メグレと殺人者たち
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
訳者あとがき
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第一章
「失礼、奥さん……」
しばらくじっと我慢したあとで、メグレはやっと女客の話をさえぎることができた。
「いま、娘さんがあなたを時間をかけて毒殺しようとしていると言いましたね……」
「そのとおりですの……」
「さきほどは、あなたの義理の息子さんが廊下でうまく女中とすれちがい、あなたのコーヒーや、いろいろお飲みになる煎《せん》じ薬のなかに毒を流し込むと、やはり確信ありげに断言しましたが……」
「そのとおりですの……」
「しかし……」と、メグレは一時間以上つづいているこの会見のあいだ、取っていたメモを調べた、というより調べるふりをした。
「初めに、あなたは娘さんとその婿《むこ》さんが憎み合っていると言いましたよ……」
「それもそのとおりですの、警視さん」
「それではふたりは一緒になってあなたを殺そうとしているのですね?」
「とんでもございません! はっきり申しますと……そのふたりは別々にわたくしを毒殺しようとしているんですの、おわかりになって?」
「では、あなたの姪御《めいご》さんのリタは?」
「あの娘《こ》も別ですの……」
二月だった。天気は温和で、日が照っている。ときどき、空にただようふんわりとした雲からにわか雨が。 しかし、メグレは女客が来てから、これで三度もストーブの火をかき立てた。これは警視庁最後のストーブだった。警視庁にセントラル・ヒーティングが取りつけられたとき、メグレは大変な苦労をしてこのストーブを残しておいてもらったのである。
女客のミンクの外套の下は、黒い絹のドレスの下は、ジプシーのように耳や、頸や、手首や、胸など体じゅうにつけられているたくさんの宝石の下は汗だらけにちがいない。そう、彼女は貴婦人というより、ジプシーのように見えた。さきほどまで厚い皮をつくっていたけばけばしい化粧は、いまでは溶けはじめている。
「要するに、三人の人間があなたを毒殺しようとしているのですね」
「しようとしているんではありません……すでにはじめているのですの……」
「それで三人はそのことをおたがいに知らずに行動していると言い張る……」
「言い張るのではありません、たしかなことなのです……」
彼女のルーマニア訛《なま》りはコミックな芝居が得意なある有名な女優とおなじだったし、また急に怒りだすところも似ていた。メグレは彼女が怒りだすたびにびくっとなった。
「わたくしは気違いではありません……これをお読みになって……あなた、トゥシャール先生をご存知ですわね? 大きい裁判では必ず鑑定人として呼ばれる人です……」
彼女はあらゆる手を打っていた。パリでもっとも有名な精神病医に相談し、自分がまったく正気であるという証明書さえもらっている。
メグレには、我慢して彼女の話を聞くより手がなかった。彼女を満足させるため、ときどきメモ綴りの上になにやら書き留めたりした。彼女は、ある大臣が直接電話で司法警察の局長に紹介してきたのである。数週間前に死んだ彼女の夫は、参事院議員だった。彼女はプレスブール街の、エトワール広場に面する大きな石づくりの家に住んでいる。
「うちの婿については、こうなのですよ……わたくしはこの件を調べ、数力月前から婿をさぐり……」
「それでは、ご主人がご存命中のときから、彼はあなたを殺そうとしていたのですか?」
彼女はていねいに書いた家の二階の見取り図をメグレに差し出した。
「Aというのがわたくしの部屋ですの……Bが娘と婿の部屋……でも、婿のガストンはもうしばらく前からこの部屋には寝てませんのよ……」
電話が鳴った。やっとメグレはちょっと息つくことができた。
「もしもし……誰?」
交換手はいつもは、緊急な場合にしか電話をつながないのだ。
「すみません、警視さん、相手は名前を言いたがらないで、ただしつこく警視さんを電話に出せといっているのです……生きるか死ぬかの問題だそうです……」
「直接私に話したいと?」
「ええ……つないでいいですか?」
すぐに、不安そうな声が聞こえてきた。
「もしもし! 警視さんですか?」
「そう、メグレ警視だが……」
「失礼しました……。私の名前を申しあげてもしようがないでしょう……私をご存知ないんだから。でも妻のニーヌのことならご存知ですよ……もしもし! 大急ぎで話してしまわないと、私の身が危いので……」
メグレはまずこう考えた。
「ああ! またもや気違いか……そういう日なんだな……」
そういえば、気違いはあらわれるときは続いてあらわれるということに、メグレは気がついた。まるで月相《げっそう》が気違いに影響をあたえているかのように。メグレはあとでカレンダーを調べてみようと思った。
「とにかく警視さんに会いたいんです……警視庁の前を通ったのですが、入る勇気が出ませんでした。あいつが私を尾《つ》けていたからなんです……あいつはためらわずに撃つでしょう……」
「あいつって誰のこと?」
「ちょっと待ってください……私は近くにいるんです……あなたのオフィスのまん前……さっきまでオフィスの窓が見えてましたよ……グラン・ゾーギュスタン河岸……『ボージョレーの酒倉』という小さなカフェをご存じですか……そこの電話室に私はたったいま入ったのです……もしもし! 聞こえますか?」
午前十一時十分。メグレは無意識に、メモ綴りの上に時間と、ついでカフェの名前を書き留めた。
「私はできるかぎりの解決方法を考えてみました。シャトレ広場の巡査にも話してみました……」
「いつ?」
「三十分前……あいつらの一人に尾けられていたのです……浅黒いチビでした……数人の男が交代で尾けています……あいつら全員をはっきりと認めたわけではありませんが、浅黒いチビはたしかです……」
沈黙。
「もしもし!」と、メグレが呼んだ。
沈黙はしばらくつづき、ふたたび声が聞こえてきた。
「失礼しました……誰かがこのカフェに入ってくる音が聞こえ、私はてっきりあいつだと思ったもんで……電話室のドアをそっと開けて見てみましたが、ただの配達人でした……もしもし!」
「巡査になんといった?」
「昨夜から数人の男に尾《つ》けられている……いや、もっと正確にいうと、昨日の午後からです……あいつらは私を殺すチャンスをうかがっている……だから、私のうしろにいる男を逮捕してほしいと……」
「巡査はことわったのか?」
「巡査はその男を教えるように言いました。私が教えようとすると、もう男はいないのです……だから、巡査は私を信じないのです……私はこれ幸いと地下鉄《メトロ》にとび込み、電車に飛び乗りました。そして電車が動きだす瞬間に、飛び降りました……通路という通路を歩きまわり、『バザール・ロテル・ド・ヴィル』の前に出、このデパートの店内をも通り抜けました……」
彼は走らないまでも、急いで歩いたにちがいない。はあはあ息切れがしている。
「私のお願いは、すぐに私服の刑事さんを一人よこしてもらいたいということです……『ボージョレーの酒倉』ヘ……その刑事さんは私に話しかけないでください……なにくわぬ顔をしていてください……私はカフェを出ます……あいつが私を尾けはじめることはほぼまちがいありません……あいつを捕まえるだけでいいんです、そうすれば、私はあとであなたに会いに行き、説明しますよ……」
「もしもし!」
「私は、私は……」
沈黙。はっきりしない音。
「もしもし! もしもし!」
だが、電話にはもう誰も出なかった。
「わたくしがあなたに申しあげていたことは……」と、毒殺されるという老婦人は、メグレが受話器をかけるのを見て、ふたたび平然として話しはじめた。
「ちょっと待っていただけますか?」
メグレは刑事部屋に通じるドアを開けた。
「ジャンヴィエ……帽子を取って、正面のグラン・ゾーギュスタン河岸まで走ってくれ……『ボージョレーの酒倉』という小さなカフェがある……。たったいま電話をかけた男がまだそこにいるかどうか調べてもらいたいんだ……」
メグレは受話器をはずした。
「『ボージョレの酒倉』をたのむ……」
そう言いながら、メグレは窓から外をながめた。セーヌの向こう岸、ちょうどグラン・ゾーギュスタン河岸がサン・ミッシェル橋に近づく坂になったところに、常連が集る居酒屋《ビストロ》の狭い店先が見えた。ときどきメグレはこの店のカウンターで一杯ひっかけることがある。階段を下りると、ひんやりする部屋があり、主人がホテルの地下倉係りがつける黒いエプロンをつけていたことを思い出した。
カフェの前にトラックが停っていて、入口が見えなかった。人々が歩道を通りすぎていった。
「あの、警視さん……」
「奥さん、どうぞもうしばらくお待ちください!」
メグレは外を見つづけながら、パイプに入念にたばこを詰めた。毒殺の話をもちこんだこの老婦人のおかげで、メグレの午前中がむだになりそうだった。が、もうこれ以上むだにされることはあるまい。彼女は書類やら、見取図やら、証明書やらをたくさん持ち込んだ。わざわざ薬剤師に作らせた食物の分析表まである。
「わたくしはつねに用心しています、おわかりになりますわね?」
胸がむかつくような強烈な香水を発散している。その匂いがオフィスじゅうにひろがり、メグレのパイプのいいかおりを台なしにしてしまった。
「もしもし! さっき頼んだ電話は、まだ通じないか?」
「掛けてます、警視さん……掛けつづけているんですが……ずっと話し中なのです……受話器をかけ忘れているのかも……」
ジャンヴィエは上衣も着ずに、ぎこちない足取りで橋を渡り、やがてカフェに入って行った。トラックはやっと動いた。が、カフェの内部は暗すぎて見えなかった。ふたたび数分が流れた。電話が鳴った。
「警視さんですね……電話が通じました……いまベルが鳴ってます……」
「もしもし! そちらはどなたですか? きみか、ジャンヴィエ? 受話器がはずれていたのか? それで?」
「たしかにここで小さな男が電話をかけていたそうです……」
「その男を見たのか?」
「いいえ……私が着いたときは、出たあとでした……その男は電話室の窓越しにじっと外を見つづけていたそうです、電話室のドアも開け放したままで……」
「それで?」
「お客が入ってきて、すぐに電話室のほうにちらっと眼をやり、カウンターで酒を一杯注文しました……電話室の男はその客を見るや、しゃべるのをやめたそうです……」
「二人とも出ていったのか?」
「そうです、相前後して……」
「主人からその二人のことをできるだけくわしく聞きだしてくれ……もしもし! ついでに、シャトレ広場にまわって、立番中の巡査たちに質問し、四十五分ほど前、尾行者を捕まえてくれと言ってきた男がその男だったかどうかをたしかめてくれ……」
メグレが受話器をおくと、老婦人は満足そうに彼を見つめ、まるで良い点数をあたえるかのようにほめた。
「わたくしの思っていたとおりの捜査のやり方ですわ……あなたは時間をむだになさらない……すべてのことを考えていらっしゃる……」
メグレはため息をつきながら坐った。暖房のききすぎで部屋が息苦しくなりはじめたので、もう少しで窓を開け放つところだった。が、そんなことをすれば大臣の紹介できたこの女客の訪問を一刻も早く切りあげることができなくなってしまう。
オーバン・ヴァスコンスロ。これが彼女の名前だった。この名前はメグレの記憶に刻みこまれたにちがいなかったが、メグレはこの女と二度と会わなかった。この後まもなく死んだのか? そうではないだろう。もしそうなら彼女の噂が聞こえてくるだろう。監禁されてしまったのか? あるいは警察にがっかりして私立探偵事務所に出かけたのか? そうだとしても翌日眼がさめたときには、また別の妄想にとりつかれているのではないか?
とにかく、メグレはそれからさらに一時間近くも、プレスブール街の大きな家のなかで……そこでの生活は不気味なものであったにちがいない……、毎日毎日彼女を毒殺しようとしている人たちすべての話を聞かされつづけたのである。
正午に、やっとメグレは窓を開けることができた。それからパイプを口にくわえて、局長のところに行った。
「丁重にお引き取りいただいたかね?」
「できるかぎり丁重に」
「彼女は若いときにはヨーロッパ一の美人だったらしい。彼女のご亭主を少し知っていたが、ひどく穏やかな、ひどくぼんやりした、退屈きわまりない男だった。メグレ君、きみは出かけるかい?」
メグレはためらった。街には春の香りがただよいはじめていた。ビヤホール『ドフィーヌ』には早くもテラスが用意されていた、局長の言葉は昼食前にゆっくりとアペリチフでもやらないかと誘ったものだった。
「ここに残っていたほうがよさそうです……今朝、奇妙な電話があったものですから……」
メグレがその奇妙な電話のことについて話そうとしたとき、電話が鳴り響いた。局長が受話器を取り、メグレにわたした。
「きみにだ、メグレ君」
すぐにメグレは今朝よりもっと不安そうな例の声を聞いた。
「もしもし! さきほどは話を途中でさえぎられました。あいつが入ってきたんです……電話室のドア越しに話をきかれてしまうので……私はこわいんです……」
「いま、どこにいる?」
「ヴォージュ広場とフラン・ブールジョワ街の角にある『ヴォージュのたばこ屋』です……あいつをまこうとしたんですが、うまくいったかどうか……絶対に私の思いちがいではありません、あいつは私を殺そうとしているんです……くわしい話をしたいのですが、時間がかかりすぎます……他の人たちは私のことをばかにしますが、あなたなら……」
「もしもし!」
「あいつが来ました……私は……失礼……」
局長はメグレを見つめていた。メグレは不機嫌な様子をしている。
「なにかまずいことでも?」
「いや、気違いじみた話なのです……ちょっと失礼します」
メグレは別の受話器を取り上げた。
「すぐ『ヴォージュのたばこ屋』につないでくれ……そう、局長の部屋だ……」
そして、局長に、
「こんどは、受話器をかけ忘れないでいてくれればいいが」
ほとんどただちに電話のベル。
「もしもし! 『ヴォージュのたばこ屋』? ご主人? たったいま電話をかけたお客が、まだ店にいますか? なんだって? そう、心配しないでいい……もしもし! 今しがた出ていった? お金を払った? それでは、その男が電話しているあいだに、別のお客が入ってきた? 来ない? テラスには? その客がまだいるかどうか見てもらえますか? その客も出て行った? 注文したアペリチフも待たずに? ありがとう……いや……どこから? 警察です……いや、別にトラブルがあったわけでは……」
メグレが、ビヤホール『ドフィーヌ』に局長についていかない決心をしたのは、このときだった。メグレは刑事部屋のドアを開けた。ジャンヴィエはもどっていて、メグレを待っていた。
「私の部屋で話をきかせてくれ……」
「変な客だったそうです、警視《パトロン》……レインコートにグレイの帽子、黒い靴といった小男で……『ボージョレーの酒倉』にすさまじい勢いで入ってくると、バーテンに『なんでもいいから一杯たのむ』とさけびながら電話室に飛び込んでいます。店の主人はその小男が電話室のなかで動きまわり、一人で盛んに身振りをしているのを見ています……それから別の客が入ってくると、前の小男はびっくり箱の人形のように電話室から飛び出し、なにも飲まず、なにもいわず、サン・ミッシェル広場のほうにすっとんでいったそうです……」
「では、あとからの客は?」
「これも小男でした……そう、とても小さくて、がっしりしていて、黒い髪で……」
「シャトレ広場の巡査は?」
「あの話は本当です……レインコートの男が息せききり、ひどく興奮して、巡査に話しかけてきた……尾行しているやつを逮捕してくれと盛んに身振りをまじえて言うのですが、その尾行者が人込みのどこにいるのか指さすことができないのです……巡査は報告書のなかに念のため男の人相をしるしておくつもりだったそうです……」
「これからヴォージュ広場に行ってほしい。広場とフラン・ブールジョワ街の角にあるたばこ屋だ……」
「わかりました」
グレイの帽子にベージュのレインコートを着た、盛んに身振りをする小男……男についてわかっているのはこれだけだった。メグレは窓の前にじっと立ち、人々が事務所から出てきたり、カフェや、テラスや、レストランに入っていくのを見ているよりしかたがなかった。パリは明るく、陽気だっだ。いつも二月の中旬はそうであるが、春が実際にやってきたときよりもずっと春らしい息吹《いぶき》が感じられた。新聞はまもなくサン・ジェルマン通りの有名なマロニエについて書くにちがいない。一力月以内には咲くだろう。
メグレは電話でビヤホール『ドフィーヌ』を呼び出した。
「もしもし! ジョゼフ? メグレだ……生ビールを二杯とサンドイッチをたのむ……そう、一人前だ……」
電話がかかってきたとき、サンドイッチはまだとどいていなかった。メグレはすぐに例の声を認めた。交換台に、ただちに自分につなぐように注意しておいたからだ。
「もしもし! こんどこそ、あいつをまいたと思います……」
「きみは誰だ?」
「ニーヌの亭主です……そんなことはどうでもいいでしょう……あいつらは少なくとも四人います、女を入れないでも……すぐに誰かが来るにちがいありません……」
こんどは、どこから電話しているのかいうことができなかった。メグレは交換手を呼んだ。数分かかった。電話はバスティーユ広場のそばの、ボーマルシェ通りのレストラン『ラ・ロシェル』からだった。
そこからヴォージュ広場も遠くない。レインコートの小男はほとんどおなじ地区のなかをあっちこっち行き来していたのである。
「もしもし! きみか、ジャンヴィエ? まだいるだろうと思ったんだ……」
メグレはヴォージュ広場のジャンヴィエを呼び出したのだ。
「『ラ・ロシェル』のところに飛んでくれ……そう……タクシーを待たしておくんだな……」
一時間が流れた。が、電話もかからなければ、ニーヌの夫についてもなにもわからなかった。ふたたび電話が鳴り響いたとき、相手はレインコートの男ではなくて、カフェのボーイだった。
「もしもし! そちらメグレ警視さん? ご本人ですか? こちらビラーグ街の『カフェ・ビラーグ』のボーイですが。お客さんに警視さんに電話するようにたのまれたものですから……」
「いつ?」
「十五分前です……すぐに電話しなければいけなかったんですけど、店がひどく忙しかったものですから……」
「レインコートの小男?」
「そう……よかった……いたずらではないかと心配したんです。その人はひどく急いでいましたし、しょっちゅう通りの方ばかり見ていましてね……はっきり思い出しますから待ってください……その人は警視さんにこう告げてもらいたいそうです、『バスティーユの大砲』にあいつを誘い込むつもりだと。わかりますか? 『バスティーユの大砲』はアンリ四世通りの角にあるビヤホールです……至急誰かを謔アしてもらいたいらしいですよ……ちょっと待ってください、まだあるんです……警視さんにはわかると思いますけど、その人はこうはっきり言ったんです、『あいつは代った。こんどは赤毛の、いちばん兇悪な大男だ』」
メグレは自分でそこへ行った。タクシーで、バスティーユ広場まで十分かからなかった。そのビヤホールは広くて、静かだった。ここには主に常連が本日の特別料理や、豚肉料理を食べにくるのだ。メグレは眼でレインコートの男をさがし、それからベージュのレインコートがあるかもしれないと思い、外套掛けを調べた。
「ボーイ、ちょっと……」
六人のボーイがいた、その他にレジの女と主人。メグレは彼らのすべてに聞いた。誰もレインコートの男に気づかなかった。そこで、メグレはドアの近くの片隅に坐り、生ビールを注文し、パイプをふかしながら待った。サンドイッチを食べたにもかかわらず、三十分後にはシュクルート〔塩漬けキャベツ〕をたのんだ。メグレは歩道の通行人をながめていた。レインコートの男が通るたびに、メグレははっとなった。レインコートを着ている人は多かった。朝からすでに三度もにわか雨があったからだ。太陽が照りつづけているのに降る、明るくて、さわやかで、あどけないにわか雨だった。
「もしもし! 司法警察? こちらメグレ……ジャンヴィエはもどった? つないでくれ……きみか、ジャンヴィエ? タクシーに飛び乗って、『バスティーユの大砲』まで来てくれ……きみのいうとおり、今日はカフェ・デーだ……待っている……いや、情報はなにもない……」
盛んに身振りをするレインコートの男の話が悪ふざけだとしたら、ひどいものだ。メグレはジャンヴィエ刑事を『バスティーユの大砲』の見張りに残すと、警視庁にもどった。
ニーヌの夫が十二時半以後殺されたかもしれないという見込みはほとんどなかった。彼は人気のない場所に行くような危険をおかさなかったからだ。彼は逆ににぎやかな、人通りの多い街を選んでいる。しかし、メグレ警視は警察救助と連絡を取った。警察救助にはパリじゅうの事件が次々と入ってくる。
「レインコートを着ている男に事故なり、喧嘩《けんか》なり、なにかがあったら、電話をもらいたいんだが……」
メグレは司法警察の車を一台、いつでも出られるように警視庁の中庭に停めておくようにも命じた。これはばかげたことかもしれないが、用心をおろそかにすることはできないのだ。
メグレは人々と会い、パイプをふかし、窓を開け放したまま、ときどきストーブの火をかき立て、沈黙しつづけている電話にとがめるような視線をやったりした。
「あなたは私の妻を知ってます……」と、あの男はいっていた。
メグレはいつとはなしにニーヌという女を思い出そうとしていた。ニーヌという女になら、何人も出会ったことがあるはずだ。カンヌで小さなバーをやっていたニーヌを数年前に知っていたが、あのときすでに老人であったから、死んでいるにちがいない。アリーヌという名の妻の姪がいて、みんながニーヌ、ニーヌと呼んでいたっけ。
「もしもし! メグレ警視さんですか?」
四時だった。まだ外は明るかった。だが、メグレはデスクの上の緑の笠がかかった電燈をつけた。
「こちら、フォーブール・サン・ドニ街の第二十八郵便局の局長ですが……おいそがしいところすみません……たぶんいたずらだと思うのですが、数分前にお客さんが書留小包の窓口に来まして……もしもし! ダンフェールといううちの女事務員の話では、そのお客さんは急いでいるような、びくびくしているような……始終うしろをふり返っていたそうです。彼はダンフェールの前に紙を押しやり、『黙って、この伝言をメグレ警視に電話してくれ……』といって、人込みのなかにまぎれこみました……女事務員は私のところにきました……いま、ここにその紙があります……鉛筆でくしゃくしゃと書いてあるので、歩きながらでも走り書きしたのでしょう……。
いいですか……『私は大砲に行けませんでした』……あなたにはこの意味がわかりますか? 私にはわかりませんが……そんなことはどうでもよろしいですな……そのつぎの言葉は私には読めません……『こんどは、あいつらはふたり……浅黒いチビがもどってきた』……|浅黒い《ヽヽヽ》でいいと思いますが……そうですか、あなたがそうおっしゃるなら……まだ終りではありません……『あいつらが今日私を捕えようと決心したことはたしかです……私は警視庁のほうに行きます……しかし、あいつらは抜け目がない……警官たちに手配ねがいます……』
これで終りです……お望みなら、この紙を速達で送りましょうか? タクシーで? わかりました。あなたがタクシー代をお払いくださるんでしたら。失礼ながら、私には……」
「もしもし……ジャンヴィエ? もどってきていい」
三十分後、メグレとジャンヴィエはメグレのオフィスでたばこを喫っていた。ストーブの下が赤くなっている。
「きみは昼食を食べるひまぐらいあっただろう?」
「『バスティーユの大砲』でシュクルートを食べました」
メグレとおなじだ! メグレは自転車パトロール隊や、地方警察にも急を知らせておいた。デパートに入るパリジャン、歩道で押しあっているパリジャン、映画館や地下鉄の入口にのみ込まれるパリジャン……彼らはなにも気づいていない。しかし、何百という眼が人込みを見張り、すべてのベージュのレインコートに、すべてのグレイの帽子に注がれていたのである。
五時ごろ、またもやにわか雨があった。シャトレ界隈がいちばんにぎわっているときだった。鋪道はきらきら光り、街燈には暈《かさ》ができていた。歩道に沿って十メートルごとに、人々が立ち、タクシーに手を上げていた。
「『ボージョレーの酒倉』の主人は、その小男が三十五から四十ぐらいだと言っていましたが……『ヴォージュのたばこ屋』の主人は三十ぐらい……ひげを剃り、顔色はばら色で、明るい眼をしている……どういう男なのか、私にはちょっと見当もつきません……『どこでも見かける男』というのが、店の主人たちの答えでした……」
妹を夕食に招いていたメグレ夫人は、六時に夫に電話してきた。時間どおりに帰れるかどうかをたしかめるためと、帰りに生菓子店によってもらうためだった。
「九時までここにいてもらえるかな? そのあとはリュカに交代させる……」
ジャンヴィエはそのつもりだった。いまは待つよりしかたがなかったのである。
「なにかあったら、私の家に電話をくれ……」
メグレはレピュブリック通りの生菓子店によることを忘れなかった。ここはメグレ夫人によれば、おいしいミル・フイユ〔パイにクリームをはさんだケーキ〕をつくることができるパリで唯一の店だった。
メグレは妻の妹にキスした。彼女はいつもラヴァンド香水の匂いがした。彼らは食事をした。メグレはカルヴァドス〔りんごから作るブランデー〕を一杯飲んだ。妻の妹オデットを地下鉄《メトロ》まで送って行く前に、メグレは司法警察を呼んだ。
「リュカ? 情報はないか? そのままずっと私のオフィスにいるのかい?」
メグレの肱掛椅子に坐ったリュカは、デスクに足をのせて、夢中になって本を読んでいるにちがいない。
「います、警視……おやすみなさい……」
メグレが地下鉄からもどる途中、リシャール・ルノワール通りは人気《ひとけ》がなかった。自分の足音が鳴り響いた。背後に別の足音が聞こえた。メグレはびくっとして、思わずふり向いた。あの男のことを考えていたからである。この時間でもまだ、あの男は暗い街角を避け、少しでも安全なバーやカフェをさがしながら、不安げに街中を駆けずりまわっているにちがいない。
メグレは妻より先に眠り込んだ……少なくとも彼女はいつものようにそう言い張ったし、またメグレが鼾《いびき》をかいたとも言い張った。電話が鳴り、メグレははっと眼がさめた。ナイト・テーブルの目覚し時計は二時二十分だった。リュカからだった。
「つまらぬことであなたを起こしてしまったかもしれません、警視……まだたいしたことはわからないのですが、警察救助から、コンコルド広場で死んだ男が発見されたといま知らせてきたのです……チュイルリー河岸の近く……第一区の管轄《かんかつ》ですね……所轄署にすべてを元のままにしておくように言っておきました……なんですって? わかりました……そうおっしゃるんでしたら……タクシーをやります……」
メグレ夫人は、ズボンをはき、シャツをさがしている夫を見て、ため息をついた。
「長くかかりそうですか?」
「わからんね」
「刑事をやるわけにはいかないのですか?」
メグレは食堂の戸棚を開けた。夫人にはそれが、カルヴァドスをちょっと一杯ひっかけるためだということがわかった。それからメグレは忘れていったパイプをとりにもどってきた。
タクシーが待っていた。大通りにはほとんど人影はなかった。大きくて、いつもより明るい月がオペラ座の緑がかったドームの上に浮かんでいた。
コンコルド広場。二台の車がチュイルリー公園のそばの歩道に沿って停っていた。人影が動きまわっている。
タクシーから降りたメグレが最初に気づいたのは、銀色の歩道にできたベージュのレインコートの汚点《しみ》だった。
短外套を着た巡査たちがわきによると、第一区の刑事がメグレのほうに近づいてきた。メグレはつぶやいた。
「いたずらじゃなかった。やつらは彼をやったのだ!」
すぐ近くのセーヌ河のさわやかなさざ波の音が聞こえる。ロワイヤル街からくる車が、シャンゼリゼのほうに音もなくすべっていく。レストラン『マキシム』の光り輝くネオンが、夜のなかに赤く浮かびあがっている。
「ナイフで刺されたのです、警視……」と、メグレもよく知っているルクー刑事がいった。
「あなたがお見えになるまで、死体を片づけないでおきました」
なぜ、この瞬間、メグレはなにかがちがっているような気がしたのか?
真中に白いオベリスクが突っ立っているコンコルド広場は、広すぎるし、寒すぎるし、風通しがよすぎる。ここはあの午前中の電話とも、『ボージョレーの酒倉』や『ヴォージュのたばこ屋』やボーマルシェ通りの『ラ・ロシェル』ともそぐわない。
最後の電話まで、フォーブール・サン・ドニの郵便局に紙きれを預けるまで、あの男はもっばら狭い、人通りの多い街にいたのだ。追われているのを知っている者が、殺人者につきまとわれているのを感じている者が、いつなんどきでも殺されるかもしれない者が、コンコルド広場のようなだだっ広い場所に逃げ込むだろうか?
「彼はここで殺されたんではないな?」
そのことは一時間後にはっきりした。ドゥエ街のナイトクラブの前で警戒中のピエブゥフ巡査がつぎのような報告をしてきたからである。
一台の車がクラブの前で停った。タキシードを着た二人の男と、イブニング・ドレスの二人の女が乗っていた。四人は陽気で、ほろ酔い加減だった。とくに一人の男は酔っていて、他の三人がすでにクラブのなかに入ったのに、引き返してきた。
「ねえ、お巡りさん……このこと、言ったほうがいいかどうかわからないんですが……私たち今夜のたのしみを台なしにされたくないですからな……まあいい……きみたちの好きなようにしてくれ……さっき、コンコルド広場を通ったら、私たちの前で車が停った……私はハンドルをにぎっていて、その車が故障したのだと思い、スビードをゆるめた……その車からなにかが取り出され、歩道の上におかれた……私は、死体だったと思う……。車はパリ登録ナンバーの、黄色いシトロエンで、ナンバー・プレートの最後の二つの数字は3と8だったな」
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第二章
いつから、ニーヌの夫はメグレの死者……司法警察ではこう呼ばれるようになった……になったのか? あの夜、コンコルド広場ではじめて出会ったときからといってもいいかもしれない。とにかく、ルクー刑事は警視の態度にびっくりした。警視の態度にどこか異常なところがあったとは言いがたい。警察では、変死や、思いがけない死体には慣れている。職業的無関心さで扱う。インターンたちが宿直室でするようには、死体のことで冗談をいったりはしない。しかも、メグレは言葉の厳密な意味では心を動かされているようには見えなかった。
しかし、それならなぜ、たとえば、ごく当然なことであるのに、まず死体を調べてみなかったのか? パイプをふかし、制服の警官たちの真中につっ立ったまま、ルクー刑事としゃべったり、ふたりの男と一緒に車から降りたばかりのラメのドレスにミンクの外套を着た若い女性をぼんやりとながめたりしていたのか。彼女はまだなにかが起こるかのように、男の一人の腕にしがみついている。
メグレが横たわっている死体に、ベージュのレインコートにゆっくりと近づいたのは、しばらくたってからだった。そして、やはりゆっくりとかがみ込んだ。まるで友達か親類の者でも見るようだったと、あとでルクー刑事は語っている。
身を起こしたとき、メグレは眉をひそめ、怒っているようだった。彼はそこにいる人たちすべての責任であるかのような口調で質問した。
「これをやったのは誰だ?」
殴られたものか、蹴《け》られたものかはわからなかったが、とにかくナイフで刺される前後に、かなり烈しく、幾度かくり返して打たれている。そのため顔が腫《は》れ、唇が裂け、顔半分が変形してしまっていた。
「私は死体運搬車を待ちます」と、ルクー刑事がいった。
打傷がなければ、男はありふれた顔だったにちがいない。もっと若く、もっと陽気な顔だったろう。死んでさえ、男の表情にはどこか無邪気なところがあった。なぜミンクの外套の女は、葵《あおい》色のソックスしかつけていない片足を見て動揺したのか? 靴をはいていない片足が、山羊皮の黒い靴をはいたもう一方の足のわきに並んで、歩道にあるのはおかしなものだ。あからさまで、親密な感じがした。実際死んだようには見えなかった。メグレはそこから六、七メートル先の歩道にあった片方の靴を拾いに行った。
そのあと、メグレはもうなにもいわなかった。パイプをふかしながら待った。ささやきあっている野次馬の群れに、別の野次馬が加わった。やがて死体運搬車が歩道の縁に停り、二人の男が死体をもちあげた。死体の下の地面にはなにもなく、血の跡もなかった。
「あとは、報告書を私に送ってくれればいいよ、ルクー」
メグレが死んだ男をわがものとしたのは、他の者たちをそこに残し、死体運搬車の前に乗った瞬間であった。
その思いは一晩中つづいた。つぎの朝もそうだった。まるでこの死体がメグレの私的な所有物であり、この死んだ男がメグレ自身の特別な死者であるかのように。
メグレは鑑識課のムルスに、法医学研究所で待っているように命じた。ムルスは若くて、やせていて、背が高かった。彼の顔は笑ったことがなかった。度の強い眼鏡が、彼のおずおずした眼を隠している。
「仕事だ、坊や……」
メグレはポール医師にも連絡しておいた。ポール医師は、呼べばいつでも来てくれた。メグレとムルスのほかには、管理人だけだった。ぴかぴか光る引出しのなかには、最近パリで見つかった身許不明の死体がある。
光はまばゆかった。彼らはほとんどしゃべらず、的確な身振りだけだった。夜間のデリケートな仕事に夢中になっている良心的な職人のようだった。
ポケットのなかには、ほとんどなにもなかった。灰色のたばこの包み、一束のシガレット・ペーバー、マッチ箱、かなりありふれたナイフ、古い型の鍵、鉛筆、イニシャルのないハンカチ。ズボンのポケットに小銭がいくらかあったが、紙入れも、身分証明書類も一切なかった。
ムルスは着物を一つずつ、注意深くつかむと、油紙の袋のなかに入れ、袋を閉じた。シャツや、靴や、ソックスもまったくおなじようにした。それらの品物はすべて、普通の値段のものだった。背広にはセバストポール通りの既製服店のマークがついていた。ズボンは背広より新しかったし、色もちがっていた。
ポール医師がやってきたとき、死体は素裸だった。医師はひげをきれいに剃り、真夜中に叩き起こされたにもかかわらず、さえた顔色をしていた。
「ところで、メグレ君、このかわいそうな死体はなにを語ってくれるかな?」
つまり、いまはこの死体にいろいろと語ってもらうことが問題だったのである。それはいつものやり方だった。メグレはいつもだったら寝に行き、朝オフィスでいろいろな報告を受け取ったにちがいない。
ところが、彼はすべてに立ち会うというのだ。パイプをくわえ、ポケットに両手を突っ込み、うつろな、ねむそうな眼をしながら。
ポール医師は死体を解剖する前に、カメラマンを待たなければならなかった。カメラマンは遅れていたのである。ムルスはその間を利用して、死体の手や足の爪をていねいに掃除し、小さなごみを小さな袋のなかに注意深く収め、その一つ一つに訳のわからないしるしをつけた。
「これを生きているように見せるのは大変だぞ」と、カメラマンは死体の顔を調べたあとでいった。
あいかわらず機械的な仕事。まず死体と、傷の写真、ついで身許をたしかめるため新聞に載せる顔写真。できるだけいきいきとした写真。そこで専門家が、このひえびえとした光の下ではいっそう蒼白く見える死体にメーキャップをほどこす。頬をばら色に、口を娼婦のようにまっ赤に塗りたくる。
「医師《せんせい》、終りましたから、どうぞ……」
「残っているかい、メグレ君?」
メグレは残っていた、最後まで。ポール医師とメグレがまだ開いたばかりの小さなカフェに、アルコールを少し入れたコーヒーを飲みに行ったのは、朝の六時半だった。
「きみは私の報告書を待てなかったようだな……それほど重大な事件なのかね?」
「わからないのです」
彼らのまわりでは、労働者たちがクロワッサンを食べている。眼はまだねむそうだ。朝の霧で外套は濡れてぴかぴか光っている。寒かった。街では、通行人の口から軽く湯気がもれていた。建物の各階の窓にはつぎつぎに明りがともっていく。
「まず私が言いたいのは、あの男が卑しい身分だったということだな。たぶん子供のときは貧乏で、ろくに面倒を見てもらえなかったんだろう、骨格や歯の状態からそう思われるんだ……手からはどんな職業についていたかわからない……たくましいが、比較的手入れの行きとどいた手だ……あの男は職工ではない……会社員でもない。指にかすかなゆがみもないからだ。たくさん書いたり、タイプしたりすると、このゆがみができるものだが……。逆に、足がやわらかくて、くぼんでいる。立って生活していた者の特徴だ……」
メグレはノートを取らなかった。すべて頭に刻み込んだ。
「重要な問題に移ろう、犯行時間だ……昨夜の八時から十一時のあいだであるとはっきりいえる……」
メグレは、あの夜遊び人の証言や、午前一時ちょっとすぎにコンコルド広場に黄色いシトロエンがあったことなどを、電話ですでに知らされていた。
「医師《せんせい》、なにか異常なことには気づきませんでしたか?」
「どういうことだい?」
ほとんど伝説的なほど有名なひげをつけたポール医師は三十五年間検視医をやってきた。だから、犯罪事件は彼にとっては大部分の警察官よりも親しいものだった。
「犯行はコンコルド広場で行なわれたのではありません」
「もちろんだ」
「たぶんどこか人里離れた場所で行なわれたんでしょう」
「そうだろうな」
「ふつう、パリのような町で、危険をおかして死体を運ぶのは、死体を隠すためか、消してしまおうとするためか、発見を遅らすためです」
「きみの言うとおりだ、メグレ君。私はそこまで考えていなかった」
「今回は、逆に、わざわざ捕まるようにしています。とにかくパリのど真中に死体をおいて、われわれに手がかりを残したりして。あそこはいちばん人目につく場所だから、真夜中でも十分間といえども発見されずにはいません……」
「言いかえれば、殺人者たちは発見されることを望んでいた。きみはそう考えているんだろう?」
「それだけではありませんが。そんなことはたいした問題ではありません」
「しかし、殺人者たちは死体が誰なのか簡単にわからないような用心をしているぞ。顔を殴るのに素手じゃなく、鈍器でやっている。私にはあいにくその鈍器がどんなものかはっきりいうことができないが……」
「死ぬ前ですか?」
「あとだ……数分後だ……」
「数分後だということはたしかですか?」
「三十分以内だと思うな……それから、メグレ君、細かいことだがもう一つある。これは報告書のなかには書き入れないつもりだ。確信がないことだし、この事件が重罪裁判所にまわったとき、弁護士から反対されたくないからな。……きみも見ていたとおり、私は傷をじっくりと調べた……これまでにも無数のナイフの傷を私は調べてきているが、この傷は不意にやられたものではないな……。
立った二人の男が言いあっているところを想像してもらいたい……二人は向かい合っている。一方がナイフで突く……この場合、私が調べたような傷にはとうていならない……もちろん、うしろからやられたものでもない……。こんどは、坐っている者か、立っていてもかまわないがなにかに没頭している者を想像してもらいたい。その者にうしろからゆっくり近づき、彼に手をまわし、正確に、強くナイフを突き刺す……。もっとはっきりいうと、被害者は縛《しば》られていたか、身動きできないようにされていた。そして、何者かが被害者を文字通り『手術をした』のだ……わかるかね?」
「わかります」
メグレには、ニーヌの夫が不意に襲われたのではないことがよくわかっていた。ニーヌの夫は殺人者たちから二十四時間も逃げまわっていたのだから。
ポール医師にとっていわば理論的にすぎないこの問題も、メグレにはもっとあたたかい人間的なものが含まれていた。
メグレはあの男の声を聞くことができたのである。会ったも同然だった。メグレは男がパリの街々を気違いのようになって逃げまわっているあいだ、彼のあとを一歩一歩、カフェからカフェと追っていたのだ。男はずっとおなじ区域に、シャトレとバスティーユのあたりにいた。
二人の男は河岸を歩いた。メグレはパイプをふかし、ポール医師はたばこをつぎつぎに喫っていた……彼は解剖のあいだもたばこをやめなかったし、たばここそもっともいい殺菌剤であるとよくいっていた。
夜がすっかりあけていた。船がつぎつぎとセーヌ河を下っていく。夜の寒さで手足のかじかんでしまった乞食が、河岸の石段をぎこちなく昇っていくのが見える。橋の下で眠っていたのだ。
「あの男は夕食をとってまもなく殺されている。たぶん夕食のすぐあとだろう」
「彼の食べたものはわかりますか?」
「豌豆《えんどう》のスープ、鱈《たら》料理、りんご。葡萄酒の白を飲んでいる。また、胃のなかにアルコールがいくらか残ってもいた」
二人はちょうど『ボージョレーの酒倉』の前を通りかかっていた。主人が木のよろい戸を開けたばかりだった。薄暗い部屋が見えた。安葡萄酒の匂いがプーンと鼻をついた。
「家に帰るかね?」と、タクシーを拾おうとして、ポール医師はたずねた。
「鑑識課に行きます」
オルフェーヴル河岸の大きな建物には、ほとんど人気がなかった。冬の湿気がまだ滲《し》みこんでいる廊下や階段に、掃除する人たちの姿が見えるだけだった。
メグレのオフィスにリュカがいた。リュカは警視の肱掛椅子で眠り込んでいた。
「なにか情報は?」と、メグレはたずねた。
「すべての新聞に写真を配っておきました。ですが、朝刊に写真が載るのは二、三紙だけだと思います。写真が遅すぎましたから」
「車は?」
「黄色いシトロエンを三台調べてみましたが、いずれもシロでした」
「ジャンヴィエに電話したか?」
「八時にここに来て、私と交代します」
「なにか用事があったら、私は階上《うえ》にいるから……交換台にも、私への電話はすべて階上にまわすようにいっておいてくれ……」
メグレはねむくはなかったが、体がだるかった。彼の動きはいつもよりのろかった。一般の人々には禁じられている狭い階段を、メグレはのぼった。この階段は裁判所の屋根裏に通じている。メグレは磨《すり》ガラスのドアをちょっと開け、ムルスが器具にかがみ込んでいるのをちらっと見ると、そのまま歩きつづけ、記録保存室に入った。
メグレが話しかける前に、指紋係の男は頭を振った。
「なにもわかりませんよ、警視さん……」
言いかえると、ニーヌの夫は一度もフランスの警察の世話にはなってはいないのだ。メグレは記録保存室を去り、ムルスの部屋にもどり、外套を脱いだ。ついで、ちょっとためらったあとで、頸《くび》をしめつけていたネクタイをはずした。
あの死んだ男はここにはいなかったが、法医学研究所の十七番の引出し……管理人がそのなかに入れた……とおなじように、ここにもいるように思われた。
メグレとムルスはあまりしゃべらなかった……二人とも、日射しが屋根裏部屋の窓から射し込んでいるのも気づかないで、それぞれの仕事をやっていた。部屋の片隅に、関節のあるマネキンが立っている。このマネキンはよく使われるのだが、いままたメグレが使っていた。
ムルスはそれぞれの油紙の袋のなかで着物をゆっくりとはたくと、そうやって集めたほこりを分析していた。
こんどは、メグレがこれらの着物に没頭した。露店商人のような入念な手つきで、まずシャツとパンツを死者とほとんどおなじ体つきのマネキンに着せた。
ジャンヴィエが入ってきたとき、メグレは背広を着せたところだった。ジャンヴィエはベッドのなかで、朝まで眠れたので、晴れやかな顔をしていた。
「あいつらは彼を殺《や》りましたね、警視《パトロン》」
ジャンヴィエはムルスに眼をやり、ウィンクした。これは警視が『おしゃべりしたい』気分ではないのだな、という意味だった。
「また黄色い車について通報があり、リュカが調べましたが、例の車ではありませんでした。しかも、ナンバーが8ではなく、9で終っていました」
メグレはうしろに退《さが》って、彼の仕事をながめた。
「おかしなところはないか?」とメグレはたずねた。
「ちょっと待ってください……いや……私は見ていませんが……あの男はマネキンよりもちょっと小さかったんですね……背広が短かすぎます……」
「それだけ?」
「ナイフでの裂け目が小さすぎます……」
「他には?」
「チョッキをつけていません……」
「私が意外に思うのは、背広とズボンがおなじ生地でもないし、おなじ色でもないということだ……」
「そんなことよくあることですよ……」
「ちょっと待って。ズボンを調べてごらん。ほとんど新品だ。背広はこのズボンとは別のスーツのものだ。だが、この背広は少なくとも二年はたっているな」
「ええ、そのようですね……」
「ところが男は、ソックス、シャツ、ネクタイから見て、とてもおしゃれだった……『ボージョレの酒倉』や他のカフェに電話して、昨日男が色ちがいの背広とズボンを着ていたかどうか調べてみてくれ……」
ジャンヴィエは隅に坐った。彼の声はこの部屋ではレコードの回転に伴う騒音みたいなものだった。ジャンヴィエはつぎつぎとカフェを呼び出し、果てしなくくり返した。
「こちら司法警察……昨日うかがった刑事です……教えていただきたいことが……」
あいにく、男はどこでもレインコートを脱がなかった。前を少し開いていたかもしれないが、誰も背広の色には気がつかなかった。
「家に帰ると、きみはどうする?」
ジャンヴィエは結婚してまだ一年にしかなっていなかったので、照れくさそうに笑いながら答えた。
「妻にキスしますよ……」
「それから?」
「坐ります。すると妻がスリッパをもってきます……」
「それから?」
刑事は考えこみ、とつぜん額をたたいた。
「そうだ! 背広を着がえます……」
「きみにはスモーキング〔喫煙服〕があるのかい?」
「いいえ、古い背広です。こいつを着ていると落着くんです……」
これらの会話は、この見知らぬ死んだ男の生活を親しいものにした。彼が家に帰るところを想像する。たぶんジャンヴィエのように妻にキスするだろう。いずれにせよ、彼は新しい背広を脱いで古いのに着がえる。そして食事をする。
「今日は何曜?」
「木曜日です」
「それじゃ昨日は水曜日か。きみはよくレストランで食事をするのか? あの男がよくいったにちがいないような安いレストランで?」
メグレはしゃべりながら、マネキンの肩にベージュのレインコートをかけた。昨日のいまごろは……いや、もう少しあとだった……、このレインコートは、ほとんど眼の前に見える『ボージョレの酒倉』に入っていった、生きているあの男がまだ着ていたのだ。メグレたちはセーヌ河のこちら側の屋根裏にいるだけで、この店先がながめられたのである。
男はメグレを電話で呼んだ。他の警視や刑事を呼んだり、重大な用件だと思っている人間のように、局長を呼んだりはしなかった。男が呼んだのはメグレである。
「あなたは私をご存知ない」と、男は白状している。
男はこうもつけ加えている。
「でも妻のニーヌのことならご存知です……」
ジャンヴィエは、警視からレストランに食事に行くかと聞かれたが、いったいどういう意味があるのかといぶかった。
「鱈《たら》料理が好きかい?」
「大好きです。消化がわるいのですが、機会があればかならず食べます……」
「とうぜんだな! 奥さんはよく鱈料理をつくってくれる?」
「いいえ、手間がかかりすぎるので、家ではめったにつくりません……」
「じゃ、食べたいときは、レストランで食べるのか?」
「そうですよ……」
「そのメニューはよくあるの?」
「よくわかりませんが、ちょっと待ってください……金曜日がそうじゃないですか?」
「昨日は水曜日だった……ポール医師《せんせい》を電話に呼んでくれ」
ポール医師は報告書を一生懸命作成していたが、メグレの質問を聞いてもおどろかなかった。
「鱈料理のなかに、松露《しょうろ》があったでしょうか?」
「もちろんはいっていない、はいっていれば、かけらぐらい見つけてただろう……」
「ありがとう……ジャンヴィエ! ……あの鱈料理には松露は入っていなかった……だから通常松露をいれるような高級なレストランは除外できる……さあ、刑事部屋に降りて行って、きみもトランスや、他の二、三人の者に手を貸してやってくれ……交換手が文句をいうかもしれんぞ、きみたちがしばらくは電話を占領してしまうんだから……レストランをつぎつぎに呼び出すんだ。まずきみが駆けつけた区域のレストランからはじめるといい。昨日の夕食のメニューに鱈料理があったかどうかを聞くんだ……ちょっと待ってくれ……最初は南仏の名前がついたレストランからはじめるんだ、そのほうがチャンスがあるから……」
ジャンヴィエは研究室を出たが、たったいま任せられたこの仕事が得意でもなければうれしくもなかった。
「ナイフある、ムルス?」
午前はすぎていった。メグレはあいかわらず死んだ男にとりつかれていた。
「レインコートのこの裂け目にナイフの先をつけて……そう……もう動かさないで……」
メグレはレインコートをそっと持ち上げて、下の背広を見た。
「レインコートと背広の裂け目が一致しない……こんどは別のやり方で突き刺してみて……左側に立って……右側に立って……上を刺して……下を刺して……」
「こうですか……」
広い研究室で仕事をしていた研究員や、事務員たちはちらっと二人を見て、おかしそうに眼くばせした。
「やはり一致しないな……背広とレインコートの裂け目のあいだにはたっぷり五センチほど差がある……椅子をもってきて……手を貸して……」
メグレたちは非常に注意して、マネキンを坐らせた。
「よしと……たとえばテーブルに向かって坐っているとき、外套をこうぐいと引き上げるものだが……やってみよう……」
だが、論理的にはたがいにぴったり一致しなければならないはずの二つの裂け目は、重なり合わなかった。
「わかったぞ!」と、メグレはむずかしい方程式が解けたかのように、さけんだ。
「男は殺されたとき、レインコートを着ていなかったということですか?」
「まあ、そういうことだな」
「でも、レインコートはナイフで刺されたように裂けていますよ……」
「そう思わせるように、あとで裂け目をつくったんだ。われわれは家のなかや、レストランではレインコートを着ない……レインコートにわざわざ裂け目をつくったのは、外でナイフで刺されたと思わせたいためだ……わざわざ裂け目をつくったとすれば……」
「犯罪は家のなかで行なわれたということ……」と、ムルスは話をしめくくった。
「おなじ理由で、死体は危険をおかしてコンコルド広場に運ばれた。あそこで殺人が行なわれたのではない……」
メグレは靴の踵《かかと》でパイプをたたき、空にすると、ネクタイをさがしに行き、坐っているといっそう生きているように見えるマネキンをふたたび見つめた。背後や、横からだと、表情も、色もない顔が見えないので、はっとさせられる。
「なにか手がかりが見つかったかね?」
「これまでのところは、ほとんどなにも。でも、終ったわけではありません。靴底の凹《へこ》みに、わずかですが奇妙な泥がついていました。葡萄酒のしみ込んだ土で、抜いたばかりの酒樽《さかだる》がある田舎の地下室にあるのとおなじものです」
「仕事をつづけてほしい。なにかあったらオフィスのほうに電話を」
メグレが局長の部屋に行くと、局長はこういって彼を迎え入れた。
「ところで、メグレ君、『きみの死者』は?」
この言葉が言われたのは、これが最初だった。午前二時から、メグレが死体から離れなかったと、誰かが局長にしゃべったにちがいない。
「やはりやつらは彼を殺《や》ったんだな! じつは昨日は、きみがおどけ者か、頭のおかしい者を相手にしているものと簡単に思っておったんだが……」
「私はそうは思いませんでした……最初の電話のときから、彼がいったことを信じました……」
なぜ? それを説明することはできなかった。男がメグレにじかに訴えたからではなかった。局長としゃべりながら、メグレは太陽がさんさんとふりそそぐ正面の河岸に眼をさまよわせた。
「検事総長は予審判事にコメリオ判事を任命した……コメリオ判事は今朝、法医学研究所に行ったが、きみは行くかね?」
「行ってもしようがないでしょう」
「いずれにしてもコメリオ判事に会うか、電話しておきたまえ……彼は怒りっぽい男だから……」
メグレはそのことについてはよく知っていた。
「ギャングの仕返しだとは思わないか?」
「さあ、私にはそうは思えません、ただの印象にすぎないのですが……」
ギャングたちは、ふつうはコンコルド広場に被害者を捨てるようなことはしない。
「とにかく、最善をつくしてくれたまえ……まもなく死体の身許がわれるだろうか?」
「そんなことはないと思いますが……」
これもただの印象だったので、うまく説明することはできなかった。が、メグレの心のなかでは、それらはすべてたがいに関連があるのである。しかし、メグレがはっきりさせようとするや……自分自身のためであっても……、それはぼんやりとしてしまう。
すべてはコンコルド広場にかかわってくる。何者かが死体が発見されることを、それも素早く発見されることを望んだのだ。たとえば死体をセーヌ河に投げ込むほうが簡単だし、水から引き上げられるまで危険がない。
あの男は金持でもないし、えらい人でもない。ただのくだらない小男にすぎない。警察が彼にかかわることを望んだのなら、なぜ殺したあと彼の顔をつぶし、身許がわかるものをすべてポケットから抜き取ってしまったのか?
それなのに、背広のマークははがしてない。その背広が何千着も売られている既製品であることがちゃんとわかっていたからだ。
「メグレ君、困っているようだな」
メグレはただこうくり返しただけだ。
「どうもぴったりしないんです……」
つじつまの合わない点が多すぎる。とくにある点がメグレを個人的に、いらだたせるというより困らせていた。
男が最後の電話をかけてきたのは何時だったか? 結局、男が残した最後の生きているしるしは、フォーブール・サン・ドニの郵便局にわたした紙きれだった。
真昼間、午前十一時から、見知らぬ男は警視とうまく接触をもちつづけた。
さらに紙きれで、男はこれまでよりもっとせっぱつまった調子でメグレに訴えている。立番《たちばん》中の巡査たちが街ですぐに彼を助けることができるように手配ねがいたいとさえたのんできている。
ところで、男は夜の八時から十時までのあいだに殺されている。
四時から八時までなにをしていたのか? いかなる形跡もない。沈黙。昨日そのことについてなにもいわなかったが、メグレには印象的な沈黙だった。この沈黙はメグレに、ある潜水艦の悲劇を思い出させた。世界中がこの悲劇にラジオのおかげで刻一刻といわば参加したのである。ある瞬間まで、海底に坐礁《ざしょう》した潜水艦に閉じ込められた人たちの信号がまだ聞こえていた。救助船が海上を遊弋《ゆうよく》しているにちがいない。信号はまれになっていく。そして、数時間後にとつぜん、沈黙。
見知らぬ男、メグレの死者には沈黙する正当な理由がない。真昼間、パリのにぎやかな通りで誘拐されることはない。彼は八時前には殺されていない。
すべては、彼が家に帰って背広を着がえたことを想像させる。
男は家か、レストランで食事した。スープや、鱈《たら》料理や、りんごを食べる暇があったのだから、落着いて食事をした。りんごまで食べたことは、ゆっくりできたことを暗示している!
「少なくとも二時間のあいだ、なぜ彼は沈黙していたのだ?」
男はためらわずに幾度も警視に電話してきたし、警察官たちを動かすように哀願している。
そしてとつぜん、四時以後は、まるで考えを変えたようになる。警察をかかわらせたくなくなったかのようだ。
これがメグレを困らせるのである。困らせるという言葉は正確ではない。あの死んだ男がメグレに不実を働いたような感じなのだ。
「どうだった、ジャンヴィエ?」
刑事部屋はたばこの煙で青くけむっていた。四人の刑事が、憂鬱そうな眼で、電話に釘づけになっている。
「鱈料理はないですよ、警視《パトロン》!」と、ジャンヴィエはおどけてため息をついた。
「しかし、あの地区はもう終って、私はフォーブール・モンマルトルにかかってます。トランスはクリシー広場にかりました……」
メグレは自分のオフィスから電話した。が、それはルピック街の小さな家具付ホテルに電話するためだった。
「そう、タクシーで……すぐに……」
メグレのデスクには、夜のあいだに撮られた死者の写真がおかれていた。朝刊も、報告書も、コメリオ判事のメモもあった。
「あんたかい、メグレ夫人? まあまあだ……昼食に帰れるかどうかわからない……いや、ひげを剃る時間もないんだ……床屋に行こう……うん、食べた……」
実際、メグレは客が来たら待たせるように守衛のジョゼフ老人にたのむと、床屋に行った。橋をわたるだけでよかった。サン・ミッシェル通りの最初の床屋に入った。鏡に映る黒あざのある眼に、メグレは無愛想にちらっと眼をやった。
床屋から出たとき、メグレは『ボージョレーの酒倉』に一杯飲みに立ちよりたくなった。彼はまず、こうした小さな居酒屋《ビストロ》の雰囲気がとても好きだった。人と顔をあわせなくてすむし、主人と親しくおしゃべりできるからだ。またボージョレーが好きだったし、この店のような小さな陶器の小差しに入れて出されるボージョレーはことのほか好きだった。しかし、今は他の理由があった。メグレは彼の死者を追っていたのである。
「今朝新聞を読んで奇妙な気がしましたよ、警視さん。ご存知のとおり、私は、あの男を少ししか見ておりません。だが、考え直してみると、感じのいい男でした。盛んに身振りをしながら店に入ってきた姿がいまでも眼にうかびますよ。たしかにあの男は不安そうでしたが、人のよさそうな顔付きでした。そうですな、ふだんなら、愉快な男でしょうな……こんなことを言うと、あなたに笑われそうですが、私は、考えれば考えるほど、あの男の顔がだんだん滑稽《こっけい》に思われてくるんです……あの男は誰かと似てますよ……数時間前から思い出そうとしているんですがね……」
「誰に似ているんです?」
「それなんですがね……いや、ちがうな……もっと複雑だな……なにかに似ているんだ……そのなにかがわからない……彼の身許は、まだわからないんですかね?」
それもまた奇妙なことだったが、異常なことではなかった。朝刊はもうとっくに出ている。もちろん、男の顔はひどく傷ついていたが、よく知っている者にとっては、たとえば妻や母親にとっては見分けがつかないほどではなかった。
男にはどこかに住居があったにちがいない、その住居が下宿部屋にすぎないとしても。男は一晩じゅう家にもどっていない。
論理的には、数時間後に誰かが男の写真に気づくか、男の失踪を警察にとどけなければならなかった。
しかし、メグレはそのことに期待をかけてはいなかった。彼はふたたび橋をわたった。口にはボージョレーの快い、いくぶん渋い味が残っていた。警視庁の薄暗い階段をのぼった。おそるおそるメグレをながめる者がいた。
ガラス張りの待合室にちらっと眼をやる。彼の客が立って、投げやりにたばこを喫っていた。
「こっちだ……」
メグレは客を自分のオフィスに入れ、椅子を示すと、帽子と外套を脱いだが、そのあいだも客の様子をそっと盗み見つづけていた。客の坐った眼の前に、死んだ男の写真があった。
「どうだ、フレッド?」
「いつでもご用をおおせつけください、警視さん……おれには、どうしてここに呼ばれたのかわからないんですぜ……おれにはさっぱりわけが……」
彼はやせて、ひどく蒼白な顔をし、どこか女性的な優雅さがあった。ときどき、鼻をぴくぴく動かすのは、彼が麻薬中毒の証拠だ。
「この男のことを知らないのか?」
「ここに入るなり、写真に気がつきましたがねえ……ひどく傷《いた》めつけたもんですね!」
「一度も会ったことがないのか?」
フレッドが自分の密告者としての役割をちゃんと果たしている気配は感じられた。彼は注意深く写真を調べ、もっと陽のあたるところで見ようと、窓辺に近づきさえした。
「ええ……しかし……」
メグレはストーブに燃料をくべながら、待った。
「いや! やっぱり一度も会ったことがないな……でも、なにか思いあたることがありますぜ……ぼんやりだが……とにかく、やくざじゃねえ……新米だとしても、おれが会ってないのはおかしい……」
「思いあたるというのはなんだ?」
「いま懸命に思い出そうとしているんですがね……こいつの職業はわからないんですか?」
「そうだ」
「住んでいた街も?」
「そうだ」
「田舎の人間ではなさそうですね……」
「私もそう思う……」
メグレは昨日、男にははっきりパリジャンのアクセントがあることに気づいていた。下層階級のアクセント、地下鉄や、場末のビストロや、競輪場の座席で会う人々のアクセント。
実際、ある考えがメグレにひらめいた。あとでその考えを検討してみよう……。
「ニーヌという女も知らないか?」
「待ってください……マルセイユに一人いましたぜ、サン・フェレオール街の女郎屋お抱えの女で……」
「その女ではない、その女なら私も知っている。いま少なくとも五十歳にはなっている……」
フレッドは三十歳ぐらいにちがいない男の写真をながめ、つぶやいた。
「やっぱりわかんねえな!」
「その写真を一枚もっていき、さがしてくれ。あちこちでその写真を見せるんだ……」
「まかせておいてください……二、三日後に、ある情報をさしあげられるでしょう……この写真のことではなく、麻薬の元締めのことで……いままでのところ、おれはそいつをジャン氏という名前でしか知らないんです……一度も会ったことがないんで……ただ、多くの売人の背後にそいつがいるってことは知っていましたが……おれはいつもそいつらからヤクを買ってますよ……とても高くつきますんで……余分の金がありましたら……」
ジャンヴィエは隣りの部屋で、あいかわらず鱈料理のことで電話しつづけている。
「警視のいうとおりです。どこの店でも、鱈料理は金曜日しかつくらないと答えています。それも、そうたびたびではないそうです。復活祭前の週なら水曜日にときどきとか。でも、まだ復活祭までにはだいぶあります……」
「それをトランスにまかせるんだ……今日の午後、競輪場はやってるか?」
「新聞を見てみますから、待ってください」
オートバイのレースがあった。
「写真をもって行き、切符売りや、オレンジやピーナツ売りに見せるんだ……それから付近のビストロをまわり、ついてドフィーヌ門あたりのカフェを調べてくれ……」
「スポーツマンだと思うんですか?」
メグレにはわからなかった。ただ他の人たちのように、『ボージョレーの酒倉』の主人や、密告者フレッドのように、メグレもなにかを感じていたのだ。だが、それは漠然としていて、はっきりしなかった。
メグレには彼の死者が、会社員や店員には思えなかった。フレッドは死んだ男がやくざではないと断言している。これに反して、大衆的な小さなバーだとぴったりする。
あの男はニーヌという名の妻をもっていた。そして、メグレはかつてこの女のことを知っていたのである。どんなことで? くろうと女として知っていたのか?男はそれが自慢だったのか?
「デュボネ……風紀班に行ってくれ……ここ二、三年の登録済みの娼婦のリストを見せてもらい、ニーヌという女の住所をすべて写し取って、会ってくるんだ……わかったな?」
デュボネは学校出たての若者だった。少し堅苦しいところがあり、いつもめかしこんでいて、誰にたいしてもひどく丁寧《ていねい》だった。メグレがこの仕事を彼にまかせたのは、皮肉があったかもしれない。
メグレはシャトレや、ヴォージュ広場や、バスティーユ周辺の小さなカフェにも、刑事を一人送った。
この間、オフィスからいろいろ指示をあたえていたコメリオ判事は、なぜメグレがまだ自分に会いに来ないのか理解できなかったので、いらいらしていた。
「黄色のシトロエンは?」
「エリオが調べています……」
こうしたことはすべてきまりきった仕事なのである。たとえなんの役に立たなくても、しなければならないのだ。フランスの全道路で、警察と憲兵隊が、黄色いシトロエンの運転手に尋問していた。
死んだ男の背広が売られたセバストポール通りの店にも、ついでレインコートが売られたサン・マルタン通りの店にも刑事を送らなければならない。
しかし、そのあいだにも、他の五十の事件が刑事たちを必要としていた。刑事たちは出たり、入ったり、電話したり、タイプで報告書を作成したりしていた。廊下で待っている人もいた。人々が『家具付ホテル班』から『風紀班』へ、『風紀班』から鑑識課へと走りまわっていた。
ムルスが電話に出た。
「警視、ごく細かいことですが……たいして重要じゃないでしょう……でも、念のためあなたにお知らせしておきます……いつものように、髪の毛を採取し、分析してみると、口紅のあとがありました……」
それはほとんど滑稽なことだったが、誰も笑わなかった。ある女がメグレの死者の髪にキスしたのだ。口紅をつけた女。
「それに、その口紅は安物ですね。女はたぶん浅黒い女でしょう、口紅がとても濃いものですから……」
女があの男にキスしたのは、昨日か? 脊広を着がえにもどったあのときか?
実際に彼が着がえたなら、ふたたび外出する気はなかったということになる。ちょっと家に立ちよった男は、わざわざ別の背広に着がえたりしない。
あるいは、着がえたとき、不意に呼び出されたか? しかし、電話でたえず警察を呼び出し、盛んに身振りをしながらパリの街々を走りまわるほどひどく追いつめられていた彼が、日が暮れてから家から出たりするだろうか?
女が彼の髪にキスをした。あるいは彼の頬に顔を押しつけた。とにかく、それは愛情の表現である。
メグレは新しいパイプにたばこをつめながら、ため息をつき、時計を見た。十二時を二、三分すぎていた。
昨日、ほぼこの時刻に、あの男は噴水が歌をかなでているヴォージュ広場を横切っていたのである。
警視は司法警察と裁判所をつなぐ小さなドアを越えた。弁護士の法衣が廊下で黒い大烏《おおがらす》のようにひるがえっていた。
「古猿に会いに行こう」とメグレはため息をついた。彼はコメリオ判事にどうも我慢ならなかった。
メグレには、コメリオ判事がもっともきびしい非難をこめた冷たい言葉で自分を迎え入れることはよくわかっていた。
「きみを待っていたんだ、警視君……」
ルイ十四世のように、こう言いたかったのかもしれない。「私はもう少しできみを待つのをやめるところだった……」
メグレはそんなことは意にもとめなかった。
午前二時半から、メグレは彼の死者と共に生きていたのである。
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第三章
「警視君、やっときみと電話で話せてうれしいよ」
「判事さん。私もうれしいです」
メグレ夫人ははっと頭を上げた。夫がこうした穏やかな、お人よしの声を出すと、彼女はいつでも不安だった。彼女にたいしてこういう声を出されると、夫人は途方にくれて、泣き出してしまう。
「五回ほどきみのオフィスに電話したんだ」
「私はオフィスには出ませんでした」と、メグレはびっくりしてため息をついた。
メグレ夫人は夫に、気をつけて話すように、判事と話していることを忘れないようにと合図した。おまけにこの判事の義兄は二、三度大臣をやっていたのである。
「きみが病気だということを、たったいましがた知ったんだよ……」
「たいしたことありません、判事さん。みんないつでも大げさなんです。悪性感冒だということなんですが、それほど悪性かどうか、まだわかりません!」
パジャマを着、柔らかな部屋着をはおり、スリッパに足を突っ込み、深々と肱掛椅子に坐って家にいたことは事実である。そしてそれがメグレを陽気な気分にしたことも。
「私が意外なのは、きみの後任が誰になったのか、知らせてくれないことだ」
「それでは私はどこに任命されるのです?」
コメリオ判事の声はそっけなくて、冷たく、わざと感情を押し殺していた。逆に、警視の声はますますお人よしになっていった。
「私がいっているのは、コンコルド広場の事件のことだ。あの事件のことを、きみはまさか忘れてはおるまいね!」
「一日じゅう考えています。さっきも家内と話していたところです……」
メグレ夫人はこの話に自分をまき込まないように、前よりも熱心に合図を送った。このアパルトマンは狭くて、暑かった。食堂の黒ずんだ柏《かしわ》の家具はメグレが結婚したときのものだ。正面に、チュールのカーテン越しに、白い壁に大きな黒い文字で、『ロストとペパン、精密機械』と書かれているのが見える。
三十年間、メグレは毎日、朝に夕に、この文字を見てきた。この文字の下に倉庫の大きな扉があり、おなじ文字を書いたトラックがいつも二、三台停っていた。メグレはこの文字にうんざりしてはいなかった。
その逆だった! この文字をたのしんでいた。いわば眼で愛撫していた。それから、きまってその上の、遠くに見える家の裏手に眼がいく。窓にはシャツが乾してあり、天気が温和になるや、赤いゼラニュームがその窓にあらわれる。
そのゼラニュームはたぶんおなじものではないであろう。植木鉢のほうはメグレ同様、三十年前からそこにあった。それはまちがいない。そして、その三十年間、メグレは一度も人が窓の手すりによりかかるのも、ゼラニュームに水をやるところも見たことがなかった。部屋に人が住んでいることはたしかだったが、メグレの時間とその人の時間が合わなかったにちがいない。
「メグレ君、きみの留守のあいだに、部下の者が期待どおり熱心に捜査をやっていると思うか?」
「私はそう思っていますよ、コメリオ判事さん。絶対にたしかです。こうした捜査を指揮するのに、自分の家の静かな、あたたかい部屋で肱掛椅子に坐り、あらゆる騒動から離れ、手もとの煎じ薬の壷のわきに電話だけをおいてするのがいかにすばらしいものか、あなたにはわからないでしょう。ちょっとした秘密をあなたに打ち明けましょう……この捜査がなかったら、私は病気になっていたかどうか、と考えているんです。もちろん病気になどならなかったでしょう。私が風邪をひいたのは、コンコルド広場で死体が発見された夜なんです。さらに、つぎの日の明け方、解剖のあとで、ポール医師と一緒に河岸を歩いたときなんです。しかし、私が言いたいのはそのことではありません。この捜査がなければ、この風邪はただの風邪にすぎないんで、ろくに気にもかけなかったでしょう。おわかりでしょうか?」
コメリオ判事の顔は、オフィスのなかで、赤くなったり、青くなったりしているにちがいない。かわいそうなメグレ夫人は途方に暮れてしまった。彼女はお偉方や、階級制度をひどく尊敬していたのだ!
「ここで、私の家で、世話をやいてくれる家内と二人きりでいると、ひどく落着いた気分で捜査のことを考えたり、指揮したりできるんです。誰にも、いや、ほとんど誰にも邪魔されないし……」
「メグレ!」と、夫人が口を出した。
「しっ、静かに!」
判事がしゃべっている。
「三日たっても、まだあの男の身許がわからないなんて、きみ、当り前だと思うか? 写真だってすべての新聞に出た。きみ自身が私にいったところでは、あの男には女房がいたとか……」
「あの男がそう私にいったのです」
「たのむから、私にしゃべらせてくれ。あの男には女房がいた、たぶん友達も何人かいただろう。隣人だって、家主だっていたにちがいない。彼がある時間に街を歩いていく姿を見憤れている人だっている。それなのに、彼を知っているという人間はまだ一人もあらわれないし、彼の失踪を通報してもこない。そりゃ、たとえばリシャール・ルノワール通りへ行く道を誰も知らないのとわけが違うんだ」
かわいそうなリシャール・ルノワール通り! なぜこれほど評判がわるいのか? もちろん、この通りはバスティーユ広場に通じているし、ごちゃごちゃした小さな街路に取りまかれている。しかも、この界隈《かいわい》は工場や、倉庫がいっぱいである。けれども、リシャール・ルノワール通りは広くて、真中には草花が生えている。この草花は地下鉄《メトロ》の上にも生えている。地下鉄の出入口は通りのあちこちにあり、ジャヴェル水〔漂白用次亜塩素酸水溶液〕の匂いがする生あたたかい空気が流れてくる。二分ごとに電車が通り、そのたびに家々が妙なぐあいに揺れる。
慣れの問題である。友達や、同僚たちはこの三十年間に百回ほど、メグレのためにもっと陽気な区にあるアパルトマンを見つけてくれた。メグレはそれを見に行くたびに、ぶつぶついう。
「もちろん、ここはすばらしいが……」
「眺めだっていいだろう、メグレ!」
「いいね……」
「部屋は広くて明るいし……」
「うん……申し分ないな……ここに住めたらうれしいだろう……ただ……」
メグレはゆっくり間を取ると、頭をふりふりため息をついた。「ただ、引越すのがどうも!」
リシャール・ルノワール通りを愛していない人々にとっては、コメリオ判事にとっては、気の毒だが仕方がない。
「判事さん、鼻のなかに干したグリーンピースを突っ込んだことがありますか?」
「なんだって?」
「干したグリーンピースといったのです。子供の頃よくそうやって遊んだのをおぼえています。やってごらんなさい。そして鏡で見てごらんなさい。その結果におどろくでしょう。鼻の穴にグリーンピースを入れただけで、毎日あなたを見ている人たちが、あなただとは知らずに通りすぎてしまいます。顔つきが変わったわけではないのです。ちょっと変わるといちばん途方に暮れてしまうのは、いちばん慣れ親しんでいる人たちなのです。
ところで、あの男の顔の変わりようが、鼻にグリーンピースを入れたどころでないことはご存知ですね。
まだあります。人間というのは、おなじ階の住人や、会社の同僚や、毎日ランチをもってきてくれるウェイターが、とつぜん変わってしまう、たとえば殺人者や被害者になってしまうなどと想像することはできないのです。新聞で犯罪を知っても、別の世界の、別の社会の出来事のように考えます。|自分の《ヽヽヽ》街、|自分の《ヽヽヽ》建物のなかのことではなく……」
「要するにきみは、まだ誰もあの男のことに気がつかないのが当然だと言いたいのか?」
「特別におどろきません。六力月間もかかった溺死女のケースだってありましたからね。冷凍設備もなく、冷たい水を水道の蛇口から死体にちょろちょろと流していただけの、古いモルグのころの話ですが」
メグレ夫人はため息をついた。もう夫を黙らせることはあきらめている。
「つまり、きみは満足しているんだな。男が殺され、三日たっても、その殺人者の手がかりどころか、被害者についてもなにもわからないというのに」
「細かいことについてはいろいろとわかっています、判事さん」
「私に知らせる必要がないほどの細かいことなんだろうよ、予審判事に任命されているこの私に」
「いいですか、たとえば、あの男はおしゃれです。上品ではありませんが、ソックスやネククイが示すように、おしゃれです。ところで、彼はグレイのズボンにレインコートを着、山羊《やぎ》皮の黒い靴、とても上等な靴をはいていました」
「うん、とても興味があるね!」
「とても興味があります。とくに彼が白いシャツを着ていたことは。葵《あおい》色のソックスと花模様のネクタイが好きな男はカラーのワイシャツ、せいぜいストライプか、小さな模様の入ったワイシャツを選ぶとは思いませんか? 彼がわれわれに教えたカフェ、彼がくつろげるようなカフェに入ってごらんなさい。まっ白なワイシャツなどあまり見かけませんから」
「それでどういうことになる?」
「ちょっと待ってください。少なくともこれらのカフェの二つで……トランスがいまそのことをたしかめに行っていますが……、彼は『シュズ・シトロン』を注文しています、いつもそれを飲んでいたかのように」
「アペリチフのような味がするやつだね!」
「『シュズ・シトロン』を飲んだことがおありですか、判事さん? ほとんどアルコールのはいっていない、にがい飲物です。アペリチフのようにいつでも飲めるものではありませんし、私の気がついたところでは、これを飲む人たちはたいていアペリチフのようにほろ酔い加減になるためにカフェに行く人たちではなくて、商売の関係でそこに行く人たちです。たとえば、あちこちで振舞酒を飲まざるをえない外交員など」
「では、きみはあの男が外交員だったといいたいのか?」
「ちがいます」
「それでは?」
「待ってください。五、六人があの男を見ています。われわれはその証言を得ていますが、どの証言もはっきりしません。大部分が、あの男が盛んに身振りをする小男だったといっています。今朝、ムルスが見つけた細かい点を忘れるところでした。ムルスは良心的な男です。自分の仕事に決して満足しないし、人に言われなぐても自分から仕事にもどります。いいですか、ムルスは今朝、あの死んだ男が|あひる《ヽヽヽ》のように歩くことを見つけたのです」
「なんだって?」
「あひるのように! 爪先を外輪《そとわ》にして歩くと言いかえてもいいでしょう」
メグレは夫人にパイプにたばこをつめるように合図し、夫人の手つきをそっと監視し、たばこをつめ込みすぎないように身振りで注意をうながした。
「いま、あの男についての証言のことを話しましたね。それらの証言ははっきりしませんが、五人のうち二人はおなじ印象をもっています。
『たしかなことではないんですが……』と『ボージョレーの酒倉』の主人はいっています。『はっきりではないんですが、あの男はなにかに似ているんですよ……それがなにに似ていたのか、私には……』
ところで、彼は映画スターでも、端役でもありません。刑事を撮影所にやりました。また、彼は政治家でも、司法官でもありません……」
「メグレ!」と、夫人はさけんだ。
メグレはパイプに火をつけ、煙を吐き出すたびに、ことばを区切りながらしゃべりつづけた。
「判事さん。いままでの話から、彼の職業はなんだと思います?」
「そうしたナゾナゾは、私は好まんね」
「こうやって部屋に閉じこもっていると、いろいろ考えるものです。私は一番重要なことを忘れるところでした。もちろん、いろんなやくざの世界を調べました。競輪からも、フットボール試合からもなにもわかりません。すべての場外馬券屋にも訊いてみました」
「なんだって?」
「場外馬券屋……競馬場にいかなくても賭けられるカフェを知っていますね……なぜかわからないのですが、私はあの男が場外馬券屋のところにしきりに出入りしていたように思えるのです……この方面からなんの収穫もありませんでしたが……」
メグレには天使のような忍耐があった。この電話による会話をわざと引き延しているようなところがあった。
「そのかわり、リュカが競馬場でチャンスをつかんだのです……長い時間かかりました……はっきりあの男だと認めてくれたわけではないのですが……もちろん、顔が変形してしまっているため……しかし、いいですか、ふつうの人は生きている人間は見慣れていますが、死んだ人間は見慣れていないのです。死体になると、とても変わってしまうものです……しかし、競馬場で、なん人かが彼のことをおぼえていました……彼はクラブ・ハウスではなく、一般席によく来ていたそうです……予想屋の話によれば、かなり熱心だったとか……」
「彼の身許をたしかめるのに、それで十分じゃないのかね?」
「ええ。ですが、私がいままで話したことから、彼が『リモナード』の人間だということができます。ほとんどまちがいありません」
「『リモナード』って?」
「俗語なのです、判事さん。カフェのボーイ、皿洗い、バーテン、バーの経営者などのことなのです。レストランを除いて、飲物を扱うすべての連中を指す業界の言葉です。いいですか、カフェのボーイはみんな似ています。そっくりだとはいいませんが、似ているところがあります。よく、見たこともないボーイを知っているような気になることがありませんか。
彼らの大部分は当然のことながら、柔らかい足をしています。彼らの足を見てごらんなさい。彼らは上等な、軽い靴をはいてます、ほとんどスリッパのような。三重底のスポーティな靴をはいたカフェのボーイか、給仕頭を見たことがありませんか。彼らはまた商売上、きまって白いワイシャツを着ています。
しかも、すべてがそうだとは言いませんが、かなりのパーセンテージであひるのように外輪で歩く者がいます。さらに、私にはその理由がよくわからないのですが、カフェのボーイたちは競馬がひどく好きです。朝早くか夜働いている彼らの多くは、熱心に競馬場にかよっています」
「つまり、きみはあの男がカフェのボーイだったといいたいのだな」
「いいえ、ちがいます」
「わからんな」
「彼は水商売の人間ですが、カフェのボーイではありません。私はうとうとしながら、数時間そのことを考えました」
氷のように冷たい判事にも、これらの言葉は一つ一つがショックだったにちがいない。
「カフェのボーイについていままで言ったことはすべて、そのままカフェの主人にも当てはまるのです。うぬぼれではありませんが、私はずっとあの男が使用人ではないという印象をもっていました。自分自身の商売で走りまわっている人間のような……。そこで今朝、十一時に、私はムルスに電話しました。ワイシャツはずっと法医学研究所にあります。そのワイシャツがどんな状態だったか、私は思い出せなかったのです。ムルスはもう一度ワイシャツを調べました。いいですか、偶然がわれわれに味方したのです。というのは、それが新しいワイシャツであったかもしれないからです。人はよく新しいワイシャツを着るからです。ところが幸い、そのワイシャツは新しくなかった、襟《えり》のところがかなり擦《す》り切れてさえいました」
「カフェの主人というのはワイシャツの襟が擦り切れるのだろう」
「いいえ、判事さん、他の人たちと変わりません。しかし、カフェの主人たちは手首のところが擦り切れません。私は大衆的な小さなカフェのことをいっているので、オペラ通りや、シャンゼリゼのアメリカ風のバーのことではありません。カフェの主人はたえず手を水や氷のなかに入れていなければならないので、いつでも袖をまくっています。ところで、ムルスによれば、あの男のワイシャツはよこ糸が見えるほど襟がすり切れていますが、手首のところはほとんど擦り切れていないそうです」
メグレ夫人が途方に暮れ出したのは、夫がいまひどく自信ありげに話していることだった。
「それに鱈《たら》料理のことがあります」
「それも小さなカフェの主人たちの特別な好みなのかな?」
「ちがいます、判事さん。パリには客に食べものを出す小さなカフェがたくさんあります。テーブルにはテーブルクロスさえありません。料理をつくるのは、多くの場合女主人です。そこでは本日の特別料理しかありません。こうしたカフェでは、暇な時間があり、主人は午後はかなり自由なのです。そのため、今朝から二人の刑事が、市役所やバスティーユ広場の地区からはじめ、パリのすべての地区を歩きまわっています。いいですか、あの男はずっとこの二つの地区の周辺にいたのです。パリジャンは自分の地区にひどく愛着をもっています、自分の地区しか安全でないように思っているのです」
「解決は近いかね?」
「早晩《そうばん》でしょう。えーと、これであなたにすべてを話しました? ニスの汚点《しみ》のことが残っています」
「ニスの汚点だって?」
「ズボンの尻に。それを見つけたのは例のごとくムルスです。しかし、ほとんど眼には見えません。ムルスは、それが新しいニスだと断言し、さらにこのニスが、三、四日前に家具に塗られたものであるとつけ加えています。私は駅を調べさせることにし、まずリヨン駅からはじめました」
「なぜリヨン駅から?」
「バスティーユ広場の延長線上にあるからです」
「では、なぜ駅なんだ?」
メグレはため息をついた。ああ! 説明するには長くなりすぎる! 予審判事って、どうしてこうも初歩的な現実感覚が欠けているのか! 酒場に、競馬場の一般席に、場外馬券屋に一度も足を踏み入れたことがない人に、水商売のことがよくわからない人に、どうして犯罪者たちの心理が読めるだろうか?
「そちらに報告書がいってるはずですが」
「二、三度読み返したよ」
「水曜日の午前十一時に、私が最初の電話を受けたとき、あの男はすでに長い間、誰かに追いかけられていました。少なくとも前日から。すぐに警察に知らせようとは、彼は考えませんでした。自分の力で切り抜けるつもりでした。しかし、すでにこわがっていました。生命が狙われていることを知っていたからです。そこで、人気のない場所は避けなければなりません。群集こそ彼の命綱でした。家に帰る気にもなれません。帰れば尾《つ》けられて殺される恐れがあったからです。パリでも、一晩じゅう開いている場所はごくわずかです。モンマルトルのキャバレーを除けば、駅しかありません。駅は明るいし、待合室は決して人気《ひとけ》がなくなることはありません。いいですか! 三等の待合室の腰掛けは、リヨン駅では月曜日に塗り直されています。ムルスによれば、リヨン駅のニスとズボンのニスはおなじものだそうです」
「駅員に尋問したかね?」
「ええ、尋問中です、判事さん」
「結局、それでもきみはいくつか成果をあげたではないか」
「それでも。あの男がいつ気持を変えたかも知っています」
「なんで気持を変えたんだ?」
メグレ夫人は夫の茶碗に煎じ薬を注ぐと、熱いうちに飲むように合図した。
「まず、彼はさっきいったように、自分の力で切り抜けるつもりでした。それから水曜日の朝、私に電話しようと思いついたのです。彼は午後四時ごろまで、電話をしつづけました。それからなにがあったか? 私にはわかりません。たぶんフォーブール・サン・ドニの郵便局から最後のSOSを出したあと、そんなことをしてもなんの役にも立たないと思ったのでしょうか? それでも一時間後の五時ごろ、彼はサン・タントワーヌ街のビヤホールに入っています」
「それでは結局、証人があらわれたのか?」
「いや、判事さん。それをつきとめたのはジャンヴィエです。カフェというカフェで写真を見せ、ボーイたちを尋問したおかげなのです。要するに、あの男は『シュズ・シトロン』を注文し……この事実はほとんど彼にまちがいないことを示しています……、封筒を求めました。便箋《びんせん》ではなく、封筒だけです。それから封筒をポケットに突っ込み、レジで両替してもらうと、電話室へ駆けて行きました。電話は通じたようです。レジの女がカチッという音を聞いています」
「それで、その電話を受けたのは、きみじゃないのか?」
「ちがいます」と、メグレは恨みがましい気持で返事した。「私にではなかったのです。いいですか、他のところへかけたのです! 黄色の車については……」
「なにか情報をつかんだ?」
「漠然としていますが、符合するのです。アンリ四世河岸を知っていますか?」
「バスティーユ広場のわきの?」
「そうです。すべてはおなじ区域で起こっているので、あの男がぐるぐるまわっていたのではないかと思えるほどです。アンリ四世河岸はもっとも静かで、パリでいちばん人通りの少ないところです。店もバーもなく、中産階級の家があるだけです。水曜日の八時十分きっかりに、そこで若い電報配達人が黄色い車を見ています。なぜ若い配達人がその車に気がついたかと言いますと、ちょうど電報をとどける六三番地の家の前で故障していたからです。二人の男がボンネットを開けてのぞき込んでいました」
「その車の特徴はわかったのか?」
「いや。暗かったのです」
「ナンバーは?」
「だめです。判事さん、見かけた車のナンバーをおぼえておく人などまれです。重要なのは、その車がオステルリッツ橋のほうに曲っていったことと、それが八時十分だったということです。解剖によって、犯罪が八時から十時までのあいだに行なわれたことがわかっているからです」
「やがて外に出られるようなからだ具合かね?」
判事はいくぶん穏やかになったが、屈服するのはいやだった。
「さあ、どうですか」
「現在、どの方向に捜査を進めているのかね?」
「どの方向にも進めていません。待っています。それしか手がありません、そうじゃありませんか? われわれは行きづまっているのです。われわれは、というより私の部下はできるだけのことをやりました。あとは待つだけです」
「なにを待つんだ?」
「なんでも。あらわれるものを。それは証言かもしれませんし、新しい事実かもしれません」
「そんなものがあらわれると思うのか?」
「そうありたいものです」
「ありがとう。きみとの会話を検事総長に報告しておくよ」
「よろしく言っておいてください」
「からだに気をつけて、警視君」
「わかりました、判事さん」
受話器をおいたとき、メグレはまじめくさっていた。そっとメグレ夫人を観察した。夫人は編物をしていたが、漠然とした不安に悩んでいるようだった。
「あなた、少し誇張しすぎたんじゃないかしら?」
「なにを誇張した?」
「からかったんでしょう」
「そんなことあるもんか」
「判事さんをずいぶん馬鹿にしてましたわ」
「そうかな?」
メグレはひどくおどろいたようだった。彼は生まじめに話していたのである。彼の言ったことはすべて本当だった。自分の病気について言った疑いだって本当だった。捜査が思うように進まないとき、寝込んでしまったり部屋に閉じこもってしまうようなことが、メグレにはときどきあった。メグレ夫人は彼をいたわり、忍び足で歩いた。メグレは司法警察の騒ぎや、たえまない質問や、毎日の気苦労から逃れることができた。同僚たちがメグレに会いに来たり、電話をかけにきたりした。彼らは誰もがメグレにたいして忍耐強かった。からだの具合をメグレに聞いたりした。メグレはしかめ面をして煎じ薬を飲む代償に、やさしい夫人にグロッグをサーヴィスさせた。
メグレと彼の死者とに共通なものがあったことは事実である。実をいうと……メグレはとつぜんこのことを考えた……、彼がおじ気をふるうのは引越しではなくて、眺めが変わってしまうことだった。眼がさめても、『ロストとペパン』という文字が見えなくなってしまうという考え、毎朝、おなじ道を行けなくなってしまう……ほとんどいつも徒歩だった……という考えだった……。
メグレも、彼の死者もおなじ地区だった。この事実はメグレをよろこばせた。彼はパイプを空にし、別のパイプにたばこをつめた。
「あの男がバーの経営者だったと、あなたは本当に思うんですか?」
「断定的に言ったのは、ちょっと誇張してたかもしれないが、おれがそう言ったのは、そうであって欲しいからだ。うまく当てはまるだろう?」
「うまく当てはまるって、なにに?」
「おれがしゃべったことすべてに。最初、あんなにしゃべるつもりはなかったんだ。とっさにバーの経営者だといってしまい、それがすべてにぴったり合うので、しゃべりつづけたんだよ」
「あの男が靴屋か、洋服屋だったら」
「もしそうなら、ポール医師がそう言ってくれただろう。ムルスだって」
「どうしてあの人たちにそれがわかるの?」
「ポール医師は手の|たこ《ヽヽ》や、ひずみぐあいでわかるし、ムルスは着物についているほこりで」
「バーの経営者以外のなにかだとしたら?」
「そんなことはないな! さあ、おれの本をとってくれ」
病気のとき、メグレはアレクサンドル・デュマの小説に読み耽《ふけ》るのが習慣だった。そのため、黄色い頁にロマンチックなさし絵の入った古い廉価版のデュマ全集をもっていた。これらの本が発散する匂いは、なににもまして、メグレに、これまでかかったあらゆる軽い病気のことを思い起こさせるのだ。
ストーブのごうごう燃えさかる音、かちかちいう編物針の音が聞こえた。眼を上げると、黒ずんだ柏《かしわ》の戸棚にかかった時計の銅の振子がゆれているのが見えた。
「アスピリンを飲まなければ」
「わかった」
「どうしてあなたは、あの男が他の誰かに電話したと思ったのです?」
親切なメグレ夫人! 彼女は夫の手助けをしようとしているのだろう。いつもは、夫の仕事上のことについてはほとんどなにも聞かなかった。帰宅できそうな時間と、食事の時間ぐらいだった。だが、メグレが病気になっても働いているのを見ると、彼女は少し心配になってしまうのである。が、心の奥底では、彼女は夫が本気ではないと考えているにちがいない。
司法警察ではたぶん夫はきっと別の態度をとり、本物の警視として話し、行動しているのではないか?
コメリオ判事とメグレの会話は……誰との会話よりも……夫人をじりじりさせた。唇を静かに動かして編目を数えながら、彼女がその会話のことを考えつづけていたのはあきらかだ。
「わたしね、メグレ……」
メグレはいやいや顔を上げた。本に夢中になっていたからである。
「わからないことがあるの。リヨン駅のことで、あなたはあの男が尾行されているので家に帰る気になれなかったと言ったわね」
「ああ、言ったよ」
「昨日は、あなたはわたしに、背広を着がえたにちがいないと言ったわ」
「言ったけど、それが?」
「あの男がまるで自分のレストランで鱈料理を食べたような話し方を判事さんにしたわ。もしそうだったら、あの男は自分のレストランに帰ったんだわ。ということは、あの男は家まで尾行されることを恐れていなかったということにならない?」
メグレはすでにそのことを考えていなかったか? あれは即興的に答えただけのことではないのか?
「それだとぴったりするな」
「本当?」
「駅は火曜日の夜だ。彼はまだ私に助けを求めてこなかった。尾行者から逃れられると思っていたんだ」
「つぎの日は? つぎの日は彼はもう尾けられていなかったと思うの?」
「たぶんそうだろう。そうだと思うよ。ただ、五時頃彼が気持を変えたと、私は言ったね。いいかい、彼が電話をし、封筒を求めたことを忘れてはいけない」
「もちろん……」
納得できなかったが、彼女はため息をつきながらいった。「きっとあなたの言うとおりでしょう」
沈黙。ときどき、頁をめくる音。夫人の膝では、メグレのソックスが少しずつできていった。
夫人は口を開いたが、また閉じてしまった。顔を上げずに、メグレが言った。
「言いたまえ!」
「なんでもないの……なんの意味もないことだわ……ただ、やっぱり殺されてしまったのだから、彼はまちがっていたと思ったの……」
「なにがまちがっていたんだい?」
「家にもどったこと。あら、ごめんなさい、本を読みつづけて……」
しかし、メグレは本を読まなかった。とにかくもう注意が集中できなかった。メグレは頭を上げた。
「きみは車の故障のことを忘れている!」と、彼は言った。
メグレにはとつぜん、新しい糸口がつかめたような、裂け目ができたような気がした。この裂け目から真相がちらっと見えるかもしれない。
「われわれが知りたいのは、黄色い車が故障でどのくらい停っていたかということだ」
メグレはもはや夫人のために話しているのではなく、自分のためにだった。夫人にはそれがよくわかっていたので、もう口を出すようなことはしなかった。
「故障は予想外の出来事だ。つまり、あらかじめ考えておいた計画をめちゃくちゃにしてしまうような出来事だ。そこで、当初の予定よりちがった成行きになったにちがいない」
メグレは奇妙な眼つきで夫人を見た。彼に手がかりをあたえてくれたのは、結局は夫人だったからだ。
「あの男は故障のために死んだとは思えないか?」
とつぜん、メグレは膝の上の本を閉じ、電話に手を伸ばすと、司法警察の番号をまわした。
「リュカをたのむ。刑事部屋にいなかったら、私のオフィスだ……きみか、リュカ? ……なんだって?情報か? ちょっと待ってくれ……」
メグレは先に話したかった。彼が一人きりで発見したことを相手にしゃべられることを恐れたからだ。
「アンリ四世河岸に刑事を一人やってくれ、エリオでもデュボネでもいい、手のあいている者を。管理人や、住人に質問するんだ、六三番地だけではなく、近所の家やすべての建物の。アンリ四世河岸はそれほど長くはない。誰かが黄色い車に気づいているはずだ。私は黄色い車が何時に故障し、何時に立ち去ったのかできるだけ正確に知りたい。ちょっと待って! それだけじゃない。運転手にはたぶんスペアが必要だったろう。近くに自動車屋があるにちがいない。そこにもいってみてくれ。すぐに……さあ、こんどはきみが話してもいいよ!」
「ちょっと待ってください、警視。別の部屋に行きますから」
それは、リュカが一人ではなく、その一緒にいる人間の前では話したくないという意味だった。
「もしもし! あの女に私の話を聞かせたくなかったのです。車のことなんですが。三十分前に年取った女がやってきて、私はあなたのオフィスで会ったのです。あいにく、彼女はちょっと頭がおかしくて……」
そういうのは避けがたいことだった。捜査が少しでも知れわたると、パリじゅうの気違いが司法警察にやってくるのである。
「彼女はベルシーの倉庫のちょっと先のシャラントン河岸に住んでいるんです」
この話はメグレに、数年前そのあたりにあった奇妙な小さな家での捜査を思い出させた。ベルシー河岸が眼に浮かぶ。左側に倉庫の鉄扉や、大きな樹、右側にはセーヌ河の石の手すり。それから、メグレが名前を忘れてしまった橋をわたると、河岸は広くなり、町というより郊外を思わせる平屋や、二階建ての家が片側にずらりと並んでいる。ここにはいつも多くの大|伝馬船《てんません》があり、警視には見渡すかぎり樽でぎっしりうまった船着場がありありと思い出された。
「その老女は、なにをしたんだ?」
「そこがむずかしいところなのです。彼女はトランプ占いで、千里眼なのです」
「ふん、どうかな」
「ええ、私もそう思ったんです。彼女は無遠慮に人の眼をのぞき込みながら、ペラペラとしゃべりまくるのです。まず、彼女は新聞を読んだことがないと私に誓いました。いろいろな出来事を知るには霊媒《れいばい》状態になるだけでいいので、そんなものは必要ないと、そう私に言うんですよ」
「ちょっとつついてみたか?」
「はい。お客がおいていった新聞を見たと、最後に認めました」
「それで?」
「彼女は黄色い車の記事を読み、その車なら水曜日の夜、彼女の家から百メートルと離れていないところで見たと断言しています」
「何時ごろ?」
「夜の九時ごろ」
「車のなかの人間も見たのか?」
「二人の男が家のなかに入っていくのを見たそうです」
「その家をきみに教えたか?」
「河岸と街路の角にある小さなカフェで、『チビのアルベール』という名の店です」
メグレは歯でパイプの柄を強くかむと、自分の眼が興奮できらきら輝いているのを見られたくなくて、メグレ夫人を見ないようにした。
「それだけ?」
「興味があるのはほとんどそれだけです。それでも三十分間、恐ろしい速さで、まくし立てました。会ってみますか?」
「もちろん」
「あなたのところへ連れて行きますか?」
「ちょっと待ってくれ。『チビのアルベール』の前でどのぐらい車は停っていたのかな?」
「三十分ほど」
「それから町のほうに走っていった?」
「ちがいます。河岸をシャラントンのほうへです」
「カフェから車になにも荷物を運ばなかったのか? 私の言いたいことがわかるな?」
「男たちがなにも持っていなかったのはたしかだと、彼女は言ってます。私を悩ませるのはそこなんです。時間もです。私は、あいつらが夜の九時から午前一時まで死体と一緒になにをしていたのか考えているんです。まさか郊外ヘドライブに行ったとは思えないですからね。この婆さんを連れて行きますか?」
「うん。タクシーを捨って、きみと一緒に刑事を一人連れてくるんだ。その刑事をその老女と階下《した》に待たせておく」
「警視《パトロン》、出てもいいんですか?」
「大丈夫だ」
「気管支炎は?」
リュカはやさしかった。風邪といわずに、気管支炎といったのである。そのほうが重くみえる。
「心配ないよ」
メグレ夫人は椅子の上でもぞもぞしはじめると、口を開いた。
「刑事さんに、あなたが階上《うえ》にいくあいだ、女を逃がさないように注意しなさいって言ってよ。急に気持を変える人がいますからね」
「あの女なら安心です。新聞に写真を出したいんですから。肩書きと、その特技をそえて。カメラマンがどこにいるのか、私に聞きましたよ」
「こちらに来る前に、写真を撮ってやれ。そうすればよろこぶよ」
メグレは受話器をかけると、からかうようにメグレ夫人を見つめた。それから、まだ読み終っていないアレクサンドル・デュマをながめた。こんども読み終えることができないから、つぎの病気まで待たなければならないだろう。メグレはまた、煎じ薬の茶碗にも眼をやったが、こちらはふんといった感じだった。
「仕事だ!」と、メグレは立ち上り、戸棚のところへ行くと、カルヴァドスの壜《びん》と、金縁の小さなコップを取った。
「汗を出すためアスピリンを飲んでいったほうがいいわ!」
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第四章
司法警察の伝説のなかに、きまって新入りたちが聞かされるいくつかの有名な『張込み』がある。なかんずくメグレのは十五年昔にさかのぼる。晩秋で、その年でももっとも天気がわるかった。とくにノルマンディーはそうで、雲が低くたれこめた鉛色の空のため、日はますます短かくなっていた。三日と二晩の間、警視はフェカン付近の、人気《ひとけ》のない道路に面した庭の門にぴったりとからだを寄せて、正面の別荘からある男が出てくるのを待っていた。見わたすかぎり他に家はなかった。畑だけだった。牛さえ小屋にもどっていた。交代をたのむにしても、電話のあるところまで二キロも歩かなければならなかった。誰もメグレがそこにいることを知らなかった。メグレ自身こうなるとは思ってもいなかったのである。
三日と二晩の間、雨が滝のように降った。氷りつくような雨で、パイプのなかのたばこまでびしょびしょになってしまった。通ったのは、木靴をはいた三人の百姓がすべてで、彼らはうさんくさそうにメグレをながめ、足を早めた。メグレには食物も飲物もなかった。さらにわるいことに、二日目の終りから、パイプ用のマッチもなくなってしまった。
リュカにも、彼の面目を高める『張込み』がある。耄碌《もうろく》爺さんの話といわれているものだ。小さなホテルを見張るため……ヴォージュ広場に近い、ビラーグ街の角だった……中風になった老人に変装させて、彼を正面の部屋に住み込ませた。毎朝、看護婦が彼を窓の前につれて行くと、彼は一日じゅうそこにじっとしている。顔には扇形の立派なひげがあり、看護婦は彼にスプーンで食物を食べさせた。これが十日間つづき、終ったあとでは脚がほとんど使えなくなってしまった。
メグレは今夜、これらの話や、これに類した話を思い出した。これからはじまる張込みも有名になりそうな予感がした。とくに彼にとっては楽しいものに。
これはゲームのようなものであり、彼は誰よりも真剣にこれを演じていた。たとえば、七時ごろ、リュカが出かけようとするとき、メグレはさりげなく言った。
「一杯やっていくかい?」
カフェのよろい戸は、メグレが来たときのように閉っている。灯りはついていた。その灯りの下はどこにでもある閉店後の小さなカフェといった感じで、テーブルは片づけられ、床にはおがくずがまかれている。
メグレは棚のグラスを取りに行った。
「ざくろ酒? 黒すぐり酒?」
「黒すぐり酒」
メグレは、ここの店主にいっそう成りきろうとするかのように、自分のグラスにはシュズ・シトロンを注いだ。
「この仕事にむいているのは誰だと思う?」
「シュヴリエですね。彼の両親はモレ=シュル=ロワンでホテルをやってましたし、彼は兵隊に行くまでそのホテルを手伝っていたんです」
「今夜にでも彼に連絡して準備させてくれ。では乾杯! 彼は料理できる女を見つけて来る必要があるな」
「彼ならうまくやりますよ」
「ヴェルモットをもう一杯どうだ?」
「もうけっこうです。私は出かけます」
「すぐにムルスを私のところによこしてくれ。仕事の道具を持ってくるように」
メグレはドアまでリュカを送って行き、しばらく人気のない河岸を、並んでいる大樽を、夜のあいだ繋《つな》がれている大伝馬船をながめた。
このカフェは、パリではなく、郊外でよく見かけるような小さなカフェで、それこそ絵ハガキやエピナルの版画にある小さなカフェだった。角地にあるこの家は二階建てで、赤|瓦《かわら》の屋根と黄色く塗られた壁を持ち、その壁には褐色の大きな文字で『チビのアルベール』と書かれてある。さらにその両わきには素直な飾り文字で『葡萄酒……いつでも軽食あり』とある。
裏庭の庇《ひさし》の下に、警視は小|潅木《かんぼく》の植わった緑色の樽を見つけた。これらの樽は夏、歩道に出され、二、三のテーブルと共にテラスを形づくるにちがいなかった。
いま、メグレは人気のない家のなかにいる。数日前から火の気がないので、空気は冷たく、湿っていた。二、三度メグレは店の真中にある大きなストーブを横目で見た。そのストーブの、黒びかりしている煙突は店じゅうをかけめぐって壁のなかに消えている。
バケツに石炭もほとんどいっぱいあるのに、なぜいけないのか? 裏庭の庇《ひさし》の下にも、メグレは斧とまき割台のわきに薪を見つけた。料理場の隅には古新聞もある。
数分後には、火は燃えさかっていた。警視は背中に手をやるいつものポーズで、ストーブの前に悠然とかまえていた。
実際は、リュカのあの老女はそれほど狂ってはいなかった。メグレたちは彼女の家に行ったのである。タクシーのなかで、彼女は始終ぺらぺらとしゃべりつづけた。が、ときどき伏目がちにこっそりメグレたちをながめては、自分の話の効果を知ろうとした。
彼女の家はカフェから百メートルと離れていなかった。一戸建て住宅と呼ばれる二階屋の小さな家で、小さな庭もついていた。メグレは、河岸のおなじ側にあるのに、彼女がどうして家からある程度離れた歩道の上で起こったことを、それも日が暮れてしまっていたのに、目撃することができたのかといぶかった。
「あなたは歩道の上にずっと立っていたのですか?」
「いいえ」
「玄関には?」
「家のなかにいたんですよ」
彼女の言うことはもっともだった。おどろくほどきれいな表の部屋には、街路に面した窓の他に、『チビのアルベール』の方向の河岸が大部分見える横手の窓もあった。よろい戸がついてないので、停車中の車のライトが老女の注意を惹《ひ》いたのは当然である。
「家に一人でいたのですか?」
「ショフィエさんが一緒だったよ」
それは、ちょっと先の街に住んでいる助産婦だった。調べてみたが、老女のいうとおりだった。老女の見かけから想像するのとは逆に、その家の内部は女だけの世帯のすべての住居と似ていた。そこには占者たちが好んで飾り立てる骨董品がなかった。反対に、バルベス通りの家具屋から買った明るい色の家具があり、床には黄色いリノリュームが敷かれていた。
「きっと起こったにちがいないわ」と彼女は言った。「あの人が自分の店の入口に書いていったものを、あんた読んだ? あの人は秘伝を伝授されたか、涜聖《とくせい》の罪を犯したんだわ」
彼女はコーヒー用に湯をわかし始めた。ぜひともメグレにコーヒーを一杯飲んでいってもらいたかったのだ。彼女の説明によると、『チビのアルベール』というのは十四世紀か十五世紀の魔術の本の題名だった。
「そのカフェの主人の名前もアルベールだったのですか? 本当にチビだったのですか?」と、警視は反問した。
「そうよ、チビよ。よく見かけたもの。それだけの理由じゃないの。あんなにいろんなものに手を出すなんて軽率なのよ」
アルベールの妻については、彼女はこういった。
「とてもだらしない大柄の浅黒い女よ。わたしゃ、あんな女のつくった料理を食べたくないね、いつもにんにくの匂いがぷんぷんしてさ」
「いつから、よろい戸は閉まっていますか?」
「わかんないね。黄色い車に気づいた日の翌日、わたしゃ風邪を引いてベッドに寝てたんです。起きたときには、もうカフェは閉っていたね。わたしゃ、いい厄介払いだと思ったよ」
「やかましかったんですか?」
「いいえ。ほとんど客が来ない店だったからね。えーと、河岸にあるクレーンで働いている男たちが昼食を食べにきたね。それに、セス店の地下倉保管係や、葡萄酒商人たち。船頭たちはカウンターで一杯ひっかけていったね」
彼女はどの新聞に自分の写真が載るのか、しきりに知りたがった。
「わたしゃ、トランプ占いなどと書かれるのは絶対にごめんだよ。あんたがお巡りだっていわれるのとおなじようなもんさ」
「私は腹を立てませんよ」
「でも、わたしゃ、それで評判おとすからね」
さあ、これで老女との話は終った。メグレはコーヒーを飲んだ。メグレとリュカは街角のカフェに向かった。なにげなくドアのハンドルをまわしたのはリュカだった。ドアは開いた。
この小さなカフェのドアが少なくとも四日間開いたままなのも変だったし、棚の酒壜や銭入れ引出しの金に手も触れられていないのも変だった。壁にはペンキで、床から一メートルほどが褐色に、その上がライト・グリーンに塗られている。田舎のどこのカフェにもある広告用のカレンダーがかかっていた。
実際、『チビのアルベール』はそれほどパリ風ではなかった。というよりも、大部分のパリジャンのように、彼も田舎趣味の持主だったのだ。このカフェを、彼は彼流に、愛情をもって整えていたことが察しられる。こうしたカフェはフランスのどこの村にも見かけるだろう。
二階に寝室があるのもおなじだった。メグレはポケットに両手を入れたまま、家じゅうを見てまわったのである。リュカがおもしろそうにメグレについて歩いた。というのは、外套と帽子を脱いだ警視は、この新しい住居をまるで自分の手に入れたようにみえたからである。三十分もたたないうちに、メグレはわが家にいるようにくつろぎ、ときどきカウンターのうしろに立ったりした。
「たしかなことは、ニーヌがここにいなかったことだ」
メグレたちは地下室から屋根裏まで彼女をさがしてまわった。中庭はもちろん、古箱と空の壜がいっぱいおいてある小さな庭もくまなくまわった。
「きみはどう思う、リュカ?」
「わかりません、警視《パトロン》」
このカフェにはテーブルは八つしかなかった。四つが壁に沿い、その反対側に二つ、あとの二つは部屋の真中のストーブのそばだった。メグレとリュカがときどきながめたのはこの二つのテーブルの一つだった。というのは、一つの椅子の下だけおがくずが念入りに掃かれてあったからだ。血の汚点《しみ》を消そうとしたのでないとすれば、どういうわけか?
しかし、被害者の食器を誰が片づけたのか? 誰がその食器やグラスを洗ったのか?
「車のやつらがあとで引き返してきたんじゃないですか?」と、リュカがほのめかした。
とにかく奇妙なことがあった。家のなかのすべてがきれいに片づいているのに、一本の酒壜《さかびん》だけがカウンターの上で栓を抜かれたまま放り出されている。メグレはそれにさわらないように気をつけた。コニャックの壜だった。たぶんこの壜を使った一人ないし複数の男はグラスなしで壜からじかに飲んだのだろう。
この見知らぬ訪問者たちは二階に上り、引出しという引出しをさがした。下着類や品物がごちゃまぜになってはいるが、ちゃんと閉めて行っている。
もっとも奇妙なのは、寝室にかかった二つの額縁の中身が空になっていることだ。この額縁には写真が入っていたにちがいない。見知らぬ訪問者たちが湮滅《いんめつ》しようとしたのはチビのアルベールの写真ではなかった。箪笥の上に彼の写真があったからだ。まん丸い、陽気な顔で、額に巻き毛がなで下ろしてあり、『ボージョレーの酒倉』の主人のいうとおり、どこか滑稽だった。
タクシーが停った。歩道に足音が聞こえた。メグレは閂《かんぬき》を開けに行った。
「入りたまえ」と、メグレはかなり重いスーツケースを下げているムルスに言った。
「食事をすませた? すませてない? じゃ、まずアペリチフでも?」
その夜は、メグレにとってこれまで経験したうちでもっとも奇妙な夜だった。メグレはときどきムルスを見守った。ムルスは気の長くなるような仕事にかかっていた。まずカフェからはじめ、料理場、寝室、家のすべての部屋など、いたるところからどんな指紋ものがさずとった。
「この壜を最初につかんだやつは、ゴム手袋をはめていましたね」と、ムルスは断言した。
ムルスは例のテーブルのそばのおがくずもいくらか集めた。メグレはゴミ箱から、鱈の残りを見つけた。
数時間前には、死んだ男はまだ名前もわからず、メグレの心にはぼんやりしたイメージでしかなかった。いま、メグレは男の写真を手に入れたばかりではなく、彼の家に来て彼の家具にかこまれているし、彼が着ていた着物を調べているし、彼の身の廻り品をいじっている。メグレとリュカがここに着いたとき、メグレはすぐに寝室の洋服掛けに下っていた背広をリュカに差し示したが、いかにも満足そうだった。それは、死んだ男のズボンとおなじ生地の背広だった。
つまり、メグレは正しかったのである。アルベールは家に帰って、いつものように着がえたのだ。
「ねえ、ムルス、ここに長いあいだ人が来なかったと思うかい?」
「今日来たと思います」と、カウンターの、栓を抜いた壜のそばのアルコールの跡を調べたあとで、この若者は答えた。
そうかもしれない。この家は誰にでもはいれる状態だったのである。ただ通りがかりの人たちはそのことを知らないだけだ。よろい戸が閉っていると、ドアが閉っているかどうかを見るためハンドルをまわしてみようなどとはほとんどしないものだ。
「なにかをさがしたんだろうな?」
「私もそう思います」
かさばるものではない。たぶん紙のようなものだろう。というのは、耳飾りの入っていた小さなボール紙の箱まで開けているからだ。カフェのなかで、ムルスとメグレが差し向かいで食事をするのは、奇妙なものだった。メグレがサーヴィスを引き受けた。メグレは料理場でソーセージと、いわしの罐詰、オランド・チーズを見つけた。地下室に降りて行って、樽から、濃い、青味がかった葡萄酒を出した。壜詰めのもあったが、メグレはそれには手をつけなかった。
「ここに残りますか、警視?」
「もちろん、残るよ。今夜は誰もあらわれないだろうが、家には帰りたくない」
「私も一緒に残りましょうか?」
「ありがとう、ムルス。でも、きみにはこれをすぐ分析してもらいたいのだ」
ムルスはなに一つなおざりにしなかった。二階の化粧室の櫛《くし》にまきついていた女の髪さえも。外ではほとんど物音が聞こえなかった。通行人もまれだった。ときどき、とくに真夜中をすぎると、郊外から来てパリの中央市場へ向かうトラックの騒々しい音。
メグレは夫人に電話しておいた。
「また風邪をひいたりしないでしょうね」
「心配しなくていいよ。ストーブをつけたし、これからグロッグをつくるつもりだ」
「今夜は眠れないの?」
「いや。ベッドも寝椅子もあるんだ」
「シーツはきれい?」
「踊り場の戸棚のなかにきれいなのがあるよ」
メグレは実際、もう少しで新しいシーツでベッドをつくり直し、寝てしまうところだった。が、考え直して寝椅子を選んだ。
ムルスは午前一時ごろ出て行った。メグレはストーブに燃料をいっぱいくべると、強いグロッグをつくり、すべてがきちんとなっていることをたしかめた。そして閂をかけると、寝に行く人間の重い足取りで、螺旋《らせん》階段を昇った。
洋服箪笥の中に部屋着があった。青いフランネルの部屋着で人絹の裏地がついている。だが、この部屋着はメグレにはあまりにも小さすぎた。ベッドの脚もとにあったスリッパも、これまたサイズが合わなかった。
メグレはソックスをはいたまま、毛布にくるまり、頭に枕をあてがい、寝椅子に横になった。二階の窓にはよろい戸がなかった。街燈の明かりが複雑な模様のカーテンを通して、壁に唐草模様を描いている。
メグレは最後のパイプをぷかぷかやりながら、眼を半ば閉じてその唐草模様をながめていた。メグレはしだいに慣れてきた。彼は新しい着物を試しに着てみるように、この家を試していた。匂いもすでに彼には親しいものになっていた。この甘ずっぱい匂いはメグレに田舎を思い出させた。
なぜニーヌの写真をはずしたのか? なぜニーヌはこの家を放ったらかし、銭入れの引出しからお金も持たずに姿を消したのか? 引出しには百フランほどしかなかったのは事実だが、たぶんアルベールはお金を別のところに隠しておき、誰かが彼の書類などと一緒にそのお金も奪い去ったのだろう。
妙なことは、この綿密な家さがしにもかかわらず、家のなかがほとんど乱雑になっていないことだった。着物は乱れてはいるが、ハンガーからはずされていない。額縁の写真は抜かれているが、額縁はちゃんと壁の釘にもどしてあった。
メグレは眠り込んだ。階下のよろい戸をたたく音を聞いたとき、メグレには数分しかまどろまなかったような気がした。
しかし、朝の七時だった。明るかった。セーヌ河の上に陽光がそそぎ、大伝馬船は動き出し、曳船が汽笛を鳴らしていた。足に靴をひっかけると、紐も結ばずに、メグレは階下に降りて行った。髪はぼさぼさ、ワイシャツの襟ははだけ、背広はくしゃくしゃだった。
シュヴリエと、紺色のスーツを着、乱れた髪に赤い小さな帽子をかぶったかなりきれいな女がいた。
「やって来ましたよ、警視《パトロン》」
シュヴリエは司法警察ではまだ三、四年にしかならなかった。彼は山羊よりも、羊を思わせた〔シュヴリエには山羊の番人という意味がある〕。それほど顔やからだの線が柔かで、ふっくらしていたのである。女がシュヴリエの袖を引っぱった。シュヴリエは了解し、口ごもりながらいった。
「えーと、警視殿、これ、私の女房です」
「心配なさらないで」と、彼女はものおじしないでいった。「わたし、こういったことにはくわしいの。母が村で宿屋をやっていて、五十人以上の結婚式の料理を、たった二人の女中の助けで、つくったこともあるんですよ」
彼女はすぐにパーコレーターのほうに行き、夫にいった。「マッチをちょうだい」
ガスはぽっという音を立ててつき、数分後には、コーヒーの匂いが家じゅうに流れた。シュヴリエはわざわざ黒のズボンに、白いワイシャツを着てきた。彼もまた身仕度をして、カウンターのうしろに立ち、品物の位置を変えたりした。
「店を開けますか?」
「開けよう。もうその時間だろう」
「誰が買物をします?」と、シュヴリエの妻がたずねた。
「これから、あなたがタクシーで、できるだけ近くで買物してきてください」
「|仔牛肉蒸し煮《フリカンドー・ア・ロゼイユ》など、いかがかしら?」
彼女は白いエプロンをもってきていた。彼女はとても明るく、とてもいきいきしていた。これからピクニックか、ゲームでもはじまるようだった。
「よろい戸を開けてもいいよ」と、警視が言った。「お客が聞いたら、きみたちは代わりの者だと返事するんだ」
メグレは寝室に上り、剃刀《かみそり》、ひげそり用石鹸、ひげそりブラシを見つけた。あるのがあたり前ではないのか? チビのアルベールはきれい好きで、からだの調子がよかったのだろう。
メグレは静かにひげを剃った。階下に降りていくと、シュヴリエの妻はすでに買物に出かけていた。二人の船頭がカウンターに肱《ひじ》をついて、アルコールを少し入れたコーヒーを飲んでいた。彼らはこのカフェの主人が誰なのか知ろうともしなかった。たぶん通りがかりの客なのだろう。彼らは水門のことを話していた。なんでも昨日、曳船が危くその水門にぶつかりそうになったのだ。
「なんにいたします、警視《パトロン》?」
メグレは自分でやりたがった。バーのカウンターのうしろに立って、壜からラムを注いだのは、生まれて初めての経験だった。メグレはとつぜん笑い出した。
「コメリオ判事のことを思い出したんだ」と、彼は説明した。
メグレは判事が『チビのアルベール』に入ってきて、カウンターのうしろに部下の一人と立っている警視を見つけるところを想像してみようとした。
しかし、なにか手がかりをつかもうとすれば、こうやる以外に手がなかった。ここの主人を殺したやつらは、いつものようにバーが開いているのを見て、とまどうだろう。それにニーヌはまだ生きているのか?
九時ごろ、例の占いの老女がカフェの前を行ったり来たりし、わざわざガラス窓に顔を押しつけてきた。そしてやっと、ひとり言をいいながら立ち去って行った。手には買物袋をぶら下げていた。
メグレ夫人が夫の様子を開くために電話してきた。
「なにか持っていってあげなくていいの? 歯ブラシとか?」
「いいよ。買ってきてもらったから」
「判事さんから電話がありましたよ」
「ここの番号を教えなかったね?」
「ええ。あなたは昨日の午後から出かけているとだけいっておきました」
シュヴリエの妻がタクシーから降り、野菜や包みでいっぱいの籠をおろした。
メグレが彼女を『奥さん』と呼ぶと、はげしくいい返した。
「イルマと呼んでください。お客さんもすぐにわたしをそう呼ぶようになるわ。ねえ、そうでしょ、エミール?」
ほとんど客はなかった。隣りの通りのビルの建築現場で働いている三人の左官が、休憩にきた。彼らはパンとソーセージを持参していて、二リットル入りの赤葡萄酒を注文した。
「また店をはじめたんだな、よかったじゃねえか!葡萄酒を飲むにはここから十分も行かなければなんねえからな!」
彼らは新顔を見ても気にもかけなかった。
「前の主人はやめたのかな?」
彼らの一人が言った。
「彼はお人よしだった!」
「あんたたちはずっと前からここの主人を知っていたのかい?」と、メグレは聞いた。
「この界隈の工事が始まったのがちょうど二週間前だからな。それに、おれたち、よく河岸《かし》を変えるから」
しかし、彼らは、メグレがうろうろ歩きまわっているのを見て、ちょっと興味をそそられた。
「あの人は誰だい? ここの家の人らしくは見えないけど」
すると、シュヴリエは無邪気そうに答えた。
「しっ! 私の義父《おやじ》なのに……」
料理場のストーブの上で、いろいろなものが煮られていた。家中が活気づいてきた。弱い日射しがカフェの広い張出し窓から入ってきた。シュヴリエは、まくりあげた袖をゴム紐でとめると、おがくずを掃除した。
電話。
「あなたにですよ、警視《パトロン》。ムルスからです……」
かわいそうなムルスは一晩じゅう眠らなかったのである。指紋のほうは、たいした収穫はなかった。壜にも家具にもあらゆる種類の指紋がついていたが、大部分は古いもので、しかも雑然と重なり合っていた。鮮明なものは犯罪人人体測定課にまわされたが、どのカードの指紋とも一致しなかった。
「ゴム手袋をはめて家じゅういたるところさがしまわったんですね。はっきり結果がでたのは、おがくずだけです。分析してみると、血痕が出ました」
「人間の血か?」
「一時間後にわかると思います。でも、まずまちがいありませんね」
今朝自分の仕事をすませてきたリュカが、十一時ごろ陽気にやってきた。リュカが明るい色のネククイをしてきたのに、メグレは気がついた。
「黒すぐり酒一つ!」と、リュカは同僚のシュヴリエにウィンクして言った。
イルマがドアに石盤をかけ、チョークで『本日の特別料理……|仔牛肉蒸し煮《フリカンドー・ア・ロゼイユ》』と書いた。彼女が忙しそうに店のなかを行ったり来たりする足音がひびいていた。たぶんどんなことがあっても、彼女は今日この仕事をやめないだろう。
「階上に行こう」と、メグレはリュカに言った。
二人は寝室の窓辺に坐った。天気がよかったので窓を開けた。クレーンが河岸で動き、大伝馬船のなかから大樽を運び出していた。呼子の音、鎖の軋《きし》る音が聞こえ、きらめく水の上では曳船があえぎあえぎ忙しそうに行ったり来たりをくり返している。
「彼はアルベール・ロシャンという名です。私は税務署に行ってきました。四年前に営業許可を得ています」
「女房の名前はわかったか?」
「いいえ。営業許可書は彼の名前でした。区役所にも行ってみましたが、何もわからなかったですね。女房持ちだったとしても、ここに来る前にすでに結婚してたんですね」
「所轄署には?」
「だめでした、ここは静かな店だったらしく、警察の世話になったことが一度もないのです」
メグレの視線は箪笥の上で笑っている死んだ男の写真にたえず注がれていた。
「シュヴリエがやがて客からそれ以上のことを聞きだすだろう」
「ここにおられますか?」
「階下《した》で二人で食事しよう。通りがかりの客のふりをして。トランスやジャンヴィエから連絡はないか?」
「二人ともあいかわらず競馬場の常連にあたっています」
「彼らから電話があったら、とくにヴァンセンヌに行くように言ってくれ」
またしても同じ問題点……ヴァンセンヌの競馬場はいわばこの地区にあるといってもいい。そしてチビのアルベールはメグレのように習慣を重んじる人間だった。
「この店が開いているのを見て、みんなおどろかないのですか?」
「それほどでもないね。近くの人たちは歩道からちらっとこちらを見るが……。たぶん彼らはアルベールがこの店の権利を売ってしまったと思っているにちがいない」
正午に、メグレとリュカは揃って窓辺のテーブルについた。イルマがみずから給仕してくれた。数人の客が他のテーブルに坐っていた。そのなかにクレーンの運転手たちがいた。
「アルベールはとうとう勝馬をあてたのかい?」と、彼らの一人がシュヴリエにたずねた。
「しばらく田舎に行ってるんですよ」
「それであんたが代わりっていうわけか? やっこさん、ニーヌを連れて行ったのかい? これからはにんにくの量が少し減るだろうことよ。まあそれもまんざら悪くもない。にんにくが悪いっていうわけじゃないが、ただ息がくさくなるんでね……」
男はすぐそばを通りかかったイルマの尻をつねった。シュヴリエはびくともしなかったし、さらに、リュカの皮肉な視線にも耐えた。
「とにかく、いいやつだったな! 競馬にあんなに夢中にならなけりゃよかったんだ……しかしだな、代わりの者がいたのに、なんで四日間も店を閉めていたのかね? お客に知らせもしないでさ! 飯を食うところを見つけるのに、最初の日など、シャラントン橋まで歩かなけりゃならなかったぜ。いや、おれはカマンベールじゃない。クリーム・チーズなんだ、いつも。それからジュールには、ブルーチーズだ……」
彼らはやはり好奇心をそそられたらしく、小声で話し合っていた。とくにイルマにはみんな興味をもっていた。
「シュヴリエは長い間はがまんできませんね」と、リュカはメグレの耳にささやいた。
「結婚してからまだ二年しか経っていないんです。ああやってやつらが彼の奥さんのお尻に手をやりつづけたら、あいつはまもなくやつらをひっぱたいてしまいますよ」
これはそれほど重大なことではなかった。シュヴリエ刑事は彼らの飲物を給仕しに行ったとき、きっぱりといい放った。
「彼女《あれ》は私の女房ですよ」
「よお、そいつはおめでとう……心配しなさんな、おれたちは大それた気など起こさないから」
彼らは大声で笑った。彼らはわるい人間ではなかった。だが、こんどの店主は気づまりなやつだと漠然と感じていた。
「あんたも知ってるだろうが、アルベールのやつはあれでとても用心深かったんだ……ニーヌをくすねようとするやつなどいなかったのに……」
「なぜだい?」
「あんた、ニーヌを知らないの?」
「会ったことがない」
「ほう、そいつはよかった……あの女ならセネガル人の兵舎に入れても安全だろうな……だが、とてもやさしい女だったな、え、そうじゃないか、ジュール?」
「彼女はいくつなんだい?」
「彼女には年齢《とし》など関係なかっただろ、ジュール?」
「そうだな、年齢など関係なかったな……三十ぐらいだったか? 五十ぐらいだったか? ……どちらから彼女を見るかによって、そいつはちがったな……良い眼のほうからだと、彼女はわるくはなかった……だけど、もう一方の眼のほうからだと……」
「やぶにらみだったのかい?」
「大将、なんだってあの女がやぶにらみかどうかだって! あの女はあんたの靴の先と、エッフェル塔の尖端を同時に見ることができるんだぜ……」
「アルベールは惚れてたのかい?」
「アルベールというのは、気楽にやるのが好きなやつさ。あんたのかみさんのシチュー、おいしいね、すばらしいじゃないか……だけど、朝の六時に市場に買出しに行くのはきっとあんただな。じゃがいもの皮をむくとき、かみさんの手伝いもするんだろう? それからしばらくして、あんたが競馬場に勇んで出かけるあいだに、皿洗いをせっせとするのも、かみさんじゃないね……。そうさな、アルベールはニーヌと一緒だと、横のものを縦にもしなかったな……それに、ニーヌは金をもっていたにちがいない……」
なぜ、このときリュカは、こっそりメグレを見たのか? 客が、メグレの死者の悪口を言ったとでもいうのか?
そのクレーンの運転手は話しつづけた。
「どうやってニーヌがその金をつくったか、おれは知らんが、彼女のようすから見て、商売をやったんじゃないことはたしかだな……」
メグレは平然としていた。唇にかすかに微笑さえ浮かべている。メグレは会話を一言も聞きもらさなかった。言葉の一つ一つが自動的にイメージになっていき、チビのアルベールの面影が少しずつ仕上がっていった。警視はこうやってはっきりできあがっていくこの人物にたいしてかぎりない愛情を抱いているようだった。
「かみさんたちはどこの生まれだい?」
「ベリーよ」
「私はシェール」と、シュヴリエが言った。
「じゃ、あんたたちはアルベールと同郷人というわけじゃないんだね。あんたたちはフランスの中央部生まれだが、アルベールは北部だからな。えーと……ツールコアン〔ベルギー国境に近い工業都市〕じゃなかったかな、ジュール?」
「ルーベ〔ツールアコンと市街が連結している〕だよ」
「おなじようなもんだ」
メグレがこの会話に口を出した。常連が集まるカフェではごく当り前のことだった。
「アルベールは北駅の付近で働いていたことがなかった?」
「『カドラン』で働いていた。ここにくるまでは、そのビヤホールで十年か十二年、ボーイをしていたんですぜ」
メグレがこの質問をしたのは、行き当りばったりではなかった。メグレは北部の人間をよく知っていたのである。彼らはパリに来ると、北駅から容易に離れまいとするようである。したがってモーブージュ街のわきにまさに植民地をつくってしまうのだ。
「アルベールがニーヌを知ったのはそのビヤホールではないね」
「どこでだかわからんが、アルベールは当りくじを引きあてたようなもんだ。それもつまらんものではなく、一生食うに困らんような……」
「ニーヌは南フランスの生まれ?」
「まあ、そんなようなもんだ」
「マルセイユ?」
「ツールーズさ……ナイフで切り刻むようなアクセント! あの女のアクセントにくらべれば、『ラジオ・ツールーズ』で放送しているやつなんて、どうっていうことはないさ……勘定をたのむ……ところで、ご主人さん、ごあいさつはないのかい?」
シュヴリエは当惑して眉《まゆ》をひそめた。しかし、メグレにはすぐに客の言いたいことがわかった。彼は口を出した。
「もっともだ! カフェの主人が代わったときには、ふるまい酒をするもんだ……」
昼食には全部で七人の客しかなかった。葡萄酒商人セスのところの地下倉保管係で中年の男が一人、しかめ面をして、片隅でもくもくと食べていた。彼はすべてに怒っていた……いつもとちがう料理に、いつもとちがうナイフとフォークに、いつも飲む赤葡萄酒の代わりに出された白葡萄酒に。
「いまにありきたりの店になってしまうぞ。いつもこうなることはわかりきっているんだ」とつぶやきながら男は立ち去った。
シュヴリエはすでに朝のときほどおもしろがってはいなかった。イルマだけはあいかわらず陽気だった。山のような大皿や小皿を巧みに片づけ、歌を口ずさみながら洗いはじめた。
一時半には、カフェにはもうメグレとリュカしかいなかった。暇な時間がはじまった。喉の乾いた通行人とか、積荷作業の終るのを待っている船頭夫婦とか、客はごくたまにしかなかった。
メグレはだらしなく腹をつき出して、パイプをふかしていた。たぶんイルマをよろこばせようとして、彼は食べすぎてしまったのである。日射しが片方の耳を温めていた。メグレは幸せそうだった。とつぜん、彼は靴の底でリュカの足指を踏みつけた。
男が一人、ちょうど歩道を通ったところだった。彼は注意深くカフェのなかをのぞいていった。それからちょっとためらったあとで、引返すとドアに近づいた。
中背の男だった。帽子はかぶっていなかった。赤毛で、顔にはそばかすがあり、眼はブルー、唇は肉感的だった。手がドアのハンドルにかかった。男は入ってきたが、まだためらっている。身のこなしがしなやかで、動作は妙に用心深かった。
古ぼけた靴は数日前から磨かれていない。黒っぽいスーツはすり切れ、シャツはうす汚れ、ネクタイはちゃんと結んでない。
男は他人の家にそっと忍び込んできた猫を思わせた。あたりをうかがい、危険の匂いを嗅いでいる。普通以下の知能の人間にちがいない。村の愚直な男たちがよくこういう眼をしている……生まれつきの狡猾《こうかつ》さと用心深さしか読みとれない眼。
たぶんメグレとリュカが男の気を惹いたにちがいない。男はメグレたちを警戒し、メグレたちを見つづけながら斜めにカウンターのほうに進み、硬貨でカウンターをたたいた。料理場の隅で食事をしていたシュヴリエがあらわれた。
「なんにいたしましょうか?」
男はまだためらっている。彼の声はしゃがれているようだった。彼は耳ざわりな音を出したが、話すのをやめてしまい、棚のコニャック壜を指さした。
男はこんどはシュヴリエをじっと見つめている。男にはわからないなにかが、男の理解を越えたなにかがあった。メグレは平然としたまま、足の先でリュカの足指をたたいた。
この場面は短かったが、とても長いように思われた。男は左手でポケットの硬貨をさがし、右手でグラスを唇にもっていき、一気に飲み干した。
アルコールでむせ、男は眼に涙を浮かべた。
それから男はカウンターに硬貨を二、三枚ほうり投げ、大股で急いで出て行った。外に出ると、男はベルシー河岸のほうにすっとんで行き、やがて振り返った。
「やつのあとをつけろ!」と、メグレがリュカにいった。
「まかれないように気をつけろ……」
リュカは外に飛び出して行った。警視はシュヴリエに命じた。
「タクシーを呼ぶんだ……早く!」
ベルシー河岸は長くて、まっすぐだった。横町はなかった。車でなら、リュカがまかれる前に、メグレは男に追いつくことができるのではなかろうか。
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第五章
追跡が激しくなるにつれて、メグレはますますこの場面をすでに経験していたような気になるのだった。こうしたことはときどき夢のなかで起こった。メグレがまだ子供のころ、いちばんこわかったのはこうした夢だった。彼はどちらかといえば複雑な装飾のなかを進んでいた。とつぜんすでにここに来たような、すでにおなじ動作をし、おなじ言葉をいったような感じになる。すると目まいのようなものにおそわれる。とくに、すでに前に一度生きた時間をふたたび生きているのだということを悟ったときには。
シャラントン河岸からはじまったこの追跡も、チビのアルベールの取り乱した声が一時間ごとにメグレの心に苦悩を深めていくとき、すでに前に一度これとおなじ突発的な追跡を彼のオフィスからはじめたような気になるのだった。
いまも、メグレの苦悩は深まっていく。ほとんど人影のない、見通しのよいベルシー河岸を、男は鉄柵に沿って大股で軽快に歩いて行った。ときどき振り返り、背の低いリュカの姿があいかわらずうしろについてきているのを見ると、速度を早めた。
メグレはタクシーの運転手のわきに坐って、彼らのあとを尾けた。この二人の人間はなんとちがうことだろう! 先を行く男には眼つきにも、歩き方にも動物的なものがあった。男の動きは、走っているときでも、調和がとれていた。
この男を追っている太鼓腹《たいこばら》のリュカは、いつものように腹をいくぶん前に突き出していた。彼はうすのろのようにみえるが、もっとも名の通った猟犬よりもうまく猪《いのしし》の跡をつけて行く雑種の犬を思わせた。
誰もがリュカにではなく赤毛の男に賭けるだろう。メグレでさえ、赤毛の男が人影のない河岸を利用して、どんどん前に進んで行くのを見たとき、運転手にスピードを早めるように言ったほどだ。だがその必要はなかった。もっとも奇妙なことは、リュカが急いでいるようには見えなかったことだ。リュカは散歩中のパリの小市民にふさわしい様子で、よたよた歩きつづけていたのである。
その見知らぬ男は、すぐあとに足音を聞いたとき、それから横を向いてわきに来たタクシーのなかにメグレを見たとき、息せききって人目をひいたりするのはむだだと悟った。そこで、ふたたびふつうの歩き方にもどった。
この午後、多くの人々が街や広場で彼らとすれちがったのに、チビのアルベールのときのように、誰もドラマが演じられていることに気づかなかった。
オステルリッツ橋に着いたとき、すでにその外国人は……メグレの心のなかでは、その男は外国人であったから……、不安そうな眼つきになっていた。男はアンリ四世河岸に沿って歩きつづけた。彼はなにかをしようとしていた。彼の態度からそれが感じられた。はたして、サン・ポール地区に入ると、彼はふたたび駆け出した。が、こんどはサン・タントワーヌ街と河岸とのあいだにある、網目のように入りくんだ狭い街路のなかに飛び込んだのである。
メグレはもう少しで男を見失うところだった。トラックが路地の一つをふさいでいたのだ。歩道で遊んでいた子供たちは、二人の男が走りすぎていくのを見た。メグレは二つ先の街路でやっと二人を見つけた。リュカはほとんど息を切らしていず、外套のボタンもきちんとかけ、全然取り乱していなかった。警視にウィンクしてみせる余裕さえあった。それはこう言っているようだった。
「心配しなくてもいいですよ!」
リュカはこの追跡が……メグレはあいかわらずタクシーで追いつづけていたので、疲れなかった……まだ数時間つづくことを、また、時間がたつにつれてこの追跡がますます困難なものになることを知らなかったのだ。
男が自信を失いはじめたのは、どこかに電話をかけたあとだった。彼はサン・タントワーヌ街の小さなバーに入ったのである。リュカもつづいて入った。
「やつを逮捕するんですかい?」と、メグレを知っているタクシーの運転手が聞いた。
「いや」
「なぜしないんです?」
運転手によれば、追跡されている人間は、結局は逮捕される人間なのである。でなければ、この残酷な追跡をこのままつづけることはむだではないのか? 運転手のこの反応は狩猟を見守っているしろうとの反応だった。
リュカのことなど見向きもせず、男は電話用コインをつかんで電話室に閉じこもった。バーの窓越しに、このチャンスを利用して、リュカが大ジョッキでビールを飲んでいるのが見えた。メグレも喉の乾きをおぼえた。
電話は長かった。五分ほどつづいた。二、三度リュカは不安そうに、電話室の小窓からのぞき込み、男になにも起こっていないかどうかをたしかめた。
そのあとで、二人はカウンターに並んで坐った。おたがいになにも言わず、見知らぬ他人のようだった。男の顔つきは前とは変わっていた。あたりをきょろきょろと見まわした。チャンスをうかがっているようだった。だが、もはやチャンスがないことを悟ったにちがいない。
とうとう男は金を払うと、外に出た。バスティーユ広場のほうに向かい、広場をほとんど一周すると、リシャール・ルノワール通りに入った。メグレの家はすぐ近くだ。しかし、男はすぐに右にまがり、ロケット街に入った。
数分後、男は道に迷ってしまった。彼がこの辺を知らないことは、あきらかだった。またもや、二、三度逃げようと試みたが、街に人が多すぎたり、近くの四つ辻に巡査の帽子に気づいたりした。
そこで、男は飲みはじめた。あちこちのバーに入った。電話をするためではなく、安いコニャックを一気に飲み干すためだった。リュカはしまいにはバーのなかまでついて行かなくなった。
これらのバーの一軒で、男は話しかけられた。が、男はその相手に答えず、知らない言葉を話しかけられたように、ただ見つめていた。
とつぜんメグレは、『チビのアルベール』に入ってきたとき、なぜすぐにこの男のことを外国人と考えたのかがわかった。洋服の型や、フランス人的でない顔つきからそう考えたのではない。なんとなく周囲としっくりいかない人間の、相手の言うことがわからず、相手にも自分の言うことがわかってもらえない人間の用心深さからだった。
街には陽がさしていた。とても暖かかった。ピクピュスのそばでは、田舎の小さな町のように、門番たちが玄関の前に椅子を出していた。
ヴォルテール通りに行くまでにどれほどあちこち廻り路をしたか。それからレピュブリック広場。ここに来てやっと男は自分がいる場所がわかったのだ!
彼は地下鉄《メトロ》に降りて行った。まだリュカをまけると思っているのか? とにかく、彼はこのトリックもむだなことを悟った。メグレは二人の男が地下鉄から出てくるのを見た。
レオミュール街……ふたたび廻り路をして、テュルビゴ街……それからシャポン街からボーブール街に入った。
「この辺はくわしいのだな」と、メグレは考えた。
それは感じでわかった。彼がどんな小さな店でも見知っていることは男の眼つきから推測できた。自分の住みかに帰ってきたのだ。たぶん数多くある見すぼらしい小さなホテルの一つに住んでいるのだろう。
男はためらっていた。なんども街角で足をとめた。なにかが男にしたいことをさせないらしい。こうして彼はリヴォリ街に着いた。リヴォリ街はいわばこのきたない地区の境のようになっている。
男はこの境を越えなかった。アルシーヴ街からふたたび貧民窟地区にはいり、そのあとロジェ街を歩いて行った。
「われわれに住所を知られたくないんだな」
しかしなぜだ? そして彼は誰に電話したのか? 共犯者たちに助けを求めたのか? どんな助けを彼は望んだのか?
「あわれなやつですね、かわいそうになってくる」と、運転手がため息をついた。「あれで本当に悪人なんですかね?」
いや、ちがうかもしれない! だが、どうしても彼を追跡しなければならないのだ。それがチビのアルベールの死について手がかりをつかむ唯一のチャンスなのである。
男は汗をかいている。鼻水がたれていた。ときどき、ポケットから大きな緑色のハンカチを出した。彼はあいかわらず飲みつづけ、ロワ・ド・シシール街、エクッフ街、ヴェルリー街が構成する中心の一画にたえず近寄らないようにしていた。この中心にはいりこもうとせず、そのまわりを、さっきからぐるぐるまわっているのである。
男はその中心から離れる。そして、抗《あらが》いがたい力に惹きつけられるようにして、またもどってくる。そのとき彼の足はゆるくなり、ためらいがちになる。彼はリュカを振り返る。ついで眼でタクシーをさがし、不吉な眼で見つづける。もしタクシーがついてきていなかったら、彼はリュカから逃れるため、街角にリュカを引きよせて殺すかもしれない。
たそがれが迫るにつれて、街はますます活気づいた。低い、くすんだ家々に面した歩道には多くの人が散歩していた。この辺の人たちは春が来るや、戸外で暮すのだ。店のドアや、家々の窓は開け放たれている。垢や、貧乏の匂いで気持がわるくなる。ときどき女がきたない水を街路にぶちまけた。
リュカは疲れはてているにちがいなかった。が、そんな様子はけぶりにも見せなかった。メグレはチャンスをつかまえてリュカを交代させたいと考えていた。車で狩猟について行く招待客のように、タクシーでついて行くのがちょっと恥かしかったのである。
すでに四、五回通った四つ辻があった。そのとき、男は新しい策略を思いついた。彼はある家の薄暗い廊下に入った。リュカはドアのところで立ち止った。メグレはついて行くように合図した。
「注意しろ!」と、メグレはタクシーの座席からさけんだ。
数分後、二人の男はふたたび出てきた。この外国人が警察官たちの目をくらまそうとして、行き当りばったりに家のなかに入ったことはあきらかだった。
男はさらに二度それをした。二度目には、リュカは男が階段のてっぺんに坐っているのを見た。六時少し前に、彼らはふたたびロワ・ド・シシール街とヴィエイユ・デュ・タンブル街の角の、中世の奇蹟劇の背景のようなところにやってきた。外国人はまたもやためらった。それから貧しい人々でこみあっている街路に入って行った。二、三のホテルのよごれた電球が見えた。店は狭く、通路が秘密の中庭に通じている。
男は遠くへは行かなかった。およそ十メートル歩いたところで、いきなり鋭い銃声が鳴り響いた。パンクしたタイヤの音のようだった。街の人々の動きが停止するまで数分かかった。タクシーがおどろいて、ひとりでにストップしたようなぐあいだった。
それから人々が走りまわる物音。リュカは突進した。二発目の銃声がとどろいた。
雪崩《なだれ》のような人の波で、もうなにも見えなかった。リュカがやられたかどうか、メグレにはわからなかった。メグレはタクシーから降りて、あの見知らぬ男のほうに駆けつけた。
男は歩道に坐っていた。死んではいなかった。片手でからだを支え、もう一方の手で胸を押えていた。ブルーの眼は非難するように警視に向けられた。それから、その眼がどんよりとかすんだ。一人の女がいった。
「なんておそろしいこと!」
男の肩がゆれ、歩道に斜めに倒れた。男は死んでいた。
リュカは手ぶらでもどってきた。が、無事だった。二発目の弾丸《たま》は当らなかったのだ。逃走した男は三発目を撃とうとしたが、銃が不発だったにちがいない。
リュカは警視を見るや、すぐにいった。
「撃った男がどんなやつかわかりませんでした。でも、そいつが浅黒かったような気がします」
群集はそうとは気づかずに、殺人者の逃げる手助けをしたのだ、偶然であるかのように。リュカはたえず行手をはばまれてしまった。
いま、メグレたちは咎《とが》めるような、ほとんど脅迫的な輪に取りかこまれていた。この辺では、私服警官の匂いを嗅ぎつけるのに、暇はかからないのだ。
やがて巡査が一人、メグレたちのところにきて、野次馬を追い払った。
「救急車を」と、メグレはつぶやいた。「まず呼子を吹いて、きみの同僚二、三人に急を知らせてくれ」
メグレは巡査たちとともにこの場に残すリュカに小声でいろいろと指示をあたえたが、心配そうだった。それから彼はふたたび死者を見つめた。すぐにでもポケットをさぐりたかったが、野次馬の前でそれをするのが妙に恥かしくて、はばかられた。それはあまりにも的確な、あまりにも職業的な仕草であって、ここでは死者を冒涜《ぼうとく》する態度、さらには挑発と取られかねないのである。
「注意するんだぜ」と、警視は小声で言った。「彼らの仲間がいるはずだから」
メグレがタクシーを降りたのは、警視庁のすぐ前でだった。彼は急いで局長のオフィスに行き、ノックすると、取次も待たずに入った。
「また死者です」とメグレはいった。「街中《まちなか》で、うさぎのようにわれわれの眼の前で撃ち殺されたのです」
「男の身許は?」
「死体を運び終ったら、リユカがすぐにここにくるでしょう。二十人ほど借りたいのですが? あの界隈全体を包囲したいのです」
「あの界隈ってどこだね?」
「ロワ・ド・シシール」
これには司法警察の局長もしかめ面をした。メグレは刑事部屋に行き、何人かの刑事を選び、指示をあたえた。それから、風紀班を預っている警視のところへ行った。
「ロワ・ド・シシール街、ロジェ街、それにその界隈をよく知っている刑事を一人貸してくれないか? あの辺には娼婦が多くいるんだろうね」
「うじゃうじゃいるさ」
「三十分以内に、その刑事に写真をわたす」
「また死体のか?」
「残念だが。しかし、顔は傷ついていない」
「わかった」
「やつらはあの辺に隠れ家をいくつも持っているらしい。注意してくれよ、やつらは人を殺すから」
メグレはついで、家具付ホテル班のところにより、同僚におなじような仕事をたのんだ。
大切なのは、すばやく行動することだった。メグレは刑事たちがあの周辺を見張るため、すでに出かけたことをたしかめた。それから法医学研究所に電話した。
「写真は?」
「しばらくしたら、誰かよこしてください。死体はつきました。いま、やってます」
メグレはなにかを忘れているような気がした。彼は外出するつもりだったが、その場に立ちどまり、顎をなでた。とつぜん、コメリオ判事の姿が心に浮かんだ。よかった!
「もしもし! 今晩は、判事さん……こちらメグレ」
「ところで警視君、例の小さなカフェの主人は?」
「やはり小さなカフェの主人でした、判事さん」
「身許がわかったのか?」
「完全に」
「捜査は進んでいるかね?」
「すでにもう一人、死者が出ました」
メグレには、判事が電話口でびっくりしている姿が見えるような気がした。
「なんだって?」
「もう一人、死者が出たんです。しかし、こんどは敵側のやつです」
「それじゃ、警察がそいつを殺したのかね?」
「ちがいます。殺《や》ったのはやつらです」
「やつらって誰のことだ?」
「たぶん共犯者たちでしょう」
「捕まえたのか?」
「まだです」
メグレは声を低めた。
「判事さん、この仕事が長びいて、困難なものにならなければいいのですが。これはひどく厄介な事件です。いいですか、やつらは人を殺すんですよ」
「彼らが人を殺さなかったら、全然事件にもならないと思うがね?」
「あなたは私の言うことがおわかりにならない。やつらは自分の身を守るために、冷酷に人を殺すんです。一般にそう信じられているのとは逆に、こんなことはきわめてまれです。やつらは仲間の一人を躊躇《ちゅうちょ》なく殺しました」
「なぜ?」
「正体をあばかれたし、隠れ家を見つけられる恐れがあったからでしょう。それに、あの界隈はパリでもいちばんいやな地区です。身分証明書のない外国人、いんちきの身分証明書をもった外国人がうじゃうじゃいるんですよ」
「これからどうするつもりなんだ?」
「いつものようにやるだけです。それが義務ですし、私の責任がかかってますから。今夜は手入れをしますが、まあ、なにもつかめないでしょう」
「とにかく、ふたたび犠牲者が出ないようにたのむよ」
「私もそう望んでいます」
「何時ごろ、手入れをするんだ?」
「いつものように、午前二時ごろ」
「私は今夜ブリッジをしている。できるだけ遅くまでやっているようにするから、手入れが終ったらすぐ電話をくれんか」
「わかりました、判事さん」
「いつ報告書を送ってくれるのかね?」
「時間がとれ次第。たぶん明日の夜まではむりでしょう」
「気管支炎はどうした?」
「気管支炎って?」
メグレはそのことを忘れていたのだ。リュカが手に赤いカードをもって、オフィスに入ってきた。メグレはすぐにそれがなにかがわかった。そのカードはチェコ国籍で、シトロエン工場の人夫、ヴィクトール・ポリアンスキー名義の組合カードだった。
「住所はどこだ、リュカ?」
「ジャヴェル河岸一三二番地」
「ちょっと待ってくれ。その住所は知っているような気がする。河岸と、なんとかいう街の角にあるきたない家具付ホテルだな。二年ほど前、そのホテルの手入れをしたことがあるんだ。電話があるかどうか、しらべてくれ」
それは、セーヌ河沿いの、うす汚れた工場の建物が密集しているそばにある見すぼらしい家具付ホテルだった。最近着いた外国人たちでいっぱいで、警察条例に反して、一部屋に三、四人寝ていることがざらだった。もっともおどろくべきことは、このホテルが女によって管理されていることで、その女は外国人たちをうまく手なずけていた。女は彼らに食事さえつくっていた。
「もしもし! ジャヴェル河岸一三二番地?」
しゃがれた女の声が出た。
「ポリアンスキーはいま、あなたのところにいますか?」
女は黙っている。答える前にゆっくり時間をかせいでいる。
「ヴィクトールのことなんですが……」
「それで?」
「あなたのところにいますか?」
「それがあんたと関係あるの?」
「私は彼の友達なんです」
「あんたは警察《さつ》ね、そうでしょ」
「よろしい、警察ということにしておこう。ポリアンスキーはずっとあんたのところにいたのか? 言うまでもないが、嘘をつけばすぐわかるんだからね」
「あんたらの手口はわかってますよ」
「それでは?」
「ここからいなくなってもう六力月以上になるわ」
「どこで働いていた?」
「シトロエン」
「フランスに来て長いのか?」
「そんなこと、わかりっこないわ」
「フランス語を話したか?」
「いいえ」
「あんたのところに長い間いたのか?」
「三カ月ほど」
「友達はいたかね? 客はあったかい?」
「いいえ」
「パスポートはちゃんとしていたね?」
「たぶんね、あんたのところの家具付ホテル班の人がなにも言わなかったから」
「もう一つ質問がある。彼はあんたのところで食事をしていたのか?」
「たいていはね」
「女たちとのつき合いは?」
「そんなことまで、わたしが知っていると思う、いやらしいわね」
メグレは受話器をおくと、リュカに言った。
「外国人課に電話してくれ」
パリ警視庁のファイルにはこの男についての記録はなかった。言いかえると、このチェコ人は、パリのいかがわしい地区に出入りしている何千、何万の人たちと同様、不法入国したのである。大部分の連中と同様、彼もにせの身分証明書を作らせていたのだろう。フォーブール・サン・タントワーヌ付近に、にせの身分証明書を定価で、大量につくっているアジトがあった。
「シトロエンに電話をたのむ!」
死者の写真がついた。メグレはその写真を風紀班と家具付ホテル班の刑事たちに配った。メグレは指紋をもって自分で記録保存室まで上った。
一致する指紋はなかった。
「ムルスはいるかい?」と、メグレは研究室のドアを半分開けて、訊いた。
ムルスは、ふつうならそこにいるはずがなかった。昨夜と今日の昼間ずっと寝ていないのだから。だが、ムルスは少し眠ればすんだ。彼には家族も、知られているかぎり愛人もいなかったし、彼の情熱は研究室以外になかった。
「いますよ、警視《パトロン》」
「たのむよ、また死体だ。まず私のオフィスにきてくれ」
彼らは一緒に降りた。リュカは電話でシトロエンの会計係と話していた。
「あの婆さんは嘘をついていないですね。やつは三力月間シトロエンの工場で人夫として働いていました。それから六力月近く給料支払い名簿に載っていません」
「よい人夫だったのか?」
「あまり休まなかったそうですよ。ふつう、彼らはよく休むので、おたがいに知り合いになるということはないらしいです。明日にでもやつを使っていた人夫頭《にんぷがしら》に会えば、もっとくわしい話がわかるかどうか聞いてみたんですがね、だめです。熟練工ならばわかるそうですが、人夫の場合、ほとんどすべてが外国人で、出入りがはげしいので、誰も彼らのことを知らないのです。鉄門の前では職を求めている外国人がいつでも数百人います。彼らは三日か、三週間か、三力月働き、もう二度と来ないそうです。必要に応じて、職場を変えるんですね」
「ポケットの中身は?」
デスクの上に、使い古された紙入れがあった。その皮はかつては緑色だったにちがいない。組合カードの他に、若い娘の写真が入っていた。とてもすがすがしい丸顔で、ずんぐりした編みお下げだった。チェコの田舎の娘にちがいない。
千フラン紙幣《さつ》二枚と、百フラン紙幣三枚。
「多いな」と、メグレはつぶやいた。
安全つかみのついた長いナイフ。刃は剃刀のように鋭利で、先がとがっていた。
「このナイフでチビのアルベールを殺せたと思わないか、ムルス?」
「殺せましたね、警視《パトロン》」
ハンカチも緑がかっていた。ヴィクトール・ポリアンスキーは緑が好きだったにちがいない。
「さあ、これはきみだ! あまり期待できないが、分析の結果なにが出るかわからないよ」
『カボラル』のたばこの袋とドイツ製のライター。小銭。鍵はなかった。
「リュカ、たしかに鍵はなかったのか?」
「たしかです、警視《パトロン》」
「着物を脱がせた?」
「まだです。ムルスを待っているんです」
「じゃムルス、行ってくれ。こんどは私には一緒に行く時間がない。きみはまた今夜も仕事でつぶさなければならないんだな。くたくただろう」
「二晩ぶっつづけでも大丈夫ですよ。これが初めてではありませんから」
メグレは『チビのアルベール』に電話した
「なにかないか、エミール?」
「なにもありません、警視《パトロン》。まあ、なんとかやってます」
「客は多かったかい?」
「今朝よりは少なかったですね。アペリチフの客が何人か。でも、夕食の客はほとんどありません」
「きみの奥さんはあいかわらずカフェの女主人の役をたのしんでやっているかい?」
「夢中ですよ。寝室をすっかりきれいにして、シーツまで替えました。いい気分です。例の赤毛の男は?」
「死んだ」
「え?」
「仲間の一人が、やつが家に帰りたがったので、ピストルで撃ち殺した」
ふたたび刑事部屋をのぞいた。メグレはあらゆることを考えなければならなかった。
「黄色のシトロエンは?」
「まだ情報はありません。しかし、バルベス=ロシュシューアール界隈で見たという者がいるらしいのです」
「そいつはいいぞ! その跡を追うんだ」
またもや、地理的な根拠。バルベス通りは北駅のある界隈に通じている。しかも、アルベールはこの界隈のビヤボールでボーイとして長い間働いていた。
「腹がへったか、リュカ?」と、警視はたずねた。
「それほどではありません。我慢できます」
「奥さんはどう?」
「電話だけしておきました」
「よし。私も家内に電話しよう。それから一緒に出かけよう」
メグレはそれでも少し疲れていた。とくに夜は人を疲れさせるので、メグレは一人で仕事をしたくなかった。
二人はアペリチフを飲みにビヤホール『ドフィーヌ』に立ちよった。こうやって捜査に没頭しているとき、彼らのまわりで生活がふつうにつづいているのを見ると、人々がちょっとした関心事を話しあったり、冗談をいったりしているのを見ると、いつでも心からおどろかされる。一人のチェコ人がロワ・ド・シシール街の歩道で撃ち殺されたのは、こういう人々にとってなんなのか? 新聞に載る数行の記事にすぎないのだ。
それから、ある日、人々はその殺人犯が逮捕されたことを知る。その筋のもの以外、パリのもっとも人口の稠密《ちょうみつ》な、もっともいやな地区の一つで今夜手入れが行なわれようとしていることも誰も知らない。街角という街角に、刑事たちができるだけ無関心な様子をして立っているのに、人々は気がついただろうか?
物陰にかくれ、ときどき通行人の腕を引っぱっている街娼たちは、風紀班の刑事の特徴ある姿を認めて眉をひそめたにちがいない。彼女たちは留置場で夜をすごすことを覚悟した。留置場には慣れていたのである。少なくとも月に一度は留置場にぶちこまれていた。そして病気ではないかぎり、朝の十時ごろには釈放された。そのあとは?
家具付ホテルの経営者たちも、つねならぬ時間に帳簿を調べられることを好まなかった。規則どおりだと、彼らはいつでも規則どおりだと言い張った。彼らは鼻先に写真を突きつけられる。そこでその写真を注意深く見つめるふりをする。ときどきは眼鏡をとりに行ったりする。
「こいつを知っているか?」
「見たこともありませんね」
「ここにチェコ人は?」
「ポーランド人、イタリア人、アルメニア人ならいますが、チェコ人はいないですねえ」
「わかった」
きまりきった仕事である。黄色い車を調べるのを引き受けた刑事が、バルベス通りで、自動車屋や、機械工や、巡査や、商人や、門番たちにききまわっている。
これもきまりきった仕事。
シュヴリエと彼の妻はシャラントン河岸のカフェの主人夫婦になりすましている。やがて、彼らはよろい戸を下ろし、大きなストーブの前でおしゃべりをし、それからチビのアルベールと斜視のニーヌのベッドで静かに休むだろう。
ニーヌも、さがさなければならない一人である。風紀班はニーヌのことを知らなかった。彼女はどうなったのか? 夫が死んだことを知っているのか? 知っているなら、新聞に写真が載ったとき、なぜ死体を確認しに来なかったのか? 他の人は与真を見分けられなかったかもしれないが、彼女ならわかったはずだ。
殺人者たちがニーヌを連れ去ったのか? 黄色い車がコンコルド広場に死体をおいて行ったときは、車のなかに彼女はいなかった。
「彼女はきっといつか田舎で見つかるよ」と、物思いに沈んでいたメグレが断言した。
「厄介な立場になったとき、田舎の空気を吸いに行きたくなる人間がどれだけ多いか、意外なほどですね。ふつうはうまい料理と、うまい薄赤色葡萄酒のある静かな宿屋ですが」
「タクシーを呼ぼうか?」
これをやると会計係と悶着《もんちゃく》を起こすことになる。会計係はいやらしいほど執拗に勘定書をせんさくし、なかなかいいといわないからだ。わざとこうさけぶこともある。「私もタクシーで散歩に出かけましょうかね、私も?」
メグレとリュカはポン・ヌフの向こう側でバスを待つのをやめて、タクシーを停めた。
「『カドラン』へやってくれ、モーブージュ街だ」
メグレが好きになるような美しいビヤホールだった。まだ当世風になっていない。壁の鏡は古風な枠でかこまれ、腰掛は深紅のレザークロス、テーブルは白の大理石、あちこちにはふきんを入れるニッケルのはち。ビールとシュクルートのうまそうな匂いがした。しかし、ちょっと人が多すぎる。それに、荷物を持った忙しそうな人々が、あまりにもせわしなく飲んだり食べたりし、いらいらしながらボーイを呼び、眼は駅の明るい大時計を見つめて離れない。
勘定台の近くに立ち、店内のことすべてに気を配っている品のいい主人もまた、いかにもビヤホールの主人といった感じだった。小柄で、ぽってりとふとっていて、禿げ頭、ゆったりとしたスーツに、ほこり一つついていない上等の靴をはいている。
「シュクルート二つ、生ビール二つ、それに主人を呼んでくれ」
「ジャンさんに話があるんですか?」
「そうだ」
この主人は、結局は店を一軒もつようになったが、以前は給仕か給仕頭だったのではなかろうか?
「なんのご用でしょうか?」
「ジャンさん、知りたいことがあるのです。ここにアルベール・ロシャンという名のボーイがいましたね。たしかチビのアルベールと呼ばれていたと思いますが」
「話を聞いたことならございますが」
「彼に会ったことはないのですか?」
「この店の権利を買ってから、まだ三年にしかなっておりませんので。当時、会計係をやっていた女が、アルベールのことを知っておりました」
「彼女はもうここにいないというわけですか?」
「去年死にました。あそこで四十年以上も働いていたのです」
主人はニスを塗った木の勘定台を指さした。いま、その勘定台のうしろでは三十ぐらいのブロンド女がえらそうに構えている。
「ボーイたちは?」
「エルネストという年取ったボーイがおりましたが、その後退職いたしました。国に帰ったそうで、たしか中南部のドルドーニュあたりだったと思いますが」
主人はシュクルートを食べているメグレとリュカの前に立っていたが、店内でのことはなに一つ見逃さなかった。
「ジュール! 二十四番……」
彼は出ていく客に遠くから微笑んだ。
「フランソワ! その奥さんの荷物を……」
「前の持主はまだ生きているのですか?」
「お客さんや私よりずっと元気です」
「どこに行けば会えるかわかりますか?」
「もちろん、家にいます。ときどき、ここにやってきますが。あの人は退屈していて、また商売をはじめようかなどと言っております」
「住所を教えてください」
「警察の方?」と、主人はただそれだけ聞いた。
「メグレ警視です」
「これは失礼いたしました! 番地はわかりませんが、どうやって行くかは教えられます。二、三度食事に招待されたからです。ジョアンヴィル広場をご存知でしょうか? 橋のちょっと先にアムール島があるでしょう。彼はその島のなかに住んでいるのではなくて、この島の尖端のちょうど正面にある別荘にいるのです。別荘の前に船小屋がありますから、すぐにわかると思います」
タクシーが別荘の前に停ったとき、八時半だった。白い大理石の名札の上に、きれいな文字で『ねぐら』と読めた。海鳥のねぐら、あるいは、ねぐらの端にとまっている海鳥とでもいう意味なのか。
「こいつを考えるのにだいぶ苦労しただろうな」と、メグレはベルを鳴らしながらいった。というのは、『カドラン』の前の主人は、ロワゾー(鳥)、デジレ・ロワゾーという名前だったからだ。
「見ててごらん、彼は北部地方の人間で、われわれに年代もののジンを出すから」
それに狂いはなかったのである。まずメグレたちの前に、丸々とふとった小柄な女があらわれた。顔じゅう白とピンクで塗りたくられていて、この厚化粧の下の小皺《こじわ》を見分けるにはそばによらなけばればならなかった。
「ロワゾーさん!」と、彼女は呼んだ。「あなたにご用の方よ……」
しかし、彼女はロワゾー夫人だったのである。夫人はメグレたちをニスの匂いがする客間に通した。
ロワゾーもふとっていたが、背が高くて、肩幅があった。メグレより背が高く、肩幅があった。だが、身のこなしはダンサーのように軽快だった。
「どうぞ、お坐りになって、警視さん。あなたも、えーと?」
「リュカ刑事です」
「ほう! 私は学校でリュカという名の男を知っていました。刑事さん、あなたはベルギー人ではないですか? 私はベルギー人でして。すぐわかるでしょう。ちがいますか? 私はそんなこと恥じてませんよ! 不名誉なことではないんですから。ボボンヌ、なにか飲み物をお出しして……」
ジンの小さなグラスだった。
「アルベール? おぼえているような気がしますな。北部地方の男で、母親もベルギー人だったと思います。惜しい男に店をやめられましたよ。よろしいですか、私らの商売で、なにが大切かといって、快活さほど大切なものはありません。カフェに来る人たちは微笑を見るのが好きなんです。たとえば、こういうボーイがいましたな。彼は子供が何人いたか知りませんが、とても律義な男でしたが、ソーダ水や、ヴィシー鉱水の小壜や、アルコール分のないものを注文した客に、身をかがめてそっとこうささやくのです。『お客さんも胃潰瘍《いかいよう》ですか?』
彼は胃潰瘍で苦しんでいたんですよ。胃潰瘍の話しかしない。私は彼を首にせざるをえませんでした。なぜかといいますと、彼がテーブルに近づくのを見ると、みんな場所を変えてしまうんですな。
アルベールはこの男とは正反対でしたね。陽気なやつで、いつも歌を口ずさんでましてね。帽子のかぶり方なんか、手品師か、おどけ者のような感じで、いつも独特な口調でこういうのです、『今日も、いい天気で!』」
「彼は一軒店をもつため辞めたのですか?」
「ええ、シャラントンの近くに」
「遺産でも相続したのですか?」
「そうは思いませんな。彼はそんなこといってませんでしたから。結婚したからではないですかね」
「店を辞めたときに?」
「ええ、そのちょっと前に」
「結婚式に招待されなかったのですか?」
「パリで式が行なわれたんだったら、招ばれたでしょう。私の店では、使用人たちは家族同様でしたからな。だが、アルベールたちはどこか田舎のほうで結婚式を挙げたんですよ」
「どこだかおぼえていませんか?」
「おぼえてませんな。私にとって、ロワール河の向こうはどこでも南フランスなんです」
「アルベールの奥さんは知りませんか?」
「いつかアルベールから紹介されたことがあったな。浅黒くて、きれいじゃなかった……」
「斜視ですか?」
「そう、ちょっとやぶにらみでしたな。だが、感じはわるくはなかった。そういうことでひどく感じのわるい人と、ぜんぜんそうではない人がいるもんですよ」
「その娘の名前を知らないですか?」
「ええ。アルベールの親戚とか、いとことか、そんなようなことだったようにおぼえてますが。二人はずっと前から知り合いでした。アルベールはこんなことをいってたな。『知っている人と一緒にいると、いつかこうなってしまうんですよ』
よく冗談をいう男でしてね。しゃれた小唄をうたわせると、彼にかなう者はいなかったんじゃないかな。お客さんがまじめに私にいったものですよ、彼だったらミュージック・ホールでもかせげる、って。
もう一杯ジンをいかがです? ここは静かでしょう、静かすぎるくらいでしょう。いつか私もまた商売をはじめますよ。あいにくもうアルベールのようなボーイは簡単には見つかりませんな。あなた方はアルベールをご存知ですか? 彼の商売はうまく行ってますか?」
メグレはアルベールが死んだことを言わないことにした。たっぷり一時間、悲嘆とため息を見せつけられることがメグレには予想できたからだ。
「アルベールの親しい友達を知ってますか?」
「彼はみんな友達でしたよ」
「たとえば、仕事のあとで、彼に会いに来た者はいませんか?」
「いませんな。アルベールはよく競馬場にかよってましたよ。午後暇になるようにうまくやりくりしてね。だが、彼は競馬に狂うようなことはなかった。一度だって私から金を借りるようなことがなかったですからな。彼は分相応に賭けていたんですよ。もし彼に会ったら、私からだといって……」
ロワゾー夫人は夫があらわれてからずっと口を開かなかったが、たえず微笑んでいた。床屋のショーウィンドーに飾ってある蝋人形の顔のような微笑だった。
もう一杯いかがですか? これはどうも。おいしいジンですからな。
ついで彼らは、決して笑顔で迎えられない街に、手入れのために向かった。
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第六章
二台の警官輸送車がリヴォリ通りの、ヴィエイユ・デュ・タンブル街の角に停っていた。暗闇のなかに制服警官たちの金色のボタンがきらりと光るのがひとしきり見えた。彼らはそれぞれの部署につき、すでに司法警察の刑事たちが見張っていたあちこちの街路を通行止めにした。それから、警官輸送車のうしろに、囚人護送車が来て並んだ。ロワ・ド・シシール街のちょうど角で、制服の警部が、じっと時計を見つめていた。
サン・タントワーヌ街では、通行人たちが不安そうに振り返り、足早に去っていった。この包囲された地区で、まだ明るい窓がいくつか見られたし、家具付きホテルの入口が薄明るかったし、ロジエ街の淫売屋の角燈がついていた。あいかわらず時計をじっと見つめていたその制服の警部は、最後の秒読みをはじめた。そのわきでメグレは無関心そうに、というよりちょっとバツがわるそうに外套のポケットに手を突っ込み、よそをながめていた。
四十……五十……六十……呼子が鋭く二度鳴り響くと、すぐに他の呼子がそれに答えた。制服警官たちは散開して進んだ。一方、刑事たちはいかがわしいホテルにはいっていった。こうした場合いつも起こることだが、窓があちこちで開いた。暗闇のなかに、不安そうに、あるいは不服そうに下をのぞき込んでいる白い姿が見えた。声まで聞こえる。
早くも物陰にひそんでいた街娼が、警官に引き立てられて行った。彼女はわいせつな言葉をわめきちらしている。
あわただしい足音も聞こえた。逃げようとした男たちが路地の暗がりに走り込んだのである。だが、むだだった。警戒線にひっかかった。
「証明書を!」
懐中電燈が怪しい顔を、よれよれのパスポートを、身分証明書を照らす。あちこちの窓には、もういつまでも眠っていられないことをさとり、まるで見世物でも見るように手入れをながめている常連がいた。
もっとも大きな獲物はすでに留置場に入っていた。この獲物たちは手入れを待っていなかったのである。午後の終りにこの界隈で男が一人撃ち殺されたときから、彼らはすでに手入れを嗅ぎつけていた。日が暮れ、夕闇が家々の壁に影を落としはじめると、古びたスーツケースやら、見なれない包みやらを持った男たちが、メグレの部下たちの見張りにつぎつぎと引っかかったのだ。
居住制限を命ぜられた前科者、|ひも《ヽヽ》、にせの身分証明書を持った者、そして例によって、書類が不備なポーランド人やイタリア人たち……あらゆる連中がいた。
なにげない様子をよそおっている彼らのすべてに、おなじ質問が乱暴に飛んだ。
「どこに行こうとしたんだ?」
「引越しですよ」
「なんで?」
暗闇の中で、不安そうな、あるいは兇暴な彼らの眼。
「仕事を見つけたんで」
「どこに?」
北部や、ツールーズの近くに住んでいる姉妹に会いに行こうとしていたのだという者もいる。
「とにかく、なかに入れ!」
囚人護送車。一晩留置場にぶちこまれ、身許を調べられるのである。彼らは大部分貧しい者たちだった。が、やましくない者などほとんどいない。
「これまで、チェコ人はいません、警視《パトロン》!」と、メグレは報告を受けた。
いまメグレは自分の部署に立ち、むっつりした様子でパイプを喫いながら、人影が動くのを見たり、さけび声や、あわただしい足音、ときどき顔を殴る拳《こぶし》のにぶい音を聞いたりしていた。
もっとも騒ぎがはげしかったのは家具付ホテルだった。ホテルの主人たちはあわててズボンをはき、しぶい顔で帳場に立っていた。彼らはほとんどが帳場の折畳み式ベッドで寝ていたのである。なかには、刑事たちが重い足取りで階上《うえ》に上っていくあいだ、廊下で見張っている警官たちに、飲物を出そうとする者もいた。
刑事たちが階上に着くや、異臭を放っているホテルじゅうの部屋で大騒ぎがもちあがった。最初の部屋のドアがたたかれる。
「警察だ!」
シャツのままの人たち、まだねぼけまなこの、蒼ざめた顔の男や女たち。彼らはすべておなじような心配げな様子をしていた。なかには物凄い眼つきの者もいたが。
「証明書を!」
素足で、彼らは枕の下や、引出しに証明書を取りに行った。ヨーロッパの向こう側からもってきた流行おくれの古びたトランクをさがしにいく者もいる。
ホテル『リオン・ドール』で、素裸の男がベッドに坐ったまま脚をぶらぶらさせていた。連れの女のほうは、娼婦の鑑札を見せた。
「おい、おまえもだ」
その男は、わけがわからないように刑事を見つめている。
「パスポートは?」
あいかわらず男は動かない。からだはまっ黒な、長い毛におおわれているだけにいっそう蒼白く見えた。おなじ階の者たちが笑いながら男を見つめている。
「こいつは誰だ?」と、刑事は娼婦にたずねた。
「知らないわ」
「おまえになにもいわないのか?」
「フランス語を全然話せないのよ」
「どこで会ったんだ?」
「通りでよ」
留置場行きだ! 男の手に着物を押し込み、着るように手まねでしめした。彼は長い間わからなかったが、やがて文句をいい、娼婦のほうに向いた。女になにかを要求しているようだった。たぶん彼のお金だろう? おそらく彼は今夜フランスに着いたにちがいない。それなのに、ロルロージュ河岸の留置場で最初の夜をすごすことになるのだ。
「証明書を……」
半ば開いたドアから、ボロ部屋が見えた。どの部屋からも、家の匂いに加えて、一週間か一晩だけすごす客たちの匂いが発散していた。
十五人か二十人が囚人護送車の前にむらがっていた。彼女たちは一人ずつ護送車のなかに押し込まれた。こういうことに慣れている娼婦たちは警官と冗談を言っていた。ふざけて、みだらな恰好をする女もいた。
泣いている人たちもいた。拳をにぎりしめている男たちもいた。その男たちのなかに、頭を剃った色白の青年がいた。彼は身分証明書もパスポートも持っていないうえ、ピストルを見つけられたのだ。
ホテルや、街中で行なわれるのは、初歩的な選《え》りわけにすぎない。本格的な仕事は夜のあいだか、つぎの朝に、留置場で行なわれるのである。
「証明書を……」
家具付ホテルの経営者たちはもっともいらいらしていた。鑑札が取り上げられる恐れがあったからだ。ところで、どこのホテルも規則どおりではなかった。どこのホテルにも帳簿に名前を記載しない客がいた。
「いいですか、刑事さん、私はいつでもちゃんとやってるんですよ。でも、真夜中に客が来られたりすると、ねぼけているもんで……」
ホテル『リオン・ドール』の窓が一つ開いた。メグレはそのホテルのネオンのすぐそばにいた。呼子が鳴り響いた。メグレは前に出ると、見上げた。
「なにがあったんだ?」
はからずも階上にいたのは、まったく若い刑事だった。彼はおずおずと言った。
「ここに上ってきていただけませんか?」
メグレは狭い階段を上った。リュカがついてきた。メグレは同時に手すりと壁にさわっていた。階段がきしんだ。これらの家はすべて、もっとずっと前に、世界のあらゆる国々から運びこまれた蚤《のみ》や虱《しらみ》もろとも取り壊してしまうか、焼き払ってしまうべきなのだ。
三階だった。ドアが開いていた。茶色いフィラメントのついた、弱々しい電球が、笠もなく、コードの先で点っていた。その部屋には人影がなかった。二つの鉄のベッドがある。一つは乱れていた。床にもマットレス、灰色の安毛布があり、椅子の上には背広、アルコールランプ、テーブルには食物と空の葡萄酒の壜があった。
「こっちです、警視……」
隣りの部屋との境のドアが開いている。枕に顔を伏せて寝ている女が見えた。女はギラギラ燃えるような、褐色の二つの眼でメグレをにらみつけていた。
「誰なんだ?」と、メグレは刑事に訊いた。
このように表情に富んだ顔を見るのはまれだった。これ以上野生的な顔を見たことがなかった。
「女をよく見て下さい」と、若い刑事は口ごもった。「私はこの女を起こそうとしたんです。それで話しかけたんですが、この女は答えようともしません。私はベッドに近づき、彼女の肩を揺すろうとしたんです。私の手を見てください。この女は血の出るほど噛んだんです」
女は、刑事が痛む親指を差し出すのを見ても、微笑まなかった。逆に、女の顔ははげしい痛みにおそわれたように、ひきつった。ベッドをじっと見つめていたメグレは眉をひそめると、叱りつけた。
「彼女はいまお産の最中なんだ」
メグレはリュカのほうを向いた。
「救急車に電話し、病院に連れていくんだ。主人にすぐここにくるようにいってくれ」
若い刑事はいまでは顔を赤らめ、ベッドを見ようともしなかった。このホテルの他の階では手入れはつづいていた。床がきしんでいる。
「話したくないのかね?」と、メグレは女にたずねた。「フランス語がわからないのかい?」
女はじっとメグレを見つめている。彼女がなにを考えているのかを見抜くことはできなかった。顔にあらわれている感情といえば、ただはげしい憎しみだけだった。
女は若かった。たぶん二十五歳になっていなかっただろう。豊かな頬は、長い、絹のような黒髪で縁どられている。階段でつまずく音がした。主人が戸口で、おずおずと立ち止った。
「この女は誰だ?」
「マリアといいます」
「マリア、なんだ?」
「あとは私にもわからんのです」
とつぜん、メグレは怒りにとらわれた。だが、すぐあとで、反省していた。メグレはベッドの脚もとにあった片方だけの男ものの靴を拾いあげた。
「これはなんだ、え?」と、メグレは主人の脚のところにその靴を投げつけてさけんだ。
「こいつも名前がないのか? え、こいつも? こいつも?」
メグレは押入れの奥にあった背広と、きたないシャツ、もう片方の靴、帽子を引っぱり出した。
「え、こいつも?」
ついで隣りの部屋に行き、隅にあった二つのスーツケースを指さした。
「それに、こいつは?」
脂じみた紙のなかにチーズ、四つのコップ、まだソーセージの残りが載っている皿。
「ここに住んでいた者たちはみんな帳簿に記入したのか? え? 答えるんだ! まず、彼らは何人だ?」
「わからんのです」
「この女はフランス語を話すのか?」
「わからんのです……いや! 片言ならわかるはずです」
「いつからここにいる?」
「わからんのです」
主人の首には、青味がかった醜い根太《ねぶと》があった。髪が薄く、不健康な感じの男だった。ズボン吊りをしてないので、ズボンがずり落ち、両手で押えている。
「これがはじまったのはいつだ?」と、メグレは女を指さした。
「私のところに知らせてこなかったもんで……」
「嘘つけ! では、他のやつらは? どこにいるんだ?」
「もう出発してしまったんじゃないかと……」
「いつだ?」
メグレは拳を固めて、荒々しく主人のほうに進んで行った。そのときなら、殴ることもできたであろう。
「街で男が撃ち殺されるとすぐに逃げ出したんだろう、そうだな! やつらは他の者たちより悪賢《わるがしこ》かった。警察の通行止めが敷かれる前に逃げたんだ」
主人は答えなかった。
「これを見ろ、この男を知っているな!」
メグレは主人の鼻先にヴィクトール・ポリアンスキーの写真を突きつけた。
「知ってるな」
「はい」
「この部屋で暮していたのか?」
「わきの部屋で」
「他の男たちとか? それでは、この女と寝ていたのは誰なんだ?」
「本当に私はなにも知らんのですよ。おそらく何人かの男たちが……」
リュカがもどってきた。と、ほどなく外で救急車のサイレンの音が聞こえた。女は苦痛でさけび声をあげた。が、すぐに唇を噛んで、挑むように男たちを見た。
「いいか、リュカ、私はもうしばらくここにいる。きみはこの女と一緒に行くんだ。彼女から離れてはいけないぞ。私の言いたいのは、病院の廊下から離れるなということだ。これから私はチェコ語の通訳をさがしてみよう」
連行されていくホテルの客たちが、階段をのそのそと降りて行き、担架《たんか》をもって上ってくる看護人たちと突き当った。薄暗い明りのなかでは、それらはすべて幽霊のようにみえた。悪夢のようだった。が、垢《あか》と汗の匂いがするような悪夢だった。
メグレは、看護人たちが若い女にかかわっているあいだ、隣りの部屋にいた。
「どこに彼女を連れていく?」と、メグレはリュカに訊いた。
「ラエネク病院に。この病院のベッドを見つけるまで、三つの病院に電話しました」
ホテルの主人は動こうともせず、沈痛な面持《おももち》で床を見つめていた。
「こっちに来い、ドアを閉めるんだ!」と、メグレは他の者たちがいなくなると、主人に命じた。
「さあ、しゃべるんだ」
「本当に、私はたいしたことを知らんのですよ」
「今夜、刑事が来て、おまえに写真を見せた。そうだろ?」
「ヘえ、そうです」
「おまえはその男は知らないと答えた」
「どうもすみません。私はここの客ではないといったのです」
「どうしてだ?」
「帳簿に記入してなかったもんで。あの女もそうなんです。この二つの部屋を借りたのは他の男でした」
「いつから?」
「五力月ほど前」
「そいつはなんていう名だ?」
「セルジュ・マドック」
「そいつが首領か?」
「なんの首領で?」
「ひとつ忠告しよう……ばかなふりをするのをやめろ! さもないと、別のところでおまえの話をきくことになるぞ。そして明日の朝、このホテルは閉鎖だ。わかったか?」
「私はいつでも法律を守ってます」
「今夜以外はな。さあ、セルジュ・マドックのことを話すんだ。チェコ人か?」
「書類にはそう記入されてます。彼らはみんなおなじ言葉で話してます。ポーランド語ではないですね。私はポーランド人には慣れてますから」
「何歳だ?」
「三十歳ぐらい。最初、工場で働いているといってましたよ」
「本当に働いていたのか?」
「いいえ」
「どうしてわかる?」
「一日じゅうここにいましたから」
「他の者たちは?」
「おなじです。外に出るのはいつも一人でした。いつもほとんどあの女で、サン・タントワーヌ街へ買物に出かけるためでした」
「朝から晩まで、やつらはなにをしていたんだ?」
「なにも。眠っているか、食べているか、飲んでいるか、トランプをやってました。みんな、とても静かで、ときどき歌をうたったりしますが、夜はしませんので、文句をいう筋あいはありませんでしたね」
「やつらは何人だ?」
「男四人とマリア」
「その四人の男とマリアのあいだは?」
「わからんのです」
「嘘をつけ! 話すんだ」
「なにかがあったらしいのですが、なにがあったかはっきりとはわからんのです。ときどき言いあったりしてましたが、彼女のことが原因だったようですね。二、三度、私は奥の部屋に行きましたが、いなくなっているのはいつもおなじ男ではありませんでしたよ」
「写真の男、ヴィクトール・ポリアンスキーはどうだ?」
「彼もそうだったと思います。当然そうなったはずです。とにかく、マリアに惚れていましたから」
「誰がいちばんいばっていた?」
「カルルという男だったと思います。別の名前もあったのですが、七面倒な名前だったので、おぼえていません」
「ちょっと待ってくれ」
メグレはポケットから小さな手帳を取りだすと、小学生のように鉛筆をなめた。
「まず、おまえがマリアと呼ぶ女だ。ついでカルル。それから二部屋を借りていたセルジュ・マドック。死んだヴィクトール・ポリアンスキー。それだけか?」
「もう一人若者がいました」
「どんな若者だ?」
「マリアの弟だったと思います。とにかく、彼女に似てましたよ。ピエトルという名で呼ばれてましたね。十六か、十七ぐらいだったはずです」
「彼も働いていなかったのか?」
主人はうなずいた。メグレが部屋の空気を入れ換えるため窓を開けておいたので……通りの空気もホテルの空気とほとんどおなじように臭かった……、上着を着ていない主人は寒かった。彼はふるえはじめた。
「誰も働いてませんよ」
「しかし、やつらは金を派手に使っていたんだろ?」
メグレは部屋の隅にある空壜の山を指さした。そのなかにはシャンパンの壜もある。
「この辺では、派手にお金を使いました。でも、それは、いつもそうだというわけではないんでね。食事もしないですませるときもあったわけですから。そんなときはすぐにわかります。若者が空壜を売りにあっちこっちかけずりまわるときが、お金が底をついたときなんです」
「誰もやつらに会いに来なかったか?」
「会いに来たかもしれませんね」
「警視庁でこの話のつづきをやってもいいんだぞ」
「そんな。知ってることはみんな言いますよ。二、三度、彼らに会いに来ました」
「誰だ?」
「男です。とてもいい身なりをしてましたよ」
「部屋に上ったのか? 帳場に入ってきて、なんと言った?」
「なにも言いませんでした。彼らが何階に住んでいるのか知っていたにちがいありません。その男はまっすぐ階段を上って行きました」
「それだけか?」
外では、騒ぎが徐々に静まっていった。窓の明りも消えた。最後の見回りをしている警官たちの足音と、ドアをノックする音がまだ聞こえていた。警官が階段を上ってきた。
「警視殿、命令を待っておりますが。われわれの仕事は終りました。二台の囚人護送車はいっぱいです」
「囚人護送車は出発していい。私の部下の刑事二人に、ここに来るように伝えてもらいたい」
ホテルの主人はぶつぶつ言った。
「私は寒い」
「こっちは暑すぎるな」
ただ、メグレはこのきたない家のどこにも外套を置きたくなかったのだ。
「やつらに会いにきたその男に、どこか他で出会ったことはないか? 新聞などでその男の写真を見たことがないか? これがそいつではないか?」
メグレはポケットに入れて持ち歩いていたチビのアルベールの写真を見せた。
「似てませんね。褐色の小さなひげをつけた、とてもスマートな好男子でした」
「何歳だ?」
「おそらく三十五ぐらいでしょうか? 金の大きな認印つき指輪をしてましたよ」
「フランス人? チェコ人?」
「フランス人でないことはたしかです。その男は彼らとおなじ言葉を話してました」
「ドア越しに聞いていたな?」
「聞いたこともありましたよ。私は自分のホテルでなにが起こっているか知りたいんです、そうじゃないですか?」
「おまえには、そう時間がかからずにわかってしまったはずだ」
「なにをわかってしまったんです?」
「おれを馬鹿扱いするのかね、おい? やつらはこんな部屋に隠れて、仕事もしないでなにをしていたんだ? なにをやって食っていたんだ? 答えろ!」
「それは私には関係ないことです」
「やつらがみんなでここを留守にしたのは何回あった?」
主人は赤くなり、ためらった。だが、メグレに見つめられて、彼は正直に話した。
「四度か、五度」
「長いあいだか? 一晩じゅうとか?」
「夜だったとどうしてわかるんです? いつも夜でした。しかし、一度など、二日と二晩帰って来ないことがありましたね。もう帰らないのかと思ったほどですよ」
「捕まえられたとは思わなかったのか?」
「ええ、まあ」
「帰ってくると、やつらはおまえになにをくれたんだ?」
「ホテル代を払いました」
「一人分のホテル代か? つまり、やつらは一人しか帳簿に記入しなかったんだろう?」
「もうちょっと多くくれましたね」
「どのくらい? いいか、共犯者としておまえをぶちこむこともできるんだということを忘れるな」
「一度は五百フランくれました。もう一度は二千フラン」
「そして、帰ってくると、やつらは飲み騒ぐ」
「そうです。必要品もたくさん買い入れます」
「見張りに立つのは誰だ?」
こんどは、主人の不安はいっそうはげしいものとなった。彼は無意識にドアのほうをちらっと見た。
「この家は出口が二つあるんだな?」
「はい。裏庭から塀を二つ乗り越えると、ヴィエイユ・デュ・タンプル街に出ます」
「誰が見張りに立っていた?」
「街路に?」
「そう、街路にだ。それに、いつも窓辺に一人いたんじゃないか? マドックが部屋を借りるとき、街路に面した部屋を要求したはずだが?」
「そのとおりです。歩道にはいつも一人がぶらついてました。交代でやりましたね」
「もう一つ、ちょっとききたい。しゃべったら、おまえをただじゃおかないと脅《おど》したのは誰だ?」
「カルル」
「いつ?」
「初めて一晩留守にして帰ってきたときです」
「この脅しがたんなる脅しではなく、やつらは殺しもやると、どうしておまえにわかったんだ?」
「私は彼らの部屋に入りました。電気がこわれてないかとか、シーツをとり替えたかどうかと言って、よく見回ることがあるんですよ」
「シーツはよく替えるのか?」
「毎月です。ちょうど女が洗面器でシャツを洗ってるところでした。私にはすぐに血だとわかりました」
「誰のシャツだ?」
「男たちの一人、誰のだかわかりません」
二人の刑事がメグレの命令を踊り場で忍耐強く待っていた。
「どちらか一人、ムルスに電話してきてくれ。ムルスはこの時間だと、仕事をすませていないかぎり、眠っているにちがいない。だから、警視庁にいなかったら、家のほうに電話するんだ。道具を持ってここに来るようにって」
もう主人には眼もくれず、メグレは二つの部屋を行ったり来たりし、押入れや引出しを開け、汚れたシャツの山を蹴とばした。壁紙は色あせ、ところどころはがれていた。鉄のベッドは黒く、陰気で、毛布はきたない兵舎のような灰色だった。なにもかもが乱れていた。逃げるときに、ここの住人たちは、大事なものを慌《あわ》ててかき集めたが、人目を惹かないために、かさばるものは持っていかなかったにちがいない。
「やつらは、銃が発射されたすぐ後に出発したんだな?」と、メグレが訊いた。
「すぐに」
「正面の出口からか」
「裏庭から」
「そのとき外に出ていたのは誰だ?」
「もちろん、ヴィクトールです。それとセルジュ・マドックが」
「電話に降りてきたのは誰だ?」
「電話がかかってきたことをどうして知ってるんです?」
「答えるんだ!」
「そのとおりですよ、四時半ごろ電話がかかってきました。その声は私には誰のだかわかりませんでしたが、その男は彼らとおなじ言葉をしゃべり、カルルの名前だけを言いました。私はカルルを呼びに行き、カルルは降りてきました。帳場から見ていると、カルルは怒っているような身振りをし、受話器に向かって大声でわめいていましたね。部屋にもどってからも、また彼はののしったり、どなったりしはじめました。そのほとんどすぐあとに、こんどはマドックが降りてきたのです」
「それじゃ、仲間を殺したのはマドックか?」
「それは十分ありうることですね」
「やつらは女を連れて行こうとしなかったのか?」
「彼らが廊下を通ったとき、私はそのことを話したのです。女が悶着のたねになるんじゃないかと思ったものですから。みんなが姿を消してくれるほうがありがたかったわけですが。女がこんなに早くお産するとは知りませんでした。私は階上《うえ》に上って行くと、他の者たちのように出ていくようにいったのです。女は寝ていて、静かに私を見つめていましたよ。いいですか、あの女はフランス語がわからないふりをしていますが、実際はずっとよくわかるんです。女は答えようともしませんでしたが、やがて、苦痛におそわれたのです。私は了解しました」
「おい、きみ」と、メグレは残っていた刑事にいった。「きみはここでムルスの来るのを待っていてくれ。誰もこの二つの部屋に入れてはいけないよ、とくにこの猿は。きみは拳銃をもっているか?」
刑事は背広のポケットをふくらませている拳銃を見せた。
「ムルスはまず指紋を取りにかかる。それから手がかりになるようなものはすべて持っていく。もちろん、やつらはどんな書類も残して行かなかっただろう。そいつはたしかだ」
古いソックス、パンツ、ハーモニカ、糸と針の入った箱、着物、トランプの入れ物が二、三個、やわらかい木をナイフで削ってつくった小さな像……。
メグレは主人を先に歩かせ、その後について階段を降りた。帳場と呼ばれる部屋は小さく、薄暗くて、換気はぜんぜんなかった。折畳み式ベッドとテーブルがあり、テーブルの上にはコンロと食事の残りがあった。
「やつらが留守にした日付を記帳していないだろうな?」
主人はすぐにないと答えた。
「そうだろうと思った。まあ、それはどうでもいい。ただし、明日の朝までに思い出すんだ。いいか? 明日の朝、私がここに来るか、誰かを来させて、おまえに、わたしのオフィスまで出向いてもらう。私にはいま、その日付が必要なんだ、その|正確な日付《ヽヽヽヽヽ》が。この言葉をよくおぼえておくんだ。日付がわからなければ、気の毒だがおまえをブタ箱にぷち込むぞ」
ホテルの主人はなにか言いたそうだったが、ためらっていた。
「もしもたまたま彼らが来たら……あの……ピストルを撃ってもいいですか?」
「おまえは自分がくわしく知りすぎていることに気がついたのか、え? やつらがヴィクトールとおなじような目におまえを合わせるかもしれないことに?」
「こわいんです」
「警官を一人、街路に残そう」
「裏庭から来られますよ……」
「そうだな。ではもう一人、ヴィエイユ・デュ・タンブル街に見張りを立てよう」
街には人影がなかった。最後のざわめきのあとで、沈黙が急にやってきた。手入れの跡はもう残っていなかった。窓の明りも消えていた。すべての人は眠っていた……留置場に連れて行かれた者たちを除いて、病院で出産中にちがいないマリアを除いて。それにしてもリュカは彼女の病室の前を行ったり来たりしているのだろうか?
メグレは約束したように、二人の男を見張りに立て、いろいろ細かい指示をあたえると、リヴォリ通りでしばらく待ってタクシーを見つけた。夜は明るく、ひえびえとしていた。
メグレは車に乗るときためらった。前の晩自分は寝たのではなかったか。それに、例の気管支炎で三日と三晩休んでいたのではなかったか! ムルスなど寝る時間がないのではないか?
「どこか開いている店はないかな?」と、メグレは運転手にたずねた。
とつぜん、彼は空腹を感じた。空腹で、喉が乾いていた。銀色のあわの出ている冷たいビールのことを考えて、思わず生つばを飲み込んだ。
「ナイトクラブを別にすれば。『ラ・クポール』か、中央市場の小さな居酒屋《ビストロ》でしょうね」
そんなことぐらい彼は知っていた。だのになぜ質問したのだろうか?
「『ラ・クポール』にやってくれ」
大食堂は閉っていた。だが、バーは開いていて、眠そうな客が何人かいた。メグレは豪華なハム・サンドイッチを二つ注文し、生ビールを三杯、ほとんど立て続けに飲んだ。メグレはタクシーを待たせておいた。朝の四時だった。
「警視庁ヘ」
途中で、メグレは考えを変えた。
「ロルロージュ河岸の、留置場にやってくれ」
顔なじみの者たちが全員そこにいた。その匂いは、ロワ・ド・シシール街の匂いを思い出させた。男たちは一方の側の囲いに入れられ、女たちは、別の側の囲いに入れられていた。パリで夜のあいだに収容されたルンペンや、酔っぱらいや、娼婦たちといっしょに。
ある者は床に横になって、眠っていた。留置場に慣れた者たちは靴を脱いで、痛む足をもんでいた。女たちは鉄の格子越しに看守と冗談をいっている。ときどき彼女らの一人が挑発するようにスカートを腰までまくり上げた。
警官たちはコーヒーを温めているストーブのそばでトランプをやっていた。刑事たちはメグレの命令を待っている。
全員の書類をチェックし、階上に送って、検診や人体測定のため素裸にさせるのは、きまりでは八時に始めればよかった。
「みんな、いつものようにはじめてくれ。書類のチェックは日中勤務の刑事たちにまかせろ。きみたちはロワ・ド・シシール街の者たちから一人ずつかかるんだ、とくに女だ……それからホテル『リオン・ドール』にいた男や女たちは特別に気をつけてほしい。もしいたら……」
「女が一人、男が二人います」
「よし。チェコ人やマリアについて知っていることをすべてしゃべらせるんだ」
メグレは刑事たちに一味のメンバーの人相を手短かにいった。刑事たちはそれぞれのテーブルについた。
尋問がはじまった。夜が明けるまでつづくのだ。メグレは暗い廊下を通って……電気のスイッチを見つけるのに手さぐりした……、裁判所を横切り、自分のオフィスに着いた。
宿直のジョゼフがメグレにあいさつした。彼のようなやさしい顔を見るのはうれしいものだった。刑事部屋に灯りがついていた。ちょうど電話が鳴った。
メグレが入った。ボダンが受話器を取り、しゃべっていた。
「警視に代ります……いま、もどったところなんです……」
リュカからだった。マリアがたったいま九ポンドの男の子を産んだと知らせてきたのである。看護婦が、赤ん坊をうぶ湯につかわせるため病室から連れ去ろうとしたとき、マリアはベッドから飛び下りようとしたのだった。
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第七章
セーヴル街のレイネク病院の前でタクシーを降りると、メグレは外交団のナンバー・プレートのついた大型車を見た。正面玄関に、ひょろ長い男が待っていた。こちらの気がひけるほど端正な身装り、身のこなしはひどく気取っていて、その顔の表情にも非の打ちどころがないので、ゆっくりしゃべる彼の声を聞く気も起こらず、ただ見世物としてながめていたくなるような見事さであった。
しかし、彼はチェコスロヴァキア大使館の下級の書記官でさえなかった。大使館の一使用人にすぎなかったのである。
「大使閣下から申し受けまして……」と、彼は言いはじめた。
生涯でももっとも忙しい時間をすごしているメグレは、機先を制するため、ただこうつぶやいた。
「よろしい!」
だが、病院の階段で、メグレは振り返って、「あなたは少なくともチェコ語が話せますね?」と聞いたので、相手の男はびっくりしてしまった。
リュカは廊下の窓に肱《ひじ》をついて、憂うつそうに庭をながめていた。曇り空で、雨模様の朝だった。看護婦が来て、リュカにたばこを喫わないようにたのんだ。リュカはメグレのパイプを指さしてため息をついた。
「警視《パトロン》、パイプを消してもらいたいそうです」
メグレたちは当番の看護婦が来るまで待たなければならなかった。その看護婦は中年の女で、メグレの名声にも頓着なかったし、警察も好きではないようだった。
「患者を疲れさせないでくださいね。わたしが出るように合図したら、おとなしく出て行ってください」
メグレは肩をすくめると、いちばん先に白い小さな病室に入った。マリアはまどろんでいるようだったが、二人の男の動作に気を配り、半ば開いた眼のまつげのあいだからじっと様子をうかがっていた。
マリアはロワ・ド・シシール街で夜見たときのように美しかった。顔色がそのときより蒼白かった。髪を大きく二つお下げに編んで、首のまわりにまきつけている。
メグレは椅子の上に帽子をおくと、連れてきたチェコ人に言った。
「彼女の名前をきいてください」
メグレは待ったが、たいして期待していなかった。はたして、若い女は自分とおなじ言葉で話す男を憎々しげにちょっと見ただけだった。
「彼女は答えません」と、通訳は言った。「私の判断するかぎりでは、彼女はチェコ人ではありません。スロヴァキア人です。私は両方の言葉をしゃべってみましたが、彼女がはっとしたのはスロヴァキア語を使ったときでした」
「私の質問に答えるように強く忠告すると説明してください。答えなければ、からだの状態がどうであれ、今日じゅうにサンテ監獄の病舎に移してしまうと」
チェコ人は品位を傷つけられでもしたようにぎくっとした。看護婦のほうは病室のなかを歩きまわりながら、ひとり言のようにつぶやいた。
「そんなことができるかしら?」
それから、看護婦はメグレに言った。
「階段の下に禁煙って書いてあったの、読まなかったのですか?」
思いがけないほどの素直さで、警視は口からパイプを取り、指で火を消した。
やっとマリアがなにかいった。
「通訳してくれますか」
「彼女は、そんなことはどうでもいい、みんなを憎んでいると答えています。まちがいありません、彼女はスロヴァキア人、たぶん南スロヴァキアの田舎の娘でしょう」
彼はほっとしたようだった。彼女がスロヴァキアの百姓娘となれば、プラハの純粋なチェコ人としての彼の名誉は保たれたわけである。
メグレはポケットから黒い手帳を取り出した。
「彼女が去年の十月十二日の夜から十三日までどこにいたかきいてください」
こんどは、彼女は反応した。彼女の眼はいっそう陰うつになり、メグレをじっと見つめた。しかし、唇からは音は出なかった。
「十二月八日の夜から九日についてもおなじ質問をしてください」
彼女は動揺した。胸が波立っている。彼女は思わずゆりかごのほうに動いた。子供を抱きかかえ、守ろうとするかのように。
彼女はすばらしい雌《めす》だった。彼女がみんなとちがう人種なのだということに気づかず、ふつうの女として、産婦として扱っているのは看護婦だけだった。
「そんなばかげた質問をいつまでつづけるつもりなんです?」
「それなら別のことを聞こう。そうすればあなたの考えも変わるかもしれない、えーと、マドモワゼル、それともマダム?」
「マドモワゼルです」
「そうでしょうね。あなた、通訳をたのみます。十二月八日の夜から九日にかけて、ピカルディ地方のサン・ジル・レ・ヴォドルーヴ村の農家で、一家全員が斧で無残にも殺された。十月十二日から十三日の夜は、年寄りの百姓夫婦がこれもまたピカルディ地方の、サン・トーバン村の農家でおなじように殺された。そして十一月二十一日か二十二日の夜には、年寄りの夫婦と、頭のおかしい作男がやはり斧でおそわれている」
「それが彼女のしわざと、あなたは言いたいのですの?」
「ちょっと待ってください、看護婦さん。あなた、通訳してください」
チェコ人は不快げな様子で通訳した。まるでこれらの虐殺を話すと、自分の手が汚れでもするかのように。通訳が話しはじめると、女はすぐにベッドに上半身を起こした。胸がむき出しになってしまったが、隠そうともしなかった。
「十二月八日まで、殺人者たちのことはなに一つわからなかった。というのは、やつらは一人として生存者を残さなかったからだ。いいですね、看護婦さん?」
「医師は数分しか訪問を許さなかったのではないのですか?」
「心配しなくていい。彼女は丈夫だ。よく見てごらん」
マリアは赤ん坊のそばで、あいかわらず美しかった……牝狼のように、牝ライオンのように。男の仲間たちの先頭に立っていたときの彼女は、美しかったにちがいない。
「一語一語通訳してください。十二月八日に、手ぬかりがあった。素足で、寝間着をきた九歳の少女が、気づかれないうちにベッドからそっと抜け出し、部屋の隅に隠れた。誰もこの少女をさがそうとはしなかった。少女は目撃したのだ。聞いたのだ。彼女は、褐色の髪の若い女が、野性的な、みごとな女が、少女の母親の足にローソクの火を近づけるのを見たのだ。一方、男たちの一人は少女の祖父の頭をぶち割り、別の男は仲間たちに飲物をついでいた。少女の母親はさけび声をあげ、哀願し、苦痛で身をよじった。それなのに、この女は……」
メグレは産婦のベッドを指さした。
「……それなのにこの女は笑いながら、さらにこの拷問をつづけ、こんどは火のついたたばこの先を母親の胸に押し当てた」
「もうやめて!」と、看護婦が文句をいった。
「通訳してください」
通訳者がしゃべっているあいだ、メグレはマリアを見守っていた。からだを折り曲げたマリアは、そのぎらぎら光る眼をメグレから離さなかった。
「なにか答えることがあるか聞いてください」
しかし、軽蔑するような微笑が返ってきただけだった。
「その殺戮《さつりく》から逃れ、孤児になった少女はアミアンのある家族に引き取られている。われわれは今朝、その少女に、電送写真で送ったこの女の写真を見せた。少女ははっきりとあのときの女であることを認めた。少女には前もって何も言ってなかった。ただ眼の前に写真をおいただけだ。少女はヒステリーの発作を起こしたほどはげしい反応をしめした。チェコの方、通訳してください」
「彼女はスロヴァキア人です」と通訳はくり返した。
このとき、赤ん坊が泣きだした。看護婦は時計を見ると、ゆりかごから赤ん坊を出した。母親は、看護婦がおむつを替えているあいだ、それをじっと眼で追っていた。
「警視さん、もう時間がすぎました」
「私がいま話した人たちにも、時間がありましたかな?」
「赤ん坊に乳を飲ませなければならないのですよ」
「飲ませるがいい」
メグレがこのような尋問をつづけるのは初めてだった。赤ん坊は女殺人者の乳房に唇をくっつけている。
「彼女はあいかわらず答えないんだね。では、一月十九日に農家で他の人たちのように殺された後家のリヴァルのことを話しても、彼女はなにも言わないだろうな。この事件がいちばん最近のものです。四十歳になる彼女の娘も殺されました。マリアはその場にいたと思う。いつものように、死体からやけどの跡が見つかっている。通訳してください」
メグレは自分に向けられた強い不快感を、陰険な敵意を感じていたが、気にしなかった。彼は疲れ切っていた。五分間でも肱掛椅子に坐っていたら、眠り込んでしまっただろう。
「こんどは男の仲間たちのことを話してください。ゴリラのような力をした間抜けな百姓ヴィクトール・ポリアンスキーや、猪首《いくび》で、脂ぎったセルジュ・マドックや、カルルや、ピエトルという若僧のことを」
彼女はメグレの唇の動きから名前を読み取ったらしく、それぞれの名前のたびに、びくっとした。
「その若僧も恋人だったのか?」
「通訳しなければいけませんか?」
「もちろん。なにもあなたが彼女を赤面させるわけじゃない」
彼女は追いつめられたが、若者のことをいわれて微笑んだ。
「それとも本当の弟だったのか、聞いてください?」
奇妙なことに、熱っぽい愛情が女の眼にきらめくときがあった。それは彼女が乳房を子供の顔に近づけるときだけではなかったのである。
「さあ、チェコの方……」
「私はフランツ・ルエルと申します」
「それはどうでもいい。これから私の言うことを一語一語、正確に通訳してください。あなたの同国人の首はそのことにかかっているかもしれないんですよ。まず、こう言ってください、彼女の首は彼女の態度次第だ、と」
「本当にそう言わなければいけないのですか?」
すると、看護婦がつぶやいた。
「なんていやらしいの!」
しかし、マリアは平然としていた。ちょっと顔が蒼ざめたが、やがて微笑んだ。
「われわれの知らないもう一人の男がいる。そいつが首領だ」
「通訳しますか?」
「どうぞ」
こんどは、産婦の顔に浮かんだのは皮肉な微笑だった。
「彼女は話しはすまい、わかっている。ここに着いたときから、それはわかっていた。彼女はおどしの効くような女ではない。しかし、私の知りたいことがある。人の生命がかかっているのだ」
「通訳しますか?」
「なぜ、あなたにここに来てもらったと思います?」
「通訳するためです。失礼いたしました」
そして、ひどくぎごちない口調で、棒読みするようにしゃべった。
「十月十二日から十一月二十日までに、ほぼ一力月半ある。十一月二十一日から十二月八日まで、十五日ちょっと。それから一月十九日まではさらに五週間。いいかね? この期間は、一味がお金を使うのにほぼ必要な期間なんだ。ところで、いま二月の終りだ。私はなにも約束できない。事件が重罪裁判所にまわれば、他の人たちが彼女の運命を決定するのだから。通訳してください」
「日付をもう一度くり返していただけますでしょうか?」
彼は通訳し、そして待った。
「それからこうつけ加えてほしい、私の最後の質問に答えたなら、彼女は新たな虐殺を防ぐことができる。われわれはそのことを斟酌《しんしゃく》すると」
彼女は平然としていた。が、唇はまた軽蔑的になった。
「仲間がどこに行ったか、私は聞かないことにする。また、首領の名前も聞かない。私はただ、お金が少なくなっていたのか、新たな襲撃が近日中に計画されていたのかどうか知りたい」
これはマリアの眼を輝かせただけに終った。
「よろしい。彼女は答えない。私にはわかった。あとはヴィクトール・ポリアンスキーが殺人者であったかどうか知りたいだけだ」
彼女は一心に通訳の話に耳を傾け、そして待った。メグレはこうやっていちいち大使館の使用人をあいだに通さなければならないことにいらだっていた。
「やつらのなかに斧を扱えるやつが多数いたとは思えない。その役がヴィクトールでなかったとしたら、私には一味がこの間抜けな男を引きつれていた意味がわからない。結局、マリアを捕まえさせたのも、一味のすべてを捕まえさせることになるのも、彼のせいなのだ」
またもや、通訳。いま、彼女は勝ち誇っているようだった。警察はなにも知らない。知っているのは彼女だけだ。彼女は衰弱し、赤ん坊に乳をふくませてベッドにいるが、なにもしゃべらないし、これからもしゃべらないだろう。
なにげなく窓にちらっと眼をやったが、それが彼女の心のなかの考えをあらわしていた。ロワ・ド・シシール街でおき去りにされたとき、自分を捨てていくように望んだのは彼女なのだろう。仲間たちは彼女にいろいろと約束したにちがいない。彼女は仲間の男たちをよく知っている。彼らを信頼している。彼らが自由であるかぎり、彼女は安全なのだ。彼らは助けに来るだろう。遅かれ早かれ、彼らはここから彼女を助け出すだろう、たとえサンテ監獄の病舎からでも。
彼女はすばらしかった。鼻孔がふるえている。肉感的な唇はなんとも言いがたい表情でゆがめられている。彼女はここにいる人たちとも、仲間の男たちとも人種がちがうのだ。仲間たちは徹底的に社会の除け者として生きることを選んだ。彼らは野獣なのだ。羊が鳴きわめこうが、彼らの心の琴線《きんせん》にはふれない。
どのようなどん底の生活で、どのような貧困のなかで、彼らは結びついたのか? 彼らは全員飢えていた。実際、彼らは襲撃を終えると、一日じゅう食べることしか、食べかつ飲み、眠り、性交し、また食べることしか考えなかった。ロワ・ド・シシール街の見すぼらしい部屋にも、ぼろと見まがうような使い古した着物にも頓着しなかった。
彼らはお金のために人を殺さない。お金は彼らにとって、他の人間とは無関係に、あばらやの隅で静かに食ったり眠ったりする手段にすぎないのだ。
彼女もおなじようにおしゃれではない。ホテルの部屋にあった着物は安物である。彼女が故郷の村で着ていたような着物だ。白粉も口紅もつけない。上等な下着さえつけていない。仲間の男たちとおなじように、別の時代でも、別のところでも、たとえ森やジャングルでも裸で暮すことができただろう。
「私はまたやって来ると、よく考えてほしいと、通訳してください。彼女にはいま赤ん坊がいるんだから」
メグレは思わず声を低めて、最後に看護婦にこう言った。
「いま、私はここから出て行きますが、あとで別の刑事をよこします。ブカール医師《せんせい》に電話しておきます。彼女は彼の患者なんですね?」
「ブカール医師はここの部長です」
「もし動かしていいのなら、たぶん、今夜か明日の朝には、サンテ監獄に移します」
メグレが忍耐づよいことを見せたにもかかわらず、看護婦はあいかわらず恨みがましくメグレを見つめた。
「さようなら、マドモワゼル。さあ、|あなた《ムッシュー》、行きましょう」
廊下で、メグレはリュカに二言三言いった。リュカはまだくわしいことはなにも知らされていなかった。一階からメグレたちを案内してきた看護婦が、ちょっと離れたところで待っていた。ドアの前に、新鮮な花でいっぱいの花瓶が五、六個あった。
「これは誰のものですか?」と、メグレはたずねた。
その看護婦は若くて、ブロンドで、白衣の下はぽってりと肥っていた。
「もう誰のものでもありませんわ。この病室に入っていたご婦人がいましがた退院なさったのです。その女《ひと》が花を残していかれたのです。とてもお友達が多い方でした」
メグレは小声で彼女になにか言った。彼女はそうだと答えた。おどろいたようだった。しかし、チェコ人はメグレがいましたことを見抜いていたら、もっとおどろいたにちがいない。
メグレはちょっと気まずそうに、ただこう言った。
「それじゃ、二一七号室にこの花をおいてください」
あの病室には何の飾りもなく、ひえびえとしていたし、女と、生まれたばかりの男の子とがいたのだから。
十一時半だった。予審判事の部屋が並んでいる薄暗い長い廊下に、両手に手錠をはめられた、ネクタイなしの男が数人、憲兵につきそわれ、背もたれのないベンチに腰をかけて順番を待っている。女たちもいたし、いらいらして待っている証人たちもいた。
いつもより重々しくみえるコメリオ判事が、やきもきしながら、同僚の部屋から椅子をもってこさせたり、書記に昼食を届けさせたりしているにちがいない。
メグレの依頼で、司法警察の局長が出席し、肱掛椅子に坐っていた。一方、いつもは尋問される人たちが坐る椅子には、国家警察のコロンバニ警視がいた。
原則として、司法警察はパリとその周辺のことにしかかかわることができないので、五力月前から、機動隊と接触して、『ピカルディの殺人者たち』についての捜査を指揮していたのはこのコロンバニ警視だった。『ピカルディの殺人者たち』は、新聞記者が最初の犯罪のあと一味につけた名前だった。
その朝、早くからコロンバニ警視はメグレと会い、彼の報告書をメグレに貸している。
また、早くから……九時ちょっと前……ロワ・ド・シシール街に見張りに立っていた刑事の一人が、メグレ警視の部屋をノックした。
「どうぞ、入りたまえ」と、メグレは言った。
ホテル『リオン・ドール』の主人のことだった。昨夜、というより明け方、主人は決心したのだ。やつれ、ひげも剃らず、着物もしわだらけの主人は、ホテルの前を歩きまわっている刑事に話しかけてきたのである。
「私は警視庁に行きたい」と、彼は言った。
「行くんだな」
「こわいんです」
「では、私がついていってやろう」
しかし、ヴィクトールは街中の、群集のまっただ中で撃ち殺されたではないか。
「タクシーに乗って行くほうがいい。私が料金を払いますから」
主人がメグレのオフィスに入ってきたとき、警視の目の前にはこの男についての書類があった。というのは、この男には以前三つの有罪判決があったからだ。
「日付を思い出したか?」
「はい、よく考えました。どんなことになるか、いまにわかるでしょう。私を保護してくれると約束してくださるなら……」
彼には卑劣さと病気の匂いがした。彼という人間そのものが腫物《はれもの》を思わせる。この男はすでに二度強姦罪で捕まっているのだ。
「初めて彼らが留守にしたとき、私はたいして注意しませんでした。ですが、二度目には私も驚きました」
「二度目? それじゃ十一月二十日だな」
「どうしてそれをご存知で?」
「私だってその日付のことを考えていたからさ。それに新聞だって読んだし」
「彼らのしわざじゃないかとあやしんでいましたが、勘《かん》づかれないようにしていました」
「やつらは勘づいていたんじゃないのか?」
「そいつはわからんですが、私に千フランくれました」
「昨日は五百フランと言ったな」
「まちがえたのです。つぎのとき、彼らは帰ってくると、カルルが私を脅しました」
「やつらは車で出かけるのか?」
「わかりません。とにかく、ホテルを出て行くときは徒歩です」
「おまえの知らない男が、その数日前にいつも訪ねてきたかね?」
「いま考えてみると、そうだったような気がします」
「その男はやつらのようにマリアと寝たか?」
「いいえ」
「いいか、なんでもきれいに吐くんだぞ。おまえの最初の二つの罪を思い出すんだ」
「私は若かったもんで」
「なおさら胸くそがわるくなる。おまえのような人間は、マリアのような女に興奮するにちがいない」
「マリアには手を出しませんでしたよ」
「そうだろう! おまえは他のやつらがこわかったのさ」
「マリアもこわかったんです」
「よし! こんどは少なくとも素直だ。ただ、おまえのことだ。ときどきドアを開けに行くだけではすまなかったはずだ。しゃべるんだ!」
「そのとおりです、壁に穴をあけ、隣りの部屋にはできるだけ人を入れないようにしました」
「マリアは誰と寝た?」
「みんなと」
「若僧ともか?」
「とくに若僧と」
「昨日は、若僧はマリアの弟かもしれないと言ったではないか」
「マリアに似ていたからです。彼がいちばん惚れていました。二、三度泣いているのを見ました。マリアと一緒のとき、彼はいつも哀願していました」
「なにを?」
「わかりません。彼らはフランス語を話しません。寝室に他の男がいるとき、若僧はたった一人でロジェ街の小さな居酒屋《ビストロ》に酒を飲みに行ってしまいます」
「やつらは喧嘩していたかい?」
「男たちはおたがいに好きではありませんでした」
「洗面器で洗っているのを見たという血のついたシャツが誰のものか、おまえは本当に知らないのか?」
「たしかなことはわかりませんが、ヴィクトールが着ているのを見ました。ですが、彼らは着物を交換して着ていましたから」
「おまえの考えでは、あそこに住んでいたやつのなかで首領は誰だと思う?」
「首領はいませんでした。喧嘩があると、マリアが叱りとばしました。すると、彼らは黙ってしまうんです」
家具付ホテルの主人は、刑事につきそわれて家に帰って行ったが、街中ではびくびくして刑事にぴったりくっついていた。肌は恐怖で汗びっしょりだった。彼はいつもよりずっと不快であったにちがいない。なぜなら、恐怖は不快なものだからだ。
ところでいま、こわばったカラーに、黒ずんだネククイ、みごとなスーツを着たコメリオ判事は、中庭に背を向けて窓際に坐っているメグレを見つめている。
「あの女はなにもいわないし、今後もしゃべらないでしょう」と、メグレはパイプをぷかぷか吹かしながら言った。
「昨日の夜から、三匹の野獣をパリの街中に逃してしまった、セルジュ・マドック、カルル、それに、若いピエトル。ピエトルはあの年齢でもう子供らしい純真さを失っているにちがいありません。やつらをいつも訪ねてきた一味の首領のことはここでは触れません」
「きみは必要な手をすべて打ったと思うが?」と、判事が口を出した。
判事はメグレの落度を見つけたかったのかもしれない。メグレはあまりにも少ない時間のあいだに、あまりにも多くを知りすぎた、しかもやすやすと。メグレはもっぱら彼の死者、チビのアルベールのことにかかわっているふりをしながら、いまや、警察が五力月前から調べて手がかりをつかめなかった一味をさがし出してしまったのである。
「駅はすべて警戒されています、安心してください。こんなことをしてもなんの役にも立たないでしょうが、おきまりのことです。道路も、国境も監視されています。これもおきまりのことです。多くの回状、電報、電話、それに何千という人々が動きまわってます。しかし……」
「それは必要欠くべからざることだ」
「それらはすべて手配ずみです。家具付ホテルも見張ってます、とくに『リオン・ドール』のようなホテルは。やつらはどこかで寝なければならないわけですから」
「新聞の編集主幹をやっておる私の友人からさきほど電話がかかり、きみのことで文句をいってきた。きみはどんな小さな情報でも新聞記者に流すことをことわったらしいね」
「そのとおりです。追いつめられた殺人者たちがパリの街々をうろついていると知らせて、パリの人々をいたずらに不安におとし入れることはないと考えたからです」
「私もメグレ君の意見に賛成だな」と、司法警察の局長が支持した。
「私はなにもきみたちを非難しようとしているわけではない。自分なりに意見を持とうとしているのだ。きみたちにはきみたちのやり方がある。とくに、メグレ警視にはな。ときどきは特殊すぎるほどだ。メグレ警視は熱心に私に知らせてこないのだ。だが、最後の責任は私一人がかぶることになる。検事総長は私の要請により、ピカルディ強盗団の事件とチビのアルベールの事件を合同捜査にしてくれた。私は立場をはっきりさせたいのだよ」
「被害者がどのようにして選び出されたのか、われわれにはすでにわかってます」と、メグレはわざと単調な声で言った。
「きみは北部の人たちの証言を聞いたのか?」
「そんな必要はありません。ムルスがロワ・ド・シシール街の二つの部屋からたくさんの指紋を検出しました。農家を襲ったやつらはゴムの手袋をつけていて、あとになんの手がかりも残していません。チビのアルベールの殺人者たちもゴムの手袋をつけていました。しかし『リオン・ドール』の客たちは部屋にいるとき素手でした。指紋係は、やつらの一人だけの指紋を認めました」
「誰の?」
「カルルの。彼の名前はカルル・リプスシッツです。ボヘミアの生まれで、五年前正規のパスポートでフランスに入国しました。彼はピカルディとラルトワの大きな農家が計画した集団農業労働者の一員でした」
「なんで彼のカードが指紋係にあるのかね?」
「二年前、彼はサン・トーバン村の少女を強姦し、殺した疑いで起訴されました。そのとき彼は村のある農家で働いていたのです。村人たちの噂を根拠として逮捕されたんですが、証拠不十分で一力月後に釈放されています。それ以来、彼の足取りはわかりません。たぶんパリに来たのかもしれません。パリ郊外の大きな工場に行けばたしかめられるでしょう。彼もシトロエンの工場で働いていたとしても、私はべつにおどろきません。すでに刑事を調べにやっています」
「それでは彼らの一人の身許はわかったわけだな」
「これはたいしたことではありませんが、彼がすべての事件の土台になっていることに気づかれるでしょう。コロンバニ警視のご好意で、彼の報告書を貸してもらいました。私はその報告書を注意深く調べました。ここに警視がつくった地図があります。非常に時宜《じぎ》を得たものです。また、その報告書のなかに、犯罪が行なわれた村々には、チェコ人が一人も|住んでいた《ヽヽヽヽヽ》ことがないと書かれています。しかし、ポーランド人が何人か住んでいたことがあるので、ある人たちは『ポーランド人の一味』といい、農家の虐殺を彼らのしわざにしています」
「結局きみはなにを言いたいのだ?」
「カルルが一員だった農業労働者集団はフランスに着くと、各地に分散しました。この時期、アミアンの南の地帯にいったのは彼だけです。最初の三つの犯罪が行なわれたのはそこです。いつの場合でも人里離れた金持の農家、いつの場合でも被害者は老夫婦」
「つぎの二軒の農家の場合は?」
「もうちょっと東で、サン・クァンタンのあたり。カルルにはこのあたりに女がいたか、友達がいたことはいずれはっきりしますよ。彼は自転車ででも遊びに行けましたからね。三年後、強盗団が組織されたとき……」
「どこで組織されたと思うかね?」
「わかりませんが、いいですか、やつらの大部分がジャヴェル河岸付近にあらわれています。ヴィクトール・ポリアンスキーは最初の襲撃のちょっと前までまだシトロエン工場で働いています」
「きみはさっき首領のことを言ったが」
「まず、私の考えを言わせてください。チビのアルベールが死ぬ前、というよりコンコルド広場でアルベールの死体が発見される前には……このちがいは大切です、いずれそのわけがおわかりになるでしょうが……すでに四度目の虐殺をすませていた一味は、安閑としていられました。誰も一味のメンバーの人相を知りません。唯一の目撃者は、母親が若い女に拷問されるところを見た少女だけです。男たちについては、この少女はほとんど見ていなかったし、男たちはすべて顔を黒いスカーフでおおっていたのです」
「きみはそのスカーフをロワ・ド・シシール街で見つけたのかね?」
「いいえ。そういったわけで、一味は安全だったのです。誰もあのむさくるしい安ホテルにピカルディの殺人者たちがいるとは思いもしませんでした。そうだね、コロンバニ警視?」
「まったくそのとおりです」
「チビのアルベールはとつぜん、数人の男たちに尾《つ》けられ、身の危険を感じました。電話で、彼が数人の男が交代で尾けていると言ったことを忘れてはいけません。このチビのアルベールは私に保護を求めてきたあとで、自分のカフェでナイフで殺されました。彼は私に会いに来るつもりだったのです。なにか打ち明けることがあったのでしょう。そして、尾けている男たちはそのことを知っていました。ここに一つ問題があります……なぜ、わざわざ死体をコンコルド広場に運んだのか?」
他の人たちは黙ってメグレを見つめながら、メグレ自身がなんども自分の心に問いかけたこの問題への答えを見つけようとしたが、だめだった。
「ふたたびコロンバニ警視の報告書にもどりますが……この報告書はきわめて正確なものです……、どの農家を襲ったときでも、一味は車を、とくに盗んだ小型トラックを使ってます。ほとんどすべてがクリシー広場の近くの路上で盗まれたものです。いずれにせよ十八区。そこで、とくにこの地区の捜査を推し進めたわけです。この盗まれた車はつぎの日かならずおなじ地区で……町のちょっとはずれですが……見つかってます」
「それできみの結論は?」
「一味は車をもっていません。車をもてばどこかに駐車しなければならず、そこから足がつきます」
「黄色い車はどうなんだ?」
「|黄色い車は盗まれた車ではありません《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。いずれわかりますが、もし盗まれた車なら、その持主は訴えてくるはずだからです、とくにほとんど新車同様の車の場合には」
「わかった」と、局長はつぶやいたが、コメリオ判事のほうはわからないらしく、腹立たしげに眉をひそめた。
「私はもっと早くこのことを思いつくべきでした。その可能性を考えないでもありませんでしたが、すぐあとでその考えをしりぞけてしまったのです。なぜそうしたかと言いますと、その考えはあまりにも複雑すぎるような気がしたし、私は真実はいつでも単純であると言っていたからです。|コンコルド広場に死体をおき去りにしたのは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|チビのアルベールを殺した者たちではないのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「それは誰だね?」
「いまはわかりませんが、やがてわかるでしょう」
「どうやって?」
「新聞に広告を載せるのです。いいですか、アルベールは午後五時ごろ、われわれの助けが当てにできないことを悟ったとき、電話をしています。もちろんわれわれのところではありません」
「きみの言いぶんでは、友達に助けを求めたというのか?」
「おそらくそうでしょう。とにかく、アルベールは誰かと会う約束をしました。そして、この誰かは時間どおりに来なかったのです」
「どうしてそれがわかる?」
「判事さん、黄色い車がアンリ四世河岸で故障したことを忘れていますね。かなり長い間故障していました」
「それで、その車の二人の男はうんと遅れて着いたというのだね?」
「そうです」
「ちょっと待ちたまえ! ここに書類があるが、きみの女占い師によれば、黄色い車は八時から九時半ごろまで『チビのアルベール』の前で停っていた。ところで、死体がコンコルド広場におき去りにされたのは午前一時になってからだ」
「二人の男は帰ったのでしょう、判事さん」
「彼らがやりもしなかった犯罪の被害者をさがしに行くために? どこかにその被害者をおき去りにするために?」
「そうかもしれません。私は説明はしません。事実をたしかめるだけです」
「その間、アルベールの妻はどうだったのかね?」
「二人の男が彼女を安全な場所に連れて行ったとは考えられませんか?」
「夫と同時にどうして殺さなかったのだろう。彼女だって知っているかもしれないのに、とにかく殺人者たちを見ているかもしれないのに?」
「彼女はカフェにいなかったのかもしれませんね。重大な商売の話があるとき、女を遠ざける男たちがいるもんです」
「そうだとすると、きみのいうように、いまパリの街中をうろついている殺人者たちからわれわれもまた遠ざかることになるんじゃないのか、警視君?」
「やつらの手がかりをつかんだのはなんのおかげです、判事さん?」
「もちろん、コンコルド広場の死体だ」
「なぜ、もう一度そこにもどってみないのです? いいですか、ひとたび理解すれば、一味を捕まえることはそう困難ではないでしょう。ただ、理解しなければならないのです」
「カフェの元ボーイは知りすぎたために殺されたと思うのかね?」
「そうでしょう。私はどうして彼が知ったのかを見つけたいのです。それが見つかれば、|彼が知っていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》|こと《ヽヽ》もわかるでしょう」
局長は微笑みながらうなずいた。二人の男が敵対しているのを感じていたからである。コロンバニ警視のほうは、こんどは自分がしゃべりたいと思っていた。
「たぶん列車では?」と、彼が口をはさんだ。
彼は自分の報告書を知りつくしていた。メグレはコロンバニ警視を励ました。
「きみはどの列車のことを言っているのかね?」と、コメリオ判事が聞いた。
「私たちは」と、コロンバニはメグレに眼でうながされてしゃべりだした。「私たちは最後の事件のとき、ちょっとした証拠をつかんだのですが、一味を用心させないために公表しなかったのです。私の報告書にはさんでありますナンバー五の地図を見てください。一月十九日の襲撃はリヴァル家で行なわれ、不幸なことに後家のリヴァル夫人と彼女の娘が殺され、また作男と女中も殺されたのです。この農家は『修道院』と呼ばれておりますが、その理由はおそらく昔の修道院の跡に建てられ、村から五キロ近くも離れていたからでしょう。この村、ゴデルヴィルには普通列車が停る鉄道の駅があります。パリ―ブリュッセル本線です。パリからゴデルヴィルに来る旅行客が少ないことは申すまでもないでしょう。と言いますのは、小さい駅にいちいち停車して、パリからここまで来るには数時間要するからです。しかるに、一月十九日、夜の八時十七分に、パリ―ゴデルヴィル間の往復切符を持った男が、列車から降りています」
「その男の人相はわかっているのかね?」
「漠然とですが。まだ若くて、立派な身なりの男でした」
判事はこんどは自分がなにかを発見したいと思った。
「外国なまりだったのか?」
「その男は話しませんでした。大通りを通って村を横切りました。村人は二度とふたたび彼を見かけませんでした。そのかわり、翌朝の六時数分に、男は、さらに南に二十一キロほど行ったところにあるムシェという小さな駅からパリ行きの列車に乗っております。男はタクシーを雇っていないし、車で送ってやった百姓もおりません。楽しみのため一晩じゅう歩きつづけたとはちょっと信じられません。男はきっと『修道院』のそばを通ったにちがいありません」
メグレは眼を閉じた。疲労がどっと出た。やっとのことでそれに耐えた。立ったまま、居眠りすることもあった。パイプの火は消えたままだ。
「これらの情報を入手したとき、私たちはパリの北駅に切符をさがさせました」と、コロンバニ警視はつづけた。「列車が着いたとき回収される切符はすべて、しばらくは保存されているそうです」
「切符は見つかったのか?」
「北駅にはありませんでした。ということは、あの旅行客はプラットホームの反対側へ降りたか、どこか郊外の駅で群集にまぎれ込み、気づかれずに、なんなく出てしまったかのどちらかです」
「きみが言いたかったのも、このことかね、メグレ君?」
「そうです、判事さん」
「どんな結論になるのか?」
「わかりません。チビのアルベールはおなじ列車にいたのかもしれないのです。駅にいたのかもしれないのです」
メグレは頭を振り、つづけた。
「いや。それだったらもっと早くアルベールはおどかされていたにちがいない」
「すると?」
「なんでもありません! それに、アルベールは殺されたあと、徹底的に家捜《やさが》しされたことからみると、物的証拠も持っていたのでしょう。こみいっています。しかもヴィクトールはわざわざもどってきて、カフェのまわりをうろついています」
「さがしていたものが見つからなかったのではないのか?」
「そうだったら、あんな頭の弱い男が来るはずがありません。ヴィクトールは、仲間の知らないあいだに、独断でやってきたのだと思います。その証拠に、ヴィクトールが警察に尾けられ、一味が捕まる恐れがあると知ると、やつらは彼を平気で撃ち殺しています。みなさん、失礼させてください。局長失礼します。疲れてふらふらしているのです」
メグレはコロンバニ警視のほうを向いた。
「五時ごろ、きみに会えるかい?」
「けっこうです」
メグレはあまりに弱々しく、疲れはて、生気がなかったので、コメリオ判事は良心の痛みを感じ、こうつぶやいた。
「それでもきみ、立派な成果じゃないか」
そして、メグレが外に出ると、「彼はもう眠らずに幾晩もすごす年齢《とし》ではあるまい。どうして自分一人でなんでもやりたがるのかな?」
判事は、メグレがタクシーに乗ったとき、行き先を言うのをためらい、最後にこう言うのを聞いたら、びっくりしただろう。
「シャラントン河岸! 停める場所は、いうよ」
メグレを悩ましつづけたのは、『チビのアルベール』ヘヴィクトールがもどってきたことだった。タクシーのなかでメグレは、リュカに尾けられ、猫のような足取りで歩いている赤毛の大男の姿を思い浮かべていた。
「なににしますか、警視《パトロン》?」
「なんでもいいよ」
シュヴリエはすっかり役柄が板についていた。彼の妻もきっとおいしい料理をつくっていたにちがいない。店内には客が二十人ほどいたから。
「階上に行く! イルマを来させてくれないか?」
彼女はエプロンで手を拭きながら、階段をメグレについてきた。メグレは寝室に入るとまわりを見まわした。窓が大きく開いていて、とても清潔な感じだった。
「あちこちに散らばっていた品物をどこに片づけました?」
メグレはムルスとそれらの品物の目録をつくっておいた。だが、あのときは殺人者たちがおき忘れていったものをさがしていたのである。いまは、もっと特定のもの……ヴィクトールが一人でさがしにきたものだった。
「みんな、箪笥の上の引出しのなかに入れておきました」
櫛《くし》、ヘア・ピンが入っている箱、ノルマンディー海岸の名前のついた貝殻細工、広告のついたパーパーナイフ、役に立たないシャープペンシル、その他どこの家でももてあますくだらない小さなもの。
「みんな、あのなかに?」
「半分入ったたばこの包みや、折れた古いパイプも。わたしたち、まだ長い間ここにいるのでしょうか?」
「どういうことになるかな。退屈しましたか?」
「いえね、わたしはかまわないんですけど、なれなれしくしすぎるお客さんがいるものですから、主人がいらいらしはじめているんですの。そのうちお客さんを殴りつけてしまうかも……」
メグレは箪笥の引出しをさがしまわり、使い古したドイツ製の小さなハーモニカを引っぱり出した。メグレがそれをポケットに入れたので、イルマはびっくりした。
「それだけですの?」
「これだけです」
数分後、階下からメグレはロワゾー氏に電話した。メグレの質問を聞いて、ロワゾー氏は面くらった。
「アルベールはハーモニカを吹きましたか?」
「知りませんな。歌はうたいましたけど、楽器ができるということは聞いたことがありません」
メグレはロワ・ド・シシール街でハーモニカを見つけたことを思い出した。すぐに、メグレは『リオン・ドール』の主人を電話に呼び出した。
「ヴィクトールはハーモニカを吹いたか?」
「はい。街でも歩きながら吹いてました」
「ハーモニカを吹いたのは、ヴィクトールだけだった?」
「セルジュ・マドックも吹きました」
「二人ともハーモニカを持っていたのか?」
「そうだと思います。いえ、たしかに持っていました。ときどき二重奏をしていましたから」
ところで、メグレが『リオン・ドール』の部屋をさがしたとき、ハーモニカは一つしかなかったのである。頭の弱いヴィクトールが仲間の知らないあいだに、シャラントン河岸にさがしにもどったもの、結局ヴィクトールの死をまねいたものは彼のハーモニカだった。
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第八章
この日の午後起ったことは、メグレ夫人が一家|団欒《だんらん》のとき微笑みながら語る四方山《よもやま》話の一つになるだろう。
メグレは二時に帰ってくると、食事もしないで寝に行ったが、これはべつに不思議なことではない。いつもの彼なら、何時にアパルトマンにもどって来ようと、まず最初に台所に行ってシチュー鍋の蓋《ふた》を開けるのではあるが……。メグレは食事をすませてきたと言ったのである。それからそのすぐあとで、メグレが着物を脱いでいるとき、夫人がさらにたしかめてみると、彼はシャラントン河岸のカフェの料理場でハムを一切れつまんだだけだと白状した。
夫人は日除けを下ろし、夫に必要なものがなにも欠けていないかをたしかめると、爪先で出て行った。ドアを閉める前に、彼は早くもぐっすり眠り込んでいた。
皿を洗い終え、台所を片づけると、彼女は忘れてきた編物を取りに寝室にもどるのをちょっとためらった。まず耳をすませた。規則正しい寝息が聞こえた。夫人はそっとノブをまわし、修道女のように物音を立てずに爪先で進んだ。このとき、メグレが眠り込んだ人のような寝息を立てながら、口ごもったような声でこう言ったのである。
「ねえ、おまえ! 五力月に二百五十万フラン……」
メグレは眼を閉じている。顔色がとてもいい。寝言をいっているのだと思ったが、メグレ夫人は夫を起こさないようにじっと立ち止っていた。
「それだけの金を使うのに、おまえだったらどうする?」
メグレ夫人は、夫が夢を見ているのだと思って答えなかった。メグレは眼瞼《まぶた》を動かさずに、いらだたしげにふたたび言った。
「奥さん、答えなさい」
「わからないわ、わたしには」と夫人はささやいた。「いくらって言いましたっけ?」
「二百五十万。あるいはもっと多いかもしれないね。これは、やつらが農家から奪った最小限度の金額だ。その大部分が金貨だった。もちろん、競馬で使う手もある……」
メグレはのろのろと寝返りをうち、眼を軽く開けると、夫人をじっと見た。
「この事件はかならず競馬にかかわってくる……」
メグレが夫人に話しかけているのではなく、ひとり言をいっているのを、彼女は知っていた。夫人は夫が眠り込むのを待った。眠り込んだら、たとえ編物を取らなくとも、入ってきたときのようにそっと爪先で出て行くつもりだった。メグレはしばらく黙っている。彼女は夫が眠ったのだと思った。
「いいかい、奥さん。すぐに知りたいことがあるんだ。先週の火曜日、競馬がどこであったか? もちろんパリ近辺のだ。電話をたのむ!」
「誰に電話するんです?」
「パリ競馬協会へだ。電話帳に番号が載っている」
電話は食堂にあった。電話線が短かったので、寝室に持ってくることはできなかった。メグレ夫人は、金属でできた小さな受話器の口に向かってしゃべるとき、いつでも落着かなかった。とくに相手が彼女の知らない人間のときは。
夫人はあきらめて、夫にたずねた。
「あなたの名前をいいますか?」
「どっちでもいいよ」
「向こうが、わたしの名前をたずねたら?」
「そんなことたずねはしないさ」
このとき、メグレは両眼を開けていた。完全に眼が覚めていたのである。夫人は隣りの部屋に行き、電話をかけているあいだドアを開け放しておいた。電話はすぐにすんだ。夫人に答えた従乗員は、こうした質問に慣れているらしい。彼は競馬の日付を暗記していて、すぐに教えてくれた。
ところで、メグレ夫人が寝室にもどってきて、いましがた教えられたことをメグレにくり返そうとすると、メグレは拳をかためて眠っていた。寝息は鼾《いびき》といっていいほど高かった。
夫人はメグレを起こすのをためらい、このまま休ませておいたほうがいいと決心した。念のため、夫人は境のドアを半分開け放しておいた。ときどき彼女はおどろいて時計をながめた。夫の昼寝がこんなに長いことはめずらしかった。
四時に、スープに火をかけるため台所に行った。四時半に、寝室にちらっと眼をやった。夫はあいかわらず眠っていた。彼はさっき考えていたことを夢見ているにちがいない。眉をひそめ、額にしわをよせ、唇を妙にゆがめていたからだ。
ところがその少しあと、夫人が食堂の窓辺のいつもの席に坐ると、いらいらした声が聞こえてきた。
「おい電話は?」
夫人はすっ飛んで行き、ベッドの上に坐っているメグレをおどろいて見つめた。
「話し中だったのかい?」と、ひどくまじめな顔でメグレはたずねた。
これにはメグレ夫人も妙な気持にさせられた。彼女は夫が錯乱でもしたかのように、心配になった。
「もちろん通じました。でも、それは三時間ほど前ですわ」
メグレは疑わしそうに、夫人をながめた。
「なんだって? いま何時なんだ?」
「五時十五分前」
メグレは自分が眠り込んでしまったのをおぼえていなかったのである。電話のあいだだけ眼を閉じていたにすぎないと思っていた。
「どこであった?」
「ヴァンセンヌです」
「おれの言ったとおりだろ?」と、メグレは勝ち誇って言った。
メグレはそのことについて誰にも言ってなかった。が、十分に考えたすえ、こうだろうと思っていたのだ。
「ソーセー街の国家警察を呼んでほしい……〇〇九〇……コロンバニ警視のオフィスをたのむんだ……」
「彼に言うことは?」
「いや、いい。彼がまだオフィスを出ていなかったら、おれが話す」
コロンバニ警視はまだオフィスにいた。とにかく、彼はいつでも約束の時間より遅れる。とても親切な男だったので、司法警察ではなくメグレの家で会うことに承知してくれた。
夫人はメグレのたのみで、強いコーヒーをつくった。が、それでもメグレを完全に眼ざめさせることはできなかった。眠りが足りなかったので、眼瞼がまだ赤らみ、ちりちり痛んだ。皮膚が張りつめたような気分だった。着物を着る気にもなれなかったので、ズボンをはきスリッパをひっかけると、襟のところに小さな赤十字の飾りのついた寝間着の上から部屋着をはおった。
メグレとコロンバニは食堂で向かい合って気楽に坐った。二人の前にカルヴァドスの壜があった。正面の、大通りの向こう側の白い壁の上に、黒い文字で『ロストとペパン』の名前が見えた。
二人は知りあってかなりになるので、気がねはいらなかった。ほとんどのコルシカ人のように小柄だったコロンバニは、高い踵《かかと》の靴をはき、派手なネクタイと、本物か偽物かわからないダイアモンドのついた指輪を薬指につけていた。そのため、ときどき彼は警官というより、むしろ警官に追われる側の人間のように思われがちだった。
「私はジャンヴィエを競馬場に送った」と、メグレはパイプをふかしながらいった。「今日、競馬はどこであるのかな?」
「ヴァンセンヌ」
「先週の火曜日もそうだった。チビのアルベールの出来事がはじまったのもヴァンセンヌではないのかな。われわれはまず競馬場を捜査してみたのだが、かんばしい結果が得られなかった。このとき、われわれの頭にあったのは、カフェの元ボーイのことだけだった。いまはちがう。こんどはいろいろな馬券売場、とくに五百フラン券や千フラン券などの高い券の売場に、外国なまりのまだ若い男がしょっちゅう来てないかと聞かなければならない」
「競馬場詰めの刑事たちがその若い男に気づいているかもしれませんね」
「その上、その若い男は一人ではなかったと思う。五力月で二百五十万フランは一人では使いすぎる」
「二百五十万フランをはるかに越えていたことはまちがいないですね」とコロンバニがきっぱりと言った。
「私の報告書には、はっきりわかっている数字だけしか書かなかったのです。この金額は一味が確実に手にした金額なのです。殺された百姓たちは、別の金の隠し場所を拷問によって吐かされたにちがいないですからね。全体の金額は四百万フラン、あるいはそれ以上だったとしても、不思議ではありません」
ロワ・ド・シシール街のあのうす汚ないやつらは、どうやってその金を使ったのか? 着る物にではない。外出もしていない。やつらはただ飲み食いするだけなのだ。百万フラン飲み食いするのは、たとえ五人であっても時間がかかる。
それにもかかわらず、襲撃はかなりひんぱんに行なわれている。
「首領は盗んだ金の大部分を隠しているにちがいないですね」
「それならなぜ、他のやつらはだまっていたんだろう?」
この他にもメグレが自問している問題がまだたくさんあった。ある瞬間には考えることに飽き飽きしたり、ある瞬間には額に手を当ててどこか一点を、たとえば遠くの窓のゼラニュームをじっと見つめていたりした。
たとえここで、自分の家で、何をしていても、メグレの心は捜査から離れられず、パリやその周辺で現に起こりつつあることを案じつづけていたのである。
彼はまだ、マリアをサンテ監嶽の病舎に移していなかった。マリアが入院した病院名を正午以後の版の新聞に載せるように手配しておいたのである。
「病院に刑事を何人か配置しておいたのでしょう?」
「刑事を四人に、巡査を数人。あの病院には出口がいくつもある。しかも今日は面会日だ」
「彼らがなにかしかけてくると思いますか?」
「わからない。やつらはみんなマリアのことでは気違いみたいになる。だから、少なくとも一人ぐらい一《いち》か八《ばち》かやってみるのがあらわれたって不思議じゃない。おまけに、いいかい、やつらは誰もが自分が父親だと思っているんだ。マリアと子供に会いたくないわけがない……。危険な賭けだ。私にとってじゃなく、やつらにとってさ」
「私にはわかりませんが」
「やつらはヴィクトール・ポリアンスキーを殺したね? なぜ? やつらが捕まる恐れがあったからだ。もしやつらの一人がわれわれの罠《わな》にかかろうとしたら、仲間はそいつをだまって生かしておくはずがない」
メグレは夢見るように、パイプをふかした。コロンバニは金口のたばこを喫いながら言った。
「彼らはなによりもまず、首領のところに行こうとするにちがいないですね、金がなくなればなおさら」
メグレはぼんやりとコロンバニを見ていたが、やがてその眼つきがきびしくなった。彼は立ち上り、テーブルを拳でたたくと、さけんだ。
「ばかもん! 私はなんというばかもんなんだ! そのことを考えないなんて!」
「しかし、首領のすみ家がわからなければ……」
「そのとおり! しかしやつらだって首領のすみ家を知らないにちがいない。一味を組織し、やつらに命令をあたえている男はあらゆる用心をしているにちがいない。あの宿の亭主は私になんと言った? 襲撃のたびに、前もってロワ・ド・シシール街に命令をあたえにきたと。よし! こんどはきみもわかりはじめただろ?」
「すっかりというわけには……」
「首領のことでわれわれが知っていることは? あるいはわれわれが推測できることは? 競馬場に行けばそいつが見つかるかもしれないということだ。やつらだって、そんなことがわからないほどばかだと思うか? きみの言ったことはズバリ的中していたんだ。いま、やつらはきっと首領のところに行こうとしているにちがいない。たぶん金を要求するために。とにかく、急を知らせて、忠告や指示をうけるために。やつらは昨夜はべッドで寝られなかったはずだ。やつらはどこに行ったと思う?」
「ヴァンセンヌに?」
「その可能性が十分ある。もしやつらがばらばらになっていなかったら、少なくとも誰か一人がヴァンセンヌに行っているだろう。やつらが示し合わさずにバラバラになっていたら三人ともヴァンセンヌに来ても不思議ではない。やつらを捕まえるまたとないチャンスだ、たとえやつらのことを知らなくても。群集のなかで、ああいったタイプのやつらを見つけ出すことは簡単だ。ジャンヴィエがあそこにいるんだが、そういった指示をあたえてなかった! 一般席とクラブ・ハウスに刑事を三十人ばかり送れば、やつらを押えることができる。いま、何時だい?」
「遅すぎますよ。第六レースは三十分前に終ってます」
「いいかい、われわれはすべてのことを考えたと思っている。二時に寝たとき、私はできるかぎりの手を打ったと信じていた。部下たちはシトロエン工場の給料支払伝票を調べ、ジャヴェル地区を捜査した。レイネク病院も包囲してある。あのチェコ人たちがかくれるような街はことごとくふるいにかけた。ルンペンや乞食を尋問した。家具付ホテルも調べた。階上《うえ》の研究室ではムルスが、ロワ・ド・シシール街にあったすべてのものを、髪の毛までも調べている。そのあいだにやつらはヴァンセンヌで、首領と言葉をかわす機会をもったにちがいない」
コロンバニも競馬場の常連だったにちがいない。彼はぜんぜんまちがっていなかったからである。電話のベルが鳴り響いた。ジャンヴィエからだった。
「私はまだヴァンセンヌにいます、警視《パトロン》。本庁のほうに電話してみたんですが……」
「競馬は終ったのか?」
「三十分前に。私はいま従業員たちと一緒です。競馬のあるあいだは、彼らと話すのはむずかしいんです。仕事がひどく忙しいですからね。よくまちがいを犯さないものだと感心してますよ。私は賭金のことでたずねました。千フラン券を扱っている窓口の従業員は、私の質問にひどくおどろきました。この青年は中央ヨーロッパを旅行したので、いろいろな言葉を知っていました。
『チェコ人? ほとんどいつでも大穴を狙って、しょっちゅう大金を賭けるチェコ人がいますよ。最初、大使館の人間かと思いましたけど』と、青年は私に答えています」
「なぜだ?」
「そのチェコ人が上流社会のタイプで、気品があり、いつでも立派な身なりをしているかららしいです。彼はほとんどいつも負けていますが、眉一つ動かさず、微笑さえ浮かべているそうです。馬券売場の青年がこの男に気がついたのはそのことのためではなく、いつでも同伴してくる女のためらしいんです」
メグレはほっとため息を洩らした。彼のうれしそうな眼差しはコロンバニに向けられたが、こう言っているようだった。
「やつらを捕まえたぞ」
「女か!」と、メグレは受話器に向かってさけんだ。「外国人か?」
「パリジェンヌです。ちょっと待ってください! 私が競馬場を離れなかったのはそのためなんです。この従業員ともっと早く話すことができたら、その二人連れを教えてもらえたのです。今日の午後も、ここに来ていたからです」
「どんな女だ?」
「それが、とても若くて、非常な美人で、最高級の服を着ているらしいですね。それだけではないんです、警視《パトロン》。その従業員は、彼女は映画女優だって言うんです。彼は映画はあまり見ないので、映画スターの名前は知らないんですが、彼女はスターではないが、脇役の女優だと主張しています。私はつぎつぎと映画女優の名前をあげてみたんですが、だめでした」
「いま何時だ?」
「六時十五分前です」
「ヴァンセンヌにいるんだったら、ジョワンヴィルに一走りしてくれ。遠くはないのだから。その馬券売場の青年も連れて行くんだ」
「一緒に行ってくれるそうです」
「橋をわたるとすぐに撮影所がある。通常、映画プロデュサーのところには、端役の者も含めて、すべての役者の写真があり、新しい映画の配役を決めるときはその写真のコレクションを見るんだ。わかったね?」
「わかりました。どこに電話したらいいですか?」
「家にいる」
ふたたび肱掛椅子に坐ったとき、メグレはほっとした。
「うまく行きそうだよ」と、彼は言った。
「そう、そいつがわれわれのチェコ人ならば……」
メグレは二つの金縁の小さなグラスに酒を注ぎ、パイプを空にし、別のパイプにたばこを詰めた。
「今夜は荒れそうな気がする。例の少女を来させたのかい?」
「三時に出発しています。もうすぐ北駅まで私が迎えに行きますよ」
マンソーの農家から来るこの少女は、奇蹟的に殺戮《さつりく》から逃れ、襲撃者たちの一人……いま、病院のベッドで赤ん坊と並んで寝ている女、マリア……を見た唯一の人間なのである。
ふたたび電話。これからは受話器を取るのが不安になる。「もしもし!」
ふたたびメグレの視線はコロンバニの上にじっと注がれたが、こんどは困惑気味だった。メグレはほとんど一定の間隔で電話に答えるだけだった。ささやくような声である。
「うん……うん……うん……」
コロンバニは理解しようとしたが、ときどき一言二言聞こえるが、あとは受話器ががやがや言っているだけでなんのことかさっぱりわからず、それだけにいっそう腹立たしかった。
「十分後に? わかった。間違いない、約束したとおりだよ」
なぜメグレは感情を抑えているように見えるのか? 彼の態度はまたしても急にまったく変わってしまった。クリスマスの贈物を待っている子供でも、これほどいらいらと身震いしてはいまい。だが、メグレは落着こうと努め、不機嫌な表情さえ見せている。
受話器をおくと、コロンバニに話しかけるかわりに、メグレは台所に通じるドアを開けた。
「おまえの叔母さんがご主人と一緒に来るそうだよ」と、メグレは言った。
「なんですって? なんのこと? だって……」
メグレは夫人にウィンクしてみせたが、むだだった。
「そうなんだ。おれもおどろいているよ。なにか重大な、思いもかけないことがあったらしい。すぐにわれわれに話したいんだとさ」
メグレはドアのかげに頭を突き出すと、夫人にふたたびしかめ面をしてみせた。だが、夫人にはさっぱりわけがわからなかった。
「本当だ! おどろきだね。なにもわるいことが起こっていなければいいが」
「遺産相続のことかしら?」
「遺産相続って?」
「彼女の伯父さんの」
メグレがコロンバニのところにもどってくると、コロンバニはずるそうな微笑を浮かべていた。
「わるいけど、家内の叔母さんがやがてここにくるんだ。着物をきがえる時間しかないので、下まで送っていけないけど、怒らないでほしい」
国家警察の警視はグラスを一気にあけると、立ち上って口をぬぐった。
「いいんですよ、わかっていますから。なにか情報が入ったら、電話をくれますね?」
「約束するよ」
「あなたがすぐにでも電話をくれるような気がします。ソーセー街にもどったものかどうか考えているんです。あなたさえよかったら、警視庁まで行ってます」
「かまわないさ! じゃあとで」
メグレは彼を踊り場にほとんど押し出すようにした。それからドアを閉めると、勢いよく部屋を横切り、窓辺に行った。左手の、『ロストとペパン』のずっと先に、葡萄酒と石炭をあつかうオーヴェルニュ人の店があった。黄色く塗った店で、ドアのわきに緑の植物がおいてある。メグレはじっとそのドアを見つめた。
「あれは冗談なんでしょ?」と、メグレ夫人がたずねた。
「もちろんだよ! もうすぐここにくる人間とコロンバニを会わせたくなかったのさ」
こう言いながら、メグレは何気なく窓台に手をやった。この窓台のそばにさきほどコロンバニが立っていたのだ。メグレの手は新聞に触れた。ちらっと眼をやり、三行広告の欄が折られているのに気がついた。しかも、その三行広告の一つが青鉛筆でかこまれている。
「あいつめ!」と、メグレは思わずうなった。
というのは、国家警察と司法警察のあいだには昔からライバル意識があり、ソーセー街の人間にとって司法警察の同僚にいっぱい食わせるのはよろこびだったわけである。
しかし、コロンバニはメグレの嘘に、叔母さんのつくり話に意地悪な仕返しをしたわけではなかった。彼はただ、だまされたわけではないんだぞという証拠を残していっただけだった。
今朝、すべての新聞にあらわれたこの広告は……競馬新聞は正午の版だった……、例のごとく短縮したものだった。
[#ここから1字下げ]
アルベールの友へ。
身の安全のため、至急リシャール・ルノワール通り一三二番地のメグレ宅に来られたし。秘密厳守。
[#ここで字下げ終わり]
左手にある葡萄酒と石炭の店からさきほど電話してきたのは、アルベールの友達たちだったのである。彼らはこの広告がいたずらでも罠でもないことをたしかめ、約束にまちがいがないか念をおし、最後に、道に誰もいないかたしかめてきたのだ。
「奥さん、その辺をちょっと一まわりしておいでよ。急がないで、緑の羽根のついた帽子をかぶって行くといい」
「どうして緑の羽根のついた帽子がいいの?」
「もうすぐ春だからさ」
ひどくくそまじめな様子をして二人の男が街路を横切ってくるのを、メグレは窓から見つめていだ。が、離れているので一人のほうしか見分けることができなかった。
数分前まで、メグレにはやがてここにあらわれる人間たちについてなに一つわかっていなかった、彼らがどんな階層に属しているのかさえ。ただメグレに言えたことといえば、彼らも競馬場に通っていたということぐらいだった。
「コロンバニはどこかでこの二人を観察しているにちがいない」と、メグレはつぶやいた。
コロンバニはひとたび狙いをつければ、相手の正体をあばいてしまうこともできるだろう。国家警察と司法警察の同僚たちはおたがいによくこうしたいたずらをしてたのしんでいた。
とくにコロンバニはボクサーのジョーのことをメグレよりよく知っていたにちがいない。
ボクサーのジョーは小柄で、がっしりし、鼻がつぶれ、明るいブルーの眼はふさがっている。いつも格子縞のスーツを着、派手なネククイをしていた。アペリチフの時間に、ワグラム通りの小さなバーの一つに行けばかならず彼に会えた。
少なくとも十度、メグレは彼をいろいろな事件でオフィスに呼んでいた。が、そのつど、彼はうまく言い逃れた。
彼は本当に危険な男なのだろうか? そう思わせようとして、わざと『恐ろしい人物』のようなふりをしたがっていた。見栄《みえ》から、やくざの世界の人間だと思わせたがっていた。だが、やくざたちは彼のことを、軽蔑はしていないまでも、猜疑《さいぎ》の眼で見ていた。
メグレはドアを開けに行くと、テーブルの上に新しいグラスをおいた。二人の男は遠慮がちに部屋に入ってきた。それでも疑わしそうに部屋のあちこちに眼をやり、閉ったドアに不安そうだった。
「おい、心配するな。速記者も隠れていないし、録音機もおいてない。さあ、ここは私の寝室だ」
メグレは乱れたベッドを彼らに見せた。
「ここは、浴室だ。あれは洋服箪笥。ここが台所。奥さんはきみたちのために、いましがた出て行った」
とろ火で煮ているスープのうまそうな匂いがした。テーブルの上にはすでに薄いラードで包んだ鳥肉がおいてあった。
「この最後のドア? 来客用の部屋だ。風通しがよくないし、奥さんの妹が一年に二、三度使う以外、だれも泊まらないのでむっとする。さあ、仕事にかかろう!」
メグレはグラスを差し出し、二人の男と乾杯した。と同時に、ジョーの仲間をいぶかしげにながめた。
「フェルディナンです」と、元ボクサーは紹介した。警視は記憶をさぐってみたが、だめだった。このひょろ長い姿も、大きな鼻と二十日鼠《はつかねずみ》のような鋭い小さな眼をした顔も、彼にはなにも思い出させなかった。名前もそうだった。
「こいつは、マイヨー門の近くで自動車屋をやってるんで。もちろん、ごくちっぽけなやつですが」
二人とも坐るのをためらい、突っ立ったままでいるのは、妙な感じだった。彼らはおじけづいて坐らないのではなく、用心のためだった。この連中はドアからあまり離れて坐るのを好まないのだ。
「なにか危険があるとのお話のようですが……」
「そうだ、しかも二つも危険がある。まず一つは、チェコ人たちがきみたちを狙っている。私はきみたちを危険にさらしたくない」
ジョーとフェルディナンはおどろいて顔を見合わせた。なにかのまちがいではないかと思ったのだ。
「チェコ人って?」
新聞にはまだチェコ人たちのことは書かれていなかったのである。
「ピカルディの一味だ」
こんどは二人にもわかり、急にまじめな顔になった。
「私らはあいつらになにもしてないですよ」
「まあな! これからそのことについて話し合いたいのだが、きみたちがおとなしく坐ってくれれば、もっと話しやすくなるんだがな」
ジョーは空威張りし、肱掛椅子に坐った。だが、メグレのことを知らないフェルディナンは椅子の端に尻を軽くのせただけだった。
「第二の危険は」と、メグレはパイプをふかしながら二人を見つめて言った。
「今日、きみたちはなにも気づかなかった?」
「あちこちに、サツがいっぱいいましたぜ。あ、失礼!」
「かまわないさ。きみのいうようにサツがいっぱいいるだけではなく、刑事たちの大部分は何人かの人間を追っている。その何人かのなかに、黄色い車を持っている二人の男も含まれているんだ」
フェルディナンは微笑んだ。
「私はその車はもう黄色くなく、ナンバー・プレートも変えられていると思っている。それはまあいい! 司法警察の刑事たちが先にきみたちを捕まえれば、私にはまだきみたちを助けてやることができる。しかし、きみたちはここから出て行く男を見たか?」
「コロンバニ」と、ジョーがぶつぶつ言った。
「彼はきみたちに気がついたかい?」
「彼がバスに乗るまで待ってましたよ」
「これで国家警察もきみたちを追っていることがわかったろう。彼らの手にかかると、コメリオ判事から逃れるわけにはいくまい」
コメリオという名前は神通力があった。というのは、二人の男はこの判事の執念深さをとにかく評判で知っていたからだ。
「きみたちがこうやってわざわざ会いに来てくれたんだから、水入らずで話そう」
「われわれは、ほとんどなにも知らないんですよ」
「知っていることだけでいい。きみたちはアルベールの友達だな?」
「気のきいたやつでした」
「ひょうきん者だったのか?」
「私らは競馬場で知り合ったんです」
「そうだろうと思っていた」
これでこの二人の男の立場がわかる。フェルディナンの自動車屋はたまにしか開いていなかったにちがいない。たぶん彼は盗品の車を転売したりしていなかっただろう。そのためには盗難車を見ちがえるように塗りかえるかなりの設備がいるし、組織だって必要だからだ。しかも、この二人はあまり危いことはしない人間だ。
それよりむしろ彼は古い車を安く買ってきて、新品のように見せかけて、お人好しをごまかしていたのだろう。バーや競馬場やホテルのロビーなどには、掘出物をあさるのをいとわない単純な人たちがいるのである。ときどき、こいつはある映画女優から盗んだ車ですぜ、と耳にささやいて、買い気を起こさせたりする。
「先週の火曜日、ふたりともヴァンセンヌに行ったか?」
二人はふたたび顔を見合わせた。だが、示し合わせるためではなく、思い出すためだった。
「ちょっと待ってください! フェルディナン、おまえがあのセミラミスで当てたのは火曜日じゃなかったか?」
「そうだ」
「それじゃ、行きました」
「アルベールは?」
「ああ、いま思い出しました。三レース目に滝のように雨が降った日でした。アルベールは来てました。私は、遠くからやつを見つけましたよ」
「話さなかったのか?」
「やつは一般席じゃなく、クラブ・ハウスにいたもんで。私らいつも一般席にいるんです。いつもはやつだってそうなんだけど。あの火曜日は、やつは女房を連れてきていました。結婚記念日とか、そういったもんでしたね。その二、三日前にやつはそう言ってましたから。あまり高くない車を買うつもりでもいましたよ。ところでフェルディナンが安い車を見つけてやると約束したんです。本当ですよ、嘘じゃないですよ」
「それから?」
「それからって?」
「つぎの日、なにがあった?」
二人はふたたび顔を見合わせた。メグレは手がかりをあたえてやらなければならなかった。
「水曜日の五時ごろ、アルベールがきみたちに電話したのは自動車屋にかい?」
「いや。ワグラム通りのバー『ペリカン』にです。私らは、その時間にはほとんどいつもここにいるんですよ」
「いいか、きみたち、私はアルベールが言ったことをできるだけ一言一言、正確に知りたいのだ。電話に出たのはどっちだ?」
「私です」と、ジョーは言った。
「よく考えろ。ゆっくり時間をかけて」
「やつは急いでいました、いや興奮していたのかな」
「わかっている」
「最初、なんのことやらさっぱりわからなかったんです。急いですまそうとするもんだから、なんでもごちゃまぜにしてしまうもんで。まるで電話が切れてしまうのを恐れているようでした」
「そのこともわかっている。あの日、私のところにも四、五回電話をしてきたんだ……」
「へえ!」ジョーとフェルディナンはわかろうとするのをあきらめてしまった。
「やつがあなたに電話したなら、あなただって知っているはずですよ」
「いいから言ってみるんだ」
「何人かの男が尾けてくるのでこわいが、うまく逃れる手段がありそうだと言ったんですぜ」
「その手段とはなにか言ったのか?」
「いや。やつはてめえの考えに満足しているみたいでしたね」
「それから?」
「やつはほぼこう言ったんですよ、『これは恐ろしい仕事だが、なにか手に入れられるかもしれない』忘れんでくださいよ、警視さん、約束したことを……」
「忘れやしない。きみたちは二人とも入ってきたとおなじようにここから出ていける。また、私になにを話そうと、きみたちがすべて真実をいうかぎり、心配することはない」
「あなただって、私らとおなじようにその真実とやらをご存知なんでしょう?」
「ほとんどな」
「なるほど! 嘘はつけませんな! アルベールはこうつけ加えたんです、『今夜八時におれの店に会いに来てくれないか。話がある』」
「それはどういうことだと思った?」
「ちょっと待ってください。電話を切る前に、やつはまたこうも言ったんです、『おれはニーヌを映画にやる』いいですか? これはなにか重大なことがあるって証拠ですよ」
「ちょっと待ってくれ。アルベールはすでにきみたちと一緒に仕事をしていたのか?」
「とんでもない。やつになにができます? あなたは私らの仕事をご存知ですね。まともなものとは言えんでしょう。が、アルベールは善良な市民でした」
「しかし、彼がつかんだネタを利用しようという気にならなかったとはいえないだろう」
「そりゃそうですがね。私にはわからないね。ちょっと待ってください! やつの言った言葉を思い出そうとしてるんですが、うまく行かないんです。やつは北部《ノール》の盗賊のことでなにか言ったな」
「で、きみたちはアルベールに会いに行く決心をした」
「他にどうしたらいいんです?」
「いいか、ジョー。ばかなまねをするな。きみがなにも危険なことをしていなければ、正直に言うんだ。きみは友達のアルベールがピカルディの一味を見つけたんだと考えた。やつらが数百万フランかっさらったことを、きみは新聞で知っていた。そこで、その一部分でも手に入れる方法はないものかと思った。そうだな?」
「アルベールも私とおなじことを考えたんじゃないかと思ったんです」
「よし。話があうな。それから?」
「二人でアルベールの店に行きましたよ」
「アンリ四世通りで故障した。ということは、黄色い車は見かけほど新品ではなかったんだな」
「売るために新品のように繕った車で、私らが自分で使うつもりはなかったんですよ」
「きみたちは三十分ほど遅れてシャラントン河岸に着いた。よろい戸は閉っていた。ドアには鍵がかかっていなかったので、きみたちはドアを開けた」
二人の男は悲しそうに、ふたたび顔を見合わせた。
「友達のアルベールはナイフで殺されていた」
「そのとおりです」
「きみたちはどうした?」
「最初、まだ死んでいないんじゃないかと思いましたよ。からだがあたたかかったもんで」
「それから?」
「家探しされているのに気がつきましたね。私らはまもなく映画から帰ってくるニーヌのことを考えました。シャラントンには、近くの、運河のそばに映画館が一軒あるだけなんです。私らはそこへ行きました」
「どうするつもりだったんだ?」
「本当のところ、よくわからなかった。二人とも、いい気持じゃなかったな。まず、女にこういったことを知らせるのは愉快じゃなかったし、それに、盗賊の一味が私らを狙っていないともかぎりませんからね。フェルディナンと私は話し合いました」
「それで、ニーヌを田舎に連れて行くことに決めた」
「ええ」
「遠くか?」
「コルベイユのすぐそばで、セーヌの河っぷちの宿屋です。私ら、ときどきそこに釣りに行くんですよ。フェルディナンなど船を一|艘《そう》もってるんです」
「ニーヌは亭主に会いたがらなかった?」
「私らがそうさせませんでした。その夜のうちに、河岸にもどってみると、家のまわりには誰もいなかったですね。あいかわらずドアの下から明りが洩れていました。電気を消しわすれていたんですな」
「なぜ、死体の場所を変えたんだ?」
「フェルディナンが考えたことなんです」
メグレはフェルディナンのほうを向いた。フェルディナンは頭をたれていた。メグレはくり返した。
「なぜ?」
「説明できません。ひどく興奮してたんです。宿屋で、元気をつけるため酒を飲んだからかもしれない。近所の人にきっと車を見られたし、私らだって気づかれたかもしれないと思いました。それに、死んだのがアルベールだとわかったら、警察はニーヌをさがすだろうし、ニーヌは黙っていることはできないだろうと」
「きみたちはにせの手がかりをでっちあげたんだね」
「どうとでも言ってください。でも警察はみだらな犯罪や、ごく単純にみえる事件、たとえば金を取るため街でナイフで人を殺した事件などのときは、あまり熱心にならない」
「レインコートに穴をあけることを考えたのもきみか?」
「それが必要だったんです。街で殺されたように見せるため」
「顔をめちゃくちゃにしたのは?」
「やはり必要でした。彼は何も感じませんからね。こうしておけば、事件はすぐ片づけられ、私たちに危険が少なくなる、と思ったんです」
「それだけか?」
「それだけ。誓ってもいいですよ、そうだな、ジョー? つぎの日、すぐに私は車を青に塗りかえ、ナンバー・プレートを変えてしまった」
二人は立ち上ろうとした。
「ちょっと待ってくれ。あれから、きみたちはなにか受け取ったか?」
「受け取るってなにをです?」
「封筒。たぶんなにかが入っているにちがいない」
「いや」
彼らが嘘を言っていないことははっきりしている。この質問には二人ともおどろいている。しかし、メグレはこの質問を口にすると同時に、最近ずっと頭にあったこの問題にたいする可能な答えを見つけたのだ。
その答えは、さきほどジョーがそうとは知らずにメグレに提供してくれたのである。アルベールは電話でジョーに、追われている一味から逃れる手段を見つけたといったではないか?
しかも、友達に電話したすぐあと、眼についたビヤホールで封筒を求めている。アルベールはポケットにチェコ人たちの身を危険にするなにかを持っていた。チェコ人たちの一人はアルベールから眼を離さない。とすれば、郵便ポストにこれ見よがしに封筒を投函することこそが、追跡から迷れる手段ではなかったか?
封筒のなかに証拠物件を入れたことはまちがいない。
しかし、それを誰に送ったのか?
メグレは受話器を取ると、司法警察を呼び出した。
「もしもし! 誰だ? ボダンか? 仕事がある。急ぐんだ! 部屋に刑事が何人いる? え? 四人だけ? うん、一人残っている必要があるな。あとの三人を連れていけ。パリじゅうの郵便局を手分けして調べるんだ。ちょっと待ってくれ! シャラントンの郵便局もだ、きみはまずそこからはじめてくれ。局留郵便のことで聞くんだ。二、三日前からおきっ放しになっているアルベール・ロシャン宛の手紙がどこかにあるはずだ。そう、それを持って、私のところに来てくれ。いや、家のほうじゃない。三十分後にオフィスに行っている」
メグレは微笑みながら二人の男をながめた。
「もう一杯どうだ?」
彼らはカルヴァドスが好きではなさそうだったが、ありがたく頂戴した。
「もう行ってもいいですか?」
彼らはまだかすかに疑っていた。先生から休み時間だと知らされた小学生のように、立ち上った。
「私ら、もうかかわり合いにならないでしょうね?」
「きみたち二人は大丈夫だ。ニーヌにはなにも知らせないようにしてくれ」
「ニーヌもかかわり合いにならないんでしょうね?」
「なるわけがないじゃないか」
「彼女にはやさしくしてやってくださいよ。ニーヌは本当にアルベールを愛していたからな!」
ドアが閉まると、メグレはガスを消しに行った。スープがあふれ、ガス・レンジの上にこぼれ出していたからだ。
あの二人は少し嘘をついたんじゃないかと、メグレは思った。ポール医師のいうとおりならば、彼らはニーヌを安全なところに連れて行く前に、友達のアルベールの顔をめちゃくちゃにしてしまったのである。だが、そんなことは事件になんらさしさわりがない。要するに、彼らはとても素直だったので、警視は彼らをとがめることはなかったのだ。結局、ああいう連中もみんなとおなじように、自分なりの羞恥心をもっているのだろう。
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第九章
オフィスは煙で青くけぶっていた。コロンバニは脚を伸ばして、隅に坐っている。数分前に、司法警察の局長も来ていた。刑事たちは出たり入ったりしている。メグレはコメリオ判事との電話を終えたところだった。ふたたびメグレは受話器を取る。
「もしもし! マルシャン? こちら、メグレ。うん、そう。なんだって? あなたにそういう名前の別の友達がいる? 伯爵? いや、彼はそんな名門の出じゃない」
七時だった。メグレが電話で話しているのはミュージック・ホール『フォリー・ベルジェール』の事務長だった。
「私になにが望みなんだ?」と、マルシャンは舌足らずな調子で言った。「おや、そいつはちと面倒ですな。私は劇場を開く前に街で軽く食事を取ってくるつもりだ。きみも私と一緒にどうだ? 『ショップ・モンマルトル』などで? 十分後に。いいよ、すぐに行く」
ジャンヴィエは部屋にいて、ひどく興奮していた。彼はジョワンヴィルから、楽屋に飾られているような、大きな立派な写真を持ってきたばかりなのである。その写真には自信たっぷりな筆跡でサインがされていた。フランシーヌ・ラトゥール。
写真の女は美しく、まだとても若かった。裏に住所が書いてある。パッシー、ロンシャン街一二一番地。
「この女はいま『フォリー・ベルジェール』に出ているそうです」
「競馬協会の従業員は彼女のことを認めたのか?」
「はっきりと。ここに彼を連れて来ようと思ったんですが、もう遅かったし、あの男はひどい恐妻家なんです。そのかわり、彼のことが必要になったら、いつ呼び出してもかまいません。サン・ルイ島の近くに住んでいて、電話もあります」
フランシーヌ・ラトゥールにも電話があった。メグレは彼女のアパルトマンに電話をかけた。が、なにもしゃべらないで、相手が出たらすぐに切ってしまうつもりだった。しかし、メグレの思ったとおり、彼女はいなかった。
「ジャンヴィエ、彼女のアパルトマンに行ってくれないか? 誰か器用な者を一人連れていくといい。絶対に人目を惹かないように」
「彼女の部屋に忍び込むんですか?」
「すぐにじゃない。私からの電話を待つんだ。きみたちの一人が、近くのバーにいる。そのバーの電話番号を、ここに知らせてくれ」
メグレはなにも忘れていないか思い出そうとして、眉をひそめた。シトロエンの工場に行った男はすでにもどってきている。いくらか成果があった……セルジュ・マドックは二年近くそこで働いていたのである。
メグレは刑事部屋に顔を出した。
「いいか、みんな。今夜、きっときみたちの手がたくさん必要になる。みんな出ないでほしい。街で順番に食事をしてくるか、サンドイッチとビールをここに届けさせろ。じゃあとで。来るかい、コロンバニ?」
「マルシャンと食事するんじゃなかったんですか?」
「マルシャンのこと、きみも知ってるだろう?」
マルシャンは劇場の入口の外出券売りからスタートし、現在ではパリでもっとも有名な一人になっていた。彼のマナーはいまでも下品だったし、話し方もがさつだった。いま彼はレストランで、テーブルに肱をつき、手に大きなメニューを持っていた。二人の男が着いたとき、彼は給仕頭に言っていた。
「軽いものがいいな、ジョルジュ……さあ、どれにするか……やまうずらはあるかい?」
「キャベツの煮込みの、マルシャンさん」
「メグレさん、ここに坐って。あれ? 国家警察さんも一緒に食事なさるんですかい……ジョルジュや、もう一人前たのむ。あんたたちも、やまうずらとキャベツの煮込みでいいんですね? ちょっと、ジョルジュ! その前に、小さな鱒《ます》だ、青みがかった色をしたやつ。生きているやつだろうな、ジョルジュ?」
「マルシャンさん、生簀《いけす》のなかを見てきてください」
「料理ができるまで、なにかオードヴルをもらおう。それだけだ。なんなら、最後にスフレを出してくれ」
食べることは彼の情熱だった。一人のときでも、彼は昼と夜はこういった食事をしていたのだ。これが、彼がいうところの軽い食事なのだろうか? 劇場がはねてから、また夜食をとるのだろうか?
「それで、メグレさん、私にできることはなんですか? 私の小屋に不都合なことなどないはずですが?」
まじめな話をするのはまだ早すぎた。こんどは葡萄酒係のボーイがやってきて、マルシャンは葡萄酒を選ぶのに数分かかった。
「どうぞ、お話しください」
「私が言ったことについて、他言しないでいただけますか?」
「メグレさん。あんたは私がパリでもっとも人の秘密を知っている男であるということを忘れておる。この手に何百、何千という夫婦の運命をにぎっておるんだ。他言しないかって? 私はなにも言わんさ」
不思議なことには、そのとおりだった。彼は朝から夜までしゃべっていた。が、彼はたしかに言ってもいいことしか言わなかった。
「フランシーヌ・ラトゥールを知ってますね?」
「彼女はドレアンと、うちの二つの寸劇に出ておるよ」
「彼女のこと、どう思います?」
「私がか? 娘っ子じゃよ。あと十年たたなけりゃ、だめだな」
「才能は?」
マルシャンは滑稽なほどおどろいて警視を見つめた。
「才能があるかって? 私は彼女の正確な年齢《とし》は知らんが、二十歳は越えておらんじゃろう。それなのにすでに仕立屋で作らせた服を着ておるし、ダイアモンドさえつけはじめておるようだ。とにかく、先週、彼女はミンクのコートを着てやってきおった。あと知りたいことは?」
「恋人がいますか?」
「ボーイフレンドが一人な。そんなのは誰にでもおる」
「そのボーイフレンドのことを知ってますか?」
「知らんと言いたいところだがな」
「外国人ですね?」
「きょうびでは、ボーイフレンドはみんな外国人じゃよ。フランスは忠実な夫しかつくらんのだから」
「いいですか、マルシャンさん、これはあなたが考えているよりずっと重大なことなのです」
「いつ、やっこさんをぶちこむんじゃ?」
「今夜だと思いますが、それはあなたにはどうでもいいことです」
「とにかく、やっこさんはぶちこまれることに慣れておる。私がおぼえておるだけでも、不渡り小切手か、そういったことで二度引っぱられておるよ。いまのところは、うまくやってるようじゃ」
「彼の名前は?」
「舞台裏では、みんなジャンさんと呼んでおる。本当の名前はブロンスキー。チェコ人じゃ」
「不渡り小切手か」と、コロンバニが言い、メグレは肩をすくめた。
「やつはしばらく映画をやっておった。いまでもまだ首をつっこんでおるんじゃないかな」と、パリじゅうの有名人の履歴……評判のわるいやつも含めて……を空でおぼえているマルシャンがつづけた。
「魅力的で、気前のいい美青年じゃ。女どもはやっこさんに惚れ、男どもはやっこさんの魅力を認めたがらない」
「彼はあの娘に惚れているのですか?」
「そうじゃないかな。とにかく、やつはあの娘っ子からほとんど離れん。やつが嫉妬深いんだという者もおる」
「この時間だと、彼はどこにいると思いますか?」
「今日の午後競馬があったから、あの娘っ子と一緒に行ったんじゃないかな。四、五力月前からラ・ペー通りで買ったドレスを着、新しいミンクのコートを着ているような女は競馬場に退屈しないんじゃ。この時間には、二人はシャンゼリゼのバーでアペリチフを飲んでるにちがいない。あの娘っ子は九時半まで出番がないから、劇場には九時ごろ来る。だから、『マキシム』か『フーケ』か、『シロ』に食事に行く時間がまだあるわけじゃな。もし二人を見つけたいんだったら……」
「いまはまだいいのです。ブロンスキーは劇場に彼女を送ってきますか?」
「ほとんどいつもな。楽屋までついて行き、舞台裏をちょっとぶらつき、それからロビーのバーに坐り、フェリックスとおしゃべりする。二つ目の寸劇が終ると、やっこさんはあの娘っ子の楽屋にもどり、娘っ子の仕度ができると、連れて行く。彼らはほとんどいつもどこかで『カクテル・パーティ』をするんじゃ」
「彼は彼女と一緒に住んでいるのですか?」
「まあ、そうじゃろうな、メグレさん。そのことだったら、私より門番に聞いたほうがいい」
「最近、彼に会いましたか?」
「やっこさんに? 昨日も会ったよ」
「いつもよりいらいらしているふうには見えませんでしたか?」
「ああいったやつらはいつでも少しいらいらしているもんですよ。ぴんと張った綱の上を歩いているようなもんじゃから……うん、そうか! その綱がいま切れつつあるんじゃな。あの娘っ子には気の毒だな! だが、あの娘っ子もいままでにいい身なりをしてるんじゃから、一人でうまくやって行くじゃろうし、そのほうがいいかもしれん」
こうやってしゃべりながらも、マルシャンは食べ、飲み、ナプキンで口をぬぐい、出入りする人たちに親しげにあいさつし、給仕頭や葡萄酒係のボーイにたずねたりした。
「彼がどうやって彼女と知り合ったか、わかりませんか?」
小さなゴシッブ新聞に昔のことをよく書きたてられているマルシャンはひどく冷たく答えた。
「メグレさん、そんなことは紳士にたずねる質問ではないですぞ」
しかし、数分後には、彼はふたたび話しはじめた。
「私の知っているのは、やっこさんがしばらくエキストラのエージェントをやっていたことじゃ」
「いつごろです?」
「数力月前。調べてみることはできる」
「いや、けっこうです。この話のことは誰にも洩らさないでください、とくに今夜は」
「劇場に来るかね?」
「いや」
「そのほうがいい。私はあそこでごたごたを起こしてもらいたくないのじゃ」
「危険はおかしません、マルシャンさん。私とコロンバニの写真はしょっちゅう新聞に出ています。あなたの言葉によれば、また私の知っているところでは、あの男はひどく狡猾《こうかつ》なので、私の部下の刑事たちのことでも嗅ぎつけるでしょう」
「メグレさん、あんたはこれをひどく重大に考えておるようですな。やまうずらをいかが?」
「騒ぎがあるかもしれませんよ」
「おお!」
「すでにたくさんあったのです」
「よろしい! もうなにもいいなさんな。そういうことは明日か明後日の新聞で読ましてもらうから。いま聞いてしまうと、今夜にでもやっこさんに酒にさそわれでもしたら、窮屈な思いをしてしまう。さあ、食べてくださらんか。このシャトーヌフはいかがですかな? この葡萄酒はもう五十本しかないそうなので、私は自分用に取っておいてもらったんじゃ。まだ四十九本ある。もう一本いかがです?」
「いや、けっこうです。今夜は一晩じゅう仕事がありますから」
メグレたちは十五分後にマルシャンと別れたが、食べすぎと飲みすぎとでからだがだるかった。
「黙っていてくれるといいですが」と、コロンバニがつぶやいた。
「黙っているよ」
「ところで、メグレ警視、叔母さんはあなたにいい情報をもってきてくれたようですね?」
「すばらしいやつをな。じつをいうと、私はチビのアルベールの話をほとんどすべて知ってしまったよ」
「そうだろうと思ってました。情報を得るには、女から聞きだすにかぎりますよ。とくに田舎の叔母さんたちからは! 教えていただけますか?」
メグレたちにはまだいくらか時間があった。波瀾《はらん》が予想される今夜の前には息抜きしておいたほうがいい。彼らは歩道を歩きながらおしゃべりをした。
「さきほどのきみの言い分は正しいよ。おそらくヴァンセンヌで一味をつかまえることができたかもしれない。われわれが追い詰めたことを、ジャン・ブロンスキーが気づかなければ」
「私たちはできるだけのことをしなければ、そうでしょう?」
メグレたちは九時半ごろ、司法警察に着いた。重大なニュースが彼らを待ちうけていた。刑事が興奮して、そこにいた。
「カルル・リプスシッツは死にました、警視《パトロン》。いわば、私の眼の前で。私は病院から百メートルほど離れた、セーヴル街の物陰に立っていました。しばらくして右手に物音が聞こえました。まるで誰かが闇のなかで進むのをためらっているようでした。それからあわただしい足音が聞こえ、銃声が鳴り響きました。その音があまりにも近くでしたので、私はまず、自分が狙われたのだと考え、反射的に拳銃をつかみました。からだが倒れるのと、人影が走って逃げて行くのが見えました。見えたというより気配を感じたのです。私は撃ちました」
「きみが殺したのか?」
「私は脚を撃ちました。二発目で、うまく命中させることができたのです。逃げていくやつがこんどは倒れました」
「誰?」
「ピエトルという若者です。病院が正面にあったので、そこに運び込みました」
「つまり、ピエトルがカルルを撃ったのだな?」
「そうです」
「二人は一緒だったのか?」
「わかりませんが、一緒じゃなかったような気がします。ピエトルがカルルのあとをつけて撃ち殺したんじゃないでしょうか?」
「彼はなにか言ったか?」
「若者ですか? なにも言いません。がんとして口をつぐんでいます。眼は熱っぽく輝いています。病院にはいれたことが幸福で、うれしくて仕方がないようです。廊下で、彼はあたりを熱っぽく見つめました」
「マリアがいるからだ! 傷は重いのか?」
「左膝に弾丸《たま》が入っています。いま、手術しているはずです」
「ポケットのなかには?」
メグレのデスクの上には、小さな山が二つできていた。彼のためにわざわざ用意しておいたものである。
「最初の山はカルルのポケットのなかのものです。もう一つは若者の」
「ムルスは階上《うえ》?」
「今夜は研究室ですごすそうです」
「降りてきてもらってくれ。それから誰かを記録保存室に行かせてくれ。ジャン・ブロンスキーのファイルが必要なんだ。彼の指紋はまだ手に入れていないが、以前に二度捕まり、刑務所で十八力月すごしているはずだ」
メグレはまた、プロヴァンス街の『フォリー・ベルジェール』の前に刑事を何人か送った。絶対に姿を見られないように命令した。
「ブロンスキーの写真を見てから出かけるんだ。彼が汽車か飛行機に乗ろうとしたとき以外、捕まえようとしてはならない。彼がそんなことをするとは思えないが……」
カルル・リプスシッツの紙入れには、千フラン紙幣が四十二枚、自分名義の身分証明書と、フィリピノというイタリア人名義の別の身分証明書。彼はたばこを喫わない。というのは、たばこもパイプもライターもなかったからだ。が、懐中電燈、二枚のハンカチ……一枚のほうは汚れていた……、今日の日付のついた映画の切符、ナイフ、自動拳銃。
「いいかい!」と、メグレはコロンバニに言った。「われわれはすべてのことを考えていたと思っていたが」
メグレは映画の切符を見せた。
「やつらはこんなことをしていたんだ。街なかをうろついているより、このほうがいい。暗闇のなかで数時間すごせる。大通りの映画館だったら、一晩じゅう開いているから、眠ることだってできる」
ピエトルのポケットのなかには、硬貨で三十八フランしかなかった。紙入れには二枚の写真があった。一枚はマリアの写真で、去年最ったにちがいないパスポート用の小さなもの。髪の型がいまとはちがっている。もう一枚は二人の百姓……男と女……が玄関で坐っている写真で、家の様式から判断したところでは中央ヨーロッパらしい。
身分証明書類はなかった。たばこ、ライター、青い小さな手帳。その手帳には鉛筆で、細かい文字がびっしり書き込んであった。
「詩らしいですね」
「たしかに詩だな」
ムルスはデスクの上の二つの山を見て大よろこびし、さっそく屋根裏にある自分の巣窟にもって行った。ブロンスキーのファイルをやがて刑事がデスクにおいて行った。
警察にあるあらゆる犯罪人の写真のように、そのいかつくて、無情な表情の写真は、マルシャンの証言とはぜんぜんちがっていた。その写真はまだ若くて、やつれた顔付をし、薄くひげが生えていて、喉ぼとけが突き出ている。
「ジャンヴィエが電話してきたか?」
「パッシーの六二四一にいるそうです。すべては静かだと言ってました」
「そこを呼び出してくれ」
メグレは小声で読んだ。ファイルによれば、ブロンスキーはプラハに生まれ、現在三十五歳。ウィーンの大学で学び、それからベルリンで数年暮した。ベルリンでヒルダ・ブラウンとかいう女性と結婚したが、正規のパスポートで、二十八歳でフランスに来たときは、一人だった。すでに職業は映画プロデューサーになっている。最初の住所はラスパイユ通りのホテルだった。
「ジャンヴィエが出ました、警視《パトロン》」
「きみか? 食事した? いいか、これから車で二人の刑事をそちらにやる」
「すでにここに二人いますよ」と、ジャンヴィエは腹を立てて、抗議した。
「かまわん。私の言うことをよく聞くんだ。刑事が二人そちらに着いたら、外に立たせておく。姿を見られないようにしなくてはいけない。とくに歩いて帰ってくる人や、タクシーから降りた人に不審の念を起こさせないようにしろ。きみともう一人は、家のなかに入る。管理人室の明りが消えるまで待つんだ。どんな建物だ?」
「新しくて、モダンで、とてもシックです。白い大きな正面玄関があり、ドアは錬鉄製で二重ガラスになっています」
「よし。誰かの名前をつぶやいてから、階上《うえ》に上っていくんだ」
「どうやって彼女の部屋を見つけたらいいんです?」
「もっともだ。付近に、牛乳屋があるから、必要なら牛乳屋を起こして、でたらめなつくり話をいうんだ。とくに恋のつくり話などがいいな」
「わかりました」
「鍵をこじ開けることができるか? 入ったら、明りをつけてはいけない。片隅に隠れ、必要な場合には二人ともいつでも飛び出せるようにしているんだ、いいな?」
「ええ、警視《パトロン》」と、見知らぬ女の部屋の暗闇で、身動きしないままきっと数時間すごすことになるにちがいないかわいそうなジャンヴィエはため息をついた。
「とくに、たばこを喫ってはいけないぞ」
メグレは自分の残酷さに思わず微笑んだ。それからロンシャン街に見張りを立たせる二人の刑事を選んだ。
「拳銃をもっていけ。なにが起こるかわからないから」
コロンバニヘちらりと眼をやる。メグレもコロンバニもわかっていた。彼らが相手にしているのは詐欺師ではなく、殺人者一味の首領であることが。危険をおかすことは許されない。
たとえば、『フォリー・ベルジェール』のバーで逮捕すればもっと簡単だろう。だが、ブロンスキーがどんな出方をするか予想できないのだ。彼が武装していることは十分ありうる。やつはたぶん群集に向けて発砲し、人々の混乱を利用して逃げるような人間だろう。
「誰か『ドフィーヌ』に生ビールを注文してくれないか? それとサンドイッチだ!」
これは司法警察の重大な夜がはじまったしるしである。メグレ班の二つのオフィスには司令部のような雰囲気がただよっていた。誰もがたばこを喫い、誰もが興奮していた。電話はあまり使われていない。
「『フォリー・ベルジェール』をたのむ」
マルシャンが電話に出るまで長い間かかった。舞台までさがしに行かなければならなかったのである。そこでマルシャンは二人のヌードダンサーの喧嘩の調停をしていた。
「よお、あんた……」
マルシャンは電話の相手が誰か知らないのに、こう言った。
「メグレです」
「どうしたね?」
「彼はそこにいますか?」
「さっき見かけたよ」
「けっこうです。なにも言わないでください。彼が一人きりで出て行くようなことがあったら、電話をたのみます」
「わかった。あまりやっこさんを傷めつけんでくれんかな?」
「それを担当するのは他の人になるでしょう」と、メグレは謎めかして答えた。
数分後に、『フォリー・ベルジェール』では、フランシーヌ・ラトゥールが喜劇役者のドレアンと一緒に舞台に出るだろう。そして彼女の恋人は熱っぽい客席にちょっと顔を出し、それから常連たちと一緒に立見席に立ち、もうそらんじているセリフと、客席からどっと上る笑い声にぼんやりと耳を傾けているだろう。
マリアはまだ病院の病室で寝ている。規則で、夜のあいだは赤ん坊を取り上げられてしまうので、心配そうで、いらいらしている。二人の刑事が廊下で見張っている。別の病棟にももう一人いる。そこにはピエトルが手術のあと寝かされていた。
サン・ジェルマン通りの友達の家にいたコメリオ判事はひどくいらいらしていた。電話をかけると言って席をはずすと、メグレを呼び出した。
「またなにもないかね?」
「ちょっとしたこと。カルル・リプスシッツが死にました」
「きみの部下が撃ったのか?」
「いや、彼の仲間です。ピエトルという若者は私の部下に脚を撃たれました」
「それではあと一人しか残っていないではないか?」
「そう、セルジュ・マドックです。それと首領」
「そいつのことは、まだわかってないのかね?」
「ジャン・ブロンスキーという名です」
「なんだって?」
「ジャン・ブロンスキー」
「映画のプロデューサーではなかったかね?」
「プロデューサーかどうかわかりませんが、映画に首を突っ込んでいました」
「三年ほど前だったかな、私は彼を十八力月の刑に処したよ」
「そいつです」
「彼を追っかけているのか?」
「彼はいま『フォリー・ベルジェール』にいます」
「なんだって?」
「『フォリー・ベルジェール』です」
「捕まえないのか?」
「のちほど。まだ時間があります。私は被害を最小限度にくいとめたいのです」
「ここの電話番号を控えといてほしい。真夜中近くまでは、この友達の家にいる。そのあとは私の家のほうに電話してもらいたい」
「少し眠る時間があると思いますよ」
メグレはまちがっていなかった。ジャン・ブロンスキーとフランシーヌ・ラトゥールはまずタクシーで『マキシム』に行って、差し向かいで夜食をとった。メグレはあいかわらず警視庁のオフィスにいて、彼らの動静を追っていた。『ドフィーヌ』のボーイがお盆をもってあらわれたのはすでに二度目だった。デスクの上は汚れたジョッキと、食べかけのサンドイッチでいっぱいになり、たばこの匂いが息苦しかった。だが、部屋の暑さにもかかわらず、コロンバニは、彼のユニホームみたいになっているらくだの毛皮の外套を脱がなかった。帽子はあいかわらずあみだにかぶっている。
「女をもどさなかったんですか?」
「どの女?」
「アルベールの妻のニーヌですよ」
メグレは不満そうに、首を振った。もどそうともどすまいと、それはメグレ自身の問題ではないのか? メグレだって、それは国家警察の連中と協力したいと思っているが、条件がある。彼にやりたいようにさせてくれることである。
いまメグレは、実際熟考しているようだった。さきほどコメリオ判事も言っていたが、メグレはいちばんふさわしい瞬間に、ジャン・ブロンスキーを捕まえたいのだ。捜査の初めに、彼はつねにはない重々しさで『こんどは殺人者が相手なのだ』と言ったことを思い出していたが、以前にこんなことを言った記憶はなかった。
殺人者たちは自分たちにはもうなにも失うものがないことをよくわきまえている。たとえば、彼らが群集のなかで逮捕され、ピカルディ一味の者だということが群集にわかったら、警察はリンチを防ぐことができないだろう。
彼らが農家でしたことにたいしては、どの陪審員だって極刑に処するだろうことは、彼らだって知っている。マリアだけは子供のおかげで、フランス共和国大統領の特赦を得られるかもしれない。
マリアは特赦を得られるだろうか? それは疑わしい。命びろいした子供の証言があるし、足や胸を焼いている。彼女の女としての傲慢《ごうまん》さや、野性的な美しささえ陪審員の心に不利に作用するだろう。
文明人は野獣のような人間を恐れる。とくに、彼らのような獣的な人間、森のなかで生活をしていた進化の時代を思い出させるような人間を。
ジャン・ブロンスキーはさらにもっと野獣的な人間である。ヴァンドーム広場のもっとも高級な洋服屋の着物をきた野獣、大学を出、おしゃれな女のように毎朝床屋でカールし、絹のシャツをきた野獣。
「用心をしなくては」と、メグレが電話の前で辛抱強く待っているとき、頃合いを見てコロンバニが言った。
「用心するよ」
「やつがあなたの手からうまく逃げたら?」
「部下が撃ち殺されるよりそのほうがいい」
結局、シュヴリエと彼の妻をシャラントン河岸のカフェに残しておいてもしかたがないのではないか? シュヴリエ夫婦に電話をしなくてはいけない。もう寝ているにちがいない。メグレは微笑み、肩をすくめた。このちょっとした仮装は二人を興奮させたはずだ。このままあと数時間、カフェの主人夫婦の役をやらせていていけない理由はあるまい。
「あ、もしもし……警視ですか? 彼らは『フロランス』に入りました」
モンマルトルのシックなナイトクラブ。ここではシャンパンを強制的にとらされる。フランシーヌ・ラトゥールは新しいドレスと新しい宝石を身につけているにちがいない。彼女はまだ若いので、こうした生活にまだ疲れていないのだ。ボワ通りかフォーブール・サン・ジェルマンあたりに私邸をもち、四十年間おなじナイトクラブに通っている金持で、爵位のある老婦人のようには!
「行こう」と、メグレがとつぜん決心した。
メグレはオフィスの引出しの拳銃を取り、弾丸《たま》が入っているのをたしかめた。コロンバニはかすかな微笑をうかべて、メグレがすることを見つめていた。
「一緒に行くかい?」
これはメグレの思いやりだった。事件はメグレの区城で起こった。ピカルディの一味を見つけたのはメグレである。だから、メグレと彼の部下たちだけでこの仕事を片づけていいわけだった。そうすれば司法警察が国家警察にたいしてまたもやポイントを上げることができたわけである。
「拳銃はあるかい?」
「いつでもポケットに入れてます」
メグレは拳銃を持ち歩かなかった。こんどは例外だった。
中庭を横切ったとき、コロンバニが警察の車を指さした。
「いや! タクシーに乗るんだ。そのほうが人目に立たない」
メグレは念入りにタクシーを選んだ。そのタクシーの運転手はメグレのことを知っていた。実際、タクシーの運転手たちはほとんどみんなメグレを知っていたのである。
「ロンシャン街。ゆっくり街を走らせてほしい」
フランシーヌ・ラトゥールのアパルトマンは街でもかなり高い建物で、メグレが二、三度食事をしに行ったおぼえのある有名なレストランの近くにあった。すべての店は閉っていた。午前二時だった。車を停める場所を選ばなければならない。メグレはいかめしく、ふくれ面をし、沈黙していた。
「もう一度まわってみてくれ。私が言った場所で停めてほしい。お客を待っているふりをして、ライトをつけたままにしておいてくれ」
車をアパルトマンから十メートル以内のところで停めた。正門の陰に刑事がうずくまっているのが察せられた。どこかにもう一人、いるはずだ。階上《うえ》には、ジャンヴィエともう一人が暗闇のなかであいかわらず待ちつづけている。
メグレはパイプをぷかぷか吹かした。コロンバニは肩をメグレの肩に押しつけてくる。メグレは歩道の側に坐っていたのだ。
彼らはこうして四十五分すごした。たまにタクシーが通り、この先の家に帰ってくる人がいた。やっと、タクシーが門の前で停った。若い、すらりとした男が歩道に飛び降り、連れの女が降りるのを助けるため、なかに向かって身をかがめた。
「いまだ!」メグレが言ったのはこれだけだった。
彼は自分の動きを計算した。ずっと前からタクシーのドアは軽く開けられていて、メグレは取手をぎゅっとつかんでいたのである。意外な身経さで、メグレは前に飛び出すと、男が紙入れを取り出すためスモーキングのポケットに手を突っ込み、身をかがめてタクシーのメーターを見た瞬間、飛びかかった。
若い女が悲鳴をあげた。メグレはうしろから男の両肩を押え、体重をかけて引っぱった。二人とも歩道に転がった。
警視は頭に頭突きをうけたが、ブロンスキーが拳銃をつかむのを恐れ、片手を押えこもうとした。コロンバニもすでに駆けつけていて、冷やかに、落着いて、チェコ人の顔を踵《かかと》で蹴った。
フランシーヌ・ラトゥールはあいかわらず助けを求め、アパルトマンのドアに行き、気違いのようになってベルを鳴らした。二人の刑事も駆けつけてきた。乱闘はまだ数分つづいた。メグレは最後に立ち上った。下になっていたからである。
「傷ついたものはいないか?」
車のライトで、メグレの手に血がついているのがわかった。メグレはあたりをながめた。多量に流れている血は、ブロンスキーの鼻血だった。男は両手を背中にまわされて手錠をかけられていたので、ちょっと前かがみになっていた。顔には残酷な表情がうかんでいる。
「サツめ!」と、彼は吐き捨てた。
この侮辱の仕返しに刑事の一人が足で相手の脛《すね》を蹴とばそうとしたので、メグレはポケットのパイプをさぐりながらいった。
「毒づかせておけよ。今後やつにできるのはそれだけなんだから」
メグレたちはもう少しでアパルトマンのなかのジャンヴィエともう一人を忘れるところだった。命令に忠実なジャンヴィエのことだから、このまま放っておけば朝までうずくまっていることだろう。
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第十章
最初の電話は司法警察の局長へだった。コメリオ判事はおもしろくなかったにちがいない。
「よくやった、メグレ。これから寝に行ってくれ。あとのことは明日の朝われわれがやる。二人の駅長は呼んであるか?」
ゴデルヴィルとムシェの駅長で、一人は一月十九日の列車から若い男が降りるところを、もう一人はその数時間後に若い男が列車に乗るところを目撃している。二人ともそのときの男がジャン・ブロンスキーであることを認めるであろう。
「そっちはコロンバニがやってくれてます。二人とももう向こうを出ています」
ジャン・ブロンスキーはメグレたちとオフィスにいた。椅子に坐っている。テーブルの上にこんなにたくさん生ビールのジョッキとサンドイッチがあったことはこれまでなかった。チェコ人がいちばん驚いたのは、メグレたちがぜんぜん尋問してこないことだった。
フランシーヌ・ラトゥールもオフィスにいた。彼女のほうがどうしてもついて来たがったのだ。彼女は警察のまちがいだと固く信じていた。そこで、子供に絵本をあたえておとなしくさせるように、メグレはブロンスキーについてのファイルを彼女にわたした。彼女はいま、夢中になってそのファイルを読んでいるが、ときどき恋人のほうにおびえたような視線を投げた。
「これからどうします?」と、コロンバニがたずねた。
「判事に電話し、寝に行くよ」
「家まで送りましょうか?」
「いいよ。まわり道になるから」
メグレはまだ隠しだてをしていた。コロンバニはそれを知っていた。メグレはタクシーの運転手に大声でリシャール・ルノワールの住所を言ったが、数分後にはウィンドーをたたいていった。
「セーヌ河に沿って、コルベイユにやってくれ」
メグレは陽が昇るのを見た。最初の釣師たちが水蒸気がかすかに立ち昇っているセーヌ河の堤防に坐るのも見た。最初の平底船が水門の前でごったがえしているのも、真珠色の空に家々から煙が昇りはじめているのも見た。
「もうちょっと上流に宿屋があるはずだから」と、メグレはコルベイユを通りすぎるといった。
宿屋が見つかった。木陰になったバルコニーがセーヌ河に面している。庭にはあずまやがいくつもある。日曜日には、人々でこみあうにちがいない。赤毛の長い口ひげを生やしている宿屋の主人は、いそがしそうに船から水をかい出していた。漁網が桟橋《さんばし》にひろげられている。
夜をすごしたあとで、露にぬれた草のなかを歩いたり、地面の匂いや、暖炉のなかで燃えている薪の匂いをかいだり、まだ髪の乱れたままの女中が台所を行ったり来たりしているのを見るのはたのしかった。
「コーヒーはありますか?」
「もうしばらくお待ちください。じつをいいますと、まだ開いておりませんので」
「ここに泊っている女の人は、いつも早く起きますか?」
「さっきから部屋を行き来している彼女の足音が聞こえてますよ。そら……」
その言葉どおり、大|梁《はり》が目につく天井に足音が聞こえた。
「わたしがいまつくっているのは彼女のコーヒーですわ」
「それでは二人分のコーヒーと食事をたのみます」
「あなたは彼女の味方ですか?」
「もちろん。敵だったらたいへんだ」
事実、彼は味方だった。すべてはひどく簡単にすんだ。メグレが身分を言って名乗ると、彼女はちょっと恐れた。が、彼はやさしく言った。
「一緒に食事しませんか?」
窓ぎわの、赤い格子縞のテーブル・クロスの上には、大きな陶器に二人分の朝食が用意されていた。コーヒー茶碗から湯気が立っていた。バターははしばみの実の味がした。
彼女はたしかに斜視だった、ひどい斜視だった。彼女はそれを意識している。だから、じっと見つめられると、彼女はどぎまぎし、恥かしがった。彼女は説明した。
「十七のとき、わたしの左眼が内側を向いていたので、母が手術を受けさせたんです。手術のあとは、左眼は外側を向いてしまったのです。外科医は無料でもう一度やり直すと言ってくれたんですが、わたしがことわったのです」
ところで、数分後にはそのことがもうほとんど気にならなくなった。メグレは美しいとさえ思いはじめた。
「かわいそうなアルベール! あなただってあの人のことを知っていたら……とても陽気で、親切で、いつもみんなをたのしませようとばかりしていて」
「あなたのいとこなのですね?」
「いとこといっても、とても遠いいとこなんです」
彼女の訛《なま》りにも魅力があった。彼女を見てとくに感じられるのは、愛情を限りなく必要としているということである。自分のために要求する愛情ではなく、相手にささげる愛情。
「ひとりぼっちになったとき、わたしはほとんど三十歳になっていました。オールド・ミスでした。両親は財産を少し残してくれましたので、わたしは一度も働いたことがありませんでした。わたしはパリに出てきました。大きな家のなかに一人きりでいることにうんざりしたからです。アルベールのことはよく知りませんでした。でも、アルベールについてうわさは聞いていました。わたしはあの人に会いに行ったのです」
そうだったのか。メグレは了解した。アルベールも一人きりだったのだ。彼女はせっせと彼の世話を焼いたにちがいない。そんなことはアルベールには初めての経験だった。
「あの人をどれほど愛していたか、あなたにわかっていただけたら! あの人に愛されることを、わたしは要求しませんでした、わかっていただけますね? それが無理なことがよくわかっていましたから。でも、あの人はわたしを愛しているようなふりをしました。また、わたしもそれを信じるふりをしました。あの人を満足させるために。警視さん、わたしたちは幸福でした。あの人もまちがいなく幸福だったはずです。あの人が幸福でないわけがありまして、そうでしょ? わたしたちは結婚記念日を祝ったばかりでした。競馬場でなにがあったか、わたしは知りません。あの人はわたしを観覧席に残しては、切符売場に足を運びました。あるレースのとき、あの人は不安そうにもどってきました。そのときから、いつも誰かをさがしているかのように、あたりをきょろきょろ見はじめたのです。あの人はタクシーで帰りたがり、タクシーのなかでも始終ふり返っていました。家の前に来ても、運転手に『このままやって!』と言ったんです。わたしにはわけがわかりませんでしたが、バスティーユ広場まで走らせつづけました。あの人はわたしにこう言って車を降りました、『一人で帰るんだ。一、二時間後に、おれももどるから』
あの人は尾けられていたんですね。夜になっても、あの人は帰りませんでした。翌朝もどると電話してきました。そして翌朝になると、二度電話してきて……」
「水曜日?」
「そうです。二度目は、もう自分を待たないで、映画に行くように言いました。わたしがそうしたくないと言うと、あの人はぜひとも映画に行くように言うんです。まるで怒っていたようでした。わたしは映画に行きました。彼らを捕まえたんですか?」
「一人を除いて。その一人もまもなく捕まるでしょう。一人だったら、もう危険じゃありません。とくに身許も、人相もわかっていますから」
メグレはうまくいうことができなかった。ちょうどおなじ時刻に、風紀班の刑事がセルジュ・マドックをラ・シャペル通りの女郎屋で捕まえていたのである。ここはアラブ人がよく遊びにくる店で、セルジュ・マドックは前日の夕方からこの店に隠れ、ずっと居つづけていたのである。
彼は抵抗しなかった。ぐでんぐでんに酔っ払っていて、白痴のようになっていた。そのため囚人護送車まで彼を運ばなければならなかった。
「今後、あなたはどうしますか?」と、メグレはパイプにたばこを詰めながらやさしくたずねた。
「わかりません。たぶん故郷に帰るでしょう。一人きりでは店はやっていけませんから。わたしはもう本当に一人ぼっちです」
彼女はこの最後の言葉をくり返し、まわりをながめた。まるで愛情を注げる相手をさがしているかのように。
「どうやって生きていったらいいのかわかりません」
「子供を養子にしてみたら?」
彼女は頭を上げた。最初は疑わしそうだったが、やがて微笑んだ。
「わたしにできると思います? わたしに預けてくれる人があると?」
この考えは彼女の心のなかでまたたくうちに形を取ったので、メグレはびっくりしてしまった。彼はいい加減に言ったわけではなかったが、彼女がどうするつもりか、ただ様子をさぐってみるつもりだったのである。この考えは、ここに来るタクシーのなかで思いついた考えだった。うつらうつらしているとき、またひどく疲れているとき、ひどくうまいように思われるが、翌日になると気違いじみていることがわかる、とっぴで、大胆な考えの一つだった。
「そのことはまたあとで話しましょう。もう一度会うことになるでしょうから……それから、あなたに報告しなければならないことがあるのです。われわれは勝手にあなたのカフェを開いてしまったのです」
「あなた、知っている子供が……」
「ええ、一人います。その子は数週間か、数力月後には、母親を失うのです」
彼女はまっ赤になった。メグレも顔を赤らめた。いま彼は、こんなばかげた問題を持ち出したことをくやんでいた。
「赤ちゃんですね?」と、彼女は口ごもりながら言った。
「ええ、ほんの小さい赤ん坊です」
「自分ではなにもできない赤ちゃんですね」
「なにもできない赤ん坊です」
「それでその子はかならずしも……」
「失礼します、奥さん。私はもうパリに帰らなければならないのです」
「子供のこと、よく考えますわ」
「あまり考えすぎないでください。私はいま、子供のことをしゃべったことをくやんでいるのです」
「いいえ、あなたはいいことを教えてくれました。その子に会えるでしょうか? その子をわたしのものにできるでしょうか?」
「もう一つ質問させてください。アルベールは電話で、あなたが私のことを知っていると言ったのですが、私にはあなたに会った記憶がないのです」
「でもわたしは、ずっと前、あなたに会いました。まだ二十歳《はたち》になったばかりのころでしたわ。母がまだ生きていて、わたしと母とはディエップでバカンスをすごしていました……」
「『ホテル・ボー・セジュール』!」と、メグレがさけんだ。メグレは夫人と十五日間そのホテルに滞在していたのだ。
「ホテルに泊っている人たちはみんな、あなたのことを話していました。こっそりあなたのことを見たりして」
パリにもどるタクシーが、明るい日射しに溢れた田園を横切ったとき、奇妙な気がした。生垣にはつぼみが出はじめている。
「休暇を取るのもわるくはないな」と、メグレは考えた。たったいま呼び起こされたディエップの思い出のためだろう。メグレは、自分がそのためにどうしようともしないことはわかっていた。だが、定期的にそういう気持におそわれる。それは、風邪をひくようなもので、風邪は仕事の勢いで追いはらってしまうのだった。
郊外……ジョワンヴィル橋……。
「シャラントン河岸へやってくれ」
カフェは開いていた。シュヴリエは困惑しているようだった。
「警視に来ていただけて満足です。さきほどすべてはすぐ終るという電話をもらい、女房は買出しに行こうかどうしようかと迷っていたのです」
「奥さんの好きなように」
「もうなんの役にも立たないのですか?」
「なんの役にも」
「さきほどの電話で、警視に会ったかとも聞かれました。警視のお宅や、あちこちに電話したらしいのです。警視庁を呼び出しますか?」
メグレはためらった。いまはもう疲れ切っていて、たった一つのことしか望まなかった。ベッドで、夢も見ないでぐっすりと心地よく眠り込むこと。
「私は二十四時間ぶっつづけに眠れそうだよ」
残念ながら、そんなことはできることではなかった。その前に起こされてしまうだろう。警視庁ではどんなことでもすぐに『メグレに電話を』ということに慣れすぎていた。またメグレも黙ってそのようにされていたのである。
「なにか飲みますか、警視《パトロン》?」
「よかったら、カルヴァドスをたのむ」
メグレはカルヴァドスで捜査を開始した。だからいま、カルヴァドスで終ろうとしている。
「もしもし! 私に電話したのは?」
ボダンだった。メグレは彼のことを忘れていた。パリのあちこちでまだ無用な見張りをしている他の何人かの刑事たちのことを忘れていたにちがいない。
「警視《パトロン》、手紙を手に入れました」
「なんの手紙?」
「局留めの手紙ですよ」
「ああ! そうか、よし」
かわいそうなボダン。せっかく見つけたのに、たいした役に立たないのだ。
「手紙を開けて、封筒のなかになにが入っているか言いましょうか?」
「そうしたいのなら」
「ちょっと待ってください。ありました。書いたものはなにもないですね。汽車の切符だけです」
「よろしい」
「知っていたんですか?」
「そうではないかと思っていたんだ。ゴデルヴィル―パリ間の、一等の往復切符」
「そのとおりです。ここで二人、駅長が待ってますが」
「それはコロンバニの仕事だよ」
メグレはカルヴァドスを飲みながら、かすかに微笑《ほほえ》んだ。生きているときは知らなかったが、少しずついわば|再構成していった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》チビのアルベールの人柄について、つけ加えることがもう一つあった。
競馬場の常連のように、彼も下を見て、外れ馬券の散らばっている地面を見て歩くのをやめることができなかった。ときどき、まちがって捨てられた当り馬券を見つけることがあるからである。
あの朝、チビのアルベールが見つけたのは当り馬券ではなかった。が、汽車の切符だった。
彼にこんな癖がなかったら……汽車の切符をポケットから落とした男を見なかったら……ゴデルヴィルの名前がただちに彼にピカルディの一味の殺戮《さつりく》のことを思い出させなかったら……彼の顔にこの心の動きがあらわれなかったら……。
「かわいそうなアルベール!」とメグレはため息をついた。アルベールはまだ生きていただろう。そのかわり、どこかの年寄りの百姓夫婦が、あらかじめマリアに足の裏を焼かれたあとで、殺されたにちがいない。
「女房はすぐに店を閉めたがっています」と、シュヴリエが知らせた。
「じゃ、そうしよう」
それから、メグレはまたあちこち走りまわり、タクシーのメーターは膨大な数字になった。ニーヌを会わせたばかりのときはメグレ夫人は親切そうではなかったが、子供のことは独断で決めてしまった。そのときメグレはもうシーツのあいだに頭を突っ込んでいた。
「こんどこそ、受話器をはずしておくし、誰にもドアを開けないわ」
メグレはこの言葉の初めのほうは聞いていたが、あとはどういう言葉で終ったか知らなかった。(完)
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訳者あとがき
フランスの警察について『メグレ警視シリーズ』に関連させながら書いていきたい。
「メグレもの」は日本ではすでに三十冊余り翻訳されているが、たとえばメグレの肩書一つにしても、「警部」とか「警視」とか訳がまちまちなので、この機会にはっきり統一しておきたいと思う。そうしなければ、いたずらにメグレ・ファンを混乱させることになるからだ。
フランスには大別して、パリ警視庁と、国家警察総局(これを国家保安警察本部と訳している警察関係の人もいる)の二つがある。
パリ警視庁はパリ市二十区と隣接三県(オ・ド・セーヌ、セーヌ・サンドニ、ヴァル・ド・マルヌ)を管轄区域とし、国家警察総局はこのパリ市二十区と隣接三県を除くフランス全国のあらゆる国家警察の各機関を管理調整している。(ただし、パリ警視庁の管轄区域は一九七一年十月からパリ市だけに縮小されたが、『メグレ警視シリーズ』はこの縮小以前の物語である。)
『メグレもの』を読んでいると、パリ警視庁の刑事と国家警察の刑事とが事件を張り合ったり、いがみあったりする場面がよく出てくるが、『メグレの回想録』のなかでその点がつぎのように述べられている。
「……パリ警視庁と国家警察総局との間には敵愾《てきがい》心があるのを認めないわけにはいかない……内務大臣の直接の指揮下にある国家警察総局の警察官たちは、政治的な事件にたずさわるため、多少とも物事を力で解決してしまおうとするところがある。私《メグレ》はそのことで苦情をいわない。ただ、私は性格として政治的な事件を引受けるのを好まないとだけいいたい。
パリ警視庁の活動範囲は国家警察総局にくらべてずっと狭く、ずっと身近である。実際、われわれはあらゆる悪人を捕えること、一般的にいえば「警察」という言葉……もっと正確には「司法」という言葉が含むあらゆるものにたずさわることで満足している」
この両者の関係を頭に入れておくと、この『メグレと殺人者たち』のなかで、なぜメグレが国家警察総局のコロンバニ警視に嘘をついて家を追い出してしまったり、そのあとで変に気をつかったりするのかが理解していただけると思う。
もっとも、メグレもある複雑な理由のため一時期国家警察総局に移ったことがある。そのおかげで、彼はフランスのあらゆる場所へ仕事に出かけられたのであるが、メグレ自身は、自分は警視庁向きの人間だと思っている。
パリ警視庁は、シテ島のなかのオルフェーヴル河岸にある。したがって、パリ警視庁のことを Quai des Orfevres と呼ぶこともある。
「現在なら、どんなに知識のない人々でもパリ警視庁がどんなものか多少とも知っている。しかし、この時期(一九二七年か二八年)では大部分のパリジャンたちはオルフェーヴル河岸にどんな役所があるかを、簡単にいうことができなかったにちがいない」(『メグレの回想録』)
これに対して、国家警察総局はソーセー街にある。メグレたち警視庁の人間はよく「ソーセー街の人間」といういい方をするが、これは国家警察の人間のことをさしている。
裁判所はこのパリ警視庁の隣りにあり、二つの建物は一本の薄暗い廊下でつながっている。メグレが事件の報告に裁判所に行くのも、予審判事が面倒がおこるとメグレを訪ねてくるのもこの廊下を通ってである。
また、鑑識課や、指紋カードなどを収めてある資料室はこの裁判所の屋根裏にある。本書でも、メグレが狭い階段を息を切らして昇っていき、鑑識課のムルスを訪ねてマネキンに殺された男の着物をきせてみる場面が出てくるが、『メグレ警視シリーズ』にはこの屋根裏の鑑識課と、働き者のムルスは切っても切れない存在である。
パリ警視庁の本部組織は、警視総監と二人の副総監のもとに、管理、執行の二部門よりなっている。警視総監と副総監は知事がつとめ、すべての警察権をもつ。
1 管理部門
a 警務総局 b 一般警察局 c 衛生保安局 d 交通運輸商業局 e 市民保護局 f 技術局、の六つの局に分れているが、こちらのほうは『メグレ警視シリーズ』にあまり関係ないので、これ以上は書かない。
2 執行部門
a 都市警察総局(制服隊)および、これに直属する方面本部 b 司法警察局(私服隊)および、これに直属する方面刑事隊 c 情報局、d 警護局 e 経済警察局、の五つの局に分れている。
「都市警察総局」は外勤、交通、警備警察を担当する。
「司法警察局」は刑事、防犯警察などを担当する。メグレ警視が属するのは、この「司法警察局」である。本書ではただ「司法警察」と訳しておいたが、「司法警察」だけではパリ警視庁以外になにか特別な警察があると思われがちなので、ここは「刑事局」あるいは「司法警察局」と訳すべきだったかもしれない。
「情報局」は出版物の検閲、政治団体、労働組合活動などに関する情報収集、スパイなどの摘発などを担当する。
「経済警察局」は不正取引行為、量目違反、経済法令違反の取締りなどを担当する。
ここで注意すべきは、フランスではわが国とちがい制服隊と私服隊との間で人事交流が行われないことである。いったん制服警官になった者は、一生制服でとおすことになる。
『メグレの回想録』によると、メグレは歩道のパトロール巡査からはじまりデパートのパトロール孫、北駅のパトロール係、風紀班、家具付ホテル班を経て、司法警察局の刑事に抜てきされたことになっているが、これはまちがいであろう。それとも以前にまだこういう人事がありえたのであろうか。パリ警視庁の局長がメグレの父親と知り合いであった関係で、抜てきされたことになっているが、こういうこともおこりえたのであろうか。その辺のところはよくわからないが、とにかく現在では制服と私服が厳然と区別されていることはたしかである。
この警視庁の本部組織にたいして、その下部組織についてみると、制服警官にかんしては、方面本部の下に(パリには二十の行政区画があり、三〜四区を一つの方面区とし、合計六方面区を構成している。各方面区には、方面本部がおかれ、本部長、区警察署があり、各区役所のなかにおかれている。
区警察署長は警視長または警視正がなり、方面本部長の指揮を受ける。
区警察署の下にはさらに分署があり、分署は一区に三〜六力所おかれる。そのうちの一つは、かならず私服の司法警察局系統の街警察署におかれ、中央警察署と呼ばれる。
この中央警察署は、シムノンの小説の原文ではただCentralとだけしか出てこないので、まちまちの訳がつけられているが、中央警察署のことであろう。
パリ市内には八十三の分署が配置されている。本文中でメグレが、死体が発見されたらすぐ自分に知らせてくれと依頼する警察救助はこの分署勤務の一つである。「パリの街角という街角には赤塗りの警報器があり、板ガラスをこわすと自動的に警察救助に電話が通じるようになっている」(『メグレと若い女の死』)
一区ごとに一台ないし数台の車輌を配備し、救急車の役割を演じるほかに、本来のパトカーの役割をも行う。『警察十七番』が入ったとき、いつでもすぐ出動できるようになっている。
つぎに私服警官のほうを見てみると、方面本部隊は第一刑事方面本部から第九刑事方面本部まであり、その下に街警察署が配置されている。区ごとに二〜四署がおかれ、制服隊の区警察署と分離されているが、すでに書いたようにこの街警察署のなかに制服警官の分署があるところもあるため、街警察署長は必要に応じて、制服警官を利用できるようになっている。その辺の関係は『メグレ警視シリーズ』のなかでよく示されている。街警察署長は警視である。
『メグレと若い女の死』『メグレと無愛想な刑事と殺し屋たち』などで大活躍し、「メグレもの」では重要な主役の一人になっている無愛想な刑事と呼ばれるロニョン刑事は、第二区の街警察署にいる。彼は早く手柄を立てて、一日も早く警視庁の司法警察局に移りたいとねがっている。
『メグレもの』は現在までのところ全部で七十八冊あるが、これを大ざっぱに前期、中期、後期に分けると、中期以後の作品には定年のことをしきりに口にするメグレががぜん多くなっている。
たとえば、定年があと一年と数力月に迫った『メグレの忍耐』では「一度も病気をしないで働いてきた男が、五十七歳を一日でもすぎると、とたんに犯罪捜査を指揮できなくなるなんて、はなはだもっておかしい」とぶつぶついっている。また、本書でも、定年後は田舎に別荘を借りて夫人と二人、静かな余生を暮すのもいいと思うところがちょっと出てくるが、フランスの警察の定年は、階級によってそれぞれちがっている。局長、部長クラスは六十歳、メグレのように警視クラスは五十七歳、ジャンヴィエ、リュカなどの刑事、警部補、警部クラスは五十五歳である。メグレは夫人と二人きりでリシャール・ルノワール通りの古いアパルトマンに住んでいるが、ちなみに、給料は現在警視クラスで二一一九フラン〜三五〇三フラン(約十二万七千円〜二十一万円)で、平巡査では一五一八フラン〜二二七五フラン(約九万円〜十三万円)である。
パリ警視庁の階級についてまとめると以下のようになる。
(私服系統)
警察総局長―局長―部長―局長補佐―副局長―監査官(方面本部長)―警視長―警視正―警視―主任警部―警部―警部補(一級)―警部補(二級)
監査官以上はいわゆる管理職で、警視正以下が執行職となっている。
(制服系統)
司令官(警視長に相当する)―主任指揮官(警視正に相当する)―指揮官(警視に相当する)―主任警部―警部―見習警部―主任巡査部長―巡査部長―巡査長―巡査―見習巡査
「国家警察総局」のほうは『メグレ警視シリーズ』にあまり関係ないので、ここではふれないでおくが、憲兵隊については、一言ふれておかなければならない。よく村の殺人現場などに憲兵が登場してくる場面があり、憲兵が警察の仕事をするのはおかしいのではないかという疑問がわくが、それは人口一万以上の町村については国家警察総局が、人口一万未満の町村については憲兵隊がそれぞれ警察事務を担当することになっているからである。したがって、分隊長は司法警察官として行動し、地方的な性格をもつ刑事犯の捜査にあたるわけである。また、憲兵隊は国内のハイウェイでその機動力を駆使して交通事故防止や取締りも行っている。
最後になってしまったが、作者のジョルジュ・シムノンについて簡単に書いておく。
ジュルジュ・シムノンは一九〇三年ベルギーのリエージュに生まれ、十六歳で『リエージュ・ガゼット』の通信記者となり、十七歳にして、処女小説 Au Port des Arches を発表した。二十歳で結婚し、パリに移住したが、二十歳から三十歳まで、十六種のペンネームをつかって(そのうちジョルジュ・シムがもっともよく知られている)約二百篇の通俗長篇を書いた。また、その期間に小汽船に乗ってヨーロッパ各地を回遊し、三十歳の時には自分のヨットを造らせて、北部ヨーロッパを旅行したが、そのおなじ年、彼の最初のメグレ警視シリーズを書いた。それからメグレものをほとんど毎月一冊のペースで出版した。
現在までメグレ・シリーズが七十八冊、メグレもの以外の小説が一二一冊あるが、つい最近(一九八三年)シムノンはもう二度と筆をとらないと「執筆廃止」宣言をしてスイスの山中に閉じこもり、話題をまいた。
本書はトーマ・ナルスジャックがその名著『シムノン論』のなかでメグレ・シリーズの最高作と激賞した傑作である。(訳者)