メグレと政府高官
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章 故カラムのレポート
第二章 総理大臣の電話
第三章 居酒屋《ビストロ》の見知らぬ男
第四章 リュカは不満だった
第五章 教授の懸念
第六章 『フィレ・ド・ソール』の昼食
第七章 警視のタクシー
第八章 セーヌポールヘの旅
第九章 公共事業省の夜
訳者あとがき
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
オーギュスト・ポワン……公共事業大臣
アンリエット・ポワン……ポワンの妻
アンヌ・マリー・ポワン……ポワンの娘
ジャック・フルーリー……ポワンの官房長
ブランシュ・ラモット……ポワンの秘書
ジョセフ・マスクラン……国民議会議員
ルネ・ファルク……マスクランの秘書
ジュール・ピクマール……土木大学学生監
カトルー……国家警察総局刑事
ユージェーヌ・ブノワ………元国家警察総局刑事。私立探偵
ゴードリー夫人……パストゥール街の借家人
メグレ……司法警察局警視
リュカ……司法警察局刑事
ジャンヴィエ……司法警察局刑事
ラポワント……司法警察局刑事
トランス……司法警察局刑事
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一章 故カラムのレポート
その夜、家に帰ってくると、メグレはいつものように街燈を少し過ぎたあたりの歩道で立ち止り、アパルトマンの明るい窓のほうへ顔を上げた。それは無意識的なしぐさだった。だから、明りがついていたかどうか、たしぬけにたずねられたら、答えをためらわざるをえなかっただろう。またこれも一種の癖《くせ》なのであるが、三階と四階の間で、ズボンのポケットの鍵を取るためコートのボタンをはずしはじめる。靴拭きマットの上に足をおくや、いつでもドアが開くというのに。
これらは数年間かかってできたならわしで、彼は自分で思っている以上にこれらのならわしに固執していた。今夜は雨が降っていないから、あてはまらないが、たとえばメグレ夫人は身をかがめて彼の頬にキスすると同時に濡れた傘を彼の手から取るため特別なしぐさをする。
メグレはおきまりの言葉を言った。
「電話はなかったかい?」
夫人はドアを閉めながら答えた。
「ありました。でも、コートぐらいお脱ぎになったらどうですか」
今日一日は、暑くも寒くもなかったが、灰色がかった曇り空だった。午後の二時頃、にわか雨があった。パリ警視庁で、メグレは日常の業務ばかりしていた。
「食事してきたの?」
アパルトマンのなかの明りはオフィスのより暖かくて、親しみがもてた。彼は肱掛椅子のわきにおかれている新聞と、スリッパに目をやった。
「ビヤホール『ドフィーヌ』で、局長とリュカとジャンヴィエと食事したんだ」
食事のあと、彼ら四人は警察相互救済会の集りに出た。三年前から、メグレはいやいやながらもこの会の副会長に選ばれていた。
「コーヒーを一杯ぐらい飲んでいく時間はありますわ。それにコートをお脱ぎになったら。あなたが十一時前には帰らないと言っておきましたから」
十時半だった。集会は長くはかからなかった。ビヤホールで生ビールを飲んで帰る者もあった。メグレは地下鉄で帰ってきた。
「だれからの電話だ?」
「大臣」
客間のまん中に立ったまま、メグレは眉をひそめながら彼女を見た。
「どの大臣だ?」
「公共事業省の。たしかポワンという人だったと思いますけど」
「オーギュスト・ポワンだ。ここに電話してきたのか、自分自身で?」
「ええ」
「警視庁のほうへ電話をするように言わなかったのか?」
「あの人はあなたに個人的に話したがっていました。至急会いたいそうです。あなたがまだもどっていないと答えると、あの人はわたしが女中かと訊きました。いらいらしているようでした。わたしがメグレの家内ですと言うと、失礼しましたと詫び、あなたがどこにいるのか、いつ帰ってくるのか知りたがりました。小心な男のような気がしましたけど」
「彼の評判はそうじゃないな」
「わたしが一人なのかどうか知りたがりました。そのあとで、この電話のことは秘密にしておかなければならない、だから公共事業省からではなく、公衆電話から掛けているのだと説明しました。できるだけ早くあなたと接触を取ることがあの人にとっては重要なのだそうです」
夫人がしゃべっている間じゅう、メグレは政治への不信を示すかのようにあいかわらず眉をひそめて彼女を見つめていた。これまでにも政治家……国民議会議員や元老院議員やある政府高官などから何度か助けを求められたことがあったが、その場合いつでも正規のルートを通してであった。そのたびに彼は局長のオフィスに呼ばれ、いつでもこう切り出されるのであった。
「すまんがメグレ、嫌な事件を引受けてもらいたいんだが」
その言葉のとおり、それらの事件はいつでもかなり嫌なものだった。メグレはオーギュスト・ポワンを個人的には知らなかったし、実際に会ったこともなかった。彼は新聞によく出る政治家でもなかった。
「なぜ警視庁に電話しなかったのかな?」
メグレが話しかけているのは自分自身にだった。だが、メグレ夫人は答えた。
「どうしてそれがわかります、わたしに? わたしはあの人が言ったことをあなたにくり返すだけです。まず、あの人が公衆電話から電話してきたこと……」
このことはメグレ夫人にはひどく印象的だった。彼女にとってフランス共和国の大臣はひどく偉い人間だった。その人間が夜、どこかの大通りの角にある電話ボックスにひそかに入って行くところなど想像できなかった。
「それから、あなたに公共事業省にではなく、あの人自身のアパルトマンに来てもらいたいそうです……」
夫人はメモを書きとめておいた用紙に目をやった。
「パストゥール大通り二十七番地。管理人の女をわずらわすことはないそうです。六階の左手」
「そこで彼は私を待っているのか?」
「できるだけ待つそうよ。でも、十二時までには公共事業省にもどらなければならないと言ってました」
夫人は口調を変えて、たずねた。
「これ、悪ふざけだと思います?」
メグレは頭を振った。もちろんこれは異例で、突飛なことだが、悪ふざけとは思えない。
「コーヒー飲みます?」
「いらない。ビールを飲んだあとだから」
そして立ったまま、自分でりんぼく酒を少し注ぐと、マントルピースの上の新しいパイプを取って、ドアのほうに向かった。
「じゃあとで」
リシャール・ルノワール大通りに出ると、一日じゅう空気中に感じられた湿気が、塵埃《じんあい》のような露に凝縮しはじめていた。街燈のまわりには暈《かさ》ができている。メグレはタクシーに乗らなかった。パストゥール大通りに行くには地下鉄のほうが早かったからだ。それに、彼はこれを公式の仕事と感じていなかったのだろう。
道々ずっと、メグレは目の前で新聞を読んでいる男を無意識にずっと見つめながら、オーギュスト・ポワンは彼に何を望んでいるのか、とりわけ、なぜこれほど急な、いわくありげな会合を持とうとしたのか自問しつづけた。
メグレがポワンについて知っていることは、ヴァンデ県の……思いちがいがなければラ・ロシュ・シュール・ヨンの……弁護士で、晩年になって政界に乗り出してきた。彼は占領下での行動と、その人柄のおかげで、戦後選ばれた国民議会議員の一人だった。
その行動とは正確にはどんなものだったのか、メグレは知らなかった。それでも、彼の同僚の何人かがなんの足跡も残さずに国民議会を去って行ったのに、ポワンはつづけざまに当選し、三カ月前の組閣のときには公共事業省の大臣に就任した。
警視は大部分の政治家のまわりに流れているような噂を、ポワンについては聞かなかった。彼の妻についても噂がなかった。子供についてもおなじだった、もっとも彼に子供がいるとしての話だが。
メグレがパストゥール駅で地下鉄から外に出たとき、霧は濃くなり、黄色くなっていた。メグレは唇の上にその塵埃のような霧の味を認めた。大通りには人の姿は見えなかった。ただモンパルナスのほうで、かすかに足音がするだけだった。それと、やはりおなじ方向で、駅を出て行く列車の汽笛が。
いくつかの窓にまだ明りがついていて、それが濃霧のなかで、平和で安らかな感じをあたえていた。豪華でも見すぼらしくもなく、新しくも古くもなく、ほとんどおなじ大きさのアパルトマンに分割されているこれらの建物は、毎朝おなじ時刻に地下鉄やバスに乗る教授、公務員、事務員といった中流階級の人々によって主に住まわれている。
メグレはボタンを押した。ドアが開くと、女管理人に曖昧《あいまい》な名前をぶつぶつ言って、エレベーのほうに向かった。
エレベーターは小さく、二人乗りだった。ゆっくり上りはじめた。だが、弱々しい明りがついているこのエレベーターは、揺れも、物音もしなかった。各階のドアはみなおなじダーク・ブラウンで、靴拭きマットもおなじものたった。
メグレは左手のドアのベルを鳴らした。まるで把手に手をかけて待ちかまえていたかのように、ドアはすぐに開いた。
ポワンは外に出てくると、エレベーターを階下へもどした。メグレはそのことを考えもしなかった。
「こんなに遅く来ていただきまして」と、ポワンは言った。「どうぞこちらに……」
メグレ夫人は失望するだろう。というのは、ポワンは彼女が大臣について抱いている考えとはほとんど似つかわしくなかったからだ。身長にしろ、肥りぐあいにしろ、ポワンは警視とおなじようだった。その上、四角張って、ごつごつしているので、百姓と言われかねない。いかつい顔付き、大きな鼻と口は|とち《ヽヽ》の実に彫った顔を思わせた。
彼は灰色の平凡なスーツに、できあいのネクタイをしていた。メグレにはとくにつぎの二点が印象的だった。ひげのように大きくて厚い、ふさふさした眉毛と、それとほとんどおなじくらい長い手をおおっている毛。ポワンのほうもメグレを観察していた。そのことを隠そうともしなければ、愛想笑いもしなかった。
「坐ってください、警視」
このアパルトマンはリシャール・ルノワールのより小さかった。二部屋か三部屋と、あとは小さな台所があるだけにちがいない。二、三着の着物がかかっている控えの間から、独身者の住居を思わせる書斎に行った。壁の棚に、パイプが十本か十二本並べられ、そのうちの数本は陶器製、美しい海泡石のパイプが一本あった。メグレの父親が昔持っていたような旧式のデスクは、書類とたばこの灰で一杯だった。小さな引出しのたくさん付いた整理箱がデスクの上においてある。メグレは壁にかかっている写真をすぐに調べる気にはなれなかった。ポワンの父親と母親にちがいない。ヴァンデのどこの農家にでも見つかるのとおなじ黒と金の額縁に入っていた。
メグレの父親のとそっくりな回転椅子に坐ったポワンは、葉巻の箱をなげやりにいじくった。
「こちらのほうだと思いますが……」と彼は言った。
警視は微笑むと、言った。
「私はパイプ党なのです」
「それではこの灰色のは?」
大臣は口の開いた灰色のパイプたばこの包みをメグレに差し出すと、自分も消えていたパイプに火をつけた。
「奥さんから話をお聞きになったとき、あなたはおどろかれたにちがいない……」
ポワンは話をはじめようとしたが、いまの自分の言葉が気に入らなかった。何か非常に奇妙なことが起こったのだ。暖かくて静かな書斎のなかで、身長もおなじ、年齢もほぼおなじ二人は、おたがいに相手を観察し合い、そのことを隠そうともしなかった。彼らはいろいろな類似を発見し、そのことで当惑し、兄弟のようだと認めることをためらっているかのようだった。
「いいですか、メグレさん。われわれの間で気取って話しても何の役にも立ちません。私は新聞と噂でしか、あなたのことを知りません」
「私のほうもそうです、大臣」
ポワンの手の動きは、そういう呼称が、いまこの二人のあいだでは場違いであるとメグレに言いたげであった。
「私はいま困り果てています。いままでだれもそのことに気づいておりません。疑う者さえありません。総理も、いつもは私のすべての行動を知っている妻さえも。私が助けを求めたのはあなただけです」
彼はしばらく目をそらし、パイプをふかした。最後の言葉が、メグレの気を惹《ひ》こうとするくだらないお世辞と思われてしまうことに気詰りを感じているようだった。
「私は公式の手続きを経て、警視庁の局長のところへ出かけることを好みませんでした。私のしたことは規則に反しています。あなたはここに来る義務もなければ、私を助けてくれる義務もないわけです」
彼はため息をつきながら立ち上った。
「一杯やりますか?」
そして、微笑とも取れそうな表情を口許に浮かべて、
「心配しないでください。あなたを買収しようなどとはしませんから。今夜は、私にはどうしてもアルコールが少し必要なのです」
彼は隣りの部屋へ行き、口を開けたボトルと、田舎の宿屋などで使っているような脚のない分厚いグラスを二つ持ってもどってきた。
「私の父親が毎年秋に蒸溜する手づくりのブランデーです。これは二十年以上前のものです」
手にグラスを持って、二人は見つめ合った。
「健康を祝して」
「健康を祝して、大臣」
こんどは、ポワンは最後の言葉を聞こえないふりをした。
「どう切り出したらいいのかわからないのは、あなたと面と向かって気おくれしたからではありません。この話をはっきり物語ることがむずかしいからなのです。あなたは新聞を読みますか?」
「犯罪者たちが私をゆっくりさせてくれる夜は」
「政治面は?」
「ほとんど読みません」
「では、私が政治家と呼ばれるタイプの人間でないことをご存じですか?」
メグレはうなずいてみせた。
「けっこうです! あなたはもちろんクレールフォンの大惨事を知ってますね?」
こんどメグレは思わず身ぶるいした。ある不安、ある疑惑が彼の顔にあらわれたにちがいない。というのは、相手は頭をさげると、いままでより低い声でつけ加えたからだ。
「あいにく問題はそれなのです」
さきほど地下鉄のなかで、メグレは大臣が秘密に話したがっている問題とは何なのか見当をつけようとした。だが、それが一カ月前から新聞をにぎわしているクレールフォン事件だとは考えもしなかった。
ユジーヌ県とメジェーヴ県にはさまれたオートサヴォア県にあるクレールフォンのサナトリウムは千五百メートル以上の高地にあり、戦後のもっとも目ざましい偉業の一つだった。
恵まれない子供たちのために、私立のモダンなサナトリウムに匹敵する施設を創ろうと最初に考え出したのがだれなのか、メグレはおぼえていない。もう数年も前のことだからだ。その頃、このサナトリウムは議論の的《まと》だった。ある人々はそこにもっぱら政治的な意図を見た。議会でも討論が白熱化した。この計画を検討するための委員会が設けられ、長い議論の末、ついに実現するはこびとなった。
一カ月前、大惨事が起こった。歴史的に見てももっとも痛ましい惨事の一つだ。いまだかつてなかったような早い時期に、雪が溶けはじめた。山の急流が水かさを増した。リーズ川のような地下を流れている州も同様だった。このリーズ川は地図にも載っていないような取るに足りない川だが、クレールフォンの建物の一棟全体の地盤を侵蝕していた。
惨事の翌日、調査が開始されたが、いまだに終っていない。専門家たちの意見は一致しなかった。新聞も政治的色彩にしたがって、それぞれ自説を守り通していた。
建物の一部が崩潰《ほうかい》して、百二十八人の子供の生命が奪われた。他の子供たちは大急ぎで避難した。
しばらく沈黙したあとで、メグレはつぶやいた。
「あのサナトリウムがつくられるとき、あなたはまだ内閣に入っていなかったのですね?」
「そう、私はサナトリウムに国費を割くことに賛成した委員会の一員でもありませんでした。実のところ、最近までこの事件について、皆さんが新聞で知っている程度しか知らなかったのです」
彼は間をおいた。
「カラム・レポートについての話を聞いたことがありますか、警視?」
メグレはおどろいてポワンを見、頭を振った。
「やがて聞くようになるでしょう。聞きすぎるようになるかもしれません。あなたは週刊誌などは読まないでしょうね、たとえば『ラ・リュムール』などは?」
「一度も」
「エクトール・タバールを知っていますか?」
「名前と評判だけは。ソーセー街の私の同僚たちなら、私よりもっとずっとよく知っているはずです」
メグレは国家警察総局のことをほのめかしたのだ。国家警察総局は内務大臣の直轄なので、政治に多かれ少なかれ関係する仕事を引き受けることが多い。
タバールはゴシップ満載の、強請《ゆすり》まがいの週刊誌のいかがわしい記者だった。
「これを読んでごらんなさい、あの惨事の六日後に出たものです」
短いが、いわくありげな記事だった。
『世論の圧力に屈して、いつの日かカラム・レポートの内容を公表する決心をするか?』
「これだけ?」警視はおどろいた。
「つぎの号からの抜粋がここにあります」
『一般的に容認された考え方に反して、現在の政府が春の終りを待たずに解散するのは対外的な政治問題や、北アフリカの出来事のためではなく、カラム・レポートのためである。カラム・レポートはだれが持っているのか?』
カラム・レポートという言葉はほとんどコミックな響きを持っていた。メグレは微笑《ほほえ》みながら、こうたずねた。
「カラムとはだれです?」
ポワンのほうは微笑まなかった。銅の大きな灰皿にパイプの中身をあけながら、説明した。
「土木大学の教授です。私の間違いでなければ、二年前に癌で死にました。彼の名前はポピュラーではありませんが、応用力学や、土木建築の世界では有名です。日本や南アメリカはじめ、いろいろな国での大きな土木関係の仕事では、カラムは招かれて相談に乗っていました。建築材料、とくにコンクリートの抵抗力にかんしては議論の余地のない権威者なのです。彼は私やあなたの知らない本を書いています。『コンクリートの病気』という本で、建築家ならだれでも持っています」
「カラムはクレールフォンの建築にたずさわったのですか?」
「間接的に。この話を私自身の見地から話させてください。さっき話しました大惨事のとき、私はサナトリウムについては新聞で書かれていること以外何も知りませんでした。五年前この計画が持ち上ったとき、私は賛成したか反対したかさえおぼえておりません。私が賛成投票したことを知るのに『官報』を調べたほどです。私も『ラ・リュムール』を読みません。総理が私を呼んで、こうたずねたのは、二番目の小記事が出たあとです。
『きみ、カラム・レポートを知っているか?』
私は素直に、知りませんと答えました。総理はおどろかれたようです。疑わしそうに私をながめさえしたと思います。
『きみのところの記録保管所にあるはずだ』と、総理は私に言われました。
総理がこの話をすべて私に語ってくれたのはこのときです。五年前、議会でクレールフォンについて討論され、委員会がつくられたとき、ある議員が……私はその議員の名前を知りません……だれもが認めるすぐれた専門家に意見を求めることを提案しました。
この議員は国立土木大学のジュリアン・カラム教授の名前を挙げました。ジュリアン・カラムはこの計画を時間をかけて調査し、オートサヴォアのその用地に出かけさえしたのです。
そのあとで報告書を作成し、その報告書は普通なら委員会に提出されたにちがいありません」
メグレにはわかりはじめた。
「その報告書は具合の悪いものなのですね?」
「ちょっと待ってください。総理が私にこの問題について話したとき、すでに議会の記録保管所をさがすように命じていました。普通なら委員会の一件書類のなかに見つかるはずなのです。それが、報告書がないばかりか、会計報告の一部分もなくなっていたのです。この意味がわかりますか?」
「報告書が公表されないことに利害を持つ者がいるということですか?」
「これを読んでください」
ふたたび『ラ・リュムール』からの抜粋だった。短いものだったが、脅迫的なところがあった。
『アルチュール・ニクー氏はカラム・レポートの公表を押さえられるほど勢力家なのか?』
メグレは他の何百という名前を知っている程度に、このアルチュール・ニクーという名前を知っている。とくにニクー・エ・ソーヴグラン会社のことは知っていた。というのは、道路といわず、橋や水門といわず、公共土木事業があるところにはどこにでもこの名前があがっていたからだ。
「クレールフォンのサナトリウムを建てたのはニクー・エ・ソーヴグラン会社なのです」
メグレはここに来たことを後悔しはじめていた。彼はオーギュスト・ポワンにたいして心から同情はするけれど、ポワンの話には女の前で悪趣味な話を聞かされたような不愉快な気持にさせられた。
思わず知らず、メグレは百二十八人の子供の生命を奪ったこの悲劇で、ポワンがどんな役割を演じていたのかを見抜こうとしていた。もう少しで、露骨にこうたずねるところだった。
「このことであなたは何をしたのです?」
政治家たちが、それもたぶん政府高官たちがワイロを受け取っていることは、メグレには想像がつく。
「急いでこの話を終わらせましょう。総理はそこで、私の省の記録保管所のなかを丹念にさがしてみるように言ってきたのです。国立土木大学は公共事業省に直属しています。ですから、論理的には、私たちの書類のなかのどこかに、カラム・レポートの写しがなければならないのです」
またもや、カラム・レポートだ。
「何も見つからなかったのですか?」
「何も。屋根裏部屋のほこりだらけの書類の山まで動かしてみましたが、無駄でした」
メグレは肱掛椅子のなかでばつが悪そうにもぞもぞ身体《からだ》を動かしはじめた。相手はそのことに気がついた。
「政治はお嫌いですか?」
「嫌いです」
「私もそうです。ひどく奇妙に思われるかもしれませんが、私が十二年前、選挙に立つことを承認したのは政治にたいして闘うためです。また、三カ月前、入閣するようにすすめられたときも、私は公共事業に少しでも清潔さを持ち込みたいと考えて引き受けました。私も妻も単純な人間です。国民議会議員になって以来、国会の会期の間、私と妻が住んでいる住居をあなたはごらんになった。独身者の部屋のようでしょう。私たちの家があるラ・ロシュ・シュール・ヨンに妻は残っているべきかもしれませんが、私たちは別々に暮らすことに慣れていないのです」
彼はごく自然に話していた。口調にもセンチメンタルなものはなかった。
「大臣になってから、私たちは公式にはサン・ジェルマン大通りの公共事業省に住んでいます。ですが、できるだけちょくちょくここに避難してくるようにしています、とくに日曜日などには。
しかし、そんなことは重要ではありません。私が公衆電話からあなたに電話したのは……そのことを奥さんからお聞きだと思います。私の間違いでなければ、あなたの奥さんは私の妻とおなじタイプですからね……、盗聴されるのを恐れているからです。是非はともあれ、私は公共事業省の電話も、このアパルトマンの電話もどこかで録音されていると思っています。それがどこだか私は知りたくありません。お恥しい話ですが、今夜ここに来る前に、私はグラン・ブールヴァールの映画館に入り、別のドアから外に出、タクシーを二度乗り換えたのです。ですが、この建物が監視されていないとは断言できません」
「私が来たときには人影は見えませんでしたよ」
いま、メグレが感じているのはあわれみみたいなものだった。これまでポワンは超然とした調子で話そうとしていた。それがこの会合の要点にさしかかると、言葉をにごし、遠回しにさぐる。まるで彼についてメグレが悪い印象を持つのを恐れるかのように。
「公共事業省の記録保管所をあちこちひっくり返してみましたが、あるのはもうだれもがおぼえていないような反古《ほご》ばかり。その間にも、少なくとも日に二度は総理から電話があるのです。総理は私のことを信用していないのかもしれません。土木大学のほうも捜してみました。昨日の朝まではなんの収穫もありませんでしたが……」
メグレは小説の結末を求めるように、こう訊かずにはいられなかった。
「カラム・レポートは見つかったのですね?」
「とにかく、カラム・レポートと思われるものは」
「どこで?」
「大学の屋根裏部屋で」
「教授の?」
「学生監の。昨日の午後、ピクマールという名の男の名刺が私のところへ持ってこられたのです。私はこんな名前聞いたこともありませんでしたが、その名刺に鉛筆で『カラム・レポートのことで』と書かれていました。私はすぐに彼を部屋に入れました。まず秘書のブランシュ嬢に席を外させました。彼女はラ・ロシュ・シュール・ヨンの人間で、私の法律事務所で働いていましたから、もう二十年以上私につかえています。その秘書に席を外させたのですから、これがいかに重大な問題かはあなたにもおわかりいただけるでしょう。部屋には官房長もいませんでした。私は中年の男と二人きりでした。彼は灰色の紙の包みを小わきにかかえ、一言もいわずに私の前に突っ立ち、じっと見つめています。
『ピクマールさん?』と、私は少し不安になってたずねました。一瞬、気遠いを相手にしているのではないかと思ったからです。
彼はうなずきました。
『坐りたまえ』
『坐るまでもありません』
彼の目のなかには友好的なものはなにもないような気がしました。彼はほとんどがさつな言い方でたずねました。
『あなたが大臣?』
『そうですよ』
『私は土木大学の学生監です』
彼は二歩前に出ると、包みを差し出して、おなじ口調で言いました。
『この包みを開けて、受取りをください』
その包みには、カーボンでコピーした四十頁ほどの書類が入っていました。
『オートサヴォア県のクレールフォンでのサナトリウム建築に関する報告書』
この報告書には手書きのサインはありませんでしたが、ジュリアン・カラムの名前と肩書きが最後の頁にタイプされてありました。日付も入っていました。
あいかわらず突っ立ったまま、ピクマールはくり返しました。
『受取りをいただきたいのですが』
私は自分の手で受取りを書きました。彼はそれを折りたたみ、すりきれた紙入れのなかにすべり込ませると、ドアのほうに向かいました。私は彼を呼びとめました。
『この書類をどこで見つけたのかね?』
『屋根裏部屋で』
『あなたは陳述書を書くために呼び出されるかもしれない』
『私のいるところはおわかりでしょう』
『この書類をだれにも見せなかったかね?』
彼は軽蔑するように私をじっと見つめました。
『だれにも』
『写しは他にはないね?』
『私にはわかりません』
『ありがとう』」
ポワンは当惑げにメグレをながめた。
「私が間違いを犯したのはここなのです。それは、ピクマールという男の奇妙な態度のせいだと思います。というのは、彼は、爆弾を投げるときのアナーキストとおなじような態度を取ったからです」
「何歳ですか?」と、メグレはたずねた。
「四十五歳ぐらいでしょう。服装は良くも悪くもありませんでした。目つきは気違いか狂信家のそれです」
「彼のことを調べましたか?」
「すぐにはしませんでした。もう五時でした。控えの間にはまだ四、五人残っていたのです。夜は夜で、技師たちの晩餐会で主人役をつとめなければならなかったのです。ピクマールが出て行ったことを知ると、秘書は部屋にもどってきました。私はカラム・レポートをそっと私の書類カバンのなかに入れました。
私は総理に電話すべきだったのです。それをしなかったのは、はっきり言って、ふたたびピクマールが気違いではないのかと自問したからです。このカラム・レポートが偽物ではないという証拠はどこにもありません。私のところには頭のおかしい連中がほとんど毎日のようにやってきます」
「私のところにもです」
「それなら、私のことを理解していただけるでしょう。その日の会見は七時までつづきました。ですから、自分の部屋に行って、燕尾服に着替える時間しかなかったのです」
「カラム・レポートのことを、奥さんに話しましたか?」
「話しません。私は書類カバンを持って来ました。妻には晩餐会のあとはパストゥール大通りに行くと言っておきました。そういうことはよくあったのです。日曜日、妻がつくった朝食を差し向かいで食べるため二人一緒にここに来ることもありますし、大切な仕事があったり休息が欲しいときには一人で来ます」
「晩餐会はどこで行なわれたのです?」
「オルセイ宮殿で」
「書類カバンを持って行ったのですね?」
「鍵をかけて、運転手に見張らせておきました。この運転手は絶対に信頼がおけます」
「そのあと、まっすぐここに来たのですね?」
「十時半頃。大臣はありがたいことにスピーチが終れば残っていなくてもいいことになっているのです」
「燕尾服を着ていたのですね?」
「この書斎でくつろぐため脱ぎました」
「カラム・レポートを読みましたか?」
「ええ」
「本物のように思われました?」
大臣はうなずいてみせた。
「公表されたら、爆弾になるでしょうか?」
「間違いありません」
「どうしてです?」
「カラム教授はあの大惨事が起こることを予告しているからです。公共事業省の大臣にさせられたとはいえ、私には教授のすべての議論を、とくに教授の意見の根拠となっている詳細な技術的問題をあなたにくり返すことはできません。が、とにかく彼はこの計画にたいして、疑問の余地のないほどはっきりと反対の立場を取っていますし、報告書を読むすべての人間の義務は、当面しているクレールフォンの建築にたいして反対投票をするか、あるいは少なくとももっと調査をすべきであると述べられています。わかりますか?」
「わかりはじめました」
「『ラ・リュムール』がどうしてこの報告書のことを知ったのか、私にはわかりません。写しでも手に入れたのでしょうか? それもわかりません。判断できるかぎりでは昨日の夜カラム・レポートの写しを持っていた人間は私だけです」
「何かあったのですか?」
「真夜中近く、私は総理に電話しようとしましたが、総理はルーアンの政治集会に出席しているとのことでした。もう少しで私はそこにも電話するところでした……」
「しなかったのですか?」
「ええ。すぐに盗聴のことを考えたからです。私は、政府を吹っとばすだけでなく、私の同僚たちの何人かを失脚させることができるダイナマイトの箱をここに持っているような気がしました。カラム・レポートを読んだ者たちが自分の考えを固執することができたなんて信じられません……」
メグレにはそのあとのことが推測できるような気がした。
「このアパルトマンに報告書をおいていったのですね?」
「そうです」
「書斎に?」
「鍵をかけておきました。公共事業省よりも、ここのほうが安全だと考えたのです。公共事業省は私のよく知らない人間がたくさん出入りしますから」
「あなたが報告書を調べている間、運転手は階下《した》にいたのですか?」
「運転手は帰しました。私はここの大通りの角でタクシーを拾いました」
「帰ってから奥さんに話しましたか?」
「カラム・レポートのことは話しません。翌日の午後一時に、議会で総理に会うまで、私はだれにも一言もしゃべりません。私は総理に、カラム・レポートのことをくわしく知らせました。私たちは窓のそばに立っていました」
「総理はびっくりしたようでしたか?」
「そうだったと思います。彼の立場に立てば、どこの国の総理大臣だってびっくりしたでしょう。総理は私にカラム・レポートを取ってくるように、私自身がそれを総理の事務室に持ってくるようにたのみました」
「そのときもうカラム・レポートはあなたの書斎にはなかったのですね?」
「そうです」
「ドアの鍵はこじ開けられていましたか?」
「そうは思いません」
「ふたたび総理に会いましたか?」
「いや。私は本当にからだの具合が悪いような気がしました。サン・ジェルマン大通りにもどると、約束の会合をすべて果たしました。妻は総理に電話して、私が具合が良くないこと、卒倒したことを伝え、明朝、会いに行くと言いました」
「奥さんは知っているのですか?」
「初めて私は妻に嘘をつきました。妻にどんなつくり話をしたのかはっきりおぼえていません。何度か話が矛盾したにちがいありません」
「あなたがここにいることを、奥さんはご存じですか?」
「集会に出ていると思っています。あなたには私の立場が理解していただけるでしょうか……私が口を開くや、すべての人が私をやっつけるような気がして、急に孤独感に襲われたのです。だれも私の話を信じないでしょう。私はカラム・レポートをこの手に握りました。ピクマールの他に、カラム・レポートを持ったのは私だけです。ところで、ここ数年の間に少なくとも三度、|私は問題の建築業者アルチュール《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》・|ニクーか《ヽヽヽヽ》|らサモエンスの彼の土地に招待されていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです」
彼はとつぜん、からだの力が抜けたようになった。肩も四角張らなくなり、顎も柔らかな感じになった。彼はこう言っているかのようだった。
「あなたの好きなようにしてください。私にはもう何もわかりません」
メグレは許しも求めずに、自分でブランデーをグラスに注いだ。そして、それを飲んだあとになって、初めて大臣のグラスにも注がなくてはいけなかった、と思った。
[#改ページ]
第二章 総理大臣の電話
おそらくこれまでの職歴を通じて、メグレはすでに何度か印象的な場面に出くわしたはずだが、これほど強烈な印象は初めてのような気がした。書斎の狭さ、暑さ、親密さが、また田舎の酒の匂いが、彼の父親のデスクに似たデスクが、壁にかかった『老人』の引伸し写真が、まさしくメグレに、緊急に呼び出され、患者の生命を掌中にしている医者のような錯覚をあたえるのに手を貸していたのだろう。
もっとも奇妙なことは、彼の前に坐って、診断を待っているような様子をしている男が、兄弟とはいかないまでも、少なくとも従兄弟のように似ているということだ。肉体的に似ているというだけではなかった。家族の写真を一瞥《いちべつ》すれば、警視には自分とポワンの生まれが非常に近いということがわかった。二人とも田舎の、かなり開けた百姓の家の生まれだった。大臣の両親はたぶん、彼が生まれるや、メグレの両親のように医者か弁護士にする夢を抱いたのだろう。
ポワンは両親の希望以上のものになった。彼の両親はまだ生きていて、そのことを知ったのか?
メグレはすぐにこの質問をする気にはなれなかった。メグレの前の男はすっかりしょげかえっている。それが心の弱さによるものでないことはメグレにはわかっていた。ポワンをながめながら、メグレは不快と、怒りと、落胆との入り混った複雑な気持に襲われていた。
これまでの人生で一度、メグレはおなじような立場に立たされたことがあった。これほど劇的ではなかったけれど、おなじように政治的な事件だった。メグレはその事件には無関係だった。彼は当然しなければならないように行動し、正直な人間としてだけではなく、役人としての厳格な義務にしたがって身を処したのだ。
それでもほとんどすべての人々の目には、彼は間違っていた。懲罰委員会の前に立たなければならなかった。すべてが彼に不利だったので、彼が間違っているとされた。
メグレがパリ警視庁をしばらく去ったのはこの時期である。彼は一年間ヴァンデ県……ポワンが議会で代表している県……のリュソンの機動隊に追放された。
夫人や友達がくり返し言ったように、メグレにはなんらやましいところがなかった。だが彼は、そうとは知らずに、自分が犯罪人のような態度を取ることがあった。たとえば、彼の事件がまだその筋で論議されていた、警視庁での最後の日々、メグレは部下だけに、リュカやジャンヴィエにさえ、命令をあたえる気にはなれなかった。大きな階段を降りるときなど、からだを壁にこすりつけるようにして降りた。
オーギュスト・ポワンも自分自身の事件について明晰に考えることができなくなっている。彼は言わなければならないことはいましがたすべて言った。ここ数時間のあいだ、彼は溺れかかった人間として、奇蹟的な救いしか望めない人間として振舞っている。
彼の知らない、彼が一度も会ったことのないメグレに、彼が助けを求めたのは変ではないのか?
そのことを悟らずに、メグレはいまこの事件を引受けた。メグレの質問は見立てをしようとする医者の質問に似ていた。
「あなたはピクマールの身許をたしかめましたか?」
「土木大学に秘密に電話させ、ジュール・ピクマールが学生監として十五年前から働いていることをたしかめました」
「学長に書類をわたさずに、あなたのオフィスに自分で持ってきたというのは異常ではありませんか?」
「私にはわかりません。そのことを考えてもみませんでした」
「それは彼がカラム・レポートの重要さを悟ったことを示していませんか?」
「そう思います。そうです」
「つまり、カラム・レポートが見つかって以後、ピクマールは、あなたを除けば、それを読むチャンスを持った唯一の人間だということになります」
「いま、それを手中にしている何者かを計算に入れなければ」
「まだそのことを考慮するのはやめましょう。私の間違いでなければ、火曜日の一時頃以後、あなたがカラム・レポートを持っていることを知った人間は、ピクマールを除けばただ一人ですね?」
「総理だと言いたいのですか?」
ポワンはびっくりした目でメグレをながめた。現在の総理、オスカール・マルテールは六十五歳で、四十歳の頃からほとんどすべての内閣に加わっていた。父親は知事であった。彼の兄弟の一人は議員であり、もう一人は植民地の総督だった。
「とんでもない想像です……」
「私は何も想像していません、大臣。理解しようとしているだけです。カラム・レポートは昨夜このデスクのなかにあったのです。それが今日の午後にはもうない。ドアがこじあけられていなかったことはたしかですか?」
「あなた自身でごらんになってください。木や錠前の銅になんの傷跡もありません。合鍵を使ったのでしょうか?」
「あなたのデスクの錠前は?」
「ごらんなさい。簡単なものです。鍵を忘れたときなど、針金で開けてしまうことがあります」
「できるだけ状況をはっきりさせるため、私たちのきまりきった質問をつづけさせていただきます。あなたの他に、このアパルトマンの鍵を持っているのはだれです?」
「もちろん、妻です」
「奥さんはカラム事件のことは知らないと、あなたは言いましたが」
「私は話していません。妻は、昨日と今日私がここに来たことさえ知りません」
「奥さんは政治にひどく興味を持っていますか?」
「妻は新聞を読みますので、私の仕事について一緒に話し合うことができるほど政治には十分に通じています。私が国民議会議員に立候補しないかと言われたとき、妻はやめさせようとしました。また私が大臣になるときもいやがりました。妻には野心がないのです」
「奥さんはラ・ロシュ・シュール・ヨンの生まれですか?」
「父親があそこで訴訟代理人をやっていました」
「鍵のことに話をもどしましょう。他にだれが鍵を持っています?」
「秘書のブランシュ嬢です」
「ブランシュ何です?」
メグレは黒い手帳にノートしていた。
「ブランシュ・ラモット。彼女はええと、……ちょっと待ってください……四十一……いや、四十二歳のはずです」
「あなたはずっと前から彼女のことを知っていますか?」
「彼女はピジェの学校を出て、十七歳になるかならずのときに、私のタイピストになりました。それ以来、私のところから離れません」
「彼女もラ・ロシュ・シュール・ヨンの生まれですか?」
「近くの村の生まれです。父親は肉屋でした」
「美しい人ですか?」
ポワンは考え込んでいるようだった。まるでこうしたことを一度も考えたことがないかのように。
「いや。美しいとは言えないでしょう」
「あなたを愛していますか?」
メグレは大臣が顔を赤らめるのを見て思わず微笑んだ。
「どうしてわかるのです? 彼女は彼女なりのやり方で愛しているとしておきましょう。これまで彼女に男がいたとは思いません」
「奥さんのことを嫉妬していますか?」
「その言葉の通常の意味においては、そうではありません。彼女が自分の役割と見なしている領分では嫉妬深いと思います」
「ということは、オフィスでは、あなたの世話をしているのは彼女だと言うことですね」
ポワンは世故《せこ》にたけているのに、メグレがこんな簡単な真実を見てとったことにおどろいたような態度を見せた。
「あなたの先ほどの話では、ピクマールの来訪が取り次がれたとき、彼女は事務室にいました。そこであなたは彼女に席を外させました。彼女を呼びもどしたとき、あなたは手にカラム・レポートを持っていましたか?」
「持っていたと思います。しかし、私は断言しますが……」
「いいですか、大臣、私はだれに罪を負わせるのでもなく、まただれを疑っているわけでもありません。あなた同様、私もそういったことをはっきり頭に入れておきたいのです。このアパルトマンの鍵は他にもありますか?」
「娘が持っています」
「何歳ですか?」
「アンヌ・マリーがですか? 二十四歳です」
「結婚していますか?」
「来月結婚するはずです、いやもっと正確に言うと、|はず《ヽヽ》でした。この先私の身に一騒動起こりそうなので、どうなってしまうかわかりません。クールモン家をご存じですか?」
「名前だけは」
マルテール家が政界で有名だとすれば、クールモン家は少なくとも三代前から外交界で有名である。ラ・フェザンドリー街に邸宅をかまえているロベール・クールモンは片眼鏡をかけているフランス人最後の一人であり、東京やロンドンなどで三十年以上も大使を務めた。フランス学士院の会員でもある。
「彼の息子さんと?」
「そう、アラン・クールモンとです。三十二歳なのに、彼はすでに三、四の大使館に配属され、いまでは外務省の重要な部門の部長をしています。彼はヴェノス・アイレス勤務になったので、結婚三週間後にはそこへ行かなければならないのです。私の立場がいかに悲劇的であるか、これでおわかりいただけますか。明日か明後日に私を待ちうけているスキャンダルが起これば……」
「娘さんはよくここに来ますか?」
「私たちが大臣官邸に住んでからは来ません」
「一度も来ませんか?」
「私はすべてをあなたに語ってしまいます、警視。そうでなければ、あなたをわざわざ呼んだ意味がなくなります。アンヌ・マリーは大学入学資格試験《バカロレア》をパスし、大学では哲学と文学を修めました。
娘は文学かぶれの女でもなければ、現代的な娘でもありません。一カ月ほど前に、私はここにたばこの灰を見つけたことがあります。ブランシュ嬢はたばこを喫いません。妻も喫いません。私はアンヌ・マリーに聞きました。すると娘は、ときどきアランとこのアパルトマンに来ると答えました。私はそれ以上のことは知ろうとしませんでした。娘が私をじっと見つめながら、顔を赤らめもせずに言った言葉を、私はおぼえています。
『現実的にならなければ、お父さん。わたしは二十四だし、アランは三十二よ』
あなたにはお子さんがおありですか、メグレさん?」
警視は首を振った。
「今日はたばこの灰がなかったと思いますが?」
「ええ」
いまではもうメグレの質問に答えるしか方法がなかったので、ポワンは前ほど打ちひしがれていなかった。彼は、最後には薬をもらえることを承知しながら、医者の質問に答える患者のようだった。メグレはこの鍵の問題をわざと長引かせているのだろうか?
「他にはだれです?」
「私の議会用の秘書」
「それはだれです?」
「ジャック・フルーリーです」
「ずっと前から彼のことをご存じですか?」
「私は彼と一緒に高等中学校《リセ》に行き、大学に行きました」
「彼もヴァンデの生まれですか?」
「ちがいます。ニオールです。ニオールはヴァンデからそう遠くはありません。年齢もほとんどおなじです」
「弁護士ですか?」
「彼は一度も弁護士になる勉強をしたことがありません」
「なぜです?」
「奇妙な男でしてね。両親が金持でした。若いとき、彼はちゃんと働く気にはならなかった。六カ月ごとに、何か新しいことに夢中になっていました。たとえば、一時期は釣りの道具をそろえることに夢中になり、船も二、三|艘《そう》持ちました。また、植民地の事業に手を出して、失敗したこともあります。私は彼と付き合わなくなりましたが、国民議会議員に選出されたとき、パリでときどきまた会うようになりました」
「破産したのですか?」
「完全に。彼はいつでも立派な服装をしていました。どんなときでも立派な服装をし、人に良い感じをあたえることをやめませんでした。彼は感じの良い落伍者の典型そのものです」
「あなたの好意にすがったのですか?」
「いくぶんかは。そんなことはたいしたことではありません。私が大臣になるちょっと前に、偶然のことからいままで以上にしばしば彼に会うことが起こったのです。そこで、私に官房長が必要になったとき、うまい工合に彼がいたわけです」
ポワンは大きな肩をひそめた。
「このことについて、あなたに説明しておかなければならないことがあります。いきなり大臣になるということがどんなことか、あなたにはおわかりにならないにちがいありません。私の場合を例にとってみましょう。
私は弁護士でした、もちろん田舎の小さな弁護士です。ですが、それでも法律の知識はあります。ところが、私が任命されたのは公共事業省です。私は一足跳びに、見習期間もなしに、専門知識のある上級官吏や故カラムのような有名な人たちさえたくさんいる公共事業省の大臣になったのです。私は他の人たちがするようにしました。自信ありげな態度を取りました。すべてを知っているように振舞いました。周囲に皮肉や、敵意を感じないことはありませんでした。また、多くの陰謀を意識しましたが、私には少しものみ込めませんでした。
公共事業省の中心にいてさえも、私はよそ者だったのです。というのは、ずっと前から政治のあらゆる裏面に精通している人々の間に私がいたからです。
だから、フルーリーのような胸襟《きょうきん》を開いて話すことができる男がそばにいてくれることは……」
「わかりました。彼を官房長に選んだとき、フルーリーはすでに政界と関係がありましたか?」
「バーやレストランでの漠然とした関係だけです」
「結婚は?」
「しています。いまでもそうだと思います。離婚しているとは思えませんから。細君との間に二人の子供があります。でも、もう一緒に暮しておりません。パリに、少なくとももう一つ、あるいは二つの世帯を持っているからです。彼は生活を複雑にしてしまう才能があるようです」
「あなたがカラム・レポートを持っていることを、彼が知らなかったことはたしかですか?」
「彼は公共事業省でピクマールに会いさえしていませんし、私はカラム・レポートのことで何も話していません」
「フルーリーとブランシュ嬢との関係はどんなですか?」
「表面上は親しくしていますが、心のなかではブランシュ嬢は彼には我慢がなりません。というのは、彼女は骨の髄まで中産階級だからです。フルーリーのセンチメンタルな生活は彼女の心を傷つけ、憤慨させます。こんなことを言ってもどうしようもありませんね」
「奥さんが、あなたがここにいるとは思っていないことはたしかですか?」
「妻は今夜、私が悩んでいることに気づきました。そこで今夜の重要な約束をやめて、休んだらどうかとすすめましたが、私は集会があるからと言って……」
「奥さんはあなたを信じましたか?」
「わかりません」
「奥さんによく嘘をつくのですか?」
「いや」
十二時近かった。こんど、脚のない小さなグラスに酒を注いだのは大臣だった。そのあと、彼は銀の環のついたベントのパイプを選ぶため、棚のほうに向かいながらため息をついた。
メグレの直観を裏づけるかのように、電話が鳴った。ポワンは受話器を取ったものかどうかたずねるかのように、メグレを見た。
「奥さんだと思いますよ。どうせお帰りになったら、あなたはすべてを話さなければならなくなるでしょう」
大臣は受話器を取った。
「もしもし! そう……私だ……」
彼はすでに罪人のような様子をしていた。
「いや……私と一緒の者がいる……私たちはとても重要な問題で話し合っていた……あとでその話はするよ……いや、知らない……それほど長くはかからないだろう……工合はいい……とてもいいよ……なんだって? 首相官邸から? 総理が? うん……わかった……すぐにするよ……いや、またあとで……」
額に玉の汗をうかべて、彼はふたたびメグレを見た。方策尽きてしまった人間のようだった。
「首相官邸から三度電話があり……総理は何時でもかまわないから、私に電話をするように言ったそうです……」
彼は汗をぬぐった。パイプに火をつけることを忘れてしまっていた。
「どうしたらいいでしょうね?」
「総理に電話したらどうです? いずれにしても、明朝カラム・レポートがないことを打ち明けなければならないのです。今夜中に、それを取り返せる望みはまったくありませんからね」
ポワンのつぎの口調はコミカルなものだった。そこには彼の混乱と、警察の力にたいしてある人々が持つ本能的な信頼とが示されていた。彼はほとんど無意識に、こう言ったのである。
「そう思いますか?」
それから、どっかりと腰を下ろすと、暗記している電話番号をまわした。
「もしもし! こちら公共事業大臣ですが……総理と話したいのですが……失礼しました、奥さん……ポワンです……ご主人が私のことをお待ちだと思いますので……そうです……このまま待ちます……」
彼はグラスを一息で空けた。目はメグレの背広のボタンの一つにじっと注がれている。
「そうです、|親愛なる《モン・シェール》総理……もっと早くお電話しなければならなかったのですが……はい、工合はよくなりました……もうなんでもありません……たぶん疲労のせいだと思います、はい……それに……私がこれから言いますことは……」
メグレは受話器をふるわせる声を聞くことができた。その声の調子には相手を不安におとさずにはおかないものがあった。ポワンは叱責され、いたずらに言い訳しようとしている子供のようだった。
「そうです……わかっています。……私を信じてください……」
やっとのことで、彼はしゃべることを許された。彼は言葉をさがした。
「もっとも思いがけないことが起こったのです……え、なんでしょうか? はい、カラム・レポートのことです……昨日、私はカラム・レポートを私自身の住居のほうに持って行ったのです……そうです、パストゥール大通りの……」
彼の思うような形で話すことができたなら! だが、彼はたえず話をさえぎられ、わけがわからなくなってしまった。
「そうです……ここに仕事にくる習慣があるのです……なんですか? そうです、いま私はここにいます……いいえ、妻はそのことを知りません、そうでなければ妻はもっと早くあなたのことづけを私に伝えたでしょう……いや! 私はもうカラム・レポートを持っていません。……私が最初からあなたに伝えようとしていたのはそのことなのです……私はカラム・レポートを、公共事業省よりも安全だと思い、ここにおきました。今日の午後、あなたと話したあとで、ここに取りにもどってみると……」
メグレは、神経のいら立ちからか、あるいは屈辱からか、ポワンの厚ぼったい眼瞼から涙が流れ出るのを見て顔をそむけた。
「私はそれをさがしました……いいえ! もちろん、そんなことはしません……」
受話器に手をかぶせて、彼はメグレにささやいた。
「総理は警察に知らせたかどうか訊いています……」
彼は諦めて、ふたたび耳を傾けている。ときどきぶつぶつ言うだけだ。
「はい……はい……わかっています……」
彼の顔から汗がたらたら流れている。メグレは窓を開けに行こうかと思った。
「私は警います、|親愛なる《モン・シェール》総理……」
天井の電灯はついてはいなかった。二人の男と書斎の一角が緑の笠のついたスタンドで照らされているだけで、あとの部分は薄暗がりのなかに沈んでいた。ときどき、パストゥール大通りの霧のなかでタクシーが警笛を鳴らす音が聞こえた。それと、それよりもっとまれに列車の汽笛が。
壁にかかった父親の写真は六十代半ばのものだった。ポワンの年齢から判断して、十年前に撮った写真にちがいない。母親の写真は三十になるかならずのもので、今世紀初頭の髪型にドレスを着ている。メグレはこの写真から、ポワンの母親は彼の母親のように、息子が幼い時に死んだにちがいないと思った。
メグレがまだ大臣に話していないいくつかの可能性があった。彼はいつの間にか頭のなかでそれらを思いめぐらしはじめていた。偶然に立ち合うことになった総理への電話から、マルテールのことも考えた。マルテールは内務大臣も兼務している。ということは、国家警察総局を支配していることになる。
マルテールが、サン・ジェルマン大通りにピクマールが訪ねたことを噂で聞き、オーギュスト・ポワンを監視させた、あるいはまた、ポワンと話をかわしたあとで、彼を監視させたと仮定したら……あらゆることが想像できる……マルテールは書類を奪わせて、それを湮滅《いんめつ》するか、手持ちの切り札としたかったのかもしれない。
この件については、今様のジャーナリスティックな言い方が的確だ……カラム・レポートはそれを手に入れた者に未曾有《みぞう》の力をあたえる爆弾そのものである。
「そうです、|親愛なる《モン・シェール》総理……くり返し言いますが、警察にではありません……」
相手はポワンを質問攻めにしているにちがいない。そのため、彼は度を失ってしまっている。彼の視線はメグレに助けを求めていた。が、助けられるわけがなかった。彼はすでにおじけづいてしまっている。
「私の書斎にいる人間は警察官としてここにいるのではありません……」
しかし、彼は精神的にも肉体的にも強い男だった。メグレも強い男だと考えられている。だが、昔、これほど強大なものではないがある罠《わな》にかかったとき、メグレもまたおじけづいてしまった。
メグレをもっとも打ちひしいだのは……彼はいまでもそのことをおぼえているし、一生涯忘れないだろう……、名前もない、顔もない、とらえどころのない力を相手にしているという印象だった。そしてまたこの力はすべての人々にとって法律でもあった。
ポワンはしゃべってしまった。
「メグレ警視です……個人の資格で私に会いに来ていただいたのです……もちろんです……」
話をさえぎられた。受話器が振動したようだった。
「いかなる手掛りも、いいえ……だれにも……いいえ、妻も知りません……秘書も……私は誓います、総理殿……」
彼はおきまりの『|親愛なる《モン・シェール》総埋』を忘れ、へり下った言い方になっていた。
「はい……九時頃……、約束します……彼とお話しになりますか? ちょっとお待ちください……」
恥ずかしそうに、彼はメグレを見た。
「首相がお話をしたいと……」
警視は受話器をつかんだ。
「メグレです、総理」
「私は公共事業省の私の同僚がこんどの事件をきみに話したと聞いたが」
「そのとおりです、総理」
「この事件は絶対に秘密にしておかなければならないことだと、きみにわざわざくり返すまでもないと思う。そこで、正規の捜査を行なうことはない。国家警察総局にも知らせないつもりだ」
「わかりました、総理」
「わかっていると思うが、きみが公けに動きまわらず、このことにかかわっている様子も見せず、あくまでも個人的な形で、カラム・レポートにかんすることで何か見つけたなら、そのときは私に……」
総理は言い直した。彼はこの事件に個人的にかかわりたくなかったのだ。
「……そのときは私の同僚のポワンに連絡してほしい」
「わかりました、総理」
「それだけだ」
メグレは受話器を大臣にわたそうとしたが、向こうでは電話を切ってしまった。
「失礼しました、メグレさん。総理は私を追いつめて、あなたのことを話さざるをえないようにしたのです。総理は政界に入る前は重罪裁判所の有名な弁護士だったという話ですが、いまの私は難なくそれを信じます。私はあなたをこのような立場においてしまったことで恐縮しております……」
「明日の朝、総理とお会いになるのですか?」
「九時に。総理は内閣の他の閣僚が事件を知ることを望まないのです。総理がいちばん恐れているのは、ピクマールがしゃべるか、すでにしゃべってしまっていることなのです。カラム・レポートが見つかったことを知っているのは私たち三人の他には、彼だけなのですからね」
「ピクマールがどんなタイプの人間か知るようにいたしましょう」
「あなたの身許がばれないようにしてでしょうね?」
「正直のところ、こんどのことは局長に話さざるをえなくなるということだけはあなたに知らせておきます。微に入り細にわたる必要はないので、カラム・レポートについて話すにはおよばないと思います。私があなたのために働いていることも、局長は知る必要がないでしょう。私だけが問題なのですから、私の勤務時間外でこの事件にたずさわるでしょう。しかし、何人かの部下は必要になるにちがいありません……」
「彼らは知ってしまうでしょうか?」
「カラム・レポートのことは何も知らないでしょう、そのことは約束します」
「私は総理に辞表を提出するつもりでした。ですが、総理は私を内閣からはずすつもりはないと言って先手を打ちました。というのは、私を内閣からはずせば真相は洩れないにしても、最近の政治的事件を注意していた人々によって疑われてしまうかもしれないからです。いまから、私はもてあまし者です。私の同僚たちは……」
「あなたが手にしたものが、間違いなくカラム・レポートの写しであるという確信がありますか?」
ポワンはおどろいて顔を上げた。
「あれが偽物かもしれないと考えるのですか?」
「私は何も考えません。あらゆる仮定を調べつづけるだけです。本物であれ、偽物であれ、カラム・レポートをあなたに差し出し、そのあとで消えうせさせれば、自動的にあなたと政府全体の信用を傷つけることになります。というのは、あなた方にカラム・レポートを湮滅《いんめつ》した罪をかぶせられるからです」
「そうだとすれば、私たちは明日からすぐにカラム・レポートの話を耳にするでしょう」
「かならずしもそんなに早くなくてもいいわけです。私はどこで、どんな状況で、カラム・レポートが見つかったのかを知りたい」
「だれにも知られずに、そんなことができると思いますか?」
「やってみます。大臣、あなたがすべてを私に語ったと思っていいのですね? どうしてそのことに固執するのかと言いますと、現状で、重要なのは……」
「わかってます。いままで言わなかったささいな事柄が一つあります。初めのところで、アルチュール・ニクーのことを話しましたね。どこかの晩餐会で彼に会った時期の私は一介の議員にすぎなくて、いつか公共事業省の大臣になるとは思ってもいなかったのです。彼がレピュブリック通りの土建請負会社『ニクー・エ・ソーヴグラン』の一員であることは知っていました。
アルチュール・ニクーはやりての実業家としてではなく、上流社会の人間として振舞います。彼は新興成金、投機家とさえ考えられがちですが、全然そうではありません。彼は教養があります。礼儀を心得ています。パリでは、彼は最高級のレストランに出入りし、いつでも美しい女たち、とくに舞台女優や映画スターたちに取りかこまれています。文学、芸術、政治の世界で重要な人々はすべて、少なくとも一度は日曜日にサモエンスヘ招待されたと思います。
私はそこで国民議会の同僚たち、新聞社の局長、学者、それに私が高潔なことを請け合ってもいい人々とたくさん会いました。
田舎の家でのニクー自身は、洗練された環境のなかで、招待客たちにもっとも素敵な、もっともめずらしい御馳走を出すこと以外、なんの関心もない人間といった印象をあたえます。
私の妻は彼を好みません。私どもはそこに六回ほど行きました。もちろん私どもだけではありませんでしたし、緊密な関係ではありません。ある日曜日など、小さなテーブルで三十人ほどが食事をし、そのあと書斎や、プールの周辺に集りました。
私があなたに言わなかったことは、ある年、私の間違いでなければ二年前だったと思いますが、そうです、二年前のクリスマスのときです、私の娘が自分のイニシャルの入った小さな金の万年筆を受け取ったのです、それにはアルチュール・ニクーの名刺がそえられていました。
私はもう少しでこの贈物を送り返すところでした。
私はひどく不機嫌になり、このことを同僚の一人に話しました。それがだれだったかはもうおぼえていませんが、その同僚は私に、ニクーの行為にはたいした意味がない、毎年暮れに招待客の奥さんや娘さんに思い出の品を送るのが彼の癖なんだよ、と答えました。その年は、彼が何ダースも注文したのが万年筆だったのです。別の年は、それがまた金のコンパクトでした。彼は金が好きでたまらないらしいです。
娘はその万年筆を大事にしました。いまでもそれを使っていると思います。
明日、カラム・レポートのことが新聞に載れば、オーギュスト・ポワンの娘は万年筆を受け取り、それで承知したと……」
メグレはうなずいた。こうしたささいな事柄の重要さを、彼はよくわきまえていたのである。
「他に何か? 彼から金を借りてはいませんか?」
ポワンは髪の毛の根元まで赤くなった。メグレにはその理由がわかっていた。それは自分に何かやましいところがあるからではなくて、今後だれもがこうした質問を彼にするかもしれないからである。
「とんでもありません! 私は誓って……」
「私はあなたを信じます。『ニクー・エ・ソーヴグラン会社』の株は持ってはいませんか?」
大臣は、いやと言って、にが笑いした。
「明日の朝からさっそく、できるだけのことはやってみます」と、メグレは約束した。「しかし、私はこのことについてはあなたより知らないし、政界とはまったくなじみがないですから、さっきも言ったように、カラム・レポートをいま持っている人間がそれを使う前に取りもどすことができるかどうかは疑わしいと思います。あなた自身は、同僚が危険になったら、同僚を助けるためにカラム・レポートを湮滅するでしょうか?」
「絶対にしません!」
「あなたの党首がそうするように要求したら?」
「総理がそれをほのめかしたとしても、いたしません」
「私はほとんどそのことを確信していました。失礼な質問をいたしました。それでは私はこれでおいとまします、大臣」
二人の男は立ち上り、ポワンは毛深い大きな手を差し出した。
「こうしたことにあなたをまきこんだりして、私こそおわびしなければなりません。私はひどく落胆し、途方に暮れています……」
自分の運命を他人の手にゆだねたことで、彼は心が軽くなった。彼は普通の声で話し、天井の明りをつけ、ドアを開けた。
「あなたは公共事業省に私に会いに来ることはできません。あなたはあまりに知られすぎているので、好奇心をまき起こすからです。私に電話することもできません。すでにお話しましたように、盗聴されているかもしれないからです。このアパルトマンは人に知られています。どうやってあなたと接触したらいいでしょうか?」
「必要になったら、何とかしてあなたに近づきますよ。たえず私の家に電話をください、今日されたように公衆電話から。私が家にいなかったら、妻にことづけしておいてください」
二人とも同時におなじことを考えたので、思わず微笑んだ。ドアの前に立った彼らは共謀者のように見えなかったろうか?
「おやすみなさい、大臣」
「ありがとう、メグレさん、おやすみなさい」
警視はエレベーターをわざわざ上らせる手間はかけなかった。五階から階段を歩いて降りると、表のドアを開けてもらうため紐を引き、街の霧のなかに出た。霧はますます濃く、冷たくなっていた。モンパルナス大通りまで歩いて行ったほうが、タクシーの見つかるチャンスが多かった。メグレはポケットに両手を突っこみ、パイプをくわえ、右に折れた。二十メートルを歩いたとき、彼の前で二つの大きなライトがつき、同時に車のエンジンがかかる音が聞こえた。
霧のため距離の判断ができなかった。一瞬、メグレは動き出した車が彼のほうに突進してくるような印象をうけた。だが、車は何秒かライトの光で彼を包んだあとで、わきを通りすぎて行った。
ライトから顔を隠すため手を上げる時間が彼にはなかった。それに、そんなことをしたって無駄だろうという考えがあった。
たぶん、今夜窓に明りがともっている大臣のアパルトマンに長い間いたのがだれなのか知りたかった人間がいたにちがいない。
メグレは肩をすくめ、道を歩きつづけた。腕を組み、唇をくっつけ合ってゆっくり歩いているカップルと出会っただけだった。メグレは危くこのカップルに突き飛ばされるところだった。
やっとタクシーを見つけた。リシャール・ルノワール大通りの彼の家には、まだ明りがついていた。いつものように、彼は鍵を取り出した。すると、これもまたいつものように、彼が鍵を鍵穴に差し込む前に、メグレ夫人がドアを開けた。彼女は寝間着姿で、素足で、目は眠気ではれぼったかった。ドアを開けるや、彼女はすぐにベッドにできているくぼみのなかにもどって行った。
「何時です?」と彼女はよそよそしい声でたずねた。
「一時十分」
メグレは、もっと豪奢な、どこかのアパルトマンでも、他の夫婦がいまほとんどおなじようなことをしているのではないかと考えて微笑んだ。
オーギュスト・ポワン夫妻は自分たちの家にいるのではなかった。彼ら自身の寝室でもなければ、ベッドでもなかった。罠《わな》が一杯に張りめぐらされているように思えるにちがいない大きな官邸のなかで、彼らはよそ者だった。
「あの人はあなたに何をして欲しかったのです?」
「本当のところ、はっきりとはわからないんだ」
彼女は夢うつつだった。そこで彼が着物を脱いでいる間、はっきり目をさまそうと努めた。
「あの人がどうしてあなたに会いたがったかわからないの?」
「助言を求めるためではないかな」
彼は|慰め《ヽヽ》を求めるためとは言いたくなかった。だが、本当はこちらのほうがぴったりしていただろう。奇妙だった。もしこのアパルトマンのなれ親しんだ、ほとんど触知できる親密さのなかで、『カラム・レポート』という言葉を口にしたら、彼は笑い出してしまうように思えたのだ。
パストゥール大通りでは三十分前、この言葉がドラマチックな響きを帯びていた。窮地にある大臣は一種の恐怖の念を抱いてこの言葉を口にした。総理は政府の重大事のようにカラム・レポートのことを話した。
数年間屋根裏部屋におきっぱなしにされた四十頁ほどの書類が問題なのだ。学生監がおそらく偶然によって見つけるまで、だれもが放っておいた書類が問題なのだ。
「何を考えているの?」
「ピクマールという男のことだ」
「だれです?」
「はっきりとはわからない」
彼は本当にピクマールのことを考えていた、というより、コミックな感じのするこの名前をくり返していたのである。
「ゆっくりおやすみなさい」
「おまえも。あ、おれは明日、七時に起きなければならない」
「どうしてそんなに早く?」
「電話をかけるところがあるんだ」
メグレ夫人はすでに電気を消すため腕を伸ばしていた。電気のスイッチは彼女の側にあったのである。
[#改ページ]
第三章 居酒屋《ビストロ》の見知らぬ男
手が彼の肩にそっとさわると同時に、声が耳許でこうささやいた。
「メグレ! 七時よ」
メグレ夫人の手に持っているコーヒー・カップから立ち昇る香りが彼の鼻孔に達した。彼の感覚と頭脳が、音楽家たちがオーケストラ・ボックスで楽器の音を試しているときのように働きはじめた。そこにはまだ調和のとれた動きはなかった。七時……それはいつもとは違った日だった。というのは、彼はいつも八時に起きていたからだ。眼瞼《まぶた》を開けるまでもなく、彼には、昨日が一日じゅう霧がかかっていたので、今日は陽が照っていることがわかっていた。霧のことからパストゥール大通りを思い出す前に、彼は口のなかにいやな味を感じた。目覚めたときにこんな味を感じたことは、もうずっと以前からなかった。二日酔いをしたのかと思い、脚のない小さなグラスと、大臣の田舎の酒のことを思い出した。
むっつりとして、彼は目を開け、ベッドに坐った。頭が痛くなかったので、いくぶんほっとした。昨夜、二人がそれぞれ自分のグラスを何回空にしたのか、彼はおぼえていなかった。
「疲れたの?」と、夫人が訊いた。
「いや、大丈夫だ」
腫れぼったい目で、彼はまわりを見まわしながらコーヒーをちびちび飲んだ。そしてまだ眠たげな声でつぶやいた。
「いい天気だ」
「ええ。霜がおりてますよ」
太陽には田舎の白ぶどう酒のような酸味と新鮮さがあった。パリの生活はいつもの慣れしたしんだ物音とともに、リシャール・ルノワール大通りではじまっていた。
「こんなに早く出なければならないの?」
「いや。シャボに電話をしなければならないだけだ。八時過ぎでは、彼は家にいないかもしれないのだ。フォントネイ・ル・コントで市《いち》の立つ日には七時半からもう外に出ている」
ジュリアン・シャボはメグレがナントで勉強していた時代の友達の一人だった。彼はフォントネイ・ル・コントの予審判事になり、大きな生家で母親と一緒に暮らしている。メグレは二年前、ボルドーでの会議の帰りに立ち寄って彼に会った。
シャボ老夫人は朝の六時に行なわれる最初のミサに出かけて行く。七時にはすでに家のなかは活気に満ちている。八時には外出する。それほど仕事の忙しくない裁判所に行くためではなく、町の並木道か、ヴァンデ川に沿って散歩するためだ。
「もう一杯コーヒーをくれないかな?」
彼は電話を引き寄せ、長距離電話を申し込んだ。交換嬢が番号をくり返している間、彼はとつぜん、昨夜の彼の推測の一つは本当なのではないか、すでに彼は盗聴されているのではないかと考えた。その考えは彼を不機嫌にさせた。意志に反して、彼自身が政治的陰謀にまきこまれてしまったときに感じたあの胸のむかつきをいままた、とつぜん感じた。オーギュスト・ポワンが怨めしくなった。メグレの全然知らない、これまで一度も会ったことのなかった男、窮地を脱するにはメグレに助けを求めるのがいいと判断した男が……。
「シャボさん? もしもし! マダム・シャボですか? こちらメグレです……いや! メグレ……」
彼女は耳が遠かった。彼は名前を五、六回くり返し、説明しなければならなかった。
「ジュール・メグレ、警察にいるメグレです」
すると彼女はさけんだ。
「フォントネイに来ていられるのですか?」
「いや。パリから電話しているのです。息子さんはおられますか?」
彼女が受話器のあまりにも間近で、あまりにも大声でさけんだので、彼には彼女の言っていることが聞きとれなかった。友達のシャボの声が聞こえてくるまでに、たっぷり一分経過した。
「ジュリアン?」
「そうだよ」
「こちらの話がよく聞こえるかい?」
「そこの駅から電話しているのとおなじほどはっきり聞こえる。元気かい?」
「うん元気だ。電話をしたのは二、三教えてもらいたいことがあってね。食事中だった?」
「そうだけど、そんなことはかまわないさ」
「オーギュスト・ポワンのこと知ってるかい?」
「大臣の?」
「うん」
「彼がラ・ロシュ・シュール・ヨンで弁護士をしていたときには、よく会ったよ」
「彼のことをどう思う?」
「驚くべき男だね」
「くわしいことを教えてくれないか。思いつくことなら何でも」
「父親のエヴァリスト・ポワンはクレマンソーの町、サント・エルミーヌに有名なホテルを持っている。有名なのは、部屋のためではなく、おいしい料理のためだ。食通はこのホテルで食べるため遠くからやって来る。父親はもう九十歳に近いはずだ。数年前から、彼はホテルを娘と婿《むこ》にまかせているが、あいかわらず口を出しつづけている。オーギュスト・ポワンは彼の一人息子で、われわれとほとんど同時に卒業したが、そのあとポワティエとパリで勉強をつづけた。このまま話しつづけてもいいかい?」
「うん」
「彼はがつがつ猛勉強する男だった。ラ・ロシュ・シュール・ヨンのプレフェクチュール広場で弁護士事務所を開いた。きみはこの町を知っているね。数年間彼はそこにいて、主に百姓と地主の争いにたずさわっていた。訴訟代理人アルチュール・ベリオンの娘と結婚した。アルチュール・ベリオンは二、三年前に死んだが、未亡人のほうはラ・ロシュ・シュール・ヨンでまだ生きている。
私が思うに、戦争がなければ、オーギュスト・ポワンはヴァンデやポワティエで静かに弁護士業をつづけていたんじゃないかな。
占領時代の数年間、彼についての噂はほとんど聞かなかった。何事もなかったような生活振りだった。だから、ドイツ軍が撤退する数週間前に、彼が逮捕され、ニオールに、ついでアルザスのどこかに連れて行かれたときには、皆びっくりした。ドイツ軍は同時に他の三、四人を逮捕したんだが、そのなかにブレシュイールの外科医がいた。この男の口からわれわれは、ポワンが戦争中、ラ・ロシュ・シュール・ヨンの近くに持っていた農家にイギリスのスパイや、ドイツの捕虜収容所から脱走してきた飛行士などをかくまっていたことを知った。
解放の数日後に、彼は痩せて、蒼白い顔をしてもどってきた。彼は人の注目を惹こうとしなかった。どんな会議にも出なかったし、どんな行列にも参加しなかった。
あの時期、いかにすべてが混乱していたかはきみも知ってるね。政治だってご多分にもれなかった。だれが正しくて、だれが正しくないのか、もはやわからなくなっていた。何も信じられなくなったとき、人々はついに彼のほうに目を向けた。
彼は良い仕事をした。それなのに騒ぎ立てないし、慢心することもなかった。われわれは彼を国民議会議員としてパリに送り込んだ。
まあ、これが彼の身の上話だ。ポワン夫妻はプレフェクチュール広場に自分たちの家を持っている。議会の会期中はパリで暮らし、終るとすぐにもどってくる。ポワンはあいかわらず多くの顧客をかかえているんだ。奥さんも彼に大いに手を貸していると思うよ。ポワン夫妻には娘が一人いる」
「知っている」
「それなら、きみは私とおなじぐらい知っているんじゃないか」
「彼の秘書のことは?」
「ブランシュ嬢か? 彼の事務所でよく会ったことがある。われわれは彼女のことを『龍《ドラゴン》』と呼んだ、彼女の主人への監視がひどくきびしかったからだ」
「彼女についてその他に何か?」
「オールド・ミスはオールド・ミスのやり方で、彼に惚れていたと思う」
「オールド・ミスになる前から彼のために働いていたのか?」
「そうだ。しかし、それはまた別の問題だ。私はそのことに答えることはできない。なにか起こったのかい?」
「まだ何も。ジャック・フルーリーという男については?」
「よく知らない。少なくとも二十年前に、二、三度会ったきりだ。彼はパリで暮らしているはずだよ。彼が何をしているかはわからない」
「ありがとう。朝食のところを邪魔してしまってすまなかった」
「おふくろが温めておいてくれているよ」
他にはもう何も言うことがなかったので、メグレはこうつけ足した。
「そっちは天気がいいかい?」
「陽が照ってるよ。だが、屋根は霜でまっ白だ」
「こっちも寒いよ。じゃまた。お母さんによろしく」
「さよなら、ジュール」
ジュリアン・シャボにとって、この電話は一つの出来事だった。彼は町の並木道を散歩している間そのことを考え、メグレがなぜ公共事業省の大臣の行動などに関心をもったのかと自問することだろう。
警視も朝食を終えた。あいかわらず口のなかはアルコールの後味が残っていた。そこで外に出たとき、歩いて行くことに決め、レピュブリック広場の居酒屋《ビストロ》に立ち寄り、白ぶどう酒を一杯やり、胃のなかをきれいにした。
いつもの習慣に反して、彼はあらゆる朝刊を買い、朝の会議にぴったり警視庁に着いた。
同僚たちが局長のオフィスに集っている間、彼は一言もいわなかったし、ほとんど話を聞いてもいなかった。ただぼんやりとセーヌ川とサン・ミッシェル橋の通行人をながめていた。他の者が出て行っても、彼は残っていた。局長はそれが何を意味するかを知っていた。
「何かあったのか、メグレ?」
「不慮の事件です」と、メグレはまず答えた。
「部内でか?」
「いや。ここ五日間、パリはかつてなかったほど平穏です。しかし、昨夜、私はある大臣に個人的に呼び出され、私の好まない事件にたずさわるようにたのまれました。引き受ける以外どうしようもなかったのです。私がこのことをあなたに話すということは大臣に知らせておきました。ただし、詳細にはわたらないということで」
局長は眉をひそめた。
「ひどく面倒な事件かい?」
「ええ、非常に面倒な事件です」
「クレールフォンの惨事とつながりのある人かね?」
「そうです」
「その大臣は個人としてきみにある仕事をたのんだのだね?」
「総理もそのことはご存じです」
「私はそれ以上知りたくない。よかったら、もう行きたまえ。用心するんだ」
「そう努めるつもりです」
「人手が必要だろう?」
「おそらく三、四人は。彼らには事件のことははっきり知らせないようにします」
「なぜ国家警察総局にたのまなかったのだろう?」
「あなたにわかりませんか?」
「いや。きみのことが心配になってきた。じゃまた……」
メグレは自分のオフィスにもどると、刑事部屋のドアを開けに行った。
「ちょっと来てくれないか、ジャンヴィエ?」
それから、出かけようとしているラポワントに気づくと、
「重要な仕事があるのか?」
「いや、警視《パトロン》。おきまりの仕事です」
「じゃ他の者に代わってもらって、私を待っててくれ。きみもだ、リュカ」
ジャンヴィエと一緒にオフィスにもどると、メグレはドアを閉めた。
「いやな仕事をたのみたいのだ。報告書を作成することもないし、私以外のだれにも報告する必要もない。きみが軽はずみなことをすれば、それは高いものにつく」
ジャンヴィエは微笑んだ。そうしたデリケートな仕事をまかせてもらえるのがうれしかったからだ。
「公共事業省の大臣に、ブランシュ・ラモットと言う四十三歳ぐらいの女秘書がいる」
メグレはポケットから黒い手帳を取り出した。
「彼女がどこに住んでいて、勤務時間はどうなのか私にはわからない。私は彼女の行動を知りたい、公共事業省の外でどんな生活をしているのか、どんな人間と付き合っているのかなどを。司法警察が彼女に関心をもっていることを、彼女にも、他のだれにも感づかせてはいけない。たぶん正午に、職員の外出を監視していれば、彼女がどこで食事をするかがわかるはずだ。うまくやってくれ。もしきみが彼女に関心を持っていることが相手に気づかれてしまったら、必要とあらば惚れているようなふりをするんだ」
すでに結婚していて、四人目の子供が生まれたばかりのジャンヴィエはしかめ面《つら》をした。
「わかりました、警視。最善をつくします。ぜひともこれだけは知りたいということはないのですか?」
「ない。見つけたものはなんでも私のところへ持ってきてくれ。役に立つか立たないかは、私が判断する」
「急ぐんですか?」
「非常に急ぐ。このことはだれにも話してはいけない、リュカにもラポワントにも。いいね?」
メグレはふたたび刑事部屋に通じるドアを開けに行った。
「ラポワント! こっちへ」
チビのラポワントには……彼はメグレの部に最後に入ったのだし、警察官というよりも学生のような様子をしていたので、みんなからこう呼ばれていたのだ……すでに信用されての任務であることがわかっていたので、感激していた。
「土木大学を知っているね?」
「サン・ペール街の。知ってます。そこのほぼ正面にある小さなレストランで、私は長い間食事をしておりました」
「そうか。その大学にピクマールという名の学生監がいる。ファースト・ネームは私同様、ジュールだ。彼が学校に住んでいるのかどうかはわからない。彼については私には全然わかっていない。だからできるだけ多くのことを知りたいのだ」
メグレはジャンヴィエに言ったのとほぼおなじことを、ラポワントにもくり返した。
「どうしてだかわからないが、私の聞いた範囲では、彼は独身者のような気がする。家具付ホテルに住んでいるかもしれない。もしそうならおなじホテルに一部屋借り、学生のようなふりをするんだ」
最後はリュカの番だった。大臣の官房長ジャック・フルーリーの仕事をあてがわれた他は、ほぼおなじような話を聞かされた。
この三人は新聞に写真が載ることはまれだった。一般の人々は彼らのことを知らなかった。もっと正確に言えば、三人のなかではリュカの名前ぐらいしか知らなかった。
もちろん、国家警察総局がこの事件に関係しているのなら、またたく間に彼らのことはわかってしまうが、それはやむを得ないことだ。それに、国家警察総局が関係している場合は、メグレがすでに今朝考えたように、彼の家の電話も、警視庁の電話も、ソーセー街の連中によって盗聴されている。
昨夜、何者かが霧のなかで、思いもかけないほど強くメグレの姿をわざと照らした。そしてその何者かがオーギュスト・ポワンの穏れ家を知っていたのなら、昨夜ポワンがそこへ客を迎え入れたことを知っていたのなら、メグレのことも一目で認めたにちがいない。
オフィスのなかで一人になると、メグレは窓を開けに行った。まるでこの事件にたずさわって、新鮮な空気が少し必要ででもあるかのように。新聞はテーブルの上にある。彼はもう少しでそれらの新聞を開いて見るところだったが、それよりもまず日常業務を片づけ、報告書や召喚状にサインすることにした。
こそ泥、狂人、詐欺師、彼がいつも扱っている類《たぐい》の犯罪者たちは彼にはほとんどかわいいように思われた。
彼はいくつか電話をかけ、刑事部屋に行って、ポワンとも、あのいまわしいカラム・レポートとも関係ない指示をいろいろとあたえた。
この時間、オーギュスト・ポワンはすでに総理のところへ行っているにちがいない。警視のすすめにしたがい、その前にまずポワンは妻にすべてを語っただろうか?
思っていたよりずっと寒かったので、窓を閉めなければならなかった。彼は肱掛椅子に坐ると、やっと積み重ねてある新聞の一つを開いた。
まだクレールフォンの惨事の記事で一杯だった。世論のため、党派の区別なく、議員連中はだれも彼も騒ぎ立てて調査を要求していた。大部分の新聞はアルチュール・ニクーを非難していた。それらの記事の一つにつぎのような見出しがついたものがあった。
『専売会社ニクー・エ・ソーヴグラン』
その記事には、政府や市町村によってここ数年間に、レピュブリック通りの会社に委託された仕事のリストが載っていた。これらの仕事の金額がリストと向かい合った頁に縦に並び、全体の金額は数十億フランにも達していた。結論として、つぎのように書かれていた。
『アルチュール・ニクーのサモエンスにあるすばらしい所有地に招かれた公務員、大臣、国民議会議員、元老院議員、パリの市会議員、その他の諸氏のリストを明らかにすることは興味深いことであろう。また、ニクー氏の小切手の控えを丹念に追及してみることは、秘密をあばくことにつながるのではないか?』
マスクランという代議士がオーナーではないとしても、少なくとも彼の息のかかっている新聞『ル・グローブ』はゾラの有名な『私は弾劾《だんがい》する』に類した大見出しをつけていた。
『本当にそうなのか?』
そのあとにいくつかの質問が、いつもより大きい活字で、記事をいっそう目立たせるようなレイアウトで載っていた。
『クレールフォンのサナトリウムが子供の健康を心配する国民議会議員によって考えられたことではなく、コンクリート商人の思いつきであるというのは|本当な《ヽヽヽ》|のか《ヽヽ》?
このサナトリウムの案は、五年前、コンクリート商人がサモエンスの自分の所有地で催した豪奢な昼食会の間に何人かの政府高官に吹き込んだものだというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?
おいしいぶどう酒やご馳走にあずかるだけではなく、客たちはよくポケットに小切手を入れてこのコンクリート商人の私的な事務室から出てくるというのは本当《ヽヽ》|なのか《ヽヽヽ》?
計画が具体化したとき、このおどろくべきサナトリウムのために選ばれた用地を知っている人々がすべて、この企ての狂気と危険を理解していたというのは本当《ヽヽ》|なのか《ヽヽヽ》?
議会への勧告を任せられた国会の委員会が……現総理の弟がその委員長であった……、議論の余地なき評判のある専門家の知識に助力を乞わざるをえなくなったというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?
その専門家、国立土木大学の応用力学と土木建築の教授ジュリアン・カラムが設計図を持って問題の場所に行き、三週間過したというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?
そして帰ってくると、その筋の者に、この計画の支持者たちにとっては致命的な報告書を提出した、それにもかかわらずこの計画は可決され、数週間後にはクレールフォンの建築ははじまっていたというのは本当《ヽヽ》|なのか《ヽヽヽ》?
二年前まで生きていたジュリアン・カラムが、彼に近しいすべての人々の意見によれば、良心に重荷を背負っているような印象だったというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?
彼の報告書が、ほとんど現実に起こったとおりのクレールフォンの大惨事を予測していたというのは本当《ヽヽ》|なのか《ヽヽヽ》?
何通かの写しがあったにちがいないこのカラム・レポートが、議院の記録保管所からも、その他の関係各省の記録保管所からも消えてしまったというのは本当《ヽヽ》|なのか《ヽヽヽ》?
少なくとも三十人ほどの政治家が、あの大惨事のあと、カラム・レポートが見つけ出されるのではないかと戦々兢々としているというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?
あらゆる予防の手を打ってあったにもかかわらず、つい最近、カラム・レポートが見つかったというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?
そして奇蹟的に見つけ出されたこの写しが、その筋の者に手渡されたというのは|本当なのか《ヽヽヽヽヽ》?』
ついで、つぎのような見出しが頁を占めていた。
『われわれは知りたい』
『カラム・レポートはあいかわらず手渡された人の手のなかにあるのか? 失脚しかかっている政治家連中を助けるため湮滅《いんめつ》されたのか?
もし湮滅されていないのなら、われわれがこの記事を書いている現在、それはどこにあるのか? 世論が当然のことながら、百二十八人の子供たちの生命を奪った大惨事の真犯人の処罰を要求しているというのに、なぜいまだに公表されないのか?』
最後に、頁の下に、先の二つの見出しと同じ活字で、
『カラム・レポートどこにあるのか?』
メグレは思わず額を拭った。この記事を読んでオーギュスト・ポワンがどんな反応を示しているか、メグレには容易に想像できた。
『ル・グローブ』は発行部数が多くはなかった。いわゆるオピニオン紙で、どの大政党の機関紙でもなかったが、ジョゼフ・マスクランが党首をしているある小会派の機関紙だった。
それでもやはり他の新聞は、真相を発見するためそれぞれ独自の調査を開始するだろう。
そしてメグレもこの真相が発見されることを望んだが、真相が全部残らずに発見されることが条件だった。
ところが、彼には『ル・グローブ』が追及しているのはこのことではないように思われた。たとえば、もしマスクランが現在カラム・レポートを掌中にしている人間ならば、なぜ右のような質問などせずに、記事とおなじ大きさの活字でカラム・レポートを公けにしないのか?
そうすれば、マスクランは内閣総辞職をよぎなくさせ、政府高官たちを一掃することになり、世間から人民の利益と政治道徳の擁護者と見なされるであろう。それは、つねに政界の舞台裏で動きまわっていた彼にとって、晴れの舞台におどり出、おそらく来《きた》るべき数年後には最高の役割を演じるであろう唯一のチャンスだった。
彼がカラム・レポートを持っているなら、なぜそれを公けにしないのか?
記事のように、いろいろと質問を並べてみるのはこんどはメグレのほうだった。
マスクランが持っていないなら、どうして彼はカラム・レポートが見つかったことを知ったのか?
カラム・レポートがピクマールからその筋の者に手渡されたことを、彼はどうして知ったのか?
ポワンがこんどはそれをさらに上の者にわたさなかったことを、彼はどうして疑うことができるのか?
メグレは政治の裏面を知らなかったし、知りたくもなかった。だが、つぎの点に気づくのに、裏面でひそかに行なわれているいろいろな駈引きをくわしく知っている必要はなかった。
[#ここから1字下げ]
1 クレールフォンの大惨事以来、カラム・レポートについての記事を三度載せたのは、エクトール・タバールが一枚噛んでいる強請《ゆすり》まがいの、いかがわしい週刊誌である。
2 このかなり奇妙な形勢のなかで記事が公表されたあとにつづいて、カラム・レポートが発見されている。
3 国立土木大学の一学生監にすぎないピクマールは、公式の手続き……この場合は学長……を経ずに、直接に大臣室に来ている。
4 ジョゼフ・マスクランはカラム・レポートが大臣に手渡されたことを知っている。
5 彼はカラム・レポートが消え失せたことも知っているようだ。マスクランとタバールは、おなじ穴の|むじな《ヽヽヽ》なのか? それともそれぞれの利害で行動しているのか?
[#ここで字下げ終わり]
メグレはもう一度窓を開けに行くと、パイプをくゆらしながらセーヌの河岸を長い間ながめていた。これほど錯雑《さくざつ》した事件に彼はこれまでたずさわったことがなかった。しかも、彼の不得意な領域での事件ときている。押込みや人殺しなら、彼の手なれた領域だ。こんどの場合は逆に、新聞で名前と評判を漠然と知っているにすぎない人々が問題なのだ。
たとえば、マスクランがヴィクトワール広場のレストラン『フィレ・ド・ソール』のおなじテーブルで毎日昼食を取ることを知っている。そして食事の間じゅう、だれかが彼の手をにぎったり、情報をささやきに来たりする。
マスクランはすべての政治家の私生活に通じていると見なされている。議会での彼の質問はまれなので、彼の名前は重大な投票の前日以外ほとんど新聞にあらわれない。あらわれるときはつぎのような記事だ。
『マスクラン議員は、この案が三百四十二票で可決されると予言している』
玄人はこれらの予測をすっかり信用している。というのは、マスクランはめったに間違わなかったからだ。間違ったとしても、二、三票の差にすぎなかった。
彼は何の委員でもなかったし、いかなる委員会の主宰者でもなかった。だが、大きな党派の党首よりも恐れられていた。
メグレは正午になると、『フィレ・ド・ソール』に出かけて行き、食事したくなった。公けの儀式のときにちらっと見かけただけの男をすぐ近くでながめてみるだけでもよかった。
マスクランは四十を越えているが、まだ独身だった。愛人もいなかった。彼は社交界や、劇場や、ナイトクラブに出入りしなかった。彼は骨張った長い顔をしていた。正午なのにもう、ひげを剃らなければならないように見えた。着ているものは良くはなかった。もっと正確に言うと、着る物には無頓着だった。アイロンをかけたこともないし、およそきれい好きではないみたいだった。
なぜメグレは、ポワンからピクマールの人相を聞いたとき、ピクマールもおなじ類の人間であるにちがいないと思ったのか?
メグレは孤独を好む男たちを、愛を告白したこともないような人々を信用しなかった。
結局、彼は『フィレ・ド・ソール』に食事に行かなかった。というのは、『フィレ・ド・ソール』に行くことは宣戦布告のようなものであったからだ。メグレはビヤホール『ドフィーヌ』に出かけた。二人の同僚がいた。メグレはその同僚たちと一時間のあいだ、カラム・レポートと関係ないことをおしゃべりした。
夕刊の一つが『ル・グローブ』のテーマをふたたび取り上げていた。だが、もっとずっと用心深く、あいまいな言葉で、カラム・レポートについての真相はどこにあるのかだけを追求していた。ある新聞記者がこのことで総理にインタビューしようとしたが、彼に近づくことはできなかった。
ポワンのことは噂にはならなかった。というのは、サナトリウムの建築は、実際は保健省の管轄だったからだ。
メグレのオフィスのドアがノックされたときは三時だった。彼は唸《うな》り声をあげると、すぐにドアを開けた。ラポワントだった。不安げな顔をしている。
「新しいネタはあったか?」
「はっきりしたことは何も、警視。いままでのところは、まだ偶然にすぎないのかもしれないのです」
「くわしく話してくれ」
「私は警視の指示どおりに動こうとしました。警視は私が間違いをおかしたのだと言うかもしれません。まず、私は土木大学に電話して、私はピクマールのいとこだが、パリに着いたばかりで、彼に会いたいと思っても住所がわからないと言いました」
「住所を教えてくれたか?」
「何のためらいもなく。彼はジャコブ通りの『ホテル・デュ・ベリ』に住んでいます。地味な家具付ホテルです。部屋数は三十ほどしかありませんし、女主人が自分で掃除もやっていますし、主人のほうは帳場をあずかっています。私は家にスーツケースを取りにもどると、警視に言われたように、学生のふりをしてジャコブ通りに行きました。運のいいことに、部屋が一つ空いていましたので、一週間借りました。私が階下に降りて行き、事務室の前で立ち止って主人とおしゃべりしたときは、ほぼ十時半でした」
「主人にピクマールのことを話したのかね?」
「ええ。私はバカンスのときに彼と知り合い、彼がここに住んでいるのを思い出したと言いました」
「主人はどんなことをしゃべってくれた?」
「ピクマールは外出している。彼は毎朝八時にホテルを出て、通りの角の小さな居酒屋《ビストロ》に行ってコーヒーとクロワッサンを取る。だから実際に学校に着くのは八時半にちがいないといったようなことです」
「昼の間ホテルにもどるのかね?」
「いいえ。もどるのはいつも七時半です。自分の部屋に上り、夜は週に一、二度しか外出しません。この世でもっとも規則正しい男のようですね。客が来ることもありませんし、女にも会わないし、たばこは喫わない、酒は飲まない、寝るまで本を読んで過ごすのです。ときどき夜遅くまで本を読んでいることもあるそうです」
メグレは、ラポワントがまだまだ言いたいことがあるのを感じ、辛抱強く待った。
「私は間違ったのでしょうか? でも、自分ではうまくやったと思っています。彼の部屋が私の部屋とおなじ階にあり、部屋の番号もわかったとき、私は警視が部屋のなかにあるものを知りたがるのではないかと思ったのです。日中は、ホテルはほとんど人がいません。ただ、四階にサキンホンを吹いている男がいるだけです。たぶんバンドマンで、練習しているんでしょう。それと、私の部屋の階上《うえ》に女中の足音が聞こえます。私は偶然に期待して、自分の鍵で試してみました。旧式の、簡単な錠なのです。
最初はうまく行きませんでしたが、いじくりまわしているうちにドアが開きました」
「ピクマールは部屋にはいなかったんだね?」
「ええ。私は手袋をはめていませんでしたから、私の指紋をさがしたら、あちこちから見つかるでしょう。私は引出しや戸棚を開け、隅にあった鍵のかかってないスーツケースも開けました。
ピクマールは、着替えの服はダーク・グレイのスーツが一着だけ。靴も黒の靴が一足あるだけです。櫛《くし》は歯が欠けています。歯ブラシは使い古したものです。シェイビング・クリームを使わず、ひげ剃りブラシを使っています。ホテルの主人が、彼は寝るまで本を読んでいると言ったのは間違いではありません。
部屋の四隔には本が積んであり、とくに哲学書と経済学の本と歴史の本でした。大部分の本はセーヌ河岸で古本屋で買ったものです。公共図書館の蔵書印のついた本も、三、四冊ありました。作者の名前をここに写してきました。
エンゲルス、スピノザ、キェルケゴール、サン・トーギュスタン、カール・マルクス、ぺール・セルティランジュ、サン・シモン……これ、どう思います?」
「そのままつづけてくれ」
「引出しのなかにあったボール紙の箱のなかに、古い会員証や最近の会員証が入っていました。二十年前のもあれば、ただの三年前のもあります。いちばん古いのは『火の十字結社』の会員証です。一九三七年日付の、『アクション・フランセーズ』の会員証もありました。戦争直後、ピクマールは共産党のある支部に加入しています。そのカードは三年間更新されていました」
ラポワントはノートを調べた。
「彼は神智学の国際連盟に入っていたこともあるんですね。本部はスイスです。警視はご存じですか?」
「知ってる」
「警視に言うのを忘れていましたが、本のうち二冊は、ヨガの本と、そのすぐわきにあった柔道の入門書でした」
つまり、ピクマールは宗教と、哲学的ないし社会的な理論をすべて試みたのだ。過激な党派の行列で、旗のうしろを、じっと前方を見つめて歩く連中をよく見かけるが、その連中の一人なのである。
「それだけか?」
「彼の部屋にかんしては、そうです。手紙はありませんでした。階下に降りると、私は主人に、ピクマールには手紙が来ないのかとたずねました。主人の答えるには、ピクマールにはチラシや呼出し状しか来ないそうです。私は角の居酒屋《ビストロ》に行きました。まずいことにアペリチフの時間で、カウンターのまわりには人が一杯でした。私は長い間待ち、二杯目のグラスを飲んだあとで、やっと主人に話しかけることができました。調査をしているような様子は見せませんでした。ここの主人にもおなじ嘘を使い、私は田舎からやって来て、いそいでピクマールに会いたいのだと言いました。
『教授《せんせい》ですか?』と、彼は言いました。
ある人々には、ピクマールは教授と思われているらしいのです。
『八時に来られれば……いまごろは、あの人はきっと講義の最中ですよ……あの人がどこで昼食を取るのか、知りませんな……』
『今朝来ましたか?』
『いつものように、クロワッサンの籠の近くに肱《ひじ》をつきましたよ。いつでもクロワッサンを三つ食べるんです。しかし、今朝はあの人より前にやって来ていた見かけない男が、あの人に近づき、話しかけましたね。
いつも、ピクマールさんは愛想がよくないんですよ。頭のなかにいろいろなことが詰まりすぎているので、くだらないおしゃべりで時間を無駄にするのが惜しいのでしょう。ていねいですが、よそよそしいんです。そうでしょう? 今日は! いくら! さようなら! でも私は気を悪くしませんよ。あの人のように頭を使う仕事をしているお客さんは他にもいますから。あの人たちはまあ、あんなものなんじゃないですかね。いちばん私がおどろいたのは、ピクマールさんがその見知らぬ人と一緒に出て行ったことです。そして、いつものように左にまがるかわりに、二人は右へまがりました』」
「店の主人はきみにその客の人相を言ったかね?」
「はっきりとはわかりません。四十ぐらいの男で、サラリーマンかセールスマンのような様子をしているそうです。その男は八時ちょっと前に黙って店に入ってきて、カウンターの端に坐り、アルコールを少し入れたコーヒーを注文しました。口ひげも顎《あご》ひげもありません。肥っているほうです」
メグレは、そんな人相なら国家警察総局の刑事たちにたくさんいると思わずにはいられなかった。
「それ以上のことはわからないのか?」
「ええ。昼食のあと、私はもう一度土木大学に電話し、ピクマールに話したいと言いました。こんどは、私は名乗りませんでしたが、相手は何も聞こうとせず、ただピクマールが朝から見えないと答えただけです。
『お休みなのですか?』
『ちがいます。ただ来てないだけなのです。おかしいのは、休むと電話で連絡してこないことなのです。こんなことって初めてですね』
私は『ホテル・デュ・ベリ』にもどり、自分の部屋に上りました。それからピクマールの部屋のドアをノックしました。私はドアを開けました。だれもいませんし、部屋のなかは私が最初に入ったときのままです。
警視はできるだけくわしくと言ってましたね。私は大学に行き、田舎の友人の役を演じました。そして、彼がどこで昼食を取るかを知ることができました。学校から百メートルほど離れた、サン・ペール通りにあるレストランで、ノルマンディー人の夫婦の店です。
私はその店へ行きました。ピクマールは今日は来ていません。彼のいつものテーブルの上に、番号のついた環に入ったナプキンと、口を開けたミネラル・ウオーターの壜《びん》がありました。
それだけです、警視《パトロン》。私は間違いをおかしたのでしょうか?」
この最後の質問を不安そうにしたのは、メグレの顔が曇り、案じ顔になったからだ。メグレがたずねることをよぎなくされ、あげくは不興を買ってリュソンに追いやられてしまった別の政治的事件のように、この事件もなるのであろうか?
あのときも、すべては国家警察総局とパリ警視庁との間の敵対意識のために起こったのだ。両方の警察がそれぞれ、別々の指示を受け、政府高官たちの争いのために、否でも応でも、それぞれ対立した利害関係を守らなければならなかった。
真夜中に、総理はポワンがメグレに助けを求めたことを知った……。
朝の八時に、カラム・レポートを発見した男、ピクマールは静かにコーヒーを飲んでいた小さな居酒屋《ビストロ》で、見知らぬ男から話しかけられ、一言も言い争わず、抵抗もせずにその男について行った……。
「よくやった、チビ」
「私に間違いはなかったでしょうか?」
「ないと思うよ」
「これからはどうします?」
「私にはわからない。ピクマールが姿をあらわす場合を考えて、『ホテル・デュ・ベリ』に残っていたほうがいいだろう」
「ピクマールが現われたら、警視に電話しますか?」
「そうしてくれ。私はここか、自宅のほうにいる」
カラム・レポートを読んだ二人の男のうちの一人が消えたのだ……。
ポワンが残っている。彼もカラム・レポートを読んだのだが、大臣なので、彼を隠すことはむずかしいのだ。
そこまで考えると、メグレは口のなかに昨夜のブランデーの後口がよみがえってきた。彼は、日常のささやかな問題をかかえている平凡な人たちと肱と肱をつき合わせて飲むことができる場所で、ビールが一杯飲みたくなった。
[#改ページ]
第四章 リュカは不満だった
中ジョッキを飲んでビヤホール『ドフィーヌ』からもどってきたとき、メグレは司法警察局のほうへ急ぎ足で向かうジャンヴィエの姿を見かけた。
午後の中ほどで、暑いほどだった。日差しにはあの蒼白さはもう消え失せていた。今年初めて、メグレはコートをオフィスにおいてきた。彼は二、三度「おーい!」とさけんだ。ジャンヴィエは立ち止り、メグレに気づくと、近よってきた。
「一杯やりたくないか?」
はっきりした理由はなかったが、警視はすぐにはオルフェーヴル河岸にもどりたくはなかった。春が彼にそういう気持を起こさせたのだろうし、また、昨日からの何ともいえない嫌な気分のせいもあった。
ジャンヴィエは妙な顔をしていた。叱られるのかほめられるのか、よくわからなくてとまどっている人の顔のように、メグレには思われた。カウンターには坐らずに、二人は奥の部屋に行った。この時刻には、そこには客は一人もいなかった。
「ビールにするか?」
「いいですよ、どうぞ」
ビールが出てくるまで二人は口をきかなかった。
「あの女に関心を持っているのはわれわれだけではありませんね、警視」と、ジャンヴィエが小声で言った。「大勢の人間が彼女のことを気にしているような印象さえ受けました」
「もっとくわしく話したまえ」
「私の今朝いちばんの仕事は、公共事業省のあるサン・ジェルマン大通りの付近を一まわりすることでした。百メートルも行かないうちに、反対側の歩道にいるルジェに気がつきました。彼は雀に気をとられている様子をしていました」
二人とも国家警察総局の刑事、ガストン・ルジェのことを知っていた。メグレにしろジャンヴィエにしろ、彼とはとてもうまく行っていたのだ。彼は郊外に住んでいて、いつでもポケットに六、七人の子供の写真を入れている人のいい男だった。
「彼はきみに気がついたかい?」
「ええ」
「話しかけてきたのか?」
「大通りにはほとんど人がいなかったので、引っ返すわけにはいかなかったのです。私が彼のところへ行くと、彼はこうたずねました。
『あんたもかい?』
私はとぼけてやりました。
『あんたもって、何が?』
すると、彼は私にウィンクしてみせました。
『なんでもないさ。あんたに秘密を洩らしてくれなんて言わない。それにしても今朝はここに、知った顔がたくさんくるな。あいにく、この公共事業省の正面には居酒屋《ビストロ》一軒ないんだから……』
われわれのいる場所から、省の内庭が見えるのですが、そこに中央情報局のラミレの姿に気がつきました。彼は守衛と非常に仲がよいようにみえました。最後まで芝居を演じた私はそのまま歩きつづけました。ソルフェリノ通りに来て初めて私はカフェに入り、ひょっとしたらと思って電話帳を調べてみました。電話帳にはブランシュ・ラモットの名前と住所が載っていました。ヴァノー通り六十三番地です。それはすぐ近くでした」
「そこでも国家警察総局の人間とでくわしたのか?」
「正確にはそうとは言えません。ヴァノー通りをご存じですか、通りの庭々には樹が何本も植わっていて、静かな、ほとんど田舎のような感じさえするところです。六十三番地は地味だが、感じのいい貸アパルトマンです。管理人の女は受付の部屋のなかでじゃがいもの皮をむいていました。
『ラモットさんは部屋にいませんか?』と、私はたずねました。
彼女が嘲《あざけ》るような目で私を見ているような感じをうけましたが、それでも私は続けました。
『私は保険会社の調査員です。ラモットさんが生命保険を申し込まれましたので、例によりまして調査をいたしているわけでして』
彼女は吹き出しはしませんでしたが、おかしくてしかたがないようです。彼女は私にこう聞きました。
『パリには警察がいくつあるのかしらね?』
『それ、どういう意味です?』
『まず、あなたのことだけど、わたし、五十七番地の小柄な婦人が二年前に睡眠薬を飲みすぎたとき、でっぷりした警視さんと……その人の名前は忘れてしまったけど……一緒のところをすでに見ているわ。つぎに、あなたの同僚はそんなまわりくどい言い方はしないわよ』
『大勢来ましたか?』と、私は訊きました。
『いちばん最初は昨日の朝ね』
『その男はバッジを見せました?』
『わたし、バッジを見せるように言わなかったもの。あなたにだって要求しないでしょ。警察の人は見ればわかるわ』
『いろいろ質問をして行きました?』
『四つか五つね。彼女は一人で暮らしているのか、ときどき五十ぐらいの、かなり肥った男が訪ねてくるか……わたしはいいえと言ってやったわ』
『それは本当のことですか?』
『本当ですとも。それから、帰宅するとき彼女はいつも書類カバンを持っているか、と。ときどき持っていると答えたわ。彼女のアパルトマンにはタイプライターがあるし、勤務が終ってからもよく仕事を持ってきてやってるから。あなたも彼女がある大臣の秘書だということをよく承知しているんでしょ?』
『ええ、よく知ってますよ』
『その人は、彼女が前の日に書類カバンを持っていたかどうかも知りたがったわ。わたしがそのことには気がつかなかったと言うと、その人はいったん帰るようなふりをしてね。わたしは二階に上ったわ。二階のある老婦人の家事の世話を毎朝しているものだから。するとしばらくして、その人が階段を上って行く足音が聞こえたわ。わたしには外に出てみなくても、その人がブランシュさんの住んでいる四階に行き、彼女の部屋に押し入ることがわかっていました』
『黙って放っておいたのですか?』
『わたしはここの管理人になってかなり長いので、警察を敵にまわしてはいけないことを知ってるのよ』
『彼は長い間部屋にいましたか?』
『十分ほどね』
『もう一度彼に会いました?』
『その人にはもう会わないわ』
『そのことをブランシュさんに話しました?』」
メグレはグラスをじっと見つめつづけながら話を聞いていた。この出来事を彼がすでに知っているいくつかの出来事と合致させようとしていたのである。
ジャンヴィエは話をつづけた。
「彼女はためらいました。彼女は自分が顔を赤らめたのを感じ、本当のことを話すことにしてくれました。
『わたしは彼女に、あなたのことをいろいろ聞きにきた人がいたわよ、と教えてやったわ。それに、その人が彼女の部屋まで上って行ったことも。でも、警察だとは言ってないわ』
『彼女はおどろいたようでした?』
『ええ、最初はね。でも、そのあとでこうつぶやいたわ。
『それがどういうことだか、わたしにはわかるような気がするわ』
今朝、彼女が仕事に出かけた数分あとにやってきたのは、二人だったわ。彼らも警察の者だと言ったわ。小さいほうがバッジを見せるしぐさをしたけど、わたし、見もしなかったわ』
『彼らも四階に行きました?』
『いいえ。前の人とおなじ質問をしたわ、それに別の質問も』
『どんな?』
『彼女はだれとよく外出するのかとか、彼女の男友達や、女友達はだれだとか、彼女はよく電話をかけるかとか……』」
メグレはジャンヴィエ刑事の話をさえぎった。
「それで彼女について管理人はどんなことをきみに言った?」
「リュシル・クリスタンという女友達の名前は教えてくれました。この女は近くに住んでいて、ある事務所で働いているらしいです。|やぶにらみ《ヽヽヽヽヽ》なんですね。ブランシュは昼食はサン・ジェルマン大通りの『トロワ・ミニステール』というレストランで取ります。夜は自分で料理をつくります。このリュシル・クリスタンはかなりひんぱんに彼女のところへ食事にやってきます。
管理人の女はもう一人の女友達のことも話してくれました。この女はヴァノー通りにはたまにしか姿を見せませんが、この女の家にブランシュ・ラモットは日曜日ごとに夕食に行ってます。この女はアリエルという中央市場《レ・アル》の場内仲買人と結婚していて、クールセル通りに住んでいます。管理人の考えでは、この女もブランシュのように、ラ・ロシュ・シュール・ヨンの生まれではないかと」
「きみはクールセル通りに行ったのか?」
「あなたの話では何事もなおざりにしないでということでしたし、私にはどういう事件なのかさっぱりわかりませんので……」
「話をつづけたまえ」
「管理人の女の情報は正確でした。私はアリエル夫人のアパルトマンへ行きました。アリエル夫人は安楽な生活を送っています。三人の子供がいて、いちばん下は八歳です。私はここでも保険会社の調査員になりました。彼女はひるんだ様子がなかったので、私はこれまでだれも彼女に会いに来なかったのだなと思いました。彼女とブランシュ・ラモットとはラ・ロシュ・シュール・ヨンからの知り合いでした。二人は学校が一緒でした。彼女たちは一時交際しなくなりましたが、三年前にパリで偶然に出会ったのです。アリエル夫人はこの女友達を招待しました。以後、毎日曜日アリエル夫妻のところで夕食を取るのがブランシュ・ラモットの習慣になります。その他は特別なことは何もありません。ブランシュは規則正しい生活を送り、仕事に身も心も捧げつくし、彼女の雇主のことは熱心に話します。雇主のためなら火のなかにも飛び込むでしょう」
「それだけかね?」
「いや。一年ほど前、ブランシュはアリエル氏に、彼女の知っている人が非常に金に困っているので何か仕事がないかとたのんでいます。フルーリーのことです。アリエル氏は……私には太っ腹な人間のように思えますが……彼の事務所で使ってやりました。フルーリーは毎朝六時にそこへ行ったにちがいありません」
「何かあったのか?」
「フルーリーは三日間働き、そのあとで来なくなりました。あやまりにも来ませんでした。ブランシュは恥をかきました。あやまったのは彼女です。
私は『トロワ・ミニステール』に入ってみようと思い、サン・ジェルマン大通りに引っ返しました。遠くから、あいかわらず見張りが立っているのが見えました、ガストン・ルジェだけではなく、私が名前も忘れてしまった彼の同僚の一人もいました……」
メグレはこうしたことをすべて整理してみようとした。月曜日の夜、オーギュスト・ポワンはパストゥール大通りのアパルトマンに行き、カラム・レポートをおいてきた。そこのほうが他のところより安全だと思ったからだ。
ところで、火曜日の朝早く、警察だと自称する者がヴァノー通りのブランシュ・ラモットの住居にあらわれた。そして、管理人の女にさして重要ではない質問をいくつかしたあと、ブランシュの部屋に押し入った。
この男は本当に警察官なのか?
もしそうなら、この事件は警視が恐れていた以上に始末におえないような気がする。しかし、この最初の訪問者は、国家警察総局とは何の関係もないというのがメグレの直観だった。秘書の部屋に何もなかったので、その足でパストゥール大通りへ向かい、カラム・レポートを奪ったのはそのおなじ男なのか?
「管理人の女はその最初の男の人相を言ったかね?」
「漠然とですが。かなり肥った中年の男で、人に質問するのがとても手慣れていたそうです。そのため、彼女はこの男を警察官だと思ったのです」
ジャコブ通りの居酒屋《ビストロ》の主人が、ピクマールに近づいて話しかけ、彼と一緒に出て行った男について述べた人相とほとんどおなじだった。
秘書のアパルトマンに上らなかった今朝の二人の男は国家警察総局の人間だということは十分にありうる。
「これから私は何をしますか?」
「私にもわからない」
「忘れていましたが、サン・ジェルマン大通りをふたたび通ったとき、バーのなかにリュカがいたような気がしました」
「たぶん彼だろう」
「リュカもおなじ事件で?」
「まあね」
「私はあのブランシュ・ラモットを調べつづけますか?」
「リュカがもどってきてからにしよう。ここでもうしばらく待っててくれ」
メグレは電話のところへ行き、司法警察局を呼んだ。
「リュカはまだか?」
「まだです」
「トランスか? リュカがもどってきたらすぐにビヤホール『ドフィーヌ』によこしてくれないか?」
大見出しのついた夕刊の最終版を持った少年が通りを通った。メグレはポケットのなかの小銭をさがしながら、ビヤホールの入口のところへ行った。
もどってきてふたたびジャンヴィエのそばに坐ると、新聞を前にひろげた。頁の横いっぱいにつぎのような見出しがついていた。
『アルチユール・ニクー、逃亡か?』
このニュースは非常にセンセーショナルなものだったので、一面の記事を組み替えなければならなかったほどだった。
『クレールフォン事件は意外な展開を見せはじめた。だが、ある人々にはこの展開は予期していたところであるらしい。
あの大惨事の翌日から、周知のとおり世論は沸騰し、すみやかなる責任追及がなされることを要求した。
五年前、このいまや有名になりすぎたサナトリウムを建てた『ニクー・エ・ソーヴグラン会社』は、消息通によれば、ただちにきびしい捜査を受けなければならないはずだった。
それなのになぜ何もされなかったのか? 近日中にその理由の釈明がなされることをわれわれは希望する。とにかく、アルチュール・ニクーは人前に姿を見せるのを恐れ、ソローニュにある彼の狩小屋のなかに隠れていたことは事実。
警察はその辺のことに通じているようだ。警察はこの請負師に、あらゆる不慮の出来事を避けさせるため、しばらく姿を隠していることをすすめた、とさえ断言している人々もいる。
あの大惨事の四週間後の今朝になってやっと、すべての人々の関心の的《まと》になっている問題にかんして尋問するため、アルチュール・ニクーを召喚することがその筋で決定された。
今朝早く国家警察総局の二人の刑事が狩小屋に行った。だが、狩小屋には猟場番人の他だれもいなかった。
この猟場番人は二人の刑事に、主人は所用で前日の夜出かけたと語っている。
この所用というのは間もなくわかった。二時間前に、ブリュッセルのわが社の特派員が、アルチュール・ニクーが午前中に町に着き、ホテル『メトロポール』の豪華な部屋に入ったと電話してきた。
わが社の特派員はこの請負師に会って、いくつかの質問をすることができた。以下、ここにその問答をことごとく転載する。
「あなたがソローニュの狩小屋をとつぜん去ったのは、警察が来ることがわかっていたからだというのは本当ですか?」
「そんなことは絶対に嘘だ。私は警察の意図など知らなかったし、いまでも知らない。一カ月前から警察は私のいる場所をよく知っていた」
「あなたは事件の新たな展開に備えてフランスを出たのですか?」
「私がブリュッセルに来たのは仕事があったからだ」
「どんな仕事です?」
「飛行場の建設だ。私が請負ったのだ」
「あなたはフランスに帰って、当局に身柄を一任するつもりはありませんか?」
「とにかく私は計画を変えるつもりはない」
「ということは、クレールフォン事件が忘れられるまでブリュッセルに滞在しているということですか?」
「くり返し言うが、私は仕事に必要なだけここに滞在する」
「たとえ拘引状が出されても?」
「私に質問したければ、一カ月も時間があったのだ。警察がそれをしなかったのは私のせいではない!」
「カラム・レポートの噂を聞きましたか?」
「何のことを言っているのか、私にはわからない」
この言葉を最後に、アルチュール・ニクーは会見を打ち切った。そこで特派員はただちにわが社に電話してきた。
われわれは確認を取っていないが、ブロンドの上品な若い女が……まだ身許がわかっていない……ニクーの一時間後に到着し、そのまま彼のホテルの部屋に入って行った。この女はいまでもホテルにいる。
国家警察総局は、二人の刑事が請負師に質問するためソローニュに行ったことを認めた。拘引状のことをたずねると、いまのところまだそのことを考えていないという返事がかえってきた』
「これですね、あなたの事件は?」と、ジャンヴィエはしかめ面をしてつぶやいた。
「そうだ」
ジャンヴィエは口を開きかけたが、何も言わなかった。たぶん彼は、メグレがどうしてこんないかがわしい政治的事件に首を突っこんだのか聞きたかったのだろう。リュカが例のごとく左足を曳きずるようにして広場を横切ってくるのが見えた。リュカはカウンターのところで立ち止まらず、まっすぐ二人の前に来て坐った。不満そうな様子で、汗を拭った。
「それを読みましたよ」
リュカに新聞を指さすと、非難がましい口調で言ったが、メグレにたいしてこんな口のききかたをしたことはかつてないことだった。
警視はこの二人の部下にたいして少なからず罪の意識を持った。いまではラポワントもどんな事件かわかったにちがいない。
「ビールにするか?」と、メグレが聞いた。
「いや。ペルノー酒にします」
これもまたいつものリュカらしくなかった。彼らは飲物が出てくるまで待ってから、小声で話しはじめた。
「いたるところで|大きな家《グランド・メゾン》の連中に出くわしたと思うが?」
|大きな家《グランド・メゾン》というのは国家警察総局をさす彼らのいつもの言い方だ。
「よくも、人目につかないようになんて言えましたね!」と、リュカはぶつくさ言った。「あの連中の先を越さなければならないのでしたら、おあいにくさま、やつらはわれわれより数馬身先んじていますね」
「話してくれ」
「何をです?」
「きみがしたことを」
「私はまずサン・ジェルマン大通りをぶらつくことからはじめました。ジャンヴィエの数分後に、私は大通りに着いたのです」
「ルジェが?」と、ジャンヴィエがたずねたが、状況のおかしさに思わず微笑んだ。
「彼は歩道の真中に突っ立ち、私が来るのを見ていました。私は急いでいるようなふりをしました。彼は笑いながら、こうたずねました。
『シャンヴィエをさがしているのかい? 彼ならたったいま、ソルフェリノ通りの角をまがったよ』
国家警察総局のやつらに侮《あなど》られるのはいつでも愉快なものではありません。
公共事業省の付近でジャック・フルーリーのことを問い合わせることができないため、私は……」
「電話帳を調べてみなかったのかい?」と、ジャンヴィエが訊いた。
「そのことを考えなかった。フルーリーがシャンゼリゼのバーに出入りしていることがわかっていたので、私は『フーケ』に行きました」
「フルーリーは間違いなく電話帳に載っているよ」
「そうかもしれない。だが、私に最後まで言わせてくれないか?」
ジャンヴィエはいまでは、ひどい目にあったばかりの人間が、こんどは他人がひどい目にあうのを見ているような軽々しい、嘲笑的な気分だった。
結局、メグレも、二人の部下も、自分たちの領域内にいるような気がしないので、おたがいにぎごちなかった。三人とも国家警察総局の同僚たちの嘲《あざけ》りを難なく想像することができた。
「私はバーテンとおしゃべりしました。フルーリーはみんなに知られています。たいてい、彼はできるだけつけにしてもらいます。つけの金額がたまりすぎると、もう彼には飲食物を一切だしません。すると、彼は他のバーやレストランでつけがきかなくなるまで、数日間姿を消します」
「最後には払うのか?」
「ある夜、晴れやかな顔をしてもどってくると、無雑作な様子でつけを清算します」
「そのあと、また前とおなじようになるのかね?」
「そうです。こういったことがここ数年つづいています」
「公共事業省に勤めるようになってからも?」
「ただ、以前とちがうところは、いまでは官房長であるし、彼にはある勢力があると思われているので、飲食物を御馳走する人々がふえたということです。その前は、彼は数カ月間姿を消すことがよくありました。一度、中央市場《レ・アル》で働いているところを見られています、トラックから下ろしたキャベツを数えていたそうです」
ジャンヴィエは心得顔でメグレをながめた。
「ヴァンヴの近くのどこかに、奥さんと二人の子供がいますが、彼は暮らしに足るだけの金は送っているようです。さいわい奥さんは仕事を持っています。一人暮らしの老人の家の家政婦のようなものですが。子供たちも働いています」
「どんな人間と彼はバーに出入りしているのだね?」
「長い間、四十ぐらいの女と一緒でした。褐色の髪の豊満な女らしいです。みんなはマルセルと呼んでいますが、彼はこの女に惚れていたらしいですね。彼がこの女を見つけたのはサン・マルタン門のあるビヤホールのレジだと言う人もいます。いまこの女がどうなったかはわかりません。一年ちょっと前から、彼はジャックリーヌ・パージュという女と一緒で、彼女とワシントン通りのイタリア人の食料品店の上のアパルトマンに住んでいます。
ジャックリーヌ・パージュは二十三歳で、ときどき映画の端役に出ています。彼女は『フーケ』に出入りするすべてのプロデュサーや監督や俳優に自分を売り込もうと努めていて、彼らの言いなりになるそうです」
「フルーリーは惚れているのか?」
「そのようですね」
「嫉妬は?」
「嫉妬しているらしいですが、ただ彼は文句を言う勇気がないので、何も気づかないふりをしています」
「きみは彼女に会ったのかね?」
「私はワシントン通りに行くべきだと考えました」
「彼女に何をしゃべったのかね?」
「私は何もしゃべる必要はありませんでした。ドアを開けるや彼女はさけんだんです。『また!』」
ジャンヴィエとメグレは思わず微笑を洩らしてしまった。
「何がまたなんだ?」と、メグレは訊いたが、その答えはあらかじめ彼にはわかっていた。
「よくご存じでしょう、警察官ですよ。私の前に二人来たばかりだそうです」
「別々に?」
「一緒です」
「その二人はフルーリーのことをたずねたのか?」
「フルーリーがときどき夜も働いていたか、公共事業省の書類を持ち帰ったかどうか訊いたそうです」
「彼女は何と答えた?」
「夜はわたしたちには他にすることがある、と。舌がよくまわる女です。奇妙なのは、彼女の母親がピクピュスの教会で貸椅子係りをしていることです」
「その二人は、アパルトマンのなかをさがしたのかね?」
「部屋を一瞥《いちべつ》しただけです。あれはアパルトマンとはいえませんね。キャンブのなかみたいなものですよ。台所は朝のコーヒーを用意するのがやっとの狭さ。他の部屋、客間と寝室と食堂らしきところは足の踏み場もないほどの散らかしよう。あちこちに靴や女の下着、雑誌、レコード、大衆小説、さらには酒壜やグラスなど」
「ジャックリーヌは昼食のとき彼と会うのかね?」
「たまにです。たいていいつでも、彼女は午後の中ほどまで寝ています。ときどき彼が午前中に電詰をしてきて、レストランで一緒に昼食をしようと誘うそうです」
「二人には友達が多いのだろうか?」
「おなじレストランやバーに出入りしている人たち」
「それだけか?」
その問いに答えるときのリュカの声には、初めて、悲壮といっていい調子がこもった。
「いえ、それだけではありません! あなたはできるだけ調べてくるようにと私に指示しました。まず、私はジャックリーヌの旧《ふる》い恋人たち十人ほどのリストを手に入れました。そのなかには彼女がいまでも会っている者が何人か含まれています」
うんざりした様子で、彼はテーブルの上に一枚の紙をおいた。その紙には鉛筆で名前が書いてある。
「見ればわかりますが、このリストには二人の政治家が入っています。つぎに、私はマルセルという女をほぼ見つけましたよ」
「どうやって?」
「この脚を使ってです。オペラ座通りからはじめ、グラン・ブールヴァールのすべてのビヤホールをさがしました。レピュブリック広場の最後のビヤホールでした」
「マルセルはそこでレジの仕事をしていたのかね?」
「いや。でも、そこの人たちが彼女のことをおぼえていて、近くで見かけたと言うのです。ビヤホールの主人は、彼女は近くのブロンデル通りあたりに住んでいるんじゃないかと思っています。クロワッサン通りでよく彼女と出会うので、主人は彼女が新聞取次店か、印刷所で働いているという印象を受けたそうです」
「それをたしかめたかね?」
「まだです。それをしなければいけませんか?」
その口調に、メグレは冗談とも真面目ともつかない声でつぶやいた。
「怒ったのか?」
リュカはむりやり微笑もうとした。
「いや。しかし、これがおかしな仕事であることはあなたも認められるでしょう。とくにあのいまわしい事件に関係あると、後で知ってからは! このままつづけなければならないのでしたら、私はつづけます。でも、率直に言って……」
「私がこれをおもしろがっていると、きみは思っているのか?」
「いいえ。あなたの立場はわかります」
「クロワッサン通りはそれはど長くはない。あの辺の人はおたがいに顔見知りだ」
「国家警察総局の連中がもう行っているかもしれませんね」
「そうかもしれない」
「よし、行ってきます。もう一杯いただけますか?」
リュカはたったいま空けたグラスを指さした。メグレはボーイに、飲物をお代りする合図をしたが、最後の瞬間になって、ビールのかわりに彼もペルノー酒を注文した。
仕事を終えた他の部の刑事たちがカウンターにアペリチフを飲みに来て、メグレたちに手で挨拶した。メグレは額を曇らせて、オーギュスト・ポワンのことを考えていた。ポワンも記事を読んだはずだ。そして、自分の名前が新聞にこうした大きな活字で出るのをいまかいまかと恐れているにちがいない。
ポワンから話を聞かされたにちがいない奥さんも、彼同様心おだやかでないだろう。ポワンはブランシュ・ラモットにも話したのか? 彼らは三人とも、彼らのまわりで密かにくりひろげられている警察の動きを悟っているのか?
「私は何をします?」と、ジャンヴィエはいやな仕事だが、しかたがないとあきらめてしまった人間の口調で訊いた。
「ヴァノー通りを見張る勇気があるかね?」
「一晩中ですか?」
「いや。たとえば十時頃までだ。あとはトランスに交代させる」
「あそこで何かが起こるとあなたは考えているのですか?」
メグレは白状した。
「いや」
彼は全然そんなことは考えていなかった。というより、あまりにも多くの考えがもつれあっていたので、どうしていいのかわからなかったのだ。そういう場合はいつでももっとも単純な事実、たしかめることができる事実に立ち返る必要がある。
月曜日の午後、ピクマールという男が公共事業省の事務室にあらわれたことはたしかだ。彼は受付に話しかけ、訪問者カードに書き込んだにちがいない。メグレはその訪問者カードを見ていないが、さがし出されるにちがいない。この訪問がポワンのつくり話であるということはないだろう。
少なくとも隣りの事務室にいた二人の人間がこのときの会話を聞くことができた。ブランシュ・ラモットとジャック・フルーリーである。
国家警察総局もそのことを考えて、この二人の住居を調べた。
ピクマールは本当にカラム・レポートをオーギュスト・ポワンにわたしたのか?
ポワンがこうした芝居をすべて演出したとはメグレには思われなかった。第一、そんなことをしたって、何の意味もないではないか。
ポワンはパストゥール大通りの自分の私的な住居に行った。そしてデスクのなかにカラム・レポートをおいてきた。そのことも、警視は信じていた。
ということは、翌朝ブランシュ・ラモットの家にあらわれ、彼女の部屋を家さがしした人物は、カラム・レポートのありかがはっきりわからなかったのだ。
その午後、カラム・レポートは消えてしまった。
水曜日の朝、こんどはピクマールがいなくなった。
と同時に、初めてジョゼフ・マスクランの新聞がカラム・レポートについて書き、この書類がどこに隠されているのかと公然と問うている。
メグレの唇が動きはじめた。彼はひとり言をいうように、低い声で話していた。
「二つのうちのどちらかだ……カラム・レポートは湮滅《いんめつ》させるために盗まれたのか、それとも利用されるために盗まれたのか。いままでのところ、だれもまだカラム・レポートを利用してはいない」
リュカとジャンヴィエは黙って聞いていた。
「でなければ……」
メグレはゆっくりとグラスを半分ほど飲み、唇をぬぐった。
「こいつはこみ入っているようだな。しかし、政治にかかわった問題になると、事はいつでも複雑になる。カラム・レポートを湮滅したいと思っているのは、クレールフォン事件に捲きこまれた一人ないし数人の人間だけだ。そこでもしこの書類が数時間表面に浮かび出ただけでまた消えてしまったとなれば、当然疑われるのはこの人たちである」
「わかるような気がします」と、ジャンヴィエがつぶやいた。
「ニクーのことは措《お》いて、少なくとも三十人ほどの政治家がスキャンダルか、もっと悪いことに直面している。だから疑いを一個人におっかぶせることができれば、この人間に不利な証拠をつくることができれば、この人間に弱点があれば、理想的な身代りになる。オーギュスト・ポワンの立場は弁護の余地がない」
二人の部下はおどろいてメグレを見た。メグレは二人がこの事件の一部分しか知らないことを忘れていた。いまではもう彼らにたいして秘密にしておける段階を越えていた。
「ポワンはサモエンスでのニクーの招待客のリストに載っている」と、メグレは言った。「娘はこの請負師から金の万年筆を受け取っている」
「ポワンに会ったのですか?」
メグレはうなずいた。
「それでは彼ですか? ……」
リュカは質問を最後まで言わなかった。だが、メグレにはわかっていた。リュカはこうたずねたかったのである。「あなたに助けを求めてきたのは彼ですか?」
やっと三人の男の間にあった気詰りが消えた。
「そう、彼だ。いまでは、他の連中がそのことを知らないほうがおどろきだよ」
「隠す必要はもうないのですか?」
「とくに国家警察総局には」
彼らはグラスを前にしてさらに十五分ほどぐずぐずしていた。メグレは最初に立ち上り、おやすみと言い、念のためにオフィスにもどった。彼へのことづては何もなかった。ポワンから電話がなかったし、クレールフォン事件にかかわるいかなる人からも電話がなかった。
夕食のとき、メグレ夫人は夫の顔つきから何もたずねないほうがいいと思った。メグレは国際警察の雑誌を読んで宵《よい》を過ごし、十時にベッドに入った。
「仕事が多いのですか?」
彼らは眠りにつこうとしていた。夫人は口に出かかっていたこの質問を長い間押さえていたのだ。
「多くはないが、いやな仕事なんだ」
二度ほど、彼は電話のほうに手を伸ばし、もう少しでオーギュスト・ポワンを呼び出すところだった。ポワンに何を言ったらいいのかわからなかったが、彼と連絡を取りたいような気がしたのだ。
メグレは八時に起きた。カーテンのうしろに、窓ガラスにくっつき、通りの物音を防音しているような薄い霧が見えた。バスに乗るためリシャール・ルノワール大通りの角へ向かって歩いて行き、新聞売りの前で立ち止った。爆弾は投げられていた。
『クレールフォン事件
カラム・レポートを見つけたジュール・ピクマールの失踪。
ある政府高官に手わたされたカラム・レポートも消えた』
新聞をかかえて、メグレはバスの立席《デッキ》に乗った。オルフェーヴル河岸に着く前に、それ以上読もうとはしなかった。
廊下を歩いていると、彼のオフィスで電話が鳴っているので、足を速め、受話器を取った。
「メグレ警視ですか?」と、交換手が訊いた。「公共事業省から電話です。これが、ここ十五分のうちに三度目です。つなぎますか?」
彼はまだ帽子をかぶり、霧でしめっぽくなったコートを着たままだった。
[#改ページ]
第五章 教授の懸念
その声は一晩中眠らなかった男の声だった。いや、二、三日前から眠っていない男の声だった。その男はもう言葉を選んでしゃべる努力もしていなかった。というのは、自分がどのように思われるかなど気にかける段階を越えていたからなのだ。男がこういう単調な、抑揚のない、無気力な口調でしゃべるときは、女が、口を大きく開け、醜く見えるのもかまわずに恐ろしい形相で泣くときとほぼおなじ徴候を示しているのだ。
「すぐにこちらに来ていただけないでしょうか、メグレさん? 事態の現状から見て、あなたが個人的にお困りになるのでなければ、サン・ジェルマン大通りを避ける理由はないわけです。前もってお知らせしておきますが、ここの控え室には新聞記者が一杯ですし、電話はひっきりなしに鳴っています。私は新聞記者たちに十一時に記者会見すると約束しました」
メグレは時計を見た。
「すぐにうかがいます」
ドアがノックされ、若いラポワントが入ってきた。メグレはまだ受話器を持ったまま、額に皺《しわ》をよせていた。
「何か用かね?」
「ええ、新事実が」
「重要なのか?」
「と思います」
「帽子を持って私と一緒に来るんだ。途中で話を聞こう」
メグレは守衛の前でちょっと立ち止まると、会議に出られないということを局長に伝えてもらいたいと頼んだ。中庭に出ると、司法警察局の黒い小型車の一台に近づいた。
「きみが運転したまえ」
そして、河岸を走っているとき、
「新事実というのは何だね?」
「私は『ホテル・デュ・ベリ』で夜を過したのです、私が借りたあの部屋で」
「ピクマールはあらわれなかったのか?」
「ええ。一晩中、国家警察総局の者が通りで見張っていました」
メグレはそうだろうと思っていた。そのことで心を乱されなかった。
「暗いうちはピクマールの部屋に入りたくありませんでした。明りをつけなければなりませんし、そうすればその明りが通りから見えてしまいます。私は夜明けまで待って、最初のときよりずっと綿密に部屋のなかを調べました。すべての本を一冊ずつ手に取り、ページをめくってみました。ある経済学の本のなかに、しおりのようにこの手紙がはさみ込んであったのです」
左手で運転しながら、もう一方の手でポケットから紙入れを取り出し、メグレに差出した。
「左側です。国民議会の頭書付きの手紙です」
小型の書簡箋で、議員たちがちょっとした短い手紙に使うものだった。この手紙は先週の木曜日の日付がついている。筆蹟は小さくてぞんざいで、文字がたがいに重なり合い、ほとんど判読できない言葉もあった。
[#ここから1字下げ]
拝啓
連絡ありがとう。あなたの話にはひどく興味がありますので、明日夜の八時頃、モンマルトル通りのビヤホール『クロワッサン』でよろこんでお会いします。それまで、この問題をだれにも口外なさいませんように。敬具』
[#ここで字下げ終わり]
いわゆる署名はなかったが、アルファベットのどの文字にも読める書判《かきはん》があった。
「これは、ジョゼフ・マスクランのものじゃないかな?」と、メグレはつぶやいた。
「そうです、彼のものです。私はさっそく国民議会の速記者である仲間のところへ飛んで行きました。彼は議員の大部分の筆蹟を知っているんです。最初の行と、書判《かきはん》を見せるだけで十分でした」
車はすでにサン・ジェルマン大通りに来ていた。公共事業省の前に、メグレは新聞社の車を数台見かけた。正面の歩道にちらっと目をやったが、通りには国家警察総局の人間の姿は一人も見えなかった。爆弾が投げられてしまったいまとなっては、見張りをやめてしまったのか?
「お待ちしますか?」
「うん、そのほうがいい」
メグレは中庭を横切り、大きな階段を上ると、深紅のじゅうたんと黄色い柱の控え室に出た。そこには彼の知っている顔がいくつかあった。二、三人の新聞記者が彼のほうに近づいてこようとしたが、守衛が彼らの機先を制した。
「こちらからどうぞ、警視さん。大臣がお待ちです」
大きな、薄暗い事務室のなかで……明りはついていた……、オーギュスト・ポワンは立っていた。メグレには、パストゥール大通りのアパルトマンのときよりも背が低く、どっしりしているように思えた。ポワンはメグレに手を差し出し、大きなショックをうけたばかりの人間が、ほんのちょっとした思いやりのしるしにも感謝するときのように、しつこく相手の手をにぎりしめたままでいた。
「メグレさん、よくいらしてくださいました。こんなことにあなたを捲きぞえにしてしまったことで、私はいま悔んでいます。私の心配が間違いではなかったことがおわかりになったでしょう!」
彼は、電話を終えて受話器をかけた女のほうを向いた。
「私の秘書のブランシュ嬢です、彼女のことはすでにお話してありますね」
ブランシュは疑い深い目でじっとメグレを見つめた。用心しているようだった。彼女は手を差し出さず、軽くおじぎしただけだった。
平凡で、魅力のない顔だったが、ただ襟のところに細くて白いレースがついただけの、非常にシンプルな黒のドレスに包まれたからだは、まだ若々しく、ぽってりと肥っていて、十分に男心をそそるものだった。メグレはそのことにおどろいた。
「よろしかったら、アパルトマンのほうに行きましょう。私はこの事務室に慣れることができないのです。ここにいるとあいかわらず落ち着かないのです。電話はすべてきみが受けておいてくれ、ブランシュ」
「わかりました、大臣」
ポワンは奥のドアを開けると、あいかわらず抑揚のない声でつぶやいた。
「私が前を歩きましょう。道順がかなり入りくんでますので」
そういう彼自身もまだこの道順に慣れていず、人気のない廊下のなかでよそ者のように見えた。ときどきドアの前でためらってしまうこともあった。
彼らは狭い階段に出ると、上り、二つの大きな空部屋を横切った。手に箒《ほうき》を持って通りかかった白エプロンの女中を見かけたことは、彼らが建物の公けの部分を去り、私的なアパルトマンのなかに着いたことを示していた。
「私はフルーリーをあなたに紹介したかったのです。隣りの事務室にいたんですよ。いざというときになって、そのことをすっかり忘れてしまいました」
女の声が聞こえた。ポワンは最後のドアを開けた。小さな客間があった。女が窓のそばに坐り、そばに若い女が立っていた。
「妻と娘です。私たちの話を一緒に聞いてもらったほうがいいと思ったのです」
ポワン夫人は通りで買物をしているのを見かけるような、どこにでもいる小市民階級の中年女といった感じだった。彼女もやつれた顔付きをしていて、目がいくぶんうつろだった。
「何はさておき、わたしはあなたに感謝しなくてはなりません、警視さん。主人はわたしにすべてを話してくれました。主人はあなたと話し合ったおかげでどれほど助けられたか、わたしはよく存じております」
センセーショナルな見出しのついた新聞がテーブルの上に散らばっている。メグレは最初、若い娘にはほとんど注意をはらわなかった。父親や母親よりも静かで、自制心があるように彼には思えた。
「コーヒーを一杯いかがです?」
メグレは何だか死人のあった家にいるような気がした。平々凡々たる日常生活がとつぜんひっくり返され、人々はどこに行ったらいいか、何をしたらいいのかわからず、ただいたずらに右往左往し、しゃべっている。
彼はまだコートを着たままだった。それを脱ぐようにすすめてくれ、肱掛椅子の背にかけてくれたのはアンヌ・マリーだった。
「今朝の新聞をお読みになりましたか?」
やっと大臣が口を開いたが、あいかわらず立ったままだ。
「見出ししか見ておりません」
「私の名前はまだ出ていませんが、新聞記者たちは皆知っています。彼らは昨夜の間にこの情報を得たにちがいありません。私は知り合いのクロワッサン通りの植字工から知らされたのです。さっそく総理に電話しました」
「総理の反応はどうでした?」
「総理がおどろいたか、おどろかなかったか私にはわかりません。私はもはや人々の反応を判断することができないのです。もちろん、総理は寝ているところを起こされたのですから、おどろかないわけがありませんが、電話での総理は、私が思っていたよりも動揺したようには見えませんでした」
彼はあいかわらずいやいやながら、自信なげに話しているみたいだった。言葉遣いなどもう彼にはなんの重要さもないようだった。
「お坐りください、メグレさん。私のほうは立ったままで失礼させていただきます。今朝から、私は坐ることができないのです。坐るとひどい不安に襲われるのです。私は立ったままでいなければなりません、歩きまわっていなければなりません。あなたがいらっしゃったとき、私は一時間前から事務室のなかを歩きまわっていました。電話には秘書がすべて答えてくれました。私はどこまで話しましたかな? あ、そうです、総理はつぎのようなことを私に言いました。
『いいか、きみ、われわれは非難の矢おもてに立つだろう!』
総理の言った言葉はこのようなものだったと思います。私はピクマールを監禁したのは総理の手の者かと訊きました。総理は小声で、『それがどうだと言うのだ?』
そして、私や他のどの大臣よりも、総理は、彼直属の中央情報局で起こったことについては何もわからないのだと説明しました。そのあと、総理はこのことから話をそらしてしまい、
『われわれはすべての責任を負わされる、ただの通行人にすぎないというのに。われわれから命令をあたえられる人々だけが、昨日別の主人を持ち、明日また別の主人を持つだろうということをよく知っているんだ』
私はほのめかしてみました。
『私のなすべき最善の方法は明日の朝早く辞表を出すことではないでしょうか?』
『きみはせっかちすぎる、ポワン。私は不意を打たれたよ。政治の世界においては、物事が見込みどおりになるということはめったにないのだ。きみの申し出は考えておこう。あとでまた電話する』
私は、総理が私たちの同僚の何人かに電話をしたと思います。彼らはたぶん会合を持ったのではないでしょうか? その辺のことは私にはわかりませんが、いまではもうそのことを私に知らせてくる理由が彼らにはないわけです。私はその夜の残りを、寝室のなかをあちこち歩きまわって過ごしました。そういう私を妻は落ち着かせようとしました」
ポワン夫人はこう言いたげな様子でメグレを見た。
「助けてください! あなたにはこの人のいまの状態がおわかりでしょう!」
たしかにそのとおりだった。パストゥール大通りの夜は、ポワンはパンチを受けてよろめき、どうやって抵抗していいかまだわからないが、勝負をあきらめていない男のようにメグレには思われた。
それがいまでは、一連の出来事がもう彼には関係ないかのような、彼の運命がこんどというこんどは決定してしまったので闘いを断念してしまったかのような話し方をしている。
「総理は電話してきましたか?」とメグレは訊いた。
「五時半頃に。あなたもご承知のように、私たちのうち幾人かは、昨夜はまんじりともしませんでした。総埋は、私の辞表は何の解決にもならないし、罪を告白しているように取られてしまう、私のなすべきことはただ真実を言うことだと言われました」
「カラム・レポートの内容もですか?」と、メグレはたずねた。
ポワンはやっと微笑んだ。
「いや。正確にはそうではないのです。私が話が終ったと思い、電話を切ろうとしたとき、総埋はこうつけ加えました。
『私はきみがカラム・レポートを読んだかと訊かれると思う』
私は答えました。
『読みました』
『そうだろうと思っていた。あれはかなり大部なものだし、一法律家には必ずしもなじみがあるとは言えないテーマについて、技術的なディテールが一杯の報告書だ。だから、ざっと目を通した程度だと言うのが良くはないかと思う。記憶を新たにしようにも報告書はもう手許にはないのだし。私がこんなことを言うのは、きみがすでに直面している面倒以上のゆゆしい面倒を惹き起こさないようにするためだ。報告書の内容を話して、だれかをこの事件に捲《ま》きこんだら……それがだれだか私には関係ないし、そんなことはどうでもいいが……、きみは耐えることができないような非難を浴びせられることになるだろう。わかるかね?』」
ポワンはパイプに火をつけたが、話をはじめてから少なくともこれで三度目だ。ポワン夫人はメグレのほうを向いた。
「よろしかったら、あなたもどうぞ。わたしは慣れていますから」
「朝の七時から、電話が鳴りっぱなしです。ほとんどが私に質問したがっているジャーナリストたちです。最初、私は何も言うことはないと答えましたが、そのうち彼らの口調がほとんど脅迫的になってきました。新聞の編集局長が二人、個人的に私を電話に呼び出しました。最後に、私は十一時に私の事務室で記者会見を行なうとすべての人に約束しました。私はその前にあなたに会う必要があったのです。私が思いますのに……」
そのときまで彼がこの問題を延ばしたのは、たぶん差恥心か怖れか、あるいは小心さからだろう。
「私が思いますのに、あなたはまだ何も見つけ出しておりませんね?」
メグレがポケットから手紙を出し、一言も言わずに差し出したのは、彼のしぐさにもったいをつけ、大臣に自信らしきものをあたえるために、わざとそうしたのだろうか? とにかくそれは、いつもの彼とちがって、芝居がかっていた。
ポワン夫人は坐っていたソファから動かなかったが、アンヌ・マリーは父親のところへ来ると、肩越しに手紙を読んだ。
「だれからの手紙です?」と、アンヌ・マリーはたずねた。
メグレはポワンに訊いた。
「この筆蹟に見おぼえがありますか?」
「おぼえているような気がしますが、見慣れたものではありません」
「この手紙はジョゼフ・マスクランが先週の木曜日に書いたものです」
「だれに?」
「ジュール・ピクマールに」
沈黙があった。ポワンは黙ってその手紙を妻に差し出した。おそらく三人とも、この発見の重要さを推し測ろうとしているのだろう。
メグレが話しはじめたとき、その声にはパストゥール大通りのときのように、尋問口調があった。
「マスクランとあなたの関係は?」
「ありません」
「喧嘩したことは?」
「ありません」
ポワンは重々しく、心配そうだった。メグレは政治にたずさわったことは一度もなかったが、議員の慣習というものを全然知らないわけではなかった。一般的には、議員というものは党派が異なっていても、たとえ議会で猛烈に攻撃し合っても、まるで学校の友達か、兵隊時代の友達ででもあるかのような、心のこもった、親しい関係を保っている。
「彼と話したことがないのですか?」と、メグレは言った。
ポワンは額に手をやった。
「数年前、私が代議士になった頃にさかのぼります。あなたもおぼえておられるでしょうが、面目一新なった議会。私たちは不正なことはしまいと誓い合いました」
戦後すぐのことで、国全体が理想主義の波につつまれていた。人々は清潔さを渇望していた。
「私の同僚たちの大部分が、とにかく彼らのほとんどすべてが、私同様、政治には素人でした」
「マスクランはそうではない」
「ええ。旧い議員も何人か残っておりましたが、新人の議員が正しい雰囲気を創るだろうと確信していました。数カ月後に、私はまったく自信をなくしました。二年後には、がっかりしてしまいました。そうだね、アンリエット?」
彼は妻のほうを向いた。
「もう立候補しない決心をしたほどだったわ」と、彼女は言った。
「私が発言しなければならなかったある晩餐会の席上、私は心に思っていることを口に出して言いました。その席には新聞記者たちがいて、私の言葉を控えていました。私の話のテーマはいわば|汚れた手《ヽヽヽヽ》の問題でした。欠陥のあるのは政治制度ではなく、政治家がいや応なしに生きていかなければならない環境であるというのが大体の私の説明でした。
その点をくわしく述べる必要はないでしょう。あなたは『友達同士の共和国』という例のスローガンをおぼえていますね。私たちは議会で毎日会い、旧友のように握手しました。ですから数週間後には、皆はおれ、おまえで話し、おたがいに少しでも相手を助けようとしました。毎日のように、たくさんの手を握りました。たとえその手が完全にきれいでなくても、寛大にこう言って肩をすくめてみせました。
『いいさ! あれは悪い奴ではない』
あるいは、
『地元の有権者のために、ああせざるをえなかったのだ』
おわかりになりますね? 私は、われわれの一人ひとりがこれを最後に、汚れた手を、不正者の手を握ることを拒絶すれば、政治の環境はこんどこそ浄化されるだろうと演説したのでした」
しばらくして、彼はにがにがしげにつけ加えた。
「私は演説したことを実行しました。私はブルボン宮(国民議会)の廊下を往き来しているある種のジャーナリストや、もぐりの実業家などを避けました。地元の有力な有権者にも、私がする必要がないと思った奉仕は拒絶しました。
ある日、ブルボン宮の『迷宮の間』で、マスクランが私のところへ来て手を差し出しました。私は彼を見ないふりをして、これ見よがしに他の同僚のほうを向いていました。
マスクランの顔が蒼白になり、決してそのことを許さなかったことを、私は知っています。彼は人を許さない類の人間なのです」
「あなたは『ラ・リュムール』の記者、エクトール・タバールにもおなじようなことをしましたか?」
「二、三度彼と会うことを拒絶しました。それ以上彼は言ってきませんでした」
彼は時計を見た。
「まだ一時間あります、メグレさん。十一時に、私はジャーナリストたちの前に出て、彼らの質問に答えなければなりません。彼らに声明文をわたすだけにしようかとも思ったのですが、それでは彼らが満足しないでしょう。私は彼らに、ピクマールがカラム・レポートを持ってきたこと、それを読むため私がパストゥール大通りのアパルトマンに行ったことを言わなければなりません」
「あなたはカラム・レポートを読まなかった!」
「その辺のところははっきりさせないようにしようと思ってます。もっとも困難なこと、もっとも不可能なことは、私が例のレポートを監視もなしにアパルトマンにおいてきたこと、翌日、総理にわたすためにレポートを取りに行ったときすでになくなっていたことを彼らに認めさせることでしょう。
だれも私を信じないでしょう。ピクマールの失踪は物事を全然単純にしません。その逆です。人々は何らかの手段によって、私がこの都合の悪い証人を隠したのだと言い張るでしょう。私が助かる道はただ一つ、カラム・レポートを盗んだ犯人を彼らに引き渡すことです」
彼はこのくやしさの言い訳をするかのように、つけ加えた。
「私は四十八時間、そのことを期待することはできませんでした、あなたからでさえも。私がどうすべきだと、あなたはお考えですか?」
ポワン夫人が口を出した。きっぱりしていた。
「辞表を出して、わたしたちはラ・ロシュ・シュール・ヨンに帰りましょう。あなたのことを知っている人たちは、あなたに罪がないのをご存じです。その他の人たちのことは、気になさることはありません。あなたはご自分にたいして何らやましいところがないのでしょう?」
メグレの視線はアンヌ・マリーの顔に注がれた。彼はアンヌ・マリーが唇をすぼめるのを見た。この若い娘は母親とおなじ意見ではなかったのだ。父親のこのような隠退は、彼女にとってたぶん希望の喪失を意味しているのかもしれない。
「あなたのお考えはいかがですか?」と、ポワンはつぶやいた。彼の心はぐらついていたのだ。
これは、警視には責任の負えない問題だった。
「あなたのお考えは?」
「じっとこらえなければならないと思います。とにかく、カラム・レポートを盗んだ犯人が見つかる望みが少しでもあるかぎりは」
それはまたしても間接的な問題だった。
「私は最後の瞬間まで、望みを持ちつづけるでしょう」と、メグレはつぶやいた。「そうでなければ、この捜査をはじめなかったでしょう。私は政治になじみがなかったので、無用と思えるようなやり方をして時間を無駄にしてしまった。しかし、それがそれほど無用であったかどうかは確かではありません」
メグレは、ポワンがジャーナリストたちの前に出るまでに、自信とはいかないまでも、少なくとも自信めいたものを持たさなければならなかった。そのため、メグレは状況をできるだけはっきりと描いてみせた。
「いいですか、大臣、われわれはいまは比較的気楽な立場にいます。これまでは、原則として人に感づかれずに仕事をしなければなりませんでした。だからと言って、道々ずっと、われわれは国家警察総局の人間とはち合わせせざるを得なかった。公共事業省の入口や、あなたの秘書の家の入口や、ピクマールの家や、あなたの官房長の住居の前などで、私の部下はいつも国家警察総局の人間が監視しているのを見ました。
私は一時《いっとき》、彼らが何をさがしているのかを考え、ひょっとしたら二つの警察がおなじ捜査をしているのではないのかと考えました。
いまでは私は、彼らはただわれわれが見つけ出すものを知りたかっただけなのだと考えています。監視されていたのは、あなたでも、あなたの秘書でも、ピクマールでも、フルーリーでもなく、私と私の部下だったのです。
ピクマールの失踪と、カラム・レポートの紛失が公けになるや、それらの捜査は司法警察局の権限にはいるのです、二つの事件はパリ市内で起こったものですから。
人間は痕跡を残さずに消えることはありません。
そして、泥棒はいつでも最後には捕まります」
「遅かれ早かれ!」と、ポワンは悲しげな微笑をうかべてつぶやいた。
メグレは立ち上ると、じっとポワンの目を見つめた。
「それまでじっとたえるのです」
「これは私だけの問題ではありません」
「これはとくにあなたの問題です」
「この陰謀の背後にいるのがマスクランだったとしたら、まもなく政府を糾弾するでしょう」
「彼の権力を増すために、知っていることを利用したほうがいいと判断したときでなければ、しないでしょう」
ポワンはおどろいてメグレを見つめた。
「その辺のことをよくご存じですね? あなたは政治には関心がないと思っていましたが」
「そういうことは政治の世界だけではありません。マスクラン的人間は他の世界にもいます。私は……もし間違っていたら、そう言ってください……、彼にはただ一つの情熱、権力をにぎる情熱しかないが、時節を待つことを知っている冷血動物だと思います。ときどき、議会や新聞でスキャンダルや職権濫用をあばいて、攻撃の火蓋を切ります」
ポワンは新たな興味を持って耳を傾けていた。
「そうやって彼は少しずつ無情な任侠の士という評判を得ていきました。したがって、ピクマールのような立場にいるすべての反逆者、過激派、幻想家が何かいかがわしいものを発見したとき、あるいは発見したと思ったとき、皆マスクランのところへ話を持ち込むのです。
あるいわくありげな犯罪が行なわれたとき、彼はわれわれとおなじような手紙を受けとるのだと思います。気違い、奇人がわれわれに手紙を書いてきます。また、親類や、旧友や、隣人にたいする恨みをいやすために手紙を書いてくる人たちもいます。しかし、それらのなかには本物の証拠をわれわれにあたえてくれる手紙があります。そういった手紙がなければ、多くの殺人者はまだ街を出歩いているでしょう。
すべての過激主義のなかに、すべての宗教のなかに、すべての哲学のなかに真実を求めていた隠者ピクマールは、まさに、カラム・レポートを発見したら、自分の信用していない直接の上司にわたすことなど一瞬たりとも考えない類の男です。ピクマールはプロの任侠の士のところへ行った。こうすれば、カラム・レポートが闇に葬られることはないだろうと思ったのです」
「マスクランがカラム・レポートを手にしているなら、なぜそれをまだ利用しないのです?」
「私が先ほどあなたに言った理由のためにです。彼は自分の評判を維持するためにスキャンダルを周期的にあばく必要があるのです。しかし、『ラ・リュムール』のような恐喝まがいの週刊誌も、手に入れた情報をすべて公けにはしません。彼らが書かない情報というのは、逆に、彼らに金銭的な利益をもたらすものなのです。カラム・レポートは世間に投げあたえるにはあまりにも貴重すぎる餌《えさ》です。
マスクランがカラム・レポートを持っているとしたら、アルチュール・ニクーを含めて、何人ぐらいの地位のある人物が彼の思いのままになると思いますか?」
「多いですね。二、三十人でしょう」
「彼がカラム・レポートを何通持っているか、われわれにはわかりませんが、彼はそれをいつでも利用できるのです。自分が強力な立場に立ったと感じたときには、彼はそれで目的を達してしまうでしょう」
「私もそのことを考えました」と、ポワンは認めた。「私はそれが恐ろしいのです! カラム・レポートを持っているのがマスクランだとしたら、カラム・レポートは安全な場所に隠されているでしょうから、見つけ出すことはむずかしいと思います。ところで、もしわれわれがカラム・レポートを提出できなかったら、あるいは何者かがカラム・レポートを湮滅したというはっきりした証拠をわれわれがつかむことができなかったら、私は名誉を失墜するでしょう。私がカラム・レポートを隠したと言って非難されるでしょうから」
メグレはポワン夫人が顔をそむけるのを見た。涙が彼女の頬を流れ落ちた。ポワンも妻に目をやり、一瞬落ち着きを失った。アンヌ・マリーが言った。
「ママ!」
ポワン夫人は何でもないとでも言うかのように頭を振り、部屋から急いで出て行った。
「ごらんのとおりです!」と、ポワンはそれ以上何の注釈も必要でないかのように、言った。
まわりの悲壮な雰囲気のなかで自分を印象づけようとし、確信ありげにこう言ったとき、メグレは間違っていただろうか?
「私はカラム・レポートを見つけ出すとあなたに約束できませんが、それを盗むためアパルトマンに侵入した男、あるいは女を捕まえてみせます。それが私の仕事ですから」
「できると思いますか?」
「確かです」
メグレは立ち上った。ポワンはつぶやいた。
「階下《した》まで一緒に行きましょう」
そして、娘に、
「警視さんがたったいま言われたことを、走って行ってお母さんにくり返してきなさい」
彼らは先ほどたどった道順をこんどは逆にもどり、ポワンの事務室に出た。電話に応答しているブランシュ嬢の他に、灰色の髪のすらりとした男が郵便物を整理していた。
「私の官房長のジャック・フルーリーを紹介します……こちらメグレ警視……」
メグレはすでにこの男にどこかで会ったような印象を持った。バーかレストランでだろう。彼は風采《ふうさい》が立派だったし、服の着方も優雅だった。そのため大臣の服装のだらしなさがいっそう目立った。美しい女たちと一緒にシャンゼリゼのバーにいるようなタイプの男だった。
彼の手は乾いていて、握手はそっけなかった。遠くからだと若々しく、精力的にみえたが、近くで見ると、目の下に疲労のくぼみがあるし、唇のまわりにはたるみのようなものができていた。このたるみを、彼は神経質な微笑によって隠していた。
「彼らは何人だね?」と、ポワンは控え室を指さして訊いた。
「たっぷり三十人はおります。外国の特派員も来ています。カメラマンがどのくらいかはわかりかねますが、まだ続々詰めかけてます」
メグレと大臣は視線を交わした。メグレは目でこう励ましているようだった。
「じっとこらえなさい!」
ポワンはメグレにたずねた。
「控え室から出られますか?」
「私がこの捜査にかかわっていることを、あなたはこれから彼らに発表されるのでしょうから、もうどうでもいいわけです。私は控え室から出て行きます」
メグレはあいかわらずブランシュ嬢の疑い深い視線を意識していた。彼にはまだ彼女を味方に引き入れる時間がなかったのだ。彼女はメグレという人間についてまだ考えを決めかねていた。しかし、主人が落着きをとりもどしたところを見ると、メクレとの話し合いはむしろよかったにちがいない、と彼女は考えたかもしれない。
警視が控え室を横切ると、まずカメラマンが押し寄せてきた。メグレは彼らを避けようとはしなかった。ついで記者が質問を浴びせてきた。
「あなたはカラム・レポート事件にたずさわるのですか?」
メグレは微笑みながら彼らの質問をかわした。
「数分後に、大臣自身があなたたちの質問に答えてくれる」
「この事件にたずさわっていることを、あなたは否定しませんね?」
「私は何も否定しない」
記者の何人かは、大理石の階段のところまでついてきた。メグレから何らかの意見表明を得ようとしていたのだ。
「大臣に質問したまえ」と、メグレはくり返した。
彼らの一人がたずねた。
「ピクマールは殺されたと思いますか?」
こんな推測が公けに口にされたのは初めてだった。
「あなたたちは私のお気に入りの返答を知っているはずだ……私は何も信じない」
そのあと、さらに何枚かの写真を撮られてから、メグレは司法警察局の車に乗った。ラポワントはシートの上で新聞を読んで時間を過ごしていた。
「どこに行きます? オルフェーヴル河岸?」
「いや。パストゥール大通りだ。新聞にはどんなことが書いてある?」
「ほとんどがピクマールの失踪のことを書き立てています。ある新聞は……どの新聞だか忘れましたが……カラム夫人にインタビューに行っています。彼女はラスパイユ大通りの、夫と暮らしていたアパルトマンにいまでも住んでいます。精力的な感じの小柄な女らしいですね。なんでもあけすけに言うし、質問をはぐらかそうともしません。
カラム夫人は報告書は読んでいませんが、彼女の夫が五年ほど前、オート・サヴォワに行って数週間過ごしたことはよくおぼえています。彼女の夫は帰ってくると、一時期猛烈に仕事をし、夜遅くまで起きていることはしょっちゅうだったそうです。
『あれほど電話がたくさんかかってきたことはそれまでなかったわね』と、彼女は言ってます。『わたしたちの全然知らない人がたくさんあの人に会いにきたわ。あの人はとても心配そうでした。何が心配なのかとたずねると、あの人は仕事のことだ、仕事の責任問題だと答えたわ。あの時期、あの人はよく責任という言葉を口にしたわね。何かがあの人を徐々に憔悴させているという印象をわたしは受けました。あの人が病気であることは知ってましたわ。一年以上前に、わたしは医師《せんせい》からあの人が癌で苦しんでいると聞かされてましたから。ある日、あの人がこう言ってため息をついたのをおぼえてるわ。
『ああ! 人間にとって義務がどこにあるかを知ることはむずかしい問題だ』』」
車はヴォジラール通りを走っていた。バスがいるため、ゆっくり走らざるをえなかった。
「このことで一面全部を割いた新聞もありますよ」と、ラポワントはつけ加えた。
「彼女は夫の書類をどうしたのかね?」
「書斎にそのままおいておいたらしいです。彼女は書斎を夫が生きていたときのように毎日きちんと掃除してます」
「最近、彼女に訪問客がなかったのか?」
「二人ありました」と、ラポワントは警視を感心してながめながら答えた。
「ピクマール?」
「そうです」
「最初の訪問は、一週間ほど前です」
「彼女はピクマールを知っているのか?」
「かなりよく。カラムが生きているとき、ピクマールはよく意見を求めにきたそうです。彼女はピクマールが数学関係の仕事をしていると思ってます。ピクマールは、以前、教授《せんせい》に預けておいた書類の一つを取りにきたと彼女に説明しました」
「ピクマールはそれを見つけたのかね?」
「彼は書類カバンを持ってきました。彼女は書斎に彼を残しました。彼は一時間ほど書斎にいたそうです。出てきたので、彼女がたずねると、彼は書類はなかった、運悪くどこかに紛失してしまったにちがいないと答えています。彼女は彼の書類カバンのなかを見なかったし、疑いもしていません。ただその翌々日になって……」
「つぎはだれが訪ねてきたのかね?」
「四十歳ぐらいの男で、カラムの昔の生徒だと言い、彼女が夫の書類を保管しているかどうか訊きました。この男も、共同で行なった仕事のことを口にしました」
「彼女は男を書斎に入れたのかね?」
「入れません。彼女はこの偶然の一致が奇妙すぎると思い、夫の書類はすべて土木大学に残してあると答えてます」
「その二番目の訪問客の人相は?」
「新聞はそのことについては書いていません。彼女からその男の人相を聞いたとしても、記者はその情報を自分のために押さえておいて、ちょっとした調査をはじめているのでしょう」
「歩道に沿って車を停めておいてくれ。ここだ」
パストゥール大通りは昼間も夜とおなじく静かで、中産階級のあの落ち着いた雰囲気さえあった。
「待ってますか?」
「一緒に来てくれ。仕事があるかもしれないから」
受付のガラス張りのドアが廊下の左手にあった。管理人は年取った女で、かなり上品な様子をしていたが、疲れているようだった。
「何の用です?」と、彼女は肱掛椅子から立ち上らずに二人の男にたずねた。赤毛の猫が彼女の膝から跳び下りて、メグレの脚にじゃれついてきた。
メグレは名を名乗ると、帽子を脱ぎ、ていねいな口調で話すように気をつけた。
「ポワン氏は、二日前にここで起こった盗難のことで私に調査を依頼されました」
「盗難? ここで? あの人、そんなこと一言もわたしに言わなかったわ」
「あなたにお目にかかる機会があれば、ポワン氏はそのことをあなたに言われるでしょう。もしお疑いがあるのでしたら、ポワン氏に電話してたしかめてください」
「それにはおよびません。あなたは警視さんなのですから、あなたを信じなければならないでしょう? どうしてそんなことが起こったのでしょうね? この建物は静かです。わたしはここに来て三十五年になりますが、まだ一度も警察が足を踏み入れたことがありませんよ」
「私は火曜日のことをあなたに思い出してほしいのです、とくに午前中のことを」
「火曜日……ちょっと待ってください……火曜日というと一昨日ですね……」
「そうです。その日の夜に、大臣はこのアパルトマンに来ました」
「あの人がそう言ったのですか?」
「そう言っただけではなく、私もここで彼に会いました。夜の十時ちょっと過ぎに、あなたは私のためにドアをあけてくれました」
「ええ、そのことはおぼえています」
「ポワン氏は私の少しあとに出て行ったはずです」
「そうです」
「あの夜のうちに、他の人間にもドアを開けましたか?」
「はっきりおぼえてませんね。ここの借家人は真夜中過ぎに帰ってくることはめったにありませんから。皆さん、静かな人たちなんですよ。ですから、真夜中過ぎに帰ってくるような人がいたら、わたしはおぼえてますよ」
「朝は何時にドアを開けます?」
「六時半、ときには七時のときもあります」
「そのあとこの受付の部屋にずっといるのですか?」
受付の部屋は一室だった。料理用ガス・ストーブ、丸テーブル、流しがあり、カーテンのうしろには深紅のカバーがかかったベッドがあった。
「階段を掃除するときを除いては」
「それは何時にするのです?」
「九時前ではありませんね。八時半に着く郵便物を配って歩いてからですから」
「エレベーターはガラス張りなのですから、階段にいても、上り降りする人は見えると思いますが?」
「そうですよ。わたしはいつでもながめてます、癖なのです」
「火曜日の朝、だれかが六階に行ったのを見ましたか?」
「見ていません、確かですわ」
「午前中に、あるいは午後の初めに、大臣が部屋にいるかどうか、あなたに訊いた人はいなかったのですか?」
「いませんでしたよ。ただ、電話がありましたわね」
「あなたに?」
「いいえ、あの人のアパルトマンに」
「どうしてそれがわかるのです?」
「五階と六階の間の階段にわたしがいたからです」
「何時でした?」
「十時頃でしょうか? もう少し前だったかもしれませんね。この脚ではもう素早く仕事を片づけることができませんのでねえ。ドアのうしろで電話が鳴る音が聞こえたんです。長い間鳴りつづけていました。それから、その十五分後に、わたしが掃除を終えて、ふたたび降りてきたときに、また鳴りました。わたしはこうつぶやいたのさえおぼえてます。
『好きなだけ鳴らしておけばいいわ!』」
「それから?」
「それだけです」
「あなたは受付にもどったのですね?」
「ちょっと部屋を片づけるために」
「この建物から出ませんでしたか?」
「毎朝、十五分か二十分ほど買物に出かけますわね。食料品屋はわきですし、肉屋はちょうど街角。食料品屋からは、ここの人の出入りは見えます。わたしはいつでもここを見張ってますよ」
「肉屋からは?」
「見えませんね。でも、長い間いませんから。わたしは猫との暮らしですから、ほとんど毎日買うものはおなじです。この年齢になると、もう食欲はありませんものね」
「肉屋にいたのが何時だったか正確にはわかりませんか?」
「ええ、正確にはわかりません。レジの上に大きな時計があるのですが、わたしは見たことがありません」
「ここにもどってきたとき、あなたは、入るのを見かけなかった人が出てくるのに出会わなかったでしょうね?」
「おぼえてませんね。わたしは出てくる人より入ってくる人を気にかけるのです、もちろんここの借家人を除いての話ですけど。というのは、借家人が部屋にいるかいないかをわたしは知っていなければなりませんから。御用聞きや、ガス会社の集金人、電気掃除機のセールスマンなどが始終やってきますから……」
メグレにはこれ以上何も聞き出せないことはわかっていた。もしあとで何かを思い出したら、彼女は間違いなく彼に知らせてくれるだろう。
「この刑事と私は、これからここの借家人たちにたずねてみたいと思います」と、メグレは言った。
「どうぞお好きなように。ここの人は皆さん正直な人たちばかりですよ、おそらくあの四階の老婦人以外は……」
ふたたびあのいつものきまりきった仕事にもどる以外手がなかった。メグレは冷静な気分になれた。
「帰りがけにまたお寄りします」と、彼は約束した。そして、出がけに猫の頭を撫でてやることを忘れなかった。
「きみには左側のアパルトマンをたのもう」と、彼はラポワントに言った。「私は右側のを受け持つ。私のさがしているものがきみにはわかるね?」
ラポワントはなれなれしく応じた。
「まかせてください、大将!」
[#改ページ]
第六章 『フィレ・ド・ソール』の昼食
最初のドアのベルを鳴らす前に、メグレは思い直すと、ラポワントのほうを向いた。ラポワントはベルのほうに手を伸ばしかけていた。
「喉が乾いていないかね?」
「いいえ、警視」
「それじゃはじめたまえ。私はすぐにもどってくるから」
彼は万やむを得なければ、たったいま思いついた電話を受付の部屋からかけることもできたであろう。しかし、話をだれにも聞かれたくはなかったし、それに何か飲むもの……たとえば白ぶどう酒を一杯ひっかけるのも悪くはないと思ったのだ。
居酒屋《ビストロ》を見つけるのに百メートルほど歩かなければならなかった。その狭い居酒屋には主人の他には人はいなかった。
「白を」と、メグレは注文したが、言い直した。
「いや、ペルノー酒にしてくれ」
ペルノー酒は、彼の気分とも、いまの時間とも合っていたし、客が決して来ないように思えるこの小さな、こぎれいな居酒屋《ビストロ》の匂いとも調和していた。
彼はペルノー酒が出てくるのを待ち、グラスの半分ほど飲んでから電話室に向かった。
新聞で捜査の報告を読む人は、警察は最初から進むべき方向を知っていて、そこへ一直線につき進んでいるような印象を持つ。いろいろな出来事は、よく整った戯曲のなかの登場人物たちの出入りのように、論理的にたがいにつながっている。
無用な奔走などめったに書かれはしないし、また、結局は行き詰ってしまうくだくだしい捜査や、右へ左へ行き当りばったりにさぐりを入れる取調べなどもおなじだ。
メグレには、泥沼のなかを歩くような思いをさせられなかった事件はただの一つだって思い出せないだろう。今朝、彼には、司法警察局で、リュカやジャンヴィエやトランスに、前日命じた任務が……これらの任務はすべて、今朝は重要でないように思われた……どうだったかを問い合わせる時間がなかったのである。
「司法警察局? リュカを出してくれないか? いなかったら、ジャンヴィエをたのむ」
電話に出たのはリュカの声だった。
「あなたですか、警視?」
「そうだ。まず、急ぎの仕事があるので書きとめてほしい。土木大学の学生監のピクマールの写真を手に入れること。彼のホテルの部屋をさがしても無駄だ。そこにはない。学校のほうに、学生たちといっしょに撮った写真があるはずだ、いつも学年末に撮るやつが。鑑識課の者がそれを引き伸ばしてくれるだろう。
できるだけ早くやってくれ。いまならまだ夕刊に間に合う。それからその写真をすべての警察署にわたす。これは念のためだが、法医学研究所にちょっと顔を出してみてくれ」
「わかりました、警視」
「何か新しいことは?」
「マルセルという女を見つけました。マルセル・リュケという名前です」
心のなかで、メグレはすでにその線を見捨てていたのだが、無駄骨を折ったのだという印象をリュカにあたえたくなかった。
「それで?」
「彼女はクロワッサン通りの印刷所で校正係のようなことをしています。夜の勤務です。そこでは『ラ・リュムール』も、『ル・グローブ』も印刷されていません。彼女はタバールについて噂を聞いたことがあるそうですが、個人的には知りません。マスクランには一度も会ったことがないそうです」
「彼女と話したのかね?」
「モンマルトル通りでクリーム入りコーヒーをご馳走しましたよ。いい女です。フルーリーに出会うまでは一人で暮らしていたんですが、彼に惚れましてね。いまでも惚れています。彼が去って行ったことを怨んでいません。明日でも、彼がもどってきたら、一言も文句を言わないで彼を迎え入れるでしょう。彼女によれば、フルーリーは支えと愛情が必要な大きな子供だそうです。子供のようなちょっとしたいんちきをやりますが、悪事はできない男だと彼女は言ってます」
「ジャンヴィエはそばにいるかね?」
「ええ」
「出してくれ」
ジャンヴィエは何も言うことはなかった。彼はヴァノー通りの建物の正面で張り込み、真夜中頃トランスと交代したのだ。
「ブランシュ・ラモットは夜の十一時頃、一人で歩いて帰ってきて、部屋に上りました。窓に明りが三十分ほどついていました」
「付近に国家警察総局の人間はいなかったか?」
「一人も。映画や芝居から帰ってきたこの通りの人たちだけです」
トランスのほうはもっと静かな夜だった。一晩じゅういて、ヴァノー通りには七人の通行人しか見かけなかったのである。
「明りは朝の六時につきました。家事のため早く起きるのだと思います。八時十分に家を出て、サン・ジェルマン大通りのほうへ向かいました」
メグレはカウンターにもどってペルノー酒を飲み干した。ベルノー酒は弱かったので、パイプにたばこを詰めているあいだ、もう一杯注文した。
パストゥール大通りの建物にもどった。ラポワントはすでに四階のアパルトマンにかかっていた。メグレは自分の持ち分を忍耐強くはじめた。
ときどき質問が長くなることもあった。この時間では、部屋にいるのは家事に忙殺されている主婦ばかりだった。彼女たちは一度開けたドアをすぐに閉めようとする。何かの器具のセールスマンか、保険の勧誘員と思うからだ。警察という言葉で、彼女たちは皆、びくっとする。
メグレが話している間、彼女たちの心は他にあった。火にかかっているものや、床で遊んでいる赤ん坊や、かけっぱなしになっている電気掃除機などにだ。なかには、部屋着のままのところを訪ねられた女たちもいたが、気まずげに、思わず髪に手をやった。
「火曜日の午前中のことを思い出していただきたいのですが……」
「火曜日ですね、はい……」
「たとえば、十時と正午までの間に、ドアをお開けになるということはありませんでしたか?」
メグレがたずねた最初の女は、火曜日は家にはいず、妹の手術のために病院に行っていた。若い二番目の女は、子供を抱きかかえ、火曜日と水曜日をたえず混同していた。
「ええ、ここにいましたよ。わたし、朝はいつもここにいます。買物に行くのは午後の終りです、主人が帰ってまいりますので」
「では、ドアを開けなかったのですね?」
彼女たちを少しずつ火曜日の朝の雰囲気のなかにもどすには大変な忍耐が必要だった。だしぬけに『エレベーターのなかか、階段で、ここの住人ではない者が五階に上って行くのを見ませんでしたか?』と訊くと、彼女たちは考えようともしないで、自信たっぷりに、見なかったと答えるだろう。
四階で、メグレはラポワントに追いついた。三階の右側のアパルトマンにはだれもいなかったからだ。
借家人たちはこの建物に似て、ドアのうしろで悶着も起こさずにささやかな家庭生活を送っているようだった。各階の匂いも、壁紙も違っていたが、勤勉で、正直な階級の人ばかりだった。警察はいつでもこういった人々がいくぶんにが手だ。
メグレは耳の遠い老女につかまってしまった。老女は彼をなかに入れようともせず、質問をいちいちくり返させた。向かいのドアのなかでラポワントが話している声が聞こえる。
「なぜ、あんたは、わたしがこのドアを開けたなんて考えるんです?」と、耳の遠い老女がさけんだ。「あの性悪な管理人の女が、わたしが借家人たちの様子をうかがっていると悪口を言ったんでしょ?」
「とんでもありません。だれもあなたの悪口を言っていません」
「それなら、なぜ警察なんかがわたしのところへ話をききにくるんですの?」
「われわれは、その、男がここに来たかどうかを知りたいと思いまして……」
「男ってどんな男です?」
「われわれの知らない男なのですが、さがしているのです」
「あなたたちは何をさがしているんです?」
「男を」
「その男は何をしたんですの?」
向かいのドアが開いたとき、メグレはもう一度この老女に話をわからせようとしていた。ラポワントは情報を得たということをメグレに合図してきた。警視は慌てて老女のもとを辞去した。老女はくやしがった。
「こちらゴードリー夫人です、警視。ご主人はイタリアン大通りの銀行に勤めてます。五つの息子さんがいます」
その子は母親のうしろに隠れ、両手で母親のスカートをつかんでいる。
「あの朝、この子を近くの店にお使いにやったんです。ただ、この子をお使いにやる場合はいつでも大通りのこちら側の店だけですけど。通りを一人で渡らせるわけにはいきませんから。わたしはこの子が外にいるときには、いつもドアを半分開けておきます。そのようなわけで、火曜日も……」
「だれかが上ってくる音を聞いたのですか?」
「ええ。わたしはボブを待ってました。一瞬、ボブだと思ったのです。ここの人は大部分エレベーターに乗りますが、わたしはまだこの子がエレベーターに乗るのを許してません」
「ぼくにだって乗れるよ!」と、子供は断言した。「前に動かしたことがあるもん」
「だから叱られたでしょ。そういうわけで、わたしはそちらをちらっと見たのです。男の人が踊り場を通りすぎて、五階に行くところでした」
「何時でしたか?」
「十時半頃でした。シチューを火にかけたばかりでしたから」
「男はあなたに話しかけましたか?」
「いいえ。最初は背中しか見えませんでした。かなり薄いべージュのコートを着ていました。たぶんギャバジンでしょうが、あまり注意して見ませんでした。肩幅が広くて、かなり猪首《いくび》でした」
彼女はメグレの首をちらっと見た。
「私のように肥ってました?」
彼女はためらい、顔を赤らめた。
「まったくおなじというわけではありませんが。その男の人はもっと若くて、わたしの考えでは四十代ではないでしょうか。その人が階段の曲り角に着くと、顔が見えました。ちらっとこちらを見て、わたしがここにいるのがおもしろくない様子をしました」
「男は五階で立ち止りましたか?」
「ええ」
「ドアのベルを鳴らしました?」
「いいえ。ポワンさんのアパルトマンのなかに入りました。ドアを開けるのにしばらく時間がかかったようでしたけど」
「いくつかの鍵を試してみたかのように?」
「そうは言えませんが、まるで錠前に慣れていないかのようでした」
「男が出て行くのを見ました?」
「見ませんでした。その人は帰りはエレベーターを使ったからです」
「長い間部屋にいましたか?」
「十分以上ではありません」
「あなたはその間じゅう踊り場にいたのですか?」
「いいえ。ただボブがまだもどってませんでしたので、ドアを半分開けておきました。ですから、エレベーターが昇っていき、五階で停り、ふたたび降りてくる音が聞こえました」
「男が肥っていたことの他に、何か特徴は?」
「むずかしいわね。毎日ご馳走を食べている人のような血色のいい顔色をしてました」
「眼鏡は?」
「かけてなかったと思います。ええ、かけてませんでした」
「パイプを喫ってましたか? シガレットですか?」
「いいえ……ちょっと待ってください……葉巻でした、まず間違いありません。……わたしはそのことではっとしたのです。というのは、わたしの義兄が……」
葉巻は別にして、これはジャコブ通りの居酒屋《ビストロ》の主人が、ピクマールに近づいて話しかけた男についてもたらしてくれた人相と一致する。また、ヴァノー通りのブランシュ嬢の部屋に入った男の人相とも一致する。
数分後、メグレとラポワントは歩道に出た。
「どこに行きます?」
「オルフェーヴル河岸で私を降ろしてくれ。そのあときみはヴァノー通りとジャコブ通りに行って、例の男が葉巻を喫っていたかどうか調べてほしい」
メグレが自分のオフィスにもどると、リュカはすでにピクマールの写真を手に入れていた。あいにく二列目に写っていたが、鑑識の専門家がそこからかなりはっきりした像を引き伸ばしていた。
メグレは司法警察局の局長のもとへ、これからうかがいたいからと取り次がせ、事件の経過を知らせるために局長のオフィスで三十分ほど過した。
「そのほうがよかった!」メグレが話し終ると、局長がため息をついた。
「私もです」
「その男がだれだかわかれば……いずれわかると思うが……もっと安心できるのだがね」
二人とも心のなかではおなじ疑いを持っていたが、それを口に出しては言わなかった。いまや彼らが三度も足跡を見つけたその男が国家警察総局の人間だということは、ありえないことではなかったのである。
メグレは国家警察総局に何人か友人がいた。とくにカトルーというのは仲のよい友達で、メグレはこの男の息子の名付け親になっていた。メグレはこの男に会いに行くことをためらった。もしカトルーが何かを知っていれば、メグレを見当違いな方向に進ませる危険がある。
先ほどのピクマールの写真は夕刊に載るだろう。司法警察局がさがしている人間が、いまこの瞬間に国家警察総局の手のなかにあるというのは皮肉ではないだろうか?
国家警察総局はピクマールがあまりに知りすぎているので、一時的に彼を隠したのかもしれない。
それとも誘導尋問するために、彼を国家警察総局へ連れて行ったのか?
新聞は司法警察局が、とくにメグレがこの事件にたずさわっていることを知らせるだろう。
国家警察総局としては、ピクマールをいったん田舎に逃がし、その数時間あとで逮捕したと発表するのが公正なやり方だろう。
「きみはもちろん、ポワンが正直な男で、何も隠していないと信じているね?」と、局長が言った。
「もちろんです」
「彼のまわりの人間は?」
「同じです。彼ら一人一人を調べました。もちろん彼らの生活がすべてわかるわけではありませんが、私の知り得た範囲では、彼らとは別のところをさがしたほうがいいようです。私がお見せした手紙ですが……」
「マスクランの?」
「彼は間違いなく事件にかかわっています。手紙がそのことを証明しています」
「どうするつもりだ?」
「たぶん手紙は何の役にも立たないでしょう。それより私は、はっきりした理由はないのですが、もっと近くで彼を見てみたいのです。それには、ヴィクトワール広場の『フィレ・ド・ソール』に昼食に行けばいいのです。そこで彼は人と会うらしいですから」
「用心したまえ」
「わかってます」
メグレはいくつかの指示をあたえるため、刑事部屋へ行った。ラポワントが帰ってきたところだった。
「ああいう点に気がつくのが女だというのは妙ですね。居酒屋の主人は、例の男がパイプか、葉巻か、シガレットを喫っていたかどうか言うことができないのです、十五分以上も店にいたというのにですよ。主人はどちらかというと、葉巻のほうに傾いていました。ブランシュ嬢のところの管理人は、はっきりしていました」
「男は葉巻を喫っていたのかね?」
「いや。シガレットです。男は階段にシガレットの吸がらを投げ捨て、靴の底で踏みつぶしてます」
メグレがヴィクトワール広場の例のレストランに入って行ったのは、一時だった。彼の心にはちょっと不愉快な気持がわだかまっていた。というのは、一介の役人にすぎないものが、マスクランのような男と力競べをすることは、用心深いとは言えなかったからだ。
短い手紙以外、マスクランに不利な証拠は何もなかった。この手紙にしたって、マスクランにもっともらしい理由をつけて釈明することができる。それに、このレストランは彼の領域である。メグレはあきらかに侵入者だった。給仕頭はメグレが入ってくるのを見ても迎えようともしなかった。
「テーブルはあるかい?」
「何人様で?」
「私一人だが」
大部分のテーブルはふさがっていて、フォークやグラスの触れ合う音に混って、話し声が絶えず聞こえていた。給仕頭はあたりを見まわすと、ドアのうしろに押し込めるようにおいてある、他のより小さいテーブルに近づいた。
その他にも三つのテーブルが空いていたのだが、もし警視がそのことを口にすれば、給仕頭は予約済みなのだと答えるだろう。そのとおりなのかもしれない。
最後に、クロークの女が合図を受けて、メグレのコートと帽子を取りにやってきた。それから注文を聞きにくるまで長い間待たなければならず、部屋のなかを見わたす時間が十分にあった。
このレストランはお歴々によって出入りされていた。昼食時には、ほとんどが財界人、著名な弁護士、ジャーナリスト、政治家などで、彼らは多少ともおなじ社会に属しているので、おたがいに認めあって遠くから合図を送っていた。
何人かが警視を認めた。二、三のテーブルでは小声で彼のことを話しているにちがいない。ジョゼフ・マスクランはピナール弁護士と一緒に、右隅の椅子に坐っていた。ピナールはその容赦ない弁論でマスクラン議員とおなじように有名な男だった。
もう一人の会食者はメグレに背中を向けていた。肩幅の狭い中年男で、薄くなった灰色の髪で禿《はげ》をかくしていた。この男がソーヴグランだということが警視にわかったのは、たまたま横顔を見せたからである。メグレは、ニクーの義弟で、共同経営者でもあるこの男を、新聞の写真で見ていた。
すでにビフテキを食べていたマスクランは、メグレに目をやると、この部屋には他に興味があるものが何もないかのようにじっと見つづけていた。彼の目には最初好奇心があり、ついで皮肉の炎が小さく燃えあがり、いまでは警視のつぎの動きを面白がって待っているようだった。
警視はやっと注文を通すことができた。プイイの白ぶどう酒の小壜をたのむと、議員の視線に耐えながらパイプをぷかぷかくゆらした。彼らの間の相違は、こうした場合いつでもそうなのだが、メグレの目が虚ろに見えることである。まるで彼がながめているのは白い壁とおなじようにばくとした、興味のないものであり、頭のなかにはいましがた注文したディエープの舌《した》平目《びらめ》のことしかないというようだった。
彼はニクーとその会社の話をくわしくは知らなかった。一般の噂では、十数年前、ニクーの妹と結婚するまで、いかがわしい下請人でしかなかったソーヴグランは、共同経営者といっても名前だけでしかないと言われている。彼はレピュブリック通りの、ニクーの事務所から遠くないところに事務所をかまえている。この事務所は広くて、豪華なものだったが、ソーヴグランは、そこへ彼の暇つぶしのために送りこまれてくる取るに足らぬ客を待って、日々を過している。
マスクランが公然と自分のテーブルにソーヴグランを招いたのは、それなりの理由があるにちがいない。ピナール弁護士もその席にいるのは、彼がソーヴグランの利害関係の面倒をみているからか?
ある新聞の編集局長が出がけにメグレの前で立ち止り、握手した。
「仕事ですか?」と、編集局長がたずねた。
警視がしらばくれていると、
「以前ここであなたにお目にかかったことはないと思うのですが」
編集局長の目はマスクランのほうに向けられた。
「司法警察局が、こうした事件にたずさわっているとは知りませんでした。ピクマールは見つかりましたか?」
「まだです」
「あいかわらずカラム・レポートをさがしているのですか?」
それは嘲笑的な口調で、まるでカラム・レポートがある人々の想像のなかでしか存在していないかのようだった。たとえ存在していたにしても、メグレには決して見つけ出せないかのようだった。
「さがしています」と、メグレは答えただけだった。
編集局長は口を開けたが、言おうとしたことを言わずに、手で親しげな合図を送ると出て行った。玄関の通廊で、彼は新しく来た男とぶつかりそうになった。メグレが編集局長を目で追っていなかったら、この新来者に気づかなかっただろう。
この男は二番目のドアを開ける瞬間、ガラス戸越しに警視に気がついた。彼の顔には困惑したような表情がうかんだ。普通だったら、彼は数年前から知っているメグレに挨拶するはずだろう。彼はそうしようとしたが、マスクランのテーブルにちらっとためらうような視線を投げた。そして、まだメグレが自分のことに気がついていないと思ったらしく、いきなりくるりと背を向けると、姿を消した。
マスクランは片隅から、この場面を何一つ見落していなかった。だが、そのポーカー・フェイスには何の表情もあらわれなかった。
モーリス・ラバは『フィレ・ド・ソール』に何をしに来たのか? なぜ、レストランのなかにメグレがいるのを見て出て行ってしまったのか?
モーリス・ラバは国家警察総局のある課に十数年間勤めていた。一時は……それはほんの短い期間だったが……大臣に影響力を持っていたとさえ言われている。
とつぜん、彼が辞表を提出したことが知れわたるが、ついでそれは彼の自由意志によるものではなく、何か重大なトラブルを避けるためだったということがわかる。それ以来、彼は『フィレ・ド・ソール』のような場所に出入りする連中の社会の周辺で動きまわっている。こうした場合多くの人たちがするように、私立探偵事務所を開いたりしなかった。彼の職業も、生活費がどこから入ってくるのかもわからなかった。妻子の他に、ポンティウ通りのアパルトマンに、彼より二十歳も若い愛人をかかえていた。この金だってかなり高くつくにちがいない。
メグレはディエープの舌平目をゆっくり味わうことを忘れていた。この味にふさわしい注意をはらわなかった。というのは、ラバの出来事はそれだけメグレに多くのことを考えさせたからだ。
この元警察官が『フィレ・ド・ソール』に会いに来た人間が、マスクランその人であると考えるのは当然ではないのか?
ラバは、多数の人間のなかで多少ともいかがわしい仕事を託することができる男である。国家警察総局の何人かの人間ともまだ友達づきあいをしているにちがいない。
ラバが出て行ったのは、メグレがまだ彼に気がついていないと思ったからか? マスクランが……この瞬間メグレは彼を見ることができなかった……、ラバに入ってくるなという合図を送ったのか?
もしラバが四十歳ぐらいで、肥っていたなら、もしラバが葉巻を喫っていたなら、メグレはパストゥール大通りに来た男を、ピクマールを連れ去った男を見つけたと確信しただろう。
しかし、ラバはまだ三十六になるかならずかである。典型的なコルシカ人で、背が低くて痩せている。だから、大きく見せるため踵《かかと》の高い靴をはき、褐色のちょびひげをはやしている。それに、彼は一日じゅうシガレットを喫っている。黄色い指を見ればあきらかだ。
それでもラバの出現はメグレの心を新しい方向に向けた。メグレは国家警察総局のほうにこれほど気をとられる自分をとがめた。
ラバはかつては国家警察総局の一員だったが、いまは関係ない。パリには、多かれ少なかれ似たような理由で彼のように国家警察総局を追われた元警察官が数十人はいる。
メグレはたったいま、これらの人間のリストを手に入れようと心に誓った。彼はもう少しでリュカに電話をかけてリストを手に入れるように言うところだった。だが、それをしなかったのは、非常に奇妙に思われるかもしれないが、マスクランの嘲弄するような視線を浴びて部屋を横切ることをためらったからだ。
デザートを取らなかったマスクランは、すでにコーヒーを飲んでいた。メグレもデザートを注文せず、コーヒーとブランデーにして、顔見知りの国家警察総局の人間を思いうかべながらパイプにたばこを詰めはじめた。口に出かかっている名前が、どうしても思い出せないような気分だった。
肥った男のことを聞いたときから、とりわけ葉巻のことが問題になって以来、メグレの記憶のなかで何かが動いていた。
この考えに捉われすぎていたため、彼はマスクランがナプキンで唇をぬぐいながら立ち上り、連れの者たちに二、三言葉をかけたのにほとんど気がつかなかった。もっと正確に言うと、メグレはマスクランが立ち上り、テーブルを押しやって道をつくり、ゆっくりした足取りでこちらへ進んでくるのを見ていたが、それがまるで自分とは全然関係ないかのようだった。
「かまいませんか、警視?」と、マスクランはメグレの前の椅子の背をつかんで言った。
彼の顔はまじめだった。ただ唇の端がわなないたが、これは神経のけいれんにすぎないのだろう。ちょっとの間、メグレは狼狽した。このことを予期していなかった。彼はこれまでマスクランの声を聞いたことがなかった。それは低くて、よく透る声だった。宗教裁判所判事のような魅力のない顔にもかかわらず、彼が演説をするときには女たちが国民議会の傍聴席を奪いあうというのは、この声のためであると言われている。
「あなたが今日ここにお見えになるとは妙な偶然ですな。私はあなたに電話をしようと思っておったのですよ」
メグレは平然としていた。こうすることによって、できるだけマスクランにしゃべりにくくしてやりたかったのだ。だが、議員はメグレの沈黙によって狼狽させられたようにはみえなかった。
「私は、あなたがピクマールとカラム・レポートの事件にたずさわっていることを知ったばかりなのでしてね」
彼は他の客がいるので小声で話した。多数のテーブルから視線が彼ら二人のほうに注がれていた。
「私にはあなたに提供すべき重要な情報があるばかりではなく、公式の供述をしなければならないとも思っている。後ほど、あなたの部下の刑事を一人、その供述を書きとめるため国民議会によこしてくださらんか? 私がどこにいるかはわかるようにしておく」
メグレはあいかわらず平然としていた。
「あのピクマールのことでしてね、私は先週彼と接触したのですよ」
メグレはポケットのなかに、マスクランの手紙を持っていた。なぜマスクランがメグレに話す必要を感じたのか、メグレにはわかりはじめていた。
「何日のことだったかおぼえておらんが、私の秘書が、私が毎日受けとる多数の手紙のなかの一通を私にわたした。その手紙にはピクマールというサインがあり、ジャコブ通りのホテルの住所がついていた。そのホテルの名前を私は忘れてしまったが、私の間違いでなければ、田舎の町のような名前だった」
相手から目を離さずに、メグレはコーヒーを一口飲むと、ふたたびパイプをぷかぷかくゆらしはじめた。
「おわかりいただけると思うが、毎日私のところにはあらゆる種類の人々から何百という手紙が来る。気違いや、半気違いからのもあるし、職権の濫用を知らせてくる正直な人々からのもある。これらの手紙に返事を書くのが私の秘書の仕事でしてね。彼は若いが手腕家で、私は全幅の信頼をおいておる」
なぜメグレは、話し相手の顔をながめながら、マスクランはホモではないかなどと自問したのか? メグレはマスクランのことでこうした噂を一度も聞いたことがなかった。もしマスクランがホモだとすれば、そのことを注意深く隠していたことになる。それは、マスクランの性格の特徴をいくぶんたりとも説明しているように警視には思われた。
「ピクマールの手紙は私にはまじめなものに思われた。その手紙を私がふたたび見つけることができるなら、あなただって間違いなく私とおなじ印象を持っただろうと思うよ。見つけたら、もちろんあなたのところへ送る。ピクマールはその手紙のなかで、自分はカラム・レポートがどこにあるか知っているパリで唯一の人間であり、それを手に入れることができる唯一の人間であると書いておる。さらに、多くの人間がこの事件をもみ消そうとしていることを彼が知っているし、私が信頼するに足る唯一の人間であるので、公けの組織よりも私に手紙を出したのだともつけ加えている。彼の言葉をそのままくり返したが、わるく思わんでくれ。私は万一を期待して、会いたいと彼に一言書き送った」
静かに、メグレはポケットから紙入れを取り出し、国民議会の頭書付便箋を引っぱり出すと、マスクランがそれをつかもうとするしぐさをしたにもかかわらず、テーブルの上に差し出そうとはせず、ただちらっと見せただけだった。
「この手紙ですか?」
「そうだろうと思う。私の筆蹟だったようだ」
彼は、どうしてメグレがその手紙を手に入れたのか訊こうとしなかったし、ほんのかすかなおどろきでも顔にあらわすまいとしていた。彼はこう言った。
「あなたはこのことには精通しておられますな。私は印刷所から遠くないところにあるビヤホール『クロワッサン』で、夕方会う約束をして彼と会った。彼は私の好みからすれば、いくぶん熱狂的なところがあり、あまりにも気むずかしい人間のようにみえた。私は黙って彼にしゃべらせておいた」
「彼はカラム・レポートを持っていると言いましたか?」
「そうは言わなかった。ああいう人間はそのように簡単には振舞わないものだよ。彼らには陰謀の雰囲気が必要なのだ。彼は、土木大学で働いていること、ときどきカラム教授の助手をつとめることがあること、クレールフォンのサナトリウムについて書かれた報告書がどこにあるかを知っていると思う、というようなことをしゃべった。この会談は十分以上はつづかなかった。というのは、私は記事の校正を見なければならなかったからだ」
「そのあとで、ピクマールはあなたにカラム・レポートを持ってきたのですか?」
「私はそれっきり彼と会っていない。彼は月曜日か火曜日、遅くとも水曜日にはそれを私にわたすと言った。私は、カラム・レポートを手に入れたいと彼に答えた。その理由はあなたにもわかっていただけると思う。あれはダイナマイトだ、今日《こんにち》、そのことがはっきりしている」
「あなたはカラム・レポートをだれに預けるように、彼にすすめましたか?」
「彼の上司に」
「ということは、土木大学の学長に?」
「それほどはっきりとは考えていなかった。私の心にごく自然にうかんだ公共事業省という言葉を口にしたかもしれない」
「彼はあなたに電話しようとしませんでしたか?」
「それは知らんな」
「会おうとも?」
「会おうとしても、会うことはできなかっただろう。すでに言ったように、私は彼についての情報は新聞によってだけだ。公共事業省の大臣のところへまっすぐ行ったところをみると、いくぶん大げさに考えてしまったにしろ、私の忠告にしたがったようだ。彼の失踪の噂を聞くとすぐに、私は彼との出来事をあなたに知らせる決心をした。いまそれをすませた。この事件の可能な反響を考えると、私はこの供述を正当に記録にとどめておいたほうがいいと思う。そこで、今日の午後……」
言われたとおりするより手がなかった。メグレは彼の供述を書きとめるため、部下のだれかをやらなければならない。部下が行くと、マスクランは彼の同僚たちやジャーナリストに取りかこまれているだろう……メグレはそのことを確信していた。それもオーギュスト・ポワンを非難する一つの方法ではないか?
「ありがとう」と、メグレはつぶやいただけだった。「そのように指示しましょう」
マスクランはまるで他のことを予期していたように、ちょっと狼狽した様子だった。彼は、警視が面倒な質問を浴びせたり、何らかの形で疑いを表明してくると考えていたのか?
「私はただ自分の義務を果たすだけだ。事件がこうした様相を呈することがわかっていたら、もっと早くこのことをあなたに話すべきだった」
彼はつねにある役割を演じているようだった。そのことを隠そうとさえしなかった。彼はこう言っているようだ。
「私はあなたより悪賢い人間だ。どうだ、言い返してみたらどうだ!」
メグレは間違っていたか? ある意味では、たしかにそうだろう。というのは、マスクランのような強力な、狡猾な人間と力競べをして勝てるわけがなかったからだ。逆にすべてを失う恐れがあった。
マスクランは立ったまま、メグレに手を差し出した。警視はとつぜんポワンと、彼の汚れた手の話を思い出した。メグレには賛否を吟味している時間がなかった。彼は空のコーヒー・カップをつかむと、差し出されている手を知らぬげに、唇に持って行った。
議員の目のなかにある影が走った。唇の端のわななきが、消えるどころか逆に強まった。
マスクランはこう言うだけで我慢した。
「さようなら、メグレ|さん《ヽヽ》」
彼はメグレにある印象を与えるように、わざと『さん』を強く言ったのか? もしそうなら、見えすいた脅迫である。というのは、それは、メグレが警視の肩書きをもう長い間ほしいままにはできないということを意味していたからだ。
警視はマスクランを目で追った。マスクランはテーブルにもどり、連れの者たちのほうに身をかがめると、機械的に言った。
「ボーイ! 勘定をたのむ」
この国の生活のなかで重要な役割を演じている少なくとも十人の人間が……彼らはすべて何らかの肩書きを持っていた……マスクランにじっと目を注いでいた。
メグレは自分でも気づかずにブランデーを飲んだにちがいない。外に出たとき、口のなかにブランデーの味を感じたからだ。
[#改ページ]
第七章 警視のタクシー
メグレが警視《パトロン》としてよりも仲間のような様子で刑事部屋に入ってくるのは、何もいまが初めてではなかった。彼は刑事部屋のドアを開けると、帽子をあみだかぶりにし、テーブルの隅に行って坐った。そして、パイプを踵でたたき、床の上に空けると、別のパイプにたばこを詰めた。彼はそれぞれの仕事に没頭している刑事たちを一人ずつながめまわした。その表情はまるで、夜、家に帰ってきて、身内の者たちを見つけて満足し、人数をたしかめているようだった。
しばらく時間がたってから、彼はこうつぶやいた。
「おい、ラポワント、新聞に写真を載せたくないか?」
ラポワントは顔を赤らめないように努めながら頭を上げたが、眼には疑わしげな表情があった。実際、刑事たちはすべて、新聞に写真が載ることを密かによろこんでいた、もっともそのことに慣れすぎてしまっているメグレは別だが。写真が載るごとに、それでも彼らは文句を言うふりをしていた。
「こう顔が知られてしまっては、張込みをするのも、そっと尾行するのもなかなかむずかしくなりますね!」
ラポワント以外の刑事たちも耳をすませていた。メグレがこうやって刑事部屋に来てラポワントに話しかけたということは、ラポワントに言わなければならないことを皆にも聞いてもらいたいからだ。
「きみは速記用のノートブックを用意して国民議会に行きたまえ。きっとマスクラン議員がすぐに見つかる。間違いなくあっというような人々にかこまれていると思う。彼はきみにある供述をするから、きみはそれを入念に書き留める。それからそれをタイプして、私のデスクの上においといてくれたまえ」
夕刊がメグレのポケットからはみ出していた。その第一面に、オーギュスト・ポワンと彼自身の写真が載っている。彼はそれにちらっと目をやったきりだった。大見出しの下に何が書いてあるか、彼には大方想像できたのである。
「それだけですか?」と、ラポワントは戸棚にコートと帽子を取りに行きながら訊いた。
「差しあたっては」メグレはそこに残って、夢見るようにパイプをふかしていた。
「ところで、きみたち……」
刑事たちは頭を上げた。「国家警察総局の人間で、首になったり辞表を出さざるをえなくなった者たちを思い出してみてくれ」
「最近ですか?」と、リュカがたずねた。
「時期は重要じゃない。ここ十年の間としておこう」
トランスが言った。
「その連中のリストがあるはずですよ」
「いいから、名前を言ってみてくれ」
「ボードラン。彼はいま保険会社の調査をやってます」
メグレはボードランを思い出そうとしてみた。蒼白い顔をした背の高い男だった。彼が国家警察総局を去らねばならなかったのは、不正や、不作法な振舞いがあったからではなく、仕事をするよりも仮病をつかうことに精力と頭をつかったからだ。
「その他には」
「ファルコネ」
ファルコネは五十歳を過ぎていた。酒を飲みはじめたし、頼りにならなくなったので、定年より前にやめさせられたのである。
「その他には」
「チビのヴァランクール」
「背が低すぎる」
最初の思惑に反して、刑事たちは何人かの名前しか思い出せなかった。名前が言われるたびに、メグレはその男のシルエットを思い出しては、頭を振った。
「それでもないな。肥った男なのだ。私とほとんどおなじぐらい肥った男なのだ」
「フイシェール」
皆はどっと笑った。この男は少なくとも百二十キロの体重があったからだ。
「ありがとう!」と、メグレはつぶやいた。それでもまだしばらく彼は刑事たちのところにいたが、やがてため息をつきながら立ち上った。
「リュカ! 国家警察総局に電話して、カトルーを呼び出してくれないか?」
いま問題になっているのが国家警察総局をやめた刑事たちにすぎない以上、メグレにはもはや彼の友達に仕事を裏切ってくれと頼むような感情はなかった。国家警察総局に二十年以上いるカトルは、メグレの質問に答えるには司法警察の人間たちよりずっと適していたのだ。
警視には考えがあるらしかった。その考えはまだ漠然としていて、彼自身にもはっきりとつかめていないらしかった。わざと気むずかしい様子をし、大きな目をじっと刑事たちに注いでいるが、彼がどの方向をさがしたらいいのかわかっていることはたしかだった。
彼はあいかわらず、先ほど口まで出かかった名前を思い出そうと努めていた。リュカが電話をかけ、電話に出た相手と親しげに話していた。その相手はどうやらリュカの友達にちがいない。
「カトルーはいないそうです、警視」
「フランスの果てまで仕事に行っていると言うのじゃあるまいな?」
「病気だそうです」
「病院にいるのか?」
「自宅です」
「彼の住所を訊いたか?」
「ご存知だと思っていました」
カトルーとメグレは仲のいい友達だった。しかし、彼らは一度もおたがいの家に行ったことがなかったのである。メグレは一度だけこの友達をバティニョール大通りの坂上の左手にある建物の入口で降ろしたことだけを覚えていた。入口の右手にレストランがあった。
「ピクマールの写真は出たか?」
「第二面に」
「ピクマールのことで電話は?」
「まだありません」
メグレは自分のオフィスにもどると、立ったまま何通かの手紙を開封し、彼に関係ある手紙はトランスにわたし、そのあと中庭に降りて行った。彼は司法警察局の車を使うことをためらい、結局タクシーにした。カトルーヘの訪問はまったく他意のないものだったけれど、警視庁の車を彼の建物の入口に停めておくことは用心深いとは言えないと思った。 最初、メグレは建物を間違えてしまった。いまでは五十メートル間隔で二つのレストランがあったからだ。彼は管理人の女にたずねた。
「カトルー氏はここですか?」
「三階の右側です。エレベーターは修理中ですから」
彼はベルを鳴らした。ドアを開けてくれたカトルー夫人を、彼はおぼえていなかった。夫人のほうはすぐにメグレのことを認めた。
「お入りになってください、メグレさん」
「ご主人はベッドですか?」
「いいえ。肱掛椅子にいます。たちの悪い風邪にかかっただけなのですよ。いつもは冬の初めにかかるのですけど、今年は終りにかかってしまいましたの」
壁には、二人の子供……男の子と女の子……の毎年の写真が飾ってあった。この二人はいまでは結婚してしまっているのに、孫の写真までこのコレクションに加えられていた。
「メグレ?」
警視がまだカトルーのいる部屋のドアのところへ行き着く前に、たのしそうな声が聞こえた。
そこは客間ではなく、この家の大部分の生活がくりひろげられているような感じのする広い部屋だった。カトルーは厚い部屋着にくるまり、窓の近くに坐っていた。膝の上に新聞があり、わきの椅子の上にも別の新聞があった。小さなテーブルには煎じ薬の椀。手にたばこを持っていた。
「たばこを喫ってもかまわないのか?」
「しっ! 女房の味方をするな。ときどきぷかぷかやるだけだ、味見をするために」
彼の声はしゃがれていて、目は熱っぽかった。
「コートを脱げよ。ここは暑すぎるだろう。女房のやつ、おれに汗をかかせたがっているんだ。坐ってくれ」
「何かお飲みになりますか、メグレさん?」と、夫人がたずねた。彼女はほとんど老女のように見えた。警視はそのことにおどろいた。カトルーと彼はほぼおなじ年齢である。メグレには、自分の妻のほうがずっと若く見えるように思われた。
「もちろんだよ、イザベル。彼の返事など待つことないさ。古いカルヴァドスの壜を出しなさい」
二人の男の間に、不自然な沈黙があった。カトルーには、司法警察局の同僚が彼のからだのぐあいを見にここに来たのではないことがよくわかっていた。おそらく彼はメグレがしようと思っている質問よりもずっと面倒な質問さえ予期していたのだろう。
「おい、心配しなさんな。きみを困らせようなんていう気は全然ないんだから」
すると、相手はこう言いたそうな様子で新聞の一面にちらっと目をやった。
「このことだな、え?」
メグレはグラスにカルヴァドスが注がれるのを待った。
「おれには?」と、カトルーは夫人に文句を言った。
「あなたはだめです」
「医者はそんなこと言わなかったぜ」
「医者《せんせい》が言わなくても、飲んではいけないのです」
「一滴だけ、匂いをかぐだけでいいから?」
夫人は彼のグラスにちょっぴり注いだ。そして、メグレ夫人がそうするように、慎ましやかに姿を消した。
「私にはある考えがある」と、メグレは言った。「先ほど部下たちと、きみのところで働いていて首になった人間のリストをつくろうとしてみた」
カトルーはあいかわらず新聞をながめつづけ、メグレの言ったことと、彼が新聞で読んだばかりのこととを結びつけようとしていた。
「首になった理由か?」
「理由などは何でもいいんだ。私の言っていることがわかるな。われわれのところでも首になる者はいる。しかし、数は多くない。というのは、われわれのところはきみのところほど大人数ではないからだ」
カトルーはからかうような微笑をうかべた。
「そう思うかい?」
「それに、われわれはあらゆる種類の事件にたずさわらなくていいから。それはそれとしても、誘惑も多くないし。さっき、われわれは頭をしぼったんだが、数人の名前しか思いうかばなかったんだ」
「どんな名前?」
「ボードラン、ファルコネ、ヴァランクール、フィシェール……」
「それだけ?」
「まあ、そうだ。私はきみに会ったほうがいいと思った。私がさがしているのはこういう類の人間ではないのだ。ぐれた奴なんだ」
「ラバのような?」
カトルーがこの名前を口に出したのは奇妙ではないか? うっかりしてメグレに情報をあたえてしまったかのようにするため、わざとそうしたのではないか?
「彼のことも考えた。こんどのことに関係しているかもしれない。しかし、私のさがしているのは彼ではない」
「心当たりの名前があるのか?」
「名前と顔が頭のどこかにあるんだが。人相はわかっているんだ。最初から、その人相は私にだれかを思い出させた。それからずっと……」
「どんな人相だ? すべてのリストをきみにあたえることができたら、事はもっと早くすむのだろうが、おれだってすべての名前をおぼえているわけではないからな」
「まず、人々がちょっと見ただけで、警察官と取る人間」
「そういう奴は大勢いる」
「中年。普通よりちょっとばかり肥っている。私とほとんどおなじぐらいだ」
カトルーはメグレの肥りぐあいを見積っているようだった。
「私の間違いでなければ、その人間は自分自身のためか、ある人間のために調査をしている」
「私立探偵か?」
「そんなもんだろう。かならずしも事務所のドアに名前を入れているとか、新聞に広告を出しているとはかぎらないが」
「そういう人間は数人いる、定年になり、私立探偵事務所を開いた尊敬すべき元上司も含めて。たとえば、ルイ・カノンジュ。それにおれの上司であったカデ」
「その連中なら、われわれにもわかっている。私がさがしているのはもっと他の類の人間だ」
「きみの人相書はそれで終りか?」
「その人間は葉巻を喫う」
カトルーがある名前を思いうかべたことが、メグレにはすぐにわかった。カトルーの額には皺《しわ》がより、顔には当惑めいたものが見てとれた。
「何かわかったか?」
「うん」
「だれ?」
「悪党だ」
「私がさがしているのも悪党だ」
「スケールは大きくないが、危険な奴だ」
「なぜ?」
「まず、こういった悪党はいつでも危険なんだ。つぎに、奴はある政治家のいやしい仕事をしているという評判だ」
「そいつはぴったりだ」
「奴がきみの事件に関係していると思うか?」
「彼が、私がいった人相にぴったりなら、彼が葉巻を喫い、政治に手を出しているのなら、私がさがしていた人間だということは大いにありうる。きみがその人間の名前を言いたくないなら……」
とつぜん、メグレはある顔を思いうかべた。かなり幅の広い顔、ふくれた目、葉巻のためいびつになってしまった厚い唇。
「待ってくれ! わかったぞ。その人間は……」
しかし、あいかわらずその人間の名前は思いうかばない。
「ブノワ」と、カトルーが言った。「ユージェーヌ・ブノワ。奴はサン・マルタン大通りの、時計屋の中二階に私立探偵事務所を開いた。奴の名前はガラス戸についている。ドアは開いているときより閉っているときのほうが多いんじゃないかな。というのは、この事務所は奴が一人きりでやっているからだ」
実際、彼は警視が二十四時間前から思い出そうとしていた人間だった。
「彼の写真を手に入れるのは、容易じゃないだろうな?」
カトルーは考え込んだ。
「それは、奴が仕事をやめた正確な日付によるな。奴が……」
カトルーは小声で計算し、呼んだ。
「イザベル!」
イザベルは遠くにいたのではなかったので、すぐにやってきた。
「書斎の下のほうの棚のなかに、国家警察総局の名簿があるからさがしてみてくれ。数年前の日付の名簿が一冊あるはずだ。それには二、三百人の写真が載っている」
夫人は名簿を見つけ出した。彼はそれをめくり、自分の写真を指でしめした。彼がさがしている写真は最後の頁にあった。
「これだ! これが奴だ。数年以上前のものだが、それほど変わっていない。おれの記憶しているかぎり、奴はずっと肥っていた」
メグレも彼を認めた。というのは、ときどき彼に会ったことがあるからだ。
「彼の写真を切り取ってもかまわないか?」
「かまわんよ。イザベル、はさみを持ってきてくれ」
メグレは紙入れのなかに小さな光沢のある紙をすべり込ませると、立ち上った。
「急いでいるのか?」
「うん、かなりね。それに、この事件のことできみは私からあまり話を聞かないほうがいいと思うよ」
カトルーは理解した。メグレが国家警察総局の演じている正確な役割を知らないかぎり、できるだけ黙っているほうがカトルーにとっては安全なのだ。
「きみはこわくはないのか?」
「たいしてこわくない」
「きみはポワンが……?」
「ポワンは身代りの小羊にされそうなんだ」
「もう一杯どうだ?」
「もうけっこう。ありがとう。すぐによくなるさ」
カトルー夫人はメグレをドアまで送ってくれた。階下で、彼はヴァノー通りへ行くためタクシーを拾った。彼がこの住所を選んだのは、とっさの思い付きだった。彼は管理人の部屋のドアをノックした。彼女はメグレのことをおぼえていた。
「またお邪魔してすみません。あなたに注意深く写真を見てもらって、ブランシュ・ラモットの部屋へ行った人間かどうか言ってもらいたいのです。ゆっくり見てください」
そんな必要はなかった。ためらわずに、彼女は頭を振った。
「ちがうわ」
「たしかですか?」
「間違いないわ」
「この写真が数年前に撮られ、この人間が変わっていたとしても?」
「つけひげをつけていたとしても、この人はちがうとはっきり断言できるわね」
メグレはちらっと彼女を盗み見た。というのは、こう答えるようにだれかにそそのかされたのではないかと、一瞬思ったからだ。そんなはずはない! 彼女は嘘を言っているようには見えない。
「ありがとう」と、彼はポケットに紙入れをもどしながらため息をついた。
ひどい打撃だった。彼は正しい手掛りを得ていることをほぼ確信していたのだ。その確信が写真による最初の首実験でたちどころに崩れさってしまったのである。
彼はタクシーを待たせておいた。すぐ近くのジャコブ通りに行かせた。彼はピクマールが朝食をいつも取っていた居酒屋《ビストロ》に入った。この時間では、ほとんどだれもいなかった。
「ご主人、この写真をちょっと見ていただけますか?」
メグレはほとんど主人を見る勇気がなかった。それほど彼は主人の返事を恐れていたのだ。
「この男ですよ。ちょっと年齢《とし》を取っている感じですが」
「ピクマール氏に近づいて話しかけ、一緒に出て行った人間ですか?」
「そうです」
「間違いありませんか?」
「ありません」
「ありがとう」
「何もめしあがりませんか?」
「いまはいらない。またあとで来ますよ」
この証言がすべてを変えた。これまでメグレは、おなじ人間がいろいろな場所……ブランシュ嬢の部屋や、ピクマールが行く小さな居酒屋《ビストロ》や『ホテル・デュ・ベリ』にあらわれたのだと考えていた。
とつぜん、メグレは彼らが少なくとも二人であったことを発見した。
つぎの訪問はカラム夫人のところだった。彼女は夢中になって新聞を読んでいた。
「主人の報告書が見つけられそうですか? わたしはいまになって、主人が最後の数年間どうしてあれほど苦しんだのかがわかりました。とにかくわたしは、ああした汚れた政治を恐れます」
彼女は、メグレがやってきたのもこの『汚れた政治』の名においてであろうとつぶやきながら、じっと見つめた。
「どんなご用なのです、今日は?」
メグレは写真を差し出した。彼女はそれを注意深く調ベ、おどろいて顔を上げた。
「わたしが、この写真の人に、見おぼえがあるはずだとおっしゃるんですか?」
「かならずしもそうではありません。私はピクマールの訪問後二、三日してあなたを訪ねたのがこの人間ではないかと考えたわけです」
「この写真の人にこれまで会ったことはありません」
「絶対に間違いありませんか?」
「ありません。おそらくおなじ類の人間でしょうが、ここに来たのはこの人じゃありません」
「ありがとう」
「ピクマールに何かありましたの? 彼が殺されたとお考えですの?」
「なぜ?」
「わかりませんわ。ただ、主人の報告書が日の目を見るのを何としてでも阻止しようとすれば、報告書のことを知っている人々を抹殺《まっさつ》してしまわなければならないのではないでしょうか?」
「しかし、あなたのご主人は抹殺されませんでしたね」
この答えに彼女は狼狽した。彼女はカラムの死後の名誉を弁護しなければならないと思った。
「主人は政治のことなんか全然知りませんでした。あの人は学者です。ただ報告書を書いてその筋の人にわたし、義務をはたしただけです」
「ご主人が義務をはたしただけなのはよくわかっております」
メグレは、彼女がこの問題をもっと十分に話し合おうとする前に、立ち去ることにした。タクシーの運転手がもの問いたげな目つきでメグレをながめた。
「こんどは?」
「『ホテル・デュ・ベリ』へ」
そこにはピクマールについての情報を得ようとしている二人の新聞記者がいた。彼らはメグレのほうに駆けよってきた。だが、メグレは頭を振った。
「あなたたちに、何も言うことはない。おきまりの確認だよ。約束してもいい……」
「ピクマールは生きていると思いますか?」
彼らもか!
メグレは彼らを廊下に残すと、ホテルの主人に写真を見せた。
「何を知りたいんです?」
「ピクマールのことを訊きに来たのはこの人間だったかどうか教えてもらいたいのだ」
「二人のうちのどちらで?」
「ここの部屋を借りている私の刑事のほうではなく、もう一人のほうだ」
「ちがいますね」
彼の答えはきっぱりしていた。これまでのところ、ブノワはピクマールと一緒に小さな居酒屋《ビストロ》を出て行った人物というだけで、他にはどこにもあらわれていない。
「ありがとう」
メグレはタクシーに飛び乗った。
「やってくれ……」
途中、新聞記者たちから十分に離れたときになって初めて、メグレはパストゥール大通りの住所を告げた。彼は管理人の部屋の前で止まらずに、まっすぐ四階に行った。ベルを鳴らしてもだれも出てこなかったので、ふたたび階下《した》に降りた。
「ゴードリー夫人はお留守ですか?」
「三十分前にお子さんと出かけましたわ」
「いつ帰ってくるかわかりますか?」
「帽子をかぶってませんでしたから、町に買物に行ったのですわ。そう長くはかからないと思いますよ」
歩道で待つよりはと思い、今朝入ったバーに行って、念のために司法警察局を呼んだ。刑事部屋の電話に出たのはリュカだった。
「何か新しいことは?」
「ピクマールのことで電話が二回ありました。最初の電話はタクシーの運転手からのもので、昨日北駅までピクマールを乗せて行ったと主張してます。もう一つは、映画館の切符売り場の女からで、昨夜ピクマールが切符を買ったと言うのです。いま、確認させています」
「ラポワントはもどったか?」
「数分前に。まだタイプにかかっておりません」
「彼を出してくれ」
ラポワントが出ると、
「どうだった? カメラマンはいたか?」
「わんさといました、警視。マスクランがしゃべっている間、彼らはわれわれにフラッシュをあびせつづけました」
「どこで会った?」
「『列柱の間』です。サン・ラザール駅のホールのようなものですね! 守衛たちが野次馬を追いはらってくれたので、われわれはやっと息をつくことができました」
「彼の秘書も一緒だったのか?」
「わかりません。私は彼の秘書を知らないのです。紹介もされませんでしたし」
「長くかかったのかね?」
「タイプで三頁ほどです。新聞記者たちも私と同様、速記を取っていました」
ということは、マスクランの供述が今日の夕刊の最終版に載るということだ。
「彼はサインをするからタイプされた供述書を持ってくるように主張しました」
「きみは何と答えた?」
「それは私には関係ないことで、私は警視の命令を待つと言ってやりました」
「国民議会では夜の審議があるのかな?」
「ないと思います。五時頃で終るだろうという言葉を耳にしましたから」
「彼の供述をタイプして、私が行くのを待ちたまえ」
小柄なゴードリー夫人はまだ帰っていなかった。彼は歩道の上を行ったり来たりした。やがて腕に買物かごを下げて、彼女がもどってくるのが見えた。彼女のわきを男の子がちょこちょこ歩いている。ゴードリー夫人はメグレのことをおぼえていた。
「わたしに会いにいらしたのですか?」
「お手間は取らせません」
「階上《うえ》におあがりになってください。いま、買物をしてきたところなのです」
「階上にあがるまでもないんです」
男の子が彼女の腕を引っぱって、たずねた。
「この人だれ? どうしてママと話したがっているの?」
「静かにしなさい。この人はママにちょっと訊きたいことがあるだけなの」
「訊きたいことってなあに?」
メグレはポケットから写真を出した。
「この写真の人に見おぼえがありますか?」
彼女は子供の手を振りきると、光沢のついた紙片の上にかがみ込み、自分のほうから答えた。
「ええ、この人です」
したがって、葉巻の男ユージェーヌ・ブノワは二つの場所にあらわれたわけである。一つはパストゥール大通り。ここで彼はおそらくカラム・レポートを手に入れたのだろう。もう一つはジャコブ通りの居酒屋《ビストロ》。ここで彼はピクマールに近づいて話しかけ、土木大学とは反対の方向に遠ざかって行った。
「この人を見つけたのですか?」と、ゴードリー夫人がたずねた。
「まだですが、もう間もなくでしょう」
彼はタクシーを呼びとめ、サン・マルタン大通りに行かせた。司法警察局の車に乗って来なかったことを悔んだ。というのは、会計係と出費のことでまた言い争わなければならなかったからだ。
その建物は古かった。中二階のガダス戸の下の部分は磨りガラスで、そこに黒い文字でつぎのような言葉が読めた。
[#ここから1字下げ]
ブノワ私立探偵社
あらゆる種類の尾行
[#ここで字下げ終わり]
建物の玄関の両側にネーム・プレートがある……歯科医、造花屋、スウェーデンの女マッサージ師、その他まだいろいろな職業があり、そのなかにはかなり思いがけないものもいくつかあった。階段は薄暗くて、ほこりっぽかった。ブノワの名前はドアに取り付けたエナメルのプレートの上にも書いてあった。
メグレはノックした。返事がないことは先刻承知していた。チラシがドアの下からはみ出していたからだ。気休めにちょっと待ってから、階下《した》に降り、中庭の奥にやっと管理人の部屋を見つけた。管理人を務めているのは女ではなくて、靴屋だった。この部屋は同時に彼の仕事場でもあるわけだ。
「もう長い間ブノワさんに会いませんか?」
「今日は会ってませんねえ」
「昨日は?」
「知りません。たぶん会っていないと思いますよ。注意していませんでしたからねえ」
「それでは一昨日は?」
「一昨日も会ってませんね」
靴屋は人を小馬鹿にしたようなところがあった。メグレは靴屋の鼻先にバッジを突きつけてやった。
「私は知っていることをおたくに言いましたよ。おたくに逆らおうなんて気はありませんぜ。借家人のごたごたは私にはかかわりないことです」
「彼の自宅の住所を知っているか?」
「ノートに書いてあるはずですが」
彼はいやいやながら立ち上り、台所の食器戸棚から手あかだらけの帳簿みたいなものをさがし出してくると、松脂で黒くなった指でページをめくった。
「ここにある最後の住所はボーマルシェ大通りの『ホテル・ボーマルシェ』です」
ここから遠くはなかった。メグレは歩いて行った。
「三週間前に引越しましたよ」と、メグレは告げられた。「もっとも、ここには二カ月しかいませんでしたがね」
こんど教えられた住所はサン・ドニ通りの、どちらかと言えばいかがわしい家具付ホテルだった。ホテルの前には大柄な女が立っていて、メグレに話しかけようと口を開きかけたが、最後の瞬間になってメグレが何者かわかったにちがいない。肩をすくめた。
「彼の部屋は十九号です。いまは部屋にいませんよ」
「昨夜はここで過したかね?」
「エンマ! おまえ、今朝ブノワさんの部屋を掃除したかい?」
顔が二階の手すり越しにつき出された。
「だれがそんなことたずねてるの?」
「そんなことはどうでもいいの。どうなの?」
「ブノワさんはここで寝ませんでしたよ」
「一昨夜《おととい》は?」
「一昨夜もそうですよ」
メグレは部屋の鍵をたのんだ。二階から返事した娘が、案内するという口実で四階までメグレについてきた。ドアには番号がついていたのだから、彼女がついてくる必要はなかったわけだ。しかし、メグレは彼女にいくつか質問した。
「彼は一人で暮らしているのかね?」
「あの人が一人で寝ているかどうか知りたいのですか?」
「そうだ」
「たいていはね」
「きまった女はいるのかい?」
「たくさんいますよ」
「どのような類の女かな?」
「ここに平気でくるような女です」
「おなじ女がちょくちょく来るのかね?」
「おなじ顔を二、三度見たことがあります」
「街で拾ったのかな?」
「その場にいたわけではありませんからね」
「二日前から彼はホテルにもどってこないのかね?」
「二、三日前からです。はっきりとはわかりません」
「ときどき男も来るのかね?」
「あなたの言いたいことはわかりますが、あの人はそっちのほうの趣味じゃないし、このホテルもちがいます。そういった人たちのホテルは通りの下のほうにあります」
彼の部屋からはたいした手掛りはえられなかった。部屋自体はこうした種類のホテルによくあるタイプで、鉄のベッド、古い箪笥、底の抜けかけた肱掛椅子、湯と水が出る洗面所などがついていた。箪笥の引出しには、下着、口の開いた葉巻の箱、動いていない時計、セロハンの袋のなかに入ったいろいろな大きさの釣針などが入っていたが、興味のあるものは紙切れ一枚なかった。折畳み式トランクのなかには靴と汚れたシャツしかなかった。
「寝に帰らないことがあるのかね?」
「こんどにかぎったことではありません。それに、土曜日ごとに田舎に行って月曜日まで帰ってきません」
メグレは、こんどはオルフェーヴル河岸に車を走らせた。ラポワントはもうずっと前にマスクランの供述をタイプし終えていた。
「国民議会に電話して、議員たちがまだいるかどうかたしかめてくれ」
「あなたが彼に話したいことがあるのだと言いますか?」
「いや。私のことも、司法警察局のことも言わないようにしろ」
メグレがリュカのほうに向くと、リュカはだめだったという身振りをした。
「最初の二つの電話のあと、また電話がありました。確かめてみましたが、これも間違いです。トランスはいまこちらにもどってきます」
「ピクマールじゃなかったのか?」
「ええ。タクシーの運転手がいちばん自信たっぷりでしたが、彼が乗せた客は自分の家にもどっていました」
まだまだ情報はあるだろう、とくに明日は郵便で。
「国民議会での審議は三十分前に終ってます」と、ラポワントは告げた。「何かのことで投票するだけだったそうです……」
「彼らが投票しようがしまいがそんなことはどうでもいい」
メグレは、マスクランがオペラ座のすぐそばのダンタン通りに住んでいることを知っていた。
「何か用事があるのか?」
「たいしたものはありません」
「それだったら、私と来てくれ、その供述書を持って」
メグレはぜったいに車を運転しようとはしなかった。黒い小型車が何台か司法警察局に配備されたとき、運転してみたことはあったが、物思いにふけって、運転していることを忘れてしまうのだ。あわやというときにやっとブレーキを踏んだことも二、三度あった。それ以来、もう二度と運転しようとはしなかった。
「車で行くのですか?」
「そうだ」
午後のすべてのタクシー代をそれで会計係に許してもらおうとするかのようだった。
「ダンタン通りの番号がわかりますか?」
「わからないが、いちばん古い建物だ」
その建物はかなり古かったが、手入れがよく行き届いていた。メグレとラポワントは管理人室の前で立ち停った。部屋は中産階級の客間のようで、蝋とビロードの匂いがした。
「マスクラン氏を」
「お約束があるのですか?」
メグレは一か八か、あると言ってみた。すると、その黒い服の女はメグレをながめ、ついで新聞の第一面をながめ、ふたたびメグレをながめた。
「あなたを通さないわけにはいかないようですね、メグレさん。二階の左側です」
「彼はここに住んで長いのですか?」
「十二月で十一年になります」
「秘書も一緒に暮らしているのですか?」
彼女は軽く笑った。
「そんなことございませんわ」
彼女は、メグレが何を言いたいのか見抜いたようだった。
「彼らは夜遅くまで仕事をしていますか?」
「しょっちゅうですよ。ほとんど毎日のように。マスクランさんはパリでいちばん忙しい人間の一人じゃないかと思います。ここや国民議会に来る手紙に返事を書くだけでも大変ですわ」
メグレはもう少しで彼女にブノワの写真を見せ、見覚えがあるかどうか訊くところだった。しかし、彼女がそのことをマスクランにしゃべってしまうにちがいないと考え、まだこちらの手のうちをさらさないことにした。
「彼のアパルトマンに専用電話でつながっていますね?」
「どうしてそれをご存じなのです?」
それを見抜くのはむずかしいことではなかった。というのは、普通の電話の他に、それより手軽な電話が壁にかかっていたからだ。マスクランは用心深い男だ。
彼女は、メグレとラポワントが階段を昇りはじめるや、この電話でメグレたちが来たことを連絡するだろう。そんなことはたいしたことではない。そうされたくなければ、管理人室にラポワントを残しておけばいいのだから。
ベルを鳴らしてもすぐには応答がなかった。しばらくたって、マスクランが自分でドアを開けた。彼はおどろいたふりなどしてみせようともしなかった。
「私は、あなたが自分でやってくる、それもここに来ることを選ぶだろうと考えたのだ。入りたまえ」
控え室からもう、新聞、雑誌、議会での討論の報告書などが床にいっぱいだった。客間に使っている、歯科医の待合室とたいして感じのちがわない部屋にも新聞や雑誌などがあった。
マスクランは明らかに贅沢や安楽に関心がなかった。
「私の書斎を見たいでしょうな?」
この皮肉のなかには、メグレの意図を見抜こうとするような彼の態度のなかには、どこか侮辱的なところがあった。が、警視は平静さを保っていた。
メグレはただこう言い返すだけにした。
「私はあなたにサインをたのみにきたファンじゃありませんよ」
「こちらへ」
彼らは詰物を入れた二重のドアを越えると、広い書斎に出た。二つの窓が通りに面していた。緑の書類整理箱が壁の二面をふさいでいる。その他の壁には弁護士の部屋のように法律書が並んでいた。それにここの床にもまた、役所とおなじように新聞や、書類がいっぱいだった。
「私の秘書、ルネ・ファルク君を紹介しよう」
ルネ・ファルクは二十五歳以上ではなかった。ブロンドで、華奢《きゃしゃ》で、変に子供っぽい、すねたような顔付をしていた。
「初めまして」と、メグレを見ながら言ったが、その目付はブランシュ嬢が初めてメグレを見たときとおなじようだった。彼女同様、彼も自分の雇主を崇拝しているにちがいない。すべてのよそ者を敵として見ているようだ。
「供述書を持ってきましたね? 二、三通持ってきたでしょうね?」
「三通です。そのうちの二通には、あなたの望みどおりサインをしていただき、あとの一通は書類入れにしまうなり何なり、あなたのお好きなようにしてください」
マスクランは供述書をうけとると、一通をルネ・ファルクに差出した。秘書はマスクランと同時に読みはじめた。デスクに坐って、マスクランはペンを取ると、あちこちコンマをつけ加え、ラポワントに向かってこうつぶやきながらどこかの一語を削った。
「これを削ってもきみを侮辱することにはならないと思うが?」
最後の頁まで目を通すと、彼はサインをし、もう一通に訂正部分を書き移すと、それにもサインした。メグレは手を差し出したが、マスクランはわたさなかった。三番目の写しに、まだ訂正部分を書き移していなかったのである。
「大丈夫だね?」と、マスクランは秘書にたずねた。
「大丈夫だと思います」
「それじゃ複写機に入れてくれ」
彼は警視を狡猾そうにちらっとながめた。
「私のように敵の多い人間はいくら用心しても用心しすぎることはないんだ」と、彼は言った。「とりわけ多くの人間が、ある書類が公表されないことを願っているときには」
ファルクはドアを開けたが、そのドアを閉めて行かなかった。旧い台所か、浴室のような狭い部屋が見えた。白い木のテーブルの上に、複写機がおいてあった。
秘書はその複写機のボタンを押した。軽いぶんぶん唸るような音が聞こえた。秘書は供述書を一枚ずつ入れ、それと同時に特別な用紙も入れた。メグレはその仕組を知っていたが、個人の家でこのような機械を見るのはめずらしかったので、うわべは無関心を装いながら操作のぐあいを見つめていた。
「すばらしい発明じゃないかね?」と、マスクランは例のごとく唇のところに下品な皺をよせて言った。「カーボンの写しだったら即座に異議をとなえるだろうが、複写機を否定することはできない」
メグレの顔にかすかな微笑がうかんだ。マスクランはそれを見逃さなかった。
「何を考えたのかね?」
「最近カラム・レポートを手に入れた人間のなかに、それを複写機で取ることを思いついた者がいるかどうか考えていたんです」
マスクランがこの複写機をメグレに見せたのは、不注意からではない。ファルクは三通の供述書を持ってしばらく姿を消すこともできたはずだ。そうすれば警視には隣りの部屋で秘書が何をやっているかわかりもしなかったたろう。
紙がつぎつぎと隙間から出てきた。秘書がそれらをテーブルの上に湿ったまま並べた。
「こんどの事件をもみ消したがっている人々には、こいつはいやな代物だろうな、え、そうじゃないか?」と、マスクランが冷笑した。
メグレは黙って相手をながめた。その目はまったく無表情で、同時に陰うつだった。
「そう、いやな代物でしょう」と、彼はくり返したが、思わず背中に冷たいものが走った。
[#改ページ]
第八章 セーヌポールヘの旅
メグレとラポワントがサン・ジェルマン大通りに着いたとき、六時半だった。公共事業省の中庭には人気《ひとけ》がなかった。メグレたちが大臣の部屋へ通じる階段のほうへ中庭を横切ると、うしろで声がした。
「おい! そこの二人! どこへ行くんだ?」
守衛はメグレたちが通るのを見ていなかったのだ。メグレたちは中庭の真中で立ち止ると、守衛のほうを向いた。守衛はびっこを引きながらやってくると、メグレが差出したバッジに、ついでメグレの顔に目をやった。
「これは失礼いたしました。先ほど新聞であなたの写真を拝見したばかりですよ」
「あなたは当然のことをされたんですよ。ところで、あなたがここにいるときに、この……」
いまではポケットから写真を出すのが習慣になってしまった。
「この顔に見覚えがないですか?」
この上また間違いをしでかしたくなかったので、守衛は度の強い、はがねの縁《ふち》の眼鏡をかけて注意深くながめた。彼は見覚えがあるともないとも言わなかった。返事をする前に、何が問題なのか知りたそうだったが、あえてそれを口にしなかった。
「いまはもう少し年齢《とし》を取っていますね?」
「そう、数年は」
「二人乗りの、旧式の黒い車を持っているでしょう?」
「そうかもしれない」
「それなら、たぶん私がつかまえた男でしょう。大臣の車専用の中庭の駐車場にこの男は車を停めたのです」
「いつ?」
「日にちはおぼえてませんな。今週の初め頃です」
「名前を言わなかったかね?」
「肩をすくめただけで、中庭の向こう側に車を停めに行きましたよ」
「大きな階段を昇っていったの?」
「そうです」
「われわれが上に行っている間に、日にちを思い出すようにしてくださいよ」
二階の控え室では、受付がまだいて、新聞を読んでいた。メグレは受付にも写真を見せた。受付は首を振った。
「来たとしたらいつ頃ですか?」
「今週の初め頃」
「私はここにはおりませんでしたね。女房が死んだもので、四日ほど休暇を取っていましたから。ジョゼフに訊いてみてくたさい。来週はここに来ます。大臣にお取り次ぎいたしましょうか?」
すぐに、オーギュスト・ポワンが自分で事務室のドアを開けた。彼は疲れているようだったが、落ち着いていた。メグレとラポワントを黙って中に入れた。秘書のブランシュ嬢と官房長の二人も事務室にいた。ラジオはまだ各省の備品になっていないらしく、ポワンのものにちがいない小さなポータブル・ラジオが小さなテーブルの上にあった。受付がメグレたちの来訪を取り次いだとき、ポワンと秘書と官房長はこのポータブル・ラジオにきき耳を立てていたにちがいなかった。
『……会議は簡単で、もっぱら日常業務にあてられましたが、廊下は午後の間ずっと興奮気味でした。あらゆる種類の噂が流れていました。月曜日にはセンセーショナルな質問が国民議会でなされると言われていますが、その内容はまだわかっていません……』
「消してくれ!」と、ポワンが秘書に言った。フルーリーはいくつかあるドアの一つのほうに行こうとした。メグレが彼を引き留めた。
「あなたにも用があるのです、フルーリーさん。あなたも、ブランシュさん」
警視が何をしに来たのか推測することができなかったので、ポワンは不安そうにメグレを目で追った。その一方では、ある考えにとらえられて他のことをすべて忘れてしまった人間のような顔付をしていた。
彼は心のなかで事務室の設計図を描いているかのようだった。壁やドアを見つめていた。
「大臣、あなたの協力者たちに二、三質問をしてもよろしいでしょうか?」
メグレが最初に話しかけたのはフルーリーにである。
「ピクマールが訪問したとき、あなたは自分の事務室にいたと思いますが?」
「おぼえていません……」
「そうでしょう。しかし、いま思い出してください。あのとき、あなたはどこにいましたか?」
フルーリーは半分開いている両開き戸を指さした。
「あなたの事務室に?」
「ええ」
警視はそこへ行き、ちらっと目をやった。
「一人きりで?」
「それにはお答えできません。私は長い間一人きりでいることはまれなのです。訪問者が一日じゅうひっきりなしに来ます。大臣はその一部の重要な人だけに会われます。あとの人たちは私が引き受けます」
メグレは、官房長の事務室から控え室に直接通じるドアを開けに行った。
「訪問者が通るのはここからですね?」
「普通はそうです。大臣がまずお会いになられ、何らかの理由で私のほうに回してよこす方々を除いては」
電話が鳴った。ポワンとブランシュは顔を見合わせた。ブランシュが受話器を取った。
「いいえ、大臣はここにはおりません……」
彼女は一点をじっと見つめたまま、耳をすましていた。彼女も疲れ果てているようだった。
「おなじことかい?」彼女が受話器をかけたとき、ポワンがたずねた。
彼女はそうだという風に目ばたきをした。
「彼は息子さんが……」
「もういい」
ポワンはメグレのほうを向いた。
「正午から、電話がこうやって鳴りっぱなしなのです。何回かは私が自分で受けました。大部分はおなじことを言うのです。
『クレールフォン事件をもみ消そうとなどしたら、殺してやる!』
それでも人によって言い方はいろいろです。ある人たちはていねいです。ある人たちは名前を名乗りさえします。これらの人たちはあの大惨事で子供を殺された親たちです。ある女は悲痛な声で私にさけびました。
『殺人者たちをかばおうとしてはいけません! カラム・レポートを消滅させてないなら、それを公表しなさい。そうすればフランスじゅうが知って……』」
ポワンは一睡もしていない人間のような灰色の肌と、薄黒い隈のできた目をしていた。
「ラ・ロシュ・シュール・ヨンの私の選挙委員長で、私の父の友人であり私を子供のときから知っている人が、先ほど……私の声明がラジオ放送されたほとんど直後に電話をかけてきました。彼は私を非難しませんでしたが、私のことを疑っているようでした。
『……きみ、こちらでは何もわからない』と、彼は悲しそうな声で言いました。『私たちは皆、きみの両親を知っているし、きみのことも知っていると思っておる。たとえ多くの人々をかかわり合いにさせなければならないとしても、きみは知っていることを言わなければならん』」
「あなたはいずれそれを言うでしょう」と、メグレは答えた。
ポワンは激しく頭を上げると、いま耳にしたことが信じられなかったので、疑わしそうに訊いた。
「あなたは本当にそう思いますか?」
「私はいまそれを確信してます」
フルーリーは事務室の向こう端の小卓によりかかっていた。メグレは大臣にブノワの写真を差出した。大臣は写真を見たが、何のことかわけがわからなかった。
「それはだれです?」
「ご存じありませんか?」
「顔には見覚えありませんね」
「最近あなたに会いに来ませんでしたか?」
「もし私に会いに来たのなら、名前が控え室の受付のノートに書き込まれています」
「ブランシュさん、あなたの事務室を見せていただけますか?」
フルーリーは離れていたので、写真を見ることができなかった。メグレは、フルーリーが少年時代からつづいている癖のように、爪を噛んでいるのに気がついた。秘書の事務室のドアは官房長の事務室に隣接していて、片開き戸だった。
「ピクマールがやってきて、大臣が二人だけにしてほしいと言ったとき、あなたはここに来たのですか?」
緊張して彼女はうなずいた。
「ドアを閉めましたね?」
ふたたびうなずく。
「隣りの部屋の話し声を聞くことができますか?」
「ドアに耳を押しつけたなら、それにかなり大きな声でしゃべってくれたなら、聞くことができるかもしれません」
「あなたはそうしなかったのですか?」
「ええ」
「一度もそんなことをしたことがありませんか?」
彼女は答えなかった。たとえばポワンが、彼女が美しいとか危険だとか考える女を迎え入れたとき、彼女はそうやってきき耳を立てたのではないか?
「この男を知ってますか?」
彼女はこの問いを待っていた。というのは、大臣が先ほどこの写真を見ているとき、ちらっと目をやったからだ。
「ええ」
「どこで会いましたか?」
彼女はひとに開かれないように低い声で話した。
「隣りの事務室で」
彼女はフルーリーとの事務室の間にある壁を指さした。
「いつ?」
「ピクマールが来た日」
「訪問の後ですか?」
「いいえ。前です」
「彼は坐っていましたか、立っていましたか?」
「帽子をかぶり、葉巻を口にくわえて、坐ってました。嫌な目つきでわたしを見ました」
「そのあとでふたたび彼に会いましたか?」
「ええ。後で」
「ということは、ピクマールが出て行ったとき彼はまだいた、つまりピクマールの訪問の間じゅうずっと彼は隣りの事務室にいたということですね?」
「そう思います。その人はあの前にも後にも隣りの事務室にいました。あなたはまさか……」
彼女はフルーリーのことを話したかったのかもしれない。だが、メグレはただこう言った。
「しっ! 来なさい……」
大きな事務室にもどると、ポワンはメグレを咎《とが》めるようにながめた。まるで秘書を質問ぜめにしたことでメグレを怨んでいるかのように。
「大臣、今夜官房長にご用がおありですか?」
「いいや……なぜです?」
「彼と話したいからです」
「ここで?」
「できたら、私のオフィスで。フルーリーさん、お差し支えなければわれわれと一緒に来ていただきたいのですが?」
「食事の約束があるのですが、どうしてもとおっしゃるのなら……」
「それでは電話で約束を取消していただきましょう」
フルーリーは電話をかけに行った。自分の事務室のドアを開けたままにして、『フーケ』を呼び出した。
「ボブ? フルーリーだ……ジャックリーヌは来てるかい? まだ? 本当に? 彼女が来たら、一人で食事をはじめるように言ってくれないか? そう……私は食事に行けないかもしれない……うん、遅くなって……じゃあとで……」
ラポワントは横目でフルーリーを見守っていた。途方に暮れたポワンは、説明をしてもらいたいという気持をありありと見せてメグレをながめていた。しかし、警視はそのことに気づかないようだった。
「大臣、今夜何か用事は?」
「私が主催する宴会があるんですが、相手方が出席の取消しを言ってくる前に、私のほうからことわりましょう」
「それでは、何か新しいことがありましたら、私のほうから電話しましょう、かなり遅くなると思いますが」
「真夜中でもかまいませんよ……」
フルーリーが手にコートと帽子を持って出てきた。ただ習慣の力だけでやっと立っている人間のようだった。
「用意はいいですか? ラポワント、きみもいいね?」
三人は黙って大きな階段を降りると、歩道わきに停めておいた車のところへ行った。
「乗りたまえ……ラポワント、オルフェーヴル河岸に……」
彼らは途中で一言も言葉をかわさなかった。フルーリーは二度口を開きかけたが、質問は発しなかった。ただ爪を噛みつづけていた。
ほこりだらけの階段でメグレはフルーリーを先に立たせ、オフィスにも先に入れた。メグレは窓を閉めた。
「コートを脱いでもいいですよ。気楽にしてください」
メグレはラポワントに合図して、廊下に連れ出した。
「私がもどってくるまで彼と一緒にいてくれ。長くかかるかもしれない。そうなるときみは夜の勤務になってしまうな」
ラポワントは顔を赤らめた。
「約束があるのか?」
「そんなことはかまいません」
「電話できるのか?」
「ええ」
「もし彼女がここに来て、きみと一緒にいたがったら……」
ラポワントはそんなことはないという風に首を振った。
「ビヤホールからサンドイツチとビールを持ってこさせておいてくれ。フルーリーから目を離してはいけない。電話もさせるな。質問されたら、何も知らないと言うんだ。自業自得なのだからしばらく苦しませておけ、いいな?」
これは古くさい手である。しかし、この事件の捜査にかなりたずさわったラポワントであったが、警視がいったいどうしたいのかよくわからなかった。
「じゃ、彼のところへ行きたまえ。サンドイッチを忘れないように」
メグレは刑事部屋へ入った。ジャンヴィエはまだ残っていた。
「今夜特別な用事はないのか?」
「ありませんよ。ただ女房が……」
「きみを待っているのか? 奥さんに電話をかけられないか?」
メグレはテーブルの上に腰をかけると、別の受話器をはずし、カトルーの番号を申し込んだ。
「メグレだ……また邪魔をしてすまないが……あるところで見つけた釣針のおかげで、先ほどちょっと思い出したんだ……私はブノワに何度か会っているんだが、土曜日に北駅で会ったことがある。釣りに出かけるところだった……え? 彼は釣り気違い? 彼がいつもどこに行くのか知らないか?」
メグレはいまは自信があった。間違っていないことがわかっていた。もう何物も自分を止めることができないように思われた。
「何だって? どこかの小屋? それがどこだか知る方法はないかな? そう……じゃすぐに……電話のわきで待っているよ……」
ジャンヴィエはまだ妻と話していた。子供たち一人ひとりの様子を訊いている。子供たちはつぎつぎと、おやすみなさいを言いに電話に出た。
「おやすみ、ピエロ……よく眠るんだよ……そう、パパはピエロが目がさめたときにはそばにいるからね……モニックか? 弟にやさしくしているかい?」
メグレはため息をつきながら待った。ジャンヴィエが受話器をかけたとき、彼はつぶやいた。
「今夜は荒れるかもしれない。私も家内に電話しておいたほうがいいような気がする」
「電話を申し込みましょうか?」
「その前に重要な電話があるんだ」
カトルーはある同僚に電話しているところだった。この同僚も釣りの好きな男で、ときどき川縁にブノワと一緒に行ったことがあった。いまやチャンスの問題である。その同僚は家にいないかもしれない。仕事でパリから遠く離れているかもしれない。刑事部屋のなかで、沈黙が十分ほどつづいた。ついにメグレはため息をついた。
「喉が乾いたな!」
と同時に、電話のベルが鳴った。
「カトルーか?」
「うん。きみ、セーヌポールを知ってるか?」
「コルベイユのちょっと上流の、水門の近くのか?」
メグレは昔のある捜査を思い出した。
「そうだ。セーヌ川の小さな村だ、とくに釣師たちがよく行くところだ。ブノワはその村の近くに小屋を持っている。荒れ果てた昔の番人小屋で、十年ほど前にただみたいな安い値段で買ったそうだ」
「見つけ出せるだろう」
「うまくやれよ!」
メグレは夫人に電話することを忘れなかったが、彼には電話口におやすみを言いに来る子供たちがいなかった。
「出かけるか?」
通りがかりに、メグレは自分のオフィスのドアをちょっと開けてみた。ラポワントは緑色の笠のついた電気スタンドをつけ、メグレの肱掛椅子に坐って新聞を読んでいた。一方、フルーリーはこわばった表情で椅子に坐って脚を組み、目を半分閉じていた。
「じゃあとで、チビ君」
官房長は身ぶるいし、質問をするために立ち上った。だが、警視はすでにドアを閉めていた。
「車に乗りますか?」
「うん。セーヌポールに行く。三十キロぐらいあるだろう」
「前にあなたと行ったことがありますね」
「そうだったな。腹はへっていないか?」
「長い時間向こうにいることになるんでしたら……」
「ビヤホール『ドフィーヌ』で車を停めてくれ」
メグレたちが入ってくるのを見て、ボーイはびっくりした。
「ラポワントさんがあなたの部屋に注文したサンドイッチとビールは、もう持って行く必要はないんですか?」
「そんなことはないさ。しかし、まず何か飲物をくれよ。ジャンヴィエ、何にする?」
「何でもいいですよ」
「ペルノー酒は?」
メグレがペルノー酒を飲みたがっていることを、ジャンヴィエは知っていた。ジャンヴィエもぺルノー酒にした。
「サンドイッチを二人分、別々につくってくれ」
「どのサンドイッチにします?」
「何でもいい。あったらパテのにしてくれ」
メグレはこの世でもっとも落ち着いた男のように見えた。
「われわれは犯罪事件に慣れすぎている」と、彼はグラスを手に持って、ひとり言のようにつぶやいた。
彼には相手の返事など必要でなかった。心のなかで自分自身で返事をしていた。
「犯罪事件では、通常一人もしくは、共謀して行動したグループの犯人がいる。政治においてはまったく違う。その証拠に、議会には多くの党派がある」
この考えは彼を面白がらせた。
「多数の人間が、さまざまな理由でカラム・レポートに関心を持っている。カラム・レポートが公表されれば不利な立場におかれるのは政治家だけではない。アルチュール・ニクーだけではない。また、カラム・レポートを手に入れることは、ある人々にとっては大金をもたらし、ある人々にとっては権力を意味する」
今夜は客はまばらだった。あかあかと明りはついているが、嵐の前のような重苦しい雰囲気だった。
二人はメグレのいつものテーブルでサンドイッチを食べた。そのことはメグレに『フィレ・ド・ソール』でのマスクランのテーブルを思い出させた。彼らはたがいに異なる場所にそれぞれのテーブルを持っていたが、その環境はいっそう異なるものだった。
「コーヒーは?」
「もらいます」
「ブランデーは?」
「けっこうです。運転しますから」
メグレもブランデーを飲まなかった。ほどなく二人はイタリア門からパリを出ると、フォンテーヌブローヘ向かう道路に車を走らせていた。
「ブノワが、あの悪臭を放つ葉巻のかわりに、パイプを喫っていたら、われわれの仕事はもっとずっと困難になっていたと思うと妙な気持だ」
彼らは郊外の町を横切った。まもなく道路の両側の大きな樹木と、行き交う車のヘッドライトしか見えなくなった。多くの車がこの黒い小型車を追い越して行った。
「スピードを出す必要はないと思いますが?」
「そんな必要ないさ。彼らはそこにいるか、さもなければ……」
メグレはブノワのような人間をよく知っていたので、彼らの立場に立って物を考えることができた。ブノワはたいして想像力があるわけではない。たかだかけちなゆすりにすぎず、大金を手に入れる味《あじ》な駈引きなどできるはずもなかった。
ブノワには、どんな女でもいいから女と、虚勢を張ることができ、すごい男だと認められる場所でのずぼらな生活と、週末の一日か二日の釣りがあればいいのだ。
「セーヌポールの広場に小さなカフェがあったのを思い出したよ。あそこで車を停めて、道をきこう」
コルベイユでセーヌ川を渡り、川に沿っての道を進んだ。向う岸は森だった。四度か五度、ジャンヴィエはうさぎをよけるためいきなりカーブを切り、そのたびにぶつぶつ言った。
「さっさと行ってくれ、間抜けめ!」
ときどき暗闇のなかに光が見え、最後に一かたまりの光と、いくつかの街燈があらわれた。車はカフェの前で停った。店のなかでは人々がカードをやっていた。
「私も入りますか?」
「一杯やりたいんだったら?」
「いまは欲しくありません」
メグレはカウンターで、アルコールを一杯飲んだ。
「ブノワを知ってますか?」
「讐察にいる人のことですか?」
セーヌポールでは、ブノワは、もうずっと前から国家警察総局の人間ではないということを知らせてはいなかったのだ。
「彼がどこに住んでいるかご存じですか?」
「コルベイユのほうからきたんですか?」
「そうです」
「それじゃあ、あの人の家の前を通ってきたんですよ。ここから一キロ半手前のところに、競馬場を見ませんでしたか?」
「いいや」
「夜なのでわからなかったのでしょう。あの人の家は道路をはさんでその競馬場の正面にあるのです。あの人が家にいれば、明りが見えるでしょう」
「ありがとう」
「彼はいるよ!」と、ブロット(オランダ伝来のトランプの一種)をやっていた一人が言った。
「どうしてわかるんです?」
「昨日、羊の股肉を彼に売ったから」
「彼一人なのに股肉をそっくり?」
「養生しているんじゃないですかね?」
数分後、車を徐行させていたジャンヴィエが森のなかのほの白いところを指さした。
「あれが競馬場でしょう」
メグレは道路の反対側をながめた。百メートルほど先の川縁に、明るい窓が見えた。
「ここに車を停めよう。行くぞ」
月は出ていなかったが、彼らは草の生い茂った小径を見つけた。
[#改ページ]
第九章 公共事業省の夜
彼らは交互に先になってそっと進んだ。小屋の連中は彼らが近づくのに気づいていない。昔は、川縁のこのあたりはある大地主のものだったにちがいない。そして当時は、小屋は密猟監視人が使っていたのだろう。
いまではこの付近は荒れるにまかせていた。あちこちでひっくり返った柵が、かつて野菜畑であったところを囲んでいた。明るい窓から、メグレとジャンヴィエには、天井の梁《はり》と、石灰を塗った白い壁と、テーブルが見えた。テーブルの前では、二人の男がカードをしていた。
暗闇のなかで、ジャンヴィエはこれからどうするのか訊くかのように、メグレを見た。
「ここに残っているんだ」と、メグレはささやいた。
メグレ自身はドアのほうに向かった。ドアには鍵がかかっていた。彼はノックした。
「だれだ?」と、内部《なか》から声がした。
「開けろ、ブノワ」
沈黙があり、つづいて足音がした。窓のところにいたジャンヴィエは、テーブルのそばに立っている元警察官を見ることができた。彼はどうしていいか迷っていたが、やがて連れを隣りの部屋に押しやった。
「だれだ?」と、ドアに近づきながらブノワがたずねた。
「メグレ」
ふたたび沈黙。最後に閂《かんぬき》がはずされ、ドアが開いた。ブノワはびっくりした目でメグレのシルエットをながめた。
「あんたがおれに何の用があるんだ?」
「ちょっとおしゃべりしたくてね。ジャンヴィエ、来てもいいよ」
カードがあいかわらずテーブルの上にあった。
「一人かね?」
ブノワは、ジャンヴィエが窓のところで見張っていたのをうすうす感づいていたので、すぐには答えなかった。
「一人占いをやっていたのか?」
ジャンヴィエはドアを指さして言った。
「もう一人はあそこです、警視」
「そうだろうと思っていた。そいつを連れてこい」
ピクマールは逃げようとしても容易には逃げられなかっただろう。というのは、ドアは流し場に通じているだけで、外には出られなかったからだ。
「おれに何の用があるんだ? 令状があるのか?」と、ブノワは平静をよそおおうと努めながら言った。
「ない」
「それなら……」
「それならもくそもない! 坐るんだ。ピクマールも。私は立っている人間に話すのがひどくいやなんだ」
メグレはカードを何枚かいじくった。
「おまえはピクマールに二人でやるブロットを教えていたところなのか?」
たぶんそうにちがいない。ピクマールはこれまでカードにさわったこともないような男だった。
「口を割ったらどうだ、ブノワ?」
「何も言うことはないよ」
「よし。それなら、私が話そう」
テーブルの上にはぶどう酒の壜と、グラスが一個あった。
カードをやったこともないようなピクマールは、酒を飲まなかったし、たばこも喫わなかった。女と寝るようなことがあっただろうか? たぶんそれもないだろう。彼は片隅にうずくまった動物のように、残忍な目つきでメグレを見つめていた。
「おまえはずっと前からマスクランのために働いていたのか?」
実際、ブノワはこうした環境のなかではパリでよりいい印象をあたえる。ここのほうがずっと彼に適しているのだろう。彼はまだ百姓のままであったのだ。彼は村で虚勢を張っていたにちがいない。そしてパリに好運を求めてやってきたのだが、それが間違いだったのだ。彼の策略、彼のいんいちきは、しょせん市《いち》での百姓の策略であり、いんちきだった。
元気を出すため、ブノワは自分で飲物を注ぐと、皮肉を言った。
「あんたにも差し上げなくてはいけませんかね?」
「けっこうだよ。マスクランにはおまえのような人間が必要だった、あらゆる方面から受け取る情報をただたしかめるためにすぎないとしても」
「言いたいだけ言え」
「ピクマールから手紙を受け取ったとき、マスクランはこれが千載一遇《せんざいいちぐう》の好機であり、うまくやれば、多くの政治家たちを意のままにできるチャンスだということを理解した」
「そうですかね」
「そうだ!」
メグレはあいかわらず立ったままだった。両手をうしろにやり、パイプをくわえて、ドアからマントルピースの間を行ったり来たりした。ときどき二人の男の前で立ち止まった。一方、ジャンヴィエはテーブルの隅に坐って、じっと耳を傾けていた。
「私をいちばん困惑させたのは、ピクマールに会い、カラム・レポートを手に入れたマスクランが、公共事業大臣のところにピクマールをやったことだ」
ブノワは心得顔に微笑んだ。
「マスクランの部屋で復写機を見たとき、やっと私にはそのわけがわかった。ブノワ、事件を順序立ててみる必要があるかね? 間違っていたら、そう言ってくれ。
マスクランはピクマールの手紙を受け取った。用心深い男の常として、彼はおまえを呼んで、調べさせた。おまえが調べてみると、手紙は本当であり、実際、ピクマールという男はカラム・レポートを手に入れるには恰好な人間であることがわかった。
そのとき、おまえはマスクランに、公共事業省に知っている人間がいると言った。官房長だ。どこで彼に会ったんだ?」
「あんたには関係ないことだ」
「まあ、それはどうでもいい。彼は私のオフィスで待っているから、あとでこうした細かい点はわかるだろう。フルーリーは哀れな男で、いつも金がなかった。ただ彼には、おまえのような|くず《ヽヽ》の人間が鼻先でぴしゃりとドアを閉められてしまうような社会にも出入りできる利点があった。おまえはときどき金を使って、彼の友達の何人かにかんする情報を手に入れていたはずだ」
「さあ、つづけてくれ」
「これからは、おまえも理解しようとするんだ。マスクランがピクマールからカラム・レポートを手に入れたら、実際的に見てそれを公表し、スキャンダルをまき起こさなければならなかったはずだ。なぜなら、ピクマールは彼なりに正直な男であり、彼を黙らせるには殺さなければならないほど狂信的なところのある男だったからだ。
議会にカラム・レポートを持って行けば、しばらくはマスクランをスターにしただろう、それでもよい……。
しかし、それよりもカラム・レポートを持っていて、カラム・レポートに捲きこまれているすベての人々を意のままにしたほうがずっと利益があるだろう。
私はこのことを考えつくまでかなりの時間がかかった。マスクランの立場に立って物を考えられるほど私は腹黒い人間ではない。
それはそれとして、ピクマールはカラム夫人のところへ行った。以前見ていたのでカラム・レポートがどこにあるか知っていたのだ。彼は書類カバンのなかにカラム・レポートを忍び込ませると、ダンタン通りのマスクランの家へすっ飛んで行った。
彼がそこへ行けば、おまえにはもう彼を尾行する必要はなかった。というのは、おまえにはこれから起こることがわかっていたからだ。そこでおまえは公共事業省に急いで行った。フルーリーがおまえを自分の事務室に引き入れた。
適当な口実をもうけて、マスクランはピクマールを引きとめ、その間にあのおしとやかな秘書がカラム・レポートをコピーした。
いかにも正直な人間のように見せかけて、マスクランはピクマールにカラム・レポートをその筋の者に、つまり公共事業大臣に持って行かせた。そうだね?」
烈しい感動に襲われたピクマールは、自省しながらじっとメグレを見つめていた。
「ピクマールがカラム・レポートを大臣にわたしたとき、おまえはフルーリーの事務室にいた。あとのおまえの仕事は、フルーリーから、いつ、どこでもっとも簡単にカラム・レポートを盗み出すことができるかを知ることだった。
こうして、|正直な《ヽヽヽ》ピクマールのおかげで、カラム・レポートは公衆の手にわたることになるだろう。ところが、おまえのおかげで、問題の大臣オーギュスト・ポワンは議会にカラム・レポートを提出できなくなる。
そこでここに一人のヒーローが登場することになる……マスクランだ。また、自分の面子《めんつ》を助けるため、事件にかかわりのある同僚たちの面子を助けるためカラム・レポートを湮滅した下劣な被告も登場する……正直な人間であったことが、汚れた手をにぎることを拒絶したことが間違いだったオーギュスト・ポワンという人間。
まったく巧妙な話ではないかね?」
ブノワは自分でもう一杯注ぐと、煮え切らない様子でメグレを見つめながらゆっくりと飲みはじめた。ブロットのように、どのカードを出せば自分の利益《ため》になるか自問しているようだった。
「これでほとんど全部だ。フルーリーはおまえに、大臣がパストゥール大通りにカラム・レポートを持って行ったことを教えた。おまえは管理人の女がいるため、その夜はあそこに侵入できなかった。翌朝、彼女が買物に行くまで待った。マスクランはカラム・レポートを燃やしたのか?」
「そんなことはおれには関係ない」
「彼がコピーを持っているかぎり、カラム・レポートを燃やそうが燃やすまいがどうでもいいことだ。多くの人間が彼の意のままになるにはコピーで十分なのだ」
マスクランの権力について強調するのは、間違いだったことを、後になってメグレは悟った。もしそうしていなければ、ブノワは別の態度を取っていただろうか? そんなことはないだろう。これは運だめしだったのだ。
「予想したように、爆弾が炸裂《さくれつ》した。他の人々はさまざまな理由でカラム・レポートをさがしにかかった。その人々のなかに、カラムの役割を最初に思い出し、新聞にそのことをほのめかしたタバールという男がいた。おまえはこのタバールというならず者を知っているのか、え? 彼がカラム・レポートから引き出そうとしたのは権力ではなく、現金だ。
このタバールのために働いているラバは、カラム夫人の家のまわりをうろついたにちがいない。
ラバは、ピクマールが出てくるのを目撃したのだろうか? それは私にはわからない。決してわからないかもしれない。しかし、重要なことじゃない。それでもラバが部下をカラム夫人のところへ、ついで大臣の秘書のところへ送ったことは事実だ……。おまえたちは籠《かご》のなかでうごめいている|かに《ヽヽ》の群れを私に考えさせるよ。それに、他のもっと公けの連中も正確に何が起こったのかを考え、真相を知ろうと動きだした」
メグレは国家警察総局のことをほのめかしたのだ。総理から連絡があれば、国家警察総局によって多かれ少なかれひそかな捜査がなされるのは当然である。
そのときから、事はほとんど滑稽なものになる。三つの異なったグループが、それぞれはっきりした理由で、カラム・レポートを追いかけた。
「ウィーク・ポイントはピクマールだった。というのは、尋問されたら、彼が口を割らないという保証はないからだ。
ここにピクマールを連れてくることを考えたのはおまえか? マスクランか? 答えないのか? よし! 別にかまやしない。
とにかく、ピクマールをしばらく人々の目から隠すことが問題だった。おまえがどう振舞い、彼に何を語ったのか私は知らない。
いいか、私はピクマールには尋問しない。彼が大物と小物の二人の悪党にもてあそばれたにすぎなかったことを悟ったとき、自分から話すだろうからだ」
ピクマールは身ぶるいしたが、あいかわらず何も言わなかった。
「これで知っていることは皆しゃべった。おまえが指摘してくれたように、われわれはセーヌ県の外にいる。私には何の権限もない」
メグレはしばらく待ってから、つぶやいた。
「彼に手錠をかけるんだ、ジャンヴィエ」
ブノワの最初の反応は抵抗することだった。彼はジャンヴィエより倍の力があった。だが、考えなおして、くすくす笑いながら手首を差し出した。
「こんなことをして、あんたたち二人にはあとで高いものにつくぞ。おれは何も言わなかったからな」
「一言も。ピクマール、あんたも一緒に来るんだ。あんたは自由なのだが、ここに一人で残るつもりはないと思うが?」
いったん外に出たが、メグレは電気を消すためもどってきた。
「鍵があるな?」と、彼はたずねた。「ドアを閉めて行ったほうがいい。おまえが釣りにもどってくるまでにはかなりの時間がかかりそうだから」
彼らは小型車のなかにすし詰めになった。車が走っている間、一言も口をきかなかった。
オルフェーヴル河岸では、フルーリーがあいかわらず椅子に坐ったままでいた。国家警察総局の元刑事が入ってくるのを見て、彼はびくっとした。
「おまえたちを紹介する必要はないな」と、メグレはつぶやいた。
夜の十一時半だった。司法警察局の建物は人気がなかった。ただ二つのオフィスにだけ明りがついていた。
「公共事業省に電話してくれ」
ラポワントがその役を引き受けた。
「メグレ警視に代わります」
「大臣、お邪魔してすみません。お休みではなかったですか? 奥さんと娘さんとご一緒ですか? ニュースがあります、そうです……たくさん……明日、あなたは国民議会で、パストゥール大通りに押し入り、カラム・レポートを盗んだ人間の名前をあばくことができるでしょう……いますぐはだめです……おそらく一時間後か、二時間後には……私を待っていてくださるのでしたら……もしかしたら一晩中かかるかもしれません……」
三時間かかった。こんなことはメグレや部下たちにとってはいつものことだった。彼らは皆、警視のオフィスのなかで長い間一緒に残っていた。メグレはこちらの男の前で立ち止ったり、あちらの男の前で立ち止ったりしながら話した。
「きみたち、好きなようにやってくれ……私には十分に時間があるから。ジャンヴィエ、きみはあっちを引き受けてくれ、こっちは私が……」
彼はまだおし黙りつづけているピクマールをジャンヴィエに指さした。
「ラポワント、きみはフルーリーだ」
それぞれのオフィスで、こうして二人の人間が向かいあった……尋問する者と、黙秘しようとする者と。
それは忍耐の問題だった。ときどきラポワントやジャンヴィエが戸口にあらわれ、警視に合図した。彼らは廊下で一緒になり、低い声で話した。
「私の話を三人の証人が確認してくれるんだぞ」と、メグレはブノワに言った。「その証人のなかでも、重要なのはパストゥール大通りの借家人だ。彼女はおまえがポワンのアパルトマンに入って行くのを見ている。それでもまだ黙っているのか?」
ブノワは最後に彼の人柄そのままの言葉を口にした。
「あんたがおれの立場だったら、どうするかね?」
「私がおまえのようなごろつきだったら、泥を吐いてしまうよ」
「いやだ」
「なぜだ?」
「あんたにはよくわかっているはずだ」
マスクランの不利になるようなことはできないのだろう! マスクランがどんなときでもうまく窮地を脱することができるのを、ブノワはよく知っているのだ。彼の共犯者がどうなるかはわからない。
「カラム・レポートを持っているのがマスクランであることを忘れてはいけないぜ」
「それがどうだというのだ?」
「どうもしやしないさ。おれは口を閉じる。パストゥール大通りのアパルトマンに押し入った罪を受けるよ。どのくらいくらいこむんだ?」
「二年以下だな」
「ピクマールのことだが、奴は自分の意志でついてきたんだ。おれは脅したりはしていない。だから、おれは奴を誘拐したのではない」
メグレには、これ以上のことを彼から引き出せないことが理解できた。
「パストゥール大通りに行ったことは認めるな?」
「認めないわけには行かないのなら、認めるよ。それだけだ」
数分後には、彼は認めないわけには行かなくなっていた。フルーリーはすっかりしょげかえっていた。ラポワントが警視に知らせに来た。
「彼はマスクランのことは何も知りません。今夜まで、ブノワがだれのために働いていたのか知らなかったくらいですから。彼は昔ブノワとの間にあったある事件のため、手を貸すのをことわることができなかったのです」
「彼の供述書にサインさせたか?」
「いまさせます」
ピクマールが理想主義者だったとしても、道を過ってしまった理想主義者だ。彼はあいかわらず黙秘しつづけていた。こうやってマスクランから何かを得るつもりなのだろうか?
三時半に、メグレはジャンヴィエとラポワントに三人の男をまかせ、タクシーでサン・ジェルマン大通りに向かった。三階にはまだ明りがついていた。ポワンはメグレをただちにアパルトマンのほうに案内するように命じてあった。
メグレが迎え入れられた小さな客間には家族がいた。
オーギュスト・ポワンとその夫人、娘は疲れた目をメグレのほうに向けた。まだその目は希望で輝いてはいなかった。
「カラム・レポートはありましたか?」
「いや。しかし、パストゥール大通りからそれを盗んだ男が私のオフィスにいます。彼は白状しました」
「だれです?」
「道を踏み外した元警察官で、だれかれかまわず金のために働いていたのです」
「こんどはだれのために働いていたのです?」
「マスクラン」
「それなら……」と、ポワンは言いかけたが、額を曇らせた。
「マスクランは何も言わないと思います。必要とあれば、カラム・レポートにかかわりのある人々に圧力をかけるでしょう。ブノワのことは放っておくでしょう。フルーリーにかんしては……」
「フルーリー?」
メグレはうなずいた。
「哀れな男です。彼はことわることができない破目におち入っていたのです」
「わたしが言ったとおりでしょう」と、ポワン夫人が口をはさんだ。
「わかってるよ。私は彼を信じていなかった」
「あなたには政治は向いていないのです。こんどのことがすべて終ったら、わたしはあなたが……」
「要は」と、メグレは言った。「あなたがカラム・レポートを湮滅しなかったことが、あなたの発表したとおりカラム・レポートが盗まれたことが明らかになればいいのです」
「信じてくれるでしょうか?」
「ブノワが認めるでしょう」
「だれのためにそうしたか言うでしょうか?」
「いや」
「フルーリーも?」
「フルーリーはマスクランのことを知らなかったのです」
したがって……。
ポワンは心の重荷は取り去ることができたが、そのことをよろこぶまでにはいたらなかった。
メグレが彼の評判を救ってやったことはたしかだが、しかしポワンは勝負では負けたのだ。
これはありえないことだが、最後の瞬間になってブノワがすべてを白状しないかぎり、真の勝者はマスクランのままなのだ。
マスクランはそのことをよくわきまえていたので、メグレが捜査を終える前に、わざと複写機を見せるようなことをしたのだ。あれは警告だった。あれはこういう意味だったのである。
「当事者たちは注意しろ!」
カラム・レポートの公表を恐れるすべての人々、あいかわらずブリュッセルにいるアルチュール・ニクーや、政治家や、その他だれであろうとも、今後はマスクランがちょっと指をあげるだけで、名誉が失墜し、一生が台なしになることを知っている。
客間のなかに長い沈黙があった。メグレはそれほど自分に誇りを感じなかった。
「数カ月後に、こういったことすべてが忘れられたら、私は大臣をやめて、ラ・ロシュ・シュール・ヨンに帰るでしょう」と、じゅうたんをじっと見つめながらポワンはつぶやいた。
「約束してくれます?」と、夫人が叫んだ。
「誓うよ」
ポワン夫人は心からよろこんだ。彼女にとって、夫はだれよりも大切な人だったからだ。
「アランに電話してもいい?」と、アンヌ・マリーがたずねた。
「こんな時間に?」
「彼を起こすだけの価値があることだと、思わないの?」
「おまえがそう思うんなら……」
彼女も状況をすべて理解していなかったにちがいない。
「何かお飲みになりますか?」メグレにおどおどしたような視線を投げながら、ポワンがつぶやいた。
二人の目が合った。ふたたび警視は兄弟のように似た人間と向き合っているような印象を受けた。二人ともおなじ重苦しい、悲しい目をしているし、おなじ撫肩をしている。
アルコールはしばらく一緒に坐る口実にしかすぎなかった。娘が電話していた。
「そうよ……すべてが終ったわ……まだそのことについてはしゃべってはいけないの……議会で、パパが皆をあっと言わせるようにしてあげたいから……」
二人の男に何か言うべきことがあっただろうか?
「ご健康を祝して!」
「ご健康を祝して、大臣」
ポワン夫人は部屋を出て行った。アンヌ・マリーもまもなく夫人のあとを追った。
「私もこれから帰って休みましょう」と、メグレは立ち上ってつぶやいた。「あなたには私よりもっと眠りが必要ですよ」
ポワンはぎごちなく手を差し出した。まるでそれが月並なしぐさではなく、照れかくしででもあるかのように。
「ありがとう、メグレくん」
「できるかぎりのことはやりました……」
「ええ……」
彼らはドアのほうに向かった。
「実は、私もマスクランの手をにぎるのをことわったのです……」
そして、踊り場に出て、ここの主人に背を向けるときにこうつけ加えた。
「彼はそのうちきっと失敗しますよ……」(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
メグレは二十二歳のとき警察に入り、サン・ジョルジュ警察署の署長の書記になって、ある事件をみごとに解決してパリ警視庁に入り、順調に出世し、司法警察局の警視にまでなるが、その間一九四六年に一年間警視庁から追放され、ヴァンデ県のリュソンの機動隊にいたことがある。それは、政治的事件にまきこまれたためだ。
実際は、メグレはその政治的事件に無関係だった。彼は正直な人間として行動し、役人としての厳格な義務にしたがって身を処したにすぎなかったのだ。
それでもほとんどすべての人々の目には、彼は間違っていた。彼は懲罰委員会の前に立たなければならなくなる。すべてが彼に不利だった。
「ヴァンデでは、メグレはほとんどすることがなかった。時間をつぶすために、彼は一日じゅうビリヤードをやっていた。彼は待ちくたびれてしまった。メグレ夫人もそうだった」(『メグレ激怒する』)
さいわい、新しい局長がメグレをパリに呼びもどしてくれる。それ以後、メグレは政治的事件には絶対にかかわらないようにする。メグレが「パリ警視庁」を好み、内務大臣の直接の指揮下にある「国家警察総局」をきらうのは、「国家警察総局」が政治的事件にたずさわる機会が多いからである。
したがって、本書のように、政界の汚職事件にかかわるメグレはめずらしい。いや、めずらしいどころか、八十冊近くあるメグレ・シリーズのなかでも、中篇の『メグレ激怒する』(一九四七年)以後では、私の知っているかぎり、この作品が一冊きりだ。
『メグレと政府高官』が翻訳されたのは、ロッキード事件で日本の政界が大ゆれにゆれた直後だけにグッド・タイミングだったし、非常に興味深いと思う。
この小説に出てくるクレールフォン事件とは実際にフランス政界を震憾《しんかん》させたもので、ほぼこの小説に描かれているとおりのものらしい。
フランス政府が恵まれない子供のために、オート・サヴォア県にあるクレールフォンの高地にサナトリウムを建設しようとしたのは一九五〇年か五一年。このサナトリウム建設は新聞で論議の的になる。ある人々はそこに専ら政治的な意図を見、議会でも討論が白熱化する。この計画を検討するための委員会が設けられ、ある土木建築の権威(この小説では、国立土木大学のジュリアン・カラム教授となっている)の意見を求めることになる。
この権威(カラム教授)はオート・サヴォアに出かけて行き、建設予定用地がサナトリウムにふさわしいかどうかを時間をかけて調査し、その報告書を委員会に提出する。その報告書は、建設反対の意見だった。だが、委員会はその意見を無視して、サナトリウム建設を強行した。そして、小説のような大惨事が起こる。
いつもより早い時期に溶けだした雪が、山の急流の水かさを増し、サナトリウムの一部を崩壊させ、百数十人の子供の生命を奪った。
そこで、サナトリウム建設を強行した政府高官たちが問題となる。サナトリウム建設に莫大な金額のワイロが流れていたのだ。あらためて報告書《カラム・レポート》が脚光を浴びる。ところが、そのレポートが盗まれる。レポートの内容が世間に知れれば、困る政府高官がいる。内閣の解散にもなりかねない。
この『メグレと政府高官』では、メグレがある大臣からたのまれて、カラム・レポートの行方をさがすことになっている。そして、そこに強烈なサスペンスが生まれている。ボワロー、ナルスジャックの名著『推理小説論』によれば、すぐれたサスペンス小説こそ、もっともすぐれた推理小説であるということになるが、そういう意味からしても、これはメグレ・シリーズのなかでももっともすぐれた、もっとも異色の一冊であろう。(訳者)