メグレと深夜の十字路
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章 黒い片眼鏡
第二章 ゆれ動くカーテン
第三章 十字路の夜
第四章 閉じ込められた女
第五章 乗り棄てられた車
第六章 夜の不在者たち
第七章 二つの弾創
第八章 姿を消した人たち
第九章 壁際に並ばされた一味
第十章 殺人者は?
第十一章 エルゼ
訳者あとがき
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登場人物
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カール・アナセン……片眼のデンマーク人
エルゼ・アナセン……カールの妹
エミール・ミショネ……保険代理人
オスカール……自動車修理屋
ジョジョ……修理工
グイード・フェラーリ……イタリア人
メグレ……司法警察局警視
リュカ……部長刑事
グランジャン……風紀班の刑事
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第一章 黒い片眼鏡
うんざりしたような溜息をついて、メグレはそれまで肘《ひじ》をついていた事務机の椅子を離れた。カール・アナセンへの尋問はまさに十七時間におよんでいた。
その十七時間のあいだには、カーテンのない窓からの眺めはつぎつぎと移り変った……まず、昼時《ひるどき》にサン・ミッシェル広場の簡易食堂へ殺到する女店員や事務員の群。ついで、次第に衰えていく人通り。地下鉄《メトロ》や駅へのラッシュアワーの人波。そして、アペリチフどきの散歩。
やがてセーヌ河は霧につつまれる。緑と赤の灯をつけた最後の曳船が、三艘の川船を曳いて通った。最終のバス。地下鉄《メトロ》の終電車。看板を片づけて出入口の扉を閉める映画館……。
しかし、メグレのオフィスではいままでよりもはげしくストーブが燃えしきっている。テーブルの上には、空のジョッキが二つと、サンドイッチの残りが載っている。
どこかで火事があったにちがいない。消防自動車のけたたましいサイレンが聞こえた。それに、手入れもあった。警視庁を二時頃出た囚人護送車が、遅くなって拘置所の中庭にもどってきて、獲物を吐き出したのである。
その間も、尋問はつづけられている。
一時間おきか、あるいは二時間おきに、そのときの疲れぐあいで、メグレはボタンを押す。隣の刑事部屋でまどろんでいるリュカ部長刑事が起きてきて、警視のメモにちらっと目をやって、後を引き継ぐのである。
メグレのほうは簡易ベッドに横になり、新しい力を補っては、また尋問にもどるのだった。
警視庁は人気《ひとけ》がなかった。風紀取締班へのちょっとした出入り。風紀取締班の刑事が午前四時頃、麻薬密売者を連行してきて、あっさりと白状させてしまったのだ。
セーヌ川は乳白色の霧につつまれていたが、やがて陽が出て、人通りのない河岸を照らした。廊下に足音が鳴り響いた。電話のベル。人を呼ぶ声。ドアがばたんと閉まる音。掃除婦の箒《ほうき》の音。メグレは熱しすぎたパイプをテーブルに置いて立ち上ると、容疑者を足の先から頭のてっぺんまでながめた。不機嫌な表情だったが、感嘆せずにはいられないという気持も抑えきれなかった。十七時間にわたる息の詰るような尋問! 尋問をはじめるにさいしてはカール・アナセンの靴紐を抜きとり、カラーとネクタイをはずし、ポケットを空にした。
最初の四時間は、カール・アナセンをオフィスの真中に立たせ放しにして、機関銃の弾丸よりもはげしく質問を浴びせたのである。
「喉が渇くか?」
メグレは四杯目のジョッキだった。容疑者は弱々しくほほえんだが、ジョッキを差出されるとがつがつと飲んだ。
「腹は減っていないか?」
こんどは容疑者を坐らせる。ついでまた立たせ、何も食べさせずに七時間放っておく。そのあとでサンドイッチをあたえる。容疑者がサンドイッチをむさぼり食っている間に、また質問攻めにするのだ。
尋問には二人が交代であたった。そのため自分の番でないときには、眠ることだって、伸びをすることだってでき、単調な尋問の苦しさから逃れられたわけである。
しかし、尋問をあきらめたのはメグレたちのほうだった! メグレは肩をすくめ、引出しのなかの冷えたパイプを取り出すと、汗ばんだ額をぬぐった。
たぶんメグレに多大な感銘をあたえたのは、カール・アナセンの肉体的ならびに精神的な耐久力ではなく、人を当惑させるような礼儀正しさと、最後まで保ちつづけた上品な態度だったのかもしれない。
社交界の人間だとはいえ、ネクタイを解かれて身体検査室を出ると、つぎには鑑識課の各係のところへ回され、そこで一時間も、真っ裸のまま、大勢の悪人どもと一緒くたに取り扱われるのである。写真を撮られ、人体測定用の椅子にかけさせられ、突き飛ばされ、不躾けな冗談を浴びせかけられる。こうした場合にも、日頃の上品な態度をあくまで守り通せるという人間はまれなのだ。
さらにそれから数時間にわたって尋問をうけたのに、まだそこらの浮浪者とどことなく態度が違うとなれば、それは奇跡と言っていい。
ところが、カール・アナセンの態度は少しも変わらなかったのである。スーツは皺《しわ》だらけだったが、司法警察局の連中などがあまりお目にかかれないような気品を残していた。いくぶんの控え目と、堅苦しさと、外交官によく見受けられるような尊大気味のところがある貴族の気品である。
彼はメグレより背が高く、肩幅も広かったが、からだがしなやかで、ほっそりした感じだった。腰が細かった。細長い顔は蒼ざめていて、唇はいくぶん色褪せている。左目に黒い片眼鏡《モノクル》をはめている。
「そいつをはずしたまえ」
メグレはそう命令した。
彼は薄笑いをうかべて、言われたとおりにした。醜く見据えているガラスの義眼がむき出しになった。
「怪我かね?」
「ええ、飛行機事故で……」
「それでは、戦争に行ったんだね?」
「私はデンマーク人です。戦争には行かなくてよかったのです。しかし、デンマークにいた頃、旅行用の飛行機をもっておりまして……」
その義眼は、若々しくて整った顔立ちにそぐわなかった。メグレはつぶやくように言った。
「片眼鏡《モノクル》をつけていいよ」
立たせ放しにしておこうと、飲食物をあたえるのを忘れていようと、カール・アナセンは一度も文句を言わなかった。彼の位置から、通りの動きがよく見えた。橋をわたる市内電車やバス。昨日の夕方には赤い陽がさしていたが、いまでは四月の明るい朝のにぎわいをみせている。
彼は気取らずに、相変らず背筋をまっすぐに伸している。彼が疲れている唯一のしるしは、右目にできている濃い隈《くま》だ。
「きみはいままでの供述を変えないんだね?」
「変えません」
「きみの供述にはおかしな点が多いのだが、それを承知のうえでかね?」
「承知しておりますが、私は嘘をつくことはできません」
「動かせぬ証拠がないので、きみは釈放されることを期待しているのか?」
「私は何一つ期待していません」
なまりはわずかしかなかったが、疲れがでてきてからはそれが目立った。
「尋問の調書にサインしてもらうが、きみはその前に読みあげてもらいたいかね?」
お茶を断わるときのような社交界の人間の漠然とした身振り。
「では、おおざっぱに要約しよう。三年前に、きみは妹のエルゼを連れてフランスヘやってきた。パリには一カ月住んだ。そのあと、アルパジョンから三キロメートル離れた、パリ=エタンプ国道に沿う、俗に『三|寡婦《かふ》の十字路』と言われている場所にある田舎の別荘を借りた」
カール・アナセンは軽くうなずいた。
「それ以来三年間というもの、きみたちはそこで世間と隔絶した生活を送ってきた。土地の人々でさえ、きみの妹には五度とは会っていない。隣人との交際はまったくなかった。きみは五|CV《シュヴォー》(CVは気筒容積単位で約六分の一リットル)の旧式な車を買い、きみ自身で運転してアルパジョンの市場へ買物に行っていた。やはりその車で、月に一度、きみはパリに来ている」
「そのとおりです。カトル・セッタンブル通りのデューマ父子商会ヘ、私の賃仕事を届けにくるのです」
「その賃仕事というのは、室内装飾用の織物の図案だ。その図案一枚について、きみは五百フランの賃金を受け取っている。月に平均四枚描くので、つまり二千フランになる……」
カール・アナセンはまたうなずく。
「きみには友人がいない。きみの妹にも友達がいない。土曜日の夜、きみたちはいつものようにベッドに入った。これもまたいつものことだが、きみは、きみの隣りの妹の寝室へ彼女を|閉じ込めた《ヽヽヽヽヽ》。彼女がひどいこわがりだからと、きみはそのことを説明しているが、まあ、そうしておこう! 日曜日の朝七時に、きみの家から百メートル離れた一軒家に住んでいる保険代理人エミール・ミショネが車庫に入ってみると、彼の六気筒の有名メーカーの新車が消えていて、かわりにきみのおんぼろ車が置いてあった……」
アナセンは動じない。ただ、いつもはたばこがあるはずの空のポケットのほうへ何気なく手をやっただけだ。
「ミショネは数日前から、田舎のあちこちで自分の新車の自慢話ばかりしてきたので、これは悪ふざけだと思った。彼はきみの家へ行ったが、鉄格子の門は閉まっていた。ベルを鳴らしても、返事がない。そこで三十分後に、彼は自分の災難を憲兵隊へ届け出た。憲兵隊はきみの家へ行った……きみも、きみの妹もいなかったが……そのかわり、きみの車庫のなかで、ミショネの新車が見つかった。しかも、運転席には、ハンドルにもたれかかるようにして、男が死んでいた。至近距離から胸を撃たれている……パスポートは盗まれていなかった……アントワープの宝石商で、イザック・ゴードバーグという者である」
メグレは話しながら、ストーブに石炭を入れた。
「憲兵隊は敏速に行動に移り、アルパジョンの駅員たちに問い合せ、きみが妹と一緒に、パリ行きの始発の列車に乗ったことを突きとめた……きみたち二人はパリのドルセイ駅に着いたところを逮捕された……きみはすべてを否定している……」
「私は人を殺したりしていません」
「イザック・ゴードバーグを知っていることも、きみは否定している……」
「私はうちの車庫で、自分のものではない車のハンドルにもたれて死んでいるのを目撃したのが、その人を見た最初です」
「それなのに、きみは警察に電話するかわりに、妹と一緒に逃げた……」
「こわかったのです……」
「もう何もつけ加えることはないね?」
「ええ、何もありません!」
「土曜日の夜から日曜日にかけて、きみは何の物音も聞かなかったと言い張るんだね?」
「私は熟睡するほうなのです」
これは、いままでに五十回も繰り返された言葉なのだ。くたくたに疲れたメグレはベルを押した。部長刑事のリュカがやってきた。
「すぐにもどるから!」
メグレとこの事件を担当しているコメリオ予審判事との会談は十五分つづいた。判事はいわば勝負をあきらめてしまったようだった。
「メグレ、これは十年に一度あるかないかのような事件だから、真相は究明できないかもしれないぞ……それが私の担当になったんだからな! 辻褄《つじつま》の合わないことだらけだ。なぜ車はすり替えられていたのか? なぜアナセンは自分の車庫にある車で逃げずに、アルパジョンまで歩いて、列車に乗ったのか? あの宝石商は『三寡婦の十字路』まで何をしにやってきたのか? いいかね、メグレ! きみにとっても私にとっても、まったく面倒な事件がはじまったもんだ。かまわんからアナセンを釈放したまえ……きみの言うとおり、十七時間もの尋問に耐えたんだから、もうこれ以上何も訊き出せないだろう……」
警視の瞼は少し赤かった。睡眠不足のせいだ。
「妹には会ったかな?」
「いや! 私のところへアナセンが連れてこられたときには、妹はすでに憲兵隊によって彼女の家へ護送されたあとでした。憲兵隊は現場で彼女を尋問したかったわけです。彼女は向うにいます。監視されているはずです」
メグレとコメリオ判事は握手をした。メグレはオフィスにもどった。リュカがぼんやりと容疑者を見つめている。アナセンは窓ガラスに額を押しつけて、いらいらせずに待っていた。
「きみは釈放だ」
オフィスに入るなり、メグレは言った。
アナセンはびっくりしたような様子もみせなかった。ただ、ネクタイのない首と、靴紐がないため大口をあけている靴のほうへ手をやってみせた。
「書記課できみの身の回り品はお返しする。もちろん、きみはまだ警察の手からまったく放れたわけではないんだからね。だから、逃げようというそぶりでもみせたら、刑務所にぶち込む」
「妹は?」
「自宅にいるよ」
デンマーク人はそれでもやはり、オフィスの敷居をまたいだときには、感動を禁じえなかったにちがいない。片眼鏡をはずして、失った目の上を手でこすったからである。
「ありがとう、警視さん」
「いや、どういたしまして」
「私は無実であることを誓います」
「何も誓ってもらわなくてもいいさ……」
アナセンは頭を下げると、リュカが書記課へ案内してくれるのを待った。
待合室で一人の男が立ち上った。男はあっけにとられてメグレとアナセンの言葉のやりとりを聞いていたが、メグレのところへ素っ飛んでくると、くってかかった。
「これはどういうことなんです? あいつを釈放するんですか? そんなことってありませんよ、警視さん」
保険代理人で、六気筒の新車の持主のミショネだった。ミショネは勝手にオフィスに入り込むと、テーブルの上に帽子を置いた。
「そんなことよりも何よりもまず、私は車のことでやってきたんですが……」
ごま塩頭の小柄な人物で、きざっぽい凝った服装をし、ポマードでかためた口ひげの先を絶えずひねくり回していた。
彼は口を大きく開き、はっきりした身振りを交え、言葉を選んで、明確に話そうとしていた。
ミショネは原告なのだ! 警察の手で保護されるべき人間なのだ! だから英雄気取りなのではないか?
その彼がどうでもいいような取扱いをうけたのである。警視庁全体に聞こえよがしに、彼はまくし立てた。
「じつはうちの奥さんと昨夜、長いこと話し合ったんですがね、うちの奥さんもいずれ近くお目にかかると思いますが……。うちの奥さんも私と同意見でしてね……いいですか、うちの奥さんの父親はモンペリエの高等中学《リセ》の先生ですし、母親のほうもピアノを教えているんですよ……こんなことを申しあげるのも、要するに……」
要するにというのが、彼の口ぐせだった。この言葉を、彼はきっぱりと、横柄な口調で言うのだ。
「要するに、できるだけ速《すみ》やかに決定していただくことが必要なんです。お金持同様……アブランヴィル伯爵もその一人なんですが……、私もあの新車を月賦で買いました……十八カ月払いで契約したわけでして……そりゃもちろん現金で払うこともできましたが、それでは資金を固定させることになり、無意味ですからね。いまお話したアブランヴィル伯爵だってイスパノを月賦でお求めになったのですよ……要するに……」
メグレはじっと動かなかった。深く息を吸い込んだ。
「私は車がなくては過せません。商売上、車は絶対に必要なんです……なにしろ、私の商売範囲はアルパジョンから三十キロにひろがっているんですからね。ところで、うちの奥さんも私と同意見なんですが、人が殺されていたような車はもうまっぴらです。早く警察に必要な手をうっていただいて、私は新しい車と買い替えたいのです。前のとおなじ型のもので、ただ色だけは紫がかった赤で違いますが……もちろん値段はおなじです……。それにこれは大切なことなんですが、新しい車に慣れるまでには、どうしても……」
「あなたの言いたいのはそれだけですか?」
「いや、どうも!」
この「いや、どうも」も彼の口ぐせの一つだった。
「いや、どうも、警視さん! そりゃ私だって、あの土地のことについては私の知識と経験を一切さらけだして、あなたの手助けをするつもりです……ですが、私としては緊急に車が要りますので……」
メグレは額をぬぐった。
「それでは、近いうちにあなたの家に会いに行きます……」
「車のことですが?」
「調査が終わり次第、あなたの車はお返しします」
「うちの奥さんも私も申すのですが……」
「あなたの奥さんによろしくお伝えください。では、さようなら……」
メグレが素早くそう言ってしまったので、保険代理人は不服を唱える暇がなかった。彼は手のなかに無理やり押しこまれた帽子を持って、廊下に出た。オフィス付きの給仕が彼に言った。
「こちらへどうぞ! 最初の階段を降りて左へ行くと、正面に出口があります……」
メグレはドアをしっかり閉めると、濃いコーヒーをいれるためストーブの上に湯沸かしをのせた。同僚たちは彼が仕事をしているものとばかり思っていた。しかし、一時間後に、アントワープから電報がきたときには、メグレを起こさなければならなかった。
電文はこうだった。
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イザック・ゴードバーグ、四十五歳、当地ではかなり知られたダイヤモンド・ブローカー。信用は普通。銀行との取引状態は良好。毎週、列車あるいは飛行機で、アムステルダム、ロンドン、パリにおもむく。カンピネ通り、ボルゲルホウトに豪華な邸宅あり。既婚。八歳と十二歳の二児の父。ゴードバーグ夫人は知らせをうけ、パリ行きの列車に乗り込む。
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午前十一時、電話のベルが鳴った。リュカからだ。
「もしもし! 『三寡婦の十字路』にいます。アナセンの家から二百メートルのところにある自動車修理屋から、いま電話をかけています。あのデンマーク人は家に帰りつきました。鉄格子の門を堅く閉ざしています。異常はありません……」
「妹は?」
「家のなかにいるはずですが、私は姿を見かけておりません」
「ゴードバーグの死体は?」
「アルパジョンの解剖教室に……」
メグレはリシャール・ルノワール大通りの自宅に帰った。
「お疲れのようね」
メグレ夫人はただそう言っただけだ。
「スーツケースに、着替えと予備の靴を詰めておいてくれ」
「長いこと帰らないの?」
火の上にシチューがのっていた。寝室の窓は開けはなたれ、シーツを風に当てるためベッドがまくられていた。メグレ夫人はまだピンを抜く暇がなかったので、髪を小さな房にたばねたままだ。
「では、出かけるよ」
メグレは夫人にキスした。彼が家を出るとき、夫人が注意した。
「右手でドアを開けたわ」
それはいつもどおりではなかった。メグレはいつも左手でドアを開けるのである。メグレ夫人は縁起をかつぐ性質《たち》だった。
「事件は何ですの? ギャングの一味?」
「まだよくわからないんだ」
「遠くへいらっしゃるの?」
「それもわからない」
「気をつけてくださいね……」
しかし、メグレはすでに階段を降りていて、軽く振り返って手をあげただけだった。大通りで、彼はタクシーを呼び止めた。
「ドルセイ駅まで……いや、それよりもむしろ……アルパジョンまでだといくらだい? 空車での帰りの分も含めて三百フラン……よし、やってくれ!」
こういうことはめったになかった。メグレはくたくたに疲れていたし、眠くてしかたがなかったからだ。睡魔をやっとのことで追い払っていたのである。
それに、メグレにはまだいくらか心にひっかかるものがあったのだろうか? 右手で玄関のドアを開けたせいではない。また、ミショネの盗まれた車がアナセンの車庫で見つかり、ハンドルに人がもたれて死んでいたという突飛な話のせいでもない。
メグレの心にひっかかっているのは、カール・アナセンという人間の人柄なのだ。
十七時間の尋問!
海千山千の悪党でも、ヨーロッパじゅうの警察署にぶち込まれたことのある喰えない連中でも、十七時間の尋問には耐えることはできない。メグレがアナセンを釈放したのは、それがためであったかもしれない!
それでもやはりメグレは、ブール・ラ・レーヌを過ぎたあたりから、タクシーの奥で眠り込んでしまった。運転手に起こされたときには、タクシーはアルパジョンのわら屋根の古い市場の前で停っていた。
「どちらのホテルにお泊りですか?」
「『三寡婦の十字路』までやってくれ……」
油で光っている国道が急な坂になっている。両側には、ヴィシーやドーヴィルの大きなホテルの広告、各メーカーのガソリンの看板が立ち並んでいる。
十字路があった。自動車修理屋があって、赤く塗った五台の給油ポンプがある。左手には、ダブランヴィル街道をしめす道路標識。あたりは見わたすかぎり畑。
「ここですよ!」と、運転手が言った。
そこには家が三軒あるだけだった。まず、いま言った自動車修理屋。漆喰《しっくい》塗りの正方形で、ただ商売をするために急造したような建物だ。アルミニウムの車体の大型スポーツ・カーが給油をうけていた。修理工たちが肉屋の小型トラックを修理している。
その自動車修理屋と向い合って、別荘風の硅石造りの家がある。せまい庭が、二メートルの高さの金網にかこまれている。銅板の表札に、『保険代理人エミール・ミショネ』とある。
もう一軒は、二百メートルほど離れていた。庭を取りまいている塀のため、二階と、スレートぶきの屋根と、美しい木立が見えるだけ。
この家は少くとも一世紀前に建てられたにちがいない。昔は立派な田舎の別荘だったのだろう。庭師用の離れや、召使いの部屋や鶏小屋や厩舎が付属し、ブロンズの枝つきシャンデリアが両側についた五段の石段があった。
セメント造りの小さな池は水がなかった。上部に彫刻をほどこした煙突から、一筋の煙がまっすぐに立ち昇っている。
それで全部である。畑の向うに、切立った岩と、何軒かの農家の屋根と、畑のはずれあたりに鋤《すき》が一つほったらかされてあるのが見える。そして、滑らかな国道を、車がクラクションを鳴らし、すれちがい、追い抜き合っていた。
メグレはスーツケースを手にもってタクシーから降りると、運転手に料金を払った。パリにもどる前に、運転手はガソリン・スタンドで給油をした。
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第二章 ゆれ動くカーテン
リュカが道端の木立のかげから姿をあらわして、足もとにスーツケースを置いて立っているメグレに近づいてきた。二人が握手をしようとした瞬間、クラクションがだんだんと近づいてきたかと思うと、いきなり一台のレーシング・カーがメグレたちのわきをかすめるようにして全速力で走り去った。あまりにも身近だったので、スーツケースが三メートルほど吹っ飛んだ。
あっという間のことで、もう車の姿は見えなくなっていた。ターボ・コンプレッサーのその車は、干し草を積んだ荷馬車を追い抜いて、すでに地平線の彼方へと消えていたのだ。
メグレは顔をしかめた。
「あんな車がたくさん通るのか?」
「初めてですよ……われわれを狙ってやったみたいですね?」
どんより曇った午後。ミショネ家の窓のカーテンがかすかに動いた。
「この辺で泊ることはできないものかね?」
「アルパジョンかアブランヴィルでないとだめです。アルパジョンまでは三キロです……アブランヴィルのほうが近いのですが、田舎の宿屋が一軒しかないんですよ……」
「そこでいい、私のスーツケースを持って行って、部屋を取っておいてくれ……何か変ったことはなかったか?」
「何も。……あの家からわれわれを見ています……あれはミショネ夫人です、さきほど調べておきました……かなり大柄な褐色の髪の女で、性質はよさそうじゃありませんね」
「なぜここを『三寡婦の十字路』と呼ぶのか知っているかね?」
「調べてみました……三寡婦というのはあのアナセンの家のせいなのです。あの家は革命当時からあるそうでして……昔は、この十字路にはあの家が一軒しかなかったんです。ところが、五十年前に、あの家に母娘三人の寡婦が住んでいたらしいのです。母親が九十歳で、手足の自由がきかない。姉娘は六十七歳、妹が六十歳で、二人とも腰が曲っていた。三人ともひどくけちで、偏屈《へんくつ》な婆さんたちで、外では一切買物をせず、家禽小屋と野菜畑でとれるものだけで暮していたというんです……よろい戸など一度も開けたことがないそうですよ。だから、何週間も姿を見かけないことがあったとか……姉娘が脚を折ったときも、死んだときになってはじめてそのことがわかったそうです。
奇妙な話ですよ! 三寡婦の家のまわりに物音ひとつ聞こえなくなり、それが長い間つづいたので、村の人々の噂になった……そこで村長が見にいくことになったのですが、三人の寡婦は三人とも死んでいたのです。少くとも死後十日は経っていたそうです! 当時の新聞にはだいぶ書き立てられたそうですがね……この話に興味をいだいた村の小学校の先生が、一冊の本を書いたのですが、そのなかで、こう言ってます。つまり、脚を折った姉娘がまだ元気な妹を憎んで、毒殺してしまい、ついでに母親も毒殺した……しかし、自分も動けないので物を食べることができず、二人の死体のそばで死んでしまったのであると……」
メグレはその家にじっと目をやったが、上のほうしか見えない。ついで、ミショネ夫婦の新しい家に、その家よりもっと新しい自動車修理屋に、さらには国道を時速八十キロのスピードで走る車に目を転じた。
「それじゃ、部屋を予約してきてくれ……それがすんだら、またここにもどってきてほしいな……」
「警視はこれからどうします?」
メグレは肩をすくめると、まず三寡婦の家の鉄格子の門まで歩いて行った。広々とした家で、三ないし四ヘクタールの庭に取りかこまれ、みごとな木立がある。
芝生を迂回している坂になった小径《こみち》が、一方は玄関の石段に、もう一方は車庫に通じている。車庫は昔の厩舎のなかにつくられている。屋根には滑車が残っている。
動くものとてない。一筋の煙のほかは、色褪せたカーテンの内側には、生活の匂いはみじんも感じられないのである。
夕闇が迫っていた。馬が遠くの畑を横切って、農家にもどって行く。
国道を小柄な男が散歩している。フランネルのズボンのポケットに両手を突っ込み、パイプをくわえ、頭には鳥打帽をかぶっている。その小柄な男はなれなれしくメグレに近づいてきた。村人同士が話しかけるといったぐあいだった。
「捜査を指揮しているのは、あなたですかい?」
男はカラーをつけていなかった。足にはスリッパをつっかけている。しかし、上衣はイギリス製の上等なグレイのラシャ地で、指には大きな指輪をはめている。
「あっしは十字路の自動車修理屋です……あなたの姿をお見うけしたもんで……」
きっとボクサーあがりだ。鼻がつぶれている。拳でなぐりつぶされたといった顔である。だらだらしたしゃべり方で、品のない、しゃがれ声だが、自信たっぷりだった。
「あの車のすり替えをどう思います、あなたは……」
修理屋は笑った。金歯が見えた。
「死体さえなけりゃ、あれで面白い事件なんですがね……こんなこと言っても、あなたにはわからんでしょうが! あなたは、あの真向いの家の男をご存じないでしょうが、あっしらはミショネ様様と呼んでいるんですぜ……人と親しくつきあうのが嫌いでね、こんな高いカラーをし、エナメル靴なんかはいちゃって……それに、ミショネ夫人ときたらね! あなたはまだ会ってないでしょ? まったく、あの夫婦ときたら、あることないこと文句ばかり言って、あっしのところの給油ポンプの前で車が停るとき、うるさすぎるといって憲兵隊へ駆け込んだような連中ですからね……」
メグレはうなずいたり、水をさしたりするでもなく、ただ相手を見つめていた。ただじっと見つめられているということは、おしゃべりしている当人にとっては途方に暮れてしまうものだ。だが、この自動車修理屋はそんなことにはおかまいなかった。
パン屋の車が通ると、修理屋は叫んだ。
「よう、クレマン……クラクションが直ってるぞ!ジョジョに言って、もらってくれ!」
またメグレのほうを向いて、たばこをすすめながら、
「数カ月前に、そのミショネが新しい車を買うからって、そこらじゅうの自動車屋を冷やかしたんですよ。あっしもその冷やかされた一人ですがね……値引きさせようとしやがったりして……運転させては、車体の色が暗すぎるだの、明るすぎるだのとぬかしやがる。赤ボルドー酒色で一色がいいってわけ。あまり濃すぎるのもいやだが、そうかといって赤ボルドー酒色だとわからないのもいやだっていうわけですよ。結局、ミショネのやつ、アルパジョンの自動車屋から一台買いましたがね……その車が数日後に、三寡婦の家の車庫のなかにあったんだから、愉快で愉快でしかたがないねえ! あの朝、六気筒の車のかわりに、おんぼろ車を見たときのやつの顔をなんとしても見たかったもんだね……死体があったんじゃ、残念ながらすべてが台なしだ。なにはともあれ、死体は死体ですからねえ。やはり死体は敬わなけりゃいけません……どうです、あなた、あっしのところに来て一杯やりませんか? この十字路には居酒屋《ビストロ》はありませんぜ。そのうちにできますがね。いい若い者《もん》が見つかったら、あっしが金を出してやって居酒屋《ビストロ》をやらせるつもりですから」
ほとんど反応がないので、修理屋は手を差出して言った。
「では、いずれまた……」
彼はおなじ歩調で遠ざかって行き、二輪荷馬車で通りかかった百姓と話すため立ち止った。ミショネ家のカーテンの向うに、相変らず顔が見える。国道の両側の田畑には、夕暮れの空気がよどんで、そよとも動かない。はるか遠くで物音が聞こえる。馬の嘶《いなな》きや、十キロほど離れている教会の鐘の音だ。
ライトをつけた最初の車が通った。だが、薄明かりのなかではほとんど用をなさない。
メグレは門の右手にぶらさがっている呼鈴《よびりん》の引き綱のほうに手を伸した。ブロンズの呼鈴の、美しい、荘重な響きが庭のなかで鳴りわたり、そのあと長い間沈黙がつづいた。石段の上のドアは開かれない。しかし、家の裏手で砂利がきしる音が聞こえ、細長い人影があらわれた。乳白色の顔と、黒い片眼鏡がくっきりとうかびあがる。
まったく平然として、カール・アナセンは鉄格子の門に近づき、頭を下げてから開けた。
「いらっしゃると思っておりました……車庫をごらんになりたいのでしょう? 検事局で封印をして行きましたが、あなたならかまわないのでは……」
カール・アナセンはパリ警視庁にきたときとおなじスーツを着ている……たしかに粋なスーツではあるが、生地が光りだしている。
「妹さんはここにいるかね?」
すでにもう薄暗かったので、アナセンの顔がかすかに慄えたのは見分けられなかった。しかし、眼窩《がんか》のなかの片眼鏡をしっかりはめ直す必要を、彼は感じた。
「ええ……」
「お会いしたい……」
ちょっとためらったが、ふたたび頭を下げた。
「どうぞこちらへ……」
二人は家に沿って、裏側にまわった。テラスに面してかなり広い芝生がある。一階の部屋はすべてこのテラスとおなじ高さであって、各部屋とも高いフランス窓がついている。
どの部屋にも明りはついていない。庭の奥では、靄《もや》が樹々の幹をすっぽりと覆っている。
「ご案内いたしましょう」
アナセンはガラス張りのドアを開けた。メグレは彼のあとについて、薄暗い大きな客間に入った。ドアを開け放しにしたままなので、新鮮で、どんよりした夜の空気と一緒に、湿った草と木の葉の匂いが流れ込んできた。薪が一本、暖炉でちらちら燃えている。
「妹を呼んできます……」
アナセンは明りをつけなかったし、夜のとばりが落ちたことさえ気づかないようだった。一人きりになったメグレは、ゆっくりと客間のなかを歩き回り、グワッシュ画法で描いた図案が載せてある画架の前で足を止めた。それは、最新の織物の図案で、大胆な色彩と、奇妙なデッサンを用いたものだった。
しかし、この客間の雰囲気よりは奇妙ではない。メグレはこの客間のなかに昔の三人の寡婦の思い出を認めることができたのである。いくつかの家具は三人の寡婦が使っていたものにちがいない。塗りがはげ落ち、絹がすり切れた第一帝政時代の肘掛椅子がある。五十年来、引いたこともない横うね織りのカーテンがある。
それに反して、壁に沿って樅《もみ》材でつくった書棚があり、仮綴じのままのフランス語の本、英語の本が積み重ねてある。デンマーク語の本もあるにちがいない。白や黄色や、その他色とりどりの表紙が、古めかしいクッション椅子や、縁の欠けた花瓶や、すり切れて真中が緯《よこ》糸だけになっている敷物などと、いかにも対照的だった。
夕闇は濃くなってきた。遠くで牛が鳴いた。ときどき軽いエンジンのうなりが沈黙を貫いてきて、次第に高まってきたかと思うと、車が国道をすさまじい勢いで通り過ぎた。そして、エンジンの音はまた沈黙のなかに消えていく。
家のなかは、物音一つしない。コトリとも、ミシリともしない。人が生活していることを想像させるごく些細な物音も聞こえなかったのだ。
カール・アナセンが先に入ってきた。彼の白い手を見ると、いくらか神経質になっているのがわかる。彼は何も言わず、ドアのそばにしばらく立ったままでいた。
階段にかすかな音がした。
「妹のエルゼです……」やっとカール・アナセンが口を開いた。
彼女は前に進みでた。薄暗がりのなかでは、輪郭がはっきりしない。映画スターのように進みでてきた。というより、若者の理想の女のように、と言ったほうがいいかもしれない。
彼女のドレスは黒ビロードなのだろうか? とにかくドレスが周囲よりも黒ずんだ色であることは事実だ。くっきりと、あざやかに浮かびあがっている。空気中にまだかすかに残っている光はことごとく、彼女のふんわりとしたブロンドの髪と、つやのない顔に集中しているようだった。
「わたしとお話したいそうですが、警視さん……でも、まずお坐りください」
彼女のなまりはカールよりもはっきりしている。歌うような声で、言葉の最後のシラブルが低くなる。
兄のカールは、女王を守る役目をおおせつかっている奴隷のように、妹のそばに立っている。
彼女はさらに数歩進んだ。間近になってみて初めて、メグレは彼女がカールとおなじ背丈であることに気づいた。ほっそりとした腰が、彼女のからだの線をいっそう際立たせている。
「たばこを!」
彼女は兄のほうを向いて言った。カールはあわててたばこを差出したが、面喰らっていてぎごちなかった。彼女はテーブルの上のライターを取って火をつけた。一瞬、火の赤と、彼女の瞳の暗青色とが競い合った。
火が消えると、闇がいままでよりも濃く感じられた。警視は気まずくなって、スイッチをさがしたが、見つからなかったので、小声で言った。
「明りをつけていただけませんか」
メグレはあくまで冷静でいる必要があった。この場面は彼の好みからすれば、あまりにも芝居じみていた。芝居じみていたというより、エルゼが入ってきたときから部屋にただよいだした香水のように、あまりにもつかみどころがなさすぎた。
とくに、日常生活とはかけ離れすぎている! ただ、かけ離れすぎているとだけ言っておくのがいいだろう。
あの|なまり《ヽヽヽ》……カールのあの礼儀正しさと、黒い片眼鏡……豪華さと胸のむかつくような古物との混合……エルゼのドレスにしてから、街や劇場や社交界で見られるような代物ではない。
どうしてそんな感じをうけるのか? それはきっと、彼女の独特のドレスの着かたによるにちがいない。仕立てが簡単であるからだ。布地がからだの線をくっきりと出し、首までぴったり包んでいる。外に出ているのは顔と手だけだ。
アナセンはテーブルの上に身をかがめて、石油ランプの火屋《ほや》を取った。このランプも三寡婦時代からのもので、その磁器の高い脚には模造ブロンズの飾りがついている。
ランプの火屋を取ったので、客間の隅に直径二メートルぐらいの光の輪ができた。笠はオレンジ色だった。
「失礼しました……すべての椅子の上に物が置いてあるとは思いませんでしたので……」
アナセンは第一帝政時代の肘掛椅子の上に積みあげてあった本を片づけると、乱雑にじゅうたんの上に置いた。エルゼはまっすぐに突っ立ったまま、たばこを喫っている。まるでビロードの彫刻のような感じだ。
「エルゼさん、お兄さんは土曜日の夜から日曜日にかけて、何も変った物音を聞かなかったと断言されました……なんでもお見さんはぐっすりと眠れたとかで……」
「ええ、ぐっすりと……」彼女は煙を少しずつ吐き出しながら、メグレの言葉をそのまま繰り返した。
「あなたも何も聞きませんでしたか?」
「これといった変な物音は、何も!」
彼女はゆっくりとしゃべった。まず自分の国の言葉で考えてから、それを翻訳しなければならない外国人のように。
「ご存じのように、わたしたちの家は国道に面しています。夜でも交通が跡絶えるということがないのです。毎晩八時からトラックが、ひっきりなしにパリの中央市場へ向って走ってまして、うるさい音を立てます……そのほかに、土曜日はロワール河のほとりや、ソローニュ地方へ出かける観光客がいまして……わたしたちはエンジンやブレーキの音、人の大声などで目を覚ますことがありますわ……でも、この家は家賃が安かったので……」
「あなたはゴードバーグの話を聞いたことがありませんか?」
「ええ、一度も……」
外は、まだ夜のとばりが完全にはおりていない。芝生の緑は前とおなじように強烈で、草の細い茎が一つ一つ数えられるほどはっきりと見分けられるような気がした。
庭は手入れがされていないのに、オペラの舞台装置のように調和がとれていた。どの茂みも、どの樹も、どの枝でさえも、ちゃんとしかるべき場所にある。そして、農家の屋根が一つぽつんとある畑の地平線が、このイル・ド・フランス地方の景色にすばらしい色どりをそえていた。
ところが、それとは反対に、この客間のなかには、古びた家具の間に、メグレにはわからない外国の本の背文字がぎっしりと並んでいる。それに、兄妹《きょうだい》の二人の外国人が、とりわけ妹のほうが周囲に不調和な音を投げかけている。
あまりにも肉感的な、なまめかしい声なのか? しかし、彼女は挑発的な女ではなかった。その物腰、その態度はあっさりしていた……。
しかし、その率直さはこの舞台にはマッチしないものだった。三人の寡婦とその並外れた情念こそ、ここにはふさわしいものだとメグレは思った。
「家のなかを見せていただけませんか?」
カールにも、エルゼにもためらいの色はみられなかった。ランプを持ちあげたのはカールで、エルゼのほうは肘掛椅子に腰をおろした。
「ご案内いたします……」
「お二人はこの客間をよく使っているようですね?」
「そうです……私が仕事するのもここですし、妹が一日の大半を過すのもここです」
「召使いはいないのですか?」
「いまはご存じのとおりのかせぎです。召使いを雇うには少なすぎます……」
「だれが食事の支度をするんです?」
「私です……」
あっさりと言ってのけた。照れるでもなく、恥じらうでもなかった。
二人の男は廊下に出た。アナセンは一つのドアを開けた。台所だ。彼はランプを差出しながら、いやいや言った。
「どうも、取り散らかっておりまして……」
取り散らかっているなんていうものじゃない。大変きたなかった。防水布の切れっ端を被《かぶ》せたテーブルの上に、沸かしすぎてどろどろの牛乳が流れたアルコール焜炉《コンロ》、ソース、油がのっている。パンくずも散らばっている。テーブルにじかに置かれたフライパンのなかには肉の残りが、流しには汚れた皿。
ふたたび廊下にもどったとき、メグレは客間のほうにちらっと目をやった。まだ明りがついていなくて、エルゼのたばこの火だけが光っている。
「私どもは食堂を使っておりませんし、表のほうにある小さな客間も使っていませんが、ごらんになりますか?」
ランプがかなり美しいはめ木の床を照らした。家具が積み重ねられてあり、じゃがいもが床に転がっている。よろい戸は閉まっていた。
「私どもの寝室は階上《うえ》です……」
階段は広かったが、踏むたびにきしんだ。階段を昇るにつれて、香水の匂いが濃くなっていく。
「ここが私の寝室です……」
床の上にはスプリング台だけが置かれていて、それがソファ・ベッドがわりになっている。ごく簡単な化粧台。ルイ十五世時代の大きな洋服だんす。たばこの吸がらで一杯になった灰皿。
「たばこをたくさん喫うのですか?」
「朝はベッドのなかで……本を読みながらだと三十本ぐらいは喫います」
彼の寝室と向い合ったドアの前で、ひどく早口で言った。
「妹の寝室です」
しかし、彼はそのドアを開けようとはしなかった。彼の顔は曇った。が、メグレはノブを回して、ドアを開けた。
アナセンは相変らずランプを手にしていたが、メグレのほうに光を近づけようとはしない。むせかえるような香水の匂い。
家のなかには、どこにもスタイルとか、秩序とか、贅沢とかは見られなかった。昔からここにあったものを使って乱雑に暮しているといった感じ。
しかし、エルゼの寝室だけはちがう。メグレは薄暗がりのなかでも、暖かくて、ふんわりしたオアシスのような感じであることを見抜いた。床一面に、獣の皮が敷きつめられ、なかでもすばらしい方の皮がべッド・マットがわりに使われている。
ベッドは黒檀《こくたん》で、黒ビロードの覆いがかけてある。その黒ビロードの上に、しわくちゃな絹の下着が投げ捨てられている。
少しずつ、アナセンはランプを持ったまま廊下を遠ざかって行った。メグレはその後にしたがった。
「ほかにまだ、使っていない部屋が三部屋ありますが……」
「つまり、妹さんの寝室だけが道路に面しているわけですね……」
カールは返事をせず、狭い階段を指さした。
「召使い用の階段です……私どもは使っていません……車庫をごらんになるのでしたら……」
二人は石油ランプの揺れ動く光をたよりに、前後して階段を降りた。客間では、たばこの赤い光だけが相変らずぽつんとひかっている。
アナセンが前に進むにつれて、光が客間一杯に広がった。肘掛椅子に半ば横たわっているエルゼの姿が見えた。二人の男のほうに無関心な視線を向けている。
「警視さんにお茶も差しあげなかったのね、カール」
「いや、けっこうです……私はお茶を飲みませんので……」
「わたしは飲みたいわ、わたしは! 警視さんはウィスキーいかがですか? それとも……カール、お願い……」
カールはうろたえ、いらいらし、銀のティーポットをのせた小さな焜炉に火をつけた。
「何をめしあがります、警視さん?」
メグレにはカールの狼狽の原因がはっきりつかめなかった。客間の雰囲気はすっかり打ちとけていたし、ざっくばらんな感じだった。画架には、紫がかった花びらの大きな花が開いている。
「いずれにしても」と、メグレは言った。「まず、ミショネさんの車が盗まれ、その車のなかでゴードバーグが殺され、そのあとでお宅の車庫に入れられたんです。そして、お宅の車が保険屋さんの車庫へ運ばれたわけです……」
「信じられないことですわ……」
エルゼは新しいたばこに火をつけながら、甘い、歌うような声で話した。
「わたしたちの家で死体が発見されたものですから、兄はわたしたちが罪を負わせられると言うんです……それで逃げる気になったんですが、わたしはそうしたくはなかったのです……わたしにはわかっていただけるものとの確信が……だって、そうでしょう、わたしたちが本当に殺したとして、わたしたちにどんな利益があると……」
彼女は話をやめて、客間の隅でごそごそやっているカールを目で追った。
「ねえ、警視さんに何も差しあげないの?」
「すみません、警視さん……その……何もないのです……」
「いつもそうなのね! あなたって、だめな人ね……お許しくださいね、あのう……」
「メグレです」
「メグレさん……わたしたちはほとんどアルコールを飲みませんし、それに……」
庭に足音が聞こえた。メグレは部長刑事リュカのシルエットを認めた。メグレに会いにきたのだ。
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第三章 十字路の夜
「どうした、リュカ?」
メグレはフランス窓を開けてテラスに出た。背後には、客間の濁った空気があり、目の前には、庭のすがすがしい闇のなかにうかぶリュカの顔があった。
「何でもありません、警視《パトロン》……あなたに会いにきたまでで……」
リュカはちょっとうろたえ、警視の肩越しに、家のなかをのぞこうとした。
「部屋は取れたか?」
「はい……それから、警視宛に電報がきていました……ゴードバーグ夫人が今夜自動車でくるという電文でした」
メグレは振り返った。アナセンは面を伏せて待ち、エルゼはいらだたしげに足を動かしながら、たばこを喫っている。
「明日、また話を訊きにくることになると思います」と、メグレは二人にそう言った。「さようなら、エルゼさん……」
エルゼはしとやかにおじぎをしたが、どことなくつんとしたところがあった。カールは二人の警察官を鉄格子の門まで送ってきた。
「車庫は見ないのですか?」
「明日にします」
「あの、警視さん……私の態度はあなたにはいかがわしく思えるのでしょうが、何かお役に立てることがあれば、私をお使いください……ご存じのとおり、私は外国人ですし、それに強い容疑がかけられています……ですからなおさら、犯人を発見するためにはできるだけのことはやりたいのです……不手際なところはお許しねがって……」
メグレは相手の目をじっと見つめた。悲しげな瞳がゆっくりとそらされた。カール・アナセンは門を閉めると、家にもどった。
「どうしたんだ、リュカ?」
「どうも安心できないのです……アブランヴィルからはしばらく前にもどっていたんですが……なぜだかわからないのですが、急にこの十字路がいやな感じがしまして……」
二人とも道路の端の暗闇のなかを歩いていた。車はほとんど通らない。
「私は頭のなかで事件を組み立ててみようとしたんですが」と、リュカは話しつづけた。「考えれば考えるほど、こんがらがってしまうのです」
二人はミショネ家の前まできた。そこは三角形の一点になっていた。他の二点はもちろん、自動車修理屋と三寡婦の家である。
自動車修理屋とミショネ家との間は四十メートル。
ミショネ家とアナセン家との間は百メートルのこの三軒を、国道がきちんと、ていねいなリボンのように結んでいる。そして、道を河とすれば、高い木立はその堤防のようになっていた。
三寡婦の家には明り一つ見えない。保険代理人の家では、二つの窓が明るかった。だが、黒ずんだカーテンからは一筋の光線しか外へ漏れていなかった。不自然な光線だ。外をながめるため、顔のところのカーテンをめくっているにちがいない。
自動車修理屋のほうは、給油ポンプの乳白色のメーター盤が見え、長方形の、どぎつい光が流れ出ている仕事場からは、金槌《かなづち》の音が響いてくる。
二人は立ち止った。メグレのいちばん古い部下の一人であるリュカが、こう説明した。
「何よりもまず、ゴードバーグがここまで来たにちがいありません。エタンプの死体置場で、ゴードバーグの死体を見ましたか? まだですか? 四十五歳の男で、一目でユダヤ人だとわかります……小柄で、がっしりしたタイプです。顎《あご》が張り、頑固そうな額をしていて、髪は羊のように縮れています……豪奢なスーツを着ていて……頭文字を縫い込んだ下着類も上等なものでした……ぜいたくな生活に慣れた人物で、けちけちしないで、金を遣ったり、物を注文していたのでしょうね……エナメル靴には泥一つ、ほこり一つついていません……したがって、たとえアルパジョンまでは列車できたにしても、町からここまでの三キロの道は歩いてきたのではありません……。
私の考えでは、ゴードバーグはパリからか、あるいはアントワープから車できたものと思われますね……。
医師の話では、殺されたときには夕食は完全に消化されていたし、あっという間に殺害されたと言ってます。それなのに、胃のなかにはかなり多量のシャンパンと、網焼きアーモンドが見つかっています。
アルパジョンでは、土曜の夜から日曜にかけてどこのホテルもシャンパンは売っていませんし、町じゅうで網焼きアーモンドなんか売っているところは見つかりませんよ……」
トラックががたがたすさまじい音を立てて、時速五十キロで通った。
「ミショネ家の車庫をごらんなさい、警視《パトロン》。あの保険代理人は、一年前にはじめて車を持ったんです。最初の車はぼろ車だったので、道路に面したあの板張りの納屋に入れて、南京錠で戸締りしておけばよかったわけです。それ以来、別の車庫をつくる暇がなかった。そのため、例の六気筒の新車も、あの車庫に入れておいたわけで、それを出してきて、三寡婦の家まで運び、あの鉄格子の門と、車庫を開けてアナセンのおんぼろ車を引っぱりだし、そのかわりにミショネの新車を入れておき、さらにはゴードバーグを至近距離から殺して、ハンドルにうつ伏せにさせておいた……それなのに、だれ一人目撃していないし、何の物音も聞いていないのです! しかも、|だれ一人アリバイがない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! 警視はどう感じたかわかりませんが、私はさきほど、日暮れにアブランヴィルからもどってきたとき、異常なものを感じたのです……この事件はうまく解決できないように思われたのです。どうもアブノーマルな性格を持った事件で、見かけによらず危険なのでは……。
私は三寡婦の家の門まで行ってみました。家のなかにはあなたがおられることはわかっていました……表は真暗でしたが、庭のなかに黄色っぽい光がぼおっと見えました。
それがばかげたことであることはよくわかっています! でも、私はこわかったんです! あなたの身を気づかって……いや、もうちょっとここにいましょう……カーテンのうしろに身を隠しているのはミショネ夫人です……。これは私の思いちがいかもしれませんが、ここを車で通る運転手の半数は、われわれを特別な目で見ているような気がするんですよ……」
メグレは三角形の三点をぐるりと見わたした。畑は暗闇に包まれていて、もう見えない。国道の右手、自動車修理屋の正面にはアブランヴィルヘの道が走っている。国道のように樹は植えてなかったが、片側には電柱が一列に並んでいる。
八百メートルほど先に、明りがいくつか見える……村の入口の家々だ。
「シャンパンと網焼きアーモンドか!」と、メグレはつぶやいた。
メグレはゆっくりと歩き出すと、自動車修理屋の前で散歩でもしているかのように立ち止った。アーク燈の強烈な光のなかで、作業着姿の修理工が車輪を取り替えている。
修理屋というより、むしろ修理工場といったほうがいい。十台ほどの車がある。古い、流行遅れの車ばかりだ。なかの一台は、車輪も、エンジンもなくて、車体だけが滑車の鎖でつりさげられていた。
「夕食に行こう! 何時にゴードバーグ夫人は着くのかね?」
「私にわかりません。ただ夜というだけなので……」
アブランヴィルの宿屋は人気《ひとけ》がなかった。バーのカウンターがあり、酒壜が何本か並んでいる。大きなストーブ、小型の玉突き台はクッションが石のように硬く、ラシャは穴があいている。犬と猫が仲よく並んで寝ている。
宿屋の主人が食事を出した。女房のほうは調理場で仔牛の肉を焼いている。
「十字路の自動車修理屋は何という名だね?」と、メグレはオードブルのかわりにいわしを食べながら訊いた。
「オスカールさんです……」
「この土地には長くいるのかね?」
「八年ぐらいですかな……いや、十年でしたかな……わしは二輪馬車を使っているもんで……それで……」
宿屋の主人は気乗りせずに給仕をつづけている。彼はおしゃべりではなかった。何か疑っているような陰気な目つきをしている。
「ミショネさんは?」
「保険屋さんです……」
ただそれだけ。
「白になさいますか、赤ですか?」
主人は壜のなかに落ちてしまったコルクの栓を取り出そうとしていつまでもぐずぐずやっていたが、やっとぶどう酒を注いだ。
「三寡婦の家の人間は?」
「見たこともないですねえ……とにかく、ご婦人がいらっしゃるようですが……なにしろ、国道に出ると、もうアブランヴィルじゃないもんですから……」
「肉はうまく焼けてますか?」と、調理場から女房が叫んだ。
メグレとリュカはしまいには黙り込んでしまい、それぞれの考えにふけった。九時に、合成のカルヴァドスを飲んだあとで、メグレたちは外に出て、最初はぶらぶらしていたが、やがて十字路のほうに向った。
「夫人は着いていませんね」
「ゴードバーグがここに何をしにやってきたのか知りたい……シャンパンに網焼きアーモンドか! 彼のポケットにはダイヤモンドがあったのか?」
「いいえ……財布のなかに二千フランとちょっとの金があっただけです……」
自動車修理屋には相変らず明りがついている。メグレは、オスカールの住居が道路沿いにあるのではなく、仕事場の裏手になっていることに気がついた。そのため、こちらからは住居の窓が見えない。
作業着姿の修理工が、車のステップに坐って食事している。突然、メグレたちのすぐそばの暗闇から、修理員が姿をあらわした。
「今晩は、みなさん!」
「今晩は!」と、メグレはつぶやいた。
「いい晩ですね! この分ですと、復活祭の天気もいいでしょうね」
「ねえ、きみ!」と、警視はぶしつけに訊いた。「きみの店は一晩じゅう開いているのかい?」
「一晩じゅうなんか開いていませんよ……でも、いつも当直の者が一人、折畳み式ベッドで寝てましてね。ドアは閉めてありますが、何か用のあるときはベルを鳴らしていただければ……」
「ここは夜中に車がたくさん通るのかね?」
「たくさんじゃありませんね! でも、通ることは通りますよ……パリの中央市場へ向うトラックが……ここら辺は|はしり《ヽヽヽ》の野菜の産地でして、とくにクレソンがいいね……ガソリンがなくなったり、ちょっとした故障があるもんなんですよ……何か飲みにきませんか?」
「ありがとう」
「遠慮なさることはないんですが、でも無理にとは言いません……ところで、あの車の話はまだ解決しないんですか……ほら、ミショネさん、きっと病気になっていますよ! 六気筒の車を一日も早く返してやらないと……」
ヘッドライが遠くで光り、だんだん大きくなった。エンジンの音。影が通りすぎる。
「エタンプの医師《せんせい》だ」と、自動車修理屋がつぶやいた。「アルパジョンに診察に行ったんでしょ……友達からきっと夕食に引きとめられたにちがいない……」
「ここを通る車を全部知っているのかね?」
「たくさん知ってますよ……ほら、ヘッドライトが四つ見えるでしょ! あれはパリの中央市場へ行くクレソンを積んだトラックですよ。ふだんはスモール・ランプのほうは消しておけばいいのに、それができないんです! 道はば一杯にライトを照らしてね! 今晩は、ジュール!」
通りすぎるトラックの上から返事が聞こえたかと思うと、赤い小さなテール・ライトしかもう見えず、それもやがて夜のなかに吸い込まれていった。
どこかで列車が走っている。夜の闇のなかで伸びをしている光る芋虫のようだ。
「九時三十二分の急行ですよ……本当に、旦那がたは何も飲まないんですね……おい、ジョジョ! 食事がすんだら、故障している三番目の給油ポンプを調べてみてくれ……」
またヘッドライト。しかし、車は走りすぎた。ゴードバーグ夫人ではなかった。
メグレは絶え間なくパイプを吹かしている。やがて、オスカールを店の前に残したまま、メグレは行ったり来たりしはじめた。そのあとについて歩きながら、リュカが小声でぶつぶつ言っている。
三寡婦の家には明りはない。メグレとリュカはその鉄格子の門の前を十度も通った。十度とも、メグレはエルゼの寝室の窓のほうへ何気なく目をあげた。
ついで、ミショネ家の前へくる。ありきたりの、ただ新しいだけの家で、ニスを塗った柏《かしわ》材の門と、あきれるほど小さい庭がついている。
それから、自動車修理屋。修理工が給油ポンプを直している。そのかたわらで、両手をポケットへ突っ込んだオスカールが、しきりに口を出している。
エタンプからパリに向うトラックが停った。ガソリンを満タンにするためだ。山積みの野菜の上で男が一人、横になって眠り込んでいる。毎晩おなじ道を、おなじ時間に走る付添い警備員である。
「三十リットルです!」
「どうだい、調子は?」
「元気ですよ!」
クラッチの音。トラックは時速六十キロでアルパジョンヘ下って行った。
「夫人はもう来ませんね!」と、リュカが溜息をついた。「きっとパリで一泊することに決めたんでしょう……」
それからも三度、十字路のまわりを歩き回ったが、メグレはいきなりアブランヴィルの方向に足をむけた。宿屋の前に着いたときには、ただ一つだけ残して、明りはみんな消えていた。食堂にはだれの姿もみえない。
「車の音が聞こえたみたいだが……」
二人は振り返った。そのとおりだった。二つのへッドライトが村のほうに向けて暗闇を貫いている。車は修理屋の前でゆっくりと方向を変えた。だれかが話している。
「道を訊いているんだ……」
車は電柱をつぎつぎに照らしながら、やっと近づいてきた。メグレとリュカは二人とも宿屋の前に立っていたので、そのへッドライトの光に捉えられた。
ブレーキの音。運転手が降りてきて、ドアのところに行って開けた。
「ここですの?」と、車のなかから女の声がした。
「たしかに、ここです……アブランヴィルです……戸口の上に樅《もみ》の枝がさし出ていますし……」
絹のストッキングをはいた片脚が出た。その足が地面についた。毛皮のコートが見えた。メグレはその女のほうに進み出ようとした。
その瞬間、銃声がとどろいた! 悲鳴! 女はもんどりうって、ばったりと倒れた。ついでからだを折りまげ、うずくまるような恰好になった。片脚が痙攣《けいれん》しながら伸びた。
警視とリュカは顔を見合わせた。
「彼女をみてやれ!」と、メグレが叫んだ。しかし、それまでにはすでに数秒間むだにしていた。運転手もぽかんとして、その場に立ちつくしていた。宿屋の二階の窓が開いた。
弾丸は道の右側の畑のなかから発射されたものだ。そっちへ走りながら、警視はポケットから拳銃を引き出した。物音が聞こえた。泥を踏みつける柔らかい足音だ。だが、何一つ見えない。車のヘッドライトが闇の一部を強烈に照らしているため、他の部分がいっそう暗く見えるからである。メグレは振り返って叫んだ。
「ヘッドライトを!」
最初はききめがなかった。彼は繰り返し叫んだ。すると、とんでもない勘違いをされてしまった。運転手か、あるいはリュカがヘッドライトを警視のほうに向けたのだ。
そのため、何も植わっていない畑の上に警視の姿がくっきりとうかびあがった。あとは暗闇が果てしなくひろがっているだけだ。犯人はもっと遠くか、それとも、もっと左か右かにいるはずだ。とにかく、ライトの光の輪の外だった。
「ヘッドライトを、ヘッドライトを……」
メグレは最後にもう一度叫んだ。
激怒で拳をにぎりしめた。追われる兎のように、ジグザグに走った。ライトのおかげで、距離感さえ狂ってしまった。こうして突然、百メートル足らずのところに、メグレは自動車修理屋の給油ポンプを見たのである。
そして、すぐ間近に人影があらわれ、しゃがれた声がした。
「どうしたんです?」
メグレはハッと立ち止った。怒りと屈辱感の入りまじった気持で、オスカールを足の先から頭のてっぺんまでながめ回し、スリッパに泥がついていないことをたしかめた。
「だれも見なかったか?」
「アブランヴィルヘの道を訊いた車が一台あったきりで……」
警視は国道の上に、アルパジョンの方に走る赤い灯に気がついた。
「あれは何だね?」
「パリの中央市場へ行くトラックですよ」
「ここで停ったのか?」
「二十リットルのガソリンを給油する間だけ……」
宿屋のほうでさわがしい声がする。ヘッドライトが人気《ひとけ》のない畑を照らしつづけている。メグレはふとミショネ夫婦の家を見つけると、道路をわたり、ベルを鳴らした。
小さなのぞき穴が開いた。
「どなたです?」
「メグレ警視です……ミショネさんにお話したいことがある……」
鎖がはずされ、二本の閂《かんぬき》が引き抜かれた。鍵が回った。ミショネ夫人があらわれた。不安そうに、色を失ってさえいたが、それでも思わず、道の両側をこっそり盗み見たりしていた。
「あの人を見ませんでしたか?」
「ここにいないんですか?」と、メグレは不満げにつぶやいたが、かすかな希望がわいた。
「あの、つまり……よくわからないんですが、わたし……いま、銃声がしたでしょう? とにかくお入りください!」
四十歳ぐらいの、顔立ちのはっきりした、きつい感じの女だった。「あの人はいま出かけていますが……」
左手のドアは開いていた。食堂だった。テーブルは片づけられていない。
「どのくらい前に出かけました?」
「よくわかりませんけど、三十分ぐらい前だったかしら……」
台所で何かが動いた。
「女中がいるのですか?」
「いいえ……猫じゃないかしら……」
警視は台所のドアを開けた。ミショネが庭の木戸から帰ってきたところだった。靴は泥だらけだ。彼は額をぬぐっている。
一瞬|唖然《あぜん》となり、二人は無言のまま顔を見つめ合っていた。
「銃を見せるんだ……」と、メグレは言った。
「私の?」
「あなたの銃だ、早く!」
保険代理人は小型の回転式拳銃《リヴォルヴァー》をズボンのポケットから取り出して、メグレにわたした。しかし、弾丸は六発ともはいっている。銃身は冷たかった。
「どこから来た?」
「あっちから……」
「あっちとはどっちだ?」
「こわがることないわ、エミール! 何も痛い目にあわせようというわけじゃないんですから!」とミショネ夫人が口をはさんだ。「ほんとに、ひどすぎますわ! わたしの義兄はカルカソンヌで治安裁判所の判事をしていますのよ……」
「ちょっとお待ちください、奥さん。私はご主人と話しているのです……あなたはアブランヴィルから来たんだね……あそこへ何をしに行ったんだ?」
「アブランヴィルに? 私が?」
彼はふるえていた。平然としていようとしたが、だめだった。だが、彼の驚愕《きょうがく》ぶりはうそとは思えない。
「誓って言いますが、私はあっちから来たんです、三寡婦の家から……私は自分自身であの兄妹《きょうだい》を見張っていたかったのでして、というのは……」
「畑に行かなかった? 何か音を聞かなかった?」
「あれは銃声だったんですか? だれか殺されたんですか?」
彼の口ひげは垂れさがっていた。子供が危険なときに母親をながめるように、彼は自分の妻をながめた。
「誓って言いますが、警視さん、誓って言いますが……」
足を踏み鳴らした。二粒の涙が目から溢れでた。
「あんまりだ!」と、彼は怒りを爆発させた。「私の車を盗むなんて! 私の車のなかに死体を入れておくなんて! おまけに、あの車を買うために十五年働いてきたこの私に、車をもどしてくれない! それなのに、さらに私に疑いまでかけて……」
「黙るのよ、エミール! わたしが警視さんにお話するわ、わたしが!」
しかし、メグレはその暇をあたえなかった。
「この家には武器はこれだけかね?」
「そのリヴォルヴァーだけです。この家を建てたときに買ったんです……それに、弾丸だってそのとき銃砲店の人が入れてくれたままですよ……」
「あなたは三寡婦の家からもどってきたと言うんだね?」
「また私の車が盗まれるようなことがあってはと心配したんです……私は私なりに調査してみたかったんです……私は庭のなかに忍び込みました。もっとはっきり言えば、塀をよじ登って……」
「二人を見たかね?」
「だれを? 二人って? アナセン兄妹《きょうだい》ですか? もちろん見ましたよ! 二人とも客間にいました……一時間以上も言い合いしてましたよ……」
「銃声を聞いたので、あなたは戻ってきたのかね?」
「ええ……でも、銃声かどうかは、はっきりしませんでしたが……ただ、何となく不安になって……」
「だれも見かけなかった?」
「ええ、だれも……」
メグレが玄関のほうへ歩いて行った。ドアを開けると、オスカールがちょうど玄関へやってきたところだった。
「警視さん、あなたのお連れから頼まれてきたんですが、あの女は死にましたよ……あっしのところの修理工が、アルパジョンの憲兵隊に知らせに行ってます……医者を連れてもどってくるはずです……それじゃ、これで……店をからっぽにしておくわけにはいかないもんで……」
アブランヴィルでは相変わらず、あの車のほの白いヘッドライトが壁の一部分を照らしている。車のまわりでは人影がうごめいている。
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第四章 閉じ込められた女
メグレはうなだれて、畑のなかをゆっくりと歩いていた。畑にはライト・グリーンの麦の芽がではじめていた。
朝。太陽が輝き、姿の見えない鳥たちの歌声が響きわたっている。アブランヴィルの宿屋の前ではリュカがゴードバーグ夫人を乗せてきた車を見張りながら、検事局がくるのを待っていた。この車はパリのオペラ座で、彼女が雇ったものだ。
アントワープのダイヤモンド商の夫人は宿屋の二階で、鉄のベッドの上に横たわっている。死体にはシーツがかけられていたが、昨夜医者が半ばめくったままだっだ。
美しい四月の一日がはじまっていた。ヘッドライトの光で目をくらまされ、犯人を追いかけるのに失敗したメグレが、そのおなじ畑の上を、昨夜の犯人の靴跡を追って、いま一歩一歩進んでいる。
二人の百姓が丘から抜いてきた甜菜《てんさい》を荷馬車に積んでいた。馬はおとなしく待っている。
国道の両側に並んだ木立が見晴しをさえぎっている。自動車修理屋の赤い給油ポンプが太陽にきらめいている。
メグレはパイプを喫いながら、ふてくされたように……たぶん憂うつなのだろう……、ゆっくりと歩いている。畑のなかに残された靴跡は、ゴードバーグ夫人がカービン銃で殺されたことをしめしているように思われる。犯人は宿屋に三十メートルとは近づいていないからだ。
びょう釘のない、中型のほとんど特徴のない靴跡である。その靴跡は弧を描いて、『三寡婦の十字路』までつづいている。『三寡婦の十字路』からはアナセン家も、ミショネ家も、自動車修理屋の店もほぼ等距離にある。
しかし、一口に言って、そんなことは何の証明にもならない! 何の新しい糸口にもならない。メグレは道路にもどると、パイプの吸口を強く噛みしめた。
店の入口にオスカールが立っていた。だぶだぶのズボンのポケットに両手を突っ込み、卑しい顔にうれしそうな表情をうかべている。
「もう起きたのですかい、警視さん?」と、彼は道をへだてて叫んだ。
ちょうどそのとき、メグレと修理屋の間に車が停った。アナセンの五|CV《シュヴォー》の小型車だ。
デンマーク人は手袋をはめてハンドルをにぎり、頭にはソフト帽をかぶり、たばこをくわえている。彼は帽子をとった。
「ちょっと言いたいことがあるのですが、警視さん……」
ガラス窓を下げて、例の礼儀正しい調子でつづけた。
「ともかくパリに行くことを許していただきたいのですが……ここに来ればあなたにお目にかかれると思ったのです……パリに行かなければならないわけは……今日は四月の十五日です……今日がデューマ父子商会から仕事のお金を受けとる日なのです……それにまた、今日は私どもの家賃の支払い日でもあるわけでして……」
彼は曖昧な微笑をうかべて言い訳をした。
「あなたにはつまらぬ用事のように思えるでしょうが、私には大事な用事なのです……私にはお金が必要なのです……」
彼は例の黒い片眼鏡《モノクル》をはずしたかと思うと、もう一度|眼窩《がんか》のなかにしっかりはめ直した。メグレは顔をそむけた。ガラスの目でじっと見つめられるのを好まなかったからだ。
「妹さんは?」
「じつはそのことなんですが……いまお話しようとしていたところなのです……ときどき、私の家を見張っていただけないものでしょうか?」
黒っぽい色の車が三台、アルパジョンのほうからやってきて、十字路を左に曲り、アブランヴィルの方に行った。
「何でしょう、あれは?」
「検事局ですよ……ゴードバーグ夫人が昨夜殺されたのでね、宿屋の前で、車から降りようとした瞬間に……」
メグレは相手の反応をうかがった。道路の向う側では、オスカールが店の前をぶらぶらしている。
「殺された!」と、カールは繰り返した。
すると、急に神経質になり、
「いいですか、警視さん! 私はパリに行かなければならないのです……私は無一文ではいられません、とくに商人が請求書を持ってくる日には。しかし、パリからもどりましたら、さっそく犯人の捜査に力を貸しますから。お許しいただけるでしょうね? はっきりしたことはわかりませんが、私には予感がするのです……! どう言ったらいいでしょうか?……何かが複雑に入り組んでいるような気がして……」
カール・アナセンは車をもっと歩道よりに近づけなければならなかった。パリ帰りのトラックが道をあけろと要求して、クラクンョンを鳴らしたためだ。
「行きたまえ!」と、メグレは言った。
カールはおじぎをし、クラッチを入れる前にたばこに火をつけた。彼のおんぼろ車は坂をゆっくりと降りていき、こんどは上り坂をゆっくりと登って行った。
アブランヴィルの入口に三台の車が停っている。人影が動き回っている。
「何かお飲みになりますか、警視さん?」
メグレは眉をひそめて、しきりに飲物をすすめる自動車修理屋をながめた。自動車修理屋はにこやかに笑っている。
パイプにたばこを詰めながら、メグレは三寡婦の家へ向った。大きな樹々には烏がいっぱいで、にぎやかに囀《さえず》っている。当然メグレはミショネ家の前を通らなければならない。
窓が開いている。二階の寝室に|縁なし帽《ボンネット》をかぶったミショネ夫人がカーペットをたたいているのが見える。
一階では、保険代理人がカラーもせず、ひげも剃らず、髪もぼさぼさで道路をながめている。悲痛であると同時に、いかにもそらぞらしい姿だった。吸口が桜の木でできた、海泡石のパイプを喫っていたが、警視の姿に気がつくと、いかにもパイプを空《から》にするのに夢中になっているふりをして、あいさつするのを避けた。
やがてメグレは、アナセン家の門の呼鈴を押した。十分ほど待たされた。よろい戸はすべて閉まっている。物音一つしない。ただ、相変わらず樹の上で騒々しく囀っている鳥たちの声だけが聞こえる。
ついにメグレは肩をすくめると、門の錠前を調べ、合鍵を選んで開けた。前日とおなじように、家に沿って裏手に回り、客間のフランス窓のところへ行った。
フランス窓をノックしたが、やはり返事はなかった。そこで、ぶつぶつ言いながら、あきらめずに客間に入り、蓋《ふた》が開いている蓄音機にちらっと目をやった。レコードが一枚のっている。
なぜ、メグレはそのレコードをかけたのだろうか? 彼自身にもその説明はできないだろう。レコード針がきしんだ。アルゼンチンのオーケストラがタンゴを演秦しはじめた。しかし、メグレのほうは階段を昇っていた。
二階のアナセンの寝室はドアが開いている。洋服箪笥のそばに、一足の靴がある。磨いたばかりらしく、ブラシと靴クリームがまだかたわらに置き放しになっている。しかし、床には泥が散らばっている。
警視は紙に、畑で発見された靴型を写し取っていた。それとアナセンの靴とくらべてみた。ぴったり合った。
しかし、メグレは顔の表情一つ変えなかった。よろこぶような素振りもみせない。相変らずパイプを吹かし、目覚めたときのような不機嫌な顔をしていた。
不意に、女の声がした。
「あなた?」
メグレは答えるのをためらった。その声の女の姿が見えなかったからだ。声は、ドアが閉まっているエルゼの寝室から聞こえてきた。
「私だよ……」メグレはやっと、できるだけ曖昧な声を出して答えた。かなり長い沈黙がつづき、それから突然、
「そこにいるの、どなた?」
もうだまし切れない。
「昨日、一度お邪魔した警視ですが……お話したいことがあるのです、あなたに……」
ふたたび沈黙。メグレは一筋の、弱々しい陽ざしが当っているこのドアの向うで、彼女が何をしているのかを見抜こうとしてみた。
「どうぞお話しください」と、彼女はついに言った。
「ドアを開けていただけるとありがたいのですが……まだ着替えられてないのでしたら、お待ちしましょう……」
相変らず、いらいらさせられる沈黙。それから忍び笑い。
「警視さんは無理なことをおっしゃる」
「なぜ?」
「わたし、閉じ込められているんですもの……ですから、ドア越しにお話するよりしかたがありません……」
「あなたを閉じ込めたのは、だれです?」
「兄のカールです……兄が出かけるとき、わたしから頼んでそうしてもらうんですの。それほどわたし、浮浪者たちがこわいんです……」
メグレは何も言わず、ポケットから合鍵を出すと、そっと鍵穴に差し込んだ。胸がちょっとばかり締めつけられた。気がかりな考えがいろいろ、頭のなかをかすめたからだろう。
鍵が回ったが、メグレはすぐにはドアを開けようとはしないで、こう声をかけた。
「いいですか、入りますよ……」
奇妙な感じだった。メグレはくすんだ壁の、陽の当らない廊下にいた。それが突然、光のなかに入ったのである。
よろい戸は閉っていた。だが、よろい戸の隙間から、陽が大きな束になって射し込んでいる。
したがって、部屋全体は光と影のパズルだった。壁も、家具も、エルゼの顔までもが光の断片に切られているようだった。
そのうえエルゼの、鼻につんとくる香水の匂いや、薄ぼんやりとしか見えない、こまごましたものがつけ加わる……安楽椅子の上に投げ捨てられている絹の下着、ニス塗りの小卓の磁器カップのなかで燻っている東洋のたばこ。そして、エルゼは暗赤色の化粧着をきて、黒ビロードのソファの上に身を横たえている。
彼女は目を大きく見開いて、メグレが入ってくるのを見ている。そのびっくりしたような瞳の奥には興味のほかにほんのちょっぴり恐怖がまじっていた。
「どんな用事です?」
「あなたとお話がしたかったのです……お邪魔でしたらお許しください」
彼女は笑った。いたずらっ児のような笑い方である。化粧着から出ている片肌を、彼女は隠した。しかし、からだは横たえたままである。というよりも、部屋全体のように陽ざしで縞になっているソファの上にうずくまっている。
「ごらんのように、わたしってほとんど何もしない女なんです……いや、まったく何もしないんですの!」
「なぜ、お兄さんと一緒にパリに行かなかったんです?」
「兄がいやがるからです。仕事の話をするときは、女がいると邪魔だと言って……」
「あなたはこの家から一度も出たことがないのですか?」
「いいえ! 庭を散歩しに出たりしますわ……」
「それだけ……」
「庭は三ヘクタールあります……脚のしびれを直すには、それだけあれば十分じゃないかしら? でも、お坐りください、警視さん……ここでひそかにあなたにお目にかかれるなんてうれしいことですわ」
「それはどういうことです!」
「兄が帰ってきたら妙な顔をするでしょう……兄は母よりこわい人です……嫉妬深い恋人よりもこわいんです! 兄はわたしを監視しています。おわかりでしょうけど、その役をまじめに果たしています……」
「強盗をこわがって、あなたが閉じ込めてもらっているのかと、私は思っていましたが……」
「それもありますわ……孤独にすっかり慣れてしまったので、人に会うのがこわくなってしまったのです……」
メグレは安楽椅子に坐って、山高帽をじかにじゅうたんの上に置いた。エルゼから見つめられるたびに、彼は顔をそむけた。彼女のような視線に慣れることができなかったからだ。
昨日の彼女は、メグレにとって神秘的な女にすぎなかった。儀式じみた薄暗がりのなかで見た彼女は、映画のヒロインに似ていて、会見は芝居がかったものだった。
メグレは今日、彼女の人間的な面を見つけだそうと努めていた。しかし、別のことが彼を気詰りにさせていた。二人きりで親しげに顔をつき合わせていることである。
香水のただよう部屋のなかで、女は化粧着で身を横たえ、素足につっかけたスリッパをぶらぶらさせている。一方、中年のメグレは顔を少々赤らめて、山高帽を床の上にじかに置いている。
これは、『パリ生活』のグラビヤそのままではないか?
メグレはぎごちなく、すっかり喫い終ってもいないパイプをポケットに入れた。
「つまり、あなたはここで退屈していられるのですね?」
「いいえ……ええ……さあ、どうなのかしら……|巻きたばこ《シガレット》をお喫いになります?」
トルコたばこの箱を指さした。二〇フラン六五サンチームと値段が帯に印してある。メグレはこの兄妹が一カ月二千フランで暮していることを思い出した。さきほど一時間前に、カールは家賃と商人に支払いをするためお金を受け取りに行かなければならなかったのではないか。
「たばこはたくさん喫いますか?」
「一日に一箱か、二箱……」
彼女は精巧な彫金のしてあるライターをメグレに差出し、胸をふくらませて溜息をついた。そのため化粧着の胸もとが大きく開いた。しかし、警視はあわてて彼女を判断しなかった。一流ホテルに出入りする社交界のぜいたくな身なりをした外国の女を、小市民が娼婦と間違えたことを、メグレは知っていたからだ。
「お兄さんは、昨夜、外出しましたか?」
「さあ、どうかしら? わたしは知りませんわ……」
「昨夜はお兄さんと喧嘩されたんじゃないですか?」
彼女は美しい歯を見せてほほえんだ。
「どなたが、そんなことを言ったのです? 兄ですか? わたしたちはときどき言い合いをしますが、激しいものではありませんわ……ほら、昨日兄はあなたをちゃんともてなさなかったでしょう、そのことをわたしが非難しましたの。兄はとても交際ぎらいな人ですわ……若い頃からもうあんなですのよ……」
「あなたはデンマークで暮しておられたのですか?」
「そうです、バルチック海岸の大きな城館《シャトー》で……灰色がかった緑にかこまれた、真白な、とても悲しげなお城でしたわ……わたしの国をご存じかしら? とても陰うつなところですわ……でも、美しいわ……」
彼女の瞳は郷愁に満ち、からだは官能的におののいた。
「わたしたちはお金持でした……でも、大部分のプロテスタント教徒がそうであるように、両親はとても厳しかったのです……わたしは宗教には関心がありません……しかし、カールはいまでも信者です……父ほどではありませんが……父はいつまでも良心的にかかわっていたので全財産を失ってしまったのです……それで、カールとわたしは国を出たのですが……」
「三年前に?」
「そうです……よろしいですか、兄は宮廷のお偉方になれる人だったのですのよ……それなのに、あんなつまらない織物の図案を描いて、生活の糧《かて》を得なければならなくなってしまったのです……パリでは、二流ホテルや三流ホテルにさえ泊らなければなりませんでした。兄はそれをとても悲しんでいました……皇太子とおなじ家庭教師がついたくらいの兄ですものね……それで、ここに引っ込んで暮すことにしたんです……」
「あなたも一緒に引っ込んで暮すことにしたわけですね」
「ええ……わたし、慣れておりますもの……両親のお城でも、わたしは囚人同様でした。わたしの友達になれそうな娘はみんな遠ざけられました、生れが卑しいという口実で……」
彼女の顔の表情は奇妙にも唐突に変った。
「あなたはカールが本当に……」と、彼女はたずねた。「どう言ったらいいのかしら? ……アブノーマルな人間になったとお思いですか?」
そう言うと彼女は、警視の意見を一刻も早く聞きたいというかのように、身を乗り出してきた。
「あなたは恐れているのですか? お兄さんが……」
メグレはびっくりして訊いた。
「そんなこと言っておりません! わたしは何も言ってません! ごめんなさい……ついしゃべりすぎてしまいましたわ……なぜ、これほどあなたを信頼するのか、わたしにはわかりません……いずれにしましても……」
「お兄さんはときどき妙なのですか?」
彼女はうんざりしたように肩をすくめ、脚を組んだかと思うと解いて、立ち上った。その瞬間、化粧着の裾から、ちらりと肌が見えた。
「わたしにどう言ってほしいのです? わたしは何も存じません……あの車の話にしてからが……どうして兄が見も知らぬ人を殺したりするんですか?」
「あなたは間違いなくイザック・ゴードバーグには会ったことがありませんね?」
「ええ……そう思います」
「あなたたち兄妹《きょうだい》は二人ともアントワープへ行ったこともないんですね?」
「三年前に、コペンハーゲンからくる途中で、一泊したことがありました……しかし、ちがいます! 兄はそんなことができる人ではありません……兄が少しばかり妙になったとしても、その原因は、破産したことよりも、あの事故のせいだとわたしは信じています……兄はハンサムでした……片眼鏡をかけたいまでも、まだハンサムですけど……でも、前とはちがいますわ……あの黒い眼鏡をはめないで、女とキスしているときの兄が想像できまして? 赤い肉のなかにあのガラスの目がじっと動かないのです……」
彼女は身ぶるいした。
「それが、兄が人目を避けて暮している主な原因にちがいないわ」
「しかし、そのためにお兄さんはあなたまで道連れにしていますよ!」
「そんなこと、どうでもいいことでしょう?」
「あなたは犠牲になっているわけですね……」
「それが女の役割ですわ、とくに妹の……フランスとまったくちがうところはそこなのです……わたしたちの国やイギリスの家庭では、大切にされるのは後嗣《あとつぎ》の長男だけなのですわ……」
エルゼはいら立った。スパスパとせわしなくたばこを喫った。部屋のなかを歩き回ったので、陽ざしが彼女のからだでさえぎられた。
「いいえ! カールには人なんか殺せません……誤解です……兄を釈放したのは、それがわかったからではありませんか?……そうでなければ……」
「そうでなければ?」
「あなたは白状なさいませんけど、わたしにわかっておりますのよ。証拠が不十分な場合には、容疑者をいったん釈放して、そのあとでぐうの音《ね》も出ないような確証をつかむのが警察のよくやる手であるということぐらいは……きたない手ですわ!」
彼女は磁器カップのなかでたばこをもみつぶした。
「こんな不吉な十字路を選ばなかったなら……かわいそうなカール、孤独をさがし求めていたのに! でも、ここはパリの下町にいる以上に、人目がうるさいのです、警視さん! 正面に住んでいる保険屋さんご夫婦、あの風変わりで、おかしな人たちときたら、いつもわたしたちの様子をうかがっているのです……とくに、朝は白い|縁なし帽《ボンネット》をかぶり、午後は髪を頭の後ろで束ねているあの奥さんは……それから、その少し先には自動車修理屋さんがいます……三つのグループ、三つの陣営とでも申しましょうか、三軒がおたがいにおなじ距離にあって……」
「ミショネ家とはつき合いはあるのですか?」
「いいえ! ご主人のほうが保険のことで一度まいりましたけど、カールが断わりました……」
「自動車修理屋とは?」
「ここに足を踏み入れたことはございません」
「日曜日の朝、逃げようと言ったのはお兄さんですね?」
彼女はしばらく黙ったままでいた。うなだれて、顔を赤くしている。
「ちがいます……」やっと聞きとれるぐらいの声で、溜息まじりに言った。
「それでは、あなたが……」
「わたしです……あのときはまだよく考えなかったのです。カールが罪を犯したのではないかと考えて、気違いのようになっていまして……あの前の日に、兄がとても苦しんでいたものですから……それで、わたしが兄を引っ張って……」
「お兄さんは自分は罪を犯していないとあなたに言わなかったのですか?」
「言いました……」
「それなのにあなたは信じなかった?」
「すぐには」
「では、いまは?」
彼女はゆっくり時間をかけて、一語一語に力をこめてしゃべった。
「カールはどんなに不幸であろうとも、自分から進んで悪事のできる人ではないと信じております……でも、いいですか警視さん、兄が間もなくもどってくるでしょう……ここにあなたがおられるのを見たら、兄がどんなことを考えるかわかりません……」
彼女はほほえんだ。挑発するようなところはなかったにしても、あだっぽさは隠しきれなかった。
「あなたは兄を守ってくださるわね? 兄を窮状から救い出してくださるわね? そうしていただければ、わたしはどんなに感謝いたしますか!」
エルゼは手を差し出した。そのはずみで、化粧着の前がまたしても少しはだけた。
「さようなら、警視さん……」
メグレは山高帽を捨うと、後ずさりするようにして部屋を出た。
「兄が何も気づかないように、ドアをよく閉めてくださいね」
メグレは階段を降り、寄せ集めの家具がある客間を通り抜けて、テラスに出た。すでに暑い陽ざしがふりそそいでいる。
国道では車が騒々しい音を立てている。鉄格子の門を閉めたが、軋《きし》らなかった。
自動車修理屋の前を通りかかると、からかうような声が聞こえた。
「こいつはいいところにおでましだ! 何もこわがることはありませんよ、警視さん!」
オスカールだ。パリの下町っ子らしい陽気さで、つけ加えた。
「さあ! こうなったらあきらめて何か飲んでいってください。検事局の人たちはもう帰りましたよ。ですから、ちょっとぐらいいいでしょう」
警視はためらい、しかめっ面をした。修理工が万力でしっかりとはさんだ鉄片に、歯のうくような音を立ててやすりをかけていたからだ。
「十リットルだ!」と、一台の給油ポンプのそばに車を停めた運転手がどなった。「なかに、だれもいないのか?」
まだひげを剃っていないし、カラーもつけていないミショネが、小さな庭に立って、金網越しに道路をながめている。
「やっと決心してくれましたね」とオスカールは、後について店にはいる気になったメグレを見て叫んだ。「あっしは気取らない人間が好きでしてね。三寡婦の家の貴族さまはいやだな」
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第五章 乗り棄てられた車
「こちらです、警視さん! あっしらは贅沢なんかできませんよ! たかが職人にすぎないですからね」
オスカールは修理場《ガレージ》のうしろにある住居のドアを開けると、すぐに台所に入った。テーブルの上にまだ朝食の食器が並んでいるところをみると、食堂にも兼用しているにちがいない。
ばら色の厚手ちりめんの部屋着をきた女が、銅の蛇口をみがいている手をとめた。
「こっちへ来いよ、おまえ! メグレ警視さんを紹介するから! あっしの女房です、警視さん! 女中の一人ぐらい雇えないこともないですがね……でも、それだと女房が何もすることがなくなってしまい、退屈するものですから……」
彼女は醜くも、美しくもなかった。三十ぐらいである。彼女の部屋着は品がなくて、なんの魅力もない。メグレの前にぎごちなく立ったまま、彼女は亭主のほうをうかがっている。
「さあ、アペリチフを出してくれ! 輸出用のリキュール酒はいかがです、警視さん? 客間にお通しした方がいいんでしょうがね……そんなことないって?そいつはよかった! あっしは気軽な人間でしてね、そうだろ、おまえ? そうじゃないって! こんなグラスじゃだめだ! もっと大きなグラスだ!」
彼は椅子にそっくりかえって坐った。チョッキなしで、ばら色のワイシャツを着ている。丸々と太った腹の上のベルトの間に両手を突っ込んだ。
「三寡婦の家の娘さんは、なかなか色っぽいでしょう? 女房の前じゃ、そんなことあまり言えませんがね……しかし、ここだけの話ですが、男にとってあんなみごとなプレゼントはありませんな……ただ、兄貴がいましてね……本当に兄貴なのかねえ! ドン・キホーテのような憂い顔の騎士で、一日じゅうあの女を見張っているんです……この土地の噂では一時間外出するときでも、しっかり鍵をかけてあの女を閉じこめてしまうし、夜だって毎晩そうしているっていうことですよ……そんなのが兄妹《きょうだい》と言えますか? 乾杯! あっ、そうだ、おまえ、ジョジョに言ってくれ、ラルディのやつのトラックを修理するのを忘れるなって……」
メグレは窓辺へ行った。アナセンの五|CV《シュヴォー》の車を思わせるようなエンジンの音が聞こえたからだ。
「あれじゃありません、警視さん! 国道を通る車は、あっしはここで、目をつぶっていてもぴたりと言い当てることができますよ……いまのは……電力会社の技師の車ですよ……あなたはあの貴族さまがもどってくるのを待っているのですか?」
棚の上の目覚時計が十一時をさしている。開け放しのドアから、廊下が見えた。廊下の壁には電話機がかかっている。
「お飲みになりませんね……あなたの捜査のために乾杯! まったく滑稽な話だとは思いませんか、あの事件は? 車をすり替え、おまけに、その車が真向いのどケチの六気筒ときているんですからな! どケチの車をくすねるなんて、うまいこと考えたもんだ! はっきりいって、あっしらは困った隣人をもったものです! ですから、昨日からあなたがあっしの店の前を行ったり来たりしているのを見るとうれしくなっちゃってね……とくに、みんなを疑っているような目つきのあなたを見るとね……あ、そうそう、女房のいとこで、あなたのように警察官をやっているのがいますが……賭博班でした! 午後になると毎日のように競馬場がよいでしてね、ふるっていることには、勝馬の情報をこっそり教えてくれたりしましたよ。では、乾杯……おい、おまえ、ジョジョに言ってくれたかい?」
「言ったわ……」
もどってきたばかりの女房は、これから何をしようかと思案しているようだった。
「よお! おれたちと乾杯しろよ……警視さんは気さくなんだ。おまえが髪にカールクリップしているからって、乾杯を断わるような人じゃない……」
「電話をかけさせてもらえるかね?」と、メグレが口をはさんだ。
「どうぞ、どうぞ! ハンドルを回してください……パリなら、すぐにかかりますから……」
メグレはまず電話帳で、カール・アナセンが金を受け取りに行っているはずの織物業者のデューマ父子商会の番号をさがした。
話は簡単にすんだ。電話に出た会計係は、アナセンには今日たしかに二千フランの支払いがあるが、まだデューマ商会に姿をあらわしていないと言った。
メグレが台所にもどってくると、オスカールはこれ見よがしにもみ手をした。
「ねえ、警視さん! あっしは白状しちゃいますがね、こんどのことをおもしろがっているんです……もちろん、あっしは自分が何を言っているかちゃんとわかっています! この十字路で事件が起こった……ここに住んでいるのは三世帯だけだ……だから、当然のこととして、あっしたち三世帯に疑いがかかる……そうでしょう! しらばくれちゃいけません……あなたがあっしを疑惑の目で見ていることも、あっしと乾杯するのをためらっていることもちゃんとわかっていますよ! たったの三世帯! 保険屋は間抜けづらしていて、罪を犯すようにはみえない! 貴族さまは人に畏敬の念を起こさせるような上品なおひとだ! すると、あとに残るのは、このあっし、やっとのことで店を持つことができたこのあわれな職工だ。ボクサーあがりなんで、口べたときている……あっしのことは警察で調べてもらえば、手入れで二、三度ひっぱられたことがあるのがわかりますよ。
あっしはジャワ踊りをおどるのが好きで、よくランプ通りに出かけたものでね、とくにボクサー時代はよく行きました。それで手入れに引っかかったんでして……それからもう一度は、巡査をぶんなぐってしまったときですよ。あっしのつまらねえことをさぐり立てるのでね……乾杯、警視さん!」
「いや、もう結構だ」
「断わったりしちゃいけませんよ! この輸出用のリキュール酒は、どなたにも合うはずです……おわかりでしょ、あっしという人間は隠し立てをするのがきらいな性質でしてね……うさんくさげな目つきをして、あなたがあっしの店のまわりをうろうろしているのを見るのはもううんざりですよ……そうだろ、おまえ! ゆうベ、おまえに言っただろ?……警視さんがあそこにいるって……入ってもらおう、家じゅうさがしてもらおう、あっしの持物を全部調べてもらおう、そうすればあっしがじつに率直な男だってことがすぐにわかってもらえるってね。こんどの事件であっしの興味を大いにそそるのは、車のことがあるからです……じっさい、こんどの事件は車の事件と呼んでもいい……」
十一時半! メグレは立ちあがった。
「また、電話を借りるよ……」
心配そうな顔をして、メグレは警視庁を呼び出し、一人の刑事に、アナセンの五|CV《シュヴォー》の車の手配書を、全国の憲兵隊と国境に送るように命じた。
オスカールはアペリチフを四杯も飲んだので、頬が赤くなり、目も輝いている。
「あっしらと一緒に仔牛のシチューを食べていただきたいが、あなたは断わるでしょうね……とくに、こんな台所で食べるのでは……あっ、グロリュモーのトラックがパリの中央市場からもどってきたぞ……ちょっと失礼します、警視さん……」
彼は出て行った。メグレは彼の女房と二人きりになった。彼女は木のスプーンで、シチュー鍋のなかをかき回している。
「陽気なご主人ですね!」
「ええ……陽気な人です」
「ときおり、乱暴になるでしょうね?」
「反対されるのが嫌いなんです……でも、いい人ですわ……」
「少し遊び好きですね?」
彼女は返事をしない。
「ときどき、どんちゃん騒ぎをやるんでしょう…」
「世間の男なみに……」
その声がにがにがしくなった。店のほうから話し声が響いてきた。
「そこへ置いといてくれ! ああ、いいよ……明日の朝まで、後ろのタイヤを替えておくよ……」
オスカールは大喜びでもどってきた。歌をうたったり、騒いだりしたいようだった。
「いや、まったく! 警視さん、あっしらと一緒に食べませんか? 地下室から古いぶどう酒を出してきますよ。どうしてそんなしけた面してるんだ、ジェルメーヌ? 女なんてやつは、二時間とおなじ機嫌でいられないんですからね……」
「アブランヴィルにもどらなければならないから……」と、メグレは言った。
「車でお送りいたしましょうか? ちょっと待っていただければ……」
「いや、結構。私は歩くのが好きだから……」
外は陽が降りそそぎ、すっかり暖かくなっていた。アブランヴィルヘ向うメグレの目の前を黄色い蝶が一匹、飛んでいく。
宿屋の百メートル手前で、メグレは迎えにきたリュカ部長刑事と出会った。
「どうだった?」
「警視のおっしゃるとおりです! 医者が弾丸を摘出したところ、やはりカービン銃の弾丸でした」
「その他に何か?」
「パリからの情報があります! イザック・ゴードバーグは自分の車でパリまで来ています。大型のスポーツ車、ミネルヴァですが……彼はいつもその車を運転して、旅行していたそうです……ですから、パリからこの『三寡婦の十字路』までやってきたのも、その車のはずです」
「それだけ?」
「あとは、ベルギー警察からの情報待ちです」
ゴードバーグ夫人が降りしなに殺されたハイヤーが、その運転手と共に帰って行った。
「死体は?」
「アルパジョンへ運びました……予審判事が心配しています……捜査を急ぐように警視に伝えてくれと申されました……とくにブリュッセルやアントワープの新聞が事件を大々的に取り扱っているので、心配だと……」
メグレは歌を口ずさみながら宿屋に入って行き、テーブルに坐った。
「電話はあるかい?」
「ありますが、正午から二時までは通じません。いまは十二時半です……」
警視は黙ったまま食事した。リュカは、警視が何かに心を奪われていることを悟った。何度か部長刑事は話しかけてみたが無駄だった。
春になって初めてのすばらしい日だった。昼食がすむと、メグレは中庭に椅子を引っ張りだして、壁ぎわに置いた。鶏や家鴨にかこまれて陽なたぼっこをしながら、メグレは三十分ほどまどろんだ。
しかし、二時きっかりに立ちあがると、電話機にかじりついた。
「もしもし! 警視庁? アナセンの五|CV《シュヴォー》の車は見つかったかね?」
メグレは中庭のなかをぐるぐる回りはじめた。五分後に、電話がかかってきた。警視庁からだ。
「メグレ警視ですか? たったいまジュモンから電話がありました……五|CV《シュヴォー》の車が見つかったそうです……駅前に乗り棄てられてあったのです……車に乗っていた男は歩いてか、列車で国境を越えたものと思われます……」
メグレは受話器をかけたが、またすぐにデューマ父子商会を呼び出した。カール・アナセンが二千フランを受け取りにまだ姿をあらわしていないことがわかった。
三時頃、メグレがリュカをともなって自動車修理屋の前を通ると、車の蔭からオスカールが不意にあらわれ、はずんだ声でしゃべった。
「いかがです、警視さん?」
メグレは片手をあげただけで、三寡婦の家のほうに歩きつづけた。
ミショネ家のドアも、窓も閉まっていた。だがまたしても食堂の窓のカーテンがかすかに動くのが見えた。
自車屋の機嫌のよさが、どうやら警視の顔をしかめさせたようだ。メグレは怒ったようにパイプをすぱすぱ吹かした。
「アナセンが逃げた以上……」
リュカは警視をなだめるような調子で話しかけた。
「ここで待っているんだ!」
メグレは今朝とおなじように、まず三寡婦の家の庭に入り、それから室内に入った。客間で、鼻をくんくんいわせ、まわりを鋭く見回した。客間の隅々にまだ煙がたなびいている。
なま暖かいたばこの匂いがする。
本能的だった。メグレは拳銃の台尻に手をやって、階段をあがりはじめた。二階から、レコードの音楽が聞こえた。今朝メグレがかけたタンゴである。そのレコードはエルゼの寝室から流れてくる。警視がドアをノックすると、レコードが急にとまった。
「どなた?」
「警視です……」
忍び笑い。
「それでしたら、入り方をご存じでしょう……わたしには開けられないのです……」
またもや合鍵が使われた。若い女はドレスを着ていた。昨夜とおなじ黒いドレスで、からだの線が引き立っている。
「兄が帰らないのは、あなたのせいではありませんの?」
「いや、お兄さんには会っていません」
「それでは、デューマ商会でお金がすぐにいただけなかったのでしょう。どこかで時間をつぶして、午後になってまたデューマ商会に出かけることが、ときどきあるんですの……」
「お兄さんはベルギー国境を越えようとなさった……どうやら成功したようです……」
彼女は唖然としてメグレを見つめた。信じられないといった顔つきだ。
「カールが?」
「そうです」
「わたしをお試しになっているのではなくて?」
「あなたは運転ができますか?」
「何の運転です?」
「車の」
「できません! 兄が教えてくれなかったのです」
メグレはパイプをくわえたままである。帽子も取らなかった。
「この寝室から出ませんでしたか?」
「わたしが?」
彼女は笑った。底意のない、くすくす笑いだ。これまで以上に彼女は、アメリカ映画人が言うところの、『セックス・アピール』をひけらかしている。
というのは、女は美しいと、性的魅力がないからである。美しくない女のほうが、欲望を目ざめさせ、センチメンタルな郷愁を抱かせてくれる。
エルゼはその両方ともそなえていた。彼女は女であると同時に、子供だった。彼女は官能的な雰囲気をただよわせている。しかし、彼女が人を見つめるとき、その少女のような澄んだ瞳におどろかされる。
「あなたのおっしゃることが、わたしにはよくわかりません」
「少くとも三十分前に、一階の客間でだれかがたばこを喫っています」
「だれが?」
「それを聞きたいのは私のほうですよ」
「どうしてそれがわたしにわかると?」
「今朝、蓄音機は階下《した》にありました」
「そんなことがあるもんですか! どうしてあなたはそんな……ねえ、警視さん! まさか、わたしを疑っているわけではないでしょうね? あなたは妙な顔をしていますわね……カールはどこにいるのです?」
「繰り返して言いますが、兄さんは国境を越えたのです」
「嘘です! そんなことありえません! なぜ、兄がそんなことをいたすのです? ましてわたしをここに一人残していくなんて! そんなことばかげています!……一人きりで、わたしはどうなるのです?」
やっかいなことになった。大げさな身振りをするでもなく、大声をあげるでもないのに、彼女は急に悲壮感をただよわせている。それは目からくるものだった。名状しがたい不安の色。狼狽と哀願の表情。
「本当のことをおっしゃってください、警視さん、カールが犯人ではないんでしょうね? もし兄が犯人なら、気がおかしくなっていたのですわ! 兄が犯人だなんて信じたくありません! 恐ろしいことですわ……いくら家族に……」
「気違いがいるんですか?」
彼女は顔をそむけた。
「ええ……お祖父《じい》さまが……狂い死したのです……伯母の一人も監禁されました……でも兄はちがいますわ! いいえ、ちがいます! わたしにはわかっています……」
「昼食はまだですか?」
彼女はびくっとし、あたりを見回し、びっくりして答えた。
「まだです!」
「それで空腹じゃないんですか……もう三時ですよ」
「空腹なような気もしますが……ええ、やっぱり空腹です……」
「それなら、食べに階下《した》に行きましょう……もうここに閉じこもっている理由がなくなりました……お兄さんは帰ってきません……」
「嘘です! 帰ってまいります! わたしを一人ぼっちにしていくなんてことはありえません……」
「さあ、行きましょう……」
メグレはすでに廊下に出ていた。眉をひそめて、相変わらずパイプを吹かしつづけている。だが、若い女からは目を離さない。警視のわきを通りすぎるとき、彼女のからだが軽く触れた。しかし、彼女は気づかないふりをしている。階下《した》に降りると、彼女は途方に暮れたような様子をした。
「いつも兄が食事の支度をしてくれるんです……ですから、食べるものがあるかどうかも、わたし知らないんです……」
ともかく、台所にはコンデンス・ミルクが一罐と、菓子パンがあった。
「わたし、食べられません……いらいらしすぎていて……わたしのこと、放っといてください! といっても、わたしを一人きりにしないで……こんな恐ろしい家、わたし大嫌い……あれ、何ですの!」
ガラス戸越しに、彼女は庭の小径に丸くなっている動物を指さした。野良猫だ!
「わたしって、動物が嫌いなんです。田舎も嫌いなんです! みしみしっていう音がして思わず飛びあがってしまうことがあるし、とにかく物音がやかましいのです……夜は夜で、毎晩のように、ふくろうがどこかで恐ろしい声をして鳴きますし……」
ドアも彼女にはこわいにちがいない。ドアを見る目つきが、いまにもそこらじゅうの敵が姿をあらわすのを覚悟しているような感じだった。
「ここでは、一人きりで眠れません……一人きりでいたくありません!」
「電話がありますか?」
「いいえ! 兄は電話を取りつける考えでしたの……でも、わたしたちにはあまりにもお金がかかりすぎるので……ご存じでしょう? 何ヘクタールあるかわからないような広い庭つきのこんな家に住むことがどういうことだか。電話も電気もなく、荒仕事をしてくれる女中もいないんですのよ。カールっていつもこうなんです! お父さまそっくり!」
突然エルゼは笑いだした。ヒステリックな笑いだった。
メグレは気詰りだった。彼女がなかなか落着きを取りもどさなかったからだ。しかし、胸を波打たせて笑いながらも、しまいにはその目に不安の色がうかんでいた。
「どうしたんです? 何かおかしなものを見たんですか?」
「何でもありません! 笑ったことを怒らないでくださいね……わたし、子供の頃のことを考えましたの、カールの家庭教師のことや、デンマークにあるお城のことや、召使いたちのことや、訪問客のことや、四頭立ての馬車のことなどを……それなのに、いまここにこうしているなんて!」
彼女はコンデンス・ミルクの罐をひっくり返したのもかまわず、フランス窓のガラスに額を押しつけると、暑い陽にさらされている石段をじっと見つめた。
「今夜、あなたのために見張りを一人、つけさせましょう」
「ええ、そうしてください……いいえ! 見張りなどいりません……あなたがご自分でいらっしてください、警視さん! そうでなければ、わたし、こわくて……」
彼女は笑っているのだろうか? 泣いているのだろうか? あえいでいる。つま先から頭のてっぺんまで、全身でふるえている。だれかをからかっているようにもとれたし、いまにも神経の発作をおこすのではないかともとれた。
「わたしを一人きりにしないで……」
「私は仕事があるんですよ」
「でも、カールが逃げだしてしまった以上……」
「お兄さんが犯人だと思うのですか?」
「わかりません! もう何もかもわかりません……兄が逃げたとしたら……」
「あなたの寝室にまた閉じ込めてあげましょうか?」
「いいえ! わたしの望みは、お許しがいただけ次第、明日の朝この家から、この十字路から遠ざかることです……わたしはパリに行きたい……パリは通りに人があふれていますし、人生が流れていますわ……田舎はこわいんです……なぜだかわかりませんが、こわいんです!」
そして、いきなり、
「兄はベルギーで逮捕されるでしょうか?」
「容疑者引渡状がベルギーに発せられるでしょう」
「信じられないわ……三日前には考えられないことだったわ……」
エルゼは両手で頭をかかえ、ブロンドの髪をかきむしった。
メグレは石段の上に出た。
「では、またのちほど、エルゼさん」
彼はほっとして遠ざかったが、その一方では彼女から離れることに何となく未練が残った。リュカは道路で、ぶらぶらしていた。
「何か変わったことは?」
「何もありません! 保険屋がやってきて、近いうちに車を返してくれるのかどうかをたずねました」
ミショネはメグレよりリュカのほうが言いやすかったのだろう。そのミショネが自宅の庭から、こちらをじっとうかがっているのが見える。
「あの男は何もすることがないのかね?」
「車がなくては田舎の得意先回りはできないと言い張ってました。われわれに損害賠償を要求するなんてことも……」
家族全員を乗せて観光旅行している車と小型トラックが、給油ポンプの前で停った。
「呑気なのはあの修理屋だけですね!」と、リュカが言った。「いいかせぎをしていますよ……あの男、昼夜ぶっとおしで働いていますから……」
「たばこがあるか?」
頭上から照りつける田舎の強烈すぎる太陽には驚かされるし、まいってしまう。メグレは額をぬぐいながらつぶやいた。
「これから一時間ばかり眠るよ……今夜になれば、わかるかもしれない……」
自動車修理屋の前を通りかかると、オスカールが呼びとめた。
「火酒でもどうです、警視さん? 立ったまま一杯ひっかけられますよ!」
「また、あとで!」
硅石造りの家のなかで、ミショネが女房と言い合いしているような大声が聞こえた。
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第六章 夜の不在者たち
午後五時に、メグレはリュカに起こされた。リュカはベルギー警察からの電報を届けにきたのだ。
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イザック・ゴードバーグは数カ月前から監視中の者。商売に不釣合なぜいたくな暮しぶりのため。とくに盗品の宝石を密売している疑いあり。まだその証拠はつかんでいない。フランスへの旅行は二週間前ロンドンでの二百万フランの宝石の盗難と一致する。この宝石がアントワープにあると断言する匿名の手紙あり。二名の国際的泥棒がアントワープで大金を散財しているのを目撃されてもいる。ゴードバーグは宝石を故買し、フランスに行って売りさばくつもりだった模様。宝石の詳細についてはスコットランド・ヤードに照会されたし。
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まだ眠気のさめていないメグレは、その電報をポケットに突っ込むと、たずねた。
「他には何か?」
「ありません。私は十字路を監視しつづけています。修理屋がめかし込んでいるので、どこに行くのかと訊いたら、週に一度パリに行き、夕食をして芝居見物をする習慣になっているそうなんです。そうしてパリのホテルに泊り、翌日になって帰るのだそうで……」
「修理屋は発ったか?」
「もう発っているはずです!」
「どこのレストランで夕食をとるのか訊いたかね?」
「バスチーユ通りの『レスカルゴ』です。それから『ランビギュ座』に行き、泊るのはリヴォリ通りの『ホテル・ランビュトー』です」
「ちゃんと決っているんだな!」と、メグレは櫛で髪を整えながらつぶやいた。
「それから、これは保険屋の細君から言ってきたことなんですが、保険屋が警視と話したいそうです。いや、彼女の言葉どおりに言えば、打ちとけたおしゃべりをしたいそうです」
「それだけか?」
メグレは宿屋の女将が夕食の支度をしている調理室に入って行った。壷に入れたパテを見つけると、パンの丸くなった端を切り、ぶどう酒を注文した。
「白を一本いただきたい……」
「夕食まで待てませんか?」
メグレは返事をしないで、切りとった大きなパンをむさぼり食べた。リュカ部長刑事はそれをながめているが、話しかけたくてどうしようもないといった顔つきだ。
「今夜、何か重大なことがあると思っているんですね?」
「ふむ!」
否定してみてもはじまるまい。この立食いは、いわば『腹が減っては戦《いくさ》はできない』式のものではないのか?
「さきほど私はよく考えてみました。頭のなかで事件をいろいろと整理してみようとしましたが、容易なことじゃありません」
メグレは盛んにもぐもぐやりながら、やさしい目でリュカを見つめた。
「いちばん当惑させられるのは、やはりあのエルゼという若い娘です。あるときは、彼女を除くすべての人間、修理屋も保険屋もデンマーク人もみんな犯人のように思えるし、またあるときはまるっきり反対に、彼女がここで唯一の有害な人間のように思えるのです」
メグレの目は、まるでこう言っているかのように明るく輝いた。「さあ、もっとつづけたまえ!」
「彼女は本当に貴族の若い娘にみえるときもあります……しかし、私が風紀取締班にいた当時のことを思い出させるられようなときもあるんです……私が言いたいことがおわかりですね、警視……娼婦たちはいけしゃあしゃあと途方もない嘘をつくんですよ! それも、ちょっとやそっとではつくり話とは思えないほど、微に入り細にわたっているわけです……客はだまされてしまう……ところが、彼女たちの枕の下には、古い小説が隠してあって、話の材料はみんなそこからちょうだいしているんです……あの種の女たちはしょっちゅう嘘をつくし、しまいにはその嘘を信じ込むようになってしまうんです!」
「それだけかね?」
「私の言うことが間違っていると、警視はお思いですか?」
「私にはわからんよ」
「私はいつもおなじことを考えているわけではありませんが、いちばん気がかりなのはアナセンのあの顔です……教養があって、品があって、頭のいい彼のような男が泥棒一味のかしらだなんてちょっと想像できますか?」
「今夜、彼に会えるだろう!」
「彼に? しかし、彼は国境を越えたのですが……」
「さあ、どうかな!」
「信じていないのですか、その……」
「信じているよ、この事件がきみが思っているよりも十倍も込み入っているということを。
まごつかないために、つぎの重要な三点を頭にたたきこんでおいたほうがいい。いいかね! たとえば、最初に訴えてきたミショネが、今夜家に来てくれと言っている……。
修理屋がパリに行っているのもまさに今夜だ……これ見よがしにね!
ゴードバーグのミネルヴァ車がなくなっている。これも忘れてはならない点だ! この車はフランスにはたくさんないから、ごまかすのは大変だ……」
「あなたはオスカールが……?」
「まあ、あわてないで! 暇つぶしをしたいのなら、いま言った三つの問題点をよく考えてみるんだな……」
「しかし、エルゼは?」
「まだ言っているのか?」
そう言うと、メグレは口をぬぐって、立ちあがり、国道に向った。十五分後、ミショネ家の玄関のベルを鳴らした。彼を迎えたのは、細君の気難しい顔だった。
「主人は階上《うえ》であなたをお待ちしています」
「それはずいぶんご親切なことで……」
彼女はこの言葉の皮肉に気がつかないらしく、先に立って階段をあがった。ミショネは寝室にいた。日よけをおろした窓ぎわのヴォルテール型肘掛椅子(座席が低く、背が高い椅子)に坐り、両脚を毛布で包んでいる。突っかかるような口調で彼はメグレにたずねた。
「いったい、車をいつ返してくれるんです? 一人の男から商売道具を取りあげて、それでけっこうだと思っているんですか? それなのに、あなたは私のことなどそっちのけにして向いの女に取り入ろうとしたり、修理屋と一緒にアペリチフを飲んだりしている! いいもんですな、警官という職業は! 私は思ったことを肚《はら》におさめておけない人間でね、警視さん! ほんとうに、警官っていい職業ですよ! 殺人者なんてどうでもいいんですからね! 正直者を苦しめていればいいんですからね。私は車の持主なんですよ……まさか、私のものじゃないと言うつもりではないでしょう? どうなんです! 答えてください! 車は私のものですね? よろしい! では、いかなる権利があって、厳重に鍵までかけて、あなたたちが押えているんですか?」
「病気なのかね?」保険屋の両脚を包んでいる毛布に目をやりながら、メグレは穏やかに訊いた。
「なあに、たいしたことはありませんがね! 気ばかりもんでいるんで、脚に出たんですよ……痛風の発作です! 二晩か三晩は眠れずにこの肘掛椅子に坐りきりでいなければならないでしょう……あなたをお呼びしたのも、私がどんな状態かってことを、知ってもらいたかったからですよ。私が仕事ができないことはこれでおわかりになったでしょう、とくに車がなくては! それさえおわかりいただければ十分です……裁判所に損害賠償を要求するときにはあなたに証言していただきますからね。では、さようなら、警視さん!」
権利の正当性をひどく幼椎に、もったいぶって言いたてたのである。
ミショネ夫人がつけ加えた。
「とにかく、わたしたちの様子をうかがってあなたがうろついているあいだに、殺人犯は逃げてしまいますわ! 警察なんてそんなものですわ! 貧乏人ばかりいじめて、金持には手を出さないんです」
「あなた方が私に言いたいことはそれだけ?」
ミショネは冷たい目をして、肘掛椅子にいっそう深く身を沈めた。夫人はドアのほうへ向った。
家の内部は玄関と調和していた……ワックスでよくみがかれた、とてもきれいなスタンダードの家具が、まるで一度も使ったことがないかのようにそれぞれの場所におさまっている。
廊下で、メグレは壁に取りつけてある旧式の電話機の前で立ちどまると、ミショネ夫人が憤慨しているのもかまわずに、ハンドルを回した。
「こちら司法警察の者だが、交換手さん! 今日の午後、『三寡婦の十字路』に電話がかかってこなかったかね? 『三寡婦の十字路』には電話が二つあるって言うんだね、自動車修理屋とミショネ家と? そうか! それで? 修理屋には一時頃と、五時頃にパリから電話があった? それでミショネ家には? 一度だけ……パリからかね? 五時五分に? ありがとう」
メグレはいたずらっぽく光る目でミショネ夫人を見つめて、おじぎをした。
「では、おやすみなさい、奥さん」
ついで、メグレは三寡婦の家の鉄格子の門を開け、例によって家に沿って裏手に回り、二階にあがった。
エルゼ・アナセンはひどく興奮してメグレを迎えた。
「ご迷惑をおかけしてすみません、警視さん! いい気になっているとお思いでしょうね……でも、わたし、ひどく興奮していて、こわいんです、なぜだかわかりませんけど……さきほどお話してからは、わたしを不幸から守ってくださるのはあなただけであるような気がしてしまって……今では、あなたもわたしとおなじように、この不吉な十字路や、たがいに挑戦し合っているように見える三軒の家のことはご存じだと思います……予感というものをお信じになりますか? わたしは信じます、女ってだれでもそういうところがあるものですわ……今夜、事件が起こりそうな気がしてしかたがないのです……」
「それでまた、私に監視をしろと言うのですか?」
「大げさかしら? ……でも、こわいのですからしかたがないでしょう……」
メグレの視線は雪景色を描いた絵で止った。斜めにかたむいている。しかし、ちらりと見ただけですぐに、彼の返事を待っている若い女のほうに視線をもどした。
「あなたは評判を気にしないのですか?」
「こわいときには、評判など気にしませんわ」
「それでは、一時間後にここにもどってきましょう……二、三命令をあたえなければならないことがありますので……」
「本当ですの? 本当にもどってきてくださるの?きっとですね? おまけに、わたし、あなたにお話したいことがたくさんございます。少しずつ記憶にもどってきたことがあるのです」
「どんなことです?」
「兄のことです……でも、意味のないことかもしれませんわね……いいですか! たとえば、飛行機事故のあとで、兄の手当てをしたお医者さまが、肉体的な健康は請け合ってもいいが、精神的な健康のほうは責任をもてないって、父に言ったのを思い出したんです……いままで、この言葉について考えたこともなかったのに……その他にも細かいことがいろいろ……都会を離れて人目をさけて暮すようになった理由など……もどっていらしたときに、すべてを申しあげます……」
彼女は感謝をこめてほほえんだ。だが、その微笑には少しばかり苦悩の色が残っていた。
硅石造りの家の前を通りながら、メグレは思わず二階の窓に目をやった。暗闇のなかに、窓のところだけが黄色い光でくっきりとうきあがって見える。明るい日よけには、肘掛椅子に坐っているミショネの影が映っている。
宿屋にもどると、警視はリュカに二、三の命令をあたえたが、その理由はいっさい説明しなかった。
「刑事を六人ほど呼びよせて、十字路の周辺に配置させてくれ。きみは一時間ごとに、レストラン『レスカルゴ』、劇場、ホテルヘとつぎつぎに電話して、オスカールが相変わらずパリにいるかどうかを確認するんだ……三軒の家から出た人間は、だれであろうとも尾行してくれ……」
「警視はどこにおられます?」
「アナセンの家にいる」
「それでは……?」
「いや、何もわかっちゃいないよ! じゃ、またな、いや、明日の朝になるかもしれないがね……」
陽はとっぷりと暮れていた。国道にもどりながら、警視は弾丸が装填《そうてん》されているかどうかを調べ、たばこ入れのなかにパイプ用のたばこがあるのをたしかめた。
ミショネ家の二階の窓には、相変わらず肘掛椅子の影と、保険屋の口ひげを生やした横顔が映っている。
エルゼ・アナセンは黒ビロードのドレスを、今朝着ていた化粧着に着替え、ソファに横になって、たばこを喫っていた。さっき会ったときよりも落着いていたが、額には物思わしげな皺《しわ》がよっている。
「こうして知り合いになれて、本当によかったと思っているんですのよ、警視さん! 一目見ただけで信頼心を抱かせる人っているものですわ……そういう人はまれですけれどもね! いずれにしましても、わたしの場合は好感のもてる人にはわずかしか出会っていないのです……たばこを喫ってもかまいませんわよ」
「夕食はすませたのですか?」
「お腹がすいていません……どうやって生きてきたのかよく覚えていないんです……四日前から、正確に言えば車のなかからあの恐ろしい死体が見つけだされて以来、わたしは考えてばかりいるんです……何とか考えをまとめてみようとしてみたのですわ……」
「それで、犯人はお兄さんであるという結論に達したのですか?」
「ちがいます! わたしはカールを告発したくありません……たとえ、言葉の厳密な意味において犯人であったとしても、狂気の発作に襲われてやったにすぎないのですから、なおさらです……警視さん、それ、いちばん悪いソファですのよ……おやすみになるときは、隣りの部屋に簡易ベッドがございますから……」
彼女は落着いていたが、同時にいらいらしてもいた。やっとのことで装っている、うわべだけの、意志の力による落着き。それにもかかわらず、ときどき、急に顔をのぞかせるいらだち。
「この家には、昔すでに事件があったというじゃありませんか、本当ですか? カールがあいまいに話したことがあるのです……はっきり言わなかったのはわたしをこわがらせたくなかったのでしょうね……兄は、いつもわたしを子供扱いしますの……」
彼女は、小卓の上の磁器のカップのなかにたばこの灰を落すため、身をかがめた。全身がしなやかだった。今朝のように、化粧着の前がはだけた。ちらっと、乳房が見えた。小さくて、丸かった。あっという間のことだった。しかし、メグレは傷痕があるのを見逃さなかった。メグレは眉をしかめた。
「怪我をしたことがありますね、昔?」
「何ですって……」
彼女は顔を赤らめた。化粧着の裾を本能的に胸元にもっていった。
「あなたの右の胸に傷痕がありますね」
彼女はひどくうろたえた。
「ごめんなさい……! ここでは、いつもだらしない恰好でいる癖がついているものですから……でも、まさか……この傷をあなたが……ああ、いま突然思い出したことがあります……でも、偶然の一致ですわ……カールとわたしがまだ子供の頃は、お城の庭が遊び場でしたの……あるとき、兄は聖ニコラの祝日にカービン銃をもらったのです、兄が十四歳のときだったと思いますわ……十四ぐらいの子供に銃をあたえるなんて、おかしなことだとお思いになるでしょうね……カールは最初は標的を狙って撃ってました……ところが、ある晩サーカスを見に行ったのですが、その翌日、兄はウィリアム・テルごっこをして遊ぼうといってきかないのです……わたしは両手にボール紙を持って立ちました……最初の弾丸がわたしの胸にあたりましたの……」
メグレは立ちあがると、彼女の坐っているソファに近づいてきた。その冷やかな表情に、彼女は不安そうに両手で化粧着をにぎりしめた。
しかし、メグレが見つめているのは彼女ではなかった。家具の上の壁に視線が注がれているのだ。雪景色の絵がいまでは、きちんと水平にかかっている。
ゆっくりした手つきで、メグレはその額縁を傾けた。すると、壁に穴があいている。大きくもなく、深くもなく、二個の煉瓦《れんが》を取りのぞいただけの穴だった。
この穴のなかに、六発の弾丸を装填した回転式拳銃《リヴォルヴァー》と、薬莢《やっきょう》の箱と、鍵と、ヴェロナールの小壜が入っていた。
彼女はメグレを目で追っていたが、落着きはらっている。頬を赤くしてもいない。瞳がいくらか輝いているだけだ。
「その隠し場所をあとでお見せしようと思っていたのです、警視さん……」
「本当ですか?」
そう言いながら、メグレはリヴォルヴァーをポケットに突っ込み、ヴェロナールが半分ほどなくなっているのをたしかめると、ドアのところへ行き、鍵穴に鍵を差し込んでみた。ぴったり合った。
若い女は立ちあがった。もう胸元を隠そうなどとはしなかった。ぎくしゃくした身振りをまじえて、彼女はしゃべった。
「あなたがいま見つけられたものは、すでにわたしがお話したことを確証するものです……でも、おわかりになっていただかなければならないわ、わたしに兄を告発できないことを? あなたが初めてここにきてくださったときすぐに、兄をずっと前から気違いだと思っていたなどと口にしたら、あなたは怪《け》しからぬ女だと、わたしのことを思われたでしょう……でも、兄は気違いなのです……」
勢いこんで話すと、彼女のなまりはひどくなるので、言葉の端々まで奇妙に響くのだった。
「このリヴォルヴァーは?」
「どう説明したらいいのかしら? デンマークを去ったとき、わたしたちは破産していました……でも、兄は自分のような教養があれば、パリですばらしい職を見つけられるものと確信していましたの……それがだめだったのです……兄はだんだんふさぎこむようになりました……この土地に引っ込んで暮す気になったときは、兄の精神はひどくおかされていたものと思います……とくに、敵に襲われるからという口実で、毎晩わたしを寝室に閉じ込めると言い張ったりして! わたしの立場を考えてみてください、この寝室に閉じ込められたきりで、たとえば火事があっても、他のそういう災害があっても逃げ出すことができないのですよ……わたし、眠れないんです! まるで穴倉に入れられているように不安なのです……。
それで、ある日、兄がパリに行ったときに、錠前屋を呼んで、この寝室の鍵をつくらせましたの。錠前屋を呼びに行くのに、わたし、閉じ込められていたので窓から抜け出さなければならなかったのです……。
それで、運動の自由は得られたのですが、それだけでは十分ではありませんでした!
カールは半狂乱になる日があって、そういう日にはよく、こんな落ちぶれた生活をおとなしくつづけるよりは、いっそ二人で自殺したほうがいいなどと口走るのです……。
それでまた、兄がパリに出かけたときに、アルパジョンで拳銃《リヴォルヴァー》を買いました。それと、よく眠れないので、ヴェロナールも……。
以上ですわ、いたって簡単でしょ! 兄は疑い深い人なのです……頭が変でいながら、物事をちゃんと判断するだけの正気なところが残っている人間ほど疑い深い人間はありません……この隠し穴は夜、わたしがつくったのです……」
「それだけかね?」
警視が乱暴にこう訊いたので、彼女はびっくりしてしまった。
「わたしの言うことが信じられませんの?」
メグレは答えず、窓辺に歩みよると、窓を開き、ついでよろい戸も開けた。夜の新鮮な空気がさっと入ってきた。目の下の国道はインクの流れのようだった。
車が通るたびに、光が反射した。ひどく遠くからでもヘッドライトが見える、十キロぐらい先だろう。と思うと、突然疾風のような勢いでやってきて、空気を揺がし、エンジンをとどろかせ、そしてまた赤い小さな灯が遠ざかっていく。
給油ポンプには明りがついている。ミショネ家には、二階の明りだけがついている。オランダ布の日よけには相変わらず肘掛椅子と、保険屋の影絵が見える。
「窓を閉めてください、警視さん……」
メグレは振り返った。エルゼは化粧着を抱き締めて、ふるえている。
「わたしがどんなに不安か、いまではおわかりですわね……もうあなたにはすっかりお話いたしました……でも、カールの身に不幸が起こることを、わたしは決して望んでいません! 死ぬときは二人一緒だと、兄はよく言ってました……」
「どうか黙ってください」
メグレは夜の物音に耳を澄している。そのために、肘掛椅子を窓ぎわまで引っぱって行き、足を窓の手すりに載せた。
「わたし、寒いと言っておりますのに……」
「何か着なさい!」
「わたしを信じられませんの?」
「さあ、黙って!」
メグレはパイプを喫いはじめた。遠くで、農家のかすかなざわめきや牛の啼き声、それと何かが動いているような、はっきりしない物音が聞こえた。それとは反対に、自動車修理屋からは、鉄がぶつかり合う激しい音、ついで突然、タイヤをふくらませる電気モーターが振動しはじめた。
「わたしは、あなたを信頼しておりますのに……いいですか」
「黙れと言っているのがわからないのですか?」
メグレは家の近くの、国道沿いの木蔭に人影を認めた。彼の命令をうけた刑事の一人にちがいない。
「お腹がすいたわ……」
メグレは怒って振り向くと、若い女を正面から見すえた。彼女は哀れな顔をしている。
「何か食べものをさがしてきたまえ!」
「降りていけません……こわくて……」
メグレは肩をすくめ、戸外が静かであることをたしかめると、やにわに階下《した》に降りて行った。台所をよく知っている。焜炉《コンロ》のそばに、冷肉の残りと、パンと、口を開けたビール壜があった。
メグレはそれらを全部二階に持って行き、小卓の上の灰皿がわりに使っている磁器カップのわきに置いた。
「わたしに意地悪なのね、警視さんって……」
彼女はまるで子供のようだ! いまにもすすり泣きをはじめそうだった。
「私には意地悪したり、親切にしたりしている暇がない……さあ、食べなさい!」
「あなたはお腹が空いていませんの? わたしが本当のことを言ったからって、お腹立ちになることはないでしょう?」
だが、そのときにはすでにメグレは背を向けて、窓から外をながめていた。ミショネ夫人が亭主の上に身をかがめている影が日よけに映っている。水薬を飲ましているのだろう、亭主の顔のほうヘスプーンを差し出しているからだ。
エルゼは冷肉を一切れ指先でつまむと、うまそうにかじった。それから、ビールをグラスについだ。
「このビール、まずいですわ」と、彼女はいまにも吐き出しそうな顔をして言った。「でも、なぜその窓を閉めてくださらないの?……わたし、こわいわ……わたしをかわいそうだと思ってくださらないの?」
メグレはいきなり、かっとなって窓を閉めると、どなりつけるかのように、エルゼのつま先から頭のてっぺんまでじろじろとながめた。
そのとき、エルゼが蒼ざめたのに気がついた。青い瞳が曇り、何か支えを求めるかのように片手が伸ばされた。メグレは走りよると、エルゼの背中に手をやり、倒れかかった彼女を抱きとめた。そっと、彼女を床の上に横たえ、瞼を持ちあげて瞳孔を調べ、片手で空のビールのグラスを取って、匂いを嗅いだ。にがい匂いがする。
小卓の上にコーヒーのスプーンがあった。それを手にとって、エルゼの歯の間にさし込んだ。さらに、ひるまずに口の奥深く入れた。スプーンは喉と口蓋を執拗にこすった。
彼女の顔が引きつった。胸がひくひくと動いた。
エルゼは床の上に横たわったままだった。両方の目から涙が流れ出た。頭を横にむけた瞬間、彼女は大きなしゃっくりをした。
スプーンでしゃっくりを起こさせたおかげで、胃の中身が吐き出された。黄色い液体が少し、床をよごし、その滴りが化粧着の上で光っている。
メグレは化粧台の水差しを取り、顔を湿らせてやった。しかし、そうしながらも、いらいらと窓のほうに顔を向けつづけている。
エルゼはなかなか意識を取りもどさない。弱々しくうめいている。やっと頭をもたげた。彼女はうろたえて立ちあがったが、まだよろよろしている。よごれた床のじゅうたんと、スプーンと、ビールのグラスを見ると、両手で頭をかかえて、すすり泣いた。
「これで、わたしがこわがったわけがわかったでしょ! わたしを毒殺しようとしたんだわ……それなのに、あなたはわたしを信じてくれなかった……あなたは……」
彼女とメグレは同時にはっとなった。二人ともしばらくじっとして、聞き耳を立てていた。
家の近くで銃声がしたのである。庭のなかにちがいない。銃声につづいて、かすれたような叫び声が聞こえた。
道路のほうから、呼び子が鳴り響いた。人々が駆けよってきた。鉄格子の門を揺さぶっている。窓から、メグレは暗闇をさぐっている刑事たちの懐中電灯の光を認めた。百メートル足らずのところに、ミショネ家の二階の窓がある。ミショネ夫人が亭主の頭の後ろに枕を入れてやっている影が見える。
警視はドアを開けた。階下《した》で物音がする。リュカが呼びかけた。
「警視《パトロン》!」
「やられたのはだれだ?」
「カール・アナセンです! 死んではいません! 来ていただけますか?」
メグレは振り返った。ソファの端に坐ったエルゼが、膝に肘をつき、両手で顎を支えて、前方をじっと見つめている。歯を食いしばり、からだが痙攣でも起こしたようにぶるぶるふるえていた。
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第七章 二つの弾創
カール・アナセンを寝室に運び込んだ。一階のランプを持って刑事が一人、あとからついてきた。負傷者はあえぎもしないし、身動きもしない。ベッドの上に横たえて、上からのぞき込んでみて初めてメグレは、アナセンが薄目を開けていることを知った。
アナセンはメグレに気がついた。それほど衰弱していないようだ。彼は警視の手のほうに手を伸しながら、つぶやいた。
「エルゼは?」
彼女は自分の寝室の敷居の上に立っていた。目に隈ができ、不安そうに待ちかまえている。
かなり感動的な姿だった。カールは黒い片眼鏡を失っていた。損われていないほうの目が熱っぽく光っているのに、ガラスの目は冷たく、一点を見つめたままだ。
石油ランプが寝室じゅうに神秘的な光を投げている。庭を捜査している刑事たちの砂利を踏む音が聞こえる。
エルゼはメグレに命ぜられて、やっと兄のほうに近よった。からだがこわばっている。
「重傷らしいですね!」と、リュカが小声で言った。
彼女にそれが聞こえたにちがいない。リュカに目をやると、それ以上カールに近づくのをためらった。カールは彼女を食い入るように見つめて、ベッドから起きあがろうとした。
すると、彼女は突然泣きじゃくりはじめ、寝室から走り出た。そして自分の寝室にもどり、ソファに身を投げて、からだを激しく波うたせた。
メグレは部長刑事に彼女を見張るように合図すると、負傷者の世話にかかった。この種の出来事には慣れている人間の手つきで、上衣とチョッキを脱がせた。
「何も心配しなくていい……医者を呼びにやったからね……エルゼは自分の寝室にいる……」
アナセンは神秘的な不安に圧しつぶされたかのように、口をつぐんだままだ。やがて、まわりを見回しはじめた。謎を解こうとでもするかのように、重大な秘密を見破ったかのように。
「尋問はあとにしよう……しかし……」
警視はデンマーク人の裸の上半身の上に身をかがめて、眉をしかめた。
「きみは弾丸《たま》を二発うけているね……この背中の傷はだいぶ前のものだな……」
ぞっとするような恐ろしい傷だった。十センチ四方の皮膚がえぐり取られている。肉は文字通りひき切られ、焼け焦げ、はれあがり、凝固した血のかさぶたでおおわれている。この傷からはもう出血していない。数時間前のものである証拠だ。
それに反して、左肩の後ろの傷はまだ生々しく、傷口を洗うと、ゆがんだ鉛の弾丸が落ちた。メグレはそれを拾った。
リヴォルヴァーの弾丸ではなく、ゴードバーグ夫人を殺したのとおなじカービン銃の弾丸だった。
「エルゼはどこですか?」と、負傷者は苦痛に顔をしかめもせずに、つぶやいた。
「自分の寝室にいる……あっ、動いちゃいかん……いまきみを撃った犯人を見なかったのかね?」
「ええ……」
「もう一つの傷は? どこでやられたものなんだ?」
額に皺がよった。アナセンは話そうとして口を開いたが、ぐったりして口を閉じてしまい、左手をかすかに動かして、もう話す力がないことを説明しようとした。
「どうでしょうか、医師《せんせい》」
薄暗がりのなかで過すのはいらいらする。この家のなかには石油ランプが二つしかなかった……一つは負傷者の寝室、もう一つはエルゼの寝室に置かれている。
階下《した》では、ろうそくを一本つけてあるだけで、客間の四分の一も照らしていない。
「予期せぬ併発症が起きないかぎり、なんとか命はとりとめるでしょう……最初にうけた傷のほうが重いですよ……この傷は正午前か、午後の初めにうけたものにちがいありません……間近から背中をブローニングで撃ったものです。ごく近くからね! 銃口を背中にぴったり突きつけていたかもしれないですな……被害者は撃たれた瞬間、よろめいてみせたのでしょう……それで、弾丸がそれて、肋骨に達する程度でおさまったのでしょうね……肩と、腕の青あざ、両手と、膝のかすり傷はそのときのものにちがいありません……」
「もう一方の弾丸は?」
「肩胛骨《けんこうこつ》を撃ち砕いています。明日にでも外科医に手術してもらった方がいいですよ。パリの病院の場所を教えましょう。この近くにもあるにはあるのですが、患者が金持ならば、パリのほうをお勧めします……」
「最初の弾丸をうけたあとで、歩き回ることができますか?」
「歩けんこともないでしょう……命にかかわる器官はどこも傷ついていないわけですから、あとは気力だけの問題です……しかし、たとえば肩はあのまま硬直してしまうのではないでしょうかね」
庭では、刑事たちは何一つ見つけだせなかった。だが、夜明けに、念入りな捜査ができるような体勢を整えていた。やがてメグレはアナセンの寝室にもどった。アナセンは警視を見てほっとしたようだった。
「エルゼは?」
「自分の寝室にいる、すでに二度も言ったはずだが……」
「なぜ、自分の寝室なんかにいるのです?」
相変わらず病的な不安が去らない。あたりをきょろきょろ見回したり、顔を引きつらせたりしている。
「きみを撃った者を、きみは知らないのか?」
「知っているはずがありませんよ」
「そう興奮しないで……最初に撃たれたときの模様を話してくれないか……ゆっくりと話したまえ……動いちゃいかん……」
「私はデューマ父子商会に行きました……」
「しかし、立ちよっていない」
「立ちよるつもりだったんです! ところが、オルレアン門で、男が一人、私に車を停めるように合図しました……」
彼は水がほしいと言い、大きなグラス一杯の水を飲みほすと、天井を見つめながら、また話しはじめた。
「男は警察の者だと名乗りました。身分証明書まで見せましたが、私はろくにたしかめませんでした。男は、パリを通り抜けてコンピエーニュ街道まで行くように命令しました。私に一人の証人と対決してほしいと言うのです」
「どんな風な男だった?」
「大柄な男で、灰色のフェルト帽をかぶっていました。コンピエーニュの手前で、国道が森を横切っています。森に入ったとたん、私は背中にひどい衝撃をうけました……手が出て、私のにぎっていたハンドルをつかむと、私を車の外へ放り出しました……私は気を失いました……意識を取りもどしたときには、私は溝《みぞ》のなかでした……車は影も形もありませんでした……」
「何時頃?」
「午前十一時頃だったでしょう……よくはわかりません……車の時計はこわれているものですから……私は森の奥に入って行きました、落着いてじっくり考えてみたかったのです……二、三度目まいに襲われました……そのうち列車の通る音が聞こえ、小さな駅を見つけることができました……五時に、パリにもどり、一部屋借りて傷の手当てをし、衣服を整えて、やっとここに帰ってきたわけです……」
「こっそりとだね?」
「ええ」
「なぜ?」
「さあ……」
「だれかに出会ったかね?」
「会いません! 私は国道を通らずに、庭から入りました……石段をあがろうとした瞬間、銃声がして……エルゼに会いたいのですが……」
「妹さんが毒殺されかかったのを知っているかね?」
この言葉がもたらした効果は、メグレの予想をはるかに超えたものだった。デンマーク人はやっとのことで身を起こすと、メグレを貪《むさぼ》るように見つめ、つぶやいた。
「本当ですか?」
悪夢から覚めたように、明るい表情になった。
「妹に会わしてください、お願いします!」
メグレは廊下に出ると、エルゼの寝室に行った。彼女はソファに横になり、虚ろな目をしている。その前で、リュカが頑《かたくな》な様子で監視している。
「来てくれますか?」
「兄が何を言いましたの?」
彼女はいぜんこわがっていて、ためらいを見せた。それでもおぼつかない足取りで負傷者の寝室の入口まで行き、それからカールのところに駆けより、母国語で話しかけながら抱き締めた。
リュカは陰うつな顔つきをして、メグレをうかがっている。
「あ、きみ、そこにいたのか?」
警視は肩をすくめると、リュカの返事を待たずに、命令をあたえた。
「修理屋がまだパリにいるかどうか、確認するんだ……それから、警視庁に電話して、明日できるだけ早く外科医をよこしてくれ……できれば、今夜じゅうのほうがいいのだが……」
「警視はどちらへ?」
「わからない。庭のまわりの監視をこのままつづけても、むだだろう……」
メグレは階下《した》に降りて行くと、石段を降り、一人きりで国道に出た。自動車修理屋は閉っている。しかし、給油ポンプの乳白色のメーター盤が光っているのが見える。
ミショネ家の二階の窓には明りがついている……日よけには、相変わらずおなじ場所に保険屋の影が映っている。
さわやかな夜だった。ごく薄い霧が畑から立ち昇り、地上一メートルを波のように一面におおっていた。アルパジョンのあたりで、エンジンの音と、車のがたがたいう音が聞こえ、それがだんだん大きくなった。五分後には、トラックが修理屋の前に停り、クラクションを鳴らしている。
シャッターについている小窓が開いた。電球の光が外に流れでた。
「二十リットル頼むよ!」
寝ぼけまなこの修理工が給油ポンプを操作した。運転手は高い運転席から降りてきた。警視は両手をポケットに突っ込み、パイプをくわえたまま、近づいて行った。
「オスカールさんはまだ帰ってこないのかね?」
「おや、警視さんですか……帰りませんよ! パリに行ったときは、帰るのはいつも翌朝なんですからね」
それから、ためらったあとで、
「ねえ、アルチュール、スペア・タイヤを持って行ってくれよ。用意できてるから……」
そう言うと、修理工はガレージのなかにスペア・タイヤを取りに行き、トラックのところまで転がしてくると、後ろに骨を折って取りつけた。
トラックはふたたび出発した。赤いテール・ライトが遠くに見えなくなった。修理工は欠伸《あくび》をしながら、溜息まじりに言った。
「相変わらず犯人をおさがしですか? こんな時間に? 眠っていいのだったら、おれなんか、人のことなんかかまっちゃいないですよ!」
鐘が二つ鳴った。地平線を、こうこうと明りのついた列車が走っている。
「お入りになりますか? なりませんか?」
修理工はまた欠伸をした。早くベッドにもどりたいのだろう。
メグレはなかに入り、石灰で粗塗りした壁をながめた。壁の釘に、赤いチューブや、あらゆる大きさのタイヤがかかっている。その大半は使いものになるものではなかった。
「おい! さっきの運転手、あのタイヤをどうする気なんだ?」
「どうするって……トラックにつけるんですよ!」
「そうかな? あのタイヤをつけたら、トラックは奇妙な走り方をするぞ! あいつは他のタイヤと大きさがちがうんだからな」
修理工の目に不安そうな影がかすめた。
「おれが間違えたのかな……ちょっと待ってくださいよ……マチュウじいさんの小型トラックのタイヤをうっかりわたしてしまったのかもしれないぞ……」
銃声が鳴り響いた。壁にかかっているチューブの一つに向けて、メグレが拳銃を撃ったのだ。チューブは空気が抜け、裂け目から白い小さな紙袋が出てきた。
「おい、動くな!」
修理工が腰をかがめて、一目散に逃げだそうとしていたからだ。
「気をつけろよ……変なまねをしたら、ぶっ放すからな!」
「どうしたらいいんです?」
「両手をあげろ! 早く!」
メグレは修理工に近づき、ポケットをさぐって、六発の弾丸が装填されている拳銃《リヴォルヴァー》を取り上げた。
「簡易ベッドに横になれ!」
足で、メグレはドアを閉めた。修理工のそばかすだらけの顔を見ながら、こいつはまだ観念していないな、と思った。
「さあ、横になるんだ!」
まわりに縄はなかったが、電線の巻いたのが目についた。
「手を出せ!」
メグレが拳銃を離したので、修理工はうれしそうな顔をした。だが、顔の真中にパンチを喰った。鼻血が出た。唇がはれあがった。修理工は怒りでぜいぜいあえいだ。両手が縛られ、やがて両足もおなじように縛りあげられた。
「いくつだ、おまえは?」
「二十一です……」
「ここに来る前はどこにいた?」
沈黙。メグレは拳を突きだしてみせた。
「モンペリエの感化院」
「けっこうなことだな……この紙袋の中身をおまえは知っているね?」
「麻薬ですよ!」
つっかかるような声だ。電線を切ろうとして、修理工は筋肉をふくらませてみた。
「スペア・タイヤのなかには何が入っていた?」
「知りませんよ」
「それなら、なぜ、あのトラックにわたした、他のトラックでもよかったんじゃないか?」
「もう答えたくない!」
「あとで後悔するぞ!」
五つのチューブをつづけざまに引き裂いた。しかし、中身はコカインばかりではなかった。そのうちの大きく引き裂いたチューブのなかには、侯爵の冠のついた銀の食器一揃があった。もう一つのチューブにはレースと、古い宝石がいくつか入っていた。
ガレージのなかには十台の車が入っている。メグレはかわるがわる動かしてみたが、動くのは一台だけ。そこで、自在スパナと、ときにはハンマーを使って、エンジンを取り外し、ガソリン・タンクに穴をあけた。修理工はにやにやしながら、目で警視の動きを追っている。
「けっこうなものがぞくぞくと出てくるでしょう!」と、彼はどなった。
四CVの車のガソリン・タンクには無記名証券が一杯詰め込んであった。最低に見積っても、三十万フランはある。
「これは、割引銀行に押入って盗んだものだな?」「たぶんそうでしょうね!」
「この古い硬貨は?」
「さあ、ね……」
古物屋の店裏の部屋より、さまざまな品物があった。ないものはない……真珠、紙幣、アメリカの紙幣、パスポートを偽造するのに使うにちがいない役所の印章まである。
メグレはすべての車を解体するわけにはいかなかった。しかし、箱型車体の形の崩れたクッションの中身をぶちまけてみると、そこにもオランダのフロリン銀貨があった。これらの貨幣はすべて、このガレージで偽造されたものにちがいない。その証拠は十分にある。
トラックが一台、国道を通った。この店の前では停らない。十五分後に、またトラックが通ったが、おなじように停らない。警視は眉をひそめた。
メグレは一味の仕組みがわかりはじめた。この自動車修理屋はパリから五十キロの国道の道端に建っていて、すぐ近くにはシャルトル、オルレアン、ル・マン、シャトーダンといった大きな町がある。
隣り近所は、三寡婦の家と、ミショネ家の人たちだけである。
この隣人たちに何がわかる? 毎日何千台という車が通るのだ。少くとも、そのうち百台ぐらいはここの給油ポンプの前で停る。そのうちの何台かは、修理のためガレージに入ってくる。タイヤを売ったり、交換したりする。石油缶や、ガス油の樽が手から手へとわたされる。
とくに興味のある、ささいな事柄がある……毎晩、パリの中央市場へ野菜を満載していく大型トラックが、明けがたか、朝には空《から》でもどってくる。
空で? 野菜の箱や箱のなかに盗品を隠して運んでくるのはこれらのトラックではないのか?
それが毎日の定期便なのである。タイヤ一つに入るだけのコカインで、莫大な金額の取引になる。二十万フラン以上だ。さらに、自動車修理屋は盗品の車の塗りかえもやっていたのではないか?
見ている者はいない! オスカールは入口で、ポケットに両手を突っ込んで見張りをする。修理工たちが自在スパナやトーチを使う。赤や白の五台の給油ポンプはあくまでも悪事をごまかすための道具にすぎない。
肉屋だって、パン屋だって、観光客だって停って給油していく。
遠くで鐘が鳴った。メグレは時計を見た。三時半。
「おまえのかしらはだれだ?」メグレは修理工の顔を見ずにたずねた。
相手はただ黙って笑っただけで、答えない。
「おまえだってよく知っているだろう、隠しおおせやしないことを……オスカールか? やつの本名は何だ?」
「オスカールですよ……」
修理工は吹き出しかねなかった。
「ゴードバーグはここへ来たのか?」
「ゴードバーグって何者です?」
「よく知っているくせに! 殺されたベルギー人だ」
「冗談はやめてください……」
「コンピエーニュ街道でデンマーク人をやっつける役を引き受けたのはだれだ?」
「だれをやっつけたって?」
いまやいささかの疑いもない。メグレの第一印象に間違いはなかった。みごとに組織化された犯罪者一味と、メグレは対決しているのだ。
さらに新たな証拠があがった。国道にエンジンの音が大きく鳴り響いてきたかと思うと、シャッターの前に、ブレーキを軋ませて停った。クラクションを鳴らした。
メグレは走りよった。しかし、ドアをまだ開けないうちに、車は猛スピードで走り去ってしまい、車の型さえ見分けられなかった。
拳をにぎりしめて、メグレは修理工のところへもどった。
「どうやって合図したんだ?」
「おれが?」
修理工は電線で縛られている手首を見せて笑った。
「さあ、言え!」
「きな臭い匂いがしたんでしょうよ。仲間は鼻がいいから……」
メグレは不安になった。いきなり簡易ベッドをひっくり返した。修理工のジョジョは床に転がり落ちた。戸外と連絡している警報器のスイッチが隠されているかもしれないと考えたからだ。
しかし、簡易ベッドの裏には何も隠されていなかった。メグレは修理工を床に転がしたままに出た。五台の給油ポンプにはいつものように明りがともっている。
メグレは腹を立てはじめた。
「ガレージのなかには電話はないのか?」
「自分でさがせばいいでしょう!」
「いずれおまえは口を割るんだぞ」
「そうですかね?」
こいつからは何も聞き出せない。相当の悪党だ。十五分の間、メグレは国道を五十メートルにわたって行ったり来たりしてみたが、合図に使ったらしいものをさがし出せなかった。
ミショネ家の二階の明りは消えている。明りが見えるのは三寡婦の家だけだ。庭を取り巻いている刑事たちの姿がかすかに見える。
リムジン型の車が猛スピードで通り過ぎた。
「おまえの主人の車はどんな型なんだ?」
東の地平線の上あたりがかすかに白んでいる。夜明けがはじまったのだ。
メグレは修理工の手を動けないようにし、どのスイッチにも触れられなくした。
ガレージの波形板のシャッターについている小窓から、さわやかな空気が流れ込んでくる。また、エンジンの音が聞こえたので、メグレは道路のほうに近づいてみた。四人乗りのレーシング・カーが走ってくる。時速三十キロを越えていないので、停まるのだなと思った。が、次の瞬間、連続した爆発音が響きわたった。
数人が撃っている。弾丸が波形板のシャッターに当り、パチパチいう音をたてた。
見分けられたのは、ヘッドライトの閃光と、動かない人影、というより車体から出ている頭だけだった。ついで、アクセルを踏みこんだぶんぶんいう音……。
窓ガラスの壊れる音……。
三寡婦の家の二階だ。車からまだ撃ちつづけている……。
地面に身を伏せていたメグレが立ちあがった。喉が渇き、パイプの火は消えている。
暗闇のなかに消えていった車のハンドルをにぎっていたのは、間違いなくオスカールだった。
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第八章 姿を消した人たち
警視が道路の真中まで出ないうちに、タクシーがやってきて、急ブレーキをかけて給油ポンプの前で停った。男が一人、飛び出してきて、メグレにぶつかった。
「グランジャン!」と、メグレはつぶやいた。
「ガソリンを、早く!」
タクシーの運転手は興奮で蒼ざめている。せいぜい時速八十キロしか出ない車を百キロで飛ばしてきたからだ。
グランジャンは風紀班の刑事である。他に二人の刑事がタクシーのなかにいる。どの手にも拳銃がにぎられている。ひどく興奮したしぐさで満タンにすると、
「やつらは遠くでしょうか?」
「五キロ先だ……」
運転手は出発の命令を待っている。
「ここに残れ!」と、メグレはグランジャンに命じた。「他の二人に追跡させろ……」
ついで、車のなかの二人の刑事に忠告した。
「無茶なことはするな! いずれにしても、われわれがつかまえるから! ただ、やつらを追跡するだけでいいんだ……」
タクシーはふたたび出発した。ずれた泥よけが騒々しい音をたてつづけている。
「話してくれ、グランジャン!」
メグレはグランジャンの話を聞きながらも、三軒の家をうかがい、夜の物音に耳をすまし、逮捕している修理工から目を離さなかった。
「ここの自動車修理屋、オスカールを見張れという電話が、リュカからあったのです……そこで、私はオルレアン門からオスカールを尾行したわけですが……オスカール夫婦はまず『レスカルゴ』でたっぷり夕食をとりました。だれともしゃべりませんでしたね。ついで『ランビギュ座』へ行きましたが、そこまでは別段関心を引くことはありませんでした……夜中の十二時に、『ランビギュ座』を出ると、ビヤホール『サン・マルタン』のほうに向いました……ご存じでしょう、あのビヤホールは……二階の小部屋にいつもやくざが何人かたむろしているところです……オスカールのやつ、自分の家にでも入るようにその食堂に入って行きましたよ……給仕たちはあいさつするし、店の主人はわざわざ出てきて握手し、商売はうまく行っているのかなどと、やつに訊いてました……。
やつの女房のほうも、水を得た魚のようでしたね。
オスカール夫婦はテーブルにつきましたが、そのテーブルにはすでに三人の男と、一人の娼婦が坐っていました……男たちの一人は、レピュブリック広場近くのブリキ屋で、もう一人はタンブル通りの古物商人でした。この二人は私も知っていましたが、三人目の男は初めて見る顔です。そいつと一緒の娼婦は風紀係の名簿に名前が載っている女でした……。
やつらは冗談を言い合いながら、シャンパンを飲みはじめました……ついで、ざりがにのオードブルやらオニオン・スープやらを注文しましてね……どんちゃん騒ぎがはじまりました。ああいうやつらがよくやる馬鹿騒ぎですよ、わめき合ったり、腿をたたきっこしたり、ときどきは歌をがなりたてたりしたりで……。
そのうち、嫉妬から夫婦喧嘩がはじまりましてね……オスカールが娼婦にしつこく言い寄りすぎたんで、女房が気にくわなかったのです……結局、それも新しいシャンパンがきてうまく片づきましたが……。
ときどき、店の主人がテーブルにきて乾杯したり、みんなにおごったりもしていました……それから、三時頃だったと思いますが、給仕がやってきて、オスカールに電話だと告げたのです……。
電話室からもどってきたときは、やつはもうおどけてはいませんでした。私のほうを不愉快そうにちらっと見ましてね。やつらになじみのない客は私一人でしたから……オスカールは他のやつらに小声で話してました……大弱りだったらしく、みんなむっつりしていました……女は……オスカールの女房のことですが……げっそりやつれ果てた顔をして、元気づけのためにグラス一杯の酒を飲み干したりしました……。オスカール夫婦と一緒に出たのは、私の知らない男だけでした。イタリア人か、スペイン人のようでした……。
やつらが別れのあいさつを言ったり、打ち合せをしたりしている間に、私は一足先に通りに出て、あまりおんぼろでないタクシーを選び、サン・ドニ門にきていた二人の刑事を呼びました……。
やつらの車をごらんになったでしょう……あれで、サン・ミシェル大通りから時速百キロでぶっ飛ばしましてね。クラクションを少くとも十回は鳴らしましたが、一度も後ろを振り返りませんでした……私たちはやつらを追うのがやっとでした……タクシーの運転手が……ロシア人なんですが……エンジンが壊れてしまうと盛んに言い張りましてね……撃ったのはやつらですか?」
「そうだ」
リュカは銃声を聞きつけると、三寡婦の家から出て、警視のところへやってきた。
「どうしたんです、警視?」
「負傷者は……」
「衰弱しきっていますが、朝がたまではもつだろうと思います……間もなく外科医が到着するはずですが、それにしてもこれはいったい……?」
リュカは弾痕のあるガレージのシャッターや、電線で縛られた修理工がいる簡易ベッドをながめた。
「大がかりな犯罪組織ですね、警視?」
「もちろんだ」
メグレはいつもより心配そうだった。いくぶん猫背であったし、パイプをくわえた口のまわりには妙な皺ができている。
「リュカ、きみは非常線を張ってくれ……アルパジョン、エタンプ、シャルトル、オルレアン、ル・マン、ランブイエに電話するんだ……地図を見たほうがいいぞ……憲兵隊を全員、非常呼集させろ! 町の出入口をことごとく封鎖だ……やつらはつかまるさ……エルゼ・アナセンはどうしている?」
「さあ……寝室に残してきましたが……ひどく打ちひしがれていました……」
「冗談じゃないぜ!」思いがけない皮肉をこめて、メグレが言い返した。
彼らは相変わらず路上だ。
「どこから電話をかけましょうか?」
「修理屋の住居のほうの廊下に電話がある……まずオルレアンからはじめろ。やつら、すでにエタンプは通り過ぎたはずだ……」
畑の真中の一軒家に明りがついた。百姓たちが起きたのだ。ランプが壁に沿って動いて行き、見えなくなった。やがて家畜小屋の窓が明るくなった。
「朝の五時だ……百姓たちが牛の乳をしぼりはじめたぞ」
リュカはメグレたちと別れると、ガレージで拾った鉄てこで、オスカールの住居のドアをこじ開けた。
グランジャンは何が何やらわからないまま、メグレについて行った。
「さっきの騒ぎはわけないんだ」と、警視は言った。「いたって簡単に解決するさ……。ほら! あそこの二階の窓に人影が見えるだろう。わざわざ私を呼びつけ、あの男は痛風で歩けないことを私に確認させた。何時間も、おなじ場所にああして動かないでいるんだ、ぴくりとも動かないんだよ……。
ところで、窓に明りがついているだろう? 私がさっき、やつらの合図をさがしていたとき……こんなこと言っても、きみにはわからないだろうが……つまり車が停らずに走り去ったとき、そのときには窓の明りはついていなかった……」
メグレはひどくおかしなものを見つけでもしたかのように、笑い出した。そうやって笑っていたかと思うと、突然ポケットから拳銃を取り出して、ミショネ家の窓のほうに向けた。肘掛椅子の背に頭をもたせかけている人影が見える。
銃声がした。鞭《むち》のぴしゃりというような、そっけない音だ。ついで、窓ガラスが割れ、その破片が庭に落ちて粉々にくだけた。
だが、部屋のなかでは何一つ動かない。人影はおなじ恰好をしたまま、オランダ布の日よけに映っている。
「これは、どういうことなんですか?」
「ドアを打ち破れ! それより、ベルを鳴らしてみろ! まさか、だれも開けにこないことはあるまい」
しかし、だれも開けには来なかった。家の内部ではことりとも音がしない。
「ドアを打ち破れ!」
グランジャンは頑強な男だった。はずみをつけて、ドアに三度ぶつかった。三度目にやっと、蝶番《ちょうつがい》がはずれて、ドアが開いた。
「そっと歩け……注意しろ……」
二人とも拳銃を手にしている。最初に食堂のスイッチをひねった。赤いチェックのテーブルクロスのかかったテーブルには、まだ夕食の汚れた皿や、白ぶどう酒の残りがはいっている水差しがあった。メグレは水差しから口飲みした。
客間にはだれもいない! 肘掛椅子にはカバーがかけてある。人が住んだことがないような埃《ほこり》っぽい匂いがする。
白い陶製タイルの台所からは、猫が一匹逃げだしただけ。
グランジャン刑事は不安そうにメグレを見つめた。やがて、二人は階段をあがって、二階に達した。踊り場のまわりに三つのドアがある。
警視は正面にある部屋のドアを開けた。
割れた窓から風が入り込んで、日よけを揺り動かしている。肘掛椅子のなかに、とっぴょうしもないものがある。はすかいに置いた帯の柄の先に、ぼろ切れを丸めて巻きつけ、肘掛椅子の背中よりちょっと上にもたせかけてあった。外からだと、その影絵が人間の頭のように見えるのだ。
メグレはほほえみもしないで、隣室に通じるドアを開けると、明りをつけた。寝室だったが、人はいない。
二階の上は屋根裏部屋。床にはりんごが二、三センチ間隔で並べてあり、梁《はり》にはさやいんげんが数珠つなぎにして吊してある。屋根裏部屋はもう一部屋ある。女中部屋にちがいないが、いまは使われていないらしく、古ぼけたナイト・テーブルが一つあるだけだった。
二人は階下《した》に降りた、メグレは台所を通り抜けて、中庭に出た。中庭は東向きで、空はぼんやりと明るさを増している。
小さな物置がある……ドアが動いている……。
「そこにいるのはだれだ?」と、メグレは拳銃をひけらかしながら、どなった。
恐怖の叫び。内側からおさえられていないドアがひとりでに開いた。女がひざまずいて、わめいている。
「わたしは何もしていません! かんべんしてください! わたしは……わたしは……」
ミショネ夫人だった。髪をふり乱し、服は物置の壁の漆喰《しっくい》でよごれている。
「ご主人は?」
「知りません! わたしは本当に何も知らないんです! わたしはとても不幸です!」
彼女は泣いた。その豊満な肉体が、とろけて、ぐにゃぐにゃになってしまいそうだった。顔は普段より十歳も老けてみえる。涙で腫れあがり、恐怖でひきつっている。
「わたしじゃありません! わたしは何もしておりません! あの男です、お向いの……」
「あの男って?」
「外国人です……わたしは何も知りません! あの男です、間違いありません! 主人は人殺しや泥棒じゃございません……主人はこれまでずっとまじめな生活を送ってきたんです! あいつです! あの片目の男です! あついがこの十字路にやってきてからは、悪いことばかりです……わたしは……」
鶏小屋には白い雌鶏がたくさんいて、とうもろこしの黄色い粒がまきちらされている地面をついばんでいる。猫が窓の敷居にうずくまっている。その目が明けがたの薄明りのなかで光っている。
「さあ、立って……」
「わたしをどうなさるおつもりです? だれが銃を撃ったのですか?」
哀れな眺めだった。五十近い女が、子供のように泣いている。途方に暮れて泣いているのである。やっと立ちあがり、メグレが何気なくその肩を軽くたたいてやったときなど、彼女は助けを求めるかのように警視の懐に飛び込み、その胸に顔をうずめ、背広の襟の折返しにしがみついたのである。
「わたしは不幸な女にすぎません。わたしは! 一生、働きつづけました! 結婚したとき、わたしはモンペリエでいちばん大きなホテルの会計係をしていて……」
メグレは彼女を押しのけたが、泣き言をやめさせるわけにはいかなかった。
「あのままホテルの会計係をしていればよかったんです……わたしは大事にされていましたから……わたしがホテルをやめるとき、わたしをかわいがってくれていた社長が言った言葉を思い出します……きっとこのホテルが懐かしくなるはずだって……。そのとおりでしたわ! 結婚してからのわたしって、苦労ばかりしていたんですから……」
彼女はまた泣き崩れた。猫を見ると、その悲嘆がいっそうかき立てられた。
「かわいそうなミツゥ! ミツゥだって無関係だわね! それに、鶏だって、わたしの世帯道具だって、この家だって! いいですか、警視さん、あの男がいまここにいたら、わたし、殺してやるわ! 最初に会った日から、そんな気がしていたんです……あの黒い片眼のことを思っただけで……」
「ご主人はどこにいます?」
「知るもんですか!」
「昨夜早めに出かけたんですね? 私がここにやってきた直後に! 私同様、ご主人は病気なんかじゃなかった……」
彼女はどう答えたらいいのかわからなかった。何かつかまるものでもさがすかのように、あたりをきょろきょろ見回した。
「あの人が痛風なのは本当です……」
「エルゼさんはここに来たことがありますね?」
「とんでもございません!」と、彼女は憤慨して叫んだ。「この家にはあんな女を入れません!」
「オスカールは?」
「あの人を逮捕したんですか?」
「逮捕したも同然だ!」
「当然の報いでしょ……主人は、あんな世界のちがう、無教養な連中とつき合うはずがございません……ああ! せめて女の忠告を聞き入れてくれていたら……ねえ、いったい、どうなるんでしょうか? しじゅう銃声ばかりして……うちの人の身に何かがあったら、わたし死んでしまうわ、恥かしくて。おまけに、また働きに出るにしてはわたし、年齢《とし》を取りすぎていますし……」
「家に入りなさい……」
「どうすればいいんです、わたし?」
「何か温いものでも飲んで、待っていなさい……できれば、眠るといい……」
「眠る?」
この言葉で、またしてもわっと泣きだすやら、愚痴の雨だ。だが、メグレとグランジャン刑事が立ち去ってしまったので、彼女はその始末を一人でつけなければならなくなった。
メグレはしかし、引返してくると、廊下の受話器をはずした。
「もしもし! アルパジョン……こちら警察だ! 夜の間に、この電話でどこへかけたか教えてくれますか?」
数分待たなければならなかった。やっと返事があった。
「アルシーヴ二七四五番にかけてます……サン・マルクン門近くの大きなビヤホールですが……」
「知っている……『三寡婦の十字路』の他の家からは電話をかけていないかね?」
「いましがたかけました……自動車修理屋さんから、あちこちの憲兵隊ヘ……」
「ありがとう!」
メグレが路上のグランジャン刑事のところへもどると、霧のような細かい雨が降りはじめた。それにもかかわらず、空は明るくなってきた。
「見当がつきましたか、警視?」
「大体のところは……」
「いまの女は、一芝居うちましたね?」
「いや、本心なのさ」
「しかし……亭主のほうは……」
「亭主はちがう。まじめ人間が堕落してしまったか、あるいは、生れついての悪党だが、長い間まじめ人間のふりをしていたかだ……まったくこみ入った手をうったものだ! 合図の方法を発見するまでは、数時間悩んでしまったよ……ひどく難事件のような気がしてね……ミショネはみごとに役を演じきっていたもんだ……まだこれから知っておかなければならないことがある。たとえば、人生のある瞬間、ミショネに悪党になる決心をさせたものは何か……また、昨夜の間ミショネが考えていたのはどんなことか……」
メグレはパイプにたばこを詰めると、三寡婦の家の門に近づいた。見張りの刑事がいた。
「別に変ったことはないか?」
「何も見つからなかったようです……庭は包囲してありますが、人影一つみえません……」
夜明けの淡い光で黄色っぽくなっている家に沿って、二人は裏手に回った。家の輪郭がくっきりしはじめている。
大きな客間は、メグレが初めて来たときとそっくりおなじ状態だった……画架には相変わらず深紅色の大きな花を描いた織物の図案がのっている。蓄音機の上のレコードは二筋の光の抛物線を反射している。夜が明けてくるにつれて、陽が水蒸気のように部屋に射し込んできた。
階段がきしむのはおなじだ。カール・アナセンは寝室で喘《あえ》いでいたが、警視の姿を目にするや、苦痛をこらえた。だが、心配そうにつぶやいた。
「エルゼはどこです?」
「自分の寝室にいる」
「ああ!」
ほっとしたようだった。溜息をつくと、額に皺をよせながら肩口にさわってみた。
「こんなことで死んでなるものですか……」
ガラスの目は見るに忍びなかった。顔のその部分だけが生気がない。他の筋肉は動くのに、それだけがすべすべしていて、澄んでいて、大きく見開かれたままだ。
「こんな姿を妹に見られたくありません……この肩は直るのでしょうか? いい外科医を呼んでくださったのでしょうか?」
ミショネ夫人同様、彼もまた不安のあまり子供のようになっていた。その目は哀願していた。安心したいのだ。しかし、いま彼の心をもっとも奪っているようにみえるのは、その肉体についてである。からだに傷痕が残るかどうかだ。
それに反して、その異常な意志力、苦痛に耐える能力はみごとなものである。二つの傷を見ているメグレには、そのことがよくわかるのだ。
「エルゼに言ってください……」
「会いたくないのかね?」
「ええ! 会わないほうがいいんです……ですが、私がここにいることを、私が回復することを伝えてください……私の意識がはっきりしていることや、私を信頼することも……この信頼という言葉をエルゼに繰り返してやってください! 聖書を少し読むように言ってください……たとえば、ヨブ記でも……あなたにはちょっと滑稽でしょう、フランスの方は聖書をよく知りませんからね……信頼!……『さすれば常に、われはわが友を知らん!』神はこう申されているのです……神はご自分の友をよくご存じなのです……このことを妹に言ってください! それからまた、『天にはさらに歓びがあるなり……』とも。妹にはよくわかるでしょう……最後に、『正しき人は日に九度試煉にかけられる』……」
驚いた男だ。二人の警察官に見守られて横たわり、肉体に傷をうけて苦しみながらも、聖書の言葉を心静かに読みあげたりする。
「信頼! 妹にそう言ってくださいますね……潔白以外にその信頼に答える道はないのですから……」
彼は眉をひそめた。グランジャン刑事の口もとに微笑がうかんだのを見つけたからだ。彼は独り言をいうように、もぐもぐとつぶやいた。
「フランヅォーゼ!」
フランス人めというデンマーク語だ! 言い換えれば、無信仰者めということになるし、また、懐疑的で、軽簿で、非難好きで、頑迷なやつめ、という意味にもなる。
がっくりした彼は、ベッドで寝返りをうって壁のほうを向き、生きた片目でにらんでいた。
「妹に伝えてください……」
だが、メグレとグランジャン刑事がエルゼの寝室のドアを開けたとき、人の姿は見えなかった。
温室のような雰囲気! 黄色いたばこから濃い煙がたち昇っている。生々しい女の匂いがただよい、青二才はもちろん、一人前の男だって気もそぞろになってしまいそうだ。
しかし、人の姿はない! 窓は閉ったままだ……エルゼはそこから出て行ったのではない……。
ヴェロナールの小壜と、鍵と、拳銃《リヴォルヴァー》が入れてある壁の隠し穴には、絵がまっすぐにかかっている。
メグレは絵を傾けてみた。拳銃がなくなっている。
「そんな目で私を見るな、えっ、きみ!」
こうどなると、メグレは刑事をやり切れなさそうにながめた。グランジャンはメグレにつきまとい、一々感心してうっとりと見とれているのだ。
このとき、警視はパイプを強く噛みしめたので、吸口がくだけて、火皿がじゅうたんの上に落ちた。
「彼女は逃げたのでしょうか?」
「口を出すな!」
メグレはひどく腹を立てている。八つ当りもいいところだ。びっくりしたグランジャンはできるだけ不動の姿勢を取るようにしていた。
夜はまだ明けきってはいない。相変らず灰色の水蒸気が地面すれすれにただよっているが、明るくなっていない。パン屋の車が国道を通った。おんぼろのフォードで、前輪がアスファルトの上をジグザグに進んだ。
いきなり、メグレは廊下に出ると、階段を駆け降りた。客間に達した……まさにその瞬間、恐ろしい叫び声がした。断末魔の叫び、苦悶する獣が悲しげに泣き叫ぶようなうめき声。庭に面している客間の窓は二つとも大きく開いている。
叫び声をあげたのは女だ。その声は、何か思いもよらないものにさえぎられ、押し殺されているような感じだ。
ひどく遠いようでもあるし、ごく間近なようでもある。屋根の上から聞こえてくるようでもあるし、地下から聞こえてくるようでもある。
その苦悶の叫び声に、裏口で見張りをしていた刑事が血相変えて駆けつけてきた。
「警視! お聞きになりましたか?」
「静かにしろ! そんな……」激昂の極に達していたメグレは、どなりつけた。
だが、その言葉が言い終らないうちに、銃声が鳴り響いた。耳を聾《ろう》するような音だった。そのため、左なのか右なのか、庭なのか家のなかなのか、林なのか路上なのか、どこから銃声が聞こえてきたのか、だれにも言うことができなかった。
階段に足音がした。カール・アナセンが降りてきたのだ。顔をこわばらせ、胸に手をやり、気違いのように叫んだ。
「彼女だ!」
彼は喘いでいる。ガラスの目はじっと動かない。もう一方の目は大きく見開いているのだが、どこを見つめているのかわからない。
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第九章 壁際に並ばされた一味
数秒間のためらいがあった。その間に、銃声のこだまは空気中ですっかり消えてしまった。メグレたちはつぎの銃声を待った。カール・アナセンが庭に出ると、砂利を敷きつめた小径までよろよろと歩いた。
庭で見張っていた刑事の一人が、そのとき突然、野菜畑のほうに走って行った。野菜畑の真中に、滑車のついた井戸の縁石《ふちいし》がある。刑事は井戸をのぞき込むや、後ろに跳びのいて、警笛を吹いた。
「有無を言わさず連れもどせ!」
メグレは、よろよろ歩いているデンマーク人を指さして、リュカに叫んだ。
まだ完全に明けきっていないこの夜明けに、いろいろなことが同時に起こった。リュカは刑事の一人に合図した。二人一緒で、負傷者に近づき、ちょっと話し合った。だが、カールが耳を貸そうともしないので、引き倒して、連れもどした。カールは手足をばたばたさせ、喘ぎながら文句を言っている。
メグレは井戸まで走った。刑事が叫んで、メグレを止めようとした。
「危い!」
その言葉と同時に、弾丸がメグレの耳元でうなり、地下で銃声がして、そのこだまが長く尾を曳いた。
「だれがいる?」
「若い女と……男です……二人は取っ組み合いの喧嘩をしています」
警視は用心しながら井戸に近づいた。しかし、暗くてよく見えない。
「懐中電灯を貸してくれ……」
しかし、なかの様子をちらりと見ることができただけだった。弾丸が飛んできて、もう少しで懐中電灯に当りそうになったからだ。
男はミショネだった。井戸は深くはないが、広くて、水がない。
なかの二人は取っ組み合っている。判断できるかぎりでは、保険代理人はエルゼの喉を片手で締めて、絞殺しようとしている。エルゼは手に拳銃を持っている。しかし、その手を、保険代理人はもう一方の手で押えつけ、好きな方向に撃たせていたのだ。
「どうしたらよろしいでしょうか?」と、刑事がたずねた。
彼は気が動転していた。ときどき、ぜいぜいいう音が聞こえてくる。喘いでいるのはエルゼで、必死でもがいている。
「ミショネ、おとなしく出てこい!」メグレは気休めに言ってみた。
ミショネは答えないどころか、空に向けてまた撃ってきた。もはや警視はためらっていなかった。井戸は三メートルの深さだ。やにわにメグレは跳び降り、保険屋の背中にどすんと落ちた。エルゼは片腕を押しつぶされたようだった。
大混乱になった。また一発撃たれ、井戸の壁をかすめて、空に消え失せた。警視は大事をとって、ミショネの顔を両手の拳で力一杯なぐりつけた。
四回目に、保険代理人は傷ついた動物のような目をメグレに向けると、よろめき、ぶっ倒れてしまった。目のまわりは黒ずみ、顎の骨がはずれている。
エルゼは両手で喉をおさえて、ぜいぜい言いながら息を整えている。火薬の匂いと泥くさい匂いに満ちたこの薄暗い井戸での取っ組み合いは、悲劇的であると同時に滑稽だった。
結末はもっと滑稽だった……滑車の綱にしがみついて上ってきたミショネは、ぐったりして、うめいている。メグレが腕を伸して引っぱりあげてやったエルゼは、泥だらけで、黒ビロードのドレスには緑色の大きな苔《こけ》がたくさんくっついている。
エルゼも、その相手も意識だけはたしかだった。しかし疲れ切り、気力も失せているので、ボクシングの試合を茶化してみせるピエロのように、二人とも横になったまま、やたらに宙をなぐりつづけているだけだ。
メグレは拳銃を拾いあげた。エルゼの寝室の隠し穴からなくなっていたリヴォルヴァーだ。まだ一発残っている。
リュカは心配そうな顔をして、家のほうからやってきたが、この光景を見て溜息をつきながら言った。
「あの男をベッドに縛りつけてきましたよ……」
刑事が水をしみ込ませたハンカチで、若い女の額をふいてやっている。リュカ部長刑事がメグレにたずねた。
「どこから出てきたんです、この二人は?」
リュカがまだ言い終らないうちに、もう立っている元気さえなかったミショネが、怒りで顔を青く引きつらせて、エルゼに飛びかかっていった。だが、つかみかかる前に、メグレが足蹴にした。ミショネは二メートルほど先に転がった。
「そんなまねは、もういいかげんにしろ!」
保険屋の顔の表情があまりにもおかしかったので、メグレは大声で笑ってしまった。小脇に抱きかかえられ、尻をぶたれている餓鬼が、怒り狂って、あばれたり、泣きわめいたり、噛みつこうとしたり、なぐりかかろうとしつづけながら、いたずらにあがいている姿を思い出したからだ。
ミショネも泣いている! 泣きながらしかめ面をしている! 拳を振り回しさえしている!
エルゼはよろよろと立ちあがると、額をなでた。
「もう助からないと思ったわ!」と、彼女は弱々しくほほえんだ。「あまり強く締めつけられたので……」
彼女の頬は泥でよごれている。乱れた髪にも泥がついている。メグレだって、きれいだとは言えない。
「この井戸のなかで何をしていたのかね?」と、メグレはたずねた。
エルゼは鋭い目つきでメグレを見た。微笑は消えている。この瞬間、彼女が冷静さを取りもどしだようだ。
「答えなさい……」
「わたしは……無理やり井戸のなかに連れこまれたんです……」
「ミショネによって?」
「嘘だ……」と、ミショネがわめいた。
「嘘じゃありません……この男はわたしを絞め殺そうとしたんです……きっと気違いなのでしょ……」
「嘘つきめ! 気違いなのはこの女だ! いや、この女は気違いというより……」
「気違いというより何だ?」
「どう言ったらいいか! そうだ、まむしだ。こんなまむしのような女は、石で頭をたたきつぶしてやればいい……」
知らないうちに陽が昇っていた。どの樹にも、鳥がさえずっている。
「なぜ、拳銃なんか持って行った?」
「罠《わな》にかかることを恐れたから……」
「どんな罠? ちょっと待ってくれ、順序よくやろう……きみはいましがた、ミショネに襲われて、井戸のなかに連れこまれたと言ったが……」
「嘘だ!」と保険屋は顔をひきつらせて繰り返した。
「それでは、その襲われたという場所を、私に教えてくれ……」と、メグレはつづけた。
彼女はあたりを見回して、家の石段を指さした。
「あそこ? その時、きみは叫ばなかったのかね?」
「叫ぶことができなかったのです……」
「このやせぎすの小男が、井戸まできみを運んで行った。言い換えると、五十五キロの荷をかついで、二百メートルも走ったというわけだね?」
「そのとおりです……」
「でたらめだ!」
「この男を黙らせてください」と、彼女はぐったりして言った。「この男が狂っているのがわからないのですか? 今日にはじまったことではないんですよ」
エルゼにまた飛びかかろうとしたので、ミショネを取りおさえなければならなかった。
彼らは庭に集っていた……メグレ、リュカ、二人の刑事は、顔を腫れあがらせた保険代理人と、しゃべりながら身づくろいしているエルゼをながめている。なぜ悲劇だという気がしないのか、劇的事件だという気さえ湧かないのか、あきらかにすることは難しい。むしろ、道化芝居のような感じがするのである。
それはきっと、この薄明りの夜明けのせいなのかもしれない。各人が疲れていることも、空腹であることも関係あるかもしれない。
道化芝居めいた感じはさらに強まった……女がためらいがちに国道を歩いてくると、鉄格子の門の向うに顔をあらわし、門を開け、ミショネを見つめて叫んだからだ。
「エミール!」
ミショネ夫人だった。途方に暮れたというより茫然自失の態で、ポケットからハンカチを取り出すと、泣き崩れた。
「またこの女と!」
彼女はいろいろな出来事に苦しみ抜いた人のいい小母さんが、涙で少しでも悲しみをまぎらわせようとしているような感じだった。
メグレはおもしろそうにエルゼの顔を見つめている。まわりの人の顔をかわるがわるながめていた彼女の、美しく、繊細な顔が、急に張りつめ、気難しくなったからである。
「井戸のなかで何をしていたのかね?」と、メグレはいかにもお人よしの感じでたずねたが、それは「もうふざけている場合じゃないぞ! おれには芝居なんかしたってはじまらないぞ」と言っているようだった。
彼女はそれを悟った。唇に皮肉な微笑がうかんだ。
「わたしたち、罠にかかったようね!」と、エルゼは認めた。「でも、わたしお腹が空いているし、喉が渇いたし、寒いの。それにちょっと顔を直したいし……お話はその後で……」
それは芝居などではない。それどころか、驚くべきほど率直だった。エルゼはみんなの真中で一人ぼっちだった。しかし、落着きはらっている。泣き崩れているミショネ夫人と、哀れなミショネをおもしろそうにながめていたが、やがてメグレのほうを向いた。その目はこう言っていた。
「哀れな人たちね! わたしたちおなじ種類の人間ですものね……そのことはあとでお話しますわ……あなたは勝ったのよ!……でも、わたしの勝負度胸もなかなかのものだったでしょ!」
恐れもないし、狼狽もない。いささかの気取りもない。これこそ、やっと発見することができた本物のエルゼなのであり、彼女自身、この暴露をゆっくり楽しんでいるようだった。
「一緒に来るんだ!」とメグレは言った。「リュカ、きみはミショネをたのむ。ミシュネ夫人は自宅にもどるなり、ここに残るなり好きなようにさせてくれ……」
「入ってちょうだい! どうぞご遠慮なく!」
二階のおなじ寝室だった。黒いソファがあって、相変わらず香水の匂いがしていて、水彩画の後ろには隠し穴がある。女もおなじだった。
「カールには見張りがついてるんでしょ?」と、彼女は怪我人の寝室のほうへ顎をしゃくってたずねた。「カールのほうがミショネよりずっと狂暴でしょうからね! あんた、パイプを喫ってもいいのよ……」
彼女は洗面器に水を入れ、しごく当然のことのように静かにドレスを脱いで、シュミーズだけになった。恥じらいもなければ、挑発的な身振りもない。メグレはこの三寡婦の家に初めてきたときのことを考えた。あのときのエルゼは映画の妖婦のように謎めき、冷やかで、部屋のなかにはいかがわしげな、いらだたしい雰囲気がただよっていた。
両親の城館《シャトー》や、子守や、家庭教師や、父親の厳しさについて話したときの彼女は、立派な貴族の娘ではなかったか?
それも、もうおしまいだ! 百万言よりも動作一つのほうが雄弁だった……ドレスの脱ぎ方、顔を洗う前に鏡の姿をながめるそのながめ方。それは、単純で卑しく、健康でずる賢い娼婦の姿だった。
「娼婦だったんだね!」
「そう長くはなかったわ!」
彼女はタオルの端で顔をふいた。
「ご満足でしょう……昨日はまだ、あたしがここでオッパイをちらっと見せてやったとき、あんた、喉をからからにして、額を汗ばませて、いかにもお人よしのデブさんといった感じだったけど……それが、いまじゃ、もちろんそうしても何ともないでしょ……でも、あたしって、まだそれほど醜くはないと思うけど……」
彼女は腰を反らし、シュミーズだけのしなやかな肉体を楽しそうにながめた。
「ここだけの話だけど、どうしてあたしに疑いを抱いたの? あたしがへまでもしたの?」
「いくつか……」
「どんなへま?」
「たとえば、お城のことや、庭園のことを少し言いすぎた……お城に本当に住んだことのある人間は、むしろ家のなかのことや、財産のことを話すものさ……」
彼女は衣装戸棚のカーテンを引いて、どのドレスにしようかと迷っている。
「もちろん、あんた、あたしをパリに連行するんでしょ! カメラマンがたくさんいるんでしょうね! この緑色のドレスではどうかしら?」
そのドレスをからだの前にくっつけて、似合うかどうかを判断している。
「だめ! 黒のほうがもっと似合うわ……火をお貸しいただけないかしら?」
彼女は笑った。たばこの火をつけようと彼女が近づいてきたとき、やっぱりメグレは、あたりにただようえも言われぬ色気にいくぶんどぎまぎしてしまったからだ。
「これにするわ! これを着ると、ちょっと変った感じになるでしょ?」
隠語を遣っても、彼女が言うとそのアクセントのおかげで独得な味がある。
「いつから、カール・アナセンの愛人《おんな》になった?」
「愛人じゃないわ。あたし、彼の奥方よ……」
彼女は睫毛《まつげ》にマスカラをつけ、頬紅をぬった。
「それじゃ、デンマークで結婚したのか?」
「まだ何にもわかっちゃいないのね、あんた! あたしがしゃべると思っちゃだめよ。これは遊びじゃないんだから……それに、長いことあたしを捕えておくことはできないんでしょ……逮捕してからどのくらいしたら、あたしを犯罪人人体測定課に回すの?」
「すぐに回すさ」
「それはお気の毒だわ! あたしの本名はベルタ・クラールといって、三年ほど前に、コペンハーゲンの警察から逮捕状が出ていることがわかるから……デンマーク政府は犯人引渡しを要求するでしょ……これで、支度はできたわ……これから、ちょっと何か食べさせて……この部屋、むっとしない?」
彼女は窓辺に行き、開けると、ドアのところへもどってきた。メグレは先に寝室を出た。すると、いきなり彼女はドアを閉め、閂《かんぬき》をかけた。窓のほうに走りよる足音が聞こえる。
メグレの体重があと十キロほど軽かったなら、彼女は逃げおおせたかもしれない。メグレは一秒たりとも無駄にしなかった。閂がかけられるや、すぐにドアに全身でぶつかった。ドアは最初の体当りで倒れ、蝶番も鍵も吹っ飛んだ。エルゼは窓の手すりに跨《またが》っている。彼女はためらった。
「もう遅すぎる!」と、メグレは言った。
彼女は引返してきた。息をはずませ、額が汗ばんでいる。
「せっかくおめかししたのに!」と、彼女は裂けたドレスを見せながら茶化した。
「もう逃げようとしないと約束するかね?」
「いやよ!」
「それでは、ちょっとでも疑わしい振舞いをしたら撃つ、いいね……」
それ以後、メグレは拳銃を手放さなかった。
カールの寝室の前を通りながら、彼女はたずねた。
「大丈夫かしら、あの人? からだに二発食っているんでしょ?」
この瞬間、メグレは彼女を観察したが、どうとも判断しかねた。だが、彼女の顔と、声のなかに、憐れみと恨みのまじったものが感じられると思った。
「あの人も悪いのよ!」と、彼女は自分の良心を安らかにしておくためかのように、そう結論をくだした。
「家のなかに何か食べるものが残っているといいけれど……」
メグレは彼女について台所に入った。彼女は戸棚のなかをさがしていたが、エビの罐詰を見つけ出した。
「これ、開けてくれないかしら? さあ、開けて……約束する、その隙に逃げ出したりしないわ……」
彼らの間には奇妙な親しさが生れていた。メグレはそれを感じとらないわけにはいかなかった。彼らの関係は、何事かを腹に隠してはいるが、どことなく打ちとけたところさえある。
エルゼは、自分を負かしたが、自分の大胆さにびっくりしているにちがいない、この肥った、穏やかな男と興じていた。メグレのほうは、この男まさりの、けたはずれな女をじっくりと観察しているのだろう。
「さあ、開けたぞ……早く食べるんだ!」
「もう出かけるの?」
「さあ、それはどうかな……」
「あのね、ここだけの話だけど、あんたはどんなことを発見したの?」
「そんなこと、問題じゃないさ……」
「あのばかのミショネも、しょっぴいていくんでしょ? あいつのことはいまでもとてもこわいわ……さっき、井戸のなかで、もう殺されると思った……目をひんむいてね……ぐいぐいあたしの喉を締めつけてくるのよ……」
「彼の愛人だったのか?」
彼女は肩をすくめてみせた。商売女として、そんなささいなことはどうでもいいといった感じだった。
「オスカールとは?」と、メグレはつづけて訊いた。
「オスカールとは何だったと言うの?」
「やっぱりできていたのか?」
「そんなこと、自分で調べたらどうなの……あたしにはっきりわかっていることは、この身に待ち受けている運命よ……強盗と、公務執行妨害の共犯者として、デンマークで五年の刑に服さなければならないの……そのとき、ここに弾丸をうけたのよ……」
彼女は右胸の傷痕を指さしてみせた。
「その他のことにかんしては、ここの連中が勝手にやったことだわ!」
「どこで、イザック・ゴードバーグと知りあった?」
「あたし、もう娼婦なんかしてないわ……」
「しかし、しゃべってくれなければだめだね」
「それを、あんたがどうやって調べだすか、なかなか興味深いわ」
彼女はエビだけを食べながらしゃべった。パンは食べたくても、家のなかには一切れも残っていなかった。
客間のなかで、行きつもどりつしている刑事の足音が聞こえる。肘掛椅子にぐったりと倒れ込んでいるミショネを見張っているのだ。
二台の車が同時に、鉄格子の門の前で停った……門が開いて、車は庭に入り、家をぐるりと回って石段の下で停った。一台目の車には、刑事と二人の憲兵、それにオスカール夫婦が乗っていた。もう一台の車はパリのタクシーで、刑事が一人、三番目の人物につきそっていた。
三人とも手錠をはめられていたが、男たち二人は晴ればれとした顔をしている。ただ、自動車修理屋の女房だけが目を赤くしていた。
メグレはエルゼを客間に連れて行った。すると、ミショネがまたもや彼女に飛びかかろうとした。
手錠をかけられた三人も、客間に連れ込まれた。オスカールは普通の訪問客のようにリラックスしていたが、エルゼと保険屋に気づくと、いやな顔をした。もう一人の、イタリア人らしい男は、ずぶとくしらを切ろうとした。
「どうしたことだ、家族全員がお集りとは……結婚式でもあるのかい、それとも遺言状でも公開するのかい?」
刑事がメグレに説明した。
「こいつらを難なくつかまえることができたのは幸運でした……エタンプを過ぎてから、われわれはこの二人の憲兵を乗せたんです……二人とも警戒態勢を敷いていたのですが、やつらの車を黙って通過させてしまいましてね……ところが、オルレアンから五十キロのところで、逃走者たちの車がパンクしたのです。やつらは道路の真中で車を停め、われわれのほうに銃を向けました。だが、最初に手をあげたのは修理屋です……そうでなければ、激しい撃ち合いになっているところでした……。われわれが前進していくと、イタリア人がそれでも、ブローニングを二発撃ちました、当りませんでしたが……」
「ねえ、警視さん! あっしの家であなたに一杯さしあげましたね……この刑事さんも喉が渇いているんですよ……」と、オスカールが口をはさんだ。
メグレはガレージで縛られている修理工を連れてくるように命じた。まるで、敵の数をかぞえたいみたいだった。
「さあ、みんな壁にくっついて立つんだ!」と、メグレは命令した。「ミショネはあっちの端だ! エルゼに近づこうとするな……」
保険屋は毒を含んだ視線をメグレに投じると、壁のいちばん端に行って傲然《ごうぜん》と立った。口ひげが垂れさがり、拳でなぐられた目が腫れあがっている。
その隣りが修理工。両手はまだ電線で縛られたままだ。つぎが、しょげかえっているオスカールの痩せた女房。つづいてオスカール。だぶだぶのズボンのポケットに手が入れられなくていらいらしている。最後が、エルゼとイタリア人。イタリア人はこの一味ではいちばんのきざっぽい男らしく、手の甲に裸の女の入墨をしている。
メグレは満足そうに口を軽くとがらせて、一味をゆっくりと、順々にながめた。それから、パイプにたばこを詰め、石段のほうへ歩いて行き、ガラス張りのドアを開けて言った。
「リュカ、やつらの姓名と職業と住所を控えてくれ……それがすんだら、私を呼ぶんだ!」
……一味は六人とも壁際に並んでいる。リュカはエルゼを指さして訊いた。
「この女にも手錠をかけるんですか?」
「もちろんだ!……」
すると、エルゼが毒づいた。
「ちくしょう、警視め!」
庭には陽が満ちている。たくさんの鳥が囀《さえず》っている。地平線上では、村の小さな鐘楼の風見鶏が、まるで金のようにきらめいていた。
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第十章 殺人者は?
メグレは客間にもどってきた。二つのフランス窓は開け放たれ、ときおり春風がさっと入ってくる。リュカは身元調べを終えていたが、まるで兵舎の一室を思いおこさせるような雰囲気だった。
一味は相変わらず壁際に並べさせられていたが、列が前よりはいくぶん乱れている。少くともそのうちの三人は、警察を屁《へ》とも思わない連中だ……オスカール、修理工のジョジョ、イタリア人のグイード・フェラーリ。
オスカールはリュカにつぎのように答えている。
「職業は自動車修理屋兼ガソリン・スタンドだ。こうもつけ加えておいてほしいな……元プロ・ボクサー、一九二〇年に登録選手となり、一九一三年にライト・ヘビー級のパリのチャンピオン……」
刑事たちがまた新たな一味を二人連行してきた。毎朝のように出勤してきた自動車修理屋の職工たちだ。この二人も、他の連中と一緒に壁際に立たされた。そのうちの一人は、ゴリラのような顔をしていて、だらだらした声で、ただこうたずねただけだった。
「どうしたというんです? ぱくられちまったんですかい?」
連中はいっせいにしゃべりだした。先生がいなくなった教室のようだ。肘で突っつき合ったり、からかい合ったりしている。
哀れっぽい様子をしているのは、ミショネだけだ。がっくりと肩を落し、床を不機嫌そうに見つめている。
エルゼのほうは、メグレをまるで共犯者のような目つきでながめている。二人はよく理解し合っているのだろうか? オスカールが悪どい冗談をとばすと、彼女は警視に軽くほほえんでみせた。
エルゼだけは、いわば違う階級の人間のように自分をみせていた!
「少し静かにしたらどうだ!」とメグレはどなった。
しかし、ちょうどその瞬間、箱型車体の小型車が石段の下で停った。凝った服装の男が、診察鞄を小脇に抱えて、せかせかと車から降りてきた。石段を勢いよくあがり、客間にさっと入ってきたが、壁際に並ばされている連中を見て、びっくりしたようだった。
「負傷者は?」
「リュカ、先生のお世話をたのむ……」
カール・アナセンのために呼ばれたパリの有名な外科医だった。外科医は心配そうな顔をして、リュカ部長刑事のあとについて行った。
「あの医者の面《つら》、見たか?」と、オスカールがまたふざけた。
眉をひそめたのはエルゼだけだった。青い目がいくぶん曇った。
「静かにできんのか!」と、メグレがまたもやどなった。「無駄口をたたくのはあとにしろ……おまえたちは忘れているようだが、少くともこのなかの一人は首がなくなるんだぞ!」
そう言うや、メグレは列の端から端までゆっくりと見回した。その言葉は、思ったとおりの効果をもたらした。
外では、太陽が相変わらず輝き、春めいている。庭では鳥が囀《さえず》りつづけ、木の葉の影が小径の砂利の上でかすかにゆらめいている。
けれども、客間では、連中の唇は乾いてきて、目からも自信の色が消えうせている。
しかし、うめき声をあげたのはミショネ一人だった。思わず洩らしてしまったので、ミショネ自身が最初にびっくりして、恥じ入って顔をそむけた。
「おまえたち、よくわかったらしいな!」
メグレは両手を後ろに組んで、客間のなかを大股に歩きはじめた。
「時間を節約しよう……ここで取調べが終らなければ、警視庁のほうで続きをやる……みんな、あそこは知っているな? よし! では、最初の犯罪……イザック・ゴードバーグは至近距離から射殺されていたが、『三寡婦の十字路』ヘゴードバーグを呼びよせたのはだれだ?」
連中は黙って、とげとげしく顔を見合わせている。頭上で、外科医の足音が聞こえる。
「さあ、だれなんだ! もう一度繰り返すが、取調べがつかなければ、警視庁でもつづけるからね……あそこだと、一人ひとり、別々にしてやる……ゴードバーグはアントワープにいた……彼は二百万フランのダイヤモンドを売りたがっていた……だれがゴードバーグを呼びよせたんだ?」
「あたしよ」と、エルゼが答えた。「あたし、コペンハーゲンでゴードバーグと知り合ったの。彼が盗品の宝石を専門に扱っていたことは知っていたわ。ロンドンの押込み強盗を新聞で読んだとき、ダイヤモンドはアントワープに運ばれたようだと書かれていたので、これはゴードバーグが一枚噛んでいるんじゃないかと予想したの。オスカールにそのことを話すと……」
「こいつは幸先が良いぞ」と、オスカールがぶつぶつ言った。
「ゴードバーグに手紙を書いたのはだれだ?」
「この|あま《ヽヽ》ですよ……」
「話をつづけよう……ゴードバーグは夜中にここに着いた……そのとき自動車修理屋にいたのはだれだ? とりわけ、殺すのを引受けたのはだれだ?」
沈黙。階段にリュカの足音。部長刑事は刑事の一人に話しかけている。
「アルパジョンに大急ぎで行って、なんとか医者を連れてきてくれ、先生の助手になってもらうんだ……あっ、樟脳《しょうのう》油をもってきてくれ……わかったか?」
そう言いおくと、リュカは二階にもどって行った。メグレは額に皺をよせて、一味の連中をながめた。
「それでは、もっと古いことに話をもどそう……そのほうがずっと簡単だろうからな……いつから盗品の隠匿《いんとく》商売をはじめたんだ、おまえは?」
メグレはオスカールをじっと見つめた。この質問はこれまでのよりはややっこしくはないようだった。
「ね、やっぱりそうでしょう! 警視さんは、あっしが盗品の隠匿をしただけだと認めてくださっている……やっぱりね!」
彼は大変な役者だ。仲間たちをかわるがわる見つめては彼らの唇に微笑を取りもどさせようと努めている。
「女房とあっしは、これでもまじめな人間なんですよ。そうだな、おまえ? こんなことになっちまったわけは簡単なんです……あっしはボクサーでした……一九二五年に、タイトルを失ったとき、あっしにあたえられた仕事は、トローヌの市場の屋台の店員でしたね……つまらねえ仕事でね……いいやつとも、悪いやつとも付き合いましたが、そのなかに、取込み詐欺でうまい汁を吸っている男がいましてね……もっとも、二年後には捕まってしまいましたが……。
あっしもその手で行こうと思ったんです……しかし、あっしは若い頃修理工をやっていたもんで、自動車修理屋をやることにしたわけですよ……あっしの下心では、車やタイヤやいろんな部品を委託してもらい、そいつをみんな、こっそりと転売してしまって、夜逃げする肚《はら》でした……それで、四十万ばかりの金をふところに入れる計算だったんですが……。
だが、うまくは行かなかった。そんな手は古すぎたんですね。大きな会社は信用貸で品物をわたす前に、入念に調べるんですよ。
そんなときに、盗んだ車をもってきて、塗りかえてくれというやつがいましてね……バスチーユの居酒屋《ビストロ》で知り合ったやつです……塗りかえることなんかたやすいことなんだが、やつはそうとは思わない……。
パリではすぐに噂がたってしまうからね……ところが、ここは場所がいい、隣人がほとんどいないからね……そのうち、盗んだ車が十台も二十台もくるようなった……つづいて、ブージヴァル付近の別荘で盗んだ銀の食器類をたくさん積んだ車もやってきましてね……そいつをみんな隠しておいて、エタンプや、オルレアンや、それよりもっと遠くの古物商に処分したわけです……。そいつが習慣になってしまいましてね……いい金づるでしたから……」
そう言うと、修理工のジョジョのほうを向き、
「タイヤの一件はばれてしまったのか?」
「もちろんですよ」と、修理工が溜息をついた。
「なんて面白い恰好しているんだ、電線なんか巻きつけちゃって。コンセントにつなげば、ちょうちんのようにおまえに灯がともるぞ」
「イザック・ゴードバーグは自分の車でここにやってきた、例のミネルヴァ車だ……」と、メグレが口をはさんだ。「おまえたちは彼を待ちうけていた。ダイヤモンドを買うためではない、もちろん安値ででもだ。とにかく奪うつもりだった……奪うためには、ゴードバーグを殺さなければならない……そこでガレージの中か、裏手にある家のなかにだれかが隠れていて……」
しーんと静まりかえっている! ここが肝心なところだ。メグレはまたもや連中の顔を順々に見回した。イタリア人の額にかすかに汗がうかんでいる。
「殺したのは、おまえだな?」
「いや、ちがう! そいつは……そいつは……」
「だれだ?」
「やつらだ……」
「嘘だ!」と、オスカールはわめいた。
「だれが殺しを引き受けた?」
すると自動車修理屋はからだを左右に揺すりながら、「階上《うえ》にいるやつだ、あいつだ!」
「もう一度言え!」
「階上《うえ》にいるやつだ!」
しかし、その声はもはや前とおなじように確信ありげではなかった。
「こっちに来るんだ!」
メグレはエルゼを指さした。オーケストラの指揮者が気軽に、各種の楽器を指揮するのに似ていた。気軽にやっているが、それでも全体のハーモニーは完璧だ。
「おまえはコペンハーゲンで生れたのかね?」
「おまえなんて言うと、一緒に寝たことがあると思われてしまうわ」
「いいから、答えるんだ……」
「ハンブルグよ!」
「父親の職業は?」
「沖仲仕《おきなかし》よ」
「いまでも生きているのか?」
彼女はぶるっと身震いすると、誇らしげな表情をかすかにうかべて仲間たちを見た。
「デュッセルドルフで斬首刑になったわ」
「母親は?」
「飲んだくれているわ」
「おまえはコペンハーゲンで何をしていた?」
「水夫の情婦よ……ハンスっていうの。ハンサムな男で、ハンブルグで知り合ったのよ。彼にコペンハーゲンに連れて行かれたんだけど、じつは彼、強盗の一味でね……ある日、銀行に押し入ることになったの……、万全の処置がとられていて……一晩で数百万の金をものにできるはずだったわ……あたしが見張り……でも、裏切者がいたのね。銀行のなかで金庫を破りはじめたときに、警官に包囲されてしまったのよ……。
真暗な夜だったから何も見えなくて……あたしたち、ちりぢりになって逃げたわ……銃声や、叫び声や、追っかけてくる足音が聞こえるの……あたしの胸に弾丸《たま》が当ったわ……あたし、走ったんだけど、二人の警官につかまってしまって……でも、一人に噛みつき、もう一人の下腹を蹴っとばして、相手がひるんだ隙に逃げ出したの……。
でも、しつこくあたしを追っかけてくるの……そのとき、庭の塀が目に入ったのね……あたし、その塀によじ登って、向う側にそれこそどすんと落ちちゃったの……気がついたら、とてもシックな、背の高い、上流階級の青年がそばに立っていて、面くらったような、憐れむような目であたしを見ていた……」
「カール・アナセン?」
「それは本名じゃないわ……そのうちに、あの人が自分で名乗るでしょ……もっと有名な名前よ……宮廷に出入りできる家柄なの……一年の半分はデンマークの美しいお城に住み、あとの半分は町の大邸宅に暮しているの。そこの庭といったら、町の四分の一の広さなのよ」
中風の小男を連れて刑事が入ってきた。外科医の手助けをする医者だ。彼は客間のなかの奇妙なグループを見てびっくりした。とくに、その連中のほとんどが手錠をかけられているのに気づいたときにはぎくっとなった。しかし、刑事が二階に彼を引っ張って行った。
「それから?」
オスカールがにやにや笑って、冷やかした。エルゼは荒々しい、憎悪に近い視線をそっちに投げた。
「こんなやつらになんか、わかりゃしないわ……」と、彼女はつぶやいた。「カールはあたしを両親の大邸宅に隠してくれて、医学生の友達と二人で、あたしの胸の傷の手当てをしてくれたの……そのときすでに、あの人は飛行機事故で片目を失っていて、黒い片眼鏡をかけていたわ……カールは、自分はもう一生醜い容貌になってしまったとあきらめてしまったんじゃないかしら……女はだれも自分を愛してくれないし、黒い片眼鏡をはずし、縫い合わされた眼瞼《まぶた》と、ガラスの義眼を見られたら、嫌悪されてしまうだろうと思い込んでしまったのね……」
「カールはおまえを好きになった?」
「そんなに簡単じゃないの……最初のうち、あたしわからなかったわ……この連中たちには」と、彼女は仲間たちを指さし、「絶対にわかりゃしないでしょ……カールの家はプロテスタントなの……だから、カールもはじめは、あたしの魂を救う考えだったのね……長ったらしい説教をしたり、聖書を読んでくれたり……そうしながらも、彼は両親の目をこわがっていたわ……あたしがほぼ回復したある日、カールはいきなりあたしの口にキスして、逃げて行っちゃったのよ。それから一週間近く姿を見せなかったわ……もっとくわしく言うとね、あたしがかくまわれていた女中部屋の小窓から見ると、うなだれ、苦しそうな様子をして庭のなかを何時間も散歩していたわ……」
オスカールがうれしそうに腿《もも》をぴしゃりとたたいた。
「まるで小説のようにロマンチックじゃねえか」と、オスカールは叫んだ。「さあ、話をつづけてくれ、色女!」
「それだけよ……ふたたびあたしの前に姿をあらわしたとき、結婚を申し込んだわ。でも、デンマークでは結婚できないから、外国に行こうと言うの……カールは、人生の何たるかがやっとわかった、今後は無為に過さないで何か目的をもつつもりだと言ったわ……つまり、それだけよ」
また品のない言葉遣いになってきた。
「あたしたちアナセンっていう名前でオランダで結婚しちゃった……おもしろかったな……あたし、だまされているんじゃないかって思ったこともあったけど……カールって、すばらしいことたくさん言ったわ……ただね、服の着かたをああしろ、こうしろ、テーブルでは行儀よくしろ、アクセントはなくせとかうるさく言うのにはまいったな……それに本を読ませるし、美術館には連れていくしで……」
「なあ、おまえ!」と、自動車修理屋は女房に向って言った。「年齢《とし》を取ったら、おれたちも美術館とやらに行ってみたいな……そしてな、手を取り合ってモナ・リザにうっとりと見とれるんだ」
「あたしたちがここに住んだのは」と、エルザがペラペラとしゃべりつづけた。「カールがあたしの昔の共犯者にでくわすのを恐れたからよ……カールは両親の財産をあきらめたんだから、生きるために働かなければならなくなったわ……人目をごまかすためにさ、あたしを妹ということにしたのよ……でも、あの人、いつも不安そうで……門の呼鈴《よびりん》が鳴るたびに、ぎくっとなったわ……ハンスが脱獄したまま行方がわからなかったから……カールはたしかにあたしを愛していたけど……」
「しかしながら……」と、メグレは夢見るように言った。
すると、エルゼは突っかかるような口調で、話をつづけた。
「そこよ、あたしが見てもらいたかったのはそこなのよ! あたしたち、しじゅう二人きり……話といえば、善だの、美だの、魂の救済だの、神へ一歩でも近づけだの、人間の宿命だのばかり……それと、行儀作法……おまけに出かけるときには、あたしが誘惑されるといけないという口実で、部屋に閉じこめるのよ……本当に、カールったらひどく嫉妬深いんだから……もちろん情熱的でもあるんだけど……」
「だが、あっしのこの目はごまかされなかったな」と、オスカールが言った。
「何をしたんだ?」と、メグレは修理屋にたずねた。
「いやね、あっしは奴に目をつけたんですよ! そんなことはわけねえですからね……女の態度がどうもいんちきくさいと感じたわけで……いっとき、兄貴のほうがまともじゃないんじゃないかって疑ったこともあるんですが、こっちのほうには近づかないようにして、この|あま《ヽヽ》のまわりだけをうろつき回った。さわぐんじゃないよ、かあちゃん! 何やかやと言ったって、おれはいつでもおまえのところにもどってくるじゃねえか……みんな、商売上のことさ! あっしは片目がいないときに、あの家のまわりをうろつき回った……ある日、この|あま《ヽヽ》とことばをかわした。部屋に閉じ込あられていたから、窓越しにね。彼女はすぐにこっちの気持を見抜いたよ……だから、あっしは鍵の押型を取らせるため、蝋の小さな球を投げてやった。つぎの月に、庭の奥で会って、いろいろな話をしてみると……たいして悪賢い|あま《ヽヽ》じゃねえ……彼女はあのお殿さまにはうんざりしている。……やくざの世界に心を惹かれているってわけです!」
「そのときから」と、メグレはゆっくりと言った。「エルゼ、おまえはカール・アナセンのスープのなかに、毎晩ヴェロナールを入れつづけたんだな?」
「そうよ……」
「そうやって、オスカールに会いに行ったわけだ?」
自動車修理屋の女房は目を赤くして、じっと涙をこらえている。
「この二人はわたしをごまかしていたんです、警視さん! 初めのうち、うちの主人は、あれはただの女友達だ、あの穴から出してやるのは善行だ、なんて言ってたんですよ……そのうち、夜になると、わたしとあの女をパリに連れて行くようになったのです……パリでは、友達とどんちゃん騒ぎ……それでも、わたし、だまされつづけていて……あるとき、二人の現場を押さえて……」
「それがどうだというんだ? 男は坊主じゃねえんだぞ……あの女がしおれていたから、かわいそうになって……」
エルゼは黙っている。目がどんよりしていて、居心地が悪そうだった。
突然、リュカがまた降りてきた。
「この家のなかに燃料アルコールはないですか?」
「どうする?」
「手術道具を消毒するのです」
エルゼが台所へ走って行き、壜を何本かひっくり返した。
「これがそうだわ!」と彼女は言った。「あの人、大丈夫? あの人、苦しんでいる?」
「あばずれめ!」話の初めから意気消沈していたミショネが、吐きすてるようにつぶやいた。
メグレはじっとミショネを見つめていたが、自動車修理屋にたずねた。
「それで、ミショネは?」
「まだわからないんですか?」
「大体のところはわかっている……ここの十字路には三軒の家がある……毎晩、トラックの奇妙な往来があったわけだ……パリに野菜を積んで行ったトラックが、帰りには盗品を運んでくる……三寡婦の家のほうは心配ないが、残りはミショネの家だ」
「おまけに、盗品を田舎に売っ払ってもらうのに恰好な人間がいないところだったもんで……」
「ミショネを仲間にひっぱり込んだのはエルゼか?」
「こんなにいい女でなくてもよかったんですがね!やっこさん、すっかり夢中になってしまって……ある晩、彼女がやっこさんをあっしらのところへ連れてきた……シャンパンをふるまってやってね……また、べつなときにはパリに連れて行って、どんちゃん騒ぎをやってやった、やっこさんの細君には視察旅行だということにして……やっこさん、それですっかりまいっちまってね……一味に入ったわけなんです……それはいいんですが、何とも滑稽なのは、やっこさん、すっかりうぬぼれてしまい、青二才のように嫉妬深くなってしまったことですよ……滑稽でしょ? まるで、銀行の出納係のような、しかつめらしい顔をしているくせに……」
階上《うえ》で、何とも言いようのない物音がした。エルゼの顔色が蒼ざめた。それ以後は、じっと耳をすませているだけで、尋問なんかどうでもいいようだった。
外科医の声が聞こえた。
「押さえつけて……」
庭の小径の白い砂利の上で、二羽の雀が跳びはねている。メグレはパイプにたばこを詰めながら、またもや連中を見回した。
「あとはもう、だれが殺したのかを知るだけだ……おとなしくしろ!」
「あっしは盗品を隠匿しただけで、そんなヤバいことはしていない……」
メグレはいら立ち、修理屋を突きとばして黙らせた。
「エルゼは新聞で、二百万フランのダイヤモンドが、ロンドンで盗まれたことを知った。彼女はそのダイヤがイザック・ゴードバーグの手許にあるにちがいないと考えた。ゴードバーグとは、彼女がコペンハーゲンの強盗一味に加わっていたときに知り合ったんだ……そこで、ダイヤをいい値段で買い取るから、自動車修理屋まで会いに来てほしいという手紙を、エルゼは書いた……ゴードバーグは彼女のことを覚えていて、用心もしないで車でやってきた……。
修理屋では、シャンパンを飲んだ。みんなに応援を頼んだ……言い換えると、おまえたち全員が、その場にいたということになる……大変だったのは、殺してしまってからの、死体の跡始末だ……。
ミショネはいらいらしていたにちがいない。こんな大仕事にたずさわるのは初めてだったからだ……。それで、ミショネには他の連中よりもたくさん酒を飲ましたんだろう……。
オスカールはどこか遠くの溝のなかに死体を投げ棄てる肚《はら》だったはずだ……。
しかし、エルゼはうまい考えを思いついた……黙らないか! エルゼは昼間は閉じ込められ、夜だけこっそり忍び出るような生活にうんざりしていた……美徳だの、善だの、美だのといった話にもうんざりしていた……。また、ちびりちびりと金を遣う、みじめな暮しにもうんざりしていた……。
エルゼはしまいにはカール・アナセンを憎むようになった。しかし、カールが彼女を失うくらいなら殺しかねないほど愛していることを、エルゼは知っている。
エルゼは飲んだ! 酔って勇ましくなった! びっくりするような考えが頭にうかんだ……この罪をカール自身にかぶせてしまおうというのだ! カールのほうは彼女を疑いさえしないだろう、盲目的に彼女を愛しているんだから……。そうだな、エルゼ?」
初めて、彼女は顔をそむけた。
「ミネルヴァ車は塗りかえて、この土地から遠く離れたところにもっていき、売るか棄てるかすればいい……みんなに疑いがかかるようなことは避けなければいけないのだ……とくに、ミショネはこわがっていた……そこで、ミショネの車を盗むことに決めた。それが彼の疑いを晴らすもっともいい方法だったからだ。ミショネが最初に訴え出て、消えた六気筒車のことを騒ぎ立てる……だが、警察にはカールのところへ行ってもらい、死体を見つけてもらわなければならない……車の取替えは、そこから生れたアイデアだ。
死体は六気筒車のハンドルにもたせかける。薬を飲まされたアナセンは、いつものようにぐっすり眠っている。六気筒車を彼の車庫に入れ、かわりに五|CV《シュヴォー》をミショネの車庫に運んだ……。
警察はさっぱり見当がつくまい! それにうまいことに、この土地ではカール・アナセンはあまりお高くとまっているので、気違いじみた男とみなされている……百姓たちは彼の黒い片眼鏡をこわがっている……。
カールが疑われる。この風変わりな事件と、彼の評判や容貌がぴったり一致する。そのうえ、容疑者である彼の本名がわかってしまったら、スキャンダルが家族にもおよびかねないので、自殺してしまうかもしれない……」
アルパジョンの小柄な医者が、ドアの隙間から顔を出した。
「もう一人頼みますよ……患者を押さえつけるんです……麻酔がうまくきかないもんで……」
小柄な医者は顔が真っ赤で、いかにも忙しそうだった。庭にまだ刑事が一人残っていた。
「行ってやれ、きみ!」
まさにその瞬間、メグレは胸に思いがけないショックをうけた。
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第十一章 エルゼ
エルゼがメグレの懐に飛び込んできたのだ。激しくしゃくりあげて泣きながら、彼女は嘆くような声でどもりどもり言った。
「あの人が死んじゃいや! まさか、死ぬなんてことは! あたし……恐ろしい……」
それは人の胸を打った。彼女のあまりの真摯《しんし》な態度に、壁際に並んだ悪党づらした男たちもあざ笑うことも、冷やかすこともできなかった。
「階上《うえ》へ行かせて! お願いですから……あんたにはわからないわ……」
いや、だめだ! メグレは彼女を押しのけた。彼女は黒ずんだソファにくずおれた。メグレが初めてエルゼに会ったとき、立ち襟の黒ビロードのドレスを着て、謎めいた感じでこのソファに坐っていた。
「結末を言おう! ミショネは自分の役をみごとに演じた……むごたらしい事件だったが、自分の六気筒車のことしか考えないおかしな小市民の役柄でよかっただけに、ごく気楽に演じることができたのだ……捜査がはじまり、カール・アナセンは逮捕された……偶然にも、彼は自殺しなかったし、釈放さえされた……。
一瞬たりとも、彼は自分の妻を疑わなかった……これからも疑わないだろう……明白な事実を拒否して彼女の弁護さえするだろう……。
ところが、ゴードバーグ夫人がやってくるという知らせがあった。夫人はおそらく夫を罠《わな》にはめた人間を知って、警察にしゃべるにちがいない……。ダイヤモンド商を殺したとおなじ人間が夫人を待伏せした……」
メグレは一人ずつ見回し、そのあとは、いかにも決着をつけるのを急ぐといったように、口調を早めた。
「犯人はカールの靴をはき、畑の泥を一杯つけてここに置いておいた……それが証拠になることを望んだんだ! デンマーク人に罪をなすりつけてしまわなければ、本物の犯人がやがて暴かれてしまう……不安でたまらなくなった……。
そのとき、アナセンはパリに行かなければならなくなった。金がなくなったからだ。最初の二つの殺人を犯したおなじ人間が、警察官になりすませて路上で待伏せ、アナセンの車に乗り込んだ……。
これを計画したのはエルゼではなく、オスカールじゃないかな……。その人間はアナセンに、国境まで送ってほしいとか、北部地方のどこかの町で人と会わなければならないとか言って、パリを通り抜けさせた。コンピエーニュ街道の両側は密生した森になっている……犯人はすぐ近くから、またもや撃った……おそらく後ろから車が来る音が耳に入ったにちがいない……死体を溝のなかに棄てた……帰りに、念入りに隠すつもりだった……。すばやく、カールに疑いを向けなければならない。そのため、アナセンの車はベルギー国境から数百メートルのところに乗り棄てにされた……。
警察にどうしても、『彼は外国へ逃げた……したがって彼が犯人である』と思わせるためだ。
犯人は他の車で帰ってきた……だが、死体は溝のなかにはない……足跡が残っているところからみて、命は取りとめたらしい……。
そこで、犯人はパリからオスカールに電話した……警官がうじょうじょしている土地にもどるつもりなど毛頭なかった……。
ところが、カールは妻を愛している……生きていれば、もどってくる。もどってくれば、警察にしゃべるだろう。
片づけなければならない……。オスカールは冷静を失ってしまった。だが、自分でやる気はなかった……。
ミショネを使えばいいのではないか? ミショネはエルゼのためにすべてを犠牲にした。エルゼのためなら死をも辞さない……。
計画は念入りに検討された。オスカール夫婦はこれ見よがしにパリに出かけた。行く先々を一々あきらかにして……。
ミショネが自宅に私を呼んで、痛風で肘掛椅子から動けないというところを見せた。
きっとミステリを愛読しているのだろう……保険を勧誘するときのような、手管を弄した……。
私が帰るとすぐに、箒《ほうき》の柄とぼろ切れを丸めて替玉にした。芝居は上々だった……外からみると、完全にあざむかれる……おまけに、ミショネ夫人までびくびくしながらも、カーテン越しに病人の世話をやいている役を演じたりした……。
ミショネ夫人はこの事件に女がからんでいることを知っている……彼女も嫉妬していた……だが、どうやっても夫を救いたかった。いずれは自分のもとへもどってくるという希望を抱きつづけていたからだ。
彼女は間違っていなかった……ミショネは自分がだまされていることを悟った……もう、エルゼを愛しているのか憎んでいるのかさえわからなくなった。ただわかっていることは、彼女が死ねばいいということだ……。
彼はエルゼの家のなかは知りつくしている……エルゼが毎晩ビールを飲むことも知っていたはずだ。
そこで、台所のビール壜のなかに毒を入れると、カールの帰ってくるのを外で待伏せし、撃った……だが、あちこちに警官がいたので、進退きわまった……ずっと前から水の涸れた井戸のなかに隠れた。
それは数時間のことにすぎない。その数時間のあいだに、ミショネ夫人は自分の役割を果たさなければならなかった……彼女はある命令を受けていた……自動車修理屋のまわりで何か異常なことがあれば、パリのビヤホール『サン・マルタン』に電話せよ、という命令だ。
ところで、私は自動車修理屋に行った……彼女は私がなかに入るのを見た……私は拳銃を撃った……。
二階の明りを消して、共犯者たちの車に停ってはいけないという合図をした。
パリに電話がかけられる……オスカールは女房とグイードと一緒に車に飛び乗り、疾風《はやて》のようにやってくると、拳銃を撃ちまくって私を殺そうとした。何かをつかんでいるのは私一人だけだったからだろう。
オスカールたちの車はエタンプからオルレアン国道へと走った。別の道を取れば逃げおおせたかもしれないのに、なぜこちらの道を選んだのか?
それは、修理工のジョジョがスペア・タイヤをわたしたトラックが、この道を走っていたからだ、……『このスペア・タイヤには、例のダイヤモンドが入っていた!』
だから、そのトラックに追いつき、ダイヤを取りもどして国境を越える肚だった。
これで全部かな? 黙っていろ! 何も訊いてはいないぞ! ミショネは井戸のなかだ……エルゼは、ミショネがそこに隠れているんじゃないかと思っていた……自分を毒殺しようとしたのがミショネであることを、彼女は知っている……彼女はこのお人好しの性質をちゃんと見抜いている。捕まれば、何でもしゃべってしまうだろう……そこで、彼女はこの男を片づけようと考えた……。
この反応は間違っていたか? いずれにせよ、彼女はミショネと井戸のなかだ……彼女は拳銃をにぎりしめている……だが、ミショネは彼女の首に飛びかかり、片手で喉を締め、もう一方の手で拳銃を持った手を押さえつけた。暗闇のなかで闘いがつづけられた……弾丸が一発、発射され……エルゼは思わず叫び声をあげた。命が惜しくて……」
メグレはマッチを擦って消えたパイプの火をつけた。
「オスカール、どうだ?」
オスカールはしかめっ面をして、
「あっしには何も言うことはありませんよ……盗品を隠匿しただけですからね……」
「嘘だ!」と、隣りのグイード・フェラーリがわめいた。
「よし……私はおまえがしゃべるのを待っていた……撃ったのはおまえだからな! 三度とも! まず、ゴードバーグ……ついでゴードバーグ夫人……最後は車のなかでカールを……そのとおりさ! おまえは根っからの殺し屋だ……」
「嘘だ!」
「静かにしろ……」
「嘘だ! 嘘だ! おれはしたくはなかった……」
「おまえは自分の首がかわいいだろうが、カール・アナセンがあとでおまえのことを認める……それに、他の者たちもおまえを見棄ててしまうさ……やつらは豚箱だけですむんだから」
すると、グイードはきっとなり、恨みをこめてオスカールを指さした。
「命令したのはこいつだ!」
「畜生!」
メグレが制止しようとしたときには、すでに自動車修理屋は手錠をかけられたままの両の拳でイタリア人の頭をなぐりつけていた。
「悪党め! いまにみていろ、仕返しをしてやるからな……」と、イタリア人は叫んだ。
二人はバランスを失って、床に転がった。だが、憎しみに燃えた二人は自由の利かない両手で、あばれつづけた。
そのとき、外科医が降りてきた。
手袋をはめ、明るい灰色の帽子をかぶっている。
「失礼……警視さんがここにおいでだということですが……」
「私です……」
「負傷者のことですが……助かりそうです……しかし、絶対安静が必要ですので、入院するように言ったのですが……どうもそれができないらしいのです……せいぜい三十分後には意識を取りもどすでしょうから、望ましいのは……」
叫び声。イタリア人が自動車修理屋の鼻に噛みついたのだ。女房が警視のほうへ駆けよってきた。
「早く! あれを見て!」
メグレは蹴とばして、二人を引き離した。外科医は不愉快そうに口をとがらし、そらぞらしい態度で車に乗り込むと、エンジンをかけた。
ミショネは片隅で声を忍ばせて泣いていて、まわりを見ようともしない。
グランジャン刑事が知らせにきた。
「囚人護送車が到着しました……」
一人ずつ、外に連れだされた。連中はもうにやにや笑いもしなければ、虚勢を張ろうともしなかった。護送車の手前で、イタリア人と、そのすぐそばにいた修理工ジョジョとの間でまたもや騒ぎがもちあがりそうになった。
「泥棒! ならずもの!」と、恐怖でわれを忘れたイタリア人が叫んだ。「おれは約束の金をもらってもいないんだぞ……」
エルゼがしんがりだった。彼女がしぶしぶ、ガラス張りのドアから陽の当る石段に出ようとしたとき、メグレがちょっと言葉をかけた。
「どうした?」
彼女はメグレのほうを振り向き、カールが横たわっているあたりの天井をながめた。別れがたいのか、それとも罵詈雑言《ばりぞうごん》でも浴びせようというのか。
「なんだって言うの? あの人のせいだってあるのよ!」と、彼女はごく当り前の口調で言った。
かなり長い沈黙。メグレは彼女をじっと見つめている。
「じつは……あたし、あの人のこと悪く言いたくないんだけど……」
「言いたまえ!」
「あんたも知ってるでしょ……あの人のせいなのよ……偏執狂的なんですもの……あたしの父親が泥棒で、あたしが強盗の一味に入っていたことを知って、あの人取り乱したのね……あたしを愛したのは、そのためだったかもしれないわ……それに、あたしがあの人の言いなりになって、おとなしい娘になっていたら、やがてあの人はつまらなくなって、あたしを棄てたかもしれないわ……」
彼女は顔をそむけ、いままでより低い声で、恥かしげに言った。
「それでもやはり、あの人の身に不幸が起こらなければいい……どう言ったらいいのかしら? あの人って、シックな人なの! 少々気違いじみたところがあるけど……」
そう言うと、彼女はほほえんでみせた。
「あんたにはまたお目にかかることになるんでしょうね……」
「殺したのはグイードだね?」
そのセリフは余計だった。エルゼはまた娼婦の態度にもどった。
「そんな手には乗らないわよ!」
彼女が護送車に乗り込むまで、メグレは目を離さなかった。彼女は三寡婦の家をながめ、肩をすくめると、彼女をせきたてた憲兵に何やら冗談を言った。
「これは、三過失の事件と呼べるかもしれない!」と、メグレはわきに突っ立っているリュカに言った。
「三過失と言いますと?」
「まず、エルゼの過ちだ。雪景色の絵をちゃんと直したり、階下《した》でたばこを喫ったり、蓄音機を自分の寝室に運びあげたりした。寝室に閉じ込められているはずなのにね。それと、自分が危機に瀕すると、カールをかばうふりをしながら罪を負わせてしまったことだ。
つぎは、保険屋の過ち。自宅に私を呼びよせて、夜どおし窓辺にいることを見せたことだ。
第三は、修理工のジョジョの過ち。私がいきなりあらわれたので、すべてがばれてしまうのを恐れ、トラックの運転手にダイヤの入った小さすぎるスペア・タイヤをわたしたことだ。この三つさえなかったら?」
「なかったら?」
「そうだな、エルゼのような女のみごとな嘘にひっかかってしまったかもしれない。あの女は自分の嘘をしまいには信じ込んでしまうんだから……」
「私の言ったとおりだったでしょう!」
「そうだ! 彼女はすばらしい女になれたかもしれない……あのやくざな世界をなつかしがって、もどろうとさえしなかったなら……」
カール・アナセンは生死の境を一カ月近くさまよった。知らせをうけて家族の者は、このときとばかりに彼を故郷に連れ帰り、まるで精神病院のような保養所に入れてしまった。そのため、パリで裁判が開かれたとき、証人席にはあらわれなかった。
意外なことに、デンマークからの犯人引渡し要求は拒絶され、エルゼはまずフランスのサン・ラザール刑務所で三年の刑に服することになった。
その三カ月後に、メグレはサン・ラザール刑務所の面会室で、所長と言い合っているカール・アナセンの姿を見かけた。
カールは結婚証明書を見せ、囚人のエルゼに面会する許可を求めているのだった。
カールはほとんど変わっていなかった。相変わらず黒い片眼鏡をかけている。ただ右肩が、前よりはいくぶんこわばっている感じだった。
警視の姿に気がつくと、どぎまぎして顔をそむけた。
「よく両親が出してくれたね?」
「母は亡くなりました……私は遺産を相続しました」
刑務所から五十メートルほどのところに停っているリムジン車はカールのものなのだ。大そうな服装をした運転手付きである。
「それにしても、きみは根気がいいね……」
「いま、パリに住んでいます……」
「彼女に会いに来るために?」
「私の妻ですから……」
そう言うと、片目でメグレの顔をうかがった。皮肉か、憐れみでも読みとれるんじゃないかと、ひどく不安そうだった。
警視はカールの手をにぎっただけだった。
ムランの中央刑務所では、二人の女が別れられない友だちのように、一緒に面会にやってきた。
「うちの人は悪人じゃないわ!」と、オスカールの女房が言った。「むしろ人がよすぎるし、気前がよすぎるのよ……カフェのボーイに二十フランもチップをあげたりしてね……うちの人がだめになったのはその気前のよさと、それに女ね……」
「うちのミショネもあの女を知る前には、お客さまに一銭だって迷惑をかけたことがなかったんですのよ……でも先週、あんな女のことはもう忘れてしまったと、はっきり言ってましたわ」
重罪者刑務所で、グイード・フェラーリは弁護士が特赦の知らせをもってやってくるのを待ちわびていた。だが、ある朝、五人の男が彼を連れ出しにきた。彼は手足をばたばたさせ、わめいた。グイード・フェラーリは最後のたばことラム酒を拒み、刑務所付司祭のほうに唾を吐いた。(完)
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訳者あとがき
テープレコーダーに口述して、出版しつづけている回想録は、今度の『人間の価値』Le Prix d'un hommeで早くも十五冊目になる。スイスのローザンヌに隠棲したのが一九七二年九月十八日、七十歳のときであるから、年平均二冊の割合で出版している勘定になる。相変わらずのシムノンらしさだが、小説のほうは健康を理由にして書いていない。もちろん、「メグレ・シリーズ」もだ。われわれとしては「回想録」より、一冊でもメグレ物を書いてほしい気持なのだが……。
「回想録」をこれだけ執拗に口述しつづけるということは、シムノンは自分の死を凝視しつづけているのかもしれない。新作『人間の価値』でも死にふれた部分が多い。ちょっとぱらぱらとめくってみただけでも、
「人間は生れ、死ぬ。そして他の人間たちがその人間に取って替る」
「今の私には、幼年時代と老年とが一つにぴったりくっついてしまっている。死の間近いことのしるしだ」
「この、死の間近い老人にとって、もう情熱的な恋は危険だ……」
といった風だ。
ところで、現在のシムノンの日常生活はというと、『人間の価値』によれば、「人間と列車が通るのを見すぎた踏切番のように」ローザンヌの小さな家に住み、自分よりずっと若い妻と共に安らかな幸福を味っている、「死を迎える日」を静かに待っている。西洋すももの中でさえずるつぐみの声に感動し、夏、レストランが混乱するのを面白がり、学生たちがスイス政府の奨学金をもらいすぎていることに憤慨し、道端のベンチに坐って新聞を読んだりする……。音楽も、芝居も、映画もない毎日。
ここに見られるシムノンは、もう、かつての『黄色い犬』『メグレのバカンス』『家の中の見知らぬ人』などをつぎつぎと発表し、世界をあっといわせた頃の面影はみじんもない。安らかな幸福と、平穏な毎日を静かに楽しんでいる一人の好々爺の姿があるにすぎない。そういうかぎりでは、われわれにとって淋しいかぎりだ。なぜ「回想録」ばかりではなく……これからも口述しつづけるであろう……、世界のメグレ・ファンのために、メグレ物を書く気を起こさないのか? 死後に発表する分まで書いておいたアガサ・クリスティーをみならって……。
しかし、真偽のほどはまだ定かではないが、ここに一つ朗報がある。『シムノンの秘密』という本を書いたデニ・チリナックという評論家の話によると、シムノンはメグレの新作を準備中だとのこと……本当なら、これほどうれしいことはないのだが。そうなったら、日本題名を『続・最後の事件』としよう、そのあとにまた一冊出たら『続々・最後の事件』としようなどと楽しい空想をしてしまう。
この『メグレと深夜の十字路』La Nuit du Carrefourは一九三二年の作品である。百二点あるメグレ物のなかでは初期にあたる。もう少し詳しく言うと、第一作『怪盗レトン』から数えて七番目、『黄色い犬』のつぎに執筆した作品だ。初期では本書と、『サン・フォリアン寺院の首吊人』と『黄色い犬』がいずれも傑作である。
初期のメグレ物を特徴づけているのは、重厚で、異様な雰囲気と、強烈なサスペンスである。本書にも、それが十二分にある。パリ近郊の畑の真中にある『三寡婦の十字路』と呼ばれるうら淋しい十字路。その十字路をかこむようにしてわずかに三軒の家があるだけ。一軒は三寡婦の屋敷といわれ、不気味な伝説がある。夜になれば、十字路は墨を流したような暗闇。その闇をついて、パリの市場へ向うトラックが疾走する。
今回メグレが捜査するのは、こういった一風変った場所なのである。一風変っているのは場所だけでなく、殺しもだ。この頃の作品は雰囲気描写だけではなく、登場人物や、トリックもなかなか凝っている。トリックはここに書くわけにはいかないが、登場人物のほうは、たとえば、デンマーク人の若い貴族アナセン、謎めいた魅力をそなえた、その妹と称するエルゼ、ボクシングの元チャンピオンの自動車修理屋、小心な保険の外交員と、多種多様だ。
「メグレ・シリーズ」は中期、後期のものになると、ほぼすべてがパリ市内での出来事になるのだが、初期はこのようにパリ郊外、または『サン・フォリアン寺院の首吊人』のように外国を舞台にしたものが多い。(訳者)