メグレと宝石泥棒
ジョルジュ・シムノン/長島良三訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
訳者あとがき
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登場人物
[#ここから1字下げ]
マニュエル・パルマリ……『クルー・ドレ』の元所有者
アリーヌ・ボーシュ……マニュエルの若い情婦
マルタン夫人……マニュエルの家政婦
ジャン・ルー・ペルネル……『クルー・ドレ』の支配人
ジュスタン……『クルー・ドレ』のバーテン
フェルナン・バリヤール……マニュエルの階の住人
ミナ・バリヤール……フェルナンの妻
ジェフ・クラーズ……聾唖の老人。ベルギー人
ルイ氏……『クルー・ドレ』の客
ベランスタン……ダイヤの仲買人
ルイ・アンスラン……新任の予審判事
ムルス……鑑識課員
メグレ……司法警察局警視
リュカ……司法警察局刑事
ジャンヴィエ……司法警察局刑事
ラポワント……司法警察局刑事
ヴァシェ……司法警察局刑事
バロン……司法警察局刑事
[#ここで字下げ終わり]
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第一章
その日は、まばゆくて、快い少年時代の思い出のようにはじまった。メグレの目は理由もないのに……なぜなら人生はすばらしかったから……、朝食を取りながら笑っていた。彼の前に坐っているメグレ夫人の目もおなじように陽気に輝いていた。
アパルトマンの窓は大きく開け放たれていて、外の匂いや、リシャール・ルノワール大通りの聞き慣れた物音が入り込んできた。すでに熱くなった空気はわなないている。陽光が薄い水蒸気を通して柔らかに差し込んでいた。まるで手で触知できるような感じだった。
「あなた、お疲れになってない?」
メグレはいつもよりずっとおいしそうなコーヒーを飲みながら、びっくりして答えた。
「なぜ、おれが疲れているんだい?」
「昨日、庭でたくさんお仕事をなさったから……ここ数カ月、あなたは鋤《すき》や熊手を持ったことがなかったでしょ……」
月曜日、七月七日の月曜日だった。土曜日の夜に、メグレ夫妻はムン・シュール・ロワールにある小さな別荘に行った。この別荘はメグレが定年退職させられる日のために、数年前から用意しておいたものだった。
あと数カ月で、五十五歳! まるで、病気もしたことがないし、いかなる肉体的ハンディキャップもない五十五歳の男が、とつぜん犯罪捜査課の指揮が不可能になってしまうかのように。
メグレにとうてい納得できないのは、彼がこの五十二年間を生きてきたからである。
「昨日、おれはほとんど眠っていたよ」と、彼は言った。
「日向《ひなた》で!」
「顔にハンカチをかけてね……」
何という楽しい日曜日だったことか! 天井の低い、青味がかった石畳の台所でとろ火で煮ているシチュー、家のなかに流れ込んでくる|おとぎりそう《ヽヽヽヽヽヽ》の香り、ほこりのため頭にネッカチーフをかぶって部屋から部屋へと行くメグレ夫人、上衣を脱いで、シャツの襟を開き、麦わら帽子をかぶり、庭の雑草を引き抜き、鋤き返し、熊手でかいて平らにするメグレ。最後に、彼は昼食を食べ、この地方の白ぶどう酒を飲んで、赤と黄の縞のハンモック・チェアのなかで眠り込んでしまった。まもなく陽光がふり注いだのに、彼は死んだようになって起きなかった……。
帰りの列車のなかで、二人ともからだが重くてだるく、まぶたがひりひり痛んだ。しかし、彼らは乾草と、乾いた土と、汗くさい匂い、つまり夏の匂いをぷんぷんさせていた。この匂いはメグレに田舎での少年時代を思い出させた。
「もう少しコーヒーいかが?」
「もらおう」
夫人の青い小さな格子縞のエプロンさえ、そのすがすがしさと、一種のあどけなさとでメグレをうっとりさせた。また、食器戸棚のガラスの一枚にあたってきらめく陽光も彼をよろこばせた。
「暑くなりそうだな!」
「ひどくね」
メグレはセーヌ河に面する彼のオフィスの窓を開けて、上衣を脱いで仕事をするだろう。
「今日のお昼は、えびのマヨネーズあえでどうかしら?」
商店の日除けが薄暗い長方形をつくっている歩道を歩くのも快いものだし、ヴォルテール大通りの角で、明るいドレスを着た若い娘のわきに立ってバスを待つのも快いものだった。
メグレはツイていた。デッキのついた古いバスが歩道の縁に停ったので、景色や通行人の顔が流れ去るのをながめながらパイプを喫いつづけることができた。
これがなぜメグレに、昔、パリじゅうを練り歩いた、けばけばしい行列を思い出させたのか? 彼は当時、結婚したばかりで、サン・ラザール警察署の若い、おどおどした秘書にすぎなかった。四頭立ての馬車にはどこかの外国の君主が、盛装したお付きの者たちにかこまれて乗っていた。フランスの近衛兵のかぶとが陽ざしにきらきらと輝いた。
パリは今日とおなじ匂いを、おなじ光を、おなじけだるさを帯びていた。
当時の彼は、定年退職のことなど考えてもいなかった。彼の職業の終り、人生の終りは、まだとても遠いように思われた。そんなことに心を奪われる必要がないほど遠いことのように思われた。
それがいまでは、老いの日々のために別荘を準備しているのだ!
メランコリーはない。むしろ穏やかな微笑がうかぶ。シャトレ座、セーヌ河、シャンジュ橋の近くに釣師……いつも少くとも一人はいた……。ついで、裁判所の中庭で身振りたっぷりで話している黒い法服を着た弁護士たち。
やっとオルフェーヴル河岸。彼はこの河岸の石畳の一つひとつを知っているが、危くここから追放されそうになったのだ。
まだ十日も前にならないが、旧式の警察官を好きではない、権柄ずくな警視総監がメグレに辞職を……警視総監はもっと品よく定年前の退職という言葉を使ったのであるが……要求したのである。メグレが軽率な振舞いをしでかしたというのがその口実だった。
メグレが書類にざっと目を通してみると、すべてが、ほとんどすべてがうそだった。三日三晩の間、メグレは部下の刑事たちを使うことさえ許されずに、そのことを立証しようと努めた。
彼はそのことに成功したばかりか、その陰謀の張本人、アカシア通りの歯科医の自供を得たのだった。この歯科医はこの他にも二、三、やましい罪をおかしていた。
それももう過去のことだった。メグレは立番中の二人の警官にあいさつすると、大きな階段を昇り、オフィスに入った。そして、窓を開け、帽子と上衣を脱ぎ、立ったままパイプにゆっくりとたばこを詰めながら、セーヌ河と船とをながめた。
毎日が思いがけないことに満ちているのにもかかわらず、彼が思わずしてしまう、慣例のようになってしまったしぐさがある。パイプに火をつけると、刑事部屋のドアを開けるのもその一つだ。
タイプライターや電話器の前には人がいなかった。バカンスがはじまっていたのである。
「やあ、みんな……ジャンヴィエ、ちょっと来てくれないか?」
ジャンヴィエは宝石店の泥棒を、もっと正確に言うと宝石店の陳列品泥棒を捜査していた。いちばん新しいのは先週の木曜日、モンパルナス大通りの宝石店で、二年以上前から使われているいつものうまい手口によるものだった。
「何か新しいことは?」
「ほとんど何もありません。またもや若いやつらです。目撃者によれば、二十歳から二十五歳ぐらい。やつらは二人とも例のごとく行動しました。一人はタイヤ取りはずし器でショーウィンドウのガラスをこわし、手に黒い布袋を持ったもう一人が宝石をかっぱらいます。ガラスをこわした男もそれに手を貸すといったぐあいで、この盗みは念入りに仕組まれています。クリーム色のシトロエンDSが二人の男を乗せるためさっと来て、車の流れのなかに消えてしまいました」
「顔にスカーフか?」
ジャンヴィエはうなずいた。
「運転手は?」
「目撃者の意見は一致していませんが、こいつも暗褐色の髪をした、黒ずんだ顔色の若い男のようです。新しい情報はただ一つ、これも確証があるわけではないのですが、八百屋のおかみさんが、盗みのはじまるちょっと前に、ボクサーのような顔をしたあまり背の高くない、がっしりした男が、宝石店から二、三メートルのところに人待ち顔で立ち、ちょくちょく顔を上げてはショーウィンドウの上の大きな時計の時刻を見、ついで自分の腕時計を見ていたそうです。おかみさんによれば、その男は右のポケットから手を一度も出しておりません。盗みが行われたとき、彼は動かず、クリーム色の車が遠ざかるや、すぐにタクシーに乗り込んでいます」
「その八百屋のおかみさんに容疑者たちの写真を見せたかね?」
「犯罪記録課で私と一緒に三時間過ごしてくれました。おかみさんははっきりとはどの顔にも見おぼえがありません」
「宝石店の主人はどう言ってる?」
「残っているわずかな髪をかきむしっています。彼の言いぶんでは、三日前にこの盗みが行われたのなら、たいしたことがなかったそうです。というのは、いつもはわざと高価な宝石は陳列しないからです。先週、たまたまエメラルドを多量に買い入れたので、土曜日の朝ショーウィンドウに飾る決心をしたらしいのですね」
この朝オフィスで聞いた話が、今後警視庁で『メグレのもっとも長い捜査』と呼ばれるようになる事件の、最終的結着を暗示する最初のきざしだったとは、メグレにはまだわからなかった。
こうして、ある実際にあった出来事が少しずつ伝説化していく。たとえば『メグレのもっとも長い尋問』はいまでも語り草になっているし、新入りたちは、ビヤホール・ドフィーヌのボーイが中ジョッキとサンドイッチを運びつづけた、二十七時間ぶっとおしの尋問のことを聞かせられる。
容疑者を質問攻めにするのはメグレ一人ではない。リュカとジャンヴィエがメグレと交代し、そのたびに一から尋問をやり直す。これは一見くだくだしいようだが、最後には完全な自白が得られるのである。
また、すべての人々の記憶のなかに、『メグレのもっとも危険な逮捕』というのがある。真昼間、フォーブール・サン・タントワーヌ通りの群集の真只中で、ポーランド人の盗賊の一団を逮捕した事件だ。盗賊たちは完全武装し、危機を脱しようとしたが、メグレは彼らに一発の弾も撃たせなかった。
こんどの宝石の事件は、実際はメグレにとって二十年前からはじまったと言うべきかもしれない。コルシカからやってきた流れ者で、パリではまず、おとなしく娼婦のヒモになったマニュエル・パルマリという男に興味を持ったときからだ。
その頃は、やくざの交代時期だった。年取った親分、戦前の娼家の所有者、秘密賭博場の経営者、派手な押込みの立案者はそれぞれ南フランスのマルヌ河のほとりに隠棲してしまい、不運な者や、利口でない者たちはフォントヴローの刑務所のなかだ。
すべてを粉砕してしまおうと考えているチンピラどもが取って代わった。彼らは前の者たちより大胆だった。長い間、警察はとまどい、窮境に立たされた。
白昼、群集の真中で集金人を襲ったり、宝石店を襲ったりするのはその手初めだった。
結局、何人かの罪人が逮捕される。犯行はしばらくやむが、またはじまり、ふたたびまばらになり、二年後にはもっと派手なかたちで再開される。
「われわれが捕えたチンピラどもは、ただの実行者にすぎん」と、メグレはこれらの盗みを、最初からそう断言していた。
新顔の人相書をいちいち回さなければならないどころか、逮捕された者たちはたいてい犯罪記録がない。彼らはパリの人間ではなく、地方から……とくにマルセイユ、ツーロン、ニースから不敵な仕事のためにやって来るようだった。
ただ一度か二度、ヴァンドーム広場とラ・ペー通りの大きな宝石店が襲われたことがあるが、警報装置のため犯罪者たちはあきらめざるをえなかった。
彼らの手口はまもなく変った。いまではあまり大きくない宝石店が狙われている。パリの中心部ではなく、町はずれや、郊外にある宝石店だ。
「どうなんだ、マニュエル?」
幾度となく、メグレはマニュエル・パルマリに言葉をかけた。最初は、マニュエルがフォンテーヌ通りのバーを買い取り、豪華なレストランにつくり変えた『|金色の釘《クルー・ドレ》』で、つぎにはマニュエルがアリーヌと住んでいるアカシア通りのアパルトマンで。(『メグレたてつく』を参照)
マニュエルはいたずらに狼狽するようなことはなかった。二人はまるで旧友のように顔を合わせることができた。
「お坐りください、警視さん。私にまた何かお望みですか?」
マニュエルは六十歳近かったが、『クルー・ドレ』のよろい戸を下ろしているとき、軽機関銃の弾丸を数発うけ、いまでは車椅子に乗っていた。
「コルシカ生まれのマリアニという、手のつけられないチンピラを知っているだろ?」
メグレはパイプにたばこを詰めた。いつでも話が長くなるからだ。そのおかげでアカシア通りのアパルトマンをすみずみまで、とくにマニュエルが一日を過す、大衆小説やレコードがいっぱいある角の小部屋を知った。
「そのマリアニが何をしでかしたというんです? 警視さん、なぜまた私をいじめなさるんで?」
「私はいつでもおまえとうまくやってきたな?」
「そのとおりですよ」
「おまえのために二、三骨を折ってやったこともあるな」
それも事実だった。メグレが干渉しなければ、マニュエルはかなり面倒を惹き起こしていただろう。
「おまえが私と、このままいまの関係をつづけていたければ、しゃべるんだ……」
マニュエルはときどきしゃべった。言いかえれば実行者の名前を言ったのである。
「いいですか、これは推測でしかないんですからね。私は一度だって法を犯していません。この身はきれいなもんです。私は個人的にはそのマリアニという男を知りませんが、聞いたところでは……」
「だれから?」
「知りません。ただ噂が……」
ところで、マニュエル・パルマリは片脚を失った事件以来、ほとんどだれとも会っていなかった。電話に盗聴装置がつけられていることを知っていて、電話もあたりさわりのないものしかしていない。
その上、宝石店の盗みが再発した数カ月前から、二人の刑事がアカシア通りにずっと張込んでいた。
刑事は二人なので、アリーヌが外出した場合は一人が尾行し、もう一人が建物を監視しつづけることになる。
「わかりましたよ……あなたに手を貸しましょう……ラニーの近くに宿屋があります、その宿屋の名前は忘れてしまいましたが、つんぼ同然の老人と娘とでやっているやつです……マリアニはこの娘に惚れてしまい、そこに泊りつづけているようですよ……」
ここ二十年間、マニュエルに景気がいいきざしが見えるたびに、宝石店の盗みが再発しているのだ。
「車を見つけ出したかね?」と、メグレはジャンヴィエに訊いた。
「中央市場《レ・アル》の小路で」
「指紋は?」
「一つも。ムルスが顕微鏡で車をくまなく調べました」
局長のオフィスでの報告会の時間だった。メグレは他の課の警視たちと一緒になった。
警視たちはそれぞれ進行中の事件をかいつまんで説明した。
「それできみは、メグレ? 例の宝石店の事件は?」
「局長、近郊は別としまして、パリにどのくらいの宝石店があるかご存知ですか? 三千軒とちょっとです。それらのなかにはたいして値打ちのない宝石と時計しかおいていない店もありますが、大ざっぱに言って千軒以上の店が、組織化された一味には恰好な陳列品を持っています」
「何を言いたいのかね?」
「モンパルナス大通りの宝石店を例に取りましょう。数カ月の間、あの店はつまらない品物しか陳列しておかなかった。先週、たまたま高価なエメラルドがいくつか手に入ったので、土曜日の朝、それを陳列しようと考えたのです。木曜日、ショーウィンドウは粉々にうちくだかれ、宝石は盗まれました」
「きみの考えでは……」
「その道の専門家が定期的に地区を変えて、宝石店を見て歩いているのだと、私はほぼ確信しております。高価な品物が誂《あつら》え向きの場所に陳列されていれば、ただちにある人間に連絡されます。するとマルセイユやその他のところから、警察がまだマークしていないチンピラがやってきて、手口を教えられます。二、三度私は宝石店にめずらしい品物を陳列するようにたのんで、罠《わな》を張ってみました」
「一味はその罠にかかったかね?」
メグレは首を振り、ふたたびパイプに火をつけた。
「私は我慢強いのです」と、メグレはつぶやくだけにとどめた。
メグレより我慢強くない局長は、あからさまに不満をあらわした。
「これはもうずっと前からつづいておるのだ……」と、局長は言いはじめた。
「二十年です、局長」
数分後に、メグレは自分のオフィスにもどっていた。腹も立てず、平静にしていたことを悔んではいなかった。ふたたび刑事部屋のドアを開けた。内線の電話で刑事たちを呼びつけることを嫌っていたからだ。
「ジャンヴィエ!」
「お待ちしていました、警視《パトロン》。たったいま電話を受けたのです……」
ジャンヴィエはメグレのオフィスに入り、ドアを閉めた。
「思いがけない事件が……マニュエル・パルマリが……」
「彼が失踪したと言うんじゃないだろうな?」
「殺されました。車椅子に坐ったまま、弾丸《たま》を数発うけて。十七区の警察署の署長が現場に行ってますし、検事局にも知らせがいってます」
「アリーヌは?」
「警察に電話してきたのは彼女のようです」
「出かけよう」
いったんドアのところに行ったが、またもどってきて、デスクの上からスペアのパイプを取った。
ジャンヴィエが運転する黒の小型車が陽光に輝くシャンゼリゼを上って行った。メグレは唇にかすかな微笑をうかべ、目をきらめかせていた。この微笑ときらめきは彼が目ざめたときからのもので、メグレ夫人の唇や目にも見出せたものであった。
しかし、心の奥底には、悲しみではないにしても、少くとも郷愁みたいなものがあった。マニュエル・パルマリの死は社会を喪に服させるものではない。たぶんマニュエルに街で拾われ、数年前から一緒に暮しているアリーヌを除いては、また彼に恩義をうけている二、三の流れ者を除いては、おくやみのかわりにただ漠然とこう言うだけだろう。
「予期していたことにちがいない……」
ある日、マニュエルがメグレに打明け話をしたことがある。非常に貧しい故郷の村で、メグレのように彼も教会の聖歌隊少年であったことや、若者たちは十五歳になるや貧乏からのがれるため村を離れることなどを。マニュエルはツーロンの河岸をうろつきまわり、その後バーテンになり、やがて女というものは大金をもたらす資本であるということを理解する。
彼は身におぼえのある罪をいくつもしょっていたのではなかったか? ある者たちはそうだと言うが、一度だって証明できない。そしてある日、マニュエル・パルマリは『クルー・ドレ』の経営者になっていた。
彼は自分を抜け目がないと思っていた。実際六十の年齢《とし》まで巧妙に立ち回っていたので、一度もブチこまれることがなかった。
もちろん、彼は軽機関銃の弾丸から逃れられなかった。だが、車椅子のなかで、本やレコードやラジオやテレビにかこまれて、人生を楽しんでいた。彼のことをパパと呼んでいたアリーヌを、彼はこれまでより情熱的に、愛情をこめて、いつくしんでいたようだった。
「パパ、警視と会うのは間違いよ。わたし、サツをよく知ってるわ。やつらにはわたし、うんざりさせられた。警視だって他のサツと変わりがないわ。いい、いつかあいつはあんたから聞き出したことを、あんたの不利になるように使うでしょ」
この女はときどきメグレの足もとの床に唾をはぎ、小さく引き締まった尻をふりふり、これ見よがしに遠ざかった。
この前メグレがアカシア通りに来てからまだ十日もたっていない。それなのにふたたびこのおなじ建物に、この同じアパルトマンにもどって来たのだ。このアパルトマンの開いた窓の前に立って、彼はとつぜん、正面の歯科医の犯罪を再構成できる直観を得たのだった。
二台の車が建物の前に停っていた。制服の警官が入口の前に立っていたが、メグレを認めると、帽子に手をやった。
「五階の左側です」と、警官は言った。
「わかってる」
クレルダンという名の十七区の署長は客間に立って小柄な男と話していた。この小男はくしゃくしゃのブロンドの髪に、赤ん坊のような白い肌とあどけない青い目をしていて、ぽってりと肥っている。
「こんにちは、メグレさん」
メグレは署長の連れに手を差し出すのをためらった。すると、署長がつけ加えた。
「あなた方はおたがいにご存知ありませんでしたかな? こちらメグレ警視……こちらアンスラン予審判事……」
「初めまして、警視さん……」
「初めまして、判事さん。お噂はしじゅううかがっておりましたが、ご一緒にまだ仕事をしたことがありませんでしたね」
「パリに任命されてから五カ月になるかならずです。私は長い間リルにおりました」
彼の声は一オクターブ高かった。肥っているのにもかかわらず、年齢よりずっと若く見える。カルチエ・ラタンと、気楽な生活にいそいでおさらばしたくないため、大学にぐずぐず残っている学生のような感じだった。気楽なというのは、もちろん大金持の父親がいる者たちにとってだ。
彼は身なりをかまわなかった。窮屈すぎる上衣に、だぶだぶのズボン、おまけに膝のところが丸くなっている。靴などはブラシをかける必要があったろう。
裁判所での噂は、彼には六人の子供があること、家庭では権威がないこと、彼のオンボロ車はしじゅうバラバラにこわれてしまう危険があること、収支を合わせるため、郊外の安い公団住宅に住んでいることなどである。
「司法警察局に電話したあと、すぐに検事局に連絡したのですよ」と、署長は説明した。
「代理検事はまだですか?」と、メグレ。
「もうまもなく着くでしょう」
「アリーヌはどこに?」
「被害者と一緒に暮していた女のことですか? ベッドにうつ伏せになって泣いています。家政婦が彼女についております」
「アリーヌはどう言ってます?」
「たいしたことは聞き出せませんでしたな。あの状態では、無理はできませんしね。アリーヌの言うところでは、彼女は七時半に起きています。家政婦は朝の十時にしかやって来ないそうです。八時に、アリーヌはマニュエル・パルマリのベッドに朝食を持って行き、そのあと化粧をしております」
メグレはこの家の習慣をよく知っていた。からだを不自由にさせられたあの襲撃以来、マニュエルは風呂に入ろうとはしなかった。片脚でシャワーの下に立つ。アリーヌがその彼を石鹸で洗い、下着や衣服を着せてやるのだ。
「何時に彼女は外出しました?」
「彼女が外出したのを、どうしてご存知なのです?」
メグレは通りで張込んでいた二人の部下に訊けばすぐにその確証が取れただろう。彼らはメグレに電話してこなかった。たぶん二人は警察署長が、ついで予審判事が、最後にメグレ自身がやって来るのを見てびっくりしたことだろう。というのは二人ともアパルトマンのなかで起こった出来事を知らなかったからだ。まったく皮肉としか言いようがない。
「みなさん、どうも」
馬のような横顔をした背の高い男が、突風のように入って来て、握手をし、質問した。
「死体はどこに?」
「隣りの部屋です」
「手掛りは?」
「いま私が知っていることをメグレ警視に話していたところです。マニュエル・パルマリと暮していた若い女アリーヌは、九時頃、帽子もかぶらず、買物袋を下げてこの建物を出たと主張しております」
張込んでいた刑事の一人が彼女を尾行したにちがいない。
「彼女はこの町のいろいろな商店に立ち寄りました。私はまだ彼女の証言を書類にはしておりません。というのは、彼女から断片的な言葉しか聞き出しておりませんので」
「じゃ、これは彼女の留守の間に……」
「もちろん、彼女はそう言い張っております。十時五分前に、彼女は帰ってきました」
メグレは自分の時計を見た。十一時十分だ。
「彼女は隣りの部屋に、車椅子からじゅうたんの上にすべり落ちているマニュエル・パルマリを見つけました。これからごらんになるように、マニュエルは血だらけになって死んでいたのです」
「何時に、彼女はあなたに電話してきたのです? 警察署に電話したのが彼女だという話を、ぼくは聞いたものですから」
これらの質問をしたのは、若い代理検事のアラン・ドリュエだった。ぽってり肥った予審判事のほうは、うすら笑いをうかべて、聞いているだけだった。六人の子供を苦労して育てている割には、彼もまた人生をたのしんでいるようなところがあった。ときどき、メグレをこっそりと盗み見た。まるで彼らの間に馴れ合いみたいなものがあるかのように。
他の二人、代理検事と署長はいかにも良心的な役人として振舞い、しゃべった。
「医者は死体を調べました?」
「医者はちょっと入っただけです。彼は解剖しなければ、マニュエルが撃ち込まれた弾丸の数を決めるのは不可能だと申しております。また、着物を脱がさなければ、弾丸の入った穴、抜け出た穴をたしかめることができないとも。しかし、首筋を貫通した弾丸は、背後から撃たれたように思われます」
それでは、マニュエルは相手を疑っていなかったのだ、とメグレは考えた。
「みなさん、どうです、鑑識が着く前に、ちょっとのぞいてみては?」と、若い代理検事が言った。
マニュエルの小部屋は変っていなかった。陽光がさんさんとふり注いでいる。床には、おかしなぐあいにねじれたからだが横たわっている。その襟のまわりに血でよごれた美しい白髪。
メグレはアリーヌ・ボーシュが窓の一つのカーテンによりかかるようにして立っているのを見ておどろいた。彼女はメグレの知っている薄青色のリンネルのドレスを着ている。黒い髪が、まるで殴られでもしたかのように赤い斑点のある蒼ざめた顔を縁どっていた。
彼女は三人の男をながめた。その顔には憎悪とも、軽侮ともつかないものがうかんでいる。爪を立てていまにも飛びかかってきそうな感じだった。
「どう、メグレさん、あんたはこれで満足したでしょ?」
それから、三人に向って、
「彼と二人きりにしておいてもらえないの、人生の伴侶を失ったばかりの女のように。あんた方はこれからわたしを逮捕しようとでもいうの?」
「あなたは彼女をご存知ですか?」と、予審判事はメグレにささやいた。
「かなりよく」
「彼女がやったと信じますか?」
「判事さん、私が決して何も信じないということをあなたは聞いたにちがいありません。どうやら鑑識課の連中が必要な道具を持ってやってきたようです。アリーヌを私自身で尋問してもかまいませんか?」
「彼女を連行するんですか?」
「いや、ここで尋問します。あとで、私が知りえたことをご報告しますよ」
「死体が運び去られたら、この小部屋のドアを封印しなければならんでしょうな」
「あなたさえよろしかったら、必要なことはすべて署長がやるでしょう」
予審判事はあいかわらずいたずらっぽい目でメグレを見守っていた。彼は有名な警視をどのように考えているのか? 失望しなかったのか?
「私はあなたにすべてを任せます。しかし、あとで知らせてください」
「来たまえ、アリーヌ」
「どこに行くの? オルフェーヴル河岸?」
「そんな遠くではない。あなたの寝室だ。きみ、ジャンヴィエ、外にいる二人の刑事を呼んできてくれ。そして、三人とも客間で待っていてほしい」
けわしい目で、アリーヌは鑑識課員たちが道具を持って小部屋にどやどやと入ってくるのをながめていた。
「この人たちは彼をどうするの?」
「いつものきまりきったこと。写真、指紋など。ところで、銃は見つかったのかね?」
彼女はソファのそばの小テーブルを指さした。彼女は愛人の相手をしているときは、一日じゅうこのソファに横になっていた。
「それを拾ったのはあなた?」
「わたしはさわってないわ」
「この自動拳銃《オートマティック》を知っている?」
「わたしの知っているかぎりでは、それはマニュエルのものよ」
「彼はそれをどこにおいていた?」
「昼間は、ラジオのうしろに隠していたわ。いつでも取り出せるように。夜はナイト・テーブルの上」
三十八口径のスミス・アンド・ウェッソン。容赦を知らないプロの武器だ。
「来たまえ、アリーヌ」
「何のために? わたしは何も知らないわ」
彼女はいやいや客間についてくると、寝室のドアを開けた。パリジャンの家庭でよりもむしろ映画のなかでよく見られるような、背の低い大きなベッドのある非常に女らしい寝室。
カーテン、壁布はきんぽうげ色の絹だった。白いやぎ皮の大きなじゅうたんがほとんど床全体をおおい、薄い絹のカーテンを通った陽光はほこりを金色にくっきりとうかびあがらせていた。
「話を聞きましょ」と彼女はつっけんどんに言った。
「私もだ」
「長いんでしょ」
彼女は象牙色の絹の安楽椅子に倒れ込むように腰をおろした。メグレはこうしたきゃしゃな椅子に坐る気もなかったし、パイプに火をつけるのもためらわれた。
「アリーヌ、私はあなたが彼を殺さなかったことを確信している」
「まさか?」
「そんな変な声を出すんじゃない。先週、あなたは私を助けてくれた」
「あれは、わたしがこれまでしたうちでいちばんお利口じゃないことだった。その証拠に、あんたの二人の部下がずっと正面の歩道にいて、今朝も背の大きいほうの男がわたしを尾けてきた」
「仕事だ」
「その仕事とやらにいや気がさしたことがないの?」
「反目しているふりをしているのをやめないか。私が私の務めをはたし、あなたがあなたの務めをはたしているとしよう。そうなると、われわれはそれぞれ柵の別の側にいることになるが、そんなことはたいしたことじゃない」
「これまで、わたしは人を傷つけたことがないわ」
「そうかもしれない。そのかわり、マニュエルが取り返しのつかない目にあってしまった」
若い女のまぶたが涙でふくらんだ。涙は見せかけではないようだった。アリーヌはすすり泣きをこらえている少女のように、ぎごちなく洟《はな》をかんだ。
「なぜ……」
「なぜ、何だね?」
「何でもないわ。わたしにはわからない。なぜ彼は死ななければならないの? なぜ彼は非難されなければならないの? まるで片脚を失って壁にかこまれて暮す不幸だけではまだ十分ではないかのように」
「彼はあなたという伴侶をえた」
「それだって彼を苦しめたのだわ。彼は嫉妬深かったから。ぜんぜん理由なんかないのに」
メグレは小型の化粧台の上の金のシガレット・ケースをつかむと、開けて、アリーヌに差し出した。彼女はうわの空でたばこを取った。
「あなたは十時五分前に買物から帰ってきたんですね?」
「刑事さんに聞けばわかるわ」
「あなたがときどきやるように、刑事の目をくらませなければ」
「今日はしてないわ」
「それじゃ、あなたはマニュエルのかわりにだれとも接触していないし、指示もあたえていないし、電話もしていないわけだ」
彼女は肩をすくめると、煙をぼんやりと吐き出した。
「あなたは大きな階段を上ってきた?」
「なぜわたしが裏の階段を上ってこなければならないの? わたしは召使いじゃないわ、そうでしょ?」
「あなたはまず台所に行ったんですね?」
「買物から帰ったときはいつもそうよ」
「見てもいいかね?」
「そのドアを開けて。廊下の向う側よ」
メグレは台所にちらっと目をやっただけだった。家政婦がコーヒーの用意をしていた。野菜がテーブルの上にいっぱいおいてあった。
「あなたは買物袋を空にした?」
「そうじゃなかったと思うわ」
「たしかかね?」
「無意識にするしぐさってあるものだわ。だから、事件のあとではそれがなかなか思い出せないのよ」
「いつものように、それからあなたはマニュエルにキスするためあの小部屋に行った」
「そこで見つけたものを、わたし同様あなたはよく知ってるわ」
「私が知らないのは、あなたの行動だ」
「まず、わたしはさけび声をあげたと思うわ。本能的に、彼のところに駆けよった。それから、白状するけど、この血を見て、意気地なく尻ごみしたのよ。わたしは彼に最後のキスさえあたえてやることができなかった。かわいそうなパパ!」
涙が流れたが、彼女はぬぐおうともしなかった。
「あなたは自動拳銃を拾い上げた?」
「拾いあげなかったとすでに言ったでしょ。そらごらん! あんたはわたしを信じていると言い張っているけど、わたしたちが二人だけになるや、すぐにそうやって巧妙な罠を張る」
「拭うためにさわったんじゃないかね?」
「わたしは何にもさわってない」
「家政帰はいつやってきた?」
「知らないわ。彼女は裏の階段からやってくるし、わたしたちがあの小部屋にいるときは絶対に邪魔しない」
「家政婦が入ってくる音を聞かなかった?」
「あの小部屋からは音は聞こえない」
「遅れてくるようなことがあった?」
「しょっちゅうよ。彼女には病気の息子さんがいて、出かける前に介抱しなければならないから」
「あなたが警察署に電話したのは十時十五分になってからにすぎない。なぜ? なぜ最初に医者を呼ぼうと思わなかったのだい?」
「あんただって彼を見たんじゃないの? あんな状態で生きている者がいて?」
「死体を発見し、警察署に電話をかけるまで二十分が経過しているが、その間、あなたは何をしていたんだ? 一つ忠告しておこう、アリーヌ……あまりいそいで返事をするな。あなたはよく私に嘘をついた、別にそれに腹をたててはいないがね。予審判事が私とおなじような気持とはかぎらないからね。とにかく、あなたを釈放するかどうかを決めるのは彼だ」
彼女は街娼のようなあざけりをうかべると、こう言った。
「見事なもんね、わたしを逮捕するなんて! みんなはまだ正義を信じている。あんたも信じている、あんなことがあった後なのに? ねえ、信じているの?」
「いいか、アリーヌ、この二十分は非常に重要になるかも知れないんだ。マニュエルは用心深い男だった。このアパルトマンのなかに、書類や危険な品物をおいていたとは思えない、まして宝石や大金などは」
「いったい、何を言いたいの?」
「そうじゃないか? 死体を見つけた人間がまず考えることは、医者か警察を呼ぶことだ」
「わたしは並の人間とはちがうんじゃないかしら」
「死体の前に立って、二十分間身動きしないでいたのか?」
「とにかく、しばらくは」
「何もしないで?」
「どうしても知りたいのなら言うけど、わたしはまず祈ったわ。神を信じていないのに、そんなことをするなんてばかげていることはよくわかっている。でも、思わず知らずそうしてしまうときってあるでしょ。効き目があるかどうかわからないけど、わたしは彼の魂の休息のために祈ったのよ」
「それから?」
「歩いたわ」
「どこに?」
「小部屋からこの寝室まで。この寝室から小部屋のドアまで。独り言を言ってた。檻《おり》のなかの獣のような、自分の夫と子供を捕えられてしまったばかりの雌ライオンのような気がしたわ。というのは、彼はわたしにとってすべてだったから、わたしの夫であり子供のようなものだったから」
彼女は今朝の行動を新たにくり返してみせるかのように寝室のなかを歩きまわりながら、熱っぽくしゃべった。
「二十分間そうしていたのか?」
「そうでしょ」
「家政婦に知らせることは考えなかったのかね?」
「彼女のことなんか考えもしなかった。どんなときでも、わたしは台所に彼女がいることなんか意識しないわ」
「このアパルトマンから出なかった?」
「どこに行くの? 部下の刑事さんたちに訊いて」
「よし。あなたが真実を言っていると考えよう」
「真実しか言ってないわ」
彼女は必要な場合にはすなおな娘のような態度を見せることができた。たぶん彼女は根はやさしいのではないか、マニュエルへの愛着はまじめなものだったのではないか? ただ、多くの経験が彼女につっけんどんな、挑戦的な態度を取らせるのだろう。
マニュエルと出会うまで彼女が送ってきた生活を考えれば、どうして善を、正義を信じられるか? どうして人間を信頼できるか?
「これからちょっとした検査をしたい」と、メグレはドアを開けながらつぶやいた。
彼は呼んだ。
「ムルス! パラフィンを持って来てくれないか?」
いまやアパルトマンのなかは引越し騒ぎの最中のようだった。バロンとヴァシェ刑事を連れてきていたジャンヴィエは、足の踏み場もないといった感じだった。
「もうちょっと待っててくれ、ジャンヴィエ。ムルス、入って」
この専門家はすべて承知で、ちゃんと道具を用意してきた。
「さあ、手を」
「何のために?」
警視は説明してやった。
「あなたが今朝、銃を使わなかったことを証明するために」
まばたきもせずに、彼女は右手を差し出した。それから、念のため、左手にもおなじ検査をした。
「ムルス、この結果はいつでる?」
「十分ほどです。階下《した》の小型トラックのなかに必要なものがすべて整ってますから」
「あなたがわたしを疑っていないって本当なの? きまりでこれをやっているってことも本当なの?」
「あなたがマニュエルを殺さなかったことを、私はほとんど確信している」
「それなら、何でわたしを疑うの?」
「それは私よりあなたのほうがよく知っている。私はいそがない。いずれわかる」
彼はジャンヴィエと二人の刑事を呼んだ。彼らはこの白と黄色の寝室が居心地わるそうだった。
「待たせたね、きみたち!」
戦闘に備えるかのように、アリーヌはたばこに火をつけ、人を見くびったような仏頂面をして煙を吐き出した。
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第二章
もちろんメグレは自宅を出たとき、一週間前に不安な時間を長い間過したアカシア通りにふたたび来るようになるとは思ってもいなかった。数百万のパリジャンたちとおなじように、彼にとっても一日のはじまりは明るく、はればれとしたものだったのである。また、午後の一時頃、アンスラン予審判事と一緒に『シェ・ローヴェルニャ』の看板のある居酒屋《ビストロ》のテーブルにつくとは思ってもみないことだった。
マニュエル・パルマリの住居の正面にある、昔風の居酒屋《ビストロ》は、カウンターも伝統的なものだった。そのカウンターでアペリチフを飲んでいるのはほとんどが老人ばかりだった。店の主人は青いエプロンをし、ワイシャツの袖をまくりあげている。美しい黒い口ひげを生やしていた。
ソーセージ、腸詰、へちま型のチーズ、まるで灰のなかで保存していたかのような灰色の皮をしたハムが天井から吊りさがっていた。ショーウィンドウには、中央山岳地帯《マシフ・サントラル》から直接送られてきた大きな平べったいパンが見える。
ガラス戸の料理場のなかでは、痩せて、ひからびたような女主人がかまどの前で忙しそうに働いている。
「昼食ですか? お二人?」
テーブル・クロスはなかったが、蝋引布の上に菱形《ひしがた》模様のある紙が敷いてある。主人はこの紙の上で勘定を計算するのだ。
石盤にはチョークでこう書かれている。
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モルヴァン風の油煮の豚肉
レンズまめ入り子牛のヒレ
チーズ
当店特製のパイ
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ぽってり肥った予審判事はこの雰囲気のなかでは陽気になり、食物の強い匂いをくんくんかいだ。静かな二、三人の客と、主人が名前で呼んでいる常連がいるだけだった。
数カ月前からこの店は刑事たちの司令部みたいなものになっていた。刑事たちはマニュエル・パルマリの見張りをここで交代し、またアリーヌが外出したらいつでもすぐに尾行できるように待機していたのだ。
さしあたっては、刑事たちの仕事は終ったようだった。
「メグレ君、どう思いますか? 初めて会ったのに、メグレ君などと呼んではいけませんか? さきほど言ったように、私はあなたと会うことを長い間望んでいたのです。私がもうすっかりあなたの魅力にとらわれてしまったことを、あなたはご存知ですか?」
メグレはただこうつぶやいただけだった。
「子牛のヒレはお好きですか?」
「私は田舎の料理はすべて好きです。私も百姓の伜なのです。弟は家代々の土地を耕してます」
三十分前メグレがアリーヌの寝室から出たとき、予審判事がマニュエルの小部屋で待っているのを見ておどろいた。
このときムルスはすでに警視へ最初の報告を終っていた。パラフィンの検査は白だった。言いかえれば、アリーヌは銃を撃っていなかったことになる。
「自動拳銃には指紋が全然残っていません。ていねいに拭き取られています。どのドアのハンドルにも指紋がありません、もちろんアパルトマンの入口のハンドルもです」
メグレは眉をひそめた。
「ハンドルにアリーヌの指紋もついていないのか?」
「そのとおりです」
アリーヌが口をはさんだ。
「わたしは外出するときはいつでも手袋をはめてるわ、夏だって。手がじめじめするの好きじゃないから」
「今朝買物に行くとき、どの手袋をはめていたのかね?」
「白い木綿の手袋。ほら、これがそうよ!」
彼女は合切袋型のハンドバッグから手袋を取り出した。野菜をいじった緑色の跡がついている。
「バロン!」と、メグレは呼んだ。
「はい、警視《パトロン》」
「今朝アリーヌを尾けたのはきみか?」
「そうです。彼女は九時少し前に外出しました、テーブルの上にあるそのハンドバッグの他に、赤い買物袋を持って」
「手袋は?」
「いつものように白い手袋を」
「彼女から目を離さなかったか?」
「私は店のなかには入りませんでしたが、彼女から一瞬も目を離しませんでした」
「電話はかけなかった?」
「かけません。肉屋では、かなり長い間順番を待っていました、一緒に並んでいるおかみさん連中とおしゃべりもしないで」
「彼女の帰った時間をノートしてあるかね?」
「ほとんど正確に。十時六分前です」
「いそいでいるようだった?」
「その反対です。美しい一日を楽しんで、にこやかにぶらついている人間のように見えました。すでに暑くなっていて、彼女のわきの下は汗でぬれていました」
メグレも汗をかいていた。薄い上衣の下のワイシャツが湿っているのを感じた。
「ヴァシェを呼んでくれ。よし、ヴァシェ、きみの相棒がアリーヌ・ボーシュを尾けている間、きみはこの建物の前で見張っていたのだな? どこに立っていた?」
「この建物の真正面にある歯医者の家の前です。『シェ・ローヴェルニャ』に白ぶどう酒を一杯ひっかけに行った五分間だけは別ですが。しかし、あの店のカウンターからここの入口がはっきりと見えるのです」
「出入りした人間はだれだ?」
「まず女管理人が玄関のマットレスのほこりをはらいに来ました。女管理人は私に気がつくと、何やらぶつぶつ言いましたが、彼女はわれわれが嫌いで、われわれの見張りを彼女個人にたいする侮辱だと考えているのです」
「それから?」
「九時十分頃、若い娘が紙挟みを小脇にかかえて出てきました。二階の右側に住むラヴァンシェ家の娘さんで、彼女の父親は地下鉄《メトロ》の運転手です。彼女は毎朝バティニョール大通りにある美術学校に行きます」
「その後は? だれも入らなかった?」
「肉屋の小僧が肉を配達しに来ました。だれのところに届けたのかはわかりませんが。この小僧のことは私は知ってます。通りをちょっと上ったところのモーデュイ肉屋の店先にいるのをいつも見かけてますから」
「あとはだれだね?」
「四階のイタリア女がカーペットを窓でたたきました。それから、十時数分前にアリーヌが買物からもどってきて、バロンが私と一緒になりました。そのあと、署長がやって来、ついで予審判事が、ついであなたご自身がやって来たのでびっくりしました。われわれはどうしたらいいのかわかりませんでした。そこで、指示がないときは通りでそのまま待つのがいちばん賢明じゃないかと考えまして……」
「午後の初めまでは、この建物の各階の住人の完全なリストがほしい。家族構成、職業、習憤などを書き込んだやつを。きみたち二人はそれにかかってくれ」
「われわれは住人たちに質問しなければなりませんか?」
「それは私が自分でやる」
マニュエルの死体はすでに運び出され、いまごろは法医学者が解剖にかかっているにちがいない。
「アリーヌ、このアパルトマンから離れないでほしい。ジャンヴィエ刑事がここに残る。ムルス、きみの仲間はもう帰ったのか?」
「現場での仕事はもうすみましたから。三時頃には指紋の写真の引伸しができるでしょう」
「それじゃ指紋があったのか?」
「例のごとく、あちこちに。たとえば灰皿、ラジオ、テレビ、レコードなど多くの品物の上に。犯人はたぶんこれらの品物にはさわらなかったので、拭き取ることもないと思ったのでしょう」
メグレは眉をひそめたが、そのとき、アンスラン予審判事が彼の表情の変化をどんなかすかなものでも見逃すまいと熱心に見守っているのに気がついた。
「きみたちにサンドイッチでも持ってこさせようか」
「けっこうです、警視《パトロン》のあとで食べにいきます」
踊り場で、予審判事はたずねた。
「あなたは家に帰って昼食を取るのですか?」
「えびが私を待っているんですが、やめにします」
「では、あなたをお誘いしてもかまいませんか?」
「あなたは私のようにはこの町をご存じない。私に誘わせてください、オーヴェルニュ地方の料理を食べさせる居酒屋《ビストロ》がお嫌いではありませんか?」
そういったわけで、二人は紙のテーブル・クロスの前に坐ったのである。警視はときどきボケットからハンカチを取り出して汗をぬぐった。
「メグレ君、あなたはパラフィンの検査をたしかなものと考えているようですが? 私はかつて科学的な捜査方法を研究したことがあるのですが、もうほとんど忘れてしまいましたよ」
「ゴム手袋をはめていなければ、殺人者の手にはかならず火薬の微小な粉がついていて、それが二、三日はとれませんから、パラフィンの検査ではっきりわかります」
「家政婦は一日に二、三時間しか来ないので、あのアリーヌがゴム手袋をはめていたとは思いませんか、たとえ野莱を洗うためにすぎないとしても?」
「そうかもしれませんね。あとでそれをたしかめましょう」
メグレは好奇心を抱いて、この小柄な予審判事をながめはじめた。
「この油煮の豚肉はすばらしくおいしいですね。これは、農家で豚を殺してつくる私どもの油煮の豚肉とそっくりです。メグレ君、あなたは捜査をあなたたちだけでやり……あなたの部下の刑事たちとだけで、と言う意味ですが……、検事局や予審判事に報告書を出す前に、多少とも決定的な結果を期待しているように思われますが?」
「そんなことはほとんど不可能ですよ。容疑者は最初の尋問のときから、弁護士を立ち合わせる権利を持っています。弁護士はオルフェーヴル河岸の雰囲気があまり好きではないので、司法官の前でのほうがくつろげるのです」
「私が今朝残っていて、あなたと昼食をしたいと思ったのは、あなたのイニシアチブに注文をつけるためでも、あなたを拘束するためでもありません。それを信じてください。すでに言ったように、私はあなたの捜査方法に興味があるのです。あなたの仕事ぶりを拝見すれば、すばらしい教訓を得られると思ったのです」
メグレはこのお世辞にあいまいな身振りで答えただけだった。
「あなたに六人のお子さんがいるって本当ですか?」と、こんどはメグレがたずねた。
「三カ月後に七人目ができます」
予審判事の目は笑っていた、まるで社会にたいして悪ふざけをしているかのように。
「いいですか、これはとてもためになることなのです。子供というものはごく小さいときからすでに大人の長所と欠点をかねそなえているものです。したがって子供の生き方を見ていると、人間を知る術《すべ》を教えられます」
「奥さんも……」
メグレはこう言おうとしたのだ。
「奥さんもおなじ考えですか?」
予審判事はそのまましゃべりつづけた。
「女房の夢は一つの小屋のなかで子だくさんの母親になることなのです。妊娠しているときほど、女房が、陽気でのんきなときはありません。女房は巨人のようになり、三十キロも体重が増えますが、元気に振舞ってます」
この陽気で楽天的な予審判事は、オーヴェルニュ人の居酒屋《ビストロ》で、まるでずっと前からここにしじゅう来ているかのような調子で、レンズまめ入りの子牛のヒレを味わっていた。
「あなたはマニュエルのことをよく知ってますね?」
「二十年以上も前から」
「ごろつき?」
「ごろつきであり、やさしい男であり、ちょっと言いにくいですね。マルセイユやコート・ダジュールをさまよったあとパリにやってきたときの彼は、腹をへらした野獣でした。仲間の大部分はやがて警察、軽罪裁判所、重罪裁判所、刑務所を知るようになります。マニュエルは暗黒街で暮してはいたけれども、人目を惹かないように注意していました。当時はバーにすぎなかった『クルー・ドレ』を買い取ったとき、彼は比較的簡単に店のお客についての情報をわれわれにあたえてくれました」
「あなたの密告《たれこみ》屋の一人ですか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えます。彼はある距離を保っていて、われわれとうまくやって行く範囲でしかしゃべりません。そういったわけで、彼がよろい戸を下ろしていたとき撃った二人の男についても見なかったと主張しつづけました。偶然でもあるかのように、数カ月後に南フランスで二人のマルセイユの殺し屋が殺《や》られました」
「彼はアリーヌとはうまく行っていたのですか?」
「彼はアリーヌ以外はだれとも会いませんでした。判事さん、勘ちがいしないでください……あの娘は生れも社会への第一歩もいやしかったけれども、ひとかどの者です。彼女はマニュエルよりずっと利口なのです。うまくリードされていたなら、芝居でも映画でも名をあげたかもしれないし、何らかの事業に乗り出していたかもしれません」
「年齢《とし》がちがっていたのに、アリーヌは彼を愛していたと思いますか?」
「私の経験によれば、女たちにとって、とくにある種の女にとっては、年齢など問題ではありません」
「それではあなたは今朝の殺人では彼女を疑っていないのですね?」
「私はだれをも疑わないかわりに、すべての人を疑います」
テーブルにはもう一人の客しかいなかった。カウンターには、この付近で働いている労働者たちが二人。子牛のヒレはうまかった。メグレはこのような油の染みたレンズまめを食べたおぼえがなかった。彼はいつか夫人とまた来ようと思った。
「私はマニュエルをよく知っていますが、自動拳銃は今朝ラジオのうしろのいつものところにおかれていました。撃ったのがアリーヌでないとしたら、殺人者はマニュエルが信用しきっているだれかです。その人間はたぶんアパルトマンの鍵を持っているでしょう。ところで、あの建物を見張りだしてから、マニュエルはだれとも会っていません。
自動拳銃をつかむためには客間を通り抜け……客間のドアはいつでも開け放しになっています……、小部屋に入り、車椅子のまわりをまわらなければなりません。そいつが殺し屋だとしたら、パラフィンの検査のことを知ってます。とすれば、マニュエルはゴム手袋をはめた訪問者を歓迎するとは思えません。それに、部下の刑事たちは怪しい人間が入っていったのを見ておりません。女管理人も、尋問しましたがだれにも気づいてません。毎日おなじ待刻に配達にくる肉屋の小僧は疑うまでもありません」
「昨日の夕方か夜に建物に入り、階段に隠れていた者がいたのではありませんか?」
「今日の午後にもそのことをたしかめてみるつもりです」
「さきほどあなたはいかなる考えも持っていないと断言された。しかし、頭のすみにある考えを持っているのではないでしょうか? こう言ったら、あなたは怒りますか?」
「そのとおり、頭のすみには。ただ、それは私をどこにも導かない危険があります。あの建物は六階、その他に屋根裏部屋がついています。各階は二つのアパルトマンからなっていて、かなりの数の住人がいます。
数カ月の間、マニュエルの電話は盗聴されましたが、なんら怪しい点はありませんでした。あの男が世間から絶縁してしまったとは私には信じられません。そこで、アリーヌが外出するたびに尾行させたのです。
こうして彼女が、買物をするある商店の奥の部屋からときどき電話をかけている証拠をつかんだのです。
また、二つの出口がある建物や、デパートや地下鉄《メトロ》を使う古くさい手で、われわれの尾行から数時間目をくらますことがあったのです。私は商店からの電話の日付と、一時的な雲がくれの日付を控えてあります。その日付を、宝石店の盗みの日付とくらべてみました」
「一致しましたか?」
「一致するのも、しないのもあります。電話はよく宝石店の盗みの五、六日前にされています。そのかわり、いわくありげな雲がくれのほうは、ときどきこれらの盗みの数時間後に行われています。これらのことからあなたご自身の結論を引き出してください、ただし、宝石店の盗みがほとんどすべて、南フランスや田舎からわざわざやってきた犯罪記録のないチンピラどもによって行われていることを忘れないでいただきたい。パイをもう一つめしあがりますか?」
肉桂《にっけい》の匂いがするみずみずしいプラムのパイだった。
「あなたもめしあがるのでしたら」
二人は食事の最後をラベルのついてないマール・ブランデーでしめくくった。このブランデーはアルコール度が六十五度で、彼らの頬は燃えるようだった。
「私はわかりかけてきました……」と、こんどは予審判事が汗をふきながら、ため息をついた。
「裁判所に仕事があるため、あなたの捜査を一歩一歩追うわけにいかないのが残念です。これからどんな手をうつつもりか、すでに決めてあるんでしょう?」
「私にはいかなる考えもありません。もし私がプランを持っていたら、数時間後には変えざるをえなくなるでしょう。さしあたってはまず、あの建物の住人に取りかかります。私は電気掃除機のセールスマンのように、一軒ずつ歩きます。そのあと、アリーヌに会います。彼女はまだすべてをしゃべっていないし、もう考える時間が十分あったはずです。しかし、だからと言って彼女が今朝よりおしゃべりになるとはかぎりませんが」
二人は勘定のことでちょっと言い争ったあとで、立ち上った。
「お誘いしたのは私なのに」と、予審判事が文句を言った。
「ここは私の家のようなものです」と、メグレが言った。「こんどは、あなたのご馳走になりますよ」
主人がカウンターのうしろから声をかけた。
「いかがでした?」
「とてもけっこうでした」
まことにけっこうだったので、二人ともいくぶんからだがだるかった、とくに外に出て陽光をいっぱいにあびたときには。
「昼食をご馳走さま、メグレ君。あまり長い間私を放っとかないでくださいよ、情報をたのみます」
「約束します」
赤い顔の予審判事がオンボロ車のハンドルの前にすべりこんでいる間に、警視はふたたび建物のなかに入って行った。この建物は彼にはますます親しいものになった。
彼はうまい昼食を食べた。口の中にまだブランデーの味が残っている。たとえ眠気をもよおしたとはいえ、暑さは快いものだったし、太陽は明るさ一杯だった。
マニュエルもうまい食事を、マール・ブランデーを、美しい夏の日々のまどろみを愛していた。
いま彼はざらざらしたシーツにおおわれて、法医学研究所の金属の引出しの一つのなかに横たわっているにちがいない。
バロンは口笛を吹きながら客間をうろついていた。上衣を脱ぎ、窓を開けている。メグレには、彼が早く食事に行きたがっていること、何よりもまず大ジョッキでビールをぐっと飲みほしたがっていることがわかった。
「行っていいよ。私のデスクにきみの報告書をおいといてくれ」
ジャンヴィエも小部屋のなかで上衣を脱ぎ、日除けを下ろしていた。メグレが入って行くと、彼は立ち上り、夢中になって読んでいた大衆小説を棚にもどし、上衣をつかんだ。
「家政婦は出て行ったのか?」
「私がまず彼女に尋問しました。彼女はおしゃべりではありません。今週初めに雇い入れられた新しい家政婦なのです。古い家政婦はからだの不自由な母親の面倒を見るため、ブルターニュの田舎に帰ったらしいのです」
「彼女は今日何時にここに着いた?」
「彼女によれば、十時に」
パリでも他のどこでも家政婦にはいくつかのタイプがある。マルタン夫人というここの家政婦は、もっとも不愉快なタイプ……運がわるくて、災難をしょいこみつづける女のタイプに属している。したがって、こういった女は世界全体を怨んでいる。
彼女はもう形が崩れてしまった黒のドレスを着ていた。靴は踵がつぶれている。まるでいつも攻撃にそなえているかのように、恐ろしい目で人を盗み見る。
「わたしゃ何も知りませんよ」と、ジャンヴィエが口を開くよりも先に、彼女は言った。「あなたにはわたしを苦しめる権利なんかないでしょ。わたしゃこの家で働いてまだ四日にしかなんないですからね」
どうやら彼女は一人きりで仕事している間、いつも口のなかでぼそぼそ復讐の言葉をつぶやいているらしかった。
「わたしゃ出て行きます。だれもそれを止めることなんてできませんよ。ここにはもう二度と足を踏み入れませんからね。この家の二人は結婚してないから、いつかこんなことが起こるだろうと思ってたんですよ」
「マニュエル・パルマリさんの死と、彼が結婚していないこととの間に何か関係があるんですか?」
「いつもそんなもんじゃないですか、そうじゃありませんか?」
「あなたはどの階段を上ってきましたか?」
「召使い用の裏階段よ」と、彼女はとげとげしく答えた。「若いときは、わたしにも大きな階段を上った幸せな時代もあったんですよ」
「アリーヌ・ボーシュさんに会いました?」
「いいえ」
「すぐに台所に入ったのですか?」
「わたしゃいつでもそこからはじめるのですよ」
「一日に何時間働くのです?」
「二時間、十時から十二時まで。月曜日と土曜日は午前中いっぱい。でも、まだ幸い、土曜日はめぐって来てないわ」
「物音を聞きましたか?」
「いいえ」
「女主人はどこにいました?」
「知りませんよ」
「あなたは女主人に指示を仰ぎにいかなければならないんでしょう?」
「一度言われれば、何をしなければならないかはちゃんとわきまえてます、だてに年を取ってませんからね」
「それではあなたは何をしなければならなかったのです?」
「彼女がいましがた買ってきて、テーブルにおきっ放しにしていた品物を片づけ、それから野菜を洗い、それから客間に電気掃除機をかけること」
「その時間がありましたか?」
「いいえ」
「他の日は、客間の後はどこを掃除しました?」
「寝室と浴室」
「小部屋は?」
「旦那さまの書斎ですか? あそこは彼女が自分でやりました」
「銃声を聞きませんでしたか?」
「何も聞きませんったら」
「電話で話している女主人の声も聞きませんでしたか?」
「ドアが閉ってますからね」
「今朝何時にあなたはアリーヌ・ボーシュさんに会いました?」
「はっきりとおぼえてないわ。ここに着いてから十分か十五分後かしら」
「彼女はどんな様子でした?」
「泣いてましたよ」
「彼女は泣きやみました?」
「ええ。そして、わたしにこう言いました。『わたしを一人にしないで。気を失いそうなの。パパが殺された』って」
「それから?」
「寝室のほうへ行きましたよ。わたしゃついて行きました。彼女はベッドに身を投げ出すと、また泣きだし、わたしにこう言いました。『ドアのベルが鳴ったら、あんたが開けに行って。警察を呼んだから』」
「あなたはもっとくわしいことを訊こうという気を起こさなかったのですか?」
「人のことなどわたしには関係ありませんからね。そんなことは知らなければ知らないほどいいのですよ」
「マニュエルさんをちらっと見に行きもしなかったんですか?」
「そんなことしたってしようがないでしょ」
「マニュエルさんのこと、どう思います?」
「どうとも」
「女主人のことは?」
「おなじよ」
「月曜日からここに来ているのですね。では、だれか訪問客を見ましたか?」
「いいえ」
「だれもマニュエルさんと話したいと言ってきませんでしたか?」
「ええ。それだけ? 出て行っていいですか?」
「あなたの住所を私に教えていくならば」
「この近くですよ。エトワール通り二十七番地乙のオンボロ建物の屋根裏部屋に住んでます。夜しかいませんよ。わたしゃ一日じゅう家事の雑用をしているんですから。それから、これをよくおぼえておいて、わたしゃ警察が大嫌いなの」
ジャンヴィエは速記したこの証言をたったいま警視に読んで聞かせたのである。
「ムルスはもうずっと前に出て行ったのかね?」
「四十五分ほど前です。彼はこの部屋をくまなくさがし、本を一冊ずつ調べ、レコードのジャケットも調べました。彼は、何も見つからなかったとあなたに伝えるように、私にたのんでいきました。壁には小さな隠し場所一つありませんし、家具にも二重の引出しがありません。念のため、彼は電気掃除機をかけ、ほこりを分析するため持って行きました」
「昼食に行ってこいよ。『シェ・ローヴェルニャ』の子牛のヒレをすすめる、この時間ならまだあると思うけど。食べたら、私のところへまたもどってきてくれ。新聞に何もしゃべらないように署長に注意しておいてくれたかい?」
「しました、さきほど。ときに、予審判事はあなたを相当悩ませたのですか?」
「とんでもない。私はすでにあの人を好きになりはじめたよ」
メグレは一人になるや、上衣を脱ぎ、パイプにゆっくりたばこを詰めると、まるでこの場所をわが物としているかのように、まわりを見まわしはじめた。
マニュエルの車椅子……メグレはこの車椅子が空《から》なのを見るのは初めてだった……が、とつぜん強い印象を与えた、とくにシートや背の革についているからだの跡や、背の詰め物に撃ち込まれた弾丸の穴など。
何気なく、彼は本やレコードをちょっといじくり、ラジオのスイッチをひねった。ラジオはあるベビー食品をほめたたえている。
メグレは窓のブラインドを上げた。窓は一つはアカシア通りに面し、もう一つはラルク・ド・トリオンフ通りに面していた。
三年前から、マニュエルは朝夕この小部屋で暮していたのだ。彼がこの小部屋を離れるのは、アリーヌに子供のように着物を脱がせてもらったあとベッドに入るときだけだ。
マニュエルが十日前に断言したことや、二人の刑事がたしかめたことを信じるならば、マニュエルはだれとも会っていない。ラジオとテレビを除けば、彼と外界とのつながりは同棲の女だけである。
メグレはついに客間を通り抜け、寝室のドアをノックした。返事がないので、ドアを開けた。
アリーヌは大きなベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめていた。
「あなたを起こしてしまったんじゃないかね?」
「眠ってなんかいなかったわ」
「食事は?」
「お腹がすいてないの」
「家政婦がもう来ないと言って出て行ったよ」
「それが何だと言うの? あなたももう来ないといいのよ」
「これからどうするね?」
「何も。あなたが殺されたとして、アパルトマンに押しかけられ、つぎつぎに質問をあびせられたら、奥さんはどう思うかしら?」
「かわいそうだが、それは避けられないことだ」
「わたしはこれ以上野蛮なことはないと思うわ」
「そう、人殺しは」
「あなたはわたしが人殺しをしたと疑ってるの? 鑑識課の人が今朝パラフィンの検査をしたのに」
「料理をするかね?」
「女中がいなきゃ、女は誰でも自分で料理するでしょう」
「ゴム手袋をはめるのかい?」
「料理するためではなくて、野菜を洗ったり、お皿を洗ったりするため」
「ゴム手袋はどこにある?」
「台所に」
「見せてくれるかね?」
彼女は渋々立ち上った。目は怨みがましく陰気だ。
「来て」
彼女は二つの引出しを開け、やっと三つ目の引出しにゴム手袋を見つけた。
「これよ! 鑑識課の人たちのところに送ってもいいわ。わたしは今朝これをはめなかった」
メグレは黙ってゴム手袋をポケットに入れた。
「アリーヌ、あなたの考えに反してわるいが、私はあなたに大いに同情しているし、感嘆の念みたいなものさえ抱いているのだ」
「感激しなければいけない?」
「いや。マニュエルの小部屋で私とちょっとおしゃべりしてもらいたい」
「さもないと?」
「どういう意味だ?」
「わたしがことわったら? オルフェーヴル河岸のあなたのオフィスに連れていくんでしょうね?」
「ここのほうがいいようだね」
彼女は肩をすくめると、メグレの先に立って行き、小さなソファに倒れるように腰をおろした。
「もう一度犯行現場を見れば、わたしが心を乱すとでも思っているの?」
「いや。頑《かたく》なになることをやめ、警戒心を解いて、いつかしゃべらなければならなくなることを、私に隠さないでもらいたいのだ」
彼女は冷やかにメグレをながめながら、たばこに火をつけた。
車椅子を示しながら、警視はつぶやいた。
「これをやったやつが、罰せられることを望まないのかね?」
「わたしは警察なんかあてにしてないわ」
「自分自身でそれをするつもりかね? アリーヌ、あなたはいくつだ?」
「ご存知でしょ。二十五よ」
「それでは、まだ長い人生があるわけだ。マニュエルは遺書を残さなかったのかね?」
「そんなこと、気にもかけなかった」
「公証人は?」
「公証人のことなんか、彼は言わなかった」
「彼の金はどこにある?」
「どのお金?」
「まず初めに、『クルー・ドレ』でもうけた金。私は、毎週あなたがマニュエルのものになる金を店の支配人から受け取っていたことを知っている。あなたはそれをどうした?」
彼女は、相手のつぎの可能なかぎりの手を考えているチェス選手のような表情をした。
「家事に必要なお金だけを残して、あとは銀行に預金したわ」
「どの銀行?」
「グランド・アルメ並木通りの、リヨン銀行の支店」
「その預金はあなたの名義かい?」
「そうよ」
「マニュエル名義の他の預金はないのか?」
「知らない」
「いいか、アリーヌ、あなたは利口な娘だ。これまで、マニュエルと一緒に、社会と絶縁したような生活を送ってきた。マニュエルは数年間、やくざの親分として、ごろつきとして敬われてきた」
彼女はあてこすりのように車椅子と、じゅうたんの上に残っている血のしみを指さした。
「すべての事情に通じている彼のような男が殺されたら、今後無防備のままに残された若い女に何が起こると思う? 私の意見が聞きたいか? 私には二つの推測しか考えられない。一つは、彼を憎んでいたやつらがこんどはほこ先をあなたに向ける。やつらは彼をうまく殺《や》ったように、あなたをもうまく殺る。もう一つは、やつらはあなたを放っておく。ということは、あなたがやつらと手を結んだということだ。いいか、あなたはあまりにも知りすぎている。暗黒街では、死者だけがおしゃべりする危険がないと考えられている」
「わたしを脅す気?」
「あなたを考える気にさせたかったのだ。あまりにも長い間、二人ともたがいに相手に勝とうとしていた」
「あなたの理屈によれば、それはわたしが口をつぐんでいるってことね」
「窓を開けてもかまわないかね?」
メグレは陽の差さないほうの窓を開けた。だが、外の空気は部屋の空気とほとんど変わらず、生あたたかかった。メグレは汗をふきつづけた。坐る気にはならなかった。
「三年前から、あなたはここでマニュエルと暮している。外部と全然接触せずに……そう彼も主張していたし、あなたも主張している。しかし実際は、あなたを介して、彼は外部と接触していたのだ。公けには、あなたは週に一度、まれには二度、『クルー・ドレ』に売上げ報告をチェックしに行き、マニュエルの取り分を受け取り、その金をあなたの名義で銀行に預金するだけだった。ところで、あなたは刑事たちの尾行をしばしばまいている、いわくありげな電話をするためにしろ、数時間自由に行動するためにしろ」
「たとえば、愛人がいたのかもしれないわ」
「今日そんなこと言ってもかまわないのか?」
「いろいろな推測が考えられるということをあなたに示すためよ」
「いけないよ、|ねえ《モン》、|きみ《プチ》」
「|ねえ《モン》、|きみ《プチ》、だなんて言わないで」
「わかった! あなたはすでにそのことを再三再四私に言った。しかし、あなたが子供のような振舞いをするときには、ときどき頬っぺたを張り飛ばしたくなる。さっきあなたが利口だと言ったね。ただ、自分が陥っている危険をわかっていないようだ。マニュエルがここにいてあなたに忠告し、あなたを保護しているうちは、そんな態度を取っていてもまだよかった。今後、あなたは一人きりだ、いいね? 殺し屋たちの手にあるのとは別の武器が、この家にあるのかね?」
「台所の庖丁」
「私にここから出て行ってほしいかね、見張りをやめてほしいかね?」
「そのとおりよ」
メグレはがっかりして、肩をすくめた。あきらかに落胆し、隠しおおせない不安めいたものが見える。しかし、彼女は心を動かさなかった。
「こんどは他の面から話をしよう。マニュエルは六十歳だった。十五年前から『クルー・ドレ』の経営者であり、足が不自由になるまでは自分で店をきりまわしていた。このレストランだけでも彼は大金をもうけた。その他にも彼には金の入ってくる手だてがあった。ところで、このアパルトマンと家具を買ったことと、生活費の他には彼はたいした出費をしていない。その溜った金はどこにある?」
「彼にそれを訊くには遅すぎたわ」
「あなたは彼の家族を知っているかね?」
「いいえ」
「彼のあなたへの愛し方から見て、その金があなたのものになるようにしてあると思わないか?」
「そう思うのはあなただけ」
「彼のような人間は普通、銀行に金を預けるのをきらうもんだ。払込みの日付が簡単にわかってしまうから」
「話しつづけて」
「マニュエルは一人で働いていなかった」
「『クルー・ドレ』で?」
「私がそんなことを言ってないことはわかっているだろう。宝石だ」
「彼にその話をするため、あなたは少くとも二十回やってきた。何か引き出せなかったの? それなのにパパが死んだいま、どうしてわたしから聞き出せると思うのかしらね?」
「あなたが危険だからだ」
「そんなことあなたにはどうでもいいでしょ?」
「あなたのために、また今朝のようなちょっとした儀式をくり返したくないのでね」
彼女が考えはじめたように、メグレには思われた。が、灰皿にたばこをもみつぶすと、つぶやいた。
「何も言うことないわ」
「それなら、このアパルトマンのなかに刑事を一人、日夜残し、別の刑事にはあなたが外出するや、ただちに尾行させる。それに、私は正式に、この捜査が終るまであなたがパリから離れないように命令する」
「わかったわ。それではあなたの刑事さんはどこで眠るの?」
「眠らない。何か私に言うことがあったら、いつてもオフィスか家のほうに電話を。これが番号だ」
差し出した名刺を彼女が受け取らなかったので、メグレは仕方なく小テーブルの上においた。
「いま、われわれの話は終った。私は心からおくやみを申し上げるよ。マニュエルは人と離れて暮すことを選んだが、私ははっきり言って彼を感嘆したい気持だ。さよなら、アリーヌ。入口のベルが鳴った。きっと昼食を終えたジャンヴィエだろう。交代の刑事が来るまで彼はここに残っている」
メグレはもう少しで手を差し出すところだった。彼はアリーヌがろうばいしているのを感じていた。手を差し出しても彼女が応じないことがわかっていたので、彼は上衣を着ると、ドアのところへ行き、ジャンヴィエのために開けた。
「何かありましたか、警視《パトロン》?」
メグレは頭を振った。
「交代の者が来るまでここに残っていてくれ。彼女を監視し、裏階段にも気をつけてほしい」
「オルフェーヴル河岸にもどりますか?」
メグレはあいまいな身振りをしたあとで、ため息をついた。
「わからない」
数分後、メグレはワグラム並木通りのビヤホールで大きな中ジョッキを飲んでいた。『シェ・ローヴェルニャ』の雰囲気のほうが好きだったのだが、あそこには電話室がなかった。電話器はカウンターのそばにひっかかっていて、客に話を聞かれてしまう。
「ボーイ、中ジョッキをもう一杯。それと、電話用のコイン。五枚もらうよ」
派手に化粧を塗りたくった、肥った娼婦が彼がだれだかを疑いもせずに無邪気にほほえみかけてきた。彼はその女にあわれをもよおしたが、時間を無駄にしないために、その趣味がないんだということを身振りでわからせた。
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第三章
電話室のガラス窓越しに、テーブルのまわりに坐った客たちをぼんやりとながめながら、メグレはまずアンスラン予審判事を呼び出し、アカシア通りを封印するのをあと回しにしてもらいたいとたのんだ。
「私はあのアパルトマンに刑事を一人残してきました。あとで交代の者をおくり、夜も泊らせます」
「あの若い女をもう一度尋問したんですか?」
「いま彼女と長い話を終えたところですが、収穫はなしでした」
「いまどこにいるんです?」
「ワグラム並木通りのビヤホールに。まだあと二、三電話をしなければならないのです」
メグレはため息を聞いたように思った。ぽってり肥った小柄な予審判事は、自分がほこりだらけのオフィスで抽象的な書類や、単調な書式にかかりきっているだけに、町のざわめきのなかに浸っているメグレがうらやましかったのではないか?
高等中学《リセ》で、若いメグレは閉じこめられている教室の窓から、歩道を往ったり来たりしている男や女たちをあこがれてながめたことがあった。
ビヤホールはほぼ満員だった。あれから多くの歳月が流れたが、いまでもまだオフィスや店や工場であくせく働いている者がいる時間に多くの人間が往き来しているのを見るのは、メグレにとっておどろきだった。
パリにやってきた最初の頃、彼はグラン・ブルヴァールやサン・ミッシェル大通りのテラスで午後いっぱいを過し、動いている群集を目で追い、顔を観察し、一人ひとりの関心事を当ててみようとしたことがある。
「ありがとう、判事さん。何か新しいことがあり次第、すぐにあなたにご連絡いたします」
つぎは法医学者。彼は手術室にもどっていた。ポール医師ではなく、ポールの若い後任者だった。独創的なところはなかったが、良心的に仕事をする男だった。
「おたくの刑事さんが車椅子の背に弾丸を一つ見つけたのはご存知ですね。この弾丸は被害者が死んだあとで、正面から発射されたものです」
「どのくらいの距離から?」
「一メートル以内で、五十センチ以上。それ以上ははっきり言えません、推測の領域に入りますので。マニュエル・パルマリを殺した弾丸は襟首に、ほとんど至近距離から、やや下から上へと発射され、頭蓋骨のなかにとまっています」
「三発の弾丸はおなじ口径ですか?」
「私の判断するかぎりは。いまその三発の弾丸は、弾道の専門家のところに行っています。私の正式の報告書は明日の朝になるでしょう」
「もう一つだけ質問……時間は?」
「九時半から十時の間です」
つづいてガスティーヌ・ルネットに。
「あなたのところへお持ちした銃と、三発の弾丸を調べてくれましたか?」
「まだ二、三検査することが残っていますが、三発の弾丸がスミス・アンド・ウェッソンから射たれたことは、現在の段階でもほぼたしかですね」
「ありがとうございます」
ビヤホールのなかでは気の小さな青年がうろうろ歩きまわり、最後に腰の大きな、厚化粧の娼婦のわきに坐った。ビールを注文したが、思い切って女を見ることができない。困ったように指でテーブルをたたいている。
「もしもし! 経済警察局? こちらメグレ。ベロム警視をおねがいします」
メグレは自分がしゃべっていることよりも、ビヤホールのなかで起こっていることにさっきから興味があるみたいだった。
「ベロム? メグレだ。きみが必要なんだ。アカシア通りに住んでいる、いや住んでいたと言うべきだな、マニュエル・パルマリという男のことなんだが。彼は死んだ。仲間のだれかが、彼が長生きしすぎたとみなしたんだ。マニュエルはフォンテーヌ通りに『クルー・ドレ』というレストランを所有していた。三年ほど前に手に入れた店だ。
いいかね? 彼はアリーヌ・ボーシュという女と暮していた。この女はグランド・アルメ並木通りのリヨン銀行支店に彼女名義の預金を持っている。『クルー・ドレ』のもうけの一部を、彼女は毎週この銀行に預けていたらしい。私には、マニュエルがもっと大きなもうけ口を持っていたと信じるいくつかの理由がある。彼の家には、紙入れのなかに千フランと百フラン札が二、三枚、彼の愛人のハンドバッグのなかに二千フランほどあったきりだ。これ以上細かいことを言う必要はないな。大金はどこかにある、公証人のところか、商店や建物に投資されているのだろう。私の間違いでなければ、その金は莫大なものだ。
そう、例のごとく緊急なんだ。ありがとう、では明日」
今朝同様、ふたたびメグレ夫人へ電話。
「夕食には帰れそうもないな。それどころかうんと帰りが遅くなりそうだ……いま?……ワグラム並木通りのビヤホール……おまえは何を食べるんだい……野菜入りの塩味のオムレツだって?……」
最後に、司法警察局。
「リュカをたのみます……もしもし! リュカか? アカシア通りにすぐに来てくれるか? そう……八時頃きみと交代する者がいるかな? そこにだれがいる?……ジャナン……よし……今夜は眠れないとジャナンに言っておいてくれ……いや、外じゃない……上等の肱掛け椅子の上だ……」
青年は立ち上ると、頼を赤くして、ずらりと並んでいるテーブルや椅子の間を、彼の母親のような女を追って出て行った。女は初めてなのだろうか?
「ボーイ、中ジョッキ」
外では、空気が燃えるように暑く、女たちは薄いドレスの下は何も着ていないようだった。
あの権柄ずくな警視総監がいまのメグレを見たら、警視にふさわしくない仕事をしていると言ってまた非難するだろう。
しかし、警視が大部分の捜査に成功してきたのはこのようにしてである。つまり、階段を上ったり、隅から隅までくまなく匂いを嗅いだり、あちこちでおしゃべりしたり、無益なようにみえる質問をしたり、ときどきあまり推薦できない居酒屋《ビストロ》で数時間過したりしながらなのだ。小柄な予審判事はメグレのことを理解し、うらやんだ。
数分後、メグレはアリーヌが住んでいる建物の管理人室に入って行った。女管理人は家政婦のようなものだ……良いか、悪いかのどちらかだ。彼は、魅力的で、こぎれいで、陽気な女管理人を何人か知っている。彼女たちの管理人室はいずれもきちんと片づいていて、清潔だ。五十歳ぐらいと思われるここの管理人は、彼女たちとは別の種類の人間だ。気むずかしくて、からだが弱く、世間の悪意と、自分の悲しい運命についてたえずぶつぶつ文句を言っている。
「また来たの?」
彼女はグリーンピースの莢《さや》をむいていた。彼女の前に、蝋引布をかけた丸テーブルの上にはコーヒー・カップがある。
「また何の用なの? わたしはだれも階段を上って行くのを見なかったと言ったでしょ、二、三年前から配達に来ている肉屋の小僧さんの他には」
「ここの住人のリストを持っていると思うのですが?」
「家賃を受け取るのがわたしなのだから、あたりまえでしょ。せめてみなさん、期日どおりに支払ってくれたら! お金がたんとあるのに、四度も五度も足を運ばなくちゃならないなんてねえ」
「そのリストをわたしてもらえませんか?」
「そんなことしていいかどうかわからないわね。ここの持主に訊いたほうがいいんじゃない?」
「電話がありますか?」
「電話がなかったとしても、遠くではないわ」
「この建物に住んでいるんですか?」
「そうよ! あなた、まさか彼女を知らないなんて言うんじゃないでしょ? でも、今日はまずいんじゃないかしら。ああしたごたごたがあったから、お邪魔するのは」
「というのは?」
「あなた知らないの? だめね! そのうちわかるでしょ。警察が嗅ぎまわりだせば……そうよ、アリーヌ・ボーシュさん……」
「領収証は彼女の名前でサインされているんですか?」
「この建物が彼女のものなのに、だれの名前でサインしたらいいと言うの?」
メグレはすすめられもしないのに、柳の肱掛け椅子の猫を追っぱらって、坐ってしまった。
「そのリストを見せてください」
「おあいにくさま! ボーシュさんと話し合って。あの女、やかましいときもあるのよ」
「彼女はけちですか?」
「金ばらいのよくない人を好きではないわ。それに、冷静な女《ひと》よ」
「ここから見えるけど、あなたの隣りの部屋にはジャン・シャボーという人が住んでいるんですね」
「テレビの仕事をしている二十歳そこそこの青年。ほとんどいつも旅行してるわ。フットボールや自動車競走やフランス一周自転車競走など、スポーツ番組を専門にあつかっているのよ」
「結婚は?」
「まだ」
「その青年は、アリーヌ・ボーシュを知っていますか?」
「そんなことないでしょ。彼がここに入るときだって契約書にサインさせたのはわたしですから」
「右側のアパルトマンは?」
「あなた読めないの? ドアに名札がかかっているでしょ、ジャニーヌ・エレルさん、足のたこや、肉刺《にくまめ》などの女治療師よ」
「ずっと前からここに住んでいるんですか?」
「十五年。彼女はわたしより年上だわ。いいお客さんがついているの。二階の左側は、フランンワ・ヴィニョン……」
「どんな人です?」
「保険会社に勤めている人で、結婚していて二人の子供がいるわ。下のほうの子はまだ数カ月しかたってないの」
「何時にここを出ます?」
「八時半頃……右側のアパルトマンはジュスタン・ラヴァンシェ、地下鉄《メトロ》の運転手をやってるわ。朝の六時に勤務につくので、五時半になるともうこの管理人室の前を通るのよ。だからわたし、いつも起こされてしまう。怒りっぽい人で、肝臓を患っていてね。奥さんは生意気な女。二人とも、もうちょっとは、十六歳になったばかりの娘に気をつければいいのに。
三階の左側はメイベル・タブラー、独り暮しの三十ぐらいのアメリカ女で、自分の国の雑誌や新聞に記事を書いているわ。
いいえ。彼女は男とは会わないわ。男のほうが彼女に関心をしめさないのね。わたし、女のことはあまりわからない。
同じ階の右側は六十歳を過ぎた金利生活者のモーポワ夫婦。昔は靴屋をやってたの。この夫婦の女中は屋根裏部屋に住んでるわ。一年に三、四回、モーポワ夫婦はヴェネチアや、バルセロナや、フィレンツェや、ナポリや、ギリシャや、その他、方々に旅行するのよ」
「毎日何をやっているのです?」
「旦那のほうはアペリチフを飲みに十一時頃ここを出て行くわ、いつも念入りにおめかしして。午後は昼寝のあとで、奥さんを連れて、散歩か買物ね。あの人たち、あれほどしみったれてなければ……。
四階は左側がジャン・デストゥシュという人。マイヨ門の体育館で、体育の教師をやってるわ。朝の八時にここを出るけど、よくベッドに女を残していくの、一晩だけの女のときもあるし、一週間つづいた女のときもあるわね。あんなにつぎつぎと女を変える男、いままで見たことがないわ。毎晩二時頃寝るのに、どうしてスポーツができるのかしら?」
「デストゥシュとアリーヌ・ボーシュは知り合いですか?」
「二人が一緒のところ見たことがないわ」
「アリーヌがこの建物の所有者になる前から、彼はここにいました?」
「彼がここに住んだのはまだ去年よ」
「ボーシュさんが彼の階にいたり、彼のとこから出入りしているのを見たことがありませんか?」
「ありませんよ。右側が、ジーノ・マッソレッティ、イタリア車のフランス駐在代理人。とてもきれいな女《ひと》と結婚してるわ」
「でも、あの女、よくもあんなに澄ました顔がしていられるものだわね」と、気むずかしい管理人がつけ加えた。「あの夫婦の女中は、ラヴァンシェさんのところとおなじように、屋根裏で寝起きしているのよ。あの女中、春になるとメス猫のようにさかりがついて、少くとも週に三度は、深夜に入口の戸を開けてやらなければならないの。
五階、左側がマニュエル・パルマリ、故パルマリと言ったほうがいいわね。それとアリーヌ。おなじ階に、バリヤール夫婦」
「そのフェルナン・バリヤールは、何をやっています?」
「セールスマン。デラックスな包装をあつかっているの、チョコレートの箱とか、マロン・グラッセの紙袋とか、香水壜の箱とかを取り扱っているの。新年には、彼はご祝儀のかわりに、香水とかマロン・グラッセをくれるわ。こんなものは彼にとって何でもないんでしょうけど」
「いくつです?」
「四十か四十五歳。奥さんはブロンドの美しいベルギー人で、肉づきがよくて、よく笑う人だわ。彼女は一日じゅう歌をうたっているのよ」
「この夫婦に女中は?」
「いいえ。彼女が自分で家事も、買物も、使い走りもするわ。毎日午後には、喫茶店に出かけるの」
「アリーヌ・ボーシュの友達ですか?」
「二人が一緒のところ見たことがないわね。六階には、トニー・パスキエ、『クラリッジ』の第二バーテン、奥さんと、八歳と十一歳になる二人の子供があるわ。スペイン人の女中は、他の二人の女中のように屋根裏部屋に住んでいるのよ。
右側のアパルトマンには、ジェイムズ・スチュアートという独身のイギリス人。彼は午後五時に出て行って、明け方に帰ってくるの。無職よ。午後おそくに家政婦がくるんだけど。カンヌ、モンテ・カルロ、ドーヴィル、ピアリッツに、そして冬にはスイスの行楽地によく滞在するわ」
「アリーヌ・ボーシュとの関係は?」
「なぜ、この建物の人たちがみんな彼女と関係がなければならないの? とにかく、関係ってどういうこと? 一緒に寝ているとでも思っているの? 彼女がここの所有者であることを知りもしない人たちばかりなのに」
念のため、メグレはそれでもイギリス人の名前に×じるしをつけた。現在の事件につながりがあると思ったからではなく、司法警察局のお得意さんになりうる男だからだ。たとえば賭博捜査課。
まだ七階、つまり屋根裏部屋が残っている。四人の女中は右から左へつぎのような順序になる……三階の金利生活者モーポワ夫婦の女中ヨランド。マッソレッティ夫婦のスペイン人の女中、ラヴァンシェ夫婦の女中、最後にバーテンのトニーの女中。
「そのスチュアートという男はこの建物に長いんですか?」
「二年ね。アルメニアじゅうたんの商人のあとに入ったの、前の家具と付属品も買い取って」
屋根裏部屋にもう一人住んでいる……マドモワゼル・ジョゼットと呼ばれているマドモワゼル・フェイ。オールド・ミスで、この建物ではいちばん古い住人。八十二歳で、いまでも自分で買物をし、家事をする。
「彼女の部屋は鳥籠でいっぱい。窓の敷居に鳥籠を代わるがわるおくの。少くともカナリヤが十羽はいるわね。つぎの部屋が空いていて、そのつぎがジェフ・クラーズ」
「どんな人?」
「独り者の聾唖《ろうあ》の老人。一九四〇年に、結婚している二人の娘と、孫たちを連れてベルギーから逃れてきたの。北部のドゥエだったと思うけど、避難民を乗せる列車を待っているとき、駅が爆撃され、百人以上の人間が殺されたのだわ。娘や孫たちも殺され、ほとんど着のみ着のまま。老人も頭と顔に負傷してね。婿の一人はドイツで死に、もう一人はアメリカで再婚したそうよ。老人は一人で暮していて、食料を買いに行くとき外出するだけ」
グリーンピースはもうずっと前に莢をむかれてしまっていた。
「もうこれでいいでしょ、わたしをそっとしておいて。わたしはただ、死体がいつもどされ、葬式がいつ行われるのか知りたいだけ。ここの住人たちからお金を集めて、花環を買わなくてはならないから」
「まだ何も決ってませんよ」
「あそこの人、あなたをさがしているみたい……」
リュカだった。彼はこの建物に入ってくると、管理人室の前で立ち止った。
「警察だと、わたし十メートル離れていても嗅ぎ出せるの」
メグレはほほえんだ。
「ありがとう!」
「あなたの質問に答えたのは、しようがなかったからよ。わたし、警察のイヌではないわ。みんながそれぞれ自分のことだけにかかわっていれば……」
メグレが残したかもしれない毒気を部屋から追いはらうためかのように、彼女は中庭に面する窓を開けに行った。
「これからどうします、警視《パトロン》?」と、リュカはたずねた。
「上に行こう。五階の左側だ。ジャンヴィエが冷たいビールを飲みたいと考えているにちがいない。アリーヌが気をきかせて、今朝冷蔵庫のなかにあったビールを一本、彼に出しているのでなければだけど」
メグレがアパルトマンのベルを鳴らしたとき、ドアを開けに来たジャンヴィエは妙な表情をした。客間に入って行ったとき、警視にはそのわけがわかった。アリーヌは別のドアから寝室に入って行った。朝の薄青色のドレスのかわりに、オレンジ色の絹のネグリジェを着ていた。テーブルの上にグラスが二つ……その一つには半分ほどビールが入っていた……、ビール壜が数本、まだ配ったばかりのトランプのカード。
「警視《パトロン》、誤解しないでください」と、ジャンヴィエはぎごちなく弁解した。
メグレの目は笑っていた。彼は配られているカードをさりげなく数えた。
「ブロット(オランダ伝来といわれるトランプ遊び)?」
「ええ。話をきいてください。あなたが出て行ったあと、私は彼女に軽い食事をするように言ったのです。彼女は私の話を聞こうとせず、寝室に閉じこもりました」
「彼女は電話をかけようとはしなかったか?」
「いいえ。四十五分ほど寝ていましたが、ふたたび化粧着で出てきました。眠ろうとしても眠られなかったような目をし、いらいらしていました。
『刑事さん、寝室に引っ込んでいようとしたけど、結局駄目だったわ。あたりまえね、わたし囚人じゃないんですもの』と、彼女は言いました。『わたしが外出する気になったら、どういうことになるの?』
私はこう答えましたが、それでよかったと思います。
『別に禁止はしませんが、刑事があなたを尾行するでしょう』
『あんた、一晩じゅうここにいるつもり?』
『私じゃありません。同僚の刑事が』
『カードできる?』
『ときどきやったことがあります』
『時間つぶしにブロットしない? 余計なこと考えなくてすむわ』」
「ところで」と、メグレはリュカに言った。「オルフェーヴル河岸に電話して、だれか刑事を一人、この建物の前の見張りによこしてくれ。まかれる恐れのない者がいいな」
「ボンフィスがいます。彼はこういう仕事にいちばん向いてます」
「今晩帰れなくなることを奥さんにあらかじめ伝えさせておいてくれ。ラポワントはどこにいる?」
「刑事部屋に」
「ここに来て私を待つように。私がもどってくるまでここできみといるんだ。リュカ、ブロットができるか?」
「しないようにしてます」
「アリーヌがこんどはきみをさそうかもしれんぞ」
メグレは寝室のドアをノックした。ドアはすぐに開いた。アリーヌは話を聞いていたにちがいない。
「お邪魔するよ」
「ここはあんたの家じゃなかったの? そう言ってもおかしくないわね」
「だれか知らせたい人があったら遠慮なく言ってほしい。新聞には、早くとも明日以後にならなければこんどのことは載らない。たとえば、『クルー・ドレ』の支配人に、事件のことを知らせなくていいかな? または公証人か、家族のだれかに?」
「マニュエルには家族はないわ」
「あなたには?」
「わたしも家族のことなんか気にしてないわ、向うもこちらのことなんか気にしてないけど」
「あなたがこんな建物の所有者だと知ったら、家族の方たちはすぐにパリにやってくるんじゃないかな?」
彼女はショックを受けたようだった。文句も言わなかったし、質問もしなかった。
「明日、葬儀屋を呼ぶといい。いつ死体が返されるか予測できないから。あなたは彼がここに連れもどされるのを望んでいるね?」
「彼が暮していたのはここじゃないとでもいうの?」
「何か食べたらどう? リュカ刑事をここに残す。リュカのことは知ってるね。何か私に言うことがあったら、私はまだしばらくはこの建物のなかにいるから」
そのとたん、若い女の目はきっとなった。
「この建物のなかに?」
「住人のことを知っておきたいと思ってね」
彼女は、メグレがジャンヴィエを家に返すのをじっと見ていた。
「おい、リュカ、夜の八時か九時頃代わりをよこすからな」
「私はジャナンに来るように言っておきました。しかし、私が残りたいですね、警視《パトロン》。サンドイッチを運ばせてくれたらありがたいのですが」
「それにビールだろ……」
リュカは空のビール壜を指さした。
「冷蔵庫のなかに残っていなければ」
二時間近くの間、メグレは建物の下から上まで、あちこちを個別訪問するセールスマンのあの粘り強さで、愛想よく、辛抱強く歩きまわった。管理人室でノートした名前は次々に抽象性を失い、姿になり、顔になり、目になり、声になり、態度になり、人間になった。
一階の、足の女治療師は、トランプ占いもやっているのかもしれない。蒼白い顔に、人を催眠にかけるような黒い目がやたらと目立つ。
「なんで警察が? わたしはこれまでわるいことなどこれっぽっちもいたしておりませんよ。何ならわたしのお客さまにおききになっていただいてもけっこうですよ、九年前から治療しておりますので、わたしのことはよく知っていますから」
「この建物で人が殺されたのです」
「そう言えば、死体が運び出されるのを見ましたわ。でも、わたし、忙しかったものですから。どなたですの?」
「パルマリ氏だ」
「知りませんわねえ。何階かしら?」
「五階」
「その人のこと聞いたことがありますわ。ちょっと気取った、とても美しい奥さまがいらっしゃるのでしょう。わたし、その人と一度も会ったことがございませんわ。お若い方かしら?」
テレビ局に務めているシャボーは留守だった。地下鉄の運転手はまだ帰っていなかったが、奥さんが女友達と部屋にいた。二人の前にはビスケットとショコラのカップがあった。
「何も言うことないわ。階上《うえ》に住んでいる人など知りもしませんもの。その人がアパルトマンから出たことがないんでしたら、階段で会わなかったのも不思議ではないわね。主人も、この階より上には昇ったことがないわ。階上《うえ》に行く用事が主人にあって?」
前に坐っているもう一人の女は赤ん坊をゆりかごに入れ、哺乳壜を殺菌器のなかに入れている。背中を丸だしにした小さな女の子が床を這っている。
つぎの階では、ミス・タブラーがタイプをたたいていた。彼女は背が高く、肩幅が広かった。暑いので、パジャマしか着ていず、それも上のほうは胸をはだけていた。ボタンをはめようともしなかった。
「ここで殺人? |ヘえ《ハウ》、|すごいわ《エキサイティング》! で、つかまえたの、その……どう言うのだったかしら……そう、殺人者は? あなたメグレという名前? オルフェーヴル河岸のメグレさん?」
彼女はテーブルにあるバーボンの壜のほうに行った。
「あなた飲む?」
メグレは酒を飲んだ。そして、この女は胸を隠すつもりはないのだろうかと思いながら、十分ほどわけのわからないおしゃべりを聞いていた。
「『クルー・ドレ』? ノオ……ないわ……でも、アメリカでは、ナイト・クラブはほとんどすべてギャングのもの……パルマリはギャング?」
警視はこうやって一種のパリの縮図を歩きまわったのである。階から階には、町や通りで見られるのとおなじコントラストがあった。
このアメリカ女の部屋には、乱雑なボヘミヤン的雰囲気がただよっていた。真向いの金利生活者の部屋は、しっとりしていて、ジャムのような甘ったるさがあった。実際ジャムとボンボンの匂いがした。白髪の男が膝に新聞をおいて肱掛け椅子に坐っていた。
「あまり大きな声でしゃべらないでくださいな。うちの人はびっくりして目をさまされるのがきらいなので。慈善事業のことでいらっしたのですか?」
「ちがいます。私は警察の者です」
警察と聞いて老婦人は気持を動かされたようだった。
「ほんとですの! 警察ですって! こんな静かな建物にまさか押込み強盗が入ったのではないでしょうね?」
彼女はほほえんだ。やさしい、善良そうな顔は頭巾をかぶった尼さんのようだ。
「犯罪ですの? そのために今朝人がたくさん出入りしたんですのね? いいえ、わたしはどなたも知りません、管理人のおかみさん以外は」
四階の体育教師も部屋にはいなかったが、眠気で目がかすんでしまっている若い女が、からだを毛布でくるんでドアを開けに来た。
「ご用は? いいえ。いつ帰ってくるかわかんない。わたしここに来たの初めてなの」
「いつ彼と会ったんです?」
「昨日の夜、いや今朝かな、真夜中すぎてたから。プレスブール通りのバーで。彼、何かしでかしたの?とても正直そうな人だけど」
これ以上ねばっても無駄だった。ひどい二日酔いで、しゃべるのがやっとだったからだ。
マッソレッティ夫婦のところには、ただ女中がいるだけだった。下手くそなフランス語で、奥さまは『フーケ』に旦那さまに会いに行き、お二人で町で夕食を取るにちがいないと説明した。
ここの家具はモダンで、他のアパルトマンのより明るくて、陽気な感じだった。ギターがソファの上にほうり出されている。
マニュエル・パルマリの階では、フェルナン・バリヤールはまだ帰ってなかった。鼻うたを歌いながらドアを開けたのは、美しいブロンドの、肉付きのいい三十ぐらいの女だった。
「あら! わたし、さっき階段であなたとすれちがったわ。何を売りにきたのかしら?」
「司法警察です」
「今朝の事件を調べているんですの?」
「事件があったことを、どうしてご存知なのです?」
「あなたのお仲間が、大騒ぎしてたじゃありませんか! あの人たちが言っていることを聞くにはドアをちょっと開けてみるだけで十分ですわ。余計なことでしょうけど、あの人たちは死者のことを変な言い方で話すのね、とくにふざけながら死体を降していた人たちは」
「マニュエル・パルマリをご存知でしたか?」
「会ったことはありませんけど、ときどきどなっている声が聞こえました」
「どなっている? それはどういうことです?」
「あの人は、やかまし屋にちがいありません。わたしにはわかりますわ、管理人さんの話では、あの人はからだが不自由だったそうですから。ときどき癇癪《かんしゃく》をおこすのでしょうね」
「アリーヌにたいして?」
「あの女《ひと》、アリーヌって言いますの? とにかく奇妙な女。初めの頃階段ですれちがったとき、わたしいつも、こんにちはって頭を下げたのに、彼女は私を透明人間のように見るだけです。ああいう女《ひと》、なんて言ったらいいのかしら? あの二人は結婚してますの?彼を殺したの、あの女じゃないんですか?」
「何時にご主人は仕事に出ます?」
「ときによりますわ。サラリーマンのように時間が決ってません」
「昼食にもどりますか?」
「たまにしか。ほとんどいつもは、遠い地区や郊外にいますから。主人はセールスマンです」
「知ってます。ご主人は、今朝は何時に出かけました?」
「八時頃。わたしが九時半に帰ってきたら、主人はもうここにいませんでしたから」
「あなたは店で隣りの女のひととは会わなかったですか?」
「ええ。わたしたちおなじお店には行かないのでしょう」
「結婚して長いのですか?」
「八年」
たくさんの質問、メグレの頭に記憶されるそれとおなじ数の答え。そのたくさんの答えのなかで、いくつかが、いや一つだけかもしれないが、あるとき、とつぜん意味を持ちはじめるのだろう。
バーテンは家にいた。六時からの勤務だったのだ。女中と二人の子供は、子供部屋につくり変えた、玄関わきの部屋にいた。子供が「パン! パン! おまえは死んだぞ!」と、さけびながら警視を撃った。
トニー・パスキエはひげが濃くて、こわかったので、その日の二度目のひげ剃りをやっていた。奥さんは子供のズボンのボタンをつけていた。
「なんですって? パルマリ? 彼のことを知らなければいけませんか?」
「階下《した》の隣人ですから、というより今朝まで階下《した》の隣人でしたから」
「彼に何かあったんですか? 階段で警官とすれちがいましたし、私が二時半に帰ってきたとき、女房から死体が運ばれていったと聞きましたが」
「『クルー・ドレ』に行ったことがありませんか?」
「自分で行ったことはありません。ただ、ときどきお客さんを送って行ったことがあります」
「なぜ?」
「どこか食べるところはないかとお客さんに訊かれることがあるんです。『クルー・ドレ』は評判がよいもんで。私はペルネルという給仕頭を以前知っていたのです、『クラリッジ』で働いていましたから。仕事を心得てる男です」
「あそこの所有者の名前を知らないんですか?」
「一度も訊いてみたことがありませんね」
「それでは、アリーヌ・ボーシュという女には会ったことがありませんか?」
「黒い髪の、ぴったりしたドレスを着ている女ですか? ときどき階段ですれちがったことがあります」
「ここの家主ですよ」
「それは初耳だ。私は彼女に話しかけたことがない。リュリュ、おまえは?」
「わたし、ああいうタイプの女がきらいなの」
「メグレさん、たいしたお役に立てなくて。こんどのときにはお役に立てるかもしれません」
イギリス人は留守だった。八階には長い廊下があり、ただ屋根の天窓から明りが入っているだけだった。中庭側に、大きな物置。住人たちの古いトランク、お針子のマネキン、箱、ノミの市にふさわしいがらくたなどがごちゃごちゃにおかれている。
通りに面している側には、兵舎のようにドアが並んでいる。メグレは奥のドアからはじめた。三階の金利生活者の女中、ヨランドの部屋だ。ドアは開いていて、乱れたベッドの上にはすき通った布地のネグリジェが、カーペットの上にはサンダルがあった。
つぎのドアは、メグレが手帳に書いておいた図面によれば、アメリアのドアで、これは閉っている。つぎのドアも閉っていた。
四番目のドアをノックすると、か弱い声が、どうぞと言った。部屋じゅう所狭しとおいてある鳥籠の間から、メグレは、窓の近くのヴォルテール型肱掛け椅子(座席が低く、背が高い椅子)に坐った、月のような丸顔の老女を見ることができた。
彼はもう少しで、老女をそのまま物思いにふけらせて、出て行くところだった。彼女の年齢はもうほとんどわからず、生命はごく細い糸によってこの世につながっているにすぎなかった。彼女は穏やかな微笑をうかべて侵入者をながめた。
「さあ、あなた、お入りになって。わたしの鳥たちをこわがらないでくださいな」
彼はカナリヤの他に、大きなオウムがいるとは聞いていなかった。オウムは放し飼いされていて、部屋の真中にあるブランコに止っていた。オウムはさけびはじめた。
「おお! よしよし! おまえ腹がへってるの、よしよし?」
メグレは警察の者だと名乗り、この建物で人殺しがあったのだと説明した。
「あなた、知ってますわ。買物に出かけたとき、管理人さんが教えてくれましたから。人生はとても短いのに、殺し合うなんていやね! 戦争のようね。わたしの父は一八七〇年と一九一四年の戦争に出ました。わたしもその二つの戦争を経験しておりますのよ」
「マニュエル・パルマリさんをご存知じゃありませんか?」
「管理人さん以外は、その人だろうとだれだろうと知りません。管理人はみなさんが思っているほどわるい女《ひと》じゃないんですよ。あの人はいろいろ不幸がありましたの、かわいそうな女。ご主人は道楽者で、そのうえ飲んべえでした」
「この階にだれか住人が上ってくる音を聞きませんでしたか?」
「ときどき、物置に何かをおきにきたり、取りにきたりする人がいます。でも、うちの窓はいつも開け放してあるし、鳥たちはさえずっているしで……」
「隣りの人とつき合っていますか?」
「ジェフさん? わたしたちおなじ年齢に見えるでしょう。実際は、ジェフさんはわたしよりもずっとお若いんですのよ。七十を越えたばかりではないかしら。ジェフさんが老けてみえるのは傷のせい。あなたもジェフさんをご存知なの? ジェフさんは聾唖ですのよ。聾唖って、盲目よりつらいのかしらね。盲目の人って、耳の遠い人より明るいってよく言いますわね。やがてわたしにもそのことがわかるでしょう。というのは、わたしの視力は毎日のように弱っているんです。わたしはあなたがどんな顔をしているかさえはっきりしません。明るい点と、影しか区別できませんの。あなた、お坐りになりません?」
最後に、隣りの老人。メグレが行ったとき、老人は漫画のついた子供新聞を読んでいた。彼の顔には傷痕があり、その一つが口の一端をひきつらせていて、そのためいつも笑っているような感じだった。
彼はブルーの眼鏡をかけていた。部屋の真中の大きなもみ材のテーブルには、がらくたや、思いがけないものがいっぱい載っていた……子供の組立玩具、木の切れ端、古雑誌、老人が粘土でこさえたわけのわからない動物など。
鉄のベッドは兵舎のベッドに似ていた。ざらざらした毛布もそうだった。石灰を塗った壁には、ニース、ナポリ、イスタンブールなど陽光で輝く町を描いたポスターが貼りつけてあった。床にはまたもや雑誌の山。
年齢にもかかわらず震えない手で、老人は自分が聾唖であり、しゃべれないことを説明しようとした。こんどはメグレが、それではどうしようもないと身振りで示した。すると、老人は唇の動きで言葉を読み取ることができるということを、メグレにわからせた。
「お邪魔してすみません。私は警察の者です。もしかしたらあなたはマニュエル・パルマリというここの住人をご存知ではありませんか?」
メグレは、マニュエルが階下《した》に住んでいることを伝えるため手で床を示し、階数をはっきりさせるため、指を五本出してみせた。ジェフ老人は首を振った。警視はこんどはアリーヌのことを話した。
メグレにわかったかぎりでは、老人は階段でアリーヌに出会っている。老人は滑稽なやり方で彼女を描いてみせた……彼女のほそい顔と、なよなよした、痩せた姿とを宙にいわば彫ってみたのである。
五階にもどったとき、メグレは世界じゅうを訪ねたような気がした。からだがだるくて、ちょっと憂うつだった。車椅子でのマニュエルの死は、ほんのかすかな波紋しか起こさなかった。数年来彼と壁一つ、床や天井一つによってしか隔てられていなかった人たちは、彼がシーツをかけられて運び去られたことを知りもしない。
リュカはカードをやっていなかった。アリーヌは客間にいない。
「彼女は眠っていると思います」
若いラポワントが来ていた。彼は警視と一緒に仕事するのがとても仕合せそうだった。
「私は車で来ました。それでよかったんですね?」
「リュカ、ビールが残ってるかな?」
「二本」
「一本開けてくれ。あとで半ダース届けさせるから」
六時だった。パリでは交通渋滞がはじまっていた。建物の窓の下で、いらいらした運転手が規則を無視してクラクションを鳴らしていた。
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第四章
フォンテーヌ通りの『クルー・ドレ』の隣りには三流のストリップ小屋があり、もう一方には『|愉快なパリ《ゲイ・パリ》』の思い出として外国人たちが持ち帰るとても変わった女性下着の専門店があった。
メグレとラポワントは司法警察局の車をシャプタル通りで乗り捨てると、昼間のしがない人びとにまじって雑多な夜の生活者が歩きはじめた通りをゆっくりと上って行った。
七時。みんなから『大腕のジョー』と呼ばれているゴリラのような大男はまだ持場についてなかった。いつもなら金|飾紐《モール》のついた青い制服を着て、レストランの入口にいるのだが。
メグレはジョーを目でさがした。彼のことはよく知っていた。ジョーは昔の縁日のボクサーのような様子をしているが、まだ一度も六オンスや八オンスのグローブをつけたことがなかった。四十歳ぐらいだが、人生の半分を日蔭で過した。最初は未成年者として感化院で、ついで、つまらない盗みや傷害のたびに、六カ月から二年を刑務所で過した。
彼の知能は十歳の子供のものだった。思いがけない状況にでくわすと、目がうつろになり、ほとんど哀願するようになる。先生から知らない問題について質問された小学生のように。
ジョーは制服を着て店のなかにいた。鹿毛《かげ》色の革の腰掛けを雑巾で一生懸命に拭いている。警視の姿に気がつくと、ジョーの顔はすぐに愚か者の表情になった。
二人のボーイが忙しそうにテーブルをきちんと並べ、ナプキンの上に店の紋章のついた皿、グラス、銀器をおき、各テーブルの真中にあるクリスタル・ガラスの細長い花びんに花を二本ずつ差した。
バラ色の笠のついたランプには明りがついていない。陽光が正面の歩道をまだ金色に染めているからだ。
白いワイシャツに黒ネクタイのバーテンのジュスタンは、ぼろ切れでグラスに最後の磨きをかけていた。客は一人きりで、赤ら顔の肥った男が高いストゥールに腰をかけて、緑色の薄荷《はっか》水を飲んでいた。
メグレはどこかでこの男を見たことがあった。見慣れた顔だったが、すぐには思い出せなかった。競馬場でか、ここでか、それともオルフェーヴル河岸のオフィスで会ったのか?
モンマルトルには、かつてメグレにかかわりのあった人間が一杯いる。大部分は数年前のことで、なかには、フォントヴローやムーランで静養するためにしろ、忘れられるまでどこかにもぐり込んでいるためにしろ、しばらくは姿を消しているものもいる。
「今晩は、警視さん、今晩は、刑事さん」と、ジュスタンは気取って言った。「食事でしたら、まだ少し早すぎますが。何かお飲みになりますか?」
「ビール」
「オランダのですか、デンマーク、ドイツ?」
支配人が奥の部屋から音もなく出てきた。ほとんど禿げ頭で、顔は青白くて、いくぶんむくみ、目の下に赤紫色のたるみがある。
おどろいた様子も動揺した様子も見せずに、支配人は警視たちのほうに進んでくると、メグレにやわらかい手を差し出し、ついでラポワントの手をにぎり、カウンターに肱をついた。が、ストゥールには坐らなかった。タキシードさえはおれば、客を迎える準備がすっかりととのう状態だった。
「今日、あなた方がお見えになると思ってました。もっと早く来られなかったことに、むしろおどろいてます。あのことをどう思われます?」
彼は不安そうな、ふさぎこんだような感じだった。
「どうって?」
「だれかがついに彼をやっつけたのでしょう。彼をやった人間についての目星は少しはあるんですか?」
新聞がマニュエルの死を報じていないし、アリーヌは一日じゅう監視され電話もかけていないのに、このように『クルー・ドレ』ではすでに知れわたっている。
テルヌ地区の警察官がしゃべったにしても、信用している新聞記者にであろう。あの建物の住人にしても、モンマルトルの暗黒街とは関係ない人たちばかりのようだ。
「いつ、そのことを知ったんだね、ジャン・ルー?」
この給仕頭も兼ねている支配人は、ジャン・ルー・ペルネルという名だった。彼を咎《とが》めるべき点は警察には何一つなかった。アリエの生れで、ヴィシーでボーイとしてこの道に入った。若くして結婚し、一家の父親となり、息子は医学部で勉強し、娘の一人はシャンゼリゼのレストランの経営者と結婚している。この男はショワジー・ル・ロワに建てた別荘でブルジョワ生活を送っている。
「さあ」と、支配人はおどろいて答えた。「なぜ、そんなことを私に訊くんです? 私はまたみなさんが知っていることと思っていましたが?」
「新聞はまだこの殺人のことを報じていない。思い出してみてくれ。昼食のときにはもう何か知っていたかね?」
「そう思いますよ。お客さん方は私たちにいろんなことをしゃべります! ジュスタン、おまえはおぼえているかい?」
「おぼえてませんが、カウンターでもそのことをしゃべってましたよ」
「だれが?」
メグレは沈黙の掟にぶつかった。支配人のペルネルが暗黒街に属してなく、きちんとした生活を送っていたにしても、客のだれかのために秘密を守らざるをえない。
『クルー・ドレ』はもう、ごろつきしかやってこなかったような昔のバーではなかった。当時ここの経営者になったマニュエルは、警視に情報をあたえるため、ごろつきどものご機嫌を取る必要があったのである。
このレストランは金持の客がついていた。夜の十時か十一時頃には多くの外国人が、また美しい娘たちもやってきた。というのは、この店は真夜中まで食事ができたからだ。昔のようにまだここにやってくるやくざの親分たちもいたが、いやがらせをするほどもう若くはなかった。家をかまえていたし、大部分は妻子だっていた。
「あなたたちにだれが最初に話したのかを知りたい」
そしてメグレは彼の言うところの、釣りにかかった。
「マッソレッティという男じゃないか?」
彼はアカシア通りの建物の全住人の名前を記憶していた。
「その人はどんな仕事をしています?」
「車のセールスマンだ……イタリア車の……」
「知りませんね。ジュスタン、おまえは?」
「そんな名前を聞くのは初めてですよ」
二人とも嘘は言っていないようだった。
「ヴィニョンは?」
二人の目はきらりともしない。首を振った。
「デストゥシュという体育の先生は?」
「この辺りでは知られていませんね」
「トニー・パスキエは?」
「私は知ってますよ」とジュスタンが口をはさんだ。
「私も」と、ペルネルがつづけて言った。「ときどきここにお客さんを連れてきてくれます。『クラリッジ』の第二バーテンですね? ここ数カ月は姿を見かけません」
「今日電話してこなかったか?」
「お客さんをとくに紹介してくるとき以外は電話してきません」
「あなたにそのニュースを知らせたのは、あのゴリラではないだろうね?」
話を聞いていたゴリラは不快なふりをして床に唾を吐き、入れ歯を見せながらぶつぶつ言った。
「とんでもねえ」
「ジェイムズ・スチュアートというイギリス人は?知らない? フェルナン・バリヤールは?」
名前を言われるたびに、二人の男は考えるふりをし、おなじように頭を振った。
「あなたたちの考えでは、マニュエルを殺したいと思っているのはだれだね?」
「彼が襲撃されたのは、なにもこんどが初めてではありませんよ」
「ただ、マニュエルに軽機関銃をあびせた二人連れは殺されている。それに、マニュエルは自分のアパルトマンから一歩も出ない。いいか、ペルネル、いつから『クルー・ドレ』は所有者が変わったのだ?」
支配人の青白い顔にかすかに赤味が。
「五日前から」
「現在の所有者はだれだ?」
ペルネルは一瞬ためらったが、メグレが事情に通じていることを悟り、嘘をつかないことにした。
「私です」
「だれから買い取った?」
「もちろん、アリーヌから」
「いつからアリーヌはここの持主になったんだ?」
「日付をおぼえていませんが、二年以上前です」
「売買契約書は公証人の前で交わしたのだな?」
「すべて規則どおりに」
「公証人は?」
「メートル・デスグリエール、プレール大通りの」
「値段は?」
「二十万フラン」
「新フランでだろうね?」
「もちろんです」
「現金払いかね?」
「現金で。紙幣《さつ》を数えるのにしばらく時間が必要だったほどです」
「アリーヌは書類カバンか、スーツケースでその紙幣を運んでいったのか?」
「私は知りません。私のほうが先に出ましたから」
「アカシア通りの建物もおなじように故マニュエルの愛人のものになっていたのを知っていたかね?」
二人の男はますます間がわるそうだった。
「いつでもいろいろな噂があります。いいですか、警視さん、私もジュスタンも正直な男です。私にも彼にも家族があります。というのは、このレストランはモンマルトルにありますし、あらゆる種類のお客さんがおります。それに普通、お客さんを追い出すことはできません、お客さんがべろんべろんに酔っているとき以外は。そんなことはめったにありません。
私どもにはいろんな騒ぎが耳に入ります。しかし、それを忘れることにしているんですよ、そうだね、ジュスタン?」
「そのとおりです」
「アリーヌには愛人がいたのだろうか?」
そのとき警視がつぶやいた。
彼らは二人とも平然としていたし、愛人がいるともいないとも言わなかった。これにはメグレもいささかおどろいた。
「アリーヌはここで男と一度も会わなかったのか?」
「カウンターにさえ足を止めたことがありません。まっすぐ中二階の私のオフィスに来て、実業家のように売り上げをたしかめ、そこから自分の取り分を持って行くのです」
「マニュエルのような男が、自分の所有しているものをすべてか、あるいは大半、彼女の名義に変えてしまったらしいことにおどろかないのかね?」
「商売人や事業家はたいてい、差押えに備えて、財産を奥さん名義にしておきますよ」
「マニュエルは結婚していない」とメグレは反対した。「それに、二人の間には三十五歳のひらきがある」
「私もそのことを考えました。いいですか、マニュエルは心から惚れこんでいたんです。マニュエルはアリーヌを信用しきっていました。アリーヌを愛していました。アリーヌに出会うまでは、きっと誰も愛したことがなかったのでしょう。彼は車椅子のなかで自分が子供になってしまったような気がしたのです。これまで以上に、彼女はマニュエルの人生になり、彼を外部につなぐ唯一の存在になったのです」
「アリーヌのほうは?」
「私の判断するかぎりでは、アリーヌも彼を愛してました。こういうことは彼女のような娘にはよくあることです。彼を知る前のアリーヌは、彼女を人間としてではなく、欲望の対象としかみない男しか知らなかったのです、わかりますね? アリーヌのような女は貞淑な女より、親切や、愛情や、将来の安穏な生活に敏感なのです」
カウンターの向う端にいる赤ら顔の肥った男が、ふたたび薄荷水を注文した。
「ただいま、ルイさん」
メグレは小声で、「ルイさんってだれだね?」
「お客さんです。あの方の名前は存じませんが、薄荷水を一、二杯飲みによくいらっしゃるのです。この辺の人ではないかと思いますが」
「彼は昼もここにいたのか?」
「ここにいたか、ジュスタン?」と、ペルネルはくり返した。
「ちょっと待ってくださいよ。いたと思います。たしかどこかの競馬の予想を私に訊きましたから」
ルイ氏は額の汗を拭き、自分のグラスを憂うつそうにながめた。メグレはポケットから手帳を取り出すと、二言三言書いて、ラポワントにわたした。
『彼が出たら後を追え。きみはここにもどって来い。私がいなかったら、家のほうに電話してくれ』
「いいか、ペルネル、まだ忙しくないようだから、ちょっと中二階に行こうじゃないか、かまわないだろう?」
レストランの支配人が拒むことのできない誘いだった。
「こちらから……」
支配人は扁平足《へんぺいそく》で、中年の大部分の給仕頭のようにあひるのような歩き方をした。階段は狭くて、うす暗かった。そこにはレストランの贅沢さも、安楽さもまるでなかった。ペルネルはポケットから鍵束を取り出し、褐色に塗られたドアを開けた。彼らは二人とも中庭に面した小さな部屋に入った。
ライティング・デスクの上には、請求書、チラシ、二個の電話器、ペン、鉛筆、事務用便箋が散らばっていた。もみ材の棚には緑色の紙挟みが並び、正面の壁には二十歳か三十歳頃の若いペルネル夫人、二十歳ぐらいの青年、両手で顎をささえ、夢見るように顔をかしげている若い娘の写真が額縁に入ってかかっている。
「ペルネル、坐って、話を聞かせてくれ。われわれはおたがいに率直になろうじゃないか?」
「私はいつでも率直です」
「あんたは自分が率直でないし、率直になることができないことも知っている。そうでなければ、『クルー・ドレ』の所有者でいられなくなるだろう。あんたの気持を軽くするために、ある秘密をもらしてやろう。マニュエルが二十年前に、まだバーでしかなかったこの店を買い取ったとき、私はときどき午前中に一杯やりにきた、彼が一人きりでいると思われる時間を見はからってね。彼のほうもときどき電話をくれたし、オルフェーヴル河岸にひそかに会いにきてくれた」
「密告ですか?」
たいしておどろきもせずに、ペルネルはつぶやいた。
「そう思うか?」
「わかりませんが、たぶんそうでしょう。三年前に、マニュエルが撃たれたのはそのせいだと思いますよ」
「そうかもしれない。ただ、マニュエルは抜け目のない男だった。ときおり、彼はつまらない雑魚《ざこ》の情報を私に教えながら、大仕事にかかわりを持ち、そのことにかんしては一言も吐かなかった」
「シャンパンでも持ってこさせましょうか?」
「シャンパンだけは飲む気にならないね」
「ビールは?」
「いまのところはいらない」
ペルネルはあきらかに苦しそうだった。
「マニュエルはとても有能だ」とメグレは相手をじっと見すえながらつづけた。「あまりにも有能すぎて、私は彼に不利な証拠を見つけることができなかった。マニュエルは私が少くとも真実のかなりな部分を知っていることを気づいていた。しかし、彼はあえてそれを否定しようとしなかった。ちょっぴり皮肉をこめて、私を静かにながめているだけだった。そして、どうしようもなくなるとチンピラのことを私に密告してくる」
「私にはわからないことです」
「そんなことはない」
「なんですって? 私はここで給仕頭として、ついで支配人として働いた以外、マニュエルのために働いたことはありません」
「しかし、あんたは昼にはもう、マニュエルの身に起こったことを知っていた。あんたがさっき言ったように、バーやレストランではいろいろなことが耳にはいる。ペルネル、宝石の盗みのことをどう思う?」
「新聞で読んだところでは、盗みをしたのは若い者たちで、結局みんなつかまったと……」
「ちがう」
「盗みのあいだじゅう、どんな偶発事にもそなえるため、近くに老人が立っていることも書かれています」
「それから?」
「それだけです。はっきり言って、それ以上のことは何も知りません」
「それでは、私がそれ以上のことを言おう、あんたには何一つ目新しいことではないんだが。宝石泥棒でいちばんの危険は何だね?」
「つかまること」
「なぜ?」
「転売のため」
「よし! だんだん私の意見に近くなりはじめた。価値のある宝石はすべて、いわば身分を持っていて、その道の人たちには知られている。だから、宝石が盗まれるや、ただちにその宝石の特徴表示がフランスだけでなく、外国にも送られる。宝石泥棒がそのことを承知しているなら、故買屋は盗品の価値の十パーセントか十五パーセントの金しかわたさないだろう。そしていつものように、一年か二年後にそれらの宝石が出まわったとき、警察は盗品であることをつきとめ、その出どころをたどっていく。そうだね?」
「そのようだと思います。そのことは私よりあなたのほうがずっとくわしいでしょう」
「ところで、数年前から、ピストル強盗やショーウィンドウ破りの後、宝石が定期的に消えてしまっていて、二度とその行方を発見することができない。このことをどう思う?」
「どうして私にわかります?」
「さあ、ペルネル。あんたのような仕事を三十年か四十年やっていれば、こういうことにはくわしいはずだ、たとえ一味ではないとしても」
「私がモンマルトルに来て、まだそんなに時間がたっておりません」
「最初の用心は宝石を台金から外すだけではなく、型を変えてしまうことだ。それには宝石の細工師の共犯が必要になってくる。あんたは細工師を知ってるだろう?」
「いえ」
「この連中を知っている人間は多くない。彼らはフランスだけではなく、世界でも数が少いからだ。パリでも五十人とはいない。それもマレー地区や、フラン・ブールジョワ通りの付近にほとんど集っている。彼らは非常に閉鎖的な小社会をつくっている。その上、彼らに仕事を託している仲介人や、ダイヤモンド商や、大きな宝石店主などが監視している」
「私はそんなことを考えたこともありません」
「冗談じゃない!」
ドアがノックされ、バーテンがメグレに紙切れを差し出した。
「たったいま、あなたにわたしてほしいと」
「だれが?」
「角のバー兼たばこ屋のボーイが」
ラポワントが手帳の切れはしに鉛筆でこう書いていた。
『彼は電話をするため電話室に入った。ガラス越しに、エトワール四二三九にダイヤルしたのが見えた。最後の数字はたしかではない。彼は片隅に坐って新聞を読んでいる。私はここに残ります』
「ここの電話を使わせてもらうよ。ところで、なぜ電話が二台あるんだ?」
「一台だけです。もう一台はレストランにつないであるだけなのです」
「もしもし! 番号案内係? こちら司法警察局のメグレ警視。エトワール四二三九番の電話の持主はだれか、至急知りたいのですが。最後の数字ははっきりしません……わかったら、こちらに電話をください。
こんどは、よろこんでビールをもらうよ」と、メグレはペルネルに言った。
「ルイ氏のことで、あんたがさっき言った以上のことを知らないというのは本当か?」
ペルネルはためらった。この事件が重大なものになってきたことを悟った。
「個人的には、彼のことは知りません。カウンターにいる姿を見かけますが。ジュスタンがいないとき、私がときどき酒を出してやり、天気について二、三言葉をかわします」
「彼はいつも一人なのか?」
「ほとんどそうです。ときどき年端のいかぬ若者と一緒に見えますが、私はあの人はホモじゃないかと思います」
「彼の苗字も住所も知らないんだね?」
「ルイ氏はいつでも人から敬意をこめて名前を呼ばれています。この辺に住んでいる人にちがいありません。車で来たことは一度もありませんから……」
電話が鳴った。メグレは受話器をとった。
「メグレ警視? お問い合わせの件がわかったようです」と番号案内嬢が言った。「エトワール四二三九番は持主が外国に出かけてしまったため、六カ月前から使われておりません。エトワール四二三八番の持主はフェルナン・バリヤールという人で、お住いは……」
その後のことは警視にはわかっていた。マニュエルとおなじ階に住んでいる、デラックスな包装品のセールスマン!
「ありがとう、お嬢さん」
「その前の番号はよろしいのですか?」
「念のために……」
名前も住所もメグレには心当りのないものだった。彼はゆっくりと立ち上った。暑さと一日の疲れとでからだがだるかった。
「私が言ったことをよく考えるんだ、ペルネル。いま、あんたはうまく行っているレストランを買い取って、経営者になった。だから面倒を起こしたくないだろう? 私はすぐまたあんたに会いに来ることになるだろう。一つ忠告しておく……電話ででも何でも、いままでのわれわれの話をしゃべりすぎるな。ところで、デラックスな包装品と聞いても、あんたは何ともないか?」
『クルー・ドレ』の新しい経営者はびっくりしてメグレを見つめたが、その顔にはいつわりの影はなかった。
「私には何のことかわかりません」
「あるボール紙のメーカーがチョコレートの箱や、マロン・グラッセの紙袋|など《ヽヽ》を特別につくっている。この『など』のなかに、宝石店が宝石箱に使う箱もあるんだ」
メグレは薄暗くて、きたない階段を降り、レストランを通り抜けた。レストランにはいまでは片隅に一組の夫婦と、テーブルをかこんでほろ酔いの四人の客がいた。
彼は通りを上って、バー兼たばこ屋まで行った。ラポワントがアペリチフを前にしておとなしく坐っており、隅ではルイ氏が夕刊を読んでいた。二人ともメグレを見なかった。
数分後、警視はタクシーに乗った。
「アカシア通り。ラルク・ド・トリオンフ通りとの角だ」
空は燃えるように赤く、通行人の顔を赤く染めていた。そよとの風もなかった。メグレはワイシャツがからだにべたつくのを感じた。タクシーのなかで、彼はうとうとしたようだった。実際にそうたったのだろう、運転手に「着きましたよ、警視さん」と言われたとき、彼はびっくりして飛び上ったのだから。
メグレは顔を上げて明るい煉瓦造りの建物を見上げた。窓のまわりは白い石でかこまれている。一九一〇年頃に建てられたものにちがいない。エレベーターは五階で彼をおろした。習慣で、もう少しで左側のドアのベルを鳴らすところだった。
右側のドアの前で、メグレはしばらく待たされた。やっとドアを開けたのは、今日の午後彼が質問したあのブロンド女だった。彼女は手にナプキンを持ち、口には食物を頬張っていた。
「またあなたですの!」と、彼女は言ったが、不機嫌な様子はなく、むしろおどろいていた。「わたしと主人はいま食事ちゅうなのですけど」
「ご主人とちょっと話したいのです」
「お入りになって」
客間は真向いのマニュエルの客間に似ていたが、あれほど贅沢でもなければ、じゅうたんもずっと平凡だった。客間のつぎは、マニュエルのところのような小部屋ではなく、田舎風の家具のある月並みな食堂。
「フェルナン、メグレ警視さんよ」
褐色の口ひげがくっきりと浮き上って見える四十歳の男が立ち上った。彼も手にナプキンを持っている。上衣を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、ワイシャツの襟をはだけている。
「とても光栄です」と、彼は妻と訪問者を代わるがわる見ながらつぶやいた。
「警視さんはもう今日の午後お見えになったの。まだそのことあなたに話してなかったけど。殺された住人のことでこの建物を一軒ずつおまわりになったのよ」
「食事をつづけてください」と、メグレが言った。「私には十分に時間がありますから」
テーブルの上には牛の焼肉と、トマトつきのヌードルがあった。夫婦はふたたび席に坐ったが、気詰りみたいなものがないこともなかった。メグレはテーブルの端に坐った。
「ぶどう酒をお飲みになります?」
冷蔵庫からまだ出したばかりの白ぶどう酒の壜は曇っている。
メグレはことわらなかった。ドライで、果実の味のするサンセールのぶどう酒だった。食料品店で買ったものではないにちがいない。バリヤール夫婦が、何を考えているのかわからないメグレの目の前でふたたび食事をはじめたとき、気まずい沈黙があった。
「わたしがさきほどメグレさんにお話したことは、わたしたちがマニュエル・パルマリを知らないということよ。わたしはあの人に一度もお会いしたことがないし、今朝まで名前だって知らなかったほどですから。あの女のひとについては……」
彼女の夫はスラッとしていて、筋肉の逞しいハンサムな男だった。女たちに気に入られるにちがいない。口ひげは健啖《けんたん》な唇と、かすかにほほえんでも見える美しい歯並びを強調していた。
「あなた、あの人たちを知ってるの?」
「いや。しかし、警視さんの話を聞こうじゃないか。どうぞ、メグレさん」
彼には皮肉っぽいところと、つっかかってくるようなところがあった。彼は自分に自信を持つ、喧嘩好きの美しいオスだった。自分の魅力と、自分の力を疑ったこともない。
「それではまず、あなたの食事を終らせてください。あなたは今日、大切なお得意廻りをしましたか?」
「リラ地区を」
「車で?」
「もちろん車で。私はプジョー四〇四を持ってます。あの車にとても満足しておりますし、あれは地味に見えるんです。私のような商売では、その点が重要なのでして」
「あなたは商品見本の入ったスーツケースを持ち歩いていると思いますが?」
「もちろん、同僚とおなじように」
「果物を食べ終ったら、そのスーツケースを見せてもらいたいのですが」
「それはまた、かなり思いがけない好奇心ですな、そうじゃありませんか?」
「観点のちがいでしょう」
「この建物の他の階でも、あなたはおなじようなことを望んだのでしょうか?」
「まだです、バリヤールさん、つけ加えておきますが、あなたは私の捜査に同意しなくてもいい権利があるのです。その場合、私はとても思いやりのある予審判事に電話して、捜索令状を至急持ってこさせます。必要なときには拘引状も。われわれのこの会話をオルフェーヴル河岸のオフィスでつづけることをお望みでしょうか?」
メグレはこの夫婦の非常に対照的な態度に気づかないわけにはいかなかった。妻のほうは、がらりと変った会話の調子や、彼女にとって意外な二人の男の硬化した態度におどろいて、目を大きく見開いた。夫の手に手を重ねながら、彼女はたずねた。
「何かあったの、フェルナン?」
「何でもないさ、おまえ。心配することはないよ。あとで警視さんは私にあやまるだろう。警察は手におえない事件にぶつかると、いらだつんだ」
「奥さん、いまから一時間ちょっと前に、電話がかかってきませんでしたか?」
彼女はどう答えたらいいのかと訊くかのように夫のほうを向いた。しかし夫は彼女を見ずに、警視の狙いが何かを見抜こうとメグレをさぐっているようだった。
「その電話を受けたのはわたしです」
「友達から?」
「お客さんから」
「チョコレート屋からですか? それとも製菓会社か、香水メーカーですか? いずれもあなたのお得意さんですね?」
「あなたはよくご存知だ」
「宝石商に関することでなければ。バリヤールさん、電話をかけてきた人の名前を言っていただけますか?」
「正直のところ、おぼえてませんな。私にはどうでもいい用件でしたから」
「なるほど! わざわざ家のほうにまで電話をかけてきた客なのに。それでは、その客の用件は?」
「価格表のことで」
「あなたはずっと前からルイ氏を知ってますか?」
急所を突いた。ハンサムなフェルナンは眉をひそめた。彼の妻も、フェルナンが急に落着かなくなったことに気づいた。
「ルイ氏なんて知りませんよ。この話をこのままつづけたいのでしたら、私の書斎に行ってやりましょう。私は主義として、商売のことには女たちをまきこまないことにしているのでしてね」
「女たち?」
「女房と言ったほうがいいのかな。向こうに行くよ、おまえ」
彼はメグレを隣りの部屋に案内した。マニュエルの小部屋とほとんどおなじ大きさで、とても心地よい家具が備えつけられている。窓が中庭に面しているので、他の部屋よりも薄暗い。バリヤールは明りをつけた。
「よろしかったらお坐りください。話をうかがいましょう、そうせざるをえないようですから」
「あなたはいましがた面白いことを口にしましたね」
「私は何もあなたを面白がらせるつもりはありませんよ。私と女房は今夜映画に行く予定でした。あなたのおかげで、映画の初めのほうを見そこなってしまうかもしれません。それで、私が言った面白いことって何です?」
「あなたは主義として、商売のことに女たちをまきこまないと」
「私の場合、女は一人ではない」
「そのことはあとでまた話し合いましょう。とにかく、バリヤール夫人にかんしては、私はよろこんであなたを信じましょう。結婚してもう長いんですか?」
「八年」
「いまとおなじ仕事をすでにしていましたか?」
「ほぼおなじです」
「ちがいは?」
「フォントネイ=スー=ボワのボール紙工場で働いていました」
「この建物に住んでいました?」
「フォントネイの一戸建ての家に住んでました」
「商品見本のスーツケースを見せてください」
スーツケースはドアの左側の床の上においてあった。バリヤールはいやいやそれをデスクの上に持ち上げた。
「鍵は?」
「かかってませんよ」
メグレはスーツケースを開けた。予期したとおり、ほとんどすべて品よく装飾されたデラックスな箱の間に、宝石商が時計や、ケースなしで売る宝石を入れるボール箱があった。
「今日、何軒ぐらい宝石店を訪ねました?」
「わかりません。三軒か四軒。時計店と宝石店は私のお得意の一部でしかありませんのでね」
「あなたは訪れた店を、ノートしておかないのですか?」
バリヤールはひるんだ。これで二度目だ。
「私は会計係や統計家のような人間ではありませんよ。ただ注文を控えるだけです」
「もちろん、会社に出したそれらの注文のコピーは持っているでしょうね?」
「他の人たちはそうするでしょうが、私は上司を信用してますし、それに書類などはできるだけ少いほうが面倒がなくていいですからね」
「それでは、あなたの得意先のリストを私に提出することは不可能ですね?」
「まさしく不可能ですな」
「あなたが働いている会社は?」
「ゴブラン通りの『ジェロ・エ・フィス』」
「そこの帳簿はあなたよりちゃんとしているにちがいない。明日の朝行ってみましょう」
「結局、あなたはいったいどうしたいのですか?」
「その前に質問が。あなたは商売に女たちをまきこんだことがないとあくまでも主張するのですね?」
バリヤールはたばこに火をつけ、肩をすくめた。
「たとえその女がアリーヌという名で、あなたとおなじ階に住んでいても?」
「彼女がアリーヌという名だなんて、私は知りませんでしたよ」
「しかし、あなたは私がだれのことを話しているのかすぐにわかった」
「この真向い、つまりこの階には、アパルトマンは一つしかありませんからね。私の知ってるところでは、そのアパルトマンには女は一人しかいません。ときどき階段ですれちがったり、エレベーターのなかで一緒になったり、帽子をとって会釈したりしますが、彼女に話しかけたことは記憶にありませんね。おそらく、ときおりエレベーターのドアを閉まらないように押えてやって、『どうぞ、お乗りください』ぐらいのことをつぶやいたかもしれませんが」
「奥さんはご存知ですか?」
「何をです?」
「すべてを。あなたの商売のこと。あなたのいろいろな活動のこと。あなたとルイ氏の関係のこと」
「ルイ氏のことは知らないと、すでに言いましたよ」
「しかし、一時間前に、彼は私がフォンテーヌ通りを調べていることを電話であなたに知らせた。『クルー・ドレ』の主人やバーテンとの私の会話を部分的にあなたに報告している」
「私に何を言わせたいのです?」
「何も。ごらんのように、しゃべっているのは私です。正々堂々と勝負し、敵の前に手持ちのカードを見せたほうがいい場合があるのです。私はゴブラン通りのあなたの上司に会い、会計係に質問するまで待つことができたでしょう。あなたを窮地から救うため、明日までに帳簿をごまかすことは、彼らにはできません。それに、あなたは私が見つけようとしているものをよく知っています。
名前、住所、数字。一ダース百五十フランのポンパドゥールのたくさんの箱。たくさんの……。一ダースいくら、あるいは百個いくらのたくさんの宝石箱」
「それで?」
「いいですか、バリヤールさん、私のほうには、ずっと前からパリや郊外で、ピストル強盗や、もっと最近ではタイヤ取りはずし器によるショーウィンドウこわしで、莫大な被害をうけた宝石店のリストがあるんですよ。わかってきていただけましたか? 『ジェロ・エ・フィス』社が私に提供するあなたの得意先リストと、私自身のリストの名前がほぼ一致すると、私はほとんど確信しているのです」
「それが何だと言うのです? 私は得意先まわりで、モロッコ革の宝石箱しか使わない大きな店を除いて、大部分の宝石店を訪れているのですから、あたり前でしょう……」
「マニュエル・パルマリ事件を担当する予審判事もそのような意見だとは私には思えませんね」
「それは、この階の私の隣人が宝石の仕事をしていたからですか?」
「彼なりのやり方で。からだが不自由になった三年前から、ある女を仲立《なかだち》として」
「そのために、さきほどあなたは私に訊いたのですね、あの女が……」
「そのとおり。あなたはしばらく前からアリーヌ・ボーシュの愛人だったんですね」
直観的なものだった。男は思わずドアのほうにちらっと目をやると、妻が聞いていなかったかどうかをたしかめるため、忍び足でドアをそっと開けに行った。
「食堂でそんな話をしたら、私はあなたの顔をなぐりつけていたかもしれませんよ。夫婦の間に疑心をふりまく権利なんか、あなたにだってだれにだってない」
「あなたはまだ私に答えていません」
「ちがいます」
「あなたはあいかわらずルイ氏を知りませんか?」
「私はルイ氏なんか知りませんよ」
「お借りできますか?」
メグレは電話器のほうに手を伸し、真向いのアパルトマンの電話をまわした。リュカの声が聞こえた。
「きみのお客さんはどうしてる?」
「しばらく眠り、それからハムひと切れと卵を食べる気になりました。彼女はいらいらしながら部屋のなかを歩きまわってますが、私の前を通るたびに悩殺するような目で私を見ます」
「彼女は電話しようとしなかった?」
「ええ。私が油断なく気を配っています」
「だれも来なかったかね?」
「だれも」
「ありがとう。私は数分後にそちらに行く。それまでにオルフェーヴル河岸に電話して、もう一人刑事をよこすように言ってくれないか? そう、ここにだ。ボンフィスが階下《した》にいることは知っているよ。
その刑事にこう命令してほしいんだ。まず、車で来ること。つぎに、車をこの建物の玄関の前に停め、玄関から目を離さないこと。
フェルナン・バリヤールという男が一人でなり、奥さんを連れて出てきたら、尾行させる。彼はきみがいまいるアパルトマンの前に住んでいるセールスマンだ。
うん、わかった。彼の電話に盗聴器をつけてくれ。バリヤールの特徴……四十歳ぐらい、身長一メートル七十五、髪は褐色でふさふさしている。褐色の細い口ひげ、粋なところがあり、女に気に入られるタイプ。
彼の妻は……彼が一緒に連れて行くとしての話だが……十歳以上も若く、ブロンドで、肉感的で、どちらかというとぽってりしている。私は刑事が階下《した》に来るまでここにいる。すぐにたのむ、リュカ」
メグレがしゃべっている間、セールスマンは憎々しげに見つめていた。
「あなたはあいかわらず私に言うことがないんですね?」と、メグレは気持よさそうにたずねた。
「何一つありませんね」
「私の刑事がここに着くまで十分ほどかかります。それまで私はあなたと一緒にいるつもりです」
「お好きなように」
バリヤールは革の肱掛け椅子に坐り、テーブルの上の雑誌をつかみ、夢中になって読んでいるふりをした。メグレのほうは立ち上ると、書斎のなかを丹念に調べはじめた。書物の題名を読んだり、文鎮を持ち上げたり、デスクの引出しを軽く開けたりした。
セールスマンにとっては長い十分間だった。雑誌越しに、彼はときどき、このずんぐりした穏やかな男をちらっと見やった。この男が書斎をその肉の塊でふさぎ、その重さでバリヤールを押しつぶすような気がした。顔からはいかなる考えをも読みとれない。
ときどき、警視はポケットから時計を取り出した。メグレは腕時計になじむことができなかったので、父親から相続した両ぶたの金の懐中時計を大切に持ち歩いていた。
「まだ四分あります、バリヤールさん」
バリヤールは平静をよそおおうとしたが、手のほうが彼のいらだちをあらわしはじめていた。
「三分」
バリヤールは我慢することがますます苦しそうだった。
「はい、十分たちました! おやすみなさい。こんど会うときもこのような心のこもったものであることを私は望みますよ」
メグレは書斎から出た。若い妻は目をまっ赤にして、食堂にいた。
「主人が何かわるいことをしたのでしょうか、警視さん?」
「ご主人にお訊きになったらいいでしょう、奥さん。そのほうが、あなたのためです」
「見かけによらず、主人はとてもやさしくて、とても情が深いのです。ときどきむかっ腹を立てますが、いつでもすぐに腹を立てたことをくやむのです」
「おやすみ、奥さん」
彼女は不安そうな目をしてドアまでメグレを送ってきた。そして、メグレがエレベーターのほうにではなく、真向いのドアのほうに行くのを見た。
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第五章
メグレにドアを開けたのは、神経を張りつめたアリーヌだった。鋭い、すわったような目つきは、目のふちの青黒い深い隈によっていっそう強調されている。逆に、メグレのほうはこれまでよりずっと温和だった。踊り場を横切る間に、彼の表情はお人好しのようになっていた。彼の部下たちはこの表情のことはよく知っていたので、決してごまかされることはなかった。
「私はこの建物を出て行く前に、あなたにぐっすりお休みなさいと言っておきたかったのでね」
肱掛け椅子に坐っていたリュカは、夢中になって読んでいた雑誌を床におくと、のろのろと立ち上った。アパルトマンのなかに閉じこもって数時間を過ごし、これからも朝まで一緒にいる二人の人間のあいだに、いかなる心のこもった結びつきもなかったことを見抜くのは、さしてむずかしいことではなかった。
「アリーヌ、寝たほうがいいんじゃないのか? 今日は、あなたにはいろいろなことがあった。明日もまた、今日以上ではないとしても、つらい一日にならないといいが。あなたの薬品箱のなかに、眠り薬か、鎮静剤のようなものはないのかい?」
彼女はきびしくメグレを見つめ、彼の心のなかをさぐろうとしたが、全然つかみようがないので腹を立てた。
「私は今朝からいろいろなことを知ったが、この発見についてあなたに話す前に、二、三たしかめなければならないこともある。とにかく、今晩私は、あなたとおなじ階の、とても興味ある隣人と知り合いになった。私は最初この男のことを勘違いしていた。たんなるチョコレートやお菓子の箱のセールスマンと思ってしまった。しかし、彼の活動範囲はもっとずっと広く、とくに宝石の世界まで入っていたことがわかった」
メグレはゆっくりと構え、物思いにふけりながらパイプにたばこを詰めた。
「そういったことのために、私はまだ食事をしていない。ルイ氏が辛抱強く『クルー・ドレ』で私を待っていてくれて、一緒に食事ができるといいんだが」
ふたたび沈黙。メグレはパイプに、人さし指で手なれたしぐさでたばこを押し込むと、はみだしたたばこを取り除き、最後にやっとマッチをすった。一方、アリーヌはあまりにも綿密すぎるその動作を見つめつづけていたが、ますますいらだっていった。
「ハンサムな男でね、そのフェルナン・バリヤールは。彼がたった一人の女で満足しているなんて、私にはおどろきだ。とくに、奥さんが彼にとっては弱々しすぎる女《ひと》なのに。そうは思わないか、あなたは?」
「そんな人、知らないわ」
「もちろん、この建物の所有者がすべての住人たちと親しく知り合うことはできない。ことに、この建物があなたが所有している唯一のものかどうかもわからないのに。明日、公証人のデスグリエールによってそのことがわかる。彼と会う約束になっているのでね。アリーヌ、この事件があまりに複雑なので、私はときおりどうしていいのかわからなくなるような気がする。
念のため、階下《した》に刑事を一人、見張らせてある、バリヤールが外出する気になった場合にそなえて。電話のほうも、あなたの電話とおなじように、今後盗聴器が取りつけられる。私はこうやってあなたに親切に教えてやった。あなたのほうには何も私に言うことがないのかね?」
唇を噛みしめると、彼女はすげない、ロボットのような足取りで寝室へ向かい、後手にドアをぴしゃりと閉めた。
「警視《パトロン》、あなたがいま言ったことはすべて、本当ですか?」
「ほとんどは。おやすみ。眠り込まないようにしろよ。必要なだけ濃いコーヒーを用意しておくといい。何かあったら、リシャール・ルノワール大通りに電話くれ。何時に帰れるかわからないが、わが家で眠ることに決めた」
エレベーターに乗らずに、彼はゆっくりと階段を降りた。そして、ドアの前を通るたびに、なかの人たちの生活を想像した。ある人たちはテレビを見ているらしく、いくつかのアパルトマンでおなじ声と、おなじ音楽が聞こえた。
メイベル・タプラーのところでは、一、二組のカップルが踊っているらしく、床を踏む音がした。
ラグリューム刑事は司法警察局の車のハンドルの前でうとうとしていた。メグレは彼の手をうっかりにぎってしまった。
「警視《パトロン》、車がないのですか?」
「グランド・アルメ並木通りでタクシーを拾うよ。指示を知ってるな?」
「フェルナン・バリヤールというやつを追うのですね」
メグレは、今朝陽光におののくアパルトマンのなかで目をさましたときや、バスのデッキで、子供の絵本のような色つきのパリの風景を頭に詰めこんでいるときよりも、さわやかではなかった。
人々はメグレの捜査方法について質問する癖がある。メグレの捜査方法を分析できると主張する者たちさえいる。彼はそういう連中をからかうような好奇心を抱いてながめる。というのは、たいていは勘にまかせて即興的に行動しているメグレよりも、彼らはメグレの捜査方法にくわしいからだ。
警視総監は、今日警視が勘にたよってやったことをきっとよろこばないにちがいない。小柄な予審判事だって、メグレのことを感嘆しているけれど、たぶん眉をひそめるだろう。
たとえば、フェルナン・バリヤールに質問する前に、メグレは彼にかんする情報をできるだけ集め、書類を作成し、『ジェロ・エ・フィス』にあるにちがいない日付と、場合によってはデスグリエール公証人によって提供されるかもしれない細かいデータを手に入れておかなければならないだろう。
しかし、メグレはそれよりセールスマンの不安をかきたて、故意に警戒させ、それどころか見張りをつけていることさえ隠さないやり方を選んだのだ。
一瞬、アリーヌには何も言うまいかとも考えた。明日いきなりおなじ階の隣人に彼女を会わせ、その反応をさぐってみるためだ。
だが、結局メグレはすべてをぶちまけてしまった。アリーヌはいまでは、メグレがボール箱のセールスマンと自分を結びつけていることを知っている。
彼らは二人とも見張られている。二人はたがいに会うこともできないし、電話で連絡を取ることもできない。また、尾行されずに建物から出ることだって不可能だ。
こうした状況で、彼らは穏やかに眠ることができるだろうか? メグレはルイ氏にもおなじようにやった。彼の行動が今後警察によってチェックされているということをわざとわからせてやったのである。
これら異なった三人の人物のつながりを証明することはまだできない。彼らの間の唯一の共通点は不安である。彼ら一人ひとりに、メグレができるだけ感じさせようとしている、胸をしめつけるような不安だ。
「フォンテーヌ通りの『クルー・ドレ』に」
ここでもメグレはほとんど手札をさらしておいた。彼はどうせどこかで夕食をしなければならなかったので、マニュエルが長いあいだ所有していたこのレストランを選んだ。いまではこのレストランは、アリーヌの名義になり、ついでペルネルのものになってしまったが。
店に入りながら、メグレはとてもにぎやかな雰囲気にびっくりした。ほとんどすべてのテーブルは塞がり、がやがやいう話し声が聞こえる。ときどき女の笑い声がその話し声にまじる。葉巻やシガレットの煙が天井から一メートルのところに厚い雲をつくっていた。
ランプのばら色の明りのなかで、メグレはルイ氏が美しい娘と一緒にテーブルに坐っているのに気がついた。ラポワントのほうはレモン・ジュースを前にしてカウンターで待ちくたびれていた。
職業的な微笑をうかべたペルネルが客の間をまわって歩き、握手し、面白い話をしたり、注文を取ったりするため身をかがめた。取った注文はすぐにボーイにつたえる。
カウンターのストゥールにちょこんと坐っている二人の女が、若いラポワントにさかんに媚びを売っていた。ラポワントはばつが悪そうに、他に目をやろうと努めていた。
メグレがやってくると、二人の女の一方がもう一人のほうに身をかがめた。たぶんこう囁《ささや》いたのだろう。
「サツよ!」
そのため警視がラポワントと一緒になると、彼女たちはもうラポワントに関心がなくなった。
「食事したのか?」
「そこのカフェでサンドイッチを食べました。一時間以上もいましたからね。それからやつはここにもどってきて、あの若い女を待ち、一緒にテーブルについたのです」
「疲れすぎていないか?」
「大丈夫です」
「それじゃ、このまま彼の尾行をつづけてほしい。彼が家にもどったらオルフェーヴル河岸に電話し、交代してくれ。あの娘の家に行っても……その可能性がある……ホテルに行ってもおなじだ。きみは私と一緒に軽い食事をしたほうがいいだろう」
「ビールですか、メグレさん?」
「もう少しあとだ、ジュスタン。今日はビールを飲みすぎたから」
メグレはペルネルに合図した。ペルネルはメグレたちを、絹の笠のついた金色のランプに照らされた小さなテーブルに案内した。
「今夜のおすすめ品はパエリヤ(スペイン料理で肉・魚・甲殻類の炊き込みご飯)です。まずニース風のチーズ入り菓子と、もしブイイ・フュメがお好きでなければ、辛口のタヴェルのぶどう酒でおはじめになったらいかがでしょう」
「パエリヤとタヴェルをもらおう」
「二人前で?」
メグレはうなずいた。食事の間、メグレは食物と、望み通りの果実の味のするぶどう酒のことしか関心がないようだった。ルイ氏のほうは、連れの女にしか目をやらないふりをしていた。女は二、三度警察官のほうを振り返り、何やら質問しているみたいだった。
「彼を見れば見るほど、間違いなく見覚えがある」と、警視はため息をついた。
「かなり前だ、十年か、それ以上かもしれない。彼が若くて、痩せていたとき、私とかかわりがあったような気がする。あんなに肥ってしまっては、ごまかされてしまう」
勘定のときに、ペルネルはまったく職案的な態度で身をかがめると、メグレの耳にこうささやいた。
「あなたの出て行ったあとで、あることを思い出しました。しばらく前でしたが、マニュエル・パルマリがエトワール通りのホテルの所有者だという噂が流れました。そのときは連れ込みホテルでした、ビュシエールとか、ベシエールとかいうホテルです」
メグレは何気ないふりをして勘定をはらった。
「ラポワント、私はそのホテルヘ行ってみる」と、メグレはそのすぐあとで言った。「長居をするつもりはないが。うまくやってくれ」
ルイ氏はドアのところまでメグレを目で追った。タクシーが来た。十分後に、メグレは『ビュシエール・ホテル』の前でタクシーから降りた。ホテルは警察署から百メートル以内のところにあったが、二、三人の女がみえみえの態度で歩道に立っていた。
「どう、来ない?」
メグレは頭を振った。廊下のわきにある小部屋ののぞき窓のうしろに夜勤の男がいた。小部屋のなかにはライティング・デスクと、キー・ボードと、折りたたみ式のベッドが見える。
「お泊りですか? おひとり? 荷物はないんですか? とにかく、前払いでおねがいします。三十フラン、それにサービス料が二割」
男は警視の前に宿帳を押し出した。
「名前と住所と、パスポートか身分証明書の番号を」
メグレが女と一緒にやって来たのだったら、こうした手続きをさせられなくてすんだだろう。彼は二週間前に罠にかかり、あやうく定年前に退職させられそうになったので、もう二度と危い橋をわたらないことにしたのだ。
メグレは名前と、住所と、身分証明書の番号を書いたが、職業は記入しなかった。メグレは鍵をわたされた。無精ひげの夜勤の男はベルを押した。二階でベルが鳴った。
二階でメグレを迎えたのはメイドではなく、ワイシャツに、白い前掛をかけた男だった。彼はメグレから鍵を受け取り、むっつりしたようすで番号をながめた。
「五十二号? 私についてきてください」
このホテルにはエレベーターがなかった。ボーイが不機嫌なのはそのせいだった。二、三流のホテルの夜勤の従業員には、あまりぱっとしないタイプの人間が多い。ほんものの乞食だって簡単に雇い入れてしまうのだろう。
ここのボーイはびっこで、鼻が曲っている。黄色っぽい顔色をしているところをみると、かなり肝臓がわるいのだろう。
「ああ、階段! 階段ばかりだ!」と、ボーイはぶつぶつ独り言を言った。「こん畜生!」
五階で、彼は狭い廊下を進み、五十二号室の前で立ち止った。
「ここです。あとでタオルを持ってきます」
というのは、部屋にはタオルがおいてなかったからだ。これは二割のサービス料の他に、チップをまき上げようとする古くさい手だ。
ボーイは何も欠けているものはないかをたしかめるようなふりをしていたが、メグレがこれ見よがしに二本の指の間にはさんだ五十フラン札に目が行った。
「それ、私がいただけるんですか?」
ボーイは用心深くなったが、目は輝いていた。
「お客さんのお望みはきれいな女《こ》ですか? 階下《した》にいい女がいなかったですか?」
「ちょっとドアを閉めてくれ」
「いったい、どういうつもりなんです? 妙ですね、あなたの顔に見おぼえがあるような気がします」
「私に似た人間がいるんじゃないかな? きみの仕事はいつも夜ばかりなのかね?」
「ちがいます。一週間おきです、診療所に治療に行かなければならないもんですから」
「それじゃ昼間働くときもあるんだな。では、よく来る客は知っているね?」
「何人かは知ってます。しかし、あとの客はフリの客ばかりですから」
彼の赤い隈《くま》のできた小さな目が五十フラン札から警視の顔へと行った。額に刻まれた皺《しわ》が、彼が懸命に考えようとしていることを示している。
「きみがこの女を知っているかどうか知りたい」と、メグレはポケットからアリーヌ・ボーシュの写真を取り出した。この写真は数カ月前に彼女の知らない間に撮ったものだ。
「この女が男と一緒にここに来ただろうか?」
ボーイは写真にちらっと目をやっただけで、額はいっそう曇った。
「あなたは私をばかにしているんですか?」
「なぜ?」
「その写真の人はここの所有者ですよ。少くとも、私の知っているかぎりは」
「よく彼女を見かけるかい?」
「とにかく、夜は一度も。昼間の勤務のとき、ときどき姿を見かけたことがあります」
「このホテルに一部屋持っているのかな?」
「二階に、部屋と客間を」
「しかし、定期的にそこに来ているのかね?」
「私はくり返しますが、何も知りません。彼女を見かけるときもあれば、見かけないときもあります。そんなことは私にはどうでもいいんです。彼女を見張るために金をもらっているのではないですから」
「彼女が住んでいるところを知らないか?」
「どうして私が知っているわけがあるんです?」
「それじゃ名前は?」
「おかみさんがマダム・ボーシュと呼んでいるのを聞いたことがあります」
「ホテルに来ると、彼女は長い間いるのかね?」
「それは何とも言えませんね。螺旋階段で、一階のおかみさんの事務室と、二階の彼女の部屋はつながってますから」
「正面の階段からでも彼女の部屋に行くことができるのだね?」
「もちろんです」
「この金を取りたまえ。きみのものだ」
「あなたは警察の人ですか?」
「まあね」
「あの、もしかしたらあなたはメグレ警視さんじゃありませんか? 私はあなたの顔を知っているような気がするんです。ここの経営者とごたごたを起こさないようにしてください。私もまきこまれるかもしれませんから」
「きみに迷惑をかけないよ。約束してもいい」
二枚目の五十フラン札が魔術のように警視の指の間にあらわれた。
「私の質問に、素直に正確に答えたら」
「まずその質問を言ってみてください」
「きみの言うところのそのマダム・ボーシュがこのホテルにいるとき、おかみさん以外の人間と会っているのか?」
「あなたの言っているのが従業員のことでしたら、彼女は従業員なんか相手にしません」
「私が言いたいのは従業員じゃない。彼女は自分の部屋に外部の人間を迎え入れることができるだろう。その人間はかならずしも螺旋階段を上らずに、正面階段を使うかもしれない……」
その五十フラン札は最初のとおなじように気を惹くものだった。メグレはボーイのためらいをたちきるため、ズバリこう質問した。
「その人間はどんな人だね?」
「ときどきちらっと見かけただけです。ほとんどいつも午後でした。その男はあなたより若くて、痩せていました」
「褐色の髪? 黒くて、細い口ひげ? ハンサムな男?」
ボーイはうなずいた。
「彼はスーツケースを持っていたかね?」
「ええ、たいていは。その人はいつも二階のおなじ部屋を借ります。七号室は彼女の部屋にいちばん近いところにあります。しかし、一度も泊ったことはありませんね」
五十フラン札が相手の手に移った。ボーイはそれをすばやくポケットにすべり込ませた。だが、すぐには部屋から出ていかず、もう一度五十フランに価する三番目の質問がないかどうかを待っているようだった。
「ありがとう。きみをかかわり合いにしないからね。私は数分後に出て行く」
ベルが鳴ったので、ボーイはあわてて部屋から出て行きながらさけんだ。
「ただいま!」
「あなた、暑すぎない?」と、メグレ夫人は心配そうにたずねた。「昼食も、夕食も食べる時間があったのでしょうね、まさかサンドイッチですませたわけではないでしょ?」
「『クルー・ドレ』でうまいパエリヤを食べたよ。昼食のほうは忘れてしまった。ああ、そうだ、オーヴェルニュ風の居酒屋《ビストロ》で面白い小柄の予審判事と一緒だった」
メグレはなかなか寝つかれなかった。というのは、今日一日彼の前に立ちあらわれた人物たちが、つぎつぎとふたたびやってきては彼につきまとったからだ。そしてその前景には、車椅子の足許に転がったマニュエルの奇妙にねじくれたグロテスクな肉塊があった。
アンスラン判事にとっては、マニュエルはたんなる被害者……これから予審を開始し、数週間のあいだ忙殺される被害者にすぎなかった。メグレのほうはマニュエルを、彼の人生のいろいろな時期で知っていた。彼らはそれぞれ柵の両側に分かれていたけれど、何ともいいがたい微妙なきずなが二人の間にできていたのだ。
警視は、『クルー・ドレ』の前の所有者を尊敬していたと言うことができるだろうか? 尊敬という言葉は大げさすぎる。しかし、公平なところ、敬意みたいなものを抱いていたことはたしかだ。
また、メグレは最初からアリーヌに好奇心を抱いていた。彼女にメグレは魅惑されていたと言えそうなほどだ。メグレは彼女を理解しようと努め、ときどき理解できたと思ったが、すぐにその判断を撤回せざるをえなかった。
やっとメグレはふわふわとした夢うつつの状態になった。人物たちのシルエットはぼやけ、彼の思考はますますぼんやりし、曖昧になった。
本質的には、人間には恐怖がある。メグレはそのことでよくパルドン医師と夜遅くまで議論したものだ。パルドンとてもいろんな人間を見てきていたので、メグレの結論とそれほど遠くにいるわけではない。
すべての人間は恐れている。人々はおとぎ話を読んで聞かせて幼児の恐怖を取り除こうとする。学校に行くようになるとすぐ、子供は、悪い点数のついた通信簿を両親に見せるのをこわがる。
水への恐怖。火への恐怖。動物への恐怖。暗闇への恐怖。
十五歳か十六歳では、運命を選びそこなう恐怖、人生を失敗する恐怖。
心の隅では、これらの恐怖はすべて響きの鈍い、悲壮なシンフォニーの調べのようになる……最後までわれわれがうしろに引きずって行く潜在的な恐怖、われわれに叫び声をあげさせる恐怖、後になってわれわれを笑わせるような恐怖、事故への、病気への、警官への恐怖、人間たちへの恐怖、彼らがしゃべること、彼らが考えることへの恐怖、通りがかりに彼らがわれわれにあたえる視線への恐怖。
さっき、警視の指の間の魅力的な五十フラン札をじっと見つめながら、『ビュシエール・ホテル』の病身のボーイの心はクビになる恐怖と、誘惑とに分かれていた。ついで、新しい五十フラン札があらわれると、ふたたびおなじ心の動きがあった。
彼はいまでも、メグレがしゃべるのではないか、重大な事件にかかわりあったのではないか、何やら混み入った話のなかに引きずりこまれてしまったのではないかと恐れていないか?
ごく最近『クルー・ドレ』の所有者になったペルネルが、エトワール通りの住所を警視の耳にささやいたのもこの恐怖によってなのか? 今後警察に悩まされる恐れ、何やら曖昧な法律の名のもとにレストランを閉鎖されてしまう恐れ。
ルイ氏もおなじように恐れていないか? いままで彼は目立たぬところにいたし、一見マニュエルともアリーヌともつながりがなかった。ところで、こんどは彼が司法警察局に尾行されている。あの年齢《とし》までモンマルトルに暮していれば、それが何を意味しているか知らないわけはあるまい。いまこの瞬間、もっとも恐れているのはだれか? アリーヌかフェルナン・バリヤールか?
今朝はまだ、五階の二つのアパルトマンの間のつながりをだれも疑ってはいなかった。バリヤール夫人はどんな疑問も抱かず、人生を陽気にたのしみ、中産階級の主婦として世帯をできるだけうまく切りまわすことに専念していた。
アリーヌはあきらめて寝に行っただろうか? リュカは彼女のアパルトマンのなかに静かに、だが決然たる様子で腰を据えている。何かあっても彼はそこから動かない。彼女は外出することも、電話することもできない。外界から遮断されて、いきなり独りぽっちにされた自分に気がつく。
アリーヌはオルフェーヴル河岸に連行されることを望んでいないだろうか? そこでなら抗議することもできるし、好きな弁護士を要求することだってできる。
形の上では、警察が彼女の家にいるのは、彼女を保護するためにすぎない。二つのドアと踊り場が、『ビュシエール・ホテル』の秘密の部屋に幾度か迎え入れた男を、アリーヌから隔てている。
マニュエルはそのことを承知していたのだろうか? 彼だって数カ月の間、建物の前を警察に見張られ、電話は盗聴されていた。その上、彼はからだが不自由だった。
それでも活動をつづけ、アリーヌを間に介して、手下の者たちを使いつづけた。
メグレが完全に眠り込んでしまう前に考えたことは、つぎのようなことだった。
アリーヌ……マニュエル……アリーヌは彼のことをパパと呼んでいた……すべての人にたいして皮肉で、挑戦的な態度を見せるアリーヌ、老親分にたいしてはやさしくなり、牝虎のように彼を守るアリーヌ……。
アリーヌ……マニュエル……。
アリーヌ……フェルナン……。
だれかが欠けている。メグレは、この点呼にだれがでてきていないかを思い出すためにはもう意識が朦朧《もうろう》としていた。組織の一人。メグレはその人間のことをすでに誰かに話していた、予審判事にだったろうか? ダイヤモンドなるがゆえに重要な組織の一人。
アリーヌ……マニュエル……フェルナン……マニュエルは死んだから抹消する……アリーヌ……フェルナン。
二人はそれぞれ自分の檻のなかで、メグレがしかけてくるのを待ちながら歩きまわっている。
目がさめると、メグレ夫人が窓を大きく開けて、コーヒー・カップを差し出した。
「よく眠れました?」
「わからない。夢をたくさん見たが、何の夢だったか思い出せない」
昨日とおなじ陽光。空気のなかに、空のなかに、鳥のさえずりのなかに、街の物音と匂いのなかに昨日とおなじ陽気さがある。
昨日とちがっているのはメグレのほうだった。彼は一日の始まりのこのうきうきした歌をたのしむことができなかった。
「あなた、疲れているみたいよ」
「今日は大変な一日なんだ、いろいろしょいこまなければならない責任もあるし」
そのことは、昨夜メグレが帰ってきたとき、彼女には察しがついていた。だが、口にしないように気をつけていたのだ。
「灰色の細いたてじまのスーツを着ていくといいわ。あれ、他のものより軽いから」
彼は話を聞いているのだろうか? 朝食をうわの空で食ベ、ブラック・コーヒーを二杯、ゆっくり味わいもせずに飲みこんだ。シャワーの下で鼻歌をうたいもせず、うつろなようすで服を着、昼食のメニューを訊くことを忘れている。彼のたずねたことといえば、
「ところで、昨日のえびはおいしかったかい?」
「まだサラダ一人前ぐらいは残っているわ」
「タクシーを呼んでくれないか?」
今朝はバスではなかった。バスのデッキに立たないので、網膜に心地よく飛びこんでくる風景も、色つきの映像もなかった。
「オルフェーヴル河岸ヘ!」
まずオフィス。
「フェルナン・バリヤールをたのみます、エトワール四二三八番……もしもし! バリヤール夫人? こちらメグレ警視……ご主人をおねがいします……ええ、待ってます……」
彼の手はデスクの上に山積みされた書類を無意識にたたいていた。
「もしもし! バリヤール? 私です……今朝あなたに家にいてもらうようにおねがいするのを、昨日言い忘れましてね。たぶん一日じゅういてもらうことに……わかってます……わかってます! お気の毒ですがお得意さんはあなたを待っているでしょう……いや、何時にあなたに会いに行くか、いまのところわかりません……」
リュカからの報告は警視への個人的なメモでしかなかった。正式な報告書はもっとあとでしたためられるだろう。
『特記すべき重大なことは何も。彼女は夜中の二時までアパルトマンのなかを歩きまわってました。二、三度私のそばを通りましたが、私は顔をひっかかれるのではないかと思いました。最後にやっと寝室に閉じこもり、三十分後には何の物音もしなくなりました。八時に、ジャルヴィと交代したとき、彼女は眠っているようでした。私に用があるかどうかをうかがうため、十一時頃オルフェーヴル河岸に電話します』
ラポワントの報告もそれ以上に興味をひくわけではなかった。彼は午前三時に電話してきている。
『メグレ警視に伝えるべきこと。ルイ氏と連れの女は十一時半まで、「クルー・ドレ」にいた。連れの女の本名はルイーズ・ペガス、「魚雷のリュリュ」というあだ名があり、この名で、ピガール通りのストリップ小屋「ブール・ヴェルト」でプログラムの最後に出ている。
ルイ氏は彼女を送っていく。私はルイ氏を尾け、彼の近くのテーブルに坐る。楽屋口から入ったリュリュが舞台にあらわれ、舞台が終ると、彼女は仲間たちとバーに坐り、盛んに酒を飲む。
ルイ氏は席を動きもしなければ、電話もしない。小屋から一歩も出ない。
三時ちょっと前に、リュリュはルイ氏の耳に二言三言。彼は帽子を持ってこさせると、歩道で待つ。私もそうする。リュリュはやがて出てくると、二人は歩いてサン・ジョルジュ広場の家具付ホテル「スクワール・ホテル」のほうに行く。
私は夜勤のドアマンに質問する。ルイーズ・ペガスは数カ月前からホテルに住んでいる。よく男と一緒に帰ってくる由。おなじ男だったことはまれ。二度か三度、ルイ氏は彼女の部屋までついてきている。私は閉店まぎわの居酒屋《ビストロ》からこの電話をしている。このまま張込みをつづける』
「ジャンヴィエ! ジャンヴィエはどこだ? まだ来ていないのか?」
「ジャンヴィエはトイレです、警視《パトロン》」
ジャンヴィエが入ってきた。
「サン・ジョルジュ広場の『スクワール・ホテル』にだれかやって、ラポワントと交代させてくれ。ラポワントは疲れ切っているにちがいない。特別に何か新しいことでもないかぎり、寝に行かせ、午後の終りにでも電話させてくれ。その頃になれば彼が必要になるかもしれないから」
朝の会議に大急ぎで行って、やっと間に合った。メグレがいちばん最後だった。彼のほうを共犯者のような目でちらちら見る同僚たちがいた。というのは、メグレは重要な日によくする表情をしていたからだ。依怙地な様子で、パイプをななめにくわえている。非常に強く噛みしめるので、エボナイトの吸口がくだけてしまうこともあるほどだ。
「失礼、局長」
メグレはまわりで言われていることを聞いていなかった。彼の番がめぐってきたとき、彼はただこうぶつぶつ言っただけだった。
「私はマニュエル・パルマリの死を調べつづけています。すべてがうまく行ったら、同時に宝石泥棒たちの組織も明らかにできるかもしれません」
「あいかわらずおなじ考えだな! 何年前からマニュエル・パルマリに容疑をかけていたのかね?」
「もう何年も前からです」
他の報告書がメグレを待っていた。とくにガスティーヌ・ルネットや法医学者の報告書。マニュエルを殺害した三発の銃弾は……そのうちの一発は車椅子の背に入っていた……マニュエルのスミス・アンド・ウェッソンから発射されたものだった。
「ジャンヴィエ! ちょっと来てくれ」
メグレはジャンヴィエにいろいろと指示をあたえ、アカシア通りの見張りの順番を決めさせた。
そのあと、司法警察局と裁判所の間にあるガラス張りのドアを通り抜け、階を二階上り、屋根裏部屋とほとんど変わりないようなアンスラン予審判事のオフィスに行った。
そこは、新来者のために用意してある古くさい部屋の一つだった。予審判事は床にじかに書類を積みあげ、一日じゅう明りをつけておかざるをえなかった。
メグレを見ると、ぽってりと肥った予審判事は両手をこすり合わせた。
「きみはしばらく自由にしていていいよ」と、彼は書記に言った。「さあ、どうぞ坐ってください、警視さん。あなたの捜査がどこまで行ったか、知りたくてしかたがなかったのですよ」
メグレは昨日の捜査状況と、今朝受けた報告をかいつまんで話した。
「あなたは、そのばらばらの要素がすべて、最後にはぴったり一つになると思いますか?」
「この事件にかかわりある人物たちはそれぞれ恐れています。いま、彼らはおたがいに孤立させられ、連絡する手段もありません」
「よくわかりました! とても巧妙ですね! そのかわり、あまり正規のやり方じゃありませんな。私にはそういうやり方はできませんが、あなたの戦術がわかりはじめました。これからどうします?」
「まず、ラ・ファイエット通りをちょっと一まわりしてきます。あそこでは、毎朝ビヤホールの中や歩道でダイヤモンドの取引が行われているのです。私は何人かのダイヤ商を知っています。よくラ・ファイエット通りに行くことがあるのです。そのあと、ボール紙会社『ジェロ・エ・フィス』へ行って、あなたも推察されているような裏づけ調査をやりますよ」
「要するに、私に間違いがなければ、事件はこういうことですね……」
予審判事はいたずらっぽい目をして、事件のからくりを分解してみせた。夜おそくまでかかって、書類を調べたのだろう。
「あなたはこの計画の主謀者がマニュエルだと考えていますね。モンマルトルのレストランで、マニュエルは数年間のうちに、店にやってくるあらゆる年代のやくざと知り合いになりました。古い世代は少しずつフランスのあちこちに散らばってしまいましたが、それでもマニュエルとつながりを保っていたのです。言いかえれば、マニュエルはちょっと電話をかけるだけで、あれこれの仕事に必要な二、三人の人間を手に入れることができたのです。そうですね?」
メグレは予審判事の興奮ぶりを面白がり、うなずいた。
「機関銃で撃たれたため世間から孤立してからでさえ、アリーヌ・ボーシュを間に介して組織を使いつづけることができた。彼はアリーヌと一緒に住んでいた建物のアパルトマンを一つずつ買って行きました。彼がはっきりした目的があってこうしていたのかどうかは、いまの私にはわかりませんが」
「そうしておけば、あきのアパルトマンが必要なとき、いつでも住人に立ちのいてもらうことができます」
「たとえば、バリヤール。警察に見張られたとき、おなじ階に共犯者がいることはとても便利です。あなたはバリヤールが宝石をカットしなおし、売りさばいていたと思いますか?」
「売りさばいていたでしょうね、しかし、カットはしていませんね。カットするのはもっともデリケートな手仕事の一つですから。バリヤールは宝石店のショーウィンドウを見て歩き、襲うだけの価値があるかどうかを決めるのです。彼の職業からして、これほど簡単なことはありません。そして、定期的にわれわれの尾行をくらまし、『ビュシエール・ホテル』に行ったアリーヌの仲立ちによって……」
「そのホテルをどこから買ったのですかね、なかなかいい投資でもありますし」
「一日か二日で田舎からチンピラどもがやってきます。アリーヌか、あるいはバリヤールがあらかじめ決めておいた場所で、そのチンピラどもを待ち、宝石を奪いにかかります。たいてい、この宝石泥棒のチンピラどもはなんの心配もなくまた帰って行きます。だれのために働いたのか知りもしません。たまにこのチンピラどもをつかまえても何も聞き出せないのは、そのためなのです」
「要するに、だれかが欠けていますね」
「そのとおりです。ダイヤの細工師」
「幸運を祈ります、メグレ君。こう呼んでもかまいませんね? 私のことをアンスランと呼んでください」
警視はほほえんで答えた。
「そのようにしましょう。これまでもいろいろな予審判事たちと一緒にやってきましたが、とくにコメリオという判事とやってきましたが、すぐにうまく行くとはかぎりません。まあ、それまでゆっくりやりましょう、判事さん。あとでまた連絡します」
メグレは自分のオフィスからゴブラン並木通りのボール紙会社へ電話した。電話に出たのは『ジェロ』の息子のほうだった。
「いや、ジェロさん。ご心配なさることはありません。ただ、ちょっとしたことをたしかめたいのです。あなたの会社の評判とはかかわりないことでして。あなたはフェルナン・バリヤールがすぐれたセールスマンだと言われましたね。私もそれを信じたいのですが。
参考までに、たとえば彼がここ二年間に注文を取った宝石店を知りたいのです。会計係の人にはそのリストをつくることは簡単でしょう。お昼前にそのリストをいただきにあがります。何も心配することはありませんよ。われわれは秘密は守りますから」
刑事部屋で、メグレは刑事たちの顔をながながと見まわしていたが、最後に、いつものようにジャンヴィエの上で目は止った。
「いまかかっている重要な仕事はないかい?」
「ええ、警視《パトロン》。報告書を書いていたのですが、いそぐ仕事ではありません。あいかわらず書類の仕事ばかりです」
「帽子を取って、ついて来てくれ」
メグレは、車の運転をいやがる人間が多い世代に属していた。彼としては、捜査の間によく放心したり、ぼうっと夢想にふけったりするので、それを恐れていたのだ。
「ラ・ファイエット通りを、カデ通りの角へ」
警察では、重要な捜査に向かうときにはいつでも二人が原則である。昨日、『クルー・ドレ』でラポワントと一緒でなかったら、メグレはルイ氏を尾行させることができず、したがってバリヤールの行動に興味を持つまでに二、三日かかってしまっただろう。
「車を駐車できる場所をさがしますから、さきに行っててください」
メグレ同様、ジャンヴィエも宝石の取引のことを知っていた。それに反して、大部分のパリジャンは、毎朝ラ・ファイエット通りを通る人々でさえ、控え目な物腰と、しがない勤め人のような身なりをした男たちが、歩道やビヤホールのテーブルのまわりで、数人ずつかたまってしゃべっているのを見ても、彼らのポケットに貴重な宝石が一財産はいっているとは夢にも思わなかった。
これらの宝石は小袋に入れられて、手から手へとわたり、その場で領収証を出すようなことはしない。この閉鎖的な世界では、おたがいが顔見知りなので、信用が第一なのだ。
「やあ、ベランスタン!」
メグレはひょろ長い男の手をにぎった。この男はダイヤの小袋を、つまらない手紙か何かのようにポケットに突っ込み、二人の仲間から離れたところだった。
「今日は、警視。また宝石店が襲われたのですか?」
「先週以降はまだない」
「まだお目当ての人間が見つかりませんか? そいつのことは私も仲間たちに少くとも二十回はしゃべりました。仲間たちも私同様、このパリにいるダイヤの細工師ならみんな知ってます。前にお話したように、ダイヤの細工師はそんなにたくさんいるわけじゃありません。彼らのことなら私が保証してもいいです、盗まれた宝石、いや怪しい宝石だって、カットし直すようなヤバイまねをする人間は一人もいませんね。彼らは鼻がよくきくんですよ! ビールでも一緒に飲みませんか?」
「ありがとう。刑事が通りをわたってきたらすぐに」
「やあ、ジャンヴィエさん。あなたも一緒に来ていたのですか?」
彼らはテーブルに坐った。テーブルのわきのあちこちで、仲買人たちが立ったまましゃべっていた。ときどき仲買人の一人がポケットからルーペを取り出して、宝石を調べている。
「戦前は、宝石の細工師の主な二大中心地は、アントワープとアムステルダムでした。私にはどうしてだかわかりませんが、奇妙なことに細工師の大部分はバルト海沿岸や、ラトヴィアや、エストニアの国の人たちでしたし、いまでもそうなのです。
アントワープで、彼らは外国人の身分証明書を持っていました。ドイツ軍が進駐してくると、彼らはそこを引き払い、大挙してフランスのロワイアンヘ、ついでアメリカヘと向かいました。戦争が終ると、アメリカ人たちは彼らを引きとめようとやっきになったんですが、実数の一割も残すことができなかった。彼らはこの国で苦労したからです。
帰途、彼らの何人かはパリに魅せられました。マレー地区や、サン・タントワーヌ地区にいる細工師たちがそうです。彼らはそれぞれ、いわば血統表を持ってます。というのは、この職業は父から息子へ伝えられるものですし、いろいろな秘けつがあるからなんです」
メグレはとつぜん焦点のぼけた目でベランスタンを見つめた。もう何も話を聞いていないかのようだった。
「ちょっと待って。あんたが言ったことで……」
ベランスタンの話のなかで何かがメグレの心をとらえたのだ。
「あなたに気になるようなことを、私が何か言いましたかね?」
「ちょっと! ドイツ軍の進駐……アントワープの宝石の細工師たち……アメリカ……アメリカに渡った何人かの細工師……なぜ、集団避難のとき、フランスに残らなかったのだろうか?」
「そうもできたでしょうね。しかし、彼らはほとんどすべてユダヤ人なので、収容所か火葬場で片づけられてしまう恐れがあったのです」
「もし……なければ……」
警視はいきなり立ち上った。
「さあ出かけよう、ジャンヴィエ! 車はどこにある? ではさよなら、ベランスタン。失礼する。私はもっと早くそのことを考えるべきだった……」
メグレは歩道にあふれている人々のあいだを縫うように、できるだけ早く進んで行った。
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第六章
ジャンヴィエは黒い小型車のハンドルをいつもよりいくぶん強くにぎりしめながら前方を見つめ、わきに坐っているメグレの顔を観察したい気持をじっとこらえているにちがいない。とつぜん、彼は口にしたくてむずむずしていた質問をするため唇を開きかけたが、自制して黙った。彼は司法警察局に入って以来警視と仕事を共にし、何百という捜査に協力してきたが、さきほどのようなことが起こるたびに心を動かさずにはいられなかった。
前日、メグレは驚喜して事件に突進し、暗がりから人物たちを引き出し、猫がねずみに対するように大きな爪で何度もひっくり返し、ついで、ふたたび隅にもどしておいた。それから、はっきりした計画はなかったけれど、それでも何かが得られるかもしれないと思い、刑事たちをあちこちへ送った。
とつぜん、メグレは演じるのをやめた。ジャンヴィエのわきにいるのは他の人物、だれにも影響をうけない巨大な人間、恐ろしい一枚岩だった。
昼近くになると、パリの通りは七月の暑さでそれこそ花火のようだった。いたるところから光がはじけている。スレートやばら色の瓦の屋根からはじけ、赤いゼラニュームが咲きほこっている窓のガラスからはじけている。自動車の青や緑や黄色の車体から、クラクションから、人声から、ブレーキの軋む音から、ベルの音から、警官の耳障りな呼子から光がはじけている。
この光のシンフォニーのなかで、黒の小型車は沈黙と不動の小島のように抵抗していたし、メグレ自身は無感覚な塊のようだった。もちろん彼はまわりを見ようともしなかったし、何の物音も聞かなかったし、アカシア通りに着いたことさえ気づかなかった。
「着きましたょ、警視《パトロン》」
メグレは、彼にとっては狭すぎる車からのろのろと降り、見慣れた通りを虚ろな目でながめ、建物全体を、各階を、住人たちをわがものとするかのように頭をあげた。
それから歩道の上で、パイプを踵でたたいて空にすると、別のパイプにたばこを詰め、火をつけた。
ジャンヴィエはメグレに、一緒についていかなければならないかどうか訊かなかったし、建物を見張っていたジャナンに話しかけもしなかった。ジャナンはなぜ警視《パトロン》が自分のことに気づかないふりをしているのかといぶかっていた。
メグレはエレベーターのほうに突き進んだ。ジャンヴィエはあとにつづいた。五階のボタンではなく、警視は六階のボタンを押した。六階に着くと、メグレは大股で屋根裏部屋のほうへ向かった。
左に曲ると、メグレは聾唖者のドアの前で止った。ノックをしても返答が得られないことがわかっていたので、ノブをまわした。ドアが開いた。フランドル人の屋根裏部屋にはだれもいなかった。
警視は衣裳戸棚のカーテンをむしり取るようにして開くと、多少いたんだ何着かの着物を調べた。
彼の目は部屋の四隅を正確に見て取り、それから一階くだり、ためらい、ふたたびエレベータに乗ると、一階で降りた。
女管理人は管理人室にいた。右足に靴、左足にはスリッパだった。
「クラーズが今朝外出したかどうかご存知ですか?」
緊張しているメグレを見て彼女はひどくおどろいた。
「いいえ。まだ降りてきませんよ」
「あなたは管理人室を離れませんでしたか?」
「階段を掃除しにも行きませんでした。隣りの女《ひと》が代ってくれたんです。またリューマチがはじまったもんですから」
「クラーズは昨夜も出なかったですね?」
「だれも出ていません。戸をあけてやったのは帰宅した住人にだけですよ。歩道に刑事さんがいるんですから、聞いてみたらいかがです?」
メグレは、ジャンヴィエの個人的な表現方法によれば、|ひどく《ヽヽヽ》考え、|きびしく《ヽヽヽヽ》考えた。
「いいですか……私の見るかぎり、ここの住人はだれでも物置の隅を自由に使えますね……」
「そのとおりですよ。それに原則として、みなさん女中部屋を借りることもできます」
「そんなことはどうでもいいですが。地下室は?」
「戦争前は、二つの大きな地下室があっただけで、みなさんそれぞれ片隅に石炭をおいておいたのです。戦争中に、無煙炭がキャビアとおなじように高価なものになると、みなさんがおたがいに自分のところの石炭の山が減ったと言い張り、言い争いがたえなかったのです。そこでしかたなく、その頃のここの所有者は地下室をいくつにも仕切ってしまい、ドアをつけ、南京錠をつけたんですよ」
「住人がそれぞれ自分の地下室を持ったということですか?」
「そういうことですね」
「クラーズも?」
「あの人は女中部屋に住んでいるので、地下室を持ってませんよ」
「バリヤール夫妻は?」
「もちろんありますよ」
「ここに地下室の鍵はありますか?」
「いいえ。地下室のドアは南京錠がかかっていると、いま言ったばかりでしょ。みなさんがそれぞれご自分のものをお持ちです」
「だれかが地下室に降りて行ったら、ここから見えますか?」
「ここからでは見えませんよ。地下室への階段は奥の、裏階段の真向かいにあります。ドアを押すだけでいいんです、ドアには何も書いてないし、靴拭いもおいてありません」
メグレはまたエレベーターに乗ると、何も言わずにジャンヴィエの目をじっと見つめた。バリヤール夫婦のドアのベルを鳴らすなどというまだるっこしいことをせず、挙ではげしくたたいた。
更紗《さらさ》のドレスを着たバリヤール夫人がドアを開けに来た。おびえた顔をしている。
「ご主人は?」
「書斎におります。あなたが仕事に行ってはいけないと言ったと申しておりますが」
「ご主人を呼んでください」
バリヤールのシルエットが見えた。まだパジャマに部屋着姿だ。書斎から出てきた彼は、いくら努力しても、昨日より顔色がよくなかったし、自信がなさそうだった。
「地下室の鍵を取りたまえ」
「しかし……」
「私の言うとおりにするんだ」
すべては非現実のなかで、夢のなかで、というより悪夢のなかで起こっているようだった。とつぜん、彼らの間の人間関係はおなじものではなくなった。いまでは彼らはそれぞれショック状態にあるようだった。言葉も、身振りも、視線も価値を変えてしまったようだった。
「前を歩くんだ」
メグレはエレベーターのなかにバリヤールを押し込んだ。一階に着くと、そっけなく命じた。
「地下室へ」
バリヤールはますます浮き足だち、メグレはますますきびしくなった。
「このドアがそうか?」
「そうです」
かぼそい電球が一個、白い壁と、かつて番号のついていたドアを照していた。番号はもう消えていて、剥《は》げかかったペンキの上にみだらな落書きが読みとれた。
「この南京錠を開けられる鍵はいくつあるのかね?」
「私は一つしか持ってません」
「他のは、だれが持っている?」
「そんなこと私にはわかりません」
「だれかにこの鍵を預けなかったか?」
「いいえ」
「この地下室を使っていたのはおまえと、奥さんだけか?」
「われわれは数年来ここを使っていませんね」
「開けるんだ」
セールスマンの手はふるえていた。彼はこの場所だと、プチブル風のアパルトマンを背景にしたときよりずっとグロテスクに見えた。
「どうした? さあ開けるんだ!」
ドアは十五センチほど開いたが、そのまま動かなくなってしまった。
「何かがつかえているようです」
「もっと強く押すんだ。必要なら肩をつかえ」
ジャンヴィエは、メグレが事件のこのような現実的な展開を予期していたことを、……しかしいつから?……とつぜん悟り、びっくりしてメグレをながめた。
「いくらか動きました」
いきなり、吊り下っている片脚が見えた。ドアがもう少し動くと、こんどはもう一方の脚があらわれた。からだは宙にういていて、はだしの足が踏み固められた地面から五十センチばかりのところにある。
クラーズ老人だった。ワイシャツに、古びたズボンをはいている。
「ジャンヴィエ、こいつに手錠をかけろ」
ジャンヴィエはぶら下った老人と、バリヤールを代わるがわる見つめた。バリヤールは手錠に気づくと、抗議した。
「ちょっと待ってください」
しかし、メグレのきびしい視線が彼を圧迫していた。彼はさからうのをやめた。
「歩道にいるジャナンを呼んでこい。もう外にいる必要はない」
六階でしたように、メグレはこの細長い部屋をくまなく調べた。すべてのディテールが永久に彼の記憶の中に刻みこまれたようだった。袋から引き出した二、三の道具に指でさわると、ついで地面にどっしりとおかれたスティールのテーブルを夢見るようになでた。
「ジャナン、鑑識の連中が到着するまで、きみはここに残れ。だれも入れてはいけない。きみの同僚でもだ。それから何もさわってはいけない、いいな?」
「わかりました、警視《パトロン》」
「さあ行こう」
メグレはバリヤールを、彼のいままでとはちがった姿をながめた。バリヤールはうしろ手に手錠をかけられ、マネキン人形のように進んでいく。
彼らはエレベーターには乗らず、裏階段から五階まで上った。だれにも出会わなかった。台所にいたバリヤール夫人は夫が手錠をかけられているのを見て、さけび声をあげた。
「メグレさん!」
「あとで、奥さん。まず私は電話をかけたいのです」
他の人たちのことなど気にかけず、メグレはバリヤールの書斎に入った。ひんやりしたたばこの匂いがした。メグレはアンスラン予審判事の電話番号をまわした。
「もしもし! ええ、こちらメグレ。判事さん、私はばかでした、ある男の死に、私は責任があるような気がします。そう、また死体が。どこ? もちろんアカシア通り。最初から理解していなければいけなかったのです。私は唯一の重要な手掛りを追うかわりに、やぶをつついてしまいました。いちばん重要なことは、この三番目の要素……この手掛りをこう呼ぶことができるならば……が数年前から私を悩ましつづけたものだということなのです。
いま、くわしいことは話せませんが、地下室に首吊り死体があったのです。首に縄をまかれたとき、男が死んでいたか、傷つけられていたかは、つまり自分で首を吊ったのではないことは、医者があきらかにしてくれるでしょう。首吊り死体は老人です。
検事局があまりに手っとり早く片づけないように、手をうっていただけないでしょうか? 私はいま五階の件に忙殺されています。それだけに、何らかの結果を得るまでは邪魔されたくはないのです。どのくらい時間がかかるかはわかりませんが。いずれのちほど。あ、いや、今日はわれわれは例のお気に入りの『シェ・ローヴェルニャ』で昼食はできないでしょう」
そのあと、メグレは旧い仲間のムルスを電話に呼んだ。鑑識の専門家だ。
「非常に念入りな仕事が必要なんだ。めちゃくちゃに掻き乱されたくない。検事局と判事が来て地下室のなかをいじくりまわす心配はない。きみをびっくりさせるような物が見つかると思うよ。たぶん壁をさぐり、地面を掘り返すようになるだろう」
メグレはバリヤールの肱掛け椅子からため息をつきながら立ち上ると、客間を横切った。客間では、バリヤールがジャンヴィエの前の椅子に坐っている。ジャンヴィエはたばこを喫っていた。
メグレは台所に入り、冷蔵庫を開けた。
「いいですか?」と彼はバリヤール夫人にたずねた。
「教えてください、警視さん……」
「ちょっと待ってください、私はとても喉が乾いておりますので」
メグレがピールの栓を抜くと、彼女はおとなしく、こわごわグラスを差し出した。
「あなたは信じているのですか……主人が……」
「私は何も信じていません。一緒に来なさい」
彼女はびくびくしながら書斎までメグレについてきた。メグレはごく自然にふたたびバリヤールの席に坐った。
「あなたも坐って。気楽にしてください。あなたはクラーズという名前なんですね?」
「はい」
彼女はためらった。顔が赤くなった。
「いいですか、警視さん。そんなことが重要なんですか?」
「今後は、奥さん、すべてが重要です。言葉の一つひとつが重要になります」
「おっしゃるとおり、私はクラーズという名です。身分証明書に記入されてあった娘の頃の名前が、そうなのです」
「しかし?」
「それがわたしの本名かどうかはわかりません」
「屋根裏部屋に住んでいた老人は、親類の人なのですね?」
「わたしはそうは思っておりません。わたしにはわからないのです。そんなことはすべて、もう昔のことです! それに、わたしは小さな子供にすぎなかったのです」
「あなたが言っているのはいつ頃のことですか?」
「集団避難の折り、ドゥエで爆撃をうけたときのことです。ずらりと並んだ列車、また列車。列車から降りて線路の砂利の上に寝ている人。血まみれの赤ん坊を抱きかかえて行く女たち、あちこち走りまわる腕章をつけた男たち。ふたたび出発して行く列車。そして最後に、世界の終末を思わせるあの爆撃が……」
「いくつでした?」
「四歳かしら? その前後ではなかったかしら?」
「そのクラーズという名前は?」
「わたしの家族の名前だったのではないかと思います。わたしが口にしていた名前のような気がしますから」
「ファースト・ネームは?」
「ミナ」
「フランス語を話していましたか?」
「いいえ。フランドル語だけ。わたしは都会を一度も見たことがなかったんです」
「あなたの村の名前をおぼえていませんか?」
「いいえ。でも、あなたはどうしてわたしの主人のことを話さないのです?」
「そのときが来たら話しますよ。あなたはどこであの老人と会ったのです?」
「はっきりしたことはわかりません。爆撃の直前か直後に起こったことは記憶がぼんやりしているのです。わたしはだれかと手をつないで歩いていたような気がします」
メグレは受話器をはずし、ドゥエの市役所を申し込んだ。すぐに電話がつながった。
「市長は留守です」と、秘書課長が答えた。秘書課長はメグレがこう訊いたのでびっくりした。
「あなたはいくつです?」
「三十二です」
「市長は?」
「四十三です」
「一九四〇年に、ドイツ軍がやってきたとき、だれが市長でした?」
「ノベル医師です。ノベル氏は戦後十年市長をやっておりました」
「死んだのですか?」
「いいえ。あのお年齢《とし》にもかかわらず、グラン・プラスの古い家でまだ開業してます」
三分後、メグレはノベル医師を電話に呼び出していた。バリヤール夫人はびっくりして、耳をかたむけていた。
「どうも、医師《せんせい》、司法警察局のメグレ警視です。あなたの患者さんのことではなく、昔のことでちょっとお訊きしたいことが。最近の事件を明らかにしてくれるかもしれないからです。一九四〇年の白昼に、爆撃をうけたのはドゥエの駅でしたね? そのとき駅には何車輌もの避難民の列車が停っていて、その他にも何百という避難民が並んで待っていませんでしたか?」
ノベルはあの出来事を一生涯忘れるわけがなかった。
「警視さん、私はその場におりましたよ。あれは人間が忘れることのできないもっとも恐ろしい思い出ですな。すべては静かでした。奉仕団の人たちがベルギーやフランスの避難民たちにせっせと食物をあたえておりましてね。列車はまもなく南へ向かって出発する予定でした。
赤ん坊をかかえた女たちは一等車の待合室にむらがっておりました。哺乳器や真新しいオムツがくばられましたよ。十人ほどの看護婦が面倒を見ていました。
原則としては、だれも列車から離れてはいけないのでしたが、駅の簡易食堂の魅力が強すぎましてね。そういうわけで、あちこちに人がおりました。
それから、とつぜんサイレンが鳴り出すと同時に、駅が震動し、ガラス張りの屋根がこなごなにくだけ、人々は何が起こったのかわからず、ただわめいておりました。飛行機が何回やってきて、何回爆撃があったのか、今日でもわかっておりません。
駅の外も内部《なか》も、前も、プラットホームも身の毛がよだつような光景でした……ばらばらになった身体、ちぎれた腕や脚、胸や腹を押えて、血走った目で走りまわる負傷者たち。
私は運よく怪我もしなかった。そこで、待合室を応急手当室にしましたが、すべての負傷者にたいして、十分な救急車も、病院のベッドもありませんでした。
私は、それはひどい条件のなかで、その場で緊急手術を行いました」
「あなたは、やせた、背の高い男をおぼえていないでしょうね、フランドル人で、額がひどく広くて、聾唖の?」
「なぜ、その男のことを私に話すのですか?」
「私が知りたいのはその男のことなのです」
「おぼえていないどころか、私はとてもよくおぼえていますよ。よく彼のことを考えました。私はそのとき市長として、赤十字の地方支部長として、奉仕団長として、さらに医者として駅にいたのです。
市長として、私はばらばらになった家族をふたたびまとめ、重傷者や死者の身許をつきとめようと努力しました。しかし、それはとにかく容易なことではありませんでしたね。
ここだけの話ですが、私たちは身許のわからない、いくつかの死体を埋葬しました。とくに、養老院から出てきたように思える六体の老人の死体を。あとで彼らの身許をさがしてみましたが、無駄でしたな。
こうした混乱と、狂乱のさ中で、あるグループが私の記憶に残っているのです……一家族でしたな、中年の男、二人の女、三、四人の子供たち。この一家を爆弾が文字どおり散りぢりにしてしまったのです。
私がその男を見たのはこの一家のそばでしたよ。頭はそれこそ血まみれでした。私は男をテーブルの上に運ばせましたが、おどろいたことに、失明していないし、致命的な傷はどこにも負っていなかったのです。
どれほど縫合したか、もうおぼえておりません。無傷の小さな女の子がすぐそばに立って、無感動なようすで私の手の動きを見つめていましたよ。
私はその女の子に、この男がお父さんなのか、それともお祖父さんなのかと訊いてみました。女の子はフランドル語で答えたので、私には何と言ったのかさっぱりわかりませんでした。
三十分後、私が負傷した女を手術していると、男が立ち上って、駅の外のほうへ歩いて行くのが見えました。小さな女の子があとにくっついています。
それは、この混乱のつづくなかではかなり面くらう光景でしたね。私は負傷した男の頭に大きな包帯をぐるぐるまいておきました。その包帯のまま、彼は群集の真中にいることも、彼の後にちょこちょこくっついている女の子のことも知らぬげに、ぶらぶら歩いて行きます。
『あの二人を連れもどすんだ』と、私は看護婦に言いました。『あんな状態で遠くまで行けやしない、もう一度手当をしなくては』
警視さん、以上が、私からお話できるほとんどすべてですよ。その後彼のことを思いだして、調べてみましたが、無駄でしたな。彼が残骸の間や、救急車のまわりをうろついているのを見たという者がいます。あらゆる種類の車が、家具や、家族や、マットレスや、ときどきは豚や牛を乗せて、北部のほうからひっきりなしに押しよせていました。
ボーイスカウトの一人が、背の高い、中年のちょっと猫背の男が、小さな女の子と一緒に軍用トラックに乗るのを見たと言ってます。何でも兵隊たちが二人に手を貸してよじ登らせたそうですが。
戦時中と戦後、私たちがこの無秩序をふたたび回復しようとしたとき、多くの疑問が残りました。というのは、オランダや、フランドルや、パ= ド= カレの村々では、村役場がこわされたり、掠奪されたり、また戸籍薄が燃やされたりしてしまったからです。
あなたはその男を見つけ出したと言うのですか?」
「ほぼ間違いないと思います」
「どうなりましたか?」
「いましがた首を吊って死んでいるところを発見されました。それに、いま私は、昔のあの小さな女の子の前に坐っているのです」
「もっとくわしいことをお教えいただけませんか?」
「すべてがはっきりしましたら、ただちに。ありがとうございました、医師《せんせい》」
メグレは額の汗をぬぐい、パイプを空にし、他のパイプにたばこを詰めると、バリヤール夫人にやさしく言った。
「それでは、こんどはあなたの身の上話をしてください」
彼女は小娘のように肱掛け椅子の中でからだを丸め、爪をかみながら不安そうな大きな目でメグレをじっと見つめていた。
答えるかわりに、彼女は怨みがましく質問した。
「どうしてフェルナンを罪人扱いするのです? どうして手錠をかけたりするのです?」
「そのことはあとで話し合いませんか? さしあたって、私に素直に答えることこそ、ご主人のために尽すチャンスがあるというものです」
若い女はさらに別の質問を口にした。彼女が昔からではないとしても、かなり以前から口にしたいと思っていたらしい質問を。
「ジェフは気違いだったのでしょうか? ジェフ・クラーズは?」
「彼は気違いのような言動をしましたか?」
「わかりません。わたしには、自分の幼年時代を他の人の幼年時代にくらべることができませんし、あの人を他の男にくらべてみることもできませんから」
「ドゥエからはじめましょう」
「トラック、避難民キャンプ、列車、あの老人(わたしには老人のように見えたのです)に質問する憲兵たち。憲兵は老人から何も聞き出せないと、こんどはわたしに質問しました。わたしたちがだれなのか? どの村から来たのか? わたしにはわかりませんでした。わたしたちはもっと遠くに、もっともっと遠くに行きつづけました。ある日地中海を見たことはたしかです。ずっと後までおぼえていましたから。わたしたちはペルピニャンまで行ったと思います」
「クラーズはスペインに入ろうとしましたか、そこからアメリカに行くために?」
「どうしてわたしにわかります? あの人はもう何も聞こえないし、何も話せないのですから。わたしの言うことを理解するため、あの人はじっとわたしの唇を見つめ、わたしは何度も何度もおなじ質問をくり返さなければなりませんでした」
「なぜ彼は、あなたを引き連れて行ったのでしょうね?」
「わたしがついて行ったのです。あれからずっと、わたしはそのことを考えつづけました。わたしの家族がみんな、わたしのまわりで死んでいったので、いちばん近くにいた人にしがみついたのだと思います。たぶんその人は、わたしのお祖父さんに似ていたのでしょう」
「あなたの名前が本当にクラーズだと仮定してみて、どうして彼はあなたの名前を名乗ったのでしょうね?」
「わたしは後になってからそのことを知ったのです。あの人はいつもポケットに紙切れを持っていて、ときどきフランドル語で何やら書いていました。まだフランス語がわからなかったからです。わたしもわかりませんでした。わたしたちは数週間か、数カ月後にパリにたどりつきました。あの人はパリのどこかに台所つきの部屋を借りました。それがどこだったか、わたしにはいまもってわかりません。
あの人は貧乏ではありませんでした。お金が必要なとき、シャツの下から金貨を一、二枚取り出しました、はばの広い布の帯に縫い込んであったのです。それがあの人の貯えでした。わたしたちはある宝石店や、ある骨董店を選ぶためにたいへんな遠回りをし、捕まるのではないかとびくつきながら、こっそり中に入りました。その理由を、ユダヤ人が着物に黄色い星を縫いつけなければならない日に、わたしは知りました。あの人はわたしのために紙切れに本名を書きました……ヴィクトール・クリュラック。あの人はその紙切れをすぐに燃やしてしまいました。あの人はアントワープ生れの、ラトヴィアのユダヤ人でした。あの人のお父さんやお祖父さんのように、あの人もアントワープでダイヤの仕事をしていたのです」
「あなたは学校に行きましたか?」
「ええ。生徒たちはわたしのことを笑いました」
「食事の支度をしたのはジェフでしたか?」
「そうです。焼肉がとても上手でした。あの人は黄色い星をつけませんでした。いつもびくびくしていました。警察署では、さんざん嫌がらせをされました。というのは、身分証明書のための必要な書類を提出することができなかったからです。一度、あの人はどこかの病院に送られました。気違いだと思われたからです。でも、次の日にそこから逃げ出しました」
「彼はあなたを好きでしたか?」
「そのようでした。わたしを失いたくないようでした。あの人は一度も結婚したことがないし、子供もありませんでした。あの人はきっと心のなかでは、神さまがあの人の行手にわたしをおおきになったと考えているのですわ。
わたしたちは二度、国境に追い返されました。でも、あの人はそれでもパリにもどってきて、サクレ= クール寺院のわきや、フォーブール・サン・タントワーヌに小さな台所のついた家具付部屋を見つけるのです」
「仕事は?」
「この時期は働いていません」
「どうやって彼は一日を過していたのです?」
「歩きまわったり、人々を観察したり、彼らの唇の動きを読むことを学んだり、彼らの言葉を理解しようとしたりしていました。戦争の終りの頃のある日、あの人はにせの身分証明書を持って帰ってきました、四年間あの人が手に入れようと努力していたものです。あの人は公けにはジェフ・クラーズになり、わたしはあの人の孫娘ということになったのです。
わたしたちは市役所の近くの、いままでより少し大きい住居で暮しました。いろいろな人が仕事をたのむためにあの人に会いに来ましたが、いまではその人たちのことをおぼえていません。
わたしは学校に行ってました。学校を出ると、わたしはボーマルシェ大通りの宝石店に売り子として入りました」
「その職を見つけてくれたのはジェフ老人ですか?」
「ええ。あの人はあちこちの宝石店で手間賃かせぎの仕事をしてましたから。古くなってしまった宝石の修理や、再生など」
「その店で、あなたがバリヤールに出会ったのですね?」
「一年後に。セールスマンとして、彼は三カ月ごとにお店にくればよかったのですが、もっとひんぱんにやってきて、そのうちお店の出口でわたしを待つようになりました。彼はハンサムで、とても明るくて、陽気でした。彼は人生を愛していました。わたしが彼と初めてアペリチフを飲んだのは『カトル・セルジャン』でした」
「あなたがジェフの孫娘であることを、彼は知っていましたか?」
「わたしが彼にそう言いました。わたしは彼に、わたしたちの身の上話をしました。わたしと結婚するつもりになったとき、彼はとつぜんジェフに紹介してくれと言ってきました。わたしたちは結婚し、ジェフを連れて、フォントネイ= スー= ボワに行き、そこの小さな家で暮しました」
「あなたはそこでマニュエル・パルマリに会ったことがありませんか?」
「わたしたちのあの隣人に? ここに来てから、わたしはその人に一度も会ったことがないのですから、わかりませんわ。フェルナンはときどき仲間たちや、笑ったり飲んだりするのが大好きな魅力的な男たちを連れてきました」
「老人は?」
「あの人は一日の大半を庭の奥にある道具小屋……フェルナンが仕事場に改造してくれたのです……で過していました」
「あなたは何も疑ったことがないのですか?」
「わたしが何を疑わなければならないのです?」
「いいですか、バリヤール夫人、ご主人は夜中に起きる癖はありませんか?」
「まったくございません」
「アパルトマンから出ませんか?」
「なぜです?」
「寝る前に、あなたは煎じ薬みたいなものを飲みます?」
「くまつづらと、ときどきはカミツレ茶を」
「昨夜、目がさめませんでした?」
「ええ」
「浴室に案内していただけますか?」
浴室は大きくはなかったが、黄色いタイル張りで、明るくてしゃれていた。薬品箱は洗面台の上におかれていた。メグレは薬品箱を開け、いくつかの小壜を調べ、そのうちの一つを手に持った。
「この錠剤を飲むのはあなたですか?」
「何の薬なのか、わたしは知りもしません。ずっとそこにあるのです。あ、そうだわ! フェルナンが不眠症になり、彼のお友達がその薬をすすめたのです」
しかし、ラベルは新しかった。
「何があったのです、警視さん?」
「昨夜……昨夜にかぎらず、しばしばこういうことはあったでしょうが……あなたはそうとは知らずに煎じ薬と一緒にこの薬をある量飲み、ぐっすりと眠り込んだのです。ご主人は屋根裏部屋ヘジェフを呼びに行き、一緒に地下室に降りました」
「地下室に?」
「地下室には仕事場の設備がしてありました。彼は鉛管かそれに類した物で、ジェフをなぐり、天井から吊したのです」
彼女は悲鳴をあげたが、気絶はしなかった。それどころか客間に走り込んで行くと、夫に鋭い声で言った。
「嘘だわね、ねえ、そうでしょ、フェルナン? ジェフ老人にそんなことしたって嘘だわね?」
奇妙なことに、彼女にはフランドル語のなまりがあった。
この夫婦が涙っぽくなる前に、メグレはバリヤールを書斎に連れて行き、ジャンヴィエに若い夫人を見張るように合図した。昨夜も、この二人の男はこのおなじ書斎にいたのだが、こんどは席が変っていた。今日、セールスマンの回転椅子に坐っているのは警視であり、警視の前に坐っているセールスマンは、昨夜のときよりとげとげしくなくなっていた。
「卑怯者!」と、バリヤールはつぶやいた。
「何が卑怯者なんだ、バリヤール?」
「女たちをいじめる。質問があるんだったら、私に質問したらどうだ、え?」
「きさまには、もう質問することがない。私にはすでに答えがわかっているから。昨日われわれが話し合ったあとで、きさまは私にすべてがわかってしまったのではないかと思い、自分の組織の弱点である人間を永久に黙らせなければならないと判断した。
マニュエル・パルマリについで、ジェフ・クラーズことヴィクトール・クリュラックを。あの最後の審判の日に、彼の手をにぎった小さな女の子から離れないために何でもやった、頭の狂った哀れな老人を。きさまは悪党だ、バリヤール」
「ありがたいですな」
「いいか、悪党はたくさんいる。私が握手することができる悪党もいる、たとえばマニュエル・パルマリだ。きさまはもっともたちのわるい悪党だ、まともに面《つら》を見たら、なぐりつけたくなるか、唾をひっかけたくなるような悪党だ」
警視は実際じっと我慢しているのだった。
「やってみたらどうです? 私の弁護士がうれしがりますよ」
「数分後に、きさまは留置所に連れて行かれる。そして今日の午後か、夜か、明日には、われわれはふたたび話し合うだろう」
「私の弁護士の前で」
「さしあたって、私には訪問しなければならない人間がいる。この訪問はかなり長くなるはずだ。私がだれのことを言っているか、きさまにはわかるだろう。
要するに、きさまの運命は大部分、この訪問にかかっているのだ。というのは、マニュエルが消され、ピラミッドの頂点には二人しか残っていないからだ……アリーヌときさまだ。
きさまたちが機会があり次第、一緒に逃げ出す手はずだったことは私にはわかっている。もちろんマニュエルの財産をそっと現金に換えて。
アリーヌ……フェルナン……アリーヌ……フェルナン……ふたたびきさまが私の前に坐る ときには私は、二人のうちどちらがこの二つの殺人の真の教唆《きょうさ》者……私は犯人とは言わない、二人とも犯人なのだから……なのか知っているだろう。いいな?」
メグレは呼んだ。
「ジャンヴィエ! この男を留置所に連れて行ってくれ。こいつにもきちんとした身なりをする権利があるんだ。しかし、一時も目を離すな。ジャンヴィエ、武器を持ってるな?」
「はい、警視《パトロン》」
「階下《した》には警官がたくさんいるから、だれかきみと一緒に行く者が見つかるだろう。じゃ、あとで」
通りがかりに、メグレはバリヤール夫人の前に立ち止った。
「ミナ、あなたのいまの苦しみ、これからもつづくだろう苦しみのために、私のことを怨んではいけない」
「あの人を殺したのはフェルナンですか?」
「そうじゃないかと思っています」
「でも、なぜです?」
「そのうち、あなたはこの考えを頭に入れておく必要があるでしょう……ご主人は悪党なのです、かわいそうな奥さん。ご主人は真向かいのアパルトマンのなかに、メスの悪党を見つけたのです」
彼女は泣きくずれた。数分後、メグレは地下室に入って行った。ライトが黄色い電球に取って替っていた。まるで映画を撮影中のような感じだった。
すべての人間が同時にしゃべっていた。カメラマンたちが写真を撮っていた。頭の禿げた医師がもう少し静かにしてもらえないかとどなった。ムルスは警視に近づくことができなかった。
小柄な予審判事がメグレのすぐそばにいた。メグレは彼を戸外に連れ出した。
「ビールでもどうです、判事さん?」
「よろこんでお供しますよ、ただし、ここをうまく通り抜けられたらですがね」
彼らはどうにかこうにか抜け出すことができた。ジェフはほとんど無名だったが、マニュエル・パルマリの死のように、人に気づかれずにすむというわけにはいかなかった。建物の前には野次馬がたかっていて、二人の巡査が追払うのに苦労していた。新聞記者たちが警視を追ってきた。
「今朝は何もないよ。オルフェーヴル河岸で三時以降に」
メグレはふとった予審判事を『シェ・ローヴェルニャ』に連れて行った。すでに常連が昼食を食べていて、ひんやりとしていた。
「大ジョッキを二つ」
「メグレ君、あなたはあそこにもどりますね?」と、予審判事は汗をふきながらたずねた。「あの地下室にダイヤモンドをカットするための新しい道具があったらしいですよ。あなたはそのことを予期していましたか?」
「私は二十年前からさがしていたんですよ」
「あなたはまじめに話しているのですか?」
「大まじめです。それ以外のすべての駒の動きは、私にはわかっていたのです。乾杯!」
メグレはゆっくりと大ジョッキを飲みほすと、ジョッキをカウンターの上におきながら言った。
「もう一杯」
それから、あいかわらずきびしい顔つきで、
「昨日のうちに、私はわかっていなければいけなかったのです。どうしてあのドゥエの話を、私は思い出さなかったのか? 私は部下たちをあらゆる方向に送りました、ただし、正しい方向を除いて。ドゥエの話をやっと思い出したときには、もう遅すぎたのです」
メグレは店の主人が二杯目のジョッキを出すのを見つめていた。じっと我慢している人間の荒い息づかいだった。
「それでは、これから何をします?」
「私はバリヤールを留置所に送りました」
「彼を尋問しましたか?」
「いや、まだ早すぎます。その前に、いますぐに質問したい人間がいるのです」
メグレは通りの向こうの建物の正面をながめた、とくに五階の或る窓を。
「アリーヌ・ボーシュ?」
「そうです」
「彼女の部屋で?」
「ええ」
「彼女はあなたのオフィスでのほうが感じやすくなるのではないでしょうかね?」
「彼女はどこででもおなじです」
「彼女が口を割ると思いますか?」
メグレは肩をすくめ、三杯目のジョッキを注文するのをためらい、結局やめにすると、律義で小柄な予審判事に手を差し出した。小柄な予審判事は感嘆と、ある不安とを持ってメグレを見つめた。
「ではまた。あとでくわしいことをお知らせいたします」
「私はたぶんここで昼食を取るでしょう。そして、通りの向こうの人たちの仕事が終り次第、裁判所にもどります」
彼は最後に、あえてこうつけ加えはしなかった。
「ご幸運を!」
メグレは肩を丸めて通りを横切り、もう一度五階の窓をながめた。野次馬はメグレを通した。一人のカメラマンだけが機転をきかせて、まっすぐつき進む警視を写真に撮った。
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第七章
メグレは、かつてマニュエル・パルマリのものであったアパルトマンのドアを荒々しくノックした。なかから、不ぞろいな足音が聞こえた。ドアを開けたのはジャナン刑事だった。いつものように、過失を見つけられたような様子をしている。ジャナンは痩せっぽちのお人好しで、歩くときは左脚を横に投げ出すようにし、犬のようにいつでもぶたれるのを待っているようなところがあった。
彼は警視から、上衣を着ていないと咎められるのを恐れているのか? 痩せた毛深い胸が見える、だらしないワイシャツの着方を咎められるのを恐れているのか?
メグレはほとんどジャナンを見なかった。
「だれも電話を使わなかったか?」
「私が、警視《パトロン》、女房に電話しました……」
「昼食をすませたのか?」
「まだです」
「彼女はどこにいる?」
「台所です」
メグレはふたたびつき進んだ。アパルトマンは散らかっていた。アリーヌは台所の、目玉焼きが食いちらかしてある皿の前でたばこをふかしていた。この女は粋で、はつらつとしたかつてのアリーヌにほとんど似ていない。街に買物に行くため朝早くから念入りに身支度をしていたあの『かわいい婦人』ではない。
彼女は古ぼけたブルーの部屋着しかまとっていなかった。汗のため、絹の部屋着がからだにぴったり貼りついている。黒い髪は乱れていて、顔には化粧もしていなかった。風呂に入っていないので、すえた匂いが発散していた。メグレが女のこういう姿を見るのは初めてではない。彼はおしゃれで、きれいな女が夫なり恋人なりが死んで一人きりになると、アリーヌのようにだらしなくなる例をたくさん知っていた。彼女たちの趣味、態度がとつぜん変るのだ。今までよりけばけばしい着物を着、いやらしい声で話し、長い間忘れようと努めていた言葉遣いをわざとする。まるで本性がふたたび出てきたかのように。
「来たまえ」
彼女は警視をよく知っていたので、こんどこそ真剣勝負だということを理解した。それでも彼女はゆっくりと時間をかけて立ち上り、たばこを脂ぎった皿のなかでもみつぶし、部屋着のポケットのなかにたばこの包みを入れると、冷蔵庫のほうに向かった。
「喉が乾いてないの?」と、ためらったあとで、彼女はたずねた。
「乾いてない」
彼女はそれ以上は言わず、戸棚から自分用にコニャックの壜とグラスを取った。
「どこにわたしを連れて行くの?」
「コニャックを持っても持たなくてもかまわないが、とにかく来いと言ったんだ」
メグレは客間を通り抜けると、マニュエルの小部屋に彼女を乱暴に押し込んだ。車椅子がいまでも老親分のことを思い起こさせる。
「坐るか、横になるか、それとも立ったままでいるか、好きにしろ……」と、警視は上衣を脱いで、ポケットのなかのパイプをさがしながらぶつぶつ言った。
「何があったのかしら?」
「何があったかって? おまえはもうおしまいだ。片をつけるときが来た。わかるな、え?」
彼女は黄色いソファの端に腰をおろして、脚を組んだ。ふるえる手で、口にくわえたたばこに火をつけようとした。
腿の一部が見えることなど彼女にはどうでもいいのだ。メグレにもどうでもいい。彼女が着物を着ていようが、裸でいようが、もう彼女が男を誘惑できるときは過ぎてしまったのだ。
メグレが目撃しているのは、いわば一人の女が崩壊していく姿だ。彼は自信たっぷりな、尊大でさえある彼女を知っていた。鋭い声で彼のことをあざけり、マニュエルが思わずたしなめるような言葉で彼を罵《ののし》った。
メグレは、まだいくぶん歩道の匂いがする、自然のままの美しさの彼女を知っていた。それがメグレには刺激的だった。
メグレは、悲しみにうちひしがれた女として、あるいはメグレが真《ま》に受けてしまうほど胸の張り裂けるような悲しみをうまく演じてみせる役者として、涙にくれている彼女を知っていた。
しかし、いまの彼女はうずくまり、恐怖を感じ、自分の運命について自問している、追いつめられた動物でしかない。
メグレは車椅子をいじりまわし、車椅子をあっちに向けたりこっちに向けたりしていたが、しまいにはマニュエルがよくしていたポーズで坐り込んでしまった。
「彼はここで三年暮した、この車椅子に坐ったきりで」
メグレは自分自身のために話をしているようだった。彼の手は操縦桿をさがし、車椅子を左へ向け、右に向けた。
「外部の世界と連絡を取るには、彼にはおまえしかいなかった」
マニュエルの車椅子のなかに、マニュエルとおなじからだつきの男が坐っているのを見て、彼女はろうばいし、顔をそむけた。メグレは彼女のことなど気にかからないかのように、しゃべりつづけた。
「彼は古いタイプのやくざだ、悠々としたやくざだ。しかし、これらの年取ったやくざたちはいまのチンピラとは別の意味で用心深い。とくに、彼らは絶対に女たちを仕事にかかわり合わせない、彼らの利益になる売春の仕事以外は。マニュエルはこのおきてを破ってしまった。話を聞いているのか?」
「聞いてるわ」と、彼女は小娘のような声でつぶやいた。
「しかし真相は、晩年になってこの老やくざが中学生のようにおまえを愛しはじめたのだ、フォンテーヌ通りの、いかがわしいホテルの看板の下で拾った娘を。
彼はマルヌ河のほとりか、南フランスのどこかに隠居するだけの財産をためてあった。
この哀れな間抜けは、おまえを貴婦人に仕立てあげようと考えた。彼はブルジョワ女のような着物をおまえに着せた。彼はおまえに行儀作法を教えた。だが、金をかぞえることは教える必要がなかった。おまえはそれを生れつき知っていたからだ。
おまえは彼にたいして何てやさしかったことか! パパこっちよ、パパあっちよ、気分はいい、パパ? 窓を開けてもかまわないかしら? 喉が乾いてない、パパ? あなたのアリーヌヘキスは?」
メグレはとつぜん立ち上ると、どなった。
「売女《ばいた》め!」
彼女はひるまなかったし、身動き一つしなかった。メグレが怒りにまかせて、拳固でないにしても、平手で彼女の顔をなぐりかねないことは、彼女にはわかっていた。
「建物の名義をおまえのものにするように彼にしむけたのは、おまえだな? 銀行の預金もそうだな? そんなことはどうでもいい! 彼がここに、壁にかこまれて釘づけになっている間、おまえは彼の共犯者たちに会い、彼の指示を彼らにつたえ、ダイヤを徴集した。あいかわらず何も言うことはないのか?」
たばこが彼女の指から落ちた。スリッパの先で、じゅうたんの上のたばこをもみつぶした。
「いつ頃から、おまえはフェルナンというあの傲慢な男の愛人になったんだ? 一年前か、三年前か、それとも数カ月前か? エトワール通りのホテルはおまえたちの逢びきには恰好な場所だったな。
そしてある日、だれかが、おまえたち二人の一方が、フェルナンかおまえかが、もう待ちきれなくなった。からだが不自由だとはいえ、マニュエルは丈夫だから、あと十年か十五年は生きつづけることができるだろう。
財産だって十分にあるのだから、彼はどこか他のところに行って生涯を終えたいと思うだろう、車椅子で散歩させてもらえるような庭のあるところ、自然のなかにいるのを感じられるところ。
こうした考えに我慢できなくなったのは、フェルナンかおまえか? こんどはおまえが話す番だ、さあ早く話すんだ」
重い足取りで、メグレは二つの窓を往ったり来たりし、ときどき通りをながめた。
「さあ話を聞こう」
「何も言うことないわ」
「おまえが?」
「わたし、関係ないもの」
そして、まるでいやいやながらのように、
「フェルナンをどうしたの?」
「留置所にいる。私が尋問するまで、そこでゆっくりと考えるだろう」
「何もしゃべらなかった?」
「たいしたことはしゃべらなかった。では、質問のやり方をかえよう。もちろん、おまえは自分の手でマニュエルを殺さなかった。おまえが買物をしている間に、フェルナンがそれをやった。二番目の殺しは……」
「二番目の殺しって何?」
「この建物のなかで、もう一つの殺しがあったことを、おまえは本当に知らないのか?」
「だれが殺されたの?」
「さあ! お芝居をしているんでなければ、ちょっと考えてみろ。マニュエルは問題外だ。しかし、全然疑われていなかったバリヤールがとつぜん警察によって目をつけられた。
おまえたち二人をオルフェーヴル河岸に連行し、対決させる前に、私はおまえたちをそれぞれ罠にかけた、おまえをここに、もう一人を奥さんと二人きりに残し、外部との連絡もおまえたち同士の連絡もさせなかった。
その結果、どういうことになったか? おまえはベッドから肱掛け椅子に、肱掛け椅子から台所にとうろうろ歩きまわり、顔も洗わず、何でもかまわず食べる。
バリヤールのほうは、われわれがすべてを知っているのかと自問自答する。とくに、証言できるものはだれか、彼を裏切るのはだれかと考える。是非は別にして、彼はおまえがしゃべることはないと思う。ただ、階上《うえ》に、屋根裏部屋に、ちょっと頭のおかしい端役《はやく》がいる。この端役は見かけより抜け目がないらしいので、密告する危険がある」
「ジェフじいさんは死んだの?」と、彼女はつぶやいた。
「ジェフがリストの最初にあがっていたことを、おまえは夢にも思わなかったのか?」
彼女はじっとメグレを見つめたが、もはや何にすがりついていいのかわからず、途方に暮れていた。
「どうやって殺されたの?」
「バリヤールの地下室で、今朝、首を吊っていた。この地下室はずっと前から仕事場につくり変えられていて、そこでジェフ・クラーズが、もっと正確にはヴィクトール・クリュラックが、盗んだ宝石をカットし直していた。
彼は自分で首を吊ったのではなかった。誰かが階上《うえ》に彼を呼びに行き、地下室に引っぱってきて、殺し、首に縄をまいたのだ」
メグレはまともには彼女を見ず、ゆっくりと間を取った。
「いまではもう、宝石の強奪や、『ホテル・ビュシエール』での密会が問題なのではない。問題なのは二つの殺人、そのどちらも十分に計画を練ったうえで、冷静に犯された二つの殺しだ。少くとも死刑がかかっている」
彼女はもうそれ以上坐っていることができず、立ち上ると、こんどは彼女が歩きはじめた。が、メグレのそばは通らないようにした。
「あなたはどう思ってるの?」と、メグレは彼女がつぶやくのを聞いた。
「フェルナンは野獣だ、そしておまえはその女だ。おまえはここで、あいつと寝に行くチャンスをうかがいながら、おまえがパパと呼んでいた男、おまえのことを信頼していた男と、数カ月の間、数年の間暮していた。おまえたちのどちらかが待ちきれなくなったにちがいない。マニュエルを殺した自動拳銃をだれが持っていたかなんていうことはどうでもいい」
「わたしじゃないわ」
「ここに坐るんだ」
メグレは車椅子を彼女に指さした。彼女はからだをこわばらせ、目を大きく見開いた。
「ここに坐るんだ!」
いきなり、メグレは彼女の腕をつかむと、むりやり車椅子に坐らせてしまった。
「動くんじゃない。マニュエルが一日の大半を過していた場所に寸分もたがわないように、おまえをおいてみたいんだ。ここだ! まさにここだ! 手の届くところにラジオがあるし、もう一方の手の届くところには雑誌が。ここだな?」
「そうよ」
「そして、ラジオのうしろには自動拳銃があった、マニュエルはその自動拳銃なしでは絶対に移動しなかった、そうだな?」
「知らないわ」
「おまえは嘘をついている。マニュエルが毎朝自動拳銃をそこにおき、夜には寝室に持ち去っているのを、おまえは見ていたからだ。そうだろ?」
「そうでしょ」
「そうでしょ、とは何だ! そのとおりなのだ! おまえは、私がここに二十回、いや三十回も来て、彼とおしゃべりしたのを忘れている」
彼女は、マニュエルが死んだ車椅子のなかで釘づけになり、顔色もなかった。
「こんどは、私の話を黙って聞け。おまえはパパの額にキスし、客間のドアから最後の微笑を送ったあと、おめかしして買物に出かけた。
このとき、拳銃はまだラジオのうしろのいつものところにあったと考えられる。フェルナンが鍵を持って入ってくる。彼には、必要なときにマニュエルと接触することができるように鍵がわたされていた。
家具類をよく見るんだ。おまえはフェルナンが、車椅子のまわりを回り、自動拳銃をつかむためにラジオのうしろに手をすべりこませ、マニュエルの首に最初の一発をぶち込んだと思うのか?
いや、そうじゃない。マニュエルは聖歌隊の子供じゃないから、最初から用心していただろう。
いいか、真相はこうだ……おまえがパパにキスしたとき、おまえがパパに微笑んだとき、おまえがかわいいお尻をふりふり、おしゃれな、美しい女の軽快な足取りで出て行ったとき、自動拳銃はすでにおまえの買物袋のなかにあった。
すべては分刻みできめられていた。踊り場で、まるで偶然のようにして部屋から出てきたフェルナンの手に、その自動拳銃をそっとわたすだけでいい。
おまえはそのままエレベーターに乗り、買物に行き、おいしそうな肉の赤身や、土の匂いのする野菜を買う。一方、フェルナンは取り決めた時刻を自分の部屋で待っている。マニュエルの車椅子を一まわりする必要もなければ、ラジオのうしろに手をすべり込ませる必要もなかった。
二、三、言葉をかわしたあと、さっと撃ち殺す。私は、マニュエルが銃をよく手入れしていたのを知っている。自動拳銃には十分油が差してあった。だから、きっとおまえの買物袋のなかにはこの油のしみがついているにちがいない」
「そんなの嘘よ!」と、彼女はさけぶなり、メグレに飛びかかると、拳で肩や顔をたたいた。
「わたしはマニュエルを殺さなかった! やったのはフェルナンよ! 彼がみんなやったのよ! 彼が全部計画したんだわ!」
警視は、この拳を避けようとはせず、ただジャナンを呼んだだけだった。
「ジャナン、この女をたのむよ」
「手錠をかけましょうか?」
「おとなしくなるまで。よし、彼女をこのソファに寝かせておこう。きみに何か食べ物を届けさせるよ。私も何か昼食を見つけるとしよう。あとで彼女は着物を着なければならない、いや、われわれがむりやり彼女に着物を着せなければならなくなるかもしれないな」
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第八章
「おやじさん、まずビールだ」
この小さなレストランにはまだ昼食の料理の匂いが残っていたが、紙のテーブル・クロスはすでにテーブルから消えていた。新聞を読んでいる客が一人、片隅にいるだけだった。
「おやじさん、ボーイにサンドイッチを二つか三つ、それと赤ぶどう酒を一壜、通りの向こうに運ばせてくれないか、五階の左側のアパルトマンだ」
「あなたはいかがなんです? 昼食をすませたんですか? あそこはもう終ったんですか? あなたもサンドイッチをどうです? カンタル産のハムが入ったのを?」
メグレは下着が汗でしめっているのを感じていた。どっしりしたからだはからっぽで、手足はだるかった。まるでいままで闘ってきた高熱が、とつぜん下がった人間のようだった。
数時間の間、メグレは自分をかこむ日常の装置などに目もくれず、突進した。今日が何日か聞かれても、答えられなかっただろう。時計が二時半をさしているのを見てびっくりした。
何か忘れていないか? 約束を一つ、すっぽかしてしまったらしいことは漠然とわかっていたが、どんな約束だったか? あ、そうだ! ゴブラン並木通りの『ジェロ』の息子が、フェルナン・バリヤールがまわって歩いていた宝石店のリストを、メグレのために用意しておいてくれるはずだった。
いままでリストどころではなかったのだ。しかし、リストはあとで役に立つだろう。警視は、これからの数週間、小柄な予審判事が乱雑なオフィスにつぎつぎと証人を呼び出している姿や、ますます厚くなっていく書類を少しずつ頭に入れている姿を想像した。
世間はメグレのまわりでふたたびよみがえりはじめていた。通りの物音が聞こえだし、陽光の反射が目についた。メグレはゆっくりとサンドイッチを味わった。
「おいしいでしょう、このぶどう酒?」
「人によっては、味が少し渋すぎると言うんじゃないかな。それも混ぜ物をしていないせいだ。私のところにも義弟から直送されてくるんだが、彼は年に二十樽ほどしかつくらない」
メグレはジャナンのところに運ばせたのとおなじぶどう酒を飲んだ。『シェ・ローヴェルニャ』を出たとき、メグレにはもう、さっきのあの迫りくる牡牛のような様子は失くなっていた。
「ここがまたもとのように静かになるのは、いつですかね?」と、メグレが通りかかると、女管理人は嘆いた。
「もうすぐ、もうすぐです、奥さん」
「家賃はいままでどおり、あの若い女にわたすんですか?」
「どうかな。予審判事が決めるでしょう」
エレベーターで五階に行った。メグレはまず右側のドアのベルを鳴らした。バリヤール夫人がドアを開けた。目がまっ赤で、あいかわらず朝のときの花模様のあるドレスを着ていた。
「あなたにさよならを言いに来たのです、ミナ。こうあなたを呼ぶことを許してください。地獄のようなドウェで、どこに行くのかも知らずまっすぐ歩いて行く血だらけの顔の男の手を、かわいい手でにぎりしめていたあの小さな女の子のことが私には忘れることができないのです。あなたも、どこに連れられていくのかわからなかった」
「本当ですか、警視さん、わたしの夫が……」
彼女は『人殺し』という言葉を口にする勇気がなかった。
メグレはうなずいた。
「あなたは若い、ミナ。元気を出しなさい!」
バリヤール夫人の唇はふるえ、やっとこうつぶやいた。
「どうしてわたし、何も気づかなかったのかしら?」
とつぜん、彼女はメグレの胸にしがみついた。メグレは彼女を思いきり泣かせてやった。そのうちまた、彼女は新しい支えを、ふたたびすがりつく別の手を見つけるだろう。
「あなたにまた会いにくることを約束します。お大事に。人生はつづくのです」
向いのアパルトマンでは、アリーヌがソファの縁に坐っていた。
「出かけよう」と、メグレが言った。「さあ、服を着るんだ。それともそのままむりやり車に乗せてもらいたいか?」
アリーヌは、さんざん考えたすえ決心した人間のような目で、彼を見つめた。
「彼に会えるの?」
「会えるよ」
「今日?」
「ああ」
「彼と話せる?」
「ああ」
「好きなだけ?」
「好きなだけ」
「シャワーを浴びてもいいわね?」
「浴室のドアを開けたままにしておくならば」
彼女は肩をすくめた。人に見られようが見られまいが、いまの彼女にはどうでもよかったのだ。一時間近くの間、彼女は化粧についやしていたが、これまでのうちでもいちばん念の入ったものだったにちがいない。
わざわざ髪を洗い、ドライアーで髪を乾かすことまでした。しかも、シンプルな黒のサテンのドレスを選ぶまでにかなり迷っている。その間じゅうずっと、彼女はきびしい目を、決然たる顔つきをしていた。
「ジャナン! 階下《した》に行って、警視庁の車があるかどうか見てきてくれ」
「はい、警視《パトロン》」
しばらく、メグレと若い女は客間のなかで二人きりだった。彼女は手袋をはめていた。通りに面して開いている二つの窓から陽光がいっぱいに差し込んでいる。
「あなたはマニュエルにたいして弱味があったんでしょ?」と、彼女はつぶやいた。
「そう、ある意味では」
彼女はためらった後で、メグレを見ずにつけ加えた。
「わたしにたいしても、そうじゃない?」
メグレはくり返した。
「ある意味では」
そう言うと、彼はドアを開き、二人が出るとふたたび閉め、鍵をポケットに入れた。二人はエレベーターで降りた。黒い車のハンドルの前に刑事がいた。ジャナンは歩道で、手もちぶさたにしていた。
「きみは家に帰って、ぶっつづけに十時間ほど眠るといい」
「女房と子供たちが私をおとなしく寝かせておいてくれないんです! それでも感謝します、警視《パトロン》」
ハンドルをにぎっているのはヴァシェだった。メグレはヴァシェの耳に小声で二言三言ささやくと、後ろの座席にいるアリーヌのわきに坐った。百メートルほど走ったとき、外をながめていたアリーヌが、メグレのほうを向いた。
「どこに行くの?」
司法警察局への一番近い道を取らずに、車はいまグランド・アルメ並木通りを走っていた。ついでエトワール広場をまわると、シャンゼリゼを降りはじめた。
彼女はこの光景を、もう二度と見られなくなるかもしれないことを知っていたので、一心不乱に見つめた。いつの日かまた見られるとしても、そのときは老いぼれ女になっているだろう。
「わざわざこうしてくれたの?」
メグレは返事をせずにため息をついた。二十分後に、彼女はメグレのあとについて彼のオフィスに入った。警視はわが家にもどったようで、いかにもうれしそうだった。
彼は何気なくパイプを並べなおすと、窓の前に立ちふさがり、最後に刑事部屋のドアを開けた。
「ジャンヴィエ!」
「はい、警視《パトロン》」
「留置所まで行って、バリヤールを連れてきてくれないか? アリーヌ、坐りたまえ」
メグレはいま、まるで何事もなかったかのように彼女を取り扱っている。彼はもうこの事件にかかわりもないようだった。すべての事件が彼の人生の幕間でしかないかのようだった。
「もしもし! アンスラン予審判事をおねがいします。もしもし、もしもし! アンスラン判事ですか?メグレです。ええ、私はオフィスにいます。いま、あなたのご存知の若い女と一緒にオフィスに着いたところです。いや、しかし、それは間もなくです。二人の対決にあなたも立ち合いたいのではないかと。ええ、ただちに。彼はいまにも来ますから」
彼は上衣を脱ぐことをためらい、予審判事がやってくるので、結局脱ぐのをやめにした。
「いらいらするか?」
「あなたは何を考えているの?」
「これから野獣同士の闘いが見られる」
女の目がきらっと光った。
「おまえが武器を持っているなら、あの男の身柄をあずけたりはしないさ」
小柄な予審判事が最初に元気よく入ってくると、坐ったばかりの黒いドレスの若い女を好奇心を抱いてながめた。
「判事さん、私の席に坐ってください」
「いや、私は……」
「どうぞ。私の役は実質的には終ったのですから。あとはただ、確証と、証人の尋問と、報告書を起草し、それをあなたにわたすことだけです。まあ、書類の仕事は一週間はかかるでしょう」
廊下に足音がし、ジャンヴィエがドアをノックし、手錠をかけられたフェルナンをオフィスのなかに押し入れた。
「この二人は、今後あなたのものです」
「警視、この男の手錠をはずしてもかまわないですか?」
「用心ぶかいやり方とは言えませんね。ジャンヴィエ、きみはここに残っていてくれ。私は刑事部屋にまだ猛者《もさ》どもがいるかどうかたしかめてみる」
アリーヌは長い間彼女の愛人であった男の匂いをかぐような様子をして、いきなり立ち上った。
いや、彼女の愛人ではない、彼女のオスだ。そして、彼女は彼のメスなのだ。
この静かなオフィスのなかで二匹の動物が見つめ合っていた。まるで砂漠か、ジャングルのなかで見つめ合っているように。
二人の唇はふるえ、鼻孔がちぢまった。フェルナンは喉をゼーゼーさせながら、こう言った。
「じゃ、おまえは……」
フェルナンの前に立ちはだかり、胸をそらし、両腕をわななかせた彼女は、憎悪に燃えた顔をつき出すと、彼の顔に唾をひっかけた。
唾をぬぐいもせずに、こんどはフェルナンがおどすように両手を前につき出しながら、一歩踏み出した。小柄な予審判事はメグレの肱掛け椅子のなかで、落着かなげにからだを動かした。
「この売女《ばいた》め……」
「悪党……ならず者! 人殺し……」
彼女はフェルナンの顔を引掻いた。しかし、手錠をものともせず、フェルナンはすばやく彼女の腕をつかむと、彼女にのしかかるようにしてねじあげた。その目にはまたとない憎悪がこめられていた。
メグレはオフィスと刑事部屋の間に立っていたが、合図した。すると二人の刑事が飛びかかり、床に転がっているアリーヌとフェルナンを引き離しにかかった。
しばらくの間、組んずほぐれつがつづいた。やっと、血だらけの顔のバリヤールを立たせ、アリーヌには手錠をはめて、椅子に押しもどした。
「二人を別々に尋問したほうがいいと思いますよ、判事さん。もっとも困難なことは、彼らにしゃべらせることではなくて、黙らせることでしょう」
ルイ・アンスランは立ち上ると、警視を窓辺に引っぱって行き、身をよせてささやいた。彼はいましがた目にした光景のショックから、まだ立ち直っていなかった。
「私はこのような激しい憎悪を、動物のようなむき出しの感情を、まだ一度も見たことがありませんよ」
予審判事の肩越しに、メグレはジャンヴィエに言った。「こいつらを留置所にぶち込んでくれ」
そして、そのあと皮肉っぽく、つけ加えた。
「もちろん、別々にだ」
メグレはセーヌ河の静かな川面に顔を向けていたので、彼らが出て行くのを見なかった。河岸の上に、彼は見慣れた姿……釣師の姿をさがした。メグレはそれを数年前から『自分の』釣師と呼んでいた、おそらくいつもおなじ人間ではなかったにちがいないのだが。しかし重要なのは、サン・ミッシェル橋の近くにいつも釣りをしている人間がいるということなのだ。
四艘のはしけを曳いている曳船が、流れをさかのぼって行った。石のアーチの下を通るときには煙突を傾けた。
「言ってくれ、メグレ君、あなたの意見では、二人のうちのどちらが……」
警視はパイプにゆっくりと火をつけると、あいかわらず外をながめながら、
「判事職を奉じているのは、あなたではありませんか? 私のほうはただ、彼らをありのままにあなたに引きわたすことができるだけです」
「あれは、いいながめじゃなかった」
「ええ、いいながめではありません。ドゥエだって、そうだったんです」(完)
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訳者あとがき
メグレ警視シリーズは『怪盗レトン』(一九二九年)から『メグレとムッシュー・シャルル』(一九七三年)まで、長篇、中短篇合わせて百冊以上あるが、この四十四年間にシムノンは三回メグレ物を書くのをやめている(このことはすでに『メグレと口の固い証人たち』のあとがきでふれておいた)。したがって、シムノンがメグレ物を書いた時期というのはつぎのようになる。
第一時期、一九二九年〜一九三三年
第二時期、一九三八年〜一九四一年
第三時期、一九四五年〜一九七三年
この『メグレと宝石泥棒』は、この第三時期に属する作品である。この時期のメグレ物の特徴の一つは、メグレがしばしば定年退職のことを口にすることだ。たとえば本書でも、定年まであと二年と数カ月に迫ったメグレが、「一度も病気したことがないし、いかなる肉体的なハンディキャップもない男が」五十五歳を一日でも過ぎると、「とつぜん犯罪捜査課の指揮が」できなくなるなんて、はなはだもっておかしいとぶつぶつ言っている。
そういう不安とも憤慨ともつかない気持が、宝石店を専門に荒しまわる強盗団を追っている間じゅう、メグレにつきまとって離れない。あるときは、ムン・シュール・ロワールにある小さな別荘で夫人と二人、静かな余生を送るのもいいものだと思ったりして、わが身をなぐさめたりする。
定年退職のことは、最近日本でも非常に話題になっているが、フランスの警察官の定年がどうなっているかちょっと見てみよう。この作品の書かれた一九六三年と現在とではちょっとちがって、二年ほど延長になっている。
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第一段階(六十歳)…総局長、局長、部長、高等警察学校長、局長補佐、副局長、監査官。
第二段階(五十九歳)…なし。
第三段階(五十八歳)…警視長。
第四段階(五十七蔵)…警視正、警視。
第五段階(五十六歳)…司令官、主任指揮官、指揮官。
第六段階(五十五歳)…私服主任警部、私服警部、私服警部補、制服主任警部、制服警部、主任巡査部長、巡査部長、巡査長、巡査。
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以上のようになる。メグレはこれによると、第四段階(五十七歳)に相当するわけだから、あと四年と数カ月は大丈夫ということになる。
この機会に、メグレ物を楽しく読むための手助けになると思うので、メグレの人間像の一部をここで簡単に紹介しておこう。
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*本名。ジュール・メグレ。
ムーランから二十五キロのところにあるマティニョンのサン・フィアクル村で生れる。サン・フィアクルの城館《シャトー》の管理人エヴァリスト・メグレの一人息子。
十九歳のとき孤児になる。父親が死んだとき、メグレはナントで医学の勉強中だった(医学校は中途退学)。ナントでは叔母の家に下宿する。
*身長一メートル八十、体重百十キロ。
頭髪はくすんだ栗色。こわい。びんのあたりに白いものが何本か見える。がっしりした、力強い体つき。ある一時期、肥っていたことがある。
*アルザス生まれのルイーズと恋愛結婚。
彼女は叔父夫婦によってパリで育てられた。丸ぽちゃで、料理が上手な女である。メグレ夫婦には子供がない(女の子が生れたが、幼年で死亡)。
*住所はパリ十一区、リシャール・ルノワール大通り三十番地。五階のアパルトマン。
*服装は、最初の頃はビロードの襟のコート、山高帽、編上靴。長もちのする黒サージのスーツに、ネクタイをきちんと結ばない。後になると、もっとおしゃれになる。スーツ、白いワイシャツ、ズボンつりとチョッキ。厚ぼったいコート、帽子。
*癖……パイプ、シガレットはやらない。ぼさぼさの髪をよくかく。ダンス、ブリッジができない。車の運転もできない。甘いものが好きではない。自分のオフィスのストーブを火掻き棒でかきまわす。
*ドイツ語をいくらかしゃべる。英語とブルターニュ語を理解する。
*口ぐせ……「|私は何も信じない《ジュ・ヌ・クロワ・リヤン》」あるいは「全然《リアン・デュ・トゥ》」。
水をあたりにはねちらかしながら手を洗う。大理石のテーブルの上で手紙を書くのをきらう。ちっぽけな文字を書く。みみずが這いまわっているような文字。
*その捜査方法のために、ときどき同僚から勝手気ままな人間と思われている。
*定年後は、ムン・シュール・ロワールの小さな別荘に隠棲するつもり。
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メグレ物を、サスペンス風なもの(『メグレと政府高官』など)と、本格的な謎とき風なもの(『メグレと口の固い証人たち』など)に大別すれば、この『メグレと宝石泥棒』は後者に属するだろう。六階建てのアパルトマンの一室で殺人事件が起こり、あたりの状況からそこの住人たちのだれかが疑わしくなってくる。そういった一種の密室もの的な謎ときに、今回のメグレは挑戦していくのである。作品のおもしろさから言ったら、五本の指に入ることはまちがいない。(訳者)