、娼婦だったりである。
つまり、貧しいためにいつのまにか人生の方向を間違えてしまった者たちばかりである。≪運命の修理人≫を任ずるメグレ警視は、だからこれらの犯罪者たちにかぎりない悲しみと、怒りと、温かいいたわりの心を抱く。
これとは逆に、ブルジョワ階級での犯罪を描いたメグレ物はどこかよそよそしい。金持の人間の世界に入っていくと、メグレは異質の世界にきたようにとまどってしまう。彼らをどう扱っていいのかわからなくなってしまうのである。
この『メグレと首なし死体』も私の好きな作品の一つである。動物が穴ぐらでひっそりと生きていくように、パリの片隅でひっそりと暮している人たちが主人公である。主人公はメグレがもっとも愛着をおぼえる人たちである。
個人的なことをいわせてもらえば、この作品を初めて読んだ当時、私はまだ早川書房の編集部にいた。この作品の評判を知り、さっそく原書を取りよせて読み、翻訳権を申し込んだ。しかし、翻訳権料が高すぎたため、あきらめざるをえなかった。それがいま、こうやって自分の手で翻訳することができたのである。
翻訳してみて、当時よりずっとこの作品の深い味わいがわかった。これはメグレ物のなかでも一、二を争う傑作だと思う。年齢《とし》を取れば取るほど、人生経験を経れば経るほど、ますますこの作品の良さがわかってくる傑作である。
前半が首なし死体の身許をめぐる謎解き的興味であり、後半は心理的な追求となる。作品の傾向としては、『メグレ罠を張る』に近い。これはメグレ物の作品リストをながめていて偶然に気がついたことだが、この二つの作品はおなじ年に書かれている。おなじ年に続けて二つの傑作を書いているシムノンという作家にはただ驚嘆するしかない。
『メグレと首なし死体』はパリの十区、サン・マルタン運河のわきのヴァルミィ河岸と、ジェマープ河岸が舞台である。サン・マルタン運河といえば、映画『北ホテル』で、鉄の歩道橋の下を大伝馬船が砂利や石炭を積んで通って行く風景をごらんになったと思う。この風景はこの運河独特の情緒である。しかし、両わきの河岸はいかにも場末らしいごみごみしたところである。工場、倉庫、運送屋、小さな居酒屋《ビストロ》が寒々と並び、夜になると人通りがまったくなくなり、濃い闇があたりをおおう。
この辺の小さな居酒屋《ビストロ》の主人には、田舎から出てきてタクシーの運転手やボーイをやり、苦労して蓄めた金で店を持った者が多い。
『メグレと首なし死体』はこうした場所で起こった人生の悲劇なのである。ここの雰囲気こそ、暗い過去を背負って生きる人々にふさわしく、それだけにいっそう彼らの悲劇をうかびあがらせるのに役立っている。この作品のカラ夫人は、七十八冊あるメグレ物のなかでも、もっともみごとに描かれた、もっとも印象に残る一人であろう。