メグレと老外交官の死
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
訳者あとがき
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登場人物
[#ここから1字下げ]
クロミエール……外務省の官吏
ジャケット・ラリュー…サン・ティレール伯爵の家政婦
アラン・マズロン……サン・ティレール伯爵の甥
マズロン夫人……アランの別居中の妻
イザベル・ド・V……サン・ティレール伯の永遠の恋人
フィリップ・ド・V……イザベルの息子
ジュリアン・ド・V……イザベルの孫
オボネ……公証人
パルドン……医師。メグレの友人
メグレ……司法警察局警視
ムルス……鑑識課員
ジャンヴィエ……司法警察局刑事
リュカ……司法警察局刑事
ラポワント……司法警察局刑事
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第一章
その年の五月には輝きと、風情《ふぜい》と、幼年時代の思い出の匂いがあった。人の生涯に二度か三度しかないような例外的な五月。メグレはそういった五月を『頌歌《しょうか》の五月』と呼んでいた。それというのもメグレに、最初の聖体拝領と、すべてが新しく、素晴らしかったパリでの最初の春を思い出させてくれるからである。
通りで、バスのなかで、オフィスで、メグレは遠くの音や、一陣の生暖かい風や、ブラウスの明るい模様にはっと立ち止まり、二十年か三十年昔に連れもどされることがある。
前日パルドン夫妻と食事に行ったとき、メグレ夫人は顔を赤らめるようにして彼にたずねた。
「この年齢《とし》で、花模様のドレスを着て、おかしすぎないかしら?」
友達のパルドンはその夜、趣向を変えていた。いつものように自宅に招くかわりに、メグレ夫妻をモンパルナス大通りの小さなレストランに連れて行き、そこのテラスで夕食をとった。
メグレと夫人は何も言わずに、ひそかに視線を交わした。三十年ほど前、二人が初めて向かい合って食事をしたのが、このテラスだったからだ。
「羊の煮込みはあるかな?」
店主は変わっていたが、相変わらずメニューには羊の煮込みがあり、テーブルにはぐらぐらするランプがあり、桶のなかには観葉植物があり、食卓用水差しにはシャヴィニョールの赤ぶどう酒が入っていた。
四人ともひどく陽気だった。コーヒーのとき、パルドンはポケットから白い表紙の雑誌を取り出した。
「ところで、メグレ、『ランセット』のなかにきみのことが書いてある」
この有名な、ひどく地味なイギリスの医学雑誌のことを知っている警視は眉をひそめた。
「きみたちの職業一般について書いてあるということだが。この記事はリチャード・フォックスという医学博士の手になるものだ。きみたちに関係ある部分を多少逐語訳的に翻訳してみよう。
『自分の科学的知識と、診察室での経験を拠《よ》りどころにする思慮深い精神科医は、人間を理解するための最短の場所にいる。しかし、とくに理論に影響を受けやすいような精神科医は、傑出した小学校の教師や、小説家や、あるいは警察官よりも人間を理解していないと言っていい』」
彼らはしばらくその記事のことを話し合った、あるときは冗談まじりに、あるときはまじめな口調で。メグレ夫妻はそのあと、静かな通りを歩いて帰った。
警視には、このロンドンの医者の言葉が近日中に数回記憶によみがえることも、この申し分のない五月のおかげで彼のなかに呼び覚まされた思い出が、やがてほとんど予感のように浮かびあがってくることもまだわからない。
その翌日もまた、シャトレ広場のほうへ行くバスのなかで、メグレはパリへ来たばかりの頃とおなじ好奇心で、人々の顔をながめていた。
だから、司法警察局の階段を警視として上ることも、途中でうやうやしい挨拶を受けることも彼には奇妙なものに思われた。ずっと昔、彼は感動に胸躍らせてこの建物に入った。ここのお偉方はすべて、伝説的な人物のように彼には思えたものだ。
メグレは気分爽快であると同時に、憂鬱《ゆううつ》だった。窓を開けると、郵便物を整理し、若いラポワントを呼んで、いろいろと指示をあたえた。
二十五年間のあいだに、セーヌ河は変わっていない。通る船も、まるで動かないかのようにいつもおなじ場所にいる釣り人も変わっていない。
パイプをぷかぷか吹かしながらメグレは、いわゆる掃除をした……デスクの上に山のようになっている書類を片づけ、重要ではない事件は整理した。そのとき、電話が鳴った。
「ちょっとこちらに来られないか、メグレ?」と、局長が訊いた。
警視はゆっくりと局長のオフィスに行くと、窓のそばに立ったままでいた。
「私はいま外務省から奇妙な電話を受けた。電話は外務大臣ご自身からではなく、彼の官房長からだった。官房長は大至急、|責任ある地位の《ヽヽヽヽヽヽヽ》人間を寄こしてくれと言っておる。これは官房長が使った言葉そのままだ。
『刑事では?』と、私はたずねた。
『要職にある者がいいのです。犯罪事件かもしれませんから』」
局長とメグレは顔を見合わせた。彼らの目にはいたずらっぽい光がわずかだが宿っている。というのは、二人ともどこの省も好きではなかったし、まして外務省のような固苦しいところはなおさらだったからだ。
「私は、きみ自身に行ってもらおうと思っているんだが……」
「そのほうがいいでしょう……」
局長はデスクの上の紙をつかむと、メグレに差し出した。
「クロミエールという男に会いに行きたまえ。きみを待っている」
「官房長ですか?」
「いや。クロミエールというのは、こんどの件にたずさわっている人物だ」
「刑事を連れて行ってもいいでしょうか?」
「私にはいま言ったこと以外のことはわからない。ああいうところの人間は秘密主義が好きなんじゃないかな」
しかし、メグレはジャンヴィエを連れて行くことにし、二人でタクシーに乗った。外務省では、彼らは正面の階段に案内されず、中庭の奥にある狭い、見栄《みば》えのしない階段のほうに連れて行かれた。舞台裏か、勝手口にまわされたようなものだった。彼らは廊下をあちこちとしばらくさまよった後で、やっと待合室を見つけた。金モールをつけた守衛はメグレの名前などにおかまいなく、カードに記入させた。
やっと彼らは、すきのない服装をした若い官吏が、身動きしないで黙って坐っているオフィスに通された。若い官吏の前には、おなじように身動きしない老女がいる。この二人はずっと前から、たぶん外務省から司法警察局へ電話を入れてから、こうやって待っていたようだった。
「メグレ警視?」
メグレはジャンヴィエを紹介した。若い男はちらっと見やっただけだった。
「どんな問題かわかりませんので、念のために部下の刑事を一人連れてきました」
「お坐りください」
このクロミエールという男は、何はさておいてももったいぶった様子をしようと努めていた。彼の話し方には非常に『外務省的』な横柄さがあった。
「外務省からじかに司法警察に電話したのは……」
彼はこの『外務省』という言葉を、まるで神聖きわまりないところであるかのように発音した。
「……われわれが特殊な立場に立たされているからです、警視さん……」
クロミエールを観察しながら、メグレは老女のほうも観察していた。彼女は片方の耳が聞こえないにちがいない。もっとよく聞こうと首を伸ばし、頭をかしげ、人の唇の動きに注意を凝《こ》らしているからだ。
「このマドモワゼルは……」
クロミエールはデスクの上のカードに目をやった。
「このマドモワゼル・ラリューは、われわれのもっともすぐれた元大使の一人サン・ティレール伯爵の召使い、というより家政婦です。サン・ティレール伯爵のことはもちろん噂でお聞きのことと思いますが……」
メグレは新聞などで読んだことがあるので、この名前を憶えていた。しかし、それははるか遠いことのように思えた。
「十二年ほど前に退職してから、サン・ティレール伯爵はパリの、サン・ドミニック通りのアパルトマンで暮していました。今朝、マドモワゼル・ラリューは外務省に八時半にやってきて、責任のある官吏が来るまでしばらく待たなければならなかったのです」
メグレは朝八時半の人気のないオフィスと、待合室で身動きもせず、ドアにじっと瞳を凝らしている老女とを想像した。
「マドモワゼル・ラリューは四十年以上前からサン・ティレール伯爵に仕えているのです」
「四十六年でございます」と、彼女は訂正した。
「よろしい、四十六年間。彼女は伯爵のいろいろな任地について行き、家事を見ました。ここ十二年間は、彼女はサン・ドミニック通りのアパルトマンで大使と二人きりの暮しです。今朝、朝食を持って伯爵の寝室へ行くと寝室は空でした。伯爵は書斎で死んでいるのが発見されました」
老女は鋭い、さぐるような疑い深い目で、男たちをつぎつぎに見た。
「彼女によれば、サン・ティレール伯爵は一発ないし数発の弾丸で殺されたらしい」
「彼女は警察には知らせなかったのですか?」
ブロンドの若い男は思い上った様子をした。
「あなたの驚きはわかります。しかし、マドモワゼル・ラリューが生涯の大半を外交官の世界で暮してきたことを忘れてはいけません。伯爵はもはや現役ではないとしても、彼女は外交官の職業にある秘密厳守の規則のことを考えたにちがいありません……」
メグレはジャンヴィエにちらっと目をやった。
「医者を呼ぶことも考えなかったのですか?」
「死は疑いのないように思えたのです」
「今、サン・ドミニック通りにはだれがいますか?」
「だれもいません。マドモワゼル・ラリューはここにまっすぐ来たのです。あらゆる誤解と、時間の無駄を避けるために、私はここで、サン・ティレール伯爵は政府のいかなる秘密文書も所持していなかったし、伯爵の死に政治的な原因をさがしても無駄だということを断言しておきます。それでもなお、細心の用心が必要です。事が著名な人間のことになると、とくにその人間が外交官だと、新聞は事件をあおりたて、途方もない推測を書きたてる傾向がある……」
若い男は立ち上った。
「あなたがお望みになるなら、これからサン・ドミニック通りへ行きましょう」
「あなたも?」と、メグレは無邪気な声でたずねた。
「案ずることはありません。私はあなたの捜査に口を出すつもりはありませんから。私があなたと一緒に行くのは、現場に、外務省を当惑させるようなものが何もないか、この目でたしかめるためです」
老女も立ち上った。四人は階段を降りた。
「タクシーに乗ったほうがいい、外務省のリムジンでは目立ちすぎる……」
道のりはおかしなほど近かった。タクシーは十八世紀末のいかめしい建物の前で停った。通りには人だかりも、野次馬の姿も見あたらない。両開きの大門を通って丸天井の下に入ると、涼しかった。管理人室というより客間に似ている部屋のなかに、外務省の守衛と同じようにいかめしい制服を着た管理人の姿が見えた。
四人は左手の、四段の石段を上った。薄暗い大理石のホールのエレベーターは停止したままだ。老女はハンドバッグから鍵を取り出すと、くるみ材のドアを開けた。
「こちらへどうぞ……」
彼女は廊下を通って、メグレたちを、中庭に面しているはずの書斎まで案内した。鎧戸《よろいど》とカーテンが閉っている。電気のスイッチを入れたのは、マドモワゼル・ラリューである。マホガニーの机の脚もとの、赤いじゅうたんの上に人が横たわっていた。
三人の男はおなじ仕草で帽子を取った。そんな男たちを、年取った家政婦は挑戦的な態度で見つめている。
「どう、わたしの言ったとおりでしょ?」と、彼女はつぶやいているみたいだった。
そのとおり、サン・ティレール伯爵が死んでいるのをたしかめるのに、からだの上にかがみ込む必要はなかった。一発の弾丸は右目を突き抜け、脳頭蓋を吹っ飛ばしている。黒ビロードの部屋着の裂け目と、血のしみから判断すれば、他の弾丸はからだの数個所に入ったままだ。
クロミエール氏が最初に机に近づいた。
「ごらんなさい、伯爵はゲラ刷の校正をしている最中でした……」
「伯爵は本を書いていたのですか?」
「回想録を。すでに二巻が出版されています。そこに伯爵の死の原因をさがすのは滑稽です。サン・ティレール伯爵はもっとも口の固い男でしたし、回想録は政治的というより文学的で、生彩に富んだものです」
クロミエールは気取ったものの言い方をし、自分の言葉に聞き入っていた。メグレはいらいらしはじめた。外では太陽が輝いているというのに、彼ら四人は鎧戸の閉った書斎のなかで、手足を折り曲げた、血に染った老人を見つめているのだ。
「これはやはり、検事局に知らせたほうがいい」と、メグレはつぶやいたが、皮肉がこもっていないわけではなかった。
机の上に電話機があったが、メグレはそれに触ってもらいたくなかった。
「ジャンヴィエ、管理人室に電話をしに行ってくれ。検事局と、ここの警察署長に連絡するんだ……」
老女は男たちを一人ずつ見つめた。まるで男たちを見張るのが役目であるかのように。彼女の目は冷たく、思いやりも、人間的な温かさもない。
「何をしてるんです?」外務省の男が書棚の戸をつぎつぎと開けているのを見て、メグレはとめた。
「ちょっと見るだけです……」
さらに、彼の年齢の男が持っているあのいやらしい自信でつけ加えた。
「私の役目は是が非でも、ここに人の目に触れてはまずいような書類がないかをたしかめることです……」
この男は見かけほど若くはないのではないか? 本当はどんな仕事をしているのか? 警視の同意を待たずに、彼は書棚の中身を調ベ、書類をぱらぱら開いてはつぎつぎと元にもどした。
その間じゅう、メグレはいら立ち、不機嫌そうに書斎のなかを動き回っていた。
クロミエールは他の家具や、引出しまで調べだした。老女は帽子をかぶり、ハンドバッグを持ったまま、相変わらずドアの近くに突っ立っている。
「伯爵の寝室に案内してくれませんか?」
彼女は外務省の男の先に立った。メグレのほうは書斎に残っていた。まもなくジャンヴィエがもどってきた。
「あの二人は?」
「寝室に行った……」
「これから何をしましょうか?」
「いまのところは、何もない。あの男がわれわれをここに残して帰ってくれるのを待つだけだ」
警視をいら立たせたのはクロミエールだけではなかった。この事件の起りかただってそうだし、とりわけ、彼が突然踏み込んだこのなじみのない環境にもよるのだろう。
「署長はすぐにここに来ます」
「何が起ったのか言ったのか?」
「近くの医者を連れてくるように言っただけです」
「鑑識課に電話したか?」
「ムルスが部下たちとこっちに向かっています」
「検事局は?」
「すませました」
書斎はゆったりしていて、心地よかった。荘重な雰囲気はなかったが、警視はここに一歩足を踏み入れたときから、洗練されたものを感じていた。どの家具も、どの品物も美しい。そして、頭の上部を吹き飛ばされて床に横たわっている老人は、この場所ではかなり品位を保っていた。
クロミエールは老家政婦をしたがえてもどってきた。
「もうここで私のすることは何もないようです。くどいようですが、私はあなたに用心することと秘密を守ることを忠告します。書斎にはいかなる武器も残っていないのですから、自殺ではありません。その点では、われわれの意見は一致しますね。盗まれたものがあるかどうかはあなたに発見してもらいたいものです。いずれにしても、新聞がこの事件で騒ぎたてるようなことになったら不愉快です……」
メグレは黙って相手を見つめていた。
「よろしければ、捜査の進みぐあいをお訊きするため、後ほどあなたに電話します」と、若い男はつづけた。「あなたにはいろいろと情報が必要でしょう。そのときはいつでも私に問い合わせてください」
「ありがとう」
「寝室の箪笥のなかに、あなたは何通かの手紙を見つけ、きっとおどろかれるにちがいありません。しかし、それは外務省ではだれでも知っている古い恋物語で、今日の事件とは関係ないのです」
クロミエールは渋々出て行った。
「あてにしてますよ、警視さん……」
老家政婦ラリューは戸口まで彼を見送ると、後ろ手にドアを閉めた。やがて彼女は帽子を脱ぎ、ハンドバッグを手から離したが、警視の用事をするためというよりも、二人の男を見張るためのようだった。
「あなたはこのアパルトマンに寝泊りしているのかね?」
メグレが話しかけても、彼女はメグレを見なかった。聞こえないようだった。メグレはもっと大きな声で質問をくり返した。こんどは、彼女は頭をかしげ、いいほうの耳をすました。
「はい。台所の後ろに、わたしの小部屋がございます」
「あなたの他には使用人はいないの?」
「はい、ここにはおりません」
「それじゃ、あなたが一人で、家事をやり、料理をつくっているのだね?」
「はい」
「いくつ?」
「七十三です」
「サン・ティレール伯爵は?」
「七十七歳でございました」
「昨夜、あなたは何時に伯爵のそばを離れた?」
「十時頃です」
「伯爵はこの書斎にいたのだね?」
「はい」
「だれかを待っていたのではないかね?」
「わたしにはそう言いませんでした」
「伯爵はときどき人を招いていた?」
「甥ごさんを」
「その甥はどこに住んでいる?」
「ジャコブ通りです。甥ごさんは古道具屋をしております」
「彼もサン・ティレールという名前?」
「ちがいます。甥ごさんは伯爵さまのお姉さまの子供なのです。ですから、マズロンと申します」
「書き留めておいてくれ、ジャンヴィエ」
「今朝、あなたが死体を発見したとき……あなたが死体を見つけたのは今朝ですね?」
「はい。八時に」
「マズロンさんに電話することは考えなかったのかね?」
「はい」
「なぜ?」
彼女は答えない。鳥のように一点をじっと見詰めている。また、鳥のように、彼女はときどき一本脚で立っていることがある。
「彼が好きじゃないのか?」
「彼って?」
「マズロンさんだ」
「そんなこと、わたしに関係ございません」
メグレはいま、この女とではすべてが難しくなってしまうことを知った。
「そんなことって何だ?」
「家族の問題です」
「甥は叔父さんと仲がよくなかったの?」
「わたしはそんなこと言っておりません」
「仲がよかった?」
「わかりません」
「昨夜の十時に、あなたは何をしていた?」
「寝に行きました」
「何時に起きた?」
「いつものように、六時にです」
「すぐにはこの部屋に足を踏み入れなかったんだね?」
「別に用事がございませんから」
「ドアは閉っていた?」
「ドアが開いていたら、何かがあったことにすぐに気がついたでしょう」
「なぜ?」
「電灯がつけっぱなしになっていたからです」
「いまのように?」
「いいえ。天井灯はついていませんでした。机の上の電灯と、部屋の隅のナイト・スタンドだけです」
「六時に起きて、何をした?」
「まず顔を洗いました」
「それから?」
「台所を掃除して、クロワッサンを買いに出かけました」
「その間、このアパルトマンは空っぽだったわけか?」
「でも、わたしはいつもそうしているのでございますよ」
「それから?」
「コーヒーの支度をし、食事をしました。食事がすむと、お盆を持って寝室に向かいました」
「ベッドは乱れていた?」
「いいえ」
「書類などが取り散らかっていた?」
「いいえ」
「昨夜、あなたが伯爵のそばを離れたとき、伯爵はあの黒い部屋着を着ていたかね?」
「外出なさらないときは、いつでもあの部屋着でございます」
「伯爵はよく外出した?」
「映画が大好きでした」
「友達をよく呼んだ?」
「ほとんど呼びません。ときどき、街に昼食に出かけました」
「伯爵が会っていた人々の名前を知っている?」
「そんなことはわたしには関係ございません」
ドアのベルが鳴った。この街区の署長が、秘書を連れてやってきたのだ。署長はびっくりして書斎をながめ、ついで老女を、最後にやっとメグレに目をやった。二人は握手した。
「どうして警視は、われわれより前にここにいるのです。この女《ひと》が警視に電話したのですか?」
「そうじゃない。彼女は外務省に行ったんだ。あなたはこの被害者を知っている?」
「元大使ですね? 名前も知っているし、会ったこともあります。毎朝、この界隈を散歩していましたからね。だれがやったんです?」
「まだ何もわかっていない。私は検事を待っている」
「医者はすぐに来ます……」
だれも家具や、品物に触らない。書斎には奇妙な不安がみなぎっていた。だから医者が着いたときにはほっとした。医者は死体の上に身をかがめながら軽くひゅうと口笛を吹いた。
「カメラマンが来るまで、死体をひっくり返してはいけないでしょうな?」
「死体に触らないでください……死亡時刻はおよそどのぐらいだと思います?」
「しばらくお待ちを……ちょっと見たところ、十時間ほど前ですな……あれ、妙だ……」
「妙って何が?」
「この死体は少なくとも四発撃たれている……一発はここ、もう一発はこちらと……」
ひざまずいて、医者はもっと念入りに死体を調べた。
「検死医がどう考えるかわからんが、私としては、最初の一発で仕留めたのに、それにもかかわらずあとつづけて撃ったと思いますな。しかし、これがただの推測にすぎないことをお忘れなく」
それから五分も経たないうちに、アパルトマンは人で一杯になった。まずパスキエ検事補と、メグレがよく知らないユルヴァン・ド・シェゾーという名の予審判事がやってきた。
ポール医師の後任のチュデル医師も、彼らと一緒だった。この三人の直後に、鑑識課の専門家たちと、彼らのかさばる道具が侵入してきた。
「死体の発見者は?」
「この家政婦です」
メグレは老女を指さした。平然とした様子で、彼女は各人の行動を見張っている。
「彼女に質問はすませたのか?」
「まだです。彼女と二、三言葉を交わしただけです」
「彼女は何か知っているのか?」
「知っていたとしても、話させるのは容易なことではないでしょう」
メグレは外務省の話をした。
「盗まれたものは?」
「一見したところでは、ありません。鑑識課の仕事が終ったら、その点をたしかめるつもりです」
「家族は?」
「甥が一人」
「彼には知らせたのか?」
「まだです。鑑識課の人たちが仕事をしている間に、私が自分で彼に知らせに行ってくるつもりです。彼はこのすぐ近くの、ジャコブ通りに住んでます」
メグレは古道具屋に電話して、こちらに来るように頼むこともできただろうが、彼の店で会ってみたかったのだ。
「私に用事がないのでしたら、これからすぐに行ってきたいのですが。ジャンヴィエ、きみはここに残れ……」
陽ざしのなかに出るとほっとした。サン・ジェルマン大通りの樹の下にこもれ日が影をつくっていた。空気は生暖かい。女たちは明るい色の服を着ている。市の撒水《さんすい》車が車道の半分をゆっくりと濡らしていく。
ジャコブ通りの古道具屋はたやすく見つかった。ショー・ウィンドーには昔の武器、主に剣が飾ってあるだけだ。メグレはドアを開けた。すると小鈴が鳴り響いた。二、三分すると、物陰から男があらわれた。
叔父が七十七蔵であるから、その甥《おい》が若いはずがないとは思っていたが、それにしても老人のような男が目の前にあらわれたのには、メグレはびっくりした。
「いらっしゃい……」
長くて、蒼白い顔をしている。もじゃもじゃの眉、頭はほぼ禿げあがっている。だぶだぶの服のため、実際より痩せてみえた。
「マズロンさんですね?」
「ええ、アラン・マズロンです」
いろいろな武器が店のなかをふさいでいる。マスケット銃、ラッパ銃、奥には甲冑《かっちゅう》が二領ある。
「司法警察局のメグレ警視です」
マズロンは眉をしかめ、何事かという顔をする。
「あなたはサン・ティレール伯爵の甥ですね?」
「ええ、私の叔父です。なぜです?」
「最後に叔父さんに会ったのは?」
彼はためらわずに答えた。
「一昨日です」
「あなたには家族がいますね?」
「私は結婚してますし、子供もおります」
「一昨日会ったとき、叔父さんはいつもと変わりませんでしたか?」
「ええ。ひどく陽気でした。なぜそんなことを訊くのです」
「叔父さんが死んだからです」
相手の目のなかに、メグレは老家政婦とおなじ疑惑の光を見た。
「事故でも?」
「ある意味では……」
「どういうことです?」
「昨夜、叔父さんは書斎で連発拳銃《リヴォルバー》か、自動拳銃《オートマティック》で数発撃たれ、殺されたのです」
古道具屋は容易に信じられないといった表情をしている。
「叔父さんには敵は?」
「いいえ……もちろんいません……」
マズロンがただ『いいえ』と言うだけだったら、メグレは気にもかけなかっただろう。前の言葉を訂正するかのように言われたこの『もちろんいません』は、メグレの耳をそば立たせた。
「叔父さんが死んで得をする人はいますか?」
「いいえ……叔父が死んでも得などしません……」
「叔父さんには財産は?」
「ごくわずかです……叔父は主に年金で暮してました……」
「ときどきここに来ましたか?」
「ときどき……」
「家族そろって食事するため?」
マズロンは放心状態で、まるで他のことを考えているかのように、口先だけでぼそぼそと答えた。
「いいえ……朝、散歩の途中に……」
「あなたとおしゃべりするために店に入ってくるのですか?」
「そうです。叔父は入ってくると、しばらく坐って……」
「あなたは叔父さんの家に会いに行きますか?」
「ときどき……」
「家族を連れて?」
「いいえ……」
「お子さんがいると言いましたね?」
「二人です! 二人とも女ですが……」
「あなたはこの建物に住んでいるのですか?」
「二階に……長女のほうはイギリスにいます……下のほうの娘は母親と暮しています……」
「奥さんと一緒に暮していないのですか?」
「ええ、数年前から……」
「離婚は?」
「まだです……複雑なのです……これから叔父の家までご一緒しませんか?」
彼は店の奥の薄暗がりのなかに帽子を取りにもどると、留守だという札をドアにひっかけ、鍵をかけ、歩道で待っているメグレのところへやってきた。
「どうしてそんなことになったのでしょう?」と、彼はたずねた。ひどく心配そうだった。
「まだほとんど何もわかっておりません」
「盗まれたものは?」
「あるとは思えませんが。アパルトマンのなかは全然荒らされていないのです」
「ジャケットはどう言ってます?」
「家政婦のことですか?」
「ええ……彼女の名前です……それが戸籍上の名前かどうかは知りませんが、彼女はいつもそう呼ばれていました……」
「彼女が好きではないのですか?」
「どうしてそんなことを訊くのです?」
「彼女はあなたのことを好きではないようですよ」
「彼女は叔父以外の人間は好きではないのです。彼女の態度次第では、だれもあのアパルトマンに寄りつかなくなったでしょう」
「彼女が叔父さんを殺したかもしれないと思いますか?」
マズロンはおどろいてメグレを見た。
「叔父を殺す、彼女が?」
それが彼にはもっとも突飛な考えに思えたことはあきらかだ。しかし、しばらく後で、いつのまにかそのことを考えている自分に気がついた。
「いや! そんなことはありえません……」
「ためらいましたね?」
「彼女が嫉妬して……」
「ということは、彼女が叔父さんを愛していたということですね?」
「彼女は昔から老女だったわけではありません……」
「あなたの考えでは、二人の間は……」
「そうかもしれません……しかし、私には何ともいいかねます……叔父のような人間は、理解しにくいのです……若い頃のジャケットの写真をごらんになりましたか?」
「まだ何も見ていません……」
「そのうちごらんになるでしょう……すべてはとても複雑なのです……とくに、いま事件が起ったというのは……」
「それはどういうことです?」
アラン・マズロンは困ったようにメグレを見つめると、溜息をついた。
「結局、あなたはまだ何も知らないようですね」
「私が知らなければならないのは何です?」
「いまそのことを考えています……あれは面倒な話です……手紙を見つけましたか?」
「まだ捜査をはじめたばかりです」
「今日は水曜日ですね?」
メグレはうなずいた。
「葬式の日です」
「葬式ってだれの?」
「V公爵の……手紙をお読みになればわかるでしょう……」
彼らがサン・ドミニック通りに着くと、鑑識課の車が遠ざかって行った。ムルスがメグレに手で、あいさつを送った。
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第二章
「何を考えているのです、警視《パトロン》?」
ジャンヴィエはかなり長い沈黙を破るためだけにこう訊いたのに、この質問がもたらした効果にびっくりした。これらの言葉はメグレの脳には直接には達せず、まずは音だけで、つぎにその音を整理してやっと意味がわかったといったぐあいだった。
警視はばつが悪そうに、ぼんやりした大きな目でジャンヴィエを見つめた。まるで秘密を見つかってしまったかのように。
「あの人たちのことだ……」とメグレはつぶやいた。
もちろんメグレが言っているのは、このブルゴーニュ通りのレストランで昼食をとっているまわりの人々のことではなく、前日までメグレたちが話にも聞いたことのなかった人々、今日メグレたちが秘められた生活を発見しようと努めている人々のことだった。
スーツや、コートや、靴を買うたびに、メグレはまず夕方にそれを身につけて、妻といっしょに近くの通りを散歩したり、映画に行ったりする。
「慣れる必要があるからね……」と、メグレは夫人に弁解するのだが、夫人はそういう夫をやさしくからかう。
メグレが新しい捜査に没頭するときも同様だった。どっしりした姿や、自信と取り違えられる平静な顔付きのおかげで、他の人々には気づかれなかったが、実際にはやや長いためらいの時期、不安への時期、さらには優柔不断の時期さえ経ているのだ。
メグレはなじみのない環境に、家に、生活様式に、独自の習慣や、独自の考え方や感情の表し方を持っている人々に慣れなければならない。
ある部類の人間たちにたいしては、比較的容易だ。たとえば多少ともきちょうめんなところのあるバーのなじみ客や、彼らに似ている人々。
その他の人間たちに関しては、そのつど学び直さなければならない。とくにメグレは彼らの規則や、既成の観念を信用しない。
こんどの場合には、メグレは余分なハンディキャップを受けている。今朝、メグレはひどく閉鎖的であるだけではなく、彼にとっては幼年時代のために、特殊な立場に置かれる階級と接触したのである。
サン・ドミニック通りにいる間じゅう、メグレはいつもの気楽な態度がとれなかった。彼はぎごちなかったし、質問だってためらいがちで、下手くそだった。ジャンヴィエはそのことに気がついたのか?
気がついたとしても、ジャンヴィエはそれがメグレの遠い過去に、サン・フィアクル村の城館《シャトー》の片隅で暮した数年間に起因するとは考えもしなかったにちがいない。メグレの父親はこの城館の管理人で、領主の伯爵夫妻はメグレの目には特別の種類の人間だった。
メグレとジャンヴィエは昼食をとるのに、ブルゴーニュ通りのこのレストランを選んだ。テラスが気に入ったからである。メグレはすぐに、この店の客には周辺の各省の官吏たち、とくに首相官邸の官吏らしい人間や、陸軍省の私服の士官が多いことに気がついた。
|ひら《ヽヽ》の官吏ではない。全員が少なくとも課長クラスだ。メグレは彼らが非常に若いのに気がついた。また彼らの自信にもびっくりした。彼らの話し方や態度で、自信たっぷりなことが見てとれる。
パリ警視庁の人間たちだっておなじように官吏であるが、どんな質問にも答えられるような感じがするだろうか?
ジャンヴィエの言葉で夢想から引きもどされたとき、メグレが考えていたのはつぎのようなことである。午前中のサン・ドミニック通りのこと、長い歳月、大使であり、七十七歳で殺されたアルマン・ド・サン・ティレール伯爵のこと。あの奇妙なジャケット・ラリューと、一点を見詰める小さな目のこと。彼女は、メグレが話している間じゅう、頭をかたむけ、メグレの唇の動きに注意を凝らして彼の心の奥底までもさぐろうとしている。最後に、蒼白い顔の、生気のないアラン・マズロンのこと。ジャコブ通りの店で、剣と甲冑《かっちゅう》にかこまれて一人きりで暮しているこの男は、メグレにはどの階級に入れていいものか見当もつかない。
医学雑誌『ランセット』の論文でイギリスの医者が使ったのはどんな言葉だったか? メグレはその言葉を思い出せない。概略は、傑出した小学校の教師、小説家、警察官のほうが、人間の本質を究明するには医者や精神科医より恰好の場所にいるというものだった。
なぜ、警察官は最後にくるのか、小学校の教師や、とりわけ小説家の後なのか?
それがメグレには少しばかり腹立たしかった。彼はこの論文の作者を否認するかのように、早くこんどの事件で違和感がないようにしたいと思った。
メグレたちはまずアスパラガスを食べた。つぎにフライパンで焦がしたバターをかけたエイが出た。通りの上の空は相変らずおなじ青さで、通行人たちは明るい色の服装をしていた。
昼食に出る前に、メグレとジャンヴィエは死者のアパルトマンの中に一時間半残っていた。そのおかげで前よりもこのアパルトマンがなじみ深いものになった。
死体はすでに法医学研究所に運び去られ、チュデル医師の手で解剖の最中だ。検事補と予審判事、それに鑑識課の連中も立ち去った。ほっと溜息をつくと、メグレはカーテンと鎧戸を開けた。すると、陽ざしが部屋のなかに射し込み、家具や品物がいつもの姿を取りもどした。
老家政婦ジャケットと甥が跡をつけまわし、動作や顔の表情に注意を凝らしているのは、警視には別に気詰りではなかった。ときどきメグレは質問するため彼らのほうを向いた。
まるで貸家を見にきたかのように、メグレがこれといったものをながめずに、長時間アパルトマンのなかを歩き回っているのを見て、彼らはおどろいたにちがいない。
書斎は、今朝がたは人工の光で息苦しかったが、いまはひどくメグレの興味をそそった。メグレは密かな喜びを抱いて、絶えず書斎にもどってきた。書斎は彼がこれまで見てきたうちで、もっとも気持のよい部屋の一つだった。
天井が高く、三段の石段に面するフランス窓から明りが入ってくる。こうしたコンクリートでかこまれた場所で本物の庭を、よく手入れの行き届いた芝生や、巨きな菩提樹が立っているのを見るのはやはりおどろきである。
「この庭はだれのものです?」と、メグレは階上の、他のアパルトマンの窓を見上げながら訊いた。答えたのはマズロンだった。
「叔父のです」
「他の借家人のものではないんですか?」
「ええ。この建物は叔父のものなのです。叔父はここで生まれました。まだかなりの財産があった叔父の父親は、ここの一階と二階に住んでいました。その父親が死んだとき、すでに母親がいなかった叔父に遺されたものは、この小さなアパルトマンと庭だけだったのです」
このささいな事柄は意味がある。パリでは、七十七歳の人間がまだ生まれた家に住んでいるというのはめずらしいことではないのか?
「外国で大使をしていたときは?」
「このアパルトマンを閉め、バカンスにもどってきました。皆さんのお考えに反して、この建物はほとんど何のもうけにもならないのです。借家人の大部分は昔から住んでいるので、ほんのわずかな家賃を払うだけです。ですから、修理代と税金で、叔父が損をしている年もあるのです」
このアパルトマンは部屋数は多くない。書斎は客間も兼用している。わきには、食堂があり、その前には台所。通りに面して寝室と、浴室がある。
「あなたの寝ているところは?」と、メグレはジャケットにたずねた。
彼女はメグレに質問を繰り返させた。質問を繰り返させるのはどうやら彼女の癖らしい。
「台所の後ろです」
その言葉の通り、台所の後ろには物置部屋みたいなものがあった。鉄のベッド、洋服箪笥、洗面所がついている。黒檀《こくたん》の大きな十字架が、つげの小枝が入っている聖水盤の上に掛っている。
「サン・ティレール伯爵は熱心な信者なのですか?」
「日曜日のミサを一度も欠かしたことがございません、ロシアにいたときも」
メグレの心を打ったのは、はっきりした言葉では言い難いのだが、アパルトマン全体の微妙な調和であり、洗練された感じである。家具はいろいろな時代のもので、全体の統一などは気にかけていない。それでもなお各部屋は美しいし、それぞれがおなじ古色と、おなじ個性を保っている。
書斎はほぼ全体が製本された本で覆《おお》いつくされている。白や黄色のカバーの別の本は、廊下の棚に並べられている。
「あなたが死体を発見したとき、窓は閉っていましたね?」
「窓を開けたのはあなたです。わたしはカーテンにも触っておりません」
「寝室の窓は?」
「閉ってました。侯爵さまは寒がりなのでございます」
「アパルトマンの鍵はだれが持っています?」
「旦那さまとわたしです。その他にはどなたも」
ジャンヴィエが管理人に尋問したところによると、両開きの大門の脇についている小門は真夜中まで開いている。管理人はこの時間まで寝たことがない。しかし、ときどき管理人室の後ろにある寝室に行くことがある。寝室からだと、もちろん人の出入りは見えない。
前日、管理人は何も異常なことに気づいていない。家は静かだった、と彼はしつこく繰り返した。彼は三十年前からここの管理人をしているが、警察が足を踏み入れたことは一度もなかった。
前日の夕方から夜にかけて起ったことを復元してみるのはまだ早すぎる。検死医の報告、ついでムルスと彼の部下たちの報告を待たなければならない。
明白に思えることが一つある。サン・ティレールは寝ていなかった。細い縞の濃い灰色のズボンと、軽く糊《のり》のきいた白いワイシャツに、水玉模様の蝶ネククイ。それにいつものように、家にいるときの黒ビロードの部屋着を着ていた。
「伯爵はよく遅くまで起きていたのですか?」
「それはあなたが遅いと呼ぶ時間によります」
「伯爵は何時に寝ました?」
「わたしはほとんどいつも伯爵さまより先に寝てしまいます」
メグレはいらだった。もっともつまらない質問でもこの老家政婦の疑惑を呼び起こし、めったには率直に答えてくれない。
「伯爵が書斎を出る音は聞こえないのですか?」
「わたしの部屋に行ってみれば、めったに音が聞こえないのがおわかりでしょう。聞こえるのは、壁の向こう側にあるエレベーターの物音ぐらいです」
「伯爵は夜の時間をどうやって過ごしていました?」
「本を読んだり、文章を書いたり。ご自分の本の校正をしていることもございました」
「たとえば、十二時頃には寝ていたのですか?」
「少し前か、少し後でございましょう、日によって違ったと思います」
「そういうとき、あなたを呼ぶとか、用事を言いつけることはなかったのですか?」
「何のためにです?」
「寝る前に煎《せん》じ薬が欲しくなったり、あるいは……」
「伯爵さまは一度も煎じ薬を飲んだことがございません。そのほかのことに関しましては、伯爵さまには酒倉がございます……」
「何を飲むのです?」
「食事のときにはぶどう酒です、ボルドーの赤。夜は極上のブランデーを一杯お召しあがりになります」
机の上に空のグラスがあった。鑑識課の専門家がグラスを持って行き、指紋を念入りに調べている。
伯爵が客を迎え入れていたとしても、飲みものを出さなかったようだ。書斎には他のグラスがなかった。
「伯爵は銃を持っていました?」
「猟銃を。廊下の奥にある戸棚のなかにしまってございます」
「伯爵は狩に行ったのですか?」
「お城に招かれたときなど、よく狩に行きました」
「自動拳銃《オートマティック》か、連発式拳銃《リヴォルバー》は?」
彼女はまたもや頑なになった。そうした場合、彼女の瞳孔は猫のように細くなり、目はじっと一点を見詰め、表情がなくなる。
「私の質問が聞こえないのですか?」
「何をお訊きになりました?」
メグレはおなじ質問を繰り返した。
「連発式拳銃《リヴォルバー》をお持ちだったと思います」
「円筒形の弾倉のついた?」
「円筒形の弾倉って?」
メグレは円筒形の弾倉を彼女に一生懸命説明した。ちがう、リヴォルバーではない。伯爵の持っていたのは平たくて、青味がかった、銃身の短い自動拳銃だ。
「その自動拳銃を、伯爵はどこにしまっておきました?」
「存じません。ずっと前から、わたしはそれを見ておりません。最後に見たのは、箪笥《たんす》の引出しの中です」
「伯爵の寝室の?」
彼女はその引出しをメグレに教えてくれた。引出しのなかにはハンカチ、靴下留め、いろいろな色のズボン吊りしかなかった。箪笥の他の引出しにはシャツ、パンツ、ハンカチなど、きちんと折りたたまれた下着類で一杯だ。一番下の引出しには、スモーキングや燕尾服のときに着る下着類が入っている。
「最後にその自動拳銃《オートマティック》を見たのはいつですか?」
「数年前です」
「数年前とはおよそどのくらいです?」
「存じません。時間がひどく速く過ぎていきますもので……」
「箪笥のなか以外ではそれを見たことがないのですか?」
「はい。旦那さまは机の引出しにお入れになったのかもしれません。机の引出しは、わたしは一度も開けたことがありませんし、それにいつでも鍵が掛っておりました」
「なぜ?」
「なぜ家具に鍵が掛っていたかとおっしゃるのですか?」
「伯爵はあなたを疑っていたのかな?」
「もちろんそんなことはございません」
「それじゃ、だれかのことを?」
「家具に鍵をかけたことはございませんか、あなたは?」
いずれにしても、この第一帝政時代風の机の引出しを開けることができたのは、みごとな装飾のついたブロンズの鍵だった。引出しの中身は何も教えてくれなかった。他の人のようにサン・ティレール伯爵も、つまらない、こまごました品物をしまっておくだけだった。たとえば、古びた空の財布、ずっと前から使っていない、金色の輪をはめた、琥珀《こはく》の葉巻用パイプ二、三本、葉巻切り、画鋲《がびょう》、クリップ、鉛筆、あらゆる色のシャープペンシルなど。
別の引出しには、冠のマークの入った便箋、封筒、名刺、念入りに巻かれたひも、糊、刃の折れたナイフが入っていた。
書棚の銅の格子細工のついたドアは、緑色の布の裏地がついている。書棚のなかには書物はなくて、各棚の上には丁寧にひもでくくられた手紙の束がある。その束の一つひとつには日付をしるした紙が貼ってある。
「あなたがさきほどほのめかしたのは、このことですか?」と、メグレはアラン・マズロンに訊いた。
甥《おい》はうなずいた。
「これらの手紙がだれからのものかご存知ですか?」
甥はふたたびうなずいた。
「この手紙のことをあなたに話したのは、伯爵ですか?」
「叔父が手紙のことを私に話したかどうかはもう憶えておりませんが、しかしだれでもよく知っていることです」
「だれでも、とは?」
「外交官たちや、上流社会の人々……」
「これらの手紙のどれかを読んだことは?」
「ありません」
「われわれのことなどかまわずに、あなたは自分の昼食をつくりに行ってください」と、メグレはジャケットに言った。
「今日のような日に、わたしが食事などできるとお思いですか!」
「それでもわれわれだけにしてほしい。きっとあなたには何かやることがあるはずです」
メグレが甥と二人きりになることを、彼女が嫌っていることはあきらかだ。何度も、メグレは彼女が憎しみに燃える目でこちらを盗み見るのに気づいていた。
「いいですね?」
「それがわたしに関係ないことはわかっておりますが、しかし……」
「それがって何です?」
「個人の手紙は神聖なものです……」
「たとえその手紙が殺人犯を見つけるのに役立つとしても?」
「あの手紙は全然あなたのお役には立ちません」
「あとであなたのことが必要になるかもしれません。それまでは……」
メグレはドアを見やった。ジャケットはしぶしぶ出て行った。
サン・ティレール伯爵の机にメグレが坐るのを見たら、彼女は憤慨するのではないか?
ジャンヴィエは机の上に手紙の束を並べた。
「お坐りください」とメグレはマズロンに言った。
「この手紙がだれからのものであるか、ご存知ですね?」
「ええ。これらの手紙にはすべて、Isi とサインしてあるはずです」
「Isi とはだれです?」
「イザベル・ド・V……V公爵夫人です……叔父はいつも彼女を Isi と呼んでいたのです……」
「伯爵の愛人ですか?」
なぜメグレは相手が教会の香部屋係の顔のようだと思ったのか? まるで香部屋係は特別な容姿をしているかのように。マズロンもまた、ジャケットのように質問に答えるのにしばらく時間を置く。
「二人は愛人関係にはなかったようです」
メグレは一九一四年の日付の黄色い手紙の束のひもをほどいた。第一次大戦のはじまった数日後だ。
「公爵夫人はいまではいくつです?」
「ちょっと待ってください、計算しますから……彼女は叔父よりも五つか六つ若いのです……ですから、七十一か、七十二歳でしょう……」
「彼女はここによく来たのですか?」
「私はここで彼女を見たことは一度もありません。ここには足を踏み入れなかったのではないでしょうか、あるいは踏み入れたとしても、以前のことなのでしょう……」
「以前とは?」
「彼女がV公爵と結婚する以前……」
「いいですか、マズロンさん、できるだけ詳しくその話を聞かせていただけませんか……」
「イザベルはS公爵の娘でした……」
フランス史で知られた名前をここで聞くのは妙な感じだった。
「それで?」
「叔父が一九一〇年頃、彼女に出会ったときは二十六歳でした。もっと正確に言うと、叔父は、ときどきバカンスを過ごしていたS公爵の城館《シャトー》で、少女時代の彼女とすでに知り合ってはいたのです。そのあと叔父は長い間彼女に会っていませんでしたが、再会したとき、二人は恋に陥ったのです」
「叔父さんにはすでに父親がいませんでしたか?」
「二年前に」
「遺された財産は?」
「この建物と、ソローニュの土地だけ」
「なぜ二人は結婚しなかったのです?」
「知りません。おそらくは叔父は外交官の道に入り、大使館の二等ないしは三等書記官としてポーランドに派遣されたからでしょう」
「婚約は?」
「してません」
メグレは目の前に並べられている手紙を一読することにはじらいを感じた。期待に反して、それはラブ・レターではなかった。この手紙を書いた若い娘は、生きいきした文章で、パリの生活と、自分自身の日常のこまごました出来事を語っている。
彼女はなれなれしい手紙の書き方はしていない。伯爵のことを『親友《グラン・タミ》』と呼び、『あなたの忠実な Isi』とサインしていた。
「それから何があったのです?」
「戦争前に……もちろん一九一四年の戦争のことです……、私の記憶ちがいでなければ一九一二年に、イザベルはV公爵と結婚しました」
「彼女はその男を愛していたのですか?」
「噂を信じるならば、そうではありません。彼女はそのことを正直にV公爵に打明けたとさえ言われています。私がそんなことを知っているのは、子供のときに両親がしゃべっているのを聞いたためです」
「あなたの母親はサン・ティレール伯爵の姉ですね?」
「ええ」
「お母さんは自分の階級の人と結婚しなかったのですか?」
「母は画家であった父と結婚したのです。結婚した当時はかなり成功していたのです。いまではもう忘れられてしまいましたが、リュクサンブール宮にはまだ父の絵が残っています。結婚後しばらくして、父は生活のために絵画の修復家になりました」
午前中のこの時間のあいだ、メグレは真実をごくわずかずつ、ほとんど無理やりにもぎ取っているような気がした。どうしてもはっきりしたイメージが得られない。これらの人々は一九〇〇年当時の小説から出てきたかのように、非現実的な感じだった。
「私の間違いでなければ、アルマン・ド・サン・ティレールがイザベルと結婚しなかったのは、伯爵には十分な財産がなかったからでしょう?」
「そうだと思います。私はそういう話を二、三度聞かされたし、いちばん真実らしく思われました」
「とにかく彼女はV公爵と結婚した……あなたによれば、彼女はV公爵を愛してなかったし、そのことを正直に告げている」
「名門の両家、大貴族の両家のあいだで取り決めたことなのです」
昔、サン・フィアクル村でもおなじことがなかったか? 息子の嫁さがしのとき、老伯爵夫人は司教のところへ頼みに行った。
「V公爵夫妻に子供は?」
「一人だけ。結婚の数年後に……」
「その子はどうなりました?」
「フィリップ公爵は四十五歳になっているはずです。マルシャンジー家の令嬢と結婚し、ほぼ一年じゅうカーンの近くの、ジュネストゥの城館《シャトー》で暮しています。公爵はジュネストゥ村に、種馬飼育所といくつかの農場を持っているのです。五人か六人の子供がいるはずですが……」
「この手紙から判断すれば、イザベルと叔父さんは五十年ほどの間文通をしつづけていました。ほとんど毎日のように、二人は数枚の手紙を出しています。イザベルの夫はそのことを知っていたのですか?」
「そう噂されています」
「あなたはV公爵を知っていますか?」
「見ただけです」
「どんな人です?」
「社交界の人で、収集家です」
「何の収集家です?」
「メダルや、嗅ぎたばこ入れ……」
「公爵は社交生活を送っていたのですか?」
「ヴァレンヌ通りの大邸宅に毎週のように人を呼び、秋になるとサン・ソヴール・アン・ブールボネの城館《シャトー》です……」
メグレは顔をしかめた。一方では、これらのことはすべて真実かもしれないと感じていたが、それと同時に、登場人物たちが実体を欠くように思えてならなかった。
「ヴァレンヌ通りは」と、メグレは言った。「ここから歩いて五分のところにありますよ」
「けれども、叔父と公爵夫人は五十年の間一度も会わなかったのです」
「毎日、手紙ばかり書いていた?」
「目の前の手紙をごらんなさい」
「V公爵はその辺のことをよく知っていましたか?」
「イザベルはこっそり手紙を書くような女《ひと》ではありません」
メグレはばかにされでもしたかのように、怒りたいような気持になった。しかし、手紙が目の前にあり、実際この甥の言うような言葉が書き並べられているのだ。
『……今朝十一時に、ゴージュ神父の訪問を受け、わたくしたちは長い間あなたのことを話し合いました。あなたとわたくしを結ぶ絆《きずな》は、他の人間にはどうすることもできないもの……そのことを知るだけでも、わたくしにとっては慰めになります……』
「公爵夫人は熱烈なカトリック教徒なのですか?」
「彼女はヴァレンヌ通りの大邸宅のなかに礼拝堂を建てさせました」
「それで、夫のほうは?」
「おなじくカトリック教徒です」
「公爵には愛人は?」
「何人もいたと噂されてます」
もっと最近の束のなかの手紙。
『……ユベールが理解してくれたことを、わたくしは心から感謝します……』
「ユベールとはV公爵のことですね?」
「ええ。公爵はかつてソミュールの騎兵学校にいたことがありました。それで、いまでも毎朝ブーローニュの森を馬で散歩するのですが、先週不幸にも落馬してしまいました」
「公爵はいくつです?」
「八十歳です」
この事件に登場するのは老人ばかりだ。その老人たちの関係はおよそ人間味のあるものではない。
「あなたが言ったことはすべて本当ですね?」
「お疑いになるなら、だれにでも訊いてみてください」
メグレには漠然としか、不正確にしかわからない社会の人間たち!
「話をつづけましょう」と、メグレはうんざりしたように言った。「さきほどあなたが、最近死んだと言ったのは、その公爵のことなのですね?」
「ええ、日曜日の朝。新聞に記事が載っていました。落馬が原因で死んだのです。いま、葬式がサント・クロティルド教会で行われているはずです」
「公爵は叔父さんとは交際をつづけていなかったのですか?」
「私の知っているかぎりでは」
「二人が社交界で出会うようなことは?」
「おなじサロン、おなじ集まりに出入りすることを二人とも避けていたようです」
「おたがいに嫌っていたのでしょうか? 叔父さんはときどき公爵のことをあなたに話しました?」
「いいえ。ほのめかしもしませんでした」
「イザベルのことは?」
「叔父はずっと前、私が唯一の相続人であり、叔父の名前を私が名乗れないのが残念だと言いました。また、私に二人の娘しかいないことを悲しがりました。私に男の子がいたら、サン・ティレールの名前をその子に名乗らせるように法律的な手続きを取るつもりだ、と叔父はつけ加えさえしたのです」
「それでは、あなたが叔父さんの唯一の相続人なのですね」
「ええ。しかし、私の話はまだ終っていません。名前を挙げずに、遠回しに、叔父はそのとき公爵夫人のことを話したのです。とにかく、叔父は私にこう言いました。
『……いつかはわからんが、私はまだ結婚するつもりでおる。しかし、私たちは子供をつくるにはもう遅すぎるよ……』」
「私の間違いでなければ、状況はつぎのようになりますね。一九一二年頃、叔父さんは若い娘に出会い、彼女を愛した。彼女も叔父さんを愛したが、二人は結婚しなかった。サン・ティレール伯爵にほとんど財産がなかったからだ」
「その通りです」
「二年後、叔父さんがポーランドか、どこか他の大使館にいたとき、若いイザベルは政略結婚をさせられ、V公爵夫人になった……彼女には息子がいるから、したがって性関係のない結婚ではなかった。この夫妻は、少なくともその頃は夫として、妻として振舞っている」
「ええ」
「イザベルと叔父さんが再会し、情熱に身を焼かれるようなことがなければ」
「そんなことはありません」
「なぜそんなにはっきりと言えるのです? あなただって、社交界というものが……」
「私がそんなことはないと言ったのは、一九一四年の戦争の間じゅう、フランスの外で過ごしていましたし、その後フランスにもどってきたときには、イザベルの子供のフィリップは二、三歳になっていました」
「あなたの言うとおりとしましょう。イザベルと叔父さんは再会し……」
「いや」
「二人は再会しなかった?」
「すでにそのことは言いました」
「それでは、五十年の間、二人はほとんど毎日のように手紙を書いていた。ある日、叔父さんは多かれ少なかれ遠い未来に行われる結婚のことをあなたに話した。その意味は、イザベルと叔父さんが結婚するため公爵が死ぬのを待っていたということになる」
「私もそのことを考えました」
メグレは額をぬぐうと、フランス窓の向こうの菩提樹をながめた。もっと凡俗な現実と接触する必要があるかのように。
「さて、最後はこういうことになる。十日か、十二日前に……それは問題ではない……、八十歳の公爵がブーローニュの森で落馬した。日曜日の朝、そのときの傷が原因で死亡した。昨日の火曜日つまり二日後に、叔父さんは夜、書斎で殺された。その結果、五十年前から一緒になる瞬間を待っていた二人は、それができなくなった。それに間違いありませんね? ありがとう、マズロンさん。よろしければ、奥さんの住所を教えていただけませんか?」
「パッシィのポンプ通り二十三番地」
「叔父さんの公証人か、代訴人をご存知ですか?」
「公訴人はメートル・オボネです。住所はヴィレールセクセル通り」
またもやここから数百メートルのところだ。これらの人々は、マズロン夫人を除いて、メグレがよく知らないパリの地区に、ほとんど隣り合わせのように住んでいる。
「あなたはもう結構です。あなたの店に行けばいつでも会えますか?」
「今日の午後はごくわずかな時間しかいません。葬式の手配をしたり、死亡通知を出さなければなりませんから。それに、何はさておいても私はメートル・オボネと会うつもりです」
マズロンはゆっくり出て行った。ジャケットは台所から飛び出してくると、彼の背後でドアをぴしゃりと閉めた。
「こんどは、わたしが必要でしょう?」
「いますぐは必要ない。昼食の時間です。われわれは午後また来ます」
「わたしはここに残っていなければなりませんか?」
「どこに出かけるつもりです?」
彼女はわけがわからないといった顔つきでメグレを見つめている。
「あなたがどこに行くつもりかと訊いているんです」
「わたしが? どこにも行きません。どこに行くというのです?」
彼女の態度のおかげで、メグレとジャンヴィエはすぐには出られなくなった。メグレはパリ警視庁に電話した。
「リュカか? そこにだれかいるか? サン・ドミニック通りに一、二時間いてもらいたいのだ。トランス? 結構だ。車ですっとんできてくれ……」
そういったわけで、メグレとジャンヴィエが昼食をしている間、トランスはサン・ティレール伯爵の肱掛《ひじかけ》椅子でうつらうつらしていたのである。
見たかぎりでは、アパルトマンからは何も盗まれていない。押し込まれたという跡もない。殺人犯はドアから入ったのだ。ジャケットがだれも部屋に通さなかったと断言している以上、伯爵自身が訪問者にドアを開けてやったと思わざるをえない。
伯爵はその訪問者を待っていたのか? 不意にやってきたのか? 伯爵は飲み物を出していない。机の上には、ブランデーの壜のわきにグラスが一個しかない。
女の訪問者だったら、サン・ティレールは部屋着のままでいただろうか? 伯爵について聞いたことを少しでも信じるならば、そんなことはありえないだろう。
となれば、伯爵に会いにきたのは男である。伯爵はその男を疑わなかった。だから、机に坐り、ちょっと前まで校正していたゲラ刷りをそのままにしておいた。
「灰皿のなかにたばこの吸殻があったか?」
「なかったと思います」
「葉巻の吸殻は?」
「なかったですね」
「きっと夕方頃には、あの若いクロミエールから電話がある」
あの男もメグレを怒らせる天才だ。
「公爵の葬式は終ったはずだな」
「たぶん」
「終ったなら、イザベルはヴァレンヌ通りの自宅にもどり、息子や、嫁や、孫たちに取りかこまれている」
沈黙があった。メグレはためらっているかのように、眉をひそめた。
「イザベルの家に会いに行くつもりですか?」と、ジャンヴィエは心配そうにたずねた。
「いや……あの人たちとはまだだ……コーヒーをもらおうか? 給仕《ギャルソン》! ブラック・コーヒーを二つ……」
隣りのテーブルで食事をしながらばかにしたような目でメグレたちをながめている高級官吏たちを含めて、メグレは今日あらゆる人々に腹をたてているかのようだった。
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第三章
サン・ドミニック通りの角を曲がるや、メグレは彼らに気がつき、ぶつぶつ言った。彼らとはサン・ティレール伯爵の住居の前にいた十二人ほどの新聞記者とカメラマンのことである。彼らの何人かは、長い腰掛けに坐っているかのように、歩道に並んで坐り込み、壁によりかかっている。彼らも遠くからメグレの姿に気がつくと、メグレのほうに駆けよってきた。
「あのお偉いクロミエールさんが大喜びすることだろう」と、メグレはジャンヴィエに向かってつぶやいた。こうなるのは避けられないことだった。事件が所轄署に通報されると、新聞社にそっと知らせる者があらわれるのだ。
カメラマンたちはそれぞれメグレの写真を沢山ファイルしてあるのに、一斉にフラッシュを浴せた。まるで前日や、数日前のメグレとは別人であるかのように。新聞記者たちのほうも質問を浴びせた。それらの質問から察するところ、彼らはメグレが恐れるほど事件に通じていない。
「自殺ですか、警視?」
「書類がなくなっているのですか?」
「いまのところ、諸君、私は何も言えないのだ」
「ということは、政治的事件と考えてもいいわけですか?」
記者たちは手にノートを持ったまま、メグレの前を後ずさりして行く。
「いつ頃、情報をあたえていただけるでしょうか?」
「明日になるか、一週間後になるかわからない」
メグレはまずいことに余計なことを言ってしまった。
「最後までだめかもしれない」
メグレはあわててへまを取り繕《つくろ》った。
「もちろん、冗談だ。まあ、われわれが落ち着いて仕事ができるように、お手やわらかに頼むよ」
「伯爵が回想録を書いていたというのは、本当ですか?」
「本当だ。今日まですでに二巻が出ている」
巡査が一人、ドアの前に立っている。メグレがベルを鳴らすと、トランスが上衣を脱いだまま、ドアを開けに来た。
「警官に来てもらわざるをえなかったのです、警視《パトロン》。記者たちは建物のなかに入り込んできては、五分ごとにわざとベルを鳴らすんです」
「何もなかったか? 電話は?」
「二十回ほど。新聞記者たちからです」
「老家政婦はどこにいる?」
「台所です。電話が鳴るたびに、彼女は私より前に電話に出ようと飛び出してくるのです。最初のときなんか、私の手から受話器をひったくろうとしました」
「彼女のほうには電話がないのか? 寝室にもう一つ電話があるのは知っているね?」
「彼女の勤き回る音が聞こえるように、私はドアを開け放したままにしておきました。彼女は寝室には行ってません」
「外出はしなかった?」
「ええ。できたてのパンを買いに行きたいと言って、外出しようとしましたが、その点に関して警視から何の指示も受けておりませんので、許可しなかったのです。これから、私はどうしたらよろしいですか?」
「警視庁にもどりたまえ」
一瞬メグレは、自分もジャケットを連行して警視庁にもどり、ゆっくり尋問してみたいと思った。だが、この尋問の準備がまだできていない。もっとこのアパルトマンのなかをぶらぶらしてみたかった。結局、メグレが老家政婦にしゃべらせようとするのは、サン・ティレール伯爵の書斎において、ということになるだろう。
それまでの間、メグレは高いフランス窓をいっぱいに開き、伯爵がよく坐っていた席に坐っていた。彼の手が手紙の束のほうに伸びたとき、ドアが開いた。ジャケット・ラリューだった。これまでよりとげとげしい、疑い深い顔をしている。
「あなたにはそのお手紙を見る権利はございません」
「この手紙がだれからのものか、知っているのですか?」
「わたしが知っていようがいまいが、そんなことは重要じゃありません。それはプライベートなお手紙です」
「台所か、あなたの部屋にもどってほしいですね」
「外出してはいけませんか?」
「いまのところは、だめです」
彼女は辛辣《しんらつ》な言葉を浴びせてやろうとしてぐずぐずしていたが、その言葉が思いつかないので、あきらめて書斎を出た。怒りで顔が蒼白だ。
「今朝寝室にあった、銀の額縁に入った写真を持ってきてくれ、ジャンヴィエ」
メグレは今朝、その写真に大して注意を払わなかった。多くのことが彼にはまだなじみがなかった。あまりにも早く意見を抱かないのがメグレの主義である。というのは、第一印象を彼は信用しなかったからだ。
レストランで昼食中、メグレは突然、両親の寝室のなかで数年間見たことがある複製画を思い出した。その絵を買ってきて、壁に掛けたのは母にちがいない。その額縁は白で、今世紀初頭のスタイルのものだった。湖畔《こはん》に若い女が立っている絵で、女はベルトのない長い婦人服を着、駝鳥《だちょう》の羽根のついた大きな帽子をかぶり、手には尖《とが》った小型パラソルをにぎりしめている。顔の表情は、景色とおなじようにわびしい。母がこの絵を詩的だと思っていたことを、メグレは知っている。あの時代の詩情とは、こういったものではなかったのか?
イザベルとサン・ティレール伯爵の話が、この絵のことをメグレに思い出させたのである。両親の寝室のライト・ブルーの縞の壁紙さえもはっきりとだ。
ところで、伯爵の寝室のなかで今朝気がつき、ジャンヴィエに持ってこさせた銀の額縁には、おなじ体つきの若い女がいる。おなじスタイルのドレス、おなじわびしい表情を浮かべている。
これは、一九一二年頃のイザベルの写真のはずだ。彼女がまだ若い娘で、未来の大使と出会った時期。
彼女は背が高くはない。コルセットのおかげだろう、体つきがほっそりして見える。胸はかなり豊かだ。顔は目鼻立ちがよく整っている。薄い唇、青か灰色の明るい目。
「私はどうします、警視《パトロン》?」
「坐りたまえ」
メグレにはだれかが必要だった。自分の印象を点検するためかもしれない。目の前には、手紙の束が年代ごとに並んでいる。メグレはその束を一つずつ手に取ったが、もちろん全部目を通したわけではない。そんなことをしたら数日かかってしまう。だから、手紙のあちこちを拾い読みするだけである。
『素敵なあなた……いとしいあなた……やさしいあなた……』
これが時間が経つと……女は文通相手といちだんと密接になったと感じたからだろう……、ただ簡単に『あなた』とだけしか書いていない。
サン・ティレール伯爵は、いろいろな国の切手が貼ってある封筒も保存している。イザベルは多くの国を旅行していた。たとえば、八月の手紙はドイツのバーデンバーデンや、チェコのマリエンバードといった、あの頃の貴族好みの温泉町からのものだ。
チロルからのものもある。スイスとポルトガルのものも多い。イザベルは日々の生活を色どっているこまごました出来事をいきいきと、詳しく書き、また出会った人々のことを機知に富んだ描写で語っている。
しばしば彼女は、そういった人々をファースト・ネームだけか、簡単にイニシャルだけでしか書かない。
メグレはそのことに慣れるまでしばらく時間がかかった。郵便切手や、文章の前後の関係から、この判じ絵のようなものを少しずつ見抜くことができた。
たとえば、マリーはルーマニアの女王で、この時代はまだ国に君臨していた。イザベルは父親とブカレストの宮廷に滞在し、そこから手紙を書いた。マリーとは一年後に、イタリアの宮廷で再会する。
『わたくしのいとこのH……』
この名前は別の手紙ではフルネームで出てくる。ドイツのヘッセンの公爵。この他にもいとことか、いとこの息子とかいうのが多少ともある。
戦争中の一九一四年、イザベルはマドリッドのフランス大使館を介して手紙を送っている。
『お父さまは昨日、わたくしがV公爵と結婚しなければならないと言いました。あなたも公爵とは家で数回出会ったことがあるでしょう。わたくしは三日ほど考えさせてほしいと、お父さまに頼みました。この三日間、わたくしは泣き暮しました……』
メグレはパイプをぷかぷか吹かし、ときどき庭に、菩提樹の葉に目をやり、手紙を一通ずつジャンヴィエに手渡した。メグレはジャンヴィエの反応をうかがった。
非現実的に思えるこれらの手紙を前にして、メグレはいら立ちを感じていた。子供の頃、両親の寝室にあった湖畔の女の絵を、おなじような不快さでながめなかったか? 彼の目からすれば、あの絵は偽りの詩情であり、非現実的で、奇怪だった。
しかし、日々進化し、厳しくなっていくこの世界のなかで、彼はほとんどおなじ絵が生きているのを見出したのだ。
『今日の午後、わたくしはユベールと長い間話し合いました。わたくしは何もかも包み隠さずに打ち明けました。あの人は、わたくしがあなたを愛していることも、いろいろな障害があってわたくしたちが一緒になれないことも、わたくしがお父さまの意志に従うようになることもご存知でした……』
先週もまた、メグレは単純で、粗暴な痴情沙汰にかかわった。自分の愛する女の亭主をナイフで刺し殺し、ついで女をも殺して、最後に自分の動脈を切って自殺しようとしたのだが、果たせなかった。この事件はフォーブール・サン・タントワーヌの下層階級で起こった話なのである。
『あの人は、こんどの結婚が性関係のない結婚であることを承知しました。わたくしのほうは、二度とふたたびあなたに会わないことを約束しました。わたくしがあなたに手紙を書いていることを、あの人は知らないわけがありません。あの人はあなたを尊敬しておりますし、あなたがわたくしにたいして示しつづけてくださっている敬意を疑ったこともありません……』
メグレがほとんど肉体的な憤りを感じた瞬間が何度もあった。
「これをどう思う、ジャンヴィエ?」
ジャンヴィエはあっけにとられていた。
「彼女は真剣だったようですね……」
「この手紙を読むんだ!」
「さっきの手紙から三年後のものですね」
『あなた、わたくしはあなたが苦しんでいるのを知っています。でも、わたくしはあなたよりもっと苦しんでいるのですよ、こう言ってもあなたを慰めることにはならないかしら……』
一九一五年のことである。彼女は、V公爵の兄ジュリアンが、アルゴンヌで連隊の先頭に立っていて戦死したことを知らせてくる。彼女は何度も、休暇でパリに来た夫と長い話し合いを持つ。その結果、彼女が愛する男に知らせてきたことは、公爵と性関係をもたざるをえなくなったということだ。もちろん、彼女はこういう言葉は使っていない。彼女の手紙には露骨な、不快な言葉は一切ないばかりか、事実自体もあいまいな形で書かれている。
『ジュリアンが生きているかぎり、ユベールは兄が相続人であると確信していたので安心していました。しかし兄が戦死すると、Vの家名は……』
もう兄弟はいない。したがって、ユベールの義務は血統を絶やさないことだ。
『わたくしは一晩じゅうお祈りしました。つぎの朝、教会に司祭を訪ねました……』
司祭は公爵と同意見だ。愛の問題のために、五世紀前からフランス史のあらゆる頁に登場してくる名前を絶えさせてはいけないというのである。
『わたくしは自分の務めを理解しました……』
犠牲的行為がおこなわれ、子供が生まれる。フィリップである。彼女はこの誕生のことも知らせている。このことについてはほんの一行であるが、メグレは当惑させられる。
『神さまのお慈悲です! 男の子でした……』
これはあきらかに、もし子供が女だったら、彼女はまた犠牲的行為をおこなわなければならないという意味ではないのか?
そしてつぎも女の子が生まれ、さらにまた女の子だったら……。
「読んだか?」
「ええ」
彼らは二人ともおなじ不快に襲われているようだった。どちらももっとどぎつい現実に慣れていた。彼らが知っている色恋は、最後は警察にもちこまれるような悲劇で終る。
こちらのほうは、雲をつかもうとするような失望感がある。彼らが登場人物たちの輪郭をはっきりさせようとすると、登場人物たちは湖畔の女とおなじように、ぼやけてしまい、変わりやすい。
もう少しで、メグレは緑のカーテンのかかった家具のなかにこれらの手紙を全部押し込み、こうつぶやくところだった。
「ばかばかしすぎる!」
と同時に、彼は敬意みたいなもの、ほぼ感動に近いものに捉えられた。その気持にまけないように、彼は懸命に自分を抑えようとした。
「どう思う、きみは?」
ふたたびポルトガルで出会った公爵たち、王子たち、王座を追われた王たち。ついで夫と一緒にケニヤへ旅行。さらにアメリカへ旅行……イザベルはアメリカの生活があまりにも粗野なので、途方に暮れてしまう。
『……フィリップは成長すればするほど、あなたに似てきます。これは奇跡ではないでしょうか? 天がわたくしの犠牲的行為に報いてくれたのではないでしょうか? ユベールはそのことに気がついています。子供を見る目つきでわかります……』
いずれにしても、ユベールは二度とベッドを共にすることは許されなかった。彼は別のところで慰めを求めたにちがいない。手紙のなかでは、もはやユベールとは書かれず、ただHだ……。
『哀れなHはまた恋をしています。かなり苦しんでいるようです。見るまに痩せてしまい、ますますいらいらしています……』
五、六カ月ごとに、こうした恋のことが書かれている。アルマン・ド・サン・ティレールのほうは、手紙で、禁欲を守っているようなことを彼女に信じさせようとはしなかったはずだ。たとえば、イザベルは彼にこう書いている。
『トルコの女性は噂ほど人見知りしないし、とくに夫たちはあまり乱暴でありません……』
さらに、つけ加えて、
『用心しなさい、あなた。毎朝、わたくしはあなたのためにお祈りしています……』
サン・ティレール伯爵がキューバ公使になり、ついでブエノス・アイレスで大使になったとき、彼女はスペイン系の女たちのことを心配している。
『彼女たちはとてもきれいです! はるか遠くで、かすんでしまったわたくしは、いつかあなたが恋に陥るのではないかと思ってびくびくしています……』
彼女は彼の健康も心配している。
『あなたはまだ癌にお苦しみですか? この暑さでは、それは……』
彼女はジャケットのことを知っている。
『わたくしはジャケットに手紙を書き、あなたの大好きなアーモンド・タルトの作り方を教えておきました……』
「彼女はもう二度とサン・ティレールに会わないと約束していたはずだな? ……おい、みろよ……ここにこんな手紙がある」
『昨日、オペラ座で遠くからあなたにお目にかかれたのは、えも言われぬ幸せであると同時に、つろうございました……わたくしはあなたの小鬢《こびん》が好きです。少しお肥りになり、いちだんと威厳がおつきになりましたね……観劇の間じゅう、わたくしはあなたのことが自慢でした……』
『わたくしがおびえてしまったのは、ヴァレンヌ通りに帰って鏡をのぞいたときです……わたくしはあなたをがっかりさせてしまったのではないでしょうか?……女というものは素早く色あせてしまうものです。鏡に映ったわたくしはほとんど老女でした……』
二人はこうやって、遠くから、かなり頻繁《ひんぱん》に会っている。一種のデートさえしている。
『明日の三時頃、わたくしは息子と一緒にチュイルリー公園を散歩します……』
サン・ティレールのほうは、あらかじめ決めておいた時間に彼女の窓の下を通る。
彼女の息子については、十歳ぐらいのとき、特筆すべき言葉を吐いている。メグレはその手紙を大声で読みあげた。
『フィリップは何度もわたくしが手紙を書いている姿を見て、無邪気にこう訊いたのです、「お母さまはまた恋人にお手紙を書いているの?」って』
メグレはため息をつき、額の汗をぬぐうと、手紙の束をまたひもでくくった。
「チュデル医師を呼び出してくれ」
もっと堅実な手掛りにもどる必要が彼にはあった。手紙を書棚の元の場所に収めると、もう二度と触るまいと決心した。
「先方が電話に出ています、警視《パトロン》……」
「もしもし、医師《せんせい》……メグレです……十分前に終りました? ……いや、もちろん、肝心なところだけで結構です……」
受話器に耳を傾けながら、メグレはサン・ティレール伯爵のメモ用紙の上に、意味のわからない言葉や、記号をなぐり書きした。
「たしかですか? ……もうガスティーヌ・ルネットのところへ弾丸《たま》を送りましたか……あとで彼のところへ電話しましょう……ありがとう。……報告書を予審判事に届けておいたほうがいいですよ……そのほうが予審判事が喜ぶでしょうからね……ありがとう……」
メグレは腰に手をやり、部屋のなかを歩きはじめた。ときどき庭をながめるため立ち止まる。庭には、人なつこい鶫《ツグミ》が彼から数歩のところの草の上で跳ねまわっている。
「最初の弾丸《たま》は」と、彼はジャンヴィエに説明した。「正面から、ほぼ至近距離で撃たれている……七・六五ミリ口径の弾丸で、ニッケルめっきした銅がかぶせてある。……チュデルにはまだポール医師ほどの経験はないが、その弾丸がブローニングの自動拳銃から発射されたことをほぼ確信している……つぎの一点では、チュデルの態度はきっぱりしている……この最初の弾丸で伯爵は即死に近かった。伯爵のからだは前かがみになり、肱掛椅子からじゅうたんの上にすべり落ちた」
「どうしてそれがわかったのです?」
「他の弾丸が上から下に向って撃たれていたからだ」
「他の弾丸は何発です?」
「三発。腹に二発、肩に一発だ。自動拳銃には六発か、七発……銃身内に一発すべり込んでいるとして……入っているのに、なぜ犯人は四発で急に撃つのをやめたのかな。拳銃が故障したからか……」
メグレはじゅうたんを見つめた。一応掃除はしてあるものの、血のしみがはっきりと見てとれる。
「あるいは、犯人は被害者が死んだのを確信したからか。あるいは、ひどく興奮していたので、一発で仕留めたのに機械的に撃ちつづけてしまったのか。ムルスを呼んでくれないか?」
メグレは今朝、事件の奇妙な面ばかり見すぎて、自分自身で物的手掛りに専念することができなかった。その仕事を、彼は鑑識課の専門家たちに任せてしまっていた。
「ムルスか? そうだ……どこまで進んだ? ……もちろん……まず、書斎のなかに薬莢《やっきょう》があったかどうか言ってくれ……ない? 一つも……」
そいつは奇妙だ。犯人は人に邪魔されないことを承知していたのではないか。武器が七・六五ミリ口径のブローニングであるとしたら、やかましい、ひどく騒《そう》ぞうしい四発の銃声がする。犯人は、そのあとでかなり遠くに飛んだ薬莢を部屋じゅう、ゆっくりとさがしている。
「ドアの取手には?」
「はっきりしている指紋は、家政婦のだけです」
「グラスには?」
「被害者の指紋」
「机や、家具には?」
「ありません、警視《パトロン》。あなたのを除けば、外部の人間の指紋はないということですが」
「錠や、窓は?」
「写真を引き伸ばしてみましたが、押し入ったような跡は見あたりませんでした」
イザベルの手紙は、メグレがいつも手がけている恋人たちの手紙とは似ていないだろうが、犯罪は彼にとって現実そのものなのだ。
しかし、二つの細部が、見たところ矛盾していた。犯人は死者を、頭を砕かれ、恐ろしい形相を呈している、身動きもしない人間を、撃ちつづけた。メグレは、大きく傷口を開いた頭にこびりついているまだ豊かな白髪を、見開いたままの目を、えぐり取られた頬から飛び出している骨を憶えている。
検死医は、最初の一発で、被害者は肱掛椅子の脚もとの床に、メグレたちが見出した場所に転がったと断言している。したがって、たぶん書斎の向こう側にいた犯人はそばに近づいてきて、上から下へ向かって、至近距離で……チュデル医師によれば五十センチ以内……、ふたたび一発、二発、三発と撃った。
この距離だと、命中させるのに狙いを定める必要はない。言い換えれば、胸を撃とうが、腹を撃とうが好き勝手ではないのか?
それは復警の行為ではないのか、あるいは特別な度合の僧しみではないのか?
「このアパルトマンのなかに武器がないのはたしかか? あちこちさがしたか?」
「マントルピースのなかまでも」と、ジャンヴィエは答えた。
メグレもまた、老家政婦がかなり曖昧《あいまい》な言葉で話していた自動拳銃をさがした。が、見つかっていない。
「ドアの前を見張っている警官に、彼がベルトにつけているのが七・六五口径の自動拳銃かどうか訊いてみてくれ」
多くの制服警官はこの口径の拳銃を身につけている。
「そうだったら、ちょっと借りてきてくれないか」
メグレのほうも書斎を出ると、廊下を通り、台所のドアを開けた。ジャケット・ラリューはきちんと椅子に坐っている。目を閉じているので、眠っているようだった。彼女は物音にびくっとなった。
「私についてきてほしい……」
「どこへ?」
「書斎に。あなたにいくつか質問したいことがあります」
「わたしは何も存じませんと、すでにお答えしたはずです」
書斎にくると、彼女は何も乱されたものはないかたしかめるかのように、まわりを見回した。
「お坐りください」
彼女はためらった。主人がいるときにこの部屋で坐ったことがないのだろう。
「その椅子に……坐って……」
彼女はしぶしぶしたがうと、これまで以上の疑い深い目で警視を見つめた。ジャンヴィエは自動拳銃を手にして、もどってきた。
「それを彼女にわたしてくれ」
自動拳銃をつかむのを彼女は嫌がった。口を開けて何かしゃべろうとしたが、そのまま閉じてしまった。彼女はきっと「それをどこで見つけたのです?」と言おうとしたのではないか、とメグレは思った。
その拳銃は彼女を射すくめた。彼女はその拳銃から目をそらすことができなかった。
「この拳銃に見覚えがありますか?」
「どうしてわたしにそんなことがわかります? そばで調べたこともなかったし、それにその種類の銃は一つしかつくられないわけでもないでしょうし……」
「伯爵が持っていたのは、この型の銃ですか?」
「そうだと思います」
「大きさは?」
「そんなこまかいことわかりません」
「手にとって見て。ほとんどおなじ重さですか?」
その質問に答えることを、彼女はきっぱりと拒んだ。
「引出しのなかにあった銃に触ったこともないのに、どうしてわかるのです?」
「この銃を警官に返してくれ、ジャンヴィエ」
「わたしのこと、もう必要じゃありませんか?」
「まだです。あなたの主人が銃をだれかにあたえたか、貸したかしたのをあなたは知らないでしょうね。たとえば甥とか、あるいは他のだれかに?」
「そんなこと存じません。わたしにわかっていることはただ、ずっと前からいまのような銃は見かけていないということだけです」
「サン・ティレール伯爵は泥棒をこわがっていなかった?」
「もちろんです。泥棒だって、殺人者だって。その証拠に、伯爵さまは、夏は窓を開け放したままお休みになりました、ここが一階で、だれでも寝室に侵入することができるというのに」
「このアパルトマンには貴重品が置いてなかったのかな?」
「あなたと部下の方々のほうが、わたしよりここにあるものをよくご存知でしょ」
「いつからあなたはここに勤めました?」
「一九一四年の戦争の直後です。伯爵さまは外国からお帰りになり、下男が死んだのです」
「それではあなたは二十歳ぐらいでしたね?」
「二十八歳です」
「いつからパリに出てきました?」
「伯爵さまに雇われる数カ月前。それまでノルマンディーで父と一緒に暮していました。父が亡くなりましたので、わたしは働かざるをえなかったのです」
「色事は?」
「え、なんですって?」
「恋人がいたかどうか、婚約者がいたかどうかを訊いているんです」
彼女は恨みがましい目でメグレを見た。
「あなたが考えているようなことは何一つございません」
「では、このアパルトマンのなかで伯爵と二人きりで暮していたのですか?」
「それが悪いのでしょうか?」
メグレは必ずしも論理的に話を進めていたわけではなかった。この事件では論理的なものは何一つなかったからだし、彼が急所をさがしているかのように、話題はつぎつぎに変わっていた。書斎にもどってきたジャンヴィエは、ドアのそばに坐った。たばこに火をつけ、マッチを床に捨てると、何一つ見逃さない老家政婦は、ジャンヴィエをしかった。
「灰皿をお使いくださいまし」
「ところで、あなたの主人はたばこは?」
「長い間お喫いになりました」
「シガレットを?」
「葉巻です」
「最近は喫わなかった?」
「はい。慢性の気管支炎のために」
「しかし、健康状態はすばらしかったようですね」
チュデル医師は電話でメグレに、サン・ティレールは素晴らしい健康に恵まれていると言った。
「がっしりした体格、丈夫な心臓、硬化症はまったくありません」
しかし、完全な診断を下すためには、弾丸のため器官がいくつか破損されすぎている。
「あなたがここに勤めはじめた当時、伯爵は青年といってもよかった……」
「わたしより三つ年上でございました」
「伯爵が恋をしていたことを、あなたは知っていました?」
「わたしは伯爵さまのお手紙を郵便局に持って行きました」
「嫉妬しなかったのですか?」
「どうしてわたしが嫉妬するのです?」
「伯爵が毎日のように手紙を書いていた女性が、ここに来たことはありませんでした?」
「あの女《ひと》はこのアパルトマンのなかに一度も足を踏み入れたことがございません」
「しかしあなたは彼女に会ったことはありますね?」
彼女は口をつぐんだ。
「答えたまえ。事件が重罪裁判所に回れば、あなたはもっと厄介な質問を浴びせられることになるし、あなたには口をつぐむ権利はない」
「わたしは何も存じません」
「私は、あなたが手紙の女性に会ったかどうかを訊いている」
「会いました。あの女《ひと》は通りを歩いていましたし、ときどきわたしは伯爵さまからお手紙を預ってあの女《ひと》にじかに手渡したこともありました」
「こっそりと?」
「いいえ。あの女《ひと》に面会を求めますと、あの女の部屋へ通してくださいます」
「彼女はあなたに話しかけました?」
「ときどき、いろいろご質問なさいました」
「それは四十年ほど前のことですね?」
「当時も、ごく最近も」
「どんな質問を?」
「主に、伯爵さまの健康のことです」
「伯爵が招いた人々のことは訊きませんでした?」
「はい」
「あなたは外国まで伯爵について行ったのですか?」
「いたるところへ!」
「公使として、ついで大使として、外国では伯爵は大勢の召使いを使わざるをえなかった。あなたの正確な役割は?」
「伯爵さまのお世話をしておりました」
「あなたは他の召使いとは違っていた、台所仕事や、掃除や、パーティのことを気にしなくてよかったと言うのですか?」
「わたしは召使いたちを監督していました」
「あなたの肩書は? 家政婦?」
「わたしには肩書なんかございません」
「あなたに恋人は?」
彼女はからだを固くした。目にはこれまでより蔑みの色が濃い。
「あなたは伯爵の愛人だったのですか?」
メグレは、彼女が爪を立てて飛びかかってくるのではないかと心配した。
「私は手紙で、伯爵にはいろいろと色恋があったことを知った」
「それは伯爵さまの好き勝手でございましょう?」
「あなたは伯爵の色恋に嫉妬した?」
「何人かの女を追い払ったことがございます。その女たちは伯爵さまにはむいておりませんし、面倒を惹き起しそうな女たちだったからです」
「言い換えれば、あなたは伯爵の私生活まで心配していた」
「伯爵さまは善良すぎたのです。伯爵さまは純真なままでした」
「しかし、難しい大使の仕事をきちんと果している」
「それとこれとは話が違います」
「伯爵とは一度も離れなかった?」
「手紙に書いてございませんでした?」
こんどはメグレがそれには答えず、しつこく繰り返した。
「どのくらいの間、伯爵と離れていました?」
「五カ月です」
「いつ頃?」
「伯爵さまがキューバ駐在の公使であったとき」
「なぜ?」
「伯爵さまの女が、わたしを解雇するように要求したからです」
「どんな女でした?」
沈黙。
「なぜその女はあなたに我慢できなかったのです?伯爵はその女と暮していたのですか?」
「女は毎日伯爵さまに会いにきました。二人はよく公使館で夜を過ごしました」
「あなたはどこに行きました?」
「プラドの近くに小さな家を借りました」
「伯爵はそこにあなたを訪ねてきました?」
「そんな勇気はございませんでした。ただ、辛抱するように電話をかけてきただけでございます。伯爵さまは、女との関係が長くつづかないことをよく存じていたのです。それでもわたしはヨーロッパ行きの切符を買いました」
「しかし、あなたは出発しなかった?」
「伯爵さまはわたしが出発する前日に迎えにきてくれたのです」
「あなたはフィリップ公爵を知っていますか?」
「手紙をお読みなら、そんなことわたしに訊く必要はないでしょう。死後に、手紙をあさるのは許されないことです」
「あなたは私の質問に答えていない」
「フィリップ公爵にはお若いときに、お目にかかりました」
「どこで?」
「ヴァレンヌ通りです。よくお母さまと一緒にお見えになりました」
「今朝、外務省に行く前に、公爵夫人に電話することを考えなかった?」
彼女は平然としてメグレを見つめた。
「なぜそうしなかったのです? あなたによれば、二人の橋渡しを長い間つとめてきたというのに」
「葬式の日だったからです」
「それでは外務省からもどり、われわれがここを留守にしたとき、公爵夫人に知らせようとはしなかったのですか?」
彼女はじっと電話機を見詰めている。「書斎にはいつでもだれかがいました」
ドアがノックされた。歩道で見張りに立っている警官だ。
「お役に立つかどうかはわかりませんが、新聞をお持ちしたはうがいいと思いましたので……」
いつもより一時間早くあらわれたにちがいない夕刊だ。第一面の下に、二段抜きの、ゴシック活字の見出しでこう書かれている。
『大使の謎の死』
本文は短かった。
[#ここから1字下げ]
今朝、アルマン・ド・サン・ティレール伯爵の死体が、サン・ドミニック通りの自宅で発見された。伯爵はローマ、ワシントン、ロンドンなどをはじめ、いろいろな首府でフランス大使を長い間務めていた。
何年か前に退職してからは、伯爵は回想録を二巻刊行し、殺されたときは……そのように思われる……、三巻目のゲラ刷の校正中だった。
犯行は、老家政婦によって早朝に発見された。動機が物盗りか、あるいはもっと複雑な理由があるのかはまだわかっていない。
[#ここで字下げ終わり]
メグレは夕刊をジャケットに差し出し、ためらいがちに電話機を見た。ヴァレンヌ通りでも新聞を読んだか、あるいはだれかがイザベルにこのニュースをすでに知らせたかどうかを、彼は考えたのである。
その場合、彼女の反応はどうだったか?
自分で思い切って来ようとはしなかったのか? 息子を情報を取りによこそうとはしなかったのか? 喪に服して、鎧《よろい》戸を閉め切ってあるはずのヴァレンヌ通りの大邸宅で、静かに待っているだけなのか?
メグレはどうすべきなのか?
彼は立ち上った。自分に不満だったし、すべてに不満だった。フランス窓の前に立ちふさがるとジャケットが目尻をつりあげているのもかまわず、パイプを踵《かかと》でたたいて灰を床の上にふりまいた。
[#改ページ]
第四章
椅子の上で細いからだをこわばらせた老家政婦は、彼女がまだ知らなかった警視の怒りの声におびえていた。しかし、メグレが怒りをぶっつけていたのは彼女にではなく、電話線の向こうの見えない相手にだった。
「いや、クロミエールさん、私は大臣の先生方がよくするように、新聞にコミュニケなど送っていないし、記者やカメラマンを呼んだりしていない。つぎのあなたの質問ですが、あなたに教えるような新しい情報はないし、私の考えもまだできていない。何かを発見したら、ただちに予審判事に報告書を書きますよ……」
メグレは、ジャケットがこっそりジャンヴィエのほうに目をやるのに気がついた。彼女はジャンヴィエに、警視が爆発させている怒りの証人になってほしいようだった。唇にもかすかに微笑を浮かべている。それはジャンヴィエにこう語りかけているようだった。
「どう、あなたの上役は……」
メグレはジャンヴィエを廊下に連れ出した。
「公証人のところへひと走りしてくる。彼女には質問をしつづけてくれ。急がずに、やさしくやるんだ、私の言う意味がわかるな。私よりきみのほうが、彼女の気を惹きつけることができるだろう」
そのとおりだった。こんな頑固なオールド・ミスにかかわることが今朝からわかっていたら、ジャンヴィエより若いラポワントを連れてきただろう。というのは、司法警察局のなかで、相当の年配の女たちにたいして最もうまくやるのがラポワントだったからだ。彼女たちの一人は、首をふりふりこう言ったことがある。
「あなたのような育ちのいい坊やが、どうして警察官になんかなったのでしょうね……」
女はこうもつけ加えたのだ。
「あなたはきっと悩んでいるはずだわ」
警視は通りに出た。新聞記者たちは見張りに一人残して、あとは周辺の居酒屋《ビストロ》に冷たいものを飲みに行っていた。
「何もないよ、きみ……私についてくることはない……」
メグレは遠くへは行かなかった。この事件では、遠くへ行く必要はない。この事件にかかわり合っている人々全員にとって、パリは、距離の差こそあれ、貴族の住むいくつかの通りに限定されている。
ヴィレールセクセル通りの公証人の家は、サン・ドミニック通りの家とおなじ時代の、おなじ様式のものだった。両開きの大門も、赤いじゅうたんを敷いた広い階段も、静かに、物音も立てずに上るエレベーターもある。メグレはエレベーターには乗らなかった。事務所は二階だったからだ。二重ドアの銅の取手も、ノックせずにお入りくださいと書いたプレートもよく磨かれている。
「また老人と顔をつき合わせるのではないか……」
メグレは書記たちのなかに三十ぐらいの美しい女を見つけてうれしい驚きを味わった。
「オボネ先生を頼みます」
なるほどこの事務所はじゅうたんが厚すぎるし、少しばかり気取りすぎているが、しかし彼を待たせなかった。彼はすぐに広い部屋に案内された。その部屋には四十五歳ほどの男がいて、立ち上ってメグレを迎えた。
「メグレ警視です……あなたの顧客の一人、サン・ティレール伯爵のことでうかがいました……」
「それでしたら、私ではなく、父のほうです。父がいま暇かどうか見てきます……」
メートル・オボネの息子は、別の部屋へ入って行き、しばらくそこにいた。
「どうぞこちらヘ、メグレさん……」
もちろん警視は、こんどはまさしく老人と向かい合っていた。からだの調子がよくはなさそうだった。高い背の肱掛椅子に深々と坐り、目をしばたたいている。昼寝を邪魔されたようなぽかんとした顔つきだ。
「大声で話してください」と、部屋を出ながら息子が忠告した。
メートル・オボネは非常に肥っていたにちがいない。いまでもかなり肥っている。からだじゅうたるんでいて、皺《しわ》だらけだ。片方の足に靴をはき、踝《くるぶし》が腫れているもう一方の足にはフェルトのスリッパをはいている。
「わしのかわいそうな友達のことで話しにきたのだと思うが?」
口もたるんでいて、そこから出てくる声もふにゃふにゃしていて聞きとりにくい。しかし、メグレが質問しなくても、老人は勝手にしゃべりつづけた。
「サン・ティレールとわしはスタニスラスで知り合ったんじゃ……何十年前じゃったかな……ちょっと待った……わしはいま七十七歳……それじゃから、高校《リセ》で一緒だったのは六十年ほど前になる……彼は外交官をめざしていた……わしの夢は、ソミュールの騎兵学校に入ることじゃった……あの頃はまだ馬じゃった……騎兵隊は機械化されておらなかった……わしが生涯一度も馬に乗ったことがないのをご存知かな? とにかく、わしは一人息子じゃったし、おやじの商売をひきつがなければならなかったからじゃ……」
メグレは、その父親もすでにここに住んでいたのかどうか訊かなかった。
「サン・ティレールは学生時代から、まじめな人間じゃった。しかし、まじめといっても、爪の先まで洗練された、たぐいまれな人間じゃったな……」
「伯爵はあなたの手もとに遺言書を残していったと思いますが?」
「彼の甥のマズロンが、さきほどおなじことを訊きおった。わしはマズロンを安心させてやった……」
「全財産を相続するのは甥ですか?」
「いや、全財産じゃない。彼が遺言書を作成したとき、わしはいろいろ注意してやったから、いまでもその遺言書を暗記しておる」
「ずっと前ですか?」
「最後の日付のやつは十年ほど前じゃ」
「それでは、前の遺言書とは違っているのですね?」
「細かい点だけじゃよ。利害関係者たちが全員そろってはいないので、甥には遺言書を見せてやらなかった」
「利害関係者たちとは?」
「大ざっぱに言うと、アラン・マズロンはサン・ドミニック通りの建物と、それほど多くはない財産を相続する。家政婦のジャケット・ラリューは生涯を安楽に暮せるだけの終身年金を受けとる。家具や、骨董品や、絵や、身の回り品に関しては、サン・ティレールはある年取った女友達に遺贈しておる……」
「イザベル・ド・V……」
「あんたはよく知っておるようじゃな……」
「あなたは彼女を知っていますか?」
「かなりよくな。とくにご主人のほうを知っておる。わしの顧客の一人じゃからな……」
二人の男がおなじ公証人を選んだというのは、かなり驚くべきことではないのか?
「彼らはあなたの事務所で顔をつき合わせる恐れはなかったのですか?」
「そういうことは一度も起こらんかった。そんなことになるかもしれんと彼らは考えもしなかったじゃろう。たとえなったとしても、それほどばつが悪かったかな。いいかね、彼らは友達でなかったかもしれんが、おたがいを尊敬し合っておった。二人とも廉恥《れんち》の士だし、そのうえ美的センスのある人じゃったから……」
言葉まで過去から生きかえったようだった! 実際、メグレが『廉恥の士』という表現を聞いたのは、もう昔だ。
肱掛椅子の老公証人は、はかない思い出に声もなく笑った。
「そう、美的センスのある人たちじゃった!」と、彼は繰り返した。「皮肉にも、彼らはある領分では、おなじ趣味の持主じゃった……彼らが死んだいま、そのことを話しても職業上の秘密をもらしたことにはなるまい、あんたも口の堅いお人だから……公証人とはほとんどいつの場合でも打明け話の聞き役じゃ……そのうえサン・ティレールはどんな軽挙でもわしにしゃべった旧友じゃ……一年近くの間、公爵と彼とはおなじ女を愛しておった。グラン・ブールヴァールでレビューを踊っていた、豊かな胸をした美しいおなごじゃ。彼らはそのことに気づいていなかった……彼らは女の家ではち合わせすることもなかった……」
老人はみだらな目でメグレをながめた。
「彼らは礼儀をわきまえておる……数年前からわしは事務所の仕事はほとんどしておらん。長男にまかせておる……しかし、毎日事務所に降りてきて、わしの旧《ふる》い顧客には会いつづけておるよ……」
「サン・ティレールには友達はいたのですか?」
「何人かいたよ。わしらの年齢だと、仲間がつぎからつぎへと死んで行く。ついにわしは、彼が訪問できる最後の友達になってしまった。彼は脚が丈夫じゃったので、まだ毎日のように散歩しておった。よくわしに会いに来て、あんたがいま坐っておる場所に坐った……」
「あなた方はどんな話をなさいました?」
「もちろん、わしらの若かった頃のこと、とくにスタニスラスでわしらが知っていた人々のこと。いまでもその人々の大半の名前を挙げることができる。彼らの多くが成功したというのは驚くべきことじゃ。いちばん頭の悪かった仲間は、何回か総理大臣になり、去年亡くなった。別の仲間は軍人なのに、アカデミー・フランセーズ会員になりおった……」
「サン・ティレールには敵は?」
「どうして彼にそんなものがおるんじゃ? 仕事の面では、彼はだれも蹴落《けお》とさなかった、今日では人を蹴落とすことはあたりまえのことになっておるようじゃが……彼は自分の地位を辛抱強く待って手に入れた。回想録によると、彼は人と一度も果たし合いをしていない。そんなところが、あの回想録がわずかな人にしか読まれない原因かもしれん……」
「V公爵については?」
公証人はびっくりしてメグレをながめた。
「わしはすでに公爵についてあんたに話した。公爵はもちろん、事情に通じていたし、サン・ティレールが約束を守ったことを知っておった。公然とではないにしても、サン・ティレールはヴァレンヌ通りに招かれ、食事をご馳走になったのじゃないかと思っておる」
「息子さんもサン・ティレール伯爵のことはよく知っていたのでしょうか?」
「もちろん」
「息子さんはどんな人です?」
「父親より人間が小さいんじゃないかな。しかし、実のところわしは息子のことはよく知らん。陰にこもった人間のようじゃ。現代では、あの家系を背負っていることは大変なことじゃから、ああいう性格になってしまうのも無理がないかもしれん。社交界の生活は彼には興味がない。だから、パリにはあまりいない。一年の大半をノルマンディーで妻子と共に過ごし、農園や馬の世話をしておる……」
「最近、息子さんに会いましたか?」
「明日、遺言書を公開するので、彼とも母親とも会う。したがって、わしはおなじ日に二つの相続問題を処理することになる」
「公爵夫人から今日の午後、あなたに電話がありませんでしたか?」
「まだない。彼女が新聞を読むなり、だれかから知らせをうけたら、間違いなくわしと連絡をとるはずじゃ。わしにはいまもって、なぜ旧友が殺されたのかわからん。あれが彼の家ではなく別の場所で起ったのなら、人違いで殺されたと思ってしまったじゃろう」
「ジャケット・ラリューは伯爵の愛人だったと思いますが?」
「その言葉はふさわしくない。サン・ティレールはそのことはわしには一度も話さなかった。しかし、わしは彼のことをよく知っておるし、ジャケットのことも知っておる。若くて、美しい娘だった頃のジャケットを。ところで、アルマンは手の届くところにいる美しい娘を、何もしないでだまって放っておくような人間じゃない。耽美主義的なところがあったからな……あんたには理解できるかな? それとチャンスが加わって……」
「ジャケットには家族は?」
「一人もおらんのじゃないかな。彼女に兄弟なり、姉妹なりがいたとしても、もうとっくに死んでいるはずだ、絶対に間違いない」
「ありがとう……」
「急いでいるようじゃね? とにかく、何かあったらいつでも来てかまわんよ。誠実な人間のようじゃ、あんたも。わしはあんたがあんなことをした奴を捕えてくれるものと期待しておる」
相変わらず、過ぎ去った過去のなかに、失われた世界のなかに入り込んでしまったような気分だ。だから、通りを、生き生きしているパリを、ぴったりしたパンタロン姿で買物している女たちを、ニッケルめっきした家具のあるバーを、赤信号の前でがたがた揺れている自動車を見つけたときは当惑してしまった。
メグレはジャコブ通りに行ったが、無駄足だった。鎧戸の下りた店のドアには、黒枠のカードがあり、こう書かれていた。
『親戚の不幸のため閉店』
彼は何度もベルを押したが返事はなかった。そこで、二階の窓を見るため通りの反対側の歩道に渡った。窓は開いていたが物音は聞こえない。たるんだ大きな乳房をした、赤褐色の髪の女が画廊の物陰から不意にあらわれた。
「マズロンさんでしたら、いませんよ。鎧戸を閉めて正午頃出かけるのを見かけましたから」
彼女は、マズロンがどこに行ったかは知らなかった。
「人付き合いのよくない人ですので……」
メグレはもちろんイザベル・ド・Vに会うだろう。しかし、この訪問は彼に強烈な印象をあたえそうなので、もっと後にしたかった。その前にもう少し彼女について知っておきたいことがあった。
メグレが人間を前にしてこれほどまごつくのもめずらしい。十九世紀から現れ出た人物たちを直接理解するには、『ランセット』の論文にしたがえば、精神科医や、小学校の教師や、小説家のほうがふさわしいというのか?
ただ一つ、たしかなことがある……悪いことをしない、やさしい老人であり、公証人の言葉によれば廉恥の士であるアルマン・ド・サン・ティレール伯爵は自宅で、彼が信用していた何者かによって殺された。
金目当ての偶発犯罪ではないし、見知らぬ者の愚行でもない。その理由はまず、何も盗まれていないことだ。つぎに、元大使は最初の弾丸《たま》が至近距離から頭に撃ち込まれたとき、静かに机に坐っていた。
あるいは、犯人にドアを開けに行ったのは伯爵自身かもしれないし、あるいは犯人はアパルトマンの鍵を持っていたのかもしれない。ジャケットは、鍵は伯爵のと彼女自身のと二つしかないと断言しているが。
メグレの頭には相変わらずとりとめのない考えがつぎつぎに浮かんだ。彼はバーに入ると、ビールを一杯注文し、電話室に入った。
「きみか、ムルス? そこに押収品のリストがあるか? それじゃ鍵のところを見てくれ……入口のドアの鍵だ……そう……なんだって? そう? どこで見つけた? ズボンのポケットのなかで? ……ありがとう……何か変わったことは? ……いや……私が警視庁にもどるのはまだずっと後だ……何か私に伝えたいことがあったら、ジャンヴィエを呼び出してくれ、彼はずっとサン・ドミニック通りにいる……」
死者のポケットから、二つの鍵のうちの一つが見つかっている。もう一つもジャケット自身が持っている。今朝メグレと外務省の若い男が、彼女と一緒にここに来たとき、彼女はその鍵を使って一階のドアを開けたのだから。
動機がないのに人殺しはしない。盗みの線はいったんは外したが、まだ残しておいたほうがいいのではないか? 老人同士の、痴情沙汰か? 利害にからんだ犯行か?
ジャケット・ラリューは十分すぎる以上の終身年金をもらえることになっている、と公証人は主張している。甥のほうは、建物と、三人のなかではいちばん多くの金を相続している。
イザベルに関しては、夫が死んだばかりなのに、人を殺す気になったとは想像し難い……。
だめだ! どんな説明でも納得がいかない。外務省のほうでは、政治的な動機をすべてきっぱりと退けている。
「ポンプ通りヘ!」と、メグレは黄色いタクシーの運転手に言った。
「承知しました、警視さん」
もうずっと前から、メグレはこんなふうに顔を知られていても得意な気分にはならなかった。管理人はメグレに六階に行くように言った。六階に着くと、褐色の髪の、かなりきれいな小柄な女が、まずドアを細目に開けてのぞいてから、メグレを陽が一杯に射し込んでいるアパルトマンのなかに通した。
「散らかっていてすみません……娘のドレスをつくっていたところなんですの……」
彼女は黒い絹の、ぴったりしたパンタロンをはいている。丸々とした尻の線がくっきりと出ている。
「事件のことでお見えになったのだと思いますけど、わたしにお役に立つことがありますかしら」
「お子さんたちはここにいないのですか?」
「長女は語学を学びにイギリスに行ってます。ある家に暮しているのですが、食と住をあたえられるかわりに無給で働いています。下の娘《こ》は勤めに出ています。このドレスはその娘のものですの……」
彼女はテーブルの上の、すでにドレスに裁断してある、薄い、色ものの布地を指さした。
「わたしの主人には会ったのですね?」
「ええ」
「反応はどうでした?」
「長い間ご主人には会っていないのですか?」
「三年近く」
「サン・ティレール伯爵とは?」
「伯爵が最後にここに見えたのは、クリスマスの直前でした。娘たちのために贈物を持ってきてくれたんですの。伯爵はクリスマスの贈物を一度も欠かしたことがありません。外国に赴任しているときでも、娘たちはまだ小さかったんですけど、クリスマスには忘れずにちょっとしたものを送ってくれました。あの子たちが世界じゅうの人形を持っていたのはそのためですの。いまでも娘たちの部屋にはその人形があります」
彼女はまだ四十にはなっていない。十分に魅力的だ。
「新聞に書かれていることは本当ですの、あの人は殺されたのですか?」
「ご主人のことを話してください」
そのとたん、彼女の顔は生気がなくなった。
「どんなことをお訊きになりたいんですの?」
「あなた方は恋愛結婚ですか? 私の勘違いでなければ、ご主人はあなたよりずっと年を取っていますね」
「十ほどです。昔から若く見えなかった人です」
「ご主人を愛していましたか?」
「わかりません。わたしは気難しい父と二人暮しでした。父は自分のことを不遇の大画家だと思い込んでいたので、絵の修復をして生活費を得ることを苦しんでいました。わたしはグラン・ブールヴァールの店で働いていました。そこでアランと会いましたの。喉が乾いていません?」
「ありがとう。ビールを一杯飲んできたばかりですから。話をつづけてください……」
「わたしを惹きつけたのは、アランの神秘的な様子だったのでしょう。彼は他の人たちのようではありませんでした。口数が少ないし、彼の話はいつでも興味がありましたわ。わたしたちは結婚し女の子がすぐに生まれました……」
「あなた方はジャコブ通りで暮していたのですね?」
「そうです。わたしもあの通りが好きですし、二階の小さなアパルトマンも好きですの。あの頃、サン・ティレール伯爵は、わたしの思い違いでなければ、まだワシントン駐在の大使でしたわ。休暇の間にわたしたちに会いに来てくれましたし、サン・ドミニック通りにわたしたちを呼んでもくれました。わたし、伯爵にはとても強い印象をうけました」
「ご主人と伯爵の関係はどうでした?」
「どう言ったらいいのかわかりません。伯爵はだれにでも愛想のいい人ですの。伯爵はわたしが甥と結婚したことに、驚いたようでしたわ」
「なぜ?」
「そのことがわかったような気がしたのは、ずっと後になってからです。もっともいまだにたしかではありませんけど。伯爵はわたしが思っていた以上にアランのことをよく知っていたにちがいありません、いずれにしても、あの頃のわたしよりはずっとよく……」
彼女は自分がいま言ったことが心配になったかのように、話を中断した。
「わたし、恨みからこんな話をしていると思われたくないんです。主人とわたしはいま別居中ですし、家を出たのはわたしだからです」
「だれもあなたを引きとめようとはしなかったのですか?」
ここの家具はモダンで、壁も明るかった。かいま見える台所も白くて、きれいに片づけられている。聞きなれた物音が通りからきこえてくる。かなり近いところに、ブーロニュの森の緑が広がっている。
「アランを疑っているのではないでしょうね?」
「率直に言えば、私はまだだれも疑っていません。しかし、いかなる仮定も退けてはいません」
「あなたはきっと道を間違えるでしょう。わたしの考えでは、アランは人生に順応できない、一生順応できない不幸な人です。気難しい父のもとを去ったのに、父よりももっと気難しい人間と結婚するなんて驚くべきことでしょ? わたしは時がたつにつれてそのことに気がついたのです。結局わたしは彼が満足したのを見たことがありませんし、彼がほほえんだことがあったかどうか、いまになって考えますの。
彼はすべてが不安なのです。健康、商売、人々が彼について考えていること、隣人たちや客たちの視線……。すべての人間が自分のことを恨んでいると、彼は信じているんです。
説明しにくいんですの。でも、わたしの言うことを嗤《わら》わないで聞いてください。彼と一緒に暮していると、朝から晩まで目覚し時計のカチカチいう音を聞いているようないらいらした気分にさせられます。彼は黙って部屋のなかを行ったり来たりし、突然わたしを見詰めます、まるでわたしの心のなかをのぞき込むように。でも、彼が何を考えているのかわたしには知るすべもありません。相変らず彼は蒼白いですの?」
「ええ、蒼白いです」
「わたしが会ったとき、彼はすでに蒼白かったんですの。田舎や、海に行ってもああなのです。わざと蒼白くしているのかもしれませんね……。家の外に出ないのです。できるだけ外気に触れないようにしているんですの……数年の間、わたしたちはおなじベッドに休みました。夜中に目醒めて、わたしは見知らぬ男をながめるように彼をながめていることがありました。彼は残酷ですわ……」
彼女はこの言葉を訂正しようとした。
「たぶんわたしは大げさに言っているのかもしれませんね。彼は自分が正しいと思っている。どんなことがあっても、自分が正しくあろうとします。偏執でしょうね。どんな些細なことでも彼は正しいのです。わたしが残酷と言うのはそのことなんですの。とくに子供ができたときに、わたしはそのことに気がつきました。彼はわたしをながめるのとおなじ目で、他人をながめるのとおなじ目で子供たちをながめるのです、あの冷ややかな、醒めた目で。子供たちがちょっとしたへまをすると、わたしは子供たちをかばおうとします。 『まだ子供なのよ、アラン……』
『子供だからって、いんちきをしていいという理由にはならない』
これは、彼のお気に入りの言葉でしたわ。いんちきをする! ちょっとしたいんちき! ちょっとした卑劣な振舞い! この非妥協性を、彼は日常生活の些細な問題にも持ち込むのです。
『なぜ魚を買った?』
わたしは説明しようとします。
『おれは子牛の肉と言った』
それからわたしが買物に出かけようとするたびに、彼はしつこく繰り返しますわ。
『おれは子牛の肉と言ったんだぞ。魚を買うことなんかない』」
彼女はまたもや話を中断した。
「わたし、しゃべりすぎなかったかしら? ばかなこと言わなかったかしら?」
「つづけてください」
「それで終りですわ。数年後にわたしは、アメリカではなぜ精神的な残酷さが離婚の原因になるかを、わかったような気がしました。大声をあげなくとも、自分のクラスを一種の恐怖で支配する小学校の先生がいますものね。
アランと一緒だと、わたしも娘たちも息詰ってしまいますの。彼が店に出かけるのを見てもほっとしません。店は階下《した》、わたしたちの足の下ですし、朝から晩まで、一日に何回も階上《うえ》にあがってきて、冷ややかな目でわたしたちの行為をうかがうのです。
支出は一銭でも彼に報告しなければなりませんの。外出したときでも、彼はわたしの道順を知りたがり、ついでわたしが話しかけた人たちのこと、わたしが言ったこと、その返事などを知りたがります……」
「ご主人をだましたことがあるのですか?」
彼女は憤慨しなかった。彼女が満足げな、貪婪《どんらん》とさえいえる微笑を浮かべようとしたようにメグレには思えた。だが、彼女はそれをこらえた。
「どうしてそんなことお訊きになるんですの? だれかがわたしのことをしゃべったんですか?」
「いや」
「彼と暮していた間は、非難されるようなことは何一つしていません」
「家を出ようと決心したのはなぜです?」
「力尽きたんです。さっきも申したように、息詰るようでしたし、わたしは娘たちがもっと呼吸しやすい環境で成長することを望んだのです」
「家を出たのに、もっと個人的な理由はなかったのですか?」
「あったでしょう」
「娘さんたちはそのことを知ってますか?」
「わたしに愛人がいることを娘たちには隠しませんでした。娘たちはわたしが正しいことを認めてくれましたわ」
「その愛人とあなたは一緒に暮しているのですか?」
「あの人の家に会いに行くのです。わたしとおなじ年齢の男やもめですの。主人とわたしがうまく行かなかったように、奥さんと仕合せではなかったのです。そういったわけで、わたしたちは失敗者同士がまたくっついたわけですわ」
「その人はこの地区に住んでいるのですか?」
「このおなじ建物に。二階下ですの。お医者さんです。ドアにネーム・プレートがついてますわ。いつか、アランが離婚に同意してくれたら、わたしたち結婚するつもりです。でも、そういうことになるかしら。あの人は熱烈なカトリック教徒なの、信条というよりも慣習で」
「ご主人は生活費をきちんと稼いでいますか?」
「多いときと少ないときがありますわね。わたしが家を出たとき、彼は子供たちのために、わずかだが養育費を送ると言ってくれたのです。数カ月間約束は守られました。それからは一銭も送ってきません。娘たちが自分の生活費を稼げるほど大きくなったという口実をつけて。このような彼が、それでも人を殺したりするんでしょうか?」
「あなたは伯爵の愛人のことを知ってますか?」
「イザベルのことですか?」
「V公爵が日曜日の朝死亡し、その葬式が今日であることを、あなたはご存知ですか?」
「新聞で読みました」
「サン・ティレールが生きていたら、公爵夫人と結婚したでしょうか?」
「そうなったかもしれませんね。二人がいつか結ばれることを、伯爵は一生涯望んでいましたから。彼女のことを、まるで特別な人間か、ほとんど超自然的な人間のように話すのを聞いて、わたし感動しました。人生の現実をよくわきまえている伯爵が、ときどきは、わきまえすぎているところさえあるあの人がですよ……」
こんどは、彼女は率直にほほえんだ。
「ずっと前のことですけど、あるとき何かの用事で伯爵に会いに行ったことがあるんですの。わたしは伯爵の手からやっとのことで逃れました。伯爵は別にばつが悪そうではありませんでした。伯爵からみれば、しごく当然なことなのですね……」
「ご主人はそのことを知りましたか?」
彼女は肩をすくめた。
「もちろん知りません」
「ご主人は嫉妬深かった?」
「あの人なりに。わたしたちは関係は少なかったのです、わたしの言いたいことがわかりますわね。あっても冷ややかな、機械的なものでした。彼が非難するのは、わたしが他の男に惹かれていることではなくて、わたしが間違いを、罪を、裏切りを、彼が汚らわしいと考える行為をおかしていることなんです。わたしが言いすぎたら、彼を罵倒するようなところがあったら、ごめんなさい。そんなつもりはないんですから。それはわたしだって立派な女ではありません。でも、長い間自分が女であることを感じられなかったのです。ですからわたしは……」
彼女は分厚い唇と、きらきらする目をしている。数分前から、足を組んだり、解いたりしている。
「本当に何もお飲みになりませんの?」
「ありがとう。そろそろ帰らなくてはなりません」
「これまでの話はここだけのことにしていただけますわね?」
メグレは彼女にほほえむと、ドアのほうに向った。彼女はぽってりした、温かい手を差し出した。
「娘のドレスをつくりつづけますわ」と、彼女は残念そうにつぶやいた。
とにかく、メグレはいま、一時的にも、老人たちをめぐる輪から抜け出たばかりなのである。ポンプ通りのアパルトマンを立ち去りながら、彼はいつもの街の物音と、匂いを見出してはっとしたメグレはすぐにタクシーを見つけ、サン・ドミニック通りへ行かせた。建物のなかに入る前に、マズロン夫人の家でことわったビールを飲むことにした。バーのなかで、彼は各省や、大きな商社の運転手たちと隣り合わせた。
さきほどの記者がまだ持場を守っていた。
「私はあなたについて行こうとしたかったんですよ。だから、あなたがだれに会いに行ったのか教えてくれませんか?」
「公証人だ」
「何か新しいことを教えてくれましたか?」
「いや」
「相変わらず手掛りはつかめないのですか?」
「そのとおり」
「政治的なかかわりがないというのはたしかでしょうか?」
「そのようだ」
制服警官も相変わらず見張りに立っていた。メグレはエレベーターのわきの、ドアのベルを鳴らした。ジャンヴィエが上衣を脱いだまま、開けにきた。ジャケットは書斎にはいなかった。
「何かあったかね? 彼女を外出させたのか?」
「いいえ。彼女は電話がかかってきたあと、家には食べるものがないからと言って外出しようとしましたが、させませんでした」
「いま彼女はどこにいる?」
「自分の部屋に。休んでおります」
「電話がかかってきたと言ったが、だれからだ?」
「あなたが出かけてから三十分後に、電話が鳴り、私が受話器を取りました。かなり弱々しい女の声が聞こえました。
『どなたです?』と、彼女は訊きました。
それには答えず、こんどは私がたずねました。
『だれをお呼びです?』
『ラリューさんと話したいのですが』
『あなたは?』
沈黙があり、やがて、
『V公爵夫人です……』
その間、ジャケットは電話の相手がだれだか知っているような様子で、私を見つめていました。
『ちょっとお待ちください』
私は受話器を差出しました。彼女は受話器を受けとるやすぐに言いました。
『わたしです、公爵夫人……はい……そちらに行きたいのですが、警察が外出させてくれないのです……さきほどまでアパルトマンは警察の方々と、いろいろな道具類で一杯でした……わたしは何時間も質問されました。いまでも、刑事が一人、ここにいます……』」
ジャンヴィエはつけ加えた。
「彼女は私を信用しないようでした。そのあとは、彼女はもっぱら聞き役でした。
『……はい、はい、公爵夫人……はい、わかっております……存じません。……いいえ……はい……そうしてみます……。そう望んでおります、わたしも……ありがとうございます、公爵夫人……』」
「それから彼女は何を言った?」
「何も言いません。椅子にもどりました。十五分ほど黙っていましたが、彼女はいやいやつぶやきました。
『わたしを外出させてはくれないでしょうね? 家に食べるものがなくても、わたしが夕食を食べずに過ごさなくてはならないとしても?』
『あとで何か買ってきてあげましょう』
『それなら、こうやって向かい合っていてもしかたがありませんから、わたしは休ませていただきます。ようございますわね?』
そう言って、彼女は自分の部屋へ行き、ドアに鍵をかけました」
「だれも来なかった?」
「ええ。アメリカの通信社や、地方新聞から電話がありましたが……」
「ジャケットから何も聞き出すことができなかったのかね?」
「彼女を信用させようと思い、できるだけ無邪気にいろいろ質問してみました。彼女は皮肉な口調でこう答えただけです。
『ねえあなた、わたしのような古狸《ふるだぬき》に何を言ってもむだですよ。わたしがあなたに秘密を明かすとでも、あの警視が考えているのでしたら……』」
「警視庁から電話は?」
「ありません。ただ予審判事からはありましたが」
「私に会いたいと?」
「何かわかったら電話がほしいそうです。予審判事のところにアラン・マズロンがやってきたのです」
「きみは彼のことは言わなかったね?」
「最後まで黙っていました。ところで甥は、あなたが許可を得ずに、サン・ティレールの私的な手紙を読んでしまったと、判事に文句を言いにきたそうです。遺言執行人として、彼は遺言書が公開されるまでアパルトマンに封印を施してほしいと……」
「判事はどう答えたのかね?」
「あなたに話せと」
「マズロンはもどってこないのか?」
「ええ。たぶんこっちに向かっているところなんでしょう。私が判事から電話を受けたのは、そう前のことではありませんから。警視《パトロン》、彼がやってくると思いますか?」
メグレはためらい、結局電話帳を引きよせると、さがしていた電話番号を見つけた。ついで立ち上がり、重々しい、当惑した様子でダイヤルを回した。
「もしもし! Vのお宅ですか? V公爵夫人とお話したいのですが……こちら司法警察のメグレ警視……ええ、待ちます……」
書斎のなかに沈黙とは異質のものがみなぎっている。ジャンヴィエは息を殺して警視を見つめていた。数分が流れた。
「いいえ、このまま待ちます……ありがとう……もしもし……ええ、メグレ警視です、公爵夫人……」
いつもの彼の声ではなかった。メグレは、子供の頃サン・フィアクル村の伯爵夫人に話しかけたときのような感動を覚えていた。
「あなたと連絡をとったほうがいいと思いましたものですから。いまのところ大した情報をおつたえすることはできませんが……ええ……わかっています……あなたのお望みのときに……それでは一時間後にヴァレンヌ通りにうかがいます……」
二人の男は黙って顔を見合わせた。メグレは最後にため息をついた。
「きみはここに残っていたほうがいい」と、メグレはやっと言った。「リュカに電話して、だれかをよこさせてくれ、ラポワントがいい。老家政婦が外出したがったら、させていい。きみたち二人のうちどちらかが尾行してくれ」
ヴァレンヌ通りへ行くまでまだ一時間あった。時間をつぶすために、メグレは緑のカーテンのかかった書棚から手紙の束を取り出した。
『昨日、ロンシャンで、モーニング・コート姿のあなたに気がつきました。モーニング・コート姿のあなたをわたくしがどれほど愛しているか、あなたはご存知でしょうね。あなたは赤毛の美しい女性と腕を組んでおりました……』
[#改ページ]
第五章
メグレはヴァレンヌ通りの大邸宅が、貧しい下町や善良な中産階級の家々でのように、まだ葬式の匂いを発散しているとは思っていなかった……大ろうそくや菊のかおり、赤い目をした未亡人、飲み食いする、遠方からきた喪服の親類縁者。田舎で過ごした子供時代のおかげで、アルコールの匂い、とくにブランデーの匂いはメグレには死と、葬式に結びついていた。
「さあ、これを飲むんだ、カトリーヌ」と、教会と墓地に出発する前に、人々は未亡人に言う。「元気を出さなければだめだせ」
彼女は涙をふきふき、飲む。人々は宿屋で飲み、ついで家に帰ってまた飲む。
涙の形をした銀色の模様がついた黒幕が、今朝正門に張りめぐらされてあったとしても、もうずっと前に取りはらわれてしまっていた。玄関前の正面広場は半分は日陰になり、半分は日向になって、いつもどおりの姿を見せていた。制服の運転手が細長い、黒い車を洗っている。その他に車が三台ある。そのうちの一台は玄関の石段の下に停っている黄色い車体の、大きなスポーツ・カーだ。
エリゼ宮とおなじ広さだった。メグレは、Vの大邸宅が舞踏会やバザーの会場によく使われていたことを思い出した。
石段をあがり、ガラスのはまったドアを開けると、メグレは大理石を張ったホールに出た。だれもいない。彼の左右にある両開きのドアがどちらも開いていて、豪華なサロンが見える。何やら品物が展示されている。メグレが話に聞いた嗅ぎたばこ入れや、昔の貨幣にちがいない。二階に行くには、これらのドアの一つを通って、踊り場が二つある階段を昇らなければならないのか? メグレはためらった。そのとき給仕頭がどこからともなくあらわれて、音もなく近づき、メグレの手から帽子を取り、名前も訊かずにこうささやいた。
「どうぞこちらヘ」
メグレはこの案内人の後について階段を昇った。二階に着くと、サロンと、ついで画廊として使われるにちがいない細長い部屋を通り抜けた。
メグレは待たされなかった。給仕頭はドアを細目に開け、押し殺した声で告げた。
「メグレ警視です」
メグレが入った居間は正面広場ではなく、庭と茂った樹々に面していた。鳥が一杯いて、開け放してある二つの窓をかすめて飛んでいる。肱掛椅子から人が立ち上った。その人がメグレが会いにきたイザベル公爵夫人だと悟るのに一瞬、間があった。メグレは驚きを顔にあらわしたはずだ。彼女はメグレのほうに来ながらこう言った。
「わたくしをもっと別なふうに想像しておりましたのね?」
そうだ、と答える勇気はメグレにはなかった。彼は黙っていた。驚きだった。何よりまず、彼女は黒い服を着ているのに、喪服を着ているようには見えない。その理由を言うのはむずかしいだろう。彼女は赤い目もしていないし、打ちひしがれた様子もしていない。
彼女は写真よりも小柄だった。しかし、たとえば、ジャケットなどとは違い、年を取ったためにからだが縮むようなことはなかった。メグレには自分の印象を分析する時間はなかった。後でそれをするだろう。いまのところは、機械的に記憶にしまいこんでいた。
もっともメグレを驚かせたのは、彼女がずんぐりしていたことである。肉付きのいい、つやつやした頬をし、からだがぽってりと肥っている。サン・ティレールの寝室の写真では、彼女の腰はべルトのない長い婦人服のために、あるのかないのかわからないほどだったが、いまでは百姓女のように大きい。
二人がいる居間は、彼女がよくいる部屋なのか? 古風な壁掛が、四方の壁を覆っている。床はぴかぴか光り、家具はそれぞれの場所にきちんと置かれている。はっきりした理由はなかったが、メグレは、昔尼僧であった叔母を訪ねて行った修道院を思い出した。
「どうぞ、お坐りになってくださいまし」
彼女は金色の肱掛椅子を示したが、メグレは椅子のほうを選んだ……いまにも折れそうな細い脚をしていたけれども。
「わたくしの最初に考えましたことは、あちらのお宅におうかがいすることでした」と、彼女も坐りながら打明けた。「ですが、あの人がもうあそこにはいないことを、わたくしは悟ったのです。あの人の遺体は、死体置場に運ばれてしまったのでしょう?」
彼女は言葉を恐れない、言葉が呼び覚ますイメージを恐れない。彼女の顔は穏やかである。ほほえんでさえいるようだ。このこともまたメグレに、修道院を、この世の人間とは思えないような尼僧たちの特殊な穏やかさを思い出させた。
「わたくしはあの人に会ってお別れを言いたかった。まあ、そのことはどうでもいいでしょう。わたくしが何よりもまっさきに知りたいことは、あの人が苦しんだかどうかということです。率直にわたくしにお答えください」
「ご安心ください。サン・ティレール伯爵は即死です」
「あの人は書斎にいたのですか?」
「そうです」
「坐って?」
「そうです。ゲラ刷りの校正中だったようです」
彼女は目を閉じた、そのときの伯爵の姿をまぶたに思い描くかのように。こんどはメグレが思い切って質問した。
「あなたはサン・ドミニック通りに行ったことがありますね?」
「一度だけ、それもずっと以前に、ジャケットと示し合わせて。わたくしはあの人が自宅にいないことがはっきりしている時間を選びました。あの人の生活環境を知り、心の中で、あの人がいろいろな部屋でどうやって過しているのかを想い描いてみたかったのです」
彼女はあることに気がついた。
「それで、あなたは手紙をお読みになりましたか?」
メグレはためらったが、本当のことを言うことにした。
「ざっと目を通しました。しかし、全部ではありません……」
「手紙は金色の格子のついた、第一帝政時代風の書棚にあるのでしょうか?」
メグレはうなずいた。
「あなたが手紙をお読みになったのではないかとは思っておりました。わたくしはそのことを非難いたしません。義務としてそうされたのだと承知しております」
「伯爵の死をどうやって知りました?」
「息子の嫁から。息子のフィリップは妻子ともども葬式のためにノルマンディーから出てきております。さきほど、墓地から帰ってきて、嫁がホールのテーブルの上にいつも置いてある新聞に目を通したのです」
「お嫁さんは事情に通じておられるのですか?」
彼女は無邪気そうな顔をして驚いてみせた。これが彼女でなかったら、メグレは芝居をしていると思っただろう。
「事情って何のことです?」
「サン・ティレール伯爵とあなたとの関係」
彼女の微笑も、尼僧の微笑とおなじだった。
「もちろんですわ。どうして嫁が知らないわけがありまして? わたくしと伯爵は一度も隠そうとしたことがありません。わたくしたちは何も悪いことをしておりませんもの。アルマンはとても大切な友達です……」
「息子さんは伯爵をご存知ですか?」
「すべてを知っております、息子も。あの子が幼いとき、ときどき遠くからアルマンを指さして教えてやりました。最初のときは、たしかオートゥイユだったですわ……」
「息子さんは一度も伯爵に会いに行かなかったですか?」
それにたいして彼女は、とにかく彼女なりの理屈で答えた。
「何のために?」
鳥がさえずりながら樹の葉のあいだで追いかけっこをしている。心地よい冷気が庭から入ってくる。
「お茶をめしあがりませんか?」
パッシーのポンプ通りのアラン・マズロンの奥さんはメグレにビールを勧めた。ここでは、お茶だ。
「けっこうです。ありがとう」
「あなたの知っていることを全部言ってください、メグレさん。いいですか、わたくしは五十年間、心のうちであの人と一緒に暮すことに慣れていたのです。毎日、何時に何をするか、すべて知っております。あの人がまだ大使だった頃に、あの人が住んでいた町にもわたくしは行きました。ジャケットとうまく打ち合わせて、家のなかをのぞきもしました。何時に、彼は亡くなったのですか?」
「わかっているかぎりでは、十一時から十二時の間」
「でもあの人は寝ようとはしてなかったでしょう?」
「なぜそれがわかるのです?」
「寝室に行く前に、毎日のお手紙を締めくくる短い言葉をいつもわたくしに書いてくれるからです。朝は朝で、あの人はお手紙をおきまりの言葉ではじめるのです。
『お早う、イジ……』
運命がわたくしたちを一緒に暮させてくれたなら、あの人はわたくしが目醒めたときいつもこうやって迎えてくれたでしょう。この言葉のあとに数行つけ加えます。ついで昼間のうちに、あの人がしたことを書くためにお手紙のところにもどります。夜は、あの人の最後の言葉は変わることなくこうでした。
『お休み、美しいイジ……』」
彼女は恥ずかしそうにほほえんだ。
「こうしたことをお聞きになってもお笑いにならないでくださいまし。あの人にとっては、わたくしは二十歳のままのイザベルでしたから」
「伯爵はその後もあなたに会っていました」
「ええ、遠くからは。ですから、あの人はわたくしが老女になったことを知っていました。でもあの人にとっては、現在より過去のほうが現実味があるのです。あなたにそのことがおわかりになりますか? わたくしにとっても、あの人は変わっていませんでした。さあ、事件のことを話してください。ご遠慮なさらずに、すべてを話してくださいまし。この年齢《とし》になりますと、耐えるすべを知っているのです。犯人が入ってきた。だれです? どうやって?」
「書斎にも、アパルトマンにも兇器が発見できないのですから、たしかにだれかが外から入ってきたのです。ジャケットはいつものように九時頃にドアを閉め、閂《かんぬき》をかけ、鎖をつないだと断言しています。だから、伯爵自身が犯人をなかに入れたと思わざるをえません。伯爵が宵に人を迎え入れる習慣があったかどうかご存知ないですか?」
「ありません。退職してからというもの、あの人は旧弊になり、時間の使い方をいつもきちんと守っているのです。ここ数年のあの人のお手紙をあなたにお見せしましょう。いつもこういう言葉ではじめているのです。
『お早う、イジ。あなたの新しい一日のはじまりにさいして、いつものように朝の挨拶を送る。私のほうも単調な、ちょっとした騒ぎがいつものようにはじまる……』
あの人は意外性のない、規則正しい日々をこうやって表現していたのです。今夜の郵便物のなかにあの人のお手紙がなかったら……あるはずがないですわね! 毎朝クロワッサンを買いに行きながら、お手紙を郵送するのはジャケットの役目なのです。もしジャケットが今日お手紙を投函していれば、電話でそのことをわたくしに伝えたでしょう……」
「ジャケットのことをどう思います?」
「ジャケットはわたくしとアルマンにたいして献身的です。あの人がスイスで腕を折ったとき、口述でお手紙を書き取ったのは彼女なのです。そのあとで、あの人が手術を受けたときも、ジャケットは毎日お手紙を送ってきてあの人の病状をくわしく知らせてくれたのです」
「ジャケットが嫉妬したとは思いませんか?」
彼女はまたもやほほえんだ。メグレはその微笑に慣れることができない。彼女の沈着さ、冷静さはメグレを驚かせる……多少なりとも劇的な会見を予期していただけに。
死はここでは、他の場所とおなじ意味を持っていないようだし、イザベルは恐れることもなく死と隣り合っているようだった。まるで死が人生の正常な歩みであるかのように。
「ジャケットは嫉妬しますが、それは犬が主人に嫉妬するようなものです」
メグレはいくつかの質問をすることを、いくつかの話題に手をつけることをためらった。あきれるほどの気軽さで、それらの問題を口にしたのは彼女のほうである。
「昔は、犬のようにではなく女として嫉妬したことがあったかもしれませんが、それはあの人の愛人たちにたいしてであって、わたくしにではありません」
「ジャケットも伯爵の愛人であったと思いますか?」
「もちろんそうでした」
「伯爵はそのことを、あなたへの手紙で書きましたか?」
「あの人はわたくしには何一つ隠しません、男が自分の女にたいして打明けるのをためらうような屈辱的なことでさえも。たとえば、あの人はそれほど前のことではありませんが、こう書いてきたことがあります。
『ジャケットは今日いらいらしている。今夜、彼女にやさしくしてやらなければなるまい……』」
彼女はメグレの驚きを楽しんでいるようだった。
「そんなことであなたは驚くのですか? でも、しごく当然なことではありませんか……」
「あなたも嫉妬しないのですか?」
「そのことでは、しません。わたくしの心配はただ一つ、あの人の心のなかでわたくしに取って替ってしまうような女に、あの人が出会うことです。さあ、事件のお話をつづけてください、警視さん。それで、犯人については何もわからないのですか?」
「口径の大きな銃を使ったことぐらいです。たぶん七・六五ミリ口径の自動拳銃でしょう」
「アルマンのどこに当ったのです?」
「頭に。検死医の話では、即死だったようです。死体は肱掛椅子の脚もとのじゅうたんの上にくず折れました。すると、犯人はつづけて三発撃ったのです」
「どうしてです、あの人は死んだのに?」
「われわれにもわかりません。犯人は取り乱したのか? 激怒のあまり冷静さを失ったのか? この問題にいますぐ答えることは困難です。重罪裁判所では、被害者に襲いかかる殺人者の残酷さがよく非難されます、たとえばナイフでめった突きにするとか。ところで、私自身や同僚たちの経験によれば、そういうことをするのはたいていの場合、臆病者たちです。感じやすい人間とまで言う気はありませんが。彼らは恐怖にとらわれ、被害者の苦しむのを見ようとせず、気が狂ってしまう……」
「こんどもそうだと思いますか?」
「復警や、長い間抑えてきた憎しみが問題でなければ、そういうケースはごくまれなのですが……」
メグレは何でも言うことができるし、何でも聞いてくれるこの老女を前にして、やっとくつろいだ気分になりはじめた。
「臆病者だとする解釈では、矛盾する点があるのです。それは、伯爵を殺したあとで、犯人は薬莢《やっきょう》を拾い集めることを考えていることです。薬莢は書斎のなかに、ある距離を置いて散らばったにちがいありません。犯人はその薬莢を一つも拾い忘れなかったし、指紋も残しません。ここで、私が自分に課す最後の質問があるわけです、とくにジャケットとあなたの関係をいま聞いたあとでは。ジャケットは今朝死体を発見したあと、あなたに電話することを考えなかったようです。彼女は警察署に行かずに、外務省に行ってます」
「その説明はつくと思います。わたくしの夫の死の直後でしたので、電話はひっきりなしに鳴っていました。わたくしたちのよく知らない人たちが葬式のことをいろいろ訊いてきたり、お悔みを言おうとしたのです。息子はいらいらして、受話器をはずしてしまったのです」
「それでは、ジャケットはあなたに電話したのかもしれないと?」
「そうなのです。彼女が自分で事件のことを知らせにやってこなかったのは、葬式の日にわたくしに近づくことはできないということがわかっていたからなのです」
「サン・ティレール伯爵の敵を知りませんか?」
「敵などおりませんでした」
「手紙のなかで、伯爵は甥のことを話しませんでしたか?」
「アランに会ったのですか?」
「今朝」
「どんなことを言いましたか?」
「何も。彼はメートル・オボネに会いに行きました。遺言書の開封は明日行われます。公証人はあなたと連絡を取るにちがいありません。あなたの出席も必要だからです」
「わかっています」
「遺言書の内容をご存知ですか?」
「アルマンは家具や、身の回り品をわたくしに残したがっていました。あの人がわたくしより先に死んだとしても、わたくしがあの人の妻であったような気分に少しでも浸れるようにと」
「あなたはこの遺贈を受けますか?」
「あの人の意志なのですね? わたくしの意志もおなじです。あの人が死ななかったら、喪が明け次第、サン・ティレール伯爵夫人になるつもりでした。そのことはわたくしたちの間では取り決められていたことなのです」
「ご主人はその計画を知っていましたか?」
「知っておりました」
「息子さんも、お嫁さんも?」
「息子たちだけではなく、わたくしたちの友達も。くどいようですが、わたくしたちは何一つ隠しませんでした。いまとなっては、わたくしは現在の姓のままでいるわけですから、この大きな家のなかで暮さざるをえなくなりそうです。あれほど夢見ていた、サン・ドミニック通りに住むかわりに……。それでもアルマンのアパルトマンをここに復元するつもりです。わたくしはもう長いことは生きられないでしょう。でも、どれほどわずかでも、あの人とおなじ雰囲気のなかで暮したいのです、いいですか、あの人の未亡人のように……」
メグレはいらいらさせられた。しかし、さきほどは、彼が手紙や写真で知りえたとはまったく違ったこの女によって魅せられていたのである。この女によってだけではなく、彼女とサン・ティレール伯爵とが創りだし、生きつづけた伝説によっても。
一見したところ、おとぎ話や読本の教訓的な話のようにばからしい。
ここでは、彼女の前では、メグレはこの伝説を信じていることに気づいた。メグレは彼らのような見方や感じ方をしていた。叔母のいた修道院で、爪先で歩き、小声で話し、敬虔《けいけん》な気持に心が満たされたように。
それから突然、別の目で、警視庁の人間の目で、話し相手を見つめた。メグレは怒りを覚えた。
彼のことをだましているのではないか? ジャケット、アラン・マズロン、ぴったりしたパンタリロンをはいた彼の妻、イザベル、それに公証人のオボネまで、これらの人々は示し合わせているのではないか?
死体がある、頭を撃ちくだかれ、腹にも大きく口を開けられた本物の死体がある。これは殺人者のしわざにちがいない。元大使の家に入り込み、至近距離から撃ったのは通りかかったちんぴらなどではない。伯爵はそんな人間を信用しないし、無抵抗でいるはずがない。
メグレは長年の経験で、動機なしに、重大な動機なしに人を殺せないことを知っている。たとえ人を殺したのが気違いだったとしても、彼らは生ま身の人間、被害者の周囲に生きていた人間である。
ひどく疑い深いジャケントは気違いであるか? 細君から精神的残酷さを非難されているマズロンは気違いか? イザベルはまったく正気か?
こうしたことを考えるたびに、メグレは態度を変えようとする、残酷な質問を浴びせようとする。たとえそれがこの伝染しやすい甘美さを消えさせるためにすぎないとしても。
しかし、そのたびに、公爵夫人のびっくりしたような、あどけないような、あるいはまたいたずらっぽい視線にぶつかり、メグレは心がなえて、恥ずかしくなってしまう。
「結局、あなたにはサン・ティレールを殺して得をする人間に心当りがないのですか?」
「得をする人間、もちろんいません。あなただってわたくしとおなじように、遺言書の内容をご存知でしょう」
「アラン・マズロンがお金を必要だったとしたら?」
「その場合、叔父さんが彼にあたえました。いずれにしても、あの人は財産を彼に遺したでしょう」
「マズロンはそのことを知っていましたか?」
「知っていたと思います。主人が死んで、アルマンとわたくしは結婚することになっていました。でも、わたくしの家族があの人の遺産を相続することを、わたくしは承知しなかったでしょう」
「ジャケットは?」
「彼女は自分の老後が保証されていることを知らないわけがありません」
「ジャケットは、あなたがサン・ドミニック通りで暮すつもりであることも知っていましたか?」
「彼女はそれを楽しみにしていました」
メグレのなかで何かが抗議した。それらのすべてが偽りで、非人間的だと。
「では、息子さんは?」
彼女はびっくりして、メグレがその後の言葉をつづけるのを待った。だが、メグレが口をつぐんだままなので、彼女のほうがたずねた。
「息子がこの事件と何か関係があるのですか?」
「わかりません。調査中です。今後息子さんはこの家の相続者なのですね」
「アルマンが生きていたとしても、息子はそうなりました」
母親がサン・ティレールと再婚することを堕落だと、息子は考えなかっただろうか?
「息子さんは、昨夜はここにいましたか?」
「いいえ、息子は妻子ともどもヴァンドーム広場のホテルに泊りました。息子たちはパリにくると、いつもそうしているのです」
メグレは眉をひそめて、まわりの壁をながめた。まるで、ヴァレンヌ通りの建物の大きさを、柱ごしに測るかのように。莫大な数の空き部屋と、人の住まないアパルトマンがあるのではないか。
「息子さんは結婚してから、一度もこの住居に住んだことがないのですか?」
「まず、息子はパリにはめったにいません。いつも長い間ではありません。あの子は社交界がひどく嫌いなのです」
「お嫁さんも?」
「嫁もそうです。結婚当初は、息子たちもこの建物のなかにアパルトマンを持っておりました。やがて、子供が一人、二人、三人とできますと……」
「いま何人いるのです?」
「六人。長男は二十歳、末っ子が七つです。あなたのひんしゅくを買うかもしれませんが、わたしは子供たちと暮すことができないのです。女がすべて母親になるように生まれついていると考えるのは間違いです。わたくしはフィリップを生みました。それがわたくしの義務だったからで、わたくしはできるかぎりあの子の世話をしました。でも数年後にはもう、家のなかに子供の叫び声や、ばたばた走る音に我慢できなかったのです。息子はそのことをよく知っております。嫁も」
「息子さんたちはあなたを恨んでいませんか?」
「あるがままのわたくしを受けいれてくれています、欠点や気まぐれもすべて……」
「あなたは昨夜、ここで一人きりでしたか?」
「召使いたちや二人の尼さんと、遺体を安置した部屋で通夜をしていました。わたくしの教導僧でもあると同時に、旧い友人でもあるゴージュ司祭も、十時まで一緒にいてくださいました」
「あなたはさきほど、息子さん一家がいまこの家にいると言いましたね?」
「わたくしにさよならを言おうと待っているのです、少なくとも嫁と子供たちは。正面広場に車があるのをごらんになったでしょう。ノルマンディーに出発するのです、もっとも息子だけは、明日わたくしと一緒に公証人のところへ行かなければならないので残りますが……」
「息子さんとちょっと話をしてもかまいませんか?」
「いけないわけがないでしょうに。わたくしはあなたがそう言うのを予期していました。それどころか、あなたが家族全部に会いたがると思って、嫁に出発を遅らせるように頼んでおいたのです」
率直なのか? 挑戦なのか? イギリスの医者の論文にもどれば、小学校の教師はメグレより真実を見抜くことができるのだろうか?
判断を下さなければならない人々を前にして、メグレはいつもよりへり下っていて、戦意を失くしているような気がした。
「こちらからどうぞ」
彼女はメグレの前に立って廊下を通り抜けると、ドアの取手に手をかけて、ちょっと立ち止った。ドアの向こうで話し声がする。
彼女はドアを開け、ただこう言った。
「メグレ警視……」
広い部屋のなかに、メグレはまず菓子を食べている男の子、ついで母親に小声で何かをねだっている十歳ぐらいの女の子に気がついた。
母親は四十歳ぐらいの、美しいばら色の肌をした、ブロンドの大柄な女で、絵ハガキや色刷版画などに写っているオランダの大女を思わせる。
十三歳の少年は窓から外をながめている。公爵夫人はつぎつぎと紹介した。メグレはイメージの断片を一つずつ記憶にとどめた、はめ絵の切片のように後で組み合わせるつもりで。
「ジュリアン、長男です……」
母親のようにブロンドの、背のすらりと高い若者が、手を差し出さずに軽く頭を下げた。
「この子も、外交官志望です」
十五歳のもう一人の女の子、十二歳ぐらいの男の子。
「フィリップはここにいないのかい?」
「車の用意ができているかどうか、階下《した》に見にいってます」
駅の待合室のように、生活が停止してしまっているような気がする。
「こちらへどうぞ、メグレさん」
公爵夫人とメグレは別の廊下を歩いて行った。廊下の奥に、背の高い男が立っていて、困ったようにメグレたちが来るのを見ていた。
「あなたをさがしていたのよ、フィリップ。メグレ警視さんがあなたとちょっとお話したいそうよ。どこにご案内したらいい?」
フィリップは手を差し出した。いくぶん放心したようなところがあったが、警察官を近くで見ることにかなり好奇心をそそられていた。
「どこでもけっこうです。それではこちらヘ……」
彼は書斎のドアを開けた。赤い壁掛けのかかった壁には、祖先の肖像画がずらりと並んでいる。
「わたくしはこれで、メグレさん。何かわかりましたらお教えくださいましね。遺体がサン・ドミニック通りにもどりましたら、恐れ入りますがすぐにご連絡ください」
彼女は軽やかに、幽霊のように姿を消した。
「私に話とは?」
ここはだれの書斎だったのか? たぶんだれの書斎でもないのだろう。人が仕事をしたような形跡がまるでないからだ。フィリップ・ド・Vは椅子を指し示すと、たばこ入れを差し出した。
「ありがとう」
「喫われないのですか?」
「パイプだけです」
「いつもは私もそうです。しかし、この家では違います。母がパイプをいやがるので」
彼の声には、面倒くさそうな調子があった。おそらくいらいらしているのだろう。
「サン・ティレールのことで私と話がしたいのだと思いますが?」
「伯爵が昨夜殺されたのをあなたはご存じですか?」
「妻からさきほど聞きました。奇妙な一致ですね、そうでしょう?」
「伯爵の死があなたの父親の死と関係あるかもしれないと言いたいのですか?」
「私にはわからない。新聞は犯罪の状況については黙りこんでいますからね。自殺という線は問題にならないのですか?」
「なぜそんなことを訊くのです? 伯爵には自殺する理由があったのですか?」
「私にはあったとは思いませんが、人間の考えることなんて、他人にはわかりませんから」
「あなたは伯爵とは顔見知りでしたか?」
「子供のとき、母が伯爵のことを私に指さして教えてくれましたよ。大きくなってからは、ときどき出会いました」
「伯爵に話しかけたことは?」
「一度もありませんね」
「伯爵に恨みを抱いていますか?」
「なぜです?」
フィリップもこの質問にひどく驚いたようだった。彼もまた、隠しごとなどしていない誠実な人間の様子をしている。
「母はあの人に神秘的な愛を一生涯捧げました。私たちはそれを恥じてはいません。父などはちょっびり感動さえして、まず最初に二人のことを認めたのです」
「ノルマンディーから着いたのはいつです?」
「日曜日の午後。私は先週、父の事故を聞いて一人でやってきたのです。それから、父の生命に危険はないようでしたので、またもどったのです。ですから、日曜日、母から電話で、父が尿毒症で死んだと聞いたときにはびっくりしました」
「あなたは家族と一緒に来たのですか?」
「違います。妻と子供たちが着いたのは月曜日になってからです。もっとも、高等師範学校《ノルマル》の寄宿舎にいる長男だけは別ですが」
「お母さんはサン・ティレールのことで話をしたことがありますか?」
「どういうことです?」
「私の質問は滑稽かもしれません。あるとき、お母さんは伯爵と結婚すると言いませんでしたか?」
「母はそのことを私に言う必要はありません。父が先に死んだら、この結婚が行われることを、私はずっと以前から知っていましたから」
「あなたはお父さんと一緒に社交界に出たことはないのですか?」
こうした質問がすべて彼を驚かせたようだった。答える前に、彼はよく考えた。
「あなたが何を知りたいのかわかったような気がします。あなたは雑誌などで私の両親の写真をごらんになりましたね。外国の宮廷に行ったときの写真や、王族の婚約式や、豪華な結婚式に出席したときの写真を。もちろん、これらの式のいくつかに私も出席しました、十八歳から二十五歳までの間ですが。いま、たまたま二十五歳と言いましたが、その後は私も結婚して、田舎に住んだのです。私がグリニョンの農業学校の出身であることをお聞きになりましたか? 父はノルマンディーにある所有地の一つを私にくれました。私はそこに家族と共に住んでいます。あなたの知りたいことは、こういったことではないのですか?」
「あなたは全然疑いを持たないのですか?」
「サン・ティレールの殺人者に関して?」
フィリップの唇がかすかに震えたような気がしたのだが、メグレには断言するだけの勇気はない。
「ええ。疑いなんて……」
「それでも何か思い浮かんだことがあるでしょう?」
「はっきりしたものじゃないですから、しゃべらないほうがいいでしょうね」
「お父さんの死によって生活が変るかもしれないある人のことを、あなたは考えましたか?」
フィリップ・ド・Vは目をあげたが、すぐにまた伏せてしまった。
「まあ、ちらっと頭をかすめましたが、すぐに忘れてしまいました。ジャケットについては、彼女の献身ぶりについては、噂をたくさん聞いています」
彼はこういう話の成り行きに不満のようだった。
「あなたをせきたてたくないのですが、私は妻や子供たちに別れを言わなければならないのです。夜になる前に家に帰ってほしいものですから」
「あなたはパリに数日滞在するのですか?」
「明日の夜まで」
「ヴァンドーム広場のホテル?」
「母が言ったのですね?」
「そうです。気休めに、最後の質問をさせてください。気にさわったらごかんべんを。お母さんにもおなじ質問をさせてもらいました」
「昨夜私がどこにいたかということですか? 時間は?」
「夜の十時から十二時までとしましょう」
「かなり長い時間の幅なのですね。ちょっと待ってください! ここで母と夕食をとりました」
「お母さんと二人だけで?」
「ええ。九時半頃ゴージュ司祭がきたので、私は出ました。私はゴージュ司祭が好きではないのです。ホテルにもどると、妻と子供たちにキスをしました」
沈黙。フィリップ・ド・Vはためらい、困惑し、まっすぐ前を見つめている。
「それから、シャンゼリゼ通りに散歩に出ましたよ……」
「十二時まで?」
「いや」
こんどは彼は、恥ずかしげな微笑を浮かべて、真正面からメグレを見た。
「父が死んだばかりなのに、おかしいと思われるかもしれませんが、私にとっては習慣みたいなものなのです。ジュネストゥでは、私は知られすぎているので浮気一つできませんし、またそんなことを考えたこともありません。若い頃の思い出のせいかどうかは知りませんが、パリに来るたびに、私は美しい娼婦と一、二時間過ごす癖があるのです。束《つか》の間のことだし、そのことによって私の生活が乱されることもないので、私は満足して……」
彼は曖昧な身振りをした。
「シャンゼリゼで?」と、メグレはたずねた。
「妻の前ではそのことを言うことができないでしょう。妻はわかってくれないですからね。妻にとっては、ある社会以外のことは……」
「奥さんの結婚前の姓は?」
「イレーヌ・ド・マルシャンジー……もしあなたのお役に立つなら、昨夜の女のことを詳しく言いましょう。その女は大柄ではなく、褐色の髪で、ライト・グリーンのドレスを着ていましたよ。胸の下にほくろがありました。左だったと思いますが、はっきりしません」
「その女の家に行ったのですか?」
「ベリー通りのホテルへ私を連れて行きました。そこに住んでいるのだと思います。洋服箪笥には衣服が入っていたし、浴室には身の回り品がありましたから」
メグレはほほえんだ。
「お急ぎのところをお邪魔しました。大変参考になりました」
「私のことでは納得なさいましたか? こちらからどうぞ! お見送りできません、なにぶん私は急いでいまして……」
彼は腕時計に目をやり、手を差し出した。
「幸運を祈ります!」
正面広場では、運転手がリムジンのそばで待っている。エンジンのうなりがかすかに聞こえる。
五分後、メグレは居酒屋《ビストロ》のよどんだ空気のなかにひたりきって、ビールを注文していた。
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第六章
メグレは鎧戸《よろいど》の隙間から射し込んでくる陽ざしで目を醒ました。長い年月の習慣で、彼は妻が眠っていた場所のほうへ手を伸ばした。シーツはまだ生暖かい。台所から、挽《ひ》いたばかりのコーヒーの香りと、やかんのなかで煮えたぎっている湯のひゅうひゅういう音がかすかに聞こえてくる。
あの貴族階級が集っているヴァレンヌ通り同様、ここでも樹々で……窓のそばではない……、小鳥がさえずっている。気分は悪くはなかったが、からだのどこかにまだ漠然とした不快感が残っている。
彼は安眠できなかったり数多くの夢を見たことを思い出した。少なくとも一度などは、はっと目を醒ましてしまった。
メグレ夫人はある瞬間、水のはいったグラスを彼に差し出しながら小声で話しかけなかったか?
夢を思い出すのは難しい。いくつかの夢がこんがらがり、絶えず話の筋道がわからなくなってしまう。しかし、それらの夢には共通した特徴がある……どの夢にも、彼は屈辱的な役割を演じていることだ。
あるイメージが蘇った。それは他のイメージよりもはっきりしている。V公爵の大邸宅に似た場所のイメージで、あれよりずっと広いが、あれほど豪華ではない。果てしない廊下や、無数のドアのある修道院や、外務省に近い感じだ。
何をしにきたのかは、はっきりしない。ただわかっていることは、はたさなければならない目的がある。それもとても重要な目的だということぐらい。ところで、彼を案内してくれる人間が一人もいない。パルドン医師が、通りで別れぎわにそのことを教えてくれた。メグレは夢のなかでパルドンも、その通りも見ていない。それでもパルドンがそのことを教えてくれたことはたしかなのだ。
実のところは、彼には道を訊く権利がないということなのだ。最初は、彼も訊こうとした、そうしてはいけないということを理解するまでは。老人たちは微笑《ほほえ》み、首を横にふりながら彼を見つめるだけだ。
あちこちに老人がいる。ここはたぶん老人ホームか養老院なのだろう、見かけは似ていないけれども。
メグレはサン・ティレールを認めた。背中をぴんと伸ばし、顔はばら色、絹のような白髪だ。メグレのことを知っている背の高い男がいる。この男はメグレをばかにしているようだ。メートル・オボネはゴム輪の車椅子に坐り、廊下を非常な速さで走らせて楽しんでいる。
V公爵も含めて、他にも大勢老人がいる。V公爵はイザベルの肩に手を置き、メグレの仕事ぶりを寛大に見つめている。
警視の立場は微妙だ。老人たちはまだメグレたちに何も明かしていなかったし、彼がどんな試練を通り抜けなければならないかを言うことも拒んでいたからだ。
メグレは軍隊の新兵か、学校の新入生のような姿勢をとっていた。老人たちはメグレにいろいろといたずらをした。たとえば、メグレがドアを開けかけるたびに、ドアがひとりでに閉ってしまったり、また、寝室や客間のドアを開けたつもりなのに、新しい廊下がまたはじまったりしていた。
ただ、サン・フィアクル老伯爵夫人だけはメグレを助ける気になっていた。しゃべる権利がなかったので、彼女は身振りでわからせようとした。が、うまくいかなかった。たとえば、彼女は自分の膝を指し示した。下を向くとメグレは自分がショート・パンツをはいているのに気がついた。
台所で、メグレ夫人はやっと、挽いたコーヒーに湯を注いだ。メグレは、このばからしい夢を思い出して顔をしかめ、目を開いた。要するに、メグレは老人たちのサークルのなかで立侯補したみたいなものだったのである。老人たちは彼を信頼せず、彼のことを小僧っ子と考えていた。
ベッドの上に坐っても、まだ彼は夫人のほうにぼんやりと目をやりながら、腹を立てていた。夫人はナイト・テーブルにコーヒーを置くと、鎧戸を開けた。
「きみは昨夜、かたつむりを食べなかったな……」
期待はずれの一日だったので気分を変えるため、彼は夫人を連れてレストランに食事に行ったのだ。そして、彼はかたつむりを食べた。
「どうだい、気分は?」
「いいわ」
彼はいつまでも夢のことにこだわっていなかった。コーヒーを飲むと、食堂に行き、朝食をとりながら新聞に目を通した。
アルマン・ド・サン・ティレールの死について、前日よりはかなり詳しい記事が載っていた。写真もかなりはっきりしている。ジャケットの写真も載っていたが、牛乳屋に入ったところをいきなり撮られたものだ。昨日の夕方、彼女は買物に出かけたのである。ラポワントが彼女を尾行している。
[#ここから1字下げ]
『外務省では、政治的な犯罪だという推測をはっきりと否定している。それに反して、ある情報通の間では伯爵の死を、三日前に事故死したある人間に結びつけている』
[#ここで字下げ終わり]
これでは、明日あたりの新聞ではサン・ティレールとイザベルの話が大々的に報道されるだろう。メグレは仕事に出かけるのが気が重かった、何となく気乗りがしなかった。他の職業を選ばなかったことを悔むのは、いつもこういったときである。
メグレはヴォルテール広場でバスを待った。うまいぐあいに後部に立席のついたバスがきた。パイプを喫いながら通りがつぎつぎに去っていくのをながめた。警視庁では、立番の警官に手をあげて挨拶し、階段をあがった。家政婦が、埃《ほこり》がとばないように水をまいてから掃除している。
デスクの上には、書類、報告書、写真が山のように積みあげてある。
死者の写真は印象的だった。ある写真は、発見されたときのままの姿で、全身が写っている。したがって机の脚や、じゅうたんの上の血のしみがクローズアップされている。まだ部屋着をきているので、頭や、胸や、腹にも血がついている。
番号の打ってある別の写真は各弾丸の侵入口と、背中の、皮膚の下の黒ずんだ肉のふくらみ……弾丸の一発が鎖骨をくだいて、そこに止っているのである……を示している。
ドアがノックされ、リュカがはつらつとした姿をあらわした。入念にひげを剃り、耳の下にタルカム・パウダーをつけている。
「デュプーが来てます、警視《パトロン》」
「入れてくれ」
デュプー刑事には、イザベルの息子同様子供が大勢いた。六人か七人いたはずだ。しかし、メグレが前日、彼にある任務をあたえたのは皮肉からではない。必要なときに、デュプー刑事がたまたま暇だったにすぎないのだ。
「どうだった?」
「フィリップ公爵が警視に話したことは本当です。私は昨夜十時頃、ベリー通りに行きました。いつものように、娼婦たちが四、五人、行ったり来たりしていました。そのなかに、褐色の髪の小柄な女は一人しかいませんでした。しかし、彼女は田舎へ赤ん坊に会いに行っていたので、昨夜はいなかったとのことです。私はかなり長い間待ちました。他の褐色の髪の女が、アメリカ兵と一緒にホテルから出てきました。
『なぜ、そんなことあたしに訊くの?』
私が質問をすると、心配そうでした。『あの人、警察に追われているの?』
『そんなことじゃない。ただ確認するだけだ』
『五十歳ぐらいの背の高い、かなり丈夫そうな?』」
デュプーはつづけた。
「胸の下にほくろがあるかと、私はその娼婦に訊きました。彼女はたしかにある、腰のところにもあると答えました。もちろん、男は名前を彼女に言わなかったが、一昨日の夜はその男しかとらなかったそうです。いつもの料金の三倍ものお金を男から貰えたからです。
『でも、その人、三十分もいなかったわ……』
『その男が来たのは何時だった?』
『十一時十分前。あたし、よく憶えている。コーヒーを飲みに入った隣りのバーから出たとき、カウンターの後ろの時計を見たから』」
メグレは指摘した。
「その女と三十分しかいなかったのなら、彼は十一時三十分前には女と別れているはずだな?」
「彼女もそう言いました」
イザベルの息子は嘘をついていない。この事件では、だれも嘘をついていないようだ。しかし、ベリー通りを十一時半に立ち去ったなら、十二時までにサン・ドミニック通りへ行けないわけがない。
なぜ、母親の旧い恋人の家のベルを鳴らしに行くのか? そればかりか、なぜ殺すのか?
警視にはもう甥のアラン・マズロンと会えるチャンスがなかった。前日、夕食の直前に、メグレがジャコブ通りに行ったときには、だれもいなかった。ついで、八時頃電話をしてみたが、応答はない。
そこでメグレは、今日の早朝、この古道具屋へ刑事を送るように、リュカに命じておいた。その役を引き受けたのはボンフィスだ。こんどは彼がオフィスに入ってきた。だが、その情報は期待はずれだった。
「彼は私の質問にも全然動じませんでしたよ、警視《パトロン》」
「店は開いていたのか?」
「いや。ベルを鳴らすと、二階の窓から彼が顔を出し、ズボン吊り姿のまま降りてきました。まだひげも剃ってませんでね。昨日の午後と夜どこにいたかってたずねると、彼は、まず公証人の家に行ったと答えました」
「そのとおりだ」
「そんなことだろうと思ってましたよ。つぎに、ドルーオ通りに行ってます。そこで、ナポレオン時代の武器や、制服のボタンや、かぶとの競売がありましてね。彼の言い分によると、何人かの収集家がこれらの思い出の品々を奪い合ったそうです。彼もたくさん買い、それらの品目が細かく書いてあるばら色のリストを見せてくれました。今朝には、品物を引き取りに行かなければならないとのことでして……」
「それから?」
「セーヌ通りのレストランに行って夕食をとったそうです。私はそのことをたしかめました。彼はこのレストランで、毎日のように食事をしています」
ここにもまた一人、嘘をついていない人間がいる!何て妙な職業なんだ、とメグレは考える、だれかが殺しをしていないことに失望する職業なんて! いまがそのケースだ。警視は思わず、これらの人たちがつぎつぎにシロに、あるいはシロにみえることを恨んだ。
というのは、いずれにせよ、死体はあるからだ。
メグレは受話器を取った。
「降りてきてくれないか、ムルス?」
メグレは完全犯罪を信じなかった。司法警察局に二十五年間いて、まだ一度も完全犯罪を知らない。もちろん、罰せられずにすんでしまった犯罪がいくつかあることは憶えている。そのたいていは、犯人はわかっているが、外国に逃亡してしまった場合だ。さもなくば、毒殺か、卑劣な犯罪だ。
こんどはそのケースではない。どこかのちんぴらが、サン・ドミニック通りのアパルトマンに侵入することはできないだろうし、机に坐っていた老人に四発撃ち込んでおいて、何も盗らずに逃げるようなまねはしないだろう。
「入りたまえ、ムルス。さあ、坐って……」
「私の報告書を読みましたか?」
「まだだ」
メグレはその報告書も、検死医の十八頁の報告書も読む元気がないことを白状しなかった。前日、メグレはムルスとその部下たちに物的証拠をさがすように頼んできたのである。彼らが何一つ見落とすことがないことをよく知っているので、メグレは信頼していた。
「ガスティーヌ・ルネットは結論を送ってきたかね?」
「それは私の報告書のなかにあります。七・六五ミリ口径の自動拳銃《オートマティック》ですね、ブローニングにせよ、銃砲店で売っているそれの数多い模造品の一つであるにせよ……」
「薬莢《やっきょう》はたしかに一個もアパルトマン内に残されていなかったのかね?」
「私の部下たちが隅々までさがしました」
「武器もなかった?」
「あったのは猟銃と、その弾丸だけです」
「指紋は?」
「老家政婦と、伯爵と、管理人の細君の指紋。私はサン・ドミニック通りを去る前に、念のためそれらの指紋を取っておいたのです。管理人の細君は週に二度、ジャケット・ラリューの家事の手伝いに来ていました」
ムルスは困惑したような、不満そうな様子をみせた。
「私は報告書に、家具や戸棚のなかにあった品物のリストをそえておいたのです。ほぼ一晩じゅうかかってそれらの品物を丹念に調べたのですが、異常なものや、意外なものは何も発見できませんでした」
「お金は?」
「財布のなかに数千フラン、台所の引出しのなかに小銭、それに机のなかにロスチャイルド銀行の小切手帳が」
「控えの部分は?」
「控えの部分も。あのかわいそうな老人は死ぬなんてちっとも考えていなかったらしく、十日前にオスマン大通りの洋服屋にスーツを注文しています」
「窓の手すりに痕跡は?」
「なかったです」
彼らは顔を見合わせ、おたがいの気持がわかった。二人は数年前から一緒に仕事しているが、新聞の言うように犯行現場を|櫛ですくように《ヽヽヽヽヽヽヽ》ていねいに調べているのに、多少とも異常なことが見つからない事件は一つとして思い出すのもむずかしい。
この事件では、すべてが完璧すぎる。すべてのものにはそれぞれ筋の通った説明が見つかる、結局のところ、老人の死を除いては。
拳銃の銃床をぬぐって、死人の手に拳銃をにぎらせておけば、自殺と思わせることができただろう。もちろん、最初の一発だけにしておけばという条件つきで。しかし、なぜ後の三発を撃ったのか?
なぜ元大使の自動拳銃が見つからないのか? 彼は自動拳銃を持っていた。老家政婦のジャケットは数カ月前に、寝室の箪笥のなかで見たと言っている。
その自動拳銃はもはやアパルトマンのなかにはない。ジャケットの供述によれば、その銃は七・六五ミリ口径の自動拳銃とほぼおなじ大きさと重さをしている。
元大使が自宅にだれかを通したのだとすると……部屋着のまま、また机に坐ったところからみて、そのだれかは元大使の知っていた人間だ……。
机の上にはコニャックの壜と、グラスが一個あった……なぜ彼は訪問者に飲物をあたえなかったのか?
どんな場面が想像できるか? この訪問者は寝室のほうへ歩いて行き……廊下か、食堂を通り抜けて……、拳銃をつかんで書斎に引き返すと、伯爵に近づき、至近距離から最初の一発を撃つ……。
「うまくないな……」と、メグレはため息をついた。それに、動機が必要だ。死刑になる危険をものともせず、こういった行動をするだけのやむにやまれぬ動機。
「ジャケットに、まだパラフィン・テストをしてないと思うが?」
「あなたに相談せずに、そんなことをするつもりはありません」
火器を使用した場合、とくに自動拳銃の場合には、発射した瞬間、一定の距離に特徴のある粒子を噴出する。その粒子が射撃手の皮膚に、主に手の縁《ふち》に付着し、しばらく消えずに残る。
メグレは前日、そのことを考えた。しかし、他の誰よりも老家政婦を疑う権利がメグレにはあったか?
もちろん、彼女は犯罪をおかすには恰好な場所にいた。彼女は武器のありかも知っていたし、主人が書斎にいる間、アパルトマンのなかを行き来することができたし、疑われずに主人に近づき、撃つことができる。じゅうたんの上にくず折れた死体を前にして、彼女が引き金を引きつづけたこともありうる。
ついで、慎重に書斎のなかの薬莢を拾い集める。
しかし、その後被害者から数メートルのところで、静かに寝たというのは認めがたいのではないか? つぎの朝、外務省に行く途中で、たとえばセーヌ川の岸辺か、コンコルド橋の上に立ち止まり、武器と薬莢を投げ捨てたというのは認めがたいのではないか?
彼女には動機がある、あるいはそれらしきものがある。五十年近くの間、彼女はサン・ティレールと暮してきた、伯爵の陰に隠れるようにして。伯爵は彼女には何一つ隠さない。十中八、九、彼らの間には昔関係があったにちがいない。
大使はそのことを重視しない。イザベルもほほえみながらそのことを話す。
しかし、ジャケットは? 彼女は結局、伯爵の本当の伴侶ではなかったのか?
彼女は公爵夫人への伯爵のプラトニックな愛を知っていたし、毎日の手紙を投函していた。主人の留守中にアパルトマンのなかに一度イザベルを案内したのも彼女である。
「しかし、どうかな……」
この推測はメグレには嫌悪を催させたし、安易すぎるように思われた。この推測を考えつくことはできるが、|感じる《ヽヽヽ》ことはできない。
V公爵が死ぬと、イザベルは自由の身になり、年老いた恋人同士はやっと結婚することができるようになる。あとは喪が明けるのを待って、市役所に行き、教会に行けばいい。二人はサン・ドミニック通りか、ヴァレンヌ通りで一緒に暮すだろう。
「いいか、ムルス……サン・ドミニック通りに行ってくれ……ジャケットにやさしくな……彼女をこわがらせてはいけない……ほんの形式にすぎないと彼女に言うんだ……」
「パラフィン・テストをするんですか?」
「それが気にかかるんだ」
その直後、クロミエール氏から電話がかかったが、メグレは電話には出ず、いつ帰るかわからないと返事させた。
今朝、V公爵の遺言書が公開される。老公証人オボネの前には、イザベルと息子がいるはずだ。午後には、公爵夫人は別の遺言書の公開のためにおなじ部屋にいることになる。
彼女の生涯の二人の男の遺言書が、おなじ日に……。
メグレはサン・ドミニック通りに電話した。前日、彼は書斎のドアと、寝室のドアに封印を施すことをためらったが、いまでもそのままにしておくか、それらの場所をふたたび見られる可能性を残しておきたい気持だ。
見張りに残したラポワントは、肱掛椅子のなかで眠っていたにちがいない。
「あなたですか、警視《パトロン》?」
「何か変わったことは?」
「何も」
「ジャケットはどこにいる?」
「今朝六時頃、私が書斎で見張っていると、彼女が廊下を電気掃除器を引っぱって通る音が聞こえました。私が書斎から飛び出して、何をするつもりなのかと訊くと、彼女はびっくりした様子で私を見つめました。
『掃除をするんですよ、もちろん!』
『どこを掃除する?』
『まず寝室、ついで食堂、ついで……』」
メグレはぶつぶつ言った。
「黙ってそうさせたのか?」
「とんでもありません。彼女は、なぜいけないのかわからないようでした。
『……それじゃ、わたしは何をしたらよろしいのです』と、彼女は質問しました」
「どう返事した?」
「私にコーヒーを入れてくれるように頼みました。すると、彼女は私のためにクロワッサンを買いに出かけました」
「彼女は途中で、電話か手紙を投函しなかったか?」
「いいえ。ドアの前で立番中の警官に、遠くから彼女を尾行するように命じました。彼女は本当にパン屋に入り、すぐに出てきたのです」
「彼女は怒っているか?」
「怒ってはいませんね。独り言をいうように、唇をもぐもぐ動かしながら行ったり来たりしています。いまは台所にいますが、何をやっているのかはわかりません」
「電話はかかってこなかった?」
庭に面するフランス窓が開いているにちがいない。メグレは受話器を通して、鶫《ツグミ》の鳴き声を聞いた。
「ムルスが数分後にそちらへ行く。すでに出かけた。きみは疲れていないか?」
「眠りましたから」
「もう少したったら交代させてやるよ」
メグレはあることを思いついた。
「電話を切らないで。ジャケットに手袋を見せるように頼んでくれ」
彼女は信心家だ。日曜日のミサには、きっと手袋をはめていく。
「私はこのまま待っている」
彼は受話器を手にしたまま待った。かなり長かった。
「もしもし、警視《パトロン》?」
「どうだった?」
「三組の手袋を見せてくれました」
「彼女は驚いていなかったか?」
「自分の部屋の引出しを開ける前に、私をいやみたっぷりにちらっと見ました。引出しのなかには、ミサの祈祷文集、数珠が二連か三連、絵ハガキ、メダル、ハンカチ、それに手袋がありました。二組の手袋は白のリンネルです」
彼女が夏、白い手袋をはめている姿を、メグレには十分想像できる。帽子も白っぽいものだろう。
「もう一つの手袋は?」
「黒いキッドの手袋で、かなりすり切れています」
「じゃあとで」
メグレの質問はムルスの仕事と関係がある。
サン・ティレールの殺人犯は新聞や雑誌で、銃を発射すれば火薬の粉末が手にしばらく付着することを知っていたはずだ。ジャケットが撃ったとすれば、手袋をはめることを考えなかったか? はめたとすれば、始末していないだろうか?
そのことをはっきりさせるために、メグレは目の前に相変わらず置かれている報告書に没頭した。各家具の中身が一つひとつ書きとめてあるリストがあった。
『家政婦の小部屋……鉄のベッド……縁飾りのある、四角な深紅色のビロードでおおわれたマホガニーの古びたテーブル……』
彼の指はタイプされた文字を追っていく。
『ハンカチ十一枚……そのうち六枚にはJのイニシャルがついている……三組の手袋……』
彼女はラポワントに三組の手袋を見せた。
メグレは帽子をかぶらずにオフィスを出ると、司法警察局から裁判所に通じるドアのほうに向かった。彼はユルヴァン・ド・シェゾー予審判事のオフィスへ一度も行ったことがなかった。この判事は以前はヴェルサイユにいたので、メグレと一緒に仕事をするチャンスがなかった。メグレは四階まであがった。四階はいちばん古びたオフィスが並んでいる。やっとメグレはあるドアの上に判事の名刺を見つけた。
「お入りください、メグレさん。あなたに会えてうれしい。私はあなたに電話しようかと思っていたところです」
四十歳ぐらいの、聡明そうな男だった。デスクの上には、メグレのデスクの二倍の書類が山積みされている。そのいくつかにはすでに赤鉛筆で書き込みがされていることに、メグレは気がついた。
「物的証拠はまだないのですね?」と、判事はメグレに坐るように言いながらため息をついた。
「いましがた外務省から電話がありました……」
「クロミエールという若い人ですか……」
「あなたと連絡を取ろうとしたが、だめだったと言ってました。今朝の新聞のあの情報をどこから手に入れたのか知りたがってましたよ」
メグレの後ろで、書記がタイプをたたいている。窓は中庭に面しているので、陽が射さないのにちがいない。
「何かわかったことでも?」
この判事は好意的なので、メグレは自分の落胆をかくさなかった。
「判事も読まれましたね……」と、メグレは書類を指さしながら、ため息まじりに言った。
「今夜か、明日にも私は最初の報告書を出します。物盗りがこの犯罪の動機ではありません。利害問題でもありません。それはあまりにも明らかです。被害者の甥はサン・ティレールの死で利益を得る唯一の人間なのですが、それも数カ月か数年、その機会が早められたにすぎないのです」
「お金がすぐに必要だったのでは?」
「そうであるとも、そうでないとも言えます。あの人たちから何かはっきりしたものを引き出すには、乱暴ですが起訴するほかありません。ところが、私には起訴するだけのものがないのです。マズロンは妻子と別居してます。彼は陰にこもった性格で、かなり不愉快な人間です。奥さんは彼のことを一種のサディストだと言ってます。
彼の店を見ると、お客が一度も来たことがないような感じです。彼が昔の武器の専門家であることはたしかですし、こうした品物に夢中になっている少数の愛好家がいることもたしかなのです。
ときどき彼は叔父さんにお金の無心をしています。しかし、叔父さんがいやな顔をしてあたえなかったという証拠はないのです。
サン・ティレールが結婚すれば、遺産がもらえなくなることを彼は恐れたのでしょうか? そうかもしれません。しかし、私はそうは考えません。ああいった名家の人々は特別な考え方をするものです。彼らはそれぞれ自分を財産の預り人と考え、直接的にしろ間接的にしろ、子孫にできるだけ元のままでその財産を遺そうとするのです」
メグレは判事の唇に不意に微笑が浮かぶのを見て、判事の名前がユルヴァン・ド・シェゾーであることを思い出した。貴族を示す『ド』のついた名前だ。
「つづけてください」
「私はマズロン夫人に、パッシーのアパルトマンで会いました。彼女が夫の叔父を殺す理由をさがしましたが、無駄でした。彼女の二人の娘についてもおなじことが言えます。娘たちの一人は、イギリスにいます。もう一人は働いてます」
メグレはパイプにたばこを詰めた。
「かまいませんか?」
「どうぞどうぞ。私もパイプを喫います」
メグレがパイプを喫う判事に出会ったのは、いまが初めてだ。判事はこうもつけ加えた。
「家で、夜、書類を調べながらでも……」
「私はV公爵夫人にも会いに行きました」
メグレは相手を見つめた。
「彼女の話をご存知ですね?」
ユルヴァン・ド・シェゾーはきっと、イザベルの話に興味を持つ階級に育ったにちがいない。
「噂を聞いたことがありますよ」
「彼女の伯爵との愛人関係を……愛人関係と言えるかどうかはわかりませんが……、多くの人が知っていたというのは本当ですか?」
「ある階級では、そうです。彼女の友達は彼女のことをイジと呼んでいます」
「伯爵も手紙で彼女をそのように呼んでいます」
「手紙を読んだのですか?」
「全部ではありません。それにざっと目を通しただけです。数巻になるだけの分量があります。公爵夫人はサン・ティレールの死に、予期していたほど打ちのめされていないように私には思えたのですが、しかしこれはたんなる印象にすぎません」
「私の考えでは、彼女はこれまであの穏やかさを失ったことがないのですよ。私は彼女に会ったこともあるし、友人たちから彼女の話を聞きました。彼女はある時期から年齢《とし》をとらないようですし、彼女にとっては時間は停止しているようなのです。ある友人などは、彼女は二十歳のままだと言うし、またある友人は、彼女は寄宿女学校以来変わっていないと言ってます」
「新聞は彼女のことを書き、伯爵とのことをほのめかしています」
「私も読みました。どうしようもないでしょう」
「彼女と話し合いましたが、彼女は手掛りになるようなことはこれっぽっちも言いませんでした。今朝、彼女は夫の遺産のために公証人のところにいます。午後にはサン・ティレールの遺産のために、また公証人のところに行きます」
「サン・ティレールの遺産を彼女は相続するのですか?」
「家具と、身の回り品だけです」
「ご子息に会いましたか?」
「フィリップとその妻子に。ヴァレンヌ通りに皆集っていました。フィリップだけはパリに残るそうです」
「彼のことをどう思います?」
メグレはこう答えざるをえなかった。
「わかりません」
フィリップも、厳密に言えば、サン・ティレールを殺す理由を持っている。彼はヨーロッパの全宮廷に縁続きの、V家という歴史的名門の相続人となった。
彼の父親は、慎《つつし》み深い大使にたいするイザベルのプラトニックな愛を認めていた。イザベルは遠くからしか大使に会わなかったし、子供っぽい手紙を送りつづけるだけだったからだ。
父親が死ぬと、事情は変わってくる。自分が七十二歳、恋人が七十八歳だというのに、公爵夫人はサン・ティレールと結婚しようとする。爵位を捨て、姓も変えようとする。
犯罪の動機としてはこれで十分である。しかし、死刑の危険をおかすほどの動機か? メグレの考えはいつもそこにもどる。要するに、小のスキャンダルを大のスキャンダルに取替えたことになる。
警視は困惑げにつぶやいた。
「私はフィリップの火曜日の夜の行動を調べました。いつものように、ヴァンドーム広場のホテルに家族と一緒に泊ってます。子供たちをベッドに寝かせてから、一人で外出し、シャンゼリゼ通りまで歩いて行きました。ベリー通りの角で、客待ちしている五、六人の娼婦のなかから一人を選び、その女のホテルについて行って……」
メグレは犯行後、殺人者たちが女を……どんな女でもいい……追い求める姿をよく目撃している。まるで緊張の緩和を求めているような感じだ。
|犯行前に《ヽヽヽヽ》そうする人間をメグレは一人も知らない。アリバイを手に入れるためか?
こんどの場合、アリバイは完全ではない。フィリップ・ド・Vは十一時半頃娼婦と別れているから、サン・ドミニック通りに行く時間がある。
「まあ、そういったわけで、別の手掛りをさがしつづけるつもりです。大したあてがあるわけではありませんが、われわれがまだ知らない元大使のなじみといった者を……。サン・ティレールには大部分の老人たちのように規則正しい習慣がありました。彼の大半の友人たちが死んでいますので……」
電話のベルが鳴り響いた。書記が立ち上って受話器を取った。
「はい……おります……ただいま代ります……」
警視のほうを向いて、
「あなたにです……緊急なようですが……」
「よろしいですか?」
「どうぞ」
「もしもし! そう、メグレだが、どなたですか?」
メグレには相手の声がわからなかった。やっと名乗ったムルスはひどく興奮していた。
「あなたのオフィスに電話したのですが、そちらだと言うもので……」
「そうだよ」
「これからそちらにうかがいますが、信じられないようなことがあったのです。私はいまパラフィン・テストを終えました……」
「それで結果は?」
「陽性です」
「たしかか?」
「絶対にたしかです。ジャケット・ラリューがここ四十八時間のうちに一発、ないし数発の弾丸を撃ったことは疑いありません」
「彼女はおとなしくテストを受けたのか?」
「おとなしく」
「彼女はどんな言い訳をした?」
「どんな言い訳も。私は彼女には何も言ってません。テストの結果を調べるため実験室にもどらなければなりませんでしたから」
「ラポワントはずっと彼女と一緒だね?」
「私がサン・ドミニック通りを立ち去ったときには、いましたよ」
「きみがいま言ったことはたしかだね?」
「たしかです」
「ありがとう」
メグレは受話器を置いた。額の真ん中に皺《しわ》をよせ、重々しい顔をしている。予審判事はいぶかしげに見つめている。
「私が間違ってました」と、メグレはいやいやつぶやいた。
「どういうことです?」
「正直に言いますと、無駄だと思ったのですが、念のためにジャケットの右手にパラフィン・テストをするように鑑識課に命じておいたのです」
「反応があったのですか? わかるような気がしますが、信じ難いですね」
「私も」
メグレは大きな重荷から解放されたと感じなければならなかっただろう。とにかく、捜査をはじめてほぼ二十四時間後に、一瞬前には解けないように思えた事件が解決したのだから。
それなのに、彼は少しも満足感を味わえなかった。
「ここにきたついでに拘引状にサインしてください」
「彼女の逮捕に部下をやりますか?」
「私自身で行きます」
肩を丸めて、メグレは消えたパイプに火をつけた。一方、判事は印刷された用紙の空欄に黙ってサインした。
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第七章
メグレは帽子を取りに自分のオフィスにもどった。そしてまた出た瞬間、急に不安に襲われた。どうしてもっと早くこのことを考えなかったのかと舌打ちして、彼はあわてて電話機に飛びついた。
時間をかせぐため、交換台を通さずに自分でサン・ドミニック通りの電話番号を回した。ラポワントの声を聞き、サン・ドミニック通りで何事も起っていないことをたしかめたかったのだ。ベルのかわりに、話し中であることを知らせる断続的なぶーぶーという音が聞こえた。
メグレはよく考えてみようともしなかった。すぐに冷静さを失ってしまった。
ラポワントが電話をする理由があるのは誰にか? ムルスはしばらく前に彼のもとを去っている。ラポワントはそのことを報告するため警視とすぐに連絡をとらなければならないことを知っている。
サン・ティレールのアパルトマンに残してきた刑事が電話中だとしたら、意外なことが起こり、司法警察局か医者を呼んでいるということである。メグレはもう一度かけ直すと、隣りの刑事部屋のドアを開けた。ジャンヴィエがたばこに火をつけたところだった。
「中庭に降りて車のハンドルをにぎっててくれ」
メグレは最後の電話をかけた。だが、まだあのぶーぶーという音が返ってくるだけだった。受話器を置くや、メグレは階段を駆け降り、黒い小型車に乗り込み、ドアをばたんと閉めた。
「サン・ドミニック通りだ。猛スピードで、サイレンを鳴らしてくれ」
さきほど事件が急進展したことを知らないジャンヴィエは、びっくりして警視をながめた。警視はサイレンが大嫌いで、めったに鳴らさなかったからだ。
車はサン・ミッシェル橋のほうへつき進み、セーヌ河岸を右へ曲った。他の車はわきによけて道をあけ、通行人は足を止めてメグレたちの車を目で追った。
メグレのあわてぶりは滑稽だったかもしれないが、死んだジャケットのイメージと、そのわきで電話にしがみついているラポワントのイメージを追い払うことができなかった。そのイメージが頭のなかであまりにもリアルなものになったので、メグレはジャケットの自殺の手段を考えたほどだ。あのアパルトマンは一階にあるのだから、窓から身投げしたはずはない。台所の包丁以外、彼女の自由にできる武器はない……。
車は停った。両開きの大門のそばで、陽ざしを浴びて立番中の警官が、サイレンの音に驚いた。寝室の窓が半分開いている。
メグレは丸天井のほうへ突進し、石段をあがり、ベルを押した。すぐにラポワントがドアを開けた。ラポワントは落着いているが、同時にあっけにとられている。
「何かあったんですか、警視《パトロン》?」
「彼女はどこにいる?」
「自分の部屋です」
「さっきからずっと、彼女が動きまわる音が聞こえなかったのじゃないかね?」
「たったいまもしましたよ」
「きみはだれに電話していた?」
「あなたにかけていたのです」
「なぜ?」
「彼女が外出着のようなものを着はじめましたので、あなたの指示を受けたかったのです」
メグレは若いラポワントと、後からきたジャンヴィエを前にして自分が滑稽な感じがした。ちょっと前までのメグレの不安とは対照的に、アパルトマンはこれまで以上に静まりかえっている。書斎には陽が当り、庭に面したフランス窓は開き、菩提樹では小鳥がさえずっている。
メグレは台所に入った。すべてがきちんと片づいている。老家政婦の部屋からかすかに物音が聞こえる。
「あなたに会いたいのですが、マドモワゼル・ラリュー?」
メグレは一度彼女のことをマダムと呼び、文句を言われたことがあった。「どうぞ、マドモワゼルと呼んでください!」
「どなたです?」
「メグレ警視です」
「いま行きます」
ラポワントは小声で言った。
「彼女は主人の浴室で入浴したのです」
メグレはこれほど自分自身に不満だったこともめずらしい。彼は夢の老人たちを思い出した。メグレがショート・パンツをはき、小僧っ子にしかすぎないので、彼らは首を横にふりながらメグレを見くだしている。
小部屋のドアが開き、香水の匂いがただよった。この匂いに覚えがあった。ずっと昔の、時代遅れの香水だ。メグレの母親が日曜日、盛式ミサに行くときにつけていた。
老ジャケットの服装も盛式ミサに行くためのようだった。黒い絹のドレス、襟ぐりを目立たせないための黒の襞《ひだ》飾り、白いファイユ節織《ふしお》り絹布の飾りのついた黒い帽子、それにまっ白な手袋。手にミサの祈祷文集がないだけだった。
「あなたを警視庁へ連行せざるをえなくなりました」と、彼はつぶやいた。
メグレは予審判事がサインした拘引状を見せるつもりだったが、意外なことに、彼女は驚きも、憤慨もしなかった。一言もいわずに、台所に入り、ガス栓が閉っているのをたしかめ、ついで書斎に入ってフランス窓の扉を閉めた。
彼女はただこう訊いただけだった。
「どなたかここにお残りになるのでしょうか?」
すぐに返事がないと、彼女はつけ加えた。
「お残りにならないならば、寝室の窓を閉めなければなりません」
犯行が暴かれたことを知った彼女は、自殺するつもりがないどころか、これまでにないほど堂々とし、いささかも取り乱さなかった。アパルトマンを先に出たのは彼女である。メグレはラポワントに言った。
「きみは残ったほうがいい」
彼女は先頭を歩いて行く。ガラス張りのドア越しにこちらをながめている管理人に、彼女は軽く頭を下げた。
七十五歳近くの女に手錠をかけるなんて滑稽で、見苦しいのではないか? メグレは車に乗るように彼女を促すと、自分もそのわきに坐った。
「サイレンはもういいぞ、ジャンヴィエ」
天気は相変わらずすばらしい。外国人観光客を満載した赤と白の大型バスを追い越した。メグレには何も言うことがなかったし、訊くこともなかった。
何度も何度も、メグレはこうやって男や女の容疑者を連れて警視庁にもどってきた。そしてきびしく追求する。その場合、相手が簡単に口を割ることもあれば、割らないこともある。辛いこともあれば、そうでないときもある。尋問が数時間つづくこともあるし、パリの人々が仕事に出かけはじめる陽の出まで終らないときだってある。
メグレにとって、捜査のこの段階はいつでも不快だった。
老女を尋問するのはメグレには初めての経験だった。
司法警察局の中庭で、メグレは彼女が車から降りるのを助けようとした。だが、彼女はその差し出された手をはらいのけると、教会の前庭を歩くように階段のほうへ堂々と進んだ。メグレはジャンヴィエに一緒にくるように合図した。三人は大きな階段を上り、警視のオフィスに着いた。そよ風が窓のカーテンをふくらませている。
「どうぞお坐りください」
肱掛椅子を指さしたが、彼女は椅子を選んだ。いつもの自分の仕事をわきまえているジャンヴィエは、オフィスの端に坐り、メモ用紙と鉛筆を手に取った。
メグレは咳ばらいをし、パイプにたばこを詰め、窓まで進むと、もどってきて老家政婦の前に立ちはだかった。老家政婦は動かない、鋭い小さな目でメグレを見つめている。
「予審判事があなたにたいする拘引状にサインしたことを、まずお知らせしておく」
メグレはその拘引状を彼女に見せた。彼女は拘引状にちらっと目をやっただけだった。
「あなたは火曜日から水曜日にかけての夜に、主人のアルマン・ド・サン・ティレール伯爵に故意に死をあたえたかどで起訴された。鑑識課の専門家がさきほどあなたの右手に、パラフィン・テストを行った。このテストは火器、とくに自動拳銃を使用した人間の皮膚に付着している火薬の粉末と化学物質を採集することにある」
メグレは相手の反応を期待して、見守った。しかし、彼女のほうこそメグレを観察し、じっくり落着いていて、いささかも取り乱していない。
「何も言うことはないかね?」
「何も言うことはございません」
「テストの結果は陽性と出た。ということは、あなたが間違いなく最近拳銃を使ったということになる」
彼女の態度は平然たるもので、まるで教会で説教を聞いているようだった。
「その拳銃をあなたはどうしたのか? 私の考えでは、水曜日の朝外務省に行ったとき、その途中で薬莢《やっきょう》ともどもセーヌ河に投げ捨てたのだと思う。われわれは潜水夫を川にもぐらせるなどして、拳銃を回収するだろう……」
彼女は黙っていることに決めたらしく、一言もいわない。視線のほうは、まるで彼女に関することではないかのように穏やかだ。たまたまこの場に居合わせて、自分に関係ない話を聞いているかのようだ。
「動機は何なのか、推測することはできるが、はっきりはわからない。あなたはサン・ティレール伯爵と五十年近く一緒に暮した。あなたたちの間は夫婦とおなじくらい緊密だった」
ジャケットの唇にほんのかすかな微笑が浮かんだ。はにかみであると同時に、内心の満足感を示す微笑。
「公爵が死んだあと、主人のサン・ティレールが青春の夢を実現しようとしていたことを、あなたは知っていた」
まるで壁に向かってしゃべっているようで、いら立たしい。ときどきメグレは老家政婦の肩を揺さぶってやりたい衝動をじっと抑えた。
「死ななかったら、サン・ティレールは結婚していただろう、そうですね? あの家でのあなたの地位は失わずにすむのだろうか? もしすむとして、その地位は前とまったくおなじものなのだろうか?」
鉛筆を宙にとめたまま、ジャンヴィエは答えを書き留めようと待ちかまえている。
「火曜日の夜、あなたは主人の書斎に入った。主人は自分の本の校正ゲラを見ていた。主人と言い争いになったのだね?」
それからさらに十分ほど質問を浴びせたが、いぜんとして返事がない。いらだったメグレは、刑事部屋に息抜きに行く必要を感じた。刑事部屋に入ると、ラポワントが昨夜からサン・ドミニック通りにいることを思い出した。
「忙しいのか、リュカ?」
「緊急の用事は何もありません」
「それじゃラポワントと交代してくれ」
正午を過ぎていたので、ついでにつけ加えた。
「ビヤホール『ドフィーヌ』に寄って、サンドイッチと、ビールと、コーヒーを届けるように言ってくれないか……」
さらに、老家政婦のことを考え、
「ミネラル・ウォーターも一|壜《びん》たのむ」
自分のオフィスにもどると、ジャケットとジャンヴィエは絵のようにじっと動かずに坐ったままでいる。
三十分の間、メグレはオフィスのなかを大股で歩き回ったり、パイプをぷかぷか吹かしたり、窓の前で立ち止まったり、老家政婦のそばに突っ立ち、正面からじっと見つめたりした。
彼女が頑固に黙り込んだままなのだから、これは尋問なんてものじゃない。いくぶんとりとめのない一人芝居だ。
「ここで言っておくが、検事や裁判官はあなただけの罪ではないことを認めてくれるかもしれない。弁護士はもちろん、痴情沙汰だとあなたを弁護するだろう……」
滑稽かもしれないが、これは事実なのだ。
「黙りこんでいてもあなたの得にはならない。罪を認めても、陪審員たちを感動させるチャンスは十分にある。どうだ、しゃべっては?」
子供たちはこういった遊びをする……相手が何を言おうと、何をしようと、口を開いてはいけないのだ。とくに笑ってはいけない。
ジャケットはしゃべりも、笑いもしなかった。相変わらず自分には関係ないかのように、メグレが歩き回るのを目で追っているだけだ。おののきも、憤慨もしない。
「伯爵はあなたの生涯でただ一人の男性だった」
こんなこと言って何の役に立つのだ? メグレは急所をさがしたが、だめだった。ドアがノックされた。ビヤホール『ドフィーヌ』のボーイで、警視のデスクの上に盆を置いた。
「何か食べたほうがいい。この調子だと、長くかかりそうだから」
メグレはハム・サンドを彼女に差し出した。ボーイは出て行った。彼女はパンの端を持ちあげて中身を調べると、驚いたことに、やっと口を開いた。
「十五年以上前から、わたしは肉を食べません。老人には肉は必要ないのです」
「チーズのほうがいいのかね?」
「とにかく、わたしは空腹ではございません」
メグレはまた刑事部屋に入った。
「だれか『ドフィーヌ』に電話して、チーズ・サンドを持ってこさせてくれ」
片手にパイプ、片手にハム・サンドを持って、メグレは恨みを晴らすかのように歩き回りながら食べた。ときどき立ち止まると、ビールを一口ぐうっと飲んだ。ジャンヴィエも必要のない鉛筆をほうり出して食べた。
「あなたと二人きりで話したほうがいいかね?」
彼女は肩をすくめてみせただけだ。
「これからはあなたは自分の好きな弁護士を立ち合わせることができる。あなたの指名した弁護士をただちにここに呼ぶつもりだ。だれか弁護士を知っているね?」
「存じません」
「弁護士のリストを見せようか?」
「無駄です」
「官選弁護人を呼ぼうか?」
「そんなことをしてもしょうがありません」
彼女が口を開いたのだから、これは進展とみていい。
「主人を撃ったことを認めるね?」
「何も申すことはございません」
「言い換えると、何事が起ころうとも、黙っていることに決めた?」
またもやいら立たしい沈黙。パイプの煙がオフィスのなかにただよい、陽が斜めに射し込んでいる。空気はハムと、ビールと、コーヒーの匂いがしはじめた。
「コーヒーをどう?」
「わたしは朝しかコーヒーをいただきません、それもミルクをたっぷり入れて」
「何か飲みたいものは?」
「ございません」
「ハンストをするつもりなのか?」
それを言ったのは間違いだった。というのは、彼女はこの考え方が気に入ったらしく微笑したいのをぐっとこらえたからだ。
メグレはこのオフィスで、類似した状況にあるあらゆる種類の容疑者たちに会う。したたかな者もいれば、柔弱な者もいる。泣き出すのもいれば、ますます蒼白になるのもいる。そうかと思うと、メグレを見くびったり、ばかにしたりするのもいる。
しかし、これほどの無関心さと、内に秘めた頑なさを見せた人間は初めてだった。
「相変わらず何も言うことがないか?」
「いまはございません」
「いつ話すつもりなのだ?」
「存じません」
「何かを待っているのか?」
沈黙。
「公爵夫人を呼ぼうか?」
彼女は首を振った。
「ことづてをしてもらいたい人か、会いたい人がいるか?」
チーズ・サンドが出前された。彼女はそれを興味なさそうにながめていたが、やがてまた首を振ってくり返した。
「いまはおりません」
「それじゃあなたはしゃべらない、飲まない、食べない決心をしたのか?」
彼女の椅子は坐り心地がよくないはずだ。その椅子に坐った者はほぼ全員、間もなくもぞもぞしはじめる。しかし、彼女は一時間経ってもまだちゃんとまっすぐに坐っていて、足も腕も動かさず、姿勢も変えない。
「いいかね、ジャケット……」
このなれなれしさにショックを受けたらしく、彼女は眉をひそめた。警視はばつが悪かった。
「われわれは必要なだけいつまでもこの部屋に残っているつもりだ。あなたが一発ないし数発の拳銃を撃った物的証拠がある。どんな状況で、なぜ撃ったのかを、私は訊いているだけだ。そのばかげた黙秘をつづけていると……」
ばかげたという言葉をつい口にしてしまった。メグレはつづけた。
「その黙秘をつづけていると、警察を迷わし、他の人たちに疑いをかけてしまう恐れがある。いまから三十分間、あなたが訊かれたことに答えなかったら、私は公爵夫人に来てもらい、あなたと対面させる。公爵夫人の息子も、アラン・マズロンも、彼の細君も呼びつけるだろう。こうして皆が対面すれば……」
ドアがノックされた。メグレは怒ってどなった。
「何だ?」
老給仕のジョゼフがメグレを廊下へ呼び出すと、耳打ちした。
「若い人があなたに会いたいと言い張っているんですが……」
「若い人ってだれだ?」
ジョゼフはジュリアン・ド・Vという名刺をメグレにわたした。イザベルの孫だ。
「どこにいる?」
「待合室に。急いでいると言ってます。何でも重要な講義があるので、それを欠席するわけにはいかないんだそうです」
「ちょっと待たしておいてくれ」
メグレはオフィスにもどった。
「イザベルの孫のジュリアンが、私に会いたがっている。何か言いたいことがあるらしい。あなたはまだ黙秘をつづけるのか?」
こうなると腹が立つのを通り越して、悲壮でさえあった。メグレはどなりつけるのをためらった。
老家政婦の心のなかでいま、葛藤《かっとう》がはじまったのを感じとったと思ったからだ。ジャンヴィエのほうは見物人にすぎないので、余計な口出しをしなくてもよかった。
「そのうちきっとあなたはしゃべらなければならなくなる。なぜかと言えば……」
「司祭に会わせていただけるでしょうか?」
「懺悔《ざんげ》したいのか?」
「バロー司祭と数分間お話する許しをいただきたいだけです」
「バロー司祭にはどこへ連絡すればいい?」
「サント・クロティルドの司祭館です」
「あなたの教導僧かね?」
メグレはどんなにわずかなチャンスでも失いたくなかったので、受話器を取った。
「サント・クロティルド教区の司祭館をたのむ……そう……このまま待つ……バロー司祭……スペルなんかどうでもいい……」
デスクの上のパイプを動かして、玩具の兵隊のように一列に並べた。
「もしもし……バロー司祭? こちら司法警察のメグレ警視です……私のオフィスにあなたの教区の女性がいまして、あなたと話したがっています……そうです……マドモワゼル・ラリューです……タクシーに乗って、警視庁まで来ていただけますか? ありがとう……そうです……彼女はあなたを待っています……」
電話を切ると、ジャンヴィエに、
「司祭が着いたら、ここにお通しして、二人だけにしてやってくれ……その間、私は人に会っている……」
メグレはガラス張りの待合室に向かった。待合室には黒い服を着た青年が一人いるきりだった。昨日ヴァレンヌ通りで両親やきょうだいと一緒にいた青年だ。メグレを見ると、彼は立ちあがった。メグレは空いている小さなオフィスに彼を案内した。
「坐りたまえ」
「ぼく、ゆっくりしていられないんです。ユルム通りにもどらなければなりません。三十分後に講義がありますから」
狭いオフィスなので、青年は普通より肩幅も丈も大きくみえた。青年の表情は真剣で、いくぶん悲しげだった。
「昨日、あなたがおばあさまのところにお見えになったとき、ぼくはもう少しであなたに話すところだったのです」
このような子供を持ちたかったと、なぜメグレは考えたのだろうか? この青年にはこせこせしたところがなく、しかも生来の謙虚さがある。彼が自分の殻のなかに閉じこもったとしたら、それは感情がこまやかなせいにちがいない。
「ぼくの言うことがあなたのお役に立てるかどうかはわかりません。昨夜はそのことをまんじりともしないで考えつづけました。火曜日の午後、ぼくは伯父《おじ》さまに会いに行きました」
「伯父さま?」
青年は顔を赤らめたが、その赤味はすぐに消え、替っておずおずした微笑が浮かんだ。
「ぼくはサン・ティレール伯爵をそう呼んでいたんです」
「伯爵とはよく会っていたの?」
「はい。でも、そのことは両親には言いませんでした。隠していたわけではないんです。幼いときから、ぼくは伯父さまのことを話すのを聞いたんです」
「だれが話した?」
「ぼくの家庭教師たち。それから、その後は学友たち。おばあさまの愛の話はほとんど伝説的なんです」
「そうだね」
「十歳か、十一歳のとき、ぼくはおばあさまにお訊きしました。それがきっかけで、ぼくたち二人きりで、よくサン・ティレール伯爵のことを話し合うようになったんです。おばあさまは、たとえば伯父さまの手紙を何通か読んできかせてくれました。それには、外交官のレセプションや、国家元首との会話のことが書いてありました。伯父さまの手紙をお読みになりましたか?」
「読んでいないよ」
「伯父さまはとても文章がうまいんです。ポール・ド・ゴンディ枢機卿《すうききょう》(一六一三〜七九。政治家で文学者でもあった)さまの文章のように生き生きしているんです。ぼくが外交官になりたいと思ったのは、伯父さまのせいでしょう、伯父さまの手紙のせいでしょう」
「いつ頃、きみは伯爵を個人的に知ったの?」
「二年前です。ぼくにはスタニスラスに友達がいるんです。その友達のおじいさまはやっぱり外交官でした。あるとき、その友達の家で、ぼくはサン・ティレール伯爵に会ったんです。ぼくは伯爵に紹介してくれるように頼みました。伯父さまはびっくりしたようで、ぼくを頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと見つめました。ぼくだって、びっくりしました。伯父さまはぼくの勉強のことや、将来の計画などについていろいろとたずねました」
「サン・ドミニック通りに伯爵に会いに行くようになったのだね?」
「伯父さまが招待してくれたのです。でも、こうつけ加えることは忘れませんでした。『きみのご両親がだめだと言わなければだが……』」
「サン・ドミニック通りでひんぱんに会っていた?」
「いいえ。月に一度ぐらいです。それはぼく次第でした。たとえばバカロレア試験のあと、ぼくは伯父さまに相談しました。すると伯父さまは、高等師範学校《ノルマル》に行きたいというぼくの気持を励ましてくださいました。伯父さまも、高等師範学校に入ることは外交官の仕事には役立たないかもしれないが、しっかりした基礎を身につけることには変わりがないと言ってくださいました。
ある日、ぼくはよく考えもせずにこんなことを言ってしまいました。
『ぼくは本当の伯父さんに打明けているような気持です』
『私だって、甥に答えているような気分だよ』と、伯父さまは笑いました。『なぜ、きみは私のことを伯父と呼ばないの?』
これが、ぼくが伯父さまと呼ぶようになった理由です」
「きみはおじいさんが嫌いかね?」
「おじいさまのことはよくわかりません。おじいさまも、サン・ティレール伯爵もおなじ世代の人ですけど、二人は正反対の人間なんです。おじいさまはぼくにとって、偉くて、理解し難い人でした」
「おばあさまは?」
「ぼくたちは大の仲よしです。いまでもそうです」
「おばあさんはきみがサン・ドミニック通りに行くのを知っていたの?」
「はい。ぼくはおばあさまに、サン・ティレール伯爵との会話を報告します。おばあさまは逐一話すように要求します。ときどき、ぼくが長いあいだサン・ティレール伯爵に会いに行ってないと、そのことをぼくに思い出させてくれるのがおばあさまです」
メグレはこの青年にすっかり惹かれていたが、それでも、驚きと、ほとんど警戒するような気持とをこめて、彼を観察することをおこたらなかった。警視庁では、このような青年に出会う習慣がない。メグレはまたもや非現実的な世界にいるような、実際の人生からではなくて読本から抜け出してきた人々と接しているような印象を持った。
「それでは、火曜日の午後、きみはサン・ドミニック通りに行ったんだね」
「はい」
「何か特別な理由があってそうしたの?」
「大してありません。おじいさまが二日前に死にました。そこで、おばあさまがサン・ティレール伯爵の反応ぶりを知りたがっているのではないかとぼくは考えたんです」
「きみ自身にもそうした好奇心があったんだろう?」
「そうかもしれません。いつか一緒になれるときがきたら結婚すると、おばあさまたちが誓い合っていることを知っていましたから」
「その約束がどうなるかを、きみは知りたかった?」
「たぶん、そうです」
「きみの両親は?」
「ぼくはおばあさまたちのことをお父さまには一度も話したことがありません。でも、話したとしてもお父さまは別に不愉快に思わなかったでしょう。ママはたぶん……」
青年が最後まで言わなかったので、メグレは言い返した。
「お母さんは?」
「ママは、家族のことよりも、爵位や、席次権を重要に考える人なんです。こういってもママの悪口にはならないでしょう」
たぶん彼女は公爵家には生まれず、ただのイレーヌ・ド・マルシャンジーにすぎないからだ。
「サン・ドミニック通りできみと伯爵が話している間に何が起った?」
「はっきりと説明できることは何もなかったんです。でも、ぼくはあなたに話しておいたほうがいいと思ったんです。サン・ティレール伯爵は最初から心配そうでした。ぼくは突然、伯父さまがひどく年寄りじみていることを知りました。それまでは、あの年齢にはみえない人だったんです。人生を愛し、人生の一瞬一瞬を、人生のあらゆる局面をじっくり味わっていた人なのです。ぼくから見れば、伯父さまは十八世紀からぼくたちの時代にまぎれ込んできた人物なんです。おわかりですか?」
メグレはうなずいた。
「ぼくはサン・ティレール伯爵が、二歳年上のおじいさまの死をあれほど深く悲しむとは思ってもいませんでした。とくに、おじいさまの死は事故なのですし、結果的にはほとんど苦しまずにすんだのですし……。話は火曜日の午後にもどりますが、サン・ティレール伯爵は元気がなく、ぼくの視線を避けるのです。何か隠しているかのように……。ぼくはこう言いました。
『一年後に、伯父さまはぼくのおばあさまとやっと結婚できますね』
伯父さまが顔をそむけたので、ぼくはしつこく言い張りました。
『うれしくないのですか?』
そのときの伯父さまの言葉を正確に思い出したいのですが、おかしなことに思い出せないのです。あの意味ありげな言葉にはひどく驚かされたというのに。
伯父さまの言葉は大体こうでした。
『好きなようにはさせてはくれないよ』
伯父さまの顔を見たとき、ぼくはそこに恐怖の色を読みとったと思いました。
漠然としすぎていると、あなたはお考えになりますね。そのときは、ぼくも重視しなかったのです。老人の死を知った別の老人の自然の反応だと、間もなく自分の番だという思いにとらわれているのだと、考えたのです。伯父さまが殺されたことを知ったとき、ぼくの心にあのときの場面が思い浮かんだのです」
「そのことをきみはだれかに話した?」
「いいえ」
「おばあさんにも?」
「おばあさまを不安にさせたくありませんでしたから、言いませんでした。いまになって考えると、伯父さまは脅迫されているのを感じていたにちがいありません。伯父さまはばかげた考え違いをする人ではありません。あの年齢なのにもかかわらず、ひどく明晰な頭脳の持主ですし、いわれのない恐怖におびえるような浅はかな人でもありません」
「ということは、伯爵は自分の身に起こることを予測していたと?」
「はい、伯父さまは不幸を予測していたのです。それで、ぼくはあなたに話しにきたのです。昨日から、ぼくはこのことを話すべきかどうか本当に悩みました」
「伯爵は友人たちのことをきみに話さなかった?」
「友人は皆死んでしまい、もう生きている者はいないのです。でも、そのことで過度に悲しんでいたことはありません。
『結局、あれだな、最後まで生き残ったということは悪い気持ではない』と、伯父さまは言ってました。
さらに、わびしそうにこうつけ加えもしました。
『友人たちは相変わらず私の思い出のなかで生きつづけているよ』」
「伯爵は敵のことを話していなかった?」
「伯父さまには敵はいませんでした。それは、外交官の仕事についた当座は、昇進も速かったし、才気に満ちていたので嫉妬されたかもしれません。でも、その嫉妬した人たちも墓場にいます」
「ありがとう。よく来てくれた」
「相変わらず何もわからないのですか?」
メグレはためらい、いまこの瞬間に彼のオフィスに、バロー司祭と閉じこもっているジャケットのことをもう少しでしゃべるところだった。
庁内ではときどき、警視のオフィスのことを『告解所』という。しかし、本当に告解が行われたのは初めてである。
「そう、はっきりしたことは何も」
「ぼくはユルム通りにもどらなければなりません」
メグレは階段の上まで青年を送って行った。
「本当にありがとう」
メグレはパイプに火をつけ、両手を腰にまわして、広い廊下を大股で歩くと、刑事部屋に入った。ジャンヴィエが待ちどおしそうに立っていた。
「司祭は隣りにいるね?」
「ちょっと前から」
「どんな人だ?」
すると、ジャンヴィエはいくぶん辛辣な皮肉をこめて答えた。
「これまでのだれよりも年長者ですよ!」
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第八章
「リュカを呼んでくれ」
「サン・ドミニック通りですか?」
「そうだ。ラポワントと交替させた」
メグレはいら立ちはじめた。隣りのオフィスでは低い声で話がつづけられている。ドアに近づくと、本物の告解所のすぐそばにいるかのように、ささやき声しか聞こえない。
「リュカ? そちらは静かか? 新聞記者の電話だけだって? 変わったことは何もないと答えつづけてくれ……何だって? だめだ! 彼女は話していない……そう、彼女は私のオフィスにいる。私とじゃない、庁内の人間とでもない……司祭とだ……」
この直後、予審判事からメグレに電話がかかった。メグレはほとんどおなじ言葉を繰り返した。
「彼女をせきたててはいません。安心しないでください、それどころではありません……」
メグレはこれほどおとなしく、忍耐強い自分を思い出せない。パルドンが読んでくれたイギリスの論文をまたもや思い出して、メグレは皮肉な微笑を浮かべた。
『ランセット』の論文は間違っている。ジャケットの心の葛藤を解決できるのは、結局は小学校の教師でも、小説家でも、警察官でもなくて、八十歳の司祭である。
「彼らが閉じこもって何分になる?」
「二十五分です」
メグレはビールを飲んで気休めをすることができなかった。ビールは隣りのオフィスにあったからだ。もうじきに生ぬるくなってしまうだろう。すでに生ぬるいかもしれない。メグレはビヤホール『ドフィーヌ』に降りて行きたい気にかられたが、いまこの場を離れることをためらった。
彼は解決が近いのを感じ、なんとか見抜こうとした……犯人をさがし出し、自白に追いこむ任務を負わせられている司法警察局の警視としてよりも、一人の人間として。
というのは、幼年時代の思い出をおもわずまじえてしまったので、個人的な事件のようにこの捜査を行っていたからである。
メグレは自分を超人だと思っていないし、絶対に誤りをおかさないとも考えていない。それどころか、もっとも簡単な事件をも含めて、彼が捜査を開始するのは、いつでも謙虚な気持からである。
彼は明白すぎる証拠や、早すぎる判断を信用しない。表面的な動機はいつの場合でも隠された動機ではないことを知っているので、忍耐強く理解しようと努める。
人間および人間の能力を買いかぶっていないから、人間を信じつづけることができる。
彼は人間の弱点をさがす。やっと弱点をさがし当てても、彼は勝利の叫びをあげない。逆に、打ちひしがれたような気持になる。
前日から、彼は狼狽していた。この世に生き残っていようとは想像できないような人々と、予備知識もなく対面したからである。彼らの態度、彼らの話しぶり、彼らの反応のしかたはメグレには無縁のものだった。メグレには彼らをどの部類の人間に分けていいのかわからなかった。
メグレは彼らを愛したかった、メグレを手こずらせているジャケットさえも。
彼らの生活のなかに、メグレは優雅さ、調和、無邪気さといったものを発見し、魅せられた。
突然、メグレは冷たくつぶやいた。
「そんなこと言っても、サン・ティレールは殺されたんだぞ」
彼らの一人によることは、ほぼたしかだ。科学テストに間違いがないとすれば、ジャケットの犯行だ。
たちまち、メグレは彼らが嫌いになった、死んだ伯爵や、メグレにこんな子供をほしいという気持を強く抱かせたあの青年さえも。
なぜ、これらの人々は、他の人間のようではないのか? なぜ、彼らは他の人間のように卑しい私利私欲や、激情を知らないのか?
あのあまりにも無垢《むく》な愛の物語に、メグレは急にひどくいらだった。メグレは愛の物語を信じるのをやめ、自分の経験にもっと適《かな》った、別の理由を求めた。
数十年前からおなじ男を愛していた二人の女が、必然的に憎しみ合うようになったのではないか?
ヨーロッパに君臨している大部分の名家と親戚関係にある一家が、二人の老人によって考えだされたおかしな結婚に脅威を感じたのではないか?
彼らはだれも罪を白状していない。彼らには敵が一人もいない。彼らは皆、表面上は仲よく暮している、別居しているアラン・マズロンと細君を除いては。
相変わらずつづいているささやき声に怒ったメグレは、もう少しでドアを手荒く開けるところだった。その手を止めさせたのは、ジャンヴィエのとがめるような視線だったろう。
ジャンヴィエもまた彼らに魅せられている!
「廊下を見張らせてくれないか?」
メグレは老司祭が悔悛《かいしゅん》者を連れ去ってしまう可能性まで考えているのだ。
しかし、メグレは見落としていた真相をつかんだような気がした。それはごく単純なものであることはわかっていた。人間の悲劇は後になって考え直すと、いつでも単純である。
昨日から、とくに今朝から、まさに理解しようとしていた瞬間が何回あったか、メグレには正確に言うことができないだろう。
オフィスとの境のドアが控え目にノックされたので、メグレはびっくりした。
「私もついて行きますか?」と、ジャンヴィエが訊いた。
「そうしてくれ」
バロー司祭は立っていた。ジャンヴィエの言葉のとおり、司祭はひどい老人で、やせほそっているが、長い、豊かな髪が頭を後光のように飾っている。下手くそな繕いの跡がみえる法衣は、すり切れて光っている。
ジャケットは椅子から動かなかったらしく、相変わらず背筋をまっすぐに伸ばして坐っている。表情だけが変わっていた。もう緊張していないし、内心の葛藤もない。挑発的なところもないし、黙秘をつづけようという固い決意もみられない。
ほほえんでいないとしても、穏やかさがはっきりと見てとれる。
「警視さん、長い間待たせてしまって申しわけありません。マドモワゼル・ラリューが私にたずねた問題は非常に微妙なものでして、答えをあたえる前に入念に検討しなければならなかったのです。白状いたしますが、私はもう少しであなたに大司教|猊下《げいか》に電話する許しを得て、意見を求めるところだったのです」
テーブルの端に坐ったジャンヴィエは、話を速記している。メグレは平静を装う必要があるかのように、自分のデスクに坐った。
「お坐りください、司祭」
「ここに残っていてもよろしいですか?」
「この悔悛者がふたたびあなたの調停を必要とすると思うのですが?」
司祭は椅子に坐り、法衣からつげ材の小箱を取り出し、嗅ぎたばこを一服やった。この仕草と、灰色がかった法衣の上に落ちたたばこの粉が、メグレに古い記憶を呼び起させた。
「ご存知のとおり、マドモワゼル・ラリューはとても信心深いお女《ひと》です。この信心深さの故《ゆえ》に、この女はああした態度をとったのでして、私はそれをやめさせるように努めたのです。この女の不安は、サン・ティレール伯爵がキリスト教の埋葬が受けられないのではないかということでした。それ故に、葬式が行われるまで真相をお話するのを待とうと決心したのです」
メグレにとっては、子供の風船が突然空中で破裂したようなものだった。すべてが明らかになった。真相のすぐそばにいたのに見抜くことができなかったことに、メグレは顔を赤らめた。
「サン・ティレール伯爵は自殺したのですね?」
「残念ながら、それが真相です。マドモワゼル・ラリューにも申したことですが、伯爵が最後の瞬間に自分の行為を悔いなかったという証拠はどこにもありません。いかなる死も神からみれば瞬時ではありません。空間とおなじように、時間にも無限が存在するのです。たとえ医者がご臨終だと申しても、無限小の時間があれば悔悛には十分なのです。
私は、教会がサン・ティレール伯爵への最後の祝福を拒むとは思いません」
初めて、ジャケットの目がうるんだ。ハンドバッグからハンカチを取り出して目を拭いたが、口のほうは小娘のような仏頂面をしていた。
「話すんですよ、ジャケット」と、司祭が励ました。「私に言ったことを繰り返しなさい」
彼女はつばを呑み込んだ。
「わたしはベッドに横になると、眠りこみました。爆発音がしたので、わたくしは書斎に駆け込みました」
「頭の半分を吹っとばされた伯爵が、じゅうたんの上にくず折れているのを見た?」
「はい」
「拳銃はどこにあった?」
「机の上に」
「それからあなたはどうした?」
「自分の部屋に鏡を取りに行き、旦那さまがもう息をしていないのをたしかめました」
「あなたは伯爵が死んだということをたしかめた。それから?」
「最初に考えたことは公爵夫人に電話することでございました」
「なぜ、そうしなかった?」
「十二時近かったからです」
「公爵夫人があなたの計画に反対することを恐れたんじゃないか?」
「すぐにはそのことを考えませんでした。わたしは警察に行こうと思いましたが、突然伯爵さまは自殺のために無宗教の葬式にされてしまうと考えたのです」
「主人が死んだことを知った瞬間から、こんどはあなたが拳銃を撃つまで、どのくらいの時間が経っていた?」
「存じません。おそらく十分ぐらいではないでしょうか? わたしは伯爵さまのそばにひざまずいて、お祈りをいたしました。それから立ち上り、銃をつかむと、伯爵さまと神さまに許しを乞いながら、見もしないで撃ちました」
「三発撃ったんだね?」
「存じません。弾丸《たま》が出なくなるまで引金を引きつづけました。その後、じゅうたんの上に光るものがあるのに気がつきました。わたしは銃にはくわしくはありませんが、それが薬莢だとわかったので拾い集めたのです。その夜は眠れませんでした。翌朝早く、コンコルド橋からセーヌ河に銃と薬莢を投げ棄てました。下院の前に立番中の警官がいて、わたしのほうを見ているようでしたので、しばらく待たなければなりませんでした」
「伯爵がなぜ自殺したのか、あなたにはわかるかね?」
彼女は司祭を見た。司祭は勇気づけるようにうなずいてみせた。
「しばらく前から、伯爵さまは不安そうで、元気がありませんでした」
「どうして?」
「数カ月前に、お医者さまが伯爵さまに、もうぶどう酒もアルコールもお飲みにならないように勧めたのでございます。伯爵さまは数日間は禁酒しておりましたが、やがてまたお飲みになりはじめました。でも、お酒をお飲みになると、胃が痛むのです。伯爵さまは夜中に起きて、重曹《じゅうそう》をお飲みにならざるをえませんでした。ついにはわたしが毎週重曹を一箱ずつ買いに行きました」
「伯爵のかかりつけの医者は?」
「ウールゴー先生です」
メグレは受話器をはずした。
「ウールゴー先生を頼む」
そして、ジャケットに、
「ずっと前から、その先生に診てもらっていたのかね?」
「昔からと言ってもいいでしょう」
「ウールゴー先生はいくつ?」
「はっきりは存じません。わたしとほとんどおなじくらいでは……」
「ウールゴー先生はいまでも開業している?」
「なじみの患者さんだけを診ております。先生のご子息は、サン・ジェルマン大通りの、先生とおなじ階に住んでいます」
最後まで、おなじ地区だけではなく、おなじ部類と言っていいような人たちが関係してくる。
「もしもし! ウールゴー先生ですか? こちらメグレ警視です」
ウールゴー医師は耳が遠くなったので、もっと大声で、口を受話器に近づけてしゃべってもらいたいと言った。
「ええ、そうなんです、先生の患者の一人のことでお訊きしたいことが二、三あって。そう、彼のことです。ジャケット・ラリューは私のオフィスにいて、サン・ティレール伯爵が自殺したということを打明けたところです。なんですって? 私の訪問を待っていたですって? 伯爵が自殺するかもしれないと思った? もしもし! 私はできるだけ受話器に口をつけて話しています。……ジャケット・ラリューは、伯爵が数カ月前から胃の痛みで苦しんでいたと申してます……あなたの話ははっきり聞こえます……解剖をした検死医のチュデル医師は、老人の器官がしっかりしているので驚いたと言っていますが……。
えっ? 先生も伯爵にこう繰り返したのですか? 伯爵は先生を信じなかった? ……
ええ……そうです……わかります……先生は伯爵を納得させることができなかった……伯爵は別の医者に診てもらいに行った……。
ありがとう、先生……先生に証言してもらうようになるかもしれません……とんでもない! それどころか、先生の証言はとても重要なものになります……」
メグレは受話器を置いた。重々しい顔をしている。ジャンヴィエはそこに興奮を読んだと思った。
「サン・ティレール伯爵は癌だと思いこんでいた」と、メグレは少し打ち沈んだ声で説明した。「ウールゴー先生が何でもないと言ったにもかかわらず、伯爵はいろいろな医者に診てもらった。そのたびに、先生方は嘘をついていると確信してしまった……」
ジャケットがつぶやいた。
「伯爵さまはいつもご自分の健康を自慢しておいででした。昔、伯爵さまはわたしによく、死なんかこわくない、死への心がまえはできているが、病弱でも苦労して生きつづけると申しておりました。たとえば、お風邪をめしますと、伯爵さまは病気の動物のように隠れてしまい、わたしが寝室に入るのをできるだけ止めさせようとしました。それは伯爵さまのはにかみでございました。数年前、伯爵さまのご友人の一人が、癌で二年近く入院しておりましたが、お亡くなりになりました。その人はいろいろ複雑な治療をうけました。
『なぜ、彼をおとなしく死なせてやらないのか? 私が彼の立場だったら、できるだけ早く死なせてくれるように頼んだだろう』と、伯爵さまはいらいらして申しました」
イザベルの孫のジュリアンは、サン・ティレールが死の数時間前に言った言葉を正確には思い出せなかった。近く夢が実現するので仕合せそうにしていると思った伯爵が、いざ会ってみると、気がかりそうな、心配そうな、何かを恐れているような様子をしていた。
少なくとも若いジュリアンはそう思った。というのは、彼はまだ老人ではなかったからだ。ジャケットのほうはすぐに悟った。人生の半ばを過ぎ、ユルム通りの生徒より老人に近かったメグレも、理解した……サン・ティレールはいずれ近いうちにベッドに釘づけになることを心配していた。
そしてそれは、五十年の間いかなる偶然的な出来事にも色あせなかった真実の愛が、実生活でまさに花咲こうとしているときなのである。
遠くからしか伯爵を見たことがなく、いまもって青春時代のイメージを抱きつづけているイザベルは、妻になると同時に看護人になってしまう。彼女はやつれきった、哀れな肉体しか知らないことになる。
「ちょっと失礼します」
メグレはドアのほうに向かいながら、とつぜん言った。
裁判所の廊下に出ると、四階に上り、予審判事のオフィスに三十分ほど閉じこもっていた。
自分のオフィスにもどってくると、三人の人間は相変わらずおなじ場所にいた。ジャンヴィエは鉛筆を軽く噛んでいる。
「あなたは自由です」と、メグレはジャケットに言った。「あなたを送らせましょう。それより、オボネ公証人の家へ連れて行ったほうがいいのかな。あそこで会う約束があるね。司祭さん、あなたのほうは司祭館で証言してもらうことになるでしょう。近日中に、二、三形式的な手続きと、書類にサインをしてもらいます」
それから、ジャンヴィエのほうを向くと、
「運転してくれるね?」
メグレは司法警察局の局長と一時間過すと、ビヤホール『ドフィーヌ』に行って、カウンターで生ビールを大ジョッキで二杯飲んだ。
メグレ夫人は、夕食には帰れないという電話が夫からあるのを予期していたにちがいない。そういうことは捜査中にはよくあることなのだ。
だから、階段に夫の足音を聞いたときにはびっくりした。彼女は夫が踊り場に着いたとたんドアを開けた。
メグレはいつもより重々しい顔付きだ。だが、態度は平静だった。メグレから黙って長い間抱き締められ、キスされたとき、夫人はそのわけを訊こうとしたが、その勇気がなかった。
夫人は、メグレがいましがたまで遠い過去と、少し先の未来のことに想いを凝らしていたことを知るよしもない。
「夕食は何だね?」と、メグレはぶるっとからだをふるわせると、やっと口を開いた。(完)
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訳者あとがき
書出しのうまいのはアメリカのミステリーが一番だといっていい。イギリスとフランスのミステリーはその点どうもアメリカ物に劣るようである。とくに、イギリスのミステリーはお国柄といおうか、読者に年配者が多いせいか(イギリスでは秋や冬の夜長を、暖炉のそばでミステリーを読みながら過ごすのが最高とされている。そのせいか、長い本格物ではイギリス物がすぐれている)、どうもゆったりしすぎていて、せっかちな日本人にはいらいらさせられることが多い。
フランス物の書出しは最近よくなってきている。だが、シムノンのメグレ物とくらべるとまだまだといった感じだ。メグレ物の書出しはずば抜けてうまい。読みはじめると、すぐにメグレの世界に引きずりこまれてしまう。メグレ物は原稿枚数にして三百枚前後である。無駄なことを書いているスペースがない。あっという間に読者を夢中にさせ、最後まで引っぱっていかなければならない。一行たりとも無駄なことは書けないのだ。メグレ物は短くて物足りないという人がいるが、最近のいたずらに長いミステリーにうんざりしている私には、この小説づくりのベテランのうまさを、他のミステリー作家も見ならってほしいと言いたいくらいだ。
本書でもパルドン医師の、イギリスの精神科医の話からはじまり、この話にひっかかりがありそうな殺人事件が起る。十数年前に引退した元外交官が殺されたのだ。この事件というのが十九世紀の生き残りの老人たちの世界で起こる。まるでおとぎの国でのような恋愛問題が事件に関係ありそうだと思うと、元外交官の秘密文書にひっかかりがありそうだったりする。さらには、遺産相続問題がからんでいそうだったりする。これらがすべて数十頁のうちにうまく説明されているから、読みはじめるとたちまち夢中になってしまう。
おそらくこの殺人事件の謎は、読者には最後までわからないだろう。犯人がわかったとき、読者はこの解決のしかたは、ミステリーのタブーにふれていると思うかもしれない。しかし、シムノンがいわゆるこのミステリーのタブーとやらを知らなかったはずはない。知っていて、あえて挑戦したのだろう。心理的動機さえしっかりしていれば、タブーだってタブーではなくなるのではないか……これがシムノンがこのミステリを書いた考えだったと思う。
複雑きわまりない現代社会の作家たちが、いつまでもディクスン・カーなどがつくったミステリーのタブーを守っているほうがおかしい。シムノンに言わせれば、ミステリーほど現代的な小説形式はないのである。ミステリーほど現代人の複雑な心理を、複雑な人間関係を、社会のからくりを描きやすいものはないそうである。そういう意味でも、古いミステリーのタブーなどをいつまでもおとなしく守っているほうがおかしい。
それにしてもシムノンの見事さは、そういったタブーに挑戦しながら、新しいパリの社会を選ばず、十九世紀がそのまま残ったような貴族階級を選んで、そのなかで殺人事件を展開させたことである。わざわざディクスン・カーや、エラリイ・クイーンや、アガサ・クリスティーの世界での殺人事件を選んだわけである。ということは、シムノンはこれら世界的なミステリー作家たちに、ミステリーのクブーなど昔から存在しなかった、人間の心理の複雑さは今も昔も変わりがないと言いたかったのではないか……シムノンはそれだけの力量と自信を持った作家であるから、そういうことを考えたとしても当然なのである。(訳者)