メグレと口の固い証人たち
ジョルジュ・シムノン/長島良三 訳
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
訳者あとがき
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第一章
「傘を忘れていないわね?」
「うん」
ドアが閉まりかかり、メグレはすでに顔を階段のほうに向けていた。
「マフラーをしていったほうがいいわ」
夫人はマフラーを取りに走って行ったが、このちょっとした言葉がしばらくメグレを困惑させ、つづいて憂鬱《ゆううつ》な気持にさせたとは思いもしなかった。
十一月になったばかりで……十一月三日……、まだ特別に寒いというわけではなかった。ただ低い、単調な空から、いつもの雨よりずっと激しい、陰鬱な雨が落ちていた。とくに明け方はひどかった。
さきほどベッドから出たとき、メグレはしかめ面《つら》をした。頭をまわすと、頸《くび》が痛かったからである。斜頸《しゃけい》というより、肩が凝ったか、大げさに痛んだにすぎないのだろう。
前日、映画館から出ると、メグレ夫妻は通りを長い間歩いたのである。雨はすでに降っていた。こんなことはすべて重要ではない。しかし、このマフラーのために、夫人が編んでくれたこの厚いマフラーのために、メグレは自分が老人のような感じがするのだろう。
濡れた足跡がついている階段を降り、傘をさして歩道を歩きながら、メグレは前日夫人がいったことをふたたび考えた。二年後に、メグレは定年退職するのである。
彼は夫人とそのことをよろこんだ。夫妻は二人が暮らす田舎のこと、二人が好きなムン= シュル・ロワールのことを長い間、のんびりと話し合った。
走ってきた無帽の少年がメグレを突き飛ばし、詫びもいわなかった。若い夫婦が腕を組み、一つの傘に入って歩いてきた。二人とも近くの事務所で働いているにちがいない。
昨日の日曜日はいつもより人気《ひとけ》のない日曜日だった。たぶん今年は万霊祭にあたっていたからだ。今朝はまだ菊のかおりが残っている。メグレ夫妻は昨日、窓から、家族連れが墓地のほうに歩いて行くのを見た。夫妻にはどちらも、パリで死んだ者がいなかった。
ヴォルテール通りの角でバスを待っていたメグレは、デッキのついていないバスが来るのを見て、いままでよりさらに憂鬱になった。というのは、デッキがなければ立ったままでいることはできないし、パイプを消さざるをえないからだ。
二年間なんてすぐにすぎてしまう。そうなればメグレはもうマフラーをする必要がなくなるし、今朝のような嫌な雨のなかを、無声映画とおなじ黒と白のパリを横切って行くこともなくなるのだ。
バスは若い人たちで一杯だった。ある者はメグレのことを知っていたし、ある者はメグレのことを気にもかけなかった。
オルフェーヴル河岸では、雨はもっと斜めに降り、もっと冷たかった。メグレは司法警察局の円天井の玄関に急いで入った。隙間風が流れ込んできていて、階段のほうに抜けていた。メグレはすぐにこの建物の一種独特な匂いや、つけっぱなしの電灯の青緑色の光を見、あとわずかで毎朝ここに来ることもなくなるのだな、と考えて悲しくなった。
いわくありげな理由で、定年退職をまぬかれているジョゼフ老人は、共犯者のような様子でメグレに挨拶すると、ささやいた。
「ラポワント刑事がお待ちかねです、警視さん」
いつもの月曜日のように、待合室や広い廊下には人がたくさんいた。見知らぬ人も何人かいた。こんなところにいるのが不思議なくらいの若い娘も二、三人いた。それから、周期的にどこかのドアの前に立っている定連たち。
メグレは自分のオフィスに入り、戸棚に外套と帽子と例のマフラーをひっかけたが、夫人がいいつけたように傘を開いて部屋の隅で乾かすのはためらった。結局、傘は戸棚の片隅に立てかけておいた。
八時半近かった。郵便物がデスクの上で待っていた。メグレは刑事部屋のドアを開けると、リュカや、他の二、三の刑事たちに手で挨拶した。
「私が来たことをラポワントに知らせてくれ」
警視の機嫌がよくないという噂が口から口へと伝わった。が、それは正確ではない。ときどき、気むずかしく、むっつりしていて、怒りやすい日があるものである。こういう日は、もっとも幸福な日々とおなじようにあとで思い出すものだ。
「おはようございます、警視《パトロン》」
ラポワントの顔色は蒼ざめ、眼は睡眠不足でちょっと赤かったが、よろこびできらきら輝いていた。彼は待ちきれずにそわそわしていた。
「うまくいきました! やつを逮捕しました!」
「どこにいる?」
「廊下の端の小部屋に。トランスが見張ってます」
「何時に?」
「朝の四時にです」
「しゃべったか?」
「コーヒーを出し、六時頃には二人分の朝食を取りよせて、私たちは古い友達のようにおしゃべりをしました」
「彼を連れて来たまえ」
それは、みごとな盗みっぷりだった。数年前から『忍耐屋《ラ・パシアンフ》』とか『修道者《ル・シャノワーヌ》』とかのあだ名のあるグレゴワール・ブローは盗みを働きつづけたが、現行犯で捕《つか》まることはなかった。
ただ一度、十二年前に捕まったが、そのときは寝すごしたためで、刑期をつとめあげるや、ふたたび盗みをはじめた。が、手口はまったく前とおなじだった。
彼はラポワントに先導されて、オフィスに入ってきた。ラポワントは今年中でいちばん大きな虹鱒《にじます》か、かますを釣ったかのように勝ち誇っていた。グレゴワール・ブローは書類に夢中になっているメグレの前に気まずげに突っ立ったままでいた。
「坐りたまえ」
それから、警視は手紙を読み終えると、つけ加えた。
「たばこは?」
「あります、メグレさん」
「喫ってもいいよ」
グレゴワール・ブローは四十三歳の肥った男だった。小学校に行っているときから、彼はすでにぶくぶく肥っていたにちがいない。顔色は薄いばら色で、すぐに赤くなった。団子鼻で、二重|顎《あご》だが、あどけない口許をしている。
「やっぱり捕まったのか?」
「はい、捕まりました」
最初に彼を捕まえたのはメグレだった。それ以来二人はたびたび顔を合わせ、挨拶したが、怨みなどなかった。
「おまえはまたやったな!」と、警視はアパルトマンの空巣ねらいのことをほのめかした。
肯定するかわりに、『修道者』はつつましく微笑んだ。警察は何一つ証拠をあげることができなかった。しかし、たとえ指紋一つ残さなくても、彼の空巣はサインを残したも同然だった。
彼はいつの場合でも信じがたいほどの忍耐強さで準備し、一人でしのびこんだ。彼はとりわけ物静かな男で、放蕩《ほうとう》もしなければ、情熱もなく、神経質でもなかった。大部分の時間を、彼はバーや、カフェや、レストランの片隅に坐って、新聞に読みふけっているふりをしたり、うとうとしたりして過ごしていた。が、鋭い耳はまわりでいわれていることを何一つ聞き洩らさなかった。
また彼は、週刊誌の熱心な読者だった。社交界の記事や消息を注意深く調ベ、だれよりも著名人の動静に通じていた。
ある日、ある著名な人物から司法警察局に電話がかかる。ハリウッドや、ロンドンや、ローマや、カンヌから帰ってきて、アパルトマンが空巣ねらいにあっていることを知った映画スターからかかってくることもある。
メグレは最後まで聞く必要はなかった。ただ彼はこうたずねる。
「冷蔵庫は?」
「空っぽです!」
酒壜棚もおなじだった。その上、きまってベッドは乱れ、家の主人のパジャマや部屋着やスリッパなどが使われている。
これが『修道者』のサインだった。二十二歳で初仕事をしたとき以来の奇癖だった。たぶんその初仕事のとき、彼は本当に空腹だったし、良いベッドがほしかったのだろう。アパルトマンが数週間空で、召使いも残っていず、管理人も窓を開けに部屋に上って来ないことをたしかめると、彼は鉄てこを使わずに侵入する。あらゆる錠前の仕掛けを知っていたからだ。
アパルトマンに入ると、あわてて宝石や、絵画や、骨董《こっとう》品などの貴重な品物をかき集めたりせず、しばらくの間そこに居ついてしまうのである。普通は食物がなくなってしまうまで。
彼が立ち去ったあとには、空の罐詰《かんづめ》が三十個も、それにもちろん空壜も何本か、残っていたことがあった。彼は本を読み、眠り、他の住人には気づかれずに、いい気持で風呂にはいっていたのだ。
それから家に帰ると、ふたたびいつもの習慣にもどる。夜になるとテルヌ通りの、あまり評判のよくないバーにブロット(トランプ遊びの一種)をしによく出かけて行く。彼は一人で盗みを働いていたし、盗みのことはだれにもいわなかったので、店の人たちは彼のことを疑惑と尊敬の入り混った眼で見つめていた。
「あの女が手紙を書いたか、電話をしたんですね?」
彼はこの質問を憂鬱そうにしたが、それはさきほどメグレが家を出たときの憂鬱さと似ていた。
「なんのことをいっているんだ?」
「あなたはよくご存じのはずです、メグレさん。もし手紙か電話がなかったなら、あなたは私を捕まえられませんでした。あなたの刑事さんは(彼はラポワントのほうを向いた)私が着く前にあの家の階段にいました。通りにはもう一人の刑事さんがいたと思います。そうですね?」
「そのとおりだ」ラポワントが、エルヴァールとかいう人のアパルトマンがあるバッシイの建物の階段で過ごしたのは一晩ではなく、二晩だった。このエルヴァール氏は二週間の予定でロンドンに発っていなかった。新聞はこの旅行のことを報じていた。彼は映画にも、有名なスターにも関係があったからだ。
『修道者』は著名人たちが出発したあと、すぐには彼らの家に行かなかった。時間をかけ、用心した。
「どうして私はあなたの刑事さんに気がつかなかったのでしょうね。まあ、いい経験だ! やはり彼女《あいつ》が電話したんですね?」
メグレは首をふった。
「手紙を書いたんですね?」
メグレはそうだ、とうなずいてみせた。
「その手紙を見せてもらえないでしょうね? あいつは筆蹟を偽ったにちがいないと思いますが?」
そうではなかった。が、そのことをいっても仕方がないことだった。
「信じたくはありませんでしたが、いつかこうなるんじゃないかと思っていました。こういってはなんですが、あいつは|あばずれ《ヽヽヽヽ》なんです。しかし、私はあいつを恨みたくない……それでも二年間たのしかったんだから」
何年間というもの、彼には色っぽい話がなかった。ある者は、彼が品行方正なのはその肉体のせいだといってからかった。
突然、四十一歳のとき、彼はジェルメーヌという女と世帯をもった。ジェルメーヌは彼より二十歳年下で、しばらく前からワグラム通りで立っていた女だった。
「おまえは市役所にちゃんと結婚届を出したのか?」
「教会で式も挙げました。あいつはブルターニュ人です。いまではもうあいつはアンリの家に引越してしまったと思いますが?」
淫売宿の若い亭主、アンリ・モン・ヌイユのことをいっているのだ。
「おまえのところに連れて来たのも、あの男なんだろう」
『修道者』は憤慨しているのでも、不運を嘆いているのでもなかった。ただ自分だけを責めていた。
「私はどれほど入れられているんです?」
「二年から五年の間だ。ラポワント刑事はおまえの供述を取ったな?」
「私がいったことを、刑事さんは書き取りました」
電話が鳴った。
「もしもし! メグレ警視だが」
メグレは聞き入っていたが、眉をひそめた。
「すまないが、名前をもう一度たのむ」
メグレはメモ綴りを引きよせて書いた。ラショーム。
「ガール河岸? イヴリの? うん……現場には医者がいるね? 男は死んでいるのか?」
急に『修道者』は重要さを失った。彼もそれを感じているらしかった。いわれもしないのに、彼は立ち上がった。
「あなたには他に用事ができたようですから……」
メグレはラポワントにいった。
「彼を留置場に連れて行き、それからきみは寝に行くんだな」
メグレは戸棚を開けて外套と帽子を取った。それから思い直すと、ばら色の顔色をした肥った男に手を差し出した。
「恨まないでくれ」
「わかってます」
メグレはマフラーをしなかった。刑事部屋に顔を出し、やってきたばかりでまだ仕事のないジャンヴィエを選んだ。
「私と一緒に来たまえ」
「ええ、警視《パトロン》」
「リュカ、きみは検事局に電話してくれ。イヴリのガール河岸で男が胸に一発|弾丸《たま》をくらって死んだ。名前はラショーム。あのビスケットのラショームだ……」
メグレは田舎の少年時代のことを思い出した。その頃、豆類や木底靴や糸を売っていた村の薄暗い食料品店にはどこにでもかならずセロファンでくるんだ包みがあった。その包みには『ラショームのビスケット』というラベルがついていた。
また、『ラショームのバター菓子』や『ラショームのウェファー』もあって、どちらもちょっとボール紙のような味がした。
あれ以来、メグレはもうラショームの菓子について話すのを聞いていない。けばけばしい色の頼っぺたをした小さな男の子が、間抜けな微笑をうかべてウェファーを食べている絵のついたカレンダーももう見かけない。人里離れた田舎で、消えかかったこの名前を壁に見かけることさえ今日ではまれだ。
「もちろん、鑑識にも知らせてくれ」
「わかりました、警視《パトロン》」
リュカはすでに電話を手にしていた。メグレとジャンヴィエは階段を降りた。
「車で行きますか?」
メグレの憂鬱は司法警察局の毎日の雰囲気のなかで消えてしまっていた。いつもの仕事に取りかかると、メグレはもはや自分の人生を考えたり、自問したりするようなことはなかった。
そういう意味で月曜日はよくない。車に坐ると、彼はパイプに火をつけ、いつものすばらしい味を味わいながら、たずねた。
「きみは、ラショームのビスケットを知っているかい?」
「知りません」
「もちろん、きみは若すぎるな」
しかも、パリでは一度も売られていなかったのではないだろうか? 田舎向きにしかつくられていない商品はたくさんある。また、もう時代遅れになってしまったが、限られた客のために細々とつくられている商品もある。メグレは若い頃の有名なアペリチフを思い出した。いまではこのアペリチフは街道から遠く離れた、へんぴな宿屋にしかおいてない。
橋をわたると、一方通行のため河岸をそのまま行くことができなかった。そのためジャンヴィエはシャラントンの正面のセーヌ河にもどる前にあちこち廻り路をしなければならなかった。河の向こう側に、葡萄酒の市場が見えた。左手の河の上の鉄橋を列車がわたっている。
このあたりは昔は一戸建ての家か、煉瓦《れんが》や材木などの置場しかなかったが、いまでは七、八階建ての高層住宅がたくさんある。一階は商店や酒場《ビストロ》になっている。しかし、まだあちこちに穴があったり、空地や作業場や低い家が二、三軒残っている。
「何番地ですか?」
メグレは番地をジャンヴィエにいった。車は、石と煉瓦造りの、かつては豪華なものだったにちがいない三階建ての家の前に停った。家のうしろに工場の煙突のような高い煙突が見えた。車が一台、入口の前で停っている。巡査が歩道を行ったり来たりしている。ここがまだパリなのか、すでにイヴリなのかいうことはむずかしかった。さっき通りすぎた曲り角がパリとの境いの通りかもしれなかった。
「おはようございます、警視殿。門には鍵がかかっていません。階上《うえ》であなたをお待ちかねです」
車の出入りできる緑色の正門のことである。一方の端に小さな出入口がついている。メグレたちは警視庁にあるような円天井の玄関に入った。だが、ここの円天井の玄関は向こう側が磨《す》りガラスの扉によって塞《ふさ》がれている。
じめじめしていて、冷たかった。ドアは玄関の両側についている。メグレはどちらのドアを押したものかと迷い、右側のドアを選んだ。それでよかったにちがいない。ホールのようなものがあったし、大きな階段もあったからだ。
かつては白かった壁も黄色くなり、褐色のしみがついていた。ひびの入った漆喰《しっくい》はところどころ剥《は》げ落ちている。階段は最初の三段が大理石で、あとは木でできていた。もう長い間掃除をしていないらしかった。足の下でぎしぎしいった。
ここは、入ったときいつでもドアをまちがえたような気になる役所のオフィスを思い出させた。しゃべったとしても、反響しないのではなかろうか?
二階を歩く足音が聞こえ、疲れた様子のまだ若い男が手すりから身を乗り出した。メグレが踊り場に着くや、その男は自己紹介した。
「ルグランです、イヴリ警察署の秘書の。……署長があなたをお待ちです」
ふたたびホール。大理石の床である。窓にはカーテンがないので、セーヌ河と雨とが見えた。
大きな家だった。役所のようにあちこちにドアがあり、廊下がつづいている。いたるところが灰色で、古臭いほこりの匂いがした。
左手の、狭い廊下の端にあるドアを秘書はノックし、開けた。そこは寝室だった。薄暗いので、署長は電気をつけっ放しにしていた。
この寝室は庭に面していた。ほこりだらけのモスリンのカーテンを通して、すでに外で気がついた煙突が見える。
メグレはイヴリの警察署長をぼんやりと知っていた。この署長はメグレより若かった。彼はうやうやしくメグレの手をにぎった。
「私は電話を受けるや、ただちにここに素っ飛んできたのです……」
「医者はもう帰ったのですか?」
「緊急の用事がありまして。いずれにいたしましても、まもなく検視医が見えますので、引きとめておくこともないと思ったのです」
死体はベッドの上に横たわっていた。署長のほかに、寝室にはだれもいなかった。
「家族の人たちは?」
「自分の部屋とか客間に行かせました。そのほうがあなたにはいいかと思いまして……」
メグレはポケットから時計を出した。九時四十五分だった。
「いつ、あなたは知らせをうけたのです?」
「一時間ほど前です。私はまだ警察署に着いたばかりでした。だれかが私の秘書に電話してきて、私にここに来るようにいったのです」
「それがだれだかわかりますか?」
「ええ。弟のアルマン・ラショームです」
「彼のことを知っていましたか?」
「名前しか知りません。文書の署名のことや、その他の手続きのことでときどき署に見えたにちがいありませんが、彼は人目を惹くような人間ではないのでして……」
『人目を惹くような人間ではない』この言葉がメグレをとらえた。彼にはこの言葉が理解できた。というのは、ラショーム・ビスケットのように、この家も、時代から、現代の生活から遠く離れているように思われたからだ。
メグレがこのような寝室を見かけなくなってから、もう数年たつ。一世紀の間、この寝室は少しも変わらなかったにちがいない。引出しの付いた洗面器台さえあった。上部に灰色の大理石板がついていて、花模様のついた陶器の水差しや洗面器、またおなじ陶器でできた石鹸や櫛を入れる皿も載っていた。
家具やその他の品物もそれ自体特別に醜《みにく》いというわけではなかった。ある品物は競売や、骨董屋ではかなりの価値になるにちがいなかったが、その配列ぐあいのため、陰鬱で、息苦しい物となっていた。
ある瞬ヤゥら、それももうずっと前に、ここでの生命は停止しているようだった。ベッドに横たわっている男の生命ではなく、この家の生命が、家のまわりの生命が。カーテン越しに見える工場の煙突でさえ、黒い煉瓦をはめこんでつくった『L』という文字とおなじように滑稽で、古くさかった。
「物盗り?」
引出しが二、三開いていた。洋服箪笥の前には、ネクタイやシャツが床に散らばっている。
「かなりのお金が入っていた紙入れがなくなっているようです」
「これはだれです?」
メグレはベッドの上の死んだ男を指さした。シーツや毛布が乱れている。枕は床に落ちていた。片腕がだらりと垂れている。火薬で焼けたか裂けたかしたパジャマに、血がついていた。
メグレは今朝、無声映画のような白と黒のみごとなコントラストのことを考えたが、今この部屋のなかで突然、昔の日曜日の新聞のイラストのことを思い出した。まだ写真製版のできる前で、その週の評判の事件のイラストを木版画でやっていた頃の新聞。
「長男のレオナール・ラショームです」
「結婚していましたか?」
「男やもめです」
「いつ殺されたのです?」
「昨夜。ボワザン医師によれば、死んだのは午前二時頃ではないかと」
「家にはだれがいました?」
「ちょっと待ってください……三階の左側に老人夫婦、つまり死んだ男の父親と母親です……この二人と…子供が……」
「子供って?」
「死んだ男の息子です……十二歳の子で、いま学校に行ってます」
「こんな事件があったのに?」
「この子が八時に学校に出かけたときは、まだ事件がわかっていなかったらしいのです」
「それでは、だれ一人、物音を聞かなかったのですか? この家にはその他にまだだれかいますか?」
「女中が……カトリーヌという名前だったと思います……この女中は三階の老人夫婦と子供の近くに寝ています……この家ができたときからいる女中でして、ですからこの家とおなじように古びていまして……それから弟のアルマンが……」
「だれの弟?」
「死んだ男の……彼は廊下の向こう側に寝ています、彼の奥さんも」
「その人たちは昨夜、みんな家にいたのに、だれ一人銃声で眼が覚めなかったのですか?」
「そのようにいってます。私は彼らに二、三の質問をするだけにしておきました。むずかしいですよ。いまにわかります!」
「むずかしいって、なにがです?」
「知ることがです。ここに着いたとき、私にはなんのことかさっぱりわかりませんでした。電話してきたアルマン・ラショームが、私の車が停るやすぐに階下《した》のドアを開けました。彼はまだ寝ぼけているような感じで、私を見もしないでいったのです。
『兄が殺されました、署長さん』
彼は私をここに連れてきて、ベッドを指さしました。私がいつこうなったのかと聞くと、全然見当がつかないと答えました。
私はさらにたずねました。
『あなたはこの家にいたのではないのですか?』
『そうですが、自分の部屋で眠っていたのです』」
署長は自分自身に不満なようだった。
「私はどういったらいいのかわかりません。いつもは、このような事件が家のなかで起こると、家族の者はみんな死体のそばにいるのです、泣いたり、説明しようとしたり、しゃべりまくったりして……。こんどの場合、この家にいたのが男だけではなかったということを知るのに、かなりの時間がかかりました……」
「他の人たちに会いましたか?」
「彼の奥さんに」
「あなたに電話してきたアルマンの奥さんですね?」
「ええ。たまたま廊下に衣《きぬ》ずれのような音を聞き、ドアを開けてみました。彼女が立っていました……。夫とおなじように疲れた様子をしていましたが、ベつにばつが悪そうではありませんでした。彼女に、あなたはだれかとたずねると、アルマンがかわりに答えたのです。『ぼくの妻です……』
昨夜はなにも聞かなかったかとたずねますと、彼女は、聞かなかった、自分は睡眠薬を常用しているので、と答えました。なんという薬か私は知りませんが……」
「死体を見つけたのはだれです? そしていつ?」
「年寄りの女中が、九時十五分前に」
「彼女に会いましたか?」
「ええ。いま台所にいるにちがいありません。ちょっと耳が遠いようです。彼女は、上の息子がテーブルについていないので心配になったんです。というのは、みんな一緒に食堂で朝食を取る習慣があったからなんです。結局、彼女がドアをノックしに行き、部屋に入って、みんなに事件を知らせたのです」
「老人夫婦は?」
「なにもいいません。母親は半身不随で、正気でないかのようにじっと前を見つめています。父親のほうは悲しみのあまり、なにを聞いても上《うわ》の空です」
署長はくり返した。
「いまにわかりますよ!」
メグレはジャンヴィエのほうを向いた。
「ちょっとまわりを見てきてくれないか?」
ジャンヴィエは出て行き、警視はやっと死んだ男に近づいた。男は左わきを下に、顔を窓のほうに向けて横たわっている。だれかがすでに眼を閉じてやっていた。口は軽く開き、白い毛がいくらかまじった褐色の口ひげが垂れている。薄い髪がこめかみや額にぴったりくっついている。
顔の表情を判断することはむずかしかった。苦しんだようには見えなかった。呆気にとられた表情というのがいちばんぴったりするようだが、この感じは開いた口によるものではないのだろうか? そして、口を開いたのは死後ではないのか?
メグレは二階のホールに、ついで廊下に足音を聞いた。ドアを開いて、メグレは代理検事を迎え入れた。メグレはずっと以前からこの男を知っていた。代理検事はベッドを見ながらメグレの手をにぎったが、なにもいわなかった。メグレはまた書記のことも知っていたので、書記にうなずいてみせた。しかし、代理検事と書記のあとについてきた、外套も帽子もつけていない若い大きな男には一度も会ったことがなかった。
「アンジュロ予審判事です……」
まだ任命されて間もないこの若い判事は、テニス選手の手のような強い、手入れの行きとどいた手を差し出した。メグレはこのときもまた、すでに新しい世代に交代しつつあるのだな、と思った。
しかし、すぐあとから年取ったポール医師がやってきた。息を切らしていたが、動きはきびきびしていた。眼と厚い下唇とが貪《むさぼ》るようだった。
「死体はどこに?」
メグレは、予審判事の灰色がかったブルーの瞳が冷やかなのに、ついで額に咎めるかのようにしわをよせたのに、気がついた。
「写真班はもうすんだのかい?」と、ポール医師はたずねた。
「まだ来ていないのです。いま、彼らが着いたようです」
ポール医師は写真班の仕事が終るまで待たなければならなかった。つづいて鑑識課の連中が部屋にどかどかと入ってきて、仕事をはじめた。
片隅で、代理検事はメグレにたずねた。
「家族の争いですかね?」
「物盗りのようです」
「だれも物音を聞かなかったのですか?」
「聞かなかったと家族の者たちはいっていますが」
「この家に住んでいるのは何人です?」
「数えますからちょっと待ってください……老人夫婦と女中で三人…それに子供……」
「子供ってだれのです?」
「死んだ男の息子です……これで四人……それから弟とその奥さん……六人です! 殺された男を除いて六人です。この六人がなんの物音も聞かなかったのです……」
代理検事は戸口に近づき、壁紙に手をやった。
「壁は厚いようだが、それにしたって! 凶器はまだ見つからないのですか?」
「わかりません……イヴリの署長がまだそのことを話してくれませんから……私は捜査をはじめるのに、写真班や鑑識の仕事が終るのを待っているのです」
写真班の者たちはライトのためのコンセントをさがした。が、なかったので、部屋の真中にさがっている電球をはずさなければならなかった。彼らはぶつぶついったり、せきたてたり、指示をあたえたりしながら行ったり来たりした。その間、スポーツ部の学生のようにみえる灰色のスーツを着た予審判事は一言もいわず、身動きしないで待っていた。
「私はもう帰ってもよろしいでしょうか?」と、署長がたずねた。「私の控室には人がたくさん待っているにちがいないのです。やがて野次馬が歩道に集まりだすでしょうから、そのときのために巡査を二、三人ここによこしましょう……」
「ご親切にどうも」
「この界隈にくわしい刑事も一人、よこしましょうか?」
「いずれ必要になるでしょうから、そのとき電話します。どうもありがとう」
部屋を出て行きながら、署長はふたたびくり返した。
「いまにわかりますよ!」
代理検事は小声でたずねた。
「なにがいまにわかるのです?」
それにたいしてメグレは答えた。
「家族のこと……この家の雰囲気……署長が来たとき、寝室にはだれもいなかったのです……家族はそれぞれ自分の部屋か、食堂にいたのです……だれも動かないし、物音一つ立てません……」
代理検事は家具や、湿気のために汚れた壁紙や、マントルピースの上の鏡をながめた。マントルピースには何世代にもわたる蠅《はえ》の跡があちこちに残っている。
「でも、私はそんなことではおどろかない……」
まず写真班が部屋をちょっと片づけて、引き上げていった。ポール医師は鑑識の人たちが指紋を見つけたり、家具のなかをくまなくさぐったりしている間、死体を簡単に調べた。
「死んだのは何時です、医師《せんせい》?」
「解剖したあとでないとくわしいことはわからないが、とにかく死後六時間はたっぷり経過している」
「即死ですか?」
「至近距離から撃たれている……だから外側の傷はコーヒーカップの受け皿のように大きいし、肉も焼けている……」
「弾丸《たま》は?」
「あとで、体内から見つかるだろう。貫通しなかったんだ。とすると、小口径の銃で撃ったにちがいないな」
ポール医師の両手は血だらけだった。彼は洗面器台のところに行ったが、洗面器のなかは空だった。
「どこかに蛇口があるはずだが」
だれかが医師のためにドアを開けてくれた。弟のアルマン・ラショームが廊下に立っていた。一言もいわずに、アルマンはポール医師を古びた浴室に案内した。中太の脚のついた旧式の浴槽があり、おそらく数年前から蛇口から水がしたたっているらしく、エナメルの浴槽には褐色の跡が点々とついていた。
「どうぞ仕事にかかってください、メグレ君」と、代理検事は予審判事のほうを向きながらため息をついた。「私はパリにもどります」
それにたいして、予審判事はつぶやくようにいった。
「申しわけありませんが、私はあなたと一緒には帰りません。ここに残ります」
メグレはびくっとした。彼はそれをこの若い判事に見られたのを知って、もう少しで顔を赤らめるところだった。予審判事はいそいでつけ加えた。
「私を悪く思わないでください、警視さん。あなたもご存じのとおり、私は新前なのですから。この事件は私にとって経験を積むいい機会なのです」
その声にはいささかの皮肉もこめられていなかっただろうか? 彼はていねいだった。ていねいすぎるとさえいえた。それにうわべは心がこもっているように見えるが、ひどく冷淡だった。
彼は新しい学派に属する司法官の一人だった……捜査は初めから終りまで予審判事の権限にあり、警察の役割は判事の命令にしたがって行動することにあるとする学派。
このとき戸口にあらわれ、この会話を聞いたジャンヴィエは、メグレと意味ありげな視線を交わした。
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第二章
メグレは不機嫌を隠すことができなかった。予審判事がそのことに気がついただけでなく、その不機嫌をきっと自分のせいにしているにちがいないと考えると、ほとんど我慢ならなかったのである。不機嫌を予審判事のせいにするのは部分的な真実でしかない。そもそもリシャール・ルノワール通りでのマフラーのことから、この不機嫌ははじまっていたのである!
このとてもフレッシュで、きびきびしているアンジュロ判事はまだ学校を出たばかりだった。彼は、一世代に何人としかいないような例外的な人間の一人か、有力者の強力なあと押しがあったかのどちらかにちがいない。そうでなければパリ勤務にならずに、どこかの地方裁判所で数年間いらいらしながらすごしているだろう。
さきほど代理検事が彼らをおたがいに紹介したとき、予審判事は真心のこもったようにみえる力強さでメグレの手をにぎっただけで、メグレがしょっちゅう耳にするような言葉は一言もいわなかった。もちろん、彼は諸先輩たちのように、「ふたたびあなたに会えてうれしい」というようなことはいえないだろう。
しかし、他の人たちだったら、「あなたと一緒に仕事ができて大変うれしい」ぐらいのことはまちがいなくいっている。
アンジュロがメグレの噂を一度も聞いたことがないとは信じがたい。それなのに、彼は満足そうな様子も、好奇心もあらわさない。
わざとそういう態度を取っているのか、メグレの評判に動じていないということをメグレにわからせようとしているのか? それとも好奇心がないのか、若い世代のまったくの無関心さなのか?
相手の眼差しを何度か受けとめているうちに、警視はむしろこの男は気が弱いか、恥かしがり屋ではないのかと思った。
抜け目がない男より、このほうがメグレには苦手だった。彼は監視されているような気がし、落着こうと努めた。ジャンヴィエに小声でいった。
「いつもの仕事をやっておいてくれ……」
彼らにはこの意味がわかっていたのである。
それからメグレはアルマン・ラショームのほうを向いた。アルマンはひげも剃っていなかったし、ネクタイもつけていなかった。
「話すのにもっといい部屋がありませんか?」
ついで、空気が冷たいのに気がついて、つけ加えた。
「とくに、温かい部屋がいいですね」
メグレは旧式のラジエーターにさわって、セントラル・ヒーティングが働いていないことをたしかめた。
アルマン・ラショームもまた、強いてていねいな態度を取ろうとはしなかった。彼はちょっと考え込んでいるようだった。それから諦めたように肩を落とすと、いった。
「こちらへ」
家の雰囲気だけではなく、住む者たちの態度にもどこかいかがわしいところが感じられた。イヴリの署長が指摘したように、普通は泣いたり、あわててあっちこっち行き来したり、みんなが同時にしゃべったりするものだが、ここでは忍び足が聞こえたり、ドアがそっと開いたり、そのドアのすき間から様子をうかがっている顔が見えたりするだけだった。
薄暗い廊下で、メグレがあるドアの細いすき間から、目を、黒い髪を、女のものにちがいないシルエットをちらっと見たのは、このようなわけなのである。
二階のホールに出ると、アルマン・ラショームは左棟にある部屋のドアを押した。奇妙な客間だった。二人の老人が鋳物《いもの》のストーブの前で坐っていた。
アルマンはなにもいわなかったし、紹介もしなかった。父親は少なくとも七十五歳、おそらく八十歳になっているだろう。アルマンとは逆に、父親はひげを剃りたてで、きれいなワイシャツに黒いネクタイをつけていた。
父親はここが取締役会の席ででもあるかのように、落着いて、おごそかに立ち上り、軽く頭を下げると、彼とおなじ年齢にちがいない妻のところに行って身をかがめた。彼女は顔の半分が動かなかった。片方の眼もガラス玉のようにじっと動かない。
父親は彼女が肘掛椅子から立ち上るのを助けた。二人とも一言もいわずに、別のドアから姿を消した。
ここは家族がいつも集っている部屋にちがいない。家具の配置とか、散らばっている品物とかでそれが感じられる。メグレは椅子に坐ると、アンジュロ判事のほうを向いた。
「あなたが質問をしますか?」
「どうぞあなたがしてください」
判事は戸口に背を向けて立った。
「坐ったらどうですか、ラショームさん」と、メグレはつづけた。
綿のなかを手探りで進んでいるようなものだった。なんの手掛りもないし、外で降りつづける雨の他、現実的なものはなにもなかった。
「知っていることをいってくれませんか?」
「私はなにも知りません」
声まで表情がなく、非人格的だった。彼はメグレの視線を避けた。
「死んだのはあなたのお兄さんですね?」
「兄のレオナールです。さきほどすでに署長さんにいいました」
「ビスケット会社はずっとつづいていたのですか?」
「もちろんです」
「経営しているのはだれです?」
「代表取締役はまだ父です」
「しかし実際に経営にあたっていたのは?」
「兄です」
「あなたは?」
「私は商品管理と発送のほうをやってます」
「お兄さんが奥さんを失ったのはかなり前ですか?」
「八年前」
「お兄さんの私生活にはくわしいですか?」
「兄は私たちとここでずっと暮していました」
「しかし、この家の外で、お兄さんは自分自身の生活をもっていたと思います。男や女の友達、その他いろいろつき合っていた人がいたのではないですか?」
「私は知りません」
「紙入れがなくなったと署長にいいましたね」
彼は頭でうなずいてみせた。
「その紙入れには、金がどのくらい入っていましたか?」
「知りません」
「大金ですか?」
「知りません」
「お兄さんは、たとえば部屋のなかにいつも数十万フランおいていましたか?」
「そんなことはないと思います」
「会社の金を取扱っていたのはお兄さんですか?」
「兄と会計係です」
「会計係はどこにいます?」
「階下《した》にいると思います」
「はいってきた金はどこにおくのです?」
「銀行に」
「毎日?」
「金は毎日ははいってきません」
メグレは若い判事の冷やかな眼差しを前にしているので、穏やかに、ていねいにせざるをえなかった。
「しかしいずれにしても、どこかに金があるはずですが…」
「金庫に」
「金庫はどこにあります?」
「一階の、兄のオフィスに」
「昨夜だれかが金庫に手をふれましたか?」
「いいえ」
「たしかですか?」
「はい」
「お兄さんを殺した犯人は金庫から金を盗むつもりで外部から侵入したと思いますか?」
「はい」
「お兄さんが全然知らない人間ですか?」
「そうだと思います」
「ビスケット会社には、社員が何人ぐらいいるのですか?」
「いまは二十人ほどです。男女あわせて百人以上いた時期もありました」
「あなたは社員をみんな知っていますか?」
「知ってます」
「怪しいものはいませんか?」
「いません」
「あなたの寝室がお兄さんの寝室から数メートルしか離れていないのに、昨夜なんの物音も聞かなかったのですか?」
「なんの物音も聞きません」
「ぐっすり眠っていたのですか?」
「そうだろうと思います」
「あなたから十歩と難れていないところで銃が撃たれたのも気がつかないほどぐっすりと?」
「さあ」
このとき、ごうごうという音が聞こえ、家は厚い壁にもかかわらずちょっと揺れたようだった。メダレは予審判事と目をあわせた。
「列車ですか?」
「そうです。線路がすぐそばを通っているのです」
「夜も、列車はたくさん通るのですか?」
「私は数えたことがありませんが、四十回ぐらいでしょう。たいていは長い貨物列車です」
ドアがノックされた。ジャンヴィエだった。彼はメグレにいいたいことがあると合図した。
「入って、話したまえ」
「庭に梯子《はしご》がありました、壁から数メートル難れたところに横にして。窓の敷居に梯子を立てかけた跡も見つけました」
「どの窓?」
「この部屋のわきのホールの窓です。この窓は庭に面してます。梯子は最近立てかけたものにちがいありません。窓ガラスが一枚、石けんを塗りつけたあとで割られています」
「ラショームさん、あなたはそのことを知っていましたか?」
「気づきました」
「なぜ私になにもいわなかったのです?」
「いう機会がなかったのです」
「梯子はいつもどこにおいてありますか?」
「庭の左手にある倉庫に立てかけてあります」
「昨夜梯子はそこにありましたか?」
「普通ならそこにあるはずです」
「ちょっと失礼」
メグレは部屋を出た。自分自身で見てくるためと、うっぷん晴らしをするためだった。ついでにパイプにたばこを詰めた。階段の上にあるホールは二つの窓から明りが射し込んでいた。一方の窓は河岸に面し、反対側のは庭に面している。庭に面している方の窓ガラスが一枚、割れていて、床にガラスの破片がいくつか散らばっていた。この両開きの窓を開けたメグレは、灰色の石の上に、梯子の堅木にぴったり合う二つの白っぽい跡を見つけた。
ジャンヴィエがいったように、庭の敷石の上に梯子が横たわっていた。高い煙突からかすかに煙が出ている。左手の建物のなかでは、女たちが長いテーブルの上に身をかがめている。
もとの部屋にもどりかけたとき、メグレは物音を聞いた。青い部屋着をきた女がドアを開けたところだった。
「奥さん、客間に来ていただけますか?」
彼女はためらっているようだったが、部屋着の帯をしめると、進んできた。彼女は若かった。まだ化粧していなかった。顔が少し光っていた。
「どうぞ入ってください」
そして、アルマン・ラショームに、
「あなたの奥さんですね?」
「ええ」
夫妻はおたがいに見ようともしなかった。
「奥さん、坐ってください」
「ありがとう」
「奥さんも昨夜、なにも聞かなかったのですか?」
「毎晩寝る前に睡眠薬を飲むものですから」
「お義兄さんが死んだことを、いつ知りましたか?」
彼女は考え込むかのように一瞬宙を見つめた。
「時間を見ませんでした」
「どこにいましたか?」
「寝室に」
「ご主人と同じ寝室なのですか?」
彼女はふたたびためらった。
「いいえ」
「あなたの寝室は廊下に面していて、お義兄さんの寝室のほとんど正面ですね?」
「ええ。廊下の右側に寝室が二つあるんです。夫と、わたしの寝室です」
「いつから、あなたがたは寝室を別にしているのです?」
アルマン・ラショームは咳払いをし、あいかわらず立っている予審判事のほうを向き、確信のない声で、気の弱い男が懸命にしゃべり出したような声でいった。
「私たちの私生活にかんする質問をする権利が警視さんにあるんでしょうか。兄は昨夜押込み強盗に殺されました。ところがいままでのところ、われわれの動きばかり気にしておられるようですが」
かすかな微笑がアンジュロの唇にうかんだ。
「メグレ警視がそうした質問をしたのは、あなたを証人としているからだと思います」
「私は妻が質問攻めにされたくないのです。こうしたことにかかわらせたくないのです」
気の弱い男の怒りであり、自分の感情をまれにしか外にあらわさない人間の怒りであった。頼は赤くなっている。
メグレは穏やかにつづけた。
「いままで一家の家長と考えられていたのはだれですか?」
「どの一家のです?」
「この家に住んでいたすべての人たちのとしておきましょう」
「それは私たちだけの問題です。ポーレット、あなたは答えなくてもよろしい」
彼が妻に他人行儀の話し方をしていることに、メグレは気がついた。これはある階級の習慣なのである。|紳士気取り《スノビスム》なのだ。
「こうやっていけば、やがて私の父や母にも質問を浴びせることになるのでしょう。それから使用人や、職員にも……」
「そのつもりです」
「私にはあなたの権利がどこまであるのかわからないのです」
予審判事が申し出た。
「私が教えてさしあげましょう」
「けっこうです。私は弁護士に立ち合ってもらいます。弁護士を呼んでもいいでしょうね?」
予審判事はちょっとためらってから答えた。
「法律では、弁護士を呼ぶことは禁じられていません。しかし私はここでもう一度、あなたと家族の人たちは、証人として尋問されるのであり、その場合、普通弁護士を呼ぶということはありえないということを注意しておきます」
「私たちは弁護士がここに来ないかぎり話しません」
「ご随意に」
「電話してきます」
「電話はどこにあります?」
「食堂に」
食堂は隣室だった。二本の細い薪が燃えているマントルビースの前に坐っている二人の老人がちらっと見えた。またもや侵入されたと思い、老人夫婦は他の場所に移るため立ち上るようなそぶりをした。が、アルマン・ラショームがうしろ手にドアを閉めてしまった。
「奥さん、ご主人はとても動揺しているようですが」
彼女はけわしい目つきで警視を見つめた。
「当然でしょ、ちがいますか?」
「双児の兄弟だったんじゃないでしょうね?」
「七つも年齢《とし》がちがいます」
だが、二人の顔つきは似ていたし、垂れさがった細い口ひげまでがそっくりだった。隣りの部屋でささやくような声が聞こえた。判事はいらだたしげな様子も、坐りたいようなそぶりも見せなかった。
「あなたはどんな疑念も、自分なりの考えももたないのですか、こんどのことで……」
「主人があなたに、弁護士のいるところでなければ答えないといったはずです」
「弁護士ってだれです?」
「主人にきいてください」
「ご主人には他にまだ兄妹がありますか?」
彼女は黙ってメグレを見つめたが、この家族の者たちとはどこか人種が異なっているように思えた。このような場合でなければ、彼女は美しく、魅力的であるにちがいない。しかも彼女のなかには生命力が籠《こも》っていて、彼女はそれを無理に抑制していたのである。
時間の流れと現実の生活からすべてがひどく隔ったこの家のなかで、彼女のような人間に出会うとは思いがけないことだった。
アルマン・ラショームがふたたびあらわれた。こんども、マントルピースの前で鑞人形のように坐っている老人夫婦の姿がちらっと見えた。
「数分後にここに来るでしょう」
彼ははっとした。階段に数人の足音が聞こえたからだ。メグレが彼を安心させた。
「死体を運びに来たのです。お気の毒です。しかし、判事さんからあなたにいうことと思いますが、これがきまりなのでして、解剖のために法医学研究所に死体を移さなければならないのです」
奇妙なことに、だれもぜんぜん悲しみを感じていなかった。ただ奇妙な気おち、呆然自失みたいなものがあるだけだった。
職業上なんどもメグレはこれとほとんどおなじ状況におかれたことがあるし、犯行がおこなわれたばかりの家族の生活のなかに侵入していかざるをえなかったことがある。しかし一度も、このような非現実的な印象を受けたことはなかった。
その上、若い世代に属する予審判事はメグレにつきまとって、物事を複雑にしてしまっていた。
「私はあの連中に会ってきます」と、メグレはつぶやいた。「指示をあたえなければならないので……」
彼らには指示も、忠告も必要なかった。担架をもった男たちは自分たちの仕事をわきまえていた。メグレは彼らがするのを黙ってながめているだけだった。ただ死者の顔をおおっているシーツをちょっともちあげて、もう一度顔を見た。
そのあと、メグレは寝室のわきにドアがあるのに気がつき、開けた。ほこりだらけの、散らかった部屋があった。レオナール・ラショームの私的な書斎にちがいない。この部屋で家具にかがみこんでいたジャンヴィエはびっくりした。
「あ! あなたでしたか、警視《パトロン》……」
ジャンヴィエは古い机の引出しを一つずつ開けていた。
「なにかあったか?」
「ありません。私にはあの梯子の話がどうも気に入らないのですが」
メグレもそうだった。が、彼にはまだこの家のなかも、まわりも見て歩くチャンスがなかった。しかし、梯子は彼の眼にも、やはりつじつまの合わないところがあった。
「いいですか」と、ジャンヴィエはつづけた。「ガラスが割れたあの窓の真下にガラス張りのドアがあるんです。このドアは玄関に通じていますから、そこからなら、やすやすとここに上ってくることができます。この方法でくれば、ガラスを割る必要さえありません。ドアのガラスはすでに一枚割れていて、ボール紙を当ててあったのですから。どうしてあんなに重い梯子を庭を横切って運んだのでしょうか。それに……」
「わかっている」
「彼《ヽ》は最後までつきまとうつもりですか?」
彼《ヽ》とはもちろん予審判事のことである。
「私にはわからないよ。たぶんいるんじゃないかな」
こんどは二人ともびくっとなった。戸口にせむしのような小さな老女が立って、二人を陰気な、憤《いきどお》った眼で見つめていたからだ。
この老女は署長が話していた女中である。彼女の眼は二人の男から開いた引出しへ、広げられた書類へと移っていき、最後に、二人を罵りたい気持ちを抑えている表情をありありと見せながら、ささやいた。
「みなさんが、メグレ警視を客間でお待ちです」
ジャンヴィエが小声で聞いた。
「私はこのままさがしつづけますか、警視《パトロン》?」
「現状では私にはわからない。きみの好きなようにしたまえ」
メグレは待っていたせむしの老女について行った。老女は客間のドアを開けてくれた。客間には新しい人物がいて、自己紹介した。
「|メートル《ヽヽヽヽ》・ラデルです……」
自分の名前にメートル(弁護士、公証人などに用いる敬称)をつけるなんて、彼は自分のことを三人称で話そうとでもいうのか?
「初めまして、先生《メートル》」
彼も若かった。しかし、予審判事ほどではなかった。一時代前のこの家のなかでは、メグレはうす汚なくて狡猾な老弁護士を予期していたのである。
ラデルは三十五歳そこそこにしかなっていない。身なりも予審判事とほとんどおなじようにきちんとしていた。
「みなさん、私はアルマン・ラショーム氏が電話でおっしゃられたことしか知りません。なによりもまず私は依頼人の反抗的な態度をおわびしたいと存じます。この人の立場に立っていただければ、あなた方にもこの人の気持がわかっていただけるでしょう。私がここに来たのは弁護士としてより、友人としてであります。誤解のなきようにいっておきますが、アルマン・ラショームはからだのぐあいがわるいのです。この家のかなめであったお兄さんの死は、この人をひどく動揺させました。ですから、警察のやり方を知らないため、あなた方の質問にたいして片意地になったとしても、おどろくにたりません」
メグレは我慢できなくなって、ため息をつくと、消えていたパイプにふたたび火をつけた。
「そういったわけで、私はこの人の要請にしたがいまして、これからの尋問には立ち合わさせていただきます。ですが、私が立ち合ったからといって、この家族の人たちの態度が反抗的になるようなことはないということをはっきり申しあげておきます……」
弁護士は予審判事のほうを向き、ついで警視のほうを向いた。
「あなた方はどなたに質問したいのですか?」
「ラショーム夫人に」と、メグレは若い夫人を指示した。
「ラショーム夫人がご主人とおなじように動揺しているということをお忘れなく」
「私はお二人を個別に質問したいのですが」と、メグレはつづけた。
夫は眉をひそめた。メートル・ラデルは低い声で夫に話し、夫はあきらめて部屋を出て行った。
「奥さん、あなたの知っているかぎりでは、お義兄《にい》さんは最近、脅迫の手紙を受け取ったことはありませんか?」
「そんなことありません」
「もし受け取ったら、あなたにいうでしょうか?」
「そうすると思います」
「あなたに、それとも家族のだれかに?」
「わたしたちみんなにいうでしょう」
「ご両親にも?」
「両親は年齢《とし》が年齢《とし》ですので、いわないのではないでしょうか」
「では、あなたのご主人とあなた自身には話すでしょうね」
「当然だと思います」
「あの兄弟は親密で信頼し合っている仲でしたか?」
「とても親密で、信頼し合っていました」
「あなたとは?」
「なにをおっしゃりたいのですか?」
「お義兄さんとあなたの関係は正直のところどうだったのですか?」
「失礼ですが口をはさませていただきます」と、メートル・ラデルがいった。「そのような質問は誘導尋問になる恐れがあります。メグレさん、あなたにはそんなことをするおつもりはないでしょうが……」
「そんなつもりは全然ありませんよ。私はただ、ラショーム夫人とお義兄さんとの関係が親しいものであったかどうかを聞きたいだけです」
「親しかったわ」と、彼女は答えた。
「愛情を感じていましたか?」
「どこの家族でもそうであるようにね」
「あなたが最後にお義兄さんを見たのは、いつですか?」
「えーと……今朝……」
「今朝、寝室で死んでいる彼を見たということですね?」
彼女は頭でうなずいた。
「生きている彼を最後に見たのはいつですか?」
「昨夜です」
「何時に?」
思わず彼女は弁護士のほうにちらっと目をやった。
「十一時半頃だったと思います」
「どこでです?」
「廊下で」
「あなたの寝室と彼の寝室とがある廊下ですね?」
「ええ」
「あなたはこの客間から出たのですか?」
「いいえ」
「ご主人といっしょでしたか?」
「いいえ。わたしは一人で外出していたのです」
「ご主人は家に残っていたのですか?」
「ええ。主人はあまり外出しません。とくに肋膜《ろくまく》炎で死にかかってからは。あの人の健康はデリケートなのですし、それに……」
「何時に外出しましたか?」
彼女は弁護士にたずねた。「答えなければなりませんの?」
「その質問はあなたの私生活にしかかかわらない問題ですし、この事件と関係ないことはあきらかですけれども、私は答えたほうがよろしいと思います」
「六時頃外出しました」
「夜の?」
「もちろん、朝の六時ではありませんわ」
「あなたが十一時半までなにをしていたか答えることを、弁護士さんは許してくれるでしょう」
「街で食事しました」
「一人で?」
「そんなことはどうでもいいでしょう」
「それから?」
「映画に行きました」
「どの辺で?」
「シャンゼリゼですわ。帰ってきたとき、家にはもう明りがついていませんでした、少なくとも河岸に面するほうは。わたしは階段を上り、廊下に差しかかりました。そのとき義兄《あに》がドアを開けたのです」
「あなたを待っていたのですか?」
「そんなはずはありません。義兄はいつも寝室のわきの小さな書斎で非常に遅くまで本を読んでいます」
「彼は書斎から出てきたのですか?」
「寝室からです」
「なにを着てました?」
「部屋着。パジャマの上に部屋着をです。義兄はいいました。
『ああ! あなたか、ポーレット……』
それでわたしは答えました。
『今晩は、レオナール』
『今晩は……』
それだけですわ」
「あなたたちは二人とも自分の寝室にもどったのですね?」
「ええ」
「ご主人に話しましたか?」
「なにもいいませんでした」
「あなたの寝室とご主人の寝室とは通じているのですか?」
「ええ。でも、境いのドアはほとんどいつも閉まっています」
「鍵がかかっているのですか?」
弁護士が口をはさんだ。「警視さん、いいすぎではないでしょうか」
若い夫人はものうげに肩をすくめた。
「いいえ、鍵はかかっておりません」と、彼女はさげすむような口調で吐き捨てるようにいった。
「それではご主人には会わなかったのですね?」
「ええ。わたしは着物を脱いで、すぐにベッドに入りました」
「あなた個人の浴室はあるのですか?」
「この家は古いのです。ですから二階の廊下のつき当りに浴室が一つあるきりです」
「浴室に行きましたか?」
「もちろんです。そんな細かいところまでいわなければいけませんの?」
「そのときまだお義兄さんの寝室の明りはついていたかどうか気がつきましたか?」
「ドアの下に明りが見えました」
「なんの物音も聞きませんでしたか?」
「聞きませんでした」
「お義兄さんはときどきあなたに打明け話をしましたか?」
「打明け話という言棄の意味によりますわ」
「たとえば、男にはときどき、弟や両親よりも女になにごとかを話したいことが起こります。義妹というものは家族の一員であり、他人なのです」
彼女はいらだたずに待った。
「数年前から男やもめになったレオナール・ラショームは、女性関係についてあなたに話しましたか?」
「義兄にそんな女性がいたかどうかさえ、わたしは知りません」
「彼はよく外出しましたか?」
「ごくわずかです」
「どこへ出かけていたか知っていますか?」
「そんなことはわたしにはどうでもいいことです」
「お義兄さんの息子は十二歳でしたね?」
「先月で十二歳になったのです」
「レオナールは、その子の世話をよくしていましたか?」
「仕事を持ってる親としては普通でした。レオナールはよく働きました。夕食のあとでもオフィスに降りて行くことがありました」
「お義母《かあ》さんは、ほとんどからだがきかないのですね?」
「杖をつけば歩けます。階段ではだれかが支えてやらなければなりません」
「お義父《とう》さんもあまり達者じゃありませんね?」
「七十八歳ですから」
「私の見たかぎりでは、女中さんももうあんまり働けませんね。それなのに、どういうわけか、子供は三人の老人といっしょに三階の左の棟に住まわせてある」
彼女は答えはじめた。「ジャン= ポールは……」それから思い直して、口をつぐんだ。
「あなたは甥のジャン= ポールについてなにをいおうとしたのです?」
「なにをいおうとしたのか忘れました」
「いつからジャン= ポールは三階に寝ているのです?」
「それほど前ではありません」
「数年前? 数力月前? 数週間前?」
「一週間ほど前から……」
彼女がこれをいいたくなかったことはたしかだとメグレは思った。弁護士もそれを感じたらしく、すぐに話題の転換をはかった。
「警視さん、そうしたことは家族の他の人たちにたずねられないのでしょうか。ラショーム夫人は朝からつらい思いをしているのです。まだ化粧する時間もないのです。ご主人のほうがよろしかろうと……」
「とにかく、ラデル先生、彼女との話は終りました、少なくともいまのところは。判事さんになにか聞きたいことがなければもうけっこうです」
予審判事は軽くうなずいてみせただけだった。
「奥さん、お引きとめしてすみませんでした……」
「主人をここによこしますか?」
「いまはけっこうです。それより、あの年寄りの女中さんにちょっと質問したい。名前はなんといいますか?」
「カトリーヌ、ここに来てから四十年以上になるのです。ですから、わたしの義父母とほとんどおなじ年齢です。女中が料理場にいるかどうか見てきましょう」
彼女は出て行った。弁護士はなにかいおうとしたが、思い直し、金のシガレット・ケースでたばこを軽くたたいてから火をつけた。
弁護土は予審判事にも一本すすめた。が、判事はことわった。
「ありがとう。私はたばこを喫いません」
メグレは喉が乾いていたが、飲み物を要求する気にはなれなかった。早くこの家から出たかった。
かなり長い時間がたったあとで、小刻みに進む足音が聞こえ、ついでドアを引掻く音が聞こえた。
「入りたまえ!」
年寄りのカトリーヌだった。彼女はさきほどの書斎でよりももっと陰気な目つきで一同を代わるがわるに見つめ、つっかかるような口調でいった。
「あたしになんの用事があるんです? まずいっておきますがね、あんたがたがそうやってこの家のなかでたばこを喫いつづけると、フェリックスさんがまた喘息《ぜんそく》の発作におそわれますよ」
他になにをしたらいいのか? 判事に皮肉っぽく見つめられて、メグレはため息をつくと小卓の上にパイプをおいた。
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第三章
予審判事の態度や弁護士のいることで、かつてないほど気づまりになったメグレは、さぐりを入れるような、自信のない声ではじめた。
「あなたがこの家に来て四十年になるということですが?」
メグレはこれで彼女のご機嫌を取っているつもりだった。それなのに、彼女は金切り声でわめき立てた。
「あんたにそんなことをいったのはだれです?」
これでは役割が逆ではないか、この老女中の質問に答えなければならないかとメグレが考えているあいだに、女中はつづけた。
「あたしがここに来たのは四十年前ではありません、五十年前です。あのおかわいそうな奥さまが二十歳を越えたばかりのときに奉公にあがったのです。奥さまのお腹にはレオナールさまがおられました」
メグレは素早く計算した。すると、夫とおなじ年齢のように見えるラショーム老夫人は、七十歳そこそこにしかなっていないのか。田舎から出てきたばかりのかわいい女中のカトリーヌがここに奉公にあがったとき、若い女主人が最初の子供を宿していたとき、この家はどのようなものだったのか?
おかしな質問がメグレの心につぎつぎにうかんだ。その頃は、この老ラショーム夫妻の他に、老いた両親が生きていたにちがいない。というのは、メグレは銅のプレートの上に『一八一七年創業』という文字を読んでいたからだ。一八一七年といえばワーテルローの戦いからそれほどあとではない。
客間の家具のいくつかは現在あるようなものではなかったのではないか、たとえば第一帝政時代の長椅子は、けばけばしい青のビロードで張り替えられていなかったら、とても美しいものだったのではないか?
すべての大理石のマントルピースのなかで薪が燃えていたにちがいない。セントラル・ヒーティングは後の人たちがつけたのだ。節約のためか、ボイラーの状態がよくないためか、セントラル・ヒーティングはいまではもう使われていない。
メグレはストーブに魅惑された。昔、田舎の小さな駅や役所などでよく見かけた、さびの出た、小さくて丸い鋳物のストーブだった。
人間も品物も、すべてが古びていた。家族も家も自分のなかに沈潜し、敵意のある様子を見せていた。
老女中のカトリーヌは他のどんな言葉よりもはっきりとあの頃を位置づける言葉をふともらしたのである。赤ん坊のレオナールのことを話しながら、彼女は得意げに言ったのだ。
「レオナールさまを育てたのはあたしよ!」
それでは彼女がパリに来たのは女中としてではなく、乳母としてだったのか。メグレは思わず彼女の平べったい胸を、すそを引きずっている汚れた黒いスカートをながめた。
彼女はうすぎたなかった。ここではすべてがうすよごれてきたないか、こわれているか、すりへっているか、あるいは一時しのぎに修理されているかだった。
こうしたことに心を奪われていたのでメグレは、ばかげた質問をしてしまった。若い判事アンジュロはきっとあとでこのことを同僚にしゃべるにちがいない。
「アルマンさんを育てたのもあなたですか?」
素早く返事が返ってきた。
「そんなにあたしに乳があるわけがないでしょ」
「ラショーム夫妻には他に子供がいなかったのですか?」
「ヴェロニックお嬢さま」
「ここにはいないのですか!」
「もう長い間」
「昨夜、あなたは何も物音を聞かなかったですか?」
「聞きませんよ」
「レオナールさんはいつも何時に起きてきますか?」
「お好きなときに起きていらっしゃいます」
「彼の友達や、つきあっていた人を知りませんか?」
「あたしはご主人さまたちの私生活に関心をもったことがありません。あんたもそうしたほうがいいでしょう。あんたはレオナールさまを殺した犯人を見つけるためにここにいるので、家族のことに口をだすためではありません」
メグレに背を向けると、彼女は食堂のドアのほうに行った。
メグレはもう少しで彼女を呼びもどすところだった。そんなことしたってなんの役に立つだろう? 彼女になにか質問しなければならなくなったら、内心大よろこびしてメグレをながめている予審判事や、弁護士がいないときにするだろう。
とにかく、メグレはまごついていた。しかし、相手をやりこめなければならないのだ。
フェリックス・ラショーム老と、からだが半分|麻痺《まひ》している彼の妻を呼びよせるべきか? こんどはこの二人に質問するのが当然だろう。だが、メグレは、てきぱき事を処理できないような自分をふたたび見られることを恐れた。
女中が出て行くや、メグレはパイプに火をつけ、ホールヘ行き、窓から庭に横たわっている長い梯子をながめた。予期したとおり、判事も弁護士もメグレについてきた。
警察官になってから少なくとも一度、彼の一挙一動を注意深く見守っている立合人の前でこのように働かざるをえなかったことがあった。だが、それは、この事件にくらべればはるかにましな事件であった。その立合人はスコットランド・ヤードのパイクという刑事で、メグレの捜査方法を研究するため事件についてくる許可を得たのである。メグレの生涯でもこれほど居心地のわるかったことはめずらしかった。
多くの人々は、メグレの有名な捜査方法は料理のつくり方のようにもうちゃんとできあがっていて、それを踏襲するだけでいいのだと想像してしまっている。
「アルマン・ラショームに質問するつもりなのではありませんか?」
口をきいたのは弁護士だった。メグレは決心のつかないまま、弁護士を見つめたが、やがて頭をふった。
「いや。階下《した》を一まわりしてきます」
「あなたについていってもかまいませんか? 私の依頼人のことがありますので……」
メグレは肩をすくめると、かつては美しく、優雅であったこの特権階級の家の階段を降りて行つた。
階下に着くと、行き当りばったりに両開きのドアを開けた。大きな客間だった。よろい戸が閉っていたので、まっ暗だった。むっとするかびくさい臭いがみなぎっていた。メグレはスイッチをさがした。クリスタルガラスのシャンデリアの十二の電球のうち二つがついた。シャンデリアの花飾りがいくつかこわれて、ぶらさがっている。隅にピアノがあり、別の隅に昔のハープシコードがあった。じゅうたんが壁に沿ってめくれていた。床のまん中に、雑誌や、緑色の表紙のついたファイル、ビスケットの罐が山積みされている。
昔この部屋で音楽を演奏し、ダンスを踊ったのだろうが、もう長い間ここに足を踏み入れなくなっている。壁に張られている深紅色の絹がところどころはがれていた。半開きのドアは書庫に通じている。赤い表紙の学校の賞品の本と、河岸の古本屋にあるようなよれよれの本が何冊かある以外、棚にはほとんど本はなかった。
他の本は売ってしまったのか? ありそうなことである。たぶん家具もそうなのだろう。というのは、客間や書庫よりももっとじめじめした三番目の部屋には、かび臭いフェルト張りのビリヤード台のほかはなにもなかったからだ。
「オフィスは玄関の向こう側なんだな」
メグレが、あいかわらずついてくる他の人たちに向かってというより、自分自身に向かってこういったとき、彼の声は地下室のなかのように奇妙な響きをもった。
一同は玄関を横切った。歩道から人声が聞こえた。巡査たちが二十人ほどの野次馬を押し返していた。
客間の正面にある部屋がやっと、かろうじて生きているという感じの部屋で、昔風なつくりではあったが、いかにもオフィスらしいオフィスだった。壁は板張りで、一時代前の日付がついた油絵の肖像画が二枚と、それに何枚かの写真が飾ってある。いちばん新しい写真は、五十歳か六十歳のフェリックス・ラショームの肖像にちがいない。ラショーム一族。レオナールの肖像はまだ入っていない。
家具はゴシック式とルネッサンス式とをミックスした様式で、パリの老舗《しにせ》ではまだ見かけられるものである。ガラスケースにはこの店のいろいろなビスケットの罐が並べられている。
メグレは右側のドアをノックした。
「どうぞ」と、だれかの声がした。
メグレたちは二番目のオフィスに入った。前のオフィスとおなじように古くさかったが、ずっと散らかっている。ぴかぴかした禿げ頭の五十歳ほどの男が、大きな帳簿にかがみ込んでいた。
「会計係の人ですね?」
「はい、会計係のジュスタン・ブレームです」
「メグレ警視です」
「存じております」
「予審判事のアンジュロ氏、それにこの家の弁護士のラデル先生」
「初めまして」
「ブレームさん、昨夜起こったことを聞いていると思いますが?」
「みなさん、お坐りになってください……」
会計係のデスクの前に、人のいないデスクがあった。
「アルマン・ラショームさんのデスクですか?」
「はい。このラショーム社は、数世代前から一族でやってきました。フェリックスさんのお父さんやおじいさんが坐っていたその隣りのデスクに、フェリックスさんがまだ坐っていたのはそれほど以前のことではございません」
会計係は肥っていて、顔色がちょっと黄色かった。開いたドアから、三番目のオフィスが見えた。灰色の上っ張りを着た男と、中年のタイピストが働いていた。
「あなたにいくつかたずねたいことがあるんですが」
メグレは旧い型の金庫を指さした。重くて大きいが、この金庫では駆け出しの泥棒にだって簡単に破られてしまう。
「現金を入れておくのはこの金庫ですか?」
ブレーム氏はまず隣りのオフィスのドアを閉めに行き、困惑した表情でもどってくると、意見を求めるかのように弁護士をちらっと見た。
「どういう現金でしょうか?」と、会計係はやっとたずねたが、無邪気な、と同時に老獪《ろうかい》な感じだった。
「社員がいるから、給料を払わなければならないでしょう……」
「ああ! 始終それに追いまくられていました」
「運転資金があるはずですが……」
「|そうでなければならないのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、警視さん! 不幸なことに、ずっと前から私たちは週払いで暮らしているのです。今朝も、この金庫のなかにはもう一万フランもないのです。それさえもやがて必要になるのです、ある勘定の内金を支払うために」
「従業員はそのことを知っているのですか?」
「二、三日給料が遅配になったり、一部しか支払われなかったことがときどきありましたから」
「それでは従業員でこの家に押込もうと考える者などいないですね?」
ブレーム氏はこの質問に静かに笑った。
「もちろんです」
「この辺の人々も、そのへんの事情は知っていましたね」
「食料品屋、肉屋、牛乳屋など、勘定を払ってもらうために三度も四度もやってきます」
このまま最後まで訊きつづけるのはいい気持なものではなかった。人の着物をはいで行くようなものだった。しかし、どうしてもしなければならないのだ。
「ラショーム家には個人的な財産はないのですか?」
「全然ございません」
「あなたの考えでは、レオナールさんの紙入れにどのくらいのお金が入っていたと思いますか?」
会計係は漠然とした身振りを示した。
「たいしたことはありません」
「けれども商売はつづけて行けた」と、メグレは反論した。
ブレーム氏はふたたび若い弁護士を見た。
「殺人者のことより、私の依頼人たちのことを調べているように、ますます思えるのですが」と、弁護士が口をはさんだ。
メグレはぶつぶつ文句をいった。
「先生、あなたも老女中のカトリーヌのようないい方をするんですね。殺人の動機がわからなくて、どうして殺人者が見つけ出せるのです? 強盗だということですが……」
「梯子がそれを証明していますよ……」
警視は疑わしそうにつぶやいた。
「そう! それに紙入れがなくなっている! しかも凶器がまだ見つかっていないし……」
メグレは坐っていなかった。他の人たちも会計係がすすめたのにもかかわらず、坐っていなかった。会計係は立ったまま、自分のクッションのきいた椅子をねたましそうに見ていた。
「いいですか、ブレームさん、社員が働きつづけているということは、ともかくも給料を支払いつづけたということですね……」
「毎回奇蹟のようでした」
「その奇蹟のようなお金はどこから出たのです?」
会計係はいらいらしはじめた。
「レオナールさんがわたしてくれたのです」
「現金で?」
ラデル弁護士が口をはさんだ。
「ブレームさん、答える義務はありません」
「帳簿を調べるか、銀行に問い合わせればいずれわかってしまうことですから……お金はだいたい小切手でわたされました……」
「ということは、レオナールさんがラショーム社の口座とはちがう口座を銀行にもっていて、お金の必要がひどく差し迫ったときにはこの口座から小切手を振り出していたということですか?」
「ちがいます。ラショーム夫人のです」
「母親の?」
「ポーレット夫人です」
やっとメグレはあるものにたどりついたのだ。彼は満足して坐った。
「ブレームさん、あなたのデスクに坐って、落着いて答えてください。いつ頃から、あなたのいうポーレット夫人、いいかえればアルマンの奥さんはこの家で神さまのような役目をしていたのです?」
「ここにあの女《ひと》がやってきたときから、といっていいでしょう」
「いつ結婚したのですか?」
「六年前。マルセル夫人の死んだ二年後です」
「失礼! マルセル夫人ってだれです?」
「レオナールさんの奥さんです」
「それでは六年前に、アルマン・ラショームはポーレットと結婚した……ポーレットなんです?」
「ポーレット・ジュベール」
「彼女には財産がありまナか?」
「たくさん」
「家族が遺《のこ》したものですが?」
「彼女のお父さんは五力月前に死に、彼女は一人娘なのです。母親のことは、彼女は知らないのです」
「ジュベールってどんな人です?」
この名前はよく耳にする名前である。メグレは仕事の関係で聞いたことがあるように思った。
「ジュベールというのは、毛皮商人のフレデリック・ジュベルスキーです」
「なんどか面倒を起こしましたね?」
「税務署の役人がしばらく彼にしつこくつきまとっていました。それに戦争のあとも、非難されて……」
「わかった!」
ジュベールと呼ばれることを好んでいたジュベルスキーは一時期有名になったことがあった。彼はまず、小さなぼろ馬車で田舎をまわって、百姓たちから動物の毛皮を集めることからこの仕事をはじめ、やがて偶然にもイヴリに倉庫を建てた。ラショーム家から遠くないところにちがいない。
戦争前すでに彼の商売は大きなものとなり、多数のトラックと、田舎に倉庫をいくつかもつようになった。
そのあと、パリ解放後二、三年たって、彼が莫大な財産を蓄えたという噂と、近く逮捕されるという噂がひろまった。
新聞がこの男に興味をもったのは大部分、ひょろひょろしたからだつき、みすぼらしい身装り、ひどいなまりで話すフランス語、それにほとんど読み書きできないといった、一風変わった人柄のためである。
彼は数百万フラン……ある人にいわせると数十億フラン……の金を扱い、直接的にしろ人を介してにしろ、動物の毛皮の一手販売権をもっていると思われている。
彼のことを捜査したのはメグレではなく、経済警察局である。この事件はいつのまにか忘れられ、メグレはどのような結末になったのか知らなかった。
「ジュベールはなんで死んだのです?」
「癌で、サン・ジョゼフ病院で手術しました」
「私のまちがいでなければ、ラショーム社がどうにかこうにかやっていけるのは彼のお金のおかげなのですね?」
「正確にはそうではありません。結婚したとき、ポーレット夫人は莫大な持参金をもってこられたのです……」
「彼女はラショーム・ビスケット会社にどれほど投資したのです?」
「お金が必要になるたびに、彼女に助けてもらっていたのでしょう」
「では、この持参金を使いはたしたあとは? この持参金はすぐに使いはたしたのでしょう?」
「そうです」
「そのときはどうしたのです?」
「ポーレット夫人がお父さんに会いに行かれたのです」
「父親はここに来なかったのですか?」
「私には、お父さんを見た覚えはありません。お父さんが来たとしても、夜来て、階上《うえ》に行ったのでしょうが、そのことについてははっきりわかりません」
「警視さん、あなたがいったいどうしたいのか、私にはさっぱりわかりません」と、弁護士がふたたび抗議した。
判事のほうはとても興味をもったらしく、その淡い眼はたのしそうな光さえおびていた。
「私にもです」と、メグレは打明けた。「いいですか、先生、捜査の初めは、暗闇のなかにいるようなもので、手さぐりですすむより仕方がないのです。ところで、フレデリック・ジュベールは一人娘に安楽な暮らしのできる持参金をつけて、ラショームの下の息子アルマンと結婚させた。その持参金の金額がわかりませんか?」
「私は抗議します」
もちろん、またもやラデル。彼はじっとしていられないのだ。
「よろしい。この質問は引っこめましょう。ラショーム・ビスケット会社は持参金を食いつぶしてしまった。それから周期的に、ポーレットを父親のところにやった。だが、父親をここに迎え入れようとはしなかった」
「会計係はそのようにはいっていません」
「訂正しましょう。ここに迎え入れなかったか、この家の親しい人間ではなかった……父親のジュベールは金を払っていた……」
メグレがこんな下卑《げび》た態度を取るのは、主として予審判事や若い弁護士がつきまとうことにたいする抗議なのである。
「それからジュベールは死んだ。ラショーム家は彼の葬式に行きましたか?」
ブレーム氏は弱々しく微笑んだ。
「それは私の知ったことではありません……」
「あなた自身は行きましたか?」
「行きません」
「結婚の契約書があったと思うのですが。ジュベールのような古狸《ふるだぬき》が、そういうことをしないはずがありません……」
「お二人は夫婦財産の分離ということで結婚なさいました」
「それでは、ポーレット・ラショームは数力月前、父親の財産を相続した。そのとおりですね?」
「そのとおりです」
「ということは、現在、財布のひもをにぎっているのは彼女ですね? 御用聞きに勘定を払ったり、従業員に給料を払ったりするための現金が手もとにないとき、助けを求めるのは彼女にですね?」
ラデルはあいかわらず、大きな青蠅のようにしつこかった。
「そんなことを聞いてなんになるのですか?」
「私にもわからない、先生。しかし、重い梯子を使い、一階にガラスのドアがあるのに二階の窓ガラスをこわしてお金のない家に侵入したようなばかげた強盗をパリじゅう捜さなければならないとも思えません。しかも、この強盗の目的たるや、眠り込んでいる男の寝室に入り、自動拳銃で派手な音を立てて撃ち殺し、ほとんど空《から》の紙入れを奪うことだったのです」
「そのことについてはまだなにもわかっていません」
「そのとおりです! レオナール・ラショームは昨夜、義妹にお金をたのんでいたかもしれません。しかしそれでもなお、このオフィスのなかにひどく大きいが、子供でも簡単に開けられるような金庫があり、それに手をつけられていなかったということには変わりありません。また、犯行の瞬間に、この家のなかに少なくとも六人の人間がいたということにも変わりありません」
「もっと途方に暮れるような強盗事件だってありますよ」
「その点は認めましょう。しかし、梯子がおいてあった庭に入り込むためには、私の見たところ、三メートル五十の高さがある塀を乗り越えなければなりません。さらに、拳銃が発射された寝室から数歩のところに寝ていた二人の人間が、なんの物音を聞いていないのです」
「ここは鉄道線路の近くなのです。列車がそれこそ絶えまなくつぎつぎに通っているのです」
「そのことを否定はしません、ラデル先生。私の仕事は真相を見つけることなのです。私は今、その真相をさがしています。あなたがここにいることさえ、私が真相を糾明することのさまたげになるのです。というのは、殺された人間の肉親たちが、警察から尋問される前にすでに弁護士に助けを求めたということは異常だからです。私はあなたに一つ質問したい。あなたはたぶん答えないでしょうが……。アルマン・ラショームは私のいる前で、あなたにここに来るように電話しましたね。先生、あなたはどこに住んでいますか?」
「オデオン広場。ここのすぐ近くです」
「実際、あなたはここに十分以内にやってきました。あなたはたいしておどろかなかったし、ちょっと質問をしただけでした。あなたは本当に昨夜起こったことを私たちより前に知らなかったのですか?」
「私は断乎として抗議します…」
「なににたいして? もちろん、私はあなたが夜陰に乗じて窓からこの家に侵入したと責めているわけではありません。ただ、今朝早く電話で事件を知らされ、相談をうけたのではないかと思っただけです……」
「予審判事がここにおられますので、私はこのような非難にたいしてふさわしいと考えられる処置を取る権利は留保しておきます」
「これは非難ではありません、先生。たんなる質問です。あなたが好むなら、私が自分自身にした質問といってもいいでしょう」
メグレはむらむら腹が立ってきた。
「ブレームさん、あなたはもうけっこうです。たぶん私はここにもどってきて、またあなたに、質問をしなければならなくなるでしょう。ここのオフィスに封印するかどうかを決定するのは判事さんです」
「あなたはどう思いますか?」
判事はメグレに決定をまかせた。
「封印しても仕方がないと思いますね。ブレームさんが私たちに語ってくれた以上のことは帳簿からなにもわからないでしょう」
メグレは帽子をさがし、階上《うえ》に忘れてきたことに気がついた。
「私が取ってきましょう」と、会計係が申し出た。
「お構いなく」
メグレは階段を上りはじめ、人のいる気配を感じた。顔を上げると、手すりによりかかっているカトリーヌの顔が見えた。彼女はメグレの様子をうかがっていたにちがいない。
「帽子をおさがしですか?」
「ええ。刑事は階上《うえ》にいませんか?」
「ずっと前に出て行きましたよ。そら、受けとって!」
メグレが階上まで来るのを待たないで、彼女はフェルトの帽子を彼に向かって投げた。メグレが玄関の靴拭きマットの上に帽子を拾いに行ったとき、彼女は唾《つば》を吐いた。
弁護士は外にまでメグレたちについて来なかった。朝とおなじ冷たい、うら淋しい雨が降りつづいているため、野次馬は数人しかおらず、彼らをそばによせつけないためには一人の巡査で事足りていた。不思議なことに、新聞がまだこの事件をかぎつけていなかった。
司法警察局と予審判事の黒い車が二台、あいかわらず歩道の縁《ふち》に停っている。
「あなたは警視庁に帰りますか?」と、車のドアを開けながら判事が聞いた。
「まだわかりません。私はジャンヴィエを待ちます。近くにいるはずですから」
「どうして彼を待たなければならないのですか?」
「私が運転できないからです」と、警察のシトロエン4CVを指さして、メグレは率直に答えた。
「私が送りましょうか?」
「ありがとう。でも私はここで待って、この辺の空気をかいでおりますよ」
メグレは鋭い質問を浴びせられることを覚悟していた。おそらくは苦情や、用心し、慎重に取り扱うようにという忠告さえも。
「警視さん、私は事件の経過をつねに知っておくため正午前に電話をもらいたいのですが。私はこの事件を仔細に見守っているつもりです」
「わかってます。では、判事さん」
数人の野次馬がメグレたちを見ていた。肩にかけた黒いショールをにぎりしめている女が、別の女にささやいた。
「あれが有名なメグレよ」
「若いほうは?」
「知らないわ」
メグレは外套の襟を立てると、歩道を歩きはじめた。五十メートルほど歩くや、『コパン・デュ・ケー』という小さなバーのドアからだれかが彼に合図した。ジャンヴィエだった。
店には、カウンターのうしろに女主人がいるだけで、他にはだれもいなかった。ばさばさの髪をした肥った女で、料理場の戸口ごしに、遠くから、たまねぎの強烈な匂いをさせながらかまどの上で煮立っている鍋を見守っていた。
「なににしますか、警視《パトロン》?」
ジャンヴィエはすぐにつけ足した。
「私は、グロッグ(ブランデー、ラム酒などに砂糖、レモンを加え湯で割ったもの)にしました。今日は風邪をひきそうな天気ですから」
メグレもグロッグにした。
「なにか見つかったか?」
「だめです。しかしあの家を出る前に、寝室のドアに封印をしておけばいいのではないのかと考えました」
「ポール医師には電話したかい?」
「医師《せんせい》はまだ仕事にかかっています。医師の助手の一人が、レオナールの胃のなかからアルコールが検出されたと私に教えてくれました。いま、アルコールの血中濃度を調べているところです」
「その他になにか?」
「弾丸《たま》を摘出しました。あとで鑑識課にまわしておくそうです。医師《せんせい》によれば、その弾丸は小口径で、おそらく六・三五ミリぐらいではないかと。これについてどう思います、警視《パトロン》?」
バーの女主人はシチューの鍋を木のスプーンでかきまわしに行くため、遠ざかった。
「今朝の事件のほうがありがたいね」
「『修道者』の?」
「ああいったやつらは少なくとも人を殺さない」
「警視は押込み強盗の話を信じないでしょうね?」
「うん」
「私もです。鑑識課の連中は梯子やガラスに指紋をさがしましたが、なにも見つかりませんでした。ただ、梯子に職工長の古い指紋があっただけです」
「犯人は手袋をしていたのだろう。だから証拠はのこさんさ」
「私は塀の外側を調べました」
「それで?」
「外側は壜《びん》のかけらでおおわれています。一個所、家から遠くないところで、壜のかけらがこなごなにうちくだかれていました。そこを写真に撮らせておきました」
「なぜ?」
「警視、押込み強盗が事前に準備することはご存じですね。塀が壜のかけらでおおわれていることを知ったら、押込み強盗は古い袋か、板ぎれを持ってきます。ですから、ガラスは独特なくだかれかたをしているはずです。ところが、ここではガラスがハンマーでたたいたようにこなごなにうちくだかれているのです」
「近所の人たちに聞いたか?」
「近所の人たちはなんの物音も聞いていません。彼らはみんな、列車が凄まじい騒音を立てる、その騒音になれるのには数年かかると私にくり返しいいました。私は二階と三階によろい戸がないことに気づいていましたので、大|伝馬船《てんません》の船頭夫婦のところに行ってたずねてみました。あそこに荷揚げしているのが見えるでしょう、あの船です。真夜中すぎにあの家のなかに明りを見なかったか知りたかったのです。
予期したとおり、彼らは寝ていて気づきませんでした。あの連中は早く寝て、早く起きるのです。しかし、奥さんのほうが、ちょっとしたことを教えてくれましたよ。これはいずれ興味を呼ぶかもしれません。昨夜、夫婦の船のすぐわきに碇泊していたベルギー船が今朝早く出発したそうです。『ノートル・ダム号』という船で、コルベイユの製粉所に向かっています。
昨日は『ノートル・ダム号』の船長の誕生日でした。上流に碇泊していたもう一|艘《そう》の、おなじベルギーの大伝馬船の人たちも『ノートル・ダム号』の甲板で宵のうちをすごしました。その連中のなかにアコーデオンをもった男がいました」
「もう一艘の船の名前は?」
「わかりません。船頭の奥さんによれば、その船も出発したにちがいありません」
メグレは女主人を呼び二人分のグロッグ代を払った。
「どこに行くのですか?」と、ジャンヴィエがたずねた。
「まずこの辺を一まわりしてくれ。なにかが見つかるかもしれない」
黒い小型車は近くの街路を数百メートルも走ったかと思うと、メグレがいった。「停めてくれ。ここだ」
亀裂のある長い塀、石畳の敷かれていない中庭、木造や、煉瓦づくりの建物……たばこを乾燥させる倉庫の壁のような、透かし細工のある壁をしている……が見えた。正面玄関の上に、こう読めた。
F・ジュベール皮革商
その下に、もっと新しい、けばけばしい黄色のペンキで、
ダヴィッド・イルシュフェルド 後継者
事情を知らないジャンヴィエはクラッチに足をかけたままでいた。
「これが六年前からラショーム家のために金のたまごを生みつづけたにわとりか」と、メグレはつぶやいた。「きみにはあとで説明するよ」
「待ってますか?」
「うん。数分しかかからないから」
なんなくオフィスが見つかった。というのは、いちばん小さな建物……というよりバラックといったほうがいいかもしれない……の上にオフィスと書いてあったからだ。オフィスのなかでは、警視庁のストーブに似たストーブのそばで、タイピストがタイプをたたいていた。
「イルシュフェルドさんはここにいますか?」
「いいえ、屠殺場に行ってます。なにかご用でしょうか?」
メグレは警察のバッジを見せた。
「あなたはジュベールさんの時代にすでにここにいましたか?」
「いいえ。わたしはずっとイルシュフェルドさんの下で働いていました」
「いつジュベールさんはこの会社の権利をゆずったのです?」
「一年ちょっと前です、ジュベールさんが入院しなければならなかったときに」
「あなたはジュベールさんを知っていましたか?」
「売買契約書をタイプしたのはわたしです」
「お年寄りでしたか?」
「ジュベールさんを見ただけではいくつかわからないんではないかしら。すでに病気にかかっていて、とてもやせていましたから。洋服がだぶだぶで、皮膚はあそこの壁のように白かったのです。わたしはジュベールさんがまだ五十八歳にしかならないことを知っていました」
「あなたはジュベールさんの娘さんに一度も会ったことがありませんか?」
「ええ。でも、その娘《こ》のことについては、話を聞いたことがあります」
「どういうときに話題になったんです?」
「ジュベールさんとイルシュフェルドさんが売買契約書のことを話していたときです。ジュベールさんは自分のからだのことはよくわかっていました。せいぜい数力月、多くても一年しか生きられないことを知っていました。お医者がそのことをはっきりとあの人に知らせたのです。そこであの人は、病院やお医者にかかる費用だけは自分の名義にしておいて、あとは生前贈与の形にしておくことにしたのです。そうすれば莫大な相続税がかからなくてすむわけです」
「その金額を教えていただけますか?」
「イルシュフェルドさんがあの人に支払った金額ということですか?」
メグレはうなずいた。
「この取引のことは、この業界ではたいへんな噂になったことですので、わたしがしゃべったとしても不謹慎にはならないでしょう。三億フランです」
「えっ、三億フラン?」
「そうです、三億フランです!」
メグレは思わずこの見すぼらしいオフィスや、泥だらけの庭や、むかつくような臭いを発散させているほとんど崩れかかった建物を見まわした。
「イルシュフェルドさんはその金額を現金で支払ったのですか?」
彼女はちょっと同情するように微笑んだ。
「このような金額は現金では支払わないものです。イルシュフェルドさんはその一部を現金で支払いました。そのお金がどれほどかはわたしの口からはいえませんが、あなたからイルシュフェルドさんに聞いてみてください。残りのお金は十年の分割払いです……」
「そのすべての金はジュベールの娘さんへ?」
「そうです、アルマン・ラショーム夫人名義です。イルシュフェルドさんに話をなさりたいなら、『ラ・ヴィレット』の店で昼食をとる日以外は、いつも屠殺場から十時半頃もどってまいります」
ジャンヴィエは、頭をたれて車のほうにもどってきたメグレをものめずらしそうにながめた。メグレは夢見るような、脳天をなぐられたような感じだった。彼は歩道の縁で立ちどまると、パイプにたばこを詰めた。
「ここでも臭うか?」
「臭います、警視《パトロン》」
「あの庭が、あのバラックのような建物が見えるか?」
ジャンヴィエはあとの言葉を待った。
「ああ! いいかい、きみ、これらが全部で三億フランもするんだよ。その三億フランを手にするのはだれだと思う?」
メグレは座席にすべり込むと、ドアを開めた。
「ポーレット・ラショームだ! こんどは警視庁へやってくれ」
あいかわらずジャンヴィエをしたがえて、オフィスに入るまで、メグレはもう一言もいわなかった。
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第四章
メグレは戸棚を開け、濡れた外套と帽子をかけると、水道の上に取りつけてある鏡で顔をちらっと見た。あまりに醜い顔をしているので、もう少しで舌を出すところだった。鏡が映像を少しゆがめることはもちろんだが、それでもなおメグレは、あの薄気味のわるい家に住んでいる人たちとおなじ顔付きをしたままガール河岸からもどってきたような印象をうけた。
長年警察にいると、当然、サンタクロースや、一方に金持がいて、他方に貧乏人、正直な人たちとならず者、写真を撮るときのように微笑む家長のまわりに集まる模範的な家族といった、教化的な本やエピナルの版画の世界を信じなくなる。
しかし、ときどきいつのまにか子供のときの思い出にすがりついていたり、少年のようにある種の現実にショックをうけたりすることがある。
メグレはめずらしくラショーム家でこれとおなじショックをうけた。一度などは、それこそ水中で足が立たなくなるような気持を味わった。いまでもまだ、口のなかににがい後味のようなものが残っている。彼は自分が日常的な現実のなかで生きていることをたしかめるためかのように、早く自分のオフィスにもどって、どっかりと椅子に坐り、パイプを愛撫する必要を感じたのである。
この日は、一日じゅう電気をつけ放しにしておくような日で、雨水が窓ガラスの上をジグザグに流れ落ちていた。メグレのあとにつづいてオフィスに入ったジャンヴィエは、指示を待っていた。
「廊下で見かけたのはルローじゃなかったかな?」
ルローというのは、メグレがまだ平刑事にすぎなかった頃から司法警察局に出入りしている記者だった。
「ルローに事件のこと教えてやったらいいだろう」
いつもは、メグレは捜査の初めに新聞記者たちに追いまわされることを避けてきた。彼らは、なんでもかんでもできるだけ早く知りたがるあまり、捜査の道筋をごちゃごちゃにし、容疑者を警戒させてしまうことさえあるからだ。
こんどの事件でメグレが、ガール河岸に新聞記者たちを行かせるのは、ラショーム家にたいする仕返しでも、予審判事にたいする仕返しでもない。あの神秘的な家のなかでは……家族じゅうが口をつぐみ、メグレも慎重に仕事をせざるをえなかった……、彼は無力だったので、新聞記者に動きまわられても腹が立たないのである。記者たちはメグレのようには慎重に立ちまわらないにちがいない。彼らは若い判事につきまとわれているわけでもないし、どんなにわずかな職権乱用や規則違反でもすぐにわめきちらすラデルに監視されているわけでもない。
「詳しいことをいう必要はない。ルローが一人で見つけるだろう。それが終ったら、また私のところに来てくれ」
メグレは電話をはずし、イヴリの署長を呼び出した。「もしもし! こちらメグレ。あなたは今朝、あなたのところの刑事を貸してくれると親切にいってくれましたが、私はよろこんでその申し出をおうけいたします。彼らには、昨夜あの家のまわりで起こったことを調べてもらいたいのです。いいですか? とくに真夜中から午前三時までのあいだ。それからあなたのところの登録簿で、何年か前にガール河岸の家を出て行ったヴェロニック・ラショーム……死んだ男の妹です……の現在の住所を見つけられると思うのですが。見つかったらすぐに電話をいただけますか? ありがとう、ではあとでまた」
メグレはリュカも電話に呼び出すことができただろう。だが、刑事たちの一人が必要なときには、彼はいつでも椅子から立ち上り、刑事部屋との境のドアを開けに行った。それは刑事たちを監視するためではなくて、いわば刑事部屋の様子を知るためだった。
「リュカ、ちょっと来てくれないか?」
刑事たちは今朝、大きな部屋に少なくとも六人いた。月曜日にしては多かった。
「『修道者』は?」と、ふたたびデスクに腰をおろすと、メグレはまずたずねた。
「身柄収容の手続きを取りました」
「どういう具合にしてそこまでもっていったんだ?」
「うまくいきましたよ。私たちはちょっと話合いました。私が発見したものをご存じですね、警視《パトロン》? 実際、やつは裏切られたことにむしろ満足しているようでした、裏切ったのが女房であっても。そのことをはっきり口に出していったわけではないのですが、私たち自身の捜査か、やつの犯した|へま《ヽヽ》によって捕まったのなら、やつはもっと腹を立てていたにちがいありません」
ラショーム家のあとでは、この話はほとんどさわやかだった。メグレはおどろかなかった。『修道者』のような男たちのなかに、プロの誇りのようなものを見るのがなにも初めてではなかったからだ。
「刑務所に行くのをやつがよろこんでいるとはいえませんし、女房が他の男と思いどおりに恋をたのしむためやつを売ったということを知って、よろこんでいるとはいえませんが、しかしやつは激昂しませんし、刑務所から出たら復讐するなどともいってません。人体測定課で、裸になったとき、やつは妙な様子で私をながめ、こうつぶやいたのです。『おれのような駄目な男が結婚するなんて、なんてばかなんだろう!』」
メグレはリュカに指示をあたえるために呼び出したのである。
「コルベイユに電話してくれ。大伝馬船『ノートル・ダム号』が着いたかどうか製粉所に見に行くように機動隊にたのむんだ。『ノートル・ダム号』がまだ着いていなかったら、最後の水門のあたりで見つかるだろう。その船は昨夜、イヴリの河岸の、ラショーム家のちょうど正面に碇泊《ていはく》していた。船上でちょっとしたパーティがあり、非常に遅くまでつづいた。だから、ラショームの家の明りか、人の行き来に気づいた者がいるかもしれないんだ。他の船頭たちもこのパーティに加わっていた。彼らの名前と、船の名前、それにどこに行けば見つかるチャンスがあるのかも知りたい。わかったね?」
「わかりました、警視《パトロン》」
「それだけだ」
ジャンヴィエがもどってきた。
「なにをしますか、私は?」
いまが、どんな捜査においてももっとも不愉快な時点なのだ。この時点では、捜査の方針をどの方向にむけたらいいのかよくわからないのである。
「ポール医師に電話してくれ、解剖はもう終ったはずだから。こちらに報告書を送る前に、きみになにかいうことがあるかもしれない。そのあとで鑑識課に行って、なにか発見したか見てくるんだ」
メグレは一人きりになると、何本ものパイプのなかからいちばん古いパイプを選んで、窓ガラスの上を流れる雨をながめながらゆっくりとたばこを詰めた。
「三億フランか!」と、メグレはガール河岸の荒れ果てた家、客間の小さなストーブ、かつては美しかったが、いまでは不調和な織物で張り替えられている古い家具、冷たいラジエーター、一階の大きな客間、幽霊がさまよっているようなビリヤード室と書庫などを思いうかべてつぶやいた。
メグレはまた、アルマン・ラショームのゆがんだような顔を思いうかべた。あの男はあきらかに気の弱い男だ。卑怯者かもしれない。たえず兄にくっついて暮らしていたのだろう。
「このなかで、いま手が空《あ》いているのはだれだい?」と、刑事部屋の入口に立って、メグレはたずねた。
まるで学校の生徒のように、最初に立ち上ったのはトランスだった。
「私の部屋に来てくれ、トランス。坐りたまえ。これからイヴリのガール河岸に行ってもらいたい。あの家のなかにも、工場やオフィスにも入らないほうがいいな。正午に、社員のうち少なくとも何人かが食事をしに出てくるだろうと思う。その連中からできるだけ聞きだしてくれ。とくにこれから私がいう質問に答えさせるようにするんだ。
第一の質問。ラショーム家には車があるか、あるとすればどこのメーカーの車か?
第二の質問。いつもその車を運転しているのはだれか? 昨夜、車は使われたか?
第三の質問。ポーレット・ラショームはよく外へ夕食に出かけるのか? だれと出かけるのか知っているか? 夕食のあとで彼女がなにをしていると思うか? 第四の質問。ポーレットと夫との間は、どんなだったか? 念のためきみにいっておくが、二人は寝室が別々だったのだ。
第五の質問。ポーレットと義兄との関係は?
私のいったことをみんなノートしたね? 最後に、レオナール・ラショームの妻がどんな女だったかわかればありがたい。彼女は約八年前に死んだ。彼女の結婚前の姓。彼女の家族のこと。彼女の家族は金持だったのか? 彼女の死因は?」
肥ったトランスは平然として手帳に書き留めていた。「それだけだと思うな。もちろん、これは急ぎだ」
「行ってきます、警視《パトロン》」
メグレはなにも忘れていないだろうか? 予審判事と弁護士がいなければ、彼はガール河岸にもっと残っていて、彼自身が直接これらの質問をしていたであろう。また、単なる好奇心にすぎないとしても、アルマン・ラショームの寝室を、とくにアルマンの妻の寝室を見てみたかったことであろう。
この三億フランの女相続人は他の家族の者たちとおなじように荒れ果てた寝室で暮らしているのか?
正午近かった。メグレはアンジュロ判事に電話すると約束していたのである。彼は判事を呼び出した。
「メグレです。あなたに電話で報告するようにいわれていましたもので。ポーレット・ラショームがジュベールという皮革商の娘で、少なくとも三億フランの金を父から遺《のこ》されているということ以外、まだたいしたことはわかりません」
電話線の向こうで沈黙があった。それから若い判事の静かな声が聞こえてきた。
「それはたしかなことですか?」
「ほとんど。あとでたしかめておきましょう」
「彼女はずっと前からその金を自由にしているのですか?」
「私の情報が正しければ、一年ほど前からです。医者から見放されたとき、ジュベールは娘に生前贈与をし、できるだけ相続税を取られまいとしたのです」
「ポーレット・ラショームは夫婦財産の分離という約束で結婚したのでしたね?」
「今朝私たちはそう聞きましたが、まだたしかめておりません」
「ありがとう。なにかあったら引きつづき知らせてください」
「部下たちがおきまりの仕事に取りかかっております」
メグレは受話器をかけるや、ふたたび取った。
「メートル・ラデルをたのみます」
弁護士はまだもどっておらず、家では昼食に帰ってくるのを待っているところだ、という返事が交換手からかえってきた。
「それではガール河岸のラショーム家に電話してくれ、たぶんまだそこにいると思うから」
そのとおりだった。メグレの推測にまちがいはなかった。
「二、三はっきりさせたいことがあるのですが、ラデル先生。あなたは依頼人がわずらわされるのを好まないようなので、私は直接あなたにたずねます。まず、ラショーム家の公証人の名前は?」
「ちょっと待ってください……」
かなり長い沈黙があった。弁護士は受話器を手で念入りにふさいでいるにちがいない。
「もしもし! メグレ警視? まだそこにおられますか? いったい、あなたがどうしたいのか私にはわかりませんが、私の依頼人は公証人の名前をいってもかまわないということですので。公証人はヴォルテール河岸のメートル・バルバランです」
「もしレオナール・ラショームが遺書を残したとすれば、メートル・バルバランの手に託されているわけですね?」
「そう思いますが、遺書があるかどうかは疑問です。家族の人たちはそんな話をしていませんから」
「レオナール・ラショームの息子……ジャン= ポールという名前だったと思いますが……その子は学校から帰ってきましたか?」
「ちょっとお待ちを……」
ふたたび沈然。弁護士の手は受話器をちゃんとふさいでなかったので、メグレはぶつぶついうような声を聞きとった。
「ジャン= ポールは家には帰らないでしょう。叔父さんが、学校に残るための必要な手続きを電話で取りましたから」
「寄宿生として?」
「そうです、当分のあいだは。これから彼に身の回り品を届けます。あなたが知りたいのはそれだけですか?」
「ラショーム夫人に……もちろん若い夫人のほうですが……彼女自身の公証人の名前を聞いてもらえますか、父親からの相続財産のことや、たぶん結婚の契約のこともあつかった公証人の名前を?」
こんどは、沈黙があまりにも長かったので、メグレは相手が受話器をかけてしまったのではないかと思ったほどだ。ただ一度だけ、メグレは『だから私がいったでしょう……』という弁護士の怒ったような、説き伏せるような声を聞いた。
ふたたび沈黙。ラショーム家の人たちが反対しているのか? ラデルは、警察は知りたいことはどんなことをしてでも知ってしまうのだといって彼らを懸命に説得しているのか? 弁護士はだれと議論しているのか? アルマン・ラショームか? 彼の妻か? それに、すでに一族の肖像画のなかに加えられてもおかしくないような様子をしている老人夫婦もこの議論にはいっているのか?
「もしもし! 失礼しました、警視さん……ちょっと邪魔が入ったものですから、あなたの質問にすぐに答えることができなかったのです……ジュベールの相続財産は、ジュベールの公証人、リヴォリ街のメートル・レオン・ヴュルムステールの手によって処理されました……あなた、名前がわかりましたか、レオン……ヴュルムステール……パッシー街にジョルジュ・ヴュルムステールという公証人がいますので、はっきりさせておきます……結婚の契約書を引きうけたのは、メートル・バルバランです……」
「ありがとう」
「もしもし! お待ちください……私はあなたが必要だと考える情報ならなんでも教えるつもりです……あなたの考えていることとはうらはらに、私の依頼人は警察になにも隠すつもりはありません……あなたの知りたいのはなんですか?」
「最初に、結婚の契約書のこと……」
「夫婦財産の分離です」
「それだけ?」
「ラショーム夫人の財産はもし子供があれば子供に帰属します」
「子供がいない場合は?」
「夫婦の生き残ったほうが」
「私のまちがいでなければ、三億フランを越す金額ですね?」
「ちょっとお待ちを」
沈黙はごく短かった。
「それはちょっとオーバーですが、それでも金額はそれに近いものです」
「ありがとう」
「その他にはっきりさせたい点はないのですか?」
「いまのところは」
メグレはメートル・バルバランに電話した。彼をつかまえるのにかなり時間がかかった。というのは公証人は会議中だったからだ。
「こちらメグレ警視ですが。あなたは依頼人の一人であるレオナール・ラショームが昨夜死んだことをすでにご存じだと思いますが?」
不意を打たれた公証人は、答えた。
「いましがた知ったところです」
「電話で?」
「はい」
「職業上の秘密を洩らしてほしいとはたのみませんが、私にはレオナール・ラショームが遺書を残したかどうか知る必要があるのです」
「私の知るかぎりでは、残していませんね」
「ということは、レオナールはあなたの前では遺書をしたためなかったのですね、あなたの事務所に遺書に類した書類をわたさなかったのですね?」
「そうです。レオナールは遺書のことなど全然気にかけていませんでしたよ」
「なぜです?」
「ラショーム・ビスケット会社の株を一部分もっているだけで、あとはいかなる財産もなかったからです。それに、その株だって価値がないものでした」
「まだ電話を切らないでください、バルバラン先生。話は終ってはいないですから。レオナール・ラショームは男やもめでした。彼の奥さんの名前をいっていただけますか?」
「マルセル・ドナ」
公証人はファイルを見る必要がなかったのである。
「どのような家庭の女《ひと》でしたか?」
「ドナ・エ・ムティエ社のことを聞いたことがありませんか?」
メグレは看板や、仕事場でよくこの二つの名前を見つけた。公共土木事業の大きな請負会社だった。
「彼女には持参金がありましたか?」
「もちろんですよ」
「その金額をいっていただけますか?」
「予審判事の請求がなければだめです」
「けっこうです。彼女の実家は財産家だと思われますので、その持参金は莫大だったと推測しますが?」
沈黙。
「結婚は夫婦財産の分離という契約で行われたのですか?」
「私の答えは前とおなじです」
「それではレオナール・ラショーム夫人の死因がなんだったかも教えていただけませんか?」
「その点にかんしては、ラショーム家の人たちが私よりくわしく答えてくれるでしょう」
「ありがとう、先生」
はっきりしはじめたのはまだ絵の背景にすぎなかった。人物たちはところどころ輪郭がはっきりしたところがあるが、大部分はぼんやりとかすんだままだった。
数年の間隔をおいて、ラショーム家の息子たち、まずレオナール、ついでアルマンがそれぞれ金持の若い娘と結婚した。
彼女たちはたぶん莫大な持参金をもってきたにちがいない。そして、その持参金はもうぜんぜん残っていないようだ。
一八一七年に設立され、かつては隆盛だったビスケット会社が、いまでも存続しているのは、この相次ぐ持参金のおかげではなかったのか?
もちろん、会社はいまにも倒産しそうである。メグレは、今日でも片田舎に、彼の子供のときのようにあのボール紙のような味のするウェファーの包みがあるのだろうかと考えていた。
鋳物のストーブが燃えているあの客間の老人夫婦はもうほとんど存在しないのとおなじなのだ。一階のビリヤード室のように、クリスタルガラスのシャンデリアのように、単なる過去の証人でしかないのだ。
それにアルマン・ラショームは、無節操な男ではなかったが、兄の影のようなもの、兄の控え目な分身のようなものではなかったのか?
しかし、奇蹟は行われ、その奇蹟は数年間つづいたのである。いかに破産に近い状態とはいえ、会社はあいかわらず存続し、高い煙突から煙が出つづけていた。
このビスケット会社は時代のどんな要求にも、どんな経済的な規準にも合致しない。小企業の時代には、この会社も隆盛で、名前が知れわたっていたかもしれないが、いまでは市場はもっと現代的な企業が独占している。二、三の大きな企業がしのぎをけずっている。
どのような論理からしても、ガール河岸のビスケット会社はずっと以前に倒産していなければならないのである。それをとにかくここまで存続させてきたのはだれの意志なのか?
フェリックス・ラショームと考えることは、困難である。あの上品で物静かな老人が、自分のまわりで起こっていることを理解しているとは思えない。いつからあの老人は単なる飾りものにすぎなくなってしまったのか?
レオナールがいる。死んだのがレオナールだという事実は、この家族の混乱を、故意の言い落し……というより沈黙を、弁護士をあわてふためいて呼び出したという事実を、ある程度説明している。
最後の夜まで、みんなのことを考え、みんなのためを願っていたのはレオナールだと想像できないか?
ポーレット・ラショームのためをさえも?
この最後の問題はずっと心を乱される問題だった。メグレは、髪を乱し、ありふれた青い部屋着を着て今朝あらわれた若い女を思いうかべようとした。
メグレがおどろいたのは、あの家のなかに、あの家族のなかに、生命力に、動物的な生命力にあふれた若い女を見出したことだった。彼女が美しいかどうかはメグレにはわからなかったが、魅力的な女であることはたしかだったろう。
どうしてもメグレは彼女の寝室が見たくなった。彼女の寝室はあの家の他の部分とはちがうのだろうか?
メグレはまた、ポーレットがどうしてこの家にきたのか、なぜアルマンのような目立たない男と結婚したのか、なせ寝室を別にしているのか考えていた。まだこの他にたずねたい質問がたくさんあったが、メグレは、こういう質問をする気苦労はあとまわしにしたかった。
電話が鳴ったので、メグレは受話器をはずした。
「こちら、メグレ……」
リュカだった。
「コルベイユに電話がつながっています。彼らはすでに船頭たちに質問したそうです。この電話をそちらにまわしますか?」
メグレはそうしてくれといった。コルベイユの機動隊の刑事の声が聞こえてきた。
「私は水門のところで『ノートル・ダム号』を見つけました、警視殿。船頭と息子はひどい二日酔いで、ほとんどなにも覚えておりません。彼らはほとんど一晩中、飲み食いしながら、音楽をかなで、歌をうたったそうです。
ときどき小便をしに河岸へ上ったのですが、河岸になにがあったか全然注意しなかったそうです。
彼らは大きな家の窓に明りを見ましたが、その家が伝馬船の正面の家なのか、別の家なのかわかりません。
彼らの仲間たちはヴァン・ゴーファラールドという名前で、船の名前は『トウェ・ヘブルーダルス号』です、二人の兄弟という意味らしいです。この兄弟はフランドル人で、いまサン・マルタン運河のどこかで積荷をおろしているにちがいありません。私には彼らが多くを知っているようには思えません。というのは兄弟の一方はとにかくひどく酔っぱらっていたので、自分の船にかつぎあげてやらねばならなかったそうですから」
「それは何時ごろだ?」
「朝の四時ごろです」
メグレはまたもや隣りの刑事部屋のドアを開けた。三人の刑事しか残っていなかった。
「きみは非常に忙しいかね、ボンフィス?」
「報告書を仕上げていますが、急を要するものではありませんから」
「これからサン・マルタン運河に急いで行き、『トウェ・ヘブルーダルス号』というベルギーの大伝馬船をさがしてくれ……」
メグレはいろいろと指示をあたえ、自分のオフィスにもどると、昼食に行くことに決めた。そのとき電話がふたたび鳴った。
「ジャンヴィエです、警視《パトロン》。まだあまりくわしいことはわかりませんが、お知らせしておいたほうがいいと思いましたので。ラショーム家には配達に使う古い小型トラック二台と、数年前から役に立たないトラックが一台ある他に、乗用車が一台あります。この車はブルーのポンティアックで、ポーレット・ラショームの名前で登録されてます。亭主のほうは運転しません。この情報が正しいかどうかわかりませんが、近所の人の話では、亭主は癲癇《てんかん》の発作を起こすらしいのです」
「レオナールはときどきそのポンティアックを運転していたのか?」
「ええ。彼はこの車をポーレットとおなじくらい使っていました」
「昨夜は?」
「ポーレットは車を使っていません。しかし六時頃、彼女が外出したとき、この車は門の前にありました」
「彼女はタクシーで出かけたのかな?」
「その辺のことははっきりわかりません。おそらくタクシーだと思います。人の話では、彼女は地下鉄やバスで出かけるような女ではありません」
「レオナールは外出したのか?」
「イヴリの刑事たちが河岸の住人たちにたずねて、いまそのことを調べています。昨夜勤務中の巡査たちによれば、ブルーのポンティアックは八時には門の前になかったそうです。巡査たちの一人は、夕方の六時ごろその車がもどってくるところを見ていますが、そいつはあの家からかなり離れたところにいたので、車が門のなかに入ったかどうかは見ていません」
「ハンドルをにぎっていたのはだれだ?」
「気がついていません。その巡査はただ、町から来たブルーのポンティアックが河岸のほうに向かっていったことしか覚えていません」
「それだけかい?」
「いいえ。妹の住所がわかりました。ここ数年のあいだに五回か六回住所を変えていたので、彼女の居所をつかむのは容易ではありませんでした」
「その間ずっと彼女は家族のところに顔を見せていたのか?」
「そうではないようですね。現在彼女はフランソワ一世街の十七号乙に住んでいます」
「結婚は?」
「していないと思います。フランソワ一世街に行ってみましょうか?」
メグレは昼食のことを、リシャール・ルノワール通りの家で待っている妻のことを考え、ためらったが、肩をすくめた。
「いや、私が行こう。きみはそこに残って調べをつづけて、ときどき電話をくれたまえ」
ラショーム家の三番目の子供に会うのは興味があった。彼女はあの家から逃げ出した唯一の子供であるから、他の二人の息子とはちがうにちがいない。
メグレはまだ湿っている外套を着、警視庁の車に乗ったものかどうかためらった。アルマン・ラショーム同様、メグレは運転できなかったので、だれかを連れて行かざるをえなかったのである。
メグレはしゃべりたくなかった。外に出ると、ドフィーヌ広場のほうに向かった。出かける前にビヤホールにちょっと立ちよって一杯ひっかけることは、自分でもわかっていた。カウンターには他の局の刑事たちの姿が見えた。彼の局の刑事たちは一人もいなかった。彼らはみんな仕事に出かけてしまっていたのである。
「なににいたしますか、メグレさん?」
「グロッグ」
メグレはグロッグで捜査をはじめると、たとえその時間でなくても、グロッグを飲みつづける。警視庁の刑事たちはメグレをちょっと見ただけで、いまは彼に話しかけるべきではないことをさとった。彼らは急に声を低めてしゃべりさえした。
いつのまにかメグレは、イヴリ家の人たちを、それぞれしかるべき場所におき、彼らの毎日の生活を想像しようと努めていた。が、それは容易なことではなかった。
たとえば、彼らは一緒に食事をしていたらしいが、ポーレットは老人夫婦の前ではどのような女だったのか? あの目立たない、引っこみ思案の夫にたいして、あの家の中心であったと思われる義兄にたいして、彼女はどんな態度を取っていたのか?
そして夜は? 彼らはそれぞれどこにいるのか? なにをしているのか? メグレはラジオもテレビも見かけなかった……。
この大きな家を維持するのに……もちろん家の一部分はうっちゃらかしにされている……、八十歳近い老女中が一人しかいないのだ!
いままで毎日午後になると学校から帰ってきたのに、いきなり寄宿舎に入れられてしまったあのジャン= ポールという少年のことも忘れてはならない。
十二歳の少年はあの雰囲気のなかでどんな反応をしめしたのか?
「タクシー!」
メグレはフランソワ一世街に向かった。車の片隅で、一日のいろいろな時間におけるあの家のなかを想像しつづけていた。
予審判事が頑固に居残っていなければ、メグレはもっといろいろなことを知ることができただろう。とくに、アルマン・ラショームを、時間を十分にかけていろいろと質問したら、しゃべらせることができたのではないかという気がした。
「着きましたよ、警視さん!」
メグレは料金を払い、停ったタクシーの眼の前にある七階建ての建物をながめた。一階は婦人帽子店に占められている。いくつかの銅のプレートはよく知られた会社の名前がついていた。メグレは正面の入口を入り、手入れのゆきとどいた、豪華な感じの受付の部屋のガラスのドアを開けた。猫は見えなかった。この受付の部屋はシチューの匂いもしなかったし、受付の女は若くて、愛想がよかった。
メグレはバッジを見せて、つぶやいた。
「メグレ警視です」
彼女はすぐに赤いビロード張りの椅子を指さした。
「主人は二、三度あなたを車にお乗せしましたことがあるんですのよ。よくあなたの話をしますわ。主人はタクシーの運転手なんですの。夜間勤務ですので……」
そういって、寝室と受付の部屋とを隔てているカーテンを指さした。
「主人はそこで、寝てますの……」
「ラショームという女性が、ここを借りていませんか?」
なぜ彼女は謎めいた、たのしそうな微笑をうかべたのか?
「ヴェロニック・ラショームさんなら、おります。あなたがお知りになりたいのは彼女のことですね?」
「彼女は長いあいだこのアパルトマンに住んでいますか?」
「ちょっと待ってくださいよ……あ、それは簡単にわかります、あの女《ひと》は先月契約を更新しましたから……ですから、三年とちょっとですね……」
「何階ですか?」
「六階。大きなバルコニーがついている二つのアパルトマンの一つがそうです」
「いま部屋にいますか?」
女は首をふり、ふたたびため息をついた。
「働いているんですか?」
「ええ。今の時間は違いますけどね」
メグレはそれを思い違いしてしまった。
「あなたがいいたいのは、彼女が……」
「いいえ。あなたが思ってらっしゃるようなものではありません。このすぐそばのマルブーフ街にある『アマゾーヌ』をご存じですか?」
メグレはその名のナイト・クラブを知っていたが、一度も足を踏み入れたことがなかった。ただ二軒の商店にはさまれたガラスのドアと、ネオンの看板と、裸の女の写真を覚えているだけだった。
「その店は彼女のものなのですか?」と、メグレはたずねた。
「正確には、そうではありません。彼女はバーテン兼ホステスなのです」
「あそこの客はちょっと特別な人たちではなかったのですか?」
受付の女はとてもたのしそうだった。
「男の人たちはあまり行かないのですの。逆に、スモーキングを着た女たちが……」
「わかりました。そういう具合なら、ラショームさんが朝の四時前にここに帰って来るということは、ほとんどありませんね?」
「五時か、五時半ですね……いままでは時間がきっちりしてたんですけど、数力月前からときどき帰ってこないことがあるんです」
「男でもできたのかな?」
「そう、男が」
「その男がだれかご存じですか?」
「その男がどんな様子の人かはいうことができますわ、四十ぐらいの品のいい人で、パナールのコンパーティブルを運転してますの」
「階上《うえ》で夜をすごすことがときどきありますか?」
「二、三度ありましたね。いつもは、あの女《ひと》が男の家に行くんです」
「その男がどこに住んでいるかわかりませんか?」
「ここから遠くないところと考えていいですわ。ヴェロニックさんは……わたしはあの女《ひと》をそう呼んでるの……いつもはタクシーを使います。地下鉄やバスが好きではありませんの。ところが、外泊したとき、あの女は歩いて帰ってきます。ですから、遠くから歩いてきたのではないと考えていいですわ」
「そのパナールのナンバーを覚えていませんか?」
「七七で始まっていて……三で終っていたみたいだけど、はっきりしません……あら、なぜ? お急ぎなんですか?」
捜査の初めは、すべてが緊急なのである。というのは、どんな意外な展開を見せるかわからないからだ。
「彼女の部屋に電話がありますか?」
「もちろんですわ」
「このアパルトマンはどのようになっていますか?」
「きれいな部屋が三つと浴室。あの女《ひと》はすごくいい趣味の家具を備えつけてます。かなりのお金をかせいでいるんでしょうね」
「感じのいい女《ひと》ですか?」
「美しいかどうかということですの?」
受付の女の眼がふたたびきらめいた。
「あの女は三十六歳なのに、そのことを隠そうとしないんですの。肥っていて、わたしより二倍も大きな胸をしていますわ。髪は男のようにショート・カットで、外出するときはいつでもテーラード・スーツ。かなりずんぐりした顔付ですけど、あの女を見ているのはたのしいわ。いつでも上機嫌ですし、すべてに無頓着な様子をしてますから」
メグレには、なぜラショーム家の末っ子が急いで家族のもとを離れたのかよくわかりはじめた。
「さきほどあなたがいった他にも、彼女には男がいますか?」
「かなりたくさん。でも、いつも束《つか》の間ね。さっきいいましたように、あの女は朝の五時頃帰ってきますが、ときどぎ一緒に連れだって帰ってくるんですの。そしていつもきまって、午後の三時頃、男は顔をそむけ、向こうの壁ぎわを通って出て行きます……」
「ということは、ここに住んでからは、その四十ぐらいの男が彼女の初めての本当の恋人だということですね?」
「わたしはそう思いますね」
「彼女は惚れているようですか?」
「これまでよりずっと明るいわ。そこからあなたが判断してください」
「何時にここに来れば彼女に会えるかわかりませんか?」
「なんともいえませんわね。夕方帰ってくることもあれば、ここに立ち寄らずにナイト・クラブに直行してしまうこともあるんですもの。直行したことが二、三度ありました。主人を起こすベきだとは思いませんか? あなたがいらっしたのに会えなかったと知ると……」
メグレはポケットから時計を出した。
「私は急いでますので。もう一度おうかがいすることもあると思います」
数分後、メグレは『アマゾーヌ』の入口に飾られている女たちの写真の前に立っていた。鉄格子のはまったドアは閉っていた。呼鈴はなかった。
御用聞きの少年がふり返って、淫《みだ》らな写真に見とれているようにみえるこの初老の男に、皮肉な視線を送った。メグレはそれに気がつくと、ぶつぶついいながら遠ざかった。
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第五章
実際……それにメグレ夫人もずっと前からそうではないかと思っていたにちがいない……、メグレは捜査に没頭しだすと家に食事に帰ることがまれになるのであるが、それは時間を節約するためというより、自分の殻にとじこもるためだった。いわば、朝が来たとき丸くなって寝ていた者が、自分自身の匂いをもっとよく嗅ぐため毛布のなかにくるまってしまうようなものだった。
メグレが匂いを嗅ぐのは、要するに他人の私生活である。たとえば、いまも、街なかで、外套のポケットに両手を突っ込み、雨を顔にうけながら、彼はガール河岸のあの風変わりな雰囲気に浸っていたのだ。
メグレが自宅に帰るのを、自分の部屋を、妻を、家具を、あの多かれ少なかれ堕落しているラショーム家の人たちと全然関係のない常に変わらぬ秩序を見出すのを嫌がるのは、当然ではなかろうか?
この殻にとじこもることや、こうした瞬間における彼の伝説的な不機嫌、丸めた背中、気むずかしい様子などをも含めたその他の奇癖は、何年もかかって彼が無意識に完成させたテクニックだった。
たとえば、メグレは結局アルザス人のビヤホールに入って行き、窓のそばのテーブルに坐ったが、それはなにも単なる偶然によるものではない。この午後、彼は足の下にしっかりと大地を感じる必要があったのだ。どっしりとして、物に動じないでいたかったのである。
アルザス地方の衣裳を着たウェイトレスはメグレをよろこばせた。カールしたブロンド髪の、えくぼのある彼女は、陽気で、健康で、よく笑い、心理的な複雑さなどまるで関係なかった。メグレにはシュークルートを注文するのが当然のことのように思われた。この店のシュークルートは量が多くて、つやのいいソーセージとみずみずしいばら色をした塩煮豚とが豊富に付いている。
注文を終えると……どうしても欠かせないビールも含めて……、メグレは夫人に電話をしに行った。夫人は三つの短い質問をしただけだったが、そこには好奇心があらわれていた。
「殺人?」
「そのようなものだ」
「どこで?」
「イヴリ」
「面倒なの?」
「そう思うよ」
メグレが夕食に帰ってくるかどうか、夫人はたずねなかった。彼女には一日か二日、夫に会えないだろうことが前もってわかっていたのである。
メグレはあいかわらず斜めに、ほとんど水平に降っている雨と、前かがみになって雨傘を楯のようにもって歩いている通行人をながめながら、うわの空で食ベ、生ビールを二杯|空《から》にし、コーヒーを飲んだ。
メグレは頸の|しこり《ヽヽヽ》を忘れてしまっていた。動きまわったので、しこりがとれてしまったのにちがいない。二時ちょっとすぎに、オフィスにもどると、メモがいくつかおいてあった。
彼はゆっくりとくつろぎ、新しいパイプにたばこを詰め、ガール河岸の鋳物の小さなストーブを思い出し、警視庁にセントラル・ヒーティングが取りつけられたあとも長い間彼のオフィスに残しておいたほとんどおなじストーブをなつかしがった。結局このストーブは管理部から取り上げられてしまったのであるが。
数年のあいだ、みんなは日に二十回も火を掻き立てるメグレの癖を笑ったが、メグレにしてみれば、風が吹くごとに聞こえるあの『ぶーん』という音が好きなように、火の粉が雨のごとく落ちるのを見るのが好きだったのだ。
メグレが見た最初のメモは、イヴリ警察署の刑事からのものだった。
ラショーム家の隣りの家に住んでいるメラニー・カシューという主婦が、前日サン・タントワーヌ街に妹に会いに行った。彼女は妹の家で夕食をとり、夜の九時頃地下鉄で帰ってきた。
家の近くにきたとき、彼女はビスケット会社の前にブルーのポンティアックを見た。レオナール・ラショームは正面の両開きの門を開けていた。彼女がハンドバッグのなかの鍵をさがしているあいだに、レオナールは車のなかにもどり、中庭に運転してはいった。
彼女はレオナールに話しかけはしなかった。というのは、十五年前からこの河岸に住んでいたが、ラショーム家の人たちと全然付き合いがなかったからだ。彼女はただラショーム家の人たちの顔を知っているだけだった。
刑事は念をおしたが、メラニー・カシューは、上の息子のレオナールにまちがいないことを確信していた。さらに、彼女はメグレがすでに知っていることをつけ加えた。
「それに、弟さんのほうは車の運転ができませんから」
レオナール・ラショームはその後でふたたび出かけたのか?
とにかく、このときではないだろう。彼女は二階に住んでいた。彼女の部屋は河岸に面している。風を通すため、彼女は窓を開けて外出したのだ。帰ってきたとき、窓のほうに行った。隣りの重い両開きの門が閉る音と、閂《かんぬき》をかける耳なれた音とが聞こえた。彼女は無意識に歩道にちらっと眼をやったが、だれもいなかった。
二番目のメモは、メグレがサン・マルタン運河に派遣したボンフィス刑事のものである。彼は煉瓦をおろした『トウェ・ヘブルーダルス号』を見つけた。ボンフィスは二人の兄弟の一人、ジェフ・ヴァン・ゴーファラールドを見つけるまで二、三軒の居酒屋《ビストロ》を訪ね歩かなければならなかった。ジェフは昨夜のパーティのつづきをやるつもりでいるようだった。
ジェフは昨夜は数回デッキに上った。アコーデオンを弾いていたのは彼ではなく、弟だった。数回デッキに上ったが、そのうち一度、河岸で物音が聞こえた。奇妙な物音だったので、彼は放尿しながら顔を上げた。
「ガラスを割ったような音だったんじゃなかったかな?」
その物音はビスケット会社の塀から聞こえてきた。歩道にはだれもいなかったし、塀のわきにもだれもいなかった。
そうです、たしかに塀から突き出ている頭に気がつきました。たぶん庭で梯子にでも乗っていた人間の頭でしょう。
家からどのくらい離れていたかって? 十メートルぐらいのもんでしょう。
このときジェフ・ヴァン・ゴーファラールドはまだジンを五、六杯しか飲んでいなかったのである。
メグレは鑑識課の連中がつくった見取図をさがした。塀の上の、壜のかけらが打ちくだかれていた場所には十字印がついている。家から十メートルのところだ。
ところで、三メートル以内のところに街燈がある。ジェフの証言に信憑性が感じられるのはこのためである。何時《いつ》デッキに上ったとき、ジェフがこの出来事を見届けたのかをたしかめたいため、ボンフィスは時間の点をしつこくたずねた。
「そいつは簡単にわかりますよ。ケーキがまだ切られていなかったから」
ボンフィスはジェフの妻にたずねるため、大伝馬船にもどった。ケーキは十時半頃切られたのである。
メグレはこれらの情報を整理したり、そこから結論を引き出したりしないで、ただ記憶にとどめておくだけにした。
メグレは三番目のメモに目を走らせた。これもイヴリ警察署からで、最初のものより数分あとで届いたメモである。数行ずつしか書かれていないいくつかの紙切れに、それぞれ、雨のなかの人の行き来の時間と、刑事たちが質問した人たちの数とがしるされていた。その人たちはおかしな質問をすると思ったにちがいない。
あいかわらず前日のことだが、夜の六時に……ちょっと時間が後もどりする……、ナショナル橋の正面にあたる地域で小さな食料品屋をやっているゴードワという夫人が、店から数メートルのところに駐車している赤いスポーツ・カーに気づいた。ワイパーが動いていて、男がハンドルの前に坐っているのも見ている。男はルーム・ランプをつけて、新聞を読んでいた。だれかを待っている様子だった。
スポーツ・カーは長い間そこにあった。ゴードワ夫人は、車が停っているあいだかなりのお客の相手をしているので、二十分ぐらい待っていたのではないかといっている。
いいえ、その男はそんなに若くはありませんでした。四十歳ぐらいだったかしら。黄色っぽいレインコートを着ていました。そのうちいらいらして、車から出て歩道を行ったり来たりしはじめたので、もっとはっきり見えました。あるときなど、わたしの店のショーウィンドーをのぞきに来たりしましたわ。
男は褐色の帽子をかぶり、小さな口ひげをつけていた。ラショーム家の者ではない。レオナールでも、アルマンでもない。彼女は二人を知っている。それに老女中のカトリーヌはときどき彼女の店に買物に来るし、借金さえしている。ラショーム家の人たちはこの界隈のすべての店に勘定をためているのだ。
食料品屋のおかみはハイヒールで歩く女の足音を聞いた。ショーウィンドーの明りが歩道の一部を照らしていた。おかみは男と落ち合ったのがポーレット・ラショームにまちがいないといっている。ポーレット・ラショームが毛皮の外套と、ベージュ色の帽子をかぶっていたのさえ見ている。
スポーツ・カーの男はドアを開けた。ポーレット・ラショームは身をかがめて乗った。車体がひどく低かったからだ。
「その車がどこのメーカーのものだかわかりましたか?」
食料品屋のおかみは車のことは全然わからなかった。一度も車をもったことがなかったし、やもめだったから……。
刑事は職業的な心くばりから、おかみのところへいろいろな車が載っているカタログをもって行った。
「あの車はこれに似ているわ!」と、食料品屋のおかみはパナールを指さした。
それだけだった。あとは、リュカが青でかこんだ夕刊の数行の記事だった。
[#ここから1字下げ]
強盗殺人
昨夜、イヴリのガール河岸のラショーム宅に押し入った強盗は、長男のレオナール・ラショームに見つかり、発砲した。家族が死体を見つけたのは今朝になってからである。そして……
[#ここで字下げ終わり]
くわしいことはもっとあとで載るのであろう。いまは、少なくとも十二人ほどの新聞記者たちがイヴリをうろつきまわっているにちがいない。
メグレはオフィスに落着いて坐り、これらのメモを元の場所においた。パイプの煙が目の前に青い幕をつくりはじめていた。
六時に……これはすでに知っていたことの裏付けがとれたことになるのだが……、ポーレット・ラショームは毛皮の外套を着、ベージュ色の帽子をかぶってガール河岸の家を出ている。車に乗らなかったが、急ぎ足で二百メートルばかりのところにあるナショナル橋のほうに向かった。そこでは男がパナールと思われる赤いスポーツ・カーで彼女を待っていた。
ほとんど同じ時刻、彼女の車であるブルーのポンティアックはビスケット会社の前に駐車している。
この車が使われた時刻についての正確な情報はなにもない。ただわかっていることは、七時頃にはその車はもうそこになかったこと、九時頃にレオナール・ラショームはその車で帰ってきて、中庭の奥にあるガレージに入れたことである。
何時に、ラショーム家の人たちは夕食をとるのか? 子供のジャン= ポールがまだ学校の寄宿舎に入っていないのだから、ふつうは六時にテーブルについていたにちがいない。
ポーレットはもちろん昨夜はいなかった。レオナールもいなかったことはほぼまちがいない。
それでは食堂には老人夫婦と、アルマンと子供しかいなかった。
十時頃に、『トウェ・ヘブルーダルス号』の船頭が、塀の上の壜のかけらが打ちくだかれる音を聞き、人の顔に気づいている。
十一時半に、ポーレットがどのような手段によってかわからないが、帰ってきた。タクシーにでも乗ってきたのか? 赤いスポーツ・カーで家まで送られてきたのか?
ポーレットが二階の廊下を通りかかると、パジャマの上に部屋着をはおった義兄が、寝室のドアを開けて、「今晩は」といった。
アルマンはすでに寝ていたのか? 彼は妻が帰ってきたことを知っていたのか?
部屋着に着がえると、ポーレットは廊下の端にある共同の浴室に行き、レオナールのドアの下の明りに気がついた。
それから、いつものように彼女は催眠薬を飲み、朝までなんの物音も聞かずに眠った。
その他のことは、ポール医師が午前二時と三時のあいだと定めたレオナールの死亡時刻以外、はるかに仮定的である。
レオナールは、胃の検査と血液の分析の結果判明したおびただしい量のアルコールを、どこで、いつ飲んだのか?
メグレは鑑識の最初の報告書をさがした。その報告書には、家具、壁掛け、雑多な品物はもちろん、死者の寝室のなかにあったすべてのものが細かくしるされてあった。そのなかに酒壜もグラスも入っていない。
「ポール医師《せんせい》をつないでくれ、医師《せんせい》はこの時間には自宅のほうにいるはずだ」
ポール医師はいた。町で食事をして帰ったところで、上機嫌だった。
「メグレです。医師《せんせい》にある点をはっきりさせてもらいたいと思いまして。それはレオナール・ラショームのからだから検出されたアルコールのことなのです」
「とにかく、胃のなかにブランデーがあった」と、ポール医師が答えた。
「私が知りたいのは、このアルコールを何時頃飲んだのかということなのです。その点について医師《せんせい》のお考えは?」
「そんなことは科学的な方法で三十分もあればはっきりさせられる。というのは、人体は規則正しいリズムでアルコールを排泄するからだよ、このリズムにいくらか個人差はあるがね。血液のなかにあったアルコールの一部は宵《よい》の口に飲んだものだ、もう少し前かもしれない。だが、量はそれほど多くはない。殺されたときまだ胃のなかにあったブランデーは最後の食事のあとでかなり長い時間をかけて飲んだものだ。私は十分幅をもたせて、夜の十一時から午前一時までのあいだといいたい。最後に、そのアルコールの量がどのくらいかときかれると、私としては答えるのをためらわざるをえないが、たっぷり四分の一リットルはあっただろうね」
メグレはこの情報を熟考するため、しばらく黙ったままでいた。
「あなたが知りたいのはそれだけかね?」
「ちょっと待ってください、医師《せんせい》。解剖によると、レオナールは大酒飲みで、しかもいつも飲んだくれていたのですか?」
「大酒飲みでもないし、いつも飲んだくれていたこともない。肝臓も動脈も完全な状態だよ。ただ私は、あの男が子供の頃に軽い結核をわずらったことを見つけた。たぶん知らないうちになおってしまったのだろうが、そういうことは人々が思っている以上によくあることなんだ」
「ありがとう、医師《せんせい》」
レオナール・ラショームは、何時とは確定できないが、とにかく義妹のあとからガール河岸の家を出ている。義妹がまだだれともわからぬある男と会うため家を出たとき、あいかわらずポンティアックは歩道に沿って停っていたのだろう。
ラショームは彼女のすぐあとか、あるいはかなりあとに家を出たにちがいない。それでも彼は九時に帰ってきている。
九時には、家の者はまだだれも寝ていなかったにちがいない。子供のジャン= ポールも寝ていなかっただろうが、それははっきりしない。レオナールが客間に顔を出さずに、寝室に行ったということは考えられない。
そこで、彼と弟と年寄り夫婦のあいだに接触があった。カトリーヌが台所で皿洗いに追われているあいだ、少なくとも家族のつどいがあり、それがある時間つづいた。
レオナールはこのときから飲みはじめたのか? 彼らはなんの話をしたのか? 両親はいつ上の階に寝に行ったのか?
イアンジュロ判事がいなければ、メグレはそれを知ることができたにちがいない。メグレは家族の者たちに質問したかったのだが、判事の熱心さと執拗さがそれを妨げたのである。
残った兄と弟は、差し向かいでいたのか? このとき二人はなにをしていたのか? それぞれ客間の隅で本でも読んでいたのか? おしゃべりでもしていたのか?
レオナールがブランデーを飲んだのは寝室ではない。彼の寝室にはグラスも、酒壜もなかったからだ。
アルマンは客間に兄を残して、さきに寝に行ったのか、あるいはレオナールがあとで客間にもどってきたのか?
レオナールは飲んだくれではない。職業柄これまで多数の死体を解剖してきたポール医師がそのことを断言しているし、メグレはポール医師が信頼できることを知っている。
ところで、夜の十一時から午前二時までのあいだに、ラショーム家の長男はたっぷり四分の一リットルのブランデーを飲んだ。
アルコールはあの家のどこにおいてあるのか? 客間か、食堂の戸棚のなかか? レオナールは地下室に酒を取りに行かざるをえなかったのか?
十一時半か十二時に、義妹が帰ってきたとき、彼は寝室にいた。
すでに彼は飲んでいたのか? そのあとで初めて飲みはじめたのか?
少なくとも十人の刑事たちがまだ雨のなかを歩きまわり、呼鈴を鳴らし、人々に質問している。人々の記憶をよみがえらせようと懸命になっている。
やがて、メグレがいま手にしている情報に、新たな情報がつけ加えられるだろう。その新たな情報は、最初の情報とぴったり合うのもあれば合わないのもあるだろう。
メグレは考えを変えるため、立ち上って刑事部屋を一まわりしてみたくなった。そのとき電話のベルが鳴り響いた。
「ボワネという夫人があなたに個人的に話したいといってきているんですが」
名前に心当りはなかった。
「どんな用事か聞いてみてくれ」
メグレの名前は新聞にちょくちょく載るので、始終見知らぬ人間たちが、なんとかしてメグレと個人的に話したがっていた。メグレに全然関係のない問題もあれば、いなくなった犬や、パスボートの更新などのこともあった。
「もしもし! 彼女はフランソワ一世街の受付だといってます」
「つないでいいよ……もしもし! 今日は、奥さん……メグレです」
「警視さん、あなたをつかまえるまで大変でしたわ。わたしはことづけがあなたに伝わらないのじゃないかと心配したんです。彼女はたったいま帰ってきましたよ」
「一人で?」
「そうです、腕にいっぱい買物を抱え込んで。あの女、部屋で夕食をとるつもりらしいですよ」
「そちらに行きます」
メグレはこんども、パリ警視庁の知られすぎている黒い車よりもタクシーを好んだ。暗くなりはじめていた。リヴォリ街では二カ所交通渋滞で遅れたし、コンコルド広場を横切るのに十分もかかった。そこでは車の濡れた屋根がおたがいに触れ合うほどだった。
メグレが十七号乙の玄関に入るや、受付の女がすぐに小部屋のドアを開けた。
「六階の左側です。あの女が抱えてきた買物のなかに|ねぎ《ヽヽ》がありましたから、そんなにいそがなくても大丈夫ですよ。スープでもつくるんでしょ」
メグレは彼女に共犯者的な目くばせを送り、受付の部屋に入ることは避けた。というのは、部屋には彼女の夫の姿が見えたし、メグレはおしゃべりして時間を無駄にしたくはなかったからだ。
この建物は豪華だった。エレベーターはのろかったが、音はしなかった。六階の左側のドアには、名前がついていなかった。メグレはベルを押した。かなり遠くから近づいてくる足音が聞こえたが、その音はじゅうたんのため、かすかだった。
ドアはただちに開けられた。待たれていたのはメグレではなかった。メグレを迎えた女は、まるで彼の顔を思い出そうとしているかのように眉をひそめた。
「あなたは?」
「メグレ警視です」
「どこかであなたの顔を見たような気がしますわ。最初映画だったように思いましたけど、新聞でしたわ。お入りになって」
メグレはおどろいてしまった。というのは、ヴェロニック・ラショームの見かけは受付の女の説明とは似ても似つかなかったからだ。たしかにヴェロニック・ラショームは肉付きがよかった、率直にいえば肥っているといえるが、しかし男のスーツなど着ていなかった。上等のリンネルの部屋着だった。彼女がメグレを案内した部屋は、客間というより閨房《けいぼう》だった。
いくつかの青い陶磁器と、くすんだピンクの厚い羊毛のじゅうたんを除けば、壁も、家具にかけてあるサテンもすべてが白だった。マリー・ローランサンの絵を思わせないこともない色の調和だった。
「なにをおどろいていらっしゃるのです?」と、彼女は安楽椅子をメグレに差し示しながら聞いた。
メグレは外套が濡れていたので、そこに坐るのが憚《はばか》られた。
「外套をお脱ぎになって、こちらにください」
彼女は外套を玄関に掛けに行った。受付の女は、少なくともある一点ではまちがっていなかった……|ねぎ《ヽヽ》のうまそうな匂いがすでに台所からにおってきていた。
「警察がこんなに早くここにお見えになるとは思っていませんでした」と、メグレと向かい合って坐りながら彼女はいった。
彼女は肥っていたが、そのために醜くみえるどころか、肉感的で、非常に感じがよくなっていた。メグレは多くの男が彼女をものにしようとしたにちがいないと思った。彼女は愛想笑いもしなかったし、大きくはだけてみえる両脚を部屋着でかくそうともしなかった。
ペディキュアをした足は、白鳥の飾りのついた白いスリッパをもてあそんでいる。
「パイプをお喫いになってもかまいませんわ、警視さん」
彼女はシガレット・ケースからたばこを取ると、立ち上ってマッチをさがしに行き、ふたたびもどってきて坐った。
「わたしがちょっとおどろいたのは、家族の者がわたしのことをあなたにお話したことなのです。あなたはあの人たちを質問攻めにして、話させたにちがいありません。あの人たちにとって、わたしはやっかい者ですし、あの家のなかではわたしの名前はタブーになっているからです」
「昨夜起こったことを知っていますか?」
彼女は椅子の上に開いたままおきっ放しにしてある新聞を指さした。
「新聞で読んだことしか知りません」
「新聞に眼を通したのは、ここに帰ってきたときですか?」
彼女はちょっとだけためらった。
「いいえ。友達の家で」
それから、上機嫌でつけ加えた。
「ご存じのとおり、わたしは三十四歳なのです。一人前の娘なんです」
白い部屋着からはみ出してしまっている大きな乳房はそれ自身生命をもち、気分次第で身震いしているようだった。メグレにはそれを淫らというよりも、陽気で、人のいい乳房と呼びたい気持だろう。
明るいブルーの眼はとび出していて、意地悪と無邪気の表情が同居していた。
「わたしがガール河岸に駆けつけないことを、あなたはあまりおどろかないようですね。ここではっきりいっておきますけど、わたしはお葬式にも行かないでしょう。わたしは兄たちの結婚式にも、上の義姉《あね》のお葬式にも呼ばれませんでした。甥の生まれたことさえ知らされませんでした。ご覧のとおり、完全な仲たがいですわ!」
「そうなることをあなたは望んだのではないのですか?」
「わたしのほうから家をとび出したんですから、そのとおりですわ」
「はっきりした理由があったのですか? 私のまちがいでなければ、そのときあなたは十八歳でした」
「家族の者がわたしをある金属商と結婚させようとしたからです。もっとも、そのことがなくても、わたしはいずれすぐあとで家を出ていたでしょうね。あなたはあの家に行きましたか?」
メグレは頭でうなずいてみせた。
「あそこがよくなっているとはわたしには思えませんが? あいもかわらず陰気ですの? なによりもわたしがおどろいたのは、強盗が怖気づかなかったことです。それとも強盗は酔っていたか、昼間あの家を見なかったのでしょう」
「強盗の話を信じますか?」
「新聞が……」と、彼女はいいはじめたが、額にしわをよせた。「本当ではないのですか?」
「まだわかりません。あなたの家族がしゃべってくれないのです」
「わたしが少女だったころの晩のことを覚えています。あの人たちは十の言葉もいわないのです。義姉はどんな女《ひと》ですか?」
「私の判断したところ、かなり美しい女です」
「とても金持って本当ですの?」
「とても」
「このことの意味を理解されていますか、あなたには?」
「私は最後にはすべてを理解すると思います」
「彼女が結婚したとき、新聞で彼女のことを読みました。写真も見ました。わたしはあのかわいそうな娘に同情し、それから考えはじめました」
「どういう結論に達しました?」
「彼女が醜くければ、すべてはずっと簡単なのですが。結局、その鍵をわたしにあたえてくれたのは彼女の父親です。彼はずいぶん苦労したんですね? 最下層から身を起こしたんです。最初、彼は農家から農家へとオンボロ車を運転して行ったといわれています。読み書きもできなかったそうです。その人の娘が僧院で育てられたかどうかはわたしは知りません。僧院であろうと、どこかの学校であろうと、尼さんたちが彼女にきびしい生活を強いたにちがいありません。ある人々にとって、とくにイヴリの人々には、ラショームの名前はまだ快く響くのです。ガール河岸のあの家はまだ要塞《ようさい》のようなものなのです。わたしのいう意味がおわかりですか? あのジュベール父娘《おやこ》は一気に大ブルジョワ階級に飛び移ったのです……」
メグレはすでにそのことを考えていた。
「そのために彼女は高い犠牲を払ったのではないかしら」と彼女はつづけた。「一杯お飲みになります?」
「けっこうです。最近、あなたは家族のだれとも会いませんか?」
「だれとも会いません」
「あの家に帰らなかったのですか?」
「いやな思い出しか残っていない家の前を通るくらいなら、回り道をして行きます。でもわたしの父はおそらく律義な人間なのでしょう。父がラショーム家に生まれ、現在のような人間にさせられてしまったのは、自分ではどうしようもなかったことです」
「それではレオナールは?」
「レオナールは父よりもずっとラショーム家の人間です。むりやりわたしを金属商人……醜悪な男なんです……と結婚させようとしたのはレオナールなのです。レオナールは王様が王朝を継続させなければならないと子供たちに説明するような口調で、わたしに結婚のことを話しました」
「あなたは上のお義姉《ねえ》さんを知っていましたか?」
「いいえ。あの頃は、兄は努力はしていましたが、まだ結婚相手を見つけられませんでした。犠牲を強いられたのはわたしが最初です。アルマンが病気の頃でした。彼は健康であったことが一度もないのです。でも、まだほんの少年の頃から、彼はレオナールの粗悪な複製でした。彼はレオナールの身振りを、態度を、声を、わざと真似していました。わたしはいつも彼のことをあざ笑いました。実際、彼は哀れな男なのです……」
「昨夜起こったことで、あなたになにか思いつかれることはありませんか?」
「なにもありません。いいですか、そのことについてわたしはあなたよりも知らないのですよ。本当に強盗ではないのですか?」
「私は、ますますその可能性がうすくなっていると思っています」
「それは、家族のだれかがやった犯行だということですか?」
彼女は考え込んだ。その結論は少なくとも意外だった。
「そんなのばかげてるわ」
「なぜ?」
「わかりません。人を殺すのには勇気が必要だわ。あの家族にはそんな人間がいないもの……」
「あなたは昨夜どこにいましたか?」
彼女は怒らなかった。
「あなたがもっと早くその質問をしなかったことに、いまおどろいているくらいですわ。わたしは『アマゾーヌ』のカウンターのうしろにいました。あそこのことはご存じですわね? ある雑誌が『あわのような』と形容した部屋着をわたしが着ているのを見ておどろかれたのは、おそらくそのためでしょう。『アマゾーヌ』は仕事ですわ。黒のビロードのスモーキングに片眼鏡。ここのわたしが本当のわたしですの。わかりまして?」
「ええ」
「店での時間はエネルギッシュな女を演じなければなりませんので、家にいるときはその仕返しをするかのように、逆の面を強調したくなるのです」
「あなたには恋人もいますね」
「たくさんおりました。打明け話をしますと、昔わたしは家でトラブルを起こし、それで家出する決心がはやまったのです……わたしは十六のときに、デッサンの先生の愛人になったのです。彼はわたしの学校で教えているただ一人の男性でしたので、より好みができませんでした」
「お兄さんのどちらかか、お義姉さんが『アマゾーヌ』にやってきたことは一度もないのですか?」
「まず、あの人たちはわたしが『アマゾーヌ』で働いていることを知らないはずです。住所を教えてないし、ごく特別な、かぎられた範囲の人たちにしか知られていないからです。つぎに、あの人たちが、ラショーム家の女がナイト・クラブのカウンターのうしろにいるのを見たがるとは思いません。しかし……」
彼女はためらった。自分に自信がもてないようだった。
「わたしは義姉のポーレットをよく知りません。数年前に、彼女が結婚したとき新聞で写真を見ただけです。ある夜、テーブルの一つにいるのが彼女のような気がしました。いえ、ただそういう気がしただけです。それでそのことを話すのをためらったのです。わたしの注意を惹いたのは、その女が執拗に、なんともいいようのない好奇心でわたしをながめていたことです。それと、彼女が一人きりであったということです」
「それはいつのことです?」
「一力月半前かしら、二カ月前かもしれないわ」
「その後その女を見ましたか?」
「いいえ。ちょっとスープを見てきていいですか?」
彼女はしばらくキッチンにいた。鍋や皿やフォークの音が開こえた。
「ついでにオーヴンに焼肉を入れてきましたわ。『アマゾーヌ』の経営者や客たちにいわないでほしいんですけど……このことがわかると、まじめに相手にされなくなるし、失業してしまう恐れがあるからなんです……、わたしは料理が大好きなんです」
「自分だけのために?」
「自分だけのためと、ときどきは二人のために」
「今夜は、二人のためですか?」
「どうしてそれをご存じなの?」
「たったいま焼肉のことをいいましたよ」
「そうですわね。お友達がまもなく来るはずです」
「こんどの付き合いは本気なんでしょうね?」
「だれがそんなこといいました?『アマゾーヌ』の仲間? 別に隠すことでもないから、かまわないわ。いいですか、警視さん、三十四歳のわたしが恋をし、すべてを投げうって結婚すべきかどうか迷っているとお思いください。わたしは家事をしたり、市場に行ったり、肉屋や牛乳屋に行くのが好きなのです。家にいて料理をつくっているのが好きなのです。それが、訪ねて来る人がいて、二人分の食事を用意するとなれば、なおさらぐっと楽しくなります。それで……」
「だれが来るのです?」
「もちろん男ですわ。若くはありません。四十四歳です。これぐらいの年齢《とし》の差が必要なんです。もちろん、特別にハンサムというわけではないけれども、ベつに醜いこともありませんわ。あの人は家具付アパートやレストランにあきあきしているのです。広告代理店をやっていて、とくに映画の広告を扱っています。だから毎日『フーケ』や『マキシム』や『エリゼ・クラブ』に行かざるをえないのです。あの人はほしいと思えばいくらでもスターの卵をものにできるのです。でも、彼女たちもほとんどが家具付アパートで暮らしているし、レストランで食事するのです……」
うわべの皮肉に反して、彼女が惚れていること、それも夢中になっているらしいことはあきらかだった。
「わたしはあの人のところからもどってきたのです。これからわたしたちは二人きりで夕食をするのです。もう食卓を整えなければならない時間です。まだ質問したいことがあるのでしたら、わたしについてきてください。仕事をしながらあなたの話をきき、答えます」
「彼の名前と住所をお聞かせください」
「あの人が必要なのですか?」
「そうなるかもしれません」
「ジャック・サンヴァル、ポンティウ街十三番地。ジャック・サンヴァルというのは本名ではありません。本名はアルテュール・バケというのです。広告業者としてアルテュール・バケでは響きがよくありませんので、偽名をつかっているのです」
「ありがとう」
「あら、どうして?」
「親切に私をもてなしてくれました」
「当然のことですわ。あなたは一杯のお酒も飲まなかったですわ! 実際、アパルトマンにはたいしたお酒は置いてないのです。一晩じゅう、シャンパンを飲まざるをえませんので、それで十分なのです。たいてい、ちょっと唇をつけただけで、残りを流しに空けてしまうのですが」
彼女はまだ人生をたのしんでいた。
「わたし、泣かなくてごめんなさい。たぶん泣かなくてはいけないのでしょうが、涙が出ないのです。早くレオナールを殺した犯人を知りたい」
「私もそうです」
「わかったら教えてくれますわね?」
「約束します」
まるで二人はぐるになったようだった。というのは、メグレは最後には、さらさら衣擦《きぬず》れの音を立てる部屋着をきた肥った女とおなじような微笑をうかべてしまったからだ。
メグレはエレベーターを待って一人で踊り場に立っていた。エレベーターが停ったとき、中にこめかみのあたりが薄くなりはじめた褐色の髪の男が乗っていた。男は明るいレインコートを着、手に栗色の帽子をもっていた。
「失礼……」と、男は警視の前を通りながらささやいた。
それから、警視をもっとよく見るため振り返った。まるでメグレの顔が彼にもなじみがあるかめように。
エレベーターが降りた。受付の女がガラス張りのドアのうしろで待ちかまえていた。
「あの男に会いましたか? たったいま上っていきました」
「会いました」
「彼女のことどう思います?」
「魅力的です」
メグレはお礼をいい、微笑んだ。ふたたびこの受付の女が必要になるかもしれなかったので、彼女をがっかりさせてはならなかった。メグレは彼女の亭主のタクシー運転手の手もにぎった。彼は二、三度この運転手の車に乗ったことがあった。
やっと歩道に出たとき、メグレは入口の前に停っているコンバーティブルの赤いパナールに気がついた。
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第六章
メグレはしばらく待ってから車のあいだを縫って進んだ。というのは会社の退時《ひけどき》だったからである。反対側の歩道に行きつくや、メグレはたったいま出てきたばかりのアパルトマンのほうへ顔を上げた。建物に沿って張りめぐらされている鉄のバルコニーは真中で金網が二つに分かれている。陽はとっぷりと暮れていた。カーテンのかかった窓の少なくとも半分には光がともっていた。
六階のフランス窓が少し開いていた。口にたばこをくわえた男が、バルコニーから身をかがめて通りを見下ろしていたが、警視を見ると慌ててうしろに身を引いた。
さきほど上っていった男だった。エレベーターのドアのところで擦れちがったとき眉をひそめた、映画広告を扱っているジャック・サンヴァルと自称する男だ。
男はアパルトマンのなかにもどり、フランス窓は閉った。食卓の準備をしているヴェロニック・ラショームに彼はどんなことをいっているのか?
この建物の正面にバーがあった。居酒屋《ビストロ》ではなくて、高いストゥールとソフトな照明のついたアメリカ風のバーだ。こういう店はシャンゼリゼの界隈にますます増えつつあった。
メグレはなかに入った。混んではいたが、壁ぎわに一つストゥールを見つけた。暑かった。物音や女の笑い声、たばこの煙でいっぱいだった。黒い着物に白いエプロンをかけた美しい娘が微笑みながら、彼の外套と帽子を待っていた。
バーテンがメグレのほうを向いたとき……彼もどこかですでにメグレに会ったという様子をした……メグレはちょっとためらってから、注文した。
「グロッグ!」
ついで、たずねた。
「電話は?」
「地下《した》です」
「電話用コインはあるかい?」
「電話交換手のところです」
ここはメグレがよく行くような店ではなかった。こうしたバーは彼の若い時分にはなかったので、いつでもとまどいを感じてしまうのだ。
板張りの壁には赤いジャケットを着た騎手たちがいる兎狩の絵が描かれている。カウンターの真上には本物の狩猟用ホルンがぶら下っていた。
部屋の奥にある階段のほうに行きながら、メグレは自分が見られているのを感じた。バーテンはやっと彼がだれだかわかったのだ。他の人たちにもわかったかもしれない。女たちの大部分は若かった。男たちは女たちほど若くはなかったが、それでも警視の世代ではなかった。
メグレも何人か見覚えのある顔を認め、この街の少し先にテレビ局があることを思い出した。
彼は樫の階段を降りた。携帯品預り所のそばの電話交換台の前に、先ほどとは別の美しい娘が坐っていた。
「電話用コインを」
ガラス張りの三つの電話室があったが、どれも自動ではなかった。
「何番をお掛けするのですか?」
司法警察局の電話番号をいわなければならなかった。この娘もメグレのことに気がつき、じっとメグレを見つめた。
「二番の電話室です」
「こちら司法警察局」
「メグレだ。リュカをたのみます」
「ちょっとお待ちを、警視殿……」
リュカは話中だったので、メグレは待たなければならなかった。やっとリュカの声が聞こえた。
「失礼しました、警視《パトロン》。ちょうど予審判事から電話だったのです。警視が出かけてから三度も電話してきて、あなたから連絡がないことにおどろいていました」
「それで?」
「彼はいろいろと私にたずねました……」
「どんなことを?」
「最初はあなたがガール河岸にもどったのかどうか聞きました……私はそうは思えないと答えました。つぎは、あなたが新たな証人から話をきいたかどうか知りたがりました。数分前にかかってきた最後の電話では、あなたへのことづけを残していきました……これから夕食に出かけるので着替えに家にもどらなければならない……今夜はずっとバルザックの二三七四番にいる、とのことです」
メグレが現在いるのはシャンゼリゼ界隈である。
「尋問する予定があるなら、ぜひとも自分のオフィスでやってもらいたい、といっていましたが……」
リュカは困惑しているようだった。
「それだけ?」
「まだです。彼は刑事たちが行った場所や、なにをしているかとか、なにを発見したかとかたずねました……」
「きみは彼に答えたのか?」
「いいえ。私はなにも知らないといいました。彼は不満のようでした」
「情報は?」
ガラス戸越しにメグレは、口紅をつけながら彼のことを見守っている電話交換手と、鏡の前で靴下留めを直している女客を見ていた。
「ありません。ラポワントがさっき勤務にはいりました。彼はなにか仕事をしたがって、いらいらしています」
「彼を電話に出してくれ」
彼はちょうどよいときにやってきたわけである。
「ラポワント? どれでも空いてる車に乗って、イヴリに行ってくれ。ナショナル橋の正面の街角に、薄暗い照明の食料品屋がある。私はそこの女の名前を忘れてしまった。ショーデーとか、ショードンとか、ショードワとかいったと思うが……彼女は巻髪にしていて、片方の眼がちょっと鉤《かぎ》形に曲っている。彼女にはうんとやさしくしろ、うんと丁寧にな。ちょっと彼女のことが必要だというんだ。彼女はよそいきの着物を着たがるだろうが、あまり時間を取らせないようにして、フランソワ一世街の十七号乙の正面に連れて来るんだ。たぶん歩道の縁《ふち》に赤い車があるだろう。できるだけ近くに車を停めて、私が合図するまで二人とも車のなかに残っているんだ……」
「わかりました、警視《パトロン》」
メグレは電話室から出ると、通話料金を払った。
「ありがとうございます、メグレ警視」
こんなことをいわれても、メグレはもうずっと前からうれしくなくなっている。階上《うえ》では、お客がさっきより増えていた。メグレが元のストゥールに坐れるように、若い赤毛の女がわきによってくれた。
彼は女の温かい腰がぴったりくっつくのを感じた。女は強い香水をつけていた。
テーブルでは、小鬢《こびん》がグレーで、頭が少し禿げているメグレとおなじ年輩の男が、二十歳そこそこのぽってりと肥った娘のからだに腕をまわしていた。メグレはこのことに初めてショックをうけた。それはたぶん、学校出たての予審判事のために、急に自分が年寄りのような、もう過去の人間のような気分になっていたからだろう。
たばこを喫ったり、ウィスキーやカクテルを飲んでいる娘たちはすべて、もはや彼の世代の男たちには用がなかった。大声で話していた数人の女がメグレを興味深そうにながめた。ある女は大っぴらに、ある女はそっと顔を向けた。
六階の明りのついた窓を見るためには身をかがめるだけでよかった。窓のうしろをときどき人影が通りすきた。
メグレはどちらにすべきかを吟味していた……彼の最初の考えは、ジャック・サンヴァルが出てくるまで待つことだった。あの肥った、愛想のいいヴェロニック・ラショームが男に惚れていることは疑いない。メグレは彼女を悲しませようとしているのではないか? あの恋人たちを仲たがいさせる恐れはないか?
こうした懸念《けねん》が彼を躊躇《ちゅうちょ》させることは、これが初めてではなかった。だが彼の直観が正しいなら、彼女はくわしく知ったほうがいいのではないか?
メグレはアパルトマンのなかで起こっていることを想像しようとしながら、ゆっくりと酒を飲んだ。夕食はテーブルに出されているにちがいない。二人はテーブルについているだろう。メグレは二人に食事する時間をあたえた。ということはおなじように、ラポワントと食料品屋のおかみにも出発する時間をあたえることになる。
「もう一杯」と、彼は注文した。
すべては変化する。それは子供が成長するようなものだ。変化しているときはそのことに気づかないが、すでに変化が終ったときになって初めて思い到る。
メグレの好みのいい方によれば、|親しい敵《ヽヽヽヽ》であるコメリオ判事はいまでは隠退してしまい、髪を赤紫色に染めた夫人と腕を組んで、朝、犬を散歩させる年寄りでしかなくなってしまっている。
メグレはまずまわりを見まわし、ついで彼の指揮下にある、一度も街や駅のパトロールをしたことのない学校出の刑事たちのことを考えた。今日では、階級も給料も彼とおなじ同僚の何人かはまだ四十歳になったばかりである。そういう連中は法学士であり、彼らの多くはその他にも学位を二つか三つもっている。彼らはめったにオフィスから出ないで、部下を現場に派遣し、そうやって得られた結果を判断するだけで満足している。
これまで長い間、メグレは警察の特権が少しずつ削り取られていくのを見てきた。しかもいまでは予審判事の世代交代が行われている。スポーツ好きの若いグループがコメリオ判事たちに取ってかわり、アンジュロのように捜査を初めから終りまで指揮すると主張している。
「いくら?」
「六百フランです」
値段もちがう。彼はため息をつき、眼で外套をさがし、携帯品預り所の若い娘が来るまでドアのそばで待たなければならなかった。
「ありがとうございました、メグレさん」
あのアンジュロ判事は、たとえば『修道者』が問題なら、あるいはプロの泥棒やジャヴェル河岸の人夫にかかわることなら、これほど規則規則といい立てないのではないか?
その貧窮ぶりがほとんど嫌悪を催させるほどだとはいっても、ガール河岸のラショーム家は依然として特権階級であり、一世紀以上のあいだ尊敬をこめて名前を呼ばれていた大ブルジョワの家族なのである。
若い人たちはそのことを考慮しつづけるだろうか?
そんなことは彼がいま考える問題ではなかったが、メグレの考えは彼を悩ましているいろいろな問題のまわりを堂々めぐりしていた。世間の事柄に他の日よりずっと敏感になる日があるものだ。そういえば、昨日は万霊祭であった。
メグレは肩をすくめ、街路を横切った。チュールのカーテン越しに、丸いテーブルの前に坐っている受付の女とその亭主が見えた。メグレは通りがかりに軽く合図したが、彼らが気がついたかどうかはわからなかった。
メグレは六階でエレベーターを降りると、ベルのボタンを押した。声が、ついで足音が聞こえた。ドアを開けたのは肥ったヴェロニックだった。彼女の顔はさきほどよりばら色だった。それが、熱いスープを飲み終えたばかりだったためであることを、メグレはまもなく知った。
彼女はメグレを見ておどろいたが、不安そうではなかった。
「なにか、忘れものでも? 傘をおもちでしたかしら?」
彼女は機械的に廊下の外套掛けに眼をやった。
「いや。あなたのお友達と二、三話したいだけです」
「あら!」
彼女はドアを閉めた。
「お入りになって! こちらヘ……」
彼女はメグレを客間にではなく、キッチンに案内した。キッチンも白塗りで、家庭用品の展示会で見られるようなクロームめっきした電気器具があった。柵のようなもので二つに分けられ、一方は小さな食堂に使われている。湯気の立つスープ鉢がまだテーブルの上にあった。ジャック・サンヴァルは手にスプーンをもっていた。
「メグレ警視があなたに話したいことがあるんですって……」
男は立ち上ったが、あきらかにばつが悪そうだった。 手を出そうかどうかためらい、やっと決心した。
「初めまして」
「坐って、食事をつづけてください……」
「スープを片づけましょう」
「私のことにはかまわないでください」
「外套をお脱ぎになったほうがよろしいわ、ここはとても暑いですから」
彼女は外套を玄関にもって行った。メグレは火の消えたパイプを手にもち、アンジュロ判事は自分のこういうやり方をきびしく非難するだろうと思いながら坐った。
「サンヴァルさん、私は一、二あなたにたずねたいだけなのです。下にあなたの車がありますが、あの赤いパナールはあなたのですね?」
「そうです」
「あの車は昨日の夕方六時頃、ナショナル橋の正面に停っていなかったですか?」
サンヴァルはこの質問を予期していたのか? 彼はびくりともせず、記憶をさぐっているような様子をした。
「ナショナル橋?」と、彼はくり返した。
「イヴリのいちばん手前の橋、鉄橋です……」
もどってきたヴェロニックがおどろいて二人を見守っていた。
「覚えていませんが……いや……待ってくださいよ……昨日の午後ですか……」
「六時頃」
「いや、たしかに行っていません……」
「では車をだれかに貸しませんでしたか?」
警視が助け舟を出したのは理由がないわけではなかった。
「厳密な意味では貸した覚えはありませんが、同僚の一人が使ったかもしれません……」
「いつも車を事務所の前においておくのですか?」
「ええ」
「キーをつけたまま?」
「盗まれる危険があるとでもいうのですか? ああいう派手な車が盗まれることはめったにないですね。盗んだとしてもすぐに見つけられてしまいますから」
「あなたや同僚が日曜日に事務所に行くことはありますか?」
「そういうことはしょっちゅうあります……」
「ジャッコ、あなたはほんとうに嘘をついていないわね?」
焼肉をテーブルにおきながら、そう訊いたのはヴェロニックだった。
「なぜ私が嘘をつくんだ? ガレージ代やガソリン代を払っているのが会社であることをきみはよく知っているじゃないか。だれか急ぎの用事があって、手近に車がないときには……」
「もちろん、あなたはポーレットのことを知らないですね?」
「ポーレット、だれ?」
ヴェロニック・ラショームはもう笑っていなかった。むしろ、ひどくまじめになっていた。
「わたしの義姉《あね》よ」と、彼女は説明した。
「ああ! そうだったね……きみが話してくれたのをぼんやりと覚えている……」
「彼女のことを知っていますか?」
「名前はね」
「ガール河岸に住んでいるのを知っていますか?」
「あなたにいわれて思い出しましたよ……うっかり住所は忘れていました……」
メグレは受付の部屋に電話があったことを気づいていた。ヴェロニックの客間にも電話があった。
「電話をかけさせていただけますか?」
「どこにあるかご存じですか?」
メグレは一人で電話のところへ行き、受付の部屋を呼び出した。
「メグレです。いま六階にいます……そうです……外に黒い小型車が来ているかどうか見てきてくれますか? その車のなかに若い男と中年の婦人がいるはずです……私からだといって、ここに上ってくるように伝えてください……」
彼は声を低めたりはしなかった。キッチンでは二人が聞いていた。気持のいい仕事ではなかったが、彼はできるだけ手際よくやろうと努めていた。
「失礼しました。私はあることをたしかめなければならないのです……」
メグレには、さきほど生き生きしていたヴェロニックの大きな眼がうるんだように思えた。胸はもはやおなじリズムで波打っていなかった。彼女は無理して食べようとしていたが、すでに食欲がなかった。
「本当になにも隠していないわね、ジャッコ?」
この『ジャッコ』という愛称さえ、気まずそうになってきた。
「誓うよ、ニック……」
ヴェロニックが認めたように、こうしたまじめな付き合いをするのは彼女には初めての経験だった。見かけはシニックだったが、彼女はこの恋に執着しているにちがいない。すでに彼女はこの恋がおびやかされているのを感じているのか? 広告業者の誠実さにいつでもある疑いを抱いていたのではないか? 三十四歳でスモーキングを着た女を演じることに疲れ、人なみに結婚にこいこがれたので、わざと盲目になっていたのではないか?
メグレはベルをうかがっていた。ベルが鳴ると、急いで廊下に出て行き、ドアを開けた。メグレが予期したとおり、食料品店のおかみは晴れ着に、貂《てん》の襟の黒い外套をつけ、凝った帽子をかぶっていた。ラポワントは警視にただ目くばせすると、こういった。
「私はできるだけ早くいたしました」
「入ってください、奥さん。昨夜、あなたの商店《マガザン》の前で停っていた赤い車を見たのはあなたですね?」
彼は店《ブティック》といわないように注意した。
「ええ、そうです」
「こちらに来てください……」
彼女は黙ってキッチンの入口で立ち止ると、警視のほうを向いて、たずねた。
「わたしはなにをしなければならないんですか?」
「ここのだれかに見覚えがありますか?」
「ええ、もちろん」
「だれです?」
「食事しているあの男の方です」
メグレは外套掛けに行き、サンヴァルのレインコートと帽子をはずした。
「それにも見覚えがあります。それに、通りにあった車にも見覚えがありましたよ。右のフェンダーにこぶがあるんです」
泣きはしなかったが歯を喰いしばり、ヴェロニック・ラショームは立ち上ると、流しに皿をおきに行った。彼女の友達も食べるのをやめていた。坐ったままでいることにためらいをみせると、やがてこうつぶやきながら立ち上った。
「わかった!」
「なにがわかったのです?」
「私はそこに行きましたよ」
「ありがとう奥さん。ラポワント、奥さんを送っていってくれ。念のため、証言にサインさせとくといい」
ふたたび三人だけになると、ヴェロニックはちょっとしゃがれ声でいった。
「二人とも、キッチンでより他のところでその問題を話しあったらどうなの? 差しつかえなかったら客間ででも……」
メグレは彼女が一人になりたがっていることを悟った。たぶん泣きたいのだろう。メグレは彼女の宵を台なしにしてしまった。いやそれ以上のことをしてしまったのかもしれない。二人だけのささやかな夕食が気まずい結果になってしまったのだ。
「来てください……」
メグレはラショームの娘が話を聞く権利があると思って、ドアを閉めないでおいた。
「お坐りなさい、サンヴァルさん」
「たばこを喫ってもいいですか?」
「どうぞ」
「あなたはたったいま自分がしたことをわかっているのですか?」
「あなたはどうです?」
ヴェロニックの恋人はいたずらをするところを見つかった小学生のようだった。すねた、陰険な顔つきをしていた。
「あなたが思いちがいをしていることは、いずれすぐはっきりさせられますよ」
メグレは男の正面に坐り、パイプにたばこを詰めた。相手に勝負をしやすくさせないため、メグレは黙っていた。それがいささか公正を欠いていることはわかっていた。だが、アンジュロ判事はここにいないし、サンヴァルは弁護士を呼ぶことを要求していない。
サンヴァルはある種の女たちの眼にはハンサムに見えるにちがいない。しかし、そばから見ると、とくにいまは、色あせていた。彼がいつもひけらかせていた自信がなくなると、柔弱な、煮え切らない感じがした。
真向かいにあるアメリカ風のバーにいると、彼はもっとくつろいでいるし、もっと板についているのだろう。
「私も世間なみに新聞を読んでいます。だからあなたの考えていることがわかります」
「私はまだなにも考えていない」
「それでは、どうして私の知らないあの女をここに来させたのです?」
「昨日あなたがガール河岸にいたことを認めさせるために」
「それがいったいなんの証拠になるというのです?」
「なにも。あなたがポーレット・ラショームを知っていたということ以外は」
「それで?」
彼はふたたび自信を取りもどした。もっと正確にいうと、虚勢を張ろうと努めていた。
「私はたくさんの女を知っていますが、それが罪になるという話を聞いたことがありませんね」
「サンヴァルさん、私はあなたがいかなる罪を犯したともいっていません」
「しかし、あなたはここに、私の友達の部屋に来ました、私が困った立場に……」
「たしかに私はあなたを困った立場においた。それはあなたが彼女にポーレット・ラショームとの関係を一度も話さなかったからではないでしょうか?」
相手は頭をたれて、黙った。皿や、ナイフやフォークの音が聞こえていた。ヴェロニックは話を聞いていないふりをしていた。
「いつからポーレットのことを知っていましたか?」
サンヴァルはまだ嘘をつくべきかどうか迷いながら、答えをさがしていた。そのとき、ヴェロニックが口をはさんだ。彼女がいままで話を聞いていたことは、これではっきりしたわけである。
「わたしのまちがいでした、メグレさん。いまとなって、よくわかります。わたしは間抜けなデブにすぎないのです。こうなることを予期していなければいけなかったのです……」
彼女はキッチンで泣いていたのだ。泣きぬれていたわけではないが、眼が赤くなるほどである。手にハンカチをもっていた。鼻はまだ湿っていた。
「さきほど最初にあなたがいらしたとき、わたしはあなたの質問に答えましたが、そのときは自分のいったことがよくわからなかったのです。一力月半か二カ月前に、ナイト・クラブで義姉《あね》らしい人に出会ったとわたしがいったのを覚えていますわね。ジャックはあの夜、いつものようにわたしを迎えに来たのです。わたしはどうしてだかわかりませんが、そのことを彼に話したのです。それまで一度も家族のことを話したことがなかったのに。どうしてそういうことになったのか、もうはっきりしたことは覚えていませんが、わたしはこういったような気がします。
『あのような場所に義姉が出入りしていることを知ったら、兄はひどくおどろくでしょうね!』
こういったようなことでしたわ……そこでジャックは兄がしていることをたずねました。わたしはおどけてこう答えました。
『ウェファー!』
わたしたちはとても陽気でした。夜のなかを腕を組んで歩いていました。
『お兄さんはお菓子屋さんかい?』
『正確にはそうではないわ。あなた、ラショームのウェファーのこと一度も聞いたことない?』
彼にはこれでもなにもわからなかったので、わたしはつけ加えたのです。
『義姉は少なくとも二億フランに相当するのよ、いやそれ以上かもしれないわ』
これで、おわかりになったでしょ?」
わかったけれども、メグレにはそれ以上のことを知る必要があった。
「彼はお義姉さんのことをたずねましたか?」
「すぐにはしなかったわ。いろいろたずねたあとで、ごくさりげなくね……」
「あなたたちは二人ともすでに結婚することを考えていましたか?」
「数週間前から考えていました、多少まじめに」
「彼はそのことを考えつづけていましたか?」
「もちろんわたしは、こんどというこんどは決まったものと思っていました」
そしてサンヴァルはそのことを裏がきするかのように、つぶやいた。
「私は考えを変えた覚えはないよ」
「それなら、なせあなたはわたしの義姉と知り合いになろうとしたのです?」
「好奇心からさ……はっきりした目的なんかない……とにかく、彼女は結婚している……だから……」
「だからなんなの?」
「全然関心がない」
「いいですか?」と、メグレが口をはさんだ。「私としては、もっとくわしい質問をしたいのです。サンヴァルさん、いつ、どこで、ポーレット・ラショームと出会いましたか?」
「正確な日付がお望みですか?」
「できるだけくわしく」
「約四週間前の木曜日に、ロワイアル街の喫茶室で……」
「いまでも、あなたは喫茶室によく行くの?」と、ヴェロニックは吹き出した。
彼女にはもう幻想はなかった。そんなものにすがりついてはいなかった。恋が終ったことはわかっていたし、相手を恨んでもいなかった。責めるとすれば、それは自分自身にたいしてだけだった。
「あなたが偶然にそこにいたとは私には思えない」と、メグレはいい張った。「あなたはポーレットのあとをつけて行った。おそらく自宅からでしょう。何日前から彼女を待伏せていましたか?」
「二日目でした」
「いい方を変えると、あなたはポーレットと知り合いになる目的で、その日の午後ガール河岸で車で見張っていた」
彼は肯定しなかった。
「ポーレットは外出した、おそらくブルーのポンティアックで。あなたはそのあとをつけた」
「彼女はヴァンドーム広場で車を降り、サン・トノレ街でいろいろ買物をしました」
「喫茶室で、あなたは声をかけたのですか?」
「ええ」
「おどろいたようでしたか?」
「ひどく」
「それであなたは、彼女が男に声をかけられることに慣れていないと推理したのですね?」
これらはすべておたがいに関連がある。
「いつあなたの家に彼女を連れて行きましたか?」
「私の家にではありません」と、彼は抗議した。
「家具付ホテルに?」
「ちがいます。友人がアパルトマンを貸してくれたのです」
ヴェロニックは皮肉たっぷりに、ふたたび口をはさんだ。
「おわかりになって、メグレさん? わたしにはポンティウ街はとてもすてきなのです。でも、数億フランももっている女には、もっとすばらしい場所が必要なのね。そこはどこなの、ジャック?」
「きみが知らないイギリス人の家だ、サン・ルイ島にある」
「ポーレットはそこで何度もあなたに会ったのですね?」
「かなり何度も」
「毎日?」
「毎日といっても、最近だけです」
「午後に?」
「ときどきは夜のときもありましたね」
「昨日は?」
「会いました」
「昨日の夜はなにがありました?」
「とくになにも」
「あなたたちはなんの話をしましたか?」
ふたたびヴェロニックが口を出した。
「この人たちがおしゃべりばかりして時間をすごしたと思いますか?」
「答えてください、サンヴァル」
「あなたはポーレットを尋問しましたか?」
「まだです」
「これからしますか?」
「明日の朝、予審判事の部屋で」
「私はポーレットの義兄を殺していません。私には彼を殺す理由が全然ない」
いままでより考え深げな様子で一瞬黙ると、低い声でつけ加えた。
「ポーレットも」
「あなたはもうレオナール・ラショームに会っていますか?」
「一度河岸で待っていたとき、家から出てくるのを見ました」
「彼もあなたを見ましたか?」
「いいえ」
「昨日、どこでポーレットと夕食をしました?」
「パレ・ロワイアル広場のレストランで。調べてみてください。中二階のテーブルを取りました」
「わかってるわ!」と、ヴェロニックがさえぎった。「『シェ・マルセル』という店ですわ。わたしもそこへ連れていかれたわ、おなじ中二階に、たぶんテーブルもおなじなんでしょう、左隅の。そうでしょう、ジャック?」
彼は答えなかった。
「ガール河岸を出るとき、他の車に尾行されているのに気がつかなかったですか?」
「いいえ。雨が降っていました。私はバックミラーを見もしませんでした」
「そこを出てから、サン・ルイ島のアパルトマンに行ったのですか?」
「ええ」
「ポーレットを家まで送りましたか?」
「いいえ。彼女はタクシーで帰るといい張りました」
「なぜ?」
「赤い車は夜、人気のない河岸ではよけい人目につくからです」
「あなたと一緒のところを見られるのを、彼女はひどく恐れていたんですか?」
サンヴァルはメグレの目的がどこにあるのかわからなかった、というより、メグレの質問にどんな罠が隠されているのか不審に思っているらしかった。
「そうだと思いますよ。当然でしょう」
「しかし、彼女と夫との関係はかなり冷たかったと私には思えるのですが」
「数年前から、あの二人はもう仲のいい夫婦ではありませんでした。寝室も別々にしていました。アルマンはからだが悪かったのです」
「あなたは彼のことをすでにアルマンと呼んでいたのですか?」
「彼のことをしゃべらなければならないときには」
「つまり、あなたはラショーム家に一度も足を踏み入れたこともないのに、家族の一員のようなつもりでいたのですか?」
またもやヴェロニックが口をはさんだ。こんどはきっぱりといった。
「いいですか、二人とも、鬼ごっこをするにはおよびませんわ。あなたたちはおたがいに自分の立場を知っています。あいにくわたしも。わたしはただの間抜けなデブでしかないわ。ジャックは『フーケ』や『マキシム』やその他のしゃれた場所に出入りしているけど、いつでもお金に困ってるわ。もっているものは車だけ、それも代金を支払ってあるとしての話ですけど。
わたしはすでにこの人がバーやレストランに借金があるのに気がついていました。わたしに出会ったときこの人は、ずっと働きづめのわたしのような年齢の女は、お金を貯めているにちがいないとつぶやいたわ。不幸にしてわたしはここにこの人を連れてきて、このアパルトマンを最近買ったのだとしゃべってしまいました。そうよ、ここはわたしの家です。それにマルヌ川のほとりに小さな別荘を建ててもいるわ。それがこの人にはすばらしく見えたのね。わたしがなにもいいもしないのに、結婚のことを話したわ。ただ、わたしは愚かにも義姉《あね》と、彼女のすごい財産の話をしてしまったわ……」
「私は一度も女たちからお金を受け取ったことはない」と、サンヴァルは抑揚のない声でいった。
「そのとおりよ。彼女から少しずつちょくちょくまきあげることなんか関心なかったんだわ。彼女と結婚して……」
「彼女は結婚している」
「離婚すればどうなの? 二人ともそのことを話していたんでしょう」
彼はどうしていいかわからず途方に暮れ、ためらった。メグレは明日ポーレットを尋問するということを彼に知らせてなかったか?
「私は彼女の話を真に受けなかった。好奇心から、さぐりを入れてみただけだった……」
「それじゃ、彼女は離婚を考えていたのね……そして、彼女が人に見つからないようにしたのは、離婚が彼女の不利にならないためだったのね……おわかりになって、メグレさん? あなたがこうしたことをすっかりあばいてくれたことを、わたしは恨みません……あなたの罪ではないもの……あなたは他のものをさがしていたのだわ……大きな獲物を追っかけていて、うさぎを狩り出してしまうことがときどきあるのね……。
あなた、ジャッコ、おとなしくあなたの部屋着とスリッパをもって出て行って、それからわたしの衣類を送りかえして……、
もうすぐわたしは働きに行く時間だわ。着替えなくては……店で婦人たちがわたしをお待ちかねだわ!」
彼女は笑った。ヒステリックな笑いだったので、大きな胸が揺れた。
「ざまあ見ろだわ! でも警視さん、ジャックがレオナールを殺したのじゃないかと疑うのはまちがってるわ……まず第一に、彼がレオナールを殺す理由がありません……第二に、ここだけの話ですが、彼はいんちきな男です……塀を乗り越える前におじけづいてしまうでしょう……。なにも飲みものをさしあげなくてすみませんでした……」
自分でも気づかないうちに、突然眼から涙が流れ出ていたが、彼女は顔をそむけようともしなかった。涙声で、彼女はさけんだ。
「二人ともさっさと出て行って! ……いますぐ着替えなければならないんだから」
彼女は男たちを廊下のほうヘ、外套掛けのほうへ押しやった。踊り場で、サンヴァルはふり返つた。
「私の部屋着とスリッパは?」
それらを取りに行くかわりに、彼女はさけんだ。
「あとで送ってやるわ……心配しないで! あんなもん、だれも使わないわ……」
ドアが閉った。メグレはまちがいなく、すすり泣きを一度だけ聞いたように思った。ついで急いで立ち去る足音を聞いた。
口をつぐんだまま、サンヴァルとメグレはエレベーターを待った。広告業者はエレベーターのなかに入りながらささやいた。
「あなたはご自分のしたことをわかっているのですか?」
「それではあなたは?」と、メグレはやっとパイプに火をつけながらいい返した。
ところであの間抜けな判事め、初めから終りまで捜査につき合うつもりなのか! おもしろいからとでもいうのだろうか?
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第七章
明日の試験を心配する子供のように、メグレは事件についての夢を見た。夢のなかでは、アンジュロ判事は姿をあらわさず、メグレは一度も彼の顔を見たわけではなかったけれど、判事の存在はやはり背景に大きく立ちはだかっていた。その夢はただ一つの夢ではなく、いくつもの夢が数珠のように連なったものだった。夢と夢の間には半覚醒の状態、またときには完全な覚醒の状態がはさまっていたが、警視はそんな最中でもおなじように努力をつづけていた。
夢はかなりきざっぽくはじまった。見えない予審判事に、メグレは言明した。
「それでは私の捜査方法をお見せしましょう……」
彼の心のなかでは、それは一種のリハーサルのようなものだった。もちろん彼はこの『捜査方法』という言葉を皮肉にいったのである。というのは、三十年前から彼は捜査方法などないとくり返しつづけてきたからだ。だが、それでもやるのだ! 彼はこの若い、侮辱的な判事に説明することに腹立たしさを感じなかった。
メグレはガール河岸の、あの荒れ果てた建物のなかにただ一人でいた。建物は、壁を通って出入りができるほど、崩れ落ちていた。しかし室内装飾は、昨日の状態がどうだったか自分でももう思い出せなくなっていた細部まで含めて、すべて正確だった。
「いいですか! 数年間、毎晩彼らはここに坐っていたのですよ……」き
そこは客間だった。メグレは傷痕のように赤い亀裂が入っている小さな鋳物のストーブの火をかき立てた。彼は登場人物たちをそれぞれの席につかせた……木彫り人形のような老人夫婦、レオナール(メグレは生きているときの彼の姿を想像してみなければならず、彼にたいしてにがい笑みをかすかにうかべてみせた)、雑誌をめくりながら絶えず立ったり坐ったりしていらいらしているポーレット。彼女は最初に寝に行くといっていた。最後は、疲れていて、薬を飲んでいるアルマン。
「おわかりですか、判事さん、これが要点なのです……」
なにが要点なのかメグレにもわからなかった。
「数年のあいだ毎晩……ジャン= ポールはもう寝ています……ポーレットを除いた他の人たちはみんなおなじことを考えています。レオナールと弟はときどき目くばせします……結局レオナールが話さなければならなくなるんです、レオナールのほうが年上ですし、アルマンにはそんな度胸がなかったから……」
その話というのは、ジュベールの娘に金を頼むことだった。ラショーム家は崩壊しかかっていた。パリでもっとも古いビスケット会社、美術館にかけてもおかしくない一幅の絵のように貴重で、つくり上げるのに数世代もかかった重要な会社が、である。だれかが莫大な金を自由にしていた。その金は、ジュベールの父親が娘に尊敬すべき身分を得させるためラショーム家によろこんであたえたほどの汚れた金である。
「おわかりになりますか?」
メグレがこうやって仕事をしているのは、あいかわらず見えないアンジュロ判事の前である。ネットを張らないで演ずるアクロバットのように、むずかしい仕事だ。他の夢でなら、空中で逆立ちしているようなものだ。
登場人物たちを逃がしてはいけない、蒸発させてはいけない。
「老人夫婦が出て行き、ついでアルマンも。レオナールとポーレットの二人きりになります。彼女にとっては一度に大金をあたえてしまったほうが簡単だったでしょう。しかし、彼女はあくまでもそうしないようにします。たぶん古狸の父親が、死ぬ前にそうやるように忠告したのでしょう。月末に、少しずつわたすように。そうしたわけで、始終同じ問題がくり返されるわけなのです……」
ラショーム家の人たちは最初嘘をついたにちがいない。数百万フランあれば、事業はふたたび隆盛になり、家も心地よく、陽気になり、大ブルジョワの家のように、晩餐《ばんさん》会やレセプションを催すことができると信じさせようとした。ポーレットはそのことを信じ、やがて二度と信じなくなる。
毎月くり返されるレオナールとの話合い。
「いくら?」
そのあとで、二人ともそれぞれ自分の寝室に閉じこもる。そしてそれぞれの独房のなかで、思いをめぐらしつづける……。
廊下……ドア…。奥にある浴室、水が垂れている場所のほうろう引きが褐色になっているような古い浴室……。ラショーム家の人たちはその浴室に慣れている……ジュベール家では、巨額な金があったにもかかわらず浴室など使っていなかったのではないか? ……
「判事さん、あなたはこれらのすべてを比較してみなければなりません……」
メグレははっきり区切ってくり返した。「|ひかくする《ヽヽヽヽヽ》!」
……階下《した》のオフィスにレオナール、アルマンは自分のオフィスに、その前に会計係。倉庫で荷造りされているビスケット、工場の煙突を真似てつくった高い煙突から出ているおかしなほど弱々しい煙……。
車のなかにポーレット……。
昨日の日中、そして夕方。食料品屋のおかみは店にいる。日曜日だったが、前日が祭日だったので、町の小さな商人たちは二日つづけて店を休みたがらなかった。六時頃、レインコートを着たにせのサンヴァルが乗った赤いパナール。尾行するレオナール。ブルーのポンティアックで。パレ・ロワイアル広場。レストラン……。
ある種の写真のように、いろいろな映像を重ね合わせ、それをイヴリ警察署、刑事たち、ジャンヴィエ、リュカ、コルベイユの大伝馬船やサン・マルタン運河の大伝馬船を尋問した人たち、筋肉や内臓を切り取り、その見本を試験管に入れたポール、測り、分析し、ルーペや顕徴鏡で調べた鑑識課員たちに見せなければならないだろう……。
メグレは皮肉な微笑をうかべた。
「しかし、重要なのは……」
彼は壁を通り抜けて部屋から部屋へと移りながら、謙遜して、なにが重要なのかをいわなかった……。
夫人に揺り起こされたとき、メグレは列車のなかで一晩すごしたあとのように疲れ切っていた。首がふたたび痛んだ。
「あなたは夜中に二、三度しゃべりましたわ」
「どんなことをいった?」
「理解できなかったわ。言葉がごちゃまぜになっていて……」
メグレ夫人はそれ以上いわなかった。彼は黙って食事をした。家にいることを、夫人と向かい合っていることを忘れたような顔をしていた。
ジャック・サンヴァルは前日の夕方、パリから離れないという条件だけで解放されたことにおどろいているようだった。
家にもどると警視は、今週中夜勤であるラポワントに電話し、いくつかの調査をして、それを書類にして出すようにたのんだ。
もう雨は降っていなかったが、空は明るくもなく、陽もさしていなかった。バスのなかの人々は不機嫌だった。メグレはいつもより早く起こされたのだった。警視庁に着いたとき、どのオフィスにもほとんど人気がなかった。
彼はまず、人目につくようにおかれた予審判事のことづてを見つけた。警視に朝一番に電話をするようにということだった。朝一番というのは、裁判所の人間にとっては朝の九時を意味していた。
それまでにまだ時間があった。彼はまず、ラポワントが寝に帰る前にデスクの上においていってくれた統計を調べはじめた。ノートを取らず、数字をいくつか記憶に留めただけだった。彼は満足そうに微笑んだ。ほとんどまちがっていなかったからだ。
それから、鑑識がつくったイヴリの家の見取図をのぞき込んだ。この見取図には分厚い、綿密な報告書がついていた。鑑識の連中は、いつでも、どんなに細かいことでもおろそかにしないのである。たとえば、庭の隅にあった、錆びて曲った子供の自転車の古車輪まで記載されている。
この車輪はジャン= ポールの自転車のものか、あるいはレオナールでないとしても、アルマンが昔使った自転車のものだろうか? それともこの界隈のだれかがセーヌ河に投げ込むかわりに塀の上からほうり投げて厄介払いしたのか?
これは細かいことだが意味ありげだ。他にもこうした意味ありげな細かい事柄がたくさん記載されていたが、メダレにはそのすべてを覚えきれなかった。
メグレがもっとも時間をかけて調べたのは、レオナールの寝室にあった品物のリストである。白いワイシャツ八着、そのうち六着は使い古され、襟や手首のところが繕われている……つぎのあたったパンツが六つ……木綿の靴下が十足に羊毛《ウール》のが四足……縞のパジャマが五着……。
ハンカチの数、櫛。ヘア・ブラシや洋服ブラシの状態など、すべてにわたって記入され、各品物の場所を示す略図までそえられている。昨夜夢のなかでしたように、メグレはこのリストに書かれているいろいろな品物をそれぞれの場所において、寝室を眼にうかべてみようとした。
……黒い大理石と青銅の時計……もう機械は動いていない……、大理石と青銅の三本枝の燭台が二個、皺《しわ》くちゃにまるめた新聞が入っていた柳のくずかご、鉛管工たちが使う型の、三十六センチの自在スパナ。
ベッドの記述も正確だった。上等のリンネルの、まだ新しいシーツの一枚に、四センチほどの『P』という文字が刺繍されていた……。
メグレは二本の指をひろげてみて、刺繍された文字を思いうかべ、ため息をつくと、報告書を読みつづけながら受話器をはずした。
「メートル・ラデルをたのみます……弁護士の……番号はわからない……」
しばらくすると、弁護士が出た。
「もしもし! メグレです……あなたから依頼人に二つの質問をしてもらいたいのです。そうしていただければ、私がガール河岸に行かなくてもすむし、あなたをここに呼び出さなくてもいいのですが……もしもし! 聞こえますか?」
「ええ、聞こえます」
弁護士はメグレのこうした形式張ったやり方におどろいたにちがいない。
「まず、自在スパナのことですが……三十六センチの自在スパナで、それがレオナール・ラショームの寝室にあったのです。いまこの寝室は封印されてます……。私はどうして自在スパナがそこにあったのか知りたいのです……なんですって? そうです……たぶんごく単純な理由があるのでしょう。私はその理由が知りたいのです。……。もう一つの質問……あの家にはベッドのシーツが何枚あるのか……そうです、おっしゃるとおり、本当に愚劣なことです……ちょっと待ってください! すべてのシーツに『P』という文字がついているのか、そうでないとしたら、このしるしのついているシーツはだれが使っているのか聞いてください……しるしのついたシーツは何枚で、しるしのないシーツは何枚か、あるいはいろいろなしるしのついたのは……えっ? そう、それだけです……というよりも……あなたは職業上の秘密を楯に取ってお答えいただけないのでないかと思うのですが、いつからラショーム家の弁護士になったのですか?」
電話の向こうから答えはなかった。メートル・ラデルはためらっていた。メグレは前日、狡猾《こうかつ》な老弁護士に出会うのではないかと思っていた家に、彼のような若い、いわば無名の弁護士がいたのでおどろいたのである。
「どうなんです? 一週間前? ……はっきりいって、あなたはだれの弁護士なのです? 一週間前、だれかがあなたを呼んだか、会いに来たのでしょう……」
メグレは耳をすまし、肩をすくめ、最後に相手が話しおわると受話器をかけた。メグレが考えていたとおり、ラデルはいまの質問に答えることを拒絶したのだ。
パイプの一つに手を伸ばしたとき、電話が鳴った。アンジュロ判事だった。九時前にすでにオフィスに到着していたのだ。
「メグレ警視!」
「そうです、判事さん」
「私のことづてを見ましたか?」
「もちろん。注意して読みました」
「できるだけ早くあなたに会いたいのですが」
「わかっています。ただ、数分後に、電話がかかってくるのです。あなたのところへ行く前に、かかってくると思いますよ」
その言葉のとおり、彼はたばこを喫ったり窓の前に立ったりする以外、なにもせずに電話を待った。六分後だった。ラデルは素早かった。
「自在スパナのことを、まず問い合わせました……老女中のカトリーヌがその件はよく覚えていました……二週間ほど前、レオナール・ラショームは寝室にいるときガスの匂いで気分がわるくなりました……ガスはもう台所でしか使ってないのですが、寝室では昔、ガス燈を使っていたので、その設備が残っているのです。ボルトで管を塞《ふさ》いだだけにしてあったのです。それでレオナールが自在スパナを一階の仕事場に取りに行き、もどしておくのを忘れていたのです。それ以来、自在スパナは寝室の隅にあるというわけです……」
「シーツは?」
「正確なリストを得ることはできませんでした。クリーニング屋に行っているものもあるからです……いろいろなしるしのついたシーツがあるそうです……もっとも古い、ひどく使い古されたシーツは『N・F』のイニシャルがついていて、年寄り夫婦が結婚したとき以来のものです……あの時代は、女性は結婚したとき、一生使えるだけのシーツをもってくるきまりだそうで、それらのシーツはオランダ織の厚ぼったいリンネルでできていて、現在まだ数ペア残っています……『M・L』のついたシーツもあり、これはレオナールの亡くなった奥さんのものです……十二ペアあって、そのうちの一枚はアイロンで焦がしたそうです……イニシャルのない、ほとんど新しい木綿のシーツが六ペア……最後に、ポーレット・ラショームがもってきたもっと上等のシーツが二ダース……」
「そのシーツに『P』というしるしがあるんですね?」
「そうです」
「原則として、そのシーツは彼女しか使わなかったのでしょう?」
「その点を問いただすことができませんでした。私はただ、そのシーツは彼女のものだといわれただけです」
「ありがとう」
「なにかわかったことでも……」
「いや、なにも、先生……私にはまだなにもわかりません……失礼します……」
メグレは書類をなにももたずに、刑事部屋のドアを開けた。リュカが出勤してきたところだった。
「私に用だったら、予審判事のところにいるからね」
司法警察局と裁判所をつなぐガラス張りのドアの鍵を、メグレはもっていた。四人が脱走するのにこのドアを利用したことがあるので、それ以来いつでも念入りに閉めておくのである。
いつものように、彼はベンチに数人のなじみの顔を認めた。彼らの何人かには南側に警官がついていた。メグレはまた、ある判事のドアの近くで待っている『修道者』にも気がついた。『修道者』は一言もいわずに、かけられている手錠を見せると、つづいて、
「ドアのこちら側へきたらこんなざまだ!」とでもいうように肩をすくめてみせた。
実際、こちら側は官僚と文書の匂いがくすぶっている別世界だった。
メグレはアンジュロ判事の部屋をノックした。アンジュロはデスクに坐っていた。ひげをきれいに剃っていて、ラヴァンド香水の香りがかすかにただよっていた。テーブルの端にいる秘書は、判事とほとんどおなじ年齢だった。
「お坐りになってください、警視さん。私は昨日、午後から夜にかけて全然あなたから連絡がないのでおどろいていたのです。ということは、あなたがなにも発見しなかった、私に興味のあるような奔走は一切しなかったということですか?」
秘書は記録をとろうとでもするかのように、手に鉛筆をもって、その場に残っていた。しかし、幸い、彼は記録をとらなかった。
「あなたはガール河岸にもどったのですか?」
「私自身はもどりません」
「それではあの家族の人たちか、社員のだれかにふたたび会いましたか?」
「いや」
「しかし、あなたと部下の人たちはこの事件にかかりきっているのでしょう? 私自身もこの事件を考えつづけました。盗まれた金額はたいしたことがないのですが、私としては強盗の線から離れることができないのです……」
メグレは夢と現実のちがいを考えて、黙っていた。この判事に説明するだけの、理解させようとするだけの値打があるのか? ……
彼は明確な質問を待っていた。
「あなたはそのことについてどう思います?」と、ついに判事がたずねた。
「強盗のことですか?」
「そうです」
「私はあなたのためにある数字を調べさせておきました。パリでここ十年間に、アパルトマンや個人邸宅で、夜間、人がいるあいだに、何件ぐらい強盗が発生したか知っていますか?」
判事は驚き、好奇心を起こしてメグレを見つめた。
「三十二件です」と、メグレは淡々たる口調でつづけた。「一年に三件ちょっと。それ以外に、私たちが三年前に逮捕し、いまでも牢にいる二十五歳の若者のような、芸術家といおうか、マニアといおうか、そういう連中による犯行を十二件以上加えなければなりませんが。この二十五歳の若者は妹と一緒に暮らし、愛人も友達もいません。彼の情熱は、眠っている夫婦の寝室に入り、目ざめさせないで宝石を奪うような、もっともむずかしいわざを成功させることでした。もちろん、彼は武器などもっていません」
「どうして、『もちろん』なのです?」
「プロの泥棒というのは決して武器をもたないからです。彼らは経験によって規則を知っていて、危険を最小限度におさえるのです」
「しかし、ほとんど毎週のように…」
「ほとんど毎週のように、年寄りのたばこ売りや、女小間物商人や、町や郊外の商店の経営者たちが殴られたという新聞記事が出ています……しかし、実際は強盗のしわざではないのです……これらの犯罪は粗野な、ときには低能といっていいようなチンピラによっておこなわれているのです……私はまた、ここ十年間に、どれほどの強盗事件が殺人を伴っていたかを知りたかった……判事さん、三件ですよ……一件は、強盗がポケットにもっていた自在スパナで……二番目は、見つかって危険を感じた強盗がその場にあった火掻き棒を使ったのです……三番目がやっと火器なのです、戦争からもち帰ったルーガー……」
彼はくり返した。
「たった一度だけ! それも六・三五口径の自動拳銃ではありません……パリ中さがしても、こんな拳銃を使うプロや犯罪者は一人もいないように私には思われます。こういう拳銃は正直な市民がナイト・テーブルのなかにしまっておくか、嫉妬深い女たちがハンドバッグのなかに入れてもち歩くものです……」
「私のまちがいでなければ、あなたは強盗の線を認めないのですね?」
「そうです」
「たとえば、社員か、元社員のだれかによってということも?」
「私の部下が追いかけていったベルギー人の船頭は、夜、だれかが庭にいるのを見ています。その者は梯子に乗って、塀の上の壜のかけらを打ちくだいたのです」
「夜のうちに、それとも午前二時以降に?」
「夜の十時頃」
「ということは、犯行の四時間前ですか?」
「犯行の四時間前」
「それが正しいのなら、あなたはどういう推理をしますか?」
「まだなにも。私はあなたにたのまれて情報を知らせただけです」
「その他に見つけたことは?」
「ポーレット・ラショームには恋人がいます」
「彼女があなたにそういったのですか? 私はあなたが……」
「私はポーレットに会っていません。彼女は私にはなにもいいません。彼女の義理の妹が、心ならずも私にその手掛りを与えてくれたのです……」
「義理の妹って?」
「ヴェロニック・ラショーム」
「どこで彼女を見つけたのです?」
「フランソワ一世街の彼女の家で。彼女は『アマゾーヌ』というマルブーフ街のかなり特殊なナイト・クラブでホステスをやってます。彼女が近いうちに結婚するつもりだった恋人は、ポーレットの恋人でもあるわけです……」
「その恋人はそのことを認めたのですか?」
「そうです」
「どういう種類の男ですか?」
「シャンゼリゼの近くでちょくちょく見かけるようなタイプ。……職業は広告屋です……いたるところに借金があって……最初彼は、アパルトマンをもっていて、貯金もあるヴェロニックと結婚するつもりだったのです……しかし、ヴェロニックの義理の姉のことと、数億フランの金の話を聞くと、その恋人になるため彼女に出会うようにたくらんだのです。一昨日の夜も、彼女と食事をして、イギリス人の友達が必要なときには貸してくれるサン・ルイ島のアパルトマンに連れて行ってます……」
メグレはこれらの情報をわざと乱雑に投げ出すことに、意地悪な満足を感じないこともなかったのである。判事は懸命に頭のなかで情報を整理しようとしていた。
「その男は警視庁に押えてあるのですね?」
「連行してきませんでした」
「結局どういうことになるのですか?」
「わかりません。強盗や狂人の線をやめて、船頭の証言を信用すれば、この犯罪は家のだれかによって行われたということを認めなければならないでしょう。ところで、鑑識の人たちはレオナール・ラショームの寝室で三十六センチの自在スパナを見つけています」
「殺人者は自動拳銃を使っています……」
「わかってます。この自在スパナは二キロの重さがあります。女中のカトリーヌによれば、スパナは二週間前からレオナールの寝室にあったのです、ガス管を閉めているボルトを締めるのに彼が使ったときからです……」
「その他にどんな情報がありますか?」
判事はメグレの皮肉めいた平静な態度にいらいらした。気づまりな様子で頭をたれていた秘書の眼にさえ、メグレがわざと誠意のない態度を取っていることはあきらかだった。しかし、かといって敵意を含んでいたり、あからさまに挑戦的であったわけでもなかった。
「これは情報と呼ぶことはできないと思いますが……たとえば、あの家で使われていたベッドのシーツの数を、私はたったいま知ったのです……」
「ベッドのシーツ?」
「レオナールの寝室のシーツが一枚、血で汚れていたんです……ところで、そのシーツには『P』の文字のしるしがついていました。ポーレットのものです」
「それだけですか?」
「ポーレットは一昨日の夜六時頃、雨のなかを徒歩で家を出ました。少し先の河岸の食料品屋の前で、赤い車で待っている恋人に会うためです。ほとんどおなじ時刻に、レオナール・ラショームが義妹の車を運転して出かけてます、ブルーのポンティアックです……ポーレットと恋人は『シェ・マルセル』というパレ・ロワイアル広場にある落着いたレストランに行きました……レオナールは九時に帰ってきます……その一時間後に、何者かが塀の上に植えつけた壜のかけらを、重い物で……たぶんハンマーで、庭のなかから打ちくだいています……。
ポーレットはブールボン河岸のイギリス人のアパルトマンに行ったあと、タクシーで帰ってきました……」
「なぜ恋人の車で帰って来なかったのです?」
「夜、人目につきたくなかったからです」
「彼女がそうあなたにいったのですか?」
「恋人がいったのです。廊下で、彼女は部屋着をきていたレオナールに挨拶する……」
メグレの顔付は突然こわばった。しばらくのあいだ、彼は放心したようだった。
「なにか思いついたのですか?」
「まだわかりません。私はたしかめなければならないでしょう……」
これらのことはすべて、夢とは似ていなかった。夢では、メグレは、姿を見せない予審判事に捜査方法を華々しく証明してみせたのである。それにいま彼らがいるのはガール河岸ではない。あの家の雰囲気はここにはない。小道具も、過去も現在も、見えるものも見えないものも欠けている。
それでも彼は意識的にある役を演じていた。非常に長い間彼の個人的な敵であったあの哀れなコメリオ判事をも含めて、検事局と警視庁との間には公然たる敵《てき》愾心《がいしん》があり、昔からの競争心……認めたがらないが、いつでも潜在している……があった。
他の判事たちはメグレの好きなように振舞わせ、できれば犯罪者の自白も含めて、完全な書類を彼がもってくるのを忍耐強く待っていることを好んだ。
この新しいアンジュロ判事の前で、メグレは思わず知らず、いわばある人々が想像するようなメグレの役を演じて気取っていたのだ。彼はそれが得意なわけではなかったが、やめるわけにはいかなかった。二つの世代が向かい合っている。彼はこの青二才に見せつけてやりたかったのである……。
「結論は?」
「私は結論を引出していません、判事さん」
「あなたが断言したように、家族のだれかが問題であるなら……」
「家族か、あるいは家庭内の」
「ということは、あなたは容疑者のなかにあのせむしの老女中を含めているのですか?」
「私はだれ一人除外しません。もう一度統計を引用するつもりもありません。三力月前に、ある男が六・三五口径の自動拳銃で隣人を殺しました。この隣人がラジオのボリュームをいっぱいにしてしつこく鳴らしていたからです」
「それとこの事件との関係が私にはわからないのですが」
「ちょっと見ただけでは、これはばかげた、不可解な犯罪です。ところで、この殺人者は二度も開頭術を施された偉大な傷痍《しょうい》軍人なのです。彼は肱掛椅子での毎日がつらいのです。隣人は自宅で仕事をしている外国生まれの仕立屋で、戦後いろいろと苦労があったのですが、うまく切り抜けています……」
「私にはあいかわらずわからないのですが……」
「私だってそこを理解したいのです……ちょっと見ただけでは、おかしな動機に思えることでも……音楽の音が少し大きいか小さいかでも、よく考えてみれば、傷痍軍人にとっては生死にかかわる問題になるわけです。いいかえると、状況次第では、犯罪は説明しうるもの、ほとんど宿命的なものになるわけです」
「ガール河岸とは全然状況がちがいます」
「しかし、おなじ状況があったにちがいありません、|少なくともレオナール・ラショームを殺した人間の心のなかには《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。病理学的なかなりまれな場合を除いて、人間は明確な、やむにやまれない理由のためにしか人を殺さないのです」
「あなたはその理由を見つけたのですか、われわれがいま手がけている事件で?」
「いくつか見つけました」
しかし、警視は誘惑に身をまかせていままで演じつづけていた役に、突然いや気がさしてしまった。
「すみませんでした……」と、彼はつぶやいた。
彼はまじめだった。
「なにが?」
「すべてのことが。たいしたことじゃありません。さきほど、あなたと話しているあいだに、ある考えがうかんだのです。ちょっと電話をかけさせていただければ、もっとはっきりすると思うのですが」
判事はメグレのほうに電話を押しやった。
「鑑識を呼び出してください……もしもし! そう……もしもし! きみかい、ムルス? こちらメグレ……報告書を受け取ったよ……うん……私が話したいのはそのことではないんだ、リストのことだ……あのリストは完全だと思うが? なんだって? わかってる……念入りにつくられたことはわかってるさ……ただ私がたしかめたいのは、記入洩れがなかったかどうか……。タイプした者が一行とばすことだってあるだろう……そこにオリジナルのリストがあるかい? 手に取ってみてくれ……よし……では、部屋着が記載されていないかどうか見てくれ……私はオフィスでかなり急いでリストに目を通したから、見落としたかもしれない……そう、部屋着……男の、そう……このまま待っている……」
ムルスが小声でリストを読み上げる声が聞こえてきた。
「だめです。部屋着が記載されていません。それに、私はあそこへ行きましたが、部屋着は見ませんでしたよ」
「ありがとう、ムルス」
判事と彼は黙って見つめ合った。最後にメグレが、まるで自信がないかのように、つぶやいた。
「尋問をすれば、もう少しなにかを引き出せるのだが」
「だれを尋問するのです?」
「いま、それを考えているところです」
メグレは、『いちばん抵抗の少ない地点』と彼がよく呼んでいるものをさがしているだけではなかった。今日は、だれにするかという問題もかかわっているのである。
アンジュロ判事が尋問を自分のオフィスで行うと要求することはたしかだった。自分自身でやりたがるかもしれない。一階のオフィスに飾られている祖先たちの肖像画の一つのような様子をすでにしているラショーム老人を出頭させることには、メグレは気がすすまなかった。ラショーム老人を夫人から離さねばならないし、夫人をどこかに動かすことは、まずできない。
それに、彼の頭がまだしっかりしているかどうか、メグレには確信がなかった。その眼は心の内側に向けられているみたいだった。メグレは、この年寄りが思い出だけに生きているのではないかと思った。
カトリーヌについては、彼女は喧嘩腰になるだろう。彼女にはただ一つの考えしかないし、それを変えようとしないからだ。彼女は明白な事実をすべて否定し、論理を嘲《あざけ》るだろう。メグレはあのせむしの姿を見なければならなくなるし、あのきいきい声を聞かなければならないだろう。
メグレはジャン= ポールを知らなかった。家の者があわてて学校の寄宿舎に入れて隠してしまったので、見るチャンスがなかったのである。
この少年は何気なく貴重な情報をあたえてくれたかもしれない。しかし警視は、二日前に父親が殺された子供を責めることに、予審判事が嫌悪を示すと思った。
あとはアルマンとポーレットが残っている。
アルマンを選ぶには、彼の癲癇《てんかん》の発作が気がかりである。壁にうずくまって、彼は本物の発作におそわれるか、あるいはそのふりをしようとしないだろうか?
「尋問するのはポーレット・ラショームがいいと思います」と、やっと彼はため息をつきながら決めた。
「彼女にしたい特別な質問がありますか?」
「いくつか。その他の質問は彼女の答え次第でしょう」
「彼女の弁護士に私から知らせておきましょうか?」
もちろん、ラデルは立ち合うだろう。アンジュロにかかると、すべてが規則どおりに行われる。メグレは自分のオフィスを、習慣を、適当なときにビールやコーヒーと一緒にサンドイッチをもってこさせたり、部下の一人に代ってもらい、彼がもう一度初めから無邪気に尋問をやりはじめるといったような、ちょっとした癖をあきらめたのだが、そこに郷愁がないわけではなかった。
こうしたことがすべて過去のものになる日が、いずれ近いうちに来るだろう。メグレの仕事はこの育ちのいい、学位をいっぱいもっているアンジュロのような者たちによって行われるだろう。
「私は今朝、弁護士に電話しました」と、警視は打明けた。
判事は眉をひそめた。
「この尋問のことで?」
彼は早くも自分の特権を守ろうとしていた。
「いや。いましがたあなたに提供した情報のうちの二つをたずねるために。ラショーム家の邪魔をしないように、私は弁護士に電話したのです」
「もしもし! メートル・ラデルのオフィスにつないでください……そう、アンドレ・ラデルです……もしもし、アンドレ?」
前日、ガール河岸では、この二人はファースト・ネームでは呼び合っていなかった。
「ぼくのオフィスにメグレ警視がいるんだ……ある尋問が必要な段階にまで捜査が進んでね……うん、もちろん、ぼくのオフィスでやるさ……ちがう! あの年寄りの夫婦をわずらわすつもりはない……彼でもない……少なくともいまのところは……なんだって? 医者はどういってる? ああ! ……そう、ポーレット・ラショーム……できたら午前中に……わかった……きみの電話を待っている……」
彼は受話器をおくと、説明しなければならないと思った。
「私たちは一緒に法律を修めたのです……彼は、アルマン・ラショームが病気になったことを知らせてくれました……昨夜、かなり激しい発作を起こしたのです……医者が呼ばれ、今朝ふたたび彼の枕元に来ています……」
「それでポーレットは?」
「ラデルが折り返し電話をかけてきます。彼は昼前に彼女をここに連れてきたいといってます」
困惑した判事は咳払いし、ペーパー・ナイフをもてあそんだ。
「現状から見て、私が尋問し、あなたはただ必要な場合に口をさしはさむというのが、いっそう規則にかなっているでしょう。不都合はないと思いますが?」
メグレにすれぱ不都合だらけだが、それをいってみたところでなんになろう?
「お好きなようにしてください」
「そのかわり、私が強調したほうがいいとあなたが考える点がありましたら、彼女が来る前に、書面で私に知らせてくれるのが順当だと思います」
メグレは頭でうなずいた。
「紙きれに二、三書いてくれるだけでいいのです。それは、全然公式なものではありません」
「それは当然でしょう」
「あなたはレオナール・ラショームの亡くなった奥さんのことでなにか情報を受けましたか?」
「彼女はジュベールの娘とおなじように利用されたのです」
「ということは?」
「ガール河岸の家とビスケット会社をしばらくの間、いわば生きつづけさせるために。彼女の出身もポーレットと似たようなものです。父親は職工長からはじめ、公共土木事業で身代をこしらえたのです。彼女の持参金は穴を塞ぐために役立ちました」
「遺産は?」
「遺産はありません。父親は存命ですし、まだ長生きしそうなのです」
最初がレオナール。ついでアルマン。あらゆる経済法則にしたがえばずっと前にすでに沈没していたはずの会社を、浮上させつづけてきたこの執念たるや、むしろ感動的ではないだろうか?
そこには、朝から晩までラジオの騒音で悩ました隣人を殺した傷痍軍人の行為とある共通点がないか?
メグレがこの事件を引用したのは偶然ではない。たしかに彼は予審判事の前ではある役を演じていた。しかし、心の奥では自分自身にたいしてまじめだったのである。
「もしもし、そう……彼女はなんといった? どのくらいかかると思う? ……十一時半頃? ……わかった……いや! ぼくのオフィスでやるよ……」
ラデルは、尋問がメグレのオフィスで行われることをそれほど恐れているのか? アンジュロはまるで「自分のオフィスで、規則どおりにやる」というかのように、弁護士を安心させた。警視は立ち上りながらため息をついた。
「私は十一時半ちょっと前にここに来ます」
「質問をノートすることを忘れないでほしい……」
「考えておきましょう」
哀れな『修道者』は、『彼の』判事が迎え入れてくれるのを、二人の警官にはさまれあいかわらずベンチの上でじっと待ちつづけていた。メグレは通りがかりに彼に目くばせした。オフィスにもどると、メグレはドアを手荒く閉めた。
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第八章
デスクにだるそうに両肱をつき、額を左手で支え、メグレはパイプをぷかぷか吹かしながら二、三語書いた。それから青緑色の長方形の窓をしばらくじっと見つめていた。
医学生であった最初の二年間、試験の前日したように、彼はすべての報告書を読み返した。例のリストはこれで三度目だったので、うんざりしはじめていた。
しかし、彼が自分を比較すべきなのは、学生にではなく、一時間以内に、おそらく数分以内に、評判と職業を賭け、嘲罵《ちょうば》の声か、歓呼の声をまき起こそうとしているボクサーにだろう。
もちろん、この比較は正しくない。アンジュロ判事は、とにかくやがて定年退職で終わろうとしている経歴に、いかなる影響ももっていない。新聞記者たちだって、裁判所の四方壁にかこまれたオフィスのなかでこれから起ころうとしていることをなにも知らないだろう。
したがって、歓声は問題ではない。メグレに危険なのは非難であり、アンジュロからきっと話を聞かされるにちがいない若い判事たちの皮肉な、同情するような視線だろう。
「メグレと、その勘とやらについて話を聞いたかい……」
オフィスにもどるとすぐ、メグレはリュカを呼んで、いろいろと指示をあたえていた。いまではひまな刑事たちはすべて、こんどはパレ・ロワイアル付近で、いわゆる|脚の仕事《ヽヽヽヽ》についていた。商人たちや、新聞売りに質問したり、日曜日の夜『シェ・マルセル』の一階で食事していた客を、彼らの家や勤め先を訪ね、窓からなにかを見なかったか聞いて歩いたのである。
問題なのはごく些細なことにすぎないのだ。だが、これが最後の瞬間に、決定的な証拠とならないとしても、重要なものになりうる。
メグレは一度質問を書いたが、文字が読みづらかったので、書き直した。
十一時十分に、ちょっとためらったあとで、その紙を封筒に入れ、裁判所にもって行かせた。
それは彼の粋《いき》なはからいだった。こうやってアンジュロ判事に準備する時間をあたえ、その一方では彼自身のカードをさらしてみせたのである。
しかし、彼は寛大さからこれをしたのではない。ぎりぎりに向こうに着き、尋問前に判事とふたたび話をしなくてすむためだ。
「電話がかかってきても、私はいないからね、部下からの電話は別だが……」
ポーレットが出頭する前に、彼はたとえ電話であっても、判事と話すつもりはなかった。いま、彼はオフィスのなかを歩きまわり、ちょっと立ち止って、目ざわりな灰色をしているセーヌ河と、サン・ミッシェル橋に向かって自動車のあいだを縫うように進んでいる黒い蟻のような人々を見つめた。
ときどき、彼はガール河岸の家をもっとよく思いうかべるため、眼を閉じた。そして小声でなにやらぶつぶついった。
十一時二十分……二十三分……二十五分……。
「私はあっちに行ってる、リュカ。なにか情報があったら、私に知らせるように、私にじかに話したいといい張ってくれ」
警視のどっしりしたからだが廊下を遠ざかると、リュカの唇からよく聞こえないが、『M』ではじまる言葉のようなものが洩れた。
メグレは遠くに、ポーレット・ラショームを判事のオフィスのほうに案内するメートル・ラデルの姿を認めた。ポーレットはビーバーの外套を着、おなじ毛皮の縁なし帽子をかぶっている。三人はほとんど同時に判事のオフィスに入った。判事はぎくりとした。彼は、メグレがこの若い女と弁護士に先に接触を保つようにいんちきをやったと想像したのではないか?
ラデルはそうとは気づかずに判事を安心させた。
「おや! あなたは私たちのうしろにいたんですか?」
「私は小さなドアから来たのです」
判事は立ち上ったが、女客の前に進み出ようとはしなかった。
「奥さん、お呼びたてしてすみません……」
彼女は疲れていた。それが彼女の顔を曇らせ、ほとんど青黒くさせていた。彼女は椅子を手さぐりしながら、ささやいた。
「わかっております……」
「どうぞお坐りください。あなたも、ラデル先生……」
この二人はもうきみ、ぼくで話さなかったし、これまでに絶対に職業上の関係しかなかったように見えた。
「奥さん、メグレ警視のことはすでにご存じのことと思いますが……」
「ええ、わたしたちはガール河岸でお会いしました……」
彼は、メグレがドアの近くに少し引込んで坐るのを待った。みんなが席につくまで時間がかかった。最後に、判事が坐ったが、秘書が会話を速記する準備ができているのを見て、安心し、咳払いした。
気づまりを感じるのは彼の番だった。こんどは役割が逆転していたからだ……彼が舞台の中央にいて、メグレが観客になり、傍聴者になるのである。
「ラデル先生、私の質問のいくつかは、あなたにも、あなたの依頼人にも奇妙に思えるかもしれません……しかし、たとえそれが私生活に関するものでも、あなたの依頼人は、率直に答えなくてはならないと思います……」
彼女はそのことを予期していた。メグレは彼女を見ただけで、それがわかった。したがって、彼女は不意をつかれることはないだろう。ラデルは彼女に、警視がきっとサンヴァルと彼女の関係を知ったはずだと、予告しているにちがいない。
「最初の質問は、先生、あなたにも関係があります。 しかし、答えるのはラショーム夫人であることを私は主張します……奥さん、あなたはいつ、弁護士をかかえる必要を感じましたか?」
ラデルは抗議しかかったが、判事の眼を見て考え直し、依頼人のほうへ向いた。依頼人も彼のほうを向いて、おどおどした声でささやいた。
「答えなければいけませんか?」
「そのほうがいいと思います」
「三週間前です」
報告書や例のリストも含めて、判事がわざといくつかの書類を拡げてあるデスクを見て、メグレは、判事が使っているのが彼の小さな紙ではなく、質問は別の紙に書き移されていることに気がついた。
このときから、アンジュロはきまって話す前に秘書のほうを見て、秘書が言葉を書き留める時間があるかどうかをたしかめた。
雰囲気は冷やかで、堅苦しいままだった。感情の動きはまだどこにも感じられなかった。
「あなたのお父上が亡くなったとき、遺産のことを扱ったのは出入りの公証人メートル・ヴュルムステールでしたね? 彼は、お父上の弁護士でもあったメートル・トビアを立合人にしました」
彼女は頭でうなずいた。だが、判事ははっきり答えることを要求した。
「はい」
「三週間前に、あなたがお父上の弁護士、つまりメートル・トビアのところへではなく、他の弁護士のところへ行った理由はなにかあるのですか?」
ラデルは口をはさんだ。
「私にはその質問と、ガール河岸で起こったこととの関係がわかりません」
「やがてわかりますよ、先生。あなたの依頼人に答えさせてください」
ポーレット・ラショームはよく聞きとれない声で、
「あると思います」
「弁護士を変えるための理由があったというのですね?」
「はい」
「専門家のところへ行きたかった、ということですか?」
ラデルはふたたび抗議しようとしたが、判事が先手を打った。
「私が専門家といったのは、ある特別な分野での成功でよく知られている弁護士ということです……」
「そうだったと思います」
「その場合、あなたがメートル・ラデルに相談に行ったのは離婚のことですね?」
「はい」
「その時点でご主人はそのことを知ってましたか?」
「わたしは主人に話しませんでした」
「ご主人はあなたの意向をうすうす感じていましたか?」
「そうは思いません」
「あなたのお義兄さんは?」
「やはりおなじだったと思います、あの時点では」
「あなたは月末に最終期限の来ている手形を、お金を払って助けてやりましたね?」
「はい」
「たのまれた小切手には黙ってサインしましたか?」
「はい。それが最後になることを望んでいました。わたしはごたごたを起こしたくなかったのです」
「離婚の手続きは用意されていましたか?」
「はい」
「ガール河岸の家のなかで、だれがいつ、あなたの意向を知ったのですか?」
「わかりません」
「しかし、そういう疑念はもたれていましたね、少なくとも最近は?」
「そうだと思います」
「あなたにそう思わせたのはなんですか?」
「ラデル先生の手紙が一通、わたしのところへ届きませんでした」
「その手紙は、いつ頃あなたに届くはずだったのです?」
「一週間前です」
「郵便物をいつも整理するのはだれですか?」
「義兄《あに》です」
「それでは、レオナール・ラショームがラデル先生の手紙を横取りした可能性は十分ありますね。このときから、あなたにたいするラショーム家の態度がどことなく変わったという印象をもちましたか?」
彼女は明らかにためらった。
「はっきりとはわかりません」
「あなたはそのような印象をもちましたか?」
「夫がわたしを避けているように思えました。ある晩、帰ってくると……」
「いつ?」
「先週の金曜日です」
「つづけてください。あなたが先週の金曜日帰ってくると……何時です?」
「夜の七時です……町で買物をして……客間にみんないました……」
「老女中のカトリーヌも?」
「いいえ」
「それでは、あなたの義父母、レオナール、ご主人。ジャン= ポールはいましたか?」
「いませんでした。寝室にいたのだと思います」
「あなたがもどったとき、なにが起こりましたか?」
「なにも。いつもは、わたしはもっと遅く帰るのです。みんなはわたしが帰ってくると思っていませんでしたので、黙り込みました。みんな気づまりなようでした。その夜、わたしの義母は食事をしないで、すぐに寝室に上りました……」
「私のまちがいでなければ、最近まで、ジャン= ポールは二階にあるお父さんのわきの寝室……以前はお母さんの寝室でしたな……を使っていました……三人の老人たちがいる三階に移ったのはいつですか?」
「一週間前です」
「寝室を変えたいといったのは、ジャン= ポールですか?」
「ちがいます。あの子は嫌がりました」
「では、それをいいだしたのはお義兄《にい》さんですか?」
「義兄は、ジャン= ポールの寝室を、夕食後にも行ける私的な書斎に使いたかったのです」
「夜仕事をする習慣があったのですか?」
「いいえ」
「あなたはどう思いました?」
「不安でした」
「なぜ?」
彼女は弁護士を見た。弁護士は神経質にたばこに火をつけた。片隅で身動きしないでいたメグレは、ポケットのなかのたばこを詰めたパイプに火をつけたいところだったが、そうはしなかった。
「わかりません。わたしはこわかった……」
「なにがこわかったのです?」
「はっきりしたことはなにも……わたしは物事が穏やかに、口論も、涙も、哀願もなく片づくことを望んでいたのです」
「離婚のことをいっているのですか?」
「はい。あの人たちにとって、わたしの離婚が破局であることはわかっていました」
「結婚して以来、あなたがあの家を支えてきたからですね。そうでしょう?」
「そうです。でも、わたしは夫にある金額を残していくつもりでした。そのことをラデル先生に話しました。ただ、わたしはアルマンが書類を受けとる日に、家を出ることを望みました……」
「ジャック・サンヴァルはそのことを知っていましたか?」
彼女はこの名前に睫毛《まつげ》をしばたたいた。それほどおどろきも見せずに、ただこうつぶやいた。
「もちろん……」
判事はノートに眼を落とし、しばらく沈黙していた。ふたたびもったいぶって話しはじめる前に、彼は思わずメグレをちらっと眺めた。
「要するに、ラショームさん、あなたが家を出て行くことはあの家族にとっても、ビスケット会社にとっても、決定的な崩壊を意味したのですね」
「あの人たちにお金を残すつもりだと、わたしはすでにいいましたわ」
「長い間やっていけるだけの?」
「とにかく一年は」
メグレは銅板に刻まれた言葉を思い出した……一八一七年創業。
ほとんど一世紀半。それと比較すれば一年なんてなんだ? 一世紀半の間、ラショーム家は持ちこたえてきた。そして突然……ポーレットが野心満々の広告業者に出会ったからである。
「あなたは遺書をしたためましたか?」
「いいえ」
「なぜ?」
「まず第一に、わたしには肉親がいないからです。つぎに、再婚が可能になればすぐにもするつもりだったからです」
「あなたの夫婦財産契約によれば、夫婦のうち生き残ったほうに財産が行くことになっているのですね?」
「はい」
「いつからあなたは恐れをもちはじめたのです?」
ラデルは彼女に用心させようとした。が、遅すぎた。すでに彼女は危険も悟らずに答えていた。
「わかりません……数日前……」
「なにを恐れていたのです?」
こんどは、彼女は反応を示した。指は痙攣《けいれん》し、顔には苦悩の表情があらわれた。
「結局、それがどうだというのです? どうしてあなたの尋問するのがわたしであって、|あの人たち《ヽヽヽヽヽ》ではないのです?」
メグレはためらっている判事を、眼ではげます必要を感じた。
「あなたの離婚の決心は固いのですか?」
「はい」
「ラショーム家の人々がなにをいおうとも、あなたを引きとめることはできないのですね?」
「ええ。わたしは非常に長いあいだ犠牲になってきました……」
女の口から洩れたこの言葉が、誇張でなく感じられるのは、初めてのことだ。結婚してからいつ頃まで、彼女はガール河岸の特権階級の家での自分の役割を錯覚しつづけていたのか?
彼女は反抗しなかった。事業を離礁させるために、少なくとも穴を塞《ふさ》ぎ、決定的な沈没を防ぐために、彼女は最善をつくした。
「ご主人を愛していましたか?」
「初めの頃は、そう思っていました」
「お義兄さんとは一度も親密な関係をもたなかったのですか?」
判事はこの質問をいやいやながら読みあげた。そしてこのような質問をさせたメグレを恨んでいた。
彼女がためらったので、判事はつけ加えた。
「彼はそうした関係を、もとうともしませんでしたか?」
「ずっと以前に、一度……」
「あなたの結婚から一年後、二年後、三年後……」
「一年後ぐらいです、アルマンとわたしが寝室を別にしたときに」
「レオナールの申し出をはねつけましたか?」
「はい」
いままでのより、重々しい、息苦しい沈黙がつづいた。雰囲気はいつとはなしに変化していた。今後は言葉の一つ一つが重要になり、まだだれも口にしなかった恐るべき真実に向かって近づいているのが感じられた。
「あなたのイニシャルのついたベッドのシーツはだれかが使っていたのですか?」
彼女はあまりにも早く答えすきた。ラデルには罠《わな》に気をつけろという暇がなかった。
「もちろん、わたしです」
「他にはだれが?」
「使っていたとは思いません。たぶん、ときどき夫が?」
「お義兄さんは?」
彼女が沈黙したので、判事はくり返した。
「お義兄さんは?」
「ふだんは使っていません」
「家族中のベッドのためのシーツが家には十分あったのですか?」
「そう思います」
「あなたが恐れていることをジャック・サンヴァルに打明けましたか?」
彼女は弱みを見せはじめた。どこに視線をやっていいのかわからず、関節が白くなるほど手をにぎりしめた。
「あの人は、私がすぐにガール河岸を出ることを望みました……」
「なぜ、あなたはそうしなかったのです?」
「離婚の書類ができるのを待っていました。あと二、三日の問題でしかなかったのです……」
「いいかえると、お義兄さんが死ななければ、今日か明日にでもあなたはあの家を出ていたのですね?」
彼女はため息をついた。
「あなたが家を出て行くのを防ごうとする者がいるかもしれないということを、先週思いつかなかったのですか?」
彼女は弁護士のほうを向いた。
「たばこをください……」
アンジュロは執拗だった。
「あらゆる手段を講じてあなたが家を出て行くのを防ごうと……」
「いまではもうわかりません。わたしは混乱してしまいましたわ」
彼女はたばこに火をつけ、ライターをハンドバッグのなかにもどした。
「サンヴァルはあなたに用心するように忠告しませんでしたか、とくにお義兄さんがあなたを尾《つ》けていることをたしかめてからは?」
彼女は激しく頭を上げた。
「どうしてそれを知っているのです?」
「いつからお義兄さんは、あなたを尾けていましたか?」
「一昨日」
「その前は?」
「はっきりわかりません。先週の木曜日、わたしはブールボン河岸で彼の姿を見かけたと思ったのです」
「あなたがサンヴァルの友達のアパルトマンにいたときですね?」
彼女は非難するような様子でメグレのほうを向いた。まるでこの発見をしたのがメグレであることを知っているかのように。
「レオナールはあなたの車に乗っていましたか?」
「わたしがいいといったのです……」
「窓から、彼が通るのを見たのですね?」
「彼はゆっくりと車を走らせ、建物を眺めていました」
「サンヴァルが自動拳銃をあなたにわたしたのはそのときですね?」
「判事さん……」
ラデルは手を上げて、立ち上った。
「現状から見て、私は依頼人とちょっと話合いたいと思いますが」
判事とメグレの視線がからみ合った。メグレはまばたきした。
「ごく手短にしていただけるのでしたら。あなたたちはこのオフィスをお使いください」
彼は秘書に合図した。三人の男は廊下に出た。メグレはすかさずパイプに火をつけた。判事とメグレは人の出入りの激しい廊下を行ったり来たりした。秘書はドアのそばのベンチに坐っていた。
「メグレさん、予審判事のオフィスで静かに、どなることもなく、演出することもなく尋問して、警視庁とおなじ結果を得ることができないと、いまでも信じていますか?」
判事はただ警視が用意した質問を暗誦しただけではないか、といい返してみたところでなんになる?
「私が考えはじめたように事件が起こったのなら、ラデルは彼女に話すように忠告するでしょう……それが彼女自身のためなのです……彼は最初からそれを彼女に要求していたはずです……彼女がラデルに真実を打明けていないならば……今度は、彼女が私の質問に答えなかったとも、嘘をついていたとも考えられます。その場合、どういうことになりますか?」
メグレは判事の腕にさわった。見通しのきく広い廊下のはずれに、ためらいがちな人影を目にしたからだ。
アルマン・ラショームだった。彼は裁判所の迷路に迷ってしまい、ドアの表示をながめていたのである。
「彼を見ましたね? 彼が来る前に部屋にもどったほうがいいでしょう……」
アルマン・ラショームはまだ二人には気がつかなかった。判事はドアをノックして、自分のオフィスに入った。警視と秘書もあとにつづいた。
「失礼。意外な状況になりましたので…」
立っているところをいきなり入ってこられたポーレット・ラショームはふたたび坐った。青白い顔をしていたが、さっきより落着いていたし、気が楽になったようだった。ラデルは弁護をはじめようとしているようだった。彼が口を開いた瞬間、電話が鳴った。判事が受話器を取ってそれを聞き、警視のほうに電話機を押しやった。
「あなたにです」
「そう、メグレだが……二人の人間が車を見た? よし! 人相は一致するね? ありがとう。いや……じゃあとで……」
メグレは受話器をおくと、表情のない声でいった。
「レオナール・ラショームは一昨日パレ・ロワイアル広場のレストランの前にいました」
メートル・ラデルは、もうそんな話は終っているんだとでもいうように肩をすくめた。尋問はすでに別の方向に進んでいたが、それでもこの情報は貴重だったであろう。
「判事殿、私の依頼人は真実をすべてお話するつもりでおります。この真実が彼女自身よりも他の人たちにとって堪えがたいものであることは、あなた方にもおわかりいただけるでしょう。またあなた方は、彼女がいままで沈黙を守っていたのが責任逃れをするためではなくて、数年間彼女が一緒にいた家族への憫《あわれ》みのためであることを理解しなければなりませんし、私はそのことを記録にとどめられることを希望します……。
陪審はいずれ意見を表明しなければならないでしょう。私たちはここでラショーム家の人たちを非難しません。しかし、私たちよりラショーム家の人たちをよく知っている彼女は、少なくとも数日のあいだ、彼らのために減軽情状を見つけてやることができたのです……」
弁護士は満足げに坐ると、ネクタイを直した。
ポーレット・ラショームはどこから話しはじめていいのかわからなかったので、まずささやくようにいった。
「一週間前から、手紙を横取りされてから、とくにブールボン河岸でレオナールに気づいてから、わたしは恐れました……」
警視庁にいたのなら、メグレは彼女にむずかしい告白をさせることを避けただろう。というのは、事件を物語るのはいつも彼であり、彼女はただ同意するか、必要なときには訂正すればいいからである。
「つづけてください、奥さん……」
彼女は自分のいったことをすべて書き取る速記者の前で話すことに慣れていなかった。それが彼女をおびえさせた。彼女は言葉をさがした。二、三度、メグレは口を出さないようにじっと堪えなければならなかった。彼はパイプの火が消えているのも忘れ、片隅でふかしつづけていた。
「とくにわたしをこわがらせたのはレオナールです。どんな犠牲を払ってでも、あの家を支えてきたのが彼だったからです……ある日、もうずっと前ですが、わたしがいつもよりずっと多い金額をわたすのをためらうと、彼は大きな会社と貴族の古い家族を比べるような話をしました……。『私たちはこのような会社を倒産させてしまう権利はない』と、彼はけわしい眼つきでいいました……『倒産を避けるためなら、私はどんなことでもする……』
これは最近思いついたことですが……わたしはもう少しで、すぐにでも黙って家を出、離婚が認められるまでホテルに住むところでした……」
「どうしてそうしなかったのです?」
「わかりません。わたしは最後までゲームをやることを、すべてが公正であることを望んでいました……それは説明しづらいことなのです……それを理解するためには、あの家で数年間暮らしてみなければなりません……アルマンは弱者で、病人で、兄の影でしかないのです……ジャン= ポールのことは、わたしは好きでした……最初、わたしは子供をもちたかったのです……あの人たちもそれを望み、妊娠の徴候をうかがっていました……わたしが母親になれないと知ると、あの人たちはひどく落胆しました……。わたしにはそのためレオナールがわたしを……」
彼女は話題を変えた。
「ジャックがわたしに自動拳銃をわたしたのは本当です……わたしは拳銃をもちたくはなかったのです……拳銃を見つけられるのがこわかったのです。……でも、夜はナイト・テーブルの上におき、昼問はハンドバッグのなかに入れておきました……」
「その拳銃はいまどこにあります?」
「あの人たちがそれをどうしたか、わたしは知りません。あの|あと《ヽヽ》はすべてが非常に混乱し、狂気じみていました……」
「その前《ヽ》の話をしてください」
「わたしは真夜中近くに帰ってきました……たぶん十一時半だったと思います……時間ははっきり覚えていません……とにかく、今日が最後から二番目の夜になるのだと心に決めていました……レオナールのドアが開いたのを見て、わたしはびっくりしました……彼はわたしが寝室に入るのを黙って、お休みもいわずに見ていました……それがわたしにはすごく気になりました……部屋着で、浴室のほうに行ったとき、レオナールのドアの下に光が見えました……。わたしはいままでよりもっとこわくなりました……予感みたいなものだったかもしれません……わたしは寝ないで、肱掛椅子に坐り、陽が昇るまで暗闇のなかで待つところでした……」
「あなたは睡眠薬を飲まなかったのですか?」
「ええ。飲む勇気がありませんでした……結局、眠らないことに決め、自動拳銃を手のとどくところにおいて、ベッドに横になりました。眼を開いたまま、わたしは家のなかの物音をうかがっていました……」
「彼がやって来る音が開こえましたか?」
「一時間以上もたってからです……わたしはしばらくうとうとしたと思います……それから廊下の床がきしむ音が聞こえ……わたしはベッドに起き上りました……」
「ドアには鍵がかかっていなかったのですか?」
「鍵はかかっていません。家のドアの大部分には鍵がないのです。錠前はずっと前から利かなくなっています……だれかがハンドルをまわしたような気がしました。そこで、わたしはベッドからすべり下りると、ベッドから一メートルのところにある壁にぴったりと身をよせました」
「廊下に明りがありましたか?」
「いいえ。だれかが入ってきました。わたしにはだれだかわかりません。わたしは早く撃ちすぎることを恐れました。というのは、もし撃ちそこなったら、わたしは確実に……」
彼女はもう坐ったままでいることができなかった。立ち上ったまま、判事ではなく、メグレのほうを向いて話しつづけた。
「だれかの呼吸が近づいてきました。からだがわたしにごくわずかにさわりました。片腕が上がりました。わたしの頭があるはずのベッドの場所を叩くためです。そのとき、わたしは思わず引金をひきました……」
メグレは突然眉をひそめると、階級のことなどかまわずに、口を開いた。
「よろしいですか、判事さん?」
メグレは返事を待たずに、つづけた。
「だれが明りをつけましたか?」
「わたしではありません……とにかく、だれだか覚えていません……わたしはどこに行こうとしているかもわからず、廊下に飛び出しました……もしかしたら、わたしは寝間着のまま、街に走り出ていたかもしれません……」
「だれに突き当たりましたか?」
「夫に……明りをつけたのは夫だったと思います」
「ご主人はちゃんと服を着ていましたか?」
彼女は眼を見開いて、メグレを見つめた。はっきりしたイメージを思い出そうとしているかのように努力したあとで、彼女はつぶやいた。
「はい……でも、そのことに気がつきませんでした」
「それからどうなりました?」
「わたしは叫び声をあげたにちがいありません……とにかく、さけぶために口を開いたことを覚えています……それから気を失いました……悪夢がはじまったのはそのすぐあとです……義父《ちち》が降りてきました……カトリーヌも……彼女の声がいちばんよく開こえました……ジャン= ポールを無理やり寝室にもどす彼女の声が遠くで聞こえました……。わたしはアルマンが自在スパナをもってわたしの寝室から出て行くのを見ました……」
「レオナールがあなたを殴ろうとした自在スパナですね」
「そうだと思います……あの人たちはわたしに黙るように、呻《うめ》くのをやめるように命じました」
「だれです、あの人たちって?」
「義父《ちち》と……あの魔女のようなカトリーヌ……とくに彼女が! 床を洗い、アルマンが死体を運ぶのを手伝ったのは彼女です……わたしのシーツの血に気がついたのも彼女です。レオナールが乱れたベッドに斜めに倒れていたからです……」
「彼らはこの出来事におどろいたようでしたか?」と、こんどは予審判事がたずねた。
「そうとはいえないでしょうね……落胆したのです、おどろいたのではなしに……あの人たちはわたしを恨んでいる様子でした……」
判事が質問をつづけた。
「彼らが梯子や窓ガラスの細工をやり出したのはそれからですね?」
「いいえ」
メグレがふたたび口を開いた。
「判事さん、夜の十時頃、だれかが……たぶんレオナールでしょうが……塀の上の壜のかけらを打ちくだいたのを忘れてはいけません……ほぼおなじ時刻に、だれかが梯子に乗り、窓の手すりに跡をつけ、石鹸をガラスに塗りつけたにちがいありません……」
彼女はため息をついた。
「わたしもそう思います……」
ラデルがしゃべりはじめた。
「みなさん、ごらんのように私の依頼人は……」
「ちょっと待ってください!」
判事はそっけない、けわしい声を出した。
「あなたになにもいわないように、強盗だと思わせるようにたのんだのはだれです?」
「とくにだれというわけではありません」
「それではよくわからないのですが」
もちろんそうだろう! 理論をやたらに詰めこまれたこの男としては、真実のほうを理論に従わせ、かくかくの範疇《はんちゅう》に入れてしまうのである。
ポーレットは判事を怒らせることになるのもかまわずに答えた。
「あなたはあの夜あそこにいなかったですからね! ……いまではもうわたしには、現実であったかどうかさえわからないのです……あれが本当に起こったのかどうか確信ありませんが、たとえばカトリーヌのきいきい声は覚えています。
『窓!』
というのは、最初明りをみんなつけてしまったからです。窓にはよろい戸がなくて、カーテンがあるだけなのですが、それも真中でぴったり合っていないのです……カトリーヌは到るところの明りを消させました。それから彼女はバケツをもってもどってきました……。
『寝に行ったほうがいいですよ、アルマンさん……あなたも、フェリックスさん……』
しかし、二人ともそこに残りました。別な折に、わたしはアルコールをたのみました。でも、そんな必要はない、朝、わたしの息が酒臭くなるからといわれ、ことわられました……」
「朝、なにが起こりました? ジャン= ポールにくわしく知らせましたか?」
「いいえ! 叔父さんが発作を起こしたといっただけです……ジャン= ポールが銃声を聞いたといい張ると、みんなは、列車か、河岸の車の音を寝ぼけて聞いたのだと断言しました……。あの子が学校に出かけるとすぐ、みんなはリハーサルのようなものを行いました……」
彼女は弁護士を見た。忠告を求めるため彼に電話したとつけ加えようとしたのか? 彼は黙るように合図したのか?
しばらく前から、メグレはもう話を聞いていなかった。ドアをこするような、かすかな音に耳を傾けていた。
ポーレット・ラショームが話をつづけようとしたとき、突然銃声が鳴りひびき、つづいてあわただしい足音と、声のざわめきが聞こえた。
しばらくの間、五人は判事のオフィスのなかで、蝋人形のようにじっと動かないでいた。
だれかがドアをノックした。メグレが最初に、ゆっくりと立ち上った。ドアを開ける前に、ポーレットにささやいた。
「ご主人が死んだのだと思います」
アルマンは埃《ほこり》だらけの廊下に横たわっていた。彼は口のなかに弾丸を撃ち込んだのである。かたく握りしめた手から数センチのところに、六・三五口径の自動拳銃があった。
それからメグレは、身動きしない若い女を、少し青白い顔をしている弁護士を、まだポーズをつくろっていない判事をふり返った。
彼はこういっただけだった。
「判事さん、私はもう必要ないと思いますが?」
彼はそれ以上はなにもいわず、司法警察局に通じる小さなドアに向かって廊下を遠ざかった。
尋問が司法警察局で行われていたら、ちがった様相を呈していただろうか?
ポーレット・ラショームは規則どおりに自白した。 彼女の夫は規則どおりに死んだ。
二人にとって、これが最善の道ではなかったとだれにいえるのか?
ガール河岸の家には、もはや三人の老人しかいない。一八一七年創業のラショーム会社の後裔は学校の寄宿舎にいる。
メグレがオフィスにもどるや、リュカが隣りの刑事部屋から飛び出してきた。いまにも質問しそうだった。が、警視はすでに受話器をつかみ、フランソワ一世街のヴェロニックの番号を申し込んでいた。
避けられない運命は甘受するつもりでいるヴェロニックとしては、こんどの出来事を知る権利が大いにあるのだ。(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
ジョルジュ・シムノンは一九三〇年にメグレ警視シリーズの第一作『怪盗ルトン』を発表してから、一九七二年までに七十八冊のメグレ物を書いているが、この四十二年間に、三度メグレ物を書くのをやめると宣言している。
一度目は一九三三年で、『怪盗ルトン』が大評判になり、それから二年間毎月一冊の割でメグレ物を出版したあとのことである。このときの理由は、メグレ物を書いていると、出版社は自分にメグレ物しか注文してこない。だが、自分はすぐれた純文学を書きたいし、書ける才能が十分にあるというものだった。
このメグレ廃止宣言を聞いてまず最初に考えられることは、果たして、一度これほど強烈に読者の心にやきついてしまったメグレ警視という人間像を、シムノンが書きたくなくなったからといって読者や出版社がおいそれと承知するかということである。
ところが、シムノンは一年、二年、三年と頑固にメグレを拒絶しつづけ、ついに八年間書かなかった。そして純文学を書きつづけたのであるが、八年後の一九四二年に『メグレ帰る』Maigret revientという中篇集で、ふたたびメグレの筆を執ったのである。
これにはいろいろな理由があると思う。たとえば、もっとも常識的な見方は、出版社と読者の熱意に負けたということだが、それよりも、彼がすべてを投げ出して力を注いだ純文学が、メグレ物以上の評判と評価をかちとれなかったことが大きな原因ではないかと思う。だから、シムノンにしてみれば、いろいろ複雑な気持で、メグレ物を書きはじめたのだろう。
この複雑な気持が、それから三年後にふたたびメグレ物の筆を折らせるのである。その理由は前回と同じだったし、一九四七年にふたたびメグレ物を書きはじめたのも前回と同じ理由だったが、しかし今回は力の入れかたが全然ちがっていた。すべての作品が充実している。メグレ物の傑作といわれる作品のほとんどすべてはこの四七年以後に生まれている。『メグレの休暇』(四八年)『メグレと殺人者たち』(四八年)『メグレと若い女の死』(五四年)『メグレ罠を張る』(五五年)などである。
この時期のメグレ物の特徴の一つは、たとえば『メグレと無愛想な刑事と殺し屋たち』や『メグレ氏ニューヨークへ行く』のように、アメリカの殺し屋たちをメグレが相手にしている作品が多いことである。『メグレと無愛想な刑事と殺し屋たち』のなかでいわれているように、アメリカの殺し屋にくらべれば、フランスの犯罪者などはアマチュアにすぎないし、そういうアマチュアを相手にメグレがいつでも勝つのは当り前かもしれないのである。アメリカの殺し屋たちはプロなのだ。なぜプロかといえば、勝負を徹底的にやりぬくからである。このプロの犯罪者を相手にしたメグレが、どうやって彼らに対抗していくかが、この時期のメグレ物の一つの見せ場になっている。
そして三度目は一九七三年である。ところが、こんどの場合はいままでとは様子がちがう。こんどはメグレ物だけではなく、すべての創作の筆を断ってスイスの山中に隠棲してしまうというのである。
シムノンをこういう気持にさせた大きな原因は、七二年の十一月に発表されたメグレ物の最新作『メグレとシャルル氏』Maigret et Monsieur Charlesのひどい悪評にあったと思う。たとえば週刊誌「レクスプレス」の書評などはつぎのようなものだった。
「いったいシムノン氏になにが起こったのか、三十年の間ずっと最も偉大な作家であった彼に? 新人作家たちは彼のことを真似ようときゅうきゅうとしている。それなのに、彼は今日、われわれに偉大なシムノンの悲しい模倣作品を提出する。彼のファンはこの零落を認めたがらない。
『メグレの休暇』『家の中の見知らぬ人』はすばらしいミステリーである。注意深くこれらの作品を読み返すと、台所の匂いや、春の日の空気の生まあたたかさのほかに、ある雰囲気がつくりだされているのに気がつく。シムノン氏よ、あなたが最初のメグレ物を出版して以来、世界も言語も動いている。あなたはその世界や言語の動きにぴったりついていかなければならない」
もう時代おくれだときめつけたこの酷評が、七十歳のシムノンにこたえないはずがない。たしかに最近のシムノンは老いている。あの生き生きとしたところがなくなっている。それは、ここ数年間に発表されたメグレ物を読んでみればわかる。たとえば『メグレの忍耐』La Patience de Maigret(六七年)をみてみると、ここでは定年まであと一年と迫ったメグレが、宝石店を専門に荒しまわっている盗賊団を追いかけている間じゅう、「定年になったら田舎に別荘を借りて妻と二人、静かな余生を送るのもいい」と思っている。
このように「別荘で静かな余生を送るのもいい」とつねづね思っていたシムノンが、『メグレとシャルル氏』のさんざんな悪評をきっかけに、なにもかもいやになり、いままでの家を売り、自動車や家具を売って、ローザンヌのマンションの八階の新しい住まいに移ったのではないか。そして、いっさいの筆を断って、静かな余生に入ったのではないか……どうもそんな気がする。
しかし、二度あることは三度のたとえどおり、メグレ・ファンとしてはただひたすらメグレの復活を願うのみである。
本書はもっとも充実した時期(一九五九年)の一冊である。密室物のような構成を取りながら、その殺人事件が徐々に解明されていくにつれて、没落しかかったビスケット会社一家の悲劇が浮かびあがってくるところはさすがである。これほど人間の哀しみが読む者の心に迫ってくるメグレ物もめずらしい。(訳者)